宮島新三郎 (1894-1934年) 譯,トマス・ハーディ (Thomas Hardy, 1840-1928年) 著,
「ダアバァヴィル家のテス (Tess of the d'Urbervilles, 1891年)」。
底本:世界文學全集(29),新潮社,昭和四年二月十日印刷,昭和四年八月二十日發行 (1929年)
『ダアバァヴィル家のテス』が、トマス・ハーディの數ある著作中でも、 傑れたものゝ一つに數へられることは、歐米の批評家の等しく認めてゐるところである。 日本の讀書界でもハーディといへば、直ぐに『テス』が思ひ浮べられる程に人口に膾炙した作品になつてゐる。 私一個の經驗からいふと、自然主義文學の影響を受け、主に大陸の作品に心を惹かれてゐて、 未だ英文學にさほどの興味を感じなかつた時分にさへ、ハーディの作品には、 恰も日本の作品を讀むと同じやうな親しみが持てた。就中、『テス』は愛讀書中の愛讀書であつた。 私は英國留學中もこの書だけは常に旅の鞄へ入れて置くことを忘れなかつた。 滯在中ハーディに會つたのも、又ハーディ・カンツリーを踏査したのも、全く『テス』に對する私の愛着からであつた。
その愛着は、『テス』をして綺麗な日本着物を着せて日本の土地に住はせて見たいと思ひ、 會見の折、ハーディにその許可を乞うた。するとハーディは快諾され、その上地方語その他で解しにくいところは、 尋ねてくれ、自分でなくても、妻が答へるであらうといふ親切な言葉にも接した。
歸朝早速飜譯の筆を執るつもりであつたが、雜事多端であつた爲め、一年半は空しく過ぎ、
その間にハーディはこの世を去つてしまつた。愈々筆を執り出すと、上梓を急がねばならぬので、
時間の關係からも、夫が去つてまだ時日も餘りたつてゐない未亡人の面倒を煩はすのもどうかといふ懸念からも、
終に、
『テス』には種々の異本がある。少くとも私の知つてゐる限りではも四五種類はある。 中でもマクミランの『ポケット・ハーディ』、『ウェセックス・エディション』は一番確かなものとされてゐる。 私はテキストとして前者を選んだ。
附録としては、ハーディと並んで現在の英國小説界の巨匠であつたジョセフ・コンラッドの短篇、 寧ろ中篇小説三篇を選んだ。何れもコンラッドの特色を發揮したものであるが、 就中『青春』は、青春の魅力を鮮かに簡潔に詩的に描き出した點で、世界文學中特異な位置を占めてゐる。 テキストは『グリーシャム・パブリッシング・カンパニー』の全集に據つた。
昭和四年一月十日
南英國の古い町、ドーチェスタア(ハーディの作中では、キャスタブリッヂとなつてゐる)から東北に二哩ばかり進むと、
アッパー・ポッカムトンといふ小さな村があつて、その
ハーディの少年時代はイギリスの社會史の上から見て、甚だ重要な位置を占めてゐる。
彼の生れた一八四〇年は新舊社會の分水嶺ともいはれる年である。 彼は一青年として農業的英國が、商業的工業的英國に移つて行くのを目撃した。
一方では穀物條令の廢止によつて地方の地主階級の貴族主義が滅亡して行くのを見た。
他方では曝し臺にかけられた人と話をしたでもあらうし、又前にも述べた如く、
村の教會の合唱體があり、クリスマスの假面劇の行はれる時代をも通つて着た。
從つてハーディの作品には、新社會の出現の前に舊社會が崩潰して行く過渡的農村社會相の取扱はれてゐるものが多い。
變化の兆はひとり社會上ばかりでなく、精神界に於ても明かに見られた。
ハーディがものを考へるやうになつた時分には、ハックスリとウェルバーフォース僧正とが、
相互に、宗教と科學の標語を投合つてゐた。エリオット女史の『アダム・ビード』が、
メレディスの『リチャード・フェヴェレルのさばき』が出たのは、ハーディ十九歳の時であつた。
前者は強く良心に訴へ、後者は理智への進軍ラッパと聞えた。
といふのは社會は既にヴィクトリヤ朝時代の自足自給の滿足安泰の眠りから醒めかゝつてゐたのであつた。
産業は農業を驅逐し、同時に古い田舍の平和を亂した。「醒めよ、汝、眠りより!」との叫びは理智からも良心からも放たれた。
この警鐘を聞いた若いハーディは元より急進側に味方した。 彼のこの叛抗精神、言ひ換へれば、ヴィクトリヤ朝時代のブルジョア道徳や宗教や、
法律やに對する不滿は露骨にではなく、具體的な事實の再現として彼の作品中に現はされた。
人はよくハーディの作品といへば人間意志でどうにも出來ない運命を現はした暗い厭世主義の作品であり、
彼を以て宿命論者と
ハーディの父は彼を最初牧師にしようと思つてゐたが、彼は教會の基督教に對する信仰を失ふやうになり、
父の期待を裏切つた。そこで兩親は彼の將來を考へた結果、彼を建築技師にする爲めに十六の時、
ドーチェスタアのジョン・ヒックス氏の許に弟子入りさせた。彼はこの方面で優れた才能を持つて居り、
ヒックス氏の許で滿足ができず、二十二歳の時愈々ロンドンに行き、
當時建築家として名高かつたアーサア・ブルムフィールド卿に師事することになり、
傍らキングス・カレッヂの夜學科に通つた。その間に英文學上の名高い詩や小説にも通じ、
一八六五年にはチェンバース・ジャーナル誌上に『どうして私は自身で家を建てたか』といふ小品風のものを發表した。
六九年には、『貧しい男と一貴婦人』といふ長篇小説を初めて書き上げて、
マクミラン書肆に送つたが當時既に文名を馳せてゐたメレディス其他一二の人々の忠言によつてその出版を思ひ止まつた。
この作品は遂に發表されず原稿の行方も不明となつてしまつたが、ハーディの親しい友であつた、
有名な批評家エドモンド・ゴッスの語るところに依ると、表題の示す如く貧しい農家に生れた一人の男と、
上流社會の一貴婦人との戀を描いたものであつて、 ヴィクトリヤ朝時代の階級的差別の偏見に對する作者の批評の現はれとも見られるし、
又上流社會の虚僞の生活を赤裸々に描き農民生活に對して深い同情を現はした點から見れば、
作者が既にヴィクトリヤ朝時代に對する革命兒であつたことを物語つてゐる。
この作は以上のやうな譯で發表されずにしまつたが、一八七一年には『荒治療』を公にし、
續いて『緑林樹下』『緑眼一雙』『世俗を離れて』等を發表して、
英國文壇に確實な地歩を占めることになつた。由來一八九七年の『至福者』に至るまで、
十七篇の長篇小説と數十篇の短篇小説とを公にした。其後は決して小説に筆を執らないで、詩作のみを續けた。
何故小説の筆を絶つたのであるかといへば、それには種々なる内的理由もあつたが、
大きな理由の一は『テス』や『ジュード』の世評があまりにも彼にとつて苛酷であつたといふことである。
即ち彼はかういふ作品によつて道徳を破るもの、宗教に反するもの、習慣を亂すもの、
風教を害するものといふ非難攻撃を烈しく受けたのである。初めの中は、それに對し反駁の矢も向けて見たが、
時代はまだ新しい近代精神を受け容れるまで進んでゐなかつたので、 遂に彼は小説を斷念するのやむなきに到つたのである。
だが彼に對する世間の非難攻撃は要するに英國小説界の進歩を意味したものであり新文學の勃興に對する無理解を表明したに過ぎない。
まことに『テス』や『ジュード』は英國小説の少くとも内容を革新したのである。
これ等の作品は謂はゞ一里塚で、これを
ハーディは創作を試みるやうになつてからは、他の多くの作家とは異つて、
ロンドンに住むことをせず、ドーチェスタアの郊外に自らの設計による瀟洒な邸宅を構へて遠く世の喧噪から離れて、
ひたすら瞑想と思索の生活を續け、暇ある毎に地方農民の生活を深く研究してゐた。
彼の生涯は普通の生活の意味からいへば波瀾もなく、變化もなく、
極めて平凡であり、分けても晩年の如きはあまりにも事が無かつたので、やゝもすれば忘れかけられさへもした。
だが一九二七年の末に一度彼の病報の傳はるや、 英國民はこぞつて彼の囘復を祈るの熱情を新聞紙上や其他の機關を通じて表明した。
越えて一月十一日彼の死が傳へられると、 英國政府からは彼を國葬としてその靈をウェストミンスター寺院のポエット・コーナアに祭つて、
永久に彼の文學的生命を殘さうといふ旨を傳へた。 これを以てしても彼が如何に全國民の崇拜の的になつてゐたかゞ
『ダアバァヴィル家のテス』は、初め一八八〇年代の終りに、その大部分は『グラフィック』紙上に、 他の數章は插話風の小品として、『フォートナイトリイ・レヴュウ』並びに『ナショナル・オブザーヴァ』誌上に現はれたのを、 一八九一年に一册として纒めたものである。ハーディの作品中でこれ位ゐ筋の單純な物語は殆んどあるまいと思はれる。 「表情たつぷりな、芍藥のやうな口と大きな無邪氣な眼」とを持つた美しい田舍娘に生れたテスは、 自分の家の窮乏を救ふ爲めに雇はれて行つた先の家の若主人アレク・ダアバァヴィルから想ひを懸けられ、 遂に辱められて、家に逃げ歸り母親となる。だが赤兒は間もなく亡くなり、一時は全くの絶望状態に陷つてゐたが、 又新しく生活の力を見出して、乳搾り女として働きに出掛ける。 こゝで彼女は農場の研究に來てゐる上流階級に屬するエンヂェル・クレアに出會ひ、 戀に落ち、エンヂェルからしきりに結婚を勸められたが、 彼女は自分が結婚する資格のないものと考へて初めの中は承諾しなかつたが、遂に約束をし、 結婚するまでには自分の過去を打ち明けようと思つてゐたが、色々な事情に妨げられて、 愈々結婚式を濟ました夜になつて、やつとそれを打ち明けることが出來た。 するとエンヂェルは自分の過去の罪を女から許して貰ひながらも、 又かなり自由な考へを持つてゐたにも拘らず、「汚れた女」に對する偏見を征服することが出來ないで、 そのまゝ妻を捨てゝ南亞米利加へ行つてしまふ。テスは家の爲めに前よりも更に一層苦しい仕事に從ふことになり、 その中に昔のアレクに再會し、遂に一家の窮乏を救ふ爲めに、又エンヂェルは再び歸つては來ないと言はれた爲めに、 アレクのものとなることを承諾した。間もなくエンヂェルが歸つて來て、 彼女がアレクと同棲してゐるのを知りもう遲かつたと言はれて引つ返すが、 一方テスは急にアレクが憎くなり、肉切ナイフで彼を殺してエンヂェルの後を追つて行く。 彼女とエンヂェルとが世を忍んで幸福な生活を送つたのも束の間で、捕へられて、 テスは死刑に處せらるれることゝなつた。
この樣に單純な物語なのであるから、平凡な作者が取扱へば、唯一篇の感傷的な作品に過ぎないものとなつたであらうが、 ハーディの深刻な思想と、深い洞察力とはこの事件を廣い社會環境の中に置いて眺め、考へた爲めに、 感銘の深い深刻な社會的價値のある作品とすることが出來た。 この作品を讀んでテスの不幸な生涯に、唯涙を流すだけの讀者は、まだ眞にこの作品を味つたとは言へない。 恐らく又作品そのものがそのやうな觀賞程度にとゞめては置かないであらう。 テスは何の爲めにあのやうな苦しい生涯を送つて死刑に處せられなければならなかつたかを、 必ず考へるであらう。テスをして彼女の厭なダアバァヴィル家へ奉公に行かせたのは貧乏といふ事實であつた。 而もこの事實は運命的なものでもなく、大自然の抗すべからざる力の現はれでもなく、 全く人が作つた社會組織の缺陷から生れ出たものである。アレクをして恰も家常茶飯事の如く、 テスの貞操を弄ばさしめたのは、一面に於ては元より彼の肉感性にも依るとは言へるが、 又他面に於ては輕率な地方的慣習によるものと言はなければならない。 更にエンヂェルをしてテスの告白を聞いた刹那に、言ひやうのない嫌惡を感ぜしめ、 同棲を拒ましめたのは、「汚れた女」に對する彼の偏見であると同時に、 又その當時の社會に喰ひ入つてゐた偏見に依るものである。尚進んでテスの一家の不幸になつて行つた經路を考へて見ると、 社會的道徳的偏見が如何に大きな力として働いてゐるかを、看取することが出來る。
斯樣に觀て來ると、テスの生涯の悲劇は運命的なものではなく、大自然の力によつたものでもなく、 全く人間の作り出した社會の組織や、それを維持して行く爲めの道徳や、宗教やの偏見から生じたものであることが分る。 而も同じく人間の作つた法律は、かゝる境遇の下にテスをして殺害行爲のやむなきに至らしめたに對し、 何等の斟酌もなく死刑の宣告を下した。恐らく如何に無能の陪審官と雖も、 今日ではこの『テス』一卷の調書を突きつけられたら、テスに對して死刑の宣告を下すが如きことはしないであらう。
ハーディは元より事件や境遇の再現を飽くまでも目的としてゐるのであつて、 作中で當時の社會組織や、習慣や、道徳や、宗教や法律やを攻撃するが如き論戰的調子を少しも見せてはゐないが、 而も私たちをして深く考へさせるのはこの點である。 そして『テス』の社會的價値も亦こゝに存するのではないかと思はれる。
それにも拘らず、この作品は英國で發表された當時、この頃の道徳や宗教や慣例や法律に對する攻撃であるとして烈しく非難され、
又善良な家庭には不向きな作品であると評されもした。前者の非難に對しては、
ハーディは唯眞實の出來事に藝術的樣式を與へたまでのことであると答へて、
藝術家としての立場を明かにしてゐる。社會に對する攻撃と見る見ないは讀者側の問題であつて、
攻撃と見たからといつて、作者を非難するのは却つて非難する者の狹量を示すに過ぎない。
後者に對してハーディは、描かれてある事實に對して我慢のできない上品な讀者は、
聖ジェロームの言つた「過失が眞實なものから生ずるとするならば、この眞實を隱して置くよりは、
過失の現はれる方がよくはないか。」といふ陳腐な文句を想ひ出して貰ひたいと言つてゐるだけである。
可憐なテスが肉切ナイフでアレクを殺した行爲の如きは、 その當時の基督教に慣らされてゐた紳士淑女には我慢ができなかつたであらう。
たとひ愛はなくとも子供を産まされた男があるのに、又別に戀人を見出す如きは、 確かにその當時の温良優雅な精神に反してゐたに相違ない。
男の暗い過去を許したのだから自分の暗い過去も許されるだらう等と女が考へるのは、
これ又紳士淑女の道に
『青春』『明日』及び『エミイ・フォスタァ』の作者ジョセフ・コンラッド(詳しくはテオドル・ジョセフ・
コンラッド・コルゼニオヴスキイ)は、一八五七年一二月六日に南
勿論この一作によつて、彼がその文名を一時に高め、英文壇の寵兒となつた譯ではない。 彼に對する評價は寧ろ漸層的であつた。『島の追放者』、『ナアシサス號の黒人』の發表につれて、 その名聲は高まり、『ロード・ジム』に至つて現代の優れた作家といふ折紙がつくやうになつたのである。 爾來一九二四年彼の死に至るまでに公にした長篇小説及び短篇小説は、かなりの數に逹してゐる。 彼の作はその題材の方面から見て行くと、波蘭生活を背景としたもの、航海中に經驗したもの、 及び彼が英國の田舍生活で得た材料の三つに區別することが出來、就中、海の生活を扱つたものに傑作が多い。 彼が海洋作家として得意な位置を占めてゐるのは、この爲めであらう。 彼はハーディを始めウェルズや、ゴルスウァーシイや、ジョージ・ムーアや、 アーノルド・ベンニット等と共にヴィクトリヤ朝時代の小説觀念を打破して、 新しい小説の基礎を置いた作家と言はれてゐる。それはどういふ意味に於てゞあるかといへば、 新しい技巧と、新しい道徳とを小説界に導き入れたことを指すのである。 コンラッドの藝術觀を一言で説明するならば、小説が藝術たらんと慾するなら、 氣質に訴へなければならない、それは繪畫や音樂と同じやうに、一氣質が他の凡ゆる氣質に訴へることでなければならない、 でこの訴へを有效にするにはそれが感覺を通じて傳へられる印象とならなければならないのであるから、 小説家の試みは書かれた言葉の力で、讀者に聞かせ、感じさせること -- 何よりも先づ見させることでなければならない、といふのである。 即ちすべては見させる爲めの努力であつて、描き出して見させることが出來れば藝術の目的は逹せられるのである。 彼はこの信念に基いて、凡ゆる事象を闡明に描き出すことに努め、 人間の心の中に働く心理をさへ繪のやうに描いて見せることをし、 技巧の方面に新しい境地を開くに至つたのである。既に事象を描いて見せるのが目的であるから、 そこに善惡美醜の區別はない、すべては科學者の眼に映ると同じく、一つ〜が儼然たる事實である。 斯樣な態度で事物を描き、扱つて行く以上は、在來の道徳と自然觝触しない譯には行かない。 こゝに於てかフランスの自然主義作家に見られると同じやうな、新道徳の意識が彼の作品の中に入つて來ることになり、 それがやがて新興文學の重要な要素ともなつたのである。而も彼の扱つた人物の多くが、 商船長、船乘、農夫、職人、人夫等の如き、比較的下層階級に屬することも、 在來の主として上流階級を扱つたヴィクトリヤ朝時代とはかなり趣きを異にしてゐた。
こゝに收めた『青春』は一八九八年の作で、コンラッドが初めて東洋に航海した時に出會つた經驗をそのまゝに題材とした、 彼の海洋小説の中で最も優れたものゝ一つである。二十二年前の海の上の惡戰苦鬪を物語りながら、 よくそれに耐へた青春の元氣と、魔法とを思ひ出して、再び歸つて來ない青春を懷しむ思ひ出の記がこの一篇である。 文字の一線々々に青春の血が、感激が漲り渡つてゐるやうに思はれる。 文字が集つて青春の管絃樂を奏してゐるとも見られる。 それは別に或る事件を描いてその意義を展開したものでもなく、或る人物の性格を描かうとしたものでもなく、 唯青春の讚歌であり、その元氣に對する憧憬の發露であり、又若き日の冐險の思ひ出話に過ぎない、 而も讀むものをして心から奮ひ起させずにはゐない強い魅力を持つてゐる。
『明日』(一九〇一年)はイギリスの小さな海岸町に起つた事件を扱つたもので、 謂はゞ一種の海濱小品ともいふべきものであるが、 『もう一日』といふ題で脚本にも書替へ、それはショオや、ゴルスウァーシイや、 ベンニットからも非常に推奬された作品である。狂船長ハグバァド、その息子のハリイ、 盲目の我儘者カアヴィル、その娘のベッスィ等すべてコンラッドの獨特の創造に依るものであつて、 讀者は自から一種の戰慄を感ぜずにはゐられない。
『エミイ・フォスタァ』(一九〇一年)も亦一種の海濱小品で、言語の通じない不思議な難破者と、 どんなものに對しても想像力を働かすことはあるまいと考へられてゐた、 頭の鈍い少女との間の戀を描いたものであつて、こゝにもコンラッドの鋭い觀察が働いて、 恰もX光線を通して見るやうにこの二人の微妙な心理を鮮かに描き出してゐるので、 讀者は自づから一種の驚異を感ぜずにはゐられない。 かつて『ジョセフ・コンラッドの天才』なる一文を書いたジェームズ・ヒュンカーは、 小説が種々の宣傳の手先や、豫言者の役を勤めたり、多くの作家が或る社會上の祕藥を賣る役目を演じたりする笛、 太鼓の鳴物入りの時代にあつて、コンラッドのみは無私念的な藝術家の理想的典型として、 英國小説壇に毅然として立つてゐる、喧噪を極めた市場の中で、彼の書物は、 遠い海鳴りの音を傳へる貝殼であると述べたが、以上の如き作品に接すると、 如何にもその評語の適中してゐることを感ぜずにはゐられない。(宮島新三郎)
五月も末の或る夕、一人の中年男が、ジャストンからブレークモオアともブラックムーアともいふ盆地續きのあるマアロットの村へ、 家路を辿つてゐた。彼の體を運んで來た脚は、兩方ともよろ〜してゐて、その歩き振りには、 體を埀直線から幾分左へかしげる癖があつた。別にこれといつて考へ事をしてゐるのでもなかつたが、 誰かの言つたことを、成程なあと肯定でもするやうに、折々小ざかしく頷いた。片腕には空つぽになつた卵の籠を吊るしてゐた。
帽子の細毛はぼさ〜に突つ立つてゐて、
「今晩は、牧師樣、」と籠を持つた男が言つた。
「今晩は、ジョン閣下、」と牧師は言つた。
徒歩の男は、また一二歩してから、立ち止つて振り返つた。
「時に、牧師樣。ぶしつけな話だが、この間の市にも、丁度今頃この道でお會いしましたつけ。 その時、『今晩は』とわしが言ひますと、牧師樣も『今晩は、ジョン閣下』つて、 丁度今見てえに仰しやりましたゞな。」
「さう言つたよ。」と牧師は答へた。
「それに、その前にも一度 -- かれこれもう一月にもなりますかな。」
「さう言つたかも知れんな。」
「ぢや、その度に『ジョン閣下』と仰しやつたのはどういふ譯ですかな? わしや身分の賤しいジヤック・ダアビフィールドつて行商人だに。」
牧師は、一二歩馬を近づけた。
「そりやほんの私の氣紛れからさ、」と彼は言つた。それから一寸ためらつた後で、 --
「ついこの間、郷土史を新しく作るんでね、いろんな系圖を
「そりや初耳でさあ、牧師樣!」
「本當だよ、そりや。ちよつと
「まあ、飛んでもねえ!」
「つまりだね、」と牧師はぴしやりと鞭で自分の脚を打ちながら言葉を結んだ。「英吉利にや、 まあそんな家柄は又とあるまいね。」
「そりや驚いた、本當にさうですかな?」と、ダアビフィールドは言つた。「それだのに、 わしは今までこの土地をそつちこつち、年がら年中うろつき廻つてゐたんでごぜえますよ。 まつで村のうちでも一番下らん人間みてえにね……それで、このわしの身の上話しァ何時頃から擴まつてゐるんでごぜえませう? トリンガムの牧師樣。」
牧師は、自分の知つてゐる限り、それは世間から全く忘れられてゐる事で、少しだつて擴まつてゐるなぞとは言へないと説明した。
牧師が調べ出したのは、この前の春の或る日であつて、丁度その時分ダアバァヴィル家の歴史を調べてゐた際で、
「最初は、こんな下らんことを知らせて、お前に氣を揉ませるでもないと、心を決めてゐたのだが、」と彼は言つた。 「心のはずみといふものは、折々、分別を負かしてしまふことがあるのでな。私はまた、 このことに就いちや、お前も今迄に幾らか知つてゐるだらうと思つてをつたのぢや。」
「へえ、一家がブラックムーアへ來る前にや、今よりや増しな
「何處にも住んぢやゐないよ。絶えてしまつたのぢや -- 地方の名家としてはな。」
「そいつはよくねえ。」
「さうだ -- こしらへものゝ系圖で、男の相續人がなくなつたといふ奴さ -- つまり零落してしまつたのぢや -- 沒落してしまつたのぢや。」
「ぢや、わし逹の一族は何處に眠つてゐやすだかね?」
「キングスビア・サブ・グリーンヒルに、パアベック大理石(ドーセット州にある半島から出る大理石のこと) の天蓋をいたゞいた立像と一緒に、納骨堂に幾列にも並んでゐるのぢや。」
「それから、わし逹一家の屋敷や土地は、何處にあるんですかね?」
「少しもないよ。」
「へえ?地所もねえんですか?」
「ない。それもな、今話した通り、昔は土地もうんと持つとつた。 何しろお前の一門は、澤山な分家の集まりだつたのでな、この地方には、 キングスビアに一つ、シャストンに一つ、ミルポンドに一つ、ラルステッドに一つ、 ウェルブリッヂに一つ、お前の一門の屋敷があつたのぢや。」
「それで、わし逹も何時かはまた元通りになるんでごぜえませうか?」
「あゝ -- そりや何とも言へない!」
「ぢや、それに就いちやどうしたらようがせう?」とダアビフィールドは、少し間を置いてかう訊ねた。
「あゝ -- 何もなあ、何もしない方がいゝんだよ。たゞ『嗚呼
「が、トリンガム牧師樣、これを
「いや、有難う -- 今晩はまあお預りにしよう、ダアビフィールド。
お前は大分もう
彼が行つてしまふと、ダアビフィールドは、ぢつと深く考へ込みながら、二三歩進み、それから籠を自分の前に下して、
路傍の草深い
「おい小僧、その籠を持て!そして、使ひに行つて來てくれんか。」
痩せてひよろ長く見える若者は、顏を
「一體お前さんは、誰だといふんだね、ジョン・ダアビフィールド。勝手に俺に用を言ひつけたり、 小僧なんて拔かしたりしてさ。俺がお前さんの名を知つてゐるやうに、お前さんも俺の名を御存じのはずだに!」
「話してやらうか、教へてやらうか?いや内證だ -- そりや内證だ!さあ、俺の言ひつけを聞いて、
今頼む使ひをしろよ……おい、フレッド、言つてやるから聞け。その内證事つてのはな、 俺が貴族の血統を引いたものだつてことなんだ --
。今日の晝過ぎに、つまり午後に俺がめつけたばつかりなんだ。」
かうして、この吹聽を濟ますと、ダアビフィールドは居住ひを崩して、樂々と
若者は、ダアビフィールドの前に突つ立つて、伸ばした體を頭の
「ジョン・ダアバァヴィル閣下 -- それがこの俺樣のことなんだ、」と寢そべつた男は續けた。 「若し騎士が准男爵だつたらな -- ところで、實は、騎士は准男爵と來てゐるんだ。俺のことァ殘らず歴史に載つとるんだ。 若造、キングスビア・サブ・グリーンヒルちふ處を知つてゐるか?」
「あゝ。俺ァ、グリーンヒルの市があつて、其處へ行つたことがあるんだ。」
「さうか。その町のお寺に埋まつて -- 」
「町ぢやねえよ、俺の言ふ處は。何んでも、俺が行つた時は町ぢやなかつたぜ -- 小つぽけな、 片眼でぱちくりやつてゐると言つたやうな處だつた。」
「場所がどんな處か、どうだつて好いぢやねえか、小僧。そんなことァ今の問題ぢやねえ。 その村の寺にな、俺の先祖逹がお休みになつてるんだ。 -- 何百人もな、 -- 鎖帷子の鎧や寶石に包まれ、何噸も〜目方のある、でかい鉛の棺の中でな。 この南ウェセックスの地方ぢや、俺よりも堂々とした貴い先祖を持つてゐる者は、たゞの一軒だつてありやしねえぜ。」
「へえ?」
「さあ、この籠を持つんだ。そしてマアロットへ行け、それからな、
ピュア・ドロップ亭へ行つたら、俺が家へ歸るんだから、直ぐ一頭立ての馬車をよこすやうにと言ふんだ。
それに、小さい罎にラムを一合ほど詰めて、馬車の中へ入れて
若者はもぢ〜しながら立つてゐるので、ダアビフィールドは
「さあ、駄賃だ、小僧。」
これで、そんな使ひは厭だと思つてゐた若者の考へはすつかり變つた。
「ようがす、ジョン閣下。有難う。他に用事はねえかね、ジョン閣下?」
「家に行つて、夕飯に -- さうさな、出來たら小羊のフライを慾しいもんだと言つて置いてくれ。
若しそいつがいけなかつたら、
「ようがす、ジョン閣下。」
若者が籠を取上げて出かけた時、村の方から、
「ありや何でえ?」とダアビフィールドは言つた。「よもや俺の爲めぢやあるめえな?」
「ありや女連の倶樂部の運動會だあ、ジョン閣下。えゝと、お前さんとこの
「違えねえ -- 俺はもつと
若者は出掛けた。ダアビフィールドは夕陽を浴びながら、草や雛菊の上へ横になつて待つてゐた。 永い間、あたりには人つ子一人通らなかつた。緑の山々に圍まれた中に聞える人間らしい音といへば、 僅かに微かな樂隊の音色のみであつた。
マアロットの村は、前にも言つたブレークモオアともブラックムーアともいふ美しい盆地の東北の、
波のやうに起伏した地勢の中にある。四方を山に圍まれた、世離れた土地であつた。
倫敦からは、四時間以内に行き着けるほどの
この盆地は、周圍の丘陵の頂きから眺めると、一番よくその地勢を知ることが出來た --
たゞ、夏の
野原が決して褐色になることもなく、また泉が決して涸れることもない、
この豐饒な山蔭になつてゐる地域は、南の方は、ハンブルドン・ヒル、バルバロオ、ネットル・コム・タウト、
ドッグベリイ、ハイ・ストオイ、バップ・ダウンなどの峰々を含む、嶮しい白亞の山脈に限られてゐる。
海の方へ二十哩餘りもとぼ〜辿つてから、急にかうした懸崖の一つの端へ着くと、
これまで自分が通つて來た處とはまるで異つてゐる田舍の風景が、眼下に地圖のやうに擴がつてゐるのを見て、
吃驚し、喜ばずにはゐない。背後には、小山が廣く
この地方は、地形上の興味に劣らず、歴史的にも亦興味が深い。この盆地は、
昔は白鹿の
大森林はなくなつたが、昔その森蔭で行はれた古い習慣は、今も幾つか殘つてゐる。
だが、多くは全然形を變へるか、でなければ、それと分らないやうな姿になつて、
僅かに餘命を保つてゐるに過ぎない。例へば『五月際の舞踏』のやうなものは、
前に述べた午後の倶樂部の
お祭に加はる者には、その本當の興味は氣付かれなかつたが、
マアロットの若い人々には、それは面白い
倶樂部員は、すつかり白裝束であつた -- それは喜びと五月の季節とが、
全く同じ意味であつた『舊暦』時代(舊暦はジュリアン暦で、グレゴリアン暦を新暦といひ、
一五八二年十月五日を同月十五日に改めて計算した。今日の太陽暦である) --
先々のことを考へる習慣が、未だに感情を一本調子の型にはめてしまはなかつた時代から續いてゐる、
華やかな
白衣が既に際立つた特色であるのに、更にどの
行列には、二三の中年者や年寄りさへゐて、その銀の針金のやうな髮の毛や、
年や苦勞にやつれた皺だらけの顏は、こんな派手な場所柄には殆んど竒拔な、
また確かに痛ましい樣子を見せてゐた。本當をいへば、多分、年下の連中よりは、
『もう生きたところでちつとも面白いことなんかありやしない』と、
屹度言ふに相違ない年頃に近づいてゐる、苦勞の多い、世間を知つてゐる
實際若い娘逹は、一團の中で多數を占めてゐた。髮の毛の房々とした頭は、黄金色、黒色、 褐色と、それ〜゛の色合に太陽の光線を浴びて輝いてゐた。眼の美しいもの、鼻の美しいもの、 口や姿の美しいものもゐた。だが、何から何まで美しいものといふのは先づ殆んどなかつた。 かういふ衆人環視の中に曝されると、口元をきちんと結んでゐることの難かしさ、 頭の釣合を取ることの難かしさ、いろいろの樣子から極り惡さを掻き消すことの容易でなさが、 はつきり彼女等の容姿にあらはれて居り、そして彼女等が、世間慣れない、純な田舍娘の一團であることを明かにしてゐた。
そして、娘逹の誰も彼もが、太陽の光を受けて、肌を温めてゐたやうに、 心の中には内證の小さい太陽を抱きすくめて、魂を日向ぼつこさせてゐた。それは夢か、愛情か、 樂しみか、少くとも希望といへばきまつてさうだが、恐らく消えてなくなりさうになつても未だ生きてゐる、 遠い、遙かな希望かであつた。かうして娘逹はみんな快濶で、その多くは陽氣でもあつた。
娘逹は、ピュア・ドロップ亭の側を通つて、街道から小門を通り拔け、牧場へ入りかけてゐた。 丁度その時、
「あれ、まあ!まあ、テス・ダアビフィールド、馬車でお歸りなのは、あんたのお父さんぢやないかね!」
この叫び聲を聞いて、一人の若い會員が頭を向けた。彼女は上品な、
「俺にやでつかい家の御廟所が、キングスビアにあるのだ -- 騎士の位にござらしやつた御先祖逹が、
其處に鉛の棺にお
テスと呼ばれた娘を除いて、倶樂部員たちは皆くす〜笑つた -- 彼女の心のうちには、自分の父が、 一同の物笑ひになつてゐると思つたので、興奮の色が靜かに湧いて來た。
「お父さんは
「何も知らないお目出度やさんね、テス、」と、仲間の娘逹は言つた。 「あの人は、市場の後酒が過ぎたのよ、ほゝゝゝ!」
「よくつて、私、お父さんをからかふなら、もう一寸だつて一緒に歩かないのよ!」とテスは叫んだ。
そして赤みが頬に浮んで來たが、それは顏にも頸にも一ぱい擴がつた。
瞬く間に彼女の眼は
この年頃のテス・ダアビフィールドは、まだ世間を知らない、ほんの感情の
彼女の顏つきには、子供の時の面影がまだ殘つてゐた。今日も、彼女が歩き廻つてゐるところを見ると、
際立つて美しい女らしさがあるにはあるが、時にはその頬に、十二歳の彼女が見え、
或は九歳の彼女がその眼から輝き出し、また時折は、その口の
しかし、これに氣のつく者は極く少なかつたし、こんなことに考へを
女馭者の指揮する凱旋車に乘つたダアバァヴィルは、もうすつかり姿もかくれ、聲も聞えなかつた。 そして、倶樂部の者が定つた場所へ入つてしまふと、愈々舞踏が始まつた。仲間には男が一人も加はつてゐなかつたから、 娘逹は初め女同志で踊つてゐたが、仕事の終る時刻になると村の男逹が他の遊び人や徒歩旅行者等と一緒に其處の周圍に集つて來て、 相手になる相談を持ちかけたがつてゐるやうだつた。
かういふ見物人の中に、小さい背嚢を、肩に革紐をかけて背負いひ、
手に太いステッキを持つた身分の高い青年が三人ゐた。お互ひに大體似てゐるし、 それに年齡が順位を追つてもゐて、兄弟ではないかしらと --
それは實際さうであつたのだが、 -- 思はれる位ゐだつた。一番年上の青年は、白い襟飾り、詰襟の
この三人の兄弟は、
三人は街道の傍にある門に
「どうするんだね、エンヂェル?」と上の兄が訊いた。
「これから、あの連中と踊つてみたくなつたんです。僕逹皆踊つたつていゝぢやありませんか? -- ちよつと一二分間です -- 長く引き止められるやうな事はないでせう。」
「駄目 -- 駄目、馬鹿だなあ!」と上の兄が言つた。「人中で大勢のお轉婆な田舍娘と踊るなんて -- 若し見られでもしたらどうする!さあお出で、でないと、ストアキャッスルへ着かないうちに、日が暮れてしまふよ。 それより近くには泊る處がないんだ。また寢る前に、『不可知論反駁』をもう一章片づけなきやならんよ。 わざ〜本を持つて來たんだからな。」
「分りました -- 五分と經たないうちに、兄さんとカスバアト兄さんに追ひつきます。 出掛けて下さい。屹度追ひつきます、フェリックス兄さん。」
二人の兄は、身輕に後を追ふことが出來るやうに弟の背嚢を持つて、不承不精に弟を殘して歩を進めた。 弟は草原へ入つて行つた。
「お氣の毒ですねえ、」と、彼は舞踏がちよつと休みになるのを待ち構へて、 一番身近にゐる二三人の娘に、やさしく言つた。「ねえ、相手の男逹は何處にゐるんです?」
「まだ仕事をしてゐるの、」と、中でも一番大膽な娘が答へた。 「でも、もうぢきに來るわ。それまで、附き合つてはどう?」
「いゝとも。けれどこんな大勢の中に、男一人ぢや仕樣がないね!」
「ゐないよりはましだわ。女同志で向ひ合つて踊るだけで、一寸も抱きついたり、抱き合つたりしなかつたら、 張り合ひがないわ。さあ、誰でもよりどりよ。」
「しつ -- そんなに出しや張るもんぢやないわよ!」と割合に内氣な娘が言つた。
青年はかう誘ひをかけられたので、ずつと皆を見渡して選ばうとしたけれども、 この連中は彼にとつて非常に珍らしかつたので、うまく見分けることが出來なかつた。 彼は最初に手をふれた者を、やうやく捕へたが、それは自分が選ばれるだらうと期待してゐた話手でもなく、 またテス・ダアビフィールドとふのでもなかつた。彼女の家の系圖も、祖先の遺骸も、碑文も、 實際生活上の競爭の於いてテスを助ける力もなく、有りふれた百姓逹以上に、 踊り相手うぃ惹きつけることさへ出來なかつた。ビィクトリア朝の金錢の助けを受けないノルマンの血を引いてゐる者は、 まづその位ゐのところだつた。
他の者を蹴落して得意になつてゐる娘の名は、何と言ふのか、それはつひぞ傳へられなかつたが、 彼女はその晩、第一番に男の踊り相手を得て身に餘る幸福を味つたといふので、 皆の者から羨ましがられないではゐなかつた。が、一人が手本を示したのに勢ひづいて、 その場に一人も闖入者の無い間は、急いで門に入らうとしなかつた村の若者共も、 今はさつさと入り込んで行き、間もなく舞踏の組全部に、田舍の若者氣分が漲つて、 遂に倶樂部一の不縹緻女さへも、男の踊手の役目をして踊らないで濟むまでになつた。
教會の時計が鳴つた。すると、急に學生は、出かけなくてはならないと言つた -- 彼は、我を忘れてゐたのだつた -- 仲間の者逹と、一緒にならなくてはならないのだ。 舞踏から脱けかけた時、彼はテス・ダアビフィールドを眼にした。 實を言へば、その娘の大きな眼は、何故私を選ばかなつたのと微かに責めるやうな表情を浮べてゐた。 彼も亦、テスが尻込みしてゐた爲めに、彼女を見つけないでしまつたことを、今更殘念に思つた。 彼は、そんなことを考へながら、牧場を立ち去つた。
永く手間取つてゐた爲めに、彼は飛ぶやうにして、西の方へと小徑を駈けた。 そして見る間に窪地を通り過ぎ、次の小山へ登つた。 彼はまだ兄逹には追ひつかなかつたが、一休みして息を入れ、後ろを振返つて見た。 彼も一緒に交つて皆がくる〜廻つてゐた時と同じやうに、 緑の圍ひ場には、娘逹の白い姿のくる〜廻つてゐるのが見えた。 彼のことなど、彼女等はもうまるつきり忘れてしまつてゐるやうだ。
だが皆の中で、たゞ一人だけは例外らしかつた。その白い姿は、 獨り離れて生垣の傍に立つてゐた。その位置から判斷して、それが、
彼と踊らなかつた綺麗な
けれども、もうどうすることも出來なかつたので、彼はぐるりと歩を向け
テス・ダアビフィールドの方はどうかといへば、さう易々とその出來事を自分の考へから逐ひ拂ひはしなかつた。 彼女は永い間、またと踊る元氣が出なかつた。無論相手は轉がる程あつたらうが、だが、どうだらう! それ等は先刻の見慣れぬ青年が話したやうな、氣の利いた口は利かなかつたのだ。陽の光が、 丘の上を去つて行く若い見知らぬ人の姿を吸ひ込んでしまつた時、 彼女は初めて一時の悲哀を振ひ落し、そして、彼女の所謂相手に、踊らうと答へるやうになつた。
仲間と一緒に、彼女は暗くなるまでゐた。そして、多少は面白さうに舞踏に加はつてゐた。 だが、まだ戀心を知らないから、彼女は全くたゞ調子を揃へて踊ることだけを愉快に感じて、 舞踏を樂しむのであつた。男から言ひ寄られ、そしてその手に落ちた娘逹の、 『柔かい苛責、苦い甘味、快い苦痛、心持よい悲嘆』を見た時も、さういふ場合に、自分だつたらどうするだらうか、 などゝは、夢にも考へなかつた。舞踏の時、彼女の相手にららうとして、青年逹がするいがみ合ひも、 口喧嘩も、彼女にとつては、一つの慰み -- たゞそれだけのものであつた。そして、 彼等がしつこくなつて來ると、彼女はそれを叱りつけた。
彼女はもつと遲くまでゐようと思へば、ゐられたかも知れない。が、父の妙な樣子や動作が心に浮んで心配になつて來たので、
踊り仲間から離れて、兩親の家のある村
まだ何十
私や見た
向うーの青いもーりに
寢ーてゐるあれーを
お出でよ、あなた!
そしたら其處を教へませう!
搖籃の搖れる音と歌とが、暫らく一齊に止んでは、次のやうなこの上ない癇高い叫び聲が、 歌の節に代るのであつた。
「神の祝福あれ、お前のやさしい眼に!お前の蝋のやうな頬ぺたに!櫻ん坊のやうなお前の口に!
キウピーのやうなお前の
この祈祷が終ると、搖籃搖りと歌唄ひとが再び始まり、前のやうに、『斑の牝牛』が續いた。 テスが扉を開け、中の靴拭ひの上に止つて室内の光景を見渡した時は、ざつとこんな樣子だつた。
調子のよい唄が聞えて來るにも拘はらず、室内の光景は娘の心を打つて、言ひ知れぬ侘しさを誘つた。 野原に於ける陽氣なお祭り騷ぎ -- 白い上衣、花束、柳の杖、草原の上の舞踏、見知らぬ人をはつとゆかしく思つた心持 -- から、今この一本の蝋燭に照らされた黄ばんだ憂鬱な光景を見るとは、何といふ變り方であらう! この對照から來る不愉快さの上に、自分は戸外で遊び耽つてなどゐないで、もつと早く歸つて、 母親の家事の手傳ひをしてやればよかつた、といふ冷たい自責の念が、彼女の胸に湧いて來た。
テスが出て行つた時のやうに、母親は子供逹に圍まれたまゝ、いつもの通り、
今も週の終りまで片付かないでゐた月曜の洗濯物の桶の上に身を屈めてゐた。 その桶から、つい前日 --
それはテスには胸に針を刺されるやうな思ひであつたが -- 不注意にも濕つた草の上で、裾の邊を青く染めた、現に羽織つてゐる白い上衣 --
母が自分の手を使つて絞り、
ダアビフィールドの女房は、いつもの通り、前にも言つたやうに、片方の足は末の子供を搖ぶる仕事で塞がつてゐたので、
他の足で體の釣合ひをとつて
ゴットン、ゴットン、と搖籃は搖れた。蝋燭の焔はひとりでにぱつと燃え上り、
ゆら〜と左右に搖らぎ出した。水が彼女の肘から滴り落ちた。歌は
この女の顏からは、何處やら生々したものが、まだ若い頃の美しさゝへ、まだほのかに輝いてゐて、 テスの持つてゐる獨特の美しさも、主に母から惠まれたものであらうと思はせた。だから、 彼女の顏は、昔の騎士の面影でもなければ、歴史的な傳統を持つたものでもなかつた。
「私が代つて
彼女の母は、こんなに長くテスが自分一人の手に家事を任せて置いたことに、 少しも氣を惡くしてゐなかつた。實際その爲めに母親は、いつだつてテスを叱ることはなかつた。 娘が手助けをしてくれないのを、大して氣に掛けることもなく、彼女一人の手で仕事が餘る時は、 たゞそれを知らず識らずのうちに延ばして、骨休めをするのであつた。 が、今晩は又いつになく、彼女は樂しい氣分にさへなつてゐた。母親の樣子には、娘に分らない、 夢見るやうな、放心してゐるやうな、また有頂天らしいところがあつた。
「まあ、よく歸つて來たね、」お終ひの歌の調べが口から出てしまふと、すぐに母は言つた。
「これからお父さんを迎へに行つて來たいがね。でも、それより大切な事があるのだよ。
どんな事か話して上げよう。わけを知つたら、お前もほんとに得意になるだらうよ!」
(ダアビフィールドの女房は、いつも土地の方言を話してゐた。
倫敦仕込みの女教師について小學校の六年級を
「私が出てから後のこと?」とテスは訊いた。
「さうだともね!」
「今日お
「それも皆その大騷ぎから起つたことなんだよ!私逹がこの地方で一番身分のよい人だつてことが分つたんだよ、 --
御先祖は、オリヴァ・グラムブル(オリヴァ・クロムウェルを出鱈目に言つたもの)の時代よりもつと昔の --
その大昔の蠻人共の時代までもとどいてゐる -- 石碑や、納骨堂や、紋章や、紋地や、
何や彼やがあるんだよ。
「そりや嬉しいわ。その爲めに何かいゝことがあるの、お母さん?」
「あるともさ!偉いことにならうつてんだよ。そのことが知れたら、屹度、早速私逹と同じ身分の人逹が、 銘々の馬車で此處へやつて來るに決つてゐるんだよ。お父さんがシャストンから歸つて來る途中で、 それを聞いたんだつて。で、あの人は、今まで私にずつと一部始終を話してゐたんだよ。」
「お父さんは何處にゐるの?」と突然テスは訊いた。
母は、返事を濁らして、見當違ひのことを話した -- 「あの人は、
今日シャストンの先生の處へ診て貰ひに行つたんだよ。肺病なんかぢやちつともないらしいよ。
先生の仰しやるや、心臟の周りへ
テスは吃驚したやうな顏色になつた。彼女の父親は、こんなに急に偉くなつたにも拘らず、 そんなに早く、永遠の雲の蔭のあの世へ行つてしまふかも知れないなんて!
「でも、お父さんは一體何處にお出でなの?」と彼女は訊ねた。
母親は、歎願するやうな顏付をした。「ねえお前、怒つちやいけないよ!可哀さうに --
お父さんは、牧師さんから今度のことを聞いていゝ身分になつたんで、すつかり
「まあ、元氣をつけるんですつて!」眼に涙を溜めながら、苛々してテスは言つた。 「まあ、元氣をつけるのに、酒場へ行くなんて!で、お父さんと同じに、 お母さんまでそれでいゝと思つてゐるんですね、お母さん!」
彼女の責める聲と苛々した氣分とは、部屋中に
「飛んでもない、」と、むか〜して母親は言つた。「いゝなんて思ひやしないよ。 迎へに行つて來る間、お前に留守番をして貰はうと待つてゐたんだよ。」
「私が行つて來ませう。」
「いゝえ駄目。テス、お前が行つたつて無駄だらうよ。」
テスは逆らはなかつた。母親がどんな譯で反對するのか彼女には分つてゐた。
ダアビフィールドの女房は、自分で行きたいと考へてゐたこの樂しい迎ひに何時でも行けるやうに、
その
「それから、この『占星大全』を納屋へ持つてつといておくれよ。」と、女房は急いで手を拭き、 着物を着ながら續けて言つた。
『占星大全』は、古い厚ぼつたい本で、彼女の手近のテーブルの上に載つてゐた。
ポケットへ入れ〜するので、上下の
不甲斐ない亭主を迎へに酒屋へ行くことは、子供を育てて行く
幼い者逹と共に取り殘されたテスは、先づ星占ひの本を納屋へ持つて行き、茅屋根の中へしまつた。 この汚れた本は、母の迷信的な恐怖から、一晩中それを家に置くことはならなかつたので、見た後では、 いつも納屋へ持ち歸された。迷信とか、傳説とか、方言とか、又口傳への民謠とか、 どん〜滅びて行く下らないものを身につけた母親と、何度となく改正された法令の下に、 立派な國民教育を受け、標準的な智識を備へた娘との間には、よく言はれるやうに、 二百年の相違があつた。二人が一緒にゐる時は、ジェームズ王の時代と、ヴィクトリア女王の時代とを並べた形であつた。
テスは庭の小徑づたひに歸りながら、今日に限つて、母はあの本で何を確かめたかつたのであらうかと考へて見た。
彼女は、
この子供逹はみんな、謂はゞダアビフィールドといふ船の船客であつた -- 快樂も、必需品も、健康も、生存さへも彼等はすつかり二人のダアビフィールドの考へ通りに任してゐた。 若しダアビフィールド夫婦が、困難や不幸や、饑餓や病氣や墮落や死の方に向つて航路を取るならば、 甲板の下にゐるこの六人の小さな捕虜共もまた、止むを得ず彼等と一緒にそこへ航海しなければならなかつた -- どうする事も出來ない六人の子供逹は、如何なる條件の下でも尚ほ生きたいかどうかなどゝ決して尋ねられた事もなく、 まして、立ち行き兼ねるダアビフィールドの家に生れた以上、どんなにしても遁れられないやうな酷い境遇でも、 尚ほ生きたいかどうかなどゝはつひ尋ねられた事がなかつた。その歌の朗らかで純眞なやうに、 近頃ではその人生觀も深遠で、信頼するに足ると思はれてゐるあの詩人(ウォーズウァースのこと)が、 『自然の神聖な計畫』なぞを兎や角言ふ權利を、一體何處から得たのか、それを知りたいと思ふ人もあるだらう。
夜は次第に更けて行つた。父も母もまだ顏を見せなかつた。テスは外を眺めて、マアロットの村を一わたり心の中で歩いて見た。
村は今、その眼を閉ぢるところであつた。到るところ、蝋燭やラムプが消されてゐた。
彼女は、
母が迎へに出るのは、たゞ、迎へられるものがもう一人殖えるといふ事にしかならなかつた。 テスは、午前の一時前に發つ積りの、健康のあまりすぐれない者が、こんな遲い時刻に、 酒屋なんぞで自分の祖先を祝つてゐるべきでない事に氣がつき出した。
「アブラハム、」と彼女は弟に言つた。「お前帽子をかぶつて -- 怖くはないだらう? -- ロリヴァまで行つてね、お父さんとお母さんがどうしてゐるか見て來ておくれよ。」
子供はすぐさま席から跳び上つて、扉を開けた。夜はすつかり彼を呑み込んでしまつた。 そして、更に半時間は過ぎた。が夫も、妻も、子供も歸らなかつた。兩親と同じやうに、 アブラハムもまた、あの誘惑的な酒場におびき寄せられて捕まつたのであらう。
「自分で行かなくては駄目だ、」と、彼女は言つた。
リザ・ルューは、その時寢床についたのであつた。そこでテスは皆を閉め込んでおいて、 急ぎ足には適しない、暗い曲つた小徑を、つまり裏通りを歩き出した。この通りは、 僅かな地所にはまだ價格が生じなかつたやうな頃、又、 一本しか針のない時計で時間を計つて十分に間に合つてゐた頃に設けられたものだつた。
長い人家の途切れ勝ち村の、
旅の者はこんな具合だつたが、同じやうに殘念がる土地のお客もあつた。そして、慾するところには、 道自ら通ずである。
二階の廣い寢室 -- その窓には、この家の主婦ロリヴァの女房が、 近頃掛け古して捨てた大きな肩掛が厚い窓掛けになつてゐた --
に、何れも飮酒の福祉を求めてゐる十二人ばかりの者が、 今晩も集まつてゐた。みんなマアロットのこの
部屋には殺風景な四本柱の寢臺が備へてあつて、その三方に集まつてゐる五六人の者に坐り場所を提供してゐた。
他の二人の男は箪笥の上に上つてゐ、もう一人は樫板で出來た彫刻のある『貴重箱』の上に
ダアビフィールドの女房は、テスと別れてから急いで
「 -- 倶樂部の運動會を續ける爲めに、私の費用でお通し申した近しい二三の方々の集りでございまして。」と、 足音を聞きつけると女主人は階段の方を覗き込みながら、教理問答を繰り返す子供のやうに、 べら〜と口走つた。「まあお前さんかね。ダアビフィールドのお上さん -- まあ -- いやに驚かすのね! -- 私はまた、何かおかみから見えた取締りのお方ぢやないかと思つたのよ。」
ダアビフィールドの女房は、この祕密室にゐる他の人々の目禮や
「それに就いて私の思ひついた事なんだが、お前さんに話したい事があるんだよ -- 素晴らしい考へだわ!」 と、快濶な女房が囁いた。「ねえお前さん、私が分らないのかい?」彼女は夫を輕く肘で突いた。 すると夫は、窓硝子でも覗くやうに、彼女を眺めながら、例の如く吟誦を續けた。
「しッ!若しあんた、そんな大きな聲で歌はないで下さいよ。」と
「私逹の今度の事を、
「えゝ -- 一寸。それでお前さん少しでもお金が儲かると思つてゐなさるの?」
「あゝそこが内證なんでね。」と、ダアビフィールドの女房は分別あり氣に返事をした。 「が、お抱への馬車に乘らないまでも、それに縁故があるだけでもいゝわ。」 彼女は皆に聞えるやうに言つてゐた聲を落して、夫に向ひ、低い調子で續けた -- 「お前さんからあの話を聞いてからつてもの、始終考へてゐたんだよ。チェイズの森の端のトラントリッヂの方に、 ダアバァヴィルつて大金持の御婦人がゐるつてことをさ。」
「へえ -- それがどうしたんでえ?」と、ジョン閣下は言つた。
彼女はその話を繰り返した。「その御婦人は
「さう言はれて見りや、成程、さういふ名前の御婦人がゐらあ。」と、ダアビフィールドが言つた。 「トリンガム牧師は、それは思ひつかなかつたんだ。が、その御婦人だつて、俺等と並んで見りや何でもねえ -- 確かに、ノルマン王時代から、長く榮えてゐる俺等が分家に違えねえ。」
この問題が論じられてゐるうち、その方へ餘り氣をとられてゐたので、小さなアブラハムはいつの間にか部屋に入り込み、 歸つてくれと二人を促す機會を待つてゐたことに、夫婦とも氣がつかなかつた。
その御婦人は金持だから、屹度娘の世話をしてくれるに違ひないよ、」 とダアビフィールドの女房は續けた。「さうなつたら、大へん結構な事ぢやないかね。 一つの家から出た分家同志でゐて、お互ひに往き來しないなんて法はないからね。」
「さうだよ、俺等はみんなで親類だつて言はう!」寢臺の下からアブラハムは快濶に言つた。
「そいで、テスがその奧さんの家にゐるやうになつたら、みんなで行つて、その
「どうして此處へ來たんだい、お前?何を馬鹿いふんだね!あつちへ行つて、私等が出掛けるまで梯子段で遊んでおゐでな!
……ところで、テスはどうしてもこの分家へやらなくちやいけないよ。あれなら、 屹度御婦人の氣に入るわ --
テスなら屹度。そしたら、大抵、誰か立派な紳士が
「どうしてだい?」
「『占星大全』で
「向うへ行くつてことを、あの
「まだ訊かないがね。
「テスは、變な
「でも、心の底はおとなしいよ。
二人の會話は、こつそり交されてゐたのだが、その意味は
「テスは可愛い面白い
會話は廣くいろ〜なことに及んで行つた。やがて、階下の部屋を横切る他の
「 -- 倶樂部の運動會を續ける爲めに、私の費用でお通し申した近しい二三の方々の集りでございまして。」 主婦は闖入者に對して常に用意してある紋切型の文句をまた使つたが、その後で、 やつと新來者がテスであることを知つた。
皺の寄つた初老の者には、交際の仲立ちとして決して不適當でない此處に漂つてゐる
テスの黒い眼から、まだ叱責の閃きの出ないうちに、父と母とは席から起ち上り、急いでビールを飮み干し、
彼女の後に
「どうぞ、音を立てないで下さい、後生ですから皆さん。でないと、免許を取り上げられたり、 呼び出しを喰つたり、その他どんな事になるか分りませんから!ではおやすみ!」
テスが父の片腕を持てば、女房はもう一方の腕を支へるといつた具合で、彼等は一緒に歸つて行つた。
實際を言へば、彼は、ほんの少しゝか飮んではゐなかつた -- その分量は、常習の飮酒家なら、
その足の運びにも跪いて禮拜するのにも少しも差支へない、日曜の午後に、
教會へ平氣で飮んで行ける分量の四分の一にも足りなかつた。だがジョン閣下は、體質が弱いので、
このやうな些細な罪を山程も犯してしまつた。新鮮な空氣のところへ來ると、彼はすつかりひよろ〜になつて、
今倫敦の方へ向つて進んでゐるかと思ふと、次にはバスの方へ向つて進み、その度に三人の列を
「キングスビアの一族の廟所を手に入れた!」
「しッ -- そんな馬鹿はお止しよ、お前さん。」と彼の女房は言つた。 「何も、お前さんだけの家に限つて昔偉かつたんぢやあるまいし。アンクテル家や、ホーシイ家や、 それにトリンガム家だつて見て御覽 -- 大抵お前さんぐらゐに落ちぶれてしまつてさ -- なるほど、その人逹よりやお前さんの方が偉かつたには違ひなからうがね。有難いことに、 私なんかはいゝ家柄に生れたんぢやないから、何もそんな風に恥かしい事なんかありやしない!」
「それはどうだかな、生れつきからいやァ、
テスは先祖などゝいふ考へよりも、現に胸の中でもつとはつきり考へてゐることを言ひ出して、 話題を轉じた --
「お父さんは、明日そんなに早く蜜蜂の巣箱を持つて
「わしか?わしは一二時間も經つたら、あたり前になるよ。」とダアビフィールドは言つた。
家族の者が皆床に就いたのは十一時であつた。そして土曜日の市の始まる前に、 キャスタブリッヂの問屋へ蜜蜂の巣箱を渡さうといふならば
-- そつちへ行く道は二十哩から三十哩の距離の惡い道で、
馬も馬車も遲いことこの上なしだから、遲くも
「可哀さうにあの人は行けないんだよ。」と女房は總領娘に言つた。その娘の大きな眼は、 母の手が觸れた刹那にもう開いたのであつた。
テスは夢とこの知らせとの境に、我を忘れたやうにして、寢臺の上に起き上つた。
「でも、誰かゞ行かなくてはね、」と彼女は答へた。「もう巣の季節には遲いんだし、 今年はもうぢき巣立ちも濟んでしまふし、もし來週の市まで持つて行くのを延ばせば、 もう要らないつて斷られて、持てあますことになるわね。」
ダアビフィールドの女房は、この急場の處置にはちよつと困つたやうな樣子をした。 「誰か若い者が行つてはくれまいかね?昨日お前と大へん踊りたがつてゐたうちの誰かでも。」 と、女房はやがて仄めかした。
「飛んでもない -- どんな事があつたつてそんな事して貰ひたくないわ!」とテスは昂然として言つた。
「さうして、皆にその
母親は到頭この考へに同意した。小さなアブラハムは、同じ部屋の隅で、 熟睡から起されて心はまだ夢の世界にゐながら着物を着せられた。その間に、テスは急いで身支度をしてしまつた。 二人は提燈を點けて、廏の方へ出て行つた。今にも壞れさうな小さな荷車には、もう荷が積まれてゐた。 そこで娘は、その荷車とあまり變らないよた〜なプリンスといふ馬を引き出した。
可哀さうにその生物は、まるで生ある者はみんな屋根の下に
二人は、厚い褐色の茅葺の下に、默つてうと〜と眠つてゐるストアキャッスルの小さな町を通り過ぎてしまつて、 やゝ高い處へ逹した。左手には、更に高い、 殆んど南ウェセックスでは一番高いかも知れないバルバロオまたはビイルバロオと呼ばれる高地が、 壕に取り卷かれて天空に聳えてゐた。この邊から長い道は、少しの間、可なり平らになつてゐた。 二人は、荷馬車の前の方に乘つた。そしてアブラハムは、むつちり考へ込むやうになつた。
「テス!」彼は暫らく默つてゐた後で、話の前置きといつた調子で言つた。
「なあに、アブラハム。」
「
「大して嬉しくもないわ。」
「でも、姉さんは紳士と結婚するやうになつて嬉しいだらう?」
「何なの?」とテスは
「
「私が?
「俺ァお父んを見つけに行つた時、お父さんとお母さんがロリヴァで話し合つてるのを聽いたんだよ。
トラントリッヂの方に、
姉は急に靜かになり、考へ深い沈默に沈んだ。アブラハムは、人の言ふことを聽くよりは話すことが愉快なので、
喋り續けた。だから、姉が上の空であることなどは問題でなかつた。
彼は巣箱に
今また新しく持ち出された、もう一家中に浸み込んでゐるらしいこの話題は、すつかりテスを苛々させた。
「そんなこと、今、どうだつていゝぢやないの!」と彼女は叫んだ。
「星も一つの世界だと言つたね、テス?」
「えゝ。」
「
「分らないわ。でも、さうだらうとは思ふわ。どうかすると林檎の木に
「それで、
「蟲のついた方よ。」
「運惡く、
「さうよ。」
「本當にそんなものかい、テス?」アブラハムはこの珍らしい話を又考へなほして、ひどく感心し、
姉の方を向いて言つた。「俺逹は無疵の方を
「さうね、お父さんもあんなに咳をしてふら〜してゐる事はあるまいし、 醉つぱらひすぎてこの旅に出られない事もなかつたらうし、それにお母さんだつて、 いつも洗濯ばかつりしてゐて、どうしても切りがつかないなんて事もなかつたらうよ。」
「それで、姉さんも生れながら金持の御婦人だつたらうなあ。紳士と結婚して、金持になるにも及ばなかつたらうなあ?」
「あらお前、止しておくれ -- もうそんな事をいふのは止しておくれ!」
アブラハムは、自分一人で考へ込むまゝに放つて置かれたので、
直きに眠氣がさして來た。テスは、馬を馭すことは上手ではなかつたが、差し當り、
この荷馬車の指揮を自分一人に引き受けて、アブラハムが眠りたいといふのなら、
プリンスは、どんなことにしろ餘計な運動をするだけの元氣がなかつたから、
殆んど注意する必要もなかつた。もう氣を散らされる相手もないので、 テスは巣箱に
それから彼女は、自分のこれまでの生活に起つた出來事の網目を考へて見ると、
父の誇りとしてゐた事が空虚であるやうに思へた。母親が空想してゐる、
自分を待つてゐるらしい紳士の求婚者が見えるやうに思つた。その求婚者が、自分の貧窮を、
自分の雲にかくれてゐる家柄や身分を
彼女が意識を失つた時から見ると、もう大分先へ進み、そして荷車は止つてゐた。
彼女がこれまでに聞いたことのないやうな
荷車に懸けてあつた提燈は既に消えてゐたが、別なのが彼女の顏を照してゐた --
彼女のに比べると、ずつと明るかつた。何か大事件が起つたのだ。馬具は、何か道を
テスは
テスは絶望に餘り前へ跳び出して、片手を
この時にはもう、郵便馬車の馭者は彼女と一緒になつて、プリンスの温かい體を引きずつて、馬具を解き始めた。 だが、馬はもう死んでゐた。差し當つてこれ以上どうすることも出來ないのを知つて、 馭者は怪我しなかつた自分の馬の方へ戻つて行つた。
「お前さんが間違つた側を來たんだ。」と彼は言つた。「わしや、郵便
彼は馬に乘り、さつさと進んで行つた。一方テスは、立つて待つてゐた。大氣は青白くなり、
小鳥は生垣の中で身を搖り動かし、起きて、
「みんな私のした事だ -- みんな私の!」娘はつく〜゛その場の光景を見ながら叫んだ。 「何の言ひ譯もないわ -- ほんとにないわ。お父さんやお母さんは、これから何で食べて行くだらう? お前、お前!」彼女は、この不祥事の起つてゐた間をずつと、ぐつすり眠つてゐた子供を搖り起した。 「もう荷をもつて行く事も出來ないよ。 -- プリンスが死んでしまつた!」
アブラハムがすつかりその場のことを悟つた時に、彼の若々しい顏には、五十歳の人のやうな皺が刻まれた。
「まあ、たつた昨日のことだつた、私が踊つたり笑つたりしたのは!」彼女は獨り自分に言ひ續けた。 「そんなに馬鹿だつたんだと思ふと!」
「これも、俺等が蟲のついた星に住んでゐて、無疵の星にゐないからだよ。 ねえテス、さうだらう?」アブラハムは涙ながらに呟いた。
二人は默つて、限りが無いと思はれるほど永い間待つてゐた。やがて何かの音がして、
近づいて來るものがあつたので、郵便馬車の馭者が約束を堅く守つてくれたことが分つた。
ストアキャッスルの近傍から、或る百姓の下男が丈夫な
その同じ日の夕暮には、
テスは、それよりも早く歸つてゐた。どういふ風にしてその話をしたらいゝか、それは、 彼女の思案にあまることであつた。兩親の顏を見ると、二人はもうその不幸を知つてゐるといふことが分つたので、 自分の不注意を、絶えずいやが上にも責めることに變りは無かつたが、彼女は言ひ難い事も言はずに濟み、大助かりであつた。
しかし、この一家の者は無精なので、丹精な一家に生じた時ほどこの災難は手ひどくこたへなかつた。 尤もこの一家の場合は直ちにこれが家の破滅であり、他の家の場合なら單に不便を感ずるに過ぎないことであるが。 ダアビフィールド夫婦の顏には、彼等よりももつと娘の幸福を願つてゐる兩親だつたら、 娘に對して爆發さすであらうやうな、眞劍な激怒が少しもなかつた。 彼女が自分自身を責めてゐるほどに、テスを責める者は一人もなかつた。
プリンスは老衰してゐたので、その
「いや。」と彼は落着き拂つて言つた。「わしやあの年寄り馬の體は賣らねえ、わし逹ダアバァヴィル家の者が、
この國で騎士だつた時ァ、猫に食はせるつて、軍馬を賣りやしなかつた。高が二三
その翌日、彼はプリンスの爲めに庭に墓を掘るのに、 幾月もの間家族の爲めに作物を造るとて稼いだよりももつと精出して働いた。
穴が出來上つた時、ダアビフィールドと彼の女房は、馬の體の周圍に繩を結へて、小徑を墓穴の方へと引いて行つた。
その後から、子供逹は葬式の列を作つて
「あの馬は天へ昇つたんだらうか?」啜り泣きをしながらアブラハムが訊いた。
その時ダアビフィールドは土をかけはじめ、子供等は、また泣き出した。
が、テスだけは默つてゐた。彼女の顏は、自分が逆殺者であると思つてゞもゐるかのやうに、
涙も出さず、
專ら馬を頼りとしてゐた行商は、忽ち手筈が狂つてしまつた。たとひ貧窮とは言はないまでも、 困苦の影が遠くの方に現はれて來た。ダアビフィールドは、この地方で言ふのらくら者で、 時々は相當に働く氣力を見せるのであつたが、その働くときと手の要るときとが、 うまく一緒になるのを當てにする譯には行かなかつた。その上、 彼は日稼人のやうに時を限つてする仕事には馴れてゐなかつたので、 その手の要るときに働くにしても、別に身を入れてやるでもなかつた。
一方テスは、兩親をこの窮地に陷れた當人だけに、どうしたら其處から彼等を救ひ出すことが出來ようかと、 一人默つて考へてゐた。すると母親は、自分の計畫を打ち明けた。
「惡いこともあれば、善いこともあるつてことを考へなくちやいけないよ、テス、」と母は言つた。
「それで、お前の立派な血筋も、お誂へ向きの時に分つたといふものだね。
是非お前の親類の人逹に當つて見なくちやならないよ。お前知つてるかい、
チェイズの森の裾に住んでゐる大へんな金持のダアバァヴィル夫人がゐることを?
その方はきつと
「私、そんな事しなくないわ。」と、テスは言ふ。「さういふ奧さんがゐらつしやるなら、 唯その方から親しくしていただけたら、それで結構でせう -- お助けなど望まないで。」
「お前だつたら、屹度、何でもしていたゞくやうにその方に取り入ることが出來ると思ふんだがね、お前。 それに、其處にはお前の知らないことだつてあるだらう。私や聞いたことがあるんだがね、お前。」
自分の仕出來した損害のことがひどく氣にかゝつてゐたので、テスは何時になく、
母の
「私、いつそのこと仕事でも見つけるやうにした方がましだわ。」と彼女は呟いた。
「ダアビフィールド、これやお前さんでなくちや納まらないよ。」と女房は、
後に腰掛けてゐた夫の方を向いて言つた。「お前さんが是非行けと言つたら、この
「わしァ、自分の子が見ず知らずの身内の處へ行つて、世話になることァ好ましくねえ。」と彼は呟いた。 「わしァ、一族のうちでも一番貴い家の主人なんだから、それに相當した振舞ひをして行くのが當り前だ。」
テスにとつては、行かないでもいゝといふ父の考へは、行けと言はれて反對するよりも、猶更つらい氣持がした。
「ね、お母さん、私が馬を殺したんですから、」と、彼女は悲しげに言つた。
「私、何かしなくちやならないとは思つてるの。ですから、行つてその方にお目にかゝるのは何でもないんですが、
「よく言つた、テス!」と父親は科白もどきで言つた。
「私がそんなことを考へてるつて、誰が喋つたんだい?」と女房は訊いた。
「お母さんがさう考へてゐやしないかと、たゞ私が想像しただけのことよ。でも、私行きますわ。」
彼女は翌朝早く起きて、シャストンといふ丘の町まで歩き、 其處で一週に二囘シャストンから東にあたるチェイズバラーへ通ふ貨物馬車を利用した。 この馬車は、その途中、曖昧な謎のやうなダアバァヴィル夫人の住んでゐるトラントリッヂといふ村の近くを通るのであつた。
この忘れられぬ朝、テス・ダアビフィールドの通つた道は、彼女が生れ、 それから生活を送つて來た盆地の起伏の中に横はつてゐた。ブラックムーアの盆地は、彼女にとつて一つの世界であり、 そこの住民は、その世界の種族であつた。彼女は何でも物珍らしく思はれる子供の時代に、 マアロットの畑の入口の門の踏段から、村全體を見下ろしたことがある。そして、その時神祕だつたものは、 今も猶ほその時に劣らず神祕であつた。彼女は毎日寢室の窓から、塔や、村落や、微かに白く見える屋敷や、 わけても堂々と高い丘の上に立つてゐるシャストンの町や、夕陽を受けてラムプのやうに輝くその町の窓々やを見たのだつた。 彼女が仔細に見て知つてゐるところは、盆地やその近隣のうちでさへほんの僅かな部分にすぎなかつたので、 その町へも、殆んど行つた事はなかつた。まして、遠く盆地の外へなど出掛けたことはなかつた。 四邊の丘陵の輪廓は、どれもこれも親類の者の顏か何かのやうに、彼女には親しかつた。 けれども、その先に何があるかといふ事になると、彼女の判斷は、今から一二年前、 主席で卒業した村の學校の教へに頼るより外はなかつた。
彼女は幼い頃、同年輩の女友逹から大へん愛されてゐて、並んで學校から歸つて來る三人友逹 -- 殆んどみんな同じ年頃の --
のうちの一人として、村のあちこちに、いつも見られるのであつた。 眞中にゐるテス --
もう原色を失つて、名もつけやうのない第三期の色に變つてゐる毛織の上衣の上に、 美しい碁盤縞の、
テスはだん〜大きくなり一家の樣子が分つてくるにつれ、養育して行くのも一通りの苦勞ではないのに、
母が何の考へも無くどん〜小さな妹や弟逹を
だが兎に角、テスは小さな子供たちには、心から親切を盡すやうになつた。そして出來るだけ彼等の力になるやうに、
學校を卒業するなりすぐ近所の農家で枯草作りや刈り入れの手傳ひをするやうになつた。
また好んで乳搾りや
日が經つにつれて、家庭の重荷は、ます〜
彼女は、トラントリッヂ・クロスで馬車を降りて、チェイズといふ名で通つてゐる地方を指して徒歩で小山を登つて行つた。 彼女が言ひ聞かされて來たところに依ると、その境の邊にダアバァヴィル夫人の屋敷のスロープ邸がある筈だつた。 それは、畑や、牧場や、また持主から、 持主自身やその一族の利益の爲めに理が非でも收入を絞り取られずにはゐない不平だら〜の百姓のついてゐる、 普通の意味でいふ莊園風の屋敷ではなかつた。それ以上、遙かにそれ以上であつた。 つまり、全く享樂本位に建てられた田舍の屋敷で、住宅の目的の爲めに必要な土地と、持主に直屬すてゐて、 管理人が面倒を見る僅かな道樂半分の爲めの畑に必要な土地以外には、一エイカアの厄介な土地も附いてはゐなかつた。
軒のところまでもこんもりした
このきちんとした屋敷にあるものは、何も彼も華やかで生々として、よく整つてゐた。
幾エイカアもある温室が、傾斜した土地に從つて麓の雜木林まで伸びてゐた。あらゆるものが、 まるでお金のやうに見えた --
造幣局から鑄造されたばかりの貨幣のやうに -- 。 廏は墺地利松
[注:墺太利松の誤りか?]と常盤木の
單純なテス・ダアビフィールドは半ば驚いた樣子で、砂利を敷いた地面の端に呆氣に取られて立つてゐた。 彼女の脚は、自分が今何處にゐるのかさつぱり分らないうちに、彼女の體をこゝまで運んで來てしまつたのだつた。 そして今は、すべてのものが、彼女の豫期に反してゐた。
「私逹は、舊い一族だと思つてゐたのに、この家はすつかり新しいんだわ!」と彼女は無雜作に言つた。
『親類の名乘りをする』といふ母親の計畫にすぐ應じなどしないで、
もつと
こゝをすつかり所有してゐたダアバァヴィル -- 又は家の者が初めに自稱してゐたところによれば、 ストーク・ダアバァヴィル --
は、この國のかういふ古風な地方では、多少珍しい一家であつた。
ところで、よた〜の我がジョン・ダアビフィールドこそ、この州、又はその近くに存在するダアバァヴィル舊家の、
眞に唯一の直系の代表者であると牧師トリンガムが言つたのは、如何にも事實を語つてゐた。 が牧師は、ストーク・ダアバァヴィル家は、
自分が赤の他人であると同樣に本當のダアバァヴィル一族のものではないといふ事をよく知つてゐたのだから、
それを言ひ添へてくれてもよかつたのだ。しかも、この一家は、
慘めにもかういふ改名を必要とするやうな一族の名前を
この頃亡くなつたシモン・ストークス老人は、北部地方の實直な商人で(金貸しだと言ふ者もあつた)、 財産をつくり上げてしまふと、自分の商賣區域とは全くかけ離れた南部地方へ來て、 地方の名家となつて定住しようと決めた。そして、それを實行するに當つて、彼は、 自分が嘗ては拔目のない商人だつたといふ事を容易に見拔かれないやうな、 また元の味のないぶつきら棒な名前よりももつと趣きのある名前に改めて出直す必要を感じた。 彼は一時間かゝつて、大英博物館で、これから住まうと考へてゐた英吉利のその方面に屬する、 全く消滅したり、半ば消滅したり、不明になつたり、落魄したりした家々の研究にさゝげた著作の頁を繰りながら、 ダアバァヴィルこそその何れにも劣らずよく見え、またよく響きやうに考へた -- かうして彼は、自分とその相續者の爲めに、元から持つてゐた名前の上へ、永遠にダアバァヴィルといふ名前を加へたのである。 しかも、こんな事をしたからといつて、彼は別に突飛な人ではなかつた。 新しい基礎の上に彼の一家の系圖を造るに當つては、相當に智慧を働かして、 自分の一家と他の身分のある家柄とを結婚で結んだり又は貴族の親戚を作つたりする位ゐのことは試みたが、 とても釣合はないやうな爵位は一つもさしはさまうとはしなかつた。
このやうにして作られた家名であるといふ事は、可哀さうにテスもその兩親も、全く知らなかつた。 その爲めに、彼等がどんなに當惑した事であらう。實際、こんな風に家名を結び合はすことが出來るなんて、 彼等は知らなかつた。彼等は、顏の美しいのは幸運の賜物であらうが、一家の名前は自然に出來るものと想像してゐた。
テスは、退くかやり通すか決し兼ねて、恰も將に跳び込まうとする水浴者のやうに、
彼は殆んど黒ずんだ顏色をし、赤く滑らかではあるが恰好のよくない厚い唇の上には、 よく手入れの行き屆いた。先のぴんと跳ねた黒い口髭が生えてゐた。 だが、年齡はどう見ても二十三四以上には見えなかつた。彼の外形には、野蠻な氣味があるにはあつたが、 紳士としての顏と、大膽なぎよろつとした眼には、不思議な力があつた。
「えゝッと、別嬪さん、何か御用ですかね?」彼はこちらへやつて氣ながら訊ねた。 そして、彼女がすつかり當惑して立つてゐるのを認めると、かう言つた -- 「僕に遠慮なんぞしないがいゝよ。 僕はダアバァヴィルだよ。僕に面會かね、それとも母に?」
ダアバァヴィル一族の一人、又はそれと同名者の化身であるこの人は、この屋敷よりもなほ一層テスの豫想に反してゐた。 彼女の一族と英國史の幾世紀とを形象文字であらはしてゐる、 具體的な思ひ出の數々で刻まれたダアバァヴィル家一族悉くの容貌の精ともいはれる年老いた、 高貴な顏を、彼女は夢想してゐたのであつた。だが今更彼女は、差し當つての用事から逃げる譯にも行かなかつたので、 それを果さうと意氣込んでかう答へた --
「あなたのお母さんに、お會ひするつもりで參りました。」
「どうも、母には會へないと思ふんだがね -- 母は病人でね、」と、贋屋敷の當主は答へた。 といふのは、これがこの頃亡くなつた先代の一人息子のアレクであつたのだ。 「僕ぢや間に合はないかね?母に會ひたいつていふのは、どんな用かね?」
「用事ぢやありません -- あの -- 私、どう言つていゝか分りません。」
「ぢや遊びに?」
「いゝえ。でも、申し上げたら、そりやほんとに -- 」
テスには自分の使ひが滑稽じみてゐるといふ感じが、今非常に強くなつて來たので、 相手の男の恐いことや此處にゐることが何とはなしに不安ではあつたが、 それでも薔薇色の唇は自づと歪んで、微笑みかけた。それがまた、 色黒のアレキザンダアの心をたまらなく惹きつけた。
「ほんとに、馬鹿げた事でございます、」と彼女は口籠つた。「申し上げられないやうなんです!」
「
「母が參れと申しましたんです。」とテスは續けた。「それに本當を申しますと、 自分でもさうする氣になつてたんです。でも私、こんなだとは思つてゐませんでした。 私が參りましたのは、私共はあなた方と同じ一族の者だつていふことをお知らせする爲めなんです。」
「ほう!貧乏な親類かね?」
「えゝ。」
「ストークスの一族かね?」
「いゝえ、ダアバァヴィルなんです。」
「さう、さう、ダアバァヴィルつてんだよ。」
「私共の名前は、ダアビフィールドに變つて來てゐますけど、ダアバァヴィルだといふ證據がいろ〜あるんです。
考古學者とやらもさうだと言つてをります -- それから -- それから
「銀のお城は確かに
「それで、母はあなた方とお近づきになつて置かなくちやいけないつて言つてゐるんです --
飛んだ過ちで馬は失くしてしまふし、それに
「お前さんのお母さんは、大へんに親切な方だ、實際。僕としては、
別にその處置が惡いとは思はんね。」さう言つてアレクは、ちよつとテスの顏を赧らめさせるほど、 彼女をぢつと
「それぢや、ねえ娘さん、お前さんは親類として親しく僕等を訪ねてくれたんだね?」
「まあそんなわけですの、」テスはまた不快な樣子を浮べながら、言ひ淀んだ。
「さうかね -- そりや格別差支へもないよ。住ひは何處だね?商賣は?」
彼女は委細を手短かに話した。それから、その上の質問に應じて、乘せて來て貰つた同じ運送屋に、 また連れ歸つて貰ふ積りだと話した。
「運送屋が歸りがけにトラントリッヂ・クロスを通るまでは、まだ隨分時間があるよ。
それまでこの屋敷を歩いて見ようぢやないか、ねえ、
テスは出來るだけ早くその訪問を切り上げたかつたが、青年が強ひてすゝめたので一緒に歩くことを承知した。 彼は、芝生や花壇や草花の温室のあたりを案内したり、 それから果物畑や野菜や果物の温室の方へも行つて莓が好きかと訊ねたりした。
「えゝ、」とテスは言つた。「それが出ます頃には。」
「此處ぢやもう出てるんだよ。」ダアバァヴィルは、彼女の爲めにその見本を摘みはじめ、 屈んだまゝ彼女に手渡した。やがて『大英國女王』種の特に見事な出來のを選んで、立ち上り、 莖をつまんで彼女の口元へ持つて行つた。
「いけません -- いけません!」彼女は、彼の手と自分の唇との間に指を差し入れながら、急いで言つた。 「私、自分の手で頂いた方がいゝんです。」
「馬鹿な!」と言つて彼はきかなかつた。で、ちよつと困つたが、彼女は唇を開けてそれを受け入れた。
二人は、かうしてぶら〜と歩き廻つて、暫く時間を費やした。テスは半ば嬉しさうに、半ば厭らしいと言つた樣子で、
ダアバァヴィルのくれるものは何でも食べた。もうどうしても莓が食べられないやうになると、
彼は小さい彼女の手籠にそれを一杯詰めてやつた。それから二人は、薔薇の木の方へ廻り、
彼は花を摘んで、胸へ插せと言つて彼女に與へた。彼女はまるで夢でも見てゐる人のやうに、
たゞ言はれる儘になつた。そして、もう胸へは附けやうもなくなると、彼は自分で蕾を一つ二つ彼女の帽子に插し、
また大へん氣前よく、山のやうに籠を他の蕾で一杯にしてやつた。やがて、彼は時計を見ながら言つた。
「ところで、シャストンへ行く貨物馬車に間に合はせようつていふなら、これから何か食べてゐると、
丁度出掛けるに好い時刻になるよ。
ストークス・ダアバァヴィルは芝生へ彼女を連れ戻つて
「煙草を喫んでもかまはんかね?」と、彼は訊ねた。
「えゝ、ちつとも。」
彼は
彼女は、すぐに晝飯をしました。「私、もう家へ歸らうと思ひます、」と、彼女は立ちながら言つた。
「お前さんの名は、何ていふの?」車道を彼女と連れ立つて通り、 家が見えなくなるまで歩んで來た時、彼は訊ねた。
「テス・ダアビフィールドなの、マアロット村の。」
「そして、お前さんの家ぢや馬を失したと言つたね?」
「私が -- 殺したの!」と彼女は答へたが、プリンスの死を詳しく語つた時には、 眼に涙が一ぱい溜つてゐた。「で、私その爲めに、お父さんに對してどうしたらいゝか分りませんの!」
「僕が何かして上げられるかどうか考へよう。母に、是非お前さんの爲めに仕事を見つけさせよう。 だがテス、『ダアバァヴィル』とか何とか、馬鹿げたことは止すがいゝよ -- たゞ『ダアビフィールド』で澤山だよ、 いゝかね -- 全く別の名だから。」
「私、それ以上は望みません、」と、何となくきつとなつて彼女は言つた。
ちよつとの間 -- たゞほんのちよつとの間 -- 二人が、
門衞所のまだ見えない高い
かうして事件は始まつた。若し彼女がこの會合に含まれる意味を知つてゐたとしたなら、 かう考へたであらう。自分は何故その日、間違つた人に會つたり、また望まれたりしたのだらう、 いろ〜な點で、正しい望ましい人 -- この世では殆んど二人とは見られないやうな正しい望ましい人に會つたり望まれたりしなかつたのだらう、と。 しかも、彼女の知人の中で、この種類に近かつたかも知れない人にとつては、 彼女は、半ば忘れられた、ほんの一時的の印象にしか過ぎなかつた。
立派な判斷に基いた物事の計畫も、實行に移す場合に方法を誤ると、滅多に豫期の結果を生むものではない。
愛すべき人は、滅多に愛する時と一致しない。愛人逹が會へば幸福になる時でも、
自然はその子供である哀れな人間に向つて、『會へ!』といふことは稀だし、また人間が『何處に?』と訊ねた時に、
『此處だ、』と答へることも滅多にないので、遂には人間にとつて、 この隱れん坊が退屈な體の疲れる遊戲になつてしまふのである。
將來人類の進化發展が完成の域へ逹する時には、かういふ錯誤が今日よりも微妙な直覺のお蔭で、
又勝手に私逹を引摺り廻してゐる社會の機關よりももつと綿密なものが出來上つて、
その相互作用のお蔭で、
ダアバァヴィルは
「ふん、畜生!何て可笑しな奴だらう!は、は、は!また、何んて可愛い娘つ子だらう!」
テスは丘を下つて、トラントリッヂ・クロスまで行き、チェイズバラーからシャストンへ戻る貨物馬車に乘らうとして、
ぼんやり待つてゐた。彼女は馬車へ入る時、無論返事はしたが、他のお客が自分に何と言つたか分らなかつた。
それから馬車が再び動き出しても、彼女は
同行者のうちの一人が、誰もこれまでに話した事がないほどの鋭さで、彼女に話しかけた -- 「まあお前さんは、まるで花束だね!その上、六月の初めだといふのに、こんなに薔薇が!」
すると彼女は、驚いて見てゐる人々の前に、自分があらはしてゐる有樣に氣がついた --
胸の薔薇、帽子の薔薇、籠の中に
貨物馬車は、シャストンまでしか行かなかつた。そしてその山の町からマアロットの盆地までは、 五六哩徒歩で下らなければならなかつた。母は、若しあまり疲れて歩けないやうに思つたら、 その町の知り合ひの百姓女で一晩泊れと彼女に勸めてゐたのであつた。それでテスは、さうすることにして、 次の日の午後になつて家の方へ下りて行つた。
家へ入ると、彼女は、勝ち誇つてゐるやうな母の樣子から、自分の留守中に何かあつたのだといふ事を直ぐ感づいた。
「ね、ほれ、私にや何もかも分つてゐるよ!萬事うまく行くと行つたゞらう、それ、その通りになつたのさ!」
「私が行つてからなの?何かあつたの?」とテスはちよつと氣のなささうな風で言つた。
いかにも心得たやうな、また感心した樣子で、母は娘を見上げたり見下したりしながら、
「どうして知つてゐるの、お母さん?」
「手紙が來たんだよ。」
そこでテスは、自分の留守中に手紙が來るだけの時間があつた筈だ、といふことに思ひ至つた。
「向うの言ふのにや -- ダアバァヴィル夫人の言ふのにや -- あの方が道樂にやつてゐる小さな養鷄園の番を、 お前にして貰ひたいつて言ふんだよ。が、こりや初めから高い望みを持たせずにお前を呼び寄せようつていふ細工にすぎないんだよ。 そのうちに、お前を親戚のものと認めようつてんだよ -- そのつもりなのさ。」
「でも、私、お目にかゝらなかつたわ。」
「誰かに會つたんだらうね?」
「息子さんに會つたの。」
「それで息子さんは、お前を親戚のものと思つたかい?」
「さあ -- 私のことを
「案の定!ジャッキイ -- この
「でも、私、鷄の番がうまく出來るかどうか分らない。」とテスは覺束なげに言つた。
「ぢや、一體、誰にうまく出來るか分りやしないよ。お前はその仕事の中で生れ、その仕事の中で育つたんだよ。 仕事の中に生まれついたものは、年期を入れたどんな奉公人よりか、その事にや詳しいに決つてるわね。 また、そりやほんのお前に何かさせるつてことを見せる體裁だけのことだよ。 お前が厄介になつてゐると思はせないやうにね。」
「私、何でもかでも行かなきやならないとは思つてないの、」とテスは考へ深さうに言つた。 「誰がその手紙を書いたのかしら?ちよつと見せてくれない?」
「ダアバァヴィル夫人がお書きになつたのさ。ほら、これだよ。」
手紙は三人稱で書かれ、養鷄園の管理に就いて、夫人が、娘さんに働いて貰ひたいこと、若し來てくれるなら、 住み心地の好い部屋を宛てがふこと、それから給金は、娘さんが夫人の氣に入ればいくらでも出すといふことを、 簡單にダアビフィールドの女房に通知したものであつた。
「まあ -- それつきり!」とテスは言つた。
「そんなに早く、夫人が、お前を
テスは窓から外を眺めた。
「私、お父さんやお母さんと一緒に、やはり家にゐた方がいゝわ、」と彼女は言つた。
「そりやまだ何故さ?」
「何故つて、それは言はない方がいゝわ。お母さん、本當は何故だか私にも分らないのよ。」
それから一週間たつた或る夕方、彼女はすぐ近くへ何か一寸した仕事を探しに出て、空しく歸つて來た。 彼女は夏の間に、別の馬が買へるだけのお金を儲けたいと考へてゐたのであつた。 彼女が閾を跨ぐか跨がぬうちに、子供逹の一人が「旦那が來たんだよ!」と言ひながら、 部屋を踊りながら横切つた。
母親は、體中どこからどこ迄にこ〜させながら、急いで説明した。ダアバァヴィル夫人の息子が、 偶然マアロットの方へ遠乘りに出たので、馬で訪問してくれたといふのであつた。 これまで鷄の世話をしてゐた若者は信用出來なくなつたから、テスが老婦人の養鷄園を管理に本當に來てくれるかどうか、 結局のところを彼は母親に代つて知りたがつてゐた。「ダアバァヴィルさんは、自分の見た通りだつたら、 いゝ娘に違ひないつてお前のことを仰しやるのさ。あの方は、お前がその體の重さの金貨位ゐな値打が、 屹度あるつてことを御存じなんだよ。あの方は、お前にすつかりはまり込んでゐるんだよ -- 本當を言へばね。」
テスは、自分といふ者に見切りをつけ愛想をつかしてゐる時だつたので、他人からそんなによく思はれたことを聞いて、 實際、暫くは喜んでゐるやうだつた。
「さうまで思つて下さるなんて、大へんな御親切ね、」と、彼女は呟いた。 「では、向うでどんな風にして暮すのか、それさへはつきりしたら、私いつでも行きませう。」
「あの方は、本當に立派な方だね!」
「私、さうは思はない、」とテスは冷やかに言つた。
「まあ、男振りはどうだつていゝが、お前に運が向いて來たんだよ。確かにあの方は、 綺麗なダイヤの指輪を嵌めておゐでだつた!」
「さうだよ、」と小さなアブラハムは、窓の腰掛から快濶に言つた。「僕は見たよ!それから、
口髭へ手をやつた時、ぴか〜光つたつけ。お母さん、何だつて
「まあ、あの子の言ふことをお聞きよ!」餘計なことにまで感心しながら、ダアビフィールドの女房は叫んだ。
「きつと、ダイヤの指輪を見せようつてんだらう。」ジョン閣下は、夢うつゝに自分フ椅子から呟いた。
「私よく考へてみるわ、」とテスは部屋を出ながら言つた。
「ねえお前さん。あの
「わしァ、
「でも、是非あの
ジョン・ダアビフィールドには、精力や健康より、寧ろ己惚れがあつたので、この假定が氣に入つた。
「なるほど。大方、それが若いダアバァヴィルさんの積りぢやつたかも知れん、」と彼は頷いた。 「古い血統と縁を結んで自分の血を改良しようつて、きつと眞面目に考へたんかも知れねえ。 あの可愛いテスの奴め!あの人逹を訪ねて、そんな風に本當にうまくやつて來たのかな?」
テスは物思はしげに、庭の
「そりやさうと、お前どうするつもりだい?」と彼女は訊ねた。
「私、ダアバァヴィル夫人にお目にかゝつたら、ほんとによかつたんですけど、」とテスは答へた。
「お目にかゝらないたつて、これを決めるにや同じことぢやないかい。 決めさへすりや、すぐにもお目にかゝれるだらう。」
父親は椅子に掛けたまゝ咳をしてゐた。
「私、何といつていゝか分らない!」と娘はおど〜しながら答へた。「お母さん逹で決めて下さい。 私、自分があの馬を殺したんですから、新しいのを買ふのに何かしなくつちやならないとは思つてるんですから。 でも -- でも -- あのダアバァヴィルさんがあそこにゐるんで、私ちつとも氣が進まない!」
子供逹は、テスが金持の親類(彼等は向うの家をかう想像してゐた)へ引き取られるといふ事を思つて、 馬の死んだ後の一種の慰めとしてゐたので、今、テスの厭がるのを見て喚き出した。そして、 彼女がぐづ〜してゐるのを苛めたり、また責めたりした。
「テスは行かないつて言ふよ -- そして、
母親もまたそれに調子を合はせた。家庭内の自分の仕事をずる〜に延ばして置いて、
實際にやればそれほどでもないのに、いかにも骨が折れさうに見せる母親の
「私、行きませう。」とテスは到頭言つた。
母は娘の承諾によつて浮び出した婚禮の『幻』を、はつきり意識に浮べて、 それを抑へることが出來なかつた。
「それでいゝ!こんな綺麗な
テスは苦笑した。
「これがお金を儲ける
ダアビフィールドの女房は、それを請合ひはしなかつた。彼女は、例の訪問客からあの言葉があつたからには、 うんと話して廻るに足るほど得意にならなかつたとは、斷言出來なかつた。
かうして、その事は取り決められた。そして若い娘は、
何時でもお呼びのあり次第行かれるやうに用意してゐますから、といふ手紙を出した。
彼女は、たしかに彼女の決心をダアバァヴィル夫人は喜んでゐるといふこと、
明後日は、盆地の頂上で彼女とその荷物とを迎へる爲めに
「荷馬車だつて?」とダアビフィールドの女房は疑はしげに呟いた。 「身内の者を迎へるんだもの、乘用馬車を寄越してもよさゝうなもんだにねえ!」
テスは、到頭身の方針を定めたので、いくらか氣も落着きはき〜して來て、 大して面倒でもないやうな仕事で父に別の馬を持たせることが、何となく出來さうに思へて、 せつせと働いた。彼女は嘗つて、學校の教師になりたいと望んだこともあつたが、 運命はさうさせさうに見えなかつた。彼女は、精神的には母親よりも年を取つてゐたので、 彼女に對してダアビフィールドの女房が抱いてゐる結婚の希望などは、たゞの一瞬間も、 本氣になつて考へる事なぞしなかつた。浮つ調子なこの女房は、娘の誕生の年から、 その良縁を探してゐた位ゐであつた。
出發と定められたその朝、テスは夜の明けないうちに眼を覺した --
森がまだ靜まりかへつてゐる闇のなくなる直ぐ前の刻限で、たゞ豫言的な小鳥が一羽、
自分は一日の正確な時刻を知つてゐると、澄み通つた聲の確信を抱いて歌つてゐるだけで、
他のものは、恰も小鳥の奴は間違つてゐると、これまた確信してゐるかのやうに、
どこまでも沈默を守つてゐた。彼女は朝飯の時まで、二階で荷造りをしてゐたが、晴着は丁寧に箱にしまひ込んだので、
やがて
母親はたしなめた。「お前、親戚の家へ行くんだもの、もつと氣のきいた風をして行つたらいゝぢやないかい?」
「でも私働くんですもの!」とテスは言つた。
「そりや、さうだが、」と、ダアビフィールドの女房は言つた。それから調子を低くして、 「初めの間少しはそんな體裁をするのもいゝが!……でも世間へは、 出來るだけ見榮を飾る方が悧巧なやり方だらうと思ふよ。」と彼女は附け加へた。
「なるほどね。お母さんは、何でも一番よくお分りでせうよ、」とテスは、 どうでもいゝといふ風に落着き拂つて、答へた。
そして母親を喜ばす爲めに、娘は全く女房のなすまゝに任せて、靜かにかう言つた -- 「どうでも好きなやうにして下さい、お母さん。」
ダアビフィールドの女房は、娘の素直さにたゞもう喜ぶばかりであつた。最初に彼女は、
大きな
「靴下の踵に穴があいてるんですよ!」とテスは言つた。
「靴下の穴なんか
母親は、娘の容姿を得意がり、畫家が
「お前自分で見なきや駄目だよ!」と彼女は叫んだ。「こなひだよりも餘程うつりがいゝ。」
姿見は一時にはテスの體のほんの一部分を映すだけの大きさだつたので、 ダアビフィールドの女房は、化粧をしようとする田舍の人々がよくやるやうに、 窓硝子の外へ黒い外套を懸けて、その硝子を大きな鏡にした。 それから、女房は階下の部屋に坐つてゐる亭主のとこへ降りて行つた。
「あのね、ダアビフィールド、」と大喜びで、彼女は言つた。
「あの人は、娘が氣に入らないなんて事は屹度ないよ。けれども、外の事はどうでもいゝが、
あの人がテスに心があるなんて事や、娘が今度つかんだこの
が、娘の出かける時が迫るにつれ、身支度をしてやつてゐる間の初めの興奮が消えてしまふと、
輕い懸念がダアビフィールドの女房の胸に湧いて來た。その爲めに、女房も少し --
盆地からの勾配が、
母親が帽子を被るのを見ると、子供逹は一緒に行きたがつて騷いだ。
「お母さんは、少し姉ちやんと歩かうつてんだよ、姉ちやんはこれから、うちの
「さあ、」とテスは赧くなり、急に振り返りながら言つた。「もうそんなこと澤山!お母さん、 どうしてそんなつまらない事を、こんな子供逹の頭に入れようといふの?」
「働きに行くんだよ、お前逹、お金持の親類へね。そして、新しい馬を買ふお金を儲ける手傳ひをしてくれるんだよ。」
とダアビフィールドの女房は
「さよなら、お父さん、」咽喉に何かの塊りがつかへでもしたやうに、テスは言つた。
「さやうなら、娘、」ジョン閣下は、今朝の門出祝ひにちよつと
「千
「さう言つておくれ -- 千
テスの眼には涙が一杯たまり、聲はひどく
さうして、娘逹と母親とは一緒に歩いて行つた。テスの兩側には、一人づゝ子供が並んで彼女の手をとり、
やがて何か偉いことをしようとする人でも見るやうに、始終まじまじと彼女の方を眺めてゐた。
母親は一番末の子を連れて、そのすぐ後に續いた。この一團は、側面は無邪氣の侍女に堅められ、
後からは他愛ない虚榮の女神に守られてゐる正直な美の女神の繪のやうに見えた。
彼等は、歩き進んで、到頭これから登り坂になるといふところに逹した。
その頂上でトラントリッヂからの馬車が、彼女を迎へる筈になつてゐたが、
こゝまでと決められた譯は、最後の坂を登る勞を馬にかけまい爲めだつた。
一番近くの丘の遙か後の方に建つてゐる崖のやうなシャストンの人家が、
山脈を切斷してゐた。丘を
「こゝでちよつと待ちなよ、きつと、直きに荷馬車が來るだらうから、」 とダアビフィールドの女房は言つた。「ほら、向うに見えるよ!」
果して荷馬車はやつて來た -- 一番近い高地の
彼等は、もうテスの荷物が積み込まれた
母親は、始めて、この第二の馬車が最初のゝやうに粗末な乘物でなく、
立派な塗り立て飾り立てられてゐる新調の二輪馬車であることを知つた。
馭者は二十三四の青年で、口には葉卷煙草を
ダアビフィールドの女房は、まるで子供のやうに手を
「ありや、姉ちやんを
そのうちに、モスリン姿のテスが、その馬車の傍にぢつと立つて何やらぐづ〜してゐるのが見えた。 馬車の主は、彼女に話しかけてゐた。彼女の躊躇してゐる樣子は、事實躊躇以上であつた -- つまり心配してゐるのであつた。彼女は粗末な馬車の方に乘つて行く方が望ましかつたのであらう。 青年は馬車から降りて、彼女に乘れとしきりにすゝめてゐるやうに見えた。 彼女は身内の者のゐる丘の下へ顏を向けて、小さな一團を眺めやつた。何ものかゞ、 彼女の決心を急き立てるやうに思はれた。それは恐らく、プリンスを殺したといふ考へであつたのだらう。 彼女は急に馬車の段を登つた。青年は彼女の傍に乘り、すぐ馬に鞭を加へた。忽ちのうちに、 彼等は荷物を積んだのろい馬車を追ひ越して、山の肩を超えて見えなくなつた。
テスの姿が見えなくなり、そして芝居がゝりのこの事件の興味が盡きると、
すぐ子供逹は眼に一杯涙をためた。一番小さい子が言つた。「可哀さうに、可哀さうに、
テスは
家路へ引つかえした時には、ダアビフィールドの女房の眼にもまた涙が浮んでゐた。 でも、村へ戻り着いた頃には、默つてなりゆきに任せる氣になつてゐた。けれども、 その夜彼女が寢床で溜息をついてゐるので、亭主は、どうしたのかと訊ねた。
「まあ、何だかはつきり分らないのさ、」と彼女は言つた。「テスが行かなかつた方が、 よくはなかつたかと今考へてゐたところだよ。」
「それや、前に思ひつくべき筈の事ぢやなかつたかい?」
「まあいゝよ、あの
「さうだ、それ位えのことァ、大方お前がしなくちやなんねえ事だつたぜ、」とジョン閣下は、 夢うつゝで言つた。
ダアビフィールドの女房は、いつも、何とかして何處かに慰安を見つけ出すやうにした --
「まあいゝよ、まがひなしの血統の一人だもの、自分の切札さへ間違はずに使へば、
あの
「
「さうぢやないよ、うすぼんやりだね、あの
アレク・ダアバァヴィルは、彼女の傍へ乘ると、手前の丘の頂きに沿うて
父の馬があんな事になつてしまつてからといふもの、テス・ダアビフィールドは、 生れつき勇氣のある方ではあつたが、馬車に乘るとひどく臆病になつた。 彼女は、ほんの少しの動搖にも、ぎよつとした。馭者の馭し方に何となく向う見ずのところがあるので、 彼女は不安になり出した。
「ゆつくり降りるんでせうね、あなた?」と彼女は平氣を裝つて言つた。
ダアバァヴィルは彼女の方へ振り向き、大きな白い眞中の齒の端で葉卷を噛み、唇をひとりでに崩して、 靜かに微笑んだ。
「何故だい、テス、」またも一二服吸つてから、彼は答へた。「そんなことを訊くなんて、君のやうな、 元氣な強い娘さんにも似合はないぢやないか?だつて、僕はいつも全速力で下るんだよ。 君の元氣を出させるには、これ位ゐ好いことはないからね。」
「でも、今はそんな必要もないでせう?」
「さうだ、」頭を振りながら彼は言つた。「が、二つのことを考へなくちやならないからね。僕だけぢやなく、
ティップのことも考へてやらなくちやならない。それにあいつは、ひどく氣まぐれな
「誰が?」
「なに、この牝馬がさ。たつた今のさつき、大へん凄い顏をして、僕の方を見廻したやうだが、 氣がつかなかつた?」
「おどかしちやいけませんわ、あなた。」とテスは固くなつて言つた。
「うん、おどかしやしないよ。若し生きた人間にこの馬が馭せるとしたら、僕こそその人だ -- とても生きた人間には馭せないがね -- だが、萬一人間でその力を持つてゐるものがあるとしたら、 僕こそその人さ。」
「何故こんな馬をお持ちなの?」
「あゝ、さう訊くのも尤もだね。そりや、廻り合はせだつたんだね。ティップは人を一人殺したことがあるんだ。
僕があれを買つてから間もなくだつたが、すんでのことに僕は殺されるところだつた。
それからまた、本當の話だが、僕も
彼等は丁度坂を下りかけてゐた。馬の勝手か、それとも彼の意志からか(多分この方であるが)、
明らかに馬は自分の期待されてゐる無謀な離れ業を、よく呑み込んでゐたから、
後ろから暗示されるのを
下へ、下へと彼等は驅つた。車輪は獨樂のやうにぶん〜唸り、車臺は左右に搖れ、車軸は前進する方向に對して少し斜めになつた。
馬の體は二人の前で、波を打つて起伏した。時々一方の車輪が、幾
風は、テスの白いモスリンを吹き通して、彼女の
「僕の腕に
彼女は腰に抱きついた。そんな風にして、彼等は麓へ着いた。
「助かつたわ、まあ有難い。あなたがあんな詰らない事をなさつたけれど!」と彼女は言つた。 顏は火のやうに火照つてゐた。
「テス -- 何を言つてゐるんだい!僕が落着いてゐたお蔭なんだよ!」とダアバァヴィルは言つた。
「ほんとにね。」
「そりやさうと、もう危くないと思ふと、そんなに有難くもないといつたやうに、直ぐ僕から手を離すにも當らないぢやないか。」
彼女は、自分が今までどんな事をしてゐたのか少しも考へなかつた。又、我知らず彼に掴まつてゐたが、 相手が男か女か棒か石かも考へなかつた。もとの平靜に返ると、彼女は何にも答へずに腰掛けてゐた。 かうして、二人はもう一つの坂の頂きへ着いた。
「さあ、もう一度!」とダアバァヴィルは言つた。
「いえ、いえ!」とテスは言つた。「どうかお願ひですから、そんな馬鹿な眞似はなさらないで下さい。」
「だが、この土地で一番高いところへ來てゐるんだから、どうしたつて下りなきやなるまい、」と、 彼はしつぺい返しをした。
彼は手綱を弛めた。そして二人はまたしても勢ひよく下つた。搖れてゐる最中に、ダアバァヴィルは彼女の方へ顏を向けて、 からかひふざけるやうに言つた -- 「そら來た、前のやうに、また僕の腰に腕をお卷きよ、ねえ君。」
「いやです!」テスは頼るものかちいつた調子で答へた。そして、彼に觸らないで、 出來るだけ體をしつかりさゝへた。
「その
テスはひどく驚いて、腰掛けたまゝずつと身を退いた。すると、彼はまたも馬を驅り立てゝ、 ます〜彼女を
「さうしなくちや、どうしてもいけないんですか?」と彼女は絶望のあまり、到頭かう叫んだ。
その大きな眼は、野獸のそれのやうにぢいつと彼を
「どうしてもだよ、可愛いテス、」と彼は答へた。
「あゝ、私には分らない -- でも、いゝわ。私、構はない!」と彼女は情けなささうに喘いだ。
彼は手綱を控へた。そして馬車が
「ぢや、畜生め -- 二人とも首を
「ようございます、」とテスは言つた。「そんなにしつかり決心してゐらつしやるなら、私動きやしません! でも、私 --
あなたが優しくして下さるものと思つてゐましたのに、また、身内の者と思つて
「身内も糞もあるもんか!さあ!」
「でも私、誰にも接吻して貰ひたくないんですから、あなた!」と彼女は懇願した。 大きな涙が顏を傳つて落ちかけ、泣くまいとする口元はぶる〜顫へた。「こんなことゝ分つてゐたら、 私、來なかつたでせうに!」
彼は何處までも彼女の歎願を聞き入れなかつた。彼女はぢつと坐つたまゝでゐた。 そこでダアバァヴィルは、彼女に勝利の接吻を與へた。それが濟むか濟まないうちに、 彼女は恥かしくて眞赤になり、ハンケチを取り出して彼の唇が觸れた頬を拭いた。 彼の情熱は、それを見ていよ〜苛立つて來た、といふのは、彼女が無意識だつたからである。
「百姓娘にしちや、いやに氣にするね!」と青年は言つた。
テスは、この言葉には何とも答へなかつた。彼女は我知らず頬をこすつて、
男に肘鐵砲をくはせたのだといふことには氣がつかなかつたので、
その言葉に意味が、實際少しも分らなかつた。彼女は物理的に出來る限り、事實その接吻をすつかり消してしまつたのである。
彼等がメルベリイ・ダウンとウィングリーンの近くまで進んだ頃、彼女は男の氣に障つたと微かに感じながら、
ぢいつと先の方を
「きつと後悔さしてやるから!」彼は新たに鞭を
彼女は溜息をついた。「ようございますわ!」と彼女は言つた。「まあ -- 帽子を取らして下さいよ!」
話をしてゐる間に、高地を駈けてゐる現在の速力は決して遲くなかつたので、 彼女の帽子は街道へ吹き飛ばされてしまつた。ダアバァヴィルは馬車を停め、自分が取つてやらうと言つたが、 テスは反對の側へ降りた。
彼女は後へ戻つて、帽子を拾ひ上げた。
「帽子を
帽子は頭にのつて結びつけられたが、テスは歩み寄らうとしなかつた。
「いやですよ、」と、大膽な勝利の喜びに眼を輝やかし、口には赤い
「何だつて?僕の側へ乘らないつて?」
「えゝ、私、歩いて行きます。」
「トラントリッヂへは、まだ五六哩もあるんだぜ。」
「たとひ何十哩あつたつて、
「この狡い
彼女の策略的な沈默は、彼の疑惑をいよ〜確實にする助けとなた。
そこでダアバァヴィルは、彼女をさん〜゛
「恥かしくもなく、よくそんな惡口が言へるものですね!」 這ひ上つてゐた生垣の上から、元氣を出して、テスは叫んだ。「私、ちつとだつてあなたが好きぢやない! 憎らしい、大嫌ひです!お母さんのところへ歸ります、歸ります!」
ダアバァヴィルの癇癪は、テスのを見せつけられると、すつかり納まつてしまつた。 そして彼は、心から笑つた。
「ねえ、僕は一層お前が好きになつたよ、」と彼は言つた。「さあ、仲なほりをしようよ。 僕はお前が厭だといふなら、もう決してしないよ。今度はほんとに誓ふ!」
テスはまだ、再び馬車に乘らうといふ氣になれなかつた。が彼女は、
自分と並んで彼が馬車を進めて行くことには反對しなかつた。で、こんな風にして、
數分經つと、スロープ邸の煙突が視野のうちに現はれ、その右の方の小ぢんまりした一隅に、 テスの目的地である養鷄園と田舍家とが見えて來た。
テスが、管理人、
嘗つては、大勢の幼兒が守りをされながら泣き
この田舍家の建つてゐる庭は、石塀に取り圍まれてゐて、一つの戸口から入られるだけであつた。
テスが、その次の朝一時間ばかり、本職の養鷄家の娘らしいうまい思ひつきに從つて、
一生懸命に配置を變更したり改良したりしてゐる時に、石塀の間の扉が開いて、白い帽子と前掛との女中が入つて來た。
彼女は
「ダアバァヴィルの奧樣が、いつもの通り、鷄を持つて來いと仰しやいます。」と彼女は言つた。 でもテスには、全く何のことか分らないのを見て取つて、女中は説明した。 「奧樣は、大變お年を召してゐらしつて、それに、眼がお見えにならないんですよ。」
「眼がお見えにならない!」とテスは言つた。
この話を聞いて、自分の疑念をはつきりさせる暇も殆んどないうちに、彼女は仲間の指圖に從ひ、
ハンバアグ種の一番美くしい二羽を腕に抱いて、同じやうに二羽かゝへてゐる女中に
階下の居間には、この屋敷の持主でもあり女主人でもある、六十はまだ越してゐない、いや、 或はもつと若いかも知れない白髮の夫人が、大きな縁なし帽子を被つて、 背中に日光を浴びながら安樂椅子にゆつたりと納まつてゐた。 夫人は、長い間失明してゐる人とか、又は生れつきの盲目の人とかに見る沈み切つた顏色といふより、 寧ろ、だん〜と視力が衰へるので、それを取り戻さうと骨を折つては見るものゝ、 仕方なく諦めてしまつたといふ人逹によく見受けられる物に感じ易い顏付をしてゐた。 テスは、羽毛のある預り物を持つて -- 片方の腕へ一羽づゝとまらせて -- この夫人のところへ歩み寄つた。
「おゝ、お前さんは、うちの鷄の面倒を見に來てくれた娘さんかね?」ダアバァヴィル夫人は、
聞きなれない
老夫人が話をしてゐる間に、テスともう一人の女中とは夫人の手眞似に從つて、
それ〜゛夫人の膝へ鷄を載せた。すると夫人は、頭から尾まですつかり撫でまはしてみて、
嘴や、
二人の娘が運んで來た鳥は、滯りなく圍ひ地の方へ歸された。かうして連れて來、連れ戻す手續は、 幾度も繰り返されて、到頭お氣に入りに牡鷄牝鷄が悉く老婦人の下に差し出された -- ハンバアグも、バンタムも、コーチンも、ブラーマも、ドーキングも、それに丁度その頃はやつてゐた他のいろ〜の種類も -- 。 夫人が膝の上に鳥を受け取つて、その一羽々々の來訪者がどんな風であるかをあてる場合、 滅多に間違ふことはなかつた。
それは、テスに堅信禮(牧師が、嚴かな身振りや祈祷で、靈の安心をはかり儀式)の式を想ひ出させた。 ダアバァヴィル夫人が司教で、鳥は臨場した若い人々であり、彼女と女中とは、 彼等を伴うて來た教區の牧師と副牧師といふ格であつた。その儀式の終りにダアバァヴィル夫人は、 顏に起伏する波のやうな皺を寄せ、歪めて、不意にテスに訊ねた。「お前、口笛が吹けるかい?」
「口笛でございますか、奧樣?」
「さう、口笛で歌を唄ふのさ。」
テスは、他の大概の田舍娘と同じやうに、口笛を吹くことが出來た。尤もそれは、 上品な人逹に仲間に加はつては公表したくない藝ではあつたが。でも、彼女はおとなしく、 事實をその通り白状した。
「それぢや、毎日それを練習しなくちやなりませんよ。大へん上手に吹く若い者が一人ゐたんだが、
暇をとつて行つてしまつてね。
「今朝、ダアバァヴィル樣が吹いておやりでございました、奧樣。」とエリザベスが言つた。
「あれが!まあ呆れるね!」
老夫人の顏には、嫌惡の皺が刻まれた。そして夫人はもうそれ以上返答はしなかつた。
こんな風にして、テスと彼女が親類と思ひ込んでゐた夫人との應接は終つて、鳥類はその
前日のお目見えは不愉快であつたにも拘はらず、テスは、一旦其處へ納まつてみると、
朝太陽が輝き出した時には、自分の新しい地位が暢氣で、眼新しいので惡くはないと思つた。
そして、彼女は自分の地位を繼續して行く機會を確かめる爲めに、言ひつけられた用事のうちで思ひもよらない方面で、
自分の力が試して見たいとしきりに思つた。ぐるりと石塀に取り圍まれた庭園の中に、
たつた獨りきりになると、すぐさま彼女は
彼女は、吹いて吹いて、吹きつゞけたが無駄であつた。そして、生れつき持つてゐた藝を、
かうまで忘れるなぞといふ事があるものかしらと
「本當に!」と彼は叫んだ。「『自然』の中にも、『藝術』の中にも、今のお前ほど美くしく見えるものは、
未だ曾つてなかつたよ、『
「
「あゝ!何故お前が
「でも、奧樣は特にこれをやれ、明日の朝までにはよく出來るやうにとのことです。」
「さうかい?よし、それぢや -- 一二度僕が稽古してやらう。」
「あら、ようございます、止して下さい!」とテスは戸口の方へ引き退りながら言つた。
「馬鹿な、お前に觸らうといやしないよ。ほれ -- 僕は金網の此方側に立つんだらう、すると、 お前は其方側に立つてゐられるぢやないか。さうすりや、一寸も心配はないだらう。 さあ、いゝかね、お前はあんまり唇をすぼめ過ぎるぜ。そら、こんな風にするんだ -- ほら。」
彼は歌詞に身振りを合せながら、『取られよ、おゝ、その唇を
「さあ、やつて御覽、」とダアバァヴィルは言つた。
彼女は、つとめて遠慮してゐるやうに見せかけた。その顏は、彫刻のやうに嚴肅さを帶びてゐた。 けれども、彼は何處までもせがんで止まなかつた。そこで、終に彼女は彼から遁れる爲めに、 教へられた通りに唇を突き上げて、明瞭な調子を出さうとした。が、情なさゝうに笑ひ出し、 それから自分が笑つたことを氣にして顏を赧らめた。
彼は、「もう一度やつて御覽。」と彼女を勵ました。
テスは、この時にはもう眞劍になつてゐた。痛ましいまでに眞劍になつて、やつて見た -- 到頭、思ひがけなくも、本當のなだらかな音が出て來た。彼女は成功した瞬間の歡びの爲めに、 我を忘れて眼を大きく見開き、思はず彼の顏をまともに見ながら微笑んだ。
「それだ!僕が手ほどきしてやつたんだから -- これからずつと巧くやれるだらうよ。 それから -- 僕はお前の側へは行かないつて言つたね。だから、 ついぞこれまで人間の身にふりかゝつた事もないやうな誘惑を感ずるが、 僕は約束を守るよ……テス、お前は僕の母を變つた婆さんだと思ふかい?」
「私、まだよく存じません。」
「さうだつて事が、今に分つてくるぜ。さうに違ひないよ。
テス・ダアビフィールドが、始めて地位を占める爲めに手がけたのは、かういふ仕事であつた。
最初の日の經驗は、その後幾日となく續いた經驗を代表するに十分なものであつた。 アレク・ダアバァヴィルと會つて感ずる親しみ --
その親しみは、例の若者が、 冗談めいた對話や二人きりの時にはからかひ半分に
再びその藝をものにしてしまふと、彼女には、ダアバァヴィル夫人の部屋で
ダアバァヴィル夫人は、重い
何處の村にも、それ〜゛の特色、それ〜゛の組織、または獨特の道徳律といふものがある。
トラントリッヂ村近邊の若い女逹のうちでも、或る者の不身持は、目立つてゐた。
そして、それは恐らく近くのスロープ邸を支配してゐる立派な人々の特色でもあつたのだらう。
この土地には、又もつと根の深い弱點があつた。つまり、盛んに酒を
かういふ理論家逹の主な樂しみといふのあ、毎土曜日の夜、仕事が濟むと、
二三哩隔つた今では
永い間、テスはこの一週間目毎の行樂に加はらずにゐた。けれども、自分と餘り年の違はない上さん逹 --
畑で働く人の給金は、二十一でも四十の者と變らないので、ここでは早婚が行はれてゐた -- に強ひられて、
彼女は到頭行くことを承知した。この行樂を始めて經驗して見ると、テスには思つたより樂しかつた。
それはまる一週間養鷄園の單調な世話をしてゐた後の彼女には、他の人逹の暢氣な氣分に極めて感染し易かつたからである。
彼女は再三出かけて行つた。
こんな事が一二ヶ月續いて、やがて縁日と市日との重なつた九月の或る土曜日がやつて來た。 そして、トラントリッヂから出た行樂の者逹は、その爲め酒場で二重の歡樂を求めたのであつた。 テスは仕事の爲めに出掛けるのが遲れたので、友逹は彼女よりもずつと前に町へ着いた。 それは晴れた九月の、丁度今にも日が沈まうといふ夕暮で、黄色い光が青い影と入り亂れて、 頭髮を一本々々並べたやうに見え、あたりの雰圍氣は、その中に無數の羽蟲が舞つてゐるだけで、 他のもつとしつかりした物體が加はらなくても、自然と一つの風景になつてゐた。 夕暮近い薄明りの中を、テスはゆつくり歩いてゐた。
彼女は
最初、彼女は見付け出すことが出來なかつた。そして大抵の者は、彼等の農場と取引きをしてゐる乾草刈兼泥炭商の家で行はれる、
所謂内々の小舞踏會へ行つた事を教へられた。その商人は、或る枝町の
「どうしたんだい -- ね、別嬪さん?こんな處にこんな遲く?」と彼は言つた。
彼女は、たゞ歸りの連れを待つてゐるだけだと言つた。
「何れまたお目にかゝるよ。」彼女がずん〜裏路の方へ行くので、彼はその肩越しにさう言つた。
乾草刈の家へ近寄ると、後の方の或る建物から、リール踊りの曲を彈いてゐる提琴の音が聞えて來た。 が、踊りの音はちつとも聞えなかつた
-- これは大抵足踏で音樂を消してしまふこの邊にしては珍らしい事だつた。
表の扉が開いてゐたから、彼女は夜の闇の許す限り、家の中を通して裏庭をずつと見通すことが出來た。
それは物置に使はれてゐる、窓のない建物だつた。開いた
側へ寄つて覗いて見ると、ぼんやりした姿が、舞踏の組をつくつて往つたり來たり駈けずり廻つてゐるのが分つた。
足踏みの音のしないのは『
この一團のうちで、幾人かの醉漢神は、壁の側にある腰掛や乾草の上に掛けてゐた。 そしてそのうちの一人は、彼女にゐるのに氣がついた。
「娘逹は、『百合花』亭で踊るのを恥かしいと思つてゐるんだよ、」と彼は説明した。
「それに、誰が自分の
「でも、あなた方のうちに何時頃歸るか分つてる方があるでせうか?」とテスは多少心配さうに訊いた。
「さあ -- もうぢきだよ、これがもうお終ひの舞踏だらうから。」
彼女は待つてゐた。リール踊りも終りに近づいて、一行のうちには出掛けようと考へてゐる者もあつたが、 他に出掛けたがらない者がゐて、又もう一囘の舞踏が始まつた。これで屹度お終ひだらうと、テスは思つた。 が、尚もずる〜になつて、次の分に移つた。彼女はそわ〜し出し、落着かなくなつて來た。 もう、こんなに長く待つてしまつた以上は、この先も、どうしても待つてゐなければならなかつた。 縁日の爲めに、街道には、ことによると心掛けのよくない無頼漢が、あちこちにごろ〜してゐるかも知れない。 大抵の危險は怖れてゐなかつたものゝ、彼女は、思ひも寄らない危險に會つてはと、それを恐れてゐた。 若しマアロットの近くにゐるのだつたら、彼女はそんなに恐がりはしなかつたであらう。
「びく〜するにや及ばねえよ、お前さん、」咳きながら、一人の汗だらけの顏をした青年が彼女を
彼女は踊るのが厭といふ譯ではなかつたが、此處では踊る氣がしなかつた。 舞踏は益々熱を加へて來た --
明るい雲の柱の蔭にゐる提琴彈奏者は、
彼等は、相手に心殘りのあるうちは決してそれを變へる事をしなかつた。 相手を變へるといふのは、たゞその組の者のどちらかゞ、
まだ滿足な相手を選び出して來ないといふ事を意味するに過ぎなかつた。
そしてもう今は、どの組もどの組も、
突然、床の上にどしんといふ鈍い音がした -- 一組の者が倒れて、
「こんな事をして、あんた、
テスが立つてゐる後の庭の暗闇の中から高ひ笑ひ聲が起つて、室内のくす〜笑ひと和した。 彼女が振り返ると、葉卷の赤い火が見えた。アレク・ダアバァヴィルが、たつた獨りでそこに立つてゐた。 彼が手招きしたので、テスはいや〜ながら、彼の方へ寄つて行つた。
「ねえ別嬪さん、此處で何をしてるんだい?」
長い一日働いて、その上歩いて來た爲めにすつかり疲れてゐたので、 彼女はつい自分の心配を彼に打ち明けてしまつた --
この夜道に、不案内なので、
「さうとも、待たないが好いよ。今日は、僕處へ乘馬一頭しか連れて來てないんだ。だが、
『百合花』亭までお出でよ、そしたら馬車を雇つて、一緒に
テスは、さう言はれて嬉しくは思つたが、彼に對するもとからの疑惑をすつかり征服はしてしまはなかつた。 そして、百姓逹が愚圖々々してゐたにも拘はらず、彼等と一緒に歩いて歸つた方がましだと思つた。 そこで彼女は、親切は大へん有難いが、御心配はかけたくないと返事をした。
「みんなに待つてゐると言つて置きましたし、みんなも今ではさう思つてゐるでせうから。」
「ようし、勝手者。勝手にするがいゝ。……そんなら僕だつて急いで歸りやしない……おや〜、 あすこぢや何ていふ暴れ方をしてるんだ!」
彼は明るみの方へ出て行きはしなかつたが、中には彼を認めた者もあつた。 ところが彼が姿を現はすと、彼等は一寸舞踏をやめて、どの位ゐ時間が經つてゐるかを考へた。 彼が葉卷に火を點けかへて歩いて行つてしまふと、すぐにトラントリッヂの連中は、 他の農場から來てゐる人々から離れて、寄り集まり、一團となつて出發の準備をした。 皆の包みや籠も集められた。それから三十分ばかり經ち、時計臺から十一時十五分が報ぜられると、彼等は家路をさして、 小山へと續いてゐる小徑をさまよふやうにして歩いて行つた。
乾燥した白い道を、今夜は月の光を受けて一層白くなつてゐる道を、 彼等は三哩歩かなければならなかつた。
テスは、或る時は甲の人と、また或る時は乙の人といふ風に一行に加はつて歩いて行くうちに、
勝手放題に飮んだ男逹が、涼しい風を受けてよろめき始め、蛇のやうにうね〜と進んで行くかと思ふと、
又一方、男逹よりも一層そゝつかしい女の中にも亦、ひよろ〜歩き廻つてゐる者があるといふ事に氣がついた --
つまり、つい先頃までダアバァヴィルのお氣に入りだつたスペイドの女王と呼ばれる色の黒いしたゝか者のカア・ダァチ、
ダイヤの女王と
が、テスは父の家で、かういふ類ひのひどく痛ましい經驗を嘗めてゐたから、 彼等の樣子を見つけるとすぐ、月夜の旅で感じかけてゐた樂しみを臺なしにされてしまつた。 だが彼女は、前に言つた理由から、飽くまでもこの仲間から離れはしなかつた。
廣い街道では、彼等は三人五人とちらばつて進んでゐたが、丁度道が畑の門を拔けるところまで來たので、 先頭の者がそれを開けるのに骨を折つてゐるうちに、皆一緒になつてしまつた。
この先頭の徒歩者は、スペイドの女王のカアであつた。彼女は母親の買つた雜貨や、自分の切地や、
その他一週の間に入要な買物の入つてゐる藤籠を携へてゐた。その籠が大きくて重いので、
カアは運び具合のいゝやうに頭の
「あれ -- お前の背中を匍つてゐるものは何だい?カア・ダァチ。」と、突然仲間の一人は言つた。
皆はカアの方を見た。彼女の
「そりや、髮の毛が埀れてゐるんだよ。」と他の一人が言つた。
いや、それは髮の毛ではなかつた -- 籠から何か滲み出て、それが眞黒な筋になつて流れ、しかも月の冷たい靜かな光を受けて、 つる〜した蛇のやうに光つてゐた。
「こりや糖蜜だ、」と、眼の早い一人の上さんが言つた。
なるほど糖蜜であつた。カアの可哀さうなお祖母さんは、その甘い物には眼がなかつた。
蜂蜜なら
この時はもう、カアの背中の異常な有樣に對して、どつと笑ひの叫びがあがつてゐた。 その爲めにかつとなつた色の黒い女王は、嘲弄者逹の力は借りずに、咄嗟に思ひついた方法に依つて、 自分獨りでこの醜態を始末しようとした。彼女は、皆が今にも横切らうとしてゐた畑の中へ夢中に跳び込み、 芝生の上へ仰向けに身を投げ、牧草の上を横にくる〜轉がつたり、肘に力を入れて體を草の上に引き廻したりして、 出來るだけ上衣の汚れを拭ひ落さうとし始めた。
笑ひ聲は、一層高く響いた。カアの樣子を見て笑ひこけたので、體がひよろ〜になつて、
彼等は畑の門や柱に掴まつたり、杖に寄りかゝつたりした。今まで默つてゐた我が
が、それが一つの
「よくも私のことをお笑ひだね、この
「私、皆さんが笑つたもんで、どうしても我慢が出來なかつたんです。」とテスは侘びたが、猶ほくす〜笑つてゐた。
「あゝ、お前さんは、一番偉いと思つてゐるんだらう、今はあの人の第一のお氣に入りなもんだから! だが、ちよつとお待ちよ、ねえ、お待ちつてのに!お前さん位ゐの者が二人がゝりで來たつて、 負けるやうな私ぢやないよ!さあ -- かうしてくれるから!」
テスが吃驚したことには、色の黒い女王はその
「あらまあ。でも私、お相手なぞしませんわ!」と後者は凛々しい口調で言つた。 「お前さんがそんな人だと知つてゐたら、身を落して、こんな下等な人と一緒に來るんぢやなかつたのに!」
このやゝ廣すぎて他の人にも當てはまる言葉は、美しいテスの頭上に、不幸にも他の方面から惡罵の瀧を降らせることになつた。
中でもダイヤの女王は、ダアバァヴィルとはカアにも怪しまれるやうな間柄になつてゐたところから、
カアと共同戰線を張つて、共通の敵に對抗した。その他の女も五六人、 また今夜のやうな馬鹿騷ぎの後でもなかつたらまさか誰も見せさうもない、
實に狂氣染みた氣持になつて調子を合はせた。そこで、その女逹の亭主や戀人逹は、
テスが理由もなく
テスは腹も立ち恥かしくも思つた。もう道の寂しいことや時刻の遲いことなどは、
何とも思はなかつた。たゞ一つの目的は、出來るだけ早くこの仲間から逃れることだつた。
彼女は、彼等の中でも善良な者は、明日になると、この忿怒を後悔するに違ひないといふ事を知りぬいてゐた。
連中は、もう一人殘らず畑の内側にゐた。そこで彼女は、 一人で駈け出して分れてしまはうとじり〜
「お前逹、一體この騷ぎは、どうしたつてんだい?」と彼は訊ねた。
それに對する説明は、たやすくは出て來なかつた。また實際は、彼もそれを少しも要求してゐるのではなかつた。 まだ幾らか離れてゐる先の方で、彼は一同の聲を聞いたので、こつそり馬を進めて來たのだつた。 そして、十分納得の行くまで、事態を確かめてゐた。
テスは、門の近くに仲間から離れて立つてゐた。彼は彼女の方へ體を屈めた。
「僕の後に跳び乘りな、」と彼は囁いた。「そしたら、すぐあのぎや〜
彼女は殆んど今にも氣絶しさうだつた。そんなにもこの危機に對する彼女の意識は、 緊張してゐたのであつた。彼女の生涯のうちで、この時以外だつたらどんな時でも、 これまでにも度々斷つて來たやうに、かういふ先方からの助力や同行を斷つた事であらう。 そして今の場合でも、たゞ寂しいといふだけなら、申し出に應ずるやうな事はなかつたであらう。 だが、ちよつと一跳びすれば、かういふ敵に對する恐怖と憤怒とを、 勝利に一變させることが出來るといふ丁度その特殊な時期に招きを受けたのだから、 彼女は衝動に驅られて門によぢ登り、男の足の甲に爪先をかけ、彼の背後の藏へ這ひ上つた。 喧嘩好きな酒飮み連が、その出來事に氣づいた頃には、二人はもう遠く薄暗がりの中へ疾驅して、消えようとしてゐた。
スペイドの女王は、
「何を見てゐるんだい?」と、この出來事に氣づかなかつた一人の男が訊ねた。
「はゝゝ!」と、色の黒いカアは笑つた。
「へゝゝ!」と、酒飮みの花嫁は、好いた亭主の胸に身を寄せたまゝ笑つた。
「ふゝゝ!」色の黒いカアの母親は、口髭を撫でながら、(英國では年取つた女に口髭のあるのは珍しくない)笑つた。 そして、かう手短かに説明を加へた。「フライ鍋から、火の中へつて奴さ!」
やがて、過度の
暫くの間、二人は無言のまゝ普通の駈足で進んだ。テスはまだ自分の勝利に勢ひづいて彼に
「どうだ、上出來だつたらう、ねえテス?」と、やがて彼は口を切つた。
「えゝ!」彼女は言つた。「よつぽど有難く思はなければなりませんわ。」
「ぢや本當に有難く思ふかね?」
彼女は答へなかつた。
「テス、お前は何故いつまでも僕が接吻しようつてのを厭がるんだい?」
「それは、多分 -- あなたを愛してゐないからなんでせうよ。」
「本當にさうかね?」
「私、時々あなたに腹の立つこともありますの!」
「ふん、僕も大方そんなことだらう位ゐに、思つてゐたよ。」がしかし、アレクはその告白に抗議を申し込みしなかつた。 彼はどんなことを言はれても、冷淡にされるよりはましだといふ事を知つてゐた。 「僕がお前を怒らした時に、何故さう僕に言はなかつたんだい?」
「何故だかよく知つてゐらつしやる癖に。私、こちらでは勝手な振舞ひは出來ないんですもの。」
「これまで、僕が言ひ寄つて、お前の機嫌を損じた事がさう何度もあつたかしら?」
「時々ありましたよ。」
「幾度だい?」
「あなたは御存じでせう、私と同じに -- もう幾度もですわ。」
「僕が言ひ寄つた時は何時でもかい?」
彼女は默つてゐた。そして馬はゆる〜と可なりの
彼女は言葉に言ひつくせないほど疲れてゐた。その週は毎朝五時に起き、一日中立ちづめだつたし、それに、
今夜はチェイズバラーへ三哩も歩き、食はず飮まずに三時間も近所の人逹を待つて、
(彼等を一刻も早く立たせようと焦つた爲めについ食べることも飮む事も妨げられてしまつた)
歸り途を一哩も歩き、やがて喧嘩をして興奮し、それに馬に歩みは遲いと來てゐるので、
もうかれこれ一時であつた。でも彼女が心から睡魔に襲はれたのは、たゞの一度きりであつた。
一切を忘れたその瞬間に、彼女の頭は、靜かに彼の體へ
ダアバァヴィルは馬を止め、
この爲めに、彼女は直ぐきつと身構へした。 とかく彼女の起しやすい、電光のやうな復讐の衝動の一つに驅られて、彼を自分から少し押しやつた。 彼は危つかしい位置にあつて、もう少しで平衡を失ふところだつたが、馬が、 力こそ強かつたが幸ひ乘りつけの、うちでも一番おとなしい奴だつたので、 やつと街道へ轉げ落ちることだけは助かつた。
「そりやあんまり不親切な
彼女は半信半疑で、ぢつと考へ込んだ。やがて結局それが本當かも知れないと考へて、優しくなり、 すつかり下手に出て言つた。「御免なさいねえ。」
「僕を、信頼するつてことを何かの形で見せてくれなくちや、許す譯にやいかない。 いま〜しいつたらありやしない!」と彼は怒鳴り出した。「僕は一體何だといふんだらう。 お前のやうなはした小娘に、こんなにまで愛想づかしをされるなんて? もうかれこれ三月近くも僕の感情を玩具にし、僕から逃げまはり、僕に肘を喰はして來たんだ。 もう我慢が出來ない。」
「私、明日お暇を戴きます。」
「いゝや、明日暇はやれないよ!もう一度頼むがね、僕の腕に抱かれてくれ。 そして僕に信頼してゐる實を見せてくれないか?さあ、僕逹二人つきりの間だ、 他に誰もゐやしないよ、お互ひによく氣心を知り合つてゐるんぢやないか。 それに僕がお前を愛してゐるつて事も、お前を世界一の美人だと思つてゐる事も -- 實際さうなんだが -- 知つてゐるぢやないか。お前を僕の戀人と考へちやいけないのかい?」
彼女は鞍の上でおづ〜身を藻掻きながら、厭だといふ意味の怒りつぽい短い息を吐いてから、 遙か遠くの方を見て呟いた。「私には分りません -- 言へちやいゝんですが -- どうしてはいとかいゝえとか返事が出來ませう、あの -- 」
彼は望んでゐた通りに彼女を腕に抱きしめて、この事件の片をつけてしまつた。 で、テスももうそれ以上厭とは言はなかつた。かうして二人はゆつくりと進んで行つたが、 やがて彼女は、二人がとても永い時間をやつて來た -- この歩調で歩いたとて、 普通ならチェイズバラーからの短い旅では、さう時間がかゝりはしないのに、 遙かに永くかゝつてゐる -- こと、それに二人が通つてゐるのは街道ではなくて、 ほんの細道にすぎないことに氣がついた。
「まあ、此處はどこなんでせう?」と彼女は叫んだ。
「森の傍を通つてゐるのさ。」
「森ですつて -- 何處の森?きつと本道をすつかり外れてしまつたんでせう?」
「チェイズの森の一部だよ -- 英吉利でも一番古い森なのさ。實にいゝ晩だ、 一寸ぐらゐゆつくり遠乘りしたつていゝぢやないかね?」
「あなたは何てまあ
「歩いてなんか歸れやしないよ、ねえ、お前、よし空が晴れてゐたつてさ。 すつかり言へといふなら言つて上げるがね、僕逹は、トラントリッヂから幾哩も離れたところへ來てるんだよ。 それに、かうどん〜霧が深くなつて來ては、お前だつたら、幾時間も〜、森の中を迷ふかも知れないぜ。」
「どうぞ、そんな事にはお構ひなく、」と彼女はうまく丸め込むやうに言つた。「お願ひですから、下して下さい。 何處だつて、私かまひません。下してだけ下さい、ねえ、どうぞ!」
「よろしい、ぢや下してやらう -- 條件つきでね。こんな
彼女はこの條件を承諾し、手近の側で滑り下りた。
尤も彼があわたゞしい接吻を
「馬を押へてゐなけりやならないでせうね?」と彼女は言つた。
「いや、いや、それには及ばないよ、」とアレクは、はあ〜息を切らしてゐる馬を撫でながら、答へた。 「今夜は、さん〜゛乘り廻されたんだから、押へてゐなくても大丈夫だよ。」
彼は馬の頭を
「さあ、其處へお坐り、」と彼は言つた。「まだ葉は濕つちやゐない。ちよつとで好いから、 馬を注意してゐておくれ -- それだけで結構だから。」
彼は彼女から二三歩立ち去つたが、また戻つて來て言つた。「時にねテス、お前のお父さんは、
今日新しい
「くれた方?あなたでせう?」
ダアバァヴィルは
「まあ、そんな事をして下さるつて、何てあなたは御親切なんでせう!」丁度かういふ場合に、 彼に感謝しなければならない氣まづさをひどく氣にしながら、彼女は叫んだ。
「それから、子供逹は、
「渡井s、ちつとも存じませんでした -- あなたが、子供逹に何か送つて下すつたといふ事は!」 彼女はすつかり感動して、囁いた。「私、却つてあなたからそんな事して頂かなかつた方がいゝと思ひますわ -- さうです。その方がいゝと思ひますわ!」
「何故だい、ねえお前?」
「そんな事をして頂くと -- 私、ひどく窮屈になりますから。」
「テッシイ -- お前はまだ僕をちつとも愛しちやくれないのかい?」
「そりや私、有難いとは思つてゐます。」と彼女は澁々言つた。「でも、私、あの -- 、」 かう言ひきれない結果を招いた原因である、自分に對する彼の激情が、突然幻となつて現はれ、 ひどく彼女の胸を痛めたので、眼には涙が一滴しづかに浮びかけ、つゞいてまた一滴が流れ、 遂に本當に泣き出してしまつた。
「泣かないでおくれ、ねえお前!さあ、こゝへ坐つて、僕の戻つて來るまで待つてゝおくれ。」
彼女は、彼の積み上げてくれた落葉の中へ、素直に腰を下した。見ると、微かに顫へてゐた。 「寒いのかい?」と彼女は訊ねた。
「それ程でもないんですが -- ほんの少うし。」
彼は指で彼女の體に觸れて見た。すると指は、まるで沈むやうに、その體の中に落ち込んだ。
「ふわ〜したモスリンしか着てゐないんだね -- 一體どうしたんだい?」
「これが私の、一番いゝ夏着なんです。出て來る時には大へん暖かだつたし、 それに馬に乘るつてことも、夜になるだらうつてことも、知らなかつたものですから。」
「九月になると、夜は薄寒くなつて來るよ。えゝかうッと。」 彼は自分の着てゐた輕い外套を脱いで、優しく彼女の周りに掛けてやつた。
「これでいゝ -- さあ、だん〜温かになるよ、」彼は續けた。 「さあ、いゝかね、お前、そこでおやすみ、直ぐにまた戻つて來るから。」
彼女の肩のまはりにかゝつてゐる外套の
その間にアレク・ダアバァヴィルは、一體自分逹はチェイズの森のどの邊に入り込んでゐるのか、
自分ながら本當に疑はしいので、その疑問を晴らす爲めに、傾斜面をどん〜登つて、
その頂上まで行きついた。實をいふと彼は、今まで彼女と一緒に少しでも長くゐたいと思つて、 行き當りばつたりにどんな道角でも折れ、
路傍のものなんかよりは月光に照らされたテスの體に一きは心を奪はれながら、
全く出鱈目に、一時間以上の乘り廻してゐたのであつた。疲れた馬には、暫くの休息が望ましかつたから、
彼は急いで陸標を探さうともしなかつた。小山を越えて地續きの盆地へ下りると、
輪廓に見覺えのある本道の柵のところへ出た。これで、彼等が何處に來てゐるかといふ問題も解決された譯である。
そこで、ダアバァヴィルは
「テス!」とダアバァヴィルは言つた。
何の返事もなかつた。
暗闇と
あの山奧に引つ込んでゐるテスの村人が、飽きもせずお互ひに、諦めた風で言ひ合つてゐるやうに --
『どうせさうなるやうに出來てゐたのだ。』そこにかういふ事件の氣の毒な點があつた。
或る測り知る事の出來ない社會上の
バスケットは重く、包みは大きかつたが、彼女は、荷物などの重いのは大して苦にもしない人のやうに、 それを提げて進んで行つた。折々門や柱などの側に、機械的に立ち止つては休んだ。それから、 その荷物を引き寄せて、丸々と肥つた腕に掛け、再びそろ〜と歩を運んだ。
それは、十月末の或る日曜日の朝で、テス・ダアビフィールドがトラントリッヂへ來てから四ヶ月程になり、
あのチェイズの森へ、夜、馬で行つてから二三週間經つた後のことであつた。
時刻は、まだ夜が明けてからいくらも經つてゐなかつた。
この傾斜は、六月のあの日に、ダアバァヴィルが彼女を乘せて無闇に馬車を驅つたのと同じ丘であつた。
テスは傾斜面のまだ續いてゐる殘りの里程を休みもしないで登りつめ、
たつた今、自分が一生懸命になつて上つて來たばかりの、長い、白い街道を二輪馬車が登つて來るのを彼女は眼にした。 馬車と並んで、一人の男が歩いてゐた。彼は手を擧げて、彼女の注意を惹くやうにした。
彼女はその合圖に從つて、別に深く考へるでもなく、ぢつとして彼を待つた。 二三分のうちに、男と馬とは、彼女の側へ立ち止つた。
「何だつてこんな風にこつそり拔け出て來たんだ?」ダアバァヴィルは息を切らして傍へ寄りながら言つた。
「それもみんな寢てゐる日曜の朝といふ時にさ!僕はほんのちよつとしたことから、お前の家出を知つたんで、
目茶苦茶に馬を驅つて追つかけて來たんだ。ちよつとこの馬を見るがいゝ。何だつてこんな出方をするんだ?
お前も知つての通り、出たいと思ふなら誰だつて止めようとはしないぜ。それに、實に無駄なこつちやないか、
足を引摺つて、こんな足手纒ひの荷物を提げて歩くなんて!僕は狂人のやうに後を追つかけて來たんだぜ。
たゞもう、これから先の
「私、戻りません。」と彼女は言つた。
「お前は歸るまいと、僕も思つた -- 僕もさう言つて來たよ!ぢやバスケットをお載せ。 これから送つて行つてやらう。」
彼女はどうでもいゝと言つたやうに、バスケットと包みを二輪馬車の中に入れ、
自分も階段を上つた。そして二人は並んで腰掛けた。彼女はもう今では彼を少しも怖がつてはゐなかつた。
その恐れなくなつた
ダアバァヴィルは機械的に葉卷へ火を點けた。そして、道端のありふれたものを話題として、
途切れ〜に味氣ない會話をしながら旅を續けた。彼はこの夏の初めに、
この同じ街道を反對の方向へ馬車を驅つてゐた時、彼女に接吻しようと
「何だつてお前泣いてるの?」と彼は冷やかに訊いた。
「私たゞ、あの向うで生れたんだつて事を考へてたゞけなんです。」とテスは呟いた。
「さうか -- 僕逹はみんな何處かで生れなきやならないんぢやないか?」
「私、生れなかつた方がよかつたわ --
「馬鹿な!ところで、お前、トラントリッヂへ來たくなかつたのなら、何故やつて來たんだい?」
彼女は答へなかつた。
「僕が戀しくて來たんぢやない事だけは、確かなんだね。」
「ほんとにその通りです。若しあなたが戀しくて行つたのなら、若しあなたを心から愛してゐたんのなら、
若しあなたを今でも愛してゐるのなら、私は今のやうに、自分の弱さを自分から厭がつたり憎んだりはしません!……
この眼があなたの爲めに、一寸の間
彼は肩を搖つた。彼女はなほ續けた --
「私、あなたのお考へが分らなかつたんです。分つた時にはもう遲かつたんです。」
「それはどんな女でも言ふことだ。」
「どうしてあなたは、そんな事が言へるんです!」彼女は彼の方へきつとなつて振り向きながら叫んだ。 彼女の兩眼は、内部に隱れてゐる靈氣(他日また彼はもつと度々それを見せつけられずにはゐなかつた) が目覺めて來るにつれ、焔のやうに輝いた。「あゝ!あなたを馬車から突き落としても足りないくらゐだわ! あなたなんぞは、すべての女が口先だけで言ふ事を、ほんとに心に感じる女がゐるかも知れないなどゝは、 考へてみた事もないでせう?」
「なるほど。」と彼は笑ひながら言つた。「お前の氣を惡くして濟まなかつた。僕が惡かつた --
確かに惡かつたよ。」彼は言葉を續けて行くうちに、多少の厭味を加へた --
「たゞさういつまでも、僕に面と向つてそれを叩きつけるにや及ばないぢやないか。
僕は何時でも、最後の一厘まで償ふつもりでゐるんだ。ねえ、いゝかい、
もうお前は二度と再び野良や
彼女の一本氣ではあるが寛大な性質には、他人を輕蔑するやうな氣味はどんな場合にも殆んどなかつたが、 今、彼女はいくらか唇を尖らした。
「もうこの上、あなたからは何も頂かないと言つたぢやありませんか。頂かうとは思ひません -- 頂ける譯がありませんもの!そんな事をして行く日には、私は、あなたの飼物になつてしまひます。 そんなものになぞ、私なりたくはありません!」
「お前のその態度を見たら、人はお前を正眞正銘のダアバァヴィル家の者であるばかりでなく、 その姫君だらうと思ふかも知れないよ -- あはゝ!はゝ!で、テス、僕にはこの上何も言へない。 僕は惡人だ -- ほんとに惡人だ。僕は惡人として生れ、惡人として生きて來ただ、 恐らくまた惡人として死ぬだらう。だが、僕はこの迷つた魂にかけて言ふが二度と再びお前に惡い事はしないよ、 テス。それで若し何か事情が -- いゝかね、分るだらう -- 萬一起つて、ちつとでも不自由をしたり、 面倒なことがあつたりしたら、僕んとこへちよつと書いて寄越してくれ。 そしたらすぐ何でもお前が入用のものを贈つて上げるから。 僕はトラントリッヂにはゐなくなるかも知れない -- 暫らく倫敦へ行かうと思つてゐるから -- 僕にはあの婆さんがとても我慢出來ないんだ。でも、手紙はみんな僕の方へ廻送されるだらうから。」
彼女は、もうこの先馬車で送つて貰ひたくないと言つた。そこで、二人は丁度一群の立木の下に止つた。
ダアバァヴィルは馬車から下り立ち、彼女の體を兩腕に抱きかゝへて下ろし、
その側の地べたに荷物を置いた。彼女は輕く彼に會釋し、その視線をほんのちよつと彼の眼の
アレク・ダアバァヴィルは葉卷を口から離し、彼女の方へ身を屈めて言つた --
「まさかこんなに素つ氣無く別れて行く積りぢやあるまいね?さあ!」
「お望みなら、」テスは冷淡に答へた。「あなたは私を、もうどんなに自由にしてしまつた考へて御覽なさい!」
彼女は向き直つて、顏を彼の方へ上げた。そして、彼が彼女の頬に -- 半ば上の空で、
半ばは興味が全く消えてしまつたわけでもないやうに -- 接吻する間、彼女は大理石の胸像のやうに
「昔の馴染甲斐に、今度はそつち側。」
人々が、寫生家とか理髮師とかの求めるまゝにするやうに、彼女は前と同じ具合に素直に頭を向け換へた。
そこで彼は、その方にも接吻した。彼の唇にふれた頬の感じは、
まるでその周圍の野に生えてゐる
「お前は、口を出して接吻を返してくれないね。お前は、決して心からさうしようとはしないね -- お前は、 決して僕を愛してくれる事はないのかね。」
「私は度々さう言つたでせう。その通りなんですわ。私はあなたを眞實に心から愛した事なんかありません。 決して愛する事なんか、出來ないと思ひます。」彼女は悲しさうに附け加へた。 「多分、他のどんな場合よりも、こんな場合に嘘をいふのが、今の私には一番得になるでせうよ。 でも私には、ほんの少しですが、そんな嘘はつかないだけの廉恥心がまだ殘つてゐます。 若し私があなたを愛してさへゐましたら、それをあなたに知らせるに何よりもいゝ理由が私にあるかも知れません。 が、私、あなたを愛してはゐないんですから。」
彼はさも苦しげに吐息を洩らした。恰もこの場の有樣で、彼の胸や、或は良心や、 又はその善良さを壓迫されてゞもゐるかのやうに。
「ところで、お前馬鹿に沈んでゐるね、テス。僕はもう今ではお前の機嫌をとる理由もないから、 明らさまに言ふがね、お前はそんなに悲しまなくてもいゝよ。お前は、貴賤を問はず、 この地方のどんな女にだつて、容色では引けはとらないよ。僕は世間を知つた人間として、また、 お前の幸福を願ふ者としてこのことを言ふんだ。若しお前が賢い女なら、 お前の美しい容色が褪せてなくならないうちに、もつと世間へ見せびらかすだらうね……だがテス、 僕のところへ戻る氣はないかね?どうしても僕は、こんな風にしてお前を歸したくはないんだ!」
「戻りません。どうしたつて戻りません。あの -- 私、もつと早くに氣がつかなくちやならなかつた -- それに氣がつくとすぐに、私は決心しました。私、どうしても戻りたくありません。」
「ではさやうなら、四ヶ月の
彼は身輕く馬車に飛び乘つて、手綱を整へた。そして赤い果實の
テスは彼を見送りもしないで、靜かに曲りくねつた小徑を縫つて行つた。朝はまだ早く、
が、彼女が歩いてゐると、背後から何かの
「この安息日にもう歩いてゐるなんて、お早いこつてすね!」と彼は快濶に言つた。
「えゝ。」とテスは答へた。
「大抵の人は
彼女はこの言葉にも頷いた。
「尤もわしや、
「まあ、さうですか?」
「
彼女は彼にバスケットを持つて貰つてゐたのだから、さうするより仕方がなく、
彼の樣子を眺めながら待つてゐた。彼はバスケットとブリキ壺とを下へ下ろし、
壺の中に差し込んであつた
爾の、滅亡は、
寐 ず。 (欽定約聖書原文彼得後書第二章三節)
穩かな風景、
この言葉を書き終ると、彼は、バスケットを取り上げた。彼女は機械的に彼と並んで、なた歩き出した。
「あなたは、お書きになつた事をお信じになりますの?」と彼女は低い調子で訊ねた。
「あの句を信じるかつて?自分で自分の存在を信じるなんて事がありますか?」
「でも、」と、彼女は顫へ聲で言つた。「若しあなたが罪を犯したとして、 それが自分から求めたものではないとしましたら?」
彼は頭を振つた。
「そんな差し迫つた大問題を、事細かく話す譯にや行きませんや、」と彼は言つた。
「わしやこの夏、この地方を隅から隅まで、塀といふ塀、門といふ門、踏段といふ踏段に、
かういふ言葉を書きつけながら何百哩と歩いて來たんですぜ。
この言葉をどんな風に
「私、あれは恐ろしい言葉だと思ひます。」と、テスは言つた。「人の心を打ち碎く……殺してしまふやうな!」
「全くその積りで書いてあるんです!」と彼は商賣人らしい聲色で答へた。「だがあなたは、
わしの書く一番嚴しい奴を讀まなくちやいけません -- こいるは貧民窟や港町で使ふ爲めに取つて置くんですがね。
それこそ、あたな方を屹度のた打ち廻らせるでせうよ。こりや田舍の地方へ使つて、
「厭ですわ、」とテスは言つた。そして彼女はそのバスケットを取り上げ、重い足を引きずつて行つた。 少し歩いてから、彼女は振り返つて見た。古い灰色の塀は、 これまで曾つて要求されたことのに義務を負はされて困つてゞもゐるやうな、 不思議な、見馴れない面持ちをして、最初のと同じやうな激しい文字を披露し始めた。 彼が今、丁度半分まで書きかけた文句を讀み、それがどういふ句になるかを知つた時、 彼女の顏は急に赧くなつた --
汝、犯す、こと、勿れ --
彼女の快濶な連れは、彼女が眺めてゐるのを見て、
「若しお前さんが、この大切な事を
しかしテスは答へなかつた。彼女は胸をどき〜させながら、眼を伏せて、また歩き出した。 「馬鹿々々しい -- 神樣があんな事言つたなんて、私には信じられない!」彼女は輕蔑するやうに呟いた。 もうその時には顏のほてりは消えてゐた。
細々とした煙が急に父の家の煙突から立ち昇つた。それを見ると、彼女の胸は痛んだ。家の中へ入ると、
その屋内の光景は愈々彼女の心を痛めずには置かなかつた。丁度二階から下りて來てゐた母親は、
朝飯の湯沸しの下で、皮を剥いだ
「まあ! -- テスや!」
母親は吃驚して跳びついて、娘に接吻しながら叫んだ。
「どうしたんだい、お前は?眼の前に立たれるまでは、私はお前に氣がつかなかつたんだよ!
お嫁に行くんで、お前
「いゝえ、私、そんな事の爲めに來たんぢやないの、お母さん。」
「ぢや、お休みでか?」
「えゝ -- お休みで、長いお休みで。」とテスは言つた。
「何だつて。お前の從兄はよい事をしてくれるつてんぢやないのかい?……」
母親は彼女をしげ〜と見詰めた。
「さあ、何もかもすつかり話してお終ひな。」と彼女は言つた。
それから、テスは母親の方へ寄り添つて、顏をその頸に載せて物語つた。
「それでゐて、お前はあの人に結婚させようとしなかつたのかい?」母親は繰り返して言つた。 「そんな事があつた以上、お前でなかつたら、どんな女だつてさうするだらうよ!」
「大方、どんな女でもした事でせう、けれど私は別です。」
「お前が若しそれを果してさへ歸つて來たのだつたら、いゝ土産話になつたゞらうにね!」
ダアビフィールドの女房は、口惜しさで泣き出しさうになつて、言葉を續けた。
「お前とあの人の事は、いろんな評判がもう
アレク・ダアバァヴィルを自分と結婚するやうに仕向けるなんて!あの人が自分と結婚する!
結婚の事なんか、あの人はついぞ一言だつて口に出した事はなかつた。
そして、若し言つたとしたら、どうだつたらう?
「女房にして貰ふ氣がなかつたのなら、お前はもう少し氣をつけてゐなければいけなかつたのにね!」
「まあ、お母さん、お母さん!」可哀さうに、心臟も破れ裂けるかとも思はれるばかりに物狂はしく、
母親の方へ向き直つて、娘は切なさうに叫んだ。「私、そんな事にどうして氣がつく筈がありませう?
四月前に家を出る時、私はほんの子供だつたぢやありませんか。男つてものは油斷がならないと、
何故お母さんは教へてくれなかつたんです?何故私に誡告してくれなかつたんです?
貴婦人方は小説を讀んで、こんな
母親は、折れて出た。
「私はまた、あの人の優しい心や、その爲めにどんな成り行きになるかつて事などを話したら、
お前はあの人に威張り散らして、折角の
テス・ダアビフィールドが、
この娘逹は非常に深い興味を持つてゐたから、テスが後ろを向くと、中でも年下の者は囁き合つた --
「何てあの人は綺麗なんでせう!餘程
テスは隅の戸棚から茶道具を取りおろさうとしてゐたので、この批評を耳にしなかつた。
若し聽いたら、即刻友逹の誤解を解いたかも知れない。だが、母親はそれを聽いてゐた。
母親の他愛もない虚榮心は、華やかな結婚の希望を失くしてしまつたので、
せめて華やかな口説の場面なりを心に描いて、出來るだけ滿足を味はふやうにしたのである。
たとひこんな小さな
娘逹の饒舌や、哄笑や、陽氣な諷刺や、わけても折々閃めかす羨望などに誘はれて、 テスの元氣もまた甦つて來た。そして夕暮が迫つて來るのつれ、皆の興奮に感染して、彼女は殆んど快濶になつた。 大理石のやうな堅さは顏から去り、彼女は幾分また昔の活溌な足取りで歩き廻り、 ありつたけの若々しい美しさに輝き出した。
時々、考へ深かつたにも拘らず、彼女は男から口説かれるといふ事にかけては、自分の經驗が、 實際少しは羨ましがられるものであつたと認めてゞもゐるかのやうに、 彼女は優越者らしい態度で娘逹の質問に答へるのであつた。けれどもテスは、ロバアト・サウス (一六三三年 - 一七一六年英吉利の神學者、牧師)の言葉を借りれば、『ありし昔を懷しんで』ゐるどころではなかつたから、 その幻影も電光のやうに忽ち消えてしまつた。そしてすぐ後からは、冷たい理性が甦つて來て、 彼女の氣紛れな弱點を嘲つた。一時的な誇りが空恐ろしいものとなつて、罪深い彼女を責めるやうになり、 またしても引つ込み勝ちなぼんやりした氣持に、彼女を連れ戻すのであつた。
そして、翌朝夜の明け方のテスの落膽といつたら、
二三週間經つうちに、テスは或る日曜日の朝、教會へ出掛ける位ゐの程度に戸外へ姿を現はす元氣を囘復した。 彼女は聖歌や --
名ばかりのものであつたが -- 古い『詩篇』を聽き、そして『朝の讚美歌』を合誦するのが好きだつた。
彼女は
彼女は自分だけの理由から、出來るだけ
村人は二三人づゝ入つて來て、彼女の前方に並んで席に就き、實は祈つてなどゐなかつたのだが、
恰も祈つてゞもゐるやうに、一分足らずの間
頭を正面に向けてゐた人逹は、勤行が進行するにつれて再び
子供逹と一緒に占領してゐた寢臺は、これまでよりも長く彼女の隱れ家になつた。彼女は、
この草葺の二三
その頃、テスが試みたたゞ一つの運動は、暗くなつつてからの散歩であつた。
そして彼女が一番淋しく思はなかつたのは、その時分、森の中に入る時であつた。
光と闇とが程よく平均して、晝の緊張と夜の休息とがお互に飽和し、
人が心をこの上なく自由にする夕暮の瞬間を寸分違はず當てる方法を、彼女は知つてゐた。
生きてゐると云ふ状態がこの上なく小さく薄れ細つてしまふのも、その時である。 彼女は、暗闇などを少しも恐れはしなかつた。人間世界を --
いや寧ろ、 一團となれば非常に怖ろしくなるが、ばら〜ではちつとも恐ろしくない、
慘めなものでさへあるこの世間と
この淋しい丘の上や谷を
けれども、つまらない因襲に基いて彼女が勝手に作り出したこの環境は -- そこには彼女の大嫌ひな幻影や聲が徘徊してゐた --
テスの空想から生れた、悲しい間違つた産物であつた --
それは彼女が理由なく怖れ
太陽は、霧の爲めに妙に感情を持つた人間のやうな表情を浮べ、それを遺憾なく現はす男性名詞を求めてゐた。
この時の太陽の表情は、あたりに一切人影が見當らないのと相俟つて、 直ちに昔の太陽崇拜の教義を説明してゐるやうであつた。天の下に、 これほど健全な宗教が曾つてあつたとは感ぜられない位ゐであつた。 この發光體は、金色の頭髮を戴き、快濶で、やさしい眼をした神のやうな生物で、 青年に見られるやうな活氣と強さをもつて、彼に對する興味に溢れてゐる地上を見下ろしてゐた。
暫くすると彼の光は、農家の鎧戸の
けれどもその朝、赤く輝いた一切のものゝうちで一番よく光つてゐたのは、
マアロットの村に直ぐ近い、黄金色の小麥畑の一隅に立つてゐる、ペンキ塗りの幅の廣い二本の腕木であつた。
それは下の方の他の二本の腕木と共に、今日の作業の用意に、前夜、
この耕地へ運ばれてゐた囘轉するマルタ十字形(燕の尾のやうに交叉した十字形)の
畑はもう『開いて』ゐた。つまり、馬や機械が最初に通つて行けるだけの道を作る爲めに、
畑の外輪は、小麥が二三
丁度東の生垣の
やがて内側から、
畑を取り卷いてゐる切株の見える狹い小徑は、
だが、この束手の一團の中でも、一番興味をそゝるのは女逹であつた。それは女が、 戸外の自然の一部分となり、平常のやうに、自然の中に置かれるたゞ一個の存在物だけでなくなる時には、 一種の魅力が添つて來るからである。野良の男たちは、たゞ畑に働く人間に過ぎないが、 野良の女は畑の一部分である。彼女は女特有の輪廓を幾分失ひ、周圍の要素を吸收して、 それと同化してしまつてゐる。
女逹 -- 大抵は若い者ばかりだから、寧ろ娘逹と言つた方がいゝ -- は、
大きな日除けの埀布の附いた透し模樣の木綿の縁なし帽子を被り、
手には切株で傷をしないやうに手袋を嵌めてゐた。薄い桃色の短い上衣を着てゐるものもゐれば、
袖口の締つた桃色の長い上衣を着たものもゐるし、
時計のやうに單調に、彼女は束ねつゞけて行く。今束ね終つたばかりの一把から、彼女は一握りの穗を引き拔き、
左の掌でその頂きを輕く叩いて穗先を揃へる。それから、低く屈んで前へ進み、兩手で小麥を膝へ寄せかけて取り集め、
戀人を抱擁する時のやうな恰好で、手袋を嵌めた左手を束の下へ廻し、右手と向う側で合せるやうにする。
繩の兩端を引き合せて束ねる間、束の上に膝を突き、折々微風の煽られる下袴を叩いては元へ返す。
彼女の籠手の
彼女は時折、立ち止つて休み、亂れた前掛を締め直したり、帽子を眞直に直したりする。 その時眞黒な眼と、觸れるものなら何にでも哀れを求めるかのやうに絡みつかうとする、 長い髮の毛の房を埀れてゐる美しい若い女の卵形の顏が見える。田舍育ちの娘によく見かけるよりも、 その頬は蒼白く、齒並も正しく、赤い唇も薄い。
これこそテス・ダアビフィールド、又の名ダアバァヴィルで、何處か以前とは變つてゐる --
同一人でありながら、しかも同一人ではないテスである。いま身を置いてゐる土地は異郷ではないのに、
現在の彼女の樣子から言へば、一人の
他の女逹の動作も多少テスに似てゐて、各々一束を丸め上げると、一同は殘らず四組舞踏の踊手のやうにかたまつて、
銘々が束の先を他の人の束に立て掛け、やがて十束、或は十二束の
彼等は朝飯に行つて、再び戻つて來た。そして仕事は前の通り進行した。十一時近くなると、
テスを注意して見てゐた者は、彼女が、束ねる手は休めなかつたがその視線を屡々素早く丘の頂きへやるのに氣づいた事であらう。
愈々その時刻に迫つた時、六歳から十四歳位ゐまでの一團の子供の頭が、切株だらけの丘の
テスの顏は微かに赤くなつたが、それでも仕事は止めなかつた。
やつて來た子供の中で一番年長の女の子は、掛けてゐる三角形の肩掛の端を切株の上に引き摺りながら、
ちよつと見ると人形かと思はれるものを兩腕に抱いてゐたが、それは長い
テス・ダアビフィールドは、最後まで仕事をしてゐた一人であつた。彼女は仲間から顏を幾分外らして、
彼女の一番近くにゐた男逹は、思ひ遣りよく畑の他の端の方へ顏を背けた。中には煙草を喫ひ始める者もあり、
一人の男は、酒が飮みたさに夢中になつて、もう一滴も出て來ない
嬰兒が腹一ぱい乳を呑んでしまふと、若い母親は、膝の上に眞直立たせて、ずつと向うを見入りながら、 殆んど嫌惡に近いやうな不機嫌な冷淡さで嬰兒をあやした。それから突然、 まるでどうしても止める事の出來ないやうに、幾十囘となく激しい接吻をした。 嬰兒は激情と侮蔑との不思議に混り合つたこの攻撃の激しさに、泣き出してしまつた。
「ほんとに子供が憎いやうな振りをしたり、赤ん坊と一緒に墓ん中へ入つてしまひたいなんて言つてるけれど、
あの人は矢張りあの子が可愛いんだよ。」と赤い
「あの人も、もうぢきにそんな事は言はなくなるよ。」と淺黄色の女が答へた。 「まあほんとに不思議なもんだね、何時となく、誰でも自然とあんな事に馴れてしまへるなんてさ!」
「こんな事になるまでには、なか〜口説いた位えの事ぢやあるまいと私は思ふんだよ。去年の或る晩、
チェイズの森ん中で
「さうね、口説いた位えでねえかどうか、それは知らないが、 人もあらうにあの
實際、如何にも氣の毒なことであつた。今其處に坐つてゐるテスを眺めたら、たとひ敵であつても、
さう感じないではゐられなかつたらう。その花のやうな口、黒でも
突然思ひ浮んだ一つの決心から、幾月振りかで今週始めて、彼女は野良へ出たのであつた。
一人ぼつちの、世間知らずの氣持から思ひつける限りのいろんな悔恨の責道具で胸を責め
彼女は、こんなにまで自分の頭を低くさせるもの -- 自分の境遇に對する世間の思惑を顧慮する心 -- が、或る幻影の上に立つてゐるといふ事に氣づいたのかも知れなかつた。テスは彼女以外の者には、 何の係はりもない存在であり、經驗であり、熱情であり、また感覺の噐械であつた。 他のあらゆる人間にとつては、テスはたゞ一片の考へを呼び起す種に過ぎなかつた。 友逹にとつてさへ、彼女はたゞ屡々浮んでは消える思ひ出の種に過ぎなかつた。 たとひ彼女が長い晝夜を惱み通さうとも、彼等にとつては、たか〜゛これだけのことに過ぎないのだ -- 『あゝあの女は勝手に苦しんでゐる』と。たとひ彼女が努めて快濶になり、一切の心配を振り捨てゝ日の光や、 花や、嬰兒に樂しみを求めるやうにしても、彼女は彼等からたゞこんなに思はれるだけなのだ -- 『あゝあの女は感心によく堪へてゐる』と。その上、若し彼女が無人島にたゞ一人でゐるとしたら、 我が身に起つたことを嘆き悲しんだらうか?大して嘆きはしなかつたらう。若し彼女が、 たつた今生れたばかりの名もなき嬰兒の親としてより外、人生に全く無經驗な、 夫なくして母親となつてゐる自分に氣がついたとしたら、さういふ境遇は彼女を絶望させたであらうか? いや、彼女は冷靜にこの境遇を受け容れて、そこに樂しみを見出したことであらう。 彼女の不幸の大半は、因襲的な考へ方に拘泥した爲めに起つたので、生來の感情から生れ出たものではなかつた。
たとひテスがどんな風に理窟をつけて考へたにしても、 兎に角或る精神が彼女を以前のやうにきちんと身支度させて、 丁度收穫の爲めに非常に人手の要る畑へ出るやうにさせたのであつた。 かういふわけから、しつかりした態度を持し、嬰兒を腕に抱へてゐる時でも、時折、 彼女は落着いて他人の顏を正視したのであつた。
百姓逹は
午後も夕方も午前中と同じ仕事が續いた。テスはこの收穫者の一團と一緒に暗くなるまで止つてゐた。
それから彼等はみんな一番大きい荷車の一臺に乘つて歸つた。
けれども今度は、道徳的な悲しみが去らうとしてゐるのに、社會上の法則には關係のない新しい悲しみが、
母親としての方面に湧いて來た。彼女が家へ歸ると、悲しいことには、嬰兒が午後から急に病氣になつた事を知つた。
嬰兒がこの世に生れて來たが爲めに、社會に對して犯したその罪を、若い母親は忘れてしまつた。
彼女の心からの願ひは、この嬰兒の
自分のしたことの爲めに火刑に處せられなければならないならば、是非もない事で、 火刑にも會はう、それで萬事は終つてしまふのだといふ考へを、 たゞ默つて受け容れるやうな氣持にテスは引き摺り込まれてゐた。 村のすべての娘逹のやうに、彼女もまた聖書にはよく通じて、 淫婦アホラやアホリバ(不義を行つた姉妹の名)の傳記をもよく知つてゐた。 そして、その物語の中から引き出せる結論も分つてゐた。けれども、 それは同じ問題が自分の嬰兒に關連して起つて見ると、それは全く違つた色彩を帶びて來た。 彼女の愛兒は今死にかけてゐて、その靈は全く救はれないのだ。
もうかれこれ寢る時刻であつたが、彼女は階下へ駈け下りて行つて、牧師を頼んで來ては貰へまいかと訊ねた。
その時は丁度、父親が彼の一家の由緒ある家柄といふことを一番強く考へてゐる時で、
テスがその由緒ある家柄に泥をなすつたといふ感じが一番露骨にあらはれてゐる時であつた。
といふのは、彼は今丁度ロリヴァ亭で開かれた一週一度の
家族のものはみんな床に就いた。そしてテスは限りなく苦しみながら寢室へ引つ込んだ。 横になつてゐても、彼女は絶えず眼を覺ましてゐた。眞夜中になると、嬰兒がなほ惡くなつてゐるのに氣が附いた。 明らかに、もう死にかけてゐた -- 靜かに、苦痛もなく、が、矢張りたしかに死にかけてゐた。
彼女は悶え苦しみながら、寢床の上で輾轉した。時計は嚴かに一時を打つた。それは、
空想が理智を越えて跳梁し、いまはしい臆測が動かすことの出來ない事實となる時であつた。
彼女は、洗禮を受けてゐないのと、正統な生れでないのと、この二重の罪科で地獄のどん底の隅に葬られる嬰兒のことを考へた。
また魔王が、まるでパンを燒く日に
嬰兒の呼吸は益々困難になり、母親の心は益々緊張して來た。この幼い子に、 どんなに夢中で接吻して見ても無駄であつた。彼女はもう寢床の中にぢつとしてゐることが出來ないで、 熱に浮かされたやうに部屋中を歩き廻つた。
「おゝ、慈悲深い神樣、
彼女は箪笥に
「あゝ、この兒はことによると救はれるかも知れない!屹度、さうすれば同じ事になるでせう!」
彼女は非常に晴れやかにかう言つたので、まるで、彼女の顏が、周圍の陰鬱な情景の中で輝きでもしたやうに見えた。
彼女は蝋燭を燈して、壁の下にある二番目と三番目の寢床へ行つて、みんな同じ部屋に寢てゐる妹や弟を起した。
洗面臺を引き出して、その後へも廻れるやうにし、水差から水を少し出して、子供逹を車座に跪かせ、
指を正しく埀直に立てゝ合掌させた。子供逹はまだ本當に覺め切らないで、彼女の態度に恐れをなして、
だん〜大きく眼を見開きながらこの位置についてゐると、彼女は嬰兒を寢床から取り上げた -- 子供の子供を --
といふのは、この兒を生んだ彼女が、 母親といふ名を授けられるほどまだ十分成熟した人間になつてゐなかつたからである。
テスは嬰兒を抱へて、
中でも、一番感動を受けた者が言つた --
「本當に洗禮をしてやる積りかい、テス?」
娘のやうな母親は、眞面目な態度で、さうだと答へた。
「名前は何とつけるの?」
彼女はまだそれを考へてゐなかつたが、洗禮の儀式を進めてゐる間に、『創世記』の中にある一句から、 一つの名前を思ひついた。で、彼女は今それを宣言した --
「ソロウ、父なる神と神の子なる基督と、聖靈との御名によつて、我汝に洗禮を施す。」
彼女は水を振り撒いた。
「さあ、皆『アーメン』と言ひなさい。」
子供逹は言はれた通り、可愛らしい聲で、『アーメン!』を合唱した。
テスはなほ續けた --
「我等はこの兒を受け、」 -- 云々 -- 「十字架の印もて汝に記す。」
此處で彼女は、その手を洗面噐に浸し、嬰兒の上の空間に、食指で熱心に素晴らしく大きな十字架を描き、 勇敢に罪と世と惡魔と戰ひ、その生涯を終るまで、忠實なる神の兵士となり、 下僕たらんとのおきまりの文句を續けた。彼女は、間違ひなく『主の祈り』を續けて行き、 子供逹は彼女に習つて、細い蚊の鳴くやうな聲で、覺束なさゝうにそれを唱へてゐたが、 やがて結論に來ると、役僧と同じ位ゐに聲を張り上げて再び靜寂を破り『アーメン!』を合唱した。
それから、この聖禮の效果に就いて自信を高めた彼等の姉は、流れ出るまゝに胸の奧底から感謝の言葉を述べた。
言葉に心を打ち込んでゐる時に生じて來る、親しく聞いた者なら決して忘れないやうな高い倍音調の聲で、
元氣よく勝ち誇つたやうに唱へるのであつた。信仰の法悦状態に入つたので、
彼女は殆んど神のやうに神々しく見え、その爲めに、顏には輝かしい光が點ぜられ、
兩頬の中央には紅い點が浮き上つた。また
可哀さうに、罪と、世と、惡魔とを相手にしたソロウの戰ひは、大して華々しいものにはなれない運命を持つてゐた --
その生れた事の
洗禮を施した時から、テスの心は平靜になつて、嬰兒の死んだ時も依然としてその氣持が續いてゐた。 實際、晝間になつてみると、彼女は、我が子の靈魂に就いて幾分誇張して恐ろしがつてゐたと感じた。 立派な根據の上に立つてゐるかゐないかは兎も角として、彼女は今では少しも不安を抱かなかつた。 若し神がかういふ洗禮の眞似事を認めないとしても、他の人ならば知らんが自分だけは、 儀式が變則な爲めに失はれる -- 彼女の爲めにもまた子供の爲めにも -- やうな種類の天國なぞは重んじないとふことを考へたからである。
かうして、『厄介者のソロウ』は逝つた -- 社會の法則を無視する闖入者たる生物、 恥知らずの『自然』が贈つたこの私生兒は去つた。この風來兒は、永遠の『時』は僅か數日に過ぎなくて、 また年とか世紀とか云ふものが、曾つてあつたことなど知らなかつた。 彼には百姓小屋の内部が宇宙であり、一週間の天候がこの世の氣候であり、 生れたばかりの嬰兒時代だけが人生であり、乳を吸ふ本能が人智の全部であつた。
テスは、自分の施した洗禮のことを可なりよく考へてみたが、教義の上から言つて、 この洗禮が死んだ子を基督教に從つて埋葬するだけの力を持つものかどうかを疑はずにはゐられなかつた。 これに答へることの出來るものは、村の牧師より外にはなかつたが、牧師は最近赴任して來たばかりで、 彼女を知つてゐなかつた。彼女は、日が暮れてからその家へ出掛けて行つて、 門の傍に立ち止まつたが、どうしても中へ入るだけの勇氣を振ひ起すことが出來なかつた。 で、丁度歸りかけてゐるとき、偶然にも牧師が家へ歸つて來るのに出會はなかつたら、 彼との面會は斷念してしまはなければならなかつたかも知れない。 彼女は暗がりの中で、遠慮なく自由に打ち明けた。
「私、お訊ねしたいことがございますの。牧師さん。」
彼が喜んで聽かうと言つたので、彼女は嬰兒の病氣から間に合せに行つた儀式のことを話した。
「それから、牧師さん、」と彼女は熱心に言ひ添へた。「あの、私のしたことは、 あの子にとつてあなたから洗禮して頂いたのと同じことになるかどうか -- それを仰しやつて頂けませうか?」
自分が當然頼まれてなすべき筈の仕事を、客が自分勝手に不手際にやつてのけたのを知ると、
自然商賣人根性ともいふべきものが頭をもたげて來たので、彼は否と言はうとした。
けれども、この少女の威嚴と、その聲の不思議な優しさとが一緒になつて、 商賣氣よりも一層尊い彼の衝動を -- と言ふよりも、
事實上の懷疑心に職業的な信仰を
「娘さん、」と彼は言つた。「そりや、全く同じことでせうよ。」
「ぢや、あの子に基督教の埋葬をして下さいませうか?」と彼女は
牧師は返答に窮した。彼は嬰兒が病氣と聞いて、儀式を施してやるつもりで、 夜になつてから忠實に彼女の家へ出向いて行つたのであつたが、彼を家の中へ入れるのを拒んだのが、 テスではなく、父親であつたといふことは夢にも知らなかつた。その爲め、 違例の埋葬を行つてくれとの願ひを聞き入れる譯には行かなかつた。
「えゝと -- そりやまた別問題です、」と彼は言つた。
「別問題ですつて -- そうして?」とテスは幾分熱して訊ねた。
「さあ -- 私逹二人の間だけで濟む事なら、喜んでしても上げませうが。だが、どうしても出來ません -- 他に譯があつてね。」
「たつた一遍だけです、牧師さん!」
「どうしても出來ません。」
「あゝ牧師さん!」さう言ひながら、彼女は牧師の手を捉へた。
彼は頭を振りながら、その手を引つ込めた。
「ぢや私、もうあなたは嫌ひです!」と彼女は叫び出した。 「あなたの教會へなど二度と參りません!」
「そんな亂暴なことは言ふもんぢやありませんよ。」
「あなたがして下さらなくたつて、あの子にとつては多分同じことでせう?……ね、同じことでせう? お願ひですから、どうぞ聖者が罪人に向つて口を利くやうなことはなさらずに、あなたがこの私に -- 可哀さうな私に仰しやつて下さい!」
牧師が、かういふ問題に就いて日頃自分が抱いてゐると想像してゐた嚴格な
「それは同じことでせうよ。」
そこで嬰兒は小さな松板の箱に納められ、古ぼけた女の肩掛で蔽はれて、その夜墓地へ運ばれた、
墓守へ一
「經驗によつて、」とロージャー・アスカムは言つてゐる。「即ち、我々は遠い廻り路をして始めて近道を發見する。」と。 だが、その遠い廻り路をした爲めに我々は今後の旅を續ける能力を奪はれる場合が屡々ある。 その時、經驗は我々にとつて何の役に立つだらう?テス・ダアビフィールドの經驗もまた、 この能力を奪つてしまふ種類のものであつた。彼女はやつと身を處する道を覺つたが、 今となつては、誰が彼女のすることを認めてくれよう。
若し彼女がダアバァヴィル家に行かないうちに、 彼女にも世間一般に知れ渡つてゐるいろ〜な箴言や格言の教へに從つて嚴格に行動しいぇゐたならば、 決して欺かれるやうなことはなかつたに相違ない。けれども金言の眞理をすつかり感得すると同時に、 それを役立てることは、テスの力には及ばないことであつた -- また誰の力にも及ばないことである。 彼女は -- 又どんなに數知れぬ多くの人々は -- セント・オーガステンのやうに、 神に向つて皮肉にもかう言つたことであらう -- 「あなたは實際に行へる道よりも良い道をお奬め下さいました。」
彼女は冬の數ヶ月間、鷄の羽毛を
彼女の一年の經過する間に去來した一日々々のことをぢつと心に思ひ浮べてみた。 チェイズの森を暗い背景としてトラントリッヂで彼女が破滅を招いた不幸な夜も、嬰兒の誕生と死亡の月日も、 自身の誕生日も、その他自分に幾分でも關係のあつた出來事の爲めに目立つてゐた日のことを。 或る日の午後、自分の美しい顏を鏡に映して見入つてゐると、突然彼女は過去のそんな日々よりも、 もつと〜自分にとつて大切な日が別にあるといふこと、 こんな美しさなんかみんな消え失せてしまふ自分の死ぬ日があるといふことを考へた。 それh,年に一度は行き會つてゐながら、それらしい徴候も氣配も見せないで、他の多くの日の間に紛れ込んで、 區別もつかないやうに、狡猾にかくれ潛んではゐるが、矢つ張りたしかに嚴存する一日である。 一體それは何時だらうか?こんな冷たいしかも自分と關係の深い日と毎年出會ひながら、 何故自分はぞつとする思ひをしなかつたのだらうか?彼女はジェレミイ・テーラアと同じやうに、 將來何時か自分を知つてゐる者逹が、「今日は、可哀さうにテス・ダアビフィールドが亡くなつた何 -- 日だ。」 と言ふ時が來る事であらうと考へてゐた。そして、その言葉の中には、彼等から考へれば何の不思議もないであらう。 この限りない月日の中に、彼女の終焉の時と定められた日の位置が、どの月、どの週、どの季節に、 又どの年にあるか彼女は知らなかつた。
テスはかうして殆んど一足跳びに、單純な
彼女は、この頃ではすつかり世間を離れてゐたから、その不幸も決して一般には知られず、
マアロットでも殆んど忘れられてしまつた位ゐである。 けれども彼女等の一家が金持のダアバァヴィル家に『親戚の名乘り』を上げようとして
-- また彼女を通じて一層親密に結合しようと企てゝ --
失敗に終つたのを見知つてゐる土地では、再び本當に氣持よく暮らす譯には行かないといふことが、
彼女にもはつきり分つて來た。少なくとも長い年月が經つてそのことに對する彼女の鋭い意識が消滅してしまはないうちは、
其處で氣持よく住める筈がなかつた。しかし今でさへ、希望に滿ちた生の脈搏が、 まだ自分の身内に温かく動いてゐるのをテスは感じた。
何の思ひ出もない何處か
一度失はれたものは永久に失はれたものである、といふことは、貞操の場合にも本當に言へることであらうか? と彼女は屡々考へた。若し過ぎ去つたことを蔽ひかくしてしまふことが出來さへしたら、 彼女はそれが誤りであることを證據立てることも出來たであらう。確かに、有機物に共通してゐる再生の力が、 ひとり處女性にのみ拒まれてゐる筈はなかつた。
新しい生活へ出發する機會も見當らないで、彼女は長い間待ち暮した。珍らしく麗はしい春がめぐつて來て、
木の芽の中に發芽して行く氣配が聽き取られる位ゐになつた。それは野の獸たちを動かすやうに、
また彼女をも動かし、外へ出たくて堪らないやうにした。たうとう、五月上旬の或る日、 ずつと前に彼女が問ひ合せて置いた母親の奮い友逹の一人
-- 彼女はまだ一面識もなかつたが --
から、彼女へ宛てゝ一通の手紙が屆いた。それには、此處から南へ遠く幾哩も離れてゐる
それは望んでゐたほど離れた場所ではなかつたが、彼女の行動や、評判は極く狹い範圍に限られてゐたから、 恐らくそれだけ離れてゐれば申し分はなかつたであらう。狹い土地に生活してゐる人にとつては、 數哩といへば、郡、郡といへば洲とか、國にも等しいものである。
或る一つの點について、彼女は固く心を決めてゐた。つまり今度の新しい生活では、
もう夢にも行爲にも、ダアバァヴィルの空中樓閣を築いてはならないといふことであつた。
飽くまで
しかし、如何にも人間らしい矛盾ではあつたが、今行かうとする土地に對する彼女の興味は、
一つはこの土地が偶然にも彼女の祖先の領地に近いといふ事であつた。
(彼女の母親はブレークモオアの生れの者だが、祖先逹はブレークモオアの者ではなかつたから)
彼女が傭はれて行かうとするタルボセイズと呼ばれる搾乳場は、ダアバァヴィル家の昔の或る領地から餘り遠くなく、
彼女の曾祖母やその逞しい夫逹の大家族の納骨堂の近くにあつた。其處へ行けば、彼女は、
さういふ納骨堂を見ることも出來るだらうし、またバビロンの如く沒落してしまつたダアバァヴィル家が
トラントリッヂから歸つて後、二年目から三年目へかけての五月 -- これまではテス・ダアビフィールドから見ると、 靜かな再生の月であつた -- 麝香草が馨り、鳥が卵を孵すといふ或る朝、彼女は再び自分の家を出て行つた。
彼女は、後から送つて貰へるやうにすつかり荷造りを濟まして置いて、 初めて家を離れた時とは殆んど正反對の方向んい當る今度の旅には、 是非とも通らなければならないストアキャッスルの小さな町に向つて、貸馬車で出掛けた。 一刻も早く遁れ出したいとひどく焦つてゐた場合ではあつたが、一番近くの丘の曲り角を迂廻するとき、 彼女は名殘り惜しげに、マアロットの村と父の家とを振り返らずにはゐられなかつた。
ストアキャッスルへ着いたが、少しも休まずに其處を通り拔けて、本道に合する辻の方へどん〜歩いて行つた。
そこで待つてゐれば、西南の方へ通ふ運送屋の馬車を掴まへることが出來たのである。
鐵道は、この内地の
この長い馬車旅が終ると、テスは、例の農夫が行けとすゝめてくれた一軒の百姓屋で、正午にちよつとした變梃な食事をしただけで、 それ以上ウエザベリイには停つてゐなかつた。彼女はバスケットを手に提げて、 今日の旅行の目的地であり終點でもある搾乳場のある前方の谷間の低い一帶の牧場と、 この邊とを仕切つてゐるヒースの茂ッた廣い高地へ向つて、歩いて行つた。
テスはこれまでに一度もこの地方へ來たことはなかつたが、それでも此處の風景に親しみを感ぜずにはゐられなかつた。 左手の方角の餘り遠くない處に、廣々とした眺めの中に黒い塊りを見分けることが出來たが、 恐らくこれはキングスビア -- その村の教會には、彼女の祖先 -- 今は何の要もない祖先の骨が埋つてゐる -- の附近を示す林であらうと想像しながら人に聞いてみると、全くそれに相違ないことが分つた。
彼女は今、もうその祖先を、少しも崇拜などしてゐなかつた。彼女を酷い目に會はした仕打ちに對して、
殆んど憎惡してゐる位ゐであつた。祖先の持つてゐた一切の財寶のうちで彼女が承け繼いだ品物といふのは、
たゞ古ぼけた印形と匙だけであつた。「馬鹿げてゐるわ -- 私は、お父さんからばかりでなく、
お母さんからだつて血を受けてゐるんだもの!」と彼女は言つた。「私の
其處まで來てみると、途中のエグドンの高地や低地を辿ることは、實際の距離は僅か二三哩に過ぎなかつたが、
思つたよりも骨が折れた。幾度となく道を間違つた爲めに、頂上に登りつめるまでには二時間もかゝつた。
その頂上からは、長い間待ち焦れてゐた谷間、牛乳や
この土地は、トラントリッヂに滯在してあの不幸な目に會つた間を除けば、
彼女が今までに知つてゐた唯一の地『小搾乳場の盆地』即ちブラックムーアの谷間とは全く違つてゐた。
此處では、世界がずつと大規模に仕組まれて、圍ひ地も十エイカアどころではなく五十エイカアの廣さもあり、
建物附きの農場もずつと廣く、また牛の群にしても、
今彼女の眼前に
重い空氣のところから輕いところへと變つた爲めか、それとも、
全然不快な眼で自分を見る人のゐない新しい土地に來たと思ふせゐか、彼女は不思議なくらゐに元氣になつた。
柔かな南風に
此頃の彼女の顏は、心持の變化につれて變つてゐた。陽氣な考へを抱いたり思ひに沈んだりするに連れて、 絶えず美しくもなれば平凡にも變るのであつた。薔薇色に冴え一點非の打ち處もない日があるかと思へば、 蒼白い悲痛な色を帶びる日もあつた。薔薇色に輝く時は、蒼白い顏をしてゐる時よりも感情の動きが少ないのであつた。 つまり、感情が興奮してゐなければゐないだけ完全な美しさを發揮し、 感情が緊張してゐればゐるだけその美しさを減ずるのであつた。 今、南風をまともに受けてゐる彼女の顏は、生理的に一番美しかつた。
貴賤を問はず、すべての人の生活に行き渡つてゐる快い悦樂を、 何處かで見附けようとする不可抗的な一般的なまた自發的な傾向は、 到頭テスの心を支配してしまつた。まだ精神的にも感情的にも發育しきらない二十歳の若い女に過ぎなかつたので、 どんな出來事にでも、時日が經過して猶ほ變らずにゐるやうな印象を彼女の上に殘すといふことは不可能であつた。
かうして、彼女の元氣と、感謝の念とその希望とは、だん〜高まつて行つた。
彼女は數種の小唄を
彼女は急に歌ふのを止めて、呟いた -- 「でも、私は多分まだ神樣をよく知らないんだわ。」
そして、恐らく半ば無意識に歌つたこの詩篇は、一神教を背景として拜物教を現はしたものであつたらう。 戸外の『自然』の樣々な形や力を主なる伴侶とする女は、後代の人々が教へ込まれた組織立つた宗教よりも、 遠い祖先から傳はつてゐる異教的な空想をずつと多くその魂の中に保つてゐる。兎に角テスは、 幼い時分から口にしてゐたこの古い頌辭に、少くとも自分の感情に近い表現を見出したのであつた。 それで十分だつた。自活の手段に向つて僅か一歩踏み出したといふやうなほんのちよつとした手始めの活動にさへ、 これほど高い滿足を感ずるのがダアビフィールド一家に傳はつてゐる氣質の一面であつた。 テスは實際誰に恥ぢることなく堂々と世を渡りたいと思つてゐたが、 父親はてんでそんなことを考へてもゐなかつた。が、當座の些細な成功に滿足したり、また、 一時世に時めきながら今はひどく惡い位置に立つてゐるダアバァヴィル家のやうな家ばかりが求められる、 つまらない世間的な榮逹を望んで骨を折らうなぞと思はない點で、彼女は父親によく似てゐた。
一時は彼女を酷く壓倒してしまつたあの經驗を嘗めた後に、
テスの年頃には當然な精力とがまだ
やがてテス・ダアビフィールドは、勇み立ち、生に對して心からの興味を持つてだん〜エグドンの傾斜面を下り、 彼女の旅行の目的地である搾乳場の方へ向つた。
兩方の谷間の著しい相違は、今その最後の特長をはつきり現はして來た。ブラックムーアの祕密を發見するには、
その周圍の高地から眺めるのが一番よかつたが、今彼女の眼前に擴がつてゐる谷間を正しく味はうとするならば、
是非ともその眞中へ下りて行かなければならなかつた。テスがそれを目論んで下り切つてしまつた時、
彼女の體は、視線の屆く限り東西へ擴がつてゐる
河は、高原地方からこのあたり一帶の平坦な地域の土砂を少しづゝ盜み取つては、 この盆地へ運んだのであつた。その河も、今では衰へて老境に逹し、痩せ細り、昔の掠奪物の眞中をうね〜と流れてゐた。
テスは方角をちつとも確かめないで、恰も無限に長い玉突臺の上に
突然、この低地の四方八方から、長く語尾を曵いて繰り返し繰り返し、こんな呼び聲が起つた --
「わおう!わおう!わおう!」
この呼び聲は、東の
この合圖を氣長に待つてゐた手近な赤と白との牛の群は歩く度毎に大きな乳の袋を腹の下にぶらつかせながら、
背後の牛部屋の方へぞろ〜入つて行つた。テスはゆつくりとその後について、
彼等が彼女より先に通つて開け放しにして置いた門から中庭へ入つて行つた。
仕切りの中へ繋がれたのは、餘りおとなしくない乳牛であつたが、
自分からおとなしくしてゐようとする乳牛は、中庭の眞中で乳を搾らせてゐた。 かういふ行儀のいゝ牝牛が、今そこに澤山立つて順番を待つてゐた
-- 彼等はみんな最良の牝牛共で、 この谷間を出ては滅多に見られないし、この谷間のうちでも澤山あるやうな種類ではなかつた。
それは、一年中で最もいゝこの季節に、この濕潤な草地が供給する水分の多い食物に養はれた牛で、
純白の斑點のついてゐるのは眩しいほど輝かしく日光を反射し、そして角の上に附いてゐる磨きのかゝつた眞鍮の球は、
ぎら〜照り映えて、軍裝を偲ばせるものがあつた。太い脈の浮き上つてゐる乳房は、
牧場から乳牛が寄つて來ると、百姓家や搾乳場から乳搾りの男や女が集つて來た。
女たちは木靴を履いて歩いてゐたが、それは、天候の惡い爲めではなく、
中庭に敷いてある藁に靴が埋まらない爲めである。娘たちは銘々三脚の椅子へ腰掛けて、
顏を
この中に一人の頑丈さうな中年の男がゐた -- 長い白い『胸掛』は、外の者の
六日の間は
牛乳屋のディック --
日曜にやリチャード・クリック樣。
乳搾りの男とうへば、大抵乳を搾つてゐる間は不機嫌なものであるが、 クリックはたま〜新しい人手が出來たのを喜んでゐたところだつた
-- といふのも、 今が丁度
「ふん -- さうか、わしも若い頃にはお前の地方をよく知つてゐたもんだよ。」
挨拶が終ると、彼はかう言つた。「その後はとんと行つた事もないがね。
もうずつと前に亡くなつたが、この近くに住むんでゐた九十ばかりの婆さんが、 こんな事をわしに話したことがあるぜ --
今時の者は知るまいがね -- ブラックムーアの、何んでもお前のやうな名前の家は、元はこの邊から出たんだが、
今では絶えてしまつたも同じやうなあ古い一族があるつてね、だが、どうして〜、
わしァ婆さんの
「えゝ、さうですとも、つそれやつまらないことなんですもの。」とテスは言つた。
それから話は仕事のことだけになつた。
「綺麗に搾り切ることが出來るだらうね、お前?今どき牛にあがられちや困るからねえ。」 (乳をすつかり搾り切らないと牛はだん〜乳が出なくなるから困るの意)
彼女は、その點は大丈夫だと請合つた。そして彼は、テスを上から下までずつと見渡した。
可なり長い間家の中にばかりゐたので、彼女の
「ところで、茶でも一杯やるか、また何か食べるものでも慾しいだらうね、えゝ?
まだいゝつて?ぢや、好きなやうにしたがいゝ。がまあ、そんなに遠くからやつて來て、
わしだつたら、屹度、枯枝みたいに
「私、手馴らしに搾りはじめてみますわ。」と、テスは言つた。
彼女は間に合はせのお茶代りに牛乳を少しばかり飮んで主人のクリックを吃驚さした -- 實際微かに侮蔑の情を交へたほどであつた -- 彼は牛乳が飮料として結構なものだなぞと曾つて思つても見なかつた。
「あゝ、それが飮めるんなら結構だ。」彼女が啜つてゐる乳桶を支へてやりながら、
冷やかに彼は言つた。「わしは何年も口を觸れたこともないんだ -- 全くないよ。
こんなものどうにでもなれだ。わしが飮んだら、腹んなかで鉛みたいになつて溜つちまふだらうぜ。
試しに
テスは帽子を頭巾に被り替へ、愈々本當に乳牛の腹の下の三脚椅子の上に體を据ゑて、 牛乳が兩の拳から乳桶の中へ迸り落ちた時には、彼女は實際、 自分の將來に新しい基礎を据ゑたのだと感じてゐるやうに見えた。 この自信が落着きを生み、心臟の鼓動は靜まつたので、彼女は周圍を見廻すことが出來た。
乳搾り逹は、まるで男女から編成されてゐる小さな一大隊位ゐで、男逹は固い乳頸の乳牛を、
娘逹は從順な乳牛を手がけることになつてゐた。それはなか〜大規模な搾乳場だつた。
クリックの飼つてゐる乳牛は全體で百頭ほどもあつたが、そのうちの六七頭は、 家を留守にした時でもない限り、主人が自分でいつも搾つてゐた。
これが、中でも一番乳を出し澁る牛どもであつた。彼は、臨時雇ひといつた形の搾乳夫が、
無責任に、よく搾り切らないやうなことがあつては困るといふので、 この半
テスが宛がはれた乳牛へ取り掛つてから、暫くの間、中庭には何の話し聲もしなかつた。 そして、こつちの牛に向きをかへろとか、あつちの牛に靜かに立つてゐろとかいふ時々の掛聲以外に、 澤山の乳桶の中へ噴き落ちる牛乳の音を亂す物音とてはなかつた。 動いてゐるものといつては、上げたり下したりする乳搾りの手と、 振り立てゝゐる乳牛の尻尾だけであつた。かうして一同は仕事を續けた。 この盆地の兩側の傾斜に伸びてゐる廣々とした變化の乏しい牧場 -- もう長い間忘れられ、 また明らかに現在形づくつてゐる景色とは非常に異つた性質の古い景色と混り合つて出來てゐる平坦な風景 -- を周圍に控へて。
「どうも、」丁度今搾り終へた乳牛から急に立ち上り、片手に三脚椅子を、も一方には乳桶を取り上げて、
近くにゐる次の厄介な乳牛へ移りながら、搾乳場主は言つた。「どうも、
「そりや、新しい者が入つて來たからさ、」とヂョナサン・ケイルが言つた。 「前にもこんなことがあつたのを俺ァ知つてるよ。」
「さうだ、さうかも知れねえ。そいつにや氣が付かなかつたな。」
「何んでもそんな時には、乳が角へ上つてしまふんだていふぢやないかね。」一人の女の乳搾りが言つた。
「さうさな、角へ上るつていふことは、」たとひ妖術でも、生理上の力をどうする譯にも行かないのではないかといつたやうに、 疑はしげな樣子で主人のクリックは答へた。「わしにや分らんな、確かに分らん。だが、 角のある奴と同じやうに角のない奴も出さねえことがあるんだから、それに全く贊成は出來んさ。角のない牛に就いて、 お前たちはあの謎が分るかい、ヂョナサンどうだ?一體、何故角のない牛は、角のある奴より、 一年中に出す乳の量が少ないのかね?」
「私に分るもんですか!」と乳搾りの女が遮つた。「一體、どういふわけなんでせう?」
「つまり、幾頭もゐねえからさ。」と主人は言つた。「それにしても、 この氣まぐれどもァ確かに今日は乳を出し澁つてるな。 さあみんな、一くさり二くさり歌つて貰はなくちやならねえぜ -- それよるほかに、どうも癒しようがねえから。」
この邊の搾乳場では、乳牛が
「かうやつて屈み込んで歌つてゝ、息を切らしてしまはんけりやいゝがね!
あんたの
聽いてゐたテスは、この言葉が主人に向つて言はれたものと思つてゐたが、彼女の思ひ違ひであつた。 「どうしてだね?」といつた風の答へが、言はゞ、仕切りの中の焦茶色をした乳牛の腹の中から出て來た。 それは、その乳牛の背後にゐて、今彼女の氣のつかなかつた一人の乳搾りが言つたのであつた。
「おゝさうだ、提琴に
「變つた話ですね。それを聞いてゐると、中世紀へでも立ち戻つたやうな氣がしますよ。 その當時は信仰も生命を有つてゐましたからね!」
搾乳場の庭には不似合なこの言葉は、焦茶色の乳牛の背後から呟かれたのであつた。 だが、その意味を一人も諒解する者がゐないので、誰の注意をも惹きはしなかつた。 たゞ話をして來た主人が、自分のした物語が疑はしいと匂はされたのかも知れない位ゐに考へたゞけだつた。
「だが、どつちにしろ本當の話なんですぜ、旦那。わしはその男をよつく知つてゐたんでね。」
「無論、さうでせうとも、僕は疑つてはゐませんよ。」と焦茶色の乳牛の背後の人は言つた。
かうしてテスの注意は、主人の話相手に惹きつけられたが、 乳牛の横腹に何時までも頭を埋めてゐるので、ほんの一部分しか見ることが出來なかつた。 どういふわけで、この男は主人にまでも『旦那』呼ばはりをされるのか、彼女には分らなかつた。 が、一向にその説明になるやうな事情も見當らなかつた。彼は、どうも手際よく行かないのか、 時たま獨りで叫び聲を洩らしながら、優に三頭は搾れる位ゐの時間を、その一頭の乳牛の下から去らずにゐた。
「そろ〜やつて下せえよ、旦那、そろ〜ね、」と主人は言つた。 「こつだからね、力づくぢや駄目なんで。」
「僕もさう思ふんですがね。」と、その男は到頭立ち上つて、兩腕を伸ばしながら言つた。
「でも、
その時テスは初めて、その男の全身を見ることが出來た。
彼は、乳搾りが乳を搾る時につける普通の白い胸掛と革の
けれども彼女は、前に何處かで見たことのある人だとおふことに氣がつき、
その爲めに彼の容姿の細かい點なぞには心を留めてゐられなかつた。 あの時以來テスは、さま〜゛な變遷を經て來てゐるので、しばらくの間は、
何處でその人に會つたのか思ひ出せなかつた。が、やがて、マアロットの倶樂部の舞踏會に加はつた徒歩旅行者 --
何處からやつて來たのか知らないが、彼女ではなく他の者と組んで踊り、
例の不幸な事件より前に起つた一つの出來事がかうして心に甦つた爲めに、
いろ〜な思ひ出が溢れて來て、一時彼女の心は暗くなつた。といふのは、
萬一先方でも自分に氣がつき、ひよつとして自分の身に起つた事を知るやうなことがあつてはと恐れたからである。
その杞憂は直ぐ消え去つた。初めてのたつた一度の邂逅以來、彼の感じ易い
かうしてゐる間に、一方では、多くの搾乳女たちが、「何んて綺麗な
自分の他には、ほんの二三人の乳搾りの女しか、この搾乳場に寢泊まりしてゐないことをテスは知つた。
手傳人は大抵銘々その家へ歸るのであつた。主人の物語に批評を加へた高級な乳搾りの男は、
夕食の時に影さへ見せなかつたし、彼女もまた寢るまでの間、寢室で自分の場所を片付けるのに費してしまつたので、
彼のことを訊いても見なかつた。寢室は牛乳庫の
だが、隣り合つた寢臺に寢てゐる娘の中の一人は、テス程には睡氣を催してゐなかつたので、 テスが住み込んだばかりのこの農場について、最近の樣々な細かい事柄を述べ立てたがつた。 その娘の囁くやうな言葉は、いろ〜な影と混り合つて、テスの朦朧とした心には、 その言葉の漂つてゐる闇の中から生れて來るものでゞもあるかのやうに思はれた。
「エンヂェル・クレアさんね -- あの乳搾りを習つてゐる
「さう -- 私、その方のことなら、聞いたことがあるわ。」一人の朋輩が今目を覺して言つた。 「大變に御熱心な牧師さんだつていふ話だわね?」
「さうよ -- その方さうなのよ -- ウェセックス中で一番御熱心な方だつてことよ --
何でも古い
その時にテスは、今のクレアさんも兄弟逹同樣に何故牧師にされなかつたのか、
と訊ねてみるだけの好竒心を持たなかつた。そして、隣りの
エンヂェル・クレアは、はつきりした姿となつてゞはないが、氣持のよい聲や、 ぢつと据ゑて放心したやうに何時までもものを見詰めてゐる眼や、また表情の豐かな、 男としては餘りに小さくしなやかすぎる位ゐの口元(だが時々不意に下唇を固く結ぶので、 彼が優柔不斷な男であるとは思へない)などによつて、過去から浮び上つて來る。 それにもかゝはらず、彼の態度やものを見詰める目付は、何となく薄ぼんやりして、 他に氣をとられてゐるやうで、はき〜してゐなかつたから、 未來の物質的方面には一定の目論見も感心もない人間のやうに見せた。 だが世間の人は、彼がやれば何でも出來るに相違ない有爲な青年であると噂してゐた。
彼はこの州の向う
彼が農夫や牧羊者の階級へ入つた事は、當人も他の人も曾つて豫想しなかつた境遇へ踏み出したその第一歩であつた。
老クレア師は女兒を一人殘して最初の夫人に死なれ、晩年になつて二度目の夫人と結婚した。 ところが案外にもこの婦人は三人の男子を設けたので、末子のエンヂェルと父親の牧師との年齡の間には、 殆んど一代だけ拔けた位ゐの差があつた。三人の息子の中でも、 彼が老年になつてから生れたこのエンヂェルだけは大學の學位を取らなかつたが、しかもその幼年時代にも、 兄弟の中でも、彼が大學の訓育を十分に發揮することの出來るたゞ一人と思はれてゐた。
エンヂェルがマアロット村の例の舞踏會へ姿を見せる二三年程前のことで、 彼が學校を出て自宅で研究を續けてゐた或る日、ヂェイムズ・クレア師宛に、 土地の書店から牧師官舎へ一つの小包みが屆いた。牧師はその小包みを解くと一册の本が入つてゐたので、 二三頁讀んでみたが忽ち席から跳び上り、その本を脇の下に抱へて眞直に書店へ出掛けて行つた。
「どうしてこの本を私の家へ送つて來たのですか?」
「御註文でしたから、旦那。」
「私からではない。また幸ひにも、私の家の誰でもない。」
店主は註文帳を調べて見た。
「あゝ、屆け先を間違ひました、旦那。」と彼は言つた。「エンヂェル・クレアさんからの御註文で、 あの方へお屆けすべきだつたのです。」
クレア師はすつかり打ち碎かれたやうに縮み上つた。彼は
「お前、この本を御覽、」と彼は言つた。「これに何か覺えがあるかね?」
「僕が註文しました。」とエンヂェルは卒直に答へた。
「何の爲めに?」
「讀まうと思つてゞす。」
「どうしてそれを讀まうなぞと思ひついたのか?」
「どうしてゞすつて?だつて -- これは哲學書です、世に出てゐる本の中でも、 これ位ゐ道義的な、宗教的でさへもある本はありません。」
「さうだ、十分道義的ではある。それを否定はしない。しかし、宗教的だつて! -- しかも福音の傳道師たるべきこのお前にとつて!」
「お父さんがその問題に觸れたのを機會に、お父さん、」とその顏に氣遣はしげな色を浮べて息子は言つた。 「僕はきつぱり申し上げて置きたいと思ひます。僕は牧師の職には就きたくないのです。 僕は本心から進んで牧師になることは出來ないと思ふのです。 僕は親を愛すると同じやうに教會を愛します。將來も教會に對しては常に最も温かい愛情を抱いて行くでせう。 教會の歴史に對して持つてゐるほど深い景慕の情を寄せてゐる制度は他にありません。 しかし、教會が到底維持し難い贖罪主義の拜神説から脱しない限りは、兄さん逹のやうに、 僕は眞面目に教會の牧師となることは出來ないのです。」
骨肉を分けた子供の一人がこんなことにならうとは、眞正直の
一千八百年の昔
永遠にして聖なる人の
思ひしことを
今も猶ほ思ふ……
ことの出來る一人であつた。
エンヂェルの父親は、議論したり、説得したり、歎願したりして見た。
「駄目です、お父さん、僕はあの第四箇條(他のものはどうでもよいとして)を、
告示書が要求するやうに『文字通りあのまゝの意味に』解釋して、守ることは出來ません。
從つて、現在の状態では僕が牧師となる譯には行かないのです。」とエンヂェルは言つた。
「宗教の問題に就いて、私の僞らない心は、全然これを改造するといふ事にあるのです。
お父さんのお好きな
父親は深い悲嘆に暮れたので、エンヂェルは彼を見るに堪へられなかつた。
「神の名譽と光榮の爲めに使はれるものでないならば、お前に大學の教育を授ける爲めに、 お前の母と私とが費用を節し身を切詰めても何の效があらう?」と父親は繰返した。
「だつて、人間の名譽と光榮の爲めに役立つやうにする爲めぢやありませんか、お父さん。」
若しエンヂェルが何處までも主張したら、兄逹のやうに
「僕、劍橋へは行かなくともかまひません、」と遂にエンヂェルは言つた。
「さういふ事情では、
この決定的な討議の結果は、間もなく現はれかけて來た。彼は雜駁な研究や畫策や瞑想に幾年も〜費やした。
そして社會上の形式とか慣習とかに可なり無頓着になりかけてゐた。 身分とか富のやうな物質的な榮逹を益々賤しめるやうになつた。
『善き舊家』(近頃沒した或る地方の名士の好んで用ゐた句を使へば)さへ、
その家を代表する人々の中に立派な新しい決意を見出すことが出來ない限り、
彼にとつては何等の
幼い頃靜寂な田園に親しんでゐたことは、近代の都會生活に對して、 抑へきれない、また殆んど馬鹿氣てゐる嫌惡の情を彼の心に培つた。 その爲めに、聖職について行けない代りに、何か世俗的な職業にたづさはつたら、 或は逹せられるかも知れないやうな成功なぞを全然斷念するやうになつた。 しかし彼は、何かしらしなければならなかつた。彼は、多くの貴重な年月を浪費したのである。 そこで、植民地の農業家として今發展してゐる一人の知人があつたので、 それこそ自分の行くべき正當な途を指し示す指針であらう、と彼は思ひ附いた。 植民地であらうが、亞米利加であらうが、或は國内であらうが、この農業こそ -- 兎に角丹念に修業して、この仕事に對する十分な資格を得た後で從事するとしたら、 この農業こそ -- 恐らく、豐かな資産以上に彼の尊んでゐるもの -- 智識上の自由 -- を犧牲にすることなく獨立生活の出來る職業であらう、と彼は考へた。
かうして二十六歳のエンヂェル・クレアは、乳牛の研究者として、 このタルボセイズにゐることになり、また附近に氣持のいゝ下宿を得ることが出來なかつたので、 搾乳場主人の寄宿人となつたのである。
彼の部屋は、搾乳場の屋敷の全體に亙つた廣い屋根裏だつた。 此處へは、
住み込んだ當座は、全然二階にばかり住まつてゐて、可なりの時間を讀書に耽つたり、
自分にも餘りに思ひ掛けないことであつたが、實際彼等と友逹附合ひをしてゐることに心からの喜びを味つた。
彼の空想の中にある在來の農夫は -- 『田夫』として通つてゐる憐れむべき野人と看做されてゐる --
二三日住んでゐるうちに、その痕跡がすつかり無くなつてしまつた。近くに接してみれば、
一人の『田夫』も見えなかつた。最初今とは反對の社會から拔け出たばかりの頃のクレアの頭で考へたら、
確かに今寢食を共にしてゐるかういふ友逹は、幾分竒妙に見えたに相違ない。
搾乳場主一家の者と同等の一人として席に
自分の企てた生活とどういふ關係があるかは別として、思ひがけなくも、
彼はたゞ野外生活そのものゝ爲めとそれが與へるものゝ爲めに、その生活を好むやうになつた。
彼のやうな家柄にも似ず、彼は、慈悲の神に對する信仰の衰頽すると共に、
文明人種を
彼は次第に古い聯想から離れて、生活と人間性とのうちに何か新しいものを見た。
次に彼は、以前には曖昧にしか見えなかつた樣々な自然現象 -- それ〜゛の氣分を持つた季節、
朝夕、晝夜、それ〜゛の氣風の異つた風、樹木、川や霧、日蔭や沈默、または、無生物の種々な聲 --
に
早朝は、皆が朝食をするこの廣い室では、まだ焚火が懷しい位ゐに寒かつた。
また彼を皆と一緒のテーブルで食事するには上品過ぎるといふクリックの妻君の意見で、
食事の間は、皿附茶碗や皿は傍の
テスがやつて來てからの數日間は、 クレアは手元に郵送されて屆いたばかりの書物や雜誌や樂譜に夢中になつて讀み耽つてゐたので、
彼女が食事の席にゐる事には殆んど氣が附かなかつた。 彼女は一向口數を利かなかつたのに他の娘たちが盛んに喋り立てるので、
彼はこの饒舌の中に新しい調子の混つてゐることに注意しなかつた。
それに、全體の印象を重んじて、外界の個々の特色を等閑にするのが彼の癖だつた。
けれども或る日のこと、樂譜の一つを讀みながら想像を働かせて、
頭の中でその調子に聞きとれてゐると、いつか夢心持に誘はれて、樂譜を爐の傍に落した。
朝餐の料理や
クレアは他の者逹と一緒に掛けてゐる彼女を見遣つた。
彼女は彼の方を見てはゐなかつた。實際、彼が長い間靜かにしてゐた爲めに、 この室内に彼がゐるといふことは殆んど忘れられてゐた。
「私、優麗のことは知りません、」と彼女は話してゐた。「けれども、私逹が生きてゐる間でも、 自分の魂を體の外へ拔け出させることが出來るつてことは知つてゐます。」
主人は、口一杯頬張つたまゝ、さも
「何だつて -- 今でもそんな事が?さうかねえ、お前?」と彼は言つた。
「魂が拔け出すのを
主人はぢつと
「さあ、そいつは
主人に弟子入りしてゐる男まで一緒になり、皆の注意が自分一人に向けられたので、 テスは顏を赧らめ、これはほんの氣のせゐだと辨解して、再び食事に取りかゝつた。
クレアはぢつと彼女を見つゝけてゐた。彼女は程なく食事を濟ましたが、
クレアが自分を
「あの乳搾り娘は何といふ生々した、清らかな『自然』の娘だらう!」と彼は
それから彼は彼女の中に、今のやうに一々物を考へて天國まで灰色にしてしまふやうな事のなかつた以前の、
樂しい未來の事などを考へなかつた過去へ彼を連れ戻す親しみ易い何物かを認めたやうであつた。
何處かは分らないが、前に一度彼女を見たことがある、と結論を下した。 何處か田舍を歩き廻つてゐた間に、偶然會つてゐるには相違なかつたが、
それを彼は大して知りたがりもしなかつた。しかし、この事情は若し彼が近くにゐる女性を考へようとする時は、
他の綺麗な乳搾りの女はさし置いても、テスを
大抵、乳牛は寄つて來次第に、乳搾りに對して選り好みなく搾られるのであつた。
だが、乳牛によつては、特に或る乳搾りの兩手に對して好みを示し、 時としてはその氣入りの者に對してゞなければ全然立つてゐようとせず、
見知らぬ者の乳桶だと、手荒く蹴返してしまふほどの偏愛を
絶えず搾り手を代へて、かういふ
テスも同輩と同樣に、どの乳牛が自分の扱ひ振りを特に好んでゐるかを間もなく知つた。
そして、この二三年間、時々は自分から進んで長く家に引き籠つてゐた爲め、
彼女の指は華奢になつてゐたから、この點で、乳牛の氣に入るのをどんなにか喜んだことであらう。 全體で九十五頭ゐる中で、特に八頭 --
ダムプリング、フアンシイ、ロフテイ、ミスト、 オールド・プリッティ、ヤング・プリッティ、ティディ及びラウド -- は、
ちよつと指を觸れさへすれば、もうそれで彼女の仕事は濟んでしまふ位ゐ安々と彼女のいふことをきいた。
尤も、そのうち一二頭の乳首は、
しかし彼女は程なく、表面偶然のやうに見える乳牛の並ぶ位置と、この點に關する彼女の希望との間に、
不思議な一致のあることを發見し、やがてはその並ぶ順序が決して偶然ではないやうに感ぜられて來た。
搾乳場主のあのお弟子は、この頃、乳牛を並べるのにちよい〜手を貸してくれた。
そして五囘目か六囘目の時、乳牛に寄り掛りながら、彼女はさも
「クレアさん、あなたが牛をお並べになつたのですね!」と顏を赧らめながら、彼女は言つた。 そしてかう咎め立てするやうに言ひながらも、思はず微笑みかけ、下唇はぢつと元のまゝであるが、 靜かに上唇が上つて、齒並の尖端が現はれた。
「さうです。だが、どうだつて好いぢやありませんか。」と彼は言つた。 「君はいつでも、此處へ搾りに來るでせうね。」
「さうお思ひですの?是非、さう出來ればいゝんですけれど!が、私、分りません。」
彼が、自分のこの離れた場所を好む眞面目な理由を知らず、自分の今までの所爲を感違ひしてゐらのではないかと思ふと、 彼女は後になつて我ながら腹が立つた。彼女は、非常に熱心になつて彼に言つたからである。 恰も彼の居合すといふことが、彼女の望みの一部でゞもあるかのやうに。 このことがひどく氣になつて、暮方に乳搾りが濟むと、彼女は獨りで庭の中を歩き廻り、 彼の考へを見拔いたことを、うつかり彼に洩らしてしまつたのを後悔しつゞけた。
六月のよくある夏の宵であつた。大氣は隅から隅まで穩かで、飽くまでも澄みきつてゐたから、
無生物までが、五官全部でないまでも、二つか三つの官能を授けられでもしてゐるやうに見えた。
遠近の區別がつかないで、耳を澄まして聽き入つてゐると、地平線内の萬物悉くと接觸してゐるやうに感ぜられた。
この靜けさは、單に騷音がないといふ感じよりも、寧ろ活動的な一つの實體となつて、
彼女の心に響いた。その沈默は、
テスは頭上の屋根裏でこんな音のするのを聞いたことがあつた。
それは閉ぢ込められた中から聞えて來たので、
テスが今入つてゐる庭の外廓は、もう何年も耕されずにうつちやつてあつたので、
今ではじめ〜して、ちよつと觸れてさへ花粉の煙を擧げる水氣の多い草や、 惡臭を發する花の咲き亂れた
テスは、時間も場所も忘れてゐた。曾つて彼女が話した事のある、星を眺めてゐると意の儘に生じて來る心の法悦状態が、 今は意識を働かせないでも自然とやつて來た。彼女は古物の提琴のか弱い調子にも心を躍らせ、 その諧音は恰も微風のやうに彼女の體を吹きぬけて、自づと眼に涙を誘ふのであつた。 あたりに飛び散つてゐる花粉は、彼の彈く調べが形に現はれたもの、また庭の濕氣は、 庭が悲んで啜り泣いてゐる樣子のやうに思はれた。もう日も暮れかゝつてゐるのに、 惡臭を放つてゐる雜草の花は、一心の餘り、どうしても閉ぢたくないとでもいふやうに輝いてゐた。 そして色の波は音の波と混り合つた。
今なほ消えずに輝いてゐる光は、西の方に棚引いてゐる雲の大きな裂け目から主に洩れて來るのであつた。 あたりは何處も宵闇の包まれてしまつたので、その光だけが、偶然取り殘された晝の一片でゞもあるかのやうに見えた。 彼は、大して腕に要らない、極めて簡單なその物哀しい調べを終つた。 そこで、彼女は別の曲が始まるのかと待つてゐrた。しかし彼は彈奏に飽きて、 當てどもなく垣根を一廻りして、ぶら〜彼女の背後の方へやつて來た。 テスは顏を火のやうにほてらせながら、動いたか動かないか分らないやうに、こつそり退いた。
だがエンヂェルは、彼女の輕い夏服に眼をとめて、話しかけた。少し離れてはゐたが、 その低い聲の調子は聞き取れた。
「どうしてそんなに逃げるんです、テス?」と彼は言つた。「怖いのですか?」
「いゝえ、さうぢやないんです……
「だが心の中に何か怖いものがあるのですね。 -- えゝ?」
「えゝ -- さうなんです。」
「何が怖いのです?」
「はつきり言へませんわ。」
「牛乳が
「いゝえ。」
「ぼんやりとこの世の中のことが?」
「さうですの。」
「あゝ -- 僕もちよい〜そんな氣持になりますよ。かうやつてぐづ〜生きてゐる事が、たまらなくなつてね。 君はさう思ひませんか?」
「その通りです -- さう仰しやられてみると。」
「それにしても、君位ゐな若い女が、今からそんな風に考へようとは思はなかつた。一體どうした
彼女は
「さあ、テス、僕を信じて打ち明けて下さい。」
物の
彼は、この年若い女 -- ほんの乳搾りの女に過ぎないけれど、 屋敷内の仲間の者から羨まれさうなちよつと珍らしい氣質を有つてゐる
-- がこんなもの悲しい空想を描くのを見て、全く意外な氣がした。 彼女は自分流儀の言葉で -- 僅かに初等教育の助けをかりて --
殆んど現代の感情といつてもいゝ位ゐな感情 -- 近代主義の惱み -- を言ひ現はしてゐた。だが、所謂進歩した思想といふものも、
實は大抵、世の中の男女が幾世紀もの間漠然と抱いて來た感情を、 最近流行の解釋に從つて定義し --
『……
それにしても、まだこれ程の若さで、こんな感情を懷くやうになつたといふ事は不思議だつた、 不思議以上でもあつた。感銘の深い、興味のある、又痛ましいことでもあつた。 その原因が分らなかつた爲めに、經驗の有無は生活が緊張してゐるかゐないかで決まるので、 その長さによるものではにといふことを彼に思ひつかす手掛りは更になかつた。 テスのこの一時表面に現はれた憂鬱病こそ、彼女が精神上に得た經驗の收穫であつた。
一方テスは、彼のやうな牧師の家に生れ、立派な教育も受け、その上物質上の何の不自由もない身分で、
生きてゐる事を何故不幸と思ふのか、その理由が分らなかつた。この自分のやうな不幸な人生の巡禮者にこそ、
十二分の理由がある。が、この立派な詩人肌の人が、どうして、『忍辱の谷』へ身を
今では、彼が自分の階級を離れてゐるといふことは事實であつた。が、それは單に、
造船所にゐたピイタア大帝のやうに、彼が知りたいと思つてゐることを習つてゐるからに過ぎないことを、
彼女は承知してゐた。乳搾りをしなければならない必要に迫られてしてゐる譯ではなくて、 富裕な隆盛な搾乳場の主となり地主となり、
農業家となり家畜の飼育者とならんが爲めの術を習はうとしてかうやつてゐるのであつた。
王樣のやうに、自分の羊の群や牛の群や斑點のあるものや
かうして雙方ともに、お互ひの祕密を解く手がゝりもなく、 二人はそれ〜゛相手が表面に現はしてゐるものを解くことも出來ず、
敢へてお互ひの履歴を
毎日毎時のやうに、彼には彼女の性質が少しづゝ分り、彼女は彼の性質を幾らかづゝ知るやうになつた。 テスは出來るだけ、生活を抑制しようと努めてゐたが、自分の中にある活力のことには少しも氣がつかなかつた。
最初のうちテスは、エンヂェル・クレアを一人の人と見るよりも、寧ろ一つの靈智として見てゐたやうだつた。
彼女は彼をさういふものと考へた上で、自分と比較してみた。そして相手の豐富な智識の優れた點を見出し、
又取るに足らぬ自分の精神的の立場とアンデス山の高さにも比すべき測り知れぬ相手の態度との距離を見出す毎に、
彼女は全く意氣も
古代希臘の牧羊生活に就いて
「どうして急にそんな悲しさうな樣子をするのです?」と、彼は訊いた。
「あら、たゞ -- 自分だけのことなんです。」と、氣紛れに一つの『姫さま』の方を剥ぎ始めながら、
悲しさうな元氣のない笑聲を洩らして、彼女は言つた。「自分も運がよかつたら、 どんな風になつてゐたらうと一寸思つて見ただけなんです!
私の生涯は
「おや〜、そんなことをくよ〜思ふものぢやありませんよ!ね、」とやゝ熱心に彼は言つた。 「僕は、君の力になれたら、どんなに嬉しいのだか知れないんだからね、テス。 歴史のことでも、君が讀みたいと思ふ本ならどんなことでも -- 」
「また『姫さま』ですよ。」剥いだ蕾を突き出しながら、彼女はかう言つて話の腰を折つた。
「何んですつて?」
「剥がうとすると、いつでも殿さまよりも、姫さまの方が澤山あるつて事をいふつもりでしたの。」
「姫さま殿さまなどはどうだつていゝ。君は何か勉強するつもりはありませんか -- 例へば、歴史といつたやうなものを?」
「私、折々、歴史についてなら、これまでに知つてゐる以上に、何も知りたくないやうに思ひますの。」
「どうしてゞす?」
「だつて、自分はたゞ長い一列の中にゐる一人の人間に過ぎないのだ、つてことを知つたところで --
或る古い本の中に、そつくり私そのまゝの人間が記してあるのを見つけたり、
自分は今後たゞその人のした事をするだけだ、つてことを知つたところで、何の役に立ちませう。
自分が悲しくなるだけのことなんです。自分の性質も自分が過去にしたことも、 みんな幾千萬の人がしたことゝそつくり同じであるとか、
自分のこれからの生活や
「それぢや本當に君は何にも習ひたくないんですね?」
「私、こんなことなら習つてもいゝんですの -- 何故お日樣は、 正しい者も正しくない者も同じやうに照らすかつていふことなら、」と彼女は答へたが、 そお聲は微かに顫へを帶びてゐた。「けれど、それこそ本の教へてくれないことですもの。」
「テス、そんな皮肉は言はないで下さい!」無論彼は、ほんのありふれた、義務的な心からかう言つただけだつた。
といふのは、さういふ種類の疑問は、彼の過去にも覺えのなことではなかつたから。
そして、彼女の
彼女は殿さま姫さまを何時までも剥ぎ續けてゐたので、彼がゐなくなると、彼女は考へ深さうに最後の蕾を剥ぎながら、
しばらく立つてゐた。それから急に幻想から覺め、つく〜゛自分の愚さをひどく不愉快に思ひ、
心の底には激しい興奮を感じながら、最後に剥いでゐたのも、今まで集めた無數の高貴な花と一緒に、
皆地面へ
彼は自分を如何にも愚かなものと思ふに相違ない!どうしても彼からはよく思はれたいといふ望みが募つて來た結果、
この頃忘れようと努めてゐた -- 曾つては非常に不快な結果を生んだ事のある --
あの
だがまだ迷つてゐたテスは、思ひきつてそのことを明かす前に、クレアさんに對してどれほどの效果があるかを、 間接に搾乳場の主人から探つて見ようとして、金も領地も悉く失つてしまつた地方の舊家に對しても、 猶ほクレアはかなり尊敬を有つてくれるかどうか訊ねてみた。
「クレアさんは、」と力を入れて主人は言つた。「これまでに見たこともないほど叛抗心の強い若者だよ --
あの一家の人逹にはちつとも似ないんだ。それで、世に何よりもあの人の嫌ひなものがあるとすれば、
それは舊家つていふものだ。舊家つていふやつは、これまでにすつかり働く
このクレアの意見をこんな風に滑稽化して話すのを聞いた後で、いぢらしくもテスは、
心の弱くなつた折に、自分の家柄のことを一言も洩らさなかつた事を喜んだ --
たとひ彼女一家が世にも珍らしいほど舊くて、殆んど一廻りしてしまつて新しい一家となつてゐる位ゐであるにしても。
それに、そんな點から言へばも一人の乳搾り女も、彼女と變りはないやうだつた。
彼女はダアバァヴィル家の廟所や、その名を彼女も襲用してゐる征服王
季節は進み、そして熟した。又しても花や、葉や、
搾乳場の主人クリックの下にある男女の一家族は、安樂に、穩かに、その上陽氣に日を送つてゐた。 彼等の身分は恐らく、社會のありとあらゆる身分の中でも一番仕合せであつたらう。 貧困がこゝで無くなるといふ所に引かれてゐる線の上に出てゐたし、又こゝより上へ出れば、 禮儀作法が自然の感情を妨げ始め、 くだらない流行を追ふ爲めに足るものも足らなくなるといふ所に引かれる線の下にもゐたからである。
かうして戸外では、
テスは近頃の生活の中で、今ほど幸福なことはなかつたし、
又恐らく二度とこんな幸福を味ふことはないであらう。それには色々な理由もあるが、
第一に肉體的にも精神的にも、彼女はかうして新しい環境にぴつたり適してゐたからである。
蒔かれたときと同じ場所で、有毒な地層に屆くまで根を張つた若木が、 それよりもつと深い土壤のある所へ移し植ゑられたのである。
それに彼女は(クレアもまた)今のところでは、他人よりも少し好きだといふのか、
それとも眞に戀しく思つてゐるのか、どちらとも分らない所に立つてゐた。
別に深みへはまるでもなく、自分の心の中を反省してみるでもなく、
テスは、まだ今のところ、エンヂェル・クレアに取つて、ほんの偶然に起つた現象 --
彼の意識の
二人は絶えず會つた。會はないではゐられなかつたのである。 彼等は毎日、紫色や薄桃色に染つた曉方、朝の
夜明け方の濃淡相半ばした灰色は、夕暮の濃淡相半ばした灰色とは違つてゐる。尤も、
陰翳の程度は
幾度となく -- いつも偶然とばかりは言へないかも知れないが -- この搾乳場で、
眞先に起きるのは二人であるから、二人は自分等だけが全世界で眞先に起きる者のやうに思つた。
此處へ住み込んでからも暫らくは、テスは
光のまじつた薄氣味惡い
前にも言つたやうに、彼女が彼に一番深い感動を與へたのはその時だつた。彼女は、 もう乳搾りの女ではなく、幻になつた女の精であつた
-- 全女性の結晶した一つの典型的な
「テスと呼んで下さい。」と彼女は横目で彼を見ながら、よく言つた。で、彼はその通りにした。
やがて、
かういふ
二人は、やがてまた羊毛のやうな、平らな、見たところ上掛けほどの厚味を持つた幾重にも重なり合つてゐる薄い夏の霧が、 小さなちぎれ〜の形となつて、牧場の彼方此方に擴がつて行くのを見ることも出來た。 灰色に濕つた草の上には、乳牛が夜通し寢てゐた跡が殘つてゐた -- それは一面の露の海原の中にある、彼等の體ほどの大きさの、乾いた草の暗緑色の島であつた。 各々の島から、蛇のやうにうね〜した足で踏みつけた、路が出てゐた。 乳牛は起きてから草を喰べにその道をのそ〜歩いて來たのであつて、 丁度その路の盡きる處に二人は乳牛を見出した。乳牛が、彼等に氣が附いて鼻を鳴らしながら息を吐き出すと、 一面に立ち籠めてゐる霧の中に、更に自分等が作つた一層濃い僅かな霧が生じた。 それから二人は、乳牛を圍ひ地の中へ追ひ戻すか、また都合によつてはその場で早速乳搾りに取りかゝるかした。
或は又、恐らくは、夏の霧がもつと一面に立ち籠めて、牧場は白い海のやうになり、
その中から、散らばつてゐる立樹が暗礁のやうに突つ立つてゐることもあつたらう。
小鳥はその中を翔け拔けて、上空の明るいところへと舞ひ上り、日光浴をしながら宙に浮いてゐるか、
又は牧場を仕切つてゐる今は硝子棒のやうに輝いてゐるが、
濡れた手摺の上へ
丁度この時刻になると、來かたが遲いと言つて、通勤の乳搾りに
「後生だから、ちよつと
乳搾りの仕事は進んで、やがてその終る頃になると、テスとクレアも他の者と同樣に、 重い食事の食卓がクリックの妻君の手で臺所の壁のところから引き出されるのを聞く事が出來た。 之は何時の食事にもきまつて起る前知らせである。又これと同じあわたゞしい引摺る音は、 食噐類を片付けてしまつて、食卓を元へ戻す時にも伴ふのであつた。
朝飯が濟んだかと思ふと、直ぐに、牛乳庫では大變な騷ぎが持ち上つた。
攪乳噐は何時もの通り廻轉してゐたが、
主人夫婦や、乳搾りの女逹ではテス、マリアン、レッティ・プリッドル、イズ・ヒュウエットや、
それに百姓家から來る女房たちや、またクレア、ヂョナサン・ケイル、老婆のデボーラ、
更に他の人たちも一緒になつて、攪乳噐を眺めながら弱りきつた樣子で立つてゐた。
戸外で馬を追つてゐた少年は、月のやうな眼をしてこの場合に相應しい感情を現はした。
陰氣な馬でさへも一廻りして來る毎に、
「わしがエグドンの
主人が躍起になつてゐる樣子を見てゐると、クレアまで悲しくなり出した。
「みんなが『ワイルド・オー』つて言つてゐるキャスタブリッヂの向側の
「わしの祖父さんは、アウルスコムんお
クリックの妻君は、もつと手近なことを考へてゐた。
「誰か
「あゝ、さう〜! -- だが、ありやそのせゐぢやねえよ。色戀沙汰とそれとは何の關りもねえこつた。 あの事ァ何から何まで憶えてる -- ありや攪乳噐に故障が起つたからだつたよ。」
彼はクレアの方へ向いた。
「ジヤック・ドロップつていふ
『
主人は暫らく言葉を切つたので、 -- 聞いてゐた者の間から、二言三言批評の言葉が出た。
主人のクリックの話は、實際はまださうでないのに終つてゐるやうに思はれることが往々あつた。 それで、初めての者はつい早呑み込みにその積りで、結末が來たら用ひる筈の感嘆詞を、 其處で現はしてしまふのであつた。尤も古馴染になるとそんなことはしなかつた。 話し手は言葉を續けた --
「ところでその婆さんに、どうして氣が附くだけの智慧が出たのか、わしにやとんと分りませんが、
聽いてゐた者が、笑顏で自づとその批評を現はしてゐるうちに、背後で急に身を動かす者があつた。
皆は振り返つて見た。テスが、蒼白になつて
「今日は何んて蒸し暑いんでせう!」と、殆んど聞えない位ゐに彼女は言つた。
實際蒸し暑い日だつた。そして彼女が逃げ出したのを、主人の懷舊談と結び附けて考へるものは一人も無かつた。 主人は進み出て、彼女の爲めに扉を開けてやり、やさしい揶揄の言葉で言つた --
「何ていふんだい、このおぼこ娘、」 (彼は屡々こんな風に親しく呼びかけるが、知つてあてこするのではなかつた。) 「うちの乳搾りの女の中で一番の別嬪さん、まだやつと夏の初めになつたばかりで、 こんなに弱つたんぢや仕樣がないねえ、そんなだと、眞夏の頃にやお前がゐなくなつて、 大弱りしてしまふからね。さうぢやありませんか。クレアさん?」
「私、氣が遠くなりまして -- ですから --
彼女にとつて仕合せなことには、その瞬間に、廻轉してゐる攪乳噐の中にある乳が、 しゆつ〜といふ音からはつきりぺちや〜といふ音に變つた。
「出て來た!」とクリックの妻君が叫んだので、一同の注意は、テスから離れた。
その美しい惱める女は、間もなく表面だけは直つたやうだつたが、夕方の乳搾りが終ると、
彼女は他の人逹と一緒にゐたくなかつたので、自分でも何處へ行くのか分らずに、
外へ
この六月の長い日には、牛乳の出がよくなると搾る前の朝の仕事が非常に早く始まるし、
又大へん骨も折れたから、乳搾りの女逹や、實際この一家の者も大抵、 日の落ちる時分か或はもつと早くに床に就くのであつた。
テスも
一緒の部屋にゐる三人の仲間は、まだ誰も床に入つてゐなかつた。彼女たちは
「押さないでよ -- あんただつてよく見えるぢやないの。」
と赤鳶色の髮をした、中でも一番若い娘のレッティがまだ窓から眼を
「あんた、いくらあの方を思つたつて、私と同じに無駄だよ、レッティ・プリッドル、」
と快濶な顏をした一番年上のマリアンが
レッティ・プリッドルはまだ見續けてゐたので、他の二人も再びその方を見やつた。
「ほら、また出ていらつしやつた!」と黒い水々しい髮をした、口元の引き締つた蒼白い色の娘のイズ・ヒュウエットが叫んだ。
「あんた、何も言はなくつたつて、ちやんと知つてるよ、イズ。」とレッティは答へた。 「あんたがあの方の影に接吻するところを、私見たんだもの。」
「何をするところを見たんだつて?」とマリアンが訊ねた。
「さう〜 -- あの方が乳水を
「まあ、イズ・ヒュウエットつたら!」とマリアンが言つた。
薔薇色の點が、イズ・ヒュウエットの頬の眞中に一つあらはれた。
「さうよ、さあしたつて、ちつとも惡いことぢやないでせう。」と
マリアンの丸々とした顏は、持前の淡紅色より赤くはならなかつた。
「私が!」と彼女は言つた。「馬鹿々々しい!あら、あの方まだ出ていらつしやつた! 可愛い眼 -- 可愛い顏 -- 可愛いクレアさん!」
「ほら -- あんた自分で言つてしまつたぢやないの。」
「あんただつて言つたわ -- 私たちみんなが言つたんだわ。」 と
「私だつてしたい -- それどころぢやないわ。」とイズ・ヒュウエットが小聲で言つた。
「私もよ。」とみんなより氣の小さいレッティが囁いた。
これを聽いてゐる者は、だん〜興奮して來た。
「私たちみんなして、あの方と結婚するわけには行かないわよ。」とイズが言つた。
「私逹に結婚なんかするもんですか、私たちの誰にだつてさ。尚更つまらないことだけどね、」 と一番年かさの娘が言つた。「ほら、また出ていらつしやつた!」
三人とも皆、默つて彼に接吻を送つた。
「何故?」とレッティは
「あの方は、テス・ダアビフィールドが、誰よりも氣に入りなんだよ。」と、マリアンは聲を低めて言つた。 「私は、毎日々々、あの方に氣をつけてゐてそのことを知つたんだよ。」
皆は考へ込んでしまつた。
「でも、テスはあの方のことをちつとも氣にとめてゐないんぢやない?」と
「さうよ -- 私も時々はそんな風に思ふわ。」
「だけど、こんな事、みんな馬鹿々々しいことだよ!」とイズ・ヒュウエットが
一人が溜息した。續いてもう一人が溜息した。それからマリアンのむつくり肥つた體が、 取り分け大きく嘆息した。すぐ傍の寢床にゐた人も、溜息をついた。 綺麗な、赤い髮の一番若いレッティ・プリッドル -- 郷土史では非常に有名なパリドル家の最後の蕾 -- の眼には、涙が浮んで來た。三人は默つて尚ほ暫らく庭の方を見てゐた。 三つの顏は、依然としてくつゝき合ひ、三樣の髮の毛は、入りまじつてゐた。 だが、何も知らないクレアは、もう家の中に入つてしまつて、再び彼女たちの眼に入らなかつた。 それに夕闇は次第に深くなり始めてゐたので、彼女たちも銘々の床に潛り込んだ。 二三分するうちに、彼女たちは彼が自分の部屋の梯子を上つて行くのを聞いた。 マリアンは間もなく鼾を立て出したが、イズは長い間何もかも忘れて眠つてしまふことが出來なかつた。 レッティ・プリッドルは泣いてゐるうちに、寢入つてしまつた。
三人よりも熱い思ひを懷いてゐたテスは、その時になつても眠るどころではなかつた。
この會話こそ、彼女がその日無理にでも嚥み下さなければならなかつたもう一つ別の苦い丸藥であつた。
元より嫉妬の感情などは、露ほども彼女の胸には起らなかつた。 この
一同は
「
數人の者が、彼の周圍へ集つて來た。そして、クレアも味ひ、テスも味ひ、また他の住込みの乳搾りの女や、 一人二人の乳搾りの男も、最後には、用意の出來た朝飯の食卓の處から出て來たクリックの妻君も味つて見た。 確かに澁味があつた。
主人は、一層念入りに味を見て、その原因になつてゐる毒草の種類を見分けようと夢中になつて考へ込んでゐた、 が突然かう叫んだ --
「
すると、古くからゐる雇人たちは一樣に、この頃牛の二三頭入れたことのある或る乾燥した牧場が、
何年か前にも同じやうに
「あの牧場を
誰も彼も、先の尖つた古い
ぢつと地面に眼を注いだまゝ、彼等は一帶の草原を横切つてそろ〜と前進し、
少し行くと又戻つて來るといふ風で、愈々濟ましてしまふ頃には、
この牧場中の一
彼等は、性質も氣分も、お互に甚だしく異つてゐたが、それでも尚ほ同じやうに腰を屈めながら、 不思議に整つた --
機械的な、靜かな一列をつくつてゐた。で、
何事によらず他の者と共にしようといふ自分の主義を飽くまで守つてゐたエンヂェル・クレアは、時折、 頭を上げて四邊を見た。彼がテスの後から歩いてゐたは、無論偶然の事ではなかつた。
「ねえ、氣分はどうです?」と彼は囁いた。
「有難うございます。大變にいゝやうです、」と彼女は眞面目な顏付で答へた。
二人で各々の身の上に關したことをいろ〜と親しく話し合つてから、まだほんの二三十分位ゐしか經たないのでるから、
改まつたこの挨拶の仕方は、ちよつと餘計なやうに思はれた。だが二人とも、 その時はこれ以上口を利かなかつた。二人は屈んで進みつゞけた。
時には彼女の
「とても遣り切れねえ、かうして屈んでゐた日にや、わしの背中は割れて見事にぱく〜やり出すよ!」と彼は、 眞直になるまではさも苦しさうに、そろ〜體を延ばしながら叫んだ。「それに、お前、テスや、 お前は一日二日加減が惡かつたんぢやねえかな -- こんなことをしてゐたら、頭がひどく痛くなつちまふだらう! 疲れたやうならもう止したがいゝぜ!後はみんなに任せて置いたらいゝからな。」
主人のクリックは退き、テスも列から
「あの人たちは綺麗ぢやありませんの?」と彼女は言つた。
「誰です?」
「イズ・ヒュウエットとレッティよ。」
テスは、二人の娘の
「綺麗ですつて?なるほどさうですね -- 二人とも綺麗な娘さんだ -- 生々してゐる。 僕も度々さう思ひましたよ。」
「だけど可哀さうに、
「無論續きませんね、殘念ながら。」
「でも二人とも立派な乳搾りですわ。」
「さう -- 君には及びませんがね。」
「二人とも
「さうですか?」
クレアは何時までも彼女たちを見てゐた -- 彼女たちの方でも、彼を見てゐないわけではなかつたが。
「あの人は顏を赧くしてゐますわ。」とテスは大膽に言ひ續けた。
「誰です?」
「レッティ・プリッドルよ。」
「おゝ!だが、何故ですかね?」
「あなたがあの人を見てお出でになるからですわ。」
テスは氣持の上では、自分を犧牲にしてといふ考へでゐたかも知れないが、 一歩踏み込んで立派にかう叫ぶ事は出來なかつた --
『あなたが心から身分のいゝお孃さんではなく、
乳搾りの女をお望みなら、あの人逹の中の誰かと結婚なさい。そして、私と結婚しようなぞとは思つて下さいますな!』と。
彼女は主人のクリックの後に
この日から彼女は強ひて彼を避けるやうに心懸けた -- たとひ全く偶然に出會つたやうな場合でさへも、 以前のやうに長く彼と一緒にゐるやうなことは決してしなかつた。彼女はあらゆる機會を他の三人に讓つた。
テスは、もうすつかり女になつてゐたので、耳にした彼女たちの打ち明け話から、
エンヂェル・クレアにこの三人の乳搾り女逹がその貞操を捧げてゐる、といふことを悟ることが出來た。
そして、そのうちの誰の幸福をも、たとひ
七月の暑い天候が、忍びやかに彼等を襲つて來て、平坦な谷間の大氣は、搾乳場の人たちや乳牛や樹木の上に、 麻醉劑となつて重く覆ひかゝつて來た。度々暑い霧のやうな雨が降つて、乳牛の放してある野原の草を益々繁らせ、 他の牧場では、この頃の乾草作りの仕事を妨げた。
或る月曜日 [注:日曜日の誤り] の朝であつた。乳搾りは濟み、通勤の乳搾り逹は、もう家へ歸つてゐなかつた。 テスと他の三人は、急いで身支度をしてゐた。 彼女逹はこの搾乳場から三四哩離れたところにあるメルストックの教會へ一緒に行く約束をしてゐたからである。 彼女は、タルボセイズへ來てからもう二ヶ月になるが、遠くへ出掛けるのはこれが始めてゞあつた。
前日の午後から夜へかけて、絶え間なく猛烈な雷雨が草原を襲つて、乾草をいくらか河の中へ押し流した。
だg,今朝になると、太陽は大雨が降つたゞけに、尚更
自分逹の村からメルストックへ通ずる曲りくねつた小徑は、或る處へ行くと一番低い平地を通つてゐた。
そして、娘たちがこの一番窪んだ場所まで來て見ると、雨の爲めに約五十
「夏だつていふのにこんなに
「水の中を
「それに、私、後れて會堂へ入つて行つて、皆の人にじろ〜見廻されると、 眞赤に顏がほてつちやつて。」とマリアンは言つた。 「『お心に叶へ奉らんやう』(祈祷の終りの文句)まで來ないうちは、なか〜落着かないの。」
四つの心臟は、一齊に大きな動悸を打つた。
彼の樣子は、獨斷的な牧師の子がよく見せるやうに、安息日などを認めてゐないやうであつた。
搾乳場の仕事着に長い雨靴といふ扮裝で、頭を冷す爲めにキャベツの葉を一枚帽子の内側へ入れ、
仕事に行く
「あの方は教會へ行くんぢやないのよ。」と、マリアンが言つた。
「えゝ -- 行くんだといゝのに。」とテスは呟いた。
エンヂェルは、實際、正しいか間違つてゐるかは別として(遁辭を弄する爭論者の安全な句を用ひれば) 晴れ渡つた夏の日には、教會や禮拜堂の説教を聽くよりも、石の説教(山川草木、つまり天地有情を説く教へ) を聽く方が好きだつた。で、今朝は洪水の爲めに乾草がひどく被害を蒙つたかどうか調べに出掛けたのだつた。 歩いてゐるうちに、彼はずつと遠くから、娘たちに氣がついた。 勿論、彼女等の方では、道路の難澁なのに氣を取られてゐたので彼に氣がつかなかつた。 其處は水に浸つてゐて、とても彼女逹には進んで行かれはしまいといふことを、彼はよく知つてゐた。 そこで、どうしたら彼女等 -- 殊に、その中の一人 -- に手を貸してやれるか、はつきりした考へもなく、 どん〜急いでやつて來たのであつた。
薔薇色の頬をし、晴れやかな眼をした四人の群が、輕い夏衣をまとつて、
屋根の傾斜にとまつた鳩のやうに道端の
彼は、長靴を沒してしまふほどには深くない水の中を
「君たちは教會へ行くつもりかね?」と彼は先頭のマリアンに言つた。 この言葉の中には次の二人も含まつてゐたが、テスだけは除外されてゐた。
「えゝ。それに、後れさうなんです。後れると、私、眞赤になつて -- 」
「僕が水溜りを
四人全體が、まるで一つの共通した心臟が鼓動してゞもゐるかのやうに、 さつと顏を赧らめた。
「あなたには
「向うへ越さうとするには、さうするより外に方法はないね。 靜かに立つておいで。馬鹿な -- そんなに重いもんか!四人一緒にだつて運んでみせるよ。 さあマリアン、いゝかね。」と彼は言葉を續けた。「そして僕に肩に兩手を掛けるんだ、 さう〜。さあ!しつかり掴まつておいで。うまいもんだ。」
マリアンは言はれる通りに、彼の腕と肩に體を託した。そこでエンヂェルは、彼女を背負つて大股に歩いた。
背後から眺めると、彼のすらりとした姿は、彼女の姿を大きな花束とすれば、
それについてゐる莖のやうに見えた。二人の姿は、道路の曲り角を廻つて見えなくなつた。
たゞ彼の水を
「ほら、いらつしやつた。」と彼女は囁いた。そして彼女の唇が興奮の爲めに乾いてゐるのを他の二人は知つた。 「そして私、マリアンがしたやうに、あの方の頸に手を卷いて顏を覗き込まなくちやならないわ。」
「さうしたつて何でもないぢやないの。」とすぐテスが言つた。
「何事にも時あり、」とイズは構はずに續けた。「抱くべき時あり、抱かるゝを避くべき時あり、つてね。 これから私のするのは初めの方の時ね。」
「あら厭だ -- それは聖書の言葉ぢやないの、イズ。」
「さうよ、」とイズは言つた。「私美しい句は教會でも何時もよく聞いてゐるのよ。」
この仕事の四分の三は、親切心から出た當り前な行爲に過ぎないと思つてゐるエンヂェル・クレアは、
今度はイズに近附いた。彼女は
この哀れな小さなレッティは、誰よりも一番輕かつたが、クレアには最も厄介な荷物だつた。
マリアンは、
が、彼はこのぢつとしてゐない小娘を背負つて、無事に
「多分、私この
「いや〜、テス、僕が連れて行つて上げませう、」と彼は口早に言つた。
そして殆んど自分でも氣づかないうちに、彼女は彼の腕の中に體を落着け、彼の肩に
「一人のラケルを得る爲めに、三人のレアを渡すのさ。」と彼は囁いた。
「私よりは、みんな立派な方ですよ。」と彼女は何處までも立派に自分の決心を固く守つて、答へた。
「僕にとつてはさうぢやないな、」とエンヂェルが言つた。
この言葉を聞いて、彼女が上氣するのを彼は見て取つた。それから二人は數歩の間、默つて進んだ。
「私、重すぎやしないでせうか?」とおづ〜彼女は言つた。
「重くはありません。マリアンを持ち上げて御覽!素敵な圖體だ! 君は、太陽に温められてゐるうねり波のやうなものですよ。それから君の着てゐるふわ〜したモスリンは、水の泡だ。」
「私は大變に綺麗な譯ですわね -- 私があなたに、そんな風に見えるとすると。」
「君は知つてゐますか、僕が、全く第四番目の爲めに、四分の三の骨折りをしたのだつていふことを。」
「いゝえ。」
「今日こんな出來事があらうとは思ひがけなかつた。」
「私だつて……水が急に増したんですもの。」
彼は水が増えたといふ出來事を指したのだといふ風に彼女は解釋したが、 彼女の息づかひの樣子がそれを裏切つてゐた。クレアはぢつと立つて、自分の顏を彼女の方へ傾けた。
「おゝテッシイ!」と彼は叫んだ。
娘の頬は、彼の息を感じて燃え上つた、彼女は興奮して、彼の眼に見入ることが出來なかつた。 それを見てエンヂェルは偶然の場合をよいことにして多少つけ込んでゐるやうに思つて、 これ以上何もしようとはしなかつた。まだ二人の唇から、はつきりした言葉で戀が語られてゐたわけではなし、 今のところはこの邊でやめて置くのが望ましいことだつた。しかし彼は、 殘りの距離を出來るだけ長くしようとして、ゆつくり歩いて行つたが、 到頭二人は曲り角まで來てしまつた。そして後の行程は、他の三人からすつかり見えてゐた。 乾いてゐる土地へ着いて、彼は彼女を下ろした。
三人の友逹は、圓い、考へ深さうな眼をして、彼女と彼とをぢつと見てゐた。 それで彼女は、みんなが自分のことを噂し合つてゐたのだと思つた。 彼は急いで彼女等に別れを告げ、水に浸つた道を、ぴしや〜音をたてながら歸つて行つた。
四人は前のやうに一緒になつて歩いて行つた。やがてマリアンが沈默を破つて言つた --
「駄目よ -- どうしたつて、私たち、この人にはとても適はない!」
彼女は面白くもないといつたやうにテスを見た。
「それはどういふ意味なの?」とテスが訊ねた。
「あの方は、あんたが一番好きなのよ -- 誰よりも一番好きよ! あの方があんたを連れて來る時、ちやんと分つたわ。若しあんたがちよつと、 ほんのちよつとでも誘ひさへしたら、あの方はあんたに接吻したでせうよ。」
「まあ、そんなことないわ。」と彼女は言つた。
出掛ける時、皆が胸に抱いてゐた樂しさは、どうやら消えてしまつた。 けれども、お互の間には敵愾心や惡意なぞ毛頭なかつた。彼女等は、優しい若い娘たちであつて、 まゝにならないのが浮世だといふ考へが強く滲み込んでゐる淋しい田舍の片隅で育つたのである。 で、彼女たちはテスを責めはしなかつた。かうして自分たちの位置を取つて代へられてしまふのも、 もとより運命であると考へて。
テスは思ひ惱んだ。他の者も彼に夢中になつてゐることを知つて、 恐らく愈々熱烈に自分もエンヂェル・クレアを戀してゐる事實を、
彼女は自分自身に
「私は決してあんた方の邪魔はしないわ。あんた方の中の誰の邪魔もしないわ!」と、 その夜、彼女は寢床の中でレッティに誓つた(涙を流しながら)。「私、しようとしたつて出來ませんわ、 ねえ、あんた!私、あの方にちつとでも結婚する氣があらうとは思はないわ。 でも、萬一あの方が私に申し込んで來たとしても、私、お斷りするわ。 他のどなたにだつてさうなんだけれど。」
「まあ!あんた本當?どうして?」とレッティは
「そんなことのある譯がないわ!だけど、私本當のことを言ひますよ。すつかり自分を離れて考へてみても、 私、あの方があんた方の中の誰かを選ぶやうなことがあらうとは思はないの。」
「私、それを期待したことなんか決してないわ -- 思つてみたことだつて!」とレッティは悲しさうに言つた。 「でも、あゝ!私いつそ死んだ方がいゝと思ふわ!」
可哀さうに自分でも殆んど分らない感情の爲めに引きむしられたこの子供は、 その時丁度二階へ上つて來た他の二人の娘の方を振り向いた。
「私逹はまたこの人と友逹にならうよ。」と彼女は皆に言つた。 「この人は私逹と同じやうに、あの方に見立てゝ貰うなぞとは思つてゐないのだよ。」
それで、隔意はなくなり、彼等は打ち解けて親密になつた。
「私、今どんなことをしてゐようが、一向關はないやうな氣持だよ。」とマリアンは言つた。 が、彼女の氣分は非常に元氣のない調子になつてゐた。「私二度も申し込まれて、 スティックルフィールドの搾乳場の主人と結婚しようとしたの、でも -- どうしてどうして -- 今はあの人の女房なんぞになる位ゐなら、いつそ死んでしまつた方がいゝと思ふわ! 何故そんなに默つてゐるの、イズ?」
「ぢや、本當をいふがね、」とイズは小聲で言つた。「今日あの方が抱いて下すつたとき、
あの方は接吻して下さることゝ思つてゐたの。それだのに、あの方はしてくれなかつた。
私、もうこのタルボセイズにはゐたくないわ!
寢室の空氣は、まるで娘逹の絶望的な感情につれてぶる〜震へるかのやうに思はれた。
彼女たちは、殘酷な『自然』の法則の手で、さん〜゛にさいなまれた情緒 -- 彼女たちが期待してゐた譯でも、
また求めた譯でもない情緒に抑へられて、狂ほしく身悶えした。 思ひがけなかつた今日の出來事は、彼女たちの胸の奧に燃えてゐた炎を煽りたて、
その惱みは殆んど耐へ切れない位ゐであつた。彼女逹を一人々々區別してゐたいろ〜の特色も、
この情熱の爲めに
彼女逹は小さな寢臺の上で、輾轉した。階下の
「あんた起きてるの、テス?」と半時間もたつてから、一人が囁いた。
それはイズ・ヒュウエットの聲であつた。
テスは、えゝと答へた。すると、レッティもマリアンもまた俄かに夜具をはねのけて吐息をした --
「私たちもその通りなの!」
「どんな方でせうね -- お家の方で、あの方の爲めに見つけたつていふお孃さんは!」
「ほんとにね、」とイズが言つた。
「お孃さんが、あの方の爲めに見つかつたんですつて?」と驚いてテスは喘ぐやうに言つた。 「私ちつともそんなこと聞かなかつたわ!」
「さう、さうなんだよ -- 内々そんな噂があるのさ。何でもあの方と同じ家柄のお孃さんで、 お家の人がお選びになつたんですつて。エミンスタアのお父樣の村に近い神學博士のお孃さんなんだよ。 あの方は餘り氣乘りしてゐないつていふ話よ。でもあの方は屹度その人と結婚するでせう。」
このことを、彼女等はあまり
思ひ掛けないこのことを聞いてから、テスはもうクレアの自分に對する心遣ひの中に、
何か眞面目な深い意味が潛んでゐるなぞといふ馬鹿げた考へを抱かなくなつた。
それは、自分の容貌に對する短い夏の戀、たゞ戀がしたさの氣まぐれな戀 -- それだけのものに過ぎなかつた。
かう思ふと悲しくなつたが、取り分け一番苦しいことは、十分考へた上での事でないにせよ、
實際彼が他の者を差し
肥えた土壤が濕氣を發散して、温い醗酵作用を行つてゐるフルウムの盆地の中で、 しゆう〜と受精作用を音のする下から、樹液の上るの迄が殆んど聞えようといふ季節である。 どんなに空想的な戀でも、自然と熟して來ないわけには行かなかつた。 その土地にゐる若者の待ち構へてゐた胸は、周圍のものと相接して受胎作用を始める事になつた。
七月は彼女等の頭上を通り過ぎ、その後を追つて來た酷暑の候は、タルボセイズ搾乳場で、 或る胸と胸とを結び付けようとする『自然』の努力のやうに思はれた。 春から初夏の頃にかけては、一段と新鮮になるこの土地の空氣も、今は澱んで力なく見えた。 それは重い香を含んで彼等を壓迫した。眞晝時になるとあたりの景色はまるで氣絶して仆れてゐるやうに見えた。 阿弗利加のやうに熱い燒きつくやうな光線は、牧場の傾斜面のうちでも高い方を鳶色に染めた。 だが、水路がさら〜音を立てゝ流れてゐる邊には、まだ青々と輝くやうな緑の草が茂つてゐた。 クレアは外部の熱に惱まされてゐると同時に、心ではまた、 優しい言葉少ないテスを思ふ愈々切ない熱情の爲めに心を焦してゐた。
雨期が過ぎてしまつたので、高地は乾燥してゐた。
搾乳場の
涼しいのと都合が好いのとで、彼等は乳牛を追ひ込まずに全然牧場で乳を搾るのであつた。 日中、乳牛は太陽の廻轉と共に影が木の幹の周圍を廻つて行くにつれて、 どんな小さな立木の蔭でも仕方なしに追ひ歩いた。そして乳搾りが行つても、 蠅の爲めに中々ぢつとしてはゐなかつた。
かうした或る午後のこと、偶然にもまだ乳を搾られてゐない四五頭の乳牛が、 全體の群から離れて生垣の片隅の背後に立つてゐた。そのうちには、他のどの娘よりも一番テスの手を好んでゐる、 ダンプリングとオールド・プリッティとがゐた。彼女が搾り終へた一頭の乳牛の側の腰掛から立ち上ると、 今までしばらくの間彼女を見守つてゐたエンヂェル・クレアが、今度は今いつた二頭の乳牛を搾るのかどうかと訊ねた。 彼女は默つてさうだと頷いた。そして、差し伸べた腕に腰掛を持ち、乳桶を膝へ寄せ掛けて、 二頭の乳牛が立つてゐる場所へ行つた。間もなくオールド・プリッティの乳が、桶の中へ勢ひよくしゆう〜と落ち込む音が、 生垣を通して聞えて來た。やがて、エンヂェルもその片隅へ行つて、 其處にうろ〜してゐた乳を出ししぶる乳牛を濟ましてしまはうと考へた。 彼も、今では、主人と同じやうにこんなことが出來るやうになつてゐたからである。
すべての男逹と女のうちでも幾人かは、乳を搾る時には、額を乳牛の下腹へ埋めて、ぢつと乳桶の中を見るのであつた。 だが二三人のものは
-- 主に若い者は -- 頭を
彼女は、クレアが自分の後を追つて廻つて來てゐることも、彼の乳牛の下から自分を見守つてゐることも更に氣が付かなかつた。 彼女は頭と顏とを少しも動かさずにゐた。或は夢幻の境を辿つてゐて、眼を開けてはゐたが、 物を見てゐなかつたのかも知れない。この一幅の繪の中で、動くものはたゞオールド・プリッティの尻尾と、 テスの淡紅色の手だけであつた。しかもその手は、鼓動してゐる心臟と同じやうに、 まるで反射的な刺戟に從つてゐるかのやうに律動的な脈動となる位ゐおだやかに動いてゐた。
彼にとつてどんなに彼女の顏を愛らしかつたらう。しかも、天女のやうなところは少しもなかつた。 すべては現實の活力であり、現實の温味であり、現實の肉體を持つた神であつた。 そしてその愛らしさの極致を示してゐる所は口元であつた。今までにも彼は、 彼女のやうな深味を有つた物をいう眼は見たことがあつた。恐らく、これ位ゐ美しい頬も、 これ位ゐ美しい弓形の眉も、これ位ゐ形の整つた顎や喉首も見たことはあつた。 が、およそこの地上で、彼女の口元に匹敵するものを、彼は曾つて見たことがなかつた。 眞赤な上唇の中程がちよつと持ち上つてゐる樣子は、殆んど熱のない若い男でも、 心を奪はれ、うつとりさせられ、氣を狂はされるに十分であつた。彼は、雪を一面にいたゞいた薔薇、 といふエリザベス朝の古い譬へを、彼の心にかうまで囁いて何度も思ひ出させるこんな唇と齒並とを、 これまでに見たことがなかつた。彼は、愛人としてなら、即座にこれを完全と呼んだかも知れない。 だがいや -- これは決して完全ではなかつた。快感を生ずるのは、 所詮完全なるものゝ上に不完全なものが加はるからである。 なぜかといへば、この不完全な部分こそ人間味を始めて生ずるもだからである。
クレアは、今迄にも度々この唇の曲線を調べてゐたので、容易にそれを心に思ひ浮べることが出來た。
そして、今それが色彩と生氣とに包まれて再び眼前に現はれたので、それは彼の肌に一種の『アウラ症』を起し、
全身に惡寒を感じ、その爲めむかつきを催すほどであつた。そして、
或る不思議な生理上の作用で、この場合として極めて氣の利かない
彼女はやがて、彼が自分を見守つてゐるのに氣が附いた。 しかし、妙な夢を見てゐるやうな凝視こそなくなつたが、 體の向きを變へたりして自分が氣のついたことを外に現はさうとはしなかつた。 だが、注意深く見てゐたら、彼女の顏の薔薇色が段々濃くなり、やがてまた色が褪せて、 終には僅かにその痕跡しか殘らないやうになつたことに、たやすく氣づいたに相違ない。
天空から
彼女は全く不意を打たれて、反省する暇もなく、不可抗的に、彼の抱擁に身を任せた。
寄つて來た者は紛れもない自分の戀人で、他の誰でもないことを知ると、
彼女の唇は
彼は今にも、餘りに誘惑の強い彼女の口に接吻しようとした。 が、感じ易い良心の爲めに、彼は自分を押し止めてしまつた。
「許して下さい、ね、テス!」と彼は耳打ちした。「僕は許しを受けておくべきだつたんだ。 僕は -- 自分で何をしてるのか分らなかつた。でも、氣紛れにこんな事をする氣はないのです。 僕は全く君に心を捧げてゐるんです、テッシイ!ね、ほんとに眞心からです!」
この時、オールド・プリッティは呆氣に取られて周圍を見廻した。
そして、自分の憶えてゐる習慣では、一人しかゐなかつた筈の自分の腹の下に、
二人の人間が
「牛が怒つてゐますわ -- 私逹が何をしてゐるか分らないもんだから -- 乳桶を蹴返してしまふかも知れませんよ!」 と靜かに彼の手から身を離さうと努めながら、テスは叫んだ。彼女の眼は牛の動作を氣にしながら、 心には更に深く自分とクレアとに奪はれてゐた。
彼女は擦り拔けて、その席から起ち上つた。そして、男は未だに彼女を抱いたまゝ、 二人は一緒に立つてゐた。遙かの彼方を見入つてゐるテスの兩眼には、涙が溢れかけて來た。
「何故君は泣くの、ねえ君?」と彼は言つた。
「あゝ、私何故だか分りませんの!」と彼女は呟いた。
今どういふ位置に自分がゐるかをはつきり感じて來るにつれ、彼女の心は亂れて、 體を
「ねえ、僕は到頭、本心を見せてしまひましたよ、テス、」と彼は言つて、妙に捨鉢な溜息を洩らした。 それは、彼の熱情が、理智を飛び越してしまつたことを無意識に示してゐた。 「僕が -- 強く、心から君を愛してゐるといふことは、今更言ふまでもないことだ。 でも僕は -- いやこれでやめて置かう -- 君を苦しめるだけだ -- 君も驚いたでせうが、 僕もまた驚いてゐる。僕が君のどうにも出來ないところへつけ込んだと -- あんまり早計で無反省だと、思つてはくれないでせうね、えゝ?」
「いゝえ -- 私、何とも言へませんわ。」
彼は、彼女の望むまゝにその體を離した。それから一二分も經つと、銘々又乳搾りに取りかゝつた。
誰もこの二人が一つに引き寄せられたのを見たものはなかつた。また二三分してから、
搾乳場の主人が、衝立を立廻してあるやうな其處の片隅を見廻りに來た時には、
恐ろしく離れてゐるこの二人の者が、今はもうお互にとつてたゞの知り合ひ以上のものであつた --
といふ事を現はす痕跡など何一つなかつた。だが、クリックが、この前にこの二人を見てから後に、
彼等二人の天性には、宇宙の地軸をも變化させるやうな事が起つたのであつた。
若し主人がそれがどういふ性質のものかを知つたならば、實際的な男として、これを卑しめたかも知れない。
しかもそれは世間の所謂實際的な事柄を全部積み上げたのよりも、 遙かに頑強な不可抗的な性向に基いて存在するものであつた。
クレアは、自分の心を捉へてしまつた女が、もう部屋へ退いたので、 落着けない氣持になつて、夕暮が迫つて來ると戸外の薄闇の中で出て行つた。
夜の矢張り日中と同じやうに蒸暑かつた。暗くなつてから草原の上へでも行かなければ、
少しも涼しくはなかつた。街道も、夜の小徑も、家の正面も、裏庭の塀も、
煖爐のやうに温まつてゐて、眞晝の
彼は搾乳場の裏庭の東の門に腰を下した。そして、自分はどう考へていゝのか分らなかつた。 實際その日は、感情の爲めに、分別が抑へつけられてしまつたのである。
三時間前に急に抱擁し合つてから、二人は別れたきりであつた。 彼女は不意に起つた事の爲めに口を利く力も無くなり、殆んど仰天したやうに思はれた。 又一方彼の方では、今日の事件が異常で、意外で、しかも見事に自分の思ふやうになつたので、 何となく落着いてゐることが出來なかつた -- 彼は生れつき深く考へ込む性質ではあつたが、 胸騷ぎのするのを禁ずることが出來なかつた。彼にはまだお互ひの本當の關係や、またこれから先、 第三者の前でお互ひにどんな態度を示したらよいかといふことが、殆んど分つてゐなかつた。
エンヂェルは、もと〜、此處で送る一時の生活は、自分の一生涯から見れば、 直ぐ過ぎ去つて早くも忘られてしまふほんの一插話に過ぎないものだといふ考へで、 この搾乳場へ弟子入りして來たのであつた。恰も屏風で仕切られた部屋の一廓から面白い外の世界を靜かに眺めて、 ウォルト・ホイットマンと一緒に --
常の
扮裝 なせる男女の群、
げに珍らしくも汝 、我が眼に映るよ!
と呼びかけながら、改めてその世界へ躍り入る計畫を取り決めることの出來る場所へやつて來たやうなものだつた。 しかも、どうだ、その面白い場面はもう此處へ移されてゐたのであつた。 嘗つて心を惹き附ける世界であつたものは、もう興味のない外界の默劇と化してしまつた。 だが、この見たところ陰氣くさい生氣のない場所に、 これまで何處へ行つても彼の身に一度も起つたこともないやうな珍らしい事件が俄然火山のやうに爆發した。
家の窓々は何れも開け放してあつたので、クレアは庭越しに、部屋へ引つ込んで行く人逹の些細な物音まで一々聞くことが出來た。
極めて粗末な、取るに足らないこの家 -- 彼から見れば何處までも假りの宿にすぎないのであるから、 これまではこのあたりの風景の中で、
特に何か特色のあるものとして踏査するほど大切な建物とは決して思つてゐなかつたその搾乳場、
今それはどういふものとなつたか?古い、苔蒸した煉瓦の破風は『停まれ!』と小聲で囁いた。
窓は微笑み、扉は甘言を弄して差し招き、
彼にとつて、この
異端説を持つてゐて、缺點もあり弱點もある、がそれにも拘はらずクレアは、良心のある男であつた。
テスは決して
彼が突き留めたこの意識こそ、同情のない『造物主』が始めてテスに與へた生存のたゞ一つの機會だつた --
それが彼女の一切であつた。あらゆる、また唯一の機會でもあつた。かう思つたとき、
彼はどうして彼女が自分よりも身分の低いものだと見做したり、愛撫してみたり、
また飽けば捨てたりするのに都合のいゝたゞ綺麗な
これまでのやうに毎日彼女に會ふことは、芽の出かゝつてゐるものを益々生長させることに相違なかつた。
こんなに親しい關係で暮してゐると、會ふといふことは直ちに相思の仲になることだつた。
木石でもない限り、それに抵抗するわけには行かなかつた。そして、かういふ勢ひが何處に
しかし、全然彼女に近寄るまいといふ決心を實行に移すのは、容易なことではなかつた。 彼は脈搏の打つ毎に、彼女の方へ引き摺られるのだつた。
彼は、近しい者たちのところへ、出掛けて行かうと考へた。
行つて見れば、このことに就いての彼等の意中を、探ることが出來ないとも限らなかつた。
後五ヶ月足らずで、此處でも修業期間は終つてしまふ、それから他の農場で猶ほ二三ヶ月を送つたならば、
十分に農業上の智識も身に
或る朝のこと、タルボセイズの搾乳場で、皆が朝飯の席に就いたとき、乳搾り女の一人が、 その日はクレアがちつとも姿を見せないと言ひ出した。
「それやさうさ、」と主人のクリックは言つた。「クレアさんは、 二三日お家の人逹と暮す爲めにエミンスタアの實家へ歸られたんだ。」
食卓を圍んで心を躍らせてゐた四人の者にとつては、朝の光は忽ち消え、鳥もその歌をやめてしまつた。 だが、どの娘も言葉や擧動にその狼狽さを現はしはしなかつた。
「間もなくわしのところにゐる期限もしまひになるから、」と主人は殘酷に聞えるとは氣づかず、
かう冷淡に附け足した。「だからね、何處か
「まだどれ位ゐ此處にゐらつしやるんでせうか?」と悲觀しきつてゐるこの仲間のうちでも、 たゞ一人顫へ聲など出さないで質問が出來ると思つたイズ・ヒュウエットが訊ねた。
他の者は、自分たちの命が主人の答へ一つに懸つてゞもゐるかのやうに、待ち受けてゐた。
レッティは、唇を開けたまゝ、テーブル・クロスを
「さうさな、控へ帳を見ねえことにや、はつきりした日は思ひ出せねえよ、」依然として、 人を焦らせるやうな平氣な樣子でクリックは答へた。「また、その日だつてちつとは變るかも知れんよ。 藁置場で少し牛のお産のことを習ふんで、屹度まだ此處にゐらつしやるやうになるだらう。 先づ今年の暮頃まではゐらつしやるだらうな。」
彼と一緒に暮してゐて味ふ苦しいやうな嬉しい戀の惱み -- 『苦しみの帶をしめた樂しみ』の四ヶ月餘りの月日。 その後の言ひ難い夜の闇黒。
その朝、丁度その刻限に、エンヂェル・クレアは、エミンスタアにある父の牧師館に向つて、親切な傳言と一緒に、
クリックの妻君から兩親へ贈られた
父親の住まつてゐる、
クレアは、彼女をよく知つてゐた。彼は先方が自分を見附けたかどうか、確かには分らなかつたが、
なるたけ見附けないでくれゝばいゝと思つてゐた。別に非の打ちどころのある女ではなかつたけれども、
わざ〜近寄つて行つて、言葉をかけるのが面倒だつたから。彼女に挨拶することがひどく厭だつたので、
彼は先方でも自分を見附けなかつたことに勝手に決めてしまつた。この若い令孃は、マアシイ・チャントといつて、
父親の隣人でもあり友人でもある人の獨り娘で、彼を他日彼女と結婚させたいといふのが、
彼の兩親の内々の希望であつた。彼女は信仰萬能論や聖書の講義にかけては熱心な女で、
丁度この時も明らかに講義に出て行くところであつた。クレアの心は、フルウム盆地の情熱に富み、
夏の大氣に浸り切つたやうな無信仰者たちの方へ、乳牛の糞で
彼がエミンスタアへ來ようと決心したのは、急の思ひ附きだつたので、前以て手紙で母親や父親に知らしては置かなかつた。
だが、彼等がまだ教區のお勤めに出掛けない朝飯の刻限に行き着かうとは思つてゐた。
豫定よりも少しばかり遲れたので、彼等はもう朝餐の席に就いてゐた。彼が入つて行くや否や、
食卓についてゐた一同は跳び上つて彼を迎へた。居合わせた人々といふのは、 彼の兩親と、兄のフェリックス師 --
隣りの郡内の或る町の副牧師で、二週間以内の豫定で歸省してゐた -- と、
それから
老クレア師は、こゝ二十年の間に、現代生活から殆んど落伍してしまつた
息子のエンヂェルが、近頃フルウムの盆地で經驗してゐた自然の生活や水々しい女性に對する耽美的な、
官能的な、異端的な快樂に對しては、たとひ研究や又は想像力でそれを理解することが出來たとしても、
彼の氣質は少からぬ嫌厭を感じたに相違無かつた。曾つて一度エンヂェルは運惡くかつと腹が立つた餘りに、
近代文明を支配する宗教の源が希臘であつて、パレスタイン(基督教の本山)でなかつたら、
人類に遙かに好い結果を齎らしてゐたかも知れない、と父親に向つて言つてしまつた。
すると父親は、ひどく悲しんだ。それは、かういふ説に千分の一の眞理も潛んでゐない、
まして半面の眞理又は全眞理が含まれてゐるなどゝどうして思へるかと言はんばかりの徹底的な悲しみであつた。
彼はその後暫くの間エンヂェルに對して、たゞ嚴肅に説き聞かせただけであつた。だが、もと〜優しい性質の人であつたから、
何事でも長く
エンヂェルは腰を下ろした。そして如何にも此處が自分の家らしく感ぜられた。
しかし
彼等の方から見ると、彼のうちには大きな相違が、以前のエンヂェル・クレアとは大へん隔たりのある相違があつた。
たつた今、彼等が、わけても兄逹が見て取つたのは、主に彼の
朝飯後、彼は二人の兄たちと散歩に出た。彼等は福音傳道主義者の風もなく、立派に教育を受けた、 非の打ちどころのない青年で、足の爪先までも端正であつた。言ひかへれば組織的教育といふ旋盤から年々産出されるやうな、 申し分ない典型的な人間であつた。彼等は二人とも幾分近視眼で、陽もつきの片眼の鼻眼鏡を掛け、 兩眼の鼻眼鏡を掛けるのが習慣になると、彼等も矢張り兩眼の鼻眼鏡を掛けた。が、普通の眼鏡を掛けるのが習慣になると、 彼等も直ぐ普通の眼鏡を掛けるのであつた。自分逹の視力に、特別、人と違つた缺陷のあることには全く頓着しなかつた。 ワアヅワアスが桂冠詩人に擧げられると、彼等はそのポケット版の本を携へて歩き、 シェリーが重んぜられてゐない時には、その詩集を書架の上に埃りにまみれる儘にうつちやつて置いた。 コレッヂオ(伊太利の畫家)の『聖族』が嘆賞されてゐる時には、彼等もコレッヂオの『聖族』を嘆賞し、 世間がヴェラスクエを襃めて彼の難ずる時には、彼等も更に異存なく、忠實にそれに從つた。
この二人が、エンヂェルが社交上に不適當なものになつて行くのに氣が附いたとするならば、
彼の方では彼等の智力がだん〜制限されて行くのに氣が附いた。彼にはフェリックスは、
教會そのものゝやうに思はれ、カスバアトは大學そのものゝやうに思はれた。
一人には管區宗教會議と聖母訪問祭とが、他の一人には
彼等はどちらも孝行なよく氣がつく息子で、兩親を訪問することも几帳面に實行してゐた。 フェリックスは、神學説の轉化から見ると、父親よりもずつと新しいところから出た者ではあつたが、 父親に較べては犧牲的精神も稀薄で、それほど廉潔でもなかつた。 それを抱く者にとつては危險となるかも知れないやうな點を持つてゐる反對説に對しては、 父親よりも寛大だつたが、彼の教義を侮蔑するものと見れば、それを父親ほど安々と赦さうとはしなかつた。 カスバアトは、大體に於いてもつと寛大ではあつたが、兄よりも陰險で餘り人情味を持つてゐなかつた。
彼等が丘の中腹を歩いてゐると、エンヂェルには以前の感情 -- 自分と較べて二人が如何なる有利な地位を占めてゐようとも、
二人の中の何れも人生を實際の生活として見てもゐないし、又言ひ現はしてもゐないといふ感情が甦つて來た。
多分多くの人々の場合と同じやうに、二人とも、ものを觀察する機會が、 自分の意見を述べる機會ほどよくないのであらう。
「お前は今となつては農業をするより外に仕方がないんだなあ、」悲しさうな樣子をして、
眼鏡越しに遙かの
「無論、行けますとも。」とエンヂェルは言つた。「そりや、もう千九百年も昔に證明されたぢやありませんか -- まあ、ちよつと、あなたの領分を侵すことになりますがね?フェリックス兄さん、あなたは、 何故僕が高尚な思索と道徳觀念を捨てゞもするやうに、考へるのですか?」
「それはね、お前からの手紙や、一緒に話してゐるときの調子から考へると -- ほんのちよつとした空想かも知れないが -- お前は、何處か理解力を失ひかけてゐるやうに思つたのだ。 カスバアト、お前、それに氣がつかなかつたかね?」
「ねえ、フェリックス、」と無愛想にエンヂェルは言つた。「僕逹はもうよく理解し合つてゐる仲ぢやありませんか。 僕逹は銘々定められた道を歩いてゐるんでせう。だが理解力といふことになると、 兄さんは一人よがりの獨斷家として僕の理解力なんかを打つちやつて置いて、 御自分のがどうなつてゐるかを調べて見た方がいゝんぢやないかと僕には思はれるんです。」
彼等は丘を下りて食事に歸つて來たが、この食事は、何時といふ
彼等は散歩で空腹になつた。 搾乳場の主婦が幾分不作法に並べ立てた食卓の自宅出來の材料で出來た量の多い料理に慣れた今は、 戸外の勞働者であるエンヂェルには、殊に甚しかつた。だが、老人逹はどちらもまだ歸つてゐなかつた。 そして、子供逹が殆んど待ちくたびれてしまつた時分に、兩親はやつと入つて來た。 自己犧牲の精神に富んだこの夫婦は、自分逹の食慾のことなぞは忘れて、 病氣の教區民の或る者に肉食の食事を薦めてゐたのであつて、つまり、多少矛盾してゐたが、 その病人逹を肉體の中に閉ぢこめて天國へ行かせぬやうにしたのである。
家族の者は食卓に就いた。そして、冷たい質素な食物が彼等の前に置かれた。エンヂェルは、
クリックの妻君から贈られた
「あ!お前、あの黒臘腸を探しておいでだね、」とクレアの母は言つた。
「でも、
「勿論、」と今度は蜜糖水を探しながら、エンヂェルは快濶に言つた。
「あの蜜糖水は、大さう
「原則として、私逹は、この食卓では決して酒類を飮まないことにしてあるのでな、」と父親は附け加へた。
「だが、搾乳場のお上さんには何と言つたものでせう?」とエンヂェルは言つた。
「無論、事實を言ふのさ、」と父親は言つた。
「僕、實は、蜜糖水も黒臘腸も、みんなで大さう美味しく頂戴しましたと言ひたかつたのです。 あのお上さんは、親切な、愉快な人でしてね、僕が歸つて行くと、早速訊ねるに違ひないんです。」
「實際に味つてゐないものを、さう言ふわけには行かないよ。」と老クレアははつきり答へた。
「如何にも -- その通りです。だが、あの蜜糖水はちよつと乙な代物なんですがね。」
「ちよつと何だつて?」とカスバアトとフェリックスは口を揃へて言つた。
「あゝ -- それはタルボセイズの方で使つてゐる言葉ですよ。」と顏を赧らめながら、 エンヂェルが答へた。人情を缺いてゐる點では間違つてゐても、實行の點では、 兩親の方が正しいと彼は感じたので、それからもう何も言はなかつた。
夕方の家族の禮拜が濟んでから、エンヂェルはやつと、大事の一二の問題を父親に切り出す機會を見出した。 兄たちの背後の敷物の上に跪づいて、彼等の靴の踵についてゐる小釘を見ながら、 その問題を一生懸命に考へてゐたのだつた。禮拜が濟むと兄たちは母親と一緒に部屋を出て行き、 老クレア師と彼自身とだけが後に殘つた。
この青年は、最初に大規模な -- 英國でかそれとも植民地かで農夫としての境涯に入らうとする計畫を、
この老人に切り出した。そこで父親は、エンヂェルを
「世俗的な富といふ點では、」と父親は言葉をつゞけた。「お前は二三年もすれば、 屹度二人の兄たちよりも遙かに上になるに相違あるまい。」
老クレア師のこの思ひ遣りに力を得て、エンヂェルは他のもつと密接な問題へ進んだ。彼は父親に、 自分はどう二十六にもなつてゐるし、農業を始めるからにはあれこれと氣を配る背後の眼が要ることを述べた -- つまり彼が戸外に出てゐる間、家の中にあつて家事上のことを監督する者が必要である。 で、結婚するのがよくはなからうか?といふのであつた。
父親は、この考へを不當な事とは思はないらしかつたので、エンヂェルは問ひかけた --
「どんな種類の妻が、節儉を主義とする勤勉な農夫の僕に一番似合ふとお父さんはお思ひですか?」
「眞の基督教徒の女だ。さういふ女こそ、
「だが、何よりも先づ第一に牛乳を搾つたり、精良な
「さうだ。農夫の妻にはな、さうだ、確かにさうだ。さうあつて慾しいものだ。」
老クレアは、これまでこんなことを少しも考へてゐなかつた。「私は今、」と老クレアは言つた。
「純潔な
「さうです、さうです、マーシイは
彼の父は、人道に對する使徒のやうな見解に較べれば、農夫の妻としての任務を心得てゐるなぞといふことは、
第二位に來るものだといふ信念に固執して動かなかつた。そこで性急なエンヂェルは、
一方に父親の感情を尊重し、同時に胸に思つてゐる問題を進めようと思つて、
尤もらしい話をするやうになつた。彼は、運命或は神意が、彼の行方に、
農夫の伴侶たるべき資格を何から何まで備へ、また確かに眞面目な氣立の一人の女を投げ與へられたことを話し、
彼女が父親の屬してゐる健全な低教會派の者であるかどうかは別に言はなかつたが、
彼女は、恐らくその點では容易に胸を開いて信仰を受け容れるであらう、
彼女は單純な信仰を有つてゐて、規則正しく教會へ出席もするし、正直で、
感受性が強くて、發明で、或る程度まで
「その娘といふのは、お前が結婚しようとする程の家柄の者なの -- つまり、立派な
「そりや普通に言はれてゐる
「マーシイ・チャントは、極く立派な家柄の者ですよ。」
「馬鹿々々しい! -- それが何の役に立つんです、お母さん?」とエンヂェルは素速く言つた。 「私のやうに今も將來も荒い仕事をしなきやならない者の妻に、そんな家柄がどんな役に立つでせうか?」
「マーシイはよい躾けが出來てゐるよ。躾けといふものは馬鹿にならないものだからね。」 と母親は銀縁の眼鏡越しに彼を見詰めながら答へた。
「表面の躾けなんかゞ僕にして行かうとする生活にどんな役に立つでせうか? -- だが、あの女の讀書なら僕が自分で導いてやることが出來ます。 あなただつてあれを知ればさう言ふに違ひありませんが、 あれは十分物分りのいゝ生徒に違ひありません。あれの胸には、詩がこぼれるほど一杯に充ちてゐます -- それは實際化した詩です、若しこんな言ひ方が許せるなら。言葉だけの詩人がたゞ筆で書くことを、 あれは實際の生活でやつてゐるんです……また確かに申し分のない基督教徒でもあります。 恐らく、あなたが將に弘めようと望んでゐられる部族や種族や、民族の生れなんです。」
「おゝ、エンヂェル、お前は人を馬鹿にしてお出だね!」
「お母さん、御免なさい。だが、あの女は實際殆んど日曜の朝には何時でも教會に行つて、 立派な基督教徒の少女なんですから、屹度その點に免じて、社交上の常識の足らないところは大目に見て頂けるだらうし、 また僕があの女を選ばなかつたら、却つて惡い事になるだらうと思ひます。」
エンヂェルは愛するテスの、寧ろ機械的な正教主義について、ひどく熱心に述べ立てた。 この信仰こそ(こんなに立派に役に立たうとは夢にも思はなかつた)彼女や他の乳搾りの女たちが、 實行してゐるのを見ては、根本の自然な信仰から考へると、明かな虚僞だといふ理由で、 彼はやゝもすれば輕蔑し勝ちなものだつた。
クレア夫妻は、息子が自分等には未知の女の爲めに要求した正教徒の信仰といふ名稱と對して、 當の息子は、それを要求する資格が幾分でもあるだらうか、といふ暗に疑念に包まれてはゐたものゝ、 少くともその娘が、健全な考へを有つてゐるといふことは、見落とすことの出來ない好都合だと感じ始めた。 わけても二人の結合が、天の攝理で成り立つたものに相違ないから、さう感じ始めたのである。 といふのは、エンヂェルは相手を選擇するのに、正教徒の信者を條件にする譯がないからであつた。 兩親は、最後に、早まつた眞似はしないがいゝと、彼女に會つてみることには異存はないと言つた。
それ故、エンヂェルは、今これ以上細かいことを述べ立てるのは差し控へた。 自分の兩親は、直情的で己れを犧牲にする性質ではあるけれど、なほ中産階級の人々に特有な或る隱れた偏見があつて、 それを征服するには多少の技巧を要すると彼は感じた。何故かと言へば、 法律上では自由に彼の意志通りのことが出來るし、大方兩親からは遠く離れた土地で暮すことになるから、 我が子の妻の資格は、實際には彼等の生活に何の係りもない筈であつたが、 彼は、自分の生涯の最も大事な決定をするに當つて、愛情を重んじて、 彼等の感情を傷つけまいと願つたからである。
彼は、テスが生活の上に現はした意外な出來事を、 恰も拔き差しのならない特色でゞもあるかのやうに尊重してゐる自分の矛盾に氣が附いた。 彼がテスを愛するのは、テスその人を愛するからであつた。つまり彼女の魂を、 彼女の心を、彼女の眞髓を愛するからであつて -- 彼女の乳搾りの技倆や、 彼女の生徒としての機敏な性質や、そして又確かに彼女の單純な形式的な信仰の公言を愛するからではなかつた。 彼女の人摺れのしない、野生のまゝの存在は、それを彼の氣に入るものとする爲めに、 何も世間並みの塗り換へなどをする必要は少しもなかつた。彼は、教育の如きは、 家庭の幸福を左右してゐる情緒や衝動などにまだ殆んど影響を及ぼしてゐない、といふ考へを持つてゐた。 幾時代も經つて行くうちには、段々に進んだ徳育や智育の制度が、 眼に見える程度に、恐らくは著しい程度に、人間の性情の自發的なまた無意識でさへある本能を向上させることには、 多分なるだらう。だが、今日までのところでは、教育の力も、彼の知る限りでは、 その影響を蒙つた人々の精神の表皮だけを動かしたに過ぎないと言つて差支へない。 この信念は、女に關する彼の經驗によつて愈々確かなものとなつた。彼の經驗では、 近頃では教養のある中流階級から田園社會にも擴がつて行つたので、 同一の社會層或は階級の善人と惡人とか、賢者と愚者とかの差異に較べると、 一社會層の善良で賢明な女と、他の社會層の善良で賢明な女との間にある差異が、 本質的にはどんなに少ないものであるかを、彼に教へた。
彼が出發しようとする朝のことであつた。兄たちはもう牧師館を立ち去つて、北の方に向つて徒歩旅行を續けてゐた。
それから、一人は自分の大學へ、他の一人は自分の教會へ戻ることになつてゐた。
エンヂェルは、彼等と一緒に行けば行けないことはなかつたけれども、
それよりはタルボセイズの戀人と一緒になる方が好ましかつた。若し一緒について行つたにしても、
彼は一行のうちで氣まづい思ひをしなければならなかつたに違ひない。 といふのは、彼は三人のうちで一番眼の肥えてゐる人道主義者であり、
一番理想的な宗教家であり、又、一番精通してゐる基督學者でさへあつたが、
本質は四角だのに、それを入れる爲めにと準備してくれたのは圓い穴で、 元より
母親は、彼にサンドウイッチを拵へてくれた。そして父親は、牝馬に乘つて少し先まで送つて來てくれた。 自分の方の要件は可なりのところまで進めて置いたから、エンヂェルは父親と木蔭の小徑を一緒にゆつくり進んで行く間、 父親が宗務の面倒なことや、自分では親しみを見せてゐるのに冷淡な態度をとる仲間の牧師たち -- 彼等が有害なカルヴィン風の教義と信じてゐる主義に照らして、 自分が『新約聖書』を嚴重に解釋するからといつて示す冷淡な態度のことなどを説明するのを、 快く默つて聞いてゐた。
「有害だと言ふのだよ!」と胸のすくやうな輕蔑の調子で老クレア師は言つた。
そして、そんな考へが馬鹿げてゐることを明かにするところの經驗談を、事細かに語り始めた。
彼は、たゞ貧乏人の間のみでなく、富んだ
後者の一例として、四十哩ほど先のトラントリッヂの近くに住んでゐるダアバァヴィルといふ若い成り上りの地主の場合を擧げた。
「キングスビアやその他の土地を所領してゐたダアバァヴィルといふ舊家の一人ぢやないんですか?」 と息子は訊ねた。「それ、あの四頭馬車をかゝへてゐたといふ幽靈話の傳はつてゐる、 あの妙な歴史附きの零落した一族の?」
「いや、違ふよ。正統のダアバァヴィル家は六十年か八十年前に衰へて、絶えてしまつたのだ --
少くとも、私はさう信じてゐる。今言つたのは、新しく起つた一家で、
その名前だけを使つてゐるらしいのだよ。あの昔の
「あなたは僕を誤解してゐますよ、お父さん、度々のことですが、」 とエンヂェルは少し焦れつたさうに言つた。「政治的には、
僕が彼等が舊いといふことの價値を疑ひます。彼等の間にあつてさへも聰明な者は、
ハムレットがいふやうに、『己が
この區別は、決して微妙なものではなかつたが、それでも老クレア師には微妙すぎて、分らなかつた。
そこで彼は先刻から述べようとしてゐた物語を續けた。その話といふのは、かうだつた --
普通にダアバァヴィルと言つてゐる先代の
エンヂェルは、痛々しく思つて顏を赧らめた。
「ね、お父さん、」と彼は悲しさうに言つた。「そんな無頼の徒から、
必要のない苦痛を受ける爲めに身をお
「苦痛だつて?」と父親は、皺に刻まれたその顏を、克己の熱情に輝かせて言つた。
「私にとつてたゞ一つの苦しみは、あの可哀さうな愚かな若者のことを思つての苦しみなのだよ。
あの青年の激昂すた言葉が、また
「まさか打ちは、お父さん?その青年は打ちはしなかつたでせう?」
「うん、
「まさか!」
「そりやもう幾度も〜だ、お前。ところでどうだ?私はさうやつて、
我と我が肉と血を殺してしまふ罪から彼等を救つたのだよ。それで彼等は生きながらへて、
私に感謝し、神を
「お話のその青年も、どうかさうあつてくれますとね!」とエンヂェルは熱心に言つた。 「だが、あなたのお話から判斷すると、さうは行かないやうに思はれますね。」
「それでも、尚ほさうあることを願ふよ、」と老クレア師は言つた。 「そして、恐らく、もうこの世であの男と再び會ふことはあるまいが、私はあの男の爲めに、 永久に祈つてやるよ。が結局、あの私のつまらん言葉の一つでも、何時かはあの男の胸に、 良い種のやうに芽を出さんとも限らないからな。」
何時もさうだが、今もクレアの父親は、子供のやうに信じ易くなつてゐた。
そして息子は、父親の褊狹な獨斷を受容れることは出來なかつたが、その實行を尊敬し、
この敬神家の底に英雄を認めないではゐられなかつた。テスを自分の妻としようとする問題が起つてゐるのに、
父親は彼女が富裕であるか、それとも一文なしか
ぎら〜する眞晝の大氣に浸りながら、丘を上り谷へ下りして二十餘哩の遠乘りをした後、
彼はその日の午後、タルボセイズから一二哩西に離れた丘に着いた。
彼は其處から又しても水氣の多い濕潤な緑の盆地、ヴァール又はフルウム河の谷間を見下した。
高地から下方の肥沃な沖積土層下り始めると、すぐに周圍の空氣は重々しくなつて來た。
そこを夏の果實や、霞や、乾草や、花などの恍惚とさせる芳香が、
大きな香氣の溜池にしてしまひ、その時刻になると、動物や、蜂や、蝶にまでも睡氣を誘つてゐるやうに見えた。
クレアは、今ではその土地によく馴れ親しんでゐたから、牧場に點在してゐる乳牛を長い距離を隔てゝ見てさへ、
それ等の一頭々々を名指すことが出來る位ゐであつた。此處で、學生時代には全く知らなかつた態度で、
人生をその内側から見る力が出來たことを知つて、彼は得意の念を禁じ得なかつた。
また彼は、元より兩親を深く愛してはゐたが、歸省生活の經驗を味はつた後で、かうして此處へ歸つて見ると、
搾乳場には、
彼は馬具を外して、馬に
彼女は、彼の入つて來るのを聞かなかつたので、其處に彼がゐようなどゝはてんで思つてゐなかつた。
彼女は
やがて兩の眼は、まだ顏の隣り近所がすつかり覺め切らない中に、先づ膜のやうな重い隔りを通してきら〜と閃めいた。
喜びと、恥かしさと、驚きと一緒に
「あら、クレアさん!何んて吃驚させるの、私を -- 私は -- 」
最初彼女には、彼が戀を打ち明けたのをきつかけにして二人の關係は變つてゐたといふ事に思ひ到るだけの猶豫はなかつた。 が、一番下の梯子段の方へ進んで來るクレアの優しい表情に出會ふと、テスの顏には、 二人の間柄が一切呑み込めたといふ氣持が浮んで來た。
「可愛い、可愛いテッシイ!」と彼は、腕を彼女に廻し、顏を彼女の上氣した頬に押し當てゝ、囁いた。 「お願ひだから、もうこれからは僕をさんづけで呼ばないでくれ、僕は君故に、 大急ぎでこんなに早く歸つて來たんだよ!」
テスの感じ易い心臟は、彼のそれに動悸を傳へて、答への役を果した。そこで二人は、
入口の赤煉瓦の床の上に立つた。彼がしつかりと彼女を胸に抱いてゐると、太陽は窓から斜めに射し込んで、
彼の背中を、彼女の
「私、クリーム
二人が牛乳庫の方へ退いた時、デボーラ・ファイアンダーが梯子段の上に現はれた。
「僕、歸つて來たよ、デボーラ、」とクレアは上へ向つて言つた。 「だから、テスのクリーム
恐らくその午後、タルボセイズの牛乳は、十分には
やがて彼は、再び彼女をひしと小脇に引き寄せた。そして彼女が、
クリームの隅を切り取る爲めに鉛の
「何時言ふのも同じだから、今言つてしまはう、ね、」と彼は穩やかに再び言ひ出した。 「極く實際的な問題を君に話したいんだよ。そりや、先週牧場でのあの日からずつと僕は考へ續けて來てゐることなんだ。 僕は遠からず結婚したいんだ。僕は農夫なんだから、ねえ。農場を整理することを一切心得てゐる女を妻に慾しいんだよ、 君はその女になつてくれないかね、テッシイ?」
彼は、自分の理性が承認しないやうな一時の衝動に負けたのだとは彼女に思はれたくないやうに、 この話をして行つた。
彼女はすつかり惱ましさうな樣子に變つた。彼女は、近接する事から生ずる避けることの出來ない結果に、 つまり彼をどうしても愛するやうになる結果に屈服してゐた。が、こんなに不意に續いて起つた必然の結果を、 豫測してはゐなかつた。實際、クレアとてもこんなに早く話さうなぞといふ積りはなかつたが、 つひ彼女に打ち明けてしまつたのであつた。骨身が崩れるかとも思はれるやうな烈しい苦しみを感じながら、 彼女は立派な女となつて、その避け難い、またきつとした答への言葉を囁いた。
「あゝ、クレアさん -- 私、あなたの奧さんなぞにはなれませんわ -- 私、どうしてもなれません!」
自分できつぱりした答へをして置きながら、その語調は、テスの心臟を破裂さすやうに思はれ、
彼女は悲しくなつて顏を
「だが、テス!」と、彼女の答へに吃驚して、一層彼女の體を貪るやうに固く抱き締めながら、彼は言つた。 「君はいやと言ふ積りかね?本當に、君は僕を愛してゐるのかね?」
「えゝ、ゐますとも、ゐますとも!世界中の誰のものとなるよりも、 一番あなたのものになりたいんです。」苦しんでゐる娘の美しい、正直な聲はかう答へた。 「でも、あなたと結婚することはどうしても出來ません!」
「テス!」と彼は、腕を差し伸べて彼女を支へながら言つた。「君は誰か他の者と婚約があるんだね!」
「いゝえ、いゝえ!」
「ぢや、どういふわけで僕を拒むの?」
「私、結婚したくはないんです!結婚するなんてことはまだ考へたこともありません。 私、とても出來ません!たゞ私、あなたを愛してゐたいだけです。」
「だつて、何故?」
愈々問ひ詰められて、言ひ拔けをしなくてはならなくなつて、彼女は口籠つた --
「あなたのお父さまは、牧師さんでせう。そいて、あなたのお母さまは、
あなたが私風情の女と結婚するのをお
「馬鹿言つちやいけない -- 僕は、兩親にも話してあるんだよ、僕が
「私、出來ないやうに思ひます -- とても、とても!」と彼女は繰り返した。
「餘り急だつたかね、こんな風に申し込むのは、え?」
「えゝ、そんなこと思ひも寄りませんでした。」
「若し君が後のことにしてくれといふなら、ねえ、テッシイ。暫らくの猶豫をして上げるよ、」と彼は言つた。 「此處へ歸つて來るなり、いきなり君に話してしまふなんて、僕も恐ろしく無茶だつた。もうこのことは、 暫らく何も言ふまい。」
彼女は再びきら〜輝くクリーム
「
もうこの上彼女の心を騷がし、仕事を妨げまいとして、思ひ遣りの深いクレアは、 もつとあり觸れたことを話し出した --
「君は全く僕の兩親を、誤解してゐるんだよ。世の中に生きてゐる人のうちで、 一番質朴で、まるつきり野心なんかない人間だよ。今ぢや僅かしか殘つてゐない福音派の中の二人なんだ。 テッシイ、君は福音派ぢやないかね?」
「私、知りません。」
「君は几帳面に教會に行くね。そして此處の牧師はあの
毎週その説教を聽いてゐながら、テスが此處の教會の牧師の意見に就いて抱いてゐる
「私、あそこで聽くことを、今までよりももつとしつかり考へることが出來ればいゝと思ふの、」 と彼女は、當り障りのないことを言つた。「それが出來ないんで、私大變悲しくなることが時々あるの。」
彼女はちつともわざとらしくなく話したので、エンヂェルは、たとひ彼女はその主義が高教派なのか、 低教派なのか、それとも廣教派なのか知らなくつても、宗教上の立場から、父親が彼女に反對することは出來ないだらうと、 心の中で確信した位ゐであつた。彼自身では、實際には彼女が抱いてゐる、明らかに子供の時分に吹き込まれたと見える、 まとまりのない信仰が、どつちかといへば、語法の分類からいへば、トラクタリアン派 (十九世紀の初め、オックスフォードに起つた宗教運動。英國教會の一派)であり、 また、本質からいへば、汎神論的であることを知つた。それを亂さうなぞとは、彼の思つても見ないことであつたのだ --
汝、その妹をそのまゝに置け、妹が
祈るとき、
その幼心に描く天國を、その樂しい
夢を
また汝、それとなく諷刺などして亂
すなかれ
おだやかなる日を送る生活をば。
彼はしば〜この忠言を、音樂的である割合ひに、餘り正直でないやうに思つて來た。 だが、今彼は喜んでこれに從つた。
彼は尚ほ今度の訪問中の出來事とか父親の生活振りとか自分の主義に對する彼の熱意などに就いて話した。
彼女はだん〜落着いて來て、クリーム
「私、入つていらつしやつた時に、あなたは少し鬱いでゐるやうに思ひました。」 自分に關する話題から遠ざかつてゐたいので、彼女は思ひ切つて、こんなことを言つた。
「さうだらう -- 實はね、父からいろ〜父の身にからまる心配事や、厄介事をうんと聞かされてね。
こいつは、何時も僕を惱ます問題なんだ。父は非常に熱心家だから、自分と考へ方を異にしてゐる人逹からは、
いろ〜とひどい
テスの表情は、だん〜暗くなり、生氣がなくなつて來て、赤いふつくらした口も、 痛々しげに見えた。だが、彼女はもう少しも顫へを見せなかつた。父親のことが、再び自分の心に戻つて來たので、 クレアは、テスに格別注目してはゐなかつた。かうして二人は、液體の入つた幾つもの長方形の桶の眞白い列に、 それからそれへと移つて行き、やがてすつかり終り、空けてしまつた。丁度その時、 他の乳搾り女逹が歸つて來て乳桶を取り上げた。そしてデッブは、新しい牛乳が詰められるやうに、 鉛の鑵を湯で洗ふ爲めにやつて來た。テスが乳牛のゐる牧場へと立ち去る時、 彼は優しく言つた --
「それで、僕のことは、テッシイ?」
「あら、駄目です -- 駄目です!」アレク・ダアバァヴィルのことは話されてゐるうちに、 自分の過去のいざこざを新たに聞いたので、彼女は悲しい絶望に襲はれてかう答へた。 「私、とても出來ませんわ!」
彼女は他の乳搾り女逹に加はつて、自分の悲しい氣づまりを外氣で拂ひ除けようとでもするやうに、
牧場の方へ急いで行つた。娘逹の一團は、野獸のやうな大膽な樣子でひたすら -- 無限の空間に慣れ切つてゐる女の、向う見ずな、自由な動作
-- 波に漂ふ水泳者のやうに、 大氣の中に身を任せたといふ態度で --
ずつと遠い牧場で乳牛が草を食つてゐる處へとだん〜近付いて行つた。
今テスが再び現はれて、『人工』の殿堂からではなく、自由
彼女から斷られようとは夢にも思つてゐなかつたものゝ、その爲めにクレアは、 いつまでも弱つてはゐなかつた。女に對する彼の經驗は、
往々拒絶も承諾の前提に過ぎない場合があるといふことに氣付く程度には廣かつた。
が、狹いといへば可なり狹いもので、今度の拒絶の仕振りには、
羞恥の爲めの躊躇とは大へん違つたものがあることを見分けることが出來ない位ゐであつた。
彼女が既に彼から言ひ寄られるまゝになつてゐたといふ事をその確實さに力を添へるもの彼は解釋してゐた。
しかも田園や牧場では、『無報酬で戀の役をつとめる』(シエークスピアの「ハムレット」中にある句)
ことも決して無駄と考へられてはゐない、何故かといへば、此處では、言ひ寄ると、 野心家逹の娘が身を固めたいとばかり願つてゐるので、
その爲め情熱だけを
「テス、何故君は、あんなにはつきり『いゝえ』と言つたんだね?」と彼は二三日經つてから彼女に訊ねた。
彼女はぎよつとした。
「聞かないで下さいね。何故だかは、私あなたに言ひましたわ -- 幾らか。 私ははいといへる程よい女ではないんです -- その資格のない者なんです。」
「どうして?立派な
「えゝ -- まあそんなところです、」と彼女は囁いた。「あなたのお家の方々は、私を輕蔑なさるでせうよ。」
「實に、君はあの人逹を誤解してゐるよ -- 僕の父や母を。兄たちなんか、どうでも構はないんだ -- 」 彼は滑り拔けられないやうに、彼女の背中で指を握り合はせた。「ねえ -- 心ぢやさういふつもりぢやないんだらう、 ねえ? -- 屹度さういふつもりぢやないと思ふんだ!君がすつかり不安にさせてしまつたんで、 僕は本を讀むことも遊ぶことも、何もすることが出來やしない。僕はちつとも急いぢやゐないがね、テス、 たゞ知りたいんだ -- 君のその熱い唇から聞きたいんだ -- 君が何時か僕のものになつてくれるつていふことをね -- 何時でも君の好きな時でいゝんだ。が、何時かはなつてくれるかね?」
彼女はたゞ頭を振り、彼から眼を背けることしか出來なかつた。
クレアは彼女をぢつと見詰め、顏の表情を、恰もそれが象形文字でゞもあるかのやうによく吟味した。 拒絶は本當らしく思はれた。
「ぢや、僕はかうして君を抱いてなんぞゐちやいけなんだ -- ね、さうだらう?僕は君に對して、 何の權利も有つてはゐないんだ -- 君のゐる處を探し歩いたり、君と一緒に歩いたりする權利は少しもないんだ! 正直に言つてくれ、テス、君は誰か他の男を愛してゐるのかね?」
「どうしてそんな事がお聞きになれますの?」と彼女は何處までも自分を抑へて、言つた。
「君にそんなことがないつてことは、僕もほゞ承知してゐる。だが、それでは、 何故君は僕を拒絶するんだね?」
「私あなたを拒絶はしませんわ。私は、あなたに仰しやつて頂きたいんです -- 私を愛するつて。 そして私と一緒に歩いてゐる時、何時でもさう仰しやつて下すつて、いゝんですわ -- 決して、私の氣に障るやうなことはないんですの。」
「だが、僕を夫とすることは、とても出來ないつていふんだね?」
「えゝ -- それは別のことです -- それもあなたの爲めを思ふからですわ、本當にあなた! あゝ、私の言ふことを信じて下さい、たゞあなたのお爲めを思ふからなんです! 私はそんな風にして、あなたのものになる約束を結んで、 自分に大きい滿足を與へたくはないんですの -- 何故つて -- 何故つて、私そんなことは出來ないんですもの。」
「でも、君は僕を幸福にすることだらう!」
「あゝ -- ほんとに、さうお思ひでせう、でもあなたは知らないんですわ!」
今のやうな時には、彼女の拒絶の根據が、
社交上のことも禮儀のことも少しも
内心の
「何故誰かゞ、私の事情を一切あの人に話してくれないのかしら?」と、彼女は言つた。 「たつた四十哩しか離れてゐないのに -- どうして此處まであの噂が屆かないんだらう? 誰かしら知つてゐるに違ひないのに!」
が、誰も知つてゐる者はないやうだつた。また誰一人、彼に語り聞かせる者もなかつた。
二三日の間は、それ以上何も言はれなかつた。彼女は、部屋仲間の者たちが自分がたゞのお氣に入りといふだけでなく、 選ばれた女と見做してゐるのをその顏色から推察した。けれども、自分が彼の望むまゝになつてゐないといふ事も、 自づと彼女たちにも知れないではゐなかつた。
テスは、自分の
彼等は後になつて、桶へ入れるやうに、先づ凝乳の塊りを碎いてゐた。
この仕事は、大仕掛けにパンを碎くやうなものであつた。そして一點汚れのない純白な凝乳の中で、
テス・ダアビフィールドの兩手は自然薔薇色の
九月初旬の天候は蒸し暑かつたけれども、彼女の腕は凝乳の中に浸つてゐたので、
彼の口には丁度採り立ての
「何故僕があんなことをしたか分るかね、テス?」と彼は言つた。
「私を大へん愛して下さるからでせう!」
「さうだよ、それから新しい頼みの前置きとしてだよ!」
「もうこれつきり言はないで下さい!」
彼女は、抵抗力が自分の僞らぬ慾求に打ち潰されてしまひはしないかと、急に氣づかふやうに見えた。
「おゝ、テッシイ!」彼は續けた。「君が、何故さう氣を揉ますのか、僕にはさつぱり分らない。
何故僕をさう失望させるのだね?君はまるで
「私はその考へが厭だなんて言つた覺えは、一度もありませんし、 またそんなこと言へつたつて言へませんわ、何故つて -- そりや本心ぢやありませんもの!」
今はもうとても堪へられなくなつて、彼女の唇は
「言つてくれ、言つてくれ!」彼は自分の手が凝乳だらけになつてゐるのも忘れて、興奮し、 彼女を抱きかゝへながら言つた -- 「是非言つてくれ、君は僕以外の誰のものにもならないつてことを!」
「言ひます!、私言つてしまひます!」と彼女は叫んだ。「そして御得心のいくお答へを致します、 若し今離して下さるなら。私の經驗をお話しします -- 自分のことを何も彼も -- 一切のことを!」
「君の經驗を。よし、承知した。どれほどでも。」彼は彼女の顏を覗き込みながら、
氣持のいゝ皮肉を言つて承諾した。「僕のテスは、屹度、あそこの庭の生垣に、
今朝初めて咲いた晝顏と殆んど同じ位ゐ澤山の經驗を有つてゐることだらうね、
何でもお話し、が、僕に
「えゝ、心掛けますわ -- しないように!それから私の
「ぢやどうだらう、日曜頃では?」
「えゝ、日曜に。」
到頭、彼女はその場を立ち去つた。そして、全く誰からも見られない屋敷のうちの、
わけても低い側にある梢の刈り込まれた柳の茂みの中へ退いてしまふまで、
一度も立ち止らなかつた。此處でテスは、恰も寢床の上でもあるやうにかさ〜鳴る葦の
實際、彼女は承諾の方へ卷き込まれて行つた。彼女の呼吸の一
午後の時間は、どん〜經つて行つたが、彼女はまだ柳の茂みの中に立つてゐた。
彼女は
彼女の愛人は、彼女の昂奮し過ぎた状態をそれと察して、姿を現はさないことに對し、
何とか口實を設けてくれたに相違なかつた。何故かといへば、別に彼女は尋ねられもしなかつたし、
また呼ばれもしなかつたから。六時半になると太陽は空に据ゑられた大きな熔鐡爐のやうな輝きを呈して、
地平線に沈んで行つた。そして程なく、一方には、竒怪な、南瓜のやうな月が登つた。
始終刈り込みをされて、自然の形態をすつかり歪められてゐる梢を刈られた柳は、
その月にくつきり浮き上ると、針の頭髮をした怪物と化した。彼女は屋内に入つて、
それが丁度水曜日であつた。木曜日となつた。そしてエンヂェルは、 遠くから彼女を考へ深く眺めてゐたが、決して押しかけては來なかつた。 マリアンを始め、他の住込みの乳搾り女たちは、何かしらはつきりした話が始まつてゐると推察してゐるらしかつた。 といふのは、寢室でも彼女たちは、彼女に強ひて何の話も仕掛けなかつたから。 金曜日は過ぎ、土曜日が來た。明日は約束の日であつた。
「私は負けてしまふかも知れない -- 『はい』と言つてしまふかも知れない -- あの人と結婚してしまふかも知れない -- 私の力では、それをどうすることも出來ない!」 その夜彼女は上氣した顏を枕に押しつけ、他の女たちの一人が、眠つてゐながら吐息の中に彼の名を呼ぶのを聞いて、 嫉妬を感じながら喘いだ。「私以外の誰かにあの人をやるなんて、そんなこと私には我慢が出來ない! でも、これはあの人を誤まることだ。そして、あの人があのことを知つたら、悶え死になさるかも知れない! あゝ、どうしよう、この胸 -- あゝ -- あゝ!」
「ところで、今朝わしは誰の噂を聞いたと皆は思ふかな?」搾乳場主のクリックは、 翌日朝飯の席についたとき、むしやむしや食つてゐる男たちや女たちを、 謎を掛けるやうな眼付で見廻しながら、言つた。「さあ、ちよつと誰のことだと思ふかな?」
一人が當てゝ見た。それから次が當てゝ見た。クリックの妻君は當てゝ見なかつた。 といふ譯は、彼女はとつくに知つてゐたからである。
「實はね、」と主人は言つた。「あのだらしねえ父なし子のジヤック・ドロップのことなんだ。
「まさか、ジヤック・ドロップがね?ひどい奴ねえ -- まあ考へて見ると!」と乳搾り女の一人が言つた。
この名前は、すぐテス・ダアビフィールドの意識の中へ入つて來た。それは、自分の情婦を裏切つて、 後になつてその若い女の母親に、攪乳噐の中で手酷い目に會はされた男の名前だつたからである。
「それで、男は約束通り、あの元氣な母親の娘と結婚したんですか?」エンヂェル・クレアは、
身分が立派だからといふ意味で、クリックの妻君の爲めに何時でも追放されて行つてゐる小さいテーブルに
「とこrがそうぢやないんでさあ。
「本當に、その女は馬鹿だよ。死んだ亭主の幽靈が祟るかも知れないつて、 もつと早く言つて置けばいゝものをねえ、」とクリックの妻君は言つた。
「うん、うん、」主人は
彼は、娘たちの並んでゐるところを見渡した。
「二人が式を擧げに教會へ行くちよつと前に、つまり相手がどうしても身が退けなくなつた時に、 打ち明けて置けばよかつたんだに、」とマリアンが叫んだ。
「さうよ、さうすればよかつたんだわ、」とイズが合槌を打つた。
「相手の下心を見拔いてゐたに相違ないわ。だから、斷るのが本當だつたんです、」とレッティが急に
「それからお前はどう思ふかな?」と主人はテスに意見を求めた。
「私、その女は -- 相手に本當の事情を打ち明けてしまふか -- でなかつたら、 斷るのが本當だと思ひますわ --
私には分りませんが、」
「それを
この冗談に續いて笑聲が起つたが、テスはほんの申し譯の爲めの悲しい微笑をそれに補つたゞけであつた。
皆には喜劇に思はれるものも、彼女には悲劇であつた。そして皆の暢氣なのが、堪へられなかつた。
彼女は間もなく食卓から起ち上り、自分の後にクレアも從いて來るだらうと思ひながら、
曲りくねつた小徑を、或は灌漑用の溝の片側へ、或は他の側へと歩を運んで行つて、
やがてヴェール河の本流の側に突つ立つた。男たちが、ずつと上流の方で水草を刈つてゐた。 そしてその塊 --
その上に乘れば殆んど乘れたかも知れないやうな緑の
さうだ、そこにその
「テッシイ!」といふ聲が、彼女の背後から聞えて來た。そしてクレアが溝を跳び越え、彼女の足下へ下り立つた。 「私の妻 -- 直ぐにね?」
「いえ、いえ。私、出來ませんわ。あなたの爲めに。あゝ、クレアさん。あなたの爲めに、 私はいえと言ひます。」
「テス!」
「私、矢つ張りいえと言ひます!」と彼女は繰り返した。
彼はこんな答へを豫期してはゐなかつたから、聲をかけたすぐその後で、
彼女の埀れ下つてゐる頭髮の眞下と思はれる腰に輕く腕を廻してゐたのだつた。 (若い乳搾り女たちは、テスもその一人であるが、
日曜日の朝には教會へ行くことゝて髮を特に高く結び上げる前に一旦それを解くのである。
そしてそのまゝ朝飯を食べるのだつた。その結び方は、頭を乳牛に押しつけて、乳搾りをするには不向きだつた。)
若し彼女が『いえ』の代りに『はい』と言つたら、彼は必ずテスに接吻したに相違なかつた。
言ふまでもなく、彼はさうする
『いえ』『はい』は、全くこの手を放すか放さないかで決るのであつた。 今何が彼の申し出を斷る力を彼女に與へたかといへば、たゞ主人が語つたあの寡婦の話だけであつた。 そしてその力は、ことによると、次の瞬間には抑へつけられてしまつたかも知れない。 が、エンヂェルはもう何も言はなかつた。彼は、顏に困惑の色を浮べて、その場を立ち去つてしまつた。
日毎に二人は顏を合はせた -- 以前よりは幾分度數が少なくなつたが。かうして、二三週間は經つてしまつた。
九月も末になると、彼女は相手の眼n中に、また言ひ寄つて來るらしい
今度の申し出の手順は、前のとは變つてゐた -- 恰も彼女の拒絶は、
結局たゞその申出の竒拔なのに面喰つてゐる若さと羞恥の結果に過ぎないと、
彼は心に決めてしまつたやうであつた。その問題が話題にのぼつてゐる時に見せる相手の一時の言ひ拔けは、
この考へを尤もと思はせた。そこで彼は、もつと女の心を
かうしてクレアは執拗に、しゆう〜音を立てゝ迸り出る牛乳のやうに低い調子で彼女を口説いた --
時には乳牛の横腹で、時にはクリーム
テスは自分が負けてしまふに相違ないと知つた。以前のアレクとの關係には道徳的な力があるといふ宗教的の考へも、
正直になりたいといふ良心の願ひも、これから先長くその申し出に對抗しつゞけて行くことは出來なかつた。
彼女は熱烈に彼を愛してゐた。彼女の眼には、彼が神のやうに映つてゐた。そして、立派な教育は受けてゐなかつたものゝ、
生れつき優雅な美しさを具へてゐた彼女の性質は、彼の保護者的な指導を切に求めてゐた。かうしてテスは、
『私はあの方の妻にどうしたつてなれない、』と
彼の態度は -- 男として誰がさうならずにゐよう? -- まさしくどんな状態、どんな變化、どんな攻撃、
又はどんな現實曝露の下にあつても、彼女を愛し、慈しみ、護らずにはゐられない人の態度であつたから、
それに接してゐる時は、彼女の憂ひも輕くなる程であつた。やがて季節は秋の彼岸に近づかうとしてゐた。
そして、まだ天氣はよかつたが、
彼女は
「さあ、浮氣屋さん、下へ行く前に、」と彼は横柄に言つた。 「僕が言ひ出してからもう二週間だよ。この儘ぢやどうにも仕樣がない。
君は心底を是非とも打ち明けなくちやいけないよ。でなかつたら、
僕はこの家を出て行かなくちやなるまい。たつた今、僕の部屋の扉が
「私今起きたばかりですわ、クレアさん、だから私を
彼女が蝋燭を横側に支へながら、眞面目さうに言つた言葉を笑顏で打ち消さうとした時には、彼女は、 いくらか今彼が言つた浮氣な人間の樣子を見せた。
「ぢや、僕をエンヂェルと呼びなさい。そしてクレアさんなんて言はないことだ。」
「エンヂェル。」
「いとしいエンヂェル -- つて言つたつて、いゝぢやないかね?」
「さう言へば私が承服することになるんでせう。さうぢやありませんか?」
「君が僕を愛してゐることにはなるよ。よしんば僕と結婚しないにしてもだ。が、それなら、 君がずつと以前に、もう立派に認めてゐたぢやないか。」
「ぢや、ようございますわ、『いとしいエンヂェル』、どうしても言はなきやならないんなら、」と、
彼女は蝋燭を見詰めながら小聲で言つた。そして不安に
クレアは、婚約の言葉を得るまでは決して彼女に接吻しまいと決心してゐたのであつたが、
テスがクリーム
クリーム
「僕たちの生き〜した生活は、あの女たちのとは大變な相違だね、さうぢやないかね?」 明け方の冷たい蒼白い光の中を自分の前に立つて小刻みに歩いて行く三つの姿を見詰めながら、 彼は感慨深さうに、彼女に言つた。
「私、何もそんなに違つてゐるとは思ひませんわ、」と彼女は言つた。
「何故さう思ふんだね?」
「殆んどない位ゐですわ -- 生き〜してゐない女の生活なんていふものは。」 テスは恰も、その新しい言葉に心を動かされでもしたやうに、ぢつと思ひをめぐらしながら、言つた。 「あの三人には、あなたが考へてゐるよりは、もつといろんなものがあるんです。」
「あの女たちの中に何があるのかね?」
「三人が殆んど三人とも、」と彼女は言ひ出した。「私よりはいゝ奧さんになることが出來 -- 大方、出來 -- るでせう。そして多分、あの方たちは、私に負けない位ゐ -- あなたを愛してゐます。」
「あゝ、テッシイ!」
彼は寛大な氣持になつて、他人に愛を讓らうと隨分思ひきつて決心はしてゐたものゝ、 彼の覺えず發したその叫び聲を聞くと、すつかり安心したやうな樣子を見せた。 今彼女はその決心を遂げたのであつた。そして二度と自分を犧牲にしようといふ勇氣はなかつた。 二人の中へ百姓家の一軒から來た乳搾りの一人が加はつたので、兩人の極く深く立ち入つたことはもう何も言はなかつた。 が、テスは、今日こそこの問題がどつちかに決るであらうといふことを知つてゐた。
その午後、主人の家族や手傳人の中の人が、
仕事はゆつくり進行した。一杯になつた一つ〜の乳桶は、
その場に引いて來てあつた大きな
鉛色の夕空に、胸掛けを白くくつきりと不思議に光らせたまゝ、 他の者と一緒に其處へ來てゐた搾乳場主のクリックは、突然、彼の重い懷中時計を見た。
「おや〜、こりや、思つたより遲いわい、」と、彼は言つた。「冗談ぢやねえ、ぼや〜してゐると、
この牛乳は汽車に間に合はんかも知れねえぜ。今日は、こいつを送り出す前に家に持つて行つて、
どつさりある奴と混ぜてゐる時間がないわい。此處から眞直に驛へ持つて行かなくちやなんねえ。
誰か
クレアがさうしようと申し出た。尤もこんなことが、彼の仕事に屬してゐるのではなかつたが。
彼はテスに一緒に行かないかとたづねた。その夕暮は、太陽は沈んでゐたが、この季節にしてはぼか〜と蒸し暑かつたので、
テスはたゞ頭巾だけを被り、腕も丸出しにして、ジャケツも着けないで、出てゐたのであつた。
確かに遠乘りする
黄昏れて行く日の光の中を、二人は、すべてが灰色に見える數哩の彼方まで延びてゐて、
一番遠い
二人は、お互ひに接近してゐるのだといふ意識にすつかり呑まれてゐたから、暫らくの間は、
話も始めなかつた。沈默はたゞ背後にある背の高い鑵の中ではね上る牛乳の音で破られるだけであつた。
二人が辿つて行つた小徑は、非常に寂しかつたので、榛の
どんよりしてゐた空は、間もなく前觸れの雨に
「私、來るんぢやなかつたと思ひますわ、」と彼女は空を眺めながら、呟いた。
「雨でお氣の毒だね、」と彼は言つた。「が、此處へ君を控へてるんで、 僕はどんなに嬉しいか分らない!」
遠くにあるエグドンは、雨の紗の後にだん〜消えて行つた。夕闇は次第に濃くなり、道は所々畑の門と交叉するので、 並足よりも早く馬を驅ることは、安全でなかつた。空氣はどちらかと言へば、冷え〜してゐた。
「腕にも背にも何んにもかゝつてゐなくつて、君は風邪を引きやしないだらうかね、」と彼は言つた。 「僕の方へずつと寄つておいでよ、さうすれば、雨もさう體には障るまい。この雨が、 僕に加勢してゐてくれるのかも知れないと思つてゐるからいゝやうなものゝ、 若しさうでなかつたら、僕はもうやりきれないよ。」
彼女は、目立たないやうに寄りかゝつて行つた。そして彼は、時々ミルク鑵の
「さあ、これでまたすつかりいゝ。あゝ -- 駄目だ、よくないや!僕の襟元へ少し落ちて來る。 だから、君の方へはもつと落ちるに違ひない。うんさう〜、その方がいゝがね。 君の腕は濡れた大理石みたいだね、テス。帆布で拭いたらいゝよ。さあ、君さへ動かなきや、もう一滴だつてかゝらないよ。 ところで、ね -- 僕の、例の問題のことだが -- あの永い懸案になつてゐる問題のことだが?」
暫らくの間彼が聞くことの出來た答へと言へば、たゞ濡れた路を打つ馬の
「君の言つたことを覺えてゐるかね?」
「えゝ、覺えてますわ。」と彼女は答へた。
「ぢや、家に歸る前にね、いゝかね。」
「精々しますわ。」
彼はその時は、それ以上何も言はなかつた。二人が馬車を進めて行くにつれて、カロライン時代 (チャールズ一世及びチャールズ二世の時代を指す)の舊い莊園風の屋敷の片割が、大空に聳え立ち、 又それも程なく過ぎて後の方へ殘されてしまつた。
「あれは、」と彼は興を添へる積りで、彼女に話し掛けた。「面白い古蹟なんだよ -- 或る舊いノルマンの一家のものだつた、數ヶ所の屋敷の一つでね、その一家といふのは、 昔この地方で大變な勢力を有つてゐたダアバァヴィル家つてんだ。 僕はその何れの屋敷の前を通る時でも、あの一族の者を思ひ出さないことはないんだよ。 たとへ兇猛な、權柄づくな、封建的な名聲にしても、兎に角名聲の高かつたさういふ一族が亡びるつてことは、 何だか悲慘だね。」
「全くですわ。」とテスは言つた。
二人は、そのあたりに擴がつてゐる
二人は、小さい停車場の
やがて、汽車のしゆつ〜と蒸氣を立てる音が聞え、極めて靜かに、濡れた線路の上に停つた。
牛乳は
彼女は、情熱的な性質の人にはよく見られる事ではあるが、默つて言はれる通りに再び愛人の傍に乘り込んだ。
そして、二人がまた帆布の中に頭も耳もすつぽり
「倫敦の人は、明日の朝飯にあれを飮むんでせうね、さうぢやありませんか?」と彼女は訊ねた。 「私たちの決して見たこともない見ず知らずの人たちが。」
「さうだよ -- 多分飮むことだらうね。僕たちが送つたまゝではないけれど。 頭にのぼらないやうに、度を緩めてからね。」
「乳牛など見たこともない貴族方や、貴族の奧樣方や大使や百人隊長 (羅馬時代の將校。立派な軍人といふ意味で使つたものであらう)や、 淑女方や商店の女主人や、それから赤ん坊たちがね。」
「うん、さうだよ、屹度ね、殊に百人隊長たちがね。」
「私たちのことは何も、またそれが何處から來るのかも知らないし、 また私たち二人が間に合ふやうに着けばよいと思つて、
今夜雨の降る中をどんな風にして幾哩も〜の原つぱを馬車で
「僕たちは立派な倫敦の人たちの爲めばかり馬車を走らせた譯でもないよ。多少僕等自身の爲めに --
例の氣掛りな問題の爲めもあつたんだよ。あれは君きつと決めてくれるだらうね。 ねえテス、えゝと、僕がこんな風にいふのを許しておくれよ、
君はもう僕のものなんだからね。さうだらう。君の
「あなたは、私と同じやうに御存じの癖に、えゝ -- さうですわ -- さうですわ!」
「ぢや、君の心がさうだといふのに、何故君の手がさうなつちやいけないのかね?」
「その理由は、たゞ〜あなたの爲めを思ふからなんです -- 理由が一つある爲めなんです。 私、あなたにお話しゝたいことがありますわ -- 」
「だが、それが全く僕の幸福の爲めであり、また僕の世間的な便宜の爲めでもあるとしたらね?」
「えゝ、さうなんです。若しあなたの幸福の爲め、また世間的な便宜の爲めでしたらいゝんですわ。 でも、此處へ來ない前の私の身の上を -- 私、お話しゝたいんです -- 」
「さうだ、それは僕の幸福の爲めばかりでなく、僕の便宜の爲めでもあるんだ。若し僕が英吉利でなり植民地でなり、 素敵に大きな農場を持つことになれば、君は妻として、僕にとつてどんなに貴いものになるか知れない。 そりや、この地方の一番大きなお屋敷育ちの女なんかより、ずつといゝんだ。だから、どうか -- どうか、 ねえ、テス、君が僕の邪魔になるだらうなんていふ考へは捨てゝしまつておくれ。」
「ですけれど、私の身の上を。私、あなたにそれを知つて頂きたいんです -- あなたは私に打ち明けさせて下さらなくてはなりませんわ -- そしたら、今までのやうに、 私が好きでなくなるでせう!」
「話したかつたらお話しよ。ねえ。ぢやその貴い身の上といふのを。 さて私はかく〜の土地で生れました、紀元——年にかね。」
「私はマアロットで生れました。」彼の言葉は冗談半分に言はれたのであつたが、
彼女はそれを手掛りとし、その後を受けて言つた。「そして其處で育ちました。
尋常六年で學校をさがりましたが、大へん敏捷だから立派な先生になれるだらう、つて言つてくれましたので、
先生にして貰ふことに決まりました。ところが、
「なるほど、なるほどね。可哀さうに!格別珍らしいことぢやないね。」彼は、一層自分の側へ近く彼女を抱き寄せた。
「それから -- 身の上になりますと -- いえ、私には -- 大へん珍らしいことがあるんですの。 私は -- 私は、あの -- 」
テスの呼吸は早まつた。
「さうかね。君、構はないからお話しよ。」
「私 -- 私 -- はダアビフィールドでなくつて、ダアバァヴィルなんですの --
「ダアバァヴィルだつて! -- なるほどさうか!で、心配のことつていふのは、それだけなのかね、テス?」
「さうです、」と彼女は微かに答へた。
「ところで -- それを知つたからつて、何故僕が今までよりも君が好きでなくなるつていふのかね?」
「あなたは舊家が大嫌いだつてことを主人から聞いてゐましたわ![」]
彼は聲を立てゝ笑つた。
「なるほど、或る意味ぢや全くその通りだよ。僕は貴族の世襲主義を何よりも憎んでゐる。 そして、理論上僕たちの尊敬すべき家系は、たゞ一つ肉體上の家系などに關りなく、賢い、 また徳の高い精神上の家系だけだと思ふ。だが、その話を聞いて、とても面白くなつた -- どんなに僕が面白くなつてゐるか、君には想像もつかないだらうね! あの有名な家系の一人だつてことに、君は自分で興味を感じないかね?」
「いゝえ、私はそれを悲しい事だと思つてゐます --
「その通りだ -- 現在土地を耕してゐるどんなに多くの人たちが、一度はその所有者であつたかを知れば驚くばかりだよ。
僕は時々こんな風に怪しむことがあるんだ。何故政治家の誰かゞこの事情を利用しないんだらうかと。
だが奴等はそれを知らないらしんだよ……僕は何故、君の名前がダアバァヴィルに似てゐることに氣が付いて、
この分りきつた
彼女は到頭言はないでしまつた。これからといふところで、彼女の勇氣は挫けてしまつた。 何故もつと早く打ち明けなかつたか、と彼が非難するのを恐れた。そして自分を保護しようとする本能の方が、 打ち明ける勇氣よりも強かつた。
「勿論、」と何も知らないクレアは續けた。「僕は、君が純粹に英國民のうちでも長い間苦しみ、 默々としてゐて、史上に現はれない一兵卒から血を引いてゐる者であつて、 他の者を犧牲にして自分逹の勢力を張つた少數の我儘勝手な者から出たものでないといふことを知つたら、 その方がどんなに嬉しいか分らないさ。が、君に對する愛情で買收されてしまひ、そんな事は、 問題でなくなつたよ、テス。(と言ひながら彼は笑つた)。何だか僕もさういふ我儘勝手になつたやうだね。 君の爲めに、僕は君の家柄を喜ぶよ。世間は仕方のないほど上品振つてゐるんだ。 で、君の血統についてかういふ事實があると、僕の考へ通りに君を物知りの女に仕立てゝ置きさへすれば、 僕の妻として君を認める世間の態度がかなり違ふかも知れない。僕の母なんかも妙な人だから、 その爲めに君をずつとよく思ふだらうよ。テス、君は名を正確に綴らなくてはいけないよ -- ダアバァヴィルつて -- 早速今日から。」
「私、さうしない方が、一層いゝと思ひますの。」
「でも、さうしなくつちやいけないよ。ねえ!驚くね、 何だつて俄か成金たちは、大勢かういふ家名に跳びつきたがるんだらうね! うん、さう〜、その姓を名乘つてゐる仲間の一人があるよ -- 何處といつたかしら? -- たしかチェイズの森の近くだつたと思ふ。ほれ、何時か君に話した、僕の父と論爭したつていふ男だよ。 何て妙な暗號なんだらうね!」
「エンヂェル、私何ですかその名を使ひたくないやうな氣がしますわ! 縁起の惡い名のやうですわ!」
彼女は興奮してゐた。
「それぢや、テレザ・ダアバァヴィル孃と僕がつけて上げよう。僕の名を使ひなさい、 さうしたら、君は自分の名が避けられるだらう!祕密を明かしてしまつたのに、 まだこの上どうして僕を拒むんんだね?」
「若し私を妻となさる事が確かにあなたを幸福にするなら、 それにあなたがどうしても〜と結婚したいとお感じでしたら -- 」
「感ずるよ、君、無論!」
「私かういふ積りなんです。つまり、あなたが私をお望みで、たとひどんな罪が私にあつても、 私なしではもう生きられないといふ程であつてこそ、始めて私は承知しなければならないと思ふんですの。」
「承知してくれる -- 承知したと言つてくれるね!君は永久に僕のものになつてくれるだらうね。」 彼はひしと彼女を抱いて接吻した。
「承知しますわ!」
かう言つてしまふとすぐ、彼女は急に涙も出ない烈しい啜泣きを始めた。 餘りに烈しいので、氣が狂つてしまふかとも思はれた。テスは決してヒステリイ性の女ではなかつたので、 彼は吃驚した。
「何故泣くんだい、ねえ?」
「私、分りません!ほんとに! -- 考へると私、本當に嬉しくてなりません -- あなたのものになつて、あなたを幸福にするのかと思ふと!」
「でも、これぢや大して嬉しいとも見えないやうだね、テッシイ!」
「私、かういふつもり -- あの自分の誓ひを破つてしまつたから泣くんです! 私、死ぬまで結婚しないと言ひましたの!」
「だが、若し君が僕を愛するなら、僕と一緒になるのを喜ぶ筈ぢやないかね?」
「そりやさうです、さうです、さうですとも!でも、あゝ、 私生れて來なかつたよかつたと時々思ひますわ!」
「ところで、ねえテス、君がひどく興奮してゐるし、 また人の氣持なぞがよく分らないつていふことを僕が知つてゐるからいゝものゝ、 さうでなかつたら、今の一言は餘り嬉しいもんぢやないよ。若し僕が好きだつたら、 どうしてそんなことを思ふやうになるだらうね?君は僕が好きなの? 何とかして、その證據を見せて貰ひたいなあ。」
「私、見せたでせう、その上どうして證據が見せられませう?」彼女は氣も狂ふばかりの愛しさを見せて叫んだ。 「ぢや、かうすれば、もつといゝ證據になるでせうか?」
彼女はクレアの頸に抱きついた。そこで彼は始めてテスが自分を愛するやうに、心も魂もすつかり打ち込んで、 愛してゐる者の唇にする熱した女の接吻が、どんなものであるかを知つた。
「さあ -- もう信じてくれますの?」と、彼女は顏を
「信じるとも。心から決して疑つてなんかゐなかつたよ -- 決して、決して!」
かうして、彼等は帆布の中で一塊りになつて闇の中を驅つて行つた。 馬は氣の向くまゝに走り、雨は彼等に烈しく打ちつけた。彼女は、もう承諾してしまつたのだ。 こんなことなら初めから承諾した方が増しであつた。萬物に行き亙つてゐる『歡喜を求める慾望』 -- 丁度潮流が頼りない雜草を押し流すやうに、人類を驅つてその目的へ向はせずにはゐない恐ろしい力 -- は、 社會上の規約をぼんやり考へた位ゐのことでは、どうにもなるものではなかつた。
「私、お母さんに知らせて遣らなければなりませんわ、」と彼女は言つた。 「さうしても構はないでせうね?」
「無論構はないさ、赤ちやん。君は僕に比べれば子供だよ、テス。 こんな場合にお母さんに知らせることがどれほど當然なことか、 また僕がそれに反對することがどれほど間違ひだかつてことを知らないんだもの。 何處にお母さんは住んでゐるの?」
「同じ處 -- マアロットに。ブラックムーアの盆地のずつと向う側です。」
「あゝ、ぢやこの夏前に、君には會つてたんだね -- 」
「えゝ、草原であの舞踏があつた時に。でもあなたは、私と踊らうとしなかつたでせう。 あゝ、あれが今となつて、何かの凶兆にでもならなければいゝんですが!」
テスは可なり熱の籠つた急ぎの手紙を、すぐその翌日母親の許へ書き送つた。 するとそれに對して、その週の末にダアビフィールドの女房から覺束ない、一昔前の手蹟で書かれた返事が來た。
愛するテスよ -- 一筆申上げます。この手紙が、有難いことに息災で暮してゐる私の手元を今出て行くと同じに、 また息災なお前の手元にも着くやうに祈つて。愛するテスよ、お前が間もなく、本當に結婚しようとしてゐるといふことを聞いて、 私どもはみんな喜んでゐます。が、お前からたづねてお寄越しのあの事に就てはね、テス、 私ども二人だけの間だが、たとひどんな事があつてもあの過ぎてしまつた災難のことを一ことでもお婿さんに言つてはならないと、 極く内密ではあるが、固く言つて置きますよ。尊い家柄の爲めに大へん威張つてゐるお前のお父さんへは、 何も彼もすつかりは話しませんでした。お前のお婿さんも、大方同じやうに立派な家柄でせうがね。 澤山の女 -- その中には、この土地で一番えらいものたちも幾人かゐます -- には、 これで若い時分にはみんな苦勞があつたもんです。そして、他のものがそれを吹聽しないのに、 何もお前から吹聽するにも及びますまい?そんな馬鹿な
娘 が、何處にあるもんですか。 殊にそれは、ずつと以前 のことであり、ちつともお前の過失ではなかつたんですもの。 お前から五十度訊かれても、私は同じことを答へます。 それに、胸の中にあることを何も彼も言つてしまふのがお前の子供らしい氣性 -- 何といふ無雜作なことでせう -- だから、私はお前の幸福を思つて、 あのことは決して口にも素振りにも出さないやうにとお前に約束さしたでせう。 それからお前もこの家を出て行くとき、よく〜固くそれを約束したでせう。 それを夢にも忘れてはなりません。私はまだそのことも、また近づいてゐるお前の結婚のこともお父さんには言つてありません。 あの人は、きつと何處へ行つても、そのことを喋り散らすでせうからね、可哀さうに他愛もない人なんだから。愛するテスよ、精々氣を引き立てなさい。それから、結婚の贈物にサイダーの大樽を一樽送つてあげるつもりです。 お前の地方には澤山ないし、あつても薄い酸つぱいのしかないといふことを聞いてゐますから。 では、今はこれだけで筆を
擱 きます。どうぞお前のいゝ人に、くれ〜゛も宜敷くね --お前のいとしい母
ジェー・ダアビフィールドより
「まあ、お母さん、お母さん!」とテスは低い聲で言つた。
彼女には一番重苦しい事件も、母親のダアビフィールドの
かうしてテスは、 自分の行ひを支配してゐる權利を少しでも有つてゐる後にも先にもたつた一人の人が與へてくれた命令で氣強くなつて、 だん〜落着いて來た。彼女は、責任を脱して、心はこの幾週間よりもずつとうき〜して輕くなつた。 彼女が承諾した日からその後の十月になると始める晩秋の幾日かは、彼女の生涯のどんな他の時よりも恍惚状態に近い氣持で、 生活を送ることの出來る一季節となつた。
クレアに對する彼女の愛には、世間的な點が殆んどなかつた。
彼女はすつかり信じきつてゐるので、彼がこの上ない善良性の所有者に見えた、 --
指導者が、哲學者が、又は友人が知らなければならないことは、何も彼も皆知つてゐる人に見えた。
彼の體の輪廓をつくつてゐる線といふ線は、男性美の完成である、彼の魂は聖人の魂である、
彼の智は豫言者の智であると思つた。彼に對する彼女の愛の持つ叡智は、愛となつて、彼女に威嚴を添へた。
彼女は、王冠を戴いてゐるやうに見えた。彼女に對する彼の愛の持つ同情は、彼女がそれを知つた時、
彼に對する心持を獻身的に高めさせた。彼は時々大きな、何物かを崇拜してゐるやうな彼女の眼に出會ふことがあつた。
それは、測り知ることの出來ない底で、その奧底から、恰も目の前に何か不滅のものを見てゞもゐるかのやうに、
ぢつと彼を
彼女は過去を捨てゝしまつた -- それを踏みにじり、掻き消してしまつた。 まるで燻つてゐて危險である石炭を踏み消すでもするやうに。
彼女は、男といふものが女を愛する場合に、彼のやうに
二人は、卒直にお互ひが一緒にゐることを求めた。正直に信じきつてゐる餘り、 彼女は、彼と一緒にゐたい願ひを包み隱しはしなかつた。 かういふ彼女の心持を纒めてはつきり説明して見るならば、結局こんな風にもなるだらう。 つまり、一般に男を惹きつける女のつかまへどころのない性質は、 生來の性質としてどうしてもつくつてゐるのではないかしらといふ疑ひが伴はずにはゐないから、 戀の誓ひを立てた後では、あのやうに立派な男にとつては氣に入らぬものとなりはすまいか、といふ事だつた。
婚約期間は、意互ひ同志が戸外で無遠慮に交際するといふ田舍の習慣こそ、彼女が知つてゐる唯一の習慣であつて、
彼女には、それがちつとも不思議に思へなかつた。尤も他の乳搾り女たちと同樣に、
彼女がそれをどれほど當り前のことゝ見做してゐるかを知るまでは、クレアにとつては、
妙に早計な事のやうに思へたのである。かうして、午後にはからつと晴れるこの十月の間、
二人は、ちよろ〜水の流れてゐる小川の岸に沿つてゐる小徑を辿り、時には小さな橋を渡つて向う側に跳び越したり、
また
人々は、此處彼處で工事に從つてゐた -- 今は牧場の『
クレアは、人前で戲れることに慣れてゐる人のやうな樣子で、かういふ掘仕事をしてゐる人逹から見える處で、 殆んど始終彼女の腰へ腕を廻してゐた。が實際は、その間といふものは、 唇を開けてその勞働者逹を横目で見ながら小心な動物のやうな樣子をしてゐるテスと同じやうに、恥かしがつてゐたのであつた。
「あの人逹の前で、私をあなたのものと決めていお見せになるのを、あなたは恥かしいと思つてゐませんのね!」 と、彼女は嬉しさうに言つた。
「思ふもんか!」
「でも、若し、あなたがかうやつて私と一緒に歩き廻つてゐることが、エミンスタアにおいでのお家の方々の耳に入つたら。 たかゞ、乳搾り女なんかと -- 」
「およそこの世で、一番美しい乳搾り女とね。」
「皆さんは、威嚴が傷けられると思ふかも知れませんよ。」
「ねえ、君 -- ダアバァヴィル家の者がクレア家の威嚴を傷つけるつていふのかい? どの -- 君がさういふ一族のものだつていふことは、大へんな強味なんだよ。で、僕はこれを、 僕たちが結婚し、トリンガム牧師から君の家柄の證據を得た時、あつと言はせようと思つて取つて置くんだ。 それは別として、僕の將來は全くもう僕の家族とは無關係なんだよ -- それはあの人逹の生活の表面にさへ影響しないだらうよ。僕等は英吉利のこの地方を -- 恐らく英吉利を -- 去るやうになるだらう。だから世間の人が此處で僕たちをどんな風に見ようと、構ひやしないぢやないか? 君は喜んで行くだらうね、えゝ?」
彼女は、彼の親しい伴侶となつて一緒に世界を旅行することを思ふと、非常に大きな感動が湧いて來たので、
やつと肯定の返事が出來るだけであつた。彼女の感情は、波の音のやうに殆んど耳一杯になり、
その眼にも押し寄せて來た。彼女は自分の手をクレアの手に任せた。 -- 二人はかうして歩きつゞけて、
到頭、水に映つた太陽が橋の下の河面から熔鐡のやうな光を放つて輝いてゐる場所へ來た。
本物の太陽は橋の陰に隱れてゐたが、その光は二人の眼に
彼等は、日曜日には
彼に對するテスの愛情は、今では、彼女の生存につきものゝ呼吸や生命であつた。 それは光球のやうに彼女を包み照らしぬいて、彼女に觸れようとしつこくいろ〜の企みをしてゐる不快な幽靈ども -- 疑惑、恐怖、憂鬱、煩悶、恥辱などを抑へつけて、過去の悲しみを忘れさせた。彼女はこの幽靈どもが、 まるで狼のやうに自分の周圍の光のすぐ外側で自分を待つてゐることを知つてゐた。 が、彼女には彼等を飢ゑさせて、屈從させずには置かない長い一續きの力があつた。
精神的には忘れても、智識の上では同時に記憶が働いてゐた。彼女は光の中を歩いてゐたが、背後には、 さういふ闇の蔭が何時でも一ぱいに擴がつてゐることを知つてゐた。その蔭は、 毎日少しづゝ遠退いて行くやうでもあれば、又近附いて來るやうでもあつた。 何れともつかないが、どつちかであつたには相違ない。
或る日の夕暮、テスとクレアは、家の者が皆何處かへ出掛けてゐなかつたので、 留守居をしながら屋内に留つてゐなければならなかつた。 二人で話し合つてゐる時、彼女は考へ深さうに彼を見上げた。すると見とれてゐるやうな彼の二つの眼に出會つた。
「私、あなたに釣合ひませんわ -- さうです、どうしても釣合はないんですわ!」 と彼女は、彼の敬意に對して、その爲めの嬉しさがこみ上げて來たので全く吃驚したかのやうに、 低い腰掛から跳び上りながら、叫び出した。
クレアは、彼女がほんの僅かなことに興奮してゐるが、その元はまだ〜大きいのだと考へて、かう言つた --
「僕は君にそんな風に言つて貰ひたくないね、ねえテス!卑しむべき因襲を、 小噐用に利用するつてことが何もえらいんぢやないよ。 眞實な、正直な、公平で、純潔で、愛らしく、そして評判のいゝ人の中に數へられるやうになつて、 初めて立派な人と言へるんだよ -- 丁度君のやうに、ねえテス。」
彼女は
「何故あなたは、歸らずにゐて私を愛しては下さらなかつたんです、私が -- 十六で、妹や弟と暮してゐた時に。 そしてあなたがあの草原で踊つた時に?あゝ何故さうして下さらなかつたんです、何故さうして下さらなかつたんです!」 と彼女は烈しく兩手を握り合はせながら、言つた。
エンヂェルは可なり眞劍に、何といふ氣の變り易い女であらう、だからその幸福の望みを
「さうだ -- 何故僕は歸らずにゐなかつたかなあ!」と彼は言つた。 「ほんとに僕もさう感じるよ。それと分つてさへゐたらね!だが、そんなにひどく悔むもんぢやないよ -- 悔む理由が何處にあるね?」
隱さうとする女の本能から、彼女は急いで話を外らした。 --
「私、あなたの心を今よりも四年だけ長く私のものにしてゐられたからなんです。さうすれば私、 今迄のやうに自分の時間を無駄にせずに濟んだんです -- 私、もつと〜長い間の幸福を得ることになつたんでしたのに!」
かうして心を痛めてゐるのは、背後に長い暗い入り組んだ
彼は鐡架に載つてゐる青い
「君は、自分でほんのちつとばかりだが氣まぐれで、むら氣だとは思はないかね、テス?」
と彼は、相手の爲めに腰掛の上に座布團を
「えゝ、私氣まぐれかも知れないわ、」と彼女は小聲で言つた。そして急に彼に近寄つて、
その兩手の腕に手をのせた。「いゝえ、さうぢやないの、エンヂェル。私本當にさうぢやないわ --
「ぢや言ふがね、君は僕を愛し、僕と結婚することを承諾したんだらう。すると、次には 『結婚の日は何時にしよう?』といふ三番目のことが續く譯だ。」
「私、こんな風にして暮してゐたいんですわ。」
「でも、僕は年が明けるとすぐか、それとも少し
「でも、」と彼女は臆病さうに答へた。「ごく實際的にお話しすると、
それがすつかり濟んでしまつてから結婚する方が一番いゝんぢやないでせうか? --
私を此處へ置いて、あなた一人が
「無論君は堪るまい -- それにこの場合、そりや最上の策ぢやないよ。僕は仕事を始めるにあたつて、 いろ〜と君の手を借りたいんだ。日取りは何時にしようか?今から二週間後ぢやいけないかね?」
「いゝえ、」と彼女は生眞面目になつて言つた -- 「最初に、 いろんんあことを考へなくちやなりませんもの。」
「しかし -- 」
彼はもつと近くへ彼女をやさしく引き寄せた。
實際に結婚することが極く近くへ來て大きく見えて來ると、それは驚きであつた。 この問題に關する相談がそれ以上進まないうちに、長椅子の角を廻つて爐火のこの部屋一ぱいに輝いてゐる中へ、 主人のクリックとその妻君と、それから二人の乳搾り女が入つて來た。
テスは、彈力のある鞠のやうに彼の傍から跳び上つた。が、彼女の顏は
「あの方のすぐ近くに掛けてゐたら、どんな事になるかつていふ事を、私は知つてゐたわ!」
と彼女は口惜しがつて叫んだ。「皆がやつて來て、屹度私たちを見つけるに違ひない、つて
「さうかい -- 若しお前がそんなことをわしたちに喋りさへしなかつたら、この明りぢやお前さんたちが何處に掛けてたんだか、
わしたちにや分りやしなかつたに違えねえんだ、」と主人は答へた。彼は、結婚に關する感情など更に解しない男が示すやうな、
無神經な樣子をして妻の方に話し續けた -- 「なあ、クリスチャーナア。他の者が何んとも思つてゐねえのに、
氣を廻したりするもんぢやねえつてことア、これでも分るぜ。どうも思ふもんかね、若しこの
「僕たちは、
「へえ -- お前さん方が!さうかね、わしやそれを聞いて本當に嬉しうごぜえますだ、ねえ、旦那。 何時かはそんな事になるこつたらうと、前から思つてをりましたゞ。 この娘は乳搾り女には物體ねえでなあ -- この娘に初めて會つたその日に、わしやさう言ひましたよ -- また、どんな男だつて慾しがるものでさあね。それにまた旦那百姓のお上さんにや持つて來いの素晴らしい女でさあ。 この娘を側に置きさへすりや、旦那方が、執事なんかにいゝ加減にされるやうなことアありませんよ。」
どうしたのか、テスは姿をかくした。彼女は、クリックから無遠慮に讚められたので恥かしい思ひをしたといふよりも、 クリックについて來た娘たちの顏色に、一層吃驚したのであつた。
夕食をすまして、彼女が寢室に行くと、仲間の者はみんな其處にゐた。
けれども彼女は、二三分するうちに、彼女たちの心持に少しも惡意のないことを知つた。
彼女たちは、持たうなどとは決して期待してもゐなかつたものが
「あの方がこの
「あんた、あの方と結婚するんだつて?」とマリアンが訊ねた。
「ええ、」とテスは答へた。
「何時?」
「何時か。」
これを彼女たちは、たゞの言ひ拔けに過ぎないと思つた。
「えゝですつて -- 結婚するんだつて、あの方と -- 紳士の方と!」 とイズ・ヒュウエットが繰り返した。
三人の娘たちは、それから何かに惹きつけられでもするやうに、次々と寢床から這ひ出して、 素足のまゝテスの周りに立つた。レッティは、恰もかういふ竒蹟の起つた後の友逹の體を檢めでもするかのやうに、 テスの肩に兩手をのせ、他の二人は、腕を彼女の腰に卷いて、ぢつと顏を覗き込んだ。
「まあ何て顏色でせう!殆んど考へられない位ゐだわ!」とイズ・ヒュウエットが言つた。
マリアンはテスに接吻した。「本當ねえ、」と彼女は唇を引つ込めながら、囁いた。
「それは、この人が可愛くつてしたの、それとも今しがた其處へ誰かさんの唇が觸つたからなの?」 とレッティは、素つ氣なく、マリアンに言ひつゞけた。
「そんなこと考へてなんぞゐなかつたわ、」とマリアンは、簡單に答へた。 「私、たゞそれが不思議に思へてゐたゞけのことだつたの --
この人があの方の奧さんになるつてことがさ、
そして他の誰でもないつてことがさ。私これがいけないとは言はないわ。私たちの誰だつてさうだわ。
つていふわけは、私たちは結婚なんてこと考へてゐなかつたんだもの -- ただあの方を想つてゐたゞけだもの。
それにしても、世界中であの方と結婚するのは、他の誰でもなくつて -- 立派な
「その爲めに、あんた方は本當に私を嫌はないでくれますの?」テスは低い聲で言つた。
彼女たちは、恰も答へは彼女の顏付の中にあるとでも考へたかのやうに返事をしないうちに、
純白の
「分らないわ -- 分らないわ、」とレッティ・プリッドルは呟いた。 「私あんたを憎みたいの。でも憎めないわ!」
「私の感じもその通りなの、」とイズとマリアンとが同意した。 「この人を憎むことが出來ないの。どうしたのか、この人は憎ませないやうにするんだもの!」
「あの方は、あんたゝちの
「何故なの?」
「あなた方はみんな私よりも立派な方なんですもの。」
「私たちがあんたより立派だつて?」と娘たちは低いゆつくりした語調で囁いた。 「違ふわ、違ふわ、ねえテス!」
「いゝえ立派ですとも!」とテスは急き込んで反對した。そして急に彼女たちの
一度崩折れてしまつたので、もう彼女は泣き止めることが出來なかつた。
「あの方はあんた方の
彼女たちは、テスの處へ歩み寄つて抱きかゝへた。だが彼女は、まだ啜り泣きに體を震はしてゐた。
「水を少し持つて來てよ、」とマリアンが言つた。「この人は、私たちの爲めに氣が顛倒したんだよ、 可哀さうに、可哀さうに!」
彼女たちは、靜かに彼女を寢床の側に連れて行つて其處で温かい接吻をした。
「あの方の爲めには、あんたが一番いゝのよ」とマリアンは言つた。
「私たちよりはずつと
「えゝさうよ、」と彼女は言つた。「だから私、こんなに泣き崩れてしまつたのが恥かしいの!」
彼女たちがみんな寢床へ入つて
「あの方の奧さんになつても、テス、私たちのことは忘れないでね。それから私たちが、 あの方を想つてゐることをあんたに言つたことや、どんなにあんたを憎むまいとしたか、 またほんとに憎むわけにも行かなかつたこと、それといふのもみんな、 あんたがあの方に見立てられた者だつたし、 私たちは決してあの方から見立てられようと望みもしなかつたからだつていふことなどを、 思ひ出してくれるでせうね。」
かういふ言葉を聞いて、テスは苦しい身を刺すやうな涙を流して新たに枕を
この悔悟する氣持が働いて、彼女は婚禮の日取りを決めることが出來なかつた。
十一月の初めになつても、その日取りはまだ
牧場はもう變りかけてゐた。が、乳搾りの始まらない午後も早いうちなら、暫く其處らをぶら〜する位ゐにはまだ温かゝつた。
そして、一年のうちでもこの季節になると、搾乳場の仕事も少しの間位ゐは散歩することの出來る状態になつてゐた。
太陽の方向にある濕つた芝土を見渡すと、ぎら〜
或はまた、夜になつて、クリックの妻君がわざと彼にその機會を與へようとの考へから設けられた或る用たしで、
彼女について行つた時、彼は彼女に訊ねることもあつた。この用たしといふのは、大抵、
この盆地の上の傾斜にある百姓家へ行つて、藁置場へ移されてゐる産期の近附いて來た牝牛がどんな樣子であるかを、
かういふ暗闇の散歩は幾度も繰り返されたが、一度その歸りがけに、二人は、
平地に蔽ひ被さつてゐる大きな
「何だかかう、何萬といふ大勢の人々が、」とテスは言つた。「市場で集會を開いてゐて、議論をしたり説教をしたり、 喧嘩をしたり啜り泣いたり、呻いたり祈つたり、また呪つたりしてゐるやうですね。」
クレアは、特別氣にもとめてゐなかつた。
「今日クリックが、冬の數ヶ月間は大して手傳ひも要らない、つていふやうなことを、君に話さなかつたかい?」
「いゝえ。」
「牝牛はどん〜あがつて行くんだよ。」
「えゝ。昨日は六頭か七頭、それから一昨日は三頭藁置場の方へ行つたので、 もう藁置場の方のはかれこれ二十頭近くなつたでせう。あゝ
-- ぢや
「クリックが、もう君は要らない、つてはつきり言つたわけぢやないんだよ。が、僕逹の間を知つてるんで、
僕が
「私、あなたが嬉しく感じるなんて、間違つてゐると思ひますわ、エンヂェル。
要らなくなるつてことは、たとひ同時に
「さうだよ、確かに都合がいゝよ -- 君もそれを認めてゐるんだね。」 彼は指で彼女の頬をつついた。「おや!」と彼は言つた。
「どうしましたの?」
「言葉尻を捉へられたんで、顏を赤くほてらせてゐるんだよ!
だが、僕はどうしてこんなに
「さうですとも。そのことは、大方私の方が先に知つてましたわ。」
彼女は、その時知りかけてゐたのであつた。結局彼との結婚を斷つて -- 昨夜の氣持に從つて --
この搾乳場を去るといふことは、或る搾乳場ではなく、 何處か未知のところへ行くことに外ならなかつた --
ちうふのは、乳牛の産時が近付いて來たので、 乳搾り女は要らなかつたからである -- それはまた何處か、
エンヂェル・クレアのやうな神のやうな人のゐない農場へ行くことであつた。
彼女は、さう思ふと
「だから眞面目にいふんだよ、テス、」と彼は續けた。「君は多分、
「私、こんな風にしてゐられたらいゝと思ひますわ。何時でも夏や秋のやうで、 あなたは何時でも私に言ひ寄り、そして、何時でもこの夏の間のやうに、私のことを想つてゐて下すつたら!」
「そりや僕は何時でもさうするだらうよ。」
「あら、あなたがさうして下さるだらう、つていふことは知つてゐますわ!」彼女は突然彼を信じる熱情に溢れて、 叫んだ。「エンヂェル、私は永久にあなたのものとなる日を決めませう!」
かうして到頭、左右に聞える樣々な水の音に包まれて暗い中を家の方へ歸つて行く間に、 日取りは二人の間で取り決められた。
二人が搾乳場に着くと、クリック夫妻は早速そのことを告げ知らされた -- また内密にして置いてくれといふ頼みも受けた。
といふのは、結婚はなるべく内々にして置きたいといふのが戀人たち二人の望みであつたから。
主人は、間もなく彼女に暇を出さうと考へてはゐたが、今になつて見ると、
彼女を手離すことについて大へん氣を揉んだ。クリーム
テスは今、意志といふものは少しもなく、たゞ〜時の翼に乘つてどん〜運ばれて行つた。 きつぱりと、もう約束はしてしまつた。何日といふことも書き留められてしまつた。 彼女は生れつき非常に悧巧で、農夫や同じ仲間よりも、 寧ろ自然の現象と一層廣く交つてゐる人々に共通した宿命觀を認めかけてゐた。 從つて、戀人の仄めかすことは何でもうん〜と言つて應ずるさういふ氣持に特有な、 受身の態度に卷き込まれてしまつた。
けれども彼女は、表向きは結婚の日を知らす爲め、實際はもう一度母の助言を求める爲めに新たに母親へ手紙を書いた。 自分を選んだのは紳士であるといふことを、恐らくお母さんは十分考へなかつたであらう。 結婚後の告白も、もつと下等な男なら氣輕く受け流すかも知れないが、 あの人はそれと同じ心持で受け容れてはくれますまい、と。 だがこの手紙は、母親のダアビフィールドからは、何の返事も齎らさなかつた。
エンヂェル・クレアが、すぐ結婚することが實際に必要であると、自分にもまたテスにも尤もらしく説いたには説いたが、
その段取りには、後になつて明かになつたことであるが、實際少し早計の氣味があつた。
彼は、自分に對する彼女の情熱的な一本調子の感情からではなく、恐らく理想的な、
且つ空想的な氣持からではあつたらうが、彼女を深く愛してゐた。彼は、もと〜に考へてゐた通りに、
無智な田園生活をいよ〜送ることになつた時、この田園詩にでもありさうな少女の中に見た魅力が、
その裏面に見出されるだらうなどゝは毛頭考へてゐなかつた。 純眞といふことはほんの話題にのぼるだけのものであつたが、實際に、
どんなに人の心を打つものであるかを、彼は此處へ來て始めて知つた。 しかも、まだ自分の將來の進路をはつきり見るどころではなかつた。
そして、立派に世の中に踏み出したと考へられるやうになるには、まだ一二年經たなくてはなるまい。
どうかなるかといふ事は、彼の家のものが持つてゐる偏見の爲めに眞に行くべき道を踏みはづしてしまつた、
といふ考へがもとで、彼の境遇や性格に植ゑつけられるやうになつた向う見ずの氣性の程度で
「英國中部の農場にすつかり落着いてしまふまで待つ方が私たちの爲めに都合が好くはないでせうか?」 と彼女は、一度怖々訊ねて見たことがあつた。(英國中部の農場といふのが、 丁度その時分彼の考へてゐたことである。)
「實を言ふと、ねえテス、君を僕の保護と同情から離しては、何處へも殘して置きたくはないんだ。」
これだけに止まつてゐるのなら、この理由はいかにも正しい理由であつた。 彼がテスに及ぼした影響は實に著しかつたので、彼女は彼の態度や習癖、 彼の言語や口吻、彼の好き嫌ひに何時の間にか染み込んでしまつた。 それだのに今彼女を農場に一人殘して置くといふことは、 折角調子の合つて來たのをまた後戻りさせるやうなものであつた。 もう一つ別の理由でも、彼は彼女を自分の手許に置きたかつた。 彼の兩親は、人情として、彼が彼女を英國なり植民地なりの遠いところへ連れ去つて行く前に、 少くとも一度は彼女に會ひたがつてゐた。そして、兩親がどんな意見を持つてゐたからとて、 彼が自分の考へを變更するやうなことはなかつたので、彼はこんな風に判斷した。 何か有利な仕事始めの機會を探しながら自分と二ヶ月も下宿家住居をしたなら、 彼女が辛い務めのやうに感ずるかも知れないこと -- つまり、牧師館で母親と會ふことを幾らか樂にさせるであらう、と。
次に、彼は
「それから、兼ねて聞いてゐた倫敦の先にある農場を
こんな風な手順の問題が、起つてはまた過ぎて行つた。そして彼女が彼のものになる日が、
とても信じられないその日が、近い將來の中に大きく浮き上つて見えた。一二月の三十一日の
或る日曜の朝、イズ・ヒュウエットが教會から戻つて來て、テスにこつそり話しかけた。
「あんたは今朝家へ呼ばれ(原作者註。「家へ呼ばれる」とは結婚豫告を公けにするといふ意味の地方語) なかつたのね。」
「何ですつて?」
「今日はあんたが、初めて訊かれる時だつたのに、」と彼女は落着いてテスを見ながら、言つた。
「あんたは
相手はすぐさうだと答へた。
「で、三度訊かれなければならないのよ。だのに、日曜はあともうたつた二度しかないぢやないの。」
テスは頬が
自然に或る出來事が起つて、彼女の心配を取り除いてくれた。 イズ・ヒュウエットが結婚廣告 [注:結婚豫告の誤りか?] の落ちてゐることを、クリックの妻君に話した。 するとクリックの妻君は、既婚女性の特權を振つて、この點に就いてエンヂェルに話した。
「あれを忘れになつてゐたのですか、クレアさん?結婚豫告のことをですよ。」
「いゝえ、忘れちやゐませんよ、」とクレアは言ふ。
他人のゐないところでテスに會ふなり、彼はかう言つて安心させた --
「結婚豫告のことでみんなが何と言つても、氣にしちやいけないよ。
「私、別に聽きたいなんて思つてはゐませんでしたわ、ねえ、あなた。」と彼女は昂然として言つた。
だが、それにも拘らず順序よく運んだのを知ることは、誰かゞ彼女の身の上を楯に取つて故障を申し立て、 結婚を禁じてしまひはすまいか、とまでに恐れてゐたテスにとつては、 非常な安心であつた。事件はなんと彼女に都合よく運んでゐることだらう!
「でも私、すつかり安心といふ譯には行かない、」と彼女は
が、何も彼も順調に運んだ。あの方は、持ち合せの一番いゝ白の上衣で婚禮して慾しいのか、
それとも新しいのを一着
一分も經つかと思ふと、彼女は顏を上氣させ、眼には涙を浮べて下りて來た。
「まあ何んてあなたは氣がつくんでせう!」と彼女は頬を彼の肩の上に載せて囁いた。 「手袋やハンケチまでも!可愛い私の -- 何んと親切で、何んて思ひ遣りの深い!」
「いや、いや、テス、ほんのちよつと倫敦の女商人へ註文してやつたゞけなんだよ -- それだけのことなんだ。」
それから、彼女が餘りに浴びせすぎる讚辭を
彼女は二階へ戻つて、上着を着けてみた。一人で、彼女はしばらく鏡の前に立つて、 絹布の裝ひになつた體裁を見てゐた。やがて彼女の頭には、母親がよく歌つた不思議な着物の小唄が浮んで來た --
一度不義したその妻びとに
それは決つして似合ふまい
(『少年と外套』といふ四十九節からなる小唄の第八節から引抄したもの。 この小唄のもとは、パーシイの『古代英詩遺集』に見えてゐる。 貞操を破つたものは、或る不思議な衣服で露見するといふ傳説は、中世によく行はれた。)
これはダアビフィールドの女房が、テスのまだ子供の時分によく搖籃に片足を載せ、 唄の調子に合せて搖りながら如何にも樂しさうに、また如何にも小憎らしさうに彼女に歌つて聞かせたものだつた。 若しこの服裝が、小唄の着物が女王ギネバ(騎士物語の主人公として有名なアーサー王の后で、 ランスロツトと戀に落ちた姫)を裏切つたやうに色が變つて、彼女を裏切つたとしたら。 彼女はこの搾乳場に來て以來、今が今まで一度もこの唄を思ひ出したことがなかつた。
エンヂェルは、二人がまだたゞの愛人同志である間に、彼女と連れ立つて試みる最後の小旅行といふ意味で、 搾乳場から離れた何處かで彼女と一緒に結婚前の一日を過したいと感じた。 それは彼等のすぐ前に微笑んでゐる他のもつと重大な日と一緒に、 もう二度と再び繰り返すことの出來ない事情にあるロマンティックな一日であつた。 で、彼は先週中に、一番近い町へ行つて少しばかり買物をすることを仄めかして置いたので、 二人は一緒に出掛けた。
搾乳場でのクレアの生活は、彼と同じ階級の世界から見れば、まるで隱遁者の生活であつた。
數ヶ月間、彼は一度も町へ近づかなかつたし、馬車の必要もなかつたから決して傭つて置きもしなかつた。
若し馬に乘るか馬車を驅るかする時は、主人の
それから彼等は、生れて初めて一つ用事の相談相手となつて買物をした。
丁度
夕方になつて、彼等は先に宿を取つて置いた宿屋に戻つた。そしてテスは入口の處で、 エンヂェルが馬と馬車とを戸口の方へ引いて來るのを見に行つてゐる間、待つてゐた。 大廣間は客で一ぱいで、絶えず出たり入つたりしてゐた。かういふ人たちが出入りするので、 扉が開閉する度毎に廣間の燈火がテスの顏をすつかり照した。二人の男が出て來て、 わけても彼女の傍を通り過ぎたその中の一人は、吃驚してぢろ〜彼女を見上げ見下ろした。 こゝで彼女は、この男がトラントリッヂの者かも知れないと思つた。 尤もその村は幾哩も遠く離れてゐるので、トラントリッヂから此處へ來る者は滅多になかつたが。
「別嬪だね、あの娘は、」と他の一人が言つた。
「いかにも、素敵な別嬪だ。だが、俺の大きな間違ひでないとすりや -- 」そしてすぐ、 彼は後の言葉を濁してしまつた。
クレアは、丁度その時廏から歸つて來て、閾のところでその男に出會ひ、例の言葉を耳にし、
またテスが縮み上るのを眼にした。彼女に對する侮辱を聞いて、彼はぐつと癪に
男は立ち直つて、打ちかゝつて來る
「失禮しましたよ、君。全く思ひ違ひでした。わしやあの方を、此處から四十哩先の別の女と思つたんです。」
クレアも、自分が餘り輕率だつた、また、宿屋の廊下などに彼女を立たせて置いたのは自分が惡いと感じ、
こんな場合にきまつてする謝罪をして、
「それで、ありや思ひ違ひだつたのかえ?」と二番目の方が言つた。
「毛ほども思ひ違ひぢやないよ。だが俺は、あの紳士の氣を惡くしたくはなかつたんだ -- 何でしたいもんかな。」
一方、愛人同志はどん〜馬車を進めてゐた。
「ねえ、私たちの結婚を、少し延ばすことは出來ないでせうか?」とテスは味も素氣もない力の拔けた聲で訊ねた。 「若しさうしたければつて意味なんですよ?」
「いゝや、君。氣を落着けておくれよ。
「いゝえ -- 私はたゞ -- 若し延ばさなくつちやならないなら、つていふ意味です。」
彼女が何の積りでさう言つたのか餘りはつきりしなかつた。そこで彼は、 そんな空想は忘れてしまへと彼女に言ひつけた。彼女は素直に、出來る限り言ひなりに從つた。 けれども彼女は家へ歸る途中、ずつと沈んでゐた、ひふぉく沈んでゐた。そして到頭、 「ずつと〜遠い、この邊からは何百哩も離れた遠い處へ二人で逃げませう。 さうしたらもう二度とこんあやうなことは起る氣遣ひはないし、 過去の幽靈だつて其處までやつて來る筈はありませんもの、」と考へるやうになつた。
二人はその夜、梯子の中段で殘り惜しい別れを告げ、そしてクレアは自分の屋根裏部屋へ上つて行つた。 後二三日しかないので、間に合ひ兼ねては大變だと思つて、テスは幾つか細々したものを始末しながら起きてゐた。 起きてゐるうちに、頭の上のクレアの部屋で起る物音を聞いた。床を踏み、 また苦惱してゐる音であつた。家中の他の者は、みんな眠つてゐた。そこで、 若しクレアが病氣になつたのではないかしらと氣掛りになつたので、 彼女は駈け上つて行つて、彼の部屋の扉をノックして、どうしたんですと訊ねた。
「あゝ、何でもないんだよ、君、」と彼は内側から言つた。 「騷がせて濟まなかつた!だがその
これは、彼女の不決斷の
當然のことながら、その夜は目覺め勝ちであつた。そして頭の上で、 最後の微かな音のするのを、聽き耳を立てゝ待つてゐた。
それは
彼がいくらかそわ〜して萎れてゐるやうに見えると、彼女は思つた。 けれども、彼は二人きりになつた時でも、彼女が打ち明けた事に就いては一言も口に出さなかつた。 一體あれを見たのだらうか?彼から、あの問題に就いて口を切らない限り、自分からは何も言へないと、彼女は感じた。 かうして、その日は過ぎた。そしてどう思つたにしても、彼がその事を自分の胸一つに納めて置かうとしてゐることは明かであつた。 しかし彼はいつもと變らず卒直で優しかつた。彼女の疑ひは子供らしいものだつたらうか? 彼は自分を赦したのだらうか。また實際の自分を知り、まさしくさういふ自分として愛し、 そして自分の不安を愚にもつかない夢魔を笑ふやうに笑つてゐるのだらうか? 本當に手紙を受け取つたのだらうか?彼女は彼の部屋を一通り覗き込んで見たが、 それらしいものを何んにも見ることが出來なかつた。ことによると自分を赦したのかも知れない。 けれども、たとひ彼がそれを受け取らないにしても、屹度自分を赦してくれるだらうといふ熱狂的な信頼を、 彼女は急に抱くやうになつた。
毎晩毎夜、彼は矢張り同じであつた。かうしてゐるうちに、除夜の日、結婚の日は明けた。
愛人たちは乳搾りの時刻にも起きなかつた。といふのはこの搾乳場に逗留するこの最後の一週間といふもの、
彼等は客人らしい待遇を受けてゐたし、又テスは特別に彼女だけの部屋を一つ與へられる光榮に浴してゐたからである。
朝餐の時に階下へ下りて行つて見ると、前の日に見たのとはすつかり變つて、
彼等を祝ふ爲めにどんな趣向がこの大きい臺所に施されてゐたかを知つて、
彼等は吃驚した。朝のまだ非常に早い時刻に、主人は、大口を開いてゐる煙出しの隅を白く、
また煉瓦の爐を赤く塗らせ、それから燃え立つばかりの黄色い
「お祝ひに、何かしてえと思つてたんです、」と主人は言つた。 「それで、昔この邊でやりましたやうに胡弓や四弦琴をすつかり取り揃へて、 一つ大騷ぎをしようと思ひましたんですが、あんたが聞かつしやんねえから、 あ音のしねえものと思つて、精々これだけ考へついたんでさあ。」
テスの一家の者はずつと遠くに暮してゐたから、たとひ誰かゝ招かれたとしても、
不便な爲めに一人もこの婚禮の式へ連なる譯には行かなかつた。だが、事實誰もマアロットからは招待されなかつた。
エンヂェルの家の方へは、彼から手紙を差し出し、正式にその時刻を知らせ、
若しお出で下さる御好意があるなら當日少くとも一人は式に連なつて貰へると、
大へんに嬉しい、といふ事を言つてやつた。兄たちは憤慨してゐるものと見えて、
更に何とも返事を寄越さなかつた。ところが父と母とからは、
クレア家の者のこの冷淡な態度は、
近いうちに出して見せて驚かしてやらうと思つてゐた素晴らしいカード札を持ち合はせてゐなかつたらクレアの氣を揉ませたかも知れなかつたが、
それがあるので、左程でもなかつた。搾乳場からやつと出たばかりのテスを、
ダアバァヴィル家の者だ、また
テスは、直接手紙で知らせてやつたのに、自分に對するエンヂェルの態度が、 尚ほ依然として元のまゝで少しも變つてゐないことを知つて、
一體あの方はあれを受け取つたのだらうかと、惡いとは知りつゝ疑つた。
彼女は、彼のまだ濟ましてしまはないうちに朝餐の席から立ち上つて、二階へ急いだ。長い間クレアの居間、
といふよりも寧ろ巣となつてゐた
彼女は、氣が遠くなるやうな心持で、その手紙を引き出した。それはまさしく -- 彼女の手を離れた時と同じやうに封じられた儘であつた。 行手の山はまだ取り除かれてはゐなかつたのだ。家の中は準備の爲めにごつた返してゐるのであるから、 彼女は今、彼に讀んでもらふ譯には行かなかつた。やがて自分の部屋へ下りて行き、其處で手紙を引き破つてしまつた。
彼が再び彼女を見ると、相手はひどく蒼い顏をしてゐたので心配した。
手紙の置場を誤つたといふこの出來事を、彼女は恰も告白を妨げることか何かのやうに早呑み込みしてしまつた。
が、心の中ではさうあきらめるには及ばないことを知つてゐた。まだ時間はあつたのだ。
しかも何も彼もが混雜の状態にあつた。出る者があるかと思へば、入る者があつた。
主人とその妻君は立會人として附き添ふやうに頼まれてゐたから、みんな着更へをしなければならなかつた。
それで思案したりゆつくり話してゐることなどは、殆んど不可能であつた。
テスがクレアと二人
「是非あなたにお話しゝたいんです -- 私の落度や過失を告白したいんです!」 と彼女は努めて平氣を裝ひながら言つた。
「いや、 -- 落度などを話し合ふわけには行かないよ -- 君は少くとも、 今日だけは完全なものと思はれなくてはならないんだ、ねえ君!」と彼は叫んだ。 「この先、僕等には自分たちの缺點を話し合ふ時間は幾らでもあらうよ。僕はその時一緒に僕のも打ち明けるよ。」
「でも、今それをした方が、私の爲めにいゝやうに思ひますわ、後になつてあなたが -- 」
「ぢや、ねえ變人さん、何でもお話し -- ねえ、いゝかい、僕たちの宿で落着いたらすぐにだよ。 今ぢやないよ。その時、僕もまたお前に落度を話すからね。だがそんなものゝ爲めに、 この日を臺なしにしてしまふやうなことは止さう。 そんなものは何れ怠屈な時の素晴らしい話になるだらうよ。」
「ぢや私に話させたくないんですの、あなた?」
「ないとも、テッシイ、本當に。」
着更へや出發の
隨分長い間抑へてゐた、自分が彼のものとなり、彼を自分の夫と呼び、 自分のものとしたい --
それから、必要とあれば
教會は遠かつたし、殊に冬のことではあつたので、彼等は馬車に乘らなければならなかつた。
街道の一軒の宿屋から一臺の箱馬車を仕立てるやうに言ひ付けて置いた。
これは、驛傳馬車で旅行した昔から、ずつと今日までその家に
この厄介なぎし〜鳴る馬車の中に、またこの衰へた馭者の背後に樂しい四人 -- 花嫁と花婿と、 クリック夫妻とが座を占めた。エンヂェルは、 少くとも兄たちの一人が新郎んお附添ひとして來てゐてくれたらよかつたと思つた。 けれども、その趣きを手紙で仄めかしてやつても何とも言つて來ないところを見ると、 彼等は來るのを厭がつてゐることが分つた。彼等はこの結婚に不贊成だつたから、それを激勵するなぞとは思ひも寄らなかつた。 彼等が列席出來なかつたのは或は却つて好都合だつたかも知れない。 彼等は世間的な若者たちではなかつた。だから、この結婚をどう考へてゐるかは別問題としても、 搾乳場の者たちと一緒になるといふことは、彼等の偏屈な氣むづかしさを、不愉快にするほど傷つけたに相違ない。
テスはこの時の勢ひに呑まれてゐたので、こんなことには少しも氣がつかなかつたし、何んにも見なかつたし、
又どの道を教會へ連れて行かれてゐるのかも知らなかつた。エンヂェルがすぐ傍にゐることは知つてゐたが、
他のことは一切が輝く
この結婚は略式の結婚許可の手續きで行はれるのであつたから、教會には一二人ばかりの人がゐるだけであつた。
たとひ千人の人がゐたとしても、彼女にこれ以上の影響を與へはしなかつたであらう。
彼等は、彼女の現在の世界からは、星の距離ほども隔つてゐた。
彼女が相手に貞節を誓つた時の、我を忘れた嚴かな氣持になつてゐるところを見ると、
ありふれた性の感覺などは、一片の雲のやうなものに思はれた。彼等が一緒に跪づいてゐる間に、
クレアは彼女が自分を愛してゐることを知つてゐた -- 體のあらゆる曲線がそれを證據立てゝゐた -- だが、彼はその時、彼女の熱愛の底深さを、 その一途な氣持を、そのやさしさのほどを知らなかつた。またその熱愛が、どれほど長い間の苦しみを、 どれほどの正直さを、どれほどの忍耐を、眞實を保證してゐるものであるかを知らなかつた。
彼等が教會から出ると、
聖ヨハネが太陽の中に見た天使のやうに、自分から發するのではない光を受けて明るく感じたこの精神状態は、 教會の鐘の音がすつかり消えて、結婚式の感動が落着いてしまふまで續いた。 彼女は今になつて始めてこま〜゛したものを一層はつきり見ることが出來た。 またクリック夫妻は、二輪馬車で自分たちを迎へによこすやうに命じて、 乘つて來た馬車を若夫婦に任せたので、彼女は初めてその乘物の構造や特徴を觀察した。 默つて腰掛けたまゝ、彼女は長い間ぢつと眺めてゐた。
「なんだか心が浮かないやうだね、テッシイ、」とクレアは言つた。
「えゝ、」と額に手を當てながら、彼女は答へた。「私、いろんなものを見て顫へるんです、 何も彼ももの〜しいことばかりね、エンヂェル。取り分け、この馬車は前に見たことがあつて、 よく知つてゐるやうな氣がしますの。ほんとに變だわ -- 屹度夢で見たに違ひないの。」
「あゝ -- お前はダアバァヴィル家の馬車の傳説を聞いた事があるんだらう -- この邊で大變に評判だつた時分のお前たち一族に就いて。この地方に傳はつてゐる迷信だがね。 で、このがた〜の馬車を見て、お前はそれを思ひ出したんだよ。」
「私、そんなことを聞いた覺えありませんわ、」と彼女は言つた。 「どんな傳説なの -- 聞かして下さらない?」
「さうだね -- 今のところは、あんまり詳しく話したくないんだ。十六世紀頃の或るダアバァヴィル家の者が、
そのお抱への馬車の中で恐ろしい罪を犯したといふんだよ。その時から、
この一家の者がこの古い馬車を見たり、またその音を聞いたりする時にはいつでも -- だが
「私、そんな話を前に聞いたやうには憶えてゐませんわ、」と彼女は囁いた。 「私の一族の者がそれを見るのは、死なうとしてゐる時でせうか、エンヂェル、 それとも私逹が罪を犯した時なんでせうか?」
「さあ、テス!」
彼は接吻して彼女を默らせた。
彼等が家へ歸つた頃には、テスは後悔してゐて元氣がなかつた。彼女はなるほどエンヂェル・クレア夫人に相違はなかつた。 が、彼女はこの名に對して幾分でも道徳上の資格を有つてゐたであらうか? アレキザンダア・ダアバァヴィル夫人といつた方が、一層本當ではなかつたか? 戀の強さは、正しい人にあつては責むべき罪の隱蔽と思はれさうなことを是認し得るだらうか? 彼女は、かうした場合に、女はどういふ態度を採るべきかを知らなかつた。それに相談相手が全くなかつた。
だが、二三分の間に自分の部屋に一人きりでゐるのに氣がつくと -- この部屋は入るのも今日が最後である -- 彼女は跪づき、そして祈つた。彼女は『神』に祈らうと努めた。けれども、 本當に彼女の歎願の的となるものは、自分の夫であつた。この人に對する彼女の崇拜は非常に強かつたので、 それが何かの凶兆なのではあるまいかと、彼女は我ながら心配した。彼女は、 ロオレンス僧正が言つた次の言葉に思ひ到つた -- 『かゝる烈しき歡喜は烈しき最後を見ん。』 (シェエークスピアの「ロメオとジユリエツト」中にある僧正の言) それは人間の境涯にとつては餘りに無謀だつたかも知れなかつた -- 餘りに濃厚であり餘りに奔放であり、 餘りに致命的であつたかも知れない。
「あゝ、あなた、あなた、何故私はこんなにあなたが戀しいんでせう!」彼女は其處にたつた一人きりで囁いた。 「あなたの愛していらつしやる女は、本當に私ではなくて、私の姿をした女なんです。 嘗つて私がさうだつたかも知れない女なんです!」
午後になつた、そして出發の時刻が來た。彼等は、
ウェルブリッヂの水車場に近い古い農家に二三日宿をとるといふ
彼女は思ひつくまゝに、彼へ耳打ちした --
「これが後にも先にもたつた一度ですから、可哀さうに、あの方たち皆に、接吻して上げて下さいませんか?」
クレアはさういふ離別の形式 -- 彼にとつては形式に過ぎなかつた -- に反對もしなかつた。
そこで彼女たちの前を通りすがる時、立つてゐる彼女たちに順々に接吻して、 一々『さよなら』を言つた。二人が戸口の處へ來た時、
テスは女らしくそのお
こんなことには、ちつともクレアは氣が附かなかつた。
「おや?」とクリックの妻君は言つた。「晝鳴きだよ!」
二人の男が、庭の門の處に立つて、それを開けて抑へてゐた。
「こりやいかんぞ、」一人は
牡鷄はまた鳴いた -- クレアの方へ眞直に向つて。
「はてな!」と主人は言つた。
「私、あれを聞きたくありませんわ!」とテスは夫に言つた。
「馬車を出すやうに、馭者に言つて下さい。さよなら、さよなら!」
「しつ!さつさと行つちまへ、こん畜生、行かねえと首つ玉
「たゞお天氣が變るつてことだけだよ、」と彼女は言つた。「お前さんが考へてゐるやうなことぢやないよ -- そんなことがあつて堪るもんかね!」
彼等は、この溪谷に沿うた平坦な道を二三哩ばかり驅けてウェルブリッヂに着くと、
村から左へ折れ、半ばその名に依つてこの土地を世間に知らせてゐる大きなエリザベス朝式の橋を渡つた。
すぐその後に、宿をとつて置いた家が建つてゐた。その家の外觀は、
このフルウム盆地を通り拔ける旅人とはお馴染になつてゐた。曾つては立派な莊園の邸宅の一部であり、
ダアバァヴィル家の或る分家の所有地で、またその
「先祖のお屋敷の一つへようこそお出を!」とクレアは彼女を下してやりながら言つたが、 この輕口を後悔した。それは、餘りに諷刺に近かつたからである。
けれども、彼はこのむさ苦しい古い住居が、何となく花嫁の氣を腐らしてゐるのを知つた。 馬車が歸つてしまふと、彼等はその傭女に導かれて、手を洗ひに二階へ上つた。丁度上り口に來たとき、 テスはそこへ立ち止つて眼を見張つた。
「どうしたの?」と彼は言つた。
「まあ、なんて怖い女たち!」と彼女は笑顏をして答へた。「私、吃驚しちまつたわ。」
彼は見上げた。そして石壁の中へ造り附けてある鏡板の上には二つの等身大の肖像畫を見附けた。 この屋敷を訪れる者は誰でも氣のつくこの二枚の繪は、二百年ばかり前の中年女を描いたもので、 その相貌を一度見た者は決して忘れることが出來ないものであつた。一人の細長い尖つた容貌、 細い眼と作り笑ひは無慈悲な陰險さを現はしてをり、つもう一方の鉤鼻と大きな齒、 それからぎよろ〜した眼は兇猛と思はれるまでの尊大さを現はしてゐて、後で、 これを見た者の夢にまで出沒するのである。
「あれは、誰の肖像かね?」とエンヂェルは、傭女に訊ねた。
「年寄りから聞いたんですが、ありやこの莊園の昔の主だつちふこつてすよ。
何でもダアバァヴィルとかいふお家の
この肖像がテスの心を
「どれが僕の指で、どれがお前のなんだね?」と彼は顏を上げながら、言つた。 「すつかりごつちやになつてしまつてゐるから。」
「みんなあなたのですわ。」と彼女は極めて巧みに言つて、實際よりは陽氣にしようと努めた。 彼は、こんな場合に彼女が思ひ沈んでゐるのを不愉快には思はなかつた。 それは分別ある女なら誰でも見せることであつた -- だが、テスは、思ひに耽り過ぎてゐたと知つて、もうさうはなるまいと焦つてゐた。
彼等は、茶卓を圍んで搾乳場の主人が暗くならないうちに屆けると約束した荷物の着くのを待つてゐた。
けれども日は暮れかけたが、荷物は屆かなかつた。彼等は着たまゝで、餘分には何にも持つて來てゐなかつた。
太陽が沈むと同時に、冬の日の靜かな氣分は變つて來た。戸外には丁度意氣な
「あの牡鷄は天氣の變るのを知つてゐたんだな、」とクレアは言つた。
かれらの給仕をしてゐた女は、自分の家へ泊りに歸つて行つてしまつた。
けれどもテーブルの上へ蝋燭を置いて行つてくれたので、それに火を點けた。 蝋燭の炎は、一樣に爐の方へ
「かういふ古い家は隙間だらけだね。」エンヂェルは、炎と蝋燭の側を傳はつて埀れ落ちる溶蝋を見ながら、
言ひ續けた。「あの荷物は何處へ行つてゐるんだらうな。
「私には分りませんわ、」と彼女は、
「テス、お前今夜はちつとも元氣がないやうだね -- 全く何時ものやうでないよ。 二階の鏡板のあの鬼婆がお前の心を亂したんだ。こんな處へ連れて來るんぢやなかつたよ。 一體、お前は本當に僕を愛してゐるのか知ら?」
彼は、彼女が愛してゐることは知つてゐた、そしてこの言葉は少しも眞面目で言つたのではなかつた、 けれども、彼女は情緒がこみ上げて來て、胸が一杯になり、傷ついた動物のやうに縮み上つてしまつた。 涙を流すまいと努めたが、どうしても一滴又一滴見せない譯には行かなかつた。
「本氣で言つたんぢやないんだよ!」と彼は後悔して言つた。「お前は荷物が來ないんで心配してゐるんだらう。
どうしてヂョナサンの爺やが持つて來ないのか、僕には
戸口でノックする音がしてゐた。他に誰も取次ぐ者がゐなかつたから、クレアが出て行つた。 彼は手に小さな包みを持つて部屋へ歸つて來た。
「なあんだ、ヂョナサンぢやないいんだよ、」と彼は言つた。
「何んて
この包みは特別仕立ての使者が持つて來たのであつて、エミンスタアの牧師館からタルボセイズに着いたが、 この包みは二人以外の誰の手にも渡してはいけないといふ命令を受けてゐたので、 すぐ彼等の後を追つて此處まで來たのであつた。クレアはそれを燈火の下へ持つて來た。 長さ一呎足らずのもので、ズックで包まれて、父親の印の附いた赤い封蝋で封じられ、 父親の手蹟で、『エンヂェル・クレア夫人へ』と宛てゝあつた。
「これはお前へ宛てた、一寸した婚禮の贈物だよ、テス、」と、彼は包みを彼女へ手渡しながら言つた。 「何て氣のつく人たちだらう!」
テスはそれを手に取つた時、多少面喰つたやうな風であつた。
「私、あなたに解いて頂きたいと思ひますわ、ねえあなた、」 と彼女は、包みの裏を返しながら言つた。「私、こんな大きな封印を破るのは厭です、怖いやうで。 代つて解いてねえ!」
彼はその包みを解いた。中にはモロッコ皮の
手紙はクレア宛のもので、次のやうに
御機嫌は如何 -- 御身がまだ少年であつた折、御身の名づけ親ピトネース夫人が逝かれる時、 その方 -- 派手好みの親切な婦人だつた -- が、自分の寳石
筐 の中味の一部分を拙者に託され、 御身が他日妻を娶る場合、御身と、誰なり御身の選ぶ者とに對するあの方の親愛の印に御身の妻に贈つて慾しいと、 殘して行かれたことを多分御身は忘れてゐられることゝ思ふ。拙者はこの依頼を引受け、それ以來、 その金剛石は取引の銀行家に固く預けて置いた。事情を考へてみると、 幾分失當の振舞ひと感ぜぬではないが、御身も知る通り、拙者は、今となれば、 金剛石の使用權が生涯正しく屬することになる婦人に、その品を手渡さなければならなくなつてゐる。 だから早速御送りした。嚴密に言へば、この品は御身の名づけ親の遺言状の條件に從つて、 相傳動産になることゝ信ずる。この事に關した條項の精 しい言葉は、中に封入して置いた。
「さうだ、そんなことがあつた、」とクレアは言つた。「だがすつかり忘れてゐた。」
テスは、最初それに觸れるのを怖がつてゐるやうに見えたが、クレアがその一揃ひを擴げた時には、 暫らくの間、彼女の眼はその寳石同樣に輝いた。
「これが私のものですか?」と彼女は信じられないと言つたやうに訊ねた。
「さうだとも、確かに、」と彼は言つた。
彼は爐の火をぢつと見入つた。彼がまだ十五歳の少年だつた時、彼の名づけ親の地主の妻君 -- 自分が今までに知るたつた一人の金持だつた -- が、どんなに自分の成功を信じ、 また自分の爲めに素晴らしい成功を豫言したかを思ひ出した。 かういふ派手な裝飾品を彼の妻やその子孫代々の妻の爲めに貯へるといふ事には、 さうした臆測の成功と少しの不調和もないやうに思はれた。寳石は今、 何となく皮肉に閃めいた。「だが何故?」と彼は自問した。もとよりこれは全然虚榮の問題に過ぎない、 若しそれを夫婦といふ方程式の一方に入れるとしたら、もう一方にも入れてよい筈である。 自分の妻はダアバァヴィル家のものだ -- 果して誰が彼女以上にこの裝飾に似つかはしいといふのであるか?
突然、彼は熱を籠めて言つた --
「テス、着けて御覽 -- 着けて御覽!」そして彼は、手傳つてやる爲めに爐の火から顏を
が、恰も魔術にかゝりでもしたかのやうに、彼女はもうそれを身に着けてゐた -- 頸環も、耳環も、腕環もそれから何も彼も。
「だが
「さうなの?」とテスは言つた。
「さうだよ。」と彼は答へた。
彼は、ほゞ夜會服の仕立方に似通つたものとする爲めに、
彼女の胸衣の上部をどんな風に縫ひ込んだらいゝかを彼女に教へた。そして、彼女がその通りにし、
頸環についた埀飾りが註文通りに彼女の
「やあ、素敵だ、」とクレアは言つた。「何て、美しいんだらう!」
誰も知つてゐる通り、綺麗な鳥も綺麗な羽毛故で、質素な樣子と質素な
「お前がそれで舞踏會へ現はれさへしたら!」と彼は言つた。「いや、さうぢやない -- さうぢやない、
ねえお前。僕は、
テスは、自分が素晴らしい
「私、脱ぎますわ、」と彼女は言つた。「ヂョナサンに見られるといけないから。 私には似合はないでせう、ねえ?私、賣つてしまはなくちや、と思ふんですけれど?」
「もう少しその儘でおいでよ。賣るんだつて?いけないよ。そんなことをしたら、 信頼を裏切ることになるからね。」
彼女は思ひ直して、易々と從つた。彼女には話すことがあつた。 そしてかういふ裝ひをしてゐるといふことが、その際何かの足しになるかも知れなかつた。 彼女は寳石を着けたまゝで、腰を下ろした。そして二人はまた、 一體ヂョナサンは荷物をもつて何處を歩いてゐるのだらうかと、推測に耽つてゐた。 彼が來たら飮ませてようと思つて、注いで置いたビールは、何時までも置いた爲めに、 氣が拔けてしまつた。
それから間もなく、彼等は
「いくら敲いても、どなたも一向聞きつけてくれませんもんで、」とヂョナサン・ケイルは辨解した。 といふのは、足音が聞えて來たのはヂョナサン・ケイルだつたからである。「それに、 外にや雨も降つてますんで、勝手に戸を開けましただ。旦那、荷物を持つて參りやしたよ。」
「無事に屆いたんで何より結構だ。が、隨分遲かつたなあ。」
「えゝ、さうでやすな旦那。」
ヂョナサン・ケイルの口調には、晝にはなかつた何か沈んだやうな調子があつた、また前額には、
寄る年の
「あなた樣とあなた樣の奧樣 -- かう今ぢや申しやすが -- が、今日の
「おい、どうしたんだ、 -- 何が -- 」
「はい、あれは、これ〜の
「まさか!本當かい!だつて、あの
「さうでやすな。で旦那、あなた樣と奧樣 -- と、かう天下晴れておなりになりましたから申しやすが --
わしの申しやす通り、あなた方お二人がお出掛けになりますてえと、レッティとマリアンとが帽子を被つて、
エンヂェルは急に、テスがこの陰氣な話を立ち聞きしてゐるのに氣がついて、
廊下と奧の間に續いてゐる次の間の戸を閉めようとその方へ行つたが、 彼の妻はもう體の
「で、そこへ持つて來て、マリアンですがね。あの娘は、
絹柳の生えてゐる沼地の傍にずぶろくに醉ひ潰れてゐる所を見附かつたゞね --
顏を見ても分る通り、あの娘は
「そしてイズは?」とテスは訊ねた。
「イズは何時も通りに家にゐやすが、なんでこんなことになつたんか、分るつて言つてますよ。
それ考へてひどく鬱いでゐるらしいでがすよ、可哀さうに、無理もねえけど。
そんなわけでやして、あなた樣の荷物二つ三つ、それに奧樣の
「さうかい。時にヂョナサン、そのトランクを二階へ上げてくれないか、それからビールを一杯引つかけて、
出來るだけ急いでお歸りよ、
テスは奧の間に引つ返し、爐の火の傍に掛けて、惱ましさうにぢつとその火を見入つてゐた。
彼女は、荷物を始末してしまふまで、梯子段を上つたり下りたりするヂョナサンの重い足音を聞いた。
それからまた自分の夫が取り出してやつたビールや、與へられた祝儀に彼がお禮を言つてゐるのを聞いた。
やがてヂョナサンの足音が、戸口から遠のいて消え、荷車が遠く
エンヂェルは太い
「殘念なことをした、お前にまで娘共のあの悲しい話を聞かしてしまつてね。」と彼は言つた。 「だが、そんなことで氣をくさらしちやいけないよ。あの通り、レッティは生れつき病的なんだからな。」
「ちつとも原因がないのにね、」とテスは言つた。「だのに、さうなる原因のある者は、 それを隱してさうらしくない風を裝つてゐたんですわ。」
この事件は、テスの心の
もう焔の立たなくなつた
「今朝、僕たちの過失を告白し合はうと言つたことを覺えてゐるかい?」 彼女がまだ動かないでぢつとしてゐるのに氣がついて、彼は突然かう訊ねた。 「まあ冗談のつもりで言つたんだね。そして元よりお前は冗談に言つたんだらう。 だが僕に取つちやありや好い加減の約束ぢやないんだよ。僕はお前に告白したいんだ、ねえ、お前。」
彼の方からかう言ひ出すとは、全く思ひ掛けない、願つたり叶つたりのことで、 彼女には天佑の仲立とも思へる力があつた。
「何か告白しなくちやならないんですつて?」と彼女は直ぐに嬉しさうな、救はれたやうな樣子さへ見せて言つた。
「思ひ掛けないことだつたらうね?さうだ -- お前は僕を買ひ被つてゐたんだ。さあお聞き、頭を其處へ當てゝね、
僕を
何といふ妙なことだらう!この人は自分の生寫しみたいだ。彼女は默つてゐた。 そこでクレアは話を進めた --
「僕が今迄それを打ち明けなかつたといふ
「えゝ赦しますとも!私は屹度 -- 」
「さうか、さうして慾しい。だが、ちよつとお待ち。お前は知らないんだ。 まづ事の發端から始めるよ。僕の父は可哀さうに、
僕の主義が主義だから僕を永遠に失はれた
過失に汚れず、正しき生涯を送る人こそムーア種族の振るとかいふ槍も引矢もその要あらじ。
ところで、何處やらは思ふばかりで實行の伴はない願望で敷きつめてあるさうだ。
(何處やらは地球のこと。この句は諸國に夙に流布してゐたもので、ジヨンスン博士も口にしたとは、
傳記作者ボスウエルが傳へる所である)さういふことを何と彼も強く肝に銘じてゐたのだから、
他の人々の爲めといふ立派な目的を抱いてゐながら、その自分が
彼はそれから、既に前置きして置いた生涯の一時期、倫敦で疑惑と艱難とにさいなまれて、
恰も水に浮んだ
「仕合せなことに、僕は直ぐにと言つてもいゝ位ゐに、自分の愚かさに眼が覺めた、」と彼は續けた。 「その女ともう一言も口を利くのがいやになつて、家へ歸つて來てしまつた。 二度と再びそんな罪は繰り返さなかつた。ところで、僕は飽くまで男らしく、禮をつくしてお前に接したいと思つた。 さうするにはこれを話さなければならないんだ。赦してくれるかい?」
彼女は彼の手を堅く握つて答へに代へた。
「では、そんなことは今すぐ、また永久に水に流してしまはうね!實際、あんまり痛ましいことで、 今のやうな場合には不向きだ -- で、何かもつと浮き立つ話をしよう。」
「まあエンヂェル -- 私嬉しい位ゐ -- だつて今度はあなたが私を赦して下さることが出來るんですから! 私まだ自分の告白を濟ましてゐません。私にも告白がありますわ -- 覺えてゐるでせう、さう言つたのを。」
「あゝ、確かに。ぢや今度はそれだ。この意地惡さん。」
「あなたは笑つてお出でゞすが、眞面目な點では大方あなたのと變りがないでせう。 いえ、それよりもつとひどいかも知れませんわ。」
「もつとひどいなんて譯のある筈がないよ、お前。」
「筈がないつて -- えゝ、ほんとにそんな筈はありませんわね!」彼女は希望をつないで嬉しさうに跳び上つた。 「ほんとにもつとひどい筈はありませんわ。」と叫んだ。「全く同じなんですもの!ではお話しゝます。」
彼女は再び腰を下ろした。
彼等の手はまだ組み合されてゐた。火格子の下の灰は、爐の火に眞上から照らされて、燒野のやうに見えた。
空想に耽る者の眼には、この眞紅な炭火の輝きも『最後の審判の日』の怪光と見えたかも知れない。
それは彼の顏や手の上に、また彼女の上に落ち、彼女の額の邊のほつれ毛へ射し込み、
その下の細かい皮膚を輝かした。彼女の姿の大きな影が壁と天井とに浮き上つた。
彼女は前へ屈んだ。すると、頸にかけてゐる金剛石がみんな
彼女の物語は終つた。それは繰り返されたり、説明が補はれたりさへした。 テスの聲は始めから終りまで、最初の調子より高くは殆んどならなかつた。 假にも辨解めいた文句などは言はなかつた。そして彼女は泣きもしなかつた。
けれども、彼女の告白が進むに連れて、外界の事物さへその表情を變化させないではゐないやうに見えた。 火格子の火は鬼の子 --
恰も、テスの困つてゐる場合など少しも構はないといつたやうに、
意地惡く、可笑しな風に見えた。爐圍ひは、これも冷淡に構へて、齒をむき出して
彼女が話を止めると、今まで
クレアは見當違ひの動作であるが爐の火を掻き立てた。彼には話の意味がまだすつかり呑込めてゐなかつた。
彼は
「テス!」
「え、あなた。」
「僕はこれを信じなけりやならないのかね?お前の擧動から見ると、それを眞實と取らなければならない。 あゝ、まさかお前は氣が狂つてゐるんぢやあるまいねえ!當然狂つてゐなくちやだが、狂つてはゐないんだ…… ねえお前テス -- お前の身には何にも、そのやうな事實の假定を證據立てゝゐるものはないんぢやないか?」
「私、氣なんか狂つてはをりません、」と彼女は言つた。
「それでも -- 」彼は
かう言つた、又は他の場所で述べた言葉は、底の方は麻痺したまゝになつてゐる河の表面に浮ぶ
「二人の愛に誓つて、どうぞお赦し下さい!」乾いてゐる口で、彼女は囁いた。 「同じ事であなたをお赦しゝたんですから!」
そして彼が何とも答へないので、再び言つた。「あなたが赦されてゐるやうに、私をお赦し下さい! 私はあなたを赦してゐるぢやありませんか、エンヂェル。」
「お前は -- さうだ。お前は赦してくれた。」
「でも、あなたは私を赦して下さらないんですか?」
「おゝ、テス、赦すつてことは、この場合には適用出來ないんだ! 以前にはお前といふ人がゐたが、今はお前はそれとは別な人間なんだよ。 ちえツ -- どうして赦すつてことが、そのやうな妙な -- 手品に應じられるもんかね!」
彼は話をやめて、この手品といふ解釋をぢつと考へ込んだ。それから突然、 物凄い地獄の笑ひ聲のやうに、不自然な薄氣味の惡い -- 聲を擧げて笑ひ出した。
「
彼は答へなかつた。そして彼女はすつかり
「エンヂェル、エンヂェル!どうしてそんな笑ひ方をするんです?」彼女は叫び出した。 「私の身になつたら、どんな思ひがするかお分りでせうに?」
彼は頭を横に振つた。
「私はこれまで、あなたを幸福にしようとばかり望んだり、願つたり、祈つたりしました! で、さうすることがどんなに嬉しいだらうと、又さうしなかつたらどんなに卑しい妻になるだらうと思つてゐました! ほんとにその通り私は思つてゐたんです、エンヂェル!」
「それは分つてゐる。」
「エンヂェル、あなたは私を愛してゐて下さることゝばかり思つてゐました -- 私を、 この現在の私といふものを!その愛して下さるのが私であるとしたら、まあ、どうしてそんな顏付をなすつたり、 そんな言葉を口にしたりなさるんでせう?私、怖くなつてしまひます!あなたを愛するやうになつたんですから、 もう永久に愛します -- どう變らうとも、どんな辱めを受けようとも、あなたはどこ迄もあなたなんですから。 私、それ以上は望みません。どうしてあなたが、まあ、私の夫のあなたが、私を愛しなくなるなんてことがありませう?」
「僕は繰り返して言ふが、僕の愛してゐた女はお前ぢやないんだ。」
「それで、誰だつて仰しやるんですの?」
「お前の姿をした別の女なんだ。」
彼女は、彼の言葉を聞いて、前から氣遣つてゐた豫感が實際になつたやうに感じた。
彼は自分を一種の詐欺師と無邪氣な女の假面を被つた罪の深い女と見做してゐるのだ。
それに氣がつくと、彼女の蒼白な顏には恐怖の色が現はれた。 頬は
「お坐り、お坐り、」と彼は優しく言つた。「お前は氣分が惡いんだ、さうなるのも尤もだがね。」
彼女は何處にゐるのかも、緊張した顏付で自分の顏を見られてゐるのも、また、 自分の眼付が相手の體をぞく〜させてゐるのも知らずに坐つた。
「ぢや、私、もうあなたのものぢやないんですね、えゝ、エンヂェル?」 と彼女は頼りなさゝうに訊いた。「私ではなく私に似た別の女なんですつて? あなたが愛してゐるのは。そんな風に仰しやるの。」
彼女はその
クレアはその變り方を見て、ほつと救はれた。といふのは、 彼女が打ち明けたことを考へるやうになつたので、
その方が打ち明け話の悲しみよりは彼にとつては面倒でなくなつて來たからである。
彼はぢつと堪へ、冷靜に、女の激しい悲しみが自然に弱つてしまつて、
激しい
「エンヂェル、」狂氣染みた、潤ひのない病的な聲はもう影を潛めてゐたので、彼女は急に、 その自然な調子で言つた。「エンヂェル、私は大へん惡い人間なので、二人で同棲する資格はないでせうか?」
「どうしたらいゝのか、僕にも見當がつかないでゐるんだ。」
「私、何もあなたと同棲させて下さいとは申しません。エンヂェル。だつて私にはそんな資格がないんですもの!
私たち二人が結婚したことを、母や妹逹へ知らせることはしますまい、
何時か知らせてやらうつて言ひましたけれど。また宿にゐるうちに裁つて
「しないつて言ふのかね?」
「えゝ、私、あなたがしろと仰しやらなければ、もう何も致しますまい。 で、若しやあなたが私からお逃げになつても跡を追ふやうなことは致しますまい。 また若し、この上もう少しも口をお利きにならなくても、お訊ねしていゝとあなたが仰しやらない限りは、 何故とお訊ねするやうなことも致しますまい。」
「だが、何なりしろと若し僕が命じたら?」
「さうしたら私、可哀さうな奴隸のやうに從ひませう。たとひ打ち倒れて、 死ねといふやうな命令であつても。」
「そりや結構だ。だが、お前の今の獻身的な心持と、これまでの自分を守つて行かうとしてゐた心持との間には、 調和がないやうな氣がするね。」
これが始めて反撥の意を示す爲めに言はれた言葉であつた。
けれどもテスに對して磨きのかゝつた皮肉を投げつけるのは、犬か猫に向つてそれを投げつけるやうなものであつた。
その微妙な魅力は、味はゝれないで彼女の耳を過ぎてしまつた。彼女は、たゞそれが、
怒氣に支配されてゐると思はれる敵意を含んだ音とのみしか解しなかつた。
彼女は、彼が自分に對する愛情を無理に抑へてゐるとは知らずに、默り續けてゐた。
彼女は、彼の頬に涙が、まるで顯微鏡の擴大レンズでゝもあるやうに、
その皮膚の
「テス、」彼は出來るだけ優しく言つた。「僕はね、ぢつとしてゐられない。 -- この部屋の中に -- 今といふ今はね。僕は少し散歩して來るからね。」
彼は靜かに、部屋を出て行つた。そして二人の夕食の爲めに彼が注いで置いた二杯の葡萄酒 -- 一つは彼女に、もう一つは自分に --
は、そのまゝ口もつけられずに、食卓の上に殘されてゐた。 彼等の折角の『
彼は出がけに戸を靜かに引き寄せたのではあつたが、その閉まる音で、テスは昏睡状態から覺めた。 彼はもうゐなかつたので、彼女はぢつとしてはゐられなかつた。急いで外套を引つかけると、 恰も二度と再び歸つて來ない積りでゞもあるやうに、蝋燭の燈を消して、扉を開け、 彼の跡を追つた。雨は上り、夜は綺麗に晴れてゐた。
彼女は
往來の牛馬の足跡には、水が一ぱい溜つてゐた。雨が丁度それに溜る程度に降つて、 洗ひ去つてしまふほど強くはなかつたからである。この小さな幾つもの水溜りに、 彼女が行き過ぎるに連れて無數の星影が映つては素早くきら〜と飛び去つた。若し彼女が、その水溜りに星屑を -- こんなつまらないものゝ中に影を落してゐる宇宙の中でも一番宏大無邊のものを見なかつたなら、 恐らく頭上に、星が閃いてゐることに氣付かなかつたであらう。
今日二人が通つて來た土地は、タルボセイズと同じ盆地にあつたが、 何哩か大河の下流の方になつてゐた。そして周圍は廣々と開けてゐるので、彼女は決して彼を見失ふことがなかつた。 家を離れると、道路は牧場の中をうねつてゐた。その道について彼女は彼に追ひつかうとか、 彼の注意を惹かうとかする積りは更になく、たゞ默つたまゝわけもなく、忠實に彼の跡を追つた。
が、うつかりして歩いてゐる間に、彼女は
見よ、汝の假面去られん時、戀人は汝を憎まん、
汝が運命の傾く時、汝が顏 に昔かはらぬ美はあるまじ。
それ、汝の生命は木の葉の如く散り、雨の如く灑 げばなり。
また、汝が頭 の薄絹、悲しみとなり、いたゞきし冠、苦痛となればなり。
彼はまだぢつと考へ込んでゐた。彼女が側にゐるといふことも、 今はもう緊張した思索を破り、又は紛らすだけの力がなかつた。 彼にとつては、彼女の存在は實に弱い弱いものになつてしまつたに相違ない! 彼女はクレアに話しかけないではゐられなかつた。
「私、何をしたんでせう -- 一體、何をしたといふのでせう!あなたに對する私の愛を裏切つたりするやうなことは、
私、何も申しあげはしませんでしたわ。あなたはまさか、私が
「ふん! -- なるほどね。騙すやうな女ぢやない、ね。だが、同じ女ぢやないんだ。 さうだ、同じ女ぢやないんだとも。僕にお前を責めさせないやうにしてくれ。 僕は誓つたんだ、責めないつて。で、責めるのを避ける爲めには、何でもする積りだ。」
が、彼女は狂氣にやうになつて辨解をつゞけた。そして、默つてゐた方がよかつたと思はれることまでも、 恐らく言つたであらう。
「エンヂェル! -- エンヂェル!私、子供だつたんですの -- その時には私子供だつたんですの。 男といふものをちつとも知らないでゐたんですもの?」
「お前が罪を犯したといふより、罪を犯されたんだつてことは僕も認めるよ。」
「ぢや、赦して下さつてもいゝぢやありませんの?」
「赦しはしよう。だが、赦すつていふことで、何も彼もがきまりがつくといふものぢやないよ。」
「そして、愛しては下さらないの?」
彼は、この質問には答へなかつた。
「まあ、エンヂェル -- あんなことは往々有り勝ちのものだつて母が言つてますわ! -- 私の場合なぞよりももつと酷い幾つもの事實を母は知つてゐます -- そして夫の方では、 大してそれを氣にもしてゐないんです -- それを負かしてしまふこと位ゐはどんなことをしてゞもするんです。 それでも、女の方は、とても私があなたを愛してゐるやうには夫を愛しちやゐないんですわ!」
「止めてくれ、テス、議論は止めてくれ。社會が違へば習慣も違ふんだ。それぢやまるでお前を、
社會一般の釣合なぞといふことを少しも
「私、身分から言へば百姓に過ぎないんですの。でも性質はさうぢやありませんわ!」
彼女は急にむつとして言つたが、忽ちもとの平靜に返つた。
「だから尚更困るんだよ。お前の家の系圖を掘り出したあの牧師が、
いつそ口を
「その點では、私の家と同じやうに惡い家が澤山ありますわ! レッティの家だつて、昔は大きな地主だつたのですし、搾乳場のビレットの家だつてその通りでした。 それから、今荷馬車の馭者をしてゐるデビィハウスの一家だつて、昔はド・ベェユウの一族だつたんでせう。 私のやうなものは、何處にだつてありますわ。それがこの土地の特徴なんですもの、 仕方ありませんわ。」
「それだけまた、この土地は困りもんだよ。」
彼女は、かういふ非難の言葉を、たゞ大體の意味だけ取つて、 その細かい一々の意味は考へても見なかつた。彼はもう今までのやうに、彼女を愛してはゐなかつた。 そして愛さうとする事以外は何に依らず、彼女にはどうでもよかつたのであつた。
二人はまた默つて歩き廻つた。後になつてからの噂に依ると、 その夜遲く醫者を迎へに出たウェルブリッヂの農家の者が牧場でこの二人に出會つたが、 二人は恰も葬式の列のやうに、前後に重なり合ひ、話もせず、そろ〜と歩いてゐて、 ちらと覗いて見ると、その顏色は、何か心配事でもあるやうな悲しさうな樣子をしてゐたといふことであつた。 暫らくして、その男は歸途また同じ野原で二人に會つたが、前と少しも變らず、ゆつくりと、 時刻にも、侘しい夜にも、まるで無頓着のやうに、進んでゐたといふことだつた。 百姓は自分のことや、家の病人のことに氣を取られてゐたので、この竒妙な出來事を氣にも掛けなかつたが、 餘程時が經つてから思ひ出したのであつた。
百姓家の者が、往つて歸つて來るその間に、彼女は夫に向つて言つた --
「私は、あなたの一生を大へん不幸にする
「いろ〜馬鹿なことをやつてゐる上に、また人殺しまで僕はやりたくはないんだよ、」と彼は言つた。
「自分からさうしたといふことが分るやうに、私、何か殘して置きますわ -- 自分から恥ぢてしたことだと分るやうに。さうしたら、世間の人はあなたを咎めやしないでせう。」
「そんな馬鹿々々しいことをいふものぢやない -- 僕はそんなことを聽きたくはないよ。 かうした場合にそんな考へを持つのは、實に馬鹿氣たことだ。それは悲劇といふよりも寧ろ嘲笑といふ方なんだ。 お前は、今度の間違ひの性質をちつとも諒解してゐないんだね。若しこれが世間に知れたとしたら、 十中の八九までは、屹度滑稽といふ眼でそれを見るだらうと思ふね。頼むから、家に歸つて、休んでおくれ。」
「ぢや、さうしますわ。」と彼女は
二人は、水車場の裏手にある有名なシトオ派(彿蘭西のシトオに一〇九八年創設せられたベネデクト派の修道僧團をシトオ派といふ)
の寺院の名高い廢墟に通じてゐる道を、ぶら〜廻つてゐた。その水車場は、
何世紀か以前にはその僧院に附屬してゐたものである。食物は永久に必要なので水車は今だに動いてゐるが、
信仰は
彼が
その夜遲くクレアもまた、家の方へ引つ返した。靜かに居間へ入ると、燈火を點けて、
方針を考へて置いた人のやうな態度で、其處に据ゑてあつた古い馬毛の長椅子の上へ自分の膝掛を擴げて、
粗末ではあるがそれを寢椅子に造り變へた。横になる前に、彼は
「有難い!」とクレアは囁いた。しかも、彼女が生涯の重荷を自分の雙肩に移してしまつたので、 今は何んの氣苦勞もなく安眠してゐるのだと思ふと -- たとひ、その考へが全然眞實でないまでも、 ほゞ眞實に近いと思ふと -- 彼は激しい苦痛を感じないではゐられなかつた。
彼は
彼を喰ひ止めるものはこれで十分だつたので、彼は再び歩を返し、そのまゝ降りて行つた。
彼の樣子は落着いて冷靜であつた。固く結んだ小さな口は自制の力を現はし、顏にはまだ、 彼女の告白の時から擴がり出した怖ろしい素氣ない表情が現はれてゐた。それは、 もう情慾の奴隸ではないが、しかもそれから立派に釋放される位置に決して立つてゐない人の顏であつた。 彼はたゞ人間は、どんなに惱ましい經驗にめぐり合せるものであるか、 又、物事がどんなに意外に起るものであるかを考へてゐるだけであつた。 今までテスを慕つて來た長い間は元より、つい一時間前まで、彼女ほど清い、優しい、 純潔なものは、何も有り得ないやうに思つてゐた。けれども、
少し缺けたかと思ふと、何んといふ身も世も、消え失せたやうな變り方であらう!
彼は、彼女の胸の底が、正直な、生々したその
彼は居間の例の寢椅子に凭りかゝると、燈火を消した。夜は、無關心に、冷やかに入つて來て、その場を占めた。 それは彼の幸福をもう丸呑みにして、今ではそれを平氣で消化し、 そしてまた殆んどその顏色も變へず、平然として他の幾人とも知れない人の幸福をも、 鵜呑みにしようと身構へてゐる夜であつた。
クレアは、灰色の、恰も罪惡でも犯してゐるやうにこつそり忍びやかに射して來る夜明けの光を受けて、 起き上つた。
煖爐は、消えた
この家に今第三者が現はれるとすれば、如何にもばつの惡いことになるだらう。
そこで、彼は既に着更へをしてゐたので窓を開けて、今朝は自分逹でどうにかやれさうだと彼女に告げた。
女は手に
エンヂェルは、一わたりあたりを見渡して、階段の下まで行くと、ありふれた聲を出して呼んだ --
「御飯が出來たよ!」
彼は表の扉を開けて、朝の空氣の中へ二三歩歩き出した。暫くして戻つて來ると、
彼女はもう居間へ來てゐて、機械的に朝飯の食噐を直してゐた。
彼が呼んでから僅かに二三分しか經つてゐないのに、すつかり身仕舞ひが出來てゐるところを見ると、
彼が呼ばない前から着更へが濟んでゐたか、或はその時には殆んど濟みかけてゐたに相違なかつた。
髮の毛は後の方へ大きく圓い塊りに束ね、着物は新調の -- 白い頸飾りのついた、水色をした毛織の --
一つである
實際彼等二人は、嘗つては火であつた死灰に過ぎなかつた。前夜の激しい悲しみは、
今も尚ほ重苦しく續いてゐた。もう何ものも、二人の
彼は相手に向つて優しく話した。彼女もまた、同じやうに相手任せの調子で答へた。 到頭彼女は、自分の姿も人眼を惹くものであるといふことにはまるで氣がつかない人のやうになつて、 きりつとした彼の顏に見入りながら彼のところへ寄り添つて行つた。
「エンヂェル!」と彼女は言つて、立ち止つた。そして嘗つては自分の戀人であつた人が、
肉體を具へて其處にゐるといふことが殆んど信じられないといふ風に、
彼女は何處までも純潔に見えた。自然は、氣紛れな手管を用ひてテスの容貌に處女の
「テス!ありや事實ではないと言つてくれ!ねえ、斷じて事實ぢやないつて!」
「事實なんですの。」
「
「
彼は、恰もそれと知りつゝ、彼女の唇から好んで嘘であると言はせて、
或る詭辯術に依つてそれを本當の否定にしたいと思つてゞもゐるかの如く、
歎願するやうに彼女を
「事實なんですの。」
「今生きてゐるのかね?」そこで、エンヂェルは訊ねた。
「赤ん坊は亡くなりました。」
「だが、その男は?」
「生きてゐますの。」
最後の絶望の色がクレアの顏を掠めた。
「
「えゝ。」
彼はぼんやり二三歩あるいた。
「僕の立場は -- かうなんだ、」と、不意に彼は言つた。「僕はかう考へたんだ -- 誰でもさうだらうが -- 社會上の地位もあり、資産もあり、 世間の事も知つてゐる妻を手に入れようといふ野心をすつかり放擲してしまへば紅い頬が得られるやうに、 確實に田園の清いものが手に入れられようと思つたんだ。ところが -- 勿論、 僕はお前を非難の出來る人間ではないよ。またさうしようとも思はないがね。」
それから先は言つて貰ふ必要のないまでにテスは、すつかり彼の立場を感じた。 丁度そこに彼の立場の苦しい點が潛んでゐるのであつた。彼が何も彼も失つてしまつたことを彼女は知つた。
「エンヂェル -- いよ〜となれば、あなたに最後の逃げ途があるといふことを、 私知つてゐなかつたら、成行きに任せてかうしてあなたと結婚はしなかつたでせうよ。 尤も私、あなたはどんなことがあつても決して -- 」
彼女の聲は嗄れて來た。
「最後の逃げ途といふと?」
「私を捨てるといふことなの。あなたは私を捨てることが出來るんですもの。」
「どんな風にして?」
「私を離縁してよ。」
「馬鹿を言つてはいけない -- どうしてお前はさう單純なんだらう!どうして僕がお前を離縁出來るんだね?」
「出來ませんの -- かうして打ち明けてしまつても?私の告白で、その理由が出來たらうと、 私思ひましたの。」
「おゝ、テス -- お前はあんまり、あんまり -- 子供らしい -- 一人前になつてゐない -- 未熟とでも言ふんだらうか!お前はどんな人間なのか、僕にはちつとも分らない。 お前には法律といふものが分つてゐないんだ -- お前には分つてゐないんだ!」
「何ですつて -- あなたに出來ないと仰しやるの?」
「全く、僕には出來ない。」
痛ましさと
「私思ひましたの -- 私思ひましたのよ、」と、彼女は囁いた。 「あゝ、あなたの眼にどれほど不都合な者に私が見えるかといふことが、今になつてよく分りましたの! 私を信じて下さい -- どうぞ信じて下さいね。私は魂にかけて、 あなたがさうすることが出來るとばかり思つてゐましたの! あなたがどうかさうして下さらないやうにとは望んでゐましたけれど、 あなたの決心一つで、また、すこ -- すこ -- しも私を愛して下さらないのでしたら、 捨てることが出來るつてことを、少しも疑はずに、信じてゐましたの!」
「それはお前の考へ違ひだよ、」と彼は言つた。
「あゝ、そんなことなら私、してしまへばよかつた、
「何をしようつていふ勇氣だい?」
彼女が何とも答へなかつたので、彼は相手の手を執つた。
「一體何をしようと、お前は考へてゐたんだね?」と彼は訊ねた。
「自殺してしまはうと考へましたの。」
「何時?」
彼女はこんな風に何處までも追求する彼の態度に
「何處で?」
「あなたの
「こりや驚いた -- どんな風にしてさ?」と彼は嚴しく訊ねた。
「私、若しお怒りにならないなら、申し上げますわ!」と彼女は身を
自發的に出たのではなくて無理に言はされたこの告白が、意外な性質のものであつた爲めに、
彼はそれを聞いて、眼につくほど驚き顫へた。だが、彼はまだ彼女を抑へて放さなかつた。
そして眼を彼女の顏から
「ねえ、よく聽いておくれ。お前は、決して、そんな怖ろしい事を思つてはいけない! どうしてそんなことが出來るんだね!もうそんなことは思ひ立たないと、 夫としての僕に固く約束してくれるだらうね。」
「喜んでお約束しますわ。それがどんなに間違つてゐたかが分りましたから。」
「間違つてゐるとも!お前には全く不似合ひな思ひ付きだ。」
「だつて、エンヂェル、」と彼女は落着いた無頓着な樣子で、眼を大きく開いて彼の方を見ながら辨解した。
「それは全くあなたの爲めを考へて思ひついたことなの --
どうしてもあなたが離婚といふやうな
「しッ!」
「えゝ、止せと仰しやるなら私もう申しませんわ。あなたに
彼にはこれが僞りでないことは分つてゐた。昨夜の絶望に陷つてから、 彼女の元氣は全くなくなつてしまつた。そしてもうこの上向う見ずな事をする心配はなかつた。
テスは氣を取り直し、甲斐々々しくまた朝の食卓の支度に取りかゝつた。
どうにかそれも
彼が行つてしまふと、テスは窓際に立つて、やがて、水車場の構内へ通じてゐる大きな石橋を渡つて行く彼の姿を認めた。
彼はその背後に沈み、その先の線路を横切つて、姿をかくした。そこで彼女は、
がつかりもしないで、注意を室内に向けて、食卓を
手傳ひの女が間もなくやつて來た。その女にゐられるのは、初めの間テスには窮屈だつたが、 後には、却つて慰めとなつた。一二時半になると、彼女は手傳ひの女を獨り臺所へ殘して置いて、 居間へ戻り、エンヂェルの姿が再び橋の蔭から現はれて來るのを待つてゐた。
一時頃に彼は姿を現はした。彼がまだ四分の一哩も先の方にゐるのに、彼女は我れ知らず顏を赧らめた。 彼が入つて來る時迄にはすつかり食事を用意して置かうと、彼女は臺所へ走つて行つた。 彼は先づ、前日二人が一緒に手を洗つた部屋へ入つて行つた。それから居間へ入つて來ると、皿の蓋は、 まるで彼自身の動作によるものでゞもあるやうに、皿からすつと持ち上つてゐた。
「實にきつかりだね!」と彼は言つた。
「えゝ。あなたが橋を渡つてお出でなのを見てゐましたから。」と彼女は言つた。
食事は、彼が午前中
クレアの姿が、
「そんなに働くんぢやないよ、」と彼は言つた。「お前は僕の召使ひぢやないんだ。僕の妻なんだもの。」
彼女は顏を上げた、そして幾らか晴々しくなつた。「私、さう思つても差支へないの -- ほんとに?」 と彼女はいぢらしくも、からかひ口調で呟いた。「名前だけつて言ふお積りでせう! さうですわ、私、もうそれ以上にならうとは思ひませんの。」
「さう思つて差支へないだつて、テス!お前は實際さうなんぢやないか。何んだつて、 そんなことをいふんだね?」
「分りません、」と彼女は、涙で語調を曇らしながら、急いで言つた。 「私、かう思ひましたわ。私 -- 私は相當な人間ではないからつていふ積りよ。 あなたに申し上げてありますわ、もうずつと前に、私はそんなに正しい者ではないと思ひますつて -- だから、私あなたと結婚したくはなかつたんですの、たゞ -- たゞ、あなたがお薦めになつたもんですから!」
彼女は
「せめて
彼は、素直な人の眼が一度表面の現象に愚弄されたと知つたら、
何處までもしつこくその人をこぢらせずにはゐられない無慈悲な浪にまだ搖られてゐるので、
こんな風なことや、これに似たやうなことをもつと彼女に向つて言つた。その實、底を割つて見れば、
まだ同情といふ
この夕方も、夜も、また
「時間通りに歸つて來るからね。」
テスは打ちのめされでもしたやうに、縮み上つてしまつた。これまで彼は隨分度々、
彼女の不承知にも
「ねえ、いゝかい、僕は今後の方針を考へなければならないんだよ。二人が早速別れたら、 お前に對する世間の非難が必ず湧いて來るに違ひない。それを避ける爲めには、 どうしても暫らく一緒にゐる外はないよ。が、これはほんの形式の爲めだといふ事を、 お前も承知してゐて貰ひたい。」
「えゝ、」とテスは
彼は出て行つた。そして水車場へ行く途中、靜かに立ち止り、もつと優しく接してやればよかつた、
少くとも一度位ゐは接吻もしてやればよかつたと、
かうして二人は、絶望的な一日二日を、全く同じ屋根の下で一緒に暮した。けれども二人の間には、 まだ戀人同志にならなかつた以前よりも、餘程の隔りがあつた。彼が自分でも言つた通り、 今後取らなければならぬ方針を一生懸命考へてゐるので、彼の活動力が餘ほど鈍つてゐることは彼女にもよく分つた。 一見かうまでやさしい素直な氣持の底にかういふ固い決意のあるのを見て、 彼女はぎよつとせずにはゐられなかつた。彼の言行一致は、實際、 餘りに殘酷であつた。彼女はもう今では、赦されることを豫期してはゐなかつた。 彼女は、彼が水車場へ行つてゐる間に、彼から遁れ出ようかと幾度となく考へたが、 若しこのことが世間へ知れ渡つた時には、彼の爲めにならないばかりか、 却つて一層彼に煩悶と屈辱とを與へることになりはしないかと、恐れたのであつた。
一方クレアは、本當に深く默想してゐた。彼の考へは停滯してゐなかつた。
考へる爲めに彼は病氣になりかけてゐた。考へる爲めに心身を蝕ばまれ、考へごとでへと〜になつた。
以前の生々した、變化に富んだ家庭を樂しむ氣持から惱まされてゐた。 「どうしたもんだらう --
どんしたもんだらう?」と、獨り言をいひながら彼は歩きまはつた。
それを、彼女は
「ねえ -- あなたは長くは私と同棲しないお積りなんでせう -- さうなんでせう?エンヂェル、」と彼女は訊ねた。 窪んだ彼女の口元は、その顏に柔らいだ靜かな表情を保つてゐる手段が、まつたく機械的であることを示してゐた。
「僕には出來ない、」と彼は言つた。「自分を賤しめずに、また、一層惡いことには、
恐らくお前をも恥かしめずにはね。無論僕たちは、普通の意味では同棲出來ないといふんだよ。
今のところでは、どう感じようとも僕はお前を賤しめはしない。まあ卒直に言はしてくれ、
でないと僕の惱んでゐることがすつかりお前には分るまいから。その男の生きてゐるうち、 どうして僕たちは同棲出來るかね? --
その男こそ、本當のお前の夫なんだ。僕はさうぢやない。
若しその男が死んだら、また話は別だがね……おまけに、困つてゐるのはそれだけぢやないんだ、 別の方から考へても起つて來るんだ --
それはね、僕たちとは別の人間の將來に關係のあることなんだ。 僕たちの間に子供が生れ、だん〜と年が經つて、この過去の事柄が知れて來ること
-- そりや屹度知れずにはゐないんだから -- を考へて御覽。地球の上の何處にだつて、誰も出て來ない、
又は
心配の重みを受けて、彼女の
「私、『一緒にゐてくれ』とは言へません、」と彼女は答へた。「言へません。 私、そこまでは考へませんでしたわ。」
テスの女らしい希望は -- こゝで本當のことを言つて見れば --
非常に粘り強く一つ家に永く起き伏してゐれば、いつかは親密さが加はつて來て、
たとひ分別に
しかも尚ほ『自然』といふ狐のやうな老獪な老女のやり口は、實に惡辣で、
今までテスはクレアに對する愛情の爲めにすつかり
それ故に彼女は、彼の議論に叛抗することが出來なかつた。それに對する答へは、
この隔てが出來てから三日目であつた。もう少し彼に動物性が加はつたら、
もつと氣高い人になつたかも知れないといふ竒怪な
「私はあなたの仰しやることを、よく考へて見ました、」と彼女は
「では、お前はどうする?」
「私は
クレアはそのことに思ひつかなかつた。
「屹度だね?」と彼は念を押した。
「屹度ですとも。私たちは別れなければならないんでせう。 きつぱり
「で、お前は
「私、あなたとお別れして、
「ぢや、さうしよう。」
彼女は、別に彼を見上げはしなかつたが、思はずぎよつとした。 申し出と約束との間には或る距離があつた、彼女はそれをあまりに敏速に感じたのであつた。
「私、こんなことになりやしまいかと前から氣遣つてゐましたの、」彼女は、
顏を
「そしたら、僕も此處に留まつちやゐない。何もこんなことを言ひ出したくはなかつたけれども、 別れる方が得策だと悟つたんでね -- 少くとも暫らくは、もつとはつきりとこれまでの事の經過が具體的に分るやうになり、 お前に手紙が出せるやうになるまではね。」
テスはこつそり夫の方を
彼はそれとなく彼女の樣子に氣づいたのか、かう説明を加へた --
「僕はね、離れてゐた人の方が、人のことを親切に考へるんだよ、」と言つて、 皮肉にまた言ひ添へた。「どうなることか分つたもんぢやないさ。 恐らく散々に苦しみ、疲れ切つた揚句に、何時かは又二人一緒に落着くんだらうよ。 大勢の人が是までさうして來てゐるんだから!」
その日、彼は荷造りを始めた。そして、彼女もまた二階へ上つて、荷造りに取りかゝつた。
これが最後となるかも知れない別離なら、それを烈しい苦しみと感ぜずにはゐられない者同志であつたから、
これから先の二人の行動には心を慰められる臆測の光が投げかけられない譯ではなかつたが、
翌朝の別れが、永久の別れとなるかも知れないと、お互が思つてゐることを、二人は知つてゐた。 お互の上に働いてゐた魅力が、 --
テスの方では全然才藝を離れて -- 別れた最初の二三日は、
今までよりも或は一層威力を振ふかも知れないが、時の經つに從つて、その力が弱くなるに違ひないことを、
彼は知つてゐた。また彼女も知つてゐた。それから彼女を同棲者として許すことを拒む實際的な論據が、
一層遠くを見せる北極光に照らされて益々力強く浮き出すかも知れないといふことを、二人とも知つてゐた。
そればかりではなく、二人の人間が一度別れると -- 共通の
夜半は靜かに來て過ぎて行つた。フルウムの盆地には、それを告げ知らすものとては何も無かつたから。
一時が過ぎると間もなく、嘗つてはダアバァヴィル家の邸宅であつた暗くなつてゐる農家のうちに、
かすかにものゝ
「死んでる!死んでる!死んでる!」
何かひどく心を攪亂するやうな力に襲はれると、その爲めにクレアは時々眠りながら歩いたり、
不思議な離れ
彼に忠實な信頼は、彼女の胸に非常に深く潛んでゐたから、彼は覺めてゐようが眠つてゐようが、彼女に、
自分の身が危ないなどゝいふやうな氣持を少しも起させなかつた。たとひ、 彼が手に
クレアは近付いて來て、彼女の上に屈み込んだ。そして「死んでる、死んでる、死んでる!」と彼は呟いた。
彼は測り知れない悲しみを浮べた同じ眼で、ちよつとの間、ぢつと彼女を
「僕の可哀さうな、可哀さうなテス -- 僕の何よりも愛しい、可愛いテス! 本當に可愛らしい、本當に善良な、本當に忠實な!」
醒めてゐる折は、いかにも嚴しく差し止められてゐた親愛を示すかういふ言葉は、
彼女の捨てられた飢ゑ切つた胸へ、言ひやうもなく
彼は疲れを休める爲めに、暫らく彼女を抱へたまゝ欄干へ
けれども、彼は別に投げ落しもせずに、手摺の支柱を利用して、彼女の唇へ接吻した --
晝の間は賤しんでゐたその唇へ。それから、新たにしつかりと抱きかへて、梯子段を降りて行つた。
弛んだ梯子の
どうするのか、何か目的があるとしても、それが果して何であるのか、彼女はまだ推測する事が出來なかつた。 そして、まるで第三者がするやうに、今の問題の推測に沒頭してゐる自分に氣がついた。 彼女はいかに樂々と全身をすつかり彼に任せてゐたから、自分を何處までも彼のものだと見做して、 彼が勝手に片付けようとしてゐるのだと考へて、却つて嬉しい思ひをする位ゐであつた。 明日は別れるといふ心配が漂つてゐる中で、彼が今實際に自分を妻のテスと認め、 たとひさう認めて、僭越にも自分に危害を加へる權利があると勝手にきめるやうな所まで行つてゐながらも、 猶ほ容易に自分を投げ捨てないと感ずると、それが心の慰めになるのであつた。
あゝ!今になつて、彼が何の夢を見てゐるのか彼女には分つた -- 若しそんなことがあるとしても、
彼女には殆んど認められないことながら、 彼女が愛してゐたとほゞ同じ程度に彼を愛してゐた搾乳場の他の娘たちと一緒に、
彼女を背負つて流れを渡つた、あの日曜日の朝のことを夢見てゐたのだ。
クレアは、彼女を肩に載せたまゝ橋を渡らないで、同じ側を近くの水車場の方へ五六歩進んで行き、
到頭河の
河の水はこのあたり幾哩かの牧場地を
自分を溺死させようとするのか知ら?或はさうかも知れない。所は寂しいし、河は淺くて廣く、 たやすくかういふ目的を果すことが出來るのであつた。若し溺死させる積りでゐるなら、 出來ないことはなかつたらう。離れ〜゛の生活を送る爲めに明日別れるよりも、いつそのこと、 その方が増しかも知れなかつた。
矢のやうな急流は、二人の
二人一緒に眞つ逆樣にこの深淵の中に落ち込むやうに身動きしようかといふ衝動が、ふと湧き上つたが、 しかも彼女は、それに溺れてしまひはしなかつた。自分の一命などはどうなつてもいゝといふことは、 もうはつきりさせて置いた。が、彼のは -- 彼女にはそれに干渉する權利は毛頭なかつた。 彼女を背負つて、彼は無事に向う岸へ着いた。此處はもう、寺院の境内になつてゐる耕地のうちであつた。 そして、彼は新たに彼女を背負ひ直して、二三歩進んで、やがて修道院の荒れ果てた内陣の跡へ來た。 北側の壁に、僧院長の空の石棺が寄せかけてあつた。不氣味な性癖のある旅行者などは、 よくその中へ入つて横になるのであつた。クレアはこの中へ、テスを大事に横たへた。二度目に彼女の唇に接吻すると、 彼は、恰も大へん願つてゐた目的が遂げられでもしたやうに、深い安心の溜息をもらした。 クレアは、それから地面に石棺と平行して横になり、すぐに疲れ切つて深い眠りに陷つてしまひ、 丸太のやうに動かないでゐた。今までの努力を續けてゐた心の興奮が、今全くその迸りを止めたのである。
テスは棺の中に立ち上つた。夜は、この季節にも拘はらずからつとしてゐて、
温かではあつたが、薄着のまゝで長く此處にゐるのは、彼に取つて危險である程度には寒かつた。
若しこのまゝ放つて置いたなら、彼は恐らく朝翌まで此處にゐて、確かに凍死してしまふに違ひなかつた。
夢遊歩行をした後でかうした死にやうをする者のあるのを、彼女はこれまでに聞いてゐた。
けれども自分に對する彼の痴行を知つたなら、どんなに彼は恥かしく思ふだらう。それを知つてゐながら、
どうして彼を醒し、今まで彼のして來たことを知らせることが出來よう? が、テスは石棺から出て、彼を
「さ、歩きませう、あなた、」それと同時に、暗示するやうに彼の腕を執つた。彼は別に逆ひもせず言ひなりになつたので、
彼女はほつとした。彼は彼女の言葉を聞いて、また夢に立ち戻つたらしく見えた。
だがその夢は、こゝまで來て又新たな局面に入り、彼女が精靈として甦つて、 彼を天國へ導いてゐるのであると彼は想像してゐるらしかつた。
かうして彼女は、彼の腕を執つて住居の前にある石橋まで伴れて來て、
それを渡つて邸宅の
もうこの後は何の面倒もなかつた。彼女は彼を誘つて、彼の寢椅子の寢臺へ靜かに寢せつけ、
蒲團を温かく着せ、彼の體から濕氣を乾かす爲めにちよつとの間煖爐に火を焚いた。
かうした心遣りから起きる物音で、ひよつと彼が目を覺しはすまいかと、彼女は思つた。
そして心
翌朝二人が會ふと直ぐに、テスはエンヂェルが、 たとひ靜かに寢てゐなかつたと彼自身のことに氣が付いてゐたかも知れないとはいへ、
前夜の夢遊歩行に彼女がどの程度まで關係してゐたかを、少しも、 いや全く知つてゐないといふことを見拔いた。實際、彼はその朝、
死んだも同じやうな深い睡眠から醒めた。そして、サムソン(「士師」記の中に出て來る強力の男。
眠つてゐる間に、怪力の元を、デリラといふ女に奪はれて、醒めて全く力がなくなつたといふ)
が體を搖振つてゐるやうの、腦髓がその力試しをしてゐる初めの二三分の間に、
彼は朧ろげながら、異常な前夜の
自分の心の標準を何か見定めようと、彼は心待ちに待つてゐた。前夜自分がかうしようと決したことが、 朝の光に會つても消されてしまはないとしたら、たとひそれが一時の感情に刺戟されて始まつたものとしても、 立派に理性に近い基礎の上に立つてゐるものであり、從つて、その點だけでは、 十分信頼の出來るものであるといふことを、彼は知つた。かうして彼は、蒼白い朝の光のうちに、 彼女と別れようといふ覺悟を見た。熱した、また、激した本能としてゞはなく、 その本能を燃え焦がした熱情をすつかり拔きにした、白骨となつて殘つてゐる骨には過ぎないが、 しかもそれだけ儼として存してゐる本能として、見たのであつた。クレアはもう躊躇しなかつた。
朝飯の時も、それから二人で僅かな殘りの品物を荷造りしてゐる間も、
はつきりそれと分るやうに、彼は、前夜の努力の爲めの疲勞を見せてゐたので、
テスはもう少しのところで昨夜あつた出來事を殘らず打ち明けてしまはうとした位ゐであつた。
けれども常識では認めてゐない彼女に對する愛情を、本能的にうつかり現はしたこと、
また理性が眠つてゐる間に、彼の本心が威嚴と妥協したことを知つたなら、
それは必ず彼を怒らし、悲しませ、愚弄させるに相違ないと思ひ返すと、
彼女は再び思ひ止つてしまつた。それは、人が
若しかしたら、あの愛情を見せた醉狂な振舞ひを、微かながらも思ひ出したのかも知れない。
が、彼女がそれをきつかけにして、 行かずにいて下さいと新たに自分に訴へるやうな機會をつくるだらうといふ心から、
自然そのことんい言ひ及ぶのを彼は
彼は手紙で一番近くの町から乘物を呼んで置いた。で、朝飯がすむと間もなくそれはやつて來た。
それを見ると、彼女は、愈々最後が近付いた、少くとも一時的の最後 -- 前夜の出來事で、
彼に愛情のあることが分つたので、事によると、將來はまた彼と一緒になれるかも知れないといふ夢想を起したから --
が近付いたと思つた。荷物は馬車の屋根の上に積まれ、馬車は彼等を乘せて走り出した。
水車場の主人と手傳ひの老婆とは、この急な出立を見てやゝ驚いたらしい
二人の行く路は、二三日前、お互の胸にあれほど
この訪問を出來るだけ表立てまいとして、二人は、街道から搾乳場へ通じてゐる小門の側で馬車を降りて、
並んで細道を徒歩で下つて行つた。ぼさ〜した絹柳は刈り取られてゐた。
そして二人には、その切株の向うに、クレアがテスを追つかけて是非妻になつてくれと迫つた場所が見えた。
左手には彼女がクレアの
搾乳場の主人は、屋敷の門越しに彼等を見つけると、新婚夫婦が再び顏を見せた際には、 タルボセイズやその附近では差支へないとされてゐる惡戲な笑ひを顏に浮べながら出て來た。 それからクリックの妻君が、家の中から現はれた。つゞいて昔馴染みの五六人も。 尤もマリアンとレッティは丁度其處に居合はさないやうであつた。
テスは、みんなの惡戲な攻撃や親しみのある冗談を勇ましく堪へた。けれどもそれはみんなが豫期したのとはずつと違つた意味で、
彼女の身にこたへた。二人の疎隔を祕密にして置かうといふ夫と妻との間の默契のうちに、
二人は飽くまで何事もなかつたやうに振舞つた。ところで、 その問題に就いては一語も言つて貰ひたくはなかつたのであるが、
テスはマリアンとレッティの話を細かに聽かされねばならなかつた。レッティは父の許へ歸つて行き、
マリアンは此處を出て
この話から受けた
「あの
二人は再び馬車に乘り、ウェザベリイとスタッグ・フット・レインの方へ、街道を驅つて行き、 やがてレインに着くと、そこでクレアは馬車と馭者を歸した。此處で暫らく休んで谷間へ入ると、 今度は二人の關係を知らない見知らぬ男に彼女の郷里を指して馬車を驅けらせた。 ナットルベリイも通り過ぎて、四辻のある中間の所まで來ると、クレアは乘物を止め、 若し彼女が母親の許へ歸るつもりなら、此處で別れようとテスに言つた。 馭者のゐる前では、自由に話が出來なかつたから、彼は、 岐道の一つを徒歩で少しばかり一緒に歩いて來てくれないかと、彼女に訊ねた。彼女は承知した。 そこで馭者に、二三分待つてゐてくれと言ひ附けて、二人はぶら〜立ち去つた。
「ところで、お互ひに諒解し合ふやうにしようね、」と彼は優しく言つた。 「今、僕にはどうしても我慢し切れないものがあるにはあるけれども、 僕はその我慢しきれないものを我慢するやうに努めるつもりだ。僕が落着けるやうになつたら、 すぐ僕の住所を知らせるよ。そして、僕がそれを我慢出來るやうな氣持になつたら -- 若しそれが願はしく思へたら、また出來るやうだつたら -- 僕はお前のところへ戻つて來よう。 だが僕の來るまではお前の方から僕の方へ來ようとはしない方がいゝよ。」
嚴しいこの宣言は、テスには大きな
「あなたが、私の方へおいでになるまで、私の方からあなたの方へ行かうとしてはいけないんですつて?」
「その通りだよ。」
「では、お手紙を上げるのはいゝでせうか?」
「あゝいゝよ -- 若し病氣だとか、或は何か不自由なことがあればね。無論、そんなことは、 無くてくれゝばいゝがね。だから、大抵は僕の方から先に書くことになるだらうよ。」
「私、すつかり承知しましたわ、エンヂェル。私がどういふ罰を受けなきやならないかつてことは、 あなたが一番よく御存じなんですから。たゞ -- たゞ -- その罰が、餘り酷すぎて、 とても私には耐へ切れないやうにだけはしないで下さいね。」
彼女がこの問題に觸れて言つたことは、それだけであつた。若しテスが手管を弄する女で、
寂しい小徑で一場の芝居を演じ、氣絶し、ヒステリカルに
二人が交したその外の話は、實際的の事柄に關することばかりであつた。 彼は今、相當多額の金の入つた一封の包みを彼女に手渡した。それは、 渡す爲めに兼ねて銀行から引き出して置いたのであつた。 例の金剛石は、それに對するテスの所有權は彼女一代に限られてゐるやうだつた (その遺書の文面をよく解して見ると)ので、安全を期する爲めに、彼に銀行へ預けさしてくれるやうにと、 彼は忠告した。そこで彼女は喜んでこれに同意した。
かういふことまで
神天に在らず -- 世は凡て
過 てり。
テスが
ブラックムーアの谷間へ入つて行き、少女の頃に見た風景が
彼女は、村の入口の街道に立つてゐる通行税取立門に着いた。 幾年となくそこの番人をしてゐて彼女を見知つてゐた老人ではなく、 全くの見知らぬ人が門を開けてくれた。あの老人は、多分、 かういふ勤め人の交代の行はれる一月一日に去つてしまつたのであらう。 最近郷里からは何の便りも得てゐなかつたので、彼女は、 その番人に何か變つたことでもないかと訊いて見た。
「あゝ、何んにもござんせんよ、姉さん、」と彼は答へた。
「マアロットは相變らずののマアロットでしてね、誰彼が死んだとか何んとかつてだけでな。
ジョン・ダアビフィールドは、今週、娘さんを或る百姓の旦那にかたづけやしたよ。
そりやジョンの家からぢやござんせんがね。何處か、
これを聞いて、テスはひどく心が亂れ、荷物やいろ〜の所持品を持つて、
輕馬車で表向き
父の家の煙突を見ると、一體どういふ風にして家へ入つたものであらう?と彼女は自分自身に訊いて見た。
その百姓家の
家へ着くまでに、彼女は、人目に觸れないではゐなかつた。丁度庭の生垣の所で、 彼女を知つてゐる娘 -- 仲の好い學校友逹であつた二三人の中の一人である -- に出會つてしまつた。 友逹は、テスがどうして歸つて來たのかと二言三言質問をしてから、 彼女の悲しさうな樣子に氣づかずに突然かう言つて話の腰を折つた --
「それはさうと、あんたの旦那さんは何處にゐなさるの、テス?」
夫は用事の爲めに
庭の小徑傳ひに家に近づいて行くと、裏口の所で母親が閾の上で敷布を絞つてゐるのが分つた。
テスには氣が附かずにこれを濟ましてしまひ、母親は家に入つて行つた、そこで娘はその後に
洗濯桶は
「おやまあ -- テス! -- お前 -- お前は結婚したものとばつかし思つてたんだに! --
今度こそほんとにね、結婚したとばつかし --
「えゝ、お母さん。私、その通りなんですの。」
「これからしようといふんかい?」
「いゝえ、私、もう結婚しましたわ。」
「結婚した!ぢや、お前の御亭主は何處へゐるんだい?」
「あゝ、あの人は、ちよつとの間、
「
「えゝ、火曜日にね、お母さん。」
「でも、今日はまだ土曜日ぢやないかい、それにもうその方は行つてしまつたんかい?」
「えゝ。行つてしまつたんですの。」
「そりやどういふわけなんだい?ほんとに、お前がいつでも見つけるやうなそんな御亭主なら、 くたばつちまつた方がいゝ!」
「お母さん!」テスは母親の側へ寄つて顏をその胸に埋めると、急に
「まあ、お前の馬鹿つたら -- お前の馬鹿つたら!」ダアビフィールドの女房は、 興奮のあまりテスにも自分にも水を撥ねかけながら、怒鳴り出した。 「何ていふこつたらう!私ア生き恥を晒して、こんなことまで言はなきやならないなんて! だが、もう一遍言はなくちやゐられない、お前の馬鹿つたら!」
テスは身を顫はして泣き入つた。幾日も〜の緊張が到頭弛んでしまつたからである。
「私、それは分つてゐます。 -- 分つてゐます -- 分つてゐます!」 啜泣きしながら、彼女は
「だつて、お前、あの人と結婚したことが、もう罪を犯してるんぢやないかね!」
「さうです、さうです。それが私、悲しくつて仕方がないんです! でも、若しあの人がどうしてもあのことを赦して下さらない決心なら、 法律で立派に私を離縁することが出來るのだと、私、初めには思つてたんです。 そして、あゝ、お母さんが知つてさへくれたら -- 私があの人をどれ位ゐ愛してゐるかつてことを、 半分だけでも知つてくれたら -- 私がどれ程、あの人を夫にしたいと思つてゐたかつてことを -- そして、あの人をお慕ひする心と、どうかしてあの人に包み隱しなく仕向けたい願ひと、 この二つの間に挾まつて、どんなに、私が苦しい思ひをしたかつてことを!」
テスはひどく激動してしまつたので、この上言葉を續けることが出來なくなり、 どうにもならないものゝやうに、椅子に崩折れてしまつた。
「分つたよ、分つたよ、もう濟んだことは元へ歸りやしないさね!
本當に、私たちの育てる子供等に限つて、どうして
恰も事件を或る焦點へ持ち來たすものゝやうに、その時テスの父親が近寄つて來るのが聞えた。 けれども彼は、すぐには入つて來なかつた。ダアビフィールドの女房は、テスを暫らくこの場を外させて置いて、 自分からこの凶報を彼に打ち明けようと言つた。先づ不意の失望に陷つた後で彼女は、 テスの始めての失策に對した時と同じやうに、今度のことを災難と考へた。 雨に降られた休日とか、馬鈴薯の不作にでも遭つた位ゐに考へた。 また手柄になるとか馬鹿を見るとかいふことに關係なく、彼等の上に落ちて來ること、 堪へられないこともないほんの外部の打撃に過ぎない事として考へるやうになつた。 だが一つの教訓としては、考へなかつた。
テスは二階へ退いた。そして、寢臺の位置も變り、新しい並べ方になつてゐるのが
階下の部屋には天上板が張つてゐなかつたので、其處で起つてゐる事は大抵聞くことが出來た。 やがて、父親が入つて來た。生きた鷄を一羽持つてゐるらしかつた。 二度目の馬も餘儀なく賣つてしまはなければならなかつたから、 今ではたゞの徒歩の行商人に過ぎず、籃を腕へかけて歩いてゐる有樣だつた。 この牝鷄は、いつもよくやるように今朝もまた、 自分は今働いてゐるのだといふことを人に見せる爲めに持ち歩かれてゐたが、 實はもう一時間以上も足を縛られて、ロリヴァの家のテーブルの下へ寢かされてゐたのだつた。
「つい今のさつき話があつたとこさ、その -- 」とダアビフィールドは始めた。
それから女房に向つて、娘が牧師の家へ嫁入りした事實が
「今になつて、こんな成行きになつたと思ふと、」とジョン閣下は言つた。
「しかもこの俺にや、向うのキングスビアの寺院の下に、田舎紳士ジョラアドの
「そりや當りまへのことだよ。でもあの
「お前は、先方が本當にあの娘と結婚したと思ふかな? -- それとも矢張り、初めのやうなわけなんかな -- 」
可哀さうに、こゝまで聞いてゐたテスはこれ以上を聞くに堪へなかつた。
自分の言つた言葉が、此處でさへ、現に自分の兩親の家でさへ疑はれてゐるのだと知ると、
他のことではとても感じることの出來ない反感がこの場所に對して湧いて來た。
何といふ豫期しない運命の攻撃であらう!父でさへが幾分の疑ひを持つてゐるのに、
隣り近所の人々や知り合ひの人々が、どうして多くの疑ひを持たずにゐようか? あゝ、自分はもう
從つて、彼女はようやく二三日の滯在しか自分に許してゐなかつたが、 その終る頃になつて、
クレアから短い便りがあり、或る農園の視察に北部地方へ行つてゐるといふことを知らせて來た。
彼の妻として本當の華やかな地位を慕ふの餘り、また二人の間の疎隔の廣い
結婚してから三週間の後、クレアは、有名な父の牧師館へ通じてゐる丘道を下つてゐた。
下り道を行くに從つて、寺院の高い塔が、何故お前は歸つて來たのかと詰問でもするやうに夕暮の空に聳え立つてゐた。
彼にとつては、人生の有樣は一變してしまつてゐた。彼はこれまで、 それをたゞ思索の上だけで知つてゐたに過ぎなかつたが、 今は實際の人間として分つて來たやうに思へた。實は、まだ〜分らないのかも知れなかつたが。 それにも拘らず、彼の前に立ち塞つた人生は、もう伊太利藝術の幽婉な姿で立つてゐるのではなく、 ウイアツ館(白耳義の歴史畫家ウイアツの爲めに、政府が建てた博物館)の睥睨し且つ不氣味な態度で、 またヴァン・ビアス(白耳義の畫家)の習作に見るやうな憎らしい横目をして立つてゐた。
この最初の幾週間かの間にとつた彼の行動こそ、實にいひやうのない出鱈目なものであつた。 古今の偉人聖賢が勸めた教へに從つて心を靜め、恰も何も變つた珍らしいことは起らなかつたかの如くに、 機械的に自分の農業上の計畫を遂行してみようと試みた後で、 彼はかういふ偉人聖賢の中でも、自分の教へが實際に效果があるかどうかを試す程に自己を超越してゐるものは、 殆んどないといふ結論に到逹した。『これこそ第一のものなり -- 心を亂すなかれ、』と異教の道徳學者は言つてゐる。 それは、まさしくクレア自身の意見であつた。けれども彼の心は亂れてゐた。 『汝等心を惱ますなかれ、また怖るゝなかれ。』かうナザレの人基督は言つてゐる。 クレアは心からこれに共鳴した。が、矢張り彼の胸は惱んでゐた。この二人の大思想家と面接し、 凡人が凡人に對する態度で熱心に彼等に訴へ、彼等の方法手段を話して貰ひたいと、 どれほど彼は希望したか知れなかつた!
彼の氣分は自づと頑固な無頓着に變り、
かうした心の侘しさも、彼女がダアバァヴィル家の一人であるといふ偶然の出來事から湧いて來たのだと思ふと、 彼は愈々苦しい氣持にさせられた。テスは、あの力の盡きた古い血統から出た者で、 彼が愛はしく夢想してゐた下層の新しい種族から出たものではないといふことを知つた時、 自分の主義を忠實に守つて、何故彼は冷然と彼女を捨て去らなかつたらうか? これは彼の變節から起つたことであつた。だから、處罰は當然だつたのである。
次いで、彼は疲れもし、不安にもなつて來た。そして不安は次第に増して行つた。 彼女に對する處置が不當だつたのではあるまいか、と思ひ迷つた。 彼は覺えもなく食べ、味はふでもなく酒を飮んだ。時が過ぎて行くにつれ、 過去の日の永い連續の中の一々の行爲の動機が知らず識らずに彼の眼前に現はれて來るにつれ、 愛しいもちものとしてのテスを所有したい考へが、どれほど密接に、 すべての計畫や言葉や手段と混じ合つてゐたかに氣がついた。
かう考へて兩親にこの計畫を打ち明けようと彼はエミンスタアへ歸つて行くところであつた。
それから、テスを伴つて來ないといふことに就いては、現在二人が疎隔してゐることを明かさない範圍で、
出來るだけよく説明しようと考へてゐた。
クレアは、この訪問のことを兩親へ
「でも -- お嫁さんは何處にゐるんだね、エンヂェル?」と母親は叫んだ。 「まあほんとに吃驚したよ!」
「あれは母親の處にゐます -- 一時は。僕はちよつと、急いで歸つて來たんです。 伯剌西爾へ行かうと決心したもんですから。」
「伯剌西爾!だつて、
「さうでせうか?僕、そこまでは考へませんでした。」
けれども、彼が羅馬教の
「式を行つたといふ簡單なお前の手紙は、三週間前に受け取りましたよ、」とクレア夫人は言つた。
「それで、あの通りお前の名附親からの賜物を、お父さまからその娘に送つて上げたわけだよ。
無論のこと、こちらからは誰も立ち會はなかつた方がよかつたんでね。わけても、
先方の家は何處にあるとしても其處からではなく、搾乳場で結婚する方が望みだといふからね。
立ち會つてもお前には迷惑だつたらうし、私たちにしても少しも嬉しいことではなかつたでせうからね。
お前の兄たちはそのことを酷く氣にかけてゐたんですよ。もう濟んでしまつたことだから、
私たちは何とも苦情は言ひません。殊に、福音の使者とならうとするのでなく、
お前が自由に選んだ仕事にその娘が適してゐると言ふからにはね……それにしても、
私は第一にその娘を見たかつたんだよ、エンヂェル。でないまでも、
その娘のことをもう少し知りたかつたんだよ。私たちは、別に贈物としては何も送らなかつたが、
その娘に何が一番氣に入るか分らないものでね。でも、 たゞ遲れたゞけだといふことをお前は承知してゐてくれなければいけないよ。
エンヂェル、私にしろ、また、お父さまにしろ、今度の結婚に對しては別に怒つてなどゐるわけではないからね。
でも、私たちが直接その娘に會へる時までは、お前の家内が好きになるのを控へてゐた方がいゝと思つたんだよ。
それだのに、今お前は
彼は、自分が此處へ來てゐるうち暫らくの間、彼女は實家の兩親の所へ行つてゐる方がいゝといふことに、 二人で相談したのだと答へた。
「實はかういふ積りなんですよ、お母さん、」と彼は言つた。「つまり、僕はかねて、
これならあなたのお氣に召すと僕の確信が出來るまでは此處からあれを遠ざけて置かうと思つたんです。
ですが、この
「ぢや、お前が立つ前に、私はその娘に會ふわけに行かないのかい?」
或はさういふことになるかも知れないと彼は思つた。彼は初めからの計畫は、
先にも言つた通り、彼女を
大急ぎで調へられた晩餐が運び入れられた。そして、クレアは自分の計畫の説明を更に進めた。 花嫁に會へないといふ失望が、まだ母親の胸に依然として殘つてゐたが、 クレアがテスに對するあの結婚間際の熱情は、老夫人の母らしい同情にすつかり染み込んでしまつて、 到頭、良いものがナザレから出ることもあり得る -- 美しい娘がタルボセイズの搾乳場から出ることもあり得ようといふやうなことまで、 殆んど想像するやうになつた。彼が食べてゐる間中も、夫人はぢつと息子の樣子を見守つてゐた。
「お前その
「それはもう言ふまでもないことです!」と彼は問題の痛いところを蔽ひ隱す妙味を添へて、言つた。
「では、その娘は純潔で、貞淑なこともまた言ふまでもないことだらうね?」
「純潔で貞淑、無論さうですとも、あの娘は。」
「ほんとにはつきりとその娘が眼に見えますよ。お前はこの前かうお言ひだつたね。 姿が大變よくつて、圓々とした體格で、
キューピッドの弓のやうな線をした
「えゝ言ひました。お母さん。」
「もうすつかり眼の前に見えるよ。そして、そんな
「えゝ、殆んど。」
「お前がその娘の初戀だつたんだね?」
「勿論です。」
「世間には、かういふ
父親はこれ程問ひかけはしなかつた。 が、晩の祈祷の前に何時も讀むことになつてゐた聖書の一章を朗讀する時刻が來ると、 牧師は夫人に向つて言つた --
「エンヂェルが來てゐるんだから、今夜は
「えゝ、本當にさうしませう、」とクレア夫人は言つた。「レムエル王の言葉を、」 (これは「箴言」第三十一章の冐頭の詞)(夫同樣に夫人は聖書の章句を暗誦することが出來た。) 「ねえお前、お父さまは貞淑な妻を讚美してゐる『箴言』のあの章を讀んで下さることに決めましたよ。 言ふまでもなく、あの言葉は、今此處に居ない人に當てはまるものなんだよ。神樣、その女を何事によらず護り給へ!」
クレアは
「誰か賢き女を見出すことを得ん?その價は紅玉よりも遙かに貴ければなり。
未だ夜の明けぬに起き出で、家人に糧を賄ふ。力もて腰に帶し、その腕を強くすr。
彼女は商品の利潤あると知る。彼女の燈火は夜もすがら消えやらず。彼女はよく家政のことを省み、
怠惰のパンを食はず。その子等は起ちて彼女を祝す、夫もまたかくし、彼女を
祈祷が終ると、母親は言つた --
「私は只お前のお父さまがお讀みになつた章が、特に幾つかの點で、 お前の選んだ女に實によく當て嵌るやうに思はれてならないよ。
完全な女といふのは、ね、働く女のことなんだよ。怠け者とか、 綺麗な婦人とかのことではなく、自分の手や、頭腦や、胸を
クレアはもうこの上これを堪へてゐることが出來なかつた。眼には涙が溜つた。
それは溶けた鉛の
母親は彼の後を追つた。そして彼の寢室の扉を叩いた。クレアが扉を開けると、 彼女は心配さうな眼付をして、戸の外に立つてゐた。
「エンヂェル、」と彼女は訊ねた。「お前こんなに早く離れて來てしまふなんて、 何かいけないことでもあつたのかい?どうも確かに、お前は平常のやうぢやないよ。」
「その通りです、全く、お母さん、」と彼は言つた。
「その
「いゝえ、喧嘩をしたつて譯ではないんです、」と彼は言つた。「ちよつと意見が合はなくつて -- 」
「エンヂェル -- その娘はこれまでの身の上を、調べられても別に差支へない者なんかい?」
母親の直感で、クレア老夫人は、息子の心を亂してゐるらしいやうな不安の
「あの娘には一つだつて
「それなら、他のことなどは氣に掛けない方がいゝよ。何と言つても、
少しの
かういふ盲目的な寛大さが示してゐる怖ろしい皮肉は、今度の結婚で自分の出世をすつかり破壞してしまつたといふ、
第二義的な考へをクレアの胸に深く染み込ませた。この考へは、現實曝露のあつた後の、
彼の始めの考へのうちには決してなかつたのであつた。實際、自分の身が可愛さに、
自分の經驗などゝいふことに少しも重きを置いてゐた譯ではなかつたが、
兩親や兄たちの爲めに、境遇を少くとも相當なものにして置きたいと願つた。
そして、今ぢつと蝋燭の火を
心の動搖が落着くと、時折、彼は兩親を騙さなければならぬやうな破目に自分を陷れたといふ理由で、
可哀さうな妻にひどく腹を立てることがあつた。激怒の餘り、彼女が恰も部屋にゐでもするかのやうに、
話しかける位ゐであつた。すると、なだめすかす悲しい媚びるやうな彼女の聲が闇を亂し、
彼女の唇の
その夜、彼が輕蔑して認めない女は、自分の夫がいかに偉くて、また善良でるかを考へてゐた。
が、この二人の上には、どちらにも、エンヂェル・クレアが認めてゐた影、 言ひかへれば、自分の弱點の影よりも深い影が蔽ひかゝつてゐた。
何處までも自分の考へでものを判斷しようと企てゝゐたにも拘らず、
最近二十五年來の標本的産物ともいふべきこの進歩した立派な志を有つた青年も、
一度不意を喰つて、その幼年時代の教訓に押し戻されると、矢張り、 習慣と因襲の奴隸になつてしまふのであつた。彼のこの若い妻とても、
罪惡を嫌惡する情を抱いて生れついてゐるどんな他の女にも劣らずレムエル王の賞讚を博するに
朝飯のテーブルでは、
彼が今
「えゝ、商業上の意味から言へば、先つ可なり好さゝうな計畫に相違ありませんがね、」と彼は答へた。 「ですが、マーシイさん、出掛けると、生存の絲がぽつきりと切れてしまひますよ。 修道院生活の方がまだ増しかも知れませんね。」
「修道院生活ですつて!まあ、エンヂェル・クレア!」
「どうしました?」
「だつて、あなたはお人が惡いわ、修道院生活つたら坊さんの事ぢやありませんか。
そして、坊さんといつたら
「それから、羅馬舊教は罪惡つてことに、罪惡は永遠の地獄つてことになりますね。 汝は眞に危きにあり、エンヂェル・クレアよ、ですか。」
「この私は、
するとクレアは、たゞ〜苦しい不幸の爲めに、 人が自分の本當の主義をも輕蔑せずにはゐられなくなる惡魔のやうな氣持に投げ込まれて、
彼女を自分の近くへ呼び寄せて、考へ出せる限りの最も異端的な觀念を、惡魔らしく彼女の耳元に囁いた。
彼女の美しい顏に現はれた恐怖を見て、彼は急にから〜と笑つたが、
それも自分の幸福を思ふ苦惱や心配の情に
「ねえ、マーシイ、」と彼は言つた。「あなたは僕を赦してくれなくてはなりません。 僕は今氣が狂ひさうになつてゐるんです!」
全くさうだと、彼女は思つた。かうして二人は會つて又別れた。そして、クレアは再び牧師館へ入つて行つた。
彼はもつと幸福な日が湧いて來ることがあるなら、その時までと、あの寳石を土地の銀行家の手へ預けた。
彼はまた三十
そしてブラックムーア盆地の兩親の許にゐる彼女へ宛てゝ彼の取りきめて置いたことを、
彼は手紙で通知した。この金額は、既に彼女の手に渡してある額 -- 約五十
彼は、兩親にテスの住所を知らせて彼女と文通などさせないやうにするのが最も得策だと考へた。
また二人が疎隔した本當の原因を知らなかつたので、父親も母親も、特に彼にさうせよとも言はなかつた。
彼は
百姓夫婦は、彼が訪問したときには野良に出てゐた。そこでクレアは、
一人きりで暫らく部屋にゐた。彼の全く思ひ設けなかつた感情が、新たに胸に漲つて來たので、
彼は二階の彼女の寢室へ上つて行かずにはゐられなかつた。それは、
一度も彼の寢室になつたことはなかつた。寢臺は出發の朝彼女が親しく手を下して作つたまゝで、
綺麗になつてゐた。
階下で足音が聞えたので、彼は立ち上つて階段の上り口へ行つた。 梯子段の下に、彼は一人の女が立つてゐるのを見た。そして、その女が顏を上げたところを見ると、 それは色の蒼ざめた、黒い眼をした、イズ・ヒュウエットであることが分つた。
「クレアさん、」と彼女は言つた。「私、あなたと奧さんとをお
これは、彼には大抵想像のついてゐる祕密を胸に抱いてゐるが、 先方では彼の祕密にまだ氣がつかずにゐる娘であつた。彼を愛してゐた正直な娘 -- テス位ゐに、 或は殆んど彼女に劣らない位ゐに、實際的な農夫の良妻にやがてはなれるかも知れない娘であつた。
「僕は今獨りきりで、此處へ來てゐるんだよ、」と彼は言つた。
「僕たちは今此處には棲んでゐないんだ。」自分が此處へ何しに來たかを説明した後で、彼は訊いた。
「
「私、今ではもうタルボセイズの搾乳場にはゐないのよ、」と彼女は言つた。
「それは一體どうした譯なんだね?」
イズは
「あすこはとても物淋しくつて仕方がなかつたんで、私到頭出てしまひました!
私今、
「さうかい -- これから
オリーヴ色の彼女の顏は、その色を増して來た。
「有難う、クレアさん、」と彼女は言つた。
彼は程なく農夫を見つけ、家賃の勘定と、不意にこの宿を立ち去つた爲めに、 考慮に入れなければならない二三の他の事柄をも片附けた。 クレアが馬車のところへ戻つて來ると、イズは彼の側へ跳び乘つた。
「僕はこれから
「それで、奧さんもそんな遠方へ行くのを何とも思つてゐないんですか?」と彼女は訊ねた。
「あれは、今度は行かないんだよ -- まあ一年かそこらはね。 僕は視察に出掛けるんだよ --
彼等はかなりの距離を東の方へ走つた。その間、イズは一言も言はなかつた。
「他の者はどうしてゐるかね?」と彼は訊いた。「レッティはどうしたかね?」
「この前私が會つた時には、何だか神經衰弱のやうな風でしたよ。そしてひどく痩せて、
頬かこけて、何だか肺病病みのやうでしたわ。
もうあの
「それから、マリアンは?」
イズは聲を落した。
「マリアンはお酒飮みになりましたの。」
「
「えゝ。
「そして君は!」」
「私、お酒も飮みませんし、肺病でもありませんわ。でも -- 私もう、 朝飯前に歌ふことなど出來なくなつてしまひましたわ!」
「どうしてさうなんだね? 朝の乳搾りの時に君の『キューピットの園の芝生でよ』や『仕立屋の股引』などの節廻しと來たら、 實に鮮かなもんだつたぢやないかね?」
「えゝ、さうでしたわ!あなたが初めてお出でになつた時分にはね。 でも、少し經つてからは、さうぢやなくなりましたわ。」
「どうしてさう止めてしまつたんだね?」
返事の代りに彼女の黒い眼が、ちらつと彼の面に向いて輝いた。
「イズ! -- 君は何故そんなに弱いんだね -- 僕のやうな者の爲めにさ!」と言つて、 彼は瞑想に沈んでしまつた。「それぢや -- 僕がかりに、君に結婚を申し込んだとしたらどうしたんだね?」
「若しさうでしたら私、『はい』と言つたんでせうよ。そして、 あなたも戀しがつてる女を妻となすつたことでせうよ!」
「本當かね!」
「えゝ、本當よ!」と熱心に彼女は囁いた。「まあ!あなたは、 今までそれを少しも察して下さらなかつたんですの?」
程なく彼等は或る村へ通ずる岐道の處へ着いた。
「私、降りなければなりませんわ。この向うに居りますから、」イズは、 自分の愛を告白してからずつと一言も口を利かないでゐたが、突然かう言つた。
クレアは馬を弛めた。彼は、社會の法則にひどく反感を抱いて、
自分の運命を呪はずにはゐられなかつた。それの爲めに正當な拔け道のない一隅へ押し込まれてしまつてゐたからである。
かうして罠に掛つたやうになつてゐながら道學的な因襲の
「僕は獨りきりで
「あなたは本當に、私に行つて貰ひたいんですか?」
「本當だよ。僕も隨分ひどい目に會つたんだから、心を休めたいんだ。で、君は少くとも、 利害に關りなく僕を愛してくれるんだらう。」
「えゝ -- 私、行きますわ。」と、暫らく間を置いてからイズは言つた。
「行つてくれる?で、それがどんなことになるか、君には分つてゐるかね、イズ?」
「つまり、あなたが
「だが、覺えてゐて貰ひたいね、君は道徳といふ點でもう僕を信頼することは出來ないんだよ。 これだけは言つて置くがね、これは惡い行ひをすることになるんだし、 文明の眼から見ると -- つまりこの文明の眼から見るとね。」
「私、そんなことは
「ぢや、降りずにそのまゝ掛けておいでよ。」
四辻を通り過ぎて、一哩二哩と、彼は格別愛情らしいものも見せないで馬車を驅つて行つた。
「君は本當に、大へん僕を愛してゐるのかね、イズ?」と、彼は突然訊ねた。
「えゝ -- 私、さつきもさうだつて申したでせう!搾乳場に一緒にゐる間中、 もうずつと戀しいと思つてゐましたわ!」
「テス以上に?」
彼女は首を振つた。
「いゝえ、」と彼女は呟いた。「あの人以上ではありませんわ。」
「どうして?」
「でも、誰だつてテス以上にあなたを愛することなんか出來ませんもの!……あの人は、
あなたの爲めなら命でも捨てたんでせう。私なんか、とても
ピオールの嶺の豫言者(バラクル[を]連れて、曠野に對するピオールの嶺に至つたバラームのこと)のやうに、 かうした場合に、イズ・ヒュウエットも出來ることなら意地惡い言ひ方をしたかつたのであらうが、 テスの性格が粗野な彼女の性質に働きかけた魅力は、彼女をしてどうしても讚辭を言はしめないではゐなかつた。
クレアは默つてゐた。かういふ豫期しなかつた、非難の出來ない方面から出たこの率直な言葉を聞くと、
彼の胸は躍つた。
「今までのつまらない話は忘れておくれよ、イズ、」と突然彼は馬の向きを變へながら言つた。 「一體、僕は何を言つてゐたのか、さつぱり分らない!これから、 君の歸つて行く細道のところまで送り返して上げよう。」
「こんなにまであなたに正直にしたのに、まあ、そんな事になるんですか! あゝ -- 私どうして我慢が出來ませう -- そうして出來ませう -- そうして出來ませう!」
イズ・ヒュウエットは激しく泣き出した。そして、自分の爲たことがだん〜分つて來ると、
「此處にゐない人に對してした今の少しばかりの善行を、君は悔いてゐるのかね? あゝ、イズ、折角の善行を、今悔んでだいなしにしてしまふもんぢやないよ!」
彼女は次第に鎭まつて來た。
「分りましたわ。私、何を言つてたんだか、夢中で分らなかつたんですわ -- 行きますわと承知したときには! 私は願つてゐたんですわ -- とても叶はない筈のことを!」
「僕にはもう、可愛い妻があるんだからね。」
「えゝ、さうですとも!おありなんですわ。」
半時間ばかり前に通つた細道の角のところに、彼等は着いた。そしてイズは馬車から跳ね降りた。
「イズ -- どうか、どうか、僕の一時の輕はずみは忘れておくれよ!」と彼は叫んだ。 「實際に無分別だつた、あんまり愚かだつた!」
「忘れろつて仰しやるの?どうして、どうして!おゝ私には決して輕はずみのことぢやなかつたんですわ!」
この傷ついた叫び聲が傳へる非難を、自分はどんなに十分受けなければならないかを感じ、 また言ひ現はし難い哀れさの餘りに、彼は馬車を跳び降りて彼女の手を執つた。
「うん、だがね、イズ、兎に角、仲よく別れようぢやないか? どれほどの苦しみを僕が堪へて來てゐるか、君は知らないんだよ!」
彼女は實際に寛容な娘だつたので、これ以上恨みを懷いて二人の別れを傷つけることはしなかつた。
「では、忘れて上げますわ!」と彼女は言つた。
「ところで、イズ、」彼女がまだ側に立つてゐるうちに、教訓者といふ心にもない立場を止むを得ず己を据ゑて、
彼は言つた。「マリアンに會つたら、どうか善良な
彼女はその約束をした。
「神樣があなたを祝福し、護つて下さるやうに祈りますわ。さやうなら!」
彼は馬車を驅つて行つてしまつた。けれどもイズは小徑へ曲り、 クレアの姿が見えなくなるとすぐ切り裂かれるやうな惱みに襲はれて、
クレアもまたこの娘と別れを告げてから、胸には痛みを感じ、唇はわな〜顫はせてゐた。 けれども、彼の悲しみはイズの爲めにではなかつた。その夕方、彼はほんのちよつとで、 一番近くの停車場へ行く街道を捨てゝ、 テスの故郷と彼とを分つてゐる南ウェセックスの高い山の背を乘り越して行くところであつた。 彼を引き止めたものは、彼女の性質に對する侮蔑ではなく、また、 かうではないか知らと思はれる彼女の心持でもなかつた。
さうではなかつた。それは、イズの言つた事で確かめられた通り、 彼女に愛のあるこてや分つてゐても、あの事實は少しも變つてゐないといふ考へであつた。 若し彼が最初に正しかつたものなら、今も正しい筈である。 そして彼が乘り入れた潮流の勢ひは、今日の午後彼の上に働いたものよりはもつと強い、 もつと把握力のある力で心を轉じさせられない限り、依然として彼をその中に入れ、 押し流して行かうとしてゐた。歸らうと思へば何時でも直ぐに彼は彼女の許へ歸つて行けた。 その夜、彼は倫敦行きの列車に乘つた。そして五日後には、これから船に乘らうとする港で、 二人の兄と訣別の握手を交してゐた。
前に述べた冬の出來事から、今度はクレアとテスが別れて後、 八ヶ月を以上を經た十月の或る日へ急ぐことにしよう。テスは一變した境涯に入つてゐた。 彼女は箱やトランクを他の者に持たしてゐる花嫁ではなく、 まだ花嫁にならない以前のやうにバスケットや包みを自分で運んで行く寂しい女になつてゐた。 この試煉の間中、樂に生活が出來るようにと夫から十分な手當を與へられてゐたにも拘らず、 財布は次第に平たくなつて行くばかりであつた。
再び故郷のマアロットを去つて、春と夏の間中を、故郷からもまたタルボセイズからも同樣に遠く離れてゐる、
ブックムーアの盆地からは西の方に當るポート・ブレッディの近くにある搾乳場で、樂な、
主として臨時の仕事に雇はれてゐたから、彼女は、さほど體力を勞することもなく過して來た。
彼から手當を受けて生活するよりも、彼女にはこの方が好ましかつた。
心持の上では、彼女は、依然として全く
搾乳場の仕事は、牛乳の出方が減り出すまでしか續かなかつた。といふのは、 タルボセイズの時のやうな常雇ひの口には二度と出會はず、たゞ臨時雇ひとして勤めてゐたからであつた。 けれども、そろ〜畑の收穫が始まつてゐたから、彼女はたゞ牧場から畑へ移りさへすれば、 これから先も澤山仕事を見つけることが出來た。そしてこれは、收穫の終るまで續いた。
今までにかけた迷惑や費用の償ひとして、兩親へ贈つた五十
彼女は、それを手放すに忍びなかつた。エンヂェルが親しく自分の手に渡してくれたのであつた。
自分の爲めに光つた新しいそれらを彼の銀行から引き出したのであつた。
彼の手に觸れて
彼女は自分の住所を、母親の許へ始終通知しなければならなかつた。が、その境遇は隱してゐた。
持ち合はせの金も殆んど盡き果てた頃、母親からの手紙が彼女の處へ屆いた。
目下非常に困つてゐる、秋雨が家の草屋根を洩るので、すつかり新たに葺き替へなければならないが、
この前の
テスはもう直きに、エンヂェルの取引銀行から三十磅ほど送られることになつてゐた。
そして、如何にも氣の毒な場合であつたので、その金額を受け取るや否や、
要求された通りの二十磅を送金した。殘りの分は冬の衣類に費さなければならなかつたので、
目前に迫つた不順な季節中に備へるには、ほんの名目だけの金額が殘つたのみであつた。
到頭最後の一
が、その手段を考へて見れば見る程、彼女はさうするのが厭になつた。 二人の仲違ひの状態が長引いてゐることを自分の兩親に隱すやうにさせたと同じ細心、自尊心、 間違つた羞恥、名稱は何であつても、兎に角さういふクレアの手間を兼ねての心遣ひが、 彼に十分な手當をして置いてくれたのに今また自分が困つてゐるなぞと彼の兩親のところへ言つてやる事を押し止めた。 彼等は多分もう自分を輕蔑してゐるに相違ない。それに物貰ひのやうなところを見せたら、 彼等は更にどんなにか自分を輕蔑することだらう!思案した結果、彼女は、 假りにも牧師家の嫁ともあらう者が、今の自分のやうな境遇をどうして舅へ知らすことが出來よう、と考へた。
夫の兩親と文通したくないといふ心持は、時間の經過と共に減じて行くやうに彼女は思つたが、
自分の兩親とは、丁度その反對になつた。結婚のすぐ後でちよつとの間行つてゐた兩親の家を出る際には、
娘は結局夫と一緒になるものとばかり兩親は思ひ込んでゐた。また、その時から今に至るまで、
彼女は、夫の
彼女は一揃ひの金剛石のことを思ひ出した。クレアがそれを何處に預けて置いたか彼女は知らなかつた。 また、たゞ用ひることが出來るだけで、賣り拂ふことが出來ないといふことが事實なら、 何處にあらうとそれは問題でなかつた。たとひ絶對に自分のものであるとして、 本質的には全く自分のものでなく、たゞ法律上の資格だけで自分の所有とするなぞといふことは、 如何にも卑しいことのやうに思はれた。
かうしてゐる間に、一方、彼女の夫が送つてゐる日々も決して試煉から放たれてゐるわけではなかつた。
話はまた元へ戻る。かうして、テスの最後の金貨が使ひ果されてしまつた時、
彼女はそれを充たすべき他の分を當てがはれなかつた。一方ではまた、 季節の關係から仕事にありつくこtが愈々困難になつた。
才智や精力や健康や喜んで仕事をする氣持などは、どんな生活の方面でも、 さう澤山あるものではないといふことを知らなかつたから、
彼女は屋内の仕事を探さうとはしなかつた。都會や、大きな屋敷や、 金持で口先の巧い、また田舍風でない動作の人を恐れてゐた。
さういふ身分ある方面から例の
春と夏の間だけ、臨時雇ひの乳搾り女として勤めてゐたポート・ブレッデイの先の西の方にある小さな搾乳場では、
もう手傳ひは要らなかつた。たゞ同情にだけ
彼女は今、この群の中央にある或る高地の農場をさして行く