杜 子 春

芥川龍之介

 或春の日暮です。

 唐の都洛陽(らくよう)の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。

 若者は名は杜子春(とししゅん)といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費い尽 して、その日の暮しにも困る位、憐な身分になっているのです。

 何しろその頃洛陽(らくよう)といえば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですか ら、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、 油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、土耳古(とるこ)の女の金の耳環(みみわ)や、白馬(しろうま)に飾った色糸の手綱(たづな)が、絶えず流れて行く容子(ようす)は、 まるで画のような美しさです。

 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を(もた)せて、ぼんやり空ばかり眺めていま した。空には、もう細い月が、うらうらと(なび)いた霞の中に、まるで爪の(あと)かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。 「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、()めてくれる所はな さそうだし−−こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない。」

 杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。

 するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇(すがめ)の老人があ ります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、 「お前は何を考えているのだ。」と、横柄(おうへい)に言葉をかけました。 「(わたし)ですか。私は今寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです。」

 老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。 「そうか。それは可哀(かわい)そうだな。」

 老人は暫く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、 「ではおれが()いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影 が地に(うつ)ったら、その頭に当る所を夜中(よなか)に掘って見るが好い。きっと車に 一ぱいの黄金(おうごん)()まっている筈だから。」「ほんとうですか。」

 杜子春は驚いて、伏せていた眼を挙げました。所が更に不思議なことには、あの老 人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り 空の月の色は前よりも(なお)白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の 早い蝙蝠(こうもり)が二三匹ひらひら舞っていました。

 杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持になりました。あの老人の 言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。

 大金持になった杜子春は、すぐに立派な(うち)を買って、玄宗皇帝(げんそうこうてい)に も負けない位、贅沢(ぜいたく)な暮しをし始めました。蘭陵(らんりょう)の酒を買わせるやら、 桂州(けいしゅう)龍眼肉(りゅうがんにく)をとりよせるやら、日に四度(よたび)色の変る牡丹(ぼたん)を庭に植えさせるやら、白孔雀(しろくじゃく)を何羽も放し飼いにするやら、玉を集め るやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を(あつら)えるや ら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。

 するとこういう(うわさ)を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかっ た友達などが、朝夕遊びにやって来まして。それも一日毎に(かず)が増して、半年 ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来 ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、 毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。 (ごく)かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の(さかづき)に西洋から来た葡萄酒 を汲んで、天竺(てんじく)生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれていると、その まわりには二十人の女たちが、十人は翡翠(ひすい)の蓮の花を、十人は瑪瑙(めのう)の牡丹 の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を(ふし)面白く奏しているという景色なのです。

 しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家(ぜいたくや) の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人 間は薄情なもので、昨日(きのう)までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、 挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文 無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという(うち)は、一軒 のなくなってしまいました。いや、宿を貸す所か、今では(わん)に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。

 そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺 めながら、途方(とほう)に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこからか姿を現して、 「お前は何を考えているのだ。」と、声をかけるではありませんか。

 杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いた儘、暫くは返事もしませんでし た。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、 「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです。」と、恐る恐る返事をしました。 「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを一つ教えてやろう。今この夕 日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが 好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから。」

 老人はこう言ったかと思うと、今度も亦人ごみの中へ、()き消すように隠れてしまいました。

 杜子春はその翌日から、(たちま)ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変 らず、仕放題(しほうだい)な贅沢をし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っ ている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使−−すべてが昔の通りなのです。

 ですから車に一ぱいあった、あの(おびただ)しい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。

「お前は何を考えているのだ。」

 片目眇の老人は、三度(みたび)杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。勿論 彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり(たたず)んでいたのです。 「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです。」 「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを教えてやろう。今この夕日の 中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの−−」

 老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を(さえぎ)りました。「いや、お金はもう入らないのです。」 「金はもう入らない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな。」

 老人は(いぶか)しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。 「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想(あいそ)がつきたのです。」

 杜子春は不平そうな顔をしながら、突樫貪(つっけんどん)こう言いました。「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」 「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従(ついしょう)もしますけれ ど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなこと を考えると、たといもう一度大金持になった所が、なんにもならないような気がするのです。」

 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。 「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮らして行くつもりか。」

 杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、 「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業を したいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょ う。仙人でなければ、一夜(いちや)の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない 筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい。」

 老人は眉をひそめた儘、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、 「いかにもおれは峨眉山(がびさん)に棲んでいる、鉄冠子(てつかんし)という仙人だ。始め お前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持にしてやっ たのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう。」と、 (こころよ)(ねがい)を容れてくれました。

 杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、 彼は大地に(ひたい)をつけて、何度も鉄冠子に御時宜(おじぎ)をしました。 「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にした所で、立派な仙人 になれるかなれないかは、お前次第できまることだからな。−−が、兎も角もまずお れと一しょに、峨眉山の奥へ来て見るが好い。おお、(さいわい)、こゝに竹杖が一本落 ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう。」

 鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の(うち)咒文(じゅもん)を唱え ながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るように(またが)りました。すると 不思議ではありませんか。竹杖は忽ち龍のように、勢よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。

 杜子春は(きも)をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々 が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたので しょう。)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い(びん)の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱い出しました。 (あした)に北海に遊び、暮には蒼梧(そうご)袖裏(りしゅう)青蛇(せいだ)胆気(たんき)()なり。 三たび岳陽(がくよう)に入れども、人識らず。朗吟(ろうぎん)して、飛過(ひか)洞庭湖(どうていこ)

 二人を乗せた青竹は、()もなく峨眉山へ舞い(さが)りました。

 そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、 中空(なすぞら)に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光っていました。元より人跡(じんせき)の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、 (うしろ)の絶壁に生えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。

 二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、 「おれはこれから天上へ行って、西王母(せいおうぼ)に御眼にかかって来るから、お前は その(あいだ)ここに坐って、おれの帰るのを待っているが好い。多分おれがいなくな ると、いろいろな魔性(ましょう)が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たとい どんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を()い たら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ。」と言いました。 「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなっても、黙っています。」 「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから。」

 老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。

 杜子春はたった一人、岩の上に坐った儘、静に星を眺めていました。すると、 彼是(かれこれ)半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に(とお)り出した頃、突然空中に声があって、 「そこにいるのは何者だ。」と、叱りつけるではありませんか。

 しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにいました。

 所が又暫くすると、やはり同じ声が響いて、「返事をしないと立ち所に、命はないものと覚悟しろ。」と、いかめしく嚇しつける のです。

 杜子春は勿論黙っていました。

 と、どこから登って来たか、爛々(らんらん)と眼を光らせた虎が一匹、忽然(こつぜん)と 岩の上に(おど)り上って、杜子春の姿を(にら)みながら、一声高く(たけ)りました。 のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思うと、 (うしろ)の絶壁の頂からは、四斗樽(しとだる)程の白蛇(はくだ)が一匹、炎のような舌を吐い て、見る見る近くへ下りて来るのです。

 杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐っていました。

 虎と蛇とは、一つ餌食(えじき)を狙って、互に隙でも窺うのか、暫くは睨合いの(てい) でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎の牙 に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬く内に、なくなってしまうと思っ た時、虎と蛇とは霧の如く夜風と共に消え()せて、(あと)には唯、絶壁の松が、 さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しな がら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。

 すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲(くろくも)が一面にあたりをとざすや否 や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄じく(らい)が鳴り出しました。い や、雷ばかりではありません。それと一しょに(たき)のような雨も、いきなりどうど うと降り出したのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ()もなく坐っていました。 風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、−−暫くさすがの峨眉山も、 (くつがえ)るかと思う位でしたが、その内に耳もつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思 うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱(ひばしら)が、杜子春の頭へ落ちかかりました。

 杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて 見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに聳えた山々の上にも、茶碗程の北斗の星 が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇(しろへび)と同じように鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯(いたずら)に違いありません。 杜子春は漸く安心して、額の冷汗を拭いながら、又岩の上に坐り直しました。

 が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金の(よろい)着下(きくだ)した、身の(たけ)三丈もあろうという、(おごそ)かな神将(しんしょう)が現れ ました。神将は手に三叉(みつまた)(ほこ)を持っていましたが、いきなりその戟の 切先(きっさき)を杜子春の(むな)もとへ向けながら、眼を(いか)らせて叱りつけるのを聞けば、 「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢(かいびゃく)の昔から、 おれが住居(すまい)をしている所だぞ。それも(はばか)らずたった一人、こゝへ足を踏 み入れるとは、よもや唯の人間であるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ。」と言うのです。

 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然(もくねん)と口を(つぐ)んでいました。 「返事をしないか。−−しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代 りおれの眷属(けんぞく)たちが、その方をずたずたに斬ってしまうぞ。」

 神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端(とたん)に闇がさっと 裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満(みちみ)ちて、それが皆(やり)や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。

 この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の 言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。 「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ。」

 神将はこう(わめ)くが早いか、三叉の戟を(ひらめ)かせて、一突きに杜子春を突き 殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく 消えてしまいました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しょに、夢のように消え失せた(あと)だったのです。

 北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、 こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向(あおむ)けにそこへ倒れていました。

 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜 け出して、地獄の底へ()りて行きました。

 この世と地獄との間には、闇穴道(あんけつどう)という道があって、そこは年中暗い空 に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き(すさ)んでいるのです。杜子春はその風 に吹かれながら、暫くは唯木の葉のように、空を(ただよ)って行きましたが、やがて 森羅殿(しんらでん)という(がく)の懸かった立派(りっぱ)御殿(ごてん)の前へ出ました。

 御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り()いて、(きざはし)の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な(きもの)に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂に聞 いた、閻魔大王(えんまだいおう)に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ(ひざまづ)いていました。 「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐っていた?」

 閻魔大王の声は(かみなり)のように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に 答ようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口を()くな。」という鉄 冠子の(いまし)めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、唖のように黙っていました。 すると閻魔大王は、持っていた鉄の(しゃく)を挙げて、顔中の(ひげ)を逆立てながら、 「その方はここをどこだと思う? (すみやか)に返答すれば好し、さもなければ時を移 さず、地獄の呵責(かしゃく)に遇わせてくれるぞ。」と、威丈高(いたけだか)に罵りました。

 が、杜子春は相変らず(くちびる)一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐ に鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏って、忽ち杜 子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。

 地獄には誰でも知っている通り、(つるぎ)の山や血の池の外にも、焦熱(しょうねつ)地 獄という(ほのお)の谷や極寒(ごくかん)地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいま す。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を(ほう)りこみました。ですから 杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるや ら、皮を剥がれるやら、鉄の(きね)()かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒 蛇に脳味噌(のうみそ)を吸われるやら、熊鷹(くまたか)に眼を食われるやら、−−その苦しみ を数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦に遇わされたのです。それで も杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばった儘、一言も口を利きませんでした。

 これにはさすがの鬼どもも、(あき)れ返ってしまったのでしょう。もう一度夜のよ うな空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階ら下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、 「この罪人はどうしても、ものを言う気色(けしき)がございません。」と、口を揃えて言上(ごんじょう)しました。

 閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、 「この男の父母(ちちはは)は、畜生道(ちくしょうどう)に落ちている筈だから、早速ここへ引き 立てて来い。」と、一匹の鬼に言いつけました。

 鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、 二匹の(けもの)を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見 た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、 形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。 「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っているか、まっすぐに白状しなけれ ば、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ。」

 杜子春はこう嚇されても、やはり返答をしずにいました。 「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな。」

 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で(わめ)きました。 「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ。」

 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から 二匹の馬を、未練(みれん)未釈(みしゃく)なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を 切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、ーー畜生になった 父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べた儘、見てもいられない程 (いなな)き立てました。「どうだ。まだその方は白状しないか。」

 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。 もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階の前へ、倒れ伏していたのです。

 杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、(かた)く眼をつぶってい ました。するとその時彼の耳には、(ほとんど)声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。 「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それ より結構なことはないのだからね。大王が何と(おっしゃ)っても、言いたくないことは黙って御出で。」

 それは確に懐しい、母の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。 そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっ ているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼ども の鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言 い、貧乏になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。 何という健気(けなげ)な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、(まろ)ぶように その側へ走りよると、両手に半死の馬の(くび)を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。………

 その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、 ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、−−すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。 「どうだな。おれの弟子になった所が、とても仙人にはなれはすまい。」片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。 「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、(かえ)って嬉しい気がするのです。」

 杜子春はまだ涙を浮べた儘、思わず老人の手を握りました。 「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母(ちちはは)を見ては、黙っている訳には行きません。」 「もしお前が黙っていたら−−」と鉄冠子は急に(おごそか)な顔になって、じっと杜子春を見つめました。 「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたの だ。−−お前はもう仙人になりたいという望も持っていまい。大金持になることは、 元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから(のち)、何になったら好いと思うな。」 「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」

 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が(こも)っていました。 「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日(きょう)限り、二度とお前には遇わないから。」

 鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、 「おゝ、幸、今思い出したが、おれは泰山の南の(ふもと)に一軒の家を持っている。 その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう。」 と、さも愉快そうにつけ加えました。

(大正九年六月)