( ) はひらがなのルビ。 < > はカタカナのルビ。 読みの「'イ」は「ゐ」を示す。 読みの「'エ」は「ゑ」を示す。 ①〜⑯は吉田精一氏の説を基にした。 將  軍 芥川龍之介:作      一 白襷隊  明治三十七年十一月二十六日の未明だつた。第×師團第×聯隊の白襷 隊(シロダスキタイ)は、松樹山(シヨウジユザン)の補備砲臺(ホビハウダイ)を奪取する 爲に、九十三(クジフサン)高地(カウチ)の北麓(ホクロク)を出發した。  路(ミチ)は山蔭(ヤマカゲ)に沿うてゐたから、隊形も今日は特別に、四列 側面の行進だつた。その草もない薄闇(ウスヤミ)の路に、銃身を並べた一隊 の兵が、白襷(シロダスキ)ばかり仄(ホノメ)かせながら、靜かに靴(クツ)を鳴ら して行くのは、悲壯な光景に違ひなかつた。現に指揮官のM大尉(タイ'イ) なぞは、この隊の先頭に立つた時から、別人のやうに口數(クチカズ)の少 い、沈んだ顏色(カホイロ)をしてゐるのだつた。が、兵は皆思ひの外(ホカ)、 平生の元氣を失はなかつた。それは一つには日本魂(ヤマトダマシヒ)の力、二 つには酒の力だつた。  少時(シバラク)行進を續けた後(ノチ)、隊は石の多い山陰(ヤマカゲ)から、風 當りの強い河原(カハラ)へ出た。 「おい、後(ウシロ)を見ろ。」  紙屋だつたと云ふ田口(タグチ)一等卒(イツトウソツ)は、同じ中隊から選拔さ れた、これは大工(ダイク)だつたと云ふ、堀尾(ホリヲ)一等卒に話しかけた。 「みんなこつちへ敬禮してゐるぜ。」  堀尾一等卒は振り返つた。成程(ナルホド)さう云はれて見ると、黒黒(クロ グロ)と盛(モ)り上つた高地の上には、聯隊長始め何人かの將校たちが、 やや赤らんだ空を後(ウシロ)に、この死地に向ふ一隊の士卒へ、最後の敬 禮を送つてゐた。 「どうだい? 大したものぢやないか? 白襷隊(シロダスキタイ)になるのも 名譽だな。」 「何が名譽だ?」  堀尾一等卒は苦苦(ニガニガ)しさうに、肩の上の銃を搖り上げた。 「こちとらはみんな死(シニ)に行くのだぜ。して見ればあれは××××× ×××××××××①さうつて云ふのだ。こんな安上(ヤスアガ)りな事は なからうぢやねえか?」 ①:名譽の敬禮で生命を買上げて殺 「それはいけない。そんな事を云つては×××②すまない。」 ②:陛下に  べらぼうめ! すむもすまねえもあるものか! 酒保(シユホ)の酒を一 合買ふのでも、敬禮だけでは賣りはしめえ。」  田口一等卒は口を噤(ツグ)んだ。それは酒氣さへ帶びてゐれば、皮肉 な事ばかり並べたがる、相手の癖に慣(ナ)れてゐるからだつた。しかし 堀尾一等卒は、執拗(シツアウ)にまだ話し續けた。 「それは敬禮で買ふとは云はねえ。やれ×××××③とか、やれ××× ××④だとか、いろんな勿體(モツタイ)をつけやがるだらう。だがそんな事 は嘘(ウソ)つ八(パチ)だ。なあ、兄弟。さうぢやねえか?」 ③:陛下の爲に ④:國家の爲に  堀尾一等卒にかう云はれたのは、これも同じ中隊にゐた、小學校の教 師(ケウシ)だつたと云ふ、おとなしい江木(エギ)上等兵(ジヤウトウヘイ)だつた。 が、そのおとなしい上等兵が、この時だけはどう云ふ訣(ワケ)か、急に噛 <*1>(カ)みつきさうな權幕(ケンマク)を見せた。さうして酒臭い相手の顏ヘ、 惡辣な返答を抛(ハフ)りつけた。 <*1>「口」偏+「齒」:補助2258 「莫迦野郎(バカヤラウ)! おれたちは死ぬのが役目ぢやないか?」  その時もう白襷隊は、河原の向うへ上つてゐた。其處には泥を塗(ヌ) り固めた、支那人の民家が七八軒、ひつそりと曉(アカツキ)を迎へてゐる、 −−その家家の屋根の上には、石油色に襞(ヒダ)をなぞつた、寒い茶褐 色の松樹山(シヨウジユザン)が、目の前に迫つて見えるのだつた。隊はこの 村を離れると、四列側面の隊形を解いた。のみならずいづれも武裝した 儘、幾條かの交通路に腹這(ハラバ)ひながら、じりじり敵前へ向ふ事にな つた。  勿論(モチロン)江木(エギ)上等兵も、その中に四つ這ひを續けて行つた。 「酒保の酒を一合買ふのでも、敬禮だけでは賣りはしめえ。」−−さう 云ふ堀尾(ホリヲ)一等卒の言葉は、同時に又彼の腹の底だつた。しかし口 數の少い彼は、ぢつとその考へを持ちこたへてゐた。それだけに、一層 戰友の言葉は、丁度傷痕(キズアト)にでも觸(フ)れられたやうな、腹立たし い悲しみを與(アタ)へたのだつた。彼は凍(コゴ)えついた交通路を、獸(ケモ ノ)のやうに這ひ續けながら、戰爭と云ふ事を考へたり、死と云ふ事を考 へたりした。が、さう云ふ考へからは、寸毫(スンガウ)の光明も得られな かつた。死は×××××⑤にしても、所詮(シヨセン)は呪(ノロ)ふべき怪物だ つた。戰爭は、−−彼は殆(ホトンド)戰爭は、罪惡と云ふ氣さへしなかつ た。罪惡は戰爭に比べると、個人の情熱に根ざしてゐるだけ、×××× ×××⑥出來る點があつた。しかし×××××××××××××⑦外(ホ カ)ならなかつた。しかも彼は、−−いや、彼ばかりでもない。各師團か ら選拔された三千人餘りの白襷隊(シロダスキタイ)は、その大なる×××⑧に も、厭(イヤ)でも死ななければならないのだつた。…… ⑤:陛下の御爲 ⑥:人間として納得 ⑦:戰爭は陛下の御爲の御奉公に ⑧:御奉公 「來た。來た。お前は何處の聯隊(レンタイ)だ?」  江木上等兵はあたりを見た。隊は何時(イツ)か松樹山(シヨウジユザン)の麓 (フモト)の、集合地へ着いてゐるのだつた。其處にはもうカアキイ服に、 古めかしい襷(タスキ)をあやどつた、各師團の兵が集まつてゐる、−−彼 に聲をかけたのも、さう云ふ連中の一人だつた。その兵は石に腰をかけ ながら、うつすり流れ出した朝日の光に、片頬の面皰(ニキビ)をつぶして ゐた。 「第×聯隊だ。」 「パン聯隊だな。」  江木上等兵は暗い顏をした儘、何ともその冗談(ジヨウダン)に答へなか つた。  何時間かの後(ノチ)、この歩兵陣地の上には、もう彼我(ヒガ)の砲彈が、 凄(スサ)まじい唸(ウナ)りを飛ばせてゐた。目の前に聳えた松樹山(シヨウジユザ ン)の山腹にも、李家屯(リカトン)の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙(ツチケムリ) を揚げた。その土煙の舞ひ上(アガ)る合間(アヒマ)に、薄紫の光が迸(ホトバシ) るのも、晝(ヒル)だけに、一層悲壯だつた。しかし二千人の白襷隊(シロダス キタイ)は、かう云ふ砲撃の中に機(キ)を待ちながら、やはり平生の元氣を 失はなかつた。又恐怖に挫(ヒシ)がれない爲には、出來るだけ陽氣に振舞 (フルマ)ふ外、仕樣のない事も事實だつた。 「べらぼうに撃ちやがるな。」  堀尾一等卒は空を見上げた。その拍子(ヒヤウシ)に長い叫び聲が、もう一 度頭上の空氣を裂(サ)いた。彼は思はず首を縮(チヂ)めながら、砂埃(スナホ コリ)の立つのを避ける爲か、手巾<ハンカチ>に鼻を掩(オホ)つてゐた、田口(タグ チ)一等卒に聲をかけた。 「今のは二十八(ニジフハツ)珊<サンチ>だぜ。」  田口一等卒は笑つて見せた。さうして相手が氣のつかないやうに、そ つとポケットへ手巾<ハンカチ>ををさめた。それは彼が出征する時、馴染(ナ ジミ)の藝者に貰つて來た、縁(フチ)に繍(ヌヒ)のある手巾<ハンカチ>。 「音が違ふな、二十八珊<サンチ>は。−−」  田口一等卒はかう云ふと、狼狙(ラウバイ)したやうに姿勢を正した。同 時に大勢(オホゼイ)の兵たちも、聲のない號令(ガウレイ)でもかかつたやうに、 次から次へと立ち直り始めた。それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN 將軍が、何人かの幕僚(バクレウ)を從へながら、嚴然と歩いて來たからだ つた。 「こら、騷いではいかん。騷ぐではない。」  將軍は陣地を見渡しながら、やや錆(サビ)のある聲を傳へた。 「かう云ふ狹隘(ケフアイ)な所だから、敬禮も何もせなくとも好(ヨ)い。お 前達は何聯隊の白襷隊(シロダスキタイ)ぢや?」  田口一等卒は將軍の眼が、彼の顏へぢつと注がれるのを感じた。その 眼は殆(ホトンド)處女のやうに、彼をはにかませるのに足るものだつた。 「はい。歩兵第×聯隊であります。」 「さうか。大元氣(オホゲンキ)にやつてくれ。」  將軍は彼の手を握つた。それから堀尾(ホリヲ)一等卒へ、じろりとその 眼を轉ずると、やはり右手をさし伸(ノ)べながら、もう一度同じ事を繰 返(クリカヘ)した。 「お前も大元氣にやつてくれ。」  かう云はれた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化(カウクワ)したやうに、直 立不動の姿勢になつた。幅の廣い肩、大きな手、頬骨(ホホボネ)の高い赭 (アカ)ら顏。−−さう云ふ彼の特色は、少くともこの老將軍には、帝國軍 人の模範(モハン)らしい、好印象を與へた容子(ヨウス)だつた。將軍は其處に 立ち止まつた儘、熱心になほ話し續けた。 「今打つてゐる砲臺があるな。今夜お前たちはあの砲臺を、こつちの物 にしてしまふのぢや。さうすると豫備隊は、お前たちの行つた跡(アト)か ら、あの界隈(カイワイ)の砲臺をみんな手に入れてしまふのぢや。何でも一 遍(イツペン)にあの砲臺へ、飛びつく心にならなければいかん。−−」  さう云ふ内に將軍の聲には、何時(イツ)か多少戲曲的な、感激の調子が はひつて來た。 「好(ヨ)いか? 決して途中に立ち止まつて、射撃なぞをするぢやない ぞ。五尺の體を砲彈だと思つて、いきなりあれへ飛びこむのぢや、頼ん だぞ。どうか、しつかりやつてくれ。」  將軍は「しつかり」の意味を傳へるやうに、堀尾一等卒の手を握つた。 さうして其處を通り過ぎた。 「嬉しくもねえな。−−」  堀尾一等卒は狡猾(カウクワツ)さうに、將軍の跡(アト)を見送りながら、田 口(タグチ)一等卒へ目交(メクバ)せをした。 「え、おい。あんな爺(ヂイ)さんに手を握られたのぢや。」  田口一等卒は苦笑(クセウ)した。それを見るとどう云ふ訣(ワケ)か、堀尾 一等卒の心の中(ウチ)には、何かに濟まない氣が起つた。と同時に相手の 苦笑が、面憎(ツラニク)いやうな心もちにもなつた。其處へ江木(エギ)上等 兵が、突然横合ひから聲をかけた。 「どうだい、握手で××××⑨のは?」 ⑨:買はれる 「いけねえ。いけねえ。人眞似をしちや。」  今度は堀尾一等卒が、苦笑せずにはゐられなかつた。 「××⑩れると思ふから腹が立つのだ。おれは捨(ス)ててやると思つて ゐる。」 ⑩:買は  江木上等兵がかう云ふと、田口一等卒も口を出した。 「さうだ。みんな御國(オクニ)の爲に捨てる命だ。」 「おれは何の爲だか知らないが、唯捨ててやるつもりなのだ。×××× ×××⑪でも向けられて見ろ。何でも持つて行けと云ふ氣になるだら う。」 ⑪:強盜にピストル  江木上等兵の眉(マユ)の間(アヒダ)には、薄暗い興奮が動いてゐた。 「丁度あんな心もちだ。強盜は金さへ卷き上げれば、×××××××⑫ 云ひはしまい。が、おれたちはどつち道(ミチ)死ぬのだ。××××××× ××××××××××××××⑬たのだ。どうせ死なずにすまないのな ら、綺麗(キレイ)に×××⑭やつた方が好いぢやないか?」 ⑫:生命までとると ⑬:? ⑭:捨てて  かう云ふ言葉を聞いてゐる内に、まだ酒氣が消えてゐない、堀尾一等 卒の眼の中には、この温厚(ヲンコウ)な戰友に對する、侮蔑(ブベツ)の光が 加はつて來た。「何だ、命を捨てる位?」−−彼は内心さう思ひながら、 うつとり空へ眼をあげた。さうして今夜は人後に落ちず、將軍の握手に 報いる爲、肉彈にならうと決心した。……  その夜(ヨ)の八時何分か過ぎ、手擲彈(シユテキダン)に中(アタ)つた江木上等 兵は、全身黒焦(クロコゲ)になつた儘、松樹山(シヨウジユザン)の山腹に倒れて ゐた。其處へ白襷(シロダスキ)の兵が一人、何か切れ切れに叫びながら、鐵 條網(テツデウマウ)の中を走つて來た。彼は戰友の屍骸(シガイ)を見ると、そ の胸に片足かけるが早いか、突然大聲に笑ひ出した。大聲に、−−實際 その哄笑(コウセウ)の聲は、烈しい敵味方の銃火の中に、氣味の惡い反響を 喚(ヨ)び起した。 「萬歳! 日本(ニツポン)萬歳! 惡魔降伏。怨敵退散(ヲンテキタイサン)。第× 聯隊萬歳! 萬歳! 萬萬歳!」  彼は片手に銃を振り振り、彼の目の前に闇を破つた、手擲彈(シユテキダン) の爆發にも頓着(トンチヤク)せず、續けざまにかう絶叫してゐた。その光に 透(ス)かして見れば、これは頭部銃創(ジユウサウ)の爲に、突撃の最中(サイチウ) 發狂したらしい、堀尾一等卒その人だつた。      二 間牒(カンテフ)  明治三十八年三月五日の午前、當時全勝集(ゼンシヨウシフ)に駐屯(チウトン)し てゐた、A騎兵(キヘイ)旅團(リヨダン)の參謀は、薄暗い司令部の一室に、二 人の支那人を取り調べて居た。彼等は間牒(カンテフ)の嫌疑(ケンギ)の爲、臨 時この旅團に加はつてゐた、第×聯隊の歩哨(ホセウ)の一人に、今し方捉 (トラ)へられて來たのだつた。  この棟(ムネ)の低い支那家(シナイヘ)の中には、勿論今日も坎(カン)の火(クワ) つ氣(キ)が、快(ココロヨ)い温みを漂はせてゐた。が、物悲しい戰爭の空氣 は、敷瓦(シキガハラ)に觸れる拍車の音にも、卓(タク)の上に脱いだ外套(グワ イタウ)の色にも、至る所に窺はれるのであつた。殊に紅唐紙(ベニタウシ)の聯 (レン)を貼(ハ)つた、埃(ホコリ)臭い白壁(シラカベ)の上に、束髮(ソクハツ)に結(ユ) つた藝者の寫眞が、ちやんと鋲(ビヤウ)で止めてあるのは、滑稽でもあれ ば悲慘でもあつた。  其處には旅團參謀の外(ホカ)にも、副官が一人、通譯が一人、二人の支 那人を圍(カコ)んでゐた。支那人は通譯の質問通り、何でも明瞭(メイレウ)に 返事をした。のみならずやや年嵩(トシカサ)らしい、顏に短い髯(ヒゲ)のあ る男は、通譯がまだ尋ねない事さへ、進んで説明する風があつた。が、 その答辯は參謀の心に、明瞭ならば明瞭なだけ、一層彼等を間牒(カンテフ) にしたい、反感に似たものを與へるらしかつた。 「おい歩兵(ホヘイ)!」  旅團參謀は鼻聲に、この支那人を捉(トラ)へて來た、戸口にゐる歩哨を 喚(ヨ)びかけた。歩兵、−−それは白襷隊(シロダスキタイ)に加はつてゐた、 田口(タグチ)一等卒(イツトウソツ)に外(ホカ)ならなかつた。−−彼は戸の卍字(マ ンジ)格子(ガウシ)を後に、藝者の寫眞へ目をやつてゐたが、參謀の聲に驚 かされると、思ひ切り大きい答をした。 「はい。」 「お前だな、こいつらを掴<*2>(ツカ)まへたのは? 掴<*2>まへた時どん なだつたか?」 <*2>掴:手偏+「國」:補助3259  人の好(イ)い田口一等卒は、朗讀的にしやべり出した。 「私(ワタクシ)が歩哨(ホセウ)に立つてゐたのは、この村の土塀(ドベイ)の北端、 奉天(ホウテン)に通ずる街道(カイダウ)であります。その支那人は二人とも、 奉天の方向から歩いて來ました。すると木の上の中隊長が、−−」 「何、木の上の中隊長?」  參謀はちよいと目葢(マブタ)を與げた。 「はい。中隊長は展望(テンバウ)の爲、木の上に登つてゐられたのであり ます。−−その中隊長が木の上から、掴<*2>(ツカ)まへろと私(ワタクシ)に命 令されました。」 「所が私(ワタクシ)が捉(トラ)へようとすると、そちらの男が、−−はい。そ の髯のない男であります。その男が急に逃げようとしました。……」 「それだけか?」 「はい。それだけであります。」 「よし。」  旅團參謀は血肥(チブト)りの顏に、多少の失望を浮べた儘、通譯に質問 の意を傅へた。通譯は退屈(タイクツ)を露(アラハ)さない爲、わざと聲に力を 入れた。 「間牒でなければ何故(ナゼ)逃げたか?」 「それは逃げるのが當然です。何しろいきなり日本兵が、躍(ヲド)りか かつてきたのですから。」  もう一人の支那人、−−鴉片(アヘン)の中毒に罹(カカ)つてゐるらしい、 鉛色の皮膚(ヒフ)をした男は、少しも怯(ヒル)まずに返答した。 「しかしお前たちが通つて來たのは、今にも戰場になる街道(カイダウ)ぢ やないか? 良民ならば用もないのに、−−」  支那語の出來る副官は、血色の惡い支那人の顏へ、ちらりと意地の惡 い眼を送つた。 「いや、用はあるのです。今も申し上げた通り、私(ワタクシ)たちは新民屯 (シンミントン)へ、紙幣(シヘイ)を取り換へに出かけて來たのです。御覽下さい。 此處に紙幣もあります。」  髯(ヒゲ)のある男は平然と、將校たちの顏を眺め廻した。參謀はちよ いと鼻を鳴らした。彼は副官のたじろいだのが、内心好(イ)い氣味に思 はれたのだ。…… 「紙幣を取り換へる? 命がけでか?」  副官は負惜(マケヲシ)みの冷笑を洩らした。 「兎(ト)に角(カク)裸にして見よう。」  參謀の言葉が通譯されると、彼等はやはり惡びれずに、早速赤裸にな つて見せた。 「まだ腹卷(ハラマキ)をしてゐるぢやないか? それをこつちへとつて見せ ろ。」  通譯が腹卷を受けとる時、その白木綿(シロモメン)に體温のあるのが、何 だか不潔に感じられた。腹卷の中には三寸ばかりの、太い針がはひつて ゐた。旅團參謀は窓明りに、何度もその針を檢(シラ)べて見た。が、それ も平たい頭に、梅花(バイクワ)の模樣がついてゐる外、何も變つた所はな かつた。 「何か、これは?」 「私(ワタクシ)は鍼醫(ハリイ)です。」  髯(ヒゲ)のある男はためらはずに、悠然と參謀の問に答へた。 「次手(ツイデ)に靴(クツ)も脱(ヌ)いで見ろ。」  彼等は殆(ホトンド)無表情に、隱すべき所も隱さうとせず、檢査の結果 を眺めてゐた。が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を檢べて見ても、證 據になる品は見當らなかつた。この上は靴を壞(コハ)して見るより外はな い。−−さう思つた副官は、參謀にその旨を話さうとした。  その時突然次の部屋から、軍司合官を先頭に、軍司令部の幕僚(バクレウ) や、旅團長などがはひつて來た。將軍は副官や軍參謀と、丁度何かの打 ち合せの爲、旅團長を尋ねて來てゐたのだつた。 「露探(ロタン)か?」  將軍はかう尋ねた儘、支那人の前に足を止めた。さうして彼等の裸姿 (ハダカスガタ)へ、ぢつと鋭い眼を注いだ。後(ノチ)に或亞米利加<アメリカ>人が、 この有名な將軍の眼には、Monomaniaじみた所があると、無遠慮な批評 を下した事がある。−−そのモノメニアツクな眼の色が、殊にかう云ふ 場合には、氣味の惡い輝きを加へるのだつた。  旅團參謀は將軍に、ざつと事件の顛末(テンマツ)を話した。が、將軍は思 ひ出したやうに、時時頷(ウナヅ)いて見せるばかりだつた。 「この上はもうぶん擲(ナグ)つてでも、白状させる外はないのですが、 −−」  參諜がかう云ひかけた時、將軍は地圖(チヅ)を持つた手に、床(ユカ)の 上にある支那靴を指した。 「あの靴を壞して見給へ。」  靴は見る見る底をまくられた。すると其處に縫ひこまれた、四五枚の 地圖と祕密書類が、忽ちばらばらと床(ユカ)の上に落ちた。二人の支那人 はそれを見ると、さすがに顏の色を失つてしまつた。が、やはり押し默 つた儘、剛情(ガウジヤウ)に敷瓦を見つめてゐた。 「そんな事だらうと思つてゐた。」  將軍は旅團長を顧みながら、得意さうに微笑を洩(モラ)した。 「しかし靴(クツ)とは又考へたものですね。−−おい、もうその連中(レンヂ ウ)には着物を着せてやれ。−−こんな間牒は始めてです。」 「軍司令官閣下の烱眼(ケイガン)には驚きました。」  旅團副官は旅團長へ、間牒(カンテフ)の證據品を渡しながら、愛嬌(アイケウ) の好(イ)い笑顏('エガホ)を見せた。−−恰(アタカ)も靴に目をつけたのは、 將軍よりも彼自身が、先だつた事も忘れたやうに。 「だが裸にしてもないとすれば、靴(クツ)より外(ホカ)に隱せないぢやない か?」  將軍はまだ上機嫌だつた。 「わしはすぐに靴と睨(ニラ)んだ。」 「どうもこの邊の住民はいけません。我我が此處へ來た時も、日の丸の 旗を出したのですが、その癖家の中を檢(シラ)べて見れば、大抵露西亞<ロ シア>の旗を待つてゐるのです。」  旅團長も何か浮き浮きしてゐた。 「つまり奸佞邪智(カンネイジヤチ)なのぢやね。」 「さうです。煮ても燒いても食へないのです。」  こんな會話が續いてゐる内、旅團參謀はまだ通譯と、二人の支那人を 檢べてゐた。それが急に田口(タグチ)一等卒へ、機嫌の惡い顏を向けると、 吐(ハ)き出すやうにかう命じた。 「おい歩兵! この間牒はお前が掴<*2>(ツカ)まへて來たのだから、次手 (ツイデ)にお前が殺して來い。」  二十分の後(ノチ)、村の南端の路ばたには、この二人の支那人が、互に 辮髮(ベンパツ)を結ばれた儘、枯柳(カレヤナギ)の根がたに坐つてゐた。  田口一等卒は銃劍をつけると、まづ辮髮を解き放した。それから銃を 構へた儘、年下の男の後(ウシロ)に立つた。が、彼等を突殺す前に、殺す と云ふ事だけは告げたいと思つた。 「爾<*3><ニイ>、−−」 <*3>爾:人偏+「爾」:補助1856  彼はさう云つて見たが、「殺す」と云ふ支那語を知らなかつた。 「爾<*3><ニイ>、殺すぞ!」  二人の支那人は云ひ合せたやうに、じろりと彼を振り返つた。しかし 驚いたけはひも見せず、それぎり別別の方角へ、何度も叩頭を續け出し た。「故郷へ別れを告げてゐるのだ。」−−田口一等卒は身構へながら、 かうその叩頭(コウトウ)を解釋した。  叩頭が一通り濟んでしまふと、彼等は覺悟をきめたやうに、冷然と首 をさし伸した。田口一等卒は銃をかざした。が、神妙な彼等を見ると、 どうしても銃劍が突き刺せなかつた。 「爾<*3><ニイ>、殺すぞ!」  彼はやむを得ず繰返した。するとそこへ村の方から、馬に跨(マタガ)つ た騎兵が一人、蹄(ヒヅメ)に砂埃(スナホコリ)を卷き揚げて來た。 「歩兵!」  騎兵は−−近づいたのを見れば曹長(サウチヤウ)だつた。それが二人の支 那人を見ると、馬の歩みを緩(ユル)めながら、傲然(ガウゼン)と彼に聲をか けた。 「露探(ロタン)か? 露探だらう。おれにも、一人斬らせてくれ。」  田口一等卒は苦笑(クセウ)した。 「何、二人とも上げます。」 「さうか? それは氣前が好(イ)いな。」  騎兵は身輕に馬を下りた。さうして支那人の後(ウシロ)にまはると、腰 の日本刀を拔き放した。その時又村の方から、勇しい馬蹄(バテイ)の響と 共に、三人の將校が近づいて來た。騎兵はそれに頓着(トンチヤク)せず、ま つ向(カウ)に刀(タウ)を振り上げた。が、まだその刀を下(オロ)さない内に、 三人の將校は悠悠と、彼等の側へ通りかかつた。軍司令官! 騎兵は田 口一等卒と一しよに、馬上の將軍を見上げながら、正しい擧手の禮をし た。 「露探(ロタン)だな。」  將軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。 「斬れ! 斬れ!」  騎兵は言下に刀をかざすと、一打(ヒトウチ)に若い支那人を斬(キ)つた。 支那人の頭は躍るやうに、枯柳の根もとに轉(コロ)げ落ちた。血は見る見 る黄ばんだ土に、大きい斑點(ハンテン)を擴げ出した。 「よし。見事だ。」  將軍は愉快さうに頷(ウナヅ)きながら、それなり馬を歩ませて行つた。  騎兵は將軍を見送ると、血に染(ソ)んだ刀(タウ)を提(ヒツサ)げた儘、もう 一人の支那人の後(ウシロ)に立つた。その態度は將軍以上に、殺戮(サツリク) を喜ぶ氣色(ケシキ)があつた。「この×××⑮らばおれにも殺せる。」− −田口一等卒はさう思ひながら、枯柳の根もとに腰を下(オロ)した。騎兵 は又刀(タウ)を振り上げた。が、髯(ヒゲ)のある支那人は、默然(モクネン)と 首を伸ばしたぎり、睫毛(マツゲ)一つ動かさなかつた。…… ⑮:?  將軍に從つた軍參謀の一人、−−穗積(ホヅミ)中佐(チウサ)は鞍(クラ)の上 に、春寒の曠野(クワウヤ)を眺めて行つた。が、遠い枯木立(カレコダチ)や、路 ばたに倒れた石敢當(セキカンタウ)も、中佐の眼には映らなかつた。それは彼 の頭には、一時愛讀したスタンダアルの言葉が、絶えず漂つて來るから だつた。 「私(ワタシ)は勳章(クンシヤウ)に埋(ウズマ)つた人間を見ると、あれだけの勳章 を手に入れるには、どの位××⑯な事ばかりしたか、それが氣になつて 仕方がない。……」 ⑯:?  −−ふと氣がつけば彼の馬は、ずつと將軍に遲れてゐた。中佐は輕い 身震(ミブルヒ)をすると、すぐに馬を急がせ出した。丁度當り出した薄日 の光に、飾緒(カザリヲ)の金(キン)をきらめかせながら。      三 陣中の芝居  明治三十八年五月四日の午後、阿吉牛堡(アキツギウハウ)に駐つてゐた、第 ×軍司令部では、午前に招魂祭(セウコンサイ)を行つた後(ノチ)、餘興(ヨキヨウ)の 演藝會を催(モヨホ)す事になつた。會場は支那の村落に多い、野天(ノデン) の戲臺(ギダイ)を應用した、急拵(キフゴシラヘ)の舞臺の前に、天幕<テント>を 張り渡したに過ぎなかつた。が、その蓆敷(ムシロジキ)の會場には、もう一 時の定刻前に、大勢(オホゼイ)の兵卒が集つてゐた。この薄汚いカアキイ 服に、銃劍を下げた兵卒の群(ムレ)は、殆(ホトンド)看客(カンカク)と呼ぶのさ へも、皮肉な感じを起させる程、みじめな看客に違ひなかつた。が、そ れだけ又彼等の顏に、晴れ晴れした微笑が漂つてゐるのは、一層可憐(カ レン)な氣がするのだつた。  將軍を始め軍司令部や、兵站(ヘイタン)監部(カンブ)の將校たちは、外國の 從軍武官たちと、その後(ウシロ)の小高い土地に、ずらりと椅子(イス)を並 べてゐた。此處には參謀肩章だの、副官の襷(タスキ)だのが見えるだけで も、一般兵卒の看客席より、遙かに空氣が花やかだつた。殊に外國の從 軍武官は、愚物(グブツ)の名の高い一人でさへも、この花やかさを扶(タス) ける爲には、軍司令官以上の效果があつた。  將軍は今日も上機嫌(ジヤウキゲン)だつた。何か副官の一人と話しながら、 時時番付を開いて見てゐる、−−その眼にも始終日光のやうに、人懷(ヒ トナツ)こい微笑が浮んでゐた。  その内に定刻の一時になつた。櫻の花や日の出をとり合せた、手際の 好い幕の後(ウシロ)では、何度か鳴りの惡い拍子木(ヒヤウシギ)が響いた。と 思ふとその幕は、餘興掛の少尉の手に、するすると一方へ引かれて行つ た。  舞臺は日本の室内だつた。それが米屋の店だと云ふ事は、一隅に積ま れた米俵が、僅かに暗示を與へてゐた。其處へ前垂掛(マヘダレガ)けの米 屋の主人が、「お鍋(ナベ)や、お鍋や」と手を打ちながら、彼自身より も脊(セ)の高い、銀杏返(イテフガヘ)しの下女を呼び出して來た。それから、 −−筋は話すにも足りない、一場(イチヂヤウ)の俄(ニハカ)が始まつた。  舞臺の惡ふざけが加はる度に、蓆敷(ムシロジキ)の上の看客(カンカク)からは、 何度も笑聲が立ち昇(ノボ)つた。いや、その後(ウシロ)の將校たちは、大部 分は笑(ワラヒ)を浮べてゐた。が、俄(ニハカ)はその笑と競(キソ)ふやうに、益 (マスマス)滑稽(コツケイ)を重ねて行つた。さうしてとうとうしまひには、越中 ('エツチウ)褌(フンドシ)一つの主人が、赤い湯もじ一つの下女と相撲(スマフ)を とり始める所になつた。  笑聲は更に高まつた。兵站(ヘイタン)監部(カンブ)の或大尉なぞは、この滑 稽を迎へる爲、殆(ホトンド)拍手さへしようとした。丁度その途端だつた。 突然烈しい叱咤(シツタ)の聲は、湧き返つてゐる笑の上へ、鞭(ムチ)を加へ るやうに響き渡つた。 「何だ、その醜態(シウタイ)は? 幕を引け! 幕を!」  聲の主(ヌシ)は將軍だつた。將軍は太い軍刀の柄<*4>(ツカ)に、手袋の兩 手を重ねた儘、嚴然と舞臺を睨(ニラ)んで居た。 <*4>柄:「木」偏+「覇」:補助3770  幕引きの少尉は命令通り、呆氣(アツケ)にとられた役者たちの前へ、倉 皇(サウクワウ)とさつきの幕を引いた。同時に蓆敷(ムシロジキ)の看客も、かす かなどよめきの聲の外(ホカ)は、ひつそりと靜まり返つてしまつた。  外國の從軍武官たちと、一つ席にゐた穗積(ホヅミ)中佐は、この沈默を 氣の毒に思つた。俄(ニハカ)は勿論彼の顏には、微笑さへも浮ばせなかつ た。しかし彼は看客(カンカク)の興味に、同情を待つだけの餘裕はあつた。 では外國武官たちに、裸(ハダカ)の相撲(スマフ)を見せても好(イ)いか?−− さう云ふ體面を重ずるには、何年か歐洲(オウシウ)に留學した彼は、餘りに 外國人を知り過ぎてゐた。 「どうしたのですか?」  佛蘭西<フランス>の將校は驚いたやうに、穗積中佐をふりかへつた。 「將軍が中止を命じたのです。」 「なぜ?」 「下品ですから、−−將軍は下品な事は嫌ひなのです。」  さう云ふ内にもう一度、舞臺の拍子木(ヒヤウシギ)が鳴り始めた。靜まり 返つてゐた兵卒たちは、この音に元氣を取り直したのか、其處此處から 拍手(ハクシユ)を送り出した。穗積中佐もほつとしながら、彼の周圍を眺め 廻した。周圍にゐ並んだ將校たちは、いづれも幾分か氣兼(キガネ)さうに、 舞臺を見たり見なかつたりしてゐる、−−その中にたつた一人、やはり 軍刀へ手をのせた儘、丁度幕の開(ア)き出した舞臺へ、ぢつと眼を注い でゐた。  次の幕は前と反對に、人情がかつた舊劇だつた。舞臺には唯屏風(ビヤ ウブ)の外(ホカ)に、火のともつた行燈(アンドウ)が置いてあつた。其處に頬 骨の高い年増(トシマ)が一人、猪首('イクビ)の町人と酒を飮んでゐた。年増 は時時金切聲(カナキリゴ'エ)に、「若旦那(ワカダンナ)」と相手の町人を呼んだ。 さうして、−−穗積中佐は舞臺を見ずに、彼自身の記憶に浸(ヒタ)り出し た。柳盛座(リウセイザ)の二階の手すりには、十二三の少年が倚(ヨ)りかか つてゐる。舞臺には櫻の釣り枝がある。火影(ホカゲ)の多い町の書割(カキワ リ)がある。その中に二錢(ニセン)の團洲(ダンシウ)と呼ばれた、和光(ワクワウ)の 不破(フハ)伴左衞門(バンザ'エモン)が、編笠(アミガサ)を片手に見得(ミエ)をして ゐる。少年は舞臺に見入つた儘、殆(ホトンド)息さへもつかうとしない。 彼にもそんな時代があつた。…… 「餘興やめ! 幕を引かんか? 幕! 幕!」  將軍の聲は爆彈のやうに、中佐の追憶を打ち碎(クダ)いた。中佐は舞 臺へ眼を返した。舞臺には既に狼狽(ラウバイ)した少尉が、幕と共に走つ てゐた。その間(アヒダ)にちらりと屏風(ビヤウブ)の上へ、男女の帶の懸か つてゐるのが見えた。  中佐は思はず苦笑(クセウ)した。「餘興掛も氣が利(キ)かなすぎる。男女 の相撲さへ禁じてゐる將軍が、濡(ヌ)れ場(バ)を默つて見てゐる筈がな い。」−−そんな事を考へながら、叱聲(シツセイ)の起つた席を見ると、將 軍はまだ不機嫌さうに、餘興掛の一等(イツトウ)主計(シユケイ)と、何か問答を 重ねてゐた。  その時ふと中佐の耳は、口の惡い亞米利加<アメリカ>の武官が、隣に坐つ た佛蘭西<フランス>の武官へ、かう話しかける聲を捉(トラ)へた。 「將軍Nも樂ぢやない。軍司令官兼檢閲官(ケンエツクワン)だから、−−」  やつと三幕目(ミマクメ)が始まつたのは、それから十分の後(ノチ)だつた。 今度は木がはひつても、兵卒たちは拍手を送らなかつた。 「可哀(カハイ)さうに。監視(カンシ)されながら、芝居を見てゐるやうだ。」 −−穗積中佐は憐むやうに、殆(ホトンド)大きな話聲も立てない、カアキ イ服の群(ムレ)を見渡した。  三幕目(ミマクメ)の舞臺は黒幕の前に、柳の木が二三本立ててあつた。そ れは何處から伐(キ)つて來たか、生生(ナマナマ)しい實際の葉柳だつた。其 處に警部らしい髯(ヒゲ)だらけの男が、年の若い巡査をいぢめてゐた。 穗積(ホヅミ)中佐は番附の上へ、不審さうに眼を落した。すると番附には 「ピストル強盜(ガウタウ)清水(シミヅ)定吉(サダキチ)、大川端(オホカハバタ)捕物 (トリモノ)の場(バ)」と書いてあつた。  年の若い巡査は警部が去ると、大仰(オホギヤウ)に天を仰ぎながら、長長 (ナガナガ)と浩歎(カウタン)の獨白(ドクハク)を述べた。何でもその意味は長い 間(アヒダ)、ピストル強盜をつけ廻してゐるが、逮捕(タイホ)出來ないとか 云ふのだつた。それから人影でも認めたのか、彼は相手に見つからない 爲、一まづ大川の水の中へ姿を隱さうと決心した。さうして後の黒幕の 外へ、頭からさきに這(ハ)ひこんでしまつた。その恰好(カツカウ)は贔屓眼 (ヒイキメ)に見ても、大川の水へ沒するよりは、蚊帳(カヤ)へはひるのに適當 してゐた。  空虚の舞臺には少時(シバラク)の間(アヒダ)、波の音を思はせるらしい、 大太鼓(オホダイコ)の音がするだけだつた。と、忽ち一方から、盲人が一人 歩いて來た。盲人は杖をつき立てながら、その儘向うへはひらうとする、 −−その途端(トタン)に黒幕の外から、さつきの巡査が飛び出して來た。 「ピストル強盜、清水(シミヅ)定吉(サダキチ)、御用だ!」−−彼はさう叫 ぶが早いか、いさなり盲人へ躍りかかつた。盲人は咄嗟(トツサ)に身構へ をした。と思ふと眼がぱつちりあいた。「憾(ウラ)むらくは眼が小さ過ぎ る。」−−中佐は微笑を浮べながら、内心大人氣(オトナゲ)ない批評を下 した。  舞臺では立ち廻りが始まつてゐた。ピストル強盜は渾名(アダナ)通り、 ちやんとピストルを用意してゐた。二發、三發、−−ピストルは續けさ まに火を吐(ハ)いた。しかし巡査は勇敢に、とうとう僞(ニセ)目くらに繩 (ナハ)をかけた。兵卒たちはさすがにどよめいた。が、彼等の間からは、 やはり聲一つかからなかつた。  中佐は將軍へ眼をやつた。將軍は今度も熱心に、ぢつと舞臺を眺めて ゐた。しかしその顏は以前よりも、遙かに柔(ヤサ)しみを湛(タタ)へてゐた。  其處へ舞臺には一方から、署長とその部下とが駈(カ)けつけて來た。 が、僞目(ニセメ)くらと格鬪中、ピストルの彈丸(タマ)に中(アタ)つた巡査は、 もう昏昏(コンコン)と倒れてゐた。署長はすぐに活(カツ)を入れた。その間(ア ヒダ)に部下はいち早く、ピストル強盜の繩尻(ナハジリ)を捉(トラ)へた。そ の後(アト)は署長と巡査との、舊劇めいた愁歎場(シウタンバ)になつた。署長 は昔の名奉行(メイブギヤウ)のやうに、何か云ひ遺(ノコ)す事はないかと云ふ。 巡査は故郷に母がある、と云ふ。署長は又母の事は心配するな。何かそ の外(ホカ)にも末期(マツゴ)の際に、心遺りはないかと云ふ。巡査は何も云 ふ事はない、ピストル強盜を捉(トラ)へたのは、この上もない滿足だと云 ふ。  −−その時ひつそりした場内に、三度(サンド)將軍の聲が響いた。が、 今度は叱聲(シツセイ)の代りに、深い感激の嘆聲だつた。 「偉い奴ぢや。それでこそ日本(ニツポン)男兒(ダンジ)ぢや。」  穗積中佐はもう一度、そつと將軍へ眼を注いだ。すると日に燒けた將 軍の頬(ホホ)には、涙の痕(アト)が光つてゐた。「將軍は善人だ。」−−中 佐は輕い侮蔑(ブベツ)の中(ウチ)に、明るい好意をも感じ出した。  その時幕は悠悠と、盛んな喝采(カツサイ)を浴びながら、舞臺の前に引か れて行つた。穗積中佐はその機會に、ひとり椅子(イス)から立ち上ると、 會場の外へ歩み去つた。  三十分の後、中佐は紙卷を啣(クハ)へながら、やはり同參謀の中村(ナカム ラ)少佐と、村はづれの空地を歩いてゐた。 「第×師團の餘興は大成功だね。N閣下は非常に喜んでゐられた。」  中村少佐はかう云ふ間(アヒダ)も、カイゼル髭(ヒゲ)の端(ハシ)をひねつ てゐた。 「第×師團の餘興? ああ、あのピストル強盜か?」 「ピストル強盜(ガウタウ)ばかりぢやない。閣下はあれから餘興掛を呼ん で、もう一幕臨時にやれと云はれた。今度は赤垣(アカガキ)源藏(ゲンザウ) だつたがね。何と云ふのかな、あれは? 徳利(トクリ)の別れか?」  穗積(ホヅミ)中佐は微笑した眼に、廣い野原を眺めまはした。もう高粱 <カウリヤン>の青んだ土には、かすかに陽炎(カゲロフ)が動いてゐた。 「それも亦大成功さ。−−」  中村(ナカムラ)少佐は話し續けた。 「閣下は今夜も七時から、第×師團の餘興掛に、寄席(ヨセ)的な事をやら せるさうだぜ。」 「寄席的? 落語(ラクゴ)でもやらせるのかね。」 「何、講談ださうだ。水戸(ミト)黄門(クワウモン)諸國めぐり−−」  穗積中佐は苦笑(クセウ)した。が、相手は無頓着に、元氣のよい口調を 續けて行つた。 「閣下は水戸黄門が好きなのださうだ。わしは人臣としては、水戸黄門 と加藤(カトウ)清正(キヨマサ)とに、最も敬意を拂つてゐる。−−そんな事を 云つてゐられた。」  穗積中佐は返事をせずに、頭の上の空を見上げた。空には柳の枝の間 (アヒダ)に、細い雲母雲(キララグモ)が吹かれてゐた。中佐はほつと息(イキ)を 吐いた。 「春だね、いくら滿洲(マンシウ)でも。」 「内地はもう袷(アハセ)を着てゐるだらう。」  中村少佐は東京を思つた。料理の上手な細君を思つた。小學校へ行つ てゐる子供を思つた。さうして−−かすかに憂鬱になつた。 「向うに杏(アンズ)が咲いてゐる。」  穗積中佐は嬉しさうに、遠い土塀に簇(ムラガ)つた、赤い花の塊りを指 した。Ecoute-moi,Madeline……−−中佐の心には何時(イツ)の間(マ)にか、 ユウゴオの歌が浮んでゐた。      四 父と子と  大正七年十月の或夜、中村(ナカムラ)少將、−−當時の軍參謀中村少佐は、 西洋風の應接室に、火のついたハヴァナを啣(クハ)へながら、ぼんやり安 樂椅子によりかかつてゐた。  二十年餘りの閑日月(カンジツゲツ)は、少將を愛すべき老人にしてゐた。 殊に今夜は和服のせゐか、禿(ハ)げ上(アガ)つた額のあたりや、肉のたる んだ口のまはりには、一層好人物じみた氣色(ケシキ)があつた。少將は椅 子(イス)の背(セ)に靠(モタ)れた儘、ゆつくり周圍を眺め廻した。それから、 −−急にため息を洩らした。  室の壁には何處(ドコ)を見ても、西洋の畫('エ)の複製らしい、寫眞版 の額(ガク)が懸(カ)けてあつた。その或物は窓に倚(ヨ)つた、寂しい少女 の肖像(セウザウ)だつた。又或物は糸杉の間(アヒダ)に、太陽の見える風景 だつた。それらは皆電燈の光に、この古めかしい應接室へ、何か妙に薄 ら寒い、嚴肅な空氣を與へてゐた。が、その室氣はどう云ふ訣(ワケ)か、 少將には愉快でないらしかつた。  無言(ムゴン)の何分かが過ぎ去つた後(ノチ)、突然少將は室外に、かすか なノックの音を聞いた。 「おはひり。」  その聲と同時に室の中へは、大學の制服を着た青年が一人、脊の高い 姿を現した。青年は少將の前に立つと、其處にあつた椅子に手をやりな がら、ぶつきらぼうにかう云つた。 「何か御用ですか? お父さん。」 「うん。まあ、其處におかけ。」  青年は素直(スナホ)に腰を下(オロ)した。 「何です?」  少將は返事をする爲に、青年の胸の金(キン)鈕<ボタン>へ、不審(フシン)ら しい眼をやつた。 「今日(ケフ)は?」 「今日は河合(カハヒ)の−−お父さんは御存知ないでせう。−−僕と同じ 文科の學生です。河合の追悼會(ツ'イタウクワイ)があつたものですから、今歸 つたばかりなのです。」  少將はちよいと頷(ウナヅ)いた後(ノチ)、濃いハヴァナの煙を吐いた。そ れからやつと大儀(タイギ)さうに、肝腎(カンジン)の用向きを話し始めた。 「この壁にある畫('エ)だね、これはお前が懸け換へたのかい?」 「ええ、まだ申し上げませんでしたが、今朝(ケサ)僕が懸け換へたのです。 いけませんか?」 「いけなくはない。いけなくはないがね、N閣下の額だけは懸けて置き たい、と思ふ。」 「この中へですか?」  青年は思はず微笑した。 「この中へ懸けてはいけないかね?」 「いけないと云ふ事もありませんが、−−しかしそれは可笑(ヲカ)しいで せう。」 「肖像畫(セウザウグワ)はあすこにもあるやうぢやないか?」  少將は爐(ロ)の上の壁を指した。その壁には額縁の中に、五十何歳か のレムブラントが、悠悠と少將を見下してゐた。 「あれは別です。N將軍と一しよにはなりません。」 「さうか? ぢや仕方がない。」  少將は容易に斷念した。が、又葉卷の煙を吐きながら、靜かにかう話 を續けた。 「お前は、−−と云ふよりもお前の年輩のものは、閣下をどう思つてゐ るね?」 「別にどうも思つてはゐません。まあ、偉い軍人でせう。」  青年は老いた父の眼に、晩酌(バンシヤク)の醉('エヒ)を感じてゐた。 「それは偉い軍人だがね、閣下は又實に長者(チヤウジヤ)らしい、人懷(ヒトナ ツ)こい性格も持つてゐられた。……」  少將は殆(ホトンド)、感傷的に、將軍の逸話(イツワ)を話し出した。それは 日露戰役後、少將が那須野(ナスノ)の別莊に、將軍を訪れた時の事だつた。 其の日別莊へ行つて見ると、將軍夫妻は今し方、裏山へ散歩にお出かけ になつた、−−さう云ふ別莊番の話だつた。少將は案内を知つてゐたか ら、早速(サツソク)裏山へ出かける事にした。すると二三町行つた所に、綿 服を纏(マト)つた將軍が、夫人と一しよに佇んでゐた。少將はこの老夫妻 と、少時(シバラク)の間(アヒダ)立ち話をした。が、將軍は何時(イツ)までた つても、其處を立ち去らうとしなかつた。「何か此處に用でもおありで すか?」−−かう少將が尋ねると、將軍は急に笑ひ出した。「實はね、 今妻(サイ)が憚(ハバカ)りへ行きたいと云ふものだから、わしたちについて 來た學生たちが、場所を探しに行つてくれた所ぢや。」丁度今頃、−− もう路ばたに毬栗(イガグリ)などが、轉がつてゐる時分だつた。  少將は眼を細くした儘、嬉しさうに獨り微笑した。−−其處へ色づい た林の中から、勢(イキホヒ)の好い中學生が、四五人同時に飛び出して來た。 彼等は少將に頓着(トンチヤク)せず、將軍夫妻をとり圍(カコ)むと、口口に彼 等が夫人の爲に、見つけて來た場所を報告した。その上それぞれ自分の 場所へ、夫人に來て貰ふやうに、無邪氣な競爭さへ始めるのだつた。 「ぢやあなた方に籤(クジ)を引いて貰はう。」−−將軍はかう云つてか ら、もう一度少將に笑顏('エガホ)を見せた。…… 「それは罪のない話ですね。だが西洋人には聞かされないな。」  青年も笑はずにはゐられなかつた。 「まあそんな調子でね、十二三の中學生でも、N閣下と云ひさへすれば、 叔父(ヲヂ)さんのやうに懷(ナツ)いてゐたものだ。閣下はお前がたの思ふ やうに、決して一介の武弁(ブベン)ぢやない。」  少將は樂しさうに話し終ると、又爐の上のレムブラントを眺めた。 「あれもやはり人格者かい?」 「ええ、偉い畫描('エカキ)きです。」 「N閣下などとはどうだらう?」  青年の顏には當惑の色が浮んだ。 「どうと云つても困りますが、−−まあN將軍などよりも、僕等に近い 氣もちのある人です。」 「閣下のお前がたに遠いと云ふのは?」 「何と云へば好(イ)いですか?−−まあ、こんな點ですね、たとへば今 日追悼會(ツ'イタウクワイ)のあつた、河合(カハヒ)と云ふ男などは、やはり自殺 してゐるのです。が、自殺する前に−−」  青年は眞面目(マジメ)に父の顏を見た。 「寫眞をとる餘裕(ヨユウ)はなかつたやうです。」  今度は機嫌の好(イ)い少將の眼に、ちらりと當惑の色が浮んだ。 「寫眞をとつても好(イ)いぢやないか? 最後の記念と云ふ意味もある し、−−」 「誰の爲にですか?」 「誰と云ふ事もないが、−−我我始めN閣下の最後の顏は見たいぢやな いか?」 「それは少くともN將軍は、考ふべき事ではないと思ふのです。僕は將 軍の自殺した氣もちは、幾分かわかるやうな氣がします。しかし寫眞を とつたのはわかりません。まさか死後その寫眞が、何處(ドコ)の店頭に も飾(カザ)られる事を、−−」  少將は殆(ホトンド)、憤然(フンゼン)と、青年の言葉を遮(サヘギ)つた。 「それは酷(コク)だ。閣下はそんな俗人ぢやない。徹頭徹尾至誠の人だ。」  しかし青年は不相變(アヒカハラズ)、顏色(カホイロ)も聲も落着いてゐた。 「無論俗人ぢやなかつたでせう。至誠の人だつた事も想像出來ます。唯 その至誠が僕等には、どうもはつきりのみこめないのです。僕等より後 (ノチ)の人間には、猶更(ナホサラ)通じるとは思はれません。……」  父と子とは少時(シバラク)の間(アヒダ)、氣まづい沈默を續けてゐた。 「時代の違ひだね。」  少將はやつとつけ加へた。 「ええ、まあ、−−」  青年はかう云ひかけたなり、ちよいと窓の外のけはひに、耳を傾ける やうな眼つきになつた。 「雨ですね。お父さん。」 「雨?」  少將は足を伸ばした儘、嬉しさうに話頭を轉換した。 「又慍孛<*5><マルメロ>が落ちなければ好いが。……」 <*5>孛:「木」偏+「孛」:補助3569 (大正十年十二月)