數年前、この物語の出版者である私は、一人の友人と或る大學に足をとめてゐたことがある。 この大學は、この物語の必要上、ケンブリッヂ大學と言つておかう。或る日のこと、 私は互に腕をむきあつて街を歩いて行く二人の男の姿を見て、 この二人の男の容貌にひどく心を動かしたことがある。一人は正眞正銘のところ私がこれまで見た男の中で、 これ位な美男子はなからうと思つた。脊はすたつとして高く、肩幅は非常に廣く、顏つきは何とも言へず男らしく、 擧動はやさしかつた。それを野生の牡鹿のそれのやうに、この男の生れながらの資質であるかのやうに思はれた、 おまけにこの男の顏には一點難のうちどころがなかつた。--いかにも上品な顏で、それでゐて美しく、 ちやうどその時に通りかゝつた一人の婦人に帽子をとつて挨拶した時に見ると、 彼の頭には小さな黄金色の卷毛が房々と密生してゐた。
「君、あの男を見たかい?」と私は一緒に歩いてゐた友人に言つた。「まるでアポロの像が生きて來たやうだね。 すばらしい男ぶりぢやないか!」
「さうだよ」と彼は答へた。「あれはこの大學で一番好男子で、おまけに指折りの優さ男なんだ。
みんなあいつのことを『
ぢつと見てゐると、この年長者の男の方も、人類の一方のすばらしい見本として、 全く獨特の面白味をもつてゐることを私は發見した。彼はかれこれ四十くらゐの年輩のやうに見えた。 そしてこの男は彼の同伴者が美男子であるのと好一對の醜男であると私は思つた。 先づ第一にこの男は脊が低くて、脚は曲つてをり、胸はひどく凹んでゐて、それに兩の腕が人一倍長かつた。 毛髮は黒くて低く額に生へ下つてをり、眼は小さく、頬髯は頭髮とつづく所まで生へ上つてゐたので、 顏の見える部分と言つたら全くちよつぴりしかなかつた。どうしても私はゴリラを思ひ出さずにはをられなかつた。 しかもそれでゐて、この男の眼には、何かしら、ひどく氣易い、人なつこいものがあつた。 私はこの男と知り會ひになりたいと言つたのをおぼえてゐる。
すると私の友人は答へた。「いゝとも、何よりおやすい御用だ。僕はヴィンシイを知つてゐるから紹介しよう」 かう言つて彼は私を紹介してくれた。そして吾々はしばらくの間立話をした。 --たしかズル民族のことをしやべつてゐたやうに思ふ。 といふのは私はその頃ちやうど喜望岬から歸つて來たばかりだつたから。 ところがその時私は名前は忘れてしまつたが、一人の肥つた婦人が、 竒麗な毛髮をした一人の娘をつれて歩道をあるいて來た。 するとヴィンシイ君は、よくこの人逹を知つてゐた見えて、すぐにこの二人の仲間にはひつて、 一緒につれだつて行つてしまつた。ヴィンシイ君のつれの年長の男の名前はホリイといふことを私はその時に發見したが、 二人の女が進んで來た時に、ホリイの表情ががらりと變つたのを私は面白いと思つたことをおぼえてゐる。 急に彼は話をやめて、とがめるやうな眼つきでヴィンシイを見て、私にはお叩頭もそこそこにして、 くるりと背中をむけて、ひとりで街を横ぎつて行つてしまつた。後からきいたことだが、彼は、 世間の多くの人が狂犬を恐れるやうに女を恐れてゐたのだといふ專らの評判だつたさうである。 それで、彼が急いで逃げて行つたわけもわかつた。だが、ヴィンシイ青年は、 女とつきあふのをひどく嫌がつてゐる樣子もなかつた。 實際私はその時、笑ひながら、そばの友人に向つて、 あんな男には自分がこれから結婚しようと思つてゐる女などはうつかり紹介できないね、 うつかりあんな男と知りあひにさせると、 しまひには女の方が愛情を先方へもつていつてしまふからねと言つたのをおぼえてゐる。 彼は全く美男子すぎるくらゐだつた。そして、おまけに、自分ではそれに氣がついてゐないで、 美男子にあり勝ちな自惚を藥にしたくももつてゐなかつた。世間の多くの美男子は、 自分の男振りのよいことを鼻にかけて仲間にきらはれがちのものだが、彼には微塵もさういふところがなかつた。
その晩で私のケンブリッヂ滯在はおはつたので、私が「チャロン」と「
一八--年五月一日、ケンブリッヂ大學--科にて親愛なる足下--あなたは私から手紙を受け取つて吃驚なさるでせう。 吾々はほんのちよつと知つてゐるだけですから。實を言へば、私は、今から數年前、 私と私の後見してゐるレオ・ヴィンシイとが ケンブリッヂの通りで紹介されて一度お目にかゝつたことがあるといふ御記憶をよび起してから 用向を申しあげるのがよいと考へるのでありますが、 簡單にするために早速用件にとりかゝります。 私は近頃あなたが中央アフリカの冐險についてお書きになつた書物を非常な興味をみつて拜見しました。 この書物は半分は眞實で、半分は空想でお書きになつたものと私は考へます。 それはいづれにしましても、この書物は私に或ことを思ひつかせたのであります。 私の後見人といふよりはむしろ私の養子である、 レオ・ヴィンシイと私とは最近ほんたうにアフリカ探檢をして參りました。 その探檢たるやあなたがお書きになつたものよりずつと素晴らしいものでありまして、 實を言へば私はこれをあなたに見ていたゞいてもあなたが私の話を信じて下さらないかと思つて恥かしい位なのです。 それはこの手紙と一緒にお屆けした原稿を御覽になればわかります。 (この原稿と一緒に「日の御子」といふ甲蟲形の寶石と、壺の破片とを御渡しいたします。) この原稿には、私、といふよりも吾々二人は、 一緒に暮してゐる間はこの物語を公表しまいと決心した旨が記されてあります。 ですから、吾々は最近に或る事情さへ起らなかつたなら、決心を變へはしなかつたでせう。 吾々はもう一度アフリカへ行かうとしてゐるのです。そのわけは、 この原稿を讀んで下さればあなたにも推量できると思ひますが、今度の行先は中央アフリカです。 しかしこん度の滯在は長くなる豫定で、多分もう歸つて來ないことになるでせう。 こんな風に事情が變つて來たので、吾々に一つの問題が起つて來ました。それは、 吾々が世の中に二つとないと信じてゐる事柄の説明を このまゝ世間に公表せずにしまつておくのがよいかどうかといふ問題です。 といふのは、この中には吾々の私的生活に過ぎぬものが織り込まれてあるからと、 も一つは、吾々の物語が一生に附せられれたり、その眞僞を疑はれたりする惧れがあるからなのです。 この點について私とレオとは見解がちがつてゐたので、いろいろ議論を戰はした末、結局、 吾々は妥協したのです。即ち、この物語をあなたにお送りして、 あなたが發表した方がよいとお考へになつたら 自由にこれを發表していたゞくといふ風に一切あなたにお任せすることにきめたのであります。 たゞ、吾々の本名を明かさぬことゝ、吾々の素性についてもなるべく、 明らさまに書かないで下さることだけを守つていたゞきたいのであります。さて此の上私は何を申し上げたらよいでせう? 別封の原稿に何もかも細大洩らさず書いてあるといふことを繰り返すより外、私は何も知らないのであります。 篇中の不思議な女王についても私には何一つ附け加へて申し上げることはありません。 日がたつにつれて吾々は、あの、世にも不思議な女から、 もつと色々なこと[原文のまま]聞いておかなかつたことが益々をしまれてならぬのです。 あの女は一體何者であるか?どうしてはじめてコオルの洞窟へ來たのか? あの女の信じてゐたほんたうの宗教は何であつたか?吾々はさういふ事柄を一向たしかめてゐないのです。 そして、今となつては、少なくとも今のところでは、それをたしかめるよしもないのです。 以上申し上げたやうな疑問、それから、その他にも澤山の疑問が私の心中に起りますが、 今そんなことを訊ねて見たつて栓すべもないことです。
あなたは、この仕事を引き受けて下さるでせうか?吾々はすつかりあなたにお任せいたします。 その報償としては、あなたは、世にも不思議な物語を世間に發表するといふ名譽をになはれることを私たちは信じます。 この物語は尋常一樣のローマンスと選を異にしてゐることは、この記録が證明し得ると思ひます。 どうぞ、この原稿を讀んで御意見をおきかせ下さい。 (原稿はあなたの便宜をはかつて私が清書いたしました。)草々。
エル・ホレース・ホリイ追伸--勿論、若しあなたがこれを發表して下さつた場合に、書物の賣り上げからいくらかでも利益が生じました節は、 御隨意に處分して下さい。萬一損失を蒙られた場合には、 私の顧問辯護士ジョフリイ、ジョーダン兩君に宜しく取計らふやう指圖をしておきます。 壺の破片と甲蟲形寶石と、羊皮紙の書類とは、私たちから御返却をお願ひするまで、 あなたが保管しておいて下さるやう御依頼いたします。--ホリイ生。
この手紙は讀者の想像のとほり、ひどく私を驚かした。私は他のさし迫つた用事のために、半月ばかり件の原稿を見ずにゐたが、 この原稿に眼を通した時、私の驚きは一層ひどかつた。讀者もこれを讀んだらきつと驚くだらうと私は思ふ。 それで私は急いでこれを出版することに決心して、その旨をホリイ君に書き送つた。ところが一週間たつてから、 私は同君の顧問辯護士たちから、私の出した手紙に添へて一通の手紙を受け取つた。それには、ホレース君とレオ・ヴィンシイ君とは、 もう既にこの國を立つて西藏へ行つてしまひ、今のところ宛先はわからないと書いてあつた。
さてこれで私の言ふべきことはすんだ。物語そのものに就ては讀者の方で判斷しなければならぬ。 私は篇中の人物の素性を一般の世間からかくすために極く少しばかり變更した以外には、 正確に原文のまゝに發表する。私一個の註解はつけないことに決めた。はじめ、私は、殆んどはてしなく歳月の尊嚴を身に纒ひ、 夜の翼の如き久遠の影を身に宿してゐるこの一人の女人の物語は、 私には意味を捕捉することのできない或る素晴らしい比喩ではなからうかと信じたくなつた。 その次には、私はこの物語は大地から力を吸ひとり、周圍の不死の世界に、たえず風や潮がさしひきするやうに、 胸の中で情熱が滿ちひきしてゐる一人の人間の實質を傳へることによつて、 ほんたうに人間が不死であつたらかうもあらうかと思はれる結果を寫し出さうとした大膽な試みかも知れぬと考へた。 しかし讀みつゞけてゆく中に、私はさうした考へも捨てゝしまつた。私にはこの物語には眞實の刻印が捺してあるやうに思はれる。 だがその説明は私にはできないから、他の人に讓らねばならぬ。已むを得ぬ事情のために、このさゝやかな序文をつけて、 これから私は讀者をアッシャとコオルの洞窟へと案内する。
--出版者記。
かれこれ二十年も前のちやうど今日のことであつた。ルドウィッヒ・ホレース・ホリイ、即ちかくいふ私は、或る晩、 ケンブリッヂ大學の私の自習室で、一生懸命に何でも數學の勉強をしてゐた。私は一週間のうちに、 特待校友の試驗を受けることになつてゐたのだ。そして先生も學校のみんなのものも、 私がきつと素晴らしい成績で合格するだらうと期待してゐたのだ。しまひに私は疲れて來たので、 書物を投げ出して、暖爐棚の方へ歩いてゆき、パイプを取つてそれに煙草をつめた。
暖爐棚の上には一本の蝋燭が燃えてゐて、そのうしろに細長い鏡がかけてあつた。 私は煙草に火をつけやうとしてふと鏡にうつた[原文のまま]顏を見て、ぢつと考へこんでしまつた。マッチはもとまで燃えてしまつて、 私の指を焦したので、それを下へ落した。それでも私はぢつと立つて鏡にうつつた自分の顏を見つめながら考へこんでゐた。
「さうだ」とたうとう私は聲を出して
いいふ意味は、きつと讀者には少々曖昧に聞えるに相違ないが、實は私は自分の肉體の醜くいことを言つてゐたわけなのである。
二十二位の
「
しかもそれは私がまだ二十歳のときだつたのである。
閑話休題私が鏡にうつつた自分の姿にぢつと見入つてゐると、誰か入口の
「どうして寒い外に僕をたゝしておいたんだい?」彼はすねるやうな口調でたづねた。
「風にあたるのは僕の
「誰だかわからなかつたんだよ、君の來るのがあまりおそいもんだから」と私は答へた。
「さう、まつたく
「馬鹿なことを言ふな」と私は言つた。「これから僕が醫者をよんできてやらう。」
彼は手を振つて叱るやうに私を呼びとめた。「君がさう言ふのは尤もだが、僕は醫者は要らん。 僕は醫者のことは研究してすつかり心得てゐる。どんな醫者にだつて僕の命は助からんのだ。 僕の最期が來たんだ。この一年間僕が生きてゐたのが竒蹟なんだよ。ところでまあ僕の言ふことをよく聽いてくれ給へ。 僕に言葉を繰り返させる機會は今後あるまいと思ふから、よく注意してきいて貰ひたい。 僕たちは二年も友逹としてつきあつて來たが、君は一たい僕のことをどれだけ知つてゐるかい?」
「君は金持ちで、大抵の人が學校を卒業する年輩になつてからこの學校へはひつて來たつてことを僕は知つてゐる。 それから君は前に結婚をして、君の細君は亡くなつてたことも知つてゐる。 それから君は僕の一番親しい、殆んどたつた一人の友人だつたてことも知つてゐる。」
「僕に息子があることを知つてたかい?」
「それは知らなかつた。」
「實はあるんだよ。今年五つになる。その子供のお蔭で、子供の母親は亡くなつたんだ。 だから僕はその子供の顏をどうしても見るに忍びなかつたんだ。ホリイ君、君に僕の息子のたゞ一人の後見人になつて貰ひたいのだ。」
私はもう少しで椅子から飛び上がるところだつた。「僕に!」と私は言つた。
「さうだ君にさ。僕が二年間君と
「まあきいてくれ。この子供は此の世の中で一番古い家柄の代表者になるのだ。こんなことを言ふと君は笑ふかも知れんが、
いつかは君にも成る程と合點がゆくことゝ思ふ。僕の六十五代目或は六十六代目の直系の先祖はイシスの
「それから五百年か或はそれ以上もたつてから、この一家は
彼はしばらく言葉をとめて、手で顏をおほうてゐたが、やがて又言葉をつゞけた。
「僕は結婚のために計画を中止して一時道草を食つてゐたのだ。そして今ではその計画を遂行することができなくなつてしまつたのだ。 僕には暇がないのだよ、ホリイ君、僕にはその暇がないのだ!君が承知してくれさへすれば、 いつか君にはすつかりわかるだらう。妻が亡くなつてから、僕はまた氣を變へて、最初の計画にかへつたのだが、 それには第一に東國の言葉、特にアラビヤ語を完全に知つておく必要があつたのだ。少なくも僕はさう考へたんだ。 で、その勉強のために僕はこゝへ來たわけなんだよ。だが、すぐに僕の病氣は惡くなつて、今ではもう僕の最期が來たのだ。」 かう言ひながら、彼はまるで自分の言葉の意味を強めるものゝやうに又してもおそろしく咳き入つた。
私はもう一度ウイスキーをついでやつた。すると彼はしばらくやすんでから語りつゞけた。
「僕はまだ息子のレオを赤ん坊の時分から見たことがない。見るに堪へなかつたのだ。
けれども噂によるとあの子は悧巧な美しい子供になつてゐるといふことだ。この封筒の中に」
と言ひながら彼は私の宛名を記した一通の手紙をポケットから取り出して
「あの子供の教育方針についての僕の意嚮が
「何を引き受けるのだか、はじめにそれをきいておかなきちや」と私は答へた。
「僕の息子のレオが二十五歳になるまで君のそばにおいて面倒を見て貰へばよいのだよ。
學校へやつてはいけないんだぜ、いゝか。あの子が二十五の誕生日で君の後見の役目はすむんだ。
さうしたら、僕が今君に渡す鍵で(彼は
「若し僕が死んだらどうするかね?」と私は訊ねた。
「この時には裁判所に後見人になつて貰はなくちやならん。 だが、この鐡の箱はレオの手に渡るやうに君から遺言しておいて貰はないと困る。 ねえホリイ君、どうぞ承諾してくれたまへ、きつと君のためにもなると僕は思ふ。 君は俗世間の仕事には適しない男だ。もう二三週間もすれば君は大學の特待校友にもなれる身だ。さうすれば、 その方からの收入と、僕が君に遺しておく收入とで裕福な學究生活が送れるよ。 そして君の大好きなスポーツもやれる。かういふ生活がちやうど君には適してゐるぢやないか。」
彼は言葉をきつて、心配さうに私を見た。けれど、私はまだ躊躇してゐた。あまりに妙な頼みだつたものだから。
「ホリイ君、たのむよ。僕たちは親しい友人だつた。それに今となつては、僕は別の方面へ頼んでみる時間の餘裕はないのだ。:
「よろしい。ではやつて見やう」と私は言つた。「但し此の手紙に僕の氣を變へさせるやうなことが書いてあれば別だがね」
かう言ひながら私は
「有り難う、ホリイ君有り難う。何も難しいことはないのだ。君がこの子供の父親になることを神に誓つてくれ。 そして、僕の指圖に文字通りしたがつてくれ。」
「よし誓はう」と私は嚴肅に言つた。
「よろしい。だがおぼえてゐてくれ給へ、ことによると僕はいつか君の誓ひのあかしを求めるかも知れんから。 僕が死んで人に忘れられても、矢つ張り生きているんだよ。死なんていふものはない。死はただ一つの變化なんだ。 しかも、いつか君にもわかる時が來るだらうが、この變化ですらも、場合によつては無期限に延期することができるんだ」 と言ひながら彼はまた恐しい咳の發作にとらはれた。
「では僕はもう行かなくちやならん」彼は言つた。「そこには箱がある。それからその書類の中には僕の遺言がある。 その遺言によつて僕は子供を君にあづける。君には十分の謝禮をする。僕は君の正直なことは知つてゐる。 だが萬一、君が僕の信頼に裏切るやうなことがあつたら、僕はきつと君に祟るよ。」
私はだまつてゐた。實を言へば面喰つてしまつて言葉が口へ出なかつたのである。
彼は蝋燭をかゝげて鏡に映つてゐる自分の顏を眺めた。それは以前よは美しい顏であつたが、
病ひのために見るかげもなくなつてゐた。「蟲の餌食だ」と彼は言つた。
「もう二三時間で僕の
「まあ待ちたまへヴィンシイ君」と私は言つた。
「ほんとに君が考へてゐる程
「いけない、いけない。」と彼は熱心に言つた。「誓つてそんな事はしてくれるな。僕は今死ぬんだ。 しかも毒をのんだ鼠みたいに獨りで死にたいのだ。」
「君が死にかゝつてるなんて僕にはどうしても信じられんねえ」と私は答へた。彼は微笑を浮べて、 「忘れてくれるな」と言ひながら出て行つた。私は、椅子に腰を下して、眠つてゐたのぢやないかとあやしみながら眼をこすつた。 だがどうしても眠つてゐたとは思はれんので、こんどはヴィンシイが醉つてゐたに違ひないと考へはじめた。 なる程私は彼がひどい重病であることは知つてゐるが、明日まで生命がもたぬことをはつきり知ることのできる筈はない。 もしそれ程危篤に迫つてゐるのなら、あんな重い鐡の箱などをもつて歩けるはずがない。それによく考へて見ると、 彼の話した物語も到底信じられないやうに私には思はれた。今でこそわかつたが、 その頃はまだ私も若かつたので、世間一般の人たちの常識でとてもありさうにないと思はれるやうなことが、 この世にあこり得るなんてことは、私は氣もつかなかつたのである。 五つにもなる子供を赤ん坊の時から見ない人間が一體あるだらうか?これもありさうにない。 自分の先祖を紀元前二世紀までもおぼえてゐて、急に自分の子供の後見を一から十まで學校友逹にまかせて、 その友逹に財産を半分わけてやるやうな人があるだらうか?到底ありさうにない。 ヴィンシイはきつと醉つてゐたか氣が狂つてゐたかにきまつてゐる。さうだとするとこれは一體どういふわけだらう? 封をした鐡の箱には一體何がいれてあるのだらう?
私は何もかもわからなくなつてしまつたので、そのまゝ眠ることにきめ、
ヴィンシイが私にのこそていつた鍵と手紙とを手文庫の中へ
ほんの五六分とろとろつとしたと思ふと私は誰かによび起された。私はベッドの上に坐りなほつて眼をこすつた。 もうまつ晝間の八時だつた。
「どうかしたのかい、ジョン?」と私は、ヴィンシイと私との受持ちの小使のジョンにたづねた。 「まるで幽靈でも見たやうな顏をしてるぢやないか!」
「そ、そのとほりですよ」彼は答へた。
「幽靈よりももつといやな死骸を見たのです。いつものやうにヴィンシイ樣を起しにまゐりましたところが、 ヴィンシイ樣は、部屋の中に、かたくしやちこ張つて死んでをられるのです。」
ところが、數日間試驗のことばかりに奪はれてゐた私の考へは、試驗がすんでほつとした思ふまに、忽ち、 あはれなヴィンシイの死んだ晩の事件に返つて來た。そして私は又も、一體あれはどういふわけであるか、 あの妙な鐡の箱はどう處分したらよいかと思ひわづらつた。私は考へれば考へる程わからなくなつた。 深夜の不思議な訪問、あんなに間近に迫つてゐる死の豫言、私が彼に向つて誓つた嚴肅な誓ひ、 彼がその誓ひの實行をあの世から監視してゐると言つた言葉、凡てが何のことやら私にはわからなかつた。 あの男は自殺したのぢやなからうか?どうもさうらしい。あの男の言つた探檢といふのは一體何のことだらう? 私は迷信をかつぐやうな人間ではないのであるが、あまりに不思議な事情なので薄氣味が惡くなつた。
私が考へこんでゐるところへ、
拜啓、本月九日ケンブリッヂ大學にて死亡されたる小生等の依頼人故ヴィンシイ氏の遺言の複寫を同封御送附申上げ候。 小生等はこの遺言執行人にこれあり候。この遺言により、貴下は、 當年五歳になる故人の息レオ・ヴィンシイの後見人たることを承諾さるゝ條件にて、 故人の遺産の約半額に對する利子を終身受けらるゝことに相成り居り候。 故人の遺産はコンソオルス銀行に預金いたしあり候。 子息の引渡し方竝びに貴下の受けとらるべき利息のの支拂ひ方について何分の御指圖にあづかり度く此段貴意を得度く候。 草々。ジヨッフリイホレース・ホリイ樣
ジヨーダン
私は手紙を下に置いて遺言に眼を通した。この手紙で見ると、ヴィンシイが死んだ晩に私に話したことは事實であることがわかつた。
兎に角、あの話はほんたうなのだ。私は子供を引きとらねばならぬ。
私は急にヴィンシイが箱と一しよに私にのこして行つた手紙のことを思ひ出したので、それを取り出して開封して見た。
その中には、彼が既に私に口で言つたことも、即ち、レオの二十五歳の誕生日に箱を啓くことのついての指圖と、
子供の教育方針とが認めてあつた。その教育方針中には、
この手紙には、私の今までに知つてゐた以上のことは何も書いてなくて、從つて、
私が亡友に約束した仕事をはたすのを拒む理由は何もなかつたので、私の進むべき道はたゞ一つしかなかつた。
即ち、ヅョッフリイ[原文のまま]とジョーダンとに宛てゝ委細承知の返事を認め、十日たつたら、
早速レオを引き取つて喜んで後見にとりかゝる旨を言ひ送ることであつた。それがすむと、
私は學校の當局に面會して、必要と思ふ話の要點を手短かに話し、若し特待校友の試驗に合格したら、
子供と一緒に住むことを許されたいと交渉して、やつと當局の許可を得た。
無論私は内心で試驗に合格することは殆んどきまつてゐると信じてゐた。
併し學校側では、私が校舎を出て下宿をするといふ條件で、私の願ひを許可したのであつた。
私は、學校の正門のすぐ近くにやつと格好な
たうとう、子供は一人の年配の女につれられて來た。この女は子供と別れるときにひどく泣いて別れををしんだ。
子供は非常に美しい子供だつた。實際私は此のやうな申し分のない子供はあとにもさきにも見たことがない。
眼は灰色で、額は廣く、顏は、こんな年頃で、すでに浮彫をした玉のやうで、たるんだり痩せたりしてゐるところは少しもなかつた。
だが、何よりも人を惹きつけたのは髮であつた。それは純粹な黄金色で、くつきりした顏の上で、ちんまりと縮れてゐた。
彼は自分をつれて來た乳母とわかれるときに少し泣いた。この場の光景は私は一生忘れることはできぬであらう。
彼は窓からさしこむ日光に黄金色の捲毛をなぶらせながら一方の眼を
「僕おぢさんが好きだよ、おぢさんはおつかない顏をしてるけれど、いゝ人だもの」と彼は言つた。
十分間もたつと、彼は、大きなバタ
それからしばらくたつと私は預期のとほり特待校友の試驗に合格したので、レオは全校の人氣者になつてちやほやされるやうになつた。 けれども、私はその頃の樂しい思ひ出をこゝで書いてゐるひまがない。かず〜の思ひ出は次から次へと過ぎ去つて、 私たち二人は益々親しみを増していつた。世の中の子供の中で私がレオを可愛がつた程可愛がられた子供はあまりなく、 世の中の父親の中で私がレオになづかれた程だづかれた父親もたんとはないであらう。
悔みなき歳月は流れ流れて、子供は少年になり、少年は青年になつた。彼の身體が成長するにつれて、
彼の容貌の美しさも増していつた。彼が十五かそこらになつた時、
學校界隈のみんなの者は彼を美少年と名づけ私にけだものといふ仇名をつけた。
この名前は、私たちが、街を歩いてゐるとこにつけられた名前である。私たちは二人で街を歩くのが習慣だつたのである。
ある時、彼の二倍もある肉屋の
レオが十八歳になつた時、私は學校内の自分の部屋へ歸り、レオを私の學校へ入れた。
そして二十一のとき彼は、別段高い學位ではないが、立派な學位を得た。その時に、
私ははじめて彼の身の上や、不思議な因縁をそれとなく話してきかせた。いふまでもなく彼はその詳しいことをきゝたがつたが、
私は、いまはまだ話すわけにゆかないことを説明してやつた。その後、ひまをつぶすために、
私は彼に法律の勉強をしたらどうかとすゝめたので彼は私の勸告にしたがひ、ケンブリッヂで勉強し、
レオについてたゞ一つ氣にかゝることは、彼にあつた若い女が、皆が皆ではないまでも、 少くも大部分彼に戀をするやうになつたことであつた。今はそんなことを述べる必要はない。 大體に於て彼の態度はよかつたと言ふだけにとゞめておかう。
かくて歳月は過ぎ去つて、たうとうレオの二十五歳の誕生日が來た。 この不思議な、或る意味ではおそろしい物語は、この時からほんたうにはじまるのである。
その晩私たちは貴重な荷物を持つてケンブリッヂへ歸つて來た。その晩は昂奮して私たちはおちおち眠られなかつた。
夜が明けるとレオは部屋着のまゝ私の部屋へやつて來て、すぐに仕事に取りかゝらうと言つた。
私はそれを制して、この箱は二十年も待つてゐたんだから、ついでに朝食がすむまでまたしといた方がよからうと言つた。
で私たちは常になく九時きつかりに朝食の卓についた。私は自分の考へにあまり夢中になつてゐたので、恥かしい話だが、
レオの茶の中へ砂糖と間違へてベエコンの
「ちよつと待つてくれ」と私は言つた。「レオに異議がなければ、 うかうか他言するやうな心配のない第三者に證人として立ち會つて貰ひたいんだがね。」
「それがいゝですね、叔父さん」とレオは答へた。私は彼に自分のことを叔父さんと言はせてゐたのである。
「ジョッブ、
彼はその通りにした。私はレオの父親の可哀さうなヴィンシイが臨終の晩に私にくれた鍵を手文庫の中から取り出した。
鍵は三つあつた。一番大きいのは比較的近代の鍵で、二番目のはひどく古めかしいものであつた。
三番目のと來たら、これまでに一度も見たことのない鍵で、何でも純銀でこしらへたものらしく、
「さあ二人ともいゝかね?」私はダイナマイトの雷管に火をつけるときに人が言ふやうに言つた。 二人とも返事はしなかつた。私は大きい鍵をとつて、鍵穴へ少しばかりサラダ油をさして、 手が慄へるので二三度しくじつた後やつとのことで鍵をさしこんだ。レオは前屈みになつて兩手で蓋をもち、 蝶番が錆びついてゐたので、うんと力をこめてやつと蓋を開けた。中には埃だらけな箱がはひつてゐた。 この箱は難なく取り出すことができた。私たちは幾星霜の間に積もつた箱の上の塵を拂つた。
それは黒檀か、或はそれに似た木目の細かい木でつくつたものらしく、平たい鐡の帶でぐるぐる縛つてあつた。 隨分古いものと見えて、流石の堅い木もところ〜゛朽ちこぼれてゐた。
「さあこん度はこれだ」と言ひながら私は二番目の鍵をさし込んだ。
ジョッブとレオとは息もつかずに固唾をのんで前へ屈んでゐた。鍵はぐるりとまはつた。
蓋をあけると私はあつと叫んだ。それもその筈だ。中には約十二吋四角の高さ八吋ばかりの見事な銀の小凾がはひつてゐたのだもの。
それはまぎれもなく
私はこの小凾を取り出して
「我が子レオへ、若し彼がこの小凾を開く時まで生き長らへてゐたならば。」
私はこの手紙をレオに渡した。レオは上書きをちよつと見てから、それを
この卷物のすぐ下に何か堅い重いものが黄色い麻布につゝんで、纖維質のものゝ上にのせてあつた。
私たちは、ゆつくりと、注意深く、麻布をほどいて見ると、くすんだ黄色の古ぼけた大きな壺の破片が中から出て來た。
この壺片は、私の推定によると、普通の中型の古代
「もう何もありませんか?」とレオが昂奮して囁いた。
私は手さぐりをして、小さい麻布の袋に入れた固いものを取り出した。 袋の中から出て來たのは象牙に描いた美しい小さな肖像画と小さなチョコレート色をした甲蟲形のものとであつた。 それには次のやうなものが彫つてあつた。
この記號は、その後私たちが確かめた所によると「日輪の御子」といふ意味であつた。 そして肖像画はレオの母親 -- 美しい、黒服の女の画像であつた。 この畫の裏には、あはれなヴィンシイの筆蹟で、「我がいとしき妻」と書いてあつた。「これでみんなだ」と私は言つた。
「ふむ」と答へて、レオは、なつかしさうに肖像画に見入りながらそれを下に置いた。
「ぢやこれから手紙を讀んでみよう」と言ひながら、彼は片時、猶豫もなく、封を切つて、聲をあげて讀み出した。
「我が子レオよ -- お前が生きてゐて此の手紙を讀む時は、お前はもう一人前の大人になり、
自分はずつと前に死んでしまつて、殆んど凡ての人に、すつかり忘れられてゐることであらうと思ふ。
だがこれを讀むときは、おぼえてゐるがいゝ。自分はかつて生きてゐたのであり、現在でも生きてゐるかも知れないのだ。
そして、筆と紙とを通じて、死の深淵をよこぎつて、お前に手を差しのべてゐるのだ。
自分の聲が、墓場の沈默の中からお前に話しかけてゐるのだ。
自分はとつくに死んでしまつてお前の心の中には自分の記憶は少しものこつてはをらぬのだが、
それでも猶ほ、お前がこれを讀む時には、自分はお前のそばについてゐるのだ。お前がこの世に生きてから、
自分はお前の顏を殆んど見なかつた。このことを許してくれい。お前の命は、自分が此の上なく愛してゐた女の命の代りなのだ。
そのつらさが自分には今だに
「やつぱりあの時自殺したんだな、さうだと思つた」と私は叫んだ。レオはそれには答へないで讀みつゞけた。
「ところで、自分のことはもうこれだけで澤山だ。これから言はねばならぬことは、とつくに死んで、
すつかり忘れられてしまつた自分のことではなくて、生きてゐるお前のことだ。自分の友人ホリイ
(この男が承知してさへくれゝば自分はこの男にお前の後見をたのむつもりだ)から、お前は、
お前のひどく古い血統のことについて何事かを聞いたことであらう。この小凾の中には、
それを證明するに十分な材料を入れてある。お前の遠い先祖が、 壺片に書き記しておいた不思議な
その後自分が遭遇した冐險については今語る必要はない。自分はマダガスカルんお海岸で難船して、
數ヶ月の後に英國の船に助けられて、アデンへ護送され、十分な用意ができ次第探檢を實行するつもりで、
英國へむけ出發したが、歸途
「だが我が子よ、お前の話はこれでおしまひではないのだよ。で自分は自分の勞作の結果と、 代々傳つて來た原物の證據品とをお前に渡すことにする。たゞ自分はお前が、 この書類に書いてある此の世に於ける最大の祕密をしらべて見やうと思ふか、 それともかそんなことは狂女の頭の中に空想されたつまらぬつくり話としてうつちやつてしまふかを自分で判斷することのできる年齡まで、 わざとお前の手にこれを渡さないやうな手筈にしておいたのである。
「自分はこれはつくり話ではないと思ふ。生命といふものが存在する以上、それを永久に保存する手段が存在しないわけはないではないか。
だが自分はこのことについてお前の頭に偏見を植ゑつけたくはない。お前が讀んで自分で判斷するがよい。
若しお前が探檢をやつて見やうといふ氣になつたら、費用にこまるやうなことのないやうにしてある。
それとも、この傳説を荒唐無稽なものとして滿足するなら、壺片も書類も破毀して棄てゝしまつて貰ひたい。
そそて自分たちの一族から惱みの種を取りのぞいてほしい。おそらくそれが最も賢明なやりかただらう。
未知のものは一般に怖れられるものだ。それは諺にあるやうに、人間の内心に巣喰ふ迷信のためではなくて、
未知のものは實際に怖るべきものであることが
これで、署名も日附もない手紙はあわたゞしくもしまひになつてゐた。
「それをどうしますかね、おぢさん」とレオは手紙を
「どうするかつて?かはいさうに、お前さんのお父さんは氣が狂つてゐたに決つてゐるぢやないか」と私は答へた。
「二十年前に、あの男が私の部屋にはひつて來た晩から私はさいぢやないかと思つてゐた。かはいさうに、
あの男が自分の死期をはやめたんだつてことはお前にもわかつたね。こりやもう全くの
「そのとおりでございますとも!」とジョッブは鹿爪らしく言つた。ジョッブは實際家の中でも模範的な實際家であつた。
「では兎に角壺の破片に何が書いてあるか見よう!」と言ひながら、レオは父親の自筆の飜譯をとりとり上げて讀みはじめた。
「吾は
「勿體ない、神樣どうぞこの女の方を許して下さるやうに」と、口をあけてこの驚歎すべき文章をきいてゐたジョッブは呻いた。
私は何も言はなかつた。はじめに、私はこれは、
あのかはいさうなヴィンシイが、氣が變になつたときにすつかりこんな話をつくりあげたのだらうと思つたが、
それにしては、こんな話は誰にだつてつくれさうにないやうに思はれた。あまりにそれは竒拔だつた。
私は自分の
壺片の凸面には楷書體
それから壺の表面の右端の
地に空に海に
不思議なるものぞあるなり。
ドロテア・ヴィンシイ記す。
何が何やらすつかりわけがわkらなくなつて、私は壺片を裏返して見た。そこには、上から下まで、
この二つの古代文字の手記のうちで第二のものは逆しまに記してあつて、しかも、
ちようどそれの書いてあるところには長い年月の間に一番手でもたれたところなので、
ヴィンシイが清書しておいてくれなかつたら私には讀みわける事ができなかつたであらう。
此の二つの手蹟の間に、ライオネル・ヴィンシイの署名がしてあつた。 それはレオの祖父の手蹟であらうと私は思ふ。その右にJ. B.
V.といふ略名が記してあり、その下には、 楷書體や草書體の樣々な
その次に、ところ〜゛の壺の空所に、十二人の拉典文字の署名があつた。それは三つの例外をのぞくと、みな、
復讐といふことを意味するヴィンデックスといふ名前で終つてゐた。それは、
矢張り復讐といふ意味の
この壺片に記された
この一聯の
その次ぎに、この大昔しの不思議な遺物に記してあるものゝ中に何れにも劣らぬ竒怪な文字が記されてゐた。 それは二つの十字架又は十字軍士の劍の上に書いたもので年代は千四百四十五年になつてゐた。 そしてなほ一層竒怪なことには、二番目の羊皮紙の卷物にその英譯がついてゐた。その文意は次のとほりであつた。
「この遺物は、遠き昔我が先祖がブリタニイよりもち來りしものなるが、 そは惡魔が魔法をもつてつくりたるものなれば破毀すべしとの聖僧の言に從ひ吾が父が二つに毀したるものなり。 されど吾ジョン・デ・ヴィンシイは、紀元千四百四十五年聖母マリイの祭日の次の月曜日に、これを再びつぎあはせしたるものなり」
その次の、最期から二番目の手記はエリザベス朝のもので、一五六四年の日附になつてゐた。それには次のやうに書いてあつた。 「こは最も不思議にして、且つ我が父の生命を失はしめたる物語なり。我が父はアフリカ東海岸に件の場所を探檢せんとしたるが、 彼の快走船は、ロレンソ・マルケス沖にて、ポルトガルの大帆船のために沈められ、彼自らも亦死せり。--ジョン・ヴィンシイ。」
その次の、即ち最期の手記はその書體からかんがへて見ると、十八世紀の中葉に、ヴィンシイ家の代表者によつて書かれたものである。 それは、「ハムレット」の中の有名な文句の少々間違ひのある引用で といふのであつた。
いま一つの書類は、壺片の
これ等の書類、少なくもその中で判讀できるものをすつかり讀み了り驗べ了つてから私は言つた。 「さあこれですつかり樣子はわかつた。これでもうお前も、考へをきめることができるわけだ。 わしの考へはもうきまつたがね。」
「では叔父さんはどう考へますか?」と彼ははや口でたづねた。
「かうだ。この壺片は正眞正銘のものだとわしは信ずる。そして不思議なやうだが、
これは紀元前四世紀の頃から君の家に傳はつて來たものであることも信ずる。
手記が何よりの證據だ。だから、お前の遠い先祖の
「僕の親父が、あちらで見たり聞いたりしたことはどう説明するんですか?」とレオはたづねた。
「
「そりやもう眞赤な
「多分あなた方のお考へが正しいでせう」とレオは非常に物しづかに言つた。
「僕は意見は何も申しませんが、これだけのことは言つておきます。僕はこの問題をすつかり解決してしまふつもりです。
で若し
私はこの青年の顏を見て、彼が眞面目に言つてゐることを知つた。レオが眞面目に物を言ふときには、 口のあたりに妙な表情が浮ぶので誰にでもわかつた。それは子供の時分からの彼の癖であつた。 ところで私は、勿論彼を一人でどこへもやる氣はなかつた。それは彼のためといふより寧ろ私のためたつたのである。 私は彼にひどく愛着を感じてゐたのでとてもそんなことはできなかつたである。 私にはあまり係累もなければ、愛情をわかつ相手も多くはない。此の點では私は逆境にたつてゐた。 世間の人は男も女も私を避けてゐた。少なくも私にはそのやうに思はれた。 で私は世の中から隱退して、世間の人と親しい交りを結ぶ機會を自ら斷ちきつてゐたのである。 だから、レオは私にとつては全世界であつた。弟でもあり、子供でもあり、友逹でもあつた。 それでレオの方で私に飽きて來るまでは、レオの行くとこへはどこへでも私は行かねばならなかつたのである。 だが勿論、彼が私にとつてそれ程重きをなしてゐることをさとられては工合が惡いので、 私は何かうまい口實を設けて彼に從ふ手段はないものかと考へてゐた。
「さうです、私は行きますよ、叔父さん。」と彼は繰り返した。「もし『うづまく生命の柱』とやらが發見できなくたつて、 すばらしい獵ができることは請合ですからね。」
私は、この絶好の機會を捉へた。
「獵だつて」と私は言つた。「さうさう!それにはちつとも氣が附かなんだ。 あちらにはきつと廣い人跡未踏の山野があることだらう。そして獲物が澤山ゐるにきまつてゐる。 わしは生きてゐるうちに一度水牛を殺して見たいと思つてゐたんだ。いゝかいレオ、 わしは探檢のことなどは信じてをらんが、獵のことになると眼がないんだよ。で、すつかり考へた上で、 ほんたうにお前が出かけるつもりなら、わしも氣晴らし、お伴をするよ。」
「さうでせう」とレオは言つた。「僕は叔父さんがこんな又とない機會を逃しはなさるまいと思つてゐましたよ。 だがお金はどうしませう。隨分費用がかゝるでせうからね。」
「その點についちや心配は要らん。」と私は答へた。「お前の收入の何年分もすつかり積んであるからね。 それに、お前の親父がわしにのこしといてくれた金も三分の二は貯蓄してある。 これもつまりはお前のためにのこしておいてくれたんだ。お金は正金でうんとあるよ。」
「そりや素敵だ。では、こんなものはもうしまつて、早速町へ鐵砲を見に出かけませう。 ところでジョッブ、お前も一緒に行かないかい?もうお前もぼつ〜世間を知つてよい時分だぜ。」
「よろしうございます。」とジョッブは氣のりのしない聲で答へた。 「わつしは見知らぬ異國へなどあまり行つて見たいとも思ひませんが、あなた樣方が二人ともお出かけになれば、 誰かお世話をする人もお入り用でございませうし、それにわつしには、二十年もの間使つていたゞいて、 今更らひとりであとに殘つてゐるやうな人間ではございませんから。」
「その通りだよ、ジョッブ」と私は言つた。「別に何も驚くやうなことは見つかりもすまいが、
すばらしい獵ができるぜ。それに二人ともこれを見たまへ。わしは、
こんな馬鹿げたものについては一言も世間の人に聞かしたくないね」と言ひながら私は件の壺片を指さした。
「もしこんなことが知れて、わしの身にまさかのことがあつた時には、 わしが正氣だつたかどうかつて問題で
それから三箇月たつて、吾々はザンヂバル行きの船に乘つて大洋を航海してゐた。
原文:
"There are more things in Heaven and earth than are dreamt of in your philosophy, Horatio."Shakespeare, "Hamlet", Act I, Scene V:
There are more things in heaven and earth, Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.
舵臺のアラビア人が手を伸して一語言つた。「
一同はみんな坐りなほつて耳を傾けた。また聞える。ゆつたりとした、莊重な、骨の髓まで沁みわたるやうな聲が。
「船長の計算が間違つてゐなければ、明日の朝の十時までには、あの人間の頭の形をした竒妙な巖に着くわけだね、 そして獵がやれるわけだ」と私は言つた。
「それから廢都の跡と
「莫迦な」と私は答へた。「お前は今日の午後舵臺であの男にアラビア語で得意さうに話をしてゐたが、 あの男は何と言つたね?あいつはこの地方をあちこち廻つて、やくざな半生を商賣をしてくらしてゐたさうだが (多分奴隸の取引をやつてゐたのだらう)そして一度あの『人間』岩へ上陸したことがあるさうだが、 廢都のことや洞窟のことを何か聞き知つてゐたかね?」
「いゝや」とレオは答へた。「あの男は、この地方は奧の方は沼だらけで、蛇や獸が澤山すんでゐるが、 人間は一人も住んでゐないと言つてましたよ。何しろ、アフリカの東海岸はずつと沼の帶で圍まれゐるので、 手がつけられんといふことですよ。」
「さうとも」と私は答へた。「マラリアにはもつてこいの處だ。あの連中が、この地方についてどんな意見をもつてゐるか、 それでわかつたわけだね。誰だつて吾々の相手になんかなりやしない。奴等は吾々を氣狂だと思つてゐるんだ。 それにわしは誓つて言ふが、奴等の考へが正しいのだよ。」
「いゝですとも、ホレース叔父さん。僕はこの機會を逃しやしませんよ。おや!あの雲はなんでせう?」 かう言ひながら彼に船尾から數哩はなれたところの星の空に浮んでゐる黒い斑點を指さした。
「行つて舵手に聞いて御覽」と私は言つた。
彼は立ち上つて兩腕を伸して行つたが、すぐに歸つて來た。
「あれは
ちやうどその時ジョッブがやつて來た。
彼は大層元氣さうに見えた。褐色のフランネルの獵服姿はちやき〜の英國つ兒であつた。 だが、彼の人の善い丸顏には困つたやうな樣子が見えた。それは彼がこの見知らぬ海へ乘りこんで來てからいじゆうのことだつた。
「ねえ旦那樣」と阿彌陀にかぶつた日よけ帽子に一寸手をやりながら彼は言つた。「船尾のボートには、
鐵砲や何かゞみんな
このボートといふのは、吾々が萬一の場合の用心に、スコットランドのダンデイで、
特別に註文して造らせてもつて來た長さ三十
「さうだねえ、ジョッブ」と私は言つた。「さうした方がいゝかも知れんねえ。あそこには澤山毛布があるから、 たゞ月の光にあたらぬやうに用心した方がいゝよ。さうしないと氣が變になつたり、盲人になつたりするからねえ。」
「かまふもんですか!あの黒奴の野郎の、薄汚い、泥坊じみた樣子を見たんでもういゝ加減頭が變になつてゐるんですもの。 奴等は肥掻きでもするより他に仕方のない連中ですよ。それにもう今から惡臭紛々たるもんでございますよ。」
ジョッブはこれでもわかるやうに、皮膚の黒い吾々の同胞の習慣や動作の讚美者ではけつしてなかつた。
そこで、吾々は曵綱でボートを引つ張つて、船尾の眞つ下まで引き寄せた。
ジョッブはまるで
それから先のことは何もおぼえてゐなかつた。すると突然、
恐ろしい風の唸り聲と眼をさました乘組員のけたゝましい恐怖の叫び聲とがきこえ、
水の
船は船尾に波をかぶつたのである。
波は通り過ぎた。私は數分間も水の下にゐたやうに思つたが、その實それは數秒間であつた。 前方を見ると、大きな帆は、疾風のために引きちぎられて、手傷を負ふた巨鳥のやうに、風下の方へはた〜となびいてゐた。 やがて比較的靜かな瞬間が來た。その時に、私は「ボートはこちらですよ」と大聲でわめいてゐるジョッブの聲を聞いた。
私は氣が顛倒して半ば土左衞門になつてゐたのだが、それでも船尾の方へ突き進んでゆくだけの正氣はもつてゐた。
私は歩いて行く足の下で船が沈んでゆくやうな氣がした。船はもう水で一ぱいになつてゐたのである。
船尾の
「大變だ!」と私は叫んだ。「レオはどこにゐる?レオ!レオ!」
「レオ樣はゐなくなりました」とジョッブが私の耳のそばまで口をもつて來てわめいた。
それでも荒れ狂ふ暴風のために彼の聲はまるで
私は兩手をあはせて、ねぢまげながら懊惱した。レオは溺死したのだ。そして私があとへ生き殘つて彼の死を悲しまねばならのだ。
「そら、又浪が來ましたよ」ジョッブが大聲でわめいた。
私は振り返つて見た。第二の巨浪が吾々に襲ひかゝらうとしてゐた。私はいつそのことその浪に呑みこまれてしまひたいやうな氣になつて、 妙に、釣り込まれるやうな氣持ちで、恐ろしい浪の押し寄せて來るのをぢつと見まもつてゐた。 月は、すさまじい嵐に吹きまくられて殆んど姿を隱してゐたが、それでもなほ少しばかりの光が、 貪婪な巨浪の波頭をきら〜照らしてゐた。波頭の上に何か黒いものが漂うてゐる。それは難破船の破片だ。 たうとう波は吾々のボートへ押し寄せて來た。ボートは水で殆んど一ぱいになつた。 だがこのボートには有り難いことには誰が發明したのか空氣も通はぬ密閉した小室が澤山設けてあるので、 波の間からひよいひよいと水鳥のやうに浮び上つた。渦卷く泡の中に、私は黒いものが波の上を眞直に私の方へ急いで來るのを見た。 私はそれをおし除けようと思つて右手をのばした。すると私の手先を何者かの腕がつかまつた。 私の指はその手首を萬力のやうにがつきとつかんだ。私は隨分力は強い方だが、それでも、 この漂流者の身體の重味とひつぱる力とのために、肩が千切れさうになつた。もう二秒間も浪がつゞいてゐたら私はきつと手をはなしたか、 或は自分も一緒につれてゆかれたかしたにちがひない。けれどもボートの中に膝まで水をのこして、浪は通り過ぎてしまつた。
「さあ汲み出すんだ、水を汲み出すんだ」と叫びながらジョッブはせつせと水汲みにかゝつた。
けれども私はその時は水を汲むどころの騷ぎではなかつた。何故なら、月はもう雲間に沒してあたりは眞の闇であつたけれども、 一條のかすかな迷つた光りは、私のつかみあげた男の顏を照らしてゐたからだ。その男は船底に半ば横はり、半ば浮んでゐた。
それはレオであつたのだ。レオが波に押し返されて來たのだ。死んでゐるのか生きてゐるかはわからぬが、
正に死の
「さあ水を汲み出さなくちや沈んでしまふ」とジョッブは聲を張りあげた。
私は腰掛の下に結びつけてあつた柄のついた大きな錫の椀をとつて、三人で一生懸命に水を汲み出した。 嵐は吾々の上に、まはりに荒れ狂ひ、ボートは前後左右に飜弄された。嵐はうづを卷いて、 水烟は棘のやうに身を刺し、眼をおほふ中を物ともせずに、吾々は死物狂ひの歡喜に荒れ狂ふ惡魔のやうにたち働いた。 死物狂ひにも一種の歡喜があるものだ。一分!三分!六分!ボートはだん〜輕くなつてゆき、新しい波はもう押し寄せて來ない。 それからまた五分もたつとボートの中の水は大抵汲み出されてしまつた。その時突如として、 恐ろしい嵐のたけり狂ふかなたに、鈍い、深い轟きがきこえて來た。南無三!それは激浪の音であつたのだ。
ちやうどその時、月はまた輝きはじめた。こん度は
「さあ舵をとるんだぞ、マホメッド」と私はアラビア語で言つた。「もう一度あの浪を乘り切らなくちやならん。」
それと同時に私は
船は浪にぶつつかつた。筆紙につくしがたい、心臟の破れるやうな昂奮の一二分がつゞいた。
私のおぼえてゐるのは、たけり狂ふ泡の海と、こゝに、かしこに、至るところに、
大洋の墓場から拔け出して來た怨靈のやうに頭を
けれども、船はほとんど水で一ぱいになつてゐたし、半哩ほど先には次の浪が押しよせて來てゐた。
吾々は又もや狂氣のやうに水を汲み出した。幸にも嵐はすつかり鎭まつて、月は皎々として輝き、
半哩以上も海上に突出してゐる岩だらけの岬がくつきりと見えた。浪はその岬までつゞいてゐるものと見えて、
岬の麓で浪が碎けて白い
だが、吾々はまた浪のはうへ押し流されてゐた。しかし、風がしづまつてゐたので、 前のやうに急にではなく、たゞ潮流のまにまに押し流されてゐたに過ぎない。マホメッドはアラーの名を呼び、 私は神に念じ、ジョッブもなにかさけびながら吾々は浪にぶつつかつた。かうして危險は幾度も繰りかへされた。 だゞ以前ほど激しくはなかつただけのことである。マホメッドのたくみな舵の操縱と、密閉室のおかげで、 吾々の命はたすかつたのである。五分もたつと吾々は波を乘り切つて、櫂をとる力もなくなつてしまつたので、 潮に流されて、驚くべき速さで前に言つた岬のまはりを押し流されてゐた。
そのうちに船脚はだん〜のろくなつて、船はもう進まなくなつた。嵐は靜まり、空は拭つたやうに晴れ渡つた。
吾々は或る河口へついてゐた。潮の流れもおさまつて、船はしづかに海上に
まもなく月が沈んだ。そして吾々は、惱める女の胸のやうにひく〜と動いてゐる海上に漂うてゐた。 やつとのことで、今までのことを思ひかへす餘裕もできた。ジョッブは舳に、マホメッドは舵のところに、 そして私は船の中央のレオの寢てゐるすぐそばに腰をおろした。
月はしづ〜と美しく沈んでいつて、水平綫下に沒し去り、長い
それは美しい眺めであつたが、しかもなほ悲しい眺めでもあつた。恐らくはそれはあまりに美しいかつたためであらう。
昇る日と沈む日!それは正に人類と人類にかゝはりをもつ凡ての物との象徴であり姿態である。
その朝はこのことが妙に
アラビア船は彼等と共に沈んでいつたのだ。沈んでいつた人々は、岩や海藻の中を、死の大海の中の人間の流れのやうに流れてゐるのだ! そして吾々四人は助かつたのだ!
「お前はあれをどう思ふかい、ジョッブ?」とボートの端に腰を下して、ひどく悲觀した顏つきをしながら、 出來るだけ多く日光を吸ひとらうとしてゐた吾々の從者に向つて私は訊ねた。 そして私は惡魔の頭のやうな巖を指した。
「ひええ!」とはじめて巖を見たジョッブは答へた。
「まるで旦那樣があの巖の上へ坐つて
私は笑つた。その笑ひ聲でレオが眼をさました。
「おや!」と彼は言つた。「僕はどうしたんだらう?すつかり身體が硬ばつちやつた。 アラビア船はどうしたんです?すこしブランデーを下さい。」
「お前は、もつと硬くならなかつたのを有難いと思はにやならんよ」と私は答へた。 「あの船は沈沒して乘組員は、吾々四人のほかはみんな溺れ死んだんだよ。お前の命が助かつたのなんぞも全くの竒蹟だ。」 それから、もう明るくなつてゐたので、ジョッブがレオに頼まれたブランデーを戸棚の中でさがしてゐる間に、 私は彼に昨夜の冐險を話してきかせた。
「そりや大變でしたな」と彼はかすかに言つた。「それにつけても、吾々はよく〜生きるやうに選ばれてゐたんですな。」
そのうちにブランデーが來たので、吾々はみんなで大いに飮んだ。日光はだん〜強くなつて來たので、 五時間以上もずぶ濡れになつて骨まで冷えてゐたのが温まつて來た。
「おや」とレオはブランデーの瓶を下において喘ぎながら言つた。「あれは例の書類に 『エチオピア人の頭の如く刻まれたる巖』と書いてあつた頭ですね。」
「さうだ、あれがさうだよ」と私は言つた。
「して見るとみんな
「先きのことはわからんさ」と私は答へた。「そりやこの巖が前からこゝにあつたといふことはわかつたさ。 そして君の親父がこれを見たつてこともわかつたよ。だが、どうもこの巖があの書類に書いてあつた巖とは思はれんね。 それに、若しさうだとしても、そりや何の證據にもならんよ。」
レオは私を見て得意さうに笑ひながら「あなたは疑ぐり深い
「正にそのとほりだ」と私は答へた。「ところで、今吾々は洲を越へて河口へ漂流してゐるのだぜ。 さあジョッブ、櫂をもて、これから漕いでいつて上陸する場所があるかどうか見るんだ。」
吾々がはひつていつた河は、まだ海岸に立ちこめてゐる霧がすつかり
朝食がすむと吾々はあたりをしらべはじめた。吾々のゐたところは、幅二百
「此處は波止場だつたのですね」レオは斷定的に言つた。
「莫迦な」と私は答へた。「こんな恐ろしい沼地の眞ん中に波止場をこしらへるやうな馬鹿があるもんか、 こんな蠻人の住んでゐる國に、それに蠻人だつて住んでゐるかどうかわかりやしない。」
「前から沼地ぢやなかつたのでせう、それに、こゝの住民も前から蠻人ぢやなかつたかも知れませんぜ」
と彼は嶮しい岸を見下しながら、そつ氣なく言つた。吾々は河の岸に立つてゐたのである。
「あそこを御覽なさい、あれは石造工事ぢやありませんか、どうもさうらしいですよ。」かう言ひながら彼は、
昨夜の暴風で一本の
「莫迦な」とまた私はつたものゝ、二人はそこへ下りていつて、上向きになつた
「どうです?」と彼は言つた。
けれども今度は私は返事をしないで囁いてゐた。といふわけは、土が掘り返されたところから、
まぎれもない固い石の表が顏を出してゐたからだ。それは大きな
「相當大きい船が繋がれてゐた波止場らしいですね、どうです、ホレース叔父さん?」とレオは昂奮して齒を出して笑ひながら言つた。
私はもう一度「莫迦な」と言はうとしたが、言葉が咽喉につかへて出なかつた。この石の環が自分で語つてゐたのだ。 昔、こゝに船が碇泊したことがあるのだ。そしてこの石壁は丈夫につくられた波止場の遺物にちがひないのである。
多分この波止場のあつた都市はそのうしろにある沼地の下へ埋沒してしまつたのであらう。
「どうやらあの物語はまんざら
「アフリカのやうな國には」と私は言つた。「ずつと前に亡びて忘れられてしまつた文明の遺物はそこらぢじゆうにあるにきまつてるさ。
「全くそのとほりです」とレオは言つた。「大分叔父さんの説は前とかはつて來ましたね。」
「ところでこれからどうするかね?」と私は話頭を轉じて訊ねた。
誰も返事をしなかつたので、吾々は沼の縁まで歩いて行つて、沼地を見渡した。見たところ、それは無限につゞいてゐた。 そしていろ〜な水鳥の群が隱れがから翔び出して來て、時々空も見えない程になつた。 日は高く昇つてゐたので、沼の表や、泡だつた溜り水の池から嫌な格好をした毒瓦斯の雲が立ちのぼつてゐた。
「二つのことは明白だ」と私は當惑してこの光景を見つめてゐた三人の仲間に向つて言つた。 「第一にこれを渡ることはできん」といひながら私は沼を指した。「それから第二に、こゝに止つてをれば、 きつと熱病にかゝつて死んでしまふ。」
「それはわかりきつたことでございますね」とジョッブは言つた。
「さうすると吾々のすべきことは二つしかない。ボートににつて、どこかの港をさがして見るか、 これもなか〜危い藝當だが、それとも、帆か櫂で河上へ遡つて行つて何處へ着くか運だめしをして見るかだ。」
「みんなはどうするつもりか知らんが、僕は河上へ遡りますよ」とレオはきつと口を締めて言つた。
ジョッブは白目をむいて呻いた。アラビア人もアラーの名を唱へながら呻いた。私は、どうせ、
吾々は惡魔と深海との間にはさまれてゐるらしいから、どつちへ行つたつて大してかはりはないのだとおとなしく言つて聞かせた。
けれども私は實を言へばレオの言ふ方へ行きたかつたのである。あの大きな黒人の頭と石の波止場とが私の好竒心をひどく刺戟して、
私は内心恥かしい位だつた。どうしてもこの好竒心を滿足させようと私は腹できめてゐたのである。
そこで吾々は注意深く
吾々は順風に帆をあげて三四時間河を遡航した。一度河馬の群が、
吾々の船から十尋から十二尋位のところへ現はれて恐ろしい聲を出して咆えたのでジョッブはひどく驚いた。
私も白状すれば、少なからず吃驚した。吾々はこの時はじめて河馬といふものを見たのである。
それに河馬の方でも竝々ならぬ好竒心をあらはしてゐたところを見ると、
白人といふものを見たのは吾々がはじめてだつたのであらう。
正午頃になると太陽の熱度は益々加はつて、沼地から發散する惡臭はとてもたまらなかつたので、
吾々は始終用心のためにキニーネを
「おい」と私は言つた。「射ち損はないやうに注意するがいゝよ。」
「射ち損ふ!」と彼は輕蔑してつぶやいた。「射ち損はうとしたつて射ち損へやしませんよ。」
彼は銃をとり上げた。葦毛色の羚羊は、腹一杯水を飮むと頭を上げてきよと〜向う河岸を見まはした。 彼はかうした獸の好んで通る路らしい、沼地の中の少し小高くなつたところに、夕燒の空を背景に立つてゐたのである。 私は百まで生きてもこの時の光景を忘れることができぬであらう。實に物淋しい風景ではあるが、 それでゐて狩獵家の心をわく〜させる光景だつた。
ズドン!羚羊は大きく跳んで逃げ出した。レオは射ち損じたのだ。ズドン!
「降參しましたよ、叔父さん。お目出たう。あなたのねらひは素晴らしいものだつた。僕のはひどかつたですよ。」
吾々は船から飛び降りて、羚羊のそばへ驅けつけた。羚羊は背骨を射ち拔かれて即死してゐた。
その皮をむいて、持ち去れるだけの肉を切りとるのに十五分かそこらかゝつた。そのために、
暗くなるまでに、やつと河が廣がつて、沼の凹地にできてゐる潟まで漕いでゆける位であつた。
ちやうど暗くなつた時に、吾々はこの湖の縁から三十尋ばかりのところに投錨した。
吾々は上陸するわけには行かなかつた。といふのは、上陸して見たところで、 野營のできるやうな乾いた地面があるかどうかもわからんし、
それに沼から立ちのぼる毒瓦斯が非常に恐ろしかつたのである。
まだ水の上にゐた方が毒瓦斯の危險が少ないと思つたのである。そこで、燈をともして、またタン・シチウの夕食をすまし、
それから眠らうとした。ところが眠るどころの騷ぎでない事がすぐにわかつた。
何故かといふと、燈の光りにさそはれたのか、それとも三千年來飢ゑてゐた、珍らしい白人の臭ひにさそはれたのか知らぬが、
何萬と數知れなぬ蚊が吾々を襲つて來たのである。それは私がかつて書物で讀んだり、實際に見たりした蚊の中で、
最も血に飢ゑた、最もしつこい、最も大きな蚊であつた。彼等は雲のやうになつて押し寄せて來た。
そしてぶん〜唸つて刺すので吾々は氣が狂ひさうになつて來た。煙草の煙なんぞは、却て益々彼等を元氣づけて、
活溌にとびまはらせるだけであつた。たうとう吾々は、頭からすつぽり毛布をかぶつて、その下で、
身體中をがり〜掻きむしりながら、しよつちゆうぶつ〜呪ひ聲を上げて、徐々に蒸鍋の中で蒸されるやうな思ひをして坐つてゐた。
その時、突然沈默を破つて、深い、ライオンの咆聲がきこえた。つゞいて、
吾々から六十
「ねえ小父貴」とレオが毛布の下から顏をつき出して言つた。レオは時々私をかういふ不屆きな呼び方をするのであつた。
「上陸しなくて
まもなく月が昇つた。岸の上から水の面をこえて、ライオンは樣々な聲をあげて咆吼してゐたけれども、 吾々は大丈夫危險はないt考へてゐたものだからうと〜眠りかけた。
どういふわけか知らぬが、ことによると毛布の上から蚊がさしたゝめであらう、私がふと毛布の下から顏を出すと、 ジョッブの低い慄へ聲が聞えた。
「あれ、あそこを御覽なさい!」
吾々はみんな岸の方を見た。するとどうだらう。
「あれは何だ?」と私はたづねた。
「ライオンの畜生どもですよ」とジョッブは答へた。その聲の調子には、個人的な呪ひと、習慣的な尊敬と、
爭はれぬ恐怖との念が
私はもう一度そちらを見た。ジョッブの言葉になちがひはなかつた。私は彼等の兇猛な眼の爛々たる光りを見ることができた。 たつた今殺された羚羊の肉の匂ひに誘はれたのか、それとも吾々自身の匂ひに誘はれたのか、 飢ゑた猛獸は吾々を目懸けて跳びかゝらうとしてゐたのである。
レオはもう既に銃を手にしてゐた。私は、もつと近くへ來るまで待てといつて
「大變だ」とマホメッドが叫んだ。「鰐が獅子の脚に食ひついた。」正にその通りであつた。 長い口とぎら〜した齒と鱗のついた胴體とを吾々は見ることができた。
それから最もおどろくべき光景がひきつゞいておこつて來た。ライオンはどうかかうか淺瀬へはひあがつたが、
鰐はなかば立ち、なかば泳ぎながらまだライオンの後肢に噛みついてゐた。
ライオンは
やがて急に戰は終りをつげた。ライオンの頭は、がくりと前に埀れて、鰐の背中にかぶさり、恐ろしい唸り聲を上げて死んでしまつた。
鰐は暫らくの間身動きもせずに立ち上つてゐたが、やがてライオンの屍躰を口にくはへたまゝ、
この命がけの決鬪は世にも驚くべき、戰慄すべきものであつた。こんな場面を見た人はあまり多くはなからうと私は思ふ。 そして、その結末はこんな風だつたのである。
それがすつかりすむと、吾々はマホメットを見張りにのこしておいて、その夜の殘りの部分を、 蚊には刺されながらも、比較的平和に過したのであつた。
膨れぼつたい脣で笑へるだけ笑つてゐる間に、夜はすつかり明けはなれて、海の方から吹いて來る朝風が、
沼から立ちのぼつて行手をふさいでゐる濃霧を吹き拂つてしまつたので、吾々は帆を仕立て、
死んだ二頭のライオンと鰐とを注意深くしらべてから、潟を出て再び河筋をのぼつて行つた。
正午になつて、風が凪いだ時、吾々は幸運にも乾いた土地へ着いたので、そこへ上陸して火を焚き、
二匹の鴨と、羚羊の肉を少しばかりとを料理して食べ、翌日の夜明けまでそこに過した。
勿論前夜と同じやうに蚊軍に惱まされたが、それ以外には別に災難もなかつた。それから、一、二日は同じやうにして過ぎた。
別段これといふ冐險もなく、たゞ竒麗な、角のない
吾々が旅をしてから五日目、吾々の計算によるとアフリカの東海岸から西の方へ、百三十五哩から百四十哩行つたときに、
はじめて、ほんたうに重大な事件が起つて來た。その朝は、十一時頃になるといつもの風が
そこで吾々は引きかへして、今度は別の河を岸に沿ふて河上へ上つて見た。
すぐに吾々は色々な徴候に照して、これは、ザンジバルの海岸のモンバサで見られるやうな古代の運河であるといふ結論に逹した。
このモンバサの運河といふのは、タナ河とオジイとを聯結するもので、タナ河を降つて來た船舶は河口の危險な砂洲を避けるために、
オジイへ行つてそれから海へ出るやうになつてゐるのである。
吾々の前にある運河は世界史に或る遠い昔の時期に、人間の手で鑿掘されたものに相違なく、その痕跡は、
昔曵船につかつたものらしい高い堤防の形にのこつてゐた。ところ〜゛水のために凹みができたり、
陷沒したりしてゐるのを除けば、粘土でかためた固い兩岩の堤防の間の距離はずつと同じで、
流れも深さも同じであるらしかつた。水流は極く少なく、或は皆無なので、運河の表面は草で塞がれ、
その間をきれいな水の小流が縫ふてゐた。それは、水鳥や
「どうせ運河を上つて見なくちやならんだらうな」と私は言つた。三人はとり〜゛に贊成した。 レオはまるで此の上ない冗戲のやうな調子で、ジョッブは、いや〜ではあるが主命もだしがたしといつた調子で、 マホメッドはアラーの名を唱へて不信者の考へかたや旅のしかたを呪ひながら。
そこで、吾々は、もう順風を期待することもできなかつたので、日が低くなるのを待つて出發した。
はじめ一時間程は、どうかかうか船を漕いでゆくことができたが、 それから先は雜草があまりにはびこつてゐるために漕ぐことができないので、
原始的な、最も骨の折れる手段をとつて、船を曵いてゆかねばならなかつた。
マホメッドとジョッブと私の三人は二時間も船を曵いた。私は優に他の二人力はあると思はれてゐたのである。
レオは
それからあと四日間の旅の模樣はこゝでは詳しく述べる必要があるかどうか私にはわからない。
だゞ私がこれまでに送つた月日の中で最も、みじめな月日で、明けても暮れても、ひどい勞働と、暑さと、
蚊とに苦しめられてゐたとだけ言つておけばよいであらう。どこまで行つても果しのない氣味の惡い沼地なので、
吾々が熱病にかゝらずにすんだのは、始終キニーネや下劑を服用してゐたのと、
しよつちゆう是が非でも働かねばならなかつたためだらうと思ふ。運河にはひつてからの旅の三日目に、
沼から立ちのぼる
それまでに、吾々はすつかり疲れはてゝしまつて、手にはまめができて、 もはや一碼も船を曵いてゆくことはできなくなつたやうな氣がした。 いつそのことこの恐ろしい沼の中に横はつて死んでしまつた方がましだと思つた。 それは實にひどい場所であつた。こんなところへ來る白人はこれから先だつて滅多になからうと思つた。 疲れきつたので、船の中で眠らうと思つて横になると、 結局はこんないやな沼地の中で死んでしまふにきまつてゐる狂ひじみた旅の一行に加はつたのがいま〜しくなつて來た。 うと〜とまどろむと、これから二三ヶ月もたつたら、この船や、不幸な船の乘組員はどんな姿になるんだらうと思つた。 船はこはれて、中には臭い水がたまつてゐることであらう。そしてその水は霧を含んだ濕つぽい風に搖り動かされて、 朽ちはてた吾々の骨を洗つてゐることであらう。この船と、 この船に乘つて馬鹿げた傳説を信じて自然の祕密をさぐりに來た一行の運命はさうなるに相違ないと私は思つた。
もう既にから〜になつた私の骨に水が
「靜かにしろ」と一つの聲がアラビア語で、いやアラビア語といふよりも、アラビア語の澤山まじつた土語で言つた。
「河を泳いでこゝへ來たのは何者だ?言えい、言はなければ殺してしまふ。」
そして
「吾々は旅の者で、偶然にこゝに來たのです」と私はできるだけ上手なアラビア語で答へた。
それが相手に通じたと見えて、その男は後をふり返つて、うしろの方に見えた
「その連中の皮膚はどんな色だ?」とどつしりした聲が答へた。
「白でござります。」
「殺してはならぬ」と彼は答へた。「四日前に、全能の女王から、『いまに白人が來る、白人が來たら殺してはならぬ』
といふお逹しがあつた。あの人々の持ち物と一緒に、全能の女王のお
「こつちへ來い!」と男は船から私を半ば案内をし、半ば曵きずり出しながら言つた。 見ると他の連中も矢張り他の男につれ出されてゐた。
堤防の上にはかれこれ五十人ばかりの仲間の者が集つてゐた。薄明りですかして見ると、彼等は皆大きな槍をもつてゐて、 非常に丈が高く、頑丈な體格をしてゐた。皮膚の色はあまり黒くなく、 腰のあたりに豹の皮をまきつけてゐるほかは裸體のまゝだつた。
レオとジョッブとはすぐ前へ突き出されて私のそばに坐らされた。
「一體どうしたんだ?」とレオは眼をこすりながらたづねた。
「妙なことになつて來ましたな」とジョッブは叫んだ。ちやうどその時に騷ぎが起つて、 マホメッドが吾々の間へひよろ〜と轉げ込んで來た。そして、そのあとから、 影のやうな姿が槍をふりかざしながらついて來た。
「アラー!アラー!」とマホメッドは悲鳴を上げた。「助けたまへ、守りたまへ」彼はもう到底助からぬと思つてゐたのである。
「長老樣、これは黒人でございます、全能の女王は黒人のことはどう
「女王は黒人については何とも
男は前へ進んだ。すると丈の高い影のやうな姿が前へ屈んで何事かを囁いた。
「ははつ!」と相手の男は答へて、何となく血を凝らせるやうな不氣味な薄笑ひを洩らした。
「白人は三人ともそこにゐるか?」と影のやうな姿がたづねた。
「はい、そこにをります。」
「では用意のものをもつて來て、河に浮いてゐるものゝ中でもてるだけのものを殘らずもつてゆけ。」
その言葉が終るか終らぬうちに、一同の者は蓋ひのついた駕籠をかついで來た。 駕籠にはめい〜四人の駕籠かきと二人の槍持ちとがついてゐた。どうやら吾々はその中へ乘せられるらしかつた。 「しめた」とレオは言つた。「誰か吾々を運んで呉れる者がるとは有り難い、ずゐぶん一人でてくつて來たからなあ。」
レオはいつでも物事を陽氣に考へる方だつた。
ほかの者がみんな駕籠の中にはひるのを見てから、私も外に仕方もないので駕籠に乘つたが仲々乘り心地は良かつた。
それは草の纖維で織つたものらしく、身體の動くまゝにしなやかに伸びたり縮んだりした。
そして上と下とが
私が身を落ちつけると、すぐに駕籠かきどもは、單調な歌聲に足竝を合はせて威勢のいゝ早足で出かけた。 私は半時間ばかり、ぢつと横になつていろ〜なことを考へまはしてゐた。 こんなことをケンブリッヂの學友どもに話したら信ずるだらうかとか、 一體これから先どうなるであらうかとか思ひめぐらしてゐるうちに、いつしか眠つてしまつた。
かれこれ七八時間も眠つたに相違ないと思ふ。アラビア船が沈沒する前の晩以來ほんたうに安眠したのはこの時がはじめてだつた。
眼が覺めたときは、太陽はもう高く空に昇つてゐた。吾々はまだ、一時間四哩位の足どりで旅をしてゐた。
駕籠のうすいカーテンの隙間から、のぞいて見ると、有り難いことには、
もう果てしのない沼地を通り拔けて、ふやけた草原の中を盃形の丘の方へ旅してゐるのであつた。
この丘は吾々が運河から見た丘なのかどうか私は知らない。その後今になるまでつひにわからずじまひだつた。
といふのは後から知つたことであるが、この土人どもは、さうしたことについては、
殆んど何も教へてくれないからである。その次に私は吾々を運んでゐる人々を見た。
彼等は皆すばらしい體格で、六尺以下のものは殆んどなかつた。そして皮膚の色は黄味を帶びてゐた。
概して彼等の外貌は東アフリカのソマリ族に似てゐたが、髮は縮れ毛でなくて、漆黒の捲毛になつて兩肩に埀れてゐた。
顏は彎曲してゐて多くは大變
彼等について、もう一つ氣のついたことは、彼等が決して笑はぬといふことであつた。
時々、彼等は、私が前に言つたやうに單調な歌を歌つたけれども、歌を歌はない時は殆んど完全に默つてゐて、
笑ひのために彼等の陰氣な邪惡な顏が晴れ晴れすることは決してなかつた。彼等は一體何人種なのだらう?
彼等の話す言葉はアラビア語の系統であるが、彼等はアラビア人ではない。その點はたしかである。
アラビア人にしては色が黒すぎる、黒いといふよりもむしろ黄色すぎる。何故かは知らぬが彼等の顏つきを見ると私はぞつとした。
そしてそれが恥かしくなつた。私がなほも怪しんでゐるうちに、別の駕籠が私の駕籠と竝んだ。 その中には -- カーテンがあげてあつたので
-- 白つぽい
「眼が覺めましたかな、他國の人?」と彼はどつしりした低い聲で言つた。
「はあ、覺めました、長老」と私は丁寧に答へた。この老人にとり入つておけばきつとよいことがあるだらうと思つたからである。
彼は美しい白髯をしごいて、かすかに笑つた。
「どこの國から迷つてお出でになつたか知らんが」と彼は言つた。「多分、この土地の言葉の知れてゐる、そして、 子供に禮儀をしつける國からお出でなさつたのぢやらう。で一體この土地へ何のためにお出でなさつた、 まだ人の知つてゐる限り、他國の人で、この國へ足を踏み込んだ者はないですぢや。 あんたと連れの衆とは、この世の中がいやにでもおなりなさつたか?」
「吾々は新しいものを見に來たんですよ」と私は大膽に答へた。「吾々は古いものがいやになつたんで、 まだ知らないものを知るために海から上つて來たんです。私の非常に尊敬する長老、吾々は勇敢な種族で死をも恐れないのです --といふのは死ぬ前に少しでも新しい事を知つて死ねばですね。」
「ふむ!」と老紳士は言つた。「それはほんたうかも知れん、あんたは
「全能の女王といふのはどんな人です?」と私は好竒心にかられてたづねた。
老人は駕籠かきどもをちらりと見て、私の心臟をいくらかひやりとさせるやうなかすかな微笑を浮べながら答へた。
「そのことは、若し女王が、あんたを肉のついたまゝで御覽になる思召しなら、すぐにわかりますわい。」
「肉のついたまゝで?」と私は答へた。「それは一體どういふ意味ですか?」
老人は物凄く笑つたゞけで返事はしなかつた。
「長老の國の人種は何といふのです?」と私は訊ねた。
「わしの國の住民はアマハッガー族といひますぢや、つまり岩の民といひますぢや。」
「甚だ失禮ですが、長老のお名前は?」
「わしの名はビラリぢや。」
「吾々はどこへ行くんです?」
「今にわかりますわい」かう言つたかと思ふと、老人は駕籠かきに合圖して、先の駕籠のそばまで走らせた。 その駕籠にはジョッブが片脚をだらりと外へ投げだして寢てゐた。 けれども老人はジョッブからは大して要領を得なかつたと見えて、 すぐにレオの駕籠の方へ駕籠かきを走らせてゐるのが見えた。
その後は何もかはつたことは起らなかつたので、私は、氣持よく駕籠に搖られながら、また眠つてしまつた。 眼が覺めた時には、吾々は、熔岩でゞきた岩だらけの峽路を通つてゐた。 兩側の嶮しい崖には美しい樹や鼻の咲いた灌木などが澤山生えてゐた。
やがてこの峽路を廻ると、美しい光景が眼前に展開された。吾々の前には、廣さ四哩から六哩もある大きな盃形の地面があつて、
ちやうど
中には女もまじつてゐた。女どもは、豹の皮のかはりに小さい赤い羚羊の
私は今にもレオが槍で刺し殺されやしないかと思つて、思はず聲をあげて歎息した。 ジョッブは、「このお轉婆の奴、ふとい奴だ!」と怒鳴つた。當のレオは少し吃驚した樣子だつたが、やがて、 これはてつきり古代基督教徒の慣例の行はれてゐる土地へ來たのであるといふことに氣がついて、 落ちつき拂つて接吻を返した。
私はまた何か起りはしないかと思つて歎息した。ところが意外にも、少數の若い女はいま〜しさうな樣子を示したが、
五歩も行かないうちに私は、吾々のはひつて行つた洞窟は自然にできたものではなくて、
人間の手でくりぬかれたものであることを知つた。吾々の判斷したところでは、それは長さ百呎、幅五十呎位で、
非常に天井は高く、何よりも寺院の歩廊に似てゐるやうに思はれた。この歩廊からは、
十二呎か十呎位の間隔をおいて通路が開けてゐた。それは小さい
吾々が食事をすました時に、今までだまりこくつてじろ〜吾々を見てゐた、少々無愛想な吾々の主人のビラリは、 起ち上つて吾々に話しかけた。彼はこん度のことは實際不思議だと言つた。この岩の民の國へ、 他國の白人が來たのを見たり聞いたりした人は一人もなかつたのである。時々、といつても極めて稀れではあつたが、 黒人がやつて來て、黒人の口から、彼等よりも色の白い人間が船で航海してゐたといふ話は聞いてゐたが、 その白人がやつて來たのは前代未聞であつたのだ。然るに、彼は、吾々が運河を船を曵いて來るのを見たのである。 彼はあけすけに言つたが、その時、吾々を皆んな殺してしまふやうに命令を發したのださうである。 といふのは他國人が此の國へはひつて來ることは不法だつたからである。ところが、ちやうどその時に、全能の女王から、 吾々の命を助けよとおふ逹しがあつたので、それで吾々はこゝまでつれて來られたといふわけであつた。
「ちよつと長老」と私はそこで話の腰を折つた。「その全能の女王といふ方はまだずつと先に住んでをられるのに、 どうして吾々の來たことがわかつたのです?」
ビラリは後ろを振り向いて、誰もゐないことを知つたので -- アステーンは彼が話をはじめた時に退座してゐたのである -- 少しく不思議さうな笑ひを浮べて言つた。
「あんた方の國には眼がなくても見えたり、耳がなくとも聞こえたりする人はゐませんかな? まあ、何も訊ねなさるな、あの方にはわかつてゐたんですわい。」
私はそれを聞いて肩をすくめた。彼は言葉をつゞけて、吾々の處置については何の逹しもないから、 これから全能の女王に謁見に行くのだと言つた。この全能の女王といふのはアマハッガー族の女王であることは吾々は彼から聞いて知つた。
私が彼にどの位留守にするのかと訊ねると彼は急いで行けば五日目には歸れるだらうが、 何しろ女王のところまでゆくには何哩もある沼地を越さなくちやならんからと言つた。 それについて、彼は、留守中は萬事手落ちのないやうにしておくし、彼は個人として吾々が氣に入つたから、 きつと女王樣のお沙汰も命に別條はなからうと言つた。しかしそれと同時に、彼は、それも疑はしいと思つてゐることを隱さずに言つた。 といふのは、彼の祖母の代になつてからこの國に來た他國人も、彼の母の代にこの國へ來た他國人も、 彼自身の代になつてからこの國へ來た他國人も、みんな容赦なく殺されてゐるからといふのであつた。 しかもその殺し方は吾々が恐ろしがるから言はずにおくと言つた。 そしてこの死刑は女王自身の命令によつて行はれるのだといふことであつた。 少くも彼はさう思ふと言つた。何れにしても女王はこれまでに、彼等の命を助けるために口出しされたことはないのであるといふのであつた。
「だつて可笑しいぢやありませんか?」と私は言つた。「あなたはずい分御老體でゐらつしやる。 それだのにあなたは三代も前のことを言はれたが、 その時はまだ女王は生れてをる筈もないのに どうして女王があなたの祖母さんの若い時分などの人を死刑の命令を下すことができたんですか?」
ビラリはまた笑つた。それは此の老人に獨特の笑であつた。そして丁寧にお
彼が去つたおとで、吾々は、この恐ろしい現在の境遇について、色々話しあつた。 私は、かはいさうな他國人を無慈悲なやりかたで殺すやうに命令するらしいこの不思議な全能の女王の話はもう眞平だつた。 レオもこれには氣を重くしてゐたが、この女王こそ、 まぎれもなくあの壺の破片に書いてあつた記録や親父の手紙の中に記してあつた女に相違ないと勝ち誇つたやうに指摘して自分を慰めてゐた。 その證據として彼はビラリがその女王の年齡や不思議な力について言つたことをあげた。 私は次から次へ起つてくる事件のためにすつかり氣をのまれてゐたので、 そんな馬鹿げた話の相手になる氣は毛頭なかつた。それで、外へ出て沐浴をしようではないかと提議した。 吾々は皆沐浴がしたくてたまらなかつた矢先きなのである。
そこで、吾々の意志を、ひどく無愛想な顏つきをした中年の男に傳へた。この男は、
老人の留守中その代理として吾々の世話をしてくれてゐる男らしかつた。
吾々は一團になつて、
吾々が此の上なく氣持のいゝ沐浴を終へた時までには太陽は沈みかけてゐた。實際、
吾々が大きな洞窟の中へ歸つて來たときには、もうすつかり太陽は沈んでゐた。洞窟の中には幾つかの焚火が燃えてゐて、
その焚火のまはりには澤山の人々が集つて、ちら〜する焚火の明りと、壁のまはりや上に釣してある
暫くの間吾々はすわつて、この兇猛な連中が、彼等と同樣に不氣味な沈默のうちに夕食をしてゐるのを見てゐたが、 たうとう、彼等を見るのにも飽き、岩の壁にうつゝてゐる影の動くのを見るのにも飽きて來たので、私は、 吾々の新らしい接待係の男に、もう寢たくなつたと言つた。
一言も言はずに彼は起ち上つて鄭重に私の手をとりながら手燭をもつて、中央の洞窟から開いてゐる狹い通路の一つへ進んで行つた。
そのあとからついてゆくと、突然通路は廣がつて、八呎平方ばかりの、天然の岩をきつてこしらへた小さな室になつてゐた。
この室の一方には地面から三呎ばか高くなつた石の板があつて、それはちやうど船室の中の
その夜は大體に於て氣持ちよく過ぎて行つた。何故大體に於てなんて言ふかといふと、 私自身は生き埋めにされた夢を見てひどくうなされたからである。これはきつと周圍の墓場の光景が頭に沁みこんでゐたからであらう。 明け方に吾々は若いアマハッガー人が吹きならす高い喇叭の音におどろかされた。
これはてつきり起きろといふ合圖だらうと思つて、吾々は起き上つて、小河を洗面に行つた。 それがすむと朝食の準備ができてゐた。朝食の時、あまり若くない年増女が進み出て、皆なの前でジョッブに接吻をした。 不作法な點は別として、これは實に愉快な光景であつた。 謹嚴なジョッブが怖ろしさといやらしさとで弱つてゐた光景は終生忘れることができぬ。 ジョッブは私と同樣女嫌ひであつた。多分これは十七人も家族のある家に生れたせいだらうと私は思ふ。 そのジョッブが、自分の方では承知もしないのに公衆の面前で接吻をされたゞけならまだよいが、 自分の二人の主人もそれを見てゐる前なのだから、その時の彼の表情はかはいさうな程混亂を極めたものであつた。 彼はその場に起ち上つて、三十そこそこのこの年増女を邪險に押しのけた。
「とてもたまらん」と彼は溜息をした。すると女は、彼がはにかんでゐると勘違ひして、また彼に接吻した。
「あつちへ行け、いつちまへ、このあばずれ女!」と彼は、自分が食事をしてゐたスプーンを女の顏の前で上下に振りながら叫んだ。 「皆さんどうぞ御勘辨を願ひます。私はこの女にそんな素振りを見せたのぢやないのにこの女はまたやつて來るんです。 つかまへてゝ下さい。ホリイ樣、私にはとても我慢ができません、とても。こんなことは前に一度だつてなかつたんです。 これ位私の性分に合はんことはないんです。」こゝで彼は言葉を切つて、一生懸命に洞窟の方へ逃げ出した。 その時私は初めてアマハッガー人が笑ふのを見た。だが當の女は笑はなかつた。笑ふどころか、彼女は、 憤怒のあまり髮の毛を逆立てゝゐた。それを外の女がひやかすので彼女の怒りは益々募る一方であつた。 彼女はその場に棒だちになつて、憤怒に身をふるはしてぢつとにらみつけてゐた。 私はその形相を見て、ジョッブの謹嚴が却つて災難にならねばよいがと思つてゐたが、案の定、 あとになつて見ると私の推測は間違つてゐなかつた。
女が退つたのでジョッブは、ひどく昂奮しながら引き返して來て、傍へ寄つて來る女たちを一々心配さうな眼つきで見まはした。 私はその機會に家人たちに向つて、ジョッブには妻があつたのだが、家庭に不幸があつたゝめに、 こゝへ來てゐるのだから、そのために女を見ると恐がるのだと説明した。 だが一同の者は私の説明をきいてもだまつてゐた。彼等は、吾々の從者の行ひを、 彼等家族全體に對する侮辱だと考へ手ゐるのは明白だつた。
朝食がすむと吾々は散歩をして、アマハッガー族の家畜の群や耕地を檢分した。彼等は二種の牛を飼つてゐた。 一つは大きい、骨ばつた角のない乳牛で、いま一つは、小柄で肥つた肉牛であつた。 山羊は毛の長い種類で、肉をとるだけの目的で飼はれてゐた。少なくも私は山羊の乳を搾つてゐるのを見たことはなかつた。 アマハッガー族の耕作法は、非常に原始的なもので、農具といつては、たゞ鐡でこしらへた鋤があるばかりだつた。 この民族は鐡を精練して、細工することを知つてゐたのである。この鋤は大きな槍の穗のやうな形をしてゐて、 足をのせる肩がついてゐなかつた。そのために土を掘るのに大變な勞力がいつた。 それでも彼等は男も女も耕作をしてゐた。多くの野蠻人の習慣のやうに、手先きの勞働を全くしなくてもよい者はなかつたのである。 とは言へ前にも言つたやうに、權利は女の方にあつたのである。
はじめ、吾々は、この不思議な人種の起源や法律が皆目わからないので困つた。
彼等はまた不思議にこの點については何も教へてくれなかつた。しかしながら、時がたつにつれて --
といふのは、次の四日間は別に大した出來事もなかつたので -- 吾々はレオの女友逹のアステーンから若干のことを聞き知つた。
ついでに言つておくが、この女は、影のやうにレオのそばに附きまとうてゐたのである。
起源については、少なくも彼女の知つてゐる限りでは、起源といふやうなものはないといふことであつた。
しかし、女王のすまひの近所には、石造の壁や柱などの澤山たつてゐるコオルといふ岡があることを彼女は知らせてくれた。
物識りの言ふところによると、そこには太古に
しかし彼等には女王があつた。全能の女王といふのが彼等の女王であつた。けれども女王が姿を現はすことは極く稀れで、
二三年に一度、罪人に死刑を宣告する時に姿を見せるだけであつた。
しかもその時には女王は大きな
私はこの國の面積や人口はどれ程あるかと訊ねて見た。彼女は、この家族のやうな家族が都合十あつて、 その中には女王の家族のやうに大きな家族もあると答へた。そして、 これ等の家族はすべてこの丘のやうな丘にある洞窟の中に住んでゐるのであり、 かうした丘は沼地の中に散在してゐて、祕密の通路で往き來することができるだけであるとのことであつた。 この家族の間には時々戰爭が行はれたこともあるが、女王が中止を命ずると雙方ともばつたり止めてしまつたといふことである。 この戰爭と、沼地を渡るときにとりつかれる熱病とのために人口はあまる増えないのだといふことであつた。 彼等と他の人種との間には何の聯絡もなく、附近には他の人種は住んでゐなかつた。 それに敵は沼地を越へて來ることはできなかつたのである。 かつて軍勢が大河(多分それはザンベシ河のことであらう)の方から彼等を攻めようとしたことがあつたが、沼地で道に迷つてしまひ、 夜になつて、沼地の附近に浮動する大きな火の玉を敵の陣地と間違へてそれを攻めようとして、 半分は沼に溺れてしまひ、殘餘の軍勢は、すでに熱病と饑餓とのために死んでしまつて、 彼等に一撃をも加へることができなかつたといふことを繰り返して話し、吾々も、 駕籠でつれて來られなければ決してこゝまでは來られなかつたのだと附け足したが、 私もなる程それにちがひないと思つた。
吾々が四日間に聞いたこれ等の事柄は皆信ぜられない程驚くべき話ばかりで、しかもその中で最も竒怪な部分は、
例の壺の破片に記してあつた文句に多少とも符合してゐた。どうも、驚くべき、
又恐ろしい神通力をもつてゐるといふ噂のある不思議な女王が住んでゐるらしい樣子であつた。
私もレオにも一向そのわけはわからなかつたが、レオは勿論、私が前に何遍も傳説のことをひやかしたので、
私に對しては、殊の外得意であつた。ジョッブと來てはもうずつと前から考へることは一切やめて凡てなるゆきにまかせてゐた。
アラビア人のマホメッドはアマハッガー人に鄭重な待遇は受けてゐたが、それと同時に冷たい侮蔑をも受けてゐた。
彼は何に脅えてゐたのか知らぬが、非常にびく〜脅えてゐた。彼は一日中洞窟の隅に
吾々三人とアステーンとが、寢る前に、洞窟の中で焚火をかこんで坐つてゐると、これまで默つてゐたアステーンが、 突然起ち上つてレオの金髮の上に手をおいて彼に話しかけた。
今でも私は眼を閉ぢると、この世の中の最も竒怪な光景の最も機會な中心のやうに、彼の女の誇らしい、 格好のよい姿が、濃い影と、赤い焚火の光とに代る〜゛包まれて起ち上つたところがまざ〜見えるやうな氣がする。 彼女は起ち上つたと思ふと、かず〜の胸の思ひと豫兆とをほゞ次のやうに節をつけて語り出した。
君は吾が選びし人 -- 吾は初めより君を待ちぬ!
君はいとし美し。君の髮、君の白き皮膚は世に類ひなし。
君にまさりて力ある男々しき人はなし。
君が眼 は空にして、眼 の光は空の星。
缺 くる所なき幸ある君が顏 ばせに、吾が心おのづと君に向きぬ。
君吾を見しときより、吾君にこがれぬ --
されば吾君をとりぬ -- おゝいとしき君よ。
災 の來らざるやうしかと君をとらへ、
日のさゝぬやう、吾が髮もて君が髮をおほひぬ。
君は皆吾がものなりき吾は皆汝 がものなりき。
さるうちに日はすぎて兇 つ日は遂に來りぬ。
あゝその日何事の起りしぞ。戀人よ、吾は知らず。
さはれ君は見えずなり、吾は闇に迷ひぬ。
アステーンよりも強く、美しき人君をつれゆきぬ。
されど君は振り向きて吾が名を呼び、君が眼は闇を探しぬ。
しかも彼の女の美しさは、君をひきて恐ろしき所につれゆきぬ。
あゝかくて、あゝかくて、吾が戀人よ --
こゝで此の不思議な女は、この話とも歌ともつかぬものをやめて、彼女の前に映つてゐる深い影に輝く眼をぢつと据ゑたやうに思はれた。
言葉の意味のわからぬ吾々には、それは無茶苦茶な歌のやうに聞えた。次の瞬間に、彼女の兩眼は、
何かはつきり見えない恐怖をうつし出さうともがくものゝやうに、
この不思議な少女に近頃だん〜ほんたうの愛着を感じはじめて來たレオはひどく吃驚して、困りはてゝしまつた。 それから何もかも公平に言つてしまへば、私の心理状態は、迷信的恐怖の状態から大して離れてはゐなかつた。 場所といひその場の事情といひ、全くもつて不氣味極まるものだつた。
しかし、まもなく彼女は正氣に返つて、痙攣的に身慄ひした。
「今のは一體どういふ意味なんだ。ねえアステーン?」とレオは訊ねた。 彼は多年の勉強のお蔭で、アラビア語が非常にうまく話せたのである。
「何でもないのよ」と彼女は強ひて微笑しながら答へた。「妾の國の
「では何を見たんだね、アステーン?」と私はきつと彼女の顏を見ながら訊ねた。
「何でもないわ」と又彼女は答へた。「何も見やしなくつてよ。何を見たなんて妾に問ふちやいけないわ。 貴方がたはどうして驚きなさるんです?」かう言ひながら彼女はレオの方を向いて、 彼の顏を兩手でつかまへてまるで母親がするやうな風に、彼の額に接吻した。 私は文明人の中にも野蠻人の中にも、その時の彼女の眼つきのやうに愛情に充ちた女も眼つきを見たことがない。
「ねえ貴方」と彼女は言つた。「若し妾がゐなくなつても、貴方が夜、手を伸したときに妾の姿が見えなくなつても、
時々妾のことを思ひ出して下さいね。妾は貴方の足を洗ふ
その晩の焚火はいつもよりずつと大きく、そのまはりには廣い環をつくつて三十五人の男と二人の女とが坐つてゐた。
二人の女といふのはアステーンとジョッブに振られた女とであつた。男はみな、いつものやうに默つて坐つてゐた。
そしてめい〜自分のうしろの岩に掘り拔いた穴に眞つ直ぐに大きな槍をたてかけてゐた。
前に言つた黄色つぽい麻の
「これからどうなるんです、旦那樣」とジョッブは心配さうに言つた。「おや〜またあの女が來てゐる。 だがもう私を追ひまはす氣遣ひはありませんよ。私はてんで相手にしなかつたんですから。 奴等を見るとむず〜しますよ、どいつもこいつも、まつたくですよ。おや、 奴等はマホメッドにも食事をするやうに言つてゐますね。ほら、あの女が、マホメッドをあんなに鄭重に案内して來ますよ。 やれやれ、私でなくて助かりました。」
吾々が見ると、たしかに、問題の女が起ち上つて、かはいさうなマホメッドを隅つこからつれ出してゐた。 彼は、何かしら恐ろしい豫感に打たれて、アラーの名を念じながら、そこに慄へてゐたのである。 彼はついてゆくのが氣が進まぬらしかつた。だがそれは恐らく、これまで別の食事を與へられてゐた彼が、 急に慣例を破つてこのやうな恩典に浴したので薄氣味が惡かつたのであらう。 いづれにしても彼はひどく恐怖にうたれて、膝ががた〜ふるへるので、頑丈な、大きな身體を支へるのがやつとやつとだつた。 彼が兎に角承知してついて來たのは、彼の手をとつてつれて來た女がなだめすかしたからといふよりも、 むしろ後の方に大きな槍をもつたアマハッガー人の巨漢がひかへてゐたせゐだと私は思ふ。
「どうも樣子が變だ。」と私は言つた。「だが當つて碎けるより外にしようがない。皆んな
「私はもつてますよ」とジョッブは彼のコルト(
置きわすれた武噐をとりに行つてゐる間もないので、吾々は大膽に前へ進み出て、洞窟の壁に脊をむけて一列に竝んで坐つた。
吾々が座を占めるとすぐに酒を入れた土製の
こんな危急の場合に、こんな話をするのは餘計な道草だが、この場合にはこれ位な道草を食つてゐても長すぎはしなかつた。
何故かといふと、この場面そのものが實に長くつゞいたからである。時々、酒の甕がまはされるのと、
焚火に薪を投げこむ外は、かれこれ一時間もの間、何事も起らなかつた。
誰も一言も物を言はなかつた。吾々は完全に沈默して、大きな焚火の燃えるのと、
土噐でこしらへた燭臺のちら〜する光が投げてゐる影とをぢつと見つめてゐた。
たうとう、私が、まるで催眠術にでもかゝつたやうな氣持ちになりかけてゐた時、何か言ひ出したものがあつた。 何等の豫告もなしに、焚火の向う側に坐つてゐて一人の男が大きな聲をだした。
「これから食ふ肉はどこにあるんだ?」
すると車座をつくつてゐた一同の者は右の手を火の方へさし出しながら、おさへつけたやうな調子で答へた。
「肉はいまに來る。」
「それは山羊か?」と前の男が言つた。
「角のない山羊だ。山羊よりも上肉だ。みんなでそれを殺すんだ。」一同は聲をそろへてかう答へながら、 一齊に半ば身體をめぐらして右手で槍の柄をつかみ、やがて又一齊にそれをはなした。
「それは牡牛か?」と前の男が言つた。
「角のない牡牛だ。牡牛よりも上肉だ。みんなでそれを殺すんだ。」と一同は答へて、再び槍をつかんではなした。
それからちよつと靜になつた。マホメッドの隣りに坐つてゐた女が急に彼にちやほやしだした。 彼の頬をたゝいたり、やさしい聲で呼びかけたりした。だが彼女の兇猛な眼は、 ぶる〜慄へてゐるマホメッドの身體を上から下までぢろ〜見まはしてゐた。私はそれを見ると恐ろしくて毛髮が逆立つた。 どうしてそれ程恐ろしかつたのかわからんが、みんなひどく恐ろしがつてゐた。 わけてもレオは一番ひどかつた。女は蛇のやうにマホメッドを抱擁した。たしかにこれは、 しまひまでやつてしまはなければならない或る儀式の一部分だつたに相違ない。 私はマホメッドの鳶色の皮膚の下が眞つ蒼になつたのに氣がついた。
「料理の用意はできたか?」と例の聲が早口で言つた。
「用意はできた、用意はできた。」
「壺は熱くなつたか?」とその聲はつゞいて言つた。その聲はけたゝましい叫び聲のやうに洞窟の中に沈痛に反響した。
「熱くなつてゐる。熱くなつてゐる。」
「大變だ」とレオは叫んだ。「あの記録をおぼえてゐますか、『彼等は異國人の頭に壺をのせゐたり』と書いてあつたでせう。」
彼がかう言つたとき、そして吾々がまだ身動きもせず、彼の話の意味をよくのみこみもしないうちに、
二人の荒くれ男が跳び上つて、長い
私はあつと恐怖の叫び聲をあげて跳び上りながら
しばらくの間は、みな、呆氣にとられて默つてゐた。アマハッガー人はまだ鐵砲といふものを知らなかつたので、 その威力に辟易してゐた。だが暫くすると、吾々のすぐそばにゐた一人の男が氣を取り直して、 槍をとつて一番近くにゐたレオを突かうとして身構へた。
「逃げろ」と叫びながら、私は、眞つ先に立つて、足のつゞく限り全速力で洞窟の奧の方へかけ出した。
私はできることなら外の方へ進んでゆきたかつたのであるが、途中に人がゐたし、それに入口には、
遙か
「左樣なら叔父さん」と彼は言つた。「あなたは僕の親しい友逹でした。僕にとつては父親以上でした。 吾々はもう彼奴等から逃れる道はありません。彼奴らはもう數分間のうちに吾々を片附けて、 あとで食つてしまふでせう。左樣なら。こんなところへつれて來たのは僕です。勘辨して下さい。 ジョッブも左樣なら。」
「何事も神の思し召しだ」と私は度胸をきめて、齒がみをしながら言つた。ちやうどその時、
ジョッブが、わつと叫んで、
彼等はだん〜近く押し寄せて來た。私もできるだけ速く射ちつゞけて、彼等を喰ひとめた。
私とジョッブとで、例の女のほかに、既に、五人の男を殺したり重傷を負はせたりしたが、
その時はもう
一人の大男が臺の上へ跳び上つて來た。するとレオは
すると又別の二人の男が私にとびかゝつて來た。私は彼等がやつて來るのを見ると、
彼等の腰へ片つ方づゝの腕をまきつけて一しよになつて岩の床の上へ倒れて上になり下になりして轉げまはつた。
彼等は仲々強かつたが、私は憤怒と、 いざといふ時になつて來るとどんな文明人の心にも匍ひこんで來る恐るべき鬪爭心とに燃えきつてゐた。
私は二つの腕を、二つの眞黒な惡魔の身體にまきつけて、ぎゆうぎゆう締めつけたので、
たうとう
振り返つて見ると、レオはもう岩からはなれたと見えて、滿身に燈火の光を浴びて立つてゐた。
まるで狼の群が一頭の牡鹿を倒さうとするやうに、彼を中心にして、蠻人どもがとぼかゝつてゐた。
彼の美しい蒼ざめた顏は、彼等の上にすつくとそびえたち、つや〜した捲毛が前後左右に搖れてゐた。
彼は渾身の力を出して、必死になつて戰つてゐた。それは勇ましい光景であつたと同時に、はら〜する光景でもあつた。
彼は一人の男を短刀でつき刺した。彼等は、レオのすぐそばまで押し寄せて、
「槍をもつて來い」と一つの聲が叫んだ。「こいつの咽喉を刺すんだ。それからこいつの血を入れる容れ物をもつて來い。」
私は觀念の眼を閉ぢた。何故かといふと、一人の男が槍をもつてやつて來たのに、私はレオを助けにゆくことができなかつたからである。 私自身がもう弱つてゐたし、それに私の上にのつかつてゐた二人の男はまだ死にきつてゐないので、 私はひどい苦しみに惱まされてゐたのである。
その時に何か急に騷ぎが起つたので、私は思はず眼を開けて、殺人の場面の方を見た。
少女のアステーンが、レオの倒れた身體の上に身を投げかけて、身をもつて彼の身體をかばひ、
彼の首つたまへしつかと抱きついたのであつた。皆の者は彼女を彼から引き離さうとしたが、
彼女は自分の足をレオの足にまきつけて、ブルドックのやうに、
或は木へ
たうとう彼等は我慢ができなくなつた。
「男も女も一緒に田樂刺しにしてしまへ。」と先刻の物凄い酒宴の席で色々な質問をしたのと同じ聲が言つた。
「さうすりや、二人はほんたうに
ついで私は一人の男が仁王立ちになつて槍をしごいてゐるのを見た。冷たい刄物が上の方でぎら〜光るのが見えたので、 私はまた眼を閉ぢた。
ちやうどその時、一人の男の聲が、凛として洞窟の中に鳴り響いて、岩の道に
「止めろ!」
それつきり私は氣が遠くなつた。そして氣を失ふ瞬間に、私の朦朧とした意識に、これが最期だといふ考へがちらりと閃いたのであつた。
やがて彼はこちらを振り向いて、私が起き上がつて坐つてゐるのを見て、もう氣分がよくなつたであらうと非常に丁寧にたづねた。 私は、氣分がいゝかわるいか今のところ自分にもわからぬが、身體中が痛むと答へた。
それから彼はレオの身體の上へかゞみこんで傷をしらべた。
「たちのよくない傷ぢやが」と彼は言つた。「槍は内藏までは
「あなたが來て下さつたので助かりましたよ、長老」と私は答へた。「もう一分もおくれたら助かりつこはなかつたんです。
あなたの部屋の惡魔どもは、吾々の
老人は齒ぎしりをした。彼の兩眼には異常な憎惡が閃いたのを私は見た。
「もう大丈夫ですわい」と彼は答へた。「今に聞いただけで肉から骨がもぎとれるやうな復讐をされるでせう。 これからみんな女王樣のところへつれてゆくのです。女王樣の復讐は、それはそれは恐ろしいもんですぢや。あの人は」 と言ひながら、彼はマホメッドを指して、「この連中がこれから殺される殺され方に比べると、 ずつと慈悲ぶかい殺され方をさつしやつた。で、一體全體どうしてこんなことになつたのぢやな?」
私は手みじかに今まで起つたことをかいつまんで話した。
「ほゝう!」彼は答へた。「此の土地ではな、異國人が入つて來ると、壺で殺して食ふことになつとりますのぢや。」
「まるであべこべな歡待ですな」と私は力なく答へた。「吾々の國では、異國人が來ると歡待して御馳走を饗應するんですが、 あなた方は異國人の肉を食つてあべこべに自分が饗應されるんですね。」
「それは
「それにしてもあんたはずゐ分勇ましく戰ひなすつた」と彼は言葉をつゞけた。「あんたはまるで、
年をとつた手長
私はできるだけ納得するやうに説明してきかせた。しかし説明はごく簡單にした。といふのは私はひどく疲れてゐたので、 たゞ説明しなければ、全能の女王の逆鱗に觸れるかもしれないと思つたのでそれが恐ろしさに、 仕方なしに火藥といふものゝ性質を話してきかせたのであつた。 すると老人は縛られてゐる男を一人ためしに鐵砲で殺して見せてくれんかと言つた。 私がそんな殘酷なことはできんから、身體がよくなつたら、何か獸を射つて見せると言つたら彼は怪訝な顏をしてゐたが、 このことを約束すると、彼は、子供が新しい玩具を約束された時のやうに喜んでゐた。
ちやうどその時にレオが、少量のブランデーで正氣づいて眼を開いた。吾々はまだ少しばかり、
ブランデーをのこしてゐたので、ジョッブがそれをレオの咽喉に
そのあとで、吾々は勇敢な少女のアステーンに助けられて、レオを安全に寢臺まで運んで行つた。レオはまだすつかり弱りきつて、 半意識の状態だつた。私は、自分の身を賭してレオの命を救つてくれたアステーンの勇氣に感謝のあまり、彼女に接吻したかつたが。 そんなことをして怒られたら大變だと思つてやめた。私は打ち傷や、擦り傷を負ふてはゐたが、 この四五日間つひぞ味はつたことのない安らかな氣持ちで、私の小さい墓場へこつそり引き返した。 寢る前に私は神に感謝することは忘れなかつた。その日の吾々くらゐ死のそばへ近づいて助かつた者は、かつて、 澤山はなかつたことであらう。
私はどんなに氣持ちのよい時でも眠つきの惡い方である。その晩やつとのことで眠りついてから見た夢はあまり愉快な夢ではなかつた。
氣の毒なマホメッドが、赤く燒けた壺から逃れようとしてもがいてゐる姿が幾度びも幾度びも夢の中に現はれた。
それから、此の
生ける者はかつて死せし者なる。死せるものも死する能はず。心靈の輪廻には生も死もなければなり。 萬物は、時に眠りて忘らるゝことあれど永久に生くるものなり。」
そのうちに、たうとう夜が明けた。けれども、私は、身體ぢゆうが
「あゝ」と彼は言つた。ビラリは
私は彼が向うを向いて、爪先立ちで、そつと入口の處まで歩いてゆくまで待つてゐて、それから彼を呼びとめた。
「長老、あなたでしたか?」と私は言つた。
「左樣、わしぢや、だが、お邪魔はしませんわい。わしはほんの、あんたがどうしとるかと思つて見に來たんですわい。 それから、あんたがたを殺さうとした奴等はもう女王樣のところへ向けて旅立つたことをお知らせしようと思つてな。 女王樣はあんた方にもすぐ來て貰ひたいといふことぢやが、まだ行けますまいの?」
「えゝもう少しよくならなくちや」と私は言つた。「しかし日のあたるところへ出していたゞけませんか、 私はどうもこゝが嫌ひなんです。」
「もつともですわい」と彼は答へた。「こゝは何だか陰氣ぢや。わしはよくおぼえとるが、子供の時分に、
ちやうど今あんたが寢てゐるその腰掛の上に美しい女が寢てゐるのを見ましたわい。
あまりその女が美しかつたもんだから、わしは、燭臺をもつて、そつとこゝへしのんで來てその女の顏をつく〜゛眺めたもんだ。
手が冷たくさへなかつたら、わしは、その女は、眠つてゐるので、そのうちに眼をさますかも知れんと思つたこつちやらう。
それ程美しく、それほど安らかに、その女は白い
私はまさかと思つて上を向いて見ると、まぎれもなく油煙のやうな煤ぼけたあとが岩の天井にのこつてゐた。
「その女は足首まで燃えてしまひましたのぢや」と老人は感慨深い聲で言葉をつづけた。
「だがすぐにわしは引き返して來て、足だけはとりとめました。そして黒焦げになつた骨を切りとつて、
麻の
「なあ、
私は、この冷たい人間の
私はこの過去の遺物を、ぼろ〜の麻布に包んだ。この麻布は、
この足の持主の
「長老、あの女も吾々と一緒に行くんですか?」と私は其の場の指圖をしてゐるビラリにたづねた。
彼は肩をそびやかして答へた。
「若しあの女の希望ならね。此の國では、女はすきなことができるのですぢや。吾々男は女を崇拜しとる。
そして何事も勝手にさせておく。といふのは女がなくちや世の中はたつて行きませんからな、 女は
「はゝあ」と私は、妙な見方があるもんだなと思ひながら言つた。
「あんまり男が女を崇拜するもんだで」と彼は言葉をつゞけた。 「しまひには奴等は箸にも棒にもかゝらなくなつて來ますのぢや。 大抵二代目毎にさういふ風になりますがな。」
「さうなつたら、どうするんです?」と私は好竒心にかられてたづねた。
「その時には」と彼はかすかに笑ひながら答へた。「男が奮然として起ちあがつて、
若い女への見せしめに
「要するに」と私は或る政治家の言葉を引用して言つた。「汝は、より大なる自由と、 より小なる責任との位置にたてりといふわけですな。」
私は十分要領を言ひあらはすやうに飜譯したつもりだけれども、 はじめはこの文句の意味が彼にはよく呑みこめなかつたが、そのうちに意味がわかつたと見えて言つた。
「その通りですわい、
「で若し女王が彼の女に彼から別れろと言はれて、あの娘がそれを
「若し」と彼は肩をそびやかして言つた。「暴風が樹に
かう言ひながら彼は答へも待たずにくるりと向きをかへて、彼の駕籠の方へ歩いて行つた。 それから十分間のうちに吾々はすつかり出發の用意をとゝのへた。
盃形の噴火孔を横切るのに一時間以上もかゝり、その縁をのぼつて外側へ出るのにまた半時間かかつた。
そこは素晴らしい景色であつた。吾々の前には、ゆるやかな勾配になつた草原が横たはつてをり、
草原のあちこちには大部分
ずん〜その中を進んで行くと、たうとう日は沈んだ。その時ちやうど吾々は、廣さ二エーカーばかりの、
高い地面に着いたのであつた。そこは、沼地の中の乾いたオアシスで、ビラリは、そこで夜營をするのだと言つた。
しかし、夜營といつても極く簡單なもので、ひからびた草や、
吾々がもつて來た少しばかりの薪でこしらへた小さい焚火をかこんで車座に坐ればよかつたのである。
そこで吾々は食事をしたり煙草をふかしたりした。この低地の暑さは非常なものであつたが、
不思議なことには、時々冷くなることもあつた。けれどもどんなに暑くても吾々は火のそばがなつかしかつた。
といふのは蚊は煙がきらひだからである。やがて吾々は毛布にくるまつて眠らうとしたが、ほかのことはまあ我慢するとして、
蛙の啼聲と、空に何百となく群がつて飛んでゐる
それでも私にはどうすることも出來なかつた。吾々のもつてゐた唯一の予防藥のキニーネはもう澤山
仰向きに寢てゐる空には、永遠の星が輝いてゐる。下には、沼から生れた小さな惡魔のやうな火の玉が、 あちこちに亂れ飛んでゐる。私はこの二つに人間のすがたが見られるやうな氣がした。
その晩はどうしたものか、かうした考へが私の頭の中で次から次へと起つて來た。
かうした考へは吾々を苦しめるばかりだ。何故なら考へるといふことは、思考の無力を示すだけの役にしかたゝないからである。
吾々は一體何のために默々たる空間に叫びかけるのだらう?吾々の曇つた理智で、
星のちらばつた大空の祕密を讀むことができるだらうか?空から何か解決がやつて來るだらうか?
決して何も來はしない。來るものは
私は疲れてゐたが、眠つかれないので、たうとう、吾々のいまやつてゐることを考へはじめた。
何といふ亂暴な冐險だらう。しかもそれでゐて、幾世紀も前に壺の破片に記された文句と何と不思議に符合してゐることだらう。
滅びた文明の廢墟の中に、不思議な人民を支配してゐる女王とは一體どのやうな女だらう?
無限の生命を與へるといふ火の柱の意味は何だらう?肉體を何年も何年もの間腐らずに保存する藥液があり得るものだらうか?
それはあり得るではあらうが、實際にはありさうに思はれぬ。氣の毒なヴィンシイが言つたやうに生命といふものが生じて、
一時繼續するのが不思議でないなら、生命がいつまでもつゞくことは猶更ら不思議ではないかも知れん。
若しそれがほんたうだとしたならどうなるだらう?その方法を見出した者はきつと世界の支配者になるに相違ない。
その人は世界中の富と智慧と力とを蓄積するに相違ない。普通の人間の一生づつを費して、
色々な藝術や科學ををさめることもできる。若しさうであるとしたならば、そして、私は一時もそんなことを信じなかつたが、
その女王が實際に不死であるならば、わざ〜食人種の中に交つて、洞窟の中に住つてゐるといふのは一體どういふわけだらう?
この一點で疑問は氷解する。あの話は
しかし現在のところでは、吾々の生命は無限に續きさうであるよりも、 非常に短く切りつめられてしまひさうであることを思ひめぐらしながら、私はどうにか眠りに就いた。 私が眠つたので、きつと讀者は大助かりであらうと思ふ。
私が眼をさました時はちやうど夜明けであつた。護衞の者どもや駕籠かきどもは、 濃い朝霧の中に、幽靈のやうに動きまはつて出發の用意をしてゐた。焚火はもうすつかり消えてゐたので、 私は寒さにがた〜慄へながら起ち上つてのびをした。それからレオを見ると、 彼は床の上に坐つて兩手で頭を抱へてゐた。彼の顏は眞赤になり、眼はきら〜光つてゐたが、 それでゐて瞳のまはりは黄色くなつてゐた。
「どうだい氣分は、レオ?」と私は言つた。
「今にも死にさうな氣がしますよ」と彼は皺嗄れ聲で答へた。「頭は割れさうだし、身體ぢうが胴慄ひして、 むか〜するんです。」
レオはひどい熱病にとつつかれたのだ。私はジョッブのところへキニーネをとりにゆくと、
幸ひにキニーネはまだたつぷりあつたが、ジョッブもどうも背中の方がちく〜痛んで、
眩暈がしさうでしやうがないと言つてこぼしてゐた。外にどうもしやうがないので、
私は二人にそれ〜゛十グレンづつキニーネを
「やれやれ」と彼は相手に聲の聞えないところまで來ると言つた。「熱病だ!わしもさうだと思つた。
「二人は旅をつゞけられますか、長老?」と私はたづねた。
「そりや勿論つゞけてゆかにやならん。こゝでとまつた日にや死ぬにきまつてますからな。 それに、地べたより駕籠の方がいゝですわい。途中に差支へさへなけりや、 今晩までには沼地をとほり拔けてよい空氣のところへ行けますぢや。さあ、あの二人を駕籠へのせて出かけよう。 朝靄の中に立つてるのはひどく身體に毒だから、食事は歩きながらすることにしよう。」
吾々はそのとほりにした。そして重い心で、また不思議な旅に旅立つた。はじめの三時間程は無事に過ぎたが、 そのあとで、もう少しで一番先頭にのつて行つたビラリの命を失ふやうな事件が起つた。 吾々はその時、沼地の特に危險な場所を通つてゐたので、駕籠かきは時々膝まで泥の中へ沈むことがあつた。 どうしてこんな道を重い駕籠をかついで行けるのか私にはわからなかつた。
やがて、吾々が、えつさ〜と進んでゐると、鋭い金切聲がきこえ、つゞいてわつといふわめき聲と、 ひどい水のはねる音とがきこえて、行列はぴつたりととまつてしまつた。
私は駕籠からとび出して前の方へ走つていつた。二重
「あ、あそこにゐる、長老樣はあそこにゐる」と一人の男が言つたが、その男は彼を助けに行かうとするでもなく、 他の者も誰一人助けに行かうとはしないで、たゞ立つて水のうへを眺めてゐるだけだつた。
「そこを
どうしてしたか私自身にもわからぬが、私は兎も角、着物を引きちぎつて、ビラリの身を自由にした。
彼の頭は、まるで、蔦の葉をつけた黄色いバッカス神の頭のやうに、緑色の泥をかぶつて水面へぽかりと浮んだ。
それから先は樂であつた。ビラリは仲々氣のきいた老人だつたので、溺死者がよくやるやうに、
私にしがみつくやうなことをせぬだけの常識をもつてゐた。そこで、私は彼の腕をつかんで、岸の方へひいてゆき、
やつとのことで泥の中から上つて來た。こんなひどひ目にあつて、泥だらけになつてゐながら、
美しい長髯から
「この
「あんたは」と老人は、私の方へ向きなほつて私の手を握りしめながら言葉をつゞけた。 「安心さつしやい、良いにつけ惡いにつけわしはあんたの味方ぢや。あんたはわしの命を助けて下さつたが、 ことによると、今度はわしがあんたの命を助けるやうなこともあらうて。」
そのあとで、吾々はできるだけ竒麗に身體を拭ひて、駕籠をひき上げて、 溺れ死んだ一人だけをあとにのこして旅をつゞけた。 私はこの溺死した男が、偶然評判のよくない男だつたゝめか、 それともこの國の人間の生れつきの冷淡と利己主義のためかは知らぬが、 突然一人の仲間を失つたことに對して、誰一人悲しんでゐるものはなかつた。 悲しんでゐたのは彼のかはりに駕籠をかつぐ番になつた者だけであつた。
翌朝の明け方になると、レオはすつかり頭が變になつて、身體が半分に割れたなんて
日の出から半時間のうちに、吾々は、
私は吊網の上に坐つて、平原の彼方に見えるこの莊嚴な光景を眺めてゐた。 するとビラリがそれに氣が附いたと見えて、彼の駕籠を私の駕籠のそばへ竝べさせた。
「あれが全能の女王の御殿ですぢや。」と彼は言つた。「これ程立派な宮殿をもつてをられた女王がありますかな?」
「まつたく驚きましたね」と私は答へた。「だがどうしてあの中へはひるんです? あの崖はとてものぼれさうにないぢやありませんか?」
「下を見なさい、
見ると、山の麓まで一直綫に、道路のやうな綫がつゞいてゐた。だがその上には芝が一杯生えてゐた。 そして、その兩側には高い堤防が築いてあつて、それはところ〜゛切れてゐたが、大體に於ては續いてゐた。 私は何のためかわからなかつた。道路に堤防をこしらへるのもをかしな話である。
「さうですね。」と私は答へた。「あれは道路でせう。でなければ、河床かそれとも」と言ひながら、 それが非常に眞つ直ぐに切り開いてあることに氣づいて、私は附け足した。「運河かと言ひたいところですが。」
前日の災難にもかゝはらず、すつかり元氣になつてゐたビラリは、大きくうなづきながら答へた。
「その通りぢや。あれは前にこの土地に住んでゐた人が、水を流し出すために切り開いた水路ですぢや。
わし共がこれから行く山の岩で圍まれた窪地は昔は大きな湖ぢやつたのだが、わし共の先祖が、
どうしてやつたのか、あの山の堅い岩を湖床まで切り拔いて水のはけ口をつくつたのですわい。
で
「さうかも知れんが」と私は答へた。「若しさうだとすると、湖水が雨水や、泉の水でまた一杯にならないのはどうしてです?」
「それはな、わしどもの先祖は賢い人ぢやつたので、矢つ張り水のはけ口はのこしといたんぢや。 ほら、右手の方に河が見えるだらう?」と言ひながら、 彼は吾々のゐるところから四哩程はなれた平原をうね〜流れてゐるかなり大きな河を指さした。 あれが下水ぢや、あれはこの道と同じ山腹から出てゐますのぢや。 はじめにこの水路から水は流れて出たのぢやらうが、わしどもの先祖が水を迂廻さして、 この方は道路につかふやうにしましたのぢや。」
「ではその下水の外にはあの山へはひる道はないんですか?」と私は答へた。
「一とこあるにはあつて、牛や徒歩の人が非常に骨を折つて中へは入れるけれどそれは祕密ぢや。 あんたが一月探したつて見つかりつこはない。それは一年に一度、 山腹や平地で草を食つて肥つた牛をあの中へ入れるときにつかふだけですわい。」
「女王はいつもあそこに住んでをられるのですか、それとも時々山の外へ出て來られるんですか?」 と私はたづねた。
「女王は何處へでもいらつしやるぢや。」
そのうちに吾々は大平原に着いた。そこには、半熱帶性の花が咲き、樹が生えてゐた。
樹は大抵一本づゝ生えてをり、せい〜゛三四本かたまつてゐる位で森になつてはゐなかつた。
犀や、野牛や、羚羊や、その他澤山の獸や駝鳥などが、樹蔭や草原の上などをぞろ〜歩いてゐるので、
私はもう我慢ができなくなつた。私は「エキスプレス」ぢや面倒なので短銃身のマルチニ型獵銃を駕籠の中へ入れてもつて來たのだが、
それをとり出し、一本の樫の樹の下に身體をこすりつけてゐる大羚羊を見つけて、
ビラリは感歎して叫んだ。「まつたく不思議ぢや、わしはこの眼で見なきやあんたの話を信じないところだつた。 あんたはわしに、さういふ殺しかたを教へてくれるつて言ひましたな。」
「教へますとも長老」と私は輕く言つた。「こんなことはわけはありません。」
とは言ひながら、私は、ビラリが
それからは何事もなかつたが、日沒から約一時間半前に、吾々は、前に言つた、舊火山の下まで來た。
辛抱強い駕籠かきどもが、昔の運河の河床に沿ふて、えつちら、おつちら、駕籠をかついで、たうとう、
雲表にそびえたつ褐色の絶壁のそばまで來たとき、その莊嚴な眺めは、何とも口では言ひ表はすことはできなかつた。
私はその閑寂と、その壯大さに壓倒された。上へのぼつてゆくにつれて、だんだんと上から蔭が這ひ寄つて來て、
そのうちに、たうとう吾々は天然石を切り拔いた切り通しの中へはひつて行つた。
火藥もダイナマイトもなしに、どうしてこんな大工事ができたものか私にはわからない。
この工事や、岩の中に洞窟を切り開く工事は、いづれもコオルの人民の國家事業で、
たうとう吾々は絶壁の正面についた。
そして現代の技師たちが鐵道を敷設するときにこしらへる
それがすむと、吾々はまた歩きだした。やがて、私は、駕籠かきどもの
案の定吾々は絶壁を通り拔けて、その反對側の、突き出た岩の眞つ下にゐたのであつた。
一番はじめに私が氣のついたことは、こゝから見ると絶壁はそんなに高くはないといふことであつた。
實際、五百呎などはなかつた。このことは、この湖床、或は太古の噴火孔の床は、
外側をとりまいてゐる平原の地面よりもずつと高いといふことを證明してゐた。
吾々の立つてゐるところは、岩にかこまれた大きな盃形の盆地で、前に吾々がゐたところとそつくりであつた。
たゞ大きさはその十倍もあつて反對側の絶壁の輪廓がやつと見わけがつく位であつた。
かやうに自然の牆壁で圍まれた平野の大部分は耕されて、石の壁で
この平野のあちこちには草の生えた丘がもち上つてゐて數哩彼方の中心に近いところに非常に大きな廢墟が見えるやうに私は思つた。
だがその時には私はそれ以上のものは何も見てゐるひまなどはなかつた。といふのは、すぐに吾々は、
吾々のこれまでによく知つてゐるアマハッガー人に寸分違はぬアマハッガー人にとりかこまれたからである。
彼等はあまり物は言はなかつたけれども、すぐ吾々のそばまでうよ〜たかつて來た。
その時、多くの武噐をもつた人々が隊をつくつて現はれ、象牙の杖をもつた士官に指揮されて吾々の方へ駈足で進んで來た。
彼等は、まるで蟻が巣の中から出るやうに、斷崖のおもてからとび出して來たのであつた。
士官も兵卒も、豹の革のほかにみんな
そのうちに隊長がビラリの前へ進み出て、象牙の杖を額に横たへて敬禮し、何かたづねてゐたが、
私にはその意味は全くわからなかつた。ビラリが簡單に答へると、軍隊は廻れ右をして崖の縁に沿ふて行進をはじめた。
吾々の駕籠の行列はそのあとについて行つた。かうして半哩も歩いた頃、吾々はもう一度停つた。
そこは高さ六十呎、幅八十呎もある途方もない大きな洞窟の入口であつた。
こゝでビラリは駕籠から下り、ジョッブと私とにあとからついて來るやうに言つた。
勿論レオはまだ身體がひどく惡かつたので、そんこと[原文のまま]をするどころではなかつた。
私はビラリの言葉に從つて大きな洞窟の中へはひつた。かなり奧の方まで夕日がさしこんでゐたが、
日の光がとゞかないところはランプでかすかに照らされてゐた。このランプの行列は、
まるで人通りのない
私が第一に氣のついたことは、洞窟の壁には一ぱいに浮彫の彫刻がしてあつたことであつた。
それは大分前に言つた酒壺にかいてある繪のやうなものであつた。繪と繪との間には文字が書いてあつたが、
私にはそれはどこの文字かまるでわからなかつた。兎に角それは
護衞兵の一隊は洞窟の入口でとまつて、吾々を中へ案内した。しかし中へはひつてゆくと白衣を着けた一人の男が、 無言のまゝうやうやしく吾々に敬禮した。が、あとからきくと、それは唖だつたのである。
入口から二十呎ばかりのところに、洞窟と直角に兩側の岩をくり拔いて、小さい洞窟、
或は廣い廊下のやうなものがこしらへてあつた。そして、この廊下の入口の正面から向つて左側に二人の番兵がたつてゐたが、
それで見ると、これは女王の居間へ通ずる廊下の入口であらうと私は思つた。
右側の廊下には番兵はゐないで、例の唖者が、吾々に中へつひれと手眞似で示した。
ランプの點いたこのを道[原文のまま]數
レオはまだぐつすり眠つてゐたので吾々はこの
この時身體を洗つて、髮にブラシをかけて、清潔なフランネルに着替へたときの氣持のよさはいつまでも忘れられぬ。 たゞ一つ物足りなかつたのは石鹸のないことであつた。
あとできいたところによると、アマハッガー人は石鹸の代りに燒土をつかふといふことであつた。 これは馴れないうちは氣持がわるいけれども、石鹸の代用として中々隅におけないものだといふことである。
私は着物を着替へ、ビラリに
「この若い娘どもの人を見る眼つきは、どうも作法にかなつてゐるとは言へませんね」と彼は辯解がましく言ひ言ひした。
この
私はこの浮彫の彫刻を大急ぎで一とほり見てまはつてから、山羊の燒肉と、新鮮な牛乳と、 玉蜀黍でこしらへた菓子とからなる素敵な食事の椅子にすわつた。これ等の食物はみなきれいな木の皿に入れてあつた。
食事がすむと吾々はレオの樣子を見に引き返して來た。といふのは、
レオは當分女王に謁見してその命令をきかなくてもよいといふことだつたからだ。
レオの
私は彼のそばにかれこれ一時間も坐つてゐた。少なくも私は、大分暗くなつて來て、
吾々が袋を毛布で包んで即席にこしらへた枕の上にのつてゐる彼の黄金色の頭がやつと見える位であつたことをおもえてゐる。
その時、突然、ビラリが非常に物々しい樣子ではひつて來て、女王が私に會ひたいといふ旨を知らせた。
こんなことは滅多にない優遇だと彼はつけ足して言つた。 ビラリは私がそれをあまり有り難がらんので少しびく〜してゐたやうであつた。
吾々は通路を出て、廊下のやうな大きな洞窟を横ぎつて、向う側の通路へ行つた。
入口には二人の番兵が塑像のやうに立つてゐた。吾々の姿を見ると、彼等は頭を
「匍ふんだ、匍ふんだ、
私は立ち停つた。そしてこはくなつて來た。膝がしらががく〜して歩けなくなつた。
だが、すぐに私は考へ直した。私は英國人だ。その英國人たる私が、なる程猿と人には言はれたが、
實際猿のやうな眞似をして、得體の知れぬ野蠻人の女王の前へ出る理由がどこにある?
それも殺されるにきまつてゐるとすれば別だが、さうでないかぎり私にはそんな眞似はできんし、
又しもしない。はじめに匍つて出れば、しまひまで匍つてゐなければならぬ。
それは自分の劣等さを承認するやうなものだ。かう思つて私は大膽に立つて歩いていつた。
やがて吾々は別の
ビラリは、苦しさうに、ぼつぼつと、この洞窟の中を匍つて行つた。私はそのあとから威張つて大股に歩きながらついて行つた。
だが私はこれは少し
たうとう吾々はカーテンのところまで來た。するとビラリは胸を地べたにぴつたりつけて平伏し、 兩手を死人のやうに前へのばした。私はどうしてよいかわからなかつたので、 室内をじろ〜見廻しはじめた。まもなく私はカーテン越しに誰か吾々を見てゐる人があるのに氣がついた。 姿はわからないが、はつきりと誰かに見つめられてゐるやうな氣がするのだ。 しかもその凝視は私の神經に妙な作用を起した。私は何故か知らんが、空恐ろしくなつた。 實際此處は妙なところであつた。壁は美々しく飾つてあり、柔かいランプの光りが照つてゐるにもかゝはらず、 どうも淋しいのだ。これ等の付屬物は淋しさをへらすよりも淋しさを増してゐたのである。 それは人つ子一人ない街燈のついた夜の街の方が、却つて眞つ暗な街より淋しいのと同じ理窟だ。 室内は實に靜かで、ビラリは屍體のやうに重いカーテンの前に平伏してをり、 カーテンの間からは、芳香が洩れて、薄暗い丸天井の方へ浮び上つてゆくやうに思はれた。 一分、二分と時は經つたが、生き物のゐるやうな氣配はなく、カーテンも動かなかつた。 けれども、私を見てゐる人の凝視は益々深く私の體の中へ沁みこむやうに覺えた。 私は何とも名状すべからざる恐怖に充され、額には油汗がにじみ出して來た。
そのうちにたうとうカーテンが動き出した。その蔭には一體何者がゐるのだらう?
裸體の蠻人の女王だらうか?憂ひにしづむ東國の美人だらうか? それとも當世風の若い婦人が
「異國の方」とその聲はアラビア語で言つた。アラビア語とは言つても、アマハッガー人の話す言葉よりもずつと純粹な、 ずつと古いアラビア語だつた。「異國の方、何故そんなに恐がりなさるのです?」
私は内心ではびく〜してゐたが、おもてにはそんな氣ぶりは毛ほども出してゐないと自惚れてゐたのだが、
この問ひをきいて少し驚いた。私がどう答へようかとまごまごしてゐるうちに、
カーテンがあげられて、脊の高い姿が私の前に立つた。私が姿と言つたのは身體も顏も、
眞つ白な柔かい
「何故そんなに怖がりなさるのです?」再びやさしい聲がたづねた。その聲は、此の上なく柔かな音樂の旋律のやうに、
私の心臟をひきずり出すやうな氣がした。「妾に、男の人を怖がらせるやうなところがあるのですか?
さうだとすると、今の男は、前とはずいぶん變つたのですね!」かう言ひながら、彼女は少し
「女王があんまり美しいので恐ろしくなつたのです」と、私は
「あゝ、老人、お前はそこにゐるのね。一體どうして、お前の家族に間ちがひが起つたの?
實際、妾の客人たちは
女の聲は怒りのために
「おゝ、女王樣、女王樣!」と彼は
「よろしい、そのことはもう知つてゐるよ老人、で明日は大廣間に席について、惡者どもの裁判をします。 こはがらんでもよい。お前は許しがたいところだが、許してあげる。もつとよくお前の家族の監督をするがよいぞ。 さあもう行きなさい!」
ビラリは、びつくりするほど元氣よく起き直つて、跪き、三度お
「ホリイと言はれてをりますよ、女王」と私は答へた。
「ホリイ」と彼女は言ひにくさうに言つた。けれどもその調子には此の上ない魅力があつた。 「でもホリイといふのはどういふ意味なのです?」
「ホリイといふのは棘のある樹のことなんです」と私は答へた。
「さう、さう言へばあなたには棘がありますね。それでゐて矢張り樹のやうですわ。あなたは強くて、醜いけれど、 わたしの見るところが間違つてゐなければ、心の底は正直な、頼み甲斐のある方で、それに頭のある方ですわ。 だが、ホリイ、そんなとこに立つてゐないで、こちらへはひつて妾のそばかけなさい。 妾は奴隸どものやうにあなたを四つん匍ひにさせたくはありません。 妾はあの連中が妾を拜んだり恐れたりするのに飽きてゐるのです。 で、時々氣に入らぬことがあると、妾は、なぐさみに奴等をすくめ殺して、 死骸が心臟まで蒼ざめてしまふのを見てやることがあります。」 かう言ひながら彼女は象牙のやうな手でカーテンをわきへやつて、私が通れるやうにした。
私はがた〜慄へながら中へはひつた。この女は非常に恐ろしい女であつた。カーテンの内側には、
十二呎に十呎ばかりの凹んだところがあつて、その中に一つの長椅子と一つのテーブルとがおいてあつた。
そしてテーブルの上には
「かけなさい」と彼女は長椅子を指さしながら言つた。「またあなたは怖れる
私は水盤の近くの長椅子の脚許に坐つた。女王は長椅子の別の端にゆつたりと身を沈めた。
「さて、ホリイ」と彼女は言つた。「あなたはどうしてアラビア語が話せるやうになつたのです? アラビア語は妾の大好きななつかしい言葉です。といふのは妾はアラビア生れなのです。 生粹のアラビア人なのです。ヤーマン地方の美しい舊都オザールの生れで、カ−タンの子ヤラブの一族なのです。 でもあなたのお言葉には妾のきゝたいハミヤル族の言葉のやうな床しい響きはありませんわね。 それに或る言葉は變化してゐますわ。ちやうどこゝのアマハッガー人の使つてゐる言葉のやうに。 アマハッガー人はアラビア語をすつかり下品なものにしてしまつてゐるので、 あの連中に口をきく時には、妾はまるで他國の言葉を話してゐるやうな氣がするのですよ。」
「私は自分で勉強したのです」と私は答へた。「ずいぶん長い間勉強しました。
でもアラビア語は今でも
「まだアラビア語は使はれてゐるんですか?それに
「
彼女は笑つて何とも答へなかつた。また私はぞつとして全身が凍るやうな氣がした。
「それから
「さうです」と私は答へた。「
「ではヘブライ人はまだエルサレムにゐますの?そして賢王の建てた寺はまだ立つてゐますか? ヘブライ人はどんな神を拜んでゐるのでせう?ヘブライ人が仰山に説教したり預言したりしてゐたメシアは來ましたの? そしてそのメシアは地上を支配してゐますか?」
「
「ヘロド王ですつて」と彼女は言つた。「私は、そんな人は存じませんよ。だがまあ次を話して御覽なさい。」
「
「さう〜、
「孤獨をつくつて平和と呼ぶですかね」と私はラテン語で言つた。
「まあ、あなたはラテン語もお話しなさるのですね」と彼女は吃驚して言つた。
「隨分長く聞かなかつたので、ラテン語は妙に妾の耳に響きますわ。それにあなたの話は、
「えゝ、それにヘブライ語も少しはできます、よく話はできませんけれど、こんな言葉は今はみんな死語なんです。」
彼女は子供のようによろこんで手を打つた。「全くあなたは醜い樹だけれど、その樹には智慧の實がなつてゐることね。
ねえホリイさん」と彼女は言つた。「だけど、
「メシアは來ました」と私は
「あゝ、實に兇暴な狼どもだ」と彼女は言つた。「多くの神を信じ、利慾には眼がなく、
徒黨をくんで爭ひあつてゐるあいつ等の黒い顏が今でも見えるやうな氣がする。
では、彼等は彼等のメシアを十字架にかけたのですね?さうでせう、妾にもそれは信じられますわ。
メシアがほんたうに生ける精靈の子だつて彼等には何でもなかつたでせう。そのことは後で話しませう。
彼等は、傲然として威張つて來なければ神だとは思はんのですわ。ヱホバを拜むかと思へばバールを拜み、
アストレトを拜むかと思へば
私は恐ろしさにうしろへ身を退いた。
「失禮ですが、女王」と私は言つた。 「
彼女は長椅子にもたれた。私はまた彼女のかくれた眼が私の心を探してゐるのを感じた。
「あなた」と彼女は非常にゆつくり用心ぶかく言つた。「この地上には、 まだあなたがよくお知りにならぬ祕密がのこつてゐるやうですね。
あなたはまだあの
「ですけれども、此の世では死んでゐるのでせう?」
「さうです、一時はね。だけど、此の世へも何遍も生れかはつてゐるのです。妾は、この妾、 アッシャは --
妾を愛してゐた人が生れかはつて來るのをこゝで待つてゐるのです。 妾は、その人が妾を見つけるまで此處にゐるのです。
その人が妾に會釋をする場所はこゝより外にはないのです。
妾のやうな全能のものが、幾度びも詩人たちに謳はれた
「私にはわかりません」と私はへり下つて答へた。
「それは妾が戀人を待つてゐるからなのです。 妾の生涯はことによると
しばしの間私は呆氣にとられて答へもできなかつた。あまり途方もない話なので、私の理智はそれをつかむことができなかつたのだ。
「でも女王」と私はたうとう口を開いた。「たとひ吾々は幾度も生れかはつて來るとしても、貴女はさうではないでせう、 若しあなたのお話がほんたうなら?」この時彼女の見えない眼が鋭く輝いたのを私は見た。 「貴女はまだ死んだことはないのでせう。」と私は急いでつゞけて言つた。
「さうです」と彼女は言つた。「といふわけは、半分は偶然のおかげで、半分は研究のおかげで、
妾は世界の最大の祕密の一つを解いたからです。いゝですか、
「不思議です」と私は力なく答へた。
「ではあの水を御覽なさい。」かう言ひながら、彼女は例の聖水盤を
私は起ち上つて水面を見つめた。すると忽ち水面は暗くなつたが、再び澄み渡つて來て、その中には、 吾々のボートが、あの恐ろしい運河に浮んでゐる光景がはつきりと見えた。 レオはその中に横たはつて蚊をよけるために上着を頭からすつぽりかぶつて眠つてゐた。 私と、ジョッブとマホメッドとは岸でボートを曵いてゐた。
私は
「いゝえ、ホリイさん」と彼女は答へた。「これは魔法ぢやありませんよ。魔法なんては愚人の夢です。
魔法なんていふものはありません。この水は妾の鏡です。 妾は時々過去のことをよび起して見たいと思ふとこの水の中にそれが映るのです。
この國のことや、妾の知つてゐることや、あなたの知つてゐることなら何でも映して見せてあげませう。
若しおのぞみなら、誰かの顏のことを考へて御覽なさい。 さうすると、その顏があなたの心からこの水に反射して映つて見えますから。
妾にはまだ祕密がすつかりわからんので、未來のことは何もわかりません。
アラビアや
「ひどい重態なんです」と私は悲しげに答へた。「女王、いろ〜なことを知つてをられるあなたに、 あの病氣はどうにもならんでせうか?」
「それはなります。妾は
「あれは私の養子なのです。あの子をあなたの前へつれて參りませうか?」
「いやそれには及びません。發病してから一體何日になります?」
「今日で三日目です。」
「では、もう一日寢かしておきなさい。さうすればあの人はことによると自分で病氣を追ひ拂ふことができるかも知れん。
その方が妾が
「私どもがつれて來た白人の召使です。ビラリ老人が豚と言つた奴です。それから」とこゝまで言つた時に、 私はちよつとためらつてから言葉をつゝけた。「アステーンといふ女も介抱してくれてゐます。 この國の大層きれいな女です。この女ははじめてあの子を見たときに、あの子のそばへ寄つて來て、 あの子を抱擁し、それからずつとあの子のそばについてゐるのです。これは女王の人民の習慣なのださうですね。」
「妾の人民ですつて!妾に向つて、妾の人民だなんて言はないで下さい。」 と彼女は大急ぎで答へた。
「この奴隸どもは決して妾の人民ぢやありません。 奴等は妾がゆるしてやつてゐる間だけ妾の命令することをしてゐる犬です。
あいつ等の習慣なんて、妾には何もかゝはりはないのです。 それから、妾を女王なんて言はないで下さいね。私はおべつかを言はれたり、
尊稱で呼ばれたりするのに飽きてゐるのです。妾をアッシャと言つて下さい。
この名は妾の耳に快よく響きます。それは過去の
「ちよつと」と彼女は靜かに言つた。「これがその女ですか?」
私は水の中をのぞきこんだ。すると、靜かな水の
「この女です」と私は
「レオですて」とアッシャは氣の拔けた聲で言つた。「レオといへばラテン語で
彼女がいら〜した手つきで又水の上へ手をかざすと、水の
「ホリイさん、行く前に私に何かのぞみはありませんか?」と彼女はしばらく考へた後で言つた。
「あなたはこれからこゝで隨分ひどい生活をしなければなりませんわ。こゝの住民は皆野蠻人で、
文明の習慣は少しも知つてゐません。妾は別段そのために困つてはゐませんけれど」
と言ひながら彼女は小さいテーブルの上の
「さうですね、一つだけありますよ、アッシャ」と私は大膽に言つた。
彼女は鈴のやうな響のある聲で笑ひ出した。そして「よくお考へなさい、ホリイ」と答へた。
「あなたは
「ところでアッシャ、私はあなたの美しさなどは恐れはしませんよ、女の美しさなんてものは、
花のやうに
「あなたの言ふことは間違ひです」と彼女は言つた。「女の美しさは過ぎ去つてしまふものではありません。
妾の美しさは妾の生きてゐる限りつゞくのです。でも、どうしても我を通したいなら、
通しなさるがいゝ。けれども
「是非見せて欲しいです」と私は答へた。私はどうしても好竒心を抑へる事ができなかつたのである。
彼女は白い丸味のある、これまで私が見たことのないやうな兩の腕をあげて、
ごくゆつくりと
磁石にでも吸ひ寄せられるやうに、
どうしても抵抗することができない力で私の眼は彼女のきら〜と光る
彼女は、えならぬ音樂のやうな聲で笑ひながら、勝ち誇れるヴィーナスにもふさはしい、 崇高な媚を含んだ樣子で、私を見てうなづいた。
「向う見ずな人?」と彼女は言つた。「あなたはアクテオンのやうにのぞみをかなへなさつたが、 アクテオンのやうにみじめに身を滅ぼさないやうに用心なさい。 あなたの心の中の煩惱の犬に身を咬み碎かれないやうに用心しなさい。 妾もたつた一人の人にしか心を動かさない處女の女神ですよ。 しかもその人といふのはあなたではないのですよ。どうです、もう十分御覽になりまして?」
「私はあまり美しいものを見たので眼がくらんで來ました。」
と
「だから言はないこつちやありませんか。美は電光のやうなものです。美しいけれども、破壞力をもつてゐます。 特に樹は危險ですよ、ホリイさん。」かういひながら彼女はまたうなづいて笑つた。
こゝでアッシャは、ばつたり話をやめた。私が指の隙間から見てゐると彼女の顏は酷く變つて來た。 大きな眼は急にぢつと据つて來て、恐怖が、 暗い魂の底から湧き起つて來た何かたゞならぬ希望と爭鬪してるやうな表情を帶びて來た。 美しい顏が硬ばつて來て、柳のやうにしなやかな姿はびんと伸びてしまつたやうに思はれた。
「おや!」と彼女は將に獲物に向つて跳びかゝらんとする蛇のやうに頭をうしろへひいて、 半ば囁くやうに、半ば叱るやうに言つた、「その手にはめてゐる甲蟲形寶石はどこで手に入れなさつた? 言ひなさい。でないと、生命の精氣によつてその場であなたを打ち殺してしまひますぞ!」 かう言ひながら彼女は心持ち私の方へにぢり寄つた。彼女の眼はその間も爛々と焔のやうに輝いてゐたので、 私は恐ろしさに打たれて地べたに倒れながら、何かしどろもどろに言つた。
「靜かに!」と急に彼女は樣子をかへて、以前のやうなやさしい調子になつて言つた。 「妾はあなたを吃驚させましたわね。勘辨して下さい。だがね、ホリイさん。 殆ど無限の心は、時々、有限な心ののろまさ加減にたまらなくなつて、つい癇癪をおこしたくなるのです。 もう少しであなたの命はなくなるところでしたよ。だが、私は思ひ出しました。ところで、その甲蟲形寶石は?」
「拾つたんです」と私はまた立ち上りながら、力なくつて吃つて言つた。あまりに氣が顛倒してしまつたので、 私はその時は、この甲蟲形寶石のことについては、たゞそれをレオの洞窟で拾つたことだけしか思ひ出すことができなかつたのである。
「隨分妙ですね」と彼女は、いかめしい女にも似ず、急に女らしく身を慄はして、そは〜しながら言つた。 「妾も前にそのやうな形をした甲蟲形寶石を知つてゐたのですよ。 それは妾の戀人が首にかけてゐたのです。」かう言つて彼女は少しばかりすゝり泣いた。 私はそれを見て、この女も非常に年をとつてゐるかは知らんけれど、要するにたゞの女だといふことがわかつた。
「して見ると」と彼女は言葉を續けた。「あの寶石は對のものだつたに相違ないが、 妾はこれまで一つしか見たことがないのです。何しろあの寶石は由緒附のもので、 もつてゐる人は隨分珍重したものですからね。だけど妾の見たのは、こんなに指輪に嵌てはなかつたのです。 さあ、ホリイ、もう行きなさい、行きなさい。そしてできるなら、アッシャの美しさを見たあなたの愚かしさ忘れるやうになさい」 そして彼女は、私から身をそむけて、長椅子によりかゝり、クッションの中に顏を埋めた。 私は彼女の前から、よろ〜しながら引き退つた。どうして私の洞窟まで歸つて來たのか私はおぼえてゐない。
私は何かしなくては氣が狂つてしまひさうな氣がしたので、髮をかきむしりながら長椅子から跳び上つた。
それに女王が甲蟲形寶石について言つたことは一體何のことだらう?
あれはレオのもので、二十一年前に、ヴィンシイが私の
だが二千年も生きてゐる女があり得るとすれば、そのことだつて有り得るかも知れん。 さうなればどんなことだつて有り得るわけだ。現にこの私だつて、 誰かの生れ代りで自分の前身をも忘れてしまつてゐるのかも知れん。 私はこの馬鹿げた考へに思はず笑ひ出して、岩の壁に彫つてある、 氣みづかしい顏をした古代の戰士の彫刻に向つて大きな聲で呼びかけた。 「なあ、大將、ことによると君と僕とは同じ時代に住んでゐたのかも知れんぜ。 もしかすると、君が僕で、僕が君なのかも知れんぢやないか。」かう言ひながら私はまた笑つた。 すると私の笑ひ聲は陰氣な洞窟の中にまるで、その戰士の亡靈が答へたかのやうに反響した。
それから、私はレオの樣子を見にゆくのを忘れてゐたことに氣が附いて、私のそばにともしてあつたランプを一つとつて、
靴を脱いで彼の寢室にあてられた洞窟の方へそつと出て行つた。夜の風が、彼の
それから、私は行くときと同じやうにこつそりと引き返して來た。それでも私はまだ眠ることはできなかつた。
レオが重態でねてゐた姿を見たり、そのことを考へだしたりしたのは却つて、私の不安を益々募らせるばかりであつた。
身體はぐた〜に疲れ、頭は
突然私は、それまで氣のつかなかつたものを見つけた。岩の壁に一つの狹い孔があるのだ。
私は燭臺をとり上げて、それをしらべて見た。穴の先は通路になつてゐた。かうした場合に、自分の寢てゐる
すぐ鼻の先にカーテンがかゝつてゐるのだ。カーテンには隙間ができてゐたので、私は、
その向うにある小さな洞窟をはつきり見ることができた。それは墓場のやうで、
それは實に女王であつたのだ!
女王は私の前でヴェールを脱いだときに同じやうに胸のところで低く切れた身體にぴつたり密着した白い
しばらくの間私はぢつと立ちすくんでゐた。すると、彼女の兩手は高く頭の上に上がり、 白衣は金の帶のところまでする〜辷り落ちて、眼もくらむやうな美しい裸體が現はれた。 彼女が、指をにぎりしめてそこに立つてゐる間に、彼女の顏には恐ろしい惡の形相が益々加はり深まつて行つた。
突然、彼女が若し私を見つけたらどんなことが起るだらうと思ふと、ぞつとして氣が遠くなつた。 けれども、たとひ、そこにぐず〜してをれば殺されることがわかつてゐたとしても、 私はそこから立ち去ることができなかつたであらう。それ程にも私はすつかり魅惑されてしまつてゐたのだ。
彼女の握りしめた手が兩側へ下り、又頭の上へ上るにつれて、白い
象牙のやうな腕は再び下へ下りた。ちようどその時に彼女はアラビア語で、疾風のやうな鋭い聲で語り出した。 その響きをきくと私の血は凝血してしまひ、忽ち心臟の働きはとまつてしまつた。
「呪はしき女、永久に呪はれてあれ。」
腕が下りると焔も下りる。腕が上ると大きな火の舌が燃え上る。そしてまた下りる。
「呪はしき女の記憶 --
焔は燃え上り、また下火になる。
「吾よりも美はしきニイルの娘、呪はれてあれ、
「吾が魔法を破りし女、呪はれてあれ、
「吾が戀人をはなさゞりし女、呪はれてあれ。」
焔はまた小さくなつた。
女王は眼の前へ手をやつて、今度は叱咤するやうな調子をやめて、高い聲で泣きだした。
「いくら呪つて見ても何にならう。あの女は妾の勝つたのだ、そして死んでしまつたのだもの。」
それからまた彼女は前よりも一層恐ろしい精力をふりしぼつてはじめた。
「呪はしき女、
「星の空をこえて女を呪へ。彼の女の影、呪はれてあれ。
「吾が力、そこまで屆きて彼女を見出せよ。
「彼女に吾が呪ひを聞かしめ、黒闇に身をかくさいめよ。
「彼女を絶望の穴に落ちしめよ、いつか吾彼女を見出すべければ。」
焔はまた下火になり、女王は兩手で雙の眼をおほうて泣いた。
「馬鹿なことを、誰が全能の翼の下に眠つてゐるもののところまで行けよう? 妾にだつて行けはしない。」
またもや女王の呪詛がはじまつた。
「彼女は生れ代れる時彼女を呪へ、呪はれて生れしめよ。
「生れ落ちたるその日より、眠りにつくその日まで彼女は呪はれてあれ。
「さなり、呪はれてあれ。かくてこそ吾が復讐成りて、彼女を打ち破るべければ。」
かうして火焔は燃え上つたり下火になつたりして、それがアッシャの苦しみ悶える眼に
しかし、たうとう彼女は疲れたと見えてやめてしまひ、岩の床の上にくづをれて、顏から胸へ美しい毛髮を打ち慄はしながら、 身も世もあらぬ思ひに苦しんでひどくむせび泣いた。
「二千年の間」と彼女は呻いた。「二千年の間妾はぢつと辛抱して待つてゐたのに、年はたてども、 世紀は變れども、あの苦しい思ひ出は少しも薄らがない。希望の光りは少しも明るくならない。 おゝ、二千年の間、情慾に心を蝕まれ、目のあたりに罪を見て生きてゐるなんて!
「戀しひ!戀しひ!私の戀人!今度來たあの他國の人はどうしてこんなにあなたのことを思ひ出させるのでせう?
この五百年の間、妾はこんなに苦しひ思ひをしたことはない。妾はあなたに罪を犯したけれども、
その罪はもう拭ひ去つてしまつたではありませんか?
急に彼女は泣くのを止めて、起ち上り、着物をなほして、長い捲毛をいら〜しながらうしろへかきあげ、 棚の上に横はつてゐる屍體の方へ歩みよつた。
「おゝカリクラテス!」と彼女は叫んだ。私はこの名をきくとぞつと身慄ひがした。
「妾は苦しいけれど、もう一度あなたのお顏を見なければなりません。妾は、 妾のこの手で殺したあなたを見るのはこれで三十年振りです」
かう言ひながら彼女は、慄へる指さきで、屍體の上にかけてある
「あなた、起こしてあげませうか」と彼女はまるで屍體に話しかけるやうに言つた。
「さうすれば昔のやうに妾の前に立つてをれるでせう?妾、起してあげることならできてよ。」
かう言ひながら彼女は兩手を屍體の上へさし出した。彼女身體は見るも恐ろしい樣に硬ばり、
兩眼は光を失つてぢつとすわつて來た。私はカーテンのうしろで、それを見て、
恐ろしさに毛髮を逆立てて思はず身じろぎした。そして、氣のせいだつたのかそれとも事實だつたのか知らぬが、
「つまらない」と彼女は重々しく言つた。
「あなたの魂を喚び起すことができないのに假の
しばらく彼女はこんな風にして思ひにしづんでゐたが、やがて屍體のそばに跪いて、
脣を
私は無我夢中でよろめきながら進んでいつた。途中で二度轉んだ。一度道を間違へたが、幸にもすぐに氣がついた。 二十分以上も匍つてゐるうちに、私は、來る時に降りて來た階段をとほつたやうに思つたが、 その時にはもうすつかり疲れきつてしまつてゐたのと、恐ろしさとで、床の上に轉んだまゝ正氣を失つてしまつた。
氣がついて見ると、うしろの方の通路へ光がさしこんでゐるのが見えたので、その方へ匍ひ寄つて見ると、
かすかな光が小さい階段の下へさしこんでゐるのであつた。私はそれを上つて、無事に私の
「どうしたんだ、ジョッブ?」と私は言つた。
「これはどうも、御免なすつて」と彼は頭を掻きながら言つた。
「旦那樣は眠つていらつしやると思つたもんですから、何だか
私は返事をするかはりに口の中で
「レオはどうしあたかね?」
「矢つ張り同じでございますよ。すぐになほりなさらないともう駄目ですよ。
尤もあのアステーンといふ野蠻人はまるで洗禮を受けた
「その時にお前はどうする?」
「私は丁寧にお
ジョッブの言葉は、昨夜のやうな恐ろしい一夜を過してきた私にとつては愉快な言葉ではなかつた。 しかも彼の言葉はほんたうなのことなのだ。たとひレオの病氣がなほつて、女王が吾々を放免してくれて -- これは實にあやしいことだが -- それから又女王がいつか怒りにかられて吾々をにらみ殺すやうなこともなく、 アマハッガー人に燒壺で殺されることも免かれたとしたところで、 何十哩も網の目のやうにつゞいてゐる沼地の中の道を逃げかへることなどは到底できはしないのだ。 たゞこの運命に耐へてゆくより外にしようがないのだ。それに私は、むしろそれを望んだ。 といふのはアッシャの美しさが忘れられないのだ。私はそのことを眞つ晝間に眞面目で言ふ。 昨夜見た恐ろしい光景も、私の頭からこの煩惱を追つ拂つてはくれないのだ。實を言へば、 これを書いてゐる今でもそれを忘れかねてゐるのだ。
私は起き上ると着物を來て食堂にあてられてゐれ例の塗油室へ行つて食事をした。
食事を私に運んでくれたのは、前に言つた唖の娘であつた。食事がすむと私は氣の毒なレオを見に行つた。
彼はもうすつかり正氣を失つてゐて、私の顏を見ても誰かわからない程の始末だつた。
私はアステーンにどうしたのだらうと訊ねて見たが、彼女は、たゞ頭を振るばかりで、しく〜泣き出した。
明かに彼女ももう殆んど希望を失つてゐるのだ。そこで私は、もし出來ることなら、女王に、
レオに會つてくれるやうに説きつけて見ようと決心した。若し女王に病氣を治す力があるなら、 きつと治してくれるに相違ない --
少なくも彼女は自分では病氣を治すことができると言つた。
私が
「夕方には息をひきとるだらう」と彼は言つた。
「そんなことはないでせう、長老。」と私は答へて、重い心で出て行つた。
「全能の女王があんたをお召しですぞ、
私は彼のあとからついて廊下を歩いて行つた。 吾々が中央の洞窟へ來ると澤山のアマハッガー人が急いでそこを通つてゐるのが見えた。
中には
たうとう洞窟のつきあたりへ來た。そこには、吾々が猛烈な襲撃を受けたところにあつたのと殆んど寸分もちがはぬ岩の臺があつた。
それによつて考へて見ると、この臺はきつと宗教上の儀式をするために、
特に死人の埋葬に關する儀式をするための祭壇らしい。ビラリの話ではこの臺の兩側には廊下があつて、
そのつきあたりの洞窟には死骸が一ぱいあるといふことであつた。「實際に」と老人は附け足して言つた。
「此の山ぢゆうが死人だらけですわい。しかもその死骸が大抵、
この臺の前には澤山の男女が立つて、彼等に特有の陰氣な樣子をしてじろ〜あたりを見まはしてゐた。 これを見たら、どんな陽氣な人間だつて五分間とたゝぬうちにすつかり氣が滅入つて來るに相違ない。 臺の上には、象牙を嵌め込んだ黒い木製の粗末な椅子があり、椅子には、草の纖維で編んだ座席がこしらへてあり、 木の板でこしらへた足置き臺が、椅子の骨につけてあつた。
急に「女王だ、女王だ!」といふ叫聲が起つた。すると見物の群衆は一齊に地べたに平伏した。
彼等は一人々々、そして全體に即死したやうにぢつと身を伏せた。そして、 私一人が殺戮のあとにたつた一人生き殘つたやうに立つたまゝでゐた。
それと同時に、護衞兵の一隊が左側の廊下から列をつくつて出て來て、臺の兩側に整列した。
それから二十人ばかりの唖の男と同數の唖の女とが
「こちらへおいでなさい、ホリイ」と彼女は言つた。「そして妾の
私は敬禮して、臺の上に登り、彼女の足許に坐つた。
「
「よく眠れませんでした!」と私はすつかりほんたうのことを言つた。そして内心、 私が昨夜の夜中に何をしてゐたかを彼女は知つてゐるのぢやないかと心配した。
「さうですか」と彼女は少し笑ひながら言つた。「妾もよく眠れなかつたのよ。昨夜は、 妾はいろんな夢を見ました。それはあなたのせゐですよ、ホリイ。」
「どんな夢を御覽になつたのです、アッシャ?」と私は何げなく訊いた。
「妾はね」と彼女は急いで答へた。「憎い人と戀しい人との夢を見たの」 それから彼女は話題をかへようとするかのやうに、護衞兵の隊長に向つてアラビア語で言つた。
「みんなの者を妾の前へつれておいで。」
隊長は最敬禮をして、部下のものをつれて右手の廊下へ出て行つた。 護衞兵だけは、腹這ひにならずに立つてゐたのである。
それからしばらく沈默がつゞいた。女王はヴェールに覆はれた顏を兩手の上にのせて考へにしづんでゐるらしかつた。
群衆は相變らず腹這ひになつてはゐたが、少しばかり身體をねぢつて、片眼で吾々を見てゐた。
女王が公衆の前に姿を現はすことは滅多にないと見えて、彼等はこんな窮屈な姿勢をしのび、危險を忍んでまでも、
彼女を見たがつてゐたのである。いや彼女といふよりも彼女の
「それには及ばん」と女王は此の上なくやさしい聲で言つた。「いゝから立つてゐなさい。そのうちに、
手足を伸してゐるのに飽きてくるだらうから」かう言ひながら彼女は
私は運命の宣告を受けた一同の者どもが恐怖のためにちゞみ上つたのを見た。 彼等は兇惡な惡人ではあるが、それでも私は氣の毒に思つた。數分間、恐らく二三分間は何事も起らずにすぎた。 その間、女王の頭の動き工合から推して考へると -- 勿論彼女の眼は見えなかつたので -- 彼女は罪人等を一々、ゆつくりと、注意ぶかくしらべて見てゐるやうであつた。遂に彼女は、私に向つて、 靜かな、落ちついた口調で話しかけた。
「あなたはこの連中をみんな
「えゝ、大抵はおぼえてをります」と私は言つた。私がさう言ふと、彼等は私の方をきつと睨んだ。
「では妾と、こゝにゐる皆の者に、前に妾がきいた話をしてきかせて下さい」
さう頼まれたので、私はできるだけ簡單に食人の酒宴のことや、 吾々の氣の毒な召使のマホメッドが苦しめられたことを話した。 被告も聽衆も、女王も皆、だまつて私の話をきいてゐた。私の話がすむと女王はビラリの名を呼んだ。 ビラリは、起ち上りはしないで、たゞ地べたにつけてゐた頭だけを上げて、 私の話は事實に相違ないことを證言した。それ以上の證據しらべはなかつた。
「みんな、聞いたであらう」と、たうとう女王は、いつもの調子とはまるで
しばらくの間は答へる者はなかつた。けれども、たうとう一人の立派な、胸の廣い、鷹のやうな眼をした中年の男が口を切つた。
彼は彼等が受けた命令は白人に危害を加へてはならぬといふ命令だけで、
黒人の下男のことについては何ともお沙汰がなかつたから、あの死んだ女にそゝのかされて、
あの黒人をこの國の古式によつて燒壺で殺して食はうとしたのであること、
又彼等が吾々を襲撃したのは一時の怒りの發作だつたので、今では皆ひどく後悔してゐることなどを申し立て、
最後に彼等に慈悲を埀れたまはんことを女王に歎願し、
せめて沼の中へ投げこんで死ぬも生きるも運にかませるやうなお取り計らひが願ひたいと懇願した。
やゝあつて、女王ははじめは低い聲で言つた。その聲はだん〜強くなつて、遂には洞窟の中に鳴り響くやうになつた。
「畜生ども、人の肉を食ふ畜生ども、お前たちは、二つの罪を犯したのぢや。
第一に、他國の人たちを、白人と知りつゝ、襲撃して、その下男を殺さうとした。
それだけでもお前たちは十分殺される資格はあるのぢや。しかしそれだけではない。お前たちは、
妾の命令にそむかうとしたのぢや。妾は、お前たちの父であり、 妾の
女王の言葉が終ると、かすかな恐怖の囁きが洞窟の中に起つた。被告等は、彼等の運命のおそろしさを知ると、 日頃の無感覺な態度をすてゝてしまつて、地べたにたふれて、見るもむごたらしい樣子でゆるしを乞ひながら泣いた。 私もアッシャに向つて彼等の助命をたのみ、 それができなければせめてもつと恐ろしくない殺しかたで處罰してくれるやうに願つた。 だが女王の決心は鐡石の如く動かなかつた。
「ホリイ」と彼女はまた
「妾の命令どほりにしなさい!」
私はすつかり彼女に魅せられてしまつてゐたので、たとひ行きたくなかつたにしても、いやとは言へなかつた。
そこで私はお
「さて。」と彼女は言つた。「こゝにある不思議な物を少しばかり御覽になりたいとは思ひませんか、ホリイ?
このまあ大きな岩窟を御覽なさい。これまでに、こんな大きな洞窟を見たことがありまして?
しかも、この洞窟は、他の澤山の洞窟とゝもに、この平原の都に昔住んでゐた民族がこしらへたものなのですよ。
このコオルの人民は、實に偉大な、不思議な人民だつたにちがひありません。しかし、彼等は
「數萬人もかゝつたでせうね」と私は答へた。
「さうですよ、ホリイ。コオル人は
「コオルの都の創設より四千二百五十九年に、此の洞窟(墓所)は後代の高貴なる市民の墓場とするために、
コオル王チスノが、コオルの人民と奴隸を使役し、三代の
「わかつたでせう、ホリイ」と彼女は言つた。「この人々はこの洞窟ができてから四千年つも前にこゝに都をこしらへたのです。 その都の廢墟は今でもあの平原に殘つてゐますがね。しかも、妾が二千年前にこゝへ來たときにも、 こゝはちやうど今と同じだつたのですよ。それを考へてもこの都がどんなに古いものかわかるぢやありませんか。 だがまあ妾について來て御覽なさい。この大國民がどんな風にして滅亡したかを見せてあげます」 かう言ひながら彼女は洞窟の中央へ行つて、床にあいてゐる大きな穴へ丸い岩のはめこんであるところまで來てたち停つた。 「これは何だと思ひます?」と、彼女は言つた。「私にはわかりません」と答へると、彼女は洞窟の左側へ行つて、 入口の方を向きながら、唖娘に手燭をかゝげるやうに合圖した。そこの壁には赤い繪具で、 さつきのと同じやうな文字で何か書いてあつた。アッシャはこの長い文章を私に飜譯してきかせた。
「コオル大寺院の僧なる吾れ、ユニスは、コオルの創設より四千八百三年に、この燒場の岩に書き記す。
コオルは沒落せう!大廣間の祝宴も今はなく、コオルはもはや世界に霸を唱ふることもなく、
その海軍は世界に通商に出かくることもなくなりぬ。コオルは沒落せり。その雄大な事業も、コオルの全都市も、
港も、運河も、今は狼と梟と野鳥と、後に來れる蕃族との横行に委ぬるに至りぬ。
今を過ぐる二十五ヶ月前、一團の雲、コオルと、その數百の都市との上にかゝり、
その雲の中より疫病來りてコオルの民を老幼の
私は長大息した。この偉大な國民のたつた一人の生存者が、自らも
「ねえ、ホリイ」とアッシャは私の肩に手をのせて言つた。
「この北の方へ船出して行つた人たちが最後の
「私にはわかりませんが」と私は答へた。「世界は隨分古いものゝやうですね。」
「古いつて?さうです、ほんたうに古いですよ。次から次へと藝術に秀でた富強な國民が起つては又過ぎ去つて行つて、
その記憶はもう殘つてゐないのです。このコオルの國民だつてその中の一つに過ぎないのです。
コオルの國民のやうに、洞窟でも掘つてのこしておかなければ、時が人間の事業を蝕んでゆきますし、
海にのまれることもあれば、地震で埋沒することもありますからね。地上に昔何があつたか、
またこれから先どうなるかを知つてゐる者はありません。ずつと昔ヘブライの賢者が言つたやうに日の下に新しき物なしですよ。
ですけれど妾の考へではコオルの人民は全部死にはてたのではないらしいですね。
他の都市には幾らか生き殘つたものがあつたやうに思はれます。そして、南の方から來た蕃族か、
それとも妾の先祖のアラビヤ人かがこの國へ押し寄せて來て、この國の女を妻としてできたのが、
現在のアマハッガー人ではないでせうか。だが、まあこちらへ來て御覽なさい。
これからあの記録に記してあつたこの洞窟の下にある
そこで私は彼女のあとについて中央の洞窟から開いてゐる側道へはひり、澤山の階段を降りて、
洞窟の床から六十呎以上もあらうと思はれるところまで下つて行つた。道が行き詰りになつたところでアッシャは立ち停つて、
唖娘たちに手燭をかゝげるやうに告げた。なる程彼女が預言したとほりそれは二度と見られさうにもない光景であつた。
吾々の立つてゐたところは大きな
「もうあちらへ行きませう」と私はその場から歩き出しながら言つた。「これが、疫病で死んだ人たちなんですね?」
「さうです。コオル人は
「その布を脱がして御覽なさい、ホリイ」とアッシャは言つた。私はその言葉に從つて手を伸ばしたが、 すぐ又ひつこめた。何だか冐涜のやうな氣もしたし、それに實を言へば、 私はその場の嚴肅さに壓倒されてしまつたのだ。すると彼女が私の恐がるのを見て笑ひながら、自分で布をめくつた。 その下にはもう一枚薄紗がかぶせてあつた。それもめくると、三十五かそこらの、 たしかに美人だつたらしい白衣につゝまれた女の肉體があらはれた。 何千年とも知れぬ太古に死んだのであるにも拘らず、くつきりした顏だち、きやしやな肩、 長い睫毛は今でも仲々美しかつた。そして腕には一人のみどり兒が抱かれてゐた。 この哀切な場面に私は思はず涙のにじむのを禁ずることができなかつた。私は無量の感慨に打たれながら、 そつと被覆をもとのとほりにかぶせて、今度は反對の側にある屍體の方へ行き、前と同じやうに、被覆をとりのけた。 それは矢張り白衣をまとうた可成り老齡の男であつた。多分あの女の夫であつたのだらう。 そして妻の死後長く生きのこつてゐて、最後に妻のそばに横はつて永遠の眠りについたのであらう。
それから吾々はこゝを出て又別の墓所へいつた。しかし、次々に見た色々のことを書いてゐてはあまり長くなるからやめる。
たゞ、吾々が一番最後に訪れた墓所については一言しておかねばならぬ。それははじめに見たのよりももつと哀切なものであつた。
その墓所には二人の屍體しかなく、この二人は同じ一つの棚の上に一しよに横はつてゐた。
墓衣をとるのけて見ると二人の若い男女が胸と胸とを抱きあつて横はつてゐた。女は男の腕に顏ののせ、
男の脣は女の額にそいつけられてゐた。男の
この二人の男女の生前の身の上はどうであつたであらう。 死んでもなほはなれないこの二人の美しく若い男女の身の上を私は瞑目して空想した。 私は一時、殆んど時を超越してしまつた。私の洞察力は、過去の神祕に徹したやうに思つた。
しばらくするとアッシャは、死せる二人の戀人に墓衣をかけてやりながら、おごそかな、
鋭い聲で私に話しかけた。「これが人間の運命です。妾たちはみんな、しまひには、墓場へ、
そして墓場をつゝむ忘却へ行かねばならぬのですわ。こんな長生きをしてゐる妾だつて同じです。
その時になつたら、妾が自然から少しばかり智識をとつて、 ほんの僅かの間生命を伸してゐたことなどが何になりませう。
時の歴史に於て一萬年が何でせう?十萬年が何でせう?それは無にひとしいではありませんか?
冬の雪のやうにとけてしまふではありませんか?これが人間の運命です。 この運命はきつと妾たちをもとらへるのですわ。妾たちも眠るのです。
けれどもたしかに又眠りはさめます。そして覺めてはまた眠るのです。眠つては覺め、覺めては眠つてゐるうちに、
遂には世界が死滅してしまひます。妾たちの、それからこゝに眠つてゐる二人の最後のどんづまりは生でせうか、
それとも死でせうか?死は生の夜ですから、夜からはまた明日が生れ、明日からはまた明日の夜が生れます。
けれども日と夜も、生も死も、それがはじめに出てきたものゝ
それから彼女は急に言葉の調子をかへて、附け足した。
「もうこれで澤山ですか?それとももつとこの墓所の不思議を色々御案内しませうか? コオルの國王チスノの眠つてゐるところへ御案内しませうか?」
「もう澤山です、女王」と私は答へた。「私はもう死の力に壓倒されてしまひました。 人間といふものは弱いもので、自分の最期を待つてゐるこの屍體の中にゐるとすぐ變な氣になつてしまひます。 どうぞ私をこゝからつれ出して下さい、アッシャ!」
「まあおはひりなさい、ホリイ」と彼女は言つた。「實を言ふと、妾はあなたの話をきくのが面白いのです。
まあ考へても見なさい。この二千年の間妾の話相手といつては奴隸か、
でなければ妾自身の魂だけだつたのです。でもそのために大分智慧を得るところはありましたが、
矢つ張りそれには飽きてきたのです。記憶が與へてくれる食物は苦いので、希望の齒でそれを噛まねばならんのです。
あなたの頭はまだ若い人に似つかはしく柔いけれど、物を考へる人の頭ですね。あなたを見ると、
妾は、妾が以前にアテンや、ベッカや、アラビアで議論をした老哲學者を思ひ出しますわ。
あなたの樣子にはまるで古い書類をひつくりかへして讀みにくい
彼女は躊躇せずに、白いヴェールを脱ぎすてて立ち上つた。そして、皮を拔いだときのぎら〜した蛇のやうな、 眩しい、素晴らしい姿をあらはして、ぢつと私を見つめ、銀鈴のやうな聲でかるく笑つた。
彼女の氣分は一變してゐた。それは焔を燃して、死んだ戀仇を呪つてゐた時のやうに、
憎惡と苦悶に充ちた形相ではなかつた。罪人を裁いた時のやうに、氷のやうな物凄さももうなかつた。
それは勝ち誇つたヴィナスのやうであつた。輝かしい、生命が、彼女の身體から流れ出てゐるやうであつた。
彼女が房々した捲毛を振ると、
「ねえ、ホリイ、そこに、妾の見えるところにお坐りなさいね。そして、ほんたうのことを言ふと、 妾あなたにほめていたゞきたいのよ、妾は美しくつて?いゝえ、 そんなに急いで言つちやいけないわ。もつとよく見て頂戴、妾の姿から、妾の手足から、 髮から、皮膚の白さまで、みんなよくしらべて頂戴、そしてほんたうのところを言つて頂戴! どうです、ほんのちよつとしたところでも、たとへば睫毛の曲りかた一つだつて、この世の中に妾位美しい女が他にあつて? 妾の腰は少し大きすぎるとあなたは思ふでせう。だけどさうぢやないのよ。大き過ぎるのはこの金の蛇なのよ。 だからきちんとしまらないのよ。まあ手をかして御覽、そして兩手で妾の腰のまはりをはかつて御覽、 少し力を入れると兩手の指の端がとゞくでせう。ね、ホリイ!」
私はもう堪らなくなつてしまつた。私はたゞの男だのに、彼女は女以上のものであつた。
私はその場で彼女の前に跪いて、しどろもどろの言葉で、心の底から彼女を崇拜してゐるといふこと、
彼女と結婚するためなら死もいとはぬといふことを告げた。私でなくてどんな男だつて、
その時の彼女の姿を見て思ひを焦がさずにゐるわけには行かなかつたであらう。
しばらくの間彼女はちよつと驚いて妾[原文のまま]を見てゐたが、すぐに手を
「ずいぶん早いのね、ホリイ!」と彼女は言つた。 「あなたを妾の前に跪かせるのに何分かゝるかと妾は思つてゐたの。
ずゐ分長いこと妾は男が妾の前に跪づくのを見なかつたわ。
どんなに物を識つても、どんなに年を
「もうこんなみだらなお芝居はよしませう」と彼女は少し嚴肅な色を見せて言つた。
「よくおきゝなさい、ホリイ。あなたは善良な正直なかたですから、妾はあなたの身を滅ぼしたくないのです。
妾はあなたのものぢやないと言つたでせう。ですから、妾のことなどもう忘れておしまひなさい。
あなたには妾がまだよくわからんのです。今からほんの十時間前に、 妾が激情にかられてゐるときに、妾を御覽になつたら、あなたは、
きつと恐ろしさに慄へて妾のそばへもよりつけなかつたでせう。
妾の氣分は色々に變るのです。あの鉢の水のやうに妾の心は色々なものを
私は起ち上つて、彼女のそばのクッションをしいた長椅子の上に身をしづめた。 風が吹き過ぎたあとでもまだ木の葉が慄へてゐるやうに、私の兇暴な情慾は一時過ぎ去つたけれども、なほ私は慄へてゐた。
「それで」と彼女は言葉を續けた。「この果物をお食べなさいな。人間のほんたうの食物はこれだけですわ。
そして妾よりも後に生れて、今日
私はその時までに少し氣をとりなほして、私の弱さを見せたことをひどく恥ぢながら、
できるだけ丁寧に基督教の教義を彼女に話して聞かせた。だが彼女は天國と地獄の教理の外には大して注意を拂はないで、
「あゝわかりました」と彼女は言つた。「つまり新しい宗教が二つあるわけですね。一體人間に宗教心を起させるものは恐怖ですね。 修飾された利己心ですよ。それは隨分多くの宗教が起つては滅びてゆきましたわね。 多くの人間が生れては過ぎ去つてゆきますたわね。そしてあとには何も殘つてゐないのです。 殘つてゐるのは世界と人間の本性とです。ほんたうに、人間といふものが、希望は自己の内心にあるもので、 決して外から來るものではないつていふことを、 人間は自分で自分を救濟しなきやならんといふことを知つてゐるといゝのですがねえ。」
私は彼女の説は、つい近頃、コオルでなくて他の場所で聞いた説のやうに思つた。
「さうですか、ホリイ」と彼女は言葉をつゞけた。「では妾の生國にも預言者が出たのですね。
そしてそれはの[原文のまま]僞預言者だと
行つて見ると、ジョッブとアステーンとはレオが死にかゝつてゐるといふので酷く悲しんでゐた。 そしてそこらぢゆうへ行つて私をさがしまはつてゐたのだと言つた。私は急いで長椅子のそばへ行つてレオを見た。 正に彼は死にかゝつてゐた。すつかり正氣を失ひ、重い息をつきながら、脣をふるはしてゐた。 そして時々、ぶる〜と全身が痙攣的にふるへてゐた。妾は[原文のまま]多少醫療の心得があるので彼の容態は、 もう一時間もたてば、いやもう五分もたてば、何とも手のつくしやうがなくなることがすぐにわかつた。 そして、自分の可愛い子供が死にかゝつて寢てゐるのに、アッシャのそばにつきまとうて、 みだらな思ひにふけつてゐた自分の我儘が呪はしくなつた。どんな良い男でも、 女の眼にかかつちや一たまりもなく墮落してしまふものだ。私は何といふろくでなしであつただらう! 現に、この三十分の間、私はレオのことなどおくびにも思ひ出さなかつたのだ。しかもそのレオたるや二十年の間、 私の最も親しいつれであつて、私がかうして生きてゐるのも主として彼のためであるのだ。 そしてそのレオは、今になつて、ことによるともう手おくれになつたかも知れないのだ!
私の兩手を
「た、大變です!」と彼は息を切らしながら叫んだ。「いま屍體が廊下を辷つてやつて來ます。」
私は、しばらく何事かと思つたが、勿論、すぐに、これは、
きつとアッシャが白い
「いゝ時に來て下さいました、アッシャ」と私は言つた。「私の子供は今死ぬとこだつたのです。」
「さうですか」と彼女は柔かに言つた。「まだ死んでさへゐなければ、すぐ治してあげます。 あの人はあなたの從者ですか?あなたの國では從者は客にあんな風にして挨拶するのですか?」
「あいつはあなたの
彼女は笑つた。
「それからこの娘は、あゝわかりました。あなたが言つた娘ですね。 で、この人たちに二人ともこの場から出て行くやうに言つて下さい。 それから妾たちは病人を診察しませう。妾は目下の者に妾の智慧を見せたくないのです。」
そこで、私はアステーンにはアラビヤ語で、ジョッブには英語で、室を出てゆくやうに命じた。 ジョッブの方は二つ返事で出て行つたが、アステーンの方はさうではなかつた。
「女王樣はどのやうな御用があるのでせう?」と彼女は低い聲で囁いた。彼女は女王の恐ろしさと、
レオのそばにのこつてゐたいのとで迷つてゐたのである。「夫の臨終のそばについてゐるのは妻の權利ですわ。
妾は出てゆかなくつてよ、
「あの女はどうして行かないのです、ホリイさん?」と、洞窟の他の端で、彫刻を見てゐたアッシャはたづねた。
「この女はレオのそばから離れたがらないのです」と私はどう言つていゝかわからないので答へた。
アッシャはくるりと向き直つて、娘のアステーンを指だしながら、
「行け!」
するとアステーンは四つん這ひになつて出て行つた。
「わかつたでせう、ホリイ」とアッシャは少し笑ひながら言つた。 「妾がこの國の人民に服從の教訓を與へておく必要があることが。 この娘はもう少しで妾の命令にそむくとこrでした。 今日の晝間妾が妾の命令にそむいたものをどんな風に處分するかあの娘は見なかつたのです。 さあ、あの娘も行つてしまつたから病人を見ませう。」かう言ひながら彼女はレオの寢てゐる長椅子の方へ辷り寄つた。 レオは壁の方へ頭を向けて寢てゐた。
「この人は仲々品のある方ですね」と彼女はレオの頭をのぞきこみながら言つた。
次の瞬間、彼女の
「どうしたのですか、アッシャ?」と私は叫んだ。「レオはもう死んだのですか?」
彼女は私の方へ向き直つて牝虎のやうに私に跳びかゝつて來た。
「この犬めが!」と彼女は、蛇の走る時のやうな物凄い囁聲で言つた。 「何故妾にこのことをかくしてゐたのです?」かう言つて彼女が腕を伸した時、 私は彼女が私を殺さうとしてゐるのだと思つた。
「何です?」と私はひどい恐怖に
「あゝ」と彼女は言つた。「多分あなたは知らなかつたのですわ。たうとう妾の處へ歸つて來たのですよ。
妾は
「馬鹿な!」と私は心の中で思つたが、それを口に出しては言はなかつた。それにその時は、 私はレオの生死のことばかりで胸が一ぱいで、他のことは何もかも忘れてしまつてゐたのだ。 私が心配したのはアッシャのヒステリイがしづまらぬうちに、レオが死んでしまやしないかといふことだけだつた。 「あなたが助けて下さることができなければ」と私は言つた。「あなたのカリクラテスは、今に、 こときれてしまひますよ。いまにも死にますよ。」
「まつたくです」と彼女は、ぎよつとして言つた。「まあ、どうして妾はもつとはやく來なかつたのでせう?
妾の手ですら慄へてゐます。だけど心配はありませんわ。さあ、ホリイ、この藥瓶をとりなさい」
かう言つて彼女は
私は彼の方をちらりと見た。實際その通りであつた。レオは斷末魔の苦しみをしてゐた。
彼のやつれた顏は灰色にかはり、
私がレオのそばまで行つた時は、レオは今にも
だが、斷末魔の苦しみがやんだといふ一つの事だけはたしかだつた。はじめには私は、
もうその苦しみも通り越して、彼は三途の川を渡つてしまつたのではないかと思つた。
彼の顏は鉛のやうに青白くなり、胸の鼓動は既に前からかすかであつたのが、今ではすつかりとまつたやうに思はれた。
たゞ
「もう遲すぎたのでせうか?」と私は溜息をつきながら言つた。
彼女は兩手で顏をかくして答へなかつたので、私も思はずそつぽを向いた。だがその拍子に、
私は深い
「見たでせう」と私は
「えゝ」と彼女は
「許して下さい、ホリイ。妾の意氣地のないのを許して下さい。」と彼女は言つた。
「妾も矢張り女ですわね。まつたくです!今朝あなたは、 あなたがたの宗教で言ふ苦しみの場所のことを妾に話して下さいましたね。
地獄とか何とか言つたでせう。そこへ行つた人は、みんな此の世で生きてゐたときの記憶をもつてゐて、
自分で犯した罪の責苦をいつまでも、いつまでも受けるのですつてね。妾はこの二千年の間、
丁度その地獄の苦しみの中で生きて來たのです。二千年と言へばあなたがたの
「それから、もつとお聞きなさいね、こんな話はもう二度と聞かれはしませんわ。
こんな場面はもう二度と見られはしませんわ。たとひ妾があなたに一萬年の生命を授けてあげてもよ。
若しお望みなら、お禮に、妾はあなたにそれだけの
彼女はこゝで言葉をきつて、レオの
「もう少しで忘れるところだつた」と女王は言つた。「あの女のことを、アステーンのことを。 あの女はカリクラテスの何にあたるのです -- あの人の下女ですか、それとも --」 と聲を慄はして言つて彼女は言葉を切つた。
私は肩をすくめた。「何でもアマハッガー人の習慣に從つてレオと結婚したといふことですが」 と私は答へた。「よくは知りません。」
女王の顏は夕立雲のやうに暗くなつた。年は
「ではもうおしまひだ」と彼女は言つた。「あの女は生かしておけない。今すぐにも!」
「何の罪でゞすか?」と私は恐怖に打たれてたづねた。「あの女には何の罪もありませんよ、アッシャ。 あの女は、この男を愛し、この男は喜んでその愛を受けたのです。何處にあの女の罪があるのです?」
「ほんたうにあなたは馬鹿ですね、ホリイ」と彼女は氣短かに答へた。「何處にあの女の罪があるかつて? あの女の罪は、あの女が妾と妾の戀人との間に邪魔になつてゐることです。 妾は、あの人をあの女から奪ひとることはできます。この世には、 妾の力に抵抗できる人はありませんからね。男といふものは誘惑が過ぎ去るまでの間だけは忠實なものです。 で若しその誘惑が十分に強ければ參つてしまひます。男といふものは繩と同じで、十分強くひつぱれば、 切れてしまふものです。男といふものは女の美で買へるものですよ、若し十分に美しければですね。 丁度女の美が十分の金さへ出せば金で買へるやうなものですね。妾の時分はさうでした。 恐らく此の世の續く限りさうでせう。この世界は一つの大きな市場ですよ。凡ての物が賣物で、 何でも一番高い値をつけた人の手に落ちるのです。」
「だがそんな無駄口をきくのはもうやめませう」と彼女は言葉をつゞけた。 「あなたと議論をしたり、智慧比べをしてゐる暇はありませんからね。何故あなたはそんなに議論がおすきなのです? あなたも近頃の哲學者なのですか?あの女はどうしても助けておけないのです。 妾はあの女の戀人を奪ひとることはできるけれども、あの女が生きてゐる限り、 あの人はあの女にやさしい思ひをむけるに相違ありません。それ妾には耐へられないのです。 妾の戀人の心の中に他の女がすんでゐてはならないのです。妾の支配は完全でなくちやならんのです。 あの女はもううれしいめをさんざして來たのですから、それで滿足しなくちやなりません。 戀の一時間は孤獨の一世紀にもまさつてゐますからね。今度は夜があの女を呑みつくしてしまふのです。」
「いや、いや」と私は叫んだ。「それは罪惡です。罪を犯せば惡い報いしかありません。 あなたのためです、そんなことをなさつてはいけません。」
「では妾たちと、妾たちの目的物との間に邪魔をしてゐるものを取り除くのが罪惡なのですか? 馬鹿な人ですねあなたは。さうすると妾たちの生涯は長い罪惡ですよ、ホリイ。 吾々は生きてゆくために、毎日毎日他の者を殺してゐるんですからね。此の世では強者だけしか長らへてゆくことはできないのです。 一本の樹が成長するためには二十本の樹が枯れてしまふのです。妾たちは失敗して倒れた人の死骸を乘り越へて、 地位と權力とにはしるのです。妾逹の食べる食物は餓ゑた赤ん坊の口からもぎとつたものです。 これが萬物のさだめですよ。あなたは、また、罪を犯せば惡い報いがあると言ひましたわね。 それはあなたが經驗が足りないからです。罪から善いことが生じたり、良いことが惡い結果を生んだりすることはざらにあるのですよ。 暴君の殘忍な怒りが、後世の多數の人の祝福になることもあり、聖者のやさしい心が一國民を奴隸にすることもあるのです。 人間は善かれ、惡しかれと思つて、あれをしたり、これをしたりしますが、それがどんな結果を生むかは知らないのです。 善と惡、愛と憎しみ、夜と晝、樂と苦、男と女、上なる天と下なる地、-- これ等のものは皆それ〜゛必要なのです。 それでこれ等のものがそれ〜゛何のためにあるのかを知つてゐるものはないのです。 ですから妾たちはこれが惡であれが善だとか、闇が憎むべきもので光が愛すべきものだとか言つてはなりません。 何故なら、他の人には惡が善であるかも知れず、闇が光よりも美しいかも知れず、 或はみんな同じであるかも知れないからです。わかりまして、ホリイ?」
私はこんな風の詭辯には到底逆らふことができないやうな氣がした。こんな詭辯を實行したら、 吾々の解してゐる道徳はすつかり破壞されてしまふことになる。 しかしアッシャのやうに人間界の法律に拘束されない人間は、正邪の道徳にも絶對に動かされはしないのだと思ふと、 私は今更のやうにぞつとした。
それでも私は何とかしてアステーンを全能の戀仇の手から救ひたかつた。 私は彼女がすきでもあり彼女を尊敬もしてゐたのだ。そこで私はもう一度訴へて見た。
「アッシャ」と私は言つた。「あなたの
「どうしてあなたはそのことを知つてゐるのです。どうしてそのアメナルタスといふ名前を知つてゐるのです。 妾はまだその名前を申し上げたことはないのに」と彼女は私の腕をつかんで叫んだ。
「多分そんな夢を見たのでせう。」と私は答へた。「このコオルの洞窟には不思議な夢がそこらぢゆうにうよ〜してゐますからね。 何でも夢が眞實の影だつたと見えますね。ところで、あなたはその狂ひのやうな罪惡から何が生じましたか? そのためにあなたは二千年も待たなければならんかつたのでせう。しかもまたそれを繰り返さうとなさるのですか? きつと良い結果は生じませんよ。若しあなたが、あの罪もない女を殺されたら、貴女はきつと呪はれます。 そして貴女の昔の愛の樹からどんな果實もつみとることはできないでせう。あの人は、あの人を愛し、 あの人をいたはつた女の血で汚れた貴女の手をとることができると貴女は思ひますか?」
「そのことならもう答へたぢやありませんか」と彼女は答へた。「あの女のやうにあなたも殺したつて、
あの人はきつと妾を愛するやうになりますよ、ホリイ。あの人はさうせずにはをれなくなるのです。
ちやうど妾が偶然あなたを殺さうと思へば、あなたがどうしても死から免かれることができないと同じです。
でもあなたの言ふことにも眞理があるかも知れませんわね。といふのは妾も少し氣がゝりになつて來たからです。
でことによつたら、あの女の
これ位な程度でも兎に角私の歎願のきゝめがあつたのを喜んで、私は廊下へ出てアステーンを呼んだ。
彼女の白い
「妾の夫は死にましたか?どうぞ死んだなんて言はないで下さいね」 と彼女は上品な顏を上げて私を見あげながら叫んだ。見ると彼女の顏はすつかり涙で濡れ、 身も世もあげて戀人の無事を祈る眞心が、眞直ぐ私の胸に感じられた。
「いや、あの人は助かつたよ」と私は答へた。「女王が助けて下さつたのだ。」
彼女は深い溜息をつきながらはひつて來て、アマハッガー人の習慣に從つて、恐ろしい女王の前に平伏した。
「起て」と女王は此の上ない冷たい聲で言つた。「こちらへお出で。」
アステーンは女王の言葉に從つて、女王の前に立つて頭を
しばらく沈默がつゞゐたが、アッシャがそれを破つた。
「この男は誰だ?」と女王は眠つてゐるレオを指さしながら言つた。
「この人は妾の夫です」と彼女は低い聲で答へた。
「誰がこの人をお前の夫としてお前に與へたのだ?」
「妾が、この國の習慣に從つて、この人を夫にしたのでございます、女王樣!」
「お前が、この他國の人を夫にしたのは惡いことぢや。この人はお前の國の人ではない。
お前の國の習慣はこの人には無效ぢや。よくおきゝ。多分、お前は何も知らずに、
そのやうなことをしたのであらう。だから、許してあげる。でなかつたら、お前の
しかし、アステーンは身動きもしなかつた。
「行け、女!」
するとアステーンは顏を上げた。彼女の顏は激情のために歪んでゐるのを私は見た。
「いゝえ、女王樣、私は參りません」と彼女は聲をつまらせて答へた。「あの人は妾の夫でございます。 妾はあの人を愛してをります。愛してをります。ですから、妾はあの人の傍をはなれません。 妾の夫から離れるように命令をなさる權利があなたにございますのですか?」
私はアッシャの全身が慄ふのを見た。そしてどうなることかと思つて私も慄へあがつた。
「どうぞ大目に見てやつて下さい」と私はラテン語で言つた。「あの女の言ふことにも無理はないのですから。」
「妾は大目に見てをりますよ」と女王は矢張りラテン語で冷かに答へた。 「妾が大目に見てゐなかつたら、この女はとほに死んでゐるのです。」 それからアステーンに向つて彼女は言つた。「女、妾がその場でお前を殺してしまはぬうちに行け!」
「妾は參りません!この人は妾のものです、妾の夫です!」 彼女は苦しさうに叫んだ。「妾が夫に選んだのです。そして妾が命を助けてあげたのです。 殺せるなら妾を殺して下さい!妾は、妾の夫を決して貴女には渡しません!」
アッシャは眼にもとまらぬ早業で、かはいさうなアステーンの頭に、輕く手を置いた。 私はアステーンを見た。そしてあまりの恐ろしさにうしろへよろけた。といふのは、 彼女の青銅色の結髮の上に、眞直に雪のやうに白い三つの指のあとがのこつてゐたからである。 アステーンは眼がくらんだやうに、兩手を上でさし上げた。
「大變だ」と私はこの超人的な力の
「何も知らない馬鹿娘が」と彼女は途方にくれてゐる女に向つて言つた。 「お前は妾のお前を殺す力がないと思つたのだね。あの鏡を見なさい。」 とかう言ひながら彼女はレオの鬚剃用の丸い鏡を指さした。「ホリイ、その鏡を女に渡して、 髮がどうなつたか見せてやつて下さい。そして妾に人を殺す力があるかないかを知らせてやつて下さい。」
私は鏡をとつてアステーンの眼の前に差し出した。彼女はそれを見てから、髮を手でさはつて、また鏡を見た。 そして忽ち、息のつまるやうにむせびながら地べたに泣きくづれた。
「さあもう行くだらうね、それとももう一度打ちませうか?」とアッシャは嘲るやうな口調でたづねた。 「見なさい、妾はお前にしるしをつけておいた。これでお前の髮がすつかり白くなるまでは、 どこでお前にあつても一目でわかる。若し今度お前の顏を見たら、お前の骨もその髮のやうに白くなると覺悟してゐなさい。」
かはいさうな女は、すつかり恐怖に打たれて、その場に起ちあがり、恐ろしい印しをつけられたまゝ、
ひどく
「そんなに恐がるには及びませんよ、ホリイ。」と彼女が出てゆくと女王は言つた。
「妾は魔法をつかふのぢやありません。魔法なんてものはないのです。
あれはあなたの知らない力なんです。妾はあの女の度肝を拔くために印しをつけてやつたのです。
でなければ妾はきつと殺してしまふところだつたのですよ。ところで、妾はこれから、
下男に命じて夫のカリクラテスを、妾の
その晩は私はレオの
もう一つ私の惱まされた夢は、あの巨大な骸骨のピラミッドの夢だつた。
あの骸骨が何千何萬となく一度に起ちあがつて、小隊となり、中隊となり、軍隊となつて、
うつろな肋骨に日光を浴びながら私の前を進軍してゆく光景であつた。 この骸骨の一隊はコオルの平原を通り過ぎ、宮殿の前を通りすぎ、
私のこれまでに見たことのないやうな豪奢な市街や殿堂の前を通り過ぎて行つた。
けれども廣場には彼等を歡迎する人影は一つもなく、彼等の行軍を窓から見てゐる女の顏は一つもなかつた。
たゞ彼等の行く手に、姿の見えない聲が叫んでゐた。「コオルの帝國は滅びた、滅びた、滅びた!」
そして日が沈むとこの骸骨はもとの墓穴へ歸つて一つづゝもとの通りに積み重なるのであつた。
その時に私はちやうど胴慄ひしながら眼をさました。見ると、私の寢てゐる長椅子との間に女王が立つてゐたが、
やがて音もなくすうつと
そのあとで私はまた眠つた。今度はぐつすり朝まで眠つた。そして、朝になつて、非常にせい〜した氣持ちで起き上がつた。 たうとう女王のいつたレオの眠りのさめる時刻が近づいたのだ。そしてその時刻が近づいた時、 ヴエールにまとはれた女王が姿を現はした。
「ホリイ、見てゝ御覽なさい」と彼女は言つた。「もう熱は去つたから、今にこの人は正氣に返りますよ。」
彼女の言葉が了るか了らぬうちにレオはごろりと寢返りをうつて、兩腕を伸しながら、
私もそれを知りたいのですよ、レオ樣」と言ひながら、ジョッブは、こは〜゛アッシャの横を通りながら言つた。 彼はまだ女王を生きた人間だとは思ひきれないので、此の上なく恐がり、嫌がつてゐた[。] 「だが、そんなに話をなさつちやいけませんぜ、レオ樣、あなたは大變重病で、 ずいぶん心配をかけましたぜ、ところで、この御婦人が」と言ひながらアッシャの方を見て 「ちよつと退いて下されば、あなたにスープをもつて來てあげるのですが。」
この言葉でレオは、彼のそばに無言のまゝ立つてゐた「御婦人」の方へ注意を向けた。 「おや」と彼は言つた。「アステーンぢやなかつたんだね。アステーンはどこへ行つたんだい?」
この時はじめてアッシャが口を開いた。彼女の最初の言葉は
アッシャの聲の銀鈴のやうな響きと、彼女の死人のやうなヴェールとは、半ば目覺めたレオの頭をひどく面喰らはせたらしかつたが、 彼は何とも變事をしないで、がつ〜しながらスープを飮み干すと、また仰向けになつて夕方まで眠つた。 二度目に彼が眼をさましたときに、彼は私を見て、どうしたのだと訊ねた。 けれども私はできるだけ言葉をにごして翌朝まで返事をのばした。 翌朝彼が起きたときは奇蹟的に彼の元氣は恢復してゐた。そこで、私は、彼の病氣のことや、 私のしたことなどを少しだかり話してきかせたが、女王がそばにゐたので、あまり色々なことは言へなかつた。 たゞ、この婦人はこの國の女王で、吾々に好意をもつてをり、いつもヴェールを着てゐるのだといふことだけを話した。 といふのは私は無論英語で話してゐたのではあるが、表情で吾々が何を話してゐるかゞ彼女にわかるかも知れんと思つたし、 その上、彼女の警告も思ひ出したからであつた。
その翌朝には、レオはもう殆んど
實際彼女の樣子は以前とはがらりと變つてゐた。前のことから推して、
女王は彼女が前世の戀人であると信じてゐる男に、機會があり次第、言ひ寄ることだらうと思つてゐたが、
事實はさうでなかつた。それは彼女の方に理由があつたのだが、その當時は私にはどういふ
彼女はいつもおやうに、彼女の居間に坐つてゐたが、カーテンがあがると長椅子から起ち上つて、 兩手をのばして吾々に挨拶をするために前へ進み出た。いや吾々にといふよりもレオと言つた方がよいかも知れぬ。 といふのは私はもうすつかり冷淡に待遇されてゐたからである。
「ようこそお出で下さいました、お客さま。」とアッシャは此の上もないやさしい聲で言つた。
「あなたが立つていらつしやるお姿を見て、ほんたうにうれしうございますわ。
妾が最後のときにお救ひしなかつたら、あなたはそんなにしやんとお立ちになることはできなかつたのですもの。
だけど、もう危險はありませんわ。これからは、妾が、もう二度と危險の來ないやうにしてあげるだけですわ」
彼女はこの最後の文句に
レオはお
「いゝえ」と彼女はやさしく答へた。「あなたのやうな方は、世の中が、病氣などにさしておきやしませんわ。 美しい方つて滅多にないんですもの。妾にお禮などいりませんわ。 妾はあなたがいらつしやたので幸福なのですから。」
「ふん!叔父き」とレオは私の方を向いて英語で言つた。「中々如才のない女ですな。 吾々はどうやらクロヴァーの中へころげこんだらしい。叔父さんもたんとよいことがあつたでせう。 ほんたうに、どうです、あの美しい腕は!」
私は彼にしづかにうするやうに眼くばせした。 それはヴェールの下から私を不思議さうに見てゐたアッシャの眼が疑はしさうに光つてゐるのが見えたからである。
「たしか、妾の召使どもが」と彼女は言葉をつゞけた。
「落度なくかしづいてくれてゐることゝ思ひますが、こんな見すぼらしい處にでも何かお氣に召すものがあつたら、
遠慮なく
「あります」とレオは急いで答へた。「私のそばにゐた女は一體どこへ雲隱れしたのです?」
「あゝ」とアッシャは言つた。「あの娘ですか、あの娘なら見ましたわ。けれど何處へ行つた存じません。 行くと言つて出ましたが何處へ行つたかわかりません。ことによると歸つて來るかも知れませんし、 ことによると歸つて來ないかも知れませんわ。病人の看護といふものは退屈なものですし、 それに蠻人の女なんて浮氣者ばかりですから。」
レオはこの知らせを聞いて變に思つた。そして胸が苦しくなつた。
「どうも變だ」と彼は私に向つて英語で言つた。それから女王に向つて附け加へた。 「どうも私にはわかりませんなあ。あの娘とは -- えゝと、つまり私どもは -- お互ひに尊敬しあつてゐたのですがなあ。」
アッシャは非常に
だが、洞窟の中を見物した模樣を一々書いてゐては、前に私がアッシャに案内されて見たときのことゝ大部分重複するから、 こゝでは一歳省略することにする。勿論レオは此の異状な光景を見て非常に興味を感じたが、 ジョッブは有難迷惑の樣子だつた。
洞窟の見物がすむともう午後四時を過ぎてゐたので、吾々は歸つて食事をした。 吾々は皆食事と休息の必要を感じてゐたのだ。特にレオはさうだつた。 六時になると吾々はジョッブをつれて、アッシャの前へ出た。 彼女はジョッブに十七人の兄弟姉妹があるといふことをきいて、彼に、その兄弟をすつかり、 でなければできるだけ澤山思ひ出して見よと命じた。それから、ジョッブに水の中を覗いて見るやうに言つた。 すると何年も前に過ぎ去つた、ジョッブの兄弟姉妹が團欒してゐる場面が、靜かな水の中に、 彼の頭で思ひ出すまゝに映つた。中にはつきりうつつてゐる顏もあればぼんやりふやけたのもあつた。 それは、ジョッブが咄嗟の場合に、みんなの顏をはつきり思ひ出せなかつた證據なのだ。 ジョッブはこれをみて、また、すつかり氣味わるがつてしまつた。 レオもこれはあまり好まなかつたと見えて、手の指を髮の中へつゝこんで「どうも氣味が惡い」と言つた。
それから、一時間あまりもたつた時に、唖どもが、手眞似で、ビラリがお目通りしたいと言つてゐる旨を告げた。
そこで、ビラリは、いつものやうに、ぶきつちよに四つん這ひになつてはひつて來て、
舞踏がはじまつたといふことをしらせた。まもなく吾々一同は起ち上り、 アッシャは白い
レオがそのことを訊ねると、アッシャは少し笑ひながら「今にわかりますよ」と言つた。
彼女の言葉が了るか了らぬうちに、そこらぢうから、黒い姿が、てんでに、
大きな松明のやうなものをもつて現はれて來た。それは何かよくわからなかつたが、非常によく燃えてゐて、
それをもつてゐる人のうしろで、一
「おや!」と彼は言つた。「あれは火のついて死骸だ。」
私は何遍も眼を据ゑてよく見た。正に彼の言つたとほりであつた。吾々を歡待するための松明の明りは、
洞窟から取り出して來た人間の
燃える死骸をもつた人々は後から後からと進んで來て、吾々から二十歩ばかりはなれたところに集つて、
てんでにもつて來た死骸を組み合はせて大きな
ネロは、基督教徒を生きながらタールの中へ漬けて、それで彼の庭園を照したといふことだが、 吾々もいま丁度それと同じやうな光景を見せられてゐるのだ。恐らく、 こんな光景を見た者はネロ以來吾々がはじめてであらう。たゞ幸ひなことには、 吾々のランプは生きた人間ではなかつた。
生きた人間のお祭り騷ぎの明りに、ずつと昔に死んだ人の死骸をつかふといふことは、 ひどく恐ろしいことでもあつたが、それと同時に何とも言へぬ魅力をももつてゐた。 そのこと自體が死者にとつても生者にとつても一篇の諷詩であつた。 中にはシーザーの死骸もアレキサンダーの死骸もあるかも知れないのだ。
一つの
「妾はあなたに不思議なものを見せてあげると約束しましたでせう、ホリイ」
とアッシャは笑ひながら言つた。彼女の神經だけはこの樣な眺めを見ても平氣だつたらしい。
「あれを御覽なさい、
彼女の言葉がおはらぬうちに人間の
第一の場面は殺人未遂の場面で、その次に犧牲者を生き埋めにしようとし、
犧牲者が墓穴から出ようとしてもがいてゐる場面であつた。どれもこれも皆殺伐極まるもので、
それを演技者はまつたく一語も言はないで演じ、しまひには、犧牲者になる役者をかこんで、
皆の者が兇暴に踊り出し、犧牲者は
ところが突然この陽氣な芝居は中絶された。少しあたりにがや〜騷ぎが起つたかと思ふと、 大柄な、強さうな一人の女が、このいまはしい昂奮に狂醉して、吾々の方へよろめきながらとんで來て金切聲で叫び出した。
「黒山羊がほしい、黒山羊を貰ひたい。黒山羊をつれてきてくれ!」かう言ひながら彼女は岩の床の上にぶつ倒れて、 口から泡を吹き、のたうち廻つて、しきりに黒山羊をせがんで叫んだ。それは實に此の上ない不氣味な、 醜惡極まるながめであつた。
すると忽ち大部分の踊り子は彼女のまはりに集まつて來て輪をつくつた。 尤も少しはまだうしろの方で踊りをつゞけてゐる者もあつた。
「惡魔に取つ憑かれたんだ」とその中の一人が叫んだ。「誰か走つて行つて黒山羊をつれて來い。 さあ、惡魔や、おとなしくしておいで!おとなしくして!今に黒山羊をつれて來てあげるからね! 今つれに行つたのだから。」
「黒山羊がほしい。黒山羊を貰ひたい!」女は泡を吹きながらごろ〜ころげまはつてはまた金切聲を出した。
「よし、よし、惡魔や、今に山羊が來るからね、おとなしくしておいで、よい惡魔だから!」
そのうちに近所の
「黒い山羊か、黒い山羊か?」と憑かれた女は叫んだ。
「さうだよ、惡魔、夜のやうに黒い山羊だ」と言つてから一寸傍を向いて
「うしろへ山羊をかくしとけ、臀と腹とに白い
「山羊!、山羊!、山羊!黒山羊の血をくれ、はやくくれ、くれつたら!おゝおゝおゝ、山羊の血をくれ。」
その時ぎやあつと怖ろしい鳴き聲をあげて山羊は殺された。するとすぐに一人の女が、
血の一ぱいはひつた皿をもつて驅けて來た。憑かれた女は、その時此の上なく物狂ほしくなつて、
泡を吹いてゐたが、その皿をひつつかんで、ぐいとそれを飮みほした。
すると忽ちあの恐ろしいヒステリイの發作はけろりと治つてしまひ、女は兩の腕をのばして、
につこり笑ひながら、また踊り子の群に混つてしまつた。踊り子等は、やがて、
來たときと同じやうに二列になつて出てゆき、吾々と
私はもうこれで饗應はすんだのだと思つて、何だか氣持ちわるくなつたので、女王にもう起つてもよいかと訊ねた。
すると、突然
その踊りは大分長くつゞいた。そのうちに吾々はこの默劇に飽きて來たので、レオと二人で少しぶらぶら歩いて、
人間の松明を見て來てもいゝかとアッシャに訊ねた。彼女は別にそれに逆らはなかつたので、
吾々は起ち上つて、左手の方へ歩いて行つた。一つか二つ燃えてゐる人間の身體を見ると、
吾々はすつかり胸が惡くなつて來たので、あとへ引き返さうとした。
その時吾々は一人の踊子に注意をひいた。その踊子は豹の扮裝をして、仲間の動物から離れて、
吾々のすぐそばでとりわけ元氣に踊つてゐたが、だん〜、
燃えてゐる
「あなた!」といふ囁き聲が私の耳にきこえた。「たうとう妾はあなたを見つけました!
きいて下さい[、]妾の命はいま女王のために取られかゝつてゐるのですわ。
きつと
「勿論すてるやうなことがあるもんか」とレオは言つた。「僕はお前を探してゐたんだよ、アステーン[、] これから行つて女王にわけを話さう。」
「いゝえ、いゝえ、あの
「レオ、わしは頼むから」と私は言ひかけたが、アステーンはすぐに私の話を横取りした。
「いゝえ、この人の言ふことをきいちやいけません。はやく、はやく。死は目の間にあります。
今でも、ことによると女王は妾たちの話をきいてゐるかも知れませんわ」
彼女は片時の猶豫もなく、レオの腕に身を投げかけて、否應なしに相手を説きふせようとした。
彼女が身を投げかけた時に、彼女の頭から豹の頭が辷り落ちた。彼女の頭髮に、三本の白い指のあとが、
星あかりでかすかに光つてゐるのを私は見た。あまりに無鐵砲な計画に私は恐ろしくなつたのと、
それにまたレオは女にかけてはあまり強い方ではないことを知つてゐたので、
私はもう一度口をはさまうとした。すると後の方で、銀鈴のやうなかすかな笑ひ聲が聞えた。
私はうしろを振り返つた。恐ろしや!それは別人ならぬ女王であつた。
女王がビラリと二人の唖の男とをつれて立つてゐたのだ。私は
「お客さま」と彼女は言つた。その聲は此の上ないやさしい聲ではあつたが、
どこかに
「うるさいなあ!」とレオは英語で言つた。
「それからアステーン」と女王は言葉をつゞけた。「ほんとに妾はお前し知らずに通り過ぎるところだつた、
あの光がお前の髮についてゐる白い縞を照してくれなかつたら」かう言ひながら彼女は地平綫の上に昇つたばかりの、
「妾をからかはないで下さい」とかはいさうな女は苦しい聲でうめいた。 「妾を殺して、きれいに片附けてしまつて下さい。」
「おや、どうして?熱い戀の脣から、そんなに速く、冷たい墓場の口へ行くのはよくありませんよ」
かう言ひながらアッシャが合圖すると、唖どもは、すぐさま、づか〜とアステーンのそばへやつて來て、
彼女の兩腕を兩方からつかんだ。畜生つと言ひながら、レオは近くの唖に跳びかゝつて、
その男を地べたに投げつけ、ぢつとその男を睨みつけながら
アッシャは再び笑つた。「ずゐ分見事にお投げになりましたのね。ついこないだまで御病氣だつたにしては、
ほんたうにお強い腕ですこと。でもお願ひですから、この男は殺さないで、妾の
私はレオの腕をつかんで、地べたにへばつてゐる男のそばから彼を引きはなさうとした。 彼は半ば途方にくれてゐたが、私の言ふとほりになつて、その男からはなれた。 そこで吾々は丘を横ぎつて、洞窟の方へ向けて歩き出した。丘の上にはもう踊り子の姿は見えなくなり、 彼等の舞踏を照してゐた明りも消えて、たゞ白い人間の灰ばかりがあとにのこつてゐた。
それから吾々はまつすぐにアッシャの居間へ着いた。次に起ることについて不吉な豫感をもつてゐたゝめに胸がふさいでゐたので、 あまりに早く着いたやうに私には思はれた。
アッシャはクッションの上に腰を下して、ジョッブとビラリを
「さてホリイ」とアッシャは口をきつた。「あなたは妾がこの惡いことをした娘に」
彼女はアステーンを指しながら言つた。「立ち去るやうに
「まつたくの偶然だつたのですよ、女王」と私は答へた。「私は何も知らなかつたのです。」
「妾はあなたの言葉を信じますよ、ホリイ」と彼女は冷やかに答へた。 「妾があなたを信じるのは、あなたのためにしあはせですよ。では罪はすつかりこの女にあるのですね?」
「罪なぞ何もありませんよ」とレオが遮ぎつた。「この女は誰の妻でもありませんよ。そして、
この國の習慣に從つて、私と結婚したらしいですよ。誰も害を受けたものはないぢやありませんか?
いづれにしても、
アッシャは氷のやうに默つてきいてゐた。そして何とも言はなかつた。だが、レオの言葉がをはると、 彼女はアステーンに向つて言葉をかけた。
「お前は何か言ひたいことがありますか。淺墓な女だ。はしたない情慾をみたすために、 妾の意志の風に逆うてまで、うかつにも漂うて行かうと考へるなんて、馬鹿な、 藁すべか羽根みたいなものゝくせに!どうしてお前はこんなことをしでかしたのです。 妾はそれがきゝたい!」
その時のアステーンの態度は世にも驚くべき勇氣と大膽との見本であつたやうに私は思ふ。 此の、あはれむべき、不運な女は、恐るべき女王の手中に生殺與奪の權を握られてゐると知りながら、 しかも以前の苦い經驗から彼女の敵手の力がどんなに偉大なものであるかを知りながら、 泰然自若として、絶望のどん底から、なほ、彼女に挑戰する力を曵き出したのであつた。
「妾がかういふことをしましたわけは」と彼女はきつと身體を伸して、けなげにつゝ立ち上り、 豹の皮を頭から拂ひのけながら答へた。「妾の戀は墓場よりも深いからです。 妾の心が選んだこの人と一緒に生きるのでなければ、妾は生きた死骸も同然だからです。 ですから妾は命を賭けたのです。今では妾の命はもうあなたの怒りにふれて無いも同じです。 けれども、いまでも妾は、命を賭けたことを喜んでゐます。命を賭けた以上は命を支拂はなければなりません。 この方は一度妾を抱きしめて、まだ妾を愛してゐると言つて下さつたのですもの。」
この時アッシャは半ば長椅子から起ち上つたが、また腰を下した。
「妾は魔法は知りません」」と彼女は豐かな聲量を一ぱいにはり上げて言葉をつゝけた。 「それに妾は女王でもありません。またいつまでも死なゝい命ももつてゐません。 けれども女の心といふものは、どんなに深い水の底へでも沈んでゆける程重いものですよ、 女王樣、女の眼はあなたのヴェールの奧まで見とほすことのできる程鋭いものですよ、女王樣!
「おゝお聽きなさい、妾は知つてゐます。貴女は御自分でこの人を愛してゐらつしやるのです。
それであなたの戀の邪魔になる妾を殺さうとなさるのです。妾は死にます。死にます。
死んで暗闇の中へ參ります。それともどこか妾の知らないところへ參ります。ですけれど、
このことだけは妾は知つてゐます。妾の胸には明りが輝いてゐます。 その明りによつて妾には眞理が見えます。
妾のないあとの未來が妾には卷物のやうにひろがつて見えるのです。 妾がはじめて妾の夫を知つた時」と言ひながら彼女はレオを指さして
「あの人の妾への結婚の贈り物は死であることも妾は知つてゐました。 そのことは突然妾にわかつたのです。けれども妾は背を向けないで、
その
その時、これに答へる憤怒の叫びが鳴り響いた。私は聲のする方へ顏を向けた。 アッシャはすつくと立ち上つて手を伸してアステーンを指さしてゐた。するとアステーンは急に默つてしまつた。 私はこのかはいさうな女をぢつと見つめた。私が見つめてゐるうちに、彼女の顏には、以前に、 變な歌を歌ひ出したときと同じやうな、悲しさうな、恐怖の表情が浮んで來た。 彼女の眼は大きくなり、鼻孔はひろがり、脣は白くなつた。
アッシャは一言も言はず、ごとりとも音をさせないで、たゞ身體をしやんと伸して、腕を差し出してゐた。
そしてヴェールにまとはれた彼女の高い全身は
しばらくの間レオは何が起つたのか知らなかつた。だが我に返ると、彼の顏は見るも凄まじい形相になつた。
荒々しい呪ひの言葉を叫びながら、死骸のそばから起ち上つて、向き直つたかと思ふと、
文字通り、アッシャに跳びかゝつた。だが、彼女はそれを見てゐた。そしてまた手を差し出した。
するとレオはよろ〜と私の方へよろけて來て、私がつかまへなければ倒れてしまふところだつた。
あとで彼は、その時のことを、まるでだしぬけに胸の
その時、アッシャは言つた。「どうぞ妾をゆるして下さい、お客樣」と彼女はやさしく彼に話しかけた。
「若し妾の
「貴樣を許せつて、惡魔!」とかはいさうなレオは怒りと悲しみとに兩手を握りしめて叫んだ。 「貴樣を許してくれつて、この人殺しめ!きつと、殺せるものなら、殺してやる!」
「いゝえ」と彼女は前と同じやさしい聲で答へた。「あなたにはおわかりならんのです。 今こそあなたも知つてよい時です。あなたは妾の戀人です。妾のカリクラテスです。 妾の夫です!妾の力です!二千年の間妾はあなたをお待ちしてゐました、 カリクラテス。そして、今やつとあなたは妾のところへお歸りになつたのです。 それからこの女は」と死骸を指さしながら「妾とあなたとの仲を邪魔したのです。 ですから妾は殺してしまつたのですよ、カリクラテス!」
「
「あゝ、あなたは、あなたの先祖がカリクラテスだと
「僕はカリクラテスぢやない。それに貴樣の夫だつて、或は貴樣の何かだつて。 そんなものになる位なら、僕は地獄の惡魔の夫になる。惡魔でも貴樣よりはましだ。」
「ずゐぶんなことを
「僕は貴樣がきらひだよ、人殺し、それにちつとも貴樣なんか見たくない。 貴樣がどれ程美しくたつて、それが僕に何の關係があるんだ。僕はほんたうに貴樣が嫌ひだよ。」
「でも、ほんのもうしばらくたてばあなたは妾の膝の前に這つて、妾を愛するとお誓ひになりますよ」 とアッシャはやさしい、からかふやうな笑ひを浮べながら答へた。「さあ、いまがちやうど誂へ向きの時です。 このあなたを愛してゐた死んだ娘の前で、それを證據立てやうぢやありませんか。
「さあ、妾を御覽なさい、カリクラテス!」かう言ひながら彼女は、急に身を動かし、
「あゝびつくりした!」とレオは息を切らしながら言つた。「あなたは女ですか?」
「女ですとも、正眞正銘の女ですわ。そしてあなたの妻ですわ、カリクラテス!」と彼女は答へた。 そして、圓い象牙のやうな腕を彼の方へ差し出して、何とも言へぬ美しい笑ひを洩らした。
彼は飽かずに彼女をしげ〜と見まもつてゐたが、だん〜彼女の方へにじりよつて行つた。 その時急に彼の眼は氣の毒なアステーンの死骸の上に落ちたので、ぶる〜身震ひしてたち停まつた。
「どうしてそんなことが?」と彼は
ほら、もう、彼は彼がアステーンを愛してゐたことを忘れてゐたのだ。
「そんなことは何でもありませんわ」とアッシャは樹の間を渡り行く夜風のやうなやさしい聲でつぶやいた。 「何でもありませんわ。若し妾が罪を犯したのなら、妾の美しさに免じて許して下さい。 妾が罪を犯したのも、あなたを愛すればこそです。ですから妾の罪などは、うつちやつて、 忘れて下さいね。」そして彼女はもう一度兩の腕を伸して「」いらつしやいと囁いた。 それから數秒間で萬事が決着してしまつた。
私はレオがもがいてゐるのを見た。彼が逃げ出さうとしてゐるのをさへ見た。だが、彼女の眼は鐡の鎖よりも強く彼をひきつけ、
彼女の美しさと、集中された意志と情熱との怪しい力は彼の心の中へ沁み
私は再び見上げた。その時には彼女の身體は、すつかり彼の腕に抱かれ、彼女の脣は彼の脣におしつけられてゐた。
かくして、死んだ戀人の屍體を祭壇として、レオ・ヴィンシイは、 戀人の血で手の染まつた殺人女と結婚の誓ひをかはしたのである。
その誓ひは
突然彼女は蛇のやうに身をくねらして彼の抱擁から辷り拔けたかと見ると、再び低い聲で、 からかふやうな勝利の笑ひを洩らし、アステーンの屍體を指しながら言つた。
「妾は、しばらくすればあなたが妾の膝の前に這ひなさると言つたでせう、 カリクラテス?ほんたうに、あまり長い時間はかゝらなかつたわねえ!」
レオは恥しさと面目なさとで呻いた。彼はすつかり、壓倒され、打ちひしがれてゐたけれど、 自分がどれだけ墮落の深味へしづみこんだかに氣のつかぬ程性根が腐つてはゐなかつた。
アッシャ三度び笑つた。そして大急ぎでヴェールをかぶつて、不思議さうな眼をしてこの妙な場面を見てゐた唖娘に合圖をした。
すると唖娘は
カーテンが搖れて、もとの位置にかへり、その蔭へ氣味の惡い一行が消え去つたときアッシャは 「あゝ過去の死人は過ぎ去つて行く」と嚴肅に言つた。それから、また彼女はがらりと氣分を一變して、 ヴェールを脱ぎすて、アラビラ[原文のまま]の住民の古い詩的なしなをつくつて、勝利の讚歌、 或は結婚の祝ひの歌を歌ひ出した。それは實に美しい情味に溢れた歌であつたが、 英語に飜譯するのは非常にむづかしい。それは、實際書いたり、讀んだりする歌ではなくて、 音樂にあはせて歌ふ歌である。それは二部に分かれてゐて、第一部は敍事詩で、第二部は抒情詩であつた。 私のおぼえてゐるかぎりを記すとそれは次のやうな歌であつた。
戀は沙漠の花に似たり。
たゞ一度花さきて枯れてゆく、アラビアの蘆薈 に似たり。つらき浮世に花咲きて、 浮世の荒野を飾るなり、嵐の上の星のごとく。
戀の日輪は精靈にして、その周圍には神風そよぐ。
過ぎ行く人の跫音 に戀は花咲き、過ぎゆく人にしなだるゝ。
過ぎ行く人はこれを摘む。蜜に充ちたる赤き花を摘みて、沙漠の中を運びゆく。 花枯るゝまで、沙漠の盡くるまで。
人の世の荒野に咲く赤き花は唯一つ、
その花こそは戀なれ!
吾等が放浪の闇を照す光は唯一つ。
その光こそは戀なれ!
吾等が絶望の夜に輝く希望は唯一つ。
その希望こそ戀なれ!
戀ならぬものは皆僞 りなり。水に搖 ぐ影なり。風なり、空虚なり。
戀の大きさを知るものありや?
戀は肉より生れて靈に宿り、靈と肉とより樂しみをとる。
戀の美しさは星の如し。
その形は樣々なれど、美しさはみな一つ。その星の何處 より昇り、何處 へ沈むかを知る者はたえてなし。
それからアッシャはレオの方に向きなほり、彼の肩に手をおいて、前よりも一段と朗らかな、 勝ち誇つたやうな調子で歌ひはじめた。釣合のとれた歌の節は徐々に高潮に逹してロマンチックな散文から、 清淨、莊重な韻文にかはつていつた。
戀人よ、吾は長くおん身を戀しね。されどわが戀は衰へざりき。
吾、おん身を長く待ちし甲斐ありて、今や報ひは來れり。
遠き昔吾はおん身を見ぬ。おん身は吾より奪はれゆきぬ。
吾は墓場に忍耐の種を蒔き、希望の日にてそれを照らし、悔恨の涙もて水かひ、智慧のいぶきをかけぬ。
さればいま種子は芽生えて實を結べり。見よ、そは墓場より芽ばえぬ。さなり枯れたる骨と屍 の中より。
吾、待ちわびし報いは今ぞ來れり。
吾は死に打ち克ち、死は死せる人を吾にかへしぬ。
されば吾樂しまsん、未來は美しければ。
吾等が過ぎ行く牧場 は永久 に緑なり。
時は來れり。夜は溪間 へ去れ!
曙は山頂に接吻 せり。
戀人よ、吾等樂しく過さん、安らかに行かん。
吾等王冠を戴かん。
世の民はみな、吾等をあがめ、吾等に驚き、吾等の美と力とに眼くらみて平伏 さん。 吾等の偉 さは時より時へと鳴り響き、限りなき日を走りゆく戰車の如く轟 かん。
吾等笑ひながら勝利の榮華に馳せゆかん。
小山にをどる日光の如く笑ひながら。
勝利より新たなる勝利へと限りなく進まん。
力より新たなる力へと限りなく進まん。
光榮を身にまとひて倦まず進まん。
吾等の運命をはりて、夜の襲ひ來るまで。
彼女はこの不思議な歌を歌ひ了ると、ちよつとやすんでから言つた。
「多分あなたは妾の言葉を信じなさらんでせう、カリクラテス。 多分あなたは妾があなたをだましてゐるとお思ひでせう。
妾が長い年月の間生きてゐたとか、あなたが生れ
彼女はしばらく言葉をきつたあとでまつゞけた。「お待ちなさい。もしまだ合點がおゆきなさらなぬなら、 そして何か證據を御覽になりたいなら、今すぐその證據をお目にかけませう。ホリイ、あなたにも見せますわ。 お二人ともめい〜手燭をもつて、妾のあとからついて來て下さい。」
私は、いくら考へて見たつてわからぬことだらけなので、もう考へることをやめてしまつた。 そして吾々は手燭をもつて彼女のあとについて行つた。
アッシャが
階段を降りきつたところで立ち停つて、擦り減つた階段を見つめてゐるとアッシャが私の方をふり返つた。
「この岩をこんなに踏み減らしたのは誰の足だらうと不審がつておいでなんですか、ホリイ?」 と彼女は訊ねた。「これは妾の足ですよ。この輕い妾の足なのです。 妾はまだあの階段が新しくて平らだつた時のことをおぼえてゐます。 だが、二千年あまりの間、妾は毎日々々この階段を通つたのです。 ですから御覽なさい。妾の雪駄で、固い岩がこんなに減つてしまつたのです!」
この階段は
「此處に」とアッシャは岩の上に手をのせながら言葉をつゞけた。「私は毎晩毎晩、この長の年月、
外套一枚着て眠つたのです。妾の夫が妾の夫が」と言ひながら彼女は石の寢臺に寢てゐる固くなつた人の姿を指して
「こんなに固くなつて死んでをられるのに、妾が柔かい夜具にくるまつて寢るなんて不都合ですものね。
こゝに、妾は、毎晩毎晩、冷たくなつたつれあひと一緒に寢てゐたのです。御覽なさい、この石の板は、
今しがた妾たちが通つて來た階段と同じやうに、妾が身體を動かしたのでこんなに磨り減つてゐます。
それほどまでに妾は、あなたが眠つていらつしやる間もあなたに
吾々は返事もしないで、呆氣にとられて顏を見合せた。アッシャは前へ進み出て、屍衣の端をつかんでまた語り出した。
「吃驚なさることはありませんわ」と彼女は言つた。「あなたがたには不思議に見えるかも知れませんが、 現在生きてゐる者は、みんな以前にも生きてゐたことがあるのです。たゞ妾たちがそれを忘れてゐるだけのことです。 でこれから死んだあなたと生きてゐるあなたとをあはしてあげませう。おくら長い年月がその間に横はつてゐても、 あなたは矢つ張りあなたです。恐れるには及びませんよ、カリクラテス、これから、 こないだ生れ更つたばかりのあなたが、遠い昔に此の世を去つたあなたを御覽になるのです。妾は、 ほんの妾の生涯の一ページをめくつて、そこに書いてあることをあなたにお目にかけるのです。 さあ御覽なさい!」
急に身を動かして、彼女は冷い身體から屍衣を拂ひのけて、その上を手燭で照した。
私はそれを見て、ぞつとして身體をすくめた。實に、吾々の前に石の棚の上に白衣をまとうて横はつてゐたのは、
レオ・ヴィンシイそのまゝの人の姿であつたのだ。私はそこに生きて立つてゐるレオと、死んで横はつてゐるレオとをじろ〜見くらべた。
二人の間には少しの違ひもなかつた。たゞ横はつてゐる方のレオがいくらか老けて見えただけであつた。
顏の造作の一つ一つもすつかり同じで、レオの顏をなみ〜ならず美しく見せてゐる
私は、レオがどんな樣子をして、この死んだ自分を見てゐるかと思つて彼の方を振りむいた。 彼は呆然としてゐた。そして二三分間棒立ちになつて、默つてそれを見てゐたが、たうとう吐き出すやうに叫んだ。
「それをかくして下さい、そして私をあつちへつれて行つて下さい。」
「まあお待ちなさい、カリクラテス」とアッシャは言つた。彼女はまるで神の靈示を受けた巫女のやうにつゝ立つて、 頭上に手燭をかざし、彼女自らの豐かな美しさと、屍衣をまとうて棚の上に横はつてゐる不思議な冷たい屍躰とを照しながら、 莊重な、闊逹な言葉で、おごそかに語り出した。
「お待ちなさい。これから或るものをあなたにお目にかけますわ。妾の罪をあなたに
私は指を慄はしながら彼女の命令に從つた。
私のそばにゐる生きた人の眠つた
「御覽になつたでせう」と彼女は言つた。「あなたを殺したのはこの妾なのですよ。
妾はあなたに
彼女は、彼女の寢臺につかつたのだと言つた別の長椅子から、大きな、柄の二つついた硝子の壺を取り出した。
その口は膀胱で閉ぢてあつた。彼女はこの蓋をゆるめて、先づ、そつと死骸の上に身を屈めてその額に接吻をし、
それから、蓋をとつて、中の液が一滴でも吾々や彼女自身の身體へ飛ばないやうに非常に用心をしながら、
壺の中の藥液を死骸の上にふりかけた。それから殘つてゐる
「塵は塵へ!過去は過去へ!失はれたるものは失はれたるものへ!カリクラテスは死んだ、そして生れ
灰は吾々の身のまはりに漂うてゐたが、やがて岩の床の上に散りしいた。その間、吾々は、 默つてそれの落ちるのを見てゐた。あまりのことに呆氣にとられて言葉も出なかつたのである。
「さあもう行きなさい」と彼女は言つた。「そして眠れたら、よくお
そこで吾々はお
吾々の
「僕はどうしたらいゝでせう、叔父さん?」と彼は悲しみのあまり、彼の手を私の肩において、
うなるやうに言つた。「僕はあの女を殺さしてしまつたのです。しかも殺されるのをだまつて見てゐたばかりか、
五分間もたゝぬうちに、あの女の屍骸の上で、あの女を殺した當の女と接吻をしたのです。
僕は墮落した獸だ。だが僕はそれをどうすることもできない。」こゝで彼は一段聲を沈めて
「恐ろしい魔法使ひだ。僕は明日も同じやうにするにきまつてゐます。僕はもう永久にあの女に支配されるにきまつてゐます。
僕にはそれが判つてゐるのです。たとひ、これから先二度とあの女を見なくても、
僕は一生あの女より他の女のことは考へんでせう。僕は針が磁石についてゆくやうにあの女についてゆくに違ひありません。
僕はいま此の場を逃げることができても逃げたくないのです。あの女からはなれることはできんのです。
僕の足がいふことをきかんでせう。だが僕の心はしつかりしてゐます。僕は心の中であの女を憎んでゐる。
少くも憎んでゐると思つてゐる。何もかも怖ろしい。それにあの死んだ男、あれをどうすることができやう?
あれは僕だつたのです!僕は賣られて
その時私ははじめて、私もそれと同じやうな經驗をしたことを彼に話した。すると、レオは、 彼自身が溺れきつてゐたにも拘らず、私に同情してくれるだけの分別をもつてゐた。 このことは是非言つておかなくちやならぬ。多分彼は嫉妬するのがものでもないと考へたのであらう。 あの女については、彼の方では嫉妬する理由は何もなかつたからである。 私は彼に逃げ出さうではないかと勸めて見た。だがすぐに、到底逃げおほせるものではないことをさとつた。 それに、洗ひざらひ正直に言つてしまへば、何か素晴らしい力があつて、 この陰氣な洞窟からケンブリッヂへつれて行つてやらうと申し出たにしても、 吾々は二人ともアッシャからはなれる氣にはならなかつたらうと私は思ふ。 吾々は、蛾が身を焦すのを知りながら光からはなれることができないやうに、彼女から離れることができなかつたのだ。 吾々は札つきの阿片常用者のやうなもので、 正氣の時には自分のやつてゐることがどんなに恐ろしいものであるかをよく知つてゐるにかゝはらず、 その恐ろしい快樂をすてる氣にはならなかつたのだ。
誰だつて、一度彼女のヴェールをとつた姿を見、彼女の樂の音のやうな聲を聞き、
彼女の言葉に含まれてゐる若い智慧を呑んだ人なら、どんなことがあつたつてその快樂をすてる氣にはならぬだらう。
ましてや、レオの場合のやうに、この素晴らしい女から獻身的に愛慕され、
二千年もの間彼のために
疑ひもなく彼女は惡い人間だ。それに疑ひもなくアステーンが戀の邪魔をした時に、彼女を殺した。 だが、彼女は戀には忠實であつた。男の性質として、兎角女の罪は輕く考へ勝ちなものだ。 とりわけその女が美しくて彼を愛するあまり罪を犯したやうな場合には猶更さうだ。
私は今に至るまでアッシャを愛してゐる。そして他のどのやうな女に一生愛されるよりも、 たつた一週間でもいゝから、彼女に愛される身になつて見たいと思ふ。私の言葉を疑ふ人や、 私を馬鹿だと思ふ男に、一度アッシャのヴェールを脱いだ姿を見せたら、 その男の意見はすぐに變つて私に同感するにきまつてゐる。私は勿論男について言つてゐるので、 女はさうでないかも知れない。女はかういふ女をきらふかも知れないのだ。
二時間あまりの間、レオと私とは、吾々が今までに經驗した不思議極まる事件について語りあつた。 それは、嚴肅な事實ではなくて、まるで、お伽噺の中の夢のやうに思はれた。壺の破片にしるしてあつた文字が、 眞實であつたばかりでなく、吾々が、その事實であることを實際に確かめ、コオルの墓場の中で、 吾々の來るのを二千年も待つてゐた女にあつたなんて言つたつて誰が信ずるものがあらう? 彼女がレオを見て、これが彼女が二千年間待つてゐた戀人だといふことを一目で見わけたなんて言つたつて誰が信ずる者があらう。 だが、これは事實だつたのだ。吾々は人間の智識の無力さをつく〜゛痛感しながら、これから先の運命を天にまかせて床についた。
「だつて兎に角あの女はレオの生命を助けてくれたぢやないか」と私は言つた。
「さうです。しかし、その代りに、あの女はレオ樣の魂をとつてしまひますよ。
あの女はレオ樣をあの女と同じやうな魔法使ひにしてしまひますよ。
あんな連中にかゝりあふことは惡いことだと私や思ひますね。私や、昨夜眠れませんので、
床の中で、
「實際、妙な國だね、こゝは、それにこゝに住んでゐる人間どもゝ妙な人間どもだ!」
「さうでございますとも」とジョッブは答へた。「それに、こんなことを言ふと、
あなた樣は私を馬鹿だと考へなさるかも知れませんが、レオ樣の樣子は普通ぢやございませんよ」 --
(レオは早く起きて散歩に出てゐたのである) -- 「それから、私はこの國から無事にや歸れませんよ。
そのことを私は知つてゐるのでございます。昨夜私や夢を見ましたが、その夢の中で、私の年老つた親父が、
この國の晴着のやうな着物を來て、途中でとつて來たものと見えて、
この洞窟の入口から少し行つたところに澤山咲いてゐる妙な草花をもつて私に會ひに來ましたよ。
そして妙にかしこまつた口つきで、これでおさらばなんて言ふのです。 どうも私の
「馬鹿を言ふな、親父の夢を見たからといふて人が死ぬんだつたら、
「あなた樣は、私の親父を知らないからからかひなさるが」とジョッブは言つた。 「私の親父は特別なのです。私だつて別の人の夢を見たんなら何でもありませんが、 たとへばマリイ伯母さんの夢なんかなら何とも思ひませんが、私の親父と來たら特別なんです。 あの怠け者の親父がこんなところまで來るなんてよく〜のことです。 きつと私に用事があつたのでございますよ。だが、それはもう仕方がありません。 私は諦めてゐるのです。誰だつて一度は死なにやならんのですから。 けれどもせめて基督教式で埋めてほしいと思ひますよ。ホリイ樣、もしあなた樣が、いつか、 この土地から出なさる時があつたら、私の白くなつた骨だけをよくお願ひしときますよ。 あなた樣は多分出られるやうな氣がするのです。」
「おい、おい、ジョッブ」と私は眞面目になつて言つた。「そんな
「いゝえ」とジョッブは固く信じてゐるやうな調子で言つた。私に[原文のまま]それを聞くと何だ[原文のまま]惡くなつた。
「これは
「馬鹿な、馬鹿な1」と私は怒つて怒鳴つた。
「ほんたうに、こんなところで、あなた樣と議論してゐる場合ぢやありませんでした。だがこれから先も、 私を一緒につれていつて下さい、ホリイ樣。ところで、これから朝食をもつて參りませう。」 かう言ひながら彼は出て行つた。後にのこされた私はひどく氣がむしやむしやして來た。
私はジョッブを非常に可愛がつてゐた。この男は、私が生涯にかゝりあつた人間の中で、誰よりも氣だてのよい、 正直な男であつたので、私は召使といふよりも寧ろ友逹のやうにつきあつてゐたのである。 だから彼の身に何事か起るのではないかと思ふと、咽喉に塊りができるやうな思ひがしたのだ。 彼の言つたことは、なる程つまらぬことではあつたが、その言葉の底に、 何事かゞ彼の身に起ることを彼がかたく信じきつてゐることがわかつた。 それはたわいもない迷信であるにしろ、私はいくらかひやりとせざるを得なかつた。
やがて朝の食事が運ばれて來た。それと同時に散歩に行つてゐたレオも歸つて來た。
此の際、レオと食事とは兩方とも私には有り難かつた。といふのはそのお蔭で氣をまぎらはすkとができたからである。
朝食がすむと、吾々はまた散歩に出かけて、アマハッガー人が
散歩から歸るとビラリが待つてゐて、女王が吾々に會ひたいと言つてゐる旨を告げた。 そこで吾々はおそる〜彼女の前へ出た。アッシャといふ女は世間一般の通則の例外で、いくら彼女と親しくなつても、 情熱や、驚異や、恐怖の念を抱かせこそすれ、侮蔑の念を抱かせるやうなことはなかつたのである。
吾々はいつものやうに唖どもに案内された。唖どもが去るとアッシャはヴェールを脱いでもう一度レオに抱擁してくれと言つた。 それは前夜のうちに彼が變心したかどうかをためすためだつたのだが、彼は嚴格な禮儀としての必要以上に勇んで、 熱をこめて彼女を抱擁した。
女王は白い手をレオの頭にのせて、彼の眼をなつかしげにしげ〜と見ながら言つた。「ねえ、カリクラテス、あなたは、
いつになつたら妾をすつかりあなたのものだと呼べるやうになるかとあやしんでいらつしやるでせう。
いつになつたら妾たち二人が、お互にお互のものとなれるかを疑つていらつしやるでせう。
それを聞かしてあげますわ。先づ第一に、あなたは妾と同じやうにならなくちやならないのですよ。
不死の身になるといふわけではありません。妾だつて不死ぢやないのですから。けれども、
時といふものに襲撃されないやうにかたく武裝しなくちやなりません。それまでは、
あなたと妾とは夫婦になるわけにはゆかないのよ。でないと、あなたと妾とはちがつてゐるのですから、
妾の輝かしさがあなたを燒きつくして、あなたの身をほろぼしてしまふかも知れないわ。
あなたは妾をあまり長い間見ていらつしやることすらできないのよ。あまり長く見てゐると、
あなたの眼が痛んで、あなたの五官がくらんで來ますからね、ですから」と言ひながら彼女はちよつとうなづいて
「妾はすぐにヴェールをかけます」(
レオはこの驚くべき言葉に對して何か口の中でむにやむにや言つたやうであつたが、彼が何を言つたか私はわからなかつた。 彼女は彼が狼狽してゐるのを見て、少し笑ひながら言葉をつゞけた。
「それから、ホリイ、あなたにもこの冥利にあづからせてあげませう。さうすればあなたはいつまでも若くてゐられるのです。 あなたに妾がこのやうな恩典をさづけてあげるのは、あなたは大變妾を喜ばせてくれたからですよ。そして、 あなたは大抵の人間の子のやうに、まつたくの馬鹿ではないからです。それに、あなたは昔の哲學者と同じやうに、 馬鹿らしい哲學を信じてはいらつしやるけれど、 立派な文句も女の眼にあふとどんな風になつてしまふかを忘れていらつしやらぬからですわ。」
「おや叔父さん」とレオはいくらか以前の快濶な氣分に返りながら言つた。 「するとあなたもあの女に變なことを言つたと見えますね、あなたはまさかと思つてゐましたよ、僕は。」
「有り難う、アッシャ」と私はできるだけ威嚴をくづさないやうにして答へた。「けれども、
若しあなたの
「だがね、ホリイ」と彼女は言つた。「長い
「でも、その人間にとつて貴重なものとは何です、女王?」と私は答へた。 「そのやうなものは皆泡沫ではありませんか?功名心なんていふものは果しのない梯子のやうなものではありませんか。 どこまで登つても、上には上があつて、休息の處がないぢやありませんか? 富なんていふものは、すぐに飽きてきて、吾々の樂しみを充す事もできなければ、 心の安息を買ふ事もできなくなるではありませんか?智慧だつて同じです。吾々は學べば學ぶ程、 吾々の無智を知つてくるに過ぎません。吾々がたとひ一萬年生きてゐたとて、太陽の祕密や、 太陽の彼方の祕密を解くことができるでせうか?」
「でも戀といふものがありますよ、ホリイ。戀は凡てのものを美しくします。 妾たちの踏む埃ですら神々しいものにしますよ。戀さへあれば人生は樂しい、高尚なものになりますよ。」
「さうかも知れませんが」と私は答へた。「
女王は私の考へを、彼女一流の哲學をもつて
レオはこんな風に頼まれたので、
彼の先祖の
「ねえ、ホリイ、こないだ、妾は、あなたに、善から惡の生ずることもあり、惡から善の生ずることもあると言ひましたね。
彼は彼女を眺めた。そして手を伸して彼女を起ち上らせた。
「起ちなさい、アッシャ」と彼は悲しげに言つた。「あなたは、私があなたを傷つけ得ないことを承知でいらつしやるのです。
あなたが、たつた
「どうやら妾を愛し始めて來られたやうですわね、カリクラテス」と彼女は微笑ながら答へた。
「ではこれからあなたのお國のことでも承はりませうか?隨分大きな國なんでせう?
「ところが英國にはもう女王が既にあるのです」とレオは急いで言葉をはさんだ。
「そんなことはかまはないぢやありませんか」とアッシャは言つた。「そんな女帝は倒してしまへばよいでせう?」
この言葉をきいて吾々は困つてしまつた。 そして、そんなことをする位なら吾々自身が倒れてしまふ方がましだといふことを彼女に説明した。
「妙ですねえ」とアッシャは驚いて言つた。「人民が女王を愛するなんて、 きつと妾がコオルに住んでゐる間に世の中の樣子がまるで變つてしまつたのですわね。」
「それにあなたのやうに人を殺したりすると英國では罪を受けるのです。法律に照して、 多分斷頭臺にたゝされるでせう。」と私は言つた。
「法律ですて[原文のまま]」と彼女は嘲笑した。「あなたにはまだわからないのですか、
妾は法律を超越してるつてことが。そしてカリクラテスも今にさうなるのです。人間の法律なんてものは、
妾たちにとつては、山にぶつつかつて來る北風のやうなものです。嵐のために山が
「だがもうこれでお別れにしませう。カリクラテスもうあつちへ行つて下さい。妾も旅の
そこで吾々は女王のそばを辭した。私は、吾々の前に開かれた、大變な問題についていろ〜と考へた。
女王はたしかに英國へ行かうと決心したらしい。彼女が英國へ行つたらどんなことになるだらうと思ふと、
私はぞつとした。彼女の力を私はよく知つてゐる。そして彼女はきつとその力を十分に發揮するに相違ない。
彼女は自分の邪魔をするものは、
所定の時刻の數分前に吾々はアッシャの居間へ呼ばれた。彼女もすつかり準備を了へて、 屍衣のやうなヴェールの上に黒い外套をまとうてゐた。
「冐險の用意はできまして?」と彼女は言つた。
「用意はできました」と私は答へた。「しかし私は、これから先のことを信じてはゐませんよ、アッシャ。」
「ほんたうに、あなたは昔のユデア人[原文のまま]そつくりですわね、ホリイ」と彼女は言つた。 「人の言葉を信じないで、自分の信じないことは用意に受け容れないところはそつくりよ。 私はあのユデア人のことは思ひ出しても腹がたちますよ。だがまあの鏡を見て御覽なさい」 と言ひながら彼女は清らかな水のはひつた水盤を指して「道は昔のまゝですよ。さあこれから、 いつまでつゞくかわからない新しい生涯の門出に旅立ちませう。」
「いつまでつゞくかわからない?」と私は鸚鵡返しに言つた。そして吾々は中央の大洞窟を通り過ぎて洞窟の外の明るみへ出た。
洞窟の入口には一挺の駕籠と六人の駕籠かきとが待つてゐた。それはみんな唖だつた。
その中に交つて、ビラリ老人がゐたので、私はほつとした。私はこの老人に一種の愛着を感じてゐたのである。
アッシャは彼女以外のものはみんな徒歩でついて行つた方がよいと考へたらしい。
吾々も
數分間たつと、吾々は、斷崖の中に嵌めた巨大なエメラルドのやうな形をした大耕地或は湖床を横ぎつてゐた。
こゝで吾々はまた今更のやうに、コオルの人民が彼等の首都として選んだ場所の自然の壯大に驚歎し、
この都市の建設者がこの大きネ湖の排水工事に支拂つた、驚くべき勞力と、精巧と熟練とに驚歎した。
私の經驗の限りでは、人間が自然に對して加へた工事のうちで、これ位大仕掛けのものはまだ見たことがない。
スエズ運河もモン・セニス
吾々は、毎日此の時刻になるとコオルの大平原をおそつてくる氣持のよい涼しさ、四面岩山に圍まれてゐて、 海からも陸からも風の吹いて來ない土地で、幾分風のかはりになつてゐる涼しさを味はひながら、 約半時間も歩いてゆくと、ビラリが前に吾々に告げた大都市の廢墟だといふ建物をはつきりと見ることができた。
こんなに遠くから見ても、吾々はこの廢墟が如何に素晴らしいものであるかを知ることができた。
しかしこの事實は
吾々の眞正面に、かつてこの町の目貫きの大通りだつたらしい通りがあつた。といふのは、
それは非常に廣くて眞直だつた。テエムズ
やがて吾々は途方もない大きな廢墟の堆積のところまで來た。それは少くも八エーカーばかりの地面を占領してゐた。 寺院のあとであることが吾々にはすぐわかつた。
この寺院はテエベのエル・カルナックの寺院にも劣らぬ程大きなもので、一番大きな柱は基部の直徑十八呎乃至二十呎、 高さ七十呎もあらうと思はれた。この大寺院の正面に吾々一行は足を停め、アッシャはそこで駕籠から降りた。
「こゝに眠つてもいゝやうな
「矢つ張り昔の儘ですわ」と言ひながらアッシャは食料品や吾々の荷物をもつて來た唖を手招いた。
一人の唖が進み出て、ランプを取り出しそれに火をつけた。吾々はすぐ中へはひつた。
それは厚い岩をくりぬいてこしらへた
こゝで吾々は夜を明すことになつた。で、できるだけ竒麗に掃除をして、吾々、と言つても、
レオとジョッブと私とは冷肉を食つた。といふのは、前にも言つたと思ふが、
アッシャは麥粉でこしらへた菓子と果物と水との外には何も手に觸れなかつたからである。
吾々がまだ食事を了へないうちに、滿月が山壁の上に昇つて、
「妾がなぜ今夜あなた方をこゝへお連れしたか、わかりますか、ホリイ?」とアッシャは頬杖をついて、 莊嚴な寺院の柱の上に昇つてゐる、空の女王ともいふべき月をみまもりながら言つた。 「妾がこゝへお連れしたのはね -- あら妙ね、カリクラテス、あなたが今坐つていらつしやる處は、 ずつと以前にあなたの死骸が寢てゐた處ですよ。妾はそこからあなたの死骸をコオルの洞窟まで運んでいつたのです。 あの時の事が目に見えて妾は怖しくなりましたわ。」かう言ひながら彼女はぶる〜慄つた。
レオは急いで席をかへた。
「妾があなた方をおつれしたのはねね」と彼女はすぐに言葉をつゞけた。 「人間の眼がこれまでに見たことのないやうな素晴らしい光景をお見せしたいからですよ。 コオルの廢墟を照す滿月をお見せしたいからですよ。食事がすんだら外へ出て、この大寺院と、 昔こゝに住んでゐた人々が禮拜した神とを御目にかけませう。」
勿論吾々はすぐに起ち上つて出發した。だが、この滿月に照された寺院の光景を描くことは到底私には出來ない。
吾々は聲を出して物を言ふことすらも出來なかつた。
アッシャすらも彼女の長い命も物の數でない程古いこの廢墟に立つては嚴肅の氣に打たれてゐた。
吾々はたゞ
「いらつしやい」と吾々が吾を忘れて恍惚と眺め入つてゐたときにアッシャは言つた。 「これから石でつくつた美の花をお目にかけませう。これこそ驚異の絶頂ともいふべきものですわ。 多分、その美しさをもつて時の力を嘲笑し、ヴェールの後を見たさの念願で男の胸を焦させながら、 今でも殘つてゐるでせう」かう言ひながら、返事も待たずに、彼女はこの古い寺院の内院へ吾々を案内して行つた。
五十
この女像は、純白の大理石を刻んでつくつたもので、幾千年の星霜を經た今日でも、 まだ月光を浴びて艷々と光つてゐた。その高さは二十呎以上もあらうと思はれた。 それは翼のある、限りなく美しい女人の像であつて、しかも、 それが實物よりも大きいことは却つて益々この像の人間的なまた靈的な美しさを増してゐるやうに思はれた。 女像は前屈みになつて、半ば擴げた翼と釣合のとれるやうな姿勢をして立つてゐた。
兩の腕を、限りなく愛するものを抱擁せんとする女の腕のやうに前に差し出し、全身の姿勢は、 この上なくやさしい心をこめて何事かを哀願してゐるやうな印象を與へた。 女像の完全優美を極めた姿は裸體であつたが、驚くべきことには、顏だけにはうすいヴェールをかけてゐたので、 顏の輪廓だけしかわからなかつた。顏のまはりに投げかけられてゐるうすいヴェールの一端は、 ふくよかな左の乳房の上に埀れかゝり、他の一端は今は破れて、顏のうしろへなびいてゐた。
私はこの女像から目をはなすとすぐに「この女は誰です?」と訊ねた。
「お見當がつきませんか、ホリイ?」とアッシャは訊ねた。「まあ、あなたの想像力はどうしてゐるのです? これは世界の上に立つて世界の子等に彼のヴェールをとれと呼びかけてゐる眞理ですよ。 御覽なさい、あの臺に書いてある文字を。きつとこれはコオルの人民の聖典からとつた文句だらうと思ひますわ」 かう言ひながら彼女は女像の臺の下まで進んで行つた。そこには例の漢字のやうな象形文字が深く刻まれてゐたので、 アッシャには容易に讀むことができた。彼女が飜譯してくれたところによるとそれは次のやうな意味の文句であつた。
「吾がヴェールを取り去りて、吾が美はしき顏を見る人はなきや?吾は吾がヴェールを取り去る人のものとなり、 その人に平和を與へ、智慧と善事の愛兒を與へん。」その時聲あり叫びて曰く「汝を探しもとむる者皆汝を得んと欲すれど、見よ汝は未だ處女なり。 而して時の終るまで汝は處女ならん。女の
胎内 より生れたる者にして汝のヴェールを取り去りて生を完 うせる者なく、 將來も亦 あらざるべし。死によりてのみ汝のヴェールは取除かれん、おゝ眞理よ!」かくて眞理は雙の腕を伸ばして泣けり。彼女を得んとする者は彼女を得る能はず、眼のあたりに彼女の顏を見る能はざればなり。
「わかつたでせう」とアッシャは飜譯ををはつてから言つた。「コオルの人民の女神は眞理だつたのです。 眞理のために彼等は神殿をたてゝそれを探し求めたのです。 永久に見出されないことを知りながら、それを探し求めたのです。」
「それから」と彼女は悲しげに附け足した。「人類は今に至るまで眞理を探し求めてゐるが、矢張り見出されないのですね。 そして聖典に記してあるやうに將來とても見出すことはできないのです。死に於てのみ眞理は見出されるのですから。」
それから、吾々はもう一度このヴェールを
「よく眠れなかつたのよ、カリクラテス」と彼女は答へた。 「昨夜はほんたうに、不思議な、嫌な夢ばかり見て、ちつとも眠れなかつたのよ。 それが何の前兆だか妾にはわからないのです。何か惡いことが起るのぢやないか知らといふやうな氣もしたけれど、 妾の身體にそんなことがあるわけもないし、ほんたうに不思議ですわ」 彼女は急に女らしいやさしさを爆發させて言葉をつゞけた。 「でもね、もしも妾の身に何か起つて、あなたをのこして妾だけが眠つてうぃまふのぢやないかといふやうな氣がするのよ。 ねえ、カリクラテス、さうしたら、あなたは妾を待つてて下さるの、 妾があなたのいらつしやるのを何世紀も何世紀もお待ちしてゐたやうに?」
それから彼女は返事もまたずに言葉をつゞけた。「ではこれから出かけませう。
妾たちは遠くまで行かなきやならんのですから、そして明日の朝までには、
五分間もたつと、吾々は荒廢した都市を拔け出て、朝日の光が最初の
日が昇るにつれてアッシャの氣分はなほつて來た。たうとういつもの状態にかへつた。 そして彼女は笑ひながら、前夜以來氣分の惡かつたのは、眠つた場所がいやな聯想を起させたせゐだと言つた。
「こゝの蠻人たちはコオルには幽靈が出るといつてゐますがねえ」と彼女は言つた。
「妾もそれはまつただと思ひますわ。
朝食のために、暫くやすんでから、非常に元氣を出して道を急いだので、 その日の二時までに吾々は火山孔の周縁をなしてゐる大きな岩壁の麓に着いた。 岩壁は吾々の着いたところから、屏風のやうな絶壁になつて千五百呎か二千呎位の高さまで聳え立つてゐた。 そこで吾々は足を停めたが、私はそれを見ても別に驚きはしなかつた。といふのは、 こんな絶壁は到底登るわけにはゆかないと思つたからだ。
「さあ、これからがほんたうに骨が折れるのですよ」とアッシャは駕籠から降りながら言つた。
「これから妾たちはこの連中に別れて、めい〜自分でゆかなくちやならんのです。」
それから彼女はビラリに向つて言葉を附け加へた。「お前と、この奴隸たちとは、こゝに
ビラリは
それから、女王はジョッブを指して「ホリイ、この男もこゝに待つてゐる方がようでせう。 かういふ心の凡庸な、勇氣の乏しい人は、まちがひが起ると困りますから。 それに妾たちが行く場所の祕密は、普通平凡な人間が行つたつてしようがありませんからね。」
私は女王の言葉をジョッブに通譯してやつた。するとジョッブは、すぐさま、熱心に、 殆んど泣かんばかりにして一緒につれて行つてくれと私に頼んだ。 私は災難に遭ふことはもうとつくに承知してゐるから、それ以上の災難はありつこはないし、 それに、この物も言はない連中と一緒にのこつてゐては、燒壺で殺されるかも知れないから、 是非お供がしたいと言つた。
私はそれをアッシャに通譯すると、彼女は肩をすくめて答へた。「では一緒に來てもよいでせう。 妾は何でもないんですから、あの男のしたいやうにさせなさい。それにランプやこれをもつて行つて貰へますから」 と言ひながら彼女は十六呎ばかりの長さのある狹い板をを指さした。 その板は駕籠の吊棒の上にむすびつけてあつたので、私はカーテンをひろげておくためのものだと思つてゐたが、 これで見ると何か吾々のこれからやる異常な冐險に關係した目的に使はれるものらしい。
そこで、この板と一つのランプがジョッブに渡された。この板は丈夫な板ではあつたが非常に輕かつた。
私はいま一つのランプと油壺とを背負ひ、レオは食料品と、山羊皮に入れた水とを持つた。
それがすむと、女王は、ビラリと六人の駕籠かきとに向つて、 百
「おやおや、レオ」と私は言つた。「まさか吾々はあの絶壁を登るんぢやなからうね?」
半ばうつとりとした氣持ちで、半ば神祕を期待するやうな氣持ちでゐたレオは肩をすくめた。
その時、アッシャはひらりと身をかはして斷崖をのぼりはじめた。勿論吾々もあとからついて行かねばならなかつた。
彼女が岩から岩へと、やすやすと、しなやかにとびうつつてゆくのは實に驚歎すべき見物であつた。
しかし、登つてゆくのは思つた程困難ではなかつた。それはこの邊はまだ岩に勾配があつて、
上の方程
こんな風にして、ジョッブの持つて來た板のしまつには困つたが、
それ以外には大した骨折りもなしに、吾々はかれこれ五十呎ばかりの高さまで登つた。
道がはすかいになつてゐるのでそれだけ登るのに、出發點から六七十歩も左の方へ來てゐた。
間もなく吾々は一つの岩の出つ張りまで辿りついた。それははじめのうちは狹かつたが、
進んで行くにつれてだん〜廣くなり、おまけに、
アッシャはこの入口立ち停つて、ランプに燈をつけるやうに吾々に告げたので、私はその言葉に從つて、 一つをアッシャに渡し、一つを自分でもつた。アッシャは先頭に立つて、非常に用心しながら、 そろ〜と洞窟の中へはひつて行つた。それは洞窟の床がひどく不規則で、河床のやうに石ことがころがつてゐたり、 深い穴が掘れてゐたりして、穴の中へ落ちたら手足をくじくにきまつてゐたからだ。
この洞窟を通り過ぎるのに吾々は二十分あまりもかゝつた。長さは四五丁位しかなかつたやうに思ふが、 中途でねぢれたり曲がつたりしてゐたので、これを通り過ぎるのおは大抵ぢやなかつた。
だがたうとう吾々はこの洞窟を通り拔けた。そして私が外の薄暗がりに眼を馴らさうとしてゐたときに、 さつと一陣の風が吹いて來て、ランプが二つとも消えてしまつた。
此の時少し先の方へ進んでゐたアッシャが吾々を呼んだので、吾々は彼女の側まで匍つて行つた。
すると吾々の前面に、實に物凄い光景が現れた。吾々の前面の黒い岩に大きな裂け目ができてゐた。
それは遠い昔に、何か怖ろしい自然の異變のために裂けたものらしく、まるで、
「こゝを渡らなくちやなりません」とアッシャは言つた。「よく氣をつけないと眼が眩みますよ。
それに風に吹き落されないやうに用心しなさい。この裂目には、ほんたうに底がないのですから」
かう言ひながら、彼女は吾々に恐れを抱く餘裕も與へないで、ずん〜この
しかし、アッシャは、そんな醜くい眞似はしないで、風に抵抗するために身を屈げて、
見事に身體の
數分間のうちに、吾々は一歩毎に狹くなつて來るこの恐ろしい橋を二十歩ばかりも進んで行つたが、 その時、急に強い風がさつと吹いて來た。アッシャは風の方へ身をもたせかけてゐたが、 風は彼女の外套の内側へ入りこんで、 黒い外套は彼女の身體をはなれてまるで傷ついた鳥のやうに底のない溪間へひら〜と落ちて黒闇に吸はれてしまつた。
私は岩の鞍にしがみついて
「さあ進んで來なさい、進んで來なさい」と吾々の前にゐる白衣の姿は言つた。 彼女は、外套を吹き落されて、今はすつかり白衣の姿になつてゐたのだ。その姿は、 女といふよりもむしろ疾風に乘つてゐる人魂のやうに見えた。「進んで來ないと下へ落ちて粉々になつてしまひますよ。 地面に眼をすゑて、しつかり岩につかまつて來なさい。」
吾々は彼女の言葉に從つて、震動する道を、えつさえつさと匍つて進んだ。風はひゆうひゆう唸りながら岩を
「しばらく待たなくちやなりません」とアッシャは言つた。「今に明りがさして來ますから。」
私はその時は彼女の言葉がどういふ意味なのか想像できなかつた。こんなところへ、
どうして今まで以上の明りがさして來るのだらうと思つた。ところが私が怪しんでゐるまもなく、
突然大きな火焔の
女王はこの光を待つてゐたのだ。そしてちやうどこの光のさしこむ時刻を見計つてこゝへ着くやうに手筈をして來たのだ。
この光によつて吾々は、行手に何があるかを見ることができた。吾々の立つてゐる岩の尖端から
「はやく、板を」とアッシャは言つた。「光のあるうちに渡らないとすぐに暗くなりますから。」
「まさかこんなものゝ上を歩かせるのぢやないでせうね?」
とジョッブは私の方へ長い板を差し出しながら
「きつとさうだよ、ジョッブ」と私は、陽氣に答へたものゝ、 こんな板の上を歩くのだと思ふとジョッブと同じやうによい氣持はしなかつた。
私はアッシャに板を渡した。彼女はそれを噐用に淵にかけた。板の一端はぐら〜搖れる石の上におかれ、
他の一端は、ぶる〜震動してゐる岩の
「この前に渡つた時より、 向うの石の搖れかたがいくらかひどくなつたやうですから妾たちが乘つても大丈夫かどうかわかりません。 ですから妾が一番先に渡りませう。妾は怪我をする氣遣ひはありませんから。」 かう言ひながら、彼女は寸時も躊躇せずに、輕やかに、だが、しつかりと、この不安定な橋を踏んで、 忽ち向うの石に辿り着いた。
「大丈夫ですよ」と彼女は呼びかけた。「そちらの端をつかまへなさい。こちらの端には妾がのつてゐますから、 あなたの身體が乘つても大丈夫です。さあ、ホリイ、來なさい。すぐに暗くなりますよ。」
私は立ち上らうとしてもがいた。私が生涯の中でほんたうに恐ろしかつたことがあるとすれば、 それはこの時だつた。實際私は、躊躇して尻込みしたと言つても恥だとは思はない。
「まさか怖いのぢやないでせう」と彼女は突風のやんだ時を見計らつて言つた。 彼女は搖れる岩の頂點に立つて、鳥のやうに突風に羽ばたきしてゐるやうだつた。 「怖いのなら、カリクラテスに道をあけてあげなさい。」
この言葉を聞いて私は度胸をきめた。このやうな女から嘲笑される位なら、むしろ、
斷崖から落ちて死んでしまつた方がましだ!私は齒をくひしばつて、 下も周圍も底の知れぬ虚空の中にかゝつてゐる狹いたわんだ橋の上に立つた。
私は元來高い處に立つのが嫌ひなのだが、今まで、どんなにそれが恐ろしいものかをしみ〜゛味つたことはなかつた。
私は眩暈がしさうになり、きつと落ちるに相違ないといふやうな氣がした。背筋が寒くなつた。
現に落ちてゐるのぢやないかと思つたこともあつた。
で、手を伸して波に漂ふボートのやうに搖れてゐる
その次はレオの番だ。彼は少し顏色は蒼ざめてゐたが、まるで綱渡りの娘のやうに走つて渡つた。
アッシャは手をのばして、彼の手をつかみながら言つた。「ほんたうにあなたは勇敢でした。
立派にお渡りになりました!昔の
あとにはかはいさうなジョッブだけが向う岸にのこされた。彼は板のところまで匍つて來てわめいた。 「私には渡れません。あの恐ろしいところへ落つこちてしまひます。」
「渡らなくちやならんよ」と私はこんな時には不似合なおどけた調子で答へたのをおぼえてゐる。
「何でもないよ、蠅をつかむより
「できません--私には渡れません。」
「あの男ははやく來なければ、あそこで死んでしまふより外にしやうがありませんよ。 御覽なさい日はだん〜影つてゆきます。今に眞つ暗になりますから。」
見ると成程彼女の言ふ通りだつた。太陽は崖の裂け目から沈まうとしてゐた。
「そこにゐればひとりで死んでしまはなくちやならんよ」と私は呼んだ。「いまに暗くなるから。」
「さあ來い、ジョッブ、元氣を出せ」とレオは叫んだ。「何でもないよ」
かう言はれて、ジョッブは、いきなり、板の上に腹ばつたまゝ、馬乘りになつて兩脚を宙にぶらさげながら、 少しづゝ跳びはじめた。彼が歩いて來られなかつたのは無理もないのだ。
彼が板の上をはげしく跳ぶ
「さあ來い、ジョッブ」と私は恐怖と苦悶の聲をしぼつて怒鳴つた。石はジョッブが跳ぶ
「神樣、お助け下さい!」と闇の中からジョッブの聲がした。「板が辷り落ちさうです」その時はげしくもがく音がした。 私はもうだめだと思つた。
ところがその時、彼が、苦しまぎれに虚空をつかまうとして伸した手さきが、私の手に觸れた。 私はそれをつかんでひつぱつた。金剛力を出してひつぱつた。うれしや、たうとうジョッブは私のそばで、 岩の上にあへいでゐた。だが板は!私は板が辷り落ちたのを感じた。つゝいてそれが突き出た岩角にぶつかる音が聞えて、 やがて板は闇の中に消えていつた。
「しまつた!」と私は叫んだ。「歸りにはどうするのだ?」
「僕にもわかりませんよ」とレオが黒闇の中から答へた。「落ちたのが板だけですんでまあよかつたやうなものですよ。 何しろこゝまで來られたので有り難い。」
だがアッシャは、私に向つて、彼女の手をとつてあとからついて來るやうに命じたゞけであつた。
「落ちさうですね!」と私は喘いだ。
「では落ちなさい、大丈夫ですから」とアッシャは答へた。
しかし如何に彼女の力に信頼してゐても、これだけは信じかねた。 でも、一生のうちには吾々は不思議な祭壇に信仰を置かねばならぬこともあるものだ。ちやうど今がその時なのだ。
「落ちなさいつたら!」と彼女は再び叫んだ。私は外にどうする
「おや、叔父さん!」と彼は叫んだ。「あなたはそこにゐるんですか。面白いですね?」
ちやうどその時、恐ろしい聲をたてながら今度はジョッブが吾々の眞上へ落ちて來たので、 吾々はその場にぶつ倒れてしまつた。吾々がやつと起き直つて見ると、アッシャがそばに立つてゐて、 ランプをつけるやうにと言つた。幸ひにもランプも油壺も壞れてゐなかつたのである。
私は蝋マッチの箱を見つけてそれを擦つた。マッチはこんな恐ろしい處で、まるでロンドンの客室でのやうに景氣よく燃えた。
すぐに二つのランプに燈がついた。その光で見ると、そこは實に妙な場所であつた。 それは半ば自然の力ででき、半ば人工を加へてこしらへたらしい、十呎平方ばかりの石室だつた。
「やつとみんな無事につきましたわね」と女王は言つた。「でも一時は、
あなた方があの搖れる石から振り落されて、底無しの溪間へ落ちてしまやしないかと思つてずゐ分心配しましたわ。
あの岩の裂け目は實際世界の臟物の中までとゞうぃいてゐるやうですからね。しかしあの男が」
と言ひながら彼女はジョッブの方を頤でさして「板を落してしまつたのだから、
歸り
「吾々にはわかりません」と私は答へた。
「昔一人の男がこゝに長年の間住んでゐたのだと言つたらあなたは信じなさいますか?ホリイ? 土地の人々が食物と水と油とをもつてきてあのトンネルの入口に置いてゆき、 その男は十二日目に一度づつそれを取りに行つてゐたのです。」
私は疑はしさうに彼女の顏を見た。彼女は言葉をつゞけた。
「
「ところが妾がはじめてこゝへ來ましたとき -- 妾がどうして來たか御存じですかカリクラテス?
いつかそのことはお話しゝますが、それは不思議な話なのですよ。 --
妾はこの話を土地の者から聞いて、その老人が食物をとりに來るのを待つてゐたのです。
そして老人につれられて、こゝへ歸つて來たのです。あの岩の裂け目を渡つたときはほんたうに恐ろしかつたですけれど。
それから妾は、妾の美しさと知慧とで、その老人にとり入つて、 たうとうその火の祕密を老人の口から話さしてしまつたのです。
けれど、老人がとめるものですから、火の中へははひらないで、そのまゝ歸つて來たのですが、
それから二三日たつて、あなたに會つたのですよ、カリクラテス、
あなたはアメナルタスといふ美しい
この時私が手を伸すと埃の中で何か硬いものが指に觸れた。それは黄色い人間の齒であつた。 私がそれを差し出してアッシャに見せると彼女は笑ひながら言つた。
「きつとしれはヌートの齒ですわ。ヌートとヌートの知慧との中で今のこつてゐるのはこの小さな齒だけなのですね!
けれどもあの人は生命を自由に支配することができたのです。 ただ良心のためにそれを自分のものとしなかつたのです。
さて、その老人は死んでゐたものですから、妾たちは、これからあなたがたを案内するところまで行つて、
妾は死を賭してその焔の中へ跳びこんだのです。ところがその結果はどうでせう。妾は、不死の身になつて、
そしてこんなに美しくなつて出て來たのですよ。そこで妾はね、カリクラテス、あなたに向つて、
この不死の花嫁をおとりなさいと言つたのです。するとあなたは、妾のあまりの美しさに眼が見えなくなつて、
アメナルタスの胸へ顏を伏せて妾からかくれなさつたのです。妾は怒りのために氣が狂つて、
あなたのもつていらつした投槍をとつてあなたをつき刺してしまひました。
するとあなたは場所もあらうに生命の場所で、呻き聲をあげながら、妾の
「あなたが死んでおしまひになると妾はわつと泣き出しました。妾は不死の身になつたのに、
あなたはもう死んでしまはれたのですもの。妾は泣いて泣いて泣きくづれました。若し妾が普通の女であつたら、
心臟も破れたでありませう。するとにくい
「まあざつとかういふわけなのですよ、あなた、そして、この物語りに最後の結末をつける時が近づいて來たのです。
此の世の中の事は何事でもさうですが、この話にも善と惡とが入りくんでゐます。
恐らく善よりも惡の方が多いでせう。それにこの物語は血の卷物に書いてあるのです。
妾はありのまゝを申し上げました。何一つかくしてゐません。ところで、これから、
彼女はこゝで言葉をきつた。彼女の聲にこもつた言ひしれぬやさしさは、
死者の思ひ出のやうに吾々の周圍に立ちこめてゐるやうに思はれた。
妾は[原文のまま]彼女の言葉以上にその聲に動かされた。それ程にもそれは人間味に溢れた聲であつた。
レオも不思議に感動してゐるらしかつた。これまで彼は蛇に魅惑された小鳥のやうに、
理性ではこれではいけないと考へながらも、彼女の美しさに魅惑されてゐたのであつたが、
今ではもうさうではなくて、ほんたうに、心底から、この不思議な輝かしい女を愛してゐることを彼は知つてゐたのだ。
私自身も實をいふとさうだつたのだ!いづれにもせよ、レオは兩眼に涙を一ぱいためて、
彼女のそばへかけ寄り、彼女の顏の
「アッシャ、私は私の心の全部をさゝげてあなたを愛します。それから許すの何のといふことがあるなら、 私はアステーンの死について、あなたを許します。その外のことはあなたとあなたをつくつた神とのことで、 私は何も知らないのです。私の知つてゐることは、私が今までは愛したどの愛にもまさつてあなたを愛するといふことだけです。 私はこれからあなたのそばにゐようとも、あなたと遠くはなれようとも、心は永久にあなたから離れません。」
「では」と彼女は誇りを失はないで、しかもへりくだつた調子で言つた。「あなたが許して下さつた以上は、 妾ももう躊躇はいたしますまい。御覽なさい!」かう言つて彼女はレオの手をとつて、それを彼女の恰好のいゝ頭にのせ、 片脚の膝がしばし地に觸れるまで腰を屈めた。「御覽なさい!妾はあなたに身をお委せするしるしに、あなたに頭をさげます!」 それから彼の脣に接吻しながら「妾の妻としての愛のしるしにあなたに接吻します。」 ついで彼女は彼の胸の上に手をおいて「妾の犯した罪にかけて、今は拭ひさられた、 妾の待ち焦れてゐたわびしい數世紀の年月にかけて、妾の大きな戀にかけて、精靈にかけて、 凡てのものゝ母なる永遠の物にかけて -- 妾は誓ひます --
「妾がはじめて女になつたこの神聖な時にあたつて、妾は今後惡を棄てゝ善をなすことを誓ひます。
永久に妾はあなたの聲に導かれて眞直な義務の道を進むことを誓ひます。 そして、時の波を横ぎつて妾の
「さ、妾は誓ひました。ホリイ、あなたは證人です。こゝで妾たちは結婚したのです。
このうすぐらい
「それから結婚の贈物として、妾は、妾の美と、長い命と、はかり知れぬ知慧と、
數へきれない富とをあなたに差し上げます。この世の最も偉大なる者もあなたの
「御覽なさい、もう一度妾はあなたに接吻します。そしてこの接吻とともに、妾は海陸の支配權をあなたに差し上げます。
日光の降りそゝぐところ、水が月影を宿すところ、嵐のすさぶところ、虹の掛橋のかゝるところ、
雪におほはれた北の端より、青海原のベッドに横はる花嫁のやうに、
戀の南國が
「さあこれですみました。妾はあなたのために、妾の處女の帶を解きますが、嵐が來ようが、
光が來ようが、善が來ようが、惡が來ようが、生が來ようが、死が來ようがこの誓ひは變ることはないのでございます。」
かう言ひながら彼女は一つのランプをとつて、搖れる石が屋根のやうにかぶさつた
吾々は彼女のあとについて行つた。そして圓錐形の壁に階段があるのに氣がついた。
もつと正確に言へば階段のやうな形にこしらへた岩の
この勾配は非常に急で、處々絶壁になつてゐたが、それでも通れないところはなかつたので、 吾々はランプの光を頼りに、難なく降りてゆくことができた。とは言へ、こんな風にして、 行先きがどうなつてゐるかも知らずに、死火山の中心に向つて降りてゆくことは、ひどく氣味のわるいものではあつた。
こんな風にして、かれこれ半時間も旅をつゞけてゆき、數百呎も降りて行つたと思ふ時、
吾々は漏斗の底に着いた。そこには狹い通路があつて、吾々は匍はなければそこを通ることは出來なかつた。
この通路を
何處から發してゐるのかわからないこの光を見つけたとき、私はアッシャの口からほつと安心の吐息が洩れるのを聞いた。
「さあ、これから地球の胎内へはひつて行くのですよ」と彼女は言つた。
「そこに、人間や獸や、木や花にまで命を與へる
彼女は素速く通路の中へはひつて行つた。吾々もつまづきながらあとにつゞいた。 吾々の心は恐ろしさと、恐い物見たさとで一ぱいだつた、この先きにどんなものがあるのだらう? 吾々がトンネルを進むにつれて、光は益々強くなつて燈臺の光のやうな大閃光となつた。 そればかりではない。この光とゝもに、雷鳴のやうな、大木の折れるやうな、 魂の中までも震撼させる音が聞えて來た。たうとう吾々はトンネルをくゞりぬけた。すると、どうだらう!
吾々は第三の洞窟に立つてゐた。それは長さと高さとはそれ〜゛五十呎もあり幅は三十呎位であつた。 下には白砂が敷きつめてあり、壁は火か水かの作用で滑らかになつてゐた。 この洞窟は他の洞窟のやうに暗くはなくて柔かい薔薇色の光に滿ちてをり、又とない美しい眺めであつた。 しかし先程見たやうな閃光も見えなければ雷鳴のやうな音も聞えなかつた。けれども、吾々が、 この不思議な光景に呆氣をとられてながめてゐるうちに、しばらくすると、恐ろしくも美しい出來事が起つた。 洞窟の遙か彼方にあたつて、轟然たる音響とともに -- それは非常に恐ろしい音で吾々はみんな慄へ上つた、 ジョッブの如きはその場にへたばつてしまつた程であつた -- 虹のやうに七色に彩られ、電光のやうに明るい、 恐ろしい火柱がかつと燃え上つた。そしてしばらくの間、さうだ約四十秒程の間、 それは音を立てゝ燃えてゐたが、そのうちにだん〜音もやみ光も消えてしまつて、あとには、 吾々がはじめに見たやうな薔薇色が殘つた。
「もつとこちらへいらつしやい!」とアッシャは歡喜のために聲を張り上げて言つた。
「これが、この世界の胸の中で打つてゐる
吾々は彼女のあとについて薔薇色の光の中を通つて、洞窟のつき當りまで行つた。そして、大きな鼓動が脈うち、
大きな焔の燃えてゐた場所の前に立つた。そこへ進んで行くにつれて吾々は心が馬鹿に素晴らしく陽氣になつてゆき、
吾々は洞窟のつきあたりに立つて、明るい火の光を浴びながら、互に顏を見あはして、輕い氣持で、
神々しさに醉つたやうな爽快感を覺えながら聲を出して笑つた。この數週間にこりともしたことのないジョッブでさへも笑つた。
私は人間の知力の逹し得る
私が、この新生の自己の素晴らしい力を享樂してゐたときに、突然遠くの方でごろ〜といふ恐ろしい音が聞えて來た。 その音はだん〜強くなつて、ごう〜、がら〜といふ音になり、それが結合して、此の上ない恐ろしい、 それでゐて素晴らしい音になつた。音は刻々吾々に迫つて來て、まるで光の駒に曵かれてゆく雷車のやうに轟いてゐた。 それとゝもに、眼も眩むやうな晃々たる七色の雲がまき起り、しばらく吾々の前に立つてゐたが、やがて靜かに渦をまいて、 轟然たる響とゝもに、何處へともなく消えて行つた。
この驚くべき光景を見て、吾々は皆その場にへたばつて、砂で顏を隱した。 たゞ女王だけはその場につゝ立つたまゝ火の方へ兩手をのばしてゐた。
光が消え去つた時、アッシャは語り出した。
「たうたう時が來ましたよ、カリクラテス。こん度あの大きな火焔が燃えて來たら、あなたはあの中へ跳びこまなくちやなりません。 でもその時はお召物は脱ぎなさい。あなたの身體には怪我はありませんけれどもお召物は燃えてしまひますから。 あなたは、あなたの五官が辛抱できる限りあの焔の中に立つてゐて、すつかり焔を跳びまはらせて、 焔の力をすつかりあなたのものにしなさい。妾のいふことを聞いてゐますね、カリクラテス?」
「聞いてゐますよ、アッシャ」とレオは答へた。「だけど、實を言へば -- 私は憶病者ではありませんけれど -- あの燃えさかつてゐる火の中へ跳びこんで大丈夫だらうかと思ふのです。 私もあなたもそのために滅びてしまふやうなことはないでせうか? でもやるにはやりますけれど」と彼は附け足した。
アッシャはしばらく考へてゐたがやがて口を開いた。
「あなたがお疑ひなさるのも無理はありません。ではかうしませう。妾があの焔の中に立つて、怪我もせずに出て來たら、 あなたもおはひりになりますね?」
「はひりますとも」と彼は答へた。「死んでも入ります。今も入ると言つたぢやありませんか?」
「私もはひりますよ」と私は叫んだ。
「何ですて、ホリイ」と彼女は聲を出して笑つた。「あなたは長生きしたくないといふぢやありませんか、どうしたのです?」
「私にもわからんですが」と私は答へた。「私は心の中で、あの焔を味つて生きろと呼びかけるものがあるのです。」
「ようござんす」と彼女は言つた。「あなたもまだすつかり性根を腐らしてはいらつしやらなかつたのね。 さあ御覽なさい。妾はこれから二度目に生きた焔を浴びます。ことによると妾はもつと美しく、 妾の命はもつと長くなるかも知れませんが、若しそれが叶はぬとしても、怪我をするやうなことはありません。」
「それから」と彼女はしばらくやすんだあとで言葉をつゞけた。 「妾が二度この焔を浴びようと思ふには別にもつと深いわけがあるのです。
はじめに妾がこの焔の力を味つたときには、妾の心は、 あの
「では支度をなさい!あなたの最期の時が近づいて、これから死を越へて、冥土へ行くのだと思つて支度をなさい。 光榮の門から美しい生命の國へ行くのだと思つてはなりませんよ。さあ、支度をなさい!」
そのうちに遠くの方から、
「おゝ、戀しいあなた!」と彼女は
私は今でもおぼえてゐるが、この時の彼女の言葉と、レオの額にした接吻とには、 何かしら非常に強く私の心を動かすものがあつた。それはまるで母親の接吻のやうで、 祝福がこもつてゐるやうであつた。
風が林を吹き
それから彼女はしばらく動作をやめて、兩の腕を伸したまゝで立つてゐた。
不思議の火は彼女の黒いぢゞれ
あゝこの焔の中に立つてゐる彼女の美しさ!天から下つて來た天女だつてこれよりは美しくはなであらう。 今でも私は、裸體のまゝで火の中に立つて微笑んでゐたその時の彼女の姿を思ひ出すと氣が遠くなる。 もう一度あの姿が見られるなら、殘りの半生を棒に振つてもよいと思ふ。
だが突然に、何とも名状し難い變化が彼女の顏を襲つて來た。あまり突然で私にはどう言つていゝかわからない位だ。
それにその變化は私には何とも説明のしやうがないが、何しろ變化は變化にちがひない。
彼女の顏からは微笑は消えてしまつて、
私は眼を
焔が消え去るとすぐに彼女はレオのそばに進み寄つて、手を伸してそれを彼の肩においた。
私は彼女の腕をぢつと見つめた。あの丸々した美しさはどこへ行つてしまつたのだらう?
その腕は痩せてごつ〜骨ばつてゐた。そして彼女の顏はどうだらう!
彼女の顏は私の見てゐる前で、見る見る年を
「どうしたのです、カリクラテス?」と彼女は言つた。その聲はまたどうしたことであらう。 あの澄み渡つた鋭い響きはなくなつて、高いかすれたきい〜聲になつてしまつてゐるではないか。
「おやどうしたのです -- どうしたのです?」と彼女はどぎまぎしながら言つた。
「妾は眼が眩んでしまつたのです。火の
實際その通りであつた。アッシャは見る見る萎んで行つた。 彼女の美しい腰に卷いてあつた金蛇の帶はするりと臀を辷り拔けて地に落ちた。
彼女はだん〜小さくなつてゆき、皮膚のいろはかはつて艷々した白い色は、 古ぼけた羊皮紙のやうな薄汚ない黄褐色にかはつていつた。
しなやかな手は爪ばかりになり、保存しかたのまずい
やがて彼女はこの變化に氣づいたものと見えて、金切聲をあげて叫んだ。 あゝ、あのアッシャが床の上を轉げまはりながら、金切聲を上げて叫んだのだ。
彼女は益々小さく
たうとう彼女はぢつとしてしまつた。といふよりもほんの
彼女はもう瀕死の状態であつた。それは有難いことであつた。といふのは生きてゐれば感情を持つてゐることだらう。 感情をもつてをれば變りはてた自分の姿を見てどんな感じがするだらう。彼女は骨ばつた手をあげて、 かすんだ眼であたりを見まはしながら、龜のやうに、そろ〜と頭を左右に振つた。眼はもう見えなのだ。 白い眼は角膜で蔽はれてしまつてゐたのだ。何たる哀れな眺めであらう!だが彼女はまだ物を言ふことはできた。
「カリクラテス」と彼女は
さうだ。かうして、二千年以上前に、彼女が僧侶カリクラテスを殺した同じ場所で、 アッシャは自分から倒れて死んでしまつたのだ。
極度の恐ろしさに打たれて、吾々も、砂の床の上に打ち倒れて、そのまゝ氣を失つてしまつた。
私はどれ位の間氣を失つてゐたのか知らない。多分數時間もたつたのであらう。
私が眼を開いた時には、あとの二人はまだ床の上に横はつてゐた。薔薇色の光はまだ曙の空のやうに輝き、
どうして一體この樣な變化が起つたのであらう?命を與へる火の性質が變つたのであらうか?
ことによると、この火は、時々
だが、この時何が起つたかは誰にだつてわかりつこはない。それは事實であつたのだ。 今までのアッシャは、生きながら墓所の中に閉ぢこもつて戀人の來るのを待つ外は世界の秩序に大した變化も起さずにゐたが、 若しこのアッシャが戀を得て幸福になり、不滅の若さと、神のやうな美と力と、 數千年の知慧をもつてしたら、社會に革命を起したかも知れはしない。人類の運命を變へたかも知れはしない。 かやうにして自然の大法に逆つた彼女は、どれ程強かつたにしても、遂にその自然の大法にはね返されて、 醜骸をさらすことになつてしまつたのだ。
しばらくの間、横になつたまゝ、ぼんやりと心の中で恐ろしかつたことを囘想してゐるうちに、
その場所の浮き〜した雰圍氣のせゐか間もなく私の體力は恢復して來た。
私は外の者のことを思ひ出したので、二人の正氣を恢復させることができるか、どうかを見るために、
よろ〜と起ち上つた。だが私は先づ第一にアッシャの下着と
それから砂の上に散らばつてゐた香の高い黒髮の塊りを踏んで、うつ伏せになつて横はつてゐるジョッブのそばへ行き、 彼の身體を仰向けにひつくり返した。私が彼を抱き起すと彼の腕は氣味惡くだらりと下つた。 私はそれを見るとぞつとして、けはしい眼をして彼の顏を見た。一目見たゞけで十分だつた。 吾々の忠實な老僕は死んでゐたのだ。これまで隨分恐ろしいことを見て來て、極度に傷けられてゐた彼の神經は、 この最後の物凄い光景を見て、すつかり打ち碎かれてしまひ、恐怖のために、 或は恐怖から生じた發作のために死んでしまつたのだ。
これも大變な打撃であつたが、吾々はもう次から次へと恐ろしい目に遭ひどほしだつたので、
その時は格別ジョッブの死には驚かなかつたと言つても讀者は理解してくれることゝ思ふ。
この男の死んだのは當然だつたのだ。それから十分程たつて、レオが呻きながら、そして四肢を震はしながら、
正氣づいた時、私は彼にジョッブの死んだことを話した。すると彼はたゞ「はあ」と答へただけだつた。
だが記憶しておいて貰ひたい。これは彼が無情な人間だからでは決してないのだ。 彼とジョッブとは非常に愛しあつてゐた仲だし、
それにその後
さて私はレオを正氣に返した。嬉しいことには彼は死んでゐなかつたのだ。そして前に言つたやうに、
彼はその場に坐り直つた。その時私はまた恐ろしいことを眼にした。 こゝへ來たときにレオの髮は美しく
「どうしませう叔父さん?」と彼は少し頭がはつきりして、 今までのことを心の中に思ひ出して來ると、氣の拔けた死んだやうな聲で言つた。
「一かばちか逃げ出して見るんだね」と私は答へた。「お前がこの中へはひりたくなければ」 と言つて私はまた燃え上つて來た焔を指した。
「死ぬにきまつてをれば跳び込んで見てもよいのですがね」と彼は少し笑ひながら言つた。 「僕が躊躇したもんだからこんなことになつたのですよ。 僕が疑ひさへしなければアッシャは跳びこみはしなかつたかも知れないのです。 だけど僕がこの中へ跳び込んでどうなるかはつきりわかりませんからね。 僕の身體には此の火が反對の作用を及ぼして、僕が不死の身になるかも知れません。 その時には、僕はあの女のやうに二千年もあの女の來るのを待つてゐる忍耐が僕にはありませんからね。 僕は壽命がなくなつた時に死んでしまつて、アッシャを探しに行きます。 あなたこそどうです。あの中へはひつて見たら?」
だが私はたゞ頭を振つたゞけだつた。私の昂奮はもう
「ところで、レオ、吾々は、こんな風になるまでこゝにのこつてゐるわけにもゆかないから」 と言ひながら、私は白い着物に被はれた小さな塊りと、固くなつたかはいさうなジョッブの屍骸とを指さして 「もう行かうではないか、だが、ランプはもう燃えきつてしまつたか知ら?」 私は一つのランプを取り上げて見た。たしかに油はから〜になつてゐた。
「油壺にまだすこしのこつてゐますよ、油壺がこはれてさへゐなければ」とレオは氣のない返事をした。
私は油壺をしらべて見た。有難いことにこはれてはゐなかつたので、私は手を慄はしながら油を注いだ。 幸にも麻のしんの燃え殘りがまだあつたので、私は蝋マッチを擦つてそれに火をつけた。 そのうちにまた火の柱の近づいて來る音が聞えた。
「もう一度あれを見てゆきませう」とレオは言つた。「もう此の世ではあんなものは二度と見られんでせうから。」
私はレオの意見に從つた。そして、火が消え去るのを待つて吾々も
けれども出かける前に、吾々はめい〜ジョッブの冷い手に握手した。隨分氣味の惡い儀式だが、この際、
それが吾々の忠僕に對して敬意を表する唯一の手段だつたのだ。白い着物の下の塊りは吾々は開けて見なかつた。
あの恐ろしい姿を二度と見たくなかつたのだ。けれども、あの恐るべき變化の刹那に拔け落ちて、
床の上に散らばつてゐる艷々した黒髮を吾々はめい〜一束づゝ拾ひあげた。
今でも吾々はこの髮束を保存してゐる。それがアッシャが吾々に殘してくれた唯一の
「あの女は、僕に決して忘れてくれるなと言ひましたね。そしてまた會ふと誓ひましたね。 僕は誓つてあの女を忘れはしません。僕は誓ひます。僕たちがたとひこゝから逃げおほせることができても、 僕は一生、他の女には關係しません。そしてあの女が僕を待つてゐてくれたやうに、 どこへ行つてもあの女を忠實に待つてゐます。」
「さうだ」と私は獨りで考へた。「若しあの女が以前のやうな美しい姿で歸つて來たら。 だが若しあんな姿で歸つて來たらどうだらう!」
それから吾々は二人の屍骸と、それを包む薔薇色の光とに最後の一瞥を投げて、重い重い、 何とも言ひやうのない氣持を抱いてこゝから這ひ出たのであつた。
それから吾々は天然にできた岩の階段を大した困難もなく登つていつて、道にも迷はずに、再び、
昔ヌート老人が住んでゐたといふ小さい
ところが、今度はまた新たな恐怖が吾々に當面して來た。ジョッブが恐ろしさのために、へまをやつて、
震動する大きな
板がなくて、どうしてあの大きな岩の裂け目が越せようか?
答へは一つしかない -- 運を天にまかせて、跳び越して見るか、それともこのまゝ死んでしまふかだ。 二つの岩の間の距離は左程廣くはない。十一、二呎だと私は思ふ。 それにレオは學校にゐた時分には幅跳びで二十呎も跳んだことがあるのを私は見た。 だがその時の條件を考へて見なくちやならない。それを跳び越へようとしてゐる男は二人ともへと〜に疲れてゐて、 そのうちの一人はもう四十の阪を越してゐるのだ。足場はぐら〜搖れる石で、跳んで行く先はぶる〜震へてゐる幅數呎の岩で、 それが突風の吹きすさぶ虚空にかゝつてゐて、下には千仞の淵が口を開いてゐるのだ。 だが私がこのことをレオに言ふと、彼は言下にどの道死ぬにはきまつてゐる、 たゞこゝに待つてゐてぢり〜死ぬか、思ひきつて跳んで見て手つ取り早く死ぬかどつちかだから、 一かばちか跳んで見るより外はないと答へた。
此の言葉には反駁の餘地はない。だが暗闇の中で跳ぶわけには行かないから、
吾々のなすべきことは夕日のさしこむのを待つことあるのみだ。
とは言へ夕方までにはまだ間があるのか、それとももうすぐなのか吾々は二人とも皆目見當がつかなかつた。 吾々の知つてゐたことは、
たゞ光が差しこんで來たらせい〜゛二分以上はつゞかないでまた暗くなるからいざといふ時の用意をしておかねばならぬといふことだけであつた。
そこで吾々は搖れる石の上へ匍ひ上つて用意をすることに決心した。
この決心がはやくついたのはランプが消えかゝつてゐたからだ。即ち、二つのランプのうちの一つはもうすつかり消えてしまひ、
あとの一つは油がなくなつた時どのランプの火でもさうであるやうに、ちよろ〜と斷續して燃えてゐた。
そこで吾々はこの消えかゝつたランプの光をたよりに、急いで
吾々がこの石へ渡つて來る前に、アッシャが岩の
それからしばらくたつと、突然、何の豫告もなしに、赤い
「さあ今だ、この機會をはづしたら駄目だ」とレオは言つた。
吾々は立ち上つて身をのばした。
「誰から先に跳ばう?」と私は言つた。
「叔父さんから跳びなさい」とレオは答へた。「僕は岩の反對側に坐つて搖れないやうにしてゐます。 できるだけ走つてはずみをつけて高く跳ぶんですよ。それから先は神樣にまかせるんです。」
私は
「左樣なら、レオ」と私は言つた。「何處へ行つてもまたあひたいものだね。」
實際あと二分間も生きてはをれまいと思つたのだ。
それから私は、岩の端まで身をひいて、風がうしろへ廻るのを待ち、大石の上を三十三呎も走つて、
眼のまはるやうな虚空へ
私はレオの叫び聲を聞いた。と思ふと突然彼が羚羊のやうに中空を跳び上るのが見えた。 この絶對絶命の場合渾身の力をこめて跳んだ彼の跳び方は實に素晴らしいものであつた。 恐ろしい深淵を物ともせずに跳び越へて、岩の突端に辿りつき、深淵へ振り落されないやうに、 すぐにうつぶせに身を倒した。私はレオが跳びついたときに、岩が搖れるのを感じた。 それと同時に、彼が跳んだはずみに、對岸の大石が、はずみを食つて、 この數千年來はじめて平衡を失つて、恐ろしい音をたてて、 かつてヌート老人がかくれ家としてつかつてゐた部屋の上へ轉げ落ちるのが見えた。 これで生命の場所へ行く路は數百噸の岩で永久に封じられてしまつたわけだ。
これ等の事柄はほんの一瞬の間に起つたのであつた。 しかも不思議にも私はこんな恐ろしい境遇にありながら無意識ではあらうがそれに氣がついてゐた。 もうこれつきりこの恐ろしい道を通る人はあるまいとなどと考へたことさへ私はおぼえてゐる。
次の瞬間に、私は、レオが兩手で私の右の手首を掴んだのを感じた。 彼は岩の上に腹這ひになつて、やつと私まで手がとゞいたのである。
「手を放してぶら下がりなさい」と彼は落ちついた、力のこもつた聲で言つた。 「さうすれば僕が引き上げて見ます。でないと二人とも落ちてしまひますよ。いゝですか?」
私は返事をするかはりに、先づ左手を岩からはなし、それから右手を岩からなはして、レオの腕にぶら下がつた。 それは實に恐ろしい瞬間であつた。成る程彼は大變力のある男であることは私は知つてゐる。 けれども、こんな恰好をしてゐて、 果して彼の力で私が岩の上をつかむことができるまで引つぱり上げることができるだらうか?
數秒間私はぶらりぶらりと左右に身體を振つてゐた。その間に彼は努力を集中してゐた。 やゝあつて私は彼の筋肉が上の方でめき〜鳴る音を聞いた。 そして私がまるで小さい子供か何ぞのやうにもち上げられるのを感じた。 たうとう私は左手を岩の上にかけて身體を支へた。それからあとはもう雜作はなかつた。 數秒間のうちに私は上へ匍ひ上つて、吾々は木の葉のやうに慄ひながら、 恐ろしさために、冷汗でぐつしより濡れて、その場に横へたまゝ喘いでゐた。
すると以前と同じやうに、夕日の光は、ランプの消えるやうにだしぬけに消えてしまつた。
ものゝ半時間も、吾々は、一言も口をきかずに、そこでやすんでゐたが、
やがて暗闇の中で、できるだけ上手に、大きな岩の
明かに吾々はたゞ觸覺だけにたよつて、
あゝこの最後の
その時は、すが〜しい風と、もう二度と見られまいと思つた朝燒けの空とから推して早朝であることがわかつた。
吾々は日沒後間もなく
「もう一息だな、レオ」と私は喘ぎながら言つた。「さうすりやビラリのゐる山腹へ出られる。
まだあの老人はゐるだらうな。さあ氣をゆるめずに行かう。」彼はこの時うつぶしになつてゐたのだが、
私の聲をきいて立ち上つた。そして吾々は互に身をもたせかけながら、五十呎あまりの崖を、つまづきつゝ降りて行つた。
どうして降りたのかちつともおぼえてはゐないが、何でも一番底にへたばつてゐたのだけをおぼえてゐる。
それから吾々はもう一歩も立つては歩けないので、匍ひながら、
彼女がビラリに向つて歸るまで待つてゐるやうに命じた林の方へ進んで行つた。こんな風に
やがて、ビラリ老人が吾々の方へ急いでやつて來たので、私はほつとした。 このやうな場合にでも、この老人が鹿爪らしい顏に驚きの色を浮べてゐるのを見ると、 微笑せずにはゐられなかつた。
「おゝ
「死んぢまつた、二人とも死んぢまつた!」と私は答へた。「だがもう何も訊ねないで、助けて下さい。
食物と水とをはやく、でないとあんたの眼の前で吾々も死んぢまひます。
咽喉が
「死んだ!」と彼は喘いだ。「そんな筈はない!不死の女王が死ぬなんて?」
それから彼は言葉をきつて、急いでその場へかけつけた唖どもに命じて吾々を
幸ひにも吾々が着いたとき、火にかけてあつたスープが煮えてゐたので、ビラリがそれを吾々に食べさしてくれた。
吾々は自分で食べるだけの力もなかつたのだ。このスープのお蔭で吾々は、 疲勞のために死ぬのをまぬかれたのだとかたく信じてゐる。
それからビラリは濡れた
「ずいぶん長いことあんたは眠りましたぞ
「どれ位眠りましたかね?」と私は訊ねた。
「太陽が一まはりして、月が一まはりする間、つまり一日と一晩あんたは眠りつゞけましたわい。
レオもさうぢや、
「眠りといふものは有り難いもんだ」と私は答へた。「何もかもすつかり記憶を呑んでしまひますからな。」
「一體どんな目にあひなさつた?不死の女王が死なれなさつたといふのはどうしたわけですい、聞かして下され。
もしそれがほんたうだとすると、あんたの身もレオの身もちつとも油斷がなりませんぞ。
ことによると燒壺でやかれて食はれるかも知れん。あの連中はもう血に
かう頼まれたので、私は、女王は火山の火の中へ落ちて燒け死んだのだといふことを話してきかせた。 ほんたうのことを話したつてわかりつこないと思つたからだ。 それから私は逃げて來る道中の恐ろしかつたことを少しばかり話してきかせた。 これには老人も大分感動したらしかつたが、アッシャが死んだといふことはどうしても信じなかつた。 女王は何かの都合で一時姿をかくしたので、それを吾々が死んだと思つてゐるのだと彼は言つた。 そして、前にも彼のおやぢの代に十二年も女王が姿をかくしたことがあつたと言つた。 私はこれには何とも答へずに、たゞ悲しさうに首を振つた。彼女がもう歸つて來ないこと、 少なくともビラリはもう二度と彼女にあへないことが私にはあまりによくわかつてゐたのだ。
「ところで」とビラリは言葉をむすんだ。「あんたはこれからどうしなさるつもりぢやな、
「どうしていゝかわかりませんよ、長老」と私は言つた。「この土地から逃げることはできんでせうな?」
彼は首を振つた。
「それは大變にむずかしい。コオルを通つて行くわけにはゆきませんでな。あそこを通つた日にや、 アマハッガー人にみつかる。彼奴等は女王が一緒でないことを知ると、それ」と言ひながら彼は意味ありげに笑ひながら、 帽子をかぶるやうな手眞似をした。「だが、崖の中に、いつかもあんたに話したことがあるが、牛を牧場へ追ひ出す小徑がありまさあ。 その牧場の先には沼地があつて、それを通り拔けるのに三日かゝる。それから先のことは、私は知らんが、 七日もかゝつて歩いてゆくと大きな河があつて、その河は黒い海に注いでゐるといふことを聞いとります。 その河の岸までゆくことができりや、ことによると逃げられるかも知れんが、どうしてそんなところまで行けますかい?」
「ビラリ」と私は言つた。「あんたも知つてゐる通り、いつか私はあんたの命を助けてあげたことがある。 その代りに今度は私とレオの命を助けて貰ひたい。あんたの考へてゐるとほりだとすると、 いつかまた女王が姿を現はされるかも知れん。その時には良いことをしとくと女王のお賞めにも預かれようといふものだ。」
「
レオの工合は、すつかり眼がさめてしまふと、最初思つたほどわるくはなかつたので、 吾々は腹一ぱい食物を詰めこんだ。それがすむと吾々は泉のそばまで行つて行水をつかひ、 また歸つて來て夕方まで寢て、また腹一ぱい食事をした。ビラリはその日一日ぢゆうゐなかつた。 きつと駕籠や駕籠かきの用意をとゝのへてゐたのであらう。何故といふと、夜半頃に、吾々の夜營地へ、 可なりの人數の一行がどや〜と押しかけて來たので吾々は眼をさまされたからである。
夜明けになると老人もやつて來た。そして、少し工合が惡さうではあつたが、
女王の名をひきあひに出して、必要な人數をとゝのへ、別に、二人の道案内を命じて、
若し途中で裏切るやうなことがあつたときの用心に彼自身も一行に加はつて行くと吾々に告げた。
吾々はこの蠻地の老人が他國人の吾々につくしてくれた親切にひどく心を動かされた。
往復六日もかゝる恐ろしい沼地を、この年で旅をするのは竝大抵なことぢやない。
勿論、自分の一身上の利害の打算も加はつてゐたのかも知れぬ。女王が突然歸つて來て、
吾々をどうしたと訊ねられたときのことをも考へてゐたのかも知れぬ。
吾々は朝食がすむとすぐ駕籠にのつて出發した。身體の方は長く眠つたのと、 しこたま食物をつめこんだのとですつかり元氣が恢復してゐた。心の方は讀者の想像にまかせる外はない。
それから間もなく恐ろしい崖の登り道にさしかゝつた。道は自然に出來た道のところもあつたが、 大部分は古代のコオル人がつくつたものらしい鋸形の道だつた。 アマハッガー人が一年に一度づゝこゝから牛を牧場へ出すのださうだが、その牛はきつと足の丈夫な牛に相違ない。 勿論こゝでは駕籠は役に立たないので、吾々は歩いて行かねばならなかつた。
けれども、正午までに、吾々はこの大きな岩壁の頂上の平地まで着いた。
そこの眺望は實に雄大なものであつた。一方を見るとコオルの平原でその平原の中央には、
眞理の神殿の廢墟の柱がたつてをり、他方に眼を轉ずると、果しのない陰鬱な沼地がつゞいてゐた。
この岩壁はかつて火山孔の縁環であつたものに相違なく、厚さが一哩半もあつて、まだ
翌朝十一時頃から、吾々はこのいやな沼地の旅をはじめた。
まる三日間、泥濘と熱氣の中を、吾々の駕籠かきどもはよち〜と歩いて行つた。
そして、案内人がなければとてもわからない蕭條たる道を通り拔けて、たうとう、うね〜起伏した平地へ出た。
そこは耕地ではなく、樹がほとんど生えてッゐなかつたが、色々な鳥や獸が歩きまはつてゐた。
そして、こゝで翌朝吾々はビラリに名殘りをしい別れをつげた。彼は
「左樣なら、
思へば吾々四人の者がコオルの沼地へはひつて來たのは三週間前だつた。そのうちの二人は今は死んでしまひ、
吾々二人は、
「これからザンベシ河まで突き貫けにやならんね、レオ」と私は言つた。「だがそこまで行けるかどうかは神樣にしかわからない。」
レオは
彼は近頃めつきり口かずをきかなくなつた。そこで吾々は着のみ着のまゝの着物と、磁石と、
その後、吾々の身にふりかゝつてきた災難のかず〜は、不思議な、樣々なものではあつたが、 よく考へて見た上で私はこゝに記さぬことに決めた。こゝでは、私はたゞ、 私が前代未聞の出來事であると信じてゐる出來事を簡單に述べたゞけである。 しかも私は、これをすぐに世間に發表するつもりではなく、たゞ忘れないうちに書きつけておかうと思つただけゞある。 この旅をことを詳しく書いて發表すればきつと世間では面白がるだらうと思ふが、現在では、 吾々が二人とも生きてゐるうちは、そんなことはしないつもりである。
これから先のことは、一人の中央アフリカ旅行家の旅行記のやうなもので、
一般の讀者には興味のなみものである。だから、吾々は言語に絶した困苦をなめた末、
ビラリと別れた地點から約七十哩も南方にあたるザンベシ河へ辿りついたと言つておけば十分だ。
そこで吾々は六ヶ月間蠻人の部落で
これで現代の科學と外部の世界とに關する限りではこの物語はおしまひである。 レオと私とに關しては、この物語がいつになつたら終るのか私には見當もつかない。 だが、吾々は、まだ終つたのではないやうな氣がする。二千年以上前にはじまつた物語だから、 これから先き、遠い〜將來までつゞくかも知れない。
レオはほんたうに壺の破片に書いてあつた昔のカリクラテスの生れ更りだらうか? それとも、餘り先祖の顏によく似てゐたのでアッシャが見ちがへたのであらうか? もう一つの疑問は、この生れ更り物語りの中で、アステーンは昔のアメナルタスと何か關係があるのだらうか? これ等のことについても、その他のことについても讀者の方で自由に意見をたてて貰ひたい。 私の意見を言ふと、レオのことについてはアッシャは決して見ちがへたのではないと思ふ。
私は夜一人で坐つてゐて、まだ生れて來ない未來の暗闇の中を、心の眼でぢつと見つめながら、
この一大戲曲はこの次にはどんな形で、どんな姿で展開してゆくだらう、
そして次の幕は何處で演ぜられるだらうとあやしんだことが幾度でもある。
物には結末といふものがある。この
-- 洞窟の女王終 --