新字新かなに変換している 【 】は傍点付きを示す グスコーブドリの伝記 宮沢賢治:作     一、森  グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生れました。お父さんは、グ スコーナドリという名高い木樵(キコリ)で、どんな巨(オオ)きな木でも、まるで赤ん坊を 寝かしつけるように訳なく伐(キ)ってしまう人でした。  ドブリにはネリという妹があって、二人は毎日森で遊びました。ごしっごしっとお 父さんの樹(キ)を鋸(ヒ)く音が、やっと聴(キコ)えるくらいな遠くへも行きました。二人 はそこで木苺(キイチゴ)をとって湧水(ワキミズ)に漬(ツ)けたり、空を向いてかわるがわる 山鳩(ユマバト)の啼(ナ)くまねをしたりしました。するとあちらでもこちらでも、ぽう、 ぽう、と鳥が睡(ネム)そうに鳴き出すのでした。  お母さんが、家の前の小さな畑に麦を播(マ)いているときは、二人はみちにむしろ をしいて座(スワ)って、ブリキ罐(カン)で蘭(ラン)の花を煮(ニ)たりしました。するとこん どは、もういろいろの鳥が、二人のぱさぱさした頭の上を、まるで挨拶(アイサツ)するよ うに啼きながらざあざあざあざあ通りすぎるのでした。  ブドリが学校へ行くようになりますと、森はひるの間大へんさびしくなりました。 そのかわりひるすぎには、ブドリはネリといっしょに、森じゅうの樹の幹に、赤い粘 土(ネンド)や消し炭で、樹の名を書いてあるいたり、高く歌ったりしました。  ホップの蔓(ツル)が、両方からのびて、門のようになっている白樺(シラカバ)の樹には、 「カッコウドリ、トオルベカラズ」と書いたりもしました。  そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけです か、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけると間もなく、まっ しろな花をつけるこぶしの樹もまるで咲かず、五月になってもたびたび霙(ミゾレ)がぐ しゃぐしゃ降り、七月の末になっても一向(イッコウ)に暑さが来ないために、去年播(マ) いた麦も粒の入らない白い穂(ホ)しかできず、大抵(タイテイ)の果物も、花が咲いただけ で落ちてしまったのでした。  そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのいがばかりでした し、みんなでふだんたべるいちばん大切なオリザという穀物も、一つぶもできません でした。野原ではもうひどいさわぎになってしまいました。  ブドリのお父さんもお母さんも、たびたび薪(マキ)を野原の方へ持って行ったり、冬 になってからは何べんも巨きな樹を町へそりで運んだりしたのでしたが、いつもがっ かりして、わずかの麦の粉などもって帰ってくるのでした。それでもどうにかその冬 は過ぎて次の春になり、畑には大切にしまって置いた種子も播かれましたが、その年 もまたすっかり前の年の通りでした。そして秋になると、とうとうほんとうの饑饉(キ キン)になってしまいました。もうそのころは学校へ来るこどももまるでありませんで した。ブドリのお父さんもお母さんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたび たび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍 (キビ)の粒などもって帰ることもあれば、なんにも持たずに、顔いろを悪くして帰っ てくることもありました。そしてみんなは、こならの実や、葛(クズ)やわらびの根や、 木の柔らかな皮や、いろんなものをたべて、その冬はすごしました。けれども春が来 たころは、お父さんもお母さんも、何かひどい病気のようでした。  ある日お父さんは、じっと頭をかゝえて、いつまでもいつまでも考えていましたが、 俄(ニワ)かに起きあがって、 「おれは森へ行って遊んでくるぞ。」と云(イ)いながら、よろよろ家を出て行きまし たが、まっくらになっても帰って来ませんでした。二人がお母さんに、お父さんはど うしたろうときいても、お母さんはだまって、二人の顔を見ているばかりでした。  次の日の晩方になって、森がもう黒く見えるころ、お母さんは俄(ニワ)かに立って、 炉(ロ)に榾(ホダ)をたくさんくべて、家(ウチ)じゅうすっかり明るくしました。それから、 わたしはお父さんをさがしに行くから、お前たちはうちに居て、あの戸棚(トダナ)にあ る粉を二人ですこしづつたべなさいと云って、やっぱりよろよろ家を出て行きました。 二人が泣いてあとから追って行きますと、お母さんはふり向いて、「何たらいうこと をきかないこどもらだ。」と叱(シカ)るように云いました。そしてまるで足早に、つま ずきながら森へ入ってしまいました。二人は何べんも行ったり来たりして、そこらを 泣いて廻(マワ)りました。とうとうこらえ切れなくなって、まっくらな森の中へ入って、 いつかのホップの門のあたりや、湧水のあるあたりを、あちこちうろうろ歩きながら、 お母さんを一晩呼びました。森の樹の間からは、星がちらちら何か云うようにひかり、 鳥はたびたびおどろいたように闇(ヤミ)の中を飛びましたけれども、どこからも人の声 はしませんでした。とうとう二人はぼんやり家(ウチ)へ帰って中へはいりますと、まる で死んだように睡ってしまいました。  ブドリが眼をさましたのは、その日のひるすぎでした。お母さんの云った粉のこと を思い出して、戸棚を開けて見ますと、なかには、袋に入れたそば粉やこならの実が、 まだたくさん入っていました。ブドリはネリをゆり起して、二人でその粉をなめ、お 父さんたちがいたときのように炉に火をたきました。  それから、二十日ばかりぼんやり過ぎましたら、ある日戸口で、 「今日は。誰か居るかね。」と言うものがありました。お父さんが帰って来たのかと 思って、ブドリがはね出して見ますと、それは籠(カゴ)をしょった目の鋭い男でした。 その男は籠の中から円(マル)い餅をとり出して、ぽんと投げながら言いました。 「私はこの地方の飢饉(キキン)を救(タス)けに来たものだ。さあ何でも喰(タ)べなさい。」 二人はしばらく呆(アキ)れていましたら、「さあ喰べるんだ、食べるんだ。」とまた云 いました。二人がこわごわたべはじめますと、男はじっと見ていましたが、「お前た ちはいゝ子供だ。けれどもいゝ子供だというだけでは何にもならん。わしと一緒(イッ ショ)についておいで。尤(モット)も男の子は強いし、わしも二人はつれて行けない。おい 女の子、おまえはここにいても、もうたべるものがないんだ。おじさんと一緒に町へ 行こう。毎日パンを食べさしてやるよ。」そしてぷいっとネリを抱きあげて、せなか の籠へ入れて、そのまゝ、「おゝほいほい。おゝほいほい。」とどなりながら、風の ように家(ウチ)を出て行きました。ネリはおもてではじめてわっと泣き出し、ブドリは、 「どろぼう、どろぼう。」と泣きながら叫んで追いかけましたが、男はもう森の横を 通って、ずうっと向うの草原を走っていて、そこからはネリの泣き声が、かすかにふ るえて聞えるだけでした。  ブドリは泣いてどなって、森のはずれまで追いかけて行きましたが、とうとう疲れ てばったり倒れてしまいました。     二、てぐす工場  ブドリがふっと眼をひらいたとき、いきなり頭の上で、いやに平べったい声がしま した。 「やっと眼がさめたな。まだお前は飢饉(キキン)のつもりかい。起きておれに手伝わな いか。」見ると、そのは茶いろな【きのこしゃっぽ】をかぶって、外套(ガイトウ)にす ぐシャツを着た男で、何か針金でこさえたものを、ぶらぶら持っているのでした。 「もう飢饉は過ぎたの? 手伝いって何を手伝うの?」ブドリがききました。 「網掛けさ。」「ここへ網を掛けるの?」「掛けるのさ。」「網をかけて何にするの ?」「【てぐす】を飼うのさ。」見るとすぐブドリの前の栗(クリ)の木に、二人の男が はしごをかけてのぼっていて、一生けん命何か網を投げたり、それを操(タグ)ったり しているようでしたが、網も糸も一向(イッコウ)見えませんでした。 「あれでてぐすが飼えるの?」 「飼えるさ。うるさいこどもだな。おい、縁起(エンギ)でもないぞ。てぐすも飼えない ところに、どうして工場なんか建てるんだ。飼えるともさ。現におれはじめ沢山(タクサ ン)のものが、それでくらしを立てているんだ。」ブドリはかすれた声で、やっと、 「そうですか。」と云いました。 「それにこの森は、すっかりおれが買ってあるんだから、こゝで手伝うならいゝが、 そうでなければどこかへ行って貰(モラ)いたいな。もっともお前はどこへ行ったって食 うものもなかろうぜ。」ブドリは泣き出しそうになりましたが、やっとこらえて云い ました。 「そんなら手伝うよ。けれどもどうして網をかけるの?」 「それは勿論(モチロン)教えてやる。こいつをね。」男は手に持った針金の籠(カゴ)のよ うなものを、両手で引き伸ばしました。「いゝか。こういう工合(グアイ)にやるとはし ごになるんだ。」  男は大股(オオマタ)に右手の栗の木に歩いて行って、下の枝に引っ掛けました。 「さあ、今度はおまえが、この網をもって上へのぼって行くんだ。さあ、のぼってご らん。」  男は変な【まり】のようなものをブドリに渡しました。ブドリは仕方なくそれをもっ て、【はしご】にとりついて登って行きましたが、【はしご】の段々がまるで細くて、 手や足に喰(ク)いこんで、ちぎれてしまいそうでした。「もっと登るんだ。もっと、 もっとさ。そしたらさっきの【まり】を投げてごらん。栗の木を越すようにさ。そい つを空に投げるんだよ。何だい、ふるえてるのかい。意気地(イクジ)なしだなあ。投げ るんだよ。投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」ブドリは仕方なく、力一杯にそれ を青空に投げたと思いましたら、俄(ニワ)かにお日さまがまっ黒に見えて、逆(サカ)さま に下へ墜(オ)ちました。そしていつか、その男に受けとめられていたのでした。男は ブドリを地面におろしながら、プリプリ憤(オコ)り出しました。 「お前もいくじのないやつだ。何というふにゃふにゃだ。俺(オレ)が受け止めてやらな かったら、お前は今ごろ頭がはじけていたろう。おれはお前の命の恩人だぞ。これか らは、失礼なことを云ってはならん。ところで、さあ、こんどはあっちの木へ登れ。 も少したったら【ごはん】もたべさせてやるよ。」男はまたブドリへ新しい【まり】 を渡しました。ブドリは【はしご】をもって、次の樹へ行って【まり】を投げました。 「よし、なかなか上手になった。さあ【まり】は沢山あるぞ。なまけるな。樹も栗の 木ならどれでもいゝんだ。」  男はポケットから、【まり】を十ばかり出してブドリに渡すと、すたすた向うへ行っ てしまいました。ブドリはまた三つばかりそれを投げましたが、どうしても息がはあ はあして、からだがだるくてたまらなくなりました。もう家(ウチ)へ帰ろうと思って、 そっちへ行って見ますと、愕(オドロ)いたことには、家(ウチ)にはいつか赤い土管(ドカン) の煙突がついて、戸口には、「イーハトーヴてぐす工場(コウジョウ)」という看板がかかっ ているのでした。そして中からたばこをふかしながら、さっきの男が出て来ました。 「さあこども、たべものをもってきてやったぞ。これを食べて、暗くならないうちに、 もう少し稼(カセ)ぐんだ。」「ぼくはもういやだよ。うちへ帰るよ」「うちっていうの はあすこか、あすこはおまえのうちじゃない。おれのてぐす工場(コウバ)だ。あの家(ウ チ)もこの辺の森も、みんなおれが買ってあるんだからな。」ブドリはもうやけになっ て、だまってその男のよこした蒸しパンをむしゃむしゃたべて、また【まり】を十ば かり投げました。  その晩ブドリは、昔じぶんのうち、いまはてぐす工場になっている建物の隅(スミ)に、 小さくなって眠りました。さっきの男は、三四人の知らない人たちと、遅くまで炉(ロ) ばたで火をたいて、何か呑(ノ)んだりしゃべったりして居ました。次の朝早くから、 ブドリは森に出て、昨日のようにはたらきました。  それから一月ばかりたって、森じゅうの栗の木に網がかかってしまいますと、てぐ す飼いの男は、こんどは粟(アワ)のようなものがいっぱいついた板きれを、どの木にも 五六枚づつ吊(ツル)させました。そのうちに木は芽を出して森はまっ青になりました。 すると、樹につるした板きれから、たくさんの小さな青じろい虫が糸をつたわって、 列になって枝へ這(ハ)いあがって行きました。ブドリたちはこんどは毎日薪(タキギ)と りをさせられました、その薪が、家(ウチ)のまわりに小山のように積み重なり、栗の木 が青じろい紐(ヒモ)のかたちの花を、枝いちめんにつけるころになりますと、あの板か ら這いあがって行った虫も、ちょうど栗の花のような色とかたちになりました。そし て森じゅうの栗の葉は、まるで形もなくその虫に食い荒らされてしまいました。それ から間もなく虫は、大きな黄いろな繭(マユ)を、網の目ごとにかけはじめました。  すると【てぐす】飼いの男は、狂気のようになって、ブドリたちを叱りとばして、 その繭を籠に集めさせました。それをこんどは片っぱしから鍋(ナベ)に入れてぐらぐ ら煮て、手で車をまわしながら糸をとりました。夜も昼もがらがらがらがら三つの糸 車をまわして糸をとりました。こうしてこしらえた黄いろな糸が小屋に半分ばかりた まったころ、外に置いた繭からは、大きな白い蛾(ガ)がぽろぽろぽろぽろ飛びだしは じめました。てぐす飼いの男は、まるで鬼(オニ)みたいな顔つきになって、じぶんも一 生けん命糸をとりましたし、野原の方からも四人人(ヒト)を連れてきて働かせました。 けれども蛾の方は日ましに多く出るようになって、しまいには森じゅうまるで雪でも 飛んでいるようになりました。するとある日、六七台の荷馬車が来て、いままででき た糸をみんなつけて、町の方へ帰りはじめました。みんなも一人づつ荷馬車について 行きました。いちばんしまいの荷馬車がたったとき、てぐす飼いの男が、ブドリに、 「おい、お前の来春(ライハル)までの食うくらいのものは家(ウチ)の中に置いてやるからな。 それまでここで森と工場の番をしているんだぞ。」 と云って変ににやにやしながら、荷馬車についてさっさと行ってしまいました。  ブドリはぼんやりあとへ残りました。うちの中はまるで汚くて、嵐(アラシ)のようで したし、森は荒れはてて山家事にでもあったようでした。ブドリが次の日、家(ウチ)の なかやまわりを片附(カタヅ)けはじめましたら、てぐす飼いの男がいつも座(スワ)ってい た所から、古いボール紙の函(ハコ)を見附(ミツ)けました。中には十冊ばかりの本がぎっ しり入って居(オ)りました。開いて見ると、てぐすの絵や機械の図がたくさんある、 まるで読めない本もありましたし、いろいろな樹や草の図と名前の書いてあるものも ありました。  ブドリは一生めい命、その本のまねをして字を書いたり、図をうつしたりしてその 冬を暮らしました。  春になりますと、亦(マタ)あの男が六七人のあたらしい手下を連れて、大へん立派な なりをしてやって来ました。そして次の日からすっかり去年のような仕事がはじまり ました。  そして網はみんなかゝり、黄いろな板もつるされ、虫は枝に這い上り、ブドリたち はまた、薪作りにかゝるころになりました。ある朝ブドリたちが薪をつくっていまし たら、俄かにぐらぐらっと地震がはじまりました。それからずうっと遠くでどーんと いう音がしました。  しばらくたつと日が変にくらくなり、こまかな灰がばさばさばさばさ降って来て、 森いちめんにまっ白になりました。ブドリたちが呆(アキ)れて樹の下にしゃがんでいま したら、てぐす飼いの男は大へんあわてゝやってきました。 「おい、みんな、もうだめだぞ。噴火(フンカ)だ。噴火がはじまったんだ。てぐすはみ んな灰をかぶって死んでしまった。みんな早く引き揚げてくれ。おい、ブドリ、お前 こゝに居たかったら居てもいゝが、こんどはたべ物は置いてやらないぞ。それにこゝ に居ても危ないからな、お前も野原へ出て何か稼ぐ方がいゝぜ。」そう云ったかと思 うと、もうどんどん走って行ってしまいました。ブドリが工場へ行って見たときは、 もう誰も居(オ)りませんでした。そこでブドリはしょんぼりと、みんなの足痕(アシアト) のついた白い灰をふんで、野原の方へ出て行きました。     3、沼ばたけ  ブドリは、いっぱい灰をかぶった森の間を、町の方へ半日歩きつゞけました。灰は 風の吹くたびに樹(キ)からばさばさ落ちて、まるでけむりか吹雪のようでした。けれ どもそれは野原へ近づくほど、だんだん浅く少なくなって、ついには樹も緑に見え、 みちの足痕(アシアト)も見えないくらいになりました。  とうとう森を出切ったとき、ブドリは思わず眼(メ)をみはりました。野原は眼の前 から、遠くのまっしろな雲まで、美しい桃いろと緑と灰いろのカードでてきているよ うでした。そばへ寄って見ると、その桃いろなのには、いちめんせいの低い花が咲い ていて、蜜蜂(ミツバチ)がいそがしく花から花をわたってあるいていましたし、緑いろ なのには、小さな穂(ホ)を出して草がぎっしり生(ハ)え、灰いろなのは浅い泥の沼でし た。そしてどれも、幅のせまい土手でくぎられ、人は馬を使ってそれを堀(ホ)り起し たり掻(カ)き廻(マワ)したりしてはたらいていました。  ブドリがその間を、しばらく歩いて行きますと、道のまん中に、二人の人が、大声 で何か喧嘩(ケンカ)でもするように云い合っていました。右側の方の鬚(ヒゲ)の赭(アカ)い 人が云いました。 「何でもかんでも、おれは山師張(ヤマシバ)るときめた。」するとも一人の白い笠(カサ) をかぶった、せいの高いおじいさんがいいました。 「やめろって云ったらやめるもんだ。そんなに肥料(コヤシ)うんと入れて、藁(ワラ)はと れるたって、実(ミ)は一粒もとれるもんでない。」 「うんにゃ、おれの見込みでは、今年は今までの三年分暑いに相違ない。一年で三年 分とって見せる。」 「やめろ。やめろ。やめろったら。」 「うんにゃ、やめない。花はみんな埋めてしまったから、こんどは豆玉(マメタマ)を六十 枚入れてそれから鶏(トリ)の糞(カエシ)、百駄(ダン)入れるんだ。急がしったら、何のこう 忙しくなれば、さゝげの蔓(ツル)でもいゝから手伝いに頼みたいもんだ。」  ブドリは思わず近寄っておじぎをしました。 「そんならぼくを使ってくれませんか。」  すると二人は、ぎょっとしたように顔をあげて、あごに手をあてゝしばらくブドリ を見ていましたが、赤鬚が俄(ニワ)かに笑い出しました。 「よしよし、お前に馬の指竿(サセ)とりを頼むからな。すぐおれについて行くんだ。そ れではまず、のるかそるか、秋まで見てゝくれ。さあ行こう。ほんとに、【さゝげ】 の蔓にでもいゝから頼みたい時でな。」赤鬚は、ブドリとおじいさんに交(カワ)る交る 云いながら、さっさと先に立って歩きました。あとではおじいさんが、 「年寄りの云うこと聞かないで、いまに泣くんだな。」とつぶやきながら、しばらく こっちを見送っているようすでした。  それからブドリは、毎日毎日沼ばたけへ入って、馬を使って泥を掻き廻しました。 一日ごとに桃いろのカードも緑のカードもだんだん潰されて、泥沼に変るのでした。 馬はたびたびぴしゃっと泥水をはねあげて、みんなの顔へ打ちつけました。一つの沼 ばたけがすめば、すぐに次の沼ばたけへ入るのでした。一日がとても永くて、しまい には歩いているのかどうかもわからなくなったり、泥が飴(アメ)のような、水がスープ のような気がしたりするのでした。風が何べんも吹いて来て、近くの泥水に魚の鱗(ウ ロコ)のような波をたて、遠くの水をブリキいろにして行きました。そらでは、毎日甘 くすっぱいような雲が、ゆっくりゆっくりながれていて、それがじつにうらやましそ うに見えました。こうして二十日ばかりたちますと、やっと沼ばたけはすっかりどろ どろになりました。次の朝から主人はまるで気が立って、あちこちから集まって来た 人たちといっしょに、その沼ばたけに緑いろの槍(ヤリ)のようなオリザの苗をいちめん 植えました。それが十日ばかりで済むと、今度はブドリたちを連れて、今まで手伝っ て貰(モラ)った人たちの家へ毎日働きにでかけました。それもやっと一まわり済むと、 こんどはまたじぶんの沼ばたけへ戻って来て、毎日毎日草取りをはじめました。ブド リの主人の苗は大きくなってまるで黒いくらいなのに、となりの沼ばたけはぼんやり したうすい緑いろでしたから、遠くから見ても、二人の沼ばたけははっきり堺(サカイ) まで見わかりました。七日ばかりで草取りが済むとまたほかへ手伝いに行きました。 ところがある朝、主人はブドリを連れて、じぶんの沼ばたけを通りながら、俄かに 「あっ」と叫んで棒立ちになってしまいました。見ると唇(クチビル)のいろまで水いろ になって、ぼんやりまっすぐを見つめているのです。「病気が出たんだ。」主人がやっ と云いました。「頭でも痛いんですか。」ブドリはききました。「おれでないよ。オ リザよ。それ。」主人は前のオリザの株を指さしました。ブドリはしゃがんでしらべ て見ますと、なるほどどの葉にも、いままで見たことのない赤い点々がついていまし た。主人はだまってしおしおと沼ばたけを一まわりしましたが、家へ帰りはじめまし た。ブドリも心配してついて行きますと、主人はだまって巾(キレ)を水でしぼって、頭 にのせると、そのまゝ板の間に寝てしまいました。すると間もなく、主人のおかみさ んが表からかけ込んで来ました。 「オリザへ病気が出たというのはほんとうかい。」 「あゝ、もうだめだよ。」 「どうにかならないのかい。」 「だめだろう。すっかり五年前の通りだ。」 「だから、あたしはあんたに山師はやめろといったんじゃないか。おじいさんもあん なにとめたんじゃないか。」  おかみさんはおろおろ泣きはじめました。すると主人が俄かに元気になって、むっ くり起きあがりました。 「よし。イーハトーヴの野原で、指折り数えられる大百姓のおれが、こんなことで参 るか。よし、来年こそやるぞ。ブドリ。おまえおれのうちへ来てから、まだ一晩も寝 たいくらい寝たことがないな。さあ、五日でも十日でもいゝから、ぐうというくらい 寝てしまえ。おれはそのあとで、あすこの沼ばたけでおもしろい手品をやって見せる からな。その代り今年の冬は、家じゅうそばばかり食うんだぞ。おまえそばはすきだ ろうが。」それから主人はさっさと帽子をかぶって外へ出て行ってしまいました。ブ ドリは主人に云われた通り納屋(ナヤ)へ入って睡(ネム)ろうと思いましたが、何だかやっ ぱり沼ばたけが苦になって仕方ないので、またのろのろそっちへ行って見ました。す るといつ来ていたのか、主人がたった一人、腕組みをして土手に立って居(オ)りまし た。見ると沼ばたけには水がいっぱいで、オリザの株は葉をやっと出しているだけ、 上にはぎらぎら石油が浮かんでいるのでした。主人が云いました。 「いまおれ、この病気を蒸し殺してみるところだ。」「石油で病気の種が死ぬんです か。」とブドリがきゝますと、主人は、「頭から石油に漬(ツ)けられたら人だって死 ぬだ。」と云いながら、ほうと息を吸って首をちゞめました。その時、水下(ミズシモ) の沼ばたけの持主が、肩をいからして、息を切ってかけて来て、大きな声でどなりま した。 「何だって油など水へ入れるんだ。みんな流れて来て、おれの方へはいってるぞ。」  主人は、やけくそに落ちついて答えました。 「何だって油など水へ入れるったって、オリザへ病気がついたから、油など水へ入れ るのだ。」 「何だってそんならおれの方へ流すんだ。」 「何だってそんならおまえの方へ流すったって、水は流れるから油もついて流れるの だ。」 「そんなら何だっておれの方へ水来ないように水口(ミナグチ)とめないんだ。」 「何だっておまえの方へ水行かないように水口とめないかったって、あすこはおれの みな口でないから水とめないのだ。」となりの男は、かんかん怒ってしまってもう物 も云えず、いきなりがぶがぶ水へはいって、自分の水口に泥を積みあげはじめました。 主人はにやりと笑いました。 「あの男むずかしい男でな。こっちで水をとめると、とめたといって怒るから、わざ と向うにとめさせたのだ。あすこさえとめれば、今夜中に水はすっかり草の頭までか かるからな、さあ帰ろう。」主人はさきに立って、すたすた家(ウチ)へあるきはじめま した。  次の朝ブドリはまた主人と沼ばたけへ行ってみました。主人は水の中から葉を一枚 とって、しきりにしらべていましたが、やっぱり浮かない顔でした。その次の日もそ うでした。その次の日もそうでした。その次の日もそうでした。その次の朝、とうと う主人は決心したように云いました。 「さあブドリ、いよいよこゝへ蕎麦(ソバ)播(マ)きだぞ。おまえあすこへ行って、とな りの水口こわして来い。」  ブドリは、云われた通りこわして来ました。石油のはいった水は、恐ろしい勢(イキオ イ)でとなりの田へ流れて行きます。きっとまた怒ってくるなと思っていますと、ひる ごろ例のとなりの持主が、大きな鎌(カマ)をもってやってきました。 「やあ、何だってひとの田へ石油を流すんだ。」  主人がまた、腹の底から声を出して答えました。 「石油ながれれば何だって悪いんだ。」 「オリザみんな死ぬではないか。」 「オリザみんな死ぬか、オリザみんな死なないか、まずおれの沼ばたけのオリザ見な よ。今日で四日頭から石油かぶせたんだ。それでちゃんとこの通りでないか。赤くなっ たのは病気のためで、勢のいゝのは石油のためなんだ。おまえの所など、石油がたゞ オリザの足を通るだけでないか。却(カエ)っていゝかもしれないんだ。」 「石油こやしになるか。」向うの男は少し顔いろをやわらげました。 「石油こやしになるか、石油こやしにならないか知らないが、とにかく石油は油でな いか。」 「それは石油は油だな。」男はすっかり機嫌(キゲン)を直してわらいました。水はどん どん退(ヒ)き、オリザの株は、見る見る根もとまで出て来ました。すっかり赤い斑(マダ ラ)ができて、焼けたようになっています。 「さあおれの所ではもうオリザ刈(カ)りをやるぞ。」  主人は笑いながら云って、それからブドリといっしょに、片っぱしからオリザの株 を刈り、跡へすぐ蕎麦を播いて、土をかけて歩きました。そしてその年はほんとうに 主人の云ったとおり、ブドリの家では蕎麦ばかり食べました。次の春になりますと主 人が云いました。 「ブドリ、今年は沼ばたけは去年よりは三分の一減ったからな、仕事はよほど楽だ。 その代わりおまえは、おれの死んだ息子の読んだ本を、これから一生けん命勉強して、 いままでおれを山師だといってわらったやつらを、あっと云わせるような立派なオリ ザを作る工夫(クフウ)をして呉(ク)れ。」そして、いろいろな本を一山ブドリに渡しまし た、ブドリは仕事のひまに、片っぱしからそれを読みました。殊(コト)にその中の、ク ーボーという人の物の考え方を教えた本は面白かったので、何べんも読みました。ま たその人が、イーハトーヴの市で一ヶ月の学校をやっているのを知って、大へん行っ て習いたいと思ったりしました。  そして早くもその夏、ブドリは大きな手柄をたてました。それは去年と同じ頃(コロ)、 またオリザに病気ができかかったのを、ブドリが木の灰と食塩(シオ)を使って食いとめ たのでした。  そして八月のなかばになると、オリザの株はみんなそろって穂を出し、その穂の一 枝ごとに小さな白い花が咲き、花はだんだん水いろの籾(モミ)にかわって、風にゆらゆ ら波をたてるようになりました。主人はもう得意の絶頂でした。来る人ごとに、 「何のおれも、オリザの山師で四年しくじったけれども、今年は一度に四年前とれる。 これもまたなかなかいゝもんだな。」などと云って自慢するのでした。  ところがその次の年はそうは行きませんでした。植え付けの頃からさっぱり雨が降 らなかったために、水路は乾いてしまい、沼にはひびが入って、秋のとりいれは、やっ と冬じゅう食べるくらいでした。来年こそと思っていましたが、次の年もまた同じよ うにひでりでした。それからも来年こそ来年こそと思いながら、ブドリの主人は、だ んだんこやしを入れることができなくなり、馬も売り、沼ばたけもだんだん売ってし まったのでした。  ある秋の日、主人はブドリにつらそうに云いました。 「ブドリ、おれももとはイーハトーヴの大百姓だったし、ずいぶん稼(カセ)いでも来た のだが、たびたびの寒さと旱魃(カンバツ)のために、いまでは沼ばたけも昔の三分の一 になってしまったし、来年は、もう入れるこやしもないのだ。おれだけでない。来年 こやしを買って入(イ)れれる人ったら、もうイーハトーヴにも何人もないだろう。こ ういうあんばいでは、いつになっておまえにはたらいて貰った礼をするというあても ない。おまえも若いはたらき盛りを、おれのとこで暮してしまってはあんまり気の毒 だから、済まないがどうかこれを持って、どこへでも行っていい運を見つけてくれ。」 そして主人は一ふくろのお金と、新しい紺で染めた麻の服と赤革の靴とをブドリにく れました。ドリはいままでの仕事のひどかったことも忘れてしまって、もう何(ナ)に もいらないから、こで働いていたいと思いましたが、考えてみると、居てもやっぱり 仕事もそんなにないので、主人に何べんも何べんも礼を云って、六年の間はたらいた 沼ばたけと主人に別れて、停車場をさして歩きだしました。     4、クーボー大博士  ブドリは二時間ばかり歩いて、停車場へ来ました。それから切符を買って、イーハ トーヴ行きの汽車に乗りました。汽車はいくつもの沼ばたけをどんどんどんどんうし ろへ送りながら、もう一散に走りました。その向うには、たくさんの黒い森が、次か ら次と形を変えて、やっばりうしろの方へ残されて行くのでした。ブドリはいろいろ な思いで胸がいっぱいでした。早くイーハトーヴの市に着いて、あの親切な本を書い たクーボーという人に会い、できるなら、働きながら勉強して、みんながあんなにつ らい思いをしないで沼ばたけを作れるよう、また火山の灰だのひでりだの寒さだのを 除く工夫をしたいと思うと、汽車さえまどろこくってたまらないくらいでした。汽車 はその日のひるすぎ、イーハトーヴの市に着きました。停車場を一足出ますと、地面 の底から何かのんのん湧(ワ)くようなひゞきや、どんよりしたくらい空気、行ったり 来たりする沢山(タクサン)の自働車のあいだに、ブドリはしばらくぼうとしてつっ立って しまいました。やっと気をとりなおして、そこらの人に、クーボー博士の学校へ行く みちをたずねました。すると、誰(タレ)に訊(キ)いても、みんなブドリのあまりまじめ な顔を見て、吹き出しそうにしながら、「そんな学校は知らんね。」とか、「もう五 六丁行って訊いて見な。」とかいうのでした。そして、ブドリがやっと学校をさがし あてたのはもう夕方近くでした。その大きなこわれかかった白い建物の二階で、誰か 大きな声でしゃべっていました。 「今日は。」ブドリは高く叫びました。誰も出てきませんでした。「今日はあ。」ブ ドリはあらん限り高く叫びました。するとすぐ頭の上の二階の窓から、大きな灰いろ の顔が出て、めがねが二つ、ぎらりと光りました。それから、 「今授業中だよ、やかましいやつだ。用があるならはいって来い。」とどなりつけて、 すぐ顔を引っこめますと、中では大勢(オオゼイ)でどっと笑い、その人は構(カマ)わず、 また何か大声でしゃべっています。ブドリはそこで思い切って、なるべく足音をたて ないように、二階にあがって行きますと、階段のつき当りの扉(ト)があいていて、じ つに大きな教室が、ブドリのまっ正面にあらわれました。中にはさまざまの服装をし た学生がぎっしりです。向うは大きな黒い壁になっていて、そこにたくさんの白い線 が引いてあり、さっきのせいの高い眼(メ)がねをかけた人が、大きな艪(ヤグラ)の形の 模型を、ふちこち指(ユビサ)しながら、さっきのまゝの高い声で、みんなに説明して居 (オ)りました。  ブドリはそれを一目見ると、あゝこれは先生の本に書いてあった歴史の歴史という ことの模型だなと思いました。先生は笑いながら、一つの【とって】を廻(マワ)しまし た。模型はがちっと鳴って奇体な船のような形になりました。またがちっと【とって】 を廻すと、模型はこんどは大きなむかでのような形に変りました。  みんなはしきりに首をかたむけて、どうにもわからんという風にしていましたが、 ブドリにはたゞ面白かったりです。 「そこでこういう図ができる。」先生は黒い壁へ別の込み入った図をどんどん書きま した。左手にもチョークをもって、さっさっと書きました。学生たちもみんな一生け ん命そのまねをしました。ブドリもふところから、いままで沼ばたけで持っていた汚 い手帳を出して、図を書きとりました。先生はもう書いてしまって、壇の上にまっす ぐに立って、じろじろ学生たちの席を見まわしています。ブドリも書いてしまって、 その図を縦横(タテヨツ)から見ていますと、ブドリのとなりで一人の学生が、 「あゝあ。」とあくびをしました。ブドリはそっとききました。「ね、この先生は何 (ナン)て云うんですか。」すると学生はばかにしたように鼻でわらいながら答えました。 「クーボー大博士さ、お前知らなかったのかい。」それからじろじろブドリのようす を見ながら、 「はじめから、この図なんか書けるもんか。ぼくでさえ同じ講義をもう六年もきいて いるんだ。」と云ってじぶんのノートをふところへしまってしまいました。その時教 室に、ぱっと電燈がつきました。もう夕方だったのです。大博士が向うで言いました。 「いまは夕(ユウベ)ははるかに来たり、拙講(セッコウ)もまた全課を了(オ)えた。諸君のう ちの希望者は、けだしいつもの例により、そのノートをば拙者(セッシャ)に示し、更に数 箇の試問を受けて、所属を決すべきである。」学生たちはわあっと叫んで、みんなば たばたノートをとじました。それからそのまゝ帰ってしまうのが大部分でしたが、五 六十人は、一列になって、大博士の前をとおりながら、ノートを開いて見せるのでし た。すると大博士はそれを一寸(チョット)見て、一言か二言質問して、それから白墨<チョー ク>でえりへ、「合」とか、「再来」とか、「奮励(フンレイ)」とか書くのでした。学生は その間、いかにも心配そうに首をちぢめているのでしたが、それからそっと肩をすぼ めて廊下まで出て、友達にそのしるしを読んで貰って、よろこんだりしょげたりする のでした。  ぐんぐん試験が済んで、いよいよブドリ一人になりました。ブドリがその小さな汚 い手帳を出したとき、クーボー大博士は大きなあくびをやりながら、屈(カガ)んで眼 をぐっと手帳につけるようにしましたので、手帳はあぶなく大博士に吸い込まれそう になりました。  ところが大博士は、うまそうにこくっと一つ息をして、「よろしい。この図は非常 に正しくできている。そのほかのところは、何だ、ははあ、沼ばたけのこやしのこと に、馬のたべ物のことかね。では問題を答えなさい。工場(コウバ)の煙突から出るけむ りには、どういう色の種類があるか。」  ブドリは思わず大声に答えました。 「黒、褐(カツ)、黄、灰、白、無色。それからこれらの混合です。」  大博士はわらいました。 「無色のけむりは大へんいゝ。形について云いたまえ。」 「無風で煙が相当あれば、たての棒になりますが、さきはだんだんひろがります。雲 の非常に低い日は、棒は雲まで昇って行って、そこから横にひろがります。風のある 日は、棒は斜めになりますが、その傾きは風の程度に従います。波や幾つもきれにな るのは、風のためにもよりますが、一つはけむりや煙突のもつ癖のためです。あまり 煙の少ないときは、コルク抜きの形にもなり、煙も重い瓦斯(ガス)がまじれば、煙突 の口から房(フサ)になって、一方乃至(ナイシ)四方に落ちることもあります。」大博士は またわらいました。 「よろしい。きみはどういう仕事をしているのか。」 「仕事をみつけに来たんです。」 「面白い仕事がある。名刺(メイシ)をあげるから、そこへすぐ行きなさい。」博士は名 刺をとり出して、何かするする書き込んでブドリに呉(ク)れました。ブドリはおじぎ をして、戸口を出て行こうとしますと、大博士はちょっと眼で答えて、 「何だ、ごみを焼いているのかな。」と低くつぶやきながら、テーブルの上にあった 鞄(カバン)に、白墨<チョーク>のかけらや、はんけちや本や、みんな一緒に投げ込んで小脇 (コワキ)にかかえ、さっき顔を出した窓から、プイッと外へ飛び出しました。びっくり してブドリが窓へかけよって見ますといつか大博士は玩具(オモチャ)のような小さな飛行 船に乗って、じぶんでハンドルをとりながら、もううす青いもやのこめた町の上を、 まっすぐに向うへ飛んでいるのでした。ブドリがいよいよ呆(アキ)れて見ていますと、 間もなく大博士は、向うの大きな灰いろの建物の平屋根に着いて、船を何かかぎのよ うなものにつなぐと、そのままぽろっと建物の中へ入って見えなくなってしまいまし た。     5、イーハトーヴ火山局  ブドリが、クーボー大博士から貰った名刺の宛名(アテナ)をたずねて、やっと着いた ところは大きな茶いろの建物で、うしろには房(フサ)のような形をした高い柱が夜のそ らにくっきり白く立って居(オ)りました。ブドリは玄関に上(アガ)って呼鈴(ヨビリン)を 押しますと、すぐ人が出て来て、ブドリの出した名刺を受け取り、一目見ると、すぐ ブドリを突き当りの大きな室(ヘヤ)へ案内しました。そこにはいままでに見たこともな いような大きなテーブルがあって、そのまん中に、一人の少し髪の白くなった、人の よさそうな立派の人が、きちんと座(スワ)って耳に受話器をあてながら、何か書いてい ました。そしてブドリの入って来たのを見ると、すぐ横の椅子を指(ユビサ)しながら、 また続けて何か書きつけています。  その室の右手の壁いっぱいに、イーハトーヴ全体の地図が、美しく色どった巨(オオ) きな模型に作ってあって、鉄道も町も川も野原も、みんな一目でわかるようになって 居り、そのまん中を走るせぼねのような山脈と、海岸に沿って縁(ヘリ)をとったように なっている山脈、またそれから枝を出して海の中に点々の島をつくっている一列の山 山には、みんな赤や橙や黄のあかりがついていて、それが代る代る色が変ったり、ジ ーと蝉(セミ)のように鳴ったり、数字が現れたり消えたりしているのです。下の壁に添っ た棚(タナ)には、黒いタイプライターのようなものが、三列に百でもきかないくらい並 んで、みんなしずかに動いたり、鳴ったりしているのでした。ブドリがわれを忘れて 見とれて居りますと、その人が受話器をことっと置いて、ふところから名刺入れを出 して、一枚の名刺をブドリに出しながら、 「あなたが、グスコーブドリ君ですか。私はこう云うものです。」と云いました。見 ると、イーハトーヴ火山局技師ペンネンナームと書いてありました。その人はブドリ の挨拶(アイサツ)になれないで、もじもじしているのを見ると、重ねて親切に云いました。 「さっきクーボー博士から電話があったのでお待ちしていました。まあこれから、こ こで仕事をしながら、しっかり勉強してごらんなさい。ここの仕事は、去年はじまっ たばかりですが、じつに責任のあるもので、それに半分は、いつ噴火するかわからな い火山の上で、仕事するものなのです。  それに火山の癖というものは、なかなか学問でわかることではないのです。われわ れはこれからよほどしっかりやらなければならんのです。では今晩はあっちにあなた の泊るところがありますから、そこでゆっくりお休みなさい。あしたこの建物中をすっ かり案内しますから。」  次の朝、ブドリはペンネン老技師に連れられて、建物のなかを一一つれて歩いて貰 (モラ)い、さまざまの器械やしかけを詳(クワ)しく教わりました。その建物のなかのすべ ての器械は、みんなイーハトーヴ中の三百幾つかの活火山や休火山に続いていて、そ れらの火山の、煙や灰を噴(フ)いたり、鎔岩(ヨウガン)を流したりしているようすは勿論 (モチロン)、みかけはじっとしている古い火山でも、その中の鎔岩や瓦斯(ガス)のもよう から、山の形の変りようまで、みんな数字になったり図になったりして、あらわれて 来るのでした。そして烈しい変化のある度(タビ)に、模型はみんな別々の音が鳴るの でした。  ブドリはその日からぺンネン老技師について、すべての器械の扱い方や観測のしか たを習い、夜も昼も一心に働いたり勉強したりしました。そして二年ばかりたちます と、ブドリはほかの人たちと一緒(イッショ)に、あちこちの火山へ器械を据(ス)え付けに 出されたり、据え付けてある器械の悪くなったのを、修繕にやられたりもするように なりましたので、もうブドリにはイーハトーヴの三百幾つの火山と、その働き工合(グ アイ)は掌(テノヒラ)の中にあるようにわかって来ました。じつにイーハトーヴには七十幾 つかの火山が、毎日煙をあげたり、鎔岩を流したりしているのでした。五十幾つかの 休火山は、いろいろな瓦斯を噴いたり、熱い湯を出したりしていました。そして残り の百六七十の死火山のうちにも、いつまた何をはじめるかわからないものもあるので した。  ある日ブドリが老技師とならんで仕事をして居りますと、俄(ニワ)かにサンムトリと いう南の方の海岸にある火山が、むくむく器械に感じ出して来ました。老技師が叫び ました。「ブドリ君。サンムトリは、今朝(ケサ)まで何もなかったね。」「はい、いま までサンムトリのはたらいたのを見たことがありません。」 「あゝ、これはもう噴火が近い。今朝の地震が刺戟(シゲキ)したのだ。この山の北十キ ロのところにはサンムトリの市がある。今度爆発すれば、多分山は三分の一、北側を はねとばして、牛や卓子<テーブル>ぐらいの岩は、熱い灰や瓦斯といっしょに、どしど しサンムトリ市に落ちてくる。どうでも今のうちに、この海に向いた方へ、ボーリン グを入れて傷口をこさえて、瓦斯を抜くか、鎔岩を出させるかしなければならない。 今すぐ二人で見に行こう。」二人はすぐに支度(シタク)をして、サンムトリ行きの汽車 に乗りました。     六、サンムトリ火山  二人は次の朝、サンムトリの市に着き、ひるころサンムトリ火山の頂(イタダキ)近く、 観測器械を置いてある小屋に登りました。そこは、サンムトリ山の古い噴火口の外輪 山が、海の方へ向いて欠けた所で、その小屋の窓からながめますと、海は青や灰いろ の幾つもの縞(シマ)になって見え、その中を汽船は黒いけむりを吐き、銀いろの水脈(ミ オ)を引いていくつも滑って居(イ)るのでした。  老技師はしずかにすべての観測機を調べ、それからブドリに云(イ)いました。 「きみはこの山は、あと何日ぐらいで噴火すると思うか。」 「一月(ヒトツキ)はもたないと思います。」 「一月はもたない。もう十日ももたない。早く工作をしてしまわないと、取り返しの つかないことになる。私(ワタシ)はこの山の海に向いた方では、あすこが一番弱いと思 う。」老技師は山腹の谷の上の、うす緑の草地を指さしました。そこの雲の影がしず かに青く滑っているのでした。「あすこには鎔岩(ヨウガン)の層が二つしかない。あと は柔らかな火山灰と火山礫(カザンレキ)の層だ。それにあすこまでは牧場の道も立派にあ るから、材料を運ぶことも造作(ゾウサ)ない。ぼくは工作隊を申請しよう。」老技師は 忙(セワ)しく局へ発信をはじめました。その時脚(アシ)の下では、つぶやくような微(カス) かな音がして、観測小屋はしばらくぎしぎし軋(キシ)みました。老技師は機械をはなれ ました。 「局からすぐ工作隊を出すそうだ。工作隊といっても半分決死隊だ。私はいままでに、 こんな危険に迫った仕事をしたことがない。」 「十日のうちにできるでしょうか。」 「きっとできる。装置には三日、サンムトリ市の発電所から、電線を引いてくるには 五日かゝるな。」  技師はしばらく指を折って考えていましたが、やがて安心したようにまたしずかに 云いました。 「とにかくブドリ君。一つ茶をわかして呑(ノ)もうではないか、あんまりいゝ景色だ から。」ブドリは持って来たアルコールランプに火を入れて、茶をわかしはじめまし た。空にはだんだん雲が出て、それに日ももう落ちたのか、海はさびしい灰いろに変 り、たくさんの白い波がしらは、一せいに火山の裾(スソ)に寄せて来ました。  ふとブドリはすぐ眼(メ)の前に、いつか見たことのある、おかしな形の小さな飛行 船が飛んでいるのを見つけました。老技師もはねあがりました。 「あ、クーボー君がやって来た。」ブドリも続いて小屋をとび出しました。飛行船は もう小屋の左側の大きな壁の上にとまって、中からせいの高いクーボー大博士がひら りと飛び下りていました。博士はしばらくその辺の、岩の大きなさけ目をさがしてい ましたが、やっとそれを見つけたと見えて、手早くねじをしめて飛行船をつなぎまし た。 「お茶をよばれに来たよ。ゆれるかい。」大博士はにやにやわらって云いました。老 技師が答えました。 「まだそんなでない。けれどもどうも、岩がぼろぼろ上から落ちているらしいんだ。」  ちょうどその時、山は俄(ニワ)かに怒ったように鳴り出し、ブドリは眼の前が青くなっ たように思いました。山はぐらぐら続けてゆれました。見るとクーボー大博士も老技 師も、しゃがんで岩へしがみついていましたし、飛行船も大きな波に乗った船のよう にゆっくりゆれて居(オ)りました。  地震はやっとやみ、クーボー大博士は、起きあがって、すたすたと小屋へ入って行 きました。中ではお茶がひっくり返って、アルコールが青くぽかぽか燃えていました。 クーボー大博士は機械をすっかり調べて、それから老技師といろいろ談(ハナ)しました。 そしてしまいに云いました。 「もうどうしても来年は、潮汐(チョウセキ)発電所を全部作ってしまわなければならない。 それができれば今度のような場合にも、その日のうちに仕事ができるし、ブドリ君が 云っている沼ばたけの肥料(コヤシ)も降ろせられるんだ。」「旱魃(カンバツ)だってちっと もこわくなくなるからな。」ベンネン技師も云いました。ブドリは胸がわくわくしま した。山まで踊(オド)りあがっているように思いました。じっさい山は、その時烈(ハゲ) しくゆれ出して、ブドリは床へ投げ出されていたのです。大博士が云いました。 「やるぞ、やるぞ。いまのサンムトリの市へも可成(カナリ)感じたにちがいない。」  老技師が云いました。 「今のはぼくらの足もとから、北へ一キロばかり、地表下七百米<メートル>ぐらいの所で、 この小屋の六七十倍ぐらいの岩の塊(カタマリ)が鎔岩の中へ落ち込んだらしいのだ。とこ ろが瓦斯<ガス>がいよいよ最後の岩の皮をはね飛ばすまでには、そんな塊を百も二百 も、じぶんのからだの中にとらなければならない。」  大博士はしばらく考えていましたが、「そうだ、僕はこれで失敬しよう。」と云っ て小屋を出て、いつかひらりと船に乗ってしまいました。老技師とブドリは、大博士 があかりを二三度振って挨拶(アイサツ)しながら、山をまわって向うへ行くのを見送って、 また小屋に入り、かわるがわる眠ったり観測したりしました。そして暁方(アケガタ)、 麓(フモト)へ工作隊がつきますと、老技師はブドリを一人小屋に残して、昨日指さした あの草地まで降りて行きました。みんなの声や、鉄の材料の触れ合う音は、下から風 の吹き上げるときは、手にとるように聴こえました。ペンネン技師からはひっきりな しに、向うの仕事の進み工合(グアイ)も知らせてよこし、瓦斯の圧力や山の形の変りよ うも尋ねて来ました。それから三日の間は、はげしい地震や地鳴りのなかで、ブドリ の方も麓の方もほとんど眠るひまさえありませんでした。その四日目の午后、老技師 からの発信が云って来ました。 「ブドリ君だな。すっかり支度(シタク)ができた。急いで降りてきたまえ。観測の器械 は一ぺん調べてそのまゝにして、表(ヒョウ)は全部持ってくるのだ。もうその小屋は今 日の午后にはなくなるんだから。」  ブドリはすっかり云われた通りにして、山を下りて行きました。そこにはいままで 局の倉庫にあった大きな鉄材が、すっかり櫓(ヤグラ)に組み立っていて、いろいろな機 械はもう電流さえ来れば、すぐに働き出すばかりになっていました。ペンネン技師の 頬(ホホ)はげっそり落ち、工作隊の人たちも青ざめて眼ばかり光らせながら、それでも みんな笑ってブドリに挨拶しました。  老技師が云いました。 「では引き上げよう。みんな支度をして車に乗り給(タマ)え。」みんなは大急ぎで二十 台の自働車に乗りました。車は列になって山の裾(スソ)を一散にサンムトリの市に走り ました。丁度(チョウド)山と市とのまん中ごろで、技師は自働車をとめさせました。 「こゝへ天幕(テント)を張り給え。そしてみんなで眠るんだ。」みんなは物を一言も云 えずに、その通りにして倒れるように睡(ネム)ってしまいました。その午后、老技師は 受話器を置いて叫びました。「さあ電線は届いたぞ。ブドリ君、初(ハジ)めるよ。」 老技師はスイッチを入れました。ブドリたちは天幕の外へ出て、サンムトリの中腹(チュ ウフク)を見つめました。野原には、白百合(シロユリ)がいちめんに咲き、その向うに、サン ムトリが青くひっそり立っていました。  俄かにサンムトリの左の裾がぐらぐらっとゆれ、まっ黒なけむりがぱっと立ったと 思うと、まっすぐに天にまでのぼって行って、おかしなきのこの形になり、その足も とから黄金色(キンイロ)の鎔岩がきらきら流れ出して、見るまにずうっと扇形にひろがり ながら海へ入りました。と思うと地面は烈しくぐらぐらゆれ、百合の花もいちめんゆ れ、それからごうっというような大きな音が、みんなを倒すくらい強くやってきまし た。それから風がどうっと吹いて行きました。 「やったやった。」とみんなはそっちに手を延(ノバ)して高く叫びました。この時サ ンムトリの煙は、崩(クズ)れるようにそらいっぱいひろがって来ましたが、忽(タチマ)ち そらはまっ暗(クラ)になって、熱いこいしがぱらぱらぱらぱら降ってきました。みんな は天幕の中にはいって心配そうにしていましたが、ペンネン技師は、時計を見ながら、 「ブドリ君、うまく行った。危険はもう全くない。市の方へは灰をすこし降らせるだ けだろう。」と云いました。こいしはだんだん灰にかわりました。それもまもなく薄 くなって、みんなはまた天幕の外へ飛び出しました。野原はまるで一めん鼠いろになっ て、灰は一寸(チョット)ばかり積り、百合の花はみんな折れて灰に埋(ウズ)まり、空は変 に緑いろでした。そしてサンムトリの裾には小さな瘤(コブ)ができて、そこから灰い ろの煙が、まだどんどん登って居(オ)りました。  その夕方、みんなは灰やこいしを踏んで、もう一度山へのぼって、新しい観測の機 械を据(ス)え着けて帰りました。     七、雲の海  それから四年の間に、クーボー大博士の計画通り、潮汐発電所は、イーハトーヴの 海岸に沿って、二百も配置されました。イーハトーヴをめぐる火山には、観測小屋と いっしょに、白く塗られた鉄の櫓(ヤグラ)が順々に建ちました。  ブドリは技師心得(ココロエ)になって、一年の大部分は火山から火山と廻(マワ)ってある いたり、危なくなった火山を工作したりしていました。  次の年の春、イーハトーヴの火山局では、次のようなポスターを村や町へ張りまし た。 「窒素(チッソ)肥料を降らせます。 今年の夏、雨といっしょに、硝酸(ショウサン)アムモニアをみなさんの沼ばたけや蔬 菜(ソサイ)ばたけに降らせますから、肥料を使う方は、その分を入れて計算してく ださい。分量は百メートル四方につき百二十キログラムです。 雨もすこし降らせます。 旱魃(カンバツ)の際には、とにかく作物の枯れないぐらいの雨は降らせることがで きますから、いままで水が来なくなって作付(サクヅケ)しなかった沼ばたけも、今 年は心配せずに植え付けてください。」  その年の六月、ブドリはイーハトーヴのまん中にあたる、イーハトーヴ火山の頂上 の小屋に居りました。下はいちめん灰いろをした雲の海でした。そのあちこちからイ ーハトーヴ中の火山のいたゞきが、ちょうど島のように黒く出て居りました。その雲 のすぐ上を一隻(イッセキ)の飛行船が、船尾からまっ白な煙を噴(フ)いて、一つの峯(ミネ) から一つの峯へ、ちょうど橋をかけるように飛びまわっていました。そのけむりは、 時間がたつほどだんだん太くはっきりなって、しずかに下の雲の海に落ちかぶさり、 まもなく、いちめんの雲の海には、うす白く光る大きな網が山から山へ張り亘(ワタ)さ れました。いつか飛行船はけむりを納(オサ)めて、しばらく挨拶するように輪を描(カ) いていましたが、やがて船首を垂れてしずかに雲の中へ沈んで行ってしまいました。 受話器がジーと鳴りました。ペンネン技師の声でした。 「飛行船はいま帰って来た。下の方の支度はすっかりいゝ。雨はざあざあ降っている。 もうよかろうと思う。はじめてくれ給(タマ)え。」  ブドリはぼたんを押しました。見る見るさっきのけむりの網は、美しい桃いろや青 や紫に、パッパッと眼もさめるようにかゞやきながら、点(ツ)いたり消えたりしまし た。ブドリはまるでうっとりしてそれに見とれました。そのうちにだんだん日は暮れ て、雲の海も、あかりが消えたときは灰いろか鼠いろかわからないようになりました。  受話器が鳴りました。 「硝酸アムモニアはもう雨の中へでてきている。量もこのぐらいならちょうどいゝ。 移動のぐあいもいゝらしい。あと四時間やれば、もうこの地方は今月中は沢山(タクサン) だろう。つゞけてやってくれたまえ。」  ブドリはもううれしくってはね上りたいくらいでした。この雲の下で昔の赤鬚(アカヒ ゲ)の主人も、となりの石油がこやしになるかと云った人も、みんなよろこんで雨の 音を聞いている。そしてあすの朝は、見違えるように緑いろになったオリザの株を、 手で撫(ナ)でたりするだろう。まるで夢のようだと思いながら、雲のまっくらになっ たり、また美しく輝いたりするのを眺めて居りました。ところが短い夏の夜はもう明 けるらしかったのです。電光の合間に、東の雲の海のはてがぼんやり黄ばんでいるの でした。  ところがそれは月が出るのでした。大きな黄いろな月がしずかに登ってくるのでし た。そして雲が青く光るときは変に白っぽく見え、桃いろに光るときは何かわらって いるように見えるのでした。ブドリは、もうじぶんが誰なのか、何をしているのか忘 れてしまって、たゞぼんやりそれをみつめていました。  受話器がジーと鳴りました。 「こっちでは大分雷が鳴りだして来た。網があちこちちぎれたらしい。あんまり鳴ら すとあしたの新聞が悪口を云うから、もう十分ばかりでやめよう。」  ブドリは受話器を置いて耳をすましました。雲の海はあっちでもこっちでもぶつぶ つぶつぶつ呟(ツブヤ)いているのです。よく気をつけて聞くと、やっぱりそれはきれぎ れの雷の音でした。ブドリはスイッチを切りました。俄かに月のあかりだけになった 雲の海は、やっぱりしずかに北へ流れています。ブドリは毛布をからだに巻いてぐっ すり睡(ネム)りました。     八、秋  その年の農作物の収穫は、気候のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、 よく出来ましたので、火山局にはあっちからもこっちからも、感謝状や激励(ゲキレイ) の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きた甲斐(カイ)があるように思い ました。  ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行った帰り、とりいれの済(ス)んで がらんとした沼ばたけの中の小さな村を通りかゝりました。ちょうどひるころなので、 パンを買おうと思って、一軒の雑貨や菓子を売っている店へ寄って、 「パンはありませんか。」とききました。すると、そこには三人のはだしの人たちが、 眼をまっ赤にして酒を呑(ノ)んで居(オ)りましたが、一人が立ち上がって、「パンはあ るが、どうも食われないパンでな。石盤(セキバン)だもな。」とおかしなことを云いま すと、みんなは面白そうにブドリの顔を見てどっと笑いました。ブドリはいやになっ て、ぷいっと表へ出ましたら、向うから髪を角刈りにしたせいの高い男が来て、いき なり、 「おい、お前、今年の夏、電気でこやし降らせたブドリだな。」と云いました。 「そうだ。」ブドリは何気なく答えました。その男は高く叫びました。 「火山局のブドリ来たぞ。みんな集まれ。」  すると、今の家(ウチ)の中やそこらの畑から、七八人の百姓たちが、げらげらわらっ てかけて来ました。 「この野郎、きさまの電気のお蔭(カゲ)で、おいらのオリザ、みんな倒れてしまった ぞ。何してあんなまねをしたんだ。」一人が云いました。  ブドリはしずかに云いました。 「倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか。」 「何この野郎。」いきなり一人がブドリの帽子を叩(タタ)き落しました。それから、み んなは寄ってたかって、ブドリをなぐったり、ふんだりしました。ブドリはとうとう 何が何だかわからなくなって、倒れてしまいました。  気がついて見ると、ブドリはどこかの病院らしい室(ヘヤ)の、白いベッドに寝ていま した。枕(マクラ)もとには見舞の電報や、たくさんの手紙がありました。ブドリのから だ中は痛くて熱く、動くことができませんでした。けれどもそれから一週間ばかりた ちますと、もうブドリはもとの元気になっていました。そして新聞で、あのときの出 来事は、肥料の入れ様をまちがって教えた農業技師が、オリザの倒れたのをみんな火 山局のせいにして、ごまかしていたためだということを読んで、大きな声で一人で笑 いました。その次の日の午后、病院の小使が入って来て、 「ネリというご婦人の方が訪ねておいでになりました。」と云いました。ブドリは夢 ではないかと思いましたら、まもなく一人の日に焼けた百姓のおかみさんのような人 が、おずおずと入って来ました。まるで変ってはいましたが、あの森の中から誰かに つれて行かれたネリだったのです。二人はしばらく物も言えませんでしたが、やっと ブドリが、その後のことをたずねますと、ネリもぼつぼつとイーハトーヴの百姓のこ とばで、今までのことを談(ハナ)しました。ネリを連れて行ったあの男は、三日ばかり の後、面倒臭くなったのか、ある小さな牧場の近くへネリを残してどこかへ行ってし まったのでした。  ネリがそこらを泣いて歩いていますと、その牧場の主人が可哀(カアイ)そうに思って、 家(ウチ)へ入れて赤ん坊のお守をさせたりしていましたが、だんだんネリは何でも働け るようになったので、とうとう三四年前に、その小さな牧場の一番上の息子と結婚し たというのでした。そして今年は肥料も降ったので、いつもなら廐<*1>肥(ウマヤゴエ)を 遠くの畑まで運び出さなければならず、大へん難儀(ナンギ)をしたのを、近くのかぶら の畑へみんな入れたし、遠くの玉蜀黍(トウモロコシ)もよくできたので、家じゅうみんな悦 (ヨロコ)んでいるというようなことも云いました。また、あの森の中へ主人の息子といっ しょに、何べんも行って見たけれども、家はすっかり壊れていたし、ブドリはどこへ 行ったかわからないので、いつもがっかりして帰っていたら、昨日新聞で主人がブド リのけがをしたことを読んだので、やっとこっちへ訪ねて来たということも云いまし た。ブドリは、直(ナオ)ったら、きっとその家へ訪ねて行って、お礼を云う約束をして ネリを帰しました。 <*1>「廐」は「广」を「厂」に換える。補助:なし     九<*2>、カルボナード島 <*2>初出は「十」だった  それからの五年は、ブドリにはほんとうに楽しいものでした。赤鬚の主人の家にも 何べんもお礼に行きました。  もうよほど年は老(ト)っていましたが、やはり非常な元気で、こんどは毛の長い兎 を千疋(センビキ)以上飼ったり、甘藍(カンラン)ばかり畑に作ったり、相変らずの山師はやっ ていましたが、暮らしはずうっといゝようでした。  ネリには、可愛らしい男の子が生れました。冬に仕事がひまになると、ネリはその 子にすっかりこどもの百姓のようなかたちをさせて、主人といっしょに、ブドリの家 に訪ねて来て、泊って行ったりするのでした。  ある日、ブドリのところへ、昔てぐす飼いの男に、ブドリといっしょに使われてい た人が訪ねて来て、ブドリたちのお父さんのお墓が、森のいちばんはずれの、大きな 榧(カヤ)の木の下にあるということを教えて行きました。それは、はじめ、てぐす飼い の男が森に来て、森じゅうの樹を見てあるいたとき、ブドリのお父さんたちの冷たく なったからだを見附(ミツ)けて、ブドリに知らせないように、そっと土に埋(ウズ)めて、 上へ一本の樺(カバ)の枝をたてゝ置いたというのでした。ブドリは、すぐネリたちを つれてそこへ行って、白い石灰岩の墓をたてて、それからもその辺を通るたびに、い つも寄ってくるのでした。  そしてちょうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐しい寒い気候がまた来る ような模様(モヨウ)でした。測候所では、太陽の調子や、北の方の海の氷の様子から、 その年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足づつだんだん本統(ホントウ)に なって、こぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、み んなはもう、この前の凶作を思い出して、生きたそらもありませんでした。クーボー 大博士も、たびたび気象や農業の技師たちと相談したり、意見を新聞へ出したりしま したが、やっぱりこの烈しい寒さだけはどうともできないようすでした。  ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない樹を見 ますと、ブドリはもう、居(イ)ても立ってもいられませんでした。このまま過ぎるな ら、森にも野原にも、ちょうどあの年の、ブドリの家族のようになる人がたくさんで きるのです。ブドリはまるで物も食べずに、幾晩も幾晩も考えました。ある晩ブドリ は、クーボー大博士のうちを訪ねました。 「先生、気層のなかに炭酸瓦斯<ガス>が増(フ)えて来れば暖かくなるのですか。」 「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、大抵空気中の炭酸瓦斯の 量できまっていたと云われる位だからね。」 「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変える位の炭酸瓦斯を噴(フ) くでしょうか。」 「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、瓦斯はすぐ大循環の上層の風にまじっ て地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球 全体を平均で五度位温(アタタカ)にするだろうと思う。」 「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」 「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどう しても遁(ニ)げられないのでね。」 「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へ、お許しの出 るようお詞(コトバ)を下さい。」 「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事に代れるものはそうはな い。」 「私のようなものは、これから沢山(タクサン)できます。私よりもっともっと何でもでき る人が、私よりもっと立派に、もっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのです から。」 「その相談は僕はいかん。ペンネン技師に談(ハナ)したまえ。」  ブドリは帰って来て、ペンネン技師に相談しました。技師はうなずきました。 「それはいい、けれども僕がやろう。僕は今年はもう六十三なのだ。ここで死ぬなら 全く本望(ホンモウ)というものだ。」 「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。一ぺんうまく爆発しても、間 もなく瓦斯が雨にとられてしまうかもしれませんし、また何もかも思った通りいかな いかもしれません。先生が今度お出(イ)でになってしまっては、あと何とも工夫がつ かなくなると存じます。」老技師はだまって首を垂れてしまいました。  それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへい くつものやぐらは建ち、電線は連結されました。  すっかり支度ができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島 に残りました。  そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅 (アカガネ)いろになったのを見ました。けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐ んぐん暖くなってきて、その秋はほぼ普通の作柄(サクガラ)になりました。そしてちょ うど、この話のはじまりのようになる筈(ハズ)の、たくさんのブドリのお父さんやお 母さんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明る い薪(タキギ)で楽しく暮らすことができたのでした。 (『児童文学』文教書院,昭和七年三月)