野菊の墓 伊藤左千夫:作  後(ノチ)の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣(ワケ)とは思 うが何分にも忘れることが出来ない。最早十年余(ヨ)も過去った昔のことであるから、 細かい事実は多くは覚えて居ないけれども、心持だけは今猶(ナオ)昨日の如く、其時の 事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲し くもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思う事もないではないが、寧 ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪(ムサボ)って居る事が多い。そんな訣(ワケ) から一寸(チョット)物に書いて置こうかという気になったのである。  僕の家(イエ)というのは、松戸から二里許(バカ)り下(サガ)って、矢切(ヤギリ)の渡(ワタシ) を東へ渡り、小高い岡の上で矢張り矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、此(コ ノ)界隈(カイワイ)での旧家で、里見の崩れが二三人茲(ココ)へ落ちて百姓になった内の一人 が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎 (シイ)の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森(イモリ)で村じゅうから羨ま しがられて居る。昔から何程暴風(アラシ)が吹いても、此椎森のために、僕の家許りは 屋根を剥がれたことは只の一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎 の木だ。それが又煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間(マ)の最も煙に 遠いとこでも、天井板が丸で油炭を塗った様に、板の木目(モクメ)も判らぬ程黒い。そ れでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠(クギカクシ)なども打ってある。 其(ソノ)釘隠が馬鹿に大きい雁(ガン)であった。勿論(モチロン)一寸見たのでは木か金かも 知れないほど古びている。  僕の母なども先祖の言い伝(ツタエ)だからといって、此(コノ)戦国時代の遺物的家を、 大へんに自慢されていた。其頃(ソノコロ)母は血の道で久しく煩(ワズラ)って居(オ)られ、 黒塗的(クロヌリテキ)な奥の一間がいつも母の病褥(ビョウジョク)となって居た。其次の十畳の 間の南隅(ミナミスミ)に、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場(ハタオリバ)で、僕が 居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓(テスリマド)の障子を明けて頭(アタマ)を出すと、 椎の枝が青空を遮って北を掩うている。  母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁(エン)の従妹(イトコ)になっ て居る、民子という女の児が仕事の手伝(テツダイ)やら母の看護やらに来て居った。僕 が今忘れることが出来ないというのは、其民子と僕の関係である。其関係といっても、 僕は民子と下劣な関係をしたのではない。  僕は小学校を卒業した許りで十五歳、月を数えると十三歳何ケ月という頃、民子は 十七だけれどそれも生れが晩(オソ)いから、十五と少しにしかならない。痩せすぎであっ たけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味(アカミ)をおんだ、誠に光沢(ツヤ) の好い児であった。いつでも活々(イキイキ)として元気がよく、其癖気は弱くて憎気(ニク ゲ)の少しもない児であった。  勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと 云っては僕の座敷へ這入(ハイ)ってくる、私(ワタシ)も本が読みたいの手習いがしたいの と云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げて ゆく。僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。  母からいつでも叱られる。 「又民やは政の所へ這入ってるナ。コラァさっさと掃除をやってしまえ。これからは 政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」  などと頻りに小言を云うけれど、其実(ソノジツ)母も民子をば非常に可愛がって居る のだから、一向に小言がきかない。私にも少し手習をさして……などと時々民子はだ だをいう。そういう時の母の小言もきまっている。 「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女一人前(イチニンマエ)として嫁に ゆかれません」  此頃(コノコロ)僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考え などは少しも無かったに相違ない。併(シカ)し母がよく小言を云うにも拘(カカワ)らず、 民子は猶(ナオ)朝の御飯だ昼の御飯だと云うては僕を呼びにくる。呼びにくる度に、急 いで這入って来て、本を見せろの筆を借せのと云っては暫く遊んでいる。其間(ソノアイ ダ)にも母の薬を持ってきた帰りや、母の用を達(タ)した帰りには、屹度(キット)僕の所 へ這入ってくる。僕も民子がのぞかない日は何となく淋しく物足らず思われた。今日 は民さんは何をしているかナと思い出すと、ふらふらッと書室(ショシツ)を出る。民子を 見にゆくというほどの心ではないが、一寸民子の姿が目に触れれば気が落着くのであっ た。何のこった矢張(ヤッパ)り民子を見に来たんじゃないかと、自分で自分を嘲った様 なことが屡(シバシバ)あったのである。  村の或家さ瞽女(ゴゼ)がとまったから聴きにゆかないか、祭文(サイモン)がきたから聴 きに行こうのと近所の女共が誘うても、民子は何とか断りを云うて決して家を出ない。 隣村の祭で花火や飾物があるからとの事で、例の向うのお浜や隣のお仙等が大騒ぎし て見にゆくというに、内のものらまで民さんも一所に行って見てきたらと云うても、 民子は母の病気を言(イ)い前(マエ)にして行かない。僕も余りそんな所へ出るのは嫌(イヤ) であったから家に居る。民子は狐鼠々々(コソコソ)と僕の所へ這入ってきて、小声で、私 は内に居るのが一番面白いわと云ってニッコリ笑う。僕も何となし民子をばそんな所 へやりたくなかった。  僕が三日置き四日置きに母の薬を取りに松戸へゆく。どうかすると帰りが晩(オソ)く なる。民子は三度も四度も裏坂(ウラザカ)の上まで出て渡しの方を見ていたそうで、い つでも家中のものに冷かされる。民子は真面目(マジメ)になって、お母さんが心配して、 見てお出(イ)で見てお出でというからだと云い訣(ワケ)をする。家の者は皆ひそひそ笑っ ているとの話であった。  そういう次第だから、作(サク)おんなのお増(マス)などは、無上(ムショウ)と民子を小面(コ ヅラ)憎がって、何かというと、 「民子さんは政夫さんとこへ許り行きたがる、隙(ヒマ)さえあれば政夫さんにこびりつ いている」  などと頻りに云いはやしたらしく、隣りのお仙や向うのお浜等まで彼是(カレコレ)噂を する。これを聞いてか嫂(アニヨメ)が母に注意したらしく、或日母は常になくむずかしい 顔をして、二人を枕もとへ呼びつけ意味有り気(ゲ)な小言を云うた。 「男も女も十五六になれば最早児供ではない。お前等二人も余り仲が好過(ヨス)ぎると て人が彼是(カレコレ)云うそうじゃ。気をつけなくてはいけない。民子が年かさの癖によ くない。是からはもう決して政の所へなど行くことはならぬ。吾子(ワガコ)を許すでは ないが政は未(マ)だ児供だ。民やは十七ではないか。つまらぬ噂をされるとお前の体 に疵(キズ)がつく。政夫だって気をつけろ……。来月から千葉の中学へ行くんじゃな いか」  民子は年が多いし且(カツ)は意味あって僕の所へゆくであろうと思われたと気がつい たか、非常に愧(ハ)じ入った様子に、顔真赤(カオマッカ)にして俯向(ウツム)いている。常は 母に少し位小言云われても随分だだを云うのだけれど、此日(コノヒ)は只両手をついて 俯向いたきり一言もいわない。何の疚(ヤマ)しい所のない僕は頗る不平で、 「お母さん、そりゃ余り御無理です。人が何と云ったって、私達は何の訣もないのに、 何か大変悪いことでもした様なお小言じゃありませんか。お母さんだっていつもそう 云ってたじゃありませんか。民子とお前とは兄弟も同じだ、お母さんの眼からはお前 も民子も少しも隔てはない、仲よくしろよといつでも云ったじゃありませんか」  母の心配も道理のあることだが、僕等もそんないやらしいことを云われようとは少 しも思って居なかったから、僕の不平もいくらかの理はある。母は俄にやさしくなっ て、 「お前達に何の訣もないことはお母さんも知ってるがネ、人の口がうるさいから、只 これから少し気をつけてと云うのです」  色青ざめた母の顔にもいつしか僕等を真(シン)から可愛がる笑(エ)みが湛えて居る。 やがて、 「民やはあの又薬を持ってきて、それから縫掛(ヌイカ)けの袷(アワセ)を今日中に仕上げて しまいなさい……。政は立った次手(ツイデ)に花を剪(キ)って仏壇へ捧(ア)げて下さい。 菊はまだ咲かないか、そんなら紫苑(シオン)でも切ってくれよ」  本人達は何の気なしであるのに、人が彼是(カレコレ)云うので却って無邪気でいられな い様にして終(シマ)う。僕は母の小言も一日しか覚えていない。二三日たって民さんは なぜ近頃は来ないのかしらんと思った位であったけれど、民子の方では、それからと いうものは様子がからっと変って終(シモ)うた。  民子は其後(ソノゴ)僕の所へは一切(イッサイ)顔出ししない許(バカ)りでなく、座敷の内 で行逢っても、人のいる前などでは容易に物を云わない。何となく極(キマ)りわるそう に、まぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。拠処(ヨンドコロ)なく物を云うにも、今ま での無遠慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。時には 僕が余り俄に改まったのを可笑(オカ)しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して 逃げて終うという風で、兎に角一重(ヒトエ)の垣が二人の間に結ばれた様な気合になっ た。  それでも或日の四時過ぎに、母の云いつけで僕が背戸の茄子畑(ナスバタケ)に茄子をも いで居ると、いつのまにか民子が笊(ザル)を手に持って、僕の後(ウシロ)にきていた。 「政夫さん……」  出し抜けに呼んで笑っている。 「私もお母さんから云いつかって来たのよ。今日の縫物は肩が凝ったろう、少し休み ながら茄子をもいできてくれ。明日麹漬(コウジヅケ)をつけるからって、お母さんがそ う云うから、私飛んできました」  民子は非常に嬉しそうに元気一パイで、僕が、 「それでは僕が先にきているのを民さんは知らないで来たの」 と云うと民子は、 「知らなくてサ」  にこにこしながら茄子を採(ト)り始める。  茄子畑というは、椎森の下から一重の薮を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽 畑(センザイバタケ)。崖の上になっているので、利根川(トネガワ)は勿論中川までもかすかに 見え、武藏(ムサシ)一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高峯(タカネ)も 見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の 空、日は一間半許りの辺(ヘン)に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返 して居る。あたり一体にシンとして又如何(イカ)にもハッキリとした景色、吾等二人は 真に画中の人である。 「マア何という好い景色でしょう」  民子も暫(シバラ)く手をやめて立った。  僕は茲(ココ)で白状するが、此時(コノトキ)の僕は慥(タシカ)に十日以前の僕ではなかった。 二人は決して此時無邪気な友達ではなかった。いつの間にそういう心持が起(オコ)って 居たか、自分には少しも判らなかったが、矢張り母に叱られた頃から、僕の胸の中に も小さな恋の卵が幾個(イクツ)か湧きそめて居ったに違いない。僕の精神状態がいつの 間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。此日初めて民子を女として 思ったのが、僕に邪念の萌芽(メザシ)ありし何よりの証拠じゃ。  民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつある其(ソノ)横顔を見て、今更のよう に民子の美くし可愛らしさに気がついた。これまでにも可愛らしいと思わぬことはな かったが、今日はしみじみと其美しさが身にしみた。しなやかに光沢(ツヤ)のある鬢(ビ ン)の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎(アゴ)のくくしめの愛らしさ、 頚(クビ)のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷(タスキ)や、それらが悉く優 美に眼にとまった。そうなると恐しいもので、物を云うにも思い切った言(コト)は云え なくなる、羞(ハズ)かしくなる、極(キマ)りが悪くなる、皆(ミナ)例の卵の作用から起る ことであろう。  茲(ココ)十日許(ホド)仲垣(ナカガキ)の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、こ れも今までならば無論そんな事考えもせぬにきまって居るが、今日は茲で何か話さね ばならぬ様な気がした。僕は初め無造作(ムゾウサ)に民さんと呼んだけれど、跡(アト)は 無造作に詞(コトバ)が継(ツ)がない。おかしく喉がつまって声が出ない。民子は茄子を 一つ手に持ちながら体を起して、 「政夫さん、何(ナ)に……」 「何(ナン)でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったよ うだもの」  民子はさすがに女性(ニョショウ)で、そういう事には僕などより遥(ハルカ)に神経が鋭敏に なっている。さも口惜しそうな顔して、つと僕の側(ソバ)へ寄ってきた。 「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」 「何さ、此頃(コノゴロ)民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしい からよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」  民子はせきこんで、 「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、御無理だわ。此間(コノアイダ)は二人を並べ て置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですから平気 でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、あア云われては実に面目(メンボク)がな いじゃありませんか。それですから、私は一生懸命になってたしなんで居るんでさ。 それを政夫さん隔てるの嫌(イヤ)になったろうのと云うんだもの、私ほんとにつまらな い……」  民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視(ミ)ている。僕も只話の小口に そう云うたまでであるから、民子に泣きそうになられては、かわいそうに気の毒になっ て、 「僕は腹を立って云ったのでは無いのに、民さんは腹を立ったの……僕は民さんが俄 に変って、逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、いやに淋しく悲しくなっちまっ たのさ。それだからこれからも時々は遊びにお出でよ。お母さんに叱られたら僕が咎 (トガ)を背負うから……人が何と云ったってよいじゃないか」  何というても児供だけに無茶なことをいう。無茶なことを云われて民子は心配やら 嬉しいやら、嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、ごったになって争う たけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終(シマ)った。猶(ナオ)三言四言話をするうち に、民子は鮮かな曇りのない元の元気になった。僕も勿論愉快が溢れる……、宇宙間 に只二人きり居るような心持にお互になったのである。やがて二人は茄子のもぎくら をする。大きな畑だけれど、十月の半過(ナカバス)ぎでは、茄子もちらほらしかなって 居ない。二人で漸(ヨウヤ)く二升許り宛(ヅツ)を採り得た。 「まア民子さん、御覧なさい、入日の立派なこと」  民子はいつしか笊(ザル)を下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。西 の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。ひた赤く赤い許りで光線の出ない 太陽が今其(イマソノ)半分を山に埋(ウズ)めかけた処(トコロ)、僕は民子が一心入日を拝むし おらしい姿が永く眼に残ってる。  二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目の垣の外にお増がぼん やり立って、こっちを見て居る。民子は小声で、 「お増が又何とか云いますよ」 「二人共お母さんに云いつかって来たのだから、お増なんか何と云ったって、かまや しないさ」  一事件を経(フ)る度に二人が胸中に湧いた恋の卵は層(カサ)を増してくる。機(キ)に触 れて交換する双方の意志は、直(タダチ)に互(タガイ)の胸中にある例の卵に至大な養分を 給与する。今日の日暮は慥(タシカ)に其機(ソノキ)であった。ぞっと身振るいをする程、著 しき徴候を現したのである。併(シカ)し何というても二人の関係は卵(タマゴ)時代で、極 (キワ)めて取りとめがない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧(カエリ)みて自ら 疚(ヤマ)しい様なこともせぬ。従ってまだまだ暢気(ノンキ)なもので、人前を繕(ツクロ)うと 云う様な心持は極めて少なかった。僕と民子との関係も、此位(コノグライ)でお終いになっ たならば、十年忘れられないという程にはならなかっただろうに。  親というものは何処(ドコ)の親も同じで、吾子をいつまでも児供のように思うてい る。僕の母なども其(ソノ)一人に漏れない。民子は其後(ソノゴ)時折僕の書室へやってく るけれど、余程人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着 かない。先に僕に厭味(イヤミ)を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それ は間違っていた。僕等二人の精神状態は二三日と云われぬ程著しき変化を遂げている。 僕の変化は最も甚(ハナハダ)しい。三日前には、お母さんが叱れば私が科(トガ)を背負う から遊びにきてとまで無茶を云うた僕が、今日は迚(トテ)もそんな訣のものでない。民 子が少し長居をすると、もう気が咎めて心配でならなくなった。 「民さん、又お出でよ、余り長く居ると人がつまらぬことを云うから」  民子も心持は同じだけれど、僕にもう行けと云われると妙(ミョウ)にすねだす。 「アレあなたは先日何と云いました。人が何と云ったッてよいから遊びに来いと云い はしませんか。私はもう人に笑われてもかまいませんの」  困った事になった。二人の関係が密接する程、人目を恐れてくる。人目を恐れる様 になっては、最早犯罪を犯しつつあるかの如く、心もおどおどするのであった。母は 口でこそ、男も女も十五六になれば児供ではないと云っても、それは理屈の上のこと で、心持ではまだまだ二人を丸で児供の様に思っているから、其後(ソノゴ)民子が僕の 室へきて本を見たり話をしたりしているのを、直(ス)ぐ前を通りながら一向気に留め る様子もない。此間(コノアイダ)の小言も実は嫂(アニヨメ)が言うから出たまでで、ほんとう に腹から出た小言ではない。母の方はそうであったけれど、兄や嫂やお増などは、盛 んに蔭言(カゲゴト)をいうて笑っていたらしく、村中の評判には、二つも年の多いのを 嫁にする気かしらんなどと専(モッパラ)いうているとの話。それやこれやのことが薄々 二人に知れたので、僕から言いだして当分二人は遠ざかる相談をした。  人間の心持と言うものは不思議なもの。二人が少しも隔意(カクイ)なき得心上(トクシンジョ ウ)の相談であったのだけれど、僕の方から言い出したり許りに、民子は妙に鬱(フサ)ぎ 込んで、丸で元気がなくなり、悄然(ショウゼン)としているのである。それを見ると僕も また溜らなく気の毒になる。感情の一進一退はこんな風にもつれつつ危なくなるので ある。兎に角二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。  陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜(ツユジモ)が降(オ)りたと思う ほどつめたい。其代(ソノカワ)り天気はきらきらしている。十五日が此(コノ)村の祭で明日 (アシタ)は宵祭という訣故(ワケユエ)、野の仕事も今日一渡り極(キマ)りをつけねばならぬ所 から、家中手分けをして野へ出ることになった。それで甘露的(カンロテキ)恩命が僕等両 人(フタリ)に下ったのである。兄夫婦とお増と外(ホカ)に男一人とは中稲(ナカテ)の刈残りを 是非刈って終わなければならぬ。民子は僕を手伝いとして山畑(ヤマバタケ)の綿を採って くることになった。これは固(モト)より母の指図(サシズ)で誰にも意議は云えない。 「マアあの二人を山の畑へ遣るッて、親というものはよッぽどお目出度(メデタ)いもの だ」  奥底のないお増と意地曲(イジマガ)りの嫂とは口を揃えてそう云ったに違いない。僕 等二人は固より心の底では嬉しいに相違ないけれど、此場合二人で山畑へゆくとなっ ては、人に顔を見られる様な気がして大いに極りが悪い。義理にも進んで行きたがる 様な素振りは出来ない。僕は朝飯前に書室を出ない。民子も何か愚図々々(グズグズ) して支度もせぬ様子。もう嬉しがってと云われるのが口惜しいのである。母は起きて きて、 「政夫も支度しろ。民やもさっさと支度して早く行け。二人でゆけば一日には楽(ラク) な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く行かないと帰りが夜(ヨル)になる。成るたけ 日の暮れない内に帰ってくる様によ。お増は二人の弁当を拵(コシラ)えてやってくれ、 お菜(サイ)はこれこれの物で……」  まことに親のこころだ。民子に弁当を拵えさせては、自分のであるから、お菜など はロクな物を持って行かないと気がついて、ちゃんとお増に命じて拵えさせたのであ る。僕はズボン下に足袋(タビ)裸足(ハダシ)麦藁帽という出(イ)で立ち、民子は手指(テサシ) を佩(ハ)いて股引も佩いてゆけと母が云うと、手指許り佩いて股引佩くのにぐずぐず している。民子は僕のところへきて、股引佩かないでもよい様にお母さんにそう云っ てくれと云う。僕は民さんがそう云いなさいと云う。押問答(オシモンドウ)をしている内 に、母はききつけて笑いながら、 「民やは町場者(マチバモノ)だから、股引佩くのは極(キマ)りが悪いかい。私は又お前が柔 かい手足へ、茨(イバラ)や薄(ススキ)で傷をつけるのが可哀相だから、そう云ったんだが、 いやだと云うなら、お前のすきにするがよいさ」  それで民子は、例の襷(タスキ)に前掛姿(マエカケスガタ)で麻裏草履という支度。二人は一 斗笊一個宛(ヒトツヅツ)を持ち、僕が別に番(バン)ニョ片籠(カタカゴ)と天秤(テンビン)とを肩 にして出掛ける。民子が跡から菅笠(スゲガサ)を被(カム)って出ると、母が笑声(ワライゴエ) で呼びかける。 「民や、お前が菅笠を被って歩くと、丁度木の子が歩くようで見っともない。編笠(ア ミガサ)がよかろう。新しいのが一つあった筈だ」  稲刈連(イネカリレン)は出てしまって別に笑うものもなかったけれど、民子はあわてて菅 笠を脱いで、顔を赤くしたらしかった。今度は編笠を被らずに手に持って、それじゃ お母さんいってまいりますと挨拶して走って出た。  村のものらも彼是(カレコレ)いうと聞いてるので、二人揃うてゆくも人前恥かしく、急 いで村を通抜(トオリヌ)けようとの考えから、僕は一足先になって出掛ける。村はずれの 坂の降口(オリグチ)の大きな銀杏(イチョウ)の樹の根で民子のくるのを待った。ここから見 おろすと少しの田圃(タンボ)がある。色よく黄ばんだ晩稲(オクテ)に露をおんで、シット リと打伏(ウチフ)した光景は、気のせいか殊に清々(スガスガ)しく、胸のすくような眺め である。民子はいつの間にか来ていて、昨日の雨で洗い流した赤土の上に、二葉三葉 銀杏の葉の落ちるのを拾っている。 「民さん、もうきたかい。此天気のよいことどうです。ほんとうに心持のよい朝だね イ」 「ほんとに天気がよくて嬉しいわ。このまア銀杏の葉の綺麗なこと。さア出掛けましょ う」  民子の美しい手で持ってると銀杏の葉も殊に綺麗に見える。二人は坂を降りて漸く 窮屈な場所から広場へ出た気になった。今日は大いそぎで綿を採り片付け、さんざん 面白いことをして遊ぼうなどと相談しながら歩く。道の真中(マンナカ)は乾いているが、 両側の田についている所は、露にしとしとに濡れて、いろいろの草が花を開いてる。 タウコギは末枯(ウラガ)れて、水蕎麦蓼(ミズソバタデ)など一番多く繁っている。都草も 黄色く花が見える。野菊がよろよろと咲いている。民さんこれ野菊がと僕は吾知(ワレシ) らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸脇へ物を置 いて、野菊の花を一握り採った。  民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれツと叫んで駆け 戻ってきた。 「民さんはそんなに戻ってきないツたって僕が行くものを……」 「まア政夫さんは何をしていたの。私びツくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、 私に半分おくれたツたら、私ほんとうに野菊が好き」 「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」 「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好(コノ)もしいの。 どうしてこんなかなと、自分で思う位」 「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」  民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。 「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」 「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風(フウ)だからさ」 「それで政夫さんは野菊が好きだって……」 「僕大好きさ」  民子はこれからあなたが先になってと云いながら、自分は後(アト)になった。今の偶 然に起(オコ)った簡単な問答は、お互いの胸に強く有意味(ユウイミ)に感じた。民子もそう 思った事は其(ソノ)素振りで解(ワカ)る。茲(ココ)まで話が迫ると、もう其先(ソノ)を言い出 すことは出来ない。話は一寸途切(トギ)れてしまった。  何と言っても幼い両人(フタリ)は、今罪の神に翻弄せられつつあるのであれど、野菊 の様な人だと言った詞についで、其(ソノ)野菊を僕はだい好きだと云った時すら、僕は 既に動悸を起した位で、直ぐにそれ以上を言い出すほどに、まだまだずうずうしくは なっていない。民子も同じこと、物に突きあたった様な心持で強くお互に感じた時に 声はつまってしまったのだ。二人は暫く無言で歩く。  真(マコト)に民子は野菊の様な児であった。民子は全くの田舎風ではあったが、決し て粗野ではなかった。可憐で優(ヤサ)しくそうして品格もあった。厭味とか憎気とかい う所は爪の垢ほどもなかった。どう見ても野菊の風(フウ)だった。  暫くは黙っていたけれど、いつまで話もしないでいるは猶(ナ)おおかしい様に思っ て、無理と話を考え出す。 「民さんはさっき何を考えてあんなに脇見もしないで歩いていたの」 「わたし何も考えていやしません」 「民さんそりゃ嘘だよ。何か考えごとでもしなくてあんな風にする訣はないさ。どん なことを考えていたのか知らないけれど、隠さないだってよいじゃないか」 「政夫さん、済まない。私さっきほんとに考事(カンガエゴト)していました。私つくづく 情けなくなったの。わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしょう。私は十七だ と言うんだもの、ほんとに情けなくなるわ……」 「民さんは何のこと言うんだろう。先に生れたから年が多い、十七年育ったから十七 になったのじゃないか。十七だから何で情けないのですか。僕だって、さ来年になれ ば十七歳さ。民さんはほんとに妙なことを云う人だ」  僕も今民子が言ったことの心を解(カイ)せぬほどの児供でもない。解ってはいるけど、 わざと戯れの様に聞きなして、振り返って見ると、民子は真(シン)に考え込んでいる様 であったが、僕と顔合せて極りわるげに遽(ニワカ)に側(ワキ)を向いた。  こうなってくると何をいうても、直ぐそこへ持ってくるので話がゆきつまってしま う。二人の内でどちらか一人が、すこうしほんの僅(ワズカ)にでも押(オシ)が強ければ、 こんなに話がゆきつまるのではない。お互に心持は奥底まで解っているのだから、吉 野紙を突破るほどにも力がありさえすれば、話の一歩を進めてお互に明放(アケハナ)して しまうことが出来るのである。乍併(シカシナガラ)真底(シンソコ)からおぼこな二人は、其(ソノ) 吉野紙を破るほどの押がないのである。又(マタ)茲(ココ)で話の皮を切ってしまわねばな らぬと云う様な、ハッキリした意識も勿論ないのだ。言わば未(マ)だ取止めのない卵 的の恋であるから、少しく心の力が必要な所へくると話がゆきつまってしまうのであ る。  お互に自分で話し出しては自分が極りわるくなる様なことを繰返しつつ幾町かの道 を歩いた。詞数(コトバカズ)こそ少なけれ、其(ソノ)詞の奥には二人共に無量の思いを包 んで、極りがわるい感情の中には何とも云えない深き愉快を湛えて居る。それで所謂 (イワユル)足も空(ソラ)に、いつしか田圃(タンボ)も通りこし、山路へ這入った。今度は民子 が心を取り直したらしく鮮やかな声で、 「政夫さん、もう半分道(ハンブンミチ)来ましてしょうか。大長柵(オオナガサク)へは一里に遠 いッて云いましたねイ」 「そうです、一里半には近いそうだが、もう半分の余(ヨ)来ましたろうよ。少し休み ましょうか」 「わたし休まなくとも、ようございますが、早速(サッソク)お母さんの罰(バチ)があたっ て、薄(ススキ)の葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結(ユ)わえて下さいな」  親指の中程で疵(キズ)は少しだが、血が意外に出た。僕は早速紙を裂(サ)いて結わえ てやる。民子が両手を赤くしているのを見た時非常にかわいそうであった。こんな山 の中で休むより、畑へ往ってから休もうというので、今度は民子を先に僕が後(アト)に なって急ぐ。八時少し過ぎと思う時分に大長柵の畑へ着いた。  十年許(バカ)り前に親父(オヤジ)が未だ達者な時分、隣村の親戚から頼まれて余儀な く買ったのだそうで、畑が八反と山林が二町ほど茲(ココ)にあるのである。此辺(コノヘン) 一帯に高台は皆山林で其間(ソノアイダ)の柵(サク)が畑になって居る。越石(コクイシ)を持って いると云えば、世間体(セケンテイ)はよいけど、手間許(バカ)り掛って割に合わないといつ も母が言ってる畑だ。  三方(サンポウ)林で囲まれ、南が開いて余所(ヨソ)の畑とつづいている。北が高く南が 低い傾斜(コウバイ)になっている。母の推察通り、綿は末にはなっているが、風が吹い たら溢れるかと思うほど綿はえんでいる。点々として畑中(ハタケジュウ)白くなっている 其綿に朝日がさしていると目(マ)ぶしい様に綺麗だ。 「まアよくえんでること。今日採りにきてよい事しました」  民子は女だけに、綿の綺麗にえんでるのを見て嬉しそうに云った。畑の真中(マンナカ) 程(ホド)に桐の樹が二本繁っている。葉が落ちかけて居るけれど、十月の熱を凌(シノ) ぐには十分だ。茲(ココ)へあたりの黍殻(キビガラ)を寄せて二人が陣どる。弁当包みを枝 へ釣る。天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚づつ脱ぐ。風 を懐(フトコロ)へ入れ足を展(ノバ)して休む。青ぎった空に翠(ミドリ)の松林、百舌(モズ)も 何処かで鳴いている。声の響くほど山は静かなのだ。天と地との間(アイダ)で広い畑の 真ン中に二人が話をしているのである。 「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですねイ」  顔から頚から汗を拭いた跡のつやつやしさ、今更に民子の横顔を見た。 「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝(ケサ)家(ウチ)を出る時はほん とに極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私は のぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」 「僕だって平気なもんですか。村の奴らに逢うのがいやだから、僕は一足先に出て銀 杏の下で民さんを待っていたんでさア。それはそうと、民さん、今日はほんとに面白 く遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くんだし、今月とて十五日しかないし、二人でしみ じみ話の出来る様なことは是から先はむずかしい。あわれッぽいこと云うようだけど、 二人の仲も今日だけかしらと思うのよ。ねイ民さん……」 「そりゃア政夫さん、私は道々それ許り考えて来ました。私がさっきほんとに情けな くなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」  面白く遊ぼう遊ぼう言うても、話を始めると直ぐこうなってしまう。民子は涙を拭 うた様であった。丁度よくそこへ馬が見えてきた。西側の山路から、がさがさ笹にさ わる音がして、薪(タキギ)をつけた馬を引いて頬冠(ホホカムリ)の男が出て来た。よく見る と意外にも村の常吉である。此の奴(ヤツ)はいつか向うのお浜に民子を遊びに連れだし てくれと頻りに頼んだという奴だ。いやな野郎がきやがったなと思うていると、 「や政夫さん、コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で綿採(ワタト)りか な。洒落(シャレ)てますね。アハヽヽヽヽ」 「オウ常さん、今日は駄賃かな。たいへん早く御精(ゴセイ)が出ますね」 「ハア吾々なんざア駄賃取りでもして適(タマ)に一盃(イッパイ)やるより外に楽しみもな いんですからな。民さん、いやに見せつけますね。余(アンマ)り罪ですぜ。アハヽヽヽ ヽ」  此野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、笑いとぼけて常吉 をやり過ごした。 「馬鹿野郎、実(ジツ)に嫌(イヤ)なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さ ん、元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉だも の、盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ……」 「ほんとに済みません、泣面(ナキヅラ)などして。あの常さんて男、何といういやな人 でしょう」  民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間許りの間(アイダ)に七分通 り片づけてしまった。もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭 に戻る。僕はかねて用意の水筒を持って、 「民さん、僕は水を汲んで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や 『あけび』をうんと土産(ミヤゲ)に採って来ます」 「私は一人で居るのはいやだ。政夫さん、一所に連れてって下さい。さっきの様な人 にでも来られたら大変ですもの」 「だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水(シミズ)のある所は。道という 様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が 食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしょう」 「政夫さん、後生(ゴショウ)だから連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも 歩けます。一人で茲にいるのはわたしゃどうしても……」 「民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。それじゃ一所に行きましょう」  弁当は綿の中へ隠し、着物はてんでに着てしまって出掛ける。民子は頻りに、にこ にこしている。端(ハタ)から見たならば、馬鹿々々しくも見苦しくもあろうけれど、本 人同志の身にとっては、其のらちもなき押問答の内にも限りなき嬉しみを感ずるので ある。高くもないけど道のない所をゆくのであるから、笹原を押分け樹の根につかま り、崖を攀(ヨ)ずる。屡(シバシバ)民子の手を採って曳いてやる。  近く二三日以来の二人の感情では、民子が求めるならば僕はどんなことでも拒まれ ない、又僕が求めるなら矢張りどんなことでも民子は決して拒みはしない。そういう 間柄でもありつつも、飽くまで臆病に飽くまで気の小さな両人(フタリ)は、嘗て一度も 有意味に手などを採ったことはなかった。然るに今日は偶然の事から屡手を採り合う に至った。這辺(コノヘン)の一種云うべからざる愉快な感情は経験ある人にして初めて語 ることが出来る。 「民さん、茲までくれば、清水はあすこに見えます。是から僕が一人で行ってくるか ら茲に待って居なさい。僕が見えて居たら居られるでしょう」 「ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、茲で 待ちましょう。あらア野葡萄(エビヅル)があった」  僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探(サグ)って、 『あけび』四五十と野葡萄一もくさを採り、龍膽(リンドウ)の花の美しいのを五六本見 つけて帰ってきた。帰りは下りだから無造作に二人で降りる。畑へ出て僕は春蘭(シュン ラン)の大きいのを見つけた。 「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、茲の『あけび』と『えびづる』 を持って行って下さい」 「『アックリ』て何(ナ)にい。あらア春蘭じゃありませんか」 「民さんは町場(マチバ)もんですから、春蘭などと品(ヒン)のよいこと仰しゃるのです。 矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申してましてね、皸(アカギレ)の薬に致します。 ハヽヽヽヽ」 「あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ」  山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。何か生理上の理由 でもあるか知らんが、兎に角、山の仕事をしてやがてたべる弁当が不思議とうまいこ とは誰も云う所だ。今吾々二人は新しき清水を汲み来り母の心を籠(コ)めた弁当を分 けつつたべるのである。興味の尋常でないは云うも愚(オロカ)な次第だ。僕は『あけび』 を好み民子は野葡萄(エビヅル)をたべつつ暫く話をする。  民子は笑いながら、 「政夫さんは皸(アカギレ)の薬に『アックリ』とやらを採ってきて学校へお持ちになる の。学校で皸がきれたらおかしいでしょうね……」  僕は真面目に、 「なアにこれはお増にやるのさ。お増はもう遠(トオ)に皸を切らしているでしょう。此 間も湯に這入る時にお増が火を焚きにきて非常に皸を痛がっているから、其内に僕が 山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」 「まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭日向のない憎気のない女ですから、 私も仲好くしていたんですが、此頃は何となし私に突き当る様な事ばかし言って、何 でもわたしを憎んでいますよ」 「アハヽヽ、それはお増どんが焼餅(ヤキモチ)をやくのでさ。つまらんことにもすぐ焼餅 を焼くのは、女の癖さ。僕がそら『アックリ』を採っていってお増にやると云えば、 民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか云うのと同じ訣さ」 「此人はいつのまにこんなに口がわるくなったのでしょう。何を言っても政夫さんに はかないやしない。いくら私だってお増が根も底もない焼もちだ位は承知しています よ……」 「実はお増も不憫(フビン)な女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまで なるのではない。親父は戦争で死ぬ、お袋は之れを嘆いたがもとでの病死、一人の兄 がはずれものという訣で、とうとうあの始末。国家の為に死んだ人の娘だもの、民さ ん、いたわってやらねばならない。あれでも民さん、あなたをば大変ほめているよ。 意地曲りの嫂にこきつかわれるのだから一層かわいそうでさ」 「そりア政夫さん、私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそうおっしゃいました。 つまらないものですけど何とかかとか分けてやってますが、又政夫さんの様に情深く されると……」  民子は云いさして又話を詰(ツマ)らしたが、桐の葉に包んで置いた龍膽(リンドウ)の花 を手に採って、急に話を転じた。 「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとによい花ですね。わ たしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになっ た。おオえエ花……」  花好きな民子は例の癖で、色白の顔に其の紫紺の花を押しつける。やがて何を思い だしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。 「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」 「政夫さんはりんどうの様な人だ」 「どうして」 「さアどうしてということないけど、政夫さんは何がなし龍膽(リンドウ)の様な風(フウ) だからさ」  民子は言い終って顔をかくして笑った。 「民さんも余程(ヨッポド)人が悪くなった。それでさっきの仇討(アダウチ)という訣です か。口真似(クチマネ)なんか恐れ入りますナ。併し民さんが野菊で僕が龍膽(リンドウ)とは 面白い対(ツイ)ですね。僕は悦んでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好 きになってくれれば猶(ナオ)嬉しい」  二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた。秋の日足の短さ、日は漸く傾きそめ る。さアとの掛声で綿もぎにかかる。午後の分は僅(ワズカ)であったから一時間許りで もぎ終えた。何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。民 子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松の梢をかぎりかけた。  半分道(ハンブンミチ)も来たと思う頃は十三夜の月が、木(コ)の間(マ)から影をさして尾 花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。今朝は気がつかなかった が、道の西手に一段低い畑には、蕎麦の花が薄絹を曳き渡したように白く見える。こ おろぎが寒げに鳴いているにも心とめずにいられない。 「民さん、くたぶれたでしょう。どうせおそくなったんですから、此景色のよい所で 少し休んで行きましょう」 「こんなにおそくなるなら、今少し急げばよかったのに。家の人達に屹度(キット)何と か言われる。政夫さん、私はそれが心配になるわ」 「今更心配しても追(オッ)つかないから、まア少し休みましょう。こんなに景色のよい ことは滅多(メッタ)にありません。そんなに人に申訣のない様な悪いことはしないもの、 民さん、心配することはないよ」  月あかりが斜にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけた。目の先七八間 の所は木の蔭で薄暗いがそれから向うは畑一ぱいに月がさして、蕎麦の花が際立って 白い。 「何というえい景色でしょう。政夫さん、歌とか俳句とかいうものをやったら、こん なときに面白いことが云えるでしょうね。私ら様な無筆でもこんな時には心配も何も 忘れますもの。政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ」 「僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。山畑の蕎麦の花 に月がよくて、こおろぎが鳴くなどとは実にえいですなア。民さん、これから二人で 歌をやりましょうか」  お互に一つの心配を持つ身となった二人は、内に思うことが多くて却って話は少な い。何となく覚束(オボツカ)ない二人の行末、茲で少しく話をしたかったのだ。民子は 勿論のこと、僕よりも一層話したかったに相違ないが、年の至らぬのと浮いた心のな い二人は、なかなか差向いでそんな話は出来なかった。暫くは無言でぼんやり時間を 過ごすうちに、一列の雁が二人を促すかの様に空近く鳴いて通る。  暫く田圃へ降りて銀杏の木が見えた時に、二人は又同じ様に一種の感情が胸に湧い た。それは外でもない、何となく家に這入りづらいと言う心持である。這入りづらい 訣はないと思うても、どうしても這入りづらい。躊躇する暇もない、忽ち門前近く来 てしまった。 「政夫さん……あなた先になって下さい。私極りわるくてしょうがないわ」 「よし、それじゃ僕が先になろう」  僕は頗る勇気を鼓し殊に平気な風を装うて門(モン)を這入った。家の人達は今夕飯最 中で盛んに話が湧いているらしい。庭場の雨戸は未だ開いたなりに月が軒口迄さし込 んでいる。僕が咳払を一ツやって庭場へ這入ると、台所の話は俄に止んでしまった。 民子は指の先で僕の肩を撞いた。僕も承知しているのだ、今御膳会議で二人の噂が如 何に盛んであったか。  宵祭りでは十三夜ではあるので、家中表座敷へ揃うた時、母も奥から起きてきた。 母は一通り二人の余り遅かった事を咎めて深くは言わなかったけれど、常とは全く違っ ていた。何か思っているらしく、少しも打解けない。これまでは口には小言を言うて も、心中に疑わなかったのだが、今夜は口には余り言わないが、心では十分に二人に 疑いを起したに違いない。民子は愈(イヨイヨ)小さくなって座敷中(ザシキナカ)へは出ない。 僕は山から採ってきた、あけびや野葡萄やを沢山座敷中(ザシキジュウ)へ並べ立てて、暗 に僕がこんな事をして居たから遅くなったのだとの意を示し無言の弁解をやっても何 のききめもない。誰一人それをそうと見るものはない。今夜は何の話にも僕等二人は 除(ノ)けものにされる始末で、最早二人は全く罪あるものと黙決されて了(シマ)ったの である。 「お母さんがあんまり甘過(アマス)ぎる。あアして居る二人を一所に山畑へやるとは目 のないにも程がある。はたでいくら心配してもお母さんがあれでは駄目だ」  これが台所会議の決定であったらしい。母の方でも何時迄も児供と思っていたが誤 りで、自分が悪かったという様な考えに今夜はなったのであろう。今更二人を叱って 見ても仕方がない。なに政夫を学校へ遣ってしまいさえせば仔細はないと母の心はちゃ んときまって居るらしく、 「政や、お前はナ十一月へ入って直ぐ学校へやる積りであったけれど、そうしてぶら ぶらして居ても為にならないから、お祭が終ったら、もう学校へゆくがよい。十七日 にゆくとしろ……えいか、其のつもりで小支度(コジタク)して置け」  学校へゆくは固より僕の願い、十日や二十日早くとも遅くともそれに仔細はないが、 此場合然も今夜言渡(イイワタシ)があって見ると、二人は既に罪を犯したものと定(キ)めら れての仕置であるから、民子は勿論僕に取っても頗る心苦しい処がある。実際二人は それ程に堕落した訣でないから、頭からそうきめられては、聊(イササ)か妙な心持がす る。さりとて弁解の出来ることでもなし、又強いことを言える資格も実は無いのであ る。これが一ケ月前であったならば、それはお母さん御無理だ、学校へ行くのは望み であるけど、科(トガ)を着せられての仕置に学校へゆけとはあんまりでしょう……な どと直ぐだだを言うのであるが、今夜はそんな我儘を言える程無邪気ではない。全く の処、恋に陥ってしまっている。  あれほど可愛がられた一人の母に隠立(カクシダテ)をする、何となく隔てを作って心の ありたけを言い得ぬまでになっている。おのずから人前を憚(ハバカ)り、人前では殊更 に二人がうとうとしく取りなす様になっている。かくまで私心(ワタクシゴコロ)が長じてき てどうして立派な口がきけよう。僕は只(タダ)一言(イチゴン)、 「はア……」 と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。 「僕は学校へ往って了えばそれでよいけど、民さんは跡でどうなるだろうか」  不図(フト)そう思って、そっと民子の方を見ると、お増が枝豆をあさってる後(ウシロ) に、民子はうつむいて膝の上に襷をこねくりつつ沈黙している。如何にも元気のない 風で夜(ヨル)のせいか顔色も青白く見えた。民子の風を見ても僕も俄に悲しくなって泣 きたくなった。涙は瞼(マブタ)を伝(ツタワ)って眼が曇った。何(ナ)ぜ悲しくなったか理由 は判然(ハッキリ)しない。只民子が可哀相でならなくなったのである。民子と僕との楽し い関係も此日の夜までは続かなく、十三日の昼の光と共に全く消えうせて了った。嬉 しいにつけても思いのたけは語りつくさず、憂き悲しいことに就いては勿論百分の一 だも語りあわないで、二人の関係は闇の幕に這入って了ったのである。  十四日は祭の初日(ショニチ)で只物せわしく日がくれた。お互に気のない風はしていて も、手にせわしい仕事のあるばかりに、兎に角思い紛(マギ)らすことが出来た。  十五日と十六日とは、食事の外用事もないままに、書室へ籠りとおしていた。ぼん やり机にもたれたなり何をするでもなく、又二人の関係をどうしようかという様なこ とすらも考えてはいない。只民子のことが頭に充ちている許りで、極めて単純に民子 を思うている外に考えは働いて居(オ)らぬ。此二日の間に民子と三四回は逢ったけれ ど、話も出来ず微笑を交換する元気もなく、うら淋しい心持を互に目に訴うるのみで あった。二人の心持が今少しませて居ったならば、此二日の間にも将来の事など随分 話し合うことが出来たのであろうけれど、しぶとい心持などは毛程もなかった二人に は、其場合になかなかそんな事は出来なかった。それでも僕は十六日の午後になって、 なんとはなしに以下のような事を巻紙へ書いて、日暮に一寸来た民子に僕が居なくなっ てから見てくれと云って渡した。 朝から茲へ這入ったきり、何をする気にもならない。外へ出る気にもならず、本 を読む気にもならず、只繰返し繰返し民さんの事許り思って居る。民さんと一所 に居れば神様に抱かれて雲にでも乗って居る様だ。僕はどうしてこんなになった んだろう。学問をせねばならない身だから、学校へは行くけれど、心では民さん と離れたくない。民さんは自分の年の多いのを気にしているらしいが、僕はそん なことは何とも思わない。僕は民さんの思うとおりになるつもりですから、民さ んもそう思っていて下さい。明日は早く立ちます。冬期の休みには帰ってきて民 さんに会うのを楽しみにして居ります。     十月十六日 政 夫          民 子 様  学校へ行くとは云え、罪があって早くやられると云う境遇であるから、人の笑声話 声にも一々ひがみ心が起きる。皆二人に対する嘲笑かの様に聞かれる。いっそ早く学 校へ行ってしまいたくなった。決心が定まれば元気も恢復してくる。此夜は頭も少し くさえて夕飯も心持よくたべた。学校の事何くれとなく母と話をする。やがて寝に就 いてからも、 「なんだ馬鹿々々しい、十五かそこらの小僧の癖に、女の事など許りくよくよ考えて ……そうだそうだ、明日(アシタ)は早速学校へ行こう。民子は可哀相だけれど……もう 考えまい、考えたって仕方がない、学校々々……」  独口(ヒトリグチ)ききつつ眠りに入った様な訣であった。  船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物を カバン一個(ヒトツ)につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船 に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽(ノド) がつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸 を撫でたり襟を撫でたりして、下許り向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいと して、体(カラダ)を脇へそらしている。民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れな かった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返(イチョウガエ)しに薄 く化粧をしている。煤色と紺の細かい弁慶縞(ベンケイジマ)で、羽織も長着(ナガギ)も同 じい米沢(ヨネザワ)紬(ツムギ)に、品のよい友禅(ユウゼン)縮緬(チリメン)の帯をしめていた。襷 を掛けた民子もよかったけれど今日の民子は一層引立って見えた。  僕の気のせいででもあるか、民子は十三日の夜からは一日(ヒトヒ)々々とやつれてき て、此日のいたいたしさ、僕は泣かずには居られなかった。虫が知らせるとでもいう のか、これが生涯の別れになろうとは、僕は勿論民子とて、よもやそうは思わなかっ たろうけれど、此時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてくれるものはな いと思う位であった。  尤(モット)も民子の思いは僕より深かったに相違ない。僕は中学を卒業する迄にも、 四五年間(アイダ)のある体であるに、民子は十七で今年の内にも縁談の話があって両親 からそう言われれば、無造作に拒むことの出来ない身であるから、行末の事をいろい ろ考えて見ると心配の多い訣である。当時の僕はそこまでは考えなかったけれど、親 しく目に染(シ)みた民子のいたいたしい姿は幾年経っても昨日の事のように眼に浮か んでいるのである。  余所から見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣面と見苦しくもあっ たであろうけれど、二人の身に取っては、真にあわれに悲しき別れであった。互に手 を取って後来(コウライ)を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場(ワタシバ)に、 泣きの涙も人目を憚(ハバカ)り、一言の詞(コトバ)もかわし得ないで永久の別れをしてし まったのである。無情の舟は流れを下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らな い内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられて了った。物も言い得ないで、しょんぼりと 悄(シナ)れていた不憫な民さんの俤(オモカゲ)、どうして忘れることが出来よう。民さん を思う為に神の怒りに触れて即座に打殺さるる様なことがあるとても僕には民さんを 思わずに居られない。年をとっての後(ノチ)の考えから言えば、あアもしたらこうもし たらと思わぬこともなかったけれど、当時の若い同志(ドシ)の思慮には何等の工夫も 無かったのである。八百屋お七は家を焼いたらば、再度(フタタビ)思う人に逢われるこ とと工夫をしたのであるが、吾々二人は妻戸一枚を忍んで開ける程の知恵も出なかっ た。それ程に無邪気な可憐な恋でありながら、猶親に怖(オ)じ兄弟に憚り、他人の前 にて涙も拭き得なかったは如何に気の弱い同志(ドシ)であったろう。  僕は学校へ行ってからも、兎角(トカク)民子のことばかり思われて仕方がない。学校 に居ってこんなことを考えてどうするものかなどと、自分で自分を叱り励まして見て も何の甲斐(カイ)もない。そういう詞の尻からすぐ民子のことが湧いてくる。多くの人 中(ヒトナカ)に居(イ)ればどうにか紛(マギ)れるので、日の中は成るたけ一人で居ない様に 心掛けて居た。夜になっても寝ると仕方がないから、成るたけ人中で騒いで居て疲れ て寝る工夫をして居た。そういう始末で漸く年もくれ冬期休業になった。  僕が十二月二十五日の午前に帰って見ると、庭一面に籾(モミ)を干してあって、母は 前の縁側に蒲団を敷いて日向ぼっこをしていた。近頃は余程体(カラダ)の工合(グアイ)も よい。今日は兄夫婦と男とお増とは山へ落葉(クズ)をはきに行ったとの話である。僕 は民さんはと口の先まで出たけれど遂に言い切らなかった。母も意地悪く何とも言わ ない。僕は帰り早々(ソウソウ)民子のことを問うのが如何にも極り悪く、其儘例の書室を 片づけて茲に落着いた。併し日暮までには民子も帰ってくることと思いながら、おろ おろして待って居る。皆が帰って愈(イヨイヨ)夕飯ということになっても民子の姿は見え ない。誰も又民子のことを一言(ヒトコト)も言うものもない。僕はもう民子は市川へ帰っ たものと察して、人に問うのもいまいましいから、外の話もせず、飯がすむとそれな り書室へ這入って了った。  今日は必ず民子に逢われることと一方(ヒトカタ)ならず楽しみにして帰って来たのに、 此始末で何とも言えず力が落ちて淋しかった。さりとて誰に此苦悶を話しようもなく、 民子の写真などを取出して見て居ったけれど、ちっとも気が晴れない。又あの奴(ヤツ) 民子が居ないから考え込んで居やがると思われるも口惜しく、漸く心を取直し、母の 枕元へいって夜遅くまで学校の話を聞かせた。  翌(ア)くる日は九時頃に漸く起きた。母は未(マ)だ寝ている。台所へ出て見ると外の 者は皆又山へ往ったとかで、お増が一人台所片付けに残っている。僕は顔を洗ったな り飯も食わずに、背戸の畑へ出てしまった。此の秋、民子と二人で茄子をとった畑が 今は青々と菜がほきている。僕は暫く立って何処(イズコ)を眺めるともなく、民子の俤 (オモカゲ)を脳中にえがきつつ思いに沈んでいる。 「政夫さん、何をそんなに考えているの」  お増が出し抜けに後(ウシロ)からそいって、近くへ寄ってきた。僕がよい加減なこと を一言二言いうと、お増はいきなり僕の手をとって、も少しこっちへきて茲へ腰を掛 けなさいまアと言いつつ、藁を積んである所へ自分も腰をかけて僕にも掛けさせた。 「政夫さん……お民さんはほんとに可哀相でしたよ。うちの姉さんたらほんとに意地 曲りですからネ。何という根性の悪い人だか、私もはア茲のうちに居るのは厭(イヤ)に なってしまった。昨日政夫さんが来るのは解りきって居るのに、姉さんがいろんなこ とを云って、一昨日(オトトイ)お民さんを市川へ帰したんですよ。待つ人があるだっぺと か逢いたい人が待ちどおかっぺとか、当てこすりを云ってお民さんを泣かせたりして ネ、お母さんにも何でもいろいろなこと言ったらしい、とうとう一昨日お昼前に帰し てしまったのでさ。政夫さんが一昨日きたら逢われたんですよ。政夫さん、私はお民 さんが可哀相で可哀相でならないだよ。何だってあなたが居なくなってからは丸で泣 きの涙で日を暮らして居るんだもの、政夫さんに手紙をやりたいけれど、それがよく 自分には出来ないから口惜(クヤ)しいと云ってネ。私の部屋へ三晩も硯と紙を持ってき ては泣いて居ました。お民さんも始まりは私にも隠していたけれど、後(ノチ)には隠し て居られなくなったのさ。私もお民さんのためにいくら泣いたか知れない……」  見ればお増はもうぼろぼろ涙をこぼしている。一体お増は極(ゴク)人のよい親切な 女で、僕と民子が目の前で仲好い風をすると、嫉妬心を起すけれど、固(モト)より執念 深い性でないから、民子が一人になれば民子と仲が好く、僕が一人になれば僕を大騒 ぎするのである。  それから猶お増は、僕が居ない跡で民子が非常に母に叱られたことなどを話した。 それは概略こうである。意地悪の嫂が何を言うても、母が民子を愛することは少しも 変らないけれど、二つも年の多い民子を僕の嫁にすることはどうしてもいけぬと云う ことになったらしく、それには嫂もいろいろ言うて、嫁にしないとすれば、二人の仲 は成るたけ裂(サ)く様に工夫をせねばならぬ。母も嫂もそういう心持になって居るか ら、民子に対する仕向けは、政夫の事を思うて居ても到底駄目であると遠回しに諷示 して居た。そこへきて民子が明けてもくれてもくよくよして、人の眼にもとまる程で あるから、時々は物忘れをしたり、呼んでも返辞が遅かったりして、母の疳癪にさわっ たことも度々(タビタビ)あった。僕が居なくなってから二十日許り経って十一月の初め の頃、民子も外の者と野へ出ることとなって、母が民子にお前は一足(ヒトアシ)跡になっ て、座敷のまわりを雑巾掛(ゾウキンガケ)してそれから庭に拡(ヒロ)げてある蓆(ムシロ)を倉 へ方づけてから野へゆけと言いつけた。民子は雑巾がけをしてからうっかり忘れてし まって、蓆を入れずに野へ出た処、間がわるく其日雨が降ったから、其蓆十枚許りを 濡らしてしまった。民子は雨が降ってから気がついたけれど、もう間に合わない。う ちへ帰って早速母に詫びたけれど母は平日の事が胸にあるから、 「何も十枚許りの蓆が惜しいではないけれど、一体私の言いつけを疎(オロソ)かに聞い ているから起こった事だ。もとの民子はそうではなかった。得手勝手(エテカッテ)な考え 事などしているから、人の言うことも耳へ這入らないのだ……」 という様な随分痛い小言を云った。民子は母の枕元近くへいって、どうか私が悪かっ たのですから堪忍して……と両手をついてあやまった。そうすると母は又そう何も他 人らしく改まってあやまらなくともだと叱ったそうで、民子は溜らなくなってワッと 泣き伏した。其儘(ソノママ)民子が泣きやんでしまえば何の事もなく済んだのであろうが、 民子はとうとう一晩中泣きとおしたので翌朝は眼を赤くして居た。母も時々眼をさま してみると、民子はいつでも、すくすく泣いている声がしていたというので、今度は 母が非常に立腹(リップク)して、お増と民子と二人呼んで母が顫声(フルエゴエ)になって云 うには、 「相対(アイタイ)では私がどんな我儘なことを云うかも知れないからお増は聞人(キキテ)に なってくれ。民子はゆうべ一晩中泣きとおした。定めし私に云われたことが無念で溜 らなかったからでしょう」  民子は茲で私はそうではありませんと泣声でいうたけれど、母は耳にもかけずに、 「成程私の小言も少し云い過ぎかも知れないが、民子だって何もそれほど口惜(クヤ)し がってくれなくてもよさそうなものじゃないか。私はほんとに考えると情けなくなっ てしまった。かわいがったのを恩に着せるではないが、もとを云えば他人だけれど、 乳呑児(チノミゴ)の時から、民子はしょっちゅう家へきて居て今の政夫と二つの乳房を 一つ宛(ヅツ)含(フク)ませて居た位、お増が来てからもあの通りで、二つのものは一つ 宛四つのものは二つ宛、着物を拵(コシラ)えてもあれに一枚これに一枚と少しも分け隔 てをせないできた。民子も真の親の様に思ってくれ私も吾子(ワガコ)と思って余所の人 は誰だって二人を兄弟(キョウダイ)と思わないものはなかった程であるのに、あとにも先 にも一度の小言をあんなに悔しがって夜中(ヨジュウ)泣いて呉(ク)れなくともよさそうな もの。市川の人達に聞かれたらば、斎藤の婆(バア)がどんな非度(ヒド)いことを云った かと思うだろう。十何年という間(アイダ)我子(ワガコ)の様に思ってきたことも只一度の 小言で忘れられてしまったのかと思うと私は口惜しい。人間というものはそうしたも のかしら。お増、よく聞いてくれ、私が無理か民子が無理か。なアお増」  母は眼に涙を一ぱいに溜めてそういった。民子は身も世もあらぬさまでいきなりに お増の膝へすがりついて泣き泣き、 「お増や、お母さんに申訣(モウシワケ)をしておくれ。私はそんなだいそれた了簡(リョウケン) ではない。ゆんべあんなに泣いたのは全く私が悪かったから、全く私がとどかなかっ たのだから、お増や、お前がよく申訣をそういっておくれ……」  それからお増が、 「お母さんの御立腹(ゴリップク)も御尤(ゴモット)もですけれど、私が思うにャお母さんも 少し勘違(カンチガ)いをして御いでなさいます。お母さんは永年お民さんをかわいがっ て御いでですから、お民さんの気質(キダテ)は解って居りましょう。私もこうして一年 御厄介になって居てみれば、お民さんはほんと優しい温和(オトナ)しい人です。お母さ んに少し許り叱られたって、それを悔(クヤ)しがって泣いたりなんぞする様な人ではあ りますまい。私がこんなことを申してはおかしいですが、政夫さんとお民さんとは、 あアして仲好くして居たのを、何かの御都合で急にお別れなさったもんですから、そ れからというもの、お民さんは可哀相な程元気がないのです。木(コ)の葉のそよぐに も溜息をつき烏の鳴くにも涙ぐんで、さわれば泣きそうな風でいたところへ、お母さ んから少しきつく叱られたから、留度(トメド)なく泣いたのでしょう。お母さん、私は 全くそう思いますわ。お民さんは決してあなたに叱られたとて悔しがるような人では ありません。お民さんの様な温和(オトナ)しい人を、お母さんの様にあアいって叱って は、あんまり可哀相ですわ」  お増が共泣(トモナ)きをして言訣をいうたので、固より民子は憎くない母だから、俄 に顔色を直して、 「なるほどお増がそういえば、私も少し勘違いをしていました。よくお増そういうて くれた。私はもうすっかり心持がなおった。民や、だまっておくれ、もう泣いてくれ るな。民やも可哀相であった。なに政夫は学校へ行ったんじゃないか、暮(クレ)には帰っ てくるよ。なアお増、お前は今日は仕事を休んで、うまい物でも拵(コシラ)えてくれ」  其日は三人がいく度もよりあって、いろいろな物を拵えては茶(チャ)ごとをやり、一 日面白く話をした。民子は此日はいつになく高笑いをし元気よく遊んだ。何と云って も母の方は直ぐ話が解るけれど、嫂が間(マ)がな隙(スキ)がな種々(イロイロ)なことを言う ので、とうとう僕の帰らない内に民子を市川へ帰したとの話であった。お増は長い話 を終るや否やすぐ家へ帰った。  なる程そうであったか、姉は勿論母までがそういう心になったでは、か弱い望(ノゾ ミ)も絶えたも同様。心細さの遣瀬(ヤルセ)がなく、泣くより他に詮(セン)がなかったのだ ろう。そんなに母に叱られたか……一晩中泣きとおした……なるほどなどと思うと、 再び熱い涙が漲(ミナギ)り出してとめどがない。僕は暫くの間、涙の出るがままにそこ にぼんやりして居った。其日はとうとう朝飯もたべず、昼過ぎまで畑のあたりをうろ ついて了(シマ)った。  さうなると俄に家に居るのが厭(イヤ)で溜らない。出来るならば幕の内に学校へ帰っ て了いたかったけれど、そうもならないで漸くこらえて、年を越し元日一日置いて二 日の日には朝早く学校へ立って了った。  今度は陸路(リクロ)市川へ出て、市川から汽車に乗ったから、民子の近所を通ったの であれど、僕は極(キマ)りが悪くてどうしても民子の家へ寄れなかった。又僕に寄られ たらば、民子が困るだろうとも思って、いくたび寄ろうと思ったけれど遂に寄らなかっ た。  思えば実に人の境遇は変化するものである。其一年前までは、民子が僕の所へ来て 居なければ、僕は日曜のたびに民子の家へ行ったのである。僕は民子の家へ行っても 外の人には用はない。いつでも、 「お祖母さん、民さんは」  そら「民さんは」が来たといわれる位で、或る時などは僕がゆくと、民子は庭に菊 の花を摘んで居た。僕は民さん一寸御出でと無理に背戸へ引張って行って、二間(ニケン) 梯子(バシゴ)を二人で荷(ニナ)い出し、柿の木へ掛けたのを民子に抑えさせ、僕が登っ て柿を六個(ムッツ)許りとる。民子に半分やれば民子は一つで沢山(タクサン)というから、 僕は其五つを持って其儘裏から抜けて帰ってしまった。さすがに此時は戸村の家でも 家中で僕を悪く言ったそうだけれど、民子一人は只にこにこ笑って居て、決して政夫 さん悪いとは言わなかったそうだ。これ程隔てなくした間柄だに、恋ということ覚え てからは、市川の町を通るすら恥ずかしくなったのである。  此年の暑中休みには家に帰らなかった。暮れにも帰るまいと思ったけれど、年の暮 れだから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大三十日(オオミソカ)の夜 帰ってきた。お増は今年きりで下(サガ)ったとの話でいよいよ話相手もないから、又 元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民子は嫁に往っ た、去年の霜月矢張り市川の内(ウチ)で、大変有福(ユウフク)な家だそうだ、と簡単にいう のであった。僕ははアそうですかと無造作に答えて出てしまった。  民子は嫁に往った。此一語を聞いた時の僕の心持は自分ながら不思議と思うほどの 平気であった。僕が民子を思っている感情に何等の動揺を起さなかった。これには何 か相当の理由があるかも知れねど、兎も角も事実はそうである。僕は只理屈なしに民 子は如何な境涯に入ろうとも、僕を思っている心は決して変らぬものと信じている。 嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、僕が民子を思う心に寸分の変りない 様に民子にも決して変りない様に思われて、其観念は殆ど大石(オオイシ)の上に坐して居 る様で毛の先ほどの危惧心(キグシン)もない。それであるから民子は嫁に往ったと聞い ても少しも驚かなかった。併し其頃から今までにない考えも出て来た。民子は只々少 しも元気がなく、痩衰(ヤセオトロ)えて鬱(フサ)いで許り居るだろうとのみ思われてならな い。可哀相な民さんと言う観念ばかり高まってきたのである。そういう訣であるから、 学校へ往っても以前とは殆ど反対になって、以前は勉めて人中へ入って、苦悶を紛(マ ギ)らそうとしたけれど、今度は成るべく人を避けて、一人で民子の上に思いを馳せ て楽しんで居った。茄子畑の事や綿畑の事や、十三日の晩の淋しい風や、又矢切の渡 で別れた時の事やを、繰返し繰返し考えては独り慰めて居った。民子の事さえ考えれ ばいつでも気分よくなる。勿論悲しい心持になることが屡(シバシバ)あるけれど、さん ざん涙を出せば矢張り跡は気分がよくなる。民子の事を思って居れば却って学課の成 績も悪くないのである。是等も不思議の一つで、如何なる理由か知らねど、僕は実際 そうであった。  いつしか月も経(タ)って、忘れもせぬ六月二十二日、僕が算術の解題(カイダイ)に苦し んで考えて居ると、小使が斎藤さんおうちから電報です、と云って机の端へ置いて去っ た。例のスグカエレであるから、早速舎監に話をして即日帰省した。何事が起こった かと胸に動悸をはずませて帰って見ると、宵闇の家の有様は意外に静かだ。台所で家 中夕飯時であったが、只そこに母が見えない許り、何の変った様子もない。僕は台所 へは顔を出さず、直ぐと母の寝所(シンジョ)へきた。行燈(アンドウ)の灯(ヒ)も薄暗く、母 はひったり枕に就いて臥(フ)せって居る。 「お母さん、どうかしましたか」 「あア政夫、よく早く帰ってくれた。今私も起きるからお前御飯前(ゴハンマエ)なら御飯 を済ましてしまえ」  僕は何の事か頻りに気になるけれど、母がそういうままに早々(ソウソウ)に飯をすまし て再び母の所へくる。母は帯を結(ユ)うて蒲団(フトン)の上に起きていた。僕が前に坐っ ても只無言でいる。見ると母は雨の様な涙を落して俯向(ウツム)いている。 「お母さん、まアどうしたんでしょう」  僕の詞(コトバ)に励まされて母は漸く涙を拭き、 「政夫、堪忍してくれ……民子は死んでしまった……私が殺した様なものだ……」 「そりゃいつです。どうして民さんは死んだんです」  僕が夢中になって問返すと、母は嗚咽(ムセ)び返って顔を抑(オサ)えて居る。 「始終(シジュウ)をきいたら、定めし非度(ヒド)い親だと思うだろうが、こらえてくれ、 政夫……お前に一言の話もせず、たっていやだと言う民子を無理に勧めて嫁にやった のが、こういうことになって了(シマ)った……縦令(タトイ)女の方が年上であろうとも本 人同志が得心(トクシン)であらば、何も親だとて余計(ヨケイ)な口出しをせなくともよいの に、此母が年甲斐(トシガイ)もなく親だてらにいらぬお世話を焼いて、取返しのつかぬ ことをして了った。民子は私が手を掛けて殺したも同じ。どうぞ堪忍してくれ、政夫 ……私は民子の跡追ってゆきたい……」  母はもうおいおいおいおい声を立てて泣いている。民子の死ということだけは判っ たけれど、何が何やら更に判らぬ。僕とて民子の死と聞いて、失神するほどの思いで あれど、今目の前で母の嘆きの一通りならぬを見ては、泣くにも泣かれず、僕がおろ おろしている所へ兄夫婦が出てきた。 「お母さん、まアそう泣いたって仕方がない」 と云えば母は、かまわずに泣かしておくれ泣かしておくれと云うのである。どうしよ うもない。  其問(ソノトイ)で嫂が僅(ワズカ)に話す所を聞けば、市川の某(ソレガシ)と云う家で先の男 の気性も知れているに財産も戸村の家に倍以上であり、それで向うから民子を強(タ)っ ての所望、媒妁人(ナコウド)というのも戸村が世話になる人である、是非やりたい是非 往(イ)ってくれということになった。民子はどうでもいやだと云う。民子のいやだと いう精神(ココロ)はよく判っているけれども、政夫の方は年も違い先の永いことだから、 どうでも某の家へやりたいとは、戸村の人たちは勿論親類までの希望であった。それ で愈(イヨイヨ)斎藤のおツ母さんに意見をして貰うということに相談が極り、それで家(ウ チ)のお母さんが民子に幾度意見をしても泣いてばかり承知しないから、とどの詰(ツマ) り、お前がそう剛情はるのも政夫の処へきたい考えからだろうけれど、それは此母が 不承知でならないよ、お前はそれでも今度の縁談が不承知か。こんな風に言われたか ら、民子はすっかり自分をあきらめたらしく、とうとう皆様のよい様にといって承知 した。それからは何もかも他(ヒト)の言うなりになって、霜月(シモツキ)半(ナカバ)に祝儀(シュ ウギ)をしたけれど、民子の心持がほんとうの承知でないから、向うでもいくらかいや 気(キ)になり、民子は身持になったが、六月(ムツキ)でおりてしまった。跡の肥立ちが非 常に悪く遂に六月十九日に息を引き取った。病中僕に知らせようとの話もあったが、 今更政夫に知らせる顔もないという訣から知らせなかった。家のお母さんは民子が未 (マ)だ口をきく時から、市川へ往って居って、民子がいけなくなると、もう泣いて泣 いて泣きぬいた。一口まぜに、民子は私が殺した様なものだ、と許りいって居て、市 川へ置いたではどうなるか知れぬという訣から、昨日車で家へ送られてきたのだ。話 さえすれば泣く、泣けば私が悪かった悪かったと云って居る。誰にも仕様がないから、 政夫さんの所へ電報を打った。民子も可哀相だしお母さんも可哀相だし、飛んだこと になってしまった。政夫さん、どうしたらよいでしょう。  嫂の話で大方は判ったけれど、僕はどうしてよいやら殆ど途方にくれた。母はもう 半気違いだ。何しろ茲では母の心を静めるのが第一とは思ったけれど、慰めようがな い。僕だっていっそ気違いになってしまったらと思った位だから、母を慰めるほどの 気力はない。そうこうしている内に漸(ヨウヤ)く母も少し落着いてきて、又話し出した。 「政夫や、聞いてくれ。私はもう自分の悪党にあきれて了った。何だってあんな非度 い事を民子に言ったっけかしら。今更(イマサラ)何程(ナンボ)悔いても仕方がないけれど、 私は政夫……民子にこう云ったんだ。政夫と夫婦にすることは此母が不承知だからお まえは外(ホカ)へ嫁に往け。なるほど民子は私にそう云われて見れば自分の身を諦める 外はない訣だ。どうしてあんな酷(ムゴ)たらしいことを言ったのだろう。嗚呼可哀相 な事をしてしまった。全く私が悪党を云うた為に民子は死んだ。お前はネ、明朝(アシタ) は夜が明けたら直ぐに往ってよオく民子の墓に参ってくれ。それでお母さんの悪かっ たことをよく詫びてくれ。ねイ政夫」  僕も漸く泣くことが出来た。縦令(タトイ)どういう都合があったにせよ、いよいよ見 込がなくなった時には逢わせてくれてもよかったろうに、死んでから知らせるとは随 分非度い訣だ。民さんだって僕には逢いたかったろう。嫁に往ってしまって申訣がな く思ったろうけれど、それでもいよいよの真際になって僕に逢いたかったに違いない。 実に情けない事だ。考えてみれば僕もあんまり児供であった。其後市川を三回も通り ながらたずねなかったは、今更残念でならぬ。僕は民子が嫁にゆこうがゆくまいが、 只民子に逢いさえせばよいのだ。今一目逢いたかった……次から次と果てしなく思い は溢れてくる。併(シカ)し母にそういうことを言えば、今度は僕が母を殺す様なことに なるかも知れない。僕は屹(キツ)と心を取り直した。 「お母さん、真(ホント)に民子は可哀相でありました。併し取って返らぬことをいくら 悔んでも仕方がないですから、跡の事を懇(ネンゴロ)にしてやる外はない。お母さんは 只々御自分の悪い様にばかりとっているけれど、お母さんとて精神(ココロ)は只民子の 為め政夫の為めと一筋に思ってくれた事ですから、よしそれが思う様にならなかった とて、民子や私等(ナド)が何とてお母さんを恨みましょう。お母さんの精神はどこま でも情心(ナサケゴコロ)でしたものを、民子も決して恨んではいやしまい。何もかもこう なる運命であったのでしょう。私はもう諦めました。どうぞ此上お母さんも諦めて下 さい。明日の朝は夜があけたら直ぐ市川へ参ります」  母は猶(ナオ)詞(コトバ)を次いで、 「成程何もかもこうなる運命かも知らねど今度という今度私はよくよく後悔しました。 俗に親馬鹿という事があるが、其親馬鹿が飛んでもない悪いことをした。親がいつま でも物の解ったつもりで居るが、大へんな間違いであった。自分は阿弥陀様におすが り申して救うて頂く外に助かる道はない。政夫や、お前は体を大事にしてくれ。思え ば民子はなが年の間にもついぞ私にさからったことはなかった、おとなしい児であっ ただけ、自分のした事が悔いられてならない、どうしても可哀相で溜らない。民子が 今はの時の事も話して聞かせたいけれど私には迚(トテ)もそれが出来ない」 などと又声をくもらしてきた。もう話せば話すほど悲しくなるからとて強(シ)いて一 同寝ることにした。  母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえて漸くこらえていた僕は、自分の蚊帳(カ ヤ)へ這入り蒲団に倒れると、もう溜らなく一度にこみ上げてくる。口へは手拭いを噛 んで、涙を絞った。どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛け られるまで、少しも止まず涙が出た。着たままで寝ていた僕は其儘起きて顔を洗うや 否や、未(マダ)だほの闇(グラ)いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽が 漸く地平線に現れた時分に戸村の家の門前まで来た。この家の竃(カマド)のある所は庭 から正面に見透して見える。朝炊(アサダ)きに麦藁を焚いてパチパチ音がする。僕が前 の縁先に立つと奥に居たお祖母(バア)さんが、目敏(メザト)く見つけて出てくる。 「かねや、かねや、とみや……政夫さんが来ました。まア政夫さんよく来てくれまし た。大そう早く。さアお上んなさい。起き抜きでしょう。さア……かねや……」  民子のお父さんとお母さん、民子の姉さんも来た。 「まアよく来てくれました。あなたの来るのを待ってました。兎に角に上(アガ)って 御飯をたべて……」  僕は上りもせず腰もかけず、暫く無言で立っていた。漸くと、 「民さんのお墓に参りにきました」  切なる様は目に余ったと見え、四人(ヨッタリ)とも口がきけなくなって了った。……や がてお父さんが、 「それでもまア一寸御飯を済(スマ)して往ったら……あアそうですか。それでは皆して 参ってくるがよかろう……いや着物など着替えんでもよいじゃないか」  女達は、もう鼻啜(ハナスス)りをしながら、それじゃアとて立ちあがる。水を持ち、線 香を持ち、庭の花を沢山に採る。小田巻草(オダマキソウ)千日草(センニチソウ)天竺牡丹(テンジクボ タン)と各々手にとり別けて出かける。柿の木の下から背戸へ抜け槙屏(マキベイ)の裏門を 出ると松林である。桃畑梨畑の間をゆくと僅の田がある。其先の松林の片隅に雑木の 森があって数多(アマタ)の墓が見える。戸村家の墓地は冬青(モチノキ)四五本を中心として 六坪許りを区別けしてある。其のほどよい所の新墓(ニイハカ)が民子が永久(トワ)の住家(ス ミカ)であった。葬(ホウム)りをしてから雨にも逢わないので、ほんに新らしいままで、力 紙(チカラガミ)なども今結んだ様である。お祖母さんが先に出でて、 「さア政夫さん、何もかもあなたの手でやって下さい。民子のためには真(ホン)に千僧 (センソウ)の供養にまさるあなたの香花(コウゲ)、どうぞ政夫さん、よオくお参りをして下 さい……今日は民子も定めて草葉の蔭で嬉しかろう……なア此人にせめて一度でも、 目をねむらない民子に……まアせめて一度でも逢わせてやりたかった……」  三人は眼をこすっている様子。僕は香を上げ花を上げ水を注いでから、前に蹲(ツク バ)って心のゆくまで拝んだ。真(シン)に情ない訣だ。寿命で死ぬは致方ないにしても、 長く煩(ワズラ)って居る間に、あア見舞ってやりたかった、一目逢いたかった。僕も民 さんに逢いたかったもの、民さんだって僕に逢いたかったに違いない。無理々々に強 いられたとは云え、嫁に往っては僕に合わせる顔がないと思ったに違いない。思えば それが愍然(ビンゼン)でならない。あんな温和(オトナ)しい民さんだもの、両親から親類 中かかって強いられて、どうしてそれが拒まれよう。民さんが気の強い人なら屹度(キッ ト)自殺をしたのだけれど、温和しい人だけにそれも出来なかったのだ。民さんは嫁に 往っても僕の心に変りはないと、せめて僕の口から一言いって死なせたかった。世の 中に情ないといってこういう情ないことがあろうか。もう私も生きて居たくない…… 吾知らず声を出して僕は両膝と両手を地べたへ突いて了った。  僕の様子を見て、後(ウシロ)に居た人がどんなに泣いたか。僕も吾一人でないに気が ついて漸く立ちあがった。三人の中の誰がいうのか、 「なんだって民子は、政夫さんということをば一言も言わなかったのだろう……」 「それほどに思い合ってる仲と知ったらあんなに勧めはせぬものを」 「うすうすは知れて居たのだに、此人の胸も開いて見ず、民子もあれほどいやがった ものを……いくら若いからとてあんまりであった……可哀相に……」  三人も香花(コウゲ)を手向け水を注いだ。お祖母さんが又、 「政夫さん、あなた力紙を結んで下さい。沢山結んで下さい。民子はあなたが情の力 を便(タヨ)りにあの世へゆきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」  僕は懐(フトコロ)にあった紙の有りたけを力杖に結ぶ。此時ふっと気がついた。民さん は野菊が大変好きであったに野菊を掘ってきて植えればよかった。いや直ぐ掘ってき て植えよう。こう考えてあたりを見ると、不思議に野菊が繁ってる。弔いの人に踏ま れたらしいが猶茎立って青々として居る。民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕は漸 く落着いて人々と共に墓場を辞した。  僕は何もほしくありません。御飯は勿論茶もほしくないです、此儘お暇願います、 明日は又早く上りますからといって帰ろうとすると、家中(ウチジュウ)で引留める。民子 のお母さんはもう溜らなそうな風で、 「政夫さん、あなたにそうして帰られては私等は居ても起ってもいられません。あな たが面白くないお心持は重々(ジュウジュウ)察しています。考えてみれば私共の届かなかっ たために、民子にも不憫な死にようをさせ、政夫さんにも申訣のないことをしたので す。私共は如何様にもあなたにお詫を致します。民子可哀相と思召したら、どうぞ民 子が今(イマ)はの話も聞いて行って下さいな。あなたがお出でになったら、お話し申す つもりで、今日はお出でか明日はお出でかと、実は家中がお待ち申したのですからど うぞ……」  そう言われては僕も帰る訣にゆかず、母もそう言ったのに気がついて座敷へ上がっ た。茶や御飯やと出されたけれども真似(マネ)許(バカ)りで済ます。其内に人々皆奥へ 集まりお祖母さんが話し出した。 「政夫さん、民子の事に就ては、私供一同誠に申訣がなく、あなたに合せる顔はない のです。あなたに色々御無念な処もありましょうけれど、どうぞ政夫さん、過ぎ去っ た事と諦めて、御勘弁を願います。あなたにお詫をするのが何より民子の供養になる のです」  僕は只もう胸一ぱいで何も言うことが出来ない。お祖母さんは話を続ける。 「実はと申すと、あなたのお母さん始め、私又民子の両親とも、あなたと民子がそれ ほど深い間(ナカ)であったとは知らなかったもんですから」  僕は茲で一言いいだす。 「民さんと私と深い間とおっしゃっても、民さんと私とはどうもしやしません」 「いイえ、あなたと民子がどうしたと申すではないのです。もとからあなたと民子は 非常な仲好しでしたから、それが判らなかったんです。それに民子はあの通りの内気 な児でしたから、あなたの事は一言も口に出さない。それはまるきり知らなかったと は申されません。それですからお詫申す様な訣で……」  僕は皆さんにそんなにお詫を云われる訣はないという。民子のお父さんにはお詫を 言わしてくれという。 「そりゃ政夫さんのいうのは御尤です、私共が勝手なことをして、勝手なことをお前 さんにいうものですが、政夫さん、聞いて下さい、理窟の上の事ではないです。男親 の口からこんなこというも如何ですが、民子は命に替えられない思いを捨てて両親の 希望に従ったのです。親のいいつけで背(ソム)かれないと思うても、道理で感情を抑え るは無理な処もありましょう。民子の死は全くそれ故ですから、親の身になって見る と、どうも残念でありまして、どうもしやしませんと政夫さんが言う通り、お前さん 等(タチ)二人に何の罪もないだけ、親の目からは不憫が一層でな。あの通り温和(オトナ) しかった民子は、自分の死ぬのは心柄とあきらめてか、ついぞ一度不足らしい風も見 せなかったです。それやこれやを思いますとな、どう考えてもちと親が無慈悲であっ た様で……。政夫さん、察して下さい。見る通り家中がもう、悲しみの闇に鎖されて 居るのです。愚なことでしょうが此場合お前さんに民子の話を聞いて貰うのが何より の慰藉に思われますから、年がいもないこと申す様だが、どうぞ聞いて下さい」  お祖母さんが又話を続ける。結婚の話からいよいよむずかしくなったまでの話は嫂 が家での話と同じで、今はという日の話はこうであった。 「六月十七日の午後に医者がきて、もう一日二日の処だから、親類などに知らせるな らば今日中にも知らせるがよいと言いますから、それではとて取敢(トリアエ)ずあなたの お母さんに告げると十八日の朝飛んできました。其日は民子は顔色が良く、はっきり と話も致しました。あなたのおっかさんがきまして、民や、決して気を弱くしてはな らないよ、どうしても今一度なおる気になっておくれ、よ民や……民子はにっこり笑 顔(エガオ)さえ見せて、矢切(ヤギリ)のお母さん、いろいろ有難う御座います。長々可愛 がって頂いた御恩は死んでも忘れません。私も、もう長いことはありますまい……。 民や、そんな気の弱いことを思ってはいけない。決してそんなことはないから、しっ かりしなくてはいけないと、あなたのお母さんが云いましたら、民子は暫くたって、 矢切のお母さん、私は死ぬが本望であります。死ねばそれでよいのです……といいま してから猶口の内で何か言った様で、何でも、政夫さん、あなたの事を言ったに違い ないですが、能く聞きとれませんでした。それきり口はきかないで、其夜の明方(アケガ タ)に息を引取りました……。それから政夫さん、こういう訣です……夜が明けてから、 枕を直させます時、あれの母が見つけました、民子は左の手に紅絹(モミ)の切れに包ん だ小さな物を握って其手を胸へ乗せているのです。それで家中の人が皆集まって、こ れをどうしようかと相談しましたが、可哀相なような気持もするけれど、見ずに置く のも気にかかる、兎に角開いて見るがよいと、あれの父が言い出しまして、皆の居る 中であけました。それが政さん、あなたの写真とあなたのお手紙でありまして……」  お祖母さんが泣き出して、そこにいた人皆涙を拭いている。僕は一心に畳を見つめ ていた。やがてお祖母さんがようよう話を次ぐ。 「そのお手紙をお富が読みましたら、誰も彼も一度に声を立って泣きました。あれの 父は男ながら大声して泣くのです。あなたのお母さんは、気がふれはしないかと思う ほど、口説(クド)いて泣く。お前達二人が之れほどの語らいとは知らずに、無理無体 に勧めて嫁にやったは悪かった。あア悪いことをした、不憫だった。民や、堪忍して、 私は悪かったから堪忍してくれ。俄の騒ぎですから、近隣の人達が、どうしましたと 云って尋ねてきた位でありました。それであなたのお母さんはどうしても泣き止まな いです。体に障(サワ)ってはと思いまして葬式が済むと車で御送り申した次第です。身 を諦めた民子の心持が、こう判って見ると、誰も彼も同じことで今更の様に無理に嫁 にやった事が後悔され、溜らないですよ。考えれば考える程あの児が可哀相で可哀相 で居ても起っても居られない……せめてあなたに来て頂いて、皆が悪かったことを十 分あなたにお詫をし、又あれの墓にも香花(コウゲ)をあなたの手から手向けて頂いたら、 少しは家中の心持も休まるかと思いまして……今日の事をなんぼう待ちましたろ。政 夫さん、どうぞ聞き分けて下さい。ねイ民子はあなたにはそむいては居ません。どう ぞ不憫と思うてやって下さい……」  一語一句皆涙で、僕も一時泣きふして了った。民子は死ぬのが本望だと云ったか、 そういったか……家の母があんなに身を責めて泣かれるのも、其筈であった。僕は、 「お祖母さん、よく判りました。私は民さんの心持はよく知っています。去年の暮、 民さんが嫁にゆかれたと聞いた時でさえ、私は民さんを毛程も疑わなかったですもの。 どの様なことがあろうとも、私が民さんを思う心持は変りません。家の母なども只そ ればかり言って嘆いて居ますが、それも皆悪気(ワルギ)があっての業(ワザ)ではないの ですから、私は勿論民さんだって決して恨みに思やしません。何もかも定まった縁と 諦めます。私は当分毎日お墓へ参ります……」  話しては泣き泣いては話し、甲一語乙一語いくら泣いても果てしがない。僕は母の 事も気にかかるので、もうお昼だという時分に戸村の家を辞した。戸村のお母さんは、 民子の墓の前で僕の素振りが余り痛(イタ)わしかったから、途中が心配になるとて、自 分で矢切の入口まで送ってきてくれた。民子の愍然なことはいくら思うても思いきれ ない。いくら泣いても泣ききれない。乍併(シカシナガラ)また目の前の母が、悔悟の念に 攻められ、自ら大罪を犯したと信じて嘆いている愍然さを見ると、僕はどうしても今 は民子を泣いては居られない。僕がめそめそして居ったでは、母の苦しみは増す許り と気がついた。それから一心に自分で自分を励まし、元気をよそおうて只管(ヒタスラ)母 を慰める工夫をした。それでも心にない事は仕方のないもの、母はいつしかそれと気 がついてる様子、そうなっては僕が家に居ないよりは外はない。  毎日七日(ナヌカ)の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。 其翌(ア)くる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出 た。 * * * *  民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。 民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遥けく隔つとも僕の 心は一日も民子の上を去らぬ。 『ホトトギス』(明治三十九年一月)