舞  姫 森 鴎外:作  石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓(ツク'エ)のほとりはいと靜にて、熾熱燈(シネツトウ) の光の晴れがましきも徒(イタズラ)なり。今宵(コヨイ)は夜毎にこゝに集ひ來る骨牌<カルタ> 仲間も「ホテル」に宿りて、舟に殘れるは余一人のみなれば。  五年前(イツトセマヘ)の事なりしが、平生(ヒゴロ)の望足りて、洋行の官命を蒙(カウム)り、 このセイゴンの港まで來し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新ならぬ はなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、當時の新聞に 載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもへば、穉(オサナ)き思想、 身の程知らぬ放言、さらぬも尋常(ヨノツネ)の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげに しるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記(ニキ)ものせ むとて買ひし册子もまだ白紙のまゝなるは、獨逸(ドイツ)にて物學びせし間に、一種の 「ニル、アドミラリイ」の氣象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。  げに東(ヒンガシ)に還(カヘ)る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶(ナホ)心 に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは 言ふも更なり。われとわが心さへ、變り易(ヤス)きをも悟り得たり。きのふの是はけふ の非なるわが瞬間の感觸を、筆に寫して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、 あらず、これには別に故あり。  鳴呼(アア)、ブリンヂイシイの港を出(イ)でゝより、早や二十日(ハツカ)あまりを經ぬ。 世の常ならば生面(セイメン)の客にさへ交(マジワリ)を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海 の習なるに、微恙(ビメウ)にことよせて房(ヘヤ)の裡(ウチ)にのみ籠(コモ)りて、同行の人々 にも物言ふことの少なきは、人知らぬ恨に頭(カシラ)のみ惱ましたればなり。此(コノ)恨 は初め一抹(イチマツ)の雲の如く我心を掠(カス)めて、瑞西<ス'イス>の山色をも見せず、伊太 利<イタリア>の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭ひ、身をはかなみて、腸(ハラワタ)日 ごとに九廻すともいふべき慘痛をわれに負はせ、今は心の奧に凝り固まりて、一點の 翳(カゲ)とのみなりたれど、文(フミ)讀むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、聲に應 ずる響の如く、限なき懷舊の情を喚(ヨ)び起して、幾度となく我心を苦む。嗚呼、い かにしてか此恨を銷(シヨウ)せむ。若(モ)し外の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は心 地すがすがしくもなりなむ。これのみは餘りに深く我心に彫(エ)りつけられたればさ はあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴(ボウド)の來て電氣線の鍵(カギ)を 捩(ヒネ)るには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴(ツヅ)りて見む。  余は幼き比(コロ)より嚴しき庭の訓(ヲシヘ)を受けし甲斐(カヒ)に、父をば早く喪(ウシナ)ひ つれど、學問の荒(スサ)み衰ふることなく、舊藩の學館にありし日も、東京に出でゝ豫 備黌(ヨビコウ)に通ひしときも、大學法學部に入りし後も、太田豐太郎(トヨタロウ)といふ名 はいつも一級の首(ハジメ)にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の 心は慰みけらし。十九の歳には學士の稱を受けて、大學の立ちてよりその頃までにま たなき名譽なりと人にも言はれ、某省(ナニガシシヨウ)に出仕して、故郷なる母を都に呼び 迎へ、樂しき年を送ること三とせとばかり、官長の覺え殊(コト)なりしかば、洋行して 一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興(オコ)さむも、今ぞ とおもふ心の勇み立ちて、五十を踰(コ)えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、 遙々(ハルバル)と家を離れてベルリンの都に來ぬ。  余は模糊(モコ)たる功名の念と、檢束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽(タチマ)ちこの 歐羅巴(ヨオロツパ)の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等 の色澤ぞ、我心を迷はさむとするは。菩堤樹下(ボダイジュカ)と譯するときは、幽靜な る境なるべく思はるれど、この大道髪の如きウンテル、デン、リンデンに來て兩邊な る石だゝみの人道を行く隊々(クミグミ)の子女を見よ。胸張り肩聳(ソビ)えたる士官の、 まだ維廉<'イルヘルム>一世の街に臨める窗<*>に倚(ヨ)り玉ふ頃なりければ、樣々の色に飾 り成したる禮裝をなしたる、妍(カホヨ)き少女(ヲトメ)の巴里<パリー>まねびの粧(ヨソホヒ)した る、彼も此(コレ)も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青<チヤン>の上を音もせで走るい ろいろの馬車、雲に聳ゆる樓閣(ロウカク)の少しとぎれたる處(トコロ)には、晴れたる空に 夕立の音を聞かせて漲(ミナギ)り落つる噴井(フキ'イ)の水、遠く望めばブランデンブルク 門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出(イ)でたる凱旋塔(ガイセンタフ) の神女の像、この許多(アマタ)の景物目睫(モクシセウ)の間に聚(アツ)まりたれば、始めてこゝ に來しものゝ應接に遑(イトマ)なきも宜(ウベ)なり。されど我胸には縱(タト)ひいかなる境 に遊びても、あだなる美觀に心をば動(ウゴカ)さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を 遮(サヘギ)り留(トド)めたりき。 <*>「まど」は「窗」に下心  余が鈴索(スズナハ)を引き鳴らして謁(エツ)を通じ、おほやけの紹介状を出だして東來 の意を告げし普魯西(プロシヤ)の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに 事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし傳へもせむと約しき。喜ばしきは、 わが故里(フルサト)にて、獨逸、佛蘭西<フランス>の語を學びしことなり。彼等は始めて余を 見しとき、いづくにていつの間にかくは學び得つると問はぬことなかりき。  さて官事の暇(イトマ)あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの 大學に入りて政治學を修めむと、名を簿册(ボサツ)に記させつ。  ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも濟みて、取調も次第に捗(ハカド)り行 けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば寫し留めて、つひには幾卷(イクマ キ)をかなしけむ。大學のかたにては、穉(ヲサナ)き心に思ひ計りしが如く、政治家にな るべき特科のあるべうもあらず、此は彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵(カウエ ン)に列(ツラナ)ることにおもひ定めて、謝金を收め、往(ユ)きて聽きつ。  かくて三年(ミトセ)ばかりは夢の如くにたちしが、時來(キタ)れば包みても包みがたき は人の好尚なるらむ、余は遺言を守り、母の教に從ひ、人の神童なりなど褒(ホ)むる が嬉しさに怠らず學びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨(ハゲ)ますが喜ばし さにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、 今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大學の風に當りたればにや、心の中な にとなく妥(オダヤカ)ならず、奧深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれ て、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治 家になるにも宜(ヨロ)しからず、また善く法典を諳(ソラン)じて獄を斷ずる法律家になる にもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。  余は私(ヒソカ)に思ふやう、我母は余を活(イ)きたる辭書となさんとし、我官長は余を 活きたる法律となさんとやしけん。辭書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍 ぶべからず。今までは瑣々(ササ)たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この 頃より官長に寄する書には連(シキ)りに法制の細目に拘<*>(カカヅラ)ふべきにあらぬを論 じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる萬事は破竹の如くなるべしなど ど廣言しつ。又大學にては法科の講筵を餘所(ヨソ)にして、歴史文學に心を寄せ、漸(ヤ ウヤ)く蔗(シヨ)を嚼(カ)む境に入りぬ。 <*>「かゝづらふ」は手偏に「勾」  官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。獨立の思想を懷 (イダ)きて、人なみならぬ面(オモ)もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が當時 の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆(クツガ)へすに足らざりけん を、日比(ヒゴロ)伯林<ベルリン>の留學生の中にて、或る勢力ある一群(ヒトムレ)と余との間 に、面白からぬ關係ありて、彼(カノ)人々は余を猜疑し、又遂に余を讒誣(ザンブ)する に至りぬ。されどこれとても其故(ソノユ'エ)なくてやは。  彼人々は余が倶(トモ)に麥酒(ビイル)の杯(サカヅキ)をも擧げず、球突きの棒<キユウ>をも取 らぬを、かたくななる心と慾(ヨク)を制する力とに歸して、且(カツ)は嘲(アザケ)り且は嫉 (ネタ)みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、此故よしは、我身だに知らざ りしを、怎(イカ)でか人に知らるべき。わが心はかの合歡(ネム)といふ木の葉に似て、物 觸(サヤ)れば縮みて避けんとす。我心は處女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守り て、學(マナビ)の道をたどりしも、仕(ツカヘ)の道をあゆみしも、皆な勇氣ありて能(ヨ)く したるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、 人のたどらせたる道を、唯だ一條ヒトスジ)にたどりしのみ。餘所(ヨソ)に心の亂れざりし は、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇氣ありしにあらず、唯外物に恐れて自らわが手足を縛 せしのみ。故郷を立ちいづる前にも、我が有爲の人物なることを疑はず、又我心の能 く耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、彼も一時。舟の横濱を離るゝまでは、天晴 (アツパレ)豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾(シユキン)を濡らしつるを我れ乍(ナガ)ら 怪しと思ひしが、これぞなかなかに我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、 又早く父を失ひて母の手に育てられしにてや生じけん。  彼(カノ)人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびん なる心を。  赤く白く面(オモテ)を塗りて、赫然(カクゼン)たる色の衣を纏(マト)ひ、珈琲店(カツフエエ)に 坐して客を延(ヒ)く女を見ては、往(ユ)きてこれに就かん勇氣なく、高き帽を戴(イタダ) き、眼鏡(メガネ)に鼻を挾(ハサ)ませて、普魯西<プロシヤ>にては貴族めきたる鼻音にて物 言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇氣なし。此等の勇氣なければ、 彼(カノ)活溌<*>(カツパツ)なる同郷の人々と交らんやうもなし。この交際の疎(ウト)きがた めに、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。こ れぞ余が冤罪(エンザイ)を身に負ひて、暫時(ザンジ)の間に無量の艱難(カンナン)を閲(ケミ)し 盡す媒(ナカダチ)なりける。 <*>「ハツ」は三水に「發」  或る日の夕暮なりしが、余は獸苑(ジウ'エン)を漫歩して、ウンテル、デン、リンデン を過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居(ケウキヨ)に歸らんと、クロステル巷(カウ)の古寺の前 に來ぬ。余は彼の燈火(トモシビ)の海を渡り來て、この狭く薄暗き巷(コウヂ)に入り、樓 上の木欄(オバシマ)に干したる敷布、襦袢(ハダギ)などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太 (ユダヤ)教徒の翁(オキナ)が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯(ハシゴ)は直ちに樓(タカドノ)に 達し、他の梯は窖(アナグラ)住まひの鍛冶(カジ)が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字 (アフジ)の形に引籠(ヒツコ)みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎(ゴト)に、心の 恍惚(クワウコツ)となりて暫(シバ)し佇みしこと幾度なるを知らず。  今この處を過ぎんとするとき、鎖(トザ)したる寺門の扉に倚(ヨ)りて、聲を呑みつゝ 泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被(カブ)りし巾(キレ)を洩(モ)れ たる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢(アカ)つき汚れたりとも見えず。我足 音に驚かされてかへりみたる面(オモテ)、余に詩人の筆なければこれを寫すべくもあら ず。この青く清らにて物問ひたげに愁(ウレヒ)を含める目(マミ)の、半ば露を宿せる長き 睫毛(マツゲ)に掩(オホ)はれたるは、何故(ナニユ'エ)に一顧したるのみにて、用心深き我心 の底までは徹したるか。  彼は料(ハカ)らぬ深き歎(ナゲ)きに遭ひて、前後を顧みる遑(イトマ)なく、こゝに立ちて 泣くにや。わが臆病なる心は憐憫(レンビン)の情に打ち勝たれて、余は覺えず側に倚り、 「何故に泣き玉ふか。ところに繋累(ケイル'イ)なき外人(ソトビト)は、却(カヘ)りて力を借し 易きこともあらんむ。」といひ掛けたるが、我ながらわが大膽なるに呆(アキ)れたり。  彼は驚きてわが黄なる面(オモテ)を打守りしが、我が眞率なる心や色に形(アラ)はれた りけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷(ムゴ)くはあらじ。又た我母の如く。」 暫し涸(カ)れたる涙の泉は又溢(アフ)れて愛らしき頬を流れ落つ。 「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に從はねばとて、 我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らでは叶<*>(カナ)はぬに、家に一錢の貯(タクハヘ) だになし。」 <*>「かなふ」は立心偏に「篋」-「竹」  跡は欷歔(キキヨ)の聲のみ。我眼(マナコ)はこのうつむきたる少女の顫(フル)ふ項(ウナジ)に のみ注がれたり。 「君が家(ヤ)に送り行かんに、先(マ)づ心を鎮(シズ)め玉へ。聲をな人に聞かせ玉ひそ。 こゝは往來なるに。」彼は物語するうちに、覺えず我肩に倚りしが、この時ふと頭(カ シラ)を擡(モタ)げ、又始てわれを見るが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。  人の見るが厭(イト)はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を 入れば、缺け損じたる石の梯(ハシゴ)あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜(ク グ)るべき程の戸あり。少女は錆<*>(サビ)びたる針金の先きを捩(ネ)ぢ曲げたるに、手 を掛けて強く引きしに、中には咳枯(シハガ)れたる老媼(オウナ)の聲して、「誰(タ)ぞ」と 問ふ。エリス歸りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開けしは、半ば白みたる髪、 悪(ア)しき相にはあらねど、貧苦の痕(アト)を額(ヌカ)に印せし面の老媼にて、古き獸綿 の衣を着、汚れたる上靴を穿(ハ)きたり。エリスの余に會釈して入るを、かれは待ち 兼ねし如く、戸を劇(ハゲ)しくたて切りつ。 <*>「さび」は金偏に「肅」  余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈<ラムプ>の光に透(スカ)して戸を見れば、 エルンスト、ワイゲルトと漆(ウルシ)もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬ といふ少女が父の名なるべし。内には言ひ爭ふごとき聲聞えしが、又靜になりて戸は 再び明きぬ。さきの老媼は慇懃(インギン)におのが無禮の振舞せしを詫(ワ)びて、余を迎 へ入れつ。戸の内は廚(クリヤ)にて、右手(メテ)の低き窗<*>に、眞白に洗ひたる麻布を懸 けたり。左手(ユンデ)には粗末に積上げたる煉瓦(レンガ)の竈(カマド)あり。正面の一室の 戸は半ば開きたるが、内には白布(シラヌノ)を掩へる臥床(フシド)あり。伏したるはなき人 なるべし。竈の側なる戸を開きて余を導きつ。この處は所謂(イハユル)「マンサルド」の 街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窗<*>に向ひて斜に下れる梁 (ハリ)を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支(ツカ)ふべき處に臥床あり。中央なる机に は美しき氈(カモ)を掛けて、上には書物一二卷と寫眞帖とを列(ナラ)べ、陶瓶(タウヘイ)には こゝに似合はしからぬ價高き花束を生けたり。そが傍(カタハラ)に少女は羞(ハヂ)を帶び て立てり。 <*>「まど」は「窗」に下心  彼は優(スグ)れて美なり。乳(チ)の如き色の顏は燈火(トモシビ)に映じて微紅(ウスクレナ'イ) を潮(サ)したり。手足の纖(カボソ)く嫋<*>(タヲヤカ)なるは、貧家の女(ヲミナ)に似ず。老媼 の室(ヘヤ)を出でし跡にて、少女(ヲトメ)は少し訛(ナマ)りたる言葉にて云ふ。「許し玉へ。 君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に 迫るは父の葬(ハフリ)、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。 彼は「ヰクトリア」座の座頭(ザガシラ)なり。彼が抱(カカ)へとなりしより、早や二年(フ タトセ)なれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ 掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を拆(サ)きて還(カヘ)し參らせん。 縱令(ヨシヤ)我身は食(クラ)はずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身を ふるはせたり。その見上げたる目(マミ)には、人に否(イナ)とはいはせぬ媚態(ビタイ)あり。 この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。 <*>「たをやか」は「島」の「山」を「衣」に替える  我が隱しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時 計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を凌(シノ)ぎ玉へ。質屋の使のモン ビシユウ街三番地にて太田と尋ね來ん折には價を取らすべきに。」  少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辭別(ワカレ)のために出(イダ)したる手を唇にあて たるが、はらはらと落つる熱き涙(ナンダ)を我手の背(ソビラ)に濺(ソソ)ぎつ。  嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我僑居(ケウキヨ)に來(コ)し少女は、 シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日(ヒネモス)兀坐(コツザ)する我讀 書の窗<*1>下に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交(マ ジハリ)漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了(ソクレウ)にも、 余を以(モツ)て色を舞姫の群に漁(ギヨ)するものとしたり。われ等二人の間にはまだ痴 駭<*2>(チガイ)なる歡樂のみ存じたりしを。 <*1>「まど」は「窗」に下心 <*2>「ガイ」は馬偏に「矣」  その名を斥(サ)さんは憚(ハバカリ)あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡々 <*>(シバシバ)芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許(モト)に報じつ。さ らぬだに余が頗(スコブ)る學問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使 館に傳へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を傳ふる時余に謂(イ)ひし は、御身(オンミ)若(モ)し即時に郷に歸らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らん には、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶餘を請ひて、とやか うと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤(モツト)も悲痛を覺えさせたる二通の書状に接しぬ。 この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某(ナニガシ) が、母の死を我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書(フミ)なりき。余は母の書中の言を こゝに反覆するに堪へず、涙の迫り來て筆の運(ハコビ)を妨ぐればなり。 <*>「しばしば」は屍冠に「樓」-「木」  余とエリスとの交際は、この時までは餘所目(ヨソメ)に見るより清白なりき。彼は父 の貧(マヅシ)きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに應じて、 この恥づかしき業(ワザ)を教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリア」座に出 でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハツクレンデルが當世の奴隷とい ひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にて繋(ツナ)がれ、晝の温習、夜の 舞臺と緊(キビ)しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をる粧(ヨソホ)ひ、美しき 衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはそ の辛苦奈何(イカニ)ぞや。されば彼等の仲間にて、賤(イヤ)しき限りなる業に堕(オ)ちぬは 稀(マレ)なりとぞいふなる。エリスがこれを逃<*>(ノガ)れしは、おとなしき性質と、剛 氣ある父の守護とに依りてなり。彼は幼き時より物讀むことをば流石(サスガ)に好みし かど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、 余と相識(アヒシ)る頃より、余が借しつる書(フミ)を讀みならひて、漸く趣味をも知り、 言葉の訛(ナマリ)をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字(アヤマリジ)少なくな りぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。我が不時の免官 を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事に關(カカハ)りしを包み隱しぬれど、 彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。こは母の余が學資を失ひしを知りて 余を疎んぜんを恐れてなり。 <*>「のがれ」は「逃」-「兆」+「官」  鳴呼、委(クハシ)くこゝに寫さんも要なけれど、余が彼を愛(メ)づる心の俄に強くなり て、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前に横(ヨコタハ)りて、洵(マ コト)に危急存亡の秋(トキ)なるに、この行(オコナヒ)ありしをあやしみ、又た誹(ソシ)る人あ るべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま 我(ワガ)數奇(サクキ)を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢(ビン)の毛の解けて かゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずな りたる腦髓を射て、恍惚(クワウコツ)の間にこゝに及びしを奈何(イカ)にせむ。  公使に約せし日も近づき、我命(ワガメイ)はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、 學成らずして汚名を負いたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、學資を得 べき手だてなし。  此時余を助けしは今我同行の一人なる相澤謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方 伯(アマガタハク)の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長 に説きて、余を社の通信員となし、伯林<ベルリン>に留まりて政治學藝の事などを報道 せしむることとなしつ。  社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家(スミカ)をもうつし、午餐(ヒルゲ)に往く食 店(タベモノミセ)をもかへたらんには、微(カスカ)なる暮しは立つべし。兎角(トカウ)思案する 程に、心の誠を顯はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに 母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することとなり、エリスと余とはいつ よりとはなしに、有るか無きかの收入を合せて、憂きがなかにも樂しき月日を送りぬ。  朝の珈琲<*1><カツフエエ>果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余 はキヨオニヒ街の間口せまく奧行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を讀み、 鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截(キ)り開きたる引窗<*2>より光を取れる室 にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引 所の業の隙(ヒマ)を偸(ヌス)みて足を休むる商人(アキウド)などと臂(ヒヂ)を並べ、冷(ヒヤヤカ) なる石卓(イシヅク'エ)の上にて、忙(イソガ)はしげに筆を走らせ、小をんなが持て來る一 盞(ヒトツキ)の珈琲<*1>の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに插みたるを、 幾種(イクイロ)となく掛け聯(ツラ)ねたるかたへの壁に、いく度となく往來(ユキキ)する日本 人を、知らぬ人は何とか見けん。又一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返(カ ヘ)り路(ヂ)によぎりて、余と倶(トモ)に店を立出づるこの常ならず輕き、掌上の舞をも なしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。 <*1>ともに「玉」偏でなく「口」偏 <*2>「まど」は「窗」に下心  我學問は荒(スサ)みぬ。屋根裏の一燈微(カスカ)に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、 椅(イス)に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔(ムカ)しの法 令條目の枯葉を紙上に掻寄せしとは殊にて、今は活發々<*1>たる政界の運動、文學美 術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは 寧ろハイネを學びて思を構へ、樣々の文を作りし中にも、引續きて維廉<'イルヘルム>一世 と佛得力<フレデリツク>三世との崩徂<*2>(ホウソ)ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退 如何などの事に就ては、故(コトサ)らに詳(ツマビラ)かなる報告をなしき。さればこの頃よ りは思ひしよりも忙(イソガ)はしくして、多くもあらぬ藏書を繙(ヒモト)き、舊業をたづ ぬることも難く、大學の籍はまだ刪(ケヅ)られねど、謝金を收むることの難ければ、 唯だ一つにしたる講筵(カウエン)だに往きて聽くことは稀なりき。 <*>「そ」は「歹」偏に「且」 <*>「ハツ」は三水に「發」  我學問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡そ 民間學の流布(ルフ)したることは、歐洲諸國の間にて獨逸に若(シ)くはなからん。幾百 種の新聞雜誌に散見する議論には頗る高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、 曾て大學に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、讀みては又讀み、寫しては又 寫す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自(オノヅカ)ら綜括的になりて、同郷 の留學生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には獨逸新聞の社 説をだに善くはえ讀まぬがあるに。  明治廿一年の冬は來にけり。表街(オモテマチ)の人道にてこそ沙(スナ)をも蒔け、鋤<*1> (スキ)をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹(トツアフ)坎軻<*2>(カンカ)の處は見ゆめれど、 表のみは一面に氷りて、朝(アシタ)に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れ なり。室を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹(トホ)し、衣の綿を穿(ウガ)つ北 歐羅巴<ヨオロツパ>の寒さは、なかなかに堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞臺に て卒倒しつとて、人に扶けられて歸り來しが、それより心地あしとて休み、もの食ふ ごとに吐くを、惡阻(ツハリ)といふものならんと始めて心づきしは母なりき。鳴呼、さ らぬだに覺束(オボツカ)なきは我身の行末なるに、若し眞(マコト)なりせばいかにせまし。 <*1>「すき」は「插」の手偏を金偏にする <*2>「か」は土偏に「可」  今朝は日曜なれば家に在れど、心は樂しからず。エリスは床に臥すほどにあらねど、 小(チサ)き鐵爐の畔(ホトリ)に椅子さし寄せて言葉寡(スクナ)し。この時戸口に人の聲して、 程なく庖廚(ハウチウ)にありしエリスが母は、郵便の書状を持て來て余にわたしつ。見れ ば見覺えある相澤が手なるに、郵便切手は普魯西<プロシヤ>のものにて、消印には伯林 <ベルリン>とあり。訝(イブカ)りつゝも披(ヒラ)きて讀めば、とみの事にて預(アラカジ)め知ら するに由なかりしが、昨夜(ヨベ)こゝに着せられし天方(アマガタ)大臣に附きてわれも來 たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾(ト)く來(コ)よ。汝が名譽を恢復するも此時に あるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。讀み畢りて茫然たる面もち を見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。惡しき便にてはよも。」彼は例の新聞 社の報酬に關する書状と思ひしならん。「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相澤 が、大臣と倶(トモ)にこゝに來てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」  かはゆき獨り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へば ならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢(ウハジユバン)も極めて白きを撰(エラ)び、丁 寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余 が爲めに手づから結びつ。 「これにて見苦しとは誰れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故にかく不興なる面 もちを見せ玉ふか。われも諸共(モロトモ)に行かまほしきを。」少し容(カタチ)をあらため て。「否、かく衣(コロモ)を更(アラタ)め玉ふを見れば、何となくわが豐太郎の君とは見え ず。」又た少し考へて。「縱令(ヨシヤ)富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て 玉はじ。我病は母の宜(ノタマ)ふ如くならずとも。」 「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社會などに出でんの望みは絶ちしより幾年(イクト セ)かを經ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行 け。」エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」は、輪下(リンカ)にきしる雪道を窗<*>の 下まで來ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取り てエリスに接吻して樓(タカドノ)を下りつ。彼は凍れる窗<*>を明け、亂れし髪を朔風(サ クフウ)に吹かせて余が乘りし車を見送りぬ。 <*>「まど」は「窗」に下心  余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者(カドモリ)に秘書官相澤が室 の番號を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階(キザハシ)を登り、中央の柱に「プリユ ツシユ」を被へる「ゾフア」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套 をばこゝにて脱ぎ、廊(ワタドノ)をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟躊<*>(チチウ) したり。同じく大學に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相澤が、けふは 怎(イカ)なる面もちして出迎(イデムカ)ふらん。室に入りて相對して見れば、形こそ舊(モト) に比ぶれば肥えて逞ましくなりたれ、依然たる快活の氣象、我(ワガ)失行(シツカウ)をも さまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細敍するにも遑(イトマ)あらず、引かれて大 臣に謁し、委托せられしは獨逸語にて記せる文書(モンジヨ)の急を要する飜譯せよとの 事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相澤は跡より來て余と午餐(ヒルゲ) を共にせんといひぬ。 <*>「チウ」は足偏に「廚」  食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路は概ね平滑なりしに、轗軻(カンカ) 數奇(サクキ)なるは我身の上なりければなり。  余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて。かれは屡々<*>驚きしが、なか なかに余を譴(セ)めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩(シヨセイハイ)を罵りき。され ど物語の畢(ヲハ)りしとき、彼は色を正して諫むるやう、この一段のことは素(モ)と生 れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、學識あ り、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活(ナリハヒ)を なすべき。今は天方伯も唯だ獨逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦伯が當時の 免官の理由を知れるが故に、強(シヒ)て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇 者(キヨクヒシヤ)なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人に薦む るは先づ其能を示すに若(シ)かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との關 係は、縱令(ヨシヤ)彼に誠ありとも、縱令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひ にあらず、習慣といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して斷てと。是れその 言(コト)のおほむねなりき。 <*>「しばしば」は屍冠に「樓」-「木」  大洋に舵を失ひしふな人が、遙なる山を望む如きは、相澤が余に示したる前途の方 鍼(ハウシン)なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果し て往きつきぬとも、我中心に滿足を與へんも定かならず。貧(マヅシ)きが中にも樂しき は今の生活(ナリハヒ)、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりし が、姑(シバラ)く友の言に從ひて、この情縁を斷たんと約しき。余は守る所を失はじと 思ひて、おのれに敵するものには抗抵(カウテイ)すれども、友に對して否とはえ對(コタ)へ ぬが常なり。  別れて出づれば風面(オモテ)を撲(ウ)てり。二重(フタヘ)の玻璃<ガラス>窗<*>(マド)を緊(キビ) しく鎖して、大いなる陶爐(タウロ)に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、 薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、膚(ハダヘ)粟立つと共に、余は心 の中に一種の寒さを覺えき。 <*>「まど」は「窗」に下心  飜譯は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなり もて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比(チカゴロ)故郷にてあ りしことなどを擧げて余が意見を問ひ、折に觸れては道中にて人々の失錯(シツサク)あり しことどもを告げて打笑ひ玉ひき。  一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦(アス)、魯西亞(ロシア) に向ひて出發すべし。隨ひて來べきか、」と問ふ。余は數日間、かの公務に遑(イトマ) なき相澤を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に從はざらむ。」 余は我恥を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて 頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟(トツサ)の間(カン)、その答 の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その爲し 難きに心づきても、強(シヒ)て當時の心虚なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行する こと屡々<*>なり。 <*>「しばしば」は屍冠に「樓」-「木」  此日は飜譯の代(シロ)に、旅費さへ添へて賜はりしを持て歸りて、飜譯の代をばエリ スに預けつ。これにて魯西亞<ロシア>より歸り來んまでの費(ツヒエ)をば支へつべし。彼は 醫者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性(サガ)なりしゆゑ、幾月か心づかで ありけん。座頭(ザガシラ)よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこ せつ。まだ一月ばかりなるに、かく嚴しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく 心を惱ますとも見えず。僞りなき我心を厚く信じたれば。  鐵路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き禮服、 新に買求めたるゴタ板(バン)の魯廷(ロテイ)の貴族譜、二三種の辭書などを、小「カバン」 に入れたるのみ。流石(サスガ)に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に殘ら んも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護(ウシロメタ)かるべけれ ばとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出しやりつ。余は旅裝整へて戸を 鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。  魯國行につきては、何事をか敍すべき。わが舌人(ゼツジン)たる任務は忽地(タチマチ)に 余を拉(ラツ)し去りて、青雲の上に墮(オト)したり。余が大臣の一行に隨ひて、ペエテル ブルクに在りし間に余を圍繞('イネウ)せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪の裡に移したる 王城の粧飾(サウシヨク)、故(コトサ)らに黄蝋<*>の燭を幾つ共なく點(トモ)したるに、幾星の 勳章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤(テウル)の工(タクミ)を盡したる「カミン」 の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間佛蘭西<フランス>語を最も圓滑 に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主(ヒンシユ)の間に周旋して事を辨ずるものもまた多 くは余なりき。 <*>「ラフ」は虫偏に「臘」-「月」  この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書(フミ)を寄せしかばえ忘れざりき。 余が立ちし日には、いつになく獨りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許(モト) にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次の朝目醒 めし時は、猶獨り跡に殘りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、 かゝる思ひをば、生計(タツキ)に苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ 彼が第一の書(フミ)の略(アラマシ)なり。  又程經てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起 したり。否、君を思ふ心の深き底(ソコヒ)をば今ぞ知りぬる。君は故里に頼もしき族(ヤカ ラ)なしとのたまへば、此地に善き世渡(ヨワタリ)のたつきあらば、留り玉はぬことやはあ る。又我愛もて繋ぎ留めでは止まじ。それも叶<*>(カナ)はで東に還り玉はんとならば、 親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用(ロヨウ)を何處よりか得ん。怎(イカ)なる業 をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫 しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。袂 を分つはたゞ一瞬の苦艱(クカン)なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くに しるくなれる、それさへあるに縱令(ヨシヤ)いかなることありとも、我をば努(ユメ)な棄 て玉ひそ。母とはいたく爭ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て 心折れぬ。わが東(ヒンガシ)に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あ るに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉 はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管(ヒタスラ)君がベルリンにかへり玉はん 日を待つのみ。 <*>「かなふ」は立心偏に「篋」-「竹」  鳴呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。恥かしきはわが鈍き心なり。 余は我身一つの進退につきても、また我身に係(カカハ)らぬ他人(ヒト)の事につきても、 決斷ありと自ら心に誇りしが、此決斷は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人 との關係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。  大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが盡したる職分をのみ見き。余 はこれに未來の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想(オモヒ)到(イタ)らざりき。 されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟(カ)。先に友の勸めしときは、大 臣の信用は屋上の禽(トリ)の如くなりしが、今は稍々(ヤヤ)これを得たるかと思はるゝに、 相澤がこの頃の言葉の端に、本國に歸りて後も倶(トモ)にかくてあらば云々といひしは、 大臣のかく宜(ノタマ)ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟(カ)。今更おも へば、余が輕卒にも彼に向ひてエリスとの關係を絶たんといひしを、早く大臣に告げ やしけん。  鳴呼、獨逸(ドイツ)に來し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とは ならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇 りしにはあらずや。足の絲は解くに由なし。曩(サキ)にこれを繰(アヤ)つりしは、我某省 の官長にて、今はこの絲、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行と倶に ベルリンに歸りしは、恰も是れ新年の旦(アシタ)なりき。停車場に別を告げて、我家を さして車を驅りつ。こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、萬戸寂然 たり。寒さは強く、路上の雪は稜角(カド)ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、き らきらと輝けり。車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐(トド)まりぬ。この時窗 <*>を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁(ギヨテイ)に「カバン」持たせて梯(キザハシ) を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一聲叫びて我頸を抱きし を見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭(ヒゲ)の内にて云ひしが聞えず。 <*>「まど」は「窗」に下心 「善くぞ歸り來玉ひし。歸り來玉はずば我命は絶えなんを。」  我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と榮達を求むる心とは、時として愛情 を壓せんとせしが、唯だ此一刹那、低徊(テイクワイ)踟躊<*>(チチウ)の思は去りて、余は彼 を抱き、彼の頭(カシラ)は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。 <*>「チウ」は足偏に「廚」 「幾階か持ちて行くべき。」と鑼(ドラ)の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上 に立てり。  戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を勞(ネギラ)ひ玉へと銀貨をわたして、余は手 を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥(イチベツ)して余は驚きぬ、机 の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆(ウヅタカ)く積み上げたれば。  エリスは打笑みつゝこれを指(ユビサ)して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」と いひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓(ムツキ)なりき。「わが心の樂しさを 思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子(ヒトミ)をや持ちたらん。この瞳子。鳴呼、夢 にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名 をばなのらせ玉はじ。」彼は頭(カウベ)を垂れたり。「穉(ヲサナ)しと笑ひ玉はんが、寺 に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙滿ちたり。  二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢て訪(トブ)らはず、家にのみ 籠り居しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亞 <ロシア>行の勞を問ひ慰めて後、われと共に東(ヒンガシ)にかへる心なきか、君が學問こそ わが測り知る所ならね、語學のみにて世の用には足りなむ、滯留の餘りに久しければ、 樣々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居(オチ'イ)たりと 宜ふ。其氣色(ケシキ)辭(イナ)むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相澤の言を僞 なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽(ヒ)きか へさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭 を衝いて起れり。鳴呼、何等の特操(トクサウ)なき心ぞ、「承はり侍(ハベ)り」と應(コタ) へたるは。  黒がねの額(ヌカ)はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしと きの我心の錯亂は、譬(タト)へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて 行く程に、往きあふ馬車の馭丁(ギヨテイ)に幾度か叱(シツ)せられ、驚きて飛びのきつ。 暫くしてふとあたりを見れば、獸苑(ジウ'エン)の傍に出でたり。倒るゝ如くに路の邊の 榻(コシカケ)に倚りて、灼(ヤ)くが如く熱く、椎(ツチ)にて打たるゝ如く響く頭を榻背(タフハイ) に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覺えて醒 めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇(ヒサシ)、外套の肩には一寸許(バカリ)も積 りたりき。  最早十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鐵道馬車の軌道も雪に埋も れ、ブランデンブルゲル門の畔の瓦斯<ガス>燈(トウ)は寂しき光を放ちたり。立ち上ら んとするに足の凍(コゴ)えたれば、兩手にて擦(サス)りて、漸やく歩み得る程になりぬ。  足の運びの捗(ハカド)らねば、クロステル街まで來しときは、半夜をや過ぎたりけん。 こゝ迄來し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル、デン、リ ンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覺えず。 我腦中には唯々我は免(ユル)すべからぬ罪人(ツミビト)なりと思ふ心のみ滿ち滿ちたりき。  四階の屋根裏には、エリスはまだ寢(イ)ねずと覺(オ)ぼしく、炯然(ケイゼン)たる一星 の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺(サギ)の如き雪片に、乍(タチ マ)ち掩はれ、乍ちまた顯れて、風に弄ばるゝに似たり。戸口に入りしより疲を覺えて、 身の節(フシ)の痛み堪へ難ければ、這ふ如くに梯(キザハシ)を登りつ。庖廚(クリヤ)を過ぎ、 室(ヘヤ)の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓(ムツキ)縫ひたりしエリスは振り返へり て、「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」  驚きしも宜(ウベ)なりけり、蒼然として死人に等しき我面色(メンシヨク)、帽をばいつの 間にか失ひ、髪は蓬(オド)ろと亂れて、幾度か道にて跌(ツマヅ)き倒れしことなれば、 衣は泥まじりの雪に汚<*>(ヨゴ)れ、處々は裂けたれば。 <*>「よごれ」は三水に「于」  余は答へんとすれど聲出でず、膝の頻りに戰(ヲノノ)かれて立つに堪へねば、椅子を 握(ツカ)まんとせしまでは覺えしが、その儘に地に倒れぬ。  人事を知る程になりしは數週(スシウ)の後なりき。熱劇(ハゲ)しくて譫語(ウハコト)のみ言 ひしを、エリスが慇(ネモゴロ)にみとる程に、或日相澤は尋ね來て、余がかれに隱した る顛末(テンマツ)を審(ツバ)らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕(ツクロ)ひ 置きしなり。余は始めて病牀に侍するエリスを見て、その變りたる姿に驚きぬ。彼は この數週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。相澤の助に て日々の生計(タツキ)には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。  後に聞けば彼は相澤に逢ひしとき、余が相澤に與へし約束を聞き、またかの夕べ大 臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豐 太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵(タフ)れぬ。相澤は母 を呼びて共に扶(タス)けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるま まにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲團を噛みなど し、また遽(ニハカ)に心づきたる樣にて物を探り討(モト)めたり。母の取りて與ふるもの をば悉く抛(ナゲウ)ちしが、机の上なりし襁褓(ムツキ)を與へたるとき、探りみて顏に押 しあて、涙を流して泣きぬ。  これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用は殆(ホトンド)全く廢して、その痴(オロカ) なること赤兒の如くなり。醫に見せしに、過劇なる心勞にて急に起りし「パラノイア」 といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院(テンキヤウ'イン)に入れむと せしに、泣き叫びて聽かず、後にはかの襁褓(ムツキ)一つを身につけて、幾度か出して は見、見ては欷歔(キキヨ)す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと 見ゆ。たゞをりをり思ひ出したるやうに「藥を、藥を」といふのみ。  余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍(カバネ)を抱きて千行(チスヂ)の涙を濺(ソソ)ぎ しは幾度ぞ。大臣に隨ひて歸東の途に上ぼりしときは、相澤と議(ハカ)りてエリスが母 に微なる生計(タツキ)を營むに足るほどの資本を與へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ 子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。  鳴呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡(ナウリ)に一點 の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。 (明治二十三年一月「國民之友」第六卷第六十九號附録)