ワァヅワス詩集 : 目次


タイトル:ワァヅワス詩集
著者:ウィルヤム・ワァヅワス (William Wordsworth, 1770-1850)
譯者:幡谷正雄 (1897-1933)
底本:新潮文庫第二百十五編『ワァヅワス詩集』
出版:新潮出版社
履歴:昭和十年三月十日印刷,昭和十年三月十五日發行

ワァヅワス詩集

ウィルヤム・ワァヅワス 著

幡谷正雄 譯


目次


更新日:2004/08/30

ワァヅワス詩集 : 解題


"The Child is the Father of the Man."

Wordsworth 'THE RAINBOW.'

解題

其の詩題の斬新なる、其の思想の温雅なる、其の詩人の天職を意識せる等の點に於いて、 英國詩界の革命家と崇められ、一時はヴォルテール、ポープ、シルレル、 レッシング等をすら凌駕すとまでに稱へられしウィルヤム・ワァヅワスは西紀元一千七百七十年英國カムバァランド州なる一村に生まれ、 同八百五十年に逝りき。彼れは幼きより多情多感にして自信の念頗る強かりき。 後年其の甥の需めに應じて自家の經歴を叙せる文中の一節にいはく、 我が母常にいはれたるは我が子等五人の中ウィルヤムばかり生ひさきの心にかゝるはなし、 彼れは善事にてか惡事にてか遂にいちぢるしきものとなりぬべしと。 母をしてかばかり心を痛めしめたりしは我が心の執拗に、氣まゝに、 過激なりければなり。今だに記憶す。ペンリスなる祖父の家に往きける時、 かりそめなる侮辱を受けたるより自殺せんと企てしが、自刄を見るに及び心おくれて止みき。 また或時、兄リチャードと同じ家に行き、客の間にて獨樂を弄びし折、 壁上にかけ並べたる家族の畫像を見、兄に向かひ、其の一を指して、 御身鞭もて此の婦人の像を破らずやといふに、兄否みければ、 我は直に鞭をあげて其の下着のあたりを貫きたり、云々と。執拗と云ひ、 氣まゝと云へば不徳に近けれど、其の多感にして自信強き氣質は、 既に當時に現はれたりと云ひつべし。其の多感なるは、よく凡べてに同情して貴となく、 賤となく、事物の中に生命を見出だしゝ所以、 其が自信の念強かりしは時流に超越し自家の天職を確守して、勝を最後に期せし所以なり。

按ふに、ワァヅワスの大なる所は、深く詩人の天職を意識して生涯を詩に捧げたるに在り。 先人の卑とし細として筆を着くるに及ばざりし(寧ろ着くる能はざりし)自然界、 人間界を描寫して、其の美處を看取し發揮したるに在り。 彼れはポープ等がわざとらしき擬古彫琢の風に反對して、 現實に則り、活語を用ひたりしが、毎に清高なる韻致ありて、 淺露粗笨に陷らざりき。自然に歸れといふ時世の呼聲に和しながら、 (バイロンの如く)破壞に終らずして、能く自然主義を建設せいは彼れなり。 他が粗笨とし枯燥なりとする事物を取りて彼れは之れに與ふるに耀々たる靈を以てせり。 一片の花、一滴の水、賤の女、乞食の童、一として彼れが涙に値せざるはなく、 且つ其の之れを描くや、平易茂樸うち見たる所、一の藏する所なきが如し。 しかも沈思黙誦、其の神に會するに及べば、津々たる幽趣、掬へども盡きざる概あり。 是れ蓋し其の思想の高雅にすて其の同情の涙の遍く濺がれたればなるべし。 彼れは曾て云へらく、大なる詩人は凡べて教師なり、 余は教師として尊ばるゝか若しくは何者とも思はれざらんことを願ふと。

ワァヅワスは、到底抒情詩人なり、劇詩の作とては、 劇として見るに堪へずと評せられたる"The Borderers"といふ悲劇あるのみ。

彼れが著作多けれども出版の當時に好評を博せしは絶えてなし。 彼れが最大傑作の一なりと評せらるゝ"The Excursion"すら出版の當時には批評家ヂェッフリー之れを爲すなき駄作なりと嘲り、 バイロン亦た眠たく煙たき詩にして余の厭ふ所を罵りき。 詩人の不遇なるワァヅワスの如きは稀なり、而してかゝる不運の間に立ちてその天職を確守せしは更に稀なり。

ワァヅワスが抒情の作中、多くの知りたる "We are Seven"『我等は七人なり』、 "Lines composed a few miles above Tintern Abbey"『チンタアン精舍の數哩ばかり上にてものせる詩』 "The Fountain"『泉』、 "Michael"『マイケル』、 "To the Daisy"『ひな菊に』、 "The Solitary Reaper"『只ひとり麥刈る少女』、 "To the Cuckoo"『呼子鳥に』、 "She was Phantom of Delight"『彼れは悦樂の影なりき』、 "Ode to Duty"『本務に與ふ』、 "Laodameia"『レーオダマイア』、 "To a Skylark"『告天子に』、 "Sonnet composed upon Westminster Bridge"『ウェストミンスタア橋上にてものせる小歌』、 "Lucy Gray"『ルーシー・グレー』、 "Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood"『幼時を憶うて不死を知るの歌』。 又長篇の名高き "The Excursion"『漫遊記』、 "The White Doe of Rylstone"『ライルストンの白鹿』など、 此等の諸篇いづれも傑作として數へらるゝもの。中に就きて "The Excursion"は九章より成り、白鹿の語は七章より成れる長篇にして、 前者は經營慘憺の作、ワァヅワスの人物及び心的生涯は躍如として其の中に現ぜりと稱せらる。 但し彼れが作の普く愛誦せられて人口に膾炙せるは短篇なり。 詞意共に清楚温雅、題を卑近に取りて清高幽遠の意を寓せる所、 何れもワァヅワスの特質を表はせり。

坪内逍遥


更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 序文


序文

ワァヅワスの詩は英國詩壇の産んだ最も尊く最も誇るべきものゝ一つであると共に、 我々人類にとっても同じやうに至上の寶である。彼は「自然の詩王」であると共に、 また「人生の詩王」であった。世界大戦中、 フランスにゐた英國の兵士達にワァヅワスの詩集が配布せられた時、 彼等はそれが全く擦り切れるまで讀破して、更に新しいのを求めたといふエピソードは、 この偉大なる詩人が益々光を放って來た一つの證明としても餘りあるものではないか。 彼の詩は現代人にとって大なる慰藉激勵の聲である。

ワァヅワスはロングフェロウなどと共に日本へは早くから紹介せられてその影響も少くない。 『國民之友』と『文學界』に據る詩人達が、單純な抒情詩風か、 談理的または教訓的な詩を作るやうになったのみ彼の影響であり、 宮崎湖處子の『歸省』にある數篇の詩にも彼の影響を認められる。 また明治四十年前後に起った自由詩の運動は、 近代フランスの自由詩によって教へられてゐるが、 當時相馬御風氏の唱へられた口語詩論はワァヅワス流の自然主義である。 然し、日本に於て最も多くワァヅワスの影響を受けたものとして忘れることの出來ないのは國木田獨歩である。 彼を動かして日本の自然主義の原動力の一つとなったのは、實にわが自然詩人の詩であった。

獨歩の作品を通して夢のやうにワァヅワスを憧れて故郷なる山陰道の山野を逍遥した私の中學時代が、 今眼前に髣髴として浮んで來る。また一歳遠く都を去って、瀬戸内海のほとり、 嘗て獨歩が住んでゐた近くに起居した時、 孤獨の私を慰めてくれたのは獨歩とワァヅワスであった。 中學を終へてから、獨歩の親友であり、ワァヅワスの研究者である吉江喬松先生から、 親しく彼の人物なり作品なりに就いて教へを受けて、 始めてワァヅワスの正體を知ることが出來た。 私がこの貧しい譯詩集を先生に捧げるのも全くこれがためである。

ワァヅワスの詩はいつ讀んで見ても懐しい。 殊にこの譯詩集を纒めることによって彼を一層はっきりと捉へ、 近代英詩の父祖とせられたる所以を知ることが出來たやうに思ふ。 田園詩人として祭りあげた彼の價値は今や新しく見直さなければならなくなった。 殊に最近の興味ある研究によって、彼は益々我々と親しく握手することの出來る詩人となって來た。 これがため、從來最も理想的な選集とせられてゐたアーノルドの『ワァヅワス選集』でさへ、 今日では多少の缺陷を指摘せねばならなくなって來てゐる。 私が今日この譯詩集を公にするのも、新しい評價に基いた彼をわが文界に紹介せんがためである。 殊にデモクラシイとオリヂナリズムの文學の先驅者として彼を新しく見ることは大いに意味あることゝ思ふのである。

本書には九十五篇の詩を収めてあって、從來紹介せられたものに比べて最も多くを収めてあると思ふ。 この種のものとして長篇は割愛した。 ワァヅワスの詩は長篇よりも短篇に優れた作が多いからこれは妥当なことであると思ふ。 唯、せめて『序曲』と『逍遥篇』はその抜萃でも収めたいと思ったが、 それは種々の點で面白くないので斷念した。 然しワァヅワスの特色を現はしてゐる詩は、殆ど全部(慾をいへば限りがないが)網羅してあると信ずる。

評傳に於ては、簡單ながらもワァヅワスに關する諸問題を悉く捉へ、 これだけでも一つの評論と見て差支へなからうと思ふ。 また解説に就いては、私の鑑賞をもっと書く積りであったが、 紙數に限りがるので割愛した。私は事情の許す限り本書のためにベストを盡した。 然し淺學菲才な私が獨力でやったことであるから、 誤謬も不完全な點も數々あらう。幸ひに江湖の御指教を得れば、 斧正に吝なものでない。その他種々の點に於て読者諸子の御感想を承ることが出來るならば、 著者は幸甚とする所である。

終りに臨み、坪内逍遥先生が、拙著に解題を下された御厚意に對して一言しておきたい。 先生は目下一切の執筆を斷って、沙翁全集完成の大願に沒頭してゐられるので、 遺憾乍ら新しく稿を起されることを許されないのである。 そこで先生が嘗て物せられたものを強ひて懇願して載せることにした。 先生の名譯として早くから知られてゐる『呼子鳥に』の一篇は、實は、 私が初めて讀んだワァヅワスの詩であった。かうした因縁によっても、 この解題を卷頭に飾ることを許して下された先生の御心のほどに心から感謝して止まない次第である。

  昭和二年九月

譯者識


更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 凡例


凡例


更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 抒情短詩


抒情短詩

虹 (The Rainbow [注:"My Heart Leaps up When I Behold."])

み空の虹を眺めると
わたしの心は躍りたつ。
幼い時もそのとほり、
おとなとなったいまもさう、
老いてもやはりさうありたい、
さもなきやむしろ死ぬがまし!
まことに子供は人の父。
そこで一日一日を
をさなごころで結びたい。
        ---- 一八〇二 ----

妹に (To My Sister)

彌生のはじめ靜かな日、
次第にほがらかに聞えるは、
門邊に聳える落葉松(からまつ)から
歌ひ始めた知更鳥(こまどり)の調べ。
 
空には祝福(さち)ぞたゞよひ、
葉もない木々に、禿山に、
緑の野邊の草にさへ、
受ける歡喜(よろこび)かと思はれる。
 
わが妹よ!(願はくは)
朝餉はもはや終へたから、
朝の仕事をとくすてゝ、
さあ、來て陽を浴びよ。
 
エヂワアドもともに連れだって、
急いで散歩の服をつけ、
書物は手にせず、()くお出で、
今日の一日(ひとひ)を遊ばうよ。
 
喜びもない無意味な型で
生きた暦を作るまい。
わが妹よ、今日からは
年の始めと(しる)さう。
 
愛は今こそあまねく生れ、
胸から胸に、地から人に、
人から地にと忍び入る。
——愛に浸る時はいま。
 
この一瞬(ひととき)に獲ることは
道理を究める幾歳に優る。
われらの心ゆくまで吸はう
この麗かな春の靈氣を。
 
行末守る掟をば
われらの胸に深く定め、
來る年月のために
今日から始めよう。
 
かくていま大自然(おほあめつち)に充ち溢れる
限りない惠みの力から
われらの魂の調べを作れば、
魂は愛につれて歌ふだらう。
 
さあお出で、妹よ!
急いで散歩の服をつけ、
書物は手にせず、()くお出で、
今日の一日(ひとひ)を遊ばうよ。
        ---- 一七九八 ----

黄水仙 (The Daffodiles [注:I Wandered Lonely as a Cloud])

山また谷に浮ぶ雲のやう
たゞひとりさまよひ來れば、
ふと眼に入ったひとむらの
黄金色まばゆい黄水仙、
(うみ)(ほとり)に、樹の下蔭に
そよ吹く風に躍りつゝ。
 
銀の河原にきらめき光る
星にやうに打ちつゞき、
入江の岸にはてもなく
咲きつらなった黄水仙、
一眼に入ったよろづの花は
頭をふりつゝ樂しく躍る。
 
かたへに波は躍ってゐるが、
樂しむ花には及ばない。
あんなに浮いた伴侶(とも)をもつなら
詩人の心もをどりたつ。
飽かずに眺め——幾度も——さあれ
そのとき富を得たとは思はなかった。
 
心空しく、また沈んだ時に
折々長椅子に横はってゐると、
孤獨の惠みなる心の眼に
ひらめきうつるはかの黄水仙。
そこで樂しさが胸に充ち、
花もろともに心は躍る
        ---- 一八〇四 ----

雲雀に(一) (To a Skylark. "Up with me!")

私を()れて昇れ!雲の中に伴れて行け!
雲雀よ、お前の歌は強いから。
私を伴れて昇れ!雲の中に伴れて行け!
歌ひながら、歌ひながら、
雲と空とにひゞかせながら、
私を引きあげ、導いて
汝の心に叶ふ所まで伴れて行け!
 
さびしい荒野を歩んで來たので、
今日私の心は疲れてゐる。
いまもし妖精の翼があったら、
汝の所へ飛んで行きたいもの。
汝の身邊には狂ほしさがあり、
汝の歌には崇高(けだか)い悦びがある。
私を引きあげ、高く高く、
空の饗宴場に導いて呉れ。
 
朝のやうに(たの)しく
汝は笑ひ嘲ってゐる。
汝の愛と休息には巣がある。
怠惰にも陷りもしないが
醉った雲雀よ!汝は私のやうな
旅人になることは嫌だらう。
幸福な、幸福な鳥よ、
汝は谷川のやうな強い(たましひ)
神への讃歌(ほめうた)をそゝぎ出す、
歡喜と遊樂は、われら二人にあれ!
 
あゝ!私の旅路は(けは)しくて
棘の荒野や埃の道を(まが)り行かねばならぬが、
汝や、汝の(つれ)の歌を聞きながら
歡びに充ち、空のやうに自由に、
私の運命に甘んじてとぼとぼ歩み、
生命の終るときには更に高い歡喜を望まう。
        ---- 一八〇五 ----

雲雀に(二) (To a Skylark. "Ethereal minstrel!")

天の伶人!空の巡禮!
汝は()さに充ちた地を蔑むのか?
翼は空に向ってゐるが、
心と目とは巣と共に露置く地にあるのか?
顫ふ翼を閉ぢて、歌を止め、
思ひのまゝに宿る汝の巣よ!
 
暗い森は夜鶯にゆだねよ、
光り輝く空こそ汝の棲家(すみか)
そこから神々しい歌聲で
調和の流れを溢れるばかりこの世に注ぐ。
天と地の二つに身を置く汝こそは
高く飛べど、さ迷はぬ賢人の姿!
        ---- 一八二五 ----

早春の歌 (Lines written in Early Spring)

森の中に身を横へて坐ってゐると、
樂しい思ひが悲しい思ひを誘ふ
あの心地よい氣分にひたって、
千々に交った歌の調べを耳にした。
 
「自然」はその美しい創造物(つくりもの)
私の胸を流れる人間の靈性(たましひ)を結び附けた。
そこで世の人の爲す醜い状態(さま)を思って
わたしの心は強く歎いた。
 
あの緑の木蔭の櫻草の(むらが)る中に
雁來紅(にちにちつる)の花蔓ひ廻ってゐる。
花はみなそが吸ふ空氣を
喜び享けると私は信じてゐる。
 
周圍には小鳥が飛んで戯れた、
彼等の思念(おもひ)(はか)り知られぬ。
さあれ小鳥の微かな身動きさへも
喜びのをのゝきと思はれる。
 
やゝに芽ばぬ小枝も扇を擴げ、
そよ吹く風を受けようとしてゐる。
そこにも必ず喜びがあると
考へずにはゐられない。
 
もしこの信念(おもひ)が神より送られ、
これが「自然」の神聖な企畫(たくらみ)ならば、
世の人の爲す醜い状態(さま)
歎く理由がなからうか?
        ---- 一七九八 ----

胡蝶に(一) (To a Butterfly. "Stay near me.")

こゝにとまって舞ひ去るな!
なほしばしこゝにとゞまれよ!
多くの物語を汝に讀む、
わが幼い日を語る歴史家よ!
近くをさまよひ、遠くに去るな!
汝を見ると私の過去は甦へる。
汝は華やかなもの!けれど
私の心に嚴かな面影を(もたら)し、
私の父の家族を想はす!
 
あゝ!ほんとに樂しかったのは、
あどけない戯れに
妹エミリインと私が
ともに胡蝶を追った彼の時よ!
さながら獵人のやうに
私は獲物に迫り、跳び躍りながら
叢から藪へと追ひかけた。
けれど、あゝ、わが妹は(つゝ)ましくも
翅から肢粉(こな)を拂ひ落すのを恐れた。
        ---- 一八〇二・三・一四 ----

胡蝶に(二) (To a Butterfly. "I've watched you now.")

私は時の半ばも汝を(みつ)めてゐる、
あの黄色な花に巧みにとまってゐる汝を。
小さな胡蝶よ!ほんとに汝は
眠ってゐるのか覺めてゐるのかしら。
動かぬ姿よ!凍った海も
汝には及ばぬ!
そよ風が汝を木の間に見出して
再び汝を誘ひ出す時は
どんな喜ぶに逢ふのだらう!
 
この果樹園はわたしのもの、
私の木があり、妹の花がある。
疲れた時は汝の翅をこゝに憩はせ、
隱れ()のやうにこゝに宿れよ!
屢々來て、恐れるな。
近くの枝にとまれ!
日の光と歌をば共に語り、
若かった時の夏の日を共に語らう、
今日の一日は二十日のやうに長かった
あの幼い時の樂しかった夏の日を。
        ---- 一八〇二・四・二〇 ----

三月 (Written in March)

ブラザア湖の下方の橋の上に休んだ時

  
 
(とり)は啼き、
小川は流れ、
小鳥は囀り、
湖の(おも)はきらめき、
緑野は陽を浴びて眠る。
老いしも若き者も
強きと勤める。
牛は草を()み、
頭をもたげず
四十は一匹のやう!
 
  
 
敗れた軍のやうに
雪は消え去り、
裸の山の頂きを
わづかに染める。
馬を追ふ子は叫ぶやう——幾度も
山には歡喜
泉には生命。
ちぎれ雲は飛び去って
青空遠くはえ、
雨は止んで晴れわたる。
        ---- 一八〇二 ----

郭公に(一) (To the Cuckoo. "Not the whole warbling glove" [誤:"O Blithe New-comer!"])

あゝ、樂しい客人(まらうど)よ!曾て汝の聲を聞いたが
いまもまた聞いて喜ぶ。
あゝ、郭公よ!汝を鳥といはうか、
さまよへる聲といはうか?
 
草の()に身を横へてゐると、
二段(ふたきだ)三段(みきだ)汝の聲が聞えた。
丘より丘へわたるやう、
いと遠く、またいと近く。
 
日光(ひかげ)輝く花咲く谷に、
何げなく汝は啼いてゐるが、
私は思ひ出すよ
夢の日の昔語りを。
 
いざ來よ、春の寵兒(まなご)よ!
今もなほ汝こそは
鳥とも見えず、眼に見えぬもの、
聲よ、不思議なものよ。
 
學びの庭に通った幼い日、
聞き慣れたその聲、
私を草叢に、木に、空に
彼方此方と顧みさせた聲。
 
汝をたづねて幾度か
野原に森にさまようたが、
汝こそは尚も希望よ、愛よ、
慕へども姿は見えぬ。
 
けれど今もなほ汝の聲を聞く。
野原に臥して汝を聞けば、
そゞろに私の心は
樂しかった昔に返る。
 
あゝ、幸ある鳥よ!
われらが踏む(つち)
再び幻の夢の國とも見える。
それは汝にこそふさはしひ住家!
        ---- 一八〇四 ----

郭公に(二) (To the Cuckoo. "O Blithe New-comer!" [誤:"Not the whole warbling grove"])

日の光が驟雨を追ふ時の
森の中の(たへ)なる樂の音も、
二段(ふたきだ)の調べをあやまたぬ
郭公の一聲ほどには胸に(こた)へぬ!
陽も照らず風も通はぬ陰氣な(あなぐら)
寂しい牢獄(ひとや)幽閉(とらはれ)の日を送る
囚人(ひと)の耳にもこの聲はひゞき、
病める者の室には晴やかな喜びを送る。
高慢(たかぶ)る鷲の(やから)も敵のために滅ぼされ、
荒野に獅子の咆える聲も聞えぬ時も來るだらう。
けれど鷄が鳥舍(とや)に暁を告げる限りは
強い風も柔かく汝の翼をはやめ、
汝の定まりない聲は春を誘ふ。
        ---- 一八二七 ----

二つの四月の朝 (The Two April Mornings)

朝日は紅く美しく
友とゆく野に輝く。
マシュウは四邊(あたり)を見渡して足を止め、
『これも神樣の思召(おぼしめ)しだらう。』
 
彼は村の學校の教師、
髪毛は眞白、
春の祭に誰も見る
快活な男。
 
一日丘に遊ばうと
その朝、草をおしわけて、
靄立つ谷川の(ほとり)をば
友とたのしく歩いた。
 
私は言った、『二人は面白く出かけたのに、
それに何が悲しくて
この美しい日の下に
歎きを洩らし給ふか?』
 
またもマシュウは立ち止まり、
東の山の頂きを
なほも見つめて
私に答へた。
 
『あの長い紫色の(ひだ)をした
かなたの雲を眺めると、
三十年のその(かみ)
今日のやうな日を憶ひ出す。
 
『丁度かなたの麥畑の上に
あんな色が空に漂うてゐた、
ほかの色ではない、
おなじ四月の朝のこと。
 
『釣竿さげて
夏にはふさはしい釣に出かけ、
はしなく寺の庭に來て
娘の墓の傍に暫し足を(とゞ)めた。
 
『谷間の誇りと(うた)はれたあの兒は
九度も夏をば迎へて
歌ひつゞけた——
夜鶯の生れ變りであったらう。
 
『エムマは土の下に深く眠ってゐる。
今も私は彼女を愛してゐるが、
私がかつて愛したよりも
その日は一入可愛ゆく思はれた。
 
『娘の墓場を去ってから
寺の水松(いちゐ)の樹の傍で
花のやうな娘に逢ったが
髪は朝の露で濡れてゐた。
 
『頭に花籠をいたゞき、
(ひたひ)は滑らかで眞白、
あんなに美しい子供を見ることは
清い喜びの一つなのだ!
 
『岩間から湧き出る泉も
少女の自由な足取りには及ばぬ、
海の上に踊る浪のやうに
いと幸福に見えた。
 
『洩れ出る歎きも抑へかね、
娘を幾度も眺めたが、
その少女子(をとめご)をわが子にしたいと
願ふ心は更になかった。
 
マシュウは既に死んでゐる。
けれど今も尚その姿が見え、
あのときのやうに
手に野育ちの枝をもってゐる。
        ---- 一七九九 ----

奇しき戀 ("Strange Fits of Passion")

()しき戀の覺えあり、
胸に浮びしひとことを
ひそかに語り聞かせまし
戀する人の耳朶(みゝ)にこそ。
 
()でし處女(をとめ)は薔薇のやう
いと(あで)やかに見えし頃、
月ほのあかき夕まぐれ
戀人(かれ)の家にと立ち出でぬ。
 
見渡す野べの道すがら
み空の月を打ち眺め
馬の足並(あしなみ)いそがせて
慣れにし道をうち辿る。
 
果樹(このみ)(その)に行きつきて
やをら小山を登りしとき、
ルウシイの家のいや近う
夕陽は沈むおもむろに。
 
神のやさしき惠の
樂しい夢に耽りしが、
夢の中にも(まなこ)をば
傾け月のそゝぎけり。
 
(ひづめ)の音もかろやかに
馬は歩みてとゞまらず。
折しも月はいや赤う
屋根のかなたに沈みゆく。
 
不吉(よから)ぬ思ひになやめるは
戀する人の(ならひ)かや。
『あはれ、ルウシイは死せるにや!』
ひとりなげきて叫びけり。
        ---- 一七九九 ----

人も通はぬ山里の ("She dwelt among the Untrodden ways")

人も通はぬ山里の
ダヴのほとりの少女子(をとめご)を、
讚ふるものは絶えてなく、
戀するものも稀なりき。
 
苔蒸す岩の蔭に咲く
菫のなかば人の目に
隱れし姿やたゞひとつ
み空に輝く星のごと。
 
人に知られで住みし少女子(をとめご)
ルウシイ逝きしと誰か知る。
いま少女子(をとめご)永劫(とは)()る。
昨日に變るわが身かな。
        ---- 一七九九 ----

知るべもあらぬ旅の空 ("I travelled among Unknown men")

知るべもあらぬ旅の空
海の彼方の邦々(くに〜゛)の、
あゝ、故郷(ふるさと)よ、今日までは
()(いと)しさを知らざりき。
 
過去は悲しき夢なりき!
われまた汝を離れまじ、
いまなほ汝が戀しさの
つのるをわれは覺ゆれば。
 
()が山里にありてこそ
樂しき戀も味ひぬ。
わが()でたりし少女子(をとめご)
汝が爐邊(ろべり)にぞ紡ぎしか。
 
ルウシイの遊び戯れし
樹蔭(こかげ)の見えしも汝が國ぞ。
臨終(いまは)(きは)に見納めし
緑の野邊も汝がもの。
        ---- 一七九九 ----

自然の貴女 (Nature's Lady; Three years she grew)

  
 
みとせ彼女は()と雨とを浴びて育ちぬ。
その時自然は言ひぬ、
『かくも美はしの花、地に蒔きし(ためし)なし。
さらばわれ手づからこの子を(はぐ)くまむ。
彼女(あれ)はわが所有(もの)
いでや思ひのまゝの手弱女(たをやめ)にせむ。
 
  
 
『この身は(いと)し子の
心の手綱(たづな)とも駒ともならむ。
岩に野に天地(あめつち)に、
樹の間に、繁みに、
わが愛の力をおぼえて、
少女子(をとめご)は心を躍らせ、また抑へなむ。
 
  
 
『溢るゝばかりの歡びに
野山を躍り狂ふ仔鹿のごと
彼女は踊り戯れむ。
匂ひ香ばしき風は彼女のもの、
言葉なく生命(いのち)なき
自然の沈黙(しゞま)靜寂(しづけさ)は彼女のものぞ。
 
  
 
漂ふ雲はその威容(すがた)を彼女に與へ、
柳は彼女のために撓まむ。
また吹き(すさ)む嵐の中にも
無言の同情(なさけ)によりて、
處女(をとめ)の姿の優しさを
己が身につくるを失ふまじ。
 
  
 
小夜(さよ)更けて輝く星は彼女の寶ぞ、
谷川の水の踊り流れるところ
蔭暗き深みに、
幾度か彼女は耳を傾け、
囁く水の音より(うま)るゝ(うる)はしさは
 
  
 
『溢るゝばかりの歡びの思ひは
彼女の體をけだかく作り、
處女(をとめ)の胸は高まらむ。
われルウシイにこの(たへ)なる思想(おもひ)を授けん、
この幸多き谷間に
二人して住む間は。』
 
  
 
かくぞ自然は語り——自然の(わざ)は終りぬ、
いと(あわ)たゞしく終りしルウシイの一生よ!
彼女はこの草原と、この靜かなる景色を
われに殘してまみかりぬ。
再び返らぬ在りし日の
思ひ出をわが胸にとゞめて。
        ---- 一七九九 ----

愛の睡みに魂は包まれて ('A Slumber did my Spirit seal')

愛の(まどろ)みに魂は包まれて
浮世の(うさ)をも忘れはてぬ。
とこよに寄する年波は
乙女に()るゝものとは思はずに。
 
さあれ今は身動く力もなく
見れども見えず、聞けども聞けず、
巌と樹もろとも打ちめぐる
大地に汝はかへりしか。
        ---- 一七九九 ----

——に與ふ (to ----)

天使の他の樂人をして歌はしめよ、
 斑點(まだら)もなく輝く太陽を。
然しお前はそんなに完いものではない、
 そのことを悦べよ!
 
お前を美人だといふものがなくとも氣にするな。
 そこでメリイよ、愛らしさに於て
お前が私に與へるものと較べるものがなくとも
 そのまゝにしておけ。
 
眞の美しさは深く潛んでゐて、
 心と心とが互ひに調べを合せ、
戀人が愛せられるまでは
 そのヴェールは取り除かれないのだ。
        ---- 一八四二 ----

怨言 (A Complaint)

變化がある——私は哀れな身。
お前の愛は近頃まで
私の大事な心臟の扉で
唯流れる事を務めとしてゐる泉であった。
その愛の泉は流れた、
自からの境にも、私の必要にも氣をとめないで。
 
私はほんとに幸福な刹那を数へた!
その時はあらゆる幸福に(まさ)って私は幸福であった。
いま、囁き、火花を散らす、生きた戀の
神聖にせられた姿のかはりに
私は何を持ってゐるのだらう、
慰めもない隱れた井戸といはうか?
 
戀の井戸——それは深い——
おもふに——それは決して涸れないのだ。
水が黙って暗蔭に眠ってゐるとて
なんであらう?
私の大事な心臟の扉に於てさへ
こんな變化が私を哀れにした。
        ---- 一八〇六 ----

雀の巣 (The Sparrow's Nest)

見よ、木の葉茂る影の中に
輝く青色の卵を!
ふと見出したその光景は
歡ばしい幻の如く私の上に輝いた。
私は愕いた——雀の宿と隱れ家を
覗き見る心地がして、
父の家の近くにあるその雀の巣は、
晴れた日も雨の日も
妹のエメリインと私は
一緒に見に行った。
 
妹はそれを見て恐れるやうに見えたのは、
巣の傍に近寄りたいが傷つけるを懼れたから。
妹はこんなに思ひやりのある心であった。
その時は大人に交はるあどけない子供であったが、
私の後年の幸福は
少年時代から芽生えてゐた。
妹は私に眼を與へ、耳を與へた。
賤しいものを(いた)はる愛と、細心の恐怖と、
優しい涙の泉なる心情と、
愛と、思念(おもひ)と、喜悦を私に與へた。
        ---- 一八〇一 ----

彼女は歡びの幻であった (She was a Phantom of Delight)

ちらりと初めて眼に映ったとき
彼女は歡びの幻であった。
刹那を飾るために送られた
愛らしい空靈といはうか。
彼女の眼は夕べ輝く美しい星のやう、
緑の黒髪も亦夕べの星かと思はれた。
眼と髪との他はすべて
華やかな五月とさわやかな暁を偲ばせる。
變幻出沒、人を驚かし、不意を襲ふ、
踊る姿、陽氣な(すがた)
 
更に近づいて見ると
幻と見たのは(まこと)の女!
家事にいそしむ動作は機敏で
乙女ならでは見られぬ快活な足取り。
美しい過去の記憶と、
美しい未來の豫想との打ち交った顏容(すがた)
人の心の日々の(かて)として
輝きすぎもせず、善すぎもせぬ女。
また一時の悲しみ、單純な策略、
賞讚、叱責、愛、接吻、涙、微笑もする女。
 
今靜かな眼で眺めると
彼女の鼓動そのものさへ
息づいて生きてゐるもの、
生より死へ旅するものだ。
確固たる理性、節度ある意志、
忍耐、豫見、力、熟練もある。
理智に富み、情愛も深く、見識もあり、
神の手に造られた完い女。
しかも尚一つの靈で、
天使の光明のやうに輝いてゐる。
        ---- 一八〇四 ----

緑の紅雀 (The Green Linnet)

朗かな春の日の
麗かな光を浴びて、
白い花片は雪とこぼれ散る
果樹(なりき)の梢の下、
人氣もないこの片隅で、
果樹園の腰掛けに凭れて、
去年の友なる花と小鳥とを
再び迎へるのは嬉しい。
 
この惠まれた果樹園の中の
幸多き賓客(まらうど)の一人に眼を注いだ。
聲はゆかしく、羽は美しく
すべての鳥に優る紅雀よ!
お前は緑の美衣(きぬ)をまとひ、
今日この(には)先導(さきしるべ)として
花盛りの宴樂(うたげ)を司り顏に啼いてゐる。
こゝはお前の領分だ。
 
鳥、蝶、花はすべてみな、
互ひに戀の夢に醉ってゐるのに、
お前は一人樹蔭を飛んで
つとめを一人で勵んでゐる。
お前は惜氣もなく歡喜を撒き散らす
空氣のやうな生物だ。
惠を多く受けてゐるので(つれ)()らぬ、
お前は一人でたのしめよ。
 
そよ吹く風にひら〜搖ぐ
かなたの榛樹(はしばみ)の藪の中に、
大狂歡(おほよろこび)で梢に止まってゐるが、
なほも空を舞ふかと思はれる
かしこの紅雀を見よ!
今!彼れが翼をふるへば
陰影と微光に包まれて
小さな姿は少しも見えなくなる。
 
そよ吹く風にひるがへる落葉となって
紅雀は折々この眼を欺き、
飛んでは小舍(こや)の軒端に移り、
湧くがやうに歌をうたふ。
藪の中を飛んでゐるときに、
その喜びの歌で
一時装うた聲のない形の(ぬし)
木の葉を嘲り嗤ふかのやう。
        ---- 一八〇三 ----

巌の櫻草 (The Primrose of the Rock)

姿のめづらしくない岩なので
過ぎゆく旅人はこれを輕んずる。
けれど螢は群星のやうに
この岩一面に輝き、
いぢらしくはにかむ一莖の櫻草は、
この岩に春の微風(そよかぜ)を招く。
 
私は始めてこの櫻草を見出して
わが身のためのものと思ってから
多くの殘虐な戰は起り、
多くの國は亡びた。
いと高き天より降る
自然の連鎖をつなぐ環よ!
 
花はなほ莖に仕へて
春來る毎に咲き、
人目をさけて働く根に
莖は忠實(まめやか)だ。
根は岩にかたく
あやまたずに附いてゐる。
 
岩は倒れかゝってゐても
なほ天地にかたく縋り、
地球は軌道を廻って誤なく、
神はすべてを支へ給ふ。
さればこの孤獨の花も咲き、
年毎に枯れるのも恐れない。
 
  *  *  *
 
こゝに冥想の調べは終った、
けれどその日、微風は心地よく吹き、
白い山の峯は輝き、
(ひかげ)うらゝかな谷は美しく見えた。
巌の櫻草には
次の歌を與へた。
 
汝のやうに、野や森の
幾千の輝く花が蘇るのを羨むな。
われらの永生の希望を亂す
恐怖はあるが、
神の救ひの愛は
その恐怖にも遙かに勝って大きいから。
 
この愛を悟れば、
病も、愛する者を失った不幸も、
老齡も、その意味を更へて
道徳的要素となり、
人間の不從に加へられた呪詛の薊も
復活の典型とならう。
 
罪に汚れて枯れるとも
われらも亦心ある人の子、
忘却の多より呼びさまされては
起ちて再び息づき、
七十年の生涯を忘れ、
永久の夏に逢ふ時もあらう。
 
心の謙遜(へりくだ)れる者に
この再生の先見は天より來る。
この信仰は正しき人を
その生前にも臨終にも高め、
人々の魂を分たれた天國、
神の宮居とする。
        ---- 一八三一 ----

泉(對話) (The Fountain)

二人は胸襟を開いて
眞實と愛情(なさけ)のこもった言葉で語る
またとない親友であった、
私は若く、マシュウは七十二であったが。
 
空に覆ふ樫の樹蔭の
苔蒸したほとりに二人が坐ると、
芝生よりは泉が湧き出て、
足許で踊り流れた。
 
私は言った、『マシュウよ!
この心地よい水の調べと合はせて
古い田舍の歌か、夏の眞晝にふさはしい
輪唱歌(とりうた)でも唱ひませう。
 
『或は寺の時計と鐘を題に
去る四月あなたが作った
面白い()れ歌をば
この樹蔭で唱ひませう。』
 
マシュウは黙って
樹蔭の泉を眺めてゐた。
やがてなつかしい老人——
白髪の無邪氣な友は答へた。
 
()かれても(かわ)かされても恐れず
この小川はたのしげに流れるではないか。
千年もさら〜と
今のやうに流れるだらう。
 
『この樂しい日、こゝに來て、
私の若い日に幾度も
この泉の(ほとり)に横になった
昔の日をば思ひ出さずにはゐられない。
 
『この眼は大人氣(おとなげ)ない涙で曇り、
胸はたゆたげにうち顫へる。
その昔耳にした同じ音が
いま又この耳に聞えるから。
 
『人の衰へるもこの通り、
けれども賢い人は
すぎた世をかなしまず、
この世を歎くこともない。
 
『茂った木の間の(つぐみ)
丘のべの雲雀、
彼等は心のまゝに唱ひ、
心のまゝに啼きやむ。
 
『鳥は自然に向って
愚かな戰をいどまず、
若い時には幸福を思ひ、
老いては美しく自由だ。
 
『然し人は律法(おきて)に抑へられ、
歡びが心に絶えた後も、
尚その昔歡ばしかったため
悦びの顏をすることもある。
 
『同じ血族(みうち)のものが
とこしへに地に眠った時、
(なげ)かぬ人があるとすれば
それこそ洵に喜樂の人。
 
『君よ、私の齢は傾き、
私の生涯も認められた。
私を愛してくれる人は多いが、
心から愛してくれる者は一人もない。』
 
『あなたがそんなに嘆くことは
あなたと私とを(そこな)ふのです!
私はこの樂しい野に生きて
何とはなしの歌を唱ってゐるのです。
 
『マシュウよ、あなたの亡き子に代って
あなたの子になりませう!』
すると彼は私の手をとって、
『あゝ!それは出來ない。』
 
二人は泉のほとりを離れ、
緑色の羊の通ひ路の
滑かな坂をすべり、
森の中を潜って行った。
 
そしてレオナアドの巌に來る道で
マシュウは寺の狂った古時計と
亂れたその鐘の
面白い唄を歌った。
        ---- 一七九九 ----

忠告と返答 (Expostulation and Reply)

『ウィリアムよ、その古い灰色の石の上に
かく半日の長い間、
たゞひとり坐って
何故時を空費するのか?
 
『君の書物はどこにある?
迷へる者、(めし)ひたる者の光明なる書物は!
起ち給へ!起ち給へ!
そして故人が我等に送る魂を吸ひ給へ。
 
『君は母なる大地を見廻す、
大地は目的なく君を生んだかのやう、
君は大地の初兒(うひご)のやうに、
そして君より前には人は生れなかったやうに!』
 
ある朝エススウェイトの湖畔で
何とはなしにこの世の樂しかった日、
わが友マシュウはかやうに言ったので、
私は次のやうに答へた。
 
『眼——それは見ざるを得ぬもの、
耳は聽かざるを得ぬもの、
われらの身體はいづこにあるも、
好むと好まざるも、感ずるものだ。
 
『また自然には力があって
われらの心におのづから感化を與へる。
われらは賢く受身であれば
われらのこの心を養ひ得るのだ。
 
『絶えず語ってゐるこの大自然の中にゐて、
自から現はれるものは一つもなく
われらは尚も求めねばならぬと
君は思ふのか?
 
『だからこゝにたゞひとり
自然と互ひに話を(まじ)へてゐるのかもしれぬから、
この古い灰色の石の上に腰かけて、
時を空費する理由を問ひ給ふな。』
        ---- 一七九八 ----

局面一變 (The Tables Turned)

同じ題目に就いてその夕方の場景

起ち給へ!起ち給へ!書物を捨てゝ、
さもなくば君は必ず腰が曲る。
起ち給へ!起ち給へ!顏を晴れやかにして、
何故にこんなに苦しみ惱むのか?
 
山の頂きの太陽は、
長い緑の野一面に
爽やかな柔かい光を投げて
美しく夕映えてゐる。
 
書物!それは物凄く果てしない議論の爭ひだ。
さあ、森の紅雀(べにすずめ)を聞き給へ、
あの調べの美しさよ!まことに
書物よりも多くの智慧はその聲にある。
 
聞き給へ!(つぐみ)の歌の(たへ)なるを!
彼もまた貴い説教師。
よろづのものゝ生命に入り、
自然を君の師とし給へ。
 
自然はいつも富を與へ、
われらの心を(はぐく)んでくれる——
健全のもたらす齑剌(はつらつ)たる智慧と、
快活の生む眞理はそこにある。
 
五月の緑の森を眺めた一つの感激さへも
人に就き、善と惡とに就き、
世のすべての聖者が教へるよりも
多くのことを君に教へる。
 
自然のもたらす教へは美しい。
われらの干渉好きな知識は
物の美しい形を崩してしまふ——
われらは解剖しようとして生命を殺す。
 
科學と藝術とはすでに澤山だ。
空虚な書物を閉ぢ給へ、
さあ來たまへ、そして
(みつ)めて受け容れる心をもって來給へ。
        ---- 一七九八 ----

小さな白屈菜(くさのわう)に (To the Small Celandine)

三色菫、百合、毛莨(うまのあしがた)、雛菊よ、
人々に稱讚を受けて生きよ。
夕陽の西に沈む限り
櫻草は榮えて讃められよう、
菫の花の咲く限り
物語に傳へられて賞められよう、
けれど私の愛する花は
小さな白屈菜(くさのわう)
 
星を見つけようと
いと遠く眼を馳せて
天體をこゝかしこと探し、
星を見ては喜ぶ天文學者もある!
この小さな花を見出してから
私は天文學者のやうに豪いと思ふ。
そこで小さな花よ、私は悦び踊らう、
賢い天文學者のやうに。
 
汝は謙遜ではるが大膽で
その美を恣にする妖精だ。
汝と私とは確かに最初出逢ったことがある筈、
それ以來三十年間
山に谷に汝を見て來たのだが、
その間たゞ顏のみしか知らなかった。
しかし今では私が行く處で汝と出逢って
一日に五十囘も會釋する。
 
森の木の葉が芽を出さぬまへ、
(つぐみ)が巣喰はぬ早春に、
汝はよろこんで
かゞやく胸をば
輕薄な遊蕩兒のやうに擴げて
勇ましく咲き、
暖い春の日の來ぬ間に
春の訪れを知らせる。
詩人よ、浮氣な者よ!
彼等は幾千の花に心を惹かれてさ迷ふ、
けれどもそれを氣にするな、
彼等は確かに移り氣な情人だ。
しかし戸外にさへも騒ぎ出て浮かれず、
つゝましやかに暮す田舍人こそ
家の近くに汝の咲くを見て喜ぶ。
いま春は來て、汝も咲かうとしてゐる!
 
汝の眞價で自から慰めよ、
親切な謙遜な心の草よ!
汝は近くの草に氣を止めずに
沼や、森や、林の逕に、
汝の樂しげな顏を現はす。
いかに賤しい所でも
汝の咲くに相應しからぬ
ところは一つとしてない。
 
黄色な花には不幸が起る、
焔の燃える季節に誇り顏の子供よ!
人が見ようと見まいと
毛莨(うまのあしがた)は見られるのだ。
また丈高い他の草花は
世俗の花のやうに咲く。
賞讚を受けよ、それは汝のもの、
小さな謙遜の白屈菜よ。
 
喜びと樂しみの豫言者よ、
地上で惡い報酬(むくい)を受ける花、
多くの花の來るを知らせる使、
續いて來る樂しい花の行列の先驅、
私の心の見たいと思ふ時に現はれ、
日毎咲いては夕べに閉ぢる花よ、
愛づる汝を讚へるために
讃歌(ほめうた)を歌ふのが私にはふさはしい!
        ---- 一八〇二 ----

胡蝶を追ふ知更鳥(こまどり)に (The Redbreast chasing the Butterfly)

愛らしい英國の知更鳥(こまどり)よ、
汝は人が最も愛する小鳥なのか、
眞紅の胸をした虔ましい小鳥なのか、
秋風が啜り泣くとき
戸口のほとりに來る小鳥なのか?
汝はノルウェイの百姓のピイタアか、
フィンランド、または遙かロシヤの内地で
トマスと呼ぶ鳥なのか?
色々の名前で汝を知ってゐる人々が
彼等の兄弟と呼ぶ小鳥か、
子供と大人の愛兒(まなご)か?
若し父なるアダムが眼を開いて
この下界で汝の爲體(ていたらく)を見たまへば
再び眼を閉ぢ給ふだらう。
若し胡蝶が彼の友を知ってさへゐれば
こゝへ飛んで來るだらう。
そして樹蔭の下にゐる
私のところへやって來て、
樹蔭の枝を出たり入ったりするだらう。
かくも蝶を追ふものが森の中に行きくれて
二人の子供を木の葉で覆ひ
いぢらしい程情けをつくして
人のためになったといふ鳥のすることか。
知更鳥(こまどり)よ、汝は生來 温和(おとな)しい
美しい蝶を追ふことも出來るのを
何で苦しむ?夏の空の下で
花から花へ蝶を飛ばせよ、
蝶の望んでゐることはそれだけだ。
汝は冬に屋内の悲しみを慰める、
蝶は夏の樂しい友。
それに汝は夏に遊び仲間となり
絲遊(かげらう)燃ゆる中を飛び廻ることを何故嫌ふのか?
彼は紅色の美しい翼を胸につけ
汝のやうに輝く紅色をしてゐる。
若し汝が巣の中で樂しかったら
あゝ、人が愛する敬虔な小鳥よ!
胡蝶を愛せ、さもなくば逐ふのでないよ!
        ---- 一八〇二 ----

雛菊に(一) (To the Daisy. "In youth from rock to rock")

私の若い頃、高く激しい
喜びの胸にないときは、
岩から岩に、丘から丘にさまよひ、
最も不安のないときは最も樂しかった。
けれど今やわが歡喜(よろこび)を自から創り、
わが渇きをば小川で霑ほし、
喜んで自然の愛を汝から得る。
優しい雛菊よ!
 
冬は花の冠に汝をかざして
殘る白髪を飾り、
春は微風(そよかぜ)に雲をわけて
輝く日を汝にそゝぐ。
夏野はもとより汝がもの。
かのかなしげな秋は
時雨に濡れる紅の
汝が頭を見ては喜ぶ。
 
群れ、集ひ、舞ひ踊り、
通行く旅人を迎へ
會釋を受けてはよろこぶ、
よく顧られなくとも
怖れず、また悲しまず、
折りふし遠い野末に
汝と逢へば、求めてゐた
喜びの思ひは浮ぶやう。
 
人も通はぬ所に咲く菫の花を
浮かれ心の春風は選ぶ。
雨露の眞珠(たま)とかゞやく
花薔薇よ、誇らば誇れ。
けれど汝こそは思ひ高ぶらねど
譽を得ずして朽ちはせぬ。
まことに汝は詩人の愛する
(いと)しい花。
 
詩人が雨を避けて岩に寄り添ひ、
あるひは四月の霽れた日
暑い日光(ひかげ)に閉ぢこめられて
緑濃い冬青(ひいらぎ)の下に臥し、
終に疲れた足を曳きずりつゝ出る時、
たゞ一目見れば
汝はそこにゐる、
詩人の憂ひを拂ふ手近の友よ。
 
幾度か、岩蔭に樹蔭に、
かやうに憩ふことの一時ならずして、
汝の美しい姿から
ある悟得(さとり)を得た——
堅い愛、短い喜び、
失はれた記憶、
さま〜゛の空想の調べ、
また不意の創意を得た。
 
嚴かな情熱が心に燃える時、
汝の姿をふと顧みると
私は卑しい水甕から
低い喜びを飲む——
日々の生活に心を留め
われらの心を(はぐ)くむ飾りのない同情、
こともない時の心情の要求に、
叶へる智慧を飲むのだ。
 
朝の清々(すが〜)しい光を浴び、
汝が起きて踊り樂しむとき、
樂しい花よ!私の靈もまた
よそごとならず思ひ喜び、
夕べの露に打たれてうなだれる時、
汝が心安らかな面影は
憂き煩ひの悲しい胸を
やすめらことも幾度だらう。
 
朝から日暮れるまで、
四季にわたって
何處で汝に逢ふとも
汝から受ける賜物が尚一つある。
それは本能、盲目的な感覺、
嬉しい樂しい力で、
どうして何處から來るか、
また何處に去るのか私は知らぬ。
 
年の幼兒よ!今日も夜は明けて
雲雀(ひばり)にも小兒にも負けまいと
急いで日を迎へる時、
樂しい路を走る汝よ、
汝が永く失った賞讚(ほめことば)はまた與へられよう、
後の代の人々からも古へのやうに
汝は愛せられよう、
汝は空しい自然の愛兒(まなご)ではない。
        ---- 一八〇二 ----

雛菊に(二) (To the Daisy. [注:To the Same Flower] "With little here to do or see")

廣いこの世に爲すこともなく
見るものもないつれ〜゛れに、
雛菊よ!またも汝に語らう、
汝こそは私の友だから。
驕慢(おご)らぬ世の常の
飾りのない汝の姿にも、
愛の神が汝のために創った
美しさを具へてゐる!
 
(まだら)な芝生の上に
うち寛ろいで坐り、戯れに
汝を偲ぶさま〜゛の
似通ふ姿を思っては、
とりとめもないかず〜の
善き名、惡しき名をつけて
打ち見る折りの氣まぐれに、
汝を呼ぶのは面白い。
 
風采賤しい澄ました尼か、
天眞(うぶ)なまゝに
すべてのものに誘はれる
愛の宮居の手弱女(たわやめ)か、
紅玉をかざす女王か、
着物も薄く飢ゑた兒か、
とり〜゛にいともふさはしい
お前の名稱(よびな)よ。
 
脅して挑まうとて
片眼で見張る小さいサイクロプスと
思ふのもしばし——忽ちに
氣まぐれも打ちすぎて、
姿が消えると——見よ、
黄金の疣ある白銀の楯を打ち翳し、
勇ましく戰ふ
小人(こびと)を獲ると見える!
 
遙か遠くにきらめく汝を見れば
汝こそは美しい星よ。
美しさは、み空に輝く
數々の星には及ばぬが、
きらめく徽章(しるし)を帶びた星の
空にかゝるやうに見える。
汝を侮る者の身の上には
平和よ、絶えて來るな!
 
美しい花よ!終にかく呼ぶのは、
私の夢はすべて消え失せたから。
思ひをかたく寄せながら
物も言はぬかはゆき生物よ!
私と共に日を浴び、呼吸をする者よ、
常のやうに私の氣を晴らせ、
汝の優しい心の喜びを
私の胸にみたして。
        ---- 一八〇二 ----

雛菊に(三) (To the Daisy. "Bright flowers!")

輝く花よ!何處も己が住家として
母なる自然の愛護(まもり)をうけて勇ましく
永き一年を明け暮れ、
喜びか、または悲しみを身に受け嗣いで、
汝が胸には森の中の
他の花に與へられぬ
人間との調和のあるのを
わたしは信ずる。
失望し易いのは人の心か?
思慮のない者よ!
一たび不幸に逢ふや
記憶を忘れ、理性を失ふ。
あらゆる嵐の下に庇蔭(かくれが)を尋ね、
時に利あるもまた非なるも
希望を懷くべき術を
汝は人に教へるものか?
 
汝はこの廣い世界をさまよひ、
驕慢(ほこり)にも疑惑(うたがひ)にも妨げられず、
汝を抑へる友のあるも、なきも、
たのしんでは喜ぶ。
時機の招きに(いら)へてさからはず、
使徒のやうな汝の職務(つとめ)
安らかに果しつゝ
すべてのことを忍ぶ。
        ---- 一八〇二 ----

小猫と落葉 (The Kitten and the Falling Leaves)

彼方を見よや、嬰兒(みどりご)よ!
何と美しい嬰兒の見物!
散りゆく木の葉と戯れる
石墻の上の小猫を見よや!
高い接骨木(にはとこ)から
枯葉が一つ——二つ——三つ。
美しく晴れ渡った今朝の
靜かな冷い空氣の中を
圓輪を描きながら
枯葉は柔かに、緩やかに地上に落ちる。
木の葉が動くさまを見れば、
小さな葉が一つ一つ、
姿も見せず口も()ぢ、
打ち搖ぐ落下傘(パラシュウト)に乘って
氣仙か妖精がこの下界に(くだ)らうと
こなたへ寄り來るのを、
渡してやるかとも思はれる。
それはさて、小猫は初め一つの葉に、
それから同じやうな輕く黄色い他の枯葉を見て
或は身を屈め、或は身を伸ばし、
或は前足で()き、或は突き進んで跳ぶさまよ!
枯葉が澤山落ちてゐる——今は唯一つ——
地上に落ち葉は一つもない。
見上げてゐる小猫の火のやうな瞳には
何と強い欲望が現はれてゐるではないか!
小猫は虎のやうに跳び上って
落ち來る枯葉を補へ、
忽ちこれを放ち、
また忽ちこれを放ち、
また忽ちこれを捕へる。
小猫は印度の手品師のやうに
三四枚の枯葉を手玉に取る、
その早業は印度の手品師にも劣らぬが、
その心の喜びは遙かに大きい。
もしこの小猫の道化が、歡呼の聲をあげて
拍手しながら見詰めてゐる
幾千の見物人の前で演ぜられるとも、
群衆の喝采は小猫には何でもない。
戯れに夢中になって、自ら樂しみを感ずる事が
深いので小猫は誇りもしない!
 
この戯れは愛らしい嬰兒の饗應で、
また私にも相應(ふさは)しいものだと思ふ。
此處には嬰兒にも私にも
小猫の他には遊び仲間がゐないから。
(日向に日蔭に
梢に草の葉に)
足や翅を動かして
忙しく跳び廻り、
囀りと歌と囁き聲で
この狹い果樹園と
この谷間とを樂しくしてくれた
無數の生物の中で、
多くのもおんは
もはや死んでしまった。
或る物は蟄居して眠り、
或は群をなして遠くの國へ旅立ち、
また人の住家を遠く離れた
沼地や森の中へ逃げたものもある。
またこれらのものよりも親密な仲間であり、
吾々と公然住居を共にしてゐる
家畜の類は、すべて陽氣の心を失って
陰氣のものと化してしまった。
 
林檎の木に餌を漁ってゐた
鳥の中で一番幸福な
輝く羽毛をもってゐる
輕率な妖精といふべき山雀(やまがら)
梢の花をひっくりかへして
荒れまはる山雀(やまがら)
梢から(さかし)まにかゝって
羽ばたきして枝に止まり
圓く體を捲き込んではまた開く山雀(やまがら)
最も輕快な、華やかな道化役者!
類のないほど美しい輕業師!
氣は輕く體も輕い
あの山雀はどうしたのだらう?
年の始めに
躍りながら、樂しく鳴いて
山路をさまようた仔羊は
今は眞面目に澄ましてゐる。
谷や丘を眺めても、
耳を傾けて聽いても、
音もさびしく落ちる
巌もる流れの外は
すべて物音もせぬ。
丘や野は陽に輝き、
風は靜かに、
朝空は(ほがら)かに晴れてゐるが、
それも今は甲斐なく思はれる。
生物は一つとして
喜ばぬさまに見える、
冬の近づくを
恐れてゐるのであらうか?
又は賑々しく氣輕なよりも
尚も快い樂しみがあるのだらうか?
 
然し、自然が生物に與へた
沈默してゐる心の中には
いかなる樂しみを感ずるとも、
これを外部に現はしては餘りに不適當だと
吾々が感知するものがあっても
美しい小猫よ、汝の戯れから生れる喜びは
こんなに大きいのだ。
そして小さいドラにもまた
同じやうな喜びを與へるのだ。
洵に汝の喜びが私のものでないことを、
また汝等氣輕なものと同じやうに、
私が全く喜ばれないことを
殆ど口惜(くや)しく思ふ程
この樂しい光景は、
私に抱かれて笑ってゐる汝を喜ばす。
(うき)ことがあっても
時には棄てゝ樂しまう、
老いて身の衰へた時には、
この上もない喜びが
折々はあるやうに、
この生涯を暮さう。
忙しさうな小猫の戯れによっても、
また小猫と喜びを共にする
幼兒の笑ってゐる眼によっても、
折々は喜びを楽しんで
私は小猫や嬰兒の如く暮し、
私の幸福の中に智慧を求めよう。
快活な心を鼓舞し、
憂ひや悲しみがあらうとも
わが生涯の落葉をも樂しむために、
悲しみで織られた物からさへも
喜びの種となるものを
見出す力をもちたいもの。
        ---- 一八〇四 ----

木の實拾ひ (Nutting)

その日は忘れがたい
尊い一日であったやうに思はれる。
(かういふ日は唯一日に限ったわけではなかった)
子供らしい望みに夢中になって
大きな頭陀袋(づだぶくろ)を肩にかけ、
手にも鈎をもって家を出で
ある遠い森へと足を運んだ。
木の實拾ひのためにと作ってあった襤褸衣服(ぼろぎもの)
得意氣に姿をやつし、
始末屋の主婦の熱心な勸めで
棘と、叢も、茨も物ともせぬ
一風變った身支度——
ほんとに必要以上に丈夫な襤褸衣服(ぼろぎもの)
道のない岩の上や、密生した羊齒叢(しだむら)や、
藪の中を押しわけて
人も訪はぬなつかしい森蔭に來た。
榛は高く眞直に、人目を誘ふ實がむらがりなってゐた。
葉は枯れて、垂れた折枝もなく、
劫奪(けふだつ)の殺風景な(しるし)もない、
汚されぬ處女の姿!
人が嬉しい時は好んでするやうに、
わざと雀躍(こをど)りする胸を抑へて息をはずませながら
しばしの間佇んでゐた。
そして逸樂の喜びを賢く抑へて
獨り恣まにその美味を味ひ、
或はまた木蔭の下で花と戯れた。
永い間惱ましく待ちあぐんでゐる折しも
突然意外の幸福を授けられた人が
經驗する歡喜の氣持——を味った。
恐らくその木は四阿(あづまや)になって、
五年の間、菫の花が
人知れず咲いては萎れるのだ、
そこではなつかしい水のせゝらぎが
永久にさゝやいてゐる。
私は泡立つ水沫(みなわ)を眺め、
羊の群のやうに散在して四邊に
樹蔭の下の青々と苔蒸した
緑の石の一つを頬にあてゝ、
快樂を貪らず、のんびりとした
あの心ゆく氣分で水の囁きを聞いた。
そして木の實を手に入る喜びを信じて、
樹の幹や、岩石や大空を打ち眺めつゝ
心はとゞめなき物の悦樂に耽った。
それから私は急ぎ立ち上って
大枝、小枝もろともに
力任せに無理やりへし折った。
榛の樹蔭や、苔蒸した緑の樹蔭は
不具にされ、汚され、(そこな)はれ、
その靜かな身體をいぢらしく
(ぢつ)となすがまゝに任せてゐる。
その時の心持と現在の心持とを混同してゐないならば、
手足をもがれた樹の蔭から
王にも勝る富を抱いて喜びながら引き返す前、
黙してゐる樹と木の間より覗く空を眺めた時、
私は或る心苦しさを覺えた。
あゝ妹よ、心靜かに
その樹蔭のほとりを行きかひしてくれ、
柔かに觸れるがよい——森には聖靈があるから。
        ---- 一七九九 ----

ひとり麥刈る乙女 (The Solitary Reaper)

野の中にたゞひとり
歌ひながら刈る
かのさびしい田舍乙女を見よ!
足を止めて聞け、さなくば靜かに過ぎよ!
たゞひとり刈りては(たば)ね、
かなしげな歌をうたふ。
あゝ聽けよ!その聲は
深い谷に溢れるを。
 
アラビヤの沙漠の中、
オアシスに憩ふ旅びとに、
啼く黄鶯(うぐひす)の歌も
乙女の(たへ)なる歌には及ばぬ、
いと遠いヘブリディーズの
離れ小島に海の沈默を破り
春の夜を啼く郭公の調べも、
かくばかり切なる思ひはすまい。
 
乙女の歌ふは何?
もの哀れなその歌は恐らく
古へのいたましい物語か、
そのかみの(いくさ)のさまか、
或は又聞き慣れた
今日この頃の鄙歌か?
浮世にもれぬ世の常の
悲しみ、死別、苦しみか?
 
さあれ乙女の歌は、
果しも知れぬやうに歌った。
歌ひながら身をまげて
鎌もつ乙女を眺め、
身動かず靜かに聞いた。
そして私は丘を登ったとき
あの調べは私の胸に永く殘った、
歌聲が聞えなくなった後も。
        ---- 一八〇三 ----

バアンズの墓場にて (At the Grave of Burns)

猛けく雄々しきも靈よ、
今私は天才の末路を思うて身顫ひする。
冷い牢獄から吹き送られる濛氣が
  忽ち歡樂の興をさますやうに
悲しみが土から湧いて來る、
  バアンズの横はってゐるところ。
 
君の屍はこんなに近くありながら
私の前へ現はれることは出來ないのか?
君自身が此處にゐるかのやうに、
  苦しさに私の身はすくむ。
私の願ひも恐れも
  同じやうに空しいのだ。
 
悲しみの重荷よ去れ——重荷の上に重荷を加へるな!
不快な思ひよ去れ!それは一時で、長く止まらうとは思はぬ。
清らかな心持で、彼に拂ふべき敬意を
  捧げたいと思ってゐる、
人間の眼から彼の遺骸を隱す墓は
  その何たるを問はず。
 
貞節謙遜を歌った花のやうに鮮やかに、
彼の天才は「輝き」出でて
大地に觸れる星のやうに昇り、
  比類なき光をもて
みすぼらしい故郷の家を
  飾るやうに思はれる。
 
鋭い眼、廣い顏、もがく心、
それは今どこにあるのだらう?
餘りに早く、鋤をとりながら熱望を懷き、
  敏活で勇ましい彼は、
最も卑しい名の人々と共に
  低い沈默の墓の中に眠った。
 
私は幾度も幾度も、
特に一入深く悲しむ人間として歎く、
蓋し彼の光が始めて輝いた時私はそれを敬ひ、
  卑賤な眞實に基く詩句が
どれほどまで王侯の威嚴を具へ得るかを
  私の若い時に示した彼は逝いたから。
 
あゝ!心の思ひは何處に流れようと、
悔いの念は追ひかけてそれと混る——
聳え立つクリフェルの白い峯は
  スキィドオ山から見えて——
二人は隣り合って住んでゐたなら、
  互ひに愛すべき友達であったかもしれぬ。
 
心の傾向は異ってゐても彼は眞の友であった。
然し心と心、情と情は
主要な點に二人の心が合致するときには
  自然の巧みによって
反對の性質のために反って益々結合を
  堅くすることもあり得るのだ。
 
涙が出れば流させよ、哀れな地下の人よ、
[「]哀れな地下の人」よ、
この嚴肅な瞬間に於てすら——若し事情が異なれば、
  互ひに坐って親しく話すことが出來るのに、
雛菊の咲いてゐる所
  または野生のヘザアの上で。
 
その時いかなる寶が
私の力の屆く所に置かれたらう!
空想で飾られたどんな美味(おい)しい知識の食物が置かれたらう!
  だが何故吾々は何時までもこんな愚痴をこぼすのか?
あゝ、傷ましい風よ、吹き拂へ、
  草の生ひ茂った彼の墓場を。
 
かしこにも亦、彼の喜びと誇りであった息子が
(彼が死んでから三週間も經たぬ内に)
父の傍に横はってゐる。
  魂を動かす光景よ!
しかもその光景は悲しいながらも
  幾分の喜びがないこともない。
 
息子だけは年若くして
死人の間に墓場を見出し、
誰一人惑はしも、(しひた)げもせず、惱ませもせず、
  又苦しめもせぬ所に隱れ家を與へられたから。
この墓場では若くして死んだ息子の方が
  幸福だと云へるかも知れぬ。
 
あゝ惠み深い神の惠みによって、
誤りの充ちてゐる人生の道で
屢々咎められたバアンズをば
  人間の墓を神々しくする神よ、
彼の魂を抱け、彼は神の手に、
  抱かれることを求めてゐたから。
 
歎息しつゝ私は引き返した。
然し日の暮れぬ前悲しみの(おもひ)を交へぬ音樂が
聞えたやうに思はれた——
  恐れを除く愛で
天使によって歌はれた
  莊嚴な讃歌(ほめうた)が。
        ---- 一八〇三 ----

ハイランドの乙女に (To a Highland Girl)

ロオモンド湖上のインヴァスネイドにて

なつかしいハイランドの乙女よ、
さながら雨の如く豐かに注がれた美は人間の得た天の賜物よ!
十四年の歳月は共に心を合せて
彼等の最上の賜物をお前の頭に注いでゐる。
それらの灰色の岩、家の芝生、
面紗(ヴエイル)を顏から取除いたやうに景色の一方を飾って茂ってゐる樹木、
この小瀧は靜かな湖の近くで
さゝやきを交してゐる。
この小さな入江、
お前の住家を樹蔭に抱いてゐる靜かな路、
ほんとに一緒になって
お前達は夢の中で形作られた物のやうに見える。
現在の苦勞が眠りに就いた時、
その隱れ家から覗くやうな姿!
然し、おゝ美しい乙女よ!
この世ならぬ光ではあるが、眞晝の光の中で
お前は夢か幻のやうに見えるとはいへ
生きた人間の情で私はお前を祝福する。
神はお前の一生の最後まで護るのだ!
私はお前も知らねばお前に比ぶべき者も知らぬ、
しかもお前の前途を思へば涙にくれる。
 
私が遠く去って行った時には
心をこめてお前の爲めに祈らう。
お前の風采と顏付ほど
全く無邪氣さに(はぐ)くまれ、
親切と、家庭で教養された分別を、
明らかに現はしてゐるのを見たことがない。
偶然零れ落ちた種のやうに
人里を離れてこゝにゐるお前は、
(はに)かんで氣を揉む當惑な顏付や、
娘らしく顏を赤らめて恥ぢる樣子も()らぬ。
喜びの溢れた顏!
人間の親切で育くまれた優しい微笑!
お前の禮儀作法に現はれる完全に品の整ってゐる有樣が
お前のすべての樣子に何となく現はれてゐる。
思想が餘り急激に熱心に湧き出でて、
しかもそれを云ひ現す言葉に乏しいため、
一種の束縛を感ずるだけで、
何にも拘束せられてゐないのだ。
心やさしく忍ばれる束縛、
お前の身振りに優美と活氣を與へる一種のもがき!
それほどに私は心をひどく動かされて、
千鳥が風に向ひながら
進みゆくのを見た。
 
かくも美しいお前のために
花環を摘まぬのはどんな手か?
ヒイスの茂った谷間で
お前の傍に住むことは如何に幸福ぞ!
お前は純朴な姿を選んだ羊飼ひ、
お前は牧牛婦(をんなひつじかひ)だ!
然し私はお前のために
眞面目な現實に一層近づいた。
お前はまるで荒海の浪の一つのやうに
私とは全く縁がない。
ありふれた隣同士の交りでもよい、
何かの縁を、お前と結ぶ便りが慾しいもの。
お前の聲を聞き、お前を見ることの喜ばしさ!
せめてはお前の兄になりたいもの、
お前の父に——お前の何にでも!
 
あゝ忝じけなや!神の惠みによって
私はこのさびしい所へ導かれて來た。
私にはよろこびがあった、
こゝから私は報酬をもって行かう。
後々までも明かにその影像を止める
吾々の記憶の力を有難く思ふのはこんな場所だ。
然らば何故私は立ち去るに忍びないのだらう?
こゝはかの乙女のために造られたものだ、
人生の永續するやうに長く續いた
過ぎし日のやうに新しい快樂を與へるために。
心では嬉しいけれど、懐かしいハイランドの乙女よ!
私はお前と別れることを嫌ひはしない。
老いゆくまで小屋や湖や、入江や流れが今見ると同じやうに、
私の前に美しく見えるやうに思はれ、
お前はそれらをすべて活氣づけそれを貫く靈だ。
        ---- 一八〇三 ----

西方へ歩む (Stepping Westward)

私は道伴とある日沒後の美しい夕べ、 カトリン湖の傍の道を通って、吾々の旅行中、 數週間非常な歡待を受けたある家を指して行く時であった。 寂しい地方の最も寂しい所で、二人の身裝の賤しくない婦人に出逢った。 その一人は吾々に挨拶旁々『まあ西の方へ御出でになりますか?』といった。

『まあ西の方へ御出ですか?』——『さうです。』
遠く故郷を離れて、
ともに異国をさまよふ二人が
此處で偶然の機會の迎へるまゝにするならば、
實に奇怪な運命といふべきだらう。
それにも拘らずこんな美しい空に導かれては、
家も宿舍もないとは云へ
誰か止まり、又誰か進むのを恐れよう?
 
露けき地は暗く冷く、
後方はすべて暗い。
そこで西の方へ進むのは
天の導きと思はれた。
私はその女の挨拶を喜んだ、
それは場所や境界を超越した或る聲であった。
そしてこの美しい地方を旅する
靈的の權能を私に與へるやうであった。
 
聲も優しく語った女は
自分の故國の湖畔を歩いてゐた。
その挨拶は私にとっては
慇懃な禮儀そのものの響きと思はれ、
私はその力を感じた。
そして燃ゆる空を(みつ)める時、
かの聲の反響(こだま)
行方も知らぬ天外の彼方を旅する
とゞめもない旅愁に、
人情の優しさを加へた。
        ---- 一八〇三 ----

訪れぬヤロオ (Yarrow Unvisited)

場所をヤロオの堤に基いてある種々の詩を見よ。 殊にハミルトンの妙なる譯詩の次の如く始まるを。
『仕度せよ、仕度せよ、美しい花嫁よ、仕度せよ、仕度せよ、愛らしい連合よ!』

スタアリング城から曲折多きフォオスを
吾々は明かに見た。
クライド川やタイ川の堤を踏み、
ード川と共に流れたなら!
クロオヴェンフォオドに來た時
ドラシイはいふ、
『何が起らうと、それは受け流して
ヤロオの丘を見ませう。』
 
『賣買してゐるヤロオの人を
セルカアクの町から
ヤロオに歸らせようぢゃないか、彼等の町へ。
娘もその棲家(すみか)へ歸らせようではないか!
ヤロオの堤で蒼鷺に()ませ、
野兎を寢させ、小兎を隱れさせよ!
然し吾々はトード川に沿うて下り、
ヤロオへは行くまい。
 
『吾々のすぐ前には、
ガラの流れや、リイダア川の低地が横はってゐる。
又ドライバラの修道院の廃墟では
水の音と鳥の聲が禮拜の音樂を奏でてゐる。
樂しいティヴィオットの谷もある、
そこは鋤と(まくは)で樂しくせられた所だ。
ヤロオを探して行くために
何故有用な一日を放棄するのか?
 
『ヤロオは暗い丘の下を流れる
何の趣もない唯の水の流れではないか?
お前が驚異に値するやうなそんな所は
到る處に澤山ある。』
不思議な言葉で、彼等が侮られるやうに見えた。
ドラシイは悲しげに吐息を洩らした。
かやうに私がヤロオを語ったのを考へて
私の顏を見た。
 
『あゝ、ヤロオの牧場は緑だ。
ヤロオの流れは心地よい!
巌からは林檎が美しく垂れ下ってゐる、
然しそれは取らずに置かう。
丘の路や、廣い谷をさまようて
吾々はスコットランドを行くのだ。
然し、近いとはいへ、
ヤロオの谷へは引き返すまい。
 
『牝牛や牡牛には
バアンミルの牧場の香しい牧草を食べさせよ。
靜かな聖メリイ湖の白鳥は、
水に影を映して二重に浮かんで見える!
吾々は彼等を見まい。
今日も行かず、明日も行くまい。
たとへ心の中ではヤロオのやうな
こんな所があることを知ってゐても。
 
『ヤロオの流れは見ずにおかう!
見れば見たことを悔ゆる時が來る。
吾々は自ら獨特の幻像を描いてゐる。
あゝ何故それが破壞せられよう!
過ぎた昔の尊い夢を
胸に秘めておかう、ドラシイよ!
吾々がそこに行った時には、假令美しいとも、
それは他のヤロオとなるから。
 
歳と共に浮世の苦勞が吾々の心を冷かにし、
放浪の旅が愚なことに思はれようと、
歳と共に旅に出かけることが嫌になり、
然も憂鬱にならうと、
もし生活が懶くなり、元氣が衰へようと、
大地は尚ほ示すべき或る物、
ヤロオの懐しい牧場をもってゐることが
悲しみの中にも吾々を慰める。
        ---- 一八〇三 ----

ヤロオを訪れて (Yarrow Visited)

これがヤロオか?
わが空想がかくも忠實に育くんで
胸に描いた幻想の流れか、
實物を見たために破られた幻影か?
あゝ、あの樂主の竪琴が近づいて
喜びの調子をうたひ、
わが心を悲しみで充すこの沈默を、
大氣から追ひ放ってくれたならば!
 
けれど何故私の心は悲しむのか?
銀の流れは心のまゝに蜿蜿と流れてゐる。
わがさまよひの旅に、かくも緑の山々で
わが眼の慰められたことはない。
その水底から表面まで
聖メリイ湖が明かに喜び輝いて見える。
そは周圍の山々の姿を
すべてその鏡に映してゐる。
 
青空はヤロオの谷にかゝってゐる、
たゞ昇りゆく太陽の廻りに
眞珠のやうな白さが捲き散らされて
柔かく白く茫と輝いてゐる。
晴れやかに美しい今日の日を豫言させる靜穩な暁!
それはすべての無益な喪心を斥ける。
思ひ出の深い過去の囘想を
この場合必ずしも許さぬのではないが。
 
ヤロオの谷の有名な花が
横死したところはどこであらう?
彼の床は恐らく牛の群が草を食んでゐる
かなたの滑かな丘であったらう。
恐らくこの水晶のやうに澄んだ池から、
朝日のやうに平和に
彼の亡靈が三度立ち昇って、
哀しき警告を與へた。
 
(さち)多き戀人の訪れと、
森に導く道、
木の葉の茂った森を
唱ふ歌はいと樂しい。
力強い悲しみを描いて
愛情の打ち克ち難い力を示すその歌は、
作者の厚い同情によって清くされる。
戀の力の強い證人となれ、悲しいヤロオよ!
 
愚かしく快活な想像に
かくも美しく現はれる汝は、
現實的な眞晝の光に照らされても
想像の力で精妙に創られた幻想と優に匹敵する。
優しい愛らしさや、靜かな神々しい柔かさが、
汝の周圍にひろがってゐる。
また枯れはてた森の美しい魅力と
牧歌的な憂鬱が擴がってゐる。
 
その地方が殘されてゐるので
谷は高い姿をした茂った森を披き、
ヤロオと共に開拓せられた自然の
盛觀を通して蜿蜿としてゐる。
それらの高い森から聳えてゐる
古色蒼然たる廃墟を見よ!
ニュウアアクの塔の
閉された正面は物語に有名だ。
 
花咲く少年にも
遊び好きの青年の徜徉(さまよ)ふにも
力を樂しむ壯年にも
衰へ行く老年にも美しい景色!
かなたの小屋は至福(さいはひ)四阿(あづまや)のやうに見え、
そこに巣籠る優しい思想、
清い愛情の雛達を
保護するにふさはしい隱れ場に見える。
 
この秋の日、
森の木の實を拾ふ樂しさよ。
またわが眞の愛人ドラシイの額に
花咲くヘザアの花冠を置くことの樂しさよ!
われ自からの額に花環を纒ふとも何にならう!
決して道理を無視するのではない。
眞面目に落着いた山々でさへ
冬に逢ふためにその額を飾る。
 
私には愛するヤロオが見える——
肉眼だけで見てゐるのではない。私は汝に勝った!
空想の光は尚ほ生き殘ってゐて
その光はまだ汝に輝いてゐる!
汝の常に若やいだ流れは、
生き生きと嬉しげに流れ續けることが出來る。
水の音の調べに合せて
歡びの歌を私の唇は歌ひ出す。
 
雲霧は山の頂きのほとりにさまよひ、
溶けて間もなく消える。
雲霧は後一刻の生命で、私の時間もそれ以上ではない。
さう思ふと悲しい、もし知らなかったなら
そんな考へは拂ひ除けたいのだが。
然し何處に行くとも、正眞正銘のヤロオの面影は
私と共に住み、私の喜びを高め、
悲しめるわが心を慰めるだらう。
        ---- 一八一四 ----

詩人の碑銘 (A Poet's Epitaph)

君は政治上の爭の指導者として
訓練せられ養成せられた政治家か?
先づ生きた一人の人間を愛することを學べ。
かくて後初めて死者を適當に弔ふことが出來る。
 
君は法律家か?——詩人の墓に近寄るな!
去れよ、抜け道を見つけるに功を經た眼と
陰鬱な苛酷な顏を
他の適當な所へ持って行け。
 
君は得意滿面の人、
肥え太った色艶よき人か?
近寄れ、けれど醫師よ、餘り近寄るな。
この墓は君が晝寢の床ではない。
 
君は勇ましく誇って濶歩する男か?
決してやくざ者でない軍人か?
來れ!けれど君の劍を棄て、
農夫の杖をついて來れ。
 
君は科學者か?研究する眼のみあって
人情を()たないか哲學者か?指先でいぢくってゐる奴隷か?
生みの母の墓をも神聖視せずに
植物學の研究材料にしたがる男か?
 
地下の人の安らかに眠るため
君の肉感的な毛皮をしかと纒ふ、
あゝ踵を返して、願はくは
次第に衰へ行く魂を抱いて去れよ!
 
道徳家がこの墓に來るかもしれぬ、
この貧しい墓にどうして來るか分らぬが!
彼には眼も耳もない、
自身が彼の世界、また彼の神だ。
 
形體も感情も大小を問はず、
表面ばかり磨きあげた魂には縋ることが出來る[誤?:出來ぬ]
理論を生命とする自己滿足の人、
知識萬能の人だ!
 
心の扉を閉ざして滿足しつゝ
知識の殻の中に眠るがよい。
この益なき塵の近くで
君の時計の十秒時を失ふな。
 
謙遜な顏容(かほかたち)をして
みすぼらしい衣物を纒ってゐるのは誰か?
彼は流れる小川の邊りで
小川にまさる樂の音を奏でる。
彼は白日の露のやう、
正午の森の泉のやうに遠慮勝ちだ。
先づ彼を愛して始めて
彼の愛するに足る人物であることが分る。
 
彼は天と地と、
山と谷との外影を見た。
靈界から湧く衝動は
孤獨の彼に現はれる。
 
日常普通の事物に含まれる
種々の眞理を彼は傳へ得る。
それは自己の内心の上に住む
靜かな眼識の生むものである。
 
けれど彼は弱く、大人時代も少年時代も
無爲の中に過した、
人の智力的に理解する事物を
自からは樂しみ得ば滿足して。
 
汝の強い時はこゝに來れ、
碎ける浪の如く弱くとも來れ!
こゝに汝の全身を伸ばせ、
さもなくばこの墓の上に汝の家を建てよ。
        ---- 一七九九 ----

さうだ、それは山彦 ("Yes, it was the Mountain Echo")

さうだ、それは山彦、
寂しく、朗らかに、深く、
郭公の叫びに(いら)へながら
受けた聲を返しつゝ!
 
求めぬに與へられた答は、
放浪者の囁きに來る。
郭公の常の叫びに似て、
似てはゐるが——甚しい違ひ!
 
空蟬(うつせみ)の生も亦かやうな反響(こだま)をもってゐる!
愚かな愛情、爭鬪に囚はれて
輕々しく暮す人間よ!
二つの異る(さが)の聲を聞かないのか?
 
さうだ、われらも同じくその聲を聞く、
たゞその何處から來るかを知らない。
墓の彼方からの反響、
それと知られる便りを!
 
われらが心の耳は遠くから、
時にはかやうな響を捉へる——
聞けよ、考へよ、その聲を尊べよ、
それ等は神のみ聲だ。
        ---- 一八〇六 ----

日は落ちてやゝなりぬ ("The Sun has long been set")

日は落ちてやゝなりぬ、
星は二つ三つ輝き初め、
小鳥はなほも
樹の間に囀る。
郭公に、鶫一つ二つ、
遠くには囁く風、
湧き出る水の音、
わがもの顏の郭公の聲、
空洞(うつろ)の空をみたす。
美しく水々しき新月の現はれし
六月のこの夜、
この罪なき至福(さいはひ)をすべて身に受けて、
「散歩」又は「假面舞踏」に行くは
ロンドンの何人ぞ!
あゝ、かゝる夜に!
        ---- 一八〇二 ----

靜かなる夕べ ("Calm is the fragrant air")

匂ふ空氣は靜かで
降りゆく露に濕ってゆくが、
晝の(ぬくみ)はすてぬ。
空を眺めると星はないといふ、
再び眺めると白銀色に輝くので、
なぜ眼に映らなかったと不思議に思ふ!
遲れた鳥は塒に騒ぎ、
しばし鳴きしきってゐるがやがて細り、
今や暗にうすれゆく花のやうに黙した。
(くろがね)の音ひゞく村寺の鐘も
時刻をあやまたず季節に從ひ、
いとたゆたげに
九つを正しく打てば——
空氣は冴えて鐘の音は鋭くひゞき、
爐邊に聞く人々は怯える!
陽と共に出る羊飼は、
日の暮れぬうちに戸を閉ざし、
祈りをさゝげて床に入り、
(まどろ)む兒等と共に臥る。
小徑を覆ふ樹蔭から憧れ出た蝙蝠は、
小徑のこゝかしこを飛び交ふ。
忙しい夜鷹の鳴き聲は、
働く人々も怠る人にも
喜びを誘ひ、何れにも氣に入る。
流れの音が聞えた——眼には見えぬが、
柔かい樂の音に水の流れと思はれる。
轍の音、土を踏む音は更に聞えぬ。
舟が一つ見えた、
ゆるめた櫂を棹さすと岸邊に着くだらう。
櫂の音はいかに浮き立つ人にも
死にゆく臨終の姿にも似て
一瞬は眞面目な思ひに心を奪はれさう。
        ---- 一八三二 ----

夜の女王の美はしさ ("How beautiful the Queen of Night")

夜の女王の美はしさ、
ちぎれ雲をば衝いてゆき
折々は小暗い雲の影に
姿をかくす。
さあれ見よや、心して、
雲間から微かに洩れる光こそ
やがて月の雲を破り
再び晴れた青空を歩む豫示ならずや。
        ---- 一八四六 ----

農夫なる友人の鋤に (To the Spade of a Friend)

彼の農園場で二人が働いてゐた時に作る

鋤よ!汝もてウィルキンスンは地を耕し、
エモント河畔に樂しい歩道を作った。
汝は私の手にあっては榮譽の器具で、
素直な地に誇らかに汝を押す。
 
汝が知ったのは世のにも稀な主人、
汝の永く仕へたのは理智の人、
彼の生活は高きと低きとの粹を結び、
勞働の多く休息は少い。
 
健康、温良、熱誠、確乎たる沈着、
心身の勤勞、
自然のごとく純なる——純の純なる
優雅な愉樂を兼ねてゐる。
 
さゝやき流れる川の音に合せ、
または靜かな野邊で
春を賑はす樂人のない時、
詩人の歌ふのを汝は屢々(しば〜)聞いた。
 
墓の下に汝の主人が横はる時、
汝を受けるのは誰か?
その人こそは勝利者の劍より崇高(けだか)
戰勝記念品を受けるのだ、謙遜なる鋤よ!
 
若し彼が情感(おもひ)ある人で、
賞讚の眞僞大小を分ち得るならば、
彼はその手にその心に汝を迎へよう、
汝平和なる幸福の記念物よ!
 
彼は汝と共にあって一日の辛苦を恐れまい
彼の忠僕、彼の善友なる汝と共にあって!
汝が朽ちて無用となるも
空しく汝の運命を葬るものはあるまい。
 
彼の節儉は汝の不用を嘲らず
汝は家の世襲動産とならう——
彼は汝を高く揚げて
汝の最後までその鄙びた竈を飾るだらう!
        ---- 一八〇六 ----

待雪草に (To a Snowdrop)

雪には紛らへど消えもせず、
雪に埋れて獨り咲く花よ、
呼ばれぬ賓客(まろうど)の憚るやうに
お前の俛れたさまを再び見る。
 
峯から下す嵐は日ごとに
昇る陽を襲うて野に下るが、
約束の日も待ちかねて來る
友に逢ふかのやうに嬉しいのだ。
 
やがて五月の青空に
水仙花は庭縁を飾り、
そよ吹く風に咲き交ふ花に
快き香は溢れる。
 
然しお前の優しい面影を
何として忘れよう、純潔な花よ、
雄々しくも春の(さきがけ)となり、
矢よりも早い年の改まるを告げる花よ!
        ---- 一八一九 ----

ある少年 (There was a Boy)

ある少年がゐた、ウィンダア島々と嶮崖よ!
お前達はよくその兒を知ってゐる——幾度も
夕方、逸早く空に現はれる星が
丘の上に見え隱れつゝ動いてゐる時、
樹蔭や、閃めく湖水の邊に
彼は唯一人佇んでゐた。
それから指と指とを組み合せ、
掌と掌とをぴたりと合せ、
口のところにもって行っては、笛のやうに
黙してゐる梟に返答をさせようと、
ホーホーと啼き眞似をした。
梟は打ち濕った谷を隔てゝ鳴き叫び、
呼べば(こた)へてまたもや叫んだ——
顫へる響、高い叫び聲、絶叫の聲、
聲高く木靈(こだま)が幾度となく繰返された。
樂しい騒ぎの狂ほしい合唱!
少年が努めて誘はうとしても
梟は鳴き止んでしまった。
すると無言の儘聞き耳を立てると、
瀧の音が少年の心の奥を
突然優しく驚かしたか、
または靜かな景色の美が、
その嚴かな姿、岩も森も
靜かな湖に映ってゐる
定かならぬ空もろともに
人知れずに彼の心に入ったのだらう。
この少年はまだ十二歳にもならない内に
仲間と別れて死んで了った。
彼が生れて育った谷間は
景色が殊の外優れてゐる。
墓場は村の學校の上の坂路にあって、
夏の夕べ、その墓場を通り過ぎる時
私は必ず半時間餘も
彼が眠ってゐる墓を見詰めて
無言のまゝ立ちつくした。
        ---- 一七九八 ----

幸福な武士 (Character of the Happy Warrior)

幸福な武士とは誰か?
すべて武士の望む理想の人は誰か?
——それは高貴な精神で、
實際生活の仕事に從事するに當っては
少年時代の理想的計畫に基いて實行した人だ。
その高貴なる努力こそ
彼の前途を常に輝やかす内心の光明。
彼は如何程多くのことを知識がなし得るかを認め
自然の本能を以て熱心に學んでゐる。
この決心を堅く守り、こゝで止まらないで、
精神的教養を第一にする。
苦痛、恐怖、流血の慘事に遇ふ時は
運命と戰って禍を轉じて(さいはひ)とする。
人間の最も高い天賦の力を
是等の困難と相對して揮ひ、
之等を支配し征服し改めて、
惡を轉じて善とする。
精神の感じを強ひて(にぶ)らせる事物によって
却って一層同情を深くされ、
犠牲を拂ふ機會の多きため
寛大の心は益々深くなる。
誘惑が多ければ益々自己を知り、
反って益々純潔を増す。
苦痛と悲歎に逢って益々忍耐の力は増し
同情心が一層強くなる。
彼は理性を行爲の標準とし、
最良の友としてこれに頼る。
そこで人々が大いなる惡を避けるために
小なる惡に誘はれ、
質又は效力が最善であっても
正しい基礎に立つことが稀である場合に、
彼は善の上に善を据ゑる。
彼の經驗する勝利成功は美徳の賜物だ。
彼が若し高い位地に昇るときは、
公明正大な手段によって
少しも奸策を弄ばぬ。
然らずば退いて自ら己に安んずる。
彼の任務を了解するものがあれば、
一意専心これに忠實だ。
されば富、名譽、浮世の榮譽を
自ら屈して求めず、待ち伏せもしない、
かゝる榮譽は必然に伴ふものだ。
苟くも榮譽が來る以上は
神の賜物の如く授けられる。
普通の勞苦や日常生活の穩かな状態で
彼は心力をその周圍に送り、
不斷の感化となり、特殊の恩寵となる。
天が人類の興廢を一擧に決しようとする
危機を生み出す非常の時機に遇ふ時は、
彼は戀人のやうに喜び、
感激に充ちて、全身は忽ち光彩を放ち、
戰に熱中する時は最も靜かな方針を保ち、
豫想通りに適中させる。
何時それが起らうとも
必要に應ずるだけの力がある。
斯やうにいへば爭亂と暴動に處する
適材のやうに見えるが、
主なる好みは家庭の怡樂(いらく)
平穩な生活にあるのだ。
妻子の愛すべき姿を宿す美しい幻よ!
身は何處にあるも彼の心を占めてゐる。
かくの如き節操を證據立てることが
彼の切なる願ひだ。
愛すべきものを多く()つため、
反って益々勇敢となる。
最後に高い位地にあって、
國民仰望の的となってゐるのも、
また國民から全く顧みられないのも、
運不運に拘らず
心のまゝに榮えるも榮えざるも、
それは人生の種々の勝負事だ。
その心に長も大切なものを獲ようと勵み、
外部の危險に驚かず、
妻子の愛を思うて卑怯な振舞ひもせず、
以前の功名の立派に輝いてゐるのに滿足せで
前途を見つめて最後まで奮鬪し、
日々に(つと)めて善より善に進む。
彼の英名が永久に世の語り草となり、
多くの崇高(けだか)い事業を生むとも、
また受くべき名を受けずに朽ちて、
不用の人と呼ばれても、
自から己の主義事業に慰められる。
かくして死が近く迫る時、
彼は天の稱讚を受けて眠る。
これが幸福な武士だ。
これが武士の理想とすべき人だ。
        ---- 一八〇六 ----

ティンタン寺から數哩の川上を詠んだ詩 (Lines composed a few miles above Tintern Abbey)

五年は早や過ぎた、
五年の夏は長い冬と共に過ぎ去った。
こゝにまた深山路に快く囁きつゝ
山の泉から轉び流れる水の音を聞き、
今また高く嶮しい河岸を眺める。
人も訪はぬ幽邃な高い崖は
さらに深い靜けさを想はせ、
四邊の景色と空の靜けさを一つに結ぶ。
今日ふたゝびまた
この小暗い楓の樹の下に坐り、
田舍屋敷と果樹の繁みを眺める日は来た。
果實はまだ(みの)らず、
なべて緑色に包まれて
木立や叢中に姿を潜め、
緑の景色を妨げもせぬ。
再びいま生籬を見る——生籬とはいへ
亂雜な潅木の列だ。
(ひな)びた農園は戸口までも青々として
一抹の煙は靜かに木の間から立ち昇る!
それは家のない森の中に住む放浪者であらうか、
それとも洞穴の中に住む隱者が
一人爐邊に坐って焚火するのであらうか?
 
これらの美しい姿は
たとへ眼前には永い間見なくとも、
盲人の眺める景色とは異り、
或は一人寂しい部屋の中にも、
或は都會の雜閙の中にも、
疲れた時もこの景色を想ひ起せば
血は躍り、胸は高鳴る程樂しく、
わが心の底まで沁み込み
靜けさに心も甦へるほどで、
忘れられた過去の歡びが快感を與へるのもそのためであった。
この喜びは恐らく善人の生涯中の最良の部分——親切と慈愛の
名もなく心に覺えもなきさゝやかな行爲に、
少からぬ影響を與へる。
尚また彼等の美しい姿から
今一つの更に崇高(けだか)い賜物を受けた。
この悦ばしい氣分にあるときは
神秘の重荷も、
この不可解な世界の重く厭はしい壓迫も、
すべて肩より下されて輕くなった心地がする。
あの靜かな惠まれた氣分にあるとき、
愛情は優しく吾々を導いて
終には肉體の呼吸も
否血液の循行さへも止んで、
肉體は眠り、
靈のみが生きてゐる。
その時調和の力と歡喜の深い力によって、
靜かに落着いた眼で
われらは萬有の生命を洞察する。
たとへそれが空虚な信念に過ぎぬとも、
暗い夜に、寂しい夜に、
無益の焦心と浮世の騒擾が
わが心臟の鼓動を重く抑へた時——
あゝわが心は(ひそ)かに汝に向ひしこと幾度ぞ、
あゝ森のワイの流れ!林間の逍遥者よ、
わが魂の汝に赴いたことは幾度ぞ!
 
今や半ば消えた思想の閃光と、
朧ろに微かな多くの囘想と、
いたましい困惑もやゝ交って、
心の繪畫は再び甦へる。
私はこゝに立って現在の喜びを感じ、
更に未來に對する生命と糧が、
この刹那にあることを思ひ喜ぶ。
初めてこの山に來た時よりも
今の私は確かに變ってゐるが、
この希望を敢て懷くのだ。
その昔小鹿のやうに
山の嶺、深い流れの岸に、
或は寂しい小川の邊りに、
自然の導くまゝに跳び廻った時は、
恐ろしい者に追はれて逃げるやうで、
愛する者を追ふとは見えなかった。
その時は自然はすべてわがものであったが、
(少年時代の粗暴な快樂と
その喜ばしい肉體的活動は既に去った)
あの時の私を今描くことは出來ぬ。
轟く瀧は情熱のやうにつきまとひ、
高い岩、山、鬱蒼たる森は、
その色も形も、私にとっては
渇望であり、感情であり、愛慾であった。
その感情、その愛慾は、
思想の與へる高遠な魅力も
肉眼によらぬ興味も要らぬものとした
その時代は既に去った。
痛快な喜びと、眩惑を感ずる狂氣は
もはや心から去ってしまった。
私は過去の歡びに憧れたり、
返らぬものを悲しみ恨みはせぬ。
その代り他の賜物が與へられて
ありあまる償ひとなることを信じてゐる。
思慮のない若い時代と異って、
自然を顧る術を學び、
人生の靜寂な悲曲を屢々聽いた。
その調べは人の心を
(やはら)げ鎭める力に充ちてゐるが、
荒く、烈しい聲ではない。
私は又高尚な思想の喜びをもって
私の心を動かすある存在を感得した。
それは夕日の光と、大海原と、生ける空氣と、
青空と、人の心とを貫いて住み、
遙かに深い所で交ってゐる
云ひ知れぬ或る何物かの崇高な感じ、
すべて思考力あるもの、
すべて思考の對象を動かし、
萬有を貫いて流轉する
ある生命ある靈氣を感じた。
そこで私は尚も牧場や、森や、
山や、この緑の天地に見える
すべてのものを愛し、
耳と目を通して見える偉大な世界を——
耳と目が半ば創造するものも、唯感知するものも、
すべて何れをも罩めて愛するのだ。
そして自然感覺の傳へる認識の中に
わが最も純な思想の安住所、
わが心情の乳母、指導者、守護者、
わが精神的存在の精膸を認めて
私は嬉しく思ふのだ。
 
尚私はかやうな教訓を得ぬとも
私の快活な氣分はこれがために衰へはせぬ。
そは美しい川岸に
私は汝と共にゐるから
わがなつかしき友よ、
わが親しき友よ、汝の聲の中に
私は昔のわが心の聲をきゝ、
汝の狂熱的な輝く眼の中に
ありし日の喜びを讀むのだ。
あゝ、しばし
ありし日の私を汝に見たいもの、
懐しい、懐しい妹よ!
未だ嘗て裏切ったことがない、
私はそれを願ふのだ。
吾々の地上に於ける全生涯の間、
歡びから歡びへ導くことが
自然の特權だ。
自然は吾々の内心を動かし、
靜謐と美を刻み、
高い理想で(はぐ)くむために
惡口雜言も、輕率な批評も、
利己主義者の冷笑も、空虚な世辭も、
日常のわびしい交際もすべて、
吾々の心を抑へず
萬物は祝福に充ちてゐるとの
われらの快活な信念を動かすことは出來ぬ。
されば汝の孤獨の道に
月をして照らしめよ。
霧をふくむ嵐をして
自由に汝を吹くまゝに吹かしめよ。
年を經て烈しい狂喜が圓熟して
冷靜も喜びとなるとき、
汝の心が美しい萬物を宿す(やかた)となるとき、
すべての妙なる音と調和とが
汝の記憶に宿るとき、
あゝその時、孤獨か、恐怖か、苦痛か、悲哀か、
汝の心の中に起る時、
靜かな喜びより起る心の惱みを癒す
慰めの思ひを以て、
汝はわれとわが勸言を想ひ起すだらうか!
もはや汝の聲は聞かれず、
汝の輝く眼から
ありし日の光を認められぬ身となれば、
この樂しい流れの岸邊に
共に坐ったことを忘れてくれるな。
永い間自然の崇拝者である私は、
この自然の崇拝に倦むことなく、
否寧ろ一層温い愛情を以て、
あゝ一層淨化された精神的の愛情を以て
こゝに來たことを忘れてくれるな。
放浪の旅を重ねて永く來なかった後だから
これらのそゝり立つ森と高い崖と
この緑の山野の風光は、
それ自らが一層親しみを増すのみではなく、
汝は傍にゐるために一層懐しく見えたことを
汝は忘れてくれるな。
        ---- 一七九八 ----

更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 物語詩


物語詩

私等は七人 (We are seven)

あどけない幼兒(をさなご)
輕やかに呼吸(いき)して
手足に生命(いのち)が充ちてゐる、
死なんてどうして知ってゐよう?
 
私は一人の田舍娘に逢った、
年齡(とし)は八つといふ
濃い縮れ毛は房々と、
首のまはりに垂れてゐた。
 
山家育ちの鄙びた娘、
着物も粗末、
たゞ眼は大きく愛らしく、
美しい姿は私を喜ばせた。
 
『兄弟は幾人なの?娘さん。』
『幾人って?皆で七人』と
娘はいひながら
(いぶ)かしげに私をみつめた。
 
『みんなどこにゐるの?』
『私等は七人で
二人はコンウェイに住み、
またの二人は船乘りよ。
 
『あとの二人はお墓にゐるの、
お兄樣と妹よ、
私は母樣とお墓の傍の小屋で、
二人の近くに住んでるの。』
 
『二人はコンウェイに住み、
あとの二人は船乘りで、
それで七人とは!
どうしたわけ?』
 
娘は答へた、
『私等は七人の兄妹よ、
その中二人はお墓の中に、
あの茂った樹蔭に眠ってますわ。』
 
『お前さんは手足が健やかで、
あちらこちらと歩くでせう、
二人がお墓の中なら
五人ぢゃないの?』
 
『二人のお墓は
苔が青く生えて
お家のそばに
並んでゐてよ。
 
『私はそこで靴下を編み、
ハンカチの縁を縫ふの
それから地べたに坐って
二人に歌を唱って聞かせるのよ。
 
『日が暮れても
晴れた明るい夕べには
御飯を持って行って
そこで夕飯をいたゞくの。
 
『初めに死んだのは妹のジェンよ、
病氣で苦しんで寢てゐたのを
神樣が苦しみをとって下さったので、
妹は()ってしまったの。
 
『そこでお墓に寢かされたの、
芝生の枯れたころ
ジョン兄樣と私は
お墓のまはりで遊んだわ。
 
『雪で地べたが眞白になって
走って辷って遊ぶ頃、
ジョン兄樣も後追うて
妹の傍に寢てしまったの。』
 
『二人が天國に逝ったとすると
兄妹は何人になる?』
娘はすぐ答へて、
『そりゃ小父さん、私等は七人よ。』
 
『だって二人は死んで
天國にゐるではないか』といっても、
娘は少しも聞き入れず、
『いゝえ、私等は七人よ。』
        ---- 一七九八 ----

ルウシイ・グレイ(孤獨) (Lucy Gray; or Solitude)

ルウシイ・グレイのことは幾度も耳にした、
あの荒野を過ぎたとき、
夜の明け方にはしなくも
寂しげに一人行く彼女に出逢った。
 
ルウシイは一人の友もなく
廣い沼地に住んでゐた、
——人の世の軒端に咲き出た
美しい極みの花のやうに!
 
今も尚鹿の子は遊び戯れ、
兎は野邊を走ってゐるが、
あのなつかしいルウシイの顏は
もはや二度とは見られない。
 
『今夜は嵐になりさうだ、
お前は町まで行ってくれ、
母さん迎ひに提灯持って、
雪降る道を照らすのぢゃ。』
 
『そんなら父さん!行きませう、
正午(ひる)はやっとすぎました。
寺の時計は二時打ちましたが
彼方に月が出てますわ。』
 
これを聞いて父は斧をとり
薪の束を伐り始めた。
ひたすら仕事を勵んでゐると
ルウシイは提灯を片手に出て行った。
 
山の牡鹿も及ばぬ早さ、
足にまかせてあちこちと
踏めば散り行く粉な雪は
煙のやうに立ちあがる。
嵐は不意にやって來て
彼女はあちこちさまようた。
幾つも丘を攀ぢ上ったが、
町には遂に()かなかった。
 
哀れや兩親(ふたり)は夜明けまで、
遠くあちこち探したが、
二人にしるべとなるやうな
聲も聞えず、姿も見えなかった。
 
夜明けに丘に攀ぢ登り、
廣い沼地を見下すと、
わが家から二丁もある所に
木の橋が一つかゝってゐる。
 
二人は泣いて家路を辿り
『極樂で皆は逢はう』と囁いた。
その時母は雪路に
ルウシイの足跡を見屆けた。
 
嶮しい丘の(ふち)を下り、
二人は小さな足跡を辿った、
破れた山櫨(さんざし)の生垣を抜け、
長い石垣を傳って行った。
 
やがて曠野を横ぎったが
足跡はなほ同じであった。
拾ひ辿って終に
木の橋の所に來た。
 
雪の積った(つゝみ)から
足跡を一つ又一つ
橋板の半ばに來たところ、
そこから消えてしまってゐた!
 
今も尚人は言ってゐる、
ルウシイは今も生きてると、
さびしい荒野で美しい
あの()の姿を見るといふ。
 
野越え山越えルウシイは
後をも顧みずに歩いて行った。
風の中に咽び泣くあの寂しい歌は、
亡き少女子(をとめご)の歌聲か?
        ---- 一七九九 ----

アリス・フェル(貧困) (Alice Fell; or Poverty)

恐ろしい雲が月を沈めたので、
郵便脚夫は全速力で馬を走らせた。
吾々が急いでゐると、突然
私の耳は驚くべき音に劈かれた。
 
風が四方八方に吹くかのやうに
その音が聞えた——層一層。
それは後を追って來るやうだ。
猶も前と同じく聞えて來る。
 
終に私は少年に聲をかけた。
すると少年はすぐ馬を止めた。
けれど泣き聲も、叫び聲も
何一つ聞えなかった。
 
そこで少年は鞭打って
前の中をば馬を走らせた。
するとまたもや風の中に叫び聲がしたので、
私は再び馬を止めさせた。
 
すぐ車から降りて
『あの哀れな泣き聲は何だらう?』と
探せば馬車の後に只一人
女の子が坐ってゐる。
 
『私の外套!』といふだけで、
而も聲高くさめ〜゛と泣き
無邪氣な心臟も裂けんばかりに
座席から跳び降りた。
 
『どうしたの?』
『こゝを見て下さい』と娘は泣いた。
見れば車に絡まってゐる襤褸外套は
畠の案山子も着さうもないもの。
 
(こしき)()の間に絡んでゐるので
すぐにはとれなかったが、
二人はやっと外套を(はづ)した。
ほんとにみじめな襤褸外套!
 
『今夜お前はどこへゆくの
こんなに淋しい道を?』
『ダラムへ』と半ばおろ〜した聲で答へた。
『それでは一緒に乘って行かうね。』
 
あらゆる慰めも感ぜぬやうに、
哀れな少女は坐って
悲しみはつきぬものゝやうに、
絶えず啜り泣いてゐた。
 
『ダラムにお前は住んでるの?』
訊けばしばし涙をとゞめ、
『私の名はアリス・フェルで
父も母もありません。』
 
『私はダラムの者です。』と答へたが
再び思ひは胸に迫るやう
悲しみは一入強くなった、
それも破れた外套のため!
 
馬車は走りつゞけ旅の終りは近づいた、
私の傍に坐ってゐながら
彼女は唯一人の友を失ったかのやうに泣いて、
(なだ)める術もなかった。
 
車は酒屋の戸口に着いたので、
私はアリスの身の上を話し
新しい外套を買ふやうに
主人に金を預けて去った。
 
『大人の買ふやうな暖かい
鼠の羅紗のにして下さい!』
翌くる日彼女は得意であった、
孤兒のアリス・フェルは!
        ---- 一八〇二 ----

手飼の仔羊(牧歌) (The Pet Lamb)

露は落ちしきり、星は瞬き初めた、
『飲めよ、優しい仔羊よ』との聲がする。
(まがき)を覗けば、雪白の仔羊
少女子(をとめご)とともにゐる。
 
近くには親羊もゐず
仔羊のみが小紐で石に繋がれてゐる。
少女子は肩膝折って
仔羊に夕餉を與へた。
すると仔羊は
尾を振りながら貪り喰べた。
『飲めよ、優しい仔羊よ』と云へば、
少女子(をとめご)の心はわが心に沁み入るかと思はれる。
 
世にも稀な美しいこの少女子の名はバアバラ!
私は喜んで仲のよい二人を見つめた。
やがて少女子は(から)の鑵を取って行ったが
間もなく立ちとゞまった。
 
少女子は仔羊を眺めた。
樹蔭からひそかに彼女の顏を眺めてゐると、
もしも自然が彼女に歌を與へたら
少女子(をとめご)は仔羊に歌って聞かせるだらうと思はれた。
 
『お前は何を苦しんでそんなに紐を引張るの?
お前にゃそれで十分ぢゃ、床も板で作ってあり、
草の褥は柔かく、草そのまゝの緑色。
それにお前はどうしたの、早くお休み、仔羊よ。
 
『お前は何を求めるの、何の不足があるの?
脚は丈夫で毛も立派。ほんとにさうぢゃない?
緑の草は柔かく、花はきれいに咲き、
緑の麥は一日中お前の耳に囁いてゐる。
 
『照る日が暑いと云ふのなら、紐をのばして向うにある
(ぶな)の樹蔭でお休みよ、そこは涼しい休み場だ。
雨や嵐が吹いたって何も恐れることはない!
雨や嵐はこゝの床には少しも來ないから。
 
『さあお休み、仔羊よ、お前の父樣が遠方で、
お前を見つけて連れて來られた日を忘れたの、
多くの群は丘にゐたが、持主もなく、
お前は永久に母樣にゆかれて迷ってゐた時に、
 
『不憫だからとてお父樣はお前を抱いて來なすった。
お前はほんとに幸福だ!それにどこへ行きたいの?
山でお前を産んだ母樣より親切な、
忠實(こまめ)(もり)があるに、どこへ行きたい、仔羊よ?
 
『晝は二度づゝこの鑵に川から清水(みづ)を汲んで來て
お前の咽の渇かぬやう飲ませてやるぢゃないの、
夕べ降りしく白露に、土の濕って來る時は、
搾ったまゝの新しい温い乳をやるではないか。
 
『お前はまもなく今よりも二倍も大きくなって
畑を耕す仔馬のやう、車にお前を(くびき)づけ、
私の遊び相手になってくれ。
寒い時には爐にあたって、家をお前の檻にしてあげよう。
 
『それでもお前は休まないの?
情に充ちた母樣の心がわからないの?
私の少しも知らないものが、お前にゃ尊いものなのね。
目にも見えねば聞えもせぬものを夢見ることが尊いのよ。
 
『あゝ、あの山の頂きは青くうつくしう見えるぢゃないの?
あそこに恐ろしい黒雲と風の姿が現はれた、
戯れ遊ぶ谷川も、風と雲とが怒って來ると、
餌食貪る獅子の咆えるがやうに流れ出す。
 
『お前は空の眞黒い鴉を怖がることはいらぬ、
世晝お前は安全だ——小舍(こや)が近くにあるではないか、
それにお前は何故啼くの?何故紐を引張るの?
さあお休み、夜明けには私が來てよ、仔羊よ!』
 
歩みも鈍く家路をさして小徑を辿るとき、
私はこの歌を時々繰り返した。
一行一行を繰り返したとき、
その半ばは彼女の歌で半ばは私の歌と思はれた。
 
再び私はその歌を繰り返した、
否、半ば以上もあの少女子(をとめご)の歌を。
あの優しい顏と聲は
深く私の身に沁みてゐるから。
        ---- 一八〇〇 ----

貧しいスウザンの幻想 (The Reverie of Poor Susan)

ウッド街の片隅に、(ひかげ)の射すとき、
籠の(つぐみ)が聲高く歌った、三とせの間。
貧しいスウザンはその傍を通って
靜かな朝、小鳥の歌を聞いた。
 
魔力をもった歌聲に聽き惚れて
唯ならぬ氣色(けはひ)の彼女には山と樹の幻が浮かび、
輝く霞の渦卷はロスベリイを漂ひ、
川がチイプサイドの谷間を流れるやうだ。
 
谷間の只中には緑の牧場が見える、
そこは彼女が牛乳桶を携へて屢々通った所。
そして鳩の巣のやうな小さな茅屋——
それは彼女の好きな此世の唯一つの住家。
 
これらを眺めてゐると、彼女の心は天國にある思ひがする、
然しそれは束の間、霧も川も丘も忽ち消え去り、
川は流れず、丘は聳えず光彩はすべて消え失せ、
殘るは唯灰色のロンドンばかり。
        ---- 一七九七 ----

マアガレットの惱み (The Affliction of Margaret)

  
 
愛兒よ、お前はどこにゐるの?
死んだといふよりも私には辛い。
あゝ、あの子は榮えてゐるか、零落(おちぶ)れてゐるか、知らせておくれ!
それともお前は今墓に眠ってゐるのなら
妾はその墓を訪ねずにゐられようか?
そしてお前の名が非難や悲痛の的とならぬため
お前の墓を知らずにゐられようか?
 
  
 
あゝ、七年の永い歳月の間、
獨り子の便りを少しも聞かないとは!
時には諦めもし、時には希望も懷き、
時には信じもしまた絶えず惑ふとは!
時にはこの上もない幸福に思って迷はされることもあった!
私はその考へを捉へようとすると忽ちそれは消え失せる。
得體(えたい)の分らぬ苦しみにこれほど惱んだことがあったらうか?
 
  
 
あの子は人柄も風采も優れた
見る眼に美しい若者であった。
生れもよければ育ちもよい。
世間へ送り出した時は正直な無邪氣な勇敢な子であった。
噂に聞いたやうに、その後無禮な振舞ひがあったとしても
それは卑劣な振舞ひではない。
だから私は決して顏を赤らめるやうな思ひはしなかった。
 
  
 
遊びと子供らしい心配に心を奪はれてゐる時、
傍の母親に何氣なく聞かれる
この上もない狂気じみた叫び聲にも
どれ程の力があるか、あゝ!幼兒は夢にも知らぬ!
子供はその聲が如何程母を驚かすものであるかは想像もせぬ。
子供の生長するにつれて母は益々苦しむ。
苦勞はましても母の愛に變りはない。
 
  
 
わたしを棄てゝ顧みないのか?
いや、わたしはその誤まった考へで長く苦しんで來た。
心は(めし)ひてゐるので「子供から棄てられても泣事はいふまい、
わたしは世にこの上もない親切な母であったのだから。」
それはほんとだ。
わたしは生涯の道を露のやうに涙で濡らし、
人知れぬ涙をあの子のために流した。
 
  
 
愛兒よ、お前は落魄(おちぶ)れて、貧乏で
名譽も富も得る望がないとしても、
あゝ!お前の母の戸口は恐れてくれるな。
わたしが悲歎と苦痛になやんでゐると考へてはいけない。
わたしは昔よりも悧巧な眼でお前を見るのだ。
わたしは浮世の名利を斥け、
色々の賜物と虚僞とをもたらす幸運を賤しむのだ。
 
  
 
あゝ!空の鳥には翼があり、
空吹く風は飛翔を助けてくれる。
彼等は空に舞ひ上り——何と短い旅で
放浪者は樂しい故郷に歸るだらう!
陸にも海にも人は束縛を受けてゐる。
そこで私の懷くやうな空しい願ひの外には
お前を慰めるに足るものはない。
 
  
 
恐らくどこかの牢獄でお前は
鬼のやうな人間に切り(さいな)まれて呻いてゐるのか?
または荒野に打ち棄てられて
獅子の棲む洞窟を住居としてゐるのか?
それとも海深く誘びき込まれたか、
幽明界を異にする眠りを續けるために
お前ばかりではない、乘組員一同が。
 
  
 
わたしはお前の亡靈を探してゐるが、
わたしのところへ無理に進んで來る者は一つもない。
生者と死者との間に
嘗て交りがあったといふのは誤りだ。
もしそれが事実なら、夜も晝も、
愛を限りない憧れをもって
私が待ってゐるあの子が見られる筈だ。
 
  
 
危惧の念は群をなして押し寄せる。
私には草の囁きさへ恐ろしい。
空行く雲の影までが
私を恐れ(をのゝ)かす、
私は色々訊ねてみるが
心に叶ふやうに答へてくれる人は見當らぬ、
そこで世の人々がすべて無情に思はれる。
 
  十一
 
私の心配は他人がそれに同情する道もなく
また救ってくれる力もない。
たまに誰かゞ歎息一つ吐いてくれても
それは私に對する同情で、私の悲しみを憐れんでくれはせぬ。
だからお前は歸っておくれ、さもなくば
私の悲歎がなくなるやうに便りをおくれ、
私にはお前の外にこの世に友がないのだから。
        ---- 一八〇四 ----

ヂョウヂとサラ・グリン (George and Sarah Green)

誰も見知らぬ人のために泣かう?
 ヂョウヂとサラ・グリンのために、
あの夫婦の不幸な運命のために泣いたのだ。
 二人の墓はかしこに見える。
 
嵐吹く夜に
 夫婦は荒野をさまようた。
家には六人の子供が殘ってゐるのに、
 二人は家を見附けることが出來なかった。
 
人の住家は何れとなく探したが、
 遂にわが家は見えなかった、
やがて夫は倒れ、
 妻の寂しい叫び聲が聞えた。
 
まもなく妻もまた
 死骸となって倒れた——
夫と妻を結んだ鎖が
 近くに殘ってゐた。
 
いまあの嚴かな丘は
 靜かにこの墓を眺め、
大氣の靜けさは
 波もない海にも似てゐる。
 
けれど更に深い靜けさの中には
 更に深い平和の心がある。
寂靜の心はこゝに立つ
 この墓の中にある。
 
この心情は彼等を守って、
 彼等に悲痛を與へず、
恐怖と哀愁を遠く斥け、
 太陽や星の導きをも要らぬものとした。
 
あの最後の夜の後に——
 悲痛と恐怖の
最後の慘憺たる夜に、
 墓の暗く深いことよ!
 
堅く結んで解けぬ
 平和と愛の絆の中に、
彼等二人を共に眠らせた
 神々しい死の薔薇床よ!
        ---- 一八〇八 ----

七人の姉妹 (The Seven Sisters)

——ビノリの隱れ家——

  
 
アアチボルド公の七人の娘は
いづれも一つ母の子。
彼等が互ひに深く愛してゐたことは
短い一日位では語られぬ。
七つの百合で作った花環か!
七人の姉妹は一緒に住んだ。
彼女等の父は雄々しい武士で、
戰が好きであったから、
娘のことなど少しも考へなかった。
歌へ、悲しく、おゝ!
ビノリの隱れ家を!
 
  
 
西風はそよ〜と吹き、
イイリンの海邊から
浪を越え、
勇ましい海賊はビノリに向ふ。
立派な船は眞直に
スコットランドの濱邊に向った。
武士は陸に躍り上ると
見よ!一隊の首領(かしら)
號角(つのぶえ)を吹いた。
歌へ、悲しく、おゝ!
ビノリの隱れ家を!
 
  
 
洞窟(いはや)のそばの
垂れかゝる樹蔭の下に、
七人の娘は
小鹿のやうにともねした。
忽ち鬨の聲と蹄の音に
おどろいた姉妹は
右に左に逃げまどふ——
かくとは知らぬ父君は、
娘のことを思ふまい!
歌へ、悲しく、おゝ!
ビノリの隱れ家を!
 
  
 
山越え谷越え
七人の乙女は逃げゆけば、
嚇し叫んで
荒男等は後を追ふ。
『家を外にする父なれば、
娘がゐなくなったとて
恨みはすまい當り前。
われらのために緑の黒髪を梳り
われらに心を許せよ!』
歌へ、悲しく、おゝ!
ビノリの隱れ家を!
 
  
 
前の後に右左、
嵐の空の雲のやう
乙女等は逃げながら叫ぶ。
『あゝ一緒に死にませう。』
人足もない湖の
嶮しい岸邊に
彼女等は駈け來り、
今は名殘とあはれにも、
深みの中に飛び込んで消え失せた。
歌へ、悲しく、おゝ!
ビノリの隱れ家を!
 
  
 
湖より流れて
谷間を降る一條の川は、
七人の愛らしい乙女を弔って
苔蒸した岩の上に咽んでゐる。
七つの小鳥が美しく
湖の底より現はれた。
傳へいふ、美しい姉妹は
妖精に葬られて
今も尚ほそこに眠ってゐると。
歌へ、悲しく、おゝ!
ビノリの隱れ家を!
        ---- 一八〇四 ----

レイオダマイア (Laodameia)

『夜明け前に捧げる犠牲と共に
果敢ない望に驅られて數々の誓を立て、
夜のわびしき闇のうちに黄泉(よみぢ)の神々から
殺された夫を私は呼び返して貰った。
天の憐愍を私は再び懇願する——
私に見える所まで夫を返されよ、ジョヴの大神よ、返されよ!』
 
かくいひながら、信仰を與へられた熱烈な愛で
夫の出現を懇願する彼女は、兩手を天の方へ伸ばした。
すると、雲間から洩れる陽のやうに
彼女の顏容は(かゞや)き、彼女の眼は大きく睜かれた。
その胸の高まり、その姿は見る眼に大きくなり、
出現を靜かに待ってゐた。
 
あゝ恐ろしや!何を彼女は見たのか?——あゝ嬉しや!
何を彼女は眺めてゐるか?——誰を見たのか
トロイアの濱邊で殺された彼女の夫か?
彼の生きた姿か?彼の肉身の形か?
眼の迷ひでなくば——それは彼だ!
彼を導いてくれ、翼の生えたマアキュリイよ!
 
優しいハアミーズは語った——そして
すべての恐怖を靜める杖で彼女に觸れた。
『レイオダマイア、お前の祈願は立派に嘉納されたぞ!
ジョヴの命令でお前の夫は天の道を歩いてゐる。
彼は三時間程お前と一緒にゐられるのだ。
この賜物を受けて、眼のあたりに彼を見よ!』
 
熱した女王は夫を抱かうとして跳び上り、
再び抱擁の極地を實現しようと試みた。
けれども彼女が切に抱く毎に
形なき姿は逃げてしまふ。
亡靈は分れ——分れては又現はれて
彼女の眼の前に元のごとく立つ。
 
『プロテシレイアスよ!あなたの案内役のマアキュリイは行ってしまひました!
この幻が夢でないことをあなたのみ聲で確かめて下さい。
こゝは私の宮殿で、あしこにあなたの玉座があります。
話して下さい。足下の床も喜ぶでせうに。
神々がこの貴い贈物を與へたり、又悲しみの家に祝福を與へたのは
このレイオダマイアを恐れさすのではありますまい。』
 
『レイオダマイアよ、ジョヴの大神はその賜物を
不完全のまゝに置き給はぬ——假令俺は亡靈にもせよ、
お前を怯えさせたり、瞞したりするのではなく
全くお前の操の(むくい)に送られたのだ。
そして俺の忠勤の功も亦あづかって幾らかの力があったのだ。
恐れを知らぬ雄々しい勇氣は限りのない利得を齎すよ。
 
『お前も知ってゐる通り、トロイの岸を眞先に踏む希臘人は
デルフォイの神話で、死の運命を與へられた。
然し死といふ脅威も逸る俺を引止めることは出來なかった。
立派な事業には犠牲が必要だ。
そこで俺はトロイの砂濱に跳び上った。
そして國のために生命を棄てる武將は、ヘクタアに殺されたのだ。』
 
『勇士の絶頂——最も勇敢で、最も崇高(けだか)く、最良の勇士!
あなたのこよなき勇氣を私は最早歎きませぬ。
その勇氣は幾萬の人々が疑ひの雲に鎖された時、
あなたを驅って岸邊に生命を落させたのです、
あなたはその勇氣が私の弱い心よりも、一層立派な忠告者であることをお知りになった。
そして私はあなたの一見つれない仕打ちを赦します——こゝへ來て下すったから。
『然し、あなたは一番恐ろしい行が出來たとはいへ、
決斷的であると同じやうに親切であり、雄々しいと同樣に善良な方でした。
あなたを蘇らせて下さるジョヴの大神は
あなたが生前と全く變らぬ生き生きとして風采を留めてゐることを命ぜられました。
あなたの髪毛は多く、その唇は美しくて
故郷セセイリアの空氣を吸はれた時と同じです。
 
『私に會釋するのは亡靈ではありません——それは空靈でもないのです、
さあ、雄々しいあなた、私の傍へお坐りなさい!
この知れ渡った寢臺で、今日しも二度目のあなたの花嫁になる私に
婚禮の接吻を與へて下さい!』
ジョヴの大神は天で眉を顰めた。
それと悟った運命の女神達は、彼等の薔薇色の唇に蒼白(あをざ)めた死の色を投げた。
 
『この蒼白めた顏で私の運命が定まってゐることがわかる。
假令感覺の喜びがその消え去ることの速かで確かなやうに
囘復する事が出來るとしても
たいして執着する値のないものである。
地上の生活は時が來ればこれらの歡樂を絶ってしまふ——冥界はかゝる歡樂を蔑視する。
冥界の快樂は浮氣なものではない——苦痛も堂々として力強い。
 
『おゝ忠實なわが妻よ!抑へ難い情慾を征服することを學べ、
神々の嘉納するところは
霊魂の烈しい動搖ではなくてその深みであり、
愛情の奔放ではなくてその熱誠である。
お前の有頂天の歡びを和げよ、
私が去る時には心靜かに歎けよ、私の止まる時は束の間だから——』
 
『あゝ何故ですか?——ハアキュリイズは
地獄の番犬から無理やりにアルセスティスを奪ひとって
花のやうに美しい姿で
この()に住まはせたではありませんか?
ミディアの呪は老人を若返らせ、
イーソンは若者達の間に遜色のない立派な若者となりました。
 
『神々は私達に慈悲深くあります、
そしてさらに一層寛大な處置をとってくれるでせう。
何となればハアキュリイズの力業よりも
太陽や星に及ぼすミディアの魔術よりも愛の力は強いからです。
假令苦悶する程の惱みがあり、
尚また愛の好んで住む處は弱い女の胸ではありますが。
 
『然し、あなたがゆかれるならば、私は從いて行きます——』
『靜かに!』と彼は言った。
彼女は夫を眺めると、心は落着いてさわやかになった。
蒼白(あをざ)めた色は彼の唇から去り、
彼の顏に姿に、至樂至福の美が現はれ、
幸福であるがしめやかな場所から陰鬱な美をもたらした。
 
彼は靜かに清らかに進展する世界で
精靈が感ずるやうな愛を語った。
そこでは打ち退けるべき恐怖もなく、癒すべき爭鬪の傷もなく、
過去を悔ゆることも、未来を憂ふる必要もない。
一層沈着な態度で再び開かれ、
一層精妙な調和を以て行はれる英雄的技術に就いて語った。
 
彼は最も美しいものをすべて語った。
一層めでたい美しさで冥界に寫し出されたすべてのものを。
更に清らかな流れ、充實した精氣、神々しい空氣、
そして紫色の閃きで晴れた野を、
地上に於て最も赫々たる光を放つ
太陽も照す資格の全くない地方を語った。
 
それにも拘らず勇氣によってその淨土に入る特權を得た魂は
そこへ入って行くだらう。彼は言った——
『愈々出陣となって吾々二人が訣れた後、
夜晝涙にくれるのがお前のせめてもの慰みである一方に、
この私がつまらぬかけごとや下等な酒宴に打ち興じ、
空虚な歡樂を得て善い氣になってゐるのは生きる人間として腑甲斐ないことだ。
 
『一方私の目のあたりで若者達が(各の勇士はそれ特有の傾向に從ひながら)
軍の競技で花々しい功名手柄を準備した。
或は又、天幕の中に坐って、
會議中の武將や王は監禁せられた。
その時アウリスの艦隊は動かなくなった。
 
『順風は與へられた。そこで波靜かな海面を眺めながら
神託のことを思ひ耽った。
私より優れた者が先頭になるならば格別、
それでなければ一千の船の内で
私の船を岸邊に眞先に進めようと決心した、
トロイの砂濱を先づ第一に赤く染めたのは私の血であった。
 
『けれどお前を失ったと思った時には、
私の胸の苦しさは痛ましい程であった、妻よ!
過ぎた日を顧みてお前と
人間の生活を共にした喜びに心を惹かれた。
吾々が歩んだ道、あの泉や苑。
私が新しく企てた都や、未完成の塔。
 
『然しかやうな躊躇によって敵をかう叫ばせるべきだらうか、
「彼等の(をのゝ)くのを見よ!——彼等の軍容は堂々としてゐるが、
然しあの大勢の内で一人として死を敢てする者はない」——否決して叫ばせてはならぬ。
心の内で私はこの屈辱を一掃した。
以前の心弱さが歸って來た。
けれど實行に現はれた崇高(けだか)い思ひが私の救濟を成就した。
 
『お前は愛に強いとはいへ、理性には餘りに弱く、
自己の統御に餘りに弱い。
二人は堪へ忍んで下界の日蔭で
惠まれた再會を求めることをお前に勸める。
靈界の神々はお前に同情してゐる、
お前の愛情を高めて嚴かにせよ。
 
『現世の戀の憧れによって更に高い愛に達することを學べ、
戀が人間に與へられ、勵まされ、許されたのは、
主にこの目的のためだ。
戀の熱情が過度に烈しくせられたのもこれがためなのだ。
これによって人間は自我を超越する。
戀と對抗する時、自我の與へる束縛は夢のやうに果敢ない覊絆となるやうに。』
 
聲を出して彼女は叫んだ!ハアミーズが來たからである!
夫の亡靈を廻って縋りつかうとしたが——それはあだ
定められた時間は過ぎた——假令それが三時間でなくて三年であっても、餘りに短かった。
(わざ)で彼を止めることは出來ぬ。
この世の生活を知らぬ世界へ逸早く玄關を通って彼は靜かに立ち去った。
そして宮殿の床の上に生命のない屍となって彼女は横はった。
 
かくて夫の諫告も非難も效なく彼女は死んだ。
自己の感情を恣にして死んだ罪に就ては、
心弱い憐愍の情によって左右されない正義の神々のために
定められた期間を忍んで通すことを定められた。
褪せぬ四阿(あづまや)至福(さいはひ)に充ちた靜かな花を集める
幸福な亡靈達と一緒になれないで。
 
けれどレイオダマイアの悲運に對しても涙を禁じ得ない。
負けて覆はれた人間の希望は
人間によって悲しまれてゐる、
しかも常に人間が悲しむばかりではない。
人間は愚かにも同情の感じは唯人間相互の間ばかりだと考へてゐるが
ヘリスポントの海岸で(時の人はさう信じてゐた)
一叢の尖塔状の樹木が十年も生えてゐた
イリュウムの城壁を見て、プロテシレイアスの死や、
その妻の最後を偲び、
非情の樹木も枯れ萎びた時には生長と凋落とを永久に繰り返す!
        ---- 一八一四 ----

水蛭取る人(決心と獨立) (The leach-Gatherer; Resolution and Independence)

  
 
嵐は一夜猛り狂ひ、
雨は烈しく瀧のやうに降った。
けれど今太陽は麗かに輝いて昇り、
小鳥は彼方の森に歌ふ。
瓦鳩は己が美しい聲に聞き惚れ、
懸巣は鵲の歌に答へ、
空氣は樂しい水の音に充たされてゐる。
 
  
 
陽を愛するものはすべて戸外にある、
空は朝の誕生を喜び、
草は雨滴に輝やき、
沼地に兎が喜び走り、
その足で大地に水をはねて馳り、
霧を立てる。霧は日光にきらめき、
走る兎の後に續いて何處までもゆく。
 
  
 
私はその沼地を通ってゐると、
走り狂ふ兎を見た。
また森や遠くの川の流れを聞いた、
いや、その音は聞えなかった、子供のやうに幸福であったから。
私の心はこの愉快な五月に奪はれた。
古い記憶は全く私を去り、
果敢ない哀れな憂き世のさがを離れた。
 
  
 
けれど歡樂の極まった
心の樂しさの強いために、
われらの心は悲愁に沈むことも
折々は起るのだ。
その朝私にもその事が起り、
恐怖と空想は犇々と襲って來た、
名状し難い哀愁——突き止め難い樣々の空想が。
 
  
 
私は雲雀の空に歌ふのを聞き、
そして樂しく遊ぶ兎を思った。
私はこの兎にも似た幸福な大地の子だ。
この幸福な生物に似た生活をして
浮世の憂さを遙か離れてゐる、
變った日が來るかもしれぬ——
孤獨、心痛、困苦、貧困の日が。
 
  
 
人生は恰も夏のやうに温かな信念と、
絶えず温かな親切に富む者には
求めずして必要な物は來るといふ
樂しい思ひの中に生きて來た。
けれど他人がその要求に應じて
彼の生活を助け愛してくれることを豫期せられようか?
自から少しも氣をつけぬ彼を?
 
  
 
豪い少年チャタートンのことを思った。
青春の盛りに死んだ不休の魂よ、
また山腹に鋤を使ひながら
光榮と歡喜の中を歩んだバアンズを懷ふ、
吾々は自己の精神によって神と考へる。
吾々詩人の青年時代は初めに歡びに輝いてゐるが、
終には絶望と狂氣が來る。
 
  
 
さて特別の神の恩寵か天の導きか、
何かの賜物であるか知らないが、
この寂しい所に、
この空しい考へと戰ってゐた時、
空に向って開いてゐる池の畔に
ふと前に立った人を見た、
それは世にも稀な白髪の老翁であった。
 
  
 
丘の裸の頂きに
巨きな石の横はることがある。
どうして、どこからこゝに來たかと
感覺を具へる事物であるかのやうに
これを見る人は驚き怪しむ、
巌に休む海の獸が
日を浴びるために來たのであらうと。
 
  
 
この老人は老齡のために半ば生きてゐるやうな、
また死んでゐるやうに眠ってゐた。
身體は二つの折れて
寄る年波に頭と足は一つになってゐた。
何か恐ろしい苦痛の壓迫か、
昔烈しく襲うた病氣のためか、
人間として堪へられぬ重荷が、肉體の上に加ったのか。
 
  十一
 
彼は磨いた長い灰色の杖に
手足、體を寄せかけた。
私は靜かに近よると
荒野の中の沼の邊りに
空高く呼ぶ風にも應へず
動く時はともに動く雲にも似て
身動きもせず老人は立ってゐる。
 
  十二
 
終に彼は身を起し、
杖もて沼水をかき廻し、
ぢっとこれを見つめ、
本を讀むやうに見入った。
全くの他人には遠慮がいらぬから
近よって私は言った
『朝の模樣では今日は良い天氣だ。』
 
  十三
 
老人は靜かに答へた、
丁寧な言葉を徐ろに口から引き出した。
私は尚言った。
『君はそこで何をする?
君にはさびしい所だ。』
彼は答へぬうちに靜かな表情の閃めきが
生き生きと澄んでゐる眼から閃めいた。
 
  十四
 
彼の言葉は弱い胸から弱々しく出た。
けれど言葉には莊重な趣きがあって
一絲亂れぬ美しさよ——
選ばれた言葉、愼重に用ひられた句は
常人の企て及ばぬ堂々たる物語だ。
神を敬ひ人を愛するスコットランドの
嚴肅な生活をする人々の言葉に似てゐた。
 
  十五
 
老いて貧しいので水蛭をとるために
この沼に來たと彼は語った。
危險な倦怠い仕事よ!
彼は多くの困難に逢った。
池より池、沼より沼へとさ迷ふた。
仕合せにも、兎も角宿を得て、
律義に毎日の生計(くらし)を立てゝゐた。
 
  十六
 
彼は私の傍に立って尚語り續けた。
かれどその聲は音もなく流れる小川のやうに
一語々々を區別せられなかった。
彼の全身はさながら
夢に逢った人のやうに、
また適切な訓戒によって人間に力を與へるために
ある遠くの國から送られた人のやうに。
 
  十七
 
前の思ひは再び起った。
人の心を萎縮させる恐怖、實現の覺束ない希望、
寒氣、苦痛、勞苦、すべての肉體の災難、
偉大な詩人も逆境に倒れるといふ事実、
——堪へかねて慰めの欲しさに
私は熱心に問を又始めた。
『君の生きるのは何の爲め、君のするのは何か?』
 
  十八
 
水蛭をとりながらこゝかしこと旅をし
水蛭住む池の水を
足のまはりに動かしながら
彼は微笑(ほゝゑ)んで答へた。
『嘗ては水蛭はどこにもゐました、
けれど次第に亡びて少くなったのです、
それでも續けて何處でも探して歩くのです。』
 
  十九
 
老人がかく物語った時、淋しい所、
老人の姿と話は——みな私を惱ました。
彼が唯獨り黙って
絶えず沼地をさまよふ姿は
私の心の眼に映った。
斯やうな思ひに耽ってゐる間、
老人は一息吐いてまた語り續けた。
 
  二十
 
間もなく彼はこの事に他の事柄を交へて話した、
話は快活に、態度は優しく然も堂々と。
彼が話し終った時、この老人に
こんな強固な心があるのを見て
愛想もつきる位であった。
『神よ、私を助け、守ってくれ、
私は寂しい沼の水蛭取りを想ひ出さう。』
        ---- 一八〇二 ----

鹿飛ぶ泉 (Hart-leap Well)

「鹿飛ぶ泉」は小さな泉でヨオクシアのリッチモンドから約五哩で、 リッチモンドからアスクリッグに到る道の傍近くにある。 その名は毛色の變った狩獵に因ったもので、 その思ひ出は次ぎの詩の二部に語られた記念碑によって保存せられてゐる。 その記念碑は私が述べてゐる通り今も尚存してゐる。

  第一部
 
夏の眞晝をゆるやかに大空に飛ぶ雲のごとく、
ウェンズリイ沼から馳せ來た騎士は
家臣の戸口に近づくと
替馬(かへうま)を!』と聲高く叫んだ。
 
『替馬を!』との叫び聲を聞いた家臣は
美しい灰色の駿馬に鞍を置くと、
サア・ウォオタアは馬に跨った。
この華々しい狩獵の日に彼が乘り替へた馬はこれで三度目。
 
後脚で躍り上る駿馬の眼には喜びが燦めいてゐた。
馬は逸物、騎者は猛者(もさ)の揃ひもの。
然しサア・ウォオタアは飛ぶ鷹のごとく走らせたが
物悲しい沈默が四邊に漂うてゐた。
 
今朝サア・ウォオタアの館を騒ぎながら繰り出す狩の一行は、
馬を走らせつゝ喧びすしく打ち騒いだ。
然し人馬の影は忽ち消えてしまった。
これは從來に比類(たぐひ)を見ない追跡の仕方であった。
 
サア・ウォオタアは方向を變へる風のやうに小やみなく、
まだ殘ってゐる疲れた犬を呼んだ。
狩獵中の逸物ブランチ、スゥイフト、ミュウジックを引き連れ
嶮阻な山路を喘ぎながら登った。
 
騎士は犬を勵ませ、或は叱り、
或る時は拜むやうに頼んで進ませた。
然し息切れて眼の眩んだ犬は
一匹一匹と羊齒の間に長くなって倒れた。
 
先に騒がしく駈け出した群衆や、
あの喜ばしげに吹いてゐた角笛は何處?
——この狩獵はこの世で行はる狩獵とも思はれぬ。
サア・ウォオタアは唯一騎牡鹿を追ってゐる。
 
哀れ、鹿は山腹を痛ましく動いてゐる。
私は鹿が何處まで飛んで行ったかを
又彼が如何なる死方をしたかは語るまい。
然し今騎士は鹿が死んで横はってゐるのを見てゐる。
 
ひらりと馬を飛び降りて彼は茨に身を凭れた。
從者も、犬も、少年もゐなかった。
彼は鞭打ちもせず、角笛も吹かないで
無言の喜びでその獲物を眺めてゐた。
 
サア・ウォオタアが横はってゐる茨の近くに
華々しい功名が助けた彼の乘馬は立ってゐる。
生れたばかりの小羊のやうに弱々しく、
篠つく霙のやうにい眞白き泡を吹いてゐた。
 
彼の傍には鹿が横はってゐる。
その鼻は丘の下の泉にふれて
その息は斷末魔の深い呻きのために、
泉の水を尚顫はせてゐた。
 
今や憩ふには餘りに喜びに充ち
(こんな喜ばしい幸運を世の人は味ひ知らぬ程)
サア・ウォオタアは南に、北に、西に、東にその周圍を歩き廻った、
そして鹿の仆れるた場所を懷しげに眺めた。
丘に登り行けば——
(少くともそれは一町許りの嶮しい登りであった)
サア・ウォオタアは追はれた獸が
芝生の上に殘した三つの蹄の跡を見出した。
 
彼は頭を拭って叫ぶには
『今までこんな光景を見たことがない。
この高い崖から鹿が仆れてゐる下の泉まで
三足に飛んで來たのか。
 
『こゝへ別莊を建てゝ
田園の歡びを盡すために四阿(あづまや)(しつら)へよう。
それは旅人の宿となり、巡禮の宿となり、
羞らふ娘達の人目を忍ぶ戀の場所ともならう。
 
『巧みな工匠に
谷の中の泉の水を受ける石盤を造らせ、
もしその名をいふなら
今日から「鹿飛ぶ泉」と呼ばう。
 
『立派な鹿よ!お前の賞讚を知らせるために、
今一つの記念碑をこゝに建てねばならぬ。
三つの別々の石柱を
汝の蹄が芝生の草をすっかり取った場所に。
 
『日の長い夏には
情婦を連れてこゝに來よう。
そして踊子と伶人の歌とで
この樂しい四阿(あづまや)で樂しまう。
 
『この山の礎の搖ぎなき限り、
俺の屋敷を四阿(あづまや)としよう。
スウェイル河畔の畑を耕す農夫等を喜ばせ、
ウアの森の間に住む彼等を喜ばせよう。』
 
吐息も絶えて泉の傍に横はって全く死んだ
鹿を後に殘して狩人(かりうど)は家路についた。
直ちに騎士は己が云ったことを成就(なしと)げ、
その名聲は廣く遠く鳴り響いた。
 
月が三度その港に航海しないうちに
石盤は滾々として盡きぬ泉を受けた。
荒石の三本柱を建てゝ
谷間に逸樂の家を造った。
 
泉の近くに丈高い花蔓が
垂れ下った草や木に絡んだ——
それはまもなく緑の木蔭をつくって
日影や風を防ぐ森の隱れ家となった。
 
こゝで長い夏の日、
サア・ウォオタアは驚き喜ぶ情婦を連れて來た。
そして踊子と樂人の歌で
この樂しい樹蔭で樂しんだ。
 
騎士サア・ウォオタアはその後この世を去った、
彼の屍は祖先代々の谷間の墓地に葬られてゐる。
第二の歌に對する材料があるので
私はこれに今一つの物語を加へよう。
 
  第二部
 
悲しむべき不測の禍を語るのが私の務めでない。
身の毛をよだたせるには私は不器用だ。
夏の樹蔭に唯一人、思ひに耽る人のために、
單純な歌を奏でるのが私の悦びだ。
ホオズからリッチモンドまで往った時、
辻の三つの隅に三本の白楊(はこやなぎ)
谷間に立ってゐるのが見えた。
一本は泉の近くの四碼もない所に立ってゐた。
 
これが何を意味してゐるか、私には見當が附かなかった。
そこで手綱(たづな)を引いて馬を止めると、
三本の柱が一列に立ってゐるのが見えた。
最後の石の柱は黒き丘の頂きに。
 
樹は灰色で枝もなければ梢を飾る花もない。
茶がかった緑の四角な丘は半ば荒廢に歸してゐた。
そこで私と同樣に、諸君ももしそれを見られたなら、かう云ったかも知れぬ。
『こゝは昔、人の手が加へられたのだ』と。
 
私は遠近(をちこち)の丘を眺めた。
これよりも悲しい所を眺めたことはない。
春はこゝへは訪れないやうに見え、
自然はこゝでは喜んで荒廢するやうに思はれた。
 
私は色々の考や空想に耽って立ってゐた。
すると羊飼の着物をつけた一人の翁が
洞窟から現はれて來たので私は話しかけ、
此處は何であったかと訊ねた。
 
羊飼は立ち停まって、
私が前の歌で述べた同じ物語を語った。
『昔は樂しい所でしたが、
今では何か禍事(まがごと)があって呪はれた所です。
 
『御覽の通り白楊(はこやなぎ)の森の生命のない切株は
人は山毛欅(ぶな)とも楡とも傳へてゐます、
それらは四阿(あづまや)で、こゝに館が立ってゐました、
百の王國の中での最も美しい宮殿が!
 
『その四阿(あづまや)は眼のあたりありし昔を偲ばせます。
御覽の通り、石や、泉や、流れがあります。
然しあの大きな門番詰所に到っては!お前さんが半日捜し廻っても
忘れた夢と同樣、その痕跡を見附けることは出來ません。
 
『そこでは犬も牡牛も、馬も羊も
この石盤の中には觸れず、
萬物が熟睡してゐる時折々
この水は物寂しい呻きを立てるのです。
 
『こゝで人殺しが行はれたといふ者もあります。
そして血が血を求めて叫びました。
然し私は、私が日向に坐ってゐる時、
すべてあの可哀さうな鹿が原因だと思ひます。
 
『その時の鹿の心持はどんなでしたらう?
何しろあの嶮しい山の天邊から
僅か三足に飛んだのです——そして御覽なされ旦那、この最後の石を——
まあ餘りのことぢゃありませんか、旦那!
 
『鹿は十三時間必死の駈けずめでした。
私の單純な頭では想像がつきかねます、
鹿はこゝまで逃げのびて
この泉の近くを死の床とせられませうか。
 
『この草の上で恐らく彼は眠ったのです、
暑い眞夏に泉の潺湲たる響きに夢をゆられて。
この水は初めて母の側を離れた時、
あの幼い仔鹿が飲んだ恐らく最初の水でした。
 
『四月にはこの花咲く茨の下で
彼は小鳥が朝の歌を囀づるのを聞きました。
もしかすると、恐らく彼は同じ名前の泉から
約一町足らずの所に生れたのかもしれませぬ。
 
『さてこゝには草も樂しい樹蔭もないのです。
これよりも荒凉たる窪地には陽は輝きません、
私がしば〜言ったやうに、
木と石と泉がすべてなくなるまで物憂いでせう。』
 
『白髪の羊飼よ、お前はよくも云ってくれた、
自然に對するお前と私の信條には大差がない。
この獸の死に對して自然は眼をとめてゐた、
彼の死は神の同情によって悲しまれた。
 
『雲と空氣、
杜の間の緑の葉の中に潜む神は
愛する無害な生物のために
深い敬虔な愛撫を絶えず抱いてゐる。
 
『この逸樂の家は塵となった——後を見ても前を見ても
之は並大抵の荒廢ではない、ありふれたただの陰鬱さでもない。
然し自然は適當な時間が經過すれば
再びこゝにその美とその花を咲かせるであらう。
 
『吾々人間の現在と過去を知らせるために
自然はこれらの事物を(おもむ)ろに朽ちさせる。
然し人間の心の一層 (やはら)ぐ日が來れば
これらの記念物は全て草に覆ひ隱されてしまふ。
 
『羊飼よ、自然が外に示すものと内に隱すものと、
二つによって教へられる一つの教訓を
吾々二人は共有しよう。假令どれ程賤しくとも
苟くも生ある物の悲しみに對しては吾々は愉快や誇の感じを抱いてはならぬ。』
        ---- 一八〇〇 ----

更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 高調詩


高調詩

比ひ稀なる光耀美の夕べに作る (Composed upon an Evening of extraordinary Splendour and Beauty)

  
若しこの光耀が
飛び行くやうに忽ち消え失せたら、
私は聲なき雲の間に
茫然と驚きの眼を放ったらうに。
けれどそれは容易に消えないで
ある一日の夕暮を神々しくする、
果敢ない人間の眼に見ることの出來るため
自然の美しい樣でなくその極美を示す!
昔は熱誠な天使の聖歌隊が
森の夕べの祈りの歌を唱へ、
野邊も入江も
その歌に合せて美しい反響を放ち、
または、星のごとく高きにゐて、
上なる天のため、下なる地のために
妙なる調べを奏でたといふ。
もし今かゝる聖曲をまのあたり
山又谷よりひゞき來るとも、
この沈默の光景——閃光——
陰鬱——至高の平和に優って
崇高(けだか)き恍惚も、純愛をも動かさぬ。
  
音はせぬ——たゞ
深く高い調和が
崖から崖へと谷間にひろがり、
林の道をつらぬく。
かゞやく光の
不思議な力に呼び出されて
遙か彼方の物像(すがた)も近く見え、
光輝は物に觸れて珠玉の如き光に染む!
妙に朗らかの幻影の中に
牛の群は山腹をさまよひ、
鹿の群は夕陽にきらめき、
羊の群も黄金色に見える。
紫紅の夕べよ、この靜かな時は汝の所有(もの)
けれど神々しい願ひか望みの
私の心靈を活かす間は、
この壯美を汝のみの所有とは信ぜられぬ!
——この世ならぬ他の世から
この賜物の一部は來たのだ。
英國の羊飼が踏む地に
天より來る光明が交って擴がってゐる!
  
親しき妻や子に別れ、
痛手に歎き悲しむ者には
かなたの霞める山々は
榮えある階梯に見えないだらうか、
輝やく大氣に包まれ
はてもなく登ってゆく
想像を誘ひ昇らせて
不朽の靈と交はらしむ!
——わが肩の翼すら動くやうに見える。
けれど私はこゝに立ち止まって
天に昇る眞の道かと思はれる
かの輝く階梯を見つめるのだ。
來れ、汝俛るゝ老人よ、外を見よ、
いまより登りゆく國の美しさを見よ!
もし旅路に疲れて
白晝(まひる)過ぎ草地に眠る旅人があれば
汝天使よ!彼のもとに急ぎゆき
いとも靜かに搖り起し、
この莊嚴な夕べに與へられる賜物を
受けるやうに彼の魂を亂すなよ!
  
おゝ樂しかった幼き日、
いづこをさまよふとも
天より來るかやうな光は、
つねにわが前に漂うてゐた。
この幼時の榮光は何故再び新しく見えるのか?
怪しむことをやめて、たゞ感謝しよう。
これらの閃光の跡が殘ってゐるなら
それはたゞ夢の中だから。
自然の恐ろしい聲と同樣に
また平和と靜謐がその務を果す偉大な力よ!
私の行が惡に向ってゐるならば、
汝から背くやうな心が起るならば、
あゝ、汝の惠によってあの幼い時に失った
徒らに歎き求めてゐる靈光を私に想ひ起させよ。
今その光明が、覺めてゐる眼に輝やくのは
奇蹟といはねばならぬ。
わが靈よ、尚未だこの世を離れてゐないが、
第二の誕生に喜べ!
——美しい夕べの靈光は消え失せ、
夜は闇をともなって近づいた。
        ---- 一八一八 ----

義務の頌 (Ode to Duty)

『單に決心によって善良であるのみではなく、 習慣によってこの目的に達して以て啻に正しいことが出來るのみでなく、 正しい事以外には出來ぬほどにならねばならぬ。』

神の聲から來た峻嚴(いつか)しい女神よ!
おゝ義務よ!汝がこの名を好むなら
人を導く光となり、
あやまった者を懲す(むち)となれ。
故なき恐怖に威壓せられるとき、
汝は勝利と法則だ。
汝は人を誘惑の中より解き放ち、
弱き人間の苦鬪を鎭める!
 
義務の眼が吾々を見守ることを
不必要とする人がある。
疑念を含まぬ愛と眞實によって
青春の温かな親切な意氣込みに據る者がある。
幸福なる人々よ!恥辱も缺點もなく、
彼等は義務の命ずる所と知らずに善行を營む。
あゝ!誤まった確信から失敗するならば、
汝が救ひの腕で彼等を抱け、畏るべき力よ!
 
愛が我等を導く光で
喜びがその保證であるならば、
吾等が生活は靜肅で輝やき、
吾等が生涯は幸福だ。
大膽で、賢明で、
愛と喜びに住む人が
必要に應じて義務の強い助を求めるならば、
この現世でも
幸福の道は辿られる。
 
私は自由を愛して試練に乏しく、
熱情の煽るがまゝに身は任さぬが、
自ら自己の指導者となってゐたため
餘り自信をもちすぎて判斷を誤まった。
時節に適切な母の命令を
私の心に開いた時には、
安逸な横道をさ迷ふために務を怠った。
けれど今からは忠實に汝に仕へよう。
 
私の精神の烈しい動搖のためでもなく、
又烈しい悔恨の情に驅られたためでもない。
靜かに思ひ、徐ろに考へたすゑ、
私は汝の指導を求める。
私は無制限の自由に飽いた。
気紛れな欲望の重荷を訴へる
私の希望はもはや變らぬことにしたい、
常に變らぬ平安を私は求めてゐる。
 
峻嚴(いつか)しい立法家よ!けれど汝には
神のごとき慈愛が溢れてゐる。
汝の微笑ほど美しいものを
吾々は知らぬ。
諸々(もろ〜)の花は汝の前に微笑(ほゝゑ)み、
馥郁たる香氣は汝の足跡に續いて生れる。
汝は星をしてその道を(よぎ)らしめ、
最も古き天も汝のために鮮やかで強固だ。
 
謙遜な仕事のために、畏るべき力よ!
私は汝を呼ぶ。
今からこの身を汝の導きに委ねん。
あゝ、弱きこの身を終らしめよ!
賢くて謙遜であることを知り得た我に
犠牲の精神を與へよ。
道理に基いた自信を與へよ。
眞理の光に照されながら我をして汝に從ふ人たらしめよ。
        ---- 一八〇五 ----

幼時を憶うて永生を識る頌 (Ode on Intimation[誤:Intimations] of Immortality [注:Ode: Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood])

  
牧場も、杜も、流れも、大地も
眼に觸れるすべてのものは、
天の光に包まれ、
さながら夢の光耀(かゞやき)鮮明(あざやか)さとに
裝はれ見えた昔もあった。
さあれ今は昔のさまと異り、
いづこを辿るとも、
夜も晝も
嘗て見た物はもはや見えなくなった。
  
虹は現はれては消え、
薔薇の花は愛らしい。
空晴れて雲なきとき、
月は嬉し顏に四邊(あたり)を眺める。
星づく夜に湛へた水の面の
美はしく、清らかさよ。
生れ出た太陽()は輝いてゐる、
されど、今は何處に行くとも
地の榮光は消え失せたやうに思はれる。
  
鳥は樂しい歌をうたひ、
若い仔羊は
(つゞみ)の調べに合せてゐるかのやう跳び廻るのに、
唯一人われのみに憂ひがあった。
けれど折好くも今この憂ひを詩に述べたので、
胸は晴れて、再びわが心は強くなった。
瀧は崖に喇叭のごとく鳴りひゞく、
この樂しい春の季節を汚すまい。
山には谺がきこえ、
そよ風は暁の野邊から吹き來り、
大地は隈なく晴れわたってゐる。
陸も海も
この喜びに身を任せ、
春の陽氣の心もて
獸はすべて休む。
汝喜びの羊飼の子よ、
私のまはりで叫び、汝の歌をうたへ、
幸ある牧童よ!
  
幸多きものみなよ、
汝等が呼び交す聲を私は聞いた、
天も汝等の喜びに加って笑ってゐる。
私の心も汝等の祝祭(まつり)に加り、
私の頭には花の冠をいたゞいた。
汝等のありあまる祝福(さいはひ)を私は悉く身に覺える。
この樂しい五月の春の朝、
地さへその身を飾り、
子供等はこゝかしこに出で、
遠近(をちこち)の谷間に
鮮やかな花を摘み、
陽はうらゝかに輝やいて
嬰兒も母の腕に抱かれて躍り立つ時、
おゝ、禍なるかな!われのみ一人憂ひてゐるとは
われは喜びて汝の聲を聞く!
されど多くの樹の中の一本と
嘗て見た一つの畑は、
ともに過ぎし昔のことを語る。
足もとに咲く三色菫も
同じことを物語る。
幻影の光はどこに消え去ったのだらう?
榮光(さかえ)と夢は今いづこ?
  
人の世に生れるのは、唯眠りと前世を忘却(わすれ)るに過ぎぬ。
われらと共に生れた魂——生命の星は——
かつて何處にか住んでゐたもので、
はるか遠くから來たもの。
けれど過ぎし方を全く忘れたのでもなければ
全く裸體(はだか)で來たものでもなく、
美しい榮光の雲を曳いて
われらは故郷の神の懐より來たものだ。
幼い時天はわれらにつきまとふ、
けれど牢獄(ひとや)の影は
生ひたつ子供にせまり添ふ。
然し少年は光明を見、その光の源を知り、
喜んでその光を打ち眺める。
若人は日々東の空を遠ざかるが
なほ自然に仕へる祭司で、
美しい幻は
その行くてにつき纒うてゐる。
終に大人となってはその幻の光も失せて
ありふれた平常(たゞ)の日の光と褪せゆくことを知る。
  
地はその垂衣(たれぎぬ)快樂(よろこび)を充たし、
(おのづ)から具はれる憧憬をたゝへてゐる。
また母の心をさへ懐いて
賤しからぬ目的もある、
この純樸な乳母は力の限り手を盡し、
天より預かった養兒、わが家の寄寓者(かかりど)にしようと
味ひ來った天の榮光を忘れしめ、
生れ里の天國をも忘れさす。
  
新な幸を受ける幼兒を見よ、
丈の低い六歳の愛兒を!
自分で作った多くの玩具の中で、
母親の不意の接吻(キス)にぢらされて
父親の慈眼で見守られてゐるさまを見よ!
見よ、足もとには人生の夢から切りとった
一片の地圖や海圖が並んでゐる、
それは覺えたばかりの技術で自ら拵へたものだ。
婚禮か、祭禮か、哀悼か、葬式か——
今やこれらは彼の心を奪ひ、
これに就いて歌を作ってゐる。
やがてその口にする事は
事業や、戀愛や、爭鬪の對話。
けれどまもなく
それらも棄てられ、
新な喜びと誇りを懷いて
この小役者は他の持役を學ぶのだ。
絶えず自分の「十人十色の舞臺」の上に
人生の行路に伴ふあらゆる人物を
老い朽ちた人に至るまで登らせる。
恰も一生の仕事はすべて限りない模倣のやうに。
  
外観だけ見ては
靈の廣大無邊を容れるとも見えない汝。
汝は尚遺産を保ってゐる立派な哲學者、
世の盲者の間にゐても汝はよく視、
聞かず語らずして深玄な永遠を色讀し、
常に久遠の心を悟る——
大なる豫言者よ!惠まれた賢者よ、
われらが一生を苦しんで見出さうとしても
暗闇に迷ひ、死の闇に隱れて見えぬ
かの諸々の眞理が汝の上にあるのだ!
汝には永生が宿っては太陽の光のやうに、
主人の威力の奴隷に及ぶやうに、
打ち消し難い存在だ。
嬰兒よ、人生の最高嶺に立ち、
天賦の自由を()けて輝やく身ながら、
何故かく熱心に努めて
避け難い(くびき)を齎す年月の前に奴僕となり、
かくもおろかにわが幸福に反いて鬪ふのか?
やがて汝の魂は浮世の重荷を負はされ、
習慣は霜のやうに重く、生命のやうに深く、
汝の上に横はるだらう。
  
われらが老いた餘燼(もえさし)の中には
尚生ける物がある。
かくまで消えやすいものを
それでも自然が忘れずにゐるのは喜ばしい!
ありし日を憶へば
わが心は絶えぬ感謝の心を起させる。この喜びは
祝福する値の高いものへの感謝ではなく、
歡喜、自由、忙しい時も憩ふ時も、
胸に羽ばたきつゝ新に生れた希望をもつ
幼時の單純な信條にのみ、
感謝讃美の歌を捧げるのではない。
人間から離れて消え去るやうな
感能に觸れる外界の物象に對する
頑固(かたくな)の疑念のために、
認め得られぬ世界を彷徨(さまよ)
生き物の空しい疑惑のために、
また高貴な本能のために歌ふので、
この本能の前に立つと吾々の人間性は
捕へられた罪人のやうに戰慄する!
たゞかの少年時代の至情のため、
夢のやうに淡い前世の記憶のために歌ふので、
この至情、この囘想はいかなる類のものとても、
吾々の生涯を照らす光の源、
吾々の視知を明らかにする重要な光、
それを吾等を養ひ吾等を擁り、
さてはこの世の騒がしい生活は
永遠の沈默の存在中の一刹那であると思はせる力を與ふ。
常に眼ざめてゐる決して亡びぬ眞理で、
無頓着でも、狂へる努力でも、
大人も子供も、
歡びと相容れぬ苦痛悲哀も、
全く滅ぼし害ふことは出來ぬ!
されば、空晴れて靜かな季節に
遠く陸地の奥にあるとも、
吾等の靈は吾等をこの世に送って來た
かの久遠の大海の姿を眼のあたりに眺め、
瞬く間にその岸邊に走りゆき、
濱邊に遊ぶ子供等の姿を見得べく、
永劫の波打ち返す大海の轟きを聽くのだ。
  
さらば歌へ、小鳥よ、喜びの歌を!
小鼓の調べにつれて
仔羊よ、踊れ!吾々も心の中の歡びを以って
汝の群に加はらう。
笛吹く者よ、遊ぶものよ、
今日の五月の喜びを
全心を空に感ずるものよ!
嘗て煌々と輝いた光が
今は永久に消え去ったとて何であらう。
草の葉には光輝を、苑の中には榮光を
齎す時代が來ないとて何であらう。
吾々は歎くまい——いな寧ろ
後に殘されてゐるものに力を見出さう。
嘗て在った故に永久にあるべき
人間苦から迸り出る
直覺的同情の裡にも、
優しい心を慰める考への裡にも、
死によって永遠を見る信仰の裡にも、
年經て生れる悟りの心にも力を見出さう。
  十一
あゝ見よ、[誤?:あゝ見よ、泉よ]、牧場よ、丘よ、森よ、
吾等相互の愛の斷絶をば豫想するな!
尚もわが心の奥底に汝等の力を感ずる。
我はたゞ一つの歡びを捨てゝ
汝等の絶えざる感化の下に住むのだ。
今やさゞめき流れる谷川を()づることは
谷川のやうに身輕に歩いた幼き日にも優る。
新しく生れる太陽の清淨無垢な光明は
昔ながらに美しい。
夕づく日に集ふ雲の群は
人生無常を知った眼から
愁ひの色を取り除き去る!
一つの新な試練を經て他の勝利を得たのだ。
我等の生きるよすがの心情に感謝し、
その慈愛、喜悦、驚愕にも感謝する。
いとさゝやかな一莖の花も、往々(まゝ)わが身には
涙にあまる深い思ひを與へ得る。
        ---- 一八〇六 ----

更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 十四行詩


十四行詩

ウェストミンスタア橋上にて (Composed upon Westminster Bridge)

これにもまさる美しはしきものは地になし、
いみじくも崇高(けだか)きこの光景を認めぬは
こゝろの鈍れる人ぞ。
市街(まち)は朝の美を輕羅(うすもの)にまとひ、
船、塔、堂宇、劇塲、寺院は
野に向ひ、空に並びて
沈默のうちに、(あら)はに開き、
すべて澄み亙りたる空にきらめく。
かくも美はしき陽は朝の光を、
谷、岩、丘に投げしことあらじ。
かゝる深き靜けさを我見ず、はた知らず!
川は心のまゝにのどかに流れ行く。
あゝ!家々さへも眠り、
大都は今聲なくて靜かに眠る!
        ---- 一八〇二 ----

一八〇二年九月倫敦にて (September 1, 1802)

おゝ友よ!何處に慰藉を求むべきや、
吾等の生活が唯外見のために
飾られてゐると思へば悲憤に堪へられぬ、
工匠、料理人、馬丁の賤しい手細工だ!
吾等は遍く太陽に照らされる小川の如く、
輝いて走らねば不幸なものとなる。
吾等の中では最も富める人が最も善人だ。
自然や書籍の美は吾等を喜ばさぬ、
強奪、貪婪、空費を偶像にして
吾等はこれらを禮拜するのだ。
質素な生活も高尚な思索ももはやなく、
昔ながらの道の飾りない美は滅び、
吾等の平和も敬虔な無心も、
家法を生かす純潔な宗教も皆消え失せた。
        ---- 一八〇二 ----

美しい夕べ (It is a Beautions Evening)

——カレイ附近の濱邊で——

靜かに鮮やかな美しい夕べよ、
神々しいこの一時の靜けさは、
祈禱(きたう)に息を凝した尼のやう、
夕陽は靜謐の中に沈まうとして
靜かな空は海を覆ふ。
聽けよ!偉大な靈は眼ざめ、
その永遠の活力によって
雷のやうな音を放つ——絶間なく。
共に歩む懷しい少女子(をとめご)よ!
汝は嚴かな思ひに動かされなくとも、
汝が天性は神々しさを失ふまい。
汝は常にアブラハムの懐にあって、
神殿の至高所(いとたかきところ)に神を拜むので、
人は知らないが神は汝と(とも)(いま)す。
        ---- 一八〇二 ----

ミルトンに (Milton!)

ミルトンよ!君はなぜ生きてゐないのか、
英國は君を求めることが切だ。
英國は今泥水の淀んだ沼となってゐる、
教會も、軍隊も、文學も、家庭も、富貴の社會も、
英國の遺産であった内心の歡びも奪はれた。
吾等は今利慾の奴となった。
あゝ、吾等を高め、再び吾等に歸ってくれ、
吾等に禮儀と、美徳と、自由と、威力を與へよ。
君の魂は星のやうに俗界をも超越し、
君は海のやうに轟く聲をもってゐた。
晴れたる空のごとく清く、嚴かに、自由な姿で、
君は人生の常道を
神々しい樂しさを以て歩んだ、
けれど君の心は最も卑しい務めにも從った。
        ---- 一八〇二 ----

ヴェニス獨立の消滅 (On the Extinction of the Venetian Republic)

嘗てヴェニスは華やかな東方を全く征服して、
西方の防備であった。
ヴェニスの價値はその生れを辱めなかった、
汝自由の長子よ。
汝は自由な、まだ嘗て征服せられぬ輝やく處女市であった。
狡計にも誘惑せられず、暴力も受けず、
ヴェニスが花嫁を取るときは
永劫の海を(めと)らねばやまなかった。
これらの榮光が衰へ、稱號が消え、
力が衰へたのを見ても何をか悔いん?
しかも後悔の貢物は
その長い歴史が終る日に拂はれるだらう。
吾々は人間であって木石ではない。
そこで滅亡の時は昔の名殘を止める影にすぎないが悲しまねばならぬ。
        ---- 一八〇二 ----

瑞西の服從と英國 (On the Subjugation of Switzerland)

二つの聲がある。一つは海の聲、
一つは山の聲だ。何れも力強い聲、
二つの聲の中に時代から時代へと汝は樂しんでゐる。
彼等は汝の選ばれた樂の音だ、自由よ!
そこへ暴君が來たので、神聖な喜びをもて
汝は彼等と刄を交へた。然しそれは空しい爭ひであった。
汝はアルプスの城砦から最後に追はれ、
そこでは流れの囁きも汝には聞えなかった。
汝の耳は一つの深い至福(さいはひ)を奪はれた。
然らば守れよ、おゝ尚も殘ってゐる英國を守れよ。
何故ならば、心高き處女よ、
山の洪水が以前のやうに轟き、
岩多き海邊から大海が叫び、
恐ろしい聲が汝に聞えなければ何の悲しみがあらう。
        ---- 一八〇七 ----

トゥサン・ルウベルティユルに (To Toussaint L'Ouvertur[誤:L'Ouverture])

人類の内で最も不幸なトゥサンよ!
口笛を吹く百姓が獄中にゐる汝の聞える所に(すき)で耕さうと、
また汝の頭が深い獄房の音も聞えぬ室で今枕しようとも、
あゝ慘めな司令官よ!何處に何時、
汝は忍耐を見出すのか?しかも死んではならぬ!
汝は獄中に繋がれながらも快活な顏をしてゐる。
再び起つことの出來ぬやうに、汝は衰へてゐても生きて慰めよ、
汝の示す精神は、
自由を愛する者を奮起させる。
空氣、地、空も汝のために動かされて働く
汝を忘れるやうな愚凡の風はそよとも吹かぬ。
汝は大なる同盟者をもってゐる。
汝の友は狂喜と、苦痛と
愛と、人間の不屈の精神だ。
        ---- 一八〇二 ----

レイズリイ・カルヴァアトの思ひ出に (To the Memory of Raisley Calvert)

カルヴァアトよ!私が君の御蔭で
若い時代に數年の自由を得たことを
私を詩人として尊敬してくれるかも知れぬ人々に是非知らさねばならぬ。
病のためにあたら青春の若木が、幹も根も空しく朽ち果てる運命に陷った時、
君は取計ってくれた——
もしも嚴しく生活を切りつめるなら、
私に放浪生活が出來るやうにし、
最後に私の額を飾るのに詩神の王冠を以てした。
そこで、自由の中に私が眞理を愛したならば、
私の過去の詩に、幾分でも清純なもの、善良なもの、偉大なものがあるとすれば、
或は又今私が瞑想してゐる高い氣分の歌に、
清純なもの、善良なもの、偉大なものがあるとすれば、
おゝ、酒多き、束の間の青春よ!
それがどれ程まで汝の功績であらうかと考へると私は喜ばしい。
        ---- 一八〇六 ----

トマス・クラアクスンに (To Thomas Clarkson)

一八〇七年三月奴隷賣買廢止法案の決定的通過に際して

クラアクスンよ!それは攀づるに難い山であった。
その辛さ——その恐ろしさは——君のみが知る。
恐らく君程に情深い人はあるまい。
君は血の燃ゆる青年時代に始め、
この嚴かな事業を最初に導き、
君の若い心を覺ました不斷の聲が
進軍を繰り返し叫ぶのを聞いた。
あゝ、時代の眞實なる仲間よ、
義務の勇敢なる家臣よ、
見よ、捷利(しょうり)は得られた、國民はすべてこれによる
血で汚れた文書に永久に裂かれた。
今後君は善人の靜和はいつか休息を見出す、
志操堅固な人類の友よ!
        ---- 一八〇七 ----

戀、戰、又は紛々たる政爭 (Not Love, Not War, nor tumultuous Swell)

戀、戰、又は紛々たる政爭、
または思はぬ災難、
苦痛と鬪ふ義務——
これらのみが(たへ)なる音樂を生むのではない。
亂れぬ平和と調和のある處に、
詩神(ミユウズ)はさまよふことを嫌はず
(しづ)伏屋(ふせや)の烟を朝夕に
谷から空に昇るのを眺める。
優しい渇望、孤獨の努力、
賢い滿足、靜かな憂鬱は詩神(ミユウズ)を喜ばす。
詩神(ミユウズ)は澄み切った川を好んで見つめる——
靜かに流れるので澄んでゐる。
永久に魅力を與へる音樂は靜かだ、
匂ひいとも妙なる花は(かすか)で小さい。
        ---- 一八二三 ----

十四行詩を侮るな (Scorn not the Sonnet)

十四行詩を侮るな、舊い批評家よ、
それが當然受くべき榮譽を顧みずに君等は非難した。
この鍵でシュイクスピアはその心情を披瀝した。
この小さな琴の調べはペトラルカの戀の痛手を慰めた。
幾千度もタッソオはこの笛を吹いた。
カモオエンスはこれで流浪の悲しみを慰めた。
ダンテがその幻想的の額に頂いた絲杉の間に、
ソネットは陽気な一葉の桃金嬢(てんにんくわ)にやうに輝やいた。
又この世の戀路を辿るために仙郷から呼ばれて
優しいスペンサアを一種の螢火のやうに悦ばせた。
憂鬱の雲がミルトンの道を鎖した時、
彼の手の中にはこのソネットが喇叭となって、
彼は魂を元氣づける調(しら)べを奏でた、
——あゝ、餘りに數少いソネットを!
        ---- 一八二七 ----

尼僧よ、僧庵の狹い部屋で惱むな (Nuns fret not at their Convent's Narrow Room)

尼僧よ、僧庵の狭い部屋で惱むな。
隱者達はその洞窟で滿足し、
學者は思考を凝す書斎で滿足してゐる。
乙女は絲車に、織匠は織機に、
氣輕く坐って愉快だ。
花を尋ねて翔け廻る蜜蜂は
ファネス山の高嶺のやうに高く昇り、
ヂキタリスの花瓣の中で幾時間も囁くだらう。
自ら進んで投ずる牢獄は決して牢獄ではない。
そこで私にとっては、種々の氣分で、
十四行詩(ソネット)の根柢の乏しい仕組に囚へられることは慰みだ。
もしも餘りに自由の苦しみを感ずる人々が(かゝる人は必ず感ずるに相違ない)
私と同じやうにそこに慰めを見出すならば、
私は嬉しいのだ。
        ---- 一八〇六 ----

俗事が餘りに支配しすぎる (The World is too much with us)

俗事が餘りに吾々を支配しすぎる、
朝早くから夜遲くまで齷齪して力を空費し、
われらのものなる自然の物にも餘り眼を止めぬ。
心を手放して物を握る(いやし)むべき取引よ!
月光にわが胸をひたす海原も、
たえず地上に吹き哮り、
やがては眠る花のやうに萎み衰へる風の音も
われらの心を動かさぬ。
自然は吾々を動かさぬ——あゝ!むしろ
私は古い信條に(はぐ)くまれた異教徒になりたい!
かくてこの樂しい牧場に立ち、
よるべなきわが淋しさを消す光を仰ぎ、
海の神プロテュウスが海原を昇りゆくのを見もし、
老いたトリトンが角笛を吹くのを聞きもしたい。
        ---- 一八〇七 ----

ハイランドの伏屋に (To Highland Hut)

見よ、華やかな野花が土で築いたこの小屋を飾るを、
賤が伏屋から立ち昇る烟ではあるが、
朝日に逢って輝き、汚點のない蒸氣の環を作る。
清い流れもこの家を避けないのに、
何故お前(ドラシイ)はためらふのか?
正しい訓練を受けて養はれるならば、
人の性質は謙遜で
天に導かれた足の踏み得ぬ所はない。
壁は裂け、花咲く屋根に落ち込み、
戸口に到る道は雜草が茂ってゐる。
自然の愛のやうに、この孤獨の貧者を愛せよ。
彼等の價値をば不正を容れぬ清き心に求めよ、
温良、忍耐、親切に、その苦勞が少なければ、
今ほど幸福ではあるまい——この家へ近寄れよ!
        ---- 一八三一 ----

『かしこ!』と語る若者が ("There!" said a Stripling)

『かしこ!』と語る若者が誇らかに指す方に
半ば隱れて緑の樹蔭に低い伏屋が見える。
『モスギイルの畑で
バアンズが雛菊を鋤いた野は。』
廣野は遠くのびて海に沿ひ、
アランの峰は海雲を抽いて聳えてゐる。
若者の告げたその一言に
靜かな地、空、海、空氣は生きづいた。
百千々の雛菊は雲雀の巣をば閉ぢ込め、
土塊(つちくれ)、石のむらだちみだれた蔭」に咲いたが、
時も過ぎて散りはてゝゐる。
歌と愛との優しい魅力を知らせんものと、
(つれ)なくも鋤にかゝって枯れた
あの雛菊こそ幸福だ。
        ---- 一八三三 ----

眠りに (To Sleep)

靜かにすぎゆく羊の群一つ又一つ、
雨の音、呟く蜂、川の流れ、風と海、
平の野原、白い波路、晴れた空、
思ひは交々(こも〜゛)變り行く。
けれど眠られぬ!
やがて果樹園の木の梢から
小鳥の歌が聞える。
まづ郭公のさびしい啼き聲。
かやうに昨夜(よべ)も、前の夜も、
眠られなかった。
今宵は眠りを與へよ、
眠らなくては朝の喜びもない。
來れ、日と日を境する汝よ、
新たな思ひと健やかとを與へる母よ!
        ---- 一八〇六 ----

畫家に (To a Painter)

人々は巧みに描かれた肖像を讃めそやす、
然し私にとっては描くことは空な仕業だ、
私は歳月が生んだ變化に屈しないで
記憶の力を絶えず用ひ、
明らかな眼を見、褪せぬ花を見、
彼等の誕生地から夢や幻の住む空の世界へ
決して逃れて行かぬ微笑を見る。
この姿を否定して、他の姿を肯定することは出來ぬ、
汝が若かった遠い昔に歸ることが出來たなら、
或は又私と同じやうに内心の眼を有することが出來たなら、愚かな考へよ!
その時、その時、唯畫家よ!
汝の(わざ)が本然の視力を滿足させることが出來たなら、
俗風の眼はいかに見えるとも
この本然の視力こそ忠實な心を絶對に支配する尊い力だ。
        ---- 一八四一 ----

同じ題に (On the same subject)

暫し呆然と駭いて初めの内はこの肖像を見たが、
私は今それを長く見詰めてゐるので、
今や私はその眞實を認めるのに(やぶさか)でない。
あゝ愛する妻よ!私はお前に惡い事をした、
自分の幸福を自覺してゐるために、
今私が認めてゐるやうに何時も餘りに輕率に考へた。
朝は晝となり、晝は夜となり、
老齡は青春のやうに樂しく、
喜ばしく美しかった、——洵に
更に神聖な物といふ點に就いて、
汝の美徳の御蔭によって、
容色の美は衰へてもお前の眞心は常に青春の若さをもってゐるために、
未来と現在と過去とを一つの姿に溶合(とけあは)せる
汝の大きな心情と謙遜な心のために、更に美しかった。
        ---- 一八四一 ----

羊飼は東を見て靜かに言った (The Sphephered, looking, softly said)

羊飼は東を見て靜かに言った、
『おゝ月よ、汝の面帕(ヴエイル)は汝の顏のやうに輝やく!』
大空の中にひろがり
柔かな光に包まれたこの片雲を
月は忽ち投げ棄てゝ輝やく顏を現はした。
かの羊飼の眼を惑はせつゝ
輕々しくも(そこな)はれた己が美を
示して誇るかのやうに見える。
かくて投げ放たれたその面帕は
月を離れて漂ひ、益々暗くなった。
それから大きな雲が月を蔽はうと
かの美しい大空に近寄った。
謙遜な誇の靜かな一勝利に滿足して、
月は優しく負けて姿を隱した。
        ---- 一八一五 ----

グラアスミア湖畔にて (Composed by the Side of Grasmere Lake)

雲は(なほ)もたゞよひ
灰色なす西の空に堅い線をして延びてゐる。
見よ!微風さへ吹かず
鏡のやうな湖は、いと鮮やかに星を映す。
木星、金星や、
群星の中に一際美しき赤き火星は、
冷酷な人類が不斷の戰場なる
阿修羅の下界を距てゝ輝やく。
それは鏡か?靜かな火を(はぐ)くむ
深淵を見るために開いた下界か?
さあれ聽け!聲は近くにあり、
蘆間にパンの神はさゝやく、
『不信の業に世は荒れ果てゝゐる、
靜謐はこゝにあり、汝感謝せよ!』
        ---- 一八〇七 ----

愛らしい處女の姿を見た (I saw the Figure of a Lovely Maiden)

愛らしい處女の姿を見た、
彼女は暗い木蔭の下に唯一人坐ってゐる。
その優しく垂れてゐる天蓋は
心地よい陰影を伴って彼女の美しさを飾ってゐる
私の心を欺いた彼女は靈ではなかった、
彼女は私がいたく愛したものであったから。
然し優しい幻の中に眺めてゐると、
(さなくば私の空想を弄んだ限りであったか?)
輝やく有形の存在——顏と顏——
尚も明らかに殘ってゐるものが
輝やく霧のやうに薄くなり、
はては金髪、體、手足、神々しい顏は、
消滅のたゆたふ競爭の中に互ひに足並を揃へ、
空氣の中に溶け込んだ。
        ---- 一八二一 ----

五月の朝 (Composed on a May Morning)

かなたの仔羊は、日と同じく生れたばかり、
而も自然は彼等の神々しい指導者とも思はれる。
喜びが近づくか!生長しては季節を迎へ、
陰鬱を避けるのは、あだかもいま
母親の傍に陽を浴びて安らかに坐り、
蒼ざめた黎明のたゆたふ薄明を忌むに似る。
またはその影の變るとともに
こなたかなたに跳び走る。
露もまだ消えぬ芝生をさけて
嫩草(わさくさ)が萠え、花の開く
光り輝やく緑の野に仔羊は向ふ。
何故にわれらは神に頼り、
賜物と希望の中にあって
常に新しい歡喜を終りまで有ち得ぬか?
        ---- 一八三八 ----

眞理は何處にあるや (Where lies the Truth?)

眞理は何處にあるか?人は睿知の信條の中に
憐れな運命をもつか?休息は短く
憂ひと悲しみは増すのみではないか?
人に恩にそむき、
神の仁慈(なさけ)を輕んじて忘れるか?
花は躍り、雲雀はおくれじと
巣を飛び出て朝日に歡びの歌をうたふ時、
人のみは勞苦と共に生れ、悲哀に醒めねばならぬか?
彼等は天地に聞える歌をうたひ
狂歡を求めて高く翔けゆく。
然しこの對比を何故歎くのか?
彼等高きを求める者のごとくわれらも翔けゆき、
人生の悲痛艱苦の試練を經て彼等よりも
更に幸あり、輝やく清き天を目指して進まう。
        ---- 一八四六 ----

汝の誇ったのは (Proud were Ye, Mountains)

汝の誇ったのは、山々よ、いにしへ
愛國の民が汝の額に塹濠を穿って
敵の侵入を防いだときだ。
それに今や不吉な星のやうに
ブリテンに暴威を逞しうする黄金の餓鬼は
汝を恥かしめ、汝の平和と美を奪ひ、
汝の包む愛すべき山地を貫いて
勝ち驕る汽車に道を與へるのか!
あの汽笛を聞け!長い列車の
前へ進む時、汝はそれを見たか?
さうだ、汝は驚いた——
利と害を較べ量り、
山よ、谷よ、川よ、汝等に願ふ
正しい嫌惡の熱情に燃えよ。
        ---- 一八四四 ----

更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 雜篇


雜篇

四季の思ひ (Thoughts on the Seasons)

仇なす風も
 はや吹かぬと喜びて
春は快い五月となった、
 あゝいとも愛らしい姿よ!
 
はげしい暑さに
 高く昇りゆく夏の
去らんとするとき、
 靜かな空は美しさをます。
 
大地は黄金なす稻束で
 鋤の勞働に酬ゆるとき、
熟れる木の實も木々の葉も
 すべて枝にらゞやくとき。
 
四季のめぐりを終へんとて
 冬の迫り來る音を聞く前に
秋はいかに
 思ひ深き美を示すぞや。
 
人の世の春もかくあれ、夏もかくあれ、
 秋には白き冬を交はらしめよ、
かくて天より生れた希望をもて
 人の世をばその終りに觸れしめよ!
        ---- 一八二九 ----

女の兒に (To a Child)

彼女のアルバムの中に題して

わづかの勤めもつゞく間はまこと、
卑しい友とて侮るな、善い兒よ!
野菊はかぼそに影をなげ、
殘る露をば日に消えさせぬ。
        ---- 一八三四 ----

弦月と宵の明星 ("The Crescent-moon, the Star of Love")

夕べの榮光たる
 弦月と宵の明星が
 み空の架徑(わたり)かと見ゆるとき——
 何れか語りてわが疑ひを解け、
何れが女王、何れが從者ぞ。
        ---- 一八四二 ----

激湍の岸に立ちて (On the Bank of a Rocky Stream)

見よ、この激湍(げきたん)の人の心に似るを、
想ひを湧けど動きて定まらず、
さながらこの渦まく流れの泡のごと、
互ひに追ひつ追はれつ
めぐりめぐるが、
出口も、休む所も見出し得ぬ!
旅人よ、かゝる不安が汝にあれば
跪いて神の助けを求めよ。
        ---- 一八四六 ----

老人と駒鳥 (I know an Aged Man constrained to dwell.)

養老院の大きな家に
住む身となった老人を知ってゐる。
そこは牢獄のやうに
近くに人はゐるが、伴侶(つれ)はない、あゝ!
 
貧しくて施物に生きる身ではあるが
自由に蹌踉(よろめ)き廻ることが出來た時は
この老人は一羽の駒鳥に食を與へた、
小舍の戸口へ來れなくて駒鳥は小徑で食べた。
 
廢殘の勞働者が、
一本の特有な樹の根に坐ると
膝の上や地に散らしたパン切れを
駒鳥は一つ又一つ啄ばんだ。
 
日に日に彼等の交りは親しくなった。
二人が逢った時の喜びの現はれよ!
思へ、共通の平和、罪なき遊戯、
別れる瞬間、後の哀傷を!
 
一は翼をはゞたき、嘴を動かし、
一は顫へる手もて愛撫し、
季節は(かは)れど渝らぬ愛に
月日はすぎた。
 
かくてこの選ばれた場所に
堅い愛着は孤獨の二人の間に生れた
そこで後に人々の中に住む身となった時
彼は人との對話をすべて避けた。
 
妻、子、親族はみな先きに死んだ、
けれどもし不運が彼の願ひを妨げなければ
一つの生きた支柱は殘されて
失ったすべてを償ふのだ。
 
あゝ、あの善良な老人が
目に見える表號(しるし)によって送られる報知(しらせ)
彼が鳥を愛し、又常に愛すべきであり、
交際が破れても友情は續くのを悟ってくれたら!
        ---- 一八四六 ----

勞働者の晝の讃歌 (The Labourer's Noon-day Hymn)

神の聖座(みざ)には
朝早く讃美の聲はのぼり、
夕影うすれゆくとき
神は讃歌を受けたまふ。
 
白晝(まひる)に聖き歌を捧げるを
聞き給はぬことはあるまい。
さればこゝに憩ひて
感謝と讃美の歌をうたはう。
 
われらの荷物は輕くなくとも
朝から夕べまで働くには及ばぬ。
正午(まひる)時の中休みこそ
有難き神のみ力にある。
 
この一ときの休みから
われらの神を讚へんと
勇みて用ゆる瞬間こそ
こよなくありがたきもの。
 
そのとき田畑は聖き所となり、
人みなの小舍(こや)は聖壇となり、
會堂となる森の生ける枝は
われらが上に屋根を擴げる。
 
空を見よ!勤め怠らぬ陽は
すでにその行程を半ば走り、
彼は止まらずまたさまよはず、
けれどわれらの不滅の靈は然らず。
 
神よ!太陽が東に昇ったとき
われらもし躓き、または(そむ)くならば
爾の豐かな愛をもて
殘る半日を導きたまへ。
 
爾の慈悲で、短かい一生の間
われらの行く道を助け、
われらが最後の休みに入るとき
西の方にてわれらを祝福したまへ。
        ---- 一八三四 ----

槲と金雀枝(牧歌) (The Oak and the Boom)

  
 
アンドルウは泡立つ小川の邊で
單純な眞理を得た。
森や小山の中で
彼は注意深い研究者であった。
ある冬の夜、
風が梢に吹き荒む時、
末の子を膝に抱き
他の子等は赤い顏をして
燃える爐の周りに坐ってゐる間
羊飼はこの物語をした。
 
  
 
『私は高い岩を見た、
常に嵐が吹きつけてゐるやうな嶄巌を!
その頭から一本の(かし)の樹が生え出て
その足から金雀枝(えにしだ)が出てゐる。
時は正月で、晴れやかな正午(まひる)——
雪融け時の風は、六月の息吹を伴って
温かい西風からそよ〜と吹き寄せた。
その時、老齡の落着いた聲で
巨人で賢者である槲は
隣の金雀枝(えにしだ)に斯く言った。——
 
  
 
『(この山の縁に沿うて
霜はこの八週間の間、夜となく晝となく
(くさび)を打ち込むごとく
岩を打ち、土を穿った。
見上げよ!お前の頭上で、確かに
いかなる禍患(わざはひ)が朶まるゝ[誤?:孕まるゝ]かを思へ。
昨夜私は物の碎ける音を聞いた——それは本當だ。
木片は外の道へ行った——
私は彼處に彼等を見る——
お前のやうなものには何といふ重荷だらう!
 
  
 
『(お前は前と同じやうに
そのか細い體を飾ることに努めてゐる。
然かも丁度三年前の事
お前は九死に一生を得た。
それは彼方の崖から土塊が崩れ落ち、
落雷のやうに砂煙を立てゝ
こちらへ押し寄せて來た。
この重い崩れ土を私は支へ、
この通り、お前の頭上に
今日に至るまでかゝってゐる。
 
  
 
『(微風が、小鳥が、この懸崖に
お前の最初の種子を齎したならば、
その風が吹かねばよかったものを、
その鳥が捕へられゝばよかったものを。
お前とお前の緑の小枝が
愚かな牧童を誘うて
お前の樹蔭に眠れば、
その時、確かに、ある暑い白晝(まひる)
お前と彼とは忽ち、
僅か一時間で泯びるのだ。
 
  
 
『(私からこの親切な警告を受け容れよ』)。[誤:。)』]
眠氣を催し始めた金雀枝(えにしだ)
眼を覺ますため
靜かに言葉を挿んだ。
『(御教訓は寔に忝けない、
あなたのいはれることの眞なことは
私は知ってゐます、よく知ってゐます。
若きも、老いしも、賢者も、愚者も
弱きも強きも、すべてみな
人の生命を繋ぐ緒は脆いものです。
 
  
 
『(いかに最善を盡しても
災禍は何れの人にも襲うて來るでせう。
少しも賢からぬ人が
最も賢い人であることがある。
私はどうして他の所へさ迷はう?
こゝは祖先代々の家で、
私の樂しい讓受物です。
私の父は永く樂しい年月を
こゝで氣輕な花をひろげ、
こゝで老年を味はひました。
 
  
 
『私の運命もこれに似てゐるかもしれぬ、
何とて恐怖をもて
私の心を苦しめよう?
寔に私は惠まれた植物ではないか!
豐かな夏は私を惠んで
滿身に花を覆ふ。
そして霜が空にある時は
私の枝は新鮮で灰色で、
私をいふかもしれぬ
この木は決して枯れないと。
 
  
 
『(渾身緑色と黄金色の胡蝶は
屢々私に舞ひ來て、
おのが翼と等しく美しい翼を
私の花の中に見る。
雨や露で草の冷かな時は
わが蔭に親羊は
仔羊と共に休む。
互ひに現はす愛、
共に受ける快い喜び、
それを見るのは私には喜びです。)
 
  
 
金雀枝(えにしだ)の聲は晴れやかで、心は樂しく、
空に夜の星が
その旅路をはじめるまで
語りつゞけた。
然し折しも槲の枝に
一番の鴉はいとも樂しい
婚姻の歌をうたひ始め、
二匹の若い蜂は微風に送られて
金雀枝の緑の葉蔭に
來り止まって囁き出した。
 
  十一
 
『子供等よ!一夜北方から
狂風が吹いて來た。
夜明け方、外に出て
私は懸崖の近くを(よぎ)った。
暴風は槲を襲ひ、
凄まじくこれを打って
遙か彼方に捲き落した。
けれど氣輕な金雀枝は
裂目に迎へられて安らかに殘り、
尚長く生きるであらう。』
        ---- 一八〇〇 ----

マイケル(牧歌) (Michael)

本街道から歩行を轉じて
グリン・ヘッド峻谷の水音高い溪流を登ってゆくと
胸をつくやうな山路を攀ぢ登らねばならぬと
おもはれよう、こんな嶮しい山阪となって
羊飼ふ山は目のあたりに屹立(そびえた)つ。
然し、元氣を出せ!あお音高く流れる溪流のほとり
山脈はおのづとうちひらけ、
餘所目に見えぬ己が谷間となってゐるから。
人の住家は見えぬが、
そこを訪れた者は
岩石の間を羊がさまよひ、
空高く鳶の舞ふのが目にとまる、
そこはまことに寂しい僻地だ。
この寂しい幽谷を今語り始めたのは
唯一つのものがるからだ。
それは見逃すか、
假令見るとも氣をとめずに終るものかもしれぬ。
溪流の邊りには取散らして積まれた
自然石の山があり、
その價もない石山に
一つの物語が傳はってゐる。
奇怪な事件で飾られてはゐないが、
冬は爐邊、夏は緑蔭の下に
語るのふさはしい物語と思はれる。
この話は谷間に住む牧羊者のことを
私に話してくれた爐邊物語の
最初の物であった、
その牧羊者は私が既に愛した人々であるが——
それは必ずしも彼等に興味があるわけではなくて
彼等の職業を營み、住家としてゐる野や山に興味があるからだ。
その後、この話は、まだ書物には無頓着な少年でありながら
自然の事物の優しい作用によって、
自然の感化力を感じてゐる私に
私のものでない諸々の情熱を感得させ、
また(順序もなくまことに不完全ながら)
人、人の心、人の世に就いて
考察するやうに導いた。
そこで、質朴粗野な物語でありながら
自然の純情を失はぬ數少い人々を
よろこばすためにこの話を述べよう。
そして、私の死んだ後、この丘の中で
第二の私とならうとする若い詩人のためといふ
老婆心にも驅られてゐるのである。
 
グラアスミア谷の森地の側に
マイケルといふ牧羊者がゐた。
気丈で手足も強い老人で
身體は若い時から老後まで
人並勝れて強く、心は(さと)
熱心に、注意深く、何をするにも適してゐた。
そして羊飼ふことに就いては普通の人以上に
動作も早く、細心であった。
そこで、風といふ風、あらゆる疾風の
調べの意味を心得てゐて、
他の人の氣づかない時、彼は南の風が
遠いハイランドの丘で風笛を吹き鳴らすやうに
地鳴りのやうな物凄い音を屢々聞いた。
この怪しい風の音を聞くと、
牧羊者は己が羊の群を思ひ出し、
『この風で仕事が一つ殖えるわい!』と獨言するのであった。
まことに何時、如何なる場合でも
旅人が隱れ家を求める暴風の襲ひ來るとき
彼は山の方へと駈け登り、
幾度か數知れぬ程濃霧の只中に獨り坐った。
霧は山の頂きで彼の身邊を去來した。
この如く彼は八十の齡を終へるまで住んでゐた。
もしその緑の谷、流れ、巌などが
その羊飼の心に何のかゝはりもないと
考へる人は甚だしい誤りだ。
野原は、嬉々として彼が唯の空氣を
吸ったところ、丘は、力強い足並で
屢々攀ぢ登ったところ、その山は
彼の心に、困苦、熟練、勇氣、歡喜、恐怖、
さま〜゛な出來事を想ひ出させた所だ。
恰も一卷の書物のやうに、
彼が嘗て生命を救ひ、
食を與へ、または風雨を凌がせたりした
哀れな羊の思ひ出を記し止めてあった、
かゝる行爲には必ず正當な利得のあることを信じて。
その野原、その丘は——
(それが出來なくてどうしよう)——
彼の愛情をしかと捉へ、彼にとっては
盲目的愛情の快い感じ、
生命そのものにあると同じ悦樂を與へた。
 
彼は生涯を獨身で暮したのではない、
その内助者は眉目(みめ)よき老媼であったが
齡は彼よりも二つ若かった。
彼女は活齑に働いて暮す女で、
その心は家庭に宿ってゐた。古風な
二臺の絲車をもち、大形のは、羊毛を(つむ)ぐため、
小形のは、亞麻を紡ぐに用ひた。
一つが休んでゐる時は
他方が廻ってゐるのであった。
夫婦が外にいま一人の親しい者がゐた。
それは一人息子で、マイケルが年齡を數へながら
——羊飼ひの言葉で言へば、
墓に片足を入れたといふほど
老いを知りそめた頃に生れたのであった。
この計り知られぬ價値をもった一人息子と、
幾度か暴風雨に鍛へられた
二頭の勇敢な番犬とが
彼等の家族となってゐた。この一家は
その山里でさえず勤めてゐたため
噂の種になってゐたといっても僞ではあるまい。
日が暮れると、野良の仕事から
親子は歸って來るが、歸った時も
食事までは仕事を止めぬ。やがてみなが
綺麗な夕餉の卓に向ふとき、
各自が一杯の汁とバタを取った牛乳とをもって
燕麥で作った菓子と、粗末な手製の乾酪を
盛りあげた籠をとりまいて坐る。
食事が終ると、ルカ(それは息子の名)は
老いたる父と共に、爐邊に相應(ふさは)しい
仕事を始める。それは老媼に
紡がせるための羊毛を()いたり、
または鎌、連枷(からさを)、大鎌や、
その他家の内外で用ゆる
道具の損所を繕うたりするのであった。
 
天上から、煙突の隅のほとりに
舊式な、不恰好な、田舍風に
大きな眞黒な庇が突き出で、
その下に大きな空地を覆うてゐるところへ
日が暮れると、
老媼は必ずランプを()げた。
この古びたランプは、
さうした種類の他のすべてのランプよりも
遙かに永く役目を勤めた。
宵は早くから、夜は遲くまで灯され、
數へ切れぬ程の歳月を經て來たこのランプは、
一年また一年と過ぎて、
恐らく陽氣とも愉快ともならなかったらうが
然し、希望と目的とを懷くやうになって
熱心に働いてゐるこの夫婦をながめては、
また見送りながら過して來た。
さて、ルカが十八の齡を迎へたとき
この古びたランプの傍に親父は坐ってゐると、
老媼は夜更けまで、
自からの仕事にいそしみ、
夜遲く寢靜まった小舍の中で
夏の蠅のやうに絲車の音をたてゝゐた。
このランプの火は近所で名高く、
このつましい夫婦が過して來た生涯の
公の象徴であった。といふのは、偶然にも
この小舍は一段高くなった場所に
唯一つ立ってゐた。北に南に廣く見渡されて
イーズデイルの谷は高く、
ダンメイルの坂は遙かに見え、
西は湖近くの村里まで見えるからだ。
いつもかはらぬこの灯火(ともしび)は、遠くから
定って見えてゐたので、その家さへも
この谷間に住む人々には、
老人にも子供にも「宵も明星」と呼ばれてゐた。
 
かうして永い年月を過してゐるうち
この羊飼は、自からを愛すれば、
彼の妻も愛するのは當然であったが、
マイケルの心には老後の息子は一入愛らしいものであった——
それは萬人の血の中に等しく盲目的に動くあの非理智的の精神たる
わが子に對する本能的の愛情からといふよりは、
子なるものは、老い先短かい人に現世(うつしよ)が與へる
すべての他の賜物にも優って希望が伴ひ、
自然の勢として必ず失はれる
將來に對する期待や、
不安から生れる心の動搖を伴ふからだ。
彼の心であり、心の悦びである息子に
彼が抱いてゐる愛は豐なものでであった!
老いたマイケルは、ルカがまだ嬰兒のころ
女のする襁褓(むつき)の世話までした。
それも世の父親がするやうに、
慰みや面白半分でなく、忍耐強い心から
優しく振舞ひ、搖籃を動かすにも
女のしとやかな手つきのやうにした。
 
その後になって、ルカがまだ
男の子の服をつけない頃、マイケルは
その嚴しい(かたくな)な心にも似ず
幼いルカをわが傍に好んで置いたのは
野良で働き、また戸口のほとりに
只一本立ってゐる大きな槲の老樹の下に
横に長く寢てゐる羊の傍で、南京椅子に
坐ってゐるときであった。半毛刈人が
日除のために選んだこの上もない深い樹蔭は
この地方の田舍言葉では
剪込(かりこみ)の木」と呼ばれ、
今にその名は傳へられてゐる。
この木蔭で彼等二人は他の人々に取卷かれ
すべての人が熱心に幸福に仕事をしてゐるとき
もしルカが羊の足を捉へて騒いだり、
また剪刀でその毛を剪られながら
靜かに寢てゐる羊を大聲で追拂ったりすると、
マイケルは情愛のこもった眼付で
咎めたり、責めたりする。
 
神の厚い情けで、その子は
すこやかに育ち、五歳の頬には
愛らしい薔薇色を帶びてゐた。
その時マイケルは冬の柴林から
手づから一束の若木を伐り、
それに鐵の(たが)を入れ、
何一つ不足のない立派な羊飼の杖を作り
それをルカに與へた。この杖を手にして
ルカは見張として屢々入口や隙間に立たせられ
羊の群を喰ひ止めたり、方向を變へたりした。
頑是ないこの子にその役目を命じたのだから
手傳になったか邪魔になったかは
誰でも思ひやられよう。
それがため、父から必ずしも
賞讚の辭のみは貰はなかったらう。
固より杖や聲や顏付や脅迫的身振りで
子供に出來得る限りのことは
一つとしてせずには措かなかった。
 
然し間もなくルカは十歳に達したから
山の嵐にも向ふことが出來、その高嶺まで
困苦を恐れず、疲勞の多い遠路を厭はずに
父と共に日毎出かけて行ったので、
二人はよい仲間であった。
前にその羊飼の愛したものが、
今や一層愛すべきものとなった。
若者を眺めてゐると、
太陽に光を與へ、風に音樂を與へる
種々の感情や靈感が迸り出て、
その老人が再び子供の若々しい心に
歸る思ひをしたことは今述べる必要もない。
 
かやうに朝夕父親の膝下で少年は育った。
そして十八歳を迎へたとき、
彼は父の慰安であり、日々の希望であった。
 
かやうに單純な家庭生活を毎日過してゐるうちに
マイケルの耳に悲しい音信(おとづれ)が聞えた。これは遙か昔のこと
この羊飼は甥のために借金の保證人となった、
彼は勤勉であり、資力も(ゆたか)であった。
然るに意外の不幸が突然彼に襲ひ來て、
老いたるマイケルは
今やその科料を支拂ふやうに命ぜられた。
悲しむべき科料、しかも
それは彼の資産半ばに等しいのだ。
この思ひもよらぬ要求を
初めて聞いた彼は、暫くの間
老いの身としては堪へ得ぬと思はれる程の希望を
彼の生涯から奪ひ去られた。
その困難に面接してゆくだけの勇氣を以て
心を固めたものゝ、
羊飼の唯一の手段は祖先傳來の畑の一部を
すぐ賣り出さうと、いふことであった。
これが最初の決心であった。
再び考へ直すと勇氣は挫けた。
この音信(おとづれ)を聞いて二日目のこと
『イザベル』と妻を呼んで彼は言った、
『俺は七十年以上も働いて來た、
そして神の温かい愛の光を豐かに受けて、
みんな暮して來た。それにもし畑が
人手に渡ってしまふと、墓場に入っても
安らかに眠れないやうな氣がする。
俺達の一生は辛い廻り合せだ。
お天道樣でも俺ほど精を出されなかった。
生き永らへた俺は、他人を助けようとて反って
家族の仇となる愚か者になった。
彼は惡者で、もし俺達を欺いたとしたら
遣り口が惡い。假令不實でなくとも
貧しい俺達には甚だしい損失になる。
いや彼を赦してやる——然し
こんな愚痴をこぼさぬがましだ。
 
お前とこの話を始めた時、損害の償ひ方と
景氣のよい前途の希望を語るのが、他の目的だった。
ルカを他所へ遣はさう、
イザベルよ、土地は手放すまい、
そして地所についた借金を絶ち、
あの野良を吹く風のやうに氣樂なものにして
あの子のものにしよう。お前も知る通り
俺には今一人の親類がある。こんな災難の時には
俺達を(たす)けてくれるだらう。彼は商賣も繁盛する
ひとかどの男だ。そこでリュウクを彼の許へ遣らう、
そしてあの男の助けとリュウクの儉約(しまつ)とで
すぐにこの損害も償へる、
するとリュウクも家へ歸って來られる。
こゝにゐたとて何が出來るか?
誰もが貧しい所では
何を儲けられるものか?』
 
これを聞いて老人は黙した。
イザベルも口を利かないでゐた、
彼は過ぎた日を樣々に思ひ浮べてゐた。
例へばリチャード・ベイトマンは
村の義金で養はれる孤兒であったが——
教會の戸口で
人々は彼のために金を集め、
それで近所の人は籠を買ひ
行商人の品物を入れてやった。
すると、この籠をもって、この子は
ロンドンに行き、雇主を見つけた。
その主人は大勢の中からその子供を信用して
海外である商賣を監督するやうに選んだ。
そこでリチャードは驚くほど金持ちになって
貧乏人のために地所と金とを殘した。
そして生れ故郷には外國から取寄せた
大理石で造った教會堂を建てた。
これらの追憶や、
これと同じやうな種々の思ひ出は
イザベルの心に閃き、
彼女の顏を輝いた。老人はこれを見て喜び、
またしてもいふには、『どうだ、イザベルよ!
この目論見(もくろみ)は、この二日間、俺には非常な悦びであった。
損失よりも殘る方が遙かに大きい。
——今は澤山だ——たゞ願ふところは
今少しく若ければと思ふことだ——
然しこれは善い望み。
リュウクの晴衣を作れ、一番よい衣物を
多く買ってやれ、明日にも、明後日にも
いや今夜にも遣らうぢゃないか。
——實際行けるものなら
今夜行くといゝのだが。』
 
こゝでマイケルは話を止めて、
心も輕く畑の方へ出て行った。
妻はそれから五日間
朝から晩まで休みもなく働き、
終日、息子の旅に必要な物を
その指先で出來る限り巧みに作り續けた。
然し日曜日が來てイザベルはその仕事を
休むやうになったのは嬉しかった。
その譯は彼女がマイケルの傍に寢てゐた時、
二夜彼が夢魔に襲はれてゐるのを聞き、
翌朝二人が起き上った時に、イザベルは
彼のこれまでの望みはすべてなくなったのを知ったからである。
その日の正午、イザベルはリュウクと二人だけ
戸口で腰かけてゐた時、
彼女は言った、『お前は行かないでおくれ、
お前は掛替のない子、
お前以外に誰も心になり——行かないでおくれ、
お前が行くお、お父さんは死にさうだ。』
リュウクは樂しさうな聲で返事をした、
イザベルは心配を打ち明けると
勇氣を囘復した。その夕べ彼女は
心づくしの馳走をして、家中の者は皆
クリスマスの爐を取り卷き、
幸福な家族のやうに坐った。
 
夜が明けると、イザベルは
またもや仕事を始めた。
その一週間は、家中が
春の森のやうに樂しく見えた。
遂に待ちに待った便りが親戚から來て
子供の將來に就いては
出來るだけのことをしようといふ
親切な保證をしてあった。
そしてすぐ子供を寄越すやうにと
いひ添へてあった。幾度も幾度も
その手紙は繰り返し讀まれた。
イザベルはそれをもって近所に見せて廻った、
その當時英國中に
リュウクほど得意なものはなかった。
イザベルが家に歸って來ると、老人は
『明日出發させるんだ』と言った。
これを聞いて妻は色々な事柄を述べ、
そんなに急に出發させると
たしかに疎濶なことになると答へたが、
最後に彼女も同意し、マイケルは安堵した。
 
グリン・ヘッド谷の水音高い溪流の近く
深い谷間に、マイケルは
羊飼ふ(かこひ)を作る計畫をしてゐた。
あの悲しむべき損失の報知(しらせ)を聞く前、
その目的のために一山の石を高く集め、
いつでも仕事の始められるやうに
溪流のほとりに積み重ねてあった。
その夕方リュウクをつれて
その方へと歩いて行った。
間もなくそこへ來ると彼は立ち止まって
息子に言った、『リュウクよ、
お前は明日 (わか)れねばならぬ。
お前を見てゐると俺の胸は一杯になる。
生れる前お前は俺にとって望みの種であったが
生れてこの方お前は俺の日々の喜びであった。
これから二人の今日までの身の上話を
お前に話さう、その話はお前が傍にゐない時
お前にはよい藥になるだらう、
勿論お前にはまだ判りかねる事に話は及ぶが。
——お前が始めてこの世へ生れ出た時——
生れたばかりの赤子にはよくあることだが
——お前は二日間
遠慮なく眠りつゞけ、それまでは歡び祝ふ聲も
お前の父の口から出なかった。
一日また一日と過ぎ去った。
お前に對する可愛さはいやましに募った。
爐邊で、何の言葉も交へぬ、たわいもない自然の調子で
初めてお前が聲を出したとき、生きとし生ける者の耳に
それほど快い響は聞えなかった。
そのうち、乳を飲むやうになったお前は
歡びの餘り母の胸で歌をうたった。
月日は過ぎ行き、俺は野や山で暮し、或は
お前を俺の膝に載せて慈愛深く育てゝやった。
でも、リュウクよ、お前と俺は遊び仲間であった。
この丘では、お前もよく知る通り、吾々二人は
老人と子供の遊び仲間であった、
俺のために
お前は子供の知る娯樂(たのしみ)を何一つ缺がなかった。』
リュウクは氣丈な心をもってゐたが
これを聞いて聲高く啜り泣いた。
老人は彼の手をとって
『どうした。そんなに心を動かしてはいけない——
こんなことはいふ必要はなかったのだ。
——殆んど出來る限りまで俺は
親切なよい父親になってゐたんだ。それでもって
他の人々の手から受けた恩義を
俺は返したまでだ。俺はもう
人間の定命以上に年をとってしまったが、
幼い時に可愛がってくれた兩親の事はまだ忘れないからの。
兩親は同じ墓に眠ってゐる、
先祖と同じやうに
この土地で暮したものだが
やがてあの世へ行く時が來て
彼等は喜んで先祖代々の墓所に眠った。
お前も先祖が送って來た生活をして貰ひたいが、
然しリュウクよ、振り返って見ると隨分永くて、
それにこの六十年間の生涯から得る所は極めて少なかった。
この畑が俺の手に入った時は抵當に入ってゐた。
四十になったときも
僅かに遺産の半ばが俺の所有だった。
俺は一生懸命で働いた、
神樣は俺の仕事を助けて下さって
この三週間まではこの地面は俺のものだった。
——この土地は他の地主に仕へるのは
堪へられぬといったやうな樣子をしてゐる。
だから、リュウクよ、
俺の判斷が誤ってゐるかも知れぬが
お前が行ってくれた方が上策と思はれるよ。』
 
かういって老人は黙ってしまった。
それから、近くの石を指しながら
暫くしてから再び口を開いた。
『これは吾々二人の仕事だった、然しリュウクよ、
今となっては俺の仕事になった、
だが一つの石を据ゑてくれ——
こゝへそれを据ゑてくれ、お前自からの手で。
これ、リュウク、元氣を出してくれ。
二人は生き(ながら)へてゐる内には
幸福な時代を迎へることも出來よう。
八十四といふ年で
俺はまだ強くて矍鑠(かくしゃく)としてゐる。
お前の務めを盡せよ、
俺は俺の務めを果すから。
お前に任せてあった多くの仕事を
またこれから始めるのだ。
あの高嶺へ、暴風雨(あらし)の中へも
俺はまた一人で行くのだ、そして
お前の顏をまだ見ぬ前から
自分獨りでやってゐた仕事をすべてするのだ。
どうぞ達者でゐてくれ!
過ぐる一週間お前は種々の希望で
胸を躍らしてゐたらう。
さもあるべきことだ——
よし、よし——
お前は俺の側を離れるのを
決して歡んでゐないことはよく分ってゐる。
お前と俺は唯愛といふ鎖でつながれてゐる。
お前が行ってしまったら
ほんとに寂しいことだ!——あゝ、さうだ、
こゝへお前を連れて來たことを忘れてゐた。
さっき頼んだ通り親石を据ゑてくれ、
これから後お前が遠くへ行ってから、もし惡者が
お前の仲間になることがあったら、俺を思ひ出し、
今日のこの時を思ひ出してくれ。
お前の心がこゝへ歸れば
神樣はお前の心を強くして下さる。
あらゆる恐怖と誘惑の中にある時は、
先祖代々が送って來た羊飼の生活を忘れぬやうにしてくれ。
彼等は純朴であったので、
牧畜業のために立派な働きをなした。
さあ、機嫌よう行ってくれ、
お前が歸って來た時には、この場所で、
今は影も見えぬ一つのものを作っておかう。
それを二人の間の約束としよう。
然しお前の運命がいかに變らうと、
俺は最後までお前を愛する、
そしてお前のことは草葉の蔭まで忘れずにゐる。』
 
羊飼はこゝで言葉を終り、リュウクは仰向いた。
父の頼んだ通り、
羊欄の親石を据ゑた。
これを見て老人の悲しみは一時にこみあげた。
彼は息子を抱いて接吻しながら泣いた。
そして家へと一緒に歸った。
——夜になるまで、家は靜かであった、
いや、眞の平和でなく
表面上の平和といった方がよいかも知れぬ。
翌朝夜を明けると、息子は旅に出た、
そして國道へ出たとき、彼は豪毅な顏を裝った。
近所の人々は彼が門口を通るとき
挨拶や別れの祈りをして
彼の姿を見えなくなるまで見送った。
 
リュウクの好成績について
親戚からはよい音信(おとづれ)が來た。
息子からも珍らしい便りに充ちた
愛情の籠った手紙が來た。
母親の言葉を借ると、始めから終まで
『世にも稀な見事な手紙』であった。
兩親は胸躍らせながらそれを讀んだ。
かくて月日は過ぎ、羊飼はまたもや
安堵と愉快な思ひで
日々の仕事に從事した。
そして時折 (ひま)のときには
谷間の方へ行って
羊の柵を作った。
その内リュウクは務めを怠り始め、
遂に放埒な都會生活に感化されて
放蕩に身をもちくづすやうになった。
汚名と恥辱を身に受け、はては止むなく
海の彼方へ身をかくさなければならなくなった。
 
愛の力にはある慰安がある。
もし愛の力がなければ、分別力を失ひ、
勇氣を挫くことを見込のあるものとしてくれる。
この老人をよく知ってをり、また
この悲報を聞いてから後いかなる風であったかを
よく記憶してゐる人と一度ならず話した。
彼の體格は若い時から老後まで
人並勝れて強壯であった。
巌の間に行っては尚も太陽や雲を眺め、
風の音に耳を傾け、昔ながらに
羊の群や、僅かな遺産の土地の
世話などすべてしてゐた。
そしてあの洞の谷間へ、
時々出かけて行ったが
それは羊に必要な柵を作るためであった。
當時この老人に對して誰でも懷いた憐愍の心は
今もなほ忘れられてゐない。
彼は幾度そこへ行ったか知れないが
一つの石も動かさなかったといふことである。
 
その柵の側で彼は時折
老いぼれた忠實な犬を足許に寢かせて
たゞひとり坐ってゐることがあった。
滿七年の永い年月の間
彼はその羊の柵の建設に努めたが、
未完成のまゝ遂にこの世を去った。
三年か、その位、イザベルは
良人より生きながらへた。彼女が死ぬると
地所は賣られて他人の手に渡った。
「宵の明星」といはれた小舍は消え失せ、
——地面は耕されて畑となった。
近隣はすっかり變って來た。
たゞ槲のみが戸口に殘ってゐた。
そして泡を噛んで流れる
グリン・ヘッド谷の溪流のほとりには
未完成のまゝの羊の柵の石が
今も空しくそこに殘ってゐる。
        ---- 一八〇〇 ----

更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 解説


解説

抒情短詩

グラアスミアのタウン・エンドの果樹園で書いたもの。 眞に價値ある個性は深く不斷に自然を感得することを求めてゐるといふ信仰を認めて書いた抒情詩で、 彼のすべての詩の基調をなし、『序曲』を抒情詩に節約したもので、 『永生の頌』も畢竟するにこの詩を敷衍したものたることは、 彼が該篇の冒頭にこの短詩を引用したことによっても十分證明せられる。 この崇高なる短詩をエマスンが評して、 「十九世紀に於ける英國思想の高調標」なりといったのも決して過言ではない。 ワアヅワス自らがその詩集の冒頭にこの詩を置いたのも、 その詩が彼の知的生活の連續は勿論その著しい一樣さを示してゐるからである。

虹はそれ自身自然界の現象の中で最も美しいものの一つであるのみでなく、 宗教的聨想(創世記第九章 -- 十七節)のために詩人にとってはその幼時に心を躍らせたのである。 幼兒は自然に接して驚異の情を感ずる。その情は實に至純で高潔である。 けれども生長するにつれて俗氣に觸れ、浮世の錆に腐蝕され、不思議な造化の美妙さに對する感覺は鈍ってしまひ勝ちで、 洵に悲しむべきことといはねばならぬ。それ故に吾々は天眞爛漫な心を持續して、 自然の美に觸れ、造化の神秘に驚き、 一生を生來の至純な心で暮して行きたいといふ意である。

子供は人の父。子供は自然の眞面目を多分に有ち、 幼時の純な心から成人の思想感情が生み出される故の子供は大人から見ると、 其源であり、父であるといふ逆説。ワアヅワスの詩句の内で最も人口に膾炙した有名な一句。

コウルリッヂのいふ所によると、 初めこの詩は『厭ふべき幼稚さ』の一例として嘲笑せられたといふことである。 然しコウルリッヂは「然し死者をして彼等を埋めしめよ! 詩人は生者のために歌ったのだ」といってゐる。 (『ザ・フレンド』第一章を參照せよ。)彼はまた『文學的生涯』(第四章)で次ぎのやうにいってゐる——

「幼時の感情は大人の力にまで續けてゆくこと、 子供の驚異と新規の感覺と恐らく四十年の間毎日親密になさしめた状態とを結びつけること—— これこそ天才の性格であり特權である。」

幼心。原文のnatural pietyで宗教等に基く信仰でなくて、 人間が自然に具へてゐる敬虔の念。虹を仰ぎ見ても自然の不思議と宇宙の神秘に跪くやうな想ひ。

妹に

わが子に連れられてアルフォックスデンの家を少し行った所で作った詩だ。 そこにある公園と池を蔽うてゐる二本の大きなエルムの樹の間で、 詩人は讀書したり詩作することを常としたといふ。 この地方の風景はワアヅワスにとっては盡きぬ喜の泉であって、 この詩はドラシイを呼びかけて美しい戸外への召喚である。 『忠告と返答』及び『局面一變』と同じ樣に、自然に對する『賢明な忍從』を歌ったもの。

エドワアド。少年給仕、バジル・マンタグの息子。

黄水仙

タウン・エンドに於ける作。 最初一八〇七年に"Moods of my own Mind"といふ叢書の中に収められて出版された。 詩中の光景は一八〇二年四月十五日アルズウォタア湖畔のゴオバラウ・パークで見た事實に基いたものである。 ドラシイの日記に、「ゴオバラウ・パークの向うの林へ行った時、水際に少しの水仙を見た…… 然し進むにつれて水仙は次第次第にその數を増し、終には樹木の梢の下に、 岸邊に沿うて蜿蜒として帶の樣に連り、 其幅は殆ど田舍の大道の廣さであった。私はかばかり美しい水仙を見たことがなかった。 その花は苔蒸した石の間に生え、或は石の周圍に、或はその上に、 疲れては枕に臥すやうに、その頭を岩石の上に横たへ、 其他のものは搖ぎ瞞き踊りなどして、 正面の湖上を吹き渡す風に笑ひ興ずるやうに見えた。 その花は絶えず煌めき、絶えず變化して非常に愉快さうであった」と。 水仙は今の尚そこに澤山咲いてゐる。

この詩より巧みな抒情詩は他にないと迄賞讚せられた名詩である。 詩人は完全に題材の精神を捉へ、自然美の純粹な喜悦を描いてゐる。 詩の起源は靜謐に於いて囘想した情緒にあるとの彼の詩論を最も眞實に例證してゐる。 最後の二行は夫人の作ったものである。 この詩は『雲の如くひとりさまよひぬ』"I wandered lonely as a cloud"といふ題になってゐることもあるが、 内容よりいってパルグレイヴと同じ樣に『黄水仙』とした。

雲雀に(一)

ワアヅワスの詩の中で、これは最も眞に迫るやうに思はれる。 それは雲雀の歌そのもののやうに自湧的な詩である。自然の生命が歡喜の一つであり、 神に對する愛と讃美の一つである考へは、詩人が自然と常に歩んだ宗教的畏怖の精神を特色づけてゐる。 かうした詩の美しさは深い詩的狂歡、すべての教訓的性質を全く離れて、 しかも高い道徳的目的をもってゐる點にある。 天を翺け昇る雲雀に傚はうと願ふ所にもロマンティシストの心持が明白に現はれてゐる。 同じ題目のシェリイの詩及びメリディスの『昇る雲雀』を參照せられたし。

雲雀に(二)

ライダル山での作。この詩は元來三つのスタンザになってゐる (アアノルドの選集は、元の儘にしてある)が、その第二のスタンザは一八四五年に、 『朝の散歩』(Morning Exercise)といふ詩の中に置き換へられてあるので、 茲には普通の編纂者のやうに第二齣は省略した。

早春の歌

詩人の語るところによれば、この詩は「アルフォッドの村にあるコウムから、 アルフォックスデンの地所を流れてゐる小川に坐ってゐた時、實際に作ったものである」と。 アルフォックスデンの谷にある柊の森は、ワアヅワスやコウルリッヂや、 その他の人々の會合所となってゐたのでコウルリッヂも 『私の牢獄であるこのライムの木』(This Lime tree Bower my prison)の詩でこの場所を歌ってゐる。

この詩は早春の森の中に身を横たへて、自然物に溢れてゐる歡喜と、 萬物の間に宿ってゐる或る調和の力を感じたことを歌ったもので、 『妹に』の詩と共に、彼が自然に對する初期の態度をよく示してゐるものである。 彼が示さうとする二つの主要な概念は、自然の喜悦と、人類の苦痛を癒す自然の力である。 ジョン・モオリイはいふ、「ワアヅワスの要求、彼の特別の天賦、 彼の永續する貢獻は、異常な奮鬪、眞率、洞察にあって、 これ等によって彼は先づ吾々を圍繞する廣大な宇宙を理想化し、莊嚴化し、 次いで、それをば、人間がその義務を果す劇塲は勿論のこと、 吾々の行爲と交り、吾々の周圍に親しむべき魂を濺ぎ、 『人間生活の最も卑しい面にも莊嚴を呼吸する』ところの生氣ある存在とする」と。 自然に關するこの感情はシェリイの汎神論と比較せられる。 二つの感情に於ける類似と相異は、二人の詩人の間に於ける類似と相異の定規である。 他方、ワアヅワスは人間の運命の半ばから眼を他に反け(アアノルド)、 あらゆる生氣ある事物の運命の半ばから眼を轉ずる。 『齒が赤く、強奪の爪』であるといふ自然は、 ワアヅワスには新しい概念であるが近代の哲學者は無視することの出來ぬものである(ファウラア)。 テニスンの『イン・メモリアム』(五五章 -- 五六章)を比較せよ。

ワアヅワスがハドスン博士から賞讚を受けたのもこの小さな詩によるものである。

胡蝶に(一)

「一七七八年に母が死んで、まだ幼かった吾々は別居することとなった」と序にあるのを見ると、 母の生前、一家打ち揃って家にゐた頃に、妹と共に蝶を追うたことを想起して作ったものであらう。 ドラシイの日記に、「吾々が朝餉をしてゐる時、ウィリアムは蝶に與へる詩を書いた。 蝶を見て常に感じた愉快さに就いて吾々が語ってゐる時に詩想が彼に起ったのである。 私は蝶々を少しは追ふのが常であったが、翼から粉を拂ひ落すことを怖れて蝶を捕らなかった」と。

エミリイン。ドラシイの假名。時にエムマともしてある。

胡蝶に(二)

三十三歳にして詩人は尚かくの如き純眞なる心をもってゐる。

三月

即興詩で、ジョアナ・ベイリイが好いた詩である。 ドラシイの日記にはこの詩の出來た時のことを美しく書いてある。 それはパタデイルからカアクストンの路を越えてアムブルサイドに行く散歩の時であった。

「吾々がブラザア湖の下方に來た時、橋に腰かけてゐるウィリアムを後にして、 森を通って湖水の右側の道を歩いて行った。歸って見ると彼は詩を書いてゐた—— ウィリアムは吾々がカアクストンの麓に歸らぬ内にその詩を書きあげた。」

ワアヅワスは思想と交らぬ單純な喜びを歌ふことは極めて少ない。 この詩などはその例外で、快い朝の目と耳に於ける殆ど自生的な肉體的の喜悦の溢れである。 一幅の繪卷物を擴げたやうなこの詩の中には、人と獸と自然とが相融合してゐる有樣が巧みに描かれて、 作者一流の光明觀が窺はれる。

郭公に

シェリイの『雲雀』、キイツの『夜鶯』と共に有名な詩である。 恐らくワアヅワスの短詩中でも最も人口の膾炙する美しい抒情詩で日本にも古くから紹介せられ、 ワアヅワス入門の詩である。グラアスミアの果樹園で書いた詩で、日附は一八〇四年となってゐるが、 ドラシイの日記によると一八〇二年三月である。 郭公は詩人の最も愛した鳥で、その啼き聲を好んだ。彼の詩の中で『郭公』はワアヅワスの愛兒である。 この詩は彼の最も善い性質の一つの特徴、 日常の事物に就いて本質的な魂を捉へて表現する能力を示してゐる。 それは單純で眞率な詩想に充ちてゐる。 彼はこの詩の他に郭公のソネット(一八二七年及び一八二七年[注:どちらか誤りか?])に、 伊太利のラヴェルナでも作った。

二つの四月の朝

この詩もマシュウは、『泉』のそれと共に作者が知ってゐた實際の人物ではなくて、 彼の組の數人及びその他の人々をモデルとして作りあげた架空的人物であるといふ。

この詩は作者の詩的主題の持論をよく例證してゐる。 そこには單純で眞面目な或る物がある。それは劇的興味を缺き、 人或は平凡だと評する向もあるかもしれぬが、 正しい想像と情緒を傳へてゐるので、 事件はそれを散文以上に引きあげる魅力と哀愁を以って輝いてゐる。

奇しき戀

以下五篇の詩は所謂『ルウシイの詩』(『ルウシイ・グレイ』は別のもの)に屬するもので、 獨逸ゴスラアに滯在中一七九九年の始めに作った絶妙な抒情詩—— 金絲に繋がれた眞珠である。作者は無題のまゝにして置いたのを後の編纂者がこれを多く『ルウシイ』と題を附した。 このルウシイが如何なる女であったかは、あの説明好きの詩人も全然口にしてゐないので、 全く謎の儘になってゐる。一般にはドラシイがモデルであるといはれてゐるが、 數年前一書を著してワアヅワスの戀愛事件を發見すたハアパア教授は、 詩中の處女はフランスの婦人マリ・アンであるといった。 然しロバト・リンドの如きはこの説を必ずしも妥當なものとは認めてゐない。 恐らく彼が書生時代の戀愛事件に基いてゐるもので、 友もなく、金も少く剰へ例になく寒いゴスラアの旅舍にあって、 懷郷の念の禁じ難い所へ、アンネットとの戀に深く惱んでゐた反動として、 美しい初戀を思ひ出したものではなからうか。 何れにしてもこの詩が戀愛詩であることは明確である。 然かも普通の性愛的な戀歌でなくて、全く純粹な戀愛詩で、 この乙女は自然の清純と優しい恩寵の權化のやうに思はれる。 ラム、オリファント、ウィンチェスタア、ハアン等が讃美してやまなかったこの美しい單純な詩、 涙なくして讀まれない鎮痛なこの戀歌は、ワアヅワス詩集中の珠玉である。

人も通はぬ山里の

珠玉の如き抒情詩で、一八〇〇年に公にされた。 乙女の優しさと無邪氣が十分現はれ、詩人のスタイルの單純さが題目と全く調和してゐる。 殊に最後の齣が最も意味深長である。

ワアヅワスの詩は詩句が單純で且つ微韻幽趣に充ちてゐる故に、譯出し難い。 殊にこのルウシイの詩の如きはその好例である。 ディクスンも最後の齣を擧げて、 「この詩句の匂ひは外國人には失はれて譯出し難い」とまで極言してゐる。

ダヴ。詩人や魚釣家に愛せられたこのダヴ河は、ダアビイシアを流れる同名の川でなくて、 湖水地方にあるカアクストンの附近の小川であると、サマヴェルはいってゐる。

知るべもあらぬ旅の空

詩人はケムブリッヂ在學中に一七九〇年の夏休暇を利用して瑞西を翌年は佛蘭西を旅行した。 この佛蘭西旅行中マリ・アンとの戀愛事件が起った。 これら過去の日の過失を悔いつゝ、今ゴスラアの旅舍で英國を望む時、 愛國の情は湧然として起るのであった。 わが戀ひするルウシイは故國を離れず、英國の山里に住み、 故國の野邊を眺めてこの世を去った。その間に自分は異境の旅に在って惡夢のやうな年月を送った。 さあこれからルウシイの住んだ故國を離れまいといふのがこの詩の大意である。 最後の二行には深い悲痛の感じが一層よく現はれてゐる。

自然の貴女

パルグレイヴは『自然の教育』(The Education of Nature)といふ題を與へてゐるが、 こゝでは編纂者の普通採る題によった。

ワアヅワスの如く、自然の感覺性を鋭敏に感じた詩人は少い。(『早春の歌』參照) この詩に於いて、彼の擬人法は一層露骨になってゐる。 風の如く水の如く自由で輕快で、花の如く星の如く華麗で精美な自然の愛兒を巧みに描き、 田舍乙女の精粹を歌ひ得て餘りある詩である。 ラスキンの『胡麻と百合』を參照。

愛の睡みに魂は包まれて

美しいルウシイに對する愛によって、 彼女が死すべき人間であることも忘れて、 浮世の苦惱を超越して樂しい夢を見て眠ってゐたが、それは束の間の夢で、 彼女は死んで土に歸り、岩石樹根と共に地球を組織する一分子となり、 個的生命が失はれて宇宙生命に歸したことを歌った悲歌。 テニスンの『イン・メモリアム』等に見るやうな汎神觀が現はれてゐる。

——に與ふ

註に、「グラアスミアのタウン・エンドの果樹園で作った。 コッカアマスにある父の家の庭の端は、ダゥエント川やコッカアマス城を眺められる高臺になって、 これは我等の氣に入りの遊び場所であった。高臺の石垣は低くてきちんと剪った玉椿や薔薇で蔽はれてゐて、 そこに巣を作った鳥には殆ど出入の出來ない程の隱れ家となった。 この詩の後半はそれらの巣の一つに關したものである」と。 詩人は雀の巣を發見して、幼時を囘想し、妹が自分に與へた感化の偉大であったことを囘想した詩である。 「妹は眼を與へ、耳を與へた」といふ一句は詩人が愛妹の美徳を讃美した言葉として有名になってゐる。

彼女は歡びの幻であった

グラアスミアのタウン・エンドで書いた詩。詩人の語る所によると、 この詩は初め『ハイランドの乙女』の詩の一部分として書いた四行を後になって全く別の一篇としたものである。 「かやうな有樣で始まったものではあるがその明白に示してある通り、私は心情から書いたものである」 と詩人はいってゐるが、この詩は一八〇二年に彼と結婚したメリイ・ハッチンスンを讚へたもので、 同樣な例證は『序曲』(五章二二四行、十二章一五行、十四章二六八 -- 二七一)にもある。

女性の美を讚へたこの詩は特別の一女性のみでなく、あらゆる女性の本質の特徴を歌ってあって、 ラスキンもその「巧妙な正しさ」と稱讚してゐる。

緑の紅雀

『鳩の家』で書いたもので、こゝでは紅雀を屢々見ることが出來たといふ。 「果樹園の腰掛」は庭の後の高臺にあって、そこへは詩人自ら作った石段がつけてあった。

詩人的自然科學者の立場から紅雀が心にくいまで詳しく描かれてゐる。 詩人の他の鳥の歌と異る所は、反省のない喜びの單なる表現である點である。 この美妙な詩はすべての點に於てミルトンの「單純、感覺的、情熱的」といふ規矩に一致してゐる。

巌の櫻草

詩人の註に、「ライダル山にて作る。 ライダルからグラアスミアに到る中間路を少し行った右側にこの巌が立ってゐる。 この詩にも記してある通りこの巌に螢が多く停ってゐるのを時々見たので、 吾々はこれを螢岩といひならはしてゐた」と。

ドラシイの日記に「吾々は夕方ライダルへ歩いて行った。コウルリッヂと私は後から道草食ってゆる〜歩いた。 吾々はみんな立って螢岩を眺めた——そこには櫻草が生えてゐた」と。

巌だけは今も尚湖水地方の記念物として殘ってゐる。 『黄水仙』の輕快な魅力と自然の魔力と、緩漫な、より美しく、 遠慮勝ちなこの詩との間に對照のあることを認められる。 この詩ではすべてが象徴で、實在は殆どない。 最初はためらひ勝ちの好みで花が描かれてゐる。 それから作者は花の生命が暗示する一層大きな眞理を眞面目に考へる。 最初の四齣は作者の初期の詩——『雛菊』や『白屈采[誤:白屈菜]』等——に似てゐるが、 後半の歌は純粹に主觀的な反省であって、この花の本質的な意義でないと思はれる。 オオブリはこの詩を以て作者の崇拜者には明らかな靈感與へるものであるといってゐる。

泉(對話)

マシュウを歌った詩が四篇あるが、本篇はその一つで、 泉の傍に坐ってゐる老人と青年詩人との對話を書いたもので含蓄多い詩である。 快活な老人の中にも寂しい悲しさが低調子をなしてゐる。

忠告と返答

次ぎの『局面一變』と共に、ワアヅワスの思想の精膸で、 「自然はすべての教師の内で最良の又最も眞實なものである」といふ彼の有名な持論を最も直截簡明に言ひ現はしたもので 『抒情詩集』に収めて公にし、『ティンタン寺』と相並ぶ雄篇である。 而して彼が後に至っても全然改竄を加へなかった詩の一つに入ってゐる。 この問答詩の相手になってゐるマシュウは、他の詩『局面一變』、『マシュウ』、 『二つの四月の朝』、『泉』等にも現はれる人物で、 大體は彼の幼年時代にホオクスヘッドの學校の教師であったウィリアム・テイラアをモデルにしたものであると想像されてゐる。

この詩は、マシュウが詩人の怠惰を責めた言葉と、之に對する詩人の返答であって、 自然は自から我々に感化を與へるから、受身になってをれば、 眞理は自から顯現するといふ彼の思想の特色を説いたものである。

エススウェイト、ホオクスヘッド學校の南にある小さな湖。

局面一變

前篇とは反對に詩人がマシュウを責め、事物に對する態度を一變して、 書物を捨てゝ自然に教へをへと説いたものである。 彼が自然の美から受ける感化は、書物を繙くよりも勝ってゐることを力説した結果、 誤解を招き易いが、ワアヅワス自身は、自然界と交感する時は、 書物が教へる以上の道徳的力と洞察力を心情から喚び起し、 これによって、單なる知識が與へるよりも、 善惡に就いて一層明かな觀察力を得らるゝことを唱道してゐるものである。

小さな白屈菜に

野邊の小草の花にも人間性を賦してこれに愛情を寄せた詩の一つ。 『くさのわう』は早春に星形の黄色花を青天に開き、 曇天または黄昏に閉づるといふ非常に美しい花であるが、 英國詩人に未だこれを歌ったものがなかった。 この小花を愛したワアヅワスは始めてこの詩及び他に二篇(一八〇三年及び一八〇四年)を作った。 この詩はグラアスミアの鳩の家で作ったもので、一八〇七年に至って始めてこれを世に公にした。 一八〇二年四月三十日のドラシイの日記には、「我々は朝餉後直ぐに果樹園に來て坐った。 湖水は靜かで、空は曇ってゐた。ウィリアムは『くわのわう』の詩を書き始めた…… 私はウィリアムとあちらこちらを歩いた。彼は私に詩を歌って聞かせて、 それから又書き始めて、棄てなかった」と。

ブラヴェントの"Fringed Gentian"エマスンの"Phodora"テニスンの"Flower in the Crannied Wall"を參照。

胡蝶を追ふ知更鳥に

タウン・エンドの果樹園での作。一八〇二年四月十八日(日曜日)のドラシイの日記に 「水蒸氣の立つ穩やかな灰色の朝、吾々は果樹園に坐った。ウィリアムは駒鳥と蝶に就いて詩を書いた ……ライダルで逢った時には駒鳥の死を書き終ってゐた。 私はこれを寢床で讀んで聞かせた。我々で數行省略した」と。

知更鳥を讃めた歌には其他に三つ主なるものがある。

父なるアダム。「失樂園第十一卷を見よ。 そこでは最も快活な羽毛をもった二羽の鳥を追ふ鷹の不吉な前兆をアダムがイヴに指し示してをる。 そして優しい牡鹿と牝鹿は、彼等の敵に追はれた。」(ワアヅワス)

雛菊に(一)

本詩にある通りチョオサアを始めワアヅワス以前の詩人も雛菊を歌ったが、 近代の詩人の中で最も雛菊を愛した者はワアヅワスである。 彼はグラアスミア湖畔で一八〇二年に雛菊に關した三篇の詩を作った。 これらの詩に於て彼が特殊の意味で自然の詩人であることを示してゐる。 ダウデンのいふやうに、彼にとっては花は日常の靈敵生命と存在の喜悦の生きた共享者である。 この詩はモントゴマリMontgomery (一七七一 -- 一八五四)の 『野花』(A Field Flower)に似てゐる所があると評者はいってゐる。 次ぎの『雛菊』と共に作者が『想像の詩』として分類したもの。

雛菊に(二)

前の詩と形は全く同じで、且つ想像を主とした着想に於て大同小異である。 この詩が三篇中の白眉と見做されてゐることは、 パルグレイヴにこの一篇が載せてあることによっても明白である。 又ラスキンも『近代畫家論』(第二卷)の中でその想像の奇抜でしかも自然なことを賞讚してゐる。

雛菊に(三)

詩形に於ては前二篇と同じであるが、内容に於ては別趣のもので、 『情緒と反省の詩』の中に作者は入れてゐる。短いけれど、 教訓を含む點に於て貴い詩である。

小猫と落葉

アアノルドの選集にはないが、ハアンが推賞してゐる詩である (『文學の解説』八〇 -- 八三一を參照)。愛すべき可憐な詩である。

木の實拾ひ

獨逸のゴスラアに滯在中一七九九年の冬に作ったもの。 初め『序曲』の一節として作ったのであるが、 必要でないと思って獨立の詩としたのである。 彼は少年時代に榛の實拾ひに夢中になって、 エススゥエイトの谷の森の中を荒し廻った。 この思ひ出がこの詩となったものである。 古い襤褸着物を見て頭陀袋と鈎をもって、 よく知ってゐる榛の林へ少年は出かけた。 そして木を力任せにへし折って實をとって喜んでゐる時、 突然苦しい思ひが湧いて來た。 彼は周圍にある自然の生命を汚し『黙した木』と『木の間から覗く空』との叱咤を感じたのである。 自然が靈的存在であるとの彼の思想は幼時の經驗から養はれたもので、 この詩は彼のこの自然觀の出發點であり心理的萠芽とも見られるべき詩である。

ひとり麥刈る乙女

一八〇三年の秋ワアヅワスは妹及びコウルリッヂと共にスコットランドに遊んで、 『蘇國漫遊記念詩』數篇を物した。この詩はその一つである。 九月十三日のドラシイの日記に、「我々が登り行くにつれて、 景色は益々美しくなった……時は収穫期で、野は靜かであった—— 物思はしいといはうか?——幾人かの刈女達に元氣づけられて。 ハイランドの更に靜かな所では、唯一人刈ってゐることは普通である」と。 作者自から註する所によれば、詩人が旅行中の經驗から、 他人の紀行を想起して作ったものである。 それは一友人トマス・ウィルキンスンの『蘇國紀行』の原稿を見て、 その美しい景色に暗示せられ、この書中の語を其儘末句に轉用したといふ。 ウィルキンスンのこの書は一八八七年に蘇國を旅行したので、 ワアヅワスに紀行文を原稿のまゝ見せたものである。 その末句には「唯一人刈ってゐる女の傍を通った。彼女は鎌に身を屈めて、 方言で歌ってゐた。今迄聞いたことのない美しい聲で、 その調べは優美な陰鬱さを帶び、その歌が聞えなくなった後も長く、快く感じた」と。

この詩は最も愛誦せられる小曲の一つで、 言葉が如何にも優しく、音調が非常に好くて、 言葉の魔力をもってゐる詩として、これ以上の詩はワアヅワスにないといってよい。 それは詩人の清澄な想像力によって創造された半ば神秘に富んだ光輝に有效に彩られた素朴な詩である。 麥刈る乙女の有樣を心に感ずるやうに歌ってある。 兎も角彼の詩の中で最も完全なものの一つである。

ヘブリディーズ。蘇國の北西にある五百に餘る風光美しい島々。 杜鵑(カックー)は候鳥で、四五月の候に歐洲へ來る。

バアンズの墓場にて

一八〇三年八月十六日、ワアヅワスはコウルリッヂ及び妹と三人でスコットランドの旅に上った。 然しコウルリッヂは途中で別れてエディンバラへ歸ったので、バアンズの墓を訪れた時は一緒にゐなかった。 二人は十七日の夕方ダムフリイスに着いた。十八日(火曜日)の日記にドラシイはかう書いてゐる—— 「バアンズの葬られてゐる墓場に行った。……彼は墓場の隅っこに葬られてゐた。 そして息子のフランシス・ウォラスもその側に眠ってゐた。 ……我々は悲しく痛ましい思ひ出を以てこの墓を眺め彼の詩句を互ひに繰返して歌った。」

"Is there a man whose hudgement clear
Can others teach the course to steer,
Yet runs[,] himself[,] life's mod[誤:mad] career
Wild as the wave?--
Here let him pause and through a tear
Survey this grave."
(A Bard's Epitaph)
バアンズは農民詩人として、純眞の詩情を歌に詠じ、 一度はエディンバラの華やかな交際場裡に一代の寵兒として持囃されたが、 晩年は悲慘な極みで、僅かに三十六歳で死んだ薄倖の天才であった。 ワアヅワスが彼の墓場を訪れた時は墓石もなかった位である。 この一篇の詩は、バアンズが好んで用ひた特殊の詩形に傚って作ったものである。 ワアヅワスは尚バアンズが晩年三年間住んだ小屋にも訪れた。 これらの訪問は三篇の記念の詩となってゐて、本篇もその一つである。

クリフェル。バアンズの住んでゐたダムフリイスの少し南にある山で、 カムバランドのワアヅワスの住居に近いスキドオ山から見える。

ハイランドの乙女に

バアンズの墓を訪れる少し前、丁度コウルリッヂが訣れてエディンバラへ歸った日、 即ち八月二十八日のこと、一行三人は雨中をカトリン湖を去ってロオモンド湖の方へ降りる途中の小路で、 二人の田舍娘に逢った。姉妹は抜出て美しかった。 彼等は足迄垂れるやうな格子縞の上衣を着て、顏だけを露はしてゐる姿が彼等一行の注目する所となった。 「彼等は快く答へてくれたので、我々は全く嬉しかった。 同時に彼等も無邪氣さうに不思議な眼付で私共を瞶めた。」と、 ドラシイが書いてゐる。この美しい娘は三人に非常な感銘を與へ、 コウルリッヂも"a divine creature"と呼んでゐるし、 ワアヅワスにとっても"delightful creature"であって、 この娘は女性の美の典型となり、屢々この娘のことを歌ってゐる (『彼女は歡びの幻であった』を參照)。彼は七十三歳の終りが近づいた時に、 尚この乙女とその周圍の美しい光景をありありと思ひ浮べたといってゐる。

西方へ歩む

スコットランドの旅行中、九月十一日の日曜日の夕べ、 詩人は妹と共に寂しい地方の最も寂しい場所を歩いてゐた時の詩。 ドラシイはいふ、「あの遠く離れた所で、 沈んだ夕映を止めてゐる前方の西方の空と共に、 この單純な表情が如何に愛情に充ちてゐたか私には筆紙に叙べることが出來ぬ。 ウィリアムは彼の感情及び私自身の感情を囘想して、その後この詩を書いた」と。 何となく情趣の深い詩である。因にスコットランドでは東西南北の方位を頻繁に用ひる。 どの家でも東の部屋と西の部屋があって、食卓に就く時は誰の北に坐るとか、 南に坐るとかいふ習慣がある。

訪れぬヤロオ

ハイランドからの歸途、彼等はエディンバラで一日を過し、次いでロスリンに行った。 九月十七日の朝彼等はラスウェイトに行って、 そこに住んでゐたウォタア・スコットに始めて逢った。 それからワアヅワスと妹はトードの谷を下り、 ネイドパスを過ぎてクロオヴェンフォオドに行った。 こゝから彼等は英蘇國境史上に有名になって、 譚歌文學によく歌はれてゐるヤロオ河を訪れようとしたが、 將來の樂しみにといふので、割愛することとなった。 ヤロオは聖メリイ湖から流れてトードに注ぎ入る小さな美しい河である。 十一年後(一八一四年)に詩人は再びこの河を訪れて『ヤロオを訪れて』の詩が出來、 更に十七年後(一八三一年)には、再びこの河を訪れて『ヤロオを再び訪れて』(Yarrow Revisited)を書いた。 然しこの興味ある詩は他の二つより劣ってゐる。 シャアプ教授は『三つのヤロオ』("Aspects of poetry"の一項)の題目の下に、 それらの詩に就て面白い批評を下してゐる。 この詩はヤロオの古いバラット[誤?:バラッド]の韻律で書きながらも、 巧みに新しい自然觀を織込み、輕快なリズムの下の沈痛な思想の底流を潜ませた所にその特色がある。 作者の初期の詩作と晩年のそれとを對照するのも面白いことであらう。 ロオガンの美しい詩"The Braes of Yarrow"と比較せよ。

ヤロオを訪れて

一八一四年の九月、詩人は妻及び妻の妹サラ・ハッチンスンと共に再びスコットランドの旅の上り、 エトリックの羊飼ヂェイムズ・ホッグの案内で、多年の宿望であったヤロオを訪れた。 美しい自然を微妙に描いたものとしてこの詩は賞讚せられてゐる。 信頼すべきシャアプの批評を左に引用しよう。

「英語の如何なる言葉も、これ以上眞實に深刻に、自然の核心を貫いたものはない。 ワアヅワスの偉大な才能の一つであった。 幾度か、そして幾多の異った光景に對して、これを試みたが、 この力を十分に發揮したのは、ヤロオの眞性質を永久に概括した四行の外には、 恐らくないであらう。諸君はヤロオを眺めて、この四行を 自分に繰り返して見る時は、自然の一層美妙にして捕捉し難い精粹が、 これ以上完全に人間の言葉によって言ひ現はされた事がなかった事を感ずる。 それは完璧なものである。ワアヅワス以後の詩人はそれを再び試みる必要はない。 それは一擧にして永久に完成されてゐる。」

詩人の碑銘

この詩は『ルウシイ・グレイ』、『木の實拾ひ』等と共に、 一七九八年の冬から翌九年にかけて、詩人が妹と共に獨逸のゴスラアに滯在してゐる時に作ったものである。 詩人の註に、「私は城壘や、池を埋め立てた公園のやうな所を毎日歩いた。 こゝでは私はいつもちらりと見る魚狗(かはせみ)の他には友達はなかった。 從って私はその鳥に心を惹きつけられた。かうした漫歩の間に出來たものが、 この『詩人の碑銘』である」と。

この詩のモーティフはワアヅワスの詩によく現はれてゐるもので、 眞の知識はすべて愛に基くものであるといふソクラテス等の思想である。

作者の理想的詩人として詩中に描かれてゐる人物は、 ワアヅワス自身が有してゐる特性を有ってゐることが讀者には明かに分る。

さうだ、それは山彦

詩人の註に、「グラアスミアでの作。 ライダル湖の向岸を歩いてゐた時にナブ・スカアから木靈(こだま)が聞えた。 愛妹のために茲に述べたいことがある。ロクリグ山のこちら側の高い所で、 彼女が或る日一人で坐ってゐると、 少し離れた岩の上から聞えた郭公の聲に感じて、 その岩の間の石に自分の名前を刻みたいとの思ひを抑へることが出來なかった。 散歩から歸って私はこの詩を妻に讀んで聞かせた。」

この小曲は神聖な實在と感覺の世界以上に聖の世界を感得し、 その聲を聞き得た詩人の心理を、簡潔にしかも印象強く言ひ現はしてゐる。 『郭公』は呼子鳥の聲そのものを靈化した點で面白味があるが、 この詩はその靈的の反響から更に一歩を進めて高遠な世界に思を馳せた點に於て、 單純ではあるが創造力の豐かな一層冥想的幽幻的な感じを與へる。

日は落ちてやゝなりぬ

詩人の註に「この即興詩は、以前に著者の詩集中に入れられてあったが、 その後現はれた版(一八一五 -- 一八三二年)には除外されたものである。 友の要求で再び入れられたもので、その面前で數行を省略した」と。

詩人のいふ友とはドラシイのことである。

靜かなる夕べ

『夕べの即興詩』と題したものの一つ。

農夫なる友人の鋤に

詩人の註に、「この人の名をトマス・ウィルキンスンといふ。 クェイカア派に屬するが、天性により——寧ろ神の惠みにより—— それ以上である。彼はエモント川の畔ヤンワスに近い處に遺産として一小池を受け、 そこに一家を建てた。幼時は鼓笛の音に心を躍らしたが、 今や彼の企業心は地を耕すことに限られてゐる。…… この詩に記される通り、彼は餘暇を以て愛するエモント川の畔に、歩道を作り、 又庵とも別莊ともつかぬ物を建てた。彼は詩を多く作ったが、名作も少くない。」

この詩はワアヅワスがウィルキンスンの用ひた鋤を畠で使ひながら作った詩で、 自然と人間とを結ぶ農業を讃美した一篇の農民詩である。

待雪草に

原名スノウ・ドロップは南歐及びコオカサス地方の野草である。 英國では庭園の草として賞翫せられてゐる。 和名は『雪の花』または『待雪草』で日本にも傳播せられてゐる。 この花は年の始めに咲くので、櫻草と共に春の魁、 年の初花として珍重せられ、殊にその花が純白である所から、 我が國の白梅と同じやうな感興を以て賞翫せられてゐる。

待雪草を歌った英詩は少くないが、テニスンの十行の短詩はワ゛ン・ダイクの賞讚したものである。

ある少年

一七九八年獨逸での作。最初一八〇〇年の『抒情詩集』第二版に現はれた。 この詩は『序曲』(五篇、三六四 -- 三九七)の中にも入れられてゐる。

この所謂『不朽の少年』の墓場は確證することは出來ない。 彼の名及び、茲に記述してあることを除いてもすべて彼の事は不明である。 然し、彼はホオクスヘッドに於けるワアヅワスの學友であったといふ。

幸福な武士

英雄的な戰士の性格に現はれてゐる道義の念を描いた有名な詩である。 この理想の戰士の性格はネルソンをモデルにしたものである。 ネルソンが勝利を得ると死んだ(一八〇五年十月二十一日)ことは、 全英國民の心を動かした。ワアヅワスは彼に暗示せられて一八〇六年の初めに作ったものであるが、 ネルソンの公生涯にはハミルトン夫人との關係があったため、 ネルソンをそのまゝ理想的人物の典型とすることは出來なかった。 そこで彼は弟のジョンを以て性格の多くの要求を現はしたのである。 ジョンは東印度商會の船長であって、詩人兄弟は非常に深い同情が通ってゐたが、 一八〇五年彼は難船して雄々しい最期を遂げた。 この二人の人物が詩人を動かして出來上ったこの詩は、 極めて價値ある思想の連鎖であって、理想的人間の研究として傑作である。 神と靈魂不滅を信ずる作者の信念は最も純粹に崇高(けだか)く現はれてゐる。

ティンタン寺から數哩の川上を詠んだ詩

『抒情詩集』の卷末に収められた作者會心の作で、 彼の思想を最もよく現はし、多くの批評家によって傑作とせられた名篇で、 かの『永生の頌』と並び稱せられ、或はそれよりも傑れてゐると評した人もある。

大陸旅行を終へて一七九三年の夏、二十四歳の詩人は暫らく不幸な定まらぬ精神状態にあった。 この時彼は唯一人サリスベリ平野からウェイルズにかけて徒歩旅行をしたことがある。 この時彼は初めてマンマスシアのワイ河を訪れた。 溪谷の美を以て名高いワイ河はセヴァン河と合してブリストル灣に注ぎ、 長さは百三十哩で、わが木曾川よりも少し長く、山地を走る急流である。 それから五年後の一七九八年七月十三日に再び妹と共にこの地を訪れてこの詩を作ったもので、 その年に公にした。この五年間に彼の生活は一層幸福になり、 彼の知識や自然及び人間に對する愛を深め、 事物の生命を見る洞察力を彼に與へた。この詩に漲る懷舊的氣分を知るに難くない。

詩人はいふ、「私の詩の中で囘想してこれほど樂しい環境の下に作られたものはない。 ワイ河を渡ってから、ティンタン寺を去る時、私はこの詩を作り始め、 妹と共に四五日間漫歩の後、夕方ブリストルに入らうとした時に丁度完成した。 一行も刪正せず、ブリストルに着く迄は一部分も書き止めなかった」と。 これを見ても如何に天來の感興に乘じてこの詩を作ったかといふことが分る。 ティンタン寺は一三一一年に創立せられたシイトオ教派の修道院で、 河口を數哩遡った所にある「世界で最も美しい廢跡」として、 ワイ河の右岸に位してゐる。この詩の出來たワイ河は英國で最も美しい河景である。

この詩に於て作者は自然の意味に就いて一層新しく深い洞察をなしてゐる。 彼の思想感情に及ぼした自然の影響は最も明かに完全に現はれてゐる。 作者獨立の自然觀を知るには必ずこの詩を讀まなくてはならぬ。 マイアズの言ったやうに、この詩は「クラシックスの抜萃集であり、 ワアヅワスの信仰を聖別した信條書」である。 國木田獨歩もこの詩を愛好して書中に引用してゐる。

此詩の主旨を便宜のため分類して見よう。

サマヴェルはこの最後の章が全體の效果を弱めるといってゐる。 尚『人生の靜かな悲曲』"The stile, sad music of humanity" といふ句はテニスンが英語の中で最も莊嚴なものとすると激賞した名句である。

物語詩

私等は七人

一七九三年ワイ河の流れを訪ねた時、グッドリッチ城の境内で出逢った小娘との問答に基いて作った可憐な詩。 それから五年後の一七九八年の春(二十九歳)、アルフォックスデンの森を散歩しながら書いたもので、 最後の齣の最後の行が最初に出來たものである。 殆ど作り終ってからコウルリッヂとドラシイに讀んで聞かせ、 序詩となる最初の齣をコウルリッヂに相談した所、 彼は即座に、"A little child, dear brother Jem[誤:Jim]"(一七九八年の『抒情詩集』) には"A simple child, dear brother Jim"となってゐて、一八一五年までこの句になってゐた) の句を與へて、それが今日のやうに改訂されたのである。

彼は死の問題を靜謐と子供のやうな單純さで取扱ってゐる。 靈魂不滅の問題の解決は思慮で廻す知識ですべきでなくて、 天の教へた子供の智慧——思念が感覺によって汚されず、 「榮光の棚曳く雲」の消えぬ内の智慧によってなされるものであるといふ作者は、 この詩で單純無邪氣な子供の口を藉りて永生を歌ったもので、 いとけない子供の心には、生も死もない。この世を去った親しい者は、 子供の心には生きてゐるのである。けれど大人になると浮世の知識に禍されて、 生と死とが一つであるといふ信念が打破され、闇路を迷ふのである。 眞理の天國に入るためには、幼兒のやうな純な心をもつ必要があるといふのが、 ワアヅワスの人生觀の根本義である。 單純な言葉で、快活な無邪氣な子供の生命の美と陰氣な死との間の「考へ深い對照」が描かれて、 『永生の頌』の思想の一斑を示してゐる傑作の一つ。

コンウェイ。北ウェィルズの港町の名。

ルウシイ・グレイ(孤獨)

コスラア滯在中の作。事件はヨオクシャアのハリファックスから程遠からぬ所に住んでゐた一少女が、 吹雪で行方不明になったことを妹から聞いて書いたものである。 兩親は彼女の足跡を水道の堰の眞中まで辿ることが出來たが、 彼女の姿は遂に見えなかった。後に彼女は水道で溺死してゐたといふことである。

この詩は作者が前年公にした『抒情詩集』中の持論を裏書する一つの例證となるもので、 作者はかういってゐる、「この事件を取扱った方法と、性格の靈化は、 日常生活に投げようとした想像的感化力に就いて、 同種類の題材を取扱ってゐるクラブの實際的の形式と對照する暗示を與へるものであらう」と。 實在を想像で色彩(いろど)るといふ彼の持論はこの詩で明かに示されてゐる。

この詩のルウシイ・グレイは『ルウシイ・ポエムズ』のルウシイとは全く別人である。 尚別題の『孤獨』は四行と五行の氣持を言ひ現はしたものである。

アリス・フェル(貧困)

グラスゴオのグラハムを喜ばすために書いたもの。 彼はクラアクスンの熱心な助力者で、熱心な人道主義者であった。 この事件は彼自身に起ったことで彼は詩にするやうに私に勸めたものである。(ワアヅワス)

この詩はラムが愛好したものであるが、一般批評家にとっては遊び事のやうなものであり、 一般の讀者も嫌ったものであるが、 これは一つはワアヅワスの詩集から政策のために除かれてゐたからだとブラドリはいってゐる。 詩人の詩的信條をよく例證してゐる詩で、ブラドリ教授も賞讚してゐる。

手飼の仔羊(牧歌)

この詩は詩人が、唯一人の人間に對して道徳的不正をなしたと責めることの出來る作者唯一の詩であるとマイアズはいってゐる。 作者は一八四三年に言ってゐる、「バアバラ・ルウスウェイトは實際、 この詩の中に描いてあるやうに私が見て立ち聞きした子供ではなかった。 私は上に述べてある(即ち、彼女が非常に美しいために)この名を選んだ。 そして茲で現存してゐる人の名を用ひたことに對して注意を加へて置かう。 この詩を公にして數ヶ月内に私は非常に驚き又心を痛めた。 といふのは、それがリンドリ・マリイ氏によって編輯せられた子供の教科書の中に入れられて、 バアバラが行ってゐたグラアスミアの學校で用ひられるやうになったからである。 そして彼女がかやうに名を擧げられたことを非常に自慢してゐると聞いて私は殘念に思った。 後年彼女はこの出來事を記憶し、その時私の言ったことを覺えてゐると口癖に言ってゐた」と。

この詩は『我等は七人』等と同じく、 田舍の子供の美しさが自然そのものの中に溶け入ってゐる可憐な詩である。

貧しいスウザンの幻想

註に「この詩は靜かな快い春の朝、ロンドン街中に、 こんな風にして懸ってゐる(籠に入れてある)鳥の心を動かす音樂に聽き入って思ひついたものである」と。 それはドラシイと共に一七九七年、ロンドンにゐる兄弟のリチャアドを一寸訪問した時のことで、 恐らくそれから少し後に書いたものであらう。

この詩は純粹な感情をもった詩人によって外觀を裝はぬ言葉で書かれたことを例證する驚くべき詩である。

尚當時は晴れた朝ウェストミンスタア橋から明かに郊外の野原を見ることが出來た。

自然の魂は街衢の中(『序曲』七篇七六五 -- 七七一參照)にも、 最も不潔な環境の中に於てすら彼に附き纒ってゐた。 この經驗は既に初期のこの詩にその萠芽を見せてゐる。 喧騒雜鬧を極めたロンドンの大都市の裡に自然物を見出して、 街巷を大自然に同化せしめる彼の特色を發揮した詩である。 幻想と記憶の突如として閃めいて來た刹那を描いた詩の中で、 この詩よりも微妙なものはない。(マイアズ)

貧しいスウザン。田舍から來た貧乏な下女か何かであらう。

ウッド街。ロスベリ。チイプサイド。何れもロンドンの商業區の中心にある往來の名で英蘭銀行の附近。

マアガレットの惱み

グラアスミアのタウン・エンドで書いた詩。 これはペンリス町に住んでゐた哀れな寡婦を題材にしたもので、 この女の悲境は、夫人や妹は勿論のこと、 町中の人がよく知ってゐる事であった。 彼女は店を開き、誰か知らぬ人が通りかゝると、 往來へ出て行って、わが子の行方を訊ねたといふことである。

最も賤しい生活の實相に接近した者でなくてはこんな詩を描くことは出來ない。 谷男がいふやうに、彼は親切で、病人がある時は、それを看護に行った程である。 かうした經驗が他人の苦痛に十分同感することが出來た。 かうした日常の出來事を巧みに詩化した點で、この詩は有名である。 悲痛の感の強い點で、英國の抒情詩の内で、 これに比較せられるものはないといった評者さへある。 ラスキンは、『近代畫家論』(三卷、第四篇三章)の中で、 この詩を、「歴史的又は單純な物語詩的藝術と偉大な想像的藝術との相異を示すもの」として引用してゐる。 この詩は同じやうに母の惱みを取扱ったテニスンの『リズパ』と比較せられる。

尚この詩に關してはマイアズが評傳(一〇七 -- 一〇九頁)で詳しく解剖してゐる。

七人の姉妹

この詩の物語は、フリデリカ・ブルンの獨逸文からとったもの。(ワアヅワス)

レイオダマイア

一八一四年はワアヅワスの詩的生涯に一時期を劃してゐる。 彼の長男を大學へ入れる準備のため、拉典の作家殊にヴァーヂルを熟讀する機會を得た。 『イニイド』の第六卷はこの崇高い哀切な詩を彼に暗示した。

レイオダマイアはトロイで殺されたプロテシレイアスの妻であった。 プロテシレイアスはアガメムノンの軍隊に於けるセセイリアの大將であった。 ギリシヤの軍隊がアウリスで逆風に阻まれて碇泊してゐる時、 神託は次ぎの戰ひの勝利は最初の武士を矢で失ふ側にあると告げた。 そこでプロテシレイアスは國のために一身を犠牲にしようとした。 トロイに着くと彼は第一の岸邊に跳び上って、ヘクタアの劍を殺された。 これはトロイの岸を眞先に踏むギリシヤ人はデルフォイの神託によって死の運命を與へられてゐたからである。 レイオダマイアは亡夫と唯三時間だけ會談する許しを神に請ひ、 その許しを得たが、その三時間が終って、彼女は亡夫に伴って黄泉の國へ降った。 そして自殺したともいひ、ワアヅワスに從へば失意の餘り死んだといふ。 詩人はレイオダマイアが亡夫に逢ふ所から始めてゐる。

レイオダマイアは古代ギリシヤの詩人にとっては溢れてゐる情熱の典型となってゐる。 そしてこの物語はワアヅワスの崇高な思想を傳へるのに最もよく適してゐたのである。 彼の註に「ライダル山での作。 生長し枯れてゆく木の出來事(詩の最後の一節參照)が私の思想に題材を與へたので、 私の知る範圍では、これを扱った古代の誰よりも、 一層高い調子をそれに與へたいと思って書いた。 私が今迄書いた同じ長さの詩のどれよりも勞作であった」と。 彼が如何に抱負を以て努力して作ったかが思はれる。 その努力は報いられてランダア、オーブリ・デ・ヴィアを始め、 ハズリット等の多くの批評家によって激賞せられてゐる。

この詩の本領は熱情的なレイオダマイアが人間の慾情を滿足させようとして失敗するところにあるので、 感能的物質的な存在を否定するプラトンの思想の反映もある。 全篇の調子は古典美と完成の最も美しく豐かな表現であって、 ギリシヤ藝術の壯大な單純性をよく捉へてゐる。 ワアヅワスの詩の中でこれほど思想と言葉の崇高さと調子の靜謐さをもったものはない。 『マイケル』及び『ひとり麥刈る乙女』と對照せよ。

ヘクタア。プリアムの長男で、トロイ戰役の主將。

セセイリア。プロテシレイアスの故郷。

ハアキュリイズ。強力。彼の最後の力業は冥界から地獄の番犬を連れ戻ることで、 それと同時に夫の命を救ふために自から死に赴いたアルセスティスを連れ歸った。 アルセスティスはレイオダマイアの叔母。

ミディア。魔法使のミディアはその夫ジェーソンの父イソーンの血管に藥草の液を注いで、 その老人を若返らせた。ミディアに欺かれて老父ペリアスを若返らせ損ねた娘達は、 レイオダマイアの叔母であった。

アウリスの艦隊。ギリシヤの艦隊がトロイに向って進軍しようとした時、 總大將のアガメムノンが女神アルテミスの怒りを買った爲め、 逆風を受けて船が進まなかった處が、 この女神の怒りを和げるためにアガメムノンはその娘のイフィゲニアを犠牲として順風を得ることとなった。

ヘリスポント。今日のダアダネルス海峽。

水蛭取る人(決心と獨立)

ワアヅワスは、ドラシイと共に一七九九年の暮に、 グラアスミアの町外れにある『鳩の家』に移った。 彼の傑作は概ねこの居で出來たものである。 この詩に就いて作者はかう語ってゐる。 「私の家から數百碼隔てた所で、私はこの老人に會った。 彼に就いての記述は彼自身から語った言葉から取ったものである。 アルズウォタアの麓にあるクラアクスンの家から、 バアトンの丘を横切ってアスカムに行く途中、 この詩の初めに述べたやうな心的状態にあった。 その時私はこの丘の背に兎の姿を見た」と。 又ドラシイの一八〇〇年十月三日の日記には、 次ぎのやうに書いてある、「私達は殆ど腰の折れかゝったやうな一人の老人に出會った ……彼の商賣は水蛭取りであった。その時は日も暮れて遲い時刻であった。」

これに由って見ると、この詩に集められてゐる要素は、 いろ〜な物から取られたものである。この詩は最初は『水蛭取る人』と呼ばれたが、 後に『決心と獨立』といふ題目にせられた。 作者は本篇で自然人事に對する心理的反應の微妙な過程を説明してゐる。 こゝにマイアズ教授はこれを批評して、詩人の魂が自然と共力し、 自然の囁く聲を半ば創造する事を意味するものであると云ってゐる。 この詩に就いて一友人に宛てた手紙は、 彼の心理状態を知るに甚だ必要であるから、左にそれを引用しよう。

「私はその詩を書いた時の感情を、散文で説明しよう。 私は先づ自然の喜びと美に依って、 私が喜悦の絶頂に達した事を述べ、 それからそれらの美しい事物の唯中に在ってさへも、 私は喪心絶望のどん底に陷ったことを述べてゐる。 自然の幸福の唯中に在る青年詩人が、人間中の最も幸福なるもの即ち、 詩人の身に振り懸った禍を思って、悲嘆にくれてゐる樣を描く。 私はこの事を考へると深く心を動かされるのであって、 私の喪心絶望から救ひ出された事は殆ど、 神の摂理でないかとさへ思ふ。 私自身のやうな感じであの詩を讀む人は何か靈的な超自然的なあるものが現はれると思って、 畏怖の念を懷くであらう。何が持出されるのか? 一つの寂しい場所、池、その傍には全く人里を離れて一人の老人がゐた。 立ってゐたのでもなく、坐ってゐたのでもなく、 唯ゐたのだ——この上もなく單純に赤裸々に現はれてゐた。 この章句で私の心中に靈的な超自然的な感じの強いことが再び述べてある。 彼はどうして此處へ來たか?一體何をしてゐたのだらうと私は考へた。 それから私は彼を描く。その巧拙は十分な自信を以て判斷出來ないが、 唯一つ私の斷言して憚らないことは、 神が強い想像力を私に與へてゐるけれど、 この老人のやうに深い感銘を與へる人物を想像し得ないといふことである。 彼は妻と十人の子供に先立たれ、唯一人山中や、あらゆる寂しい場所を旅して、 不當な社會制度が彼の身に負はした困苦缺乏を忍んで行くのである。…… 然し、あゝ!あの場所へあの人物とは。 信心深い自重的な、痛ましくも老い朽ちた、 そして滿足してゐる老人が、あの物語をするとは何といふ不思議な事だらう!」

この一文は詩人の反抗的な理窟っぽい性格の一面を示すと共に、 彼の純朴な心持、純な優しさを現はしてゐる。 別題を『決心と獨立』としたのは、彼がこの水蛭取りの健氣なさまを見て、 詩人の天職に身を殉じようと決心し、 その精神的獨立を恢復したことを示すのである。

「この詩の本質から二つの觀念の連續を見出す。 即ち自然の情調と人間の情調との相互作用である。 人類としての人間の威嚴と興味が、社會的又は政治的生活の複雜な背景を以てしないで、 原始的な愛情と悲哀、外界の幻想的な姿の中に置かれてゐる。」(マイアズ)

鹿飛ぶ泉

『鳩の家』の作。最初の八つの齣は、『兄弟』を作って行き詰った時、 心機一轉のために、ある冬の夕べ即興的に作ったものである。 作者が妹と共にその前年(一七九九年)十二月ヨオクシアのソックバンからグラアスミアへの旅行の途次、 この泉を通過し、そこで逢った老人から聞いた話を土臺としたものである。 心なき荒武者の單純な喜びと、内省的な詩人一流の思想の對照に興味がある。

動物の苦しみを歌ったこの詩はコウルリッヂの『老水夫の歌』と共通な動機をもってゐる。 十八世紀によって新しく醒めた感覺と人道は下等の動物にまで現はれた。 詩人にとってはこの鹿は一個の獨立した獸としてゞなく、 自然の大なる友愛の一員として、その苦しみに同感してゐる。

高調詩

比ひ稀なる光耀美の夕べに作る

ライダル山の家の前方にある丘でこの詩想を得、 且つその大部分を作ったもの。『夕暮即興詩』の一つ。 夕映に自然の聖美に打たれて未來の郷國を望んだ詩で、 『永生の頌』とその精神は同じものである。 かの詩の純潔、莊嚴、優美、單純は至高な平和の要素を以てこゝに再現せられてゐる。 マイアズ教授の言ったやうに、「ワアヅワスの天才の最後の著名な所産」であり、 彼の詩人的生涯を終る一大象徴的壯觀であり、莊嚴な告別である。 その詩にこそ「魔力的な單純、 いはゞ自然現象の最高の美徳を以て再現する特殊の天賦の才能」を認めるのである。

義務の頌

『幸福な武士』と共にワアヅワスの教訓詩の内で最も傑れたものである。 茲に冷い節制と温かい同情をもった道徳の間に本質的な永久的な差別がある。 彼は純眞で赤裸々の單純さの中に道徳律の力又は魅力を我々に感ぜしめる。 これだけの範圍で、義務の起源、性質、要求を、 かくも眞實に叙べた英詩が何處にあらうか。 ワアヅワスにとっては、美徳は眞の幸福に至る唯一の路である。而して道徳的努力は、 永久の法則の要求に調和してゐる自然界に現はれる豐富な喜悦に生ずることを彼は教へてゐる。 この思想がこの詩の主題でこの義務に從って人生を歩むことを望んだ道徳詩で、 題材に適するために飾りはないが、 詩人の最善の手法を示す例として、この頌は實に名篇といふべきである。詩人の語る所によれば、 この頌はホレイスの『幸福への頌』を模倣したグレイの『不幸への頌』をモデルとしたものであると。 最後の結句、殊に終の二行が壯大である。

「私は寧ろ自然の子となって、言葉で書いた感激のない散文道徳よりも、 ワアヅワスの『義務の頌』の高尚な想像的な教へを感知したい」——ヘンリイ・リイド。

トマス・ハアディは「何となく嚴酷だ」と評したが、恐らく最後の節を忘れたからであらう。

幼時を憶うて永生を識る頌

詩人の自然観、人生觀を最も明かに現はした大作であり、 傑作であり、代表作であるこの詩は、この範圍の廣大なるに於て、 思想の深玄なるに於て、英國浪曼[誤:浪漫]派運動の最大詩といってよい。 『ワアヅワス福音書』と名附けられるのも當然である。 この詩の一部分は一八〇三年(三十三歳)に、 半ばは同六年に作ったものである。作者が本文の結尾に附した註釋は、 この詩を理解するのに役立つので、その大意を左に譯出しよう。

「これはグラアスミアのタウン・エンドに滯在中の作である。 初めの四齣と後の部分との著作の間には少くとも二年を經過した。 細心堪能な讀者には自から全部十分に解せられることと思ふが、 この詩を作った時の基礎となる自分自身の特殊な感情又は經驗を茲で語ることも強ち無用な業ではあるまい。 私の幼時は、死といふやうなことが自分のやうな身上に來るとは信ずることが出來なかった。 私は曾て歌った——

あどけない幼兒
輕く呼吸して
手足に生命が充ちてゐる、
死なんてどうして知らう?

かう考へたのは必ずしも子供の動物的生氣の熾んなためではなくて、 私が心の内に動く靈性の制し難いものゝあることを感じたからである。 私はイノックやイリヤの物語を常に考へて、果ては他人はどんなにあっても、 自分は同じやうな方法で生きながら昇天したいと考へた。 この感情を以て、外界の物象を見ても單なる外的存在とは考へられなかった。 そして、それらは我身に等しい靈性であって、我身とは離すべからず、 我身と同體のものと思った。小學校に通ってゐた時でも、 この觀念論に恍惚として我を忘れ、木や塀を(つか)んで我に還ったことも度々あった。 (中略)幼時に目撃する物象の、夢見るやうに、且つ生けるが如く美しいことは、 誰もが容易く囘想し得る所と思はれるので、こゝでは説くに及ばぬ。 けれども私はこの事を以て人間に前生があるといふ證左と看做してこの詩の中に書いたので、 世の敬虔なる人々の誤解を招き、私がかやうな信仰を説くものだと思はれるかも知れない。 かやうな思想は甚だ漠然たるもので、永生に關する我々の本能に於ける一要素であって、 敢て信仰として望むべきものではない。然しこの考へは黙示録にも見えないとはいへ、 これと矛盾するやうな記事もなく、且つ人間墮落の一事はこの説と類似してゐる點がある。 そこで、靈魂先在説は多くの國民のありふれた信條となって、古典文學に通じてゐる者には、 プラトン哲學の如きもこの思想に胚胎してゐることが知られてゐる。 アルキメデスも、自分の機械を据ゑる所があったならば、 世界を動かすことが出來るだらうといった。自分の心の世界に對してこれと同樣の感を懷かぬ人があらうか? 感興に驅られて靈魂不滅の詩を物すとき、その心界の要素を左右するの必要を感じたので、 その靈魂先在の説の人間に置いて十分根柢あることを思ひ、 詩人として出來るだけ利用して、わが作詩の目的とした。』[誤:」]

彼の所説を一言にしていへば、人間の靈魂は神から發したもので、 それが世に現はれる時は優れた靈性を有してゐる。 然るに世俗的な空氣に侵されて、次第に靈性が衰へるので、 我々は深い反省と自然に充ちてゐる靈力と交通して、 幼兒の直覺的信仰を失はぬやうにしなければならぬといふ哲學を、 プラトンの哲學を以て根據づけ、 意識的にこの説の信念に立脚して自己の思想を最も明瞭に且つ強烈に述べたものである。

この難解な詩は當時種々の非難を受けて、これを解する者はなかったが、 近代に至ってその眞價は認められ、エマスンは十九生氣英國思想の最高潮標なりといひ、 シャアプは「ミルトン時代以來の英國に於ける詩的靈感の最高潮である」といひ、 ナイトもワアヅワスの最大の詩であるといった。 ウィリアム・ブレイクも推賞してやまなかったもので、 彼の基本觀念がワアヅワス化されてゐる。 この詩はヘンリ・ヴオン(Henry Vaughan)といふ十七世紀プラトン派の詩人の『隱退』(The Retreat) に暗示されてゐるといはれてゐるが、イングも辯明してゐる通り、決して模倣ではない。 かうした哲學的詩は現代的興味を惹き難いが、技巧のない一種清新な新技巧が詩の根元思想を泉の如く滾々として湧き立たせ、 繰り返し讀む時は清らかな快美を感ぜずにはゐられない。 この詩は『ティンタン寺』と併せ讀む時一層作者の思想をよく諒解せられる。 便宜のため、左に全篇の思想を表解しよう。

尚この詩に就いてはラスキンの『近代畫家論』の中の『典型美』(第三部第五章)に就いての一文を見よ。

最後にある「いと微かな花も……」といふ句はよく引用せられる名句で、 スコットも『マアミオン』の第一の序詞で使ってゐる。

十四行詩

ウェストミンスタア橋上にて

一八〇二年詩人は妹と共にカレイで一ヶ月間の休暇を送ることになった。 七月卅一日に倫敦を出發してドオヴァに向ふ途中、 朝早くテムズ河に架してゐるウェストミンスタア橋 (市部とウェストミンスタア(大本山のある所)を連絡する)を渡る時、 市街の美しい景色と、眠れる群衆の思ひが、詩人をしてこの最も美しい、 又最も善い、最も愛すべき短詩を作らせた。 彼は馬車の屋根の上で書いたといふ。妹の日記に、 「ドオヴァの馬車に乘って朝の五時と六時の間に倫敦を去る。美しい朝だ。 市部、聖ポオロ寺も、川も——多くの舟も、ウェストミンスタア橋を渡った時に美しい光景となった。 家には煙の雲もかゝらず、限りもないやうに擴がってゐた。 しかも清らかな光を投げて煌々と輝いてゐたので、 自然の神の偉大な眼鏡の一つの純潔に似た或物があった」と。 詩の表題は「九月三日」とあるのは思ひ違ひである。 ナイト教授のいふ所によれば、詩人の日附は常に信ずることは出來ないと。

ワアヅワスは都會と都會生活を詛ったが、 この詩は彼が倫敦を讃美した唯一の詩である。 それは眠ってゐる靜寂な都會を見たからである。 スタァリングがその臨終の牀で見た倫敦——騒擾と塵埃と混雜の充ちた所でなくて、 何となく靜かで、堂々として永久的な——を見た(マイアズ)。 言葉の單純と優美なるとに於て、情操の威嚴と純潔なるに於て、 形式の一樣と簡潔なるに於て、その比を見ない崇高な短詩である。 フランスのコロオの同じ書題の繪よりもこの詩が優れてゐるとリッグスはいってゐる。

一八〇二年九月倫敦にて

詩人は言ふ、「これは私がフランスから歸った後間もなく作ったもので、 茲に描いたやうに、革命後フランスの靜寂、寧ろ荒寥と對照して、 我國、殊に大都市に於ける虚榮と華飾に驚かざるを得なかった。 さもなくば讀者はこの詩及び次ぎのソネットで、 擾されぬ富によって我々の間に生じた不幸を誇張したものと考へるかも知れないから」と。 ナポレオンは歐洲の大半を蹂躙して、フランスに君臨した當時、 英國は戰爭のために富力と人口とが増加し、賃金は下落して、 穀物類は騰貴し、地主と百姓の富む代りに、勞働者は益々貧窮に陷り、 それと共に犯罪者が増加し、終に階級爭鬪が起きて今日の社會問題の發端を開くやうになった。 政治界にも一貫した主義もなく、朋黨の紛爭と阿世的な策略が行はれ、 反動のみで進歩的な運動もなかった。ピットも、 利慾にのみ汲々たる資本家や惡議員に妨げられてその改革方案を葬られて首相の職を辭した。 ナポレオンと屈辱的平和條約を結び、僅かに小康を得て道徳の腐敗に沈淪してゐた時代であった。 ワアヅワスは八月三十日から九月二十二日迄倫敦に滯在中ミルトン以來の立派な數篇の政治的ソネットを作って國民的生活の改革を叫んだ。 これらのソネットは彼が初期に懷いたフランス革命への失望が、 英國の義務と使命に就いての彼の高い理想を捨てさせなかった證左である。 十一行は有名な句。

美しい夕べ

一八〇二年の八月、フランスのカレイ附近の濱邊で作った詩で、同年に作った 『ウェストミンスタア橋上』で歌った朝日の歌と對比すべき名詩である。 ある點に於ては最も善いソネットである。最初の八行は自然的で靈的な靜謐の繪を描いて叙述的である。 次いでこの美しい景色を少しも頓着せぬ少女に振り向く。 然し彼は少女に過失を認めない。子供は尚も天に近づいてゐるから、 地の美に天の便りを讀み解く必要はない。 ワアヅワスの『快い靜けさ』と『慰めの力』はこゝに例證せられてゐる。

この中に現はれる少女はドラシイと考へられてゐたが、 ハアパアやレグイの研究によってこれが詩人の私生兒カロラインであって、 ドラシイの日記にあるアンネットがその母であることが分るに至った。

ミルトンに

英國の危險に瀕してゐる時、正義と自由の戰士であり豫言者であるミルトンを呼んで、 かゝる偉人が出現して、道徳、政治、宗教、家庭の腐敗を一掃せんことを冀うたのは當然である。 ミルトンの犠牲、價値の一言一句は即ち詩人が理想の人格及び生活の提唱である。 ワアヅワスはミルトンを崇拜し、『神聖なミルトン』と稱へたこともある。 この詩は詩人が詩人に與へた詩の中で最も立派なものである。 『序曲』第三編を見よ。

ヴェニス獨立の消滅

ヴェニスの共和國は十五世紀にはその絶頂に達して國威を放ってゐたが、 一七九七年ナポレオンによって侵略せられ、 一八一四年オーストリアに與へられた。

この詩は作者が『國民の自由と獨立に獻げたソネット』と類別した中に入れた一つ。

瑞西の服從と英國

一七九八年にナポレオンは瑞西を服從させてフランスの屬国とした。 この詩が書かれた一八〇七年には、彼は歐洲大陸の霸王となった。 そして英國を侵略する準備を始めてゐたので、國民の感情は激昂した。 スコット、サウジイ、ワアヅワス、コウルリッヂ等はこの感情を詩に繰り返し歌った。 この詩は一八〇三年の仲裁條約に暗示されたものである。 ハドスンは「これは私の所謂完全な作である。……物象でもなく、 言葉でもなくて、觀念の幻影を助けるものである」といひ、 詩人自からも傑作と考へた。

トゥサン・ルウベルティユルに

フランシス・ドミニイク・トゥサンは一七四三年サン・ドミンゴのブダに生れた。 父母は共に奴隷であった。奴隷の子として生れた彼は、政治上王黨に傾いてゐたが、 一七九三年フランス議會が奴隷に自由を與へるに及んで、 共和黨の味方となった。そこで彼は、サン・ドミンゴのフランス軍の司令官にせられ、 英軍や西軍を征服した。ラボオがその功勞を讚嘆してから、 ルウベルティユルと呼ばれる樣になった。 一八〇一年ナポレオンが再びこの島に奴隷制度を布くや、トゥサンは、 是に反對した爲めにナポレオンは艦隊を送って彼を壓迫し、 彼の家族の自由を保證すると欺いて、彼を降參させ、 然る後彼を捕へて、何等の裁判もせずにパリの牢獄に投じた。 彼は遂に十ヶ月の後一八〇三年四月獄中で餓死した。 この詩は、彼の入獄後二ヶ月目に書かれたもので、 政治的ソネットの一篇である。作者の情熱はミルトンのそれのやうに、 儼然と燃え上った崇高な高揚を示してゐる。 狹圍の國民性を超越してゐる神聖な同情は各行に發露してゐる。 バイロンの『ション囚人』と比較せよ。

レイズリイ・カルヴァアトの思ひ出に

一七九四年ワアヅワスが將來の計畫を決定してゐない時、 友人の兄弟カルヴァアトが肺病に罹ったので、 彼は看病したがその甲斐もなくて、翌年この世を去った。 この際カルヴァアトは、九百磅を詩人に送り、 詩人が目下の生活難を逃れて詩作に一身を捧げ、 人類の爲めにその天賦の才を發揮するようにと遺言した。 この事は詩人の經歴に轉換期を與へた。 即ち彼は、これに由って獨立の生計を立てる事が出來るやうになり、 一七九五年に彼は妹と共にレイスダウンに一戸を構へた。 この一篇はカルヴァアトに死後數年にして、詩人がその深い感謝の意を表はす爲めに作ったものである。 『序曲』(第十四卷第二編、三五四 -- 三六九)を參照。

トマス・クラアクスンに

クラアクスンはケンブリッヂ大學在學時代から、 當時盛んに行はれてゐたアフリカ黒人を商品扱ひにする奴隷賣買の廢止に努力した彼に對する猛烈な反對があったが、 遂に一八〇七年三月に奴隷賣買廢止案を通過さして十年間の努力が酬いられた。 ワアヅワスはこの人道の鬪士に、敬意を表する爲めにこの情熱に充ちたソネットを作った。 ブレイクの『黒ん坊の子供』を參照。

戀、戰、又は紛々たる政爭

眞善美は浮世の鬪爭のある所にのみあるのではない。 詩神は平和のある所にも宿る。否反って靜謐であり優美であり微小である所に、 深い美があるといふのがこの一篇の主意であって、 殊に最後の「匂ひいとも妙なる花は微で小さい」といふ句の如きは、 作者の美しい理想が美はしく出てゐる名句である。

十四行詩を侮るな

一八二七年ライダル湖の西側を散歩中、 殆ど即興的に作った詩で、彼のソネットの序として取扱ってゐる詩集もある。 「この詩には美妙な想像力の觸感に豐富にされ、 純粹な力絶し語法で傳へてゐる歴史があると共に、 最も力強い生氣から最も柔かい韻律的調音の調べに至る音樂的變更がある。」(ヂョウヂ)

シェイクスピア。ソネット百五十四篇の内、二十八篇は女に與へたものであるが、 何人に與へられたか不明である。

ペトラルカ。ラウラに對する切ない戀をそのいみじきソネットに現はして慰めた。

タッソオ。エレオノラに寄せた二卷のソネットがある。

カモオエンス。ポルトガルの詩人。若い時宮中の貴女に戀歌を送って配罪にされ、 後諷詩を書いたため一五五六年支那の厦門に流された時多くのソネットを作った。 彼の戀人カテリナの訃報を彼がゴアにゐた時に聞いた。

ダンテ。彼は五十五以上のソネットを書いたが、『新生』にはその半ばを含んでゐる。 それらは一三〇〇年本國を追はれて流浪の苦痛(絲杉は葬式に用ふ)を味ふ前の比較的幸福な時代 (桃金嬢は愛に因んだ木)に書かれたからである。

スペンサア。妻エリザベスに寄せた戀のソネット八十八篇を作った。 『暗い道』とは彼が一五八六年愛蘭に土地を與へられ、 流刑者のやうに寂しい日を送ったこと。

ミルトン。彼のソネットは一六三〇年(二十三歳)より一六五八年の間に書かれ、 二十三篇のソネットの内で五篇は伊太利語で書いた。 僅か十八の内で、十六のソネットは内亂の時代——彼の詩作力も衰へた時—— に物した。ワアヅワスがこゝで喇叭に比較してゐるのはこの時代の政治的ソネットである。 一六五二年には盲目となって妻を失ひ、 再度の妻は一六五八年に又倒れたといふ悲慘な晩年はミルトンをしてソネットを書かしめた。

尼僧よ、僧庵の狹い部屋で惱むな

ワアヅワスは一八〇一年からソネットを使ひ始めたが、 或る日の午後妹が彼にミルトンのソネットを讀んで聞かせると、 彼は既にそれらの詩を知ってゐたので、特にその威嚴、 單純、莊嚴な調和に動かされ、直ちにソネットを作ったが、 その一つ『ボナパルトを悼む』のみが傳へられてゐるだけである。 このソネットと次ぎのソネット中のソネットで、 ソネットに對する、一種の讃と見るべきものである。 彼はソネットに對する世人の偏見を認め、 それを元の位置に歸さうとする教訓詩の一つである。 ヘンリ・テイラアの『ワアヅワスのソネット』を見よ。

ファネス山。英蘭の北東部にあるウェストモアランドにある山で、 詩人が永い間住んでゐた所。

俗事が餘りに支配しすぎる

この短詩は多くの點に於て、『ティンタン・アベイ』の擬言である。 彼は「單調な生活と高尚な思索」を主張してゐる。 そしてこの持論が無視せられた時彼は反抗の詩を作るのであった。 この詩は眞に吾々の生活を價値あらしめようとすることをすべて調子外れにする俗物の商業生活に對する火のやうな反抗の聲である。 詩人は吾々に自然と接觸し、自然の美を味ふ眼を持ち、 自然の佳調を聞く耳を、自然の秘密を理解する同感的な心をもつことを愬へてゐる。 唯名目だけの基督教徒で、俗事に心を奪はれて名利を追求し、 自然の美を感じ、自然の靈氣と同感する力を失った世界にゐるよりも教義は異教のものでもよい、 寧ろギリシヤ人のやうな樂しい異教主義に赴いて自然の靈氣に對する純な嘆美の心を持ちたいと。

他のソネットに見るやうな前節と後節との間に隔絶のないことである。 即ち前八行は人間が自然と調和を失ふことを示し、 後五行ではホオマア時代の單純な信條に歸ることの勝利を説いてゐる。 サマヴェル氏はワアヅワスの氏の内で最も美しいものと讃美してゐる。 『逍遥篇』(四篇六一三 -- 六三〇)を參照。

プロテュウス。海の老人。

トリトン。海の神ポセイドン(ネプチューン)の息子で、 波を靜めるために貝殻を吹く。何れも異教國にゐることが自然の靈に觸れることの多いことを例示したもの。

ハイランドの伏屋に

一八三一年の秋、妹と共にスコットランドを旅行中に、 一茅屋を見て作った。社會から忘れられてゐる部分にも美しい詩題を求めようとしたワアヅワスは、 卑近なものをも感動せしめるものとした。 普遍的自然に對する敬虔を教へ、 人間の心と心の間の因襲の境界をとった人道詩人としての彼の面影がこゝにも現はれてゐる。

『かしこ!』と語る若者が

このソネットは、「一八三三年の夏の旅行中に作り又は暗示せられた詩」の一つである。 三十年前(一八〇三年)詩人はバアンズの墓場を訪れて三篇の詩を作った。 この時(一八三三年)彼はモスヂイルを訪れた。彼の言葉を引用すれば、 「モスギイルを、グラスゴオからキルマノックへの途中車上の若者が私に指し示してくれた」と。 バアンズは一七八四年父に死なれて兄弟と共にエアシアに畑を求めた。 これがモスヂイルである。バアンズが多くの優れた詩を作ったのもこゝであり、 廿日鼠を鋤で引き起したり、野菊を倒したのも實にこゝであった。

眠りに

彼は一八〇六年に『眠りに』と題する三篇の詩を作った。 それは『種々のソネット』の中に分類せられてゐる。 これら三つの詩に就いてサラ・コウルリッヂは「非常に美しく特殊なものである。 ミルトン的でもシェイクスピア的でもペトラルカ的でもなく、 又後代の如何なるソネット作者のそれにも似ないで、 全くワアヅワス的のものであって他の模倣を許さぬものである」と。

この詩は三篇の中で最も美しいものであり、最も賞讚に價するものである。 こゝでは花のやうに開く思想が、自然に容易に展開せられてゐる。 先づ第一に眠られぬ夜の熱病的な不安——繪の連續によって讀者に印象せられた長く物憂い夜、 それから暁と鳥の聲を待って、やがて眠りを訴へる。非常にやさしい痛々しい場景である。

この詩の最初の部分は、スペンサアの『仙女王』に負うたものである。 尚、ドラモンドの詩、シェイクスピアの『ヘンリイ四世』(第三幕の一場)等を參照せよ。

畫家に

マアガレット・ギリイス嬢はワアヅワス家の友人で、 屢々彼の家庭を訪れた。彼女は詩人の肖像を數枚描いた。 最初印畫を作ったが、これが詩人に非常に氣に入って、 妻のも作ってくれるようにと頼んで出來たのがこの肖像である。 この詩に於て詩人が妻に對する愛情が年と共に益々深くなってゆく精神的な愛を語ってゐる。

同じ題に

初めギリイス嬢の描いた愛妻の肖像に不滿であった詩人は、 妻に對する愛に於ても、若い時代の情熱的な感情から一歩進んで、 一層精神的な愛に到達したことを悟った。 詩人がこの二篇の詩に就いて娘に宛てた手紙の中にも淑徳あり謙讓な夫人に對する眞實の愛の流露がある。

羊飼は東を見て靜かに言った

月はその美を雲と比較せられたのを憤慨してか、 忽ち雲を破ってその姿を現はし、 その美を證明した。やがて第二の雲が現はれて月を隱さうとすると、 月は從容としてこれに應じて姿を現はし示すが、隱れてゐても平然たるものである。 すべて美しき者、偉大なるものは何れもこの通りであるといふ意。

グラアスミア湖畔にて

日は既に沈んで湖は鏡のごとく靜まり、湖面に映す星影は鮮やかに見える。 これは空の水に映ったものか、或は水を通して下界の見えたもので、 この下界にこれらの靜かな光體が宿ってゐるのだらうかと疑ったのである。 この世は修羅の巷で、不信に充ちてゐる。 然し神の無限の愛は自然の中に現はれてゐる。 湖には靜謐があり、空の星には無限の暗示がある。これを眺めるとき、 われらの心は歡びにみち、希望を生ずるのである。

一八〇七年八月、詩人はコレオルトンからグラアスミアへ歸った。

アーノルドの"Quiet Work"を參照せよ。

愛らしい處女の姿を見た

『境界ソネット』の第二部「王政時代から現代まで」の第一章。 この詩は詩人がわが娘を夢見たまゝを描いたものである。

五月の朝

萬物はすべて調和の中に生活して平和を樂しんでゐるのに、 ひとり人間のみは懷疑不安に充ちた生活を送ってゐる。 われらはよろしく自然物に傚ひ、 現在の恩惠と未來の希望とを併せ感じて、 齑剌たる歡喜を最後まで持續せよといふ意。

眞理は何處にあるや

苦難の多い人生の旅路では、絶えず懷疑に惱まされ、 眞理は何處にあるや?と悶えることが多い。 けれど花は躍り、雲雀は空高くなのり出でる。 われらの靈も亦自由を渇望して天高く昇って行かう。

この詩は一八四六年ローマで死んだ詩人の孫及び、 兄のクリストファの病氣に際して作ったものである。

汝の誇ったのは

一八四四年、ウェストモアランド州のケンダルより、 詩人の閑居に近いウィンダミアの近くに鐡道を延長する計畫があった。 これを聞いて、七十四歳の高齡に達した彼は慨然として立ってその非を鳴らした。 彼は文明を嫌ひ惡風の侵入を憂ひ、自然の神聖を説いた。 萬人の偶像たる文明は、唯貪婪飽くことなき魔鬼であるから、 神聖な自然をそれで汚してはならぬ。山は敵兵の侵略を防ぎ、 文明の侵入を拒み、政治と思想の獨立を與へてくれるものである。 これを措いて文明の利器たる鐡道を敷設するのは、 惡魔の通路を作るに等しいと。 然し、彼は單に保守固陋の言をなすのではない。 利益と害惡とを比較して後に斷定を下せよと詩人はいふ。 政治ソネットの一つ。

雜篇

四季の思ひ

ライダル山での作。四季はとり〜゛にその美を現はすやうに、 われらの一生もその四期[誤:四季]を通じてその美を現はし、 人生の冬なる臨終にも。また來る春を望むやうに、 天國の希望を抱かうといふのである。 三節と四節は連續してゐるもの。

女の兒に

詩人の註に、「この詩は、ライダル山の芝生で、 私が屢々見たやうに、 この心象を見た時の即興詩である。 それは最初教女のロサ・クィリナンのアルバムに書いたものであった」と。

弦月と宵の明星

弦月と宵の明星と何れが主であるか從であるかと疑うた優美な四行詩。

激湍の岸に立ちて

人間の心は渦のごとく、その思想は泡のごとく湧き出るが、 唯動搖するのみで、中心に落着かず、 哀れな囚はれの身のごときものである。 唯天の助けを求めるほか安心の道はないといふ詩人の信仰を現はした彼の最後の詩で、 後四年にして詩人はこの世を去った。

老人と駒鳥

孤獨の中に愛は尚われらを救ふことを老人と駒鳥の話を以て説いたもの。

勞働者の晝の讃歌

詩人の註に、「ケン僧正の朝夕の讃歌は一般に知れ亙ってゐる。 同じ題目で書かれた讃歌も亦他に澤山ある。 然し白日のための讃歌がないのでこれらの詩句を作った。 畑や森で日々勞働してゐる父母の許に、 百姓屋の子供等が晝飯を籃に入れて運ぶのは、 折々人の目撃する所である。かゝる環境の下で、かゝる家族的合唱で、 これらの讃歌の一部でも歌はれることを確めることが出來たらいかに私は嬉しいことだらう」と。

ワアヅワスはグラアスミアの教會で、 村人に交って禮拜することを好んだ。 然し彼にとっては宗教は城壁や信條で束縛せられたものではなかった。 この深い確信を叙べたのがこの詩である。神は自然の神で、 また勞働の神であるから、自然に包まれ、 勞働に從事しつゝ拜すべきものである。田畑は聖殿、 茅屋は祭壇、森林は會堂である。 人手に作った教會堂は必ずしも必要ではない。 寧ろ自然の會堂で、土に親しみ、田畑を耕す間に、 眞の感謝を以て神を拜することが出來るといふのである。 眞に好個の農民の讃歌。

槲と金雀枝(牧歌)

ライダルからグラアスミアに到る山路で暗示されて作ったもの。

牧羊者アンドルウが、自然を觀察して得た種々の教訓の一つを子供等に聞かせるのである。 それはいふまでもない詩人自身が自然より學んだ教訓を示したもので、 槲と金雀枝は強者と弱者との對照である。 現在の天惠を感謝して、その日〜に滿足の生活を送らうといふ金雀枝の言葉は、 また詩人の人生觀を語ってゐる。

マイケル(牧歌)

タウン・エンドで、一八〇〇年の十月と十二月の間に書かれ、 『抒情詩集』第二版(一八〇〇年としてあるも、實際は一八〇一年一月に公にされたもの) に附加した新作で、最も注意すべき叙事詩である。 作者がこれを『牧歌』と呼んだのは、從來の傳統的田園派に挑戰し、 もしくは永い間文學に於いて有毒な傳統となってゐる牧羊者や田舍を取扱ふ誤った態度に反抗し、 一層自然な田園的情趣と一層純眞な田園的心理とを披瀝する眞の牧歌を示さうとした熱意からである。 作者自から説明する通り、この物語は子供さへも喜ぶ作者の郷里の爐邊物語の一つであって、 質朴粗野な物語ではあるが、「自然の純情を養はぬ少數の人々を歡ばすため」 に彼はそれを語らうとし、煽情的な枝話によって起す『荒々しい興奮』を伴はないで、 感情を動かされる固い信念で物語ってゐる。彼は性格の根本的力、愛情、信仰、 我々の生活を支へ高める忍耐を示さうとしてゐる。

ワアヅワスの青年時代をよく知る人にとっては、 彼が賤しい生活の詩人となったことは自然なことと思はれる。 地方の農夫としてかゝれたかゝる田舍人の生活は彼にとっては親しいものであった。 何故ならば、彼等の中に率直な威嚴、眞理への忠實さ、義務への獻身、 純粹な親切さ、それに加ふるに、獨立と自由の精神とを有ってゐることを詩人は認めたからである。

この物語は最も單純なもので、短文に綴られるほどのものである。 即ち質朴な山地の牧羊者が八十四歳の時、赤貧のため一人息子を町へ送らねばならなかった。 その息子が都會で墮落してから後、幾年を山間で、 沈默の淋しさの中に送ったといふのが一篇の主意である。 然し彼が少年時代に聞いたこの話は詩人がそれを深い個人の愛情の象徴、 人間の運命といふ世界苦の象徴と見るまで彼の心に殘ってゐたものである。 この詩ほど彼の性格に合った主題はない。 當時このウェストモアランド地方の土地は次第に個人の所有權となったため、 谷間に住む所謂States Manは先祖代々の土地に愛着をもち、 これを離れることを避けるために幾多の犠牲を拂った。 この詩の主人公もこれら農人の典型で、 人間の心を最も強く動かす二つの愛情たる、 親の愛と土地の愛とに左右される惱みが描かれてゐる。

詩人がヂャスティス・コウルリッヂに語る所によれば、 この詩は幾分事實に基いたもので「マイケルは放埒になって、 兩親の許を去った老夫婦の息子に基いたものであり、 寂しい谷間の羊の欄を作って七年間を暮した老牧羊者の話に基いたものである」と。 又この詩をかくのには友人トマス・プールをモデルにしたといふ。 詩人が彼に與へた手紙によれば、「私は人間の心の最も力強い感情—— 親の愛と土地の愛(それには先祖代々から受けたものといふ感情と、 家庭と個人並びに家族の獨立といふ感情を含めて)—— に動かされてゐる心の強い生々した感覺性をもった人間を描かうとした」といってゐる。 又チャールズ・ジェイムズ・フォックスの語る所によれば、 『兄弟』と『マイケル』の二篇の詩は、 「今では英國の北部に限られてゐるある種の階級の間に存する家族的愛情を描かうとした」ものである、 彼等は小さな獨立した土地の所有者で、 彼等の僅かな土地で日々働いてゐるものである。 そしてその「小さな地方は、家族的愛情を描いた札のやうに、 家族的愛情の一種の集合點となり、 それなくしては忘れる時にも種々の場合に思ひ出の種となる」ものであると。 この詩の田舍風景は忘れてはならぬものである。

尚リュウクの性格と境遇は曾て詩人がタウン・エンドに住んでゐた家に屬する家族から得たものである。

詩體に於てもワアヅワスのあらゆる物語體の詩で最も完全なものである。 これ程完全に思想に言葉を從屬させたものは彼の詩にはあるまい。 主題も言葉も簡素である。こゝでは『詩句法』といふ技巧で、 効果を高めようとする試みは見出されない。 作者は嚴しい眞率さを以て物語を語ってゐるので、 聖書の物語中の最も良い章句を想ひ起させる。 終末の悲壯はシェイクスピアの『リヤ王』の終の感傷に墮ちぬ悲壯に似てゐる。

ワアヅワスの悲劇詩の中で最も傑れたこの雄篇は、 詩人を最もよく知るものゝ必ず讀まれねばならぬもので、 彼はこの詩によってまた農民詩人として優秀な地位を占めてゐる。 この一篇の農民詩によっても彼は現代に不朽の光を放ってゐる。

ペイタアはいふ、「聖書の深さと嚴かさといったやうなものが、 この異樣な、新しい、情熱的な、牧歌の世界に纒ってゐる。 それは初め彼が心象を起し、その反映を近代の最もよい小説が彼から捉へてゐる」と。

テニスンの『イノック・アーデン』が海に緑の深い英國の漁夫の純情を歌ったものとすれば、 この『マイケル』は山に親しんでゐる英國の牧羊者の至情を描いたもので、 この相對比せられるべき二大雄篇は英詩の上に不朽の價値を占めるべき純情素朴な美しい物語詩である。


更新日:2004/12/30

ワァヅワス詩集 : 評傳


評傳

I ワアヅワスの生涯

「湖畔詩人」(Lake poet)といふ誤った名で傳へられたわがワアヅワスは、 二十世紀に到って初めて眞正の評價を下された。 實際彼の人物と生涯に關する解釋は、彼が革命運動に參與した當時起った痛ましい戀愛事件によって、 俄然として一生面を拓いた觀がある。

從來他の詩人に比して、稍人間味の乏しい、 道學者のやうに思はれてゐた彼は、若い人々によって、 殊に世紀末に於て彼が嫌はれたのは一面無理からぬことである。 フランス革命に投じて危く一命を失はうとする所を遁れて英國へ着いた二十三歳の彼は、 五十歳の人のやうに老けて窶れてゐたといふ。 そして後年には國立教會に加はり、 宗教上政治手極めて穩健な態度をとり、はては年金を受けて平和に幸福に長い生涯を送ったので、 ブラウニングの如きは彼を變節者と筆誅したとさへいはれてゐる。 彼が『偉大な詩人はすべて教師である。余は教師として尊ばれるか、さもなくば何者にもなりたくない』 といってゐるのを見ると、「ライダル山のお上人さま」を想像しがちである。 公平清明なテニスンの如きも、ワアヅワスを自分以上に聖者らしい生活をしたと信じ、 『彼は一言も卑しいことを語らなかった』と評してゐる位である。

かうした種類の見解を彼に對して懷かせたのは、一つは彼の傳記であらう。 詩人の青年時代、殊にフランス滯在中のことは一つの謎になってゐた。

自叙傳體詩篇である『序曲』さへ彼は死後に初めて出版を許可した程である。 ワアヅワスの傳記は數多く出手ゐるが、その中で最も重要にして且つ初めて世に現はれたのは、 詩人の甥に當るリンカンの僧正(Bishop of Lincoln)の物したものである。 ワアヅワスは彼に自分の傳記を書くことを託し、 かやうな人によって物されば、現在この世に生きてゐる人あると否とを問はず、 個人の威嚴を傷けるやうな事柄が世間へ發表される恐れが全くないと考へたらしい。 かやうにして一切の材料を託されたリンカンの僧正は、 政治的宗教的に束縛された編者の立場から頗る意を用ひ、 叔父の名譽を傷けると考へた材料を全部破棄し、 主力を晩年の聖者的生活の大部分に捧げたのである。 かうして出來たのが二千頁の大册であるが、フランス時代のことに關しては僅かに八頁しか費してゐない。 然しこの傳記はワアヅワスに對する世人の見解を決定的に確立した權威あるものと認められ、 續いて出たナイト教授の傳記も大同小異のものである。 かくして、ワアヅワスはその抹香臭い説教詩と相俟って、 生れながらの聖者と祭り上げられてしまった。 かうして永い間彼はライダル山の聖人となりテイヌの所謂『薄明の詩人』となってゐた。

然しワアヅワスの私生涯に就いて疑問を懷いてゐたためか、 尊敬すべきワアヅワス傳(一八八〇年)を書いたマイアズ教授はそれとらしいことを仄めかしてゐた。 また一八九七年にエドワアド・ダウデンも、ワアヅワスの平靜の中心には情熱があったことを叙べてゐる。 果せるかな、彼の謎は解かれ、聖者の正體は闡明せられた。 それは一九一五年ハアパア教授によってなされた新研究の賜物である。 彼はソルボンヌ大學のエミイル・レグイが一八九六年に公にした『ワアヅワスの青年時代』に刺戟されて、 十年以前から彼の念頭に往來してゐた計畫を遂行したものである。 彼の説く所は種としてフランス革命に對する詩人の狂熱的態度と行動と戀愛事件である。 これによって彼は、ワアヅワスが從來一般に認められて來たやうな枯木的道學者詩人でなく、 反って人より優れた情熱家であったことを立證し從來のワアヅワス觀の誤れるを指摘し、 彼の作品の解釈上に前人未踏の新境地を開拓したものである。 これによって彼の詩には『ロマンスと情緒がない』といはれたことも誤謬であることが認められて、 彼の作品の正しい解釋に到達することが出來たのである。

然しこれらの新研究に對する反動も起った。オックスフォード大學のガロッド等の研究がそれである。 然し彼の秘密が暴露されたとて、彼の人物の價値が減ずるものではない。 又戀愛事件があったからとて彼が偉いといふ譯もない。 彼の特質は元來自由と熱情を愛するものであった。 そしてワアヅワスが詩人として最も脂の乘った時は、革命を經に、 戀愛を緯に織り交ぜて、動搖の甚しかった三十歳前後である。 彼の優れた詩は何れもこの時代の作で、かの名篇『ティンタン寺』を讀む人は、 それが三十歳に達せぬ青年詩人の作であることは忘れかがちであらう。 彼の詩人的生命は四十五歳前後を以て終り、それ以後は清新の元氣を失ふに至り、 一八一五年以後のワアヅワスは詩人としては全く死んでゐるといってもよい。 かやうに考へるときは、彼の八十年の永い生涯の波瀾は三十歳前後につきてゐる。 そこで、彼の青年時代を闡明し、それによって彼の作品を新しく解釋することは、 從來誤まられたワアヅワスに一大光明を投げるものであると信ずる。 これによって從來、事件がなくて、極めて單調であると文學史家から異口同音にいはれた彼の生涯に、 一つの光彩を與へることとなった。

ウィリアム・ワアヅワスは、一七七〇年(明治七年。ゴールドスミスの荒村行の出た年) 四月七日、風光明媚な湖水に滿ちてゐる北英の農業地Cumberland(カムバランド)Derwent(ダーウェント)河畔のCokermouth(コカマアス)といふ一小村に生れた。 家は世々農を營んでゐた舊家で、父ジョン・ワアヅワスは、 後のLonsdale(ロンズデイル)公ことJames Lowther(ヂェイムズ・ラウザア)卿の顧問辯護士兼土地管理人、 母はPenrith(ペンリス)町の商家の娘であった。彼はジョンの二男と生れ、 兄のリチャードとは二つ違ひ、妹のDorathy(ドラシイ)とは一つ違ひ、 其他にJohn(ジョン)Christopher(クリストファ)といふ二人の弟があった。 五人の兄妹の中でも彼は際立った腕白者で、「強情で、氣むづかしく、亂暴者」であった。 ある時などは惡戯をした爲めに叱られて屋根裏に閉ぢ籠められた時、 鈍刀を揮って自殺しようとしたことがあるといふ。

八歳(一七七八年)の時、母が死んだ。 そこでワアヅワス家は幼い子供の教育のために一先づ離散することとなり、 ウィリアムとリチャードとはEsthwaite(エススウェイト)湖の近くのHawkshead(ホークスヘッド)の學校に送られた。 これから九年間(一七七八 -- 八七年)のホークスヘッド校時代は、 彼の傑作『序曲』に現はれてゐる通り、多くの愉快な記憶を殘してゐる。 元來この町は近代的影響を受けぬ前世紀の遺風を存してゐる上に、 湖水や丘陵に取圍まれた美しい土地であったので、 自然の感化は彼に大なる影響を與へた。それのみならず、 彼の通ってゐる學校は(北イングランドで最も榮えた學校の一つ)であって、 生徒は寄宿舍に収れずに村の人家で世話になるといふ家庭教育の延長のやうな教育法を採用してゐた。 殊に教師Taylor(テイラア)は頗る卓越した教育家で、ワアヅワスに深い影響を與へ、 彼の詩の中に出るMatthew(マシュウ)といふ人物は幾部分この教師をモデルにしたといふ。 實にワアヅワスが自然愛に浸ってゐるのを最初に發見したのは恐らくテイラアであり、 又彼の詩作を激勵した第一人者は確かにこのテイラアであった。

かうしてホークスヘッド時代は全く自由に伸びてゆくことが出來た。 湖沼で釣をしたり、スケイトをしたり、 又寒い冬の夜は、泥炭をくべた爐邊で戸外の嵐の音を聞きながら色々と遊び戯れた。 學校の休暇には、『ドン・キホーテ』、『ギル・ブラス』、『ガリヴァ旅行記』等を讀み耽った。 然し彼は書物は餘り讀まなかった。それよりも唯一人思ひのまゝに山野を跋渉し、 心ゆく迄自然に浸るのが好きであった。

彼は此頃學校の課業として『夏休み』(The Summer Vacation)といふ題で詩を書いたが、 これは彼の最初の詩作であった。又學校の創立記念日に懸賞詩を書いて大いに賞讚せられたことがあったが、 それらはPope(ポープ)の句法を眞似た幼稚なものであった。 然しこの頃から詩人たらうとする希望は胸に燃え、 それと同時に自然に對する愛が次第に意識的になってゆくのであった。



ホークスヘッドの學校を終らぬ内に、ワアヅワスには一つの大きな轉機を示す時が來た。 それは母の死後六年(一七八三年)にして、父がこの世を去ったことである。 そこで五人の兄弟は孤兒となったが亡父の貸金があったので、二人の叔父の世話で、 一七八七年十月ケムブリッヂの聖ジョウンズ・コリッジに入學した。 時に十八歳。然しこの學校は彼に好感を與へなかった。 何故なれば當時は十八世紀の末葉で、ケムブリッヂ大學は昔ながらの長夜の夢に結ばれ、 空氣は沈滯し、熱心さもなく、學究的精神も衰へてゐた。 それに加へて學生はかなり享楽的であった。フランス革命前であった當時、 如何に時代の空氣が沈滯してゐたかは想像に餘りある。 それと共に大陸から押し寄せて來る自由思想は、何時の間にか島國の青年の腦裡を支配して、 同學府の學的基礎も危からしめる感があった。

かやうに沈滯した學校の空氣は自然そのものゝやうにフレッシュな感情をもってゐるこの若い詩人にとっては好ましいものではなかった。 徒に古風なアカデミックな講議も彼にとっては何の感興をも與へなかった。 かうしたドライな環境よりも、彼はカムバランドの風光を想ひ、 純朴な田園人を囘想して懷しみを感ぜざるを得なかった。 彼はまた交友からも何等の影響を受けず、唯冥想と讀書によって内面生活を送って來た。 當時彼の多く讀んだのはMilton(ミルトン), Gray(グレイ)等の英詩人であった。

ケムブリッヂ時代に最も樂しかったことは夏休みであった。 彼は第一の夏休み(一七八八年)をば、追慕の念に堪へぬ故郷ホークスヘッドで送った。 次ぎの夏休みにはペンリスに行って、四年目に妹のドラシイに逢ひ、 又ドラシイの友人であるMary Hutchinson(メリ・ハッチンスン)と逢った。 彼女はワアヅワスの幼年時代からの學友で、後に詩人の愛妻となった。 一七九〇年、第三囘目の夏休みは論文を書くべき準備時代であるが、 そんなことには一向頓着なく、 登山家である友人Robert Jones(ロバト・ジョウンズ)と共に大陸旅行を試みた。 これはその當時としては全く破天荒のことであった。この旅行中、 當時まだ餘り噂にならなかったアルプス山を登破した。 歸途フランスのCalais(カレイ)に着いた時は七月十三日でかのバスティーユ破獄の一周年の前日に當り、 フランス國民を擧げて熱狂の頂上にあった。そしてこの年若い二人の青年は、 到る處で歡迎を受けた。この旅行は彼にとっては樂しさの限りであって、 無限の希望と感慨とを懷いて歸った。『描寫小詩』(Descriptive Sketches)はこの時の記念詩である。

翌一七九一年、彼の卒業期は近づいた。 彼は卒業試驗にはRichardson(リチャードスン)を讀んでゐたといふ。 B.A.の學位を貰ふと同時に學究生活と訣別する決心を示した。 かやうにして學課に専心するといふ事もなく、 從ってこれといふ優れた學才を現はす事もなく學校を卒へた。



卒業後、親戚達は彼を牧師にしようとしたが、 彼は教會に對しては好感をもってゐなかった。 又法律家か軍人にならうかとも考へて見たが、結局それらの考へも捨てゝ何の目的もなしに倫敦へ出た。 そして諸所方々を見物したり芝居を見たりして數ヶ月を過した。 『貧しきスウザンの幻想』、『ウェストミンスタア橋上にて』等の絶唱はこの時の作である。 その内、その當時の多くの青年と同じく、フランス革命に興味を感じ、 秋になってフランスへ渡り、先づパリに足を停めた。 當時フランスは、

『嵐に搖られて、碇泊してゐる
船のやうに動く革命の力を見た。』

のであって、さなきだに年少気鋭の感情詩人は、諸所の集會に出席しては自由平等の聲に激せられ、 殆ど詩を忘れ、自然を忘れ、フランスのために身を捧げることさへした。 バスティーユ城跡を訪れて遺物を拾ったのもこの頃であった。

一七九一年十二月の始めオルレアンに來てから間もなくBlois(ブルワ)に行った。 こゝで哲學者にして詩人である革命黨の首領Michel Beaupuy(ミシェル・ボープイ)と親密になり、 彼から共和黨員の抱負とその意義使命等に就いて種々聞かされるに至って、 彼は革命運動の眞諦を知ったものゝ如く、一七九二年七月にはオルレアンに歸ったが、 愛國的狂熱に驅られて、十月にはパリへ歸った。 時は恰も「九月虐殺」の一月後のことで頻々として行はれてゐる國民大會その他の集會に列席しては大いに氣勢を擧げ、 一時は、Gironde(ジロンド)黨の首領とならうとさへ考へた。 かくして彼の身が一歩々々ギロティンに近づいてゐる時、 友人は彼に共和黨に參加することを中止させ、ワアヅワス家の人々も驚いて彼に送金を斷ち、 彼は不面目ながらも自から歸国しなくてはならなくなった。 彼は後年この歸国を追想して、全く神の摂理であるといってゐるが、 彼がもしフランスにゐたならば、彼は六人の黨員と共に斷頭臺上の露と消える所であった。 わが自然詩人ワアヅワスにして青春の血の燃えた青年時代に、 かくの如く革命運動に熱狂したといふことは興味ある事實である。

この挿話と共に、彼がフランス滯在中の事件として、 異常の興味と驚異とを惹起した事實は、 近時發見せられた新しい史實として注目せられてゐる戀愛事件であった。 初めワアヅワスがオルレアンに着いた時は誰も知合がなく、 月八十フランといふ安下宿生活をしてゐたが、 その頃間借の部屋を見に行ったのが縁となって、 Mary Anne Vallon(マリ・アン・ヴァロン)といふ女の滯在してゐた彼女の親戚の家と知己となり、 終に彼女と戀に陷った。 彼女は一七六六年六月二十日ブルワに生れワアヅワスよりは四つ年上の廿六歳であった。 彼女の父は外科醫で、祖先はスコットランドの産である。 アンが詩人を知った頃は彼女の父は既に數年前に死去し、 母は他へ再婚して、直接アンの監督をする者は一人もなかった。 かうした周圍の事情の下に二人の戀は先づオルレアンに始まり、 更にブルワで繼續せられた。アンは間もなく身重となった。 そこで人目を忍んでオルレアンに移り、 詩人も亦その後を追ってそこに暫らく住んでゐたが、後パリへ歸った。 愛兒の出産を聞いたのはパリ滯在中で、 その子は一七九二年十二月十五日Saint-Croix(サン・クルワ)寺で、 「英人William Wordsworth(ウィリアム・ワアヅワス), Marie Anne Vallon(マリ・アン・ヴァロン)との娘Anne Caroline Wordsworth(アン・カロリン・ワアヅワス)」 として洗禮を授けられた。

十二月の末歸英して叔父にも相談したらしいが二人の結婚は旨く成功しなかった。 一方アンの方でも親類達の反對以外に政治上宗教上の相異が旨く行かなかった。 アンはフランスの王黨に屬し、同時にカトリック教徒の娘であったので、 二十二歳の一外國人の一貧書生、しかも革命の熱心な主張者であり、 又新教徒であるワアヅワスとの結婚は親から見れば餘程危險なものであった。 のみならず當時は勤王黨と革命を主張する人との間の結婚は許されなかった。 このため彼はアンと離れねばならなかった。然しブルワに追はれたのも彼の親戚に追はれたのであって、 實は彼女と共にゐたかったであらうといふハアパア教授の言は事實であらう。 實際性道徳の緩い十八世紀末に特に不自然な動搖のあったフランスで、 この若い詩人が氣輕にその戀を捨てる筈もないが、兎も角、 この二人の若芽は摘んでしまはれた。

この間の消息を早く知って色々と盡力したのは妹のドラシイであった。 彼女は兄の味方となり、アンとその子に滿腔の同情を寄せ、進んでアンに手紙を書いた。 アンも亦詩人とその妹へ交互に、又或時は二人で同時に手紙を書き、 一面にワアヅワスが早く來てくれることを切願すると共に、 他面にはこの時英佛兩國間に宣戰が布告されてゐたので、 夫の身邊を憂ひ、心は悶々の情を述べた手紙を書いたことがあった。 その最も代表的のものは一七九三年三月廿日附の手紙で、 戰爭のためフランス官憲に差押へられたのが近時ブルワの公記録保存役場から發見された。 彼もアンに對する文通を怠らず、 更に十年間絶えずフランスにゐる母子扶養のため自分の収入に不相應な送金を實行してゐた。

其後二人の關係はどうなったかといふと、 アンの兄Paul Vallon(ポオル・ヴァロン)は間もなくオルレアンに起ったBourdon(ブウルドン)事件 (革命黨のブウルドンをオルレアンの勤王黨が迫害したといふ事件)に連座して危く一命を失はうとしたので、 アンは暫らくワアヅワスや愛兒のことも忘れて兄の身の上を心配し、 終に王黨の有力な同情者となって反革命黨たるChouan(シューアン)黨のために一身を賭して加勢し、 時の政府から"Veave Williams [a`] Blois"(ブルワの寡婦ウィリアムズ)といふ名で睨まれ、 危く捕縛を免れたのである。英佛兩國間の媾和條約が結ばれ、 一八〇一年の末から一八〇二年の春にかけ、二人の間に再び文通が始まった。 然しこの十年近くの間に二人の關係は内外の事情からして餘程變って終に結婚を全く斷念したやうである。 その後ワアヅワスがメリと結婚する時にも、彼女に對してアンとの過去の關係を打ち明け、 又アンに對してはメリとの結婚を知らせてその諒解を得るために、 兩國の平和が克復するや、妹と共にフランスへ渡り、 一八〇二年八月一日にはカレイに着き、アン母子と久し振りに對面した。 『美しい夕べ』といふ美しいソネットに現はれる子供のことは從來ドラシイであると考へられてゐたが、 實はカロリンのことである。 ワアヅワスとアンとは互ひに正直に自己の立場を告白して到底結婚の成立し難いことを悟り、 潔く別れることになったが、然し將來は友人として愛情を持續しようと約束した。 それから八ヶ月目に又もや英佛兩國間に戰爭が起って二人の文通は絶たれてしまった。

その後一八一四年四月ナポレオンがエルバ島へ流され、英佛の間に和議が成立するや否や、 ワアヅワスとアンの間に再びドラシイを通じて文通が始まった。 この時既に廿一歳になってゐたカロリンはBaudouin(ボウドウン)大尉と婚約が成立してゐたので、 アンからワアヅワス兄妹の渡佛を勸めて來た。 そしてせめてドラシイでも結婚式に立合ってくれとの母子の頼みでその約束が出來てゐたが、 折しもナポレオンがエルバから脱出して再びパリへ歸ると共にこの事は水泡に歸した。 やがて王政復古の世となったので、一八一六年二月廿八日カロリンとボウドウンとの結婚式が行はれた。 結婚の登記には、『Westmoreland公領、Grasner Kedanに住むProprietaire(地主)William Wordsworth fille majeure(十年の娘)』と記されてある。 一八二〇年十月詩人夫妻と妹は延期してあったパリ訪問をすることになって、 昔の戀人同志が約二十年目近くで再會した。 所はルーヴル博物館で、ワアヅワス夫人とアンはこゝで始めて會見した。 ドラシイの手紙によっても萬事圓滿に行った樣子である。

ワアヅワスはこの戀愛事件に就いては一言も語ってゐないので不明であるが 『ヴァンドゥラクールとジュウリア』(Vandracour and Julia)と題する詩がこの事件を取扱ったものであらうといはれてゐる。 この詩に就いては詩人自身も實際にあった事であるといってゐる。 その主題は二人の戀人が結婚しようと思ふのだが親達が同意してくれぬ。 併し兩人は同棲するので親達は益々兩人を離さうとするといふのである。 その戀は仲々熱烈であって、實際の經驗なくしては書けぬと思ふ所が明かに見える。

アンとの關係はワアヅワスの半生に深い影響を與へた。彼女に對する同情、 自己の過失に對する悔恨は絶えず彼の心を惱ました。 其頃書いた『廢れた小舍』[、](The Ruined Cottage)『茨』(Thorne)、 『マアガレットの惱み』(The Affliction of Margaret)、『見棄てられた者』(The Forsaken)[、] 『罪と悲しみ』(Guilt and Sorrow)は男に見棄てられて、 その忘れ片身を抱いて歎き悲しむ母の心事を描いたもので、 詩人が如何にこの事件に惱んだかを想像するに餘りがある。

アンとの戀愛事件に次いで一言して置きたいことは、 彼女に對する愛が次第に變化するにつれて、 ワアヅワスの心は彼の郷土と田園生活と自然靈的感化といふことに深く透入するにつれて、 彼の心に甦って來たのはLucy poems(ルウシイ・ポエムズ)と題して書いてゐる五篇の詩の主人公ルウシイである。 説明好きの彼に似合はず、このことに關しては何の説明もしてゐないが、 大體現實の人物であることは決定されてゐる。 この謎の乙女が單に架空的の人物でないとすれば、 それは詩人の初戀の女ではあるまいか。 片田舎の谷間に美しく咲き出で自然の手に親しく育てられ、 そして間もなく詩人の若い胸に痛恨を殘してあの世へ去って行った純な乙女であった彼女こそ、 詩人の妻にはふさはしい女と思はれたであらう。 兎も角、ワアヅワスには戀愛詩がないといはれるが、 これらの詩は假令數は少くとも、彼の詩集中に幽婉な戀愛詩として輝いてゐるものである。



是より先、一七九二年十二月の末ワアヅワスはフランスから歸英した。 フランス革命の結果は彼の期待を裏切り漸く失望を感じ、 フランスに對する同情は戰爭と共に冷かになった。 彼は一方物資的にも困難し一定の職もなく不安の日を送ってゐたが、 この時彼を慰め、その天分を開發するに與って力あったのはドラシイであった。 かくして自己の天職を自覺した彼は先づ詩の舊稿を整理して、 大學の夏休み中に書いた『夕の散歩』(Evening Walk)と『描寫小詩』との二册の詩集を刊行することになった。 無論豫期した通り彼の名聲を博す料にはならなかったが、 唯Coleridge(コウルリッヂ)の注意を惹いたことが後にこの二人が友人となる原因となった。

然し茲に一つの幸運が與へられた。それは彼を甚しく崇拜してゐた友人 Raisley Calvert(レイズリ・カルヴァアト)(『レイズリ・カルヴァアトの思ひ出に』を參照)が 一七九五年の春臨終に際して、詩人の天職を全うするやうにといって九百磅を殘してくれた。 そこで彼はその生涯を詩作に捧げ得る機運と決心とを得るに至った。 二十五歳の詩人は愛妹と共に一七九五年の秋、 Dorsetshire(ドーセットシーア)Racedown(レースダウン)に一軒を構へ、 豫て望んでゐた「簡素な生活と高尚な思索」(Simple Life and high thinking)を實行することが出來た。 この地には二年足らず住んだが、この時作ったものは『罪と悲しみ』、 『国境』といふ悲劇一篇と、『廢れた小舍』である。

今一つ重大なことは、コウルリッヂとの交友の始まったことである。 一七九五年六月コウルリッヂはこの閑居を訪ねて來た。 その時『廢れた小舍』の原稿を見て、英語文學の中でこれに比肩するものはないとさへ激賞した。 これより彼は終身ワアヅワスと交友を結び、 ワアヅワス兄妹もまた彼を不思議な人として慕ひ、 コウルリッヂが一七九五年十月結婚してBristol(ブリストル)に近いCrevedon(クリイヴドン)に居を定め Nether Stowey(ネザ・ストウイ)に移ったが、 ワアヅワスも一七九七年になって近くのAlfoxden(アルフォックスデン)へ移ってから、 兩詩人の友情は益々濃厚になった。 ワアヅワスはこの頃より自然に對する信仰を洩らし、 コウルリッヂは早くから、優婉艶美の情想に耽った。 一は哲學的冥想的詩人であり、一は直感と空想の詩人で、 各自の特徴を以て互ひに相補ひ、激勵し合った。 かやうにして二人の共同事業として生れたのが、 かの有名な『抒情詩集』(Lyrical Ballad)である。

一七九八年九月、この『抒情詩集』が公にせられたことは、 ワアヅワスの生涯に於て特筆大書すべき事件であったことは勿論のこと、 實に英文學上エポック・メイキングな作であった。 この詩集にはワアヅワスが十九篇、コウルリッヂが四篇収めてある。 その中『老水夫の唄』(The Rime of The Ancient Mariner)の如きはコウルリッヂ畢生の傑作で、 優に一卷の光彩である。けれどもこの詩集はワアヅワスの詩集といってよい位に彼の詩風をよく代表するもので、 『決心と獨立』、『局面一變』、『ティンタン寺』等の傑作を収めてある。 その詞句の上に於ては十八世紀のポープ等以後用ひ來った誇張粉飾の不自然な句法を打破して、 日常の平易な語を使用し、その題材の上に於ても田園の卑近な生活から取り、 更に自然の靈性を歌はうとした。 かく英國詩壇の一新紀元を劃さうと烽火を揚げた試みも、當時の詩壇は是を卑淺として甚しく攻撃した。 實際中には『白痴の子』(The Ideot Boy)『茨』(The Thorn)『グッディ・ブレイクとハリ・ギル』 (Goody Blake and Harry Gill)等の如きは、餘りに取材が平凡で、 その語句の雅氣を帶びてゐる點等は、非難と嘲笑を受けるのも一面には理由があった。 これがため一八〇〇年に出した第二版の詩集には、長篇の序文を寄せ、 自作を辯明すると共に時の文壇を痛罵した。 これがために益々世の反抗を招いた程であったが、 今日より見るときはそれは實に新時代の詩風の魁であって、 その序文は實に英國ロマンティシズムの提唱であった。 兎も角英國のロマン派運動が文學上の一形式として眞實な立場を取るやうになったのは、 實にこの『抒情詩集』が上梓せられてからである。



『抒情詩集』出版後間もなく(一七九八年九月十四日)ワアヅワスは妹とコウルリッヂと共に大陸旅行に向った。 先づHamburg(ハムブルク)に行って數日間滯在し、詩人クロプシュトックに面會した。 詩人兄妹はそこからコウルリッヂと訣れてハルツの森の近くにあるロマンティックな帝都Goslar(ゴスラ)に赴いた。 然しこの滯在は色々の意味で不愉快なものであった。 第一こゝは恐ろしく寒い氣候の地であった。それに嚢中も全く豐かでない。 それに彼は聊か排斥せられた傾きがある。 この悶々の情を遣るべく彼は毎日近くの城址に登ったり、 魚狗(かはせみ)を追ったりして遊んだ。 かうした環境にある旅の宿では自からノスタルディアに惱まされ、 過去の追憶に耽ったことであらう。その結果出來たのが『ルウシイの詩』である。 その他『ルウシイ・グレイ』、『ルース』、『詩人の碑銘』等もこの時の作である。 ワアヅワスは獨逸文學の影響はコウルリッヂほどではなくて終り、 一七九九年四月、英國へ歸った。

その後暫く湖水地方を遊歴する内に、 秋になってウェストモアランドのGrasmere(グラアスミア)のタウン・エンドの一つに空家を見出し、 十二月二十日に引越した。これが有名な『鳩の家』(Dove Cottage)である。

『曾てグラアスミアの谷の人々に
美酒を振舞ふ「鳩と橄欖の枝」のあった所……
曾ては「鳩と橄欖の枝」の札の懸ってゐた所が
今は單純な水飲詩人の隱れ家』

と、『馬車引き』(The Waggoner)の中で歌ってゐるこの家は、 初めは「鳩と橄欖の枝」といった田舍宿であったのを、 詩人が來てから『鳩の家』と名づけたのである。 この家程詩人の心に適ったものはなかったやうで、 彼の傑作の大部分はこゝで書かれたものである。 今やこの家は英國國有財産の一つとなり、 ワアヅワス博物館として詩の巡禮者達の胸を躍らせてゐる。

『鳩の家』に移ってから間もなく『抒情詩集』の第二版が出た。 それと同時に『マイケル』、『兄弟』等の新しい詩を加へて二册にして出した。 然し彼の名聲は擧らず、彼の生活は依然として貧乏であった。 所がこの時曾て亡父がロンズデイル公に用立てゝゐた金が、 相續者から支拂はれることになった。そこで三年の後(一八〇二年十月) 竹馬の友であったメリ・ハッチンスンと結婚した。時に詩人は三十二歳。 彼女は卓越した才能のある女性ではなかったが、その性質が柔和で、 詩人に同感をもつ善良な女であった。 それは『彼女は歡ばしい幻』といふ詩で彼女を讚へてゐるのでも分る。 この結婚が圓滿幸福であって、彼の詩人としての天職を全うせしめたことは彼が晩年妻を歌った二つのソネット (『畫家に』と、『同じ題に』)によっても明かである。

翌年六月に長子ジョンが生れ、それから間もなく妹と共にスコットランドの旅行に上った。 この旅行中の作には『ひとり麥刈る乙女』、『訪れぬヤロオ』、『ハイランドの乙女に』、 『バアンズの墓場にて』、『西方へ歩む』等の傑作が少くない。 この旅行中スコットと初めて會見した。九月歸英した。

一八〇四年は娘のDora(ドラシイの通稱をとったもの)が生れたが、 翌一八〇五年には弟ジョンが死んでこの平和な詩人の生涯を襲うた。 彼は船長であったが難船のために船と運命を共にした。 『悲歌』(Elegiac Stanza)はこの死を弔ったものである。 その年にはトラファルガルでネルソンが死んだ。詩人はジョンとネルソンとの間に横はる一脈の精神を見出して 『幸福な武士』なる莊重な詩を作った。

尚この時代の作として著名なものに『序曲』を擧げねばならぬ。 この詩はゴスラ滯在中に腹案が出來たもので一八〇〇年に第一卷第二卷を終り、 一時中止して一八〇四年に第三卷から第十一卷までを書きあげ、 一八〇五年に至って完成したものである。 尚此外一八〇二年には『逍遥篇』の第一卷第二卷の大部分が出來上ってゐる。 又有名な『永生の頌』もこの時代に完成された所を見ると、 「鳩の家」七年間は詩人の圓熟時代であった。

『鳩の家』に於ける樂しい家庭生活も、家族を増すと共に次第に狭隘を感じ、 終に九年の友であった『鳩の家』をDe Queincy(ダ・クインシイ)に讓り、 一八〇八年グラアスミアの北極Allan Bank(アラン・バンク)に移り、 更に牧師館に移った。この十年の間に彼は五人の子供の父となったが、 こゝに來てから一男一女を失ひ、その思ひ出に堪へないので、 こゝから程遠からぬAmbleside(アムブルサイド)附近のRydal Mount(ライダル・マウント)の丘を購入し、 一八一三年、詩人が四十四歳の春こゝへ移った。 この地はワアヅワスの安住の地であって、彼の名と結びつけられてゐる。 その地に於ける三十有七年間の生活は、 詩人が殆どその天職を全うし、その端粛な人格と儉素な生活は、 次第に世の稱讚と尊敬とを増しつゝ靜かに過去の功績に對する報酬を受けた時代であった。 この附近には所謂湖水派(Lake School)と稱するサウジイ、コウルリッヂ等の詩人が住んでゐて、 自然の他に知己交友は少くなかったが、エマスンの如き人すら、 遥々この地に彼を訪ねた程である。

この頃から彼の詩才もその芳醇さを次第に失ひ、 次第にその力が衰へて來た感がある。 『レイオダマイア』はこの轉機に臨まうとする彼の傑作である。

引越した年、英政府からウェストモアランドに對する印紙専賣者に任命せられた。 ダ・クインシイはこれを以てワアヅワスの全生涯に著しい好結果を齎した天祐の一例であるといってゐる。

一八一四年七月、妻の妹Sara Hutchinson(サラ・ハッチンスン)を伴ひ、 二度目のスコットランド旅行を試みた。この時豫ての希望通りヤロオを訪れて 『ヤロオを訪れて』の名篇を得た。この年『逍遥篇』が上梓された。 愛すべき大作であるが、依然として世評は惡く、 第一版の五百部が六年間も店頭にあったといふ有樣である。 然しこれがために彼は自己の天分を疑ふことはなかった。

この頃からワアヅワスの考へも次第に保守的となり、 カトリック解放運動に反對し、すべての民主的運動に反感を懷くやうになった。 そして「社會的理解(ソシアル・グラスム)」の減少と共に彼の詩的光彩は益々消え行き、 かの『比ひ稀なる光耀美の夕べに作る』はこの天才の最後の美を象徴するかのやうに、 彼は再び昔日の詩美に達することを得なかったやうである。

一八二〇年の秋、妻と妹と共に大陸に渡り、 昔の戀人に久し振りで逢ったことは既に述べた通りである。 ライン、スウィス、イタリー等の旅行に四ヶ月を費し、 その印象を『大陸旅行記念』(Memorials of a Tour on the Continent)として出版した。

ワアヅワスの生涯、殊に晩年は殆ど席温まるの暇のない程旅行を試みな。 一八三一年には三度目のスコットランド旅行を試み、 スコットの臨終の床に最後の會見をする機を得た。

一八三四年には、親友コウルリッヂがこの世を去った。 その他知人等に死する者が多くて彼の悲しみは深くなった。 加ふるにその想像力も衰へ、唯僅かに幾つかのソネットによって壯年時代の活力を示すにすぎなかった。 しかし長い間俗衆の振向かなかった彼の詩も、 彼が六十歳の春を迎へた頃から次第にその價値を認められ、 前には痛罵の急先鋒であった『エディンバラ評論』(The Edinburgh Review)の批評家Jeffrey(ヂェッフリイ)の如きも、 一八四四年、終にワアヅワスの新詩風の勝利を認むるに至った。 かくして今や彼を知らざれば紳士の體面に關すとまで言はれるに至った。

かくて一八三九年の夏オックスフォード大學はD. C. L.の學位を彼に贈り、 一八四二年に政治上文學上の貢獻に對して三百磅の年金を贈ることとなり、 更に一八四三年サウジイが逝去すると間もなく、 その後を受けて欽定詩人に列せられることになった。 詩人は老齡その職に堪へずといふ理由で辭退したが、 女皇の優渥な沙汰に接し遂に之を拜受し、 ヴィクトリア女皇に謁を賜ったのは一八四五年であった。 これから詩人の榮譽はその頂上に達し、 今迄埋沒されてゐた彼の詩集は尊敬の念を以て讀まれるに至り、 苦節三十年の彼は初めてこゝで酬いられるに至った。 欽定詩人となってからは何等の詩作を發表しなかったが、 一八四四年ケンダル及びウェストモアランド鐡道敷設に對する抗議書は、 彼の晩年を飾る立派な社會的貢獻であった。

ドラシイもこの頃は健康が衰へてゐた。 加ふるに彼の愛娘ドラは結婚後一八四七年に病死したので、 詩人は囘復すべからざる衝動を受けた。 一八五〇年三月十二日、彼は夕日を眺め乍ら石に腰をかけてゐた時、 風を引いたのが因となって、遂に四月二十三日(沙翁が逝去したと同じ月日)、 愛玩の郭公時計が十二時を報ずる音を聞きつゝ永遠の眠りに就いたのであった。 享年八十歳。遺骸はウェストミンスタア寺の顯榮を避けて、 この平民詩人に相應しく、グラアスミアの質素な墓地に葬られてゐる。 彼は今Rothay(ローゼイ)河のほとり、彼の生涯の如く靜かなグラアスミアの寺院の緑なす境内に、 愛するドラの傍に眠ってゐる。 『地上如何なる地と雖もワアヅワスが墓地より聖きはないであらう』とはBrook(ブルック)の言葉である。

II ワアヅワスの性格と人物

ワアヅワスの性格の中で最も著しい特徴は嚴格と感動性との結びついてゐる事實である。 彼は元來多感多情な空想家であった。一見冷靜枯淡に見えるやうなのも、 實は枯れの感激を絶えず抑壓し、冷靜にと努めたからであらう。 自然に對して「賢い受身」(Wise passiveness)であれといふのも、 彼が外界の影響に動かされ易い多感の人間で氣むづかいい幼年時代から一八〇六年に至る彼が詩的發展の歴史である。 全篇十四卷、九千行の詩句からなるこの詩はそれ自身一箇の完成した長篇であるが、 元來は退隱生活を營む一詩人の感情や意見を主題として 「自然、人間、社會」に就いて一大長篇の序樂曲として書き出されたものである。 そこには自然愛の發達と革命が彼に及ぼした影響等を描いてゐる。 冗漫で懶い感じもするが、自叙詩の興味と、彼の作品の研究の序論として缺くべからざるもので、 十九世紀に於ける長詩の第一に位する傑作たるを失はぬ。

『序曲』といふ小禮拜堂に次いで、 大伽藍ともいふべきものゝ第一部は唯一卷しか書かれなかった。 それは一八八八年まで草稿のまゝで殘ってゐた『隠遁者』(The Recluse)である。 これはグラアスミアの谷への移住を物語るものであり、 又「目前に仕事の限りなき夢を見、清貧な併し日々破れることなき歡びに生きる青年の情熱と熱心」 とを語ってゐる。第二部が九卷、一萬一千行からなってゐる『逍遥篇』(The Excursion)である。 この詩は信心深いスコットランドの一行商と三日間に亙ってカムバランドの谷を逍遥した話を筋としたもので 『序曲』よりも更に長く、全體として見る時、釣合を缺き、抒情叙景より教訓説教に傾き、 當時の批評家ヂェッフリイも『駄作である』と嘲り、 バイロンも『眠たく煙たき、厭はしい詩』であると罵った。 これは社會の諸問題に關する詩人の思想を研究するには甚だ貴重な材料であるが、 詩の價値としては『序曲』に及ばないかもしれぬ。 然し巌の諸々に鏤めた寶石のやうに、局部に於ては最高の域に達してゐる讃美を發見せられる。 ワアヅワスを餘り讚嘆しなかったテイヌさへも、「新教の寺院のやうなもので、 變化も裝飾もないが尊嚴なものである」と讚嘆してゐる。

以上の三大詩はワアヅワスが詩人として又思索家としての面目を最も明かに示したもので、 ワアヅワスの研究社の決して忘却することの出來ない作品で、 他の多數の短詩は恐らく恰もこれらの附屬物とさへ思はれる程である。

この他『ピイタア・ベル』(Peter Bell)は墮落の底に沈んだ飲んだくれのPotter(ポッタ)が、 水に溺れんとして彼が虐使した驢馬(Ass)に救はれ、 偶然に僧侶の説教を立聞きして悔悟する物語である。 又ノートン一家の悲運を語った『ライルストンの白牝鹿』(The White Doe of Rylstone)、 又彼の唯一の劇でありながら失敗に終った『邊境』(The Borders)等の長篇もあるが、 最好の話は却ってその短篇の中に多い。 即ち抒情的詩篇の中には『虹』、『雛菊に』、『ひとり麥刈る乙女』、 『忠告と返答』、『態度一變』、『詩人の碑銘』、『巌の櫻草』、 『バアンズの墓場にて』等の逸品があり、民謠體では『私等は七人』、 『ルウシイ・グレイ』、『アリス・フェル』、『手飼の仔羊』等は人口に膾炙してゐる。 説話體の詩には、高傑普遍の感情を描いて人の肺腑をつく『兄弟』、『ルース』、 『マアガレットの惱み』、『鹿飛ぶ泉』、『水蛭取る人』、『マイケル』等の名篇がある。 頌歌の中には、『永生の頌』の如き十九世紀の最高調の詩であるのみならず、 實に英國頌歌中の白眉である。その他『義務の頌』、 『比ひ稀なる光耀美の夕べに作る』等何れも傑作とすべきものである。 その他冥想的省察的の詩には『ティンタン寺』、『幸福なる武士』等の名篇がある。 更に十四行詩に至っては、シェイクスピア、 ミルトン以來の英詩中に珠玉を殘し後はロゼッティに接する名什に充ちてゐる。 十四行詩は十八世紀以來忘れられてゐたのを彼が復活したもので、 ワアヅワスをして九鼎大兄よりも重からしめた。 その中でも『ミルトンに』、『ウェストミンスタア橋上にて』、 『十四行詩を侮るな』等は詩人の作での絶唱であるのみならず、 英詩中の白眉である。又『國民の自由と獨立とに捧げた十四行詩』と題した數篇の政治的十四行詩は、 歐洲の政治に對する英文學の最も尊い貢獻であった。

彼の詩が如何に優れたものであるかは、Palgrave(パルグレイヴ)教授がテニスンの助力を得て、 三十餘年を費して集めた標準的名英詩選"Golden Treasury"に収めてある三百二十七篇(版によって多少の増減がある)のうち、 ワアヅワスの詩が四十四篇あることによっても知られるであらう。

最後に彼の使用した韻律に就いて一言しよう。 擬古派の使用した韻律は、十の九まではヒュローイック體の二行體と定まってゐたが、 彼は諸種の形式をば縦横に使用した。彼の最も好んで用ひたものはアイアムビックで、 就中無韻詩である。『逍遥篇』の如きもそれである。 又アイアムビック四脚の五行格、六行格等もよく用ひてゐる。 又チョオサアの使用したものと類似した五脚の七行格も自由に驅使してゐる。 約束の多い十四行詩に巧妙であったことは前述の通りである。

彼はミルトンと同じやうに、氣高く意味深い散文體の名手であった。 彼の散文的作物は彼の詩を説示するものとして又重要なものであることを附言しておく。

IV[誤:IIIが無い] ワアヅワスの詩の特徴

人間としてのワアヅワスの性格からして、 彼の詩作が如何なる特色をもってゐるかを考へて見よう。

彼の詩を考察する場合に第一に考へられることは、 彼の詩が非常に不同な價値をもってゐることである。 それは詩の散文主義を唱へた彼の主張が累して、平凡にして散文的なものが混淆し、 傑作と拙作と雜然として、時に極端に走りすぎて讀者をして懶い感じを與へるものがある。 これがために彼の詩を讀むには適當な選集が必要であることはペイタアもハアンも指摘してゐる。 アーノルドの選集が好評を博するのも一面にはこれがためである。

彼は詩人の天職を自覺する餘りに、詩を以て社會を教化するものと考へ、 『大なる詩人はすべて教師である。そこで余は教師として尊ばれなければ、 寧ろ何者とも思はれたくない』と。 かく詩人の天職と道徳家の天職を混同したために、 彼の詩は屢々教訓的となって退屈な感を與へるものが少くない。 然し彼の教訓は單なる形式でない事を忘れてはならぬ。

眞面目さと心の確かさも彼の詩を特色づけてゐる。 彼の詩は彼自身の反映である。誠實と正氣を基調とした彼の詩には、 病的な、感傷的な、官能的なところはない。從って戀愛詩が少ない。 殊に濃厚な戀愛詩は少ない。また慘らしい悲劇を取扱ったものも少ない。 これらは彼の生ひ立ちからも、平和な家庭からも、主義からも、 性格からもそれを許さなかったのである。

更にユーマアに至っては全く缺如してゐて、 彼は莊嚴なものと嘲笑すべきものとの一歩の距離さへ見失ふほどである。 また戯曲的才能も説話的技倆も少ない。 唯一篇しかない悲劇が成功しなかったのもそれがためである。 また人情の波瀾、一般社會の利害得失等、 人生の多方面な經驗事件に對しても深大な同情を懷いたともいはれぬ。 これが、彼の詩のポピュラーにならなかった所以である。

然しこれらの缺點から轉じて、彼の詩の價値を見るならば、 先づ第一に形體の清純さと單純さとに於て卓越さを示してゐる。 『ひとり麥刈る乙女』等の詩はその最も代表的なものである。 彼の詩が餘り單純なため、人の鑑賞を妨げることがある。 『ルウシイ』の如き詩に至っては、飾りのない美のために我々の注意を見逃すものもある。 彼が久しく一般讀者から認められなかったのもこれがためである。 詩から奇想を解放しようとした彼は單純な眞實の言葉で語り、自然と人間を如實に描いた。 それがために最も單純な詩句の中に隱れてゐる情熱や強度さへも見失ふほどである。 尚彼の力ある單純味はウィリアム・ブレイクの傳統である。

次ぎに彼の本質的特色は、飾りはないが生きた自然さをもってゐる。 『水蛭取る人』を見ても實に禿山の如くに飾りがない。 然し精密な觀察者であった彼は生ける自然を描き、 無飾の所にも壯大さを示してゐる。 彼の詩は永遠に新鮮な清水のやうな詩である。

鋭感な感受性の持主である彼は、感覺の執拗な把持性をその詩に示してゐる。 その強烈さには必然さと神秘さを伴ってゐる。 この神秘的な雰圍氣は彼の詩の全體に現はれてゐるものである。

ワアヅワスの有する最も大なる天賦の才能は詩句法でもなく生の哲學でもなく、 その高い想像力と稀有な表現力との結合である。 これが評價し難い寶を以て英詩を豐富にした。 彼の想像的雰圍氣はシェリイやキイツよりも甚だ異ってゐる。 然し彼等に劣らず眞實である。 彼の象喩の力と眞實も著しい特徴となってゐる。

次ぎにワアヅワスの描寫の特質を述べると、 彼はその強烈な感受性によって、ある光景の統一ある印象を把へ得たことである。 個々のディテイルズに捉はれて全體の效果を収めるやうなことは決してない。 彼の印象が永續するのは、常に物象の内的美に觸れてゐるからである。

彼は光と明暗に就いて多くを語ってゐるが色彩の説明は極めて稀である。 これは彼の感受性が餘りに強かったために、 すべての色彩が一種の光と感ぜられたのであらう。 その代り、彼は音に對しては微妙な感覺を具へてゐる。 かの『郭公に』の如きは全篇が音を説明した詩である。 彼の韻律はその叙景と同じく全體として一種の快い旋律を有つ。 而してその韻律は微妙で單純で自然である。

最後に彼の詩に就いて忘れてならないことは、 彼の範圍が限られてゐることである。 彼の交通してゐる自然は湖水地方に限られてゐる。 彼の興味も制限せられてゐる。それらの制限のあるにも拘らず、 この狭い分野に於て彼は英詩人の中で非常に高く顯著な位置をもってゐる。 テニスンの瑰麗、ブラウニングの怪奇がなくとも、 ワアヅワスの單純さは讀者を魅するに十分である。

V ワアヅワスの詩論

既に述べた通り、ワアヅワスが『抒情詩集』第二版に寄せた序文は、 彼の持論を闡明したものとして興味あるものである。 彼の有名な言葉に「善き詩とは力強い感情の自發的流露」であると。 この定義は明かに機械的な詩の概念に弾丸を投じたものであった。

彼が本領とする所は第一に詩語の革新である。 即ちポープ等が使用し來ったかの徒らに誇張に陷り、 虚飾の末枝に走った不自然な詩語を打破し、 最も平易な日常の言葉を使用することである。彼はいふ、 『散文も韻文の間には何等根本的な差別があるのではなく、 又あるべき筈もない。もし眞正の趣味と純雅な感情とを以て字句を選擇するならば、 それだけで既に日常使用する亂雜野卑な言語との間に差別を生ずるのである。 況やこれに韻律を加へるに於ては通常語との相違は益々十分で、 苟くも理解力ある人は不服を稱へないであらう。 この相違の外に何の差別を要しよう。 故に私は通常詩語と稱するものをば極力排斥し、 普通一般の言語を標準としてなるべくこれを採用しようと思ふ』と。 この主張は反動の餘りに出た聲であるので稍過不及の憾があり、 コウルリッヂも『文學的生涯』でこの説の不完全なことを示してゐるが、 從來の因襲的詩語を詩壇より一掃するためには缺くべからざる鐵槌であった。

第二の本領は題材の革新である。從來の詩人が題材としたのは、 臺閣市井等の俗事であったが、彼はこれを捨てゝ卑しい田園生活等の根本的普遍的興味の中に題目を見出した。 『マイケル』の如きはその好例である。彼は自己の所信を次の如く語ってゐる。

『これらの詩の中に提供せられた主要な目的は、 日常生活より事件と状態とを選び、なるべく人々の實際に用ふる言葉を選んで、 遍くこれらを叙述し、もしくは描寫するにある。同時に、 想像の色彩をこれらの蒙らしめそれによって平凡の事物をして心に異常な光景を呈するに至らしめるにある。 更にまたそれ等の中に眞に虚飾的でない吾々の本性の原則を探る事によって興味あらしめるにある。 概して卑しい田園の生活を選んだのは、そこでは人間の眞情が圓熟の境に達し、 束縛を受けることが少ない。平明にして力ある言葉となって現はれるに一層よき所であるからである。 また田園生活にあっては吾等の根本的感情が單純の状態に於て存し、 從ってこれを一層精確に考察し、一層強く心に傳達することが出來るからである。 また田園生活の習俗はこれらの根本感情に起因するものが多く、 且つ田園の職業の必然性から、それらは解するに易い變遷が少ないからである。 最後に田園生活にあっては、人間の情熱が自然界の美しい不朽な姿と調和してゐるからである』

何といふ堂々たる革新の宣言ではないか。 この新しい試みをわが國の詩歌に譬へるならば(形式上から)、 ワアヅワス以前の詩が和歌であるとすれば、彼の詩は正しく俳句のやうなものである (本質的の比較論ではないが)。かの文辭の技巧的改良を以て能とし、 普通の事物を普通の辭で言ひ現はすことを非難し、 ありふれた語句を詩に用ひてはならぬとしてゐる過去の詩人達の説に對して、 ワアヅワスが屢々用ひてゐる最も簡單な詩句——「山の端添うて動く星の光」—— といふやうな詩句は、幾多の華やかな記述に優ることが數倍であることを證明して餘りあるではないか。

かやうに詩語の革新と詩材の革新、それに内容に於ては想像力を解し、 言語を詩化するといふ想像的寫實主義をとった。 彼の詩はこれらの主義を體現したもので、内容的、自然的、 民主的であることは正しく近代自然主義の先驅者であることを示し、 ルソーの思想から如何に多くの影響を受けてゐるかゞ容易に推測し得られる。

VI ワアヅワスの自然愛

ドラシイが、ワアヅワスの書齋をと來客に訪ねられた時、 『兄の書齋は野外です』と答へた程、ワアヅワスは自然を愛し、 自然を歌った詩人であった。ワアヅワスの詩を讀む時は、 彼が英文學に於ける最大の自然詩人であることを誰でも認めるであらう。 十八世紀以來の英詩は非常に技巧に流れて、 從って古典を模倣してゐるにすぎなかった。 王侯貴族の宮殿や、人工的な都會のみが歌はれてゐる所へ、 ワアヅワスが自然の生きた姿、純朴な田園生活を歌ったといふことは、 その當時としては全く破天荒の試みであった。 勿論彼以前に現はれたポープ、タムスン、クラブ、クウパア等も自然を歌った詩人であった。 然し自然を審美的に見た彼等の靈の奥底に愬へる自然の生命力を高唱したワアヅワスとは越ゆべからざるギャップがあったのである。 ワアヅワスは獨自な神秘的自然観も初めから彼にあったのではない。 彼も先進の經て來た過程を一度は辿ってゐる。 最初の内は彼にとっては自然は一種の原始的な道理のない歡喜であった。 それらは『序曲』第一卷に示されてゐる通り、少年時代は世の常の子供の如く、 小鳥捕りや、氷滑りや、鳥の巣探し等に餘念がなかった。 それは壯健な子供が山野を駈け廻る肉體的愉樂にすぎなかった。 この動物的自然愛ともいふべきものが彼の自然愛の第一階段である。 『ティンタン寺』の中で、『粗野な悦びと喜ばしい動物的運動』といったのがそれである。 彼が初めてティンタン寺を訪れたのは一七九三年で、二十三歳の血氣盛んな頃であったが、 當時の彼の自然愛は、唯鹿のやうに林中を駈け廻り、流泉の音に耳を傾け、 峯巒の色に見惚れるといふやうに、多くは耳目の樂しみに限られてゐた。 即ち「官能的自然愛」ともいふべきものである。これが第二階段である。 これまでの過程では彼以前の自然詩人と本質的にその趣きを同じうしてゐる。 彼の自然愛は更にそれから一歩進めた點にある。 勿論これは便宜上の區分で、彼は十七歳から自然の至高靈を感得し始めてゐる。 (『序曲』第二卷參照)

彼の動物的自然愛が次第に進化せられるにつれて、 それが精神化され神秘化されて來た。單純な感覺的の歡びは、 一種不可思議な恐怖を伴ひ夢幻的な愉悦に變って行った。 この變化は徐々に行はれ、初めは交錯状態にあった。 その最も著しい對照は『木の實拾ひ』に見られる。 初め枝も撓まってゐる胡桃の實を眺めて、それを毮ぎとる喜びに夢中になった少年は、 その大枝の無殘に裂かれた姿を見て、急に神秘的な恐怖と同情に襲はれた。 この神秘的驚異の念は彼の瞑想によって次第に深められて行った。 彼の神秘的傾向は既に夏目漱石も説いてゐる。(漱石全集第八卷七二頁)

一七八九年、二十八歳の詩人はティンタン寺を再び訪れたが、 この五年間に彼の自然愛は外的より内的へ、物的よりも靈的へと本質的の變化をなして、 第三階段の「靈的自然愛」へと入ったのである。かくして、

「自然を眺めては思慮のない青年時代とは異って人生の靜寂な悲曲を聞く」(『ティンタン寺』)

といふ自覺に至らしめた。

今や自然は彼にとって生きたものと考へられた。 その生きた靈は花や水や山に宿って人々の心にその思想を語ってくれる。 もし吾々が心靈の眼と耳とを以て自然を觀察するならば、 自然は悉く聲に充ちてゐることを意識することが出來ると教へた。 彼にとっては自然は實に神の殿堂であり、宇宙生命の顯現である。 それは單に感覺的審美的なものでなくて、宗教的哲學的神秘的な嚴肅な實在である。 そして自然の生靈と人間の靈との間には、豫め整へられた調和があって、 この調和は自然をしてその思想を人間に傳へしめ、 また人間をして自然を沈思黙想する得せしめて、 終に兩者の間に絶對的交通融合が出來るのである。 そしてその靈的交通によって我々は力と平和と幸福を絶えず獲得することが出來るといふのが彼の哲學の根本原理である。

これは事實新プラトン派の説であるが、 この一派は自然を意に介しなかったが、 ワアヅワスはこの思想を再び懷き、或は採用して、 個人的愛を以て自然を愛する最初の詩人となった。 彼が人の世にすべての望みを斷って、 風光明媚な湖水地方に自然の祭司となってから彼の自然愛は益々深められ、 彼の最も傑作と稱せられてゐる『永生の頌』の最後の二行に示す通り、

「いとさゝやかな一莖の花も往くわが身には
涙にあまる深い思ひを與へる」

といふ悟道にまで達した。かくて自然は彼にとっては 「あらゆる師の中で最も偉大なもの」であった。 この靈感を世に傳へることが「自然の詩王」である彼の使命であった。 かやうに自然愛を中心として築きあげた彼の生命哲學は、 ロマンティシズムの生んだ産物の中で、 最も光輝あり生命あるものゝ一つであった。

ワアヅワスは偏へに自然の善美のみ見て自然の醜惡を知らなかった。 この點に於て彼の自然観は不公平であり、不完全である。 然しこの不完全の中に彼の人心を平靜ならしめ、 アーノルドのいふ「慰める力」が存してゐる。 全世界は生ける神の宮居であるといふ信の力によって、 我々は心を新しく心を滿すのである。 かくしてその幽玄にして清高な自然観によって、 彼は英國自然派の先驅者となり、英詩壇に於けるユニイクな地位を得た。 十分なる意味に於て自然文學を確立したのは實に彼であった。

VII ワアヅワスの人間愛

ワアヅワスから見れば、自然は生きた人格なるもので、 恰も友人のやうに愛せられる能力のあるものと思はれた。 自然の聲は妻や妹の聲を聞くのと變りなく明瞭に聞きとたれた[。] 人間は自然から離れたものでなくて寧ろ「自然の生命の中の生命」であると考へた彼は、 自然詩人であると共にまた人間詩人であった。 我々が詩人として彼を尊敬する所には、彼が人間生活の實相と純朴さとに對しても、 精緻な、愛情の籠った觀察と、その熱情的な描寫をなしたからであり。 元來自然愛と人生愛[誤?:人間愛]とはその根源を一にするものであって決して二元的のものではない。 古からの詩人俳人が、一見超人間的生活を送ってゐるやうに見えるが、 それは皮相な觀察で、彼等の自然愛はその人間愛が自然の中に移入せられたのである。ワアヅワスの如きも、 熱烈な人間愛に燃えたためにその反動乃至は變形として自然愛に入ったものとも解釋せられる程である。 彼は『序曲』で、如何にして自然愛を通じて人間を尊び愛するに至ったかを物語ってゐる。 羊飼や農夫は、彼にとっては自然の一部分であった。彼が、殊に水蛭取りや、 マイケルや、老乞食の如き人物を選んだのは、 かゝる微賤の人間には、自然に育くまれて、 人工的な社會の詭辧的な影響に汚されぬ強いエレメンタルな男性の典型があると見たからである。 尤も初めフランスに滯在してゐた時、 革命の理論とその活動との興奮に捲き込まれた時には、 彼は自然から一掃せられて、人間は自然と別個のものと考へた。 然しフランス革命がナポレオンの天下になった時、 新生活に對する彼の夢想は破られた。そして一時は自然愛も人間に對する興味も失ったが、 それが愛妹によって昔の心的状態に還り、 革命の理論から生れたよりも一層眞實な人間愛を谿谷の住民の中に見出した。

「人間生活の最も卑しい面に莊嚴さ」を呼吸させようとした彼は、 人類の一層大きな運動に再び興味を懷き始めた。彼はナポレオンの暴戾を憎んだ。 自由を愛する熱情と壓制を憎む心とは再生した。 一と續きの政治的十四行詩がこれである。彼は晩年には保守的になったが、 社會的國民的の運動に對する興味は依然衰へなかった。 また拙劣ではあったが、教育上や社會上の問題に就いて意見を草し七十歳に近い頃、 カーボナリ黨に味方して、イタリイの爭鬪に同情した。 かやうに彼の自然から來る平等觀は、この神秘思想家をして社會革命家と握手せしめた。 彼こそ眞にデモクラシイの詩人であり、人類の詩人であった。 ハアパアがワアヅワスを以て公生涯に恬然たる所が、 ミルトン一人を除けば英國詩人中最も政治に關心する所の多かったものだと論斷してゐるのもこれがためである。

人としての人間の深大な同情を濺いだ彼が、動植物に對しても同じ愛を注いだことは當然である。 鹿の子の苦しい死にも人生の悲痛を味ひ(『鹿飛ぶ泉』)、 巣の中の青い雀の卵にも言ひ知れぬ心遣ひを感じ(『雀の巣』)、 花に止まった胡蝶をいたはる心も生れる(『胡蝶に』)。 榛の實を採りに森に入った時には、樹の折れる痛みにさへ同感してゐる(『木の實拾ひ』)。 彼にとっては、有聲無聲の森羅萬象がすべて彼と同じく生命をもってゐるものであった。 この點に於て彼の萬有神教には自から『山川草木悉有佛性』といふ佛教の思想が伴ってゐた。 彼は卓越した自然の解釋者であったのみならず、 また深大な人生の解釋者であった。

VIII ワアヅワスと獨歩

日本の文學者でワアヅワスの影響を最も多く受けた國木田獨歩は早くからこの自然詩人を愛讀した。 殊に獨歩が、明治二十五年頃、豐後の佐伯町に一年間滯在してゐた時、 彼は最も熱心なワアヅワスの信者であった。實にワアヅワスの詩想に導かれて、 自然を學ぶ所の生活であった。彼はその當時を囘想していってゐる。

『ワアヅワス信者に取りては佐伯町は實に滿目悉くワーヅワースの詩編其物の感があったのである。 山に富み溪流に富み溪谷の奥に小村落あり、 村落老いて物語多く實にワーヅワース信者をして「マイケル」の二三は此處彼處に轉って居さうに思はしめた位である。 斯る場所に在て日夕ワーヅワースの詩編に夢中になって居た余が如何程までワーヅワースの感化を受けたかは當時の余の「日記」が説明して居る。 今其の二三條を引く。
人若し我に向て汝が文學者詩人としての目的は何ぞやと問はゞ我れ答ふるに窮せざる也。

曰くこの獨立の(ソール)が知り能ふ丈け、觀得る丈け、 感じ得る丈けをありのまゝに筆にのばすにあるのみ。 然し余は獨立にして自由なる一個の靈なり。 當に自由に觀、自由に感じ、自由に現すべし。(以下中略)

以上は明治二十六年十二月二十日より末日までの日記中より抜いたものであるが、 其後一年餘り過ぎて余は自から何を書かんと試に題材を選み記したるものを見ると

而て「日記」の一節に曰く『余は此の一個の人間を思ふ時は同情に堪へぬなり』と。 以て如何で余がライダルの詩人に動かされて居たかゞ解るだらうと思ふ。

既にワーヅワースの信者である限り、 余は自然を離れてたゞ世間の人間を思ふことは出來なかった。 人間と相呼應する神秘にして美妙なる自然界に於ける人間なればこそ平凡境に於ける平凡人の一生は極めて大なる事實として余に現はれたのである。

其處で豐後に、滯在中五六年の後、 余は初めて『源叔父』なる小説を作り其主人公の一人は乞食兒紀州であったのである。

無論余は後年、ツルゲーネフも讀み、トルストーイも讀み、 モーパッサンも噛りて其感化を受けたには相違ないが、 以上の所説に依りて余は遂にワーヅワースの流を掬んでそれを信じて、 それに依ってたった一人たることを説明して餘りあると思ふ。』—— 『不可思議なる大自然』(ワーヅワースの自然主義と余)

この一文は、島村抱月の『文學上の自然主義』なる論文に於て、 ワアヅワスが主義と名のつかぬ自然主義の元祖であると評したのを見て、 獨歩は自からも『遂にライダルの谷間から流れ出た自然主義の流を掬んだのか』 と頷いて書いたもので、彼がワアヅワスから受けた感化を最も如實に語ってゐるものである。

獨歩の自然観が一面ツルゲネフの影響と共にワアヅワスによって自然愛を開眼せられたことは 『小春』の一篇でも詳細に説明してゐるし、この間の消息は、 『驚異』、『森に入る』、『山林に自由存す』等の詩が、 一層雄辯に物語ってゐる。彼が自然に對する戀愛は、 終に北海道の空知川の邊に到らしめ、 恐らく彼はワイ川畔の自然詩人を以て任じて生活したであらう。

彼の初期の作品は多く自然を描いたもので、 多くワアヅワスの影響を受けてゐる。 中期の作なる『牛肉と馬鈴薯』や『岡本の手紙』の中にある叫び—— 人生の不思議に驚き、自然の神秘に驚きたいといふ叫びも、 ワアヅワスの精神を受けたものである。又『二老人』、『竹の木戸』、 『忘れ得ぬ人々』の如き作に見るやうに、 平凡人の平凡な生活の中に人生の眞味を感得し、 不可思議の運命を痛感する彼の心持もやはりワアヅワスから受けたものである。 兩者には性格の相違はあるが、兎も角、 獨歩はその心持に於てワアヅワスに似てゐる點があるので、 彼を日本のワアヅワスといっても差支へなからう。

IV[誤:IX] 結論

ワアヅワスは先天的に東洋化した心の詩人であった。 ヨーロッパに於て「自然に歸れ」といふ叫びが起り、 殊に英國に自然詩人が輩出して自然を開扉したことは彼等が無意識の中にも東洋の文化に近づいた運動である。 この意味に於て、ワアヅワスは東西思想の接觸の第一頁を書いた英詩壇の先驅者であるといはれよう。 彼は新鮮な眼で物象の單純性を眺めた汎神論者であった。 この點が自然を認識することの比較的遲かった西洋人に、彼の詩が、 比較的親しまれなかったのは、一面これがためではあるまいか。

東洋に於てワアヅワスに近い詩人を求めると、先づ陶淵明がある。 その田園詩人たることに於て、その生活に於て兩者は類似してゐる。 但し、その性格に於ては相反し、同じく樂天主義者とするも、 陶淵明は直覺的樂天主義者であるが、ワアヅワスは理論的樂天主義者である。 ワアヅワスは、寧ろ一面に於ては柳々州に似てゐる。

更にワアヅワスをわが國の自然詩人等と對比することも興味あることであらう。 西行もワアヅワスの如く自然に入った。唯前者が靜寂の世界に入らうとするのに對して、 後者は寧ろ愛の歡喜を持續しようとしてゐる。 西行よりも芭蕉は更に一層ワアヅワスに近いやうに思はれる。 一茶も純朴閑居の道を歩いたが、ワアヅワス流の自然観はもたなかったやうに思はれる。 兎も角、ワアヅワスは、わが俳人歌人のやうに純朴な生活者であった。 その詩風に於て、その生活に於て、彼はわが國の俳人に近いのである。 但し自然を自然として鑑賞する東洋人と、人間を忘れないで自然を見る西洋人は趣きが異ってゐる。 要するに彼は態度の人でであった。この意味に於て彼は東洋化した心の詩人であるといはれよう。 從って、彼は西洋に於けるよりも東洋に於てより多く理解され、 尊重さるべき詩人である。それが一面我々に懷しみを覺えさせる所以である。 私はまた『自然法爾』を説いた親鸞を聨想する。

偖、ワアヅワスに就いての評價は古來毀譽相半ばしてゐる。 フィッツヂェラルドは「ワアヅワスのお父っちゃん」と輕蔑し、 又「ライダル山のお上人樣」と敬遠した。 然しまた有名なワアヅワス論を書いたアーノルドの如きは激賞して、 『エリザベス王朝より今日迄の間で、シェイクスピア、 ミルトンを除けば正に第一位を占むべき詩人である。 またこれを大陸に比するも、モリエールの死後ゲエテを除いて彼に及ぶものはない』といってゐる。 然しこれも彼の道學者的方向のみを稱へたもので勿論溢美の嫌ひがある。 更にテイヌの如きは、ワアヅワスの思想が眞に高貴なために、 讀者は屢々その形式の貧弱なことを打ち忘れて感嘆することを認め、 『彼の詩は夕べの儀式が終へて穹門や圓柱の邊を立ち罩める黄昏の中に、 緩やかに響きわたるオルガンの莊重にして落着いた樂の音である』といってゐる。

十九世紀英國のヘーゲル派の哲学者であり、文藝批評家であったエドワアド・ケアードは、 『ワアヅワスの詩想は路傍の叢に隱された泉のやうなものである。 道ゆく人々はその滾々たる水音を聞きはするが、偖て踏込んでそれを味って見ようといふ人は極めて少い。 また假令掬して味って見ても、その味が餘りに純粹なために、 果して何處に妙味があるか容易に分らない。結局、彼は人口に膾炙し得ない』と。 これは、多くの評家のいふところである。

ジョン・スチュアート・ミルは精神的に最も衰弱した時代に、ワアヅワスを讀んで、 彼の鬱を晴らした。彼の詩は啻に自然田園の美を愛する心を喚び覺ましたのみでない。 人間共同の運命に對する大いに加ってゆく興味を喚び醒ました。 ミルはいふ、『その結果、私は漸次に、而も完全に、 私の習慣となった憂鬱を脱け出して、再び、これに捉はれなかたったといふことであった。 私は長い間、ワアヅワスを評價するのに、彼の價値によらないで、 彼が私のためになした尺度を以てした。最も偉大な詩人と較べると、 彼は穩やかな、冥想的な、餘り詩人的でない性情の詩人であるといはれるかもしれぬ。 然し詩的でない性情とは、詩的教養を要する性情である。 彼よりも眞に多くの詩人的性情を有する者よりも、 彼はこの教養を與へるに適當してゐる』と。 ワアヅワスの性格を擧げて、「詩的でない性情の詩人」といってゐる點は、 實に天才の言である。これとアーノルドが、『詩は人間の最も完全な言葉である。 詩に於て人間は眞理を語り得るところに最も近づく』といった詩論とを結合することによって、 ワアヅワスの文學に於ける明確な地位を新たに理解することが出來る。

從來、ワアヅワスに對する賞讚も非難も共に彼がこの種の沈靜幽趣に充ちてゐることに立脚してゐる。 彼を激賞する者は彼が高調する調和靜謐を喜び、 彼を弄罵するものは、熱情も審美觀念もない退屈なものとしてゐる。 然し彼は決して冷血な道學者肌ではなく、人間愛に燃えた詩人であった。 彼が時代の潮流に棹しながらも、他の詩人の如く過激に走らず、 よく調和を保ち、天職を全うし得て、一世を指導する偉大な感化力となり得たことは、 一面には彼の境遇が比較的幸運であったと共に、 自己に對する賢明な批評家であった彼が、よく自然に隨順し、 謙遜に忠實に努力して來た自己訓練の賜物であった。

ワアヅワスの多くの詩に無上の功績を讓ることは出來ない。 然し彼の純眞なる詩の大部分と、彼が文學に與へた新しい傾向と見識とを見逃してはならぬ。 彼の藝術の單純と力強さ、深き思想、濃かな情緒、 及び入念なる洗煉は遠くアメリカのブライアントやエマスン等にも感化を及ぼした。 彼はシェイクスピア、ミルトン以來の最大の詩人である。 成程テニスンとブラウニングとは彼の名聲を壓倒した。 然しこれは彼等がその作にワアヅワス特有の光を甚しく投げ込んだからにすぎぬ。 ロオレンスの如きは彼をテニスン以上だと評した。 世界の思想に根本的永久的の要素を附け加へ、 自分と人間とを見る新しい方法を與へ、 人生に調和と慰藉と希望とを増したのはわがワアヅワスであった。 彼は忘れてゐた「母なる大地(マザアアース)」へ眼を覺してくれた先驅者であった。 かくして彼の眞價は益々認められつゝある。

汝のはミルトンの鋭く透徹せる音樂ではない。
シェイクスピアの雲なく、果しなき人間觀ではない。
シェリイの神々しい巓の上の薔薇の閃きでもない。
また、コウルリッヂの知った魔の薄明でもない。

汝がもたず、汝の仲間がもったすべてのものを
大いに償ひ得る何物を汝はもってゐたか?
運動と火、輝やく目的に至る迅速な手段であったか?
汝は疲れた足のために、休息の賜物をもってゐた。

シェリイの燦爛たる光輝が、雷霆の靄から、
バイロンの嵐雨の忿怒、嵐の狂燥から、
人々は汝に向って見出した——疾風と火焔、
崩れる天の騒ぎでなくて、地上の平和を。
しかも忘川の邊に咲く香なき花、
蒼白めて萎れ、枯れ果つる平和ではない。
その平和の名はまた歡喜と力、
明察と愛である、これらは平和の一部であるから。
  ——ワストン——『ワアヅワスの墓』——

——了——


更新日:2004/12/30