ダアバァヴィル家のテス:目次 ------------------------------------------------------------------------------- 宮島新三郎 (1894-1934年) 譯,トマス・ハーディ (Thomas Hardy, 1840-1928年) 著, 「ダアバァヴィル家のテス (Tess of the d'Urbervilles, 1891年)」。 底本:世界文學全集(29),新潮社,昭和四年二月十日印刷,昭和四年八月二十日發行 (1929年) ------------------------------------------------------------------------------- ダアバァヴィル家のテス (Tess of the d'Urbervilles, 1891年) トマス・ハーディ作 (Thomas Hardy, 1840-1928年) 宮島新三郎 譯 (1894-1934年) 目次 * 序 * 解説 * ハーディ年表 * 第一編|處女 * 一 * 二 * 三 * 四 * 五 * 六 * 七 * 八 * 九 * 十 * 十一 * 第二編|もう處女ではない * 十二 * 十三 * 十四 * 十五 * 第三編|再生 * 十六 * 十七 * 十八 * 十九 * 二十 * 二一 * 二二 * 二三 * 二四 * 第四編 その結果 * 二五 * 二六 * 二七 * 二八 * 二九 * 三十 * 三一 * 三二 * 三三 * 三四 * 第五編|女は償ふ * 三五 * 三六 * 三七 * 三八 * 三九 * 四十 * 四一 * 四二 * 四三 * 四四 * 第六編|改宗者 * 四五 * 四六 * 四七 * 四八 * 四九 * 五十 * 五一 * 五二 * 第七編|應報 * 五三 * 五四 * 五五 * 五六 * 五七 * 五八 * 五九 ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:序 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 『ダアバァヴィル家のテス』が、トマス・ハーディの數ある著作中でも、 傑れたものゝ一つに數へられることは、歐米の批評家の等しく認めてゐるところである。 日本の讀書界でもハーディといへば、直ぐに『テス』が思ひ浮べられる程に人口に膾炙した作品になつてゐる。 私一個の經驗からいふと、自然主義文學の影響を受け、主に大陸の作品に心を惹かれてゐて、 未だ英文學にさほどの興味を感じなかつた時分にさへ、ハーディの作品には、 恰も日本の作品を讀むと同じやうな親しみが持てた。就中、『テス』は愛讀書中の愛讀書であつた。 私は英國留學中もこの書だけは常に旅の鞄へ入れて置くことを忘れなかつた。 滯在中ハーディに會つたのも、又ハーディ・カンツリーを踏査したのも、全く『テス』に對する私の愛着からであつた。 その愛着は、『テス』をして綺麗な日本着物を着せて日本の土地に住はせて見たいと思ひ、 會見の折、ハーディにその許可を乞うた。するとハーディは快諾され、その上地方語その他で解しにくいところは、 尋ねてくれ、自分でなくても、妻が答へるであらうといふ親切な言葉にも接した。 歸朝早速飜譯の筆を執るつもりであつたが、雜事多端であつた爲め、一年半は空しく過ぎ、 その間にハーディはこの世を去つてしまつた。愈々筆を執り出すと、上梓を急がねばならぬので、 時間の關係からも、夫が去つてまだ時日も餘りたつてゐない未亡人の面倒を煩はすのもどうかといふ懸念からも、 終に、質《たゞ》したいと思ふ箇所も質《たゞ》さず、こちらも調べられる範圍ですますことにした。 仕立て上つた日本着物を、私は決して完全なこの上なく美しい、『テス』をして日本娘として遺憾なく、 その美を發揮せしめるものだとは思はない。 だが、『テス』の本來の美を傷つけるほどに貧しい着物は着せてゐないといふ自身だけは持つてゐる。 で、この際日本着物を着た『テス』の眞價は分らないでも、せめて『テス』が日本着物を着たといふことだけでも知つて、 生みの親のハーディに喜んで貰ひたいのであつたが、そのハーディがこの世にゐないことを思ふと、 何となく淋しい感じがする。 『テス』には種々の異本がある。少くとも私の知つてゐる限りではも四五種類はある。 中でもマクミランの『ポケット・ハーディ』、『ウェセックス・エディション』は一番確かなものとされてゐる。 私はテキストとして前者を選んだ。 附録としては、ハーディと並んで現在の英國小説界の巨匠であつたジョセフ・コンラッドの短篇、 寧ろ中篇小説三篇を選んだ。何れもコンラッドの特色を發揮したものであるが、 就中『青春』は、青春の魅力を鮮かに簡潔に詩的に描き出した點で、世界文學中特異な位置を占めてゐる。 テキストは『グリーシャム・パブリッシング・カンパニー』の全集に據つた。 昭和四年一月十日 東亰西大久保にて 宮島新三郎 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:解説 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 一、ハーディの生涯 南英國の古い町、ドーチェスタア(ハーディの作中では、キャスタブリッヂとなつてゐる)から東北に二哩ばかり進むと、 アッパー・ポッカムトンといふ小さな村があつて、その端《はづ》れの雜木林の中に蔦葛等の這ひ上つてゐる古風な田舍家がある。 こゝにトマス・ハーディは一八四〇年六月二日建築技師を父とし、藝術に趣味の深い女を母として生れた。 彼は早くからドライデン譯のヴァージル等を讀まされたり、この地方の農民の傳統 -- クリスマスの夜の漂泊音樂家の奏でる小夜曲、祭の宵の饗宴や舞踏、 田舍の教會にあるオーケストラと合唱體、若い農夫たちの演ずる聖ヂョーヂの古代神祕劇、 十一月の花火、五月の樹下の踊り、春の祝聖日に花で飾られた小徑を行く少女たちの行列 -- に親しまされたりしたので、自然に藝術的想像力を培ふことが出來たのである。 彼は又リチャードスンのやうに、村に娘たちの爲めに戀文の代筆をよくやつたといふから、 それが後年小説家として女性の心理を深く洞察する一助となつたことは言ふまでもあるまい。 ハーディの少年時代はイギリスの社會史の上から見て、甚だ重要な位置を占めてゐる。 彼の生れた一八四〇年は新舊社會の分水嶺ともいはれる年である。 彼は一青年として農業的英國が、商業的工業的英國に移つて行くのを目撃した。 一方では穀物條令の廢止によつて地方の地主階級の貴族主義が滅亡して行くのを見た。 他方では曝し臺にかけられた人と話をしたでもあらうし、又前にも述べた如く、 村の教會の合唱體があり、クリスマスの假面劇の行はれる時代をも通つて着た。 從つてハーディの作品には、新社會の出現の前に舊社會が崩潰して行く過渡的農村社會相の取扱はれてゐるものが多い。 變化の兆はひとり社會上ばかりでなく、精神界に於ても明かに見られた。 ハーディがものを考へるやうになつた時分には、ハックスリとウェルバーフォース僧正とが、 相互に、宗教と科學の標語を投合つてゐた。エリオット女史の『アダム・ビード』が、 メレディスの『リチャード・フェヴェレルのさばき』が出たのは、ハーディ十九歳の時であつた。 前者は強く良心に訴へ、後者は理智への進軍ラッパと聞えた。 といふのは社會は既にヴィクトリヤ朝時代の自足自給の滿足安泰の眠りから醒めかゝつてゐたのであつた。 産業は農業を驅逐し、同時に古い田舍の平和を亂した。「醒めよ、汝、眠りより!」との叫びは理智からも良心からも放たれた。 この警鐘を聞いた若いハーディは元より急進側に味方した。 彼のこの叛抗精神、言ひ換へれば、ヴィクトリヤ朝時代のブルジョア道徳や宗教や、 法律やに對する不滿は露骨にではなく、具體的な事實の再現として彼の作品中に現はされた。 人はよくハーディの作品といへば人間意志でどうにも出來ない運命を現はした暗い厭世主義の作品であり、 彼を以て宿命論者と看做《みな》してゐる。 だがそれは彼の作品又は思想を十分な意味で把握してゐるものとは言へない。 彼は一見大宇宙の運命力、大自然の決定力と看做《みな》されるものゝ底に人間の古い意志や、 決定力や又はそれの作り出した組織の力が如何に強く働いてゐるかを決して見逃してはゐない。 人をして動きのとれない不幸に導いて行く力が漠然と考へられてゐる大宇宙の運命力や、大自然の決定力でないことは、 この『ダアバァヴィル家のテス』等を見れば、直ぐに肯《うなづ》けることである。 尚、この點については、後で詳しく述べることにする。 ハーディの父は彼を最初牧師にしようと思つてゐたが、彼は教會の基督教に對する信仰を失ふやうになり、 父の期待を裏切つた。そこで兩親は彼の將來を考へた結果、彼を建築技師にする爲めに十六の時、 ドーチェスタアのジョン・ヒックス氏の許に弟子入りさせた。彼はこの方面で優れた才能を持つて居り、 ヒックス氏の許で滿足ができず、二十二歳の時愈々ロンドンに行き、 當時建築家として名高かつたアーサア・ブルムフィールド卿に師事することになり、 傍らキングス・カレッヂの夜學科に通つた。その間に英文學上の名高い詩や小説にも通じ、 一八六五年にはチェンバース・ジャーナル誌上に『どうして私は自身で家を建てたか』といふ小品風のものを發表した。 六九年には、『貧しい男と一貴婦人』といふ長篇小説を初めて書き上げて、 マクミラン書肆に送つたが當時既に文名を馳せてゐたメレディス其他一二の人々の忠言によつてその出版を思ひ止まつた。 この作品は遂に發表されず原稿の行方も不明となつてしまつたが、ハーディの親しい友であつた、 有名な批評家エドモンド・ゴッスの語るところに依ると、表題の示す如く貧しい農家に生れた一人の男と、 上流社會の一貴婦人との戀を描いたものであつて、 ヴィクトリヤ朝時代の階級的差別の偏見に對する作者の批評の現はれとも見られるし、 又上流社會の虚僞の生活を赤裸々に描き農民生活に對して深い同情を現はした點から見れば、 作者が既にヴィクトリヤ朝時代に對する革命兒であつたことを物語つてゐる。 この作は以上のやうな譯で發表されずにしまつたが、一八七一年には『荒治療』を公にし、 續いて『緑林樹下』『緑眼一雙』『世俗を離れて』等を發表して、 英國文壇に確實な地歩を占めることになつた。由來一八九七年の『至福者』に至るまで、 十七篇の長篇小説と數十篇の短篇小説とを公にした。其後は決して小説に筆を執らないで、詩作のみを續けた。 何故小説の筆を絶つたのであるかといへば、それには種々なる内的理由もあつたが、 大きな理由の一は『テス』や『ジュード』の世評があまりにも彼にとつて苛酷であつたといふことである。 即ち彼はかういふ作品によつて道徳を破るもの、宗教に反するもの、習慣を亂すもの、 風教を害するものといふ非難攻撃を烈しく受けたのである。初めの中は、それに對し反駁の矢も向けて見たが、 時代はまだ新しい近代精神を受け容れるまで進んでゐなかつたので、 遂に彼は小説を斷念するのやむなきに到つたのである。 だが彼に對する世間の非難攻撃は要するに英國小説界の進歩を意味したものであり新文學の勃興に對する無理解を表明したに過ぎない。 まことに『テス』や『ジュード』は英國小説の少くとも内容を革新したのである。 これ等の作品は謂はゞ一里塚で、これを界《さかひ》として英國小説はヴィクトリヤ朝時代の古い殼を捨てゝ、 新しい眞に生命ある文學となつたのである。眞の意味のリアリズムはハーディから始まつたと言つても差支へあるまい。 ハーディは創作を試みるやうになつてからは、他の多くの作家とは異つて、 ロンドンに住むことをせず、ドーチェスタアの郊外に自らの設計による瀟洒な邸宅を構へて遠く世の喧噪から離れて、 ひたすら瞑想と思索の生活を續け、暇ある毎に地方農民の生活を深く研究してゐた。 彼の生涯は普通の生活の意味からいへば波瀾もなく、變化もなく、 極めて平凡であり、分けても晩年の如きはあまりにも事が無かつたので、やゝもすれば忘れかけられさへもした。 だが一九二七年の末に一度彼の病報の傳はるや、 英國民はこぞつて彼の囘復を祈るの熱情を新聞紙上や其他の機關を通じて表明した。 越えて一月十一日彼の死が傳へられると、 英國政府からは彼を國葬としてその靈をウェストミンスター寺院のポエット・コーナアに祭つて、 永久に彼の文學的生命を殘さうといふ旨を傳へた。 これを以てしても彼が如何に全國民の崇拜の的になつてゐたかゞ窺《うかゞ》はれる。 二、『テス』に就いて 『ダアバァヴィル家のテス』は、初め一八八〇年代の終りに、その大部分は『グラフィック』紙上に、 他の數章は插話風の小品として、『フォートナイトリイ・レヴュウ』並びに『ナショナル・オブザーヴァ』誌上に現はれたのを、 一八九一年に一册として纒めたものである。ハーディの作品中でこれ位ゐ筋の單純な物語は殆んどあるまいと思はれる。 「表情たつぷりな、芍藥のやうな口と大きな無邪氣な眼」とを持つた美しい田舍娘に生れたテスは、 自分の家の窮乏を救ふ爲めに雇はれて行つた先の家の若主人アレク・ダアバァヴィルから想ひを懸けられ、 遂に辱められて、家に逃げ歸り母親となる。だが赤兒は間もなく亡くなり、一時は全くの絶望状態に陷つてゐたが、 又新しく生活の力を見出して、乳搾り女として働きに出掛ける。 こゝで彼女は農場の研究に來てゐる上流階級に屬するエンヂェル・クレアに出會ひ、 戀に落ち、エンヂェルからしきりに結婚を勸められたが、 彼女は自分が結婚する資格のないものと考へて初めの中は承諾しなかつたが、遂に約束をし、 結婚するまでには自分の過去を打ち明けようと思つてゐたが、色々な事情に妨げられて、 愈々結婚式を濟ました夜になつて、やつとそれを打ち明けることが出來た。 するとエンヂェルは自分の過去の罪を女から許して貰ひながらも、 又かなり自由な考へを持つてゐたにも拘らず、「汚れた女」に對する偏見を征服することが出來ないで、 そのまゝ妻を捨てゝ南亞米利加へ行つてしまふ。テスは家の爲めに前よりも更に一層苦しい仕事に從ふことになり、 その中に昔のアレクに再會し、遂に一家の窮乏を救ふ爲めに、又エンヂェルは再び歸つては來ないと言はれた爲めに、 アレクのものとなることを承諾した。間もなくエンヂェルが歸つて來て、 彼女がアレクと同棲してゐるのを知りもう遲かつたと言はれて引つ返すが、 一方テスは急にアレクが憎くなり、肉切ナイフで彼を殺してエンヂェルの後を追つて行く。 彼女とエンヂェルとが世を忍んで幸福な生活を送つたのも束の間で、捕へられて、 テスは死刑に處せらるれることゝなつた。 この樣に單純な物語なのであるから、平凡な作者が取扱へば、唯一篇の感傷的な作品に過ぎないものとなつたであらうが、 ハーディの深刻な思想と、深い洞察力とはこの事件を廣い社會環境の中に置いて眺め、考へた爲めに、 感銘の深い深刻な社會的價値のある作品とすることが出來た。 この作品を讀んでテスの不幸な生涯に、唯涙を流すだけの讀者は、まだ眞にこの作品を味つたとは言へない。 恐らく又作品そのものがそのやうな觀賞程度にとゞめては置かないであらう。 テスは何の爲めにあのやうな苦しい生涯を送つて死刑に處せられなければならなかつたかを、 必ず考へるであらう。テスをして彼女の厭なダアバァヴィル家へ奉公に行かせたのは貧乏といふ事實であつた。 而もこの事實は運命的なものでもなく、大自然の抗すべからざる力の現はれでもなく、 全く人が作つた社會組織の缺陷から生れ出たものである。アレクをして恰も家常茶飯事の如く、 テスの貞操を弄ばさしめたのは、一面に於ては元より彼の肉感性にも依るとは言へるが、 又他面に於ては輕率な地方的慣習によるものと言はなければならない。 更にエンヂェルをしてテスの告白を聞いた刹那に、言ひやうのない嫌惡を感ぜしめ、 同棲を拒ましめたのは、「汚れた女」に對する彼の偏見であると同時に、 又その當時の社會に喰ひ入つてゐた偏見に依るものである。尚進んでテスの一家の不幸になつて行つた經路を考へて見ると、 社會的道徳的偏見が如何に大きな力として働いてゐるかを、看取することが出來る。 斯樣に觀て來ると、テスの生涯の悲劇は運命的なものではなく、大自然の力によつたものでもなく、 全く人間の作り出した社會の組織や、それを維持して行く爲めの道徳や、宗教やの偏見から生じたものであることが分る。 而も同じく人間の作つた法律は、かゝる境遇の下にテスをして殺害行爲のやむなきに至らしめたに對し、 何等の斟酌もなく死刑の宣告を下した。恐らく如何に無能の陪審官と雖も、 今日ではこの『テス』一卷の調書を突きつけられたら、テスに對して死刑の宣告を下すが如きことはしないであらう。 ハーディは元より事件や境遇の再現を飽くまでも目的としてゐるのであつて、 作中で當時の社會組織や、習慣や、道徳や、宗教や法律やを攻撃するが如き論戰的調子を少しも見せてはゐないが、 而も私たちをして深く考へさせるのはこの點である。 そして『テス』の社會的價値も亦こゝに存するのではないかと思はれる。 それにも拘らず、この作品は英國で發表された當時、この頃の道徳や宗教や慣例や法律に對する攻撃であるとして烈しく非難され、 又善良な家庭には不向きな作品であると評されもした。前者の非難に對しては、 ハーディは唯眞實の出來事に藝術的樣式を與へたまでのことであると答へて、 藝術家としての立場を明かにしてゐる。社會に對する攻撃と見る見ないは讀者側の問題であつて、 攻撃と見たからといつて、作者を非難するのは却つて非難する者の狹量を示すに過ぎない。 後者に對してハーディは、描かれてある事實に對して我慢のできない上品な讀者は、 聖ジェロームの言つた「過失が眞實なものから生ずるとするならば、この眞實を隱して置くよりは、 過失の現はれる方がよくはないか。」といふ陳腐な文句を想ひ出して貰ひたいと言つてゐるだけである。 可憐なテスが肉切ナイフでアレクを殺した行爲の如きは、 その當時の基督教に慣らされてゐた紳士淑女には我慢ができなかつたであらう。 たとひ愛はなくとも子供を産まされた男があるのに、又別に戀人を見出す如きは、 確かにその當時の温良優雅な精神に反してゐたに相違ない。 男の暗い過去を許したのだから自分の暗い過去も許されるだらう等と女が考へるのは、 これ又紳士淑女の道に悖《もと》るものと看做されたのであらう。 しかしハーディはそれを現實に見て、藝術的に表現したのである。 私は唯この邊の事柄を十分考慮に入れて『テス』一篇が讀まれることを望んでやまないのである。 三、コンラッドの諸作 『青春』『明日』及び『エミイ・フォスタァ』の作者ジョセフ・コンラッド(詳しくはテオドル・ジョセフ・ コンラッド・コルゼニオヴスキイ)は、一八五七年一二月六日に南|波蘭《ポーランド》のウクライナに生れた。 一八六一年、父と共にワルソーに行つたが、父が波蘭革命に關係があつたといふ理由で、 一家族の者はヴォログダに追放された。その後六五年になつて、ウクライナに歸ることを許され、 後又クラコーの學校に送られることゝなつたが、航海者になりたいといふ考へが絶えず彼の頭を支配し、 遂に船乘りとなり、一八七八年五月初めて英國の土地を踏んだ。 その時は英語も一言も解しなかつたが、忽ちの中に彼の言語的天才は彼をして英語を自由に操らしめ、 その年の秋には英國船のデューク・オブ・スザアーランド號に乘込み、一八八四年には、 英國商船航路の船長となり、同年歸化して英國人となつた。 彼は生來文學好きで、船の上でも時々物を書いてゐたが、三十一歳の時、 ロンドンのベスバラア・ガアドンズの寓居で初めて『オルメイアの痴行』の物語にペンを執り出し、 その後はゼネヴァに近いシャンペルで、或は船の上で、章一章とペンを進めて行き、 遂に五年を經てその完成を見るに至つた。この作品は作者コンラッドと當時既に名を成してゐた、 ジョン・ゴルスウァーシイとのトレンス號上に於ける竒遇を縁として、文學圈の第一歩に入り、 書肆フィッシャー・アンゥインの手に渡り、若い閲讀係り、 後の批評家エドウォ−ド・ガアネットの認めるところとなつて、その上梓を見たのは一八九五年四月である。 長い間船乘生活を送つて來たコルゼニオヴスキイはこゝにジョセフ・コンラッドとして英國で文學的生涯にスタートを切つたのである。 勿論この一作によつて、彼がその文名を一時に高め、英文壇の寵兒となつた譯ではない。 彼に對する評價は寧ろ漸層的であつた。『島の追放者』、『ナアシサス號の黒人』の發表につれて、 その名聲は高まり、『ロード・ジム』に至つて現代の優れた作家といふ折紙がつくやうになつたのである。 爾來一九二四年彼の死に至るまでに公にした長篇小説及び短篇小説は、かなりの數に逹してゐる。 彼の作はその題材の方面から見て行くと、波蘭生活を背景としたもの、航海中に經驗したもの、 及び彼が英國の田舍生活で得た材料の三つに區別することが出來、就中、海の生活を扱つたものに傑作が多い。 彼が海洋作家として得意な位置を占めてゐるのは、この爲めであらう。 彼はハーディを始めウェルズや、ゴルスウァーシイや、ジョージ・ムーアや、 アーノルド・ベンニット等と共にヴィクトリヤ朝時代の小説觀念を打破して、 新しい小説の基礎を置いた作家と言はれてゐる。それはどういふ意味に於てゞあるかといへば、 新しい技巧と、新しい道徳とを小説界に導き入れたことを指すのである。 コンラッドの藝術觀を一言で説明するならば、小説が藝術たらんと慾するなら、 氣質に訴へなければならない、それは繪畫や音樂と同じやうに、一氣質が他の凡ゆる氣質に訴へることでなければならない、 でこの訴へを有效にするにはそれが感覺を通じて傳へられる印象とならなければならないのであるから、 小説家の試みは書かれた言葉の力で、讀者に聞かせ、感じさせること -- 何よりも先づ見させることでなければならない、といふのである。 即ちすべては見させる爲めの努力であつて、描き出して見させることが出來れば藝術の目的は逹せられるのである。 彼はこの信念に基いて、凡ゆる事象を闡明に描き出すことに努め、 人間の心の中に働く心理をさへ繪のやうに描いて見せることをし、 技巧の方面に新しい境地を開くに至つたのである。既に事象を描いて見せるのが目的であるから、 そこに善惡美醜の區別はない、すべては科學者の眼に映ると同じく、一つ〜が儼然たる事實である。 斯樣な態度で事物を描き、扱つて行く以上は、在來の道徳と自然觝触しない譯には行かない。 こゝに於てかフランスの自然主義作家に見られると同じやうな、新道徳の意識が彼の作品の中に入つて來ることになり、 それがやがて新興文學の重要な要素ともなつたのである。而も彼の扱つた人物の多くが、 商船長、船乘、農夫、職人、人夫等の如き、比較的下層階級に屬することも、 在來の主として上流階級を扱つたヴィクトリヤ朝時代とはかなり趣きを異にしてゐた。 こゝに收めた『青春』は一八九八年の作で、コンラッドが初めて東洋に航海した時に出會つた經驗をそのまゝに題材とした、 彼の海洋小説の中で最も優れたものゝ一つである。二十二年前の海の上の惡戰苦鬪を物語りながら、 よくそれに耐へた青春の元氣と、魔法とを思ひ出して、再び歸つて來ない青春を懷しむ思ひ出の記がこの一篇である。 文字の一線々々に青春の血が、感激が漲り渡つてゐるやうに思はれる。 文字が集つて青春の管絃樂を奏してゐるとも見られる。 それは別に或る事件を描いてその意義を展開したものでもなく、或る人物の性格を描かうとしたものでもなく、 唯青春の讚歌であり、その元氣に對する憧憬の發露であり、又若き日の冐險の思ひ出話に過ぎない、 而も讀むものをして心から奮ひ起させずにはゐない強い魅力を持つてゐる。 『明日』(一九〇一年)はイギリスの小さな海岸町に起つた事件を扱つたもので、 謂はゞ一種の海濱小品ともいふべきものであるが、 『もう一日』といふ題で脚本にも書替へ、それはショオや、ゴルスウァーシイや、 ベンニットからも非常に推奬された作品である。狂船長ハグバァド、その息子のハリイ、 盲目の我儘者カアヴィル、その娘のベッスィ等すべてコンラッドの獨特の創造に依るものであつて、 讀者は自から一種の戰慄を感ぜずにはゐられない。 『エミイ・フォスタァ』(一九〇一年)も亦一種の海濱小品で、言語の通じない不思議な難破者と、 どんなものに對しても想像力を働かすことはあるまいと考へられてゐた、 頭の鈍い少女との間の戀を描いたものであつて、こゝにもコンラッドの鋭い觀察が働いて、 恰もX光線を通して見るやうにこの二人の微妙な心理を鮮かに描き出してゐるので、 讀者は自づから一種の驚異を感ぜずにはゐられない。 かつて『ジョセフ・コンラッドの天才』なる一文を書いたジェームズ・ヒュンカーは、 小説が種々の宣傳の手先や、豫言者の役を勤めたり、多くの作家が或る社會上の祕藥を賣る役目を演じたりする笛、 太鼓の鳴物入りの時代にあつて、コンラッドのみは無私念的な藝術家の理想的典型として、 英國小説壇に毅然として立つてゐる、喧噪を極めた市場の中で、彼の書物は、 遠い海鳴りの音を傳へる貝殼であると述べたが、以上の如き作品に接すると、 如何にもその評語の適中してゐることを感ぜずにはゐられない。(宮島新三郎) [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:ハーディ年表 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 一八四〇年 六月二日南英ドーセット州の首府ドーチェスタア附近の一小村アッパー・ボッカムトンに生れる。 一八五六年 父の業を繼ぐ爲め一八六一年までドーチェスタアの教會建築家ジョン・ヒックスの徒弟となる。 一八六二年 ロンドンに出で有名なる建築家アーサア・ブルムフィールド卿の許にてゴシック建築の研究をつゞけること六年。 傍らキングス・カレッヂの夜學科に通ふ。 一八六三年 『色煉瓦及び陶瓦を近代建築に適用するの論』の一文、 英國建築協會の懸賞論文募集に當選す。されどこの當時思想的動搖激しく、藝術に向はんとする志動く。 一八六五年 『どうして私は自身で家を建てたか』なる小品をチェンバース・ジャーナルに寄稿、三月十八日發表さる。 一時ウェイマスに居を移し、專心詩作に耽る。エムマ・ギフォード孃と知る。 一八六七年 詩よりも小説の成功し易きを考へ、初めて『貧しい男と一貴婦人』を執筆、マクミラン書肆に送る。 メレディス及びジョン・モレー等の忠告により出版を思ひ止る。 一八六九年 『荒療治』を書き上げ、ティンスリー・ブラザアスと出版の契約成る。 一八七〇年 匿名にて『荒療治』三册本となつて世に出づ、反響なし、唯メレディスの激勵に接するのみ。 一八七一年 郷里に歸り匿名にて『緑林樹下』を執筆、二册本として出版、テニスン及びブラウニングに認めらる。 一八七二年 『緑眼一雙』彼の名にて初めて世に現はる。 一八七三年 この年コーンヒル・マガジンに連載せる小説を『世俗を離れて』と題し、出版す。 エムマ・ギフォード孃と結婚し、ドーセット州ストアミンスタアに落着く。 一八七四年 暫時の沈默を破り『エセルバアタの手』を出版、この頃レスリ・スティーヴンと交る。 一八七六年 『郷人歸る』出づ。 一八七八年 『喇叭手軍曹』出づ。 一八八〇年 『ローデシヤ人』出づ。 一八八一年 『塔上の二人』出づ。 一八八二年 論文『ドーセット州の勞働者』を書く。 一八八三年 ドーチェスタアの郊外に自らの設計に成る邸宅を構へ、これをマスク・ゲートと呼び、永住の場所と定む。 一八八五年 『キャスタブリッヂの市長』出づ。 一八八六年 『森林地の人々』出づ。 一八八七年 短篇集『ウェセックス物語』出づ。 一八八八年 『テス』及び『貴女の一群』出づ。『テス』は文學對道徳の問題を惹起す。 一八九一年 短篇集『人生の小諷刺』出づ。 一八九四年 『日蔭者ジュ−ド』出づ。この作、世の非難を招く。以後小説に筆を執ることを斷念す。 一八九五年 舊稿『至福者』出づ。 一八九七年 處女詩集『ウェセックス詩集』出づ。 一八九八年 『過去及現在の詩』出づ。 一九〇二年 『過去及現在の詩』出づ。 一九〇四年 劇詩『霸者』第一部出づ。尚、第二部は一九〇六年、第三部は一九〇八年に出でゝ完結す。 劇詩人として又重きを加ふ。 一九〇九年 詩集『時の笑草』出づ。 一九一〇年 O・M(有功勳爵)に敍せらる。『テス』イタリー歌劇團に依りロンドンにて上演。 一九一二年 愛妻エムマ・ギフォードを失ふ。 一九一三年 散文創作集『變れる人』出づ。 一九一四年 文學者にして祕書役たりし、フロレンス・エミリー・ダグデェールと再婚す。 戰爭に關する手紙及び『兵士の歌』をタイムス紙上に公にす。 詩集『境遇の諷刺』出づ。 一九一五年 詩集『行進の前後』出づ。 一九一七年 詩集『幻の瞬間』出づ。 一九二〇年 ドーチェスタア市の劇團に依り『郷人歸る』上演さる。 一九二一年 『コーンウォール女王の悲劇』出づ。オクスフォード大學より博士號を受く。 一九二二年 六月二日ドーチェスタア教會の唱歌隊、彼の誕生日を祝す。 一九二三年 七月十九日、英國皇太子殿下の來訪を辱けなくす。『コーンウォール女王の悲劇』を脚色す。 一九二五年 ロンドンのバアンズ劇場にて『テス』上演さる。同じくマクスゲートの客間にても上演。 詩集『人間の見世物』その他出づ。 一九二六年 バアンズ劇場及びウェイマスにて『キャスタブリッヂの市長』上演さる。 一九二七年 最後の詩『エンヂン・ルームのクリスマス』タイムス紙上に現はる。 一九二八年 一月十一日八十八歳を以てマクス・ゲートの自宅に逝く。一月十六日國葬を以てウェストミンスター寺院に葬らる。 同時にその心臟は郷里スティンフォードの墓地に埋めらる。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 五月も末の或る夕、一人の中年男が、ジャストンからブレークモオアともブラックムーアともいふ盆地續きのあるマアロットの村へ、 家路を辿つてゐた。彼の體を運んで來た脚は、兩方ともよろ〜してゐて、その歩き振りには、 體を埀直線から幾分左へかしげる癖があつた。別にこれといつて考へ事をしてゐるのでもなかつたが、 誰かの言つたことを、成程なあと肯定でもするやうに、折々小ざかしく頷いた。片腕には空つぽになつた卵の籠を吊るしてゐた。 帽子の細毛はぼさ〜に突つ立つてゐて、鍔《つば》の一箇所などはすつかり擦り切れてしまひ、 帽子を脱《と》る時には、拇指がそこへはさまるやうになつてゐた。間もなく彼は、 葦毛の牝馬に跨つて來るいゝ年をした牧師に出會つた。牧師は馬に乘つて進みながら、 取りとめのない歌の文句を口吟《くちずさ》んでゐた。 「今晩は、牧師樣、」と籠を持つた男が言つた。 「今晩は、ジョン閣下、」と牧師は言つた。 徒歩の男は、また一二歩してから、立ち止つて振り返つた。 「時に、牧師樣。ぶしつけな話だが、この間の市にも、丁度今頃この道でお會いしましたつけ。 その時、『今晩は』とわしが言ひますと、牧師樣も『今晩は、ジョン閣下』つて、 丁度今見てえに仰しやりましたゞな。」 「さう言つたよ。」と牧師は答へた。 「それに、その前にも一度 -- かれこれもう一月にもなりますかな。」 「さう言つたかも知れんな。」 「ぢや、その度に『ジョン閣下』と仰しやつたのはどういふ譯ですかな? わしや身分の賤しいジヤック・ダアビフィールドつて行商人だに。」 牧師は、一二歩馬を近づけた。 「そりやほんの私の氣紛れからさ、」と彼は言つた。それから一寸ためらつた後で、 -- 「ついこの間、郷土史を新しく作るんでね、いろんな系圖を漁《あさ》つてるうちに、 掘り出し物をしたのが原因《もと》なんだ。私は、スタッグフット・レインのトリンガム牧師で、 古い物をいぢつてみることが好きでな。ダアビフィールド、お前は本當に、あの舊い騎士《ナイト》の榮譽を得てゐた、 ダアバァヴィル一族の直系相續人に當ることを知らんかね。それはな、バトル寺文書 (バトル寺はウィリアム一世がヘースチイングの戰に勝つた感謝の意を表する爲めに建てた寺。その寺の記の事)によると、 ウィリアム征服王(一〇二七-八七。彿國から海を渡つて英國王ハロルドを敗り、その國の王位につき、 ノルマン王國を開いた人)について、 ノルマンディからやつて來た名高い騎士のサア・ペーガン・ダアバァヴィルを祖先にいたゞいてゐるんだぜ。」 「そりや初耳でさあ、牧師樣!」 「本當だよ、そりや。ちよつと頤《あご》を上げて御覽。横顏の輪廓がもちつとよく分るやうにな。 よし、それ〜、そつくりダアバァヴィル家の鼻と頤だ -- 少々品は落ちるがな。 お前の先祖は、ノルマンディのエストルマヴィラ侯が、ゲレェモオガンシャアを御征伐なさる時、 お味方申し上げた十二人の騎士中の一人だつた。お前逹の一門は、英吉利のこの邊一帶に、 莊園を所有してゐた。その名前は、スティヴン王時代の宮中記録にも見えてゐる。ジョン王の時代には、 その分家のうちに、ホスピタル騎士團へ屋敷を寄進したといふ程の金持もあつた。 それに、エドワード二世の時代には、お前の祖先ブライアンは、ウェストミンスターへお召しにあづかり、 そこで開かれる大評定の席へもお並びになつたといふものゝ、それも大した事ではなく、 チャールズ二世の御代には、忠勤を拔きん出られたとのお思召しで、お前逹の一族は、 槲樹記念《ロイヤル|オーク》の騎士(チャールズ二世が味方のスコッツに擁せられてクロムウェルに手向ひしたが、 ボスコーベルなる地の槲の身に隱して難を免れた。後志を得て王位に即いてから、その時の記念に設けたのが、 この騎士の位である)に敍せられた。こんなわけで、お前逹一家には、幾代にも亙つてジョン閣下の稱號が續いたんだ。 それで、昔は實際親から子へと續いて騎士に敍せられたものだが、そのやうに今も、 若し騎士の位が准男爵のやうに世繼《よつぎ》が出來るものだつたら、今頃お前は、ジョン閣下と呼ばれてゐたゞらうよ。」 「まあ、飛んでもねえ!」 「つまりだね、」と牧師はぴしやりと鞭で自分の脚を打ちながら言葉を結んだ。「英吉利にや、 まあそんな家柄は又とあるまいね。」 「そりや驚いた、本當にさうですかな?」と、ダアビフィールドは言つた。「それだのに、 わしは今までこの土地をそつちこつち、年がら年中うろつき廻つてゐたんでごぜえますよ。 まつで村のうちでも一番下らん人間みてえにね……それで、このわしの身の上話しァ何時頃から擴まつてゐるんでごぜえませう? トリンガムの牧師樣。」 牧師は、自分の知つてゐる限り、それは世間から全く忘れられてゐる事で、少しだつて擴まつてゐるなぞとは言へないと説明した。 牧師が調べ出したのは、この前の春の或る日であつて、丁度その時分ダアバァヴィル家の歴史を調べてゐた際で、 不圖《ふと》眼に入つたのがジョンの荷馬車についてゐるダアビフィールドの名であつた。そこで、 その父親や祖先を調べて見ることになり、その結果この話に就いては、もう露ほどの疑ひも持たないやうになつたのだ、 と言つて聞かせた。 「最初は、こんな下らんことを知らせて、お前に氣を揉ませるでもないと、心を決めてゐたのだが、」と彼は言つた。 「心のはずみといふものは、折々、分別を負かしてしまふことがあるのでな。私はまた、 このことに就いちや、お前も今迄に幾らか知つてゐるだらうと思つてをつたのぢや。」 「へえ、一家がブラックムーアへ來る前にや、今よりや増しな生活《くらし》をしてゐたつて話は、 本當に一二度聞いてをりましたゞ。でも、今は馬一匹しか飼つてゐたんだ位《ぐれ》えに思つて、 氣にも懸けなかつたでさあ。家にや古い銀の匙《さじ》があるし、それから、古い彫刻のしてある印形もありますがね。 でも、まあ、そんな匙や印形が何になりますもんですか……そこで、 わしとこの貴いダアバァヴィルの一家が、これまでずつと同族だつたつていふことを考へますとね、 何でも、わしの曾祖父にや、言へねえ譯があつて、自分が何處から來たのか言ふのを厭がつてゐたつてえ話でさあ…… ところで、厚かましい話ですが、わし逹一家は今何處で煙を立てゝゐるんです?牧師さん。 わし逹ダアバァヴィル家の者は、何處で暮してゐるんでごぜえますか?」 「何處にも住んぢやゐないよ。絶えてしまつたのぢや -- 地方の名家としてはな。」 「そいつはよくねえ。」 「さうだ -- こしらへものゝ系圖で、男の相續人がなくなつたといふ奴さ -- つまり零落してしまつたのぢや -- 沒落してしまつたのぢや。」 「ぢや、わし逹の一族は何處に眠つてゐやすだかね?」 「キングスビア・サブ・グリーンヒルに、パアベック大理石(ドーセット州にある半島から出る大理石のこと) の天蓋をいたゞいた立像と一緒に、納骨堂に幾列にも並んでゐるのぢや。」 「それから、わし逹一家の屋敷や土地は、何處にあるんですかね?」 「少しもないよ。」 「へえ?地所もねえんですか?」 「ない。それもな、今話した通り、昔は土地もうんと持つとつた。 何しろお前の一門は、澤山な分家の集まりだつたのでな、この地方には、 キングスビアに一つ、シャストンに一つ、ミルポンドに一つ、ラルステッドに一つ、 ウェルブリッヂに一つ、お前の一門の屋敷があつたのぢや。」 「それで、わし逹も何時かはまた元通りになるんでごぜえませうか?」 「あゝ -- そりや何とも言へない!」 「ぢや、それに就いちやどうしたらようがせう?」とダアビフィールドは、少し間を置いてかう訊ねた。 「あゝ -- 何もなあ、何もしない方がいゝんだよ。たゞ『嗚呼|勇士《ますらを》は仆れたるかな』 (舊約聖書、撒母耳後書第一章十九節の一句)とでも思つてあきらめなさるだけさな。 地方の歴史家や系圖家逹には、多少面白い事實だと云ふだけだ。たゞそれだけのことだ。 この郡の百姓のうちにも、何《いづ》れ劣らぬ立派な系圖の家柄が、五六軒はある。ではおやすみ。」 「が、トリンガム牧師樣、これを機會《しほ》に、戻つて、一緒にビール一杯やつちやどうでがす? ピュア・ドロップ亭にも、なか〜いゝビールがありますで -- 尤も、ロリヴァの店のにや適《かな》はねえにきまつてますがね。」 「いや、有難う -- 今晩はまあお預りにしよう、ダアビフィールド。 お前は大分もう飮《や》つてゐるやうぢやないか。」牧師はかう言葉を結んで、 この妙な話を言ひ出した自分の考へを不思議に思ひながら、馬を進めた。 彼が行つてしまふと、ダアビフィールドは、ぢつと深く考へ込みながら、二三歩進み、それから籠を自分の前に下して、 路傍の草深い土堤《どて》の上に坐り込んだ。二三分すると、一人の若者が遙か向うに現はれて、 ダアビフィールドが歩いて來たのと同じ方向へ進んで來た。その若者を見ると、ダアビフィールドは手を擧げた。 すると若者は、足を早めて近づいた。 「おい小僧、その籠を持て!そして、使ひに行つて來てくれんか。」 痩せてひよろ長く見える若者は、顏を顰《しか》めた。 「一體お前さんは、誰だといふんだね、ジョン・ダアビフィールド。勝手に俺に用を言ひつけたり、 小僧なんて拔かしたりしてさ。俺がお前さんの名を知つてゐるやうに、お前さんも俺の名を御存じのはずだに!」 「話してやらうか、教へてやらうか?いや内證だ -- そりや内證だ!さあ、俺の言ひつけを聞いて、 今頼む使ひをしろよ……おい、フレッド、言つてやるから聞け。その内證事つてのはな、 俺が貴族の血統を引いたものだつてことなんだ -- 。今日の晝過ぎに、つまり午後に俺がめつけたばつかりなんだ。」 かうして、この吹聽を濟ますと、ダアビフィールドは居住ひを崩して、樂々と土堤《どて》の雛菊の中へ體を伸ばした。 若者は、ダアビフィールドの前に突つ立つて、伸ばした體を頭の頂邊《てつぺん》から足の爪先まで、しげ〜と眺めた。 「ジョン・ダアバァヴィル閣下 -- それがこの俺樣のことなんだ、」と寢そべつた男は續けた。 「若し騎士が准男爵だつたらな -- ところで、實は、騎士は准男爵と來てゐるんだ。俺のことァ殘らず歴史に載つとるんだ。 若造、キングスビア・サブ・グリーンヒルちふ處を知つてゐるか?」 「あゝ。俺ァ、グリーンヒルの市があつて、其處へ行つたことがあるんだ。」 「さうか。その町のお寺に埋まつて -- 」 「町ぢやねえよ、俺の言ふ處は。何んでも、俺が行つた時は町ぢやなかつたぜ -- 小つぽけな、 片眼でぱちくりやつてゐると言つたやうな處だつた。」 「場所がどんな處か、どうだつて好いぢやねえか、小僧。そんなことァ今の問題ぢやねえ。 その村の寺にな、俺の先祖逹がお休みになつてるんだ。 -- 何百人もな、 -- 鎖帷子の鎧や寶石に包まれ、何噸も〜目方のある、でかい鉛の棺の中でな。 この南ウェセックスの地方ぢや、俺よりも堂々とした貴い先祖を持つてゐる者は、たゞの一軒だつてありやしねえぜ。」 「へえ?」 「さあ、この籠を持つんだ。そしてマアロットへ行け、それからな、 ピュア・ドロップ亭へ行つたら、俺が家へ歸るんだから、直ぐ一頭立ての馬車をよこすやうにと言ふんだ。 それに、小さい罎にラムを一合ほど詰めて、馬車の中へ入れて措《お》くやうにな。 勘定は帳面へ附けて置くんだ。で、そいつが濟んだら、籠を持つて俺の家へ行つてくれ。 そして女房にな、洗濯を片付けるにや及ばねえから、打つちやつといて、 話があるんだから俺の歸りを待つてゐろ、とさう言つてくれ。」 若者はもぢ〜しながら立つてゐるので、ダアビフィールドは衣嚢《かくし》へ手を突込み、 これまでは滅多に持つてゐたことのない二三|志《シリング》の持ち合せの中から、 一|志《シリング》の銀貨を一つ取出した。 「さあ、駄賃だ、小僧。」 これで、そんな使ひは厭だと思つてゐた若者の考へはすつかり變つた。 「ようがす、ジョン閣下。有難う。他に用事はねえかね、ジョン閣下?」 「家に行つて、夕飯に -- さうさな、出來たら小羊のフライを慾しいもんだと言つて置いてくれ。 若しそいつがいけなかつたら、臘腸《ブラツク・ポツト》をな。 そいつもいけなきや、食用小腸《チタリングス》でもいゝからと、言つてくれ。」 「ようがす、ジョン閣下。」 若者が籠を取上げて出かけた時、村の方から、管絃樂隊《ブラスバンド》の音が聞えて來た。 「ありや何でえ?」とダアビフィールドは言つた。「よもや俺の爲めぢやあるめえな?」 「ありや女連の倶樂部の運動會だあ、ジョン閣下。えゝと、お前さんとこの娘《あんねえ》も、 會員の一人ぢやねえか。」 「違えねえ -- 俺はもつと大《でつ》かいことを考へてゐたんで、まるで忘れちまつてゐた! そりやさうと、マアロットへ急いでくれ。いゝかな。で、あの馬車を言ひつけるんだぜ。 そしたら、俺は馬車に乘り廻して、倶樂部の運動會の檢閲と出るかも知れねえ。」 若者は出掛けた。ダアビフィールドは夕陽を浴びながら、草や雛菊の上へ横になつて待つてゐた。 永い間、あたりには人つ子一人通らなかつた。緑の山々に圍まれた中に聞える人間らしい音といへば、 僅かに微かな樂隊の音色のみであつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- マアロットの村は、前にも言つたブレークモオアともブラックムーアともいふ美しい盆地の東北の、 波のやうに起伏した地勢の中にある。四方を山に圍まれた、世離れた土地であつた。 倫敦からは、四時間以内に行き着けるほどの道程《みちのり》であるが、大抵の處は、 まだ旅行家や風景畫家の足跡を留めてゐない。 この盆地は、周圍の丘陵の頂きから眺めると、一番よくその地勢を知ることが出來た -- たゞ、夏の旱魃《ひでり》の間だけはさうでもあるまいが、天候の惡い時に、 地理も知らずにうつかりその盆地の奧へ彷徨《さまよ》ひ込むと、 兎角その狹い、蜿々《うね〜》した泥濘路《ぬかるみち》に厭な思ひを感ずるものだ。 野原が決して褐色になることもなく、また泉が決して涸れることもない、 この豐饒な山蔭になつてゐる地域は、南の方は、ハンブルドン・ヒル、バルバロオ、ネットル・コム・タウト、 ドッグベリイ、ハイ・ストオイ、バップ・ダウンなどの峰々を含む、嶮しい白亞の山脈に限られてゐる。 海の方へ二十哩餘りもとぼ〜辿つてから、急にかうした懸崖の一つの端へ着くと、 これまで自分が通つて來た處とはまるで異つてゐる田舍の風景が、眼下に地圖のやうに擴がつてゐるのを見て、 吃驚し、喜ばずにはゐない。背後には、小山が廣く展《ひら》け、日の光は、 四邊の景色に一寸も狹い感じを與へないほど廣々とした野原の面に照り榮え、小徑は白く、 生垣は低く撓《たわ》めて結つてあり、大氣は全くの無色である。 こちらの盆地の方は、何も彼もがずつと小さな、ずつと細かい規模で組み立てられてゐるやうに見える。 畑はほんの馬を飼ふ圍ひ場位に小さく仕切つてあるので、この山の上からは、 その仕切りの生垣が、薄い緑の草の上に濃い緑色の網細工を展《の》べたかとも見える。 脚下の大氣は、どんよりしてゐて、畫家がよく言ふ中間距離(前景と遠景との間の距離をいふ。多く繪畫で用ひる) に用ひるほどの淡青色帶びてゐる。さうかと思ふと、一方彼方の地平線は、一番濃い紺青色に染まつてゐる。 耕地はほんの僅かで、狹く、一つ二つの例外はあるが、先づ此處の眺望は、草や木が廣々と豐かに繁つてゐて、 小さな丘や谷は大きな丘や谷に包まれてゐる。これがブラックムーアの盆地である。 この地方は、地形上の興味に劣らず、歴史的にも亦興味が深い。この盆地は、 昔は白鹿の森《フオレスト・オブ・ホワイトハアト》といふ名で世間に知られてゐた。 それは、ヘンリー三世の御代の竒妙な傳説から來てゐるのである。 これに依ると、王が一旦追ひつめて、更に逃がしてやつた美しい白い牝鹿を、 トマス・ド・ラ・リンドとかいふ者が殺したといふので、これに重い罰金を科したさうである。 その當時も、また比較的最近になつても、この地方には林が濃密に茂つてゐた。 今でもその當時の面影が、その山腹に殘つてゐる古い槲《かし》の森や、 不規則な森林帶や、または多くのどの牧場をも蔽うてゐる、 幹の空洞《うつろ》になつた古木に見られるのである。 大森林はなくなつたが、昔その森蔭で行はれた古い習慣は、今も幾つか殘つてゐる。 だが、多くは全然形を變へるか、でなければ、それと分らないやうな姿になつて、 僅かに餘命を保つてゐるに過ぎない。例へば『五月際の舞踏』のやうなものは、 前に述べた午後の倶樂部の遊樂《たのしみ》、つまりその地方で呼んでゐる名に從へば、 『倶樂部の運動會』といふのに代つて、そこに潛んでゐるのであつた。 お祭に加はる者には、その本當の興味は氣付かれなかつたが、 マアロットの若い人々には、それは面白い事件《こと》であつた。毎年のお祭日には、行列を作つて歩き、 舞踏をするといふ習慣を今も留めてゐるが、その特色は寧ろ會員が全く女ばかりであるといふ點にあつた。 男子の倶樂部では、かういふ祭はだん〜なくなつては行くものゝ、女の倶樂部の祭ほど珍らしくなかつた。 けれども、女の生れつきの羞恥の爲めか、それとも男の意地惡な態度の爲めか、 未だに殘つてゐるこのやうな女の倶樂部(この他にも殘つてるものがあるとしても)は、 その華々しさと立派さを無くしてしまつた。ひとつマアロットの倶樂部だけは未だに亡びず、 その土地らしい護穀祭(五穀豐穰の女神セレスを祝して豐熟を祈るための祭)を續けてゐた。 たとへ相互扶助の倶樂部といふやうなものではないにせよ、一種の女逹の信徒倶樂部とでもいふやうなものとなつて、 こゝ何百年となく、運動會の年中行事を續けて來て、今もこの倶樂部では、それをやるのであつた。 倶樂部員は、すつかり白裝束であつた -- それは喜びと五月の季節とが、 全く同じ意味であつた『舊暦』時代(舊暦はジュリアン暦で、グレゴリアン暦を新暦といひ、 一五八二年十月五日を同月十五日に改めて計算した。今日の太陽暦である) -- 先々のことを考へる習慣が、未だに感情を一本調子の型にはめてしまはなかつた時代から續いてゐる、 華やかな遺風《なごり》である。倶樂部員は、先づ第一に二人づゝ組んで、村中を行進する行列のうちに姿を現はした。 日の光が、緑の生垣や蔦かづらの絡んだ家の正面を背景にして、その姿をくつきりと浮き上げる時には、 微かながら理想と現實とに、食ひ違ひが出來た。といふのは、皆のものが一人殘らず、 白衣をつけてはゐるものゝ、彼等のうちで、全く同じ白衣はその中に二つとなかつたからである。 中には純白に近いものもあり、ほんのり青味がゝつたのもあり、また老人組に入る者の着てゐる白衣など (多分永らく幾疉んで藏つて置いたのであらう)は、死人のやうに蒼白くなりかけ、 ジョージ王朝時代の恰好に近かつた。 白衣が既に際立つた特色であるのに、更にどの婦《をんな》もどの娘も、右手には皮を剥いだ柳の枝を、 左手には白い花束を持つてゐた。柳の枝の皮を剥ぐことゝ花を選ぶことゝは、 各自がそれ〜゛意《こゝろ》を用ひて試みる仕事であつた。 行列には、二三の中年者や年寄りさへゐて、その銀の針金のやうな髮の毛や、 年や苦勞にやつれた皺だらけの顏は、こんな派手な場所柄には殆んど竒拔な、 また確かに痛ましい樣子を見せてゐた。本當をいへば、多分、年下の連中よりは、 『もう生きたところでちつとも面白いことなんかありやしない』と、 屹度言ふに相違ない年頃に近づいてゐる、苦勞の多い、世間を知つてゐる婦《をんな》の方に、 取り集めて物語るべきことがずつと多いであらう。だが今は、年寄り連中のことは暫く措《お》いて、 胸衣《チヨツキ》の下に心臟がどき〜と、また温かく鼓動してゐる者のことを話すとしよう。 實際若い娘逹は、一團の中で多數を占めてゐた。髮の毛の房々とした頭は、黄金色、黒色、 褐色と、それ〜゛の色合に太陽の光線を浴びて輝いてゐた。眼の美しいもの、鼻の美しいもの、 口や姿の美しいものもゐた。だが、何から何まで美しいものといふのは先づ殆んどなかつた。 かういふ衆人環視の中に曝されると、口元をきちんと結んでゐることの難かしさ、 頭の釣合を取ることの難かしさ、いろいろの樣子から極り惡さを掻き消すことの容易でなさが、 はつきり彼女等の容姿にあらはれて居り、そして彼女等が、世間慣れない、純な田舍娘の一團であることを明かにしてゐた。 そして、娘逹の誰も彼もが、太陽の光を受けて、肌を温めてゐたやうに、 心の中には内證の小さい太陽を抱きすくめて、魂を日向ぼつこさせてゐた。それは夢か、愛情か、 樂しみか、少くとも希望といへばきまつてさうだが、恐らく消えてなくなりさうになつても未だ生きてゐる、 遠い、遙かな希望かであつた。かうして娘逹はみんな快濶で、その多くは陽氣でもあつた。 娘逹は、ピュア・ドロップ亭の側を通つて、街道から小門を通り拔け、牧場へ入りかけてゐた。 丁度その時、婦《をんな》連の一人が言つた -- 「あれ、まあ!まあ、テス・ダアビフィールド、馬車でお歸りなのは、あんたのお父さんぢやないかね!」 この叫び聲を聞いて、一人の若い會員が頭を向けた。彼女は上品な、縹緻《きりやう》のよい娘であつた -- 或は他にその位ゐの縹緻よしは幾人かあつたかも知れない -- が、感情の現はれ易い芍藥のやうな口と大きな無邪氣な眼とは、 顏の色や形に、豐かな表情を添へてゐた。頭髮には赤いリボンをつけてゐた。 そして白衣の仲間のうちで、かういふ眼立つた飾りを自慢することの出來るのは、この娘一人であつた。 娘が見返へると、ダアビフィールドが、上衣の袖を肘の上までもたくし上げ、髮をちゞらせた、 頑丈な女の御してゐるピュア・ドロップ亭の二輪馬車に乘つて、道をやつて來るのが見えた。 女は、その旅館の快濶な女中で、雜役雇人といふ格で、時には馬の世話人にもなれば、 馬丁にもなるのであつた。ダアビフィールドは反身《そりみ》になり、 氣持よささうに眼をつぶり、頭の上で手を振りながら、ゆるやかな調子で歌ふやうにこんな事を言つてゐた -- 「俺にやでつかい家の御廟所が、キングスビアにあるのだ -- 騎士の位にござらしやつた御先祖逹が、 其處に鉛の棺にお寢《やす》みだ!」 テスと呼ばれた娘を除いて、倶樂部員たちは皆くす〜笑つた -- 彼女の心のうちには、自分の父が、 一同の物笑ひになつてゐると思つたので、興奮の色が靜かに湧いて來た。 「お父さんは草臥《くたび》れてるんだわ、それだけのことよ。」と急いで彼女は言つた。 「途中から馬車に乘せて貰つて、家へ歸るの。うちの馬は、今日は休ませなくつちやならないから。」 「何も知らないお目出度やさんね、テス、」と、仲間の娘逹は言つた。 「あの人は、市場の後酒が過ぎたのよ、ほゝゝゝ!」 「よくつて、私、お父さんをからかふなら、もう一寸だつて一緒に歩かないのよ!」とテスは叫んだ。 そして赤みが頬に浮んで來たが、それは顏にも頸にも一ぱい擴がつた。 瞬く間に彼女の眼は濕《うる》み、視線は地上に埀れた。仲間の娘逹は、テスを本當に苦しめた事に氣がついたので、 もう何も言はなかつた。そして、再び元の秩序に返つた。テスには自尊心があつたので、 父親に何か考へがあつてそんな事をやつてゐるにしても、それがどんなことか確かめようとして、 再び見返るやうな事はしなかつた。かうして彼女は皆と一緒に、これから草原の上で踊りが行はれようといふ、 圍ひ場へ進んで行つた。其處へ行き着いた頃には、もうテスは平靜を取り戻してゐて、 細い杖で隣りの娘を突つゝいたり、いつも通り喋つたりした。 この年頃のテス・ダアビフィールドは、まだ世間を知らない、ほんの感情の容噐《うつは》にしか過ぎなかつた。 村の學校へ通ふには通つたが、彼女の言葉には幾分方言が交つてゐた。 この地方で特徴となつてゐる音聲は、ur《アー》といふ綴音でほゞ現はすことの出來る音で、 多分、人間の言葉のうちにあるどんな音にも劣らない聲量の豐かな發聲音らしかつた。 こんな音節の出る、先の突き上つてゐる眞紅《まつか》な娘の口元は、まだしつかりしてゐなかつた。 そして一言ものを言つた後で、口を結ぶ時には、下唇で上唇の眞中を上へ突き上げる癖があつた。 彼女の顏つきには、子供の時の面影がまだ殘つてゐた。今日も、彼女が歩き廻つてゐるところを見ると、 際立つて美しい女らしさがあるにはあるが、時にはその頬に、十二歳の彼女が見え、 或は九歳の彼女がその眼から輝き出し、また時折は、その口の曲線《カーヴ》に五歳の彼女さへちらつくことがあつた。 しかし、これに氣のつく者は極く少なかつたし、こんなことに考へを廻《めぐ》らす者は一層少なかつた。 極く僅かの者、それも主に見知らぬ人逹が、たま〜通りがゝつてしばらく彼女を眺め、 その生き〜したところにつく〜゛と見惚《みと》れるやうになり、またかういふ娘に會へるだらうか、 と訝《いぶ》かる位ゐである。だが、先づどんな人に取つても、 彼女の上品な繪のやうに美しい田舍娘といふに過ぎなくて、それ以上ではなかつた。。 女馭者の指揮する凱旋車に乘つたダアバァヴィルは、もうすつかり姿もかくれ、聲も聞えなかつた。 そして、倶樂部の者が定つた場所へ入つてしまふと、愈々舞踏が始まつた。仲間には男が一人も加はつてゐなかつたから、 娘逹は初め女同志で踊つてゐたが、仕事の終る時刻になると村の男逹が他の遊び人や徒歩旅行者等と一緒に其處の周圍に集つて來て、 相手になる相談を持ちかけたがつてゐるやうだつた。 かういふ見物人の中に、小さい背嚢を、肩に革紐をかけて背負いひ、 手に太いステッキを持つた身分の高い青年が三人ゐた。お互ひに大體似てゐるし、 それに年齡が順位を追つてもゐて、兄弟ではないかしらと -- それは實際さうであつたのだが、 -- 思はれる位ゐだつた。一番年上の青年は、白い襟飾り、詰襟の胴衣《チヨツキ》、 それに縁の薄い帽子といふ副牧師の正服正帽の扮裝、二番目の男は、正式の大學生であつた。 三番目の一番若い男の容貌を見たゞけでは、彼がどういふ人物かを、 はつきりさせる譯には行きさうもなかつた。彼の眼付や服裝には、自由な、 伸々した樣子があつて、まだ自分の職業を選んでゐないことを示してゐた。 強ひて説明するならば、何でもかでも、手あたり次第に當つて見る學生とでもいふよし外仕方がなかつた。 この三人の兄弟は、聖靈降臨祭《ホイツトサン》の休暇を、ブラックムーアの盆地を拔ける徒歩旅行に費してゐるので、 道筋は東北のシャストンの町から、西南の方へ行くのだと、偶然知り合ひになつた者に話してゐた。 三人は街道の傍にある門に倚《よ》りかゝつて、何の爲めに舞踏したり、また娘たちは白衣をつけたりしてゐるのかと訊ねた。 兄弟中で年長の二人は明らかに、永く足をとめるつもりでなかつたが、一群の娘逹が、男の相手なしで踊つてゐる光景は、 三番目の青年に興味を與へたらしく、急いで出掛けさうにも見えなかつた。彼は背嚢の革紐を解いて、 それを杖と一緒に生垣の土堤《どて》へ置いて、門を開けた。 「どうするんだね、エンヂェル?」と上の兄が訊いた。 「これから、あの連中と踊つてみたくなつたんです。僕逹皆踊つたつていゝぢやありませんか? -- ちよつと一二分間です -- 長く引き止められるやうな事はないでせう。」 「駄目 -- 駄目、馬鹿だなあ!」と上の兄が言つた。「人中で大勢のお轉婆な田舍娘と踊るなんて -- 若し見られでもしたらどうする!さあお出で、でないと、ストアキャッスルへ着かないうちに、日が暮れてしまふよ。 それより近くには泊る處がないんだ。また寢る前に、『不可知論反駁』をもう一章片づけなきやならんよ。 わざ〜本を持つて來たんだからな。」 「分りました -- 五分と經たないうちに、兄さんとカスバアト兄さんに追ひつきます。 出掛けて下さい。屹度追ひつきます、フェリックス兄さん。」 二人の兄は、身輕に後を追ふことが出來るやうに弟の背嚢を持つて、不承不精に弟を殘して歩を進めた。 弟は草原へ入つて行つた。 「お氣の毒ですねえ、」と、彼は舞踏がちよつと休みになるのを待ち構へて、 一番身近にゐる二三人の娘に、やさしく言つた。「ねえ、相手の男逹は何處にゐるんです?」 「まだ仕事をしてゐるの、」と、中でも一番大膽な娘が答へた。 「でも、もうぢきに來るわ。それまで、附き合つてはどう?」 「いゝとも。けれどこんな大勢の中に、男一人ぢや仕樣がないね!」 「ゐないよりはましだわ。女同志で向ひ合つて踊るだけで、一寸も抱きついたり、抱き合つたりしなかつたら、 張り合ひがないわ。さあ、誰でもよりどりよ。」 「しつ -- そんなに出しや張るもんぢやないわよ!」と割合に内氣な娘が言つた。 青年はかう誘ひをかけられたので、ずつと皆を見渡して選ばうとしたけれども、 この連中は彼にとつて非常に珍らしかつたので、うまく見分けることが出來なかつた。 彼は最初に手をふれた者を、やうやく捕へたが、それは自分が選ばれるだらうと期待してゐた話手でもなく、 またテス・ダアビフィールドとふのでもなかつた。彼女の家の系圖も、祖先の遺骸も、碑文も、 實際生活上の競爭の於いてテスを助ける力もなく、有りふれた百姓逹以上に、 踊り相手うぃ惹きつけることさへ出來なかつた。ビィクトリア朝の金錢の助けを受けないノルマンの血を引いてゐる者は、 まづその位ゐのところだつた。 他の者を蹴落して得意になつてゐる娘の名は、何と言ふのか、それはつひぞ傳へられなかつたが、 彼女はその晩、第一番に男の踊り相手を得て身に餘る幸福を味つたといふので、 皆の者から羨ましがられないではゐなかつた。が、一人が手本を示したのに勢ひづいて、 その場に一人も闖入者の無い間は、急いで門に入らうとしなかつた村の若者共も、 今はさつさと入り込んで行き、間もなく舞踏の組全部に、田舍の若者氣分が漲つて、 遂に倶樂部一の不縹緻女さへも、男の踊手の役目をして踊らないで濟むまでになつた。 教會の時計が鳴つた。すると、急に學生は、出かけなくてはならないと言つた -- 彼は、我を忘れてゐたのだつた -- 仲間の者逹と、一緒にならなくてはならないのだ。 舞踏から脱けかけた時、彼はテス・ダアビフィールドを眼にした。 實を言へば、その娘の大きな眼は、何故私を選ばかなつたのと微かに責めるやうな表情を浮べてゐた。 彼も亦、テスが尻込みしてゐた爲めに、彼女を見つけないでしまつたことを、今更殘念に思つた。 彼は、そんなことを考へながら、牧場を立ち去つた。 永く手間取つてゐた爲めに、彼は飛ぶやうにして、西の方へと小徑を駈けた。 そして見る間に窪地を通り過ぎ、次の小山へ登つた。 彼はまだ兄逹には追ひつかなかつたが、一休みして息を入れ、後ろを振返つて見た。 彼も一緒に交つて皆がくる〜廻つてゐた時と同じやうに、 緑の圍ひ場には、娘逹の白い姿のくる〜廻つてゐるのが見えた。 彼のことなど、彼女等はもうまるつきり忘れてしまつてゐるやうだ。 だが皆の中で、たゞ一人だけは例外らしかつた。その白い姿は、 獨り離れて生垣の傍に立つてゐた。その位置から判斷して、それが、 彼と踊らなかつた綺麗な處女《をとめ》であることを彼は知つた。 それが極く些細なことではあつたが、彼には、自分が見落した爲めに、娘の氣を惡くしたと直感的に思はれた。 彼女に踊らうと頼めばよかつたのになあ、とも思ひ、また名を聞いておけばよかつた、とも思つた。 彼女は、大へん愼み深く、また大へん表情が豐かで、その薄い白の上衣を着てゐるところは、 如何にも柔かい感じだつたので、彼はまづい事をしたな、と感じた。 けれども、もうどうすることも出來なかつたので、彼はぐるりと歩を向け更《か》へ、 身を屈めて、脚を早めながらそのことを頭から振り拂つてしまつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- テス・ダアビフィールドの方はどうかといへば、さう易々とその出來事を自分の考へから逐ひ拂ひはしなかつた。 彼女は永い間、またと踊る元氣が出なかつた。無論相手は轉がる程あつたらうが、だが、どうだらう! それ等は先刻の見慣れぬ青年が話したやうな、氣の利いた口は利かなかつたのだ。陽の光が、 丘の上を去つて行く若い見知らぬ人の姿を吸ひ込んでしまつた時、 彼女は初めて一時の悲哀を振ひ落し、そして、彼女の所謂相手に、踊らうと答へるやうになつた。 仲間と一緒に、彼女は暗くなるまでゐた。そして、多少は面白さうに舞踏に加はつてゐた。 だが、まだ戀心を知らないから、彼女は全くたゞ調子を揃へて踊ることだけを愉快に感じて、 舞踏を樂しむのであつた。男から言ひ寄られ、そしてその手に落ちた娘逹の、 『柔かい苛責、苦い甘味、快い苦痛、心持よい悲嘆』を見た時も、さういふ場合に、自分だつたらどうするだらうか、 などゝは、夢にも考へなかつた。舞踏の時、彼女の相手にららうとして、青年逹がするいがみ合ひも、 口喧嘩も、彼女にとつては、一つの慰み -- たゞそれだけのものであつた。そして、 彼等がしつこくなつて來ると、彼女はそれを叱りつけた。 彼女はもつと遲くまでゐようと思へば、ゐられたかも知れない。が、父の妙な樣子や動作が心に浮んで心配になつて來たので、 踊り仲間から離れて、兩親の家のある村|端《はづ》れの方へ歩みを向けた。 まだ何十|碼《ヤード》と行かないうちに、今離れて來たのとは違ふ、調子づいた音が聞えるやうになつて來た。 彼女の知つてゐる -- 聞き馴れてゐる音だつた。それは家の中から、ゴットン、ゴットン、 規則正しく續いて響いてくる音で、石疊の床に搖籃の底が激しく當る爲めに起つて來るのであつた。 搖籃の動くのに、女の聲がきび〜した疾走調《ギヤロペード》で、『斑《まだら》の牝牛』といふ、 氣に入りの小唄を合せて歌つてゐた -- 私や見た 向うーの青いもーりに 寢ーてゐるあれーを お出でよ、あなた! そしたら其處を教へませう! 搖籃の搖れる音と歌とが、暫らく一齊に止んでは、次のやうなこの上ない癇高い叫び聲が、 歌の節に代るのであつた。 「神の祝福あれ、お前のやさしい眼に!お前の蝋のやうな頬ぺたに!櫻ん坊のやうなお前の口に! キウピーのやうなお前の脛《はぎ》に!そしてお前の體中の何處にも彼處にも!」 この祈祷が終ると、搖籃搖りと歌唄ひとが再び始まり、前のやうに、『斑の牝牛』が續いた。 テスが扉を開け、中の靴拭ひの上に止つて室内の光景を見渡した時は、ざつとこんな樣子だつた。 調子のよい唄が聞えて來るにも拘はらず、室内の光景は娘の心を打つて、言ひ知れぬ侘しさを誘つた。 野原に於ける陽氣なお祭り騷ぎ -- 白い上衣、花束、柳の杖、草原の上の舞踏、見知らぬ人をはつとゆかしく思つた心持 -- から、今この一本の蝋燭に照らされた黄ばんだ憂鬱な光景を見るとは、何といふ變り方であらう! この對照から來る不愉快さの上に、自分は戸外で遊び耽つてなどゐないで、もつと早く歸つて、 母親の家事の手傳ひをしてやればよかつた、といふ冷たい自責の念が、彼女の胸に湧いて來た。 テスが出て行つた時のやうに、母親は子供逹に圍まれたまゝ、いつもの通り、 今も週の終りまで片付かないでゐた月曜の洗濯物の桶の上に身を屈めてゐた。 その桶から、つい前日 -- それはテスには胸に針を刺されるやうな思ひであつたが -- 不注意にも濕つた草の上で、裾の邊を青く染めた、現に羽織つてゐる白い上衣 -- 母が自分の手を使つて絞り、火熨斗《ひのし》もかけた -- も出されたのであつた。 ダアビフィールドの女房は、いつもの通り、前にも言つたやうに、片方の足は末の子供を搖ぶる仕事で塞がつてゐたので、 他の足で體の釣合ひをとつて盥《たらい》の傍に立つてゐた。搖籃の搖軸は、板石の床の上で、 何年も〜の間、澤山の子供逹の重みを受けて烈しい義務《つとめ》を果して來たので、 殆んど平らに擦り減つてしまつた。その爲めに、小さい寢臺の搖れる度に、搖籃全體は大きく跳ね上るのであつた。 ダアビフィールドの女房が歌に夢中になつて、終日|石鹸《しやぼん》の泡の中に浸つてゐた後で、 尚ほ殘つてゐる元氣をすつかり出して搖軸を踏むに連れ、搖籃の中の赤ん坊は、 機《はた》の梭《をさ》のやうに左右に投げつけられた。 ゴットン、ゴットン、と搖籃は搖れた。蝋燭の焔はひとりでにぱつと燃え上り、 ゆら〜と左右に搖らぎ出した。水が彼女の肘から滴り落ちた。歌は結末《きり》の所までどん〜進行した。 ダアビフィールドの女房は、その間中娘をぢつと見詰めてゐた。 小さな子供逹に煩はされてゐる今でもダアビフィールドの女房は、夢中になるほど唄が好きであつた。 どんな小唄でも、他處《よそ》からブラックムーアの盆地へ入つて來る以上、 テスの母親は一週間と經たないうちに、必ずその樂譜を覺えてしまつた。 この女の顏からは、何處やら生々したものが、まだ若い頃の美しさゝへ、まだほのかに輝いてゐて、 テスの持つてゐる獨特の美しさも、主に母から惠まれたものであらうと思はせた。だから、 彼女の顏は、昔の騎士の面影でもなければ、歴史的な傳統を持つたものでもなかつた。 「私が代つて搖《ゆ》りませう、お母さん。」娘は優しく言つた。 「でなきや、この晴着を脱いで、絞る方の手傳ひをしませうか? 私、もうとつくに濟んだことゝ思つてゐましたわ。」 彼女の母は、こんなに長くテスが自分一人の手に家事を任せて置いたことに、 少しも氣を惡くしてゐなかつた。實際その爲めに母親は、いつだつてテスを叱ることはなかつた。 娘が手助けをしてくれないのを、大して氣に掛けることもなく、彼女一人の手で仕事が餘る時は、 たゞそれを知らず識らずのうちに延ばして、骨休めをするのであつた。 が、今晩は又いつになく、彼女は樂しい氣分にさへなつてゐた。母親の樣子には、娘に分らない、 夢見るやうな、放心してゐるやうな、また有頂天らしいところがあつた。 「まあ、よく歸つて來たね、」お終ひの歌の調べが口から出てしまふと、すぐに母は言つた。 「これからお父さんを迎へに行つて來たいがね。でも、それより大切な事があるのだよ。 どんな事か話して上げよう。わけを知つたら、お前もほんとに得意になるだらうよ!」 (ダアビフィールドの女房は、いつも土地の方言を話してゐた。 倫敦仕込みの女教師について小學校の六年級を卒《を》へた彼女の娘は、二種類の言葉を話した。 家ではいくらか土地の方言を、他處《よそ》へ行つた時や身分のある人に對しては、 普通の英語を話すといふ風に。) 「私が出てから後のこと?」とテスは訊いた。 「さうだともね!」 「今日お午《ひる》すぎに、お父さまが馬車に乘り込んで偉さうにしてゐなすつたが、 それと何か關係があるんですか?何故あんな事をしたんでせう?私、恥かしくつて、 穴があつたら入りたい位ゐだつたわ!」 「それも皆その大騷ぎから起つたことなんだよ!私逹がこの地方で一番身分のよい人だつてことが分つたんだよ、 -- 御先祖は、オリヴァ・グラムブル(オリヴァ・クロムウェルを出鱈目に言つたもの)の時代よりもつと昔の -- その大昔の蠻人共の時代までもとどいてゐる -- 石碑や、納骨堂や、紋章や、紋地や、 何や彼やがあるんだよ。聖《セント》チャールズ(チャールズ二世のことをうろ覺えから、出鱈目に言つたもの)の時代にや、 私逹は槲樹記念の騎士に選ばれ、うちの本當の名前は、ダアバァヴィルと言ふんだつて! ……さう聞いたら、お前、得意で胸が脹《ふく》れやしないかね?お父さんが二輪馬車で歸つたのも、 かういふ理由《わけ》からでね。皆の思つてゐるやうに、醉つぱらつてゐたからぢやないんだよ。」 「そりや嬉しいわ。その爲めに何かいゝことがあるの、お母さん?」 「あるともさ!偉いことにならうつてんだよ。そのことが知れたら、屹度、早速私逹と同じ身分の人逹が、 銘々の馬車で此處へやつて來るに決つてゐるんだよ。お父さんがシャストンから歸つて來る途中で、 それを聞いたんだつて。で、あの人は、今まで私にずつと一部始終を話してゐたんだよ。」 「お父さんは何處にゐるの?」と突然テスは訊いた。 母は、返事を濁らして、見當違ひのことを話した -- 「あの人は、 今日シャストンの先生の處へ診て貰ひに行つたんだよ。肺病なんかぢやちつともないらしいよ。 先生の仰しやるや、心臟の周りへ脂肪《あぶら》がたまつたんだつて、まあこんな風に。」 とダアビフィールドの女房は話しながら、ふやけてゐる拇指と人差指とを曲げて、Cの字を形を作り、 もう一方の人差指でそれを差し示した。「『今のところぢや、』つて先生がお父さんに言ふんだよ、 『お前の心臟は、何處も彼もすつかり塞がつてゐる、其處らぢうすかりだ、が、まだ此處のところは開いてゐる、』つて、 先生は言ふんだつて。『それが合はさつたら直ぐ、丁度こんなやうに』」 -- ダアビフィールドの女房は、 兩指の間を閉ぢて圓い環にした。 -- 「『お前は影のやうに死んで行くんだぞ、ダアビフィールド。 今後十年持つかも知れんが、また十ヶ月か、或は十日で逝つてしまふかも知れない。』だつて。」 テスは吃驚したやうな顏色になつた。彼女の父親は、こんなに急に偉くなつたにも拘らず、 そんなに早く、永遠の雲の蔭のあの世へ行つてしまふかも知れないなんて! 「でも、お父さんは一體何處にお出でなの?」と彼女は訊ねた。 母親は、歎願するやうな顏付をした。「ねえお前、怒つちやいけないよ!可哀さうに -- お父さんは、牧師さんから今度のことを聞いていゝ身分になつたんで、すつかり逆上《のぼ》せ上つてしまつて、 半時ばかり前にロリヴァの酒屋へ行つたんだよ。明日は蜜蜂の巣箱を持つて出かけなきやならないんで、 元氣をつけたがつてね。うちがどんな家柄だらうと、その巣箱は屆けなきやいけないんだからね。 今夜、十二時ちよつとすぎにや出かけなくちやなるまいよ。隨分遠いんだから。」 「まあ、元氣をつけるんですつて!」眼に涙を溜めながら、苛々してテスは言つた。 「まあ、元氣をつけるのに、酒場へ行くなんて!で、お父さんと同じに、 お母さんまでそれでいゝと思つてゐるんですね、お母さん!」 彼女の責める聲と苛々した氣分とは、部屋中に漲《みなぎ》り亙り、家具や、蝋燭や、 遊び廻つてゐる子供逹や、母親の顏をさへも怯えさせたやうだつた。 「飛んでもない、」と、むか〜して母親は言つた。「いゝなんて思ひやしないよ。 迎へに行つて來る間、お前に留守番をして貰はうと待つてゐたんだよ。」 「私が行つて來ませう。」 「いゝえ駄目。テス、お前が行つたつて無駄だらうよ。」 テスは逆らはなかつた。母親がどんな譯で反對するのか彼女には分つてゐた。 ダアビフィールドの女房は、自分で行きたいと考へてゐたこの樂しい迎ひに何時でも行けるやうに、 その短衣《ジヤケツ》と帽子とを、手まはしよく傍の椅子にこつそり掛けて置いた。 そしてこの迎ひに行く理由をわざと大袈裟に悲しんで見せた。 「それから、この『占星大全』を納屋へ持つてつといておくれよ。」と、女房は急いで手を拭き、 着物を着ながら續けて言つた。 『占星大全』は、古い厚ぼつたい本で、彼女の手近のテーブルの上に載つてゐた。 ポケットへ入れ〜するので、上下の餘白《あき》が活字すれ〜になるまで擦り切れてしまつてゐた。 テスはその本を取り上げた。そして、母親は出て行つた。 不甲斐ない亭主を迎へに酒屋へ行くことは、子供を育てて行く煩《うる》さい仕事の中で、 ダアビフィールドの女房に今もなほ殘されてゐる樂しみの一つであつた。ロリヴァの店で彼を見つけ、 その傍に一二時間も坐り込み、その間だけでも子供に對する考へ事や心配をすつかり忘れてしまふことは、 彼女を幸福にした。その時ばかりは、彼女の生活も、一種の後光や、夕燒けの殘照といふやうなもので輝やかされるのであつた。 日々の苦勞やその他の現實は、ひとりでにぼんやりした目に見えないものになつて、 たゞ靜かに考へ込む精神上の現象にすぎなくなつてしまひ、 最早や心身をいら〜させる痛切な具體的なものとしては考へられないやうになるのであつた。 子供逹も、眼の前にゐないとなると、眼《ま》のあたり見てゐる時よりも幸福な望ましい付屬物のやうに思はれた。 そして此處では、日常生活の出來事にも、何か浮々した、陽氣な點が見られないでもなかつた。 彼が彼女に言ひ寄つてゐた時分に、今は夫となつてゐる男の傍に坐つて、 その缺點は見ずに愛人としての理想的なところばかり目に留めながら、この同じ場所で味つて得たやうな氣持を、 彼女は今もいくらか味つてゐるのであつた。 幼い者逹と共に取り殘されたテスは、先づ星占ひの本を納屋へ持つて行き、茅屋根の中へしまつた。 この汚れた本は、母の迷信的な恐怖から、一晩中それを家に置くことはならなかつたので、見た後では、 いつも納屋へ持ち歸された。迷信とか、傳説とか、方言とか、又口傳への民謠とか、 どん〜滅びて行く下らないものを身につけた母親と、何度となく改正された法令の下に、 立派な國民教育を受け、標準的な智識を備へた娘との間には、よく言はれるやうに、 二百年の相違があつた。二人が一緒にゐる時は、ジェームズ王の時代と、ヴィクトリア女王の時代とを並べた形であつた。 テスは庭の小徑づたひに歸りながら、今日に限つて、母はあの本で何を確かめたかつたのであらうかと考へて見た。 彼女は、先刻《さつき》の、祖先が分つたことがそれに關係してゐるやうに思つたが、それが單に、 彼女の身の上にのみ關係のあることだとは夢にも思はなかつた。だが、こんなことは考へないやうにして、 小さい子供逹を寢床へ入れて置いて、九歳になる弟のアブラハムと、 『リザ・ルュー』と呼ばれてゐる十二歳六ヶ月の妹エリザ・ルイサと一緒になつて、 晝の間に乾いた襯衣《シヤツ》類に霧を吹いてゐた。テスと次の子との間には、 四つ以上の違ひがあつた。それは、その間にゐた二人の子が幼い頃に死んでしまつたからである。 この爲めにテスは、年下の者ばかりと一緒にゐる時は、自然と母親の代りの態度になるのであつた。 アブラハムの下には、ホープとモデスティといふもう二人の女の子があり、 それから三歳になる男の子、次が赤ん坊で、これは丁度萬一歳になつたばかりであつた。 この子供逹はみんな、謂はゞダアビフィールドといふ船の船客であつた -- 快樂も、必需品も、健康も、生存さへも彼等はすつかり二人のダアビフィールドの考へ通りに任してゐた。 若しダアビフィールド夫婦が、困難や不幸や、饑餓や病氣や墮落や死の方に向つて航路を取るならば、 甲板の下にゐるこの六人の小さな捕虜共もまた、止むを得ず彼等と一緒にそこへ航海しなければならなかつた -- どうする事も出來ない六人の子供逹は、如何なる條件の下でも尚ほ生きたいかどうかなどゝ決して尋ねられた事もなく、 まして、立ち行き兼ねるダアビフィールドの家に生れた以上、どんなにしても遁れられないやうな酷い境遇でも、 尚ほ生きたいかどうかなどゝはつひ尋ねられた事がなかつた。その歌の朗らかで純眞なやうに、 近頃ではその人生觀も深遠で、信頼するに足ると思はれてゐるあの詩人(ウォーズウァースのこと)が、 『自然の神聖な計畫』なぞを兎や角言ふ權利を、一體何處から得たのか、それを知りたいと思ふ人もあるだらう。 夜は次第に更けて行つた。父も母もまだ顏を見せなかつた。テスは外を眺めて、マアロットの村を一わたり心の中で歩いて見た。 村は今、その眼を閉ぢるところであつた。到るところ、蝋燭やラムプが消されてゐた。 彼女は、消燈噐《あかりけし》と燈火を消す爲めに差し伸べられた手とを、心の眼で見ることが出來た。 母が迎へに出るのは、たゞ、迎へられるものがもう一人殖えるといふ事にしかならなかつた。 テスは、午前の一時前に發つ積りの、健康のあまりすぐれない者が、こんな遲い時刻に、 酒屋なんぞで自分の祖先を祝つてゐるべきでない事に氣がつき出した。 「アブラハム、」と彼女は弟に言つた。「お前帽子をかぶつて -- 怖くはないだらう? -- ロリヴァまで行つてね、お父さんとお母さんがどうしてゐるか見て來ておくれよ。」 子供はすぐさま席から跳び上つて、扉を開けた。夜はすつかり彼を呑み込んでしまつた。 そして、更に半時間は過ぎた。が夫も、妻も、子供も歸らなかつた。兩親と同じやうに、 アブラハムもまた、あの誘惑的な酒場におびき寄せられて捕まつたのであらう。 「自分で行かなくては駄目だ、」と、彼女は言つた。 リザ・ルューは、その時寢床についたのであつた。そこでテスは皆を閉め込んでおいて、 急ぎ足には適しない、暗い曲つた小徑を、つまり裏通りを歩き出した。この通りは、 僅かな地所にはまだ價格が生じなかつたやうな頃、又、 一本しか針のない時計で時間を計つて十分に間に合つてゐた頃に設けられたものだつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 長い人家の途切れ勝ち村の、此方《こつち》の端にあるたつた一軒の酒屋であるロリヴァ亭は、 半免許《オツフライセンス》(酒を賣るだけで飮むことは許されぬ免許)しか持つてゐなかつた。 だから、誰も店の中では表向きで飮む譯には行かなかつたので、飮酒者の爲めに公然と許されてゐる設備の範圍は、 幅六|吋《インチ》、長さ二|碼《ヤード》位ゐの小さな板に、きちんと限られてゐた。それは、 庭の柵へ針金で結びつけてあつたから、まるで棚のやうであつた。酒好きな旅の者は、 往來で立ち飮みして、埃りだらけの地上に飮みかすを投げてはポリネシア群島の地圖のやうな模樣を描くと、 その酒杯をこの板の上に置いて、店の中にゆつくり休めるやうな席があればいゝがなと殘念がるのであつた。 旅の者はこんな具合だつたが、同じやうに殘念がる土地のお客もあつた。そして、慾するところには、 道自ら通ずである。 二階の廣い寢室 -- その窓には、この家の主婦ロリヴァの女房が、 近頃掛け古して捨てた大きな肩掛が厚い窓掛けになつてゐた -- に、何れも飮酒の福祉を求めてゐる十二人ばかりの者が、 今晩も集まつてゐた。みんなマアロットのこの村端《むらはづ》れでも、 比較的近い處に昔から住んでゐる顏で、この避難所へ來る御常連であつた。 家の點在してゐる村の遠い方にあつて完全な認可を得てゐる酒屋のピュア・ドロップまでは、 なか〜遠いので、その設備も、此方《こつち》の端《はづ》れに住む人逹には、 實際何の役にも立たなかつた。たゞ遠いといふだけではなく、酒の質といふもつとも大切な問題があつて、 それがどうやら、廣い家の中で向うの主人と一緒に飮むよりは、屋根裏の隅でロリヴァと飮む方がいゝといふ、 世間一般の評判を裏書きするのであつた。 部屋には殺風景な四本柱の寢臺が備へてあつて、その三方に集まつてゐる五六人の者に坐り場所を提供してゐた。 他の二人の男は箪笥の上に上つてゐ、もう一人は樫板で出來た彫刻のある『貴重箱』の上に憇《やす》んでをり、 洗面臺の上には二人、腰掛にはもう一人掛けてゐた。かうして、どうにかかうにか皆くつろいで、席についてゐた。 この時の皆の快さといふものは、魂が脹らんで、體の容積《かさ》よりも大きくなり、 部屋中の遠慮會釋もなくその人柄を一ぱい擴げるまでになつてゐた。 こんな風で、部屋もその家具も、ますます立派に見え、贅澤なものになつて來た。 窓にかゝつてゐる肩掛は、華やかな壁掛となり、箪笥の眞鍮の把手は、 まるで金の訪問槌《ノツカア》でゞもあるかのやうに見え、彫刻のある寢臺の柱は、 ソロモンの殿堂の莊嚴な柱と多少の縁故があるやうに思はれた。 ダアビフィールドの女房は、テスと別れてから急いで此方《こつち》へやつて來て、 表の扉を開け、眞暗な階下の部屋を横切り、それから、 [金|(撰%>);#2-91-37]《かけがね》の仕掛をよく知つてゐる指の所有者のやうに階段の扉を開けた。 彼女は曲つた階段を、今までよりもゆつくり踏んだ。そして、女房が一番上の段についてゐる燈火の中に顏を現はすと、 寢室に集まつてゐた人々の目はその方へと向けられた。 「 -- 倶樂部の運動會を續ける爲めに、私の費用でお通し申した近しい二三の方々の集りでございまして。」と、 足音を聞きつけると女主人は階段の方を覗き込みながら、教理問答を繰り返す子供のやうに、 べら〜と口走つた。「まあお前さんかね。ダアビフィールドのお上さん -- まあ -- いやに驚かすのね! -- 私はまた、何かおかみから見えた取締りのお方ぢやないかと思つたのよ。」 ダアビフィールドの女房は、この祕密室にゐる他の人々の目禮や點頭《うなづき》に迎へられて、 夫の坐つてゐる方へ通された。夫は低い調子で、獨り夢中になつて、鼻唄をうたつてゐた -- 「俺や其處此處の誰にも負けやせん!俺にやキングスビア・サブ・グリーンヒルに、大きな廟所があるんだ。 ウェセックスの誰にも負けねえ、立派な遺骨が手にへえつたんだ!」 「それに就いて私の思ひついた事なんだが、お前さんに話したい事があるんだよ -- 素晴らしい考へだわ!」 と、快濶な女房が囁いた。「ねえお前さん、私が分らないのかい?」彼女は夫を輕く肘で突いた。 すると夫は、窓硝子でも覗くやうに、彼女を眺めながら、例の如く吟誦を續けた。 「しッ!若しあんた、そんな大きな聲で歌はないで下さいよ。」と此家《ここ》の主婦が言つた。 「もしおかみの者が誰か通りかゝりでもして、うちの免許が取り上げられたらどうするだね。」 「私逹の今度の事を、夫《うち》があんたに話したでせうね?」とダアビフィールドの女房は訊いた。 「えゝ -- 一寸。それでお前さん少しでもお金が儲かると思つてゐなさるの?」 「あゝそこが内證なんでね。」と、ダアビフィールドの女房は分別あり氣に返事をした。 「が、お抱への馬車に乘らないまでも、それに縁故があるだけでもいゝわ。」 彼女は皆に聞えるやうに言つてゐた聲を落して、夫に向ひ、低い調子で續けた -- 「お前さんからあの話を聞いてからつてもの、始終考へてゐたんだよ。チェイズの森の端のトラントリッヂの方に、 ダアバァヴィルつて大金持の御婦人がゐるつてことをさ。」 「へえ -- それがどうしたんでえ?」と、ジョン閣下は言つた。 彼女はその話を繰り返した。「その御婦人は我家《うち》の親類に違ひないよ、」と彼女は言つた。 「それで私のしようつてことは、親類だと言つてテスを遣らうといふのさ。」 「さう言はれて見りや、成程、さういふ名前の御婦人がゐらあ。」と、ダアビフィールドが言つた。 「トリンガム牧師は、それは思ひつかなかつたんだ。が、その御婦人だつて、俺等と並んで見りや何でもねえ -- 確かに、ノルマン王時代から、長く榮えてゐる俺等が分家に違えねえ。」 この問題が論じられてゐるうち、その方へ餘り氣をとられてゐたので、小さなアブラハムはいつの間にか部屋に入り込み、 歸つてくれと二人を促す機會を待つてゐたことに、夫婦とも氣がつかなかつた。 その御婦人は金持だから、屹度娘の世話をしてくれるに違ひないよ、」 とダアビフィールドの女房は續けた。「さうなつたら、大へん結構な事ぢやないかね。 一つの家から出た分家同志でゐて、お互ひに往き來しないなんて法はないからね。」 「さうだよ、俺等はみんなで親類だつて言はう!」寢臺の下からアブラハムは快濶に言つた。 「そいで、テスがその奧さんの家にゐるやうになつたら、みんなで行つて、その女《ひと》に會はうぜ。 俺等はその女《ひと》の馬車に乘つて、何時でも外出着《よそぎ》を着るやうになるんだ。」 「どうして此處へ來たんだい、お前?何を馬鹿いふんだね!あつちへ行つて、私等が出掛けるまで梯子段で遊んでおゐでな! ……ところで、テスはどうしてもこの分家へやらなくちやいけないよ。あれなら、 屹度御婦人の氣に入るわ -- テスなら屹度。そしたら、大抵、誰か立派な紳士が彼女《あれ》と結婚するやうになるよ、 早い話が、かうなるつてことは私にはもう分つてゐるんだから。」 「どうしてだい?」 「『占星大全』で彼女《あれ》の運勢を見たら、違はずにその卦《け》が出たんだもの!…… 今日、あの娘《こ》の立派に見えたことゝいつたら、ほんとにお前さんに見せたかつたよ。 皮膚《はだ》つたら、公爵夫人のやうにしなやかでさ。」 「向うへ行くつてことを、あの娘《こ》は、何と言つてるんだい?」 「まだ訊かないがね。彼女《あれ》はまだそんな親類の御婦人があるつてことを知らないんだよ。 でも、きつと玉の輿に乘ることになるだらうよ。行くのが厭だなんて、まさか言ひやしまい。」 「テスは、變な娘《こ》だぜ。」 「でも、心の底はおとなしいよ。彼女《あれ》のことは、私に任しといておくれ。」 二人の會話は、こつそり交されてゐたのだが、その意味は周圍《まはり》の者にもよく分り、 今ダアビフィールド夫婦は、こゝにゐる普通の人逹より、重大なことを話してゐるのだ、 また綺麗な總領娘のテスは、立派な行末を持つてゐるのだと思はせた。 「テスは可愛い面白い娘《こ》だよ。皆と一緒に、元氣に村を跳び廻つてるところを見た時、 今日、俺ァさう獨言《ひとりごと》をいつたよ、」と低い調子で、 年長の醉ひどれの一人が言つた。「だが、ダアビフィールドの上さんは、 これだけは覺えておかなきやいけねえよ、床の上ぢや、青い麥芽《もやし》は出なねえつてことをな。」 これは特別な意味のある方言だつた。そして、これには誰も答へる者がなかつた。 會話は廣くいろ〜なことに及んで行つた。やがて、階下の部屋を横切る他の跫音《あしおと》が聞えた。 「 -- 倶樂部の運動會を續ける爲めに、私の費用でお通し申した近しい二三の方々の集りでございまして。」 主婦は闖入者に對して常に用意してある紋切型の文句をまた使つたが、その後で、 やつと新來者がテスであることを知つた。 皺の寄つた初老の者には、交際の仲立ちとして決して不適當でない此處に漂つてゐる酒精《アルコール》の雰圍氣の中へ來ると、 この若い娘の容貌は、母親の眼にさへひどく不調和のやうに見えた。 テスの黒い眼から、まだ叱責の閃きの出ないうちに、父と母とは席から起ち上り、急いでビールを飮み干し、 彼女の後に跟《つ》いて階段を下りて行つた。ロリヴァの主婦は、すぐにその跫音《あしおと》に注意した。 「どうぞ、音を立てないで下さい、後生ですから皆さん。でないと、免許を取り上げられたり、 呼び出しを喰つたり、その他どんな事になるか分りませんから!ではおやすみ!」 テスが父の片腕を持てば、女房はもう一方の腕を支へるといつた具合で、彼等は一緒に歸つて行つた。 實際を言へば、彼は、ほんの少しゝか飮んではゐなかつた -- その分量は、常習の飮酒家なら、 その足の運びにも跪いて禮拜するのにも少しも差支へない、日曜の午後に、 教會へ平氣で飮んで行ける分量の四分の一にも足りなかつた。だがジョン閣下は、體質が弱いので、 このやうな些細な罪を山程も犯してしまつた。新鮮な空氣のところへ來ると、彼はすつかりひよろ〜になつて、 今倫敦の方へ向つて進んでゐるかと思ふと、次にはバスの方へ向つて進み、その度に三人の列を傾《かし》げるのだつた -- それは夜の歸り途には、どの家族にもよく起るやうに滑稽な結果を生じたが、 しかも大抵の滑稽な結果と同じやうに、それは、結局それほど可笑しくもなくなつて來た。 二人の女は勇ましくも出來るだけ、當のダアビフィールドにもアブラハムにも、 それから自分逹自身にも、この強行軍と退却とを、醉つた爲めではないやうに見せかけた。 かうして彼等は段々自分逹の戸口へ近づき、愈々すぐ側まで來るとこの家の主人公は、 自分の住居《すまひ》の小さいのを見て、恰も勇氣を起さうとするかのやうにいきなり前の歌の疉句を怒鳴り出した -- 「キングスビアの一族の廟所を手に入れた!」 「しッ -- そんな馬鹿はお止しよ、お前さん。」と彼の女房は言つた。 「何も、お前さんだけの家に限つて昔偉かつたんぢやあるまいし。アンクテル家や、ホーシイ家や、 それにトリンガム家だつて見て御覽 -- 大抵お前さんぐらゐに落ちぶれてしまつてさ -- なるほど、その人逹よりやお前さんの方が偉かつたには違ひなからうがね。有難いことに、 私なんかはいゝ家柄に生れたんぢやないから、何もそんな風に恥かしい事なんかありやしない!」 「それはどうだかな、生れつきからいやァ、我家《うち》ぢやお前が誰よりも一番落ちぶれてゐるんぢやあるめえか、 そして昔は全く王樣や女王樣の出た家柄ぢやねえか、とわしは思ふぜ。」 テスは先祖などゝいふ考へよりも、現に胸の中でもつとはつきり考へてゐることを言ひ出して、 話題を轉じた -- 「お父さんは、明日そんなに早く蜜蜂の巣箱を持つて商買《あきなひ》には行けないでせう。」 「わしか?わしは一二時間も經つたら、あたり前になるよ。」とダアビフィールドは言つた。   家族の者が皆床に就いたのは十一時であつた。そして土曜日の市の始まる前に、 キャスタブリッヂの問屋へ蜜蜂の巣箱を渡さうといふならば -- そつちへ行く道は二十哩から三十哩の距離の惡い道で、 馬も馬車も遲いことこの上なしだから、遲くも翌《あく》る朝の二時には、それを積んで立たねばならなかつた。 一時半にダアビフィールドの女房は、テスと他の弟妹逹が寢てゐる大きな寢臺へやつて來た。 「可哀さうにあの人は行けないんだよ。」と女房は總領娘に言つた。その娘の大きな眼は、 母の手が觸れた刹那にもう開いたのであつた。 テスは夢とこの知らせとの境に、我を忘れたやうにして、寢臺の上に起き上つた。 「でも、誰かゞ行かなくてはね、」と彼女は答へた。「もう巣の季節には遲いんだし、 今年はもうぢき巣立ちも濟んでしまふし、もし來週の市まで持つて行くのを延ばせば、 もう要らないつて斷られて、持てあますことになるわね。」 ダアビフィールドの女房は、この急場の處置にはちよつと困つたやうな樣子をした。 「誰か若い者が行つてはくれまいかね?昨日お前と大へん踊りたがつてゐたうちの誰かでも。」 と、女房はやがて仄めかした。 「飛んでもない -- どんな事があつたつてそんな事して貰ひたくないわ!」とテスは昂然として言つた。 「さうして、皆にその理由《わけ》を知らせるなんて -- そんな恥かしいこと出來るもんですか! 私だつて行けない事はないと思ふわ、若しアブラハムさへ附き合つて一緒に行つてくれたら。」 母親は到頭この考へに同意した。小さなアブラハムは、同じ部屋の隅で、 熟睡から起されて心はまだ夢の世界にゐながら着物を着せられた。その間に、テスは急いで身支度をしてしまつた。 二人は提燈を點けて、廏の方へ出て行つた。今にも壞れさうな小さな荷車には、もう荷が積まれてゐた。 そこで娘は、その荷車とあまり變らないよた〜なプリンスといふ馬を引き出した。 可哀さうにその生物は、まるで生ある者はみんな屋根の下に憇《やす》む筈のこの時刻に、 外に出て働かされようとは、どうしても信じられないと言つたやうに、不思議さうに夜を、 提燈を、二人の姿を見渡した。二人は、蝋燭の燃え殘りを何本も提燈の中へ入れて、 荷物の右側へかけ、初めの登り坂の間だけは、そんなに力のない動物の荷が過ぎてはならないと、 馬の肩のところについて歩きながら、馬を前へ進めて行つた。 出來るだけ元氣をつける爲めに、二人は、提燈の火と、少しばかりのバタ附きパンと、 話とで、假の朝を拵《こしら》へ上げた。本當の朝はまだなか〜來さうもなかつたから、 アブラハムは、だん〜はつきり眼が覺めて來るに連れて(といふのは、今までは夢うつゝで動いてゐたのだつたから) 大空を背景として、いろ〜の暗い物がつくつてゐる竒妙な形を、この樹は穴から跳び出した怒つた虎のやうだとか、 あの樹は巨人の頭に似てゐるとか言ふ風に、話し出した。 二人は、厚い褐色の茅葺の下に、默つてうと〜と眠つてゐるストアキャッスルの小さな町を通り過ぎてしまつて、 やゝ高い處へ逹した。左手には、更に高い、 殆んど南ウェセックスでは一番高いかも知れないバルバロオまたはビイルバロオと呼ばれる高地が、 壕に取り卷かれて天空に聳えてゐた。この邊から長い道は、少しの間、可なり平らになつてゐた。 二人は、荷馬車の前の方に乘つた。そしてアブラハムは、むつちり考へ込むやうになつた。 「テス!」彼は暫らく默つてゐた後で、話の前置きといつた調子で言つた。 「なあに、アブラハム。」 「俺等《おいら》がいゝ身分になつたんで、姉さん嬉しかァないかね?」 「大して嬉しくもないわ。」 「でも、姉さんは紳士と結婚するやうになつて嬉しいだらう?」 「何なの?」とテスは面《おもて》を上げながら言つた。 「我家《うち》の偉い親類の手で、或る紳士と結婚するやうになるのさ。」 「私が?我家《うち》の偉い親戚だつて?そんな親戚なんか一軒もありやしないわ。 何だつてお前そんな事を思ひついたの?」 「俺ァお父さんを見つけに行つた時、お父さんとお母さんがロリヴァで話し合つてるのを聽いたんだよ。 トラントリッヂの方に、我家《うち》の分家筋で、金持の御婦人がゐるんだつてお母さんが言つてたよ。 姉さんがその女《ひと》に親類の名乘りをすれば、その女《ひと》が姉さんを紳士と結婚するやうにしてくれるつて。」 姉は急に靜かになり、考へ深い沈默に沈んだ。アブラハムは、人の言ふことを聽くよりは話すことが愉快なので、 喋り續けた。だから、姉が上の空であることなどは問題でなかつた。 彼は巣箱に靠《もた》れかゝつて、上を向きながら、この二人のはかない生命の存在からは全然遠くかけ離れて、 眞黒な虚空のまつたゞ中に鼓動し、冷やかな脈搏を打つてゐる星について考へた事を述べた。 あのきら〜してゐるものまではどの位ゐあるのだらうか、また神樣は星の向う側にゐらつしやるんだらうか、 と彼は訊ねた。だが、その子供らしい無駄口は、時折、 造化の驚異よりももつと深い感動をさへ彼の空想に與へたものに戻つて行つた。 もしテスが紳士と結婚して金持になつたら、ネットル・コム・タウト程に近く星を引き寄せるやうな、 大きな望遠鏡が買へるだけのお金が出來るだらうかなどゝ。 今また新しく持ち出された、もう一家中に浸み込んでゐるらしいこの話題は、すつかりテスを苛々させた。 「そんなこと、今、どうだつていゝぢやないの!」と彼女は叫んだ。 「星も一つの世界だと言つたね、テス?」 「えゝ。」 「俺等《おいら》の世界とすつかり同じかい?」 「分らないわ。でも、さうだらうとは思ふわ。どうかすると林檎の木に生《な》つてゐる林檎のやうにも思へるの。 大抵は見事で、無疵《むきず》で -- 蟲がついてゐるのは二つか三つ。」 「それで、俺等《おいら》はどつちに住んでゐるんだい -- 見事な方にか、それとも蟲のついた方かい?」 「蟲のついた方よ。」 「運惡く、無疵《むきず》なのを選《よ》らなかつたんだね。幾らでも、そんなのがあつたんだのに!」 「さうよ。」 「本當にそんなものかい、テス?」アブラハムはこの珍らしい話を又考へなほして、ひどく感心し、 姉の方を向いて言つた。「俺逹は無疵の方を選《よ》つたら、どうなつてゐるんだらうか?」 「さうね、お父さんもあんなに咳をしてふら〜してゐる事はあるまいし、 醉つぱらひすぎてこの旅に出られない事もなかつたらうし、それにお母さんだつて、 いつも洗濯ばかつりしてゐて、どうしても切りがつかないなんて事もなかつたらうよ。」 「それで、姉さんも生れながら金持の御婦人だつたらうなあ。紳士と結婚して、金持になるにも及ばなかつたらうなあ?」 「あらお前、止しておくれ -- もうそんな事をいふのは止しておくれ!」 アブラハムは、自分一人で考へ込むまゝに放つて置かれたので、 直きに眠氣がさして來た。テスは、馬を馭すことは上手ではなかつたが、差し當り、 この荷馬車の指揮を自分一人に引き受けて、アブラハムが眠りたいといふのなら、 關《かま》はず眠らして置いてもいゝと考へた。彼女は、落ちないやうに蜂の巣箱の前に巣のやうなものを造つてやつた。 それから手綱をとつて、前のやうにゆる〜と進んだ。 プリンスは、どんなことにしろ餘計な運動をするだけの元氣がなかつたから、 殆んど注意する必要もなかつた。もう氣を散らされる相手もないので、 テスは巣箱に靠《もた》れかゝつて、今までよりも深く物思ひに沈んだ。 テスの兩肩をかすめて行く樹木や生垣の默つた行列が、現實とも思へない夢幻の光景に結びつくやうになつて來た。 そして、時折吹き起る風は、空間的には宇宙に、時間的には太古から現在につながら、大きな、 何か限りなく悲しい魂の嘆息となつた。 それから彼女は、自分のこれまでの生活に起つた出來事の網目を考へて見ると、 父の誇りとしてゐた事が空虚であるやうに思へた。母親が空想してゐる、 自分を待つてゐるらしい紳士の求婚者が見えるやうに思つた。その求婚者が、自分の貧窮を、 自分の雲にかくれてゐる家柄や身分を嘲笑《あざわら》つてゐる顰《しか》め顏をした人として映るやうに思へた。 何もかもが、だん〜馬鹿々々しくなつて來た。そして、どうして時間がたつて行くか、 もう彼女には分らなかつた。坐つてゐると、突然どかつと搖られ、テスは、 自分もまた何時か陷つてゐた眠りから眼を覺ました。 彼女が意識を失つた時から見ると、もう大分先へ進み、そして荷車は止つてゐた。 彼女がこれまでに聞いたことのないやうな洞聲《うろごゑ》の呻きが、 「あゝ、危ない!」と叫ぶ聲に續いて前方から聞えて來た。 荷車に懸けてあつた提燈は既に消えてゐたが、別なのが彼女の顏を照してゐた -- 彼女のに比べると、ずつと明るかつた。何か大事件が起つたのだ。馬具は、何か道を塞《ふさ》いでゐるものに絡まつてゐた。 テスは周章《あわ》てゝ跳び下りた。そして、恐ろしい事實を發見した。 例の呻き聲は、父のものである可哀さうなプリンスが發するのであつた。 いつものやうに、二輪の音のしない朝の郵便馬車が、矢のやうにこの小徑を駈けながら、鈍い、 燈の消えたテスの荷車に乘りかけてしまつたのだつた。尖つた車の轅《ながえ》は、 まるで劍のやうに不幸なプリンスの胸に刺さつてゐた。そして、疵口《きずぐち》からは、 生命の血が流れをなして迸り、しゆう〜と音を立てゝ街路へ落ちてゐた。 テスは絶望に餘り前へ跳び出して、片手を疵口《きずぐち》に當てたが、 たゞ眞赤な滴《しづく》を顏から下袴《スカアト》へはねかけられただけであつた。 彼女はもう施す術《すべ》もなく、たゞ立つたまゝ眺めてゐた。 プリンスもまた、出來るだけ長く、しつかりと動かずに立つてゐたが、たうとう、俄かにgたりと倒れてしまつた。 この時にはもう、郵便馬車の馭者は彼女と一緒になつて、プリンスの温かい體を引きずつて、馬具を解き始めた。 だが、馬はもう死んでゐた。差し當つてこれ以上どうすることも出來ないのを知つて、 馭者は怪我しなかつた自分の馬の方へ戻つて行つた。 「お前さんが間違つた側を來たんだ。」と彼は言つた。「わしや、郵便|嚢《ぶくろ》を持つて出掛けなきやなんねえから、 お前さんは荷物よ一緒に、此處で待つてゐるより他に仕方がねえだよ。わしは、 出來るだけ早く誰か手傳ひに寄越すからな。だん〜明るくなるから、恐いことなんかありやしねえ。」 彼は馬に乘り、さつさと進んで行つた。一方テスは、立つて待つてゐた。大氣は青白くなり、 小鳥は生垣の中で身を搖り動かし、起きて、囀《さへづ》り出した。小徑は、白い面をすつかり現はした。 テスも一際青白い彼女の顏を浮き立たせた。彼女の前にある大きな血の溜りは、 もう凝結して眞珠色を帶びてゐた。そして太陽が昇ると、プリズムを通して見るやうな無數の色彩が、 それから反射した。プリンスは、靜かに硬くなつて横たはつてゐた。眼は半ば開き、 胸の疵口は、その體躯を生かしてゐたものが、すつかり流れ出してしまつたとは思はれないほど小さく見えた。 「みんな私のした事だ -- みんな私の!」娘はつく〜゛その場の光景を見ながら叫んだ。 「何の言ひ譯もないわ -- ほんとにないわ。お父さんやお母さんは、これから何で食べて行くだらう? お前、お前!」彼女は、この不祥事の起つてゐた間をずつと、ぐつすり眠つてゐた子供を搖り起した。 「もう荷をもつて行く事も出來ないよ。 -- プリンスが死んでしまつた!」 アブラハムがすつかりその場のことを悟つた時に、彼の若々しい顏には、五十歳の人のやうな皺が刻まれた。 「まあ、たつた昨日のことだつた、私が踊つたり笑つたりしたのは!」彼女は獨り自分に言ひ續けた。 「そんなに馬鹿だつたんだと思ふと!」 「これも、俺等が蟲のついた星に住んでゐて、無疵の星にゐないからだよ。 ねえテス、さうだらう?」アブラハムは涙ながらに呟いた。 二人は默つて、限りが無いと思はれるほど永い間待つてゐた。やがて何かの音がして、 近づいて來るものがあつたので、郵便馬車の馭者が約束を堅く守つてくれたことが分つた。 ストアキャッスルの近傍から、或る百姓の下男が丈夫な短脚馬《コツブ》を引いてやつて來た。 その馬は、プリンスの代りに蜂の巣箱の荷車につながれた。そして荷物は、キャスタブリッヂの方へ運んで行かれた。 その同じ日の夕暮には、空車《からぐるま》が椿事のあつた現場へ着いた。 プリンスは、朝から溝の中へ寢かされてゐたのである。が、血溜りの場所は、 通りすがりの馬車の爲めに散々掻き荒されてしまつたものゝ、 まだ道の眞中に見えてゐた。プリンスの遺骸は、今、彼が以前に引いてゐた荷馬車の中へ引き上げられた。 彼は、空中へその蹄《ひづめ》を上げ、沈みかけてゐる夕陽の光を靴にうけて、 マアロットまで八九哩の道を引き返した。 テスは、それよりも早く歸つてゐた。どういふ風にしてその話をしたらいゝか、それは、 彼女の思案にあまることであつた。兩親の顏を見ると、二人はもうその不幸を知つてゐるといふことが分つたので、 自分の不注意を、絶えずいやが上にも責めることに變りは無かつたが、彼女は言ひ難い事も言はずに濟み、大助かりであつた。 しかし、この一家の者は無精なので、丹精な一家に生じた時ほどこの災難は手ひどくこたへなかつた。 尤もこの一家の場合は直ちにこれが家の破滅であり、他の家の場合なら單に不便を感ずるに過ぎないことであるが。 ダアビフィールド夫婦の顏には、彼等よりももつと娘の幸福を願つてゐる兩親だつたら、 娘に對して爆發さすであらうやうな、眞劍な激怒が少しもなかつた。 彼女が自分自身を責めてゐるほどに、テスを責める者は一人もなかつた。 プリンスは老衰してゐたので、その屍《しかばね》に對しても、廢馬買ひで鞣皮《なめしがは》業をやつてゐる男は、 ほんの二三|志《シリング》しか出すまいと分つた時、ダアビフィールドは、巧みに臨機應變の策を取つた。 「いや。」と彼は落着き拂つて言つた。「わしやあの年寄り馬の體は賣らねえ、わし逹ダアバァヴィル家の者が、 この國で騎士だつた時ァ、猫に食はせるつて、軍馬を賣りやしなかつた。高が二三|志《シリング》位ゐの金なんか、 奴等に預けて置くよ!この馬ァ、生きてゐる時によく勤めてくれた。今となつてあの馬を手放すことァいやだ。」 その翌日、彼はプリンスの爲めに庭に墓を掘るのに、 幾月もの間家族の爲めに作物を造るとて稼いだよりももつと精出して働いた。 穴が出來上つた時、ダアビフィールドと彼の女房は、馬の體の周圍に繩を結へて、小徑を墓穴の方へと引いて行つた。 その後から、子供逹は葬式の列を作つて隨《つ》いて行つた。アブラハムとリザ・ルューは、啜り泣いた。 ホープとモデスティは、大きな叫び聲で悲しみを訴へ、それは壁にまで反響した。 それからプリンスが穴へ入れられると、皆はそ墓の周圍に集つた。稼ぎ手は、もう皆の手許からさらはれてしまつた。 彼等は一體どうするのだらう? 「あの馬は天へ昇つたんだらうか?」啜り泣きをしながらアブラハムが訊いた。 その時ダアビフィールドは土をかけはじめ、子供等は、また泣き出した。 が、テスだけは默つてゐた。彼女の顏は、自分が逆殺者であると思つてゞもゐるかのやうに、 涙も出さず、眞蒼《まつさを》になつてゐた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 專ら馬を頼りとしてゐた行商は、忽ち手筈が狂つてしまつた。たとひ貧窮とは言はないまでも、 困苦の影が遠くの方に現はれて來た。ダアビフィールドは、この地方で言ふのらくら者で、 時々は相當に働く氣力を見せるのであつたが、その働くときと手の要るときとが、 うまく一緒になるのを當てにする譯には行かなかつた。その上、 彼は日稼人のやうに時を限つてする仕事には馴れてゐなかつたので、 その手の要るときに働くにしても、別に身を入れてやるでもなかつた。 一方テスは、兩親をこの窮地に陷れた當人だけに、どうしたら其處から彼等を救ひ出すことが出來ようかと、 一人默つて考へてゐた。すると母親は、自分の計畫を打ち明けた。 「惡いこともあれば、善いこともあるつてことを考へなくちやいけないよ、テス、」と母は言つた。 「それで、お前の立派な血筋も、お誂へ向きの時に分つたといふものだね。 是非お前の親類の人逹に當つて見なくちやならないよ。お前知つてるかい、 チェイズの森の裾に住んでゐる大へんな金持のダアバァヴィル夫人がゐることを? その方はきつと我家《うち》の親類に相違ないよ。お前はその方の處へ行つて、親類の名乘りをし、 我家《うち》の困つてゐるのを何とか助けていたゞくやうに頼んでくれなくちやいけないよ。」 「私、そんな事しなくないわ。」と、テスは言ふ。「さういふ奧さんがゐらつしやるなら、 唯その方から親しくしていただけたら、それで結構でせう -- お助けなど望まないで。」 「お前だつたら、屹度、何でもしていたゞくやうにその方に取り入ることが出來ると思ふんだがね、お前。 それに、其處にはお前の知らないことだつてあるだらう。私や聞いたことがあるんだがね、お前。」 自分の仕出來した損害のことがひどく氣にかゝつてゐたので、テスは何時になく、 母の願望《ねがひ》に服從するやうになつてゐた。が、彼女から見れば、 こんな當てにもならない利益にありつかうといふ計畫を企てゝ、何故母親がこれほど悦んでゐるのか、譯が分らなかつた。 母親はいろ〜と取り調べて、このダアバァヴィル夫人が、 淑徳や仁慈にかけては並ぶものゝない婦人であることを發見したのかも知れなかつた。 けれども、テスには自尊心があつたので、貧乏親類の役廻りをするのは、殊更厭に思はれた。 「私、いつそのこと仕事でも見つけるやうにした方がましだわ。」と彼女は呟いた。 「ダアビフィールド、これやお前さんでなくちや納まらないよ。」と女房は、 後に腰掛けてゐた夫の方を向いて言つた。「お前さんが是非行けと言つたら、この娘《こ》も行くだらうよ。」 「わしァ、自分の子が見ず知らずの身内の處へ行つて、世話になることァ好ましくねえ。」と彼は呟いた。 「わしァ、一族のうちでも一番貴い家の主人なんだから、それに相當した振舞ひをして行くのが當り前だ。」 テスにとつては、行かないでもいゝといふ父の考へは、行けと言はれて反對するよりも、猶更つらい氣持がした。 「ね、お母さん、私が馬を殺したんですから、」と、彼女は悲しげに言つた。 「私、何かしなくちやならないとは思つてるの。ですから、行つてその方にお目にかゝるのは何でもないんですが、 援助《たすけ》を仰ぐことだけは、私に任して置いて下さい。そして、その方が私にお婿さんをさがしてくれるなんて、 考へないで下さいな -- 馬鹿げたことですもの。」 「よく言つた、テス!」と父親は科白もどきで言つた。 「私がそんなことを考へてるつて、誰が喋つたんだい?」と女房は訊いた。 「お母さんがさう考へてゐやしないかと、たゞ私が想像しただけのことよ。でも、私行きますわ。」 彼女は翌朝早く起きて、シャストンといふ丘の町まで歩き、 其處で一週に二囘シャストンから東にあたるチェイズバラーへ通ふ貨物馬車を利用した。 この馬車は、その途中、曖昧な謎のやうなダアバァヴィル夫人の住んでゐるトラントリッヂといふ村の近くを通るのであつた。 この忘れられぬ朝、テス・ダアビフィールドの通つた道は、彼女が生れ、 それから生活を送つて來た盆地の起伏の中に横はつてゐた。ブラックムーアの盆地は、彼女にとつて一つの世界であり、 そこの住民は、その世界の種族であつた。彼女は何でも物珍らしく思はれる子供の時代に、 マアロットの畑の入口の門の踏段から、村全體を見下ろしたことがある。そして、その時神祕だつたものは、 今も猶ほその時に劣らず神祕であつた。彼女は毎日寢室の窓から、塔や、村落や、微かに白く見える屋敷や、 わけても堂々と高い丘の上に立つてゐるシャストンの町や、夕陽を受けてラムプのやうに輝くその町の窓々やを見たのだつた。 彼女が仔細に見て知つてゐるところは、盆地やその近隣のうちでさへほんの僅かな部分にすぎなかつたので、 その町へも、殆んど行つた事はなかつた。まして、遠く盆地の外へなど出掛けたことはなかつた。 四邊の丘陵の輪廓は、どれもこれも親類の者の顏か何かのやうに、彼女には親しかつた。 けれども、その先に何があるかといふ事になると、彼女の判斷は、今から一二年前、 主席で卒業した村の學校の教へに頼るより外はなかつた。 彼女は幼い頃、同年輩の女友逹から大へん愛されてゐて、並んで學校から歸つて來る三人友逹 -- 殆んどみんな同じ年頃の -- のうちの一人として、村のあちこちに、いつも見られるのであつた。 眞中にゐるテス -- もう原色を失つて、名もつけやうのない第三期の色に變つてゐる毛織の上衣の上に、 美しい碁盤縞の、薄桃《とき》色の更紗の前掛をかけてゐた -- は、 珍らしい草や石を探す爲めに道路や土堤《どて》に膝をつくので、擦り切れて小さな梯子のやうな穴が膝のところに出來た、 きつちりした靴下を穿《は》いて、長い菫のやうな脚でさつさと進んで行くのだつた。 その頃土色をしてゐた髮は、自在鉤のやうに埀れてゐた。兩側の二人の娘は、腕でテスの腰の邊《あた》りを取り卷き、 テスは自分を支へてゐてうれる二人の友逹の肩に腕をかけてゐた。 テスはだん〜大きくなり一家の樣子が分つてくるにつれ、養育して行くのも一通りの苦勞ではないのに、 母が何の考へも無くどん〜小さな妹や弟逹を拵《こし》らへてくれるので、 母に對しては全くマルサス主義者のやうな考へを抱かずにはゐられなかつた。 母親の頭は、まるで氣苦勞のない子供のやうなものであつた。つまり、ダアビフィールドの女房自身が、 神に仕へる自分の家の大勢の子供の上に、更に一人の子供として加はつてゐるに過ぎなかつた。 それも、分別のある長子ではなかつた。 だが兎に角、テスは小さな子供たちには、心から親切を盡すやうになつた。そして出來るだけ彼等の力になるやうに、 學校を卒業するなりすぐ近所の農家で枯草作りや刈り入れの手傳ひをするやうになつた。 また好んで乳搾りや牛酪《バタ》造りの仕事の手傳ひもした。その仕事は、父が牛を飼つてゐた時分に覺えたので、 指が噐用なところから彼女の特に得意とする仕事であつた。 日が經つにつれて、家庭の重荷は、ます〜年齒《としは》も行かない彼女の雙肩にかゝつて來るやうに見えた。 で、テスがダアビフィールド家の代表者として、ダアバァヴィル邸へやられるといふ事は、 當然起つて來た。かうしてテスをやるといふのは、 たしかにダアビフィールド家が一家の中で一番しつかりした者を世間に出すといふ事であつた。 彼女は、トラントリッヂ・クロスで馬車を降りて、チェイズといふ名で通つてゐる地方を指して徒歩で小山を登つて行つた。 彼女が言ひ聞かされて來たところに依ると、その境の邊にダアバァヴィル夫人の屋敷のスロープ邸がある筈だつた。 それは、畑や、牧場や、また持主から、 持主自身やその一族の利益の爲めに理が非でも收入を絞り取られずにはゐない不平だら〜の百姓のついてゐる、 普通の意味でいふ莊園風の屋敷ではなかつた。それ以上、遙かにそれ以上であつた。 つまり、全く享樂本位に建てられた田舍の屋敷で、住宅の目的の爲めに必要な土地と、持主に直屬すてゐて、 管理人が面倒を見る僅かな道樂半分の爲めの畑に必要な土地以外には、一エイカアの厄介な土地も附いてはゐなかつた。 軒のところまでもこんもりした常盤木《ときはぎ》に埋もれた眞赤な煉瓦の門衞所が、 先づ第一に見えて來た。テスは、最初これが屋敷だと思つたが、やがて少々狼狽氣味で、 側の小門《くぐり》を通りぬけ、車道の曲り角のところまで行くと、本邸がすつかり見えて來た。 それは近頃建てたもので -- 實際殆んど新築といつても好い位ゐのものだつた -- 門衞所と同じ深紅の色で、其處の常盤木と著しい對照になつてゐた。邸宅 -- 周圍の落着いた色彩に對して、 まるでジヱレニアムの花のやうに浮き立つてゐた -- の一角のずつと後ろに、 チェイズの森の柔かい藍色をした風景が擴がつてゐた -- 實際に神々しい地帶で、 確かに原始時代から英吉利に僅かばかり殘つてゐる森林の一つであつた。 そこでは年經た槲《かし》に、今も猶ほドルイド宗(槲の樹を神木とし、 その寄生木を崇拜した宗派)に縁故のある寄生樹のついてゐるのが見られ、 人間の手で植ゑられたのではない大きな水松《いちゐ》の樹が、 弓を作る爲めに頭を刈り込まれた時代に既に大きくなつてゐたのがそのまゝ成長してゐた。 しかし、かうしたありとあらゆる森林の古びた樣子は、勿論スロープ邸から見えはするものゝ、 この屋敷の直接の境界からは離れてゐた。 このきちんとした屋敷にあるものは、何も彼も華やかで生々として、よく整つてゐた。 幾エイカアもある温室が、傾斜した土地に從つて麓の雜木林まで伸びてゐた。あらゆるものが、 まるでお金のやうに見えた -- 造幣局から鑄造されたばかりの貨幣のやうに -- 。 廏は墺地利松 [注:墺太利松の誤りか?]|と常盤木の槲《かし》とに半ば圍まれ、すべて最近式の噐具が取りつけられてあつて、 まるで分會堂のやうに堂々としてゐた。廣々とした芝生には裝飾的の天幕《テント》が張つてあつて、 その入口はテスの方を向いてゐた。 單純なテス・ダアビフィールドは半ば驚いた樣子で、砂利を敷いた地面の端に呆氣に取られて立つてゐた。 彼女の脚は、自分が今何處にゐるのかさつぱり分らないうちに、彼女の體をこゝまで運んで來てしまつたのだつた。 そして今は、すべてのものが、彼女の豫期に反してゐた。 「私逹は、舊い一族だと思つてゐたのに、この家はすつかり新しいんだわ!」と彼女は無雜作に言つた。 『親類の名乘りをする』といふ母親の計畫にすぐ應じなどしないで、 もつと我家《うち》の近所で世話になるやうに務めればよかつたと彼女は思つた。 こゝをすつかり所有してゐたダアバァヴィル -- 又は家の者が初めに自稱してゐたところによれば、 ストーク・ダアバァヴィル -- は、この國のかういふ古風な地方では、多少珍しい一家であつた。 ところで、よた〜の我がジョン・ダアビフィールドこそ、この州、又はその近くに存在するダアバァヴィル舊家の、 眞に唯一の直系の代表者であると牧師トリンガムが言つたのは、如何にも事實を語つてゐた。 が牧師は、ストーク・ダアバァヴィル家は、 自分が赤の他人であると同樣に本當のダアバァヴィル一族のものではないといふ事をよく知つてゐたのだから、 それを言ひ添へてくれてもよかつたのだ。しかも、この一家は、 慘めにもかういふ改名を必要とするやうな一族の名前を接木《つぎゝ》するに相應《ふさは》しい、 立派な元木《もとぎ》になつてゐたといふ事は、確かである。 この頃亡くなつたシモン・ストークス老人は、北部地方の實直な商人で(金貸しだと言ふ者もあつた)、 財産をつくり上げてしまふと、自分の商賣區域とは全くかけ離れた南部地方へ來て、 地方の名家となつて定住しようと決めた。そして、それを實行するに當つて、彼は、 自分が嘗ては拔目のない商人だつたといふ事を容易に見拔かれないやうな、 また元の味のないぶつきら棒な名前よりももつと趣きのある名前に改めて出直す必要を感じた。 彼は一時間かゝつて、大英博物館で、これから住まうと考へてゐた英吉利のその方面に屬する、 全く消滅したり、半ば消滅したり、不明になつたり、落魄したりした家々の研究にさゝげた著作の頁を繰りながら、 ダアバァヴィルこそその何れにも劣らずよく見え、またよく響きやうに考へた -- かうして彼は、自分とその相續者の爲めに、元から持つてゐた名前の上へ、永遠にダアバァヴィルといふ名前を加へたのである。 しかも、こんな事をしたからといつて、彼は別に突飛な人ではなかつた。 新しい基礎の上に彼の一家の系圖を造るに當つては、相當に智慧を働かして、 自分の一家と他の身分のある家柄とを結婚で結んだり又は貴族の親戚を作つたりする位ゐのことは試みたが、 とても釣合はないやうな爵位は一つもさしはさまうとはしなかつた。 このやうにして作られた家名であるといふ事は、可哀さうにテスもその兩親も、全く知らなかつた。 その爲めに、彼等がどんなに當惑した事であらう。實際、こんな風に家名を結び合はすことが出來るなんて、 彼等は知らなかつた。彼等は、顏の美しいのは幸運の賜物であらうが、一家の名前は自然に出來るものと想像してゐた。 テスは、退くかやり通すか決し兼ねて、恰も將に跳び込まうとする水浴者のやうに、躊躇《ためら》ひながら立つてゐた。 丁度その時、人の姿が天幕《テント》の暗い三角形の入口から現はれた。 それは煙草を燻《くゆ》らしてゐる、背の高い青年の姿であつた。 彼は殆んど黒ずんだ顏色をし、赤く滑らかではあるが恰好のよくない厚い唇の上には、 よく手入れの行き屆いた。先のぴんと跳ねた黒い口髭が生えてゐた。 だが、年齡はどう見ても二十三四以上には見えなかつた。彼の外形には、野蠻な氣味があるにはあつたが、 紳士としての顏と、大膽なぎよろつとした眼には、不思議な力があつた。 「えゝッと、別嬪さん、何か御用ですかね?」彼はこちらへやつて氣ながら訊ねた。 そして、彼女がすつかり當惑して立つてゐるのを認めると、かう言つた -- 「僕に遠慮なんぞしないがいゝよ。 僕はダアバァヴィルだよ。僕に面會かね、それとも母に?」 ダアバァヴィル一族の一人、又はそれと同名者の化身であるこの人は、この屋敷よりもなほ一層テスの豫想に反してゐた。 彼女の一族と英國史の幾世紀とを形象文字であらはしてゐる、 具體的な思ひ出の數々で刻まれたダアバァヴィル家一族悉くの容貌の精ともいはれる年老いた、 高貴な顏を、彼女は夢想してゐたのであつた。だが今更彼女は、差し當つての用事から逃げる譯にも行かなかつたので、 それを果さうと意氣込んでかう答へた -- 「あなたのお母さんに、お會ひするつもりで參りました。」 「どうも、母には會へないと思ふんだがね -- 母は病人でね、」と、贋屋敷の當主は答へた。 といふのは、これがこの頃亡くなつた先代の一人息子のアレクであつたのだ。 「僕ぢや間に合はないかね?母に會ひたいつていふのは、どんな用かね?」 「用事ぢやありません -- あの -- 私、どう言つていゝか分りません。」 「ぢや遊びに?」 「いゝえ。でも、申し上げたら、そりやほんとに -- 」 テスには自分の使ひが滑稽じみてゐるといふ感じが、今非常に強くなつて來たので、 相手の男の恐いことや此處にゐることが何とはなしに不安ではあつたが、 それでも薔薇色の唇は自づと歪んで、微笑みかけた。それがまた、 色黒のアレキザンダアの心をたまらなく惹きつけた。 「ほんとに、馬鹿げた事でございます、」と彼女は口籠つた。「申し上げられないやうなんです!」 「關《かま》はないよ。僕は馬鹿げた事が好きなんだ。もう一度言つて御覽、ねえ。」と彼は親切に言つた。 「母が參れと申しましたんです。」とテスは續けた。「それに本當を申しますと、 自分でもさうする氣になつてたんです。でも私、こんなだとは思つてゐませんでした。 私が參りましたのは、私共はあなた方と同じ一族の者だつていふことをお知らせする爲めなんです。」 「ほう!貧乏な親類かね?」 「えゝ。」 「ストークスの一族かね?」 「いゝえ、ダアバァヴィルなんです。」 「さう、さう、ダアバァヴィルつてんだよ。」 「私共の名前は、ダアビフィールドに變つて來てゐますけど、ダアバァヴィルだといふ證據がいろ〜あるんです。 考古學者とやらもさうだと言つてをります -- それから -- それから我家《うち》には、 楯形の紋に跳びかゝつてゐる獅子の上に、お城のついてゐる古い印形がございます。 また、匙頭《さじがしら》の凹みが小さな柄杓《ひしやく》のやうに丸くなつてゐる古い銀の匙もあつて、 同じお城のしるしがついてゐます。でも、ひどく使ひへらされてゐるもんですから、 母はそれを豌豆のスープを掻き廻すのに使つてをります。」 「銀のお城は確かに我家《うち》の紋所でね。」と、彼は優しく言つた。 「それに我家《うち》の紋章は、前足を擧げて立つてゐる獅子なんだよ。」 「それで、母はあなた方とお近づきになつて置かなくちやいけないつて言つてゐるんです -- 飛んだ過ちで馬は失くしてしまふし、それに我家《うち》は、一族のうちでも一番に古い家柄だからつて。」 「お前さんのお母さんは、大へんに親切な方だ、實際。僕としては、 別にその處置が惡いとは思はんね。」さう言つてアレクは、ちよつとテスの顏を赧らめさせるほど、 彼女をぢつと瞶《みつ》めた。 「それぢや、ねえ娘さん、お前さんは親類として親しく僕等を訪ねてくれたんだね?」 「まあそんなわけですの、」テスはまた不快な樣子を浮べながら、言ひ淀んだ。 「さうかね -- そりや格別差支へもないよ。住ひは何處だね?商賣は?」 彼女は委細を手短かに話した。それから、その上の質問に應じて、乘せて來て貰つた同じ運送屋に、 また連れ歸つて貰ふ積りだと話した。 「運送屋が歸りがけにトラントリッヂ・クロスを通るまでは、まだ隨分時間があるよ。 それまでこの屋敷を歩いて見ようぢやないか、ねえ、從妹《カズ》さん?」 テスは出來るだけ早くその訪問を切り上げたかつたが、青年が強ひてすゝめたので一緒に歩くことを承知した。 彼は、芝生や花壇や草花の温室のあたりを案内したり、 それから果物畑や野菜や果物の温室の方へも行つて莓が好きかと訊ねたりした。 「えゝ、」とテスは言つた。「それが出ます頃には。」 「此處ぢやもう出てるんだよ。」ダアバァヴィルは、彼女の爲めにその見本を摘みはじめ、 屈んだまゝ彼女に手渡した。やがて『大英國女王』種の特に見事な出來のを選んで、立ち上り、 莖をつまんで彼女の口元へ持つて行つた。 「いけません -- いけません!」彼女は、彼の手と自分の唇との間に指を差し入れながら、急いで言つた。 「私、自分の手で頂いた方がいゝんです。」 「馬鹿な!」と言つて彼はきかなかつた。で、ちよつと困つたが、彼女は唇を開けてそれを受け入れた。 二人は、かうしてぶら〜と歩き廻つて、暫く時間を費やした。テスは半ば嬉しさうに、半ば厭らしいと言つた樣子で、 ダアバァヴィルのくれるものは何でも食べた。もうどうしても莓が食べられないやうになると、 彼は小さい彼女の手籠にそれを一杯詰めてやつた。それから二人は、薔薇の木の方へ廻り、 彼は花を摘んで、胸へ插せと言つて彼女に與へた。彼女はまるで夢でも見てゐる人のやうに、 たゞ言はれる儘になつた。そして、もう胸へは附けやうもなくなると、彼は自分で蕾を一つ二つ彼女の帽子に插し、 また大へん氣前よく、山のやうに籠を他の蕾で一杯にしてやつた。やがて、彼は時計を見ながら言つた。 「ところで、シャストンへ行く貨物馬車に間に合はせようつていふなら、これから何か食べてゐると、 丁度出掛けるに好い時刻になるよ。此方《こつち》へおいでよ、僕が何か食べるものを見て來るから。」 ストークス・ダアバァヴィルは芝生へ彼女を連れ戻つて天幕《テント》の中へ招き入れ、 そこに彼女を殘して行つたが、間もなく輕い晝飯の入つた籠を持つて再び姿を現はし、手づから彼女の前に置いた。 明らかに、召使逹からこの樂しい『差し向ひのところ《テイタ・テイト》』を妨げられまいといふのが、 この紳士の願ひであつた。 「煙草を喫んでもかまはんかね?」と、彼は訊ねた。 「えゝ、ちつとも。」 彼は天幕《テント》一杯に漲つた煙の輪を透《すか》して、彼女の美しい無邪氣な食べ振りを見守つた。 そしてテス・ダアビフィールドは、何の氣なしに胸の薔薇を見下した時、 青い眠氣を催すやうな靄の蔭に彼女の生涯の『悲しい不幸』 -- 彼女の若い生涯のいろ〜な色彩の中で、 明らかに血のやうな眞赤な光にならうとしてゐた悲しい不幸 -- が潛伏してゐようとは、豫想さへしなかつた。 彼女は丁度今、自分が不利益になるやうな一つの性状を備へてゐた。これがあつた爲めにアレク・ダアバァヴィルは、 彼女の上にその眼を注がないではゐなかつたのである。飽滿な肉付、十分な發育、 それが彼女を實際以上に一人前の女らしく見せつけるのであつた。 彼女は、母親からその容貌を承け繼いでゐた。が、その容貌が聯想させるやうな性質は持つてゐなかつた。 それは、折々彼女の心配の種になつたので、遂には友逹から、 その缺點は時が經つたら自然に治るだらうと言はれるやうになつた。 彼女は、すぐに晝飯をしました。「私、もう家へ歸らうと思ひます、」と、彼女は立ちながら言つた。 「お前さんの名は、何ていふの?」車道を彼女と連れ立つて通り、 家が見えなくなるまで歩んで來た時、彼は訊ねた。 「テス・ダアビフィールドなの、マアロット村の。」 「そして、お前さんの家ぢや馬を失したと言つたね?」 「私が -- 殺したの!」と彼女は答へたが、プリンスの死を詳しく語つた時には、 眼に涙が一ぱい溜つてゐた。「で、私その爲めに、お父さんに對してどうしたらいゝか分りませんの!」 「僕が何かして上げられるかどうか考へよう。母に、是非お前さんの爲めに仕事を見つけさせよう。 だがテス、『ダアバァヴィル』とか何とか、馬鹿げたことは止すがいゝよ -- たゞ『ダアビフィールド』で澤山だよ、 いゝかね -- 全く別の名だから。」 「私、それ以上は望みません、」と、何となくきつとなつて彼女は言つた。 ちよつとの間 -- たゞほんのちよつとの間 -- 二人が、 門衞所のまだ見えない高い石楠花《しやくなげ》と針葉樹との間にある車道の曲り角に來た時、 彼は彼女の方へ顏を向け、恰も -- が、いけないと考へ直して、彼女を歸した。 かうして事件は始まつた。若し彼女がこの會合に含まれる意味を知つてゐたとしたなら、 かう考へたであらう。自分は何故その日、間違つた人に會つたり、また望まれたりしたのだらう、 いろ〜な點で、正しい望ましい人 -- この世では殆んど二人とは見られないやうな正しい望ましい人に會つたり望まれたりしなかつたのだらう、と。 しかも、彼女の知人の中で、この種類に近かつたかも知れない人にとつては、 彼女は、半ば忘れられた、ほんの一時的の印象にしか過ぎなかつた。 立派な判斷に基いた物事の計畫も、實行に移す場合に方法を誤ると、滅多に豫期の結果を生むものではない。 愛すべき人は、滅多に愛する時と一致しない。愛人逹が會へば幸福になる時でも、 自然はその子供である哀れな人間に向つて、『會へ!』といふことは稀だし、また人間が『何處に?』と訊ねた時に、 『此處だ、』と答へることも滅多にないので、遂には人間にとつて、 この隱れん坊が退屈な體の疲れる遊戲になつてしまふのである。 將來人類の進化發展が完成の域へ逹する時には、かういふ錯誤が今日よりも微妙な直覺のお蔭で、 又勝手に私逹を引摺り廻してゐる社會の機關よりももつと綿密なものが出來上つて、 その相互作用のお蔭で、矯《た》められるであらうかどうか、訝《いぶ》からずにはゐられない。 だが、かういふ完成は豫言されるべきものではなく、又可能なものとして、想像することさへ出來ないのである。 現在の場合でも矢張り幾百萬の他の場合と同じやうに、申分のないほどよい時にお互に顏を合せたのは、 完全な一つの人格の二つの半身ではなくて、もう間に合はないといふ時の來るまで、 馬鹿々々しくも迂闊に待ちながら、離れ〜゛になつて、世の中を漂浪してゐた迷える相手同志だつたのだといへば、 それで十分だ。そのぶまな遲延《のろさ》から、心配や、失望や、驚嘆や、大災難や、 實に意外な運命が飛び出したのである。 ダアバァヴィルは天幕《テント》へ戻ると、椅子に跨り、嬉しさうなにこやかな顏付をして考へ込んだ。 それから、突然彼は大聲で笑ひ崩れた。 「ふん、畜生!何て可笑しな奴だらう!は、は、は!また、何んて可愛い娘つ子だらう!」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:六 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- テスは丘を下つて、トラントリッヂ・クロスまで行き、チェイズバラーからシャストンへ戻る貨物馬車に乘らうとして、 ぼんやり待つてゐた。彼女は馬車へ入る時、無論返事はしたが、他のお客が自分に何と言つたか分らなかつた。 それから馬車が再び動き出しても、彼女は外部《そと》を見ずに、自分の心の内ばかり見ながら乘つて行つた。 同行者のうちの一人が、誰もこれまでに話した事がないほどの鋭さで、彼女に話しかけた -- 「まあお前さんは、まるで花束だね!その上、六月の初めだといふのに、こんなに薔薇が!」 すると彼女は、驚いて見てゐる人々の前に、自分があらはしてゐる有樣に氣がついた -- 胸の薔薇、帽子の薔薇、籠の中に零《こぼ》れる程に盛られた薔薇と莓。彼女は顏を赧らめうろたへて、 その花は貰つたのだと言つた。乘客逹が眼を外《そ》らしてゐる間に、彼女は帽子から、 中でも一段と眼に立つ花を拔き取つて籠の中に入れ、ハンケチをその上に被せた。 それから彼女は、再び考へ事を始めようとしたが、下を向く途端に胸に殘つてゐた薔薇が偶然にも彼女の顎を刺した。 ブラックムーアの盆地に住む百姓逹みんなと同じやうに、テスは氣紛れや前兆による迷信に深く染み込んでゐた。 彼女はこれを凶兆だと思つた -- まさしく彼女がその日氣づいた最初の凶兆であつた。 貨物馬車は、シャストンまでしか行かなかつた。そしてその山の町からマアロットの盆地までは、 五六哩徒歩で下らなければならなかつた。母は、若しあまり疲れて歩けないやうに思つたら、 その町の知り合ひの百姓女で一晩泊れと彼女に勸めてゐたのであつた。それでテスは、さうすることにして、 次の日の午後になつて家の方へ下りて行つた。 家へ入ると、彼女は、勝ち誇つてゐるやうな母の樣子から、自分の留守中に何かあつたのだといふ事を直ぐ感づいた。 「ね、ほれ、私にや何もかも分つてゐるよ!萬事うまく行くと行つたゞらう、それ、その通りになつたのさ!」 「私が行つてからなの?何かあつたの?」とテスはちよつと氣のなささうな風で言つた。 いかにも心得たやうな、また感心した樣子で、母は娘を見上げたり見下したりしながら、 揶揄《からか》ひ口調で言葉をつゞけた。「お前、うまく抱き込んぢまつたね!」 「どうして知つてゐるの、お母さん?」 「手紙が來たんだよ。」 そこでテスは、自分の留守中に手紙が來るだけの時間があつた筈だ、といふことに思ひ至つた。 「向うの言ふのにや -- ダアバァヴィル夫人の言ふのにや -- あの方が道樂にやつてゐる小さな養鷄園の番を、 お前にして貰ひたいつて言ふんだよ。が、こりや初めから高い望みを持たせずにお前を呼び寄せようつていふ細工にすぎないんだよ。 そのうちに、お前を親戚のものと認めようつてんだよ -- そのつもりなのさ。」 「でも、私、お目にかゝらなかつたわ。」 「誰かに會つたんだらうね?」 「息子さんに會つたの。」 「それで息子さんは、お前を親戚のものと思つたかい?」 「さあ -- 私のことを從妹《カズ》つて言つたの。」 「案の定!ジャッキイ -- この娘《こ》を從妹《カズ》と言つたんだつて!」女房は、亭主の方に向つて叫んだ。 「さうだ、言ふまでもなく、その息子さんが、お母さんに話したんだよ。それでお母さんが、 きつとお前に來て貰ひたいつてんだよ。」 「でも、私、鷄の番がうまく出來るかどうか分らない。」とテスは覺束なげに言つた。 「ぢや、一體、誰にうまく出來るか分りやしないよ。お前はその仕事の中で生れ、その仕事の中で育つたんだよ。 仕事の中に生まれついたものは、年期を入れたどんな奉公人よりか、その事にや詳しいに決つてるわね。 また、そりやほんのお前に何かさせるつてことを見せる體裁だけのことだよ。 お前が厄介になつてゐると思はせないやうにね。」 「私、何でもかでも行かなきやならないとは思つてないの、」とテスは考へ深さうに言つた。 「誰がその手紙を書いたのかしら?ちよつと見せてくれない?」 「ダアバァヴィル夫人がお書きになつたのさ。ほら、これだよ。」 手紙は三人稱で書かれ、養鷄園の管理に就いて、夫人が、娘さんに働いて貰ひたいこと、若し來てくれるなら、 住み心地の好い部屋を宛てがふこと、それから給金は、娘さんが夫人の氣に入ればいくらでも出すといふことを、 簡單にダアビフィールドの女房に通知したものであつた。 「まあ -- それつきり!」とテスは言つた。 「そんなに早く、夫人が、お前を擁《かゝ》へたり、接吻したり、抱きついたりする事はあるまいよ。」 テスは窓から外を眺めた。 「私、お父さんやお母さんと一緒に、やはり家にゐた方がいゝわ、」と彼女は言つた。 「そりやまだ何故さ?」 「何故つて、それは言はない方がいゝわ。お母さん、本當は何故だか私にも分らないのよ。」 それから一週間たつた或る夕方、彼女はすぐ近くへ何か一寸した仕事を探しに出て、空しく歸つて來た。 彼女は夏の間に、別の馬が買へるだけのお金を儲けたいと考へてゐたのであつた。 彼女が閾を跨ぐか跨がぬうちに、子供逹の一人が「旦那が來たんだよ!」と言ひながら、 部屋を踊りながら横切つた。 母親は、體中どこからどこ迄にこ〜させながら、急いで説明した。ダアバァヴィル夫人の息子が、 偶然マアロットの方へ遠乘りに出たので、馬で訪問してくれたといふのであつた。 これまで鷄の世話をしてゐた若者は信用出來なくなつたから、テスが老婦人の養鷄園を管理に本當に來てくれるかどうか、 結局のところを彼は母親に代つて知りたがつてゐた。「ダアバァヴィルさんは、自分の見た通りだつたら、 いゝ娘に違ひないつてお前のことを仰しやるのさ。あの方は、お前がその體の重さの金貨位ゐな値打が、 屹度あるつてことを御存じなんだよ。あの方は、お前にすつかりはまり込んでゐるんだよ -- 本當を言へばね。」 テスは、自分といふ者に見切りをつけ愛想をつかしてゐる時だつたので、他人からそんなによく思はれたことを聞いて、 實際、暫くは喜んでゐるやうだつた。 「さうまで思つて下さるなんて、大へんな御親切ね、」と、彼女は呟いた。 「では、向うでどんな風にして暮すのか、それさへはつきりしたら、私いつでも行きませう。」 「あの方は、本當に立派な方だね!」 「私、さうは思はない、」とテスは冷やかに言つた。 「まあ、男振りはどうだつていゝが、お前に運が向いて來たんだよ。確かにあの方は、 綺麗なダイヤの指輪を嵌めておゐでだつた!」 「さうだよ、」と小さなアブラハムは、窓の腰掛から快濶に言つた。「僕は見たよ!それから、 口髭へ手をやつた時、ぴか〜光つたつけ。お母さん、何だつて我家《うち》の偉い親類の人は、 始終口髭へ手をやつてばかりゐたんだい?」 「まあ、あの子の言ふことをお聞きよ!」餘計なことにまで感心しながら、ダアビフィールドの女房は叫んだ。 「きつと、ダイヤの指輪を見せようつてんだらう。」ジョン閣下は、夢うつゝに自分の椅子から呟いた。 「私よく考へてみるわ、」とテスは部屋を出ながら言つた。 「ねえお前さん。あの娘《こ》は、分家の者を忽ち手に入れてしまつたんだよ、」と主婦は夫に向つて言ひ續けた。 「この調子でどん〜やらなきや、あの娘《こ》も馬鹿だよ。」 「わしァ、我家《うち》の子供を他處《よそ》へ出すなァ好かねえな、」と行商人は言つた。 「わしの方が本家だから、分家の者こそこつちへ來るのが當り前だぜ。」 「でも、是非あの娘《こ》をやつて下さいよ、ジャッキイ、」と、可哀さうに智慧のない女房は、宥《なだ》め賺《すか》した。 「先方の男は、あの娘に參つてるんだよ -- そりやお前さんにも分るだらうがね。 あの娘を從妹《カズ》と言つたんだつて!大方の娘を嫁にして、立派な貴婦人《レデイ》にするだらうよ。 そしたらあの娘も、御先祖と變らないわけさ。」 ジョン・ダアビフィールドには、精力や健康より、寧ろ己惚れがあつたので、この假定が氣に入つた。 「なるほど。大方、それが若いダアバァヴィルさんの積りぢやつたかも知れん、」と彼は頷いた。 「古い血統と縁を結んで自分の血を改良しようつて、きつと眞面目に考へたんかも知れねえ。 あの可愛いテスの奴め!あの人逹を訪ねて、そんな風に本當にうまくやつて來たのかな?」 テスは物思はしげに、庭の野生莓《すぐり》の叢《くさむら》の間やプリンスの墓のあたりを歩いてゐた。 彼女が家に入つて來た時、母親はすかさず追撃した。 「そりやさうと、お前どうするつもりだい?」と彼女は訊ねた。 「私、ダアバァヴィル夫人にお目にかゝつたら、ほんとによかつたんですけど、」とテスは答へた。 「お目にかゝらないたつて、これを決めるにや同じことぢやないかい。 決めさへすりや、すぐにもお目にかゝれるだらう。」 父親は椅子に掛けたまゝ咳をしてゐた。 「私、何といつていゝか分らない!」と娘はおど〜しながら答へた。「お母さん逹で決めて下さい。 私、自分があの馬を殺したんですから、新しいのを買ふのに何かしなくつちやならないとは思つてるんですから。 でも -- でも -- あのダアバァヴィルさんがあそこにゐるんで、私ちつとも氣が進まない!」 子供逹は、テスが金持の親類(彼等は向うの家をかう想像してゐた)へ引き取られるといふ事を思つて、 馬の死んだ後の一種の慰めとしてゐたので、今、テスの厭がるのを見て喚き出した。そして、 彼女がぐづ〜してゐるのを苛めたり、また責めたりした。 「テスは行かないつて言ふよ -- そして、貴婦人《レデイ》にならないつて言ふよ! -- さうだ、どうしても行かないつて言ふよ!」彼等は口を四角にして泣き喚いた。「さうして、 俺逹は新しい好い馬も持てず、縁日で買物をする黄色いお金もたんと持つてないんだ! テスはいゝ着物を着て、綺麗な樣子はもうしないんだよ!」 母親もまたそれに調子を合はせた。家庭内の自分の仕事をずる〜に延ばして置いて、 實際にやればそれほどでもないのに、いかにも骨が折れさうに見せる母親の遣口《やりぐち》も、 この問題には力を添へた。父親だけは、中立の態度をとつてゐた。 「私、行きませう。」とテスは到頭言つた。 母は娘の承諾によつて浮び出した婚禮の『幻』を、はつきり意識に浮べて、 それを抑へることが出來なかつた。 「それでいゝ!こんな綺麗な娘《こ》にとつちや、これは出世の端緒《いとぐち》だよ。」 テスは苦笑した。 「これがお金を儲ける端緒《いとぐち》になつたらいゝが、他の端緒になつちや困るわ。 お母さん、そんな馬鹿なことは、一切村中にふれ廻らない方がいゝのよ。」 ダアビフィールドの女房は、それを請合ひはしなかつた。彼女は、例の訪問客からあの言葉があつたからには、 うんと話して廻るに足るほど得意にならなかつたとは、斷言出來なかつた。 かうして、その事は取り決められた。そして若い娘は、 何時でもお呼びのあり次第行かれるやうに用意してゐますから、といふ手紙を出した。 彼女は、たしかに彼女の決心をダアバァヴィル夫人は喜んでゐるといふこと、 明後日は、盆地の頂上で彼女とその荷物とを迎へる爲めに彈條附荷馬車《スプリングカアト》を差し遣はすから、 ちやんと出立の用意をして置いて貰はなくてはならないといふことを知らされた。 ダアバァヴィル夫人の筆蹟は、どちらかと言へば、男性のゝやうに思はれた。 「荷馬車だつて?」とダアビフィールドの女房は疑はしげに呟いた。 「身内の者を迎へるんだもの、乘用馬車を寄越してもよさゝうなもんだにねえ!」 テスは、到頭身の方針を定めたので、いくらか氣も落着きはき〜して來て、 大して面倒でもないやうな仕事で父に別の馬を持たせることが、何となく出來さうに思へて、 せつせと働いた。彼女は嘗つて、學校の教師になりたいと望んだこともあつたが、 運命はさうさせさうに見えなかつた。彼女は、精神的には母親よりも年を取つてゐたので、 彼女に對してダアビフィールドの女房が抱いてゐる結婚の希望などは、たゞの一瞬間も、 本氣になつて考へる事なぞしなかつた。浮つ調子なこの女房は、娘の誕生の年から、 その良縁を探してゐた位ゐであつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:七 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 出發と定められたその朝、テスは夜の明けないうちに眼を覺した -- 森がまだ靜まりかへつてゐる闇のなくなる直ぐ前の刻限で、たゞ豫言的な小鳥が一羽、 自分は一日の正確な時刻を知つてゐると、澄み通つた聲の確信を抱いて歌つてゐるだけで、 他のものは、恰も小鳥の奴は間違つてゐると、これまた確信してゐるかのやうに、 どこまでも沈默を守つてゐた。彼女は朝飯の時まで、二階で荷造りをしてゐたが、晴着は丁寧に箱にしまひ込んだので、 やがて平常着《ふだんぎ》を着て降りて來た。 母親はたしなめた。「お前、親戚の家へ行くんだもの、もつと氣のきいた風をして行つたらいゝぢやないかい?」 「でも私働くんですもの!」とテスは言つた。 「そりや、さうだが、」と、ダアビフィールドの女房は言つた。それから調子を低くして、 「初めの間少しはそんな體裁をするのもいゝが!……でも世間へは、 出來るだけ見榮を飾る方が悧巧なやり方だらうと思ふよ。」と彼女は附け加へた。 「なるほどね。お母さんは、何でも一番よくお分りでせうよ、」とテスは、 どうでもいゝといふ風に落着き拂つて、答へた。 そして母親を喜ばす爲めに、娘は全く女房のなすまゝに任せて、靜かにかう言つた -- 「どうでも好きなやうにして下さい、お母さん。」 ダアビフィールドの女房は、娘の素直さにたゞもう喜ぶばかりであつた。最初に彼女は、 大きな手水鉢《てうづばち》を持つて來て、テスの髮の毛をすつかり洗つてやつたので、 乾かして刷毛《ブラシ》をかけた時は、平常の二倍位ゐにも見えた。 彼女はいつものよりは廣い淡紅《ピンク》色のリボンでそれを結へた。 それから彼女は、テスに、倶樂部の運動會の時に着たあの白い上衣《うはぎ》を着せた。 そのふつくらした豐かさは、大きくふくらませて結つた髮と相俟《あいま》つて、 發育盛りの姿を、年齡《とし》よりは大きく見せ、まだ子供の域を餘り脱してゐない彼女を、 一人前の成熟した女と思はせないとも限らなかつた。 「靴下の踵に穴があいてるんですよ!」とテスは言つた。 「靴下の穴なんか關《かま》やしないよ -- 穴は口を利きやしないもの! 私の娘の時分には、綺麗な帽子さへ被つてゐりや踵なんか見るものはなかつたよ。」 母親は、娘の容姿を得意がり、畫家が畫架《カンヴアス》から體を引いて見るやうに、後に退つて、 自分の製作を全體として打ち眺めた。 「お前自分で見なきや駄目だよ!」と彼女は叫んだ。「こなひだよりも餘程うつりがいゝ。」 姿見は一時にはテスの體のほんの一部分を映すだけの大きさだつたので、 ダアビフィールドの女房は、化粧をしようとする田舍の人々がよくやるやうに、 窓硝子の外へ黒い外套を懸けて、その硝子を大きな鏡にした。 それから、女房は階下の部屋に坐つてゐる亭主のとこへ降りて行つた。 「あのね、ダアビフィールド、」と大喜びで、彼女は言つた。 「あの人は、娘が氣に入らないなんて事は屹度ないよ。けれども、外の事はどうでもいゝが、 あの人がテスに心があるなんて事や、娘が今度つかんだこの端緒《いとぐち》の事を餘りテスに言つちやいけないよ。 あんな變な娘だから、あの人に對して厭氣を起したり、また今の今だつて行くのを厭がるかも分らないからね。 若し萬事うまくいつたら、教へてくれたスタッグフット・レインの牧師さんに、無論、 何かお禮をしたいもんだね -- 本當に親切な方だ!」 が、娘の出かける時が迫るにつれ、身支度をしてやつてゐる間の初めの興奮が消えてしまふと、 輕い懸念がダアビフィールドの女房の胸に湧いて來た。その爲めに、女房も少し -- 盆地からの勾配が、他村《よそむら》へ向つてそろ〜嶮しい上り坂になり始める邊りまで -- 送つて行かうと言ひ出した。テスはその頂上で、 ストーク・ダアバァヴィル家からの彈條附荷馬車《スプリングカアト》に迎へられる事になつてゐた。 で、荷物はそれに間に合ふやうに、若い者が荷車でこの頂上の方へもう先きに運んでゐた。 母親が帽子を被るのを見ると、子供逹は一緒に行きたがつて騷いだ。 「お母さんは、少し姉ちやんと歩かうつてんだよ、姉ちやんはこれから、うちの從兄《カズ》の紳士と結婚して、 いゝお着物《べゝ》を着るんだよ!」 「さあ、」とテスは赧くなり、急に振り返りながら言つた。「もうそんなこと澤山!お母さん、 どうしてそんなつまらない事を、こんな子供逹の頭に入れようといふの?」 「働きに行くんだよ、お前逹、お金持の親類へね。そして、新しい馬を買ふお金を儲ける手傳ひをしてくれるんだよ。」 とダアビフィールドの女房は宥《なだ》めるやうに言つた。 「さよなら、お父さん、」咽喉に何かの塊りがつかへでもしたやうに、テスは言つた。 「さやうなら、娘、」ジョン閣下は、今朝の門出祝ひにちよつと飮《や》り過したので、 居眠りをしてゐたが、それを止めて胸から頭を上げながら言つた。「ところで、あの若い友逹が、 自分の血縁の見本のやうなこの可愛い娘を可愛がつてくれることを祈つてゐるよ。 それから、さう言つておくれ、テス、家は以前の偉え身分から全く落ちぶれてしまつてゐるんだから、 肩書は賣つてやるつてな -- さうだ、賣つてやるよ -- それに、決して法外な値段ぢやねえつてな。」 「千|磅《ポンド》より下ぢや駄目だよ!」ダアビフィールド閣下の夫人は叫んだ。 「さう言つておくれ -- 千|磅《ポンド》なら賣るつてな。えゝと、よく考へて見ると、もちつと安うてもえゝな。 あの人なら、わしのやうなやくざ者よりずつと肩書の持ち榮えがするつてえもんだ。 百なら賣り渡すと言つておくれ。が、わしははした金ぢや我慢出來ねえぞ -- 五十でなら賣ると言つておくれ -- 二十磅で!さうだ、二十磅 -- それ以上は負けられねえ。 糞つ、家柄は家柄だ、一文だつて少なくちや受け取らねえぞ!」 テスの眼には涙が一杯たまり、聲はひどく塞《つま》つてしまつて、 心のうちにある氣持を口に出すことも出來なかつた。彼女は急に向き直つて、出かけて行つた。 さうして、娘逹と母親とは一緒に歩いて行つた。テスの兩側には、一人づゝ子供が並んで彼女の手をとり、 やがて何か偉いことをしようとする人でも見るやうに、始終まじまじと彼女の方を眺めてゐた。 母親は一番末の子を連れて、そのすぐ後に續いた。この一團は、側面は無邪氣の侍女に堅められ、 後からは他愛ない虚榮の女神に守られてゐる正直な美の女神の繪のやうに見えた。 彼等は、歩き進んで、到頭これから登り坂になるといふところに逹した。 その頂上でトラントリッヂからの馬車が、彼女を迎へる筈になつてゐたが、 こゝまでと決められた譯は、最後の坂を登る勞を馬にかけまい爲めだつた。 一番近くの丘の遙か後の方に建つてゐる崖のやうなシャストンの人家が、 山脈を切斷してゐた。丘を繞《めぐ》つてゐる高い道路には、テスの全財産を載せた荷車の柄の上に腰掛けてゐる、 皆より先に出して置いた若者を除いては、誰一人見えなかつた。 「こゝでちよつと待ちなよ、きつと、直きに荷馬車が來るだらうから、」 とダアビフィールドの女房は言つた。「ほら、向うに見えるよ!」 果して荷馬車はやつて來た -- 一番近い高地の鼻先《とつさき》の蔭から急に現はれて、 荷車を持つた若者の傍に止つた。そこで母親と子供逹は、もうそれより先へは行かないことに決めた。 そしてテスは、忙しなく皆に別れに挨拶をすまして、山の方へ歩みを向けた。 彼等は、もうテスの荷物が積み込まれた彈條附荷馬車《スプリングカアト》の方へ近づいて行く彼女の白い姿を見た。 が、彼女がまだ馬車のところまで行きつかないうちに、もう1臺の馬車が、 頂上の林の中から飛び出して來て、其處の道路の曲り角を廻つて、荷馬車を通り過し、 テスの傍へ來て止つた。彼女はひどくびつくりしたやうに見上げた。 母親は、始めて、この第二の馬車が最初のゝやうに粗末な乘物でなく、 立派な塗り立て飾り立てられてゐる新調の二輪馬車であることを知つた。 馭者は二十三四の青年で、口には葉卷煙草を啣《くは》へてゐた。彼は洒落た鳥打帽子を被り、 褐色の厚羅紗|上衣《うはぎ》、同じ色のズボン、白いネクタイ、立襟のカラー、それから鳶色の馭者手袋をつけてゐた -- 一口に言へばその男は、一二週間前テスの事で返事を聞きにジョンを訪ねて來た、 好男子で馬道樂の若い洒落者であつた。 ダアビフィールドの女房は、まるで子供のやうに手を拍《う》つた。それから眼を伏せ、 まだぢつと向うを瞶《みつ》めた。紳士がどういふつもりで迎へに來たのかを、 彼女はどうして思ひ誤まる餘地があつたらう? 「ありや、姉ちやんを貴婦人《レデイ》にしてくれる親類の紳士かい?」と末の子が訊ねた。 そのうちに、モスリン姿のテスが、その馬車の傍にぢつと立つて何やらぐづ〜してゐるのが見えた。 馬車の主は、彼女に話しかけてゐた。彼女の躊躇してゐる樣子は、事實躊躇以上であつた -- つまり心配してゐるのであつた。彼女は粗末な馬車の方に乘つて行く方が望ましかつたのであらう。 青年は馬車から降りて、彼女に乘れとしきりにすゝめてゐるやうに見えた。 彼女は身内の者のゐる丘の下へ顏を向けて、小さな一團を眺めやつた。何ものかゞ、 彼女の決心を急き立てるやうに思はれた。それは恐らく、プリンスを殺したといふ考へであつたのだらう。 彼女は急に馬車の段を登つた。青年は彼女の傍に乘り、すぐ馬に鞭を加へた。忽ちのうちに、 彼等は荷物を積んだのろい馬車を追ひ越して、山の肩を超えて見えなくなつた。 テスの姿が見えなくなり、そして芝居がゝりのこの事件の興味が盡きると、 すぐ子供逹は眼に一杯涙をためた。一番小さい子が言つた。「可哀さうに、可哀さうに、 テスは貴婦人《レデイ》なぞになりに、行つちまはなければいゝのになあ!」 そして泣き面になつたかと思ふと、急に泣き出した。この新しい考へは感染的で、 次の子も同じやうに泣き、又その次の子も泣き、到頭三人とも烈しく泣き出した。 家路へ引つかえした時には、ダアビフィールドの女房の眼にもまた涙が浮んでゐた。 でも、村へ戻り着いた頃には、默つてなりゆきに任せる氣になつてゐた。けれども、 その夜彼女が寢床で溜息をついてゐるので、亭主は、どうしたのかと訊ねた。 「まあ、何だかはつきり分らないのさ、」と彼女は言つた。「テスが行かなかつた方が、 よくはなかつたかと今考へてゐたところだよ。」 「それや、前に思ひつくべき筈の事ぢやなかつたかい?」 「まあいゝよ、あの娘《こ》にとつちやいゝ端緒《いとぐち》だね -- だが、若しも一度やりなほすんだつたら、あの紳士が本當に親切な若い人か、 身内の女として娘を大事にしてくれるかどうか、それが分るまでは娘を遣りたくないよ。」 「さうだ、それ位えのことァ、大方お前がしなくちやなんねえ事だつたぜ、」とジョン閣下は、 夢うつゝで言つた。 ダアビフィールドの女房は、いつも、何とかして何處かに慰安を見つけ出すやうにした -- 「まあいゝよ、まがひなしの血統の一人だもの、自分の切札さへ間違はずに使へば、 あの娘《こ》は屹度先方とうまく折合つて行くに違ひない。あの方は今結婚しないでも、 そのうちに結婚するだらう。何故つて、あの方が彼女《あれ》にすつかり熱くなつてゐることア、誰の眼になつて見えるんだから。」 「彼女《あれ》の切札つて何でえ?ダアバァヴィルの血統のことかい?」 「さうぢやないよ、うすぼんやりだね、あの娘《こ》の縹緻《きりやう》のことだよ -- 私の切札もさうだつたが。」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:八 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- アレク・ダアバァヴィルは、彼女の傍へ乘ると、手前の丘の頂きに沿うて速《すみや》かに馬車を驅つた。 道すがらテスにお世辭をふりまきながら。荷物を積んでゐた馬車は、ずつと後の方に取り殘されてしまつた。 更に登つて行くと、廣々とした自然の光景が、二人の周圍一面に擴がつて來た。 背後には、彼女の生れた緑の盆地があり、前方には、彼女が初めてトラントリッヂへ、 ほんのちよつと出向いて行つた時に知つた以外には、何にも知らない灰色の田舍の景色が展望された。 かうして二人は、或る傾斜面の際に逹したが、其處から道は殆んど一哩ばかりの間、 長い一直線に下りになつて延びてゐた。 父の馬があんな事になつてしまつてからといふもの、テス・ダアビフィールドは、 生れつき勇氣のある方ではあつたが、馬車に乘るとひどく臆病になつた。 彼女は、ほんの少しの動搖にも、ぎよつとした。馭者の馭し方に何となく向う見ずのところがあるので、 彼女は不安になり出した。 「ゆつくり降りるんでせうね、あなた?」と彼女は平氣を裝つて言つた。 ダアバァヴィルは彼女の方へ振り向き、大きな白い眞中の齒の端で葉卷を噛み、唇をひとりでに崩して、 靜かに微笑んだ。 「何故だい、テス、」またも一二服吸つてから、彼は答へた。「そんなことを訊くなんて、君のやうな、 元氣な強い娘さんにも似合はないぢやないか?だつて、僕はいつも全速力で下るんだよ。 君の元氣を出させるには、これ位ゐ好いことはないからね。」 「でも、今はそんな必要もないでせう?」 「さうだ、」頭を振りながら彼は言つた。「が、二つのことを考へなくちやならないからね。僕だけぢやなく、 ティップのことも考へてやらなくちやならない。それにあいつは、ひどく氣まぐれな性質《たち》なんでね。」 「誰が?」 「なに、この牝馬がさ。たつた今のさつき、大へん凄い顏をして、僕の方を見廻したやうだが、 氣がつかなかつた?」 「おどかしちやいけませんわ、あなた。」とテスは固くなつて言つた。 「うん、おどかしやしないよ。若し生きた人間にこの馬が馭せるとしたら、僕こそその人だ -- とても生きた人間には馭せないがね -- だが、萬一人間でその力を持つてゐるものがあるとしたら、 僕こそその人さ。」 「何故こんな馬をお持ちなの?」 「あゝ、さう訊くのも尤もだね。そりや、廻り合はせだつたんだね。ティップは人を一人殺したことがあるんだ。 僕があれを買つてから間もなくだつたが、すんでのことに僕は殺されるところだつた。 それからまた、本當の話だが、僕も危《あぶな》くあいつをやつつけるとこだつた。 だが、あいつの後にゐたら、時には生命《いのち》も危いことがあるよ。」 彼等は丁度坂を下りかけてゐた。馬の勝手か、それとも彼の意志からか(多分この方であるが)、 明らかに馬は自分の期待されてゐる無謀な離れ業を、よく呑み込んでゐたから、 後ろから暗示されるのを俟《ま》つまでもない位ゐであつた。 下へ、下へと彼等は驅つた。車輪は獨樂のやうにぶん〜唸り、車臺は左右に搖れ、車軸は前進する方向に對して少し斜めになつた。 馬の體は二人の前で、波を打つて起伏した。時々一方の車輪が、幾|碼《ヤード》も地上から離れるやうに見えた。 また時には、小石がくる〜廻つて、生垣の向うへ跳んだ。馬の蹄から、まるで火打石から發するやうな火花が、 日の光よりも強く光つた。眞直な街道の眺望は、進むに連れて擴がり、左右の土堤《どて》は棒を割るやうに兩方に裂けて行き、 裂けた一つ〜が兩肩を掠《かす》めて行つた。 風は、テスの白いモスリンを吹き通して、彼女の皮膚《はだ》に觸れた。そしてその洗ひ髮は、後へ流れ飛んだ。 彼女は、それと分るやうな恐さは少しも見せまいと決心したが、 ダアバァヴィルの手綱を持つ方の腕にしつかりつかまらずにはゐられなかつた。 「僕の腕に觸《さは》つちやいけない!そんな事をすると、僕逹は投げ出されつちまふよ!腰におつかまり!」 彼女は腰に抱きついた。そんな風にして、彼等は麓へ着いた。 「助かつたわ、まあ有難い。あなたがあんな詰らない事をなさつたけれど!」と彼女は言つた。 顏は火のやうに火照つてゐた。 「テス -- 何を言つてゐるんだい!僕が落着いてゐたお蔭なんだよ!」とダアバァヴィルは言つた。 「ほんとにね。」 「そりやさうと、もう危くないと思ふと、そんなに有難くもないといつたやうに、直ぐ僕から手を離すにも當らないぢやないか。」 彼女は、自分が今までどんな事をしてゐたのか少しも考へなかつた。又、我知らず彼に掴まつてゐたが、 相手が男か女か棒か石かも考へなかつた。もとの平靜に返ると、彼女は何にも答へずに腰掛けてゐた。 かうして、二人はもう一つの坂の頂きへ着いた。 「さあ、もう一度!」とダアバァヴィルは言つた。 「いえ、いえ!」とテスは言つた。「どうかお願ひですから、そんな馬鹿な眞似はなさらないで下さい。」 「だが、この土地で一番高いところへ來てゐるんだから、どうしたつて下りなきやなるまい、」と、 彼はしつぺい返しをした。 彼は手綱を弛めた。そして二人はまたしても勢ひよく下つた。搖れてゐる最中に、ダアバァヴィルは彼女の方へ顏を向けて、 からかひふざけるやうに言つた -- 「そら來た、前のやうに、また僕の腰に腕をお卷きよ、ねえ君。」 「いやです!」テスは頼るものかちいつた調子で答へた。そして、彼に觸らないで、 出來るだけ體をしつかりさゝへた。 「その柊《ひいらぎ》の實のやうな唇へ、ちよつと接吻させてくれよ、テス。 でなきや、その熱い頬ぺたにでもいゝ。そしたら止すから -- 誓つて止すよ!」 テスはひどく驚いて、腰掛けたまゝずつと身を退いた。すると、彼はまたも馬を驅り立てゝ、 ます〜彼女を搖《ゆす》ぶつた。 「さうしなくちや、どうしてもいけないんですか?」と彼女は絶望のあまり、到頭かう叫んだ。 その大きな眼は、野獸のそれのやうにぢいつと彼を瞶《みつ》めてゐた。 母がこんなに綺麗に裝つてくれたことも、今となつては明かに仇となつてしまつた。 「どうしてもだよ、可愛いテス、」と彼は答へた。 「あゝ、私には分らない -- でも、いゝわ。私、構はない!」と彼女は情けなささうに喘いだ。 彼は手綱を控へた。そして馬車が緩《のろ》くなつたので、彼はまさに願望《のぞみ》の挨拶の接吻をしようとした。 その途端、彼女は自分の愼しみなぞまるで氣づかないやうに、側《わき》へ身をかはしてしまつた。 彼の兩腕は手綱を持つてゐたので、彼女の行動を防ぐ力はなかつた。 「ぢや、畜生め -- 二人とも首を挫《くじ》いちまふぞ!」氣紛れにも、思ひ迫つてゐる相手は斷言した。 「ぢや、そんなにして約束が破れるつてのかい。この嘘つきめ。」 「ようございます、」とテスは言つた。「そんなにしつかり決心してゐらつしやるなら、私動きやしません! でも、私 -- あなたが優しくして下さるものと思つてゐましたのに、また、身内の者と思つて庇《かば》つて下さると!」 「身内も糞もあるもんか!さあ!」 「でも私、誰にも接吻して貰ひたくないんですから、あなた!」と彼女は懇願した。 大きな涙が顏を傳つて落ちかけ、泣くまいとする口元はぶる〜顫へた。「こんなことゝ分つてゐたら、 私、來なかつたでせうに!」 彼は何處までも彼女の歎願を聞き入れなかつた。彼女はぢつと坐つたまゝでゐた。 そこでダアバァヴィルは、彼女に勝利の接吻を與へた。それが濟むか濟まないうちに、 彼女は恥かしくて眞赤になり、ハンケチを取り出して彼の唇が觸れた頬を拭いた。 彼の情熱は、それを見ていよ〜苛立つて來た、といふのは、彼女が無意識だつたからである。 「百姓娘にしちや、いやに氣にするね!」と青年は言つた。 テスは、この言葉には何とも答へなかつた。彼女は我知らず頬をこすつて、 男に肘鐵砲をくはせたのだといふことには氣がつかなかつたので、 その言葉に意味が、實際少しも分らなかつた。彼女は物理的に出來る限り、事實その接吻をすつかり消してしまつたのである。 彼等がメルベリイ・ダウンとウィングリーンの近くまで進んだ頃、彼女は男の氣に障つたと微かに感じながら、 ぢいつと先の方を瞶《みつ》めてゐた。するとまだ下らなければならない坂が控へてゐるのを見て、ひどく驚いた。 「きつと後悔さしてやるから!」彼は新たに鞭を揮《ふ》つて、まだ無くならない、 いま〜しい口調で言ひ續けた。「それもだ、心からもう一度僕に接吻させて、ハンケチなどを使はないと言ふなら別だが。」 彼女は溜息をついた。「ようございますわ!」と彼女は言つた。「まあ -- 帽子を取らして下さいよ!」 話をしてゐる間に、高地を駈けてゐる現在の速力は決して遲くなかつたので、 彼女の帽子は街道へ吹き飛ばされてしまつた。ダアバァヴィルは馬車を停め、自分が取つてやらうと言つたが、 テスは反對の側へ降りた。 彼女は後へ戻つて、帽子を拾ひ上げた。 「帽子を脱《と》つてゐる方が、餘つぽど別嬪に見えるぜ、本當に。さういふ事があるもんかな、」 と彼は馬車の後ろ越しに、彼女を眺めながら言つた。「さあ、さあ、またお乘り!どうしたんだい?」 帽子は頭にのつて結びつけられたが、テスは歩み寄らうとしなかつた。 「いやですよ、」と、大膽な勝利の喜びに眼を輝やかし、口には赤い齦《はぐき》と白い齒を現はしながら、 彼女は言つた。「乘つたらどうなるかゞ分つた以上、もう乘りません!」 「何だつて?僕の側へ乘らないつて?」 「えゝ、私、歩いて行きます。」 「トラントリッヂへは、まだ五六哩もあるんだぜ。」 「たとひ何十哩あつたつて、關《かま》やしません。それに荷馬車も後から來ますから。」 「この狡い阿魔《あま》め!さあ言へ -- お前、故意《わざ》と帽子を飛ばしたんぢやないか? 屹度、さうに違ひない!」 彼女の策略的な沈默は、彼の疑惑をいよ〜確實にする助けとなた。 そこでダアバァヴィルは、彼女をさん〜゛罵《のゝし》り散らし、今の惡計に對して、 思ひ出せる限りの惡口を彼女の浴せた。彼は俄かに馬の向きを變へて、彼女の方へ引つ返し、馬車と生垣との間に、 彼女を板挾みにしようとした。けれどもそれは相手に負傷でもさせない事には、到底出來ない事だつた。 「恥かしくもなく、よくそんな惡口が言へるものですね!」 這ひ上つてゐた生垣の上から、元氣を出して、テスは叫んだ。「私、ちつとだつてあなたが好きぢやない! 憎らしい、大嫌ひです!お母さんのところへ歸ります、歸ります!」 ダアバァヴィルの癇癪は、テスのを見せつけられると、すつかり納まつてしまつた。 そして彼は、心から笑つた。 「ねえ、僕は一層お前が好きになつたよ、」と彼は言つた。「さあ、仲なほりをしようよ。 僕はお前が厭だといふなら、もう決してしないよ。今度はほんとに誓ふ!」 テスはまだ、再び馬車に乘らうといふ氣になれなかつた。が彼女は、 自分と並んで彼が馬車を進めて行くことには反對しなかつた。で、こんな風にして、 緩《のろ》い歩調で彼等はトラントリッヂの村の方へ進んで行つた。ダアバァヴィルは、始終、 自分の不法な行ひの爲めに歩かせるやうにしてしまつた彼女の姿を眺めては、 烈しい苦痛の色を見せてゐた。彼女は實際のところ、もう安んじて彼を信じてよかつたかも知れなかつた。 けれども彼は、差し當り娘の信用を失つてしまつた。そして彼女は、 家へ歸る方が賢いのではあるまいかとでも思つてゐるやうに、物思はしげに歩を運んでゐて、地上を離れなかつた。 だが、彼女の心はもう決つてゐた。そして、もつと重大な事情のない限り、今その決心を捨てるといふことは、 心變りも甚しく、子供らしい事のやうにさへ思はれた。どうして彼女は、兩親に顏を合はせ、荷物を取り返し、 こんな女々しい理由で、我が家を再興する爲めのすべての計畫を破ることが出來よう。 數分經つと、スロープ邸の煙突が視野のうちに現はれ、その右の方の小ぢんまりした一隅に、 テスの目的地である養鷄園と田舍家とが見えて來た。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:九 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- テスが、管理人、賄方《まかなひかた》、看護婦、外科醫、それから友逹として任命されて臨む事になつた家禽の一團は、 圍ひ地の中に立つてゐる、古い茅葺《かたぶ》きの田舍家をその本部としてゐた。 その圍ひ地は、嘗つては庭園であつたが、今では踏みにじられた砂埃の多い四角い地面となつてゐた。 家は蔦で蔽はれ、煙突はこの寄生植物の枝の爲めに大きくなつてゐるので、 荒れ果てた塔かと思はれるのであつた。階下の部屋は、すつかり鳥の群に委ねられてゐた。彼等は、 そこを築き上げたのは、今では寺の墓地の東や西に埋まつて塵土《ぢんど》となつてゐる某々の地主ではなく、 恰も自分逹でゞもあるかのやうに、主人顏をしてその邊りを歩き廻つてゐた。さういふ昔の所有者逹の子孫は、 自分逹が深い愛情を感じてもゐたし、祖先逹が少なからぬ金をかけてもゐたし、ダアバァヴィル家の者がやつて來て、 此處に邸宅を建てるまでは數代の間所有もして來たその家が、法律の手續きでこの屋敷が同家の手に入るとすぐ、 ストーク・ダアバァヴィル夫人の考へによつて、平氣で鳥小舍《とりごや》に更《か》へられてしまつたのを見て、 殆んど自分逹一家に對して侮辱を加へられでもしたやうに感じた。「お祖父さんの頃には、 正直な人逹が住んでも恥かしくない住居だつたのに。」と彼等は言つた。 嘗つては、大勢の幼兒が守りをされながら泣き喚《わめ》いてゐたその部屋々々には、 今では生れたての雛鷄《ひよつこ》のこつ〜物をつつく音が鳴り響いてゐた。 塒《とや》の中で、半狂亂になつてゐる牝鷄は、以前、落着き拂つた農業家を坐らせてゐた椅子の置いてあつた處に陣取つてゐた。 爐邊と、嘗つては火の盛んに燃えてゐた煖爐とには、今では蜜蜂の巣箱が逆さにして一ぱい填《つま》つてゐた。 その中へ、牝鷄は卵を生むのであつた。又戸外の、代々の家主が念入りに鋤で均《なら》した地所は、 牝鷄の爲めにひどく掻き荒されてゐた。 この田舍家の建つてゐる庭は、石塀に取り圍まれてゐて、一つの戸口から入られるだけであつた。 テスが、その次の朝一時間ばかり、本職の養鷄家の娘らしいうまい思ひつきに從つて、 一生懸命に配置を變更したり改良したりしてゐる時に、石塀の間の扉が開いて、白い帽子と前掛との女中が入つて來た。 彼女は母屋《おもや》から來たのであつた。 「ダアバァヴィルの奧樣が、いつもの通り、鷄を持つて來いと仰しやいます。」と彼女は言つた。 でもテスには、全く何のことか分らないのを見て取つて、女中は説明した。 「奧樣は、大變お年を召してゐらしつて、それに、眼がお見えにならないんですよ。」 「眼がお見えにならない!」とテスは言つた。 この話を聞いて、自分の疑念をはつきりさせる暇も殆んどないうちに、彼女は仲間の指圖に從ひ、 ハンバアグ種の一番美くしい二羽を腕に抱いて、同じやうに二羽かゝへてゐる女中に跟《つ》いて隣接の本邸へ行つた。 それは壯麗を極めた、堂々とした建物ではあつたが、屋敷の此方《こつち》側には到るところ、 その部屋を占めてゐる誰かゞ物言わぬ生物を心から可愛がつてゐる痕跡《あと》を、同時にはつきり見せてゐた -- 例へば、正面の玄關の見えるところに飛び散つてゐる羽毛だとか、芝生に立つてゐる塒《とや》だとか。 階下の居間には、この屋敷の持主でもあり女主人でもある、六十はまだ越してゐない、いや、 或はもつと若いかも知れない白髮の夫人が、大きな縁なし帽子を被つて、 背中に日光を浴びながら安樂椅子にゆつたりと納まつてゐた。 夫人は、長い間失明してゐる人とか、又は生れつきの盲目の人とかに見る沈み切つた顏色といふより、 寧ろ、だん〜と視力が衰へるので、それを取り戻さうと骨を折つては見るものゝ、 仕方なく諦めてしまつたといふ人逹によく見受けられる物に感じ易い顏付をしてゐた。 テスは、羽毛のある預り物を持つて -- 片方の腕へ一羽づゝとまらせて -- この夫人のところへ歩み寄つた。 「おゝ、お前さんは、うちの鷄の面倒を見に來てくれた娘さんかね?」ダアバァヴィル夫人は、 聞きなれない跫音《あしおと》を聞き分けて言ふのだつた。「どうぞ、親切にしてやつて下さいよ。 お前さんが全く適任者だといふことは、執事から聞いてゐますよ。さう〜、鷄は何處にゐますかい? はゝあ、これはストラットだね!でも、今日は何時もほど元氣がないやうだね、どうかね? 知らない人の手に扱はれてゐるので、吃驚してゐるんだらう。それにフィーナも矢つ張り -- さうだ、 どつちも少し怯えてゐる -- ねえ、さうだらう?でも、直《ぢ》きにお前さんに馴れますよ。」 老夫人が話をしてゐる間に、テスともう一人の女中とは夫人の手眞似に從つて、 それ〜゛夫人の膝へ鷄を載せた。すると夫人は、頭から尾まですつかり撫でまはしてみて、 嘴や、鷄冠《とさか》や、牡鷄の鬣《たてがみ》や、羽翼《はね》や、それから爪を調べるのであつた。 彼女は手觸りで、忽ちどの鳥かといふ事や、また羽毛が一本損じてゐるとか、 埀れてゐるといふ事まで知ることが出來た。彼女は餌袋に觸つて見て、鷄が何を喰べたか、 また喰べ方が少いか過ぎたかも知つた。そして夫人の顏には、心に浮ぶいろ〜の批評が生き〜と無言のうちに示された。 二人の娘が運んで來た鳥は、滯りなく圍ひ地の方へ歸された。かうして連れて來、連れ戻す手續は、 幾度も繰り返されて、到頭お氣に入りに牡鷄牝鷄が悉く老婦人の下に差し出された -- ハンバアグも、バンタムも、コーチンも、ブラーマも、ドーキングも、それに丁度その頃はやつてゐた他のいろ〜の種類も -- 。 夫人が膝の上に鳥を受け取つて、その一羽々々の來訪者がどんな風であるかをあてる場合、 滅多に間違ふことはなかつた。 それは、テスに堅信禮(牧師が、嚴かな身振りや祈祷で、靈の安心をはかり儀式)の式を想ひ出させた。 ダアバァヴィル夫人が司教で、鳥は臨場した若い人々であり、彼女と女中とは、 彼等を伴うて來た教區の牧師と副牧師といふ格であつた。その儀式の終りにダアバァヴィル夫人は、 顏に起伏する波のやうな皺を寄せ、歪めて、不意にテスに訊ねた。「お前、口笛が吹けるかい?」 「口笛でございますか、奧樣?」 「さう、口笛で歌を唄ふのさ。」 テスは、他の大概の田舍娘と同じやうに、口笛を吹くことが出來た。尤もそれは、 上品な人逹に仲間に加はつては公表したくない藝ではあつたが。でも、彼女はおとなしく、 事實をその通り白状した。 「それぢや、毎日それを練習しなくちやなりませんよ。大へん上手に吹く若い者が一人ゐたんだが、 暇をとつて行つてしまつてね。鷽《うそ》に口笛を吹いて貰ひたいのだよ。私には、あれの姿が見えないから、 せめて鳴くのが聽きたいのでね。それで、我家《うち》ぢやさういふ風にして、あれに歌を教へるんです。 エリザベスや、籠のあるところを教へておやり。お前、明日から始めなくちやなりませんよ、でないと、 鳴き方が後戻りするだらうからね。こゝ五六日といふもの、うつちやらかされてゐたんでね。」 「今朝、ダアバァヴィル樣が吹いておやりでございました、奧樣。」とエリザベスが言つた。 「あれが!まあ呆れるね!」 老夫人の顏には、嫌惡の皺が刻まれた。そして夫人はもうそれ以上返答はしなかつた。 こんな風にして、テスと彼女が親類と思ひ込んでゐた夫人との應接は終つて、鳥類はその棲家《すみか》へ連れ戻された。 ダアバァヴィル夫人の態度に接しても、テスは大して驚きもしなかつた。 それは屋敷の大きさを見て以來、彼女はこれ位ゐのことはあるものと豫期してゐたからであつた。 だが、老夫人が、所謂血縁云々のことに就いては、一言も耳にしてゐないのだといふ事には、 一向氣づかなかつた。彼女は、この盲目の夫人とその息子との間には、深い愛情が通つてゐないものと推測した。 だが、それもまた彼女の考へ違ひであつた。悔しいと思ひながらも我が子を愛し、 心から可愛がらないではゐられない母親は世間には多くゐるもので、ダアバァヴィル夫人もその一例にすぎなかつた。 前日のお目見えは不愉快であつたにも拘はらず、テスは、一旦其處へ納まつてみると、 朝太陽が輝き出した時には、自分の新しい地位が暢氣で、眼新しいので惡くはないと思つた。 そして、彼女は自分の地位を繼續して行く機會を確かめる爲めに、言ひつけられた用事のうちで思ひもよらない方面で、 自分の力が試して見たいとしきりに思つた。ぐるりと石塀に取り圍まれた庭園の中に、 たつた獨りきりになると、すぐさま彼女は塒《とや》の上に坐り込み、永く捨てゝ顧みなかつた實習をする爲めに、 本氣になつて口をすぼめた。彼女は、以前の技倆が鈍つて、たゞ唇を通つて音もしない風が吹き出るだけになつてしまひ、 ちつともはつきりした調子が出ないことに氣がついた。 彼女は、吹いて吹いて、吹きつゞけたが無駄であつた。そして、生れつき持つてゐた藝を、 かうまで忘れるなぞといふ事があるものかしらと訝《いぶか》つてゐると、やがて田舍家同樣に、 庭の石塀を覆うてゐる蔦の蔓の中に、動くものゝあるのに氣がついた。彼女が、その方へ眼をやると、 石塀の笠石から、地内へ跳び下りようとする者の姿が見えた。それは、アレク・ダアバァヴィルであつた。 彼女は、前日、自分の宿泊する園丁の小舍の戸口まで案内してもらつてから、ついぞ彼を眼にしなかつたのである。 「本當に!」と彼は叫んだ。「『自然』の中にも、『藝術』の中にも、今のお前ほど美くしく見えるものは、 未だ曾つてなかつたよ、『從妹《カズ》』のテス。(この『從妹』といふ言葉にはかすかな嘲笑の響があつた) 僕は石塀の上から、今までお前を見てゐたんだ -- 記念碑の上に載つてゐる、短氣の像 (忍耐の像は事實あるので、その反對をこゝでは巧みに用ひたもの)のやうに坐り込んで、 口笛を吹く爲めにその可愛い眞紅な口を尖らせて、ふう〜といはせたり、 内證で畜生なんて言つて見たり、それでゐて、ちよつとだつて調子が出ないでゐるところをさ。 お前、口笛が吹けないつてんで焦《じ》れてゐたぢやないか。」 「焦《じ》れてゐたかは知りませんけれど、畜生なんて言ひませんでしたわ。」 「あゝ!何故お前が試《や》つてゐるのか分つた -- あの鷽《うそ》の爲めだね! 母はあいつらの音樂教育を、お前にやつて貰ひたがつてるんだね。何て我儘なお袋だらう! まるで、いやな牡鷄や牝鷄の世話をするだけでは、娘の仕事として不足でゞもあるやうに思つてるんだ。 僕がお前だつたら、あつさり斷るね。」 「でも、奧樣は特にこれをやれ、明日の朝までにはよく出來るやうにとのことです。」 「さうかい?よし、それぢや -- 一二度僕が稽古してやらう。」 「あら、ようございます、止して下さい!」とテスは戸口の方へ引き退りながら言つた。 「馬鹿な、お前に觸らうといやしないよ。ほれ -- 僕は金網の此方側に立つんだらう、すると、 お前は其方側に立つてゐられるぢやないか。さうすりや、一寸も心配はないだらう。 さあ、いゝかね、お前はあんまり唇をすぼめ過ぎるぜ。そら、こんな風にするんだ -- ほら。」 彼は歌詞に身振りを合せながら、『取られよ、おゝ、その唇を[手へん|劣;#1-84-77]《も》いでたも。』の一行を吹いた。 だがその意味は、テスには通じなかつた。 「さあ、やつて御覽、」とダアバァヴィルは言つた。 彼女は、つとめて遠慮してゐるやうに見せかけた。その顏は、彫刻のやうに嚴肅さを帶びてゐた。 けれども、彼は何處までもせがんで止まなかつた。そこで、終に彼女は彼から遁れる爲めに、 教へられた通りに唇を突き上げて、明瞭な調子を出さうとした。が、情なさゝうに笑ひ出し、 それから自分が笑つたことを氣にして顏を赧らめた。 彼は、「もう一度やつて御覽。」と彼女を勵ました。 テスは、この時にはもう眞劍になつてゐた。痛ましいまでに眞劍になつて、やつて見た -- 到頭、思ひがけなくも、本當のなだらかな音が出て來た。彼女は成功した瞬間の歡びの爲めに、 我を忘れて眼を大きく見開き、思はず彼の顏をまともに見ながら微笑んだ。 「それだ!僕が手ほどきしてやつたんだから -- これからずつと巧くやれるだらうよ。 それから -- 僕はお前の側へは行かないつて言つたね。だから、 ついぞこれまで人間の身にふりかゝつた事もないやうな誘惑を感ずるが、 僕は約束を守るよ……テス、お前は僕の母を變つた婆さんだと思ふかい?」 「私、まだよく存じません。」 「さうだつて事が、今に分つてくるぜ。さうに違ひないよ。 鷽《うそ》に口笛を吹いてやることをお前に覺えさせようつてんだもの。 僕は、今のところ母の機嫌を損じてゐるんだがね。でもお前は、あの人の飼ひものをよく面倒見てやれば、 すつかりお氣に入りになるぜ。失敬。此處で、何か面倒なことが出來て、 どうかして慾しいとでも思ふ時には、執事のところへ行かないで、僕の方へ來給へ。」 テス・ダアビフィールドが、始めて地位を占める爲めに手がけたのは、かういふ仕事であつた。 最初の日の經驗は、その後幾日となく續いた經驗を代表するに十分なものであつた。 アレク・ダアバァヴィルと會つて感ずる親しみ -- その親しみは、例の若者が、 冗談めいた對話や二人きりの時にはからかひ半分に從妹《カズ》と呼ぶことなぞで、 彼女の心に植ゑつけた -- は、彼と會ふのを厭がる以前の羞かしい氣持を大へん取り除いたのであつたが、 といつて、新しい、以前のよりもやさしい種類の恥かしさを起させるやうな感情などを植ゑつけはしなかつた。 だが、彼の支配を受けると、ただの友逹づきあひでなる以上に彼女は素直になつた。 といふのは、彼女はどうしても彼の母親に頼らなければならないのであるが、 その夫人が比較的當てにならないから、結局彼に頼るより外に仕方がなかつたからである。 再びその藝をものにしてしまふと、彼女には、ダアバァヴィル夫人の部屋で鷽《うそ》に口笛を吹いてやるのは、 決してさう苦しい仕事ではないことが、ぢきに分つて來た。それといふのも、さういふ鳴禽《めいきん》に、 すつかり氣に入るやうな澤山の調子を、音樂好きな自分の母親から聽き覺えてゐたからであつた。 庭園で練習した時よりも、もつと〜嬉しいのは、毎朝鳥籠の側でこの口笛を吹く時であつた。 彼女は、例の青年がゐても別に尻込みしないで、口を突き出して籠に唇を寄せ、 聞き耳を立てゝゐる相手に向つて、心地よささうに吹き立てた。 ダアバァヴィル夫人は、重い緞子《どんす》のカーテンのかゝつてゐる大きな四本柱の寢臺に寢ることになつてゐた。 鷽《うそ》も同じ部屋を占めて、或る時間には、自由にその部屋の中を飛び廻り、家具や裝飾品にとまつて小さい白い斑點となつた。 或る時、テスが鳥籠の一列に並べてある窓のところにゐて、いつものやうに稽古をさしてゐると、 寢臺の後で、かさ〜音のするのが聞えるやうに思つた。老夫人の姿は見えなかつた。 振り向くと、娘は一足の靴の爪先が、カーテンの縁から見えるやうな氣がした。 その爲めに、彼女の口笛はひどく調子が狂つたので、若し誰か聽いてゐる者があつたとしたら、 その聽き手は、自分がそこにゐるのを彼女が感づいたといふことを發見したに違ひなかつた。 その事があつてから後は、彼女は毎朝カーテンを探つたが、その中には誰もゐた例《ため》しがなかつた。 アレク・ダアバァヴィルは、明らかにそんな待ち伏せをして、 彼女を驚かさうといふやうな氣まぐれを考へ直してやめにしたらしく見えた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 何處の村にも、それ〜゛の特色、それ〜゛の組織、または獨特の道徳律といふものがある。 トラントリッヂ村近邊の若い女逹のうちでも、或る者の不身持は、目立つてゐた。 そして、それは恐らく近くのスロープ邸を支配してゐる立派な人々の特色でもあつたのだらう。 この土地には、又もつと根の深い弱點があつた。つまり、盛んに酒を呷《あふ》る事だ。 あたりの農場で交すおきまりの話と言へば、金など溜めたとて何になるかといふ事であつた。 そして野良着を着た數學家は、鋤か草掻へ倚《よ》りかゝりながら、一生涯かゝつて給金のうちから貯金して、 それが幾らになつたとて、それよりは村から頂戴する救濟金の方が、 老後の備へにはずつと優つてゐることを證據立てる爲めに、 かなり精しい勘定を始めるのがきまりだつた。 かういふ理論家逹の主な樂しみといふのあ、毎土曜日の夜、仕事が濟むと、 二三哩隔つた今では廢《すた》れてゐる市場町のチェイズバラーへ出かけて行き、 眞夜中の一二時頃に歸つて來て、嘗つては立派に一人立ちしてゐた酒場を一手に引き受けてゐる買占人から、 ビールと言つて賣られた怪しげな混合物から來る消化不良の效果《きゝめ》を取り去る爲めに、 日曜日を寢て暮す事であつた。 永い間、テスはこの一週間目毎の行樂に加はらずにゐた。けれども、自分と餘り年の違はない上さん逹 -- 畑で働く人の給金は、二十一でも四十の者と變らないので、ここでは早婚が行はれてゐた -- に強ひられて、 彼女は到頭行くことを承知した。この行樂を始めて經驗して見ると、テスには思つたより樂しかつた。 それはまる一週間養鷄園の單調な世話をしてゐた後の彼女には、他の人逹の暢氣な氣分に極めて感染し易かつたからである。 彼女は再三出かけて行つた。淑《しと》やかで、魅力があり、 その上にもう少しで一人前の女にならうといふ閾の上に立つてゐるので、 彼女の樣子は、チェイズバラー通りののらくら連中から、 何となく心憎い流眄《ながしめ》を浴びずにはゐられなかつた。それ故、 時にはひとりでその町へ出掛けて行く事があつても、夜になると、 一緒に歸つて身を守つてくれる人がほしいので、彼女はいつも仲間を探すのであつた。 こんな事が一二ヶ月續いて、やがて縁日と市日との重なつた九月の或る土曜日がやつて來た。 そして、トラントリッヂから出た行樂の者逹は、その爲め酒場で二重の歡樂を求めたのであつた。 テスは仕事の爲めに出掛けるのが遲れたので、友逹は彼女よりもずつと前に町へ着いた。 それは晴れた九月の、丁度今にも日が沈まうといふ夕暮で、黄色い光が青い影と入り亂れて、 頭髮を一本々々並べたやうに見え、あたりの雰圍氣は、その中に無數の羽蟲が舞つてゐるだけで、 他のもつとしつかりした物體が加はらなくても、自然と一つの風景になつてゐた。 夕暮近い薄明りの中を、テスはゆつくり歩いてゐた。 彼女は黄昏《たそがれ》間近ににそこへ着いてから、始めて縁日と市日とが重なつてゐる事を知つた。 買物は僅かなので、すぐに片付いた。それから、彼女はいつものやうに、 トラントリッヂの或る百姓逹を探し始めた。 最初、彼女は見付け出すことが出來なかつた。そして大抵の者は、彼等の農場と取引きをしてゐる乾草刈兼泥炭商の家で行はれる、 所謂内々の小舞踏會へ行つた事を教へられた。その商人は、或る枝町の邊鄙《へんぴ》な一角に住んでゐたから、 其處へ行く途を探してゐると、彼女の眼は、不圖《ふと》通りの角に立つてゐるダアバァヴィルに留つた。 「どうしたんだい -- ね、別嬪さん?こんな處にこんな遲く?」と彼は言つた。 彼女は、たゞ歸りの連れを待つてゐるだけだと言つた。 「何れまたお目にかゝるよ。」彼女がずん〜裏路の方へ行くので、彼はその肩越しにさう言つた。 乾草刈の家へ近寄ると、後の方の或る建物から、リール踊りの曲を彈いてゐる提琴の音が聞えて來た。 が、踊りの音はちつとも聞えなかつた -- これは大抵足踏で音樂を消してしまふこの邊にしては珍らしい事だつた。 表の扉が開いてゐたから、彼女は夜の闇の許す限り、家の中を通して裏庭をずつと見通すことが出來た。 叩扉《ノツク》しても誰も姿を見せないので、彼女は住宅を突つ切つて、小徑を傳ひ、 先刻心を惹かれた樂の音の洩れて來る離れ家の方へ行つた。 それは物置に使はれてゐる、窓のない建物だつた。開いた扉口《とぐち》から暗がりの中へ、 黄色く光る霧のやうなものが流れ込んでゐたのを、最初テスは、煙の中へ明りが射してゐるのだと思つた。 が、近づいて行くと、離れ家の中の蝋燭の光を受けた埃の雲であることが分つた。その靄《もや》にあたる光線で、 入口の輪廓が庭の廣い暗黒の中へ浮き出てゐた。 側へ寄つて覗いて見ると、ぼんやりした姿が、舞踏の組をつくつて往つたり來たり駈けずり廻つてゐるのが分つた。 足踏みの音のしないのは『芥糟《くづ》』 -- つまりその物置に入れてあつた泥炭やその他のものゝ粉になつた殘滓《かす》に靴が甲まで埋まるからであつた。 又足で亂暴にそれを掻き立てるから、雲霧のやうなものが出來て、この場に渦卷くのであつた。 この浮遊してゐる黴臭い泥炭や乾草の屑に踊り手の汗といきれが交り、 それが一緒になつて植物と人間との花粉を飛ばせてゐるやうに見える中で、音樂に合せて踊つてゐる人々の元氣に比べると、 ひどく響き榮えのしない提琴がその調べを奏してゐた。彼等は踊りながら咳をしたり、 咳をしながら笑ひこけたりしてゐた。駈け廻つてゐる組々の姿は、高い處の燈火と同じやうに、 やつとそれと氣付かれる位ゐであつた -- ぼうつと霞んでゐるので、 彼等は、半獸半神が水の精を抱いてゐる姿ともなり -- 數知れぬ牧羊神が、 數知れぬ笙《しやう》の神をくる〜と廻してゐる姿ともなり、 蓮華女神が男根神を避けようとしながら、いつも手にかゝつてしまふ形ともなつた。 この一團のうちで、幾人かの醉漢神は、壁の側にある腰掛や乾草の上に掛けてゐた。 そしてそのうちの一人は、彼女にゐるのに氣がついた。 「娘逹は、『百合花』亭で踊るのを恥かしいと思つてゐるんだよ、」と彼は説明した。 「それに、誰が自分の情人《いろ》だかつて事を知らせたがらねえんだ。又あの店ぢや、 底拔け騷ぎにいよ〜油が乘り出す時分に、どうかすると店を閉めつちまふ事もあるんでね。 だから俺等《おいら》はこゝへやつて來て、酒を買はせにやる譯さ。」 「でも、あなた方のうちに何時頃歸るか分つてる方があるでせうか?」とテスは多少心配さうに訊いた。 「さあ -- もうぢきだよ、これがもうお終ひの舞踏だらうから。」 彼女は待つてゐた。リール踊りも終りに近づいて、一行のうちには出掛けようと考へてゐる者もあつたが、 他に出掛けたがらない者がゐて、又もう一囘の舞踏が始まつた。これで屹度お終ひだらうと、テスは思つた。 が、尚もずる〜になつて、次の分に移つた。彼女はそわ〜し出し、落着かなくなつて來た。 もう、こんなに長く待つてしまつた以上は、この先も、どうしても待つてゐなければならなかつた。 縁日の爲めに、街道には、ことによると心掛けのよくない無頼漢が、あちこちにごろ〜してゐるかも知れない。 大抵の危險は怖れてゐなかつたものゝ、彼女は、思ひも寄らない危險に會つてはと、それを恐れてゐた。 若しマアロットの近くにゐるのだつたら、彼女はそんなに恐がりはしなかつたであらう。 「びく〜するにや及ばねえよ、お前さん、」咳きながら、一人の汗だらけの顏をした青年が彼女を窘《たしな》めた。 彼は麥藁帽をひどく阿彌陀に被つてゐたので、その縁が聖者の後光のやうに頭を取り卷いてゐた。 「何だつてそんなに急くんだね?有難えことに、明日は日曜と來てる。だから教會へ詣《めえ》る暇に、 ゆつくり寢すごせるつてもんだ。なあ、俺と一と踊りやらんかね?」 彼女は踊るのが厭といふ譯ではなかつたが、此處では踊る氣がしなかつた。 舞踏は益々熱を加へて來た -- 明るい雲の柱の蔭にゐる提琴彈奏者は、 弦馬《こま》の見當違ひの方を彈いたり弓の背中で擦つたりして、時々曲を狂はした。 だが、そんな事はどうでもよかつた。息を切らしてゐる人々は、たゞぐる〜廻りつゞけた。 彼等は、相手に心殘りのあるうちは決してそれを變へる事をしなかつた。 相手を變へるといふのは、たゞその組の者のどちらかゞ、 まだ滿足な相手を選び出して來ないといふ事を意味するに過ぎなかつた。 そしてもう今は、どの組もどの組も、相應《ふさは》しい取合はせになつてゐたのである。 今こそ、我を忘れて夢幻《ゆめうつゝ》の氣持になれる時であつた。 かうなると、この世界にあるものは、たゞ人々の感情だけになつた。 そして踊り廻らうとする時にそれを妨げるかも知れない偶然の故障さへ起らなければ、 彼等に取つては、感情が全部であつた。 突然、床の上にどしんといふ鈍い音がした -- 一組の者が倒れて、 縺《もつ》れ合つたまゝ堆積《やま》になつて横はつたのである。 次の一組も、その進行を止めつことが出來ないで、その障碍物の上に倒れかゝつた。 部屋中に行きわたつてゐる埃の中に、更に内側の埃の雲が、仆れた姿を繞《めぐ》つて立ちのぼつた。 その埃の中に、縺《もつ》れ合つてのたくり動いてゐる腕と脚とがそれと見分けられた。 「こんな事をして、あんた、我家《うち》へ歸つたら覺えておいで!」人間の堆積から女の言葉が -- 不噐用な爲めにこんな禍《わざは》ひをしでかすやうな男の相手を勤めた、因果な女の言葉 -- が爆發した。 この女はまた、丁度この頃その男と結婚したばかりの妻君であつた。 夫婦の間にいくらかでも愛情が殘つてゐるうちは、こんな取合はせも、 トラントリッヂでは別に珍らしい事ではなかつた。それからまた、實際のところ、 結婚生活を永く續けてゐる夫婦でも、半端な獨身者が澤山出來て、彼等の間に温かい同情などが起つては困るといふので、 それを防ぐ意味で組になつて踊ることが少なくはなかつた。 テスが立つてゐる後の庭の暗闇の中から高ひ笑ひ聲が起つて、室内のくす〜笑ひと和した。 彼女が振り返ると、葉卷の赤い火が見えた。アレク・ダアバァヴィルが、たつた獨りでそこに立つてゐた。 彼が手招きしたので、テスはいや〜ながら、彼の方へ寄つて行つた。 「ねえ別嬪さん、此處で何をしてるんだい?」 長い一日働いて、その上歩いて來た爲めにすつかり疲れてゐたので、 彼女はつい自分の心配を彼に打ち明けてしまつた -- この夜道に、不案内なので、邸《やしき》へ歸る道連れをつくらうとして、 先刻《さつき》彼に會つた時からずつと待ち通しに待つてゐた事を。 「でも、あの人逹は、まだ〜止めさうでありませんの。で私、ほんとにもう待たない積りです。」 「さうとも、待たないが好いよ。今日は、僕此處へ乘馬一頭しか連れて來てないんだ。だが、 『百合花』亭までお出でよ、そしたら馬車を雇つて、一緒に邸《やしき》まで送つて上げよう。」 テスは、さう言はれて嬉しくは思つたが、彼に對するもとからの疑惑をすつかり征服はしてしまはなかつた。 そして、百姓逹が愚圖々々してゐたにも拘はらず、彼等と一緒に歩いて歸つた方がましだと思つた。 そこで彼女は、親切は大へん有難いが、御心配はかけたくないと返事をした。 「みんなに待つてゐると言つて置きましたし、みんなも今ではさう思つてゐるでせうから。」 「ようし、勝手者。勝手にするがいゝ。……そんなら僕だつて急いで歸りやしない……おや〜、 あすこぢや何ていふ暴れ方をしてるんだ!」 彼は明るみの方へ出て行きはしなかつたが、中には彼を認めた者もあつた。 ところが彼が姿を現はすと、彼等は一寸舞踏をやめて、どの位ゐ時間が經つてゐるかを考へた。 彼が葉卷に火を點けかへて歩いて行つてしまふと、すぐにトラントリッヂの連中は、 他の農場から來てゐる人々から離れて、寄り集まり、一團となつて出發の準備をした。 皆の包みや籠も集められた。それから三十分ばかり經ち、時計臺から十一時十五分が報ぜられると、彼等は家路をさして、 小山へと續いてゐる小徑をさまよふやうにして歩いて行つた。 乾燥した白い道を、今夜は月の光を受けて一層白くなつてゐる道を、 彼等は三哩歩かなければならなかつた。 テスは、或る時は甲の人と、また或る時は乙の人といふ風に一行に加はつて歩いて行くうちに、 勝手放題に飮んだ男逹が、涼しい風を受けてよろめき始め、蛇のやうにうね〜と進んで行くかと思ふと、 又一方、男逹よりも一層そゝつかしい女の中にも亦、ひよろ〜歩き廻つてゐる者があるといふ事に氣がついた -- つまり、つい先頃までダアバァヴィルのお氣に入りだつたスペイドの女王と呼ばれる色の黒いしたゝか者のカア・ダァチ、 ダイヤの女王と諢名《あだな》されてゐるその妹のナンシイ、それから、さつき倒れたあの若い亭主持ちの女がさうであつた。 しかし今の場合、魅力などを感じない當り前の者の眼には、それがどんなに俗惡な不態《ぶざま》なものに見えようとも、 當人逹にとつてはさうではなかつた。彼等は、獨創的な深い考へ、例へば、自分逹も周圍の自然も一つの有機體で、 その何れの部分も互ひに皆調子よく歡びに滿ち、互ひに交錯してゐるといふやうな考へに魅入られて、 まるで雲か風にでも乘つて空中を飛び廻つてゐるやうな氣持で路を進んだ。彼等は、頭上の月や星のやうに崇高であり、 月や星もまた彼等のやうに熱してゐた。 が、テスは父の家で、かういふ類ひのひどく痛ましい經驗を嘗めてゐたから、 彼等の樣子を見つけるとすぐ、月夜の旅で感じかけてゐた樂しみを臺なしにされてしまつた。 だが彼女は、前に言つた理由から、飽くまでもこの仲間から離れはしなかつた。 廣い街道では、彼等は三人五人とちらばつて進んでゐたが、丁度道が畑の門を拔けるところまで來たので、 先頭の者がそれを開けるのに骨を折つてゐるうちに、皆一緒になつてしまつた。 この先頭の徒歩者は、スペイドの女王のカアであつた。彼女は母親の買つた雜貨や、自分の切地や、 その他一週の間に入要な買物の入つてゐる藤籠を携へてゐた。その籠が大きくて重いので、 カアは運び具合のいゝやうに頭の頂邊《てつぺん》へ載せてゐた。 が、彼女が手を腰に當てゝ兩肘を張つて歩くにつれ、それは今にも落ちさうな具合に載つかつて行つた。 「あれ -- お前の背中を匍つてゐるものは何だい?カア・ダァチ。」と、突然仲間の一人は言つた。 皆はカアの方を見た。彼女の上衣《うはぎ》は輕い木綿の更紗で、繩のやうなものが、 頭の後から腰の下部《した》まで埀れてゐるのが見え、まるで支那人の弁髮のやうだつた。 「そりや、髮の毛が埀れてゐるんだよ。」と他の一人が言つた。 いや、それは髮の毛ではなかつた -- 籠から何か滲み出て、それが眞黒な筋になつて流れ、しかも月の冷たい靜かな光を受けて、 つる〜した蛇のやうに光つてゐた。 「こりや糖蜜だ、」と、眼の早い一人の上さんが言つた。 なるほど糖蜜であつた。カアの可哀さうなお祖母さんは、その甘い物には眼がなかつた。 蜂蜜なら我家《うち》の巣から澤山とれたが、糖蜜は、彼女が心から望むところのものであつて、 カアはこれから祖母に思ひ設けぬ御馳走をしようと思つてゐたのであつた。 色の黒い娘が急いで籠を下して見ると、その液汁の入つてゐた瓶が、籠の中で毀れてゐるのが分つた。 この時はもう、カアの背中の異常な有樣に對して、どつと笑ひの叫びがあがつてゐた。 その爲めにかつとなつた色の黒い女王は、嘲弄者逹の力は借りずに、咄嗟に思ひついた方法に依つて、 自分獨りでこの醜態を始末しようとした。彼女は、皆が今にも横切らうとしてゐた畑の中へ夢中に跳び込み、 芝生の上へ仰向けに身を投げ、牧草の上を横にくる〜轉がつたり、肘に力を入れて體を草の上に引き廻したりして、 出來るだけ上衣の汚れを拭ひ落さうとし始めた。 笑ひ聲は、一層高く響いた。カアの樣子を見て笑ひこけたので、體がひよろ〜になつて、 彼等は畑の門や柱に掴まつたり、杖に寄りかゝつたりした。今まで默つてゐた我が女主人公《ヒロイン》も、 かうまで騷ぎが湧き立つて來ては、他の者と行動を共にしないではゐられなかつた。 が、それが一つの不運《ふしあはせ》だつた -- 一つならず、いろ〜な意味で。 色の黒い女王は、他の働き仲間の聲にまじつたテスの素面《しらふ》の、とりわけ聲量の豐かな聲を聞くと、 長い間胸に蟠《わだか》まつてゐた戀敵の無念さが嵩《かう》じて、忽ち狂者のやうになつた。 彼女は急に跳び起きて、憎惡の目標に詰め寄つた。 「よくも私のことをお笑ひだね、この阿魔《あま》つちよ奴《め》!」と彼女は叫んだ。 「私、皆さんが笑つたもんで、どうしても我慢が出來なかつたんです。」とテスは侘びたが、猶ほくす〜笑つてゐた。 「あゝ、お前さんは、一番偉いと思つてゐるんだらう、今はあの人の第一のお氣に入りなもんだから! だが、ちよつとお待ちよ、ねえ、お待ちつてのに!お前さん位ゐの者が二人がゝりで來たつて、 負けるやうな私ぢやないよ!さあ -- かうしてくれるから!」 テスが吃驚したことには、色の黒い女王はその胸衣《チヨツキ》を脱ぎかゝつた -- それが嘲笑の的になつたといふ附けたりの理由もあつたので、 彼女には脱ぎ捨てるのをたゞ〜嬉しく感じてゐたのだつた -- 到頭彼女は、素肌の丸々と肥えた首や、兩の肩や、それから兩腕を月の光に曝した。 月光を浴びて、強壯な田舍|處女《をとめ》の張りきつた圓味を帶びたところは、 まるでプラキシテレス(紀元前四世紀頃の希臘の彫刻家。特に女性美を表現するに獨特の技を示した)の作とも思はれるやうに、 艷々と輝き、美しく見えた。彼女は拳《こぶし》を固めて、テスに打ちかゝらうと身構へした。 「あらまあ。でも私、お相手なぞしませんわ!」と後者は凛々しい口調で言つた。 「お前さんがそんな人だと知つてゐたら、身を落して、こんな下等な人と一緒に來るんぢやなかつたのに!」 このやゝ廣すぎて他の人にも當てはまる言葉は、美しいテスの頭上に、不幸にも他の方面から惡罵の瀧を降らせることになつた。 中でもダイヤの女王は、ダアバァヴィルとはカアにも怪しまれるやうな間柄になつてゐたところから、 カアと共同戰線を張つて、共通の敵に對抗した。その他の女も五六人、 また今夜のやうな馬鹿騷ぎの後でもなかつたらまさか誰も見せさうもない、 實に狂氣染みた氣持になつて調子を合はせた。そこで、その女逹の亭主や戀人逹は、 テスが理由もなく嚇《おど》しつけられてゐるのを見兼ねて、彼女を庇《かば》ひ、 仲裁しようとした。が、その試みの結果は、却つていよ〜喧嘩を嵩《かう》じさせるばかりであつた。 テスは腹も立ち恥かしくも思つた。もう道の寂しいことや時刻の遲いことなどは、 何とも思はなかつた。たゞ一つの目的は、出來るだけ早くこの仲間から逃れることだつた。 彼女は、彼等の中でも善良な者は、明日になると、この忿怒を後悔するに違ひないといふ事を知りぬいてゐた。 連中は、もう一人殘らず畑の内側にゐた。そこで彼女は、 一人で駈け出して分れてしまはうとじり〜後退《あとしざ》りしてゐると、 丁度その途端に、馬に乘つた一人の男が、道を圍んでゐる生垣の一隅から、殆んど、音もさせないで現はれた。 そして、アレク・ダアバァヴィルは、一同をずらりと見廻した。 「お前逹、一體この騷ぎは、どうしたつてんだい?」と彼は訊ねた。 それに對する説明は、たやすくは出て來なかつた。また實際は、彼もそれを少しも要求してゐるのではなかつた。 まだ幾らか離れてゐる先の方で、彼は一同の聲を聞いたので、こつそり馬を進めて來たのだつた。 そして、十分納得の行くまで、事態を確かめてゐた。 テスは、門の近くに仲間から離れて立つてゐた。彼は彼女の方へ體を屈めた。 「僕の後に跳び乘りな、」と彼は囁いた。「そしたら、すぐあのぎや〜喚《わめ》いてゐる連中を出し拔いちまふよ!」 彼女は殆んど今にも氣絶しさうだつた。そんなにもこの危機に對する彼女の意識は、 緊張してゐたのであつた。彼女の生涯のうちで、この時以外だつたらどんな時でも、 これまでにも度々斷つて來たやうに、かういふ先方からの助力や同行を斷つた事であらう。 そして今の場合でも、たゞ寂しいといふだけなら、申し出に應ずるやうな事はなかつたであらう。 だが、ちよつと一跳びすれば、かういふ敵に對する恐怖と憤怒とを、 勝利に一變させることが出來るといふ丁度その特殊な時期に招きを受けたのだから、 彼女は衝動に驅られて門によぢ登り、男の足の甲に爪先をかけ、彼の背後の藏へ這ひ上つた。 喧嘩好きな酒飮み連が、その出來事に氣づいた頃には、二人はもう遠く薄暗がりの中へ疾驅して、消えようとしてゐた。 スペイドの女王は、胸衣《チヨツキ》の汚れも忘れて、ダイヤの女王と、 例のよろ〜してゐる結婚したての若い妻君の側に立つてゐた。 -- 一同は、馬の蹄《ひづめ》の音がだん〜と微かになり、 はては、沈默に歸つた路上の方角を、ぢいつと瞶《みつ》めてゐた。 「何を見てゐるんだい?」と、この出來事に氣づかなかつた一人の男が訊ねた。 「はゝゝ!」と、色の黒いカアは笑つた。 「へゝゝ!」と、酒飮みの花嫁は、好いた亭主の胸に身を寄せたまゝ笑つた。 「ふゝゝ!」色の黒いカアの母親は、口髭を撫でながら、(英國では年取つた女に口髭のあるのは珍しくない)笑つた。 そして、かう手短かに説明を加へた。「フライ鍋から、火の中へつて奴さ!」 やがて、過度の酒精《アルコール》でさへさう何時までもいぢめ通してゐる譯には行かないかうした野外の兒等は、 畑道へと歩を進めた。そして、彼等が歩むに連れ、銘々の頭の影のまはりには、 露のちら〜輝く上に月の光が反射して出來た乳色の光の輪が、一緒になつて、進んで行つた。 何れの歩行者も、自分々々の影の後光しか見ることが出來なかつた。 この後光は、頭の影が、どんなにだらしなくぐらつく事があつても、 それを決して捨てようとはしないで、それにしつかりくつゝいて、又そこまでもそれを美化するのであつた。 だから、遂には不規則な運動までが、後光についたものゝやうに思はれ、 また彼等の吐き出す臭い息は夜霧の一成分であるかのやうに思はれた。 そして風景や、月光や、また大自然の精は、酒の精とぴつたり溶け合つてゐるやうに見えた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 暫くの間、二人は無言のまゝ普通の駈足で進んだ。テスはまだ自分の勝利に勢ひづいて彼に縋《すが》りるいてはゐたが、 しかも他方では何か不安げな樣子だつた。馬は彼が時々乘る例の元氣な奴でないことは分つてゐたので、 その點では少しも驚きを感じなかつたが、しつかり彼に掴まつてゐるにも拘らず、 十分に安心して乘つてゐられるといふ譯には行かなかつた。 彼女がゆつくり馬をやつてくれるやうに頼むと、アレクはその通りにした。 「どうだ、上出來だつたらう、ねえテス?」と、やがて彼は口を切つた。 「えゝ!」彼女は言つた。「よつぽど有難く思はなければなりませんわ。」 「ぢや本當に有難く思ふかね?」 彼女は答へなかつた。 「テス、お前は何故いつまでも僕が接吻しようつてのを厭がるんだい?」 「それは、多分 -- あなたを愛してゐないからなんでせうよ。」 「本當にさうかね?」 「私、時々あなたに腹の立つこともありますの!」 「ふん、僕も大方そんなことだらう位ゐに、思つてゐたよ。」がしかし、アレクはその告白に抗議を申し込みしなかつた。 彼はどんなことを言はれても、冷淡にされるよりはましだといふ事を知つてゐた。 「僕がお前を怒らした時に、何故さう僕に言はなかつたんだい?」 「何故だかよく知つてゐらつしやる癖に。私、こちらでは勝手な振舞ひは出來ないんですもの。」 「これまで、僕が言ひ寄つて、お前の機嫌を損じた事がさう何度もあつたかしら?」 「時々ありましたよ。」 「幾度だい?」 「あなたは御存じでせう、私と同じに -- もう幾度もですわ。」 「僕が言ひ寄つた時は何時でもかい?」 彼女は默つてゐた。そして馬はゆる〜と可なりの道程《みちのり》を進んだ。やがて、 宵の間窪地に埀れこめてゐた仄明るい霧が一面に擴がつて、 この邊一帶を包んでしまつた。それは月の光を途中で差し止めて、 空氣の澄んでゐる時よりも一層|遍《あまね》く行き亙らせてゐるやうに見えた。 この爲めにか、それともうつとろしてゐた爲めにか、又は眠かつた爲めにか、彼女は、 トラントリッヂひ行く小徑が街道から岐《わか》れる地點を、疾《と》うに通り過ぎてしまつたことや、 彼女の案内者がわざとトラントリッヂの道を取らなかつた事には、氣がつかなかつた。 彼女は言葉に言ひつくせないほど疲れてゐた。その週は毎朝五時に起き、一日中立ちづめだつたし、それに、 今夜はチェイズバラーへ三哩も歩き、食はず飮まずに三時間も近所の人逹を待つて、 (彼等を一刻も早く立たせようと焦つた爲めについ食べることも飮む事も妨げられてしまつた) 歸り途を一哩も歩き、やがて喧嘩をして興奮し、それに馬に歩みは遲いと來てゐるので、 もうかれこれ一時であつた。でも彼女が心から睡魔に襲はれたのは、たゞの一度きりであつた。 一切を忘れたその瞬間に、彼女の頭は、靜かに彼の體へ靠《もた》れかゝつて行つた。 ダアバァヴィルは馬を止め、鐙《あぶみ》から足を退いて鞍の上に向き返り、 彼女を支へようとして片腕をその腰に卷きつけた。 この爲めに、彼女は直ぐきつと身構へした。 とかく彼女の起しやすい、電光のやうな復讐の衝動の一つに驅られて、彼を自分から少し押しやつた。 彼は危つかしい位置にあつて、もう少しで平衡を失ふところだつたが、馬が、 力こそ強かつたが幸ひ乘りつけの、うちでも一番おとなしい奴だつたので、 やつと街道へ轉げ落ちることだけは助かつた。 「そりやあんまり不親切な遣方《やりかた》だぜ!」と彼は言つた。 「惡氣なんぞ一寸もありやしないよ -- たゞお前が落ちないやうにしようとしただけだ。」 彼女は半信半疑で、ぢつと考へ込んだ。やがて結局それが本當かも知れないと考へて、優しくなり、 すつかり下手に出て言つた。「御免なさいねえ。」 「僕を、信頼するつてことを何かの形で見せてくれなくちや、許す譯にやいかない。 いま〜しいつたらありやしない!」と彼は怒鳴り出した。「僕は一體何だといふんだらう。 お前のやうなはした小娘に、こんなにまで愛想づかしをされるなんて? もうかれこれ三月近くも僕の感情を玩具にし、僕から逃げまはり、僕に肘を喰はして來たんだ。 もう我慢が出來ない。」 「私、明日お暇を戴きます。」 「いゝや、明日暇はやれないよ!もう一度頼むがね、僕の腕に抱かれてくれ。 そして僕に信頼してゐる實を見せてくれないか?さあ、僕逹二人つきりの間だ、 他に誰もゐやしないよ、お互ひによく氣心を知り合つてゐるんぢやないか。 それに僕がお前を愛してゐるつて事も、お前を世界一の美人だと思つてゐる事も -- 實際さうなんだが -- 知つてゐるぢやないか。お前を僕の戀人と考へちやいけないのかい?」 彼女は鞍の上でおづ〜身を藻掻きながら、厭だといふ意味の怒りつぽい短い息を吐いてから、 遙か遠くの方を見て呟いた。「私には分りません -- 言へちやいゝんですが -- どうしてはいとかいゝえとか返事が出來ませう、あの -- 」 彼は望んでゐた通りに彼女を腕に抱きしめて、この事件の片をつけてしまつた。 で、テスももうそれ以上厭とは言はなかつた。かうして二人はゆつくりと進んで行つたが、 やがて彼女は、二人がとても永い時間をやつて來た -- この歩調で歩いたとて、 普通ならチェイズバラーからの短い旅では、さう時間がかゝりはしないのに、 遙かに永くかゝつてゐる -- こと、それに二人が通つてゐるのは街道ではなくて、 ほんの細道にすぎないことに氣がついた。 「まあ、此處はどこなんでせう?」と彼女は叫んだ。 「森の傍を通つてゐるのさ。」 「森ですつて -- 何處の森?きつと本道をすつかり外れてしまつたんでせう?」 「チェイズの森の一部だよ -- 英吉利でも一番古い森なのさ。實にいゝ晩だ、 一寸ぐらゐゆつくり遠乘りしたつていゝぢやないかね?」 「あなたは何てまあ當《あて》にならないんでせう!」とテスは言つた。 それは、慧《さか》しさを示すとも取れゝば、又心から困つたといふ氣持を見せるとも取れるやうな口吻《くちぶり》だつた。 彼女はまた、辷り落ちる危險がなくもなかつたが、一本づゝ彼の指を解き離して、その腕から脱《のが》れようとしてゐた。 「こんなにまであなたを信じてゐるのに、又さつきあなたを突いて失禮したと思つたからこそ、 お氣に召すやうにして上げてゐる矢先に、あ!どうぞ下して、歩いて歸らせて下さい。」 「歩いてなんか歸れやしないよ、ねえ、お前、よし空が晴れてゐたつてさ。 すつかり言へといふなら言つて上げるがね、僕逹は、トラントリッヂから幾哩も離れたところへ來てるんだよ。 それに、かうどん〜霧が深くなつて來ては、お前だつたら、幾時間も〜、森の中を迷ふかも知れないぜ。」 「どうぞ、そんな事にはお構ひなく、」と彼女はうまく丸め込むやうに言つた。「お願ひですから、下して下さい。 何處だつて、私かまひません。下してだけ下さい、ねえ、どうぞ!」 「よろしい、ぢや下してやらう -- 條件つきでね。こんな邊鄙《へんぴ》な處へお前を連れて來たからには、 たとひお前がどう思つてゐようと、僕は安全にお前を歸す責任があると思ふよ。 お前は獨りでトラントリッヂへ歸るつて言ふが、そりや全く出來ない相談だ。實をいふと、ねえお前、 こんなに霧が深い爲めにあたりの樣子がすつかり變つてゐて、僕自身だつて何處にゐるんだかよく分らないんだ。 だから、僕がこれから叢林《もり》を分けて道なり家なりのある處へ出て、 はつきりと僕等の今のゐどころを確かめて來るから、その間、馬の傍で待つてゐると約束するなら、 喜んで此處へ下してやるよ。戻つたら、よく道を教へてやる。それで、お前がどうしても歩いて行くといふなら、 その通りにするがいゝし、また馬に乘つて行つても構はないし -- それはお前の自由だ。」 彼女はこの條件を承諾し、手近の側で滑り下りた。 尤も彼があわたゞしい接吻を偸《ぬす》み取つてしまつてからではあるが。彼は反對の側へ跳び下りた。 「馬を押へてゐなけりやならないでせうね?」と彼女は言つた。 「いや、いや、それには及ばないよ、」とアレクは、はあ〜息を切らしてゐる馬を撫でながら、答へた。 「今夜は、さん〜゛乘り廻されたんだから、押へてゐなくても大丈夫だよ。」 彼は馬の頭を叢林《もり》の方へ向け、一本の枝に繋いだ。それから彼女の爲めに、 落葉の堆《うづたか》く積つてゐる中へ、寢床といふよりも巣のやうなものを拵《こさ》へてやつた。 「さあ、其處へお坐り、」と彼は言つた。「まだ葉は濕つちやゐない。ちよつとで好いから、 馬を注意してゐておくれ -- それだけで結構だから。」 彼は彼女から二三歩立ち去つたが、また戻つて來て言つた。「時にねテス、お前のお父さんは、 今日新しい短脚馬《コツブ》を貰つたよ。その馬をくれたものがあるんだ。」 「くれた方?あなたでせう?」 ダアバァヴィルは點頭《うなづ》いて見せた。 「まあ、そんな事をして下さるつて、何てあなたは御親切なんでせう!」丁度かういふ場合に、 彼に感謝しなければならない氣まづさをひどく氣にしながら、彼女は叫んだ。 「それから、子供逹は、玩具《おもちや》を貰つたぜ。」 「渡井s、ちつとも存じませんでした -- あなたが、子供逹に何か送つて下すつたといふ事は!」 彼女はすつかり感動して、囁いた。「私、却つてあなたからそんな事して頂かなかつた方がいゝと思ひますわ -- さうです。その方がいゝと思ひますわ!」 「何故だい、ねえお前?」 「そんな事をして頂くと -- 私、ひどく窮屈になりますから。」 「テッシイ -- お前はまだ僕をちつとも愛しちやくれないのかい?」 「そりや私、有難いとは思つてゐます。」と彼女は澁々言つた。「でも、私、あの -- 、」 かう言ひきれない結果を招いた原因である、自分に對する彼の激情が、突然幻となつて現はれ、 ひどく彼女の胸を痛めたので、眼には涙が一滴しづかに浮びかけ、つゞいてまた一滴が流れ、 遂に本當に泣き出してしまつた。 「泣かないでおくれ、ねえお前!さあ、こゝへ坐つて、僕の戻つて來るまで待つてゝおくれ。」 彼女は、彼の積み上げてくれた落葉の中へ、素直に腰を下した。見ると、微かに顫へてゐた。 「寒いのかい?」と彼女は訊ねた。 「それ程でもないんですが -- ほんの少うし。」 彼は指で彼女の體に觸れて見た。すると指は、まるで沈むやうに、その體の中に落ち込んだ。 「ふわ〜したモスリンしか着てゐないんだね -- 一體どうしたんだい?」 「これが私の、一番いゝ夏着なんです。出て來る時には大へん暖かだつたし、 それに馬に乘るつてことも、夜になるだらうつてことも、知らなかつたものですから。」 「九月になると、夜は薄寒くなつて來るよ。えゝかうッと。」 彼は自分の着てゐた輕い外套を脱いで、優しく彼女の周りに掛けてやつた。 「これでいゝ -- さあ、だん〜温かになるよ、」彼は續けた。 「さあ、いゝかね、お前、そこでおやすみ、直ぐにまた戻つて來るから。」 彼女の肩のまはりにかゝつてゐる外套の釦《ボタン》を掛けてやつてから、彼は、 その時にはもう立樹から立樹へと面紗《ヴエール》を張つてゐた霧の綾目の中へ跳び込んだ。 多分、彼がすぐ傍の傾斜《さか》をば登つて行くのであらう、 木の枝の擦れ合ふ音が彼女には聞えたが、やがて彼の動作は、鳥の跳び歩く位ゐの落しか立てなくなり、 たうとうひつそり消えてしまつた。月が傾くに連れて、青白い月は、次第に薄れて行つた。 そして、テスが置き去りにされた落葉の上で、夢幻の世界に沈んだ頃には、 彼女の姿は闇に包まれて見えなくなつてしまつた。 その間にアレク・ダアバァヴィルは、一體自分逹はチェイズの森のどの邊に入り込んでゐるのか、 自分ながら本當に疑はしいので、その疑問を晴らす爲めに、傾斜面をどん〜登つて、 その頂上まで行きついた。實をいふと彼は、今まで彼女と一緒に少しでも長くゐたいと思つて、 行き當りばつたりにどんな道角でも折れ、 路傍のものなんかよりは月光に照らされたテスの體に一きは心を奪はれながら、 全く出鱈目に、一時間以上の乘り廻してゐたのであつた。疲れた馬には、暫くの休息が望ましかつたから、 彼は急いで陸標を探さうともしなかつた。小山を越えて地續きの盆地へ下りると、 輪廓に見覺えのある本道の柵のところへ出た。これで、彼等が何處に來てゐるかといふ問題も解決された譯である。 そこで、ダアバァヴィルは踵《きびす》を返した。けれどもその時には、月は全く沈んでしまつて、 夜明けにもう間もない時刻であつたが、幾分霧のせゐもあつて、チェイズの森は濃い闇に包まれてゐた。 彼は、樹の枝にぶつかるのを避ける爲めに、兩手を差し伸べて進んで行かなければならなかつた。 そして自分が先刻《さつき》出て來た場所へきつかり行きつく事は、差し當り全く駄目だといふ事を發見した。 彼は、上つたり下つたり、其處此處をぐる〜廻り歩いた擧句、 やうやく馬の動く微かな氣勢《けはひ》を直ぐ間近に聞く事が出來た。 そして、自分の外套の袖が、思ひがけなくも足に引つかゝつた 「テス!」とダアバァヴィルは言つた。 何の返事もなかつた。四邊《あたり》はもうすつかり闇に包まれてゐたので、 彼が落葉の上に殘して置いた白いモスリンの姿を、それと現はしてゐる青白い雲霧のやうなものが足下にあるだけで、 他には全く何も見えなかつた。他の物もみんな一樣に眞黒であつた。 ダアバァヴィルは、蹲踞《しやが》んだ。そして靜かな規則正しい呼吸を聞いた。 彼は膝をついて、尚ほも前屈みになつた。たうとう、彼女の息で顏が温かくなつて來た。 そして、忽ち彼の頬は、彼女の頬とぴつたり觸れ合つた。彼女は熟睡してゐた。 その睫毛《まつげ》には、涙が殘つてゐた。 暗闇と沈默《しゞま》とが、到るところを支配してゐた。 二人の頭上にはチェイズの森の太古さながらの水松《いちゐ》や槲《かし》の樹が、 高く聳えてゐた。その枝々には、靜かな塒《ねぐら》の鳥がその最後のまどろみを貪りながら、 棲《とま》つてゐた。二人の周圍には、兎や野兎どもが、ひそかに跳び廻つてゐた。 だが、人によつては、かう言ふかも知れない、一體テスの身を守る天使は何處にゐたのか、 彼女が無邪氣に信じてゐる神は何處にゐたのか、と。大方、あの皮肉屋のテシベ人 (舊約聖書、列王紀略上第十八章二十七節に出て來るエリヤのこと)の口にのぼつた他の神のやうに、 その神は話し込んでゐたのかも知れない。何かを一生懸命やつてゐたのかも知れない。 旅に出てゐたのかも知れない。それとも眠つてゐて、眼を覺さなかつたのかも知れない。 薄紗《うすもの》のやうに感じ易い、實際まだ雪のやうに無垢なこの美しい處女《をとめ》の肌に、 現に受けずには濟まされなかつたやうな下品な模樣を、押されるやうにならうとは、 一體どうした譯であらう。何故かう屡々下品な奴が、美しいものを、間違つた男が女を、 間違つた女が男を我がものとするのか、幾千年もの間、哲學はその分析を試みたが、 我々の納得出來るやうには、ついぞ説明してくれた事がない。なるほど、 現在のこの出來事には、いはゞ、因果應報の理《ことわり》が潛んでゐるのかも知れないと見做すことも出來よう。 疑ひもなく、戰場から意氣揚々と凱旋した、武裝せるテス・ダアバァヴィルの先祖にあたる或る者は、 その當時の百姓娘に對して、これと同じな、又はこれ以上に無慈悲な振舞ひをしたに相違ない。 けれども、親の罪が子供に酬いるといふことは、天國の人には、 申し分のない道徳であるかも知れないが、普通一般の人情は、きまつてこれを輕蔑せずにはゐない。 だから、そんな考へを擔《かつ》ぎ出して見たところで、この罪惡が償はれるわけのものではない。 あの山奧に引つ込んでゐるテスの村人が、飽きもせずお互ひに、諦めた風で言ひ合つてゐるやうに -- 『どうせさうなるやうに出來てゐたのだ。』そこにかういふ事件の氣の毒な點があつた。 或る測り知る事の出來ない社會上の間隙《すきま》が、この後の我が女主人公《ヒロイン》の性格を、 トラントリッヂの養鷄園で運だめしをしようと思つて母の家の戸口を踏み出した以前のテス自身から、 引き離してしまふ事になつたのである。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- バスケットは重く、包みは大きかつたが、彼女は、荷物などの重いのは大して苦にもしない人のやうに、 それを提げて進んで行つた。折々門や柱などの側に、機械的に立ち止つては休んだ。それから、 その荷物を引き寄せて、丸々と肥つた腕に掛け、再びそろ〜と歩を運んだ。 それは、十月末の或る日曜日の朝で、テス・ダアビフィールドがトラントリッヂへ來てから四ヶ月程になり、 あのチェイズの森へ、夜、馬で行つてから二三週間經つた後のことであつた。 時刻は、まだ夜が明けてからいくらも經つてゐなかつた。背後《うしろ》の地平線上にあらはれた黄金色の輝きは、 行手に控へてゐた山の背、 -- つい先刻《さつき》まで、彼女が他處《よそ》の人間として暮して來た谷間との境 -- 彼女の生れた土地に行くには、是非とも越さねばならないその山の背を、明るく照らした。 上りも此方側《こつちがは》は緩《ゆる》やかであつた。そして、地味も景色も、 ブラックモーアの盆地のとは、大分異つてゐた。迂廻してはゐるが鐵道が通じたそのお蔭で、 いろ〜なものが融合するけれども、兩地の住民には、その性格や口調にさへもいろ〜な相違があつた。 それ故、トラントリッヂの、彼女が滯在してゐた處から郷里の村までは、 僅か二十哩足らずではあつたが、非常に遠い處のやうに思はれた。 其處にくすぶつてゐる百姓逹は、北部や西部の方と取引をし、また北部や西部に出掛け、その方で婚約もし結婚もした。 そして北部や西部へ考へを向けた。此方側《こつちがは》の百姓逹は、主にその精力や注意を、東と南とに向けてゐた。 この傾斜は、六月のあの日に、ダアバァヴィルが彼女を乘せて無闇に馬車を驅つたのと同じ丘であつた。 テスは傾斜面のまだ續いてゐる殘りの里程を休みもしないで登りつめ、懸崖《けんがい》の端まで來ると、 折から半ば朝霧に包まれてゐる向う側の見馴れた緑の世界を見渡した。それは此處から眺めると、 何時でも美しかつた。わけても今日は、テスに取つて素晴らしく美しかつた。といふのは、 この前これを眺めてから、彼女は美しい音色の小鳥の歌ふところにも、毒蛇が潛伏するといふことを知り、 その教訓を受けて、世の中を見る眼が一變してしまつたからである。 郷里にゐた頃の單純な處女《をとめ》とはまるで似もつかない女となつて、思ひ惱みながら、 ぢつと此處に立つた。それから後ろの方を振り返つて見た。彼女は、前方の盆地を見るに堪へられなかつたのである。 たつた今、自分が一生懸命になつて上つて來たばかりの、長い、白い街道を二輪馬車が登つて來るのを彼女は眼にした。 馬車と並んで、一人の男が歩いてゐた。彼は手を擧げて、彼女の注意を惹くやうにした。 彼女はその合圖に從つて、別に深く考へるでもなく、ぢつとして彼を待つた。 二三分のうちに、男と馬とは、彼女の側へ立ち止つた。 「何だつてこんな風にこつそり拔け出て來たんだ?」ダアバァヴィルは息を切らして傍へ寄りながら言つた。 「それもみんな寢てゐる日曜の朝といふ時にさ!僕はほんのちよつとしたことから、お前の家出を知つたんで、 目茶苦茶に馬を驅つて追つかけて來たんだ。ちよつとこの馬を見るがいゝ。何だつてこんな出方をするんだ? お前も知つての通り、出たいと思ふなら誰だつて止めようとはしないぜ。それに、實に無駄なこつちやないか、 足を引摺つて、こんな足手纒ひの荷物を提げて歩くなんて!僕は狂人のやうに後を追つかけて來たんだぜ。 たゞもう、これから先の道程《みちのり》を馬車に乘せてやらうとばかり思つてね。 若しどうしても戻るのが厭だといふなら。」 「私、戻りません。」と彼女は言つた。 「お前は歸るまいと、僕も思つた -- 僕もさう言つて來たよ!ぢやバスケットをお載せ。 これから送つて行つてやらう。」 彼女はどうでもいゝと言つたやうに、バスケットと包みを二輪馬車の中に入れ、 自分も階段を上つた。そして二人は並んで腰掛けた。彼女はもう今では彼を少しも怖がつてはゐなかつた。 その恐れなくなつた原因《もと》を、彼女は悲しまずにはゐられなかつた。 ダアバァヴィルは機械的に葉卷へ火を點けた。そして、道端のありふれたものを話題として、 途切れ〜に味氣ない會話をしながら旅を續けた。彼はこの夏の初めに、 この同じ街道を反對の方向へ馬車を驅つてゐた時、彼女に接吻しようと腕《もが》いた事などはすつかり忘れてゐた。 だが彼女は、忘れてゐなかつた。そして今は、彼の言葉に簡單な返事をしながら、 まるで木偶《でく》人形のやうになつて腰掛けてゐた。彼等は數哩驅つた後で、 一群の立木の見える處へ來た。その向うはもうマアロットの村であつた。その時になつて初めて、 彼女の靜かな顏には、微かな感情の動きが見えて、涙が一滴二滴落ちかけた。 「何だつてお前泣いてるの?」と彼は冷やかに訊いた。 「私たゞ、あの向うで生れたんだつて事を考へてたゞけなんです。」とテスは呟いた。 「さうか -- 僕逹はみんな何處かで生れなきやならないんぢやないか?」 「私、生れなかつた方がよかつたわ -- 彼處《あすこ》でも、その他の何處でも!」 「馬鹿な!ところで、お前、トラントリッヂへ來たくなかつたのなら、何故やつて來たんだい?」 彼女は答へなかつた。 「僕が戀しくて來たんぢやない事だけは、確かなんだね。」 「ほんとにその通りです。若しあなたが戀しくて行つたのなら、若しあなたを心から愛してゐたんのなら、 若しあなたを今でも愛してゐるのなら、私は今のやうに、自分の弱さを自分から厭がつたり憎んだりはしません!…… この眼があなたの爲めに、一寸の間|眩《くら》まされてゐたんです。それだけの事でした。」 彼は肩を搖つた。彼女はなほ續けた -- 「私、あなたのお考へが分らなかつたんです。分つた時にはもう遲かつたんです。」 「それはどんな女でも言ふことだ。」 「どうしてあなたは、そんな事が言へるんです!」彼女は彼の方へきつとなつて振り向きながら叫んだ。 彼女の兩眼は、内部に隱れてゐる靈氣(他日また彼はもつと度々それを見せつけられずにはゐなかつた) が目覺めて來るにつれ、焔のやうに輝いた。「あゝ!あなたを馬車から突き落としても足りないくらゐだわ! あなたなんぞは、すべての女が口先だけで言ふ事を、ほんとに心に感じる女がゐるかも知れないなどゝは、 考へてみた事もないでせう?」 「なるほど。」と彼は笑ひながら言つた。「お前の氣を惡くして濟まなかつた。僕が惡かつた -- 確かに惡かつたよ。」彼は言葉を續けて行くうちに、多少の厭味を加へた -- 「たゞさういつまでも、僕に面と向つてそれを叩きつけるにや及ばないぢやないか。 僕は何時でも、最後の一厘まで償ふつもりでゐるんだ。ねえ、いゝかい、 もうお前は二度と再び野良や搾乳場《ちゝば》で働くにも及ばないんだよ。ねえ、いゝかい、 この頃のお前のやうに、自分で儲けて購《か》ふ以外にはリボン一本でも手に入れないと言つたやうな、 そんな飾り氣のない粗末な身裝《みなり》などしてゐないでも、立派に着飾つてゐられるんだぜ。」 彼女の一本氣ではあるが寛大な性質には、他人を輕蔑するやうな氣味はどんな場合にも殆んどなかつたが、 今、彼女はいくらか唇を尖らした。 「もうこの上、あなたからは何も頂かないと言つたぢやありませんか。頂かうとは思ひません -- 頂ける譯がありませんもの!そんな事をして行く日には、私は、あなたの飼物になつてしまひます。 そんなものになぞ、私なりたくはありません!」 「お前のその態度を見たら、人はお前を正眞正銘のダアバァヴィル家の者であるばかりでなく、 その姫君だらうと思ふかも知れないよ -- あはゝ!はゝ!で、テス、僕にはこの上何も言へない。 僕は惡人だ -- ほんとに惡人だ。僕は惡人として生れ、惡人として生きて來ただ、 恐らくまた惡人として死ぬだらう。だが、僕はこの迷つた魂にかけて言ふが二度と再びお前に惡い事はしないよ、 テス。それで若し何か事情が -- いゝかね、分るだらう -- 萬一起つて、ちつとでも不自由をしたり、 面倒なことがあつたりしたら、僕んとこへちよつと書いて寄越してくれ。 そしたらすぐ何でもお前が入用のものを贈つて上げるから。 僕はトラントリッヂにはゐなくなるかも知れない -- 暫らく倫敦へ行かうと思つてゐるから -- 僕にはあの婆さんがとても我慢出來ないんだ。でも、手紙はみんな僕の方へ廻送されるだらうから。」 彼女は、もうこの先馬車で送つて貰ひたくないと言つた。そこで、二人は丁度一群の立木の下に止つた。 ダアバァヴィルは馬車から下り立ち、彼女の體を兩腕に抱きかゝへて下ろし、 その側の地べたに荷物を置いた。彼女は輕く彼に會釋し、その視線をほんのちよつと彼の眼の邊《あた》りに投げた。 それから、荷物を取り上げて出掛けようとした。 アレク・ダアバァヴィルは葉卷を口から離し、彼女の方へ身を屈めて言つた -- 「まさかこんなに素つ氣無く別れて行く積りぢやあるまいね?さあ!」 「お望みなら、」テスは冷淡に答へた。「あなたは私を、もうどんなに自由にしてしまつた考へて御覽なさい!」 彼女は向き直つて、顏を彼の方へ上げた。そして、彼が彼女の頬に -- 半ば上の空で、 半ばは興味が全く消えてしまつたわけでもないやうに -- 接吻する間、彼女は大理石の胸像のやうに凝呼《ぢつ》としてゐた。 接吻をされてゐる間、彼女は相手が何をしてゐるのか殆んど知らないでゐるやうに、 彼女は小徑の一番向うの先にある立木をぼんやり見るともなしに見てゐた。 「昔の馴染甲斐に、今度はそつち側。」 人々が、寫生家とか理髮師とかの求めるまゝにするやうに、彼女は前と同じ具合に素直に頭を向け換へた。 そこで彼は、その方にも接吻した。彼の唇にふれた頬の感じは、 まるでその周圍の野に生えてゐる蕈《たけ》の表皮のやうに、濕つぽく、つる〜と冷たかつた。 「お前は、口を出して接吻を返してくれないね。お前は、決して心からさうしようとはしないね -- お前は、 決して僕を愛してくれる事はないのかね。」 「私は度々さう言つたでせう。その通りなんですわ。私はあなたを眞實に心から愛した事なんかありません。 決して愛する事なんか、出來ないと思ひます。」彼女は悲しさうに附け加へた。 「多分、他のどんな場合よりも、こんな場合に嘘をいふのが、今の私には一番得になるでせうよ。 でも私には、ほんの少しですが、そんな嘘はつかないだけの廉恥心がまだ殘つてゐます。 若し私があなたを愛してさへゐましたら、それをあなたに知らせるに何よりもいゝ理由が私にあるかも知れません。 が、私、あなたを愛してはゐないんですから。」 彼はさも苦しげに吐息を洩らした。恰もこの場の有樣で、彼の胸や、或は良心や、 又はその善良さを壓迫されてゞもゐるかのやうに。 「ところで、お前馬鹿に沈んでゐるね、テス。僕はもう今ではお前の機嫌をとる理由もないから、 明らさまに言ふがね、お前はそんなに悲しまなくてもいゝよ。お前は、貴賤を問はず、 この地方のどんな女にだつて、容色では引けはとらないよ。僕は世間を知つた人間として、また、 お前の幸福を願ふ者としてこのことを言ふんだ。若しお前が賢い女なら、 お前の美しい容色が褪せてなくならないうちに、もつと世間へ見せびらかすだらうね……だがテス、 僕のところへ戻る氣はないかね?どうしても僕は、こんな風にしてお前を歸したくはないんだ!」 「戻りません。どうしたつて戻りません。あの -- 私、もつと早くに氣がつかなくちやならなかつた -- それに氣がつくとすぐに、私は決心しました。私、どうしても戻りたくありません。」 「ではさやうなら、四ヶ月の從妹《カズ》さん -- ご機嫌よう!」 彼は身輕く馬車に飛び乘つて、手綱を整へた。そして赤い果實の生《な》つてゐる高い生垣の間に消えてしまつた。 テスは彼を見送りもしないで、靜かに曲りくねつた小徑を縫つて行つた。朝はまだ早く、 日脚《ひあし》は丁度今丘を離れたばかりで、その光線はまだ爽かといふ程にもならず、 又ちらつと見え初めたばかりで、やつと眼には見えるが體には感じられなかつた。 近くには、人つ子一人ゐなかつた。うら悲しい十月と、更に一層悲しい自分とが、 この小徑に徘徊するたつた二つの存在のやうに彼女には思はれた。 が、彼女が歩いてゐると、背後から何かの跫音《あしおと》 -- 男の跫音が近づいて來た。 その進みやうが早いので、彼は直ぐ彼女のところに近寄つて、彼女がそれと氣付く間もなく、 「お早う」と言つた。男は何かの職人らしく見え、片手に赤い塗料《ペンキ》の入つてゐるブリキの壺を提げてゐた。 彼は、たゞ義務的にバスケットを持ちませうか、と訊ねた。彼女は彼のなすまゝに任せて、並んで歩いた。 「この安息日にもう歩いてゐるなんて、お早いこつてすね!」と彼は快濶に言つた。 「えゝ。」とテスは答へた。 「大抵の人は平常《ふだん》の仕事の骨休めをしてる時だに。」 彼女はこの言葉にも頷いた。 「尤もわしや、平常《ふだん》よりも本當の仕事を今日はするんですがね。」 「まあ、さうですか?」 「平常《ふだん》は、ずうつと人間の光榮《さかえ》の爲めに、 そして日曜日には神の光榮《さかえ》の爲めに働くんですよ。その方が、 他の人逹のする仕事よりや餘程本當のことでさあ -- さうでせう? 一寸此處の踏段でもする仕事があるんです。」さう言つて、 男は牧場へ通ずる直ぐ傍の通行口の方へ向つた。「一寸待つて下さらんか、」と彼は附け加へた。 「さうお手間はとらせませんから。」 彼女は彼にバスケットを持つて貰つてゐたのだから、さうするより仕方がなく、 彼の樣子を眺めながら待つてゐた。彼はバスケットとブリキ壺とを下へ下ろし、 壺の中に差し込んであつた刷毛《ブラシ》で塗料《ペンキ》を掻き混ぜてから、 三枚で出來てゐる踏段の眞中の板へ、大きな楷書文字を書き始めた。恰もこれを讀む者にぢつと考へさせ、 その言葉を胸によく浸み込ませようとでもするやうに、一語々々の後に句讀點を打ちながら -- 爾の、滅亡は、寐《いね》ず。 (欽定約聖書原文彼得後書第二章三節) 穩かな風景、矮林《わいりん》の蒼ざめた荒涼とした風景、地平線上の碧い空氣、 又は苔蒸した踏段の板を背景にして、この燃え立つやうな深紅の文字ははつきり輝き出した。 それはひとりでに聲を立てゝ叫び出し、あたりの空氣を鳴り響かしてゐるやうに見えた。 人によつては、こんなに殺風景に塗料を塗りつぶした跡 -- この盛んな時は巧みに人類に奉仕した信仰箇條の、 この最後の竒怪な姿態を見て、「あゝ慘めな神學よ!」と叫んだかも知れない。 けれどもその言葉は、テスの胸に浸み込んで、責められるやうな恐ろしさを彼女に經驗させた。 まるで、この男は彼女の最近の身の上を知つてゞもゐるかのやうに思はれた。 でも彼は、全然見ず知らずの男であつた。 この言葉を書き終ると、彼は、バスケットを取り上げた。彼女は機械的に彼と並んで、なた歩き出した。 「あなたは、お書きになつた事をお信じになりますの?」と彼女は低い調子で訊ねた。 「あの句を信じるかつて?自分で自分の存在を信じるなんて事がありますか?」 「でも、」と、彼女は顫へ聲で言つた。「若しあなたが罪を犯したとして、 それが自分から求めたものではないとしましたら?」 彼は頭を振つた。 「そんな差し迫つた大問題を、事細かく話す譯にや行きませんや、」と彼は言つた。 「わしやこの夏、この地方を隅から隅まで、塀といふ塀、門といふ門、踏段といふ踏段に、 かういふ言葉を書きつけながら何百哩と歩いて來たんですぜ。 この言葉をどんな風に解《と》るかは、讀む人の心に任せる事にしてあるんです。」 「私、あれは恐ろしい言葉だと思ひます。」と、テスは言つた。「人の心を打ち碎く……殺してしまふやうな!」 「全くその積りで書いてあるんです!」と彼は商賣人らしい聲色で答へた。「だがあなたは、 わしの書く一番嚴しい奴を讀まなくちやいけません -- こいるは貧民窟や港町で使ふ爲めに取つて置くんですがね。 それこそ、あたな方を屹度のた打ち廻らせるでせうよ。こりや田舍の地方へ使つて、 誂《あつら》へ向きの題目でねえわけぢやねえがね……あゝ! -- の向うの立ち腐れになつてゐる納屋の傍に、 手頃の空いた塀がある。あれへ一つやらなくちやならねえ -- あなたのやうな危つかしい、若い女衆は、 氣をつけたがいゝといふ奴を。待つてゐてくれますか、姐さん?」 「厭ですわ、」とテスは言つた。そして彼女はそのバスケットを取り上げ、重い足を引きずつて行つた。 少し歩いてから、彼女は振り返つて見た。古い灰色の塀は、 これまで曾つて要求されたことのに義務を負はされて困つてゞもゐるやうな、 不思議な、見馴れない面持ちをして、最初のと同じやうな激しい文字を披露し始めた。 彼が今、丁度半分まで書きかけた文句を讀み、それがどういふ句になるかを知つた時、 彼女の顏は急に赧くなつた -- 汝、犯す、こと、勿れ -- 彼女の快濶な連れは、彼女が眺めてゐるのを見て、刷毛《ブラシ》の手を休めて怒鳴つた -- 「若しお前さんが、この大切な事を教訓《をしへ》を受けたいつてなら、お前さんが今行かうといふ村に、 今日事前説教をなさる大へん熱心な善い方がありますぜ -- エミンスターのクレアさんつてね。わしは、 今ぢやあの方の信徒ぢやねえんだが、あの方ァ立派な人で、わしの知つてゐる牧師さんであの方くれえよく説いて聽かす人は、 先づありやしませんぜ。わしにこの仕事をさせるやうにしたのも、實は、あの方さね。」 しかしテスは答へなかつた。彼女は胸をどき〜させながら、眼を伏せて、また歩き出した。 「馬鹿々々しい -- 神樣があんな事言つたなんて、私には信じられない!」彼女は輕蔑するやうに呟いた。 もうその時には顏のほてりは消えてゐた。 細々とした煙が急に父の家の煙突から立ち昇つた。それを見ると、彼女の胸は痛んだ。家の中へ入ると、 その屋内の光景は愈々彼女の心を痛めずには置かなかつた。丁度二階から下りて來てゐた母親は、 朝飯の湯沸しの下で、皮を剥いだ槲《かし》の小枝に火を焚きつけてゐたが、 挨拶する爲めに、爐邊《ろばた》から彼女の方を振り向いた。子供逹はまだ二階にゐた。 父親もまた起きてゐなかつた。日曜の朝なので、もう半時間位ゐ寢てゐてもよからう、 と彼は思つてゐたのであつた。 「まあ! -- テスや!」 母親は吃驚して跳びついて、娘に接吻しながら叫んだ。 「どうしたんだい、お前は?眼の前に立たれるまでは、私はお前に氣がつかなかつたんだよ! お嫁に行くんで、お前|我家《うち》に歸つて來たのかい?」 「いゝえ、私、そんな事の爲めに來たんぢやないの、お母さん。」 「ぢや、お休みでか?」 「えゝ -- お休みで、長いお休みで。」とテスは言つた。 「何だつて。お前の從兄はよい事をしてくれるつてんぢやないのかい?……」 母親は彼女をしげ〜と見詰めた。 「さあ、何もかもすつかり話してお終ひな。」と彼女は言つた。 それから、テスは母親の方へ寄り添つて、顏をその頸に載せて物語つた。 「それでゐて、お前はあの人に結婚させようとしなかつたのかい?」母親は繰り返して言つた。 「そんな事があつた以上、お前でなかつたら、どんな女だつてさうするだらうよ!」 「大方、どんな女でもした事でせう、けれど私は別です。」 「お前が若しそれを果してさへ歸つて來たのだつたら、いゝ土産話になつたゞらうにね!」 ダアビフィールドの女房は、口惜しさで泣き出しさうになつて、言葉を續けた。 「お前とあの人の事は、いろんな評判がもう此方《こつち》へも傳つて來てゐるのに、 こんな事にならうなんて、一體誰が思つたゞらう!お前は自分の事ばかり考へてゐないで、 何故少しは我家《うち》の利益《ため》にもならうとしなかつたのだい? それに、可哀さうに弱いお父さんは、心臟が肉燒きの鍋のやうに脂肪《あぶら》で塞がつてゐるんぢやないか。 私は屹度、何かしら耳寄りのことがお前の方から聞えて來るだらうと、樂しみんいしてゐたんだよ! 四月前、お前逹が一緒に馬車で出掛けたあの日、お前とあの人とは、何といふ綺麗な夫婦だらうと、思つたに! あの人が私逹に贈つてくれたものを御覽 -- それもみんなこつちがあの人の親戚だから、 と私逹は思つてゐたんだよ。が、若しさうでないとすれば、 それはお前が可愛いからこんな事をしてくれたのに違ひないんだよ。それだのに、 お前があの人を結婚させるやうに仕向けないなんて!」 アレク・ダアバァヴィルを自分と結婚するやうに仕向けるなんて!あの人が自分と結婚する! 結婚の事なんか、あの人はついぞ一言だつて口に出した事はなかつた。 そして、若し言つたとしたら、どうだつたらう?他人前《ひとまへ》の體面をつくらう爲めに目茶苦茶に焦つて、 アレクが結婚しようと言つたならば、どんな返事を與へるようになつたか、 彼女は自分でもはつきり言ひ切る事が出來なかつた。だが可哀さうに、愚かな母親は、 この男に對する今のテスの氣持を殆んど知らなかつた。かういふ場合では、 恐らくそれは珍らしい氣持で、慘めな、説明し難いものであつたに違ひない。 が、さういふ氣持が動いてゐたのであつた。そして彼女自身も言つてゐる通り、それだからこそ、 自分自身が厭になつたのだつた。彼女は、彼を心から思つたことは決してなかつた。 今ではもう彼の事などちつとも思つてなぞゐなかつた。彼女は彼を怖れてゐた。 彼の前では竦《すく》み上つてゐた。自分の無力につけ込む彼の巧妙さに、怯《ひる》んでしまつてゐた。 それから、一時彼の餘りに熱心な態度《そぶり》に眼が眩《くら》んで、少し心が動搖し、 わけも分らず言ふまゝになつてゐた。だが、急に輕蔑するやうになり、厭ふやうになつた。 そして、彼の下《もと》を遁《のが》れ去つたのであつた。たゞそれだけの事であつた。 彼女は彼を全く憎んでゐるといふのではなかつた。が、彼女にとつては、彼は埃や灰にも等しいものだつた。 自分の名を汚さない爲めにさへ、彼女は到底彼と結婚する氣にはなれなかつた。 「女房にして貰ふ氣がなかつたのなら、お前はもう少し氣をつけてゐなければいけなかつたのにね!」 「まあ、お母さん、お母さん!」可哀さうに、心臟も破れ裂けるかとも思はれるばかりに物狂はしく、 母親の方へ向き直つて、娘は切なさうに叫んだ。「私、そんな事にどうして氣がつく筈がありませう? 四月前に家を出る時、私はほんの子供だつたぢやありませんか。男つてものは油斷がならないと、 何故お母さんは教へてくれなかつたんです?何故私に誡告してくれなかつたんです? 貴婦人方は小説を讀んで、こんな陷穽《おとしあな》のある事を教へられるから、 どうして誘惑の手を防ぐか知つてゐます。だけど私には、 そんな風にして知る機會もなかつたし、お母さんも私に智慧をつけてはくれなかつたんですもの!」 母親は、折れて出た。 「私はまた、あの人の優しい心や、その爲めにどんな成り行きになるかつて事などを話したら、 お前はあの人に威張り散らして、折角の端緒《いとぐち》をなくしてしまやしないかと思つたんだよ、」 と彼女は前掛で眼を拭きながら、呟いた。「まあ仕方がない。諦めなくちやなるまいよ。 つまりはこれも自然の成り行きで、神樣のお思召しなんさ!」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- テス・ダアビフィールドが、贋《にせ》の親類の屋敷から歸つて來たと云ふ出來事は、世間の風評 -- たかゞ一哩四方位ゐの土地で、世間の風評と言つては餘り大袈裟すぎる言葉かも知れないが、 兎に角噂にのぼつた。その日の午後、テスの昔の學校友逹や幼な馴染であるマアロットの數人の若い娘逹が、 拔群の勝利を博した人(彼女等はさう想像してゐたのである)の訪問客として相應《ふさは》しいやうに、 糊をつけ、火熨斗《ひのし》をかけた晴着を着て彼女を訪問し、ひどく物珍らしさうに彼女を見守りながら、 部屋の中に車座に坐つた。それは彼女と戀に落ちたのは全くの田舍者とは異つて、紳士であり、素敵な伊逹者で、 女泣かせであると云ふ評判がトラントリッヂに接してゐる邊境を越えて擴がりかけてゐた、 あの所謂遠き縁續きのアレク・ダアバァヴィルであるといふので、テスの皆から想像されてゐる地位が、 あぶな氣であつた爲め、若しその反對に安全だつたら到底呼び起す事のないやうな、 遙かに高い魅力を放つてゐたからである。 この娘逹は非常に深い興味を持つてゐたから、テスが後ろを向くと、中でも年下の者は囁き合つた -- 「何てあの人は綺麗なんでせう!餘程|高價《たか》いものに違ひないわ、屹度あの方の贈物よ。」 テスは隅の戸棚から茶道具を取りおろさうとしてゐたので、この批評を耳にしなかつた。 若し聽いたら、即刻友逹の誤解を解いたかも知れない。だが、母親はそれを聽いてゐた。 母親の他愛もない虚榮心は、華やかな結婚の希望を失くしてしまつたので、 せめて華やかな口説の場面なりを心に描いて、出來るだけ滿足を味はふやうにしたのである。 たとひこんな小さな果敢《はか》ない勝利が、娘の名に傷をつけるやうな事があらうとも、 尚ほ大體から見ると、彼女は滿足を味はつてゐた。その勝利が、やがて結婚となるまいものでもなかつたからである。 そして娘逹のお世辭に心から酬いたいと思つて、彼女は訪問客に茶を飮んで行くやうにと奬《すゝ》めるのであつた。 娘逹の饒舌や、哄笑や、陽氣な諷刺や、わけても折々閃めかす羨望などに誘はれて、 テスの元氣もまた甦つて來た。そして夕暮が迫つて來るのつれ、皆の興奮に感染して、彼女は殆んど快濶になつた。 大理石のやうな堅さは顏から去り、彼女は幾分また昔の活溌な足取りで歩き廻り、 ありつたけの若々しい美しさに輝き出した。 時々、考へ深かつたにも拘らず、彼女は男から口説かれるといふ事にかけては、自分の經驗が、 實際少しは羨ましがられるものであつたと認めてゞもゐるかのやうに、 彼女は優越者らしい態度で娘逹の質問に答へるのであつた。けれどもテスは、ロバアト・サウス (一六三三年 - 一七一六年英吉利の神學者、牧師)の言葉を借りれば、『ありし昔を懷しんで』ゐるどころではなかつたから、 その幻影も電光のやうに忽ち消えてしまつた。そしてすぐ後からは、冷たい理性が甦つて來て、 彼女の氣紛れな弱點を嘲つた。一時的な誇りが空恐ろしいものとなつて、罪深い彼女を責めるやうになり、 またしても引つ込み勝ちなぼんやりした氣持に、彼女を連れ戻すのであつた。 そして、翌朝夜の明け方のテスの落膽といつたら、喩《たと》へやうもなかつた。 もう日曜日ではなく、月曜日であつた。もう晴着でもなく、笑ひさゞめく訪問者も去つてしまつた。 そして彼女は昔ながらの寢臺で、たゞ一人眼を覺したのであつた。彼女の周圍には、 無邪氣な弟妹逹が靜かな寢息を立てゝゐた。自分が歸つた爲めに起つた一時の騷ぎ、 またその騷ぎが釀した人々の興味は消え去つて、その代りに、行手には援助《たすけ》とするものもなく、 また殆んど同情もなく、獨り辿らなければならない長い石塊道が見えて來た。彼女の元氣は、 その時すつかり銷沈してしまつて、若し墓があつて身を匿《かく》せるものなら、匿したい位ゐであつた。 二三週間經つうちに、テスは或る日曜日の朝、教會へ出掛ける位ゐの程度に戸外へ姿を現はす元氣を囘復した。 彼女は聖歌や -- 名ばかりのものであつたが -- 古い『詩篇』を聽き、そして『朝の讚美歌』を合誦するのが好きだつた。 彼女は端唄《はうた》を歌ふ母親の遺傳から生れつき歌好きなので、極めてつまらない音樂でも、 時には、自分の胸から魂を引き出すほどの力さへも感じるのであつた。 彼女は自分だけの理由から、出來るだけ他人目《よそめ》を避け、また若者の言ひ寄るのを避ける爲めに、 まだ朝の鐘が鳴らないうちに出掛けて、二階廊下の下の、年寄りの男や女逹ばかりの行く、 墓地用の噐具に混つて棺臺の縱に立つてゐる物置場にすぐくつついた後の席へ就いてゐた。 村人は二三人づゝ入つて來て、彼女の前方に並んで席に就き、實は祈つてなどゐなかつたのだが、 恰も祈つてゞもゐるやうに、一分足らずの間|額《ぬかづ》いた。それから坐り直して周圍を見廻した。 聖歌になると、偶然にも、彼女の氣に入りの唄の一つ -- 古い重ね歌『ラングドン』 -- が、 數あるうちから選ばれてゐた。この歌の題は彼女が非常に知りたがつてゐたには違ひないのだが、 實は何といふのであるか知らなかつた。彼女は、はつきり言葉には現はさなかつたが、 作曲家の力といふものは何といふ不思議な神のやうなものであらうかと、心の中で考へた。 初めはその作曲家だけしか感じなかつた一連の情緒を通じて、彼が名も知らず、 またその人物を知る筈もない彼女のやうな娘を、墓場の中から導くことが出來るのだから。 頭を正面に向けてゐた人逹は、勤行が進行するにつれて再び側見《わきみ》を始めた。 そして到頭彼女を見つけて囁き合つた。彼女は彼等が何を囁き合つてゐるのかを知つて厭な氣持になり、 もう二度と教會へは來られないやうな氣になつた。 子供逹と一緒に占領してゐた寢臺は、これまでよりも長く彼女の隱れ家になつた。彼女は、 この草葺の二三|碼《ヤード》四方の部屋から、風や、雪や、雨や、眩《まば》ゆい日沒や、 また月毎にめぐつて來る滿月やを眺めた。かうして彼女は絶えず引き籠つてゐたから、 しまひには殆んど誰もが、彼女はもうゐなくなつたのだと思ふ位ゐであつた。 その頃、テスが試みたたゞ一つの運動は、暗くなつつてからの散歩であつた。 そして彼女が一番淋しく思はなかつたのは、その時分、森の中に入る時であつた。 光と闇とが程よく平均して、晝の緊張と夜の休息とがお互に飽和し、 人が心をこの上なく自由にする夕暮の瞬間を寸分違はず當てる方法を、彼女は知つてゐた。 生きてゐると云ふ状態がこの上なく小さく薄れ細つてしまふのも、その時である。 彼女は、暗闇などを少しも恐れはしなかつた。人間世界を -- いや寧ろ、 一團となれば非常に怖ろしくなるが、ばら〜ではちつとも恐ろしくない、 慘めなものでさへあるこの世間と稱《よ》ぶ冷たい累積物を避けようといふのが、 彼女のひたすらな考へであつたらしい。 この淋しい丘の上や谷を彷徨《さまよ》ふ彼女の靜かな歩みは、 彼女が入り込んでゐる天地の要素と全く一つに解け合つてゐた。 搖れて行く忍びやかなその姿は、この光景と切りはなせない一部分となつてゐた。 時折、彼女は氣まぐれな空想から、周圍の自然の進行がはつきりと感じられ、 遂にはそれが自分の身の上の一部分をなしてゐるやうにさへ思はれるのであつた。 といふよりも現に、この自然の進行は、その一部分となつてゐたのである。それは、 この世界といふものは、單に心理的現象に過ぎないもので、事物は、あると思ふから初めて存在するのであるからだ。 冬の小枝の固い芽や樹皮の間に吼えてゐる眞夜中の風とか疾風とかは、謂はゞ苦い苛責のあらはれであつた。 雨の日は彼女にとつて、子供の時のやうに『神』とはつきり定めてしまふことも出來ないし、 また他の如何なるものとも解くことの出來ない或る漠とした道義の主が、心の中で、 彼女の弱さを嘆いてくれる、癒し難い悲しみのあらはれであつた。 けれども、つまらない因襲に基いて彼女が勝手に作り出したこの環境は -- そこには彼女の大嫌ひな幻影や聲が徘徊してゐた -- テスの空想から生れた、悲しい間違つた産物であつた -- それは彼女が理由なく怖れ戰《をのゝ》いてゐた道徳の妖怪《おばけ》の一群であつた。 現實の世界と調和してゐなかつたのは、さういふものであつて、決して彼女ではなかつた。 生垣の中に眠つてゐる小鳥逹の間を歩きながら、月の光に輝いた養兎場を跳ねてゐる兎を見守りながら、 雉子のとまつてゐる木の枝の下に立ちながら、 彼女は自分を『罪なき者』の住家へ闖入した『罪ある者』の姿であると考へた。 けれども、始終、彼女は何等相違などないのに強ひて區別を立てゝゐたのであつた。 彼女は自分が他と相容れないものと感じてはゐたが、事實完全に調和してゐたのであつた。 彼女は、世人に認められてゐる從來の社會の掟《おきて》に、強ひられて背くやうになつてしまつたが、 今自分で自分を異分子だと考へてゐるその環境に通用する掟は、少しも破らなかつたのである。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 靄《もや》の深い八月の或る曉であつた。夜來の濃霧は、温い陽の光の攻撃に合つて羊毛のやうにばら〜の分れ、 縮かまり、窪地や叢林《もり》へ退きさがつて、やがて跡方もなく發散させられるのを待つてゐた。 太陽は、霧の爲めに妙に感情を持つた人間のやうな表情を浮べ、それを遺憾なく現はす男性名詞を求めてゐた。 この時の太陽の表情は、あたりに一切人影が見當らないのと相俟つて、 直ちに昔の太陽崇拜の教義を説明してゐるやうであつた。天の下に、 これほど健全な宗教が曾つてあつたとは感ぜられない位ゐであつた。 この發光體は、金色の頭髮を戴き、快濶で、やさしい眼をした神のやうな生物で、 青年に見られるやうな活氣と強さをもつて、彼に對する興味に溢れてゐる地上を見下ろしてゐた。 暫くすると彼の光は、農家の鎧戸の孔隙《すき》を潛り込み、戸棚や、箪笥や、その他内部のいろ〜な調度の上へ、 赤く熟してゐる火箸のやうな光線を投げて、まだ寢てゐる收穫者の眼を覺ました。 けれどもその朝、赤く輝いた一切のものゝうちで一番よく光つてゐたのは、 マアロットの村に直ぐ近い、黄金色の小麥畑の一隅に立つてゐる、ペンキ塗りの幅の廣い二本の腕木であつた。 それは下の方の他の二本の腕木と共に、今日の作業の用意に、前夜、 この耕地へ運ばれてゐた囘轉するマルタ十字形(燕の尾のやうに交叉した十字形)の刈禾機《かりとりき》を形造つてゐた。 それに塗つてあるペンキは、日の光を受けて色が強烈になり、恰も火焔の海に浸つてゞもゐるやうな觀を呈してゐた。 畑はもう『開いて』ゐた。つまり、馬や機械が最初に通つて行けるだけの道を作る爲めに、 畑の外輪は、小麥が二三|呎《フイート》の幅で、全部手刈りで刈り取つてあつた。 丁度東の生垣の頂邊《てつぺん》の影が西の生垣の中程に射した時、大人と若者が一團となり、 女逹もまた一團となり、この二つの團體が、足下はまだ暗いのに頭には日光を受けて小徑へ下りて來た。 彼等は小徑から一番近くの畑の門の左右に立つてゐる二本の石柱の間に入つて、見えなくなつた。 やがて内側から、蟋蟀《こほろぎ》が相手を呼ぶ聲にも似たコロ〜といふ音が起つた。 例の機械は、もう運轉を始めてゐた。三頭の馬と、前に言つた長いがた〜゛の機械の動いて行く一列が、 門越しに見え出した。引馬の中の一頭には馭者が乘り、機械の上の座席には一人の附添が乘つてゐた。 刈禾機の腕木は緩く廻轉して、馬車全體が畑の片側に沿うて進んで行つた。 やがてそれは丘を下り、全く見えなくなつた。間もなく刈禾機《かりとりき》は、畑の他の片側を、 前と同じ速力で登つて來た。先づ切株の蔭から先頭の馬の眉間《みけん》にきらついてゐる眞鍮の星形が現はれて、 次に輝く腕木、それから機械全體といふ順序で。 畑を取り卷いてゐる切株の見える狹い小徑は、刈禾機《かりとりき》の一巡する毎に道幅が廣くなつて行つた。 朝が過ぎて行くにつれ、立つてゐる小麥の面積は次第に狹い範圍に限られて行つた。 飼ひ兎や野兎や蛇や野鼠や二十日鼠などが、そこがほんの少時《しばし》の隱れ家にすぎないといふ事に氣づかず、 又その日の遲くになれば、その隱れ家が次第に怖ろしい狹さに縮められ、敵も味方もごつちやに追ひ込まれて、 最後に刈り殘つた二三|碼《ヤード》の小麥もまた、正確に進んで來る刈禾機《かりとりき》の齒の下に倒され、 やがてどれもこれも皆、收穫《とりいれ》をする百姓逹の棒切れや石で打ち殺されてしまふのだつた。 刈禾機《かりとりき》はその背後に、丁度一束になる位ゐの手頃な麥の小さな堆積を殘しては進んで行つた。 それを後からせつせと束ねて行く者が手に掴むのである -- これをするのは主に女であつて、 更紗の襯衣《シヤツ》を着た男も幾人か交つてゐた。彼等はズボンを腰の周圍に革帶で留めてゐたので、 不要になつた背後《うしろ》の二つの釦《ぼたん》は着用者が働く度に日光を受けて、 恰も優しい腰についてゐる二つの眼球のやうにきら〜光つて、怒つてゐるやうに見えた。 だが、この束手の一團の中でも、一番興味をそゝるのは女逹であつた。それは女が、 戸外の自然の一部分となり、平常のやうに、自然の中に置かれるたゞ一個の存在物だけでなくなる時には、 一種の魅力が添つて來るからである。野良の男たちは、たゞ畑に働く人間に過ぎないが、 野良の女は畑の一部分である。彼女は女特有の輪廓を幾分失ひ、周圍の要素を吸收して、 それと同化してしまつてゐる。 女逹 -- 大抵は若い者ばかりだから、寧ろ娘逹と言つた方がいゝ -- は、 大きな日除けの埀布の附いた透し模樣の木綿の縁なし帽子を被り、 手には切株で傷をしないやうに手袋を嵌めてゐた。薄い桃色の短い上衣を着てゐるものもゐれば、 袖口の締つた桃色の長い上衣を着たものもゐるし、 刈禾機《かりとりき》の腕木の色にも劣らないやうな赤い下袴《スカート》を着けた者もゐた。 年取つてゐる者は、褐色の粗い羅紗の『上つ張り』、つまり外套 -- 若い者はだん〜着なくなつて行くが、 古くからのお定《きま》りの、また野良働きの女には一番適當してゐる -- をつけてゐた。 今朝は、人々の視線が、自然と桃色の上衣を着た娘の方へ向つた。それは彼女が皆の中でも一番しなやかで、 容貌が美しいからである。が、眉毛の上まで帽子を眼深に被つてゐる爲め、麥を束ねてゐる間は、 顏は少しも見えなかつた。けれども、彼女の顏の艷は帽子の埀布の下に一條《ひとすぢ》二條埀れてゐる、 濃い褐色の後れ毛からも察せられない事はなかつた。恐らく、折々一同の注意を奪ふ理由の一つは、 他の女逹が何時もその周圍を見廻してゐるのに、彼女だけは、他人の注意を全然求めようとしないからであるかも知れない。 時計のやうに單調に、彼女は束ねつゞけて行く。今束ね終つたばかりの一把から、彼女は一握りの穗を引き拔き、 左の掌でその頂きを輕く叩いて穗先を揃へる。それから、低く屈んで前へ進み、兩手で小麥を膝へ寄せかけて取り集め、 戀人を抱擁する時のやうな恰好で、手袋を嵌めた左手を束の下へ廻し、右手と向う側で合せるやうにする。 繩の兩端を引き合せて束ねる間、束の上に膝を突き、折々微風の煽られる下袴を叩いては元へ返す。 彼女の籠手の柔皮革《かは》と上衣の袖口との間からは、あらはな腕が窺《のぞ》く。 そして日脚の進むにつれ、その滑らかな處女《をとめ》の肌は、切株の爲めに傷を受けて血が滲むのである。 彼女は時折、立ち止つて休み、亂れた前掛を締め直したり、帽子を眞直に直したりする。 その時眞黒な眼と、觸れるものなら何にでも哀れを求めるかのやうに絡みつかうとする、 長い髮の毛の房を埀れてゐる美しい若い女の卵形の顏が見える。田舍育ちの娘によく見かけるよりも、 その頬は蒼白く、齒並も正しく、赤い唇も薄い。 これこそテス・ダアビフィールド、又の名ダアバァヴィルで、何處か以前とは變つてゐる -- 同一人でありながら、しかも同一人ではないテスである。いま身を置いてゐる土地は異郷ではないのに、 現在の彼女の樣子から言へば、一人の他處者《よそもの》、他國人として暮してゐるからである。 長い間家に閉ぢ籠つてゐた後、農業では一年中でも一番多忙な季節が來て、 當分の間は室内で出來るどんな仕事よりも、野良で收穫《とりいれ》をする仕事の方が割りがよかつたので、 彼女は故郷の村で戸外の仕事をしようと決心するに至つたのである。 他の女逹の動作も多少テスに似てゐて、各々一束を丸め上げると、一同は殘らず四組舞踏の踊手のやうにかたまつて、 銘々が束の先を他の人の束に立て掛け、やがて十束、或は十二束の禾堆《いなむら》、 つまりこの土地の呼名に從へば『列積《ステイツチ》』が出來た。 彼等は朝飯に行つて、再び戻つて來た。そして仕事は前の通り進行した。十一時近くなると、 テスを注意して見てゐた者は、彼女が、束ねる手は休めなかつたがその視線を屡々素早く丘の頂きへやるのに氣づいた事であらう。 愈々その時刻に迫つた時、六歳から十四歳位ゐまでの一團の子供の頭が、切株だらけの丘の凸状《なかだか》の上に現はれた。 テスの顏は微かに赤くなつたが、それでも仕事は止めなかつた。 やつて來た子供の中で一番年長の女の子は、掛けてゐる三角形の肩掛の端を切株の上に引き摺りながら、 ちよつと見ると人形かと思はれるものを兩腕に抱いてゐたが、それは長い襁褓《むつき》に包まれた嬰兒である事が分つた。 もう一人は晝の辨當を持つて來た。收穫《とりいれ》の人逹は、仕事の手を止めて用意の辨當を取り出し、 禾堆《いなむら》の一つに凭《よ》り掛つて坐つた。此處で一同は食べかけ、 男逹は頻りに土燒の甕《かめ》をやりとりして、盃を廻した。 テス・ダアビフィールドは、最後まで仕事をしてゐた一人であつた。彼女は仲間から顏を幾分外らして、 禾堆《いなむら》の端に腰を下ろした。彼女がすつかり落着いた時に、 兎皮の鳥打帽子を被り赤いハンケチを帶へ挾んでゐた男が、禾堆《いなむら》越しにビールのコップを差し出して、 彼女に飮めとすゝめたが、辭退した。彼女は辨當を披《ひろ》げるとすぐ、 大きな娘の妹を呼んで嬰兒を引き取つた。すると妹は、身輕になつたのを喜んで次の禾堆《いなむら》の方へ行き、 其處に遊んでゐる他の子供逹と一緒になつた。テスは、妙に他人《 ひと》前をはゞかるやうな、 しかも思ひ切つた動作で、それでも段々に顏を赧らめながら上衣の釦《ぼたん》を外して、 嬰兒に乳房を啣《ふく》ませ始めた。 彼女の一番近くにゐた男逹は、思ひ遣りよく畑の他の端の方へ顏を背けた。中には煙草を喫ひ始める者もあり、 一人の男は、酒が飮みたさに夢中になつて、もう一滴も出て來ない酒甕《さかゞめ》をいま〜しさうに叩いてゐた。 テスを除く他の女逹は、みんな元氣づいて話を始めたり、また亂れた頭髮《かみ》の結び目を直したりした。 嬰兒が腹一ぱい乳を呑んでしまふと、若い母親は、膝の上に眞直立たせて、ずつと向うを見入りながら、 殆んど嫌惡に近いやうな不機嫌な冷淡さで嬰兒をあやした。それから突然、 まるでどうしても止める事の出來ないやうに、幾十囘となく激しい接吻をした。 嬰兒は激情と侮蔑との不思議に混り合つたこの攻撃の激しさに、泣き出してしまつた。 「ほんとに子供が憎いやうな振りをしたり、赤ん坊と一緒に墓ん中へ入つてしまひたいなんて言つてるけれど、 あの人は矢張りあの子が可愛いんだよ。」と赤い下袴《スカート》を附けた女が言つた。 「あの人も、もうぢきにそんな事は言はなくなるよ。」と淺黄色の女が答へた。 「まあほんとに不思議なもんだね、何時となく、誰でも自然とあんな事に馴れてしまへるなんてさ!」 「こんな事になるまでには、なか〜口説いた位えの事ぢやあるまいと私は思ふんだよ。去年の或る晩、 チェイズの森ん中で歔欷《すゝりなき》の聲を聞いたつていふ者があるんだが、そんな時、 仲間の者がその場へ行き合せでもしたら、何んとかさんは飛んだ目に會つたかも知れないよ。」 「さうね、口説いた位えでねえかどうか、それは知らないが、 人もあらうにあの娘《こ》がこんな目に會ふなんて、ほんとに氣の毒だよ。 だが、こんな目に會ふのは決つて縹緻《きりやう》のよい者に限るねえ! 顏の惡い娘ときちや、教會みてえに安全なものさ -- どうだね、ジェンニイ?」」 話し手はこの群の中の一人を見やつたが、それた確かに不縹緻《ぶきりやう》と形容されても仕方のない女であつた。 實際、如何にも氣の毒なことであつた。今其處に坐つてゐるテスを眺めたら、たとひ敵であつても、 さう感じないではゐられなかつたらう。その花のやうな口、黒でも碧《あを》でも、 灰色でも菫色でもない大きなやさしい眼、寧ろかういふ一切の色とその他のあらゆる色とを混ぜ合せたやうな、 若しその黒目を覗けば誰にも分るやうな色 -- 影の裏にまだ影があり -- 一つの色の先きにまだ他の色がある -- それが、底知れない深い瞳孔《ひとみ》を取り卷いてゐる。 彼女の一族から承け繼いでゐるちよつとした不注意な性格さへなかつたら、殆んど標準的なその女を。 突然思ひ浮んだ一つの決心から、幾月振りかで今週始めて、彼女は野良へ出たのであつた。 一人ぼつちの、世間知らずの氣持から思ひつける限りのいろんな悔恨の責道具で胸を責め苛《さいな》み、 わなゝく心を疲らし弱くした後、始めて常識が彼女の心を明るく照らすやうになつたのである。 彼女は、再び役に立つ人間になる方がましだ -- たとひどんな犧牲を拂つても、 新たに獨立の美味を味はうと思つた。過去は過去で、たとひそれがどんなものであつたにしても、 もう手近にはないのだ。その結果がどんな風に現在に及んで來ようとも、 時がやがてそれを封じてしまふであらう。二三年もすれば、まるでそんな事が何處にあつたのかといふやうに、 すつかり跡方もなくなつてしまふであらう、しかも樹々は以前と少しも變らぬ緑をたゝへ、 小鳥は歌ひ、陽は何時ものやうに今も晴れやかに輝いてゐた。親しい周圍のものは、 自分の苦しみ故に思ひ患つてもゐなかつた。 彼女は、こんなにまで自分の頭を低くさせるもの -- 自分の境遇に對する世間の思惑を顧慮する心 -- が、或る幻影の上に立つてゐるといふ事に氣づいたのかも知れなかつた。テスは彼女以外の者には、 何の係はりもない存在であり、經驗であり、熱情であり、また感覺の噐械であつた。 他のあらゆる人間にとつては、テスはたゞ一片の考へを呼び起す種に過ぎなかつた。 友逹にとつてさへ、彼女はたゞ屡々浮んでは消える思ひ出の種に過ぎなかつた。 たとひ彼女が長い晝夜を惱み通さうとも、彼等にとつては、たか〜゛これだけのことに過ぎないのだ -- 『あゝあの女は勝手に苦しんでゐる』と。たとひ彼女が努めて快濶になり、一切の心配を振り捨てゝ日の光や、 花や、嬰兒に樂しみを求めるやうにしても、彼女は彼等からたゞこんなに思はれるだけなのだ -- 『あゝあの女は感心によく堪へてゐる』と。その上、若し彼女が無人島にたゞ一人でゐるとしたら、 我が身に起つたことを嘆き悲しんだらうか?大して嘆きはしなかつたらう。若し彼女が、 たつた今生れたばかりの名もなき嬰兒の親としてより外、人生に全く無經驗な、 夫なくして母親となつてゐる自分に氣がついたとしたら、さういふ境遇は彼女を絶望させたであらうか? いや、彼女は冷靜にこの境遇を受け容れて、そこに樂しみを見出したことであらう。 彼女の不幸の大半は、因襲的な考へ方に拘泥した爲めに起つたので、生來の感情から生れ出たものではなかつた。 たとひテスがどんな風に理窟をつけて考へたにしても、 兎に角或る精神が彼女を以前のやうにきちんと身支度させて、 丁度收穫の爲めに非常に人手の要る畑へ出るやうにさせたのであつた。 かういふわけから、しつかりした態度を持し、嬰兒を腕に抱へてゐる時でも、時折、 彼女は落着いて他人の顏を正視したのであつた。 百姓逹は禾堆《いなむら》のところから立ち上り、手足を伸ばし、煙管《パイプ》の火を消した。 馬は、馬具を解かれ秣《まぐさ》を與へられてゐたが、再び眞紅な色の機械に繋がれた。 テスは急いで辨當を食べてしまふと、次の妹を呼んで嬰兒を連れ去らせ、 上衣の釦《ぼたん》を掛けて再び柔皮革《かは》の手袋を篏《は》め、 また身を屈めて、最後に束ねた一把から、次の束を結へる爲めに繩を引き出した。 午後も夕方も午前中と同じ仕事が續いた。テスはこの收穫者の一團と一緒に暗くなるまで止つてゐた。 それから彼等はみんな一番大きい荷車の一臺に乘つて歸つた。 蝕《むしば》まれてゐるタスカニーの聖者(タスカニーの市にある教會の聖者の像をいふ)の古びきつた金箔の後光にも似た、 東の地平線から昇つた盆のやうな曇つた月を道連れに。テスの女の友逹は唄を歌ひ、 彼女に非常な同情を寄せ、再び彼女が戸外に姿を見せたことを喜んだ。尤も彼女等は、 樂しい緑の森へ入つて行き、すつかり變つた人間となつて出て來た娘を歌つた小唄を、 一二節交へて意地惡く歌ふのを控へる譯には行かなかつた。 人生は輕きを重くし、足らざるを補ふのが常であつて、世間の人々のいゝ警告《みせしめ》となつた出來事の爲めに、 一時彼女は、多くの人々に取つて村中でも、一番興味のある人となつてゐた。 でも、友逹が親しくしてくれるので、彼女は自分の身の上を忘れるやうになり、 友逹の生々した元氣に感染して、彼女は殆んど陽氣にさへなつた。 けれども今度は、道徳的な悲しみが去らうとしてゐるのに、社會上の法則には關係のない新しい悲しみが、 母親としての方面に湧いて來た。彼女が家へ歸ると、悲しいことには、嬰兒が午後から急に病氣になつた事を知つた。 纖弱《かぼそ》いきやしやな體質の嬰兒だつたから、 何かこんな悲しい出來事でもありはしまいかと氣遣つてゐたのだが、矢張りこれは彼女には打撃であつた。 嬰兒がこの世に生れて來たが爲めに、社會に對して犯したその罪を、若い母親は忘れてしまつた。 彼女の心からの願ひは、この嬰兒の生命《いのち》を取りとめて置いて、その罪を續けたいといふ事であつた。 だが、この小さな肉の囚人の放たれる時期は、彼女が心から心配し豫想してゐたよりも、 早くに來るだらうといふ事がすぐ明らかになつた。彼女がこれを知つた解き、 たゞ我が子を失ふといふよりも、もつと大きな或る悲痛に沈まない譯には行かなかつた。 嬰兒はまだ洗禮を受けてゐなかつたのである。 自分のしたことの爲めに火刑に處せられなければならないならば、是非もない事で、 火刑にも會はう、それで萬事は終つてしまふのだといふ考へを、 たゞ默つて受け容れるやうな氣持にテスは引き摺り込まれてゐた。 村のすべての娘逹のやうに、彼女もまた聖書にはよく通じて、 淫婦アホラやアホリバ(不義を行つた姉妹の名)の傳記をもよく知つてゐた。 そして、その物語の中から引き出せる結論も分つてゐた。けれども、 それは同じ問題が自分の嬰兒に關連して起つて見ると、それは全く違つた色彩を帶びて來た。 彼女の愛兒は今死にかけてゐて、その靈は全く救はれないのだ。 もうかれこれ寢る時刻であつたが、彼女は階下へ駈け下りて行つて、牧師を頼んで來ては貰へまいかと訊ねた。 その時は丁度、父親が彼の一家の由緒ある家柄といふことを一番強く考へてゐる時で、 テスがその由緒ある家柄に泥をなすつたといふ感じが一番露骨にあらはれてゐる時であつた。 といふのは、彼は今丁度ロリヴァ亭で開かれた一週一度の酒宴《さかもり》から歸つたところだつたからである。 今は、彼女が犯した不面目の爲めに一家の事情を隱蔽することが、常よりも一層必要な時だから、 どんな牧師であつても、家へ入れてこの樣子を見せることはならないと、 父親は斷言した。彼は戸に錠を下ろして、鍵を、ポケットへ收めてしまつた。 家族のものはみんな床に就いた。そしてテスは限りなく苦しみながら寢室へ引つ込んだ。 横になつてゐても、彼女は絶えず眼を覺ましてゐた。眞夜中になると、嬰兒がなほ惡くなつてゐるのに氣が附いた。 明らかに、もう死にかけてゐた -- 靜かに、苦痛もなく、が、矢張りたしかに死にかけてゐた。 彼女は悶え苦しみながら、寢床の上で輾轉した。時計は嚴かに一時を打つた。それは、 空想が理智を越えて跳梁し、いまはしい臆測が動かすことの出來ない事實となる時であつた。 彼女は、洗禮を受けてゐないのと、正統な生れでないのと、この二重の罪科で地獄のどん底の隅に葬られる嬰兒のことを考へた。 また魔王が、まるでパンを燒く日に窯《かまど》を熱する爲めに用ゐる三叉の鐡把のやうなもので、 我が子を投《はふ》り上げてゐる場面を心に描いて見た。更にその畫面に、 この基督教國でよく子供逹に教へる樣々な他の竒妙な珍らしい苛責の枝葉の部分まで附け足した。 この物凄い畫面は、皆が寢入つてしまつて物音一つしない家の中で、 彼女の想像力を烈しく刺戟したので、彼女の寢衣《ねまき》は汗で濕り、寢臺は胸の動悸がする度に搖れ動いた。 嬰兒の呼吸は益々困難になり、母親の心は益々緊張して來た。この幼い子に、 どんなに夢中で接吻して見ても無駄であつた。彼女はもう寢床の中にぢつとしてゐることが出來ないで、 熱に浮かされたやうに部屋中を歩き廻つた。 「おゝ、慈悲深い神樣、愍《あはれ》みを埀れ給へ、この哀れな嬰兒の上に愍みを埀れ給へ!」と彼女は叫んだ。 「この私には、どのやうな憎しみでもお加へ下さいまし、私は喜んでお受けいたします。 でもこの兒だけは、どうぞ憐んでやつて下さいまし!」 彼女は箪笥に凭《よ》り掛つて、長い間とりとめのない歎願の言葉を呟いてゐたが、やがて急に立ち上つた。 「あゝ、この兒はことによると救はれるかも知れない!屹度、さうすれば同じ事になるでせう!」 彼女は非常に晴れやかにかう言つたので、まるで、彼女の顏が、周圍の陰鬱な情景の中で輝きでもしたやうに見えた。 彼女は蝋燭を燈して、壁の下にある二番目と三番目の寢床へ行つて、みんな同じ部屋に寢てゐる妹や弟を起した。 洗面臺を引き出して、その後へも廻れるやうにし、水差から水を少し出して、子供逹を車座に跪かせ、 指を正しく埀直に立てゝ合掌させた。子供逹はまだ本當に覺め切らないで、彼女の態度に恐れをなして、 だん〜大きく眼を見開きながらこの位置についてゐると、彼女は嬰兒を寢床から取り上げた -- 子供の子供を -- といふのは、この兒を生んだ彼女が、 母親といふ名を授けられるほどまだ十分成熟した人間になつてゐなかつたからである。 テスは嬰兒を抱へて、金盥《かなだらひ》の傍に立つた。次の妹は、教會で役僧が牧師の前でするやうに、 祈祷書を開いて姉の前に捧げた。こんな風にして、彼女は自分の子供の洗禮に取りかゝつた。 綯《な》ひ合した黒い頭髮の太い綱を背中から腰の邊まで眞直に埀らし、 長い純白の寢衣《ねまき》を着て立つてゐると、彼女の姿は、不思議に丈《せい》も高く、 凛々しく見えた。蝋燭の弱い慈《いつく》しむやうなぼんやりした光は、 日光の照る所でなら見えたかも知れない細かい疵《きず》 -- 手頸にある切株の掻き痕や、疲勞した眼の色や -- を彼女の姿や容貌から取り去つてしまつた。そして彼女の極めて熱心な態度は、破滅の原因となつたその容貌を、 すつかり一變して、清淨な美しいものに見せ、殆んど女王にも等しいやうな威嚴さへ具へさせた。 子供逹は睡《ねむ》さうな充血した眼を瞬《しばた》たかせながら、車座に跪いて、 丁度この時刻は體が重苦しいので、驚異の念を活溌に働かすわけにも行かないで、 ぼんやりして、彼女の準備の出來るのを待つてゐた。 中でも、一番感動を受けた者が言つた -- 「本當に洗禮をしてやる積りかい、テス?」 娘のやうな母親は、眞面目な態度で、さうだと答へた。 「名前は何とつけるの?」 彼女はまだそれを考へてゐなかつたが、洗禮の儀式を進めてゐる間に、『創世記』の中にある一句から、 一つの名前を思ひついた。で、彼女は今それを宣言した -- 「ソロウ、父なる神と神の子なる基督と、聖靈との御名によつて、我汝に洗禮を施す。」 彼女は水を振り撒いた。四邊《あたり》はしんとした。 「さあ、皆『アーメン』と言ひなさい。」 子供逹は言はれた通り、可愛らしい聲で、『アーメン!』を合唱した。 テスはなほ續けた -- 「我等はこの兒を受け、」 -- 云々 -- 「十字架の印もて汝に記す。」 此處で彼女は、その手を洗面噐に浸し、嬰兒の上の空間に、食指で熱心に素晴らしく大きな十字架を描き、 勇敢に罪と世と惡魔と戰ひ、その生涯を終るまで、忠實なる神の兵士となり、 下僕たらんとのおきまりの文句を續けた。彼女は、間違ひなく『主の祈り』を續けて行き、 子供逹は彼女に習つて、細い蚊の鳴くやうな聲で、覺束なさゝうにそれを唱へてゐたが、 やがて結論に來ると、役僧と同じ位ゐに聲を張り上げて再び靜寂を破り『アーメン!』を合唱した。 それから、この聖禮の效果に就いて自信を高めた彼等の姉は、流れ出るまゝに胸の奧底から感謝の言葉を述べた。 言葉に心を打ち込んでゐる時に生じて來る、親しく聞いた者なら決して忘れないやうな高い倍音調の聲で、 元氣よく勝ち誇つたやうに唱へるのであつた。信仰の法悦状態に入つたので、 彼女は殆んど神のやうに神々しく見え、その爲めに、顏には輝かしい光が點ぜられ、 兩頬の中央には紅い點が浮き上つた。また瞳孔《ひとみ》へ逆さに映つてゐる小さな蝋燭の炎は、 ダイヤモンドのやぬに輝いた。子供逹はだん〜畏敬の念を高めて、彼女の顏を凝視し、 もう質問を發しようともしなかつた。今では、子供逹は彼女が『姉ちやん』とは見えないで、 大きな塔のやうに、高い畏ろしい人 -- 彼等と全く共通點のない、神性を帶びた人のやうに見えた。 可哀さうに、罪と、世と、惡魔とを相手にしたソロウの戰ひは、大して華々しいものにはなれない運命を持つてゐた -- その生れた事の發端《おこり》を思ひ合せて見れば、當人にはこれが却つて幸福かも知れないが。 神の僕《しもべ》なる虚弱な戰士は、朝の青い光の中に、最後の息を引きとつた。 そして他の子供逹は眼を覺して烈しく泣き悲しみ、もう一人綺麗な赤ん坊を生んでくれと、 ひたすら姉にせがんで止まなかつた。 洗禮を施した時から、テスの心は平靜になつて、嬰兒の死んだ時も依然としてその氣持が續いてゐた。 實際、晝間になつてみると、彼女は、我が子の靈魂に就いて幾分誇張して恐ろしがつてゐたと感じた。 立派な根據の上に立つてゐるかゐないかは兎も角として、彼女は今では少しも不安を抱かなかつた。 若し神がかういふ洗禮の眞似事を認めないとしても、他の人ならば知らんが自分だけは、 儀式が變則な爲めに失はれる -- 彼女の爲めにもまた子供の爲めにも -- やうな種類の天國なぞは重んじないとふことを考へたからである。 かうして、『厄介者のソロウ』は逝つた -- 社會の法則を無視する闖入者たる生物、 恥知らずの『自然』が贈つたこの私生兒は去つた。この風來兒は、永遠の『時』は僅か數日に過ぎなくて、 また年とか世紀とか云ふものが、曾つてあつたことなど知らなかつた。 彼には百姓小屋の内部が宇宙であり、一週間の天候がこの世の氣候であり、 生れたばかりの嬰兒時代だけが人生であり、乳を吸ふ本能が人智の全部であつた。 テスは、自分の施した洗禮のことを可なりよく考へてみたが、教義の上から言つて、 この洗禮が死んだ子を基督教に從つて埋葬するだけの力を持つものかどうかを疑はずにはゐられなかつた。 これに答へることの出來るものは、村の牧師より外にはなかつたが、牧師は最近赴任して來たばかりで、 彼女を知つてゐなかつた。彼女は、日が暮れてからその家へ出掛けて行つて、 門の傍に立ち止まつたが、どうしても中へ入るだけの勇氣を振ひ起すことが出來なかつた。 で、丁度歸りかけてゐるとき、偶然にも牧師が家へ歸つて來るのに出會はなかつたら、 彼との面會は斷念してしまはなければならなかつたかも知れない。 彼女は暗がりの中で、遠慮なく自由に打ち明けた。 「私、お訊ねしたいことがございますの。牧師さん。」 彼が喜んで聽かうと言つたので、彼女は嬰兒の病氣から間に合せに行つた儀式のことを話した。 「それから、牧師さん、」と彼女は熱心に言ひ添へた。「あの、私のしたことは、 あの子にとつてあなたから洗禮して頂いたのと同じことになるかどうか -- それを仰しやつて頂けませうか?」 自分が當然頼まれてなすべき筈の仕事を、客が自分勝手に不手際にやつてのけたのを知ると、 自然商賣人根性ともいふべきものが頭をもたげて來たので、彼は否と言はうとした。 けれども、この少女の威嚴と、その聲の不思議な優しさとが一緒になつて、 商賣氣よりも一層尊い彼の衝動を -- と言ふよりも、 事實上の懷疑心に職業的な信仰を接木《つぎき》しようと十年も努力して來た今日でもなほ彼の中に殘つてゐる感情を刺戟せずにはゐなかつた。 人間と牧師とが彼の中で爭つたが、勝利は人間に歸した。 「娘さん、」と彼は言つた。「そりや、全く同じことでせうよ。」 「ぢや、あの子に基督教の埋葬をして下さいませうか?」と彼女は隙《すか》さず訊ねた。 牧師は返答に窮した。彼は嬰兒が病氣と聞いて、儀式を施してやるつもりで、 夜になつてから忠實に彼女の家へ出向いて行つたのであつたが、彼を家の中へ入れるのを拒んだのが、 テスではなく、父親であつたといふことは夢にも知らなかつた。その爲め、 違例の埋葬を行つてくれとの願ひを聞き入れる譯には行かなかつた。 「えゝと -- そりやまた別問題です、」と彼は言つた。 「別問題ですつて -- そうして?」とテスは幾分熱して訊ねた。 「さあ -- 私逹二人の間だけで濟む事なら、喜んでしても上げませうが。だが、どうしても出來ません -- 他に譯があつてね。」 「たつた一遍だけです、牧師さん!」 「どうしても出來ません。」 「あゝ牧師さん!」さう言ひながら、彼女は牧師の手を捉へた。 彼は頭を振りながら、その手を引つ込めた。 「ぢや私、もうあなたは嫌ひです!」と彼女は叫び出した。 「あなたの教會へなど二度と參りません!」 「そんな亂暴なことは言ふもんぢやありませんよ。」 「あなたがして下さらなくたつて、あの子にとつては多分同じことでせう?……ね、同じことでせう? お願ひですから、どうぞ聖者が罪人に向つて口を利くやうなことはなさらずに、あなたがこの私に -- 可哀さうな私に仰しやつて下さい!」 牧師が、かういふ問題に就いて日頃自分が抱いてゐると想像してゐた嚴格な概念《かんがへ》とこの場合の返答とを、 どう妥協させたかを告げることは、俗界の人の力に及ばないことである。 尤も、それを妥協させた牧師を赦すことは俗界の人の力にでも出來る。兎に角、彼は心を動かされて、 この場合にも亦次のやうに言つた -- 「それは同じことでせうよ。」 そこで嬰兒は小さな松板の箱に納められ、古ぼけた女の肩掛で蔽はれて、その夜墓地へ運ばれた、 墓守へ一|志《シリング》とビール一パイント(三合一勺餘)とを拂つて、神が割り當てゝ下さつた見すぼらしい片隅へ、 提燈の燈火《あかり》で埋められた。そこには、神のお思召しで蕁麻《いらぐさ》が生えるがまゝに伸び、 洗禮を受けないで死んだ嬰兒や、評判の醉漢や、自殺者や、その他、地獄落ちと決められた者たちが埋まつてゐる。 其處が不便な場所であつたにも拘はらず、テスは二枚の木舞《こまひ》と一本の絲で小さな十字架を立派に拵《こしら》へ上げ、 それに花を結び附け、或る晩|他人《 ひと》目につかぬやうに墓地へ入り込んで墓の頂きに樹《た》て、 同じ花で作つた一把の花束を、枯れないやうに水の入つてゐる小瓶の中に差してその下へ置いた。 單なる觀察者が、その瓶の外側に『キールウェルの蜜柑糖』(キールウェル會社製の蜜柑糖の空瓶だつたのでかういふのである) とある文字に氣付いたからとて、それが何であらう?子を思ふ母親の眼は、 一層高い靈界のものを見てゐるあまり、そんな文字はてんで眼に入らなかつたのである。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十五 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 「經驗によつて、」とロージャー・アスカムは言つてゐる。「即ち、我々は遠い廻り路をして始めて近道を發見する。」と。 だが、その遠い廻り路をした爲めに我々は今後の旅を續ける能力を奪はれる場合が屡々ある。 その時、經驗は我々にとつて何の役に立つだらう?テス・ダアビフィールドの經驗もまた、 この能力を奪つてしまふ種類のものであつた。彼女はやつと身を處する道を覺つたが、 今となつては、誰が彼女のすることを認めてくれよう。 若し彼女がダアバァヴィル家に行かないうちに、 彼女にも世間一般に知れ渡つてゐるいろ〜な箴言や格言の教へに從つて嚴格に行動しいぇゐたならば、 決して欺かれるやうなことはなかつたに相違ない。けれども金言の眞理をすつかり感得すると同時に、 それを役立てることは、テスの力には及ばないことであつた -- また誰の力にも及ばないことである。 彼女は -- 又どんなに數知れぬ多くの人々は -- セント・オーガステンのやうに、 神に向つて皮肉にもかう言つたことであらう -- 「あなたは實際に行へる道よりも良い道をお奬め下さいました。」 彼女は冬の數ヶ月間、鷄の羽毛を[手へん|毟;#2-78-12]《むし》つたり、七面鳥や鵝鳥に餌をやつたり、 またダアバァヴィルから貰つたまゝ輕蔑して藏《しま》ひ込んで置いた晴着を直して妹や弟の着物を仕立てゝやつたりしながら、 父の家に留まつてゐた。ダアバァヴィルに援助を頼まうなどゝは、彼女は決して考へなかつた。 が、一生懸命に仕事をしてゐると思はれてゐるときでも、彼女はよく兩手を頭の後に組み合せ、 深く物思ひに耽つてゐることがあつた。 彼女の一年の經過する間に去來した一日々々のことをぢつと心に思ひ浮べてみた。 チェイズの森を暗い背景としてトラントリッヂで彼女が破滅を招いた不幸な夜も、嬰兒の誕生と死亡の月日も、 自身の誕生日も、その他自分に幾分でも關係のあつた出來事の爲めに目立つてゐた日のことを。 或る日の午後、自分の美しい顏を鏡に映して見入つてゐると、突然彼女は過去のそんな日々よりも、 もつと〜自分にとつて大切な日が別にあるといふこと、 こんな美しさなんかみんな消え失せてしまふ自分の死ぬ日があるといふことを考へた。 それh,年に一度は行き會つてゐながら、それらしい徴候も氣配も見せないで、他の多くの日の間に紛れ込んで、 區別もつかないやうに、狡猾にかくれ潛んではゐるが、矢つ張りたしかに嚴存する一日である。 一體それは何時だらうか?こんな冷たいしかも自分と關係の深い日と毎年出會ひながら、 何故自分はぞつとする思ひをしなかつたのだらうか?彼女はジェレミイ・テーラアと同じやうに、 將來何時か自分を知つてゐる者逹が、「今日は、可哀さうにテス・ダアビフィールドが亡くなつた何 -- 日だ。」 と言ふ時が來る事であらうと考へてゐた。そして、その言葉の中には、彼等から考へれば何の不思議もないであらう。 この限りない月日の中に、彼女の終焉の時と定められた日の位置が、どの月、どの週、どの季節に、 又どの年にあるか彼女は知らなかつた。 テスはかうして殆んど一足跳びに、單純な處女《をとめ》から複雜な女に變つてしまつた。 思ひに沈む樣子は顏に現はれ、悲しげな調子は折々聲にも現はれた。眼は以前から比べると、 ずつと大きく、感じやすくなつて來た。彼女は麗しい女と呼ばれてもいゝやうなものになつた。 容姿は美しくて、人目を惹きつけるに十分であつたし、その性質は、 過去一二年のめまぐるしい經驗も遂に挫《くじ》くことが出來なかつたやうな女としての性質になつてゐた。 世間の思惑といふものさへなかつたら、かういふ經驗もたゞの自由教育に過ぎなかつたであらう。 彼女は、この頃ではすつかり世間を離れてゐたから、その不幸も決して一般には知られず、 マアロットでも殆んど忘れられてしまつた位ゐである。 けれども彼女等の一家が金持のダアバァヴィル家に『親戚の名乘り』を上げようとして -- また彼女を通じて一層親密に結合しようと企てゝ -- 失敗に終つたのを見知つてゐる土地では、再び本當に氣持よく暮らす譯には行かないといふことが、 彼女にもはつきり分つて來た。少なくとも長い年月が經つてそのことに對する彼女の鋭い意識が消滅してしまはないうちは、 其處で氣持よく住める筈がなかつた。しかし今でさへ、希望に滿ちた生の脈搏が、 まだ自分の身内に温かく動いてゐるのをテスは感じた。 何の思ひ出もない何處か邊鄙《へんぴ》な土地へ行つたならば、或は幸福に暮らせるかも知れない。 過去や、そしてこれまでに自分の身に起つたあらゆる事から脱するのは、 取りも直さずそれを撲滅してしまふことであつた。さうするには、この土地を遁れ去るより外に道はなかつた。 一度失はれたものは永久に失はれたものである、といふことは、貞操の場合にも本當に言へることであらうか? と彼女は屡々考へた。若し過ぎ去つたことを蔽ひかくしてしまふことが出來さへしたら、 彼女はそれが誤りであることを證據立てることも出來たであらう。確かに、有機物に共通してゐる再生の力が、 ひとり處女性にのみ拒まれてゐる筈はなかつた。 新しい生活へ出發する機會も見當らないで、彼女は長い間待ち暮した。珍らしく麗はしい春がめぐつて來て、 木の芽の中に發芽して行く氣配が聽き取られる位ゐになつた。それは野の獸たちを動かすやうに、 また彼女をも動かし、外へ出たくて堪らないやうにした。たうとう、五月上旬の或る日、 ずつと前に彼女が問ひ合せて置いた母親の奮い友逹の一人 -- 彼女はまだ一面識もなかつたが -- から、彼女へ宛てゝ一通の手紙が屆いた。それには、此處から南へ遠く幾哩も離れてゐる搾乳場《ちゝば》で、 手馴れた搾乳女《ちゝしぼり》が一人要るから、 其處の主人は夏の數ヶ月間彼女を喜んで傭ふ氣でゐるといふことが知らせてあつた。 それは望んでゐたほど離れた場所ではなかつたが、彼女の行動や、評判は極く狹い範圍に限られてゐたから、 恐らくそれだけ離れてゐれば申し分はなかつたであらう。狹い土地に生活してゐる人にとつては、 數哩といへば、郡、郡といへば洲とか、國にも等しいものである。 或る一つの點について、彼女は固く心を決めてゐた。つまり今度の新しい生活では、 もう夢にも行爲にも、ダアバァヴィルの空中樓閣を築いてはならないといふことであつた。 飽くまで搾乳女《ちゝしぼり》のテスにならう、それだけで澤山だ。母親と娘の間には、 この問題に就いて意見が交されたわけではないが、母親もこの點については、テスの心をよく呑み込んでゐた。 だから彼女はもう騎士の祖先のことなぞを、仄めかしはしなかつた。 しかし、如何にも人間らしい矛盾ではあつたが、今行かうとする土地に對する彼女の興味は、 一つはこの土地が偶然にも彼女の祖先の領地に近いといふ事であつた。 (彼女の母親はブレークモオアの生れの者だが、祖先逹はブレークモオアの者ではなかつたから) 彼女が傭はれて行かうとするタルボセイズと呼ばれる搾乳場は、ダアバァヴィル家の昔の或る領地から餘り遠くなく、 彼女の曾祖母やその逞しい夫逹の大家族の納骨堂の近くにあつた。其處へ行けば、彼女は、 さういふ納骨堂を見ることも出來るだらうし、またバビロンの如く沒落してしまつたダアバァヴィル家が偲《しの》べるばかりでなく、 零落した一人の子孫の罪もない魂も同じやうに靜かに朽ちて行けるといふことが考へ得られるであらう。 さうしてゐる間も彼女は、祖先の地にゐるといふことから、何か思ひ掛けない善いことが湧いて來はすまいかと思つた。 そして丁度樹液が小枝に上るやうに、或る元氣が彼女の心に自づと湧き上つて來た。 それは一時は阻まれようとも、新たに後から湧き返り、希望を齎《もたら》し、 自分で自分を嬉しく感ずる壓《おさ》へ難い本能を伴ふところの汲みつくされない青春であつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十六 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- トラントリッヂから歸つて後、二年目から三年目へかけての五月 -- これまではテス・ダアビフィールドから見ると、 靜かな再生の月であつた -- 麝香草が馨り、鳥が卵を孵すといふ或る朝、彼女は再び自分の家を出て行つた。 彼女は、後から送つて貰へるやうにすつかり荷造りを濟まして置いて、 初めて家を離れた時とは殆んど正反對の方向んい當る今度の旅には、 是非とも通らなければならないストアキャッスルの小さな町に向つて、貸馬車で出掛けた。 一刻も早く遁れ出したいとひどく焦つてゐた場合ではあつたが、一番近くの丘の曲り角を迂廻するとき、 彼女は名殘り惜しげに、マアロットの村と父の家とを振り返らずにはゐられなかつた。 彼處《あそこ》に住んでゐる弟妹は、自分が遠くに離れるやうになつても、また自分の笑顏が見られなくなつても、 少しも樂しみが減つたとは思はずに、大方これまで通りに毎日暮して行くことであらう。 二三日も經つたら、子供逹は別に自分が去つたからといつて少しも物足らなさなど感じないで、 何時ものやうに陽氣に、遊びに耽ることであらう。彼女は、かうして弟妹逹から離れて行くことが何よりもいゝことゝ考へて、 それを決行したのであつた。若し留つてゐたら、彼等は恐らく自分の訓誡を受けて悧巧になるよりも、 寧ろ自分の手本を見習つて惡い影響を受けるであらう。 ストアキャッスルへ着いたが、少しも休まずに其處を通り拔けて、本道に合する辻の方へどん〜歩いて行つた。 そこで待つてゐれば、西南の方へ通ふ運送屋の馬車を掴まへることが出來たのである。 鐵道は、この内地の周圍《まはり》を迂廻してはゐたが、まだ横斷してはゐなかつたからである。 ところが、其處で待つてゐる間に、 ほゞ彼女がこれから行かうとする方向に馬を驅つて彈條附荷馬車《スプリング・カアト》の乘つた一人の農夫がやつて來た。 彼女の全く知らない男であつたが、すゝめられるまゝに、 その動機が單に自分の容色の爲めばかりだといふことを氣にも留めないで、彼の傍に席に着いた。 その男は、ウエザアベリイへ行く途中だつたから、其處まで一緒に連れて行つて貰へば、後の道程《みちのり》は、 馬車に乘つてキャスタブリッヂへ廻らぬkても、徒歩で行けるのであつた。 この長い馬車旅が終ると、テスは、例の農夫が行けとすゝめてくれた一軒の百姓屋で、正午にちよつとした變梃な食事をしただけで、 それ以上ウエザベリイには停つてゐなかつた。彼女はバスケットを手に提げて、 今日の旅行の目的地であり終點でもある搾乳場のある前方の谷間の低い一帶の牧場と、 この邊とを仕切つてゐるヒースの茂ッた廣い高地へ向つて、歩いて行つた。 テスはこれまでに一度もこの地方へ來たことはなかつたが、それでも此處の風景に親しみを感ぜずにはゐられなかつた。 左手の方角の餘り遠くない處に、廣々とした眺めの中に黒い塊りを見分けることが出來たが、 恐らくこれはキングスビア -- その村の教會には、彼女の祖先 -- 今は何の要もない祖先の骨が埋つてゐる -- の附近を示す林であらうと想像しながら人に聞いてみると、全くそれに相違ないことが分つた。 彼女は今、もうその祖先を、少しも崇拜などしてゐなかつた。彼女を酷い目に會はした仕打ちに對して、 殆んど憎惡してゐる位ゐであつた。祖先の持つてゐた一切の財寶のうちで彼女が承け繼いだ品物といふのは、 たゞ古ぼけた印形と匙だけであつた。「馬鹿げてゐるわ -- 私は、お父さんからばかりでなく、 お母さんからだつて血を受けてゐるんだもの!」と彼女は言つた。「私の縹緻《きりやう》なんか、 みんなお母さんから受けてゐるんだわ、しかもお母さんは、ほんの搾乳女だつたぢやないの。」 其處まで來てみると、途中のエグドンの高地や低地を辿ることは、實際の距離は僅か二三哩に過ぎなかつたが、 思つたよりも骨が折れた。幾度となく道を間違つた爲めに、頂上に登りつめるまでには二時間もかゝつた。 その頂上からは、長い間待ち焦れてゐた谷間、牛乳や牛酪《バタ》が多過ぎる位ゐに出來て、 味は彼女の故郷のよりも劣つてゐるが多量に生産される『大搾乳場の盆地』 -- ヴァール河ともフルウム河とも言はれる河でよく灌漑された緑の平原を、一眸の中に收めることが出來た。 この土地は、トラントリッヂに滯在してあの不幸な目に會つた間を除けば、 彼女が今までに知つてゐた唯一の地『小搾乳場の盆地』即ちブラックムーアの谷間とは全く違つてゐた。 此處では、世界がずつと大規模に仕組まれて、圍ひ地も十エイカアどころではなく五十エイカアの廣さもあり、 建物附きの農場もずつと廣く、また牛の群にしても、彼方《あちら》の盆地では一家族ほどの數であるのに、 此處では一部落を形造つてゐるといふ風であつた。見渡す限り、 遙か東から西に亙つて散らばつてゐる幾頭と數へきれない程|夥《おびたゞ》しい牝牛の群を、 彼女は曾つて一目に收めたことがなかつた。緑の草原は、 ヴァン・アルスルウト(和蘭の畫家)やサラアト(同上)の畫には市民が一面に描かれてゐるやうに、 牛で一ぱいに斑點をつけられてゐた。赤や、焦茶色をした仔牛のぱつとした色が夕陽を吸ひ取るかと見れば、 純白の皮膚をした動物は、逆に夕陽の光を今彼女の立つてゐる高臺までも、 眩《まば》ゆいばかりの光にして網膜に照り返して來るのであつた。 今彼女の眼前に展《ひら》けてゐる鳥瞰圖のやうな眺望は、 或は彼女が親しく知つてゐる他の眺めほど華やかではないかも知れなかつたが、 ずつと晴れやかであつた。一方の谷が持つてゐる濃藍の空氣や、豐饒な地味や芳香には缺けてゐたが、 此處の空氣は、澄んで、爽かで、輕やかであつた。この名高い搾乳場の草を培《つちか》ひ乳牛を育てゝゐる河までも、 ブラックムーアの水流とは流れが違つてゐた。彼方《あちら》の流れはのろくてろくに音も立てず、 屡々濁ることがあつて、うつかりした徒歩者だつたら、 陷《はま》り込んで見えなくなつてしまふかも知れないやうな泥の川床の上を流れてゐた。 が、フルウムの流れは、福音者ヨハネに示された清い『生命の河』 (默示録第二十二章一節に、「天使生命の水と河を我に示せり。其水澄徹りて水晶の如し」とある) のやうに澄み徹り、雲の影のやうに早く、礫の淺瀬は一日中空に向つて片言を喋つてゐた。 水草にしても彼方《あちら》では百合の花が開き、此處では毛莨《うまのあしがた》が咲いた。 重い空氣のところから輕いところへと變つた爲めか、それとも、 全然不快な眼で自分を見る人のゐない新しい土地に來たと思ふせゐか、彼女は不思議なくらゐに元氣になつた。 柔かな南風に面《おもて》を向けて輕い足取りで進んで行くと、彼女の希望は日光と混り合つて、 理想の光球となり、身のまはりを圍繞《ゐねう》した。彼女は、微風の吹くごとに愉快な聲を聞き、 小鳥の囀る度に喜びがその中に潛んでゐるやうに思つた。 此頃の彼女の顏は、心持の變化につれて變つてゐた。陽氣な考へを抱いたり思ひに沈んだりするに連れて、 絶えず美しくもなれば平凡にも變るのであつた。薔薇色に冴え一點非の打ち處もない日があるかと思へば、 蒼白い悲痛な色を帶びる日もあつた。薔薇色に輝く時は、蒼白い顏をしてゐる時よりも感情の動きが少ないのであつた。 つまり、感情が興奮してゐなければゐないだけ完全な美しさを發揮し、 感情が緊張してゐればゐるだけその美しさを減ずるのであつた。 今、南風をまともに受けてゐる彼女の顏は、生理的に一番美しかつた。 貴賤を問はず、すべての人の生活に行き渡つてゐる快い悦樂を、 何處かで見附けようとする不可抗的な一般的なまた自發的な傾向は、 到頭テスの心を支配してしまつた。まだ精神的にも感情的にも發育しきらない二十歳の若い女に過ぎなかつたので、 どんな出來事にでも、時日が經過して猶ほ變らずにゐるやうな印象を彼女の上に殘すといふことは不可能であつた。 かうして、彼女の元氣と、感謝の念とその希望とは、だん〜高まつて行つた。 彼女は數種の小唄を口吟《くちずさ》んでみたが、この場合どれも不十分であることを知つた。 た到頭、彼女がまだ智慧の木の實を味はない以前に、日曜の朝など度々眼を通した詩篇を思ひ出して、歌つた -- 「おゝ汝等陽と月よ……お汝等星逹よ……汝等地上の緑なす草木よ……汝等空翔ける鳥よ…… 野の獸と家畜よ……人々の子等よ……汝等神を祝福せよ、神を頌《たゝ》へ、幾世變らず神を崇めよ!」 彼女は急に歌ふのを止めて、呟いた -- 「でも、私は多分まだ神樣をよく知らないんだわ。」 そして、恐らく半ば無意識に歌つたこの詩篇は、一神教を背景として拜物教を現はしたものであつたらう。 戸外の『自然』の樣々な形や力を主なる伴侶とする女は、後代の人々が教へ込まれた組織立つた宗教よりも、 遠い祖先から傳はつてゐる異教的な空想をずつと多くその魂の中に保つてゐる。兎に角テスは、 幼い時分から口にしてゐたこの古い頌辭に、少くとも自分の感情に近い表現を見出したのであつた。 それで十分だつた。自活の手段に向つて僅か一歩踏み出したといふやうなほんのちよつとした手始めの活動にさへ、 これほど高い滿足を感ずるのがダアビフィールド一家に傳はつてゐる氣質の一面であつた。 テスは實際誰に恥ぢることなく堂々と世を渡りたいと思つてゐたが、 父親はてんでそんなことを考へてもゐなかつた。が、當座の些細な成功に滿足したり、また、 一時世に時めきながら今はひどく惡い位置に立つてゐるダアバァヴィル家のやうな家ばかりが求められる、 つまらない世間的な榮逹を望んで骨を折らうなぞと思はない點で、彼女は父親によく似てゐた。 一時は彼女を酷く壓倒してしまつたあの經驗を嘗めた後に、 テスの年頃には當然な精力とがまだ費《つか》ひ盡されない母親の一族の活力とが、 再び燃え上つて來たのだとも言へよう。本當のことを言へば -- 女といふものは大概さういふ屈辱を切りぬけて、 元氣を囘復し、そして再び興味をもつた眼で周圍を見渡すものである。 生命あるところ必ず希望ありといふ事は、或る樂天家が私逹に信じさせようとしても、 容易に信じられないものではあるが、『裏切られたる者』に對しては、多少知られてゐる理論である。 やがてテス・ダアビフィールドは、勇み立ち、生に對して心からの興味を持つてだん〜エグドンの傾斜面を下り、 彼女の旅行の目的地である搾乳場の方へ向つた。 兩方の谷間の著しい相違は、今その最後の特長をはつきり現はして來た。ブラックムーアの祕密を發見するには、 その周圍の高地から眺めるのが一番よかつたが、今彼女の眼前に擴がつてゐる谷間を正しく味はうとするならば、 是非ともその眞中へ下りて行かなければならなかつた。テスがそれを目論んで下り切つてしまつた時、 彼女の體は、視線の屆く限り東西へ擴がつてゐる毛氈《カーペツト》を伸べたやうな平原に立つてゐた。 河は、高原地方からこのあたり一帶の平坦な地域の土砂を少しづゝ盜み取つては、 この盆地へ運んだのであつた。その河も、今では衰へて老境に逹し、痩せ細り、昔の掠奪物の眞中をうね〜と流れてゐた。 テスは方角をちつとも確かめないで、恰も無限に長い玉突臺の上に棲《とま》つてゐる一匹の蠅のやうに、 山に圍まれた廣々とした緑の平原に、ぽつねんと立つてゐた。 そしてその蠅と同じやうに、彼女が來てこの靜かな谷間に與へたたつた一つの影響は、 彼女の小徑から餘り遠くない處へ立ち、 頸を眞直に立てゝ彼女を見守つてゐる獨りぼつちの青鷺《あをさぎ》の心を亂した位ゐのことであつた。 突然、この低地の四方八方から、長く語尾を曵いて繰り返し繰り返し、こんな呼び聲が起つた -- 「わおう!わおう!わおう!」 この呼び聲は、東の端《はて》から西の端《はて》まで、恰も傳染するかのやうに擴がつた。 時折は、犬の吠え聲さへ混つて聞えた。それは、この谷間がテスの到着に氣づいて出した聲ではなく、 何時もの乳搾りの時刻 -- を搾乳場んお男逹が牛を追ひ込み始める四時半を -- 知らせたのであつた。 この合圖を氣長に待つてゐた手近な赤と白との牛の群は歩く度毎に大きな乳の袋を腹の下にぶらつかせながら、 背後の牛部屋の方へぞろ〜入つて行つた。テスはゆつくりとその後について、 彼等が彼女より先に通つて開け放しにして置いた門から中庭へ入つて行つた。 草葺《くさぶき》の家畜小屋は圍ひ地の周圍に長く連なり、その屋根の傾斜面は鮮かな緑の苔に覆はれ、檐《たるき》は、 昔から澤山の牝牛や犢《こうし》の横腹で擦《こす》られてぴか〜するほど滑らかになつた木の柱で支へられてゐたが、 今ではすつかり古くなつて殆んど想像もつかないほど顧みられなくなつてしまつた。 柱と柱との間には、乳牛が順の並べられ、若し醉狂な人が背後から眺めてゐたとすれば、 その一頭々々は、二本の軸の上に圓が乘つてゐて、 その眞中より少し下部と思はれるところに開閉噐が振子のやうに動いてゐると見えたに相違ない。 一方太陽は、このぢつとしてゐる列の背後に次第に沈みながら、壁の内側へ牝牛共の影法師をくつきりと投げた。 かうして、夕暮が來る毎に太陽は、各々の牛の姿に、恰もそれが宮殿の壁上んいある宮廷美人の横顏でゞもあるかのやうに、 行屆いた注意を拂ひながら、こんな世に顧みられない卑しいものゝ姿を寫すのであつた。 丁度太古に大理石の表面にオリンパス諸神の姿だとか、アレキサンダアだとか、 又はシイザアや古代埃及の國王逹の姿を寫したやうに、丹念に寫し出すのであつた。 仕切りの中へ繋がれたのは、餘りおとなしくない乳牛であつたが、 自分からおとなしくしてゐようとする乳牛は、中庭の眞中で乳を搾らせてゐた。 かういふ行儀のいゝ牝牛が、今そこに澤山立つて順番を待つてゐた -- 彼等はみんな最良の牝牛共で、 この谷間を出ては滅多に見られないし、この谷間のうちでも澤山あるやうな種類ではなかつた。 それは、一年中で最もいゝこの季節に、この濕潤な草地が供給する水分の多い食物に養はれた牛で、 純白の斑點のついてゐるのは眩しいほど輝かしく日光を反射し、そして角の上に附いてゐる磨きのかゝつた眞鍮の球は、 ぎら〜照り映えて、軍裝を偲ばせるものがあつた。太い脈の浮き上つてゐる乳房は、 砂嚢《すなぶくろ》でもあるかのやうに重さうに埀れ下り、 乳頭はジプシイの土噐についてゐる脚のやうに飛び出てゐた。 銘々の動物が、自分の順番の廻つて來るのを待つてゐる間も、乳は乳頭を滲み出し、 一滴二滴と地面へしたゝり落ちた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十七 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 牧場から乳牛が寄つて來ると、百姓家や搾乳場から乳搾りの男や女が集つて來た。 女たちは木靴を履いて歩いてゐたが、それは、天候の惡い爲めではなく、 中庭に敷いてある藁に靴が埋まらない爲めである。娘たちは銘々三脚の椅子へ腰掛けて、 顏を斜《はす》に右の頬を乳牛へ押し付け、その横腹に沿つて、考へ込んでゐるやうな風で、 近寄つて來るテスを見てゐた。男の乳搾りは、 縁《へり》の埀れた帽子を前額まで眼深《まぶか》に被つて地面を見詰めてゐたので、 彼女に氣がつかなかつた。 この中に一人の頑丈さうな中年の男がゐた -- 長い白い『胸掛』は、外の者の外被《うはつぱり》よりも幾分上等で綺麗だつたし、 下に着てゐる短衣《ジヤケツ》も人前に出しても恥かしくない品物のやうに見えた -- これがテスの探してゐる搾乳場主で、六日の間は乳搾りや牛酪《バタ》作りとして働き通し、 七日目には立派な黒羅紗の服を着込んで、教會の自分逹一家の席に現はれるといふ二重人格者で、 それが餘り際立つて目につくので、こんな歌まで出來てゐる位ゐであつた 六日の間は 牛乳屋のディック -- 日曜にやリチャード・クリック樣。 凝呼《ぢつ》と此方《こつち》を瞶《みつ》めて立つてゐるテスを見付けたので、 彼はその方へ近寄つて行つた。 乳搾りの男とうへば、大抵乳を搾つてゐる間は不機嫌なものであるが、 クリックはたま〜新しい人手が出來たのを喜んでゐたところだつた -- といふのも、 今が丁度|忙《せは》しい時期だつたから -- 。で親切に彼女を迎へ、母親や他の家族の安否などを尋ねた -- (勿論、これはほんの通り一遍の挨拶に過ぎなかつた。といふわけは、 テスのことに就いての簡單な用件の手紙の中で知らされるまでは、 ダアビフィールドの女房の存在などを彼は實際知らなかつたからである。) 「ふん -- さうか、わしも若い頃にはお前の地方をよく知つてゐたもんだよ。」 挨拶が終ると、彼はかう言つた。「その後はとんと行つた事もないがね。 もうずつと前に亡くなつたが、この近くに住むんでゐた九十ばかりの婆さんが、 こんな事をわしに話したことがあるぜ -- 今時の者は知るまいがね -- ブラックムーアの、何んでもお前のやうな名前の家は、元はこの邊から出たんだが、 今では絶えてしまつたも同じやうなあ古い一族があるつてね、だが、どうして〜、 わしァ婆さんの世迷言《よまひごと》などを取り上げはしないよ、するもんかね。」 「えゝ、さうですとも、つそれやつまらないことなんですもの。」とテスは言つた。 それから話は仕事のことだけになつた。 「綺麗に搾り切ることが出來るだらうね、お前?今どき牛にあがられちや困るからねえ。」 (乳をすつかり搾り切らないと牛はだん〜乳が出なくなるから困るの意) 彼女は、その點は大丈夫だと請合つた。そして彼は、テスを上から下までずつと見渡した。 可なり長い間家の中にばかりゐたので、彼女の膚《はだ》はこまやかになつてゐた。 「ところで、茶でも一杯やるか、また何か食べるものでも慾しいだらうね、えゝ? まだいゝつて?ぢや、好きなやうにしたがいゝ。がまあ、そんなに遠くからやつて來て、 わしだつたら、屹度、枯枝みたいに干乾《ひから》びてしまふところだらうぜ。」 「私、手馴らしに搾りはじめてみますわ。」と、テスは言つた。 彼女は間に合はせのお茶代りに牛乳を少しばかり飮んで主人のクリックを吃驚さした -- 實際微かに侮蔑の情を交へたほどであつた -- 彼は牛乳が飮料として結構なものだなぞと曾つて思つても見なかつた。 「あゝ、それが飮めるんなら結構だ。」彼女が啜つてゐる乳桶を支へてやりながら、 冷やかに彼は言つた。「わしは何年も口を觸れたこともないんだ -- 全くないよ。 こんなものどうにでもなれだ。わしが飮んだら、腹んなかで鉛みたいになつて溜つちまふだらうぜ。 試しに此奴《こいつ》を搾つて御覽。」一番近くにゐる乳牛を頤でしやくりながら、 彼は言葉を續けた。「何方《どつち》かつていふと此奴《こいつ》は出の惡い方なんだがね。 矢つ張り人間樣と同じやうに、出のいゝのと惡いのとあるんだよ。が、それもすぐに分らァね。」 テスは帽子を頭巾に被り替へ、愈々本當に乳牛の腹の下の三脚椅子の上に體を据ゑて、 牛乳が兩の拳から乳桶の中へ迸り落ちた時には、彼女は實際、 自分の將來に新しい基礎を据ゑたのだと感じてゐるやうに見えた。 この自信が落着きを生み、心臟の鼓動は靜まつたので、彼女は周圍を見廻すことが出來た。 乳搾り逹は、まるで男女から編成されてゐる小さな一大隊位ゐで、男逹は固い乳頸の乳牛を、 娘逹は從順な乳牛を手がけることになつてゐた。それはなか〜大規模な搾乳場だつた。 クリックの飼つてゐる乳牛は全體で百頭ほどもあつたが、そのうちの六七頭は、 家を留守にした時でもない限り、主人が自分でいつも搾つてゐた。 これが、中でも一番乳を出し澁る牛どもであつた。彼は、臨時雇ひといつた形の搾乳夫が、 無責任に、よく搾り切らないやうなことがあつては困るといふので、 この半|打《ダース》ほどの乳牛を任せようとはしなかつたし、 また搾る指力の足りない爲めに同じやうにやり損じてはといふ心配から、 娘逹の手にもかけなかつた -- こんな風に任して置けば、その結果だん〜是等の乳牛が『あがつて』しまふ -- 乳を出さなくなる -- かも知れないからである。いゝ加減の搾り方が大變なことになるわけは、 それが一時の損失であるばかりでなく、搾り方の鈍るにつれ自然乳の出方も鈍り、 しまひには全然杜絶えてしまふことになるからである。 テスが宛がはれた乳牛へ取り掛つてから、暫くの間、中庭には何の話し聲もしなかつた。 そして、こつちの牛に向きをかへろとか、あつちの牛に靜かに立つてゐろとかいふ時々の掛聲以外に、 澤山の乳桶の中へ噴き落ちる牛乳の音を亂す物音とてはなかつた。 動いてゐるものといつては、上げたり下したりする乳搾りの手と、 振り立てゝゐる乳牛の尻尾だけであつた。かうして一同は仕事を續けた。 この盆地の兩側の傾斜に伸びてゐる廣々とした變化の乏しい牧場 -- もう長い間忘れられ、 また明らかに現在形づくつてゐる景色とは非常に異つた性質の古い景色と混り合つて出來てゐる平坦な風景 -- を周圍に控へて。 「どうも、」丁度今搾り終へた乳牛から急に立ち上り、片手に三脚椅子を、も一方には乳桶を取り上げて、 近くにゐる次の厄介な乳牛へ移りながら、搾乳場主は言つた。「どうも、此奴等《こいつら》は、 今日は平常《いつも》のやうに乳を出さんやうだ。こんなに、ウィンカアの奴が乳を出し澁るやうになつて來ちや、 眞夏の頃までにや、彼奴《あいつ》の下へ潛《くゞ》るにや及ばなくなることだらう。」 「そりや、新しい者が入つて來たからさ、」とヂョナサン・ケイルが言つた。 「前にもこんなことがあつたのを俺ァ知つてるよ。」 「さうだ、さうかも知れねえ。そいつにや氣が付かなかつたな。」 「何んでもそんな時には、乳が角へ上つてしまふんだていふぢやないかね。」一人の女の乳搾りが言つた。 「さうさな、角へ上るつていふことは、」たとひ妖術でも、生理上の力をどうする譯にも行かないのではないかといつたやうに、 疑はしげな樣子で主人のクリックは答へた。「わしにや分らんな、確かに分らん。だが、 角のある奴と同じやうに角のない奴も出さねえことがあるんだから、それに全く贊成は出來んさ。角のない牛に就いて、 お前たちはあの謎が分るかい、ヂョナサンどうだ?一體、何故角のない牛は、角のある奴より、 一年中に出す乳の量が少ないのかね?」 「私に分るもんですか!」と乳搾りの女が遮つた。「一體、どういふわけなんでせう?」 「つまり、幾頭もゐねえからさ。」と主人は言つた。「それにしても、 この氣まぐれどもァ確かに今日は乳を出し澁つてるな。 さあみんな、一くさり二くさり歌つて貰はなくちやならねえぜ -- それよるほかに、どうも癒しようがねえから。」 この邊の搾乳場では、乳牛が平常《いつも》出すだけの乳を出し澁るやうな徴候を現はすと、 乳牛を誘惑する一策として、時々歌をうたふのであつた。そこで、この主人の求めに應じて、 乳搾りの一隊は一齊に歌ひ出した -- それは全く、どこまでも義務的な調子であつて、 自ら進んで大いに歌ふといふやうな風は更に見えなかつた。兎に角その結果、 彼等の信じてゐる處に從へば、たしかに歌の續いてゐる間は乳の出やうが違ふのであつた。 身のまはりに鬼火が見えるといふので、暗がりでは床へ入らうとしない、或る人殺しをうたつた陽氣な俗謠を、 彼等が十四五節歌つたとき、男の乳搾りの一人が言つた -- 「かうやつて屈み込んで歌つてゝ、息を切らしてしまはんけりやいゝがね! あんたの豎琴《ハアプ》を持つて來て下さるといゝんだに、旦那。 提琴ならお誂へ向きで、效果《きゝめ》があるんですけれどなあ。」 聽いてゐたテスは、この言葉が主人に向つて言はれたものと思つてゐたが、彼女の思ひ違ひであつた。 「どうしてだね?」といつた風の答へが、言はゞ、仕切りの中の焦茶色をした乳牛の腹の中から出て來た。 それは、その乳牛の背後にゐて、今彼女の氣のつかなかつた一人の乳搾りが言つたのであつた。 「おゝさうだ、提琴に敵《かな》ふものはないなあ。」と主人は言つた。 「尤も音色にや牝牛よりも牡牛の方が餘計動かされるらしいが -- 少なくとも、そいつはわしの經驗なんだ。 あの向うのメルストックに以前一人の年寄がゐてな -- ウィリアム・デュウイといふ名だつたが -- あつちで大分手廣くやつてゐた行商人の一家の一人なんだが、ヂョナサン、お前よく聽いてゐるかい? -- 言つて見れや、わしは自分の兄弟を知つてるくれえによくの年寄を知つてゐたんだ。 ところでこの男が、或る月のいゝ晩に、婚禮に招《よ》ばれて、提琴を彈いて聞かせ、 その歸りがけに近路をするつもりで、あすこのフィーテイ・エーカーズの原つぱを突つきつたもんだ。 するてえと、丁度そこに牡牛の奴めが草を喰ひに出てゐたつて譯さ。 ウィリアムをめつけた牡牛の奴は、どうだい、角を地面へつけたまゝ彼奴《あいつ》の後を追掛けるぢやねえか。 で、ウィリアムは出來るつたけ突つ走つたゞ。大して飮んでもゐなかつたが(婚禮の席で、 しかも暮し向きにいゝ人ばかりだつた割合ひにはなあ)、生垣の處まで駈けつけ、 それを乘り越えて安全に遁れる暇もねえといふことが分つたゞ。 そこでさ、若し苦し紛れに彼奴《あいつ》め不圖《ふと》思ひ付いてね、 遁げながらも提琴を取り出し、牛の方に向つて急調子《ジツグ》を彈きながら、 段々隅つこの方へ後退《あとしざ》りして行つたもんだ。すると牡牛の奴は靜かになり、ぢつと突つ立つて、 彈き續けてゐるウィリアム・デュウイをつく〜゛見詰めてゐたゞが、 やがてその顏に微笑のやうなものがこつそり浮かんで來るといふ始末だ。 が、ウィリアムが彈くのを止めて垣根を越さうとすると、牡牛の奴め、 早速笑ふのを止してウィリアムのズボンの臀の邊へ角を向けて行つたゞ。 で、ウィリアムは又向き直つて否應なしに彈き續けなくちやならなかつたんだ。 まだやつと三時になつたばかりだし、此處幾時間はこの邊へ人つ子一人やつて來ねえことも分つてたし、 腹ァひどく減り、疲れ切つてしまつたゞから、彼奴《あいつ》は、どうしていゝか途方に暮れたといふ譯さ。 かうしてかれこれ四時頃まで彈き鳴らしてゐたが、もう愈々續かなくなつたと思つてな、 獨言《ひとりごと》を言ひ出したもんだ。『俺とあの世の間には、この一曲が殘つてゐるきりだ! 神樣、どうかわつしを助けて下さい、さもねえと、わつしは死んでしめえますから。』つてね。 ところで彼奴《あいつ》は、降誕前夜祭《クリスマス・イーヴ》の夜更けに牛が跪くのを見たことを思ひ出したゞ。 その晩は降誕前夜祭ぢやなかつたゞが、牡牛を一つ瞞《だま》してやらうと思ひ付いた譯さ。 そこで、降誕祭の頌歌の時のやうに『降誕聖歌』を彈き出すてえと、どうだね、牡牛の奴、 何んにも知らねえで、本當に降誕前夜のその刻限でゞもあるやうに、膝を曲げてうづくまつてしまつたゞ。 この角の生えたもの共が膝を折るとウィリアムはくるりと向きを更《か》へて、 お祈りしてゐる牡牛が立ち上つてまた後を追つかけて來ねえうちに、足の早い獵犬のやうに生垣に獅噛《しが》みつき、 首尾よく向う側へ飛び降りたんだ。ウィリアムはよくかう言つたよ、 自分もこれまで阿呆な面《つら》をした人間を隨分見たもんだが、その牛の奴めが、 信心深い心につけ込まれただけのことで、 降誕前夜祭でも何でもねえつてことに氣づいた時の奴めの顏くれえ間拔けた面《つら》は見たことァねえ、つてな。 ……うんさうだ、ウィリアム・デュウイ、確かにあのお爺さんの名はさうだつた。たつた今でも、 わしはメルストックの墓場の中に、あの爺さんの埋まつてるところをきつかり知らして見せるよ -- 丁度二番目の水松《いちゐ》と北の側堂《アイル》との間にあるんだ。」 「變つた話ですね。それを聞いてゐると、中世紀へでも立ち戻つたやうな氣がしますよ。 その當時は信仰も生命を有つてゐましたからね!」 搾乳場の庭には不似合なこの言葉は、焦茶色の乳牛の背後から呟かれたのであつた。 だが、その意味を一人も諒解する者がゐないので、誰の注意をも惹きはしなかつた。 たゞ話をして來た主人が、自分のした物語が疑はしいと匂はされたのかも知れない位ゐに考へたゞけだつた。 「だが、どつちにしろ本當の話なんですぜ、旦那。わしはその男をよつく知つてゐたんでね。」 「無論、さうでせうとも、僕は疑つてはゐませんよ。」と焦茶色の乳牛の背後の人は言つた。 かうしてテスの注意は、主人の話相手に惹きつけられたが、 乳牛の横腹に何時までも頭を埋めてゐるので、ほんの一部分しか見ることが出來なかつた。 どういふわけで、この男は主人にまでも『旦那』呼ばはりをされるのか、彼女には分らなかつた。 が、一向にその説明になるやうな事情も見當らなかつた。彼は、どうも手際よく行かないのか、 時たま獨りで叫び聲を洩らしながら、優に三頭は搾れる位ゐの時間を、その一頭の乳牛の下から去らずにゐた。 「そろ〜やつて下せえよ、旦那、そろ〜ね、」と主人は言つた。 「こつだからね、力づくぢや駄目なんで。」 「僕もさう思ふんですがね。」と、その男は到頭立ち上つて、兩腕を伸ばしながら言つた。 「でも、此奴《こいつ》だけはどうにか濟んだやうだ。が、お蔭で指が痛くなつてしまつた。」 その時テスは初めて、その男の全身を見ることが出來た。 彼は、乳搾りが乳を搾る時につける普通の白い胸掛と革の脚絆《きやはん》とをつけて、 履いてゐる長靴には中庭に藁が一ぱい詰つてゐた。が、この土地の服裝と見られるのはこれだけであつた。 その下には、どうやら教育のありさうな、控へ目な、賢こさうな、打ち沈んだ、一般とは異つた特色があつた。 けれども彼女は、前に何處かで見たことのある人だとおふことに氣がつき、 その爲めに彼の容姿の細かい點なぞには心を留めてゐられなかつた。 あの時以來テスは、さま〜゛な變遷を經て來てゐるので、しばらくの間は、 何處でその人に會つたのか思ひ出せなかつた。が、やがて、マアロットの倶樂部の舞踏會に加はつた徒歩旅行者 -- 何處からやつて來たのか知らないが、彼女ではなく他の者と組んで踊り、素氣《すげ》なく彼女を取り殘したまゝ、 連れの者と一緒に立ち去つてしまつた通りすがりの人だつた、と始めて彼女の胸に浮んで來た。 例の不幸な事件より前に起つた一つの出來事がかうして心に甦つた爲めに、 いろ〜な思ひ出が溢れて來て、一時彼女の心は暗くなつた。といふのは、 萬一先方でも自分に氣がつき、ひよつとして自分の身に起つた事を知るやうなことがあつてはと恐れたからである。 その杞憂は直ぐ消え去つた。初めてのたつた一度の邂逅以來、彼の感じ易い面《おも》ざしは前よりも思慮深さうになり、 青年らしい形のいゝ口髭や頤鬚が立派に伸びて來た -- 頤鬚は頬の生え際あたりが薄い麥藁色をしてゐて、 根元から遠ざかるに從つて濃い鳶色を呈してゐるなぞといふことが、段々彼女に分つて來た。 彼は亞麻製の搾乳用胸衣の下に黒味勝ちの綿天鵝絨《めんびらうど》の短衣《ジヤケツ》を着、 畝織《うねおり》のズボンと脚絆を穿《は》き、糊のついた白|襯衣《シヤツ》を着てゐた。 乳搾りの支度をしてゐなければ、彼が何者であるか誰にも見當がつかないに相違ない。 一風變つた地主とも見えようし、また上品な百姓のやうにも見えたであらう。 彼が搾乳場の仕事にはまだほんの初心者に過ぎないといふことは、 一頭の乳牛を搾るのに費した時間から考へて、彼女にはすぐ分つた。 かうしてゐる間に、一方では、多くの搾乳女たちが、「何んて綺麗な女《ひと》でせう!」 と眞に大まかな賞《ほ》めるやうな氣持で、お互ひにこの新來の者を評し合つた。 尤も話し手の方では、聽き手逹がその言葉を割引して聞いてくれゝばよいと半ば望みながら言つたのだつた -- 嚴密に言ふと、綺麗といふことは、テスの人眼を惹く點を的確に説明する定義とはならないのだから、 彼等は或は割引して聞いたかも知れなかつた。その夕方になつて乳搾りが終ると、 一同はごた〜と屋内へ入つて行つた。其處では主人の妻君 -- 物體振つて自分では乳搾りにも出ず、 乳搾りの女逹が更紗を着てゐるからといつて、この暖かい天氣に暑苦しい羅紗の上衣を着てゐた -- が、鑵《くわん》やその他のものに眼を配つてゐた。 自分の他には、ほんの二三人の乳搾りの女しか、この搾乳場に寢泊まりしてゐないことをテスは知つた。 手傳人は大抵銘々その家へ歸るのであつた。主人の物語に批評を加へた高級な乳搾りの男は、 夕食の時に影さへ見せなかつたし、彼女もまた寢るまでの間、寢室で自分の場所を片付けるのに費してしまつたので、 彼のことを訊いても見なかつた。寢室は牛乳庫の階上《うへ》の長さ三十|呎《フイート》もある大きな部屋で、 他の三人の住込みの乳搾り女が使ふ寢臺も同じ部屋に据ゑてあつた。 何れも皆年頃の若い女逹であつたが、一人を除いては、テスより年長だつた。床へ入る頃は、 すつかり疲れてゐたので、テスはすぐ眠りに落ちてしまつた。 だが、隣り合つた寢臺に寢てゐる娘の中の一人は、テス程には睡氣を催してゐなかつたので、 テスが住み込んだばかりのこの農場について、最近の樣々な細かい事柄を述べ立てたがつた。 その娘の囁くやうな言葉は、いろ〜な影と混り合つて、テスの朦朧とした心には、 その言葉の漂つてゐる闇の中から生れて來るものでゞもあるかのやうに思はれた。 「エンヂェル・クレアさんね -- あの乳搾りを習つてゐる豎琴《ハアプ》を彈く方さ -- あの方は、私逹にはあんまり口をきいたこともないの。あの方は牧師さんの息子さんで、 一人で考へ込んでいらつしやるもんだから、若い娘なんかにかまつてゐられないんだわね。 旦那のお弟子なの -- 農業の事ならどんなことでも習つてゐるんだよ。 もう他處《よそ》で羊飼ひを習つていらつしやつて、今度は乳搾りを覺え込まうつてんだわ。 ……さうよ、立派なお生れの方でね。お父樣はエミンスタア -- 此處から何十哩つてある -- のクレアつて仰しやる方だわ。」 「さう -- 私、その方のことなら、聞いたことがあるわ。」一人の朋輩が今目を覺して言つた。 「大變に御熱心な牧師さんだつていふ話だわね?」 「さうよ -- その方さうなのよ -- ウェセックス中で一番御熱心な方だつてことよ -- 何でも古い低教會派《ロウ・チヤーチ》の最後の方だつて皆が言つてるわ -- この近所では皆|高教會派《ハイ・チヤーチ》とかいふ派だけれどね。 このクレアさんの他は、その息子さん逹も皆矢張り牧師さんになつてゐるさうですよ。」 その時にテスは、今のクレアさんも兄弟逹同樣に何故牧師にされなかつたのか、 と訊ねてみるだけの好竒心を持たなかつた。そして、隣りの乾酪《チーズ》部屋から匂つて來る乾酪の香と、 階下の除水噐から滴《た》れ落ちる調子づいた乳水の音と一緒に、 その話し手の言葉を聞きながら、彼女は再び段々眠りに落ちて行つた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十八 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- エンヂェル・クレアは、はつきりした姿となつてゞはないが、氣持のよい聲や、 ぢつと据ゑて放心したやうに何時までもものを見詰めてゐる眼や、また表情の豐かな、 男としては餘りに小さくしなやかすぎる位ゐの口元(だが時々不意に下唇を固く結ぶので、 彼が優柔不斷な男であるとは思へない)などによつて、過去から浮び上つて來る。 それにもかゝはらず、彼の態度やものを見詰める目付は、何となく薄ぼんやりして、 他に氣をとられてゐるやうで、はき〜してゐなかつたから、 未來の物質的方面には一定の目論見も感心もない人間のやうに見せた。 だが世間の人は、彼がやれば何でも出來るに相違ない有爲な青年であると噂してゐた。 彼はこの州の向う端《はづ》れにつゝましやかな暮しをしてゐる牧師の末子であつて、 幾箇所か他の農園をめぐつた後、六ヶ月間タルボセイズ搾乳場に弟子入りをしたのであつた。 彼の目的とするところは、農業に關するさま〜゛な實際的な技術を覺えて、 後には都合次第で植民地で活動するか、さもなければ國内で農園を持ちたいといふ事であつた。 彼が農夫や牧羊者の階級へ入つた事は、當人も他の人も曾つて豫想しなかつた境遇へ踏み出したその第一歩であつた。 老クレア師は女兒を一人殘して最初の夫人に死なれ、晩年になつて二度目の夫人と結婚した。 ところが案外にもこの婦人は三人の男子を設けたので、末子のエンヂェルと父親の牧師との年齡の間には、 殆んど一代だけ拔けた位ゐの差があつた。三人の息子の中でも、 彼が老年になつてから生れたこのエンヂェルだけは大學の學位を取らなかつたが、しかもその幼年時代にも、 兄弟の中でも、彼が大學の訓育を十分に發揮することの出來るたゞ一人と思はれてゐた。 エンヂェルがマアロット村の例の舞踏會へ姿を見せる二三年程前のことで、 彼が學校を出て自宅で研究を續けてゐた或る日、ヂェイムズ・クレア師宛に、 土地の書店から牧師官舎へ一つの小包みが屆いた。牧師はその小包みを解くと一册の本が入つてゐたので、 二三頁讀んでみたが忽ち席から跳び上り、その本を脇の下に抱へて眞直に書店へ出掛けて行つた。 「どうしてこの本を私の家へ送つて來たのですか?」 「御註文でしたから、旦那。」 「私からではない。また幸ひにも、私の家の誰でもない。」 店主は註文帳を調べて見た。 「あゝ、屆け先を間違ひました、旦那。」と彼は言つた。「エンヂェル・クレアさんからの御註文で、 あの方へお屆けすべきだつたのです。」 クレア師はすつかり打ち碎かれたやうに縮み上つた。彼は蒼白《まつさを》になり、 悄氣《しよげ》返つて我家《うち》へ歸り、エンヂェルを自分の書齋へ呼んだ。 「お前、この本を御覽、」と彼は言つた。「これに何か覺えがあるかね?」 「僕が註文しました。」とエンヂェルは卒直に答へた。 「何の爲めに?」 「讀まうと思つてゞす。」 「どうしてそれを讀まうなぞと思ひついたのか?」 「どうしてゞすつて?だつて -- これは哲學書です、世に出てゐる本の中でも、 これ位ゐ道義的な、宗教的でさへもある本はありません。」 「さうだ、十分道義的ではある。それを否定はしない。しかし、宗教的だつて! -- しかも福音の傳道師たるべきこのお前にとつて!」 「お父さんがその問題に觸れたのを機會に、お父さん、」とその顏に氣遣はしげな色を浮べて息子は言つた。 「僕はきつぱり申し上げて置きたいと思ひます。僕は牧師の職には就きたくないのです。 僕は本心から進んで牧師になることは出來ないと思ふのです。 僕は親を愛すると同じやうに教會を愛します。將來も教會に對しては常に最も温かい愛情を抱いて行くでせう。 教會の歴史に對して持つてゐるほど深い景慕の情を寄せてゐる制度は他にありません。 しかし、教會が到底維持し難い贖罪主義の拜神説から脱しない限りは、兄さん逹のやうに、 僕は眞面目に教會の牧師となることは出來ないのです。」 骨肉を分けた子供の一人がこんなことにならうとは、眞正直の淳樸《じゆんぼく》な牧師にとつては、 全く思ひも寄らないことであつた!彼は氣を失ひ、度膽《どぎも》を拔かれ、なすところを知らなかつた。 エンヂェルが教會へ入らないとすれば、彼を劍橋《ケンブリツヂ》大學へ送つて何にならう? この頑固な思想の持主にとつては、聖職を得る爲め以外の踏段として修める大學は、 本文のない序文にも等しかつた。彼は單なる宗教家ではなく、實直な敬神家であり、また健實な信徒 -- 現今この文句を教會内外の神的山師逹が、自分逹の身に都合よく解釋するのとは違つて、 福音派の解する昔の熱心な意味でいふのである -- であつた。また、 一千八百年の昔 永遠にして聖なる人の 思ひしことを 今も猶ほ思ふ…… ことの出來る一人であつた。 エンヂェルの父親は、議論したり、説得したり、歎願したりして見た。 「駄目です、お父さん、僕はあの第四箇條(他のものはどうでもよいとして)を、 告示書が要求するやうに『文字通りあのまゝの意味に』解釋して、守ることは出來ません。 從つて、現在の状態では僕が牧師となる譯には行かないのです。」とエンヂェルは言つた。 「宗教の問題に就いて、私の僞らない心は、全然これを改造するといふ事にあるのです。 お父さんのお好きな希伯來《ヘブライ》使徒行傳に例を引くと、 『造られたるものが示す如く、搖らるゝものゝ取り去らるゝは、搖られざるものゝ殘らんが爲めなり。』です。」 父親は深い悲嘆に暮れたので、エンヂェルは彼を見るに堪へられなかつた。 「神の名譽と光榮の爲めに使はれるものでないならば、お前に大學の教育を授ける爲めに、 お前の母と私とが費用を節し身を切詰めても何の效があらう?」と父親は繰返した。 「だつて、人間の名譽と光榮の爲めに役立つやうにする爲めぢやありませんか、お父さん。」 若しエンヂェルが何處までも主張したら、兄逹のやうに劍橋《ケンブリツヂ》大學へ行けたかも知れなかつた。 しかし、學校を聖職者に就く爲めの踏臺とのみ觀るこの牧師の考へ方は、 全く一家の傳統であつて、この觀念は彼の心の中に深く根を張つてゐた。 だから感じ易い息子にとつて、我執を通すといふことは信頼を濫用する意志に近いやうに思はれ、 また、既に父親が仄かしたやうに、三人の青年にこの一樣な教育を施さうとする爲めには、 以前と同じやうに今日も非常な節儉を行はなければならない信心深いこの家の兩親に對して、 誤つた考へのやうに思はれ出して來た。 「僕、劍橋へは行かなくともかまひません、」と遂にエンヂェルは言つた。 「さういふ事情では、彼處《あすこ》へ行くだけの權利を僕は持つてゐないやうに思ひます。」 この決定的な討議の結果は、間もなく現はれかけて來た。彼は雜駁な研究や畫策や瞑想に幾年も〜費やした。 そして社會上の形式とか慣習とかに可なり無頓着になりかけてゐた。 身分とか富のやうな物質的な榮逹を益々賤しめるやうになつた。 『善き舊家』(近頃沒した或る地方の名士の好んで用ゐた句を使へば)さへ、 その家を代表する人々の中に立派な新しい決意を見出すことが出來ない限り、 彼にとつては何等の匂《かを》りもないものであつた。かうした峻嚴な批判に對する均衡上、 世の中が如何なるものかを見、また智識的な職業か實業に就かうと考へて倫敦に出て行つたとき、 彼よりはずつと年長の一人の女の爲めに、すつかり心を奪はれ、 危くその係蹄《わな》にかゝらうとしたが、幸ひにもその手をのがれて、 大して惡くもない經驗を得ることになつた。 幼い頃靜寂な田園に親しんでゐたことは、近代の都會生活に對して、 抑へきれない、また殆んど馬鹿氣てゐる嫌惡の情を彼の心に培つた。 その爲めに、聖職について行けない代りに、何か世俗的な職業にたづさはつたら、 或は逹せられるかも知れないやうな成功なぞを全然斷念するやうになつた。 しかし彼は、何かしらしなければならなかつた。彼は、多くの貴重な年月を浪費したのである。 そこで、植民地の農業家として今發展してゐる一人の知人があつたので、 それこそ自分の行くべき正當な途を指し示す指針であらう、と彼は思ひ附いた。 植民地であらうが、亞米利加であらうが、或は國内であらうが、この農業こそ -- 兎に角丹念に修業して、この仕事に對する十分な資格を得た後で從事するとしたら、 この農業こそ -- 恐らく、豐かな資産以上に彼の尊んでゐるもの -- 智識上の自由 -- を犧牲にすることなく獨立生活の出來る職業であらう、と彼は考へた。 かうして二十六歳のエンヂェル・クレアは、乳牛の研究者として、 このタルボセイズにゐることになり、また附近に氣持のいゝ下宿を得ることが出來なかつたので、 搾乳場主人の寄宿人となつたのである。 彼の部屋は、搾乳場の屋敷の全體に亙つた廣い屋根裏だつた。 此處へは、乾酪《チーズ》部屋から僅かに梯子を傳つて昇れるだけで、 彼がやつて來て自分の部屋を選ぶまでは、長い間閉め切つた儘になつてゐたのだつた。 このクレアの部屋はゆつくりしてゐたので、家中が寢てしまつた後、 部屋の中を歩き廻つてゐる彼の足音を、この搾乳場の人逹は度々聞かされるのであつた。 部屋の一部分をカーテンで仕切り、その背後に彼の寢臺を置き、その外は質素な居間らしい設備がしてあつた。 住み込んだ當座は、全然二階にばかり住まつてゐて、可なりの時間を讀書に耽つたり、 糶市《せりいち》で買つた古い豎琴《ハアプ》を掻き鳴らしたりしてゐたが、時には皮肉な氣分になつて、 何時か街頭に立つてこれを頼りに糊口《くちすぎ》して行かなければならないかも知れないなぞと言つたりした。 しかし彼は間もなく食事のときは、主人夫妻や乳搾りの男女と一緒に階下の臺所で一緒に食べばがら、 人情を汲み取ることを好むやうになつた。其處では、この家に寢泊りしてゐる者は僅かだつたが、 食事の時だけは他の數人が加はつたから、賑やかな團欒《まどゐ》をつくるのであつた。 クレアは此處に長く住めば住むほど自分の仲間を嫌ふ氣持はなくなり、 彼等と一緒に住むことを益々好むやうになつて來た。 自分にも餘りに思ひ掛けないことであつたが、實際彼等と友逹附合ひをしてゐることに心からの喜びを味つた。 彼の空想の中にある在來の農夫は -- 『田夫』として通つてゐる憐れむべき野人と看做されてゐる -- 二三日住んでゐるうちに、その痕跡がすつかり無くなつてしまつた。近くに接してみれば、 一人の『田夫』も見えなかつた。最初今とは反對の社會から拔け出たばかりの頃のクレアの頭で考へたら、 確かに今寢食を共にしてゐるかういふ友逹は、幾分竒妙に見えたに相違ない。 搾乳場主一家の者と同等の一人として席に列《つら》なることは、始めは不見識なやり方のやうに思はれた。 彼等の考へも、生活樣式も、そして周圍も、退歩的なまた無意味なものゝやうに思はれた。 が、其處に住んでゐる間に、この敏感な寄寓者は、日毎にこの光景の中にある新しい樣相《すがた》に感づくやうになつた。 何も眼に見える變化が現はれた譯ではないが、雜多が單調に代つて變化が生れたのだつた。 主人とその家族、その雇人の男女逹の事が親しくクレアに分つて來るにつれ、 恰も化學的變化が行はれてゐるかのやうに、彼等はそれ〜゛獨りでに區別を顯はして來た。 パスカルの次の思想は彼はなるほどと思つた -- 『智ある者ほど獨自性ある人間を發見す。 凡俗の徒は人間間にに區別を見ず。』概念的な千遍一律な『田夫』は存在しなくなつた。 『田夫』は分れて無數のそれ〜゛異つた人間と代つた -- 多樣な心を持つた者、無限の變化を有する者 -- 或る者は幸福に、多くのものは平穩に、僅かなものは陰鬱に、何處かに天才の名に價するまでの叡知を現はす者もあり、 魯鈍な者もあり、奔放な者もあり、謹嚴な者もあり、或は默したミルトンのやうな者もあり、 實力上ではクロムウェルのやうな力を持つた者があり、また彼が友人に對する時と同じやうに、 お互に相手に對してそれ〜゛の見方を持つてゐる人々や、お互に稱讚したり非難したり、 或はお互の弱點や邪惡を考へて面白がつたり悲しんだりすることの出來る人々や、 皆それ〜゛の途を辿り、死して塵となる人々 -- と代つたのであつた。 自分の企てた生活とどういふ關係があるかは別として、思ひがけなくも、 彼はたゞ野外生活そのものゝ爲めとそれが與へるものゝ爲めに、その生活を好むやうになつた。 彼のやうな家柄にも似ず、彼は、慈悲の神に對する信仰の衰頽すると共に、 文明人種を囚《とりこ》にする慢性憂鬱性から、不思議にも脱するやうになつたのであつた。 彼が知りたいと思つてゐた二三の農業に關する入門書は、僅かの時間で讀みきることが出來たから、 智識を詰め込むつもりもなしに、近年になく、心の向くまゝに、靜かに讀書をすることが出來た。 彼は次第に古い聯想から離れて、生活と人間性とのうちに何か新しいものを見た。 次に彼は、以前には曖昧にしか見えなかつた樣々な自然現象 -- それ〜゛の氣分を持つた季節、 朝夕、晝夜、それ〜゛の氣風の異つた風、樹木、川や霧、日蔭や沈默、または、無生物の種々な聲 -- に委《くは》しく通ずるやうになつた。 早朝は、皆が朝食をするこの廣い室では、まだ焚火が懷しい位ゐに寒かつた。 また彼を皆と一緒のテーブルで食事するには上品過ぎるといふクリックの妻君の意見で、 食事の間は、皿附茶碗や皿は傍の蝶番《てふつが》ひ止めの棚へ載せ、 大きく口を開いてゐる壁爐の傍に掛けるのが、エンヂェル・クレアの習慣であつた。 その眞向うの長い廣い窓仕切りのある窓から片隅の彼の席に光線が射し込んで來るし、 その上煙突を傳つて降りて來る冷たい青味がゝつた中繼ぎの光もあるので、 彼は氣の向いた時には何時でも、其處で樂に讀書することが出來た。 クレアと窓との間にはテーブルがあつて、仲間の者が其處に掛けてゐた。 彼等のもぐ〜物を食べてゐる横顏は、窓硝子を背景にして、くつきりと浮き上つて見えた。 また一方の側には牛乳庫へ通ずる戸口があつて、それを通して、 朝の牛乳で縁まで溢れてゐる長方形の鑵がずらりと並んでゐるのが見えた。 そのずつと先の方には、大きな攪乳噐の廻轉してゐるのが見え、ぽちや〜乳の搖れ動く音も聞えた -- その動力機は窓から見ると、まるで一人の少年に逐はれて、 圓形を描きながら歩いてゐる元氣のない馬のやうな恰好であつた。 テスがやつて來てからの數日間は、 クレアは手元に郵送されて屆いたばかりの書物や雜誌や樂譜に夢中になつて讀み耽つてゐたので、 彼女が食事の席にゐる事には殆んど氣が附かなかつた。 彼女は一向口數を利かなかつたのに他の娘たちが盛んに喋り立てるので、 彼はこの饒舌の中に新しい調子の混つてゐることに注意しなかつた。 それに、全體の印象を重んじて、外界の個々の特色を等閑にするのが彼の癖だつた。 けれども或る日のこと、樂譜の一つを讀みながら想像を働かせて、 頭の中でその調子に聞きとれてゐると、いつか夢心持に誘はれて、樂譜を爐の傍に落した。 朝餐の料理や煮焚《にた》きの役をすました後なので、臨終の舞踏といつた風に、 一條の焔が薪の端の方で、爪先舞踏《つまさきダンス》のやうになつて燃えてゐるのを彼は見つめてゐた。 それは彼の胸の中の調子に合はせて舞つてゐるやうに思はれた。 また坐鐡、一名横棒からぶらさがつてゐる二個の自在鉤を見詰めてゐると、 その横棒についてゐる煤《すゝ》がこの同じ調子に合せて顫動してゐるやうに思はれた。 また半分空になつた湯沸しを見ると、これは泣聲で伴奏の役をつとめてゐた。 食卓の會話は、彼の幻想に描いてゐる管絃樂と絡み合つてゐたが、やがて彼はかう思つた -- 『乳搾りの女逹のうちの一人は何と美しい肉聲を持つてゐることだらう!新手の者の聲らしい。』 クレアは他の者逹と一緒に掛けてゐる彼女を見遣つた。 彼女は彼の方を見てはゐなかつた。實際、彼が長い間靜かにしてゐた爲めに、 この室内に彼がゐるといふことは殆んど忘れられてゐた。 「私、優麗のことは知りません、」と彼女は話してゐた。「けれども、私逹が生きてゐる間でも、 自分の魂を體の外へ拔け出させることが出來るつてことは知つてゐます。」 主人は、口一杯頬張つたまゝ、さも訝《いぶか》しさうな眼付をして、彼女の方を向いた。 絞首臺の準備に取り掛つた時のやうに、大形の肉刀《フオーク》と肉叉《にくさし》 (こゝらでは朝食にも肉食をするので)とを食卓の上へ突き立てゝゐた。 「何だつて -- 今でもそんな事が?さうかねえ、お前?」と彼は言つた。 「魂が拔け出すのを容易《たやす》く知る道は、」とテスは言葉を續けた。 「夜、草原の上に寢轉んで、どれか大きな光る星を眞直ぐに見上げるんです。 そしてぢつとその方へ心を向けてゐると、自分が何百哩も何百哩も遠くへ體から拔け出して來てゐるのに氣が附き、 體などはもう要らないやうになるんです。」 主人はぢつと瞶《みつ》めてゐた視線をテスからそらして、自分の妻の方へ移した。 「さあ、そいつは變梃《へんてこ》なことだなあ、クリスチャーアナ(クリックの女房の愛稱)どうだい? わしや三十年この方、女を口説いたり、商賣をしたり、醫者を迎へに行つたり、 看護婦を頼みに行つたりして、星夜の晩に幾哩も歩いたが、今が今までそんなことァちつとも考へたこともなし、 わしの魂が襯衣《シヤツ》の襟からちよつとでも離れたなんて思つたこともねえんだからなあ。」 主人に弟子入りしてゐる男まで一緒になり、皆の注意が自分一人に向けられたので、 テスは顏を赧らめ、これはほんの氣のせゐだと辨解して、再び食事に取りかゝつた。 クレアはぢつと彼女を見つゝけてゐた。彼女は程なく食事を濟ましたが、 クレアが自分を瞶《みつ》めてゐると知つて、見られてゐると氣づいた家畜のやうな窮屈さを感じながら、 テーブル・クロスの上に食指で、勝手な模樣を描き始めた。 「あの乳搾り娘は何といふ生々した、清らかな『自然』の娘だらう!」と彼は獨言《ひとりごと》をいつた。 それから彼は彼女の中に、今のやうに一々物を考へて天國まで灰色にしてしまふやうな事のなかつた以前の、 樂しい未來の事などを考へなかつた過去へ彼を連れ戻す親しみ易い何物かを認めたやうであつた。 何處かは分らないが、前に一度彼女を見たことがある、と結論を下した。 何處か田舍を歩き廻つてゐた間に、偶然會つてゐるには相違なかつたが、 それを彼は大して知りたがりもしなかつた。しかし、この事情は若し彼が近くにゐる女性を考へようとする時は、 他の綺麗な乳搾りの女はさし置いても、テスを選《よ》り出させるだけの力は持つてゐた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:十九 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 大抵、乳牛は寄つて來次第に、乳搾りに對して選り好みなく搾られるのであつた。 だが、乳牛によつては、特に或る乳搾りの兩手に對して好みを示し、 時としてはその氣入りの者に對してゞなければ全然立つてゐようとせず、 見知らぬ者の乳桶だと、手荒く蹴返してしまふほどの偏愛を嵩《かう》じさせることもある。 絶えず搾り手を代へて、かういふ偏頗《へんぱ》な癖や毛嫌ひを飽くまでも打ち破らうとするのが、 搾乳場主クリックの主義であつた。といふのは、さうしないと、萬一男でも女でも、 乳搾りの一人が暇を取つて行くやうな場合には、後で自分が困つてしまふからであつた。 だが、女連の竊《ひそ》かに望んでゐることは、主人の主義とは全く正反對で、 扱ひ慣れて來た八頭なり十頭なりの乳牛を、銘々の女が毎日選ばうといふのであつた。かうすると、 乳牛は進んで乳房から牛乳を出してくれるので、驚くばかり容易に骨も折れずに仕事が出來るからであつた。 テスも同輩と同樣に、どの乳牛が自分の扱ひ振りを特に好んでゐるかを間もなく知つた。 そして、この二三年間、時々は自分から進んで長く家に引き籠つてゐた爲め、 彼女の指は華奢になつてゐたから、この點で、乳牛の氣に入るのをどんなにか喜んだことであらう。 全體で九十五頭ゐる中で、特に八頭 -- ダムプリング、フアンシイ、ロフテイ、ミスト、 オールド・プリッティ、ヤング・プリッティ、ティディ及びラウド -- は、 ちよつと指を觸れさへすれば、もうそれで彼女の仕事は濟んでしまふ位ゐ安々と彼女のいふことをきいた。 尤も、そのうち一二頭の乳首は、胡蘿蔔《にんじん》のやうに堅かつた。しかし、主人の希望を知つてゐるので、 彼女はまだ自分の手に合はないやうな、乳を出し澁る牛を除いては、寄つて來るまゝに、 どの牛でも本心から手掛けるやうに心掛けてゐた。 しかし彼女は程なく、表面偶然のやうに見える乳牛の並ぶ位置と、この點に關する彼女の希望との間に、 不思議な一致のあることを發見し、やがてはその並ぶ順序が決して偶然ではないやうに感ぜられて來た。 搾乳場主のあのお弟子は、この頃、乳牛を並べるのにちよい〜手を貸してくれた。 そして五囘目か六囘目の時、乳牛に寄り掛りながら、彼女はさも訝《いぶか》し氣な視線を彼に向けた。 「クレアさん、あなたが牛をお並べになつたのですね!」と顏を赧らめながら、彼女は言つた。 そしてかう咎め立てするやうに言ひながらも、思はず微笑みかけ、下唇はぢつと元のまゝであるが、 靜かに上唇が上つて、齒並の尖端が現はれた。 「さうです。だが、どうだつて好いぢやありませんか。」と彼は言つた。 「君はいつでも、此處へ搾りに來るでせうね。」 「さうお思ひですの?是非、さう出來ればいゝんですけれど!が、私、分りません。」 彼が、自分のこの離れた場所を好む眞面目な理由を知らず、自分の今までの所爲を感違ひしてゐらのではないかと思ふと、 彼女は後になつて我ながら腹が立つた。彼女は、非常に熱心になつて彼に言つたからである。 恰も彼の居合すといふことが、彼女の望みの一部でゞもあるかのやうに。 このことがひどく氣になつて、暮方に乳搾りが濟むと、彼女は獨りで庭の中を歩き廻り、 彼の考へを見拔いたことを、うつかり彼に洩らしてしまつたのを後悔しつゞけた。 六月のよくある夏の宵であつた。大氣は隅から隅まで穩かで、飽くまでも澄みきつてゐたから、 無生物までが、五官全部でないまでも、二つか三つの官能を授けられでもしてゐるやうに見えた。 遠近の區別がつかないで、耳を澄まして聽き入つてゐると、地平線内の萬物悉くと接觸してゐるやうに感ぜられた。 この靜けさは、單に騷音がないといふ感じよりも、寧ろ活動的な一つの實體となつて、 彼女の心に響いた。その沈默は、絃《いと》を掻き鳴らす音で破られた。 テスは頭上の屋根裏でこんな音のするのを聞いたことがあつた。 それは閉ぢ込められた中から聞えて來たので、幽《かす》かに、低く、抑へつけられたやうな音で、 今聽くやうに靜かな空氣の中を、裸體のやうな、ありのまゝの音色《ねいろ》で彼女の心に訴へたのではなかつた。 嚴密に言ふと、樂噐も彈奏も共に貧弱ではあつたが、どんなものでも周圍の關係で一切きまるのだから、 今聽き入つてゐるテスも、まるで魅了された鳥のやうに、その場を去ることが出來なかつた。 去るどころではなく、自分がゐるのを氣付かれないやうにと、何處までも生垣の背後に沿うて、 彼女は彈奏者の方へ近寄つて行つた。 テスが今入つてゐる庭の外廓は、もう何年も耕されずにうつちやつてあつたので、 今ではじめ〜して、ちよつと觸れてさへ花粉の煙を擧げる水氣の多い草や、 惡臭を發する花の咲き亂れた丈《せい》の高い雜草 -- 赤や黄や紫やとり〜゛の色が、 栽培した花のやうな映《まば》ゆい多樣な色彩を描いてゐる雜草が、一ぱいに蔓《はびこ》つてゐた。 彼女は下袴《スカート》に蟲の泡をつけたり、足下の蝸牛を踏み潰したり、 薊《あざみ》の乳汁や蛞蝓《なめくじ》の粘液で手を汚したり、 林檎の幹にゐるときは眞白でも彼女の皮膚には皮膚には血のやうに赤い痕《あと》を殘すねば〜した[虫|牙;#2-87-34]蟲《あぶらむし》を腕から拂ひ落したりしながら、 この雜草の茂みの中を猫のやうにこつそり進んで行つた。かうして彼女はまだ先方からは氣付かれずに、 クレアの直ぐ側へ近寄つた。 テスは、時間も場所も忘れてゐた。曾つて彼女が話した事のある、星を眺めてゐると意の儘に生じて來る心の法悦状態が、 今は意識を働かせないでも自然とやつて來た。彼女は古物の提琴のか弱い調子にも心を躍らせ、 その諧音は恰も微風のやうに彼女の體を吹きぬけて、自づと眼に涙を誘ふのであつた。 あたりに飛び散つてゐる花粉は、彼の彈く調べが形に現はれたもの、また庭の濕氣は、 庭が悲んで啜り泣いてゐる樣子のやうに思はれた。もう日も暮れかゝつてゐるのに、 惡臭を放つてゐる雜草の花は、一心の餘り、どうしても閉ぢたくないとでもいふやうに輝いてゐた。 そして色の波は音の波と混り合つた。 今なほ消えずに輝いてゐる光は、西の方に棚引いてゐる雲の大きな裂け目から主に洩れて來るのであつた。 あたりは何處も宵闇の包まれてしまつたので、その光だけが、偶然取り殘された晝の一片でゞもあるかのやうに見えた。 彼は、大して腕に要らない、極めて簡單なその物哀しい調べを終つた。 そこで、彼女は別の曲が始まるのかと待つてゐrた。しかし彼は彈奏に飽きて、 當てどもなく垣根を一廻りして、ぶら〜彼女の背後の方へやつて來た。 テスは顏を火のやうにほてらせながら、動いたか動かないか分らないやうに、こつそり退いた。 だがエンヂェルは、彼女の輕い夏服に眼をとめて、話しかけた。少し離れてはゐたが、 その低い聲の調子は聞き取れた。 「どうしてそんなに逃げるんです、テス?」と彼は言つた。「怖いのですか?」 「いゝえ、さうぢやないんです……戸外《そと》のものなんか怖ろしいことはありませんわ。 殊に今は怖くありません。林檎の花は落ちてるし、何も彼も皆《みんな》青々してゐるんですもの。」 「だが心の中に何か怖いものがあるのですね。 -- えゝ?」 「えゝ -- さうなんです。」 「何が怖いのです?」 「はつきり言へませんわ。」 「牛乳が饐《す》ゑることが?」 「いゝえ。」 「ぼんやりとこの世の中のことが?」 「さうですの。」 「あゝ -- 僕もちよい〜そんな氣持になりますよ。かうやつてぐづ〜生きてゐる事が、たまらなくなつてね。 君はさう思ひませんか?」 「その通りです -- さう仰しやられてみると。」 「それにしても、君位ゐな若い女が、今からそんな風に考へようとは思はなかつた。一體どうした理由《わけ》なんです?」 彼女は躊躇《ためら》つて默つてゐた。 「さあ、テス、僕を信じて打ち明けて下さい。」 物の象《すがた》が彼女にはどう見えるかといふやうな意味で尋ねられたと思つたので、 含羞《はにか》みながらこんな風に答へた -- 「立樹は何か訊ねたさうな眼付をしてゐるんぢやありませんか? -- つまり、そんな眼付をしてゐるやうに見えるんです。又河はかう言つてゐます -- 『あなた逹は、何故そんな顏付をして私を惱ますのか?』つて。それからまた、明日といふ日が、 いくつも〜一列に並び、その最初のが一番大きくはつきりしてゐて、他のは遠く離れるに從つて、 次第に小さくなつて行くやうに見えるけれど、どれもkれもひどく恐ろしさうで、殘忍で、 『さあ行くぞ!私に氣をつけろ!私に氣をつけろ!』つて言つてゐるやうに思はれるんですの。 ……だけどあなたは音樂で美しい夢をかき起して、こんな怖ひ考へをみんな追ひ拂つてしまふことが出來るんですわね!」 彼は、この年若い女 -- ほんの乳搾りの女に過ぎないけれど、 屋敷内の仲間の者から羨まれさうなちよつと珍らしい氣質を有つてゐる -- がこんなもの悲しい空想を描くのを見て、全く意外な氣がした。 彼女は自分流儀の言葉で -- 僅かに初等教育の助けをかりて -- 殆んど現代の感情といつてもいゝ位ゐな感情 -- 近代主義の惱み -- を言ひ現はしてゐた。だが、所謂進歩した思想といふものも、 實は大抵、世の中の男女が幾世紀もの間漠然と抱いて來た感情を、 最近流行の解釋に從つて定義し -- 『……學《ロジイ》』とか、『……主義《イズム》』とかの述語を使つて、 一層正確に表現したものに過ぎないと思ひ到つた時には、この發見も大して彼を捉へはしなかつた。 それにしても、まだこれ程の若さで、こんな感情を懷くやうになつたといふ事は不思議だつた、 不思議以上でもあつた。感銘の深い、興味のある、又痛ましいことでもあつた。 その原因が分らなかつた爲めに、經驗の有無は生活が緊張してゐるかゐないかで決まるので、 その長さによるものではにといふことを彼に思ひつかす手掛りは更になかつた。 テスのこの一時表面に現はれた憂鬱病こそ、彼女が精神上に得た經驗の收穫であつた。 一方テスは、彼のやうな牧師の家に生れ、立派な教育も受け、その上物質上の何の不自由もない身分で、 生きてゐる事を何故不幸と思ふのか、その理由が分らなかつた。この自分のやうな不幸な人生の巡禮者にこそ、 十二分の理由がある。が、この立派な詩人肌の人が、どうして、『忍辱の谷』へ身を貶《おと》し、 ウヅの人(ヨブのこと。彼はすべての難儀に會つても常に神意の正しきを知つて忍耐した)のやうに -- 彼女自身が二三年前に感じた如く -- 『我が魂は生くるより頸絞められ殺さるゝを懌ぶ。我は生を嫌ふ、 我必ずしも生くるを願はず。』と感ずることが出來たのであらうか。 今では、彼が自分の階級を離れてゐるといふことは事實であつた。が、それは單に、 造船所にゐたピイタア大帝のやうに、彼が知りたいと思つてゐることを習つてゐるからに過ぎないことを、 彼女は承知してゐた。乳搾りをしなければならない必要に迫られてしてゐる譯ではなくて、 富裕な隆盛な搾乳場の主となり地主となり、 農業家となり家畜の飼育者とならんが爲めの術を習はうとしてかうやつてゐるのであつた。 王樣のやうに、自分の羊の群や牛の群や斑點のあるものや斑入《まだらい》りの家畜や男女の召使に號令しつゝ、 彼は亞米利加とか濠州とかのアブラハムとなる事だらう。さうは思ひながらも折に觸れてはまた、 本當に讀書好きな音樂好きな思索的なこの青年が、どうしてわざ〜農夫などにならうと思ひ立ち、 父親や兄逹のやうに聖職に就かうとはしないのか、彼女には分らないやうに思はれた。 かうして雙方ともに、お互ひの祕密を解く手がゝりもなく、 二人はそれ〜゛相手が表面に現はしてゐるものを解くことも出來ず、 敢へてお互ひの履歴を窺《うかゞ》はうとするのでもなく、 たゞ相手の性格や氣質を新しく分るときの來るのを待つてゐた。   毎日毎時のやうに、彼には彼女の性質が少しづゝ分り、彼女は彼の性質を幾らかづゝ知るやうになつた。 テスは出來るだけ、生活を抑制しようと努めてゐたが、自分の中にある活力のことには少しも氣がつかなかつた。 最初のうちテスは、エンヂェル・クレアを一人の人と見るよりも、寧ろ一つの靈智として見てゐたやうだつた。 彼女は彼をさういふものと考へた上で、自分と比較してみた。そして相手の豐富な智識の優れた點を見出し、 又取るに足らぬ自分の精神的の立場とアンデス山の高さにも比すべき測り知れぬ相手の態度との距離を見出す毎に、 彼女は全く意氣も挫《くじ》け、彼女自身としては、この上何の努力をする元氣もなくなつてしまふのであつた。 古代希臘の牧羊生活に就いて偶々《たま〜》彼女に何か説明した或る日のこと、彼は彼女が元氣のないのに氣付いた。 彼が話してゐる間、彼女は土堤《どて》から『殿さま姫さま』(野生海。芋のこと)といふ名の蕾を摘んでゐたのであつた。 「どうして急にそんな悲しさうな樣子をするのです?」と、彼は訊いた。 「あら、たゞ -- 自分だけのことなんです。」と、氣紛れに一つの『姫さま』の方を剥ぎ始めながら、 悲しさうな元氣のない笑聲を洩らして、彼女は言つた。「自分も運がよかつたら、 どんな風になつてゐたらうと一寸思つて見ただけなんです! 私の生涯は機會《をり》を惠まれてゐなかつた爲めに無駄になつてしまつたやうなものです。 あなたが御承知のことや、あなたがお讀みになつたことや、御覽になつたことや、 お考へになつたことを伺ふと、私、何んて自分が詰らないものに思へる事でせう! 私、聖書にあるあの氣の毒なシイバの女王(列王記略上、第十章五節に、「全く其氣を奪はれたり」とあるに依る) のやうなんです。私にはもう起つ勇氣もないのです。」 「おや〜、そんなことをくよ〜思ふものぢやありませんよ!ね、」とやゝ熱心に彼は言つた。 「僕は、君の力になれたら、どんなに嬉しいのだか知れないんだからね、テス。 歴史のことでも、君が讀みたいと思ふ本ならどんなことでも -- 」 「また『姫さま』ですよ。」剥いだ蕾を突き出しながら、彼女はかう言つて話の腰を折つた。 「何んですつて?」 「剥がうとすると、いつでも殿さまよりも、姫さまの方が澤山あるつて事をいふつもりでしたの。」 「姫さま殿さまなどはどうだつていゝ。君は何か勉強するつもりはありませんか -- 例へば、歴史といつたやうなものを?」 「私、折々、歴史についてなら、これまでに知つてゐる以上に、何も知りたくないやうに思ひますの。」 「どうしてゞす?」 「だつて、自分はたゞ長い一列の中にゐる一人の人間に過ぎないのだ、つてことを知つたところで -- 或る古い本の中に、そつくり私そのまゝの人間が記してあるのを見つけたり、 自分は今後たゞその人のした事をするだけだ、つてことを知つたところで、何の役に立ちませう。 自分が悲しくなるだけのことなんです。自分の性質も自分が過去にしたことも、 みんな幾千萬の人がしたことゝそつくり同じであるとか、 自分のこれからの生活や爲《す》ることがまた幾千萬の人々のと同じだなんていふことは、 思ひ出さないのが一番いゝんです。」 「それぢや本當に君は何にも習ひたくないんですね?」 「私、こんなことなら習つてもいゝんですの -- 何故お日樣は、 正しい者も正しくない者も同じやうに照らすかつていふことなら、」と彼女は答へたが、 そお聲は微かに顫へを帶びてゐた。「けれど、それこそ本の教へてくれないことですもの。」 「テス、そんな皮肉は言はないで下さい!」無論彼は、ほんのありふれた、義務的な心からかう言つただけだつた。 といふのは、さういふ種類の疑問は、彼の過去にも覺えのなことではなかつたから。 そして、彼女の初心《うぶ》な口元を見てゐると、このやうな教育のない處女《をとめ》だから、 こんな意味をたゞ聞き覺えに覺えただけなにだらう、と彼には思へた。 遂にクレアは、俯向《うつむ》いてゐる彼女の睫毛《まつげ》が波のやうな曲線を描いて柔かい頬の上へ埀れてゐるのを、 暫らくの間見入つてゐた後、未練あり氣に去つて行つた。 彼女は殿さま姫さまを何時までも剥ぎ續けてゐたので、彼がゐなくなると、彼女は考へ深さうに最後の蕾を剥ぎながら、 しばらく立つてゐた。それから急に幻想から覺め、つく〜゛自分の愚さをひどく不愉快に思ひ、 心の底には激しい興奮を感じながら、最後に剥いでゐたのも、今まで集めた無數の高貴な花と一緒に、 皆地面へ投《はふ》り付けてしまつた。 彼は自分を如何にも愚かなものと思ふに相違ない!どうしても彼からはよく思はれたいといふ望みが募つて來た結果、 この頃忘れようと努めてゐた -- 曾つては非常に不快な結果を生んだ事のある -- あの騎士《ナイト》のダアバァヴィル家と彼女等一家とが全然一つのものである、といふ事に彼女は思ひ到つた。 それは役にも立たない性質のものであつたが、またそれが見つかると彼女にいろ〜の災難を蒙らせたけれど、 若し彼がキングスビアにあるパアベック大理石や雪化石膏で刻んである人逹が、 實際に彼女の正統の先祖逹を現はしてゐることや、 金と野心で出來上つてゐるトラントリッヂの贋《にせ》ダアバァヴィルの人逹のやうにではなく、 骨の髓までも正眞正銘のダアバァヴィルであるといふことを知つたなら、 恐らくクレアは紳士として歴史家として、十分に彼女を尊敬し、『殿さま姫さま』を弄んだ子供じみた仕草も、 さつぱり忘れてくれるだらうと、彼女は考へた。 だがまだ迷つてゐたテスは、思ひきつてそのことを明かす前に、クレアさんに對してどれほどの效果があるかを、 間接に搾乳場の主人から探つて見ようとして、金も領地も悉く失つてしまつた地方の舊家に對しても、 猶ほクレアはかなり尊敬を有つてくれるかどうか訊ねてみた。 「クレアさんは、」と力を入れて主人は言つた。「これまでに見たこともないほど叛抗心の強い若者だよ -- あの一家の人逹にはちつとも似ないんだ。それで、世に何よりもあの人の嫌ひなものがあるとすれば、 それは舊家つていふものだ。舊家つていふやつは、これまでにすつかり働く活力《ちから》を使ひ盡しちやつて、 今ではもう何んにも殘つてゐなのが、當り前だとあの人は言つてゐるんだ。ビレット家とか、 ドレンカアド家とか、グレイ家とか、聖《セント》クィンチン家とか、ハーディ家とか、 グールド家とかがあつて、みんなこの盆地に幾哩にも亙つて領地を有つてゐたものだが、 もう今では古い小唄一つの代價で、そんな家柄なんか殘らず買ひ上げることが出來る位ゐなんだ。 あの、我家《うち》のレッティ・プリッドルだつて、あれでパリデル家の一族なんだ、 -- 今ではウェセックス伯爵の所有《もの》になつてゐるキングス・ヒントックの町端《まちはづ》れの地所を、 當の伯爵もまたその一族も、まだ少しもその名前も知らない前から、 しこたま持ち込んでゐた舊家のさ。それでクレアさんがこのことを知ると、 幾日も〜頭から輕蔑するやうに、あの娘にものを言ふんだ。 『あゝ!君は到底いゝ乳搾り女にはなれないよ!君の手腕は何代か前に、 パレスタインで使ひ盡されてしまつたんだ。この上仕事する力を出すには、 千年も休んで待つてゐなくちやなるまい!』つて、あの人があの娘に言ふんだ。先逹つても一人の小僧が仕事を探しに來て、 名はマットだといふので、苗字を尋ねると、姓なんかあるつてことを聞いたことがないつて言ふんだ。 どうしてだと訊くと、自分等一家はこの世に立つてから幾らも日が經つてゐないからだらうつて言ふんだ。 すると、『あゝ!君こそ僕の求める少年だ!』跳び上つて、その小僧と握手をしながら、クレアさんは言つたもんだ。 『君には非常な希望を持つてゐる』そしてその子に半クラウン遣つたんだよ。いや、どうしてどうして、 あの人には舊家なんて我慢出來ないんだ!」 このクレアの意見をこんな風に滑稽化して話すのを聞いた後で、いぢらしくもテスは、 心の弱くなつた折に、自分の家柄のことを一言も洩らさなかつた事を喜んだ -- たとひ彼女一家が世にも珍らしいほど舊くて、殆んど一廻りしてしまつて新しい一家となつてゐる位ゐであるにしても。 それに、そんな點から言へばも一人の乳搾り女も、彼女と變りはないやうだつた。 彼女はダアバァヴィル家の廟所や、その名を彼女も襲用してゐる征服王|麾下《きか》の騎士のことに就いて、 彼女は口を噤《つぐ》んでしまつた。彼女は今深くクレアの人物を洞察したので、 彼が自分に興味を持つてゐるのも、主に自分が傳統を持たない新しい者と思はれてゐるからだと、 いふ事に氣がついた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 季節は進み、そして熟した。又しても花や、葉や、鶯《うぐいす》や、鶫《つぐみ》や、鷽《うそ》や、 その他こんな種類の短命な生物は、僅か一年前にはまだほんの芽生《めばえ》や無機物に過ぎなかつたのだが、 この年になると、一代前のものが占めてゐた位置に改めてありついた。 日の出の光は、若芽が誘ひ出して、これを長い莖に伸ばしてやり、樹液の流れを音もなく上にあげ、 花瓣を開かせ、見えない放射と呼吸のうちに香氣を吸ひ出すのであつた。 搾乳場の主人クリックの下にある男女の一家族は、安樂に、穩かに、その上陽氣に日を送つてゐた。 彼等の身分は恐らく、社會のありとあらゆる身分の中でも一番仕合せであつたらう。 貧困がこゝで無くなるといふ所に引かれてゐる線の上に出てゐたし、又こゝより上へ出れば、 禮儀作法が自然の感情を妨げ始め、 くだらない流行を追ふ爲めに足るものも足らなくなるといふ所に引かれる線の下にもゐたからである。 かうして戸外では、只管《ひたすら》繁茂することばかり目がけてゐるやうに見えた青葉の季節は過ぎた。 テスとクレアとは、無意識のうちにお互に心を探り合つて、 見たところ極めて冷靜を保つてゐるやうでありながら何時も危い情熱を湧き立たせる瀬戸際まで行つては、 踏み止まるのであつた。かうしてゐるうちにも、二人は一つ谿谷《たに》を流れる二つの川のやうに間違ひなく、 不可抗的な法則に支配されて、一つに合する路を辿つてゐたのである。 テスは近頃の生活の中で、今ほど幸福なことはなかつたし、 又恐らく二度とこんな幸福を味ふことはないであらう。それには色々な理由もあるが、 第一に肉體的にも精神的にも、彼女はかうして新しい環境にぴつたり適してゐたからである。 蒔かれたときと同じ場所で、有毒な地層に屆くまで根を張つた若木が、 それよりもつと深い土壤のある所へ移し植ゑられたのである。 それに彼女は(クレアもまた)今のところでは、他人よりも少し好きだといふのか、 それとも眞に戀しく思つてゐるのか、どちらとも分らない所に立つてゐた。 別に深みへはまるでもなく、自分の心の中を反省してみるでもなく、怯々《おづ〜》とかう考へて見るだけであつた。 『この新しい潮流《ながれ》は、一體何處へ自分を連れて行くつもりなのだらう? 自分の將來に對して、それは何を意味するのだらう?自分の過去に對して、それはどんな關係に立つのだらう?』 テスは、まだ今のところ、エンヂェル・クレアに取つて、ほんの偶然に起つた現象 -- 彼の意識の裡《うち》で今やつと續きさうになりかけた薔薇色の懷しい幻影 -- でしかなかつた。だから、彼は出來るだけ彼女のことに思ひ耽つた。そしてそんな風に思ひ耽ることが、 取りもなほさず非常に珍らしい新鮮な興味のある女性の典型に對する哲學者らしい態度であると思つた。 二人は絶えず會つた。會はないではゐられなかつたのである。 彼等は毎日、紫色や薄桃色に染つた曉方、朝の仄《ほの》かな光の中で、 あの不思議な嚴肅な時刻に會つてゐた。といふのは、この家では早起きを、 大變早起きをしなければならなかつたからである。乳搾りは早朝にすます仕事になつてゐたし、 その前には、乳泡掬《クリームすく》ひがあつて、それは三時を少し過ぎると始まつた。 皆の中の誰かが、最初に目覺し時計で眼を醒ますと、きまつて他の者を起す役目を務めた。 そしてテスは、新參者ではあつたし、他の者のやうにベルの鳴るのも知らずに眠り通すやうな女では屹度ないといふことを、 直ぐ彼等は知つたので、この仕事は一番多く彼女に被《き》せられた。 三時が打つてぢり〜と目覺し時計のベルが鳴り出すや否や、彼女は部屋を出て主人の戸口へ走りつけ、 それから梯子を上つてエンヂェルの部屋へ行き、囁き聲を張り上げて彼を呼び、 それから仲間の乳搾りの女たちを起すのであつた。テスの身支度が濟む頃には、クレアは階下へおりて、 濕々《じめ〜》した外氣の中へ出てゐた。あとの乳搾り女や主人は、平常《いつも》もう一度寢返りを打ち、 十五分程後でないと姿を見せなかつた。 夜明け方の濃淡相半ばした灰色は、夕暮の濃淡相半ばした灰色とは違つてゐる。尤も、 陰翳の程度は何《いづ》れも同じかも知れない。朝の薄明では、光は溌剌として見え、 闇は引つ込み思案に見える。夕暮の薄明では、闇が溌剌として大きく擴がり、反對に光が睡《ねむ》たさうである。 幾度となく -- いつも偶然とばかりは言へないかも知れないが -- この搾乳場で、 眞先に起きるのは二人であるから、二人は自分等だけが全世界で眞先に起きる者のやうに思つた。 此處へ住み込んでからも暫らくは、テスは乳泡掬《クリームすく》ひをしないで、 起きると直ぐに戸外へ出て行つた。彼は大抵其處で彼女の來るのを待つてゐた。 廣々とした牧場に行き亙つてゐる朦朧としたまだ澄みきらない水氣を含んだ光は、 恰も二人がアダムとイヴでゞもあるかのやうに、世の中から離れたやうな感じを彼等に深く抱かせた。 このぼんやりした一日の幕あきの時刻には、テスが、クレアにとつては氣質も肉體も、 二つながら素晴らしい立派さを、殆んど女王のやうな力を現はしてゐるやうに思はれた。 これは多分、こんな異常な時刻に、彼女ほど縹緻《きりやう》の好い女が、 彼の眼の屆く限りでは、野外を歩いてなぞゐまい、全英國を通じても幾人とはゐまいといふことを知つてゐたからであらう。 美人は概して眞夏の明け方は眠つてゐる。しかも彼女はすぐ手近にゐたし、 他のものは何處にもゐなかつた。 光のまじつた薄氣味惡い仄明《ほのあか》るい薄闇の中を、二人が乳牛のゐる場所へ一緒に歩いて行くと、 彼はをり〜周圍を取り卷く薄闇から、耶蘇復活の時刻を思ひ出した。彼は、マグダラのマリア (クリストの復活の時墓に來た女)が自分の傍にゐるようなぞとは、夢にも思つてゐなかつた。 すべてあたりの風景は、ぼやけた色をしてゐるのに、彼の眼の焦點となつてゐた相手の顏は、 霧の層から浮き上つて、それに一種燐のやうな光を帶びてゐるやうに思はれた。彼女は、幽靈のやうに、 いはゞ肉體を離れた魂だけであるかのやうに見えた。實際に彼女の顏は、 殊更さうしようとする樣子はないが、東北から來る冷たい日の光を浴びてゐた。また彼の顏にしても、 自分ではそれと氣がつかなかつたが、彼女には同じ表情を帶びてゐるものゝやうに見えた。 前にも言つたやうに、彼女が彼に一番深い感動を與へたのはその時だつた。彼女は、 もう乳搾りの女ではなく、幻になつた女の精であつた -- 全女性の結晶した一つの典型的な形態《かたち》であつた。 彼は彼女をアルテミス(希臘神話に出てゐる牧畜の女神)だの、デメタア(同じく神話中の農業の女神)だの、 その他架空的な名前でからかひ半分に呼んだが、意味が分らなかつたから、彼女はさういふ風に呼ばれるのを好まなかつた。 「テスと呼んで下さい。」と彼女は横目で彼を見ながら、よく言つた。で、彼はその通りにした。 やがて、邊《あた》りはだん〜に明るくなつて、彼女の容貌は、もうたゞの女になつて來た。 それは人に祝福を與へることの出來る女神の容貌から、神に祝福を希《ねが》ふ人間の容貌に變つたのである。 かういふ人氣《ひとけ》のない時刻なので、二人は水鳥のすぐ傍まで近寄ることが出來た。 青鷺が、扉や鎧戸を開けでもするやうな、大きな消魂《けたゝ》ましい羽音を立て、 二人がよく通る草原の側にある植林の枝から飛び出した。若しまた既に水中に下り立つてゐる時だと、 人形が彈條《ばね》仕掛けで動くやうな具合に、靜かに、平らに、冷靜に、頸を廻して、傍を通つて行く二人を眺めながら、 水中の位置をやつと保つてゐるのであつた。 二人は、やがてまた羊毛のやうな、平らな、見たところ上掛けほどの厚味を持つた幾重にも重なり合つてゐる薄い夏の霧が、 小さなちぎれ〜の形となつて、牧場の彼方此方に擴がつて行くのを見ることも出來た。 灰色に濕つた草の上には、乳牛が夜通し寢てゐた跡が殘つてゐた -- それは一面の露の海原の中にある、彼等の體ほどの大きさの、乾いた草の暗緑色の島であつた。 各々の島から、蛇のやうにうね〜した足で踏みつけた、路が出てゐた。 乳牛は起きてから草を喰べにその道をのそ〜歩いて來たのであつて、 丁度その路の盡きる處に二人は乳牛を見出した。乳牛が、彼等に氣が附いて鼻を鳴らしながら息を吐き出すと、 一面に立ち籠めてゐる霧の中に、更に自分等が作つた一層濃い僅かな霧が生じた。 それから二人は、乳牛を圍ひ地の中へ追ひ戻すか、また都合によつてはその場で早速乳搾りに取りかゝるかした。 或は又、恐らくは、夏の霧がもつと一面に立ち籠めて、牧場は白い海のやうになり、 その中から、散らばつてゐる立樹が暗礁のやうに突つ立つてゐることもあつたらう。 小鳥はその中を翔け拔けて、上空の明るいところへと舞ひ上り、日光浴をしながら宙に浮いてゐるか、 又は牧場を仕切つてゐる今は硝子棒のやうに輝いてゐるが、 濡れた手摺の上へ棲《とま》るかする。霧の濕氣が凝《こ》つて出來た細かなダイヤモンドの珠は、 テスの睫毛《まつげ》へもとまり、頭髮には、小粒の眞珠のとなつてかゝつた。 日光が全く強くなり普通の明るさになると、そのダイヤモンドも雫も彼女から乾き去つてしまつた。 それのみかテスは、やがて不思議な、靈妙な美しさをも失《な》くしてしまひ、 その齒も、唇も、眼も、日光に輝き、そして彼女は、再び世間の他の女たちを向うに廻して、 自分自身の地歩を保つて行かなければならない、たゞの美しい乳搾りの娘となつてしまふのであつた。 丁度この時刻になると、來かたが遲いと言つて、通勤の乳搾りに叱言《こゞと》を言つたり、 手を洗はないからと言つて、老婆のデボ−ラ・ファイアンダアを嚴しく叱りつけてゐる主人のクリックの聲を、 二人はよく聞いた。 「後生だから、ちよつと喞筒《ポンプ》の下へ手を出してくれよ、デッブ! 倫敦の人が、お前のことや、その無精さ加減を知つた日にや、もう屹度それだけでも、 牛乳を飮むことも、牛酪《バタ》を食ふことも、これまでよりやずつと控へ目にするに違えねえぞ。 それこそ大變なこつたからな。」 乳搾りの仕事は進んで、やがてその終る頃になると、テスとクレアも他の者と同樣に、 重い食事の食卓がクリックの妻君の手で臺所の壁のところから引き出されるのを聞く事が出來た。 之は何時の食事にもきまつて起る前知らせである。又これと同じあわたゞしい引摺る音は、 食噐類を片付けてしまつて、食卓を元へ戻す時にも伴ふのであつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 朝飯が濟んだかと思ふと、直ぐに、牛乳庫では大變な騷ぎが持ち上つた。 攪乳噐は何時もの通り廻轉してゐたが、牛酪《バタ》は一向に出て來なかつた。 かういふことがあると、搾乳場は何時でも間誤《まご》ついてしまふのだつた。 牛乳は、大きな圓錐筒の中でしゆつ〜と音を立てゝゐたが、皆の待ち設けてゐる音はさつぱり起つて來なかつた。 主人夫婦や、乳搾りの女逹ではテス、マリアン、レッティ・プリッドル、イズ・ヒュウエットや、 それに百姓家から來る女房たちや、またクレア、ヂョナサン・ケイル、老婆のデボーラ、 更に他の人たちも一緒になつて、攪乳噐を眺めながら弱りきつた樣子で立つてゐた。 戸外で馬を追つてゐた少年は、月のやうな眼をしてこの場合に相應しい感情を現はした。 陰氣な馬でさへも一廻りして來る毎に、訝《いぶか》しさうな絶望的な樣子で、 窓の中を覗き込んで行くやうに思はれた。 「わしがエグドンの呪禁師《まじなひし》のトレンドルの倅ん處へ行つてから、もう何年も經つなあ -- 何年にもなる!」と主人は哀れつぽい調子で言つた。「彼奴《あいつ》ァ、あの親爺に較べりや、 とても追つゝかなかつた。わしやあんな男を信用しねえつて、わしがこれまでに言つたとすりや、 たしかに五十度は言つてるだ。今だつて信用なんかしちやゐねえよ。だが、若し彼奴《あいつ》が生きてゐりや、 矢つ張り彼奴の處へ行かなきやならねえ。さうだとも、こんなことがいつまでも續くやうぢや、 行かなきやならねえとも!」 主人が躍起になつてゐる樣子を見てゐると、クレアまで悲しくなり出した。 「みんなが『ワイルド・オー』つて言つてゐるキャスタブリッヂの向側の呪禁師《まじなひし》フォールね、 彼奴《あいつ》ァわしが子供の時分にやとても上手だつたんですぜ。」 とヂョナサン・ケイルは言つた。「だが、今ぢや引火木《ほくち》みてえに腐つちやつてまさあ。」 「わしの祖父さんは、アウルスコムんお呪禁師《まじなひし》ミンタアンのところへよく行つたもんだが、 何でも祖父さんの話ぢや、賢い人らしかつた、」と、クリックは言葉を續けた。 「だが今ぢや、この邊にそんなえれえ人ァ一人だつてゐやしねえ!」 クリックの妻君は、もつと手近なことを考へてゐた。 「誰か此家《こゝ》で惚れ合つてゐる者があるのかも知れないよ、」と彼女は探るやうに言つた。 「それが因《もと》でこんあになるつて話を、子供の時分に聞かされたことがあるから。 ねえ、クリック -- 何年か前に我家《うち》にゐたあの娘のことを、あんた憶えてゐますか、あの時、 どうして牛酪《バタ》が出なくなつたかつてことを -- 」 「あゝ、さう〜! -- だが、ありやそのせゐぢやねえよ。色戀沙汰とそれとは何の關りもねえこつた。 あの事ァ何から何まで憶えてる -- ありや攪乳噐に故障が起つたからだつたよ。」 彼はクレアの方へ向いた。 「ジヤック・ドロップつていふ父《てゝ》なし子の野郎を、ひと頃、 搾り手に我家《うち》で雇つてたことがあつたんですがね、其奴《そいつ》が、旦那、 向うのメルストックの若え女《あま》つ子に言ひ寄りましてな、これまで幾人となく女を欺《だま》した調子で、 その女《あま》つ子、も欺《だま》して捨てちやつたんでさあ。ところが、彼奴《あいつ》ァ、 今度は勝手の違ふ女を相手にしなきやならなくなつたちふ譯さね。で、當の女《あま》つ子ぢやねえんですよ。 一年中の日のうちでも、選《よ》りに選つて、どうです、基督昇天の木曜に、わしたちが、 今見てえに矢つ張り此處にゐますとな、尤も攪乳だけはやつてませんでしたが、 かうやつてると、丁度そん時、牡牛だつてぶつ仆《たふ》れさうなでつかい眞鍮の飾りのついた雨傘を持つて、 その女《あま》つ子のお袋が『ジャック・ドロップがお宅さまで働いてゐませうか? -- 實はあの男に用があるんですけれど!私やあの男に、うんと掛け合はなきやならないことがあるんです。 ほんとにあるんですよ!』つて言ひながら扉口《とぐち》の方へやつて來ましてなあ。 また、お袋の背後《うしろ》から少し離れてジヤックの相手の娘が、 ハンケチに顏を埋めて悲しさうに泣きながら歩いて來るつて騷ぎです。 『失策《しま》つた、さあ事だ!あの女はわつしを殺すんだらう!何處へ逃げたもんだらう -- 何處へ -- ? わつしのゐる處をあの女に言はないで下さい!』つて、ジヤックの奴は、窓から二人の姿を見るてえと、 かう言つたんです。さう言ひながら、奴は攪乳噐へ這ひ上つて、揚げ蓋を開けてそん中へ入《はえ》り込み、 中から蓋を閉めてしまつた丁度そん時、女のお袋が牛乳庫へ飛び込んで來たんでさあ。 『惡黨|奴《め》 -- 何處にゐやがるんだ?私や彼奴《あいつ》の顏を引つ掻きむしつてやるんだ。 たゞ捕まへさせて下されやいゝんだ!』つてお袋が言ふんです。それからジヤックの奴を糞味噌に惡く言ひながら、 何處から何處まで探し廻つてたが、その間にジヤックの奴は攪乳噐の中で大方《おほかた》息がつまりさうになるし、 可哀さうに娘 -- と言ふよりや若い女 -- は扉口《とぐち》で立つたまゝ眼を泣き潰さんばかりに泣いてるんでね。 わしや、あん時の有樣は決して忘れやしませんよ、忘られるもんですか!冷たい石だつて心を動かされたんでせうつて! だが、お袋は到頭何處にも彼奴《あいつ》を見附けることが出來なかつたんでさあ。」 主人は暫らく言葉を切つたので、 -- 聞いてゐた者の間から、二言三言批評の言葉が出た。 主人のクリックの話は、實際はまださうでないのに終つてゐるやうに思はれることが往々あつた。 それで、初めての者はつい早呑み込みにその積りで、結末が來たら用ひる筈の感嘆詞を、 其處で現はしてしまふのであつた。尤も古馴染になるとそんなことはしなかつた。 話し手は言葉を續けた -- 「ところでその婆さんに、どうして氣が附くだけの智慧が出たのか、わしにやとんと分りませんが、 彼奴《あいつ》がそこの攪乳噐の中にゐることを嗅ぎつけちやつたんです。 婆さんは物も言はずに卷揚轆轤《まきあげろくろ》を引つ掴んで (その頃ァ手で廻したもんでした)彼奴《あいつ》をぐる〜廻したんです。 で、ジヤック奴《め》は中でごろ〜轉げ始めるつて騷ぎさね。 『あゝ堪らん!攪乳噐を止めてくれ!わつしを出してくれ!わつしァ搾糟《しぼりかす》になつちまふ!』 頭を突き出しながらかう言ふんです。(彼奴は腹の底は臆病者だつたんでね。 かういふ奴に限つて皆さうですが)。『止めるもんか、娘を疵者にした埋め合せをするまでは!』 と婆さんは言ふんです。『攪乳噐を止めろつていふに、この鬼婆め!』と彼奴が呶鳴る。 『お前、私の事を鬼婆つて言つたね。このかたり奴!この五月《いつつき》の間といふもの、 私を姑《しうとめ》樣と呼ぶのが本當だに!』と婆さんが言ふ。ところで、攪乳噐は相變らずどん〜廻り、 ジヤックの體はまたごろ〜鳴り出すつて譯です。が、わしたちの間ぢや誰一人仲へ入らうつてものもなかつたんで、 彼奴は到頭埋め合せをするつて約束をしてしまつたんでさあ。『よし〜 -- 固く約束を守るから!』つて言ひましたよ。 それで、その日は納《をさま》りがついたちふわけなんです。」 聽いてゐた者が、笑顏で自づとその批評を現はしてゐるうちに、背後で急に身を動かす者があつた。 皆は振り返つて見た。テスが、蒼白になつて扉口《とぐち》の方へ行つたのであつた。 「今日は何んて蒸し暑いんでせう!」と、殆んど聞えない位ゐに彼女は言つた。 實際蒸し暑い日だつた。そして彼女が逃げ出したのを、主人の懷舊談と結び附けて考へるものは一人も無かつた。 主人は進み出て、彼女の爲めに扉を開けてやり、やさしい揶揄の言葉で言つた -- 「何ていふんだい、このおぼこ娘、」 (彼は屡々こんな風に親しく呼びかけるが、知つてあてこするのではなかつた。) 「うちの乳搾りの女の中で一番の別嬪さん、まだやつと夏の初めになつたばかりで、 こんなに弱つたんぢや仕樣がないねえ、そんなだと、眞夏の頃にやお前がゐなくなつて、 大弱りしてしまふからね。さうぢやありませんか。クレアさん?」 「私、氣が遠くなりまして -- ですから -- 戸外《そと》へ出たらよくなるだらうと思ひましてね。」 と彼女は機械的に言つて、戸外へ姿をかくしてしまつた。 彼女にとつて仕合せなことには、その瞬間に、廻轉してゐる攪乳噐の中にある乳が、 しゆつ〜といふ音からはつきりぺちや〜といふ音に變つた。 「出て來た!」とクリックの妻君が叫んだので、一同の注意は、テスから離れた。 その美しい惱める女は、間もなく表面だけは直つたやうだつたが、夕方の乳搾りが終ると、 彼女は他の人逹と一緒にゐたくなかつたので、自分でも何處へ行くのか分らずに、 外へ彷徨《さまよ》ひ出た。主人の物語が彼女の仲間には、寧ろ滑稽な話に聞えたのだ、 あの人逹の中で、自分を除いては一人としてその話の悲しさが分つたらしい樣子もないと思ふと、 情けなくなつた、 -- 何ともいへず悲しくなつた。たしかのこの話がどんなに殘酷に彼女の經驗の痛い處に觸れたかを、 一人として知りはしなかつた。今は夕陽も彼女にとつて、大空に出來た大きな炎症を起してゐる傷口のやうに醜く見えた。 たゞ淋しい嗄れ聲の葦切《よしきり》が、河岸の叢《くさむら》から彼女の挨拶しただけであつた。 が、その聲は、噐械が軋《きし》り出すやうな悲しい調子を帶びてゐて、 附き合ひするのも厭になつた昔友逹の聲音に似てゐた。 この六月の長い日には、牛乳の出がよくなると搾る前の朝の仕事が非常に早く始まるし、 又大へん骨も折れたから、乳搾りの女逹や、實際この一家の者も大抵、 日の落ちる時分か或はもつと早くに床に就くのであつた。 テスも平常《いつも》は仲間の者と一緒に二階に上るのだつた。が、今夜は彼女は誰よりも先に、 その共同部屋へ行つて、他の娘逹が入つて行つた時には、もううと〜してゐた。 彼女は、沈んだ太陽の置土産である橙《だい〜》色の光を浴びて、全身その色に燃えながら、 着物を脱いでゐる女逹を見た。彼女は再びうと〜としたが、彼女たちの聲でまた眼を覺ました。 そして靜かに皆の方へ眼を向けた。 一緒の部屋にゐる三人の仲間は、まだ誰も床に入つてゐなかつた。彼女たちは寢衣《ねまき》を着て、 素足のまゝで一塊になつて窓際に立つてゐた。その顏や頸や、周圍の壁までが、西空から來る茜色の殘照で、 まだ暖かさうに見えた。三人は、快濶な圓顏と、髮の黒い青白い顏と、赤鳶色の髮を有つてゐる色白な顏と、 この三つの顏をくつ付け合つて、庭に誰かのゐるのを、大へん興味深さうに瞶《みつ》めてゐた。 「押さないでよ -- あんただつてよく見えるぢやないの。」 と赤鳶色の髮をした、中でも一番若い娘のレッティがまだ窓から眼を外《そ》らさずに言つた。 「あんた、いくらあの方を思つたつて、私と同じに無駄だよ、レッティ・プリッドル、」 と快濶な顏をした一番年上のマリアンが冷笑《ひやか》すやうに言つた。 「あの方は、あんたより外の人の頬つぺたのことを思つてるんだよ!」 レッティ・プリッドルはまだ見續けてゐたので、他の二人も再びその方を見やつた。 「ほら、また出ていらつしやつた!」と黒い水々しい髮をした、口元の引き締つた蒼白い色の娘のイズ・ヒュウエットが叫んだ。 「あんた、何も言はなくつたつて、ちやんと知つてるよ、イズ。」とレッティは答へた。 「あんたがあの方の影に接吻するところを、私見たんだもの。」 「何をするところを見たんだつて?」とマリアンが訊ねた。 「さう〜 -- あの方が乳水を捌《は》かうとして、乳水の桶の處に立つてゐたんだよ。 するとあの方の影法師が、イズのすぐ傍の背後《うしろ》の壁に映つたのさ。 イズも桶に乳水を詰めながら其處に立つてゐたんだよ。この人つたら、壁に口を當てゝ、 あの方の影の口の當る所を接吻したんだわ。あの方は見てゐなかつたけれど、私や見てゐたのよ。」 「まあ、イズ・ヒュウエットつたら!」とマリアンが言つた。 薔薇色の點が、イズ・ヒュウエットの頬の眞中に一つあらはれた。 「さうよ、さあしたつて、ちつとも惡いことぢやないでせう。」と態《わざ》と冷靜を裝ひながら彼女は言ひ張つた。 「でもさ、私があの方を思つてゐるんなら、レッティだつてさうだわ。さうなつて來れば、 マリアン、あんただつてまたさうぢやないの。」 マリアンの丸々とした顏は、持前の淡紅色より赤くはならなかつた。 「私が!」と彼女は言つた。「馬鹿々々しい!あら、あの方まだ出ていらつしやつた! 可愛い眼 -- 可愛い顏 -- 可愛いクレアさん!」 「ほら -- あんた自分で言つてしまつたぢやないの。」 「あんただつて言つたわ -- 私たちみんなが言つたんだわ。」 と他人《 ひと》の思惑などに關《かま》つてゐられないと言ふやうに、 味も素つ氣もない淡白さで、マリアンは言つた。 「何も人に打ち明けるには及ばないけれど、私たちの間でさうでないやうな風をするなんて馬鹿らしいことだよ。 私、明日にもあの方と結婚したい!」 「私だつてしたい -- それどころぢやないわ。」とイズ・ヒュウエットが小聲で言つた。 「私もよ。」とみんなより氣の小さいレッティが囁いた。 これを聽いてゐる者は、だん〜興奮して來た。 「私たちみんなして、あの方と結婚するわけには行かないわよ。」とイズが言つた。 「私逹に結婚なんかするもんですか、私たちの誰にだつてさ。尚更つまらないことだけどね、」 と一番年かさの娘が言つた。「ほら、また出ていらつしやつた!」 三人とも皆、默つて彼に接吻を送つた。 「何故?」とレッティは急《せ》き込んで訊ねた。 「あの方は、テス・ダアビフィールドが、誰よりも氣に入りなんだよ。」と、マリアンは聲を低めて言つた。 「私は、毎日々々、あの方に氣をつけてゐて、そのことを知つたんだよ。」 皆は考へ込んでしまつた。 「でも、テスはあの方のことをちつとも氣にとめてゐないんぢやない?」と終《つひ》にレッティが小聲で言つた。 「さうよ -- 私も時々はそんな風に思ふわ。」 「だけど、こんな事、みんな馬鹿々々しいことだよ!」とイズ・ヒュウエットが焦《じ》れつたさうに言つた。 「どうせあの方は私逹のうちの誰にだつて、またテスにだつて結婚しやしないよ -- 外國へ行つて、大地主になり、大百姓にならうといふ、身分のある人の息子さんだもの! それよりも、一年幾ら〜といふ定《き》めで、百姓の手傳ひに一緒に行つてくれないか、 つて頼まれる位ゐが關の山だらうよ!」 一人が溜息した。續いてもう一人が溜息した。それからマリアンのむつくり肥つた體が、 取り分け大きく嘆息した。すぐ傍の寢床にゐた人も、溜息をついた。 綺麗な、赤い髮の一番若いレッティ・プリッドル -- 郷土史では非常に有名なパリドル家の最後の蕾 -- の眼には、涙が浮んで來た。三人は默つて尚ほ暫らく庭の方を見てゐた。 三つの顏は、依然としてくつゝき合ひ、三樣の髮の毛は、入りまじつてゐた。 だが、何も知らないクレアは、もう家の中に入つてしまつて、再び彼女たちの眼に入らなかつた。 それに夕闇は次第に深くなり始めてゐたので、彼女たちも銘々の床に潛り込んだ。 二三分するうちに、彼女たちは彼が自分の部屋の梯子を上つて行くのを聞いた。 マリアンは間もなく鼾を立て出したが、イズは長い間何もかも忘れて眠つてしまふことが出來なかつた。 レッティ・プリッドルは泣いてゐるうちに、寢入つてしまつた。 三人よりも熱い思ひを懷いてゐたテスは、その時になつても眠るどころではなかつた。 この會話こそ、彼女がその日無理にでも嚥み下さなければならなかつたもう一つ別の苦い丸藥であつた。 元より嫉妬の感情などは、露ほども彼女の胸には起らなかつた。 この事件《こと》にかけては自分の方に優越權があることを彼女は知つてゐた。 三人のうちの誰よりも縹緻《きりやう》がよかつたし、教育も餘計に受けて居り、 レッティを除けば一番の年少ではあつたが、他の誰よりも、ずつと女といふものになつてゐたから、 ほんの僅かばかりの注意を拂ひさへすれば、かういふ無遠慮な友逹に對抗して、 エンヂェル・クレアの胸の中に、しつかりした地位を占めてしまふことが出來ると、彼女は考へた。 だが、果してその通りにすべきであるか?といふことが眞面目な問題であつた。 嚴密な意味から言へば、たしかに、彼女たち三人の誰にも、殆んどさういふ機會の影さへなかつたが、 テスには、ほんの一時の愛着にしても彼に起させて、彼が此處に滯在する間だけでも、 特に優しくしてもらふ事は出來るし、また實際今までにもその機會はあつたのである。 かうした不釣合な戀愛からでも、結婚となつた例はこれまでにもあつた。 また彼女は、クリックの妻君から、或る日クレアが笑ひながら、一萬エイカアの植民地の牧場の面倒を見、 家畜を飼ひ、穀物を刈らなければならぬ自分が、立派な貴婦人と結婚して何の役に立たう、 と言つたといふ話を聞いたことがある。百姓女こそ、彼にとつては、恰好の妻なのかも知れない。 が、クレアさんがこのことを眞面目で言つたかどうかは別としても、今となつては、 良心に叛かずに如何なる男にも結婚を許すことは出來ないし、又そんな誘惑には、 決してかゝるまいと殆んど信仰的に固く決心してゐる自分が、どうして彼がタルボセイズに滯在する間だけ、 彼の眼に浴するといふ果敢《はか》ない幸福の爲めに、他の女たちからクレアの注意を引き離してしまはれようか? [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 一同は翌《あく》る朝、缺伸《あくび》をしながら階下へ下りて來た。だが、 乳泡掬《クリームすく》ひも乳搾りも平常通りに進行して片づいたので、 朝飯を食べに屋内へ入つて行つた。すると主人のクリックが、地團駄踏みながら家中を歩き廻つてゐるのを知つた。 彼は、牛酪《バタ》に澁味があるといふ苦情の手紙を、或る得意先から受け取つてゐたのであつた。 「失策《しま》つた!なるほどその通りだ!」と、牛酪を一塊りつけた木の箆《へら》を左手に握つてゐる主人は言つた。 「違えねえ -- みんな自分で味を見てくれ!」 數人の者が、彼の周圍へ集つて來た。そして、クレアも味ひ、テスも味ひ、また他の住込みの乳搾りの女や、 一人二人の乳搾りの男も、最後には、用意の出來た朝飯の食卓の處から出て來たクリックの妻君も味つて見た。 確かに澁味があつた。 主人は、一層念入りに味を見て、その原因になつてゐる毒草の種類を見分けようと夢中になつて考へ込んでゐた、 が突然かう叫んだ -- 「大蒜《にんにく》だ!あの牧場にやそんな草の葉は一つだつて殘つちやゐねえつもりでゐたに!」 すると、古くからゐる雇人たちは一樣に、この頃牛の二三頭入れたことのある或る乾燥した牧場が、 何年か前にも同じやうに牛酪《バタ》を惡くしたことがあつたのを思ひ出した。 主人は、その時は到頭その味を見分けずにしまつて、牛酪《バタ》が惡魔にでも取り憑かれたと思つてゐた。 「あの牧場を檢《しら》べなくちやなんねえ、」と彼は續けて言つた。「これが續いちや大變だ!」 誰も彼も、先の尖つた古い小刀《ナイフ》を持つて一緒に出て行つた。この毒草は、 極めて狹い範圍にしか生じないので、普通に見ただけでは眼に觸れないのであるから、 眼の前一面に生ひ茂つてゐる草原で、それを探し出すといふことは、 どちらかと言へば望みのない仕事のやうに思はれた。しかしその搜索は肝腎な事だつたので、 皆これに加勢しようとして一列に並んだ。主人は、自分から進んで手助けに來たクレアと共に先頭に立ち、 次にテス、マリアン、イズ・ヒュウエット、レッティ、次にビル・リューエル、ヂョナサンと、 それから亭主持ちの乳搾り女たち -- 毛絲のやうな黒い髮の家とぎよろ〜した眼を持つてゐるベック・ニッブス、 じめ〜した牧場の冬季の濕氣の爲めに肺病患者のやうになつてゐる亞麻のやうな髮の毛フランシス -- これ等は皆銘々の百姓小屋に住んでゐる連中である -- といふ順序に並んだ。 ぢつと地面に眼を注いだまゝ、彼等は一帶の草原を横切つてそろ〜と前進し、 少し行くと又戻つて來るといふ風で、愈々濟ましてしまふ頃には、 この牧場中の一|吋《インチ》の地域と言へども、皆の中の誰の眼にも入らないでしまふことのないやうにした。 草原全體で、半|打《ダース》くらゐの大蒜《にんにく》の芽しか見附からなかつたのであるから、 それは實に退屈至極な仕事であつた。しかもその毒草に辛味は、乳牛一頭が一口それを食べただけでも、 その日一日に搾乳場で生産する品物全體の味を變へるに十分であつたのだ。 彼等は、性質も氣分も、お互に甚だしく異つてゐたが、それでも尚ほ同じやうに腰を屈めながら、 不思議に整つた -- 機械的な、靜かな一列をつくつてゐた。で、他處者《よそもの》が近くの小徑でも通りかゝつて、 この有樣を見たとしたら、彼等を『田夫《ホツジ》』と一括してしまつたところで、不思議はない譯である。 彼等が、毒草を探し當てようとして低く屈み込んでそろ〜歩いて行くと、その背には眞晝の一番強い太陽の光を浴びてゐながらも、 日光を受けてゐない顏は、毛莨《うまのあしがた》などの雜草から照り返つて來る軟らかな黄色い光線の爲めに、 小鬼のやうな、また月の光を受けたやうな面影になつた。 何事によらず他の者と共にしようといふ自分の主義を飽くまで守つてゐたエンヂェル・クレアは、時折、 頭を上げて四邊を見た。彼がテスの後から歩いてゐたは、無論偶然の事ではなかつた。 「ねえ、氣分はどうです?」と彼は囁いた。 「有難うございます。大變にいゝやうです、」と彼女は眞面目な顏付で答へた。 二人で各々の身の上に關したことをいろ〜と親しく話し合つてから、まだほんの二三十分位ゐしか經たないのでるから、 改まつたこの挨拶の仕方は、ちよつと餘計なやうに思はれた。だが二人とも、 その時はこれ以上口を利かなかつた。二人は屈んで進みつゞけた。 時には彼女の下袴《スカート》の裾がちよつと彼の脚絆に觸《さは》つたり、 彼の肘が彼女の肘と擦れ合つたりした。その後について來た主人は、到頭、 もうこんな仕事には我慢がしきれなくなつた。 「とても遣り切れねえ、かうして屈んでゐた日にや、わしの背中は割れて見事にぱく〜やり出すよ!」と彼は、 眞直になるまではさも苦しさうに、そろ〜體を延ばしながら叫んだ。「それに、お前、テスや、 お前は一日二日加減が惡かつたんぢやねえかな -- こんなことをしてゐたら、頭がひどく痛くなつちまふだらう! 疲れたやうならもう止したがいゝぜ!後はみんなに任せて置いたらいゝからな。」 主人のクリックは退き、テスも列から後《おく》れた。クレアもまた列を離れて、 一人勝手に毒草を探し始めた。彼女が、自分の近くに彼のゐるのを知ると、 前夜耳にしたことがひどく氣になつてゐたので、彼女の方が先に口を開いた。 「あの人たちは綺麗ぢやありませんの?」と彼女は言つた。 「誰です?」 「イズ・ヒュウエットとレッティよ。」 テスは、二人の娘の何方《どちら》が立派な農夫の妻になれるだらうかといふことを、 そして自分は當然彼女たちを讚めて、不仕合せな自分の美しさなぞは葬るやうにすべきだと、 氣まぐれにも決心をかためてゐたのである。 「綺麗ですつて?なるほどさうですね -- 二人とも綺麗な娘さんだ -- 生々してゐる。 僕も度々さう思ひましたよ。」 「だけど可哀さうに、縹緻《きりやう》のいゝのも永續きはしませんのね!」 「無論續きませんね、殘念ながら。」 「でも二人とも立派な乳搾りですわ。」 「さう -- 君には及びませんがね。」 「二人とも乳泡掬《クリームすく》ひは私よりも上手ですよ。」 「さうですか?」 クレアは何時までも彼女たちを見てゐた -- 彼女たちの方でも、彼を見てゐないわけではなかつたが。 「あの人は顏を赧くしてゐますわ。」とテスは大膽に言ひ續けた。 「誰です?」 「レッティ・プリッドルよ。」 「おゝ!だが、何故ですかね?」 「あなたがあの人を見てお出でになるからですわ。」 テスは氣持の上では、自分を犧牲にしてといふ考へでゐたかも知れないが、 一歩踏み込んで立派にかう叫ぶ事は出來なかつた -- 『あなたが心から身分のいゝお孃さんではなく、 乳搾りの女をお望みなら、あの人逹の中の誰かと結婚なさい。そして、私と結婚しようなぞとは思つて下さいますな!』と。 彼女は主人のクリックの後に從《つ》いて行つた。そして、クレアが後へ殘つたのを知つて、悲しい滿足を感じた。 この日から彼女は強ひて彼を避けるやうに心懸けた -- たとひ全く偶然に出會つたやうな場合でさへも、 以前のやうに長く彼と一緒にゐるやうなことは決してしなかつた。彼女はあらゆる機會を他の三人に讓つた。 テスは、もうすつかり女になつてゐたので、耳にした彼女たちの打ち明け話から、 エンヂェル・クレアにこの三人の乳搾り女逹がその貞操を捧げてゐる、といふことを悟ることが出來た。 そして、そのうちの誰の幸福をも、たとひ聊《いさゝ》かたりとも傷つけまいとするクレアの心遣ひに氣づいてゐる彼女は、 正しいか間違つてゐるかは別として、彼の態度に現はれた自制しようとする責任感(と彼女は思つてゐる) つまり、男性の一人に見出さうとは彼女が曾つて思ひも寄らなかつた或る特質 -- 若しそれを缺いてゐたとすれば、彼と同居してゐる單純な心の女逹に、一人ならず涙の生涯を送らせる事にもなつたであらう -- に對して、一層懷しい氣持を起すやうになつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 七月の暑い天候が、忍びやかに彼等を襲つて來て、平坦な谷間の大氣は、搾乳場の人たちや乳牛や樹木の上に、 麻醉劑となつて重く覆ひかゝつて來た。度々暑い霧のやうな雨が降つて、乳牛の放してある野原の草を益々繁らせ、 他の牧場では、この頃の乾草作りの仕事を妨げた。 或る月曜日 [注:日曜日の誤り] の朝であつた。乳搾りは濟み、通勤の乳搾り逹は、もう家へ歸つてゐなかつた。 テスと他の三人は、急いで身支度をしてゐた。 彼女逹はこの搾乳場から三四哩離れたところにあるメルストックの教會へ一緒に行く約束をしてゐたからである。 彼女は、タルボセイズへ來てからもう二ヶ月になるが、遠くへ出掛けるのはこれが始めてゞあつた。 前日の午後から夜へかけて、絶え間なく猛烈な雷雨が草原を襲つて、乾草をいくらか河の中へ押し流した。 だg,今朝になると、太陽は大雨が降つたゞけに、尚更|赫々《あか〜》と照り輝き、 空氣は馥郁《ふくいく》と香を放ち、澄みきつてゐた。 自分逹の村からメルストックへ通ずる曲りくねつた小徑は、或る處へ行くと一番低い平地を通つてゐた。 そして、娘たちがこの一番窪んだ場所まで來て見ると、雨の爲めに約五十|碼《ヤード》ほどの間、 靴を沒するまでにその小徑が水に浸つてゐることを知つた。平日ならば、これ位ゐのことは大して妨げにもならなかつたし、 また丈の高い木底についた靴で何とも思はずに渉《わた》つてしまつたであらうが、 今日といふこの虚榮の日には、つまり靈界の事に用があるやうな僞善的な風をしながら、 肉が肉を弄ばうとして出て行くこの『日輪』の日には、また、 少し泥があがつても目に立つやうな純白の靴下や低い靴を履き、 深紅色や白や藤色の長上衣《ガウン》を着込んだこの場合には、この水溜りは實に厄介な障碍物であつた。 人を呼ぶ教會の鐘は彼女等のところへも聞えて來た -- しかし、まだ一哩近く離れてゐた。 「夏だつていふのにこんなに水嵩《みずかさ》が増さうなんて、誰が思ふもんですかね!」 と路傍の土堤《どて》の上からマリアンが言つた。彼女等は其處へ攀ぢ登り、 水溜りを越してしまふまでその傾斜面に沿つて這つて行かうといふ考へで、 危《あぶな》つかしい足どりを進めてゐたのだつた。 「水の中を渉《わた》つて行くか、でなけりや國道の方へでも廻らなくてはどうしたつて彼處《あすこ》へ行かれやしない。 でもさうすれば、ずつと後れるし!」とレッティが立ち止つて失望したやうに言つた。 「それに、私、後れて會堂へ入つて行つて、皆の人にじろ〜見廻されると、 眞赤に顏がほてつちやつて。」とマリアンは言つた。 「『お心に叶へ奉らんやう』(祈祷の終りの文句)まで來ないうちは、なか〜落着かないの。」 土堤《どて》にしがみ附いて立つてゐる間に、彼女等は道の曲り角の水のぴちや〜跳ねる音を聞いた。 すると間もなく、水の中を渉《わた》りながら、小徑をこつちの方へ近附いて來るエンヂェル・クレアの姿が現はれた。 四つの心臟は、一齊に大きな動悸を打つた。 彼の樣子は、獨斷的な牧師の子がよく見せるやうに、安息日などを認めてゐないやうであつた。 搾乳場の仕事着に長い雨靴といふ扮裝で、頭を冷す爲めにキャベツの葉を一枚帽子の内側へ入れ、 仕事に行く身裝《みなり》としては申分なく、草刈鎌まで持つてゐた。 「あの方は教會へ行くんぢやないのよ。」と、マリアンが言つた。 「えゝ -- 行くんだといゝのに。」とテスは呟いた。 エンヂェルは、實際、正しいか間違つてゐるかは別として(遁辭を弄する爭論者の安全な句を用ひれば) 晴れ渡つた夏の日には、教會や禮拜堂の説教を聽くよりも、石の説教(山川草木、つまり天地有情を説く教へ) を聽く方が好きだつた。で、今朝は洪水の爲めに乾草がひどく被害を蒙つたかどうか調べに出掛けたのだつた。 歩いてゐるうちに、彼はずつと遠くから、娘たちに氣がついた。 勿論、彼女等の方では、道路の難澁なのに氣を取られてゐたので彼に氣がつかなかつた。 其處は水に浸つてゐて、とても彼女逹には進んで行かれはしまいといふことを、彼はよく知つてゐた。 そこで、どうしたら彼女等 -- 殊に、その中の一人 -- に手を貸してやれるか、はつきりした考へもなく、 どん〜急いでやつて來たのであつた。 薔薇色の頬をし、晴れやかな眼をした四人の群が、輕い夏衣をまとつて、 屋根の傾斜にとまつた鳩のやうに道端の土堤《どて》にしがみ附いてゐるところは、 如何にも美しかつたので、彼は、その方へ近附く前に立ち止つてしばらく彼女等を眺めないではゐられない位ゐだつた。 彼女逹の薄い紗のやうな下袴《スカート》は、草を拂つて蠅や蝶を幾疋となく追ひ立てた。 するとそれ等の蟲は、遁げ迷つて透明な織物の中に、まるで鳥小舍にでも入つたやうに、 閉ぢ込められた儘になつてゐるのだつた。エンヂェルの視線は、到頭、四人の中で一番後にゐるテスの上に落ちた。 彼女は、自分たちの窮境に對して吹きださないばかりになつてゐたので、 晴れやかに彼の視線を迎へない譯には行かなかつた。 彼は、長靴を沒してしまふほどには深くない水の中を渉《わた》つて、彼女等の眞下へやつて來た。 そして、遁げられないでゐる蠅や蝶を見ながら、立つてゐた。 「君たちは教會へ行くつもりかね?」と彼は先頭のマリアンに言つた。 この言葉の中には次の二人も含まつてゐたが、テスだけは除外されてゐた。 「えゝ。それに、後れさうなんです。後れると、私、眞赤になつて -- 」 「僕が水溜りを渉《わた》して上げよう -- 一人づゝ、みんなね。」 四人全體が、まるで一つの共通した心臟が鼓動してゞもゐるかのやうに、 さつと顏を赧らめた。 「あなたには渉《わた》せないと思ひますわ。」とマリアンが言つた。 「向うへ越さうとするには、さうするより外に方法はないね。 靜かに立つておいで。馬鹿な -- そんなに重いもんか!四人一緒にだつて運んでみせるよ。 さあマリアン、いゝかね。」と彼は言葉を續けた。「そして僕に肩に兩手を掛けるんだ、 さう〜。さあ!しつかり掴まつておいで。うまいもんだ。」 マリアンは言はれる通りに、彼の腕と肩に體を託した。そこでエンヂェルは、彼女を背負つて大股に歩いた。 背後から眺めると、彼のすらりとした姿は、彼女の姿を大きな花束とすれば、 それについてゐる莖のやうに見えた。二人の姿は、道路の曲り角を廻つて見えなくなつた。 たゞ彼の水を渉《わた》る足音とマリアンの帽子の上にあるリボンとだけが、 二人を何處にゐるかを物語るにすぎなかつた。二三分經つと彼は再び現はれた。 イズ・ヒュウエットが土堤《どて》の上で次の番にゐた。 「ほら、いらつしやつた。」と彼女は囁いた。そして彼女の唇が興奮の爲めに乾いてゐるのを他の二人は知つた。 「そして私、マリアンがしたやうに、あの方の頸に手を卷いて顏を覗き込まなくちやならないわ。」 「さうしたつて何でもないぢやないの。」とすぐテスが言つた。 「何事にも時あり、」とイズは構はずに續けた。「抱くべき時あり、抱かるゝを避くべき時あり、つてね。 これから私のするのは初めの方の時ね。」 「あら厭だ -- それは聖書の言葉ぢやないの、イズ。」 「さうよ、」とイズは言つた。「私美しい句は教會でも何時もよく聞いてゐるのよ。」 この仕事の四分の三は、親切心から出た當り前な行爲に過ぎないと思つてゐるエンヂェル・クレアは、 今度はイズに近附いた。彼女は温和《おとな》しく夢見るやうに、彼の腕の中に體を下ろした。 するとエンヂェルは、規則的に彼女を背負つて進んで行つた。 三度目に彼の歸つて來るのが聞えたとき、レッティの心臟は烈しく動悸を打つて、 殆んど體を搖り動かしさうに見えた。彼は髮の毛の赤いその娘の處へ行つた。 そして、彼女を背負ひかけてゐる間に、彼はテスに目配せした。彼の唇にしても、 これほど明らさまに『すぐ君と僕とになるんだよ』といふ意味を現はせはしなかつたに相違ない。 彼女は呑み込んだといふ色をその眼顏に現はした、さうしないわけには行かなかつたからである。 二人の間には、言はず語らずの諒解があつた。 この哀れな小さなレッティは、誰よりも一番輕かつたが、クレアには最も厄介な荷物だつた。 マリアンは、挽割麥《ひきわりむぎ》の袋のやうで、むつくり肥つた彼女の體は、ひどく重く、 彼はその壓迫で文字通りよろ〜した。イズは、體裁よく靜かにして水を渡してもらつた。 レッティは、ヒステリイ症の塊りだつた。 が、彼はこのぢつとしてゐない小娘を背負つて、無事に渉《わた》り、下ろしてから再び戻つて來た。 彼がみんなを下ろしてやつた次の丘に、一塊りになつて立つてゐる三人が、 遠くから生垣越しにテスの眼に見えた。今度は彼女の番だつた。彼女は、先に友逹の場合は輕蔑してゐたが、 クレアの息や眼と接近することを思ふと、激しく興奮して來るのに氣が附いて、どうしていゝのか困つてしまつた。 また自分の祕密があらはれるのを恐れでもするかのやうに、最後の瞬間となつて、 いゝ加減なことを言つてしまつた。 「多分、私この土堤《どて》にのぼつて行けますわ -- 私みんなより上手にのぼれますから。 あなたも屹度お疲れでせう、クレアさん!」 「いや〜、テス、僕が連れて行つて上げませう、」と彼は口早に言つた。 そして殆んど自分でも氣づかないうちに、彼女は彼の腕の中に體を落着け、彼の肩に凭《よ》り掛つてゐた。 「一人のラケルを得る爲めに、三人のレアを渡すのさ。」と彼は囁いた。 「私よりは、みんな立派な方ですよ。」と彼女は何處までも立派に自分の決心を固く守つて、答へた。 「僕にとつてはさうぢやないな、」とエンヂェルが言つた。 この言葉を聞いて、彼女が上氣するのを彼は見て取つた。それから二人は數歩の間、默つて進んだ。 「私、重すぎやしないでせうか?」とおづ〜彼女は言つた。 「重くはありません。マリアンを持ち上げて御覽!素敵な圖體だ! 君は、太陽に温められてゐるうねり波のやうなものですよ。それから君の着てゐるふわ〜したモスリンは、水の泡だ。」 「私は大變に綺麗な譯ですわね -- 私があなたに、そんな風に見えるとすると。」 「君は知つてゐますか、僕が、全く第四番目の爲めに、四分の三の骨折りをしたのだつていふことを。」 「いゝえ。」 「今日こんな出來事があらうとは思ひがけなかつた。」 「私だつて……水が急に増したんですもの。」 彼は水が増えたといふ出來事を指したのだといふ風に彼女は解釋したが、 彼女の息づかひの樣子がそれを裏切つてゐた。クレアはぢつと立つて、自分の顏を彼女の方へ傾けた。 「おゝテッシイ!」と彼は叫んだ。 娘の頬は、彼の息を感じて燃え上つた、彼女は興奮して、彼の眼に見入ることが出來なかつた。 それを見てエンヂェルは偶然の場合をよいことにして多少つけ込んでゐるやうに思つて、 これ以上何もしようとはしなかつた。まだ二人の唇から、はつきりした言葉で戀が語られてゐたわけではなし、 今のところはこの邊でやめて置くのが望ましいことだつた。しかし彼は、 殘りの距離を出來るだけ長くしようとして、ゆつくり歩いて行つたが、 到頭二人は曲り角まで來てしまつた。そして後の行程は、他の三人からすつかり見えてゐた。 乾いてゐる土地へ着いて、彼は彼女を下ろした。 三人の友逹は、圓い、考へ深さうな眼をして、彼女と彼とをぢつと見てゐた。 それで彼女は、みんなが自分のことを噂し合つてゐたのだと思つた。 彼は急いで彼女等に別れを告げ、水に浸つた道を、ぴしや〜音をたてながら歸つて行つた。 四人は前のやうに一緒になつて歩いて行つた。やがてマリアンが沈默を破つて言つた -- 「駄目よ -- どうしたつて、私たち、この人にはとても適はない!」 彼女は面白くもないといつたやうにテスを見た。 「それはどういふ意味なの?」とテスが訊ねた。 「あの方は、あんたが一番好きなのよ -- 誰よりも一番好きよ! あの方があんたを連れて來る時、ちやんと分つたわ。若しあんたがちよつと、 ほんのちよつとでも誘ひさへしたら、あの方はあんたに接吻したでせうよ。」 「まあ、そんなことないわ。」と彼女は言つた。 出掛ける時、皆が胸に抱いてゐた樂しさは、どうやら消えてしまつた。 けれども、お互の間には敵愾心や惡意なぞ毛頭なかつた。彼女等は、優しい若い娘たちであつて、 まゝにならないのが浮世だといふ考へが強く滲み込んでゐる淋しい田舍の片隅で育つたのである。 で、彼女たちはテスを責めはしなかつた。かうして自分たちの位置を取つて代へられてしまふのも、 もとより運命であると考へて。 テスは思ひ惱んだ。他の者も彼に夢中になつてゐることを知つて、 恐らく愈々熱烈に自分もエンヂェル・クレアを戀してゐる事實を、 彼女は自分自身に匿《かく》す餘地はなかつた。かうした感情は、 わけても女たちの間には、傳染し易いものである。しかも、彼女のその同じ切ない心は、 友逹を憐れにも思ふのであつた。テスの正直な性質は、この感情に叛抗したが、 餘りにその力は弱かつた。その結果、自然こんな風になつた。 「私は決してあんた方の邪魔はしないわ。あんた方の中の誰の邪魔もしないわ!」と、 その夜、彼女は寢床の中でレッティに誓つた(涙を流しながら)。「私、しようとしたつて出來ませんわ、 ねえ、あんた!私、あの方にちつとでも結婚する氣があらうとは思はないわ。 でも、萬一あの方が私に申し込んで來たとしても、私、お斷りするわ。 他のどなたにだつてさうなんだけれど。」 「まあ!あんた本當?どうして?」とレッティは訝《いぶか》りながら言つた。 「そんなことのある譯がないわ!だけど、私本當のことを言ひますよ。すつかり自分を離れて考へてみても、 私、あの方があんた方の中の誰かを選ぶやうなことがあらうとは思はないの。」 「私、それを期待したことなんか決してないわ -- 思つてみたことだつて!」とレッティは悲しさうに言つた。 「でも、あゝ!私いつそ死んだ方がいゝと思ふわ!」 可哀さうに自分でも殆んど分らない感情の爲めに引きむしられたこの子供は、 その時丁度二階へ上つて來た他の二人の娘の方を振り向いた。 「私逹はまたこの人と友逹にならうよ。」と彼女は皆に言つた。 「この人は私逹と同じやうに、あの方に見立てゝ貰うなぞとは思つてゐないのだよ。」 それで、隔意はなくなり、彼等は打ち解けて親密になつた。 「私、今どんなことをしてゐようが、一向關はないやうな氣持だよ。」とマリアンは言つた。 が、彼女の氣分は非常に元氣のない調子になつてゐた。「私二度も申し込まれて、 スティックルフィールドの搾乳場の主人と結婚しようとしたの、でも -- どうしてどうして -- 今はあの人の女房なんぞになる位ゐなら、いつそ死んでしまつた方がいゝと思ふわ! 何故そんなに默つてゐるの、イズ?」 「ぢや、本當をいふがね、」とイズは小聲で言つた。「今日あの方が抱いて下すつたとき、 あの方は接吻して下さることゝ思つてゐたの。それだのに、あの方はしてくれなかつた。 私、もうこのタルボセイズにはゐたくないわ!我家《うち》へ歸るかも知れないの。」 寢室の空氣は、まるで娘逹の絶望的な感情につれてぶる〜震へるかのやうに思はれた。 彼女たちは、殘酷な『自然』の法則の手で、さん〜゛にさいなまれた情緒 -- 彼女たちが期待してゐた譯でも、 また求めた譯でもない情緒に抑へられて、狂ほしく身悶えした。 思ひがけなかつた今日の出來事は、彼女たちの胸の奧に燃えてゐた炎を煽りたて、 その惱みは殆んど耐へ切れない位ゐであつた。彼女逹を一人々々區別してゐたいろ〜の特色も、 この情熱の爲めに抽《ひ》き拔かれてしまひ、銘々はたゞもう女性と呼ばれる一有機體の一部に過ぎないものとなつてしまつた。 最早希望もなくなつたので、互に何もかもすつかり打ち明け合ひ、 嫉妬などは殆んど影を沒してしまつた。何れも相應に常識を備へた娘だつたので、 矢鱈《やたら》に自惚《うぬぼ》れて好い氣になつてゐることもなかつたし、 また他の者を蹴落して妙に樣子振るやうなこともしなかつた。 社會的な見方からすれば、彼女たちの惑溺は無益なものであるこお、つまり、 何の目的もなく始まつたものであり、我儘勝手な望みを逞しくしてゐるに過ぎないこと、 文明の眼から見ればその惑溺の存在を是認すべきものを何一つ持つてゐないこと(『自然』の眼から見れば、 十分存在の理由はあるのだが)をはつきり彼女等は悟つた。しかも彼に對する思慕の情は存在してゐて、 彼女等を有頂天にさせ、心から喜ばせたといふことは一つの事實であつた。 かういふ考へが集つて、彼を自分の夫にして見せようとする實際的な、 又慾深い底意があつたならば、恐らく無くなつてしまつたであらう諦めを彼女等に起させ、 威嚴を具《そな》へさえるやうになつたのであつた。 彼女逹は小さな寢臺の上で、輾轉した。階下の乾酪《チーズ》搾り機械からは、 乾酪の滴《しづく》が單調のぽたり〜と落ちてゐた。 「あんた起きてるの、テス?」と半時間もたつてから、一人が囁いた。 それはイズ・ヒュウエットの聲であつた。 テスは、えゝと答へた。すると、レッティもマリアンもまた俄かに夜具をはねのけて吐息をした -- 「私たちもその通りなの!」 「どんな方でせうね -- お家の方で、あの方の爲めに見つけたつていふお孃さんは!」 「ほんとにね、」とイズが言つた。 「お孃さんが、あの方の爲めに見つかつたんですつて?」と驚いてテスは喘ぐやうに言つた。 「私ちつともそんなこと聞かなかつたわ!」 「さう、さうなんだよ -- 内々そんな噂があるのさ。何でもあの方と同じ家柄のお孃さんで、 お家の人がお選びになつたんですつて。エミンスタアのお父樣の村に近い神學博士のお孃さんなんだよ。 あの方は餘り氣乘りしてゐないつていふ話よ。でもあの方は屹度その人と結婚するでせう。」 このことを、彼女等はあまり悉《くは》しく聞いてゐなかつたのだが、夜の闇の中で、 慘めな傷《いた》ましい夢を造り上げるにはこれだけでも十分だつた。 彼女たちは、彼がすつかり説きつけられてしまふ樣子や、婚禮の準備や、花嫁の幸福や、 花嫁の盛裝や面紗《ヴエール》や、その女が彼と共に營む祝福に充ちた家庭のことなどを仔細に描き出し、 それに引き換へ自分逹のことでも、彼と自分逹の愛情とに關係のある部分などは忘却されてしまふのであらうと思つた。 かうして彼女たちは、やがて眠りにその悲しみがまぎらされてしまふまで、 語り合ひ、悲しみ合ひ、そして啜り泣いた。 思ひ掛けないこのことを聞いてから、テスはもうクレアの自分に對する心遣ひの中に、 何か眞面目な深い意味が潛んでゐるなぞといふ馬鹿げた考へを抱かなくなつた。 それは、自分の容貌に對する短い夏の戀、たゞ戀がしたさの氣まぐれな戀 -- それだけのものに過ぎなかつた。 かう思ふと悲しくなつたが、取り分け一番苦しいことは、十分考へた上での事でないにせよ、 實際彼が他の者を差し措《お》いて選んでくれたこの自分が、又自分でも他の三人よりもずつと熱情的な性質を有ち、 一層怜悧で、一層美しいと自覺してゐるこの自分が、人の體面といふ點から見れば、 彼が無視してゐる一層卑しい者たちよりも、ずつと彼に釣合はない女であるといふ考へであつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 肥えた土壤が濕氣を發散して、温い醗酵作用を行つてゐるフルウムの盆地の中で、 ゆう〜と受精作用を音のする下から、樹液の上るの迄が殆んど聞えようといふ季節である。 どんなに空想的な戀でも、自然と熟して來ないわけには行かなかつた。 その土地にゐる若者の待ち構へてゐた胸は、周圍のものと相接して受胎作用を始める事になつた。 七月は彼女等の頭上を通り過ぎ、その後を追つて來た酷暑の候は、タルボセイズ搾乳場で、 或る胸と胸とを結び付けようとする『自然』の努力のやうに思はれた。 春から初夏の頃にかけては、一段と新鮮になるこの土地の空氣も、今は澱んで力なく見えた。 それは重い香を含んで彼等を壓迫した。眞晝時になるとあたりの景色はまるで氣絶して仆れてゐるやうに見えた。 阿弗利加のやうに熱い燒きつくやうな光線は、牧場の傾斜面のうちでも高い方を鳶色に染めた。 だが、水路がさら〜音を立てゝ流れてゐる邊には、まだ青々と輝くやうな緑の草が茂つてゐた。 クレアは外部の熱に惱まされてゐると同時に、心ではまた、 優しい言葉少ないテスを思ふ愈々切ない熱情の爲めに心を焦してゐた。 雨期が過ぎてしまつたので、高地は乾燥してゐた。 搾乳場の彈條附荷馬車《スプリングカアト》の車輪は主人が市場から歸りを急いで馳らせるとき、 大道の埃立つた表面を一掃し、その後にまるで火のついた細い彈藥列車のやうな埃の白い帶を曵いた。 乳牛は虻の爲めに氣を焦立《いらだ》てゝ、五本も横木の付いた農場の裏門を荒々しく跳び越えた。 主人のクリックは月曜日から土曜日まで、始終|襯衣《シヤツ》の袖をまくし上げ通しであつた。 窓を開けて置いても、扉口を開け放して置かないと、通風には何の效果も無かつた。それから、 搾乳場の庭には、黒鳥や鶫《つぐみ》が、 翼のある生物といふよりも寧ろ四足獸のやうな恰好をして蔦の籔の下を這ひ廻つてゐた。 臺所の蠅は、物憂さうに煩《うる》さく、また無遠慮に、滅多に人の行かない場所や、床の上や、抽斗《ひきだし》の中や、 乳搾りの女の手の甲などを匍ひ廻つた。話と言へば決つて日射病のことだつた。 また牛酪《バタ》の製造は -- 貯藏は尚更のこと、絶望であつた。 涼しいのと都合が好いのとで、彼等は乳牛を追ひ込まずに全然牧場で乳を搾るのであつた。 日中、乳牛は太陽の廻轉と共に影が木の幹の周圍を廻つて行くにつれて、 どんな小さな立木の蔭でも仕方なしに追ひ歩いた。そして乳搾りが行つても、 蠅の爲めに中々ぢつとしてはゐなかつた。 かうした或る午後のこと、偶然にもまだ乳を搾られてゐない四五頭の乳牛が、 全體の群から離れて生垣の片隅の背後に立つてゐた。そのうちには、他のどの娘よりも一番テスの手を好んでゐる、 ダンプリングとオールド・プリッティとがゐた。彼女が搾り終へた一頭の乳牛の側の腰掛から立ち上ると、 今までしばらくの間彼女を見守つてゐたエンヂェル・クレアが、今度は今いつた二頭の乳牛を搾るのかどうかと訊ねた。 彼女は默つてさうだと頷いた。そして、差し伸べた腕に腰掛を持ち、乳桶を膝へ寄せ掛けて、 二頭の乳牛が立つてゐる場所へ行つた。間もなくオールド・プリッティの乳が、桶の中へ勢ひよくしゆう〜と落ち込む音が、 生垣を通して聞えて來た。やがて、エンヂェルもその片隅へ行つて、 其處にうろ〜してゐた乳を出ししぶる乳牛を濟ましてしまはうと考へた。 彼も、今では、主人と同じやうにこんなことが出來るやうになつてゐたからである。 すべての男逹と女のうちでも幾人かは、乳を搾る時には、額を乳牛の下腹へ埋めて、ぢつと乳桶の中を見るのであつた。 だが二三人のものは -- 主に若い者は -- 頭を斜《はす》にしてゐた。 テス・ダアビフィールドの癖もこれだつた。彼女は顳[需|頁;#1-94-06]《こめかみ》を乳牛の横腹に押しつけ、 ぢつと瞑想に耽つてゐる人のやうに、その眼を牧場のずつと端に向けてゐた。 こんな風にして、彼女はオールド・プリッティを搾つてゐた。 たま〜太陽が搾つてゐる方に當つてゐたので、淡紅色の長い上衣を纒つた彼女の姿と、 白い埀布のついた帽子と、彼女の横顏をまともに照した。 その横顏は乳牛の焦茶色の素地《きじ》に刻みつけた貝殼浮彫のやうにくつきり浮き上つてゐた。 彼女は、クレアが自分の後を追つて廻つて來てゐることも、彼の乳牛の下から自分を見守つてゐることも更に氣が付かなかつた。 彼女は頭と顏とを少しも動かさずにゐた。或は夢幻の境を辿つてゐて、眼を開けてはゐたが、 物を見てゐなかつたのかも知れない。この一幅の繪の中で、動くものはたゞオールド・プリッティの尻尾と、 テスの淡紅色の手だけであつた。しかもその手は、鼓動してゐる心臟と同じやうに、 まるで反射的な刺戟に從つてゐるかのやうに律動的な脈動となる位ゐおだやかに動いてゐた。 彼にとつてどんなに彼女の顏を愛らしかつたらう。しかも、天女のやうなところは少しもなかつた。 すべては現實の活力であり、現實の温味であり、現實の肉體を持つた神であつた。 そしてその愛らしさの極致を示してゐる所は口元であつた。今までにも彼は、 彼女のやうな深味を有つた物をいう眼は見たことがあつた。恐らく、これ位ゐ美しい頬も、 これ位ゐ美しい弓形の眉も、これ位ゐ形の整つた顎や喉首も見たことはあつた。 が、およそこの地上で、彼女の口元に匹敵するものを、彼は曾つて見たことがなかつた。 眞赤な上唇の中程がちよつと持ち上つてゐる樣子は、殆んど熱のない若い男でも、 心を奪はれ、うつとりさせられ、氣を狂はされるに十分であつた。彼は、雪を一面にいたゞいた薔薇、 といふエリザベス朝の古い譬へを、彼の心にかうまで囁いて何度も思ひ出させるこんな唇と齒並とを、 これまでに見たことがなかつた。彼は、愛人としてなら、即座にこれを完全と呼んだかも知れない。 だがいや -- これは決して完全ではなかつた。快感を生ずるのは、 所詮完全なるものゝ上に不完全なものが加はるからである。 なぜかといへば、この不完全な部分こそ人間味を始めて生ずるもだからである。 クレアは、今迄にも度々この唇の曲線を調べてゐたので、容易にそれを心に思ひ浮べることが出來た。 そして、今それが色彩と生氣とに包まれて再び眼前に現はれたので、それは彼の肌に一種の『アウラ症』を起し、 全身に惡寒を感じ、その爲めむかつきを催すほどであつた。そして、 或る不思議な生理上の作用で、この場合として極めて氣の利かない嚔《くさめ》を起させた。 彼女はやがて、彼が自分を見守つてゐるのに氣が附いた。 しかし、妙な夢を見てゐるやうな凝視こそなくなつたが、 體の向きを變へたりして自分が氣のついたことを外に現はさうとはしなかつた。 だが、注意深く見てゐたら、彼女の顏の薔薇色が段々濃くなり、やがてまた色が褪せて、 終には僅かにその痕跡しか殘らないやうになつたことに、たやすく氣づいたに相違ない。 天空から降《くだ》つて來たものゝやうに、クレアの中に入り込んだ刺戟は、少しも衰へなかつた。 決心、沈默、愼み、怖れといつたやうなものは、敗北した軍勢のやうに、退いてしまつた。 彼は自分の席から跳び上つた。そして乳桶を、 乳牛が蹴返したければ蹴返すがまゝに捨てゝ置いて素早く自分の眼の求めてゐた方へ進み、 その側へ膝を突いて、兩腕の中にひしと彼女を抱きすくめた。 彼女は全く不意を打たれて、反省する暇もなく、不可抗的に、彼の抱擁に身を任せた。 寄つて來た者は紛れもない自分の戀人で、他の誰でもないことを知ると、 彼女の唇は綻《ほころ》びた。そしてその瞬間、喜びの餘り狂氣の叫びに似た聲さへ上げて、 彼に崩れかゝつた。 彼は今にも、餘りに誘惑の強い彼女の口に接吻しようとした。 が、感じ易い良心の爲めに、彼は自分を押し止めてしまつた。 「許して下さい、ね、テス!」と彼は耳打ちした。「僕は許しを受けておくべきだつたんだ。 僕は -- 自分で何をしてるのか分らなかつた。でも、氣紛れにこんな事をする氣はないのです。 僕は全く君に心を捧げてゐるんです、テッシイ!ね、ほんとに眞心からです!」 この時、オールド・プリッティは呆氣に取られて周圍を見廻した。 そして、自分の憶えてゐる習慣では、一人しかゐなかつた筈の自分の腹の下に、 二人の人間が蹲《うづくま》つてゐるのを見ると意地惡く拗ねて後足を擧げた。 「牛が怒つてゐますわ -- 私逹が何をしてゐるか分らないもんだから -- 乳桶を蹴返してしまふかも知れませんよ!」 と靜かに彼の手から身を離さうと努めながら、テスは叫んだ。彼女の眼は牛の動作を氣にしながら、 心には更に深く自分とクレアとに奪はれてゐた。 彼女は擦り拔けて、その席から起ち上つた。そして、男は未だに彼女を抱いたまゝ、 二人は一緒に立つてゐた。遙かの彼方を見入つてゐるテスの兩眼には、涙が溢れかけて來た。 「何故君は泣くの、ねえ君?」と彼は言つた。 「あゝ、私何故だか分りませんの!」と彼女は呟いた。 今どういふ位置に自分がゐるかをはつきり感じて來るにつれ、彼女の心は亂れて、 體を退《ひ》かうとした。 「ねえ、僕は到頭、本心を見せてしまひましたよ、テス、」と彼は言つて、妙に捨鉢な溜息を洩らした。 それは、彼の熱情が、理智を飛び越してしまつたことを無意識に示してゐた。 「僕が -- 強く、心から君を愛してゐるといふことは、今更言ふまでもないことだ。 でも僕は -- いやこれでやめて置かう -- 君を苦しめるだけだ -- 君も驚いたでせうが、 僕もまた驚いてゐる。僕が君のどうにも出來ないところへつけ込んだと -- あんまり早計で無反省だと、思つてはくれないでせうね、えゝ?」 「いゝえ -- 私、何とも言へませんわ。」 彼は、彼女の望むまゝにその體を離した。それから一二分も經つと、銘々又乳搾りに取りかゝつた。 誰もこの二人が一つに引き寄せられたのを見たものはなかつた。また二三分してから、 搾乳場の主人が、衝立を立廻してあるやうな其處の片隅を見廻りに來た時には、 恐ろしく離れてゐるこの二人の者が、今はもうお互にとつてたゞの知り合ひ以上のものであつた -- といふ事を現はす痕跡など何一つなかつた。だが、クリックが、この前にこの二人を見てから後に、 彼等二人の天性には、宇宙の地軸をも變化させるやうな事が起つたのであつた。 若し主人がそれがどういふ性質のものかを知つたならば、實際的な男として、これを卑しめたかも知れない。 しかもそれは世間の所謂實際的な事柄を全部積み上げたのよりも、 遙かに頑強な不可抗的な性向に基いて存在するものであつた。 面紗《ヴエール》は拂ひ退《の》けられてしまつた。これから二人の限界には、 新しい水平線が開ける事になつた -- たとひしばらくの間にしても、或は長い間にしても。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十五 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- クレアは、自分の心を捉へてしまつた女が、もう部屋へ退いたので、 落着けない氣持になつて、夕暮が迫つて來ると戸外の薄闇の中で出て行つた。 夜の矢張り日中と同じやうに蒸暑かつた。暗くなつてから草原の上へでも行かなければ、 少しも涼しくはなかつた。街道も、夜の小徑も、家の正面も、裏庭の塀も、 煖爐のやうに温まつてゐて、眞晝の温氣《うんき》を、この夢遊病者のやうなクレアの顏へ反射した。 彼は搾乳場の裏庭の東の門に腰を下した。そして、自分はどう考へていゝのか分らなかつた。 實際その日は、感情の爲めに、分別が抑へつけられてしまつたのである。 三時間前に急に抱擁し合つてから、二人は別れたきりであつた。 彼女は不意に起つた事の爲めに口を利く力も無くなり、殆んど仰天したやうに思はれた。 又一方彼の方では、今日の事件が異常で、意外で、しかも見事に自分の思ふやうになつたので、 何となく落着いてゐることが出來なかつた -- 彼は生れつき深く考へ込む性質ではあつたが、 胸騷ぎのするのを禁ずることが出來なかつた。彼にはまだお互ひの本當の關係や、またこれから先、 第三者の前でお互ひにどんな態度を示したらよいかといふことが、殆んど分つてゐなかつた。 エンヂェルは、もと〜、此處で送る一時の生活は、自分の一生涯から見れば、 直ぐ過ぎ去つて早くも忘られてしまふほんの一插話に過ぎないものだといふ考へで、 この搾乳場へ弟子入りして來たのであつた。恰も屏風で仕切られた部屋の一廓から面白い外の世界を靜かに眺めて、 ウォルト・ホイットマンと一緒に -- 常の扮裝《よそほひ》なせる男女の群、 げに珍らしくも汝《なれ》、我が眼に映るよ! と呼びかけながら、改めてその世界へ躍り入る計畫を取り決めることの出來る場所へやつて來たやうなものだつた。 しかも、どうだ、その面白い場面はもう此處へ移されてゐたのであつた。 嘗つて心を惹き附ける世界であつたものは、もう興味のない外界の默劇と化してしまつた。 だが、この見たところ陰氣くさい生氣のない場所に、 これまで何處へ行つても彼の身に一度も起つたこともないやうな珍らしい事件が俄然火山のやうに爆發した。 家の窓々は何れも開け放してあつたので、クレアは庭越しに、部屋へ引つ込んで行く人逹の些細な物音まで一々聞くことが出來た。 極めて粗末な、取るに足らないこの家 -- 彼から見れば何處までも假りの宿にすぎないのであるから、 これまではこのあたりの風景の中で、 特に何か特色のあるものとして踏査するほど大切な建物とは決して思つてゐなかつたその搾乳場、 今それはどういふものとなつたか?古い、苔蒸した煉瓦の破風は『停まれ!』と小聲で囁いた。 窓は微笑み、扉は甘言を弄して差し招き、蔦葛《つたかつら》は一緒になる氣があるやうに顏を赧らめた。 この屋敷内にある一つの人格の及ぼす影響は、煉瓦にも、漆喰にも、 蔽ひかゝる大空全體にも擴がつて、燃え立つやうな熱情でかういふものを感動させるほど深いものだつた。 この偉大な人格とは、抑も何人のであつたらうか?一人の乳搾り女のに過ぎなかつた。 彼にとつて、この邊鄙《へんぴ》な搾乳場の生活がどんなに重大なものとなつて來たかは、 實に驚くばかりであつた。そしてこれは半ば新しく芽生えた戀愛の爲めであると考へられない事もないが、 全然その爲めのみともいへなかつた。獨りエンヂェルばかりでなく多くの人々は、 生活の偉大さはその外部の變化に依るものであることを知つてゐた。感受性の強い農夫は、 感じの鈍い厚皮種族の國王よりも、一層立派な充實した劇的な生活を送つてゐる。 こんな風な見方をしてゐるので生活は、此處でも他處《よそ》と同じ大きさのものに見える筈であると彼は悟つた。 異端説を持つてゐて、缺點もあり弱點もある、がそれにも拘はらずクレアは、良心のある男であつた。 テスは決して玩具《おもちや》にされ、やがて投げ棄てられてもいゝやうな取るに足らない女ではなく、 貴い生活 -- 彼女自身としては苦しむにしろ樂しむにしろ、 彼から見ると最も力強い者の生活と同じ大きさを持つてゐる生活を送つて行く女であつた。 テスにとつて、全世界はその感じ方次第でどうにでもなつた。テスには、自分が生存してゐるからこそ、 同胞の悉くが存在してゐるのであつた。宇宙さへも、彼女にとつては、 自分の生れた特別な年の特別な日に現はれるやうになつたものに過ぎない。 彼が突き留めたこの意識こそ、同情のない『造物主』が始めてテスに與へた生存のたゞ一つの機會だつた -- それが彼女の一切であつた。あらゆる、また唯一の機會でもあつた。かう思つたとき、 彼はどうして彼女が自分よりも身分の低いものだと見做したり、愛撫してみたり、 また飽けば捨てたりするのに都合のいゝたゞ綺麗な玩具《おもちや》と考へたりすることが出來よう。 また、彼に分かつてゐる通り、彼女の心に自分が目覺ましてやつた熱情 -- 抑へてはゐるが實は熟しきつてゐる、 觸れゝばはぢけさうになつてゐる -- を、それを持て餘して、苦しんだり、一生の破滅を導いたりすることのないやうに、 出來るだけ眞面目に汲み取つてやることがどうしていけないだらうか? これまでのやうに毎日彼女に會ふことは、芽の出かゝつてゐるものを益々生長させることに相違なかつた。 こんなに親しい關係で暮してゐると、會ふといふことは直ちに相思の仲になることだつた。 木石でもない限り、それに抵抗するわけには行かなかつた。そして、かういふ勢ひが何處に赴《おもむ》くかに就いては、 これといふ結論にも辿りつけなかつたので、彼は差し當り、 二人がお互ひに助け合つてするやうな仕事から離れてゐようと決心した。 まださほどの迷惑も被《かうむ》らしてはゐなかつたのだから。 しかし、全然彼女に近寄るまいといふ決心を實行に移すのは、容易なことではなかつた。 彼は脈搏の打つ毎に、彼女の方へ引き摺られるのだつた。 彼は、近しい者たちのところへ、出掛けて行かうと考へた。 行つて見れば、このことに就いての彼等の意中を、探ることが出來ないとも限らなかつた。 後五ヶ月足らずで、此處でも修業期間は終つてしまふ、それから他の農場で猶ほ二三ヶ月を送つたならば、 十分に農業上の智識も身に具《そな》はり、獨り立ちで仕事が始められるやうになるであらう。 農夫には妻の必要はないだらうか、また農夫の妻は、客間の蝋人形のやうなものであるべきだらうか、 それとも立派に農業上のことを會得してゐる女であるべきだらうか? 彼は默つてゐても滿足な答へが得られたにも拘はらず、尚ほも出掛けて行かうと決心した。 或る朝のこと、タルボセイズの搾乳場で、皆が朝飯の席に就いたとき、乳搾り女の一人が、 その日はクレアがちつとも姿を見せないと言ひ出した。 「それやさうさ、」と主人のクリックは言つた。「クレアさんは、 二三日お家の人逹と暮す爲めにエミンスタアの實家へ歸られたんだ。」 食卓を圍んで心を躍らせてゐた四人の者にとつては、朝の光は忽ち消え、鳥もその歌をやめてしまつた。 だが、どの娘も言葉や擧動にその狼狽さを現はしはしなかつた。 「間もなくわしのところにゐる期限もしまひになるから、」と主人は殘酷に聞えるとは氣づかず、 かう冷淡に附け足した。「だからね、何處か他處《よそ》へ行く目論見をしてゐなさるだらうよ。」 「まだどれ位ゐ此處にゐらつしやるんでせうか?」と悲觀しきつてゐるこの仲間のうちでも、 たゞ一人顫へ聲など出さないで質問が出來ると思つたイズ・ヒュウエットが訊ねた。 他の者は、自分たちの命が主人の答へ一つに懸つてゞもゐるかのやうに、待ち受けてゐた。 レッティは、唇を開けたまゝ、テーブル・クロスを瞶《みつ》めてゐた。 マリアンは、生れつきの赭ら顏を更に上氣させてゐた。テスは胸をどき〜さして戸外の方を見遣つてゐた。 「さうさな、控へ帳を見ねえことにや、はつきりした日は思ひ出せねえよ、」依然として、 人を焦らせるやうな平氣な樣子でクリックは答へた。「また、その日だつてちつとは變るかも知れんよ。 藁置場で少し牛のお産のことを習ふんで、屹度まだ此處にゐらつしやるやうになるだらう。 先づ今年の暮頃まではゐらつしやるだらうな。」 彼と一緒に暮してゐて味ふ苦しいやうな嬉しい戀の惱み -- 『苦しみの帶をしめた樂しみ』の四ヶ月餘りの月日。 その後の言ひ難い夜の闇黒。 その朝、丁度その刻限に、エンヂェル・クレアは、エミンスタアにある父の牧師館に向つて、親切な傳言と一緒に、 クリックの妻君から兩親へ贈られた黒臘腸《ブラツク・プデン》を少しと蜜糖水の瓶との入つた小さな籠を出來るだけ注意しながら携へて、 此處の朝餐をしてゐる者たちから十哩も距《へだ》たつてゐる小徑を馬で走らせてゐた。 彼の前には白い小徑が延びてゐて、彼はそれに眼を落してゐた。だが、その眼はぢつと來年を瞶めてゐたので、 小徑を見入つてゐるのではなかつた。自分は彼女を愛してゐる。彼女と結婚するのが當然だらうか? 思ひきつて結婚してしまつたとしたら?母親や兄逹は何といふだらう?結婚後二年も經つたら、當の自分が何といふだらう? それは、この一時の感動の奧に確かな親しみの芽生えが潛んでゐえうか、 又その感動はたゞ彼女の容姿に對する官能的の喜びに過ぎないもので、 永續的な根柢は更にないものか、その何れかできまるのであつた。 父親の住まつてゐる、丘陵《をか》に圍まれた小さな町や、テュードル朝式(十五世紀から十七世紀に亙る間の英國の建築樣式) の赤い石で出來た教會の塔や、牧師館に近い立樹の林などが、終に眼の下に見えて來た。 彼はよく知つてゐる門の方へ馬を進めて行つた。自分の家へ入る前に教會の方をちよつと見ると、 法衣室の扉の傍に、大方誰か他の者を待つてゐるらしい、十二から十六歳位ゐまでの一群の娘たちが立つてゐるのを見た。 間もなく、縁《へり》の廣い帽子を被り、よく糊のついた白麻布の朝着上衣《モーニング・ガウン》を着、 本を二册手に持つて、學校通ひの娘たちより幾らか年長らしいその待たれてゐた人の姿が見え出した。 クレアは、彼女をよく知つてゐた。彼は先方が自分を見附けたかどうか、確かには分らなかつたが、 なるたけ見附けないでくれゝばいゝと思つてゐた。別に非の打ちどころのある女ではなかつたけれども、 わざ〜近寄つて行つて、言葉をかけるのが面倒だつたから。彼女に挨拶することがひどく厭だつたので、 彼は先方でも自分を見附けなかつたことに勝手に決めてしまつた。この若い令孃は、マアシイ・チャントといつて、 父親の隣人でもあり友人でもある人の獨り娘で、彼を他日彼女と結婚させたいといふのが、 彼の兩親の内々の希望であつた。彼女は信仰萬能論や聖書の講義にかけては熱心な女で、 丁度この時も明らかに講義に出て行くところであつた。クレアの心は、フルウム盆地の情熱に富み、 夏の大氣に浸り切つたやうな無信仰者たちの方へ、乳牛の糞で粧《よそほ》ひしてゐる薔薇色の顏へ、 そのうちでも取り分け情熱に富んだ一人の者の方へ飛んでゐた。 彼がエミンスタアへ來ようと決心したのは、急の思ひ附きだつたので、前以て手紙で母親や父親に知らしては置かなかつた。 だが、彼等がまだ教區のお勤めに出掛けない朝飯の刻限に行き着かうとは思つてゐた。 豫定よりも少しばかり遲れたので、彼等はもう朝餐の席に就いてゐた。彼が入つて行くや否や、 食卓についてゐた一同は跳び上つて彼を迎へた。居合わせた人々といふのは、 彼の兩親と、兄のフェリックス師 -- 隣りの郡内の或る町の副牧師で、二週間以内の豫定で歸省してゐた -- と、 それから劍橋《ケンブリツヂ》大學から長期の休暇で歸つてゐる、古典學者で、彼のゐる分科大學の特別校友で、 また主席になつてゐるもう一人の兄カスバアト師であつた。母親は、縁《へり》なし帽を被り、銀縁の眼鏡をかけてゐた。 それから父親は、如何にも彼らしい樣子をしてゐた -- 眞摯な敬神の人らしく、何處となく痩せ衰へた六十五位ゐの年恰好で、 蒼白いその顏には、深慮と決意の皺が刻まれてゐた。一同の頭上には、エンヂェルの姉の肖像畫がかゝつてゐた。 この家の一番年上の子供で彼よりは十六の年長の、或る宣教師と結婚して阿弗利加へ行つてゐる姉であつた。 老クレア師は、こゝ二十年の間に、現代生活から殆んど落伍してしまつた型《タイプ》の牧師だつた。 ウイクリッフや、フスや、ルウテルや、カルヴィン(以上四人とも英獨彿諸國の熱心な宗教改革者)などの直系の精神主義者の後裔で、 福音派中の福音派であり、改宗勸誘者でもあり、生活も思想も使徒らしい質樸な人で、 まだ極く若い時に今までになかつた深酷な人生の問題に當面して自分の考へをすつかり決めてしまひ、 それからといふものは、かういふ問題に就いて、それ以上の論議を挾《さしは》さまうとしなかつた。 思想上では、同時代または同派の人々からさへ、彼は極端と見られてゐた。それだのに一方では、 全然彼に反對の人々も、何處までもその志操を變じない彼の態度や、主義を實行に移す力を十分に持つてゐて、 その主義に關して湧いて來る疑義を一切捨てるに當つて示した顯著な偉力に對して、 心ならずも嘆賞しないではゐられなかつた。彼はタルサスのポールを愛し、聖ヨハネを好み、 そして勇氣のある限り聖ジェイムズ(以上三人とも基督教の使徒)を憎み、ティモシー、タイタス、フィルモン (以上三人とも基督教の信者)を、愛憎相半ばした氣持で見てゐた。『新約聖書』は彼の考へに從ふと、 基督の書といふよりも、ポールの書のやうに思はれた -- それは議論といふよりも、 寧ろ法悦の叫びであつた。彼の宿命論の信條は惡徳といつてもいゝ位ゐ著しいものであつた。 また實際にその消極的な方面では、 ショオペンハウヘルやレオパルデイの説とも一味相通ずる一種の絶望の哲學といつてもいゝ位ゐであつた。 彼は宗規や禮拜規定を卑しみ、三十九箇條(宗教上の儀禮についてきめた箇條)を愚弄し、 そして始終その態度を一貫させてゐると信じてゐた -- 或る意味では實際さうだつたかも知れないが、 たゞ一つのことだけはたしかにさうだつた -- 眞摯だつたといふことは。 息子のエンヂェルが、近頃フルウムの盆地で經驗してゐた自然の生活や水々しい女性に對する耽美的な、 官能的な、異端的な快樂に對しては、たとひ研究や又は想像力でそれを理解することが出來たとしても、 彼の氣質は少からぬ嫌厭を感じたに相違無かつた。曾つて一度エンヂェルは運惡くかつと腹が立つた餘りに、 近代文明を支配する宗教の源が希臘であつて、パレスタイン(基督教の本山)でなかつたら、 人類に遙かに好い結果を齎らしてゐたかも知れない、と父親に向つて言つてしまつた。 すると父親は、ひどく悲しんだ。それは、かういふ説に千分の一の眞理も潛んでゐない、 まして半面の眞理又は全眞理が含まれてゐるなどゝどうして思へるかと言はんばかりの徹底的な悲しみであつた。 彼はその後暫くの間エンヂェルに對して、たゞ嚴肅に説き聞かせただけであつた。だが、もと〜優しい性質の人であつたから、 何事でも長く憤《いきどほ》つてゐるやうなことは決してなかつた。 そして、今日も子供のやうな腹藏のない優しい微笑を浮べて息子を迎へた。 エンヂェルは腰を下ろした。そして如何にも此處が自分の家らしく感ぜられた。 しかし往日《むかし》矢張り其處によく集つた時の一家庭の一人のやうには感ぜられなかつた。 彼は此處へ歸つて來る度に、この疎隔を意識した。そして、最後にこの牧師館の生活を皆と一緒に分つてゐた時以來、 今日はそれがいつになくはつきりする位ゐ、彼自身には性に合はないものゝやうになつた。 その超越的なものゝ考へ方 -- 依然として無意識の裡《うち》に事物に對する地球中心的な考へ方、 つまり天の頂きに樂園があるとか、地の底に地獄があるとかいふ考へ方に從つてゐる -- は、 別の遊星に住つてゐる人間の空想でゞもあるかのやうに、彼自身の考へとは關係の薄いものだつた。 彼は近頃たゞ『人生』ばかりを見てゐた。また叡知が喜んで調節しようと測つてゐるものを、 徒《いたづ》らに沮止しようと企てる信仰箇條なぞに曲げられもせず、歪められもせず、 また束縛もされない、生存の大きな熱烈な脈動ばかりを感じてゐた。 彼等の方から見ると、彼のうちには大きな相違が、以前のエンヂェル・クレアとは大へん隔たりのある相違があつた。 たつた今、彼等が、わけても兄逹が見て取つたのは、主に彼の身裝《みなり》や態度の相違であつた。 彼は百姓じみた擧動をするやうになつてゐた。無暗《むやみ》に脚をぶら〜と動かし、 顏の筋肉もずつと生々して來た。彼の眼は、舌が話すくらゐに、或は、それ以上にものを言つた。 學徒らしい態度は殆んど消えてしまひ、客間に納まつてゐる青年らしい態度は、尚更なかうなつてゐた。 生眞面目屋ならば、彼は教養を失つたと言ふであらうし、また淑女振る女ならば、彼は下品になつたと言ふであらう。 タルボセイズの娘や若者との交際から、こんなにまでもその風を感染したのであつた。 朝飯後、彼は二人の兄たちと散歩に出た。彼等は福音傳道主義者の風もなく、立派に教育を受けた、 非の打ちどころのない青年で、足の爪先までも端正であつた。言ひかへれば組織的教育といふ旋盤から年々産出されるやうな、 申し分ない典型的な人間であつた。彼等は二人とも幾分近視眼で、陽もつきの片眼の鼻眼鏡を掛け、 兩眼の鼻眼鏡を掛けるのが習慣になると、彼等も矢張り兩眼の鼻眼鏡を掛けた。が、普通の眼鏡を掛けるのが習慣になると、 彼等も直ぐ普通の眼鏡を掛けるのであつた。自分逹の視力に、特別、人と違つた缺陷のあることには全く頓着しなかつた。 ワアヅワアスが桂冠詩人に擧げられると、彼等はそのポケット版の本を携へて歩き、 シェリーが重んぜられてゐない時には、その詩集を書架の上に埃りにまみれる儘にうつちやつて置いた。 コレッヂオ(伊太利の畫家)の『聖族』が嘆賞されてゐる時には、彼等もコレッヂオの『聖族』を嘆賞し、 世間がヴェラスクエを襃めて彼の難ずる時には、彼等も更に異存なく、忠實にそれに從つた。 この二人が、エンヂェルが社交上に不適當なものになつて行くのに氣が附いたとするならば、 彼の方では彼等の智力がだん〜制限されて行くのに氣が附いた。彼にはフェリックスは、 教會そのものゝやうに思はれ、カスバアトは大學そのものゝやうに思はれた。 一人には管區宗教會議と聖母訪問祭とが、他の一人には劍橋《ケンブリツヂ》大學が、 世界をも動かすやうに大切な彈條《ばね》であつた。どちらの兄も、 文明社會には大學の者でも教會の者でもない幾億といふ取るに足らない門外漢がゐることを公平に認めてゐた。 だが、それ等の者は、人間として考へたり、尊敬したりするよりも、寧ろ默許して置くべきものと思つてゐた。 彼等はどちらも孝行なよく氣がつく息子で、兩親を訪問することも几帳面に實行してゐた。 フェリックスは、神學説の轉化から見ると、父親よりもずつと新しいところから出た者ではあつたが、 父親に較べては犧牲的精神も稀薄で、それほど廉潔でもなかつた。 それを抱く者にとつては危險となるかも知れないやうな點を持つてゐる反對説に對しては、 父親よりも寛大だつたが、彼の教義を侮蔑するものと見れば、それを父親ほど安々と赦さうとはしなかつた。 カスバアトは、大體に於いてもつと寛大ではあつたが、兄よりも陰險で餘り人情味を持つてゐなかつた。 彼等が丘の中腹を歩いてゐると、エンヂェルには以前の感情 -- 自分と較べて二人が如何なる有利な地位を占めてゐようとも、 二人の中の何れも人生を實際の生活として見てもゐないし、又言ひ現はしてもゐないといふ感情が甦つて來た。 多分多くの人々の場合と同じやうに、二人とも、ものを觀察する機會が、 自分の意見を述べる機會ほどよくないのであらう。 何方《どちら》も、彼等やその仲間を浮べてゐる滑かな靜かな流れの外に働いてゐる錯綜したいろ〜の力に就いては、 十分な觀念《かんがへ》を有つてゐなかつた。何方《どちら》も一局部の眞理と普通んお眞理との相違を見てゐなかつた。 彼等が牧師として、學者として發言の機會を得て、その心の世界に言はせたことは、 外部の世界が考へてゐることゝは全く異つてゐた。 「お前は今となつては農業をするより外に仕方がないんだなあ、」悲しさうな樣子をして、 眼鏡越しに遙かの野面《のづら》を見遣りながら、フェリックスはいろ〜の話をしてゐるうちに、 一番年少の弟に向つてかう言つた。「だから僕逹も、それで好いとして置かなきやなるまい。 だが、僕はお前に特に希望して置くが、出來るだけ道徳觀念を念頭に置くやうにして貰ひたいね。 農業は無論、外部的には思ひ切つた亂暴な生活を送ることだが、それにしても高尚な思索は、 質素な生活と伴つて行けるもんだからね。」 「無論、行けますとも。」とエンヂェルは言つた。「そりや、もう千九百年も昔に證明されたぢやありませんか -- まあ、ちよつと、あなたの領分を侵すことになりますがね?フェリックス兄さん、あなたは、 何故僕が高尚な思索と道徳觀念を捨てゞもするやうに、考へるのですか?」 「それはね、お前からの手紙や、一緒に話してゐるときの調子から考へると -- ほんのちよつとした空想かも知れないが -- お前は、何處か理解力を失ひかけてゐるやうに思つたのだ。 カスバアト、お前、それに氣がつかなかつたかね?」 「ねえ、フェリックス、」と無愛想にエンヂェルは言つた。「僕逹はもうよく理解し合つてゐる仲ぢやありませんか。 僕逹は銘々定められた道を歩いてゐるんでせう。だが理解力といふことになると、 兄さんは一人よがりの獨斷家として僕の理解力なんかを打つちやつて置いて、 御自分のがどうなつてゐるかを調べて見た方がいゝんぢやないかと僕には思はれるんです。」 彼等は丘を下りて食事に歸つて來たが、この食事は、何時といふ定《きま》りはなく、 いつでも教區内の兩親の朝の仕事が濟み次第始まることになつてゐた。 午後の訪問者に對する便宜などは、他人事《 ひとごと》に心を奪はれてゐるクレア夫妻の念頭に、 一番後に入つて來るものであつた。尤もこのことに就いては、三人の子供が擧《こぞ》つて、 少しは近頃の觀念《かんがへ》になつて貰ひたい、と兩親に切望してゐた。 彼等は散歩で空腹になつた。 搾乳場の主婦が幾分不作法に並べ立てた食卓の自宅出來の材料で出來た量の多い料理に慣れた今は、 戸外の勞働者であるエンヂェルには、殊に甚しかつた。だが、老人逹はどちらもまだ歸つてゐなかつた。 そして、子供逹が殆んど待ちくたびれてしまつた時分に、兩親はやつと入つて來た。 自己犧牲の精神に富んだこの夫婦は、自分逹の食慾のことなぞは忘れて、 病氣の教區民の或る者に肉食の食事を薦めてゐたのであつて、つまり、多少矛盾してゐたが、 その病人逹を肉體の中に閉ぢこめて天國へ行かせぬやうにしたのである。 家族の者は食卓に就いた。そして、冷たい質素な食物が彼等の前に置かれた。エンヂェルは、 クリックの妻君から贈られた黒臘腸《ブラツク・プデン》はどうしたのだらうと探し廻した。 彼は、搾乳場で人々がやつたやうに、うまくそれを燒くことが出來た。そして、 彼が親しく味つたやうに、その驚くべき草の風味を兩親にも賞翫して貰ひたいと思つてゐた。 「あ!お前、あの黒臘腸を探しておいでだね、」とクレアの母は言つた。 「でも、理由《わけ》を知つたら、お父さんや私が少しも何とも思はないやうに、 お前もきつとあれが食卓へ出ないといつて殘念がりはしないだらうね。 クリックのお上さんからの親切な贈物は、丁度今、精神錯亂病に罹つて少しも稼いで儲けることが出來ないでゐる人の子供逹に、 持つて行つて遣つてはと私が言ふと、お父さんもさうすれば子供逹には大へんに喜ぶだらうと仰しやるので、 さういふ事にしたんですよ。」 「勿論、」と今度は蜜糖水を探しながら、エンヂェルは快濶に言つた。 「あの蜜糖水は、大さう酒精《アルコール》分が強いので、」と母親は續けた。 「とても飮物としては適しませんよ。が、非常の場合などには、ラムやブランディのやうに貴いものですから、 藥箪笥へ藏《しま》つて置きました。」 「原則として、私逹は、この食卓では決して酒類を飮まないことにしてあるのでな、」と父親は附け加へた。 「だが、搾乳場のお上さんには何と言つたものでせう?」とエンヂェルは言つた。 「無論、事實を言ふのさ、」と父親は言つた。 「僕、實は、蜜糖水も黒臘腸も、みんなで大さう美味しく頂戴しましたと言ひたかつたのです。 あのお上さんは、親切な、愉快な人でしてね、僕が歸つて行くと、早速訊ねるに違ひないんです。」 「實際に味つてゐないものを、さう言ふわけには行かないよ。」と老クレアははつきり答へた。 「如何にも -- その通りです。だが、あの蜜糖水はちよつと乙な代物なんですがね。」 「ちよつと何だつて?」とカスバアトとフェリックスは口を揃へて言つた。 「あゝ -- それはタルボセイズの方で使つてゐる言葉ですよ。」と顏を赧らめながら、 エンヂェルが答へた。人情を缺いてゐる點では間違つてゐても、實行の點では、 兩親の方が正しいと彼は感じたので、それからもう何も言はなかつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十六 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 夕方の家族の禮拜が濟んでから、エンヂェルはやつと、大事の一二の問題を父親に切り出す機會を見出した。 兄たちの背後の敷物の上に跪づいて、彼等の靴の踵についてゐる小釘を見ながら、 その問題を一生懸命に考へてゐたのだつた。禮拜が濟むと兄たちは母親と一緒に部屋を出て行き、 老クレア師と彼自身とだけが後に殘つた。 この青年は、最初に大規模な -- 英國でかそれとも植民地かで農夫としての境涯に入らうとする計畫を、 この老人に切り出した。そこで父親は、エンヂェルを劍橋《ケンブリツヂ》に遣る費用を負はされてゐなかつたので、 他日、土地を購入するなりまたは借地するなりに要する費用に對して、 毎年いくらかづゝ彼の爲めに貯蓄して置くのを自分の義務だと感じてゐた、 彼一人を不當に扱つたと思はれては困るから、と話した。 「世俗的な富といふ點では、」と父親は言葉をつゞけた。「お前は二三年もすれば、 屹度二人の兄たちよりも遙かに上になるに相違あるまい。」 老クレア師のこの思ひ遣りに力を得て、エンヂェルは他のもつと密接な問題へ進んだ。彼は父親に、 自分はどう二十六にもなつてゐるし、農業を始めるからにはあれこれと氣を配る背後の眼が要ることを述べた -- つまり彼が戸外に出てゐる間、家の中にあつて家事上のことを監督する者が必要である。 で、結婚するのがよくはなからうか?といふのであつた。 父親は、この考へを不當な事とは思はないらしかつたので、エンヂェルは問ひかけた -- 「どんな種類の妻が、節儉を主義とする勤勉な農夫の僕に一番似合ふとお父さんはお思ひですか?」 「眞の基督教徒の女だ。さういふ女こそ、戸外《そと》へ出たときも家《うち》にゐるときもお前の助けとなり、 慰安となるだらう。その他のことは、實際どうでも好いことだ。 そんな誂向《あつらへむ》きのものが見附からないわけでもない。 現に私の眞面目な友逹でありまた隣人でもあるチャント博士 -- 」 「だが、何よりも先づ第一に牛乳を搾つたり、精良な牛酪《バタ》を拵らへたり、 素晴らしい乾酪《チーズ》を造つたりすることが出來なくてもいゝでせうか。 牝鷄や七面鳥を巣に就かせたり、雛鳥を孵へさせたり、いざといふ時には、 戸外《そと》に出て雇人たちを指圖したり、羊や犢《こうし》の價を見積ることを知らなくてもいゝでせうか?」 「さうだ。農夫の妻にはな、さうだ、確かにさうだ。さうあつて慾しいものだ。」 老クレアは、これまでこんなことを少しも考へてゐなかつた。「私は今、」と老クレアは言つた。 「純潔な聖《きよ》い女なら、豫《かね》てお前も多少心を動かしてゐた、 お前の友逹のマーシイより以上に、本當にお前の爲めにもなり、 また確かにお前のお母さんの心にも私の心にも叶ふ者はまたとあるまい、と言はうとしてゐたのだ。 なるほど、隣りのチャントの娘も、この頃はこの邊に若い牧師たちを見習つて、聖餐式のテーブル -- 或る日、その娘がこれを祭壇と呼ぶのを聞いて、吃驚《びつくり》したことがあつたが -- を、祭の時、花やその他のもので飾り立てたりするやうになつたのは事實だ。 だが、娘の父親は、そんなくだらないことには私同樣全然反對で、 それは直せることだと言つてゐる。私も、それはほんの娘らしい發作で、 決して永續きするものぢやないと思ふ。」 「さうです、さうです、マーシイは温和《おとな》しくつて、信心家です。 それは僕も知つてゐます。だが、お父さん、チャント孃と同じやうに純潔で、 貞淑な若い女で、しかも今言つた婦人の宗教上の素養の代りに、 農場生活の任務を農夫自身と同樣に辧《わきま》へてゐる者の方が、 遙かに僕には適してゐるとお思ひになりませんか?」 彼の父は、人道に對する使徒のやうな見解に較べれば、農夫の妻としての任務を心得てゐるなぞといふことは、 第二位に來るものだといふ信念に固執して動かなかつた。そこで性急なエンヂェルは、 一方に父親の感情を尊重し、同時に胸に思つてゐる問題を進めようと思つて、 尤もらしい話をするやうになつた。彼は、運命或は神意が、彼の行方に、 農夫の伴侶たるべき資格を何から何まで備へ、また確かに眞面目な氣立の一人の女を投げ與へられたことを話し、 彼女が父親の屬してゐる健全な低教會派の者であるかどうかは別に言はなかつたが、 彼女は、恐らくその點では容易に胸を開いて信仰を受け容れるであらう、 彼女は單純な信仰を有つてゐて、規則正しく教會へ出席もするし、正直で、 感受性が強くて、發明で、或る程度まで淑《しとや》かであり、女神のやうに純潔で、 眉目形《みめかたち》は類《たぐひ》のないほど美しいなぞといふことを話した。 「その娘といふのは、お前が結婚しようとする程の家柄の者なの -- つまり、立派な淑女《レデイ》なのかね?」 二人の話中にこつそりこの書齋に入つて來てゐた母親は、吃驚して訊ねた。 「そりや普通に言はれてゐる淑女《レデイ》ではありません。」とエンヂェルは臆しないで言つた。 「というのは、僕は誇りを感じて言ひますが、その娘は百姓の娘なんです。が、それにもかゝはらず、 淑女《レデイ》です -- 感情でも、性質でも。」 「マーシイ・チャントは、極く立派な家柄の者ですよ。」 「馬鹿々々しい! -- それが何の役に立つんです、お母さん?」とエンヂェルは素速く言つた。 「私のやうに今も將來も荒い仕事をしなきやならない者の妻に、そんな家柄がどんな役に立つでせうか?」 「マーシイはよい躾けが出來てゐるよ。躾けといふものは馬鹿にならないものだからね。」 と母親は銀縁の眼鏡越しに彼を見詰めながら答へた。 「表面の躾けなんかゞ僕にして行かうとする生活にどんな役に立つでせうか? -- だが、あの女の讀書なら僕が自分で導いてやることが出來ます。 あなただつてあれを知ればさう言ふに違ひありませんが、 あれは十分物分りのいゝ生徒に違ひありません。あれの胸には、詩がこぼれるほど一杯に充ちてゐます -- それは實際化した詩です、若しこんな言ひ方が許せるなら。言葉だけの詩人がたゞ筆で書くことを、 あれは實際の生活でやつてゐるんです……また確かに申し分のない基督教徒でもあります。 恐らく、あなたが將に弘めようと望んでゐられる部族や種族や、民族の生れなんです。」 「おゝ、エンヂェル、お前は人を馬鹿にしてお出だね!」 「お母さん、御免なさい。だが、あの女は實際殆んど日曜の朝には何時でも教會に行つて、 立派な基督教徒の少女なんですから、屹度その點に免じて、社交上の常識の足らないところは大目に見て頂けるだらうし、 また僕があの女を選ばなかつたら、却つて惡い事になるだらうと思ひます。」 エンヂェルは愛するテスの、寧ろ機械的な正教主義について、ひどく熱心に述べ立てた。 この信仰こそ(こんなに立派に役に立たうとは夢にも思はなかつた)彼女や他の乳搾りの女たちが、 實行してゐるのを見ては、根本の自然な信仰から考へると、明かな虚僞だといふ理由で、 彼はやゝもすれば輕蔑し勝ちなものだつた。 クレア夫妻は、息子が自分等には未知の女の爲めに要求した正教徒の信仰といふ名稱と對して、 當の息子は、それを要求する資格が幾分でもあるだらうか、といふ暗に疑念に包まれてはゐたものゝ、 少くともその娘が、健全な考へを有つてゐるといふことは、見落とすことの出來ない好都合だと感じ始めた。 わけても二人の結合が、天の攝理で成り立つたものに相違ないから、さう感じ始めたのである。 といふのは、エンヂェルは相手を選擇するのに、正教徒の信者を條件にする譯がないからであつた。 兩親は、最後に、早まつた眞似はしないがいゝと、彼女に會つてみることには異存はないと言つた。 それ故、エンヂェルは、今これ以上細かいことを述べ立てるのは差し控へた。 自分の兩親は、直情的で己れを犧牲にする性質ではあるけれど、なほ中産階級の人々に特有な或る隱れた偏見があつて、 それを征服するには多少の技巧を要すると彼は感じた。何故かと言へば、 法律上では自由に彼の意志通りのことが出來るし、大方兩親からは遠く離れた土地で暮すことになるから、 我が子の妻の資格は、實際には彼等の生活に何の係りもない筈であつたが、 彼は、自分の生涯の最も大事な決定をするに當つて、愛情を重んじて、 彼等の感情を傷つけまいと願つたからである。 彼は、テスが生活の上に現はした意外な出來事を、 恰も拔き差しのならない特色でゞもあるかのやうに尊重してゐる自分の矛盾に氣が附いた。 彼がテスを愛するのは、テスその人を愛するからであつた。つまり彼女の魂を、 彼女の心を、彼女の眞髓を愛するからであつて -- 彼女の乳搾りの技倆や、 彼女の生徒としての機敏な性質や、そして又確かに彼女の單純な形式的な信仰の公言を愛するからではなかつた。 彼女の人摺れのしない、野生のまゝの存在は、それを彼の氣に入るものとする爲めに、 何も世間並みの塗り換へなどをする必要は少しもなかつた。彼は、教育の如きは、 家庭の幸福を左右してゐる情緒や衝動などにまだ殆んど影響を及ぼしてゐない、といふ考へを持つてゐた。 幾時代も經つて行くうちには、段々に進んだ徳育や智育の制度が、 眼に見える程度に、恐らくは著しい程度に、人間の性情の自發的なまた無意識でさへある本能を向上させることには、 多分なるだらう。だが、今日までのところでは、教育の力も、彼の知る限りでは、 その影響を蒙つた人々の精神の表皮だけを動かしたに過ぎないと言つて差支へない。 この信念は、女に關する彼の經驗によつて愈々確かなものとなつた。彼の經驗では、 近頃では教養のある中流階級から田園社會にも擴がつて行つたので、 同一の社會層或は階級の善人と惡人とか、賢者と愚者とかの差異に較べると、 一社會層の善良で賢明な女と、他の社會層の善良で賢明な女との間にある差異が、 本質的にはどんなに少ないものであるかを、彼に教へた。 彼が出發しようとする朝のことであつた。兄たちはもう牧師館を立ち去つて、北の方に向つて徒歩旅行を續けてゐた。 それから、一人は自分の大學へ、他の一人は自分の教會へ戻ることになつてゐた。 エンヂェルは、彼等と一緒に行けば行けないことはなかつたけれども、 それよりはタルボセイズの戀人と一緒になる方が好ましかつた。若し一緒について行つたにしても、 彼は一行のうちで氣まづい思ひをしなければならなかつたに違ひない。 といふのは、彼は三人のうちで一番眼の肥えてゐる人道主義者であり、 一番理想的な宗教家であり、又、一番精通してゐる基督學者でさへあつたが、 本質は四角だのに、それを入れる爲めにと準備してくれたのは圓い穴で、 元より適《かな》ふ筈はないといふ疎々《うと〜》しさが、 始終意識の中に働いてゐたからである。彼は、フェリックスにもカスバアトにも、 テスのことを敢へて話さうとはしなかつた。 母親は、彼にサンドウイッチを拵へてくれた。そして父親は、牝馬に乘つて少し先まで送つて來てくれた。 自分の方の要件は可なりのところまで進めて置いたから、エンヂェルは父親と木蔭の小徑を一緒にゆつくり進んで行く間、 父親が宗務の面倒なことや、自分では親しみを見せてゐるのに冷淡な態度をとる仲間の牧師たち -- 彼等が有害なカルヴィン風の教義と信じてゐる主義に照らして、 自分が『新約聖書』を嚴重に解釋するからといつて示す冷淡な態度のことなどを説明するのを、 快く默つて聞いてゐた。 「有害だと言ふのだよ!」と胸のすくやうな輕蔑の調子で老クレア師は言つた。 そして、そんな考へが馬鹿げてゐることを明かにするところの經驗談を、事細かに語り始めた。 彼は、たゞ貧乏人の間のみでなく、富んだ裕《ゆた》かな暮しをしてゐる者の間の惡人逹も、 彼が機械となつて力を貸してやつた爲めに、不思議にも改宗したといふ話をした。 と同時に彼は、僞はるところもなく、いろ〜な失敗をも認めてゐた。 後者の一例として、四十哩ほど先のトラントリッヂの近くに住んでゐるダアバァヴィルといふ若い成り上りの地主の場合を擧げた。 「キングスビアやその他の土地を所領してゐたダアバァヴィルといふ舊家の一人ぢやないんですか?」 と息子は訊ねた。「それ、あの四頭馬車をかゝへてゐたといふ幽靈話の傳はつてゐる、 あの妙な歴史附きの零落した一族の?」 「いや、違ふよ。正統のダアバァヴィル家は六十年か八十年前に衰へて、絶えてしまつたのだ -- 少くとも、私はさう信じてゐる。今言つたのは、新しく起つた一家で、 その名前だけを使つてゐるらしいのだよ。あの昔の騎士《ナイト》一族の名譽の爲めに、 私はどうか彼等が贋物であつてくれゝばよいと思ふがね。 が、お前から舊家といふものに興味のある口吻《くちぶり》を聞くのは可笑しいな。 お前はこの私ほどそれを重んじてゐないとばかり思つてゐた。」 「あなたは僕を誤解してゐますよ、お父さん、度々のことですが、」 とエンヂェルは少し焦れつたさうに言つた。「政治的には、 僕が彼等が舊いといふことの價値を疑ひます。彼等の間にあつてさへも聰明な者は、 ハムレットがいふやうに、『己が世繼《よつぎ》に反對』します。 が、抒情詩的には、また演劇的や歴史的には、僕は彼等に懷しい愛着を感じてゐます。」 この區別は、決して微妙なものではなかつたが、それでも老クレア師には微妙すぎて、分らなかつた。 そこで彼は先刻から述べようとしてゐた物語を續けた。その話といふのは、かうだつた -- 普通にダアバァヴィルと言つてゐる先代の歿《な》くなつた後、後繼者《あとつぎ》の青年は、 盲目の母親を抱へてゐたから、餘り無鐵砲なことは出來なかつた筈だのに、 最も憎むべき亂行を振舞つてゐた。たま〜その地方へ傳道に行つてゐると、 老クレア師は青年の品行のことを聞き知つたので、大膽にも機を見て、この懶怠者《なまけもの》に、 精神上の状態について、正面から説き聞かせようとした。彼は、他人の説教壇を塞いでゐる外來者ではあつたが、 かうするのが自分の義務だと感じて、説教の題目には、路可《ルカ》傳の言葉を用ひた -- 『汝、愚なるものよ、汝の魂は今宵汝より召さるゝならん!』すると例の青年は、 この眞正面の攻撃をひどく憤り、二人が面接すると激しい舌戰を鬪はして、 牧師の老齡白髮をも一向意とせずに、公然と老クレア師を侮辱するに躊躇しなかつたとの事であつた。 エンヂェルは、痛々しく思つて顏を赧らめた。 「ね、お父さん、」と彼は悲しさうに言つた。「そんな無頼の徒から、 必要のない苦痛を受ける爲めに身をお曝《さら》しにならなければいゝと思ひますよ。」 「苦痛だつて?」と父親は、皺に刻まれたその顏を、克己の熱情に輝かせて言つた。 「私にとつてたゞ一つの苦しみは、あの可哀さうな愚かな若者のことを思つての苦しみなのだよ。 あの青年の激昂すた言葉が、また打《ぶ》たれてさへも、少しの苦痛でも私に與へるとお前は思ふのかい? 『罵らるゝ時は祝し、窘《せ》めらるゝ時は忍び、譏《そし》らるゝ時は勸《すゝめ》をなせり。 我等今に至るまで、世の汚穢《けがれ》また萬《よろづ》の物の塵垢《あか》の如し。』 コリント人に賜はつたこの舊い氣高い言葉は、今の場合でも飽くまでも眞理だよ。」 「まさか打ちは、お父さん?その青年は打ちはしなかつたでせう?」 「うん、打《ぶ》ちはしなかつたよ。醉つ拂つて狂氣のやうになつた男から打たれて、堪へたことはあるが。」 「まさか!」 「そりやもう幾度も〜だ、お前。ところでどうだ?私はさうやつて、 我と我が肉と血を殺してしまふ罪から彼等を救つたのだよ。それで彼等は生きながらへて、 私に感謝し、神を稱《たゝ》へるやうになつたのだよ。」 「お話のその青年も、どうかさうあつてくれますとね!」とエンヂェルは熱心に言つた。 「だが、あなたのお話から判斷すると、さうは行かないやうに思はれますね。」 「それでも、尚ほさうあることを願ふよ、」と老クレア師は言つた。 「そして、恐らく、もうこの世であの男と再び會ふことはあるまいが、私はあの男の爲めに、 永久に祈つてやるよ。が結局、あの私のつまらん言葉の一つでも、何時かはあの男の胸に、 良い種のやうに芽を出さんとも限らないからな。」 何時もさうだが、今もクレアの父親は、子供のやうに信じ易くなつてゐた。 そして息子は、父親の褊狹な獨斷を受容れることは出來なかつたが、その實行を尊敬し、 この敬神家の底に英雄を認めないではゐられなかつた。テスを自分の妻としようとする問題が起つてゐるのに、 父親は彼女が富裕であるか、それとも一文なしか糺《たゞ》さうなどゝたゞの一度も思ひつかなかつたのを知つて、 今彼は父親の實行を、これ迄よりも一層尊敬したのであつた。この同じ脱俗的な性質があればこそ、 エンヂェルを農夫として生計を立てさせるやうに餘儀なくし、また恐らくは、彼の兄たちを、 活動の出來る間でも貧しい牧師の地位に甘んじさせて置くのであらう。 しかもエンヂェルは、依然としてそれを崇拜した。實際エンヂェルは、自分が異端の説を抱いてゐながら、 往々、人間としては兄たちの何れよりも自分は父親に近いと感ずるのであつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十七 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- ぎら〜する眞晝の大氣に浸りながら、丘を上り谷へ下りして二十餘哩の遠乘りをした後、 彼はその日の午後、タルボセイズから一二哩西に離れた丘に着いた。 彼は其處から又しても水氣の多い濕潤な緑の盆地、ヴァール又はフルウム河の谷間を見下した。 高地から下方の肥沃な沖積土層下り始めると、すぐに周圍の空氣は重々しくなつて來た。 そこを夏の果實や、霞や、乾草や、花などの恍惚とさせる芳香が、 大きな香氣の溜池にしてしまひ、その時刻になると、動物や、蜂や、蝶にまでも睡氣を誘つてゐるやうに見えた。 クレアは、今ではその土地によく馴れ親しんでゐたから、牧場に點在してゐる乳牛を長い距離を隔てゝ見てさへ、 それ等の一頭々々を名指すことが出來る位ゐであつた。此處で、學生時代には全く知らなかつた態度で、 人生をその内側から見る力が出來たことを知つて、彼は得意の念を禁じ得なかつた。 また彼は、元より兩親を深く愛してはゐたが、歸省生活の經驗を味はつた後で、かうして此處へ歸つて見ると、 副木《そへぎ》や繃帶をかなぐり捨てゝしまつたやうに感ぜずにはゐられなかつた。 といふのは、タルボセイズには土地の大地主といふものがゐないので、 英吉利の田園生活ののんびりした氣分を抑へるたゞ一つのお定《きま》りの拘束さへ、 この土地にはなかつたからである。 搾乳場には、戸外《おもて》に人の姿も見えなかつた。人々は、 夏になると非常に早起きをするので、是非とも必要とされてゐた一時間かそこらの、 いつもの午睡を樂しんでゐたのであつた。門口《かどぐち》には、木箍《きたが》のはまつた乳桶が、 幾度となく洗ひ擦《こ》すられたので、水氣ばんで、白ちやけたまゝ、 その爲めに特に其處に据ゑられてゐる皮を剥いだ槲《かし》枝の又の上に恰も帽子掛のやうにかゝつてゐた。 何れも皆、夕方の乳搾りに早速使へるやうに用意され、乾かしてあつた。 エンヂェルは中へ入り、家のひつそりした廊下を通つて裏口の方に行き、 其處で暫らくの間聽き耳を立てた。同じやうな鼾《いびき》が、 男逹の幾人か横になつてゐる荷車小屋から聞えて來た。 暑さに苦しんでゐる豚のぶう〜きい〜唸る聲が、もつと遠くの場所から起つて來た。 葉の大きな大黄や、甘藍《キヤベツ》もまた眠りこけて、その廣いぐにや〜になつた葉の表を日光に曝したまゝ、 恰もすぼめかけた傘のやうに埀れ下げてゐた。 彼は馬具を外して、馬に飼草《かひば》を與へた。そして、再び家の中へ入ると、 丁度時計が三時を打つた。三時といへば、午後のクリーム掬《すく》ひの時刻だつた。 クレアは、時計の打つ音と同時に、頭の上で床板の軋《きし》るのを聞き、また降りやうとして、 梯子段に足の觸れる音を聞いた。それはテスの足音で、次の瞬間には、 もう彼女は自分の眼の前に下り立つてゐた。 彼女は、彼の入つて來るのを聞かなかつたので、其處に彼がゐようなどゝはてんで思つてゐなかつた。 彼女は缺伸《あくび》をしてゐるところだつた。そして彼は、 蛇の口でゞもあるかのやうな眞紅《まつか》なその口の内部《なか》を見た。 彼女は片方の腕を、編み束ねた髮の毛の上まで逹するほど高く伸ばしたので、 日燒けしてゐる部分よりも上の繻子のやうな滑らかな肌を見ることが出來た。 顏は午睡の爲めに上氣し、瞼《まぶた》は瞳孔《ひとみ》に重く蔽ひ被さつてゐて、 彼女らしい特質が溢れるほど彼女から發散してゐた。それは、まさしく女の魂が他のどんな時よりも肌身に移り映え、 その最も精神的な美がいやが上にも自づと肉を暗示し、また性そのものが、 外へ向つて自然と現はれる瞬間であつた。 やがて兩の眼は、まだ顏の隣り近所がすつかり覺め切らない中に、先づ膜のやうな重い隔りを通してきら〜と閃めいた。 喜びと、恥かしさと、驚きと一緒に搗《つ》く交ぜた妙な眼差で、彼女は叫んだ。 「あら、クレアさん!何んて吃驚させるの、私を -- 私は -- 」 最初彼女には、彼が戀を打ち明けたのをきつかけにして二人の關係は變つてゐたといふ事に思ひ到るだけの猶豫はなかつた。 が、一番下の梯子段の方へ進んで來るクレアの優しい表情に出會ふと、テスの顏には、 二人の間柄が一切呑み込めたといふ氣持が浮んで來た。 「可愛い、可愛いテッシイ!」と彼は、腕を彼女に廻し、顏を彼女の上氣した頬に押し當てゝ、囁いた。 「お願ひだから、もうこれからは僕をさんづけで呼ばないでくれ、僕は君故に、 大急ぎでこんなに早く歸つて來たんだよ!」 テスの感じ易い心臟は、彼のそれに動悸を傳へて、答への役を果した。そこで二人は、 入口の赤煉瓦の床の上に立つた。彼がしつかりと彼女を胸に抱いてゐると、太陽は窓から斜めに射し込んで、 彼の背中を、彼女の傾《かし》げてゐる顏を、顳[需|頁;#1-94-06]《こめかみ》の青い靜脈を、 素肌の腕を、それから襟首を、頭髮の内部《なか》までを照らした。着物を着たまゝ寢てゐたので、 彼女は日向ぼつこをしてゐた猫のやうに温かつた。最初彼女は、眞面《まとも》に彼の顏を見上げようとはしなかつたが、 間もなく、その兩の眼は見上げた。それで彼の眼は、時には緑に、時には黒く、時には灰色に、 また時には黄色にと輝く小纖維がある爲めに、絶えず表情の變化する彼女の瞳孔《ひとみ》の深さを測つた。 その間に彼女の方では、二度目に眼を覺ましたイヴがアダムを見詰めたやうに、彼をぢつと眺めてゐた。 「私、クリーム掬《すく》ひに行かなくつちやならないの、」と彼女は言ひ出した。 「私、興はデップ婆やだけしか手傳ひがないんですの。お上さんは旦那と一緒に市場へ行つてしまつたし、 レッティは加減が惡いし、他の者は何處かへ行つてゐて乳搾りの時までは、屹度歸つて來ますまいから。」 二人が牛乳庫の方へ退いた時、デボーラ・ファイアンダーが梯子段の上に現はれた。 「僕、歸つて來たよ、デボーラ、」とクレアは上へ向つて言つた。 「だから、テスのクリーム掬《すく》ひを手傳つて遣れるよ。 それに、屹度お前も疲れてゐるだらうから、乳搾りの時間まで、下りて來なくつていゝよ。」 恐らくその午後、タルボセイズの牛乳は、十分には掬《すく》はれなかつたに相違ない。 テスは夢心地に浸つてゐて、親しく見馴れてゐるものが、光や影や位置は具《そな》へて眼に映つたが、 ちつともはつきりした輪廓がなかつた。彼女は、掬《すく》ふ用意に先づ杓子を冷さうと思つて喞筒《ポンプ》の下へ差し出したが、 その度に、手がぶる〜と顫へた。彼の愛情の熱度が素晴らしく露《あら》はなので、 餘り烈しい陽の光を受けた時の植物のやうに、彼女はその熱を受けて恐れをなしてゐるやうに思はれた。 やがて彼は、再び彼女をひしと小脇に引き寄せた。そして彼女が、 クリームの隅を切り取る爲めに鉛の噐《うつは》の内側を人差指で掻き廻してしまふと、 彼は口で嘗めてその手指を綺麗にしてやつた。何故と言へば、タルボセイズ搾乳場の自由な風習が、 今の場合、都合がよかつたからである。 「何時言ふのも同じだから、今言つてしまはう、ね、」と彼は穩やかに再び言ひ出した。 「極く實際的な問題を君に話したいんだよ。そりや、先週牧場でのあの日からずつと僕は考へ續けて來てゐることなんだ。 僕は遠からず結婚したいんだ。僕は農夫なんだから、ねえ。農場を整理することを一切心得てゐる女を妻に慾しいんだよ、 君はその女になつてくれないかね、テッシイ?」 彼は、自分の理性が承認しないやうな一時の衝動に負けたのだとは彼女に思はれたくないやうに、 この話をして行つた。 彼女はすつかり惱ましさうな樣子に變つた。彼女は、近接する事から生ずる避けることの出來ない結果に、 つまり彼をどうしても愛するやうになる結果に屈服してゐた。が、こんなに不意に續いて起つた必然の結果を、 豫測してはゐなかつた。實際、クレアとてもこんなに早く話さうなぞといふ積りはなかつたが、 つひ彼女に打ち明けてしまつたのであつた。骨身が崩れるかとも思はれるやうな烈しい苦しみを感じながら、 彼女は立派な女となつて、その避け難い、またきつとした答への言葉を囁いた。 「あゝ、クレアさん -- 私、あなたの奧さんなぞにはなれませんわ -- 私、どうしてもなれません!」 自分できつぱりした答へをして置きながら、その語調は、テスの心臟を破裂さすやうに思はれ、 彼女は悲しくなつて顏を俯向《うつむ》けた。 「だが、テス!」と、彼女の答へに吃驚して、一層彼女の體を貪るやうに固く抱き締めながら、彼は言つた。 「君はいやと言ふ積りかね?本當に、君は僕を愛してゐるのかね?」 「えゝ、ゐますとも、ゐますとも!世界中の誰のものとなるよりも、 一番あなたのものになりたいんです。」苦しんでゐる娘の美しい、正直な聲はかう答へた。 「でも、あなたと結婚することはどうしても出來ません!」 「テス!」と彼は、腕を差し伸べて彼女を支へながら言つた。「君は誰か他の者と婚約があるんだね!」 「いゝえ、いゝえ!」 「ぢや、どういふわけで僕を拒むの?」 「私、結婚したくはないんです!結婚するなんてことはまだ考へたこともありません。 私、とても出來ません!たゞ私、あなたを愛してゐたいだけです。」 「だつて、何故?」 愈々問ひ詰められて、言ひ拔けをしなくてはならなくなつて、彼女は口籠つた -- 「あなたのお父さまは、牧師さんでせう。そいて、あなたのお母さまは、 あなたが私風情の女と結婚するのをお厭《いや》がりでせう。お母さまは、 あなたを淑女《レデイ》と結婚させたいんでせう。」 「馬鹿言つちやいけない -- 僕は、兩親にも話してあるんだよ、僕が故郷《うち》へ歸つたのも、 一つはその爲めだつたんだ。」 「私、出來ないやうに思ひます -- とても、とても!」と彼女は繰り返した。 「餘り急だつたかね、こんな風に申し込むのは、え?」 「えゝ、そんなこと思ひも寄りませんでした。」 「若し君が後のことにしてくれといふなら、ねえ、テッシイ。暫らくの猶豫をして上げるよ、」と彼は言つた。 「此處へ歸つて來るなり、いきなり君に話してしまふなんて、僕も恐ろしく無茶だつた。もうこのことは、 暫らく何も言ふまい。」 彼女は再びきら〜輝くクリーム掬《すく》ひを取り上げ、喞筒《ポンプ》の下へ差し出して、 新たに仕事にとりかゝつた。だが彼女は、いくら試《や》つてみても、以前のやうにこの仕事に必要な巧妙な手際で、 クリームのすぐ下側を打つことがどうしても出來なかつた -- 時には、牛乳の中へ突つ込んでしまつたり、 また時には、空を切つたりした。彼女は、もう殆んどものが見えなかつた。それは、 悲しみの爲めに湧いて來る二滴の涙が眼にたまつて、視線をくもらしたからである。 何で悲しいのか、彼女は、これをこの一番親しい友、また懷しい相談相手にも決して打ち明けることは出來なかつた。 「掬《すく》へない -- 掬《すく》へない!」と彼女は彼から顏を背《そむ》けながら言つた。 もうこの上彼女の心を騷がし、仕事を妨げまいとして、思ひ遣りの深いクレアは、 もつとあり觸れたことを話し出した -- 「君は全く僕の兩親を、誤解してゐるんだよ。世の中に生きてゐる人のうちで、 一番質朴で、まるつきり野心なんかない人間だよ。今ぢや僅かしか殘つてゐない福音派の中の二人なんだ。 テッシイ、君は福音派ぢやないかね?」 「私、知りません。」 「君は几帳面に教會に行くね。そして此處の牧師はあの高教會《ハイ・チヤーチ》の主義はとらないと聞いてゐるが。」 毎週その説教を聽いてゐながら、テスが此處の教會の牧師の意見に就いて抱いてゐる觀念《かんがへ》は、 全然その人の話を聽いたことのないクレアの觀念《かんがへ》よりも、寧ろぼんやりしてゐるやうであつた。 「私、あそこで聽くことを、今までよりももつとしつかり考へることが出來ればいゝと思ふの、」 と彼女は、當り障りのないことを言つた。「それが出來ないんで、私大變悲しくなることが時々あるの。」 彼女はちつともわざとらしくなく話したので、エンヂェルは、たとひ彼女はその主義が高教派なのか、 低教派なのか、それとも廣教派なのか知らなくつても、宗教上の立場から、父親が彼女に反對することは出來ないだらうと、 心の中で確信した位ゐであつた。彼自身では、實際には彼女が抱いてゐる、明らかに子供の時分に吹き込まれたと見える、 まとまりのない信仰が、どつちかといへば、語法の分類からいへば、トラクタリアン派 (十九世紀の初め、オックスフォードに起つた宗教運動。英國教會の一派)であり、 また、本質からいへば、汎神論的であることを知つた。それを亂さうなぞとは、彼の思つても見ないことであつたのだ -- 汝、その妹をそのまゝに置け、妹が 祈るとき、 その幼心に描く天國を、その樂しい 夢を また汝、それとなく諷刺などして亂 すなかれ おだやかなる日を送る生活をば。 彼はしば〜この忠言を、音樂的である割合ひに、餘り正直でないやうに思つて來た。 だが、今彼は喜んでこれに從つた。 彼は尚ほ今度の訪問中の出來事とか父親の生活振りとか自分の主義に對する彼の熱意などに就いて話した。 彼女はだん〜落着いて來て、クリーム掬《すく》ひからはその顫へも消え去つた。 彼女が次々に一つづゝ鉛の噐を濟まして行くと、彼はその後から、ミルクを吐かす爲めに詮を拔いて歩いた。 「私、入つていらつしやつた時に、あなたは少し鬱いでゐるやうに思ひました。」 自分に關する話題から遠ざかつてゐたいので、彼女は思ひ切つて、こんなことを言つた。 「さうだらう -- 實はね、父からいろ〜父の身にからまる心配事や、厄介事をうんと聞かされてね。 こいつは、何時も僕を惱ます問題なんだ。父は非常に熱心家だから、自分と考へ方を異にしてゐる人逹からは、 いろ〜とひどい扱《あし》らひや鐡を受けるんだよ。で僕は、あんな老人がそんな屈辱を受ける話は聞きたくないんでね。 とりわけ、眞面目もそこまで行つたんぢや、ちつとも爲めにならないと思ふと尚更なんだよ。 ついこの頃父が關係した、極めて不愉快な場面のことを僕に話したんだがね。 或る傳道團體の代理になつて、此處から四十哩ばかり離れた處で、トラントリッヂの近くへ説教に行き、 何處かその邊で、放埒な若い破廉恥漢に出會つたんで、職務上忠告したんださうだよ -- 何でもその邊のさる地主の息子だつて話だが盲目のお袋があるつていふ事だ。僕の父は、 その紳士に眞正面からぶつつかつて行つたんで、ちよつと騷動が持ち上つたんだよ。 實際父は、無益だつてことが分りきつてゐるのに、見ず知らずの者に押しつけがましく忠告するなんて、 下らん事をしたもんだと僕は思ふんだ。だけど父はね、自分の義務と思ひ込んものは、たとひ何であらうと、 時宜に適してゐようがゐまいが、屹度するんだよ。で、ほんとの惡人といふ連中の間にばかりぢやなく、 煩《うる》さい思ひをさせられるのが嫌ひな、のんきで氣樂な連中の間にまで大勢敵を作るんだからね。 さういふ辱めを受けて置きながら、きまつて父は光榮だと言ふんだよ。また、 それが間接には何かの爲めになるだらうとも言つてゐるんだ。が、僕はだん〜老衰して行く父に、 そんなことをして體を擦り減らして貰ひたくはない。そんな豚共は、好き勝手にごろつかせて置きやいゝと思つてるんだ。」 テスの表情は、だん〜暗くなり、生氣がなくなつて來て、赤いふつくらした口も、 痛々しげに見えた。だが、彼女はもう少しも顫へを見せなかつた。父親のことが、再び自分の心に戻つて來たので、 クレアは、テスに格別注目してはゐなかつた。かうして二人は、液體の入つた幾つもの長方形の桶の眞白い列に、 それからそれへと移つて行き、やがてすつかり終り、空けてしまつた。丁度その時、 他の乳搾り女逹が歸つて來て乳桶を取り上げた。そしてデッブは、新しい牛乳が詰められるやうに、 鉛の鑵を湯で洗ふ爲めにやつて來た。テスが乳牛のゐる牧場へと立ち去る時、 彼は優しく言つた -- 「それで、僕のことは、テッシイ?」 「あら、駄目です -- 駄目です!」アレク・ダアバァヴィルのことは話されてゐるうちに、 自分の過去のいざこざを新たに聞いたので、彼女は悲しい絶望に襲はれてかう答へた。 「私、とても出來ませんわ!」 彼女は他の乳搾り女逹に加はつて、自分の悲しい氣づまりを外氣で拂ひ除けようとでもするやうに、 牧場の方へ急いで行つた。娘逹の一團は、野獸のやうな大膽な樣子でひたすら -- 無限の空間に慣れ切つてゐる女の、向う見ずな、自由な動作 -- 波に漂ふ水泳者のやうに、 大氣の中に身を任せたといふ態度で -- ずつと遠い牧場で乳牛が草を食つてゐる處へとだん〜近付いて行つた。 今テスが再び現はれて、『人工』の殿堂からではなく、自由|無礙《むげ》な『大自然』から仲間を選ぶのは、 彼から見るといかにも自然な事のやうに思はれた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十八 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 彼女から斷られようとは夢にも思つてゐなかつたものゝ、その爲めにクレアは、 いつまでも弱つてはゐなかつた。女に對する彼の經驗は、 往々拒絶も承諾の前提に過ぎない場合があるといふことに氣付く程度には廣かつた。 が、狹いといへば可なり狹いもので、今度の拒絶の仕振りには、 羞恥の爲めの躊躇とは大へん違つたものがあることを見分けることが出來ない位ゐであつた。 彼女が既に彼から言ひ寄られるまゝになつてゐたといふ事をその確實さに力を添へるものと彼は解釋してゐた。 しかも田園や牧場では、『無報酬で戀の役をつとめる』(シエークスピアの「ハムレット」中にある句) ことも決して無駄と考へられてはゐない、何故かといへば、此處では、言ひ寄ると、 野心家逹の娘が身を固めたいとばかり願つてゐるので、 その爲め情熱だけを目的《めあて》とする健全な考へが麻痺してゐる、 いやに世間|體《てい》を氣にして暮す土地でよりも、一層屡々出鱈目にまた言ひ寄られるだけの甘い歡樂の爲めに、 色より返事にありつくからである -- といふことを十分知らなかつた。 「テス、何故君は、あんなにはつきり『いゝえ』と言つたんだね?」と彼は二三日經つてから彼女に訊ねた。 彼女はぎよつとした。 「聞かないで下さいね。何故だかは、私あなたに言ひましたわ -- 幾らか。 私ははいといへる程よい女ではないんです -- その資格のない者なんです。」 「どうして?立派な淑女《レデイ》ではないといふのかね?」 「えゝ -- まあそんなところです、」と彼女は囁いた。「あなたのお家の方々は、私を輕蔑なさるでせうよ。」 「實に、君はあの人逹を誤解してゐるよ -- 僕の父や母を。兄たちなんか、どうでも構はないんだ -- 」 彼は滑り拔けられないやうに、彼女の背中で指を握り合はせた。「ねえ -- 心ぢやさういふつもりぢやないんだらう、 ねえ? -- 屹度さういふつもりぢやないと思ふんだ!君がすつかり不安にさせてしまつたんで、 僕は本を讀むことも遊ぶことも、何もすることが出來やしない。僕はちつとも急いぢやゐないがね、テス、 たゞ知りたいんだ -- 君のその熱い唇から聞きたいんだ -- 君が何時か僕のものになつてくれるつていふことをね -- 何時でも君の好きな時でいゝんだ。が、何時かはなつてくれるかね?」 彼女はたゞ頭を振り、彼から眼を背けることしか出來なかつた。 クレアは彼女をぢつと見詰め、顏の表情を、恰もそれが象形文字でゞもあるかのやうによく吟味した。 拒絶は本當らしく思はれた。 「ぢや、僕はかうして君を抱いてなんぞゐちやいけなんだ -- ね、さうだらう?僕は君に對して、 何の權利も有つてはゐないんだ -- 君のゐる處を探し歩いたり、君と一緒に歩いたりする權利は少しもないんだ! 正直に言つてくれ、テス、君は誰か他の男を愛してゐるのかね?」 「どうしてそんな事がお聞きになれますの?」と彼女は何處までも自分を抑へて、言つた。 「君にそんなことがないつてことは、僕もほゞ承知してゐる。だが、それでは、 何故君は僕を拒絶するんだね?」 「私あなたを拒絶はしませんわ。私は、あなたに仰しやつて頂きたいんです -- 私を愛するつて。 そして私と一緒に歩いてゐる時、何時でもさう仰しやつて下すつて、いゝんですわ -- 決して、私の氣に障るやうなことはないんですの。」 「だが、僕を夫とすることは、とても出來ないつていふんだね?」 「えゝ -- それは別のことです -- それもあなたの爲めを思ふからですわ、本當にあなた! あゝ、私の言ふことを信じて下さい、たゞあなたのお爲めを思ふからなんです! 私はそんな風にして、あなたのものになる約束を結んで、 自分に大きい滿足を與へたくはないんですの -- 何故つて -- 何故つて、私そんなことは出來ないんですもの。」 「でも、君は僕を幸福にすることだらう!」 「あゝ -- ほんとに、さうお思ひでせう、でもあなたは知らないんですわ!」 今のやうな時には、彼女の拒絶の根據が、 社交上のことも禮儀のことも少しも辧《わきま》へないからといふ愼ましい彼女の心づかひからであると思ひ込んで、 彼は何時でも、君は驚くほどひろ〜の事を知つてゐる、多藝多才の女《ひと》だ、と始終口癖のやうに言つた -- それは、確かに間違つてはゐなかつた。彼女は、生來の敏感さと彼に對する崇拜とから、彼の用語を、彼の語調を、 また彼の智識の斷片を、驚くべき程度に聞き覺えたからである。かうした優しい論爭と自分の勝利の後では、 彼女は何時でも一人で、若し乳搾りの刻限ならば一番遠くにゐる乳牛の下へ、 若しまた暇な休みの時間ならば菅《すげ》の叢《くさむら》の中へ、 又は自分の部屋へ入つて行つて、表面では冷靜な拒絶をして置きながら一分と經たないのに、 默つて悲嘆に涙に暮れるのであつた。 内心の鬪爭《もだえ》は非常に激しかつた。そして彼女の心は、どこまでも強く彼の心の方に傾いてゐた -- 二つの燃える心は一つの哀れな小さい良心に叛抗してゐるやうに -- ので彼女は、 力の及ぶ限りいろ〜な手段を用ひて、自分の決心を護らうとした。 彼女は固い決心をして、タルボセイズに來たのであつた。 何も知らずに自分と結婚した爲めに後日その夫たる人に辛い悔恨をさせるやうな踏み出しには、 どんなことがあつても、彼女は同意する譯には行かなかつた。 自分の心が公平で又良心がかうと決心したものは、今でも破毀してはいけない、といふ考へを彼女は抱いてゐた。 「何故誰かゞ、私の事情を一切あの人に話してくれないのかしら?」と、彼女は言つた。 「たつた四十哩しか離れてゐないのに -- どうして此處まであの噂が屆かないんだらう? 誰かしら知つてゐるに違ひないのに!」 が、誰も知つてゐる者はないやうだつた。また誰一人、彼に語り聞かせる者もなかつた。 二三日の間は、それ以上何も言はれなかつた。彼女は、部屋仲間の者たちが自分がたゞのお氣に入りといふだけでなく、 選ばれた女と見做してゐるのをその顏色から推察した。けれども、自分が彼の望むまゝになつてゐないといふ事も、 自づと彼女たちにも知れないではゐなかつた。 テスは、自分の生命《いのち》の綱が、 明らかな快樂と明かな苦痛といふ二つの股《こ》でこれほどはつきり綯《な》ひ合はされてゐた時を、 今まで決して知らなかつた。次の乾酪《チーズ》造りの時、彼女とクレアはまた二人きりになつた。 主人も手傳つてはゐたが、その妻と同じやうに、この頃になつて二人の關係を嗅ぎつけたらしかつた。 尤も二人は、非常に周圍に氣を配つて歩いてゐたので、その疑ひもほんの微かなものに過ぎなかつたことは言ふまでもない。 が、兎に角、主人は彼等を二人きりにさせた。 彼等は後になつて、桶へ入れるやうに、先づ凝乳の塊りを碎いてゐた。 この仕事は、大仕掛けにパンを碎くやうなものであつた。そして一點汚れのない純白な凝乳の中で、 テス・ダアビフィールドの兩手は自然薔薇色の淡紅《ピンク》色に輝いた。 エンヂェルは一掴みづゝ桶の中へ入れてゐたが、急にそれを止めて兩手を彼女の兩手の上へ平らに載せた。 彼女の袖は、肱のずつと上までまくし上げてあつたので、彼は低く屈んで彼女の柔かい腕の内側の靜脈へ接吻した。 九月初旬の天候は蒸し暑かつたけれども、彼女の腕は凝乳の中に浸つてゐたので、 彼の口には丁度採り立ての蕈《きのこ》のやうに冷たく濕《しめ》りつぽく感ぜられ、 そして乳精の味がした。だが彼女は、まるで敏感な神經の束のやうなものだつたから、 觸られると急に脈動は昂《たか》まり、血液は指の先までも傳はつて、冷たかつた腕もほてつて來た。 それから『これ以上に躊躇する必要があるか?男と男の間と同じやうに、男と女の間であつてもまた、 眞實は眞實だ、』とその心臟が言ひでもしたかのやうに、彼女は眼を上げた。その眼差は優しく、 半ば笑つて唇を動かしたとき、一心に彼の眼に注がれた。 「何故僕があんなことをしたか分るかね、テス?」と彼は言つた。 「私を大へん愛して下さるからでせう!」 「さうだよ、それから新しい頼みの前置きとしてだよ!」 「もうこれつきり言はないで下さい!」 彼女は、抵抗力が自分の僞らぬ慾求に打ち潰されてしまひはしないかと、急に氣づかふやうに見えた。 「おゝ、テッシイ!」彼は續けた。「君が、何故さう氣を揉ますのか、僕にはさつぱり分らない。 何故僕をさう失望させるのだね?君はまるで媚女《コケツト》のやうだ。確かにさう見える -- 町でも一流どころの媚女《コケツト》のやうだ!あいつ等は、丁度君がするやうに氣紛れで、 風向きが分らないんだ。しかも、タルボセイズのやうな僻地でそれを見ようとは、 思ひがけなことだ……だが、ねえ、」と、今の言葉がどんなに彼女の心を傷つけたかを知つて、 彼は急いで附け加へた。「僕は、君が、およそこの世で最も正直な、 一點も疵《きず》のない女だつていふことを知つてゐるよ。だから、僕がどうして君を浮氣女だなんて思ふことが出來よう? テス、見たところ、君は僕を愛してゐるらしんだが、それが本當なら、 何故僕の妻になるつていふ考へを厭がるのかね?」 「私はその考へが厭だなんて言つた覺えは、一度もありませんし、 またそんなこと言へつたつて言へませんわ、何故つて -- そりや本心ぢやありませんもの!」 今はもうとても堪へられなくなつて、彼女の唇は戰《おのゝ》いた。そして、 彼女は逃げ出さずにはゐられなくなつた。クレアはひどく苦しみ、困惑してしまひ、 彼女を追つかけて廊下で捉へた。 「言つてくれ、言つてくれ!」彼は自分の手が凝乳だらけになつてゐるのも忘れて、興奮し、 彼女を抱きかゝへながら言つた -- 「是非言つてくれ、君は僕以外の誰のものにもならないつてことを!」 「言ひます!、私言つてしまひます!」と彼女は叫んだ。「そして御得心のいくお答へを致します、 若し今離して下さるなら。私の經驗をお話しします -- 自分のことを何も彼も -- 一切のことを!」 「君の經驗を。よし、承知した。どれほどでも。」彼は彼女の顏を覗き込みながら、 氣持のいゝ皮肉を言つて承諾した。「僕のテスは、屹度、あそこの庭の生垣に、 今朝初めて咲いた晝顏と殆んど同じ位ゐ澤山の經驗を有つてゐることだらうね、 何でもお話し、が、僕に相應《ふさは》しくないなんて、馬鹿氣た言ひ方はもうよして貰ひたいね。」 「えゝ、心掛けますわ -- しないように!それから私の理由《わけ》をお話しゝませう、明日 -- 來週。」 「ぢやどうだらう、日曜頃では?」 「えゝ、日曜に。」 到頭、彼女はその場を立ち去つた。そして、全く誰からも見られない屋敷のうちの、 わけても低い側にある梢の刈り込まれた柳の茂みの中へ退いてしまふまで、 一度も立ち止らなかつた。此處でテスは、恰も寢床の上でもあるやうにかさ〜鳴る葦の下生《したばえ》の上に體を投げ出し、 烈しい苦悶を續けて、何時までも蹲つてゐた。がその苦悶は、どうふ結果になるか氣遣ふ心配すら、 全然靜めることの出來ない時々に湧いて來る歡喜の爲めに、亂されるのであつた。 實際、彼女は承諾の方へ卷き込まれて行つた。彼女の呼吸の一|吐《はき》一|吸《すひ》は、 血液の一波一動は、耳の中で止つてゐる鼓動といふ鼓動は、本能と一緒になつて、 彼女が狐疑逡巡《こぎしゆんじゆん》してゐるのに向つて放つ叛抗の聲であつた。向う見ずに、 考へなしに彼の申し出を受け容れてしまひ、何んにも打ち明けず、分つたらそれまでといふ事にして、 祭壇の前で彼と手を繋いでしまひ、苦痛といふ鐡の齒が閉ぢて、入れなくならないうちに爛熟した快樂を貪り取れ -- それが戀の教へるところだつた。そして殆んど恐ろしいまでの歡喜に浸つて、テスは、こんな風に悟つた。 幾月も幾月も、淋しく自分を責めたり、將來は嚴肅に孤獨を守つて行かうと努力したり、 思案したり、又計畫したりしたとて、結局戀の教へるところが勝利を得ることだらう、と。 午後の時間は、どん〜經つて行つたが、彼女はまだ柳の茂みの中に立つてゐた。 彼女は叉《さすまた》のついてゐる掛臺から、乳桶をがら〜と取り下ろす音や、 乳牛を集める時に起る『うおゝ -- うおゝ』といふ聲を聞いたが、 彼女は乳搾りに出ては行かなかつた。皆は自分のそわ〜してゐる姿を見るに違ひないだらうし、 主人は又、その原因がたゞ單に戀の爲めだと合點して、好人物らしく自分にからかふであらう。 そしたら、自分はその當惑に堪へきれないであらう。 彼女の愛人は、彼女の昂奮し過ぎた状態をそれと察して、姿を現はさないことに對し、 何とか口實を設けてくれたに相違なかつた。何故かといへば、別に彼女は尋ねられもしなかつたし、 また呼ばれもしなかつたから。六時半になると太陽は空に据ゑられた大きな熔鐡爐のやうな輝きを呈して、 地平線に沈んで行つた。そして程なく、一方には、竒怪な、南瓜のやうな月が登つた。 始終刈り込みをされて、自然の形態をすつかり歪められてゐる梢を刈られた柳は、 その月にくつきり浮き上ると、針の頭髮をした怪物と化した。彼女は屋内に入つて、 燈火《あかり》なしで二階へ上つた。 それが丁度水曜日であつた。木曜日となつた。そしてエンヂェルは、 遠くから彼女を考へ深く眺めてゐたが、決して押しかけては來なかつた。 マリアンを始め、他の住込みの乳搾り女たちは、何かしらはつきりした話が始まつてゐると推察してゐるらしかつた。 といふのは、寢室でも彼女たちは、彼女に強ひて何の話も仕掛けなかつたから。 金曜日は過ぎ、土曜日が來た。明日は約束の日であつた。 「私は負けてしまふかも知れない -- 『はい』と言つてしまふかも知れない -- あの人と結婚してしまふかも知れない -- 私の力では、それをどうすることも出來ない!」 その夜彼女は上氣した顏を枕に押しつけ、他の女たちの一人が、眠つてゐながら吐息の中に彼の名を呼ぶのを聞いて、 嫉妬を感じながら喘いだ。「私以外の誰かにあの人をやるなんて、そんなこと私には我慢が出來ない! でも、これはあの人を誤まることだ。そして、あの人があのことを知つたら、悶え死になさるかも知れない! あゝ、どうしよう、この胸 -- あゝ -- あゝ!」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:二十九 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 「ところで、今朝わしは誰の噂を聞いたと皆は思ふかな?」搾乳場主のクリックは、 翌日朝飯の席についたとき、むしやむしや食つてゐる男たちや女たちを、 謎を掛けるやうな眼付で見廻しながら、言つた。「さあ、ちよつと誰のことだと思ふかな?」 一人が當てゝ見た。それから次が當てゝ見た。クリックの妻君は當てゝ見なかつた。 といふ譯は、彼女はとつくに知つてゐたからである。 「實はね、」と主人は言つた。「あのだらしねえ父なし子のジヤック・ドロップのことなんだ。 彼奴《あいつ》め、この頃或る寡婦《ごけ》と一緒になつたんだ。」 「まさか、ジヤック・ドロップがね?ひどい奴ねえ -- まあ考へて見ると!」と乳搾り女の一人が言つた。 この名前は、すぐテス・ダアビフィールドの意識の中へ入つて來た。それは、自分の情婦を裏切つて、 後になつてその若い女の母親に、攪乳噐の中で手酷い目に會はされた男の名前だつたからである。 「それで、男は約束通り、あの元氣な母親の娘と結婚したんですか?」エンヂェル・クレアは、 身分が立派だからといふ意味で、クリックの妻君の爲めに何時でも追放されて行つてゐる小さいテーブルに靠《もた》れて、 今まで讀んでゐた新聞紙をめくりながら、何の氣なしに訊ねた。 「とこrがそうぢやないんでさあ。彼奴《あいつ》はそんな氣なんかちつともなかつたんで、」と主人は答へた。 「今言ひますが、相手は寡婦《ごけ》さんなんですよ。女には金がありましてね、何でも -- 年に五十磅《ポンド》かそこいらの收入らしいです。で、彼奴《あいつ》の狙つたのは、それだけなんでさあ。 二人は大急ぎで結婚しちまつたもんです。それから女は、結婚した爲めに年に五十磅の收入がなくなつたつてことを、 彼奴《あいつ》に話したんでさあ。これを聞いた時の、彼奴の心ん中を、まあちつと考へて見て下せえ! それからといふものア、彼奴逹がやつてきた犬と猿の寄り集まりみてえな暮し方ア、何處にありませう! 彼奴アいゝ氣味でさあ。だが、可哀さうに、困つたなアその女で、貧乏籤|抽《ひ》いたちう譯でさあ。」 「本當に、その女は馬鹿だよ。死んだ亭主の幽靈が祟るかも知れないつて、 もつと早く言つて置けばいゝものをねえ、」とクリックの妻君は言つた。 「うん、うん、」主人は何方《どつち》つかずに答へた。「それにしても、その前後の事ア見え透いてゐらあな。 あの女は世帶《しよたい》が持ちたかつたんだよ。だから、まかり間違つて彼奴に逃げられちや大變と思つたんだ。 まあ、そんなやうにや思はなねえかな、おい女たち?」 彼は、娘たちの並んでゐるところを見渡した。 「二人が式を擧げに教會へ行くちよつと前に、つまり相手がどうしても身が退けなくなつた時に、 打ち明けて置けばよかつたんだに、」とマリアンが叫んだ。 「さうよ、さうすればよかつたんだわ、」とイズが合槌を打つた。 「相手の下心を見拔いてゐたに相違ないわ。だから、斷るのが本當だつたんです、」とレッティが急に力味《りきみ》返つて言つた。 「それからお前はどう思ふかな?」と主人はテスに意見を求めた。 「私、その女は -- 相手に本當の事情を打ち明けてしまふか -- でなかつたら、 斷るのが本當だと思ひますわ -- 私には分りませんが、」牛酪《バタ》つきのパンを咽喉《のど》につかへさせたまゝ、 テスは答へた。 「それを何方《どつち》でもする位ゐなら、死んでしまつたがいゝだよ、」 百姓家の一軒から來てゐる亭主持ちの手傳人ベック・ニッブスが言つた。 「戀と戰爭には何をしたつていゝんだ。私なら、その女の通りに結婚するよ。そして、 自分で話したくない前の亭主ことを何んによらず前以つて言はなかつたからつて、 相手がとやかく言はうものなら、麺棒で打《ぶ》つたたいて遣りますよ -- あんなひよろ〜の小男なんぞ! どんな女だつて、その位ゐのことは出來ますよ。」 この冗談に續いて笑聲が起つたが、テスはほんの申し譯の爲めの悲しい微笑をそれに補つたゞけであつた。 皆には喜劇に思はれるものも、彼女には悲劇であつた。そして皆の暢氣なのが、堪へられなかつた。 彼女は間もなく食卓から起ち上り、自分の後にクレアも從いて來るだらうと思ひながら、 曲りくねつた小徑を、或は灌漑用の溝の片側へ、或は他の側へと歩を運んで行つて、 やがてヴェール河の本流の側に突つ立つた。男たちが、ずつと上流の方で水草を刈つてゐた。 そしてその塊 -- その上に乘れば殆んど乘れたかも知れないやうな緑の毛莨《うまのあしがた》の浮島が、 彼女の傍を漂ひ流れて行つた。草の長い房は、乳牛の渉《わた》るのを防ぐ爲めに打ち込んである杭に引つかゝつた。 さうだ、そこにその苦痛《くるしみ》があるのだ。一人の女が身の上話をするといふこの問題 -- その女自身には最も重い十字架である -- が。他の人逹には單に慰みとしか思はれないのだ。 それは恰も、人々が殉教者の行ひを見て嘲ろ笑ふかのやうであつた。 「テッシイ!」といふ聲が、彼女の背後から聞えて來た。そしてクレアが溝を跳び越え、彼女の足下へ下り立つた。 「私の妻 -- 直ぐにね?」 「いえ、いえ。私、出來ませんわ。あなたの爲めに。あゝ、クレアさん。あなたの爲めに、 私はいえと言ひます。」 「テス!」 「私、矢つ張りいえと言ひます!」と彼女は繰り返した。 彼はこんな答へを豫期してはゐなかつたから、聲をかけたすぐその後で、 彼女の埀れ下つてゐる頭髮の眞下と思はれる腰に輕く腕を廻してゐたのだつた。 (若い乳搾り女たちは、テスもその一人であるが、 日曜日の朝には教會へ行くことゝて髮を特に高く結び上げる前に一旦それを解くのである。 そしてそのまゝ朝飯を食べるのだつた。その結び方は、頭を乳牛に押しつけて、乳搾りをするには不向きだつた。) 若し彼女が『いえ』の代りに『はい』と言つたら、彼は必ずテスに接吻したに相違なかつた。 言ふまでもなく、彼はさうする心算《つもり》だつた。が、彼女の斷乎とした拒絶は、 控へ目がちな彼の心を引き止めた。同じ家に住んで、親しくしてゐるといふ境遇の爲めに、 厭《いや》な時にも面《かほ》を會はさなければならないので、彼女は女として非常に不利益な立場に立たされてゐた。 從つて彼は、假に彼女が自分からもつと離れてゐて、自分を避けることが出來るものとしたら、 堂々と用ひたかも知れない甘言をこの場合弄するのは、彼女の弱味につけ込むやうなものだと感じた位ゐであつた。 彼は一時捉へてゐた彼女の腰を放し、接吻するのを差し控へない譯には行かなかつた。 『いえ』『はい』は、全くこの手を放すか放さないかで決るのであつた。 今何が彼の申し出を斷る力を彼女に與へたかといへば、たゞ主人が語つたあの寡婦の話だけであつた。 そしてその力は、ことによると、次の瞬間には抑へつけられてしまつたかも知れない。 が、エンヂェルはもう何も言はなかつた。彼は、顏に困惑の色を浮べて、その場を立ち去つてしまつた。 日毎に二人は顏を合はせた -- 以前よりは幾分度數が少なくなつたが。かうして、二三週間は經つてしまつた。 九月も末になると、彼女は相手の眼n中に、また言ひ寄つて來るらしい氣勢《けはひ》を知ることが出來た。 今度の申し出の手順は、前のとは變つてゐた -- 恰も彼女の拒絶は、 結局たゞその申出の竒拔なのに面喰つてゐる若さと羞恥の結果に過ぎないと、 彼は心に決めてしまつたやうであつた。その問題が話題にのぼつてゐる時に見せる相手の一時の言ひ拔けは、 この考へを尤もと思はせた。そこで彼は、もつと女の心を唆《そゝ》るやうな方法を用ひ、 決して言葉以上に進んだ振舞ひはすることなく、つまり抱擁などを繰り返さうとはせずに、 出來るだけ言葉の上で骨折つた。 かうしてクレアは執拗に、しゆう〜音を立てゝ迸り出る牛乳のやうに低い調子で彼女を口説いた -- 時には乳牛の横腹で、時にはクリーム掬《すく》ひの折に、又時には乾酪《チーズ》造りの場合や雛を孵してゐる家禽の間で、 又は仔を生む豚の間で -- どんな乳搾り女とても、これほどまでに男に口説かれた例《ためし》はなかつたやうに。 テスは自分が負けてしまふに相違ないと知つた。以前のアレクとの關係には道徳的な力があるといふ宗教的の考へも、 正直になりたいといふ良心の願ひも、これから先長くその申し出に對抗しつゞけて行くことは出來なかつた。 彼女は熱烈に彼を愛してゐた。彼女の眼には、彼が神のやうに映つてゐた。そして、立派な教育は受けてゐなかつたものゝ、 生れつき優雅な美しさを具へてゐた彼女の性質は、彼の保護者的な指導を切に求めてゐた。かうしてテスは、 『私はあの方の妻にどうしたつてなれない、』と獨言《ひとりごと》を繰り返してゐたけれども、 その言葉は無駄であつた。彼女の氣の弱い證據は、力なぞ入れないで、靜かに言へる事柄を述べるその口裏に現はれてゐた。 古くからの問題を言ひ出す彼の聲の一々の響きまでが、恐ろしい幸福感をもつて彼女を動かした。 そして彼女は、自分の怖れてゐる言ひ直しを、却つてしきりに望んだ。 彼の態度は -- 男として誰がさうならずにゐよう? -- まさしくどんな状態、どんな變化、どんな攻撃、 又はどんな現實曝露の下にあつても、彼女を愛し、慈しみ、護らずにはゐられない人の態度であつたから、 それに接してゐる時は、彼女の憂ひも輕くなる程であつた。やがて季節は秋の彼岸に近づかうとしてゐた。 そして、まだ天氣はよかつたが、日脚《ひあし》は一頃よりはずつと短くなつて來た。 搾乳場では、又しても朝の長い間を蝋燭の燈で仕事が行はれた。或る朝のこと、 三時から四時の間に、クレアの口説がまた新たに始まつた。 彼女は寢衣《ねまき》のまゝで平常《いつも》のやうに彼を呼び起す爲めにその扉口《とぐち》へ駈け上つて行つた。 それから着物を着更へ、他の者を呼び起さうと思つて、自分の部屋へ歸つて來て、 十分經つか經たないうちに又蝋燭を片手に持つて梯子段の上り口の方へ歩いてゐた。丁度それと同じ時に、 彼は襯衣《シヤツ》姿で上から下りて來た。そして腕を擴げ、梯子段を通させまいとした。 「さあ、浮氣屋さん、下へ行く前に、」と彼は横柄に言つた。 「僕が言ひ出してからもう二週間だよ。この儘ぢやどうにも仕樣がない。 君は心底を是非とも打ち明けなくちやいけないよ。でなかつたら、 僕はこの家を出て行かなくちやなるまい。たつた今、僕の部屋の扉が隙《す》いてゐたので、 君の姿を見たんだ。君のその體の安全の爲めに、僕は出て行かなきやならない。 君には分らないんだ。ねえ?もう『はい』と言つてくれるかね?」 「私今起きたばかりですわ、クレアさん、だから私を虐《いぢ》めるのは、まだ早過ぎますよ!」 彼女は口を尖らした。「私を浮氣屋なんていはなくてもいゝでせう。それは殘酷です、當つてゐません。 もう少し待つて下さい。お願ひですからもう少し待つて下さい!これから合間々々に、 そのことを本當に眞面目に考へてみます。階下《した》に行かして下さい!」 彼女が蝋燭を横側に支へながら、眞面目さうに言つた言葉を笑顏で打ち消さうとした時には、彼女は、 いくらか今彼が言つた浮氣な人間の樣子を見せた。 「ぢや、僕をエンヂェルと呼びなさい。そしてクレアさんなんて言はないことだ。」 「エンヂェル。」 「いとしいエンヂェル -- つて言つたつて、いゝぢやないかね?」 「さう言へば私が承服することになるんでせう。さうぢやありませんか?」 「君が僕を愛してゐることにはなるよ。よしんば僕と結婚しないにしてもだ。が、それなら、 君がずつと以前に、もう立派に認めてゐたぢやないか。」 「ぢや、ようございますわ、『いとしいエンヂェル』、どうしても言はなきやならないんなら、」と、 彼女は蝋燭を見詰めながら小聲で言つた。そして不安に戰《をのゝ》きながらも、その口元には心憎いばかりの微笑を漂はした。 クレアは、婚約の言葉を得るまでは決して彼女に接吻しまいと決心してゐたのであつたが、 テスがクリーム掬《すく》ひや乳搾りが濟んで、結ひ上げる餘暇《ひま》の出來るまでは髮を無雜作に頭の上に束ねたまゝで、 乳搾りの上衣を可愛らしくまくし上げて其處に立つてゐると、どうしたわけか、 彼はその決心を破つて、ほんのちよつと彼女の頬へ唇を持つて行つた。 彼女は振り返つて彼の方を見もせずに、またその上一言も口をきかないで、大急ぎに梯子を下りて行つた。 他の娘たちは、もう下りてゐた。そしてその問題は、沙汰止みとなつた。 戸外の夜明けを知らす最初の冷たい合圖の光とは全く違つた、 朝の蝋燭が發散する薄ら淋しい黄色い光に包まれて、マリアンを除いた他の皆は、考へ深さうに、 また疑はし氣に二人を眺めた。 クリーム掬《すく》ひが濟んだ時 -- この仕事は、秋の近づくと共に牛乳の出方が減るに連れて日毎に減じて行くのだつた -- レッティや他の者たちは、戸外へ出て行つた。二人の戀人も、彼等の後に從つた。 「僕たちの生き〜した生活は、あの女たちのとは大變な相違だね、さうぢやないかね?」 明け方の冷たい蒼白い光の中を自分の前に立つて小刻みに歩いて行く三つの姿を見詰めながら、 彼は感慨深さうに、彼女に言つた。 「私、何もそんなに違つてゐるとは思ひませんわ、」と彼女は言つた。 「何故さう思ふんだね?」 「殆んどない位ゐですわ -- 生き〜してゐない女の生活なんていふものは。」 テスは恰も、その新しい言葉に心を動かされでもしたやうに、ぢつと思ひをめぐらしながら、言つた。 「あの三人には、あなたが考へてゐるよりは、もつといろんなものがあるんです。」 「あの女たちの中に何があるのかね?」 「三人が殆んど三人とも、」と彼女は言ひ出した。「私よりはいゝ奧さんになることが出來 -- 大方、出來 -- るでせう。そして多分、あの方たちは、私に負けない位ゐ -- あなたを愛してゐます。」 「あゝ、テッシイ!」 彼は寛大な氣持になつて、他人に愛を讓らうと隨分思ひきつて決心はしてゐたものゝ、 彼の覺えず發したその叫び聲を聞くと、すつかり安心したやうな樣子を見せた。 今彼女はその決心を遂げたのであつた。そして二度と自分を犧牲にしようといふ勇氣はなかつた。 二人の中へ百姓家の一軒から來た乳搾りの一人が加はつたので、兩人の極く深く立ち入つたことはもう何も言はなかつた。 が、テスは、今日こそこの問題がどつちかに決るであらうといふことを知つてゐた。 その午後、主人の家族や手傳人の中の人が、平常《いつも》の通り搾乳場からずつと距《へだ》つた牧場の方へ下りて行つた。 そこでは多くの乳牛が、別に家へ追ひ込められずに搾られるのであつた。 が、犢《こうし》が増えるに連れて、乳牛の出す乳の量は次第に減つて行つた。 そして、水氣に富んだ繁茂季節に雇はれ、今は餘計者となつた乳搾り女たちには、お暇が出た。 仕事はゆつくり進行した。一杯になつた一つ〜の乳桶は、 その場に引いて來てあつた大きな彈條《ばね》附の荷馬車に載つてゐる丈《せい》の高い鑵の中へ注ぎ込まれた。 また乳牛は乳を搾られてしまふと、のそ〜と歸つて行つた。 鉛色の夕空に、胸掛けを白くくつきりと不思議に光らせたまゝ、 他の者と一緒に其處へ來てゐた搾乳場主のクリックは、突然、彼の重い懷中時計を見た。 「おや〜、こりや、思つたより遲いわい、」と、彼は言つた。「冗談ぢやねえ、ぼや〜してゐると、 この牛乳は汽車に間に合はんかも知れねえぜ。今日は、こいつを送り出す前に家に持つて行つて、 どつさりある奴と混ぜてゐる時間がないわい。此處から眞直に驛へ持つて行かなくちやなんねえ。 誰か驅《かけ》つて行くものはねえかな。」 クレアがさうしようと申し出た。尤もこんなことが、彼の仕事に屬してゐるのではなかつたが。 彼はテスに一緒に行かないかとたづねた。その夕暮は、太陽は沈んでゐたが、この季節にしてはぼか〜と蒸し暑かつたので、 テスはたゞ頭巾だけを被り、腕も丸出しにして、ジャケツも着けないで、出てゐたのであつた。 確かに遠乘りする服裝《なり》ではなかつたので、彼女は薄着を見返つて答へにかへた。 が、クレアは優しく行くやうに薦めた。彼女は自分の乳桶と椅子とを家へ持ち歸るやうに主人に託して、 承諾の意を現はした。そして彈條附の荷馬車に乘り込み、クレアの傍に座を占めた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 黄昏れて行く日の光の中を、二人は、すべてが灰色に見える數哩の彼方まで延びてゐて、 一番遠い端《はづ》れでエグドン・ヒース(ハーデイの作中の屡々現はれて來る名高い高地。 ドーチェスタア東部一帶に起伏した、大小の丘陵を總稱した名稱。元より、假作上のものである)の暗い、 嶮しい傾斜を背景にしてゐる牧場の中を通じてゐる、平坦な馬車道を進んで行つた。 その高地の頂きには、樅や林や並木があつて、鋸齒のやうになつてゐる頂上は、恰も正面の眞黒くなつた、 魔宮を飾る櫛形胸壁の塔のやうに見えた。 二人は、お互ひに接近してゐるのだといふ意識にすつかり呑まれてゐたから、暫らくの間は、 話も始めなかつた。沈默はたゞ背後にある背の高い鑵の中ではね上る牛乳の音で破られるだけであつた。 二人が辿つて行つた小徑は、非常に寂しかつたので、榛の實《み》は殼から自然に滑り落ちるまでは枝に殘つてゐるし、 木莓は重い房になつて埀れ下つてゐるといふ風だつた。折々エンヂェルは、鞭の革紐を飛ばして、その一つに卷き付けては、 それを[てへん|宛;#1-84-80]《も》ぎ取つて同伴者に與へるのだつた。 どんよりしてゐた空は、間もなく前觸れの雨に滴《しづく》を落して、その意味を告げ始めた。 そして鬱々としてゐたその日の空氣は、氣まぐれな微風に變つて二人の顏を嬲《なぶ》つた。 河や水溜りの水銀のやうな光澤《つや》は消えてしまつた。さうだ、河も水溜りも、明るい廣い鏡から、 表面は大目|鑢《やすり》のやうになつた光澤のない鉛板に變つた。だが、そんな光景も彼女の屈託を少しも動かさなかつた。 彼女の顏色は、持前の桃色に季節の爲めにいくらか鳶色が加はつてゐたが、雨の滴《しづく》に打たれてその光澤を一きは深めてゐた。 髮の毛といへば、 乳牛の横腹で押されて平常《いつも》のやうに結んであるのが解け落ちてきやらこの女帽の埀布から迷ひ出てゐて、 濕氣の爲めに粘々《ねば〜》し、殆んど海草と變らないやうになつた。 「私、來るんぢやなかつたと思ひますわ、」と彼女は空を眺めながら、呟いた。 「雨でお氣の毒だね、」と彼は言つた。「が、此處へ君を控へてるんで、 僕はどんなに嬉しいか分らない!」 遠くにあるエグドンは、雨の紗の後にだん〜消えて行つた。夕闇は次第に濃くなり、道は所々畑の門と交叉するので、 並足よりも早く馬を驅ることは、安全でなかつた。空氣はどちらかと言へば、冷え〜してゐた。 「腕にも背にも何んにもかゝつてゐなくつて、君は風邪を引きやしないだらうかね、」と彼は言つた。 「僕の方へずつと寄つておいでよ、さうすれば、雨もさう體には障るまい。この雨が、 僕に加勢してゐてくれるのかも知れないと思つてゐるからいゝやうなものゝ、 若しさうでなかつたら、僕はもうやりきれないよ。」 彼女は、目立たないやうに寄りかゝつて行つた。そして彼は、時々ミルク鑵の日除《ひよけ》に使ふ大きな帆布で二人を包んだ。 テスはクレアの手が塞がつてゐるので、それを自分からばかりでなく、クレアの體からも滑り落ちないやうに押へてゐた。 「さあ、これでまたすつかりいゝ。あゝ -- 駄目だ、よくないや!僕の襟元へ少し落ちて來る。 だから、君の方へはもつと落ちるに違ひない。うんさう〜、その方がいゝがね。 君の腕は濡れた大理石みたいだね、テス。帆布で拭いたらいゝよ。さあ、君さへ動かなきや、もう一滴だつてかゝらないよ。 ところで、ね -- 僕の、例の問題のことだが -- あの永い懸案になつてゐる問題のことだが?」 暫らくの間彼が聞くことの出來た答へと言へば、たゞ濡れた路を打つ馬の蹄《ひづめ》の音と、 背後の鑵の中ではねる牛乳の音ばかりであつた。 「君の言つたことを覺えてゐるかね?」 「えゝ、覺えてますわ。」と彼女は答へた。 「ぢや、家に歸る前にね、いゝかね。」 「精々しますわ。」 彼はその時は、それ以上何も言はなかつた。二人が馬車を進めて行くにつれて、カロライン時代 (チャールズ一世及びチャールズ二世の時代を指す)の舊い莊園風の屋敷の片割が、大空に聳え立ち、 又それも程なく過ぎて後の方へ殘されてしまつた。 「あれは、」と彼は興を添へる積りで、彼女に話し掛けた。「面白い古蹟なんだよ -- 或る舊いノルマンの一家のものだつた、數ヶ所の屋敷の一つでね、その一家といふのは、 昔この地方で大變な勢力を有つてゐたダアバァヴィル家つてんだ。 僕はその何れの屋敷の前を通る時でも、あの一族の者を思ひ出さないことはないんだよ。 たとへ兇猛な、權柄づくな、封建的な名聲にしても、兎に角名聲の高かつたさういふ一族が亡びるつてことは、 何だか悲慘だね。」 「全くですわ。」とテスは言つた。 二人は、そのあたりに擴がつてゐる暗《やみ》の中に、漸く一つの微かな燈でそれと分りかけて來たすぐ近くの地點を眼指して、 そろ〜と進んで行つた。其處は、晝間だと暗緑色の背景に、時々氣まぐれな白い蒸氣が筋を曵いて、 この世離れた土地と近生活とをつなぐ斷續的な瞬間を示すのであつた。 近代生活は日に三四囘この地點へ蒸氣の觸角を延ばしては、この土地の生活に觸れ、 そして恰も觸れたものが氣に合はないものでゞもあるかのやうに、再び急いで觸角を引つ込めるのであつた。 二人は、小さい停車場の煤《すゝ》けたラムプから發する微かな燈《あかり》の處へ着いた。それは、 可なり貧弱な地上の星ではあつたが、或る意味では、タルボセイズの搾乳場や人類にとつては、天上の星に比べれば、 とても恥かしい存在ではありながら、それよりも遙かに大切なものであつた。新しい牛乳の鑵は、 降りしきる雨の中に下ろされ、テスは近くの柊《ひいらぎ》の木の下に小さな雨宿りの場所を得た。 やがて、汽車のしゆつ〜と蒸氣を立てる音が聞え、極めて靜かに、濡れた線路の上に停つた。 牛乳は忙《せは》しく一鑵づゝ無蓋貨車の中へ移された。機關車の燈《あかり》はしばらくの間、 柊《ひいらぎ》の下に身動きもしないでゐるテスの姿をぱつと照した。 尖つてゐる曲柄《クランク》や車輪から見れば、丸々とした腕をむき出しにし、 顏や髮を雨に濡らして休んでゐる優しい豹のやうな不動の姿勢の何時つくつたとも分らない又流行のものでもない更紗の上衣を着て、 木綿の女帽を眼深《まぶか》に被つてゐるこの人ずれのしない娘ほど、よそ〜しいものはなかつたに違ひない。 彼女は、情熱的な性質の人にはよく見られる事ではあるが、默つて言はれる通りに再び愛人の傍に乘り込んだ。 そして、二人がまた帆布の中に頭も耳もすつぽり括《くる》まつてしまふと、 今はもう一寸先も分らぬやうな夜の中へ勢ひよく引つ返した。テスはなか〜敏感なので、 物質的進歩の旋轉ともいへる汽車に、僅か二三分接したゞけであつたが、その状景が彼女の心から離れなかつた。 「倫敦の人は、明日の朝飯にあれを飮むんでせうね、さうぢやありませんか?」と彼女は訊ねた。 「私たちの決して見たこともない見ず知らずの人たちが。」 「さうだよ -- 多分飮むことだらうね。僕たちが送つたまゝではないけれど。 頭にのぼらないやうに、度を緩めてからね。」 「乳牛など見たこともない貴族方や、貴族の奧樣方や大使や百人隊長 (羅馬時代の將校。立派な軍人といふ意味で使つたものであらう)や、 淑女方や商店の女主人や、それから赤ん坊たちがね。」 「うん、さうだよ、屹度ね、殊に百人隊長たちがね。」 「私たちのことは何も、またそれが何處から來るのかも知らないし、 また私たち二人が間に合ふやうに着けばよいと思つて、 今夜雨の降る中をどんな風にして幾哩も〜の原つぱを馬車で驅《かけ》つたかなんてことは、 考へない人たちなんでせうね?」 「僕たちは立派な倫敦の人たちの爲めばかり馬車を走らせた譯でもないよ。多少僕等自身の爲めに -- 例の氣掛りな問題の爲めもあつたんだよ。あれは君きつと決めてくれるだらうね。 ねえテス、えゝと、僕がこんな風にいふのを許しておくれよ、 君はもう僕のものなんだからね。さうだらう。君の心《ハート》は、つて言ふ意味なんだよ。さうぢやないかね?」 「あなたは、私と同じやうに御存じの癖に、えゝ -- さうですわ -- さうですわ!」 「ぢや、君の心がさうだといふのに、何故君の手がさうなつちやいけないのかね?」 「その理由は、たゞ〜あなたの爲めを思ふからなんです -- 理由が一つある爲めなんです。 私、あなたにお話しゝたいことがありますわ -- 」 「だが、それが全く僕の幸福の爲めであり、また僕の世間的な便宜の爲めでもあるとしたらね?」 「えゝ、さうなんです。若しあなたの幸福の爲め、また世間的な便宜の爲めでしたらいゝんですわ。 でも、此處へ來ない前の私の身の上を -- 私、お話しゝたいんです -- 」 「さうだ、それは僕の幸福の爲めばかりでなく、僕の便宜の爲めでもあるんだ。若し僕が英吉利でなり植民地でなり、 素敵に大きな農場を持つことになれば、君は妻として、僕にとつてどんなに貴いものになるか知れない。 そりや、この地方の一番大きなお屋敷育ちの女なんかより、ずつといゝんだ。だから、どうか -- どうか、 ねえ、テス、君が僕の邪魔になるだらうなんていふ考へは捨てゝしまつておくれ。」 「ですけれど、私の身の上を。私、あなたにそれを知つて頂きたいんです -- あなたは私に打ち明けさせて下さらなくてはなりませんわ -- そしたら、今までのやうに、 私が好きでなくなるでせう!」 「話したかつたらお話しよ。ねえ。ぢやその貴い身の上といふのを。 さて私はかく〜の土地で生れました、紀元——年にかね。」 「私はマアロットで生れました。」彼の言葉は冗談半分に言はれたのであつたが、 彼女はそれを手掛りとし、その後を受けて言つた。「そして其處で育ちました。 尋常六年で學校をさがりましたが、大へん敏捷だから立派な先生になれるだらう、つて言つてくれましたので、 先生にして貰ふことに決まりました。ところが、家庭《うち》の方に煩《うる》さいことがありましたの。 父はあまり働きもせず、それに少しはお酒もいたゞきましたの。」 「なるほど、なるほどね。可哀さうに!格別珍らしいことぢやないね。」彼は、一層自分の側へ近く彼女を抱き寄せた。 「それから -- 身の上になりますと -- いえ、私には -- 大へん珍らしいことがあるんですの。 私は -- 私は、あの -- 」 テスの呼吸は早まつた。 「さうかね。君、構はないからお話しよ。」 「私 -- 私 -- はダアビフィールドでなくつて、ダアバァヴィルなんですの -- 先刻《さつき》通り過ぎましたあの古い屋敷を有つてゐたといふ方々と同じ一族の子孫ですの。 そして -- 私たちの一族は、すつかり零落して、跡方もなくなつてしまつたんです!」 「ダアバァヴィルだつて! -- なるほどさうか!で、心配のことつていふのは、それだけなのかね、テス?」 「さうです、」と彼女は微かに答へた。 「ところで -- それを知つたからつて、何故僕が今までよりも君が好きでなくなるつていふのかね?」 「あなたは舊家が大嫌いだつてことを主人から聞いてゐましたわ![」] 彼は聲を立てゝ笑つた。 「なるほど、或る意味ぢや全くその通りだよ。僕は貴族の世襲主義を何よりも憎んでゐる。 そして、理論上僕たちの尊敬すべき家系は、たゞ一つ肉體上の家系などに關りなく、賢い、 また徳の高い精神上の家系だけだと思ふ。だが、その話を聞いて、とても面白くなつた -- どんなに僕が面白くなつてゐるか、君には想像もつかないだらうね! あの有名な家系の一人だつてことに、君は自分で興味を感じないかね?」 「いゝえ、私はそれを悲しい事だと思つてゐます -- 此方《こつち》へ參つて、 目に見える丘も田畑も一度は自分の祖先の所有《もの》だつた、といふことを知つてからは、猶更さうです。 また、別の丘や田畑はレッティの祖先のものだつたし、 他の丘や田畑はマリアンの祖先のものだつたかも知れないんですから、私、それを殊更尊いとは思ひません。」 「その通りだ -- 現在土地を耕してゐるどんなに多くの人たちが、一度はその所有者であつたかを知れば驚くばかりだよ。 僕は時々こんな風に怪しむことがあるんだ。何故政治家の誰かゞこの事情を利用しないんだらうかと。 だが奴等はそれを知らないらしんだよ……僕は何故、君の名前がダアバァヴィルに似てゐることに氣が付いて、 この分りきつた轉訛《なまり》のいはれが分らなかつたんだらう。氣掛りな祕密といふのは、そのことだつたんだね!」 彼女は到頭言はないでしまつた。これからといふところで、彼女の勇氣は挫けてしまつた。 何故もつと早く打ち明けなかつたか、と彼が非難するのを恐れた。そして自分を保護しようとする本能の方が、 打ち明ける勇氣よりも強かつた。 「勿論、」と何も知らないクレアは續けた。「僕は、君が純粹に英國民のうちでも長い間苦しみ、 默々としてゐて、史上に現はれない一兵卒から血を引いてゐる者であつて、 他の者を犧牲にして自分逹の勢力を張つた少數の我儘勝手な者から出たものでないといふことを知つたら、 その方がどんなに嬉しいか分らないさ。が、君に對する愛情で買收されてしまひ、そんな事は、 問題でなくなつたよ、テス。(と言ひながら彼は笑つた)。何だか僕もさういふ我儘勝手になつたやうだね。 君の爲めに、僕は君の家柄を喜ぶよ。世間は仕方のないほど上品振つてゐるんだ。 で、君の血統についてかういふ事實があると、僕の考へ通りに君を物知りの女に仕立てゝ置きさへすれば、 僕の妻として君を認める世間の態度がかなり違ふかも知れない。僕の母なんかも妙な人だから、 その爲めに君をずつとよく思ふだらうよ。テス、君は名を正確に綴らなくてはいけないよ -- ダアバァヴィルつて -- 早速今日から。」 「私、さうしない方が、一層いゝと思ひますの。」 「でも、さうしなくつちやいけないよ。ねえ!驚くね、 何だつて俄か成金たちは、大勢かういふ家名に跳びつきたがるんだらうね! うん、さう〜、その姓を名乘つてゐる仲間の一人があるよ -- 何處といつたかしら? -- たしかチェイズの森の近くだつたと思ふ。ほれ、何時か君に話した、僕の父と論爭したつていふ男だよ。 何て妙な暗號なんだらうね!」 「エンヂェル、私何ですかその名を使ひたくないやうな氣がしますわ! 縁起の惡い名のやうですわ!」 彼女は興奮してゐた。 「それぢや、テレザ・ダアバァヴィル孃と僕がつけて上げよう。僕の名を使ひなさい、 さうしたら、君は自分の名が避けられるだらう!祕密を明かしてしまつたのに、 まだこの上どうして僕を拒むんんだね?」 「若し私を妻となさる事が確かにあなたを幸福にするなら、 それにあなたがどうしても〜と結婚したいとお感じでしたら -- 」 「感ずるよ、君、無論!」 「私かういふ積りなんです。つまり、あなたが私をお望みで、たとひどんな罪が私にあつても、 私なしではもう生きられないといふ程であつてこそ、始めて私は承知しなければならないと思ふんですの。」 「承知してくれる -- 承知したと言つてくれるね!君は永久に僕のものになつてくれるだらうね。」 彼はひしと彼女を抱いて接吻した。 「承知しますわ!」 かう言つてしまふとすぐ、彼女は急に涙も出ない烈しい啜泣きを始めた。 餘りに烈しいので、氣が狂つてしまふかとも思はれた。テスは決してヒステリイ性の女ではなかつたので、 彼は吃驚した。 「何故泣くんだい、ねえ?」 「私、分りません!ほんとに! -- 考へると私、本當に嬉しくてなりません -- あなたのものになつて、あなたを幸福にするのかと思ふと!」 「でも、これぢや大して嬉しいとも見えないやうだね、テッシイ!」 「私、かういふつもり -- あの自分の誓ひを破つてしまつたから泣くんです! 私、死ぬまで結婚しないと言ひましたの!」 「だが、若し君が僕を愛するなら、僕と一緒になるのを喜ぶ筈ぢやないかね?」 「そりやさうです、さうです、さうですとも!でも、あゝ、 私生れて來なかつたよかつたと時々思ひますわ!」 「ところで、ねえテス、君がひどく興奮してゐるし、 また人の氣持なぞがよく分らないつていふことを僕が知つてゐるからいゝものゝ、 さうでなかつたら、今の一言は餘り嬉しいもんぢやないよ。若し僕が好きだつたら、 どうしてそんなことを思ふやうになるだらうね?君は僕が好きなの? 何とかして、その證據を見せて貰ひたいなあ。」 「私、見せたでせう、その上どうして證據が見せられませう?」彼女は氣も狂ふばかりの愛しさを見せて叫んだ。 「ぢや、かうすれば、もつといゝ證據になるでせうか?」 彼女はクレアの頸に抱きついた。そこで彼は始めてテスが自分を愛するやうに、心も魂もすつかり打ち込んで、 愛してゐる者の唇にする熱した女の接吻が、どんなものであるかを知つた。 「さあ -- もう信じてくれますの?」と、彼女は顏を眞紅《まつか》にし、眼を拭きながら訊ねた。 「信じるとも。心から決して疑つてなんかゐなかつたよ -- 決して、決して!」 かうして、彼等は帆布の中で一塊りになつて闇の中を驅つて行つた。 馬は氣の向くまゝに走り、雨は彼等に烈しく打ちつけた。彼女は、もう承諾してしまつたのだ。 こんなことなら初めから承諾した方が増しであつた。萬物に行き亙つてゐる『歡喜を求める慾望』 -- 丁度潮流が頼りない雜草を押し流すやうに、人類を驅つてその目的へ向はせずにはゐない恐ろしい力 -- は、 社會上の規約をぼんやり考へた位ゐのことでは、どうにもなるものではなかつた。 「私、お母さんに知らせて遣らなければなりませんわ、」と彼女は言つた。 「さうしても構はないでせうね?」 「無論構はないさ、赤ちやん。君は僕に比べれば子供だよ、テス。 こんな場合にお母さんに知らせることがどれほど當然なことか、 また僕がそれに反對することがどれほど間違ひだかつてことを知らないんだもの。 何處にお母さんは住んでゐるの?」 「同じ處 -- マアロットに。ブラックムーアの盆地のずつと向う側です。」 「あゝ、ぢやこの夏前に、君には會つてたんだね -- 」 「えゝ、草原であの舞踏があつた時に。でもあなたは、私と踊らうとしなかつたでせう。 あゝ、あれが今となつて、何かの凶兆にでもならなければいゝんですが!」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- テスは可なり熱の籠つた急ぎの手紙を、すぐその翌日母親の許へ書き送つた。 するとそれに對して、その週の末にダアビフィールドの女房から覺束ない、一昔前の手蹟で書かれた返事が來た。 愛するテスよ -- 一筆申上げます。この手紙が、有難いことに息災で暮してゐる私の手元を今出て行くと同じに、 また息災なお前の手元にも着くやうに祈つて。愛するテスよ、お前が間もなく、本當に結婚しようとしてゐるといふことを聞いて、 私どもはみんな喜んでゐます。が、お前からたづねてお寄越しのあの事に就てはね、テス、 私ども二人だけの間だが、たとひどんな事があつてもあの過ぎてしまつた災難のことを一ことでもお婿さんに言つてはならないと、 極く内密ではあるが、固く言つて置きますよ。尊い家柄の爲めに大へん威張つてゐるお前のお父さんへは、 何も彼もすつかりは話しませんでした。お前のお婿さんも、大方同じやうに立派な家柄でせうがね。 澤山の女 -- その中には、この土地で一番えらいものたちも幾人かゐます -- には、 これで若い時分にはみんな苦勞があつたもんです。そして、他のものがそれを吹聽しないのに、 何もお前から吹聽するにも及びますまい?そんな馬鹿な娘《こ》が、何處にあるもんですか。 殊にそれは、ずつと以前《まへ》のことであり、ちつともお前の過失ではなかつたんですもの。 お前から五十度訊かれても、私は同じことを答へます。 それに、胸の中にあることを何も彼も言つてしまふのがお前の子供らしい氣性 -- 何といふ無雜作なことでせう -- だから、私はお前の幸福を思つて、 あのことは決して口にも素振りにも出さないやうにとお前に約束さしたでせう。 それからお前もこの家を出て行くとき、よく〜固くそれを約束したでせう。 それを夢にも忘れてはなりません。私はまだそのことも、また近づいてゐるお前の結婚のこともお父さんには言つてありません。 あの人は、きつと何處へ行つても、そのことを喋り散らすでせうからね、可哀さうに他愛もない人なんだから。 愛するテスよ、精々氣を引き立てなさい。それから、結婚の贈物にサイダーの大樽を一樽送つてあげるつもりです。 お前の地方には澤山ないし、あつても薄い酸つぱいのしかないといふことを聞いてゐますから。 では、今はこれだけで筆を擱《お》きます。どうぞお前のいゝ人に、くれ〜゛も宜敷くね -- お前のいとしい母 ジェー・ダアビフィールドより 「まあ、お母さん、お母さん!」とテスは低い聲で言つた。 彼女には一番重苦しい事件も、母親のダアビフィールドの護謨《ゴム》のやうな魂には、 全く輕く觸れただけであるのが分りかけて來た。テスの母は、彼女と同じやうに人生を見てはゐなかつた。 過ぎ去つた日の惱みの種である插話《エピソード》も、母親にとつてはほんに一時の出來事にしか過ぎなかつた。 が、たとひ理窟がどうであらうとも、これから取らうといふ方針としては、どうも母親のいふことが正しいやうに思はれた。 沈默が、彼女の崇拜する人の幸福の爲めには、見たところ一番いゝやうに -- どうしても、 これは沈默でなければならない -- と思はれた。 かうしてテスは、 自分の行ひを支配してゐる權利を少しでも有つてゐる後にも先にもたつた一人の人が與へてくれた命令で氣強くなつて、 だん〜落着いて來た。彼女は、責任を脱して、心はこの幾週間よりもずつとうき〜して輕くなつた。 彼女が承諾した日からその後の十月になると始める晩秋の幾日かは、彼女の生涯のどんな他の時よりも恍惚状態に近い氣持で、 生活を送ることの出來る一季節となつた。 クレアに對する彼女の愛には、世間的な點が殆んどなかつた。 彼女はすつかり信じきつてゐるので、彼がこの上ない善良性の所有者に見えた、 -- 指導者が、哲學者が、又は友人が知らなければならないことは、何も彼も皆知つてゐる人に見えた。 彼の體の輪廓をつくつてゐる線といふ線は、男性美の完成である、彼の魂は聖人の魂である、 彼の智は豫言者の智であると思つた。彼に對する彼女の愛の持つ叡智は、愛となつて、彼女に威嚴を添へた。 彼女は、王冠を戴いてゐるやうに見えた。彼女に對する彼の愛の持つ同情は、彼女がそれを知つた時、 彼に對する心持を獻身的に高めさせた。彼は時々大きな、何物かを崇拜してゐるやうな彼女の眼に出會ふことがあつた。 それは、測り知ることの出來ない底で、その奧底から、恰も目の前に何か不滅のものを見てゞもゐるかのやうに、 ぢつと彼を瞶《みつ》めるのであつた。 彼女は過去を捨てゝしまつた -- それを踏みにじり、掻き消してしまつた。 まるで燻つてゐて危險である石炭を踏み消すでもするやうに。 彼女は、男といふものが女を愛する場合に、彼のやうに恬淡《てんたん》で、侠氣があつて、 庇護するやうな態度になれるものとは曾つて知らなかつた。エンヂェル・クレアは、この點では、 彼女の考へてゐた人とはすつかり違つてゐた。實際、途方もなく違つてゐた。彼は本當に、 動物的といふよりも寧ろ精神的で、自分といふものをよく抑へた。そして、 不思議な位ゐ下劣な趣味を脱してゐた。冷靜な方ではなかつたが、熱狂的といふよりは寧ろ快濶であつた -- バイロン風(詩人バイロンの如く熱情的、多感的、浪漫的な氣質をいふ)といふよりも、 寧ろシェリイ風(詩人シェリイの如く、萬象を美化し、空想化する性質)だつた。 しようと思へば生命がけの戀をすることも出來たが、寧ろ特に空想的、架空的になり易い戀をする方で、 愛する者を飽くまでも自分自身の慾望から守ることの出來る潔癖な感情を持つてゐた。 このことは、今まで、乏しい自分の經驗で隨分見當違ひのことを教へられてゐたテスを、 驚嘆させもし驚喜させもした。そして、男性に對する憤怒の反動として、彼女はクレアに對して常規を逸するほどに尊敬を拂つた。 二人は、卒直にお互ひが一緒にゐることを求めた。正直に信じきつてゐる餘り、 彼女は、彼と一緒にゐたい願ひを包み隱しはしなかつた。 かういふ彼女の心持を纒めてはつきり説明して見るならば、結局こんな風にもなるだらう。 つまり、一般に男を惹きつける女のつかまへどころのない性質は、 生來の性質としてどうしてもつくつてゐるのではないかしらといふ疑ひが伴はずにはゐないから、 戀の誓ひを立てた後では、あのやうに立派な男にとつては氣に入らぬものとなりはすまいか、といふ事だつた。 婚約期間は、意互ひ同志が戸外で無遠慮に交際するといふ田舍の習慣こそ、彼女が知つてゐる唯一の習慣であつて、 彼女には、それがちつとも不思議に思へなかつた。尤も他の乳搾り女たちと同樣に、 彼女がそれをどれほど當り前のことゝ見做してゐるかを知るまでは、クレアにとつては、 妙に早計な事のやうに思へたのである。かうして、午後にはからつと晴れるこの十月の間、 二人は、ちよろ〜水の流れてゐる小川の岸に沿つてゐる小徑を辿り、時には小さな橋を渡つて向う側に跳び越したり、 また此方《こつち》側へ戻つて來たりしながら、牧場をぶら〜散歩した。彼等は、 決して渦卷いて流れる堰の音の聞えない處へは行かなかつた。 そのざわ〜する響は、二人だけの囁きに伴奏した。一方、牧場の地平線と殆んど平行になつた太陽の光線は、 光の花粉となつてあたりの景色を包んだ。二人は、立樹や生垣の蔭に、小さな青い靄《もや》を見た。 しかも他處《よそ》には日が赤々と照り映えてゐた。太陽は地面にごく近かつたし、 芝原は全く扁平《たひら》なので、クレアとテスの影法師は四分の一哩も前の方に延びるので、 まるで緑色の寄洲《よりす》の出鼻が盆地の傾斜面に接してゐる邊《あた》りの遙かの遠くを、 指してゐる二本の長い指のやうに見えた。 人々は、此處彼處で工事に從つてゐた -- 今は牧場の『浚渫《さらひ》』、つまり、冬期の灌漑の爲めに小さな用水路を浚《さら》ひ、 また乳牛に踏み崩された岸を普請したりする時期だつたから。シャベルに何杯もの黒玉のやうな眞黒な砂の交つた粘土は、 河がこの盆地の全幅に亙つて流れてゐた時分に此處へ運ばれたもので、土壤の中の精でもあれば、 昔からの粉末王でもあつた。それは水に浸り、精練され、細かに碎かれた結果、非常に肥沃な地味となつてゐた。 牧場がよく繁り、其處で草を食つてゐる乳牛がよく育つのは全くその爲めであつた。 クレアは、人前で戲れることに慣れてゐる人のやうな樣子で、かういふ掘仕事をしてゐる人逹から見える處で、 殆んど始終彼女の腰へ腕を廻してゐた。が實際は、その間といふものは、 唇を開けてその勞働者逹を横目で見ながら小心な動物のやうな樣子をしてゐるテスと同じやうに、恥かしがつてゐたのであつた。 「あの人逹の前で、私をあなたのものと決めていお見せになるのを、あなたは恥かしいと思つてゐませんのね!」 と、彼女は嬉しさうに言つた。 「思ふもんか!」 「でも、若し、あなたがかうやつて私と一緒に歩き廻つてゐることが、エミンスタアにおいでのお家の方々の耳に入つたら。 たかゞ、乳搾り女なんかと -- 」 「およそこの世で、一番美しい乳搾り女とね。」 「皆さんは、威嚴が傷けられると思ふかも知れませんよ。」 「ねえ、君 -- ダアバァヴィル家の者がクレア家の威嚴を傷つけるつていふのかい? どの -- 君がさういふ一族のものだつていふことは、大へんな強味なんだよ。で、僕はこれを、 僕たちが結婚し、トリンガム牧師から君の家柄の證據を得た時、あつと言はせようと思つて取つて置くんだ。 それは別として、僕の將來は全くもう僕の家族とは無關係なんだよ -- それはあの人逹の生活の表面にさへ影響しないだらうよ。僕等は英吉利のこの地方を -- 恐らく英吉利を -- 去るやうになるだらう。だから世間の人が此處で僕たちをどんな風に見ようと、構ひやしないぢやないか? 君は喜んで行くだらうね、えゝ?」 彼女は、彼の親しい伴侶となつて一緒に世界を旅行することを思ふと、非常に大きな感動が湧いて來たので、 やつと肯定の返事が出來るだけであつた。彼女の感情は、波の音のやうに殆んど耳一杯になり、 その眼にも押し寄せて來た。彼女は自分の手をクレアの手に任せた。 -- 二人はかうして歩きつゞけて、 到頭、水に映つた太陽が橋の下の河面から熔鐡のやうな光を放つて輝いてゐる場所へ來た。 本物の太陽は橋の陰に隱れてゐたが、その光は二人の眼に眩《まば》ゆかつた。 彼等はぢつと立つてゐた。すると小さな獺や水鳥が、水の滑らかな表面からぽくりと頭を覗かせたが、 油斷のならないものが姿を現はして、立ち止り、行き過ぎないでゐるのを見てはまた潛つてしまふのであつた。 彼等は、周圍に霧が立ち籠めて來て -- この季節の夕方としては、少し早過ぎたが -- 彼女の睫毛《まつげ》の上にとまつて、水晶のやうに輝き、また彼の眉毛や髮の毛にも宿るやうになるまで、 この河縁を歩き廻つた。 彼等は、日曜日には平常《いつも》より遲く、すつかり暗くなつてから散歩した。 二人が婚約を結んでから、初めての日曜日に、同じく戸外に出てゐた搾乳場の二三人の人たちは、 感情的で、興奮するときれ〜゛になる彼女の話聲を聞いた。尤も、餘り遠くにゐたので、 何を話してゐるのかはつきり聞き分けることは出來なかつたが、 男の腕に凭《よ》り掛つて歩きながら、胸が躍る爲めに言葉が切れ〜゛になる話聲のうちに、 痙攣的に喘いだり、言葉をきつてほつと安心したり、魂を乘せてゐるかのやうに思はれる小さな笑聲 -- 彼女が愛してゐる、またすべての他の女たちから贏《か》ち得た男と一緒にゐる女の出すやうな笑聲 -- 他の笑聲とは全く性質の違ふ -- を時々立てたりするのに氣がついた。 彼等は、まだすつかり下りきらない小鳥の掠め飛ぶやうな、浮き立つた彼女の足取りに氣がついた。 彼に對するテスの愛情は、今では、彼女の生存につきものゝ呼吸や生命であつた。 それは光球のやうに彼女を包み照らしぬいて、彼女に觸れようとしつこくいろ〜の企みをしてゐる不快な幽靈ども -- 疑惑、恐怖、憂鬱、煩悶、恥辱などを抑へつけて、過去の悲しみを忘れさせた。彼女はこの幽靈どもが、 まるで狼のやうに自分の周圍の光のすぐ外側で自分を待つてゐることを知つてゐた。 が、彼女には彼等を飢ゑさせて、屈從させずには置かない長い一續きの力があつた。 精神的には忘れても、智識の上では同時に記憶が働いてゐた。彼女は光の中を歩いてゐたが、背後には、 さういふ闇の蔭が何時でも一ぱいに擴がつてゐることを知つてゐた。その蔭は、 毎日少しづゝ遠退いて行くやうでもあれば、又近附いて來るやうでもあつた。 何れともつかないが、どつちかであつたには相違ない。 或る日の夕暮、テスとクレアは、家の者が皆何處かへ出掛けてゐなかつたので、 留守居をしながら屋内に留つてゐなければならなかつた。 二人で話し合つてゐる時、彼女は考へ深さうに彼を見上げた。すると見とれてゐるやうな彼の二つの眼に出會つた。 「私、あなたに釣合ひませんわ -- さうです、どうしても釣合はないんですわ!」 と彼女は、彼の敬意に對して、その爲めの嬉しさがこみ上げて來たので全く吃驚したかのやうに、 低い腰掛から跳び上りながら、叫び出した。 クレアは、彼女がほんの僅かなことに興奮してゐるが、その元はまだ〜大きいのだと考へて、かう言つた -- 「僕は君にそんな風に言つて貰ひたくないね、ねえテス!卑しむべき因襲を、 小噐用に利用するつてことが何もえらいんぢやないよ。 眞實な、正直な、公平で、純潔で、愛らしく、そして評判のいゝ人の中に數へられるやうになつて、 初めて立派な人と言へるんだよ -- 丁度君のやうに、ねえテス。」 彼女は咽喉《のど》から出る嗚咽を抑へようと努めた。この美徳の數々を並べ立てることが、 この數年來、教會でどんなに度々彼女の若い胸を痛めたことだらう。そして今また、 彼がそれを數へ立てるとは、何といふ不思議なことであらう。 「何故あなたは、歸らずにゐて私を愛しては下さらなかつたんです、私が -- 十六で、妹や弟と暮してゐた時に。 そしてあなたがあの草原で踊つた時に?あゝ何故さうして下さらなかつたんです、何故さうして下さらなかつたんです!」 と彼女は烈しく兩手を握り合はせながら、言つた。 エンヂェルは可なり眞劍に、何といふ氣の變り易い女であらう、だからその幸福の望みを遍《ひと》へに自分に懸ける時には、 一方《ひとかた》ならず面倒を見てやらなければならない、とひとりで考へながら、彼女を慰め、 安心させ始めた。 「さうだ -- 何故僕は歸らずにゐなかつたかなあ!」と彼は言つた。 「ほんとに僕もさう感じるよ。それと分つてさへゐたらね!だが、そんなにひどく悔むもんぢやないよ -- 悔む理由が何處にあるね?」 隱さうとする女の本能から、彼女は急いで話を外らした。 -- 「私、あなたの心を今よりも四年だけ長く私のものにしてゐられたからなんです。さうすれば私、 今迄のやうに自分の時間を無駄にせずに濟んだんです -- 私、もつと〜長い間の幸福を得ることになつたんでしたのに!」 かうして心を痛めてゐるのは、背後に長い暗い入り組んだ經緯《いきさつ》のある女ではなくて、 まだ成熟しない時分に小鳥のやうに罠にかゝつた二十一にもならない初心《うぶ》な一人の少女であつた。 もつと十分心を靜める爲めに、彼女は小さな腰掛から起ち上つて、部屋を出て行つた。 出掛ける途端に、彼女はその下袴《スカート》で腰掛をひつ繰り返した。 彼は鐡架に載つてゐる青い秦皮《とねりこ》の薪の束から燃え立つてゐる陽氣な爐火の傍に、 尚ほ坐つてゐた。薪は快くぱちぱち音を立てゝ、切り口から樹液の泡をじゆう〜吹き出してゐた。 彼女が部屋に戻つて來た時には、もう元の自分に返つてゐた。 「君は、自分でほんのちつとばかりだが氣まぐれで、むら氣だとは思はないかね、テス?」 と彼は、相手の爲めに腰掛の上に座布團を展《ひろ》げて、自分もその傍の椅子に腰を下ろしながら、 機嫌よく言つた。「僕は君に訊きたいことがあつたんだが、丁度その時に君は遁げちまつたんだよ。」 「えゝ、私氣まぐれかも知れないわ、」と彼女は小聲で言つた。そして急に彼に近寄つて、 その兩手の腕に手をのせた。「いゝえ、さうぢやないの、エンヂェル。私本當にさうぢやないわ -- 生來《うまれつき》はねえ!」さうでないといふことを尚ほこの上に確かめる爲めに、 彼女は長椅子の中の彼にぴつたり寄り添つて、クレアの肩に自分の頭の置場を見出すやうにした。 「あなた、何をお聞きになりたいの -- 私、屹度お答へしますわ、」と彼女はおとなしく續けた。 「ぢや言ふがね、君は僕を愛し、僕と結婚することを承諾したんだらう。すると、次には 『結婚の日は何時にしよう?』といふ三番目のことが續く譯だ。」 「私、こんな風にして暮してゐたいんですわ。」 「でも、僕は年が明けるとすぐか、それとも少し後《おく》れて、 一人立ちで事業を始めることを考へなければならないよ。だから、 僕は新しい境遇から起るいろんな面倒に卷き込まれてしまはないうちに、 僕の配偶《あひて》を安全に得て置きたいんだ。」 「でも、」と彼女は臆病さうに答へた。「ごく實際的にお話しすると、 それがすつかり濟んでしまつてから結婚する方が一番いゝんぢやないでせうか? -- 私を此處へ置いて、あなた一人が他處《よそ》へ行く事を思ふと堪りませんけれど!」 「無論君は堪るまい -- それにこの場合、そりや最上の策ぢやないよ。僕は仕事を始めるにあたつて、 いろ〜と君の手を借りたいんだ。日取りは何時にしようか?今から二週間後ぢやいけないかね?」 「いゝえ、」と彼女は生眞面目になつて言つた -- 「最初に、 いろんんあことを考へなくちやなりませんもの。」 「しかし -- 」 彼はもつと近くへ彼女をやさしく引き寄せた。 實際に結婚することが極く近くへ來て大きく見えて來ると、それは驚きであつた。 この問題に關する相談がそれ以上進まないうちに、長椅子の角を廻つて爐火のこの部屋一ぱいに輝いてゐる中へ、 主人のクリックとその妻君と、それから二人の乳搾り女が入つて來た。 テスは、彈力のある鞠のやうに彼の傍から跳び上つた。が、彼女の顏は眞紅《まつか》になり、 兩眼は爐火を受けてきら〜輝いた。 「あの方のすぐ近くに掛けてゐたら、どんな事になるかつていふ事を、私は知つてゐたわ!」 と彼女は口惜しがつて叫んだ。「皆がやつて來て、屹度私たちを見つけるに違ひない、つて獨言《ひとりごと》を言ひましたの! だけど、實際は、私あの方の膝に上に坐つてゐたんぢやないわ。まるで私がさうでもしてゐたやうに見えたかも知れませんが!」 「さうかい -- 若しお前がそんなことをわしたちに喋りさへしなかつたら、この明りぢやお前さんたちが何處に掛けてたんだか、 わしたちにや分りやしなかつたに違えねえんだ、」と主人は答へた。彼は、結婚に關する感情など更に解しない男が示すやうな、 無神經な樣子をして妻の方に話し續けた -- 「なあ、クリスチャーナア。他の者が何んとも思つてゐねえのに、 氣を廻したりするもんぢやねえつてことア、これでも分るぜ。どうも思ふもんかね、若しこの娘《こ》さへわしに喋らなかつたら、 何處に掛けてゐたかなんてちつとも考へなんかしなかつたらうぜ -- 何んで考へるもんか。」 「僕たちは、直《ぢ》きに結婚しようと思つてるんです、」とクレアはてれ隱しに思ひつきの冷淡さを裝つて言つた。 「へえ -- お前さん方が!さうかね、わしやそれを聞いて本當に嬉しうごぜえますだ、ねえ、旦那。 何時かはそんな事になるこつたらうと、前から思つてをりましたゞ。 この娘は乳搾り女には物體ねえでなあ -- この娘に初めて會つたその日に、わしやさう言ひましたよ -- また、どんな男だつて慾しがるものでさあね。それにまた旦那百姓のお上さんにや持つて來いの素晴らしい女でさあ。 この娘を側に置きさへすりや、旦那方が、執事なんかにいゝ加減にされるやうなことアありませんよ。」 どうしたのか、テスは姿をかくした。彼女は、クリックから無遠慮に讚められたので恥かしい思ひをしたといふよりも、 クリックについて來た娘たちの顏色に、一層吃驚したのであつた。 夕食をすまして、彼女が寢室に行くと、仲間の者はみんな其處にゐた。 燈《あかり》が一つ點つてゐた。そして娘たちは、銘々純白の姿でテスを待ちながら、 寢床に上に坐つてゐた。一同は丁度復讐をしようとして並んでゐる幽靈のやうであつた。 けれども彼女は、二三分するうちに、彼女たちの心持に少しも惡意のないことを知つた。 彼女たちは、持たうなどとは決して期待してもゐなかつたものが失《な》くなつたとて、 それを損失だなどゝは殆んど感ずることが出來なかつた。彼女たちの位置は、傍觀的であり、 また批評的であつた。 「あの方がこの女《ひと》と結婚するんですつて!」テスから眼を離さずに、レッティは小聲で言つた。 「この女《ひと》の顏にすつかり書いてある!」 「あんた、あの方と結婚するんだつて?」とマリアンが訊ねた。 「ええ、」とテスは答へた。 「何時?」 「何時か。」 これを彼女たちは、たゞの言ひ拔けに過ぎないと思つた。 「えゝですつて -- 結婚するんだつて、あの方と -- 紳士の方と!」 とイズ・ヒュウエットが繰り返した。 三人の娘たちは、それから何かに惹きつけられでもするやうに、次々と寢床から這ひ出して、 素足のまゝテスの周りに立つた。レッティは、恰もかういふ竒蹟の起つた後の友逹の體を檢めでもするかのやうに、 テスの肩に兩手をのせ、他の二人は、腕を彼女の腰に卷いて、ぢつと顏を覗き込んだ。 「まあ何て顏色でせう!殆んど考へられない位ゐだわ!」とイズ・ヒュウエットが言つた。 マリアンはテスに接吻した。「本當ねえ、」と彼女は唇を引つ込めながら、囁いた。 「それは、この人が可愛くつてしたの、それとも今しがた其處へ誰かさんの唇が觸つたからなの?」 とレッティは、素つ氣なく、マリアンに言ひつゞけた。 「そんなこと考へてなんぞゐなかつたわ、」とマリアンは、簡單に答へた。 「私、たゞそれが不思議に思へてゐたゞけのことだつたの -- この人があの方の奧さんになるつてことがさ、 そして他の誰でもないつてことがさ。私これがいけないとは言はないわ。私たちの誰だつてさうだわ。 つていふわけは、私たちは結婚なんてこと考へてゐなかつたんだもの -- ただあの方を想つてゐたゞけだもの。 それにしても、世界中であの方と結婚するのは、他の誰でもなくつて -- 立派な淑女《レデイ》でもなけりや、 絹や繻子で着飾つてゐる他の誰でもなくつて、私たちのやうに暮してゐるこの人なんだからねえ。」 「その爲めに、あんた方は本當に私を嫌はないでくれますの?」テスは低い聲で言つた。 彼女たちは、恰も答へは彼女の顏付の中にあるとでも考へたかのやうに返事をしないうちに、 純白の寢衣《ねまき》に包まつたまゝ、彼女に寄り添つた。 「分らないわ -- 分らないわ、」とレッティ・プリッドルは呟いた。 「私あんたを憎みたいの。でも憎めないわ!」 「私の感じもその通りなの、」とイズとマリアンとが同意した。 「この人を憎むことが出來ないの。どうしたのか、この人は憎ませないやうにするんだもの!」 「あの方は、あんたゝちの誰方《どなた》かと結婚するのが當然なんですわ!」とテスは小聲で言つた。 「何故なの?」 「あなた方はみんな私よりも立派な方なんですもの。」 「私たちがあんたより立派だつて?」と娘たちは低いゆつくりした語調で囁いた。 「違ふわ、違ふわ、ねえテス!」 「いゝえ立派ですとも!」とテスは急き込んで反對した。そして急に彼女たちの縋《すが》りついてゐる腕を突き放し、 箪笥の上に俯伏せになりヒステリックに泣き出して、續けざまに「えゝさうです、さうです、さうなんですわ!」 と繰り返した。 一度崩折れてしまつたので、もう彼女は泣き止めることが出來なかつた。 「あの方はあんた方の誰方《どなた》かを奧さんにするのが本當なんです!」と彼女は泣き叫んだ。 「私、今でもあの方にさうしていたゞくやうにするのが本當と思ひますわ! あの方の爲めには、あんた方の方がいゝに違ひないんですもの -- 私、何を言つてゐるのか分らない! あゝ!あゝ!」 彼女たちは、テスの處へ歩み寄つて抱きかゝへた。だが彼女は、まだ啜り泣きに體を震はしてゐた。 「水を少し持つて來てよ、」とマリアンが言つた。「この人は、私たちの爲めに氣が顛倒したんだよ、 可哀さうに、可哀さうに!」 彼女たちは、靜かに彼女を寢床の側に連れて行つて其處で温かい接吻をした。 「あの方の爲めには、あんたが一番いゝのよ」とマリアンは言つた。 「私たちよりはずつと淑女《レデイ》らしくつて、學問もあるんだもの。 とりわけ、あの方がいろ〜なことを澤山あんたに教へ込んだんだからね。だからあんただつて、 鼻を高くしていゝんだわ。あんたは、屹度、鼻を高くしてゐるんでせう!」 「えゝさうよ、」と彼女は言つた。「だから私、こんなに泣き崩れてしまつたのが恥かしいの!」 彼女たちがみんな寢床へ入つて燈火《あかり》が消されると、マリアンは自分の寢床から、彼女へ囁いた -- 「あの方の奧さんになつても、テス、私たちのことは忘れないでね。それから私たちが、 あの方を想つてゐることをあんたに言つたことや、どんなにあんたを憎むまいとしたか、 またほんとに憎むわけにも行かなかつたこと、それといふのもみんな、 あんたがあの方に見立てられた者だつたし、 私たちは決してあの方から見立てられようと望みもしなかつたからだつていふことなどを、 思ひ出してくれるでせうね。」 かういふ言葉を聞いて、テスは苦しい身を刺すやうな涙を流して新たに枕を濕《うるほ》したことにも、 また心臟も張り裂けるやうな氣持で母親の言ひつけに頓着せず一切の身の上をエンヂェル・クレアに打ち明けて -- 彼を裏切ることとも考へられ、またこの娘たちに對しても惡いことをするやうに思はれる沈默を守つてゐるよりも、 寧ろ打ち明けて、天にも地にも掛け替へのないあの人に賤しめられるなら賤しめられもし、 また母親に馬鹿者と見做されもしよう、と決心するやうになつたことにも、彼女たちは氣が付かなかつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- この悔悟する氣持が働いて、彼女は婚禮の日取りを決めることが出來なかつた。 十一月の初めになつても、その日取りはまだ定《き》まらないでゐた。尤も彼は、 一番有效な機會を見計らつては彼女を促してゐた。けれどもテスの願ひは何も彼もが現在のまゝで續いて行く、 永久の許婚《いひなづけ》でゐたいといふにあるらしかつた。 牧場はもう變りかけてゐた。が、乳搾りの始まらない午後も早いうちなら、暫く其處らをぶら〜する位ゐにはまだ温かゝつた。 そして、一年のうちでもこの季節になると、搾乳場の仕事も少しの間位ゐは散歩することの出來る状態になつてゐた。 太陽の方向にある濕つた芝土を見渡すと、ぎら〜閃《きら》めいてゐる細い蜘蛛の巣の波紋が、 丁度海の上に射した月光の跡のやうに太陽の下にあるのが彼等の眼に見えた。 蚋《ぶよ》は自分たちの果敢《はか》ない幸福のことは少しも知らず、 恰も體内に光でも持つてゐるやうに透き通つて、輝いてゐるこの小徑をふわ〜飛び越え、 やがてその光の中から出拔けてすつかり見えなくなつた。 かういふものを眼の前に見ると、彼は何時も日取りのことがまだ決らないでゐることを彼女に思ひ起させた。 或はまた、夜になつて、クリックの妻君がわざと彼にその機會を與へようとの考へから設けられた或る用たしで、 彼女について行つた時、彼は彼女に訊ねることもあつた。この用たしといふのは、大抵、 この盆地の上の傾斜にある百姓家へ行つて、藁置場へ移されてゐる産期の近附いて來た牝牛がどんな樣子であるかを、 檢《しら》べて來ることであつた。それは、牝牛の世界には今大きな變化の來る季節だつたからである。 一群の動物が、毎日この産科病院に送られた。其處では、犢《こうし》を産んでしまふまでは藁を飼料とされた牝牛たちは、 お産も濟み犢が歩けるやうになるとすぐ犢と共に搾乳場へ引き戻されるのであつた。 犢を賣つまでには時がかゝるが、その間は、無論、殆んど乳搾りは行はれなかつた。 けれども、犢が他所へ連れ去られてしまふと同時に、乳搾り女の連中は、平常の通りに仕事に取り掛らなければならなかつた。 かういふ暗闇の散歩は幾度も繰り返されたが、一度その歸りがけに、二人は、 平地に蔽ひ被さつてゐる大きな礫土《れきど》質の崖の處へ來て、其處にぢつと立ち止つて聽き耳を立てゝゐた。 丁度河は水嵩《みずかさ》を増してゐて、ごう〜と堰から流れ出で、暗渠《かくれみぞ》の下をちよろ〜音を立てゝ流れた。 一番小さい溝までが、すつかり溢れてゐた。何處にも近道をするところがなく、 徒歩の通行者は、是非ともきまり切つた道を通らなければならなかつた。眼に見えない盆地のいたるところから、 種々樣々な音調が聞えて來た。それは、自分たちの足下に大きな市街があつて、このがや〜いふ音は、 其處に住んでゐる人々の叫び聲ではないだらうか、と彼等は空想させずにはゐなかつた。 「何だかかう、何萬といふ大勢の人々が、」とテスは言つた。「市場で集會を開いてゐて、議論をしたり説教をしたり、 喧嘩をしたり啜り泣いたり、呻いたり祈つたり、また呪つたりしてゐるやうですね。」 クレアは、特別氣にもとめてゐなかつた。 「今日クリックが、冬の數ヶ月間は大して手傳ひも要らない、つていふやうなことを、君に話さなかつたかい?」 「いゝえ。」 「牝牛はどん〜あがつて行くんだよ。」 「えゝ。昨日は六頭か七頭、それから一昨日は三頭藁置場の方へ行つたので、 もう藁置場の方のはかれこれ二十頭近くなつたでせう。あゝ -- ぢや犢《こうし》のお産に私の手は要らない、 つていふんぢやないかしら?あゝ -- 私もう此處では用のない人なんだわ!それだのに私は、 どうかしてと思つて一生懸命に -- 」 「クリックが、もう君は要らない、つてはつきり言つたわけぢやないんだよ。が、僕逹の間を知つてるんで、 僕が降誕祭《クリスマス》の晩に此處を出る時、君を一緒に連れて行くだらうと思つてゐたと、 實際上機嫌で、しかも出來るつたけ丁寧に言つたよ。で、 君を手離してしまつてどうしてやつて行くか、と僕が訊ねると、クリックは、 實際のところ今はほんの少しの女手さへあれば間に合ふと言つたきりだよ。 僕は、罪なことだけれど、クリックがかうして否應なしに君に結婚を承諾させてくれるやうにしたのを、 寧ろ嬉しく感じた譯だ。」 「私、あなたが嬉しく感じるなんて、間違つてゐると思ひますわ、エンヂェル。 要らなくなるつてことは、たとひ同時に此方《こつち》の都合のいゝ場合でも、 きまつて悲しいもんですからね。」 「さうだよ、確かに都合がいゝよ -- 君もそれを認めてゐるんだね。」 彼は指で彼女の頬をつついた。「おや!」と彼は言つた。 「どうしましたの?」 「言葉尻を捉へられたんで、顏を赤くほてらせてゐるんだよ! だが、僕はどうしてこんなに巫山戲《ふざけ》てなんかゐるんだらう! お互ひに巫山戲《ふざけ》るのはよさう -- 人生は眞面目過ぎるんでね。」 「さうですとも。そのことは、大方私の方が先に知つてましたわ。」 彼女は、その時知りかけてゐたのであつた。結局彼との結婚を斷つて -- 昨夜の氣持に從つて -- この搾乳場を去るといふことは、或る搾乳場ではなく、 何處か未知のところへ行くことに外ならなかつた -- ちうふのは、乳牛の産時が近付いて來たので、 乳搾り女は要らなかつたからである -- それはまた何處か、 エンヂェル・クレアのやうな神のやうな人のゐない農場へ行くことであつた。 彼女は、さう思ふと厭《いや》で仕方がなかつた。故郷へ歸ることは、考へてみても尚更厭だつた。 「だから眞面目にいふんだよ、テス、」と彼は續けた。「君は多分、 降誕祭《クリスマス》の晩には此處で出なくちやならないだらうから、 その時、僕が君を自分の妻として連れて行くことは、どう見ても望ましいことだし、 又便宜でもあるぢやないか。そればかりぢやなく、若し君が、 この世で一番ものの分らない女だといふのなら別だが、さうでなかつたら、 僕たちがいつまでもこんな風にして生活をつゞける譯には行かないつてことが、分るだらう。」 「私、こんな風にしてゐられたらいゝと思ひますわ。何時でも夏や秋のやうで、 あなたは何時でも私に言ひ寄り、そして、何時でもこの夏の間のやうに、私のことを想つてゐて下すつたら!」 「そりや僕は何時でもさうするだらうよ。」 「あら、あなたがさうして下さるだらう、つていふことは知つてゐますわ!」彼女は突然彼を信じる熱情に溢れて、 叫んだ。「エンヂェル、私は永久にあなたのものとなる日を決めませう!」 かうして到頭、左右に聞える樣々な水の音に包まれて暗い中を家の方へ歸つて行く間に、 日取りは二人の間で取り決められた。 二人が搾乳場に着くと、クリック夫妻は早速そのことを告げ知らされた -- また内密にして置いてくれといふ頼みも受けた。 といふのは、結婚はなるべく内々にして置きたいといふのが戀人たち二人の望みであつたから。 主人は、間もなく彼女に暇を出さうと考へてはゐたが、今になつて見ると、 彼女を手離すことについて大へん氣を揉んだ。クリーム掬《すく》ひをどうしよう? アングルベリイやサンドバーンの貴婦人たちに送る飾り牛酪《バタ》は誰が拵《こしら》へよう? クリックの妻君は、長い間愚圖々々してゐたことも到頭お終ひになつたのをテスの爲めに喜び、 テスを一眼見るや否や、ありふれた戸外の勞働者ではない、屹度誰かに選ばれるに違ひないと見て取つたことや、 テスが此處へ着いた日の午後に裏庭を歩いてゐたところは人並み外れて立派に見えたといふことや、 彼女が立派な家柄の者であると自分は言ひ切ることが出來たといふことなどを語つた。 が、實際のところクリックの妻君は、テスがだん〜近附いて來るに連れて、如何にも優しい、 美しい娘だと思つたことだけは覺えてゐたが、 人並み外れて立派に見えたといふことは後でいろ〜のことを知つて想像を逞しうした結果であつたかも知れない。 テスは今、意志といふものは少しもなく、たゞ〜時の翼に乘つてどん〜運ばれて行つた。 きつぱりと、もう約束はしてしまつた。何日といふことも書き留められてしまつた。 彼女は生れつき非常に悧巧で、農夫や同じ仲間よりも、 寧ろ自然の現象と一層廣く交つてゐる人々に共通した宿命觀を認めかけてゐた。 從つて、戀人の仄めかすことは何でもうん〜と言つて應ずるさういふ氣持に特有な、 受身の態度に卷き込まれてしまつた。 けれども彼女は、表向きは結婚の日を知らす爲め、實際はもう一度母の助言を求める爲めに新たに母親へ手紙を書いた。 自分を選んだのは紳士であるといふことを、恐らくお母さんは十分考へなかつたであらう。 結婚後の告白も、もつと下等な男なら氣輕く受け流すかも知れないが、 あの人はそれと同じ心持で受け容れてはくれますまい、と。 だがこの手紙は、母親のダアビフィールドからは、何の返事も齎らさなかつた。 エンヂェル・クレアが、すぐ結婚することが實際に必要であると、自分にもまたテスにも尤もらしく説いたには説いたが、 その段取りには、後になつて明かになつたことであるが、實際少し早計の氣味があつた。 彼は、自分に對する彼女の情熱的な一本調子の感情からではなく、恐らく理想的な、 且つ空想的な氣持からではあつたらうが、彼女を深く愛してゐた。彼は、もと〜に考へてゐた通りに、 無智な田園生活をいよ〜送ることになつた時、この田園詩にでもありさうな少女の中に見た魅力が、 その裏面に見出されるだらうなどゝは毛頭考へてゐなかつた。 純眞といふことはほんの話題にのぼるだけのものであつたが、實際に、 どんなに人の心を打つものであるかを、彼は此處へ來て始めて知つた。 しかも、まだ自分の將來の進路をはつきり見るどころではなかつた。 そして、立派に世の中に踏み出したと考へられるやうになるには、まだ一二年經たなくてはなるまい。 どうかなるかといふ事は、彼の家のものが持つてゐる偏見の爲めに眞に行くべき道を踏みはづしてしまつた、 といふ考へがもとで、彼の境遇や性格に植ゑつけられるやうになつた向う見ずの氣性の程度で決《きま》ることであつた。 「英國中部の農場にすつかり落着いてしまふまで待つ方が私たちの爲めに都合が好くはないでせうか?」 と彼女は、一度怖々訊ねて見たことがあつた。(英國中部の農場といふのが、 丁度その時分彼の考へてゐたことである。) 「實を言ふと、ねえテス、君を僕の保護と同情から離しては、何處へも殘して置きたくはないんだ。」 これだけに止まつてゐるのなら、この理由はいかにも正しい理由であつた。 彼がテスに及ぼした影響は實に著しかつたので、彼女は彼の態度や習癖、 彼の言語や口吻、彼の好き嫌ひに何時の間にか染み込んでしまつた。 それだのに今彼女を農場に一人殘して置くといふことは、 折角調子の合つて來たのをまた後戻りさせるやうなものであつた。 もう一つ別の理由でも、彼は彼女を自分の手許に置きたかつた。 彼の兩親は、人情として、彼が彼女を英國なり植民地なりの遠いところへ連れ去つて行く前に、 少くとも一度は彼女に會ひたがつてゐた。そして、兩親がどんな意見を持つてゐたからとて、 彼が自分の考へを變更するやうなことはなかつたので、彼はこんな風に判斷した。 何か有利な仕事始めの機會を探しながら自分と二ヶ月も下宿家住居をしたなら、 彼女が辛い務めのやうに感ずるかも知れないこと -- つまり、牧師館で母親と會ふことを幾らか樂にさせるであらう、と。 次に、彼は粉挽《こなひき》水車場の作業を少しばかり見て置きたいと思つた。 それは、これを麥作りに利用することが出來るかも知れないと考へてゐたからである。 ウェルブリッヂの大きな古い水車場 -- 嘗つて、或る修道院の水車場であつたが -- の持主は、 何時でもお氣の向いた時お出で下されば、この舊いしきたりの作業法をお目にかける、 又、二三日の間自由に御自分で手をお下しになつても、差支へございませんと申し出てゐた。 クレアはこの頃の或る日のこと、詳しいことをたづねる爲めに、二三哩へだつた其處を訪問して、 夕方になつてタルボセイズへ歸つて來た。彼が、少しの間ウェルブリッヂの粉挽《こなひき》水車場で送らうと決心してゐることを、 彼女は知つた。一體何が彼にこの決心をさせたのだらうか? それは親しく粉挽や篩ひ方を調べる機會といふよりは、 寧ろこんなにまだ破損しなかつた昔はダアバァヴィル一族の分家の邸宅になつてゐたその農家に宿をとることが出來るといふ、 偶然の事實であつた。これが、何時でもクレアが實際問題を解決する遣口であつた。 つまり、當の問題とは少しも關係のない感情で決める主義だつた。彼等は、 結婚したら直ぐに出掛けて町や宿屋を旅して廻ることは止めて、二週間そこに滯在することに決めた。 「それから、兼ねて聞いてゐた倫敦の先にある農場を踏査《しらべ》に出掛けることにしよう、」と彼は言つた。 「そして、三月か四月頃までに、二人で父や母を訪問しよう。」 こんな風な手順の問題が、起つてはまた過ぎて行つた。そして彼女が彼のものになる日が、 とても信じられないその日が、近い將來の中に大きく浮き上つて見えた。一二月の三十一日の除夜《おほみそか》が、 その日だつた。あの方の妻、と彼女は獨言《ひとりごと》を言つた。本當だらうか? 二人の二つの體が全く一つになる、これを分つものは何もない、どんな出來事でも二人で分け持つ。 何の不思議があらう?だが、また何故だらう。 或る日曜の朝、イズ・ヒュウエットが教會から戻つて來て、テスにこつそり話しかけた。 「あんたは今朝家へ呼ばれ(原作者註。「家へ呼ばれる」とは結婚豫告を公けにするといふ意味の地方語) なかつたのね。」 「何ですつて?」 「今日はあんたが、初めて訊かれる時だつたのに、」と彼女は落着いてテスを見ながら、言つた。 「あんたは除夜《おほみそか》に結婚する筈だつたんでせう、えゝ?」 相手はすぐさうだと答へた。 「で、三度訊かれなければならないのよ。だのに、日曜はあともうたつた二度しかないぢやないの。」 テスは頬が蒼白《あをざ》めて行くやうに感じた。イズの言ふ通りで、無論三度なければいけないのである。 大方、あの方が忘れてしまつたのだらう!若しさうだとすれば、一週間延ばさなくてはならない、 それにしても縁起の惡いことだ。どうしたら愛人に思ひつかすことが出來るだらう? 彼女は、これまでは非常に引つ込み思案であつたが、自分の大切な寶を失ふやうなことがあつてはならないと、 急に慌て出し驚き出した。 自然に或る出來事が起つて、彼女の心配を取り除いてくれた。 イズ・ヒュウエットが結婚廣告 [注:結婚豫告の誤りか?] の落ちてゐることを、クリックの妻君に話した。 するとクリックの妻君は、既婚女性の特權を振つて、この點に就いてエンヂェルに話した。 「あれを忘れになつてゐたのですか、クレアさん?結婚豫告のことをですよ。」 「いゝえ、忘れちやゐませんよ、」とクレアは言ふ。 他人のゐないところでテスに會ふなり、彼はかう言つて安心させた -- 「結婚豫告のことでみんなが何と言つても、氣にしちやいけないよ。 結婚許可《ライセンス》の方が僕逹には面倒がなくていゝだらうと思つて、 僕は君に相談を掛けずに、結婚許可の方に決めて置いたんだよ。だから、 日曜の朝教會へ行つて、君の名前を聽きたくつたつて聽かれやしないさ。」 「私、別に聽きたいなんて思つてはゐませんでしたわ、ねえ、あなた。」と彼女は昂然として言つた。 だが、それにも拘らず順序よく運んだのを知ることは、誰かゞ彼女の身の上を楯に取つて故障を申し立て、 結婚を禁じてしまひはすまいか、とまでに恐れてゐたテスにとつては、 非常な安心であつた。事件はなんと彼女に都合よく運んでゐることだらう! 「でも私、すつかり安心といふ譯には行かない、」と彼女は獨言《ひとりごと》を言つた。 「かういふ何から何までの幸運も、やがて禍《わざはひ》の手で[てへん|宛;#1-84-80]《も》ぎ取られてしまふかも知れない。 神樣のなさることは大抵さうなんですもの。やつぱり普通の結婚豫告をして貰つた方がよかつたのに!」 が、何も彼も順調に運んだ。あの方は、持ち合せの一番いゝ白の上衣で婚禮して慾しいのか、 それとも新しいのを一着|調《とゝの》へなければならないのか、どつちだらうと彼女は迷つた。 その問題は、幾つかの大きな包みが彼女宛に屆いた時、初めてそれと知れた彼の用意周到さで綺麗に片づいた。 包みの中には二人の考へてゐた略式の結婚に相應《ふさは》しいやうな、 女帽から靴下に至るまで衣裳全部が入つてをり、また晝着《モオニング・コスチユウム》まで添へてあつた。 この包みが屆いてから間もなく、彼は家の中へ入つて來た、そして二階で彼女がそれを解いてゐる音を聞いた。 一分も經つかと思ふと、彼女は顏を上氣させ、眼には涙を浮べて下りて來た。 「まあ何んてあなたは氣がつくんでせう!」と彼女は頬を彼の肩の上に載せて囁いた。 「手袋やハンケチまでも!可愛い私の -- 何んと親切で、何んて思ひ遣りの深い!」 「いや、いや、テス、ほんのちよつと倫敦の女商人へ註文してやつたゞけなんだよ -- それだけのことなんだ。」 それから、彼女が餘りに浴びせすぎる讚辭を外《そ》らさうと思つて、彼は、 二階へ行つてゆつくり品物がよく體に合ふかどうかを調べてみなさい、それで、 若し合はないやうだつたら、村の女裁縫師に頼んで少し直して貰つたら好いと話した。 彼女は二階へ戻つて、上着を着けてみた。一人で、彼女はしばらく鏡の前に立つて、 絹布の裝ひになつた體裁を見てゐた。やがて彼女の頭には、母親がよく歌つた不思議な着物の小唄が浮んで來た -- 一度不義したその妻びとに   それは決つして似合ふまい   (『少年と外套』といふ四十九節からなる小唄の第八節から引抄したもの。 この小唄のもとは、パーシイの『古代英詩遺集』に見えてゐる。 貞操を破つたものは、或る不思議な衣服で露見するといふ傳説は、中世によく行はれた。) これはダアビフィールドの女房が、テスのまだ子供の時分によく搖籃に片足を載せ、 唄の調子に合せて搖りながら如何にも樂しさうに、また如何にも小憎らしさうに彼女に歌つて聞かせたものだつた。 若しこの服裝が、小唄の着物が女王ギネバ(騎士物語の主人公として有名なアーサー王の后で、 ランスロツトと戀に落ちた姫)を裏切つたやうに色が變つて、彼女を裏切つたとしたら。 彼女はこの搾乳場に來て以來、今が今まで一度もこの唄を思ひ出したことがなかつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- エンヂェルは、二人がまだたゞの愛人同志である間に、彼女と連れ立つて試みる最後の小旅行といふ意味で、 搾乳場から離れた何處かで彼女と一緒に結婚前の一日を過したいと感じた。 それは彼等のすぐ前に微笑んでゐる他のもつと重大な日と一緒に、 もう二度と再び繰り返すことの出來ない事情にあるロマンティックな一日であつた。 で、彼は先週中に、一番近い町へ行つて少しばかり買物をすることを仄めかして置いたので、 二人は一緒に出掛けた。 搾乳場でのクレアの生活は、彼と同じ階級の世界から見れば、まるで隱遁者の生活であつた。 數ヶ月間、彼は一度も町へ近づかなかつたし、馬車の必要もなかつたから決して傭つて置きもしなかつた。 若し馬に乘るか馬車を驅るかする時は、主人の短脚馬《コツブ》か、二輪馬車かを借り受けた。 その日は、彼等は二輪馬車で出掛けた。 それから彼等は、生れて初めて一つ用事の相談相手となつて買物をした。 丁度|降誕祭《クリスマス》の前夜で、柊《ひいらぎ》や寄生樹《ミツスルトー》が其處此處に山と積んであつた。 町には、さういふ日であつた爲めに、近郷の四方八方から入り込んで來た見知らぬ者が一ぱいに溢れてゐた。 テスは、顏が美しい上に更に幸福さうな表情を浮べて歩いてゐる罪として、 彼の腕に凭《もた》れて人中を動いて行く時には、ぢろ〜大勢の者から見られるのであつた。 夕方になつて、彼等は先に宿を取つて置いた宿屋に戻つた。そしてテスは入口の處で、 エンヂェルが馬と馬車とを戸口の方へ引いて來るのを見に行つてゐる間、待つてゐた。 大廣間は客で一ぱいで、絶えず出たり入つたりしてゐた。かういふ人たちが出入りするので、 扉が開閉する度毎に廣間の燈火がテスの顏をすつかり照した。二人の男が出て來て、 わけても彼女の傍を通り過ぎたその中の一人は、吃驚してぢろ〜彼女を見上げ見下ろした。 こゝで彼女は、この男がトラントリッヂの者かも知れないと思つた。 尤もその村は幾哩も遠く離れてゐるので、トラントリッヂから此處へ來る者は滅多になかつたが。 「別嬪だね、あの娘は、」と他の一人が言つた。 「いかにも、素敵な別嬪だ。だが、俺の大きな間違ひでないとすりや -- 」そしてすぐ、 彼は後の言葉を濁してしまつた。 クレアは、丁度その時廏から歸つて來て、閾のところでその男に出會ひ、例の言葉を耳にし、 またテスが縮み上るのを眼にした。彼女に對する侮辱を聞いて、彼はぐつと癪に障《さは》つた。 そこで全然何を考へる暇もなく、頤を目がけて拳骨《げんこつ》で力任せにその男を擲《なぐ》りつけ、 廊下へ後《うしろ》ざまによろよろと突き出した。 男は立ち直つて、打ちかゝつて來る氣勢《けはひ》を見せた。そこでクレアは、戸の外側に出て防禦の身構へをした。 だが彼の相手は事情を考へ直し始めた。この男は、テスの傍を通り過ぎながら改めて彼女を見なほし、 そしてクレアに言つた -- 「失禮しましたよ、君。全く思ひ違ひでした。わしやあの方を、此處から四十哩先の別の女と思つたんです。」 クレアも、自分が餘り輕率だつた、また、宿屋の廊下などに彼女を立たせて置いたのは自分が惡いと感じ、 こんな場合にきまつてする謝罪をして、 擲《なぐ》つた箇所を癒《なほ》す膏藥代として五|志《シリング》この男に與へたのである。 かうして互に機嫌よく挨拶を交して別れた。クレアが馬丁から手綱をとり、この若い二人が馬車で立ち去つてしまふと同時に、 二人の男は反對の方向へ繰り出した。 「それで、ありや思ひ違ひだつたのかえ?」と二番目の方が言つた。 「毛ほども思ひ違ひぢやないよ。だが俺は、あの紳士の氣を惡くしたくはなかつたんだ -- 何でしたいもんかな。」 一方、愛人同志はどん〜馬車を進めてゐた。 「ねえ、私たちの結婚を、少し延ばすことは出來ないでせうか?」とテスは味も素氣もない力の拔けた聲で訊ねた。 「若しさうしたければつて意味なんですよ?」 「いゝや、君。氣を落着けておくれよ。彼奴《あいつ》を僕が擲《なぐ》つたんで、 後で訴へでもすると思つてゐるのかね?」と彼は機嫌で訊ねた。 「いゝえ -- 私はたゞ -- 若し延ばさなくつちやならないなら、つていふ意味です。」 彼女が何の積りでさう言つたのか餘りはつきりしなかつた。そこで彼は、 そんな空想は忘れてしまへと彼女に言ひつけた。彼女は素直に、出來る限り言ひなりに從つた。 けれども彼女は家へ歸る途中、ずつと沈んでゐた、ひふぉく沈んでゐた。そして到頭、 「ずつと〜遠い、この邊からは何百哩も離れた遠い處へ二人で逃げませう。 さうしたらもう二度とこんあやうなことは起る氣遣ひはないし、 過去の幽靈だつて其處までやつて來る筈はありませんもの、」と考へるやうになつた。 二人はその夜、梯子の中段で殘り惜しい別れを告げ、そしてクレアは自分の屋根裏部屋へ上つて行つた。 後二三日しかないので、間に合ひ兼ねては大變だと思つて、テスは幾つか細々したものを始末しながら起きてゐた。 起きてゐるうちに、頭の上のクレアの部屋で起る物音を聞いた。床を踏み、 また苦惱してゐる音であつた。家中の他の者は、みんな眠つてゐた。そこで、 若しクレアが病氣になつたのではないかしらと氣掛りになつたので、 彼女は駈け上つて行つて、彼の部屋の扉をノックして、どうしたんですと訊ねた。 「あゝ、何でもないんだよ、君、」と彼は内側から言つた。 「騷がせて濟まなかつた!だがその理由《わけ》はまあ面白いんだ -- 僕アぐつすり寢てゝ夢を見てたんだ。 君を侮辱した彼奴《あいつ》とまた掴み合つてる夢をね。そして君が聽いたのは、 今日荷造りしようと思つて引き出した旅行鞄を拳骨《げんこつ》で散々ぶん擲《なぐ》つてた音なんだ。 僕ア眠つてゐながら、時々こんな氣まぐれをやり出す癖があるんだよ。行つてお寢《やす》み、 もう心配しないでおくれよ。」 これは、彼女の不決斷の天秤《てんびん》を撥ねさせるに必要な最後のおもしであつた。 彼女は自分の過去を口づから彼に告白することは、どうしても出來なかつた。けれども別に方法がない譯ではなかつた。 彼女は坐り込んで用箋《ようせん》四頁にあの三四年前の出來事の簡單な敍述を認め、 封筒に納めてクレアに宛てゝ宛名を書いた。そこで、弱い氣がまた出ないうちにと思つて、 靴も履かないでこつそり階上に上り、扉の下へその手紙を辷り込ませた。 當然のことながら、その夜は目覺め勝ちであつた。そして頭の上で、 最後の微かな音のするのを、聽き耳を立てゝ待つてゐた。 それは平常《いつも》通り聞えて來たし、矢張り平常通り彼は下りて來た。彼女も下りて行つた。 彼は梯子段の下で彼女と出會つて、接吻した。それが何時もの通りの熱い接吻であつたことは確かであつた! 彼がいくらかそわ〜して萎れてゐるやうに見えると、彼女は思つた。 けれども、彼は二人きりになつた時でも、彼女が打ち明けた事に就いては一言も口に出さなかつた。 一體あれを見たのだらうか?彼から、あの問題に就いて口を切らない限り、自分からは何も言へないと、彼女は感じた。 かうして、その日は過ぎた。そしてどう思つたにしても、彼がその事を自分の胸一つに納めて置かうとしてゐることは明かであつた。 しかし彼はいつもと變らず卒直で優しかつた。彼女の疑ひは子供らしいものだつたらうか? 彼は自分を赦したのだらうか。また實際の自分を知り、まさしくさういふ自分として愛し、 そして自分の不安を愚にもつかない夢魔を笑ふやうに笑つてゐるのだらうか? 本當に手紙を受け取つたのだらうか?彼女は彼の部屋を一通り覗き込んで見たが、 それらしいものを何んにも見ることが出來なかつた。ことによると自分を赦したのかも知れない。 けれども、たとひ彼がそれを受け取らないにしても、屹度自分を赦してくれるだらうといふ熱狂的な信頼を、 彼女は急に抱くやうになつた。 毎晩毎夜、彼は矢張り同じであつた。かうしてゐるうちに、除夜の日、結婚の日は明けた。 愛人たちは乳搾りの時刻にも起きなかつた。といふのはこの搾乳場に逗留するこの最後の一週間といふもの、 彼等は客人らしい待遇を受けてゐたし、又テスは特別に彼女だけの部屋を一つ與へられる光榮に浴してゐたからである。 朝餐の時に階下へ下りて行つて見ると、前の日に見たのとはすつかり變つて、 彼等を祝ふ爲めにどんな趣向がこの大きい臺所に施されてゐたかを知つて、 彼等は吃驚した。朝のまだ非常に早い時刻に、主人は、大口を開いてゐる煙出しの隅を白く、 また煉瓦の爐を赤く塗らせ、それから燃え立つばかりの黄色い緞子《どんす》の通風幕《まく》を、 今まで其處に用を務めてゐた黒い小枝模樣の附いた古い垢染みた藍色の木綿のと取り換へて拱門《アーチ》へ懸けさせた。 陰氣な冬の朝の、實際この部屋の焦點となつてゐたものをすつかり新しくしたこの光景は、 部屋全體ににこ〜微笑むやうな樣子を投げた。 「お祝ひに、何かしてえと思つてたんです、」と主人は言つた。 「それで、昔この邊でやりましたやうに胡弓や四弦琴をすつかり取り揃へて、 一つ大騷ぎをしようと思ひましたんですが、あんたが聞かつしやんねえから、 まあ音のしねえものと思つて、精々これだけ考へついたんでさあ。」 テスの一家の者はずつと遠くに暮してゐたから、たとひ誰かゝ招かれたとしても、 不便な爲めに一人もこの婚禮の式へ連なる譯には行かなかつた。だが、事實誰もマアロットからは招待されなかつた。 エンヂェルの家の方へは、彼から手紙を差し出し、正式にその時刻を知らせ、 若しお出で下さる御好意があるなら當日少くとも一人は式に連なつて貰へると、 大へんに嬉しい、といふ事を言つてやつた。兄たちは憤慨してゐるものと見えて、 更に何とも返事を寄越さなかつた。ところが父と母とからは、何方《どちら》かと言へば悲しむやうな手紙を寄越し、 向う見ずに結婚するなんて早まつたことをしてくれたと嘆きはするが、 乳搾り娘のやうな者を息子の嫁に貰はうとは思ひも寄らないことながら、 お前ももう自分の事は自分で誰より一番よく判斷することの出來る年齡になつてゐるのだから、 それをせめての心遣りとしてゐる、といふ意味を傳へて來た。 クレア家の者のこの冷淡な態度は、 近いうちに出して見せて驚かしてやらうと思つてゐた素晴らしいカード札を持ち合はせてゐなかつたらクレアの氣を揉ませたかも知れなかつたが、 それがあるので、左程でもなかつた。搾乳場からやつと出たばかりのテスを、 ダアバァヴィル家の者だ、また淑女《レデイ》だといつて人前に出すのは無謀であり、 危險でもあると彼は感じてゐた。で彼は、自分と一緒に二三ヶ月旅行もし、 また讀書もして世間の風習にも馴れたところで、彼女を連れて兩親を訪問し、 かういふ名門の出として少しも恥かしく者として得意になつて彼等に引き合せながら、 實はこれ〜でと事實を傳へることが出來るやうになる時までは、 彼女の素性のことは隱して置いた。少くとも、それは美しい戀人の夢であつた。 恐らく、テスの素性は彼だけには、世界中の他の誰にとつてよりも一層尊く感ぜられたであらう。 テスは、直接手紙で知らせてやつたのに、自分に對するエンヂェルの態度が、 尚ほ依然として元のまゝで少しも變つてゐないことを知つて、 一體あの方はあれを受け取つたのだらうかと、惡いとは知りつゝ疑つた。 彼女は、彼のまだ濟ましてしまはないうちに朝餐の席から立ち上つて、二階へ急いだ。長い間クレアの居間、 といふよりも寧ろ巣となつてゐた變梃《へんてこ》な殺風景な部屋を、 もう一度覗いて見ようと不圖《ふと》思ひ附いた。そこで彼女は梯子を上つてから、 開いてゐる扉口の處に立つてよく見廻し、ぢつと考へ込んだ。 彼女は三日前ひどく興奮して、手紙を押し込んだ戸口の閾の上に屈み込んだ。 絨毯はずつと閾側まで屆いてゐた。そしてその絨毯の下に、 彼へ宛てた手紙の入つてゐる封筒の白い縁をちらつと認めた。 彼女が急いだ餘り、戸の下へばかりでなく絨毯の下へまで押し込んでしまつた爲めに、 彼は明かにそれを見なかつたのである。 彼女は、氣が遠くなるやうな心持で、その手紙を引き出した。それはまさしく -- 彼女の手を離れた時と同じやうに封じられた儘であつた。 行手の山はまだ取り除かれてはゐなかつたのだ。家の中は準備の爲めにごつた返してゐるのであるから、 彼女は今、彼に讀んでもらふ譯には行かなかつた。やがて自分の部屋へ下りて行き、其處で手紙を引き破つてしまつた。 彼が再び彼女を見ると、相手はひどく蒼い顏をしてゐたので心配した。 手紙の置場を誤つたといふこの出來事を、彼女は恰も告白を妨げることか何かのやうに早呑み込みしてしまつた。 が、心の中ではさうあきらめるには及ばないことを知つてゐた。まだ時間はあつたのだ。 しかも何も彼もが混雜の状態にあつた。出る者があるかと思へば、入る者があつた。 主人とその妻君は立會人として附き添ふやうに頼まれてゐたから、みんな着更へをしなければならなかつた。 それで思案したりゆつくり話してゐることなどは、殆んど不可能であつた。 テスがクレアと二人|限《き》りになることが出來たほんのちよつとの瞬間といふのは、 彼等が階段で出會つた時だけであつた。 「是非あなたにお話しゝたいんです -- 私の落度や過失を告白したいんです!」 と彼女は努めて平氣を裝ひながら言つた。 「いや、 -- 落度などを話し合ふわけには行かないよ -- 君は少くとも、 今日だけは完全なものと思はれなくてはならないんだ、ねえ君!」と彼は叫んだ。 「この先、僕等には自分たちの缺點を話し合ふ時間は幾らでもあらうよ。僕はその時一緒に僕のも打ち明けるよ。」 「でも、今それをした方が、私の爲めにいゝやうに思ひますわ、後になつてあなたが -- 」 「ぢや、ねえ變人さん、何でもお話し -- ねえ、いゝかい、僕たちの宿で落着いたらすぐにだよ。 今ぢやないよ。その時、僕もまたお前に落度を話すからね。だがそんなものゝ爲めに、 この日を臺なしにしてしまふやうなことは止さう。 そんなものは何れ怠屈な時の素晴らしい話になるだらうよ。」 「ぢや私に話させたくないんですの、あなた?」 「ないとも、テッシイ、本當に。」 着更へや出發の忙《せは》しさで、もうこれ以上の時間はなかつた。 彼の言つた言葉をよく考へてみると、彼女は安心が出來るやうに思はれた。 愈々押し迫つた後の二時間、ずつと彼女は何物をも征服する彼の愛情の潮流で、 どん〜押し流されて行き、その爲めに、これ以上に默想することなどは禁じられてしまつた。 隨分長い間抑へてゐた、自分が彼のものとなり、彼を自分の夫と呼び、 自分のものとしたい -- それから、必要とあれば生命《いのち》も捧げようとした -- 彼女の一つの願ひは、 到頭、辿々《たど〜》しい思案の路から彼女を引き上げてしまつた。着更へをしながら、 彼女はいろ〜の色で彩られた理想の雲の中を彷徨《さまよ》ひ歩いてゐた。その理想は、 輝く光であらゆる不快な一切の出來事を掩ひ隱してしまつた。 教會は遠かつたし、殊に冬のことではあつたので、彼等は馬車に乘らなければならなかつた。 街道の一軒の宿屋から一臺の箱馬車を仕立てるやうに言ひ付けて置いた。 これは、驛傳馬車で旅行した昔から、ずつと今日までその家に藏《しま》つてあつたものであつた。 頑丈な幅と、重い輪縁《わぶち》と、大きな彎曲した車底と、並外れて大きな革紐と、彈條《ばね》と、 それから掛矢のやうな轅桿《ポール》がついてゐた。馭者は六十になる老人の『別當』 -- 若い時代に餘り體を風雨に晒し過ぎ、強い酒でその補ひをしてゐた結果、僂麻質斯《りうまちす》性痛風の患者となつた -- で、馬車を駈つて、その仕事をしなくてもすむやうになつてからおよそ二十五年の間、 昔の日が再び戻つて來るのを待ち設けてゞもゐるかのやうに、何にもしないで、 宿屋の戸口に立ち通して來た男だつた。彼はキャスタブリッッヂのキングス・ムーア館 (ドーチエスタ州の町に、今もその名で聞えてゐる旅館)に常雇ひになつてゐた長い間に、 貴族の馬車の轅桿に擦られ通しで、その爲めに出來た癒えることのない細長い傷を、右足の外側に持つてゐた。 この厄介なぎし〜鳴る馬車の中に、またこの衰へた馭者の背後に樂しい四人 -- 花嫁と花婿と、 クリック夫妻とが座を占めた。エンヂェルは、 少くとも兄たちの一人が新郎んお附添ひとして來てゐてくれたらよかつたと思つた。 けれども、その趣きを手紙で仄めかしてやつても何とも言つて來ないところを見ると、 彼等は來るのを厭がつてゐることが分つた。彼等はこの結婚に不贊成だつたから、それを激勵するなぞとは思ひも寄らなかつた。 彼等が列席出來なかつたのは或は却つて好都合だつたかも知れない。 彼等は世間的な若者たちではなかつた。だから、この結婚をどう考へてゐるかは別問題としても、 搾乳場の者たちと一緒になるといふことは、彼等の偏屈な氣むづかしさを、不愉快にするほど傷つけたに相違ない。 テスはこの時の勢ひに呑まれてゐたので、こんなことには少しも氣がつかなかつたし、何んにも見なかつたし、 又どの道を教會へ連れて行かれてゐるのかも知らなかつた。エンヂェルがすぐ傍にゐることは知つてゐたが、 他のことは一切が輝く靄《もや》にすぎなかつた。彼女は謂はゞ詩の中にのみ出て來る天上の人のやうなものであつた -- 二人が一緒に歩きながら家へ歸る時、クレアがよく彼女の話して聞かせた、あの古典的な神の中の一人であつた。 この結婚は略式の結婚許可の手續きで行はれるのであつたから、教會には一二人ばかりの人がゐるだけであつた。 たとひ千人の人がゐたとしても、彼女にこれ以上の影響を與へはしなかつたであらう。 彼等は、彼女の現在の世界からは、星の距離ほども隔つてゐた。 彼女が相手に貞節を誓つた時の、我を忘れた嚴かな氣持になつてゐるところを見ると、 ありふれた性の感覺などは、一片の雲のやうなものに思はれた。彼等が一緒に跪づいてゐる間に、 勤行《サーヴイス》がしばらく止んで、彼女は思はず知らず彼の方へ體を寄せかけたので、 肩が彼の腕に觸つた。彼女は不圖《ふと》心をかすめた考へに吃驚した。 そして彼が實際に其處にゐるといふことを確かめ、また、 彼の信頼さへあればどんなことが起らうとも大丈夫であると自分の信念を固める爲めの動作が、 ひとりでに起つた。 クレアは彼女が自分を愛してゐることを知つてゐた -- 體のあらゆる曲線がそれを證據立てゝゐた -- だが、彼はその時、彼女の熱愛の底深さを、 その一途な氣持を、そのやさしさのほどを知らなかつた。またその熱愛が、どれほど長い間の苦しみを、 どれほどの正直さを、どれほどの忍耐を、眞實を保證してゐるものであるかを知らなかつた。 彼等が教會から出ると、鳴鐘者《かねつき》は、その掛けてあつた所から鐘を搖り動かした。 それで、三拍子のつゝましい響が鳴り出した -- その音が一ぱいに出されゝば、こんな小さな教區の慶事にはこれで十分だと、 教會建立者が考へてゐた響であつた。門に通ずる小徑を夫と共に、塔の傍を通り過ぎながら、 彼女は音波が輪をなして櫓窓《やぐらまど》のある鐘樓から出て、 彼方の周圍の空氣を搖がしてゐるのを感じない譯には行かなかつた。 それは今彼女が呼吸してゐる緊張しきつた心の雰圍氣と競つてゐた。 聖ヨハネが太陽の中に見た天使のやうに、自分から發するのではない光を受けて明るく感じたこの精神状態は、 教會の鐘の音がすつかり消えて、結婚式の感動が落着いてしまふまで續いた。 彼女は今になつて始めてこま〜゛したものを一層はつきり見ることが出來た。 またクリック夫妻は、二輪馬車で自分たちを迎へによこすやうに命じて、 乘つて來た馬車を若夫婦に任せたので、彼女は初めてその乘物の構造や特徴を觀察した。 默つて腰掛けたまゝ、彼女は長い間ぢつと眺めてゐた。 「なんだか心が浮かないやうだね、テッシイ、」とクレアは言つた。 「えゝ、」と額に手を當てながら、彼女は答へた。「私、いろんなものを見て顫へるんです、 何も彼ももの〜しいことばかりね、エンヂェル。取り分け、この馬車は前に見たことがあつて、 よく知つてゐるやうな氣がしますの。ほんとに變だわ -- 屹度夢で見たに違ひないの。」 「あゝ -- お前はダアバァヴィル家の馬車の傳説を聞いた事があるんだらう -- この邊で大變に評判だつた時分のお前たち一族に就いて。この地方に傳はつてゐる迷信だがね。 で、このがた〜の馬車を見て、お前はそれを思ひ出したんだよ。」 「私、そんなことを聞いた覺えありませんわ、」と彼女は言つた。 「どんな傳説なの -- 聞かして下さらない?」 「さうだね -- 今のところは、あんまり詳しく話したくないんだ。十六世紀頃の或るダアバァヴィル家の者が、 そのお抱への馬車の中で恐ろしい罪を犯したといふんだよ。その時から、 この一家の者がこの古い馬車を見たり、またその音を聞いたりする時にはいつでも -- だが後日《あと》で話さう -- 少し陰氣な話だから。屹度、それに就いての漠然《ぼんやり》した記憶が、 この古い馬車を見た爲めにお前の心へ蘇返《よみがへ》つて來たんだよ。」 「私、そんな話を前に聞いたやうには憶えてゐませんわ、」と彼女は囁いた。 「私の一族の者がそれを見るのは、死なうとしてゐる時でせうか、エンヂェル、 それとも私逹が罪を犯した時なんでせうか?」 「さあ、テス!」 彼は接吻して彼女を默らせた。 彼等が家へ歸つた頃には、テスは後悔してゐて元氣がなかつた。彼女はなるほどエンヂェル・クレア夫人に相違はなかつた。 が、彼女はこの名に對して幾分でも道徳上の資格を有つてゐたであらうか? アレキザンダア・ダアバァヴィル夫人といつた方が、一層本當ではなかつたか? 戀の強さは、正しい人にあつては責むべき罪の隱蔽と思はれさうなことを是認し得るだらうか? 彼女は、かうした場合に、女はどういふ態度を採るべきかを知らなかつた。それに相談相手が全くなかつた。 だが、二三分の間に自分の部屋に一人きりでゐるのに氣がつくと -- この部屋は入るのも今日が最後である -- 彼女は跪づき、そして祈つた。彼女は『神』に祈らうと努めた。けれども、 本當に彼女の歎願の的となるものは、自分の夫であつた。この人に對する彼女の崇拜は非常に強かつたので、 それが何かの凶兆なのではあるまいかと、彼女は我ながら心配した。彼女は、 ロオレンス僧正が言つた次の言葉に思ひ到つた -- 『かゝる烈しき歡喜は烈しき最後を見ん。』 (シェエークスピアの「ロメオとジユリエツト」中にある僧正の言) それは人間の境涯にとつては餘りに無謀だつたかも知れなかつた -- 餘りに濃厚であり餘りに奔放であり、 餘りに致命的であつたかも知れない。 「あゝ、あなた、あなた、何故私はこんなにあなたが戀しいんでせう!」彼女は其處にたつた一人きりで囁いた。 「あなたの愛していらつしやる女は、本當に私ではなくて、私の姿をした女なんです。 嘗つて私がさうだつたかも知れない女なんです!」 午後になつた、そして出發の時刻が來た。彼等は、 ウェルブリッヂの水車場に近い古い農家に二三日宿をとるといふ豫《かね》ての計畫を實行しようと決心してゐた。 彼は粉挽《こなひ》きの作業を研究する間、其處に住んでゐる積りであつた。 二時になるともうすることは何もなく、たゞ出發するばかりになつてゐた。搾乳場の雇人たちは、 見送る爲めに赤煉瓦の入口の内側に立つた。主人とその妻君も戸口まで送つて出た。 テスは三人の部屋仲間の者が一列になつて、塀に凭《よ》り掛り、悲しさうに頭を埀れてゐるのを見た。 別れ際に彼女たちは姿を見せるかどうかをひどく疑つてゐたのであつたが、 彼女たちは最後まで堪へ忍び、しつかりとして其處に姿を現はしてゐた。 彼女は、何故優しいレッティがそんなに弱々しく見え、イズがそんなに慘めに悲しさうに見え、 またマリアンがそんなに氣拔けしたやうに見えるのかをよく知つてゐた。 そして彼女たちの不幸を思ひ遣つてゐるので暫くの間彼女は、 何處までも附纒つて來る自分自身の不幸を忘れてゐた。 彼女は思ひつくまゝに、彼へ耳打ちした -- 「これが後にも先にもたつた一度ですから、可哀さうに、あの方たち皆に、接吻して上げて下さいませんか?」 クレアはさういふ離別の形式 -- 彼にとつては形式に過ぎなかつた -- に反對もしなかつた。 そこで彼女たちの前を通りすがる時、立つてゐる彼女たちに順々に接吻して、 一々『さよなら』を言つた。二人が戸口の處へ來た時、 テスは女らしくそのお慈悲《なさけ》の接吻の效果を見ようとしてちらりと振り返つたが、 その眼の中には、勝利の色があつてもいゝ筈だつたがまるでなかつた。 若しあつたとしても、どれ程この少女たちが感動してゐるかを見たならば、忽《たちま》ち消えてしまつたであらう。 今の接吻は、彼女たちが努めて鎭めようとしてゐた感情を呼び覺して、 明かに惡い結果を齎《もたら》したのであつた。 こんなことには、ちつともクレアは氣が附かなかつた。耳門《くゞり》の方へ出て行きながら、 彼は主人とその妻君とに握手を交はし、彼等の厚遇に最後の感謝を表はした。 それが濟むと、二人が立ち去るまでしばらくの沈默があつた。 それは、牡鷄の鬨《とき》をつくる聲で破られた。赤い鷄冠《とさか》をもつた白い牡鷄がやつて來て、 家の前の彼等から二三|碼《ヤード》足らずの處にある柵の上にとまつてゐた。そしてその聲は、 彼等の耳につんざいてぞつとさせ、溪谷《たに》の底へ谺《こだま》するやうに消えて行つた。 「おや?」とクリックの妻君は言つた。「晝鳴きだよ!」 二人の男が、庭の門の處に立つて、それを開けて抑へてゐた。 「こりやいかんぞ、」一人は耳門《くゞり》の處にゐる一團の者にその言葉が聞えることも考へないで、他の一人に囁いた。 牡鷄はまた鳴いた -- クレアの方へ眞直に向つて。 「はてな!」と主人は言つた。 「私、あれを聞きたくありませんわ!」とテスは夫に言つた。 「馬車を出すやうに、馭者に言つて下さい。さよなら、さよなら!」 「しつ!さつさと行つちまへ、こん畜生、行かねえと首つ玉|捩《ひね》り上げるぞ!」 主人は少し憤慨して、鷄の方を向いて追ひ立てながら、言つた。そして彼等が家へ入つた時、 妻君に向ひながら -- 「なあ、日もあらうに、今日あんなことがあらうなんて! 俺はこれまで一年中|彼奴《あいつ》の晝鳴きを聞いたことアねえぜ。」 「たゞお天氣が變るつてことだけだよ、」と彼女は言つた。「お前さんが考へてゐるやうなことぢやないよ -- そんなことがあつて堪るもんかね!」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 彼等は、この溪谷に沿うた平坦な道を二三哩ばかり驅けてウェルブリッヂに着くと、 村から左へ折れ、半ばその名に依つてこの土地を世間に知らせてゐる大きなエリザベス朝式の橋を渡つた。 すぐその後に、宿をとつて置いた家が建つてゐた。その家の外觀は、 このフルウム盆地を通り拔ける旅人とはお馴染になつてゐた。曾つては立派な莊園の邸宅の一部であり、 ダアバァヴィル家の或る分家の所有地で、またその住居《すまひ》でもあつたが、 その一部が破損してしまつてからは、ずつと農家になつてゐた。 「先祖のお屋敷の一つへようこそお出を!」とクレアは彼女を下してやりながら言つたが、 この輕口を後悔した。それは、餘りに諷刺に近かつたからである。 屋内《なか》へ入つてみると、彼等は二間だけを借りることにしてあつたのに、 主人は彼等の來るのを利用して、これから幾日かの間友逹のところへ年始廻りに出掛け、 後には二人の身の廻りの僅かな用事を世話する爲めに、近所の農家から女を一人頼んであるのを知つた。 すつかり獨占の出來たことを二人は喜んだ。そして、自分たちだけの棟桁《むなげた》の下で味ふ經驗の第一歩として、 つく〜゛それを嬉しく思つた。 けれども、彼はこのむさ苦しい古い住居が、何となく花嫁の氣を腐らしてゐるのを知つた。 馬車が歸つてしまふと、彼等はその傭女に導かれて、手を洗ひに二階へ上つた。丁度上り口に來たとき、 テスはそこへ立ち止つて眼を見張つた。 「どうしたの?」と彼は言つた。 「まあ、なんて怖い女たち!」と彼女は笑顏をして答へた。「私、吃驚しちまつたわ。」 彼は見上げた。そして石壁の中へ造り附けてある鏡板の上には二つの等身大の肖像畫を見附けた。 この屋敷を訪れる者は誰でも氣のつくこの二枚の繪は、二百年ばかり前の中年女を描いたもので、 その相貌を一度見た者は決して忘れることが出來ないものであつた。一人の細長い尖つた容貌、 細い眼と作り笑ひは無慈悲な陰險さを現はしてをり、つもう一方の鉤鼻と大きな齒、 それからぎよろ〜した眼は兇猛と思はれるまでの尊大さを現はしてゐて、後で、 これを見た者の夢にまで出沒するのである。 「あれは、誰の肖像かね?」とエンヂェルは、傭女に訊ねた。 「年寄りから聞いたんですが、ありやこの莊園の昔の主だつちふこつてすよ。 何でもダアバァヴィルとかいふお家の淑女《レデイ》ださうです。」と彼女は答へた。 「壁の中へ造り附けてある爲めに、どうしても取つてしまへねえんでございましてね。」 この肖像がテスの心を傷《いた》めた上に、尚ほ不快なのは、 彼女の美しい容貌が間違ひなくこの肖像畫の誇張した相貌の中に認められるといふことであつた。 が、彼はこのことに就いては何も言はないで、新婚の時を送らうとしてこんな家を選んでしまつたことを後悔しながら、 隣ちの部屋へ入つて行つた。其處は、二人の爲めにと急いで準備されたもので、 彼等は一つ金盥《かなだらひ》の中で手を洗つた。クレアは、水の中で彼女の手に觸つた。 「どれが僕の指で、どれがお前のなんだね?」と彼は顏を上げながら、言つた。 「すつかりごつちやになつてしまつてゐるから。」 「みんなあなたのですわ。」と彼女は極めて巧みに言つて、實際よりは陽氣にしようと努めた。 彼は、こんな場合に彼女が思ひ沈んでゐるのを不愉快には思はなかつた。 それは分別ある女なら誰でも見せることであつた -- だが、テスは、思ひに耽り過ぎてゐたと知つて、もうさうはなるまいと焦つてゐた。 彼等は、茶卓を圍んで搾乳場の主人が暗くならないうちに屆けると約束した荷物の着くのを待つてゐた。 けれども日は暮れかけたが、荷物は屆かなかつた。彼等は着たまゝで、餘分には何にも持つて來てゐなかつた。 太陽が沈むと同時に、冬の日の靜かな氣分は變つて來た。戸外には丁度意氣な衣《きぬ》ずれのやうな音が始まつた。 この秋の靜かな枯葉が焦れつたさうに掻き起されて、ざえあつき、厭々ながら舞ひ上り、 そして鎧戸をぱら〜と叩いた。間もなく雨が降り出して來た。 「あの牡鷄は天氣の變るのを知つてゐたんだな、」とクレアは言つた。 かれらの給仕をしてゐた女は、自分の家へ泊りに歸つて行つてしまつた。 けれどもテーブルの上へ蝋燭を置いて行つてくれたので、それに火を點けた。 蝋燭の炎は、一樣に爐の方へ靡《なび》いた。 「かういふ古い家は隙間だらけだね。」エンヂェルは、炎と蝋燭の側を傳はつて埀れ落ちる溶蝋を見ながら、 言ひ續けた。「あの荷物は何處へ行つてゐるんだらうな。刷毛《ブラシ》や櫛さへないんだからね。」 「私には分りませんわ、」と彼女は、茫然《ぼんやり》して答へた。 「テス、お前今夜はちつとも元氣がないやうだね -- 全く何時ものやうでないよ。 二階の鏡板のあの鬼婆がお前の心を亂したんだ。こんな處へ連れて來るんぢやなかつたよ。 一體、お前は本當に僕を愛してゐるのか知ら?」 彼は、彼女が愛してゐることは知つてゐた、そしてこの言葉は少しも眞面目で言つたのではなかつた、 けれども、彼女は情緒がこみ上げて來て、胸が一杯になり、傷ついた動物のやうに縮み上つてしまつた。 涙を流すまいと努めたが、どうしても一滴又一滴見せない譯には行かなかつた。 「本氣で言つたんぢやないんだよ!」と彼は後悔して言つた。「お前は荷物が來ないんで心配してゐるんだらう。 どうしてヂョナサンの爺やが持つて來ないのか、僕には理由《わけ》が分らない。もう七時ぢやないか? あゝ、いよ〜やつて來た、爺やが!」 戸口でノックする音がしてゐた。他に誰も取次ぐ者がゐなかつたから、クレアが出て行つた。 彼は手に小さな包みを持つて部屋へ歸つて來た。 「なあんだ、ヂョナサンぢやないいんだよ、」と彼は言つた。 「何んて焦《じ》れつたいんでせうね!」とテスは言つた。 この包みは特別仕立ての使者が持つて來たのであつて、エミンスタアの牧師館からタルボセイズに着いたが、 この包みは二人以外の誰の手にも渡してはいけないといふ命令を受けてゐたので、 すぐ彼等の後を追つて此處まで來たのであつた。クレアはそれを燈火の下へ持つて來た。 長さ一呎足らずのもので、ズックで包まれて、父親の印の附いた赤い封蝋で封じられ、 父親の手蹟で、『エンヂェル・クレア夫人へ』と宛てゝあつた。 「これはお前へ宛てた、一寸した婚禮の贈物だよ、テス、」と、彼は包みを彼女へ手渡しながら言つた。 「何て氣のつく人たちだらう!」 テスはそれを手に取つた時、多少面喰つたやうな風であつた。 「私、あなたに解いて頂きたいと思ひますわ、ねえあなた、」 と彼女は、包みの裏を返しながら言つた。「私、こんな大きな封印を破るのは厭です、怖いやうで。 代つて解いてねえ!」 彼はその包みを解いた。中にはモロッコ皮の凾《はこ》が入つてゐて、その上に手紙と鍵とが載つてゐた。 手紙はクレア宛のもので、次のやうに認《したゝ》めてあつた。 御機嫌は如何 -- 御身がまだ少年であつた折、御身の名づけ親ピトネース夫人が逝かれる時、 その方 -- 派手好みの親切な婦人だつた -- が、自分の寳石|筐《はこ》の中味の一部分を拙者に託され、 御身が他日妻を娶る場合、御身と、誰なり御身の選ぶ者とに對するあの方の親愛の印に御身の妻に贈つて慾しいと、 殘して行かれたことを多分御身は忘れてゐられることゝ思ふ。拙者はこの依頼を引受け、それ以來、 その金剛石は取引の銀行家に固く預けて置いた。事情を考へてみると、 幾分失當の振舞ひと感ぜぬではないが、御身も知る通り、拙者は、今となれば、 金剛石の使用權が生涯正しく屬することになる婦人に、その品を手渡さなければならなくなつてゐる。 だから早速御送りした。嚴密に言へば、この品は御身の名づけ親の遺言状の條件に從つて、 相傳動産になることゝ信ずる。この事に關した條項の精《くは》しい言葉は、中に封入して置いた。 「さうだ、そんなことがあつた、」とクレアは言つた。「だがすつかり忘れてゐた。」 筐《はこ》を開けて見ると、中には頸飾りが埀飾りや腕環や耳環や、それから又、 他に細かい裝飾品と一緒に入つてゐた。 テスは、最初それに觸れるのを怖がつてゐるやうに見えたが、クレアがその一揃ひを擴げた時には、 暫らくの間、彼女の眼はその寳石同樣に輝いた。 「これが私のものですか?」と彼女は信じられないと言つたやうに訊ねた。 「さうだとも、確かに、」と彼は言つた。 彼は爐の火をぢつと見入つた。彼がまだ十五歳の少年だつた時、彼の名づけ親の地主の妻君 -- 自分が今までに知るたつた一人の金持だつた -- が、どんなに自分の成功を信じ、 また自分の爲めに素晴らしい成功を豫言したかを思ひ出した。 かういふ派手な裝飾品を彼の妻やその子孫代々の妻の爲めに貯へるといふ事には、 さうした臆測の成功と少しの不調和もないやうに思はれた。寳石は今、 何となく皮肉に閃めいた。「だが何故?」と彼は自問した。もとよりこれは全然虚榮の問題に過ぎない、 若しそれを夫婦といふ方程式の一方に入れるとしたら、もう一方にも入れてよい筈である。 自分の妻はダアバァヴィル家のものだ -- 果して誰が彼女以上にこの裝飾に似つかはしいといふのであるか? 突然、彼は熱を籠めて言つた -- 「テス、着けて御覽 -- 着けて御覽!」そして彼は、手傳つてやる爲めに爐の火から顏を反向《そむ》けた。 が、恰も魔術にかゝりでもしたかのやうに、彼女はもうそれを身に着けてゐた -- 頸環も、耳環も、腕環もそれから何も彼も。 「だが長上衣《ガウン》が本式でないね、テス、」とクレアは言つた。 「そんな金剛石の揃ひを着けるには、胸部《むね》の開いたやつでなければいけないんだよ。」 「さうなの?」とテスは言つた。 「さうだよ。」と彼は答へた。 彼は、ほゞ夜會服の仕立方に似通つたものとする爲めに、 彼女の胸衣の上部をどんな風に縫ひ込んだらいゝかを彼女に教へた。そして、彼女がその通りにし、 頸環についた埀飾りが註文通りに彼女の咽喉《のど》の眞白なところにぽつりと下つた時、 彼は後へ身を退いて、彼女を眺めた。 「やあ、素敵だ、」とクレアは言つた。「何て、美しいんだらう!」 誰も知つてゐる通り、綺麗な鳥も綺麗な羽毛故で、質素な樣子と質素な身裝《みなり》をしてゐれば、 通りすがりの人の眼にはさほど美しいとも見えない百姓娘でも、 『人工』のあらん限りの助けを借りて流行界の婦人のやうに裝ふならば、 驚くべき美人となつて咲き出ることであらう。が一方、夜半の舞踏會にあらはれる美人も、 百姓の野良着を纒はせ、曇つた日に單調な蕪青畑《かぶらばたけ》に立たせたならば、 往々見すぼらしい姿しか見せないであらう。彼は今まで、テスの肢體や容貌の、 化粧姿の秀れて麗はしいのを認めたことがなかつた。 「お前がそれで舞踏會へ現はれさへしたら!」と彼は言つた。「いや、さうぢやない -- さうぢやない、 ねえお前。僕は、埀附《たれつき》の帽子を被り、木綿の上衣を着てゐるお前が一番好きのやうだ -- さうだ、かうした身裝《みなり》よりずつと好きだ。かういふ裝飾をしてゐても、 ちつとも品位負けはしないがね。」 テスは、自分が素晴らしい身裝《みなり》をしてゐると思ふと、心が躍つて顏を赧らめたが、 まだ幸福を感ずるといふ譯には行かなかつた。 「私、脱ぎますわ、」と彼女は言つた。「ヂョナサンに見られるといけないから。 私には似合はないでせう、ねえ?私、賣つてしまはなくちや、と思ふんですけれど?」 「もう少しその儘でおいでよ。賣るんだつて?いけないよ。そんなことをしたら、 信頼を裏切ることになるからね。」 彼女は思ひ直して、易々と從つた。彼女には話すことがあつた。 そしてかういふ裝ひをしてゐるといふことが、その際何かの足しになるかも知れなかつた。 彼女は寳石を着けたまゝで、腰を下ろした。そして二人はまた、 一體ヂョナサンは荷物をもつて何處を歩いてゐるのだらうかと、推測に耽つてゐた。 彼が來たら飮ませてようと思つて、注いで置いたビールは、何時までも置いた爲めに、 氣が拔けてしまつた。 それから間もなく、彼等は側卓子《サイド・テーブル》に用意してあつた夕食を始めた。 食事がまだ濟まないうちに、爐の煙がぱつと一搖れして、立昇る煙の渦卷が、 恰も巨人の手で煙突の頂點《うへ》をちよつと蓋でもされたかのやうに、 部屋の中に舞ひ擴がつた。それは、外側の扉が開いた爲めであつた。 重々しい足音が廊下に聞えて來た。そこで、エンヂェルは出て行つた。 「いくら敲いても、どなたも一向聞きつけてくれませんもんで、」とヂョナサン・ケイルは辨解した。 といふのは、足音が聞えて來たのはヂョナサン・ケイルだつたからである。「それに、 外にや雨も降つてますんで、勝手に戸を開けましただ。旦那、荷物を持つて參りやしたよ。」 「無事に屆いたんで何より結構だ。が、隨分遲かつたなあ。」 「えゝ、さうでやすな旦那。」 ヂョナサン・ケイルの口調には、晝にはなかつた何か沈んだやうな調子があつた、また前額には、 寄る年の皺《しわ》の上に心配の皺も刻まれてゐた。彼は言葉を續けた -- 「あなた樣とあなた樣の奧樣 -- かう今ぢや申しやすが -- が、今日の午後《ひる》お發ちになつてからでさあ、 搾乳場《ちゝば》ではすんでの事にえらい恐ろしい愁傷事になりかけた事がありやして、 わし逹みんなぶつたまげちまつたですよ。旦那、あの牡鷄の晝鳴きをお忘れぢやありますめえね?」 「おい、どうしたんだ、 -- 何が -- 」 「はい、あれは、これ〜の兆《しら》せだといふ者もあれば、いやこれ〜だと言ふ者もありまさあ。 が、その持ち上つたことつていふのは、可哀さうにレッティ・プリッドルが、身投げして死なうとしやしたんで。」 「まさか!本當かい!だつて、あの娘《こ》は他の者と一緒に僕たちにさよならを言つたが -- 」 「さうでやすな。で旦那、あなた樣と奧樣 -- と、かう天下晴れておなりになりましたから申しやすが -- わしの申しやす通り、あなた方お二人がお出掛けになりますてえと、レッティとマリアンとが帽子を被つて、 戸外《そと》へ出て行きやしたゞ。丁度|除夜《おほみそか》のことで、大した仕事もなし、 連中は心《しん》からほろ醉ひ機嫌になつてゐたんで、誰も大して氣にも止めなかつたゞね。 二人は眞直にリュウエバラァドへ行つて幾らか飮《や》り、それからドリー・アームド・クロスへ突つ走つて、 そこで、二人は分れたらしいんでがすよ。レッティは家へ歸るやうな風をして、 じめ〜した牧場を突ん拔けて行き、マリアンは別な居酒屋のある隣村へ行つたんでさあね。 それから先、レッティがことはさつぱり分らなかつたですが、 船頭が我家《うち》へ歸り途に大沼の傍に何だかあるのを見つけまあしたゞ。 そりやあの娘《こ》の帽子と肩掛で、丸めてあつたんでさあ。船頭は水の中にあの娘を見つけやした。 船頭とも一人の男と、もう死んでゐると思つてあの娘を家へ運んで來やしたが、 だん〜生き返つて來ましたゞ。」 エンヂェルは急に、テスがこの陰氣な話を立ち聞きしてゐるのに氣がついて、 廊下と奧の間に續いてゐる次の間の戸を閉めようとその方へ行つたが、 彼の妻はもう體の周《まは》りに肩掛を羽織つて、外側の部屋へ出て來て、 眼を荷物とその上にきら〜光つてゐる雨滴に茫然《ぼんやり》向けながら、 この男の話に聞き入つてゐた。 「で、そこへ持つて來て、マリアンですがね。あの娘は、 絹柳の生えてゐる沼地の傍にずぶろくに醉ひ潰れてゐる所を見附かつたゞね -- 顏を見ても分る通り、あの娘は平常《いつも》食ひしんぼの女にや違えありませんが、 酒類と來ちやこれまで志《シリング》ビールの外は手に觸つたことアねえてんで通つてましたゞがね。 見た所、娘逹アみんな氣が變になつちまつたらしうがす!」 「そしてイズは?」とテスは訊ねた。 「イズは何時も通りに家にゐやすが、なんでこんなことになつたんか、分るつて言つてますよ。 それ考へてひどく鬱いでゐるらしいでがすよ、可哀さうに、無理もねえけど。 そんなわけでやして、あなた樣の荷物二つ三つ、それに奧樣の寢衣《ねまき》やお化粧道具を荷車に積み込んでる丁度そん時、 こんなことが持ち上りやしたんで、わしも後れてしまつたゞね。」 「さうかい。時にヂョナサン、そのトランクを二階へ上げてくれないか、それからビールを一杯引つかけて、 出來るだけ急いでお歸りよ、彼方《あちら》に用が出來るといけないからね。」 テスは奧の間に引つ返し、爐の火の傍に掛けて、惱ましさうにぢつとその火を見入つてゐた。 彼女は、荷物を始末してしまふまで、梯子段を上つたり下りたりするヂョナサンの重い足音を聞いた。 それからまた自分の夫が取り出してやつたビールや、與へられた祝儀に彼がお禮を言つてゐるのを聞いた。 やがてヂョナサンの足音が、戸口から遠のいて消え、荷車が遠く軋《きし》り去つた。 エンヂェルは太い樫《かし》の閂《かんぬき》を插《さ》して戸を固め、 彼女が爐に屈み込んで掛けてゐる處へ入つて來て、背後から兩手で彼女の兩方の頬を挾んだ。 彼は相手が快濶に跳《をど》り上つて、あれほど待ちあぐんでゐたのだから、 すぐに化粧道具を解くことだらうと思つてゐたが、彼女は立ち上りもしなかつたので、 彼は、爐の火の輝いてゐる彼女の傍へ掛けた。夕食のテーブルの上の蝋燭は、 爐の火の輝きを邪魔するには、餘りに細くなり、そしてちら〜點《とも》つてゐた。 「殘念なことをした、お前にまで娘共のあの悲しい話を聞かしてしまつてね。」と彼は言つた。 「だが、そんなことで氣をくさらしちやいけないよ。あの通り、レッティは生れつき病的なんだからな。」 「ちつとも原因がないのにね、」とテスは言つた。「だのに、さうなる原因のある者は、 それを隱してさうらしくない風を裝つてゐたんですわ。」 この事件は、テスの心の秤《はかり》を一變させた。彼女たちは單純な無邪氣な女であつたのに、 報いられぬ戀の不幸を背負つた。彼女たちは『運命』の御手《みて》でもつと好遇されていゝ筈であつた。 自分こそもつと虐待されるべきであつた。 -- それだのに自分は選ばれた者となつた。 償ひをしないですべてを取るのは罪の深いことだ。自分は償はう、最後の一厘までも。 自分は告白しよう、此處で今直ぐ。彼に手をとられ、爐の火に見入つてゐる時に、 この最後の決心に彼女は行き着いた。 もう焔の立たなくなつた燠《おき》から發する強い燿きが爐の兩側面と背面とを、 またよく磨かれてゐる薪架《まきかけ》や、合はない古い眞鍮の火箸を、てら〜と光つ色で塗つた。 爐棚の下側や火の最も近いテーブルの脚は、はつきりした光で照り輝いた。テスの顏や頸にはこの同じ温い光が反射した。 その光を受けて、一つ〜の寳石は、金牛星や天浪星 -- 白や赤や緑に閃めく星座に變つた。 そして彼女の心臟が鼓動する度に、その色が入り混つてきら〜輝いた。 「今朝、僕たちの過失を告白し合はうと言つたことを覺えてゐるかい?」 彼女がまだ動かないでぢつとしてゐるのに氣がついて、彼は突然かう訊ねた。 「まあ冗談のつもりで言つたんだね。そして元よりお前は冗談に言つたんだらう。 だが僕に取つちやありや好い加減の約束ぢやないんだよ。僕はお前に告白したいんだ、ねえ、お前。」 彼の方からかう言ひ出すとは、全く思ひ掛けない、願つたり叶つたりのことで、 彼女には天佑の仲立とも思へる力があつた。 「何か告白しなくちやならないんですつて?」と彼女は直ぐに嬉しさうな、救はれたやうな樣子さへ見せて言つた。 「思ひ掛けないことだつたらうね?さうだ -- お前は僕を買ひ被つてゐたんだ。さあお聞き、頭を其處へ當てゝね、 僕を寛恕《ゆる》して貰ひたいんだからね。また前に打ち明けなかつたからつて怒つて貰ひたくないんだからね。 尤も打ち明けて置くべき筈だつたんだらうが。」 何といふ妙なことだらう!この人は自分の生寫しみたいだ。彼女は默つてゐた。 そこでクレアは話を進めた -- 「僕が今迄それを打ち明けなかつたといふ理由《わけ》は、 お前といふ、ねえお前、僕の一生の大きな寶 -- 僕に言はすればお前は特待校賓《とくたいかうひん》資格さ -- を手に入れる機會を無くしたくなかつたからだ。兄の特待校賓は大學で得たんだが、僕のはタルボセイズの搾乳場だ。 いゝかい、僕はそれを危くしたくなかつたんだ。一ヶ月前 -- お前が僕のものになつてくれる約束をした時 -- に打ち明けようとは思つたんだがどうしても出來なかつた。それを話したら、お前は驚いて僕から逃げてしまひはすまいかと、 思つたんだ。告白するのを延ばした。それから昨日お前に話さうかと考へたんだ、話せば少くとも、 僕から逃れる機會をお前に與へることになる。だが、僕は話さなかつた。それから僕は、 今朝梯子の中段でお互ひの過失を告白し合はうと約束した時も、話さなかつた -- 僕は實際罪を犯してゐたんだ!だが、お前が其處に如何にも嚴かに掛けてゐるのを見ると、 僕は打ち明けられないではゐらない。僕を赦してくれるかしら?」 「えゝ赦しますとも!私は屹度 -- 」 「さうか、さうして慾しい。だが、ちよつとお待ち。お前は知らないんだ。 まづ事の發端から始めるよ。僕の父は可哀さうに、 僕の主義が主義だから僕を永遠に失はれた人間《ひと》ぢやないかしらと想像してるがね。 僕は無論、テス、お前に劣らず立派な道徳の信奉者だよ。僕は人々に教を説く者にならうと常に望んでゐたんだ。 だから、教會へ入ることが出來ないと知つた時は、非常に落膽した。僕は清淨無垢を讚美した。 たとひそれを要求する權利はなくともだ。それから不純、不貞を憎んだ。今日でもさうしようと望んでゐるが。 十全靈感(聖書に書かれてあることは、凡て神の靈によるものだといふ説)といふことには異論があるとしても、 人は心から、ポーロの次の言葉には衷心から贊成しなければならない -- 『兩人の師表たれ -- 言語に於いて、會話に於いて、純潔に於いて。』我々哀れな人間にとつては、これが唯一の護衞兵だ。 『正しき生涯』と聖ポーロとは妙な取り合せであるが、羅馬の一詩人(ホレースのこと。次の句は、 彼の「オード」から採つたもの)は言つてゐる -- 過失に汚れず、正しき生涯を送る人こそムーア種族の振るとかいふ槍も引矢もその要あらじ。 ところで、何處やらは思ふばかりで實行の伴はない願望で敷きつめてあるさうだ。 (何處やらは地球のこと。この句は諸國に夙に流布してゐたもので、ジヨンスン博士も口にしたとは、 傳記作者ボスウエルが傳へる所である)さういふことを何と彼も強く肝に銘じてゐたのだから、 他の人々の爲めといふ立派な目的を抱いてゐながら、その自分が躓《つまづ》き倒れてしまつた時、 どんな烈しい悔恨の念を胸に抱いたかはお前にも分るだらうね。」 彼はそれから、既に前置きして置いた生涯の一時期、倫敦で疑惑と艱難とにさいなまれて、 恰も水に浮んだ栓《コルク》のやうに漂々浪々してゐる中に、 或るいかゞはしい女と二日二晩に亙る放蕩三昧に耽つた時のことを、彼女の話した。 「仕合せなことに、僕は直ぐにと言つてもいゝ位ゐに、自分の愚かさに眼が覺めた、」と彼は續けた。 「その女ともう一言も口を利くのがいやになつて、家へ歸つて來てしまつた。 二度と再びそんな罪は繰り返さなかつた。ところで、僕は飽くまで男らしく、禮をつくしてお前に接したいと思つた。 さうするにはこれを話さなければならないんだ。赦してくれるかい?」 彼女は彼の手を堅く握つて答へに代へた。 「では、そんなことは今すぐ、また永久に水に流してしまはうね!實際、あんまり痛ましいことで、 今のやうな場合には不向きだ -- で、何かもつと浮き立つ話をしよう。」 「まあエンヂェル -- 私嬉しい位ゐ -- だつて今度はあなたが私を赦して下さることが出來るんですから! 私まだ自分の告白を濟ましてゐません。私にも告白がありますわ -- 覺えてゐるでせう、さう言つたのを。」 「あゝ、確かに。ぢや今度はそれだ。この意地惡さん。」 「あなたは笑つてお出でゞすが、眞面目な點では大方あなたのと變りがないでせう。 いえ、それよりもつとひどいかも知れませんわ。」 「もつとひどいなんて譯のある筈がないよ、お前。」 「筈がないつて -- えゝ、ほんとにそんな筈はありませんわね!」彼女は希望をつないで嬉しさうに跳び上つた。 「ほんとにもつとひどい筈はありませんわ。」と叫んだ。「全く同じなんですもの!ではお話しゝます。」 彼女は再び腰を下ろした。 彼等の手はまだ組み合されてゐた。火格子の下の灰は、爐の火に眞上から照らされて、燒野のやうに見えた。 空想に耽る者の眼には、この眞紅な炭火の輝きも『最後の審判の日』の怪光と見えたかも知れない。 それは彼の顏や手の上に、また彼女の上に落ち、彼女の額の邊のほつれ毛へ射し込み、 その下の細かい皮膚を輝かした。彼女の姿の大きな影が壁と天井とに浮き上つた。 彼女は前へ屈んだ。すると、頸にかけてゐる金剛石がみんな蟾蜍《ひきがへる》がするやうな氣味の惡い瞬《またゝき》をした。 それから彼女は前額を彼の顳[需|頁;#1-94-06]《こめかみ》に押しつけたまゝ、 アレク・ダアバァヴィルと知るやうになつた事やその結果に到る身の上話を語り始めた。 臆しもしないで言葉を囁きながら、また眼瞼《まぶた》を埀れて打ち萎れながら。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十五 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 彼女の物語は終つた。それは繰り返されたり、説明が補はれたりさへした。 テスの聲は始めから終りまで、最初の調子より高くは殆んどならなかつた。 假にも辨解めいた文句などは言はなかつた。そして彼女は泣きもしなかつた。 けれども、彼女の告白が進むに連れて、外界の事物さへその表情を變化させないではゐないやうに見えた。 火格子の火は鬼の子 -- 恰も、テスの困つてゐる場合など少しも構はないといつたやうに、 意地惡く、可笑しな風に見えた。爐圍ひは、これも冷淡に構へて、齒をむき出して徒《いたづ》らに苦笑ひをしてゐた。 水瓶《みづがめ》から反射する光は、たゞ色彩の事にばかり心を向けてゐた。 周圍の物はどれもこれも、怖ろしい話の反復には責任がないことを申し立てた。 しかもクレアが彼女を接吻してゐた瞬間から、何一つ變化したものはなかつた。 いや寧ろ何一つ物の實質の變つたものはなかつた。だが物の精はもう變つてしまつてゐた。 彼女が話を止めると、今まで仄《ほの》かに聞えてゐた睦言の印象が、二人の頭腦の隅々へ先を競つて逃げ込み、 實に馬鹿馬鹿しい、半盲目時代から來る反響となつて、聞えて來るだけであつた。 クレアは見當違ひの動作であるが爐の火を掻き立てた。彼には話の意味がまだすつかり呑込めてゐなかつた。 彼は燠《おき》を掻き立てゝから、つと立ち上つた。女の告白が今やつと強い力で彼に傳はつたのであつた。 彼の顏は蒼ざめてゐた。彼は考へを集中しようと努めて、矢鱈に床を踏んだ。 彼はどんなに骨を折つて見てもしつかりと考へることが出來なかつた。 無意味にもぢ〜してゐるのは、その爲めだつた。ものを言つても、それは彼女が今迄に聞いた、 變化の多い調子のうちでも一番不十分な、平凡な聲であつた。 「テス!」 「え、あなた。」 「僕はこれを信じなけりやならないのかね?お前の擧動から見ると、それを眞實と取らなければならない。 あゝ、まさかお前は氣が狂つてゐるんぢやあるまいねえ!當然狂つてゐなくちやだが、狂つてはゐないんだ…… ねえお前テス -- お前の身には何にも、そのやうな事實の假定を證據立てゝゐるものはないんぢやないか?」 「私、氣なんか狂つてはをりません、」と彼女は言つた。 「それでも -- 」彼は茫然《ぼんやり》彼女を瞶《みつ》め、眩暈《めまひ》を感じてゐるやうな氣持で、 言葉を續けた。「何故お前はそれを前に言つてくれなかつたんだ?あゝ、さうだ、前に言はうとしたんだな、ちよつと -- だが、僕がそれを留めてしまつたんだ。よく覺えてゐる!」 かう言つた、又は他の場所で述べた言葉は、底の方は麻痺したまゝになつてゐる河の表面に浮ぶ小漣《さゞなみ》に過ぎなかつた。 彼は背を向けて彼方《あちら》へ行くと、椅子の上に凭れかゝつた。 テスは彼のゐる部屋の中程まで追つて行くと、其處へ立ち止つたまゝ、涙も出ない眼でぢつと彼を瞶《みつ》めてゐた。 やがて、辷り落ちるやうに彼の足もとに跪いて、そのまゝの位置でぐつたりと蹲《うづく》まつてしまつた。 「二人の愛に誓つて、どうぞお赦し下さい!」乾いてゐる口で、彼女は囁いた。 「同じ事であなたをお赦しゝたんですから!」 そして彼が何とも答へないので、再び言つた。「あなたが赦されてゐるやうに、私をお赦し下さい! 私はあなたを赦してゐるぢやありませんか、エンヂェル。」 「お前は -- さうだ。お前は赦してくれた。」 「でも、あなたは私を赦して下さらないんですか?」 「おゝ、テス、赦すつてことは、この場合には適用出來ないんだ! 以前にはお前といふ人がゐたが、今はお前はそれとは別な人間なんだよ。 ちえツ -- どうして赦すつてことが、そのやうな妙な -- 手品に應じられるもんかね!」 彼は話をやめて、この手品といふ解釋をぢつと考へ込んだ。それから突然、 物凄い地獄の笑ひ聲のやうに、不自然な薄氣味の惡い -- 聲を擧げて笑ひ出した。 「止《よ》して下さい -- 止《よ》して下さい!私もう、そんなことを仰しやると、 本當に苦しくてたまりません!」と彼女は烈しく叫んだ。 「あゝ、どうぞ可哀さうと思つて下さい -- どうぞ可哀さうと!」 彼は答へなかつた。そして彼女はすつかり蒼白《まつさを》になつて跳び起きた。 「エンヂェル、エンヂェル!どうしてそんな笑ひ方をするんです?」彼女は叫び出した。 「私の身になつたら、どんな思ひがするかお分りでせうに?」 彼は頭を横に振つた。 「私はこれまで、あなたを幸福にしようとばかり望んだり、願つたり、祈つたりしました! で、さうすることがどんなに嬉しいだらうと、又さうしなかつたらどんなに卑しい妻になるだらうと思つてゐました! ほんとにその通り私は思つてゐたんです、エンヂェル!」 「それは分つてゐる。」 「エンヂェル、あなたは私を愛してゐて下さることゝばかり思つてゐました -- 私を、 この現在の私といふものを!その愛して下さるのが私であるとしたら、まあ、どうしてそんな顏付をなすつたり、 そんな言葉を口にしたりなさるんでせう?私、怖くなつてしまひます!あなたを愛するやうになつたんですから、 もう永久に愛します -- どう變らうとも、どんな辱めを受けようとも、あなたはどこ迄もあなたなんですから。 私、それ以上は望みません。どうしてあなたが、まあ、私の夫のあなたが、私を愛しなくなるなんてことがありませう?」 「僕は繰り返して言ふが、僕の愛してゐた女はお前ぢやないんだ。」 「それで、誰だつて仰しやるんですの?」 「お前の姿をした別の女なんだ。」 彼女は、彼の言葉を聞いて、前から氣遣つてゐた豫感が實際になつたやうに感じた。 彼は自分を一種の詐欺師と無邪氣な女の假面を被つた罪の深い女と見做してゐるのだ。 それに氣がつくと、彼女の蒼白な顏には恐怖の色が現はれた。 頬は弛《たる》み、口は殆ど圓い小さな穴のやうな形に見えた。 自分をそんな風に見てゐるのかと思ふと、怖ろしさに怯《おぢ》けづいて、 彼女は我れ知らずよろめいた。そこで彼は、彼女が倒れさうだと思つたので、つと進み寄つた。 「お坐り、お坐り、」と彼は優しく言つた。「お前は氣分が惡いんだ、さうなるのも尤もだがね。」 彼女は何處にゐるのかも、緊張した顏付で自分の顏を見られてゐるのも、また、 自分の眼付が相手の體をぞく〜させてゐるのも知らずに坐つた。 「ぢや、私、もうあなたのものぢやないんですね、えゝ、エンヂェル?」 と彼女は頼りなさゝうに訊いた。「私ではなく私に似た別の女なんですつて? あなたが愛してゐるのは。そんな風に仰しやるの。」 彼女はその像《すがた》を思ひ浮べたので、慘酷な扱ひを受けた人のやうに、自分の身の上を、 不憫に思はない譯には行かなかつた。現在の自分の立場を一層はつきり認めて來ると、 眼には涙が一ぱいたまつて來た。彼女はぐるりと向きかへて、わつと泣き出し、 自分を可哀さうに思ふ涙を堰止めることが出來なかつた。 クレアはその變り方を見て、ほつと救はれた。といふのは、 彼女が打ち明けたことを考へるやうになつたので、 その方が打ち明け話の悲しみよりは彼にとつては面倒でなくなつて來たからである。 彼はぢつと堪へ、冷靜に、女の激しい悲しみが自然に弱つてしまつて、 激しい號泣《なきごゑ》が時々の泣きぢやくりになるまで待つてゐた。 「エンヂェル、」狂氣染みた、潤ひのない病的な聲はもう影を潛めてゐたので、彼女は急に、 その自然な調子で言つた。「エンヂェル、私は大へん惡い人間なので、二人で同棲する資格はないでせうか?」 「どうしたらいゝのか、僕にも見當がつかないでゐるんだ。」 「私、何もあなたと同棲させて下さいとは申しません。エンヂェル。だつて私にはそんな資格がないんですもの! 私たち二人が結婚したことを、母や妹逹へ知らせることはしますまい、 何時か知らせてやらうつて言ひましたけれど。また宿にゐるうちに裁つて拵《こしら》へる積りでゐたお針袋を仕上げたりして、 奧さん氣質になることはいたしませんわ。」 「しないつて言ふのかね?」 「えゝ、私、あなたがしろと仰しやらなければ、もう何も致しますまい。 で、若しやあなたが私からお逃げになつても跡を追ふやうなことは致しますまい。 また若し、この上もう少しも口をお利きにならなくても、お訊ねしていゝとあなたが仰しやらない限りは、 何故とお訊ねするやうなことも致しますまい。」 「だが、何なりしろと若し僕が命じたら?」 「さうしたら私、可哀さうな奴隸のやうに從ひませう。たとひ打ち倒れて、 死ねといふやうな命令であつても。」 「そりや結構だ。だが、お前の今の獻身的な心持と、これまでの自分を守つて行かうとしてゐた心持との間には、 調和がないやうな氣がするね。」 これが始めて反撥の意を示す爲めに言はれた言葉であつた。 けれどもテスに對して磨きのかゝつた皮肉を投げつけるのは、犬か猫に向つてそれを投げつけるやうなものであつた。 その微妙な魅力は、味はゝれないで彼女の耳を過ぎてしまつた。彼女は、たゞそれが、 怒氣に支配されてゐると思はれる敵意を含んだ音とのみしか解しなかつた。 彼女は、彼が自分に對する愛情を無理に抑へてゐるとは知らずに、默り續けてゐた。 彼女は、彼の頬に涙が、まるで顯微鏡の擴大レンズでゝもあるやうに、 その皮膚の毛孔《けあな》を擴大するほどの大きな涙が、靜かに頬を傳つて落ちるのに、 殆んど氣が付かなかつた。そのうちに、彼女の告白が彼の生活や彼の世界に起した怖ろしい大きな變化を考へる意識が、 再び彼に戻つて來た。彼は、現在自分の立つてゐる新しい境遇の中を進んで行かうと、 死物狂ひになつて努めた、何かそれに應ずる活動が必要であつた。だが、どんな活動であつたか? 「テス、」彼は出來るだけ優しく言つた。「僕はね、ぢつとしてゐられない。 -- この部屋の中に -- 今といふ今はね。僕は少し散歩して來るからね。」 彼は靜かに、部屋を出て行つた。そして二人の夕食の爲めに彼が注いで置いた二杯の葡萄酒 -- 一つは彼女に、もう一つは自分に -- は、そのまゝ口もつけられずに、食卓の上に殘されてゐた。 彼等の折角の『愛餐《エーガピー》』(初期基督教徒の會食をいふ。 聖餐式後富者が各自の家から寺院に齎した肉とパンとを貧者と相集つて共に食したといふ)も、 こんなことになつてしまつた。二三時間前の飮んだときには、愛の戲れから二人は一つの茶碗で飮み合ふことさへしたのに。 彼は出がけに戸を靜かに引き寄せたのではあつたが、その閉まる音で、テスは昏睡状態から覺めた。 彼はもうゐなかつたので、彼女はぢつとしてはゐられなかつた。急いで外套を引つかけると、 恰も二度と再び歸つて來ない積りでゞもあるやうに、蝋燭の燈を消して、扉を開け、 彼の跡を追つた。雨は上り、夜は綺麗に晴れてゐた。 彼女は直《ぢ》きに彼の追ひついた。それは、クレアがゆつくり別にあてもなく歩いてゐたからであつた。 彼の姿は淡灰色の彼女の姿と竝ぶと、まつ黒く、薄氣味惡く、厭《いや》なものに見えた。 そして彼女は、極く僅かの間ではあつたが、あんなにまで得意がつた寳石の手觸りを、 今は皮肉と感ぜずにはゐられなかつた。クレアは彼女の足音を聞きつけて振り返つて、 彼女が隨《つ》いて來たと悟つても、少しも頓着しないらしかつた。そして、 彼は家の正面にある大きな橋の、口を開いてゐる五つの拱門《アーチ》の上を渡つて行つた。 往來の牛馬の足跡には、水が一ぱい溜つてゐた。雨が丁度それに溜る程度に降つて、 洗ひ去つてしまふほど強くはなかつたからである。この小さな幾つもの水溜りに、 彼女が行き過ぎるに連れて無數の星影が映つては素早くきら〜と飛び去つた。若し彼女が、その水溜りに星屑を -- こんなつまらないものゝ中に影を落してゐる宇宙の中でも一番宏大無邊のものを見なかつたなら、 恐らく頭上に、星が閃いてゐることに氣付かなかつたであらう。 今日二人が通つて來た土地は、タルボセイズと同じ盆地にあつたが、 何哩か大河の下流の方になつてゐた。そして周圍は廣々と開けてゐるので、彼女は決して彼を見失ふことがなかつた。 家を離れると、道路は牧場の中をうねつてゐた。その道について彼女は彼に追ひつかうとか、 彼の注意を惹かうとかする積りは更になく、たゞ默つたまゝわけもなく、忠實に彼の跡を追つた。 が、うつかりして歩いてゐる間に、彼女は終《つひ》に彼の側まで來てしまつた。それでも、 矢張り彼はまだ何んにも言はなかつた。今まで騙されてゐたことがはつきり分ると、そのあとでは、 往々、ひどく慘酷になるものだ。そして今クレアの心には、それが強く〜働き出してゐた。 戸外の空氣は、明らかに、衝動に驅られて行動するやうな傾きをすつかり彼から奪ひ取つてしまつた。 彼女は、彼が全く色眼鏡なしに -- すつかり裸のまゝの自分を見てゐることを知つてゐた。 また『時』が、その際、自分に向つて諷刺するやうな頌歌《しようか》を、こんな風に歌つてゐることも知つてゐた -- 見よ、汝の假面去られん時、戀人は汝を憎まん、 汝が運命の傾く時、汝が顏《かんばせ》に昔かはらぬ美はあるまじ。 それ、汝の生命は木の葉の如く散り、雨の如く灑《そゝ》げばなり。 また、汝が頭《かうべ》の薄絹、悲しみとなり、いたゞきし冠、苦痛となればなり。 彼はまだぢつと考へ込んでゐた。彼女が側にゐるといふことも、 今はもう緊張した思索を破り、又は紛らすだけの力がなかつた。 彼にとつては、彼女の存在は實に弱い弱いものになつてしまつたに相違ない! 彼女はクレアに話しかけないではゐられなかつた。 「私、何をしたんでせう -- 一體、何をしたといふのでせう!あなたに對する私の愛を裏切つたりするやうなことは、 私、何も申しあげはしませんでしたわ。あなたはまさか、私が故意《わざ》と巧らんだやうにお考へぢやありますまいね? あなたが怒つてゐらつしやることは、あなたが勝手に考へてゐることなんです、エンヂェル。 私にあるのではないんです。おゝ、私にあるのではありませんとも。 それに、私は、あなたの考へてゐらつしやるやうな、そんな人を騙すやうな女ぢやありませんわ!」 「ふん! -- なるほどね。騙すやうな女ぢやない、ね。だが、同じ女ぢやないんだ。 さうだ、同じ女ぢやないんだとも。僕にお前を責めさせないやうにしてくれ。 僕は誓つたんだ、責めないつて。で、責めるのを避ける爲めには、何でもする積りだ。」 が、彼女は狂氣にやうになつて辨解をつゞけた。そして、默つてゐた方がよかつたと思はれることまでも、 恐らく言つたであらう。 「エンヂェル! -- エンヂェル!私、子供だつたんですの -- その時には私子供だつたんですの。 男といふものをちつとも知らないでゐたんですもの?」 「お前が罪を犯したといふより、罪を犯されたんだつてことは僕も認めるよ。」 「ぢや、赦して下さつてもいゝぢやありませんの?」 「赦しはしよう。だが、赦すつていふことで、何も彼もがきまりがつくといふものぢやないよ。」 「そして、愛しては下さらないの?」 彼は、この質問には答へなかつた。 「まあ、エンヂェル -- あんなことは往々有り勝ちのものだつて母が言つてますわ! -- 私の場合なぞよりももつと酷い幾つもの事實を母は知つてゐます -- そして夫の方では、 大してそれを氣にもしてゐないんです -- それを負かしてしまふこと位ゐはどんなことをしてゞもするんです。 それでも、女の方は、とても私があなたを愛してゐるやうには夫を愛しちやゐないんですわ!」 「止めてくれ、テス、議論は止めてくれ。社會が違へば習慣も違ふんだ。それぢやまるでお前を、 社會一般の釣合なぞといふことを少しも辧《わきま》へてゐない、 ものゝ分らない百姓女と、僕に言はせようとするやうなものぢやないか。 お前は自分で何を言つてゐるのか分らないんだ。」 「私、身分から言へば百姓に過ぎないんですの。でも性質はさうぢやありませんわ!」 彼女は急にむつとして言つたが、忽ちもとの平靜に返つた。 「だから尚更困るんだよ。お前の家の系圖を掘り出したあの牧師が、 いつそ口を噤《つぐ》んでゐてくれた方がよかつたらうと僕は思ふんだ。 僕はお前たちの一族の衰頽を、この他の事實と -- つまり、 お前にしつかりした點がないといふ事實と結びつけないわけには行かないんだ。 老衰した一族とは、取りも直さず老衰した意志、老衰した行爲を意味することになるんだ。 まあ本當に何故お前は態々《わざ〜》お前の素性などを知らして、 餘計にお前を賤しめる手掛りを僕に與へたんだ!僕の方では、 新しく芽生えた自然兒だとお前を思つてゐたとこだつたのに。それにお前は、 生産力の盡き果てた貴族の、遲れた實生えなんだ!」 「その點では、私の家と同じやうに惡い家が澤山ありますわ! レッティの家だつて、昔は大きな地主だつたのですし、搾乳場のビレットの家だつてその通りでした。 それから、今荷馬車の馭者をしてゐるデビィハウスの一家だつて、昔はド・ベェユウの一族だつたんでせう。 私のやうなものは、何處にだつてありますわ。それがこの土地の特徴なんですもの、 仕方ありませんわ。」 「それだけまた、この土地は困りもんだよ。」 彼女は、かういふ非難の言葉を、たゞ大體の意味だけ取つて、 その細かい一々の意味は考へても見なかつた。彼はもう今までのやうに、彼女を愛してはゐなかつた。 そして愛さうとする事以外は何に依らず、彼女にはどうでもよかつたのであつた。 二人はまた默つて歩き廻つた。後になつてからの噂に依ると、 その夜遲く醫者を迎へに出たウェルブリッヂの農家の者が牧場でこの二人に出會つたが、 二人は恰も葬式の列のやうに、前後に重なり合ひ、話もせず、そろ〜と歩いてゐて、 ちらと覗いて見ると、その顏色は、何か心配事でもあるやうな悲しさうな樣子をしてゐたといふことであつた。 暫らくして、その男は歸途また同じ野原で二人に會つたが、前と少しも變らず、ゆつくりと、 時刻にも、侘しい夜にも、まるで無頓着のやうに、進んでゐたといふことだつた。 百姓は自分のことや、家の病人のことに氣を取られてゐたので、この竒妙な出來事を氣にも掛けなかつたが、 餘程時が經つてから思ひ出したのであつた。 百姓家の者が、往つて歸つて來るその間に、彼女は夫に向つて言つた -- 「私は、あなたの一生を大へん不幸にする原因《もと》とならずにはゐないだらうと思ひますわ、 向うに大河がありますから、私、あそこへ身を投げて死んでしまつても構ひませんわ。 私、ちつとも怖れてはゐませんの。」 「いろ〜馬鹿なことをやつてゐる上に、また人殺しまで僕はやりたくはないんだよ、」と彼は言つた。 「自分からさうしたといふことが分るやうに、私、何か殘して置きますわ -- 自分から恥ぢてしたことだと分るやうに。さうしたら、世間の人はあなたを咎めやしないでせう。」 「そんな馬鹿々々しいことをいふものぢやない -- 僕はそんなことを聽きたくはないよ。 かうした場合にそんな考へを持つのは、實に馬鹿氣たことだ。それは悲劇といふよりも寧ろ嘲笑といふ方なんだ。 お前は、今度の間違ひの性質をちつとも諒解してゐないんだね。若しこれが世間に知れたとしたら、 十中の八九までは、屹度滑稽といふ眼でそれを見るだらうと思ふね。頼むから、家に歸つて、休んでおくれ。」 「ぢや、さうしますわ。」と彼女は柔順《おとな》しく言つた。 二人は、水車場の裏手にある有名なシトオ派(彿蘭西のシトオに一〇九八年創設せられたベネデクト派の修道僧團をシトオ派といふ) の寺院の名高い廢墟に通じてゐる道を、ぶら〜廻つてゐた。その水車場は、 何世紀か以前にはその僧院に附屬してゐたものである。食物は永久に必要なので水車は今だに動いてゐるが、 信仰は果敢《はか》なく移り變るものであるから、寺院は既に廢滅に歸してしまつた。 一時的なものに仕へることが永遠なものに仕へることに勝つて永續することは、 人の始終見てゐる事實である。彼等はぐる〜歩き廻つてゐたので、まだ家から餘り遠くない處にゐた。 そこで彼女は彼の指圖に從つて、たゞ大河にかかつてゐる大きな石橋まで行き、 其處から街道に沿つて二三|碼《ヤード》行きさへすればよかつた。彼女は家に戻つて見ると、 爐の火はまだ燃えてゐたし、何も彼も出て行つた時のまゝになつてゐた。 彼女は一分間も階下にはゐないで、荷物の運び込まれてある階上の自分の部屋へ上つて行つた。 彼女は此處の寢臺《ベツド》の端へ坐り、茫然《ぼんやり》と邊《あた》りを見廻してゐたが、 やがて、着物を脱ぎ始めた。寢臺《ベツド》の方へ燈火を移すと、 その光線が不圖《ふと》白木綿の天蓋の上へ射した。何かがその下に埀れ下つてゐた。 そこで、彼女は何んであらうかと、蝋燭を上げてそれを見た。一枝の寄生樹《ミツスルトー》であつた。 エンヂェルが其處へ吊《つる》して置いたので、すぐ彼女はさうだと知つた。 これこそ荷造りにも、また持ち運びにも非常に厄介だつた不思議な小包の正體であつた。 その中味を、間もなく自然とその用途が分るだらうと言つて、どうしても彼は打ち明けなかつた。 興に乘り、噪《はしや》ぎ切つて、彼は其處へ懸けたのであつた。 その寄生樹《ミツスルトー》が、今となつては如何にも馬鹿々々しく不調和なものに見えた。 彼が柔《やはら》いでくれるやうな見込みは少しもなさゝうに見えたから、もう何んにも氣遣ふこともなく、 殆んど何んの希望もなくなつて、彼女は物憂さうに横になつた。深く悲しんで考へ疲れて來ると、 きまつて睡眠が隙を覗《うかゞ》ふものである。安靜よりも樂しいが、 これを禁ずるいろ〜な氣分の間にあつて、獨りこの安靜を歡び迎へるのはこの悲しみであつた。 そして、二三分間經つうちに、淋しいテスは、 嘗つて彼女の祖先の婚禮の部屋になつたことのあるらしい部屋の香ばしい靜けさに圍まれて、我を忘れてしまつた。 その夜遲くクレアもまた、家の方へ引つ返した。靜かに居間へ入ると、燈火を點けて、 方針を考へて置いた人のやうな態度で、其處に据ゑてあつた古い馬毛の長椅子の上へ自分の膝掛を擴げて、 粗末ではあるがそれを寢椅子に造り變へた。横になる前に、彼は跣足《はだし》のまゝで、 窃《そつ》と二階へ上つて行き、彼女の戸口に立つて聞き耳を立てた。 規則正しい呼吸は、彼女が深い眠りに落ち込んでゐることを語つてゐた。 「有難い!」とクレアは囁いた。しかも、彼女が生涯の重荷を自分の雙肩に移してしまつたので、 今は何んの氣苦勞もなく安眠してゐるのだと思ふと -- たとひ、その考へが全然眞實でないまでも、 ほゞ眞實に近いと思ふと -- 彼は激しい苦痛を感じないではゐられなかつた。 彼は踵《きびす》をめぐらして下へ降りやうとした。だが、ぐづ〜と決し兼ねて、 再び彼女の扉の方へ向き直つた。その拍子に彼には、ダアバァヴィル家の貴女たちの一人がちらと眼についた。 その肖像は、テスの寢室の入口の直ぐ上に掛つてゐた。蝋燭の燈で見ると、 その畫は不愉快を通り越してゐた。陰險な巧らみがその貴女の容貌に潛んでゐた。 それは異性に對する一圖に思ひ込んだ復讐心 -- その時、彼にはそんな風に見えたのであつた。 その肖像にあるチャールズ王朝時代の胸衣《ボデイス》は廣く開いてゐた -- 頸飾りを見せる爲めに、彼がテスの胸衣を縫ひ込まして出來たのと少しも變らなかつた。 そして、彼は二人の間に或る共通點があるといふ、痛ましい感じを再び經驗した。 彼を喰ひ止めるものはこれで十分だつたので、彼は再び歩を返し、そのまゝ降りて行つた。 彼の樣子は落着いて冷靜であつた。固く結んだ小さな口は自制の力を現はし、顏にはまだ、 彼女の告白の時から擴がり出した怖ろしい素氣ない表情が現はれてゐた。それは、 もう情慾の奴隸ではないが、しかもそれから立派に釋放される位置に決して立つてゐない人の顏であつた。 彼はたゞ人間は、どんなに惱ましい經驗にめぐり合せるものであるか、 又、物事がどんなに意外に起るものであるかを考へてゐるだけであつた。 今までテスを慕つて來た長い間は元より、つい一時間前まで、彼女ほど清い、優しい、 純潔なものは、何も有り得ないやうに思つてゐた。けれども、 少し缺けたかと思ふと、何んといふ身も世も、消え失せたやうな變り方であらう! 彼は、彼女の胸の底が、正直な、生々したその面《おもて》に現はれてゐないと獨言《ひとりごと》を言つたが、 それは彼の考へ違ひであつた。けれどもテスには、彼を考へ直させる辯護人が一人もついてゐなかつた。 彼は尚ほ考へ續けた。ぢつと瞶《みつ》めてゐる時は、 決して舌が語つてゐることゝ少しでも違つた意味を現はしたことのないあの眼が、 彼女の表面の世界と對立して、いがみ合つてゐる背後の世界を見てゐようなどゝいふことが、 一體有り得る事だらうか。 彼は居間の例の寢椅子に凭りかゝると、燈火を消した。夜は、無關心に、冷やかに入つて來て、その場を占めた。 それは彼の幸福をもう丸呑みにして、今ではそれを平氣で消化し、 そしてまた殆んどその顏色も變へず、平然として他の幾人とも知れない人の幸福をも、 鵜呑みにしようと身構へてゐる夜であつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十六 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- クレアは、灰色の、恰も罪惡でも犯してゐるやうにこつそり忍びやかに射して來る夜明けの光を受けて、 起き上つた。 煖爐は、消えた餘燼《もえさし》を殘したまゝ彼の前に立つてゐた。 展《ひろ》げられたまゝの晩餐の卓上には、二つのコップに一ぱい注がれた葡萄酒が、 今はもう氣も拔け、味もなくなつてゐた。彼女の空いた椅子、又彼自身の椅子、 その他の種々の家具調度は、一體どうすればいゝのか? といふ默つてゐる事の出來ない問ひを發せずにはゐられないやうな、 永劫變らない樣子をしてゐた。二階からは、少しの物音もしなかつたが、二三分の中に、 門口《かどぐち》を叩く音が聞えた。彼等が滯在中いろ〜の用をしてくれる筈になつてゐる、 近所の農家の女であらうと、彼は憶《おも》ひ出した。 この家に今第三者が現はれるとすれば、如何にもばつの惡いことになるだらう。 そこで、彼は既に着更へをしてゐたので窓を開けて、今朝は自分逹でどうにかやれさうだと彼女に告げた。 女は手に牛乳《ミルク》の鑵を持つてゐた。彼は、それを戸口に置いて行くやうにと言つた。 女が行つてしまふと、彼は家の裏手の方へ行つて、焚木《たきゞ》を探して來て、手早く火を焚きつけた。 食料戸棚には玉子や、牛酪《バタ》やパン、その他の物が澤山あつた。そこで、 直ぐにクレアは朝食の支度をした。それは搾乳場で得た經驗で、 かうした世帶《しよたい》向きの事を噐用にやつて退《の》けられるやうになつてゐたからであつた。 燃えてゐる焚木《たきゞ》の煙が、見たところまるで蓮華の冠のついた圓柱のやうに見える煙突から立ち昇つてゐた。 通りがゝりの土地の者はそれを見て、新婚夫婦のことを思ひ出して、その幸福を羨んだ。 エンヂェルは、一わたりあたりを見渡して、階段の下まで行くと、ありふれた聲を出して呼んだ -- 「御飯が出來たよ!」 彼は表の扉を開けて、朝の空氣の中へ二三歩歩き出した。暫くして戻つて來ると、 彼女はもう居間へ來てゐて、機械的に朝飯の食噐を直してゐた。 彼が呼んでから僅かに二三分しか經つてゐないのに、すつかり身仕舞ひが出來てゐるところを見ると、 彼が呼ばない前から着更へが濟んでゐたか、或はその時には殆んど濟みかけてゐたに相違なかつた。 髮の毛は後の方へ大きく圓い塊りに束ね、着物は新調の -- 白い頸飾りのついた、水色をした毛織の -- 一つである通衣《フロツク》をつけてゐた。手を顏とは冷たさうに見えた。 多分着更へをしてから長い間、火の氣のない寢室に坐つてゐたのであらう。 彼女を呼ぶクレアの調子が大へん丁寧だつたので、暫らくの間、 彼女は新しい希望の輝きに元氣づいたやうであつた。けれども、彼を一目見ると、 直ぐそれも消えてしまつた。 實際彼等二人は、嘗つては火であつた死灰に過ぎなかつた。前夜の激しい悲しみは、 今も尚ほ重苦しく續いてゐた。もう何ものも、二人の何方《どちら》をも熱情に燃え立たしめるやうなことは、 出來ないやうに見えた。 彼は相手に向つて優しく話した。彼女もまた、同じやうに相手任せの調子で答へた。 到頭彼女は、自分の姿も人眼を惹くものであるといふことにはまるで氣がつかない人のやうになつて、 きりつとした彼の顏に見入りながら彼のところへ寄り添つて行つた。 「エンヂェル!」と彼女は言つて、立ち止つた。そして嘗つては自分の戀人であつた人が、 肉體を具へて其處にゐるといふことが殆んど信じられないといふ風に、 微風《そよかぜ》のやうに輕やかに指で彼の體に觸れて見た。彼女の眼はきら〜と輝いた。 蒼白い頬は、半ば乾いた涙が、きら〜其處に跡を殘してはゐたけれども、 平常の福々しさを見せてゐた。そして、いつもは赤い熟したやうな唇が、頬と殆んど同じ位ゐ蒼白くなつてゐた。 彼女は動悸を打つて、まだ生きてはゐるが、心のうちにある悲しい重みに壓《お》されて、 心臟はひどく不規則に鼓動してゐたから、この上少しの刺戟でもそれに加へたならば、 直ぐに實際の病氣を惹き起し、特色のある眼は曇つて、唇は薄くなるであらうと思はれる位ゐであつた。 彼女は何處までも純潔に見えた。自然は、氣紛れな手管を用ひてテスの容貌に處女の烙印《やきいん》を捺し付けてゐたから、 彼は、あきれたやうに彼女を瞶《みつ》めずにはゐられなかつた。 「テス!ありや事實ではないと言つてくれ!ねえ、斷じて事實ぢやないつて!」 「事實なんですの。」 「一言《ひとこと》々々がかい?」 「一言《ひとこと》々々がですの。」 彼は、恰もそれと知りつゝ、彼女の唇から好んで嘘であると言はせて、 或る詭辯術に依つてそれを本當の否定にしたいと思つてゞもゐるかの如く、 歎願するやうに彼女を瞶《みつ》めた。けれども、彼女は飽くまでもかう繰り返すばかりであつた。 -- 「事實なんですの。」 「今生きてゐるのかね?」そこで、エンヂェルは訊ねた。 「赤ん坊は亡くなりました。」 「だが、その男は?」 「生きてゐますの。」 最後の絶望の色がクレアの顏を掠めた。 「英蘭土《イングランド》にゐるのかね?」 「えゝ。」 彼はぼんやり二三歩あるいた。 「僕の立場は -- かうなんだ、」と、不意に彼は言つた。「僕はかう考へたんだ -- 誰でもさうだらうが -- 社會上の地位もあり、資産もあり、 世間の事も知つてゐる妻を手に入れようといふ野心をすつかり放擲してしまへば紅い頬が得られるやうに、 確實に田園の清いものが手に入れられようと思つたんだ。ところが -- 勿論、 僕はお前を非難の出來る人間ではないよ。またさうしようとも思はないがね。」 それから先は言つて貰ふ必要のないまでにテスは、すつかり彼の立場を感じた。 丁度そこに彼の立場の苦しい點が潛んでゐるのであつた。彼が何も彼も失つてしまつたことを彼女は知つた。 「エンヂェル -- いよ〜となれば、あなたに最後の逃げ途があるといふことを、 私知つてゐなかつたら、成行きに任せてかうしてあなたと結婚はしなかつたでせうよ。 尤も私、あなたはどんなことがあつても決して -- 」 彼女の聲は嗄れて來た。 「最後の逃げ途といふと?」 「私を捨てるといふことなの。あなたは私を捨てることが出來るんですもの。」 「どんな風にして?」 「私を離縁してよ。」 「馬鹿を言つてはいけない -- どうしてお前はさう單純なんだらう!どうして僕がお前を離縁出來るんだね?」 「出來ませんの -- かうして打ち明けてしまつても?私の告白で、その理由が出來たらうと、 私思ひましたの。」 「おゝ、テス -- お前はあんまり、あんまり -- 子供らしい -- 一人前になつてゐない -- 未熟とでも言ふんだらうか!お前はどんな人間なのか、僕にはちつとも分らない。 お前には法律といふものが分つてゐないんだ -- お前には分つてゐないんだ!」 「何ですつて -- あなたに出來ないと仰しやるの?」 「全く、僕には出來ない。」 痛ましさと雜《まじ》り合つた羞恥の色が、すぐ聽き手の顏に現はれた。 「私思ひましたの -- 私思ひましたのよ、」と、彼女は囁いた。 「あゝ、あなたの眼にどれほど不都合な者に私が見えるかといふことが、今になつてよく分りましたの! 私を信じて下さい -- どうぞ信じて下さいね。私は魂にかけて、 あなたがさうすることが出來るとばかり思つてゐましたの! あなたがどうかさうして下さらないやうにとは望んでゐましたけれど、 あなたの決心一つで、また、すこ -- すこ -- しも私を愛して下さらないのでしたら、 捨てることが出來るつてことを、少しも疑はずに、信じてゐましたの!」 「それはお前の考へ違ひだよ、」と彼は言つた。 「あゝ、そんなことなら私、してしまへばよかつた、昨夜《ゆうべ》思ひ切つてしてしまへばよかつた! だけど、私にはその勇氣がなかつたんですわ。そこがやつぱり私らしいとこなんですわね!」 「何をしようつていふ勇氣だい?」 彼女が何とも答へなかつたので、彼は相手の手を執つた。 「一體何をしようと、お前は考へてゐたんだね?」と彼は訊ねた。 「自殺してしまはうと考へましたの。」 「何時?」 彼女はこんな風に何處までも追求する彼の態度に怯《お》ぢて身悶えした。 「昨夜《ゆうべ》なの、」と彼女は答へた。 「何處で?」 「あなたの寄生樹《ミツスルトー》の下でよ。」 「こりや驚いた -- どんな風にしてさ?」と彼は嚴しく訊ねた。 「私、若しお怒りにならないなら、申し上げますわ!」と彼女は身を竦《すく》ませながら言つた。 「私の箱の紐でしようと思ひました。でも、私には出來なかつたんですの -- いよ〜といふところが!あなたのお名の汚れになりはすまいかと思ひましたから。」 自發的に出たのではなくて無理に言はされたこの告白が、意外な性質のものであつた爲めに、 彼はそれを聞いて、眼につくほど驚き顫へた。だが、彼はまだ彼女を抑へて放さなかつた。 そして眼を彼女の顏から外《そ》らして、下を向いて言つた -- 「ねえ、よく聽いておくれ。お前は、決して、そんな怖ろしい事を思つてはいけない! どうしてそんなことが出來るんだね!もうそんなことは思ひ立たないと、 夫としての僕に固く約束してくれるだらうね。」 「喜んでお約束しますわ。それがどんなに間違つてゐたかが分りましたから。」 「間違つてゐるとも!お前には全く不似合ひな思ひ付きだ。」 「だつて、エンヂェル、」と彼女は落着いた無頓着な樣子で、眼を大きく開いて彼の方を見ながら辨解した。 「それは全くあなたの爲めを考へて思ひついたことなの -- どうしてもあなたが離婚といふやうな厭《いや》な辱しめをお受けになるに違ひないと思はれましたから、 そんな辱しめを蒙らせないで、あなたを自由にして上げたいと考へましたから。 自分の爲めにさうするなんてことは、決して、夢にも考へなかつたんですの。だけど、 自分で手を下してする位ゐぢや、まだ勿體なすぎるとおふものよ。 お氣の毒にも、あなたこそ私に鞭を加へる筈の人なんです。若しそれがお出來なら、 他のあなたの迯《のが》れる途はないんですから、それを決行するといふお氣にさへなれましたら、 私は一層強くあなたを愛するやうになるだらうと思ひますわ。私もう、 自分がまるつきり價打《ねうち》のない人間のやうに思はれますの! 大變あなたのお邪魔になるやに思はれるんですの!」 「しッ!」 「えゝ、止せと仰しやるなら私もう申しませんわ。あなたに逆《さから》ひたい望みは、 私にはちいともないんですもの。」 彼にはこれが僞りでないことは分つてゐた。昨夜の絶望に陷つてから、 彼女の元氣は全くなくなつてしまつた。そしてもうこの上向う見ずな事をする心配はなかつた。 テスは氣を取り直し、甲斐々々しくまた朝の食卓の支度に取りかゝつた。 どうにかそれも調《とゝの》つたので、二人はお互ひの視線を會はせないやうにと思つて、 同じ側の席に掛けた。お互ひ同志、飮み食ひする音を聞くのは、最初は何だかもどかしい氣がしたが、 これをどうする譯にも行かなかつた。それにまた、食べた分量は二人とも極く僅かだつた。 食事が終ると、彼は立ち上り、晝餐に歸つて來る時刻を言つて置いて、 此處へ來た唯一の實際の目的であつた水車場の研究をするといふ計畫を果す爲めに、機械的に、 水車場の方へ出かけて行つた。 彼が行つてしまふと、テスは窓際に立つて、やがて、水車場の構内へ通じてゐる大きな石橋を渡つて行く彼の姿を認めた。 彼はその背後に沈み、その先の線路を横切つて、姿をかくした。そこで彼女は、 がつかりもしないで、注意を室内に向けて、食卓を掃《はら》つたり、取り片づけたりし始めた。 手傳ひの女が間もなくやつて來た。その女にゐられるのは、初めの間テスには窮屈だつたが、 後には、却つて慰めとなつた。一二時半になると、彼女は手傳ひの女を獨り臺所へ殘して置いて、 居間へ戻り、エンヂェルの姿が再び橋の蔭から現はれて來るのを待つてゐた。 一時頃に彼は姿を現はした。彼がまだ四分の一哩も先の方にゐるのに、彼女は我れ知らず顏を赧らめた。 彼が入つて來る時迄にはすつかり食事を用意して置かうと、彼女は臺所へ走つて行つた。 彼は先づ、前日二人が一緒に手を洗つた部屋へ入つて行つた。それから居間へ入つて來ると、皿の蓋は、 まるで彼自身の動作によるものでゞもあるやうに、皿からすつと持ち上つてゐた。 「實にきつかりだね!」と彼は言つた。 「えゝ。あなたが橋を渡つてお出でなのを見てゐましたから。」と彼女は言つた。 食事は、彼が午前中|寺院水車場《アベイ・ミル》でしてゐたことや、 粉篩《こなふる》ひの方法や、舊式な機械、その或る種のものになると、 今は廢址の堆積となつてゐた當時から、ずつと今日迄始終使はれ通して來たものだらうと思はれる位ゐで、 新しい改良された方法については、大して彼を啓發しさうにも思はれない機械のことなど、 平凡な談話のうちに過された。一時間ばかりするうちに彼はまた家を出て、夕暮に歸つて來ると、 その晩はずつと書類の調べに忙《せは》しくしてゐた。彼女は邪魔になつてはいけないと思ひ、 年寄の女が行つてしまふと臺所へ退いて、一時間以上も出來るだけ忙《せは》しく、立ち働いてゐた。 クレアの姿が、扉口《とぐち》に現はれた。 「そんなに働くんぢやないよ、」と彼は言つた。「お前は僕の召使ひぢやないんだ。僕の妻なんだもの。」 彼女は顏を上げた、そして幾らか晴々しくなつた。「私、さう思つても差支へないの -- ほんとに?」 と彼女はいぢらしくも、からかひ口調で呟いた。「名前だけつて言ふお積りでせう! さうですわ、私、もうそれ以上にならうとは思ひませんの。」 「さう思つて差支へないだつて、テス!お前は實際さうなんぢやないか。何んだつて、 そんなことをいふんだね?」 「分りません、」と彼女は、涙で語調を曇らしながら、急いで言つた。 「私、かう思ひましたわ。私 -- 私は相當な人間ではないからつていふ積りよ。 あなたに申し上げてありますわ、もうずつと前に、私はそんなに正しい者ではないと思ひますつて -- だから、私あなたと結婚したくはなかつたんですの、たゞ -- たゞ、あなたがお薦めになつたもんですから!」 彼女は咽《むせ》び泣きを始めた。そして彼に背を向けてしまつた。その素振りを見ては、 エンヂェル・クレア以外の者だつたら、どんな人をも引き寄せないではゐなかつたに相違ない。 彼の素質は、言つて見れば、温和《おとな》しく、優しかつたのであるが、その奧底には、 恰も柔かい粘土の中に鑛脈があるやうに、固い理詰めの沈澱物が潛んでゐて、 それを貫通しようとするどんなものゝ刄先をも曲げずにはゐなかつた。 それが彼に『教會』の信條を受け容れることを拒み、また彼に、 テスを許すことを喰ひ止めたのであつた。それに彼の愛情そのものも、火といふよりも光輝といつた方で、 異性に對しても、それを信じなくなれば同時に追ひ求めることも止めてしまふのであつた。 この點では、智識の上では賤しんでゐながらも感能的には溺れてゐるといふやうな、 世の多くの感じ易い人々とは反對であつた。彼女の嗚咽の止むまで、彼は待つてゐた。 「せめて英蘭《イングランド》の女の半分でも、お前のやうに品があればいゝと思ふよ。」 一般の女に對すて皮肉を投げつけるやうに彼は言つた。 「それは品位の問題ぢやなくて、主義の問題だ!」 彼は、素直な人の眼が一度表面の現象に愚弄されたと知つたら、 何處までもしつこくその人をこぢらせずにはゐられない無慈悲な浪にまだ搖られてゐるので、 こんな風なことや、これに似たやうなことをもつと彼女に向つて言つた。その實、底を割つて見れば、 まだ同情といふ退潮《ひきしほ》が流れてゐたので、世間的の女ならそれを手頼《たよ》りに彼を征服したかも知れなかつた。 が、テスはこれに氣がつかなかつた。何事も當然の報いと諦めた。そして殆んど口さへ開かなかつた。 彼の愛に對する熱愛に搖ぎのないことは、實際、悼《いた》ましいばかりであつた。 彼女は生來敏感な性質《たち》であつたが、今では彼に何と言はれても、取り亂しはしなかつた。 興奮するやうな事もなかつた。自分に對する彼の振舞ひを惡いと考へるやうなこともなかつた。丁度今彼女は、 何處までも自我の主張を追ふ時代に立ち戻つて來た獻身的な使徒の愛そのものとなつてゐたのかも知れなかつた。 この夕方も、夜も、また晨《あさ》も、前日と全く同じやうに過された。一度、たゞの一度だけ、 彼女は -- ちひ先頃までは自由な、また、我を張つてゐたテスが -- ちよつと彼に言ひ寄らうとした。 それは食事が濟み、三度目に彼が粉挽《こなひき》水車場へ出掛けようといふ時であつた。 食卓を立ち掛けに、彼は「それでは」と言つた。そこで彼女も同じ言葉で答へて、 同時にその口を彼の口の方へ向けた。彼はその誘ひに應じようとはせず、急いで側《わき》を見ながら、 かう言つた -- 「時間通りに歸つて來るからね。」 テスは打ちのめされでもしたやうに、縮み上つてしまつた。これまで彼は隨分度々、 彼女の不承知にも關《かま》はずこの唇に觸れようとしたのであつた -- お前の口や呼吸は、お前が主なる食物としてゐる牛酪《バタ》や鷄卵や牛乳や蜂蜜の味がするから、 自分もその口や呼吸から滋養物を取るのだとか、さういふいろ〜の冗談を彼は陽氣に屡々言つてゐた。 けれども、今ではそれを振り向かうともしなかつた。彼は急に彼女の縮み上る樣子を見て、優しく言つた -- 「ねえ、いゝかい、僕は今後の方針を考へなければならないんだよ。二人が早速別れたら、 お前に對する世間の非難が必ず湧いて來るに違ひない。それを避ける爲めには、 どうしても暫らく一緒にゐる外はないよ。が、これはほんの形式の爲めだといふ事を、 お前も承知してゐて貰ひたい。」 「えゝ、」とテスは茫然《ぼんやり》して言つた。 彼は出て行つた。そして水車場へ行く途中、靜かに立ち止り、もつと優しく接してやればよかつた、 少くとも一度位ゐは接吻もしてやればよかつたと、暫時《しばらく》の間彼は竊《ひそ》かに思つた。 かうして二人は、絶望的な一日二日を、全く同じ屋根の下で一緒に暮した。けれども二人の間には、 まだ戀人同志にならなかつた以前よりも、餘程の隔りがあつた。彼が自分でも言つた通り、 今後取らなければならぬ方針を一生懸命考へてゐるので、彼の活動力が餘ほど鈍つてゐることは彼女にもよく分つた。 一見かうまでやさしい素直な氣持の底にかういふ固い決意のあるのを見て、 彼女はぎよつとせずにはゐられなかつた。彼の言行一致は、實際、 餘りに殘酷であつた。彼女はもう今では、赦されることを豫期してはゐなかつた。 彼女は、彼が水車場へ行つてゐる間に、彼から遁れ出ようかと幾度となく考へたが、 若しこのことが世間へ知れ渡つた時には、彼の爲めにならないばかりか、 却つて一層彼に煩悶と屈辱とを與へることになりはしないかと、恐れたのであつた。 一方クレアは、本當に深く默想してゐた。彼の考へは停滯してゐなかつた。 考へる爲めに彼は病氣になりかけてゐた。考へる爲めに心身を蝕ばまれ、考へごとでへと〜になつた。 以前の生々した、變化に富んだ家庭を樂しむ氣持から惱まされてゐた。 「どうしたもんだらう -- どんしたもんだらう?」と、獨り言をいひながら彼は歩きまはつた。 それを、彼女は不圖《ふと》耳に入れた。その爲め彼女は、今まで祕して來た將來に就いての沈默を破つてしまつた。 「ねえ -- あなたは長くは私と同棲しないお積りなんでせう -- さうなんでせう?エンヂェル、」と彼女は訊ねた。 窪んだ彼女の口元は、その顏に柔らいだ靜かな表情を保つてゐる手段が、まつたく機械的であることを示してゐた。 「僕には出來ない、」と彼は言つた。「自分を賤しめずに、また、一層惡いことには、 恐らくお前をも恥かしめずにはね。無論僕たちは、普通の意味では同棲出來ないといふんだよ。 今のところでは、どう感じようとも僕はお前を賤しめはしない。まあ卒直に言はしてくれ、 でないと僕の惱んでゐることがすつかりお前には分るまいから。その男の生きてゐるうち、 どうして僕たちは同棲出來るかね? -- その男こそ、本當のお前の夫なんだ。僕はさうぢやない。 若しその男が死んだら、また話は別だがね……おまけに、困つてゐるのはそれだけぢやないんだ、 別の方から考へても起つて來るんだ -- それはね、僕たちとは別の人間の將來に關係のあることなんだ。 僕たちの間に子供が生れ、だん〜と年が經つて、この過去の事柄が知れて來ること -- そりや屹度知れずにはゐないんだから -- を考へて御覽。地球の上の何處にだつて、誰も出て來ない、 又は他處《よそ》から入り込まない所なんて、決してないんだからね。そこで、 僕たちの血肉を分けた可哀さうな子供たちが、その嘲弄の下《もと》に育つて、 年をとるに連れてだん〜その壓迫を十分に感ずるやうになつたとしたら、どうだらう! 何といふ幻滅だらう!何といふ前途だらう!かういふことがないとも限らないと考へた後でも、 お前にはまだ『一緒にゐてくれ』と言へるかね?この上別の不幸へ飛んで行くよりも、 現在僕たちの背負つてゐる不幸を、耐へ忍んで行かうとお前は思はないかね?」 心配の重みを受けて、彼女の眼瞼《まぶた》は、依然として埀れてゐた。 「私、『一緒にゐてくれ』とは言へません、」と彼女は答へた。「言へません。 私、そこまでは考へませんでしたわ。」 テスの女らしい希望は -- こゝで本當のことを言つて見れば -- 非常に粘り強く一つ家に永く起き伏してゐれば、いつかは親密さが加はつて來て、 たとひ分別に逆《さから》つても冷酷な氣持を抑へて無くしてしまふかも知れないといふ祕かな夢想となつて復活する位ゐであつた。 彼女は、、普通の意味では人ずれがしてゐなかつたが、女として缺けてゐる點があるのではなかつた。 そして、男女が接近してゐるといふことに、非常に強い親和力のあることを本能的に彼女が知らなかつたとしたならば、 それこそ女としての特徴が缺けてゐるといふことを示すことになつたであらう。 若しこの接近から來る力が役立たないとしたら、もう彼女の頼みとするものは何もないといふことを、 彼女は知つてゐた。計略の性質を帶びたものに希望を掛けるのは間違つてゐると、 彼女は獨言《ひとりごと》を言つたが、なほさういふ種類の希望をすつかり消す譯には行かなかつた。 今彼の最後の申し立てが述べられた。そして彼女が言つたやうにそれは新しい考へであつた。 事實、彼女は今まで、決してそこまでは考へてゐなかつた。そして彼女は、 自分を輕蔑するであらうと思はれる、これから先に生れるかも知れない子供をまざ〜と彼が描き出したので、 何處までも人道的である正直な心へ、恐ろしいほどの確信を起さずにはゐなかつた。 彼女はたゞ經驗だけで、或る境遇の下では善良な生活を送るよりもよいことが一つあるといふことを、 教へ込まれてゐた。それは、どんな生活を送ることからも脱《のが》れるといふことであつた。 受難の經驗から先を見通したすべての人々のやうに、彼女はシュリ・プリュドオム(一八三九 - 一九〇七年、 彿蘭西の詩人で批評家。「孤獨」「運命」「幸福」等の詩篇がある)の言葉を用ひれば 『汝、世に生れ出でよ』といふ嚴命の中に、特にそれが、 自分にやがては生れるかも知れないものに向つて呼びかけられたものとすると、 刑罰の宣告を聞く思ひがせずにはゐられなかつた。 しかも尚ほ『自然』といふ狐のやうな老獪な老女のやり口は、實に惡辣で、 今までテスはクレアに對する愛情の爲めにすつかり瞞着《まんちやく》されてゐて、その愛が、 やがて子供を生むといふ結果になつて自分だけの不幸として悲しんだものを他人にも蒙らすやうになるかも知れないといふことを、 すつかり忘れてゐた位ゐであつた。 それ故に彼女は、彼の議論に叛抗することが出來なかつた。それに對する答へは、 勝《すぐ》れて敏感な者の持つてゐる自我と鬪ふ性癖から却つてクレア自身の胸に湧いて來た。 彼は殆んどそれを恐れる位ゐであつた。それは彼女の又とない肉體の性質に基いてゐたので、 或は彼女がそれを有望に利用するかも知れないといふ事であつた。 そればかりでなく、彼女はかう言ひ添へるかも知れなかつた -- 『濠洲の高原とかテキサスの平原なら、 誰がこの私の不幸を知るものですか、氣にするものですか、また誰が私なり夫なりを非難するもんですか?』 しかも、世の多くの母のやうに、彼女は一時の現象を永久避け難いものでゞもあるかのやうに認めてゐた。 そして彼女の考へは正しかつたかも知れない。女がものを直覺する心はたゞ自分だけの苦しみを知るばかりでなく、 夫のそれも知るのである。たとひかういふ非難が未知の人々から、夫なり、 その子供逹の上に加へられないとしても、それは、彼自身の潔癖な頭腦から、 その耳に逹するかも知れなかつた。 この隔てが出來てから三日目であつた。もう少し彼に動物性が加はつたら、 もつと氣高い人になつたかも知れないといふ竒怪な逆説《パラドツクス》を用ひるものがないとも限らないが、 私逹はさうは言はない。しかもクレアの愛は、實際、疑ひもなく脱俗的で缺點とも見える位ゐであり、 餘りに空想的で實行の覺束ないものであつた。かういふ性情の者に對しては、 眼の前に肉體が見えてゐるといふことは、時として、それが見えてゐない時よりも訴へる力が弱いことがある。 それは後の場合が、都合のよいことには、實物の缺點をかくす理想の姿を生み出すからである。 彼女は自分の姿も、思つてゐた程強く自分の楯とならなかつたことを知つた。 彼の形容すた句は眞實であつた。本當に彼女は、彼の慾望を刺戟した女とは別の女であつた。 「私はあなたの仰しやることを、よく考へて見ました、」と彼女は卓子掛《テーブルかけ》の上に人差指を動かし、 今は二人を嘲つてゐる指環の嵌つてゐる片々の手で前額をおさへながら、彼に言つた。 「それは、一々御尤ものことですわ。さうでなくてはいけないんですの。 あなたは私から離れなくてはならないんですわ。」 「では、お前はどうする?」 「私は實家《うち》へ歸つて差支へありませんの。」 クレアはそのことに思ひつかなかつた。 「屹度だね?」と彼は念を押した。 「屹度ですとも。私たちは別れなければならないんでせう。 きつぱり極《きま》りをつけてしまつた方がようございますわ。 あなたはいつか仰しやつたことがありますね、私は、 兎に角|男の勝《すぐ》れた分別も臺なしにしてその方を惹きつける者だつて。 ですから若し私が始終あなたの目の前に居りましたら、折角のあなたの理性や希望に背いて、 あなたの計畫を變へさせるやうになるかも知れませんの。さうしたら、 後になつて、あなたの後悔も私の悲しみも、どんなにひどくなる事でせう。」 「で、お前は實家《うち》へ歸りたいといふんだね?」と彼は訊いた。 「私、あなたとお別れして、實家《うち》へ歸りたいんですわ。」 「ぢや、さうしよう。」 彼女は、別に彼を見上げはしなかつたが、思はずぎよつとした。 申し出と約束との間には或る距離があつた、彼女はそれをあまりに敏速に感じたのであつた。 「私、こんなことになりやしまいかと前から氣遣つてゐましたの、」彼女は、 顏を柔和《おとな》しく据ゑたまゝ呟いた。「私、何も不平は申しません、エンヂェル。 私 -- 私、それが一番好いと思ひます。あなたの仰しやつたことで、すつかり悟りました。 その通りですとも。私たちが同棲してゐたつて、私を咎める者は誰もありませんでせうが、 年月が經つて行くうちには、何時かはあなたが何か普通のことで私に腹を立てゝ、 私の昔のことを現にお知りになつてゐるやうに覺えてゐて、御自分でも思はず惡口を仰しやるお氣になる、 それがひよつとして私逹の子供の耳に入るかも知れませんわ。あゝ!そんなことになつたら、 今はたゞのほんの氣に障る位ゐのことでも、その時には、 私を苦しめて生命《いのち》までも奪つてしまふやうになるかも知れませんわ! 私參りませう -- 明日にも。」 「そしたら、僕も此處に留まつちやゐない。何もこんなことを言ひ出したくはなかつたけれども、 別れる方が得策だと悟つたんでね -- 少くとも暫らくは、もつとはつきりとこれまでの事の經過が具體的に分るやうになり、 お前に手紙が出せるやうになるまではね。」 テスはこつそり夫の方を偸《ぬす》み見した。彼は蒼白《まつさを》になつて顫へてさへゐた。 が、前と同じやうに、彼女は、自分が結婚したこの温厚な人物の心の底に現はれた固い決心 -- 粗雜な感情を微妙な感情に、物質を概念に、肉を靈に屈服させる意志を知つて、愕然とした。 性癖や傾向や習慣などは、まるで彼の空想といふ横暴な風に吹き飛ばされる枯葉も同じであつた。 彼はそれとなく彼女の樣子に氣づいたのか、かう説明を加へた -- 「僕はね、離れてゐた人の方が、人のことを親切に考へるんだよ、」と言つて、 皮肉にまた言ひ添へた。「どうなることか分つたもんぢやないさ。 恐らく散々に苦しみ、疲れ切つた揚句に、何時かは又二人一緒に落着くんだらうよ。 大勢の人が是までさうして來てゐるんだから!」 その日、彼は荷造りを始めた。そして、彼女もまた二階へ上つて、荷造りに取りかゝつた。 これが最後となるかも知れない別離なら、それを烈しい苦しみと感ぜずにはゐられない者同志であつたから、 これから先の二人の行動には心を慰められる臆測の光が投げかけられない譯ではなかつたが、 翌朝の別れが、永久の別れとなるかも知れないと、お互が思つてゐることを、二人は知つてゐた。 お互の上に働いてゐた魅力が、 -- テスの方では全然才藝を離れて -- 別れた最初の二三日は、 今までよりも或は一層威力を振ふかも知れないが、時の經つに從つて、その力が弱くなるに違ひないことを、 彼は知つてゐた。また彼女も知つてゐた。それから彼女を同棲者として許すことを拒む實際的な論據が、 一層遠くを見せる北極光に照らされて益々力強く浮き出すかも知れないといふことを、二人とも知つてゐた。 そればかりではなく、二人の人間が一度別れると -- 共通の棲家《すみか》と、 共通の環境とを捨てたとなると -- 新しい作物が、それ〜゛の空いた場所を充たさうとして、 不知不識《しらず〜》のうちに萠芽《めざ》して來る。思ひ掛けない出來事が始めからの意圖を妨げ、 そして舊《もと》の計畫が忘れられてしまふのだ。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十七 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 夜半は靜かに來て過ぎて行つた。フルウムの盆地には、それを告げ知らすものとては何も無かつたから。 一時が過ぎると間もなく、嘗つてはダアバァヴィル家の邸宅であつた暗くなつてゐる農家のうちに、 かすかにものゝ軋《きし》る音がした。二階の部屋を使つてゐたテスは、それを聞きつけて眼を覺した。 それは、よくある釘の弛んだ梯子段の一隅から聞えて來た。彼女は自分の寢室の扉が開くのを見た。 そして夫の姿が、氣味の惡いほど用心深い歩調で、月光の流れを横切つた。 彼は襯衣《シヤツ》とズボンとだけしか體に着けてゐなかつた。そして、 彼の眼が不自然に虚空を凝視してゐるのを知ると、はつと感じた彼女の最初の喜びは消えてしまつた。 彼は、部屋の中程まで來ると、靜かに立ち止まつて、何んとも言ひやうのない悲しい調子で呟いた -- 「死んでる!死んでる!死んでる!」 何かひどく心を攪亂するやうな力に襲はれると、その爲めにクレアは時々眠りながら歩いたり、 不思議な離れ業《わざ》さへ演じることがあつた。例へば、結婚するちよつと前の市場から二人で歸つた夜、 彼女を辱しめた男との挌闘を、彼の寢室で再演したやうに、テスは引續いた心の苦しみが、 今もまた、さうした夢遊病者の状態へ彼を驅り立てたのであることを悟つた。 彼に忠實な信頼は、彼女の胸に非常に深く潛んでゐたから、彼は覺めてゐようが眠つてゐようが、彼女に、 自分の身が危ないなどゝいふやうな氣持を少しも起させなかつた。たとひ、 彼が手に短銃《ピストル》を持つて入つて來たとしても、 彼は自分を庇護してくれるのだといふ彼女の信頼は殆んど動搖させなかつたであらう。 クレアは近付いて來て、彼女の上に屈み込んだ。そして「死んでる、死んでる、死んでる!」と彼は呟いた。 彼は測り知れない悲しみを浮べた同じ眼で、ちよつとの間、ぢつと彼女を瞶《みつ》めてゐたが、 やがて一層低く屈み込んで、彼女を兩腕に抱きかゝへ、屍衣へでもくるむやうに敷布の中へ彼女を包んだ。 それから彼は、人が死體に對すると全く同じ敬意を拂つて、寢臺から彼女を持ち上げ、室内を運び歩いた、かう呟きながら -- 「僕の可哀さうな、可哀さうなテス -- 僕の何よりも愛しい、可愛いテス! 本當に可愛らしい、本當に善良な、本當に忠實な!」 醒めてゐる折は、いかにも嚴しく差し止められてゐた親愛を示すかういふ言葉は、 彼女の捨てられた飢ゑ切つた胸へ、言ひやうもなく香《かん》ばしく響いた。 たとひそれが疲れた彼女の生命を救ふ手段《てだて》であつたとしても、彼女は動いたり、 [足|宛;#1-92-36]《もが》いたりして、今體を置いてゐる状態を破らうとはしなかつた。 かうして彼女は全く靜かに、殆んど呼吸《いき》さへしないで横になつてゐた。 そして、どうするつもりかと訝《いぶか》りながらも、上り口の上を、 抱へられて行かれるまゝに任してゐた。「妻は -- 死んでしまつた、死んでしまつた!」と彼は言つた。 彼は疲れを休める爲めに、暫らく彼女を抱へたまゝ欄干へ凭《よ》り掛つた。 投げ落さうとするのか知ら?身を庇ふ念などは、彼女の胸から殆んど消えてしまつてゐた。 そして翌朝出發しようといふ、恐らく永久に行つてしまはうといふ彼の計畫を知つてゐたから、 この不安な位地にありながらも、恐怖といふよりは寧ろ享樂といふ氣持で、 彼の腕に抱かれてゐた。若し一緒に轉げ落ち、二人一緒に粉微塵になつてしまつたなら、 どんなに誂《あつら》へ向きであり、どんなに願はしいことだらう。 けれども、彼は別に投げ落しもせずに、手摺の支柱を利用して、彼女の唇へ接吻した -- 晝の間は賤しんでゐたその唇へ。それから、新たにしつかりと抱きかへて、梯子段を降りて行つた。 弛んだ梯子の軋《きし》る音も、彼を目覺しはしなかつた。 そして彼等は無事に地階《グラウンド・フローア》まで下りて來た。 彼は、彼女を抱いてゐた片方の手を少しの間放して、扉の閂《かんぬき》をそつと滑らせて戸外へ出た。 その時ちよつと扉の端で靴下を穿いた爪先を打つた。けれども彼はこの事を別に氣にする樣子もなかつた。 戸外は廣々として障碍物は何もなかつたので、樂に運んで行けるやうに、彼女を肩の上へ載せた。 着物を着てゐなかつたので、重さは餘程減ぜられてゐた。かうして彼は屋敷内を通り拔け、 二三|碼《ヤード》離れた河の方へ背負つて行つた。 どうするのか、何か目的があるとしても、それが果して何であるのか、彼女はまだ推測する事が出來なかつた。 そして、まるで第三者がするやうに、今の問題の推測に沒頭してゐる自分に氣がついた。 彼女はいかに樂々と全身をすつかり彼に任せてゐたから、自分を何處までも彼のものだと見做して、 彼が勝手に片付けようとしてゐるのだと考へて、却つて嬉しい思ひをする位ゐであつた。 明日は別れるといふ心配が漂つてゐる中で、彼が今實際に自分を妻のテスと認め、 たとひさう認めて、僭越にも自分に危害を加へる權利があると勝手にきめるやうな所まで行つてゐながらも、 猶ほ容易に自分を投げ捨てないと感ずると、それが心の慰めになるのであつた。 あゝ!今になつて、彼が何の夢を見てゐるのか彼女には分つた -- 若しそんなことがあるとしても、 彼女には殆んど認められないことながら、 彼女が愛してゐたとほゞ同じ程度に彼を愛してゐた搾乳場の他の娘たちと一緒に、 彼女を背負つて流れを渡つた、あの日曜日の朝のことを夢見てゐたのだ。 クレアは、彼女を肩に載せたまゝ橋を渡らないで、同じ側を近くの水車場の方へ五六歩進んで行き、 到頭河の汀《みぎは》にぢつと立ち止まつた。 河の水はこのあたり幾哩かの牧場地を緩《ゆる》やかに流れて、 度々幾筋かに岐《わか》れては氣まぐれに蜿蜒《うね〜》と迂曲して、 名もない小さな小島を廻り、やがて、また先へ行つてから本筋へ落ち合つて廣々とした本流となつた。 丁度彼が彼女を伴れて行つた場所の眞向ひに、かういふ流れの彼方此方から落ち合ふ箇所があつた。 そして河もそのあたりは比較的廣くまた深かつた。それには狹い徒歩《かち》の者しか通れない橋が架けてあつた。 だが今は、秋の洪水の爲めに欄干が洗ひ去られてしまつて、たゞ丸裸の板が殘つてゐるだけであつた。 しかもそれは、急流から僅か二三|吋《インチ》離れた上の方に渡してあつたから、 ふらゆかない頭腦の者にさへ、眼の眩《くら》むほど危い道になつてゐた。 テスは晝間のうちに、青年たちが輕業の藝當をしてそれを渡つてゐるのを、家の窓から見てゐた。 夫も大抵その同じ藝當を見てゐたに相違なかつた。兎に角、彼は今、その橋板へ乘つて片足を前方へ踏み出し、それを渡つた。 自分を溺死させようとするのか知ら?或はさうかも知れない。所は寂しいし、河は淺くて廣く、 たやすくかういふ目的を果すことが出來るのであつた。若し溺死させる積りでゐるなら、 出來ないことはなかつたらう。離れ〜゛の生活を送る爲めに明日別れるよりも、いつそのこと、 その方が増しかも知れなかつた。 矢のやうな急流は、二人の脚下《あしした》を狂奔し、渦を卷いて流れ、 水に映つた月の面《おもて》を搖がしたり、歪めたりした。水泡は、すい〜と流れて行き、 また行手を遮られた雜草は、その堆積の後で波を跳ね上げてゐた。若し二人一緒に今この急流に落ち込んだら、 腕はしつかりと結び合ひ、到底助からないに相違ない。殆んど苦痛もなくこの世を迯《のが》れ去り、そして、 もう彼女に對する非難もなく、彼女と結婚した廉で彼に對する何等の非難もなくなるに相違ない。 彼女と一緒に死んで行く彼の最後の半時間は、懷しいものとなるだらう。それだのに、若し、 彼が目を覺ますまで二人が生き存《なが》らへるとしたら、彼の晝間の嫌忌は戻つて來るし、 今のこの時間もたゞ一時の果敢《はか》ない夢として考へられるだけのものになるであらう。 二人一緒に眞つ逆樣にこの深淵の中に落ち込むやうに身動きしようかといふ衝動が、ふと湧き上つたが、 しかも彼女は、それに溺れてしまひはしなかつた。自分の一命などはどうなつてもいゝといふことは、 もうはつきりさせて置いた。が、彼のは -- 彼女にはそれに干渉する權利は毛頭なかつた。 彼女を背負つて、彼は無事に向う岸へ着いた。此處はもう、寺院の境内になつてゐる耕地のうちであつた。 そして、彼は新たに彼女を背負ひ直して、二三歩進んで、やがて修道院の荒れ果てた内陣の跡へ來た。 北側の壁に、僧院長の空の石棺が寄せかけてあつた。不氣味な性癖のある旅行者などは、 よくその中へ入つて横になるのであつた。クレアはこの中へ、テスを大事に横たへた。二度目に彼女の唇に接吻すると、 彼は、恰も大へん願つてゐた目的が遂げられでもしたやうに、深い安心の溜息をもらした。 クレアは、それから地面に石棺と平行して横になり、すぐに疲れ切つて深い眠りに陷つてしまひ、 丸太のやうに動かないでゐた。今までの努力を續けてゐた心の興奮が、今全くその迸りを止めたのである。 テスは棺の中に立ち上つた。夜は、この季節にも拘はらずからつとしてゐて、 温かではあつたが、薄着のまゝで長く此處にゐるのは、彼に取つて危險である程度には寒かつた。 若しこのまゝ放つて置いたなら、彼は恐らく朝翌まで此處にゐて、確かに凍死してしまふに違ひなかつた。 夢遊歩行をした後でかうした死にやうをする者のあるのを、彼女はこれまでに聞いてゐた。 けれども自分に對する彼の痴行を知つたなら、どんなに彼は恥かしく思ふだらう。それを知つてゐながら、 どうして彼を醒し、今まで彼のして來たことを知らせることが出來よう? が、テスは石棺から出て、彼を幽《かす》かに搖つて見た。けれども、 激しく搖らなければどうしても彼の目を醒ますことは出來なかつた。 敷布一枚が、情けない事だが僅かに體を保護してゐるに過ぎなかつたので、 テスはぶる〜震へ出して來た。そこで是非何とかしなければならなかつた。 興奮の爲めに二三分の冐險の間は、幾らか體が温まつてゐたが、その恍惚たる瞬間も過ぎてしまつた。 彼女の心には口で納得させて見ようといふ念が急に浮んだ。さう思ひつくと、 彼女は呼び起せるほどにしつかりした決意をかためて、彼の耳元に囁いた -- 「さ、歩きませう、あなた、」それと同時に、暗示するやうに彼の腕を執つた。彼は別に逆ひもせず言ひなりになつたので、 彼女はほつとした。彼は彼女の言葉を聞いて、また夢に立ち戻つたらしく見えた。 だがその夢は、こゝまで來て又新たな局面に入り、彼女が精靈として甦つて、 彼を天國へ導いてゐるのであると彼は想像してゐるらしかつた。 かうして彼女は、彼の腕を執つて住居の前にある石橋まで伴れて來て、 それを渡つて邸宅の扉口《とぐち》に立つた。テスは全くの素足だつたので、それを石で傷《いた》め、 骨までも冷え凍えた。だが、クレアは、毛の靴下を穿いてゐて、特に氣持惡くも思つてゐないやうであつた。 もうこの後は何の面倒もなかつた。彼女は彼を誘つて、彼の寢椅子の寢臺へ靜かに寢せつけ、 蒲團を温かく着せ、彼の體から濕氣を乾かす爲めにちよつとの間煖爐に火を焚いた。 かうした心遣りから起きる物音で、ひよつと彼が目を覺しはすまいかと、彼女は思つた。 そして心|竊《ひそ》かにさうしてくれゝばよいとも願つた。けれども、彼の心身の疲勞は甚だしかつたので、 その熟睡を妨げられはしなかつた。 翌朝二人が會ふと直ぐに、テスはエンヂェルが、 たとひ靜かに寢てゐなかつたと彼自身のことに氣が付いてゐたかも知れないとはいへ、 前夜の夢遊歩行に彼女がどの程度まで關係してゐたかを、少しも、 いや全く知つてゐないといふことを見拔いた。實際、彼はその朝、 死んだも同じやうな深い睡眠から醒めた。そして、サムソン(「士師」記の中に出て來る強力の男。 眠つてゐる間に、怪力の元を、デリラといふ女に奪はれて、醒めて全く力がなくなつたといふ) が體を搖振つてゐるやうの、腦髓がその力試しをしてゐる初めの二三分の間に、 彼は朧ろげながら、異常な前夜の行爲《おこなひ》を想ひ出した。けれども、 彼の現在の立場に關する實際の事が、間もなく推理の力を他の問題の方へ移して行つた。 自分の心の標準を何か見定めようと、彼は心待ちに待つてゐた。前夜自分がかうしようと決したことが、 朝の光に會つても消されてしまはないとしたら、たとひそれが一時の感情に刺戟されて始まつたものとしても、 立派に理性に近い基礎の上に立つてゐるものであり、從つて、その點だけでは、 十分信頼の出來るものであるといふことを、彼は知つた。かうして彼は、蒼白い朝の光のうちに、 彼女と別れようといふ覺悟を見た。熱した、また、激した本能としてゞはなく、 その本能を燃え焦がした熱情をすつかり拔きにした、白骨となつて殘つてゐる骨には過ぎないが、 しかもそれだけ儼として存してゐる本能として、見たのであつた。クレアはもう躊躇しなかつた。 朝飯の時も、それから二人で僅かな殘りの品物を荷造りしてゐる間も、 はつきりそれと分るやうに、彼は、前夜の努力の爲めの疲勞を見せてゐたので、 テスはもう少しのところで昨夜あつた出來事を殘らず打ち明けてしまはうとした位ゐであつた。 けれども常識では認めてゐない彼女に對する愛情を、本能的にうつかり現はしたこと、 また理性が眠つてゐる間に、彼の本心が威嚴と妥協したことを知つたなら、 それは必ず彼を怒らし、悲しませ、愚弄させるに相違ないと思ひ返すと、 彼女は再び思ひ止つてしまつた。それは、人が素面《しらふ》でゐるときに、 その人の醉つてゐた間の失策を嘲笑するのと、餘りにもよく似通つてゐた。 若しかしたら、あの愛情を見せた醉狂な振舞ひを、微かながらも思ひ出したのかも知れない。 が、彼女がそれをきつかけにして、 行かずにいて下さいと新たに自分に訴へるやうな機會をつくるだらうといふ心から、 自然そのことんい言ひ及ぶのを彼は厭《いや》がつてゐるのではあるまいかといふ考へが、 ちらとまた彼女の心を掠めた。 彼は手紙で一番近くの町から乘物を呼んで置いた。で、朝飯がすむと間もなくそれはやつて來た。 それを見ると、彼女は、愈々最後が近付いた、少くとも一時的の最後 -- 前夜の出來事で、 彼に愛情のあることが分つたので、事によると、將來はまた彼と一緒になれるかも知れないといふ夢想を起したから -- が近付いたと思つた。荷物は馬車の屋根の上に積まれ、馬車は彼等を乘せて走り出した。 水車場の主人と手傳ひの老婆とは、この急な出立を見てやゝ驚いたらしい口吻《くちぶり》だつたが、 クレアは、水車の機械が自分の研究しようとする新式のものでないことが分つた爲めだと辨解した。 その點だけでは間違つてはゐなかつた。これ以外には、二人の出發の樣子に、失敗したのだといふこと、 或は一緒に家族のものを訪問に出掛けるのでないといふことを暗示するものは、何もなかつた。 二人の行く路は、二三日前、お互の胸にあれほど嚴《おごそ》かな歡喜を抱いて出掛けた搾乳場の近くを通つてゐた。 そしてクレアが、クリックと仕事のきまりをすつかり付けたがつてゐたので、テスもまた、 二人の不幸な現状に疑ひを抱かせまいとする限りは、どうしても彼と一緒に、 クリックの妻君に訪問の禮をすることを避けるわけには行かなかつた。 この訪問を出來るだけ表立てまいとして、二人は、街道から搾乳場へ通じてゐる小門の側で馬車を降りて、 並んで細道を徒歩で下つて行つた。ぼさ〜した絹柳は刈り取られてゐた。 そして二人には、その切株の向うに、クレアがテスを追つかけて是非妻になつてくれと迫つた場所が見えた。 左手には彼女がクレアの豎琴《ハープ》の音に魅せられた圍ひ地が、 また牛小舍の後に當つて遙かに遠く、二人が初めて抱擁した場面となつてゐた牧場が見えた。 夏の光景を塗つてゐた黄金色は、今は灰色になつて、色彩は褪せ、肥沃な土壤は泥土となり、 河流は冷たくなつてゐた。 搾乳場の主人は、屋敷の門越しに彼等を見つけると、新婚夫婦が再び顏を見せた際には、 タルボセイズやその附近では差支へないとされてゐる惡戲な笑ひを顏に浮べながら出て來た。 それからクリックの妻君が、家の中から現はれた。つゞいて昔馴染みの五六人も。 尤もマリアンとレッティは丁度其處に居合はさないやうであつた。 テスは、みんなの惡戲な攻撃や親しみのある冗談を勇ましく堪へた。けれどもそれはみんなが豫期したのとはずつと違つた意味で、 彼女の身にこたへた。二人の疎隔を祕密にして置かうといふ夫と妻との間の默契のうちに、 二人は飽くまで何事もなかつたやうに振舞つた。ところで、 その問題に就いては一語も言つて貰ひたくはなかつたのであるが、 テスはマリアンとレッティの話を細かに聽かされねばならなかつた。レッティは父の許へ歸つて行き、 マリアンは此處を出て他處《よそ》へ仕事を探しに行つた。彼女はそんな事をしても無駄だらうといふことだつた。 この話から受けた悒鬱《いういつ》を晴らす爲めに、テスは、 自分の氣に入りだつた乳牛の側へ行つて、一頭々々手で撫でゝやりながら別れを告げた。 そして彼女とクレアが、恰も身も心も融け合はさつてゐるかのやうに一緒に立ち竝んで別れを告げた時、 二人の樣子には、その眞相を見究めた人があるとすれば、その人は、 何か妙に痛ましいところのあるのに氣が付いたであらう。彼の腕は彼女の腕に觸れ、 彼女の下袴《スカート》は彼に觸れ、彼等の方に向つてゐる搾乳場の者全體を向うへ廻してゞもゐるやうに、 二人一緒にその方へ向つて、別れの言葉にも『私たち』といふ言葉を用ひ、 他眼《よそめ》には一つの生命の二枝とも見えたが、しかも、二人の間は南北兩極のやうに離れてゐたのである。 二人の態度には、若夫婦に有りがちな羞恥とは異つた、妙に窮屈な、もどかしいところが、また、 夫婦の親しみを表面に現はさうとするうちにも何處となくへまな樣子が、 多分見えたかも知れない。といふのは、二人が行つてしまふと、クリックの妻君は夫に向つてかう言つたからである -- 「あの娘《こ》の眼の冴え方といつたら何て可笑しいんだらう、 二人ともまるで蝋細工の人形のやうで、話といつたら、夢でも見てゐるやうな具合ぢやなかつたかね。 あんたはさうは思はなかつたかね?テスは平常《ふだん》から變つた所のある娘だつたけれど、 いまだに、すつかり立派なお方のつんとすまし込んだ若い花嫁といふ風ぢやないね。」 二人は再び馬車に乘り、ウェザベリイとスタッグ・フット・レインの方へ、街道を驅つて行き、 やがてレインに着くと、そこでクレアは馬車と馭者を歸した。此處で暫らく休んで谷間へ入ると、 今度は二人の關係を知らない見知らぬ男に彼女の郷里を指して馬車を驅けらせた。 ナットルベリイも通り過ぎて、四辻のある中間の所まで來ると、クレアは乘物を止め、 若し彼女が母親の許へ歸るつもりなら、此處で別れようとテスに言つた。 馭者のゐる前では、自由に話が出來なかつたから、彼は、 岐道の一つを徒歩で少しばかり一緒に歩いて來てくれないかと、彼女に訊ねた。彼女は承知した。 そこで馭者に、二三分待つてゐてくれと言ひ附けて、二人はぶら〜立ち去つた。 「ところで、お互ひに諒解し合ふやうにしようね、」と彼は優しく言つた。 「今、僕にはどうしても我慢し切れないものがあるにはあるけれども、 僕はその我慢しきれないものを我慢するやうに努めるつもりだ。僕が落着けるやうになつたら、 すぐ僕の住所を知らせるよ。そして、僕がそれを我慢出來るやうな氣持になつたら -- 若しそれが願はしく思へたら、また出來るやうだつたら -- 僕はお前のところへ戻つて來よう。 だが僕の來るまではお前の方から僕の方へ來ようとはしない方がいゝよ。」 嚴しいこの宣言は、テスには大きな傷手《いたで》らしかつた。彼女は彼が自分のことをどう思つてゐるかを十分はつきり知つた。 彼に對してひどい詐欺を働いた者だといふ見方から離れては、彼は彼女を見る事が出來なかつたのだ。 しかも、彼女のしたやうなことをした女に、かういふ一切の責を負ふだけの罪があるのであらうか? けれども、彼女はもうこれ以上この問題に就いて彼と爭ふことは出來なかつた。 彼にならつて、彼の言葉を繰り返すのみであつた。 「あなたが、私の方へおいでになるまで、私の方からあなたの方へ行かうとしてはいけないんですつて?」 「その通りだよ。」 「では、お手紙を上げるのはいゝでせうか?」 「あゝいゝよ -- 若し病氣だとか、或は何か不自由なことがあればね。無論、そんなことは、 無くてくれゝばいゝがね。だから、大抵は僕の方から先に書くことになるだらうよ。」 「私、すつかり承知しましたわ、エンヂェル。私がどういふ罰を受けなきやならないかつてことは、 あなたが一番よく御存じなんですから。たゞ -- たゞ -- その罰が、餘り酷すぎて、 とても私には耐へ切れないやうにだけはしないで下さいね。」 彼女がこの問題に觸れて言つたことは、それだけであつた。若しテスが手管を弄する女で、 寂しい小徑で一場の芝居を演じ、氣絶し、ヒステリカルに啜《すゝ》り泣いたとしたら、 彼は、頑固な潔癖に取り憑かれてゐたとはいへ、多分彼女に抗《さから》ふ譯には行かなかつたであらう。 が、彼女の辛抱強い氣持は、彼の行路を進み易くしてやつた。そして彼女こそは、 彼の二人とない勝《すぐ》れた辯護者であつた。誇りも屈從の中へ隱れてしまつた。 -- それは、 恐らくダアバァヴィル家の人々に見えすぎるくらゐはつきりした、 何事もその時任せにするといふ捨鉢の態度のあらはれであつたかも知れない -- そして、こちらから觸れゝば掻き鳴らすことが出來たかも知れない、 幾筋とも分らない強い心の琴線にも觸れないで、そのまゝにして置いた。 二人が交したその外の話は、實際的の事柄に關することばかりであつた。 彼は今、相當多額の金の入つた一封の包みを彼女に手渡した。それは、 渡す爲めに兼ねて銀行から引き出して置いたのであつた。 例の金剛石は、それに對するテスの所有權は彼女一代に限られてゐるやうだつた (その遺書の文面をよく解して見ると)ので、安全を期する爲めに、彼に銀行へ預けさしてくれるやうにと、 彼は忠告した。そこで彼女は喜んでこれに同意した。 かういふことまで定《きま》つたので、彼はテスと一緒に馬車まで戻り、手を執つて彼女を乘せてやつた。 馬車屋には賃金を支拂ひ、彼女の行く先も言ひ聞かせた。で、彼は自分のトランクと雨傘[、?] -- 此處へ携へて來た全部の品 -- を取り、彼女に暇《いとま》を告げた。二人は、いよ〜其處で別れる事になつた。 輕馬車《フライ》は丘の登つて行つた。クレアは、 テスが瞬間《ちよつと》でも窓から覗いてくれゝばいゝがと不圖《ふと》浮んだ希望を抱いて、 去つて行く馬車の後をぢつと見送つた。けれども彼女は車内に半分死んだ者のやうに氣を失つて横はつてゐて、 そんなことをしようなぞと少しも思つてゐなかつたし、また、さうしようとする氣力も無かつたに相違ない。 かうして、彼は彼女の去つて行くのを見送つた。そして胸が苦しい餘りに、或る詩人の一句 (ロバート・ブラウニング、一八一二 - 一八八九年のこと。原詩は「ピパは過ぐ」といふので、 その最後に句は、神天にゐます -- 世は凡て正し、といふのである)を、 勝手に竒妙な修正を施して、引用した -- 神天に在らず -- 世は凡て過《あやま》てり。 テスが丘陵《をか》の頂きを過ぎ去つてしまふと、彼は自分の進む方向に歩みを轉じた。 そして、彼は自分がまだ彼女を愛してゐるのだといふ事には、殆んど氣づいてゐなかつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十八 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- ブラックムーアの谷間へ入つて行き、少女の頃に見た風景が四邊《あたり》に展開して來るに連れ、 テスは、昏迷状態からひとりでに醒めて來た。彼女の最初の考へは、どうして兩親に顏が合されようか?といふことであつた。 彼女は、村の入口の街道に立つてゐる通行税取立門に着いた。 幾年となくそこの番人をしてゐて彼女を見知つてゐた老人ではなく、 全くの見知らぬ人が門を開けてくれた。あの老人は、多分、 かういふ勤め人の交代の行はれる一月一日に去つてしまつたのであらう。 最近郷里からは何の便りも得てゐなかつたので、彼女は、 その番人に何か變つたことでもないかと訊いて見た。 「あゝ、何んにもござんせんよ、姉さん、」と彼は答へた。 「マアロットは相變らずののマアロットでしてね、誰彼が死んだとか何んとかつてだけでな。 ジョン・ダアビフィールドは、今週、娘さんを或る百姓の旦那にかたづけやしたよ。 そりやジョンの家からぢやござんせんがね。何處か、他處《よそ》で祝言をしたらしいんでさあ。 その紳士てえなあ身分が高えんで、それに立ち會ふにやジョンの家族があんまり裕福でもねえつていふわけでしてね。 お婿樣アあのジョンが古い貴族の血統を引いてゐて、身代《しんだい》は羅馬の昔にみんな失《な》くしてしまつたが、 ちやんと今日までその一家のお寺の窖《あな》にや代々の遺骨が納つてゐるつていふことが分つたいきさつを、 知らねえでゐるらしいんでさあ。でもジョン閣下は、俺逹ア今|彼《あれ》をさう呼んでるんだがね、 身上《しんしやう》限りその祝言の日を祝ひましてな、村の衆一人殘らずに大饗應《おほふるまひ》をやりましたゞよ。 でジョンの上さんなんざあ、その晩ピュア・ドロップで十一時過ぎまで歌つてゐたやうな譯でさあ。」 これを聞いて、テスはひどく心が亂れ、荷物やいろ〜の所持品を持つて、 輕馬車で表向き我家《うち》へ歸つて行く決心がつきかねた。彼女は、 荷物をしばらく家に預つて貰ふわけに行かないかと番人に訊いて見ると、 別に差支へないといふ返事だつたので、馬車を返し、裏道を通つて獨りで村へ入つて行つた。 父の家の煙突を見ると、一體どういふ風にして家へ入つたものであらう?と彼女は自分自身に訊いて見た。 その百姓家の屋内《なか》では、彼女の身内の者が、 彼女を素敵な立派な身分に仕立てようとしてゐるかなりの金持の人と彼女とが、 遠い所へ新婚旅行に行つてゐると厚かましく想像してゐた。ところが今彼女は、 伴侶《つれ》もなく、全くの一人ぼつちで、世界中を探しても他に行くべきこれに勝る場所もなく、 この懷しい古い門へ忍び寄つて行くのであつた。 家へ着くまでに、彼女は、人目に觸れないではゐなかつた。丁度庭の生垣の所で、 彼女を知つてゐる娘 -- 仲の好い學校友逹であつた二三人の中の一人である -- に出會つてしまつた。 友逹は、テスがどうして歸つて來たのかと二言三言質問をしてから、 彼女の悲しさうな樣子に氣づかずに突然かう言つて話の腰を折つた -- 「それはさうと、あんたの旦那さんは何處にゐなさるの、テス?」 夫は用事の爲めに他處《よそ》へ行つてゐると、テスは急いで説明した。それから、 この話相手と別れて、庭の生垣を登り越えた。こんな具合にして彼女は、家の方へと向つて行つた。 庭の小徑傳ひに家に近づいて行くと、裏口の所で母親が閾の上で敷布を絞つてゐるのが分つた。 テスには氣が附かずにこれを濟ましてしまひ、母親は家に入つて行つた、そこで娘はその後に跟《つ》いた。 洗濯桶は舊《もと》の樽に載つて、同じ舊《もと》の場所に置かれてあつた。 そして母親は、今の敷布を傍へ投《はふ》り出して置いて、腕を新たにまた桶の中へ突つ込まうとしてゐた。 「おやまあ -- テス! -- お前 -- お前は結婚したものとばつかし思つてたんだに! -- 今度こそほんとにね、結婚したとばつかし -- 林檎酒《サイダー》を送つたんだが -- 」 「えゝ、お母さん。私、その通りなんですの。」 「これからしようといふんかい?」 「いゝえ、私、もう結婚しましたわ。」 「結婚した!ぢや、お前の御亭主は何處へゐるんだい?」 「あゝ、あの人は、ちよつとの間、他處《よそ》へ行つたの。」 「他處《よそ》へ行つたつて!ぢや、何時結婚したんだい?あのお前の言つてよこした日だつたのかい?」 「えゝ、火曜日にね、お母さん。」 「でも、今日はまだ土曜日ぢやないかい、それにもうその方は行つてしまつたんかい?」 「えゝ。行つてしまつたんですの。」 「そりやどういふわけなんだい?ほんとに、お前がいつでも見つけるやうなそんな御亭主なら、 くたばつちまつた方がいゝ!」 「お母さん!」テスは母親の側へ寄つて顏をその胸に埋めると、急に咽泣《むせびな》きに沈んでしまつた。 「お母さん、私、どうお話しゝていゝか、分りません!あの人に言つてはきえないつてあなたは言つてくれましたし、 お手紙にも書いて下さいました。ですけれど、私、あの人に話してしまつたんです -- どうにも仕方がなかつたんですもの -- で、あの人は行つてしまひましたの!」 「まあ、お前の馬鹿つたら -- お前の馬鹿つたら!」ダアビフィールドの女房は、 興奮のあまりテスにも自分にも水を撥ねかけながら、怒鳴り出した。 「何ていふこつたらう!私ア生き恥を晒して、こんなことまで言はなきやならないなんて! だが、もう一遍言はなくちやゐられない、お前の馬鹿つたら!」 テスは身を顫はして泣き入つた。幾日も〜の緊張が到頭弛んでしまつたからである。 「私、それは分つてゐます。 -- 分つてゐます -- 分つてゐます!」 啜泣きしながら、彼女は喘《あへ》ぐやうに言つた。 「でも、お母さん、私、隱しちやゐられなかつたんです!あの人は本當に優しくしてくれましたの -- ですから、往日《むかし》の事を隱して、あの人の眼を眩《くら》ますなんていふことは、 惡いことだと私思つたんですの!若し -- 若し -- もう一度やり返さなければならないとしても -- 私、矢つ張り同じことをするに違ひないんです。私には、どうしても出來なかつたんです -- する氣にはなれなかつたんです -- そんなひどい罪を -- あの人に對して犯すなんて -- 」 「だつて、お前、あの人と結婚したことが、もう罪を犯してるんぢやないかね!」 「さうです、さうです。それが私、悲しくつて仕方がないんです! でも、若しあの人がどうしてもあのことを赦して下さらない決心なら、 法律で立派に私を離縁することが出來るのだと、私、初めには思つてたんです。 そして、あゝ、お母さんが知つてさへくれたら -- 私があの人をどれ位ゐ愛してゐるかつてことを、 半分だけでも知つてくれたら -- 私がどれ程、あの人を夫にしたいと思つてゐたかつてことを -- そして、あの人をお慕ひする心と、どうかしてあの人に包み隱しなく仕向けたい願ひと、 この二つの間に挾まつて、どんなに、私が苦しい思ひをしたかつてことを!」 テスはひどく激動してしまつたので、この上言葉を續けることが出來なくなり、 どうにもならないものゝやうに、椅子に崩折れてしまつた。 「分つたよ、分つたよ、もう濟んだことは元へ歸りやしないさね! 本當に、私たちの育てる子供等に限つて、どうして他人《よそ》樣の子供のやうでなく、 どれもこれも揃つてぼんくらなんだらうね -- 分つてももうその時は後の祭でどうにもならないといふ時まで、 默つてゐればいゝものを、此方《こつち》から餘計なことを喋るやうな考へなしのことをするなんて!」 こゝでダアビフィールドの女房は、哀れな母親といふやうに自分の爲めに涙を澪《こぼ》し始めた。 「お父さんが聞いたら、何と言ふか知れたもんぢやないよ、」と母親は續けた。 「お父さんはあれからもう毎日のやうに、ロリヴァの家やピュア・ドロップで婚禮のことを觸れ廻つてゐるし、 お前のお蔭で我家《うち》も先づ、往日《むかし》の立派な地位に戻れようなんて言ひ歩いてるんだから -- 可哀さうに馬鹿な人つたら! -- それを今お前が目茶苦茶にしてしまつたんだよ! 本當に、困つたもんだ!」 恰も事件を或る焦點へ持ち來たすものゝやうに、その時テスの父親が近寄つて來るのが聞えた。 けれども彼は、すぐには入つて來なかつた。ダアビフィールドの女房は、テスを暫らくこの場を外させて置いて、 自分からこの凶報を彼に打ち明けようと言つた。先づ不意の失望に陷つた後で彼女は、 テスの始めての失策に對した時と同じやうに、今度のことを災難と考へた。 雨に降られた休日とか、馬鈴薯の不作にでも遭つた位ゐに考へた。 また手柄になるとか馬鹿を見るとかいふことに關係なく、彼等の上に落ちて來ること、 堪へられないこともないほんの外部の打撃に過ぎない事として考へるやうになつた。 だが一つの教訓としては、考へなかつた。 テスは二階へ退いた。そして、寢臺の位置も變り、新しい並べ方になつてゐるのが不圖《ふと》眼についた。 彼女の舊《もと》の寢臺は、末の二人の子供の爲めに用ひられてゐた。 今は、もう其處に彼女の寢る場所はなかつた。 階下の部屋には天上板が張つてゐなかつたので、其處で起つてゐる事は大抵聞くことが出來た。 やがて、父親が入つて來た。生きた鷄を一羽持つてゐるらしかつた。 二度目の馬も餘儀なく賣つてしまはなければならなかつたから、 今ではたゞの徒歩の行商人に過ぎず、籃を腕へかけて歩いてゐる有樣だつた。 この牝鷄は、いつもよくやるように今朝もまた、 自分は今働いてゐるのだといふことを人に見せる爲めに持ち歩かれてゐたが、 實はもう一時間以上も足を縛られて、ロリヴァの家のテーブルの下へ寢かされてゐたのだつた。 「つい今のさつき話があつたとこさ、その -- 」とダアビフィールドは始めた。 それから女房に向つて、娘が牧師の家へ嫁入りした事實が端緒《いとぐち》で、牧師のことに就いて酒場で始まつた議論を、 仔細に亙つて述べ立てた。「向うの家の者も、昔は俺の先祖逹みたやうに『閣下』と名乘つてゐたんだよ、」 と彼は言つた。「尤もこの頃ぢや、彼等《あれら》の肩書は本當いふとたゞ『牧師』といひだけなんだが。」 今度のことは、公けに世間へ知らしてくれな、とテスから頼まれてゐたから、 彼は詳しいことは言はなかつた。どうか娘が早くこの口止めを解いてくれゝばいゝ、 新夫婦はテスの本當の姓をその儘ダアバァヴィルと名乘るべきだ、御亭主の姓なんか名乘るよりもその方がずつといゝ、 なぞ續けざまに述べ立てゝ、今日娘から手紙でも來なかつたかと訊ねたりした。 そこでダアビフィールドの女房は、手紙は來てゐないが、不幸にもテス自身が來てゐることを話した。 終《つひ》に失敗の顛末が説明されると、ダアビフィールドには不思議な位ゐ陰氣な苦しみが生じて、 陽氣な酒の醉を抑へつけてしまつた。それでゐて事件の眞相は、それを第三者があれこれ推察して感じる程にも、 彼の敏感な感受性を動かしはしなかつた。 「今になつて、こんな成行きになつたと思ふと、」とジョン閣下は言つた。 「しかもこの俺にや、向うのキングスビアの寺院の下に、田舎紳士ジョラアドの麥酒《ビール》藏ほども大きい廟所がある。 俺の一族逹が、記録に載つてゐるものゝどれにも劣らねえ正銘のこの州の遺骨になつて、 ごつちやに寢てるんだ。それから、もう屹度、あのロリヴァやピュア・ドロップで、 連中がわしに何とか言ふだらうよ!横目を使ひながら、眼をまたゝかせながら、 どんなにか言ふだらうよ!『こりやお前樣のとこにしちや大した縁組だ。これでお前樣は、 ノルマン王時代のお前樣の御先祖逹と全く同じ位に歸つたわけだな!』なんて。 これぢやわしはとてもやり切れねえ。ジョン、わしや、いつそ死んぢめえてえ、爵位も何も一緒に -- わしにはもう我慢が出來ねえ!……だが、先方が娘に結婚したつていふからは、 どこまでも女房にして貰へるんだらうな?」 「そりや當りまへのことだよ。でもあの娘《こ》はさうして貰ふつもりなんかないらしいよ。」 「お前は、先方が本當にあの娘と結婚したと思ふかな? -- それとも矢張り、初めのやうなわけなんかな -- 」 可哀さうに、こゝまで聞いてゐたテスはこれ以上を聞くに堪へなかつた。 自分の言つた言葉が、此處でさへ、現に自分の兩親の家でさへ疑はれてゐるのだと知ると、 他のことではとても感じることの出來ない反感がこの場所に對して湧いて來た。 何といふ豫期しない運命の攻撃であらう!父でさへが幾分の疑ひを持つてゐるのに、 隣り近所の人々や知り合ひの人々が、どうして多くの疑ひを持たずにゐようか? あゝ、自分はもう我家《うち》にも永居は出來ない! 從つて、彼女はようやく二三日の滯在しか自分に許してゐなかつたが、 その終る頃になつて、 クレアから短い便りがあり、或る農園の視察に北部地方へ行つてゐるといふことを知らせて來た。 彼の妻として本當の華やかな地位を慕ふの餘り、また二人の間の疎隔の廣い間隙《へだゝり》を兩親から祕《かく》す爲めに、 彼女はこの手紙を利用して再び此處を出て行く理由とし、夫と一緒になる爲めに立つて行くのだといふ風に彼等に思ひ込ませた。 自分に對して不親切すぎるといふ非難からなほ一層夫を庇《かば》ふ爲め、 彼女はクレアから與へられた五十|磅《ポンド》のうちから二十五|磅《ポンド》を取り出し、 エンヂェル・クレアともいはれる者の妻には、それ位ゐの餘裕は十分にあるのだといふやうに、 その金を母に渡し、何年か前に、兩親へかけた心配や屈辱に對するほんの僅かな返禮だと言つた。 こんな風に自分の威嚴を見せて置いて、彼女は彼等に別れを告げた。その後ダアビフィールドの家庭は、 暫らくの間テスの贈物のお蔭で素晴らしい活氣を呈し、母親などは、若い夫婦の間に起つた不和は、 二人お互ひに別居してなどゐられないといふ強い感情に支配されて自然と取りのけられてしまつた、 と言つてゐたし、また實際に、信じてもゐた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:三十九 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 結婚してから三週間の後、クレアは、有名な父の牧師館へ通じてゐる丘道を下つてゐた。 下り道を行くに從つて、寺院の高い塔が、何故お前は歸つて來たのかと詰問でもするやうに夕暮の空に聳え立つてゐた。 黄昏《たそが》れた町では、誰一人彼に目を留める樣子はなかつた。 まして彼を待つてゐる風など尚更なかつた。彼は幽靈のやうに、近づいて行つた。 そして、自分の跫音《あしおと》さへも取り除けたい位ゐの邪魔物のやうに思はれた。 彼にとつては、人生の有樣は一變してしまつてゐた。彼はこれまで、 それをたゞ思索の上だけで知つてゐたに過ぎなかつたが、 今は實際の人間として分つて來たやうに思へた。實は、まだ〜分らないのかも知れなかつたが。 それにも拘らず、彼の前に立ち塞つた人生は、もう伊太利藝術の幽婉な姿で立つてゐるのではなく、 ウイアツ館(白耳義の歴史畫家ウイアツの爲めに、政府が建てた博物館)の睥睨し且つ不氣味な態度で、 またヴァン・ビアス(白耳義の畫家)の習作に見るやうな憎らしい横目をして立つてゐた。 この最初の幾週間かの間にとつた彼の行動こそ、實にいひやうのない出鱈目なものであつた。 古今の偉人聖賢が勸めた教へに從つて心を靜め、恰も何も變つた珍らしいことは起らなかつたかの如くに、 機械的に自分の農業上の計畫を遂行してみようと試みた後で、 彼はかういふ偉人聖賢の中でも、自分の教へが實際に效果があるかどうかを試す程に自己を超越してゐるものは、 殆んどないといふ結論に到逹した。『これこそ第一のものなり -- 心を亂すなかれ、』と異教の道徳學者は言つてゐる。 それは、まさしくクレア自身の意見であつた。けれども彼の心は亂れてゐた。 『汝等心を惱ますなかれ、また怖るゝなかれ。』かうナザレの人基督は言つてゐる。 クレアは心からこれに共鳴した。が、矢張り彼の胸は惱んでゐた。この二人の大思想家と面接し、 凡人が凡人に對する態度で熱心に彼等に訴へ、彼等の方法手段を話して貰ひたいと、 どれほど彼は希望したか知れなかつた! 彼の氣分は自づと頑固な無頓着に變り、終《つひ》には自分の生存を、 どうでも好いといふ局外者の利害觀に從つて看てゐるのだと思ふやうになつた。 かうした心の侘しさも、彼女がダアバァヴィル家の一人であるといふ偶然の出來事から湧いて來たのだと思ふと、 彼は愈々苦しい氣持にさせられた。テスは、あの力の盡きた古い血統から出た者で、 彼が愛はしく夢想してゐた下層の新しい種族から出たものではないといふことを知つた時、 自分の主義を忠實に守つて、何故彼は冷然と彼女を捨て去らなかつたらうか? これは彼の變節から起つたことであつた。だから、處罰は當然だつたのである。 次いで、彼は疲れもし、不安にもなつて來た。そして不安は次第に増して行つた。 彼女に對する處置が不當だつたのではあるまいか、と思ひ迷つた。 彼は覺えもなく食べ、味はふでもなく酒を飮んだ。時が過ぎて行くにつれ、 過去の日の永い連續の中の一々の行爲の動機が知らず識らずに彼の眼前に現はれて來るにつれ、 愛しいもちものとしてのテスを所有したい考へが、どれほど密接に、 すべての計畫や言葉や手段と混じ合つてゐたかに氣がついた。 彼方此方《あちらこちら》と歩き廻つてゐるうちに、小さい町の郊外に、 移住農業家の活動地として伯剌西爾《ブラジル》帝國にある大きな利益を並べ立てた赤や青の廣告に、 彼は眼を留めた。其處では、特別有利な條件で土地が提供されるといふことであつた。 伯剌西爾《ブラジル》は、新しい思ひつきとして多少彼の心を惹いた。 テスも結局は彼地《あちら》で一緒になることが出來ようし、また土地の状態といひ、 住民の思想といひ、習慣といひ、全く相反したあの國では、 テスとの同棲生活を此處では實行することが出來ないやうにさせてゐる因習も、 さほど力をもつてゐないかも知れない。簡單に言へば、 彼は伯剌西爾《ブラジル》を試して見ようといふ氣に強く傾いて行つた。 殊に、彼地《あちら》へ出かける時期が丁度間近に迫つてゐたから。 かう考へて兩親にこの計畫を打ち明けようと彼はエミンスタアへ歸つて行くところであつた。 それから、テスを伴つて來ないといふことに就いては、現在二人が疎隔してゐることを明かさない範圍で、 出來るだけよく説明しようと考へてゐた。門口《かどぐち》まで來ると、 新月が、腕に妻を抱いて河向うの修道僧逹の墓場へと運んで行つたあの夜明けに近い時刻に古月が照した時のやうに、 彼の面を照らした。けれども、今見る彼の顏はあの時よりも瘠《や》せ細つてゐた。 クレアは、この訪問のことを兩親へ豫《あらか》じめ申し送つては置かなかつた。 そこで、彼の到着は恰も魚狗《かはせみ》が潛《くゞ》つて靜かな池を騷がすやうに、 牧師館の靜かな空氣を亂した。父も母も客間にゐたが、兄たちはどちらも今は家にゐなかつた。 エンヂェルは中へ入つて、靜かに扉を閉めた。 「でも -- お嫁さんは何處にゐるんだね、エンヂェル?」と母親は叫んだ。 「まあほんとに吃驚したよ!」 「あれは母親の處にゐます -- 一時は。僕はちよつと、急いで歸つて來たんです。 伯剌西爾へ行かうと決心したもんですから。」 「伯剌西爾!だつて、彼地《あつち》の者は確かに羅馬舊徒《ローマン・カトリツク》ですよ!」 「さうでせうか?僕、そこまでは考へませんでした。」 けれども、彼が羅馬教の邦土《くに》へ出かけるといふことの物珍らしさや不安な氣持さへも、 息子の結婚に對する老夫婦の興味を長く押し除けて置く譯には行かなかつた。 「式を行つたといふ簡單なお前の手紙は、三週間前に受け取りましたよ、」とクレア夫人は言つた。 「それで、あの通りお前の名附親からの賜物を、お父さまからその娘に送つて上げたわけだよ。 無論のこと、こちらからは誰も立ち會はなかつた方がよかつたんでね。わけても、 先方の家は何處にあるとしても其處からではなく、搾乳場で結婚する方が望みだといふからね。 立ち會つてもお前には迷惑だつたらうし、私たちにしても少しも嬉しいことではなかつたでせうからね。 お前の兄たちはそのことを酷く氣にかけてゐたんですよ。もう濟んでしまつたことだから、 私たちは何とも苦情は言ひません。殊に、福音の使者とならうとするのでなく、 お前が自由に選んだ仕事にその娘が適してゐると言ふからにはね……それにしても、 私は第一にその娘を見たかつたんだよ、エンヂェル。でないまでも、 その娘のことをもう少し知りたかつたんだよ。私たちは、別に贈物としては何も送らなかつたが、 その娘に何が一番氣に入るか分らないものでね。でも、 たゞ遲れたゞけだといふことをお前は承知してゐてくれなければいけないよ。 エンヂェル、私にしろ、また、お父さまにしろ、今度の結婚に對しては別に怒つてなどゐるわけではないからね。 でも、私たちが直接その娘に會へる時までは、お前の家内が好きになるのを控へてゐた方がいゝと思つたんだよ。 それだのに、今お前は伴《つ》れてお出でぢやなかつた。變だね。何かあつたのかい?」 彼は、自分が此處へ來てゐるうち暫らくの間、彼女は實家の兩親の所へ行つてゐる方がいゝといふことに、 二人で相談したのだと答へた。 「實はかういふ積りなんですよ、お母さん、」と彼は言つた。「つまり、僕はかねて、 これならあなたのお氣に召すと僕の確信が出來るまでは此處からあれを遠ざけて置かうと思つたんです。 ですが、この伯剌西爾《ブラジル》行きを思ひついたのは極く最近のことです。若し行くにしても、 今度の僕の最初の渡航には、あれを伴《つ》れて行かない方がいゝだらうと思ひます。 僕の歸つて來るまで、あれは、母親の手許にゐることになりませうよ。」 「ぢや、お前が立つ前に、私はその娘に會ふわけに行かないのかい?」 或はさういふことになるかも知れないと彼は思つた。彼は初めからの計畫は、 先にも言つた通り、彼女を伴《つ》れて來る事を暫らく差し控へてゐようといふものであつた -- 兩親の偏見 -- 感情 -- を何れにせよ傷つけたくはなかつたから。 またその他にも理由があつて、この考へを守つて來たのであ。 今出かけて行つたにしても、一ヶ年以内には再び家へ歸つて來なければならないに相違ない、 だから二囘目に出發する -- 彼女と一緒に -- 時には、その前に是非とも彼女をお紹介《ひきあは》せしよう、 と彼は述べた。 大急ぎで調へられた晩餐が運び入れられた。そして、クレアは自分の計畫の説明を更に進めた。 花嫁に會へないといふ失望が、まだ母親の胸に依然として殘つてゐたが、 クレアがテスに對するあの結婚間際の熱情は、老夫人の母らしい同情にすつかり染み込んでしまつて、 到頭、良いものがナザレから出ることもあり得る -- 美しい娘がタルボセイズの搾乳場から出ることもあり得ようといふやうなことまで、 殆んど想像するやうになつた。彼が食べてゐる間中も、夫人はぢつと息子の樣子を見守つてゐた。 「お前その娘《こ》のことを口で説明することは出來ないかい? 屹度、大變に綺麗な娘《こ》なんだらうね、エンヂェル。」 「それはもう言ふまでもないことです!」と彼は問題の痛いところを蔽ひ隱す妙味を添へて、言つた。 「では、その娘は純潔で、貞淑なこともまた言ふまでもないことだらうね?」 「純潔で貞淑、無論さうですとも、あの娘は。」 「ほんとにはつきりとその娘が眼に見えますよ。お前はこの前かうお言ひだつたね。 姿が大變よくつて、圓々とした體格で、 キューピッドの弓のやうな線をした眞紅《まつか》なふくぶくしい唇をして、 睫毛《まつげ》と眉とは黒く、髮の毛は太く錨綱《いかりづな》のやうに房々とし、 菫と青と黒の色をしてゐる大きな眼をしてゐるつてね。」 「えゝ言ひました。お母さん。」 「もうすつかり眼の前に見えるよ。そして、そんな邊鄙《へんぴ》な土地に住んでゐたんだから、 自然お前に會ふまでは世間の若い男に殆んど一人も會つてゐないんだね。」 「えゝ、殆んど。」 「お前がその娘の初戀だつたんだね?」 「勿論です。」 「世間には、かういふ初心《うぶ》な眞紅な口をした頑丈な百姓娘などより、 もつとたちのよくない奧さんも澤山あるんだよ。 確かに、私はかう望むのが當然だつたわけだね -- ね、息子が農業家にならうといふのだから、 その嫁も戸外《おもて》の生活に慣れてゐなくちやならないつていふのは、 もう全く當然のことなんだからね。」 父親はこれ程問ひかけはしなかつた。 が、晩の祈祷の前に何時も讀むことになつてゐた聖書の一章を朗讀する時刻が來ると、 牧師は夫人に向つて言つた -- 「エンヂェルが來てゐるんだから、今夜は平常《ふだん》の朗讀の課目にしてゐる章よりは、 『箴言』の第三十一章を讀む方が適當だと思ふがどうかな?」 「えゝ、本當にさうしませう、」とクレア夫人は言つた。「レムエル王の言葉を、」 (これは「箴言」第三十一章の冐頭の詞)(夫同樣に夫人は聖書の章句を暗誦することが出來た。) 「ねえお前、お父さまは貞淑な妻を讚美してゐる『箴言』のあの章を讀んで下さることに決めましたよ。 言ふまでもなく、あの言葉は、今此處に居ない人に當てはまるものなんだよ。神樣、その女を何事によらず護り給へ!」 クレアは咽喉《のど》が詰るやうに思つた。持ち運びの出來る讀經臺が、片隅から取り出されて、 爐端《ろばた》の中程のところへ据ゑられた。年老いた二人の召使が入つて來た。 そこでエンヂェルの父は、前に言つた章の第十節を讀み始めた -- 「誰か賢き女を見出すことを得ん?その價は紅玉よりも遙かに貴ければなり。 未だ夜の明けぬに起き出で、家人に糧を賄ふ。力もて腰に帶し、その腕を強くすr。 彼女は商品の利潤あると知る。彼女の燈火は夜もすがら消えやらず。彼女はよく家政のことを省み、 怠惰のパンを食はず。その子等は起ちて彼女を祝す、夫もまたかくし、彼女を稱《たゝ》ふ。 多くの女子《むすめ》は賢くことを爲せど、汝は彼等の凡てに優れり。」 祈祷が終ると、母親は言つた -- 「私は只お前のお父さまがお讀みになつた章が、特に幾つかの點で、 お前の選んだ女に實によく當て嵌るやうに思はれてならないよ。 完全な女といふのは、ね、働く女のことなんだよ。怠け者とか、 綺麗な婦人とかのことではなく、自分の手や、頭腦や、胸を他人《 ひと》の爲めに役立てる女のことなんだよ。 『彼女の子等は起ちて彼女を祝し、夫もまたかくし、彼女を稱《たゝ》ふ。 多くの女子《むすめ》は賢くことを爲せど、汝は彼等の凡てに優れり。』 ねえ、私、本當にその娘に會つてゐたらと思ふんだよ、エンヂェル。 その娘は純潔で、貞淑な女だとお言ひなんだから、私にはもうそれだけで結構なんだよ。」 クレアはもうこの上これを堪へてゐることが出來なかつた。眼には涙が溜つた。 それは溶けた鉛の滴《したゝ》りのやうであつた。彼は、自分が心から愛してゐたこの誠實な、 單純な心の人逹に、急いでお寢みを言つた。この人たちは世間も、俗情も、 或は彼等自身の胸の中に潛んでゐる惡魔をも知らなかつた。それはたゞ漠然とした、 彼等には一向關係もないものとして感じられるのであつた。彼は自分の寢室へ退き下つて行つた。 母親は彼の後を追つた。そして彼の寢室の扉を叩いた。クレアが扉を開けると、 彼女は心配さうな眼付をして、戸の外に立つてゐた。 「エンヂェル、」と彼女は訊ねた。「お前こんなに早く離れて來てしまふなんて、 何かいけないことでもあつたのかい?どうも確かに、お前は平常のやうぢやないよ。」 「その通りです、全く、お母さん、」と彼は言つた。 「その娘《こ》のことでかね?ねえお前、私には分つてゐますよ -- その娘《こ》のことに就いてだといふことは分つてゐます!この三週間のうちに、 お前は喧嘩でもしたといふのかい?」 「いゝえ、喧嘩をしたつて譯ではないんです、」と彼は言つた。「ちよつと意見が合はなくつて -- 」 「エンヂェル -- その娘はこれまでの身の上を、調べられても別に差支へない者なんかい?」 母親の直感で、クレア老夫人は、息子の心を亂してゐるらしいやうな不安の根源《もと》になつてゐる心配事に、 これと圖星を指したのであつた。 「あの娘には一つだつて汚點《けがれ》なんかないんです!」と彼は答へた。 そして、直ぐにその場で永遠の地獄に投ぜられるとしても、その嘘を矢張り言つてゐるに相違ないと、 彼は感じた。 「それなら、他のことなどは氣に掛けない方がいゝよ。何と言つても、 少しの汚點《けがれ》もない田舍娘ほど清い者は世の中には滅多にないものだからね。 最初のうちは、相手よりも教育のあるお前の氣に障るやうな亂暴な擧動《ものごし》をしても、 お前と一緒にゐて、お前の仕込みを受けて行くうちには、屹度そんな事もなくなつて來るに違ひないからね。」 かういふ盲目的な寛大さが示してゐる怖ろしい皮肉は、今度の結婚で自分の出世をすつかり破壞してしまつたといふ、 第二義的な考へをクレアの胸に深く染み込ませた。この考へは、現實曝露のあつた後の、 彼の始めの考へのうちには決してなかつたのであつた。實際、自分の身が可愛さに、 自分の經驗などゝいふことに少しも重きを置いてゐた譯ではなかつたが、 兩親や兄たちの爲めに、境遇を少くとも相當なものにして置きたいと願つた。 そして、今ぢつと蝋燭の火を瞶《みつ》めてゐると、自分は分別のある人たちを照す爲めに出來てゐるので、 木偶漢《でくのぼう》や敗殘者の顏を照すのは大嫌ひだ、とその炎は無言の中に語つてゐた。 心の動搖が落着くと、時折、彼は兩親を騙さなければならぬやうな破目に自分を陷れたといふ理由で、 可哀さうな妻にひどく腹を立てることがあつた。激怒の餘り、彼女が恰も部屋にゐでもするかのやうに、 話しかける位ゐであつた。すると、なだめすかす悲しい媚びるやうな彼女の聲が闇を亂し、 彼女の唇の天鵝絨《びろうど》のやうな感觸が、彼の前額《ひたひ》の上を過ぎた。 そして彼女の呼吸の温かさを、部屋の中にはつきり感ずることが出來た。 その夜、彼が輕蔑して認めない女は、自分の夫がいかに偉くて、また善良でるかを考へてゐた。 が、この二人の上には、どちらにも、エンヂェル・クレアが認めてゐた影、 言ひかへれば、自分の弱點の影よりも深い影が蔽ひかゝつてゐた。 何處までも自分の考へでものを判斷しようと企てゝゐたにも拘らず、 最近二十五年來の標本的産物ともいふべきこの進歩した立派な志を有つた青年も、 一度不意を喰つて、その幼年時代の教訓に押し戻されると、矢張り、 習慣と因襲の奴隸になつてしまふのであつた。彼のこの若い妻とても、 罪惡を嫌惡する情を抱いて生れついてゐるどんな他の女にも劣らずレムエル王の賞讚を博するに相應《ふさは》しい者である。 何故かといへば、彼女の道徳的價値は行爲をもとにして計るべきものではなく、 傾向で計るべきものであるからだ、といふことを、どんな豫言者も彼に告げはしなかつたし、 また、彼もこれを自分に語り得る豫言者ではなかつた。のみならず、かういふ場合に、 手近の姿といふものは惡く見えるのが常である。それは、陰翳なしにその醜さを見せつけるからである。 ところが、遠く離れた茫然《ぼんやり》した姿は、離れてゐる爲めに、 それについてゐる汚點も藝術的な長所となつて崇められる。 眞實のテスならぬものを考へてゐるうちに、彼は眞實の彼女を見逃してしまつた。 そして、缺點あるものが、却つて完全無缺なものに勝ることがあり得るといふ事實を忘れてしまつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 朝飯のテーブルでは、伯剌西爾《ブラジル》が話題となつた。そして、 彼地《あちら》に移住して一年と經たないうちに歸つて來たといふ農業勞働者たちの悲觀すべき報告があつたにも拘らず、 みんなは、クレアの提案したその國の地質を實驗することを、つとめて有望だと解釋するやうにした。 朝飯後、クレアは此處の町で自分に關係のある細々したことに一切決りをつけ、 自分の所有である預金の全額を土地の銀行から引き出す爲めに、小さな町へ出かけて行つた。 歸りに彼は教會の側でマーシイ・チャント孃に出會つた。彼女はその教會の壁から、 ふはつと浮き出して來たものゝやうに見えた。腕には、自分の生徒たちに貸すバイブルを一ぱい抱へてゐた。 そして、他人に心の痛みを與へるやうな出來事は、自分には却つて幸福な微笑を齎すといふのが、 彼女の抱いてゐる人生觀であつた -- エンヂェルの意見に依ると、たとひそれは、 神祕教《ミステイシズム》の爲めに人情を不思議な位ゐ不自然に犧牲にして得た結果であるとはいふものゝ、 羨ましい考へ方である。 彼が今|英蘭《イングランド》を去らうとしてゐることを、彼女は聞き知つてゐた。 そして、本當に立派な、また、有望な計畫に思はれるとも言つた。 「えゝ、商業上の意味から言へば、先つ可なり好さゝうな計畫に相違ありませんがね、」と彼は答へた。 「ですが、マーシイさん、出掛けると、生存の絲がぽつきりと切れてしまひますよ。 修道院生活の方がまだ増しかも知れませんね。」 「修道院生活ですつて!まあ、エンヂェル・クレア!」 「どうしました?」 「だつて、あなたはお人が惡いわ、修道院生活つたら坊さんの事ぢやありませんか。 そして、坊さんといつたら羅馬舊教《ローマン・カトリシズム》のことになりませう。」 「それから、羅馬舊教は罪惡つてことに、罪惡は永遠の地獄つてことになりますね。 汝は眞に危きにあり、エンヂェル・クレアよ、ですか。」 「この私は、新教《プロテスタンテイズム》を誇りとしてゐます!」と彼女はきめつけた。 するとクレアは、たゞ〜苦しい不幸の爲めに、 人が自分の本當の主義をも輕蔑せずにはゐられなくなる惡魔のやうな氣持に投げ込まれて、 彼女を自分の近くへ呼び寄せて、考へ出せる限りの最も異端的な觀念を、惡魔らしく彼女の耳元に囁いた。 彼女の美しい顏に現はれた恐怖を見て、彼は急にから〜と笑つたが、 それも自分の幸福を思ふ苦惱や心配の情に浚《さら》はれて、忽ち消え去つてしまつた。 「ねえ、マーシイ、」と彼は言つた。「あなたは僕を赦してくれなくてはなりません。 僕は今氣が狂ひさうになつてゐるんです!」 全くさうだと、彼女は思つた。かうして二人は會つて又別れた。そして、クレアは再び牧師館へ入つて行つた。 彼はもつと幸福な日が湧いて來ることがあるなら、その時までと、あの寳石を土地の銀行家の手へ預けた。 彼はまた三十|磅《ポンド》ほど銀行へ拂ひ込んだ -- テスが入用だといへば、 それに應じて二三ヶ月以内に彼女へ送金する爲めであつた。 そしてブラックムーア盆地の兩親の許にゐる彼女へ宛てゝ彼の取りきめて置いたことを、 彼は手紙で通知した。この金額は、既に彼女の手に渡してある額 -- 約五十|磅《ポンド》 -- と合せれば、當分彼女の必要には十分であると彼は思つてゐた。 殊に火急の場合には、彼の父親の許へ言つて寄越すやうにと、彼女は既に言ひきかされてゐた。 彼は、兩親にテスの住所を知らせて彼女と文通などさせないやうにするのが最も得策だと考へた。 また二人が疎隔した本當の原因を知らなかつたので、父親も母親も、特に彼にさうせよとも言はなかつた。 彼は極《きま》りをつけるべきことは早く始末したいと考へてゐたから、その日のうちに、牧師館を立ち去つた。 英蘭《イングランド》のこの地方を去る最後の義務として、 彼は新婚の三日間をテスと共に暮したウェルブリッヂの百姓家を訪問しなければならなかつた。 つまり、少しばかりの家賃を支拂ひ、彼等が使つてゐた部屋の鍵を返し、 そして出立の際に殘して來た細々した二三の品物を取つて來なければならなかつたのである。 これまでに投げ掛けられたうちで一番深い影 -- その闇を彼の上に擴げたのは、この屋根の下であつた。 しかも、彼が居間の扉を開けて、その中を覗き込んだとき、 先づ最初に彼の心に甦つて來た記憶は、同じやうな午後に於ける幸福な二人の到着であつた。 一體となつて、一つの家に住むといふ最初の新鮮な感覺であつた。 初めて二人が一緒にした食事であつた。爐邊《ろばた》で手を握り合つて交はした無駄口であつた。 百姓夫婦は、彼が訪問したときには野良に出てゐた。そこでクレアは、 一人きりで暫らく部屋にゐた。彼の全く思ひ設けなかつた感情が、新たに胸に漲つて來たので、 彼は二階の彼女の寢室へ上つて行かずにはゐられなかつた。それは、 一度も彼の寢室になつたことはなかつた。寢臺は出發の朝彼女が親しく手を下して作つたまゝで、 綺麗になつてゐた。寄生樹《ミツスルトー》は、天蓋の下に彼が吊したまゝでかゝつてゐた。 三四週間も經つたのであるから、色は褪せかけ、葉や實には皺が出來てゐた。 エンヂェルはそれを取り下ろし、爐格子の中へ折り潰して投げ込んだ。其處に立つて、 彼は始めて、今度の危機に彼が執つた處置が、果して賢明なものであつたか、 まして寛大なものであつたかどうかと疑ひ出した。けれども、 慘酷なほどに自分は盲目になつてゐたのではなかつたか? 取りとめのないいろ〜の感情が胸に一杯湧いて來たので、 彼は眼を潤《うる》ませて寢臺の側へ跪いてしまつた。「おゝ、テス! も少し早く言つてくれさへしたら、僕は、お前を赦してやつたらうに、」と彼は悲しみに沈んだ。 階下で足音が聞えたので、彼は立ち上つて階段の上り口へ行つた。 梯子段の下に、彼は一人の女が立つてゐるのを見た。そして、その女が顏を上げたところを見ると、 それは色の蒼ざめた、黒い眼をした、イズ・ヒュウエットであることが分つた。 「クレアさん、」と彼女は言つた。「私、あなたと奧さんとをお訪《たづ》ねに上つたんです、 そして御機嫌はどうかとお伺ひしようと思つて、 多分あなた方は此方《こちら》へお歸りになつておいでのことゝ思つたものですから。」 これは、彼には大抵想像のついてゐる祕密を胸に抱いてゐるが、 先方では彼の祕密にまだ氣がつかずにゐる娘であつた。彼を愛してゐた正直な娘 -- テス位ゐに、 或は殆んど彼女に劣らない位ゐに、實際的な農夫の良妻にやがてはなれるかも知れない娘であつた。 「僕は今獨りきりで、此處へ來てゐるんだよ、」と彼は言つた。 「僕たちは今此處には棲んでゐないんだ。」自分が此處へ何しに來たかを説明した後で、彼は訊いた。 「何方《どちら》から歸るんだね、イズ?」 「私、今ではもうタルボセイズの搾乳場にはゐないのよ、」と彼女は言つた。 「それは一體どうした譯なんだね?」 イズは俯向《うつむ》いてしまつた。 「あすこはとても物淋しくつて仕方がなかつたんで、私到頭出てしまひました! 私今、此方《こつち》へ來てゐるんです。」彼女は正反對の方向を指した。 それは今彼がこれから行かうとしてゐる方向であつた。 「さうかい -- これから其方《そつち》へ行くのかい? 乘つて行きたいなら、一緒に伴れて行つて上げてもいゝよ。」 オリーヴ色の彼女の顏は、その色を増して來た。 「有難う、クレアさん、」と彼女は言つた。 彼は程なく農夫を見つけ、家賃の勘定と、不意にこの宿を立ち去つた爲めに、 考慮に入れなければならない二三の他の事柄をも片附けた。 クレアが馬車のところへ戻つて來ると、イズは彼の側へ跳び乘つた。 「僕はこれから英蘭《イングランド》を去るんだよ、イズ、」馬車を走らせながら、彼は言つた。 「伯剌西爾《ブラジル》へ行くつもりなんだ。」 「それで、奧さんもそんな遠方へ行くのを何とも思つてゐないんですか?」と彼女は訊ねた。 「あれは、今度は行かないんだよ -- まあ一年かそこらはね。 僕は視察に出掛けるんだよ -- 彼地《あちら》の生活状態がどんな風か調べる爲めにね。」 彼等はかなりの距離を東の方へ走つた。その間、イズは一言も言はなかつた。 「他の者はどうしてゐるかね?」と彼は訊いた。「レッティはどうしたかね?」 「この前私が會つた時には、何だか神經衰弱のやうな風でしたよ。そしてひどく痩せて、 頬かこけて、何だか肺病病みのやうでしたわ。 もうあの娘《こ》に戀をするやうな人はないでせうよ。」とイズは氣が拔けたやうに、言つた。 「それから、マリアンは?」 イズは聲を落した。 「マリアンはお酒飮みになりましたの。」 「眞實《ほんと》かい!」 「えゝ。搾乳場《ちゝば》から出されてしまつたんですよ。」 「そして君は!」」 「私、お酒も飮みませんし、肺病でもありませんわ。でも -- 私もう、 朝飯前に歌ふことなど出來なくなつてしまひましたわ!」 「どうしてさうなんだね? 朝の乳搾りの時に君の『キューピットの園の芝生でよ』や『仕立屋の股引』などの節廻しと來たら、 實に鮮かなもんだつたぢやないかね?」 「えゝ、さうでしたわ!あなたが初めてお出でになつた時分にはね。 でも、少し經つてからは、さうぢやなくなりましたわ。」 「どうしてさう止めてしまつたんだね?」 返事の代りに彼女の黒い眼が、ちらつと彼の面に向いて輝いた。 「イズ! -- 君は何故そんなに弱いんだね -- 僕のやうな者の爲めにさ!」と言つて、 彼は瞑想に沈んでしまつた。「それぢや -- 僕がかりに、君に結婚を申し込んだとしたらどうしたんだね?」 「若しさうでしたら私、『はい』と言つたんでせうよ。そして、 あなたも戀しがつてる女を妻となすつたことでせうよ!」 「本當かね!」 「えゝ、本當よ!」と熱心に彼女は囁いた。「まあ!あなたは、 今までそれを少しも察して下さらなかつたんですの?」 程なく彼等は或る村へ通ずる岐道の處へ着いた。 「私、降りなければなりませんわ。この向うに居りますから、」イズは、 自分の愛を告白してからずつと一言も口を利かないでゐたが、突然かう言つた。 クレアは馬を弛めた。彼は、社會の法則にひどく反感を抱いて、 自分の運命を呪はずにはゐられなかつた。それの爲めに正當な拔け道のない一隅へ押し込まれてしまつてゐたからである。 かうして罠に掛つたやうになつてゐながら道學的な因襲の笞《しもと》を甘んじて受けることなどはせず、 奔放に自分の將來の家庭を作つて、社會に復讐する事が出來ないといふ理窟もないとも思つた。 「僕は獨りきりで伯剌西爾《ブラジル》へ出かけるんだよ、イズ、」と彼は言つた。 「僕はね、渡航するといふ理由でなく、一身上の都合があつて妻とは別れたんだ。 もう二度とあれと同棲するやうなことは絶對にあるまいよ。僕は君を愛するわけには行かないかも知れないが -- あれの代りに、君、僕と一緒に行つてくれないかね?」 「あなたは本當に、私に行つて貰ひたいんですか?」 「本當だよ。僕も隨分ひどい目に會つたんだから、心を休めたいんだ。で、君は少くとも、 利害に關りなく僕を愛してくれるんだらう。」 「えゝ -- 私、行きますわ。」と、暫らく間を置いてからイズは言つた。 「行つてくれる?で、それがどんなことになるか、君には分つてゐるかね、イズ?」 「つまり、あなたが彼方《あちら》にゐらつしやる間だけ、私、 あなたと同棲することになるんでせう -- それで私、滿足なんですわ。」 「だが、覺えてゐて貰ひたいね、君は道徳といふ點でもう僕を信頼することは出來ないんだよ。 これだけは言つて置くがね、これは惡い行ひをすることになるんだし、 文明の眼から見ると -- つまりこの文明の眼から見るとね。」 「私、そんなことは關《かま》ひませんわ。女が苦しみの絶頂へ來ると、 そんなことは關はないもんですわ、またさうする他に仕方がありませんもの!」 「ぢや、降りずにそのまゝ掛けておいでよ。」 四辻を通り過ぎて、一哩二哩と、彼は格別愛情らしいものも見せないで馬車を驅つて行つた。 「君は本當に、大へん僕を愛してゐるのかね、イズ?」と、彼は突然訊ねた。 「えゝ -- 私、さつきもさうだつて申したでせう!搾乳場に一緒にゐる間中、 もうずつと戀しいと思つてゐましたわ!」 「テス以上に?」 彼女は首を振つた。 「いゝえ、」と彼女は呟いた。「あの人以上ではありませんわ。」 「どうして?」 「でも、誰だつてテス以上にあなたを愛することなんか出來ませんもの!……あの人は、 あなたの爲めなら命でも捨てたんでせう。私なんか、とても敵《かな》ひませんわ。」 ピオールの嶺の豫言者(バラクル[を]連れて、曠野に對するピオールの嶺に至つたバラームのこと)のやうに、 かうした場合に、イズ・ヒュウエットも出來ることなら意地惡い言ひ方をしたかつたのであらうが、 テスの性格が粗野な彼女の性質に働きかけた魅力は、彼女をしてどうしても讚辭を言はしめないではゐなかつた。 クレアは默つてゐた。かういふ豫期しなかつた、非難の出來ない方面から出たこの率直な言葉を聞くと、 彼の胸は躍つた。咽喉《のど》には何か啜り泣きが其處で凝結したとでも言つてよいものがあつた。 彼の耳は繰り返した。「あの人は、あなたの爲めなら命でも捨てたんでせう。私なんか、 とても敵《かな》ひませんわ!」 「今までのつまらない話は忘れておくれよ、イズ、」と突然彼は馬の向きを變へながら言つた。 「一體、僕は何を言つてゐたのか、さつぱり分らない!これから、 君の歸つて行く細道のところまで送り返して上げよう。」 「こんなにまであなたに正直にしたのに、まあ、そんな事になるんですか! あゝ -- 私どうして我慢が出來ませう -- そうして出來ませう -- そうして出來ませう!」 イズ・ヒュウエットは激しく泣き出した。そして、自分の爲たことがだん〜分つて來ると、 前額《ひたひ》を打《ぶ》つた。 「此處にゐない人に對してした今の少しばかりの善行を、君は悔いてゐるのかね? あゝ、イズ、折角の善行を、今悔んでだいなしにしてしまふもんぢやないよ!」 彼女は次第に鎭まつて來た。 「分りましたわ。私、何を言つてたんだか、夢中で分らなかつたんですわ -- 行きますわと承知したときには! 私は願つてゐたんですわ -- とても叶はない筈のことを!」 「僕にはもう、可愛い妻があるんだからね。」 「えゝ、さうですとも!おありなんですわ。」 半時間ばかり前に通つた細道の角のところに、彼等は着いた。そしてイズは馬車から跳ね降りた。 「イズ -- どうか、どうか、僕の一時の輕はずみは忘れておくれよ!」と彼は叫んだ。 「實際に無分別だつた、あんまり愚かだつた!」 「忘れろつて仰しやるの?どうして、どうして!おゝ私には決して輕はずみのことぢやなかつたんですわ!」 この傷ついた叫び聲が傳へる非難を、自分はどんなに十分受けなければならないかを感じ、 また言ひ現はし難い哀れさの餘りに、彼は馬車を跳び降りて彼女の手を執つた。 「うん、だがね、イズ、兎に角、仲よく別れようぢやないか? どれほどの苦しみを僕が堪へて來てゐるか、君は知らないんだよ!」 彼女は實際に寛容な娘だつたので、これ以上恨みを懷いて二人の別れを傷つけることはしなかつた。 「では、忘れて上げますわ!」と彼女は言つた。 「ところで、イズ、」彼女がまだ側に立つてゐるうちに、教訓者といふ心にもない立場を止むを得ず己を据ゑて、 彼は言つた。「マリアンに會つたら、どうか善良な婦女《をんな》になるやうに、 下らなく身を持ち崩すやうなことのないやうにつて、よく傳へて貰ひたいんだ。 それを約束しておくれよ。そしてレッティにはかう傳へておくれよ、 世間には僕などよりも、もつと立派な人間がゐるんだから、僕の爲めと思つて、 賢く、善良な行ひをしてくれなくてはいけないつてね -- この言葉を忘れないでね -- 賢く、善良なだよ -- 僕の爲めにね。死にかゝつてゐる者が同じく死にかゝつてゐる者に傳へるやうに、 僕はこの言葉をあの女たちに送るんだ、僕はもう二度と再びあの女たちに會ふことはあるまいからね。 で、君は、イッヂイ(イズの愛稱)、君は僕の妻の事に就いて言つた正直な言葉で、 痴行と不信へと向つた怪しい衝動から僕を救ひ上げてくれたんだよ。 女つてものは罪深いものかも知れないが、かういふことにかけては、 男ほど罪深いものぢやないね!たゞそのことだけでも、僕は決して君を忘れることは出來ないよ。 どうか、君もこれまで通り、善良な、誠實な娘であつておくれ。 そして愛人としての價値はなくても友逹としては忠實なものとして、 僕を思ひ出しておくれよ。さあ約束して。」 彼女はその約束をした。 「神樣があなたを祝福し、護つて下さるやうに祈りますわ。さやうなら!」 彼は馬車を驅つて行つてしまつた。けれどもイズは小徑へ曲り、 クレアの姿が見えなくなるとすぐ切り裂かれるやうな惱みに襲はれて、 土堤《どて》へ身を投げ出してしまつた。その晩遲くなつてから母の家へ入つたときの彼女の顏は、 疲れきつて、不自然な樣子を帶びてゐた。エンヂェル・クレアが彼女と別れ、 それから彼女が我家《うち》に歸り着くまでの眞暗な數時間を、 イズがどんな風に過したかは誰一人として知つた者はなかつた。 クレアもまたこの娘と別れを告げてから、胸には痛みを感じ、唇はわな〜顫はせてゐた。 けれども、彼の悲しみはイズの爲めにではなかつた。その夕方、彼はほんのちよつとで、 一番近くの停車場へ行く街道を捨てゝ、 テスの故郷と彼とを分つてゐる南ウェセックスの高い山の背を乘り越して行くところであつた。 彼を引き止めたものは、彼女の性質に對する侮蔑ではなく、また、 かうではないか知らと思はれる彼女の心持でもなかつた。 さうではなかつた。それは、イズの言つた事で確かめられた通り、 彼女に愛のあるこてや分つてゐても、あの事實は少しも變つてゐないといふ考へであつた。 若し彼が最初に正しかつたものなら、今も正しい筈である。 そして彼が乘り入れた潮流の勢ひは、今日の午後彼の上に働いたものよりはもつと強い、 もつと把握力のある力で心を轉じさせられない限り、依然として彼をその中に入れ、 押し流して行かうとしてゐた。歸らうと思へば何時でも直ぐに彼は彼女の許へ歸つて行けた。 その夜、彼は倫敦行きの列車に乘つた。そして五日後には、これから船に乘らうとする港で、 二人の兄と訣別の握手を交してゐた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 前に述べた冬の出來事から、今度はクレアとテスが別れて後、 八ヶ月を以上を經た十月の或る日へ急ぐことにしよう。テスは一變した境涯に入つてゐた。 彼女は箱やトランクを他の者に持たしてゐる花嫁ではなく、 まだ花嫁にならない以前のやうにバスケットや包みを自分で運んで行く寂しい女になつてゐた。 この試煉の間中、樂に生活が出來るようにと夫から十分な手當を與へられてゐたにも拘らず、 財布は次第に平たくなつて行くばかりであつた。 再び故郷のマアロットを去つて、春と夏の間中を、故郷からもまたタルボセイズからも同樣に遠く離れてゐる、 ブックムーアの盆地からは西の方に當るポート・ブレッディの近くにある搾乳場で、樂な、 主として臨時の仕事に雇はれてゐたから、彼女は、さほど體力を勞することもなく過して來た。 彼から手當を受けて生活するよりも、彼女にはこの方が好ましかつた。 心持の上では、彼女は、依然として全く悒鬱《いううつ》であつて、機械的の仕事は、 それを抑へるといふよりも却つて助長した。彼女の意識は、あの他の季節のあの他の搾乳場へ -- 彼女と顏を合はしてゐた優しい愛人の面前に行つてゐた -- 自分のものとしてしつかり捉まへた瞬間、 幻覺の中に現はれた姿のやうに消え失せてしまつた人の面前へ。 搾乳場の仕事は、牛乳の出方が減り出すまでしか續かなかつた。といふのは、 タルボセイズの時のやうな常雇ひの口には二度と出會はず、たゞ臨時雇ひとして勤めてゐたからであつた。 けれども、そろ〜畑の收穫が始まつてゐたから、彼女はたゞ牧場から畑へ移りさへすれば、 これから先も澤山仕事を見つけることが出來た。そしてこれは、收穫の終るまで續いた。 今までにかけた迷惑や費用の償ひとして、兩親へ贈つた五十|磅《ポンド》の半分を差し引いても、 クレアから受けた金額はまだ二十五|磅《ポンド》彼女の手許に殘つてゐたが、 それにはほんの少し手をつけてゐたゞけであつた。ところが、この頃は運惡く雨天續きなので、 その間、彼女は止むを得ず手許の金貨に頼らなければならなくなつた。 彼女は、それを手放すに忍びなかつた。エンヂェルが親しく自分の手に渡してくれたのであつた。 自分の爲めに光つた新しいそれらを彼の銀行から引き出したのであつた。 彼の手に觸れて聖《きよ》められたのであるから、いはゞ彼自身の形身《かたみ》であつた -- これらの金貨は、彼と彼女自身の經驗がつくつた歴史を除いてはまだ何の歴史も持つてゐないやうであつた -- だからこれを散らしてしまふのは遺品を捨てるやうなものであつた。 けれども彼女はどうしてもさうしなければならなかつた。そして、金貨は一つ〜彼女の手を離れて行つた。 彼女は自分の住所を、母親の許へ始終通知しなければならなかつた。が、その境遇は隱してゐた。 持ち合はせの金も殆んど盡き果てた頃、母親からの手紙が彼女の處へ屆いた。 目下非常に困つてゐる、秋雨が家の草屋根を洩るので、すつかり新たに葺き替へなければならないが、 この前の葺賃《ふきちん》がまだ拂つてないから、それをすることが出來ない。 桷《たるき》も新しくし、二階の天井も張り更《か》へなければならないが、 それと前の分の勘定とを合せると、二十|磅《ポンド》の金高になる。 お前の夫は資産のある方で、屹度今頃は戻つてもゐられるのであらうから、 この金をお前からどうかして送つてくれることは出來ないか?と彼女は言つて來た。 テスはもう直きに、エンヂェルの取引銀行から三十磅ほど送られることになつてゐた。 そして、如何にも氣の毒な場合であつたので、その金額を受け取るや否や、 要求された通りの二十磅を送金した。殘りの分は冬の衣類に費さなければならなかつたので、 目前に迫つた不順な季節中に備へるには、ほんの名目だけの金額が殘つたのみであつた。 到頭最後の一|磅《ポンド》がなくなつてしまつた時、この上また金の必要な場合には、 何時でも父のところへ依頼するやうにと言つたエンヂェル・クレアの言葉が、 彼女の考へに浮んで來て、どうしようかといふことになつた。 が、その手段を考へて見れば見る程、彼女はさうするのが厭になつた。 二人の仲違ひの状態が長引いてゐることを自分の兩親に隱すやうにさせたと同じ細心、自尊心、 間違つた羞恥、名稱は何であつても、兎に角さういふクレアの手間を兼ねての心遣ひが、 彼に十分な手當をして置いてくれたのに今また自分が困つてゐるなぞと彼の兩親のところへ言つてやる事を押し止めた。 彼等は多分もう自分を輕蔑してゐるに相違ない。それに物貰ひのやうなところを見せたら、 彼等は更にどんなにか自分を輕蔑することだらう!思案した結果、彼女は、 假りにも牧師家の嫁ともあらう者が、今の自分のやうな境遇をどうして舅へ知らすことが出來よう、と考へた。 夫の兩親と文通したくないといふ心持は、時間の經過と共に減じて行くやうに彼女は思つたが、 自分の兩親とは、丁度その反對になつた。結婚のすぐ後でちよつとの間行つてゐた兩親の家を出る際には、 娘は結局夫と一緒になるものとばかり兩親は思ひ込んでゐた。また、その時から今に至るまで、 彼女は、夫の伯剌西爾《ブラジル》行きも短い滯在で終り、程なく自分を伴れに歸つて來るか、 でなかつたら、一緒になるやうにととの知らせが彼から來るであらう、が、 何れにしてもお互の家族たちへ對し、また世間に對しては、 間もなく夫婦として顏が向けられることであらうと果敢《はか》ないことを無理に望んでゐたから、 娘は氣樂に夫の歸りを待つてゐるのだといふ兩親の信念を亂すやうなことは少しも爲てゐなかつた。 又その希望を彼女も尚ほ抱いてゐた。 最初の試みが失敗に終つたのを埋め合すに足るやうな大出來《エクラー》の結婚の後だといふのに、 兩親の困難を救つた爲めに、 自分は今生活をするのに我が手に頼つて行かなければならない捨てられた妻であることを彼等に知らすのは、 どうしても堪へ難いところであつた。 彼女は一揃ひの金剛石のことを思ひ出した。クレアがそれを何處に預けて置いたか彼女は知らなかつた。 また、たゞ用ひることが出來るだけで、賣り拂ふことが出來ないといふことが事實なら、 何處にあらうとそれは問題でなかつた。たとひ絶對に自分のものであるとして、 本質的には全く自分のものでなく、たゞ法律上の資格だけで自分の所有とするなぞといふことは、 如何にも卑しいことのやうに思はれた。 かうしてゐる間に、一方、彼女の夫が送つてゐる日々も決して試煉から放たれてゐるわけではなかつた。 伯剌西爾《ブラジル》政府から提出された條件と、英吉利の高地で耕作に從事してゐて、 その移り變りの中に生れついてゐるあらゆる天候に耐へて來た體質は、 伯剌西爾《ブラジル》の平原で不意に遭遇するあらゆる天候に、 等しく立派に耐へ得られることであらうといふ根柢のない空想の爲めに、 その頃|彼地《あちら》へ誘ひ込まれて行つたすべての英吉利の農業家や農業勞働者と同樣に大雨に濡れ、 その他の樣々な艱難にも苦しめられて、丁度この時分、 彼は伯剌西爾《ブラジル》のクリテイバに近い粘土質の土地で、熱病に犯されて病床に呻吟してゐたのであつた。 話はまた元へ戻る。かうして、テスの最後の金貨が使ひ果されてしまつた時、 彼女はそれを充たすべき他の分を當てがはれなかつた。一方ではまた、 季節の關係から仕事にありつくこtが愈々困難になつた。 才智や精力や健康や喜んで仕事をする氣持などは、どんな生活の方面でも、 さう澤山あるものではないといふことを知らなかつたから、 彼女は屋内の仕事を探さうとはしなかつた。都會や、大きな屋敷や、 金持で口先の巧い、また田舍風でない動作の人を恐れてゐた。 さういふ身分ある方面から例の心痛《ブラック・ケア》はやつて來たのであつた。 社會は、彼女がそれから得た僅かな經驗に基いて考へたよりも好いものかも知れない。 しかし彼女はこのことを明かにする證據を持つてゐなかつた。そして、 さういふ事情のうちにあつて、彼女の本能は、彼女にその周圍へ寄りつくことを避けさせた。 春と夏の間だけ、臨時雇ひの乳搾り女として勤めてゐたポート・ブレッデイの先の西の方にある小さな搾乳場では、 もう手傳ひは要らなかつた。たゞ同情にだけ縋《すが》れば、 タルボセイズでも彼女の爲めに空きを拵《こしら》へてはくれたであらうが、 其處で送つた生活がどれほど愉快であつたにせよ、彼女は今更歸つて行くことは出來なかつた。 打つて變つた身の上にはどうしても堪へ難かつたの相違ない。また彼女が歸つて行くといふことは、 折角崇拜されてゐる夫の上に非難を呼び起すことになるかも知れない。 彼等の憐愍《れんみん》、または彼女の妙な位置に對する彼等同志の囁きの言葉を、 彼女は我慢できなかつた。尤も、彼女の身の上のことが銘々の胸の中に離れ〜゛に宿つてゐる限り、 其處にゐる誰も彼もに自分の境遇を知られてゐたからといつて、彼女は殆んど恐れはしなかつたであらう。 彼女の敏感さをたぢろがしめたものは、自分に就いての考へを交換し合はされることであつた。 テスはこの區別を説明することが出來なかつた。たださう感ずるといふことを知つてゐるだけだつた。 彼女は今、この群の中央にある或る高地の農場をさして行くところであつた。 其處は、方々廻つた末に彼女の手に屆いたマリアンからの手紙で推薦されてゐた處であつた。 マリアンはテスが夫と別れてゐるといふことを、どうしてか聞き込んでゐた -- 多分、 イズ・ヒュウエットを通じてゞあらう -- そして、お人好しの、今は酒飮みになつてゐるこの娘は、 テスが困つてゐるだらうと思つたので、自分はあの搾乳場を出てからこの高地へ來てゐる、 そして此處で是非彼女に會ひたいものだ、彼女が元通りまた働いてゐるといふことが本當なら、 此處では他にも人手が要るやうである、といふことを、 急いで昔の友逹の許へ報知したのであつた。 日が短くなるにつれて、夫の赦しを得たいといふ希望がだん〜彼女から離れて行き始めた。 そして、一日毎に自分の數竒な過去から次第に遠のきながら、また自分の正體を晦《くら》ましながら、 また自分の所在が早速他の大切な人々の眼にとまつて、それが先方の幸福にはならないまでも、 自分の幸福となるかも知れない偶然の出來事とか、 或は不慮の事故とかには少しも意を用ひないで彼方此方《あつちこつち》と渡り歩いてゐる彼女の無反省な本能には、 何處か野獸の習癖とでもいふやうなものがあつた。 彼女が孤獨な地位にあつて、少なからず弱つたことは、自分の容貌、 生來の魅力に加ふるにクレアから受けた一種人並優れた氣品のある態度が、 人の注意を惹くことであつた。結婚の爲めに調へられた衣類の續いてゐるうちは、 かういふ好竒心から折々向けられる注視も、彼女には格別の不便を與へられなかつたが、 百姓女の外被《うはつぱり》を着けなければならなくなると直ぐ、 一度ならず亂暴な言葉を言ひかけられた。それでも十一月の或る日の午後までは、 別に危害が加へられようといふ怖れをまねくことは、何一つ起らなかつた。 彼女は、今行かうとしてゐる高地の農場よりも、 ブリット河から西に當る地方が好きであつた。それは、 一つにはその地方が夫の父親の家に一層近いからであつて、何時かは、牧師館を訪問しようといふ氣になつて、 人に氣づかれずにその邊《あた》りを彷徨《さまよ》ふことが出來るかも知れないといふ考へが、 彼女に喜びを與へずにはゐなかつた。しかし、一層高い乾燥した平地で働いて見ようと一旦決めたのであるから、 彼女は固く心を決めて東の方へ引き返し、チョオク・ニュートンの村をさして徒歩で進んで行つた。 そして其處で一夜を過す積りであつた。 小徑は長くて、變化がなかつた。それに、この頃の日はどん〜短くなるばかりであつたから、 氣がつかぬうちに、何時の間には黄昏は彼女の上に迫つて來た。彼女は或る丘の絶頂へ來た。 その下の方には小徑が長く蜿蜒《うね〜》と延びてゐるのがちら〜見えた。 丁度その時、背後に足音が聞えた。そしてしばらくするうちに、彼女は一人の男に追ひつかれた。 男はテスの側へ歩み寄つて、言つた -- 「姉さん、今晩は。」 その言葉に彼女は丁寧に挨拶した。 空に尚ほ漂つてゐる光が、彼女の頭を浮き上げてゐた。尤も周圍の景色は殆んど暗いと言つてよかつた。 男は振り向いて、ぢつと彼女を瞶《みつ》めた。 「おや、こりや確かに暫くトラントリッヂにゐた娘つ子に違えねえ -- ダアバァヴィルの若旦那のお氣に入りだつた?俺ア今ぢやゐねえが、あの頃アあすこにゐたんでね。」 この男は、彼女に粗野な口を利いたといふのでエンヂェルが宿屋で擲《なぐ》り倒したあの裕福な農夫であることが分つた。 ぎくりと苦痛が彼女の胸を刺した。そして彼女は何の返事もしなかつた。 「正直にさうだと言つてしまひなせよ、あの町で俺が言つたことは本當だつてね。 尤もお前さんのいゝ人はひどくむきになつてゐたがね -- どうだね -- 横着やさん? 考へて見りや、あの人の亂暴すたことを、お前さんは俺に詫びねえぢやなんねえぜ。」 まだ何の返事もテスからは出なかつた。追ひつめられた魂の逃場はたゞ一つしかないやうに思はれた。 彼女は、突然、後をも見ずに風のやうな速力で逃げ出して、道路を走りつゞけ、 到頭林へ通じてゐる門の處まで來た。彼女はこの中へ跳び込んだ。そして尚ほも休まず、 もうどんなことがあつても見つかる憂ひはないといふまでに、森の蔭へ深く入り込んだ。 足下には落陽が乾燥してゐた。そして落葉樹の間に生えてゐる柊《ひいらぎ》の籔の簇葉《むらは》が密生してゐて、 僅かな風をも通さない位ゐであつた。彼女は落葉を掻き集めて大きく積み上げ、 その眞ん中に巣のやうなものを拵《こしら》へた。やがてその中へテスは潛り込んだ。 彼女は其處で眠りについたが、それは自然、斷續的であつた。 彼女は何か妙な物音を聞いたやうに思つたが、それは微風の爲めに生じたものだと思ひ込んだ。 彼女は、自分が此處で寒さのうちにゐるに引きかへ、 何處かはつきりは分らない地球の向う側の暖かい氣候のうちにゐる夫の上を思つた。 この世に自分のやうな慘めな者が二人とあるだらうか?とテスは自分に訊ねた。 また、空費した自分の生涯を考へて、「何も彼も空だ、」と言つた。 彼女はこの言葉を機械的に繰り返して終《つひ》に、これは現代には最も不適切な考へだと思ひ返した。 ソロモンは二千年以上も前に、その點まではちやんと考へてゐた。 彼女自身は思想家の先頭に立つてゐるわけではないが、それよりももつと先まで考へを進めてゐた。 すべてがたゞ空に過ぎないとしたら、誰がそれを氣にかけよう?あゝ、何も彼も空以上に惡いのだ -- 不正、罰、強制、死である。エンヂェル・クレアの妻は、額に手を當てゝ、その曲線と、 柔かい皮膚の下にそれと感じられる眼窩《めあな》の縁に觸れて見た。そして、 さうしながらも彼女は、この骨の晒される時がやがては來るのであらうと考へた。 「それが今であつてくれゝばいゝんだけれど、」と彼女は言つた。 かうした氣紛れな空想に耽つてゐるうちに、彼女は葉蔭の間に、新たな妙な音を聞いた。 それは風かも知れない、が、風は殆んどなかつた。時には動悸のやうでもあり、 時には羽搏《はばた》きのやうでもあり、また時には喘ぎのやうでもあり、 どく〜と何か流れる音のやうでもあつた。間もなく彼女は、その物音が或る種の動物から來ることを確かめた。 それが頭上の枝の間に起り、續いて地上に重い體の落ちる音となつた時、 いよ〜それに相違ないと思つた。若し彼女が此處で別な、もつと快い状態の下に置かれてゐたとしたら、 彼女は吃驚したに相違ない。だが、もう人間らしい氣持をなくしてゐたので、 彼女は差し當り少しも怖がらなかつた。 終《つひ》に日光が空に射して來た。高い空で夜が明けてから暫らく經つて、 森の中へも朝がやつて來た。 世間の活動する時間を知らす間違ひのない平凡な光が強くなつて來ると、彼女は早速落葉の小山の下から匍ひ出して、 大膽に四邊《あたり》を見廻した。やがて彼女は、自分を絶えず邪魔してゐたものが何であつたかを悟つた。 彼女が一夜の宿とした植林は、丁度此處から急な坂となり、此方《こつち》側はそこで植林が盡きてゐて、 生垣の外側は耕地になつてゐた。樹蔭には數羽の雉子が仆《たふ》れてゐた。 その羽毛は、生血で濡れてゐた。死んでゐるのもあれば弱々しく翼をぴく〜させてゐるのもあり、 ぢつと空を瞶《みつ》めてゐるのもあれば長々と伸ばしてしまつてゐるものもあつた -- もうこの上自然の力では持ち堪へ得なくなつた爲めに、その夜のうちに苦しみを終つた仕合せなものを除いては、 彼等のすべては死の苦しみに悶えてゐた。 テスは、直ぐにこのわけを知つた。鳥は、前日何處かの遊獵團の爲めに、 この片隅へ追ひ込まれたのであつた。そして彈丸《たま》に當つて死んで落ちたものや、 または日の暮れないうちに死んでしまつたものは、見つかつて運び去られてしまつたが、 ひどく傷を受けた多くの鳥は逃げ延びて身を隱したり、或は枝の濃い繁みの中へ昇つて、 其處で辛うじて身を支へてゐる間に、終《つひ》にその夜のうちに出血の爲めに次第に弱り果てゝ、 昨夜彼女が耳にしたやうに、一羽また一羽と落ちてしまつたのであつた。 彼女は、幼い頃、折々かういふ人たちが、垣根越しに覗いたり、籔の中を窺つたり、 竒妙な身裝《みなり》をして、血に飢ゑた光をその眼に浮べて銃を向けてゐるのを見たことがあつた。 彼等は、丁度さういふ時だけは亂暴で且つ殘忍に見えるが、年中さうなのではなく、 實際、秋と冬の一定週間の外は、至つておとなしい人たちであるにも拘はらず、 その季節となるとマレイ半島の土人のやうに、無暗と駈け廻つて、生命を奪ふことを -- この場合では、ただ彼等のかういふ趣味 -- 自然の潤澤な一族中での一層弱い仲間に對して如何にも禮を失した、 また如何にも無慈悲な趣味 -- を滿足させる爲めに、人工的な手段で蕃殖させた無害な鳥の生命を奪ふこと -- を目的とするのだ、と彼女は聞かされてゐた。 同じ生物の惱んでゐるものに對しても自分自身に對すると同樣に感じ得る人の衝動に驅られて、 テスが最初に思ひついたのは、まだ生きてゐる鳥を、その苦悶から救つてやることであつた。 そして、この目的を果す爲めに、彼女は自分の手で見つかる限りの鳥の首を絞めてやり、 番人が二度目の搜索にやつて來るまで -- 多分やつて來るだらうから -- そのまゝ、 元の場所へ置いた。 「ほんとに可哀さうに -- お前たちのやうなこんな慘めな光景を眼の前に見て、 自分を世の中の一番慘めな者と思ふなんて!」と彼女は叫んだ。 優しく鳥を自分の手にかけながら、彼女は涙を流した。「そして、自分には一|抓《つね》りの體の痛みさへないのに! 自分は切りさいなまれてはゐない。また自分は血を流してもゐない、自分には、 口を糊し、着物を着るに二本の手がある。」彼女は、 大自然とは何んのかはりもない社會の勝手な法則の下に咎めを受けた、 といふ以外には、更に明らかな根據もない昨夜の悒鬱《いううつ》な考へに對して、 自分ながら恥かしいと思つた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- もう白晝《まひる》であつた。そこで彼女は用心しながら街道へ出て、再び出發した。 だが、近くには人影もなかつたから別に氣をつける必要もなかつた。テスは、きかぬ氣になつて進んで行つた。 苦悶の夜を默つて堪へた鳥逹の忍耐を思ひ出すと、悲しみが比較的なものであること、 また彼女の悲しみなどは、若し彼女が一度世人の思惑を輕蔑するだけの勇氣を振ひ起すことが出來さへすれば、 堪へ得られる性質のものであることを彼女は深く感じた。けれども、 クレアが世間並みの思惑を抱いてゐる限り、それを輕蔑すすことは出來なかつた。 彼女はチョーク・タウンへ着いて、或る旅亭《イン》で朝食をした。 其處に居合はせた數人の若者は、彼女の美貌を煩《うる》さく賞め立てた。 彼女は何となく張り合があるやうに思つた。といふのは、 彼女の夫もまた自分に向つてこれから先でも矢張りこれと同じことを言ふかも知れないといふ事實がないとは言へなかつたからである。 そんな場合がないとも限らないから、身を嗜《たしな》め、かういふ氣まぐれな戀人たちを避けなければならなかつた。 この目的に對して、彼女は自分の容姿の爲めにこれから先危險に陷るやうなことはすまいと決心した。 その村を出|外《はづ》れると直ぐ、テスは森の一番深い繁みへ入り、バスケットから一番古い野良着を一枚取り出した。 それは搾乳場でさへ身に着けたことはなかつた -- マアロットの畑で働いてゐた時以來身につけたことのないものであつた。 彼女はまた仕合はせと或る考へを思ひついて、包みの中から一枚のハンケチを取り出し、 丁度齒痛で惱んでゞもゐるかのやうに、頤と、頬を半分と、 顳[需|頁;#1-94-06]《こめかみ》とに被さるやうに顏を包み、帽子の下でそれを結んだ。 それから、今度は懷中鏡を使つて、小さな鋏《はさみ》で、容赦なく眉毛を剪《はさ》み取り、 かうして下心のある賞讚を受けないやうにして、そわ〜しながら進んで行つた。 「なんて變梃《へんてこ》な娘つ子だらう!」と次に出會つた男は、伴れの者に言つた。 この言葉を聞いた時、彼女は、自分の身がひどく憐れになつて、涙を眼に浮べないではゐられなかつた。 「でも、私は構はない!」と彼女は言つた。「あゝ、さうだ -- 私は構はない! エンヂェルは此處にゐやしないし、誰も私の面倒を見てくれる人はゐないんだもの。 私はこれから、何時も醜くしてゐよう。私の夫であつた人は行つてしまひ、 もう二度と再び私を愛してはくれないだらう。でも、私は前とちつとも變らずあの人を愛してゐる。 そして、他のすべての男を憎んでゐる。その男たちに私は嘲笑《わら》はせたいんだ!」 テスはかうしてなほ歩き續ける。周圍の景色の一部となつた姿 -- それは灰色のサーヂの肩衣、 赤い毛織の襟卷、色の褪せた粗い外被《うはつぱり》に蔽はれてゐる毛織の下袴《スカート》、 それから柔皮革《かは》の手袋といふ冬支度をした純潔なまた單純な一人の百姓娘の姿 -- であつた。 その古い衣服の絲といふ絲はすつかり雨に打たれて、陽に燒け、風に吹き晒されて、 色がさめ、弱くなつてゐた。彼女にはもう、若い熱情の現はれらしいものは何處にも見られなかつた -- 處女《をとめ》の口は冷たく …… …… …… 飾りなき襞《ひだ》に襞の重なり 彼女の頭《かうべ》を卷きて。 この外形は、知覺のない位ゐな、殆んど生命のない物へでも向けられるやうな眼付をして眺められたかも知れないが、 その内側には、その年齡にも似ず、浮世の無常や、淫慾の殘忍や、 愛の儚《はか》なさを知り過ぎるほど知つてゐる生々した生命の記録が潛んでゐた。 その翌日は天氣が惡かつたが、彼女は風雨といふ正直な、率直な、公平な敵には驚かないで、 重い足を運んで行つた。彼女の目標は、冬の仕事と冬の住家とであつたから、 一刻も猶豫してはゐられなかつた。臨時雇ひの仕事の經驗には懲りてゐたから、 もうこの上さういふ仕事を引き受けることは止さうと決心してゐた。 かうして彼女は農場から農場へと、マリアンが知らせて來た場所を指して進んだ。 豫《かね》て噂に聞いてゐる其處の仕事の嚴しさは、やつて見ようなどゝは全く思はないのであるが、 たゞ其處を、最後の手段として利用しようとは決心した。最初、彼女はもつと樂な仕事を求めてゐたが、 何の種類を問はず、さうしふ仕事にありつける望みがなくなつて來たので、 次にはもう少し樂でなくてもよい仕事を求め、到頭、自分の最も好きな搾乳場や養鷄場の世話を手始めとして、 最後には、ちつとも好きでない、面倒な下等な職業 -- 耕作地の仕事、 今まで全く進んで志したこともないやうな仕事に從ふやうになつた。 二日目の夕方になつて、彼女は、半圓球の古墳を抱いて -- まるで乳房の女神シビリ(希臘神話にある女神)が仰向けになつて臥《ね》てゞもゐるかの如く -- 女神の生れ出た谷と、女神の戀人である谷との間に擴がつてゐる高く低く起伏してゐる白亞の大地、 つまり高原へ逹した。 此處は空氣が乾燥してゐて冷たく、長い車道は雨後二三時間もすれば風で眞白に乾いて、 埃りが立つた。樹木は極く稀で、いや全然ないといつてもよかつた。普通なら生垣の中で生長しさうなのが、 樹木や、籔や、叢《くさむら》などの本來の敵である小作人の爲めに、 山櫨《さんざし》と一緒に垣の中へむごく折撓《をりこ》められてしまふからである。 行手に中央に、バルバロオとネットルコム・タウトの絶頂が見えて、何れも懷しく思はれた。 彼女がまだ幼い頃、向う側のブラック・ムーアから接したときは、 空高く聳え立つた城砦《じやうさい》のやうに見えたが、この高地から見ると、低い、 おとなしい樣子を帶びてゐた。南の方には、幾哩も先の方に、また海岸の方へ向つて丘陵や山の背を越えて、 彼女は磨きをかけた鋼鐵のやうな表面を認めることが出來た。それは英國海峽で、 遠く彿蘭西の方へ突き出てゐる一角であつた。 彼女の前の、幾らか低くなつた處に、或る村落が名殘をとゞめてゐた。 彼女は、實際にマリアンの逗留してゐるフリントコム・アッシに到着したのであつた。 かうなるより外どうにも仕方がないやうに思はれた。此處へ來るやうになつたのが彼女の運命であつた。 彼女の周圍にある耕しにくい地質を見たゞけでも、此處で人手を求めてゐる勞働の種類が、 一番荒いものであるこtが、はつきり分つた。けれども、 今は仕事を探し歩くことを控へなければならない時であつた。 彼女は、雨さへ降り始めたので、わけても此處へ留まることに決めた。村の入口に、 破風の往來へ突き出てゐる百姓家が一軒あつた。そこで彼女は一夜の宿を求める前に、 先づその軒の下に立つて、夕暮の色の迫つて來るのを眺めた。 「私が、エンヂェル・クレア夫人だなぞと誰が思ふことだらう!」彼女は言つた。 壁が背中や肩に温く感じられた。そして彼女は破風の直ぐ背後の内側が此家《こゝ》の爐になつてゐて、 その熱が煉瓦を通して來るのだといふことを知つた。彼女は、それに兩手をあてゝ温め、また頬 -- 雨滴の爲めに紅くなり、濕つてゐる -- をも、その心地の好い表面へ押し當てた。 壁だけが今の彼女には、たゞ一人の友逹であるやうに思へた。彼女は其處から離れる氣が少しもしないで、 此處でなら終夜でも過せる位ゐに思つた。 テスはこの農家に住んでゐる人々 -- 一日の勞働を終へて、一緒に集つて -- 室内で互ひに話し合つてゐるのを聞いた。 それから夕食の皿のがちや〜いふ音も聞いた。けれども村の道には、まだ人一人見えなかつた。 この靜けさは、やがて一人の女の姿の近付いて來るのに破られた。その女は、 寒い晩であるにも拘らず、夏の更紗の上衣を着、目蔽《めかくし》つきの帽子を被つてゐた。 テスは直覺的に、それがマリアンではないかしら、と思つた。そして、 薄闇の中にはつきりと見分けのつくまで近づいて來たのを見ると、正しく彼女であつた。 マリアンは、以前よりも丈夫になり、顏の血色もずつと優れてゐるやうであつた。 そして身裝《みなり》は、際立つて以前よりも見窄《みすぼ》らしかつた。 これまでゞあつたなら、どんな時でもかういふ有樣で昔のまじはりを温めようなぞとは、 テスは殆んど思はなかつたであらう。が、彼女は極端に孤獨であつたので、 マリアンの挨拶に喜んで應じた。 マリアンは丁寧にいろ〜のことを質問した。けれども、 テスが最初の時よりもちつとも好い境遇になつてゐないことを知つて、 大へん心を動かしたやうであつた。尤も別居のことは、彼女も薄々聞いてゐた。 「テス -- クレアの奧さん -- 可愛いあの方の、可愛い奧さん!それで、本當にこんなに酷いの、あんた? 可愛らしい顏を、どうしてそんなに結《ゆは》へて置くの?誰かゞあなたを打つたの? まさかあの方ぢやないでせう?」 「いゝえ、いゝえ、いゝえ!私たゞ煩《うる》さく言ひ寄られないやうにさうしただけなの、マリアン。」 かういふ亂暴な聯想を起させる繃帶が、むかつくほど嫌になつたので、彼女は取り除けてしまつた。 「それに襟《カラー》がついてゐないのね。」(テスは搾乳場にゐた時分始終小さい襟を着けてゐたのだつた。) 「えゝさうなの、マリアン。」 「途中で失くしたんでせう。」 「失くしたんぢやないの。實はね、私、もう見えなんかどうだつて構はないから、着けなかつたの。」 「それにあんた、結婚の指環も嵌めてゐないのね?」 「いゝえ、嵌めてゐるわ。だけど内證でよ。リボンで頸へ下げてゐるのよ。 私、結婚してどういふ身分になつてゐるか、また、第一結婚してゐるつてことを、他人《 ひと》に知られたくないの。 今のやうな生活をしてゐる間は、知られると大へん極《きま》りの惡い思ひをしなければならないから。」 マリアンは暫らく默つてゐた。 「でもあんたは紳士の奧さんぢやありませんか、こんな暮しをするなんて、どうしたつて當り前とは思はれないわ!」 「いゝえ、當り前よ、全く當り前よ。私は大へん不幸には相違ないけれど。」 「だつて、まあ、あの方があんたと結婚して -- それであんたが不幸だなんて?」 「妻つていふものは時には不幸なことがあるものよ。夫の罪からではなく -- 全く自分たちの罪でね。」 「あんたに罪なんかある譯がないわ、ねえあんた。確かに私、さう思ふわ。それに、 あの方にだつてありやしないでせう。だから、何かあんた方お二人とは關係のないことから起つたに違ひないと思ふわ。」 「マリアン、ねえ、マリアン、何も訊かないで、私の力になつてくれない? 夫《うち》は今外國へ行つてるし、私、うつかりして頂いた手當も使ひ過してしまつたの。 だから暫くの間、前のやうに働かなくちやならないのよ。私をクレアの奧さんなんて呼ばないで、 前の通りテスと讀んでよ。此處では人手が要るんでせうか?」 「要りますとも。此處へ來ようといふ者なんかないから、人は何時でも要るのよ。 こゝは瘠地《やせち》で、麥と蕪菁《かぶら》位ゐしかとれないのよ。 私だからゐられるけれど、あんたのやうな人には、お氣の毒だわ。」 「だつて、あんたゞつて私と變らない立派な乳搾り女だつたぢやないの。」 「ええ。でも私、お酒を飮み出してから、その方は止めちやつたの。 あゝ、今ぢや私の樂しみつていふと、たゞお酒だけよ!あんたが雇はれゝば、 屹度|蕪菁《かぶら》掘りをやらされますよ。私が今やつてゐるのはそれなの。 でも、あんたにはそんな仕事なんか、好きになれやしないわ。」 「あゝ -- どんなことだつて!あんた、私に代つてお願ひして見てくれない?」 「あんたが自分で話した方が却つていゝと思ふわ。」 「さう。ではね、マリアン、覺えてゝね -- 若し私が雇はれたとしたら、 あの人のことは何んにも言つてくれないようにね。あの人の名を汚したくないから。」 テスにくらべると、マリアンは粗野ではあつたが、心から信頼の出來る娘であつたので、 頼まれたことは何でも約束を守つた。 「今夜勘定日なの、」とマリアンは言つた。「私に從いて來ると、すぐ樣子がわかるわ。 あんたが幸福でないなんて、本當にお氣の毒に思ふわ。それといふのも、あの方がゐないかれでせう、ね。 あの方さへ此處にゐれば、不仕合せなわけはないでせう、たとひお金なんかあんたに呉れないでもね -- たとひ奴隸みたいに扱はれたつてね。」 「本當にさうね。不仕合せなわけはないんだけど!」 二人は一緒に歩いて行つて、間もなく、殆んどものすごいくらゐに寂しい一軒の農家へ着いた。 見渡す限り一本の樹木もなかつた。一樣に撓《たわ》められた低い生垣で仕切をされた廣い野の中には、 時節柄一つの緑の牧場もなかつた -- 到る處、休閑地と蕪菁《かぶら》ばかりであつた。 テスは、勞働者の一團が給金を受取つてしまふまで、その農家の扉口の外で待つてゐた。 するとやがて、マリアンが彼女を紹介した、當の主人の農夫は不在のやうだつたが、 今夜彼の代理をしてゐた妻君は、テスが舊暦告知節(告知節は三月二十五日)まで居るといふ契約をしたので、 彼女を雇ふことに少しも異議を挾《さしはさ》まなかつた。女で野良仕事をしようといふものは、 今は極く稀れにしかなかつた。それに、給金は安いのだから、 男手と同じ程度に女手で捗取《はかど》らせることの出來る仕事には、都合がよかつた。 契約書に署名が濟むと、宿を定《き》める外には、差し當つて、テスにはすることがなかつた。 そして、先刻《さつき》、破風のある壁で體を暖めた、あの家に室を見つけることが出來た。 彼女の得た生計の道は、つまらぬものではあつたが、兎に角、この冬を凌ぐ場所だけは出來たのである。 その夜彼女は、夫のところから萬一マアロットへ手紙が屆きでもしたらと思つて、 兩親の許へ新しい宿所を書き送つた。けれども、自分の境遇が慘めであることは言つてやらなかつた -- 言つてやれば、夫が惡口を言はれることになるかも知れなかつたから。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- フリントコム・アッシの農場を瘠地《やせち》だと言つたマリアンの解釋には、少しの誇張もなかつた。 この土地でたゞ一つ肥えたものといつては、マリアンだけであつた。しかも、そのマリアンは輸入品であつた。 地主が世話をしてゐる村、村だけでやつてゐる村、それから村だけでやつて行くわけでもなく、 また地主の世話にもならない村(言葉を換へて言へば在住地主の小作人たちの村、不動産世襲享有者、 また地上權所有者の村、土地を貸して地代を取る在外地主の村)と三種類ある村のうちで、 このフリントコム・アッシといふ土地は、その第三種の村であつた。 だが、テスは仕事に取りかゝつた。身體《からだ》の臆病と精神上の勇氣とを混ぜ合はせたともいへる忍耐は、 今ではもうエンヂェル・クレア夫人の小さい特徴ではない、彼女のたよるべき綱であつた。 彼女とその仲間とが掘りにかゝつてゐた蕪菁《かぶら》の畑は、 石ころの多い白亞質の傾斜地になつてゐる農場中でも一番高い土地に一續きに擴がつてゐる百エイカア餘りもある地面であつた -- それは球形、尖形、又は陰莖形の、ばら〜に散在してゐる、白い、無數の燧石《ひうちいし》から成る白亞層の、 硅質地脈の露出地であつた。蕪菁《かぶら》の上半は、一つ殘らず家畜の爲めに食ひ取られてしまつてゐた。 で、その下半、つまり土中の部分を、これもまた食べられるやうに、 鶴嘴《ハツカア》といふ鉤形になつた叉で掘り拔くのがこの二人の女の仕事であつた。 その野菜の葉といふ葉は、もう殘らず食ひつくされてしまつてゐたから、 畑一面は荒涼とした褐色を呈してゐた。それは、恰も頤から前額へかけて、 たゞ皮膚のひろがり過ぎない顏のやうに、目鼻立ちのない表情をしてゐた。 空も、色こそ異《ちが》ふが同じ表情をした眞白な虚空といつた顏付をしてゐた。 それで、かうして二つの上と下との顏は、終日互ひに面を向け合つてゐた。 白い面は褐色《とびいろ》の面を見下し、褐色の面は白い面を見上げ、兩方の間には、 前者の表面を蠅のやうに這つてゐる二人の娘の外には、何んにも遮ぎるものがなかつた。 誰一人として、二人の近くへ來るものはなかつた。二人の動作は、 機械的にきまりきつてゐたが、その姿は粗布製の『上衣』 -- 袖つきの褐色の前掛が、 着物を風に飜へさせないやうに、後で結びつけてある -- に包まれて、短い下袴《スカート》は、 踝《くるぶし》の上まで屆いてゐる深靴を現はし、そして籠手《こて》つきの、 黄色い羊の皮の手袋を手にはめてゐる。埀れつきの頭巾を冠つてゐるので屈んだ頭に侘びしい感じを添へ、 看るものに、初期の或る伊太利畫家の二人マリヤに關する着想を思ひ出させるやうなものであつた。 (二人マリヤとは、キリストの磔刑の際、居合せたマリヤ・マグダレーナと、クレオフアスの妻、マリアとをいふ) 彼等は周圍の風景の中に、自分たちが淋しい姿を描き出してゐることにこ氣づかず、また自分たちの運命が、 正當なのか不正當なのかといふやうなことは考へもせずに、始終働き通した。 彼等のやうなかういふ境遇に在つてさへ夢を描いて生きて行くことは出來た。 午後になるとまた雨が降り出して來たのだ、マリアンはもう仕事はしなくてもいゝと言つた。 が、働かなければ賃金が貰へないので、二人はなほ仕事を續けた。 この畑は非常に高い處にあつた爲めに、雨は決して直下することがなく、吹き荒れる風に乘じて、 横なぐりに走り、硝子の破片《かけら》のやうになつて二人を突き刺すので、 すつかりづぶ濡れになつてしまつた。テスは今まで、それが一體どんなものなのかを、 實際には知らなかつた。濡れるといふにもいろ〜程度がある。そして普通に言ふづぶ濡れは、 ほんのちよつと濡れたことを指すに過ぎない。だが、畑で仕事をしながらぢつと立ち續け、 先づ最初は兩足、兩肩に、次には腰と頭とに、それから背中に、胸に、兩側に、 雨水の這り込んで來るのを感じながら、それでもなほ働き續け、やがて、 鉛のやうな鈍い光が薄らいで、陽の沈んだことを知らせるまで止つてゐるには、 明らかに幾らかの苦行をする氣持、いや勇氣をさへ必要とする。 でも二人は、はたから思ふほど濡れるのを氣にしなかつた。 二人とも若かつたし、タルボセイズの搾乳場で、共に住み、 共に戀をした當時の事を飽かず語り合つてゐた。あの樂しい青々とした土地、其處では、 夏がその惠みを惜しげもなく與へてくれた。つまり事實からいへば、誰にも一樣に、 感情の上では、この二人に。テスは、實際はさうでないにしても、 法律上では自分の夫である人のことをマリアンと話し合ふのを厭《いや》がつてゐたやうであるが、 その話題の強い魅力につひ引き込まれて、マリアンの言葉に應答《うけこた》へさへするやうになつた。 かうして、前にも述べたやうに、帽子の濡れたたれは烈しく顏をたゝき、 上衣はうるさく體に絡みついたが、彼等はこの晝からをずつと、青々した、日に輝いた、 夢のやうなタルボセイズの思ひ出に耽つて暮した。 「晴れた時は、フルウムの盆地から二三哩より離れてゐない丘が此處から微《かす》かに見えるのよ、」 とマリアンは言つた。「あら!見える?」とテスは、この土地の新しい取柄を見付けて答へた。 かうして、此處でも他の處と同樣に享樂しようとする生來の意志と、享樂を妨げやうとする外界の意志と、 二つの力が働いてゐた。マリアンの意志は、午後の時間が次第に經つて行くと、 白い襤褸《ぼろ》で栓をした一パイント瓶《ボツトル》をポケットから取り出して、力づける方法を心得てゐた。 彼女はその瓶から飮むやうにとテスにも薦めた。だが、他の助けを借りないですむテスの空想力は、 差し當り、空想の世界を描き出すのに十分であつたから、彼女はほんの形ばかりに啜つただけで辭退した。 それから、マリアン自身はその酒を一あふりあふつた。 「私、もう癖になつちやつた、」と彼女は言つた。「だからもう廢《や》められないのよ、 私にはこれだけが樂しみなの -- さうでせう、私、あの人を失《な》くしたんですもの -- あなたは失くしはしなかつた、だから、屹度こんな物なんかなくつたつて濟むんでせう。」 テスは自分の失つたものを、マリアンの失つたものと同樣大きいと思つてゐたが、 少くとも名義だけでも、エンヂェルの妻であるといふ氣持に動かされて、 マリアンの立てた區別を受け容れないではゐなかつた。 かういふ光景の中にあつて、テスは、朝は霜を踏み、午後は雨に濡れながら、奴隸のやうに働いた。 蕪菁《かぶら》掘りをしない時には、蕪菁の手入れをするのであつた。その方の仕事では、 鉈鎌《なたがま》で土と細根《ほそね》とを削り取つて、根を後で用ひられるやうに貯藏するのであつた。 この仕事の時は、二人は若し雨が降れば、草葺《くさぶき》の疎籬《すがき》の傍へ雨宿りすることが出來たけれども、 若し霜でも酷い時であると、厚い皮の手袋でさへ彼等の扱ふ凍てた塊りの爲めに、指が凍えるのを防ぐ譯には行かなかつた。 それでもなほ、テスは希望を捨てなかつた。クレアの性格の主なる特色であると彼女が固く信じてゐる寛大さは、 晩《おそ》かれ早かれ彼を自分に結びつけるやうにしてくれるであらう、といふ信念を、彼女は持つてゐた。 酒で巫山戲《ふざけ》氣分になつたマリアンは、前に言つた竒妙な形の燧石《ひうちいし》を見つけ出しては、 きやつ〜と笑ひ立てるのであつたが、テスは何處までも眞面目に知らない風をしてゐた。 彼女等は、ヴェール又はフルウムの盆地が、人の知つてゐるやうに延びてゐる地方を、 たとひ見えないにしても、時々見渡さずにはゐられなかつた。そして、灰色の霞の蔽ひ被さつた邊りを、 ぢつと見詰めながら、其處で過した過去の日を追想するのであつた。 「あゝ」とマリアンは言つた。「昔の仲間があと一人か二人此處へ來たら、私、 どんなに嬉しいだらう!さうしたら毎日タルボセイズをこの畑へ持つて來ちまつて、 あの方のことや、私たちがすこで送つた樂しい時のことや、 それから私たちのよく知つてゐた古いことなどを話し合つて、言はゞ何もかも皆引き戻すことが出來るのに!」 マリアンの眼は潤《うる》み、過去の幻影が戻つて來るにつれ、聲も次第にぼんやりして來た。 「イズ・ヒュウエットの所へ手紙をやつて見よう、」と彼女は言つた。 「あの娘《こ》は今何もしないで生家《うち》にゐるんですよ。だから、 私たちの此處にゐることを知らして、此方《こちら》へ來るやうに言つてやつてみませう。 それから、レッティももう快《よ》くなつてゐると思ふわ。」 テスはこの申し出に少しも反對しなかつた。 そして以前のタルボセイズの歡喜《よろこび》を輸入しようといふこの計畫に就いて、 次に彼女が聞いたのは、二三日後のことであつたが、 マリアンはイズが自分の問ひ合せに對して都合がつけば來ると返事して來たことを告げた。 何年にもなかつたやうな冬が來た。それは將棋客《しやうぎさし》の動作のやうに、 ひそやかな、しかも定まつた足並をしてやつて來た。或る朝のこと、二三本の寂しく立つてゐる樹や生垣の刺《とげ》は、 恰も植物性の外皮を動物性のものに脱ぎ換へたやうに見えた。枝といふ枝は、悉くその夜のうちに、 樹の皮から生えた毛のやうな、眞白い毛皮で蔽はれ、常の四倍もの太さになつてゐた。 周圍にある籔や樹木は皆、空と地平線の陰鬱な灰色の上に眞白な線で描かれた、目立つた寫生畫のやうに見えた。 蜘蛛の巣は、かういふ結晶力のある大氣に依つて明白にさせられるまでは、誰も氣がつかなかつた、 物置小舍や壁の上にその所在を現はし、離れ屋や、柱や門などの突出してゐるところから、 白い毛絲の環《たま》のやうになつて下つてゐた。 かういふ濕氣の氷結する季節がすぎると、その後には、乾燥した霜の時期が來た。 それと同時に、北極の方からは不思議な鳥の群が、フリントコム・アッシの高原へ、靜かに來始めた。 それは、痩せこけた物凄い生物で、悲しい眼をしてゐた -- それは未だ人間の想像も及ばない、 到底寄りつけもしない廣大な極地で、人間にはとても堪へ得られない凝結的な氣候の中で、 天地激變の恐ろしい光景を目撃して來た眼であつた。それは又、極光星から射す光の爲めに、 氷河の碎ける樣や、雪山の滑り落ちる樣を見、大暴風雨や、水陸狂亂の急轉で半ば盲目にされ、 かういふ背景が生んだ表情を失はずにゐる眼であつた。名もないかういふ鳥の群は、 テスとマリアンとの直ぐ近くへ來たが、人間に到底見ることの出來ない、 彼等が見て來た光景に就いては、ちつとも説明しなかつた。自分の見聞を人に語らうといふ旅行家の野心は、 彼等にはなかつた。そして默りこくつた冷靜さで、自分逹には何の價値もないいろ〜の經驗を捨て去つて、 この瘠せた高地の眼前の出來事を求めた -- これ等の訪問客たちが食料として賞味する何や彼やを掘り出す爲めに、 鶴嘴《ハツカア》を持つて土塊を掻きまはしてゐる、二人の娘のこせ〜とした動作に心を配つた。 それから、或る日特殊なものがこの立樹のない地方の空氣に侵入して來た。 雨を含んだでもない濕氣と霜にならうといふでもない寒さがやつて來た。 それは二人の眼球をぴり〜するほど冷たくし、前額に痛みを與へ、骨にまで浸み透り、 かうして體の表面よりはその芯に働きかけた。雪になるんだtいふことを彼女等は知つた。 そして、その夜のうちに雪は降り出した。テスは相變らず暖かい破風があつて、 その側に立ち止る淋しい旅人を元氣づける百姓屋に泊つてゐたが、夜中に眼を覺ますと、草葺屋根の上に騷々しい物音を聞いた。 それは屋根が、すつかり風といふ風の競技場に變つたことを知らせるやうに思はれた。 朝になつてラムプを點けて起きて見ると、彼女は窓の割れ目から、雪が、内側へ向つて、 それは實に細かな雪粉が、眞白な圓錐形をなし、又煙突を傳はつて吹き込んで來ることに氣がついた。 そんな風でもう雪は床の上に靴底が埋まる位ゐの深さに積つてゐた。彼女が其處らを歩き廻ると、 靴跡が殘るのであつた。戸外では、吹雪が臺所に雪霧を作り出すほど、烈しく吹き荒《すさ》んでゐた。 けれども、戸外はまだ暗くつて、何んにも見ることが出來なかつた。 テスは蕪菁《かぶら》掘りを續けることは到底出來ないと知つた。 小さな寂しいラムプの傍で朝食を濟ましたところへマリアンがやつて來て、 天候の變るまでは、他の女たちは加はつて納屋で麥扱《むぎこ》きをすることになつたと知らせた。 戸外の一樣な闇の衣が、だらしのない灰色の雜色に變り始めると、 早速二人はラムプを消して各自《めい〜》持ち合せの一番厚い頭巾にくるまり、毛絲の頸卷を頸に卷きつけ、 胸の上で合はせ、そして納屋へ出かけた。雪は白い雲の柱となつて、北極の盆地から鳥の群の後を追つて來たのである。 で、一つ〜の雪片は見えなかつた。暴風は、氷山や、北極の海や、鯨や、白熊の匂ひを漂はし、雪を運びはするが、 地上に深く積らさずにたゞその上を掠めるだけであつた。二人は體を斜めにして、眞綿のやうな畑の中を通つて、 出來るだけ生垣の蔭に寄り添ひ、やつとの思ひで歩いて行つた。だがその生垣も、 風を防ぐ衝立《ついたて》といふよりは、風を漉《こ》さす篩《ふるひ》の役しかしなかつた。 空氣は、それを苦しめる數限りない白いものゝ爲めに蒼白になるまで痛めつけられてゐながらも、 矢鱈に雪を捩《ひね》つたり、振り廻したりして、宛《さなが》ら渾沌とした無色の世界を示してゐるやうに見えた。 だが、この二人の若い女は、可なり元氣だつた。 乾燥した高地のかういふ天候は元々人の氣を挫《くじ》くやうなものではなかつた。 「はあ -- はあ!あの悧巧な北國の鳥は、天氣がかうなるのを知つてゐたんですよ、」と、マリアンは言つた。 「確かに、あの鳥は、北極星からずつとそのお先觸れをしに來たのよ。あんたの旦那さんはね、 屹度今頃は、始終、焦げつくやうなお天氣にあつてるんですよ。本當にまあ、今といふ今、 綺麗な奧さんの顏を見さして上げられたらね!このお天氣で、あんたの縹緻がちつとでも惡くなるわけぢやないし -- 本當よ、却つてよくなる位ゐだわ。」 「私に、あの人のことを言はないで下さいね、マリアン」とテスは嚴しく言つた。 「えゝ、でも、 -- 屹度、あんたはその話が好きなんぢやない?さうでせう?」 それには答へずに、テスは眼に涙を浮べながら、衝動的に南亞米利加と想像される方向へ顏を向け、 そして唇を突き出して、吹雪に向つて熱い〜接吻を送つた。 「さう、さう、さうだつてこと私には分つてるわ。でも本當に、夫婦にしてはへんな暮し方だわねえ! さあ -- もうひと言だつて言はないわ!それで、お天氣のことね、麥小屋にゐれば、 格別體に障るやうなことはないのよ。でも、麥扱《むぎこき》つてことは骨の折れる仕事だわ -- 蕪菁《かぶら》掘りよりもつとつらいのよ。私、頑丈だから堪へられるけれど、 あんたは私より華奢だからね。一體どうしてあんたをこんな仕事に向けたのか、 私、主人の氣が知れないことよ。」 二人は納屋へ着いて中へ入つて行つた。長い建物の一隅は、麥で一ぱいだつた。 中央は麥扱場になつてゐて、其處には晝の間女逹が扱《こ》くだけの十分な麥の束が、 前夜のうちにちやんと麥扱きの機械に入れてあつた。 「あら、イズが來てゐるよ!」とマリアンは言つた。 果してイズだつた。そして彼女逹の前へやつて來た。イズは前の日の午後、 母親の家から此處までずつと歩き通して來たのだつた。そしてこれほど遠くないと思つてゐたので、 遲くなつてしまつたが、それでも丁度雪の降り出す前に着いて、居酒屋に泊つた。 農場の主人は、若し彼女が今日來るならば、雇つても可いと、彼女の母親と市場で既に契約してゐたのであつた。 それで、彼女は遲くなつて彼を失望させはすまいかと、心配してゐた。 テスとマリアンとイズの他に、隣村から來てゐる女が二人ゐた。この二人が、 スペイドの女王の色の黒いカアとその妹のダイヤの女王 -- トラントリッヂで夜中の喧嘩の折、 自分と爭はうとした、女武者の姉妹だと憶ひ出して、テスははつとした。 二人は彼女にちつとも氣づいた樣子を見せなかつた。實際に覺えてゐないのかも知れなかつた。 といふのは、あの折には、二人は酒に醉つてゐたのだつたし、此處でも同樣に、 彼地《あつち》でもほんの一時の滯在者に過ぎなかつたからである。彼等は自ら進んで男の仕事を、 例へば、井戸掘、垣結び、溝掘、それから掘割、道路工事と、何でもやつて、少しも疲勞を感じなかつた。 彼等は麥扱人としてもまた腕利《うできゝ》であつた。それで何處か高慢な態度で他の三人を眺め廻してゐた。 手袋をはめると、一同は麥扱き機械の前に一列に並んで、仕事に取り掛つた。 その機械は、横梁《よこはり》で聯結してある二本の柱から出來てゐて、横梁の下へ今扱《こ》かうといふ麥束が、 穗先を外側の方へ出して置かれ、横梁は左右の柱へ釘を刺して留めてあり、 麥束が減るに從つて徐々に下《おろ》して行くやうになつてゐた。 光線が空から下の方へ射して來るのでなく、地上の雪から上へ向つて、 納屋の戸口から射し込んで來るのであるから、明るみははつきりして來た。 娘たちは、その機械から一掴みづゝ次ゞと扱《こ》いて行つた。だが、 絶えず世間のよくない噂話を繰り返してゐる見知らぬ女たちがゐる爲めに、マリアンもイズも、 最初は、思ふ存分に過去の思ひ出話をすることが出來なかつた。間もなく、 ぐす〜と雪の上をふむ馬の足音が聞えて來た。農夫が戸口へ馬を乘りつけたのであつた。 彼は馬から降りると、テスのすぐ側へ寄つて來て、ぢつと彼女の横顏を眺め入つた。 彼女は最初振り向かずにゐたが、彼が餘り瞶《みつ》めてゐるので、 つひ振り返つてしまつた。その時、彼女は、自分の雇主が、彼女の過去のことを仄めかしたので、 街道を逃げて追ひつかれまいとした、あのトラントリッヂの土地の者であることに、氣がついた。 彼は、彼女が扱《こ》き終つた束を、戸外の積み重ねた所へ運んでしまふまで待つてゐたが、 それが終ると、彼は言つた。 「矢つ張りお前は俺の親切を無にして、あんなに腹を立てた娘だな? お前が雇はれたと聞いた時、俺《おら》直ぐ屹度お前に違えねえと思つたんだ! それが分らねえ位ゐなら、お目にやかゝらねえや!なあ、初めお前の良い人とあの宿屋にゐた時も、 二度目にあの街道でお前が迯げて行つた時もお前は俺を甘くしてやつたと思つたらうが、 今度は俺の方が、お前をしてやつたやうだぜ、」と彼は冷酷な笑ひ聲を立てゝ、話を結んだ。 テスは、女武者と農夫との間に、まるで鳥網に捕へられた小鳥のやうに挾まれて、 何とも答へないで麥藁を引き續けてゐた。テスは今では人の性格が十分讀めるやうになつてゐたので、 雇い主が優しい言葉をかけても、何んにも怖れるには及ばないことを知つてゐた。 心配なのは寧ろ、クレアにあんな風に扱はれて屈辱を受けてゐるから、恨みに思つて、 彼女を虐待しはすまいかといふことであつた。概していふと、 彼女は男からさういふ感情を以て接しられた方が言ひ寄られるよりもましだつた。 またそれに十分耐へられるだけの勇氣があると思つた。 「お前は、俺が惚れてゞもゐると思つてゐるんだらう?世間には男からちよいと目を向けられると、 何でも彼でも眞劍に取るやうな馬鹿な女があるもんだよ。だが、 若《わけ》え女《あま》つちよの頭からそんな馬鹿げた考へを拔き出してやるにや一冬畑ん中で働かしてやる位ゐいゝことアねえんだ。 で、お前は告知節の時までの契約の署名も濟んでゐるんだ。さあ、俺に詫び言を言ふかね?」 「あなたこそ、私に詫びなきやならないと思ひますわ。」 「そんなら宣いよ -- どうとも勝手だ。だが、此處ぢやアどつちが主人か見てみることにしよう。 あの束が今日お前の濟した全部かな?」 「さうです。」 「おそろしく見榮えがしねえな。あの娘たちがやつたあれをちよつと見なよ。」 (二人の頑丈な女の方を指しながら)「他の者だつても、お前よりや餘つ程成績がいゝぜ。」 「あの人たちは前から習つてゐたんですけれど、私はやつたことがないんですもの。 それに、請取《うけとり》仕事で、私たちはしたゞけの仕事の分しか勘定は貰へないんですから、 あんたにかゝはりはあるまいと思ひますわ。」 「おや、ところが、あるんだよ。こつちは納屋を早く片付けちまひたいんだから。」 「他の方たちのやうに二時にしまはないで、私は晝過ぎずつと仕事を通しませう。」 彼は、不機嫌さうに彼女の方を見て、出て行つた。テスはこれ以上間の惡い場所はあるまいと思はれるほど、 ひどい所へ來たものだと思つた。しかし、男に言ひ寄られるよりはまだましであつた。 二時になると、本職の麥扱連は各々の細口壜に殘つてゐる最後の半パイントのビールを呷《あふ》つてしまひ、 鉤を其處へ置いて、最後の束を結《ゆは》へ、それから出て行つた。 マリアンとイズもさうする積りでゐたのであつたが、テスが他の者より長く働いて、 自分の不馴れを補ふ爲めに、居殘らうとしてゐるのを聞いて、彼女一人を置いて行くには忍びなかつた。 まだ降つてゐる雪を眺めながら、マリアンは叫んだ。「さあ、水いらずになつたのよ。」 かうして、終に話は搾乳場の思ひ出に移つた。そして勿論、エンヂェル・クレアに對する、 彼女等の愛情にからまつ事柄に入つた。 「イズやマリアン、」とエンヂェル・クレアの夫人は、嚴かに、だが、 夫人といつても名ばかりであることを知ると、いかにもいぢらしく思はれる嚴かさで言つた。 「私今は、クレアのことを、以前のやうにあんた方と一緒に話し合ふことが出來ませんわ。 ねえ、私、出來ないでせう。なぜつて今あの方は私から離れてゐるけれど、やつぱり私の夫《をつと》なんですものねえ。」 クレアに戀してゐた娘が皆《みんな》で四人、その中でイズは生來一番あばずれのした、 とても皮肉な娘であつた。「あの方、戀人としては素晴らしかつたに違ひないけれど、」と彼女は言つた。 「あんなに早くあんたから別れて行くやうでは、あんまり優しい夫とも思はれないわ。」 「あの人は是非行かなければならなかつたのよ -- 餘儀なく行つたの、向うの土地を見に!」とテスは辨解した。 「あんたに、この冬だけでも凌がしてくれたつてよかつたらうにね。」 「えゝ -- それはね、ちよつとした事 -- 思ひ違ひの爲めなの。さうして、そんなこと、 あれこれ言ひたくないわ、」とテスは涙聲で答へた。「あの人の爲めに申し開きをして上げることは多分澤山あるでせうよ! あの人は、他の夫たちのやうに私に默つて行つてしまつたんぢやないの。だから、 あの人の居る所は何時でも、私には分るわ。」 この後で、三人は可なり長いこと、麥の穗をつかんで藁を拔き取り、それを脇の下に一抱へに集め、 鉈鎌《なたがま》で穗を切つたりして仕事を進めて行きながら、默想を續けてゐた。 納屋の中は、藁をしごく音と鎌の物を咬むやうな音ばかりであつた。するとテスは、急に元氣が無くなつて、 足許の麥の穗の山と積まれてゐる上へ坐つてしまつた。 「あんたにはとても辛抱が出來まいと、思つてゐた!」とマリアンは叫んだ。「この仕事をするには、 あんたなんかよりもつと頑丈な體でなくつちやね。」 丁度そこへ農場主が入つて來た。「ほら俺がゐなくなるてえと、もうお前はこれなんだ、」 と彼は彼女に言つた。 「でも、私が損をするだけです、」と彼女は言ひ譯を言つた。「あんたの損にはなりはしませんわ。」 「こつちでは早く片づけてしめえてえんだ。」と彼は納屋を横切つて、反對側の戸口から出て行きながら、 頑《かたく》なに言つた。 「あの人の言ふことなんど、氣にしちや駄目よ、いゝこと、」とマリアンは言つた。 「私、以前《まへ》にも此處で働いたことがあるの。さあ、あんたは彼地《あちら》へ行つて横になつてお出でよ、 イズと私とで、あんたの束數だけ濟まして上げるからね。」 「あんた方にそんなにして貰つちや濟まないわ。私、あんた立ちより背《せい》が高いんですもの。」 だが、彼女は酷く疲れてゐたので、暫く横になつて休むことを納得し、 納屋の端の方の拔き屑 -- 眞直な麥藁が拔かれた後の屑 -- の積んである上に凭《よ》りかゝつた。 彼女が弱つたのは、激しい勞働の故《せゐ》でもあつたが、同時に、夫から離れてゐるといふ問題がまた始まつたので、 その爲め興奮した故《せゐ》でもあつた。彼女は慾も得もなくなり、たゞもんやり見たり聞いたりして、 横になつてゐた。そして二人が、扱《こ》いてゐる藁の擦れ合ふ音や、穗を切る音を聞いても、 肉體をさいなまれるやうに感じた。 彼女は、自分のゐる片隅から、かういふ物音の外に、二人の呟いてゐるやうな話聲を聞くことが出來た。 二人は既に絲口の開けた話題を續けてゐるのだといふことを、彼女は確かめた。 が、二人の聲は非常に低かつたので、はつきり聞き取ることが出來なかつた。 後にテスは、二人が何を言つてゐるのか、段々知りたくてたまらなくなつた。 そこで、彼女は、無理にももう快《よ》くなつたと思ひ込んで、立ち上つて再び仕事に取りかゝつた。 次にはイズ・ヒュウエットが弱つてしまつた。彼女は前日の夕方一二哩以上も歩き、 夜半《よなか》にやつと床に入り、そしてまた五時に起き出したのであつた。 マリアンだけは、酒壜と頑丈な體質のお蔭で、苦しみもしないで、背中と腕に受ける勞苦にも堪へた。 テスはイズに、自分はもう快《よ》くなつたやうだから、あんたの力を借りないで、 今日の仕事は片付け、束數も皆と同じになるやうにするから、と言つて、 もう仕事をやめてくれるように乞うた。 イズは有難うと言つて、その申し出を受け容れ、そして大きな戸口を拔け、 自分の宿へ通ずる雪路へ向つて見えなくなつた。マリアンは酒のお蔭で午後の今時分になると、 何時もさうであるやに、ロマンティックな氣分を味ひ出すのであつた。 「あの方にそんな事があらうとは思へやしなかつたのよ -- 決して!」と彼女は、 夢見るやうな調子で言つた。「それに、私ほんとにあの方を愛してゐたの! あの方があんたといふ人を奧さんにしたからつて、そんなことはどうだつてよかつたの。 だけど、イズに對するあんな仕打ちはあんまり酷すぎるわ!」 テスはこの言葉を聞いて吃驚し、危く鉈鎌《なたがま》で指を切り落してしまふところだつた。 「夫《うち》のことを言つてるの?」と彼女は口籠つた。 「えゝ、さう。あんたに言つちやいけないつて、イズは言つたの。でもどうしたつて、 私、言はないぢやゐられないの!それはね、あの方がイズに頼んだつていふことを言ふの。 あの方がね、あの娘《こ》に、伯剌西爾《ブラジル》へ一緒に行つてくれつて頼んだつてさ。」 テスの顏は、戸外《そと》の景色のやうに蒼白《まつさを》になり、なごやかな線は硬《こは》ばつた。 「それで、イズは行くのを斷つたの?」と彼女は訊ねた。 「それは私知らないわ。兎に角あの方、心變りがしたんだつて。」 「馬鹿々々しい -- ぢや始めから眞面目に言つたんぢやなかつたんでせう! 男のよくやる冗談だつたんでせう!」 「いゝえ、眞面目に言つたんだつて。だつて可なり長い道を、あの娘《こ》を馬車へ乘せて、 停車場の方へ行つたんだもの。」 「あの人は、あの娘を伴れてなんか行きやしなかつたわ!」 二人は無言のまゝ、麥扱きを續けてゐたが、到頭テスは前觸らしい樣子をちつとも見せずに、 急に聲を上げて泣き出した。 「そら!」とマリアンは言つた。「だから私、こんなことあんたに聞かせなければよかつたのに!」 「いゝえ。あんたが言つてくれたんで大へんよかつたわ!私、今まで當《あて》にならない、 惱ましい暮し方をして來て、それがどんなことになつて行くか分らなかつたわ! 私もつと度々《たび〜》あの人に手紙を上げるのが本當だつたわ。 あの人は私を連れて行くわけにはいかないと言はれたけれど、手紙は私の好きなだけいくら度々上げても、 いけないとは言はれなかつたの!私はもうこんな風に愚圖々々してゐたくない! 何も彼もあの人任せにして置くなんて、私ほんとに間違つてゐたし、構はなすぎたわ!」 納屋の中に薄暗い光線は、愈々暗くなつた。そこで二人はもう手元が見えないので、 仕事は出來なかつた。テスはその夜、家《うち》へ歸り、自分の小さな白塗りの部屋へ入つて獨りになると、 急きこんでクレアへの手紙を書き初めた。だが、疑惑の中へ落ち込むと、 彼女はそれを書き上げることが出來なかつた。後になつて、彼女は何よりも大切に身につけてゐる、 リボンを通した指輪を取り、自分の身を守らうとでもするやうに、それを夜通し指に嵌めてゐた。 自分と別れてから幾らも經たないうちにイズを外國に連れて行かうなぞといふことが出來るやうな、 他愛ない愛人だが、實際自分はその妻であるといふ氣持になつて。さういふ事實を知つて見ると、 彼女はどうして彼の處へ哀れみ乞ふことが出來よう、また彼をまだ慕つてゐるなどゝ、 どうしてそんな心が見せられよう? [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 納屋での打ち明け話に唆《そゝ》られた爲めか、彼女の考へは、最近一度ならず心を惹かれた方角 -- 遠いエミンスタア牧師館の方へ惹きつけられた。若しクレアの許《とこ》へ手紙が出したかつたら、 彼の兩親を通じて出すように、又若し困つた場合には直接兩親に手紙を出すようにと、 彼女は夫から命ぜられてゐた。けれども、クレアに對して自分は、徳義上何を要求する權利も持つてゐないといふ考へて、 テスは何時でも、かういふ手紙を送らうとする衝動を喰ひ止めずにゐられなかつた。 從つて牧師館の一家に對しても、結婚後の兩親に對すると同樣に、彼女は事實、存在を失つてゐたのであつた。 この雙方へ對して自分を抹殺することは、自分の眞價を公平に考へた上で、受ける資格のない愛や、 憐愍《れんみん》といつたやうなものは、何一つ望まうとはしない、彼女の獨立的な性格と全く一致するものであつた。 立つにも倒れるにも、自分の力に頼り、見も知らない家族のその一人が、たゞ一時の出來心から、 教會の帳簿に自分の名と並べて彼の名を書いたといふ、取るに足らない事實が元になつて、 彼女の爲めに出來たその家族に對する單なる名義上の資格などは、抛棄してしまはうと、彼女は覺悟をきめてゐた。 けれども、イズの話を聞いて發熱するほど胸を痛めてゐる今は、何處までも自己抹殺の力を振ひ續けるわけに行かなかつた。 夫は何故手紙を呉れなかつたのであらう?少なくとも旅行する地方だけは彼女に知らせると、 はつきり彼は言つたではないか。が、彼は未だにその宿所を知らせる爲めの一行も書き送つては來なかつた。 彼は實際に冷淡であるのだらうか?それとも病氣でもしてゐるのだらうか? 自分の方から先づ書き送るべきだつたらうか? 彼女は思ひ切つて勇氣を振ひ起し、消息を確かめに牧師館を訪れ、 そして夫の音信不通に對する悲しみを打ち明けようと思へば、出來ないことはあるまい。 若しエンヂェルの父が、世間で噂されてゐる通りに善良な人であるならば、 自分の情に飢ゑてゐる立場に同情してくれることも出來よう。自分の生活の上の困難などは、 隱さうと思へば隱せるのである。 平日に農場を出ることは、彼女の自由にならなかつた。日曜日がたゞ一つの機會であるに過ぎなかつた。 フリントコム・アッシは、まだ鐵道が敷かれてゐない、白亞質の高原の中央に位してゐたので、 どうしても歩いて行かなければならなかつた。それに、道程《みちのり》は片道だけでも十五哩あつたので、 その計畫を果すには早起きして長い一日をそれに當てなければならなかつた。 それから二週間經つて、雪はもう消えて、 續いて烈しい黒霜(地が堅く凍るだけで、白色の結晶をなさない霜)が降りるやうになつた時、 彼女は道のいゝのを利用して、出掛けて見る氣になつた。 その日曜日の朝は四時に階下《した》へ降りて行き、そして星明りの中へ歩き出した。 天候はまだ順調であつたので、大地が足の下で鐡砧《かなしき》のやうに鳴り響いた。 マリアンとイズは、彼女のこの旅行が、夫に關係があるといふことを知つてゐたから、 それに、深い興味を感じてゐた。二人の宿は小徑を少しばかり行つたところの百姓家であつたが、 二人は彼女のところへやつて來て、いろ〜とテスの出發の手傳ひをした。 そして舅姑逹の氣に入るやうにうんと綺麗な身裝《みなり》をして行つた方がいゝと、 しきりに勸めた。尤も彼女は、老クレアの嚴格な、カルヴィン教の教理を知つてゐたから、 身裝をよくすることなどはどうでも構はなかつたし、また、躊躇さへした。 悲しい結婚からもう一ヶ年になつてゐた。でも彼女は、時の流行を追はうなどゝはしない、 素朴な田舍娘として、人目を惹くに足る裝ひの出來る位ゐの衣服は、あの時の一ぱい詰つてゐた衣裳箪笥の殘骸から、 未だに保存して置いてあつた。顏と首の仄紅い皮膚をくつきり浮き上げてゐる、 白クレエプの襞のついた鼠色の毛織の長上衣《ガウン》、 それから黒天鵝絨《くろびらうど》の短上衣《ジヤケツ》や帽子などを。 「何んて惜しいこつたらうね、あんたの旦那さんが、今この容姿《やうす》が見られないないつてのは -- あんた、本當に美しいよ!」鋼鐵のやうな青白い戸外の星明りと、 黄色い屋内の蝋燭の光との中間にある閾の所に立つてゐるテスを、 しげ〜見てゐたイズ・ヒュウエットは、かう言つた。イズは寛大な氣持になり、 自分を捨てゝこの場に相應《ふさ》はしい調子で話した。彼女は、目の前で、 テスに敵意を示すことが出來なかつた。榛《はんのき》の實より多少でも大きい心臟《ハート》を持つてゐる程の女ならば、 誰だつて出來はしない。それは彼女が同性に及ぼす影響が、全く珍らしい温か味と力をもつて居り、 不思議にも怨恨《うらみ》とか競爭心とかいふ、より劣等な女性の感情を征服するからであつた。 愈々最後に、此方《こつち》を引つ張つて見たり、觸つてみたり、彼地《あつち》へ輕く刷毛をかけたりした後で、 二人はテスを行かせることにした。彼女は黎明前の眞珠色の大氣の中へ吸ひ込まれた。 二人は、彼女が出來るだけ大股で、固い道をこつ〜叩いて行く足音を聞いた。 イズでさへ、彼女が望みを逹するようにと祈つた。そして、自分の徳義心を何も特に崇めてゐるわけではなかつたが、 クレアから一時の誘惑を受けた時、自分の友に對して惡いことをせずに濟んだのを嬉しく思つた。 クレアがテスと結婚したのは、たつた一日違ひの一年前の今日だつた。また、 彼が彼女から去つて行つたのは、僅か數日足らないだけの丁度一年前の今日でもあつた。 それにしても、からつと晴れ渡つた冬の朝、今彼女の帶びてゐるやうな用向きで、 かういふ白亞質の山背の稀薄な大氣の中を通り、活溌な足取りで出掛けるのは決して氣の鬱《ふさ》ぐ旅ではなかつた。 又、彼女の出發に際して描いた夢想が、義理の母親の氣に入り、その婦人に自分の身の上を一切打ち明けて自分の味方にして、 あの家出者を自分の手に取り戻すことであつたのは疑ひなかつた。 やがて彼女は、廣い斷崖の一端に逹した。その下には肥土《ロイム》質のブラックムーアの盆地が、 今霧に包まれたまゝ靜かに黎明の中に横はつてゐた。高地の無色な空氣に引きかへて遙か下の大氣は、 深い青色に染つてゐた。彼女が何時も働いてゐる百エイカアもある大規模な圍ひ地とは異つて、 彼女の下には、六エイカアにも足らない小さな畑が、幾つともなく並んでゐた。その數が如何にも多いので、 この高臺から見ると、さながら、網の目のやうであつた。此處では、あたりの景色が薄茶色を呈してゐた。 眼下の彼方では、フルウムの盆地と同じやうに、四圍の風景はいつも青々としてゐた。 けれども、その盆地でこそ、彼女の悲しみが孕まれたのであつた。 だから彼女は以前のやうに其處を愛しはしなかつた。彼女にとつて、ものゝ美しさは、 それを感じる人すべてに取つてと同じやうに、物の中にあるのではなく、 物が現はすところの事柄にあるのであつた。 彼女はこの盆地を右手に見ながら、西の方へ歩一歩指して行つた。ヒントックの高地の村ゝを過ぎ、 シアトン・アバスからキャスタブリッヂへ通ずる道路を直角に横切つて、 『惡魔の厨房』と呼ばれる小さい谷を間に挾んでゐるドッグベリイ・ヒルとハイ・ストイとを繞《めぐ》つて進んだ。 尚ほ上り道に隨つて行くと、彼女はクロス・イン・ハンドに到着した。其處には、 或る竒蹟、または人殺し、或はその兩方が行はれたとかいふ場所を示す爲めの石の圓柱が、 寂しく默つて立つてゐた。そこから三哩ほど行つて、 ロング・アッシ・レインといはれてゐる羅馬統治時代の眞直な廢道を横切つた。 そこへ越すと間もなく、こゝを後にして、それと交叉してゐる小徑を通つて、丘を降《くだ》り、 エヴァスヘッドの小さな町といふよりも村に入つた。此處で先づ里程の半ばを來たことになつた。 彼女は此處へちよつと立ち寄り、二度目の朝食 -- 彼女は宿屋のやうなところは避けてゐたので、 ソオ・アンド・アコーン亭ではなく、教會の側の、とある田舍家で -- を腹一杯食べた。 彼女の旅程の後《あと》半分は、ベンヴィル・レインを通つて行くので、 前よりも平坦な地方へ入るのであつた。けれども、彼女と自分の行く目的地との間の里程が少なくなつて來るの從つて、 テスの自信もまた減じて行き、彼女の訪問の企ては一層痛ましく目前に浮び上つて來た。 彼女は自分の目的が如何にも仰々しく見え、そして周圍の景色がひどくぼんやりして來たので、 時々道に踏み迷ひさうになつた。だが正午《ひる》時分になると、 彼女はエミンスタアとその牧師館がある盆地の一端にある門の傍に立ち止つてゐた。 四角な塔 -- その下には、丁度今、かの牧師とその會衆が集つてゐると彼女は思つた。 -- その教會の四角な塔は、彼女の眼には何となく嚴かに映つた。何とか都合して平日に來ればよかつたと、 彼女は思つた。あゝいふ信仰の篤い人だから、どうにもならない彼女の場合などは、 更に考へてくれないで、特に日曜日を選んで來るやうな女に對して偏見を持つかも知れない。 しかし、彼女としては、今、行つて見るより外に道はなかつた。 彼女はこんな遠路を歩いて來た重たい深靴を脱いで、塗革の綺麗な輕いのと穿き替へて、それから、 さきに脱いだ靴は、其處ならばまた容易に見出だせる門柱の側にある生垣の蔭へ隱して置いて、 其處の丘を降りて行つた。鋭い空氣から得た生々した顏色は、牧師館に近づくにつれて、 我れ知らず次第に薄らいで行つた。 テスは自分に都合よくなるかも知れない何か思ひ設けぬ事が起つてくれゝばいゝと思つたが、 そんなものは何んにも起らなかつた。牧師館の芝生にある庭木は、霜風に吹かれて、 ざわ〜と不快な音を立てゝゐた。彼女は、どんなに空想を働かしてみても、 この家が親しい一家の住居であるとは感ぜられなかつた。しかも、 性質とか感情とかいふ點からも、彼女と彼等とを分つ本質的なものは何もなかつた -- 苦しみも、樂しみも、考へも、生も、死も、または死後の生活も、全く同じであつた。 彼女は努めて心を引き立て、廻轉戸を開けて中へ入り、そしてベルを鳴らした。 もう船に乘りかゝつたのだ。今更退くことは出來なかつた。いや、まだ船に乘りかゝるところまで行かなかつた。 彼女の鳴らしたベルに答へる者は誰もなかつた。勇氣を出して、もう一度試してみなければならなかつた。 彼女は二度目にベルを鳴らした。さうするまでの心の動搖は、十五哩も歩いた後の疲勞と一緒になつて、 待つてゐる間の彼女をして片手を腰に當て、肱を玄關の壁に凭《もた》せかけて支へしめなければならなかつた。 風は刺すやうに冷たかつたので、其處に絡んでゐる蔦の葉は凋んで、灰色になつてゐた。 その一葉々々は引つ切りなしに隣りのと擦れ合つて、彼女の神經を掻亂すのであつた。 誰か肉を買つて歸つた者のある家の塵溜《ごみため》から風に浚《さら》はれた血のついた一片の紙片が、 門の外側の道路を彼方此方と飛び去るには餘り重過ぎるといふ風であつた。 そして藁切れが數片それと一緒についてまはつてゐた。 二度目のベルは、前のより高かつた。それでもまだ、誰も出て來なかつた。 やがて彼女は玄關から歩き出して、門を開けて外へ出た。彼女はまた戻つてみたいやうな、決心のつかない樣子で、 家の正面を瞶《みつ》めたが、門を閉めた時には、ほつと安心の吐息をもらさないではゐられなかつた。 ことによつたら自分が如何なる者であるか見咎められたのかも知れない(どうしてかは彼女には分らなかつたが) そして内へ入れてはいけないといふ命令が與へられたのかも知れない、といふ感じが彼女に附纒つて離れなかつた。 テスは角の處まで行つた。彼女は出來るだけのことはした。けれども目の前の怖れを逃れて、 將來の苦しみの種を蒔くやうなことはすまい、と固く決心して、彼女は再び歩みを返し、 窓といふ窓を殘らず見上げながら、その家の前をすつかり通り過ぎた。 さうだ -- 分つた、彼等は一人殘らず教會へ行つてゐたのだ。父は何時でも、召使まで一緒に、 家中一人殘らず是非とも午前の祈祷に參列させるので、一同は家へ歸ると、 自然冷たい物を食べることになると、夫の言つたことを、彼女は思ひ出した。 だから、祈祷の終るまで、待つてゐさへすればいゝわけであつた。 彼女は此處で待つてゐて人目につくのを慾しなかつた。そこで、教會を通り過ぎて小徑へ入らうと、其處を出かけた。 しかし、彼女が教會の庭の門の所まで行くと、丁度人々が雪崩《なだ》れるやうに出て來て、 テスはその人々にすつかり圍まれてしまつた。 エミンスタアの會衆は、たゞゆつくり我家へ歸つて行く小さな田舎町の人たちが、 見たこともない此處ら邊の者と樣子の變つた女を眺めるやうな風に、彼女を眺めたゞけであつた。 彼女は歩調を早めて先刻通つて來た道を登り、牧師の家族が晝の食事を終へてしまふまで、 其處の生垣の間に隱れ場所を見つけようとした。そして彼等に取つても彼女を迎へるには、 その方が都合よかつたに相違ない。彼女は直ぐに、教會歸りの人たちから離れ去つた。 たゞ二人の青年らしい者だけが、互ひに腕を組み合せ、急ぎ足で、彼女の後に歩いて來た。 二人が近づくにつれ、何か眞面目な議論に耽つてゐる聲を彼女は聞くことが出來た。 そして彼女はかういふ境遇にゐる女によくある敏感さで、その聲のうちに、夫獨特の語調を認めずにはゐなかつた。 この徒歩者たちは、言ふまでもなく夫の二人の兄であつた。自分の計畫をすつかり忘れてしまつて、 テスがたゞ一つ怖れたことは、まだ彼等に面と向ふ準備も出來ないで、こんな取り亂した状態でゐるうちに、 二人に追ひつかれては大變だといふ事であつた。彼等が彼女を誰であるか知る筈はないと思つたけれど、 彼女は本能的に、彼等の穿鑿的な眼を恐れたからである。彼等が足早に歩いて來れば來るほど、 彼女も足早に歩いた。彼等は明らかに、長い祈祷の間を掛け通してゐた爲めに冷え切つた四肢に、 温かみを取り返す爲め、晝飯或は正餐に家に入るに先だつて、短い早足の散歩をしてゐるところだつた。 たゞ一人の者だけが、坂を上つて行くテスの先になつてゐた -- 恐らく少し堅苦しく取り澄ましてゐるところはあつたが、 何處か床しい、淑女らしい、若い婦人であつた。テスが殆んどその女に追ひついた時、義兄たちの足が早かつた爲めに、 彼等は殆んど彼女の直ぐ後へ追ひついてゐた。從つて、彼等の話が一こと殘らず彼女に聞きとれる位ゐであつたとはいへ、 特に彼女の興味を唆《そゝ》るやうなことは何んにも言はなかつたが、到頭、まだずつと前方にゐる若い婦人を見つけて、 彼等の一人は言つた。「マーシイ・チャントだよ。早く追ひつかうぢやないか。」 テスはその名を知つてゐた。それはエンヂェルやマーシイの兩親たちが、 エンヂェルの生涯の伴侶と定めた者で、自分のやうな邪魔者さへゐなかつたならば、 恐らく彼が結婚したかも知れない女であつた。このことを前に聞いてゐなかつたとしても、 ちよつとの間待つてさへゐれば、それ位ゐのことは、彼女にも分ることであつた。といふのは、 兄弟のうちの一人が先づこのやうな事を言つたからである -- 「あゝ!氣の毒なエンヂェル、氣の毒なエンヂェル! 僕はあの美しい娘を見る毎に、乳搾り女だか何んだか知れない者に惚れ込んだ彼奴《あいつ》の輕率さを、 愈々殘念に思ふよ。一寸考へたつて、本當に妙な話ぢやないか。その女があれと一緒になつたかどうだか、 僕は知らない。だが、二三ヶ月前あれから便りのあつた時には、まだ一緒になつてはゐなかつたよ。」 「僕にははつきり分らない。あれはこの頃ではもう何んにも僕には言はないんだ。 あれと僕とが遠ざかるやうになり出したのは、あれの突飛な意見が元だつたが、 今度の無分別な結婚は愈々疎々《うと〜》しさの仕上げをしたやうだよ。」 テスはなほ一層足を早めて長い坂を登つて行つた。けれども、彼等から離れようとすれば、 どうしても注意を惹かないわけには行かなかつた。終に彼等はすつかり彼女を追ひ拔いて、通り過ぎてしまつた。 まだ遙か前方にゐた若い婦人は、彼等の足音を聞きつけて振り返つた。それから、 挨拶の言葉があり、握手が交され、そして三人は一緒に歩いて行つた。 彼等は間もなく丘の上へ着き、そして、此處を彼等の散歩の極限とするらしく歩みを弛めた。 そしてテスがそれより一時間前に、そこへ降りるに先立つて町の樣子を窺《うかゞ》ふ爲めに歩みを止めたあの門の方へ、 三人とも歩みを移した。談話中に、この聖職にある兄弟の一人は、 自分のパラソルで生垣の中を丹念に探り廻し、そして何かを明るみへ引きずり出した。 「此處に古靴が一足あるよ、」と彼は言つた。「乞食か何かが捨てたんだよ、きつと。」 「跣足《はだし》で町へ入つて來て、私たちに同情を起させようとするかたりの仕業《しわざ》でせうよ、」 とチャント孃は言つた。「さうよ、それに違ひないわ、結構な旅行靴ですもの -- 少しも破れてなどゐない。 何んていふ狡いことをするんでせう!誰か困つてゐる人に上げるやうに、私、持つて歸りませう。」 その靴を見つけ出した本人カスバアト・クレアは、自分のステッキの曲つてゐる部分で彼女の爲めにそれを拾ひ上げてやつた。 かうして、テスの深靴は取上げられてしまつた。 これを聽いてゐたテスは、毛絲の面紗《ヴエール》で顏を隱して、其處を通り越したが、 たがて後を振り向いて見ると、この教會歸りの一行は、もう彼女の靴を持つて門の傍を離れ、 丘を降りて行く處であつた。 そこで、我々の女主人公《ヒロイン》は再び歩き出した。涙が、先を見えなくするほどの涙が、 彼女の頬を傳つて流れた。彼女がこの一場面を自分に對する非難と解しないではゐられなかつたのは、 全く感傷的であり、全く根據のない思ひすぎであることを知つてゐた。それにも拘らず彼女は、 それに打ち勝つことが出來なかつた。何等身に防ぐ武噐を持たない彼女は、 かういふ不幸な前兆をすつかり退けてしまふことが出來ないで、 牧師館へ引返さうとする氣になどはなれなかつた。エンヂェルの妻は、まるでさういふ -- 彼女にとつては -- 最高の位地にある牧師たちに、侮蔑されきつたものゝやうに、 その丘を追ひ立てられでもしたやうに感じないではゐられなかつた。 この侮辱は實に何の氣なしに加へられたものには相違なかつたが、彼女が、偏狹でこそあれ、 この兄たちに較べれば左程固苦しくもなく、また頑迷でもない、 そして慈悲の心といふ天稟を十分に持つてゐる父親に出會つたのではなく、 息子たちに出會つたのは、一寸廻り合せが惡かつた。彼女が再び塵にまみれたあの深靴のことを思ひ出した時、 その履物が彼等の嘲笑の的になつてゐたことを哀れにさへ思ひ、また、 その持主の生涯が如何にも儚《はか》ないことを感ぜずにはゐられなかつた。 「あゝ!」と彼女は言つた。そして尚ほ、自分の身を愍《あはれ》んで溜息を洩らしながら 「あの方逹は、あの人が私に買つて下すつたこの綺麗な方を痛めない爲めに、 途中の惡い道をあの靴を穿いて來たのだといふ事を知らないんだわ -- さうだわ -- あの人逹はそれを知らない!それに、 私の綺麗な上衣《うはぎ》の色合もあの人が見立てゝ下すつたんだといふ事も考へなかつたんだわ -- さうだわ -- どうしてあの人たちに分る筈があらう!たとひ分つてゐたとしても、 多分あの人たちは一向構つてなんかくれなかつたでせう。 第一あの方たちはあの人を餘り思つてはゐないんだから、可哀さうに!」 それから彼女は、自分の愛してゐる人の爲めに、悲しんだ。その人の古くさい考へが、 かういふこの頃の色々な悲しみを彼女に與へることになつたのだ。それから彼女は、 自分の生涯の一番大事な不幸が、息子たちを尺度にしてその父親を推し量つた爲めに、 愈々といふ大切な時に、こんな風に女々しく勇氣を失つてしまつたことに依るのだとは少しも知らず、 彼女は元來た道へ引つ返した。彼女の現在の境遇こそ確かに老クレア夫婦の同情を招かずにはゐないやうなものであつた。 人間のうちでも、テスほど絶望しきつてしまはない人の微妙な精神上の煩悶などは、 彼等の興味や注意を惹かなかつたが、極端な場合に對すると、彼等の心は一足とびにその方へ傾いて行くのであつた。 『税吏』や、『罪障深いもの』の求めには喜んで應じるが、學者や『僞善者』の苦惱に對しては、 一言位ゐは言つてもいゝことを忘れ勝ちであつた。そして、この場合の取柄となつて、 老夫人は自分等の嫁が、正道を踏み外した人としてはなかなか立派な人間で、 自分等の愛を受ける資格があるものと考へたかも知れなかつた。 そこで彼女は、ちつとも希望に充ちてゞはなく、何だか生涯の危機が近づきつゝあるといふ考へを抱いて、 もと歩いて來た道を、しを〜と戻り始めた。表面的には何の危機も續いて起りさうもなかつた。 そして、彼女は、牧師館を訪問しようといふ勇氣を再び呼び起すことの出來るまでは、 あの瘠地《やせち》の農場で働き續けて行くしか外に仕方がなかつた。彼女は、この歸り途には、 恰も自分はマーシイ・チャントなどの有つてゐないやうな容貌を少くとも有つてゐるのだといふことを世間に見せでもするやうに、 自分の面紗《ヴエール》を拂ひのけてしまふ位ゐに、自分といふものに興味を持つた。 だが、それも悲しくかむりを振つてする位ゐであつた。 「そんなものはなんでもないんだわ -- 何でもないんだわ!」と彼女は言つた。 「誰もそれを愛してはくれない!誰もsれを振り向いてはくれない! 私のやうな世間から捨てられた者の縹緻を誰が構つてくれるでせう!」 歸りの旅は、行進といふよりは寧ろ彷徨の形であつた。それには元氣もなければ目的もなく、 たゞ惰性があるのみだつた。退屈な、長いベンヴェル・レインを辿つて行くうちに、 彼女は疲勞を感じ出し、幾度も門に凭《よ》りかゝつたり、また、里程標の側で足を休めたりした。 彼女はやがて七八哩も歩いて來て、その午前に、今とは全然異つた期待を抱いて朝の食事をした村、 といふよりも小さな町エヴァスヘッドを下に見た嶮しい長い丘を降りて行くまでは、何處の家へも入らなかつた。 再び彼女が腰を下した教會の側の田舍家は、村のその端《はづ》れでは殆んどとつつきの家であつた。 この家の主婦が彼女の爲めに厨《くりや》へ牛乳を取りに行つてゐる間に、テスは通りを見下ろしながら、 其處には全く一人の人も通つてゐないのに氣がついた。 「此處らの人たちは、午後のお祈祷《いのり》に行つてゐるんでせうね?」と彼女は行つた。 「さうなもんかね、あんた、」とその老婆は言つた。「それにやまだ時間が早過ぎるだよ。 鐘がまだ鳴り出さねえものね。皆《みんな》は向うの納屋へ説教を聽きに行つてるんだよ。 或る怒鳴り屋が、其處で、祈祷の合間にいつも説教するんでね -- 何んでも、立派な、熱心な信者だつて噂だよ。 だからつて、私なんぞ聽きにや行かねえだよ!説教壇から、 おきまりの調子で出る説教だけで私には可い加減こたへるでなあ。」 テスは、間もなくその村の方へ進んで行つた。彼女の足音は、死人の土地でゞもあるかのやうに、 村の家々に反響した。村の中程に近づくと、その反響は、他の音の爲めに邪魔された。 そして、道から大して離れてゐない所に納屋が見えたので、彼女は、この者が今の説教者の話聲であらうと想像した。 説教者の聲は、靜かな澄み通つた空氣の中に非常にはつきり響いたから、彼女は納屋の閉めきつてある方の側にゐたのではあつたが、 その文句を直ちに聞き取ることが出來た。その説教は、想像のつく通り、極端な信仰萬能派式のものであつた。 聖ポーロの神學に説明されてあるやうな、信仰に依る承認といふことに基礎を置く説であつた。 この隨喜派の固定觀念は、全くの演説口調で、盛んな熱を以つて、述べ立てられた。といふのは、 彼には明らかに辨證家としての熟練は、どうみてもなかつたから。 テスはその説教の始めを聽いてゐなかつたが、今引用してゐる聖書の句が何であるかは、 それが絶えず繰り返されたので、彼女は憶えてゐた -- 「愚なる哉、既にイエス・キリストの十字架にかけられしことを、 明らかにその眼の前に著《あら》はされたるガラテア人よ、 眞に服《したが》はざるまでに、誰か爾曹《なんじら》を誑《たぶらか》しゝか。」 (新約聖書、加拉太書、第三章、第一節) 後で、耳を傾けながら、立つて聽いてゐるうちに、この説教者の教義が、 エンヂェルの父親の見解を一層熱烈にしたものであることを發見して、テスは愈々興味を持つて來た。 そして、この説教者がどうしてさういふ見解を持つに至つたかといふ彼自身の精神上の經驗をこまかに語り初めた時、 彼女の興味は愈々高まつた。自分は最も恐ろしい罪人であつたと、彼は言つた。 自分は世を愚弄し、恣《ほしいまゝ》に無頼の者や放蕩者と交つてゐた。が、目の醒める日が來た。 そして、人間的な意味でいへば、それは主に或る一牧師の感化に依つて齎《もた》らされたのであつた。 最初自分はその牧師をさん〜゛侮辱すたが、牧師の別れ際に言つた一言が深く自分の膽《きも》に銘じて、 どうしても忘れられなかつた。そして終に、神の御惠《みめぐみ》に依つて、 その言葉が自分の心にこの變化を引き起し、御覽の通りの人間になつたのであると。 だが、教義そのものにも増してテスが更に驚いたのは、その聲であつた。それは、 あり得べからざることのやうに思はれたが、紛れもなく、アレク・ダアバァヴィルの聲であつた。 彼女の顏は烈しい不安の色を浮べた。彼女は納屋の正面へ廻つて行き、その前を通つて見た。 低い冬の太陽は、此方《こちら》側の、大きな二枚扉の入口へ直射してゐた。 その扉の一枚が開いてゐたから、光線は遠く打穀《だこく》場のずつと奧まで射し込み、 説教者と、氣持よく北風を避けてゐる彼の會衆の處まで屆いてゐた。 會衆は全く村人ばかりであつたが、その中には、 昔のあの忘れ難い日に彼女が嘗つて見た赤ペンキ壺を持ち歩いてゐる男が混つてゐた。 しかし彼女の注意は、幾つかの麥の袋の上に立つて、會衆と入口の方へ顏を向けてゐる眞ん中の姿に向けられた。 午後三時の太陽は、正面《まとも》に彼を照らしてゐた。そして、 彼の言葉をはつきりと聞いてからずつとテスのうちにだん〜食ひ入つて來た、 自分を誘惑した者が眼の前にゐるといふ、妙に元氣を殺ぐ確信が、 愈々紛れもない事實となつて、實際に現はれるやうになつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十五 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- トラントリッヂを去つてからこの時まで、つひぞ彼女はダアバァヴィルに逢つたこともなければ、 またその消息を聞いたこともなかつた。 旅人同志の邂逅は悲しい瞬間 -- 時もあらうにちよつとでも刺戟を受ければ衝突を起し兼ねないといふ瞬間に起つた。 だが記憶は實に馬鹿氣たもので、彼が過去の不身持を悲しんで、改宗者として、 公然とまたはつきりと其處に立つてゐるにも拘らず、彼女は或る恐怖に襲はれ、 動作の自由を奪はれてしまつて、進むことも退くことも出來ないといふ有樣であつた。 彼女がこの前、彼の顏を最後に見た時、それから輝き出したものがあつたが、今それを思ひ出すと、 そして現にまたそれを見ると!……相變らず堂々としてはゐるが、不快な風采であつた。 けれども今では、あの黒い口髭はなくなつて、その代りにきちんと手入れをした、 舊式な頬髯を生やしてゐた。そして、服裝は半ば牧師風であつた。その變化は、 表情まですつかり變へてしまひ、色男氣取りのところは全く彼の目鼻立ちから拔けてしまつてゐるので、 ちよつとの間、彼女は彼を同じ人と信ずることが出來にくい位ゐであつた。 最初ちよつとの間、テスの耳にはかういふ口からこのやうな聖書の嚴肅な言葉の續出するのが、 氣味の惡い風變りの聲に、怖ろしい不釣合な響に聞えた。まだ四年にならない昔には、 この馴れすぐる位ゐになつてゐた口調は、全く反對の目的をあらはす言葉を、 彼女の耳に傳へたのであつたから、その對照の皮肉なのに、彼女は全く不快を感ぜずにはゐられなかつた。 それは改心といふよりも寧ろ變形であつた。以前の肉慾的な曲線は、 今では信仰の熱情の曲線で調節された。誘惑的だつた唇の恰好は、今では祈願を現はすやうにされた。 昨日、放蕩とのみ取られた頬の輝きは、今日は敬神的修辭の華かさに教化された。獸慾は狂信と化し、 異教主義は使徒主義になつた。昔、あにやうな力で、彼女の容姿の前に閃めいた大膽なぎよろ〜した眼は、 今では殆んど凄いやうな信仰の凄じい精力でぎら〜輝いた。自分の慾望が妨げられた時には、 きまつて現はした意地惡さうな表情は、 今では再び泥の中に落ち込みたがつてゐる手のつけられない墮落者を描いて見せる役をつとめてゐた。 容貌は、それだけで見ると、何か不服を言つてゐるやうに見えた。 それは、持つて生れた顏の性質から逸《そ》れて、不自然な印象を與へた。 こんな風に容貌が氣高くなつてゐるのが、間違ひである。 高まることが僞ることに見せるとは何といふ不思議であらう。 だが、そんなことが有るだらうか?彼女は、こんな風に感ずる偏頗《へんぱ》な感情をもう認めようとはしなかつた。 生きてゐる間に、惡徳を捨てゝ自分の魂を救つた者は世間に幾人もあるので、 ダアバァヴィルはたゞその一人に過ぎなかつた。 それなのにどうして彼の場合だけを不自然と考へなければならないのであらうか? 惡い昔の口調で善い新しい言葉を聽いた時、彼女が不快に思つたのは、 たゞ惰性的な考へでさう思つたに過ぎなかつた。罪が大きければ大きいだけ、 聖人となればそれだけ偉くなるのだ。それを知るには、なにも基督教の歴史を深く究めるには及ばなかつたのである。 かういふ印象がぼんやり、何とはなしに彼女の心を動かした。 吃驚してぼんやり立ち止つてゐたが、そのお蔭でどうにか身動きが出來るやうになると直ぐに、 彼女は彼の目に付かないところへ通り拔けてしまはうと咄嗟に思ひついた。 彼は彼女が逆光線の位置に立つてゐたのだから、まだ彼女に氣づいてゐないことは確かであつた。 けれども、彼女が再び動いた刹那に彼は彼女を認めた。彼女の昔の戀人に及ぼした力は、 電氣のやうなもので、彼の存在が彼女に與へた力よりも遙かに強かつた。 彼の情熱や熱辯口調の透つた響は、彼から消え去つて行くやうに見えた。彼の唇は、 それに乘つてゐる言葉の重味に悶えもし顫《ふる》へもした。けれども、 彼女が面と向つてゐる限り、彼はどうしてもその言葉を述べることが出來なかつた。 彼の眼は、一たび彼女ちらつと見てからは、戸惑ひしたやうに、四方八方へ漂つた、 たゞ彼女の方へだけは向かなかつたが。けれども二三秒毎に烈しく跳びつくやうに戻つて行つた。 だが、この麻痺はほんの僅かに間しか續かなかつた。といふのは、 テスの元氣は彼が無氣力となるにつれて囘復し、彼女は出來るだけ早く納屋を通り過ぎ、 そしてどん〜進んで行つたのである。 彼女が反省する力を得るやうになると、彼等の互ひの立場の變化を思つて、彼女は吃驚した。 彼女の身を誤らした彼は、今では聖靈の側に立つてゐる。それだのに彼女は、 まだ生れ變つてゐなかつた。そしてまさしく傳説にあるやうに、 彼女のサイプラスの女神のやうな肖像(サイプラスの島の近くに生れたヴィ−ナス若しくはアフロダイトのこと。 艷麗無比な美女にして、しかも多情で節操に乏しかつた。暗にテスを指す) が突然祭壇の上に現はれると、祭司の靈火が殆んど消えてしまつたといふ結果になつた。 彼女は、振り向きもせず、どん〜歩いて行つた。彼女の背中にも、 視線を感ずる性質を具へてゐるやうに見えた -- 彼女の着物までがさうだ -- そんなにまで彼女は、あの納屋の外側から彼女の上に注がれてゐるかも知れない、 思ひなしの凝視に對して敏感であつた。此處まで來る間といふもの、 彼女の胸は頼りない悲しみで滅入つてゐたが、今では、その心配事に性質が變つて來た。 餘りに長く抑へられてゐた愛情に對する渇望は、未だに彼女を取り卷いてゐる執念深い過去の、 殆んど肉慾的な感覺とその時暫らく置き換へられた。それは惡いことをしたといふ彼女の考へを強くして、 實際に絶望にしてしまつた。彼女の初めの生活と現在の生活とを繋ぐ聯鎖が切れてくれゝばよいと、 彼女は前から望んでゐたが、結局それは切れなかつた。彼女自身が過去のものとなるまでは、 過去はやはり完全な過去とはならないであらう。 こんな風に考へに耽りながら、彼女はロング・アッシ・レインの北部を再び直角に横切つて、 間もなく、高地へ登つて行く白い街道が眼の前に展《ひら》けて來るのを見た。 その高地の縁に沿うて、彼女はまだこれから先の旅を續けなければならなかつた。 そのから〜に乾いた青白い表面は、いかめしさうに行手に延びてその冷たい乾燥した通りのそこここに、 一脈の趣きを與へてゐる。或る褐色の馬の落としものを除けば、たゞ一人の人間にも一臺の車にも、 或は一つの目標にもその單調を破られてはゐなかつた。徐々とこの坂に向つて行つてゐるうちに、 テスは背後の足音に氣がついた。そこで振り返つて見ると、あのよく知つてゐる姿 -- メソヂスト教徒らしく如何にも竒妙な服裝をした -- 、この世では、 二人きりでは會ひたくない、と彼女が願つてゐた全世界でたつた一人の人物が近づいて來るのであつた。 けれども考へる時間も、また避けて遁れる時間もなかつたので、彼女は諦めて、 出來るだけ冷靜な態度をとり、仕方なく彼の追ひつくのに任せた。 彼女は彼が非常に興奮してゐること、しかし、それは急いで歩いて來たせゐではなく、 内からの感情の爲めであるといふことを知つた。 「テス!」と彼は言つた。 彼女は歩調を緩めたが、振り向きもしなかつた。 「テス!」と彼は繰り返した。「僕だ -- アレク・ダアバァヴィルだよ。」 彼女はその時始めて、振り返つて彼を見た。するとダアバァヴィルはすぐ側へやつて來た。 「さうでしたわね、」と彼女は冷かに答へた。 「ねえ -- たゞそれつきりの挨拶かい?なるほど、僕にはそれ以上を望む資格はないんだつけ! 無論ね、」と、輕く笑つて、彼は言ひ添へた。「こんな姿をしてゐる僕を見ると、 君の眼にはどこか滑稽な人間に映るだらうね!だが -- それも僕は忍ばなければならない…… 君は何處か誰も知らない處へ行つてしまつたと僕は聞いてゐた。 テス、君は僕がかうして追つかけて來たのを、不思議に思ふだらうね?」 「えゝ、まあさうです。そんなことをあなたにして頂きたくなかつたと、私、心から思ひますわ!」 「さうだ -- さういふのも尤もだ、」と彼は、一緒に歩いて行きながら (無論彼女の方では厭々《いや〜》ながらではあつたが)物凄く答へ返した。 「だが僕を誤解しないでくれ。僕がこのことを頼む譯は、ことによると、 君が不意に現はれたので、僕が彼處《あすこ》でへどもどした樣子を見て -- 若しそれに氣附いたものとすれば -- その爲めに君が誤解したかも知れないと思つたからだ。 あれはほんの一時の狼狽だつたんだよ。まあ、君が僕にとつてどんな關係にあつたかを思へば、 あれも決して不自然ぢやなかつた。しかし意志の力は僕を助けて、あゝした中を切り拔けさしてくれた -- こんなことを言ふと、恐らく君は僕を喰はせ者と思ふだらうが -- それからすぐ後で僕はかう感じた、世界中のありとあらゆる人々の蒙るべき天の怒りから、 その人々を救つてやるのが僕の義務であり願ひでもあるんだが、さういふ人々のうちでも -- もし冷笑したかつたらするがいゝ -- 僕が如何にもひどい侮辱を加へた女こそ、 まさにその人だと感じたんだ。僕はたゞその目的だけでやつて來たんだ -- それだけのことだよ。」 「あなたは御自分をもうお救ひになりまして?慈善は先づ自分から始まると申しますが、」 と答へた彼女の言葉には、いくらか輕蔑するやうな調子があつた。 「僕はそんなことを何もしなかつたよ!」と彼は本氣で言つた。「僕が聽衆に話してゐたやうに、 神がすべてをして下すつたのだ。君がどれほど僕に嘲りを浴せかけても、 テス、僕が僕自身 -- さうだ、數年前の老アダム(以前の迷つてゐた人、即ち昔のアレクを指す) に浴せかけた嘲りには到底及ばないよ!ねえ、それは不思議な話なんだ。 信じようが信じまいが、それは自由だが、僕が改心するやうになつたいきさつを君に話してもいゝよ。 そして、少なくとも聞くだけの興味は感じられることゝ思ふよ。君はこれまでに、 エミンスタアの牧師の名を聞いたことがあるかい -- 聞いてゐるに違ひないが? -- 老クレア師つていふんだ。あの人の宗派中では一番熱心な一人だし、 英國國教々會のうちもいくらも殘つてゐない熱烈な敬神家の一人なんだ。 僕が運命を共にした基督教信徒の連中ほど熱烈ではないが、國教牧師の中では、 全く異彩を放つてゐるよ。彼等の中でも若いものとなると、詭辯ばかり弄してばかりゐて、 段々眞の教義をぼかしてしまひ、今では本物の影に過ぎないやうなものに變へてしまつてゐる。 僕があの牧師と意見の異つてゐるのは、たゞ教會と國家の問題だけだ -- つまり『主曰ひ給ふ、爾等《なんぢら》彼等のうちより出で、これを離れよ。』 (哥林多人後書第六章十七節)といふ聖典の句の解釋 -- それだけなんだ。あの牧師こと、 君が名ざすことの出來るどんな人よりも、この國の多くの人々の魂を救ふ殊勝な召使となつた人だ、 と僕は信じる。あの人のことを君は噂に聞いたことがあるかい?」 「ありますわ、」と彼女は言つた。 「あの人は二三年前、或る傳道團の爲めに説教をしにトラントリッヂへ來られた。 そして僕は、その當時實に淺猿《あさま》しい奴で、あの人が私情をはなれて、僕み道を説き、 行くべき道を示してくれたのに、侮辱したんだ。牧師は僕の仕打ちに腹も立てず、 いつかは君も聖靈の初穗(改心の情)を受けるだらう -- 嘲らうとして來た者も、 折々はとゞまつて祈ることもある。(ゴールドスミスの「荒村行」中にある次の文句に基く。 即ち「彼の唇をもれる眞理は二重の力もて擴まり、嘲らんとて來れる阿呆は留まりて祈れり[」])と、 言つたゞけだつた。牧師の言葉の中には不思議な魔力があつたよ。それは僕の胸へ深く喰ひ込んだ。 だが、母を亡くしたことが一番僕の胸に應へた。そして段々、僕は日光を見るやうになつた。 その時からまことの考へを他の人々に傳へたいといふのが僕の一つの願ひになつたのだ。 そして今日もそれを試みてゐたところだつた。尤もこの邊で説教をするやうになつたのはつひこの頃のことだがね。 僕が傳道を始めてから數ヶ月間は、見知らない人たちと一緒になつて英國の北部地方で過したが、 この地を選んだわけは、先づ其處で最初の下手な手ならしをして置いて、やがて、 説教者をよく知つてゐるし、又放蕩時代にはその友逹だつた者に説教をして、 自分の眞實さを試すといふ一番嚴しい試驗を受ける前に、先づ勇氣を得て置きたかつたからだ。 若し君が君自身をおいしやりと打つ喜びを解することが出來るなら、テス、僕は屹度 -- 」 「そんな話はもう止して下さい!」彼から離れて路傍の踏段の處へ退き、 その上へ自分の體を凭《よ》りかゝらせながら、彼女はむきになつて叫んだ。 「私、そんな突飛なことは信じられません!あなたは自分で知つて -- どんな迷惑を私にかけてゐるか、 あなたは自分で知つてゐる癖に、私に向つてこんな風に仰しやられると、私怒らずにはゐられませんわ! あなたとか、またあなたのやうな人たちは、私のやうな者の生涯を悲しみで辛くしたり暗くしたりして、 それでどこまでもこの世で樂しみをなさるんです。それから、十分それをし盡した時分に、 悔い改めることにして、今度は天國へ行つてからの樂しみを得ようといふお考へなので、 そりやまあ結構なことですね!そんな人つたら -- 私はあなたなんか信じない -- そんなことは大嫌ひです!」 「テス、」と彼は言ひ張つた。「そんな風に言ふもんぢやないよ! それは非常に新しい思ひつき見たいに僕の胸に浮んだんだ!君は僕を信じないのかい? 一體どんなところを信じないんだね?」 「あなたの改心を。あなたが宗教で救はれたつてことを。」 「何故?」 彼女は聲を低くした。「あなたなぞよりもずつと善い方が、そんなことを信じませんもの。」 「如何にも女がつけさうな理由だ!そのずつと善い人つて誰だい?」 「話されませんわ。」 「なるほどね、」と彼は言葉の下に隱れてゐる憤りが、一聲掛ければすぐにも跳び出すといつたやうな調子で、 言ひ出した。「僕は善人だなぞと、どんなことがあつたつて、言へた義理ぢやない -- また僕はそんなこと、おくびのも出しやしないだらう、ね。 僕は善良といふものに對しては、實際、新參者なんだよ。だが、新來の者が、 時とすると一番遠目がきくつてこともあるからね。」 「ええ、」と、沈んだ調子で彼女は答へた。「でも、あなたが悔い改めて生れ更《かは》つたとは、 私には信じられませんわ。あなたが感じてゐるやうな光は、アレク、長く續きはしますまいよ!」 かう言ひながら、彼女は凭《もた》れ掛つてゐた踏段から向き直つて、彼に顏を向けた。 そこで、彼の眼は不圖《ふと》見馴れてゐる顏や姿の上に落ちたので、ぢつと彼女に見入つてゐた。 下等な性質は、今彼のうちに靜まつてはゐたが、確實に拔き取られたわけでもなく、 またすつかり柔らいでゐたのでもなかつた。 「そんな風に僕を見ないでくれ!」と突然彼は言つた。 自分の動作や樣子に全く氣がつかないでゐたテスは、すぐ、大きく見開いた不快な眼付を引つ込め、 顏を赧らめて口ごもりながら、「御免なさい!」と言つた。それから、 これまでも度々彼女の胸を訪れたことのある、自然から授かつた肉といふ假の宿に住つてゐるのが、 何だか自分の誤りではないかといふなさけない感情が、再び彼女のうちに甦つて來た。 「どうして!どうして!何もあやまることはないよ。しかし、 君はその美貌を匿《かく》さうとして面紗《ヴエール》をつけてゐるが、 何故それを取らないのかね?」 彼女は急いで次のやうに言ひながら、面紗《ヴエール》を取つた。「これは重に風を除ける爲めだつたんですの。」 「こんな風に命令する僕は、亂暴にやうに見えようが、」と彼は言葉を續けた。 「僕はあまり度々君を見ない方がいい。どんなことにならんとも限らないからね。」 「しつ!」とテスは言つた。 「えゝと、女の顏も今までに、僕を強く支配したんで、今では怖くなつたよ! 傳道者はそんなものには用がないんだ。そして、それを思ふと、忘れたい昔が思ひ出されて來るんだ!」 そのあとでは、彼等の話は段々少なくなり、ぶら〜歩いて行きながら、時たま思ひ出したやうに、 言葉を交はす位ゐなものであつた。テスは、心の中で一體彼は何處まで一緒に行く積りだらうと怪しみ、 またきつぱり命令して歸つて貰ふのも好ましくないと思つた。畑の門や踏段の所へ來ると、 彼等は聖書の文句が、赤や青文字でその上に書かれてゐるのを、度々見つけた。そして彼女は、 誰が骨を折つて、こんな掲示をしたのか知つてゐるか、と彼に訊ねた。 彼は、その男が今の善くない人々の心を動かす事の出來る手段であれば、 たとひ何でも試みずには置かないようにといふ考へから、かういふ警句を書かせる爲めに、 自分を始め自分と一緒にこゝで働いてゐる他の人たちに雇はれてゐるのであると、彼女に話した。 到頭道はクロス・イン・ハンドと呼ばれてゐる地點へ逹した。 吹晒らしの荒涼としたこの高原の場所の中でも、此處が一番淋しい處であつた。 畫家や風景愛好家が、一種の清新な美となつて悲しい調子さへ帶びた消極的な美であると言つてゐる位ゐで、 山川の中に求める魅惑とは全くその趣きを異にしてゐた。この土地の名は、 そこに立つてゐる石柱 -- この地方の何處の石切場にも知られてゐない地層から切り出された、 見馴れない荒い一本石で、その上には人間の手が無細工に刻まれてゐた -- から取つたのである。 その由來と目的については、いろ〜な説があつた。或る識者逹は、嘗つては信仰の十字架がその上に立つてゐて、 完全な形態となつてゐたが、今殘つてゐるものはその土臺石に過ぎないといふのであり、他の識者逹は、 その石はもとから全然今のまゝであつて、境界域は會合の場所を示す爲めに其處へ据ゑられたものであると言つてゐた。 兎に角、この遺蹟の起りが何であらうとも、これが眞ん中に立つてゐる野原のうちには、 見る人の氣分に從つて不吉な又は嚴かな物にも感ぜられたし、また今もさう感ぜられ、 最も感じの鈍い通行人にも感銘を與へずにはゐられない物であつたし、今もさうである。 「もう別れなければならないやうだ、」彼等がこの地點に近づいた時、彼は言つた。 「僕は今晩六時に、アボッツ・サアネルで説教をしなければならない。 だから僕の行く道はこゝから右に折れて行くんだ。それに、君と話してゐたら何だか僕は氣が變になつて來たよ、 テッシイ -- 何故だか僕には言へないし又言ひたくもない。僕は別れて、元氣をつけなければならない…… 君はどうしたわけで、今ぢや流暢に話が出來るやうになつたんだね? 誰がそんな立派な英語を教へたのかね?」 「苦勞してゐる間に、いろんなことを覺えました。」と彼女は濁して言つた。 「どんな苦勞をしたのかね!」 彼女は初めての苦勞 -- 彼に關係のある、あのたつた一つのことを、彼に話した。 ダアバァヴィルは、沈默するより外に仕方がなかつた。それから、 「僕はそれを今まで少しも知らないでゐた!」と彼は呟いた。 「さういふ苦勞が起りさうになつたと思つた時、何故僕に知らせなかつたんだね?」 彼女は答へなかつた。そこで、彼はかう言ひ添へてその沈默を破つた -- 「ぢや -- また會ふことにしよう。」 「いけません、」と彼女は答へた。「これ限り私には近寄らないで下さい!」 「考へて見よう。だが、別れる前に此處へ來てくれ。」彼は石柱の處へ歩み寄つた。 「これは昔|聖十字架《ホーリイクロツス》だつたんだよ。遺蹟などは僕の信條の中にはないが、 折々、僕は君を怖れる -- 今、君が僕を怖れずにはゐられないよりはもつとだよ。 だから、この怖れを無くする爲めに、君の手をあの石の手の上に置いて、 決して僕を誘惑しないと誓つてくれ -- 君の美しさや、素振りで誘惑しないと。」 「まあ呆れた -- 何故そんな必要もないことをしろなんて頼めるんでせう! まるで私には、思ひもつかないことですわ!」 「それはさうだ -- でもそれを誓つてくれ。」 テスは、半ば驚きながら彼のしつゝこい頼みに從つて、その石の上に手を置いて、誓つた。 「君が信者でないのが殘念だ、」と彼は續けた。「誰か不信仰者が君をしつかり捉へて、 君の心を掻き亂さないものでもあるまい。だがもう何も言ふまい。家でなら、 せめて君の爲めに祈れるだらう。また屹度祈らう。どんなことが起らないとも限らない? 出掛けやう。さやうなら!」 彼は生垣の中にある獵門の方へ向つて、二度と彼女には眼を向けずに其處を跳び越え、 その下の原を突き拔けて、アボッツ・サアネルの方へ歩き出した。 彼が歩いて行くところを見ると、その歩調はどこか取り亂してゐた。 やがて恰も昔の考へに動かされでもしたやうに、彼はポケットから小型の手帖を引き出したが、 その間には、幾度も讀み返したものゝやうんい擦り耗《へ》り、汚れて折り疊んだ手紙がはさまつてゐた。 ダアバァヴィルは、その手紙を開いた。それには、今から數ヶ月以前の日付が記され、 クレア師の署名がされてゐた。 その手紙は、始めにダアバァヴィルの改心を聞いた署名者の心からの喜びを述べ、 そのことを自分に知らせてくれた彼の親切を謝してゐた。またそれには、 ダアバァヴィルの昔の行状《おこなひ》に對するクレア師の赦すといふ眞心からの保證も述べてあり、 又この青年の將來の計畫に興味を持つてゐることをも言ひ添へてあつた。彼老クレア師は、 多年その奉仕事業の爲めにつくして來た英國國教々會へダアバァヴィルの入るのを非常に望んでゐて、 その目的で彼が宗教大學へ入學する爲めには、喜んで力になりたがつてゐた。 けれどもこのことが長い期間を要することである爲めに、彼の方で望ましく思つてゐないといふのであつたなら、 師は必ずしもそれがどこまでも重要であるとは主張しなかつた。あらゆる人は銘々働けるだけ働き、 また聖靈に依つて促されたと感ずる方法で働かなければならないとも記してあつた。 ダアバァヴィルはこの手紙を讀み、また讀み、そして、皮肉にも自分を嘲つてゐるやうに見えた。 彼はまた、歩きながら覺え書きの中から數節を讀んだ、もう彼の顏は平靜に返り、 見たところ、テスの幻はもう彼の心を苦しめてはゐないやうであつた。 一方テスは、一番近路になつてゐる丘の端を歩き續けてゐた。まだ一哩も來ないうちに、 彼女はたゞ一人きりの羊飼ひに出會つた。 「私が今通り過ぎて來たあの古い石は、一體何なんでせうか?」と彼女は彼に訊ねた。 「聖十字架《ホーリイクロツス》だつたことがあるんですの。」 「十字架 -- いゝや、十字架なんぞぢやなかつた!ありや縁起の惡いものなんでさあ、姉さん。 ありやね、柱に手を釘づけにされ、その後で縊《しば》り首にされた或る罪人の身内の者が昔建てたんでさあ。 その骨《こつ》があの下に埋まつてらあね。何でも魂を惡魔に賣り渡したとかで、 まだ時々迷ひ歩くんださうですぜ。」 彼女はこの思ひ設けない凄い物語を聞いて、氣が遠くなるやうに感じ、 その一人きりの男を後へ殘したまゝ行つてしまつた。 フリントコム・アッシへ近づいた頃には、邊《あた》りは薄暗くなつて、この小村は入る入口の小徑で、 彼女は先方からは氣づかれずに一人の娘とその戀人とに近づいた。 彼等は格別内證事を話してゐるのでもないらしく、 男のひときは優しい口調に應じる若い女の澄んだ屈託のない聲が、 他の何物にも邪魔されない澱んだ薄闇に充たされた仄暗い地平線内のたゞ一つの爽かな鎭靜劑として、 冷たい大氣の中へ擴がつた。ちよつとの間、この聲はテスの氣持を愉快にしたが、 やがて彼女は、この媾曵《あひびき》も、 今の自分の苦痛を引き出す序曲であつた同じ愛着をどちらかゞ感じたのが元であると解釋して、 愈々近づくと、娘の方は落着き拂つて振り向いて彼女を認めたが、 若い男はばつが惡さうに行つてしまつた。女はイズ・ヒュウエットで、 テスの旅に對して抱いてゐた興味が急に湧きつのつて來て、 今までの自分のことなぞはそつちのけにしてしまつた。テスは旅の結果をはつきり説明しなかつた。 それで如才ないイズは、たつた今テスが見た事に關係のある自分自身の取るに足らない事件のことを話し出した。 「あれは、アムビイ・シードリングつてつて、時々タルボセイズへ手傳ひに來た男なの、」 と彼女は平氣で説明した。「わざ〜たづね廻つてね、私が此處へ來てゐることを突きとめて、 跡を追つて來たのよ。この二年といふもの、私を戀してゐたんだつて。 でも、私|碌《ろく》に返事もしてやらなかつたわ。」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十六 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 空しく終つたあの旅から、もう數日が過ぎた。そしてテスは野良へ出て働いた。 冬のから風は猶ほ吹いてゐたが、風に逆らつて建てられた柴疎籬《しばがき》が屏風のやうになつて彼女を防いだ。 屋根のある側には蕪菁《かぶら》切りの機械が据ゑつけてあつて、 その新しいペンキのぎら〜輝く青い色は、それがなければ、すつかり沈みきつてゐる景色の中に、 謂はゞ聲を與へてゐるやうにも見えた。その正面の眞向うには、冬の始めから食用|根蕪菁《ねかぶら》の根を圍つてある細長い塚で、 『穴倉』とも言はれるものがあつた。テスは屋根のない一端に立つて、 鉈鎌《なたがま》で細根や土を一つ〜の根から削り取り、それを綺麗にとりきると、 根を蕪菁切りの機械の中へ投げ込んでゐた。一人の男が、その機械の把手《ハンドル》を廻してゐたが、 その桶からは切りたての蕪菁が出て來て、黄色い切口から發散する新鮮な香は、 ふう〜鳴つてゐる風の音や、削刄《そぎば》の氣持のよい音や、 それから革手袋を嵌めたテスの手にある鉈鎌の音などに伴つて邊《あた》りに漂つた。 蕪菁が拔き取られて、見たところ何も生えてゐない農業地らしい褐色の廣い耕地は、 一層濃い褐色の條《すぢ》が引かれかけ、それが次第に擴がつて丁度リボンのやうになつた。 かういふリボンの筋の一つ〜の端に沿つて、急がず休まずに何かゞ十本足で這ひ廻り、 畑一面を彼方此方と動いてゐた。それは犁《すき》を間に挾んだ二頭の馬と一人の男で、 春の種蒔きの爲めに、何も生えてゐない土を掘り返してゐるのであつた。 幾時間經つても、この喜びのない周圍の單調を破るものは何一つなかつた。 やがて、土を耕してゐた並んでゐる馬の遙か向うに、一點の黒いものが見えた。 それはちよつと切れ目のある生垣の一角から出て來て、坂を登つて蕪菁切りをしてゐる人たちの方へ向つて來るらしかつた。 ほんの點位ゐの大きさだから、だん〜大柱戲《だいちうぎ》の柱のやうな形になり、 程なく、フリントコム・アッシの方向から來た黒衣を着た男であることが分つた。 蕪菁切りの機械を廻してゐた男は、その仕事以外には何も眼にする用事がないので、 このやつて來る男を始終眺めてゐた。けれども、仕事に氣を取られてゐたテスは、 彼女の仲間がその男の近付いて來たことを彼女に注意するまでは、その男に氣がつかなかつた。 來たのは苛酷な監督の百姓グロビーではなかつた。これは、以前は自由で呑氣だつたアレク・ダアバァヴィルの生れ變りの、 今では半ば牧師の裝ひをした男であつた。説教に熱してゐる時とは違つて、 今の彼には左程の熱心さはなく、それに蕪菁切り機械廻しの男がゐるので、極《きま》りが惡いやうな風であつた。 テスの顏にはもう蒼白い悲しみの色が現はれた。そして彼女は、埀布つきの頭巾を顏に一層深く引き下ろした。 ダアバァヴィルは近づいて、靜かに言つた -- 「僕は君に話したいことがあるんだよ、テス。」 「あなたは、私には近寄つて下さらにといふ、私のこの前の頼みを無駄にしてしまいましたね!」と彼女は言つた。 「さうだ。だが、それには相當な理由があるよ。」 「さうですか。ぢや、それを言つて下さい。」 「君が思ひつくよりも、ずつと大事なことなんだ。」 他人《 ひと》に聞かれはすまいかと、彼は邊《あた》りを見廻した。彼等は、 蕪菁切りの機械を廻してゐる男からは可なり離れてゐたし、 それから機械の運動もまた、アレクの言葉が他の耳に入るのを十分防いでゐた。ダアバァヴィルは、 テスがその勞働者から見えないやうな具合に陣取つて、それに背を向けた。 「實はかういふ譯だ、」と彼はほんの氣紛れに後悔してゐるやうな態度で續けた。 「この前僕たちが會つた時には、君や僕の魂のことを考へてゐたんで、 君の暮し向きのことに就いて訊ねることをすつかり忘れてゐた。 君が立派な身裝《みなり》をしてゐたんで、僕はそんなことを考へなかつたんだ。 だが、可なり酷いんだといふことが今分つた -- あの時よりももつと酷いことを、 丁度僕が -- 君を知つたあの時よりも -- 君にしては酷すぎる程なんだね。それも、 大部分は僕に責任があるんだらう!」 彼女は答へなかつた。そこで、顏を頭巾ですつかり覆うてゐる彼女が頭を埀れて再び蕪菁の細根を取り始めた時、 彼は不審さうに見守つた。彼女は、仕事を續けてゐさへすれば、ずつと自分の感情を彼に煩はされることが少ないと思つた。 「テス、」と不滿らしい溜息を一つして、彼は言ひ添へた -- 「これまで僕の關係したうちでも、 君の場合が一番ひどかつたんだ!僕は君に言はれるまで、そんな結果なつたとは少しも知らなかつたんだ。 あんな罪のない生命を汚すなんて、僕は何んて惡黨だつたんだらう!責任は一切僕にあつたんだ -- 僕たちのトラントリッヂ時代の、並外れた事柄の責任はね!君もまた君だよ、君こそ眞性の血統の者で、 僕なんかは賤しいその贋物に過ぎないのに、大體どんな結果になり行くかも知らないなんて、 何といふ先の見えない若い女だつたんだらう!僕は實際眞面目に言ふが、動機がよくつても、 或は單に無頓着の結果からであるにしても、 放埒な者共が張つて置くかも知れない係蹄《わな》や網のことも知らないで危つかしくその娘を育てるといふことは、 親逹の恥だと思ふよ。」 テスはやはりたゞ聽いてゐるばかりで、相變らず自動的に規則正しく、 一つの球根を投げ落してはまた別のを取り上げてゐた。 從つて、たゞの百姓女が打ち沈んでゐる輪廓を現はしてゐるといふ風であつた。 「だが、そんなことを言ひに來たんぢやないよ、」とダアバァヴィルは續けた。 「僕の境遇はまあかうなんだ。君がトラントリッヂを去つてから、僕は母を亡くし、 あの屋敷は僕のものになつた。だが、僕はあれを賣り拂つて、亞米利加で傳道事業に身を捧げようと思つてゐるんだ。 その事業にかけて、僕は非常に下手なことは疑ひないよ。けれども、 僕が君に頼みたいのは、ね君、どうか僕の義務 -- 君を弄んだ惡戲《いたづら》に對して、 僕に出來る唯一の償ひを、僕の力で果させてはくれないか -- つまり、ね君、どうか僕の妻になつて、 僕と一緒に行つてはくれないか?……僕はもうこの大切な書類まで手に入れてゐるんだ。 それは老母の臨終の願ひだつたんだ。」 極《きま》り惡げにちよつとひねり廻しながら、彼はポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。 「それは何んですの?」と彼女は言つた。 「結婚の許可證だよ。」 「駄目です、あなた -- 駄目です!」彼女はびつくりして後退《あとしざ》りしながら、急いで言つた。 「君は厭だつて言ふんだね?どういふわけだね?」 そして、彼がその質問を發した時、義務を果せないといふ失望ではない或る失望が、ダアバァヴィルの顏を掠めた。 それは間違ひもなく、彼女に對する昔の情慾とでもいふものが復活した兆候であつた。 義務と慾望とが手を取り合つて走つてゐた。 「屹度、」と一層もどかしげな調子で、彼は再び言ひ始め、それから蕪菁切りの機械を廻してゐる勞働者を振り向いて見た。 テスもまた、此處では話に結末がつかにと感じた。一人の紳士が會ひに來たので、 その人とちよつと其處らを歩いて來たいとその男に告げて、 彼女はダアバァヴィルと一緒に縞馬のやうな斑《しま》の出來た畑を横切つて、立ち去つた。 二人が新しく犁《す》きかへされたところに來た時、彼は手を差し出して、 彼女がそこを越えるのを助けてやらうとした。が彼女は、恰も彼には氣付かないやうに畝また畝の上を飛び越えて進んだ。 「君は僕と結婚してくれないんだね、テス、そして、僕を自分に恥ぢない人間とはしてくれないんだね?」 彼等が畝を通り越してしまふと、彼は繰り返した。 「私、出來ないんですの。」 「だがどういふわけで?」 「御存じの通り、私、あなたに對しては、ちつとも愛情がないんですもの。」 「でも、時が經てば君もそれを感ずるやうになるだらう?恐らく -- 君が本當に僕を赦すことが出來るやうになると直ぐに。」 「いゝえ、決してなれませんわ。」 「何故さう頑固なのかなあ?」 「私は他の方を愛してゐますもの。」 この言葉は彼を吃驚させたやうに見えた。 「さうか?」と彼は叫んだ。「他の人を?だが、道徳上に正しいとか正當だとかいふ考へは、 君には何の力もないんだらうか?」 「さうです、さうです、さうなんです -- そんなことは仰しやらないで下さい!」 「ぢや、どうせ、その人に對する君の愛だつて、ほんの一時の感情で、 今に君が壓倒してしまふかも知れやしない -- 」 「いゝえ -- いゝえ。」 「さうだとも、さうだとも!さうでない譯はないぢやないか?」 「それをあなたにお話しするわけには行きません。」 「言はなければ君の名譽に關はるぢやないかね!」 「ぢや申しますが……私、その方と結婚しました。」 「えゝ!」と彼は叫び、急に立ち止つて、ぢつと彼女を眺めた。 「私、言ひたくはなかつたんです -- 言ふつもりはなかつたんです!」と彼女は辨解した。 「そのことは、此處では内密にしてあるんです。内密でないまでも兎に角薄々しか知れてゐないのですわ。 そんなわけですから、どうか、お願ひしますから、私に何も訊かないで下さい! そして私たちは今では他人同志だといふことを、忘れないでゐて頂かなければなりませんわ。」 「他人同志 -- 僕たちがかい?他人同志!」 その瞬間、彼の昔の皮肉がその顏に閃めいた。しかし、彼はそれを全く抑へてしまつた。 「あの人が君の夫なんかね?」手眞似で、蕪菁切りの機械を廻してゐる男を指しながら、 機械的に彼は訊ねた。 「あの人ですつて!」と彼女は昂然として言つた。「まさか、さうぢやないわ!」 「ぢや、誰とだね?」 「私の言ひたくないことは、訊ねないで下さい!」と彼女は頼んだ。 そして彼女の仰向いた顏と睫毛《まつげ》の深い眼からは、彼に對して哀願するやうな光が閃いた。 ダアバァヴィルは當惑した。 「しかし、僕はたゞ君の爲めに訊ねたんだ!」と躍起となつて、彼は言ひ返した。 「あゝ、神樣どうぞ -- こんな言葉を使つては相濟まない次第だが、 -- 僕は、誓つて言ふが、 全く君の爲めを思つて此處へやつて來たんだよ。テス -- そんな風に僕を見ないでくれ -- 僕は君に見詰められると耐へられないんだ!さういふ眼は、基督以前にも以後にも、確かになかつたよ! さうだ -- 僕はあわてたくはない、どうしてもあわてたくはない。白状するが、君を見たんで、 君に對する愛情が眼をさまして來たんだ。それから起る一切の感情と一緒に消滅してしまつたものと信じてゐたのに。 しかし、僕は、結婚に依つて、僕等二人は淨化されるだらうと思つてゐた。 『不信の夫は妻に由りて潔くなり、不信の妻は夫に由りて潔くなればなり。』 (哥林多人前書第七章十四節)と僕は獨言《ひとりごと》を言つた。しかし、この考へも叩き落されてしまつた。 そして、僕はそれから來る失望に堪へなければならないんだ!」 彼は眼を地上へ落して、不機嫌に考へ込んでゐた。 「結婚した、結婚した!……さうか、さういふことなら、」 と許可證を靜かに二つに引き裂いてポケットへ押し込みながら、全く落着いて彼は言ひ添へた。 「結婚が駄目になつたものとすれば、僕は君と、たとひどういふ人であるにもしてもその夫に、 何か爲めになることをしたい。まだ澤山訊きたいことがあるけれども、無論、 君の意志に逆らつてまで訊かうとは思はない。が、君の夫を知ることが出來たら、 僕はもつとたやすくその人と君の爲めになるかも知れないんだ。 その人はこの農場にゐるのかね?」 「いゝえ、」と彼女は呟いた。「遠方へ參つてゐますの。」 「遠方へ?君を置いてか?どんな夫なんだらう、その人は?」 「あゝ、あの人の惡口を言はないで下さい!かういふことになつたのも、あなたのせゐです! あの人に私たちのことが分つてしまつたんです -- 」 「えゝ、さうか!……そりや氣の毒なことだ、テス!」 「えゝ。」 「だが、君を置き去りにして -- 君をこんなに働かして置くなんて!」 「あの人が私に働かせてゐるんぢやありませんわ!」と彼女は、 胸の底からの熱情を示し目の前にゐない人を庇《かば》はうと、跳び立つて叫んだ。 「あの人はこのことを少しも知らないんです!私だけの勝手な考へから、こんな事をしてゐるんですの。」 「ぢや、手紙を寄越すのかね?」 「私 -- 私、あなたには言はれません。私たちの間だけで、 他人には言へないことが色々ありますから。」 「勿論、寄越さないといふ意味なんだね。君は捨てられた妻なんだ、ねえテス!」 彼は衝動に驅られ、突然振り向いて彼女の手を取つた。その手には水牛皮の手袋が嵌《はさ》まつてゐたので、 彼はその中にある手の生命の形も現はしてはゐない、手觸りの惡い革の指を掴んだだけであつた。 「いけません -- いけません!」ポケットからでも拔くやうに、その手袋からするりと手を引き拔き、 手袋だけを彼の手に握らせたまゝ、彼女は恐ろしさうに叫んだ。「あゝ、どうか行つて下さい -- 私と、私の夫の爲めに -- 行つて下さい、あなた御自身の基督教の御名に代つてお願ひします!」 「あゝ、あゝ、行くよ、」と彼は唐突《だしぬけ》に言つた。それから手袋を彼女に突き返して、 向き直つて行かうとした。けれども再び振り向いて彼は言つた。「テス、神はよく知つておいでだが、 僕は、君の手を取つたからといつて、君を騙さうとしたんではないよ!」 自分たちのことばかり氣を取られてゐたので、今まで彼等の氣づかなかつた畑の土を打つ蹄の音が、 すぐ背後で止つた。そして次のやうな聲が彼女の耳に聞えた -- 「一體全體お前は何をしてゐるんだ。今時分、仕事を放つたらかしにして置いて?」 百姓のグロビーは、もう遠くから二つの姿を見附け、一體畑で何をしてゐるのか、 それを知りたくて馬を乘りつけたのであつた。 「この娘にそんな物の言ひ方をしないでくれ!」とダアバァヴィルは、 顏を基督教徒らしくない或る表情にくもらして、言つた。 「なあるほどね、旦那!それで、一體メソヂストの牧師さんが、この娘に何の用があるつてんですかね?」 「此奴《こいつ》は一體誰だい?」とテスの方を振り向いて、ダアバァヴィルは訊ねた。 彼女は彼のすぐ側へ寄つて行つた。 「行つて下さい -- お願ひしますから!」と、彼女は言つた。 「何だつて!あの壓制者に君を任せて行けつて?どれ程|彼奴《あいつ》が下等であるかは、 すつかり彼奴の顏に書いてある。」 「あの人は私に手荒なことはしやしません。あの人に限つて、 私を思つてもゐませんよ。私、告知節の日には、此處を出ることが出來ます。」 「分つた。僕は言ふことを聞くより外に、何の資格もなささうだ。しかし -- まあいゝ、さよなら!」 彼女を責める者も怖かつたが、もつと怖い守つてくれる者が厭々ながら其處を去つてしまふと、 百姓は、なほ小言を續けたが、それは男女の事とは全然關係のない攻撃であつたから、 テスは非常に冷靜にそれを受けてゐた。 擲《なぐ》らうと思へば彼女を擲《なぐ》るかも知れないこの石にやうな男を主人とすることは、 以前の經驗の後では、一つの安堵と言つてもよかつた。彼女は仕事の舞臺である畑の頂上の方へ、 默つて引つ返した。丁度いま終つたばかりの會合にすつかり心を奪はれてゐたので、彼女はグロビーの馬の鼻が、 殆んど自分の肩に觸れてゐたのも知らない位ゐであつた。 「告知節の日まで働くつて、さう約束するからにや、見事にやり終せるかどうか見てゐてやるぞ、」と彼は怒鳴つた。 「女つていふ奴ァ當《あて》になんねえからなあ -- 今かう言ふかと思へば、今度はあゝだと吐《ぬ》かすんだ。 だが、もう〜我慢しちやゐねえぞ!」 一度言ひ負かされたことのある怨恨《うらみ》から自分をいぢめる程この農場にゐる他の女たちをいぢめはしないことを、 テスはよく知つてゐたから、 彼女は金持のアレクの妻になつてくれと、たつた今言はれたばかりの申し込みを受けられる境遇で進んで受けたとしたら、 その結果はどうであらうと、ちよつとの間想像して見た。さうすれば、 たゞ彼女の現在の苛酷な雇主に對してばかりでなく、 彼女を輕蔑してゐるやうな世間に對する屈從から全く脱するやうになるであらう。 「でも、いけない、いけない!」と息を切らしながら、彼女は言つた。 「今あの人と結婚してしまふ譯になんか行かない!私には本當に厭な人だ。」 その夜すぐ、彼女はクレアに自分の苦しい境遇を打ち明けないで、 變らない愛情を誓つて訴へるやうな手紙を書き始めた。 言外の意味を汲み取ることの出來るほどの者ならば、誰でも、彼女の大きな愛の後に、 打ち明けられてゐない祕密なことが起るかも知れないといふ、或る異常な恐怖 -- 殆んど絶望といつてよいもの -- が潛んでゐるのを看破つたことであらう。が、彼女はまた、 自分の衷情《ちうじやう》は吐露しないでしまつた。あの人は、イズに同行を求めたことがあつたのだ。 だから大方自分を少しも思つてはゐないに相違ない。彼女はその手紙を、自分の箱の中へ收めた。 そして、それがエンヂェルの手に屆くやうなことが、これから先にもあるだらうかと訝《いぶか》つた。 このことがあつてから、彼女の毎日の仕事は隨分烈しかつた。やがて、農夫に取つては極めて大事な日 -- 聖燭節の市の當日(二月二日で、基督が生れた時シメオンが、「異教の徒を明るくする光、 イスラエル人の光榮」といつたのに起る。教會で使ふ蝋燭を聖別するといふのがこの儀式の仕事である)となつた。 次の告知節から一二ヶ月間の新しい契約が結ばれるのはこの市であつて、農業勞働者の中でも、 自分の働く場所を取り換へたいと思つてゐる者は、時機を外さずにこの市の開かれる田舎町へ出て行つた。 フリントコム・アッシ農場の勞働者たちの殆んど全部が、其處を逃げ出さうとしてゐたので、 早朝に小山續きの地方を越えて、十哩から一二哩ほど先にあるその町の方へ多くの人々が出掛けて行つた。 その町へ行かないものは極く僅かであつたが、テスもその一人であつた。 彼女もまた春の支拂日には、無論此處を出るつもりでゐたが、 再び戸外の仕事に雇はれる必要のなくなるやうな事が何か起りはしないか、といふ、 漠然と生じた希望を持つやうになつたからであつた。 もう冬は終つてしまつたのかと思はれるばかりの、この季節にしては不思議に穩かな二月の一日であつた。 彼女がやつと晩飯を濟ましたか濟まさない位ゐの時に、下宿の一人となつて今日は彼女がたつた一人で占領してゐた田舍家の窓に、 ダアバァヴィルの姿が影を投げた。 テスは跳び立つた、けれども訪問者は、もう扉をノックしてゐたので、どうしても逃げ出すことは穩當でなかつた。 ダアバァヴィルのノックや、扉口《とぐち》へ歩み寄つた足の調子には、 この前彼女が會つた時の彼の樣子から見ると、何と言つていゝか分らない或る性質の相違があつた。 それは本人が、恥ぢてゐる行爲のやうであつた。最初彼女は扉を開けまいと思つたが、 さうするのも矢張り無分別の仕方だつたので、彼女は起ち上り、 [金|(撰%>);#2-91-37]《かけがね》を上げておいて急いで後へ退《さが》つた。 彼は先づ入つて來て彼女を見、それから口を開く前に、一脚の椅子へどかりと掛けた。 「テス -- 僕はやつて來ずにはゐられなかつたんだ!」と彼は、ほてつてゐる顏を拭いて、 絶望的に切り出した。その顏にはまた、興奮の赧らみが加はつてもゐた。 「僕は少くとも君の安否を訊きにでも來なければ、濟まないと感じたんだ。 實際、僕はあの日曜日に君を見るまでは、君のことなど考へてはゐなかつたよ。 それが今では、どんなに努めてみても、君の面影を拂ひ除《の》けることが出來ないんだ! 善良な女が、惡い男の氣を害するなんていふことのある譯がない。けれども、實際はさうなんだ。 若し君が僕の爲めに祈つてだけでもくれたなら、テス!」 不滿を抑へつけてゐる彼の樣子は、殆んどいたましいくらゐであつたが、それでもテスは、 彼を哀れには思はなかつた。 「世界を動かす大きな『力』が、私の爲めにその計畫を變へると信じることを、禁じられてゐるのに、」 と彼女は言つた。「どうしてあなたの爲めに祈れませう?」 「君は本當にさう思つてゐるのかね?」 「えゝ、さうです。生意氣にさうでないと考へるのを直されましたから。」 「直されたつて?誰に?」 「どうしても言つてしまはなければならないんなら申しあげますが、私の夫からです。」 「あゝ -- 君の夫 -- 君の夫!實に厭だ!何日《いつ》かも、君が何かそんなことを仄めかしたのを憶えてゐる。 かういふ事柄について、君は實際何を信じてゐるんだね、テス?」と彼は訊ねた。 「君は全然宗教を持たないやうだ -- 恐らくそれも僕の爲めだらうが。」 「でも、私にはありますわ。尤も、人力以外のことなど何んにも信じないけれど。」 ダアバァヴィルは、疑はしさうに彼女を見た。 「ぢや、僕の取つてゐる方針は、皆間違つてゐると君は思ふんだね?」 「大部分はね。」 「ふん -- しかし、僕はそれをもう確實に信じてゐるんだよ。」と彼は不安らしく言つた。 「私は、『山上の埀訓』の精神は信じてゐます。また私の愛する夫もその通り信じました!…… だけど、私は信じません、あの何を -- 」 こゝで彼女は、自分の否定説を洩らした。 「僕は、」とダアバァヴィルは無愛想に言つた。「君の愛する夫の信じたものは何に依らず君も信じ、 彼の斥けるものは何の依らず君も斥け、君自身では少しの穿鑿もせず、或は追究もせずにゐるんだね。 それは全く君たち女のしさうなことだ。君の心は、彼の奴隸になつてゐるんだ。」 「えゝ、あの人は何でも知つてゐるから!」どんなに完全な人でも、 況《ま》して夫などゝするには自分に資格のないエンヂェル・クレアを信ずる得意な、 單純な調子で、彼女は言つた。 「さうか。だけど、他人の否定説を、そんな風に頭から受け容れてしまふもんぢやないよ。 君にそんな懷疑説を吹き込むなんて、その男は、しつかりした者に違ひないな!」 「あの人は、私の意見を無理に強ひるやうなことは決してなさいません!あの人は、 この問題で私と論じようなどとは決してしませんでした。それでも、こんな風に、 私はその問題を考へたんです。教義を深く調べた後にあの人が信ずるやうになつたものは、 教義などをまるで覗いたこともない私が大方信じるやうなものよりは、ずつと正しいことだと。」 「何時もどんなことをその人は言つてゐたかね?何か知ら言つたに違ひないが?」 彼女は思ひ返して見た。エンヂェル・クレアの言つた言葉の精神を諒解しなかつた時でも、 その字句を正確に記憶してゐたので、 彼が折にふれ彼女を側に置いて獨言《ひとりごと》を言ひながら頻《しき》りと考へ込んでゐた時、 彼女は、彼の用ひる容赦のない論爭的な三段論法に耳傾けてゐたので、今それを思ひ出した。 それを述べる時には、彼女もまた愼重に忠實にクレアの調子や態度を現はした。 「もう一度それを言つてくれよ、」と、非常に注意を凝らして聽いてゐたダアバァヴィルは言つた。 彼女はその議論を繰り返した。それからダアバァヴィルは、彼女の後に隨《つ》いて、 その言葉を考へ深さうに呟いた。 「外には何もないのかね?」と彼はやがて訊ねた。 「或る時は、何かこんなやうなことも言つてましたわ。」彼女は他の一つを述べたが、 それは恐らく、『哲學辭典』(ボルテール著)からハックスリイ(一八二五 - 九五年、生理學比較解剖學の大家で、 無神論者。ボルテールも無神論者)の『論文集』に亙る系統の多くの書物には、往々有り勝ちなものであつた。 「あゝ -- まあ!どうして君はそれを覺えてゐるんだね?」 「私はあの人が信じることを信じたかつたからです。尤もあの人は、私にさうせたがつた譯ではないんですの。 そして私は、うまく取り入つて、あの人の考へを少しばかり話して貰ひました。 それを私十分に理解してゐるとは言へませんが、それが正しいつてことは知つてますの。」 「ふん、君は自分で知らないことを、僕に教へられるてんだね!」 彼は考へ込んだ。 「で、私は精神上の運命をあの人と共にすることにしたんですわ、」と彼女は續けた。 「私はそれは違《たが》はして置きたくなかつたんです。あの人にとつていゝことは、 私にとつてもいゝことなんですもの。」 「その人は、君がその人にも劣らない甚だしい異端者だつていふことを知つてゐるのかね?」 「いゝえ -- 私、一度だつてあの人に話したことなんかありませんの -- 私が異端者であるかないかなんて事は。」 「なるほど -- 結局、君は今日では、僕よりも仕合せなんだよ、テス!君は、 僕の教義を説教すべきものとは信じてゐないんだ。で、それを控へたからつてちつとも君の良心を辱しめやしないんだ。 僕はそれを説教すべきだと信じてゐるが、惡魔のやうに信じ、且つ恐れ戰《おのゝ》いてゐるんだ。 といふのは、僕がそれを説教するのを急に止めて、君に對する情慾に負けてしまふからだ。」 「どうして?」 「だつて、」と彼はぶつきら棒に言つた。「僕は長い道中を此處まで今日君に會ひに來たんぢやないか! が、家を出る時はキャスタブリッヂの市へ行くつもりだつたんだ、僕は今日午後の二時半に、 彼處《あすこ》で荷馬車の上から『道《ことば》』を説くことを引き受けてゐたからね。 そして丁度今時分、其處では同胞たちが皆僕を待つてゐるんだ。これが廣告だよ。」 彼は胸ポケットから、前に述べた通りダアバァヴィルが『福音』を説く筈の、 日時及び會合の場所の印刷されてゐる一枚のポスターを引き出した。 「でも、どうして其處へ行けますの?」と時計を眼にしながら、テスは言つた。 「僕は、其處へ行けやしないよ!此處へ來てしまつたんだから。」 「何ですつて、あなたは説教するやうに本當に定めて置いて、それで -- 」 「僕は説教をするやうに定めて置きながら、其處へ行かないんだ -- 自分で一度は賤しめた一人の女に會ひたい燃えるやうな慾望の爲めにね! -- いや、言葉にかけ、眞實にかけて、僕は君を決して賤しめはしなかつた。 若し賤しめてゐたら、今このやうに君を愛せる筈はないんだ! 僕が君を賤しめなかつた理由は、いろ〜な事があつたに拘らず、 君が少しも汚れてゐない爲めなんだ。君は自分の立場を知ると、 早速また僕から身を退《ひ》いてしまつた。僕の好き勝手になつてはゐなかつたんだ。 それで、この世の中に、僕にはどうあつても輕蔑の出來ない女が一人あつた。 そして君こそ、その女なんだ。しかし、君が今僕を賤しめるのは、尤もなことだ! 僕は、自分が山上で禮拜してゐるものと思つてゐたのに、まだ森に仕へてゐる事が分つたよ!はゝゝ!」 「おゝ、アレク・ダアバァヴィル!それはどういふことなんです?私、何をしたんでせう?」 「したんでせうだつて?」と彼はこの語に卑しい冷笑を含ませて言つた。 「何もしてうぃないよ、故意にはね。だが、君は僕のあの、所謂墮落の仲立ち -- 知らずして仲立ちとなつたんだ -- 僕は本當に、あの、『世の汚れを脱《のが》れ、また之に累はされて、 打ち勝たれた』 -- その後の結果はその初めよりも惡い -- 『敗徳の下僕《しもべ》』たちの一人なのだらうか? と、自問する。」彼は彼女の肩へ手をかけた。「テス、ねえ、僕は、君を再び見るまでは、 少くとも社會救濟へ向ふ途上にあつたんだ!」彼は、恰も彼女が子供でゞもあるやうに、 頓狂に彼女を搖ぶりながら、言つた。「で、何故君はあの時僕を誘惑してしまつたんだね? その眼とその口とを再び見るまでは、僕は男として十分しつかりした者だつたんだ -- 確かに、イヴの口以來、これほど人の心を狂はす口は決してなかつた!」彼の聲は沈み、 彼の黒い眼からは、熱した狡猾《ずる》い光を閃めき出した。「この魔性の女、テス、 この可愛いバビロンの妖婦(富と贅澤とを極めたバビロンの町の艷麗な女といふ意) -- を再び見るや否や、僕は君に刄向ふことが出來なくなつたんだ!」 「あなたが私に再びお會ひになるのを、私だつてどうする譯にも行かなかつたんです!」と、 彼女は身を退きながら言つた。 「そのことは分つてゐる -- 繰り返して言ふが、僕は君を責めちやゐない。が、事實は矢張り元の儘だ。 あの日、畑で君が虐待されてゐるのを見て、君が保護すべき法律上の資格を僕は持つてゐないことを -- これを持つことを出來ないことを思ひ、一方それを持つてゐる人は、全く君を顧みないらしいことを思ひ、 僕は氣が狂ひさうだつた。」 「あの人を責めないで下さい -- あの人は今こゝにゐないんですから、」と彼女は非常に興奮して叫んだ。 「正しく扱つて上げて下さい -- あの人は一度もあなたに仇をなすつたことはないでせう! あゝ、あの人の正しい名に傷をつけるやうな、何か淫らな噂の廣まらないうちに、 その人の妻のところを去つて下さい!」 「行くよ -- 行くよ、」と彼は迷夢から醒めかけた者のやうに言つた。 「僕は、あの市で憐れむべき醉拂ひの馬鹿者共に説教すべき約束を破つてしまつた -- こんなほんとに惡戲《いたづら》をしたのはこれが始めてだ。一月前だつたら、 こんなことを思つただけでも僕は慄へ上つてゐたんだらう。僕は行かう -- 誓ひを立てる爲めに -- そして -- あゝ、僕に出來るだらうか!遠ざかつてゐることなどが。」 それから不意に -- 「たつた一度、テッシイ -- たつた一度!ほんの昔の友逹甲斐に一度、 お別れにこの腕へ -- 」 「私には今どうする事も出來ないんです。アレク!私は立派な方の名譽をこの手にお預りしてゐるんです -- 考へて見て下さい -- 恥ぢて下さい!」 「ちぇッ! -- なるほどね、さうだ -- さうだとも!」 自分が弱いのを殘念がつて、彼は唇を噛み締めた。彼の眼は、世俗的の信仰も宗教的の信仰も、 同じやうに現はれてゐた。彼は、改宗して顏の皺の中に眠つてゐたあの昔の發作的な情慾の屍が、 復活の時のやうに眼を醒まし、一度に集つて來るやうに思はれた。そして、思ひ切り惡く出て行つた。 今日の約束をこんな風に破つたのは、一信者のちよつとした墮落だとダアバァヴィルは公言してゐるものゝ、 エンヂェル・クレアの言葉をそつくり鸚鵡返しにして出したテスの言葉は、 彼の心に深い印象を與へて、別れて後も尚ほ彼の心を動かしてゐた。 自分の立場が危くなるといふ、つひこれまでは夢にも思はなかつたことが生じて來たので、 元氣がすつかり麻痺させられでもしたやうに、彼は默つて進んで行つた。 彼の氣紛れな改宗は、もと〜理性とは何の關係もないことだつた。それは恐らく、 新しい感覺を求めて歩く輕率な人間のたゞの醉狂に過ぎず、また母の死に會つて、 一時感動した結果であつたのだ。 テスが彼の熱狂の海に落してやつた二三滴の理窟は、その沸騰する熱を却つて冷して固くするに役立つた。 彼女が彼に傳へた結晶になつてゐる言葉を、再三再四考へながら、彼は獨言《ひとりごと》をいつた。 「あの悧巧な男は、あの女にあゝいふことを言つて、 俺があの女へ戻る道を開いてゐようとは夢にも思はなかつたんだ!」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十七 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- それは、フリントコム・アッシ農場の一番終ひまで殘つた麥堆《むぎむら》の打穀《むぎうち》である。 三月の朝の夜明けは不思議にぼんやりしてゐて、東の地平線が何處にあるかを知らせるものもない。 麥堆《むぎむら》の梯形《ていけい》になつた頂上が、薄闇にくつきり浮き上つてゐる。 それは冬の雨風に洗はれ、晒され通して、寂しく此處に立つてゐたのであつた。 イズ・ヒュウエットとテスとが仕事場へ着いた時には、僅かにがさ〜いふ音のみが、 彼等より他の者が先に來てゐることを示してゐた。明るさが増して來るに連れて、 やがて堆積《やま》の絶頂に二人の男の影法師が映つた。 彼等は忙《せは》しさうに麥堆の『屋根下ろし』をして、 麥束を投げ落す前の用意として葺草《ふきぐさ》を剥ぎ取つてゐた。 そしてこの仕事が進行してゐる間に、イズとテスは薄茶色の前掛を掛けた他の女勞働者と一緒に、 ぶる〜顫へながら、其處に立つて待つてゐた。 それは百姓のグロビーが出來ることならばこの日暮れまでに仕事を片付けてしまふつもりで、 そんなに早くから彼等を此處に無理に來させたのであつた。 麥堆《むぎむら》の軒の直ぐ下には、まだやつと見えるか見えない位ゐだが、 女たちが來てこれから仕へようとしてゐる眞赤な暴君 -- 材木で組立てられた革紐と車輪のついた機械で、 それの動いてゐる間はどこまでも女たちの筋肉や神經の力を勝手にいつまでも働かさうとする打穀機 -- が据ゑてあつた。 少し離れた處にもう一臺のぼんやりした姿が見えた。この方は眞黒で、しゆう〜とはぢきれさうな音を吐き續けて、 いかにも力を澤山貯へてゐることを物語つてゐた。 楡《にれ》の樹の傍に突き出てゐる長い煙突とそこから上る温氣《うんき》とは、 そんなに日光の力を借りないでも、この小さい世界の『主腦動力』となつて活動する機械が此處にあることを説明してゐた。 この機械の側には、煤《すゝ》けて汚れ切つた背高《せいたか》といふものゝ生れ變りかと思はれる一人の黒い動かない人間が、 側に石炭を山と積んで、ぼんやりと立つてゐた -- それは機關手であつた。 彼の風采や顏色は飛びはなれて變つてゐるので、土着のものを驚かし騷がす爲めに、 わざ〜まるで違つた黄色い穀物と黄色い土壤とから成つてゐるこの地方の、 一筋の煙さへない透明な空氣の中へ彷徨《さまよ》ひ込んで來たトーフェット (猶太人が子供を犧牲に捧げて仕へたといふ火神を祠つたエルサレムの谷)の生物か何かのやうな姿を彼に與へた。 姿に現はれた通りのものを彼は感じてゐた。彼は農業界にこそゐたが、その世界の者ではなかつた。 こゝの野良の者は、蔬菜《そさい》や風雨や霜やそれから太陽に仕へてゐたが、 彼は火と煙に仕へてゐた。彼は自分の機械を持つて農場から農場へ、 地方から地方へと渡り歩いた。といふのは、まだウェセックスのこの邊では、 蒸汽の打穀機は巡囘的なものであつたからである。彼は聞き馴れない北部地方の調子で話し、 その考へは内に向つて、自分のことばかりを思ひ煩ひ、 彼の視線は自分の鐡製機械の上に向いて周圍の光線などには殆んど氣づかず、 又さういふものには、まるで一顧をも拂はなかつた。そして土地の者とは是非とも必要な交りだけをして、 恰も或る古くからの宿命に從つて厭でも火界の魔王である主人へ奉仕する爲めに此處を徘徊してゐるものゝやうであつた。 彼の機械の車輪から、麥堆の下にある眞赤な打穀機に繋がつてゐる長い帶革が、 農業と彼との間をつないでゐるたつた一つの聯絡線であつた。 彼等が麥堆の覆ひを取り除けてゐる間、彼は自分の移動動力庫の傍に無關心に立つてゐた。 その機械の熟した眞黒な姿の周圍では、朝の空氣が顫へてゐた。彼は準備の仕事には用がなかつた。 火は白熱して待つてゐた。蒸汽は高壓に逹してゐた。間もなく、彼はこの長い革帶を、 眼にもとまらない速力で動かすことが出來るのであつた。その革帶の延びてゐる以外の世界は、 たとひ穀物であらうと藁であらうと、その他何んであらうとも、彼にとつては全く同じやうなものであつた。 若し土地の怠け者の誰かゞ、彼に向つて何といふ者かと訊ねれば、彼は『機關手』と簡單に答へるだけであつた。 日光が隈《くま》なく行き亙つた頃には、覆ひはもう取り除けられてしまつた。 男たちは銘々の位置に就き、女たちは麥堆へ登つた。かうして仕事は始まつた。 百姓グロビー -- いや、みんなが呼んでゐるのに從へば、『あいつ』 -- は、 もつと早くからやつて來てゐた。彼の命令で、テスは機械の臺の上の麥を食《は》ます男の傍に立たされた。それは彼女の仕事が、 順序は彼女の次であるけれども麥堆の上に立つてゐるイズ・ヒュウエットから渡される束を一把々々解くことであつたからである。 すると麥を食ます男は、それを手早く受け取り、 瞬く間に一粒殘らず拂ひ落してしまふ廻轉鼓輪の上に擴げることが出來るのであつた。 機械は始め一二度故障を生じて、日頃それを嫌つてゐる連中をひそかに喜ばせたが、 間もなく大速力で進行した。仕事はどん〜捗取《はかど》つて、終《つひ》に朝飯時になつた。 その時、打穀機は三十分ばかり止められた。それから食事後に再び囘轉し始めると、 この農場の機械にかゝつてゐる者以外の力は、悉く藁堆《わらむら》を作り上げる仕事に向けられた。 その藁堆の堆積《やま》は、側へ盛り上がり始めた。忙《せは》しい小晝飯《ランチ》が、 銘々の位置を去らずに立つたまゝで濟まされ、それからまた二時間すると正餐時に近づいた。 疲れを知らない車輪は絶えず廻り續け、打穀機の突き刺すやうなぶん〜いふ音は、 廻つてゐる網籠の側にゐる誰も彼もの骨髓までも震はせてゐた。 だん〜高くなつて行く藁堆の上にゐる老人たちは、 樫板の納屋の床の上で連枷《からさを》を打穀《だこく》することに馴れてゐて、 また選り分けることまですべて手でやつてゐたが、彼等の考へに依れば、 手ぬるくはあつたものゝ結果はその方が良好であつた過去のことを話し合つた。 麥堆の上の人逹もいくらかお喋りをしてゐた。けれども、機械の方にかゝつて汗を流してゐる連中 (テスも無論その中に一人であつたが)はお喋りをし合つてその務めを迂闊にする譯には行かなかつた。 こんな風に始終仕事が積つてゐるので、テスは辛く感じて、 フリントコム・アッシへなど決して來なければよかつたと思ひ始めるやうになつた。 麥堆の上の女たち -- わけてもその中の一人であるマリアン -- は、 折々仕事の手を休めて、細口壜からビールだか冷たい茶だかを飮んだりまたは顏を拭いたり、 着物についた藁片や殼《から》を拂つたりしながら、無駄話を取り交はすことが出來た。 だが、テスにはちつとも休む暇がなかつた。といふのは、鼓輪は決して停《とま》ることがなかつたから、 それに食《は》ましてゐる男も手を休めることが出來ず、その男に解いた束を供給してやらなければならない彼女もまた、 手を休める譯には行かなかつた。尤も、鈍くて困るといふグロビーの反對があつたにも拘らず、 時々マリアンが半時間位ゐ彼女と仕事を代つてくれることはあつた。 多分或る經濟的の理由からであらうが、この特殊な務めに選ばれるのは、普通は女であつた。 そしてグロビーは、テスを選んだ動機を、彼女は束を解く技倆もあり敏捷でもあるから非常に都合がよく、 また耐久力もある女の一人であるからと説明した。なるほどこれは事實であつたかも知れない。 無駄話を妨げてゐる打穀機のぶん〜いふ音は、麥の供給が一定の量より足らなくたる毎に、 音を高めて唸り出した。テスと麥を食《は》ませてゐた男とは、 ちつとも側見《わきみ》をすることが出來なかつたので、 彼女は晝飯時の少し前、一人の男が門の所から音も立てずに畑の中へ入つて來て、 二番目の堆積の下へ立ち、この場の光景を、特にテスを眺めてゐたことに、 少しも氣が付かなかつた。彼は流行柄のスコッチ織の三つ揃ひを着、 そして派手なステッキを振り廻してゐた。 「ありや誰なの?」とイズ・ヒュウエットがマリアンに言つた。 彼女は最初この問ひをテスにかけたのだつたが、彼女にはそれが聞こえなかつた。 「誰かの情人《いゝひと》だらうよ、」とマリアンは簡單に言つた。 「さあ一ギニー賭けてもいゝよ、あの人はテスの後を跟《つ》けてゐるに違ひないわ。」 「いゝえ、違ふわ。近頃あの人の後をつけ廻つてゐるのは、怒鳴り屋の牧師さんだわ。 あんなめかし屋ぢやないのよ。」 「あの説教者と同じ人?だつて、まるで違ふぢやないの!」 「あの人は黒の上衣や白の襟飾《ネクタイ》を脱いで、頬髯を剃つてしまつたのよ。 でも、やつぱり同じ人だわ。」 「本當にあんたさう思ふ?ぢやあの人に知らしてやらうよ、」とマリアンは言つた。 「お止しよ。あの人は直ぐに見つけるわ、ねえ。」 「それはさうと、説教をして廻つたり、結婚した女に言ひ寄つたりするなんて、 大して立派なことだとは思はれないわ。いくらあの人の旦那が外國にゐて、 考へように依つては、寡婦《ごけ》のやうなものだからつてね。」 「あゝ -- あの男、テスに對して惡いことなんか出來るもんですか、」と不愛想にイズは言つた。 「あの人の心は、穴へ嵌つてへばりついてしまつた荷車みたいなもので、 居据つた處からとても引き上げられるもんぢやないわ。とても〜口説いたつて説教したつて、 七ツの雷が怒鳴つたつて、あの人を引き離すことは出來ないわ、たとひ離された方が本人の爲めになる時だつてね。」 晝飯の時が來て、廻轉機は停つた。そこでテスは自分の場所を離れたが、機械の震動の爲めに膝がひどく顫へるので、 殆んど歩けない位ゐであつた。 「私のやうに、あんたも本當に一杯やるといゝんだのに。」とマリアンは言つた。 「さうすりやそんなに蒼白い顏なんかになりはしないわ。あれ、まあ、 あんたの顏はまるでものに憑かれてゞもやうだわ!」 テスがすつかり疲れてゐたので、若し訪問者のあることに氣づいたなら、 食慾を奪はれてしまふやうな惡い結果になりはすまいか、と氣立ての優しいマリアンは、 ふと考へついた。そこで彼女は、テスを誘つて堆積の向う側の梯子から降りさせようと思つた。 丁度その時、例の紳士が此方《こつち》へやつて來て、上を見上げた。 テスは「まあ!」と短い小さな叫び聲を發した。それからその直ぐ後で、急いで彼女は言つた。 「私此處でお晝を食べますわ -- 麥堆の上で。」 彼等はみんな家から餘程離れてゐる時には、折々、こんな風に麥堆の上で食事をした。 だが今日は、どちらかと言へば風が烈しく吹いてゐたので、マリアンやその他の者は下へ下り、 藁堆の下へ坐つた。 新來の客は、服裝の樣子こそ變つてゐたが、實際もと傳道者のアレク・ダアバァヴィルであつた。 一目見ただけで生れつきの俗氣《ウェルト・ラスト》が戻つて來たことは明らかだつた。 -- テスが最初自分を讚美した男として、また所謂從兄として知つた昔の派手な思ひ切つた裝ひをした元の彼へ、 たゞ三つ四つ年を重ねただけで、殆んど變らないまゝで歸つたのであつた。 今までゐた場所に居殘つてゐようと決心して、テスは、 地上から見えない麥束の間に坐つて食事を始めた。やがて間もなく、梯子を上る足音が聞えて來た。 そして直ぐ後から堆積 -- もう麥束の長方形の平坦な臺になつてゐる -- の上へ、アレクが姿を現はした。 彼は麥束を跨いで來て、一言もいはずに彼女の眞向ひに腰を下ろした。 テスは、極く手輕な食事として携へて來たうちの分厚な一片のパンケーキを食べ續けた。 他の連中は丁度その時分には皆麥堆の下に集つてゐたが、 そこに散らばつた藁が心地の好い避難所をつくつてゐた。 「この通り、また來たよ、」とダアバァヴィルは言つた。 「どうしてあなたはさう私を苦しめるんですの!」叱責《こゞと》を指の先からまで閃めかしながら、 彼女は叫んだ。 「僕が君を苦しめる?君こそどうして僕を苦しめるんだ?と君に訊きたいと思ふね。」 「まあ、私はいつだつてあなたを苦しめたことなんかありませんわ!」 「君は苦しめないつて言ふんだね?だが苦しめてゐるだよ!君は僕に憑いてゐるんだもの。 つひ今のこと、君がきつい光と一緒に向けたあの眼ね、それが少しも變らずに夜も晝も、 僕の處へやつて來るんだ!テス、君が僕たちの子供の事を僕に話してからといふものは、 強い清教徒的な水となつて流れてゐた僕の感情が、まるで俄かに君の方へ開いてゐる道を見つけ出し、 どつと一時の迸り出したやうなものなんだ。宗教の道はそれきり干上つてしまつたよ。 しかもさういふ風にしたのは君なんだ!」 彼女は默つてぢつと目を据ゑてゐた。 「何ですつて -- あなたは説教をすつかり止してしまつたんですか?」と彼女は訊ねた。 彼女はエンヂェルから、近代思想の當《あて》にならないことを、 安價な熱狂を侮蔑することが出來る位ゐには聞き覺えてゐた。が、流石に女で、彼女は少し吃驚した。 わざと嚴格を裝つて、ダアバァヴィルは續けた -- 「すつかり。キャスタブリッヂの市で、醉漢たちに説教する筈だつた何時かの午後から、 約束を殘らず破つてしまつたんだ。同胞たちに、僕は何と思はれてゐるか分らない。 はゝゝゝゝ!同胞だ!屹度、奴等は僕の爲めに祈るに相違ない -- 彼等は彼等流に親切なんだからね。 だが、僕の知つたことぢやない!僕は信仰の出來なくなつたものに、どうしてくつついて行けるものか? -- それこそ卑劣極まる僞善になるだらう!奴等の間で、 僕は神に對して不敬な言をなさざるやう惡魔《サタン》に引き渡されたヒメナヨとアレキサンデル (「或人よき良心を棄てゝ信仰を失へり。此の如き人の中にヒメナヨとアレキサンデルあり、 我かれらをサタンに付せり、是れらをして誹謗を言はざらしめんが爲に懲すなり。 提摩太前書第一章十九節、二十節)のやうな立場に立つたのかも知れない。 何といふ素晴らしい復讐を君はしたもんだらう!僕は何も知らない君を見て、瞞《だま》したんだ。 四年後に君が會つて見ると僕は熱心な基督教徒になつてゐた。それから君は僕の心を動かし、 恐らく僕を完全に地獄落ちとするうんだらう!だがテス、昔の所謂僕の從妹《カズ》、 これは僕一流の物の言ひ方なんだから、そんなに恐ろしく心配な顏をしてはいけないよ。 勿論、君は何もしたんぢやないんだ、たゞ君の美しい顏と形の好い姿を失はずにゐるといふだけのことだつたんだ。 君が僕を見附けないうちに、僕は麥堆《むぎむら》の上に見たんだ -- きちんとした前掛のやうなものもそれを引き立てゝ見せたし、 それからあの埀布の女帽 -- 若し君が危險を避けてゐたいと望むなら、君たち野良の娘は、 決してあんな帽子を被るべきぢやない。」數分の間、彼は默つて彼女を見詰め、 それから一度皮肉に笑つて、また始めた -- 「僕はかう信じてゐるんだ、獨身者の使徒ポール、 僕はそれの代理者の積りでゐたんだが、その彼でさへもこんなに美しい顏に誘惑されたら、 屹度、僕にやうに、その女の爲めに傳道の犁《すき》を捨てゝしまつたかも知れないんだ!」 テスは言ひ譯をしようと試みたが、この場合彼女はどうしてもすら〜と口を利くことが出來なかつた。 彼はそれには頓着なく言ひ添へた -- 「さうだな、結局、君が與へてくれるこの樂園《パラダイス》は、恐らく他のどれにも劣らない佳いものだ。 しかし、眞面目に話すとね、テス。」ダアバァヴィルは起ち上つて、更に近くへ寄り、 麥束の間へ横に靠《もた》れかゝり、肱を立てゝ體を樂に支へた。 「この前に君に會つてから、あの人が言つたといつて君が話したことを、始終考へてゐるんだ。 僕は、こんな黴《かび》の生えた古臭い信條には、 どつちかといふと常識が缺けてゐるやうに見えるといふ結論に到着したんだ。 どうして僕があの可哀さうなクレア師の熱心にひどく焚きつけられて、 あの人に輪をかけてまで氣狂ひのやうに働くやうになつたのか、僕には分らないんだ! この前會つた時、君が驚くべき夫の智識 -- その人の名を君は決して僕には言はないのだが -- を頼みとして、 君の言つた、決して獨斷《ドグマ》主義を含まない所謂倫理説を有つてゐるといふことには僕は贊成しないね。」 「だつて、若しあなたに -- 何んとか言ひましたね -- あ、獨斷主義は有てないとしても、 少くとも慈悲と純潔の宗教はもてませう。」 「どうして、どうして!僕はそんな種類の人間とは違ふよ!『かうせよ、 さうすれば死後お前の爲めになる、あゝせよ、さうすれば死後お前の爲めにならない』 と誰も言つてくれる者がなかつたら、僕は熱することが出來ないんだ。 そんなことはどうでもなれだ。他に誰も責任を持つてくれる者がないなら、 僕は自分の行爲や情慾に責任など感じないつもりはないんだよ。 それで、僕が若し君であるとしてもね、ねえ君、やつぱりそんなつもりはないよ!」 彼女は論じ立て、人類の原始時代には全くはつきり區別のついてゐた宗教と道徳といふ二つの事柄を、 鈍い頭の中でごつちやにしてしまつてゐるのだ、と彼に言つてやらうと試みた。 だが自分は、エンヂェル・クレアの默り勝ちな性質と、自分が全然訓練を缺いてゐること、 自分が理智よりも感情の噐《うつは》であることなどの爲めに、議論を進めることが出來なかつた。 「まあ、どうだつていゝさ、」と彼は言葉を續けた。「この通り、ねえ君、僕は昔のまゝでゐるんだよ!」 「いゝえ、あの時の通りではありませんわ -- 決してあの時の通りではありません -- 違つてゐますわ!」と彼女は懇願した。「それに私につひぞ熱といふものがなかつたんです! おゝ、何故あなたは信仰を守つてゐなかつたのです。それを失つた爲めに、 私に向つてこんな風に物を言ふやうになるんだつたら!」 「君がそれを僕から叩き出してしまつたからさ。それで、君の可愛い頭にも禍《わざはひ》あれといふわけなんだ! 君の夫は、自分の教義がやがて自分の身の上に祟らうとは、夢にも思はなかつたらうな! はゝゝゝゝ -- 僕はね、君が僕を背信者にしてくれたのが、それにしても恐ろしく嬉しいよ! テス、僕はこれまでよりも一層君に迷ひ、同時にまた君を可哀さうにも思つてゐるんだ。 いくら君がかくしても、僕には分るんだ、君がよくない境遇にゐるといふこと -- 當然君を愛していゝ人から顧みられないでゐるといふことはね。」 彼女は、口へ入れた食物も咽喉《のど》へは通すことが出來なかつた。彼女の唇は、 乾いてしまひ、窒息しさうであつた。麥堆《むぎむら》の下で飮み喰ひしてゐる勞働者たちの話し聲や笑ひ聲は、 恰も四五丁も先の方でされてゐるやうに、彼女には聞えて來た。 「そりや私をいぢめるといふものです!」と彼女は言つた。 「ほんの少しでも私の爲めを思つて下さるなら、どうして -- どうしてこんな話を私に仰しやれるんでせう?」 「なるほど、さうだ、」と彼は、少したぢろぎながら言つた。「僕は、自分の行ひを種《たね》にして、 君を責めに來たんぢやなかつた。僕はね、テス、君がこんな風に働かされてゐるのを好まない、 といふことを言ひに來たんだ。そして君の爲めにわざ〜來たんだ。 君には僕でない夫があるんだつてね。なるほど、多分さうだらう。が、僕はその人を見たこともなければ、 また君はその名を僕に話したこともない。その人はまるで、神話中の人物みたいだ。けれども、 たとひ君にその夫があるとしても、その人よりは、僕の方がずつと君に接近してゐるやうに思はれるね。 僕は、兎にも角にも、君の苦しみを救ひ出さうとするが、その人はしない。 その見えざる顏の幸《さち》あれだ!僕がよく讀んでゐた嚴格な豫言者ホジヤ(舊約全書、何西阿第二章七節) の言葉が思ひ出されるよ。君はあれを知らないかね、テス? -- 『彼女はその戀人の後を慕ひ行けども、 追ひつくことなく、これを尋ぬれども遇ふことなし。是において彼女言はん、 我行きて我が先の夫に歸るべし。かの時、我が状態は今にまさりてよかりき!』 ……テス、僕の馬車は丘の直ぐ下に待つてゐる、そして -- 可愛い僕の戀人、あの人のでなく! -- 後は言はなくとも君には分るだらう。」 彼が話してゐるうちに、彼女の顏はだん〜黒ずんだ朱の色に燃えて行つた。が、彼女は返事をしなかつた。 「君は僕の墮落の原因だつたんだ、」彼女の腰の方へ腕を延ばしながら、彼は續けた。 「君も喜んでその附合ひをしてくれるのが當然だ、 そして君が夫と呼んでゐる沒分曉漢《わからずや》を永久に捨てることだ。」 杓子菓子《スキマ・ケーキ》を食べる爲めに先刻脱いだ革手袋の片方が、彼女の膝の上に載つてゐた。 そこで彼女は、何の前知らせもなく、手首のところを掴んで怒りに任せて、 その手袋を眞直ぐに彼の顏を目掛けて叩きつけた。それは、戰士の嵌めてゐるやうな分厚なもので、 ぴしやりと彼の口に當つた。若し空想する事が許されるならば、この行動こそ、 弓矢を取つた彼女の祖先が相當に訓練されてゐた早業《はやわざ》の再發とも見られないことはなかつた。 アレクは、横になつてゐた位置から烈しく跳び起きた。彼女が打つた箇所には、眞紅な血が滲み出し、 見る〜うちに生血が彼の口から藁の上へ滴り始めた。だが彼は、直ぐに自分を制し、 落着いてポケットからハンケチを取り出して、血の出てゐる唇を拭いた。 彼女のまた跳び上つたが、再びぐつたり坐り込んでしまつた。 「さあ、私を罰して下さい!」と、捕まつて、 首を捻《ひね》られる前の雀がぢつと瞶《みつ》める時の絶望的な叛抗を見せて、 彼の方へ眼を向けながら、彼女は言つた。「鞭打つて下さい、壓潰《おしつぶ》して下さい。 麥堆《むぎむら》の下にゐる人たちなぞに遠慮なんかは要りません! 私、聲などは立てません。一度犧牲になつた以上は、何處まで行つても犧牲なんです -- それがおきまりなんですから!」 「いや、いや、テス、」と彼は優しく言つた。「このことはすつかり許せるよ。 だが君は一番よくないことを忘れてゐるよ。つまり、君が結婚することを僕の力に及ばなくさせなかつたら、 僕は君と結婚したらうといふことだ。僕の妻になつてくれ、と僕は明らかに君に頼みはしなかつたかい -- えゝ?返事をしてくれ。」 「えゝ、言ひましたわ。」 「それで、君にはなれないんだね。だが、これだけは覺えてゐて貰ひたい!」 彼女に申し込んだ時の自分の誠意を思ひ出し、また彼女の現在の忘恩を思ひ返して、 彼の癇癪が募つて來るに連れて、彼の聲は荒くなつて來た。 そして彼は彼女の横へ歩み寄つてその兩肩を捉へた。で、彼女は抑へられたまゝで慄へてゐた。 「覺えてゐるが好い、ねえ君、僕は嘗つて君の主人だつたんだぜ! 僕は再び君の主人となるだらう。たとひ君が誰の妻であるにしても、君は僕のものなんだ!」 下では打穀《だこく》者たちがもう動き出した。 「喧嘩はこれ位ゐにして置かう、」と彼は彼女を放しながら言つた。 「今はこれで別れるとしよう。それから今日の午後のうちに、君の返事を聞きにもう一度來るからね。 君はまだ僕が分らないんだなあ!だが僕には君が分つてるんだ。」 彼女は、恰も氣でも遠くなつたやうにぢつとしてゐて、二度と口を利かなかつた。 ダアバァヴィルは麥束の上を傳つて其處から退き、梯子を降りた。 その間に、下にゐた勞働者たちは起ち上り、腕を延ばして今飮んだばかりのビールを搖り下げた。 やがて打穀機は新たに廻轉し始めた。そしてテスは、再び聞え出した藁のかさ〜いふ音の中に立ち混つて、 夢でも見てゐるやうに、ぶん〜音を立てゝゐる鼓輪の傍の元の位置について、果しなく束また束と解き續けた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十八 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 午後になつてから、主人の百姓は、 月もあつて仕事の手元も見えるしまた機械を持つてゐる男が明日は他の農場へ雇はれてゐるから、 その夜の中に麥堆を片付けてしまはなければならない、と皆の者の知らせた。 で、びん〜、ぶん〜、それからがさ〜いふ音が、平常よりも一層間斷なく續いた。 殆んどもう三時頃といふ中休みの食事時になつて、テスは始めて眼を上げ、ちらりと邊りを一瞥した。 彼女は、アレク・ダアバァヴィルが戻つて來て、門の傍の生垣の下に立つてゐるのを見たが、 さほど驚きもしなかつた。彼は彼女が上を向くのを見て、丁寧にその方へ手を振りながら、接吻を送つた。 それは、喧嘩がおしまひになつたことを意味してゐた。テスはまた俯向《うつむ》いて、 その方へ注意を向けないやうに十分氣をつけた。 かうしてその日の午後ヘ遲々として進んで行つた。麥堆はだん〜低く縮まり、藁堆の方はだん〜高くなつて行き、 そして麥袋は車で運び去られた。六時には、麥堆は地面から肩位ゐの高さになつた。 けれども、今までに無數の束數を、機關手とテスとで -- 大部分は若い女の二本の手で -- 食まされて、飽くことを知らない食ひ拔が嚥下《のみくだ》したにも拘らず、 手をつけられずに殘つてゐる打穀されない麥束は、まだ〜數へ切れさうもなかつた。 そして、朝のうちは何もなかつた場所へ出來たこの大きな藁堆は、このぶん〜音を立てゝゐる眞赤な食ひ拔の、 排泄物のやうであつた。西の空からは、怒つた時のやうな赤い輝き -- 荒々しい三月があらはすことの出來るものは、 日沒時のかういふ輝きだけである -- が、曇つてゐた一日の後でぱつと輝き出し、打穀者の疲勞しねば〜してゐる顏に溢れ、 銅色の光でその顏を染め、同時にぱた〜煽られてゐる女たちの着物をも色彩《いろど》つた。 するとその着物は、鈍い色の焔のやうに彼等の體に絡みついた。 喘《あへ》ぐやうな疼痛が、麥堆を貫いて走つた。 麥を食《は》ませてゐた男も疲れて來て、テスには、埃りや麥殼で覆はれたその眞赤な頸《うなじ》が見えた。 彼女は、上氣した汗ばんだその顏に麥の埃りを浴び、その埃りで帽子を褐色にしたまゝなほ自分の位置に立つてゐた。 機械の上にゐて、その囘轉の爲めに全身を搖られてゐたのは女ではテス一人であつたが、堆積が減つて來たので、 今ではマリアンやイズからも離れてしまひ、以前のやうに、仕事の交代をしてくれることも出來なくなつてしまつた。 全身の纖維が一筋殘らず絶えず震動させられてゐる爲め、彼女は知覺を失つた忘我の状態に陷り、 その兩手は意識とは關係なしに働いた。彼女は何處に自分がゐるのかも分らなかつた、 また彼女の髮の毛が縺《もつ》れ落ちてゐることをイズ・ヒュウエットが下の方から彼女に注意したのも、 耳に入らなかつた。 彼等のうちで最も元氣であつた者でさへ、顏は次第に蒼ざめて、眼ばかり大きくぱちくりして來るやうになつた。 テスは頭を上げる度に、いつも灰色をした北の空にくつきり浮き上つてゐる大きくなつた藁堆を見た。 その上には、上衣を脱いだ男たちが上つてゐた。その正面には、踏段を木で作つた繩梯子のやうな、 長い赤い昇降機が掛けてあつて、その上を打穀した後の麥藁の流れが絶えず昇つて行つた。 つまり黄色い川が上の方へ逆登りをして、藁堆の頂上で噴き出してゐるのであつた。 アレク・ダアバァヴィルがまだこゝにゐて、何處とはつきり言ふことは出來なかつたが、 兎に角何處からか自分を見守つてゐることを、彼女は知つてゐた。彼が去らずにゐることには、 一つの口實があつた。それは打穀される麥堆が最後の麥束に近づいて來ると、小さな鼠狩りが何時でも行はれるのであつて、 打穀には關係のない人たちも、時々その餘興に加はるのであつた -- それはいろ〜な方面の娯樂好きな連中で、 中にはテリヤを伴《つ》れた、おどけたパイプを啣《くは》へた紳士もあれば、 棒切れや石ころを持つた亂暴者などもあつた。 けれども、麥堆の底の生きた鼠のゐる層へ行くまでには、もう一時働かなければならなかつた。 そして、アボッツ・サアネルの近くにあるジャイアント・ヒルのあたりに夕日影が消え去つてしまふと、 その向ひ側のミドルトン・アベイやショッツフォードのあたりに擴がつてゐる地平線から、 この季節らしい眞白な顏をして月が昇つて來た。最後の一二時間は、 マリアンは近寄つて話しかけることも出來ないテスのことを、心配しない譯に行かなかつた。 それは、他の女たちはビールを飮んで元氣を持ち續けてゐたが、テスは、 子供の頃に家庭でそれの結果を知つた爲めに、恐怖を抱くやうになつて、それを飮まずにゐたからである。 けれどもテスは、なほ仕事を續けてゐた -- 若しも自分の役割を果してしまへないとしたら、 彼女は此處を去らなければならないであらう。そしてこの無職になるといふ事は、 一二ヶ月前であつたならば、平氣に、また却つてほつとする位ゐに思つたかも知れないが、 ダアバァヴィルが彼女の周りに附き纒ひ出してからは、何となく一つの恐怖となつて來たのであつた。 麥束を投げる人たちと、これを食《は》ます人たちが働いた結果、今では麥堆がずつと低くなつて、 地面にゐる人々は彼等に話しかけることが出來る位ゐになつた。テスが驚いたことには、 主人のグロビーが機械の上へ登つて彼女の處へ來て、もし彼女が友だちと一緒になりたいならば仕事はもう止めていゝ、 そして誰か他の者を交代させよう、と言つた。この『友だち』とは、ダアバァヴィルのことだと彼女は知つた。 それにまたこの讓歩も、その友だちだかまた敵だか知れない、その人の要求に從つて認められたのであることを知つた。 彼女は頭を振つて、働き續けた。 鼠狩りをする時が到頭やつて來た。そして狩出しが始まつた。動物たちは麥堆の低くなるに連れて、 だん〜下の方に潛り込み、終《つひ》に一番底へ寄り集つてしまつた。 そしてもう彼等の最後の避難所も屋根を剥がされたので、彼等は野天の地面を四方八方へ駈け廻つた。 丁度この時、半ば醉つてゐたマリアンが、甲高い金切聲を出して、 彼女の仲間たちに鼠軍の一匹が彼女の體へ侵掠して來たといふことを傳へた -- これが恐ろしくて、他の女たちは、下袴《スカート》をたくし上げたり爪先立てゝ體を浮かせたり、 いろ〜工夫を凝らして警戒した。その鼠も到頭追ひ出された。そして、犬の吠聲や、 男の叫び聲や、女の黄色い聲や、罵聲や、足踏みや、それから、 恰も『修羅場』にも似た混雜のうちに、テスは最後の麥束を解いた。鼓輪《こりん》は囘轉が緩《のろ》くなり、 ぴゆう〜いふ音は止んだ。そして彼女は、機械から地面へ降り立つた。 鼠狩りをたゞ見物してゐただけのダアバァヴィルは、早く彼女の側に行つた。 「何ですの -- あれ程 -- 叩いてまでも辱めたのに、また!」と彼女は低い聲で言つた。 彼女は疲れきつてゐたから、もつと大きい聲で話す元氣もなかつた。 「君の言つたり爲《し》たりすることに腹を立てるなんか、實際馬鹿氣てゐるからね、」と彼は、 トラントリッヂ時代の誘惑的な聲で答へた。「まあ、小さな手足を何んて顫はしてゐるんだらうね! 君は血の滴つてゐる犢《こうし》のやうに弱いんだ、ねえ、さうぢやないか。 それに、僕が此處へ來てからは、何んにもするには及ばなかつたんだ。 どうしてさう君は強情なんだらうね?だが、蒸汽機械の打穀《だこく》に女手を使ふのは不都合だ、 とあの百姓に言つてやつたよ。あれは女のすべき仕事ぢやないんだ。 農場でも、進歩したところぢや、女の仕事としては廢されてゐるんだ。 それを彼奴《あいつ》はちやんと知つてる癖に。君の住居まで、一緒に歸つて行つてやらう。」 「えゝ、」疲れた足を引き摺りながら、彼女は答へた。「よかつたら送つて來て下さい! あなたがまだ私の境遇を知らない先に、私と結婚しようと思つてお出でになつたといふことは、 私ちやんと知つてゐます。大方 -- 大方、あなたは、私が考へてゐたよりはいくらか良い、 またいくらか親切な人かも知れませんね。親切のつもりでして下さることなら、 何でも私有難く思ひますわ。他の考へがあつてすることなら、どんなことにも私は腹が立ちますの。 私には、時々あなたの爲《な》さる事が分らないんですの。」 「僕たちの昔の關係を結婚で正當にすることが出來ないにしても、 君の力になること位ゐは出來るんだよ。それに、今度は以前よりももつと君の感情を尊重して、 君の助けになるやうにしよう。僕の宗教氣狂といはうか、また何だつて構はないが、 そんなものはおしまひだ。だが、僕にはまだ少しばかり善いところが殘つてゐる。 殘つてゐる積りなんだ。だからテス、男女間の優しい、また強い力の一切にかけて僕を信じてくれ! 君自身の爲めに、また兩親や妹たちの爲めに、君を苦勞から救ひ出すに十分な、 また十分以上のものを僕はもつてゐるよ。君が僕に信頼を見せてくれさへすれば、 僕はみんなを樂にしてやることが出來るんだ。」 「この頃あの人たちにお會ひになりましたの?」と彼女は急いで訊ねた。 「うん、會つたよ。が、君が何處にゐるのかも知らなかつたやうだ。 僕が此處で君を見つけたのは、ほんの偶然だつたんだ。」 テスが假の住居である百姓家の戸外に足を留め、ダアバァヴィルが彼女の側に立ちどまつた時、 冷たい月が庭の生垣の小枝の間から、彼女の疲れた顏を斜めに見下ろした。 「小さい弟妹たちのことを何も言はないで下さい -- 私を悄氣《しよげ》さすやうなことはしないで下さい!」 と彼女は言つた。「あの人たちを救つてやりたいと思ふんでしたら -- そりや救ひは必要に違ひありませんが -- 私には言はないでしてやつて下さい。だけどいけません、いけません!」と彼女は叫んだ。 「あなたからは何もして頂きたくはありません。みんなの爲めにも、また私の爲めにも!」 彼女は此處の家族の者と一緒に住んでゐたので、室内では話がすつかり皆に聞かれない譯には行かなかつたから、 彼はそれ以上彼女に隨《つ》いて行かなかつた。彼女の方は屋内へ入つて、盥《たらひ》で體を洗ひ、 家族と一緒に夕飯を濟ますと、深い物思ひに沈んだ。そして壁の下にあるテーブルの處へ退《ひ》き下つて、 自分の小さなラムプの燈《あかり》をたよりに、熱心に手紙を書いた -- 私の旦那さま、 -- あなたをさう呼ばせて下さいまし -- 私はさう呼ばずにはゐられません -- たとひ私のやうなつまらない妻のことを思ひ出しになつて、お腹立ちになりませうとも。 私は苦しみの中から、あなたにお訴へしなければなりませんわ -- 私は他に訴へる人がございませんもの! 私はすつかり誘惑に會つてゐます、エンヂェル!その相手が誰であるかは、怖ろしくて申し上げられませんし、 またそれに就いては、一切書きたくもございません。けれども、私はあなたに御想像も出來ない位ゐ、 あなたにお縋《すが》りいたします!何か怖ろしいことの起らないうちに、あなた、今、 今直ぐに歸つて下さることは出來ませんでせうか?まあ、お出でになれないことは、 私よく知つてをります。あなたはずつと遠い處にゐらつしやるのですもの! 若しあなたが直きに歸つて來て下さるか、でなかつたらあなたのおそばへ來いと言つて下さらなければ、 私は死んでしまはなければならないと思ひます。あなたが私に割り當てゝ下すつた刑罰は、 もう當然のことですわ -- それはよく存じてをります -- ほんとに當然なことですわ -- そして御立腹なすつてゐらつしやるのは、御尤もな、また道理のあることですわ。 が、エンヂェル、どうぞ、どうぞ、道理ばかりで考へないで -- ほんの少しでもよいのですから、 私に優しくして下さいまし、たとひ私には、優しくしていたゞく値打がないにしても。 そして私の處へ歸つて來て下さいまし!若しあなたがお歸り下さるなら、私はあなたの腕に抱かれて死にもいたしませう! 若し私を宥《ゆる》して下さるなら、私は本當に滿足してさうすることでせう! エンヂェル、私はほんとにあなたの爲めばかり生きてをりますわ。私は、 あなたを深く〜愛してをりますから、あなたが行つておしまひになつても、 あなたをお責めすることは出來ない位ゐですわ。 それにあなたが是非農園をお見つけにならなければならないことも存じてをります。 たゞ一言でも恨みがましいことを申すとは、どうぞお考へ下さいますな。 たゞ私のとこへ歸つて來て下さいまし。あなたがおゐでにならなければ私はもうとても淋しうございます。 ねえあなた、それは〜淋しうございます!仕事をしなければならないことなぞは、 私、ちつとも厭《いと》ひません -- ですけれど、あなたがたつた一と筆『僕は、程なく歸る』と仰しやつてさへ下されば、 私どんなにでも忍んでお待ちしてをりますわ、エンヂェル -- おゝ、本當に元氣よく! 私たちが結婚してからといふもの、心に思ふこと、表に現はすこと、 何から何まであなたに忠實にしようといふのが、私の心を打ち込んだ宗教でございました。 ですから、私の氣づかないうちに、男からお世辭を言はれてさへも、 あなたに何か無禮でも加へられてゐるやうに思はれますの。私たちが搾乳場《ちゝば》にゐました頃、 何時もあなたがお思ひになつたことを、ほんの少しばかりでも、 つひぞお感じになつたことはございませんの?若しお感じになつてゐらしつたら、 どうして私から離れておゐでになれませう?私はあなたが戀してゐらしつた同じ女ですわ、エンヂェル。 さうですとも、ほんとに同じ女ですわ! -- あなたがお嫌ひになり、 それでゐて御覽になつたことのない女とは違ひますわ。あなたにお會ひするなり、 私の過去は何でもなくなりましたの。それはすつかり死んでしまひましたわ。 私は、あなたから新しい生命を一杯にしていたゞいた別の女です。 どうして私がもとの女でございませう?何故あなたはこのことがお分りでないのでせう? ねえ、あなた、若しあなたが、たゞもう少し自負心がお強くて、 私をこんなにまで變らせる程あなたは強かつたのだといふことがお分りになるだけに、 あなた御自身をお信じさへなされましたら、あなたは多分、私の處へ、あなたの可哀さうな妻の處へ、 歸るお心になることでせう。 いつまでも私を愛して下さることを、あなたを信じていゝと思つて、幸福に醉つてゐた私は、 何といふ馬鹿だつたのでせう!そんなことは、哀れな私には許されないことを、 私はよく知つてゐなければならなかつたんです。けれども私は、 昔のことばかりを思つてゞはなく、差し當つてのことに就いてつく〜゛心を痛めてゐますわ。 考へても見て下さいまし -- 考へても見て下さいまし、あなたにいつも -- いつになつてもお會ひ出來ないのがどんなに私の心を痛めてゐるかを! あゝ、私の心がどんな日も朝から晩まで痛んでゐるやうに、毎日ほとんど一秒間づゝでも、 若しあなたのいとしいお心をお痛めすることが私に出來さへしましたなら、 どんなにあなたは可哀さうな淋しい妻を哀れんで下さることでせう。 世間の人は、まだ私のことを大へん綺麗だなどゝ申してゐます、エンヂェル (美しいといふのがみんなの使ふ言葉でございます、と申しますのも、 私は本當のことをお知らせしたいからなんですの)。 私は世間の人がいふ通りかも知れませんわ。でも私は自分の縹緻《きりやう》など何とも思つてはゐませんわ。 私はたゞ、それも矢張りあなたのものであればこそ、ねえあなた、 あなたのお持ちになる値打のあるものが、せめて一つだけでも私の身にあるやうに思へばこそ、 それを持つてゐたいと思ふのでございます。こんなに迄も私はそれを感じてゐましたから、 この縹緻の爲めに迷惑をしまし時には、みんなを欺くことの出來ます限り、 顏に繃帶をしてもゐました。おゝ、エンヂェル、私はこんないろ〜のことを、 何も自惚《うぬぼれ》から申すのではございません -- あなたは屹度さうでないことを知つては下さいませうが -- たゞ〜、あなたに私の處へ歸つて來て頂きたいばかりに申します! 若し、あなたが本當に歸つて下されないものでしたら、どうぞ私をあなたの處へ行かせて下さいまし。 今も申し上げました通り、私はもう困り切つてをります。 自分の心にもないことを強ひられてをります。 私が一吋《インチ》でも讓るなぞとはあり得ないことではございますが、 それでもどんな思ひ掛けないことが起らないとも限らないと、私は怖ろしくてなりません。 それに、初めの自分の過ちの爲めに、私はもう防ぐ途《みち》がございませんの。 このことに就いては、これ以上は申し上げられません -- ほんとにもう辛くて堪へられませんから。 でも、若し私が倒れて何か怖ろしい罠に落ち込んでしまひましたら、 今度の有樣こと、もう最初のものゝやうではあるまいと思ひますの。 おゝ神さま、私はとてもそんなことは思ひも寄りません! 直ぐに私を行かせ下さいまし、でなければ、直ぐに私の處へ歸つて來て下さいまし! 私は、若しあなたの妻としては暮せませんでしたら、あなたの召使として御一緒に暮すだけでも滿足でございませう、 ほんとに喜びもいたしませう。さうなれさへすれば、せめてあなたのお側にだけでもゐられますし、 他處《よそ》ながらあなたをお見かけすることも出來ますし、またあなたを私の方と思ふことも出來ますもの。 あなたが此處におゐでにならない爲めに、太陽の光とて私には何も見せてはくれません。 また私は畑にゐる白嘴鳥や椋鳥《むくどり》も見たくはございません。 だつて、いつも私と一緒にあの鳥たちを御覽になつてゐたあなたがお出でにならないと思ふと、 私は悲しくて悲しくてなりませんもの。天にも地にも、地の下にも、 あなたにお會ひしたいといふたつた一つのことを私は願つてをりますわ、 ねえ私の戀しいあなた!私の處へ歸つて來て下さいまし -- 私の處へ歸つて來て下さいまし、 そして脅《おびや》かすものから私を救つて下さいまし! -- あなたの忠實な、悲しみに暮れてゐる テス。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:四十九 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- この哀訴は、間違ひもなく西の方にあたる靜かな牧師館の朝の食卓へ屆いた。 この邊の盆地になると、空氣は肌ざはりがいかにも柔かく、地味はまことに肥えてゐて、 フリントコム・アッシの耕作地などに比較すれば、ものを育てる努力は、 僅かに表面的の助けだけで澤山である。また此處はテスには甚だしく異つた人の世でゞもあるやうに思はれた (その實、殆んど同じであつたのだが)。彼女がエンヂェルに、 手紙は彼の父親を經て送るやうにと言はれたのは全く安全を期する爲めであつた。 彼は重苦しい思ひを抱いて一人で開拓に出かけて行つた先の國で、 其處此處とかはる宿所を、父親のところへは始終知らせてゐた。 「さて、」と老クレアは、封筒の宛名を讀み終るとその妻に言つた。 「かねてさうしたいと言つて寄越してゐるやうに、若しエンヂェルが來月の末にリオを立つて一旦歸國するといふやうなら、 この手紙はあれの豫定を早めることになるかも知れんぞ、これはあれの妻から出したものに違ひないからなあ。」 彼は彼女のことを思つて、深い溜息をついた。そしてその手紙は直ぐにエンヂェルへ宛てゝ轉送されるやうになつた。 「まあ〜、どうか無事で歸つてくれるやうに、」と老クレア夫人は囁いた。 「あの子は繼子《まゝこ》扱ひにされた、と私は目を瞑《つぶ》るまで感じることでせうよ。 あなたは、たとひあの子に信仰心が缺けてゐたとしても、 劍橋《ケンブリツヂ》大學へやつて他の子供と同じやうに出世の端緒《いとぐち》を與へてやるのが本當でしたよ。 さうすれば適當な感化を受けて、無信仰でなくなり、つまりは聖職に多分入つたことでせうに。 教會に入る入らないは別としても、兎に角、さうした方があれに對して一層公平だつたでせうよ。」 これは、老クレア夫人が、息子たちのことで夫の平和を亂したたつた一つの愚痴であつた。 けれども彼女はこれを度々口に出しはしなかつた。といふのは、彼女は信仰に篤く、同時に思慮も深く、 そして夫の心もまたかういふ處置をとつたのが好いか惡いかに就いては疑惑に惱まされてゐることを知つてゐたからである。 彼女は、夫が夜中に眼を覺ましてエンヂェルのことで出る嘆息を祈祷で殺してゐるのを幾度聽いたか知れなかつた。 が、妥協を好まないこの傳道者は、大學の有利な地位が、教義 -- それを普及させることを彼の畢生の使命とし、 また願望とし、同時に同じ聖職に在る他の息子たちの使命としてゐる -- を誹謗するの用に供せられるやうなことは、先づないとしても全然想像出來ないことでもないとすれば、 不信心なる我が子に、他の二人の子の與へたと同じやうな有利な地位を與へるのが至當であらうとは、 今でも考へてゐなかつた。片手で二人の信心深い者の足下に踏臺を据ゑてやり、 もう一方の手で同じ方法を以つて不信者を高い地位にしてやることは、自分の信念や、 地位や、また希望に矛盾することになると彼は考へた。 それにも拘らず、彼は、誤つて名附けられたエンヂェルと愛してゐた。 そして彼に對するかういふ扱ひを竊《ひそ》かに悲しんだことは、 丁度一緒に小山に登つて行きながらアブラハムが罪の宣告を受けたイサクを悲しんだとかいふ話を思はせた。 口には出さないが自分から生んだ悔《くい》は、妻が口へ出して言ふ恨みに比べて、遙かに辛辣であつた。 牧師夫妻は、息子のこの不仕合せな結婚に對して、自分逹を責めた。 若しエンヂェルが農夫となるやうな事にならなかつたら、 彼は決して百姓娘を妻にするやうな事はなかつたであらう。どうして彼と彼の妻とが別れたのか、 また何日《いつ》別れたのかもはつきりとは知らなかつた。最初は、その理由を、 ひどく厭氣《いやき》がさして來るか何かしたのであらうと思つてゐた。 が、彼から最近寄越す手紙に寄ると彼女を伴《つ》れに歸國する意嚮を折々仄めかしてゐたから、 それに依つて見ると、この不和は、さういふ永久的に望みのないやうなものから起つてゐるのではないらしいので、 彼等は安心した。彼は、彼女がその身内の者の處にゐると兩親に言つて置いたのだつた。 そして兩親は、事實が分らないので、どうしようもない事柄へは立ち入らないことに決めてゐたのであつた。 テスの手紙へ向けられる筈になつてゐた眼は、丁度この時、 南亞米利加大陸の内地から海岸の方へ彼を運んでゐた騾馬の背から、 廣茫極まりのない地域を瞶《みつ》めてゐた。この異郷で彼の嘗めた經驗は痛ましいものであつた。 着くと間もなく罹つた重い病氣は、まだすつかりなほり切つてゐなかつた。 そして、彼はこゝに農園を開く希望は棄てようと何時となくほゞ定めてゐた。 尤もどうにかして踏み止つてゐられる限り、彼はこの計畫の變更を兩親には祕して置いたが。 容易に獨立が出來るといふ宣傳に目を眩《くら》まされて、彼に傚《なら》つてこの國へ出かけて來た農業勞働者の群は、 病ひに犯され、生命を奪はれ、そして段々その跡を絶つて行つた。 幼兒が熱病に罹つて死亡すると、英人の農場から母親がその兒を兩腕に抱いて、 元氣なく歩き出すのを彼はよく見かけるのであつた。母親は立ち止つて、素手でざく〜した地面へ穴を掘り、 同じその自然の墓堀道具で、その中へ赤兒を埋め、涙に暮れて再びとぼ〜と歸つて行くのであつた。 エンヂェルの素志は、もと〜伯剌西爾へ移住することではなく、 自國の北部か東部へ農場を持つことであつた。彼はたゞ一時の絶望の餘り、 此處へやつて來たのであつた。その當時計らずも英國の農民間に起つてゐた伯剌西爾移民熱が、 彼の過去の生活から逃れたいといふ願いと一致したのであつた。 故國を離れてゐたこの間に、彼は、心持の上では十年以上も年を取つてゐた。 人生に價値があるとしても、今彼の心を囚《とら》へてゐるものは、 その美しさよりも寧ろものの哀れであつた。 長い間神祕主義の古い理論を信ぜずに來た彼は、今度は道徳上の古い評價《はかり》を疑ひ始めた。 彼はさういふ評價が訂正されなければならないと思つた。 道徳的の人物とは一體何人を指すのであるか?もつと適切な言葉を用ひるならば、 道徳的の女子とは何人を指すのであるか?品性の美醜はたゞその人の業績に存するだけではなく、 その人の目的と動機にも存する。品性の僞らない歴史は、 今までに果されたことにあるのではなく、これから爲《な》さうと心がけることに存するのである。 では、テスはどうであらうか? かういふ光に照らして彼女を見たとき、餘りに早計な判斷を下したことを悔いる氣持に、 彼は心を壓《おさ》へつけられるやうに感じ始めた。彼は永久に彼女を斥けたのであつたか、 それともさうではなかつたのか?彼は何時も彼女を斥けるとはもう言へなかつた。 そしてそれが言へないといふのは、心の中では彼女を許すといふ意味であつた。 こんな風にしきりに彼女の思ひ出が懷しくなり出して來たのは、時日の上からいふと、 丁度彼女がフリントコム・アッシへ住むやうになつた時と同じであつたが、 まだ彼女が自分の境遇なり氣持なりのことを、 一言も彼に言ひ傳へてやつても差支へないと感じ出さないうちのことであつた。 彼は烈しく思ひ惑はない譯には行かなかつた。だが、當惑の餘り、 彼は消息を控へてゐる彼女の動機を問ひ質《たゞ》して見ることをしなかつた。 かうして彼女の温順《おとな》しい沈默は誤解されてしまつた。 若し彼がその沈默を諒解したならば、實際どんなに多くの事をそれは語つたことであらう! -- さうだ、 彼がさきに與へて置いて忘れてしまつた命令を彼女はその通り正確に守つてゐたことを、 大膽に生れついてゐるにも拘らず、彼女は權利といふものを全く主張せずに彼の判斷をすべての點で正しいものと認め、 默つてそれに首を埀れてゐたことを。 騾馬《らば》に跨がり、前に述べたやうにこの國の内地を通つて行く旅行には、 もう一人の男が彼と馬を並べてゐた。エンヂェルの連《つれ》の男は、 同じ島國でも別の方向から來たとはいへ、同じ使命を帶びてゐる英國人であつた。 彼等は二人とも元氣がなく萎《しを》れてゐて、故國のことなどを何かと語り合つた。 信頼は信頼を生んで、男たちがよく現はすやうに、わけても遠く離れた土地にある時などはさうであるが、 親しいものにさへ決して話さうとしないやうな身の上の立ち入つた事柄を未知の人に言つてしまふあの妙な氣持から、 エンヂェルはこの男に騾馬を進めながら、彼の結婚の恐ろしい事實を打ち明けた。 未知の男は、エンヂェルよりはもつと〜多くの土地、またもつと〜多くの人逹の間をわたり歩いて來た。 彼の世界主義者《コスモポリタン》の心には、 家庭生活の上では如何にも重大なかういふ社會上の標準を逸《そ》れた出來事も、 全地球の曲線に對する峽谷や山脈の曲折に過ぎなかつた。 彼はエンヂェルとはまるで異つた見方でこの事件を眺めた。 今までのテスはこれからの彼女に比べれば、取るに足らないものと考へ、 そして、彼女から去つて來たのは彼の方が惡いと卒直にクレアに告げた。 次の日、彼等は雷雨でびしよ濡れになつた。エンヂェルの連《つれ》は熱病に襲はれて、 その週の末に果敢《はか》なくなつてしまつた。クレアは數時間留まつて、彼を埋葬し、 それから再び進んだ。 平凡な名前以外には全然何にも知らなかつた、心の廣い未知の男の漫然といつた言葉は、 彼の死に依つて氣高いものになり、哲學者の理窟つぽい倫理説などよりもクレアの心に深く影響した。 彼はそれと比べて、自分の偏狹を恥ぢない譯に行かなかつた。矛盾した心は洪水となつて彼に押し寄せて來た。 彼は基督教を犧牲にして、飽くまでも希臘的の異教を崇めて來たのであつた。 しかもその希臘文明では、不法の降伏はは必ずしも恥ではなかつた。してみれば、 彼はたしかに神祕主義の信仰箇條と一緒に承け繼いだ汚れたものに對する憎惡を、 騙されて仕方なしに汚されたのであることを知つた場合には、 少くとも矯《た》めるに憚からないものと見做《みな》してよかつたのである。 悔悟の念は彼の胸を烈しく痛めた。彼の記憶にまだすつかり鎭まつてゐなかつたイズ・ヒュウエットの言葉が、 また思ひ浮んで來た。彼はイズに、自分を愛してゐるかと訊ねた、すると彼女は、さうだ、と答へた。 彼女はテス以上に自分を愛してゐたか?いえ、と彼女は答へた。 テスは彼の爲めなら生命も惜しむまい、そして彼女はどうかといへばこれ以上のことは出來ないと。 彼は結婚の日にあらはれたテスを思ひ出した。 どんなに彼女の眼は彼の上を離れにくさうに彷徨《さまよ》つてゐたことか。 どんなに彼女は、まるで神の言葉でゞもあるかのやうに、彼の言葉を頼りとしてゐたことか! そして彼女の單純な魂が隱すことなく彼の魂へ一切を打ち明けた時の爐邊で過したあの怖ろしい宵の間、 彼の愛と保護とがまさか撤囘されようなどゝは考へないで、爐の火の輝きに照し出された彼女の顏は、 どんなにか慘めに見えたことであらう。 かうして、彼は彼女の批評家から段々彼女の辯護者となつて行つた。 嘗つては彼女について皮肉なことを、彼は自分自身に言つて見た事もあつた。 けれどもどんな人でも、始終冷笑家となつて生きて行けるものではない。 そして彼は皮肉を引つ込めた。さういふ皮肉を口にする間違ひは、一般に通ずる原則に動かれて、 特殊な場合を認めないところから起つたのであつた。 けれども、この推論は何となく古臭い。多くの戀人や夫がこの舞臺にあらはれたのは、 何も今日に始まつたことではない。クレアは彼女に對してこれまで冷酷であつた。 それには一點の疑ひもない。男は現に愛してゐる、又は愛してゐたことのある女に對して冷酷な場合が餘りに多い。 女もまた男に對してさうである。しかもかういふ冷酷は、これを生み出してゐる宇宙の冷酷、 素質に對する境遇の、目的に對する手段の、昨日に對する今日の、今日に對する明日の冷酷に較べれば、 寧ろ優しいといつてもよいのである。 彼が消耗しつくされた力として輕蔑してゐた彼女の一家の血統の興味 -- ダアバァヴィル家の立派な血統 -- は、今になつて彼の感情を動かして來た。 彼はなぜかういふ事柄の、政治の上の價値と想像の上の價値との相違を知らなかつたのであらう? 後者の見地からすれば、彼女がダアバァヴィル家の後裔であるといふことは、 實に大きな事實であつた。經濟學上からは無價値であつても、空想家や、 世の衰頽滅亡に就いての教を語らうとする道徳家に取つては、それは實に有用な材料であつた。 それは程なく忘れられてしまふ事實であつた -- 可哀さうなテスの血統と名前の中にある優れた僅かな特性だとて變りはない -- また彼女が承け繼いだ血統も、キングスビアにある大理石の記念碑や鉛の棺に納められた骸骨と共に、 やがては世から葬られてしまふことであらう。 かうして時は無慈悲にも自分で自分のローマンスを破壞して行くのである。 彼女の顏を幾度も思ひ出してゐるうちに、彼は今では、 その中に彼女の祖先である貴婦人たちに品位を添へてゐたの相違ない威嚴の閃めきが見えるやうに思つた。 その幻影は、彼が以前にも感じ、後へ一種厭な氣持を殘して行くのであつた。 それは癲癇のなどの前兆としてよく現はれる一種の靈氣を彼の血管に傳へた。 汚されてゐる過去をもつてゐても、尚ほテスのやうな女に宿つてゐるものは、 彼女の仲間の初心《うぶ》な性質よりもずつと優れてゐた。 エフライムの拾ひ集めた採り殘しの葡萄は、アビエゼルの葡萄の收穫に勝つてはゐなかつたか? (ギデオン之に言ひけるは、今吾が成せるところは、汝等の成せる所に比ぶけんや。 エフライムの拾ひ得し遺餘の葡萄はアビエゼルの收穫せし葡萄にも勝れるならずや。師土記。第八章二節) 甦つた愛はかう語つて、丁度その時父親から彼へ向けて轉送されつゝあつたテスの熱誠をこめた手紙に對して露拂ひの役をした。 尤もその手紙も、彼が遠く内地へ入り込んでゐた爲めに、彼の手へ屆くまでには長い時がかゝるにはかゝつたが。 一方、エンヂェルがこの哀訴に應じて歸るだらうといふテスの期待は、時に大きくなり、 時に小さくなつた。それを小さくしたものは、 別れなければならなくなつた彼女の生涯に起つたあの事實が更に變つてゐない -- また決して變ることがない、といふことであつた。また若し彼女が面と向ひ合つてゐても、 その事實を薄らがさなかつたとすれば、離れてゐては到底薄らがすこてや出來ないといふことであつた。 それにも拘らず、彼女は、若し彼が萬一歸つて來た場合には、どうしたら一番彼を喜ばすことが出來ようか、 といふ樂しい問題に心を碎いた。彼が豎琴《ハープ》で奏でた曲をもつとよく注意して置けばよかつた、 田舍娘逹が歌ふ小唄だつたが、彼の好きなものをもつとせがんで彼から教はつて置けばよかつた、 と何度無駄に嘆聲を洩らしたか知れなかつた。 彼女はタルボセイズからイズの後を追つて來たアンビイ・シードリングにそれとなく訊いて見ると、 偶然にもアンビイは、乳牛を誘つて牛乳を出させるやうに搾乳場で皆がよく歌つた數曲の中でも、 クレアは、『キューピットの園』とか『私には獵場もある、獵犬もゐる』とか『あかつきに』が好きらしく、 俗曲としては勝れてゐたが『仕立屋の股引』とか『こんな美人に私はなつた』などゝいふのは好きでないらしい、 といふことを憶ひ出した。 かういふ歌を上手に歌ふことが、今では彼女の氣紛れな願ひであつた。彼女は、 餘暇のある度にさういふ歌を、わけても『あかつきに』を内密で練習した。 起きな、起きな、早よ起きな! 可愛いお方に花束摘みやれ、 園に開いた綺麗な花を 一つ殘らず輪に編んで。 斑鳩《しらこばと》やら小鳥たち なべての枝に巣をつくる、 春もまだ〜早いのに しら〜明けのあかつきに! この寒い乾燥してゐる季節に、 他の娘逹から離れて一人仕事をしてゐる時には何時でも彼女がかういふ小唄を歌つてゐるのを聞いたならば、 屹度石のやうな心も熔け、覺えずほろりとなつたの相違ない。 あの人は歸つて來ても、矢張り自分の歌ふのを聽いてはくれないだらうと思へば、 歌ひながらも始終涙は彼女の頬を傳はり、またその歌の馬鹿げた文句は、 歌ひ手の惱ましい胸を烈しく嘲《あざけ》るやうに響き亙つた。 テスは、この空想的な夢にすつかり耽つてゐたので、どんなに季節が進んで行くかにも氣がつかないやうであつた。 日が延びたことも、告知節が迫つてゐることも、 また彼女の年期の明ける舊暦の告知節が間もなくその後に續いて來ることにも、氣がつかないやうであつた。 けれども、春の支拂日がまだ來ないうちに、テスには全く別な事柄を思はせずにはゐない或る事件が起つた。 或る夕、彼女が平常《いつも》の通り宿にゐて此處の家族の人たちと一緒に階下の部屋に坐つてゐると、 誰かしら扉《ドア》を叩いて、テスはゐないかと訪れた。彼女は門口《かどぐち》越しに、 薄れ行く光を背景として浮き立つてゐる背丈は一人前の女だが肩幅は子供らしい背の高い瘠《や》せぎすな、 娘らしい姿を見たが、「テス!」と、その娘がいふまでは、誰だか薄明りの中では見分けがつかなかつた。 「まあ -- リザ・ルューぢやないの?」とテスは吃驚した調子で訊ねた。 彼女が一年餘りも前に、生家でほんの小娘として別れて來た妹は、 一足跳びに見る通りの姿に大きくなつてゐた。けれども、 ルュー自身は大きくなつたことも殆んど分らずにゐるやうであつた。以前は長過ぎたのであるが、 今では彼女が大きくなつたので短くなつた上下續きの上衣の下から覗き出してゐる細い兩脚や、 それから氣持惡さうに出してゐる手や腕は、彼女の若々しさと初心《うぶ》な性質を現はしてゐた。 「えゝ、私一日中歩き廻つてたの、テス、」とルューは別に興奮してゐる樣子もなく、 靜かに言つた。「姉さんを探さうとしてね。それで、すつかり疲れてしまつたわ。」 「家に何かあつたの?」 「お母さんが大へんに惡いの。お醫者さんのいふのには、もう助かるまいつて。 お父さんもあんまり丈夫ぢやなし、それに自分のやうな立派な家柄のものが、 つまらないありふれた骨折仕事に、さうあくせくするつて法はないなんて言つてるんだもの、 私たちどうしたらいゝか分りやしないわ。」 テスは長い間ぼんやり考へ込んで立つてゐたが、 その後でやつとリザ・ルューを室内へ招き入れて掛けさせることに思ひついた。 そしてリザ・ルューがお茶を飮んでゐる間に、彼女は心をきめた。 どうしても生家へ歸らなければならなかつた。彼女の契約期限は、四月六日の舊暦告知節にならなければ切れなかつたが、 今からそれまではもう長くはなかつたから、彼女は、思ひきりよく直ぐ出掛けることに決心した。 その夜立てば、十二時間早く家に着くことになる。だが妹はすつかり疲れてゐるので、翌日までは、 とてもそんな遠路《とほみち》をすることは出來なかつた。 テスはマリアンとイズの住居へ走つて行き、事情を話して、 出來るだけ主人の百姓にうまく取り計つて貰ひたいと頼んだ。 歸つて來ると、彼女はルューに晩飯を食べさせ、それが濟むと自分の寢臺へ入れてしまひ、 入るだけの持物を柳製のバスケットへ詰め込み、 それからルューには翌朝後から歸つて來るやうに言ひ付けておいて出掛けた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 彼女は、時計が十時を打つと、劍のやうに冴えた星をいたゞいて十五哩の旅に立つ爲めに、 冷え〜゛する彼岸ごろの暗闇へ飛び込んだ。淋しい地方では、靜かな徒歩者にとつて、 夜は危險であるよりも寧ろ守護となる。テスはこの事を知つてゐたので、 晝間ならば殆んど怖がつた位ゐなわき道に沿つて、一番近道をとつた。 けれども今はもう盜人《ぬすびと》などの出るやうなことはなかつたし、 妖怪に襲はれるといふ怖れなどは、母のことを心配してゐるので、彼女の念頭から追ひのけられてゐた。 かうして彼女は、坂を登つては下り、次々と歩いて、やがてバルバロオに着いた。 そして眞夜中と思はれる頃に、その高臺から、渾沌とした闇の深い淵を見下した。 これが、彼女の生れた場所をずつと先の方に控へてゐる谷間の、自づとあらはした姿であつた。 もう高地を五哩ばかり横切つて來たのであるが、 旅を終るまでにはまだ低地を十哩から十一哩歩かなければならなかつた。 曲りくねつた下り道は、彼女が進んで行くに從つて、 青白い星明りを受けて丁度今見えるやうになつて來た。すると間もなく、 彼女は高地の地味とは非常に違つてゐる土を踏んだ。その違ひは踏む足ざはりにも、 また嗅覺にも感じられる程であつた。それはブラックムーア盆地の重い粘土質の土地で、 その盆地の一部へは通行錢を取る道などの曾つて通じたためしがなかつた。 いろ〜の迷信が、かういふねち〜した土の上には他處《よそ》よりも永くいつまでも漂ひ殘つてゐる。 嘗ては森林であつたので、かういふ夜陰の深い時刻には、遠くも近くも一つに溶けて、 立樹といふ立樹、高い生垣といふ生垣が非常に物凄い姿を呈するので、 何處となく昔の面影を現はすやうに思はれた。嘗て此處で狩り立てられた牡鹿、 針で突かれたり水の中へ沈められたりした妖女、 人が通りかゝるとげら〜笑ひかけるといふ緑色の鱗の衣を身につけた魔女、 -- 此處は今でもかういふたはいもないものを信ずる迷信に充ち滿ちて、 氣味の惡い魔の群をなしてゐた。 ナットルベリイで、彼女が村の宿屋の前を通ると、その足音の挨拶に應じて、 そこの看板がきい〜と軋《きし》つた。彼女の外には誰もそれを聞く者はなかつた。彼女はその心の眼で、 草葺屋根の下で小さい紫色の四角い布片をはぎ合はして拵《こしら》へた掛蒲團をかけて、 暗闇に長々と、弛んだ骨節や、萎えた筋肉を伸ばして、 ハンブルドンの丘に桃色の靄《もや》のやうな光が射すなり直ぐ朝の新たな仕事に取りかゝれるやうに、 睡眠といふあんまの手で揉み療治を受けてゐる光景を描き出さないではゐられなかつた。 三時に彼女は、今まで辿つて來た迷ひやすい小徑のつきる角を曲つて、マアロットへ入つた。 途中彼女は、倶樂部員の娘として始めてエンヂェル・クレアを見た野原を通つた。 あの時、彼は一緒に踊つてくれなかつたといふ、がつかりした氣持は今もまだ彼女に殘つてゐた。 彼女は母の家の方に當つて燈《あかり》を見た。それは、寢臺の窓から洩れて來たが、 その前には樹の枝が動いてゐたので、燈《あかり》は彼女の方へ向つてちら〜瞬《またゝ》きした。 彼女には家の輪廓 -- 彼女が送つた金で屋根を葺き替へた -- が見えるやうになつて來ると、 直ぐそれは昔のまゝの力でテスの心にはたらきかけた。 それは相變らず彼女の體や生命の一部分であるやうに思はれた。 その屋根窓の傾斜、破風の上壁、煙突の頂きとなつてゐる途切れ〜の煉瓦の並び、 何もかもが彼女の性格と共通な點を何かしら持つてゐた。かういふ姿に、 麻醉が襲つて來たやうに彼女の眼には映つた。それは言ふまでもなく母親の病氣であつた。 彼女は、誰をも騷がせまいとして、そつと扉を開けた。 階下《した》の部屋には誰もゐなかつたが、寢ずに母親の看病をしてくれた隣りの人が階段の上の處へ出て來て、 ダアビフィールドのお上さんは、丁度今眠つてゐるが、ちつとも良くならないと囁いた。 テスは自分で朝飯の支度をし、それから母親の部屋で、看病人として働くことにした。 朝になつて、彼女が子供たちをぢつと眺めて見ると、彼等はみんな不思議な位ゐ背が延びて見えた。 彼女は一年と少ししか留守にしてはゐなかつたのであるが、彼等の成長は驚くばかりであつた。 そして、彼等の生活を支へて行く爲めには、一生懸命になつて働かなければならないと思ふと、 彼女は自分自身の面倒な身の上の事などは自然忘れるやうになつた。 父親の勝《すぐ》れない健康は、同じ状態をつゞけてゐた。そして彼は相變らず自分の椅子に納《をさま》つてゐた。 けれども彼女が家に歸つた翌日は、彼は稀《めづ》らしく晴々とした。 彼には、筋道の通つた生活の方針が立つてゐた。そこでテスはどういふことか、それを彼に訊ねた。 「英蘭《イングランド》のこの邊一帶にゐる古い考古學者たちのとこへ、 一人殘らず廻状《くわいじやう》をまはしてな、」と彼は言つた。 「わしが暮して行かれるやうに、寄附金を出して貰はうと思つてゐるんだ。 屹度連中は、それは面白え、いや風流だ、いや當りめえだと考えるに違へねえ。 何しろ毀《こは》れ跡を保存したり、遺骨だの何だのを見つけたり、 そんな事に大金を使ふ連中だ。ましてよ、こつちや生きとる遺蹟だ、ずつと面白がるに違えねえ、 たゞわしがことを知つてさへすりやな。誰でも構はねえから一廻りして、 あの連中の中に現に大したものが生きてるつてえことを、 またその連中はそれに氣がつかねえでゐるつてことを、觸れまはしてくれるといゝんだがな! わしを見つけ出してくれたトリンガムの牧師さんが、生きてさへゐてくれりや、 屹度その役をつとめてくれたに違えねえんだが。」 テスは、この高尚な目論見《もくろみ》に就いて意見を述べることは先づ後廻しにして、 彼女が送金したのに少しも良くなつたらしい樣子の見えない、 差し當つて迫つた必要な色々なことを何とか始末することにした。室内のことが片づくと、 彼女は外のことへ注意を向けた。今は植付《うゑつけ》や種播《たねまき》の時期であつた。 村人たちの菜園や割付地は大方もう春の耕作を終つてゐたが、ダアビフィールド家の菜園や割付地は後れてゐた。 これは家の者たちが種馬鈴薯《たねいも》をすつかり食べてしまつた爲めだと知つて、 -- 後先を考へない心得違ひの最もひどいものだつた -- 彼女はすつかり驚いた。 彼女は手をまはして出來るだけ早く別の種馬鈴薯《たねいも》を手に入れた。 そして二三日經つうちに、父親も、 テスに説きすゝめられて菜園の面倒をみる位ゐには快くなつた。一方彼女自身は、 村から二百|碼《ヤード》もはなれた畑の中へ借りた割付地を引き請《う》けて働いた。 彼女は病室に閉ぢ籠つてゐた後なので、この仕事をするのが嬉しかつた。 母の病氣も段々快くなつて來たので、今ではもう彼女の手を煩はすには及ばなかつた。 彼女は激しい運動で却つて氣が休まつた。割付地といふのは、高い乾いた、樹木のない廣々として圍ひにあつて、 其處には四五十ばかり同じやうな小作地面が續いてゐた。こゝでは一日の雇ひ仕事が終つてしまつた頃に、 仕事に一番活氣がつくのであつた。土掘りはいつも六時に始まつて、終りはきまつてゐないで、 日暮から月の出る頃まで續くこともあつた。天氣續きで火を燃すには都合がいゝので、 今|彼方此方《あつちこつち》の割付地で枯草や廢物の山が盛んに燃えてゐた。 或る晴れた日に、テスとリザ・ルューは、此處で近所の者と一緒に、 夕日の光が割付地を仕切つてゐる白い杭の上をまともに照りつけるまで働きつゞけた。 日沒に續いて四邊が暮色に包まれると、はまむぎや玉菜《キヤベツ》の莖を燃す焔が搖れて、 割付地を思ひ出したやうに明るく浮き上げ、その輪廓は、濃い煙が風に煽られる毎に現はれたり消えたりした。 一つの焚火が輝き出すと、煙は長く地面に沿つて横に吹き送られ、自づと半透明に輝き、 働いてゐる人たちの間を一人々々隔てゝしまふのだつた。そして、晝は道となり、 夜は光となつたといふあの舊約の『雲の柱』の意味も、それで察せられる譯であつた。 夕暮の色が濃くなつて行くに連れて、菜園仕事をしてゐた男女のうちには、 夜になつたといつて切り上げて歸る者もあつたが、大多數の者はまだ殘つて植付けを終つてしまはうとしてゐた。 テスも妹だけは家へ歸したが、さういふ仲間の一人であつた。 はまむぎの燃えてゐる幾箇所もの割付地の中の一つで、彼女は鐡耙《てつぱ》を持つて働いてゐた。 その四本のぴか〜光る尖《さき》は、石や乾いた土塊に當つてかち〜と小さな音を響かした。 時折彼女は火の煙の中に全く捲き込まれた。さうかと思ふと今度は、煙は去つて、 堆積から發する赤銅色の輝きに照らされたまゝ、はつきろと彼女の姿を浮き上げるのであつた。 彼女は、今夜は變な身裝《みなり》をして、やゝ目立つ容姿を見せてゐた。 といふのは、洗ひ晒しの上衣を着込み、その上に短い黒の短衣《ジヤケツ》を羽織つてゐるといふ服裝で、 全體の感じは婚禮のお客と葬式のお客とを一つに搗《つ》きまぜたやうであつたからである。 ずつと後の方にゐる女たちは白の胸掛を掛けてゐたが、折々焚火の照り返しを受ける時だけは別だが、 たゞそれだけが彼女たちの蒼白い顏と一緒に薄闇の中に見えるきりであつた。 西の方にあたつて、畑の境界線になつてゐる葉のない茨の生垣に針金のやうな枝が、 一段と低い空の青白い乳光を背景としてくつきり浮き上つてゐた。頭の上には、 木星が滿開の黄水仙にやうに懸り、影を投げさうに輝いてゐた。 そして處々に幾つかの小さな名も知れない星が、現はれて來た。遠くで、犬が吠えた。 そして時々轍の音が乾いた道をがら〜と通り過ぎた。 まだ鐡耙《てつぱ》の尖《さき》は、かつちり〜鳴り續けた。時間もさほど遲くはなく、 また大氣はから〜で刺すやうではあつたが、その中には働く人々の心を元氣づける春の囁きがあつたからである。 この場所、この時刻、このぱち〜はねる焚火、この光と蔭との夢幻のやうな神祕には、 何かしらテスばかりでなく、他の人々をも其處にゐるのを喜ばせるものがあつた。 冬の霜が降りる時は惡鬼として、また夏の暑い時には愛人としてやつて來る黄昏は、 この春の日には、慰める者としてやつて來た。 誰も相手を顧みる者はなかつた。皆《みんな》の眼は、 掘り返された土の表面が焚火に照らし出されると、その上へ落ちた。 從つてテスは、土塊を掘り起こしながら馬鹿げた小唄を、 今ではもうクレアに聞いてもらはうなどゝいふ望みも殆んど捨てゝ口吟《くちづさ》んでゐたので、 自分の一番近くで働いてゐる人に、長い間氣がつかないでゐた。 -- それは長い野良着を着た男で、彼女の掘り起してゐる同じ割付地をおこしてゐることが、 彼女には分つた。彼女は、仕事を捗取《はかど》らせるやうと思つて、 父親が寄越してくれた者だらうと思つた。その男が掘り返しながら段々こつちの方へ近づいて來た時に、 彼女は今までよりも更に彼の事を氣にし出した。折々は煙が二人を隔てゝしまふこともあつた。 さうかと思ふと、煙は逸《そ》れて二人を他の人々から隔てゝ、 お互ひだけを見えるやうにすることもあつた。 テスはその手助けの男に話しかけなかつたし、また彼の方からも彼女に話しかけなかつた。 また彼女は、その男が晝の間は其處にゐなかつたといふこと、 それからマアロットの勞働者にしては、見覺えのない男である、尤もそれに不思議はない、 近年は長いこと故郷を明けてゐたのだからといふことを考へた位ゐのもので、 それ以上別に彼の事を考へもしなかつた。段々と彼は、彼女の直ぐ近くまで掘つて來たので、 焚火の光が彼の鐡耙《てつぱ》からも彼女のからと同じやうにはつきりと反射した。 彼女が焚火の方へ寄つて行つて、枯草を一投げくべると、彼もまた向う側で同じことをするのに彼女は氣がついた。 火はぱつと燃え上つた。そして彼女はダアバァヴィルの顏を見た。 思ひがけなく彼が姿を現はしたこと、 今では勞働者の間でも二つとない時代後れの者でゞもなければ着ないやうな襞つきの野良着をつけて、 變な容姿をしてゐたことには、ちよつと薄氣味の惡い滑稽味があつて、その仕事振りを思ふと、 彼女はぞつとした。ダアバァヴィルは低く長い笑ひ聲を立てた。 「自分に若し冗談氣があるなら、かう言ふね、これはまるで樂園《パラダイス》そつくりだと!」と彼は、 首をかしげて彼女を見やりながら、氣紛れに言つた。 「何ですつて?」と彼女は弱々しく訊ねた。 「冗談氣がある者なら、こりや樂園《パラダイス》そつくりだと言ふだらうつてことさ。 君はイヴで、僕は下等動物に身をやつして君を誘惑に來る老獪な『片方の者』(サタンのこと)といふ譯だ。 宗教に凝つてゐた時分には、ミルトン(一六〇八 - 一六七四念。新教の最も熱烈な信奉者にして詩人。 「失樂園」は彼の代表詩。次の引用句はその作から取つたもの)の描いたその場面を、 すつかり諳記してゐたもんだ。その中にこんなのがある -- 『妃《ひ》の君よ、路は成り、ほど近し 桃金孃《マートル》の植込みの彼方…… 案内《あない》を、我が君若し受け給はば、 直ちに彼處《あすこ》へ伴ひ申すべし。』 『さらば、導きてよ。』とイヴは言へり 云々と續くんだ。ねえテス、僕はたゞ君が全く見當違ひな想像をしたり、 或は言つたりするだらうと思つて、當てゝこんなことを君に言つてゐるだけなんだよ。 だつて君は酷く僕のことを惡く思つてゐるからね。」 「私はあなたを惡魔《サタン》だなぞと言つたことはありませんし、また思つたこともありませんわ。 私、あなたをそんな風には少しも考へませんの。あなたが私をお辱めになる時は別ですけれども。 あなたに對する私の考へは本當に冷靜なんです。あなたは、全く私の爲めばかりで、 此處へ土掘りにお出でになつたんですつて?」 「全くさうなんだ。君に逢ひいたくつてね。それだけなんだ。 この野良着は、こつちへやつて來る途中賣物に出てゐたんで、これさへ着て行けば人目につかないと、 その時ひよつと思ひついたんだ。僕は君がこんな風に働いてゐるのをやめさせやうと思つて來たんだ。」 「でも、私はかうしてゐるのが好きですの -- それは父の爲めなんですもの。」 「あつちの契約はもう切りがついたかね?」 「えゝ。」 「今度は何處へ行くつもりだい?君の懷しい御亭主と一緒になるのかね?」 彼女はこの侮辱するやうな言葉にもう我慢が出來なかつた。 「まあ -- そんなこと知りませんわ!」と彼女はにが〜しく言つた。「私、夫なんかありませんわ!」 「いかにもさうだ -- 君の仰しやる通りにね。だが、君には友だちが一人ある。 そして僕は、君には迷惑でも、君を安樂にしてあげようと決心したんだ。 家へ歸つて見れば分るが、君に贈つて置いたものがあるよ。」 「まあ、アレク、私はあなたから何んにもいたゞきたくはないんです! あなたからは、いたゞくわけには行きませんわ!私は、嫌なんですもの -- 正しくないことですもの!」 「いや、正しいことだよ!」と彼は快濶に叫んだ。 「僕はこんなにまで自分が懷しいと思つてゐる女が困つてゐるのを、 ぢつとして見てゐるわけにはいかないんだ。」 「でも、私ちつとも不自由なんかしてゐませんわ!私の困つてゐるのはたゞ、 あの -- あの -- 暮し向きのことなんかぢや全くないんです!」 彼女は向き直つて、むきになつてまた土掘りを始めた。 涙が鐡耙《てつぱ》の柄や土塊の上に落ちた。 「子供逹のこと -- 君の弟妹《きやうだい》のことだらう、」と彼はまた言ひ出した。 「僕もこれまであの子供たちのことは考へてゐたんだよ。」 テスの胸は震へた -- 彼は彼女の弱點に觸れてゐたのであつた。 彼は彼女の第一の心配を見拔いてゐた。家へ歸つて以來、彼女の魂は、 熱情といつてもよい愛情に引かされて、子供たちの方へ飛んでゐた。 「お母さんが治らないとしたら、誰かゞ、子供たちの面倒を見てやらなけりやならないぢやないか。 君のお父さんは十分なことは出來ないだらうからね?」 「私が手傳へばお父さんになつて出來ます。是非お父さんがしなければなりません!」 「そして僕が手傳へばね。」 「いゝえ、とんでもない!」 「何んて馬鹿らしいことを言ふんだ!」とダアバァヴィルは呶鳴《どな》り出した。 「いゝか、君のお父さんは、僕たちが同じ一族だと思つてゐるんだぜ。それで、 すつかり悦に入つてるぢやないか!」 「そんなこと思つちやゐません。私はお父さんの迷ひを醒ましてやりました。」 「いよ〜君は阿呆だ!」 ダアバァヴィルは立腹して、彼女の處から生垣の方へ引き下つた。 そして變裝に用ひてゐた長い野良着を脱いで、丸めて焚火の中へ押し込んでから、 彼は其處を立ち去つた。 テスは、それからは、もう、土掘りを續けることが出來なかつた。 不安を感じて來たからである。若しかしたら、彼が父の家へ戻つて行つたのではあるまいかと怪しんで、 彼女は鐡耙《てつぱ》を片手に持つて、家路に向つた。 家から二十|碼《ヤード》ばかり離れたところで、彼女は妹の一人にばつたり出會つた。 「おゝ、テッシイ -- 大變なことになつたよ!リザ・ルューは泣いてるし、 家の中には大勢の人がゐるよ。そしてお母さんは大變良いんだけど、 皆《みんな》の考へぢや、お父さんはもう助からないつて!」 子供は、これが容易ならぬことだとは知つてゐたが、その悲しいことであるとは氣付かなかつた。 で、眼を圓くして大變だと云つたやうに、テスを瞶《みつ》めて立つてゐたが、 やがて姉が心を動かしたのを見ると、妹はかう言つた -- 「ねえ、テス、私たち、もうお父さんと話は出來ないのかえ?」 「でもお父さんは、ほんの少し具合が惡かつたゞけぢやないの!」とテスはがつかりして叫んだ。 リザ・ルューがやつて來た。 「お父さんはたつた今息を引きとつたよ。お母さんを診に來たお醫者樣が言ふには、 どうしたつて助からないつて、心臟がちゞかんぢやつたから。」 その通りだつた。ダアビフィールド夫婦は、互ひにその位置を換へたのであつた。 危篤だつた者が助かり、少し加減が惡いといふ程度の者が亡くなつた。 この出來事はたゞに彼の死を傳へたゞけでなく、それ以上の意味を含んでゐた。 彼女の父親の生命には彼の遺した業績とは無關係な價値《ねうち》があつた。 さうでもなかつたら、彼の生命は恐らくさう尊いものではなかつたらう。 それは三代限りの借地權契約で家屋敷を借受けてゐた一番後に殘つた借地權所有者の生命であつた。 それにこの借地權は、百姓屋が少くて困つてゐる、常雇ひ勞働者を使つてゐる小作人から長い間しきりに慾しがられてゐた。 そればかりでなく『終身借地人』は、その態度が横柄だといふので、村では、 殆んど小地主と同じやうに嫌はれてゐた。だから一旦借地權の期限が切れると、 新たに繼續されるやうなことは決してなかつた。 かうして、曾てはダアバァヴィル家であつたダアビフィールド一家は、 この土地でも有力家のうちに數へられてゐた當時、何囘も、殘酷にも、 今の彼等一家のやうに、土地を所有してゐない者の頭上に加へた運命の手が、 今度は彼等の頭上に落ちて來るのを見ない譯に行かなかつた。 かやうに潮の滿ち干き -- 流轉の律《リズム》 -- は地上の萬物の中にあつて、 絶えず交替して、また止むことを知らない。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 終に舊暦告知節の前日となつた。農業界は、一年中でも特にこの日にしか起らないやうな大騷ぎに捲き困れてゐた。 それは成就の日である。向ふ一年間、戸外の仕事を勤めると聖燭節《キヤンドルマス》に結んだ契約が、 愈々實行されるのである。勞働者 -- または『稼ぎ人』、これは外から他の言葉が入つて來るまでは、 大昔から、彼等の間で呼びならはされてゐた名前である -- で、 今までの所にこれから先き止まつてゐたくない者は、新しい農場へと移つて行くのであつた。 この土地では、かういふ農場から農場へ移つて行く者が、年々増加して行く一方であつた。 テスの母親がまだ子供であつた時分には、マアロット附近の百姓の多數は一生、 一つの農場で生計を續けてゐた。それは彼等の父や祖父の住家《すみか》であつた。 が、近頃では、年々移り變りたいといふ望みがかなり強くなつて來た。 比較的新らしい家族にとつては、それは、ひよつとすると、何かいゝことがあるかも知れないといふ愉快な刺戟となつた。 一家族にとつての『埃及《エジプト》』(モーゼの一族が避難して行つて、苦しんだ土地)は、 遠くから見てゐる家族には、『聖約の地』カナンであつたが、其處へ行つて住んで見ると、 それは今度はまた彼等一家の埃及となつた。こんな風で、彼等は轉々と移住先を變更して行つた。 だが、農村の生活に益々目立つてくるこの移住が悉く農業界の不安からばかり生ずる譯ではなかつた。 人口が減少すると云ふこともあつた。村には、以前は農業勞働者と共に、 彼等よりは身分の高い、趣味の豐かな、智識のずつと進んでゐる階級 -- テスの父や母の屬してゐた階級 -- また、大工、鍛冶屋、靴屋、小商人、 それから農業勞働者とも異つた、雜種の勞働者なども一緒に包まれてゐる階級、 それからテスの父親のやうな生涯の借地權所有者とか、地上權所有者とか、 時としては地主とかである爲めに或る目的を定め仕事をきめてゐる一團の住民がゐた。 けれども長期の借地期限が切れると、その家屋敷を再び同一借地人に貸すといふことは滅多になく、 地主が自分の使用人の爲めにどうしても必要だといはない限りは、大抵取り壞されてしまつた。 そしてそのうちの何人かゞ村を追はれゝば、自然また他の幾人かの商賣が干《ひ》てしまふことになり、 彼等もかうして餘儀なくその跡を追はなければならなかつた。以前は農村生活の中軸と成り、 また村傳來の慣例の保管者であつた、かういふ家族は、避難所を大きな中心地に求めなければならなかつた。 統計家たちが冗談半分に、『地方民の大都市に押寄せる傾向』と名付けたこの過程は、 實は機械の力を借りて無理強ひをすれば水も高い方へ流れる傾向と同じだからである。 マアロットでは百姓の住宅設備は、かういふ風で取り毀《こは》しの爲めに可成不自由になつて來たから、 立ち殘つてゐる家屋といふ家屋は、農業者が手に入れて、自分の雇つてゐる勞働者を住はせようとした。 テスの生涯にあゝいふ暗い影を投げた事件が起つて以來、ダアビフィールド一家 (その素性なぞ信じられてゐなかつた。)は、その借地權が切れた時は、 たゞ村の風儀の爲めといふ點からだけでも、當然村を出て行かなければならないのだと口には出さないが考へられてゐた。 この家族が、禁酒とか、節酒とか、或は貞操とかの何れの點から見ても決して模範となつてゐなかつたことは、 實際爭はれない事實であつた。父親だけならまだしも、母親まで時々醉つ拂ふし、 下の方の子供たちは滅多に教會へ行かず、それに總領娘は幾度か妙な關係を拵へると云ふ風であつた。 村ではどうかして風紀を維持して行かなければならなかつた。 かうしてこの第一告知節にダアビフィールド一家は村を追はれることになり、 この家は廣いからといふので、大家族の荷物車屋を住まはせることになつた。 そして寡婦のジョン、その娘のテスとリザ・ルュー、男の子のアブラハムと、 年下の方の子供逹は何處か他所《よそ》へ行かなければならなかつた。 移轉の前夜は、霧雨がしよぼ〜降つてゐたので、空がどんよりして、何時もより早く暗くなりかけてゐた。 彼等の生れ故郷であるこの村で暮すのも、愈々今夜限りとなつたので、 母親とリザ・ルューとそれからアブラハムは、幾人《いくたり》かの知人のところへ暇乞ひに出かけて行つた。 テスは彼等が歸つて來るまで、家の留守居をしてゐた。 彼女が窓の扉に顏をよせて、窓際の腰掛に膝をついてゐると、外側の雨水の板が内側の硝子の板を滑り落ちてゐた。 彼女は、餘程前に餓死したらしい蜘蛛の巣に眼をとめた。 それは誤つて一匹の蠅すら飛んで來ない隅つこへかけられたもので、 窓の扉から洩れて來る幽《かす》かな風にも顫へてゐた。テスは、一家の境遇を深く考へて、 自分が惡るかつたのでさうなつたのだといふことに氣がついた。 彼女が戻らなかつたら、母親や子供たちは、恐らく一週間極めの借家人として留つてゐられたであらう。 が彼女は、歸つて來ると殆ど直ぐに、村の大分有力な、堅氣の人たちに見つけられてしまつた。 彼等は、彼女が墓地の中で、あの嬰兒《あかんぼ》のもう忘れられてしまつた墓を、 小さな鏝《こて》で出きるだけ上手に繕ひなどして、ぶら〜してゐるところを目撃した。 これで、彼等は彼女がこゝにまた住んでゐることを知つたのである。 母親は、彼女を「匿《かく》まつてゐるな」と怒鳴り付けられた。 するとダアビフィールドの女房も荒々しくそれに應《こた》へて早速立ち退《の》くときつぱり言つてしまつた。 その言葉が眞にうけられてかういふ結果になつたのである。 「私は家《うち》へ歸つて來るんぢやなかつた」と彼女は、悲しさうに獨言《ひとりごと》を言つた。 彼女は一途に斯うした考へに耽つてゐたので、白い雨外套を着た一人の男が、 往來を馬に乘つて來るのを見はしたが、最初は殆ど氣にも留めなかつた。 大方彼女が窓硝子の近くに顏を寄せてゐた爲めでもあらうか。 その男は直ぐに彼女を見つけて、この家の玄關の近くまで馬を進めて來たので、 馬の蹄が壁の下の草花の生えてゐる狹い花壇へ殆んど踏みかける位ゐであつた。 彼が乘馬鞭で窓を叩いたので、彼女は初めて彼の氣がついた。雨はもう歇《や》んでゐた。 彼女は彼の手眞似に應じて窓の扉を開けた。 「僕が見えなかつたかえ?」とダアバァヴィルは訊ねた。 「私、氣をつけてゐませんでした、」と彼女は言つた。「音は聞えたやうな氣がしましたが、 馬車だとばかり思つてゐました。私、まるで夢でも見てゐるやうな氣持でした。」 「さうだ!君は大方あの『ダアバァヴィル家の馬車』の音を聞いたんだらう。 君はその傳説を知つてゐるだらうね?」 「いゝえ。私の -- あの誰だつたか一度話してくれようとしましたけど、やめちまつたんですの。」 「君が紛れもないダアバァヴィルの者だとすると、僕も矢張り君に話さない方がいゝやうだ。 僕なんかは贋物なんだから、どうでも構はないがね。そいつは聊《いさゝ》か凄味のある話だよ。 實はね、幽靈のやうな馬車の音は、ダアバァヴィル家の血をうけた者だけに聞えるだとさ。 そしてそれを聞いた者は不幸な目に會ふとか云ふ話だ。それは何世紀も前に、 その一族の一人が犯した殺人事件と關係があるんだよ。」 「さあ話し出した以上は、お終《しま》ひまで話して下さい!」 「よし來た。その一族の一人はね、或る美しい婦人を誘拐したといふことだ。 その婦人は馬車で連れて行かれる途中、馬車から逃げようとしたんだね。 で、組合つてゐるうちに、男が女を殺した -- いや、女が男を殺した -- とかいふことだが、 何方《どつち》だつたか忘れてしまつた。これは云ひ傳への物語さ…… 盥《たらひ》やバケツが荷造りしてあるやうだね。此處を立ち退《の》くのかえ?」 「えゝ、明日 -- 舊暦の告知節に。」 「さうだとは聞いたが、どうも本當に思へなかつたんだ。餘り急だもの。どうしてだえ?」 「父の代までゞ家屋敷の期限が切れることになつてゐたので、父が亡くなつた上は、 私たちはもう此處に住んでゐる權利がないんです。 尤も一週間ぎめの借家人としてなら住まつてゐられるかも知れません -- 私のことさへなかつたら。」 「君のことつてなんだえ?」 「私はあの -- 立派な女ぢやないんです。」 ダアバァヴィルは、顏を赧らめた。 「何てにが〜しい侮辱だらう!碌でなしのデモ紳士逹奴!そんな汚はしい魂なんぞ、火にくべて灰にしちまへ!」 皮肉な憤慨口調で彼は叫んだ。「さういふ譯で立ち退《の》かうといふんだね?追ひ出された譯かな?」 「はつきり追ひ出されたといふ譯ではないんですけど、直ぐに立ち退《の》いて貰ひたいといふことですから、 皆《みんな》が移り變りをしてゐる今が、出て行くには一番いゝのです。 さうした方が都合のいゝことにぶつつかるかも知れませんから。」 「何處へ行くつもりだえ?」 「キングスビイアです。もう向うへ部屋を借りましたの。 母は本當に父の一族のことを眞に受けてるほど馬鹿なんですから、そこへ行きたがつてゐるんです。」 「だが君のお母《つか》さんの家族と來ちや、とても下宿などぢや間に合はないね。 おまけにあんな穴みたいな小つぽけな町でさ。ね、トラントリッヂの僕の離屋《はなれ》へ來たらいゝぢやないか? 母が亡くなつてからは、あすこには鷄は殆どゐなくなつたよ。だが、あの家もあの庭も、 ちやんと元のまゝなんだよ。一日かゝれば塗り替へも出來るよ、 さうすれば君のお母《つか》さんはあすこで氣持よく暮せるんだ。 そして子供たちは僕が良い學校へ遣つて上げるよ。實際、僕は君の爲めに、 何かしなくつちやならない義務があるからね!」 「でも、もうキングスビイアに部屋を借りちやつたんです!」と彼女は瞭然《はつきり》言ひ切つた。 「そして其處で待つてゐればいゝんです -- 」 「待つてゐるつて -- 何をさ?わかつた、あの結構な御亭主をだね。まあ考へてみて御覽、テス、 僕は男つていふものはどんなものかよく知つてゐるが、 君たちの別れた原因をよく考へて見ると、僕はその男が君と和解することは決してないと、 はつきり斷言するよ。ね、僕も昔は君の敵だつたけれども、今では味方だ。 たとひ君はそれを信じなからうともね。僕のあの家《うち》へ來たまへ。 本式に養鷄をやらうぢやないか。さうすれば君のお母《つか》さんも立派にお世話が出來るし、 また子供たちは學校へも行けるんだ。」 テスは益々呼吸を早めた。そして到頭かう言つた -- 「あなたが今言つたやうなことを一々して下さるか、どうか、私に分るもんですか? あなたのお考へが變るかも知れないぢやありませんか -- さうしたら -- 私たちは -- お母さんは -- また宿無しになるこつてせう。」 「何んで -- 何んでそんなことが、そんなことのないやうに、必要とあれば證文でも書くよ。 まあよく考へて御覽。」 テスは首を振つた。けれどもダアバァヴィルはあくまでも主張した。 彼女はさうまで決心してゐる彼を滅多に見たことがなかつた。 彼はどうしても厭とは言はせまいとした。 「後生だから、ちよつと君のお母《つか》さんに言つてくれ。」と彼は語調を強めて言つた。 「何れとも判斷はあの人にあるんだ -- 君ぢやない。明日の朝、あの家をすつかり掃除して塗り替へさせ、 火も焚かして置かう。さうすれば、晩方までには乾いてしまふから。 君たちは眞直ぐ其處へ行つても差支へないんだ。いゝかね、僕は君たちの來るのを待つてるよ。」 テスは再び首を振つた。彼女の咽喉には複雜な感情がこみ上げて來た。 彼女はダアバァヴィルをどうしても見上げることが出來なかつた。 「僕は、君のために何んとかして過去の償ひをしなくてはならないんだよ、」と彼は話を續けた。 「それにまた、君のおかげであの氣違ひ熱も癒つたしね。だから僕は喜んで -- 」 「却つてその氣違ひ熱を續けてゐる方がいゝと思ひますわ。 そしたらそれに伴つた行ひも續けたでせうから!」 「僕は少しでも償ひの出來る時期の來たのを喜んでゐるんだ。 明日は君のお母《つか》さんの荷物が下される音を聞かれることゝ思つてゐる…… さあ、約束のしるしに握手をしてくれ -- ねえ、美しいテス!」 かう言ひ切ると、彼は聲を低くして何か私語《さゝや》き、半開きになつてゐる窓の扉にうちへ片手を差し入れた。 險しい眼付で彼女は直ぐに留金を引いた。さうしたゝめに扉《と》と縱仕切との間へ彼の腕を插んでしまつた。 「畜生 -- なんて殘酷だ!」と彼は腕を引き出しながら言つた。「いや、いや! -- わざとしたんぢやないことは分つてゐる。いゝかね、君か、 でなければ少くとも君のお母《つか》さんと子供たちが來るのを待つてゐるからね。」 「私は參りません -- お金が澤山ありますもの!」と彼女は叫んだ。 「何處に?」 「義理のお父さんのところに、私が慾しいと言つてやれば。」 「慾しいと言つてやればだね。 だけど言つてやれるもんかテス、 君の氣性はちやんと分つてるんだ。君は決して言つてなんかやるもんか -- まあ餓死《うゑじに》する方が先だらうよ!」かう言ひ殘して、彼は馬に乘つて立ち去つた。 丁度通りの曲り角で、彼はあのペンキ壺を持つた男に出會つた。その男は、 同じ宗旨の仲間を見捨てたのかと彼に訊ねた。 「糞でも喰へ!」とダアバァヴィルは言つた。 テスは元の所へ長い間止つてゐたが、やがて自分が不當な取扱ひを受けてゐるといふ叛抗心が急に起り、 くやし涙が湧いて來て眼がしらに一杯たまつた。彼女の夫のエンヂェル・クレア迄が、 他の人たちと同じやうに、彼女を冷酷に扱つたのだ。確かにさうだ! 彼女は今まで嘗てこんな考へを抱いたことはなかつた。だが彼は確かにさうだ! 今までに一度だつて彼女は間違つたことをしようなどゝ思つたことはなかつた。 -- 彼女は魂の奧底からそれを誓ふことが出來た -- それだのにかういふ苛酷な審判を受けたのである。彼女がどんな罪を犯したにしても、 それは求めて犯した罪ではなく、過《あやま》つて犯したのであつた。 それだのに何故さう何處までも執拗《しつこ》く罰せられなければならないのだらうか? 彼女は最初に手に觸れた一枚の紙を烈しく掴んで、次の數行を書き流した -- まあ、何故あなたはこんな途方もない仕向けを私になさるのですか。エンヂェル! 私はそんな仕向けを受けるやうな惡いことはしてゐません。私はよく〜この事を考へて見ました。 私は決して決してあなたをお赦しする譯には行きません! 御存知の通り私はあなたを辱しめるつもりなんかありませんでした。 -- だのに何故あなたは私にこんなに辛くあたるのでせう?あなたは殘酷です、殘酷です。本當に! 私はこれからはつとめてあなたを忘れるやうにします。あなたから受けた扱ひは皆《みんな》不當です! 彼女がぢつと見戍つてゐるうちに郵便脚夫が通りかゝつたので、 彼女はその手紙を持つて彼の方へ駈け出した。それからまた窓硝子の内側の席にぼんやり坐つた。 そんな風に書いてやるのも、優しく書いてやるのも、ちつとも變りはなかつた。 どうして彼が折れて出て、この哀訴を受け容れよう?事實は依然として變つてゐなかつた。 -- 彼の考へを飜《ひるが》へさすやうな新しい出來事は何もなかつた。 だん〜暗くなつて來て、爐の火が部屋中を明るく照らした。年下の子供たちの中でも一番大きい二人は、 母親と一緒に出て行つてゐなかつた。 四歳から十一歳まで順を追つてゐる他の四人の小さい子供たちは皆一樣に黒の上下續きの上衣を着、 爐のまはりに集つて、子供らしい、とりとめもないことを喋りあつてゐた。 テスも到頭、蝋燭も點けずに、彼等の仲間へ加つた。 「こゝで寢るのも、もう今夜きりなんだよ、ねえみんな、私たち生れたこのお家《うち》でね。」 と彼女は早口に言つた。「それをよく考へなくつてはね、さうぢやなあい?」 彼等は皆《みんな》默つてしまつた。新しい處へ移つて行くといふので、 今まで一日はしやぎ切つてゐたのだつたが、彼女が言ひ出した、これが最後といふ痛ましい光景にぶつかると、 ものに感じ易い年頃なので、彼等は、今にも泣き出しさうになつて來た。テスは話題を轉じた。 「皆《みんな》で歌つて聞かせておくれよ、ね。」彼女は言つた。 「何を歌ふの?」 「何でもいゝから皆《みんな》の知つてゐるのをね、何だつていゝの。」 暫らく沈默が續いた。それは先づ一つの試驗的な低い調《しらべ》で破られた。 それから、第二の聲がそれに力を添へ、また第三第四が一緒になつてこれに和し、 日曜學校で習つた歌詞を歌つた -- 地にありて、我等悲しみと苦しみを受く、 地にありて、我等の會ふは再び別るゝなり。 天にありては、我等もはや別るゝことなし。 四人は、歌の文句にある問題などはとつくに解決してゐて少しも間違ひはないから、 それ以上考へ煩ふには及ばないと思つてゐる人たちのとる冷淡な、どうでも好いと言つた態度で歌ひ續けた。 一節々々をはつきり歌ひ出さうと一生懸命になつて彼等はちら〜としてゐる爐の火の中心を絶えず瞶《みつ》めてゐた。 そして一番末の子供の歌は、他の者が歌ひ止んでも、尚ほ迷つたやうに續いてゐた。 テスは彼等から離れて、再び窓の方へ行つた。戸外にはもう闇が襲つてゐたが、 彼女はその暗闇を覗き込まうとでもするやうに、窓硝子へ顏を押しあてた。それは、 實は涙を匿《かく》す爲めだつた。若し彼女が子供逹の歌つてゐるところの歌を信じることが出來さへしたら、 凡ては今どんなにか變るだらう。どんなにか信じて彼女は子供逹を神と未來の王國とに委《まか》してしまふことだらう! だが、それが出來ないので、彼女は何とかしなければならなかつた。 彼等の神とならなければならなかつた。といふのは、テスに取つても、 他の幾百萬といふ人々に取つてと同じく、この詩人の句(ウアズウアースの「不死の告示」第五齣にある句)が、 物凄い諷刺と思はれたからである -- 全くの裸でゞはなく 光榮の雲を身に纒《まと》うて、我等はこの世に來る。 彼女や彼女のやうな者に取つては、生れるといふ事が抑々個人の意志を段々衰へさせる一つの試煉であつた。 しかもどんな結果でも、試煉の謂れなさを尤もらしくする餘地はなく、 また高々言ひ繕ふだけのことも出來なかつた。 濡れた道路の暗がりに、彼女は、間もなく背の高いリザ・ルューとアブラハムを伴れた母親の姿を認めた。 ダアビフィールドの女房の木靴は、かた〜と音を立てゝ扉口《とぐち》に近づいた。テスは扉を開けた。 「窓の外に馬の足跡があるね、」と母親は言つた。「誰か訪ねて來たのかえ?」 「いゝえ」とテスは言つた。 爐の側にゐた子供たちは、ぢろりと彼女を見、そして一人が呟いた -- 「ほら、テス、あの馬に乘つた紳士さ!」 「あの人は訪ねて來たんぢやないよ、」とテスは言つた。「通りがゝりに、私に話しかけたんだよ。」 「その紳士つて誰だね?」と母親は訊ねた。「お前の旦那かえ?」 「いゝえ。あの人は決して〜歸つては來ません。」とテスは、全く絶望してゐるやうな調子で答へた。 「しや、そりや誰なのかえ?」 「まあ、お訊きになるには及びませんわ、あなたは前に會つたことがあるし、私もある人なの。」 「あゝ!何と言ひなすつた?」と母親はさも樣子を聞きたさうに言つた。 「明日、キングスビアの家《うち》へ落ち着いたら、お話しします -- 何もかもすつかり。」 夫でないと彼女は言つた。しかし肉體的には、たゞこの男のみが自分の夫であるといふ考へが、 益々彼女を壓迫するやうに思はれた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 次の朝の三四時頃、まだ暗いうちに街道筋に住んでゐる人々は、 途切れ途切れに夜明まで續いた騷がしい響に、夜の安眠を妨げられたのを、 夢幻《ゆめうつゝ》に知つてゐた -- それはこの月の第一週に限つて、 同じ月の第三週の郭公《ほとゝぎす》の聲と同樣、間違ひなく毎年繰返される響であつた。 これは一般の引つ越の序幕で、移轉する家族の荷物を取りに行くために、 空車《あきぐるま》と馬が通るのであつた。といふのは、雇つた方の農夫の乘物で雇はれた者を、 その行先まで運んでやることに、いつもなつてゐたからである。 これをその日の中に片づけてしまひたいといふので、眞夜中を過ぎると直ぐに、 荷車の響を立てるのであつて、馬車屋の目的は、六時までに出て行く家族の門口へ着き、 それから早速荷積みに取りかゝらうといふ譯であつた。 しかしテスとその母親の一家へは、心配して曵馬を寄越してくれるかういふ農夫はなかつた。 彼等はたゞの女に過ぎなかつた。彼等は常雇《じやうやと》ひの勞働者ではなかつた。 彼等は特に何處かで頼まれてゐるといふのではなかつた。だから費用は自分持で荷馬車を雇はねばならず、 無報酬では何一つ送つて貰ふ譯には行かなかつた。 テスはその朝、窓から外を覗くと、風があつて空模樣は惡かつたが、雨は降つてはゐないし、 荷馬車がもう來てゐるので救はれたやうに思つた。雨降りの告知節と來ては、 引つ越しをする家族たちには決して忘れられない化物であつた。濕つた家具、濕つた夜具、濕つた衣類がそれに伴ひ、 いろんな病氣が後から〜と續くのであつた。 テスの母親とリザ・ルュー、それからアブラハムも目を覺ましてゐたが、年下の子供逹はまだ寢かされた儘であつた。 四人はほのかな明りをたよりに朝飯を濟ました。そして『移轉』の支度が始められた。 取り片づけは親切な近所の人逹も一人二人手傳ひに來てくれたので、いくらか元氣に進んだ。 家具の中でも大物がちやんと積み込まれると、寢具や夜具で圓い巣が作られた。 その中へ、ダアビフィールドの女房と小さな子供たちが坐つて旅を續けられるようになつてゐた。 荷拵への間、馬を離しておいたので、荷積みが終つてから、馬が連れて來られるまで少し間があつた。 が到頭二時頃になると一同は動き出した。鍋は荷車の心棒からぶらさがつてゐた。 ダアビフィールドの女房とその一家族は一番|天邊《てつぺん》に乘つてゐた。 そして主婦は、噐械を傷《いた》まないやうにしようと思つて柱時計の頭を膝の上へ載せてゐたが、 少しでも強く荷馬車が傾く度に、焦々《いら〜》したやうな音で、一時を打つたり一時半を打つたりした。 テスと次の姉娘は、村を出端《ではづ》れるまでは、荷車と並んで歩いてゐた。 彼等はその朝と前の晩に、二三軒近所の家へ暇乞ひに行つて置いたので、 中には見送りに來てくれる者もあつて、皆《みんな》彼等の無事を祈つたが、心のうちでは、 ダアビフィールド家の者は彼等以外の者には少しも迷惑をかけなかつたが、 かう云ふ一家が幸運に見舞はれるやうなことはあらうと思つてゐなかつた。 間もなく馬車は高地へ登りかけた。すると風が、高さと地味の變るにしたがつて、 一層鋭くなつて來た。 その日は四月六日であつたから、ダアビフィールドの荷馬車は、 荷物の天邊《てつぺん》に家族を載せてゐる何臺もの他の荷馬車に行き逢つた。 その荷物は、六角形が蜜蜂に特有なものである如くに、 恐らく百姓に特有らしい似たりよつたりの積み方で積まれてゐた。 荷積の土臺は一家の臺所戸棚であつた。それは、よく光る把手や、指跡や、 家庭で使ひふるされた痕跡《あと》をはつきり見せて、荷車の正面、 轅《ながえ》につながれた馬の尻尾《しつぽ》の上へ眞直に何時もの通り堂々と立つてゐた。 それはまるで恭々《うや〜》しく運ばれなければならない、 何か經典の納められてゐる『聖櫃』のやうであつた。 數多い家族のうちには、元氣なものもあれば、鬱《ふさ》いでゐるのもあつた。 或る家族は路傍の酒場の入口に立停つてゐた。ダアビフィールドの一團もやがて其處へ着いて、 馬に飼料《かひば》をやり、自分たちも飮物をとつた。 休息してゐる間に、テスは、 同じ酒場から少し離れた處へ停つた荷馬車の荷の上に坐つてゐる一家族のうちの女たちの方へ、 宙を上つたりまたそこから下つたりする三パイント入りの青い酒瓶に眼を留めた。 彼女の眼は上の方へあがる瓶の行方を辿つて行つて、 それが彼女のよく知つてゐる人の兩手で握られるのに氣がついた。テスはその馬車の方へ歩いて行つた。 「マリアンにイズ!」と、彼女は娘たちに向つて、叫んだ。 今まで、彼女たちの下宿してゐた一家が、引越して行くので、それと一緒に乘つてゐたのが、 彼等だつたからである。「あんた方も今日引つ越しなの、他の人と同じやうに?」 さうだと彼等は言つた。フリントコム・アッシの生活は彼等には餘りに殺風景だつたので、 訴へるなら勝手に訴へるがいゝとグロビイの考へに任せ、彼等は殆んど何の斷りもなしに出て來てしまつたのである。 彼等はテスに行先を話し、テスは彼等に自分の行先うぃ話した。 マリアンは荷物の上に屈んで、聲を潛めた。「あなたを追ひ廻してゐる紳士が -- 誰だか分つてるでせう -- あなたが行つてしまつてから、フリントコムへ、 あなたを訪ねて來たこと、御存知?あなたは會ひたがらないつてことを、 私たち知つてゐたから、あなたの居所は教へなかつたの。」 「まあ -- だけど、私、會つちやつたの!」とテスは呟いた。「あの人に見つかつちやつたんですもの。」 「ぢや、あんたがこれからの行先もあの人知つてるの?」 「知つてるでせうよ。」 「旦那さんは歸つて來て?」 「いゝえ。」 彼女は友逹に別れを告げた -- それ〜゛の馬車屋が丁度酒場から出て來たのであつた -- そして二臺の荷馬車は、正反對の方向を指して、再び進む出した。マリアンとイズ、 それから彼等が運命を共にした百姓一家の乘つてゐる車は、派手に塗り立てゝあり、 ぎら〜光る眞鍮の裝飾づき馬具に裝はれた、巖丈な三頭の馬に曵かれてゐた。 ところがダアビフィールドの女房とその一家の乘つてゐる荷馬車は、 積まれてゐる荷物の重量をやつと支へて行けるやうなガタ〜の馬車で、 出來てからペンキの味を一度も味つたことがなく、僅に二頭の馬に曵かれてゐるだけであつた。 二つを比べて見ると、豪勢な百姓に雇はれて行く者と、 待つてゐる雇主もなく、自分で乘つて行く者との相違がよく現はれてゐた。 道程《みちのり》は可なりあつた -- 一日の旅程には過ぎる程であつた -- そしてやつとのことで、 馬は漕ぎつけた。隨分早く出かけたのだつつたが、 彼等がグリーンヒルといふ高地の一部になつてゐる丘の中腹を廻つたのは、 午後も可なり遲い時刻であつた。馬が立ち停つて尿をしたり、息を入れたりしてゐる間に、 テスは四邊《あたり》を見廻した。丘の下の、丁度今彼等のゐる直ぐ正面には、 彼等の旅の目的地である半ば死んだ小都會キングスビアがあつた。 其處には、彼女の父親が痛ましいまでに語り且つ歌つたりした祖先たちが葬られてゐた -- 優に五百年も其處に住んでゐたので、世界のあらゆる場所のうちでも、 特にダアバァヴィル家の故郷と看做《みな》されてゐるところであつた。 男が一人町|端《はづ》れから彼等の方へ向つて來るのが見えた。 そして彼等の荷馬車の荷物の樣子を見ると、更に足を早めた。 「お見受けするところ、あんたはダアビフィールドさんといふお上さんのやうに思ひますが?」と、 この男はテスの母親に言つた。彼女はこれから先の道は歩いて行かうと思つて、 荷馬車を降りたのであつた。 彼女は點頭《うなづ》いた。「私の身分を申しませうなら、 この頃亡くなつた貧乏貴族のジョン・ダアバァヴィル閣下の未亡人《ごけ》でございます。 これから先祖の領地へ戻らうとするところですが。」 「えつ?さうですか、私はその邊のことは一向存じませんが、 若しあんたさまが、ダアビフィールドさんですなら、あんたが慾しいといつてゐた部屋が、 塞がつたと申せと、言ひつかつて來ましたゞ。私どもの方ぢや、今朝 -- お手紙を拜見するまでは、あんた方のお出でになるこてや、存じませんでした、 -- で、もう間に合ひませんでしてな。でも、間違えなく、何處かまた他に宿が手に入りませうて。」 この報告を聞き眞蒼《まつさを》になつたテスの顏に男は氣づいた。 母親は途方に暮れたやうに見えた。「今になつてどうしたもんだらうね、テス?」 と彼女は痛ましさうに言つた。「さあこれが御先祖の土地へ來て受けるお迎へだよ! 兎に角、まあ先に行くことにしよう。」 彼等は歩き出して町へ入つた。そして出來るだけ探して見た。 母親とリザ・ルューが訊きに歩いてゐる間は、テスが荷馬車に居殘つて子供たちの世話をしてゐた。 一時間經つて、宿探しは駄目だつたと、母親が車の所へ最後に戻つて來た。 すると荷馬車の馭者は馬が半分死にかけてゐるし、 また今夜のうちに道の幾分でもいゝから引返さなければならないから、 荷物を是非卸させて貰ひたいと言ひ出した。 「よござんす -- 此處へ卸して下さい、」と母親は向う見ずに言つた。 「何處かへ一時の宿を見つけますから。」 荷馬車は寺の墓地の塀の下の、人目につかない場所へ曵き寄せられた。 馭者は喜んで直ぐに見窄《みすぼ》らしい一山の家財道具を卸した。 これが濟むのを待つて、彼女は運賃を支拂つた。そのおかげで後には殆んど一|志《シリング》か、 そこらしか殘らなくなつた。馭者はこんな家族にもう係り合ひのなくなつたことを喜び、 彼等を後に殘して立ち去つた。からつとした夜だつたので、彼は、 一家の者が困るやうなこともあるまいと思つた。 テスはがつかりして凝《ぢつ》と家具の山を瞶《みつ》めた。この春の夕暮の冷たい日光は、 壺や湯沸しを、微風に顫へてゐる干藥草《ほしやくさう》の束を、 臺所戸棚の眞鍮の把手を、子供逹が皆《みんな》中へ入つて搖られた柳製の搖籃を、 それから手擦のした柱時計の枠をこせ〜と一わたり覗いた。 すると何れも皆《みんな》、露天に晒されるやうな廻り合はせになつた室内家具らしく、 晒される爲めに作られたのではないといふ責めるやうな光を放つた。 周圍には元は公園だつた丘や傾斜面 -- 今では小さい馬の圍ひ場に仕切られてゐる -- があり、 それから嘗てはダアバァヴィル家の館の立つてゐた地點を示す草深い土臺があつた。 また、常にその所領地となつてゐたエグドン・ヒースの裾野がひろがつてゐた。 直ぐその傍には、ダアバァヴィル側堂といふ其處の教會の側堂が、靜かに四邊を見下してゐた。 「一家の墓所は、家《うち》の不動産ぢやないのかね?」寺と墓地とを一巡して戻つて來た時、 テスの母親は言つた。「そりやもう、それに違ひないとも。 だからねえ皆《みんな》お家《うち》の御先祖の土地に宿が見つかるまで、 こゝへ假住ひするんだよ!さあ、テス、ルュー、アブラハム、皆《みんな》手傳つておくれ。 この子供たちに床を拵《こしら》へてやらう。それから、もう一廻りして來よう。」 テスは手傳つたが氣乘りがしなかつた。そして十五分ばかりで、古い四本柱の寢臺が荷物の山から取り離され、 『ダアバァヴィル側堂』として知られてゐる、下には巨きな納骨堂のある建物の一部、 教會の南の壁下へ組立てられた、寢臺の天蓋の上には、十五世紀に出來たといはれてゐる、 色々な色彩の美しい窓飾りのある窓が臨んでゐた。それは『ダアバァヴィルの窓』と呼ばれてゐて、 その高い處にはダアビフィールド家の古い印形《いんぎやう》や匙に彫付けてあるのと同じ紋章が認められた。 母親は、寢臺の周圍にカーテンを引き廻して立派な天幕《テント》を作り小さい子供逹をその中へ入れた。 「愈々困つたら私たちも一晩だけは、其處で寢られるわね、」と彼女は言つた。 「まあしかし、もつと探して見よう、そして子供たちに何か食べ物を買つて來てやらう! おゝ、テス、紳士相手に結婚ごつこなんかしたつて、何の役にも立ちやしないぢやないか。 私たちを、こんなにして置くんなら!」彼女は、リザ・ルューと男の子とに伴はれて、 又この教會と町とを隔てゝゐる細い小路を登つて行つた。街道へ出るや否や、 彼等は馬に乘つて彼方此方《あちらこちら》を見廻してゐる一人の男を見た。 「あゝ -- 僕はあなた方を探してるところなんです!」その男は、 彼等の側へ乘りつけて來て言つた。「こりや、實際由緒ある處に一門のお集りといふ譯ですね!」 それはアレク・ダアバァヴィルであつた。「テスは何處にゐます?」と彼は訊ねた。 母親は自分としてはアレクを少しも好いてゐなかつた。彼女はぶつきら棒に教會の方角を示して先へ進んだ。 ダアバァヴィルは、事情はつい今聞いたばかりだが、若し宿が猶ほうまく見つからない場合には、 またお目にかゝりませうと言つた。彼等が立ち去つてしまふとダアバァヴィルは宿屋へ馬をつけ、 間もなく徒歩で出かけた。 その間テスは、子供たちと一緒に寢臺の内側に殘つて、暫く彼等と話し合つてゐたが、やがて、 もうこれ以上彼等を慰める術《すべ》もないのを知ると、夕闇の爲めに薄暗くなつて來た墓地の邊を歩き廻つた。 教會の扉には鍵がかゝつてゐなかつた。そこで、生れて始めて彼女はその中へ入つて見た。 寢臺の設けてある上の窓の内側には、數世紀に亙る一族の墓があつた。 それ〜゛の墓は天蓋に覆はれ、祭壇の形に作られた質素なものだつた。 彫刻は磨滅し、破損してゐた。眞鍮は窩《あな》から剥がれ、 目釘《めくぎ》の穴は砂岩の崖にある燕の穴のやうに殘つてゐた。 彼女は今までに、自分の一族が社會的に消滅してしまつたといふことを思ひ出させるものには隨分多く出會つたが、 この荒れ果てた光景位ゐ強く迫つて來るものはなかつた。 彼女は次のやうな文字に刻み付けられてある黒ずんだ石の方へ近寄つて行つた -- Ostium Sepulchri antiquae familiae d'Urberville, (陀亞婆比留家墓所之門扉《ダアバァヴィルけぼしよのもんぴ》) テスは大僧正のやうに教會のラテン語を解しはしなかつたが、 これが自分の祖先の墓所の門扉であり、また父親が醉つては口吟《くちづさ》んだ、 あの丈高き騎士たちが、この内に眠つてゐることを知つた。 彼女は考へに耽りながら、其處を去らうとして引返した。 そして中でも一番古い祭壇型の墓の近くを通ると、その上に横になつてゐる人の姿があつた。 暗かつたので彼女は前にはそれに氣づかずにゐたのだつた。また今度も氣がつかなかつたであらう、 その姿が動くやうに思はれなかつたならば。やはり彼女はその傍に近づくや否や、 彼女はそれが生きた人間だといふことを忽ち知つた。そして今まで自分獨りで、 こゝにゐたのではなかつたと知り、ひどく吃驚したが、 それがアレク・ダアバァヴィルだと分ると、すつかり顛倒してしまひ、 殆んど氣絶しさうになつて、仆《たふ》れかゝつた。 彼は石板から跳び下り、そして彼女を支へた。 「僕は君が入つて來たのを見たんだよ、」と彼は莞爾《にこ〜》し乍ら言つた。 「そして、君の考へ事をしてゐるのを妨げまいとして、彼處《あすこ》へ上つたんだ。 この僕逹の下にゐる先祖と一家の者が相會すつてわけかね、ほら聽いて御覽。」 彼は踵《かゝと》でどしんと床を踏んだ。すると、足の下から洞《うつろ》な反響が起つた。 「これで少しは御先祖逹も驚いたらうね、屹度!」と彼は言葉を續けた。 「君は僕を御先祖の誰かの石像だとばかり思つたんだね。だがさうぢやなかつた。 世の中は移り變るもんだよ。今では贋《にせ》のダアバァヴィルの小指一本の方が、 地下にゐるお歴代の本物をみんな並べたよりも、ずつと君の爲めになるんだ…… さあ僕に命令して下さい。何をいたしませう?」 「行つて下さい!」と彼女は呟いた。 「行きます -- 行つてあなたのお母さんを見つけませう、」と彼はやさしく言つた。 が、彼女の傍を通りすがりながら、彼は囁いた -- 「覺えてゐなよ、 今に君だつてやさしくなるだらうつてことをね!」 彼が立ち去ると、彼女は納骨堂の入口へ凭《もた》れかゝつて、かう言つた -- 「何故自分はこの扉をあべこべの側になんかゐるんだらう!」 一方、マリアンとイズ・ヒュウエットとは、例の百姓の家具家財と一緒に、 彼等に取つてはカナンの土地 -- 今朝其處を立ち去つたばかりの他の或る家族に取つては『埃及』である -- の方を指して旅を續けてゐた。だがこの娘たちは、行先のことなどをいつまでも考へてはゐなかつた。 彼等の話はエンヂェル・クレアとテス、それからテスに執拗《しつこ》くつきまとつてゐる男のことを話し合つた。 この男が彼女の以前の身の上に關係のあることは、前にも半ばは噂で聞き、 半ばは想像で、彼等はもう知つてゐた。 「あの人、あの男をこれまでも些《ちつ》とも知らなかつたやうぢやないね、」とマリアンは言つた。 「あの男が前にテスを手に入れてゐたとすると、大變なことになるね。 若しあの人がまた伴れて行かれてしまふやうになつたら、それこそとり返しがつかなくないことになるよ。 クレアさんが私逹にどうなんて事になる筈はないんだから、ねえ、イズ、 クレアさんをテスにやるのをどうかう言つて、今度の仲違ひを仲裁しないでゐるつて事はないわ。 若しあの方が、どんなにテスが苦しんでゐるか、またどんな男につき纒はれてゐるか、 それが分りさへしたら可愛い奧さんを大切にするやうになるかも知れないよ。」 「どうしたら知らせて上げるこが出來るんだらうね?」 彼等は目的地へ行くまで、そのことを考へ通したが、行き着くと、 新しい土地に再び住居を構へる忙《いそが》はしさの爲めに、 その當座彼等の注意はすつかりその方へ奪はれてしまつた。だが、一ヶ月經つて、 すつかり落ち着いた頃に、テスのことは、その後何も聞かなかつたが、 クレアがいよ〜近く歸朝するといふ噂を耳に挾んだ。そこで、新たに彼に對する愛着を感じて心を騷がせたが、 テスに對しては恥しくない態度をとつて、マリアンは共同で使つてゐる安いインキ壺の栓をとつた。 それから娘逹は二人がゝりで短い手紙の文句を作り上げた。 一筆申上げます -- あなたの奧樣があなたを愛してゐるほど、あなたも奧樣を愛していらつしやるならば、 どうぞ奧樣を見てあげて下さいまし。そのわけは、奧樣は今味方の皮をかぶつた敵のために、 苦しめられて居ります。ねえ、奧樣の側には追ひ拂はなければならない者がゐるのです。 女といふものは、その力に堪へられないほど苦しめられる可きものではありません。 滴《しづく》だつて絶えず落ちてゐれば、石でも -- いえ、それどころか、 -- 金剛石でも擦り減らしてしまふでせう。 お爲めを思ふ二人の者より この手紙は、彼等が今までに、彼と關係があると聞いてゐた唯一の場所、 エミンスタア牧師館氣付で、エンヂェル・クレアへ宛《あて》られた。 その後で、彼等は、自分たちが寛大な處置を執つたことを考へて、烈しく興奮し、 その氣持を永く續けて、時々思ひ出したやうに、唄を歌つたり、また同時に泣いたりした。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- エミンスタア牧師館の夕暮であつた。牧師の書齋では、おきまりの二本の蝋燭が緑の笠の下で點《とも》つてゐたが、 牧師はそこに坐つてゐなかつた。時々彼は入つて來て、次第に増して行く春の温かさには十分である、 僅かばかりの爐の火を掻き立てゝは、また出て行つた。時には玄關の戸口で立ち停つたり、 客間へ行つたり、又玄關の方へ戻つてみたりした。 玄關は西向きだつたので、屋内には既に夕闇がこめてゐたが、戸外にはまだはつきりと物が見えるだけの明るさを殘してゐた。 今では客間に坐つてゐたクレア老夫人は夫の後に跟《つ》いて、此處まで來た。 「まだ〜大分間がある、」と牧師は言つた。「あれは汽車が時間通りに着くとしても、 六時前にはチョーク・ニュートンへ着かない、それから十哩の田舍道だが、その半分は、 マアクロック小徑《レイン》を通るのだから、うちの老《おい》ぼれ馬ではさう急にはやつて來られまいよ。」 「でも、あの馬は私たちを乘せて一時間で來たことがありましたよ、あなた。」 「何年か前のことだな。」 彼等にとつて唯一の大事なことはたゞ待つといふことだつたから、 こんなことを話し合ふのは、無駄だとお互によく知つてゐながらも、かうして時を過してゐた。 到頭小徑に微かな音がして、小馬に曵かれた古い馬車が柵の外に現はれた。 馬から一人の姿が下りるのを二人は見て、それが誰であるかを認めたやうな風を見せたが、 特別の人の着くべき特殊な時刻に、馬車から出て來たから可いが、 若し往來で擦れ違つたのなら、實際それが誰であるか分らなかつたであらう。 クレア老夫人は暗い廊下を扉口の方へ走り出した。彼女の夫のクレアはゆつくりその後から出て來た。 丁度家の中へ入らうとした新來の客は、入口の所で、二人の待ち設けてゐた顏と、 その日の最後の光線に向つてゐる爲めに、二人の眼鏡に反射してゐる西日の輝きとを見た。 だが、彼等の方は、たゞ光を背にした彼の輪廓を見得たに過ぎなかつた。 「まあ、この子は、この子は -- 到頭歸つて來ておくれだね!」とクレア老夫人は叫んだ。 彼女はこの時、彼の衣類についてゐる埃を氣にしないと同じやうに、 親子の間を疎遠にした異端者の心の汚れにも氣を止めてはゐなかつた。 實際、眞理に最も忠實な歸依者の中の如何なる女が、自分の子供を信じる程に深く『神の道』の約束と、 威嚇を信ずるであらうか、また、自分の信仰と子供の幸福とを較べた場合、 その信仰を惜し氣もなく捨てないでゐるであらうか。蝋燭の點いてゐる部屋へ三人が着くと直ぐに、 彼女は彼の顏を見た。 「おゝ、これはエンヂェルぢやない -- 私の息子ぢやない -- 出て行つた時のエンヂェルぢやない!」 彼の傍から離れながら、全く悲しい皮肉な調子で、彼女は叫んだ。 彼の父親も、また彼を見て吃驚りした。故國で起つたあの皮肉な出來事に不快を感じ、 向う見ずに慌てゝ遁れて行つた土地《ところ》で、苦勞し、 惡い季節に出遇つた爲め父や母を驚かすほどに、彼の姿は以前と變つたのであつた。 この男の背後には骸骨が見え、骸骨の背後には、殆んど亡靈が見える位ゐであつた。 彼は、クリヴェリ(カルロ・クリヴェリ、一四八〇年頃の伊太利の畫家)の描いた死んだ『キリスト』のやうであつた。 落ち凹んだ眼窩は、病的な色を帶び、眼の光は衰へてゐた。年老いた祖先たちの、 ごつ〜した窶《やつ》れた皺の深い面影が、まだ二十年も早いのに、彼の顏に君臨してゐた。 「僕はあちらで病氣をしたんです、」と彼は言つた。「もうすつかり良くなりました。」 だが、この言葉が本當でないことを證據立てるかのやうに、彼の兩脚は今にもすくみさうに見えた。 そこで彼は倒れまいとして、急に腰掛けた。それは、退屈なその日の旅行と到着の昂奮から起つた、 ほんの輕い眩暈《めまひ》にすぎなかつた。 「この頃何處からか、僕の處へ手紙が來なかつたでせうか?」と彼は訊ねた。 「この前お送り下すつた分は、やつと受け取れたやうな譯です。それも内地へ入つてゐたので、 可なり時が經つてからでした。それでなかつたら、もつと早く歸れたかも知れませんでした。」 「あれはお前の家内から來たのだらうと思つたが?」 「さうでした。」 他にたゞ一通だけこの頃になつて來たが、彼がもう直ぐに故國へ向つて立つといふことが分つてゐたから、 彼等はそれを轉送しないで置いた。 彼は其處へ出された手紙の封を急いで開いた。そして彼に對する最後の走り書の中に表はれた感情を、 眼《ま》のあたりテスの自筆から讀んで、少なからず心を亂された。 まあ、何故あなたはこんな途方もない仕向けを私になさるのですか。エンヂェル! 私はそんな仕向けを受けるやうな惡いことはしてゐません。私はよく〜この事を考へて見ました。 私は決して決してあなたをお赦しする譯には行きません! 御存知の通り私はあなたを辱しめるつもりなんかありませんでした。 -- だのに何故あなたは私にこんなに辛くあたるのです?あなたは殘酷です、本當に殘酷です。 私はこれからはつとめてあなたを忘れるやうにします。あなたから受けた扱ひは全く不當です! T 「全くだ!」と手紙を投《はふ》り出しながら、エンヂェルは言つた。 「恐らくテスはもう決して自分とは和解してくれないだらう!」 「ねえ、エンヂェル、たかゞ土から生れた者のことなんぞで心配するものではありません!」 と彼の母親は言つた。 「土から生れた者ですつて!さうです。我々は皆《みんな》土から生れた者です。 お母さんの仰しやる意味で、あれがさうあつてくれたらと僕は願ひますが、 今まであなた方にはお耳に入れてなかつたことを申し上げませう。あれの父親といふのは、 我々の村々で人から顧みられない農民生活を營み『土から生れた者』と呼ばれてゐる、 可なり多くの百姓たちと同樣に、最も古いノルマン家の男系の末裔《すゑ》なんですよ。」 彼は間もなく寢室へ退いた。そして翌朝はひどく氣分が惡かつたので、 自分の部屋へ籠つて、深く考へ込んでゐた。彼はテスをあゝいふ境遇に殘して置いたのであつたから、 赤道の南にゐて、情愛の籠つた手紙を受取つた時は、自分が赦す氣にさへなつたら、 何時でも急いで、彼女の腕へ戻ること位ゐ、何でもないことのやうに思はれたのだつたが、 さて歸つて來て見ると、想像された程たやすく行きさうもなかつた。彼女は熱情的であつて、 彼がぐづ〜してゐた爲めに、彼を量る彼女の心の秤《はかり》が一變した -- 當然過ぎる程當然に變化した、と悲しくも認めないわけには行かなかつた -- ことを示してゐる今度の手紙を前にして、彼は出しぬけに、彼女の兩親のゐる所で、 彼女と會ふのは果して悧巧なことであらうかと、自問して見た。 別居してから二三週間の間に、彼女の愛が全く嫌惡に變つてしまつたものとすれば、 突然の會見は、苦い言葉を交はすやうになるかも知れなかつた。 クレアはそれ故、マアロットへ手紙を出し、自分の歸つたこと、また彼が英國を立つ前に取りきめて置いたやうに、 彼女がまだ皆《みんな》のところに暮してゐるだらうと思つてゐるといふことを知らせて、 テスとその家族の者に心構へをさせて置くのが最上の策だと考へた。 彼はその日のうちに問ひ合せの手紙を出した。すると、その週がまだ過ぎないうちに、 ダアビフィールドの女房から、短い返事が來た。けれどもそれは彼の當惑を取除きはしなかつた。 といふのは、意外にもその手紙はマアロットから出されたものでない上に、 差出人の住所が書いてなかつたからである。 貴方《あなた》さま -- 一筆申上げ候 娘ことは唯今不在にて、いつ頃戻るか確かならず候につき歸り次第お知らせ申し上ぐる可く候。 あれの一時住ひ居り候所は、私としては申し上げ兼ね候。なほ私並に家族の者は、 こゝ暫くマアロットを立去り居り候。 ジェー・ダアビフィールド 兎に角、テスが無事でゐるらしいことを知つたので、クレアは先づほつとして、 彼女の居所に就いて、母親が固く口を噤《つぐ》んでゐることなどは、 何時までも彼の心を苦しめてはゐなかつた。明らかに、彼等は皆自分に對して腹を立てゝゐるのだ。 彼は、ダアビフィールドの女房から、テスの歸つたことを知らせて寄越すまで待たうと思つた。 彼女の歸つて來るのも、母親の手紙で見ると、間もないことであるらしかつた。 彼にはそれ以上を望む資格はなかつた。彼の方の愛こそ、『眼先の變る毎に移り行く』 (シェークスピアのリンネット[注:ソネットの誤り]第百十六、第三行目の句)愛であつたのだ。 故國を留守にしてゐる間にん、彼は不思議な經驗を感得した。 彼は文字通りのコーネリヤ(賢母のほまれが高かつた)のうちに、 事實上のユースティナ(マーカス、オーレリウス帝の愛妻)を見、 肉のフリネエ(紀元前四世紀、アンゼンスにゐた美人で娼婦。モデル女にもなつたと云はれる)のうちに、 靈のルクレシヤ(ターキニウス、コラテナウスの妻にして美人。貞淑を以て聞え、嘗つて、 セキスタス、ターキニウスが横戀慕したのが原因となつて、ターキニウス一族は、 滅亡したといふ傳説がある)を見たのであつた。彼は、石に打たるべきものとして捕へられ、 群集の中に引き据ゑられた女(新約聖書、約翰傳第八章、一 - 一一にある)のことを、 またユリアの妻女が王にされたこと(ダビデに見初められて身を汚した、名をバスシエバといふ美女で、 ユリアの妻。舊約撒母耳後書第十一章三節に見ゆ)のことを思ひ出した。そして彼は、 何故自分は、閲歴の上からでなく、寧ろ實質の行爲によるよりも意志によつて、 テスを裁かなかつたのであらうかと自分に訊ねた。 約束のテスの母親からの二度目に手紙を待ち、また間接には、もう少し元氣を囘復しようとして、 父の家にゐるうちに、一日二日は經つた。元氣は囘復する兆候を見せたが、母親からの手紙は、 更に來さうもなかつた。そこで彼は、ブラジルにゐる間に、受取つた古い手紙を探し出した。 それは、テスがフリントコム・アッシから出したものであつた。 彼はふたゝびそれを讀み返して見た。その文句は、最初讀んだ時と同樣に、 彼の胸を打たずにはゐなかつた。 私は苦しみの中からあなたにお訴へしなければなりません -- 他に私は訴へる人がないのです…… 若しあなたが直きに歸つて來て下さるか、さもなくば私にあなたのおそばへ來いと言つて下さらなければ、 私は死んでしまふことゝ思ひます…… どうぞ、どうぞ、道理ばかりで考へないで下さい。ほんの少しでもよいのですから私に優しくして下さい…… 若しあなたがお歸り下さるなら、私はあなたのお胸に抱かれて死にもいたしませう! 私を恕《ゆる》して下さるなら、私は本當に滿足してさうすることでせう!…… たつた一筆お書きになつて、『僕は、程なく歸る』と仰しやつてさへ下されば、 私どこまでもお待ちしてをります、エンヂェル -- おゝ、本當に元氣よく!…… 考へても見て下さい、あなたにいつも、いつになつてもお會ひ出來ないことが、 私の心をどんなに痛めてゐるかを! あゝ、若し私の心が、いかなる日も朝から晩まで痛んでゐるやうに、 毎日ほんの一秒間づゝでもあなたのいとしいお心を痛めることが出來さへしたなら、 あなたは可哀さうな淋しい妻を哀れんで下さるでせう…… 若しあなたの妻として御一緒に暮せないなら、あなたの召使として暮すだけでも滿足するでせう、 さうです、喜びもいたしませう。さうすれば、せめてあなたのお側にだけでもゐられますし、 他所《よそ》ながらあなたをお見受けすることも出來、またあなたを私のいとしい方と思ふことも出來ます…… 天にも地にも、また地の下にも、あなたにお會ひしたいといふ、たつた一つのことを私はお願ひします。 ねえ、私の戀しいあなた!私の處へ歸つて來て下さい、私の處へ歸つて來て下さい。 そして私を脅《おびや》かすものから救つて下さい。 クレアはこれを讀んで、彼女の最近の一層嚴しい彼に對する考へ方をもう信じないで、 すぐに出掛けて行つて、彼女を探し出さうと決心した。 彼は留守中に彼女が金の要求をして來なかつたかどうかを父親に訊いた。 父親はそんなことが無かつたと答へた。それで始めて彼女の矜恃《ほこり》がさうさせなかつたことを知り、 定めし困つてゐたであらうとクレアは考へついた。彼の言葉から、 今は彼の兩親も二人が別居してゐる本當の理由を察してしまつた。 そしてキリスト教の信仰に厚くて、墮落者に對しては殊に同情が深かつた爲め、 彼女が由緒ある家柄の生れであることや、質朴なことや、 また貧乏であることを知つても別に心を動かさずにゐたが、テスの罪を知ると、 忽ち彼女に對する優しい氣持を起さずにはゐなかつた。 急いで旅行用の少しばかりの品物を纒めてゐるうちに、彼は矢張りこの頃來た、 つたない素朴な手紙へ眼をやつた -- それはマリアンとイズ・ヒュウエットから來たもので、 次にやうな書出しであつた -- 「一筆申上げます -- あなたの奧樣があなたを愛してゐる程、あなたも奧樣を愛していらつしやるならば、 どうぞ奧樣の面倒を見て上げて下さいまし。」そして「お爲めを思ふ二人の者より」と署名がしてあつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 十五分ばかりすると、クレアは家を出て行つた。母親は彼の痩せた姿が往來へ消えるまで、 家の中から凝《ぢつ》と瞶《みつ》めてゐた。 彼は父親の老いた牝馬が家になくてはならないことをよく知つてゐたのでそれを借りることを差控へた。 彼は宿屋へ行き、其處で小型の馬車を一臺雇ひ、馬具をつける間ももどかしさうに待つてゐた。 それから僅か二三分間もたつと、彼は同じ年の三四ヶ月前、テスがあのやうな希望を抱いて下り、 目茶苦茶に打ち碎かれた希望を以つて上つて行つた町の坂道を、馬車を驅つて登つてゐた。 ベンヴィル・レインが、生垣や新芽でむらさき色になつた樹木とともに、間もなく、 彼の行方に展《ひら》けて來た。けれども、彼は他のものに眼を移してゐて、 たゞ自分が道を間違はずに行く目標になるだけの景色を思ひ出すに過ぎなかつた。 一時間半足らずで、彼はキングス・ヒントックの所領地の南端を廻り、薄氣味の惡い、 淋しいクロス・イン・ハンドへと登つて行つた。其處には汚ならしい石柱があつて、 その上で、テスは曾て氣紛れに改心してゐた頃のアレク・ダアバァヴィルに、 二度と彼を誘惑しないといふ不思議な誓をさせられたこtがあつた。 前の年の色褪せた、枯れた蕁麻《いらぐさ》の莖が、今もなほ裸のまゝ土堤に殘つてゐる、 その根もとから今年の春の若い緑の蕁麻《いらぐさ》が延び出してゐた。 其處から彼は、他のヒントック地方にさしかゝつてゐる高地の鼻を通つて進み、 右に折れて、彼女が彼に宛てゝ寄越した手紙のうちの一通の出先であり、 また彼女の母親がそれとなく仄めかしてゐたテスの滯在地であらうと彼が思つてゐたフリントコム・アッシの、 自づと身の締《しま》るやうな空氣に包まれた石灰質の土地へ入つて行つた。 此處では、勿論彼はテスが見つからなかつた。そしてテスが、本名ではよく記憶されてゐたけれども、 『クレア夫人』といふ名は、村人も亦農場主自身すらも、更に聞いたことがないといふことを知つて、 なほ一層彼は氣を落した。彼女は、二人が別れてゐる間は、明かに彼の姓を名乘らなかつたのである。 そして二人が全然別れてゐて、自分は獨立してゐるのだといふ彼女の誇り高い心持は、 夫の父親に生活費を要求することを潔《いさぎよし》とせず、 自ら進んで艱難辛苦(彼は今はじめてそれを知つたのであつた)を受けたことによつても知れるが、 それに劣らずこのやうなクレアの姓を使はないでゐることでも分つた。 彼の聞いたところに依ると、テス・ダアビフィールドは此處から、當然なすべき豫告もせずに、 ブラックムーアの向う側にゐる兩親の家へ歸つたといふことであつた。 從つて今度はダアビフィールドの女房の所を見つけ出すことが必要になつた。 彼女はマアロットには居ないといふことは言つて寄越したのだつたが、 彼女の現在の住所に就いては妙に口を噤《つぐ》んで教へなかつたので、 マアロットで出掛けて行つて、それを訊ねて見るより外に仕方がなかつた。 テスには粗略《ぞんざい》な口のきゝ方をしてゐた農場主は、 クレアに對しては何から何までお上手を言ひ、マアロットの方へ彼を送る爲めに馭者までつけて、 馬車を貸してくれた。それは、彼が乘つて來た馬車は、既に馬の一日分のきまつた旅程を終へてゐたので、 エミンスタアに戻さなければならなかつたからである。 クレアは、ブラックムーアの盆地の裾よりもつと先までは、 農場主の乘物を借りてゐたくなかつたので、それを馭者と共に返し、 その夜はとある宿屋に泊り、翌朝歩いて、懷かしいテスの生れ故郷である土地へ入つて行つた。 季節が早かつたので、菜園にも木の葉にもまだ深い緑の衣を纒《まと》うた冬に過ぎなかつた。 彼の待ち設けてゐることもそんな風にはかないものであつた。 テスが子供時代を過した家には、今では彼女のことなど少しも知らない他の家族が住んでゐた。 新しい居住者たちは、この家屋敷が、 他の人逹の經歴(それに比べればこの人逹の經歴はとるに足らないものだつた)と結びついて、 その全盛期を過したことなぞ知らずにゐる樣子で、庭に出て彼等の仕事に沒頭してゐた。 彼等は、自分逹のことばかりを大事に考へて、庭の小徑を歩きまはり、動く度毎に、 その背後にゐる、先住者逹のぼんやりした幽靈と始終ぶつつかり合ひ、そして恰もテスの住んでゐた時には、 今よりも一層緊張した事件がなかつたかの如くに語り合つた。春の小鳥でさへ、 特に誰もゐなくなりはしないと考へてゞもゐるやうに、彼等の頭上で歌つてゐた。 先住者たちの名前さへも忘れかけてゐる、このたはいもない暢氣至極な人逹に訊ねて、 クレアはやつと、ジョン・ダアビフィールドが、亡くなつたこと、 その寡婦や子供たちは、これからキングスビアに住まうとしてゐると言つて、 マアロットを去つたには去つたが、さうしないで、かういふ他の處へ行つたといふことを知つた。 もうその時には、クレアはテスの住んでゐないこの家が寒氣立つほど厭になり、 一度も振り返らないで、その厭な家から急いで立ち去つた。 彼は、あの舞踏の時、始めて彼女を見た原の傍を通つてゐた。 その道も家と同じやうに不快だつた -- 家よりはもつと厭な位ゐだつた。 彼は急いで墓地の間を通り拔けて行つた。其處で、彼は幾つかの新しい墓標に交つて、 他のものよりは幾分目立つた意匠の施してあるのを眼にした。 碑文にはこんな風に書かれてあつた -- ジョン・ダアビフィールド、正しくはダアバァヴィル、嘗ては有力なりしの名を有する一族の者にして、 征服王の騎士の一人なるサア・ペーガン・ダアバァヴィルの連綿たる血統を經たる直系の後裔を記念する爲めに。 一千八百——年、三月十日沒。 嗚呼勇士は仆れたる哉(撒母耳後書、第一章十九節にある詞を採つて刻んだもの) 墓守らしい男が、クレアの其處に立つてゐるのを見て、近寄つて來た。 「あゝ、旦那、ねえ、それは此處へ葬られるのを喜ばねえで、 先祖たちのゐるキングスビアへ連れて行つて貰ひたがつてゐた男なんでさあ。」 「で、何故望み通りにしてやらなかつたのかね?」 「そりや -- 金がなかつたからでさあ。驚いちやいけませんよ。旦那、何だつて -- ねえ、わしや何も言ひふらすつもりぢやねえんですが -- この石碑にしたところが、 大層なことが書いてあつても、實はまだ拂ひが濟んでねえんでさあ。」 「さうか、誰がそれを建てたんだね?」 その男は、村の石屋の名前を告げた。そこでクレアは墓地を立ち去ると、その石屋を訪ねたが、 今の話が事實だつたのでその勘定を支拂つた。それから彼は目ざす移住者の方へ向つて行つた。 歩くには遠すぎる道程《みちのり》であつたが、クレアは獨りになりたくて仕方がなかつたので、 始めの間は乘物を雇はうともせず、または汽車の迂囘線に依つても結局目的地へは行けたかも知れないが、 その汽車道の方へも行かうとしなかつた。けれどもシャストンまで來ると、 彼は是非とも馬車を雇はなければならないことを知つた。が、テスの母親の居る土地へ着いたのは夕方の七時頃であつた。 マアロットを後にしてから、二十哩以上の道を踏破したのであつた。 その村は小さかつたから、彼は殆んど苦勞しないで、ダアビフィールドの女房の借家を見つけた。 それは街道からずつと離れた、塀を繞《めぐ》らした庭の内にある家で、 そこへ彼女は、不體裁なあの古道具類をどうにか詰め込んでゐた。 どういふ理由か、彼女が彼の訪問を喜ばないことは明かだつたので、 彼はこの訪問を何だか餘計な侵入でゞもあるやうに思つた。彼女は自ら戸口へ出て來た。 すると夕空の光が彼女の面を照らした。 クレアがテスの母親に會ふのは、これが初めてゞあつたが、彼はすつかり自分の考へに、 氣をとられてゐたから、彼女が相當な寡婦らしい服裝をした、まだ綺麗な女であるといふこと以上には、 何も氣が付かなかつた。彼は自分がテスの夫であること、又此處へ來た目的などを、 當然説明しなければならなくなり、それを隨分不噐用に説明した。 「僕は早速あれに會ひたいのです、」と彼は言ひ添へた。 「あなたがお手紙を下さるといふことでしたが、頂きませんでしたね。」 「娘がまだ歸つて來ないもんですから、」と、彼女は言つた。 「あれは無事で暮してゐるでせうか?」 「私は知りません。でもあなたこそ御存知の筈ですが。」と彼女は言つた。 「御尤です。今あれは何處にゐるでせうか?」 顏を合はせた最初から、彼女はずつと手で片頬をおさへて、當惑の態《さま》をあらはしてゐた。 「私 -- 何處にあの娘《こ》が居りますか瞭然《はつきり》と存じませんの。」と彼女は答へた。 「 -- に居つたんですが、 -- でも -- 」 「何處に居つたんですつて?」 「さあ、もう其處にはゐないんです。」 事實を隱さうとして、彼女はまた默つた。すると丁度、年下の子供たちが、戸口の所へ忍び寄つて來てゐた。 そして母親の下袴《スカアト》を引つ張りながら、一番年下の子供が小聲で言つた -- 「テスがお嫁に行くのはこの人のところなの?」 「もう結婚なすつたんだよ、」と母親は囁いた。「うちへ入つてお出で。」 彼女が一生懸命隱さうとしてゐるのを知つてクレアは訊ねた -- 「僕が骨を折つて探すのを、テスは喜ぶでせうか?若し喜ばないとしたら、無論 -- 」 「喜びますまいね。」 「本當にですか?」 「本當に喜ぶまいと思ひますよ。」 彼は引つ返さうとした。その時彼はテスの優しい手紙を思ひ出した。 「屹度喜びます!」と彼は昂奮して言ひ返した。「あれのことはあなたよりも、 僕の方がよく知つてゐます。」 「なるほどさうかも知れません。私には今まで本當にあの娘《こ》のことが分つちやゐないんですからね。」 「どうか、あれの居所を話して下さい。ダアビフィールドさん、 この寂しい慘めな男を助けると思つて!」 テスの母親は、再び落着かない樣子で、手を眞直にして頬を撫でゝゐたが、彼が惱んでゐるのを見て、 到頭低い聲で言つた -- 「あの子はサンドボーンに居ります。」 「あゝ -- 彼處《あすこ》の何處ですか?サンドボーンは大分廣い處になつたさうですが。」 「今申しました -- サンドボーンといふだけで、それ以上詳しいことは存じません。 私は一度も其處へ行つたことはないのですから。」 この點では、彼女が眞實《ほんたう》のことを言つてゐるのは明かだつたので、 彼はその上強ひて訊かうとはしなかつた。 「何か御不自由なものがおありでせうか?」と彼は優しく言つた。 「いゝえ、」と彼女は答へた。「別に不自由もなく暮して居りますので。」 家へも入らずに、クレアは引つ返して行つた。三哩程先に停車場があつた。 彼は馬車屋へ賃金を拂ひ、其處まで歩いて行つた。サンドボーン行きの終列車は、 それから間もなく發車したが、それにはクレアが乘つてゐた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十五 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- その夜十一時に、或る旅館に宿をとり、早速父親へ居所を打電して置いて、 彼はサンドボーンの街へ散歩に出た。誰を訪問するにも、訊ねるにも、 もう時間が遲かつたので、彼は不本意ながら、翌朝まで自分の目的を延さなければならなかつた。 しかしまだ寢てしまふ譯にも行かなかつた。 東西の停車場や、棧橋や、松林や、遊歩場や、屋上庭園などのあるこの流行の海水浴場は、 エンヂェル・クレアに取つては、魔杖《まづゑ》の一と振りで不意に生れ出で、 少し埃りつぽくなつてゐる一大仙境のやうなものであつた。 廣々としたエグドンの荒野の東端は、すぐ手近にあつたが、しかも、 昔ながらの古色蒼然たる地域の一端に、この快樂の都市ともいふべき、 けば〜しい新竒なものが、好んで湧き出て來たのである。郊外は一哩以内では、 土地の起伏といふ起伏が悉く、有史以前のものでないものはなく、 通路といふ通路が、昔の儘で殘つてゐる古代英國の道路でないものはなかつた。 其處では、一塊の芝土さへも、羅馬帝王支配當時から今日に至るまで、嘗て耕されたためしはなかつた。 しかも、異國趣味が、あの豫言者の瓢箪(「エホバ神瓢を備へ之をして發生てヨナの上を覆はしめたり」 と約拿書第四章六節に見ゆ。一日で出來た瓢のこと)のやうに、突然此處へ生れたのである。 そしてテスを此處へ牽きつけたのであつた。 夜半《よなか》の街燈を手頼《たよ》りにして、彼は世界の中にあるこの新世界の曲りくねつた往來を、 彼方此方と歩き廻つた。そして、樹の間に、星を背景にして、 この町を形造つてゐる無數の風雅な住宅の高い屋根や、煙突や、 望樓《ものみ》や塔などを見分けるこtが出來た。それは、一軒々々離れて立つてゐる別莊の町であつた。 英國海峽に臨んだ地中海式の遊園地であつた。そして、今、夜目に見ると、 それは實際以上に立派なものにさへ見えた。 海はすぐ近くにあつたが、人を威嚇する程でなかつた。微かに聞える浪の音を、 彼は松吹く風の響かと思つた。松も全く同じ調子で鳴つてゐたので、彼はそれを海の音だと思つた。 百姓娘である彼の若い妻のテスは、かうした富と流行との世界の何處にゐるのだらう。 考へれば考へる程、彼は益々分らなくなつた。乳を搾るべき乳牛が、此處にゐるのだらうか? 耕すべき畑が一枚もない事は確かであつた。彼女は屹度かうした大きな邸の一つで、 何かの仕事に雇はれてゐるに相違なかつた。そこで彼は家々の部屋の窓や、 それから洩れる燈火を一つ〜眺めながら、宛《あて》もなくうろつき廻つて、 どれが彼女の部屋だらうかと考へるのであつた。 臆測をしたところが無駄だつたので、丁度一二時すぎに、彼は旅館へ歸つて、床に就いた。 燈火《あかり》を消す前に、彼はテスから來たあの思ひ迫つた手紙を讀み返した。 が彼は眠ることが出來なかつた、 -- 彼女の直ぐ近くにゐて、しかも彼女から遙か遠く離れてゐる -- そして彼は絶えず日除《ひよけ》を上げて、向う側の家々の背面《うしろ》を瞶《みつ》め、 どの窓の後に今彼女が休んでゐるのであらうと思つた。 彼は殆んど終夜起きてゐたも同じだつた。朝になると、彼は七時に床を離れ、 それから間もなく宿を出て、道を郵便局の方へとつた。郵便局の入口で、 彼は手紙を澤山もつて、朝の配逹をする爲めに出て來た悧巧さうな郵便配逹に出會つた。 「クレア夫人といふものゝ宿所を御存知ですか?」とエンヂェルは訊ねた。 配逹夫は頭を振つた。 そこで、彼女がまだ結婚前の名前を多分使つてゐるのだらうと思ひ返して、クレアは言つた -- 「でなかつたら、ダアビフィールド孃といふ?」 「ダアビフィールド?」 之も亦話しかけられた配逹夫には初めての名であつた。 「御存知の通り、この町は毎日人の出入りが激しいんですからね、」と彼は言つた。 「家の名前が分らないと、とても見つかりつこありませんよ。」 その時、彼の同僚の一人が、急いで出て來たので、その名がまた繰返された。 「ダアビフィールドつていふ名は知りませんが、青鷺館《ヘロンズ》にダアバァヴィルつて名前の人が居りますよ、」 と二番目の男が言つた。 「それだ!」とクレアは、彼女が正しい發音に戻つたのだと考へて、嬉しく思ひながら叫んだ。 「青鷺館《ヘロンズ》ていふのはどういふ處ですか。」 「ハイカラな下宿屋です。此處等は何《ど》の家《うち》も皆《みんな》下宿屋なんですよ、本當に。」 クレアは、その家への道は教はつてその方へ急ぎ、牛乳屋と一緒に其處へ着いた。 青鷺館《ヘロンズ》といふのは、普通の別莊風の家であつたが、一軒ぽつりと建つてゐて、 確かにこの邊で下宿屋はお終ひだらうと思はれるやうな場所であつて、それだけに閑靜であつた。 若し可哀さうにテスが、彼の推測通り、此處に奉公してゐるとしたら、彼女は牛乳屋が來たので、 裏口に出るだらうと思つて、彼も亦その方へ行かうとした。が、危ぶみながらも、 表口の方へ廻つて呼鈴を鳴らした。 まだ時刻が早かつたので、宿の主婦が自分で扉を明けた。クレアは、テレサ・ダアバァヴィルとか、 ダアビフィールドとかいふ方はゐないかと訊ねた。 「ダアバァヴィル夫人のことですか?」 「さうです。」 テスはその時結婚した女になつてゐたのである。そして彼は、 たとひ彼女が彼の名を名乘つてはゐなくとも非常に嬉しく思つた。 「どうか、親戚の者が是非會いたい、とお傳へ下さいませんか?」 「まだ少し早いやうですね。お名前は何と申し上げませう?」 「エンヂェルと言つて下さい。」 「エンヂェルさん?」 「いや、たゞのエンヂェルです。これは僕の洗禮名です。さう申せば分ります。」 「お目覺めになつたかどうか見て參りませう。」 彼は表の部屋 -- 食堂 -- へ通された。そして春のカーテンを透して、 狹い芝生と、そこにある石楠花《しやくなげ》や、その他の庭木を眺めやつた。 彼女の境遇が、彼が心配してゐた程決して惡いものでないことは明らかになつた。 彼女はかういふ生活をする爲めに、何とかして、あの寳石を請求し、 それを賣拂つたに違ひない、といふ考へがふと彼の胸に浮んだ。 彼は少しも彼女を責めはしなかつた。間もなく耳をすまして彼は、 階段を踏む足音を聽きつけた。すると彼の心臟が烈しく打ちだして、 殆んどしつかり立つてゐることが出來ない位ゐであつた。 「まあ!こんなにも變り果てた僕を、彼女はどう思ふだらう!」と彼は獨言《ひとりごと》を言つた。 すると扉が開いた。 テスは閾の上に現れた -- 彼が期待してゐた彼女とは全然異つた -- 實際、 間誤《まご》つく程變つた姿であつた。彼女の並々ならぬ天然の美しさは、 たとひ増してはゐないにしても、服裝の爲めに、一層眼についた。 彼女は、半喪服色、つまり黒つぽい刺繍《ぬひとり》のしてある、 薄鼠のカシミヤの化粧着をずらつと着流し、同じ色の上靴《スリツパ》を履いてゐた。 その頸は飾毛《わたげ》の縁飾《ふちかざり》からすつかり拔け出て、忘れもしない、 あの濃い褐色《とびいろ》の編毛《あみげ》は、半分は後頭部で一とかたまりに束《つか》ねられ、 後の半分は肩の上に埀れてゐた -- 急いだ爲めにさうなつたのであることは明かだつた。 彼は兩腕を差しのべたが、その腕はまた彼の兩脇へ埀れてしまつた。 それは、彼女が、閾の開いた處へ立つたまゝ、前で出ようとしなかつたからである。 單に黄色い色をした骸骨にすぎなくなつてゐる彼は、二人の對照を感じて、 自分の姿が彼女にはさぞ厭であらうと思つた。 「テス!」皺枯《しやが》れる聲で、彼は言つた。「逃げてゐた僕を赦してくれるだらうか? 出來ないだらうか -- 僕の所へ戻つて來ることは?一體どうしてこんな風に -- なつたのかね?」 「もう遲いんです、」と彼女は言つた。彼女の聲は鋭く室内に反響し、眼は不自然に輝いてゐた。 「お前のことを正當に考へなかつたんだよ -- 本當のお前を見なかつたんだ!」 と彼は辨解を續けた。「その後僕は悟つたんだよ、本當のお前が分つて來たんだ!」 「遲いんです、遲いんです!」彼女の烈しい苦惱の爲めに一瞬間が一時間にも感じられる者のやうに、 もどかしがつて手を振りながら言つた。「私の傍へ寄らないで下さい、エンヂェル! いけません -- 寄つてはいけません。離れてゐて下さい。」 「ではお前は、僕が病氣でこんなに弱つたので、厭になつたと言ふのかね? お前はこれ程移り氣ぢやない筈だ -- 僕は態々《わざ〜》お前の爲めにやつて來たんだ -- 母も父も、今ではお前を喜んで迎へるだらうよ!」 「えゝ -- さう、さうでせう、さうでせうとも!だけど本當に、本當に、もう遲いんです。」 彼女は、遁れようとしても遁れることの出來ない、夢の中の逃亡者のやうに感じてゐるらしかつた。 「何んにも御存知ないのですか -- あなたはそれを御存知ないのですか? それにしても御存知ないとすれば、どうして此處へおいでになりました?」 「あつちこつち聞き廻つて、探し當てたんだよ。」 「私、あなたを待つてゐたのでした、」と彼女は續けて言つたが、その語調は急に笛の音のやうな、 昔の憐れつぽい調子に戻つた。「だけど、あなたは歸つて來て下さらなかつた! で、私、あなたへ手紙を書きましたが!それでも歸つて來て下さらなかつた! あの人は、あなたはもう決して歸つちや來ない、それを待つてるなんて馬鹿な女だつて言ひ通してゐました。 父が亡くなつてからといふもの、私にも母にも、それからうちの皆《みんな》の者にも大變親切にしてくれたんです。 あの人は -- 」 「何のことか、僕には分らないよ。」 「あの人は私を取り戻したんです。」 クレアは鋭く彼女を見たが、やがて、彼女の言つた意味が分つて來たので、 疫病に取りつかれた者にやうに急に弱つてしまつた。視線は自づと下に向いて、 たま〜彼女の手に落ちた。嘗ては薔薇色をしてゐたのが、今では眞白になり、 一きは華奢になつてゐる手に。 彼女は續けた -- 「あの人は二階にゐます。私、今ぢやあの人が憎くてならないんです。何故つて、 私に嘘を言つたんですもの -- あなたはもう二度と歸つては來ないだらうつて。 それだのに、あなたはこの通り歸つていらつしやいました!この着物なんかも、 あの人が着せてくれたんです -- 私どうしようと勝手にさしておいたんです! だけど -- どうか往つて下さいね、エンヂェル。後生ですから、そして、 もう二度と來ないで下さいね?」 彼等は棒立ちに立つてゐた。愛に破れた二人の胸が、見るも痛ましいほど儚《はか》なげに、 二人の眼からあり〜と覗いてゐた。二人は現實から自分たちを庇つてくれる何物かを切に願つてゐるやうであつた。 「あゝ -- 僕が惡かつたんだ!」とクレアは言つた。 けれども彼は言葉を續けることが出來なかつた。談話は沈默も同じやうにまるで力がなかつた。 が、彼は或る一つの事をぼんやりと意識した。尤も後になつても瞭然《はつきり》しては來なかつたが。 それは、自分の元のテスは、今自分の前にある肉體を、精神的には彼女のものと認めなくなつたのだ -- 流に浮ぶ屍躰のやうに、生きてゐる意志から離れて漂ふまゝに委せてゐるのだ -- ということであつた。 數瞬間は過ぎた。彼はテスが其處にゐないことに、氣がついた。 その瞬間に思ひを集めて立つてゐると、彼の顏は愈々慘めな表情になつて行つた。 そして一二分の後、彼は、あてどもなく歩みを運びながら、往來へ出てゐることに氣がついた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十六 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 青鷺館《ヘロンズ》の戸主であり、また立派な家具類全部の持主でもある主婦のブルックスは、 別に並外れて好竒心の強い人ではなかつた。彼女は、可哀想に、長い間無理に、 あの『損得』といふ算盤玉の惡魔に仕へてゐた爲め、物質慾に深くはまりこんでしまつてゐたので、 下宿人になりさうな人の懷中を離れた、純粹の好竒心などはさして持ち合せてゐなかつた。 それだのに、拂ひのいゝ下宿人と彼女が思ひきめてゐるダアバァヴィル夫婦の所へ、 エンヂェル・クレアが訪ねて來たことは、時刻といひ、樣子といひ、 間貸商賣に關係のない限り無用のものとして抑へつけてゐた彼女の女らしい好竒心を甦らすのに十分であつた。 テスは食堂へ入らないで、戸口から夫に話しかけてゐた。そして、ブルックスは廊下の後にある、 自分の居間の半ば閉ぢた扉の内側に立つてゐたから、この二人の慘めな人たちの間に交はされた會話の斷片 -- 若しそれを會話と呼ぶことが出來るなら -- をよく聞くことが出來た。 彼女はテスが再び二階へ階段を上つて行くのを、エンヂェルが立ち去るのを、 又彼の背後で玄關の扉の閉まるのを聞いた。それから頭の上の部屋の扉が閉つたので、 ブルックスは、テスが再び自分の部屋へ入つたことを知つた。 若い婦人はまだ着換へをしてゐなかつたから、暫くは再び出て來ないだらうとブルックスは思つた。 そこでブルックスは、そつと梯子段を上つて行き、表の室の扉のところへ立つた -- これはよくあるやうに兩開戸《りやうびらき》ですぐ後の室(これは寢室であつた)につながつてゐる客間であつた。 ブルックスの一番上等の部屋のあるこの二階は、一週間極めでダアバァヴィル家の者が借りてゐた。 後の部屋は今はひつそりしてゐた。けれども客間からは物音が聞えて來た。 最初に彼女に聞きとれたものは、イキシオンの車輪(ギリシヤ神話に、 イキシオンといふ王がヘラの愛を得ようとした爲めに、 永劫に廻る車輪に結びつけられたといふ話がある。その車輪をいふ)へ括りつけられた人間でも發するやうな、 低い呻き聲で絶えず繰り返される一音節だけであつた -- 「おゝ -- おゝ -- おゝ -- 」 それから一時の沈默、今度は重い溜息、そしてまた -- 「おゝ -- おゝ -- おゝ -- 」 主婦は鍵穴から覗いて見た。室内はほんの一部分しか見えなかつたが、その小部分の中に、 既に食事の支度の出來てゐる朝の食卓の一隅と、それからまたその傍の椅子が一脚見えてゐた。 その椅子の座の上に、テスが顏を伏せてゐた。彼女は椅子の正面に跪いてゐるやうな樣子をしてゐた。 兩手は頭の上で握り合はせ、化粧着の裾と寢衣《ねまき》の刺繍《ぬひとり》は、 後の床の上へ長く曵き、上靴《スリツパ》の脱げ落ちた素足は、敷物の上へ突き出てゐた。 言ひやうもない絶望の呟き聲が洩れたのは、彼女の唇からであつた。 それから、隣りの寢室から男の聲がした -- 「どうしたんだ?」 彼女は答へもせずに、叫び聲といふよりも獨白、獨白といふよりも挽歌といつた調子で、 なほも續けた。ブルックスにはほんの一部分しか聞き取れなかつた -- 「それから私の大事な大事な夫が歸つて來たんです……そして私はそれを知らなかつたんです…… そしてあなたは慘酷にもしつこく私を説き伏せようとしてゐたんです…… あなたはそれを止めませんでした -- さうです -- 止めなかつたんですとも -- 私の小さな妹や弟や母などへの仕送り -- そんなことで私の心を動かしたのです…… それにあなたは、私の夫は決して歸つて來ないだらうと言ひました -- 決して歸つて來ないつて。 そして私を馬鹿にして、あの方を待つてゐるなんて何といふ阿呆だつて言つたんです!…… それで到頭あなたの言ふことを信じて、あなたに體を任してしまつたんです…… そしたらあの方が歸つて來ました!そしてまた居なくなりました。また行つてしまつたのです、 今度こそ永久にあの方を失つてしまつたのです…… そしてもう〜ほんの些《ちよ》つとでも私を愛してはくれないでせう -- たゞ私を憎い奴とばかり思ふでせう!……えゝさうです、私はもうあの方を失つてしまつたんだ -- 又してもあなたの爲めに!」頭を椅子の上に載せて、身悶えした拍子に、 彼女は顏を扉の方へ向けた。で、ブルックスは、その顏に苦惱の色を浮べてゐるのを見ない譯に行かなかつた。 そして彼女の唇は、齒で食ひしばつた爲めに血が滲み出し、閉ぢた眼の長い睫毛《まつげ》が濡れて、 頬へくつゝいてゐるのをも見た。テスは續けた -- 「そしてあの方は死にかけてゐます -- 丁度死にかけてゐる人のやうな顏付をしてゐます -- そして私の罪はあの方を殺して、私を殺しはしないのです……おゝ、 あなたは私の生涯を滅茶々々にしてしまつた…… 私を二度とこんな者にならせて下さらないようにとあなたにお願ひしたのに、 その通りの者にしてしまつた!……私の本當の夫はもう決して、決して -- おゝ神樣 -- 私はもう我慢ができません……我慢が出來ません!」 今度は男の方からもつといろ〜な、またもつと鋭い言葉が聞えて來た。それから急に衣《きぬ》ずれの音がした。 彼女が跳ね起きたのであつた。ブルックスは彼女が扉の方へ駈け出して來ることゝ思つて、急いで梯子段を下りて行つた。 だが、さうする必要はなかつた。居間の扉は開きはしなかつたから。 しかしブルックスは梯子の中段で再び樣子を窺《うかゞ》ふのは安全ではないと思つて、 階下《した》の自分の部屋へ入つた。 彼女はぢつと耳を澄してゐたが、床を通しては何んにも聞えて來なかつた。 そこで中途で邪魔された朝飯を濟しに臺所へ行つた。やがて階下《した》の表の間へ出て、 朝飯の後片づけをするやうに、客が呼鈴を鳴らすのを待ちながら、何か縫物をとり上げた。 そして出來ることなら、一體何事が起つたかを知る爲めに、その後片づけを自分でしようと思つた。 で、腰掛けてゐると、今度は頭の上でその時誰かゞ歩き廻つてゞもゐるらしく、 床板の微かに軋《きし》む音が聞え、表扉《おもてど》が開いてまた閉まり、 それからテスの姿が往來へ出ようとして、門の方へ向つて行くので、今の動作の譯が分つた。 彼女は今、黒い羽毛付きの帽子の上にヴェールをかけたことを除けば、 後は此處へ來た時と同じ富裕な若い貴婦人らしい散歩服といふ盛裝であつた。 ブルックスは、二階の扉口で、この下宿人たちの間に、一時的か又は、 その他の別れの挨拶の交はされるのを一言も聞き取ることは出來なかつた。 彼等は喧嘩をしたのかも知れない。でなければ、ダアバァヴィルはまだ寢てゐるのかも知れない。 彼は早起の方ではなかつたから。 彼女は特に自分用としてある後の部屋へ入つて行き、其處で縫物を續けた。 出て往つた婦人客も歸つて來ず、また二階の紳士は呼鈴も鳴らさなかつた。 ブルックスは、この何時までも暇のかゝる理由を考へ、 またこんあにも早く訪ねて來た訪問客と二階の夫婦との間に一體どんな關係があるのだらうと考へた。 考へながら彼女は、椅子に背を靠《もた》せかけた。 さうした拍子に、彼女の眼はふと天井へ行つた。そしてこれまでつひぞ氣づかなかつた、 その白い表面の眞中にある、一つの點にはたとその眼は止《とま》つた。 彼女が最初それを見つけた時は、煎餠《ウエーハー》位ゐの大きさであつたが、見る〜うちに彼女の掌《てのひら》位ゐになり、 それが赤い色をしてゐるのに氣づいた。眞中のこの眞紅の一點と留《とゞ》めてゐる長方形の白い天井は、 さながら一枚の大きなハアトのエイスであつた。 ブルックスは妙な疑懼《ぎく》の念を起した。彼女はテーブルの上へあがつて、 指で天井についてゐるその點へ觸つて見た。それは濕つてゐたので、 彼女はそれを血痕ではあるまいかと思つた。 テーブルから降りると、彼女は居間を出、そして客間の後の、 寢臺になつてゐる頭の上の部屋へ入つて行くつもりで二階へ上つて行つた。 しかし、今は氣が弱くなつてゐるので、どうしても把手《ハンドル》を取る氣になれなかつた。 耳を澄すと、しいんとした室内の沈默は、たゞ規則正しい、 ある音節で破られるばかりであつた。 ぽとり、ぽとり、ぽとり。 ブルックスは急いで階下《した》へ下り、表の扉を開けて往來へ駈け出した。 隣の別莊に雇はれてゐる職人の一人で、彼女の知つてゐる男が通りかゝつたので、彼女は、 入つて來て一緒に二階へ上つてくれ、一人の下宿人の身の上に何事か起つたらしいからと頼んだ。 職人は承知して、彼女の後に跟《つ》いて、梯子段の中段へ上つた。 彼女は居間の扉を開け、後へ引き下つて男を通し、自分もその後から入つて行つた。 部屋は空だつた。朝餐 -- コーヒー、玉子、コールド・ハムなどの身のある食物 -- は彼女がそれを持つて來た時のまゝ、手もつけられずにテーブルの上に並んでゐて、 たゞ肉切ナイフが見えなくなつてゐるだけだつた。彼女は兩開扉《りやうびらきど》を通つて、 次の部屋へ行くように職人に頼んだ。 彼は扉を開けて、二足三足入つて行つた。と見るまに嚴しい顏付をして引返して來た。 「大變だ、床の中で、旦那が死んでますぜ!ナイフで殺されたらしい -- 床の上に血が一杯流れてる!」 警報は直ちに發せられた。先刻《さつき》まで非常に靜かだつたこの家には、 數多の人の足音が響き亙つた。その中には、外科醫も混つてゐた。傷は小さかつたが、 刄の切つ先が被害者の心臟を衝いてゐた。彼は一突喰つて、そのまゝ殆ど動けなかつたらしく、 蒼白《まつさを》な顏をしてぢつと眼を据ゑ、全く息絶えて仰向けになつてゐた。 十五分すると、當地への來遊客である一人の紳士が、床の中で刺し殺されたといふニュースが、 この盛り場の海水浴地の往來といふ往來、別莊といふ別莊へ隈なく擴がつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十七 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 一方エンヂェル・クレアは元來た道を機械的に歩いて行き、 自分の旅館《ホテル》へ入ると、ぢつと空を瞶《みつ》めながら、朝餐の卓へ就いた。 彼は無意識に飮み食ひしてゐたが、やがて俄かに勘定書を請求した。 その拂ひを濟すと、彼は携へて來たたつた一つの荷物である化粧鞄を取り上げて、其處を出た。 丁度、彼が出發しようとした時に、一通の電報が、彼の手に渡された -- 母親からの短い文句であつて、それには、彼の居所を知つて皆喜んでゐる由を述べ、 また兄のカスバアトがマアシイ・チャントに求婚して、承諾された旨が報じてあつた。 クレアはその電報紙を皺苦茶に丸めて、停車場へ通ずる路を辿つて行つた。 其處へ着いて見ると、彼は一時間またはそれ以上も待たなければ、出る汽車がないことを知つた。 彼は待たうと思つて腰を下したが、十五分も經つと、もうそれ以上其處にゐられないやうな氣持になつて來た。 戀に破れ、頭はぼんやりしてしまつた彼には、格別何の爲めに急ぐといふことはないのだが、 あんな經驗を嘗めた場面となつたこの町から遁れ出たかつたのである。 で、彼は一つ先きの停車場まで歩いて、其處で汽車に乘つて行かうと、その方へ出だした。 彼の歩いて行つた街道は、廣々と展《ひら》けてゐた。そして少し行くと忽ち峽谷《かひ》になつて、 その端から端へと道の通じてゐるのが見られた。彼はこの窪地の大部分を横切つて、 西の坂を登つてゐた。その時、息を入れる爲めに立ち停つて何の氣なしに後を振り返つて見た。 何故さうしたのか、彼は言ふことが出來なかつたが、何物かの爲めにさうさせられたらしかつた。 テープのやうな路の表面は、目の屆く限り、後方《うしろ》に段々細くなつてゐた。 そして彼がぢつと眺めてゐると、一點の動くものが、その遠景の眞白な空所へ侵入して來た。 それは走つてゐる人の姿であつた。クレアは、誰かゞ自分に追ひつかうとしてゐるのだと、 ぼんやり考へて待つてゐた。 坂を下つて來るその姿は、女であつた。けれども、彼の妻が跡を追つて來るなぞとは、 彼は夢にも考へてゐなかつたので、彼女がずつと近くへ來た時でさへも、 今見る通り全く打つて變つた服裝《みなり》をしてゐる彼女を、妻だとは氣がつかなかつた。 彼女が愈々接近して來た時に、彼は初めて、その女がテスであると信ずることが出來た。 「私、あなたを見たんです -- 停車場から出て來るところを -- 私が其處へ行き着くちよつと前 -- それでずつとあなたの後を追つかけて來ました!」 彼女はすつかり蒼白い顏をして、ひどく息を切らし、全身をぶる〜顫はしてゐたので、 彼は一言も訊ねずに、いきなり手を取つて脇の下へ引き寄せ、彼女を伴れて行つた。 若しひよつとして誰か通行人にでも會つてはならないと、それを避ける爲めに、彼は街道を捨てゝ、 樅の木の下を通つてゐる細道を取つた。風を受けて唸つてゐる枝の間を深く分け入つた時、 彼は立ち停つて、いぶかしさうに、彼女を見た。 「エンヂェル、」とこれを待つてゐたかのやうに、彼女は言つた。 「何の爲めに私、あなたの後を追つかけて來たか知つてらつしやる? あの人を殺してしまつたことを、あなたに話さうと思つて!」彼女が話してゐる時、 痛ましい寂しい微笑が、その顏に現はれた。 「何だつて!」彼女の樣子の只ならぬところから、夢中になつてゐるのだと思ひながら、 彼は言つた。 「私、到頭やつてしまつたんです -- どうしてだかは分りませんけど、」と彼女は續けた。 「でも、さうしなければあなたにも、私自身にも義理が立たないと思ひましたの、エンヂェル。 もうずつと以前、手袋であの人の口を打つた時分から、私のまだ何も知らない若い頃に私を罠にかけたり、 また私のことであなたに迷惑をかけたりしたその報いに、何時かこんなことをしやすまいかと私、 思つてゐましたの。あの人は私たちの間へ割り込んで來て、私たちを滅茶々々にしてしまひました。 でももうあの人にはそんなことは決して出來ませんわ。私はね、エンヂェル、 あなたを愛してゐるやうには、些《ち》つとでもあの人を愛してなんかゐなかつたんです。 あなたにだつてそれは分るでせう、ねえ?あなたはそれを信じて下さるでせうね? あなたが歸つて來て下さらなかつたから、仕方なくあの人の方へ逆戻りさせられたんです。 何故あなたは行つてしまつたんです -- 何故行つてしまつたんです -- 私があれ程あなたを愛してゐたのに?何故あなたがあんなことをなすつたか、 私には考へられません。だけど私あなたを咎めやしませんわ。たゞ、エンヂェル、 私あの人を殺してしまつたから、私があなたに犯した罪は赦して下さるでせうね? 今駈けて來ながらも、それを果したんだから、あなたは屹度赦して下さるだらうと思ひました。 さういふ風にして、私、あなたを取り戻さうといふ考へが、私の胸へぱつと閃いたんです。 私はもう一寸でもあなたがゐなくつては我慢が出來ませんわ -- あなたに愛されないでゐるのが、どれ程辛いことか、あなたにはお分りになりませんわ -- 今私を愛すと言つて下さい、ねえ、あなた、愛すと言つて下さい、 もうあの人を殺してしまつたんですから!」 「僕はお前を愛する、テス -- おゝ愛するとも -- もう悉皆《すつかり》元通りになつた!」 兩腕を彼女の體にまはし、力を籠めて抱き締めながら彼は言つた。 「しかしどういふ意味なんだえ -- その男を殺してしまつたつて?」 「殺してしまつたといふ意味なの、」と彼女は夢でも見てゐるやうに呟いた。 「なに、體を?あの男は死んだのかえ?」 「さうですわ。あの人はあなたのことで私が泣いてゐるのを聞きつけ、 私をひどく罵つたんです。それからあなたの惡口も言ひました。それで私さうしてしまつたんです。 もう私の胸は我慢できなかつたんです。あの人はこれまでにもあなたのことで私をいぢめてゐたんです。 それから、私は着更へをして、あなたを探しに出て來ました。」 彼女がその決行したと言つてゐるところのことを、少くとも、半意識でやつたに違ひないと、 次第に彼は信ずるやうになつて來た。そして、彼女のその衝動についての恐怖は、自分に對する彼女の愛情の強さや、 またその爲めに彼女の道徳觀念を掻き消してしまつた愛の不思議な性質を知つて起した驚愕と混り合つた。 自分でした行爲の如何に重大であるかを悟り得ないで、彼女はそれに滿足してゐるやうであつた。 そして彼は、嬉し泣きながら、彼の肩に靠《もた》れてゐる彼女を眺め、 そしてダアバァヴィル家の血の中に埋もれてゐた如何なる力が、この常軌を逸した行爲 -- 若しこれが常軌を逸した行爲であるとすれば -- の因《もと》となつたのだらうかと訝《いぶか》つた。 一體、ダアバァヴィル家の者はかういふことをしでかすと知られてゐたから、 あの馬車の慘殺の、この一族に纒《まつ》はる傳説が生れたのだらうといふ考へが、 ふと彼の心を掠めた。混亂し亢奮し切つた頭腦で推理のできる限りを盡くして、 彼は彼女も言つてゐるやうに、激しい悲しい瞬間に、彼女の心はその平衡を失ひ、 この奈落へ彼女を突き落したのであらうと想像した。 若し事實とすれば、それは實に怖ろしいことであつた。若し一時の幻覺とすれば、 痛ましいことであつた。だが、兎に角此處にこの捨てられた彼の妻がゐる。 彼が必ず保護者になつてくれることを、露ほども疑はずに、彼に縋《すがりついてゐる、 この思ひつめた愛に溺れた女がゐる。彼は、自分が、その保護者以外の者にならうなぞとはどんな場合にもないと、 彼女が考へてゐるといふことを知つた。愛情は到頭クレアの中に非常に大きな力を占めて來た。 彼は蒼白い唇で果てしなく彼女に接吻し、そして彼女の手を執つて言つた -- 「僕は決してお前を捨てやしない!力の及ぶ限りどんなことをしてゞも、 お前を護つてやらう。たとひお前が何をしたらうと、またしなからうと!」 彼等はそれから、樹の下を歩き續けた。テスは時々首を廻して彼を見た。 彼は窶《やつ》れて昔の美しさがなくなつてゐたが、その容貌に、 彼女が一點の微瑕《きず》さへ見出さないことは言ふまでもなかつた。 彼女のとつて、彼は元通り、容姿の點でも、また精神的にでも、 全く完全なものであつた。彼は依然とそて彼女のアンチナス(ビシニヤのクローディオポリスに生れた美少年。 ハトリアンのお氣に入りとなり、ナイル河に溺れて死するや、神の列に加へられた)であり、 アポロ(オリンパスの神々の中でも、最も重きをなす神。眉目秀麗にして男性美の代表者。 詩歌、音樂、雄辯術にも秀でてゐた)でさへあつた。病にやつれた顏は、 情愛深い今日の彼女の眼には、初めて彼を見た時と同樣に、まるで新鮮な朝のやうに美しかつた。 何故ならば、それは地上で彼女を清く愛し、そして彼女を清いものと信じた、 たゞ一人の男の顏であつたからだつた。 若しもこのことがあつては、といふ直感から、彼は今、最初考へた通りに、 町を出てから第一番目の停車場へは行かずに、 この邊《あた》り數哩にも亙つて密生してゐる樅の樹の下をなほ深く入つて行つた。 互に腰を抱き合ひ、誰一人邪魔するものはなく、到頭二人きりになつたといふ意識から、 また一つの死骸があるなぞといふことはまるで考へずに -- ぼんやりした醉心地になりながら、彼等は樅の落葉の乾いた床の上を彷徨《さまよ》つて行つた。 かうして彼等は數哩を進んで行つたが、やがて、テスは意識を醒まして四邊《あたり》を見廻し、 おづ〜と言つた -- 「私たちは何處か特別に行く當てがあるのですか?」 「僕は知らないよ、ねえ。何故?」 「何故でも。」 「さうさね、もう二三哩歩いて、夕方になつたら、何處かへ宿を見つけてもいゝよ -- 寂しい百姓家か何かね、お前は大丈夫歩けるかい、テス?」 「歩けますとも!あなたの腕に抱かれてなら、何處までゞも何時までゞも歩けます!」 兎に角、かうするのが好いやうに思はれた。そこで、彼等は街道を避け、多少北の方へ向つてゐる、 人の通らない小路を辿りながら、歩調を早めた。けれどもその日中彼等の行動には、 實際的でない、ぼんやりとしたところがあつた。彼等のうちどちらも、首尾よく遁れようとか、 變裝しようとか、長く隱れてゐようとかいふ事は、考へてゐないやうであつた。 彼等の考へといふ考へは、まるで二人の子供の計畫のやうに、一時的な、 ほんの思ひつきのものであつた。 正午《ひる》時分に、彼等は街道筋の宿屋に近づいた、そしてテスは、 何か食べ物を得る爲めに、彼と一緒に其處へ入つて行かうとしたが、 彼は自分が戻つて來るまで、半ば森林地であり、半ば荒蕪地であるこの土地の、 立木や籔の茂みの中に殘つてゐるよう、彼女に言ひ聞かせた。 彼女の服裝は最新の流行のものであつた。彼女が手に持つてゐた、 象牙の柄のついたパラソルでさへ、彼等が今彷徨《さまよ》うて來たこの邊鄙《へんぴ》な土地では、 まだ見たこともないものであつた。かういふ品々は、酒場の腰掛なぞに若し彼女が掛けてゞもゐたら、 人の注意を惹かずにはゐなかつたであらう。 彼は直《ぢ》きに六人分は十分ある食物と葡萄酒を二本持つて戻つて來た。 -- 萬一何か起つても、彼等が一日或はそれ以上も持ちこたへるに十分なものであつた。 彼等は枯枝の上に腰を下して、一緒に食事をした。一時と二時の間に、 彼等は殘りの食物を包みにして、再び歩き出した。 「私、どんなに歩いても大丈夫なやうな氣がしますわ、」と彼女は言つた。 「まあ大體田舍の奧へ進んで行く方がいゝと思ふんだ、 其處でなら暫らく隱れてゐることも出來るし、また海岸に近い處に較べると、 見つかる心配も少いからね、」とクレアは言つた。「暫く經つて、世間で僕たちのことを忘れてしまつた時分に、 何處か港へ行くことも出來るんだよ。」 彼女は彼を抱いた手に一層力を入れたゞけで、別に何とも答へなかつた。 そして眞直に奧の方へ向つて進んだ。季節は『イギリスの五月』であつたが、 空は麗かに輝きわたり、午後はずつと暖かゝつた。彼等が後から歩いた幾哩かの小徑は、 二人を新森林帶《ニユウ・フオレスト》の奧ふかく導いて行つた。 そして夕方になつて、或る小徑の角を曲ると、彼等は、小川に架つてゐる橋の後に大きな掲示板を認めた。 それには白ペンキで、「この好ましき邸宅、家具附きの貸家」と書かれ、 詳細の注意書があつて、或る倫敦の周旋屋へ問ひ合はされたしと記されてあつた。 門を通りぬけると、その家が見えた。それは通常の設計で、廣々とした、 古い煉瓦造りの建物であつた。 「そりや知つてるよ、」とクレアは言つた、「これは、ブラムシヤスト莊園館《コート》てんだ。 ねえ、閉めきりになつてゐて、車道には草が生えてゐるだらう。」 「開いてる窓もありますね、」とテスは言つた。 「たゞ室内に風を入れる爲めだらうよ。」 「こゝの部屋は皆《みんな》空いてゐるのに、私たちには、頭の上にいたゞく屋根もないのね!」 「お前、疲れて來たね、テス!」と彼は言つた。「もう直《ぢき》に歩くのをよさうね。」 それから悲しさうな唇に接吻して、再び彼女を導いて進んだ。 彼も等しく疲れて來た。といふのは、既に一二哩、ことによると十五哩も彷徨《さまよ》つて來たからである。 そこでどうして休息したらいゝかを考へることが、必要になつて來た。 彼等は、遠くから離れ〜゛に立つてゐる百姓家や小さな宿屋を眺めて、その宿屋の一つへ近寄りかけたが、 いざとなると勇氣が挫けて、其處から遠ざかつた。到頭彼等は足を引摺つて歩くやうになつた。 そしてぢつと立ち停つてしまつた。 「樹の下で眠《やす》めないものでせうか?」と彼女は訊ねた。 彼は、さうするにはまだ季節が早いと思つた。 「僕は今通つて來た空家の屋敷を考へてゐたんだがね、」と彼は言つた。 「またあの方へ戻らうぢやないか。」 彼等は歩を返したが、先刻のやうに、その入口の門の外に立つたのは、 半時間後であつた。彼はそれから、誰か屋内にゐるかを見て來る間、そこに待つてゐてくれと、 彼女に頼んだ。 彼女は門内の叢《くさむら》の中で坐り込んだ。そしてクレアは家の方へこつそり忍んで行つた。 彼は可なり長い間戻つて來なかつた。で、テスは、彼が歸つて來た時には、 自分の爲めではなく、彼の身の上を氣遣つて、無暗に氣を揉んでゐた。 彼は、世話をする者としては、一人の婆さんがゐるだけで、しかも彼女もたゞ窓を開けたり閉めたりしに、 近くの村から天氣のいゝ日だけやつて來るにすぎないといふことを、 一人の少年から聞いて知つた。その婆さんは何時も日暮頃になつて閉めに來るのだらう。 「さあ、下の方の一つの窓から入り込んで行かう、彼處《あすこ》で休めると思ふんだよ、」と彼は言つた。 彼に扶《たす》けられて、彼女は大儀さうに、表玄關の方へ近づいて行つた。 其處の鎧戸の下してある窓は、盲ひた眼球《めだま》のやうに誰も見てゐる筈のないことを示してゐた。 入口へはもう幾段かの段を上ると逹せられた。そしてその側についてゐる窓の一つが開いてゐた。 クレアは攀《よ》ぢ上つて中に入り、それからテスを引張り上げて中へ入れた。 表玄關の廣間を除けば、どの室も皆眞暗だつた。彼等は梯子段を上つた。 二階も亦鎧戸は閉めきつてあり、風の口は少くともこの日は、 正面の玄關の窓と、後の窓が一つ、ほんの申譯に開けてあるだけだつた。クレアは、或る大きな部屋の扉の鍵を外し、 探り〜その部屋を横切つて進み、二三|吋《インチ》の廣さに鎧戸を開けた。 眩《まば》ゆい一條の日光が室内を覗き込んで、どつしりした古風な家具や、 深紅の綾緞子《あやどんす》の窓掛や、それから頭部のところに、 アタランタの競走(アタランタは、ギリシヤ神話にある美しい、足の早い女丈夫。 自分と競爭して勝つた者の妻にならうといつてやつた走りの競爭)と覺しく、 走つてゐる人物が幾人も刻まれてゐる、一臺の大ォな四本柱の寢臺などを浮き上げた。 「やつと休める!」と、鞄と食物の包を下へ置きながら、彼は言つた。 彼等は、番人が窓を閉めに來るだらうと思はれる頃までは、非常に靜かにしてゐた。 ひよつとして例の婆さんが何かの機會に、今二人のゐる部屋の扉を開けるやうなことがあつてはいけないと思つて、 用心の爲め、元通りに鎧戸を閂《かんぬき》で締め、眞暗闇の中にゐた。 婆さんは六時から七時の間にやつて來たが、二人のゐる部屋へは近づいて來なかつた。 彼等は婆さんが窓を閉ぢて堅く締りをし、入口の扉に鍵をかけて立ち去るのを聞いた。 そこでクレアは再びこつそり窓を隙《す》かして光線を入れた。 そして彼等はまた食事を共にした。そのうちに彼等は暗さを追ひ散らす一本の蝋燭も持つてゐなかつたので、 到頭夜の闇に包まれてしまつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十八 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- その夜は不思議な位ゐ嚴かで靜かであつた。眞夜中の一二時頃、テスは、 嘗て彼が睡眠中に、彼女を兩腕に抱きかゝへ、彼等二人の生命が、 今にもどうかなりはしないかと思はれるやうな危險を冐して、フルウム河の流を渡り、 それから荒寺《あれでら》にある石棺の中に彼女を寢かした顛末を悉皆《すつかり》彼は話した。 彼は今の今までそれを少しも知らなかつた。 「何故お前はそれをその翌日話してくれなかつたんだ?」と彼は言つた。 「話してくれたら、いろんな誤解や禍《わざは》ひも起らずにすんだかもしれなかつたのに。」 「過ぎたことなど考へないで下さい!」と彼女は言つた。 「私はこの今より他のことなんか考へようとしませんわ。 考へなくたつて好いぢやないの!明日はどうなるのか、誰にだつて分りやしないわ!」 けれども、次の日は見たところ何の悲しみも伴はなかつた。朝は雨が降つて、霧が懸かつてゐた、 でクレアは、番人が好い天氣の日にだけ窓を開けるのだといふことを確かに聞いてゐたから、 テスが眠つてゐるのをそのまゝに、思ひ切つてこつそり部屋を拔け出し、家の樣子を探つて見た。 この屋敷内には食物は塵ほどもなかつたが、水はあつた。で彼は霧を利用して屋敷を拔け出し、 二哩程先にある小さな町の店から、茶、パン、牛酪《バタ》、それに、 煙を立てずに火が得られるといふので、小さなブリキの湯沸とアルコールランプを買つて來た。 彼が再び部屋へ入つて行つたので、彼女は眼を覺した。そこで二人は、彼の買つて來たもので朝飯をすました。 彼等は外へ出る氣にならなかつた。そしてその日は過ぎ、夜となり、そして次の日となり、 またその次の日と過ぎて、到頭彼等の殆んど氣付かない中に、五日といふ日數が、人間の姿や聲で、 かうした二人の平和を亂すことなく、全く隱れた生活のうちに過ぎ去つた。 天氣の變化だけが、彼等にとつての出來事であり、新森林帶《ニユー・フオレスト》の小鳥だけが二人の仲間であつた。 暗默の諒解に依るものか、彼等は結婚して以來の過去の事柄には殆んど一度も觸れなかつた。 暗澹たるその間の時は、混沌のうちに沈んでしまつて、恰もさういふ間などはなかつたかの如く、 現在とそれ以前の時とがその上を封じ込めてゐるやうに見えた。 彼が、この隱れ家を離れて、サウザンプトンンかまたは倫敦の方へ行かなければならないと仄かす度に、 彼女は不思議なほど、こゝを動きたがらなかつた。 「どうして、こんなに樂しい面白いことを、すつかり止めてしまはなければならないんでせう!」 と彼女は不贊成を唱へた。「來なけりやならないことを、矢張り來るでせう。」 そして、鎧戸に隙間から外を見て -- 「一足外へ出れば何も彼も辛いことなかりですわ。 こゝばかりは何も彼も滿足ですけど。」 彼もまた覗いて見た。なるほどそれは尤もだつた。内には愛情と和樂と赦された過《あやまち》があつた。 外には無情の風が吹いてゐた。 「そして -- そして、」と彼女は、自分の頬を彼の頬に押しつけて言つた。 「あなたが今私を思つて下さるやうな心持は、永く續かないんぢやないかと思ひますわ。 私に對するあなたの今のお心が消えてしまふまで、私は生きのびてゐたかあないわ。 死んでしまつてる方がましよ。 あなたが私を卑しめるやうになる時分には私はいつそ死んでお墓にゐる方がましよ。 さうすれば、あなたが私を卑しめたつてことを知らないで濟みますもの。」 「どんなことがあつたつて、お前を卑しめることなんか出來あしないよ。」 「私もさう願つてゐます。だけど私の身の上がどんなだつたかを考へると、どんな男の方だつて、 遲かれ早かれ、私を卑しめないぢやゐられないと思ひます…… 何んてまあ淺ましい氣の狂ひ方をしたのでせう!以前は一匹の蠅でも蟲でも、 殺すことなんか、とても出來なかつたのですわ。籠の中の鳥を見てさへ、よく泣いたもんですのに。」 彼等はまたもう一日留ることにした。夜になると、曇つてゐた空はからりと晴れた。 その結果、百姓家の例の年寄の番人が、朝早くから起き出すといふことになつた。 華やかな日の出は、何時になく婆さんを元氣づけた。婆さんは、かういふ日こそ、 續いてゐる屋敷を直ぐに開け放つて、すつかり風を通さなければならないと決めた。 かうして、六時前にやつて來て、階下《した》の部屋々々を開け放つてしまふと、 今度は二階の寢室の方へ上つて行つて、ちやうど二人の寢てゐる部屋の把手を、まさに廻さうとした。 その瞬間に、婆さんは内側に人々の寢息が聞えるやうな氣がした。 上靴《スリツパ》を穿いてゐたし、また年寄でもあつたので、 婆さんはこゝまで音も立てずにやつて來たし、それから直ぐさま引つ返さうとしたのだが、 その時また、自分の耳に欺《だ》まされてゐるのかも知れないと思つて、 再び扉の方へ向き直り、そつと把手を廻してみた。錠は利かなくなつてゐたが、 扉の内側に何か家具が一つ寄せかけてあつた、それの爲めに、 彼女は一二|吋《インチ》しかその扉を開けることが出來なかつた。 朝の光線が流れをなして鎧戸の隙間を洩れて、深い眠りに包まれてゐる二人の顏の上に注いでゐた。 テスの唇は彼の頬のすぐ近くに、半ば開きかけた花のやうに開いてゐた。 番人は、彼等の無心な容貌や、椅子に懸けてあるテスの上衣の美しさや、 その傍にある絹の靴下や、綺麗なパラソルや、代りを持ち合せてゐなかつたので、 こゝへ着いた時に着てゐたその他の衣類を見て、すつかり驚いてしまひ、 最初は乞食か浮浪者の圖々しさを憤つてゐたが、うち見たところ、 身分の高い者たちの驅落らしいこの姿に、一時は同情するやうになつてしまつた。 婆さんは扉を閉ぢて、この不思議な發見に就いて、近所の者と相談すべく、 來た時と同じやうに靜かに立ち去つた。 婆さんが立ち去つてから一分と經たない間に、テスは眼を覺ました。 それからクレアが。二人共何かに眠りを亂されたやうに感じた。 けれどもそれが何であるかを言ふことが出來なかつた。そしてそれから生じた不安の念は段々強くなつて行つた。 彼は身支度をしてしまふとすぐ、鎧戸の二三|吋《インチ》の隙間から芝生を仔細に窺《うかゞ》つた。 「これから直ぐ出掛けるとしよう。」と彼は言つた。「好いお天氣だよ。 それにどうもこの屋敷に周圍に誰かゞゐるやうな氣がしてならないんだ。 何れにしても、今日は屹度番人の女がやつて來るだらう。」 彼女も素直に承知した。彼等は部屋をきちんと片づけ、 自分たちの品物を二三持つて、こつそり外に出た。二人がフオレストへ入つてしまつた時、 彼女は、その屋敷を最後に一眼見る爲めに振り返つた。 「あゝ、喜びの家 -- さやうなら!」と彼女は言つた。「私の命はあとほんの二三週間の問題なんです。 何故もつと彼處《あすこ》にゐちやいけなかつたんでせう?」 「それは言はないでくれ、テス!僕等は直ぐとこの地方をすつかり出拔けてしまふよ。 始めに進みかけた通りに、この路を取つて、何處までも眞直に北へ向つて行かう。 其處まで行けば、誰も僕等を探さうなんて思ふ者はありやしない。 若し僕等が搜されるとすれば、ウエセックスの港々で眼をつけられるだらうよ。 北の方へ入つてから、何處かの港へ出て逃げることにしよう。」 かうして彼女を納得させて、その計畫を進めて行つた。 彼等は北へ向つてどこまでも一直線に道をとつた。あの屋敷で長い間靜養してゐたので、 今では彼等に歩行の力が生じた。そして正午《ひる》に近い頃、丁度彼等の通る路に當る、 尖塔の林立してゐるメルチェスタアの市へ近づいてゐることに氣付いた。 彼は午後はずつと彼女を林の中へ休ませて置き、それから闇にまぎれて進んで行かうと決心した。 黄昏頃、クレアは何時もの通りに食料品を買つて來た。それから彼等の夜の行進は始まつた。 かうして上部ウエセックスと中部ウエセックスとの境界を通り越したのは、八時頃であつたらう。 通には關《かま》はずに、山野を歩き廻るのは、テスにとつて今が始めてゞへなかつた。 彼女は、それをするに當つて、昔の敏捷さを示した。途中を遮《さへぎ》つてゐるメルチェスタアの古い都だけは、 町の橋を利用して、障碍物となつてゐる大河を渡る爲めに、是非とも通過しなければならなかつた。 彼等が、僅かな街燈に照らされてゐる、人通りの絶えた往來を、 足音のしないやうに鋪道を除けながら進んで行つたのは、眞夜中頃であつた。 莊麗典雅な伽藍は、左手に模糊《ばう》として聳えてゐたが、 今の彼等には顧みられなかつた。一度市街を出端《ではづ》れるや否や、 彼等は通行税を取り立てる道を辿つて行つたが、二三哩すると、 廣々とした原へ入り込んでゐた。 空には雲が一面に浮んでゐたが、その雲間を洩れてくる月の光が、 今まではいくらか、彼等の頼りになつてゐた。けれどももうその月も沈んでしまつて、 雲は殆んど頭の上に蔽ひかぶさつたらしく、夜は洞穴のやうに眞暗になつて了つた。 だが、彼等は足音を立てまいとして、なるべく芝生の上を歩くやうにして、 どうにか進んで行くことが出來た。生垣だとか、垣根だおがまるでなかつたから、 さうすることは大して骨が折れなかつた。四邊《あたり》は一帶に廣々とした寂寞の境であり、 暗い孤獨の世界であつた。その上を風が強く吹いてゐた。 彼等がかうして探り〜更に二三哩進んで行くと、不意にクレアは自分の直ぐ前に、草原から直立してゐる、 何か巨大な建物があるのに氣づいた。彼等は危くそれへ突き當るところだつた。 「こりや何んて變な處だらう?」とエンヂェルは言つた。 「ぶーん〜鳴つてますわ、」と彼女は言つた。「ほら!」 彼は聽き耳を立てた。風は建物に當つて、素晴しく大きな一弦の豎琴が掻鳴らす調《しらべ》のやうに、 唸り立てゝゐた。他にはそれから何の音も發しなかつた。そこで、片手を擧げて、 一二歩進んで行くと、クレアは、建物の埀直面に觸つた。 それは接目《つぎめ》も[宛|リ;#2-03-26]形《くりがた》もない、硬い天然石で出來てゐるらしかつた。 指を先の方へ持つて行くと、今觸つてゐるのが、巨大な矩形の石柱であることが分つた。 今度は左の手を延ばすと、隣り合つてゐる同じやうな石柱に觸つた。 頭上にはどれ程か見當のつかない高い所に、何か眞暗な空を愈々暗くしてゐるものがあつた。 それはこれらの石柱を横に聯結してゐる巨大な梁《はり》らしかつた。 彼等は注意しながら、その梁の下、石柱の間へ入つて行つた。 石柱の表面は彼等のたてす靜かな衣《きぬ》ずれの音を反響させた。 けれども彼等は、まだ戸外にゐるやうに思はれた。其處には屋根がなかつた。 テスは怖る〜呼吸をしてゐた。エンヂェルは、當惑して言つた -- 「一體これは何だらう?」 側の方へ探つて行くと、彼等はまた別の塔のやうな石柱にぶつかつた。 それは最初のと同じやうに、四角な巖疊なものであつた。その先にまた一本、 それからまた一本といふ風に立つてゐた。其處はまるで扉口と石柱ばかりのやうであつて、 中には續いてゐる大梁《おほはり》で上部を聯結されてゐるものもあつた。 「まるで風神の殿堂だね、」と彼は言つた。 次の石柱は一本離れて立つてゐた。他には三つの石で門をつくつてゐるものもあつた。 また横に仆《たふ》れてゐるものもあつて、その側面は、馬車が通れる位ゐ廣い敷石道になつてゐた。 そしてこれ等が一塊となつて、この平原一帶の草原に一本石の柱をなしてゐるのだといふことが分つて來た。 二人は夜のこの假屋《かりや》の中へ猶ほ深く進んで行き、やがてその眞中に立つた。 「ストオーンヘンヂだよ!」とクレアは言つた。 「異教徒の殿堂だつて、仰しやるの?」 「さうだよ、有史以前の、ダアバァヴィル家よりも古いんだ!さあ、どうしようね? お前もつと先へ行けば宿も見つかるだらうが。」 けれどもテスは、この時には芯から疲れてゐたので、すぐ側に横たはつてゐた長方形の平石の上へ體を投げた。 一本の石柱が風を除けてくれてゐた。晝の間太陽の熱を受けてゐた爲めに、 その石は温かで、且つ乾いてゐた。 下袴《スカアト》や靴を濕々《じめ〜》させた周圍の荒々しい冷たい草原とは違つて、心地よかつた。 「私、もう先へは行きたくない、エンヂェル。」彼の手を求める爲め、 自分の手を延ばしながら、彼女は言つた。「此處にゐることは出來ないの?」 「出來さうにもないね。此處は晝間だと何哩のさきにも眼がとゞくんだよ、 今はそんな風には思へないが。」 「今思ひ出したけれど、私のお母さんの身内の者がこの邊で羊飼ひをしてゐました。 それからあなたはタルボセイズで、私のことを異教徒だつて、よく言ひ〜しましたね。 だから私は今自分の故郷へ歸つたわけなんですよ。」 彼は、長々と横たはつてゐる彼女の側へ跪き、そして彼女の唇へ自分のをあてた。 「眠いの、えゝ?お前は祭壇の上に寢てゐるとしか僕には思へないね。」 「此處にゐるのがすつかり好きになつちまつたの、」と彼女は小聲で言つた。 「此處は何んてしんとしてゐて寂しいんでせう -- 大へん樂しいことのあつた後なんで -- 顏の上は大空ばかりね。 まるで私たち二人の外、世界中には誰も人がゐないね。そして本當にゐなければいゝと思ふの -- リザ・ルューだけは別だけれど。」 クレアは、少し明るくなるまで、彼女を此處で休ませて置く方がよからうと思つたので、 その上に自分の外套をかけてやり、それから彼女の側へ腰を下した。 「エンヂェル、私に若しものことがあつたら、あなたは私の爲めを思つて、 リザ・ルューの面倒を見てやつて下さらない?」石柱の間を吹く風に、彼等が長い間耳を傾けてゐた時、 彼女は訊いた。 「見てあげるよ。」 「あの娘は本當に淑《おと》なしくつて、無邪氣で、清淨なんですの。 おゝ、エンヂェル -- 若し私がゐなくなつたら、さうなるのも間もないことでせうけど、 あの娘と結婚して下さいな。あなたがさうして下されば、ほんたうに!」 「お前がゐなくなるつてことは、何も彼もが無くなるつてことだよ! そしてあの娘は僕の義理の妹だ。」 「そんなこと何でもありませんわ、あなた。マアロット邊では義理の妹とよく結婚しますよ。 リザ・ルューは本當に素直で、可愛らしくつて、また段々縹緻も好くなつて行くんです。 まゝ、私たちが神の御子になれば、私、喜んであなたを、あの娘と分けることが出來ますとも! 若しあなたが、これからあの娘を躾けて、教へ込んで下すつたら。 エンヂェル、そしてあなたの思ふやうにあの娘《こ》を仕込んでやつて下さつたら!…… あの娘《こ》は私の惡いところはなくて、私のいいところをすつかり持つてゐるんです。 そして若しあの娘《こ》があなたと一緒になるやうだつたら、殆どもう、 私が死んでも二人の間は離れないやうに思はれるんです……さあ、 私もう言つてしまひました。もう二度と、この事は申しませんよ。」 彼女は口をつぐんだ。そして思ひに沈んだ。遙か離れた東北の空に當つて、彼は石柱の間から、 平らな一|條《すぢ》の光線を見ることが出來た。一樣に蔽ひかぶさつてゐた雲の天蓋は、 壺の蓋のやうに、そつくりそのまゝ持ち上つて行つて、大地の端《はて》のところで、 丁度現はれかゝつた日輪にその場所を讓つてゐた。高く聳えた多くの一本柱や三石門は、 その日の光を背負つて、黒々と姿を現はしかけて來た。 「此處で神樣に犧牲《いけにえ》を供へたんでせうか?」と彼女は訊ねた。 「いゝや、」と彼は言つた。 「誰に供へたの?」 「慥《たし》か太陽にだらうよ。あの一つだけ離れてゐる高い石は、 いまにあの後から上る太陽の方へ向いてゐるんだよ。」 「これで私、思ひ出すの、あなた、」と彼女は言つた。「私たちが結婚しない前には、 あなたは私が何を信心してゐようと決して故障を仰しやらなかつたことを、 覺えていらつしやるでせう?だけど矢つ張り私には、あなたのお心は分つてゐましたの。 そして、あなたが考へていらつしやつた通りに、私も考へてゐたのでした -- それは、何も私自身の理由《わけ》からではなく、あなたがさうお考へになつていらつしやつたからですの。 さあ聞かして下さい、エンヂェル。私たちは死んでからも、また會へると、あなたは思つて? それが知りたいんですの。」 場合が場合だつたので、答を避けようとして、彼は彼女に接吻した。 「おゝエンヂェル -- そんなことをするのは會へないつて意味ぢやないの!」 嗚咽《すゝりなき》しさうになつたのを堪へて彼女は言つた。 「そして私はどんなにかまたあなたに會ひたいと思つてゐました -- どんなにか、どんなにか! 何ですつて -- あなたと私の間でさへも會へないの、エンヂェル、お互ひにこんなにまで愛し合つてゐるのに?」 彼は、柄になく偉くなつた人のやうに、この大事な時に當つての大事な質問には答へなかつた。 そして彼等は再び沈默に返つた。一二分經つうちに、彼女の呼吸は今迄よりも規則正しくなり、 彼の手を握つてゐたその手は緩んで來た。彼女は眠つてしまつたのである。 東の地平線に沿うて出來た、銀色がゝつた蒼白い一條の帶は、大平原《グレイト・プレイン》の遠い部分までを、 黒くまた近く見せた。そして廣々とした一帶の景色には、 夜明けの直ぐ前によくあるやうに、何處か遠慮がちで、默つてゐて、 怯々《おど〜》してゐるやうな氣味があつた。東の方の石柱とそれ等を支へてゐる大梁《おほはり》とは、 その光を背に受けて眞黒く聳えてゐた。それから、 大きな火焔の象《かたち》をした『太陽石《サン・ストーン》』はその向うに、 そして『犧牲の石』は中程のところに立つてゐた。間もなく夜風は凪ぎ、 そして石に出來てゐる杯のやうな凹みの中で、震へてゐた小さな水溜りも、靜かに落着いた。 丁度その時、東の方の傾斜の縁《へり》に何かゞ動き出したやうに思はれた -- それはたゞ一つの點にすぎなかつた。それは『太陽石』の向うの窪みから彼等の方へ近づいて來る一人の男の頭であつた。 クレアは、先へ進んで行きたいと思つたが、かうなつてはどうすることも出來なかつたので、 そのまゝぢつとしてゐることに定《き》めた。その姿は、 彼等を取圍んでゐる石柱の圈内へ一直線にやつて來た。 彼は背後に何物かの音を聞いた。がさ〜といふ足音だ。振り返ると、 仆《たふ》れてゐる石柱の向うにもう一つの姿が見えた。それから彼の知らない間に、 右手のすぐ近く三石塔の下にもう一人、また左手にももう一人ゐた。 曙の光は西の方にゐる男の正面をまともに照らした。クレアはこれに依つて、その男が背《せい》が高く、 慣らしてあるやうな歩き振りであることが分つた。彼等は皆《みんな》明かな目的を以て迫つて來るらしかつた。 彼女の言つたことが、愈々事實となつたのだ!彼ははつと跳び上つて、武噐は、 石塊は、遁れる手段は、何でもよい、何か無いかと周圍を見廻した。 この時は既に、一番近くにゐた男が彼を抑へた。 「駄目です、」とその男は言つた。「このプレーンには我々の仲間が十六人來てゐますし、 それにこの地方全體が騷ぎ立つてゐます。」 「眼の醒めるまでどうかあれを寢さしてやつて下さい!」と、彼等が周圍に集つて來た時、 その人たちに彼は小聲で頼んだ。 その時まで、彼等は彼女が何處に寢てゐるのか氣づかないでゐたが、それを見て知つた時、 彼等は少しも異議を言はずに、彼女をぢつと見|戍《まも》りながら、 周圍の石柱のやうに動かないで立つてゐた。彼はその石の處へ行き、可憐な小さい片手をとりながら、 彼女の上に屈んだ。彼女の呼吸は、今は一人前の女といふよりは、 もつと小さな生物《いきもの》のそれのやうに、早くまた小さかつた。 一同は、次第に白んで來る光を浴びて待つてゐた。彼等の顏や手は恰も銀めつきでもされたかのやうに見え、 體の他の部分は黒かつた。石は灰緑色に輝き、プレーンは依然として闇の塊であつた。 程なく光は強くなり、光線がさつと彼女の無意識の姿を照し、 眼瞼《まぶた》の下に覗き入つて、彼女の眼を覺した。 「どうしたの、エンヂェル?」と彼女は急に起き上りながら言つた。 「あの人たちは私を捕《つかま》へに來たの?」 「さうだよ、ねえ、お前、」と彼は言つた。「その爲めに來たんだよ。」 「それが當り前なの、」と彼女は小聲で言つた。「エンヂェル、私、嬉しい位ゐなの -- えゝ嬉しいの! この幸福がいつまでも續く筈はないんですもの。今までゞも續き過ぎた位ゐでした。 私は滿足しました。もうこの上生きてゐて、あなたから卑しめられるのを見ることもなくなります!」 彼女は立ち上り、體を搖《ゆす》つて、前へ進み出たが、捕手《とりて》の者は一人として動かなかつた。 「どうぞお繩を、」と彼女は靜かに言つた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27 ダアバァヴィル家のテス:五十九 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 昔ウェセックスの首府であつた、あの美しい舊都ウインストンセスタアの市《まち》は、 七月の或る朝の心ゆくまで輝かしい温かい外氣に包まれて、凹凸起伏の夥《おびたゞ》しい盆地の中に横はつてゐた。 破風つきの煉瓦や瓦やまたは砂石で出來た家々は、この季節の爲めに、 苔の衣を殆んど落してゐた。牧場の中を流れる川は水嵩《みずかさ》が低くなり、 『西の門』から中世の十字標に至るまで、またそこから橋に至るまでの勾配になつてゐるハイ・ストリートでは、 きまつて舊式な市日《いちび》の先觸《さきぶれ》をする悠長な大掃除が行はれてゐた。 今述べた『西の門』から大通は、ウインストンセスタアの者なら誰でも知つてゐる通り、 次第に人家を捨てゝ、長い、丁度一哩もある、爪先上りの坂道となつてゐる。 市内から、この街道を急ぎ足で登つて行く二人の者があつた、 彼等は困難な坂などはまるで氣にしてゐないやうであつた -- 何事かに屈託してゐた爲めに、そんなことは氣にしてゐなかつたので、 決して心が浮き立つたからではなかつた。 彼等は、やゝ坂下の方の高い塀にくつゝいてゐる閂《かんぬき》のかかつてゐる小門を拔けて、 この街道へ出て來たのであつた。二人はしきりに、人家や人の見えない所へ拔け出ようと焦《あせ》つてゐるらしかつた。 そしてその一番の近道を提供してくれるものは、この本道のやうに思はれた。 彼等は若いに似ず首埀《うなだ》れて歩いてゐたその悲しさうな足どりを、 太陽の光線は思ひ遣りもなく笑つてゐた。 二人のうち、一人は、エンヂェル・クレアであつて、今一人は、背の高い、 發育盛りの娘 -- 半ば少女で半ば女といふところの -- テスよりは細《ほつ》そりしてゐるが、 同じやうに眼が美しくつて、清淨にされたテスともいふべき容姿である -- クレアの義妹リザ・ルューであつた。彼等の蒼白《あをざ》めた顏は、 元の半分ほどにも縮んでしまつたやうに見えた。彼等は手を執り合ひ、そして一言も物を言はずに歩いて行つた。 さうして頭を埀れてゐる姿は、 さながらヂヨットオ(伊太利フロオレンスの畫家、建築家、一二七六 - 一三三七)の『二人の使徒』 (フロオレンスの寺院の壁畫にして、ヨハネの葬儀を畫題としたもの)のそれのやうであつた。 彼等が大きな『西の丘』の頂上へ殆ど行き着いた時、町の時計は八時を打つた。 この音を聞いて吃驚した二人は、なほ數歩を進めて、草原の青々とした縁《へり》に、 眞白く立つてゐて、芝生を後にしてゐる最初の里程標の處に逹した。 此處では芝生か本道の方へ開けてゐた。彼等は芝生へ入つた。 そして、彼等の意志を支配するらしかつた一つの力に強ひられて、 突然ぴたつと立ち停つて向き返り、夢魔でも感じたやうな不安な状態で、 里程標のある傍で待つてゐた。 この頂上からの眺めは、殆んど盡きるところを知らなかつた。 下方の盆地には、今彼等が後にして來たばかりの市があり、その中でも一|際《きは》眼につく建物は、 まるで實物大に見えた -- その中には、ノルマン風の窓や、 非常に長い側堂や本堂のついてゐる宏大な伽藍の塔もあれば、 聖《セント》トマス寺の尖塔もあり、さうかと思ふと大學の小尖閣を備へた塔もあれば、 更に右寄りには、今なほ順禮者がパンや麥酒の施しを受けられる舊《ふる》い救貧院の塔や破風があつた。 市の背後には、聖《セント》カザリン丘の圓い高臺が擴がつてゐた。更にその先は、 風景は風景と重なり合ひ、やがて地平線は、その上にかゝつてゐる太陽の光りに中に沒してゐた。 かういふ遠くまで延び擴がつてゐる田舍の景色を背景[に]し、 市の他の色々な建物を前面に控へて、扁平な灰色の屋根の、人を幽閉してゐることをさながら物語つてゐる、 格子のついた細かな窓の並んだ大きな赤煉瓦の建物が、その全體が形式的になつてゐるので、 周圍のゴシック建築の古雅な多樣多角な趣とは著しい對照をなして聳えてゐた。その前を通りすぎる時には、 その建物は水松《いちゐ》や常盤木の樫《かし》の爲めに遮《さへぎ》られて道からはよく見えなかつたが、 こゝまで上つて來ると、はつきり見えた。二人が先刻《さつき》出て來た小門はは、 この建物の塀についてゐたのであつた。この建物の中央からは、 醜い頂上の平らな不細工な八角形の塔が、東の地平線を背景にして立つてゐた。 此處から眺めると、陰つた側が見えて、光線を背負つてゐるので、 市の美觀をきずつける一つの汚點のやうであつた。けれども、 注意して眺めてゐる二人の者が心を惹かれてゐるのは、この汚點の方であつて、 美の方ではなかつた。 塔の蛇腹の上には、一本の長い竿が取りつけてあつた。彼等の眼はそれに釘付けにされてゐた。 八時が鳴つて數分間經つたかと思ふと、何物かゞ徐々に竿の上へ上つて行つた。 そして風に煽られて自づと展《ひろ》がつた。それは黒い旗(死刑執行の標)であつた。 『裁き』は公平に下された。そして、エスキラス(希臘の悲劇作家)の常用語を用ひれば、 『神の司《つかさ》』はテスとの戲れを終つたのであつた。 そしてダアバァヴィル家の騎士《ナイト》や貴女《テーム》は、何事も知らず、墓の中で眠つてゐた。 默つて見詰めてゐる二人は、恰も祈祷でもするやうに、地に跪き、 そのまゝ指一本動かさずに、長い間ぢつとしてゐた -- 旗は絶えず音もなく搖れてゐた。 やがて元氣がつくなり直ぐ彼等は立ち上り、再び手をとり合つて歩き出した。 ——了—— [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/27