アグニの神

芥川龍之介:作

     一

 支那(シナ)の上海(シヤンハイ)の或町です。晝でも薄暗い或家の二階に、人相の惡い印度(インド)人(じん)の婆さんが一人、商人らしい一人の亞米利加(アメリカ)人と何か頻(しきり)に話し合つてゐました。
「實は今度もお婆さんに、占(うらな)ひを頼みに來たのだがね、−−」
 亞米利加(アメリカ)人はさう言ひながら、新しい卷煙草へ火をつけました。
「占ひですか? 占ひは當分見ないことにしましたよ。」
 婆さんは嘲(あざけ)るやうに、じろりと相手の顏を見ました。
「この頃は折角(せつかく)見て上げても、御禮さへ碌(ろく)にしない人が、多くなつて來ましたからね。」
「そりや勿論御禮をするよ。」
 亞米利加人は惜しげもなく、三百弗(ドル)の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。
「差當りこれだけ取つて置くさ。もしお婆さんの占ひが當れば、その時は別に御禮をするから、−−」
 婆さんは三百弗(ドル)の小切手を見ると、急に愛想(あいそ)がよくなりました。
「こんなに澤山(たくさん)頂いては、反(かへ)つて御氣の毒ですね。−−さうして一體又あなたは、何を占つてくれろとおつしやるんです?」
「私(わたし)が見て貰ひたいのは、−−」
 亞米利加人は煙草を啣(くは)へたなり、狡滑(かうくわつ)さうな微笑を浮べました。
「一體日米戰爭はいつあるかといふことなんだ。それさへちやんとわかつてゐれば、我々商人は忽ちの内に、大金(おほがね)儲(まう)けが出來るからね。」
「ぢや明日(あした)いらつしやい。それまでに占つて置いて上げますから。」
「さうか。ぢや間違ひのないやうに、−−」
 印度(インド)人の婆さんは、得意さうに胸を反()らせました。
「私(わたし)の占ひは五十年來、一度も外(はづ)れたことはないのですよ。何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね。」
 亞米利加(アメリカ)人が歸つてしまふと、婆さんは次の間()の戸口へ行つて、
「惠蓮(ゑれん)。惠蓮。」と呼び立てました。
 その聲に應じて出て來たのは、美しい支那人の女の子です。が、何か苦勞でもあるのか、この女の子の下(しも)ぶくれの頬(ほほ)は、まるで蝋(らふ)<*1>のやうな色をしてゐました。
<*1>蝋:「虫」偏+(「臘」−「月」):補助5988

「何を愚圖愚圖(ぐづぐづ)してゐるんだえ? ほんたうにお前位、づうづうしい女はありやしないよ。きつと又臺所で居睡りか何かしてゐたんだらう?」 惠蓮(ゑれん)はいくら叱られても、ぢつと俯向(うつむ)いた儘默つてゐました。
「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺ひを立てるんだからね、そのつもりでゐるんだよ。」
 女の子はまつ黒な婆さんの顏へ、悲しさうな眼を擧げました。
「今夜ですか?」
「今夜の十二時。好()いかえ? 忘れちやいけないよ。」
 印度人の婆さんは、脅(おど)すやうに指を擧げました。
「又お前がこの間のやうに、私(わたし)に世話ばかり燒かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺さうと思へば、雛(ひよ)つ仔()の頸(くび)を絞めるより−−」
 かう言ひかけた婆さんは、急に顏をしかめました。ふと相手に氣がついて見ると、惠蓮(ゑれん)はいつか窓側(まどぎは)に行つて、丁度明いてゐた硝子(ガラス)窓から、寂しい往來を眺めてゐるのです。
「何を見てゐるんだえ?」
 惠蓮(ゑれん)は愈(いよいよ)色を失つて、もう一度婆さんの顏を見上げました。
「よし、よし、さう私(わたし)を莫迦(ばか)にするんなら、まだお前は痛い目に會ひ足りないんだらう。」
 婆さんは眼を怒らせながら、そこにあつた箒(はうき)をふり上げました。
 丁度その途端(とたん)です。誰か外へ來たと見えて、戸を叩(たた)く音が、突然荒々しく聞え始めました。

     二

 その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかつた、年の若い一人の日本人(にほんじん)があります。それがどう思つたのか 二階の窓から顏を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆氣(あつけ)にとられたやうに、ぼんやり立ちすくんでしまひました。
 そこへ又通りかかつたのは、年をとつた支那人の人力(じんりき)車夫(しやふ)です。
「おい。おい。あの二階に誰が住んでゐるか、お前は知つてゐないかね?」
 日本人はその人力車夫へ、いきなりかう問ひかけました。支那人は楫棒(かぢぼう)を握つた儘、高い二階を見上げましたが、「あすこですか? あすこには、何とかいふ印度人の婆さんが住んでゐます。」と、氣味惡さうに返事をすると、匆<*2>々(そうそう)行きさうにするのです。
<*2>匆:「勹」構+「夕」:補助なし

「まあ、待つてくれ。さうしてその婆さんは、何を商賣にしてゐるんだ?」
「占(うらな)ひ者(しや)です。が、この近所の噂(うはさ)ぢや、何でも魔法さへ使ふさうです。まあ、命が大事だつたら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好()いやうですよ。」 支那人の車夫が行つてしまつてから、日本人は腕を組んで、何か考へてゐるやうでしたが、やがて決心でもついたのか、さつさとその家の中へはひつて行きました。すると突然聞えて來たのは、婆さんの罵(ののし)る聲に交(まじ)つた、支那人の女の子の泣き聲です。日本人はその聲を聞くが早いか、一股(ひとまた)に二三段づつ、薄暗い梯子(はしご)を駈け上りました。さうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。
 戸は直ぐに開()きました。が、日本人が中へはひつて見ると、そこには印度人の婆さんがたつた一人立つてゐるばかり、もう支那人の女の子は、次の間()へでも隱れたのか、影も形も見當りません。
「何か御用ですか?」
 婆さんはさも疑はしさうに、じろじろ相手の顏を見ました。
「お前さんは占ひ者だらう?」
 日本人は腕を組んだ儘、婆さんの顏を睨(にら)み返しました。
「さうです。」
「ぢや私(わたし)の用なぞは、聞かなくてもわかつてゐるぢやないか? 私も一つお前さんの占(うらな)ひを見て貰ひにやつて來たんだ。」
「何を見て上げるんですえ?」
 婆さんは益(ますます)疑はしさうに、日本人の容子(ようす)を窺つてゐました。
「私(わたし)の主人の御孃さんが、去年の春行方(ゆくへ)知れずになつた。それを一つ見て貫ひたいんだが、−−」
 日本人は一句一句、力を人れて言ふのです。
「私(わたし)の主人は香港(ホンコン)の日本領事だ。御孃さんの名は妙子(たへこ)さんとおつしやる。私は遠藤(ゑんどう)といふ書生だが−−どうだね? その御孃さんはどこにいらつしやる。」
 遠藤はかう言ひながら、上衣(うはぎ)の隱しに手を人れると、一挺(いつちやう)のピストルを引き出しました。
「この近所にいらつしやりはしないか? 香港(ホンコン)の警察署の調べた所ぢや、御孃さんを攫(さら)つたのは、印度人らしいといふことだつたが、−−隱し立てをすると爲にならんぞ。」
 しかし印度人の婆さんは、少しも怖(こは)がる氣色(けしき)が見えません。見えない所か脣(くちびる)には、反(かへ)つて人を莫迦(ばか)にしたやうな微笑さへ浮べてゐるのです。
「お前さんは何を言ふんだえ? 私(わたし)はそんな御孃さんなんぞは、顏を見たこともありやしないよ。」
「嘘をつけ。今その窓から外を見てゐたのは、確(たしか)に御孃さんの妙子(たへこ)さんだ。」
 遠藤は片手にピストルを握つた儘、片手に次の間()の戸口を指さしました。
「それでもまだ剛情(がうじやう)を張るんなら、あすこにゐる支那人をつれて來い。」
「あれは私(わたし)の貰ひ子だよ。」
 婆さんはやはり嘲(あざけ)るやうに、にやにや獨り笑つてゐるのです。
「貰ひ子か貰ひ子でないか、一目見りやわかることだ。貴樣がつれて來なければ、おれがあすこへ行つて見る。」
 遠藤が次の間()へ踏みこまうとすると、咄嗟(とつさ)に印度人の婆さんは、その戸口に立ち塞(ふさ)がりました。
「ここは私(わたし)の家(うち)だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奧へはひられてたまるものか。」
「退()け。退()かないと射殺(うちころ)すぞ。」
 遠藤はピストルを擧げました。いや、擧げようとしたのです。が、その拍子(ひやうし)に婆さんが、鴉(からす)の啼()くやうな聲を立てたかと思ふと、まるで電氣に打たれたやうに、ピストルは手から落ちてしまひました。これには勇み立つた遠藤も、さすがに膽(きも)をひしがれたのでせう、ちよいとの間(あひだ)は不思議さうに、あたりを見廻してゐましたが、忽ち又勇氣をとり直すと、
「魔法使(まはふつかひ)め。」と罵りながら、虎のやうに婆さんへ飛びかかりました。
 が、婆さんもさるものです。ひらりと身を躱(かは)すが早いか、そこにあつた箒(はうき)をとつて、又掴<*3>(つか)みかからうとする遠藤の顏へ、床(ゆか)の上の五味(ごみ)を掃()きかけました。すると、その五味が皆火花になつて、眼といはず、口といはず、ばらばらと遠藤の顏へ燒きつくのです。
<*3>掴:手偏+「國」:補助3259
 遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の旋風(つむじかぜ)に追はれながら、轉げるやうに外へ逃げ出しました。

     三

 その夜()の十二時に近い時分、遠藤(ゑんどう)は獨り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子(ガラス)窓(まど)に映る火影(ほかげ)を口惜(くや)しさうに見つめてゐました。
「折角(せつかく)御孃さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出來ないのは殘念だな。一そ警察へ訴へようか? いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港(ホンコン)でもう懲()り懲()りしてゐる。萬一今度も逃げられたら、又探すのが一苦勞だ。といつてあの魔法使には、ピストルさへ役に立たないし、−−」
 遠藤がそんなことを考へてゐると、突然高い二階の窓から、ひらひら落ちて來た紙切れがあります。
「おや、紙切れが落ちて來たが、−−もしやお孃さんの手紙ぢやないか?」
 かう呟(つぶや)いた遠藤は、その紙切れを、拾ひ上げながらそつと隱した懷中(くわいちう)電燈(でんとう)を出して、まん圓(まる)な光に照らして見ました。すると果して紙切れの上には、妙子(たへこ)が書いたのに違ひない、消えさうな鉛筆の跡(あと)があります。

「遠藤(ヱンドウ)サン。コノ家(ウチ)ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。時々眞夜中ニ私(ワタクシ)ノ體へ、『アグニ』トイフ印度ノ神ヲ乘リ移ラセマス。私ハソノ神ガ乘リ移ツテヰル間中(アヒダヂウ)、死ンダヤウニナツテヰルノデス。デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ豫言ヲスルノダサウデス。今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乘リ移ラセマス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、氣ガ遠クナツテシマフノデスガ、今夜ハサウナラナイ内ニ、ワザト魔法(まはふ)ニカカツタ眞似(まね)ヲシマス。サウシテ私ヲオ父樣ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ツテヤリマス。オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』ノ神ガ怖イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキツト私ヲ返スダラウト思ヒマス。ドウカ明日(アシタ)ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ來テ下サイ。コノ計略ノ外(ホカ)ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。サヤウナラ。」
 遠藤は手紙を讀み終ると、懷中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。
「もうそろそろ時刻(じこく)になるな、相手はあんな魔法使だし、御孃さんはまだ子供だから、餘程運が好くないと、−−」
 遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでせう。今まで明るかつた二階の窓は、急にまつ暗になつてしまひました。と同時に不思議な香(かう)の匂<*4>(にほひ)が、町の敷石にも滲()みる程、どこからか靜(しづか)に漂つて來ました。
<*4>匂:「勹」構+「ニ」:補助1991

     四

 その時あの印度(インド)人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を擴げながら、頻(しきり)に呪文(じゆもん)を唱へてゐました。書物は香爐(かうろ)の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせてゐるのです。
 婆さんの前には心配さうな惠蓮(ゑれん)が、−−いや、支那服を着せられた妙子(たへこ)が、ぢつと椅子(いす)に坐つてゐました。さつき窓から落した手紙は、無事に遠藤(ゑんどう)さんの手へはひつたであらうか? あの時往來にゐた人影は、確(たしか)に遠藤(ゑんどう)さんだと思つたが、もしや人違ひではなかつたであらうか?−−さう思ふと妙子は、ゐても立つてもゐられないやうな氣がして來ます。しかし今うつかりそんな氣()ぶりが、婆さんの眼にでも止まつたが最後、この恐しい魔法使ひの家から、逃げ出さうといふ計略(けいりやく)は、すぐに見破られてしまふでせう。ですから妙子は一生懸命に、震(ふる)へる兩手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乘り移つたやうに、見せかける時の近づくのを今か今かと待つてゐました。
 婆さんは呪文を唱へてしまふと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろ手ぶりをし始めました。或時は前へ立つた儘、兩手を左右に擧げて見せたり、又或時は後(うしろ)へ來て、まるで眼かくしでもするやうに、そつと妙子の額の上へ手をかざしたりするのです。もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子(ようす)を見てゐたとすれば、それはきつと大きな蝙蝠(かうもり)か何かが、蒼白(あをじろ)い香爐の火の光の中に、飛びまはつてでもゐるやうに見えたでせう。
 その内に妙子はいつものやうに、だんだん睡氣(ねむけ)がきざして來ました。が、ここで睡(ねむ)つてしまつては、折角の計略にかけることも、出來なくなつてしまふ道理です。さうしてこれが出來なければ、勿論二度とお父さんの所へも、歸れなくなるのに違ひありません。
「日本(にほん)の神々樣、どうか私(わたくし)が睡らないやうに、御守りなすつて下さいまし。その代(かは)り私はもう一度、たとひ一目でもお父さんの御顏を見ることが出來たなら、すぐに死んでもよろしうございます。日本の神々樣、どうかお婆さんを欺(だま)せるやうに、御力を御貸し下さいまし。」
 妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを續けました。しかし睡氣(ねむけ)はおひおひと、強くなつて來るばかりです。と同時に妙子の耳には、丁度銅鑼(どら)でも鳴らすやうな、得體(えたい)の知れない音樂の聲が、かすかに傅はり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて來る時に、きつと聞える聲なのです。
 もうかうなつてはいくら我慢しても、睡らずにゐることは出來ません。現に目の前の香爐(かうろ)の火や、印度人の婆さんの姿でさへ、氣味の惡い夢が薄れるやうに、見る見る消え失せてしまふのです。
「アグニの神、アグニの神、どうか私(わたし)の申すことを御聞き入れ下さいまし。」
 やがてあの魔法使ひが、床(ゆか)の上にひれ伏した儘、嗄(しはが)れた聲を擧げた時には、妙子は椅子(いす)に坐りながら、殆ど生死も知らないやうに、いつかもうぐつすり寢入つてゐました。

     五

 妙子(たへこ)は勿論婆さんも、この魔法を使ふ所は、誰の眼にも觸れないと、思つてゐたのに違ひありません。しかし實際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴(かぎあな)から、覗(のぞ)いてゐる男があつたのです。それは一體誰でせうか?−−言ふまでもなく、書生の遠藤(ゑんどう)です。
 遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往來に立つたなり、夜明けを待たうかとも思ひました。が、お孃さんの身の上を思ふと、どうしてもぢつとしてはゐられません。そこでとうとう盜人(ぬすびと)のやうに、そつと家の中へ忍びこむと、早速(さつそく)この二階の戸口へ來て、さつきから透()き見をしてゐたのです。
 しかし透き見をすると言つても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香爐の火の光を浴びた、死人のやうな妙子の顏が、やつと正面に見えるだけです。その外(ほか)は机も、魔法の書物も、床(ゆか)にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははひりません。しかし嗄(しはが)れた婆さんの聲は、手にとるやうにはつきり聞えました。
「アグニの神、アグニの神、どうか私(わたし)の申すことを御聞き入れ下さいまし。」
 婆さんがかう言つたと思ふと、息(いき)もしないやうに坐つてゐた妙子は、やはり眼をつぶつた儘、突然口を利()き始めました。しかもその聲がどうしても、妙子のやうな少女とは思はれない、荒々しい男の聲なのです。
「いや、おれはお前の願ひなぞは聞かない。お前はおれの言ひつけに背(そむ)いて、いつも惡事ばかり働いて來た。おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思つてゐる。いや、その上に惡事の罰を下してやらうと思つてゐる。」
 婆さんは呆氣(あつけ)にとられたのでせう。暫くは何とも答へずに、喘(あへ)ぐやうな聲ばかり立ててゐました。が、妙子は婆さんに頓着(とんちやく)せず、おごそかに話し續けるのです。
「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盜んで來た。もし命が惜しかつたら、明日(あす)とも言はず今夜の内に、早速この女の子を返すが好()い。」
 遠藤は鍵穴に眼を當てた儘、婆さんの答を待つてゐました。すると婆さんは驚きでもするかと思ひの外(ほか)、憎々(にくにく)しい笑ひ聲を洩()らしながら、急に妙子の前へ突つ立ちました。
「人を莫迦(ばか)にするのも、好()い加減におし。お前は私(わたし)を何だと思つてゐるのだえ。私はまだお前に欺(だま)される程、耄碌(まうろく)はしてゐない心算(つもり)だよ。早速お前を父親へ返せ−−警察の御役人ぢやあるまいし、アグニの神がそんなことを御言ひつけになつてたまるものか。」
 婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶつた妙子の顏の先へ、一挺のナイフを突きつけました。
「さあ、正直に白状おし。お前は勿體(もつたい)なくもアグニの神の、聲色(こわいろ)を使つてゐるのだらう。」
 さつきから容子(ようす)を窺つてゐても、妙子が實際睡(ねむ)つてゐることは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顯(ろけん)したかと思はず胸を躍らせました。が、妙子は相變らず目蓋(まぶた)一つ動かさず、嘲笑(あざわら)ふやうに答へるのです。
「お前も死に時が近づいたな。おれの聲がお前には人間の聲に聞えるのか。おれの聲は低くとも、天上に燃える炎(ほのほ)の聲だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが好()い。おれは唯お前に尋(たづ)ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言ひつけに背(そむ)くか−−」
 婆さんはちよいとためらつたやうです。が、忽ち勇氣をとり直すと、片手にナイフを握りながら、片手に妙子の襟髮(えりがみ)を掴<*3>(つか)んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。
「この阿魔(あま)め。まだ剛情を張る氣だな。よし、よし、それなら約束通り、一思ひに命をとつてやるぞ。」
 婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遲れても、妙子の命はなくなります。遠藤は咄嗟(とつさ)に身を起すと、錠(ぢやう)のかかつた入口の戸を無理無體に明けようとしました。が、戸は容易(ようい)に破れません。いくら押しても、叩(たた)いても、手の皮が摺()り剥()けるばかりです。

     六

 その内に部屋の中からは、誰かのわつと叫ぶ聲が、突然暗やみに響きました。それから人が床(ゆか)の上ヘ、倒れる音も聞えたやうです。遠藤(ゑんどう)は殆ど氣違ひのやうに、妙子(たへこ)の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。
 板の裂()ける音、錠のはね飛ぶ音、−−戸はとうとう破れました。しかし肝腎(かんじん)の部屋の中は、まだ香爐(かうろ)に蒼白い火がめらめら燃えてゐるばかり、人氣(ひとけ)のないやうにしんとしてゐます。
 遠藤はその光を便(たよ)りに、怯()づ怯()づあたりを見廻しました。
 するとすぐに眼にはひつたのは、やはりぢつと椅子(いす)にかけた、死人のやうな妙子です。それが何故(なぜ)か遠藤には、頭に毫光(ごくわう)でもかかつてゐるやうに、嚴かな感じを起させました。
「御孃さん、御孃さん。」
 遠藤は椅子の側へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶつたなり、何とも口を開(ひら)きません。
「御孃さん。しつかりおしなさい。遠藤です。」
 妙子はやつと夢がさめたやうに、かすかな眼を開(ひら)きました。
「遠藤さん?」
「さうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早く逃げませう。」
 妙子はまだ夢現(ゆめうつつ)のやうに、弱々しい聲を出しました。
「計略は駄目だつたわ。つい私(わたし)が眠つてしまつたものだから、−−堪忍(かんにん)して頂戴よ。」
「計略が露顯したのは、あなたのせゐぢやありませんよ。あなたは私(わたし)と約束した通り、アグニの神の憑(かか)つた眞似をやり了(おほ)せたぢやありませんか?−−そんなことはどうでも好()いことです。さあ、早く御逃げなさい。」
 遠藤はもどかしさうに、椅子から妙子を抱()き起しました。
「あら、嘘。私(わたし)は眠つてしまつたのですもの。どんなことを言つたか、知りはしないわ。」
 妙子は遠藤の胸に凭(もた)れながら、呟(つぶや)くやうにかう言ひました。
「計略は駄目だつたわ。とても私(わたし)は逃げられなくてよ。」
「そんなことがあるものですか。私と一しよにいらつしやい。今度しくじつたら大變です。」
「だつてお婆さんがゐるでせう?」
「お婆さん。」
 遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさつきの通り、魔法の書物が開いてある、−−その下へ仰向(あふむ)きに倒れてゐるのは、あの印度(インド)人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てた儘、血だまりの中に死んでゐました。
「お婆さんはどうして?」
「死んでゐます。」
 妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉(まゆ)をひそめました。
「私(わたし)、ちつとも知らなかつたわ。お婆さんは遠藤さんが−−あなたが殺してしまつたの?」
 遠藤は婆さんの屍骸(しがい)から、妙子の顏へ眼をやりました。今夜の計略が失敗したことが、−−しかしその爲に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、−−運命の力の不思議なことが、やつと遠藤にもわかつたのは、この瞬間だつたのです。
「私(わたし)が殺したのぢやありません。あの婆さんを殺したのは今夜こゝへ來たアグニの神です。」
 遠藤は妙子を抱へた儘、おごそかにかう囁(ささや)きました。
(大正九年十二月)