守　の　家 伊藤左千夫:作 　実際は自分が何歳(イクツ)の時の事であったか、自分でそれを覚えて居たのではなかっ た。自分が四つの年の暮であったということは、後に母や姉から聞いての記憶である らしい。 　煤(スス)掃きも済み餅搗(モチツ)きも終えて、家の中も庭のまわりも広々と綺麗になっ たのが、気も浮立つ程嬉(ウレ)しかった。 「もう三つ寝るとお正月だよ、お正月が来ると坊やは五つになるのよ、えいこったろ う……木っぱのような餅たべて……油のような酒飲んで……」 　姉は自分を喜ばせようとするような調子にそれを唄って、少しかがみ腰に笑顔で自 分の顔を見るのであった。自分は訣(ワケ)もなく嬉しかった。姉は其頃何んでも二十二 三であった。まだ児供がなく自分を大へんに可愛がってくれたのだ。自分が姉を見上 げた時に姉は白地の手拭を姉さん冠りにして筒袖(ツツソデ)の袢天(ハンテン)を着ていた。 紫の半襟(ハンエリ)の間から白い胸が少し見えた。姉は色が大へん白かった。自分が姉を 見上げた時に、姉の後に襷(タスキ)を掛けた守(モ)りのお松が、草箒(クサボウキ)とごみとり を両手に持ったまま、立って姉の肩先から自分を見下して居た。自分は姉の可愛がっ てくれるのも嬉しかったけれど、守りのお松もなつかしかった。で姉の顔を見上げた 目で直ぐお松の顔を見た。お松は艶(ツヤ)のよくない曇ったような白い顔で、少し面長 (オモナガ)な、やさしい女であった。いつもかすかに笑う其目つきが忘れられなくなつ かしかった。お松もとると十六になるのだと姉が云って聞かせた。お松は其時只かす かに笑って自分のどこかを見てるようで口は聞かなかった。 　朝飯をたべて自分が近所へ遊びに出ようとすると、お松はあわてて後から付いてき て、下駄を出してくれ、足袋(タビ)の紐(ヒモ)を結び直してくれ、緩(ユル)んだへこ帯を 締直してくれ、そうして自分がめんどうがって出ようとするのを、猶(ナオ)抑えて居っ て鼻をかんでくれた。 　お松は其時もあまり口はきかなかった。自分はお松の手を離れて、庭先へ駈け出し てから、一寸(チョット)振りかえって見たら、お松は軒口に立って自分を見送ったらしかっ た。其時自分は訣もなく寂しい気持のしたことを覚えて居る。 　お昼に帰って来た時にはお松は居なかった。自分はお松は使にでも行ったことと思っ て気にもしなかった。日暮になってもお松は居なかった。毎晩のように竃(カマド)の前 に藁把(ワラタバ)を敷いて自分を暖まらしてくれた、お松が居ないので、自分は始めて お松はどうしたのだろうかと思った。姉がせわしなく台所の用をしながら、遠くから 声を掛けてあやしてくれたけれど、いつものように嬉しくなかった。 　夕飯の時に母から「お前はもう大きくなったからお松は今日家へ帰ったのだよ、正 月には年頭に早く来るからね」と云われて自分は平気な風に汁掛飯を音立てて掻込 (カキコ)んでいたそうである。 　正月の何日頃であったか、表の呉縁(クレエン)に朝日が暖くさしてる所で、自分が一人 遊んで居ると、姉が雑巾がけに来て、「坊やはねえやが居なくても姉さんが可愛がっ てあげるからね」と云ったら「ねえやなんか居なくたってえいや」と云ったけれど、 目には涙を溜(タ)めたそうである。 　正月の十六日に朝早くお松が年頭に来た時に、自分の喜んだ様子ったら無かったそ うである。それは後に母や姉から幾度も聞かせられた。 「ねえやは、ようッたアなア、ようッたアなア。ねえやはいままでどいってた……」 　と、繰返して云って、袖にすがられた時に、無口なお松は自分を抱きしめて、暫く は顔を上げ得なかったそうである。それからお松は五つにもなった自分を一日おぶっ て歩いて、何から何まで出来るだけの世話をすると、其頃もう随分ないたずら盛りな 自分が、じいっとしてお松におぶされ、お松のするままになっていたそうである。 　お松も家を出て来る時には、一晩泊るつもりで来たものの、来て見ての様子で見る と、此の上一晩泊ったら、愈(イヨイヨ)別れにくくなると気づいて、おそくとも帰ろうと したのだが、自分が少しもお松を離れないので、帰るしおが無かった。お松にはとて も顔見合って別れることは出来ないところから、自分の気付かない間に逃げようとし たのだが、其機会を得られずに泊って終った。自分は夕飯をお松の膝に寄ってたべる のが嬉しかった事を覚えて居る。其夜は無論お松と一緒に寝た。お松が何か話をして 聞かせた事を、其話は覚えて居ないが、面白かった心持だけは未(イマ)だに忘れない。 お松は翌朝自分の眠ってる内に帰ったらしかった。 　其後自分は両親の寝話に「児供の余り大きくなるまで守りを置くのは良くない事だ」 などと話してるのを聞いたように覚える。姉は頻(シキ)りに自分にお松を忘れさせるよ うにいろいろ機嫌をとったらしかった。母はそれから幾度か、ねえやの処へ一度つれ てゆくと云った。 　自分が母につれられてお松が家の庭へ這入(ハイ)った時には、梅の花が黒い湿った土 に散っていた。往来から苅葺(カリブキ)のかぶった屋根の低い家が裏まで見透かされる ような家であった。三時頃の薄い日影が庭半分にさしていて、梅の下には蕗(フキ)の薹 (トウ)が丈(タケ)高くのびて白い花が見えた。庭はまだ片づいていてそんなに汚くなかっ た。物置も何もなく、母屋(オモヤ)一軒の寂しい家であった。庭半分程這入って行くと、 お松は母と二人で糸をかえしていて、自分達を認めると直ぐ「あれまア坊さんが」と 云って駈け降りて来た。お松の母の降りて来た。「良くまア坊さんきてくれたねえ」 と云って母子して自分達を迎えた。自分は少しきまりが悪かった。母の袖の下へ隠れ るようにしてお松の顔を見た。お松は襷をはずして母に改った挨拶をしてから、なつ かしい目でにっこり笑いながら「坊さん気まりがわるいの」と云って自分を抱いてく れた。自分はお松はなつかしいけれど、まだ知らなかったお松の母が居るから直ぐに はお松にあまえられなかった。母はお松の母と話をしている。お松の母は母を囲炉裏 端(イロリバタ)へ連れて行った。其内にお松は自分をおぶって外へ出た。菓子屋で菓子を 買ってくれた。赤い色や青い色のついてる飴(アメ)の棒を両手に五本づつ買ってくれた。 お松は幾度も顔を振向けて背に居る自分に話しをした。其度に自分の頬がお松の鬢(ビ ン)の毛や頬へさわるのであった。お松はわざと我頬を自分の頬へ摺(ス)りつけようと するらしかった。 　お松が自分をおぶって、囲炉裏端へ上った時に母とお松の母は、生薑(ショウガ)の赤 漬(アカヅケ)と白砂糖で茶を飲んで居った。お松は「今夜坊さんはねえやの処へ泊って ください」と頻りに云ってる。自分は点頭して得心の意を示した。母は自分の顔を見 て危(アヤブ)む風で「おまえ泊れるかい夜半時分に泣出しちゃ困るよ」と笑ってる。お 松は自分が何と云うかと思うらしく自分の顔色を見てる。 「泊れるでしょう」 　お松はこう云って熱心に自分に摺寄った。お松の母も頻りに「こんな汚ない家だけ れど決して寒い思いはさせないから」と母に言ってる。母は自分の顔をのぞいて 「泊れるかい」と云う。 「ねえやのところへ泊れる」 　自分がそういうと「さア極(キマ)った」と云ってお松は喜んだ。そうしてお松は自分 の膝の上へ抱上げて終った。 「おまえ泊れるかい」 　母は猶念を押して「おまえが泊ると極ればお母さんは出かける、えいだっぺねい」 と云った。 「お母さんは行ってもえい」 　自分がそういうと、母はいろいろ頼むと云う様な事を云って立ちかける。する処へ 赤い顔の背の高い五十許りの爺が庭から、さげた手を振りつつ這入って来た。何かよ く解らなかったけれど、今夜是非お松を頼みたいと云うような事を、勝手にしゃべっ て出て行った。お松が家の本家のあるじだという事であった。 「困ったなア困ったなア」 　お松はくりかえしくりかえし云って溜息(タメイキ)をついた。結局よんどころないと云 う事で、自分は母と一緒に出掛けることになった。お松は「仕様がないねえ坊さん」 と云って涙ぐんだ。「又寄ってください」と云うのもはっきりと云えなかった。そう して自分を村境までおぶって送ってくれた。自分も其時悲しかったことと、お松が寂 しい顔をうなだれて、泣き泣き自分を村境まで送ってきた事が忘れられなかった。 「さアここでえいからお松おまえ帰ってくれ」 　と、母が云っても、松はなかなか自分を背から降ろさないで、どこまでもおぶって 来る。もうどうしてもここでとおもう処で、自分をおろしたお松は、もうこらえかね て「坊さんわたしがきっと逢いにゆくからね」と自分の肩へ顔をあてて泣いた。自分 もお松へ取りついて泣いた。母は懐(フトコロ)から何か出してお松にやった。お松は頻り に辞退したのを、母は無理にお松にやって、自分をおぶった。お松はそれでも暫らく そこに立っていたようであった。 　それきり妙に行違って、自分はお松に逢わなかった。それでも色のさえない元気の ない面長なお松の顔は深く自分の頭に刻まれた。 　七八年過ぎてから人の話に聞けば、お松は浜の船方の妻になったが、夫が酒呑で乱 暴で、お松はその為(タメ)に憂鬱(ユウウツ)性の狂いになって間もなく死んだという事であっ た。 『アララギ』(明治四十五年二月)