小島譯:湖畔の處女・水晶 ------------------------------------------------------------------------------- シュテイフテル(Adalbert Stifter, 1805-1868年)|著,小島貞介(1907-1946年)|譯「湖畔の處女・水晶」。 底本:ロマンチック叢書7「湖畔の處女・水晶」,青磁社, 昭和二十三年一月二十一日印刷,昭和二十三年一月二十五日發行,昭和二十四年七月三十日再版發行。 ------------------------------------------------------------------------------- 湖畔の處女・水晶 シュテイフテル 原著 小島貞介 譯 目次 * 湖畔の處女 * 一 森の城 * 二 森の移動 * 三 森の家 * 四 森の湖 * 五 森の草地 * 六 森の巖 * 七 森の廢墟 * 水晶 * あとがき ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:湖畔の處女|一 森の城 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 小國オーストリアの北境三十哩にも渡つて森林がその薄色の帶を西へと曵いてゐる。 それはタイア川の水源地に起つてボヘミアの國土がオーストリアとバヴァリアに境を接するあの境界結節點にまで及ぶ。 昔この地點に、礦物結晶結成の際の針状體樣に、巨大な尾根又尾根の一群が衝突して屈強な山巓を盛り上げた。 この山嶺は三つの國土から遙かの彼方にその水色の森をのぞかせ、波打つ丘陵地と水量豐かな溪流とを四方に送り出す。 巓はこの種の山形によく見る樣に山脈の走路を阻み、かうして山脈はここから北に折れて數日の行程に渡つて連つてゐる。 廢絶した入江にも似たこの森林彎曲の地點こそここに語らうとする物語の舞臺である。 親愛なる讀者を直接事件の人物に招ずる前に、 先づ彼等が生活し活躍した右の幽麗な森林彎曲地帶中の二つの地點を手短かに紹介してみることにする。 神々の惠みを得て彼の地をさまようたその日以來私の胸に宿るあの物狂ほしくも麗しい溪谷の風景をばせめて千が一だけ描き得ればと思ふのみえある。 私逹は逍遙の途次天がすべての人に必ず一度は而も多くは一つの相として贈る彼の二重の夢、 青春の夢と初戀の夢とを、かの地に於いて夢みた。 それは一日《ひとひ》幾千の心の中より一の心を選み出でて未來永劫に私逹の所有《もの》とし又唯一のもの最も麗しいものとして魂の底深く刻むものであり、 更にその心が逍遙《さまよ》うた山野を眼前に髣髴として永遠に消ゆる事のない花園とそて玄《ふか》くも又あたたかい不可思議の想像の扉へと投げかけるものである。 今はなきローゼンベルグ一族の灰色の廢墟クルマウの古都と古城から路を西にとる旅人は蕭條たる丘陵の合間彼方此方に一片空色の山影の覗くのを見るであらう。 それは奧地に連なる山脈の會釋とその記しだ。 やがてとある屋根を越えると遂に午前を通じて見た數々の丘はもう姿を見せず、 膨大な青色の山壁が南から北へと獨りわびしく走つてゐる。壁は巾廣な帶をなし、一色に夕空を埀直に區切つて、 谷間を抱き込んでゐる。谷間からはクルマウの邊りに見捨てたモルダウの流れが再びきらきらと光る。 流れは只クルマウに於けるよりも若くその水源に近い。 廣く、豐饒なこの谷には部落が點散してその中に小邑オーベルプランがある。 この山壁は將に北向せんとする先の森林であつて恰好の目標をなしてゐる。 然し目ざす本來の地點はこの山壁の略々八合目にあたるとある湖なのである。 モルダウの谷間から登ると先づ蝦夷松銀松の單調な密林が幾時間となく續いてゐる。 軈て湖尻の溪流に沿ひ傾斜面をなして打開けた野に變る。 此處は荒れ放題の裂け崩れた地層で、專ら暗黒色の土壤、幾千年を閲した植物の黒い死の床である。 花崗岩の岩塊がその上に一面散在してゐる。それが雨に曝され洗はれ浸蝕されて、 恰も蒼白い髑髏の樣に土壤と著しい對照をなして居り、 此處彼處には又崩壞した樹木の殘骸や打ち寄せられた丸太等が累々と横はつてゐる。 溪流を褐色の含鐡水が流下する。水は然し透明で水底の白砂が一面に淡紅色に光る砂金の樣に陽光を浴びて輝いてゐる。 人跡全く未踏、破られたことのない沈默。 一時間の逍遙の後蝦夷松の幼樹林に逹する。そしてその黒天鵝絨の土壤を立出でて更にも色濃い湖面の邊りにと立つ。 幾度か胸躍らして物語の世界にも似たこの沼のほとりへと登つて行つたのであるが、 その度に深い寂寞の情に抑ゆべくもなく心打たれた。 布を打ち擴げたそのままに皺一つない湖《うみ》は峻險な岩石の合間を穩やかに湛へてゐる。 鬱々と繁つた嚴かな蝦夷松の森林帶がこれを取圍み、 年古びた離れ木の一つ一つが古代建築の圓柱の樣に所々に枝なしの幹をさしのべてゐる。 森林帶の對岸には岩石の臺地が灰色の壁にも似て埀直に頭を擡げてゐる。岩は嚴肅な色彩を四方に擴げてゐる。 下から見た巖の上の松は遙かに高く迷迭香の草の根ほどに小さい。 土の不足から往々松は倒壞して湖面へ落下する。湖上を見渡すと慘澹たる混亂をなして古色蒼然とした樹幹が對岸一帶に折重つてゐる。 それ等がどんよりと黒い水面を區切る樣は、例へばうら悲しいほのじろく光つた逆茂木である。 岩壁の右手はブロッケンシュタインと呼ぶ屈強な花崗岩の破風を盛り上げ、 左側は緩傾斜をなす一帶の屋根へと轉じ、丈の高い樅の林や肌理の細かな苔の織りなす緑布に被はれてゐる。 摺鉢のこの沼には文字通り風一つない。水は湛へたまま動かない。 沼は言はば巨大な暗黒の鏡、その深い奧底から森と灰色の岩と大空とが覗いてゐる。 沼の上には面積の小さい青空が深刻單調なその青を湛へてゐる。 人は幾日となく此處に彳みその思ひをひそめることが出來る。 胸底深く沈んだ物思ひを妨ぐる物音とては僅かに樅の實の落つる微かな響き、短くくぎつた禿鷹の絶叫のみ。 此の湖畔に立ち屡々同じ思ひに襲はれた。沼は不氣味な自然の眼だ。 こちらをぢつと見詰めてゐる。眞黒な眼。岩石の額と岩石の眉の奧から、 暗く繁つた樅の睫毛に隈どられて。そしてその中には身じろぎもしない水が、化石した涙のしづくの樣に。 沼の周圍、殊にバヴァリアに向つては密生林が延びてゐる。 寂たる處女峽谷が溪流をその懷に抱いて巾廣な尾根又尾根の間を走り、 所々に聳り立つ岩壁には幾千とも知れぬ發光體が日を浴びて輝いてゐる。 遠近の森の草地は陽光の下に身を繰り擴げて、雜多な野獸の燦爛たる集會堂をなしてゐる。 これが前に言つた二點の一つである。ここで第二の地點へと移る。同じ水ではあるがこれは優美な水流。 上述の山壁の一高地から見渡した時、眼下に展開した彼のモルダウの光帶がそれである。 尤もここから東に向つて更に略々十時間の行程を行かねばならぬ。 青色の靄にぼかされた山壁の森の繁みを縫うて光帶は森よりも更に強く光りながら曲りくねる谷間に沿うて遙かの彼方までその姿を見せてゐる。 はじめは一筋の光の絲、それがゆらめくリボンとなり、 遂にはほの暗い森の峽にまつはる巾廣い銀の帶。 それから突然——四圍のうら悲しい森の暗の中に優しい月の樣なぽつかりと開いた明るい盆地へと流れは迸り出るのであるが、 軈て又樅と銀松の漆黒の根を潤ほしてゐる。 盆地に入ると氣持のいい野と緑の草地とにさしかかる。 草地には天鵝絨の褥に眠るが樣にその名も麗しいフリードベルグの町がある。 ここからしばらく續いた後で流れは再び物蔭にかくれる。 はじめはイェズイーテンの森蔭、次はキーンベルグの森、 更に最後には魔壁のはざまにと呑み込まれて了ふ。 右に述べたと凡そ同じ範圍にこの森の娘《こ》の走路を一望にうちに收め得る地點はとある崩れ落ちた騎士の居城である。 城は盆地から見れば青い空色にかすんだ骰子の樣に山壁の輪廓に浮出てゐる。 フリードベルグの窓々はこの廢墟を西南に見る。町人等はこれをトーマの峯トーマの塔又は簡單に聖トーマなどと呼びならはしてゐる。 城は太古の騎士の居城でその昔住んだ騎士の殘忍故今魔法にかけられて暴風雨と日光に曝されながらも幾千年に亙つて崩れ落ちることが出來ないのだと言ひ傳へてゐる。 過ぎし日幾度この古びた城壁に腰を下ろしたことであらう。 興に乘つてはものの本の讀み耽り、ひたむきに目覺めんとする青春の甘いときめきに耳傾け、 崩れ落ちた窓越しに青空を見やり、さては傍の繁みを走る金色の小動物に見とれ、 或は又これ等すべてを止めてなすこともなく只靜かに默々と壁と石とに降り注ぐ陽光を身に感じつつ、 憂愁にみちたこの場所に住んだ最後の人々の運命を未だ知るに至らなかつた頃も、 好んでそして又幾度か私はこの地を彷徨うた。 物聞かん術もない外壁に圍まれて灰色の四角な塔が緑なす草地に立つて居る。 中庭には綾なす森の千草が咲亂れその間にましろな石の數々をちりばめてゐる。 塔の周は芝草であり、彼方此方に平たいもの、塊、細長いもの、 その他不思議な形をした樣々な花崗岩が散在してゐる。 大小の室一つとしてもう人の住み得るものはない。 漆喰と上塗の跡形もない壁のみひとり澄み渡つた大空に聳え立つてゐる。 そしてその高所には所々に訪《おとな》ふ人もない扉ともう上り得べくもないバルコン。 バルコンの側に並ぶ窓々はもう夕陽に照り映ゆることもなく、 はびこるに任せた美しい雜草がその飾窓に繁つてゐる。 凹壁に武噐はなく只斜に射す陽が幾百の金矢を織りなすばかり。 ありし日飾り床に燦然と輝いた寳石のよすがともなるものは今や巣ごもれる駒鳥の黒い問ひたげな瞳のみ。 壁の果つるところに屋根を支へる梁は見えず、只濃青の空を區切つて蝦夷松の幼樹がその緑色の生活を始めようともがいてゐる。 地下室、廊下、居間、すべては塵芥の山。黒い眼の草花がこれを追うて咲き榮えてゐる。 塵埃の山のあるものは屋内から三階の窓にも逹してゐる。 ここに登る者の眼前に展がる光景。それは四圍の悲しみの記念物の數々とは凡そ逆な感じではあるが、 これこそ芽生えんとする印象に完成の一線を引くものであることを忽然として感ずるのである。 見よ!ほの暗い樅の梢を遙かに越えた彼方に無限の展望が四方にひろがつて汝の眼に流れ込み忽ちその光にまなこ眩むではないか。 呆然として自失せる汝の瞳はゆらめく陽光の霧のさなかにただよひ、 緑なす山嶺の彼方をさまよふのであるが、やがて峯々の背後なる一線青色のうすぎぬへと及ぶ。 それはドナウの彼岸五穀のみのる傾斜地と果樹林とをのせた惠み多い國土である。 最後に視線は眼界を區切る彼の厖大なる半月形、ノーリック・アルプスの山々に逹する。 晴れた日には大ブリールが青空にかかつた白い綿雲の樣に光つてゐる。 トラウンシュタインは結晶した蒼穹のさなかに蒼白い雲の輪廓を描き出してゐる。 アルプス全連山の遠峯は透明な魔女の帶《しごき》の樣に天をひき包んでゐるが、 その端はたをやかな殆ど目に見えない光の綾絹となつて消え去つてゐる。 その弱光のあいまに微動する白い點又點、恐らく更に遠い山脈のいただく雪であらう。 瞳をめぐらして北を見よ。ここには巾廣な山壁が安らかに身を横たへてゐて、 麗はしい濃青へと色あせつつモルダウの流を遡るにつれ次第に低くなつてゐる。 西には森又森の快い青はあり、遙かに遠いその間からをちこちに纖美な青い煙の柱が晴れた空に向つて昇つてゐる。 この風景に言ひ知れぬ愛と憂愁が住んでゐる。 旅人よ。さてこの風景に見飽いたならば共に二百年の昔に歸ることにしよう。 廢墟に咲き誇る青い釣鐘草と雛菊と蒲公英と幾千のその他の雜草を頭から拭ひ去らう。 その跡には外壁のほとりまで續く白砂を、入口には屈強な山毛欅の門、塔には暴風にも毅然とした屋根を、 壁には輝く窓を置かう。部屋々々を分けて、あらゆる美しい家具と住み心地のよい裝飾で飾らう。 そこですべてがありし日のままに、金工の鑄物場を出て來たばかりの姿になつたなら、 さあ共に中央の階段を二階へ昇らう。扉がさつと開く——はて、愛くるしいこの二人は。 これはヰッティングハウゼン家のハインリッヒの娘逹で、 私逹が今居る所もハインリッヒの居城なのだ。今はやはり廢墟となつてヰるが近くに聖トーマと言ふ小寺院が建立され、 その名前がこの城に移つたもので、以然は城もヰッティングハウゼンと言はれてヰた。 妹娘の方は窓邊に坐つて縫取りをしてゐる。未だ朝早くなのにもうすつかり氣付けを濟ましてゐる。 三十年戰役時代の繪畫に今でもよく見られる樣な非常に繪畫的な樣式の淡青の着物。 すべてがしつくりしてゐる。きりきりしやんとした袖口に胴衣、引裾の皺一つにも心が配られ、 どの蝶結びもきちんとしてゐるし、どのふくらみも立派である。 着付けの全體構築の上に破風格で小さな綺麗な頭が浮いてゐる。 どこまでも金髮で古風な衣裳の中から殆ど不思議な若さに輝いてゐる。 見るとすぐ分る樣に彼女はこの着物を着ることが大變嬉しくてそれで着てゐるのである。 暗褐の殆ど黒めがちの眼が、ふと物に驚いて或は物問ひたげな風情で見上げる樣な場合に、 ブロンドの捲毛と竒妙な對照になる。然しそんな時まんまるい目があどけなく枠に收まつてゐるので、 悲しみと情熱に觸れたことのない若い魂が世の中が餘りにも廣くてすばらしいと言ふので、 その小窓から無邪氣におづおづと覗いてゐるのが、見る者の眼にも分る樣に思はれるのである。 髮の樣子から見れば十八の上、目から察すれば十四以下多分その中程であらう。 姉娘は未だ着付が濟んでゐない。白い寢衣のまま安樂椅子樣のものに腰掛けてゐる。 椅子の上に澤山の紙や羊皮紙の卷物をぶちまけてその中を何やら搜してゐる。 漆黒豐富な毛髮は無慘にもほどけ落ちて、ひだに富む寢衣の雪の白さを落下する飛瀑の樣に斷ち切つてゐる。 麗しくも才長けたその顏。只思ひなしに蒼白さはあるが却つてそのため兩の眼が毛髮の色と映えて一入黒く輝いてゐる。 黒ダイアの瞳、妹の褐色のよりももつと大きい位。部屋は娘逹の居間兼寢室であらう。 奧には樫の木造りの寢臺が二臺据ゑられてゐる。それぞれに絹の天蓋があり、花咲くばかりの緞帳が埀れてゐる。 今使用されたものか腰掛と足臺は位置が亂れて白い寢衣の類がしどけなくその上にたれかかつてゐる。 祈祷臺は祈る姿がお互に見えない樣にそれぞれ別な窓下においてある。 何故なら信仰は戀と同じ樣に人をぢするものなのだから。 化粧臺には狹い長い鏡がありその他はみごとな寳石類が並んでゐるだけである。 未だ朝非常に早いことは屋外に長々と引いた物蔭や露に濡れた樅の木が銀色に光つてゐるのでも分る。 空は快晴。アルプスの連峯が枠にはめられた樣に二つの窓の中に見えてゐる。 そして光り輝く大空がその上に擴がつてゐる。 窓邊の娘《こ》は縫取りに餘念がない。ほんの時折眼をあげて姉の方を見やる。 姉は急に搜しものを止めて豎琴を取上げる。そしてもう先刻から切れ切れなしのび音が夢みる樣にこぼれて來る。 音は何の連絡もない。例へば水底に沈んだメロディーの點々と現はれた島。 突然妹は口を開いた。「ね、クラリッサ。隱さうとしてもその歌よく知つてますわ。 又歌ひたくなつたのね。」 話しかけられても答へもせず姉は二句程口づさむ。 「見たるは白き骸骨と かたへには金の冠も。」 そこまで歌つて止めたが琴を持つたまま絃の間から姉は妹の無邪氣な顏をぢつと見た。 妹は優しいまるい眼でこれに答へてそれから殆どおづおづと言ひ出した。 「何故だか私その歌氣味が惡いのよ。不吉な豫感がして。意味がとても恐いんですもの。 それにお姉樣がこの歌ばかり歌つてらつしやるのをお父樣もお好きでいらつしやらないことは御存じでせう。」 「だけどね、この歌つくつた人とても優しい親切な方なのよ」と姉は言葉をさへぎつた。 「ではその方は同じ樣にもつと優しい、もつと氣持のいい歌をつくることが出來た筈だわ。 歌と言ふものは優しくてあどけないものでなければいけないわ。 みんなが好きになつてこの歌のように恐がられない樣に」と妹。 クラリッサは妹の言ふことを聞きながら殆ど母親がする樣に優しい愛をこめて妹を見てゐたがやがて言ふのだつた。 「本當に優しい深切なひとね、あなたは何て純なのでせう。でもあの恐怖、あの戰慄こそ、 私逹の深い深い良心なのよ。遂には二倍もの親切に變るものよ。」 「いいえ、いいえ」と、一人は答へた。「私はもう始めからすぐ優しいわ。 歌は氣持よくつて朗かでなければいけないと思ふの。今日の日の樣に、 見渡す限り雲一つなく、どこもここも青々々、まじりのない氣持のいい青、 御姉樣の歌はいつも霧や雲それとも月の光の樣ですわ。 月の光も綺麗には違ひないけれど、みんなが恐がるのよ。」 「限りもなく美しい浮雲、流れ雲!!」とクラリッサは答へた。 「荒れ果てた大空に咲き誇る姿、山にかかつて輝く樣、夢みる態、光る宮殿になりむくむくと一杯に陽を受けてゐる風情、 疲れて睡たげな子供の樣に夕暮に燃立つその赤さ。ね、ヨハナ、あなたの天國は何て純なのでせう。 深くて美しくてひんやりしてて。でもその天には今に靄がかかるのよ。 人はそれに呪はしい情熱と言ふ名をつけます。あなたは靄を大變樂しいものだと思ふでせう。 青空の中に搖れ動いてゐる天使だと呼ぶでせう。所がこの靄からやがて燃ゆる電閃と暑い雨とが來ます。 その雨はあなたの涙よ。所がもつとこの涙の中から美しく光つたあの虹の門、人の手の及び難い約定の門が生れるのよ。 すると月明りも純に思はれあの歌が優しい歌になつて來るわ。 世の中はね、大變廣くつて同じ喜びの中にも烈しい喜びがあつて、 そのために胸が裂けるのよ。又同じ惱みにもまごころこめた惱みがあるものよ。 それはしんみりとした。」 ヨハナはつと立上つて姉の許へつかつかと歩みより、言ひしれぬ優しさをこめてくちづけた。 そしてその首に兩腕を投げかけて言つた。 「お姉樣はいつもさうよ、判つてゐますわ。お姉樣は胸をいためていらつしやるのね。 でも忘れないで頂戴。お父樣があなたを愛していらつしやるのよ。 御兄樣も私もそれから人は誰だつてきつと。御姉樣は他のどの方よりも御優しいんですもの。 本當はそんな口きくものではないわ。それよりか歌ひませうよ。何でも、あの王樣の歌だつて構はないわ。 ちやんと知つてるのよ、お姉樣つてば今朝起きた時からあの歌のことが氣になつてゐたんですもの。」 クラリッサは子供らしい唇に心から二度接吻を返した。 その唇の今盛り上らうとする無心な美しさを姉は戀人の樣になつかしんだ。 やがてほほゑんで言つた。「心配しなくとも大丈夫よ。ほんとに。 あなたの美しい花模樣の刺繍をうんと手傳つてあげるわね。お父樣が御喜びになるわ。」 ヨハナと向合ひにクラリッサは刺繍枠に坐つた。ヨハナは草花を刺してゐたが姉は甘んじて背景その他を刺した。 二人はそれから色々世話話をしたがやがて默りこんえ了つた。 それから又話し出した。會話の奧にはいつも心から愛し合つてゐる二人の姉妹の思ひやりがこもつてゐた。 尤もそこには姉娘が妹をやさしくいたはる風情が見えた。 小さい方は何か心にかかることがありげに思はれた。 先刻から何度も言ひかけては口ごもつた。然しやがて思切つてある大膽な密獵者の話を話し出した。 ヨハナの聞いた所によると此の男は西方の森を選んで住んでゐる。 ヨハナの時代にはこの森は今日に比べれば遙かに深いものであつたのである。 密獵者の身邊には世にも不思議な噂が立つてゐた。魔彈でなければどんなに射つてもこの男は死なないし、 又夜になると現身のこの世には全く居もしない樣な魔者逹と色々語り合ふのだと言ふ。 この話はヨハナが現に昨日聞いたばかりなのだ。 クラリッサはそれに反對して、そんなことは迷信が尾に鰭をつけたのだ、 世間の人と言ふものは本當に恐い話を喜びたがるものだから、 そんな男などはじめから、居ないのかも知れないと言つた。 「いいえ、居ると思ふわ」とヨハナは熱心に口をはさんだ。 「それにしてもその人は世間で思つてゐる樣な人ではきつとないわ」とクラリッサが答へた。 「ええ、きつともつともつと惡者だわ。ショピッツェンベルグの可哀想な粉屋のこと知つてるでせう。 その男に射ち殺されたのよ。」 「まあ!はつきり分つて居ないことをそんな風に言ひ觸らすものではないわ。 あの粉屋はスヱーデン軍の間諜に使はれたのよ。だから殺されたんだわ。」 「さう。みんながさう思つてゐるのよ。然し誰も證據を見せることは出來ないわ。 ——あのね、これはお姉樣だけに申し上げるわ—— 騎士のところからお父樣に手紙を屆けて來た獵童が下人部屋でその男の噂してたのを昨晩きいて了つたのよ。 その男は脊高のつぽで、樹木の樣にがつしりして、剛髯をはやし、長い獵銃を肩にして幾日も幾日も林を縱横に歩くのよ。 こちらの平地に住んでゐる人々の中でその男を見たものは殆どないのだけれども、 獵童はお姉樣とわたし程間近から見たのですつて、そして確かにその男が人殺しをしたのです。 粉屋の死骸はパルクフリーデルの森のあの岐れ路のマリア樣の傍にあつたのよ。 身體中傷は一つもなくて只顳[需|頁;#1-94-06]を打ち貫いた小さな彈丸の跡だけですつて。 そしてこんな小さな彈丸を使ふのはあの密獵者だけなの。 それからも少し言つたことがあるんだけど、それは餘り罸當りなことだから本當ではないと思ふわ。」 「なあに。」 「此の密獵者はね、鐵砲を只ズドンと射ちさへすれば誰でも思ひ通りの人に必ずあたるのですつて。」 「まあ、あなたはそんなお話ばかり聞きたがるのね」とクラリッサは大變眞面目に言つた。 「恐しい根も葉もない嘘ばかりだわ。若し私逹がこれから先神樣の攝理に御頼りしなければならないのなら、 それが神樣の御思召なら、神樣がそんな意地惡な竒蹟をお許しになる筈はないぢやないの。 神樣には宇宙のこと何でもお出來になるのですし、 それに神樣にお頼りするのは私逹の務めであり喜びなのですもの。」 「私だつてそのまま信じはしなかつたのよ」とヨハナもしみじみと言ふ。 「ですけれどそこで話を聞いてて、腰元逹がまるで顏色を失つてゐるのを見ると、 私もぞつとしましたわ。そして行つて了はうと思ひながらも、 つい又言葉に引きよせられて了つたのです。彼の人は何もかも全く目の前に見える樣に話すのですもの。 向ふの山奧にある森のこともすつかり。向ふでは森がどこまでも涯なく擴がつてゐてそれに比べると私逹の森なんかまるでお庭なのよ。 綺麗な暗い魔の湖が眞中にあるんですつて。岸には不思議な岩や不思議な樹木が立つてゐて、 開闢以來曾て斧の響いたことのない深い林が湖を取りかこんでゐるんだわ。 湖に出る程奧までは未だ行つたことがないけれどもその中にそれを決行しようと獵童は言つてゐるわ。 行くとなれば銀の魔彈を携へて行つて例の密漁の人殺しをお目に掛り次第やつつけるんですつて。 相手は鉛彈《ムジ》には不死身なのよ。」 「では何故一體もつと早くやつて了はなかつたのかしら、 あなたが言ふ通りこれまでに何度も逢つたのでしたら」とクラリッサは言つた。 「それ御覽。あなたは無邪氣なお馬鹿さんよ。そしてその若者は法螺吹きの曲者だわ。 あなた逹を恐がらしてそれで偉者振らうとしたのよ。私だつたら話なんか聞きやしないわ。 例の人だつてきつと何の罪もない山番よ。それともそんな人全然居ないのかも知れない。 あの森に分入つた人々はみんな若々しい草花や雜草やすばらしい樹木の繁茂した美しい原生林、 無數の名も知らぬ鳥や獸の棲家を見たばかりで少しも怪しいことには出逢はなかつたのだから。」 「でもグレッケルベルグの河では最近豬の頭蓋が流れて來てそれに小さな彈丸が着いてゐたのよ。」 「さあもう止しませう」とクラリッサは微笑みながら言つた。 「森とか湖とか骨とか獵人とかあんまり多すぎてこの薔薇の角の所がみつともなくなつたぢやないの。」 丁度盜賊や魔法に關する想像が最も逞しく羽を延ばす年頃になつてゐるヨハナはなかなか止めようとはしなかつたが、 クラリッサはもうその口には乘らなかつた。そこでヨハナがけなされた薔薇を辯護したことから話は刺繍のことに移つた。 それからヨハナ一流の意表外な飛躍を遂げながら話は續いた。舞踏の話と思へば死のこと、 戰さの準備の話かと思へばラ・ンデルの花が、ジャムが、彗星が話題になつた。 心臟から脈搏が跳び出す樣に輕妙な思付の群がぴよんぴよんと躍つて、 次々に乙女の唇から流れ出る。そのつぶらな眼は大きく見開いて私逹を優しく見てゐる。 賢者逹のあらゆる善知にもまして私逹は思はず心を惹かれる。 神の純粹な作品、人の心と言ふものはあらゆるものに勝つて貴いものである。周圍の惡に染まず、 惡の世界に就いては夢にも知らぬ心が極端な努力でかち得た修養に比してどれ位神聖なものであるかは言葉では言はれない。 何故なら修養の人の面には常に以前の荒廢の陰翳がまつはつてゐて、 その痛ましい印象は消えるものではない。胸中の惡を抑へんと勉むる力がむしろその人の惡への慾望の逞しさの證となる時、 私逹は殆ど畏怖の念すら抱くのである。この人を驚歎はするのであるが、 心の自然の愛と言ふものは胸に何の惡も棲んでゐない人々に向つてのみ迸り出る。 さればこそ二千年の昔彼の一者なる人の言葉に、「この小さきものの一人を躓かするものは禍なる哉」とある。 私逹がかうして二つの美しい顏貌を見、一つ一つが瞳の銀光の輪に篏めこまれて、 透明なダイヤモンドの樣なその言葉の數々を聞いてゐると、 質素なこの室が日常の家具が並んでゐるにも拘らず神聖な清らかな例へば寺院の樣にも思はれるのである。 太陽はもう森の上に昇つてゐた。午前の日射しが輝き渡り靜まり返つた梢の上にきらきらと光つてゐた。 一筋の明るい陽光がやはらかに刺繍の上に注ぎはじめた。すると——戸の外で行儀よく物靜かに入室を求むるノックの音が聞えた。 つとヨハナが立つて未だかけたままになつてゐた閂を急いで外した。 直ぐ優しく會釋しながら一人の男が這入つて來た。 娘逹の父はその朝の室にこの樣につつましくこの樣に慇懃にまるで餘處から來た人の樣に入つて來たのである。 當時彼はもう非常な年配であつたが實に立派な老翁であつた。 ヴァンダイクの書額から拔け出た樣なその姿——黒天鵝絨の衣服をまとひ丈高く堂々たる風貌、 頭髮は純白、輝く銀髯は廣くみごとな老人の胸の上に波打つ如く埀れ下つてゐた—— 眼は巖の樣な皺のある額の下に強い輪廓をなし物言ふ如く。 その姿はまるであの豫言者逹の時代のものとも思はれ、 ありし日の逞しくも雄々しい力と人柄の偉さのしのばれる姿、 騷しい雷雨の後に鳴りをしづめた晩夏の風景にも似て今は只思遣りの柔和な夕陽に照らし出された姿、 秋の實り田の上に顏を出す疲れた滿月の樣に、靜かな柔かな深い思ひやり。 彼はその頃未だ僅かながら見受けられたうらぶれた騎士道の面影を殘してゐた。 他の花はみなとうに穀物倉に刈り集められた時、 刈跡の秋の野の咲く百合のひともとにも比べられる凡そ四圍にそぐはない存在であつた。 二人の子供は父の意を讀まうとする樣にその眼を見つめる。 父は刺繍を續ける樣にと言ふ。それが續けられると父は脇目もふらずしんみりした愛のこもつた眼で二人を見てゐる。 彼は刺繍を調べる。それを讚める。あれこれと尋ねる。そして子供逹の間にはいつも適切な答を言ふ。 答は油の樣に子供逹の心へ流れこむ。 乙女逹の母は十年も前に他界してゐたので、年老いた父が母なしの娘逹の間にゐるのを見ると一入心を動かされた。 乙女逹に惠まれなかつた愛を女親の分までも取り返さうと氣を遣つてゐる男親の態度に一種言ひしれぬ優しさがあつた。 末娘には特に愛が足りないかの樣に父は妹娘に心をつかつた。 娘逹のささやかな家政に何か要るものはなかつたか、刺繍の絲がなくなりかけてゐはしないか、 着物や布地はきちんと綺麗にしてゐるかどうか、下婢や腰元逹に何か落度はなかつたか、 その他何かないものや慾しいものはないかなどと訊ねて、 どの問にも「いいえ」とか「まあ、おやさしいお父樣」とか言ふ答ばかりであつた時、 父はにこにこして、でもわしはアウグスブルグの町から綺麗な珍しいものを持つて來る樣に注文してやつて置いたよ、 來たらお前逹自分で自由に選りとるがよい、一週間の中にはきつと來るに違ひないと思ふ、 そしてこれでわしは名譽と喜びとが得られると言ふものだよ、 それ迄に精々慾しいものやおねだりするものや、何が要るかしら、若しやあつたらあれを取らう、 あれは取るまいなどよく考へておきなさいと言つた。 それから何か苦しいこと望ましくないことが心にかかつてゐてそれを口に出すのを少しでも延ばさうとしてゐる樣に娘逹の色んな小さなことにまで口を出して熱心に話した。 ヨハナの鷄のこと、小鹿と野鶲《のびたき》のこと、それから窓の草花—— クラリッサの琴と寫生帳、手紙や遠く離れてゐるお友逹の消息など。 最後に金髮の子に向つて父は、もう夕べの御祷りを眠つて了ふ樣なことはないだらうな、 ほんの二三年前迄はお前はバルコンや庭の芝草の上にすつかり寢こんで了つてゐるので、 それを連れ上げて消え殘つた夕陽の光を浴びながらやつとこさで着物を脱がしたものだがと聞くのであつた。 それから更に二人に向つて、 お前逹は御祷りの時にはいつでも亡くなつたお母樣のことを思ひ出すだらうなと感動をこめて尋ねた時に、 二人にも父親が何か心に懸ることがあつてそれを打ち明けるのを恐れてゐると言ふことがよく分つた。 多くの剛毅な人々がよくさうである樣に、 彼は娘逹に對して父としての心遣ひと同時に又戀人の持つ樣な不安にも似たものを持つてゐた。 この點こそこの強壯な老人に見られる最も美しい長所の一つであつた。 ところが娘逹の方も父に對する畏敬と尊敬は限りなく一層深いものであつたので、 二人とも父の樣子をぢつと見ながら不安で一杯であつた。然し誰も口を切るものはんかつた。 愛は例へば徳の樣にあらゆる形態に於いて小心である、そして畏怖は恐怖自らよりも更に臆病である。 娘逹が父を理解してゐた樣に父にも娘逹の心がよく分るのである。 たたみ目が崩れないやうに注意して綺麗に疉んだ白リンネルを取除けて安樂椅子を窓近く刺繍枠の傍へ押しやつて、 父はその上に娘逹と向合ひに腰をかけた。相變らず上べは居心地がいいからさうした樣に。 娘逹の前をつくらはうとすてゐるのが、實はむしろ平氣らしい素振りで自分自らを、慰めてゐるのであつた。 「お前方はもう聞いて知つてゐることと思ふが、實は昨日自分で歸つて來たのではないが、 騎士が狩獵の旅先から手紙をつけて使ひを寄越してな」と彼は切り出した。 「みんな非常に面白かつたらしい、獲物がしこたまとれた模樣だ。それに向ふの森はさながら庭園で、 美しくて、靜かで、すつかり人里離れて人手が及んでゐない樣は、いくら讚めても讚め足りぬ位ぢやさうな。 もう今では四週間以上も騎士は向ふで狩獵の樂しみに憂身をやつしてゐるわけだ。 一行のものが森に別れを告げるのが如何にも辛いさまは手紙を讀んだだけでもほろりとさせられるよ。 『外の世界からは何の氣配も豫感も這入つて來ないのです。 そして莊嚴な靜寂が數日の行程に亙つて同じ姿でいつまでも續いていつもその優しい姿を小枝や木の葉がくれに見せて居て、 最もかよわい小草でさへのびのびと生ひ茂つてゐるのを知つては人間の世界にここ數年間と言ふもの戰爭と破壞の騷音が荒れ狂うてゐるやうなどは殆ど信ぜられない程です。 外界では最も高價な最も精巧な存在物である人命があわただしくわけもなく破壞されてゐるのに、 この森では最も微小な草花が正反對の辛勞と細心とをかけて育てはぐくまれてゐます」と騎士は言つてゐる。 ね、お前逹。あの人逹は素晴らしい岩山を見つけたんだよ。 森から高く首を擡げてゐてそこに登るとここの城が見えると言ふのだよ。 こちらからも赤い隅の部屋から見ればそれが見えるに違ひないと言つて來てゐる。 今日にもあの部屋に望遠鏡を仕立てて、その岩はブロッケンシュタインと言ふのだが、 岩臺が發見出來るか見てみようではないか。 それとも冬前に一そのこと皆であの美しい原始林へ遠足に出かけたらもつと面白いかも知れないな。」 ぎよつとして父親を見上げたヨハナの瞳が光つてゐた。父の眼はこれに答へてにこやかにその意を問ひ返した。 立上つて室内をあちこち落着きを失つた樣に歩き廻つた。ヨハナはうれはしげに父の素振りを見守つてゐた。 やがて父はヨハナの前に進み出て眞劍に心をこめて言つた。 「愛くるしい臆病ものの小鹿さん。——どうも止むを得ない、みんなであの森林地へ行かねばならんかも知れん。 ——まあ、お聞き——この夏中いろいろと心を碎いたことに就いてどうしてもお前逹に話さねばならなくなつた。 此の手紙はローゼンベルグからのものだ。これはゴルデンクロークから、こちらはプラーグ、 次はマイセン、最後の一つはバヴァリアからだ。 今日まで私はお前逹は知り度くもないことで心を傷める樣なことがない樣に戰場方面の情報はいつも知らさないで來た。 然し私は戰場にはどこにも通信網をはつておいて絶えず現在状況の動向に關する知識と將來の豫想が立つ樣にして置いたのだよ。 すべては祖國のためと、神樣によつて定められた通ち父としての喜ばしい務め、 と言ふのはお前逹を保護するためにしたことです。敵軍は冬前に上部ドナウ地方への進出を企ててゐて、 その右翼が私逹の山を乘り越えて行くことに決定してゐる。 このスヱーデン人逹は私の名を十二分に承知してゐるし、 假令知らぬにしてもあの仲間が私逹の家を行きがけの駄賃に掃蕩すて了ふだらうと言ふことは十分信ずべき筋がある。 この冬の初雪は恐らくこの城の黒く燒け落ちた壁の廢墟に降りかかることだらう。——それは構はぬ——家は又建てるさ。 それにお前逹の一身に關しては私は一番よいと思ふ方策を立てておいた。 金銀財寳の處置をどうするかは後でお話しよう。今はもつと大事なこと、 お前逹の身の振方に就いて、深林の奧に一つの足場があつて、私はとうから知つて居た。 寂しいところで人里から全く離れて、一筋の山徑も人の通る足跡も、 その他凡そ人の氣配と言ふものは影も見えない。それにこの場所は四方が塞がつてゐて通路は唯一方だけ。 ここさへ用心すればよい。その他のことは何もかも不思議に思ふ程このましく優美で、 例へて見れば優しい荒野の微笑、人の憂をしづめる護照であり、招待の手紙だね。 ここに一軒の家がある。私がこの夏建てさしたのだ。お前逹が樂しく氣よく住める樣にすつかり設備もすんでゐる。 こちらの城が復興して再び危險がなくなるまではお前逹にはあちらに住んで貰はねばならぬ。 誰も家のあることを知つてゐrるものはない。建てた者逹はみな私とは三重ものつながりに結ばれてゐるのだから。 先づ私はみんなから誓約をとつておいたし、第二にその者逹は皆數年來臣下として私に忠節をつくして來たし、 最後に私は近頃からふとした機會である仲間の全動産を保管して戰禍が去るまで私の財産と一緒に保護することになつて居つたが、 その仲間だけを今度の用に選んだのだ。この者逹が誓約を破つて私に危害を及ぼす樣なことは先づあるまい。 みなの者は非常に峻嶮な岩越えの間道から現地へおりて行つたがこの間道は今では岩石爆破作業によつて通れぬ樣にしてある。 私逹はこれまで人の通つたことのない森の奧地を拔けて廻り道をすることにならう。 この方は地面が平らだからずつと樂だと思ふ。騎士の考ではその邊では森が極めてまばらで恐らく馬で行くことさへ出來るだらうとのことだ。 少し行くと路はいくらか困難になるが、 その邊で山案内が一人他の路傳ひに自分の村からやつて來て私逹を待つてゐる手筈になつてゐる。 お前逹には山轎が用意されてゐるだらう。森は原始的ではあるが、このあたりと同じ樣に美しくて親しみ深い森だよ。 それから人と言つてはお前逹は滯在してゐる間中召使逹の他には誰にも逢はないことと思ふ。 まあこれだけして置いた。お父樣はこれでいいと思ふ。さあ、お前逹。何か言ひなさい」 二人とも死んだ樣にだまつて父をぢつと見てゐた。 父は微笑んで「それで!ヨハナ。此處のお部屋のことがそんなに悲しいかね。 あ!あちらの部屋もここと同じ造りで調度もすつかりこのままなんだよ。え!」 ヨハナは非常な努力をしておづおづと口を切つた。「でもあすこには人殺しの密獵者がゐる。」 父親はこれをきいてぴくぴくと眉を動かした。然しやがて大變物靜かにしつかりとした語調で言つた。 「そんなもの居ません。こんな馬鹿げた噂がお前逹の部屋まで這入つたことは甚だ殘念なことだ。 私は不快千番ぢや。そんな者は居やせん。私の言ふことを信じなさい。 騎士はここを留守にしてゐるこの三ヶ月と言ふものフィリックスと一緒に森を縱横に驅馳してあらゆる奧地の住民や、 炭燒き、木樵り、或は山番の小屋を訪ねては例の噂の火元やそれと思しいものを搜したのです。 無用なもくろみではあつたが、私逹の氣持を安んずる爲にわざわざ企てたことです。 そんあ男は影も形もゐない。この地方には理由もなく傳はつて來たあの噂さへ向ふでは聞かれやしない。 非常に殘念なことだ。お前方はこの噂故につまらぬことを想像しては心を惱ますだらう。 不孝者奴!一體お前はヨハナ、お父樣がお前を盜賊や人殺しの所へ出してやると思ふのか。 それに假令密獵者がゐたにしても、その人は綺麗な老翁で却てお前方の世話をしてくれることになるだらう。 そしてお前はすぐにお父樣を愛する樣にすきになつて了ふよ。 さあ機嫌をおなほし。向ふに行けば又向ふが離れにくくなるよ。 愈々この城が又新しく今までにない程美々しく飾り立てが出來たとお前逹に知らせる日になると、 きつと又嬉しさに目を輝かしながらもお前逹は住みなれた場所を去るのが悲しくて涙ぐむだらうよ。 安心しなさい、つまらぬ考はかなぐり捨てておしまい。考へても御覽、 一月するとこの邊は一面戰場となつて砲煙に包まれ、此の室で立琴がなる代りに干戈のとどろきと殺風景な工事の響が起るのだ。 氣を取りなほしてさあ用意をなさい。一週間以内に出發しよう。 それとも今度のことに就いて未だ何か言ふことがあるかね。」 娘逹は二人共喜び勇んではゐなかつた。然し何も言ふことはなかつた。 いつもの樣にお父樣の意圖はそのまま立派であつた。 二三日中にすつかり旅仕度を調へませうと約束した。此の朗かに晴れた朝の部屋に、柔和な午前の日射しの中を游ぎながら、 二人の天使の姿に潔められ、嚴かな靜かな外の自然にもとられて今急に悲しみの幕が下りた、 そしてその幕のうしろには當惑した顏が三人。父親は娘故に、娘逹は當面した事件故に。 そしてみながさりげない振りを裝うて、却て愈々こだはるばかりであつた。 それで父親は窓邊に寄つた。飽かず空模樣をながめて、出會ひ頭に妙にこぢれた娘逹の氣持を少しでも和らげようとした。 折から南の地平から昇りはじめた羊雲を數へるのに忙しいものの樣に、 片手を眼に翳していつまでも念入りに雲を見た。娘逹の方は——不思議なことである。 渝らぬ愛の瞳に棲む魔力に觸るると憂ひもみな和む——やさしく見交した二人の目はお互にそれであつた。 さき程あれ程大きく強かつたヨハナの不安が今は全く跡形もなく消えてゐた。 父は微笑を湛へて窓邊から二人の所へやつて來た。 若しお前逹が今日例の森の岩とそれから序に私逹の木造の森の城が床の間に收められた樣にその中腹に位してゐる美しい遠い山壁の走行も見ようと思ふのなら、 あんまり緩りしてゐてはいけない。私が先に行つて赤い部屋に望遠鏡を据付けることにしよう、 空模樣の通りになるとすれば今日は一夕立來るに違ひないからと言つた。 父はいたづらものの樣にヨハナを見た。 ヨハナの唇はもうすつかり紅の輝きを取戻してそつと微笑みながらそれを蔽さうとしてゐた。 父はでも見てとり何もかも分つてゐた。と言ふのは天氣豫報は父の苦手のひとつで、 十遍も當らなければその後で一囘位當つたところで、彼一流の徴候の正確を信ずるのは御自分ばかりになるのに無理もなかつた。 今日も亦例の徴候が鏡の樣に澄んだ空に發見されたのか、 それともこよなきその心ばえ故に父は氣分を引立てようとして只いつはりを並べたものであつたか、 誰も知らない、それでいいのだ、最初の緊張した氣分がいとしい娘逹の顏から消えたのを見て父は心樂しかつた。 朗かに戲れながら出口へ近づいて行つた時、二人だけにしてやるのが一番いいことを父はよく知つてゐた。 「クラリッサ、お前着物をきるのが大變だらうな」と把手を手にかけながらも一度振返つて言つた。 「でもせき立てることはないよ。お父樣にはその前にも一つすることがある。 若しお前逹濟んだら勝手に赤い部屋へ行くがよい。そしてその旨お父樣のところへ言つて寄越しなさい。 でも急ぐことはないよ。」 さう言つて父は部屋を出て背後の扉を閉めた。 天にも地にも代へ難い娘二人。 父が娘逹の着付けの長いのを難じたとしてもそれは言葉を托して何のかくし立てもない信頼の氣持を現はしたのにすぎないのであるが、 娘逹の餘りにも純眞な心にはそれが分らなかつた。二人は遽てふためいてどれかそこら邊にあつた衣裳をつけた。 お父樣を永くお待たせしてはいけないのである。 父が去つた後、唯一囘姉妹は抱擁して、 お互に救け合ひいつまでも離れないで行かうと言ふ固い強い斷つことの出來ぬかための印に二度三度熱い接吻を交した。 げに愛の力は竒蹟である。危險と困窮の時愛するものの目から流るる愛の光は、 假令自らが何の保護もなく保護を受けねばならぬよわい乙女の目であつても、 忽ち私逹の心の周りに確信の鐡壁を築いてくれる。 喜びと信頼とそれから陽氣と冗談と好竒心までも先刻の接吻の中から生れ出て乙女の旨へと流れこんだ。 着つけを遽てて何か間違へたりをかしな風に出來たりすると二人は聲を立てて笑つた。 やつとすんで娘逹は赤い部屋へ急いだ。 行つてみると父男爵に昨日の若い獵人がつまらぬ法螺を吹くものではないとしかられてゐた。 「もういい」と娘逹が這入つて來るのを見て父は言つた。「もういい、さつさと行け——おい、おい、 セバスチヤン、私《わし》がそんなに恐いのか」と彼は一段聲を和らげて若者の後から追ひかける樣に呼んだ。 「何さま遽てふためいて逃げ出しをる。下へ行つて一杯酒でも飮め、それとも二杯にするか。さあ行け。」 獵人は去つた。父は大變な機嫌で娘逹の方を向いた。「おや、おや、えらく速く濟んだね。 御覽、すばらしいだらう。どれ、望遠鏡を据ゑて覗くことにしよう。」 そして三人は覗いた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:湖畔の處女|二 森の移動 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- モルダウの水源地帶は今でも一面の森林で、屡々熊が姿を見せ、時には山猫に逢ふことさへある。 然しこの物語の頃には森は更に深く、今日開墾されて、小さく區切られた畑と白い教會と赤い十字架、 それに花と咲く森の灌木の一杯に色づいた庭のある、あの山坂の多いいくつかの山村一帶にまで及んでゐた。 當時距離から言つて八時間から十時間の幅員であつたらう、長さに至つては今でも數十日の行程に及んでゐる。 濡れた緑の赤楊林の下蔭から、融けた硝子の樣に透明に湧き出る清冽な溪流に沿うて、 曲りくねつた谷が續く。今ではこの谷間を山間の部落ヒルシュベルゲンへ通ふ小綺麗な路がついてゐる。 村は繪にかいた樣な木造の山家を澤の兩岸の斜面にちりばめてゐる。 この山腹には、輝く草地に眼もあやな高山植物が咲き亂れて居り、そこばくの家畜も群れてゐる。 畜群の鈴の音はやさしく絶え絶えに山巓の彼方にまで昇つて來る。 山巓には森の靜寂がぢつと待つてゐる。然し當時は村も路もなく、あるものは谷間と溪流とだけ、 それも今よりは遙かに美しいく清く若く、あらゆる種類の喬木が繁茂してゐた。 一方の岸は森が非常にまばらで木々の合間をけがれのない布の樣に緑の芝草が擴がつてゐた。 王女のみ足にもふさはしい柔かな絨緞。然し思ふに太古以來この土に觸れたものと言へば、 僅かに流れに水飮まうと近づき、或は木々と陽光の間を彷徨ふ小鹿の輕快な歩みの他にはなかつた。 而も今日の日こそ此の草地の群なす草と花が、幾千年來ひつそりと知る人もなく過して來た祖先逹に似もやらず、 木々の緑と空の青以外のものを目にみ、波のせせらぎと異つたものを耳に聞く日であつた。 明るい、愛くるしい、銀の樣に澄んだ人の聲が、少女の聲が木々のはざまを洩れて來た。 微妙な鈴の音が切れ切れにそれに交つた。新しい竒蹟に耳を傾けて山野は息をほそめる。 枝も葉も莖もぢつとしてゐた。陽光が草の葉に音もなく落ちて、金緑の跡を刻む、 空氣は身ぢろぎもしないで藍青に光つてゐた。流れのみがその掟に從ひ小止みもなく語り續けて、 五色の[さんずい?|幼]藥の上を滑る樣に、底に光る小砂利の上を忙がはしく流れて行つた。 次第に聲と鈴の音と近づいて來た。そしてひよつくり人の姿が。物の精かとまがふばかり。 昔リブシャの母の姿そのままに、純白の雪の衣をひるがへし雪の白馬に跨つてゐる。 馬は優美な小鹿の足で、殆ど芝草に跡も殘さず、跳ねる樣に又たはむれる樣に、 輕々と木の間を行く風情、乘り手はそのまま風に搖れる羽の一ひら。二つのダイアモンド最先に輝いてゐた。 胸ときめかして森の奧の神祕さぐりつつ、うららかなその日と比類なく明媚な四邊の風光を人に先がけて樂しまうと、 浮き浮きと輝き嬉しげに先へ先へと走る。思ひきやそれはヨハナの眼であつた。 馬も亦幹の高いまばらな林の所に出てほつと息をついて、首を振り上げたり屈めたりじやれついて行く態は、 空の青色をしたリボンで頸に結んだ銀の鈴をわざと鳴らして頻りに喜んでゐる樣であつた。 ヨハナの後からクラリッサの姿も見えて來た。同じ樣な馬勒をつけた馬に乘つてゐる。 馬は然し明るい栗毛で子供らしい鈴の飾はつけてゐない。クラリッサも同じく白い衣裳をつけてゐた。 品位ある老紳士も間を置かずに見えて來た。その傍には金色の凛々しい若者、 いやむしろ未だ少年と呼ばう。これが先に話に出た少女逹の兄のフェリックスである。 二人とも馬に乘つてゐる。最後に五人目の乘り手、けだかい人物、生動する顏貌。 すらりと高い森の圓柱の間をさりげなく馬をすすめる、その手綱さばきの鷹揚さ。 そしてその黒い瞳にはあの可憐な、彼の行手に動いてゐる無心な姿が深く燒きつけられて行くらしかつた。 馬がすすむにつれ、森の草花はきき耳を立て、栗鼠はその山毛欅の枝の上で立ち上り、 蝶はひらひらと路傍へ飛んだ。圓天井なす枝の茂みは光る緑の紅玉と飛び去る影とを、 行きずりにましろな衣裳の上に投げた。啄木鳥が枝間にかくれた。 樹幹がひとつ又ひとつと過ぎて、やがては森の木の格子の彼方にちらほらと白いものがゆれて見えるばかり、 遂にはそれも見えなくなるのであつた。然しそれを見た乘り手も亦森の奧へとかくれてかき消える。 そして再び四邊は光る芝草と光のだんだら模樣を着た樹木と昔のままの靜けさと草深い野原がそれからそのしじまを破る溪流とに復る。 僅かに踏みしだかれた草が起上らうともがいて居り、芝草は優しい傷口を露出してゐる。 一行は通り過ぎた。私逹の可憐な森の空地がはじめて人を見た。 流れにさからひつつも、いつも溪流に沿つて、低く埀れた枝や密生林地帶を避けながら、 幾度も曲りくねつて一行はすすむ。樣々な森の事物を見て人々は打ち興ずる。枝の密生した亦楊が水際に續いてゐる。 艷のよい幹をした輕快な山毛欅に、屈強な柏樹、枝の搖れる蝦夷松等仲よく並んで、微風の寄する毎にさらさらと語り出す。 ポプラは遽てて葉をうごかす。忽ち一面の緑と銀の顫動になる。然しポプラは長い故顫動はとても全身には及ばない。 楓の古木はぽつねんと立つて長い臂で天を掴んでゐる。樅の木は崇高な柱廊を造る氣でゐる。 灌木と莓類と蔓草を子供逹に譬へようか、眞中を高貴な客のために開けて片隅に押しやられてゐる。 そして客は愈々來た。心もひろく嬉しげに彼等は谷に沿うて行くではないか。 乙女の顏は暗い森の茂みを背景にして一入きよらかに一入華奢に見えて、 髮飾の白いうすぎぬがひらひらとなびく中から喜びに燃ゆる眼を覗かせてゐた。 今の先まであれ程森に恐れおどてゐたとはとても思へなかつた。 ヨハナは殆どいつも先頭に立つた。ヨハナはその性質から以前は極度にこわがつて居たのが、今は又限りなく喜んでゐた。 家を出る時に離れがたくて赤く泣きはらした眼が今はもう跡形もなく澄んでゐた。 美しく嚴かな森林が華麗と莊嚴をつくしてヨハナの眼に躍り入つて、恐いにつけ愛《いと》しにつけて忽ち溢れ易い、 ささやかな乙女の胸にひたと寄りそうた。一歩往けばその一歩が新しい想像の糧になつた。 見も知らぬ燃え立つ樣に赤い實のたわわになつた竒妙な灌木、想像もつかぬ程に大きな巨木、 所々に簇生して押し合つてゐる目もあやな五色の菌類、ふと折れた曲り角にぱつと射す日射し、 それを受けて叢林が不思議な緑の焔をあげてゐるし、 物蔭の溪流からは銀の火花が反射してゐる。或は野鳥の咽喉をつんざいて、青春の叫びかそれとも歡びか誘ひか誡めか、 彼方と覺しい遙かの山懷から迸る時折の鳴き聲も。すべてが喜びに醉ひ、拒むことを知らぬ乙女の胸に落ちた。 クラリッサの氣品のある顏は優しく落着いて一杯に空を受けてゐた。 空は茂みの枝間をつつましく搖れながら空色の青をのぞかせ、乙女の紅潮した愛らしい頬邊にひんやりと冷たい空氣をながした。 神の美しい物思ひにも似て、擴がる森林が一面に乙女の魂の底深くそつと沈んだ。 魂はそれとも知らず、靜かな美しい柔かな夢心地にゆられて行く。老男爵すらも山氣を受けて生き返つた樣に思ひ、 清冽な青春の息吹にあてられた樣な心持であつた。 かうして誰もが馬をすすめた。所によつてはしばしば樹木や叢林が密生して行手を遮つたが、 やがていつも廻り路を見付けて、先へ先へとすすみ一行を迎へる溪流の搖籃である、 谷の奧深く分け入つて行つた。 場所が許せば父は乙女逹とよく馬を並べて、色々と語り合ひいたはつた。 フェリックスは前に出て妹逹の傍を乘つてゐるかと思ふと、後れて物思ひに沈んだ乘り手の傍にゐた。 遂に山は峻嶮となり疎林は密となつて、前進は益々困難となつた。 やがてある岩山に打つかつて如何にも前進は不可能に思はれた。 然しこの岩こそ彼等の移動の第一の目的と定められた地點で、今恙なくそこに着いたのである。 此處で待合せることになつてゐたものも、既に一行の視界に入つてゐた。 一人の年とつた男が午後の日射しを受けて光る岩に凭れて、眠つてゐるのか物思ひに耽つてゐるのか、 頭を兩手に支へてゐた。傍には一挺の銃と長い山杖とが。 乙女逹ははつとして口ごもつた。山案内が待つてゐる手筈になつてゐることは知りながらもヨハナは冷水を浴びた樣に見えた。 馬上の一行が、殊にためらひがちな乙女逹が近づいて來ると、老人は立ち上つて庇の大きな帽子を脱いだ。 雪の樣に白い頭髮が波打つて乙女逹の眼を射た。髮は後へかき上げられてゐる。 その下の額は廣く美しい彎曲をなしてゐるが、濃褐色に燒けて高齡の皺が刻まれてゐる。 一行を見上げた一對の大きな實直な眼は黒くて、すぐ上に二筋の弧を描いてゐる雪白の眉と竒妙な對照をなしてゐる。 硬直した雙頬に日燒けと高齡と健康とがあつた。 恐れはみな忘れてヨハナは温雅に會釋を返した。二度それから三度も見交すともうヨハナはこの老人をすきにならずに居られなかつた。 そこに立つて賢さうな眼で皆の方を見てゐる全體の風情に易らぬ朴訥さと好意がこもつてゐた。 一行は次々に下馬した。老男爵は待ち受けてゐる老人の許へつかつかと近づいて、 相手が何の躊躇もなく差出す手を握りしめた。そして嬉しさうに言つた。 「よく來てくれたなあ、グレゴール、實によく來てくれた。到頭生きてる中にも一遍逢へたわい。 だが、グレゴール、年をとつたよお互に。この前逢つた時は一緒に若木の森で狩立てたものだつたが、——年ぢや—— 年ぢや——。」 無論二人は年取つて居た。それは若い連れにもみな分つた。連れのものは傍に彳んでひとしく二人の老翁を見守つた。 二人が向合つてゐる態は見てゐて氣持がよかつた。二人共まるで違つて居り、 而も非常に似てゐた。男爵はいつもの通り黒天鵝絨の服を着、も一人は灰色の粗布をまとうてゐた。 男爵も褪赭色に燒けて皺のよつた顏をしてはゐたが、も一人のどす黒い日の色に比べてはまるで娘の樣に白く、 眞晝の炎熱と嵐を友とする者に對する箱入息子であつた。一人は武具《もののぐ》の子であり、 昔これを力強くそして優美に振つたその報いにいま武具に飾られてゐる。 も一人は傍にある巖の同胞、七十年の雨露が空しく二人の上に落ちた。いづれも老いの疲れなど物の數ではなかつた。 一人は客間の禮節を持し他は自然の禮法を。然しいづれも端麗であつた。 威風四邊を拂つてゐた。ともに偉大な魂を反映してゐた。そして頭に戴く銀髮には高齡の醇朴があつた。 「さうです」とグレゴールは答へた。「お互に少しばかり年は寄りました樣で。 栗色のおつむがこのかたすつかり白くおなりです。も一度御目にかかれてこんな嬉しいことはござりません、 あの頃は優しい氣さくな御方でござりましたなあ。」 「それにそなたは陽氣でこよなく忠義な獵師だつた。ううむ、あの頃のことは忘れはせぬ。 そこにゐるフェリックス奴が山でそなたに逢ひ、大變なお世話になつたと聞いて、 昔ながらのわしの心で心《しん》から喜んで居つた。父も忘れちや居るまいと思つてなグレゴール、 それでわしは子供逹をそなたの保護にまかす氣になつた。古い、心の底まで知合つた友逹仲間だからな。 そなたを選ぶことになつたのも神樣の引合せと言ふもの。ほれ、この二人がわしの娘ぢや。 直ぐ仲よしになれるだらう、そして二人とも警護の手と頭《かうべ》を敬ふことだらうて。」 これは憂のこもつた喜びの光であつたらうか、この言葉をきいた時老翁の眼は輝いた。 一對の鷲の眼かとばかり烱々たる眼を乙女逹へ向けて言つた。 「誠に美しい一對の野の花でいらつしやる。御身に萬一のことでもあつてはなりません。」 目が美しい二人の柔かい輝いた眼とぴつたり合つた時も、老翁は面を伏せることさへ得しないのであつた。 「ヨハナ、こちらへお出で!」と男爵は言つた。「この方に手を出して。 これからしばらく一緒に居て貰ふのですよ。」 ヨハナはすぐ歩み出た。老翁は思ひなしかはにかんでためらひながら片手を差出した。 その態は竒妙な結婚、好もしい對照であつた。柔らかな小さなヨハナの手が小鳩の樣に巖なす翁の手の中に蹲つてゐた。 クラリッサも自分から美しい右手を差し延べた。それからフェリックスと見知らぬ騎士も會釋した。 年老いた獵人は明かに乙女逹の姿を喜んでゐた。それは彼の話い振りで分つた。 これからどんな方法で前進するかその手配を一々男爵に彼は語つた。 男爵から頼んであう男が着いたらすぐさま乘つて來た馬はここから送り返して了ふ。 ここを少し行くとすぐ乙女逹のための二人乘りの山轎が待つてゐる。 男逹は皆で歩いてついて行かねばならない。 話の終らぬうちに岩を乘越えて三人の男が近づいて來て、男爵にうやうやしく會釋をした。 これが頼んだ男逹であつた。ペルクネまで曵いて歸つてそこで後の命令を待つ樣にと言ふ言ひつけと共に早速馬は引き渡された。 ヨハナは小造りの白馬を殆ど抱擁せんばかりの風情であつた。 馬は又主人との別れが辛い樣に悲しげな眼をし、首うなだれてひかれて行つた。 みんなは岩の傍でささやかな晝食をとつた。そしてやがて新しい旅がはじまつた。 父と見知らぬ乘り手、父が相變らずただ騎士と言ふ名で呼んで居つた人の保護をはなれて、 今附添ふものは老獵人であつた。男爵は腹を抱へて笑ひながら、愚かな娘のヨハナが老翁を、 氣味の惡い森林中に跳梁する恐ろしい密獵者だと思つてつたこと、それが今ではあんなに優しい眼で老翁の方を見てゐる、 まるで樂しい緑のお伽の國へ行く樣ではないか、森の中へむさぼる樣に分け入つて行く樣子はと言つた。 ほんの僅かであつたが山轎の通れない岩徑を攀ぢねばならなかつた。 登りつめた所で一同は又草地に出た。そこで二人の男が一挺の山轎を持つて待ち受けてゐた。 乙女逹は轎に乘つた。かうして老獵人を先頭に一行は山を分けて進んだ。 路はヒルシュベルゲ山の谷間と直角をなして居た。 午後の日がもうかなり西に傾いてゐた。ほの暗い樅の枝間を幾筋か赤い日射しが洩れて、 枝から枝へと跳び、ゆらめき、蝦夷莓と黒莓の枝の多い花のもとまで落ちて居た。 傍にも一つの金に薄絲は枝から枝へと聲を引く紅鶸《ベニヒワ》の囀り。遠方の山の頂は靜かに日を受けてゐた。 森の朝の聲々は沈默して、鳥共はみなだまつたまま枝間をせつせと働いたり搜し廻つたりして居た。 行手に幾つか森の空地があつて、そこからは左右に延びる森の背とそれを抱く谷間とが見渡された。 すべては憂ひのうちにも嚴かな午後の靄の中に漂ひ幾日か續く晴れた日の前觸れなる青い柔かな山がすみの中に霞んでゐた。 その間から方々のこんもりと繁つた山毛欅の若木の森や山間の草地が日を受けて柔かな遠い緑に光つてゐた。 目の及ぶ限り山も谷も、彼方の空の下に姉妹なる雲とまぎれて輝き青む極微の一線視界の果てまで、 ひとしく光る森の一色に塗りつぶされてゐた。やがて一行の者が木立ひとつない丘に登つて、 妙なる四圍の眺望よと老グレゴールが駕籠にもしばらく足を止めさした時すら、 眺めは更に遠く四方に及びながら、純潔の森の一色でないものは見渡す彼方のどこにも髮の一筋すら見られなかつた。 靜もり返り暮れゆく青の樹海の上に言ひ知れぬ明媚と嚴肅と流れてゐた。 言葉もなく人々はしばし立ちつくした。風景の中に棲むはれがましさとやすらひに人の心も打たれて見えた。 人の手に曾て觸れたことのない自然の相貌に威儀がある、否、徳の容《すがた》がそなはつてゐると言はう。 この貞潔と神々しさとに魂は頭を埀れるのである。而も又すべての内なる偉大を外なる自然の比喩の中に移し植ゑるものは、 つまるところ魂のみ。 かうして轎の中に坐つて、畫額の中の天使の像そのままに四方をながめてゐると、 娘逹の胸はひらけ高まり、家に殘した數々の寳をいたむ心は殘らず忘れ果れて居た。 心の花なる乙女の眼は美しい四圍の世界を見て輝き、世界に立ち勝つて美しかつた。 狹い椅子に坐つて二人は思はず腕と腕と組んで居た。 打つ音を互に聞く二つの胸は、姉は妹に妹は姉にはかり知れず抱く愛と思ひ遣りとをお互に見せようものと、 更にも固く寄添ひなん風情であつた。 軈て老グレゴールはほとほとと轎の縁を打つて、遙か右手に逞しく青黒く彼方へ擴つてゐる森の背を指さした。 脊には幾筋か灰色の岩帶が斜めに走つて居つたが、大氣の光りとかがよひに包まれて殆ど見るべうもなかつた。 ——「御覽なさい」と彼は言つた。「あれこそ私共の旅の目あてです。今日中にあの截線に三分の二の邊迄登らねばなりません。 此の邊りには何處となく不思議に親しみ深い風情があつて、姫方の御氣に召すだらうとは思つて居りました。 でも日が山壁に傾いて參りましたから、先を急がねばなりません。」 「さうですとも」と彼は言葉を續けた。轎は再び擔ぎ上げられ、森の丘陵を他の側へ向つて降りて行つた。 ——「さうですとも、お美しい姫方。山もなかなか美しいものです。 人の造つた立派な庭や園よりもむしろこの方が美しいと思はれることも屡々です。 全く森は一つの庭園で、それも幾千の奴婢に營まれた結構壯大な神樣の庭なのです。此の庭には雜草ひとつない、 と申しますのは神樣はすべての草を愛し尊ばれるのです。神樣は訪ねて來る幾百千の客共の爲、 すべての草がお要りです。客の中には氣むづかし屋もあつて特殊なものを慾しがりますのでな—— 御覽なさい、山の向ふ——およそ二三時間の行程——あのあたりに私も數頭の牝牛と澤山の山羊、 それに燕麥大麥の畑を持つて居ます——今ではすつかり孫奴の所有になつて居まして、 これが世話と保養に當つて居ます。ですが、今から二十年三十年も前の頃、 私は家を離れて例へば日曜日などに森を分けて四方に、そこはかと思ひに耽りながら、 時には獲物のことなどを忘れて了つて、深く深く登つたものでした。 この樣な日は殘りのどの週日よりも快よい優美な一日でした。そして里に出て午後の教會に行き、 同時に居酒屋にも行く人々よりは、もつと美しい夕べの祷りを祷つた樣な氣持になつたことも一度や二度ではありません。 それと言ふのも森から歸る私の心はだんだんに澄んで來たのです。 それも當然のことでした。何故と言つて、私は追々大膽になつて、益々奧深く分け入り、 倅のラムブレヒトに家督を讓つてからは、暇も澤山出來て參る譯——するとどうでせう、 私には少し宛森の言葉がきこえはじめて來たのです。こちらからも聽き耳を立てる、 かうして私は表示を理解する心が開《ひら》けて來ました。開けて見ると壯大な庭師の手はことごとく壯麗な、 神祕に富み、愛に滿ちたものでした。庭師が今にも何處か木々の間をさまよふ姿を見受けるに相違ない樣な思ひがしたことも屡々でした。 ……美しい眼でいぶかしげに此方を見てぢやが——も少し此處に暮して見れば、いくらかお分りになりませう。 姫方の眼は美しく賢くゐられることですから。此の邊のすべての物に心があり情がこもつて居るのです。 石すらも同胞《はらから》石の周に寢て同胞をしつかと抱いて居ます。 すべてが押し合ひ犇めいて居ます、すべてが話し、物語り合つて居ます。 只人間だけが、一語でも森の言葉がきこえると愕然として了ひます。——然しぢつと我慢せねばなりません。 すると森の言葉はみな愛と好意の言葉なばかりなことが分りませう。」 ヨハナは驚きもあらはに年老いた森の息子の顏を見詰めた。その顏は誠に益々美しく思はれて來た。 その間に一行は再び谷間へ降りてささやき跳ぶ溪流のほとりへ來て居た。 グレゴールは話を切つた。再びここから先に進むに就いての指圖をしなければならなかつたので。 「お父樣、お父樣」とヨハナは低聲に言つた。「あなたは何て珍しい人を私共につけて下すつたのでせう。」 「お前、この人こそ荒野の寳石なのだよ」と父は答へた。「これは御當人の夢にも知らないことです。 銀鈴の響かとばかりお前はこの人の言葉に幾度も耳傾けることだらう。 その言葉から澤山のことを教はるだらう。——お前逹が故郷を遠く離れて孤獨の中に暮さねばならに時、 この人こそは荒野の聲になるでせう。わし逹は數年前幾日か一緒にすごした。 その頃は彼はもつと大膽で元氣だつたが、心の中の不思議な考へはもう、竒妙な外國の春の樣に、 彼の心から外へ流れ出て居た。よくあつたことだが、永い午後を二人きりで遠出の狩に出て、 彼の心がなごみ話と想像の紐がほぐれて來ると、すると彼は、花を木を、日を雲を、 脈絡もなく、それから冐險的な信仰を冥想を、私の方へ投げた。 私は屡々昔の美しい詩の本を讀んで聞かされて居る樣な、全くその樣な氣持がしたものだ。 彼を笑ふ人も多かつた。その樣な者にはこの人の話の泉は巖の如く閉ざされた。 然し私はいつもこの男が好きであり、彼も私を好いた。恐らく誰一人知るものはない、 これから私逹が出かけて行くその場所、美しい寂しい場所を曾て私に教へてくれたのもこの人であつた。 そしてこの人なればこそ、金錢づくでなくひとしく私に對する昔ながらの愛と、 それからお前逹がそれを取逃しては駄目だが、お前逹に對する新しい愛の心から、 お前逹が森に住む間中一緒に住んで、豐富な經驗を提げてお前逹の保護を援ける決心をして貰へたのです。」 噂の主は軈て又姿を現はした。此の人はこれから自分の手にゆだねられる、このましい乙女逹のゐる方へ引寄せられる風情であつた。 一行が今流れに沿ひ而もこれを遡つて行く溪流はかのヒルシェベルゲ山の谷間なる澄んだ森の流れではなく、 透明な金褐水を抱いて猛々しく岩走り泡だつ山溪であつた。いつまでもこの岸沿ひに行つた。 轎かきの男逹は逞しい足取りで岩から岩と渡つた。岩は水に喰《くら》ひつくされ、 漂白されて、黒濕の地面にしろじろと點在して居る。 一帶の土地はグレゴールが指さしたあの水色の山壁に向ひなだらかにのぼつてゐる。一行の急ぎ足は目に見えた。 それは近づくにつれて愈々大きくなつて愈々冷然と聳り立つ山壁の端から夕陽の日脚が既に巾廣な光の帶をなして射し込んで居り、 反對側に遙かに擴がる森の斜面ににぶい金の赤光を投げて居たからである。ひんやりと青い東の空にはもう半月が待つてゐた。 地面は見る見る急斜面となり、一歩は一歩より山深かつた。路傍に彳む裂け崩れた樹幹の數—— 蔓草や纒繞植物の亂れたさなかに抛り出されて、そのまま朽ち果てる倒木もいくつか。 或は人の背程もある羊齒類やえぞ莓の繁みを拔けることも一再ならずあつた。 莓の木にはよく一面に實がなつて居て、遠くから見ると紅《くれなゐ》の布を打ち掛けた樣であつた。 時折又ポプラの傍を通つて森のどこにもそよ風一つないのに、その葉が絶間なく震へてゐる所に來るとクラリッサは老翁に言ふ。 森の表示と言葉を御存知で、探索して居られるのなら、どうして又この木に限つていつになつても休むことが出來ないで、 葉がいつもひらひらと搖れてゐなければならないかその譯も多分御存知でせうと。 「これには二つ意見がござります」と彼は答へた。「二つともお話致しませう。 私が未だ幼い少年の頃、私の祖母が話してくれた所によりますと、神樣が未だ地上を御逍遙になつてゐた頃木々は皆神樣の前にひれ伏しました、 なのにポプラは伏しませんでした。その爲永遠の不安で罰せられたのです。そよろと風がゆれる度にポプラは驚いて震へます。 丁度いつになつても休めないあの永遠のユダヤ人の樣に。かうしてあの高慢の木の孫やひまごが世界中にひろがつて居るのです。 臆病な一族で、森にある四邊の靜止と靜寂の中で永遠にふるへ囁いて居ます。 それ故私は子供の頃此の罰された木をいつもある畏怖の心で見ました。この木の永遠の不安が私には一種の苦痛でした。 所がある時聖靈降臨祭の日曜日の午さがり暴風雨の來る前のことでしたが、 桁外れに大きなこの木が一本日の當る森の露出部に立つてゐるのを見たことがあるのです。 (私はもう大人になつてゐました。)その時の葉はみなぢつと立つてゐました。實に靜かでした、 不氣味な程動きませんでした、まるで葉が空氣の中に塗込められて、而も空氣自身凝固して固いガラスになつてゐるかの樣でした。 ——全く森全體にそよ風ひとつなく、小鳥の聲ひとつきこえず、 只山蠅の羽音だけが日に熱くやけた木々の幹の周りに鳴つてゐました。不思議に思つて私はぢつと木を見詰めました。 木は心臟の形をしたなめらかな葉をほつそりした長い不安定な葉柄に載せて私の方へ差出しましたが、 その時ふつと他の考が私の心へ浮んだのです。若しどの木も神樣の前で首を埀れたのなら、 そんなら、きつとこの木もそれからこの木の同胞も首を埀れたに違ない。すべての木は神樣の被造物なのだから。 それに地上の草の間には人間逹にある樣な反抗や罪惡はない。草木はひたむきに神樣の掟を守り、 掟に從つて繁茂し花をつけ實を結びます。——それ故木々には刑罰も恩賞もない、 みんな神樣にすかれて居ます。——ポプラが震へるのはきつと非常に長いたをやかな葉柄の故に過ぎないのです。 葉がその先端に小板の樣に附いてゐます。それ故そよろと吹いただけでも葉は舞ひ上り身を轉じ、 續いてもとの姿勢に復しようとして身をひるがえし、くるりと向きをかへるのです。 これが本當なのです。何故ならその後何度か私は凪いだ日に全く靜まつたポプラを見たのです。 それで私は他のポプラが震へてゐる日にもポプラの囁きに耳を傾けるのが好きでした。 以前にあの樣に惡く思つてゐたことに對する罪亡ぼしをしなければならなかつたのです。 そんな譯で然し又それ程輕口のポプラさへ默りこんでゐる樣な時刻は非常に嚴肅な刹那です。 大抵暴風雨の前、森林がもう神の御聲を今かと待ち受けてゐる樣な時に起ります。 御聲はやがて下つて、森に榮養を放下するのです。——ね、御覽下さい。 葉柄が木に續き、葉が葉柄に附いてゐる、この足は實に細いもので、實に強靱でどうでもくるりと廻ります。 ……その他の點では全く美しい葉なのです。」 彼は最後の言葉を言ひながら、とあるポプラの一枝を折取つて、クラリッサの方へ差出した。 「枝がこの樣に活溌に動いてゐるのは」と彼は言ひ續けた。「晴れた夜の來る前兆です。 夜雨の前にも稍もすると靜まり勝ちなものです。」 「では夜になるのでせうかしら」とヨハナ。 「夜になりましても」と獵人は答へた。「もう御覽の通りあすこの空に月がかかつて私共を迎へて居ます。 あの月だけの光があれば、良い注意深い目には十分です。でも月の光には何等御世話にならぬでよからうと思ひます。」 濶葉樹が稀になつた。嚴かな樅と蝦夷松とが集團をなして山面《やまづら》に向つて延びて居た。 ——向ふ側の尾根が射した入日の將に死なうとする赤光が、靜かに山の截線の方へと上昇した。 谷間からは水色の夕蔭が昇つた。——半月は刻一刻と見る〜輝きを増して既に鋼鐡《はがね》色に青天にかかつて居た。 男爵は羊齒類や纒繞植物の間を押分けて進んだ、それも轎の傍を離れまいとの心からである。 フェリックスは騎士と深く話し込んで、かなり遠く後れて居た。 所によつては溪流が全く見えず聞えなかつた。壞れ落ちた岩の下蔭を流れて居たのである。 此の樣にして移動は半時間も續けられたであらうか、時には轎に觸れる程すれ〜迄迫つて來る蝦夷松の繁みからはもう一層濃く夕暗がのぞいて居た。 ——その時ふと輝き渡つた銀の樣なものが木々の合間から一行の眼を打つた。人々は極めてささやかな傾斜を下つた。 そして廣々と擴がり輝く水面の端に立つてゐた。水の内懷には既に柔和な月影が内氣な小雲の樣に浮んでゐた。 乙女逹が此の美しい湖を見た時、思はずかすかな驚きの聲が口を洩れた。 彼女逹は登りつめた此の高みにこの樣なものがあらうとは夢想だにしないことであつた。 ——輕い戰慄がさつとヨハナの全身を傳つた。まがうべくもなくこれこそ、噂に聞いたあの魔の湖ではあるまいか。 ——湖岸に沿うて歩む亭々たる樅の林は見る見る背丈が延びて行く樣にヨハナには思はれた。 悠然と嚴かに樅は一色の夕暮の僧衣を身にまとひ、頭《かうべ》から長くたれ曵いて居りその爲一層のしかゝる樣に、 從つて巨大に見えた。——對岸の岩壁は消え易い想像の繪姿の樣に、弱い銀灰色の輪を空に描いて、 自らも空に織りなされてゐるかとまがふばかりであつた。それは岩壁がたゆたふかの見え、 拍節に應じて傾くかに思はれたからである。然し夕空のもとに搖れてゐるのは、それは水であつた。 父は乙女逹に轎を下りよと命じた。乙女逹は嬉々として狹苦しい擔ぎ牢屋を出た。 一艘の筏が岸にかゝつて居た。一段と高くなつた仕組みには一行の爲の座席があつた。一行は乘つた。 轎擔きのの二人と筏の傍に立つて待つて居つた他の二人とで、岩壁さしてまつしぐらに筏を湖心に進めた。 のしかかつて居た森林は退いた。見る眼には次第に交錯し融け合つて、湖水を圍む一續きの高い濃い暗緑の壁となつて行く。 ——岩壁は愈々間近に迫つて、埀直に湖水から突立つて居た。どうして陸へ上れるか見當もつかなかつた。 恐らく拳大の小石すらもそこに置かれて靜止することは出來ないであらう。 所がこの不思議な國で非常に驚いたことには、乙女逹の眼前に又してもひとつの不思議が展開したのである。 岩壁に近づくにつれて壁は退いて、壁と湖との間に氣持のよい芝地を現はしたではないか。 そしてこの芝地の美しい緑の上には山の家々の樣式によつて建てられた大きな木造家屋があるのが見えた。 ——窓々はどれも乙女逹を迎へて快い銀色に光つて居た。ましろに匂ふ薔薇の蕾にも似た月の光にかすかに輝いて。 旅の目當は逹せられた。乙女の侍女逹は岸まで跳んで出て、けだかい女主人の手と衣に接吻し、 遂に一行の着いたことを胸一杯に喜んだ。侍女二人下僕三人の總勢は二三日前に非常な骨折で岩の背を越えて連れて來られた。 原始林を拔ける、遠いが然し樂な路を未だ知らなかつたのである。 此の路はグレゴールが男爵の爲と言ふのでやつと踏査してくれたものであつた。 優しい言葉をかけて乙女逹は轎擔き及び漕手の勞をねぎらつた。それから男爵はヨハナの、騎士はクラリッサの手を執つて階段を上り、 食堂風の一室へみんなを導いた。そこには擔ぎ手も下僕も、みんなの夕食が用意された。食事を終つて、幾度もお寢み、お寢みを取交してから、 男爵は悲しくも嬉しい心を抱いて乙女逹を定められた二室へ案内した。 驚嘆の聲、折重なつた美しい腕の抱擁が彼を報いた。この室は乙女逹がヰッテングハウゼンで住んで居た室に、 びつくりする程似て居たのである。父は二人の額にくちづけして、平和な良い第一夜を過ごす樣にと祈つて扉を出た ——侍女逹にもすぐ暇が出た——そしてさあ、扉に閂がおりると、まるでこれまで何か障害があつて湖が強く堰き止められてゐたかの樣に、 忽ち切つて落された。乙女逹はお互の腕に躍り込み、心と心を相蔽ひ、 殆ど相手の胸に心を埋め合つて、熱烈に、情をこめて、苦しい程に甘く、唇のやさしい封印を押しつけ會つた。 まるで二人の不幸な戀人同志の樣に、殆どその樣に離れがてに。……さあ愈々現實となつた。 故郷、快い父の家は放棄され、失はれた。これ迄のすべての生活は斷ち切られた。 乙女逹自身共演者の樣に目もあやなお伽話の中へ引込まれて了つた。 すべて新しい、すべてが見知らぬもの、すべてが妙、すべてが恐怖——恐しい紛擾の眞中に何の據り所もない、 お互に温い唇、渝らぬ眼、ときめく胸、それだけである。 然し涙と愛撫が次第に靜まつた時に、窓先に出てゐる木のバルコンへ乙女逹は出た。 そして眠りに就く前に、ひんやりと心のなごむ夜をながめた。 湖水が足許に黒い蔭影と輝く空の一片をぢつと湛へて凝固した鑛滓の樣に眠つて居た。 ——森林はその手足を遠く夜のまどろみの奧深くひろげて、うすぬれた月の光は連なる山々に注いでゐた。 旅人逹が彼方から來たと覺しい谷間からはぢつと憇ふ霧が。 お寢み、このましい、美しい、物おぢする心逹よ、お寢み。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:湖畔の處女|三 森の家 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 翌くる日の朝父、兄、それから騎士は別れを告げた。これから城に引返して城が遊撃の一隊に襲はれる樣な場合はこれを守り、 若し本隊が押寄せて來る樣な時は、丁重に、多分有利な條件の許にこれを開渡し、 スヱーデン軍の戰さの譽れに一身を捕虜として引渡すことこそ自分の義務だと男爵は説いてきかせた。 捕虜になるのも、城内の他の家族に對する搜索を挫折させる爲である。 城の支配者が彼等の手中にある以上、更に娘はゐないかなどと聞くことは誰も考へ及ばぬことであらう。 フェリックスは妹逹や父の懇願にも拘らず、どうしても父と離れることが出來なかつた。 動産や、金や金目のものに關して、男爵は子供逹にかう打明けた。金は大地の懷に托してある、 ヰッティングハウゼンの森の大山毛欅の傍にあるマリア像から段を降りて九段目の石を起せば、 そこに金屬板の箱があつてその中に説明が這入つてゐる。 神の御旨で萬一のことが彼の身にふりかかつた場合を考へて、父はこれを打明けた。 知つて居るものは彼の他に尚ほフェリックスと騎士であり。 そんな譯であるから、あまり悲歎にくれて父を悲しませないでくれと父は言葉を結んだ。 お前逹の何よりの護りは孤獨なのだ。下僕を三人殘して置く、食料の調逹に就いてはどんな言ひつけでも言ひつけるがよい、 グレゴールの二番目の孫が時々ヰッティングハウゼンと此處との連絡をとる、 そして他の男逹と一緒にグレゴールの配下に屬して、森の境界地方に何か怪しい事件が起つたらすぐグレゴールの耳に這入る用に手配が出來てゐる。 グレゴールは森のことなら何でも知つて居るから、差當りの危險に對して安全な場所へ一時おまえ逹をつれて行く方策はいつでもつく。 おまへ逹がもつと安心する樣に、この場所が全く人里離れてゐることの他に、 この家が非常に安全な場所にあることを説明して置かう、裏手は鳥も通はぬ湖壁。 家の左手にはブロッケンシュタインが突出した柱をなして埀直に水中へと落下してゐる。 右手は湖岸を迂囘出來るが、此處の徑には人口の入江が掘り下げられ、その上巨大な樅の逆茂木に守られてゐる。 そこで通路は湖水を渡る路だけとなる。この山奧まで一隊が紛れこむ樣な場合でも、グレゴールは此處から數時間の所、 彼のみが近づくことの出來る最も峻嶮な岩角に一つの洞穴を知つてゐるから、 危險が去るまで此の中にかくれてゐることが出來る。大小二艘の筏がおまへ逹の思ひのままになる。 それぞれその上には防彈壁の小屋が建つてゐる。しばらくでもこの筏はどちらの向岸に殘して置いてはならぬ。 又おまへ逹はグレゴールに話すか或はグレゴールと一緒でなければ、湖と岩壁の間の芝地から外に散歩してはいけない。 この樣なすべての配慮は愼重すぎるかも知れぬが、あれも恐らく必要であつたらうに忘れて了つたなどと言ふことがない樣に、 父の安心の爲だ。野獸に對して恐れる必要はない。この地方の森林について不思議なのは曾つて狼を見ないことである。 山猫は極めて稀で、最も深い密林にだけゐる。——それから熊は人を見ても、非常に性質のよい獸であるから、 すたこら先方で逃げて行く。これは父自身が長い生涯のうち恐らく十幾度は見たことである。 ——それにお前逹の手にはいつもグレゴールの旋條銃がある。それ故わしは思ふが、 お前逹は、竒蹟が起らぬ限り、十分保護されてゐる。 而して竒蹟は神の御手にあつていつでも此の場でも私逹の頭上にふりかかるかも知れないのだ。 それから父は尚ほすべてが木製であるから、燈の扱ひに注意する樣に乙女逹に命じた。 此の點を考へた爲わしは臺所を此の家と離して石造りの小屋に置いた。これでこの方面からの危險はない譯。 未だ食堂に置いたままになつてゐるが、荷箱の中に絹や木綿や麻の布地があるから、 慾しいだけ切つたり加工したりするがよい。針と縫物の道具もそれと一緒にしまつてある。 その他打緒やリボン、又本や紙や繪具や色インキもある——四角な箱には豎琴も這入つてゐる。 紐をかけて岩越しにつり下ろさなければならなかつた時に、傷んでゐなければよいが。 ——歸りにはヒルシェンタールの谷越えで運ばせよう。——又時折お前逹がブロッケンシュタインに登り、 ヰッティングハウゼンの方をのぞいて、城が相變らず山の端に浮いて、父からの會釋を送つてゐるかどうかを見る樣に、 騎士は自分の望遠鏡を殘して置く。 かう話しながら父の眼には殆ど涙が浮ぶのであつた。父は接吻して乙女等を祝福した。 ——フェリックスは痙攣的に顏面を震はせながら妹逹を抱擁し抱きしめた—— 傍には今度の旅の謎の同伴騎士が彳んでゐて、かなしくクラリッサを見つめてゐた。 然しクラリッサは兄の抱擁から離れて、相手の目と同じ漆黒の、否それよりも尚ほ黒い氣高い、 瞳をやさしくひとすぢに騎士の方に向けて、手を指出しながら言つた。 確實に立派に今度の計畫を實行する爲にこの樣に長いこと力と時間を使つて戴いて、 本當に心から繰返し御禮を申し上げます。御蔭で私逹にはもう何の危險もありません。 實際の行ひで私の感謝の心を御示し出來たらと、それのみが私の心からの願でございます。 ……「若し私に出來ることでしたら」とクラリッサはその低聲で附加へた。 ……ヨハナの眼は極度に緊張して騎士の唇に注がれた。然し騎士の口はおもむろに開いて美しい言葉を語つた。 「私のしたことは、あなたとヨハナが善い人逹だからしたまでのこと。 何を報いようなどと貴女に考へられると私は悲しい。思ふままに振舞つて下さい、それがいつもいいことなのです。」 暫らくはどこからも口をきくものはなかつた。軈てヨハナが、さも氣の毒の樣に、 騎士の方に手を延べて次の言葉を言つた。「御大事になさいませね。そのうちに又いらして下さい。」 「有難う」とほほゑみながら彼は答へた。「でもそのそのうちにと言ふのは神樣の御手にあることです。 私は又皇帝の軍へ復して、戰役が喜ばしく終局を告げる時にやつと歸つて來れるのですから。」 父と娘逹の間に再度の抱擁、握手——そして男逹は室を去つた。——次の瞬間には彼等は磯に居た、 乙女逹はいつまでもバルコンから見送つた。筏の上に彳む三人の姿は靜かに湖面を動いて、 對岸の樅の林にかき消えた。やがて二人の下僕は空の筏を操つて歸つて來た。 最初の幾日彼女逹が目覺めた時、勿論竒異な途方にくるる思ひがしたに違ない。 朝燒けは何處よりも先に見渡す限り森の上に光の潮を注いだ——四邊は朝の樂音に包まれる、 その音には吾々が子供の頃から人の住む里できき馴れたものは一つとしてない。 あるものは一つのいとなみ、驕者であり、呼び聲、要求、物語り、更に歡呼なのだ。 ——ふとするとそれらのさなかに間近の樅の梢から人の言葉かと覺しいものが落ちる。 驚いて見やれば、おろかしく首をかしげて、見上ぐるものとうなづき合ふかの樣に梢を渡る、それは見も知らぬ鳥に過ぎない。 ——遠近の谷間からはその時、煙の樣に立ちのぼる朝霧の捧ぐる犧牲が黒々と廣く伏す森林層を寸斷する。 ——着いた翌日既にヨハナは竒妙なことを經驗した……と言ふのはヨハナは朝まだきに目が覺めた、 好竒の心に驅られ、晝間の湖を見んものと、未だ深く眠つてゐる姉の寢床の傍をすり拔けて木の欄干まで出た ——すると驚く程間近に松林の外れ淺瀬の中に一頭の鹿が立つて居た、美しい大きな鹿、 逆茂木のある湖岸のほとり、丁度ヨハナと向き合つて。いぶかり、狼狽し、而も悦に入つて彼女はこの氣品のある獸を見た。 鹿の方でもぢつと物知りたげな眼をして、荒野のこの新しい不思議を、朝風に浮く白い姿とその魅力のある眼を見つめてゐる。 鹿は家を見ては大して狼狽しなかつた樣に見えた。このままの姿がしばらく續いた。 やがてヨハナが身動きすると、鹿は輕く驚いて首をひつこめ、そろそろと後向きになつて繁みにかくれた、 滴る露を湖面にはらはらとこぼして。 乙女逹は花園を間もなく歩き盡し調べ盡した、と言ふのは家の周の廣い芝地を彼女逹は花園と呼んだのである。 輝くばかりの緑の自然の森の草地であつた。半月形に湖と岩壁から切り取られ、 朝日と眞晝の日射しを受けた。只夕暮近く、對岸の蝦夷松の幼樹林がどす黒い夕べの光に輝く頃、 日射しは湖壁に遮られた。奧地に向つて草地は緩傾斜をなしてゐて、 突當りはとてつもない埀直の岩柱が聳へ立つて居た。柱の峽には幾筋か逞しい砂礫の帶が柔かな緑の絨緞なす芝の中へ突出て居つた。 家の近くには岩壁の方へ延びて山毛欅と巨大な楓樹が簇生して居た。 楓の緑は蝦夷松と黒松のどす黒い色からくつきりと如何にも優美に浮出てゐた。 その下蔭には小卓とベンチがしつらへられてゐた。も一つ言つて置かねばならないのは氷の樣に冷たい泉である。 岩の奧から湧く水はこよなく透明で、岩石が濡れてゐると、何處迄が空氣でどこからが水であるか分らぬ程であつた。 泉の下はささやかな溪流となつて、とある岩の下をくぐり草地をはすかひに横切つて湖へと急いだ。 誠に父が此の地を「不思議に思ふ程このましく優美な」と言つたのも仇ではない。 岩と湖に守られ、周に横はる深山の荒涼に見張られた、暖かな風のないオアシスであつた。 家は今日も尚ほ地方に見受けられるるそのままに木造りで、地階と二階があり、 周には廻欄をめぐらし陸屋根である。唯今日の山の村々の家よりも遙かに大きかつた。 入口から直ぐの所にグレゴールの室があり、ここで鍵を保管して居た。 續いて下僕逹の室に貯藏品の部屋々々。二階には食堂と乙女逹の部屋が二つこれと並んで侍女逹の爲の控間。 何もかも細心の注意を拂つて整へられてゐた。男逹は殆ど氣にも止めぬが、 乙女逹にとつては重大な價値のある樣々な極めて小さなことすら此處には揃つてゐた。 乙女逹は日々に父が自分逹自身ですらこれまで考へも及ばなかつた方面のことまでしばしば氣を配つてゐてくれたことを今更の樣に氣付くのであつた。 最初の幾日かに抱いた現在の境遇に對する苦痛、恐怖、不馴れも漸く落着いて來た。 かうしておづおづと注意深く乙女逹は漸次自分逹の世界内の探檢旅行を企てる樣になり、 この世界を好きはじめたのである。 領地の限界を越え而も湖を渡つた最初の企圖はブロッケンシュタインに登つて望遠鏡でヰッティングハウゼンを見ることであつた。 グレゴールに下僕三名、いづれも武裝して同行しなければならなかつた。 やがて筏を下りると一人が筏を領して岸から二十歩の所で待つてゐねばならず、 爾餘のものは同行しなければならなかつた。 グレゴールは人の好ささうににこにこ笑つて此の物々しい配備を見てゐたが乙女逹の意にまかせた。 彼は入江を迂囘して裏手からブロッケンシュタインの頂上へ案内した。 一時間後に一行が頂上に逹した時、乙女逹は自分の家が丁度足の眞下に横はつてゐて、 小石を落したら屋根に當るに違ないと思つた。——望遠鏡がほどかれ、 ひねくれた白樺の殘株の上に取付けられた。みんなの目は然しもう先刻から遙かの彼方を見やつて居た。 晴れた空がすべての森の上を越えて輝く荒野の樣に遠く續いてゐた。 森はとてつもない巾の廣い黒々と盛り上る波の樣に擴がつてゐた。 ただ視界のいやはての物のいぶきか、一筋のうす色に縁どられて居た。 ——それは既にみのりはじめた人界の穀野であつた。 ——そして最後はたなびく靄に終つてゐたが、 靄は右手からそのまま蒼穹に入つて居た。……見よ、なつかしいささやかな骰子形《さいころがた》、 青い一點の樣に靄の端にぽつかり浮いてゐるではないか。ヨハナの胸は嬉しさと悲しさにふくれた。 ——その間クラリッサは望遠鏡の前に膝折つて熱心に動かした。 父のものよりは比べものにならぬ程優秀な品であることがすぐ判つた。 然しクラリッサにはこれで何を見つけることも出來なかつた。 びつくりする程はつきりと近くすべてが魔力にかけられてクラリッサの前に躍り出た、 しかしどれもが見も知らぬものであつた。——竒異な山背や線や突起が幻の樣に眼鏡の中を走つた。 ——それから色彩の豐かな輝き、それから青、青、青、——彼女は螺旋を廻して眼鏡をながくした。 ——それからとある黒い森林地帶の緑に沿うて眼鏡をうごかした——あつと弱い叫び ——不思議な眼鏡の圓の中に身慄ひしながら父の家がそつくり飛び出して來た。 小さく、かよわく、繪に描いた樣に、而も壁と言ひ、椽と言ひ屋根と言ひ、驚くほどはつきりと、 ——それどころか窓すら見える思ひがした。ヨハナも覗いた——家は輝いて、完全な姿に光る屋根をして、 空の憇ひのさ中に立つてゐた。おー何と言ふ美しさ、何と言ふこのましさ。 老グレゴールも合點の行かぬ魔法の眼鏡をのぞいた。彼の身振りには、一生懸命になつてこの不思議を理解しようとしてゐる樣が見受けられた。 下僕逹にも覗かせた、そして彼等が驚き感心するのを面白がつた。此の大事な像をなくすることを恐れて、 一寸觸れるのでもびくびくものであつた。然しクラリッサがみんなに、どうすればまだいつまでもこの姿を見つけることが出來るかを教へた。 いつまでもあれこれとのぞき見て、みんな飽くことを知らな[か]つた。 ——眼に近く見える樣に、家は心んも亦近づいて來る樣に思はれた。 彼等は殆ど家にゐる樣な氣がした。ほんとに靜かに可愛ゆく、而も何の破損もなく家は立つてゐるのであつた、 喜び、愁ひ、あくがれの心が昂まつて、幾度も、いや、 からりと晴れた日にはいつでも登つて來て、覗かうではないかと人々は約束した。 遂には他のものを搜して試驗することがはじまつた。視界の縁にある薄色の一筋が第一に選ばれた。 それは穀物のある開墾された畑であることが、明瞭に判つた。——次に森林の山々が、 次に湖が、最後には家までも覗かれた、どれもがこよなくうるはしく、こよなく澄んでゐた。 岩の上にずゐ分居てから、人々は歸らうと決心した。眼鏡はグレゴールが用心深く、 いやそれどころか恐る恐る革のサックに入れ、腫物にでも觸る樣に抱へた。 歸路には別に變つたこともなかつた。筏が待つて居た。乘りこんで、湖を渡り、これでその日は終つた。 これまでに先に過ぎて行つたすべての日と同じ樣に、燃ゆる樣な夕燒けは定つて向岸の森林の上に燃えた。 その時湖面は眞黒な圓板を窓の前にくり擴げてゐた、僅かに時折一筋の赤光がその上をかすめて。 此の最初の遠足に續いて人々は間もなく次々と出かけた。 森林の靜穩と安全が判れば判る程、遠足は愈々大膽に、愈々遠出になつた。 父から無事の報知があつたのも既に二度であつた。 又人々がブロッケンシュタインに登つて、彼等にとつて何より嬉しい寳となつて了つた望遠鏡をのぞく度毎に、 いつも同じ美しい澄んだ完全な父の家の姿がその中に立つて居た。その擧句ある時ヨハナが、 他の側からは見られないものかしらと子供らしい望みを言つた。 彼等は幾度か子供の樣に、望遠鏡を逆にして、彼等の家が、留針の頭の樣に小さく、 數哩も彼方へ逃げ、その傍に湖水が、小さな硝子の圓板の樣に見えるのを手を打つて喜んだ。 夕立が二三度來た。これに續いて陰鬱な灰色の雨の幾日が來た。 その間部屋ですごした。持つてゐるだけの布地や着物を裁つたり縫つたり、縫ひかへたりして。 既に幾日となく幾週となく過ぎて、何の怪しいことも起らず、むしろ外の自然はすべて、 世界のどこにも戰爭など行はれてゐさうにもなく、美しく靜かに控へて居たし、 それに父からの最初の便りの見ても、ヰッティングハウゼンには何事か起りさうな模樣もなかつたので、 クラリッサ逹の心は再び明るくなり、鎭まつて行つた。 やがて崇高な環境が力を得て來て靜かに自らの一齣一齣を彼等に示した。 彼等は又屡々グレゴールが豫言した樣に、少しづつそれを理解しはじめた。 ——おどけや氣紛れの心も起つた。ヨハナは或時姉を説いて二人で一番いい着物を着せつこすることになつた。 ——軈て一番美しい着物をつけて鏡の前に立つた時、ヨハナの瞳は喜びに輝いて居つたが、 クラリッサは今更子供らしさに恥ぢらうて、その氣高い花の顏容にうすい紅葉を散らした。 老グレゴールは彼女逹の元氣を喜んだ。彼の二人に對する愛着は日毎に募つて行つた。 二人の心が森の空に輝く雙星の樣にだんだん可愛ゆくやさしく彼の方へ傾いて來たと同じ樣に、 又グレゴールの心もこの星の柔和な光の中に益々融けて行つた。 ——やがて老人の心は大らかに美しく若者の心の樣に、 溢るる許りの詩と想像の中の憇ひ、鬱蒼と繁茂し、輝き渡つて、 かの熱帶の原野の樣にそこに立つてゐた。全く原野そのままに意識なく、 人の手を加へられず、生のまま、そして不氣味に。彼の生涯のすべて、 彼の全精神を、彼は森に眞似て創造した。一方彼は又森林にこよなくふさはしく、 森以外の境涯に彼を考へることは殆ど不可能であつた。 それ故彼は又自分の手に委ねられた娘逹に自分の姿と荒野を、 非常に不思議な魔法で、不思議な姿に描いてみせた。 荒野はやがて娘逹にも語りはじめた、娘逹はいつもお伽の國のさなかに漂ふてゐる樣な思ひがした。 然し驚いて荒野のきいてゐるお伽話こそむしろ娘逹であつた。例へば二人が湖畔に坐つて、 長い白い帶なす衣の搖るる影に湖を落し、湖水はこの映像を掴まうと二人の方へひしめき寄つてゐるかに見える時、 二人の姿は此の地に住む人影と言ふより、むしろルーネ文字でかかれた北方傳説の中の、 あえかにも描かれた姿に似てゐた。或は又暑い日の照る午後彼等が木々の合間をさまよふ、 森蔭に咲く柄の長い舞鶴草が見惚れてゐる、珍しい種類の蠅や蜜蜂が四邊に低い羽音をこもらせる、 蝦夷松の物言はぬ樹脂の香が四邊に滿ちてゐる、そして彼等は莓を摘んだり、 遠い森の叫びに耳傾けたり、日を受けた石の前に立止つて、 その石に見知らぬ蝶がとまつてその翅を擴げてゐたりする——この樣な時、 蝶はこの二人こそ荒野の妖精だと思つたことだらう。 森の色々な場所にまつはる幽靈や魔物の話をグレゴールがしたのをきいて、娘逹の想像力はグレゴール、 自分逹、それに周圍が魔法の絲の紛亂の中にまぎれ込まれて了ふ樣に思つたのであるが、 若し石にとまるこの蝶がそれを知つてゐたとしたら、一入さう思つたことであらう。 ……或は又もう柔かな日射しになつた秋の陽を浴びて、草地の砂礫の縁に坐り、 そこらの灰色の岩塊に休んで、ヨハナは子供らしい捲毛の頭を姉の膝にもたせ、 姉は澄んだ愛に滿ちた母親の眼を伏せて、まかせきつた安心の物語に耽つてゐる時、 又接吻の封印の後思ひは相交流して、默つて坐り、戀人同志の樣に美しい手と手を取り合つて、 心の中でお互に自分が限りなく愛されてゐることを思うてやすらうてゐる。 そしてヨハナは此の世でお姉さま程美しいものはないと思ひ、 クラリッサはヨハナ程無邪氣なものはないと考へてゐる樣な時、 四邊に照り渡る野は畏敬に默し、岩壁にきらめく幾千の雲母片岩も、 相愛の頭の周に星の環を張りめぐらさうとして、それのみに、 倦まず光り輝いてゐるかの樣に思はれるのである。 或は壯麗な滿月の夜が巨大な暗黒の枕なる森の上にかかつて、 すべての眠りをさまさぬ樣にと音もなく月光のましろなる夢の小粒を森に注ぎ、 そこへふとクラリッサの豎琴の音が聞えはじめる時、一層お伽の國に居る思ひがした。 琴の音は何處から洩れるのか、分らなかつた。 何故なら光つた灰色の家は此の巨大な塊なす森の上に僅かに銀色の一點としか見えなかつたのだから。 そして遙かに光りつつ、電氣を帶び、ぢつとたたへて、黒く擴がる森の上に横はる深夜の空を破つて、 輕くとぎれとぎれに、甘い脈搏の樣に、琴の音の流るる時、その時こそ一つの新しい感覺が安らかに森中に行きわたる思ひがした。 音の流るる風情は、森の觸手があつてあちこちでこれを動かすとそれが鳴る樣に見えた。 ——小鹿は臥所を歩み出た。まどろんでゐる小鳥逹は枝の上でうなづいて新しい天の旋律の夢をみた。 夢の調べを鳥逹は明日歌ふ事は出來ないであらう。——そして木魂はすぐさまこの黄金の謎を廻らぬ舌に眞似ようとした。 ——豎琴がとうに止んで、美しい頭がその枕に憇うた時も、尚ほ夜は聽耳を立てて居た。 埀直にかかる滿月が、その長い輝きを蝦夷松の繁みにおとし、だまりこんだ閃光が湖水を縁どつてゐた。 ——その間に大地の重壓と彎曲とは、地上に住む者逹は感ずることも聞くこともないうちに、 激しく東に向つて殺到する。——月は西方に投げ出され、古い星どもは共に去る、 新しい星が東天に登る。……そしていつまでもこれを繰返すうちに、 遂に群星の中央森の端に蒼白い乳色の光帶が花を開く。 さわやかな微風が梢を打つ——そして最初の朝の叫びが小鳥の咽喉をつんざいて迸る。…… [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:湖畔の處女|四 森の湖《うみ》 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- もう幾日となく幾週となく過ぎた——期待も恐怖も、何ひとつ鵜の毛程も進んではゐなかつた。 ——父の家は覗きみる毎に同じ美しさにレンズに映つた。彼等のゐた森につづく人里はみな同じ深い平和に眠つてゐた。 尤も彼方。彼等の眼にとどかぬあたりには戰塵が渦卷いて居り、 それが何時彼等の視界に現れかも知れないことは、十分判つて居た。 彼等の庭なる森は、外の出來事とは關りなく、この夏の爲の仕事を急いだ。と言ふよりもう殆ど終つて居た。 それは、和かな夕陽が、靄に濡れた森の青を縫つて連なる目も彩な黄と紅の秋の色帶の上にもう悲しげに注いでゐるので判る…… 或日のこと二人の乙女とグレゴールは湖の對岸で家に向き合ひに腰かけて居たことがあつた。 三人はかなり遠く家を離れて、丁度ブロッケンシュタインが湖に落下して森の草地を他から切離してゐる、 その邊を打ちながめてゐた。下僕逹は食料調逹の爲もう三日前から外に出て居て、 今日の夕刻には歸るかと待たれて居た。晩夏《おそなつ》の陽は澄みきつて暑く、 人の心をそそり立てて、人々はいつとはなく胸を開き合ふのであつた。 下卑二人は山に莓取りに出てゐた。そして我がささやかな一行は、 グレゴールに湖を渡して貰ひ、それからながめのよい方々を案内して貰つた後、 いまぬるんだ空氣を喜びながら、快い疲れにひたつて、とある巨石の上に坐つて居た。 巨石の周には赤くうれた秋の叢林と簇生したこけももの炎が人々の足もとに燃えさかつて、 おそなつの長い日射が照つて居た。二人は誰もゐない家を見やり灰色の岩壁をながめた。 その時グレゴールは色々と二人に語つたが、彼とても變りなく嚴かに靜もる莊麗をもつて森を訪れた晩夏の美しさに打たれて、 愈々荒唐な、うら悲しい調べに沈むのであつた。 ヨハナはどう言ふ仔細でグレゴールがこの湖を見付けたか、この樣な森は高山にあらうなどとは誰にしても思はない、 事實又この湖のことを知つてゐるものは少ないとあなたも言つてゐるではないかと尋ねた。 「全く殆ど知つてゐるものはありません」と老人は答へた。「それに又搜さうともしないのです、 と言ふのも搜してみる理由などないからです。それに或はと思つてゐる者もどうやら見つけることを恐れて居る樣です。 何故なら、この人逹は湖を、神樣が眞黒な地獄の色に描いて荒野に抛り出された魔の湖だと思つてゐるからです。 所で何故こんなに黒い色をしてゐるかと言ふと、それは只黒々とした樅や山巓が影を落してゐるからに過ぎないと思はれます。 ——これが若し外の平地にあるのでしたら、平地の池と同じ樣に青々して居たでせう、 何もない空がけが覗きこむのですから。——それから荒野と言ふ點に就いても、 神樣が此處よりもつと美しい場所に湖を置くことがお出來になつたとは思ひません。 湖を知つてから私は四十年以上にもなります。けれどもこの長い間に湖のことを教へた人は唯二人しかありません。 私逹が未だ若かつた頃に、あなた方のお父さんに、それと私が年とつてから或る若者に。 私はこの若者が好きになつて、一緒に幾度も狩獵をしたものです。 然し湖を見つけたいきさつは、ヨハナさん、かうでした。さて、私が十二十三或はその上位の少年でした頃は、 今よりはもつと大きなもつと美しい森林でした——採伐地は悲しい樹木の墓場なのですが、 この樣なものは全く見られませんでした。森にすぐ續く地帶に小屋の數も少く、 住む人もその薪をとるのに畑の畔であちこちの木を倒せば十分だつたのです。 ——而も木が一本や二本なくなつても氣も付かなかつたものです。その頃は大鹿さへ群をなして私逹の草地へやつて來たもので、 射たうと思ふなら、森の中を搜し廻る必要はなかつたのです。 此處で彼の言葉は途切れた。そして急にクラリッサの方へ向きなほつて、「あの美しい黄色な線條のある翼羽をお望みでしたら、 あれを射ち落してあげませうか、屆くと思ひます」と言つた。彼の指は空を指した。 見上げた乙女逹は一羽の美しい禿鷹が翼を一杯に張つて、湖水の上を靜かに飛翔してゐるのを見た。 その態は又こよなく澄んだ、ぬるんだ、日の照る秋の空氣をしみじみと味はふ、そればかりである樣に見えた。 翼に身を任せ、叉形の尾羽を扇の樣に擴げて、空氣の内懷に乘つて悠然と滑りながら、 徐々に圓を描き圖形を引く、飛躍と橈の翼が時折優美な形に開いて陽の中にたはむれる。 主翼は長い間を置いて二打ち三打ち輕く羽ばたきを打つだけ。乙女逹は此の自然のたはむれの優美な威嚴に讚歎した。 この逞しい鳥をこれ程間近から見たのは初めてであつた。それ故口を揃へてこの美しい鳥に害を加へない樣にと頼んだ。 「無論美しい鳥です」と獵師は答へた。「外の世界で禿鷹を猛鳥などと呼んで居ますが、この鳥には何の罪もないことで、 この點では鷹も羊も同じことです。禿鷹は私共と同じ樣に肉食なのです。 禿鷹は食物を搜します。羊も何の罪もない雜草や花を毟り取るのです、 一方のものが他のものによつて生きると言ふこれが恐らく世の掟なのに違ひありません。 そらよく御覽なさい、ゆつくりと廻轉してゐませう、あの威張つた樣子はどうです。 ——湖から容易には去りさうに見えません。鏡の中を覗いてでもゐるのか、 この樣な場所の上を禿鷹が飛んでゐるのを、私は何度も見たことがあります。 事實は然し、湖水に水飮みに來る色々な獸や鳥どもを待ちうけてゐるに過ぎないのです。」 みんなはしばしが程口もきかずに鳥を見て居た。鳥は大きな弧を描いてゆつくりと湖水に沿つて移動し、 次第に小さくなつて行く、——右手の高い樅の林にかくれて了ふ——それから又大きくまぢかに人々の頭上すれすれを暗い空氣の中から飛出して來る。 やがて鳥の描く圓と線とが次第に對岸の絶壁の方へと掻き消えて行つた時に、 人々の興味も弱まり、ヨハナは再び湖水發見の經緯を尋ねた。 「それがかう言ふ譯なのです」とグレゴールは答へた。「此處から遠い所に家と畑があつて、 そこに私と孫が住んで居り、昔私の父や祖父が住んだと言ふことは、もう御話ししましたね。 昔はもつともつと森が深かつたことも話しました。その頃は誰は登つて來る者はありませんでした。 みんな荒野を恐れ、原野の言葉に肝を潰したのです。——その時何人か、森林の何處ぞに眞黒な魔の湖があつて、 そこには世にも不思議な魚が游いで居り、湖の周には魔法がかけられた灰色の岩壁がそそり立つて居る。 そしてその内部には長い通路がある、等と噂し合ふ仲間がありました。 何もかも金銀づくめ、美しい什噐類、頭程もある大きな赤いルビーで輝いて居る。 長い長い幾百年も昔、サクソニアのある邪宗門の王樣が信心深いカルル帝の許を逃れて、 寶物と一緒にこの岩の中に身をかくした、そして死ぬ時になつて門も入口も分らぬ樣に岩を魔法にかけて了つたと言ふのです。 ——受難週の間だけ、どこかキリスト教の教會で一言でも受難のことが讀まれてゐる間は、岩の門が開いてゐる—— その時は誰でも這入つて行つてほしいものを取つて來れる、然し時刻になると、岩は閉ぢて、 時を逸した者はみな中の閉ぢこめて了ふと言ふのです。」 ヨハナは絶壁の方を見た。岩が動き出す樣な氣がした。 「それから、誰かがいつか思切つて這入つて行つたと言ふ話はなかつたのかしら?」とクラリッサは尋ねた。 「ええ、ございますとも」獵師は答へた。「その頃、 三椅子の聳えてゐる山から遠くない所にこの樣な湖があることを私自身の祖母から聞かされました。 幾百年も遠い昔のこと或時ザルナウのシュスタウ屋敷で農業を營んで居た一人の男が、 數々の罰當りば惡行を重ねた爲、財産を作すことも出來ないで、受苦日に、 キリスト教徒が皆主の御墓の前でお祈りをして居た頃をねらつて登つて行つた、 それになるたけ餘計に寶を以つて來られる樣に、幼い息子までも連れて行つたと言ふのです。 ——さて二人のものが中に這入つた時、何の罪もない子供はぞつとして、 『お父さん、お父さん、御覽、石炭が燃えてゐますよ、出てらつしやい』と叫びました。 ……然し父は怨靈に心をくらまされて、ルビーの間を選つたり掘つたりしてゐる間に、 時刻の來るのも忘れて了ひました。遂に子供は一陣の風に乘せられた樣に忽ち湖岸に立つてゐました。 その刹那岩が相打ち裂け落ちる響きを立てて閉ぢて、邪まな父親が生きながら閉ぢこめられて了ふ姿が見えました。 少年は仰天してすべての樹木に追いかけられてでも居る樣に、山を馳せ下りました。 マリア樣が又その足を導いて下さつて、無事に家に辿りつくことが出來ました。 此の子供が大きくなつて、信心深い人になり、受苦日にはいつも空の星の輝くまで斷食しました。 又田畑にも家畜小屋にも惠を受けました。 それからと言ふもの山に分け入つた人のあることは何處からも聞いたことがありません。」 二人は默つて灰色の岩壁の方を見やつた。今度はクラリッサにも岩が動く樣に思はれた。 そして緑の樅の林は番兵で、お互に囁き交してゐる樣に。 禿鷹は相變らず空に姿を見せて居た。柔かに圓を描き游いだり、或は屡々幾秒かぢつと動かずに居て、 天の圓閣の中に懸けられた翼のある釣ラムプの樣であつた。 グレゴールは續けた。「私は當時子供で、私の祖母は澤山こんな話を知つてゐました。 さて此處から三時間行つた所に一つの山が聳えてゐます。——大昔の異教徒の時代に或時此の山上に三人の王樣が坐つて、 ボヘミア、バヴァリア、オーストリア三國の境を決めました。——岩に三つの安樂椅子が刻んであつて三人それぞれ自分の領内に腰かけて居ました。 王樣逹は澤山のお供を引連れてゐました。人々は狩に打ち興じましたが、 その時偶然に三人の男が湖を見つけて、氣紛れ心から魚を捕らうとしました。 するとどうでせう。口の周りの赤い、燃立つ花火の樣な斑點のある鱒が、 男逹の手許に押寄せて來て、忽ち澤山の魚が岸ではねました。 さて夕暮になつた時に、男逹は火を焚いて、二つの鍋に水を入れ、 これに魚を投じて火にかけました。かうして男逹が車坐になつて、 月が登り美しい夜が來た時、鍋の水はだんだん熱くなつて泡立ち沸騰しました。 所が中の魚は一向死なないのです、それどころか益々陽氣になるではありませんか。 ——そして突然木々の間にざわめき轟く物音が起つて、人々は森林が崩れ落ちるかと思ひました。 そして湖水は風が狂つてゐる時の樣にどどつと鳴りましたが、見ると枝ひとつ、波ひとつ動いてゐません。 そして空には雲ひとつないのです。湖の底から唸り聲の樣なものが聞えて來ました。 それが歸つてゐないものがゐるんだ、歸つてゐないものが……ときこえます。 男逹は冷水を浴びた樣にぞつとして捕へた魚を水中へ投げました。 忽ち四邊はひつそりとなりました。月が天空にこよなく美しく懸つてゐました。 男逹は然し一夜中ひとつ石に坐つて一言も口をききませんでした。 それ程恐ろしかつたのです。夜が明けた時に、あわてて逃出して一部仔什王樣方に告げました。 王樣はすぐさま退去して、森林が永遠に荒野でゐる樣に、森を呪つたと言ふことです。」 話手は默つた。乙女逹も。 しばらくして話手は續けた。「ねえ!美しいお二人。そんな話があの頃實に竒妙に私の五體を流れてゐました。 それからと言ふもの、神祕を藏し美しく輝く天に沿うて目の及ばぬ所までも連なつてゐる青い森林を見ると、 私はいつも戰慄を覺え、好竒の心に唆り立てられました。 大人になつたら早速この美しい魔の湖と邪宗門の壁を探檢しようと私は心に決めたのです。 私の父やその他の人々は私を一笑に附して、そんな湖などは根つからの作り話で馬鹿げたことだと言ひました。 ——所が御覽なさい、私が森林に次第々々に精通して、森がどれ位不思議なもので、 人間共が色々な作り噺を織り込む必要などはないことが解つて來、——又歩き廻つてゐる途中で澤山の澄んだ溪流に出會ひ、 これ等が皆高山の一點から流下して來るものであり、口數の多い無邪氣なせせらぎに、 まがふべくもなく父なり水源を語つてゐることが知れたのです——そこで私は登りました。 そしてどうです、今私逹の坐つて居る丁度此處へ出たのです、 そしてあつと驚くと共に此の美しい好ましい湖を見付けたのです。」 「それでぞつとして恐くはなかつたの?」とヨハナ。 「恐い?」と老人は答へた。「恐いつて?——嬉しかつたですよ私はこの美しい場所を見て。 何故つて私は當時もう十二分に、惡辣な怒つぽい人間共なら、若し何でも出來るとしたらどんなことでも仕兼ねないが、 森林は決してその樣な罰當りな竒蹟を示すものではないことを知つてゐたのです。 森林の示す竒蹟はみんあひつそりとした、人目につかぬものです、 然しそれだけ人間の考へてゐるよりはもつともつと宏大なものなのです。 人間共はこれが解らぬところから勝手に不細工な竒蹟を森林に捏造します。 森林はそこばくの水と土、空氣と太陽、これで竒蹟を成し遂げます。この他には何もありません。 又開闢以來なかつたのです。是非私の言ふことを信じて下さい。 三椅子の山上にも私は登りました——王樣などあそこに坐つた筈がありません、 同じ樣に此處でも誰も漁などしたことはないのです。尤も三つの石造りの椅子は確かにそびえてゐます、 然しあなた方の家にある木造の椅子の樣に簡單に平らな磨きのかかつたものなどとは大違ひで、 とてつもなく大きな、溝や裂目だらけのものです。輕妙な雨露の指がこれに働き、 空氣と太陽の柔和な然し不斷の指物具がそれを造つたものです。 ——私は此の上に坐つて恐らく幾時となく人の住む國々を見はるかしました。 其處此處と行く度が重なるにつれて、私はこのすべてが神の御仕事にすぎないで人間のものでないことがはつきりと解りました。 只人間共の所へはこれにまつはる傳説が紛れ込むのです。人間は自分で造つたものでなければ讚歎することが出來ず、 何でも自分逹の爲に造られたと考へなければ何事も觀察することが出來ません。 主なる神が人間にもつと大きな才能を御與へになつたからには、又より多くを人間から望んで居られます ——然しそれだからと言つて人間の同胞なる鳥獸や草木とてひとしく愛の光を注いで居られるのです。 神樣は獸や草木逹に人間逹には拒まれた住居をお與へになりました、高い山地、深い森、 巨大な海、茫々たる荒野がさうです。——人の目はとどかないが、 かしこ鳥獸等の頭上に神はその群星を懸けられました、けもの逹に美しい衣を與へ、 その食卓を用意し、あらゆる才能で鳥獸草木を飾り、 自ら鳥獸や草木の間を歩き廻つて居られるのです。 これは此處や人間逹の間を歩いて居られるのと變りません、 人間も神樣はお好きなのです、ただ人間共は、何度もさう思つていたことですが、 折角の神樣の鳥けものや草木を惡用して居るのです、これは人間共が自分逹だけと思ひ上つて、 おろかにもけものや草木の世界その住居にまで出かけて行つて、 その言葉その姿を學ぶことをしないからです……」 話手が未だ續けて居た時、邪宗門の王の壁の彼方からぱつと輕く閃光がひらめいて、 禿鷹が矢の樣に筋を引いて水中へ落下した——間をおかせず銃聲も岩角の多い壁傳ひに轟いてめりめりと森から森へと響き渡つた。 乙女逹はどぎーんとしてとび上つた。グレゴールは、眼をそばだてぢつと見つめた、固い壁をも射通さんず勢。 死に絶えた森林の靜けさの中に空氣の振動は殆ど慄然とするばかりであつた。 後は又前と同じ樣な死の沈默、そよと動くものもなかつた。 禿鷹の死骸すらぢつと水面の同じ場所に動かなかつた。期待の恐しい幾分かゞ經つた、一體誰なのだらう。 「何か見えるの?」とヨハナは震へ聲で囁いた。 「なんにも」と獵人は答へた。「銃聲は、湖壁から崩れ落ちた岸邊の倒木の邊から起りましたが、誰も見えません。」 「急いで湖を渡りませう」とクラリッサ。「家は空家なのよ——猫の子ひとり居ないのですもの。」 「それはいけません」と獵人。「若し危險が迫つてゐるのでしたら、 私逹が家に居ては却て惡いばかりです。筏の小屋に這入つてゐて下さい。 筏を少しばかり湖心に乘り出しませう、そしてそこで待つてゐませう。 防壘の樹木にぴつたり伏して私が監視します、そして鳥を湖水から取るのにどうする氣なのか待つことにしませう。」 然し待つても無益《むだ》であつた。一分は一分と過ぎて行つた。 禿鷹は身動きもせず、衣を振り亂し、こびりついた羽飾りをして湖面に浮いて居た—— 射撃の煙はとうにかき消えて、氣持のよい午後の日射しを受けて光りながら、 見捨てられた彼等の家がこちらを見て居た。物音ひとつなかつた、張りきつた眼はブロッケンシュタインの突出部の邊に注がれて居たが ——そこには何も見えなかつた。只蒼白い落木が散亂して居り、その枝が長いほのじろい輝きを黒い水鏡に落してゐるばかりであつた。 グレゴールはそろりそろりと橈の方へ手を擧げて、少し宛鳥の方へ漕ぎよせ始めた。 「下男逹がもう歸つて來てるのぢやないかしら」とクラリッサが言つた。 「あれは私どもの旋條銃の銃聲ではありません」とグレゴールが言つた。 その途端岩壁や砂礫の岸邊に黒莓を搜してゐた二人の侍女が家の木造の露臺の上に姿を見せた。 グレゴールの銃聲だと思つたと見えて、頻りにあすこですと合圖した。 多分舟からは鳥が見えないと思つたものらしかつた。 その間湖も森林も終日さうであつた通りに靜かであつた。 白く輝く光の球、太陽はもう岩壁の縁にかかつて居た。 巾の廣い蔭が家を被ひ草地を被うて湖面迄押し出して居た。 湖面はなめらかに黒かつた。舟の上だけににぶい午後の日射しが落ちて居た。 死んだ鳥も白い點の樣に火かつてゐた。 紅緑の光を浴びてそれは蝦夷松の幼樹域のあたりを漂つて居た。 さうかうする間に鳥に漕ぎ寄る舟ももうじめ〜した岸、倒木の入亂れてゐるあたりの間近に迫つて、 どんな小枝も一つ一つ見分けられた。いやしづまり返つた空と水の故に、 日向ぼつこしてゐた蛙がひとつ木から水中に跳込む姿さへはつきり見て取れた。 そこから輕い波の圈がゆら〜と起つて殆ど筏の所まで擴がつた。 然し人の姿はかすかな影すら見えなかつた。どつかの獵人がふとした偶然から山深く分け入り、 湖水の邊まで迷ひ込んで、自分の眼の良さをこの鳥に試したが、やがて筏と家が見えたので、 迷信を恐れて逃出して了つたのではありまいか、と言ふのは、 舟が誰もその上に見えないのに動いて來るのをその男は見たに相違ないから、 とこの樣に考へるのがだん〜穩當な樣に思はれて來た。 やがて一掻き二掻きゆつくりと漕ぐと鳥はすぐの所まで寄つて來た。 グレゴールはそれを筏の鉤竿で引上げた。長い水の滴る翼がだらりと埀れて、 濡れてこびりついてゐる羽が筋ばつた造りの身體を露出して、傷口を見せてゐる態は、 一風變つた光景であつた。傷は胸のまん中を貫いてゐた。 グレゴールはすぐさま傷口をあらためて、獵嚢の中から取出した道具を使つて極く小さな彈丸を一つ引ぱり出した。 ヨハナは驚いて色を失つた。——クラリッサも目を見張り胸を高鳴らせながら、獵人の顏を窺つた。 ——獵人は然し顏色ひとつ動かさずにその彈丸を悠々と自分の彈丸と一緒に革袋の中へ入れた ——それだけではない。彼は筏の上にすつくと起上つて、何の屈托もなく家の傍の船着場の方へ漕いで行つた。 着いたのは暮れであつた。 みんなが筏から上つた時、クラリッサは卒直にどう考へるのかとグレゴールに訊ねた。 「無論この射手は分つてゐます」と彼は答へた。「世の中には色々な馬鹿者がゐるものですが、 この男などはその中でも大馬鹿なのかも知れません。……この男なら何の危險もありません。 ……間違ひなしです、この彈丸には覺えがあります。——然し實に何處まで馬鹿げたことでせう、 あの男がこんな所へやつて來るなど。——太陽の照るところ無駄と馬鹿らしいことばかり。 ——私は長い年月をこの目で見ましたが、人間と言ふものはこんなものです、 光を求めて居ながら、陰火を掴みたがる代物なのです。」 「まあ、恐い。もつと知つてらして、それを言ひたくない樣な風だわ」 とヨハナが不安にをののいて叫んだ。 「ね、御話した通り心配する必要はないのです——さうです、 多分はこれは私の知つた人物でせう、唯この人がどうしてこの邊にやつて來てゐるのか解らないのです ——この男と言ふのが目的や當てのない樣な事ばかりする人で、 とても手に入らぬものを手に入れようとしてゐるのです。 日光を帽子にかざさうとしたり夕映をつかまへようとしたりしたことも何度かありました。 ——私逹は分別がつくまでには多くの雨露にたたかれねばならないし、 賢くなるには、年月を經なければなりません。お二人とも、せがまないで下さい。 危險はないのです。私は何か知つて居つて、それをあなた方には言はぬがよいと思つたら、金輪際言ひません。 私の口は、鐡の角材でもこぢ開けられないあの邪宗門の寶をしまつた石門よりも、もつと固いのです。 靜かにお寢みなさい——私の頭髮の一つ一つがあなた方の番人なのです。 ——私はあなた方が好きです、あなた方は善良で無邪氣で、まるでマルタの樣に美しいのですから」…… かういましめつつ、彼の年老いた固い口許がぴく〜とふるへるのが認められた。 然しすぐ彼は言葉を續けた。「私はあなた方のお父さまを好きです、そして將來小さな此の土地を前よりは一層好きになるでせう、 いつか私が又ここに登つて來ると、もうとうにこの家は立つてゐない、 戰爭は終つてあなた方は又お城に歸つて了つてゐるのです。 さあ、心配しないで、昔子供の寢床で眠つた頃の樣に、安心しておやすみなさい。」 乙女逹は腕を組んで老人の前に彳みながら、胸を打たれ不安げに見やつた。 人のよはいの一番高い端にゐて、尚ほ遠い未來に屬する計畫や時代の話をするこの男が、 乙女逹には殆ど不氣味に思はれたかも知れない。 ヨハナはむく〜と頭を擡げて來る不安な物思ひを抑へても抑へ切れなかつたが、口に出して言ふことは出來なかつた。 「御覽なさい、血の樣に赤い滿月が登りますよ」と彼は又始めた。 「あの憂を含んだ氣持のよい光が、森の端に輝きはじめて、長い物の蔭がもうけざやかに湖面を撫でてゐるのを御覽なさい。 ——私はこの景色を幾百度となく見ました——然しいつも私は樂しい氣持になります—— 私はかうしていつも月の光に就いてあれやこれや物思ひに耽りました——不思議な光です。」 「悲しい美しい光ね」とクラリッサ。 「それに何處で見るよりも森で見るのが一番美しい」とグレゴールは續けた。 「高嶺に登つた時など、幾夜か私は森林の上にまどろむ月影を見ました ——その樣な時すべては冴へ渡り、輝ききらめいて居ました、あの靜けさ—— 私は夜半にこの冴え返つた盆が中空を渡ると言ふ此の仕組みに就いて、 數々の想を湧かせたものでした。とにかく爲になるmのなることは明かです。 何故なら御覽なさい、月が空にかかつて、一面の森林の眞上に輝いて見渡す限り四方の枝間に、 ——光を注ぐ時に木々は何と嬉しげに光を浴びて、濶葉や針葉を、手の指を擴げる樣に差延べて居るではありませんか。 そしてクリスマスの夜、イエス樣がお産れになる時、木々はひそひそと語り合ふのです。 ……お寢みなさい、さあ、お寢みなさい。——何も危いことはないのです。 私は此處で下僕逹の歸るのを待つて、合圖があつたら筏を漕いで行つてやらねばなりません。 それからお前方は」と傍に控へてゐた侍女逹に向つて、「此の鳥を家へ入れてお置き。 丹念に乾かしなさい、そすれば多分美しい羽毛が又もと通りになるだらう。」 「おやすみなさい、お父さん」とクラリッサが言つた。 「お寢み」と老翁も答へた。 それから姉と妹は、不安な、何かを待つてゐる心を抱いて、階段を登り部屋へ這入つた。 控へ目に夕食をとり、着物を脱ぎ、侍女に引取らせた後、 心配の餘り扉の錠と閂を二重に戸締りして、同じ寢臺に一緒に寢た。 それから尚ほ、慰め合つたり、愛を誓つたり、又明日はも一度ヰッティングハウゼンを見ませう、 これから散歩をする時は必ず望遠鏡を持つて行きませうなど色々なことを語り合つた。 このやうにいつまでも寢物語は止まなかつた。軈て赤い月の盆は地平を越え高く昇つて、 とうに金色に變じ、ヨハナは姉の胸にすがつて子供の樣に眠りこんで居た。 クラリッサはそつとヨハナを枕に乘せて、自分も寢床を搜した ——彼女は見始める夢の中で歸つて來た下僕逹が湖の向岸から叫ぶ聲と、 迎へに行つたグレゴールの水掻く音を聞いた。 それから美しい眼蓋の上に深い眠りが落ちた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:湖畔の處女|五 森の草地 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 次の日もう日は朝の空に輝いて居た。クラリッサは目を覺ましてヨハナの寢臺の傍へ歩んだ。 ヨハナは未だ深い眠りの中にゐて、あどけない雙頬一杯に照つた朝燒けももう消えて居た。 それからクラリッサは忍び足に朝の金色に波打つ窓邊に寄り、暫し森の相にみとれた。 森は霜に被はれて、火花を散らして居た。やがて彼女は足のせの上に膝まづいて、 朝の祷を捧げた。起ち上つて見るとヨハナも足のせに膝まづいてゐた。 クラリッサは靜かに待つた。やがて妹も起ち上つた。それから敬虔な祈りの輝よひを未だひとみに湛へて、 二人は朗かに嬉々として會釋を交した。殆ど昨日の心配が可笑しい位であつた。 ノックする侍女を入れると、侍女は、外の世界では既に軍勢が動いてゐる、 分水嶺を越えて屡々蟻軍の樣に移動してゐる、すべて上部ドナウ地方へ向つてゐると下僕等が語つた旨を報告した。 森林の縁地方は相變らず寂しくひつそりとしてゐる。 ヰッティングハウゼンに就いては下僕等は何も知らなかつた。 草や叢林がいくらか乾いて來たらブロッケンの岩へ連れて行つて呉れる樣にグレゴールに頼むことに決つた。 着物を着終つて、高く昇つた日がもう霜と露を乙女等の草地から引拂つた時に、 二人は自分逹で少しばかり散策しようと思つた。階段を降りると、 グレゴールがゆるんだ板や角材を固く釘付けにしてゐるのに逢つた。 それにいつも開け放ちになつてゐる杭垣の外門が把手を下ろしてあるばかりでなく、 閂迄かけてあることが竒異の感を抱かせた。グレゴールはすぐさま仕事の手を休めて、 乾かした禿鷹を見せてくれた。羽は綺麗に整へてあつた。 グレゴールは森林生活の思出にこの中で一番美しい羽を選みとる樣に二人に頼んだ。 その間に自分は部屋に歸つて、お供出來る樣に身支度する心算だからと言つて立去つた。 然し乙女逹は羽を選ぶことはしないで、突立つたまま怪訝さうに顏を見合せた。 今日は何もかも新しいことばかりだつた。 平素はグレゴールは草地のある邊までどこでも別に氣を止めないで全く二人だけで歩かせてくれたのである。 丁度居合せた侍女のズザナもこんなことを話した。禿鷹を射つたのはグレゴールではなくて、 何處からとも知れぬ他の彈丸であつたことを聞いて、私は心配の餘り一晩中眠れませんでした。 すると夜もずつと更けた夜中過ぎに、歸つて來た下僕逹もとつくに眠込んでゐる時分、 錠がきしる樣な竒妙な物音に驚かされた、——こつそり窓邊に忍びよつてみると、 それはグレゴールだつたと思ふ。殆ど一時間經つて、姿は再び現れて、錠を開き、 中に這入り念入りに閂を下ろした——家へ近づいて見るとやはりグレゴールであることがはつきりと判つたと言ふのである。 さてこのことは乙女逹の不安を減ずるにふさはしい事實ではなかつた——然しグレゴールが戸から立現れて、 何の曇りもない額と、その下に輝く一雙の詩人の眼をしたこの美しい老翁を見ると、 二人は諾々と後からついて行つた、門を出るとグレゴールは又戸締りをした。どちらも—— 言ひ合した樣に——この新しい目立つた豫防工作のことを語らなかつた。グレゴールも默つてゐた。 午後に、と言つても當時の風習によれば十二時はもう午下りであつた、 人々はブロッケンシュタインに登つた。武裝した下僕が二人同道した、も一人は筏を守つた。 望遠鏡が据ゑられた。いつもの樣に父の家の小さな映像が清らかに澄んでその中に浮んでゐた。 これが最後になるのではあるまいかと言ふ豫感に似た氣持が乙女逹の胸を襲ふた。 二人は如何にも離れがたい思ひがして、 何處かの突出部になつかしい美しい父や無邪氣な少年のフェリックスが立つてゐるのが見えるに違ひない樣な氣がした。 この樣に不安な氣持を二人に抱かせたのは多分グレゴールの新しい工作の故であつたらう。 で、いつも變らぬとつくに知り盡した人氣のない像が眼鏡に映つてゐるばかりであつたので、 高らかに而もこつそりと幾千の會釋が送られてから、望遠鏡は取外され、 人々は歸路に就いた。歸つてから尚ほ二人は禿鷹の羽を二つ三つ選んで、部屋に引取つた。 此の日と次の數日間何事もなかつた。唯夜中にグレゴールが家を出て行くのをも一度見たと言ふものがあつただけである。 然し一種の胸苦しい不安が、今にも何か起るに違ひないかの樣に、 谷間と人々の心の上に被ひかぶさつてゐた。竒妙なことだか——何か大事が吾々の心に迫る時、 目に見えない使者がもう先にやつて來る樣に思はれるのである。 禿鷹の銃聲から五日目の夜のことであつた。——缺けはじめた月が青い夜ぞらに懸つて、 乙女逹の安樂椅子と寢臺の緞帳に窓格子を描出して居た—— ヨハナは姉の寢臺の縁に腰かけ、姉のあらはな肩を指でそつとたたいて、起さうとしてゐる。 恐ろしさに聲を忍ばせて「聞えないの?」と囁く。 「先刻から聞えてるわ」とクラリッサは答へた。「でもあなたがこわがるといけないから、 目をさまさない樣にしようと思つたのよ。」 然しやがて彼女も寢臺の上に起きなほつた。ヨハナの片腕に支へられ、寢臺の縁に手をついて、 かうして二人は坐つてゐた。美しい頭髮の他には何の髮飾りもない、聞耳を立てて、 からだは輕く前屈みになり、柔らかな秋の夜の光を浴びて非の打ちどころのない二つの大理石像の樣に身じろぎもしないで。 遠くの方からかすかに、呼聲とも歌ともつかず、聞えて來る樣な氣がした。 ——それは下僕の聲でもグレゴールのそれでもなかつた。 二人は固唾を呑んで聞き入つた。然し丁度今は何もきこえなかつた。 と急にはつきりと、誘ふ樣に、——狂暴な情熱をこめて男聲の歌聲が流れて來た。 歌の運ぶ言葉は、 何時の日か王ありて 戴きぬ金の冠、 森深く戀人を あやめて 去りぬ。 緑衣の獵人の來りて言ひけるは、 「王よ 墓を搜せうや 見よかしこなる岩の灰色 いざためらはず入れこの墓に。」 そして又王ありて 馬に跨り岩を過りぬ、 見たるは白き骸骨と かたへには金の冠も。 聲は止んだ。死の沈默が再び空と森と乙女逹の心に坐を占めた。 ——外はとつくに靜まり返つてからも尚ほ二人は動かなかつた。 事件は終りでなくて未だ何か起るに違ひない樣な氣がして。 然しこれで終りであつた。だまりこくつた輝く月の空に物音ひとつ、 吐息ひとつ動かなかつた。——ずゐ分待つてからやつとヨハナはおづおづと抱擁から身を離して姉の顏を見た。 姉の顏は目の前に窓硝子に映る月影の樣に蒼白く浮いてゐた。 二人とも一言も言はなかつた。 ヨハナは、やさしいその場の空氣をよく察した者の本能に導かれた樣に、 再び目をそらして、姉の夜の衣に自らの面を伏せた。 ——かうして長い長い瞬間、二羽の小鳩の樣に身を寄せ合つてぢつとして居た。 ヨハナはクラリッサの胸の動悸を感じ、姉は妹の腕が自分のうなじで打震へるのを感じた。 ……遂におづおづと低い聲で妹は訊ねた。「クラリッサ、あなた恐いの?」 「恐いつて?」とクラリッサはやさしく抱擁をほどきながら言つた。 「恐いつて?いいえ、ヨハナ——私逹をこの二三日心配させた暗い蔭の謎が解けたのよ……もう恐くないわ。」 それでもさう言ひつつ聲が震へてゐた。そしてこれまで蒼白かつた頬に次第にかすかなくれなゐがさして、 それが類なく美しい朝燒色になるまでほんのりと濃くなつて行くのをヨハナは弱い月明りにも認めることが出來た。 嬉しさと悲しさと入交つて、雲の樣な感情が彼女の魂の奧に盛り上つてゐたに相違ない。 何故ならいつもはあれ程靜かな此の容貌にいま見も知らぬ物の氣配が漲つて、 一つの魂をその上に注ぎかけてゐた。そしてクラリッサは情熱に燃え上り沸き立つてゐるかに見えたのだから。 「ヨハナ」と彼女は口を切つた。「神樣のお導きの道は不思議なものね。 ほんとに不思議だわ。この間岩壁の傍であなたに話したことが、 こんなに直ぐ來ようなどと誰が考へたことでせう。——美しいこの荒野で私を御見付けになつたのね。 ——どうせ來なければならないし、いづれさうなることなら、なる樣になるといいわ。 いい兒だから恐がつては駄目よ。森林の眞中に居ても神樣は私逹の上にゐらつしやるのだから。 あなたはあの歌知つてるでせう。歌つてる人も察しがつくでせう。 ——あの方うまい歌を選んだわね。——逢つてあげるわ、ええ、 でも私逹の清らかなこの家では駄目。——グレゴールとあなたに來て貰ふわ。 ——びつくりして私をそんなに見ないで頂戴。——小さな彈丸があの方のものだつて、 あの方とこの森とどの樣な關係があらうとも、そんな危險はなんにもないのよ。 ——ほんとにあの方は日光を帽子にかざさうとしたり、夕映えを掴まうとしたりなさつたのだわ。 ——さうよ、こんなに飛んでもない時にやつて來るのもあの方らしいわ。歌で私を誘つたのね。 ——いいわ、でももうどうにもならない自分の感情に捕はれて途方に暮れてゐる子供ではないのよ、 強いそして自覺を持つた少女よ。——行くわ、百合の花の代りに右手に主の劍をかいして、 さうよ、行くのよ。」 彼女の面は照り返つた——非常な美しさが顏に流れて、ヨハナさへこわげに姉を見やつた。 ——姉の黒い目は、夜の光りに照らされて、情熱の火の樣に燃えてゐた。 ——額を非常な誇りと勝利の色が掠めた。——かうしてクラリッサは坐つてゐた、 上氣した顏を月の光りに濡らしながら、——やがて遂に瀧の樣にあふるる熱涙を抑へかねて、 子供の樣に妹の胸に突伏したのであつた。 此の夜のクラリッサを見た者なら、何故この柔和ないつも靜かな人が、 漆黒を深く湛へた燃ゆる樣な瞳をしてゐるかが分つたであらう。 ヨハナは雙の腕にクラリッサを抱いた。そしてかくも強い涙の力を理解出來なかつたとは言へ、 自分も感動して激しく啜泣きに泣いた。——そして心の重荷はこのやさしい眞珠によつて消えた。 朝は、ヨハナが姉の胸に凭れて泣きつかれた眼を深くぐつすりと眠つてゐるのを見た。 クラリッサはとうに覺めてゐた。然しヨハナの頭が一部胸と肩に凭れかかつて居たので、 朝の眠りを妨げまいとの心遣から、ぢつとしてゐた。 眠りは不安に慄かされた心に明かに樂しい被ひとなつてかぶさつて居た。 そのうちに褐色の瞳がはつと見開いて、どうして姉の寢臺に來たのかしらといぶかしげにクラリッサを見たので、 クラリッサは片手でやさしく金ブロンドの捲毛をした頭を撫でて、「お早うございます、 やさしい、やさしいヨハナさん」と言つた。 然しヨハナが氣がついた自分の恰好を恥ぢる風情で飛び起きて、着物を着はじめた。 さうしてゐるうちに少し宛昨夜の意識が返つて來て、今日が大事な日であつたことが判つて來た。 クラリッサも默つて着物をきた。それが濟んでから侍女にグレゴール老人を呼びにやつた。彼は來た。 「昨夜の歌をお聞きでしたわね」と彼女は話しかけた。 「はい。」 「歌の主をよく御存じですわね。」 「よく存じて居ります。」 「あの人が是非私逹と話したいと言はれます。」 獵人はぎよつとした眼付で彼女を見た。「承知して居ります」と彼は言つた。 「然しあなた方も知つてらつしやると言ふのは?」 「私逹は知つてます、そしてこちらからもあの方と話したいと思ひます、 出來るなら今日のうちにも。でも此處ではなくて、——私逹の家には餘處の人は誰も入れてはなりません、 ——岩壁の傍の一番奧の楓の木の邊で待つてて戴きたいのです。 ヨハナと私が行きます。あなたもきつと親切について來て下さると思ひます。 樅の木影が湖から逃げたら、それまでに手筈が調ふとして、私逹を呼びに來て下さいね。」 「それは調ひます——然し御考へになつて下さい、あなた方の方から御望みになつてゐられるのですよ。」 「いいから用意して下さい、グレゴール。私もあの人を知つてゐるのです。 それでどうして私逹の平和とかくれ家を亂さうとなさるのか、あの方に聞かうと思ひます。」 グレゴールは去つた。 午後は過ぎて居た。樅の影は湖から逃げ去つてゐた。 グレゴールが旋條銃を肩にして二人の乙女を楓樹の林の方へ案内して行くのが見えた。 ヨハナはいつもの樣に白い衣服をつけてゐたが、クラリッサはあらゆる飾をつけ、 一番いい着物を着てゐた。そのあで姿は王者の祝祭に招ぜらるる高貴な婦人の樣であつた。 婦人の裝身と晴着にはどこかよそよそしい近づき難いものがある。 それ等は謂はば婦人の魂の扈從である。樅に宿る朝の寳石より他に見たことのない、 年老いた森の兒すらも、クラリッサの美にけおされ、殆ど臣從する思ひがした。 クラリッサの顏貌にも亦よそよそしい薄光と輝く嚴肅が漂つてゐたのである。 ヨハナの胸は止め度もなく鳴つた。そして口に言ふことははばかつたが—— 小さな彈丸と恐しい密獵者のことを話した獵童のことがどうしても念頭を離れなかつた。 何か身に毛よだつことが起るに違ひない樣な、暗い恐しい氣持であつた。 かうして一番奧の楓の邊まで來た。一人の男が晒してない簡素な亞麻布を着、 鍔の廣い帽子を被り、片腕に獵銃を抱へて、とある灰色の石に腰かけてゐた。 一行がまぢかまで迫つた時、男は起ち上つて、恭々しく帽子をとり、その顏をこちらに向けた。 ——ヨハナはあはや叫びをあげる所であつた——それ程男は美しかつた—— クラリッサも一瞬たぢろいだ。彼が帽子を脱いでさつとこちらを振り向いた時、 ふさふさとした髮は金波をなして兩肩の上に埀れかかつた。 その中からまるで少年の樣に美しく品位のある、輝いた顏が、 そしてその顏には黒く青い雙瞳が二つの魂の樣に光を放つて、 ぢつとクラリッサを見詰めてゐた。……クラリッサもその黒目の瞳は相手の美貌に打たれて、 よく知りつくし限りなく愛し限りなく怨みに思ふこの容貌に打たれて我を忘れた。 ——やがて彼女は急に耳の附根までも赤くなつて、どぎまぎした足取りで傍に歩み出た。 近くにあつた腰掛の方へ行く樣な、それに腰掛けようと思つてゐる樣な風情であつた。 ヨハナは唯この意圖だけを見て取つて姉を援け、並んで腰かけた。 相手は相變らず未だ一語をも發せずに、無意識に目でクラリッサの動きを追つたが、 豫期したと全く異つた人が現らたのを、當惑してゐる風に見えた。 遂に彼は獵銃を傍に置いて、乙女逹と向合ひに、 最初坐つてゐた同じ灰色の石の上に腰を下ろした。 聳え立つ樹木、灰色の岩壁、白い午下りの雲が、默然とこの竒妙な同じ樣に默つてゐる會見を見下ろしてゐた。 グレゴールは楓のそばから傍へ離れて、そちこちに深まる木々の紅葉を見やつてゐる樣に見えた。 遂にクラリッサの唇が綻びて、「あなたが私逹を御呼びになりました。私逹と御話しになることがあると見えます。 私逹は參りました——さあ御話し下さいまし」と言つた。 「さうです」と相手は答へた。「御會ひ戴く樣にお願ひしました、然しあなただけになのです。 も一人のお方は僕は存じて居りません。」 「妹のヨハナでございますわ。」 彼は驚いて今ヨハナを見た、そして悲しげに微笑んで言つた。 「ほんの子供だつたのにこんなに美しいお孃さんになつたのですね—— お、クラリッサ、僕逹は隨分長く逢はなかつた——あの頃はヨハナはほんの子供で、 滅多に出て來なかつたものだから、僕はもうすつかり分らなくなつて了つた。ヨハナ、僕を覺えてますか。」 ヨハナは頭を振つた。 「とにかくクラリッサ」と彼は續けた。「僕の來たことを許して下さい、 それから僕のやつて來方も。——ね、僕はあなたが散策した時などに、 突然あなたの眼の前に立現れることはしたくなかつたのです。 しようと思へば二三度は機會がありました、—— でなくてあなたの附添は私の前からの知合です故先づこの人に話さうと思つたのです。 所が彼はいつもあなたの傍を離れず、一緒でなければ一度も家を離れなかつたのです。 そこで禿鷹を通じて僕の彈丸を送りた譯です。彼は僕の彈丸はよく知つてゐるのです。 事實彼は早速僕を搜して搜出しました。所が僕からの便りをあなたに屆けて呉れる樣に、 いくら頼みこんでも彼は承知してくれませんでした…… 御承知の通りそれ迄よりは一層嚴重に家を閉鎖して見張りました。 僕は曾てはあれほど可愛がつてくれたのにと、その氣持が僕には分らなかつた。 ——そんな譯で僕は、あなたの下僕の中の誰かに射殺される危險を冐してでも、 機會をつくつて、僕の來たことをお知らせしなければならなかつたのです。 僕は無理強ひしたくなかつたし、彼に頼むことも出來なかつたのだから、 若しかしたらあなたが自分で許して下さりはしないかと思つたのです。 あなたが知つてゐるに相違ない歌を僕は歌ひました。」 「知つて居りましたわ」とクラリッサ。「私の來ましたことが、よくないことでございましても、 あなたをこのまま歸して了ひたくはありませんでしたの。 私に逢ふ爲色々な手だてをなすつたのですもの。……それでそうぞ御話し下さいまし、 どうして此處へ御出でになりましたの、少女二人のかくれ家と平和をどうしてお破りになりますの、 ほんとに愚かな私逹、ふと起る葉ずれの音にさへ幾度も胸をとどろかしてゐますのよ。 おつしやつて下さいまし、どうしてこちらへ御見えになりまして?」 「クラリッサ、それを答へろと言ふのですか。」と彼は言つた。輕い恥らひが一刷毛その顏に散つた。 「自分で解つてるではありませんか。」 「いいえ、解りませんわ」と彼女は自信のない聲で答へた。 「解らないと言ふのですか。」彼は二度繰返した。「解らないと言ふのですか。」 彼は苦痛に堪へ兼ねた樣にふり仰いだ。一瞬秋の日の輝きが熱した顏貌に落ちて—— 顏は光明に滿ちた。……「解らないと言ふのですか。ね、僕はフランスに行きました ——もつと遠くへ行きました、僕は輝く大洋の彼方新しい國にも行きました。 ——そして又歸つて來たのです。あなたの御城を搜しました、城には危險が迫つてゐます、 あなたは亡命してゐる、どこへやら誰も知らない——僕はあらゆる道を尋ね廻りました。 ある道が森林に向つてゐる、これがあなたの行くのを見たと言ふのです、—— 僕はグレゴールの小屋を搜しました、彼は家に居ないのです。—— あらゆる森や峽谷を渡つて、旋條銃の與へる獲物に露命をつなぎながら、 僕は幾日となく幾週となく歩いた。そのうちに——明るい樂しい時刻でした ——此の湖のことが電閃の樣に僕の心にひらめいたのです。 この湖を昔グレゴールは僕に教へて、『此の芝生、此の岸邊には森林の搏動がある、 私にはそれがきこえる樣な氣がする、此の地こそこのましく忠實で、 王城よりも更に堅固だ』と言つたのです。——僕は來ました—— あの岩壁の端を攀ぢ越えようとしてこの木造の家を見ました、 とある岩間の小徑を傳つて下りました。グレゴールはこの徑を知つてゐます—— あなたなどにはそれこそ死の小みちです。——あすこです、 押し出した土砂のはじまる邊、岩蔭に僕は力盡きて打倒れて、 兩手の血汐を拭ひました——拭ひ終つて眼を上げると—— 百碼も離れてゐないすぐの所に砂利の縁にあなたがヨハナと坐つてゐるではありませんか、 二人とも白い着物をきて親しげに語らひつつ……僕はびつくりして、 湖も木々もぐるりと廻轉する樣に感じました……高鳴る心をぢつと抑へて、 上ずつた呼吸があなた方に聞えない樣にといきをひそめました、 あなた方の言葉さへこちらへ聞えなかつたのですから、凡そおろかな話です—— 然しあなた方の話したのはきよらかな樂しい言葉であつたに違ひありません。 何故ならあなた方は坐つていつまでも話して居ました、 遂には手と手を取り合つて、默つて空を見上げてゐました、 感動と愛と信頼の心にあふれての樣に見えました。——夕暮になつた時あなた方は去りました、 此處にある此の木があなた方の衣裳の最後の薄光を呑みました。—— 僕は坐つたまま、一握の莓で飢ゑをしのぎました。その後も僕は森をさまよふたり、湖畔を歩いたり、 あちこちの岩の上に憇うたりするあなた方の姿を見受けました—— 時には手の屆く程まぢかなこともありました。夜豎琴の音もききましたよ。 ……御覽、此の向ふに岩の頭が二つあるその周圍に土砂が流れ出してゐる邊りに一本立つてゐますね。 木と言ふよりもむしろ銀松の切株に過ぎない、昔落雷に打ち碎かれたものです。 あの木は晝間は不快な灰色をしてゐますが、夜になると青や緑や白に光り出すのです。 ——僕は幾時間となく岩に坐つて、默りこくつたこの夜の輝きを見詰めてゐました。 ……それにクラリッサ、何故來たのかと聞くのですか?」 「ああ私を迷はせないで下さいまし」と彼女はしみじみ哀願する樣な聲で言つた。 「ああ迷はせないで下さいまし、昔のままの魔法でございますわ。 御存じでございませう魔法の力は、昔おろかしい少女にかけてお試しになつたものですもの。 ——ああ迷はせないで下さいまし、卑怯でございますわ。」 思ひ決めて居た乙女が迷ひはじめて、一人の男に殆どおぢ恐れてゐるさまは見るも異樣であつた。 男の風貌は晴々と子供のそれの樣であつた。 然し彼がクラリッサの言葉にしばし默然として空を仰ぎ見る風情をよく見るならば、 精神そのものが蘇生して來て、それにクラリッサが頭を埀れてゐる樣な思ひがした。 この相貌に猛々しい高貴、熱狂する詩があつた。瞳には切願し而も支配する何物かが宿つてゐた。 さわらば消えなんこまやかな情、それが戀人の心を限りなく捕へる、 戀人を限りなく愛しながら一方未知の國へと誘ふのである。 迸る胸、それが行爲にこがれてゐる。そしてこの最後のものこそ、 常に戀の喪失の危險に立ちつつ、クラリッサの心をかくも不思議の力で捕へた、そのものであつた。 「いゝえ、いゝえ」と彼は再び穩やかにはじめた。「美しい天使のクラリッサ、卑怯ではありません。 僕は馬鹿々々しく何のあてもなく來たのであはない。何故つて、知つてゐるである、 一部は強制されて一部は自ら強熱に任せて僕があなたの許を去つたあの日以來、 僕の抱いた物思ひは唯ひとつでした、僕は狂ほしいくそればかり思ひ續けたのだ ——あの頃は未だあの方が御存命で、『幻想を捨て去れ』と命じて下さつた—— 僕はそれを振り捨てゝ四方の風にふり撒かうと思つた、 僕は猛々しい本能に驅られて此處の森林を幾月となく歩いた—— その時グレゴールに逢つたのだつた。僕は子の樣に老人を好きだつた、 尤も氣狂沙汰や冐險にかけては僕に比すればグレゴールこそ子供であつた—— 所が默して語らぬ胸のうちに僕は幻影をしつかと抱いてゐたのだ—— その後僕はあの目まぐるしい都市を見、新しい世界の無限の荒野を見た—— あの方が亡くなられた時、僕は再び歸つて來た、而もあの方の所謂幻影をば又持つて歸つて來たのだ ——然しクラリッサ、もう何んもかもうまく行つた、——僕は一年間と言ふもの働いた、 苦しい一年であつた、山なす障碍が取除かれた——何もかも平坦になつた——僕は自由なのだ。 ——子供を搜す母親も僕があなたを、戀人を、殘された人を、忘れ得ぬ人を搜して、 一切合切話して了はうとした程熱心ではない、——おおクラリッサ、お願ひです、 昔を思ひ出して下さい、自分の胸に手をおいて下さい、そして後生だから何故來たかなどときかないで下さい!!」 クラリッサがはつと思つて遮る暇もなく、彼は起ち上つて彼女の足下の固い石ころの上にくづ折れ、 彼女の手を握りしめて、大きな青い眼で不安さうに死人の樣に蒼ざめた彼女の顏をぢつと見詰めた。 「まあ!お起ちになつて」と、魂の力も失はせて、眼をおどおどさせながら彼女は言つた。 ——「どうぞお起ちになつて……私は武裝してここへ參りましたのよ、 あなたの胸の御力で武裝をお解きになつてはいけません——いいえ、 どうしてもいけませんわ。——以然に御存じの私……あなたが私逹の城へいらして、 父の御氣に入りになられたあの頃の子供そのままだと御考へにならないで下さいまし。 ……あなたは大變御美しくいらして、御顏を見つめたまま私はどうすることも出來ませんでした。 精魂と物のあはれの情が押寄する海原の樣に西東も分らぬ私の胸に流れ込みました。 迫る力にどうすることも出來ないで孤獨な私の子供の心は御唇の許へ飛びました—— 何處から來られた方やら、誰方やら訊ねも致しませんでした——あなたにひたと寄りそひました ——樂しさに心も狂ひはてて寄りそひました、罪の深い私、父を忘れ母を忘れ、 神樣も忘れ果てて。……するとあなたは行つておしまひになりましたわ。 ……それからすべてに耐へました——私は自分の罪深さが分りました—— 神樣の御惠みで罪を悔いて罪を忘れることが出來ました。 私の魂は又本來の純潔な愛に復しました。御覽あそばせ、ここにゐましあどけない少女、私の妹でございますわ、 それから家にゐます父と兄のフェリックス——これが私の戀人——それに天にまします主—— これが私の神樣なのでございます……私は堪へ通しましたのよ。」 彼女の瞳からは涙が溢れてヘッドリングのダイヤモンドと共に光つた。 「いいえ、クラリッサ、堪へ通したのではない」と彼はクラリッサを見上げて言つた。 その時彼の眼の青空を歡喜が走つた。「いいえ、堪へ通したのではない。 僕が物のあはれを知る心と精魂の海をあなたの子供心に注いだとすれば、 同じものを僕の心にも注いだのです。——事實のところ、 最初は少女の胸に芽生えかけた珍しい豐かさと強さが僕を惹きつけたに過ぎなかつた、 僕はためつすかしつ豐かさに近づいて少女の唇を奪つた。 ところが僕に似た深い猛々しい大きなそして詩的な魂が少女の心から萠え出でて僕の身内に根を下ろして了つたのだ、 僕は驚いた、ところが今度は僕の方も暴風雨に身を任せて少女の魂に飛びかかり、 ひたむきにひとつになれとばかり情熱と情熱、歡喜と歡喜を取換へたではないか。 ……ああ、あなたは僕の妻!あの頃は子供だつた。然し少女の唇が、 後になつての世界中のどの喜びよりも僕を有頂天にした、 その唇が僕の心の底深く燒けついて消えなくなつて了つた。幾年の歳月も、 土地の隔りもそれを消すことは出來なかつた——そして僕は今此處に來ました、 僕は世間と絶ちました。世界中に何の望みもない、只も一度この少女の唇をと願ふばかり。」 彼は膝まづいたままであつた。人好きのするその顏は我を忘れてクラリッサを見上げた。 ——彼女は然し崩れ行く自分を感じてゐた。その額のあたりには定かならぬ歡喜か、 感情の朝燒けか、あやしく動いてゐた。——しばしば尚ほ我と我が心とあらがひながら途方に暮れて四邊を見た。 彼女は全く異つた意圖を抱いて此處まで來たのではなつた[注:來たのであつた?]。 ……やがて新たに濡れたうすぎぬが彼女の眼を蔽うた。然し瞳が男の上に落ちて殆どきき取れる程に聲を震はして、 「でも、ロナルド、あなたは行つてしまつたぢやないの!」と言つた時、眼には甘い悲しい優しさがあつた。 「さうです」と彼は叫んだ。すばやい熱狂した不思議な雀躍がその面を掠めた。 「さうです、僕は去つた、何故なら僕、あなた、 それからあなたの父上あなたの王樣よりももつと權力ある方がそれを命令されたからです ——いや命令されたからではない、哀願されたから、 それがあなたの爲僕の爲だと言はれたから、それで僕は去つたのです。 ——それにクラリッサ、僕自身の猛り立つ心に驅り立てられたのです、 外に行つて名も知れぬ驚くべき事業を成し遂げなければならないかの樣に、 愚かにも空しい世界へさまよひ出たのです。……然し行つて了つても、 又僕は歸つて來ました、もう決して〜離れはしない。——あなたは僕の呼吸、 僕の鼓動。——動悸打つあなたの胸、あなたの優しさ、あなたの愛に比ぶれば、 外の世界は砂の樣にひからびて居る、すべての世界は何の役に立ちやしない。 ……ね、あの方は僕を自分流の英雄に、或は更に御自分の樣に偉い人間にし立てようと思はれたのです。 僕の母に生寫しだと言つてあの方は僕を熱愛された。私逹の美しい遠い國へ歸らう、 あの國を私は世界の一等國にする心算だ、そしてお前を私の世繼ぎにする、 私はお前の氣の毒なお母さんに犯した罪をお前に償ふ心算なのぢやと、あの方は言はれた。 ——世界中に對して強者でゐられたあの方は、僕にだけは弱かつた、 僕の少年時代は我儘一杯を許された、僕は廣い世界を隅々迄も飛んで行き度かつた。 敵國さへ僕はうろつき廻つた、あなた方の城には幾月となく滯在した。 ……あなたとの結婚を狂氣の樣に僕が頼んだ時、あの方は、お前は未だ子供だ、 出なさい廣い世界へ、どこでも行き度い所へ行くがよい、海を越えても構はん、 それで歸つて來て尚ほその人がほしいと言ふのなら、 貰つてやるから國に連れて歸るがよい、——ともかく行け、 そして幻影は捨てゝ了へと言はれた。……所が、クラリッサ、 僕が歸つて來るとあの方はとうに亡くなつて居られるではないか、 ——死を悲しむ者の中で間違ひなく一番悲しく泣いた二人、 それは僕とそれから必ずや遠く離れた僕の母であつたらう。 僕はあの方にもう一度逢つた——奔走の結果僕の爲に廟を開いて柩を開けて貰つたのです。 ……あの方は僕の一身に關する計畫を大臣の胸に預けておかれた。 この一年と言ふもの僕は大臣、將軍逹その他の人々と爭はねばならなかつた、 いつまでも解決のつかぬ悲慘を極めた一年間、遂に僕は自由を得て思ひ通りのことが出來る身になつた ——それから僕の最初にとつた歩み——否僕は空を翔つたのです、 あなたの許へ、——僕を憎んでゐるか、——許してくれるか、——相變らず愛してゐてくれるか、 それを聞きに、何はさておいて僕はあなたの所へ來たのです、 これから然し僕は母を尋ねなければなりません。」 彼の兩眼は涙にあふれ、聲は咽喉につまつてこれ以上話すことが出來なかつた、 彼は片手で涙を押拭ひそれから思ひ知れぬやさしさをこめて言ふのであつた。 「クラリッサ、あなたはすつかり變つたね。大きく立派になつて、 殆どあの頃よりも美しくなつた。僕は今日一目見た時殆ど氣後れして了ひましたよ。—— クラリッサ、固苦しい飾りを取つておしまひ、 あなたの可愛らしい顏の周に飾りが悲しい光を投げてゐます。 昔僕を有頂天にした又あの子供におなり。——ね、クラリッサ、 今でも僕を愛しててくれるでせう?……さうでせう、——ね、内氣な、 それでゐて烈しい赤ん坊さん!」……心の底からさらけ出して彼は彼女の方を見上げた。 非常に柔和な、純眞な魂が彼の風貌にこもつてゐた。 ……彼女は胸一杯に昔の愛がこみ上げて來て何もかも融けて了つた。 何物よりも逞しい感情が魂をゆり動かし、他の死んだ宇宙全體に見られぬ、 それ以上の輝きと力とを魂に授ける時、人間は何とか弱いものであり而も何とすばらしいものであらう。 ——すべての森林、聞き耳立てる楓樹、光る岩壁、更にヨハナとグレゴールさえも、 クラリッサの傍にあつては、空しい虚飾の樣に消え失せて了つた、 世界にあるものは二つの動悸打つ心臟の他にはなかつた。—— すべてを忘れ果ててクラリッサは愛に輝くその面と、涙に濡れた黒い眼を一層彼の方へとさし寄せた。 そしてヨハナを驚かした語調で言つた。「おおロナルド、愛してますとも。 私どうしていいやら。假令千もの缺點がおありでせうとも、愛して居りますわ。 ——限りなく愛してますわ、父よりも兄よりも、私自身よりも、何よりも、私には解らない程……」 「そして僕は」と彼女の言葉も終らぬうちに彼は答へた。 「ね、僕は一滴一滴この血汐をあなたの爲に流さうと思つてゐるのだ。 どうにしてもあなたにふさはしくなる爲、僕は親切に、やさしく、 野の羊の樣になりたい。——僕の國へ行かう、それとも此處に居てもいい、 勿論僕も此處に居ます、——僕の生命を取つて下さい、 この身内から抉つて魂を取つて下さい、それ位愛してゐるか、あなたに解る樣に……」 彼はクラリッサを引寄せた——何のあらがうこともなく彼女は身を任せた ——そして二人は怒濤の樣な激情に打震へて、相抱いた、固く固く腕と腕と、 そして彼の金髮の捲毛はクラリッサの兩の肩の天鵝絨の衣にしなだれ落ちた。 此の場の二人の目撃者は狼狽してどうしたものかと互に目を見合せた。—— 然しこれまで高まる不安を押へて聞いてゐたヨハナが、突然突立ち、 怒りの涙を雙眸に光らせて叫んだ。「クラリッサ、何をするんです。」 呼ばれた人ははつとした樣に、飛び起きて、振り向き、 これまで自分がその先生でありお手本であつた子供が目の前に突立つてゐるのを見た時に、 否、もう子供ではなかつた、恥かしさに火の樣に赤くなつた乙女になつてゐた、 その時、クラリッサはしとやかに然し勝利に輝きながら、ヨハナの胸に身を投げた。 しばらく物言ふ者はなかつた。クラリッサの啜り泣きとやさしい森のさやめきが聞えた。 クラリッサは遂に再びやさしい頭を上げて心も輕くなり、姿は更に美しくなつて抱擁を解いた。 そしてうつとりした美しい眼に愛をこめてヨハナの顏を見た。 それなのにヨハナは未だ泣くまいと力めながらそこに突立つて居たので、 グレゴールがつかつかと歩みよつてヨハナに言つた。「興奮してはいけませんよ、ヨハナ、 誰も惡いのではありません。これが神樣の思召なのです。 ——だからこそ人は父も母も捨てて女《ひと》に附き纒ふのです。 ——これが自然と言ふものです。——落着いて下さい、そしてクラリッサを優しい目で見ておあげなさい。 いつもこれまでお母さんの樣にあなたを勞つて下すつたでせう。 ——所でそちらのロナルド、君に一言言ふことがある。知つてるだらう、 どう言ふ風にして君が森林へ紛れ込んで來たか、わしに逢つたこと、 わしが君を可愛がつたこと、共々に獵に出たり、藥草を採取したり、岩を攀ぢたり、 わし逹が打興じてゐる間に、外の世界では恐しい密獵者とその小さな銃彈にまつはる言傳へが擴つてゐたのだ。 ——あの頃わしは呼ぶに不自由を感じない樣に、只君の名だけをきいて置いた。 ——君はこの人について、君がそれ程までに強く愛してゐることなど一度も話さなかつた、 それも又別に下心があつた譯でもあるまい。人はみな思ふことがある、 それはどの草にも花がある樣なものだ、これを祕密にしようとするならするがよい、 花の知つたことではない。——それはどうでもよいとして——君はともかく行つて了つた—— 幾度かわしは君を思ひ出したが、考へてみると君はわしを避けたらしく思はれた。 何年か經つた——そこへひよつくり此の岸に現れて、 氣狂に樣になつてわしを口説いて姫方と會はしてくれる樣にとつめよつたのだ。 その時もわしはどう言ふ譯でなどと尋ねなかつた。——わしは只姫がお美しいので君が迷つたのだ位に考へた。 ——所でまあ聞いて下さい、此の少女逹の父なる人は極めて立派な人物で、 立派な心ばえと優れた才能を備へた方です。もうわしと同じ白髮を頭に戴いて居られる。 この人物がわしの友人で君よりはずつと古い友人なのです。この人からわしは娘逹が森林中に滯在する間は、 城が危險からまぬかれる迄、父代りになつてほしいと子供を任せられたのです。—— さてここ迄話してどうやらお尋ねせねばならぬ樣に思ふが、この人を妻に慾しいと言ふ、 一體君は何者なんです。どこの國びとでどんな家柄の人なんです、 わしは父なる人に知らしてやらねばならん。君の小屋はどこにあるのです。」 「僕の小屋にはね、老人、幾百の窓があるのです。そしてその屋根の蔽ふ地面は、 あすこの湖水が占めてゐる位の地域に及ぶでせう。然し此處からは遠い國にあるのです。 そしてこの家とその他すべてを僕に下すつた方は勝利に輝いてあなた方の土に眠つて居られる。 ——それ故此處が僕の祖國な譯です!——おお、クラリッサ、此の呪はれた戰爭が終るでせう、 近々終らなければならない、そすればスヱーデンと獨逸の間に何の區別ももうなくなる、 あなた方の北國の同胞はあなた方を愛し、あなた方は彼等を愛するでせう。 何故なら彼等はひとしく同じ名前の子供逹なのだから。——御覽、 僕の身體にはゲルマン人の印と姿があるではありませんか。 恐らく彼のローマの英雄が描いたと同じ純粹なゲルマン人なのです。—— これからあなたの祖國が僕の祖國となりませう。此の美しい嚴肅な默然とした四圍の森を御覽。 ——おお、どんなにか僕は森林を愛してゐる、 森林は僕がその中に足を踏みこんだ時もう僕の心を理解してくれたのだ。 當時僕の胸には未だ、僕が子供の頃を母に育てられた、あの廣々とした蝦夷松の林がおぼろげながらぼんやりした姿で宿つて居たのだつた。 ——そして今この森林の内懷の眞直中で、甘い不思議なお伽話の樣な、 僕の幸福の野の花がこちらを向いて咲いてゐるではないか、それこそあなたなのです。 ……おお、クラリッサ、心の温かな神祕の花、この胸が如何ばかりあなたを思つてゐるか。 おおこの胸に、愛の言葉を教へて下さい、でないと焦れて死にさうです。」 彼は再びクラリッサと向ひ合つて坐つてゐた。照り映えたその顏は彼女の方へ振上げられ、 流るる金の頭髮がその周りにふさふさと埀れてゐた。二つ星なす丸いクラリッサの愛の雙眸がそれを見下ろして。 ——彼女は燃上る激情のさなかにも婦人逹の失はぬ、あの美しいたしなみの感覺に從ひ、 ヨハナの傍に坐つて、絶えずロナルドの方よりはヨハナの方を向いて居た。 ロナルドが最後の言葉を言つた時彼女は唇を開いて、半ば情をこめ半ば恥かしげに、 「ロナルド[、]ヨハナが居ますわ」と言つた。 「ほんのもうしばらく、甘い花、あなたの眼を見せて下さい」と彼は答へた。 「ほんのもしばらく、そすれば僕はこの幸せを胸に刻みこんで、その千分の一だけでも持つて行くことが出來ませう。 ——僕には分らない、此の變幻の魔力はあなたから來るのかそれとも森林からなのであらうか。 ——まるで別人になつた樣な氣がする、そして外の世界にも何の暴風雨も廢虚もなくて、 此處と同じ樣に靜かな暖かな秋の日射しがあるかの樣に思はれる。御覽、岩壁は壯嚴に輝いて見下ろしてゐる、 楓は時折ひらひらと葉を落す、あすこにはきりぎりすが鳴いてゐる、 穩かな空氣はあの輝いた陽あしを崩すことすら得しない、そして午後の日のぬくもりが微動しつつ灰色の岩の面を滑り落ちてゐる。 ——僕にヘ外の世界があるとは思へない、人も此處にゐてお互に愛し合ひ、森の純眞に見習ふ人々の外にはまるげ考へられない。 ——もうしばらく話して下さい、この樣な刹那が又來るかどうか。人は明日知れぬ身なのです。 樹木の落葉の樣に、いやそれよりももつと果敢ない、葉は秋にのみ散る、 人はいつとも知れないのです。」 これ等の言葉の間ヨハナすら、愛らしくも變り易い心の主故、思遣り深く人事ならぬ思ひで此の美しい若者を打ち見た。 彼女はこの世で一番大事な寶、クラリッサの心を捕へて了つたのは一體何處なのかしらと輕い好竒心すら動いてゐた。 「此の草地を」と彼は續けた。「僕逹のゐる此の美しい草地、僕逹は主《しゆ》の前にあつては取るに足らぬものみなに過ぎない、 又草地の草間や岩間には戲れ息づくその他のものも居る、これを包んでさやめく神の森林、 そこには身分も地位もない、——この草地をこそ僕等の婚約の廣間としよう、 ——そして僕逹を取捲くすべてのもの、それが證人なのです。——手をお出し、クラリッサ、 神の御厚意があるものなら、喜びにも悲しみにも永遠に僕はあなたのもの、 もし思ひもかけずこの瞳が死の蔭に打たれる定めであるのなら、やもめになつてささやかな涙を流して下さい。」 輕い戰慄がクラリッサの五體を走つた。彼女はこよなく感動して起ち上つて居た。 そして一語をも發することが出來ずに、嚴肅に、教會の敬虔さで、片手をロナルドの手に添へた。 ヨハナは不安に深く息をついた、彼女の胸は盛れ上りそして沈んだ。 そして名指された證人逹は死んだ樣に靜まり返つて周りに立つて居た。只蝦夷松の林が香をくゆらして、 樹脂の香をすべての上に漂はした。そして蟋蟀は思慮もなく鳴き續けた。 年老いた獵人は起ち上つた、旋條銃を前に倒して、立像の樣に。 顏には心の中の動きを示す一筋も動いて居なかつた。 ロナルドは左手を廻してヨハナの手を求める樣にした。 ——ヨハナはせきあえぬ涙に咽び泣きながら手を差出し、いつまでも固く握つて、 離さうともしなかつた、クラリッサの幸を願ふ物言はぬ途方にくれた願の樣に。 言葉のない感動が幾秒か續いた後しづかに二人は離れた。美しいスヱーデンの若者はクラリッサの許へ歩みよつて、 唇を彼女の額にかがめ、嚴肅に、落着いて押しあてた。彼女はつつましく燃え立つ花の樣に男の息吹の下に立つてゐた。 それから然し彼女はヨハナの方へ近づいて、過ぎ去つた姉妹二人の幸福の樂しかつた頃の樣にその手を取つた。 傍にゐるこの純眞な心がこの刹那に何を失ふのかクラリッサはよく分つて居た。 ロナルドの方を向いて然し彼女は胸苦しげにかう言つた。「ロナルド、 私逹のしたことはこれでいいのかしら——まあ、私としたことがお父樣のことを忘れてゐわ!—— ね、これでいいのかしら、そしてこれからどうしたらいいのかしら。」 「私の言ふことをお聞き」と彼は答へた。「何もかもとうに決つてゐることなのです。 僕は出かける、而も今すぐ。あなたの心持はもう分つた、これからお父さんの所へ行く。 お城が危いのです。トルステンゾーンの命令下に立つてゐる部隊です、—— この部隊は當地通過の序でにヰッティングハウゼンと取つて了ふ樣に命ぜられてゐます。 トルステンゾーンと僕は以然からの仲よしです。必ず盡力して何の罪もないあなた方の城がそのまま危害を受けない樣に、 そして僕とあなたにとつて何よりも大切な尊敬すべき頭には指一本差させぬ樣にします。 今時分山越えの時刻であることを僕は知つてゐる、で假令城が包圍されても、 僕が出掛けて行つて、あなたの大事なお二人を保護します。 すべての徴候がいつはりでなければ、此の戰爭は急速に終末に向つてゐます。 そのうちに僕はお父さんに、僕の一身に就いてお知らせする必要のあることをすつかりお話する。 そして和解した諸國民が相擁して、歡呼の叫びが國々に滿つる時、 その時こそ、クラリッサ、僕逹の小さい祝祭が大きな一般の祝祭と一緒になるのです。—— 僕は母を搜してあなた方の國へ連れて來ます——そしてクラリッサ、此處の此の場所、 森林の中の神々しい此の島に僕逹の爲に氣持のよい家を建てよう、 そして僕逹はいつも此處に住むのではなくとも、屡々この不思議な場所を訪れませう、 そしていつも今の樣に孤獨な解き放たれた森林の兒になるのです。——さあ、動悸打つ心、 お前が此の花を見て樂しむ一瞬間は過ぎたよ、用意するのだ——そして主なる神樣、 榮えと喜ばしい再會を御惠み下さい——さあ行かう。一刻を爭ふのです。 だから僕はあんなに氣狂の樣に會ひたがり、遮二無二押し切つたのです。 あなたの眼をもう一目——さう——ああ、現在離れて行かねばならぬことがまるで僕には分らない樣な氣がする。」 彼の眼に涙はかすんだ。然しすばやく氣を取りなほして乙女逹の方に手を差延べた。 「御機嫌よう、クラリッサ、僕の妻。御機嫌よい、ヨハナ、それからグレゴール、 神樣があなたを守られます樣に。あなたの二つの眼の樣にこの二人を守護してやつて下さい。」 ——かう行つて彼は去らうとしたが、グレゴールが引き止めて言つた。「ロナルド、 君の言つたこと一切筋が通つてゐる、賞めてあげる、唯ひとつだけ、君一流の例の底拔けがある。 此處に家など建ててはいけない。——そんなことをしたら森林の心臟に痛みを加えることにならう、 そして森林の生命を斷つことにならう——むしろ、この二人が城に歸つたらあの木造家屋には火を放つて、 その跡に草の種を播くがよい、さうすれば再び開闢以來のそのまま好ましさ美しさに復するだらうし、 森林が君方の存在に歎息することなしに濟もう。——さあ、では行くがいい、 湖尻の溪流の右岸を山毛欅の傾斜地を拔けて行くのです、近道になる、—— 又例の岩梯子をお登りなさい。湖を渡してやり度いのは山々だが、 下男逹に君の來たことを知らせてはならぬ——まあ行つて見るがいい。」 然しロナルドは夢から覺めた樣に顏を上げた、今一度手を握りしめて、——幾秒かためらひつつ ——やがて銃を取上げ、思ひ切つて岩壁の方へ進んで行つた。 乙女逹はいつまでも見送つてゐた。灰色の姿が灰色の岩石の合間に動き、 小さく小さくなり、遂には何にも見えなくなり、あたりはもう午後の日射しにかげつた靜かな岩壁ばかりだつた。 人々は交互に顏と顏を見合せた。荒野の聲以外の聲が今しがた荒野に響いたのは、 あれは夢であつたか。——太陽はいつもと變りなく照つて居た。鳥どもは囀り、 森の青空はぢつと見下ろしてゐた。この夢まぼろしの中に突然グレゴールの聲がやさしく響いた。 「あの男はあなたをよほど愛してゐると見える。」 言はれた人は美しい眼を上げてグレゴールを、父とあがめる人を見た。 然しヨハナは哀痛をこめて、「何もかも幸せに終るといいわね」と言つた。 これが竒妙な婚約に就いて誰かの口から出た唯一の言葉であつた。 婚約はまるで不氣味な影繪の樣に彼等の草地で行はれ、その濟んだ跡には何も殘らない、 唯美しい輝いた地面があるばかりであつた。人々は未だその跡に彳んでゐたが、 此處は彼等三人の者が幾度もむつまじく手と取つて歩いた所であつた。 今日も休息のベンチの傍を、楓樹の傍を過ぎ、彼等の泉の流れに沿ふていつもの樣に歩いた、 然し思ひはいつもの樣ではなかつた。 家に居た人々は日暮れに獵人と乙女逹が楓樹林の散歩から歸つて來る姿を見た。 そして老人のかたくなつた用心振りをいぶかつた。彼は家内中のものに家の警戒の爲杭垣から外に出てはならぬと命じたのであつた。 人々は森の草地から家に入つた。クラリッサはもう昔の落着きを持たなかつた——ヨハナも昔の幸福を。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:湖畔の處女|六 森の巖 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- そして又森林の上に昔のやすらひがあつた。……時折しろがねの雲の船がぽつかりと青空を渡ると、 地上の森林を影が走る、それが過ぎると又同じ渝らぬ光が森の全面に輝く。 ……或は晩秋の鋼色の雲が蒼穹一面に隙間なく擴がつてゐる時、 一筋の日射しが雲間を洩れて、遙かな山毛欅の傾斜地に口づけるよと見る間に山毛欅の林に金色の一點を生じ、 それが林の端へと移動し、遂には空に入りかき消えて了ふ。その後は再び見渡す限りの同じ灰色になる。 そして姉妹の心もこの樣であつた。 太陽は又しても來て、そして又しても去つて行つた。然し日は漸く短く寒くなつてきた。 グレゴールはあらゆる防衞の手立てを講じた。杭垣の戸はいつしか又開かれ、閉めてもなく閂もかけてなかつた。 乙女逹は又その草地を四方に歩くことを許されて、歩き廻つた。 ——家の傍には少し宛一山一山と薪が積まれた。下僕逹が森の惠みを集めたものであつた。 と言ふのはグレゴールは新しい木を倒すことを許さなかつたからである。 ——壁の表面には家の冬のよそほひに、苔の衣が織られはじめた。 ——柔かなのろい秋の子は既に姿を見せた、霧である。 未だ日のぬくもりのある壁なす岩の邊に姉と妹と坐つてとぎれがちな日の輝きを樂しんでゐる樣なことがあると、 しばしば外を霧が動き流れた。或時は湖水を越え谷間を貫いて蜘蛛の巣を引く樣に、 或時は銀色の島と森林の斷片を自在に轉がしつつ、それは白と灰色と森林のくれなゐ織りなす秋の紅葉との不思議な色の混合であつた。 これに太陽が立交つて、熱い白く融けた閃光と冷たい濡れた青い蔭とを織込む。 そこに浮き出す色の融合こそ、春と夏のあらゆる色彩よりも美しく深い。 その樣な時乙女逹が默然と景色を眺めやつて居ると、傍にはかすかな水のせせらぎがきこえ、 一ひら二ひら、山櫻の血の樣に紅い落葉が二人の足許にほろほろとおちる。 彼等はここに坐つて、自らも秋にふさはしい憂ひに包まれ、これ等の營みを見やつて居た。 荒野がこれ程の壯嚴と靜寂を以て冬に備へてゐるのを見れば、 此處の冬は如何ばかり嚴肅なものであらうと感ぜられた。 家の中では鶴嘴、シヤベル、雪靴、橇その他の道具がうづたかく積まれた。 雪に閉ぢこめられ或は積雪の爲に世間との交通を絶たれる樣なことにならぬためである。 人間と言ふものは竒妙なものだが、その心こそは更に妙である。 ロナルドの來ない前の月日は日一日と森の中でどれ程單調に過ぎて行つたことであらう。 日毎に同じ色、同じ聲、同じ壯嚴、そして湖上には同じ凪、屡々退屈の思ひすらあつた。 ——今や溢るる喜び、いや震へる喜びがクラリッサの胸に來た。 彼の不可思議な感情から湧いて來る喜びであつた。造物主は男女兩性が主の目的に嬉々として適ふ樣に、 二つの性をこの感情によつて取り結ぶ。——而もそれで居てクラリッサは自分が幸福の絶頂にある思ひはしなかつた。 むしろ昔の單調な幾日の方が今よりは幸せであつた、あの頃はもつと自らを敬し自らを愛して居た樣に思ふのであつた。 ——その頃のことをふり返ると殆んどうら悲しい思ひに打たれた。例へば森林のあちこちをグレゴールとヨハナと、 罪もなく語らいながら、歩いたものであつた。自らの何の下心もない、 妹と老翁もすつかりこちらを信じ切つてゐる樣が如何にも美しかつた。 それから夕暮にヨハナをいたはり教へ共に眠つた。 ヨハナの單純な胸にとつては姉こそこの世の寳であり富であつたものを。 ……それが今では、重苦しい甘い物思ひを彼女は胸に抱いて居た。 傍なる二人、これまでは離れがたく思はれた人から離れて、見知らぬ男《ひと》を求め、 自分だけの喜びの高鳴りをこそ求めて居た。……おお、清らかな良心の金《きん》よ、 そなたは利己的になりはじめた人の心を罰する、その手ぎわのす速さ、そしてみごとさよ。 ヨハナは、姉の愛の表示がどの樣に息詰まる程であらうとも、 恐らく息詰まる程であればこそ、自分が何かを失つたことを十分に感じて居た。 ——姉の愛ではない、愛情はむしろ一入深くこまやかであつた。 お互同志の以前の擧動《そぶり》でもない、これも昔に變る所はなかつた。 ——一體何であらう。ヨハナには判らなかつた。ともかく何かよそよそしい、 ふさはしくないものがあつて、死體の樣にヨハナの心の底にこびりついてゐた。 ——彼女は姉を可哀想に思つた故、以前よりは一層クラリッサを愛した。 然しともすればヨハナの胸は子供の樣に昔を戀ふ心に襲はれた。 此の郷愁は、ひたすら樂しくひとすぢであつたあの頃に幾條かのつながりを持つ樣なふとした事物の折にふれて、 屡々むくりと頭を擡げた。例へば或日人々は湖上の逆茂木を越えて白樺の溜りに出た、 此處は夏うちは暑いので避けられてゐた。丁度岩石の入江の中へ突出て居て、岩から暑熱を反射した。 今では甘い牛乳の樣に晩夏のぬるい日射しが白い樹幹とちらほらとある金黄色の葉の周りに注いで居た。 此處は日射しが何處よりも暑く媚びる樣に照つて居た。人々が歩みを進めて行くと、 この樣に秋も更けた時候に實に竒妙にも、美しい大型の蝶が澤山集つてゐるのを見た。 緑に黄色なリボンの附いた四枚の黒ずんだ、殆ど黒い翅に故に、 「喪服のマント」の名を頂戴して居るあの種類の蝶で、一部は白い幹に止つて、 とぼしい陽光を求め、この蝶のやり方でおもむろに翅を開いたり閉ぢたりしながら日向でたわむれて居た。 ——或は聞くべうもないかすかな翅音で他の蝶の止つてゐる樹幹の周りをひらひらと飛廻つて居た。 乙女逹は驚いて立止り、その場の不思議な光景を見つめた。 肌理の細かなマントは非常に柔らかな傷一つない天鵝絨であり、 リボンは非常に水々しい黒黄を呈してゐたので、ヨハナは刹那に叫んで居た。 「まあ、可哀想にだまされた人たち、お前逹は未だ子供でみんな未だ子供部屋に集められてゐるのよ。 お前逹は溜の暖かな秋の日にだまされて生れたのよ。 それでお前逹は秋の日にとつては不氣味な異國人で、 この僞りの春の中をもの憂げに翅を動かしてゐるけれど、 きつとお腹もひどくすいてゐるのね。何故つて何處に花があるの、微風が、翅音をならす仲間逹があるの。 幼蟲生活の心はそんなものを約束した筈だし、蛹時代の眠りにはその樣なものを夢に見た筈ではなかつたの。 ——そんなものみんな來るわ、だけど來る頃にはお前逹はとうに凍死して了つてゐるのよ。」 「さうではないのです、ヨハナ」と老獵人が言葉をはさんだ。 「蝶逹は夫婦《めうと》になるかならぬか、それだけが問題なのです。 此の昆蟲逹は結婚がすむと忽ち死にます。母親の蝶が卵をうみつけたその同じ枝に引懸つて死んでゐるのを私は幾度見たことでせう。 然し若し夫婦にならないと、そうするとその蝶は硬直します。 御覽、岩の裂目に潛つたり、時には氷や雪の中に凍りついて、 この脆い生きものが森林の苛烈な冬を越えるのです、そしてやがて約束の春に巡り逢ふのです。 はじめて春の陽光を仰ぐ頃、未だ草木も殆ど芽を出して居ない時にもう飛んでゐる蝶を見たことはありませんか。 この蝶は去年の朽葉の樣な、色のあせた傷だらけの翅をしてゐます。 ——これがその樣にして冬を越した蝶なのです。」 ヨハナは然し答へなかつた。老翁の言葉が石の樣に彼女の心に沈んだ。 彼女は悲しくなつて何とも言はなかつた。そして先に歩いて行く可哀想な姉の後姿を見送つた。 然し姉の思ひはとうに蝶のことから飛んで居た。 「でも私逹の庭に棲んでゐる蝶々の方がもつともつと面白くて美しいわね」 と到頭ヨハナはグレゴールに言つた。「でなければクラリッサも最初からこの蝶のことや私逹の話に加はつた筈よ。」 然し彼女の瞳には一滴の涙があつた。 グレゴールは默つて首を振つた。 以前にも一度ヨハナ自身は氣がつかなかつたがその重い心をグレゴールは見てとつた。 二羽の雀がきつかけであつた。と言ふのは或時晝食の後ヨハナが露臺を出て鷄にパン屑を撒いた時に、 鷄の間に二羽のこの人なつこい小鳥が來て忙しげに如何にもお腹が空いたらしく鷄の爲に投げられた餌をついばんでゐるのに氣が付いた。 彼女は驚いたが、むしろ嬉しかつたのである。何故なら雀逹は父の家から來るより他に來やうがないと思へたから。 見る見る悲しさがこみ上げて彼女は泣きさうになつた。 「グレゴール、追拂はないで頂戴」と彼女は下の方へ叫んだ。 「お晝御飯を食べさしてやつて頂戴、又遠い旅に出なければならないのだから。」 「旅には出ませんよ」とグレゴール。「もう三日も此處に居るのですもの。 この鳥は人間を搜し廻つて荒野の中でもきつと搜し出し、その家に棲むのです。 私逹が冬を越して此處に居たら、雀もきつと此のまま居ますよ。」 ヨハナはいぢらしさうに見下して、パン屑と一緒にほろほろと涙をこぼした。 ——彼女はどうしてこんなに心が惱ましいのかを知らなかつた。 ——豫感に滿ちた純眞よ!——そなたの姉思ひの白く輝く天使を胸苦しい思ひにさせるのは、 姉の胸に黒い翼をうごかしてゐるあの同じ曲者なのだ。 それでもヨハナは部屋に入つてクラリッサを雀を見に引張り出した。 グレゴールは以前と變つたこともなく「彼の子供逹」と連れて森林を廻つた。 そして徐々に行はれる冬の裝ひを見せてくれた。白樺や樅の枝は髯の長い苔を埀れる。 森の種子は風に乘つて草や木の葉のひからびた被ひの下へこつそりと這入りこむ、 莓の實は殘らず脱落し未だ熟してゐないものは萎む。闊葉樹の枝にはもう未來の春の芽の原型が褐色の鎧をきて控へてゐるのを彼は見せてくれた。 蝦夷松の一族は何の變つた所もなく暗い緑の外套に包まれて氷と雪の來る日を待つてゐた。 [木|解;#1-86-22]《かしわ》はざわめく闊葉を幾千の強靱な指先にしつかと掴んで居た。 更にグレゴールは早くもこらから冬の莊麗を描いてみせた。 晴れた日は此處も其處も上も下も輝きと顫光、照明と反射で、森林全體が透し彫の氷の宮殿である。 乙女逹の衣裳のレース編物の樣に華奢に、いやそれの幾千倍も華奢に枝から枝へと埀れてゐる。 それからどどつと言ふ凄じい物音、雪や氷の重みが破れて、凝固した冷たい空氣を震撼する。 ——或は夜など燈の傍暖かな部屋に坐つてゐる、家の周りにはそよとの風もない、 然し上空を春風が動いてゐる、森林は歎息する。そして遠い風音やざわめきが寢床の中まできこえる、 擦れ合ふ樹幹の啾々嘆く樣に軋る音、或は岩から雪崩の裂け落ちる轟きも。 ——或は又春になつて新しく生れた溪流が夜到る所の峯から流下して、 その音が豐かな豫感と共に耳朶を打つ時など、……グレゴールが森林の莊麗を知らぬ季節はない。 彼は逍遙の途次詩作し物語つた、それは以前と變りなかつた。そして荒野の幻想と感情に熱狂的に耽溺した、 これも以前と變りなかつた。然し今や詩人の言葉に對する詩人の耳がなかつた。 グレゴールは素朴なその心ばえに、自分が想起するよりよりは遙かに多くクラリッサはロナルドのことを想ひ、 ヨハナは又クラリッサのことを考へることを知らなかつたのである。 然しその代り一度どの耳から彼の言葉に開かれると、言葉は以前よりも更に敏感な不安な心の中へ沈んだ、 そしてこれまでのいつよりも大きな幽玄なかほりの高い花を心の奧から誘ひ出すのであつた。 父の許からは久しく何の便りもなかつた。グレゴールの孫も寄りつかなかつた。 それに不安なことには二週間以上にも亙つて空が曇つて居て、ヰッティングハウゼンを見ることが出來なかつた。 四十雀の囀りはもう聞かれなくなつた。つぐみも居なくなつた。 そして殆ど日毎に灰色の空を灰色の絲を引いた樣に雁の群が南へと渡るのが見えた。 夜霧が湖水の上に沈んで、影は影と巨臂を延ばし合ひ、下なる湖岸には輪廓のぼやけた黒々しい事物が立並んでゐる、 そしてこれ等すべての眞珠紗の上に柔和な月がうら悲しい黄色な息吹を注ぐ時、 屡々二人の美少女はもう暖められた室内に坐つて、 その部屋の窓からはラムプの燈が金の絲筋を引いてしろがねの霧の夜空のさなかへ洩れて居た。 そしてクラリッサはある限りの思ひと希望を豎琴の音に祕めた。 ヨハナはまなざしに愛をこめていたましげに姉を見た、心の中で、ほんとに!いけないわ ——何となくいけない樣な氣がするわと考へて居た。 「あの方何て綺麗なのでせう、それにあの方の獨逸語はほんとにいいわね」と降つて湧いた樣にクラリッサが言つた。 「だけど」とヨハナ。「あの方いつか行つてお了ひになるわ。 そしてみんなの言ふ通りの英雄におなりなのよ。冐險と危險とさへあれば、理由など問はないで、 他の人逹と同じ樣に人の血をあの方流すのよ。それで初めて自分が偉い堂々たる人物になつた樣な氣がするのよ。 あなたの言ふ通りあの方の手は獨逸人の血潮に未だ一滴も血塗られてゐないとしても、 私逹の今話してゐる瞬間、明日それとも明後日にはそんなことにならないことやら、分りやしないわ。 ……冷酷な無法な民族……、おお、厭!私この人逹嫌ひだわ。」 クラリッサはうつとりと微笑して靜かに首を振つた。 遂にこれまでの幾夜に似げもなく澄み切つた寒冷な夕が來て、 金で鑄た圓閣の樣に森林の上に立つた。そして動かなかつた。 夜は滾るばかりの群星に滿ち、星の棲む場所がなくてひとつは他の星に觸れてゐる樣に思はれた。 そして夜は非常に寒かつた。朝日が昇つた時、一面の森が白い霜に蔽はれ、 見渡す限り白い火花を發して燃え輝いた。その隙間のない火花は、夜中に一面の星空が森林の上に落ちたかと思はれた。 グレゴールは霜を踏み霜融けを冐して出かけることを許さなかつた。 やつと晝近くなつて、珍しく寒い夜に續いて珍しく暖かな日射しが來た時に、 人々は待ち望んだブロッケンの岩への路を蹈んだ。 久し振りに行くのであつた。森林の相貌はすつかり變つて居た。 ——見はるかす最後の青に至る迄鈍い赤と黄の秋色が延びて、 弱い血の帶の樣にほの暗い針葉樹海の中を續いて居た。 すべてはしづもり返つて謂はば雪の被はれる日をつつましく待つてゐた。 唯天空のみは以前の樣に快く澄んで、雲切れ一つなく、默りこくつた森の憂愁の上を遠く擴がつてゐた。 ヨハナには山の端に小さな水色の骰子がいくら眼を見張つても、 それに秋の空氣は澄み渡つて殆ど跡形もなくかき消えるかと思はれたにも拘らず、 どうしても見付からなかつた。いつもの樣にクラリッサが眼鏡を立てた。 然し彼女にも城が見えなかつた。森の縁に沿つていつまでも動かした、 そして今度は逆に。見馴れた彎曲や線は見えた、その近くに城があつた筈である。 ……遂に謎が解けた。見渡す限りの空にはなくとも、遠い森の縁丁度父の家の見える場所の邊に小さな雲片があつたのである。 グレゴールは少し待つがよからい、大抵は間もなく晴れるだらうと思つた。 秋口によく見受けるのは、ぽつつりと小さな地點に湧きはじめた霧がはじめはその邊に埀れてゐる何でもない雲片の樣に見えたのが、 忽ち大きく擴つて、遂には森林全部を引包んで了ふことがある、 其れでさへなければよいが、若しそれだつたら明日は必ず天候が惡くなる、 さうなればいくら待つても無駄なことになる。 人々は待つた。 然し雲切れは時に廣がりもしなければ又消えもしなかつた。遂に老翁は今日は何もかも諦めよう、 この頃では午後が非常に短いことだし、家に着く迄には二時間はかかることだから、 明日はすべての徴候から推して必ずもつと良い天氣になる、 そしたら出來るだけ早く又御供すると二人を促した。尚ほ二三度彼等は眼鏡を覗いた。 然し何の效果もなかつた。そして人々は遂に嫌々ながら不安な心を抱いてそこを離れた。 ——家に着いた。昨日と同じ樣な金色の莊麗な天の圓頂閣が今晩も亦黒い夕べの色にすがすがしい森林のある山の上に組上げられた。 昨日と同じ群星の蠢動が續いた。然し星數は更に多く、空《そら》中がかすかな光つた雪の雨になつて落ちて來る樣に思はれた。 明日は今日よりもつと澄んだ日が來ると老人は豫言した。 ものみなが憇ひに就いた。グレゴールは寢苦しい苦惱に滿ちた一夜を送つた。 軈て朝。昨日と變らぬ鏡の樣に澄んだ朝日が昇り、霜を照らした。 霜に逢ふと闊葉も草も忽ち老朽と沒落への道を辿つた。乙女逹は翁に迫つたが、 彼は濁りのない正午の空氣を待つ樣に命じた。 遂に彼等は、再び殆ど暑い日射しに伴はれて出發した。登るにつれて人々は寒冷の爲の被害を觀察することが出來た。 殘りの闊葉が銹色或は血のくれなゐ色に、或は黄色になつて、叢林にこびりついて居た。 羊齒類、莓類の葉、或は長く延びた莖等はまるで煮上げた樣にだらりと埀れ下つて居た。 ヨハナが最先に岩の頂にかけ登つて高らかに歡聲をあげた。何故なら、ガラスの樣に透明な、 何もそこにない樣に澄んだ空氣の中になつかしい小さな骰子型が山の端にもう被はれる雲片ひとつなく浮かんで居た。 一部分一部分が肉眼で區別出來ると思はれる程はつきりと浮んで居た。 そして空は非常に柔和な色艷をすて居り、まるで一續きの寳石から取られた樣に見えた。 その間にクラリッサが望遠鏡を取付けて度を合せた。 然し見てゐると急に彼女は眼鏡の所からたぢたぢとよろめいて異樣な表情をしてグレゴールをどつと見つめた。 ヨハナがすぐ樣眼鏡の前に立つた。骰子が視界に浮んだ、然しどうしたことだ骰子には屋根がない、 そして城壁には見なれない黒い斑點があつた。彼女もたぢろいだ。 ——然し刹那にかき消える可笑しな幻影ででもある樣に、ヨハナはすぐ又眼鏡を眼にあてた。 でも同じ柔和な空氣の中には同じ映像が立つてゐた。柔かな日射しに照らされ、 靜かに凝固して驚く程はつきりと。——そして輝かしい朗らかに光つた日がその上に擴つて居た。 ——唯瞳をこらして覗きこんだ時映像は心持空氣の中でふるへてゐた。 それも然しヨハナの胸が波打ち、瞳が搖れはじめて居たからであつた。 彼女は力も失せ、へつたりと後の倒れかかりさま、雪の樣に血の氣の失せた顏のクラリッサが、 「到頭來たのね」と言ふのを聞いた。 「來たのです」とグレゴールは答へた。「わしはもう昨日、柔かなぢつと動かぬ雲片を見た時さうではないかと思ひました ——でもとにかくわしのみ見せて下さい。」 かう言ひさま彼は眼鏡を覗いた。然しその眼が修練によつて乙女逹の眼よりも幾倍も鋭いものであつたにも拘らず、 見たものは全く同じであつた。美しい澄明の中に屋根のない、どす黒い燒痕のある逞しい塔がひとつ山の端から聳え立つて居た。 唯彼には、極めて弱い青い靄の層が廢墟の上に漂うてゐる樣に思はれた。それは不氣味な想念であつた。 現在この刹那、彼の地には恐らく恐ろしいやたけびの聲が滿ちみちて、 そして人の心を引裂いて了ふ樣な行爲が行はれてゐるかも知れないのである。 然し世界と此の森林の大いさの中にあつてはこの塔自體が僅かに一つの點であつた。 やたけびの聲等は何も認められなかつた。微笑む美しい靜寂のみが天と荒野一面に擴がつてゐた。 老翁は痛く胸をつかれて、齒ぎしりをした。然し何の苦痛の叫びもあげずに、 眼鏡から離れるとかう言つた。「どうせその中《うち》には新しく造りかへなかえればならなかつたのだから、 古い屋根など燒拂つてみた所で、奴さん逹何の手柄にもなりやしない。 所で何て經驗の積んだ武人でせうね、あなた方のお父さんは。 丁度この通りになると豫言して居られましたよ。さあ元氣をお出しなさい。 ——クラリッサ、そんな恐はさうな眼付であすこばかり見詰めてはいけません。」 「ええ」とゆつくり彼女は答へた。「屋根が燒け落ちことは見えますわ、 だけどその他どんなことが起つたのやら、望遠鏡では見えないのよ—— ね、どうしてお孫さんのライムンドは來ないのかしら? どうして此處數週間と言ふものは何の便りもないの?」 「何もはつきりしたことがきまらなかつたからですよ」とグレゴールは口をはさんだ。 「火事はほんの昨日、或は一昨日起つたことかも知れません、 さうすれば明日或は明後日には便りがあるでせう、ある筈です。さうですよ、 今家で私逹を待受けて居るかも知れませんよ。さあ、——私逹が前以て知つてゐたことが起つたのです ——進軍する軍勢の爲に一軒の家が燒拂はれたなどと言ふことは、何等珍しいことではなくつて、 今度の戰爭には幾度も起つたことでせうよ。」 「でも其の家に人が二人居たのですよ。」 「その中の一人は」と彼は遮つた、「曾て偉大な勇士でした。 必ずや退去と護衞或は名譽に叶つた拘禁を受ける樣に交渉されたことでせう。」 「それに、も一人の方が居らして」とクラリッサが續けた、 「尊敬して止まぬ頭髮には指一本觸れさせぬとおつしやつたわ。」 「ロナルドが居合せたら、事實指一本觸れさせなかつた筈です……」 「さうでなかつたら?」 「頭中の頭髮一本殘らず生きてるものはありますまい。」 はてしない驚愕の色を浮べて二つの不安な顏が彼を見つめた。 「わしまで馬鹿になつて了ふぢやありませんか」と彼は不機嫌に叫んだ、 「わしに迄子供らしい心配をさせないで下さい、—— そんな馬鹿なことがあるものですか、何でもないと言つてゐるぢやありませんか ……ですからあなた方は心配と心とそつくり神樣の御手にお任せして、 お父さまも意思に從つてどうすればよいかお待ちなさい。 さあ、望遠鏡をお外し、歸りませう。」 然し彼女逹は眼鏡を外さなかつた。クラリッサは新たに身を眼鏡の前に投げて、 いつまでも見てゐた。——然し同じ變らぬ知らせがいつまでも硝子に映つて居た—— いつまでも默つた單調と澄明とが二重に不安の念を起させた。 ヨハナも、只この恐ろしい不氣味な光景に成程と合點したいばかりに覗いた。 何故なら眼鏡から眼をそらして、いつもの樣に美しい青い森林の靄といつもの樣にこのましく青い骰子と、 それに微笑む青空は照り映えてさへゐるのを見ると、 づべてはまるであり得べからざる事に思はれた——そして再び眼鏡を覗くと、 朗かな蒼穹さへ陰鬱な恐ろしいものであり、森林のほの明りは、 巨大に延び擴つてゐる黒い柩衣の樣に思はれたからである。 遂に——クラリッサが先づ氣を取りなほして、最初の昂奮にそそり立てられた物思ひをかなぐり捨てた、 そこで早速此處を去つて、どんな犧牲を拂つても父の家を探らう、時を移さず家に這入つてすぐ樣下僕の一人を偵察に出す、 そしてこれが歸つて來るか或は他の使者が到着する迄、 嚴重に通路を警戒しながら家で待機することにしようと提議した。 事實彼女は早速望遠鏡を取外し疊みこんで、自分もヨハナもこれからは決して覗いてならぬことにした。 それは無用の悲しみと恐らくは又不必要な不安をこの上抱かない爲であつた。 ヨハナは悲しげなまなざしをして爲すままに任せた。 然し其の胸のうちには又クラリッサを驚歎する心が燃え上つて居た。 クラリッサは再び美しい強い姉、ヨハナが平素喜んでそして愛情こめて服從したあの姉になつて居た。 グレゴールはすべてに贊成した、唯ひとつ下僕の派遣のことは反對した。 「あなた方のお父さんは」と彼は言つた、「あなた方が望遠鏡を持つてゐて、 事情を承知してゐるに違ひないことは知つて居られます。 それ故一刻を惜しんであなた方に詳報を送られることでせう。 ——下僕は萬一のことがあると敵の手中に落ちて恐怖のあまりあなた方の住居を白状して了ふかも知れないのです。」 乙女逹は諒解して讓つた。 廣々と擴がる荒野の秋色の上に彼等はもう一度悲しい眼を投げた。それから限りなくこのましいこの岩の峯を離れた。 いつも此處から降りる時の氣持とは全く異つて居た——蟲の知らせか怪しい胸騷ぎがした。 誰もがうれはしくこつそりとそれを抱いて、相手に知られまいとし、 相手を頼みの力にして押へつけようとして居た。 湖畔に靜かな黒い人影が二つ彳んで居た、一行を待受ける下僕であつた。 人々は筏に乘つて湖を渡つた。グレゴールは筏を繋がせた。杙の門を通過ぎると扉の把手がおろされ、 閂がかけられた、夜は下僕逹が交替に歩哨に立つた。 明日になりそしてそれも過ぎた。然し何の便りもなかつた。 同じ樣に明後日も。 かうして日一日と經つて、十一日と言ふものが過ぎ去つたが、何の便りもなかつた。 グレゴールは讓歩しても一度乙女逹を岩に連れて行つた。 最初の日と同じ凝固した單純な姿で廢墟が山の端に立つて居た。 而も變つた報告の影すら齎されて來なかつた。廣い黒い翼を擴げた不安が谷と森林の上にかぶさつた。 やがて最初の白い柔かい雲片が黒い湖に落ちた——そして結局下僕が一人偵察に出された。…… 然しこれも亦二度と歸つて來なかつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:湖畔の處女|七 森の廢墟 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 緑の草地に巨大な四角の塔が立つてゐた、周を崩れ落ちた外郭にかこまれて。 塔には屋根がなく、周壁には門がなかつた、今日《こんにち》も尚ほ見受けられるそのままの姿であつた。 ——然し今日見られる樣な露出した石壁の風化した灰色はなかつた。 未だ粗塗りも仕上げ塗りもそのままであつた、唯その美しさが窓から燃上つて彗星の尾の樣に上へ延びてゐる醜い燒痕の爲に汚されて居た。 又外側の城壁にはいくつか深い傷痕が見られた。周の芝草は跡形もなくなり、 踏み固めた三和土の樣になつて、深く喰ひ込んだ車輪の跡に踏み荒され、 そこここと黒焦げの樹木や見も知らぬ道具の破片に被はれて居た。 大きな靜けさとやさしい十一月の日を掲げた澄んだ空とが此の死の場所を見下ろして居た。 外敵の觀念は周圍どこにも認められなかつた。然し此處以外には四方幾時間の領域に亙つて凡そ生きた存在は何一つなかつた。 家々は燒拂はれ、フリードベルグの村落は廢墟となつて横はつて居た。 なのに此の城には誰か住むひとありげに、細い青い一條の煙が黒ずんだ空へ細々と昇つて居た。 のみならず、未だ雪に被はれて居なかつたが固く凍結した草地を乘氣つていそがしげに崩れ落ちた城壁へと馬を進める乘手の姿があつた。 大きくぽつかりと口を開いた城門を乘入れて崩れ落ちた瓦石を越え、 やがて下馬するとその人は窓の鐡格子の枠に駒を繋いだ。 窓の飾縁からは未だ融けた硝子が汚れた氷の樣に埀れ下つたままになつてゐた。 馬から下りた人はそれからすばやく向ふ向きになつて半ば土砂に埋れた門から塔の内部へ這入つて行つた。 此處に來ると燒け落ちた扉や窓々の間から侵入者をぐつと見詰める渡り廊下や室々がぞつとする程不氣味に思はれて、 それ等の奧からは氣持の惡いいkれが吹きつけた。でもやがてとある木造の階段が見つかつた。 まあたらしい木で造られ刻み丸太で上張りがしてある。彼は此處を登つた。登りつめると廊下になり、 控へ間になつてゐる、この室の天井はそのままに殘つてゐた。 薄暗い廊下を通拔けながら、一人の老翁が彳んでゐるのを見たが、 彼はその男には氣も止めないで、部屋の扉をたたいた。 扉の引窓が開いて女の顏が覗いた。 「ズザナ」と侵入者はおだやかな聲で言つた。「這入つていいかね」下婢はすぐ戸を開けて、部屋に招じ入れ、 次の室に通ずるもひとつの扉を開いて彼を導いた。その室は控へ間より廣く調度の類も保存されてゐた。 彼はつかつかと這入つて行つた。 室内に坐つてゐた黒い着物を着た二人のうちの一人がすぐ立つて、客を迎へながら、 「まあ、よくいらして下さいました」と言つた。 騎士は悲しい光をたたへた黒目がちの眼を蒼白い婦人の面に注いだ——さう、 彼の前に立つてゐるのは美しい姿から黒い喪服をすらりと埀れてゐるのは、これはクラリッサだ。 傍の方に控へてヨハナが坐つてゐた。——石花石膏の樣に白い顏が、黒紗の衣のさなかから、 騎士の方を見やつた。その雙頬に注ぐ涙は騎士の姿を見ると、挨拶の言葉を搜さうとあせりつつ、 止度なくこぼれた。彼も、悲しみのある美しさを湛へたいつもの表情のまま、 しばしは物も得言はず、立ちつくしてゐた。粗末な紙ではつた窓を見ては、何とも言ふことが出來ないのであつた。 クラリッサも亦默つてゐた。そして彼女の唇と睫毛はぴくぴくと動いてあふるる涙を抑へようとしてゐたが甲斐もなかつた。 クラリッサは椅子を押して彼にすすめた。彼は然しヨハナの方へつかつかと寄つて、 その手を取り、優しくしつかとそれを握りしめた。 「いらして下すつたのが嬉しくて、到頭人がいらしたことがうれしくつて」 と彼女は遂に咽び泣きながら言つた。 「許して下さい」と彼は答へるのだつた。「自由の身になつてから未だほんの五日にしかならないのです。 それにこの五日間と言ふもの殆ど寢食を忘れてあなた方を搜してかけ廻りましたよ。」 「では捕はれていらしたのね。」 「捕つてゐました。でなければこんなに長くあなた方を放つて置きはしません。 ——然しさあやつて參りましたよ。あなた方をお援けしあなた方にお仕へする爲に私の一身を、 それから私の持つてゐますものを何でもみんなとつて下さい、それが切な私の願ひです。 ドナウの岸邊にある私の城は同樣に燒けるには燒けました、そして此處よりも一層ひどく崩れ落ちて居ります。 ——構やしません、あの城はもう使ひません、國内がすつかり平和になるまではあのまま建てないで置きます。 然しいくらかのお金を私は持ち出しました。このお金で何より先づあなた方のこの家をもつと氣持のよい住居のなほさうではありませんか。 此處まではもう滅多に敵など來ません。この山越は非常に困難で、殆ど彼等としても得るところはなかつたのですから。 彼等は目下みな冬營して居ります。」 明るい瞳の優しい輝きに一脈の苦痛を漂はせて、クラリッサは彼の方に手を延ばし、次の樣に言つた。 「いつもさうですわね、私逹を援けに來て下さるのは、今度もやはりあなたが一番でしたわ。 それなのに私はいつも恩知らずばかりして來ましたわ。」 「今日はそんなことは言はないで下さい、クラリッサ」と彼は悲しく光る眼をして答へた。 「言はないで下さい、濟んだことです。私はあなたの從兄でそして兄弟に過ぎません。 ……神ならぬ身の私は判らう筈がありませんでした。……あなたが若し最初からみんなに少し心を打明けてゐて下すつたら、 そしたら私も結婚など申込んで御苦しめするのではなかつたのです。 それに今度の樣なことも恐らく起らないで濟んだことでせうに。」 「では御存じなので……」 「知つてます、クラリッサ、私は知つて居ります。」 「あの方も——さうなのでせうか——あの方も?」 「さうなのです。」 クラリッサの面を忽ち掠めたものがあつた。彼女は息を切らした。 限り知れぬ哀痛がその顏にあつた。いやそれは寧ろ憤懣であつた。何も見えない空を見上げる樣に、 彼女は眼を上げて窓を見て——幾秒かぢつと見つめてゐた、彼女は戰つて居た。 見る目に不氣味な、殆ど嘲笑に似たものが彼女の顏貌に未だ漂つて居た。 彼女は顏を戻して殆ど物靜かな聲で言つた。「ねえ、若し少しでも詳しいことを御存じでしたら、 おつしやつて下さい、私逹にお話しなさつて下さいまし、私逹は唯一事しか存じて居りません。 ——お願ひです、あなたはどうして詳しいことを御存じなのでせう?」 「私はその場に居合せました。」 「ブルーノー、居合せたのですつて?」とヨハナは叫びさま飛び起きて、 「その場にゐらつしたの、ブルーノー。」それは何よりも悲痛な魂の響きであつた。 ——「後生です、おつしやつて下さい、どんなでしたの、話して下さい、 ——苦しい重荷をこの心から取り去つて下さい、何もかも知つて了つたら、 むしろその方が樂になる樣な氣がします。」 決し兼ねて彼がためらつて居たのでクラリッサが言つた。「私逹を可哀想だと思つて話して下さいましたね。」 「森林が」と彼は語り出した「そもそも不幸の原因《もと》でした。——あなた方の家など ——本來なら誰もそれに手を觸れなかつた筈でした。——家からずつと左手寄りを軍勢は行く豫定だつたのです。 ——所がガラス將軍は軍兵を派して、あの森林地帶に(この森は此處から右手寄りをモルダウの谷に向つて延びてゐます) 保壘を築かせ、敵を撃退しようとしました。私は自ら出願して同行しました。 フリードベルグの不幸な住民逹は保壘を掘らされた譯ですが、生涯あの保壘の森を忘れないで、 この名を孫や曾孫逹に語り傳へることでせう。何故ならこの森こそ彼等の、 そして又私逹の不幸の源になつたのですから。私は前以て成行がどうなるか判つてゐました。 それでその前日にあなた方の父上に城を見捨てて、あなた方の所へ落ちられる樣にお願ひしたのです。 然し父上は怒つてこの申出を退けられました。それと言ふのは、一隊の皇帝車が父上の指揮下に城を守つて居つたからでした。 神ならぬ身の知る由もなく、スヱーデン軍は巡禮の群の樣に歌聲を響かせながら、 あの美しい森林を押し登つて參りました。……私逹の銃火の煙が消えた時に、彼等の切りさいなまれ血を浴びた列が、 よろよろ後退して行くさまは、實に慘憺たる光景でした。新しい攻撃は何等それ以上加へられませんでした、 私逹の中で眼先の見えない仲間は歡呼の聲をあげました。所が現にその日の夜、 私逹はフリードベルグの炎上を見ました。そしてその次の日、敵は潮の樣に膨張して、 保壘を攻撃し、恐しい殺戮が行はれたのです。我軍は粉碎された硝子の樣にちりぢりになつて了ひました。 一部はヰッティングハウゼンへ逃げました、私もこの中にゐたのです。おおクラリッサ、 この時までは未だ何もかもうまく行くかも知れなかつたのです、勝ち誇つた最初の攻撃は撃退しました ——それから一週間——そしてもう一週間——敵はもう冷靜になつて、 此の家ひとつ取つた所で元來何にもならぬことを見てとり、 只表面上の名譽だけを維持すればよかつたのでした。そして喜んで講和の手を差出したのです。 そのうちに或る晴れた朝新しい司令官と覺しい人物が、みごとな服をつけた若い男でしたが、 包圍軍の列間に馬を進めて、指令でも與へてゐる樣に見えるのを目撃しました。」 ——クラリッサは唇を半ば開いたまま、息をつめ、緊張し燒きつく樣な眼をしてきき入つた。 ——「私逹にはこの人物の眞意はのみこめませんでした。 軍の指揮者逹はシュツールを先頭に打揃つて若者の前に恭々しく待つてゐました。丁度休戰日のことでした。 翌朝になつて同じ男が——ああ、私逹は偵察に來たものと思つたのです、 非常に近く城壁間近にまで歩み出て來ました。——そしてほんな偶然でよくあることですが、 兜が彼の頭から落ちました——その刹那ふさふさとした、金髮の波が若者の頸にたれかかりました……」 「その時目が眩んだものでせうか、來るべき當然の宿命であつたのでせうか、 若者がそれ程安心しきつて近づいて來るのに、その合圖が私逹には通じなかつたのです。 無理もありません、父上はあらゆる極度の狼狽を見せて、 いつまでも脇目もふらず近づいて來る姿を見つめて居られました。 ——次第々々に父上の雙頬に紅潮がさして、遂にはそれが憤激の焔に似てくろぐろと燃え上つて行くのを私は見ました。 うむとも言はず、いきなり乘手に向つて槍を投げつけられました。 こんなに離れてゐては槍を投げても到底とどかないことなど考へる餘裕がなかつたのです。 ——あ、事實槍は當りませんでした、憐れむべき、弱い罪のない槍め! ——然しこの槍がその他の多數の槍の合圖になりました、 我兵逹は忽ち槍を投げはじめたのです。私は同時に背後から二連銃がズドンと發射される音をききました。 見るとスヱーデン軍は今どつとばかりに前線に飛出して來て、若い乘手をおつとり圍まうとしました。 若者がばつたりと倒れるのが見えました。——それから私逹がはつと我に歸る間もあらばこそ、 此處も、かしこも、どちらも忽ち襲撃を受けてゐました——スヱーデン軍は今までになく憤激してゐました、 ——三歩と離れると顏も見分けられぬ程の砲煙……クラリッサ、聞いてゐますか!」 「それから、それから」と彼女は中腰になつて不安に戰きながら言つた。 「それでお終ひです、——城は炎上しました、私逹は打つて出なければなりませんでした。 ……私は傷を負つて、前後不覺となり、捕はれて了つたのです……」 「そして……」 「クラリッサ——ヨハナ。——あの方と少年の二人を無論燒落ちてゐましたが、 トーマス寺の神壇の前の板石の下に軍人の名譽にふさはしくシッツーレ自ら葬らせました。 負傷して何の武噐もない私は許されてこれに列席しました。」 「私が」とクラリッサは後にくづ折れさま叫んだ、「父さまとフェリックスを殺して了つたのはこの私です。」 ——そして彼女はそのまま兩手を顏に押しあてて、烈しく慟哭した、 全身がその度に打ち震へた。ヨハナは、自らも危ふくふみこらへて、 息絶えた天使の樣に美しかつたが、すぐ起ち上つてクラリッサを胸にかき抱いて、 クラリッサの頭を自分の胸に押しつけ、さめざめと泣くにまかせた。 ヨハナの手はやさしく愛をこめてその頭を撫でて、自らもはらはらとクラリッサの上に涙をこぼした。 騎士は美しい黒い目から涙を拭うて、深い悲しみの中に彳んでゐた。 然し自分の物語の爲二人が歎いてゐるのを、悔いる心はなかつた。 何故なら、どれ程この涙が胸もはり裂けんばかりのものであらうとも、 やがては和らぎが來る、そしてこの和らぎことこれまでのうつろな諦めよりは言ひ知れぬ程蔽ひ言ひ知れぬ程快いものであることを、 十分知つてゐたからである。事實やがて最初の息ずすりした慟哭がしづまつた。 只かすかな殆ど聞きとれぬ位の聲が死の樣に靜かな暗い室内に綿々と流れた、 そして遂にはそれも消えた。クラリッサは力も拔けはててぐつたりとあどけなく、 ヨハナの胸にもたれかかり、ヨハナがそれを最初の通り抱いてゐた。 ——最初の悲涙がどれ位辛い思ひから絞り出されたものであつたとは言へ、 今ではもう易々と、豐かに、ひとりでにの樣に涙が流れた、心のなごむ甘い涙ですらあつた。 丁度息絶える動物の最後の血汐の一滴の樣に。 長い沈默の後、やつとクラリッサは又顏を上げて、疲れて澄んだ眼を騎士の方に向けた。 「ブルーノー、さあもひとこと話して下さい、も一つの墓は何處にあるのでせう、 そしてどうして……?」とかすかに言つた。その聲は又しても新しくこみ上げて來た。 「根掘り葉掘り聞かないで下さい、クラリッサ。あの一刹那の混亂の謎を誰が解くものがありませう。 あの方は胸部に一彈を受けたのです。多分我軍の二連銃から射ち出したものでせう、 亡骸は部下が運び去りました、どこかへ、——私にもそれは分りません。 スヱーデン軍の所へ行つてはじめて私は、あの方が調停者として來たのであつて、 皇帝軍の守備兵をそのまま引上げさせ、あなた方の父上は危害を加へないでその家に殘すがいいと提案して、 これを貫徹したものであつたことを知りました。彼の死こそは突撃の合圖であつたのです—— シッツーレ及び誰もが彼を深く愛して居たのでした。」 「誰でも深く愛して居りましたわ。」と彼女は心の深手に吃りながら言つた。 「誰でも深く愛して居りましたわ。……ああ、美しい、美しい、不幸せなお前は森の草地ね。」 彼女は又その頭をヨハナの胸に埋めて、殆ど子供の樣におづおづと言つた、 「ヨハナ、怒つては駄目よ、——ヨハナ、私の愛するのはあなたばかりよ、もうあなたばかりよ。 ……だからあなたも私を愛してね。」 ヨハナは悲痛と愛情に溢れて、どうしていいのやら分らなかつた。 彼女は姉を自分に押しつけ、片手で抱きしめもひとつの手で、 悲歎に暮れてゐる子供を宥める人の樣に、輝くクラリッサの頭髮を撫でた。 ……彼女自身も死ぬ程の悲しみに落されてゐたが、一層深刻な姉の哀痛がヨハナを力づけた、 彼女は姉の悲しみを和げようと思つたのである。騎士はヨハナに低く、「もう何にも言はないで」と言つた。 騎士は然し苦痛に頭を埀れ、打ち沈み涙にふるへる眼で、自分の眼前で歎く美しい人の姿を見てゐた。 この人をこそ彼は久しく愛しつづけ、この人をこそ彼の胸が久しくこがれて來たのであつた。 同情に彼の心は張り裂けんばかりであつた。室の床が自分と共にぐるぐる廻る樣な思ひがした。 二人が思切り悲しんで貰ふ爲に、そつと彼は出て行かうとした。然しクラリッサがその足音をききつけ、 急に起ち上り、「ブルーノー、行かないで下さい、此處はこんなに暗いのです、 それに私逹の所には老人とそのお孫さんとの他誰もゐないのです。 ……ブルーノー、窓をひとつ開けませうね。」と言つた。 「すつかり、すつかり、クラリッサ、作らせませう。ねえ、今日にも私は職人を呼びに出かけませう。 冬の用意の爲、應急の屋根をいくつかの室につけませう、 窓に扉に階段など、すつかりつけさせませう。——あなた方の豎琴を森の家から取り寄せませう、 あなた方の書物も、安心して冬を迎へることが出來る樣にね。」 「もう何が來てもこわくありませんわ。」と彼女は言つて、再びヨハナの肩に頭をのせた。 騎士は默つたまま出て行つた。彼はグレゴール、ライムンドそれから下婢逹と話した、 しばらく立つてから又灰色の凍つた地面を去つて行く彼の乘馬姿が見えた。 應急屋根が据ゑられた。門も階段も部屋々々も再び整へられた。 然し城の外觀は相變らず廢墟であつた。幾年か來てそして幾年か去つた。 城はいつも廢墟の樣に見えた。ロナルドのすべての見透しはあやまつた。 終るどころか戰は幾年となく續けられた。然しその後曾て敵影はヰッティングハウゼンには見られなかつた。 ある者はこの城がロナルドにとつて何を意味するものであつたかを知つてゐた。 ある者はロナルドの何者たるか、城砦も知らなかつた。 姉と妹は永らく此處に住んだ、共に未婚であつた。ヨハナは純潔できびしいけだかい處女になり、 そして唯ひとつの情熱を祕めてゐた、それは姉への愛であつた。 クラリッサはいつまでもいつまでもロナルドを愛しその面影を抱いて居た。 黄金の星に彼の頭髮を見、青い空に彼の眼を見た。 そして或時ふとした偶然からある英國詩人の不思議な詩章がこの城に流れ寄つた時、 彼女はやがてロナルドの姿をば屡々馬車に打乘り、百合の一本を右手にかざして彼女、 待ち受けるテイタニアの方へ空中を游いで來る、あの美しい妖魔の金髮少年に見立てるのであつた。 クラリッサがもう八十歳になつて、とうに心も落着いて、朗かになつてゐた時すら、—— ロナルドが未だ生きてゐる夢を見て、その中で或時彼が訪れて來ても、 ——美しい金髮の青年の姿でつかつかと近寄つて來てクラリッサをしたわしげに見つめる樣子しか考へることが出來なかつた。 此の不思議な荒れはてた城をおとなふものは殆どなかつた。唯ひとり騎士が時折ちらほらと姿を見せた。 或日この人の姿もふつつり見られなくなつた——彼は亡くなつたのである。 姉妹《はらから》が非常に長命を保つたことはごく最近まで人々は語傳へてゐた。 羊飼ひが二人の室をここだと見せてくれた。然し二人の墓を知つてゐる人はない。 崩れ落ちたトーマス寺なのであらうか、それとも城中の灰色をした石の中のどれかが墓をかくしてゐるのであらうか。 灰色の石の上を今日では山羊の群が歩き廻つてゐるが。——この二人の後、城に住んだものはなかつた。 西の方を無限の森林が擴がつて默りこくつてゐる。このましい自然のままなことは、 昔と變りない。グレゴールは森の家に火をつけ、その跡に草の種子を撒いたのであつた。 森の草地に聳えてゐた楓、山毛欅、蝦夷松その他の類は無數の子孫を持ち、 あの場所一杯に繁つた、そしてあたりは再び深い處女林となつて曾ての樣に、 そして又今もそのままに殘つてゐる樣に。 一人の老翁が影の樣に尚ほしばしば森を渡る姿が見かけられた、然しいつの頃までは居たか、 いつの頃から居なくなつたか誰もその時を知らない。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:水晶 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 水晶 (Bergkristall, 1853年, 初出1845年) シュテイフテル (Adalbert Stifter, 1805-1868年)|著 小島貞介 (1907-1946年) 譯 ------------------------------------------------------------------------------- * 一 * 二 * 三 * 四 * 五 * 六 * 七 ------------------------------------------------------------------------------- 一 私逹の教會の行事には色々な祝祭があるが、どれもしんみりと心を打つ。 何が樂しいと言つて五月祭以上のものはないし、嚴かな神々しいものと言へば復活祭に越すものはあるまい。 聖週の悲しい暗い氣分とそれに續く日曜日に晴がましさを私逹は生涯忘れることが出來ない。 教會の一番美しい祭のうち、殆ど冬のさなかに、一番日長で一番短夜の、太陽が一番はすかいに私逹の廣野にかかり、 雪が一面の野を被ふ時節に催ほされるものはクリスマスの祭である。 多くの國々でキリスト降誕祭の前日はキリストの晩と呼ばれる樣に、 我國でもこの日は聖晩と呼び、その次の日は聖日、この二つにはさまれは夜はクリスマスの夜と呼ばれる。 カトリックの教會では、聖日はキリスト降誕の日として、最大の教會儀式をあげて祝はれる。 多くの地方では眞夜中の時刻がもう主《イエス》降誕の時刻として、莊嚴な夜祭が擧げられる。 次々と靜まり返つた冬の眞夜中の夜氣を衝いて鐘が村々に告げ渡る。人々は燈火を提げ、 或は通ひ馴れた暗い小徑を、雪に埋れた山峽から霜に被はれた森の外れを通り、 凍てついた果樹園の地面を鳴らしながら、教會へと急ぐ。嚴かな鐘の音は鳴り續ける。 凍つた木々にかこまれた村の中程に煌々と明るい長い窓を見せて教會が聳えてゐる。 祭は教會だけではなく家々でも祝はれる。これは殆どすべてのキリスト教の國々のならはしになつてゐるが、 稚兒キリスト——これまで世に現はれた一番不思議な子供——の來臨は子供逹に、 樂しいきらびやかな晴れがましいものに教へられる。その印象は生涯忘れられないで、屡々年をとつてから、 昔を思ひ出して悲しい暗い氣分になり、涙ぐむ樣な折にも、まぶしい照り返る翼を擴げ、 荒涼としたいたましいうつろな夜の空を渡つて、あんなこともあつたと心を慰めくれるのである。 聖なる稚兒キリストの齎らす土産物は子供逹に與へて子供逹を喜ばすならはしになつてゐる。 これは普通聖晩の、夕暗が深く下りた時に行はれる。燈火がつけられる、大抵非常に澤山つけられる。 その小さな蝋燭の燈は部屋の眞中に立てられた樅か蝦夷松の美しい緑の枝々の上でゆらゆらとゆれる。 聖キリストがお見えになつて、お土産を置いて行かれたと言ふ合圖があるまでは、 子供逹は來てはいけない。やがて扉が開いて子供逹は這入つてもいい。見ると、美しく光りの中に輝いて、 色々なものが木に下つたり机の上にちらばつたりしてゐる。 どれも子供の夢に描いたよりもずつとすばらしい、手を觸れるのも恐はい、 それでも愈々貰つて了ふと、その晩中手から離さないで、抱へたまま寢床へ持ち込む。 そして時たま大人逹を教會の禮拜に呼ぶ眞夜中の響きが子供の夢に通ふと、子供逹は、 今天使逹が天を渡つて行く、そしてさつき子供逹みんなの所へゐらして、 みんなにすばらしいお土産を下すつた聖キリストがお歸りになるなと思ふことだらう。 軈て次の日、聖日になると、愈々樂しい日が來る。子供逹は朝早く起きて美しい着物をきせられてほかほかと暖い室内にゐる、 お父さまとお母さまは御詣りの用意をしてゐられる、晝になるとすばらしい御馳走、 一年中のどの日よりもおいしい御料理、そして午下り或は夕方になるとお友逹や知人がやつて來て、 みんなで椅子やベンチに腰掛け、色々と話したり、のんびりと窓外の冬景色をながめたりする。 外では綿雪がゆつくり降つてゐたり、夕暮れの霧が山の端にかかつて、血の樣に赤い寒い夕陽が沈んでゐたりする。 室のああちらこちらに、椅子やベンチや又窓のところに、見ただけでも胸のわくわくする、 でももう大分なれつこになつて仲よしになつた昨晩のお土産がおいてある。 これが濟むと長い冬になる。春が來る。それからいつ終るとも知れぬ夏。——そしてお母さんが又聖キリストのお話をされて、 又そろそろクリスマスですよ、今年も聖キリストが御降臨になりますよときかされると、 子供逹はもう去年から永遠の時が經つた樣な、あの時の樂しかつたことは遠い遠い灰色の霧の中に包まれてゐる樣な氣がする。 此の祭がこんなにいつまでも餘韻を殘して、その照り返しは非常に高齡にまで及ぶものなので、 子供がこの祭に有頂天になつてゐるのは傍の見る目も非常に樂しい。 私逹の祖國の高い山脈の山懷にささやかな村がある。村の教會の塔は小さいが鋭く尖つてゐる。 赤く塗つた板葺屋根の色が、みどりなす數多の果樹のあいまから聳えて、 その赤さ故山なみの靄を含んだ青い淡色のさなかに遠くからもそれと知られる。 此の村はかなり大きな細長い圓を描いた山峽の丁度眞中に位してゐる。村には教會の他に學校と、役場と、 その他幾棟かのよい構へがある。そこは廣場になつてゐて、四本の菩提樹が立ち、 その眞中に一個の石の十字架をかこんでゐる。これ等の家々は農家だけではなく、 人類に缺くことの出來ない手工業も内懷に抱いてゐる。山に住む人々の唯一の手工品の需要をみたす爲に。 谷間と周りの山添ひの地方にはこの他山嶽地帶によくある樣に三々伍々と澤山の小屋があつて、 同じ教會と學校に屬してゐるのみならず、先刻話した手工業にも購買によつて貢物をしてゐる。 この他にも更に谷間からは見えもしない樣な奧の小屋も村に屬してゐる。 これ等の小屋はずつと山深い奧にかくれてゐて、そこに住む者逹は滅多に村の他の仲間の所へは出て來ない。 冬などよく死人を納棺したまま、雪がとけて通路が開けるまで、お葬ひを出すことが出來ない。 一年中に村人の見る一番偉い人は牧師である。彼等の尊敬は大したものだ。 牧師の方も滯在が長くなるにつれて孤獨に馴れた人になるのが普通で、この土地が好きになり、 素朴な生活を續けてゐる。少くともこの村の牧師が何とかして轉出を希望してゐたり、 この地位にふさはしくない人であつたりしたためしは昔からなかつた。 この谷間には街道は通つてゐない。轍跡の二つついた路は、人々が一頭立の馬車に積んで野の産物を家に運ぶのである。 それ故この谷間を訪れる人は殆どない。時折自然を愛する孤獨な旅人が暫く色塗りに宿の二階に滯在して山々をながめてゐたり、 畫描きが教會の小さな尖塔と岩山の美しい頂をスケッチブックにをさめたりする位なものである。 自然村人は村人だけの世界をなしてゐる。誰か亡くなればみんなが歎き、誰かが生れると附けられた名前はみんなに知れ渡る。 外の平野地方と異つた同じ方言を持ち、いざこざが起るとみんなで解き、お互に助け合ひ、 何か大事が起ればみんなが馳せつける。 何の變つたこともない、いつまでも昔のままである。壁から石がひとつ落ちると、 又元通りはめこまれる。新築の家は古い家と寸分違はぬ樣に建てられる。 傷んだ屋根は同じこけらで修繕する。或家にだんだらの牛がゐると、いつも同じ仔牛だけ飼育される、 この家はいつもだんだらに決つてゐる。 村から南に當つて頭に雪を戴いた山が見える。輝く鋒先を揃へて家々の屋根のすぐ上にある樣に思はれるけれども、 事實はさう近くはない。この山は一年を通じて、夏も冬も、突兀たる岩石と白い斜面を見せて村を見下してゐる。 村人逹をとり圍む色々なものの中で一番目につき易いこの山こそ朝夕のながめの對象であり、 數多い物語もこれにまつはつてゐる。此の山の岩角や尖頭、氷の裂け目や洞穴、溪谷や押出した砂礫にまつはる何かの話を、 自分で經驗したのや或は人づてに聞いたものや、村に住む大人も年寄も誰もが持つてゐる。 此の山は又、村人が自分で造つた山ででもあるかの樣に、村の誇りである。 そして山峽に住む人逹の正直さと誠實のどんなに高く買はれてゐるにしても、 この山の名譽と聲望の爲と言ふ事になると、この人逹も時には嘘を言はないかどうか必ずしも明瞭ではない。 山は村人の名所である他に、村人の爲に實際の利益を齎してゐる。 この谷間を足場にしてかの山に登る爲山旅の一行が這入つて來ると、早速村人は山案内になる。 そして一度山案内になつた、あれこれの經驗をした、あれこれの場所を知つてゐると言ふことは、 誰もが得意の自慢話なのだ。酒場で一緒になる樣な時この話は幾度も繰返される。人々はそれぞれの冐險や不思議な經驗を話す。 そして又、あれこれの旅人がかう言つたとか、骨折つてやつた御禮には何を貰つたとかも、ぬかりなく附け加へる。 山は又その雪溪から水を下ろす、この水こそ深林にかこまれた山の湖に水をやり、嬉々として山峽を流下する溪流となり、 製材所、粉屋、その他の小さな工場をうごかし、村を洗ひ清め、家畜どもの飮みしろとなる。 山上の森林からは薪がとれる、森は又雪崩を受けとめる。 高山の地下溝や地盤のゆるみを縫つた地下水は水脈となつて山峽を流れ、 井戸や泉となつて迸り、人々自らも飮み、又甘美なこの水を旅人にすすめては幾度か賞めものとなつた。 而も人々は水の利益については考へてもみない。昔からさうであつたと思つてゐる。 この山の四季の移りを見るならば、冬は鋒と呼ばれる頂きの二つの尖角が白い、晴れた日に見えると、 暗いばかりに深い空の青のさなかに目もくらむ樣に立つてゐる。頂きの周りに横臥するどの平原も、 どの傾斜も白い。人々が壁と呼びなす埀直の絶壁すらほんのりと白いものに被はれ、 優婉な氷に閉された態は[さんずい|幼]藥を流したかと思はれ、全體の山容はまるで、 どつしりと麓に擴がる森林帶の白いものを交へた灰色の重量の中から躍り出た魔の宮殿かと見紛ふばかり。 夏は太陽と熱風が切り立つた側の雪を取去るため、鉾先は地元の表現をかりれば、 墨黒々なうす青である。條紋と斑點と言はれてゐるものは白ではない、遠山の雪のあの美しい乳色の青で、 岩石のくろずんだ青と相對する。鋒をかこむ平原も盛夏には、その高い部分に、 萬年雪を失ふことは無論ない、むしろその雪は夏こそ愈々白く眼下のみどりなす澤の木々を見下ろすのであるが、 低い部分からは僅かに柔毛の樣に見えてゐた冬の雪が消える。そして何とも知れぬ青と緑を帶びた顫光が見えはじめる。 これは押出した氷で、夏になると露出して、麓の人々に會釋を送るのである。 この顫光の端、碎けた寳石の緑の樣に見える邊一面に、雜然として荒ぶる巨大な氷塊、平板、 碎片等が押し合ひ入り亂れてゐる。夏が暑い夏で永いと、氷原はずつと高い所まで露出する。 麓を見下ろすみどりと青の斜面はひろがる。例年は白とばかり見て來た圓頂や面は衣を脱いで、 岩と土と泥にのしかかる氷の汚れた緑が見えて來る、こんな年は例年より山峽に流下する水の量が増す。 かうして日一日と又秋になる。水量は減る。やがて或日灰色の地雨が山峽の平地と言ふ平地を引き包む。 その後、霧が又高い山肌を離れると、山は又その銀の衣を身にまとうて、どの岩も圓錐も、尖角も白衣の中に立つてゐる。 この樣に行く年來る年、大した變化もなく、經過する。そして自然がこのままであり、 山上に雪があり谷間に人間が住んでゐる限りはこのままの歩みを續けるだらう。 山峽に住む人々は僅かの變化を大變化だと呼んで、十分心に覺えてゐて、これで年月の進歩を測る。 彼等は露出の度に應じてその夏の暑熱を、珍事を心に描く。 さて此の山に登るに就いては、此の谷間を根據地とする。村から南を指して立派な美しい路を進む。 路は所謂頸部を越えて隣の村へ通ずる。頸と言ふのは相當の高度のある鞍部で、 大きな重要な二つの山をつないでゐる。ここを越せば山と山の間を隣の村へ逹することが出來る。 例の雪山とこれに相對する大きな山脈とを結ぶこの頸は一面の森林になつてゐる。 その略々一番高い所、路が次第に向ひ側の村への下りに差しかかる邊に所謂遭難塔が立つてゐる。 以前にパンを籠に入れてこの頸を越えようとしたパン屋が此處で死體となつて現はれた。 籠を抱えたパン屋の死骸とこれを取り捲く樅の林を描き、その下に説明文と祈りの勸めを書きしるし、 この繪を赤塗りの木の柱に打ちつけ、これを遭難の場所に立てたのだつた。 此の塔の所で路から切れこむ、頸部を横ざまに向ふ谷へ下りないで、そこを縱に沿つて登る。 樅の林はここだけ、まるで街道でも通じてゐるかの樣に空いてゐる。時には又、 薪を高い山から下ろして遭難塔の所まで運ぶ爲の路が、この方向についてゐることもあるが、 これはやがて又草深くうもれてゐる。ゆるやかな上りのこの路を進むと、やがて樹木の全くない打開いた場所に出る。 この邊はかさかさした荒蕪地で灌木一つない、ひ弱い野草やひからびた苔や乾燥地帶植物などが一面に生えてゐる。 四邊はだんだん峻險になつて、長い間登る。路はいつも地溝の中を行くので、まるでまるく掘つた溝の中の樣である。 これは廣大な木一つないどこも同じ樣な地帶を行きながらも、迷ふ心配がなくて具合がいい。 しばらくすると草原から教會の樣にそそり立つ岩石が現れる。この岩の間に沿つてしばらく行く。 やがて又荒涼とした殆ど植物のない背部に出る。此處はもう高山地帶の天空にそびえてゐて、 氷へ直接につながつてゐる。路の兩側は嶮しい壁になつてゐて、この堤防によつて雪山は頸と續いてゐる。 氷塊を征服するには、長いこと氷が岩石にかこまれてゐる堺目にそつて行く、 やがて古い萬年雪に逹する。この雪は氷の裂目に橋かけてゐて、一年中大抵は乘り越えることが出來る。 萬年雪の一番高い所から鋒が二つ突出てゐる、そのうちの高い方が從つて此の山の絶頂である。 此の二つの圓頂は登ることが非常に難しい。或る年は廣い或年は狹い雪溝——萬年雪の龜裂——に圍まれてゐて、 これを飛び越えなければならないし、直角にそそり立つた壁には、足をふみかける足場もほんの小さなもしかないので、 多くのこの山の登山家は、萬年雪の龜裂の所まで來て、鋒に妨げられない限りの展望をほしいままにするだけであきらめるのである。 絶頂を極めようとする者は、アイゼンとザイルと鍄の助けによらねばならぬ。 二 此の山の他にも同じ南方の空に山があつて、初秋にはもう雪を戴き、 春遲くまで雪を持つてゐるが、どれも此の山程に高くはない。 そして夏になるといつも他の山の雪は消えて、岩肌が快く陽光の下で輝いてゐる。 そして更に低い地帶の森林が、巾廣い青い蔭と交叉して柔和なみどりを見せてゐる。 朝な夕ないくらながめても見あかないその美しいみどりを。 谷間の他の方角、北と東と西に當つては、山は長く延びて低い。 畑や草地がかなりの高さまで延びてゐる。草地の盡きる所にいくつかの森林の空地、 小屋その他が見える。遂に空を區切る邊になるとみどとな電光形の森林が連つてゐる。 この電光形は高度の低さのしるしで、南方の山々は更に廣大な森林を藏しながら、 なめらかな輪廓を示して輝き渡つた空の下を走つてゐる。 この山峽の略々中程んい立つと、この盆地の中へ入る路はどこにもなく出る路もないと言ふ感じを持つ。 けれども屡々山に登つたことのある者なら、これが錯覺であることをよく知つてゐる。 事實いくつかの路が通じてゐる。その中には重なる山々の間を縫つて殆ど平坦な路さへ北方の平地帶へ通じてゐる。 又南に向つても埀直な山壁に閉ぢこめられた樣に見えながら、先に言つた頸部を越えて一條の路が通じてゐるのだ。 此の村の名はグシャイド、村の家々を見下ろす雪山はガルス山である。 頸の向ふ側にはグシャイドよりはずつと美しい榮えた谷がある。 遭難塔の所からよい路がそちらへ通じてゐる。向ふの谷の入口には立派な市場町のミルスドルフがある。 大きな[町?]で種々な工場があり、都會風の商賣の行はれてゐる家も多い。 住民もグシャイドの人々よりは遙かに裕福である。二つの谷は三時間の路のりしかない、 この距離は遠道に馴れ勞力を惜しまぬ山の住民にとつては問題にならぬ近距離であるにも拘らず、 この二つの谷の風俗習慣は非常に相違してゐる、外から見た樣子すらも同じではない、 まるで幾百哩も離れた土地の樣である。これは山間の生活によくあること。太陽に對する谷間の位置の相違、 これは色々と受ける利益に變化を生ずるものだが、そればかりではない、 住民逹の精神にもよることで、一定の職業によつて人々はあれ又はこれの方向に引き寄せられて行くのである。 然し誰もひとしく認める理由は、山の住民は傳統と父祖の習はしに固執し、廣い交際などなくも平氣だし、 自分逹の谷を極端に愛着してここを離れては殆ど生活することが出來ないと言ふ點である。 グシャイドのものが向ふ谷を越えて大きなミルスドルフの市場町へ訪れると言ふことは、 數ヶ月に一度あるか、時には一年に一度あるかないかである。 ミルスドルフの人逹は外の平野と行き來して從つてグシャイドの者の樣に世離れてはゐないけれども、 やはり同じ事である。ミルスドルフの谷添ひには街道と言へる位の路が通じてゐて、 澤山な旅行家や旅人が通るのに、誰も、彼の行く手の北側、こちらを見下ろしてゐる高い雪山の彼方にもひとつの谷があつて、 そこにも澤山の人家が散在し、尖つた教會の塔があるなど言ふことは、夢にも思はない。 谷間の需要をみたす爲の村の色々ななりはひの中に、靴屋の仕事もある。 これは人間が原始状態にゐない限り、何處に行つても缺くことの出來ないものである。 所でグシャイドの人々は遙かに原始状態を越えてゐて、極めて良質の上等な山靴を必要とする。 一寸した例外を除いては靴屋は谷中に唯一人である。靴屋の家はグシャイドの廣場にある、 ここいらは村でもよい構への一廓である。灰色の壁と窓の白い飾縁と緑色に塗つた窓の鎧戸のある家は四本の菩提樹をながめる。 階下に仕事部屋、職人部屋、大きな居間に小さな居間、賣場に臺所に食堂、その他色々な置場。 二階に、實は破風の所に、階上の室、或は本當のお座敷の間がある。飾りベッドが二臺、 美しい艷出しの衣裳箪笥がある。噐物容れのガラス筐、寄せ木細工の机、ふかふかとした安樂椅子、 貯金入れの壁匣、それから壁には聖徒像、美しい懷中時計が二つ、 射撃會で貰つたメダル、最後に競射銃が附屬物と共に特殊のガラスをはめた箱に入れられて、 窓にかかつてゐる。靴屋の隣りは、入口の迫持をはさんだだけで小さな家に續いてゐる。 この家も全く同じ造りで靴屋の家に付屬品の樣にくつついてゐる。ここには部屋がひとつあるきりで、 それぞれ附屬の設備がそなはつてゐる。當主が家を息子或は世繼ぎに讓つた後、 所謂隱居所となる爲のものである。この室で彼は妻と死ぬまで住む。 やがて二人が亡くなると部屋は又空になり、新しい住み手を待つ。 靴屋の家には裏手に家畜小屋と納屋がある。と言ふのは谷の人々は誰でも、何か商賣をしてゐても、 農業もやるので、良質の榮養の多い食料をつくるのだから、これ等の建物の後ろが愈々庭になる、 グシャイドの少し氣の利いた家にはどこでも庭がある。ここでは野菜や果物や祝祭の折などは草花の類が栽培される。 山地方でよく見受ける樣に、グシャイドでも蜜蜂の飼養がこの庭園で廣く行はれてゐる。 先程話した一寸した例外、靴屋の獨占の競爭者と言ふのは、も一人の靴屋のトビアス老人だ。 老人は然し競爭者と言ふ程のこともない、何故ならこの方は修繕が主でそつちで忙しいのだし、 廣場に旦那靴屋と競爭しようなどとは思ひもよらぬことなのだ、 殊には廣場の靴屋はつぎ皮や底皮の切れやその他をただで提供してくれることも一再ではなかつたのだから。 トビアス老人は夏になると村外れのにはとこの下蔭に坐つて仕事をする。 老人は靴と袋靴に埋れてゐるがどの靴もきまつて古びて灰色になり泥だらけですり切れて了つてゐる。 長身の長靴は見當らない、この村やこの地方ではそんなものははかないからである。 たつた二人例外がある。牧師と先生だが、この二人は然し修繕にも新調にもきまつて廣場の靴屋にさせる。 冬になるとトビアス老人は接骨木の灌木のうしろの自分の家に引きこんで、ほかほかと部屋を温めてゐる、 薪はグシャイドでは高くない。 廣場の靴屋は家を繼ぐ前は羚羊の密獵をしてゐて、一般に若い頃は行ひがよくなかつたとグシャイドの人々は言ふのである。 學校では優等生の一人で、後父親から家業を習つた。旅に出てやがて又歸つて來た。 職人にふさはしい樣に、そして彼の父が生涯守つて居た通りの黒い帽子を被る代りに、 彼は緑の帽子をかぶつた。それに色んな羽根をさし、谷間で一番短い荒毛織の上着を着て、 風を斬つて歩き廻つた。父親はと言ふといつも地味な、出來ることなら黒い色の上着をきてゐた。 それも、職人の着るものだと言ふので、いつも長く埀れる樣に裁つてなかればならなかつた。 若い靴屋の姿はどのダンスホールでも、どの九柱戲場でも見受けられた。誰かが説教をすると、 歌を口笛で吹いた。彼は競射銃を持つて近郷のあらゆる射撃會に出かけて、 時には賞を獲て歸ることもあつたが、彼はそれを大した榮冠だと考へてゐた。 賞と言ふのは多くいくつかのメダルで綺麗に嵌めこんだものであつた。 これを貰ふ爲に靴屋は同じ樣な貨幣を賞金以上に澤山使はねばならなかつた。特に彼は金に絲目をつけなかつたのだから。 この邊で催ほされる狩獵にはいつも出かけて、名射手の名を得てゐた。 然し又時には獨りで連發銃とアイゼンを携へて出かけた。或時など頭部に重傷を負つて歸つたと言ふ噂であつた。 ミルスドルフに一人の紺屋が住んでゐた。グシャイド路から越えて行くと市場町のとつつきの所に非常に立派な店があつた。 澤山の人を使つて、而もこの谷では未聞のことであつたが、機械を動かしてゐた。 この他に紺屋は手廣く農業をやつてゐた。此の金持の紺屋の娘の所へ靴屋は峠を越えて通つた。 この娘は美貌の譽れが近隣に高かつたが、出しやばりやでなく、しとやかで家庭的だと言ふ點でも世の賞めものであつた。 それなのに靴屋は娘の氣に入つたと言ふ噂であつた。紺屋は靴屋を家へ入れなかつた。 美しい娘は早くから公けの席や遊樂には出なかつたし、兩親の家から外出することは殆どなかつたのだから、 今や出かけると言へばせめて教會か、或は庭先か家の内でそこらを歩き廻るだけであつた。 兩親が亡くなつて、家一切が自分のものになり、獨りでここに住むことになつてからいくらも經たぬのに靴屋は見違へる樣に變つた。 これまで狂ひ歩いてゐた彼が、今では部屋に坐つて夜も晝つも靴底をたたいてゐた。 彼は自慢げに、誰かこの店以上に上等の靴やはきもの類を作ることの出來るものがあつたらと[、?]賞をかけた。 彼は第一流のの職人しかとらなかつた。そして彼の仕事場で働くことになるとそれを更に鍛へ上げて、 みんなが彼の命令をきいて、彼の命ずる通りに仕事をする樣にした。そして今や本當に、 靴類を大部分近隣の谷々から買込んでゐたグシャイドの村中が、彼の所に注文するだけでなく、 谷全體が注文し、遂にはミルスドルフや他の谷々からまでもちらほらとやつて來て、 グシャイドの靴屋に靴をつくらせる樣になつた。それどころか平野地方までも彼の名は擴つて、 山に登らうと思ふ者逹で、彼の所に登山靴を注文する者も多かつた。 彼は家を非常に美しく調へた。賣場には臺の上に靴、袋靴、編上靴が輝いてゐた。 日曜日に谷間中の人々が集つて廣場の四本菩提樹の傍へ立つと、人々は靴屋の家へ行つて、 ガラス越しに買ひに來た人や注文に來た人々のゐる店先をのぞきこむのを喜んだ。 山に對する偏愛から彼は又この頃登山用袋靴を誰よりも上手につくつた。 他國出來の登山用袋靴でわたしのつくつたのと比べものになる樣なのがあつたらお目にかかり度いと言ふのがいつも居酒屋での彼の言ひ草だつた。 「あの連中と來たら」と附加へるのも彼のおはこだつた。 「あの連中は自分で一生のうちに一度も山靴と言ふものがどんなのがいいのか身に感じたことがないのだ。 星をちりばめた夜の空の樣な底の釘の並べ具合、程よい加減の鐡具の案配。 靴と言ふものは外側が固くてどんなに角のついた割石でもちつとも足に感じない位でなければいけない。 それでゐて内側は柔かくしなやかで手袋の樣に足にしつくり來なければ嘘だ。」 ミルスドルフの縹緻よしの紺屋の娘は親の家から出なくても、 友逹の所にも親類の家にも來なくても、グシャイドの靴屋はいつかなへこたれなかつた。 娘が教會に行つたり庭先を歩いたり、自分の部屋の窓から牧場をながめたりする時に、 遠くから靴屋の姿に氣がつく樣に仕向けた。かうしていつも靴屋の姿を見せつけられてゐるうちに、 紺屋の女主人が娘に代つて長いこと熱心に根氣よく頼みこんで、 さしも頑固な父親も我を折ると言ふところまで漕ぎつけて、ともかく昔の靴屋ではないからと言ふので、 美しいミルスドルフの金持娘がグシャイドへお嫁に來ることになつて了つた。然し紺屋はこれでもなかなか強情な男だつた、 かう言つた。一かどの人間なら自分の生業にいそしんでひろがり榮える樣にしなけれやならぬ、 女房子供を養ひ、自分も使用人もちやんと食つて行けるやうにし、家屋敷は金ぴかに光らせ、 それに尚ほ一かどの金額を殘さにやならぬ、これがあつてこそ世間で尊敬され名譽を受けることが出來るのだ。 だから娘には立派な嫁入仕度以上には何もやらぬ。これ以上は自分で造り上げようと、 先々までも殘る樣にしようと亭主の腕次第だ。 ミルスドルフの紺屋の工場と紺屋屋敷の農場はそれ自身立派な名譽ある生業で、 この名譽の爲にも今後も續くべきであり、この爲には現在るすべてのものを基金に使はねばならない、 だからわしは一文もやらぬ。若しわしとわしの妻が亡くなつたら、 そしたらミルスドルフの工場も農場も一人娘、つまりグシャイドの靴屋の妻のものになる。 そしたら靴屋夫婦はどの樣にもするがよい。然しすべてこれには條件がある、 相續人逹が相續分を受けるだけの値打ちがある場合に限る。若し値打ちがない時は、 その子供逹に移る、子供がなかつたら、義務分だけを除いて他の親類にやつて了ふと。 靴屋の方も何も望まなかつた。自分はミルスドルフの縹緻よしの紺屋に娘だけほしかつたこと、 そして妻は今でも里で食べさせられ扶養されてゐたのと同じ樣に食べさせ扶養することが出來る旨を、 ほこらかに示した。靴屋は妻にグシャイドのどの女よりも谷間中のどの女よりも美しい着物をきせたばかりでなく、 里で着てゐたよりももつと美しく着飾らせ、親の家で食べてゐたよりはもつと良い氣を配つた食物や飮物を攝らせ、 その他の待遇をさせねば承知しなかつた。そして舅に對抗する爲に、 金を殘して次第々々に地所つを買ひ集めて行つたので、やがて彼は大地主になつた。 グシャイドの人逹は谷から外に出ることは殆どないし、ミルスドルフすら、峠ひとつ越えれば行けるのに、 風俗が異つてゐる故か、なかなか行かない、それに誰か男が自分の谷を去つて隣りの谷へ移住するなんて言ふことは (遠距離の移住なら時折見受ける)全然なかつた、又女や娘も他所の谷へ行くことは好まなかつた、 かなり珍らしい場合として誰かが戀に殉じて妻として夫のゐる他の谷へ行く位であつたので、 それで自然の成行として、ミルスドルフの縹緻よりの紺屋娘が、グシャイドの靴屋の妻になつた時に、 グシャイドの人逹からいつも他國の女と見られることになつて了つた。何も危害を加へるのではないけれども、 いやそれどころか、美しい物腰としとやかさ故にむしろ好意を持つてゐたのに、 結局何かはつきりしないものがあつて氣がねと言ふのか、それとも遠慮と言ふのか、とにかくグシャイドの女同志、 グシャイドの男同志と言つた具合に、しんみりと仲間同志と言ふ風には行かなかつた。 この風はその後もなかなかとれなかつた。 靴屋の妻が一際美しい着物をきて結構な家庭生活をして居れば却つてつのる一方であつた。 一年經つと彼女は靴屋に息子を一人産み、その後二三年で娘を産んだ。 然し夫は妻が世間一般はこんなものと考へた程には子供をすきではなく、 彼女の心持として子が可愛いい程にはないらしく思へた。大抵しんき臭い顏をして仕事をしてゐた。 子供と遊んだりあやしたりすることも滅多になく、子供と話してもいつもとりすましてまるで大人と話してゐる樣だつた。 衣食その他外見のことになると、非の打ち所のない位に子供を遇した。 三 結婚して最初の間は紺屋の女主人が度々グシャイドへやつて來たし、 若夫婦も御開帳とかその他のお祭りの折などよくミルスドルフを訪れた。然し子供が生れたとなると、 事情が變つて來た。母と言ふものは子が可愛ゆくて子供に逢ひたがるものだが、 祖母となると時によると一層ひどいものである。時としては全く病的な烈しさで孫に會ひたがる。 紺屋の祖母は頻繁にグシャイドへやつて來て、子供逹に逢ひ、何やかやお土産を持つて來ては、 しばらく滯在して、やがてあれはいけないこれはいけないと良いいましめを殘して歸つて行つた。 然し、祖母も寄る年波で身體も弱つて來てさう屡々馬車に乘ることが出來なくなり、 それを見た紺屋の反對もあつて、異つた方策が講ぜられることになつた。 物事が逆になつて、今度は子供が祖母の方へ出かけた。母親が自分で車で何度もつれて行つた。 時には然し子供逹が未だ幼い年頃だつたので暖く着物にくるんで女中に附添はせて車で頸を越えさせた。 子供逹が然し大きくなつてからは、歩いて母親か女中とミルスドルフへ行つた。 それに男の子ははしつこくて丈夫で賢い子に育つたので、行き馴れた路を頸を越えて獨りで行かせた。 晴れた日など、兄が小さな妹も連れて行きたいと頼みこむと、許されることもあつた。 こんなことはグシャイドの人々には普通のことであつた。それと言ふのも、 みんな長い道歩きに馴れてゐて、親逹は殊に靴屋の樣な男は、子供逹が逞しく育つのを見るのが樂しみで、 これを嬉しがつてゐたのだから。 こんな譯で、二人の子供が頸越えの路を、他の村人全部を併せたよりももつと幾度も通ると言ふ結果になつた。 そして母親が既にグシャイドでいつも謂はば他國の女の樣に取扱はれてゐたのだから、 かう言ふことになつては一層子供逹もよそものの樣になつた。 グシャイド生れと言ふよりは半分はミルスドルフ生れになつて了つてゐた。 男の子のコンラードは父親のまじめな物腰であつた。女の子のズザナは母親の名を貰つたのだが、 縮めてザナと呼んだが、この子は兄の物識りと思慮と強さに深く頼つて、 無條件に兄の言ふままになつた。丁度母が無條件に父の言ふなりに從つて、 父の見識と手際に盡く信頼してゐた態に似てゐた。 晴れた日の朝子供逹が谷を南の方に向つて、牧場を越え、頸の森がこちらを見下ろす場所まで歩いて行く姿が見受けられた。 彼等は森に近づいてだんだん路を急ぎ峠を越えて、未だお晝にならぬうちに、 向側の打開けた牧場をミルスドルフさして下りて行つた。 コンラードはザナにあれはお祖父さんのものだよと牧場を指示した。それから二人は祖父の畑を通つた。 ここでは兄は妹に色々と穀物の種類を話してきかせた。 やがて屋根ひさしの蔭で乾燥用の長い布が竿の先にほしてあるのが見えた。 布は風の中で身をくねらせて變な顏つきをして見せた。 續いて祖父が布職工と鞣皮工の爲に溪流に設備して晒布水車と樹皮搗碎工場の音がきこえて來た。 それから畑の角をもひとつ曲つて、程なく裏門から紺屋の庭先へ這入ると、祖母が二人を迎へ入れた。 子供逹が來るときは祖母はいつも蟲が知らせて、窓から外を見てゐるので、 ザナの紅い頸卷が眞赤に陽を受て光つてゐるのが、遠くからそれと分つた。 それから祖母は子供逹を洗ひ場と壓搾場を拔けて室へつれて行く、坐らせる、 頸卷やジャケツをとることは許さない、冷えこんでは大變だ、着たまま御飯を戴く。 食事が濟むと脱ぐものは脱いで遊んでもよかつた。祖父の家の部屋々々を歩き廻つたり、 その他お行儀が惡くていけないことでさへなければ、何でもしてよかつた。 紺屋は食事中ずつと子供逹の傍にゐたが、學校のことを根ほり葉掘り聞いてから、 特に嚴しく覺えなければならにのはこれこれと言ひ渡した。 午後になると未だその時でもないのに、祖母はさあ出發の用意をなさい遲くなつては大變ですよとせき立てた。 紺屋は持參金をつけなかつたし、自分が死ぬ迄は財産も一文もやらぬと誓つたのだけれども、 紺屋の主婦はそんな事などさう眞面目に縛られることはないと思つてゐた。 それで子供逹が來ると色々なものを呉れた。その中には何度もお金があることがあり、 時にはかなりの金額に上つた。のみならず又いつも決つて小荷物を二つ子供逹に背負はせた。 それには祖母が必要と思つたものや、子供逹が喜ぶららうと思はれるものが色々と入れてあつた。 時たま同じ物がグシャイドの靴屋の家にも元々ちやんとあつた樣な場合でも、 祖母はやるのが嬉しくて與へた。子供逹は何か特別なものの心算で背負つて歸つた。 だからつまり聖晩には子供逹が何も知らないで、箱に入れてよく封じてしまひこんだお土産を自分で持つて歸つて、 それが夜になつてから二人に分けられる始末になつた。 子供逹の家に着くのがあまり遲くならない樣にと言ふので、祖母がいつも未だ時間前から出かける樣にせき立てたので、 結局子供逹が途中であちらこちらで道草を食ふことになつて了つた。 彼等はよく頸の上にある榛の幼樹林に坐つて、實を石で割つたり、實がなければ、 葉や小枝や、或は春の初めに榛の枝からこぼれ落ちるあの柔らかな茶色の[艸/柔;#][艸/夷;#1-90-83]花序で遊んだ。 コンラードが妹に色んな話をきかせることもあつた。赤い遭難塔の所へ來ると、 左の脇路へそれて少しばかり高い山の方へ連れて行つて、ここを行くと雪の山へ行ける、 あそこには雪や岩があつて、羚羊がはね、大きな鳥が飛んでゐると兄は話した。 時には森を出外れた所まで行くこともあつた。そんな時兄妹はひからびた草地と低く繁つた石南花を見た。 けれども兄は又妹を連れて戻つた、そして決つて日暮れ前に家へ着いたので、いつも賞められた。 或る聖晩のこと、グシャイドの谷が最初の朝明りに明けはなれてゐた。薄い乾燥したもやが空一面にかかつて、 その爲さらでだにはすかいの遠い冬の日が東南の空にぼんやりと赤い影を見せてゐた。 それにこの日はどんよりとした殆ど生ぬるい空氣がぢつと谷中にかかり、 又天に滿ちてゐた。それは靜まつたまま動かぬ雲のたたずまひに現はれてゐた。 靴屋の妻は子供逹に言つた。「こんな氣持のよい日だし、雨が永く降らないから路も固まつてゐよう、 それにお父さまも昨日、若し今日よい天氣だつたらと言つて許して下すつたことですから、 ミルスドルフのお祖母樣の所へ行つても構ひませんよ。でもお父樣の所で御ききしてからね。」 子供逹は未だ寢卷のままであつたが、早速隣室へとんで行つた。父はお客と話してゐた。 子供逹はこんなよい天氣なのだから行つてもいいでせう、昨日いいつておつしやつたですものとせがんだ。 願は許されて子供逹は又母親の許へとんで歸つた。そこで靴屋の妻は子供逹に念入りに着物をきせてやつた。 娘には地の厚い風の通らない衣裳をきせた。男の子はもう獨りで着れる樣になつてゐて、 母親が妹に着せ終つた時には、もうとつくに濟んで待つてゐた。着物きせが濟んだ時に母は、 「コンラードや。氣をつけて行くのですよ。ザナも一緒につけてあげるから、早目にお出かけなさい。 道草など食つてはいけませんよ。お祖母さまのところで御飯が濟んだら、すぐ又引返して歸つて來るのですよ。 この頃は日が大變短くて、お日樣がすぐ沈んで了ひますからね」と言つた。 「判つてますよ、お母樣。」とコンラードは言つた。 「ザナによく氣をつけて頂戴、ころんだり身内がほてつたりしない樣にね。」 「大丈夫ですよ、お母樣。」 「では用心してね。お父さまのところへ行つて、行つて參りますと申し上げておいで。」 少年は父が精を込めて肩の皮で縫つたカバンを革紐で肩にかついだ。 二人で隣室へ行つて參りますを言ひに行つた。すぐ出て來ると、母親に十字を切つて貰つて、 嬉々として表へかけ出して行つた。 兄妹は足速やに村の廣場に沿つて下りて行き、それから路地を拔け最後に果樹園の板仕切りの間を通つて野面へ出た。 朝山の森には乳色の雲がたなびいてその上にはもう朝陽がかかつてゐた。 どんよりと赤らんだ日が葉の落ちつくした山林檎の枝間を縫つて子供逹と一緒に動いた。 谷にはどこにも雪はなかつた。もう數週間も前から雪が輝いて見えた高い山々は、 今や一面雪に被はれてゐた。低い山々は森林の外套をまとひ、葉の落ちた枝のうすくれなゐ色を呈して、 雪なしの姿を靜かに控へてゐた。地面は未だ凍つてはゐなかつた。 季節の和らかな濕氣が地面に走つてゐるのでなかつたら、 これまで久しく雨がなかつた爲すつかりからからになつて了つてゐたことだらう。 然し濕氣があつてもつるつるにはなつてゐず、むしろしつくりしまつて彈力があつて、 兄と妹は樂々と地面をふんだ。少しばかりの牧場に、 殊に溝のへりに殘つてゐた草は秋の相貌を呈してゐた。霜はひとつもおいて[おいての誤り?]ゐなかつた。 よく見ると露さへなかつた、これは農夫逹の意見では雨の近いしるしであつた。 牧場の堺に向つて一條の山溪があつてその上に高い橋がかかつてゐた。 子供逹はこの橋に上つて下を見下ろした。谷には殆ど水がなかつた。 非常に濃い青色の細い流れが河原の小石の間に流れてゐた。 小石は雨のない爲すつかり白くなつてゐた。少い水量も、その色も、 高い山嶽地方にはもう寒が來てゐることを物語つてゐた。 寒氣は土で水が濁らない樣に、地面を閉す、氷は固くなつて僅かにその内部から澄明な水滴をおとす。 橋を離れて子供逹は低地を縫つて急いだ。次第に森林地帶に近づいて行つた。 やがて森の堺に辿りついて、森に這入りこんだ。 頸部の高い林の中に登つて行つた頃は、車の長い轍の跡が、下の谷間で見受けた樣に、 柔かではなくてこちこちになつてゐた。それも乾燥した爲ではなくて、 凍つてゐるこtが子供逹にすぐ判つた。或る場所などはひどく凍つてゐてその上を歩いても平氣だつた。 かうなると子供心の自然でもう轍の横の滑らかな路面は歩かないで、轍の跡を歩いた。 そして轍跡の皺があちらこちらでもう乘つて歩けるかどうかを試驗した。 一時間經つて二人が頸の峠の上についた頃は地面はすつかり凍てついて、からからと鳴り、 土くれは石の樣に固かつた。 赤い遭難塔のそばまで行つてから、ザナが先づ氣がついたが、今日は塔が見えなかつた。 近寄つてみると、丸い赤塗りの繪をとりつけた樣なひからびた草の間に倒れ伏してゐた。 四邊に薄く藁を敷いた樣に生えた草が倒れた塔を引き蔽ふてゐた。塔がどうして倒れてゐるのか、 引倒されたのか、自然と倒れたのか子供逹には合點が行かなかつた。 塔の地面に接する邊はすつかり腐つてゐたのだから、獨りで倒れたとしても不思議はないことは子供逹に判つた。 ともかく今見ると倒れてゐるので、平素は思ひも寄らぬ程近くから繪と説明を見ることが出來て嬉しかつた。 白パンの入つた手籠、パン屋の蒼白い兩手、閉ぢた眼、灰色の上衣、 それに周を取りまく樅の林——すつかり見終つて、説明を讀み、聲高く讀み上げてから、又二人は先へと進んだ。 又一時間經つと兩側の鬱々たる林はなくなり、まばらな立木、ちらほらと[木|解;#1-86-22]《かし》の離れ木や、 白樺や叢林が彼等を迎へ、しばらく續いたが、やがて彼等は牧場へ出てミルスドルフの谷へとおりて行つた。 此の谷はグシャイドの谷間よりずつと低く從つてずつと穩かで、 取入れもグシャイドより二週間は早く始めることが出來たにも拘らず、 此處でもやはり地面が凍つてゐた。子供逹が祖父の鞣し場に差しかかつた時、 いつも水車が水玉をまき散らす路面に今日は美しい薄氷が張つてゐた。 普通子供逹はこんなものが非常に嬉しいものである。 祖母は二人が來るのをちやんと見てゐて、迎へに出た。ザナのこごえた手をとつて部屋に引き入れた。 子供逹に厚い着物を脱がせて、ストーヴに火をつがせ、それから山越えの模樣はどうだつたときいた。 子供逹がそれに答へると祖母は言つた。「さう、それはよかつた、本當によく來てくれました、 でも今日は早目に家を出なければいけませんよ。日が短いし、 それにだんだん冷えて來ますよ。朝はミルスドルフでは氷も張らなかつたのに。」 「グシャイドでも[だ]よ」と少年が言つた。 「そらね!だから急がなけりやいけませんよ。夕方近くなつて冷えて來ると困るからね。」と祖母は答へた。 この後で祖母は、お母さまはどうしてらつしやる、そしてお父樣は、 グシャイドには別に變つたこともないかと訊ねた。 色々と訊いた後は食事の世話にかかつて、いつもよりは早目に準備する樣に色々と氣を配つた。 自分の手で一寸したおいしいものを調理した。これは子供逹が喜ぶことを祖母は知つてゐた。 やがて紺屋が呼びにやられた。子供逹は偉い人々の樣にちやんと食卓について、祖父母と同席で食べた。 祖母はその時とつておきの御馳走を二人の前に出した。食事が濟んでから祖母は、 まつかにほてつたザナの頬をなでてやつた。 それから祖母はせつせと動き廻つて、少年の犢皮のカバンを一杯にし、 その上色んなものをポケットにまで詰めこんだ。ザナのポケットにも色んなものを入れてやつた。 そしてカバンの中にはこの他白パンを二切れ入れておいたから、餘りお腹がすいたらお上りと祖母は言つた。 「お母さんには上等のコーヒーの熬たのを入れておいた」と彼女は言つた。 「きつく栓をしてよく縛つておいたこの壜にも、黒いコーヒーの出したのが這入つてゐますよ。 家でお母さんのよくこさえるのより上等ですよ。その加減をまあ一度試して御覽、 ほんとに樂ですよ。精分がついてどくりと一飮みしただけで胃が暖まつて、 どんな寒い冬の日だつて身内がほかほかとなつて寒さ知らずです。 その他色んなものを箱や紙に包んでカバンの中に入れておいたが、 これはこわさない樣に持つて歸るのですよ。」それからしばらく子供逹と話してゐたが、 さあもう行かなければと言つた。 「氣をおつけよザナ。」と祖母は言つた。「凍えたり、身内がほてつたりしない樣にね。 牧場の中をかけ登つたり、林の樹蔭を走り廻つたりしてはいけませんよ。 若し夕方近くなつて風が起る樣な時は、ゆつくりと歩くのです。 お父さまお母さまによろしくね、みんな幸せなお祭をお過しになる樣に言つて頂戴。」 祖母は二人の子供の頬に接吻し、それから表へ押し出した。自分でも然しついて出て、 庭を拔け裏門から出してやつた。それから門を閉ざして屋内へ引取つた。 子供逹は祖父の工場の脇の薄氷のところを通り、ミルスドルフの畑を拔けると、 路は上りになつて牧場にかかつた。 山に差しかかつて、話した通りまばらに木々や叢林の生えてゐる邊に來た頃、 非常にゆつくりした雪がちらほら落ちはじめた。 「そらね、ザナ」と少年が言つた。「雪になるだらうとすぐ僕は思つたよ。 ねえ、僕逹が家を出て來た時はお陽樣が未だ見えてゐて、キリストの御墓の提燈の樣に血の色をしてゐたのが、 もう跡形も見えなくなつたね。高い木々の梢の邊は一面の灰色の霧だよ。こんな時はいつも雪になるさ。」 四 子供逹は雀躍して進んだ。上着の黒い袖に落ちて來る雪片が止つて、そのままいつまでも融けないでゐるのを、 ザナは心から嬉しがつた。ミルスドルフの丘並のどんづまり、 ここから頸部の鬱蒼とした樅の林がはじまる所までやつと辿りついた時には、 もう眞黒な森林の壁がだんだん降りつのつて來る雪片の爲にだんだら模樣になつて風情があつた。 路は今深い森林に入つた、これから路の大部分はこの中を行くのだつた。 森林にとつつくと路は愈々急になる。尤も赤い遭難塔までで、この邊から、 前にほそめかした樣に、路はグシャイドの谷へとまつしぐらに降りてゐる。 ミルスドルフ側の森林のもり上りは實に急激で、路は眞直でなく長々と曲りくねつて西から東、 東から西とよぢ登るのである。この塔までの路、それからグシャイドの牧場に出るまでの間中、 路は高い鬱然と晝尚ほ暗い森林に蔽はれてゐる。 平地に近づいてグシャイドの谷の牧場に出る頃になつてやうやくいくらかまばらになつて來る。 頸は二つの巨大な山頂の間の鞍部にすぎないとは言へ、なかなか大きな山で、 若し平地に置いたら、たくましい山巓なのである。 森路に這入つて子供逹の最初に見たものは、凍つた地面が一面に粉をふりかけた樣に灰色のなつて居り、 路傍や木々の合間に覗いてゐたひからびた草の細い葉の先が雪で重くたれてゐて、 そこここ掌《てのひら》の樣に擴がつてゐる樅や蝦夷松のみどりの枝の上にもう眞白な毬毛がのつてゐることであつた。 「お家のお父さまのところも今頃雪かしら」とザナが訊ねた。 「さうさ」と答へたのは少年。「それにだんだん寒くなるよ、見てて御覽、明日は池一杯氷だよ。」 「さうね、お兄さま」と少女。 さつさと歩いて行く少年の足に後れない樣に、ザナは小きざみの足取りを殆ど二倍にした。 二人とも確かな足取りで曲りくねつた路を歩いた。今西から東へ行つてると思ふと今度は東から西へ。 祖母の豫言した風は出なかつた。それどころかあたりはひつそりと靜まり返つて、 枝ひとつ小枝ひとつ鳴らなかつた。むしろ森の中はだんだん暖くなる樣な氣がした。 これは密でない物體内で、森もそのひとつだが、冬にはよくあることである。 雪片は愈々しげく降り出した。地面は忽ち銀世界となり、森林は粉をふいた樣に灰色になりはじめ、 少年の帽子も着物も少女のも雪だらけであつた。 子供逹は大喜びであつた。彼等は柔かい毬毛に乘つた、厚く積つてゐさうな場所を足でわざと搜し廻つてはそれを踏んで、 もう深い雪の中を渉り歩いてゐるかの樣な氣になつた。着物にかかつた雪はわざと拂ひ落さなかつた。 非常に靜かになつてゐた。冬の森にもやはり時折は飛び廻つてゐて、 往きには鳴き聲すらしてゐた小鳥逹もひつそり閑としてゐた。 何處ぞの小枝に止つたり飛んだりしてゐる姿もついぞ見かけなかつた。森中が謂はば死に絶へてゐた。 子供逹の足跡だけがその後に殘され、その行手の雪は清らかにものの觸れた形跡もなかつたことから、 今日頸を越えるのはこの二人だけなことが分つた。 彼等は行手に向つて歩き續けた。或時は木立にすれすれになり或時はずつと離れた。 深い下草の茂つてゐる邊に來ると、小枝の上に雪がのつてゐるのが認められた。 子供逹の胸は愈々躍つた。と言ふのは雪が愈々繁く降つて來て、 見る間に雪の深いところを搜して渉ることはなくなつたから。 もう一面に厚く積つて、何處を歩いても柔らかな雪が足うらに感ぜられて、 靴の周りにそろそろ雪がつきはじめた。さうしてひつそりと靜まり返つてゐると、 針葉に降りかかる雪のさやめきが聞える樣な氣がした。 「遭難塔は今日も見えるかしら」と少女は訊ねた。「倒れてたわね。 倒れてる上に雪が降つて赤い色が白くなるでせうね。」 「だから却つて見えるよ」と少年の答。「あの上に雪が積つて白くなつてゐたつて、 見えるに違ひないよ。だつてあんなに大きな塔だし、頭の所に黒い鐡の十字がついてゐるのだもの、 あれが埋れる筈はないよ。」 「さうねえ、お兄樣。」 「しばらく行くうちに雪は非常に烈しくなつて、もう見えるものとてはすぐそばの木立だけになつた。 固い路や轍跡の盛り上りなどは全然感ぜられなかつた。路は一面にどこにも同じ樣に柔かく、 一筋森の中を同じ樣な白い帶が走つてゐるから、これが路かと僅かに見分けられるだけであつた。 見るともうどの枝にも美しい白いカバーがかかつてゐた。 子供逹は今度は路の中程を歩いた。か弱い足で雪の中に溝をつけた。 これまでよりも歩き辛くなつたのでゆつくりと歩いた。 少年は雪が首筋に這入らぬ樣に上衣の襟を立て、なるたけ雪をさける爲帽子を深く被つた。 彼は妹にも母が肩にかけてくれた頸卷を調へてやり、庇の樣に額の上まで擴げてやつた。 祖母の豫言した風は相變らず來なかつた。その代り雪は愈々しげくなつて、 すぐそばの木さへ見分けがつかなくなつて、まるで霧の袋の樣に空に突立つてゐた。 子供逹は歩き續けた。首をぴつたりと着物の中にすくめて歩き續けた。 コンラードが犢皮のカバンを肩に擔いでゐるその革紐に、ザナは可愛いい手をかけ、 それにつかまつてかうして二人は路を進んで行つた。 行つても行つても未だ遭難塔の所へは來なかつた。少年は太陽が空にかかつてゐないで只一面に灰色なので、 時刻を測ることが出來なかつた。 「もう間もなく遭難塔だわね」ザナが訊いた。 「分らない」と少年は答へた。「今日は木が見えないし、路も見分けがつかぬ、何もかも眞白なんだもの。 遭難塔はこの分では見えないぞ、雪が深くてすつかり埋つてゐるだらうから。 草一本出てないだらうし黒十字の腕も見えまい。然し構やしないさ。 路さへ行けばいいんだもの、路は林の間に通じてゐるから、遭難塔の所へ來たら下りになるだらう、 それを行きさへすればいい、森を出外れたら、もう僕逹のゐる所はグシャイドの牧場なのだよ。 それから橋になる、さうすればもう家まで譯はないさ。」 「さうねえ、お兄樣」と少女は言つた。 兄妹は上りの路を歩み續けた。彼等の殘した足跡も長くは殘らなかつた。 はてしなく降りしきる雪がすぐ埋め盡して忽ち見えなくなつて了つた。 降りかかる雪はもう針葉にさらとも音を立てずに、白く地を被ふ積雪の上にせつせと無氣味に落ち重つて行つた。 やはりどこからか這入りこんで來る雪を防ぐ爲に子供逹は一層着物の襟をかき合せた。 彼等はせつせと脇目もふらずに歩いた。路は未だ上つてゐた。 それから大分經つて、未だ峠には出なかつた。そこまで行けば遭難塔がある筈であり、 そこから路はグシャイド側へ一筋に下つてゐる筈であつたが。 遂に子供逹は立木のひとつもない場所へ出た。 「木がひとつも見えないわ」とザナが言つた。 「路が廣くて、雪の爲に見えないのではないかな」と少年は答へた。 「さうねえ、お兄樣」と少女は言つた。 しばらく行つてから少年は立ち止つて言つた。「僕には木はひとつも見えない。 森林を出外れたのに違ひない、でも路は上りだね。少し歩き止めて樣子を見よう、 何か見えるかも知れない。」 然し何も見えなかつた。見上げる空は一面の灰色だつた。 降雹の時白い或はうす緑の雲の彼方から暗いもやもやしたものがぢつと睨む、あれに似てゐた。 そして土砂を落す樣に降り積む雪は止まなかつた。地上に彼等が見たものは只丸く擴がつた白の一色、 他は何もなかつた。 「ねえ、ザナ」と少年が言つた。「僕逹のゐる所はあのひからびた草原なのだよ。 そら夏に何度もザナを連れて來ては腰を下ろして、次々に高くなつてゐる芝草をながめた所さ、 綺麗な草花が群れ繁つてゐたね。だから今度は右の方に向つて下りになる譯だ。」 「さうねえ、お兄樣。」 「日が短いからつて、お祖母樣がさう言つたね、ザナだつて知つてるだらう、だから急がにやいけないよ。」 「さうねえ、お兄樣」と少女。 「一寸御待ちよ、も少しちやんとしてあげよう」と少年は答へた。 彼は自分の帽子をとつてザナの頭に被せてやり、兩の紐で頤の下でしつかり縛つてやつた。 彼女はかけてゐた肩掛では少し心もとなかつた、彼の方は頭にふさふさとして捲毛があつたので、 未だよつぽど雪が降りかかつても、融けて透つて寒くなる心配はなかつた。 彼はその上毛皮の上衣を脱いでそれを妹の袖に通してやつた。自分の肩と腕はこれで襯衣ばかりになつたが、 この上に彼はザナが胸に卷いてゐた小さな頸卷と肩にかけてゐた大きな頸卷とをまきつけた。 これで十分だ、ぐんぐん歩いてさへ行けば、凍えることはあるまいと彼は思つた。 彼は少女の手をとつた、これで歩き續けた。 少女は唯々として可愛いい眼で四邊一面の灰色を見渡して彼について歩いた。ただ小さな足では急いでも、 一氣に事を決して了はふとかかつた人の樣に進む兄には後れがちであつた。 兄妹は、子供と動物に共通な樣に、休まずせつせと歩いた。どれ位の力が自分等にあるものか、 何時になつたら力がつきはてるのか彼等は知らない。 然し彼等は歩きながら、山を越えて下りてゐるのかどうか知ることが出來なかつた。 彼等はすぐ右へ下りて行つたけれども、又上り路になつた、行つても行つても上りだつた。 時々嶮しい所にぶつつかつてよけなければならなかつた。彼等の歩いてゐた溝はぐるりと曲つて元の所へ歸つて來た。 彼等は足下の斷崖をよぢた、よぢてみると思つたよりも嶮しかつた。 下りだと思つたのが又平坦だつたり、或は凹地になつてゐたり、どこまでも延びてゐたりした。 「一體何處なのかしら、お兄樣」と少女が尋ねた。 「分らない」と彼は答へた。 「僕のこの眼で何か見ることが出來さへすれば」と彼は續けた、「そしたら分るのになあ。」 けれども彼等の周りはまぶしい白の一色以外は何もなかつた、 どこをみても白、然しそれさへだんだん小さな圓を彼等の周りに引いて、 その先は明るい、條紋を描いて下りる霧となり、それから先にすべてを呑み被ひつくしてゐたが、 この霧もつまりは小止みなく降りしきる雪以外の何でもなかつた。 「ザナ、お待ち」と少年が言つた、「少し立止つて聽耳を立ててみよう、何か谷から聞えて來るかも知れない、 犬か鐘かそれとも水車の音か、或は呼び聲がきこえるかも知れないよ、何か聞えるに違ない、 そしたらどちらへ行つたらいいか、分るよ。」 彼等は立止つたけれども何もきこへなかつた。でもしばらく立つてゐた。それらしい聲も聞えなかつた。 物音ひとつしなかつた、かすかな音すら、きこえるものは兄妹の呼吸だけだつた。 四邊の靜寂の中でほんとに、睫毛にかゝる雪の音がきこえる樣に思はれた。 祖母の豫言は未だ實現してゐなかつた。風は起つてゐなかつた。 全くこの地方に珍しいことだが、空中にそよろとの微風もなかつた。 長いこと待つてから二人は又歩き出した。 「構やしないよ、ザナ」と少年は言つた、「氣落ちしちやいけないよ、僕についてお出で、 どんなことがあつても連れて歸るからね。——雪さへ止めば何でもないんだ!」 妹は氣を落さずに、出來だけ元氣に足をあげて、兄に從つた。 兄は白い明るい何かもやもやと動いてゐる不透明な空間をつれて行つた。 しばらくすると岩が見えた。白い不透明な光の中から、岩は黒くぼんやりと突立つてゐた。 近づくと殆ど鼻を打ちつけさうになつた。岩はまるで壁の樣にそびえて、 まつすぐに立つてゐたので、岩肌に殆ど雪がついてゐなかつた。 「ザナ、ザナ」と彼は言つた、「岩だよ、先へ行けばいいんだ、先へ。」 兄妹は歩き續けた。岩の間を拔けたり岩の下を潛つたりしなければならなかつた。 岩の爲に右にも左にもよけることは出來なかつた、狹い路を眞直ぐに行つた。 やがて又岩はなくなつた、見ようとしても見えなかつた。 不意に岩の下へ來た樣に、不意に又岩から離れて了つた。又二人の周りは白の一色だけになつた。 周りの何處を見ても白を遮ぎる黒はなかつた。大きな光の海の樣であつた、 それでゐて三歩と先を見ることが出來なかつた。言ひ方が許されるなら、 すべては唯一つの白い暗の中にのまれてゐた。それに影がないので事物の大きさの判斷がつかなかつた。 子供逹は自分が上つてゐるのか下つてゐるのか見當がつかなかつた。 やがて彼等の足は急坂にぶつつかつて否應なしに登り出した。 「眼が痛くなつたわ」とザナが言つた。 「雪を見ない樣になさい」と少年は答へた。「雲を見るんだ。僕も先刻から痛いが、なあに何んでもないよ。 とにかく僕は路を搜す爲に雪を見ぬ譯にはいかぬ。恐がることはない、きつとグシャイドへ連れて下りるから。」 「さうねえ、お兄樣。」 五 彼等は又歩き出した。然しいくら歩いてみても、いくら路をかへてみても、一向下り口にはかゝらなかつた。 兩側は屋根の樣に上まで嶮しく切り立つてゐた。眞中を歩いた、けれども相變らず上り路だつた。 切り立つた屋根から逃れて下り路の方へ曲ると、すぐ嶮しい所にぶつつかつて、 又引返さねばならなかつた。いたいけな足は何處か凸凹の地面を感じ、屡々小山を廻りこまねばならなかつた。 新しい雪に深くふみこんだはずみに、足が地面でなものを踏んでゐるらしいことに二人は氣がついた。 何か違つたもの、古い凍りついた雪とも思はれるもの。然し彼等は歩み止めなかつた。 忙しく我慢強く走る樣に歩いた。歩き止めるとあたりはしいんとしてゐた、 底知れずしいんと。歩き出すとさくさくと足音がきこえた。その他には何もきこえない。 天の被ひは音もなく落ちて、その烈しさは、地面の雪がずんずん伸びるのが目に見えるかと思はれた。 彼等自身もすつかり雪を被つて、一面の白の一色から目立たなくなつて、 二あし三あし離れたら、忽ち分らなくなつて了つたことであらう。 幸ひなことには雪がまるで砂の樣に乾燥してゐて、 足や袋靴や靴下からさらさらと辷り落ちてくつついて塊つたり融けたりするこてやなかつた。 遂に彼等は又物につき當つた。 恐ろしく巨大なごちやごちやになつた岩滓がそれが一面に雪に被はれ、その雪が至る所裂目の中へこぼれ落ちてゐた。 こゝでも彼等は危ふくぶつつかりさうになつてはつと氣がついた。そばへ寄つてよく見た。 見ると氷——一面の氷であつた。 平たい岩が連なつて、それが雪に被はれてゐた。その側壁のところは然しつる〜したうす緑の氷が見受けられた。 丘陵が連つて、泡を盛り上げたやうに見えたが、その側面は内懷にかけてにぶく光りきらめいて、 寳石の角材や支柱が入り亂れてゐるかの樣に見えた。更にまんまるい球の形をしたものもすつかり雪に包まれて並んでゐた。 又平たいものやその他の形をしたものがはすかいに或はまつ埀直に立つて、まるでグシャイドの教會の塔か、 家々の樣に高くそびえてゐた。そのあるものには、洞穴が穿たれてゐて、片腕を突込めるものがあり、 首の這入るものがあり、全身入れるもの、乾草を一杯積んだ大きな車がそつくり入るものもあつた。 すべてこれ等の氷塊は押し集められ、盛り上げられて、空に聳え、そここゝで屋根をなし庇を作り、 その縁からは雪が埀れ、獸の長い白い前足の樣に下つてゐた。或石などぞつとする程黒くて、 家程もある大きさでゐながら氷の下に逆樣に押立てられ、側面には雪の一片もついてはゐなかつた。 この岩だけではなかつた——他にも、もつと大きなものが氷の中に埋れてゐることが後になつて判つた。 これ等の岩はまるで崩れ落ちた壁の樣に氷面に沿うてゐた。 「こんなに澤山氷があるのだから、とても澤山水があつたに違ないわね」とザナが言つた。 「いや、水ではないよ」と兄は答へた。「これは山の氷だよ、高山にはいつも氷があるよ、 大昔からさう言ふことになつてるのさ。」 「さうねえ、お兄樣」とザナ。 「僕逹は氷の所まで來て了つたんだよ」と少年は言つた。「山の頂上に來たんだよ、ねザナ、 僕逹の庭から日光を受けて眞白に見えるだらうあれだ。これから言ふことをよくお聞きよ。 未だ憶えてゐるだらう、午下りなどよく庭に坐つたね、非常にいゝ氣持で、 周りを蜜蜂がぶんぶん鳴き、菩提樹から氣持のいゝ香が漂つて來て、空にはお日樣が照つてゐたね。」 「さうねえ、お兄樣、憶えてゐるわ。」 「あの時山も見えたよ。青い、柔らかな蒼穹の樣に青い山だつた。 いただきには雪も見えた、僕逹の所は夏で、暑くて穀物が熟してゐたのにね。」 「さうねえ、お兄樣。」 「そして下の方の雪のなくなる邊には、色んな色が見える、よく注意してみると緑があり、 青があり、白つぽい所もある——あれは氷なんだ。あんなに下で小さく見えるのは、 非常に遠く、離れてゐる爲で、この氷は世の果てまでいつも消えることがないとお父樣が話して下さつたのだつたね。 そんな時によく氣付いたことだが、氷の下側には青い色が先まで續いてゐる。 岩場か、或は地肌か草地なのだらうと僕は思つてゐた。それに續いて森林地帶がはじまり、 それが低く下がるにつれてだん〜擴がつてゐる。森林の合間には又色んな岩が見える。 その下は草地でこの邊になるともう緑色に見える。それから緑の濶葉樹が來、 それからグシャイドの谷間の僕逹の牧場や畑になる。だからね、ザナ、いま氷の所にゐるのだから、 青い色の所を越えて下ればいいことになる、やがて森林に入る、そこには岩がある、 それから草地を通る、それから緑色の濶葉樹林を拔ける、そしてグシャイドの谷間に下り、 譯なく僕逹の村が分るよ。」 「さうねえ、お兄樣」と少女は言つた。 そこで子供逹は通れさうなところを氷の中へ這入つて行つた。 彼等はこれ等の巨大な氷塊の中をさまよふちつぽけな點だつた。 かうして二人が本能に驅られて雨露の凌ぎを求めるかの樣に、 庇形の下をのぞき込んでゐるうちに、彼等はひとつの溝に中へ辿りついた、 廣い深い溝で氷の中から直接に續いてゐた。 もと河床であつたのが、水がなくなつて到る所新しい雪に包まれてゐる樣に見えた。 溝が氷の中から外に出る邊は丁度地下室の圓天井の下の樣になつてゐて、 美しい氷の天上が溝の上に引きかぶさつてゐた。 子供逹は溝の中を歩んで圓天井へ這入り、更に奧へと入つて行つた。 四邊はよく乾いてゐて、足下は滑かな氷であつた。洞穴の中は然し四邊一面に青く光つてゐた、 世の中の何よりも清く、蒼穹よりももつと深くもつと美しい青さ謂はば天の青に塗つた色硝子で、 それを透して明るい光が射しこんで來るのに似てゐた。天井は厚い氷になつてゐる所があり、 薄い所もあつた。齒形や尖つたのや總形のや氷柱が埀れ下つてゐた。 廊下はもつともつと奧まで續いてゐたと思はれる、どこまで續いてゐるやら彼等には分らなかつた。 然し彼等はそれ以上奧へは入らなかつた。元來洞の中は非常に居心地がよかつた筈であつた、 暖かつたし雪も降らなかつたのだから。けれども四邊の青さが恐ろしいばかりであつたので、 子供逹は怖くなつて引返した。溝の中をしばらく歩いてから、その縁をよぢて外へ出て了つた。 彼等は氷に沿つて、岩滓や平たい岩の間を突拔けて歩ける所まで進んだ。 「さあ此處を越えるんだよ、さうすれば氷のある所から下へ降りる譯だ」とコンラードが言つた。 「さうねえ」と言つてザナは兄に縋りついた。 彼等は氷から離れて雪の中をしばらく谷間へ通ずると覺しい方向に降りて行つた。 然し餘り遠くは降りなかつた。新しい氷の流れが、巨人の樣に築き上げ圓く打ち建てられた壘壁の樣に、 柔かな雪をはすに區切つて、謂はゞ兄妹の左右に猿臂を延ばしてゐた。 氷を蔽ふ白い被覆の下邊からは横ざまに緑や青や暗く黒く、黄や紅の色さへおびて光つてゐた。 今見るとかなり先まで見えた。と言ふのはいつ止むとも知れなかつた大雪が小降りになつて、 普通の雪の日位に空から落ちて來るだけになつたのであつた。知らぬ者の向ふ見ずで、 兄妹は氷の中へよぢ登つた、押し出してゐる氷の山を乘越えて、それから向側を下りて行く心算であつた。 空隙の中で攀ぢ下りた。岩であれ、氷であれ、白い綿帽子を被つて出てゐるものに何でも足をふまへた。 愈々になると手を使つた。歩けない所は這つた。輕い體重を利して遮二無二攀ぢた。 遂に壘壁の胴腹を征服して彼等は頂上にゐた。 向側を又攀ぢて下りようと思つた。 所が向側はなかつた。 子供の眼のとどく限り一面の氷であつた。尖角や凹凸や團塊がむくむくと頭を立ててゐて、 一面に不氣味な、雪に埋れた氷であつた。壘壁になつてゐて、これを乘越へると、 兄妹が下で思つた樣に先は又雪になつてゐるのではなくて、彎曲の部分から新しい氷壁が更に盛れ上つて、 割れ裂け碎けたその肌には無數の青い曲りくねつた線を見せてゐた。氷壁の彼方には又氷壁があり、 その向ふに又氷壁があつて、その先は降りしきる雪に被はれてゐた。 「ザナ、これではいけないね」と少年が言つた。 「ええ」と妹は答へた。 「又引返すことにしよう、どこか他の所を下りれるか搜すことにしよう。」 「さうねえ、お兄樣。」 そこで子供逹は先刻攀ぢ登つて來た氷の壘壁を又降りようとした。 けれども降りれなかつた。一面に氷ばかりで、來た時の方向を間違へた樣に思はれた。 彼方は行き此方へ行きしたが、氷から出ることが出來ず、まるで氷にからみつかれてでもゐるかの樣であつた。 低い方へ攀ぢ降りた、すると又氷の所へ出た。 少年はこちらから來たと思ふ方向へ一生懸命に進んでゐる中に遂に岩滓のちらばつてゐる場所へ辿りついた。 然しこの岩滓地帶は氷の終る邊でよく見受けるものよりは大きくて不氣味だつた。 子供逹は這つたり攀ぢたりしてそこへ出た。氷の縁に巨大な岩塊があつて、 それがこれまで曾て見たことがない程に累々と積み重なつてゐた。 多くの岩は下部の傾斜した壁を見せてゐたがそこはまるで岩がそこへ押し上げられたかの樣につるつるに綺麗に磨滅してゐた。 多くのものは小屋と屋根の樣な恰好になり、多くのものは無恰好な塊の樣に重なり合つてゐた。 子供逹の立つてゐた所から遠くない邊に幾つかの岩が頭をもたせかけ合つて立ち、 その上に幅の廣い擴がつた岩塊が屋根の樣にのつてゐた。 前面は開いて居たが後と兩側は被はれて、打つてつけの小さな家であつた。 内部は乾燥してゐた、埀直に落ちる雪は一片さへ降りこまなかつた。 もう氷の中にはゐないで、土の上に立つてゐることが、子供逹は非常に嬉しかつた。 所が又四邊がだんだん暗くなつて來た。 「ザナ、」と少年が言つた、「もうおりれないよ、夜になつたし、轉んだり、穴に落ちたりしては困るからね。 あそこの石の下へ這入らう、あそこなら乾いてゐて暖かだよ。 あそこで待つことにしよう。やがて又日が出る、そしたらさつさとおりるんだ。 泣いちや駄目だよ、御願ひだからね、泣いちや駄目だよ、 お祖母樣の下さつた食物をみんなお前にあげるからね。」 彼女は本當に泣かなかつた。石の差しかけ屋根の下は樂に腰を下ろせたばかりでなく、 立つたり歩き廻つたりすることが出來たが、兄妹でここに這入つた時妹は兄にぴつたりと身體を寄り添つて坐つて、 みぢろぎもしなかつた。 「お母さまも」とコンラードが言つた、「お怒りはなさらないよ、 雪が澤山あつて歸れなかつたことを話せば何ともおつしやらないよ、 お父さまだつて同じだよ。僕逹は若し寒くなつたら——ねえ——木樵逹がしてみせた樣に、 兩手で身體を打つんだ、さうすればだんだん暖かくなるよ。」 「さうねえ、お兄樣」と少女。 今日はもう山を下りて家に歸ることが出來ないことをザナは、 兄が考へた程しよげきつてはゐなかつた。自分逹は知りもしなかつた程、 測り知れぬ骨折りをしてゐたので、子供逹はかうして坐つてゐるのが快よかつた。 言ひ知れぬ位氣持よかつた。それで二人はすつかり我を忘れてゐた。 所が今度はお腹が空いて來た。二人は殆ど同時にポケットからパンを取り出して食べた。 お祖母樣がポケットに入れて下さつた色んなもの——お菓子の小切れ、扁桃、 胡桃その他の一寸したもの——も食べた。 「ザナ、今度は又着物の雪を拂はなければいけないね、」と少年が言つた。 「融けて濡れると困るよ。」 「さうねえ、お兄さま」とザナは答へた。 子供逹は小さな家を出て、コンラードが先づ妹の雪を落してやつた。 彼は着物の耳をとつて打ちふつた。被せてやつておいた帽子を脱がして、その雪を拂つてやつた。 それでも未だ殘つてゐるものはハンカチではたき落した。 それが濟んでから今度は自分の雪を力の及ぶかぎりよく拂ひ落した。 雪降りはこの頃にはすつかり止んでゐた。子供逹は雪片をひとつも感じなかつた。 彼等は又石小屋に入つて腰を下ろした。立上つてみてはじめて自分逹がどれ位疲れてゐるかが分つた。 坐つて居れるのが嬉しかつた。コンラードは犢皮のカバンを下ろした。 お祖母樣が紙箱や澤山の紙包を包んで下さつた布をほどいて、一層暖かい樣に兩肩にまいた。 白パン二切れもカバンから出して二つともザナにやつた。ザナはむさぼるやうに食べた。 一切れ食べて了つて、二切れ目も少し食べたが、兄が何も食べてゐないのに氣がついたので、 その殘りをコンラードの方に差出した。兄は受取つて殘さず食つた。 その後子供逹は坐つたままぢつと見てゐた。 夕暗の中で目のとどく限り、何處をみても雪明りが沈んでゐた。 一つ一つの雪の微粒子がそこ此處で暗の中に不思議に光り出すさまは、 まるで晝間に光を吸つて、今それを放つ樣であつた。 非常な高山の常として夜がすみやかに下りた。忽ち四邊は暗くなり、唯雪だけが蒼白い光をあげて光りつづけた。 雪降りが止んでゐただけではなく、天に懸つてゐた靄もうすれて、散りはじめた。 それは子供逹が星の光るのを見たので分つた。雪が本當に光の樣なものを放ち、 雲から埀れた靄ももうなかつたので、子供逹は洞穴の中から、 暗い空からくつきりと輪廓を切つてゐる雪の丘陵を見ることが出來た。 この日通つた何處より穴はずつと暖かつたので、子供逹はぴつたり身をくつつけ合つて休んで、 暗い恐さを忘れてゐた。そのうちに星の數も殖えて來た。こちらにひとつあそこにふたつと現れて、 天にはもう雲ひとつないやうに見えた。 その頃谷間ではいつも燈火をつける時刻であつた。最初にぽつりひとつついて机の上に置かれて部屋を照らす。 或はとろとろと木切れがひとつだけ燃えてゐる、時には篝火のこともある。 人の住んでゐる部屋と窓がみな明るくなつて外の雪の夜を照らす。——所が今日と言ふ日は——聖晩で—— 燈火が澤山について、机の上に並んだり木に生つたりした子供逹にやる品々を照らしてゐた。 恐らく無數の燈火がついたことであらう。どの家にもどの小屋にもどの室にも子供が一人か何人かゐて、 聖キリストが何か持つて來て下さるので、その爲に燈火をつけねばならないのだから。 少年はすぐにも山から下りることが出來ると思つてゐた。 けれども今夜谷間で燃えてゐた燈火は一つも此處まで屆かなかつた。 蒼白い雪と暗い空ばかりで、その他は何もかも眼のとほらぬ遠い所へかくれて了つてゐた。 その時刻には何處の谷間でも子供逹は聖キリストのお土産を貰つてゐた。 ただ二人の子供だけは氷の縁に坐つてゐた。 今日貰ふ筈だつたすばらしいお土産は洞穴の奧の犢皮のカバンの中で封をした包みにをさまつてゐた。 六 雪雲は見渡す限り山の彼方に沈んで、深い紺碧の殆ど黒々と澄んだ蒼穹が子供逹の周りにひろがり、 それが燃え上る星の降る樣な數をちりばめてゐた。 そして星くづを貫いて織りなす光つた廣い乳色の帶は麓の谷間からも見えたことであらうけれども、 今見る程はつきりと見えたのははじめてであつた。夜が更けて行つた。 子供逹は星が西に向つて移動し空を渡ることを知らなかつた、 知つてゐたら星の動きによつて夜の深さを測ることが出來たであらう。 新しい星が現はれ以前のものは見えなくなつた、けれども子供逹はいつも同じ星だと思つてゐた。 星の光りで又子供逹の邊りが明るくなつた。けれども谷も四邊も見えなかつた。 見えるものはどこも白——唯白ばかりであつた。暗い鋒先、暗い嶺、暗い突起だけが見えて、 あちこちと雪明りのさなかにによつきと頭を擡げてゐた。 月は空のどこにも見えなかつた。恐らく早い時刻に入陽と共に沈んだのか、 或はまだ出なかつたのであらう。 大分經つてから少年は、「ザナ、眠つてはいけないよ、お父さまが言つてらしたから、 知つてるだらう山で眠ると凍えて了ふのだよ。エッシェンイェーゲルのお爺さんも眠つて了つたので、 四ヶ月も死んだまま石の上に寢てゐて、その間行方不明だつたのだからね」と言つた。 「ええ、眠りやしないわ」と少女は力なく言つた。 コンラードが着物の裾を引つぱつたので、やつと目がさめて言葉が出たのだつた。 それから又靜かになつた。 暫くして少年は腕にそつとのしかかつて來る重みを感じた、それがだんだん重くなつた。 ザナがすつかり眠りこけて、彼の方にくづ折れて來たのであつた。 「ザナ、眠つてはいけないよ、ね後生だから、眠つてはいけないよ」と彼は言つた。 「ええ」と彼女は眠りこけながら口をもぐもぐさせて言つた、「眠りやしないわ。」 彼女を搖りうごかさうと思つて彼は身を引いた。 けれども彼女はくたくたとくづ折れて地面に倒れ伏してでもそのまま眠りつづけさうな模樣であつた。 彼はその肩先を掴んでゆすぶつた。それで少し強く身體を動かしてみて、 自分も凍えてゐて、腕がどうも思ふ樣に動かなくなるのに氣がついた。 驚いて彼は飛び起きた。妹を引掴んで、強くゆさぶつて言つた、 「ザナ、一寸立つてごらん、少し立つてゐることにしよう、さうすりや具合がよくなるよ。」 「私は凍えてやしないわ、お兄樣」と彼女は答へた。 「いやいや、凍えてるよ、ザナ、お起ち」と彼は叫んだ。 「毛皮の上衣で温かだわ」と彼女。 「僕が起してあげよう」と彼は言つた。 「いいのよ」と答へて彼女は動かなくなつた。 その時少年は他のことをふつと思出した。ほんの一口飮んだだけでお腹がぽかぽかして來て、 どんな寒い冬の日でも身體が凍える樣なことはないとお祖母樣がおつしやつたのだつた。 彼は犢皮のカバンを取つて口を開けしばらくひつかき廻してゐたが軈て祖母が母に黒いコーヒーのエキスを入れて屆けようとした例の壜を見つけ出した。 それを取り出して結んであるのを解き骨折つてコルクを開いた。 それからザナの方へしやがみこんでかう言つた。「お祖母樣からお母樣に下すつたコーヒーが、 そら此處にあるよ、少し飮んでごらん、温まるぞ。こんな譯で入用だつたと分れば、 お母樣は僕逹に下さるさ。」 どちらかと言へばぢつとしてゐたい性質の少女は、「凍えてやしないわ」と答へた。 「ほんの少し御あがりよ、」少年は言つた、「それから眠つてもいいから。」 かう言はれてザナは心を動かした、彼女は思ひきつて、殆ど流し込む樣にされた飮物をごくりと飮んだ。 それから少年も少しばかり飮んだ。 非常に強いエキスは忽ち效目を現はした。子供逹はこれまで一度もコーヒーを飮んだことがなかつた爲一層強く效いた。 ザナは眠ることを止めて元氣を取り戻し、寒いけれども身内が大變温かで、 手足もだんだん温かになると自分から言つた。それから更に子供逹はしばらくと言ふもの色々と話し合つた。 そんな譯で苦い味がしたにも拘らず何度も繰返して、效目が弱つて來る毎に飮んだ。 子供逹のいたいけな神經は殆ど發熱状態にまでなつて、 その爲稍々もすればとろとろと眠らうとする心の重心を引戻すことが出來た。 もう眞夜中になつてゐた。二人とも未だ幼くて、聖晩にはいつも嬉しさの餘りずゐ分夜更して、 肉體的な睡魔に負けて了ふまで起きてゐたので、彼等は眞夜中の鐘を曾て聞いたことがなく、 祝祭が催ほされる時の教會のオルガンを、教會の程近くに住んでゐながら、聞いたことがなかつた。 今夜もこの時刻にはあらゆる鐘が鳴り渡つた。ミルスドルフの鐘も鳴つた、 グシャイドの鐘も鳴つた。外の遠い國々には無數の教會と鐘があつて、どの鐘もこの時刻には打ちならされた。 村から村へと響きの波が渡つた。 さう、時によると村から村へと鳴り渡る鐘を葉の落ちつくした枝間から聞きとることが出來た。 ただこの子供逹のゐる所へはひとつも聞えなかつた、ここには何にもこきえなかつた。 此處には何も告げ知らせることもなかつたのだから。曲りくねつた谷間では今山の傾斜を提燈の燈が行き、 多くの屋敷からは時を促す玄關の鈴の音が響いた。然しこれ等がむろん此處から見えやう筈もなく聞えやう筈もなかつた。 ただ星の輝きばかりであつた、星はいつまでも靜まり返つてきらきらと光つてゐた。 コンラードが假令凍死したエッシェンイェーゲルの運命を眼の前に描いてゐても、 假令子供逹が黒いコーヒーの壜を殆ど飮みほして、血の巡りが活溌になつたとしても、 それだけその後には疲勞が來る譯で、若し偉大な自然が彼等を援けて、 子供逹の心の奧に或る力を呼びさましこの力によつて睡魔に抵抗させなかつたとしたら、 結局眠りに捷つことは出來なかつたであらう、誘惑する眠りの快さはどの誘因よりも強い。 四邊にこめた恐ろしい靜けさ、雪片の小端ひとつ動かぬと見えるこの靜けさの中で、 子供逹は三度氷の裂ける音を聞いた。最も凝結したものと見えながら、最も活溌なもの最も生氣あるもの、 氷河の仕業であつた。次々と轟音を聞くこと三度に及んだ。その凄じさは大地も二つに碎け飛ぶかと思はれ、 轟きは氷の中を四方に擴がり、謂はば氷のあらゆる條紋の中を走つた。 子供逹は目を見開いてぢつと坐つたまま、外の星くづを見上げた。 眼にも亦見えはじめたものがあつた。子供逹がさうして坐つてゐると、眼に前の空、 群星の眞中にぽつかりと蒼白い光が燃え上つて、星の間を縫つて弱い弧を描いた。緑がかつた顫光で、 靜かに低い方へ筋を引いたと見る間に弧はだんだん明るく輝いて遂には近づく星はみな逃げ退いて色を失つた。 この弧の光は空の他の地方にも及び、光茫は緑に輝いて靜かに而も生々と群星の間を流れた。 その時弧の先端は王冠の鋸形の樣にさまざまな光の箒になつて燃えさかつた。 それはかつと明るく四隣の空を染めて流れた。音もなく迸りかすかに閃いて悠遠の空間を斬つた。 天空に棲む暴風雨の素因が今未聞の降雪の爲に弧を描いてこの樣に默々として壯麗な光の流れとなつて溢れたのであらうか、 或は測り知れぬ自然のもつ他の原因によるのであらうか。そのうちにだんだんと弧の光は弱くなつて、 箒の部分が先づ消えやがて他の部分も少しづついつとはなしに小さくなり遂には空には一面に幾千の普通の星がかかつてゐるばかりであつた。 子供逹はお互に一言も交さなかつた。ぢつといつまでも坐つてゐた。そして目を見開いて空を見つめた。 もう何も變つたことはなかつた。星屑は輝き光りふるへた、そして折ふしその間を縫つて流れる流星があるばかりであつた。 星屑が輝いてゐるだけで空の何處にも月影はなく長い時が流れた頃、 遂にこれまでと違つた光景が現はれた。空が明るくなりはじめたのだつた。 少しづつではあつたが確かにそれと分つた。空の色が見分けられる樣になり、弱い星は消えた、 他の星もこれまでの樣に繁くはなくなつた。やがて強い星も消え去つた、 そして嶺の雪がはつきりと見える樣になつた。最後には天の一角が黄色に色づいて、 そのあたりにあつた一片の雲が一筋の光となつて燃え上つた。 すべてのものがはつきりと見える樣になつてゐた。遠い雪の丘がくつきりと空に輪廓を描いた。 「ザナ、夜明けだ」と少年が言つた。 「さうねえ、お兄樣」と少女。 「もう少し明るくなつたら、穴を出て山を越えて馳け降りようよ。」 愈々明るくなつた、何處を見ても星はもう見えなかつた。すべてのものはかはたれの光の中にあつた。 「さあ、行かう」と少年が言つた。 「ええ、行くわ」とザナが答へた。 子供逹は起ち上つて手足を動かしてみたが、今日になつてはじめて疲れが強く感ぜられた。 彼等はまんぢりともしなかつたけれども、いつもさうである樣に、朝の氣に觸れると元氣が出た。 少年は犢皮のカバンをかつぎ、毛皮の上着をしつかりとザナに着せてやつて、 それからザナの手をとつて洞穴を立ち出でた。 彼等は山を越えてかけ下りさへすればよいと考へてゐたので、食事のことは忘れてゐた、 白パンその他がないかカバンを搜してもみなかつた。 さてコンラードは空が晴れてゐたので、山から谷間を見下ろして、 グシャイドの谷が判つたらそこへ下りて行かうと思つた。けれども谷間はひとつも見えなかつた。 山の上にゐてそこから下界を見下ろしてゐる樣には思はれなかつた、 見も知らぬものばかり並んだ他所の不思議な場所にゐる樣な氣がした。 今日もかなり離れたあたりに物すごい岩が雪の中から突出てゐるのが見えた、 この岸は昨日は見えなかつた。氷が、丘陵が、雪の斜面が高く聳えてゐるのが見えた。 それ等の向ふは空になつてゐるか、或は非常に遠い山の水色の尖端が雪の端から覗いてゐた。 その時、日が昇つた。 巨大な血の樣に赤い盆が雪の縁から躍り出て空に昇つた。その刹那子供逹の周りの雪はさつとくれなゐに染められ、 幾百萬の薔薇をちりばめられたかと思はれた、圓頂と鉾先は雪肌の上に非常に長い緑色の影を投げた。 「ザナ、もつと先へ行つて、山の端に出て下が見おろせる所まで行くことにしよう」と少年が言つた。 二人は雪の中へ歩き出した。晴れた夜のうちに雪は一層乾燥して、歩くのが昨日よりもつと樂だつた。 しつかりした足取りで進んで行つた。歩いてゐるうちに、彼等の手足はむしろ柔軟となり強くなつて來た。 然し行つても端にはつかず、見下ろせる所へは來なかつた。雪原は雪原につづいてゐて、 どの雪原の縁にもきまつて空が見えた。 それでも二人は歩き續けた。 すると彼等は又もや氷の所へふみこんだ。どうして氷の所へ來たものやら氣がつかなかつたが、 足下にふみしめる地盤はつるつるに滑つてゐるのが分つた。 昨夜ゐたあの縁でみた樣な凄じい岩滓は見當らなかつたけれども、 結局自分逹がつるつるの氷の上を歩いてゐることは分つた。 そこ此處に塊りが見受けられ、その數が漸次殖えて、行手に押し寄せ、何度も攀ぢ登らなければならなかつた。 それでも二人は方向を變へなかつた。 彼等は又しても岩塊をよぢた。そこは又氷原であつた。 今日明るい陽の下ではじめてその正體を見ることが出來た。氷はとてつもない大きなものであつた。 そしてその向側には又黒く岩が聳えて、謂はば次々に押寄せる波の樣にそそり立つてゐた。 雪に被はれた氷は押し出され、噴き出し、盛り上つて、謂はば前へ前へと押して、 子供逹の胸にひたひたと寄せて來るかと思はれた。白の一色の中に彼等は無數の前へと延びうねつた水色の線を見た。 氷塊が謂はば固めて叩きつけられた樣に凝縮してゐた箇所にもその合間々々に路をつけた樣に線が走つてゐたが、 この方は白い線で地盤が固い場所や、塊がひどく異樣な形になつてゐない邊では帶状を呈してゐた。 子供逹は何でもどこか氷を乘り越えて山の端に出てそこから何とか一度下を見下ろしてみたいと思つたので、 この小路へ這入つて行つた。彼等は一言も交さなかつた。少女は少年の行く後からついて行つた。 けれども今日も亦氷、一面の氷であつた。越えようと思つて行つてみると、 謂はば却て平坦に擴つてゐるのだつた。そこで彼等はこの方向をあきらめて引返した。 歩けない場所は埋るる樣な雪の中を手でかいて渉つた、雪は時によると眼のすぐ前の所ではたと切れて、 これまですべて白に見えたあたりに、濃青の帶なす氷の裂目がぽつかりと口を開いてゐた。 けれども二人はひるまなかつた、先へ先へと辿りつづけた、そしてやつと再び氷から脱出することが出來た。 「ザナ」と少年が言つた、「もう氷の中へ入るのはこりごりだ、 這入つたらにつちもさつちも行きやしない。僕逹の谷間は見ようとしても駄目だから、 眞直に山を越えて下つて行くことにしよう。どこかの谷へ出るに違ひない、 そこでグシャイドの者だと話せば、案内をつけてくれるよ。」 「さうねえ、お兄樣」と少女。 そんな譯で兄妹は雪の中を手近な所から下りはじめた。少年は少女の手を引いた。 然ししばらく下り路を進むと、この方向は下り路ではなくなつて、雪は又上り路になつてゐた。 それで子供逹は方向を變へて窪地を縱に降りて行つた。そこで窪地の横腹を登つて他の方向に下り路をさがさうとした。 そこは平地で下りになつてゐたが、だんだん急斜面になつて來て、もう一歩も進めなくなり、 今にも奈落の底に滑り落ちさうになつた。二人はそれで又上へ引返して他の降り路を搜した。 雪の中を永いこと登つてやがて平たい鞍部を歩いた擧句が先刻と同じことであつた。 今にも滑り落ちさうな急斜面になつてゐるか、或は又登り路になつてゐて頂上に出さうな形勢であつた。 いくら行つてもこんな風であつた。 それで兄妹は自分逹のこれまで來た方向を搜して、赤い遭難塔へ降りようと思つた。 もう雪は降つてゐないし、空は非常に明るいのだから、塔のある邊はきつと分る、 あそこからならグシャイドへ下りることが出來ると少年は思つた。 少年がこの考へを妹に話すと妹は贊成した。 けれども頸部へ下りる路も分らなかつた。 七 日は燦々と輝き、雪の丘は美しく盛り上り、雪の野は延びてゐたにも拘らず、 どうしても昨日登つて來た場所は見分けがつかなかつた。昨日は何もかもすさまじく降雪に包まれて、 僅かに二三歩の周りを見渡すことが出來るばかりであつた。 すべては一續きの白と灰色のだんだらであつた。唯岩だけを彼等は見た。その傍その間を歩いた。 でも今日は彼等は既に澤山岩を見て來た、どの岩も昨日みたのと同じ樣子をして居た。 今日は歩いた跡にははつきりと足跡が殘つた。けれども昨日のはどの足跡も降り積む雪に被はれて了つた。 それに四邊の景色だけからどの邊を行けば頸部に出るか、見當もつかなかつた、 と言ふのはどこも同じ樣子をしてゐた。雪、一面の雪。それでも二人は先へ先へと行つた、 そしていつかは着けると思つてゐた。嶮しい急坂はさけ、嶮岨な登りはのぼらぬことにした。 今日も時折立ち止つて聽耳を立てた。然し今日も、物音ひとつきこえなかつた。 見えるものと言へば同じ樣に雪ばかり、明るい白い雪、その中からあちこちに黒い鉾先と黒い岩のあばら骨が突き出てゐた。 遂に少年は遠い雪の斜面に焔の樣なものが躍つてゐるのが見える樣な氣がした。 上つたり下つたりした。今見えるかと思ふともう見えなかつた。 彼等は立止つて傍目もふらずそのあたりをぢつと見つめた。 焔は相變らず躍りつづけて、近づいて來る樣に思はれた。焔が前よりも大きくなつて躍つてゐるのがはつきりと見えて來た。 先刻の樣に何度も消えはしなかつたし、消えてもすぐ現はれた。 しばらく經つと靜まり返つた青い空に弱い非常に弱い何か長く引いた牧笛の響きの樣なものが聞えた。 本能にからまれた樣に二人の子供は大聲で叫んだ。しばらくして又響きがきこえた。 二人は又叫んで、同じ場所に立止つてゐた。焔は事實近づいて來た。 響きが三度目に鳴つた、今度は一層はつきりと。子供逹は又大聲でどなり返した。 大分經つてから本當に焔が見え出した。焔ではなくて、赤い旗を振つてゐるのであつた。 同時に牧笛が間近にひびいた、子供逹もこれに應じた。 「ザナ」と少年が叫んだ、「グシャイドの人逹だ。僕はあの旗を知つてゐる、 エッシェンイェーゲルの息子とガルスに登つた外國人が絶頂にたつて、 牧師さまに望遠鏡で見えるようにした赤い旗だよ。旗が見えれば絶頂に登つた記しなのだ、 その旗をあの時外國人が牧師さまに呉れたものだ。ザナは未だ小さな子供だつたね。」 「さうねえ、お兄樣。」 しばらくすると子供逹には旗の傍の人々に姿も、動く小さな黒い點の樣に、見えて來た。 角笛の音は思ひ出した樣に繰返して、近づいて來た。子供逹はその度に應じた。 遂に雪の斜面を澤山の男逹が、旗を眞中に圍んで、シュトックを振りながらこちらへかけ下りて來るのが見えた。 もつと近づいて來ると、誰々だかも分つて來た。牧笛を持つてゐるのは羊飼ひのフィリップであり、 その二人の息子にエッシェンイェーゲルの息子、その他グシャイドの人逹が多勢。 「やあ、有難い」とフィリップが叫んだ。「こんな所にゐたんですか。 山中に人が出てますぜ、誰か一人すぐジーデルアルプの牧場へ走つて、 見つかつた合圖の鐘を鳴らせろ。一人はクレープスシュタインに登つて、 谷から見える樣に旗を立てるんだ。そしてミルスドルフの森林を搜してゐる連中に合圖の臼砲をぶつぱなせ。 それを合圖にグシャイドで狼火があがる。狼火が空にあがれば、 未だ山にゐる連中もジーデルアルプへ下りろと言ふ知らせだ。これこそ本當のクリスマスだぞう。」 「俺は牧場へ下りるよ」と一人が言つた。 「俺はクレープスシュタインに旗を持つて行く」と、も一人が言つた。 「そして俺逹は全力をつくし、神樣の御助けを蒙つて、 子供逹をジーデルアルプへ連れておりよう」とフィリップが言つた。 フィリップの息子のうちに一人が山を下りて行つた。も一人の方は旗を持つて雪の中を進んで行つた。 エッシェンイェーゲルは少女の手をとり、羊飼ひのフィリップが少年の手をとつた。 他の者もそれぞれ二人を救けた。そして下山がはじまつた。路は曲りくねつてゐた。 こちらへ歩いてゐるかと思ふと忽ち反對の方向になり、下つてゐるかと思ふとすぐ上り路になつた。 路はいつも雪、又しても雪であつた。そしてどこまで行つても同じ樣子をしてゐた。 酷く急な斜面を下る時は足にアイゼンをつけて人々は子供逹を運んだ。 長いこと經つて遂に靜かに嫋々と麓の方から鐘の響が傳はつて來た。 低地地方から彼等への最初の合圖であつた。一行は全くずつと低く下りてゐたに違ひなかつた。 雪の嶺が高く全く水色に彼等の頭上に聳えてゐた。聞えた鐘は然しジーデルアルプの鐘で、 此處に集まることに約束されてゐた爲に鳴らされたものであつた。 それからしばらく進んだ所で、靜かな空に弱く臼砲の轟きも麓の方からきこえて來た。 これは旗が擧つたのを見て發射されたものであつた。一行は更にかすかな煙の柱が空に立ちの昇るのを見た。 しばらくして緩かな傾斜面に差しかかると、ジーデルアルプの小屋が見えて來た。 一行は小屋をめがけて進んだ。小屋の中には焚火が燃えて、子供逹の母が居た。 子供逹がエッシェンイェーゲルにつれられて來るのが見えた時、 母親は恐ろしい叫びをあげて雪の中へのけぞつた。 やがて母は馳せ寄つて頭から爪先まで子供逹を見た。食物をやらうと思つた。 温めようと思つた、あり合せの乾草に寢かさうと思つた。けれども子供逹は嬉しさに元氣が出て、 母の思つた程弱つてゐないで、温い食べものを少し食べさせ、しばらく休憇させてやればもう十分だつた。 食物が與へられた、休憇も無論與へられるのだ。 しばらく休憇の間、小屋の鐘は絶間なく鳴り續けた、やがて一群の男逹が又雪の斜面を渡つておりて來ると、 この一行は誰々だか見ようと、子供逹も他の人逹と一緒に表へ飛び出した。 下りて來たのは靴屋であつた、昔取つた杵柄で山杖とアイゼンを携へ、友逹や仲間にとりかこまれて。 「ゼバスティアン居たのよツ」と妻は叫んだ。 彼はでも物が言へなかつた、ぶるぶると震へて子供逹の所へかけよつた。 それから何か言はうとするらしく唇を動かした。けれども何も言はなかつた。 子供逹を抱きしめて、いつまでもさうしてゐた。それから妻の方を振り向いて諸共に相擁して、 「ザナ、ザナ」と呼んだ。 しばらくして彼は雪の中に落ちた帽子を拾ひ上げて、人々の間に進み出て一言述べようとした。 けれども彼は唯、「御近所の皆さん、友だち方、有難うございました」と言へただけであつた。 子供逹が落着いて元氣が出るまで待つてから、彼は言つた。 「みんな揃つたら、そろそろ出かけませうか。」 「まだどうやら揃はないやうです」と羊飼ひのフィリップが言つた、 「然し未だ下りて來ない仲間も狼火を見て子供逹の見つかつたことは判つてゐる、 アルプ小屋まで來て誰もゐなかつたら、それぞれ家へ歸るでせうわい。」 人々は出發の用意にかかつた。 ジーデルアルプ小屋はグシャイドから大して遠くはなかつた、 夏分はグシャイドの窓々からはつきりと緑色の草地とその上にある小さな鐘樓のついた灰色の小屋が見えた。 然しすぐ下の所に斬つて落した樣な幾十丈の絶壁があつて、 夏はアイゼンをつけて下れたが、冬は全部通れなかつた。 その爲廻り路をして頸部に出て、遭難塔の所からグシャイドへ下らなければならなかつた。 そこへ下る途中でジーデル牧場を通つた、此處は一層グシャイドに近くて、 村の窓が見える樣な氣がした。 この牧場を通る時、鋭くはつきりとグシャイドの教會の鐘が神聖な本彌撒の聖物捧持を告げ渡りつつ響いて來た。 牧師はこの朝グシャイドで起つた村中の騷ぎの爲本彌撒の施行を延ばした。 子供逹は見付かると彼は考へたのであつた。然し今になつても何の知らせもないので遂に神聖な本彌撒をとり行はぬ譯に行かなかつた。 棒持の鐘が鳴り渡つた時、ジーデル牧場を通りかかつた人々は皆雪の中にひざまづいて祈つた。 鐘が鳴り止むと立上つて先へと進んだ。 靴屋は大抵少女を抱いて歩いた、そして色々とあつたことを話させた。 頸部の森林近くに來た時に人々の足跡にぶつかつたが、靴屋は、「これは私の作つた靴の足跡ではない」と言つた。 事はすぐ明かになつた。多分此の廣場にがやがやと騷しい人聲にはれたのであらう、 又一群の男逹が山を下る一行に合流した。心配の餘り血の氣を失つて眞蒼になつた紺屋が、 下男や職人やミルスドルフの村人逹の先頭に立つて下りて來たのであつた。 「何も知らないで、氷河を渡り裂目を越えて登つてゐましたよ」と靴屋は舅に叫んだ。 「ああ、居た——居た——神樣の御蔭ぢや」と紺屋は答へた、 「山の上へ行つちまつたことは分つてゐたよ。お前の方の使ひが夜中にやつて來て、 わし等が明りをつけて森中くまなく搜し廻つても見つあkらず、 そのうちに夜が明けて了うた時、わしは赤い遭難塔から左に折れて雪山へ通ずる路の、 丁度岐れるあたりのそちこちに、如何にも子供の歩いた跡らしく、 柴や小枝が折れてゐるのに氣がついてな。——それで分つた譯だよ。——子供逹は溝に這入りこんで岩と岩の間を通り、 右にも左にもひどい斷崖になつてゐるとても下りられない馬の背を進んだものだから、 曲る譯には行かなかつたんだ。登るより他仕方なかつた。かう思つたからわしはすぐさまグシャイドへ使を走らせたが、 使にやつた木樵のミヒャエルは歸つて來る途中、上の氷の邊でひよつこりわし等にぶつかつてな、 もう見付かつたと言ふんだよ、それで又下りて來た所さ。」 「さうですよ」とミヒャエルも言つた、「クレープスシュタインの上にも赤い旗が擧つてゐて、 グシャイドの人々もあれは約束の合圖だと言ふものですから、その樣に申しました。 あの絶壁は下りられないからみんなこの路を下りて來るに違ひないと申しました。」 「さあ、膝まづいて、風の出なかつたことを神樣に御禮を言ひなさい」と紺屋は續けた、 「こんな不思議な雪が降ることは、竿から濡れた絲が埀れる樣に眞直に降るなんてことは、 百年に一遍あることだ。一寸でも風が起つてゐたら子供逹の命はなかつたらう。」 「さうですとも、神樣に御禮を申しませう、御禮を申しませう」と靴屋が言つた。 娘の結婚以來一度もグシャイドへ來たことのなかつた紺屋は意を決して一行と一緒にグシャイドへ行くことにした。 程なく木樵路の岐れてゐる赤い遭難塔の所へ來ると、一臺の橇が待つてゐた、 あらゆる場合に備へて靴屋が命じて置いたものであつた。母親と子供逹が乘せられ、 橇の内にあつた毛布や毛皮で十分温くしてやつて、グシャイドへ先發させた。 他の人々も後を追つて晝過ぎにグシャイドへ着いた。 まだ山に殘つてゐて、狼火をみてはじめて引上げの合圖を知つた連中も次々に集つて來た。 最後にやつと日暮になつて歸つて來たのは赤い旗をクレープスシュタインへ運んでそれを擧げたフィリップの息子だつた。 グシャイドでは先廻りした祖母が待ち受けてゐた。 「決して、決して」と彼女は叫んだ、「二度と再び子供逹に死ぬまで冬に頸部を越えさせてはならない。」 子供逹はこの騷ぎにぼんやりして了つてゐた。尚ほ少しばかり食べさせられて寢床にねかされた。 夕方おそくなつて、子供逹がいくらか元氣づいて、近所の人逹や友逹が客間に集つてその日の出來事を語り合つてゐた、 母は寢室のザナの寢臺の傍に坐つてザナを撫でてやつてゐた時に、少女はかう言つた、 「お母さま、私ね昨夜山の上にゐた時に聖キリストを見たのよ。」 「まあ、我慢強い可愛いいやさしい兒だこと」と母は答へた、 「聖キリストはお土産も下すつたのよ、今すぐあげますわ。」 箱が開かれて明りがつけられ客間の扉が開けられた。 子供逹は寢臺の上から遲くなつたけれど明るく輝く嬉しいクリスマスツリーを見た。 ひどく疲れてゐたけれども少し着物を着せてやらねばならなかつた。 子供逹は寢室を出て贈物を貰つて素敵と言ひ、やがて持つたまま眠つて了つた。 グシャイドの酒場はこの夜いつもよりも賑やかであつた。教會へ行かなかつた者はみなそこに居た、 その他の人々も居た。銘々自分の見たこと、聞いたこと、爲たこと、案を出したこと、 どんな事件や危險を經驗したかなどを話し合つた。特に然しああ言ふ手もあつた、 その方がよかつたと言ふ點が強調された。 此の出來事はグシャイドの歴史に一期限を劃した。長いこと語り草になつた。晴れた日に山がはつきりと見えたり、 或は他所から來た人に山の名物を話したりする樣な折には幾年經つてもこの話をするであらう。 この日以來はじめて子供逹は村のものになつた。この後再び他所から來た客として見られることはなかつた。 自分逹が山から連れ下ろした村の者として人々は彼等を迎へた。 子供逹の母のザナももうグシャイドの土着の女であつた。 子供逹は然し、花園に出て以前にあつた樣に太陽が美しく輝いて、 菩提樹の香が漂ひ、蜜蜂が羽をならし、山が美しく柔かな蒼穹の樣にこちらを見下してゐる樣な時に、 あの山を忘れないで、一層嚴肅な氣持でながめることであらう。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23 湖畔の處女・水晶:あとがき [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- ボヘミアの山野にまつはる戀と戰さの限りなく純粹な美しい物語を此處に傳へることの出來るのは私の喜びである。 ズデーテンドイツと言ふ言葉は私逹の耳に新しい。あれはチェッコ併合當時、 チェッコ國内のドイツ人一般の意味に用ひられてゐた。 今日チェッコの名はヨーロッパの地圖から消えて昔ながらのボヘミアの地名だけが殘つてゐるが、 このボヘミアには古くから多數のドイツ人が住んでゐて長い歴史を營み、 純粹なドイツの生活文化を築いて來た。そこにはドイツ語が話され、特有なドイツの文學が生れた。 ズデーテンドイツのこの文學は世界に誇る二つの高峯を持つてゐる。 一人はライネル・マリア・リルケ、も一人はアーダルベルト・シュティフテル(一八〇五 - 一八六八)。 リルケはあの深い高い詩境を以て世界にその名を謳はれ、 今更ズデーテンドイツの詩人だなどと言へば竒異の感を抱く人すらあるだらう。 なのにシュティフテルは等しく珠玉の詩魂を抱きながら久しく時の來るのを待つてゐた。 永らく地中に埋れた琥珀がいつか現はれて來るやうに、 ボヘミアの森の山懷深く結んだこの結晶は今やうやく燦然たる導きの星となつた。 リルケは都プラーグに生れたが、 このプラーグからフリードリヒ・スメタナの交響樂に歌はれたモルダウの流れを遡つて南下し、 オーストリアの國境に近づくと、行手は一面の鬱蒼たる原始林となり、 この原始林のさなかにシュティフテルの生れた山の町オーベルプランが眠つてゐる。 昔なつかしい洋畫の盛んな頃に、「ながれ」と言ふチェッコ映畫があつたのを今でも覺えてゐる人もあらう。 清冽な水流とそれを包む山々、そして住む人々の純朴は、美を愛する人々の心にあえかながらも忘れ難い響を殘した。 あれがシュティフテルの故郷の自然なのだ。 詩人の父は町の出外れにささやかな農業を營み傍ら麻織物の商賣をしてゐた。 母は同じ町内の肉屋の娘で非常に物靜かな愛情に富んだ婦人であつた。 アーダルベルトはこの間に生れた長男で弟が三人あつた。 父は不幸にも一八一七年の秋に仕事の途中麻を積んだ馬車の下敷になつて不慮の死を遂げて了つた爲、 詩人は愈々深く母に歸依した模樣である。父の死後二年間と言ふもの子供逹は幼い力を併せて家業にいそしんで、 農業牧畜に骨身を惜しまず働いた。この二年間の生業の爲の過酷な鬪ひは人間シュティフテルを作るのに非常な役割を演じ、 文學制作の上に於いても詩人を當時の荒唐な浪漫に陷らせず、 今日私逹がシュティフテルに驚歎するものにまで發展せしめたものであつた。 一八一九年の秋に十四歳の少年は母方の祖父に連れられて、 當時上部オーストリアのクレームスミュンステルにあつた有名な神學校に入した。 牧童アーダルベルトは此處ではじめて輝かしい教養の世界を知つたが、 貧しい彼にとつては學問の道も決して平安な坦々たるものではなく、早くもこの頃から家庭教師の仕事がはじまつた。 一八二六年目出度く神學校を卒へた彼はドナウ河を下つてヰーンへ移つた。 此處で法律學を學んで官途につくのがその志望であつた。然し面白いことに、 ヰーン大學では主に物理學、數學、天文學等の自然科學の講義を好んで聽いた。 他面、人のよい誠實な彼の人格は家庭教師として上流社會に評判がよかつたらしく、 當時シュティフテルは前後三年にも亙つて宰相メッテルニヒ、 ヨーロッパ政界を牛耳つて飛ぶ鳥落す勢であつたその人の家の家庭教師であつた。 この樣に家庭教師をしながら官吏を志望してゐたシュティフテルは然し次第に精神的成長を遂げるにつれて内から盛り上つて來る情熱をどうすることも出來なくなつてゐた。 それは畫家にならうとする心であつた。 既にクレームスミュンテル時代にゲオルグ・リーツェルマイエル先生はシュティフテルの畫才を認めて大いに彼を勵ましたのであつた。 シュティフテルの殘した畫日記を見てもヰーン時代にどんなに熱心に彼が畫を描き續けたかは察するに餘りがある。 所が皮肉にも畫家として認められる前に彼は小説家として認められることになつた。 一八四〇年の春、ミンク男爵家の令孃イダに彼は教へてゐたが、 或日ポケット深くひそめてゐた文學青年の手すさびの原稿をイダ孃にひつたくられて到頭讀まれて了つた。 それが男爵夫人の手に渡り、 これは面白いと言ふのでシュティフテルが盛んに恥しがつたにも拘らず早速當時ヰーンの有力な雜誌の編輯者に申込んで載せることになつた。 「コンドル」と題するこの處女作は畫青年グスタフの日記ではじまつてゐるが、 これが思ひの外の評判になつて彼は續けて小説を書く氣になつたのである。 一八四四年に小説集「習作」の一と二が出版され、同じく四七年には三と四、五〇年にが五と六と立て續けに出たと思ふと、 一八五三年には同じ樣な短編集「とりどりの石」二卷が出版されてゐる。 一八五七年には彼の主著長篇「晩夏」が出てゐるし、長篇「ヰティコ」は一八六五年に第一卷が出版された。 晩年のシュティフテルは上部オーストリアの視學官で、比較的波瀾のない物靜かな生涯を一八六八年の一月二十八日にリンツの町で閉ぢた。 本書に收録した「深林の戀」は一八四二年の作で「習作」の二に收められてゐる。 ヨーロッパ全土を血ぬつたあの三十年戰爭にまつはる、 スヱーデン王グスタフ・アードルフの王子ロナルドの敵方であるオーストリア軍の美少女との哀愛の物語。 「水晶」はと「聖夜」と言ふ題で一八四五年に書きおろされたものであるが、 「とりどりの石」の二に收められる時石の名に改題された。いづれも彼の作中でも一番廣く讀まれたもので、 詩人の特徴を最もよく示してゐると思ふ。 ドイツの文學史を繙くとシュティフテルは大凡浪漫派に屬する人で、 「愛すべき作家ではあるが、決して大した詩人ではない」ことになつてゐる。 無論その活躍した一八四〇年から六〇年と言ふ時代から言つても後期浪漫派に屬する譯で、 彼は浪漫派の影響下に立つてゐる。 殊に初期のものは一目見ただけでジャン・パウルやエ・テ・ア・ホフマンの影響が見分けられる。 「コンドル」に出て來る牡猫ヒンツェには明らかにホフマンの牡猫ムルの面影がある。 又本書に收めた「深林の戀」には外國の浪漫派の影響があると言はれてゐるが、 イギリスのヲルター・スコットとアメリカのフェモニー・クーパー(「モヒカン族の最後」の原作者)が此處であげられる。 グレゴールと言ふ人物など如何にもクーパーの中にでも出て來そうな人物である。 然し今日彼だけが根本的な「價値の轉換」を受けて、カロッサ、ヘッセ、 リルケさてはシュテフェン・ゲエルゲ等を先驅として仰がれる所以は決して一個の浪漫作家としてではない。 所謂浪漫派の詩人としてならば、ノ・ーリスをジャン・パウルをエ・テ・ア・ホフマンを擧げなければならない。 オルソドックスな浪漫派からシュティフテルを逸脱せしめたものは、 一つは彼の畫家としての烈しい修業であり、二つには近代的な自然科學んい對する深い關心と理解とであつた。 而しこの二つは全く異つたものの樣に見えながら實は同じもので、その奧には自然を見つめるきびしい目が、 主觀の荒唐を去つて飽くまでも客觀に忠實であらうとする心がひとしく控へてゐる。 近代自然科學者が「科學に咲く道徳の花のうち、一番忠實で一番獨特な花は誠實の花だ」(プランク) と言つてゐるのと同じものである。つまりシュティフテルは非常な先鋭極まりない、 狹い路に立つて、浪漫的と科學的との二頭の馬を御してゐる。 此の高い詩境は易々とリルケの「物」Dingに對する情熱を想ひ起させる。 又あのハンス・カロッサが「指導と信從」の中でシュティフテルに傾倒してゐるのも何の不思議でもないことが分る。 カロッサが醫學と文學に入つた樣にシュティフテルは自然科學或は繪畫から入つた、 二人ともひとしく科學的を浪漫的の衣に包んで散文の世界にゐる。 又オーベルプランのモルダウ河を北に下るとリルケの故郷プラーグがあるやうに、 逆に西して三椅子山の彼方に出ると、そこにカロッサの故郷がある。 カロッサがドクトル・ビュルゲルの生活をしたパッサウの町はシュティフテルが一八五〇年以後の後半生を送つたリンツの町から目と鼻の間にあつて同じドナウ河に沿つてゐるのである。 そして私はこの人逹の境地を考へる毎にいつも思ひ出す日本の詩人がある。 それはひたぶるに自然に耳傾け、現實に對して限りなく嚴かな崇敬を持したあの芭蕉だ。 芭蕉、リルケ、少し離れてシュティフテル、カロッサ、この人々は同じあの狹い危險な恐るべき路に立つて、 深い宇宙の靜けさに耳傾けてゐる。「一つの靜けさがある。 その中にゐると時の一刻一刻が永遠の大海の中へぽつりぽつりと落ちる音がきこえる」 とこの樣にシュティフテルが言つて、その高い詩境を世に示してから凡そ百年になる。 この藝術境に震撼せられた人々は數多くないけれども、どの人もみな美しい澄んだ魂の持主であつた。 その中にゲオルゲ、リルケ、カロッサと共にグリルパルツェル、シュトルム、ニーチェ、ヘッセの名を擧げることを忘れてはならない。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/12/23