( ) はひらがなのルビ。 < > はカタカナのルビ。 読みの「'エ」は「ゑ」を示す。 アグニの神 芥川龍之介:作      一  支那<シナ>の上海<シヤンハイ>の或町です。晝でも薄暗い或家の二階に、人 相の惡い印度<インド>人(ジン)の婆さんが一人、商人らしい一人の亞米利 加<アメリカ>人と何か頻(シキリ)に話し合つてゐました。 「實は今度もお婆さんに、占(ウラナ)ひを頼みに來たのだがね、−−」  亞米利加<アメリカ>人はさう言ひながら、新しい卷煙草へ火をつけました。 「占ひですか? 占ひは當分見ないことにしましたよ。」  婆さんは嘲(アザケ)るやうに、じろりと相手の顏を見ました。 「この頃は折角(セツカク)見て上げても、御禮さへ碌(ロク)にしない人が、多 くなつて來ましたからね。」 「そりや勿論御禮をするよ。」  亞米利加人は惜しげもなく、三百弗<ドル>の小切手を一枚、婆さんの 前へ投げてやりました。 「差當りこれだけ取つて置くさ。もしお婆さんの占ひが當れば、その時 は別に御禮をするから、−−」  婆さんは三百弗<ドル>の小切手を見ると、急に愛想(アイソ)がよくなりま した。 「こんなに澤山(タクサン)頂いては、反(カヘ)つて御氣の毒ですね。−−さう して一體又あなたは、何を占つてくれろとおつしやるんです?」 「私(ワタシ)が見て貰ひたいのは、−−」  亞米利加人は煙草を啣(クハ)へたなり、狡滑(カウクワツ)さうな微笑を浮べ ました。 「一體日米戰爭はいつあるかといふことなんだ。それさへちやんとわか つてゐれば、我々商人は忽ちの内に、大金(オホガネ)儲(マウ)けが出來るか らね。」 「ぢや明日(アシタ)いらつしやい。それまでに占つて置いて上げますから。」 「さうか。ぢや間違ひのないやうに、−−」  印度<インド>人の婆さんは、得意さうに胸を反(ソ)らせました。 「私(ワタシ)の占ひは五十年來、一度も外(ハヅ)れたことはないのですよ。 何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね。」  亞米利加<アメリカ>人が歸つてしまふと、婆さんは次の間(マ)の戸口へ行 つて、 「惠蓮('エレン)。惠蓮。」と呼び立てました。  その聲に應じて出て來たのは、美しい支那人の女の子です。が、何か 苦勞でもあるのか、この女の子の下(シモ)ぶくれの頬(ホホ)は、まるで蝋(ラ フ)<*1>のやうな色をしてゐました。 <*1>蝋:「虫」偏+(「臘」−「月」):補助5988 「何を愚圖愚圖(グヅグヅ)してゐるんだえ? ほんたうにお前位、づう づうしい女はありやしないよ。きつと又臺所で居睡りか何かしてゐたん だらう?」  惠蓮('エレン)はいくら叱られても、ぢつと俯向(ウツム)いた儘默つてゐま した。 「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺ひを立てるんだ からね、そのつもりでゐるんだよ。」  女の子はまつ黒な婆さんの顏へ、悲しさうな眼を擧げました。 「今夜ですか?」 「今夜の十二時。好(イ)いかえ? 忘れちやいけないよ。」  印度人の婆さんは、脅(オド)すやうに指を擧げました。 「又お前がこの間のやうに、私(ワタシ)に世話ばかり燒かせると、今度こ そお前の命はないよ。お前なんぞは殺さうと思へば、雛(ヒヨ)つ仔(コ)の 頸(クビ)を絞めるより−−」  かう言ひかけた婆さんは、急に顏をしかめました。ふと相手に氣がつ いて見ると、惠蓮('エレン)はいつか窓側(マドギハ)に行つて、丁度明いてゐ た硝子<ガラス>窓から、寂しい往來を眺めてゐるのです。 「何を見てゐるんだえ?」  惠蓮('エレン)は愈(イヨイヨ)色を失つて、もう一度婆さんの顏を見上げまし た。 「よし、よし、さう私(ワタシ)を莫迦(バカ)にするんなら、まだお前は痛い 目に會ひ足りないんだらう。」  婆さんは眼を怒らせながら、そこにあつた箒(ハウキ)をふり上げました。  丁度その途端(トタン)です。誰か外へ來たと見えて、戸を叩(タタ)く音が、 突然荒々しく聞え始めました。      二  その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかつた、年の若い 一人の日本人(ニホンジン)があります。それがどう思つたのか 二階の窓か ら顏を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆氣(アツケ)にと られたやうに、ぼんやり立ちすくんでしまひました。  そこへ又通りかかつたのは、年をとつた支那人の人力(ジンリキ)車夫(シヤ フ)です。 「おい。おい。あの二階に誰が住んでゐるか、お前は知つてゐないかね ?」  日本人はその人力車夫へ、いきなりかう問ひかけました。支那人は楫 棒(カヂボウ)を握つた儘、高い二階を見上げましたが、「あすこですか? あすこには、何とかいふ印度人の婆さんが住んでゐます。」と、氣味惡 さうに返事をすると、匆<*2>々(ソウソウ)行きさうにするのです。 <*2>匆:「勹」構+「夕」:補助なし 「まあ、待つてくれ。さうしてその婆さんは、何を商賣にしてゐるんだ ?」 「占(ウラナ)ひ者(シヤ)です。が、この近所の噂(ウハサ)ぢや、何でも魔法さへ 使ふさうです。まあ、命が大事だつたら、あの婆さんの所なぞへは行か ない方が好(ヨ)いやうですよ。」  支那人の車夫が行つてしまつてから、日本人は腕を組んで、何か考へ てゐるやうでしたが、やがて決心でもついたのか、さつさとその家の中 へはひつて行きました。すると突然聞えて來たのは、婆さんの罵(ノノシ) る聲に交(マジ)つた、支那人の女の子の泣き聲です。日本人はその聲を 聞くが早いか、一股(ヒトマタ)に二三段づつ、薄暗い梯子(ハシゴ)を駈け上り ました。さうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。  戸は直ぐに開(ア)きました。が、日本人が中へはひつて見ると、そこ には印度人の婆さんがたつた一人立つてゐるばかり、もう支那人の女の 子は、次の間(マ)へでも隱れたのか、影も形も見當りません。 「何か御用ですか?」  婆さんはさも疑はしさうに、じろじろ相手の顏を見ました。 「お前さんは占ひ者だらう?」  日本人は腕を組んだ儘、婆さんの顏を睨(ニラ)み返しました。 「さうです。」 「ぢや私(ワタシ)の用なぞは、聞かなくてもわかつてゐるぢやないか?  私も一つお前さんの占(ウラナ)ひを見て貰ひにやつて來たんだ。」 「何を見て上げるんですえ?」  婆さんは益(マスマス)疑はしさうに、日本人の容子(ヨウス)を窺つてゐまし た。 「私(ワタシ)の主人の御孃さんが、去年の春行方(ユクヘ)知れずになつた。そ れを一つ見て貫ひたいんだが、−−」  日本人は一句一句、力を人れて言ふのです。 「私(ワタシ)の主人は香港<ホンコン>の日本領事だ。御孃さんの名は妙子(タヘコ) さんとおつしやる。私は遠藤('エンドウ)といふ書生だが−−どうだね?  その御孃さんはどこにいらつしやる。」  遠藤はかう言ひながら、上衣(ウハギ)の隱しに手を人れると、一挺(イツチ ヤウ)のピストルを引き出しました。 「この近所にいらつしやりはしないか? 香港<ホンコン>の警察署の調べた 所ぢや、御孃さんを攫(サラ)つたのは、印度人らしいといふことだつたが、 −−隱し立てをすると爲にならんぞ。」  しかし印度人の婆さんは、少しも怖(コハ)がる氣色(ケシキ)が見えません。 見えない所か脣(クチビル)には、反(カヘ)つて人を莫迦(バカ)にしたやうな微 笑さへ浮べてゐるのです。 「お前さんは何を言ふんだえ? 私(ワタシ)はそんな御孃さんなんぞは、 顏を見たこともありやしないよ。」 「嘘をつけ。今その窓から外を見てゐたのは、確(タシカ)に御孃さんの妙 子(タヘコ)さんだ。」  遠藤は片手にピストルを握つた儘、片手に次の間(マ)の戸口を指さし ました。 「それでもまだ剛情(ガウジヤウ)を張るんなら、あすこにゐる支那人をつ れて來い。」 「あれは私(ワタシ)の貰ひ子だよ。」  婆さんはやはり嘲(アザケ)るやうに、にやにや獨り笑つてゐるのです。 「貰ひ子か貰ひ子でないか、一目見りやわかることだ。貴樣がつれて來 なければ、おれがあすこへ行つて見る。」  遠藤が次の間(マ)へ踏みこまうとすると、咄嗟(トツサ)に印度人の婆さん は、その戸口に立ち塞(フサ)がりました。 「ここは私(ワタシ)の家(ウチ)だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奧へ はひられてたまるものか。」 「退(ド)け。退(ド)かないと射殺(ウチコロ)すぞ。」  遠藤はピストルを擧げました。いや、擧げようとしたのです。が、そ の拍子(ヒヤウシ)に婆さんが、鴉(カラス)の啼(ナ)くやうな聲を立てたかと思ふ と、まるで電氣に打たれたやうに、ピストルは手から落ちてしまひまし た。これには勇み立つた遠藤も、さすがに膽(キモ)をひしがれたのでせう、 ちよいとの間(アヒダ)は不思議さうに、あたりを見廻してゐましたが、忽 ち又勇氣をとり直すと、 「魔法使(マハフツカヒ)め。」と罵りながら、虎のやうに婆さんへ飛びかかり ました。  が、婆さんもさるものです。ひらりと身を躱(カハ)すが早いか、そこに あつた箒(ハウキ)をとつて、又掴<*3>(ツカ)みかからうとする遠藤の顏へ、 床(ユカ)の上の五味(ゴミ)を掃(ハ)きかけました。すると、その五味が皆火 花になつて、眼といはず、口といはず、ばらばらと遠藤の顏へ燒きつく のです。 <*3>掴:手偏+「國」:補助3259  遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の旋風(ツムジカゼ)に追はれながら、 轉げるやうに外へ逃げ出しました。      三  その夜(ヨ)の十二時に近い時分、遠藤('エンドウ)は獨り婆さんの家の前 にたたずみながら、二階の硝子<ガラス>窓(マド)に映る火影(ホカゲ)を口惜 (クヤ)しさうに見つめてゐました。 「折角(セツカク)御孃さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出來 ないのは殘念だな。一そ警察へ訴へようか? いや、いや、支那の警察 が手ぬるいことは、香港<ホンコン>でもう懲(コ)り懲(ゴ)りしてゐる。萬一 今度も逃げられたら、又探すのが一苦勞だ。といつてあの魔法使には、 ピストルさへ役に立たないし、−−」  遠藤がそんなことを考へてゐると、突然高い二階の窓から、ひらひら 落ちて來た紙切れがあります。 「おや、紙切れが落ちて來たが、−−もしやお孃さんの手紙ぢやないか ?」  かう呟(ツブヤ)いた遠藤は、その紙切れを、拾ひ上げながらそつと隱し た懷中(クワイチウ)電燈(デントウ)を出して、まん圓(マル)な光に照らして見まし た。すると果して紙切れの上には、妙子(タヘコ)が書いたのに違ひない、 消えさうな鉛筆の跡(アト)があります。 「遠藤<'エンドウ>サン。コノ家<ウチ>ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。時 時眞夜中ニ私<ワタクシ>ノ體へ、『アグニ』トイフ印度ノ神ヲ乘リ移ラセマ ス。私ハソノ神ガ乘リ移ツテヰル間中<アヒダヂウ>、死ンダヤウニナツテ ヰルノデス。デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サン ノ話デハ、『アグニ』ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ豫言ヲスルノダ サウデス。今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乘リ移ラセ マス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、氣ガ遠クナツテシマフノデスガ、 今夜ハサウナラナイ内ニ、ワザト魔法(マハフ)ニカカツタ眞似(マネ)ヲシマ ス。サウシテ私ヲオ父樣ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ 命ヲトルト言ツテヤリマス。オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』ノ神ガ怖イ ノデスカラ、ソレヲ聞ケバキツト私ヲ返スダラウト思ヒマス。ドウカ明 日<アシタ>ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ來テ下サイ。コノ計略ノ外<ホカ> ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。サヤウナラ。」  遠藤は手紙を讀み終ると、懷中時計を出して見ました。時計は十二時 五分前です。 「もうそろそろ時刻(ジコク)になるな、相手はあんな魔法使だし、御孃さ んはまだ子供だから、餘程運が好くないと、−−」  遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでせう。今まで明る かつた二階の窓は、急にまつ暗になつてしまひました。と同時に不思議 な香(カウ)の匂<*4>(ニホヒ)が、町の敷石にも滲(シ)みる程、どこからか靜(シ ヅカ)に漂つて來ました。 <*4>匂:「勹」構+「ニ」:補助1991      四  その時あの印度<インド>人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机 に、魔法の書物を擴げながら、頻(シキリ)に呪文(ジユモン)を唱へてゐました。 書物は香爐(カウロ)の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上 らせてゐるのです。  婆さんの前には心配さうな惠蓮('エレン)が、−−いや、支那服を着せら れた妙子(タヘコ)が、ぢつと椅子(イス)に坐つてゐました。さつき窓から落 した手紙は、無事に遠藤('エンドウ)さんの手へはひつたであらうか? あ の時往來にゐた人影は、確(タシカ)に遠藤('エンドウ)さんだと思つたが、も しや人違ひではなかつたであらうか?−−さう思ふと妙子は、ゐても立 つてもゐられないやうな氣がして來ます。しかし今うつかりそんな氣(ケ) ぶりが、婆さんの眼にでも止まつたが最後、この恐しい魔法使ひの家か ら、逃げ出さうといふ計略(ケイリヤク)は、すぐに見破られてしまふでせう。 ですから妙子は一生懸命に、震(フル)へる兩手を組み合せながら、かねて たくんで置いた通り、アグニの神が乘り移つたやうに、見せかける時の 近づくのを今か今かと待つてゐました。  婆さんは呪文を唱へてしまふと、今度は妙子をめぐりながら、いろい ろ手ぶりをし始めました。或時は前へ立つた儘、兩手を左右に擧げて見 せたり、又或時は後(ウシロ)へ來て、まるで眼かくしでもするやうに、そ つと妙子の額の上へ手をかざしたりするのです。もしこの時部屋の外か ら、誰か婆さんの容子(ヨウス)を見てゐたとすれば、それはきつと大きな 蝙蝠(カウモリ)か何かが、蒼白(アヲジロ)い香爐の火の光の中に、飛びまはつ てでもゐるやうに見えたでせう。  その内に妙子はいつものやうに、だんだん睡氣(ネムケ)がきざして來ま した。が、ここで睡(ネム)つてしまつては、折角の計略にかけることも、 出來なくなつてしまふ道理です。さうしてこれが出來なければ、勿論二 度とお父さんの所へも、歸れなくなるのに違ひありません。 「日本(ニホン)の神々樣、どうか私(ワタクシ)が睡らないやうに、御守りなす つて下さいまし。その代(カハ)り私はもう一度、たとひ一目でもお父さん の御顏を見ることが出來たなら、すぐに死んでもよろしうございます。 日本の神々樣、どうかお婆さんを欺(ダマ)せるやうに、御力を御貸し下 さいまし。」  妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを續けました。しかし睡氣(ネムケ) はおひおひと、強くなつて來るばかりです。と同時に妙子の耳には、丁 度銅鑼(ドラ)でも鳴らすやうな、得體(エタイ)の知れない音樂の聲が、かす かに傅はり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて來 る時に、きつと聞える聲なのです。  もうかうなつてはいくら我慢しても、睡らずにゐることは出來ません。 現に目の前の香爐(カウロ)の火や、印度人の婆さんの姿でさへ、氣味の惡 い夢が薄れるやうに、見る見る消え失せてしまふのです。 「アグニの神、アグニの神、どうか私(ワタシ)の申すことを御聞き入れ下 さいまし。」  やがてあの魔法使ひが、床(ユカ)の上にひれ伏した儘、嗄(シハガ)れた聲 を擧げた時には、妙子は椅子(イス)に坐りながら、殆ど生死も知らないや うに、いつかもうぐつすり寢入つてゐました。      五  妙子(タヘコ)は勿論婆さんも、この魔法を使ふ所は、誰の眼にも觸れな いと、思つてゐたのに違ひありません。しかし實際は部屋の外に、もう 一人戸の鍵穴(カギアナ)から、覗(ノゾ)いてゐる男があつたのです。それは 一體誰でせうか?−−言ふまでもなく、書生の遠藤('エンドウ)です。  遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往來に立つたなり、夜明けを待 たうかとも思ひました。が、お孃さんの身の上を思ふと、どうしてもぢ つとしてはゐられません。そこでとうとう盜人(ヌスビト)のやうに、そつ と家の中へ忍びこむと、早速(サツソク)この二階の戸口へ來て、さつきから 透(ス)き見をしてゐたのです。  しかし透き見をすると言つても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白 い香爐の火の光を浴びた、死人のやうな妙子の顏が、やつと正面に見え るだけです。その外(ホカ)は机も、魔法の書物も、床(ユカ)にひれ伏した婆 さんの姿も、まるで遠藤の眼にははひりません。しかし嗄(シハガ)れた婆 さんの聲は、手にとるやうにはつきり聞えました。 「アグニの神、アグニの神、どうか私(ワタシ)の申すことを御聞き入れ下 さいまし。」  婆さんがかう言つたと思ふと、息(イキ)もしないやうに坐つてゐた妙子 は、やはり眼をつぶつた儘、突然口を利(キ)き始めました。しかもその 聲がどうしても、妙子のやうな少女とは思はれない、荒々しい男の聲な のです。 「いや、おれはお前の願ひなぞは聞かない。お前はおれの言ひつけに背 (ソム)いて、いつも惡事ばかり働いて來た。おれはもう今夜限り、お前を 見捨てようと思つてゐる。いや、その上に惡事の罰を下してやらうと思 つてゐる。」  婆さんは呆氣(アツケ)にとられたのでせう。暫くは何とも答へずに、喘 (アヘ)ぐやうな聲ばかり立ててゐました。が、妙子は婆さんに頓着(トンチヤク) せず、おごそかに話し續けるのです。 「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盜んで來た。もし命が惜し かつたら、明日(アス)とも言はず今夜の内に、早速この女の子を返すが好 (イ)い。」  遠藤は鍵穴に眼を當てた儘、婆さんの答を待つてゐました。すると婆 さんは驚きでもするかと思ひの外(ホカ)、憎々(ニクニク)しい笑ひ聲を洩(モ) らしながら、急に妙子の前へ突つ立ちました。 「人を莫迦(バカ)にするのも、好(イ)い加減におし。お前は私(ワタシ)を何 だと思つてゐるのだえ。私はまだお前に欺(ダマ)される程、耄碌(マウロク) はしてゐない心算(ツモリ)だよ。早速お前を父親へ返せ−−警察の御役人 ぢやあるまいし、アグニの神がそんなことを御言ひつけになつてたまる ものか。」  婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶつた妙子の顏の先へ、一挺 のナイフを突きつけました。 「さあ、正直に白状おし。お前は勿體(モツタイ)なくもアグニの神の、聲色 (コワイロ)を使つてゐるのだらう。」  さつきから容子(ヨウス)を窺つてゐても、妙子が實際睡(ネム)つてゐるこ とは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さて は計略が露顯(ロケン)したかと思はず胸を躍らせました。が、妙子は相變 らず目蓋(マブタ)一つ動かさず、嘲笑(アザワラ)ふやうに答へるのです。 「お前も死に時が近づいたな。おれの聲がお前には人間の聲に聞えるの か。おれの聲は低くとも、天上に燃える炎(ホノホ)の聲だ。それがお前に はわからないのか。わからなければ、勝手にするが好(イ)い。おれは唯 お前に尋(タヅ)ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともお れの言ひつけに背(ソム)くか−−」  婆さんはちよいとためらつたやうです。が、忽ち勇氣をとり直すと、 片手にナイフを握りながら、片手に妙子の襟髮(エリガミ)を掴<*3>(ツカ)ん で、ずるずる手もとへ引き寄せました。 「この阿魔(アマ)め。まだ剛情を張る氣だな。よし、よし、それなら約束 通り、一思ひに命をとつてやるぞ。」  婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遲れても、妙子の命は なくなります。遠藤は咄嗟(トツサ)に身を起すと、錠(ヂヤウ)のかかつた入 口の戸を無理無體に明けようとしました。が、戸は容易(ヨウイ)に破れま せん。いくら押しても、叩(タタ)いても、手の皮が摺(ス)り剥(ム)けるばか りです。      六  その内に部屋の中からは、誰かのわつと叫ぶ聲が、突然暗やみに響き ました。それから人が床(ユカ)の上ヘ、倒れる音も聞えたやうです。遠藤 ('エンドウ)は殆ど氣違ひのやうに、妙子(タヘコ)の名前を呼びかけながら、 全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。  板の裂(サ)ける音、錠のはね飛ぶ音、−−戸はとうとう破れました。 しかし肝腎(カンジン)の部屋の中は、まだ香爐(カウロ)に蒼白い火がめらめら 燃えてゐるばかり、人氣(ヒトケ)のないやうにしんとしてゐます。  遠藤はその光を便(タヨ)りに、怯(オ)づ怯(オ)づあたりを見廻しました。  するとすぐに眼にはひつたのは、やはりぢつと椅子(イス)にかけた、死 人のやうな妙子です。それが何故(ナゼ)か遠藤には、頭に毫光(ゴクワウ)で もかかつてゐるやうに、嚴かな感じを起させました。 「御孃さん、御孃さん。」  遠藤は椅子の側へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫 び立てました。が、妙子は眼をつぶつたなり、何とも口を開(ヒラ)きませ ん。 「御孃さん。しつかりおしなさい。遠藤です。」  妙子はやつと夢がさめたやうに、かすかな眼を開(ヒラ)きました。 「遠藤さん?」 「さうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早 く逃げませう。」  妙子はまだ夢現(ユメウツツ)のやうに、弱々しい聲を出しました。 「計略は駄目だつたわ。つい私(ワタシ)が眠つてしまつたものだから、− −堪忍(カンニン)して頂戴よ。」 「計略が露顯したのは、あなたのせゐぢやありませんよ。あなたは私(ワ タシ)と約束した通り、アグニの神の憑(カカ)つた眞似をやり了(オホ)せたぢ やありませんか?−−そんなことはどうでも好(イ)いことです。さあ、 早く御逃げなさい。」  遠藤はもどかしさうに、椅子から妙子を抱(ダ)き起しました。 「あら、嘘。私(ワタシ)は眠つてしまつたのですもの。どんなことを言つ たか、知りはしないわ。」  妙子は遠藤の胸に凭(モタ)れながら、呟(ツブヤ)くやうにかう言ひました。 「計略は駄目だつたわ。とても私(ワタシ)は逃げられなくてよ。」 「そんなことがあるものですか。私と一しよにいらつしやい。今度しく じつたら大變です。」 「だつてお婆さんがゐるでせう?」 「お婆さん。」  遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさつきの通り、 魔法の書物が開いてある、−−その下へ仰向(アフム)きに倒れてゐるのは、 あの印度<インド>人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分の ナイフを突き立てた儘、血だまりの中に死んでゐました。 「お婆さんはどうして?」 「死んでゐます。」  妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉(マユ)をひそめました。 「私(ワタシ)、ちつとも知らなかつたわ。お婆さんは遠藤さんが−−あな たが殺してしまつたの?」  遠藤は婆さんの屍骸(シガイ)から、妙子の顏へ眼をやりました。今夜の 計略が失敗したことが、−−しかしその爲に婆さんも死ねば、妙子も無 事に取り返せたことが、−−運命の力の不思議なことが、やつと遠藤に もわかつたのは、この瞬間だつたのです。 「私(ワタシ)が殺したのぢやありません。あの婆さんを殺したのは今夜こ こへ來たアグニの神です。」  遠藤は妙子を抱へた儘、おごそかにかう囁(ササヤ)きました。 (大正九年十二月)