( ) はひらがなのルビ。 読みの「'イ」は「ゐ」を示す。 読みの「'エ」は「ゑ」を示す。 走れメロス 太宰 治:作  メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(ジヤチボウギヤク)の王を除かな ければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の 牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して來た。けれども邪惡に對して は、人一倍に敏感であつた。けふ未明メロスは村を出發し、野を越え山 越え、十里はなれた此のシラクスの市にやつて來た。メロスには父も、 母も無い。女房も無い。十六の、内氣な妹と二人暮しだ。この妹は、村 の或る律氣(リチギ)な一牧人を、近々、花婿として迎へる事になつてゐた。 結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆゑ、花嫁の衣裳(イシヤウ)や ら祝宴の御馳走(ゴチソウ)やらを買ひに、はるばる市にやつて來たのだ。 先(マ)づ、その品々を買ひ集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。 メロスには竹馬(チクバ)の友があつた。セリヌンテイウスである。今は此 のシラクスの市で、石工をしてゐる。その友を、これから訪ねてみるつ もりなのだ。久しく逢(ア)はなかつたのだから、訪ねて行くのが樂しみ である。歩いてゐるうちにメロスは、まちの樣子を怪しく思つた。ひつ そりしてゐる。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは當りまへだが、け れども、なんだか、夜のせゐばかりでは無く、市全體が、やけに寂しい。 のんきなメロスも、だんだん不安になつて來た。路(ミチ)で逢つた若い衆 をつかまへて、何かあつたのか、二年まへに此の市に來たときは、夜で も皆が歌をうたつて、まちは賑(ニギ)やかであつた筈(ハズ)だが、と質問 した。若い衆は、首を振つて答へなかつた。しばらく歩いて老爺(ラウヤ) に逢ひ、こんどはもつと、語勢を強くして質問した。老爺は答へなかつ た。メロスは兩手で老爺のからだをゆすぶつて質問を重ねた。老爺は、 あたりをはばかる低聲で、わづか答へた。 「王樣は、人を殺します。」 「なぜ殺すのだ。」 「惡心を抱いてゐる、といふのですが、誰もそんな、惡心を持つては居 りませぬ。」 「たくさんの人を殺したのか。」 「はい、はじめは王樣の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣(ヨツギ) を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、 皇后さまを。それから、賢臣のアレキス樣を。」 「おどろいた。國王は亂心か。」 「いいえ、亂心ではございませぬ。人を、信ずる事が出來ぬ、といふの です。このごろは、臣下の心をも、お疑ひになり、少しく派手な暮しを してゐる者には、人質ひとりづつ差し出すことを命じて居ります。御命 令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。けふは、六人殺されまし た。」  聞いて、メロスは激怒した。「呆(アキ)れた王だ。生かして置けぬ。」  メロスは、單純な男であつた。買ひ物を、背負つたままで、のそのそ 王城にはひつて行つた。たちまち彼は、巡邏(ジユンラ)の警吏に捕縛され た。調べられて、メロスの懷中からは短劍が出て來たので、騷ぎが大き くなつてしまつた。メロスは、王の前に引き出された。 「この短刀で何をするつもりであつたか。言へ!」暴君デイオニスは靜 かに、けれども威嚴を以て問ひつめた。その王の顏は蒼白(サウハク)で、眉 間(ミケン)の皺(シワ)は、刻み込まれたやうに深かつた。 「市を暴君の手から救ふのだ。」とメロスは惡びれずに答へた。 「おまへがか?」王は、憫笑(ビンセウ)した。「仕方の無いやつぢや。お まへには、わしの孤獨がわからぬ。」 「言ふな!」とメロスは、いきり立つて反駁(ハンバク)した。「人の心を 疑ふのは、最も恥づべき惡徳だ。王は、民の忠誠をさへ疑つて居られ る。」 「疑ふのが、正當の心構へなのだと、わしに教へてくれたのは、おまへ たちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまり さ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟(ツブヤ)き、ほつと溜息をつ いた。「わしだつて、平和を望んでゐるのだが。」 「なんの爲の平和だ。自分の地位を守る爲か。」こんどはメロスが嘲笑 (テウセウ)した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」 「だまれ、下賤(ゲセン)の者。」王は、さつと顏を擧げて報いた。「口で は、どんな清らかな事でも言へる。わしには、人の腹綿の奧底が見え透 いてならぬ。おまへだつて、いまに、磔(ハリツケ)になつてから、泣いて詫 (ワ)びたつて聞かぬぞ。」 「ああ、王は悧巧(リカウ)だ。自惚(ウヌボ)れてゐるがよい。私は、ちやん と死ぬる覺悟で居るのに。命乞(イノチゴ)ひなど決してしない。ただ、− −」と言ひかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらひ、「ただ、 私に情をかけたいつもりなら、處刑までに三日間の日限を與へて下さい。 たつた一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私 は村で結婚式を擧げさせ、必ず、ここへ歸つて來ます。」 「ばかな。」と暴君は、嗄(シハガ)れた聲で低く笑つた。「とんでもない 嘘(ウソ)を言ふわい。逃がした小鳥が歸つて來るといふのか。」 「さうです。歸つて來るのです。」メロスは必死で言ひ張つた。「私は 約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の歸りを待 つてゐるのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市に セリヌンテイウスといふ石工がゐます。私の無二の友人だ。あれを、人 質としてここに置いて行かう。私が逃げてしまつて、三日目の日暮まで、 ここに歸つて來なかつたら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ。さ うして下さい。」  それを聞いて王は、殘虐な氣持で、そつと北叟笑(ホクソ'エ)んだ。生意 氣なことを言ふわい。どうせ歸つて來ないにきまつてゐる。この嘘つき に騙(ダマ)された振りして、放してやるのも面白い。さうして身代りの 男を、三日目に殺してやるのも氣味がいい。人は、これだから信じられ ぬと、わしは悲しい顏して、その身代りの男を磔刑(タクケイ)に處してやる のだ。世の中の、正直者とかいふ奴輩(ヤツバラ)にうんと見せつけてやり たいものさ。 「願ひを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三目日には日沒までに歸 つて來い。おくれたら、その身代りを、きつと殺すぞ。ちよつとおくれ て來るがいい。おまへの罪は、永遠にゆるしてやらうぞ。」 「なに、何をおつしやる。」 「はは。いのちが大事だつたら、おくれて來い。おまへの心は、わかつ てゐるぞ。」  メロスは口惜しく、地團駄踏(ヂダンダフ)んだ。ものも言ひたくなくな つた。  竹馬の友、セリヌンテイウスは、深夜、王城に召された。暴君デイオ ニスの面前で、佳(ヨ)き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、 友に一切の事情を語つた。セリヌンテイウスは無言で首肯(ウナヅ)き、メ ロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかつた。セリヌンテ イウスは、繩打たれた。メロスは、すぐに出發した。初夏、滿天の星で ある。  メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着した のは、翌(アク)る日の午前、陽は既に高く昇つて、村人たちは野に出て仕 事をはじめてゐた。メロスの十六の妹も、けふは兄の代りに羊群の番を してゐた。よろめいて歩いて來る兄の、疲勞困憊(ヒラウコンパイ)の姿を見つ けて驚いた。さうして、うるさく兄に質問を浴びせた。 「なんでも無い。」メロスは無理に笑はうと努めた。「市に用事を殘し て來た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまへの結婚式を擧 げる。早いはうがよからう。」  妹は頬(ホホ)をあからめた。 「うれしいか。綺麗(キレイ)な衣裳(イシヤウ)も買つて來た。さあ、これから 行つて、村の人たちに知らせて來い。結婚式は、あすだと。」  メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ歸つて神々の祭壇を飾り、 祝宴の席を調へ、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらゐの深い眠り に落ちてしまつた。  眼が覺めたのは夜だつた。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。 さうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。 婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出來てゐ ない、葡萄(ブダウ)の季節まで待つてくれ、と答へた。メロスは、待つ ことは出來ぬ、どうか明日にしてくれ給へ、と更に押してたのんだ。婿 の牧人も頑強であつた。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論を つづけて、やつと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚 式は、眞晝に行はれた。新郎新婦の、神々への宣誓が濟んだころ、黒雲 が空を覆ひ、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すやうな大雨 となつた。祝宴に列席してゐた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、 それでも、めいめい氣持を引きたて、狹い家の中で、むんむん蒸し暑い のも怺(コラ)へ、陽氣に歌をうたひ、手を拍(ウ)つた。メロスも、滿面に 喜色を湛(タタ)へ、しばらくは、王とのあの約束をさへ忘れてゐた。祝宴 は、夜に入つていよいよ亂れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く氣 にしなくなつた。メロスは、一生このままここにゐたい、と思つた。こ の佳(ヨ)い人たちと生涯暮して行きたいと願つたが、いまは、自分のか らだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身 に鞭打(ムチウ)ち、つひに出發を決意した。あすの日沒までには、まだ十 分の時が在る。ちよつと一眠りして、それからすぐに出發しよう、と考 へた。その頃には、雨も小隆りになつてゐよう。少しでも永くこの家に 愚圖愚圖(グヅグヅ)とどまつてゐたかつた。メロスほどの男にも、やは り未練の情といふものは在る。今宵(コヨヒ)呆然(ボウゼン)、歡喜に醉つて ゐるらしい花嫁に近寄り、 「おめでたう。私は疲れてしまつたから、ちよつとご免かうむつて眠り たい。眼が覺めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私 がゐなくても、もうおまへには優しい亭主があるのだから、決して寂し い事は無い。おまへの兄の、一ばんきらひなものは、人を疑ふ事と、そ れから、嘘(ウソ)をつく事だ。おまへも、それは、知つてゐるね。亭主と の間に、どんな祕密でも作つてはならぬ。おまへに言ひたいのは、それ だけだ。おまへの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまへもその誇りを 持つてゐろ。」  花嫁は、夢見心地で首肯(ウナヅ)いた。メロスは、それから花婿の肩を たたいて、 「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、寶といつては、妹と羊だけ だ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になつた ことを誇つてくれ。」  花婿は揉(モ)み手して、てれてゐた。メロスは笑つて村人たちにも會 釋して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだやうに深く 眠つた。  眼が覺めたのは翌(アク)る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南 無三(ナムサン)、寢過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出發 すれば、約束の刻限までには十分間に合ふ。けふは是非とも、あの王に、 人の信實の存するところを見せてやらう。さうして笑つて磔(ハリツケ)の臺 に上つてやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小 降りになつてゐる樣子である。身仕度は出來た。さて、メロスは、ぶる んと兩腕を大きく振つて、雨中、矢の如く走り出た。  私は、今宵、殺される。殺される爲に走るのだ。身代りの友を救ふ爲 に走るのだ。王の奸佞邪智(カンネイジヤチ)を打ち破る爲に走るのだ。走らな ければならぬ。さうして、私は殺される。若い時から名譽を守れ。さら ば、ふるさと。若いメロスは、つらかつた。幾度か、立ちどまりさうに なつた。えい、えいと大聲擧げて自身を叱(シカ)りながら走つた。村を出 て、野を横切り、森をくぐり拔け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日 は高く昇つて、そろそろ暑くなつて來た。メロスは額の汗をこぶしで拂 ひ、ここまで來れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、き つと佳い夫婦になるだらう。私には、いま、なんの氣がかりも無い筈(ハ ズ)だ。まつすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ 必要も無い。ゆつくり歩かう、と持ちまへの呑氣(ノンキ)さを取り返し、 好きな小歌をいい聲で歌ひ出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、 そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降(フ)つて湧(ワ)いた災難、メロス の足は、はたと、とまつた。見よ、前方の川を。きのふの豪雨で山の水 源地は氾濫(ハンラン)し、濁流滔々(タウタウ)と下流に集り、猛勢一擧に橋を破 壞し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵(コツパミヂン)に橋桁(ハシゲ タ)を跳ね飛ばしてゐた。彼は茫然(バウゼン)と、立ちすくんだ。あちこち と眺めまはし、また、聲を限りに呼びたててみたが、繋舟は殘らず浪(ナ ミ)に浚(サラ)はれて影なく、渡守(ワタシモ)りの姿も見えない。流れはいよい よ、ふくれ上り、海のやうになつてゐる。メロスは川岸にうずくまり、 男泣きに泣きながらゼウスに手を擧げて哀願した。「ああ、鎭めたまへ、 荒れ狂ふ流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に眞晝時です。 あれが沈んでしまはぬうちに、王城に行き着くことが出來なかつたら、 あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」  濁流は、メロスの叫びをせせら笑ふ如く、ますます激しく躍り狂ふ。 浪は浪を呑(ノ)み、捲(マ)き、煽(アフ)り立て、さうして時は、刻一刻と消 えて行く。今はメロスも覺悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々 も照覽あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の律大な力を、いまこそ發揮して 見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のやうにのた 打ち荒れ狂ふ浪を相手に、必死の鬪爭を開始した。滿身の力を腕にこめ て、押し寄せ渦卷き引きずる流れを、なんのこれしきと掻(カ)きわけ掻 きわけ、めくらめつぽふ獅子奮迅(シシフンジン)の人の子の姿には、神も哀 れと思つたか、つひに憐愍(レンビン)を垂れてくれた。押し流されつつも、 見事、對岸の樹木の幹に、すがりつく事が出來たのである。ありがたい。 メロスは馬のやうに大きな胴震ひを一つして、すぐにまた先きを急いだ。 一刻といへども、むだには出來ない。陽は既に西に傾きかけてゐる。ぜ いぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切つて、ほつとした時、 突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。 「待て。」 「何をするのだ。私は陽(ヒ)の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。 放せ。」 「どつこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 「私にはいのちの他には何も無い。その、たつた一つの命も、これから 王にくれてやるのだ。」 「その、いのちが欲しいのだ。」 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしてゐたのだな。」  山賊たちは、ものも言はず一齊に棍棒(コンバウ)を振り擧げた。メロス はひよいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲ひかかり、 その棍棒を奪ひ取つて、 「氣の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を毆り倒し、 殘る者のひるむ隙(スキ)に、さつさと走つて峠を下つた。一氣に峠を駈(カ) け降りたが、流石(サスガ)に疲勞し、折から午後の灼熱(シヤクネツ)の太陽が まともに、かつと照つて來て、メロスは幾度となく眩暈(メマヒ)を感じ、 これではならぬ、と氣を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、つ ひに、がくりと膝(ヒザ)を折つた。立ち上る事が出來ぬのだ。天を仰い で、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人 も撃ち倒し韋駄天('イダテン)、ここまで突破して來たメロスよ。眞の勇者、 メロスよ。今、ここで、疲れ切つて動けなくなるとは情無い。愛する友 は、おまへを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまへは、 稀代(キダイ)の不信の人間、まさしく王の思ふ壷(ツボ)だぞ、と自分を叱 (シカ)つてみるのだが、全身萎(ナ)えて、もはや芋蟲(イモムシ)ほどにも前進 かなはぬ。路傍の草原にごろりと寢ころがつた。身體疲勞すれば、精神 も共にやられる。もう、どうでもいいといふ、勇者に不似合ひな不貞腐 (フテクサ)れた根性が、心の隅に巣喰(スク)つた。私は、これほど努力したの だ。約束を破る心は、みぢんも無かつた。神も照覽、私は精一ぱいに努 めて來たのだ。動けなくなるまで走つて來たのだ。私は不信の徒では無 い。ああ、できる事なら私の胸を截(タ)ち割つて、眞紅の心臟をお目に 掛けたい。愛と信實の血液だけで動いてゐるこの心臟を見せてやりたい。 けれども私は、この大事な時に、精も根も盡きたのだ。私は、よくよく 不幸な男だ。私は、きつと笑はれる。私の一家も笑はれる。私は友を欺 (アザム)いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。 ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定つた運命なのかも知れない。 セリヌンテイウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も 君を、欺かなかつた。私たちは、本當に佳(ヨ)い友と友であつたのだ。 いちどだつて、暗い疑惑の雲を、お互ひ胸に宿したことは無かつた。い まだつて、君は私を無心に待つてゐるだらう。ああ、待つてゐるだらう。 ありがたう、セリヌンテイウス。よくも私を信じてくれた。それを思へ ば、たまらない。友と友の間の信實は、この世で一ばん誇るべき寶なの だからな。セリヌンテイウス、私は走つたのだ。君を欺くつもりは、み ぢんも無かつた。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで來たのだ。 濁流を突破した。山賊の圍みからも、するりと拔けて一氣に峠を駈(カ) け降りて來たのだ。私だから、出來たのだよ。ああ、この上、私に望み 給ふな。放つて置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だ らしが無い。笑つてくれ。王は私に、ちょつとおくれて來い、と耳打ち した。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私 は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になつてみると、私は王の言ふまま になつてゐる。私は、おくれて行くだらう。王は、ひとり合點して私を 笑ひ、さうして事も無く私を放免するだらう。さうなつたら、私は、死 ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名譽の人種だ。 セリヌンテイウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは 私を信じてくれるにちがひ無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういつそ、惡徳者として生き伸びてやらうか。村には私の家が 在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追ひ出すやうな事はしな いだらう。正義だの、信實だの、愛だの、考へてみれば、くだらない。 人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法(ジヤウハフ)ではなかつた か。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、 勝手にするがよい。やんぬる哉(カナ)。−−四肢を投げ出して、うとうと、 まどろんでしまつた。  ふと耳に、潺々(センセン)、水の流れる音が聞えた。そつと頭をもたげ、 息を呑(ノ)んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れてゐるらしい。 よろよろ起き上つて、見ると、岩の裂目から滾々(コンコン)と、何か小さく 囁きながら清水が湧(ワ)き出てゐるのである。その泉に吸ひ込まれるや うにメロスは身をかがめた。水を兩手で掬(スク)つて、一くち飮んだ。ほ うと長い溜息(タメイキ)が出て、夢から覺めたやうな氣がした。歩ける。行 かう。肉體の疲勞恢復(ヒラウクワイフク)と共に、わづかながら希望が生れた。 義務遂行の希望である。わが身を殺して、名譽を守る希望である。斜陽 は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いてゐる。日 沒までには、まだ間がある。私を、待つてゐる人があるのだ。少しも疑 はず、靜かに期待してくれてゐる人があるのだ。私は、信じられてゐる。 私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫(ワビ)び、などと氣のいい事 は言つて居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその 一事だ。走れ! メロス。  私は信頼されてゐる。私は信頼されてゐる。先刻の、あの惡魔の囁き は、あれは夢だ。惡い夢だ。忘れてしまへ。五臟が疲れてゐるときは、 ふいとあんな惡い夢を見るものだ。メロス、おまへの恥ではない。やは り、おまへは眞の勇者だ。再び立つて走れるやうになつたではないか。 ありがたい!私は、正義の士として死ぬ事が出來るぞ。ああ、陽(ヒ)が 沈む。ずんずん沈む。待つてくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な 男であつた。正直な男のままにして死なせて下さい。  路行(ミチユ)く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のやうに走 つた。野原で酒宴の、その宴席のまつただ中を駈け拔け、酒宴の人たち を仰天させ、犬を蹴(ケ)とばし、小川を飛び越え、少しづつ沈んでゆく 太陽の、十倍も早く走つた。一團の旅人と颯(サ)つとすれちがつた瞬間、 不吉な會話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかつて ゐるよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走つてゐ るのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはなら ぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態(フウタイ)なんかは、 どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸體であつた。呼吸も出 來ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向ふに小さく、 シラクスの市の塔樓(タフロウ)が見える。塔樓は、夕陽を受けてきらきら光 つてゐる。 「ああ、メロス樣。」うめくやうな聲が、風と共に聞えた。 「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。 「フイロストラトスでございます。貴方(アナタ)のお友達セリヌンテイウ ス樣の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走り ながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るの は、やめて下さい。もう、あの方(カタ)をお助けになることは出來ませ ん。」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 「ちやうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遲かつ た。おうらみ申します。ほんの少し、もうちよつとでも、早かつたなら !」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思ひで、赤く大き い夕陽ばかりを見つめてゐた。走るより他は無い。 「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事 です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、 平氣でゐました。王樣が、ざんざんあの方をからかつても、メロスは來 ます、とだけ答へ、強い信念を持ちつづけてゐる樣子でございました。」 「それだから、走るのだ。信じられてゐるから走るのだ。間に合ふ、間 に合はぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、 もつと恐ろしく大きいものの爲に走つてゐるのだ。ついて來い! フイ ロストラトス。」 「ああ、あなたは氣が狂つたか。それでは、うんと走るがいい。ひよつ としたら、間に合はぬものでもない。走るがいい。」  言ふにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を盡して、メロスは走つ た。メロスの頭は、からつぽだ。何一つ考へてゐない。ただ、わけのわ からぬ大きな力にひきずられて走つた。陽は、ゆらゆら地平線に沒し、 まさに最後の一片の殘光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑 場に突入した。間に合つた。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが歸つて來た。約束のとほり、 いま、歸つて來た。」と大聲で刑場の群衆にむかつて叫んだつもりであ つたが、喉(ノド)がつぶれて嗄(シハガ)れた聲が幽(カス)かに出たばかり、 群衆は、ひとりとして彼の到着に氣がつかない。すでに磔(ハリツケ)の柱が 高々と立てられ、繩を打たれたセリヌンテイウスは、徐々に釣り上げら れてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだやう に群衆を掻(カ)きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、 ここにゐる!」と、かすれた聲で精一ぱいに叫びながら、つひに磔臺に 昇り、釣り上げられてゆく友の兩足に、齧(カジ)りついた。群衆は、ど よめいた。あつぱれ。ゆるせ、とロ々にわめいた。セリヌンテイウスの 繩は、ほどかれたのである。 「セリヌンテイウス。」メロスは眼に涙を浮べて言つた。「私を毆れ。 ちから一ぱいに頬(ホホ)を毆れ。私は、途中で一度、惡い夢を見た。君が 若(モ)し私を毆つてくれなかつたら、私は君と抱擁する資格さへ無いの だ。毆れ。」  セリヌンテイウスは、すべてを察した樣子で首肯(ウナヅ)き、刑場一ぱ いに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を毆つた。毆つてから優しく微笑 (ホホ'エ)み、 「メロス、私を毆れ。同じくらゐ音高く私の頬を毆れ。私はこの三日の 間、たつた一度だけ、ちらと君を疑つた。生れて、はじめて君を疑つた。 君が私を毆つてくれなければ、私は君と抱擁できない。」  メロスは腕に唸(ウナ)りをつけてセリヌンテイウスの頬を毆つた。 「ありがたう、友よ。」二人同時に言ひ、ひしと抱き合ひ、それから嬉 (ウレ)し泣きにおいおい聲を放つて泣いた。  群集の中からも、歔欷(キヨキ)の聲が聞えた。暴君デイオニスは、群衆 の背後から二人の樣を、まじまじと見つめてゐたが、やがて靜かに二人 に近づき、顏をあからめて、かう言つた。 「おまへらの望みは叶(カナ)つたぞ。おまへらは、わしの心に勝つたのだ。 信實とは、決して空虚な妄想ではなかつた。どうか、わしをも仲間に入 れてくれまいか。どうか、わしの願ひを聞き入れて、おまへらの仲間の 一人にしてほしい。」  どつと群衆の間に、歡聲が起つた。 「萬歳、王樣萬歳。」  ひとりの少女が、緋(ヒ)のマントをメロスに捧(ササ)げた。メロスは、 まごついた。佳(ヨ)き友は、氣をきかせて教へてやつた。 「メロス、君は、まつぱだかぢやないか。早くそのマントを着るがいい。 この可愛(カハイ)い娘さんは、メロスの裸體を、皆に見られるのが、たま らなく口惜しいのだ。」  勇者は、ひどく赤面した。 (古傳説と、シルレルの詩から。)