洞窟の女王:目次


底本:世界大衆文學全集第二十八卷『洞窟の女王 ソロモン王の寶窟』,改造社 (昭和三年七月一日印刷,昭和三年七月三日發行)

洞窟の女王 (She, 1887年)

ヘンリー・ライダー・ハガード作 (Henry Rider Haggard, 1856-1925年)

平林初之輔譯 (1892-1931年)

目次


更新日: 2003/02/12

洞窟の女王:はしがき


はしがき

この物語はたゞの冐險談として見ても、これまで人間の企てた冐險のなかで、 最も驚くべき、最も不思議なものゝ一つだらうと思はれる。私はこれを公表するにあたつて、 この物語の記録と私との正確な關係を説明しておく義務があるやうな氣がする。 先づ第一に、この異常な物語は私が話すのではなくて、私はほんの出版者に過ぎないといふことを斷つておく。 それから、どうしてこの記録が私の手にはひるやうになつたかを話すことにしよう。

數年前、この物語の出版者である私は、一人の友人と或る大學に足をとめてゐたことがある。 この大學は、この物語の必要上、ケンブリッヂ大學と言つておかう。或る日のこと、 私は互に腕をむきあつて街を歩いて行く二人の男の姿を見て、 この二人の男の容貌にひどく心を動かしたことがある。一人は正眞正銘のところ私がこれまで見た男の中で、 これ位な美男子はなからうと思つた。脊はすたつとして高く、肩幅は非常に廣く、顏つきは何とも言へず男らしく、 擧動はやさしかつた。それを野生の牡鹿のそれのやうに、この男の生れながらの資質であるかのやうに思はれた、 おまけにこの男の顏には一點難のうちどころがなかつた。--いかにも上品な顏で、それでゐて美しく、 ちやうどその時に通りかゝつた一人の婦人に帽子をとつて挨拶した時に見ると、 彼の頭には小さな黄金色の卷毛が房々と密生してゐた。

「君、あの男を見たかい?」と私は一緒に歩いてゐた友人に言つた。「まるでアポロの像が生きて來たやうだね。 すばらしい男ぶりぢやないか!」

「さうだよ」と彼は答へた。「あれはこの大學で一番好男子で、おまけに指折りの優さ男なんだ。 みんなあいつのことを『希臘(ギリシヤ)の神』と言つてゐる。本名はヴィンシイといふんだがね。 だがもう一人の男を見たまへ。あれはヴィンシイの後見人で、實に頭のいゝ奴だ。 みんなあいつのことをチャロンと言つてるが、それは、あいつの顏つきがおつかないからなのか、 それともあいつが自分の後見してゐる子供の手をとつて、試驗といふ深い海を渡してやつたからなのか-- そこのところはいづれともわからんがね。」

ぢつと見てゐると、この年長者の男の方も、人類の一方のすばらしい見本として、 全く獨特の面白味をもつてゐることを私は發見した。彼はかれこれ四十くらゐの年輩のやうに見えた。 そしてこの男は彼の同伴者が美男子であるのと好一對の醜男であると私は思つた。 先づ第一にこの男は脊が低くて、脚は曲つてをり、胸はひどく凹んでゐて、それに兩の腕が人一倍長かつた。 毛髮は黒くて低く額に生へ下つてをり、眼は小さく、頬髯は頭髮とつづく所まで生へ上つてゐたので、 顏の見える部分と言つたら全くちよつぴりしかなかつた。どうしても私はゴリラを思ひ出さずにはをられなかつた。 しかもそれでゐて、この男の眼には、何かしら、ひどく氣易い、人なつこいものがあつた。 私はこの男と知り會ひになりたいと言つたのをおぼえてゐる。

すると私の友人は答へた。「いゝとも、何よりおやすい御用だ。僕はヴィンシイを知つてゐるから紹介しよう」 かう言つて彼は私を紹介してくれた。そして吾々はしばらくの間立話をした。 --たしかズル民族のことをしやべつてゐたやうに思ふ。 といふのは私はその頃ちやうど喜望岬から歸つて來たばかりだつたから。 ところがその時私は名前は忘れてしまつたが、一人の肥つた婦人が、 竒麗な毛髮をした一人の娘をつれて歩道をあるいて來た。 するとヴィンシイ君は、よくこの人逹を知つてゐた見えて、すぐにこの二人の仲間にはひつて、 一緒につれだつて行つてしまつた。ヴィンシイ君のつれの年長の男の名前はホリイといふことを私はその時に發見したが、 二人の女が進んで來た時に、ホリイの表情ががらりと變つたのを私は面白いと思つたことをおぼえてゐる。 急に彼は話をやめて、とがめるやうな眼つきでヴィンシイを見て、私にはお叩頭もそこそこにして、 くるりと背中をむけて、ひとりで街を横ぎつて行つてしまつた。後からきいたことだが、彼は、 世間の多くの人が狂犬を恐れるやうに女を恐れてゐたのだといふ專らの評判だつたさうである。 それで、彼が急いで逃げて行つたわけもわかつた。だが、ヴィンシイ青年は、 女とつきあふのをひどく嫌がつてゐる樣子もなかつた。 實際私はその時、笑ひながら、そばの友人に向つて、 あんな男には自分がこれから結婚しようと思つてゐる女などはうつかり紹介できないね、 うつかりあんな男と知りあひにさせると、 しまひには女の方が愛情を先方へもつていつてしまふからねと言つたのをおぼえてゐる。 彼は全く美男子すぎるくらゐだつた。そして、おまけに、自分ではそれに氣がついてゐないで、 美男子にあり勝ちな自惚を藥にしたくももつてゐなかつた。世間の多くの美男子は、 自分の男振りのよいことを鼻にかけて仲間にきらはれがちのものだが、彼には微塵もさういふところがなかつた。

その晩で私のケンブリッヂ滯在はおはつたので、私が「チャロン」と「希臘(ギリシヤ)の神」とを見たのも、 その噂さをきいたのも、それからずつと長い間これが最後だつたのである。實際のところ、 私はあの時から今までこの二人に會つたこともないし、これから先だつて會へさうにも思はれぬ。 ところが、一月前に、私は一通の手紙と二つの小包と一綴の原稿とを受けとつた。 そして手紙を開封して見ると中には「ホレース・ホリイ」と署名がしてあつた。その時には、 ホリイといふ名前は何としても私には思ひ出せなかつた。手紙には次のやうに認めてあつた。

一八--年五月一日、ケンブリッヂ大學--科にて
親愛なる足下--あなたは私から手紙を受け取つて吃驚なさるでせう。 吾々はほんのちよつと知つてゐるだけですから。實を言へば、私は、今から數年前、 私と私の後見してゐるレオ・ヴィンシイとが ケンブリッヂの通りで紹介されて一度お目にかゝつたことがあるといふ御記憶をよび起してから 用向を申しあげるのがよいと考へるのでありますが、 簡單にするために早速用件にとりかゝります。 私は近頃あなたが中央アフリカの冐險についてお書きになつた書物を非常な興味をみつて拜見しました。 この書物は半分は眞實で、半分は空想でお書きになつたものと私は考へます。 それはいづれにしましても、この書物は私に或ことを思ひつかせたのであります。 私の後見人といふよりはむしろ私の養子である、 レオ・ヴィンシイと私とは最近ほんたうにアフリカ探檢をして參りました。 その探檢たるやあなたがお書きになつたものよりずつと素晴らしいものでありまして、 實を言へば私はこれをあなたに見ていたゞいてもあなたが私の話を信じて下さらないかと思つて恥かしい位なのです。 それはこの手紙と一緒にお屆けした原稿を御覽になればわかります。 (この原稿と一緒に「日の御子」といふ甲蟲形の寶石と、壺の破片とを御渡しいたします。) この原稿には、私、といふよりも吾々二人は、 一緒に暮してゐる間はこの物語を公表しまいと決心した旨が記されてあります。 ですから、吾々は最近に或る事情さへ起らなかつたなら、決心を變へはしなかつたでせう。 吾々はもう一度アフリカへ行かうとしてゐるのです。そのわけは、 この原稿を讀んで下さればあなたにも推量できると思ひますが、今度の行先は中央アフリカです。 しかしこん度の滯在は長くなる豫定で、多分もう歸つて來ないことになるでせう。 こんな風に事情が變つて來たので、吾々に一つの問題が起つて來ました。それは、 吾々が世の中に二つとないと信じてゐる事柄の説明を このまゝ世間に公表せずにしまつておくのがよいかどうかといふ問題です。 といふのは、この中には吾々の私的生活に過ぎぬものが織り込まれてあるからと、 も一つは、吾々の物語が一生に附せられれたり、その眞僞を疑はれたりする惧れがあるからなのです。 この點について私とレオとは見解がちがつてゐたので、いろいろ議論を戰はした末、結局、 吾々は妥協したのです。即ち、この物語をあなたにお送りして、 あなたが發表した方がよいとお考へになつたら 自由にこれを發表していたゞくといふ風に一切あなたにお任せすることにきめたのであります。 たゞ、吾々の本名を明かさぬことゝ、吾々の素性についてもなるべく、 明らさまに書かないで下さることだけを守つていたゞきたいのであります。

さて此の上私は何を申し上げたらよいでせう? 別封の原稿に何もかも細大洩らさず書いてあるといふことを繰り返すより外、私は何も知らないのであります。 篇中の不思議な女王についても私には何一つ附け加へて申し上げることはありません。 日がたつにつれて吾々は、あの、世にも不思議な女から、 もつと色々なこと[原文のまま]聞いておかなかつたことが益々をしまれてならぬのです。 あの女は一體何者であるか?どうしてはじめてコオルの洞窟へ來たのか? あの女の信じてゐたほんたうの宗教は何であつたか?吾々はさういふ事柄を一向たしかめてゐないのです。 そして、今となつては、少なくとも今のところでは、それをたしかめるよしもないのです。 以上申し上げたやうな疑問、それから、その他にも澤山の疑問が私の心中に起りますが、 今そんなことを訊ねて見たつて栓すべもないことです。

あなたは、この仕事を引き受けて下さるでせうか?吾々はすつかりあなたにお任せいたします。 その報償としては、あなたは、世にも不思議な物語を世間に發表するといふ名譽をになはれることを私たちは信じます。 この物語は尋常一樣のローマンスと選を異にしてゐることは、この記録が證明し得ると思ひます。 どうぞ、この原稿を讀んで御意見をおきかせ下さい。 (原稿はあなたの便宜をはかつて私が清書いたしました。)草々。

エル・ホレース・ホリイ

追伸--勿論、若しあなたがこれを發表して下さつた場合に、書物の賣り上げからいくらかでも利益が生じました節は、 御隨意に處分して下さい。萬一損失を蒙られた場合には、 私の顧問辯護士ジョフリイ、ジョーダン兩君に宜しく取計らふやう指圖をしておきます。 壺の破片と甲蟲形寶石と、羊皮紙の書類とは、私たちから御返却をお願ひするまで、 あなたが保管しておいて下さるやう御依頼いたします。--ホリイ生。

この手紙は讀者の想像のとほり、ひどく私を驚かした。私は他のさし迫つた用事のために、半月ばかり件の原稿を見ずにゐたが、 この原稿に眼を通した時、私の驚きは一層ひどかつた。讀者もこれを讀んだらきつと驚くだらうと私は思ふ。 それで私は急いでこれを出版することに決心して、その旨をホリイ君に書き送つた。ところが一週間たつてから、 私は同君の顧問辯護士たちから、私の出した手紙に添へて一通の手紙を受け取つた。それには、ホレース君とレオ・ヴィンシイ君とは、 もう既にこの國を立つて西藏へ行つてしまひ、今のところ宛先はわからないと書いてあつた。

さてこれで私の言ふべきことはすんだ。物語そのものに就ては讀者の方で判斷しなければならぬ。 私は篇中の人物の素性を一般の世間からかくすために極く少しばかり變更した以外には、 正確に原文のまゝに發表する。私一個の註解はつけないことに決めた。はじめ、私は、殆んどはてしなく歳月の尊嚴を身に纒ひ、 夜の翼の如き久遠の影を身に宿してゐるこの一人の女人の物語は、 私には意味を捕捉することのできない或る素晴らしい比喩ではなからうかと信じたくなつた。 その次には、私はこの物語は大地から力を吸ひとり、周圍の不死の世界に、たえず風や潮がさしひきするやうに、 胸の中で情熱が滿ちひきしてゐる一人の人間の實質を傳へることによつて、 ほんたうに人間が不死であつたらかうもあらうかと思はれる結果を寫し出さうとした大膽な試みかも知れぬと考へた。 しかし讀みつゞけてゆく中に、私はさうした考へも捨てゝしまつた。私にはこの物語には眞實の刻印が捺してあるやうに思はれる。 だがその説明は私にはできないから、他の人に讓らねばならぬ。已むを得ぬ事情のために、このさゝやかな序文をつけて、 これから私は讀者をアッシャとコオルの洞窟へと案内する。

--出版者記。


更新日: 2003/02/12

洞窟の女王:深夜の訪問者


第一章 深夜の訪問者

世の中には、何から何まで、周圍の細々しい事柄までが、記憶にはつきり刻みつけられてゐて、 忘れようと思つても忘れられないやうな事件があるものだ。私がこれから描かうとする出來事もまさにそれだ。 私の心には現在でも、まるで昨日の出來事のやうに、それがまざまざと浮んで來る。

かれこれ二十年も前のちやうど今日のことであつた。ルドウィッヒ・ホレース・ホリイ、即ちかくいふ私は、或る晩、 ケンブリッヂ大學の私の自習室で、一生懸命に何でも數學の勉強をしてゐた。私は一週間のうちに、 特待校友の試驗を受けることになつてゐたのだ。そして先生も學校のみんなのものも、 私がきつと素晴らしい成績で合格するだらうと期待してゐたのだ。しまひに私は疲れて來たので、 書物を投げ出して、暖爐棚の方へ歩いてゆき、パイプを取つてそれに煙草をつめた。

暖爐棚の上には一本の蝋燭が燃えてゐて、そのうしろに細長い鏡がかけてあつた。 私は煙草に火をつけやうとしてふと鏡にうつた[原文のまま]顏を見て、ぢつと考へこんでしまつた。マッチはもとまで燃えてしまつて、 私の指を焦したので、それを下へ落した。それでも私はぢつと立つて鏡にうつつた自分の顏を見つめながら考へこんでゐた。

「さうだ」とたうとう私は聲を出して獨語(ひとりごと)を言つた。「俺はこの頭の中で何かやらなきやならん、 俺の頭の外側はこの樣子ぢや何をする足しにもならんにきまつてるわい。」

いいふ意味は、きつと讀者には少々曖昧に聞えるに相違ないが、實は私は自分の肉體の醜くいことを言つてゐたわけなのである。 二十二位の年齡(とし)では大抵の男が、少くも、若いために小竒麗なところを少しはもつてゐるものである。 ところが、私にはそれすらもないのであつた。(せい)が低く、づんぐりとしてゐて、 胸は殆んど不具者のやうに凹み、腕は長くて筋ばつてごつ〜してをり、顏の雜作は重苦しく、 眼は灰色で落ちこんでをり、額には厚ぼつたいがさ〜した黒い毛髮が、まるで伐採した空地へ周圍から林の木が生えてきたやうな工合に、 生え下つてゐるのだ。かれこれ二十五年前の私の容貌はこんな風だつた。そして幾らか變つたところもあるが、 いまでもざつとそんなものである。カインのやうに、私は烙印をおされてゐた。自然からひどく醜いといふ烙印をおされてゐた。 そのかはり、私は、鐡のやうな異常な體力と、相當な知力とを自然から惠まれてゐたのである。 まつたくもつて私の醜さは尋常一樣の醜さではなかつたので、學校の若いおしやれな仲間は、 私の體力はほめそやしてゐたくせに私と一緒に歩いてゐるのを人に見られるのを閉口してゐた。 だから、私が人間ぎらひになり、偏屈者になつたのも不思議ではない。私がひとりで考へたり、仕事をしたりして、 友逹といふものをもたなかつたこと、少くも一人しかもたなかつたことは不思議ではない。 私は生れながらひとりで生きて自然の懷からのみ樂しみをひきだすやうに、世間の人たちからひき離されてゐたのである。 女どもは私を見るのも嫌つた。一週間ばかり前にも、或る女が、私のきいてゐることを知らないで、 私のことをお怪(モンスター)だと言ひ、私を見てから、人間の先祖は猿から出たといふ説に宗旨變へをしたと言つてゐた。 尤も一度だけ、或る女が私に氣のあるやうな樣子を見せたことがある。 私は、この女に、これまで閉ぢ込ぢこめられてゐた愛情のありたけをそゝぎかけたものである。 ところが、私の手へはひる筈の金が他人の手へはひるやうになつたが最後、その女は私をすてゝしまつた。 私は一生懸命にその女を口説いた。あとにも先にも私が生きた人間を口説いたのはその時きりである。 何しろ私は、その女の美しい顏にすつかりまいつて首つたけ惚れてゐたのだ。 ところが最後にその女は返事をする代りに私を鏡の前へつれて行つて、私と二人竝んで鏡へ向つて立つたのであつた。

(わたし)がヴィーナスだつたら貴方(あなた)は何でせうかね?」と彼女は言つた。

しかもそれは私がまだ二十歳のときだつたのである。

閑話休題私が鏡にうつつた自分の姿にぢつと見入つてゐると、誰か入口の(ドア)を叩くものがあつた。 私は(ドア)を開けてゆく前に、耳をすました。といふのはもう十二時近くであつたので、 知らぬ人には會ひたくなかつたからである。しかし、私には學校に、 といふよりもむしろこの世の中に友逹といつては一人しかなかつたが、 ことによるとその一人の友逹が來たのかも知れぬと私は思つたのである。 ちやうどその時に(ドア)の外に立つてゐた人が咳をした。その咳は聞きおぼえのある咳だつたので、 私は急いで(ドア)を開けた。

年齡(とし)のころは三十位の、今では見る影もなく瘠せてゐるが、 もとは不思議な美男子だつたと思はれる、丈のすらつとした男が、右の手に大きな鐡の箱を下げて、 その重みによろ〜しながら急いではひつて來た。彼は卓子(テーブル)の上へその箱をおいたと思ふと、ひどく咳こんだ。 咳いて咳いて顏が紫色になる迄咳きぬいてから、彼はぐつたり椅子に沈みこんで口から血を吐きはじめた。 私はコップに少しばかりウイスキーをついでそれを彼に與へた。彼はそれを飮むといくらか元氣を恢復したやうであつた。 勿論元氣を恢復したといつても、まだひどい容體であつたことは言ふまでもないが。

「どうして寒い外に僕をたゝしておいたんだい?」彼はすねるやうな口調でたづねた。

「風にあたるのは僕の身體(からだ)には大禁物だつてことを知つてるくせに。」

「誰だかわからなかつたんだよ、君の來るのがあまりおそいもんだから」と私は答へた。

「さう、まつたく(おそ)かつたね、それに僕はこれが君のとこへ來る最後だつてことを信じてゐる。 ホリイ君、僕はもう駄目だよ。もう駄目だよ。明日まで僕の命がもつとは信じられない」と彼は強ひて笑はうとしながら答へた。

「馬鹿なことを言ふな」と私は言つた。「これから僕が醫者をよんできてやらう。」

彼は手を振つて叱るやうに私を呼びとめた。「君がさう言ふのは尤もだが、僕は醫者は要らん。 僕は醫者のことは研究してすつかり心得てゐる。どんな醫者にだつて僕の命は助からんのだ。 僕の最期が來たんだ。この一年間僕が生きてゐたのが竒蹟なんだよ。ところでまあ僕の言ふことをよく聽いてくれ給へ。 僕に言葉を繰り返させる機會は今後あるまいと思ふから、よく注意してきいて貰ひたい。 僕たちは二年も友逹としてつきあつて來たが、君は一たい僕のことをどれだけ知つてゐるかい?」

「君は金持ちで、大抵の人が學校を卒業する年輩になつてからこの學校へはひつて來たつてことを僕は知つてゐる。 それから君は前に結婚をして、君の細君は亡くなつてたことも知つてゐる。 それから君は僕の一番親しい、殆んどたつた一人の友人だつたてことも知つてゐる。」

「僕に息子があることを知つてたかい?」

「それは知らなかつた。」

「實はあるんだよ。今年五つになる。その子供のお蔭で、子供の母親は亡くなつたんだ。 だから僕はその子供の顏をどうしても見るに忍びなかつたんだ。ホリイ君、君に僕の息子のたゞ一人の後見人になつて貰ひたいのだ。」

私はもう少しで椅子から飛び上がるところだつた。「僕に!」と私は言つた。

「さうだ君にさ。僕が二年間君と交際(つきあ)つて君を研究したのは目的なしにやつたことではないのだよ。 僕は大分前からもう僕の命は駄目だつてことを知つて、子供とこの品とを託することのできる人を探してゐたんだ。」 かう言つて彼は(くだん)の鐡の箱を叩いた。「そしてやつと見つかつたのが君だよ、ホリイ君、 君はこぶこぶのある樹と同じで(しん)が堅くてすつかりしてゐる。

「まあきいてくれ。この子供は此の世の中で一番古い家柄の代表者になるのだ。こんなことを言ふと君は笑ふかも知れんが、 いつかは君にも成る程と合點がゆくことゝ思ふ。僕の六十五代目或は六十六代目の直系の先祖はイシスの埃及(エジプト)僧だつたんだ。 尤もこの人はカリクラテスといつて希臘(ギリシヤ)の血統をひいた人だがね。 このカリクラテスの父親は第二十九王朝のハク・ホオルといふメンデシアの(ファラオ)に仕へた希臘(ギリシヤ)の傭兵で、 その祖父(ぢいさん)曾祖父(ぢいさん)にあたるのが、ヘロドタスの言つてゐるカリクラテスだと僕は信じてゐる。 紀元前三百三十九年か或はその頃ちやうど(ファラオ)の最期の沒落の時に、このカリクラテスは、 妻帶をしないといふ誓を破つて、彼に戀をしたやんごとなき王女の手をとつて埃及(エジプト)から脱走したのだ。 そして彼の船はどこかアフリカの海岸に難破して打ち上げられたのだ。それは今のデラゴア灣の附近か、 それよりももう少し北の方だと僕は思ふ。で彼等夫婦の命は助かつたのだが、 ついて來た家來の者どもはみんななぶり殺しにされてしまつたのだよ。 二人はそこでひどく艱難を嘗めたが、たうとう、豪勢な蠻人の女王に歡待されるやうになつたのだ。 それは一種異樣な魅力をもつた白人の女でこの女が或る事情のために僕の先祖のカリクラテスを殺したんだ。 その事情は今僕には言へないが、君はそれまで生きてさへゐれば、 いつかこの箱の中へはひつてゐる書類ですつかり知る事ができる。 しかし、彼の妻は、どうして逃げたのかわからぬが、子供をつれてアテンへ逃げたんだ。 その子供の名はチシステネスといふのだ。これは大復讐者といふ意味なのだよ。

「それから五百年か或はそれ以上もたつてから、この一家は羅馬(ローマ)へ移つて行つたのだ。 どうして羅馬(ローマ)へ行つたのか、まるで痕跡が(のこ)つておらぬのでわからんが、 多分チシステネスといふ名前のもつてゐる復讐といふ意味を保存するためにヴィンデックスといふ姓を名乘つたらしい。 その後この一家は五百年かそこら羅馬(ローマ)にゐたのだが、 紀元七百七十年にシャールマン大帝がその頃この一族の住んでゐたロンバルヂイへ侵入して來たのだ。 ヴィンデックス家の家長は、何でもこの大帝に歸屬して、大帝がアルプス山をこえて歸國するときに、 その一行に加はつて、たうとうブリタニイに落ちついたらしい。それから八代たつて、 この一家の嫡孫はエドワード懺悔王の治世に英國へ渡り、ウイリヤム王の治世には非常に高い身分に進んだのだ。 それから今までは、僕はずつと切れ目なしに先祖の系圖を辿つてゆくことができる。といつてもヴィンシイ家 --これはヴィンデックスといふ名前が英國に住むやうになつてから色々に轉訛して最後にかうなつてしまつたのだ-- は特別に有名な家柄であつたわけでもなく、大して世間へ名前が出てゐたわけでもないのだ。 時には軍人になつたこともあり、時には商人になつたこともあるが、チャールズ二世時代から今世紀のはひめまではみんな商人だつた。 千七百九十年頃に僕の祖父(ぢいさん)が酒屋をはじめてかなりな財産をこさへて隱居したのだが、 千八百二十一年に祖父(ぢいさん)が死ぬと父が相續してその財産は大抵つかつてしまつたのだ。 それから十年たつて父も死んだが、父があとにのこしてくれた財産は、正味年收二千(ポンド)位なものだつた。 そこで僕があれのことで探檢を企てたんだ」と言ひながら彼は鐡の箱を指した。 「ところがそれは見事に失敗してしまつた。歸りがけに僕は南歐地方を旅行して最後にアテンへ着き、 そこで僕は愛妻に邂逅したのだ。この女は僕の古い先祖と同じやうに『美人』と言つてもはづかしくない女だつた。 僕がこの女と結婚してから一年たつと子供が生れたがそれと同時に妻は死んでしまつたのだ。」

彼はしばらく言葉をとめて、手で顏をおほうてゐたが、やがて又言葉をつゞけた。

「僕は結婚のために計画を中止して一時道草を食つてゐたのだ。そして今ではその計画を遂行することができなくなつてしまつたのだ。 僕には暇がないのだよ、ホリイ君、僕にはその暇がないのだ!君が承知してくれさへすれば、 いつか君にはすつかりわかるだらう。妻が亡くなつてから、僕はまた氣を變へて、最初の計画にかへつたのだが、 それには第一に東國の言葉、特にアラビヤ語を完全に知つておく必要があつたのだ。少なくも僕はさう考へたんだ。 で、その勉強のために僕はこゝへ來たわけなんだよ。だが、すぐに僕の病氣は惡くなつて、今ではもう僕の最期が來たのだ。」 かう言ひながら、彼はまるで自分の言葉の意味を強めるものゝやうに又してもおそろしく咳き入つた。

私はもう一度ウイスキーをついでやつた。すると彼はしばらくやすんでから語りつゞけた。

「僕はまだ息子のレオを赤ん坊の時分から見たことがない。見るに堪へなかつたのだ。 けれども噂によるとあの子は悧巧な美しい子供になつてゐるといふことだ。この封筒の中に」 と言ひながら彼は私の宛名を記した一通の手紙をポケットから取り出して 「あの子供の教育方針についての僕の意嚮が(したゝ)めてある。それは少し特別な方法だから、 赤の他人にたのむわけにはゆかない。もう一度お願ひするが、どうだ、ひき受けてくれないか?」

「何を引き受けるのだか、はじめにそれをきいておかなきちや」と私は答へた。

「僕の息子のレオが二十五歳になるまで君のそばにおいて面倒を見て貰へばよいのだよ。 學校へやつてはいけないんだぜ、いゝか。あの子が二十五の誕生日で君の後見の役目はすむんだ。 さうしたら、僕が今君に渡す鍵で(彼は卓子(テーブル)の上へ鍵を置いた)此の鐡の箱を開け、 中にあるものをレオに見せ、書類を讀ませて、そこに書いてあることをやつて見るかどうかきいて見ればよいのだ。 あの子にはそれをやらなければならぬ義務は少しもないのだよ。條件としては、僕の現在の年收が二千二百(ポンド)ある。 その半分は、遺言で終身君の收入として遺しておく、千(ポンド)は後見の謝禮として君の所得にし、 百(ポンド)は子供の養育費としてね。殘りの半分は、レオが二十五になるまで積んでおいて、 あの子が今僕の言つた探檢をやらうと思へばその費用にあてゝおくんだ。」

「若し僕が死んだらどうするかね?」と私は訊ねた。

「この時には裁判所に後見人になつて貰はなくちやならん。 だが、この鐡の箱はレオの手に渡るやうに君から遺言しておいて貰はないと困る。 ねえホリイ君、どうぞ承諾してくれたまへ、きつと君のためにもなると僕は思ふ。 君は俗世間の仕事には適しない男だ。もう二三週間もすれば君は大學の特待校友にもなれる身だ。さうすれば、 その方からの收入と、僕が君に遺しておく收入とで裕福な學究生活が送れるよ。 そして君の大好きなスポーツもやれる。かういふ生活がちやうど君には適してゐるぢやないか。」

彼は言葉をきつて、心配さうに私を見た。けれど、私はまだ躊躇してゐた。あまりに妙な頼みだつたものだから。

「ホリイ君、たのむよ。僕たちは親しい友人だつた。それに今となつては、僕は別の方面へ頼んでみる時間の餘裕はないのだ。:

「よろしい。ではやつて見やう」と私は言つた。「但し此の手紙に僕の氣を變へさせるやうなことが書いてあれば別だがね」 かう言ひながら私は卓子(テーブル)の上の鍵のそばに彼がおいた封筒に手を觸れた。

「有り難う、ホリイ君有り難う。何も難しいことはないのだ。君がこの子供の父親になることを神に誓つてくれ。 そして、僕の指圖に文字通りしたがつてくれ。」

「よし誓はう」と私は嚴肅に言つた。

「よろしい。だがおぼえてゐてくれ給へ、ことによると僕はいつか君の誓ひのあかしを求めるかも知れんから。 僕が死んで人に忘れられても、矢つ張り生きているんだよ。死なんていふものはない。死はただ一つの變化なんだ。 しかも、いつか君にもわかる時が來るだらうが、この變化ですらも、場合によつては無期限に延期することができるんだ」 と言ひながら彼はまた恐しい咳の發作にとらはれた。

「では僕はもう行かなくちやならん」彼は言つた。「そこには箱がある。それからその書類の中には僕の遺言がある。 その遺言によつて僕は子供を君にあづける。君には十分の謝禮をする。僕は君の正直なことは知つてゐる。 だが萬一、君が僕の信頼に裏切るやうなことがあつたら、僕はきつと君に祟るよ。」

私はだまつてゐた。實を言へば面喰つてしまつて言葉が口へ出なかつたのである。

彼は蝋燭をかゝげて鏡に映つてゐる自分の顏を眺めた。それは以前よは美しい顏であつたが、 病ひのために見るかげもなくなつてゐた。「蟲の餌食だ」と彼は言つた。 「もう二三時間で僕の身體(からだ)(かた)く冷たくなるんだと考へると妙な氣がするね。 ねえホリイ君、人の一生はくよ〜しながら生きてゐる價値のないものだね。戀してゐる時のほかは。 少なくも僕の一生はさうだつた。だがレオの一生は、若しあの子が勇氣と信仰とさへもつてゐればさうでないかも知れん。 では左樣なら!」かう言つたかと思ふと彼は急に懷かしさに堪へぬものゝやうに、兩腕で私を抱いて、 私の顏に接吻して、それからくるりと後を向いて出て行かうとした。

「まあ待ちたまへヴィンシイ君」と私は言つた。 「ほんとに君が考へてゐる程身體(からだ)がわるいなら僕が醫者をよんでくるよ。」

「いけない、いけない。」と彼は熱心に言つた。「誓つてそんな事はしてくれるな。僕は今死ぬんだ。 しかも毒をのんだ鼠みたいに獨りで死にたいのだ。」

「君が死にかゝつてるなんて僕にはどうしても信じられんねえ」と私は答へた。彼は微笑を浮べて、 「忘れてくれるな」と言ひながら出て行つた。私は、椅子に腰を下して、眠つてゐたのぢやないかとあやしみながら眼をこすつた。 だがどうしても眠つてゐたとは思はれんので、こんどはヴィンシイが醉つてゐたに違ひないと考へはじめた。 なる程私は彼がひどい重病であることは知つてゐるが、明日まで生命がもたぬことをはつきり知ることのできる筈はない。 もしそれ程危篤に迫つてゐるのなら、あんな重い鐡の箱などをもつて歩けるはずがない。それによく考へて見ると、 彼の話した物語も到底信じられないやうに私には思はれた。今でこそわかつたが、 その頃はまだ私も若かつたので、世間一般の人たちの常識でとてもありさうにないと思はれるやうなことが、 この世にあこり得るなんてことは、私は氣もつかなかつたのである。 五つにもなる子供を赤ん坊の時から見ない人間が一體あるだらうか?これもありさうにない。 自分の先祖を紀元前二世紀までもおぼえてゐて、急に自分の子供の後見を一から十まで學校友逹にまかせて、 その友逹に財産を半分わけてやるやうな人があるだらうか?到底ありさうにない。 ヴィンシイはきつと醉つてゐたか氣が狂つてゐたかにきまつてゐる。さうだとするとこれは一體どういふわけだらう? 封をした鐡の箱には一體何がいれてあるのだらう?

私は何もかもわからなくなつてしまつたので、そのまゝ眠ることにきめ、 ヴィンシイが私にのこそていつた鍵と手紙とを手文庫の中へ(しま)ひ、鐡箱を大きな旅行靴の中へかくしてベッドへ行き、 すぐにぐつすり眠つてしまつた。

ほんの五六分とろとろつとしたと思ふと私は誰かによび起された。私はベッドの上に坐りなほつて眼をこすつた。 もうまつ晝間の八時だつた。

「どうかしたのかい、ジョン?」と私は、ヴィンシイと私との受持ちの小使のジョンにたづねた。 「まるで幽靈でも見たやうな顏をしてるぢやないか!」

「そ、そのとほりですよ」彼は答へた。

「幽靈よりももつといやな死骸を見たのです。いつものやうにヴィンシイ樣を起しにまゐりましたところが、 ヴィンシイ樣は、部屋の中に、かたくしやちこ張つて死んでをられるのです。」


更新日: 2003/02/12

洞窟の女王:歳月は過ぎて


第二章 歳月は過ぎて

ヴィンシイの頓死は、もちろん學校内に大騷ぎを起したが、彼の重病はみんなに知られてゐたことでもあり、 醫者の死亡診斷書も滿足なものであつたので、別に取調べは行はれなかつた。 當時はそのやうな取調べは今日程嚴重に行はれなかつたのである。私も別に訊問を受けたのではないから、 ヴィンシイが死んだ晩の二人の會見の模樣を進んでこちらから上申するにも及ぶまいと考へたので、 たゞ、ヴィンシイがいつものやうに私の部屋へ遊びに來たといふことだけを知らせるにどゞめた。 葬式の日に倫敦(ロンドン)から一人の辯護士がやつてきて、かはいさうなヴィンシイの遺骸を墓場まで送つてゆき、 それから書類と財産目録とをもつて歸つて行つた。勿論、私が保管を頼まれた鐡の箱は私の手許にのこつてゐたのである。 それから一週間このことについては何事も私の耳にはひらなかつた。實を言へば、私の注意は、 特待校友の試驗の方へすつかり奪はれてゐたので、葬式にも參列することができず、 その辯護士にも會へなかつたやうな始末であつた。だがそのうちに試驗もすんだので、 私は自分の部屋へ歸り、試驗がうまくいつたので、いゝ氣持になつて安樂椅子にしづんでゐた。

ところが、數日間試驗のことばかりに奪はれてゐた私の考へは、試驗がすんでほつとした思ふまに、忽ち、 あはれなヴィンシイの死んだ晩の事件に返つて來た。そして私は又も、一體あれはどういふわけであるか、 あの妙な鐡の箱はどう處分したらよいかと思ひわづらつた。私は考へれば考へる程わからなくなつた。 深夜の不思議な訪問、あんなに間近に迫つてゐる死の豫言、私が彼に向つて誓つた嚴肅な誓ひ、 彼がその誓ひの實行をあの世から監視してゐると言つた言葉、凡てが何のことやら私にはわからなかつた。 あの男は自殺したのぢやなからうか?どうもさうらしい。あの男の言つた探檢といふのは一體何のことだらう? 私は迷信をかつぐやうな人間ではないのであるが、あまりに不思議な事情なので薄氣味が惡くなつた。

私が考へこんでゐるところへ、(ドア)を叩く音がして、青い封筒にはひつた一通の手紙が私の許へ運ばれた。 私はすぐにそれは辯護士から來たのであることを知つた。そして、直感的に、 ヴィンシイが私へ依頼したことに關するものであるこおとを豫感した。 私は今でもその手紙をもつてゐるが、それには次のやうに書いてあつた。

拜啓、本月九日ケンブリッヂ大學にて死亡されたる小生等の依頼人故ヴィンシイ氏の遺言の複寫を同封御送附申上げ候。 小生等はこの遺言執行人にこれあり候。この遺言により、貴下は、 當年五歳になる故人の息レオ・ヴィンシイの後見人たることを承諾さるゝ條件にて、 故人の遺産の約半額に對する利子を終身受けらるゝことに相成り居り候。 故人の遺産はコンソオルス銀行に預金いたしあり候。 子息の引渡し方竝びに貴下の受けとらるべき利息のの支拂ひ方について何分の御指圖にあづかり度く此段貴意を得度く候。 草々。
ジヨッフリイ
ジヨーダン
ホレース・ホリイ樣

私は手紙を下に置いて遺言に眼を通した。この手紙で見ると、ヴィンシイが死んだ晩に私に話したことは事實であることがわかつた。 兎に角、あの話はほんたうなのだ。私は子供を引きとらねばならぬ。 私は急にヴィンシイが箱と一しよに私にのこして行つた手紙のことを思ひ出したので、それを取り出して開封して見た。 その中には、彼が既に私に口で言つたことも、即ち、レオの二十五歳の誕生日に箱を啓くことのついての指圖と、 子供の教育方針とが認めてあつた。その教育方針中には、希臘(ギリシヤ)語、高等數學、アラビア語等が含まれてゐた。 最期に追伸として、めつたにそんなことはあるまいと思ふが萬一レオが二十五歳になる前に死んだ時には、 私が箱を開けて、若し私が適當と思つたら、箱の中に書いてある指圖通りに行動し、 若し私が適當であると思はなかつたら中身はすつかり破毀して、どんなことがあつても、 他人にそれを手渡してはならぬと書いてあつた。

この手紙には、私の今までに知つてゐた以上のことは何も書いてなくて、從つて、 私が亡友に約束した仕事をはたすのを拒む理由は何もなかつたので、私の進むべき道はたゞ一つしかなかつた。 即ち、ヅョッフリイ[原文のまま]とジョーダンとに宛てゝ委細承知の返事を認め、十日たつたら、 早速レオを引き取つて喜んで後見にとりかゝる旨を言ひ送ることであつた。それがすむと、 私は學校の當局に面會して、必要と思ふ話の要點を手短かに話し、若し特待校友の試驗に合格したら、 子供と一緒に住むことを許されたいと交渉して、やつと當局の許可を得た。 無論私は内心で試驗に合格することは殆んどきまつてゐると信じてゐた。 併し學校側では、私が校舎を出て下宿をするといふ條件で、私の願ひを許可したのであつた。 私は、學校の正門のすぐ近くにやつと格好な貸間(アパートメント)を見つけた。 その次には付添ひを見つけなければならぬ。子供はもう大丈夫女手なしに育つてゆく年齡になつてゐたので、 私は女ではなく、適當な男の付添ひを探すことにきめた。幸にして、ジョッブといふ丸顏の上品な青年が見つかつた。 この若者は鷄小屋の手傳をしてゐたのであるが十七人も家族のある家に育つたので、子供のくせはよくのみこんでゐるから、 レオの世話は喜んで引き受けると自分で言つた。それから私は件の鐡の箱を町へ持つていつて、 自分の手で銀行へ保管をたのみ、子供の衞生や育兒に關する書物を買つて來て、先づ自分で讀み、 ジョッブにも讀んで聞かせて、子供の到着を待つてゐた。

たうとう、子供は一人の年配の女につれられて來た。この女は子供と別れるときにひどく泣いて別れををしんだ。 子供は非常に美しい子供だつた。實際私は此のやうな申し分のない子供はあとにもさきにも見たことがない。 眼は灰色で、額は廣く、顏は、こんな年頃で、すでに浮彫をした玉のやうで、たるんだり痩せたりしてゐるところは少しもなかつた。 だが、何よりも人を惹きつけたのは髮であつた。それは純粹な黄金色で、くつきりした顏の上で、ちんまりと縮れてゐた。 彼は自分をつれて來た乳母とわかれるときに少し泣いた。この場の光景は私は一生忘れることはできぬであらう。 彼は窓からさしこむ日光に黄金色の捲毛をなぶらせながら一方の眼を(こぶし)でおさへ、 一方の眼で私たちを見ながら立つてゐた。私は椅子に腰をかけて、手をのばして、 子供に私の方へ來るやうに合圖をし、ジョッブは隅つこの方で、クックッと咽喉を鳴らしてゐた。 彼は以前鷄を馴らしたときの經驗で、さうすれば子供がなついて來ると考へたのである。 それから又彼は、妙な格好をした木馬を、おどけた調子で、前へ後へ走らせて見せた。 數分間こんなことをしてゐるうちに、だしぬけに子供は兩腕をのばして私のそばへ走つて來た。

「僕おぢさんが好きだよ、おぢさんはおつかない顏をしてるけれど、いゝ人だもの」と彼は言つた。

十分間もたつと、彼は、大きなバタ麺麭(パン)(きれ)をいかにもうまさうに食べてゐた。 ジョッブはそれにジャムをつけてやらうとしたが、 私は衞生の書物に子供にジャムを食べさせてはいけないと書いてあつたからと注意してそれをやめさせた。

それからしばらくたつと私は預期のとほり特待校友の試驗に合格したので、レオは全校の人氣者になつてちやほやされるやうになつた。 けれども、私はその頃の樂しい思ひ出をこゝで書いてゐるひまがない。かず〜の思ひ出は次から次へと過ぎ去つて、 私たち二人は益々親しみを増していつた。世の中の子供の中で私がレオを可愛がつた程可愛がられた子供はあまりなく、 世の中の父親の中で私がレオになづかれた程だづかれた父親もたんとはないであらう。

悔みなき歳月は流れ流れて、子供は少年になり、少年は青年になつた。彼の身體が成長するにつれて、 彼の容貌の美しさも増していつた。彼が十五かそこらになつた時、 學校界隈のみんなの者は彼を美少年と名づけ私にけだものといふ仇名をつけた。 この名前は、私たちが、街を歩いてゐるとこにつけられた名前である。私たちは二人で街を歩くのが習慣だつたのである。 ある時、彼の二倍もある肉屋の大漢(おほおとこ)が、うしろから私たちの仇名を鼻歌で唄つて歩いたのがもとで、 レオはこの大漢(おほおとこ)に食つてかかつて、物の見事に打ちのめした。私は見ないふりをして歩いてゐたが、 喧嘩があまりはげしくなつたので、後をふり向いてレオに聲援してやつた。 學校では寄るとさはると私たちをこの仇名でからかつたが、私にはどうすることもできなかつた。 そのうちにレオが少し大きくなると、學生等は今度は別の仇名をつけた。私のことをチャロンと言ひ、 レオのことを希臘(ギリシヤ)の神と呼んだ。私の仇名はまあ我慢する。私はこれまでだつて男ぶりのよかつたことはないし、 これから年をとれば猶更らさうなのだから。ところがレオの仇名ときたら實に穿ち得て妙なるものであつた。 二十一歳の時のレオは若いアポロの像のかはりをつとめたつてはづかしくない程だつた。 私は彼ほど美男子で、しかも自分ではまるでそのことに氣のついてゐない男を見たことがない。 彼の精神はといへばきび〜してゐて、溌剌たる理智のひらめきをもつてゐたが、決して學者ではなかつた。 學者のやうなぐづ〜したところが彼には寸分もなかつた。私たちは彼の教育に關する父ヴィンシイの指圖を嚴格に守つた。 そして大體に於ては、特に希臘(ギリシヤ)語とアラビア語とについては、結果は滿足なものであつた。 私も彼の勉強の助けになるやうにアラビア語を勉強したが、五年の後には、彼は私にまけぬ位 -- いや殆んど私たちにアラビア語を教へてくれた先生にもまけぬ位この言葉が上逹した。 私は狩獵家としては他人にひけをとらない方だつたので、いつでも秋になると狩獵や魚釣りに出かけた。 時にはスコットランドへ行つたり、ノルウェーへ行つたり、一度は露西亞まで行つたこともあつた。 私は射撃は上手であつたが、こんなことにかけてすら、レオは私以上の腕前をもつやうになつた。

レオが十八歳になつた時、私は學校内の自分の部屋へ歸り、レオを私の學校へ入れた。 そして二十一のとき彼は、別段高い學位ではないが、立派な學位を得た。その時に、 私ははじめて彼の身の上や、不思議な因縁をそれとなく話してきかせた。いふまでもなく彼はその詳しいことをきゝたがつたが、 私は、いまはまだ話すわけにゆかないことを説明してやつた。その後、ひまをつぶすために、 私は彼に法律の勉強をしたらどうかとすゝめたので彼は私の勸告にしたがひ、ケンブリッヂで勉強し、 倫敦(ロンドン)へ夕食を食べにゆくといふ風にして日を送つてゐた。

レオについてたゞ一つ氣にかゝることは、彼にあつた若い女が、皆が皆ではないまでも、 少くも大部分彼に戀をするやうになつたことであつた。今はそんなことを述べる必要はない。 大體に於て彼の態度はよかつたと言ふだけにとゞめておかう。

かくて歳月は過ぎ去つて、たうとうレオの二十五歳の誕生日が來た。 この不思議な、或る意味ではおそろしい物語は、この時からほんたうにはじまるのである。


更新日: 2003/02/12

洞窟の女王:アメナルタスの壺片


第三章 アメナルタスの壺片

レオの二十五歳の誕生日の前日、私たちは二人で倫敦(ロンドン)へ行き、二十年前に私が保管をたのんでおいた不思議な箱を引き出した。 私はおぼえてゐるがそれを出してくれたのは、前にそれを保管してくれたのと同じ事務員であつた。 この男は自分が箱をしまつたときのことをよくおぼえてゐた。さうでなければ搜し出すのに非常に骨が折れたであらうと彼は言つた。 それほどにもその箱は蜘蛛の巣におほはれてゐたのである。

その晩私たちは貴重な荷物を持つてケンブリッヂへ歸つて來た。その晩は昂奮して私たちはおちおち眠られなかつた。 夜が明けるとレオは部屋着のまゝ私の部屋へやつて來て、すぐに仕事に取りかゝらうと言つた。 私はそれを制して、この箱は二十年も待つてゐたんだから、ついでに朝食がすむまでまたしといた方がよからうと言つた。 で私たちは常になく九時きつかりに朝食の卓についた。私は自分の考へにあまり夢中になつてゐたので、恥かしい話だが、 レオの茶の中へ砂糖と間違へてベエコンの(きれ)を入れた程だつた。ジョッブにも昂奮が感染してゐたと見えて、 私のセエヴル燒の茶腕の柄を壞してしまつた。この茶碗は、 マラーが風呂場で刺し殺されるすぐ前につかつたのと同じものだと私は信じてゐる。だが、たうとう朝食も片附いたので、 私はジョッブに命じて箱を持つてこさせた。彼はそれに疑念を挾むものゝやうに、 こは〜゛それを卓の上において部屋を出てゆかうとした。

「ちよつと待つてくれ」と私は言つた。「レオに異議がなければ、 うかうか他言するやうな心配のない第三者に證人として立ち會つて貰ひたいんだがね。」

「それがいゝですね、叔父さん」とレオは答へた。私は彼に自分のことを叔父さんと言はせてゐたのである。

「ジョッブ、(ドア)をしめてくれんか、そして僕の手文庫をもつてきてくれ」と私は言つた。

彼はその通りにした。私はレオの父親の可哀さうなヴィンシイが臨終の晩に私にくれた鍵を手文庫の中から取り出した。 鍵は三つあつた。一番大きいのは比較的近代の鍵で、二番目のはひどく古めかしいものであつた。 三番目のと來たら、これまでに一度も見たことのない鍵で、何でも純銀でこしらへたものらしく、 把手(ハンドル)の代りに棒がついてゐて、棒の端には幾つかの溝が彫りぬいてあつた。 どう見ても不細工な鐵道の鍵としか思へなかつた。

「さあ二人ともいゝかね?」私はダイナマイトの雷管に火をつけるときに人が言ふやうに言つた。 二人とも返事はしなかつた。私は大きい鍵をとつて、鍵穴へ少しばかりサラダ油をさして、 手が慄へるので二三度しくじつた後やつとのことで鍵をさしこんだ。レオは前屈みになつて兩手で蓋をもち、 蝶番が錆びついてゐたので、うんと力をこめてやつと蓋を開けた。中には埃だらけな箱がはひつてゐた。 この箱は難なく取り出すことができた。私たちは幾星霜の間に積もつた箱の上の塵を拂つた。

それは黒檀か、或はそれに似た木目の細かい木でつくつたものらしく、平たい鐡の帶でぐるぐる縛つてあつた。 隨分古いものと見えて、流石の堅い木もところ〜゛朽ちこぼれてゐた。

「さあこん度はこれだ」と言ひながら私は二番目の鍵をさし込んだ。

ジョッブとレオとは息もつかずに固唾をのんで前へ屈んでゐた。鍵はぐるりとまはつた。 蓋をあけると私はあつと叫んだ。それもその筈だ。中には約十二吋四角の高さ八吋ばかりの見事な銀の小凾がはひつてゐたのだもの。 それはまぎれもなく埃及(エジプト)の職人がつくつたものと見えて、四本の脚はスフィンクスの形にこさへてあり、 圓屋根型の蓋の上にも一つのスフィンクスがついてゐた。勿論この小凾は長の歳月のために色はくすんで、凸凹ができてゐたが、 その他の點ではまだがつちりしてゐた。

私はこの小凾を取り出して(テーブル)の上へ置いた。それから、殆んど完全な沈默のうちに、 妙な格好をした銀の鍵をさしこんで蓋を開けた。中には縁端(へり)のところまで、異樣な褐色の細片がぎつしりつまつてゐた。 それは紙といふよりも植物の纖維のやうなものであつたが、それが何であるかは私にはわからなかつた。 それを注意深くとりのぞくと、底から三吋ばかりのところに、普通に見る近代式な封筒に入れた一通の手紙が出て來た。 それには、亡友ヴィンシイの筆蹟で次のやうに認めてあつた。

「我が子レオへ、若し彼がこの小凾を開く時まで生き長らへてゐたならば。」

私はこの手紙をレオに渡した。レオは上書きをちよつと見てから、それを(テーブル)の上に置き、 つゞい凾の中を調べて見るやうに私に合圖した。その次に私が見出したものは、丁寧に卷いた羊皮紙の卷物であつた。 それをひろげて見ると、やはりヴィンシイの筆蹟で「壺片に記されたる楷書體希臘(ギリシヤ)文字の飜譯」と記されてあつた。 私はそれを手紙のそばに置いた。その次に私がとり出したのはいま一つは古ぼけた羊皮紙の卷物で、 それは長い年月のために黄色に變色して皺だらけになつてゐた。それをひろげて見ると、 矢張り同じ希臘(ギリシヤ)の原文をブラック文字の羅典語に飜譯したものであつた。それは書體や文體から推して、 一見十六世紀のはじめ頃のものゝやうに思はれた。

この卷物のすぐ下に何か堅い重いものが黄色い麻布につゝんで、纖維質のものゝ上にのせてあつた。 私たちは、ゆつくりと、注意深く、麻布をほどいて見ると、くすんだ黄色の古ぼけた大きな壺の破片が中から出て來た。 この壺片は、私の推定によると、普通の中型の古代希臘(ギリシヤ)酒噐(アムフオラ)の一部であるやうの思はれた。 それは長さ十吋半、幅七吋で、 厚さは四分の一吋位で凾の底の方に向いてゐた凸出した面の方には後期の楷書體希臘(ギリシヤ)文字がぎつしり一面に書いてあつた。 文字は處々色が褪せてゐたけれども大部分は完全に讀みわけることができた。文字は、古代人のよく使つた葦筆で、 非常に念入りに書いたものであることがわりありとわかつた。忘れぬうちに言つておかねばならないが、 この不思議な破片は、よほどの昔に二つに壞れたのを、セメントと八つの長い鋲とでつがぎあはせたものであつた。 破片には内側にも澤山文字が書いてあつたが、それはかなり讀みにくい文字で書いてあり、筆者もまちまちで、 書いた年代もまちまちであつた。

「もう何もありませんか?」とレオが昂奮して囁いた。

私は手さぐりをして、小さい麻布の袋に入れた固いものを取り出した。 袋の中から出て來たのは象牙に描いた美しい小さな肖像画と小さなチョコレート色をした甲蟲形のものとであつた。 それには次のやうなものが彫つてあつた。

日輪の御子
この記號は、その後私たちが確かめた所によると「日輪の御子」といふ意味であつた。 そして肖像画はレオの母親 -- 美しい、黒服の女の画像であつた。 この畫の裏には、あはれなヴィンシイの筆蹟で、「我がいとしき妻」と書いてあつた。

「これでみんなだ」と私は言つた。

「ふむ」と答へて、レオは、なつかしさうに肖像画に見入りながらそれを下に置いた。

「ぢやこれから手紙を讀んでみよう」と言ひながら、彼は片時、猶豫もなく、封を切つて、聲をあげて讀み出した。

「我が子レオよ -- お前が生きてゐて此の手紙を讀む時は、お前はもう一人前の大人になり、 自分はずつと前に死んでしまつて、殆んど凡ての人に、すつかり忘れられてゐることであらうと思ふ。 だがこれを讀むときは、おぼえてゐるがいゝ。自分はかつて生きてゐたのであり、現在でも生きてゐるかも知れないのだ。 そして、筆と紙とを通じて、死の深淵をよこぎつて、お前に手を差しのべてゐるのだ。 自分の聲が、墓場の沈默の中からお前に話しかけてゐるのだ。 自分はとつくに死んでしまつてお前の心の中には自分の記憶は少しものこつてはをらぬのだが、 それでも猶ほ、お前がこれを讀む時には、自分はお前のそばについてゐるのだ。お前がこの世に生きてから、 自分はお前の顏を殆んど見なかつた。このことを許してくれい。お前の命は、自分が此の上なく愛してゐた女の命の代りなのだ。 そのつらさが自分には今だに犇々(ひし〜)と身に沁みて感じられる。自分が長く生きてゐたら、 そのうちにこんな馬鹿げた感情に打ち克つ事ができるだらうが、自分の定命はもう旦夕に迫つてゐるのだ。 自分は、自分の肉體的、精神的の惱みにもう堪へられん。だから、お前の將來の幸福のために、 これから少しばかり後始末をつけておいて、それがすんだら、この惱みの結末をつけるつもりだ。 自分がまちがつてゐたら、神よ許したまへ。いづれにしても自分の壽命はせい〜゛あと一年しかなかつたのだから。」

「やつぱりあの時自殺したんだな、さうだと思つた」と私は叫んだ。レオはそれには答へないで讀みつゞけた。

「ところで、自分のことはもうこれだけで澤山だ。これから言はねばならぬことは、とつくに死んで、 すつかり忘れられてしまつた自分のことではなくて、生きてゐるお前のことだ。自分の友人ホリイ (この男が承知してさへくれゝば自分はこの男にお前の後見をたのむつもりだ)から、お前は、 お前のひどく古い血統のことについて何事かを聞いたことであらう。この小凾の中には、 それを證明するに十分な材料を入れてある。お前の遠い先祖が、 壺片に書き記しておいた不思議な傳説(いひつたへ)をお前は見ただらうが、 それは自分の父親が臨終の床で自分に渡してくれたもので、自分はあれを見て逞ましい想像にかられたものだ。 自分はまだ十九の年に、眞相をしらべに行かうと決心した。 自分どもの先祖の一人がエリザベス朝時代に矢張りそれを企てたが可哀さうに失敗してしまつたのだ。 その時自分が遭遇した事柄を一々述べてゐるわけにはゆかないが、次のことは、自分は、 自分の眼ではつきりと見たのだ。ザンベジ河が海に注ぐところから少し北にあたるまだこれまで誰も行つたことのないアフリカの海岸に、 一つの岬があつて、その尖端に、この書類に書いてあるのと同じ、黒人の頭のやうな形をした塔がそびえてゐる。 自分はそこへ上陸して罪を犯したために仲間からすてられてうろついてゐる一人の土人から、 遙か奧地の方に、杯形の大きな山と、澤山の沼に圍まれた洞窟があるといふことをきいた。 それから又その地方の住民はアラビアの土語を話し、其首長(かしら)は美しい白人の女だといふことも聞いた。 この女を見たものは滅多にないが、この女は生きた者に對しても死んだ者に對しても、 凡ての者に對して權力をもつてゐるといふことである。自分がこのことをたしかめてから二日目に、 この男は沼地を渡るときに熱病にとりつかれて死んでしまひ、 自分は食料品の缺乏と後に自分を(たふ)した病氣の兆候が見えたゝめとで、 餘儀なく歸國の途につかねばならなくなつたのである。

その後自分が遭遇した冐險については今語る必要はない。自分はマダガスカルんお海岸で難船して、 數ヶ月の後に英國の船に助けられて、アデンへ護送され、十分な用意ができ次第探檢を實行するつもりで、 英國へむけ出發したが、歸途希臘(ギリシヤ)へたち寄つて、そこで、戀は凡てのものに勝つといふ諺のとほり、 お前の親愛なる母親にあつて結婚し、お前が生れて、お前の母は死んだのだ。 それから自分は最期の死病にとりつかれて、死ぬためにこゝへ歸つて來たのだ。 けれども自分はまだ心細い希望をすてないで、若し病氣がなほつたら、もう一度アフリカの海岸へ行つて、 自分逹の家門に幾世紀もの間傳はつてきた傳説の神祕を解きたいと思つて、アラビア語の勉強をはじめたのだ。 しかし自分の身體(からだ)はよくはならなかつた。これで自分の關する限りではこの物語はおしまひである。

「だが我が子よ、お前の話はこれでおしまひではないのだよ。で自分は自分の勞作の結果と、 代々傳つて來た原物の證據品とをお前に渡すことにする。たゞ自分はお前が、 この書類に書いてある此の世に於ける最大の祕密をしらべて見やうと思ふか、 それともかそんなことは狂女の頭の中に空想されたつまらぬつくり話としてうつちやつてしまふかを自分で判斷することのできる年齡まで、 わざとお前の手にこれを渡さないやうな手筈にしておいたのである。

「自分はこれはつくり話ではないと思ふ。生命といふものが存在する以上、それを永久に保存する手段が存在しないわけはないではないか。 だが自分はこのことについてお前の頭に偏見を植ゑつけたくはない。お前が讀んで自分で判斷するがよい。 若しお前が探檢をやつて見やうといふ氣になつたら、費用にこまるやうなことのないやうにしてある。 それとも、この傳説を荒唐無稽なものとして滿足するなら、壺片も書類も破毀して棄てゝしまつて貰ひたい。 そそて自分たちの一族から惱みの種を取りのぞいてほしい。おそらくそれが最も賢明なやりかただらう。 未知のものは一般に怖れられるものだ。それは諺にあるやうに、人間の内心に巣喰ふ迷信のためではなくて、 未知のものは實際に怖るべきものであることが屡々(しば〜)あるからだ。 世界を動かしてゐる廣大神祕な力に要らざる手だしをするものは犧牲となつてたふれることがありがちだ。 しかも萬一目的を果したとしても、遂にお前が試煉に打ち克つて永劫の美しさと若さとを保つことができるやうになり、 神身の腐朽に超絶する力を得ることができるやうになつたとしても、そのためにお前が幸福になれると誰が言はう? お前の欲するまゝにするがよい。 萬物を司る神の力がお前とお前が成功の曉にはその(あるじ)となる世界との幸福になるやうに選擇を誤らしめざらんことを祈る。 さらば!」

これで、署名も日附もない手紙はあわたゞしくもしまひになつてゐた。

「それをどうしますかね、おぢさん」とレオは手紙を卓子(テーブル)の上に置きながら言つた。 「吾々神祕をさがしてゐましたが、どうやら一つ見つかつたやうですね。」

「どうするかつて?かはいさうに、お前さんのお父さんは氣が狂つてゐたに決つてゐるぢやないか」と私は答へた。 「二十年前に、あの男が私の部屋にはひつて來た晩から私はさいぢやないかと思つてゐた。かはいさうに、 あの男が自分の死期をはやめたんだつてことはお前にもわかつたね。こりやもう全くの囈語(たはごと)だよ。」

「そのとおりでございますとも!」とジョッブは鹿爪らしく言つた。ジョッブは實際家の中でも模範的な實際家であつた。

「では兎に角壺の破片に何が書いてあるか見よう!」と言ひながら、レオは父親の自筆の飜譯をとりとり上げて讀みはじめた。

「吾は埃及(エジプト)王家の出にて、神々にいつくしまれ、惡魔を從ふる、イシスの僧カリクラテスの妻アメナルタスなり、 死するの臨みて吾が幼な兒チシステネスに書きのこす。吾は、戀のために誓を破りたるおん身の父とネクタネベス王の治下に埃及(エジプト)を逃れ、 海を渡りて南の方に赴き朝日に面せるリビアの海岸を二年の間放浪せり。そこにはとある河の(ほとり)に、 エチオピア土人の顏に似たる巨巖あり。大河の河口より水上に流轉すること四日にして、或る者は水に溺れ、 或る者は病の爲に死したり。されど吾等二人は、蠻人につれられ、海鳥空をおほうて飛ぶ荒野又は沼地を過ぎて、十日の後、 とある空洞(うつろ)の山に着きぬ。この山は古昔(こせき)大都市のありしあとにて世の人のいまだ終端(はし)を見しことなき洞窟あり。 蠻人等は吾等を彼等の女王の前につれゆきたり。彼等はその時異國人の頭に壺をのせゐたり。 女王は全知全能の魔法使ひにて、永劫不死の生命と美しさとをもてり、女王はおん身の父カリクラテスの戀慕の眼差を送り、 吾を殺して彼を夫となさんとしたれど、おん身の父は吾を愛して女王を恐れて、命に從はざりき。ついで女王は、 氣味惡き魔術を用ゐて、吾等を恐ろしき道をとほりて巨大なる豎穴のそばへつれゆきたり。 その入口には年老いたる仙人死して横たはりゐたり。女王は吾等にうづまき燃ゆる不死の命の柱を指し示せり。 そのうづまく響は萬雷の如く耳を聾せんばかりなりき。女王が焔の中に立ちて、 出で來たる姿を見れば身に寸分の傷もなく却つて美しさを増せるかと思はれたり。女王は、 おん身の父もし吾を殺して女王になびけば、おん身の父をも女王と同じく不死の身となさんと誓へり。 そは吾は吾が國の魔法を知りて女王の魔法に逆らひたる故に女王は自ら吾を殺す能はざりし故なり。 おん身の父は手をのばしておのが眼をおほひ、女王の美しさを見えざるやうにし、なほも命に從はざりき。 女王は怒りて魔法をもつておん身の父を殺したれど、いとしさに堪へかねて泣きふし、今は悲しみに沈みをれり。 女王は吾をおそれて大河の入口に吾を送れり。そこは船着場なりしかば、やがて吾は船に乘せられ、 船中にておん身を産み、諸方を漂流せるのち、アテンに來れるなり。吾が兒チシステネスよ、いま吾おん身に言はん。 この女を探し出して生命の祕法を學び、能ふべくんば、おん身の父のためにこの女を殺すべし。 おん身若しこれをおそおれ、或は失敗するときは、吾はこのことをおん身の後に來る子々孫々に言ひのこすものなり、 やがてその中より勇敢なる人出でゝ火に浴し、國王(ファラオ)の位置に坐すまで。吾が言ふこと、信じ難く思はるれど、 吾はそれを知れり。吾は(いつはり)を言はず。」

「勿體ない、神樣どうぞこの女の方を許して下さるやうに」と、口をあけてこの驚歎すべき文章をきいてゐたジョッブは呻いた。

私は何も言はなかつた。はじめに、私はこれは、 あのかはいさうなヴィンシイが、氣が變になつたときにすつかりこんな話をつくりあげたのだらうと思つたが、 それにしては、こんな話は誰にだつてつくれさうにないやうに思はれた。あまりにそれは竒拔だつた。 私は自分の(うたがひ)をとくために、壺片をとり上げて、その上にぎつしり書いてある楷書體の希臘(ギリシヤ)文字を讀みはじめた。 それは埃及(エジプト)生れ人の筆になつた文章としてはその當時甚だ立派な希臘(ギリシヤ)文であつた。それから、 なほもよくしらべて見ると、英文の飜譯は、正確な名文であることがわかつた。

壺片の凸面には楷書體希臘(ギリシヤ)文字のほかに、もと酒壺の口であつた一番上のところに、くすんだ赤色で、 吾々が小凾の中で見出した甲蟲形寶石にあつたのと同じ玉璽が記してあつた。但しそれは、蝋の上へおしつけたやうに、 中の象形文字或は符號が逆になつてゐた。これがほんものゝカリクラテスの玉璽であるのか、 それとも彼の妻アメナルタスの先祖の王族の誰かのものであるのか、私にはわからなかつたのみならず、 それが楷書體希臘(ギリシヤ)文字を書きつけたときに描かれたものか、後に、一門の誰かが甲蟲形寶石から模寫したものかもわからなかつた。 そればかりではなく、文章の書いてある下に、同じくくずんだ赤色で、 二つの羽根をつけたスフィンクスの頭と肩との素描らしいものゝ輪廓があらはれた。 この羽根は王家のしるしであつて、神牛や神々の像によくつけてあるが、スフィンクスについてゐたのは私はまだ見たことがない。

それから壺の表面の右端の希臘(ギリシヤ)文字の書いてないところに、次のやうな不思議な文字が赤色でしるされて青い色で署名がしてあつた。

地に空に海に
  不思議なるものぞあるなり。
    ドロテア・ヴィンシイ記す。

何が何やらすつかりわけがわkらなくなつて、私は壺片を裏返して見た。そこには、上から下まで、 希臘(ギリシヤ)語や拉典語や英語で簡單な文句と署名とが一面に記してあつた。最初のは楷書體希臘(ギリシヤ)文字で、表面の手蹟の宛名人になつてゐる。 チシステネスの書いたものであつた。その文句は「吾は行く能はざりき。チシステネスより、我が子カリクラテスへ」 このカリクラテス(きつと希臘(ギリシヤ)流に祖父の名を襲名したのであらう)は、何でも、探檢に出かけようとしたらしく、かすかな、 殆んど讀みわけることのできないやうな楷書體希臘(ギリシヤ)文字で「吾は行くことを止めたり。神々は吾を守り給はざりき。 カリクラテスより吾が子へ」と書いてあつた。

この二つの古代文字の手記のうちで第二のものは逆しまに記してあつて、しかも、 ちようどそれの書いてあるところには長い年月の間に一番手でもたれたところなので、 ヴィンシイが清書しておいてくれなかつたら私には讀みわける事ができなかつたであらう。 此の二つの手蹟の間に、ライオネル・ヴィンシイの署名がしてあつた。 それはレオの祖父の手蹟であらうと私は思ふ。その右にJ. B. V.といふ略名が記してあり、その下には、 楷書體や草書體の樣々な希臘(ギリシヤ)文字の署名が記してあり、この破片は、 忠實に子々孫々に傳へられたものと見えて「吾が子へ」といふ文句がどれにも繰り返して書き添へてあつた。

希臘(ギリシヤ)文字の署名のつぎに、讀みわけることのできた文字は、 一家はいま羅馬(ローマ)へ移住したといふ意味のRome, A.U.D.といふ文字であつた。だが、不幸にして、 移住の年代は、語尾の「……百六年」といふ文字が殘つてゐるだけであとは永久にわからなくなつてしまつてゐた。 それは、ちやうどそこの處で壺片がこはれてしまつてゐたからである。

その次に、ところ〜゛の壺の空所に、十二人の拉典文字の署名があつた。それは三つの例外をのぞくと、みな、 復讐といふことを意味するヴィンデックスといふ名前で終つてゐた。それは、 矢張り復讐といふ意味の希臘(ギリシヤ)語「チシステネス」に相當する文字として、 羅馬(ローマ)移住後、この一家の家名としたものゝやうに思はれる。そのうちに、この拉典語のヴィンデックスといふ姓は、 預期通り先づデ・ヴィンシイとかはり、ついで近代風に、だゞのヴィンシイとなつてしまつてゐた。 基督紀元前に生きてゐた埃及(エジプト)人から傳へられた、 家門相傳の復讐の義務がこんな風に英語の姓にされてしまつたことは面白いことである。

この壺片に記された羅馬(ローマ)人の名前のうち二三のものは、 歴史やその他の記録にのこつてゐる名前であることをその後になつて私は發見した。

この一聯の羅馬(ローマ)人の名前の次には數世紀の年代が飛んでゐる。今日となつては、誰にも、この遺物が、 この暗黒時代の間どうなつてゐたか、どうして、この一家にそれが保存されて來たかは永久にわからぬであらう。 だが記憶すべきことは、あのかはいさうなヴィンシイが、羅馬(ローマ)人の先祖は、たうとうロンバルヂイに移住し、 シャールマンの侵入のときに、この大帝について、アルプス山を越へてブリタニイに行き、 それからエドワード懺悔王の時に海を渡つて英國へ來たのだと語つたことである。 彼がどうしてそのことを知つてゐたのか私にはわからない。 この土噐にはロンバルヂイのこともシャールマン大帝のことも少しも記してないからである。 但しいまにわかることであるが、ブリタニイのことはちよつと書いてある。それはさておき、 その次ぎには、血か又はそれに類する赤いものゝ長いとばしるのついてゐるのを除くと、 赤い繪具で二つの十字架がかいてあつた。恐らくそれは十字軍士の劍のつもりなのであらう。 それから、紅と青とでD.V.といふ巧みな組み合せ文字が記されてゐた。 それは、前に記したあの拙い對句を書いたドロテア・ヴィンシイの筆蹟であらう。 その左の方に、うすい青色でA. V.といふ略名が記してあり、 そのあとに といふ日附がついてゐた。

その次ぎに、この大昔しの不思議な遺物に記してあるものゝ中に何れにも劣らぬ竒怪な文字が記されてゐた。 それは二つの十字架又は十字軍士の劍の上に書いたもので年代は千四百四十五年になつてゐた。 そしてなほ一層竒怪なことには、二番目の羊皮紙の卷物にその英譯がついてゐた。その文意は次のとほりであつた。

「この遺物は、遠き昔我が先祖がブリタニイよりもち來りしものなるが、 そは惡魔が魔法をもつてつくりたるものなれば破毀すべしとの聖僧の言に從ひ吾が父が二つに毀したるものなり。 されど吾ジョン・デ・ヴィンシイは、紀元千四百四十五年聖母マリイの祭日の次の月曜日に、これを再びつぎあはせしたるものなり」

その次の、最期から二番目の手記はエリザベス朝のもので、一五六四年の日附になつてゐた。それには次のやうに書いてあつた。 「こは最も不思議にして、且つ我が父の生命を失はしめたる物語なり。我が父はアフリカ東海岸に件の場所を探檢せんとしたるが、 彼の快走船は、ロレンソ・マルケス沖にて、ポルトガルの大帆船のために沈められ、彼自らも亦死せり。--ジョン・ヴィンシイ。」

その次の、即ち最期の手記はその書體からかんがへて見ると、十八世紀の中葉に、ヴィンシイ家の代表者によつて書かれたものである。 それは、「ハムレット」の中の有名な文句の少々間違ひのある引用で といふのであつた。

いま一つの書類は、壺片の希臘(ギリシヤ)文字を中世の拉典文に飜譯したものであつた。 それは英國ではじめて希臘(ギリシヤ)語を教へたエドマンド・プラットといふ學者が一四九五年に飜譯したものである。 きつと、その當時の何とかヴィンシイが、ことによると、壺片をつぎあはして一四四五年の前に記した文句を書いて、 そしてジョン・デ・ヴィンシイがプラットの高名をきいて、彼が當時希臘(ギリシヤ)語を教授してゐたオックスフォードへ驅けつけ、 不思議な壺片の文字の意味を解かうと思つたのであらう。

これ等の書類、少なくもその中で判讀できるものをすつかり讀み了り驗べ了つてから私は言つた。 「さあこれですつかり樣子はわかつた。これでもうお前も、考へをきめることができるわけだ。 わしの考へはもうきまつたがね。」

「では叔父さんはどう考へますか?」と彼ははや口でたづねた。

「かうだ。この壺片は正眞正銘のものだとわしは信ずる。そして不思議なやうだが、 これは紀元前四世紀の頃から君の家に傳はつて來たものであることも信ずる。 手記が何よりの證據だ。だから、お前の遠い先祖の埃及(エジプト)の王女或はその女の指圖を受けた或る書記が、 この壺片に記してある文章を書いたのだといふことは、わしは少しも疑はんが、それと同時に、 この女はいろいろな苦しみや夫を失つた悲しみのために正氣を失つてゐて、 これを書いたときは健全な精神状態ではなかつたといふことも、わしは少しも疑はんのだ。」

「僕の親父が、あちらで見たり聞いたりしたことはどう説明するんですか?」とレオはたづねた。

暗合(まぐれあたり)さ。アフリカの海岸には、そりや勿論いくらか人間の頭に似た斷崖もあらうし、 アラビヤ語に似た土語を話す人間も澤山いるだらう。それに沼地だつていくらもあるに相違ない。 それから、こんなことを言つちや氣の毒だが、君の親父はこの手紙を書いたときに、 全く正氣だつたとは僕は思はんよ。あの男は隨分苦しみにあつて來たので、 この物語もたうとう空想の餌食にしてしまつたのだ。元來が餘程の空想家だつたからねえ。 いづれにしても、いま吾々の手に傳はつて來たこの傳説は取るに足らんものだよ。 自然界には吾々が滅多に遭遇しない、そして遭遇しても吾々にはわからない不思議な力がいろ〜あることはわしも知つてゐる。 だがわしは自分の眼でそれを見るまでは、そしてこの眼で見るなんてことは到底ありさうにないことだが、 たとひ束の間でも死を避ける(すべ)があるなんてことは斷じて信じない。 又、アフリカ中心に白人の魔女が住んでゐるとか住んでゐたとかいふことも信じない。 そりや、囈語(たはごと)だよ、レオ君、囈語(たはごと)だよ! -- ジョッブ、お前はどう思ふかね?」

「そりやもう眞赤な(うそ)でございますとも、それにもしほんたうだとしても、 レオ樣はそんなことに手を出しをなさらないやうにしていたゞきたいですね。何もいゝことはありつこはありませんから。」

「多分あなた方のお考へが正しいでせう」とレオは非常に物しづかに言つた。 「僕は意見は何も申しませんが、これだけのことは言つておきます。僕はこの問題をすつかり解決してしまふつもりです。 で若し貴下(あなた)がたが一緒に來られないなら、僕は一人で行く決心です。」

私はこの青年の顏を見て、彼が眞面目に言つてゐることを知つた。レオが眞面目に物を言ふときには、 口のあたりに妙な表情が浮ぶので誰にでもわかつた。それは子供の時分からの彼の癖であつた。 ところで私は、勿論彼を一人でどこへもやる氣はなかつた。それは彼のためといふより寧ろ私のためたつたのである。 私は彼にひどく愛着を感じてゐたのでとてもそんなことはできなかつたである。 私にはあまり係累もなければ、愛情をわかつ相手も多くはない。此の點では私は逆境にたつてゐた。 世間の人は男も女も私を避けてゐた。少なくも私にはそのやうに思はれた。 で私は世の中から隱退して、世間の人と親しい交りを結ぶ機會を自ら斷ちきつてゐたのである。 だから、レオは私にとつては全世界であつた。弟でもあり、子供でもあり、友逹でもあつた。 それでレオの方で私に飽きて來るまでは、レオの行くとこへはどこへでも私は行かねばならなかつたのである。 だが勿論、彼が私にとつてそれ程重きをなしてゐることをさとられては工合が惡いので、 私は何かうまい口實を設けて彼に從ふ手段はないものかと考へてゐた。

「さうです、私は行きますよ、叔父さん。」と彼は繰り返した。「もし『うづまく生命の柱』とやらが發見できなくたつて、 すばらしい獵ができることは請合ですからね。」

私は、この絶好の機會を捉へた。

「獵だつて」と私は言つた。「さうさう!それにはちつとも氣が附かなんだ。 あちらにはきつと廣い人跡未踏の山野があることだらう。そして獲物が澤山ゐるにきまつてゐる。 わしは生きてゐるうちに一度水牛を殺して見たいと思つてゐたんだ。いゝかいレオ、 わしは探檢のことなどは信じてをらんが、獵のことになると眼がないんだよ。で、すつかり考へた上で、 ほんたうにお前が出かけるつもりなら、わしも氣晴らし、お伴をするよ。」

「さうでせう」とレオは言つた。「僕は叔父さんがこんな又とない機會を逃しはなさるまいと思つてゐましたよ。 だがお金はどうしませう。隨分費用がかゝるでせうからね。」

「その點についちや心配は要らん。」と私は答へた。「お前の收入の何年分もすつかり積んであるからね。 それに、お前の親父がわしにのこしといてくれた金も三分の二は貯蓄してある。 これもつまりはお前のためにのこしておいてくれたんだ。お金は正金でうんとあるよ。」

「そりや素敵だ。では、こんなものはもうしまつて、早速町へ鐵砲を見に出かけませう。 ところでジョッブ、お前も一緒に行かないかい?もうお前もぼつ〜世間を知つてよい時分だぜ。」

「よろしうございます。」とジョッブは氣のりのしない聲で答へた。 「わつしは見知らぬ異國へなどあまり行つて見たいとも思ひませんが、あなた樣方が二人ともお出かけになれば、 誰かお世話をする人もお入り用でございませうし、それにわつしには、二十年もの間使つていたゞいて、 今更らひとりであとに殘つてゐるやうな人間ではございませんから。」

「その通りだよ、ジョッブ」と私は言つた。「別に何も驚くやうなことは見つかりもすまいが、 すばらしい獵ができるぜ。それに二人ともこれを見たまへ。わしは、 こんな馬鹿げたものについては一言も世間の人に聞かしたくないね」と言ひながら私は件の壺片を指さした。 「もしこんなことが知れて、わしの身にまさかのことがあつた時には、 わしが正氣だつたかどうかつて問題で近親(みうち)の者の間に、 わしの遺言について爭ひが起るだらうし、わしはケンブリッヂの物笑ひになるにきまつてゐるからな。」

それから三箇月たつて、吾々はザンヂバル行きの船に乘つて大洋を航海してゐた。


訳注
一八〇〇年
一三〇〇年の誤り。
「天地には、君の哲學の夢想だに及ばざる多くのことがあるぞよ、ホレース君」
原文:
"There are more things in Heaven and earth than are dreamt of in your philosophy, Horatio."

Shakespeare, "Hamlet", Act I, Scene V:
There are more things in heaven and earth, Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.


更新日: 2003/02/12

洞窟の女王:狂風


第四章 狂風(はやて)

これから私が話さうとする場面は、これまで私の話して來た場面とは何といふ相違であらう! 靜かな大學の自修室も、風に搖れてゐる英國の楡も、白嘴鴉(しろはしからす)の啼き聲も、 書棚に見られた書籍類もみんな過去のものだ。そしてその代りに、アフリカの滿月の下に、 くつきりとした陰翳にくまどられて銀色に光つてゐる靜かな大海の光景が現はれてゐるのだ。 吾々の乘つてゐる船は靜かな風を孕み、美妙な音をたてゝ舷側に打ち寄せる波をわけて走つてゆく。 もう眞夜中近いので、大抵の人は眠つてゐる。だが、色の淺黒い、頑丈造りのマホメッドといふアラビア人が舵臺に立つて、 星をたよりに、ものうげに舵をとつてゐる。右舷から三(マイル)あまりのところに、低い、ぼにやりした綫が見える。 それが中央アフリカの東海岸だ。時は正に北東の季節風(モンスーン)の起る前、處は、アフリカ大陸と、 此の危險な海岸を數百哩の間縁どつてゐる暗礁との間を、吾々は南の方へ向つて走つてゐるのだ。夜は靜かだ。 船首から船尾へ低聲(こゞえ)で囁いても話がきゝとれるくらゐ靜かだ。遠くの陸地から、微かなうなり聲が、 海面をこえて聞えるくらゐ靜かだ。

舵臺のアラビア人が手を伸して一語言つた。「獅子(シンパ)だ!」

一同はみんな坐りなほつて耳を傾けた。また聞える。ゆつたりとした、莊重な、骨の髓まで沁みわたるやうな聲が。

「船長の計算が間違つてゐなければ、明日の朝の十時までには、あの人間の頭の形をした竒妙な巖に着くわけだね、 そして獵がやれるわけだ」と私は言つた。

「それから廢都の跡と生命(いのち)の火との探檢がはじまるわけですね。」 とレオはパイプを口からはなして少し笑ひながら訂正した。

「莫迦な」と私は答へた。「お前は今日の午後舵臺であの男にアラビア語で得意さうに話をしてゐたが、 あの男は何と言つたね?あいつはこの地方をあちこち廻つて、やくざな半生を商賣をしてくらしてゐたさうだが (多分奴隸の取引をやつてゐたのだらう)そして一度あの『人間』岩へ上陸したことがあるさうだが、 廢都のことや洞窟のことを何か聞き知つてゐたかね?」

「いゝや」とレオは答へた。「あの男は、この地方は奧の方は沼だらけで、蛇や獸が澤山すんでゐるが、 人間は一人も住んでゐないと言つてましたよ。何しろ、アフリカの東海岸はずつと沼の帶で圍まれゐるので、 手がつけられんといふことですよ。」

「さうとも」と私は答へた。「マラリアにはもつてこいの處だ。あの連中が、この地方についてどんな意見をもつてゐるか、 それでわかつたわけだね。誰だつて吾々の相手になんかなりやしない。奴等は吾々を氣狂だと思つてゐるんだ。 それにわしは誓つて言ふが、奴等の考へが正しいのだよ。」

「いゝですとも、ホレース叔父さん。僕はこの機會を逃しやしませんよ。おや!あの雲はなんでせう?」 かう言ひながら彼に船尾から數哩はなれたところの星の空に浮んでゐる黒い斑點を指さした。

「行つて舵手に聞いて御覽」と私は言つた。

彼は立ち上つて兩腕を伸して行つたが、すぐに歸つて來た。

「あれは狂風(はやて)ださうですよ。けれどもずつと向うの方を通るつていふことです。」

ちやうどその時ジョッブがやつて來た。

彼は大層元氣さうに見えた。褐色のフランネルの獵服姿はちやき〜の英國つ兒であつた。 だが、彼の人の善い丸顏には困つたやうな樣子が見えた。それは彼がこの見知らぬ海へ乘りこんで來てからいじゆうのことだつた。

「ねえ旦那樣」と阿彌陀にかぶつた日よけ帽子に一寸手をやりながら彼は言つた。「船尾のボートには、 鐵砲や何かゞみんな(しま)つてあるでせう。錠前附きの戸棚に入れてある食料品の方はいゝとしましてもですね。 私はそつとあそこへ行つて、あのボートの中に眠つた方がよいやうに思ふのです。 どうも私には(こゝで彼は聲をおとしてひそ〜聲で囁いた)あの黒ん奴の奴等の眼つきが氣に入らんのでしてね。 奴等はどうも迂散くさい樣子をしてゐますよ。若し奴等が夜中にボートの中へしのびこんで、 綱をきつてあの船にのつて逃げていつてしまつた日には、困つたことになりますぜ。」

このボートといふのは、吾々が萬一の場合の用心に、スコットランドのダンデイで、 特別に註文して造らせてもつて來た長さ三十(フィート)の美しいボートで、 熱さを防ぐために坊は銅でこしらへ、防水設備を施した室なども設けてあつたのである。

「さうだねえ、ジョッブ」と私は言つた。「さうした方がいゝかも知れんねえ。あそこには澤山毛布があるから、 たゞ月の光にあたらぬやうに用心した方がいゝよ。さうしないと氣が變になつたり、盲人になつたりするからねえ。」

「かまふもんですか!あの黒奴の野郎の、薄汚い、泥坊じみた樣子を見たんでもういゝ加減頭が變になつてゐるんですもの。 奴等は肥掻きでもするより他に仕方のない連中ですよ。それにもう今から惡臭紛々たるもんでございますよ。」

ジョッブはこれでもわかるやうに、皮膚の黒い吾々の同胞の習慣や動作の讚美者ではけつしてなかつた。

そこで、吾々は曵綱でボートを引つ張つて、船尾の眞つ下まで引き寄せた。 ジョッブはまるで馬鈴薯(じやがいも)の袋でもころがすやうにその中へころがりこんだ。 吾々はまたひきかへして、甲板(デツキ)に腰をかけて、煙草をふかしたり、しづかに話したりした。 その夜は何とも言へぬ美しい夜であつた。吾々の頭の中は、抑へつけた色々な昂奮で一ぱいだつたので、眠くないやうな氣がした。 かれこれ一時間もこんな風にして坐つてゐるうちに、どうやら、二人ともうと〜とまどろんだらしい。 少なくも、私は、レオが水牛の頭は的ひどころとして惡くない、ちようど角と角との眞ん中へ一發喰はしたり、 咽喉つ首へ彈丸(たま)を射ちこんだりするのは素敵だとか、 或はそれに類した他愛もないことを眠さうに説明してゐたのをかすかにおぼえてゐた。

それから先のことは何もおぼえてゐなかつた。すると突然、 恐ろしい風の唸り聲と眼をさました乘組員のけたゝましい恐怖の叫び聲とがきこえ、 水の飛沫(しぶき)が鞭のやうに顏を刺すのを感じた。二三の人々はかけつて帆索(ほづな)をゆるめて帆を下さうとしたが、 (つな)が堅く喰ひ込んでゐて帆桁は容易に下りて來なかつた。私は跳び上つて一本の綱にぶら下つた。 船尾の方の室は瀝青(ろくしやう)のやうに眞黒であつたが、船首の方にはまだ月が皎々として漆黒の闇をてらしてゐた。 月光の下には二十呎以上もある大波が白い波頭を見せて吾々の方へ突進して來た。大波は將に碎けやうとしてゐた。 月はその峰を照らし、その飛沫(しぶき)に光を注ぎかけてゐた。後から恐るべき狂風(はやて)にかりたてられて、 眞黒な空の下を、大波は突き進んで來た。突然、瞬く間に、黒いボートの形が空中高く、 碎けつゝある波頭の上に押し上げられたのを私は見た。ついで水がどつと打つつかつて、泡が沸き返りながら押し寄せて來た。 私は一生懸命に檣索(ほづな)にしがみついて、強風にあつた旗のやうに眞直ぐに引き伸ばされた。

船は船尾に波をかぶつたのである。

波は通り過ぎた。私は數分間も水の下にゐたやうに思つたが、その實それは數秒間であつた。 前方を見ると、大きな帆は、疾風のために引きちぎられて、手傷を負ふた巨鳥のやうに、風下の方へはた〜となびいてゐた。 やがて比較的靜かな瞬間が來た。その時に、私は「ボートはこちらですよ」と大聲でわめいてゐるジョッブの聲を聞いた。

私は氣が顛倒して半ば土左衞門になつてゐたのだが、それでも船尾の方へ突き進んでゆくだけの正氣はもつてゐた。 私は歩いて行く足の下で船が沈んでゆくやうな氣がした。船はもう水で一ぱいになつてゐたのである。 船尾の突出部(カウンター)のすぐ下で、ボートは狂氣のやうに搖れてゐた。 と、今しがたまで親船の舵をとつてゐたアラビア人のマホメッドがそのボートの中へ跳びこんで行くのが見えた。 私は眞直にぴんと張つた綱を金剛力を出して引き寄せ、同じくあとからボートへ跳び降りた。ジョッブが片腕をつかまへてくれた。 そして私は船底へころがり込んだ。親船の船體はずぶ〜と沈んでいつた。その時、マホメッドは曲つたナイフを拔いて、 親船とボートとを繋いでゐた緒綱切つた。すると忽ち吾々は嵐にかりたてられて、親船の沈んだ上を吹き流されて行つた。

「大變だ!」と私は叫んだ。「レオはどこにゐる?レオ!レオ!」

「レオ樣はゐなくなりました」とジョッブが私の耳のそばまで口をもつて來てわめいた。 それでも荒れ狂ふ暴風のために彼の聲はまるで私語(さゝやき)のやうにきこえた。

私は兩手をあはせて、ねぢまげながら懊惱した。レオは溺死したのだ。そして私があとへ生き殘つて彼の死を悲しまねばならのだ。

「そら、又浪が來ましたよ」ジョッブが大聲でわめいた。

私は振り返つて見た。第二の巨浪が吾々に襲ひかゝらうとしてゐた。私はいつそのことその浪に呑みこまれてしまひたいやうな氣になつて、 妙に、釣り込まれるやうな氣持ちで、恐ろしい浪の押し寄せて來るのをぢつと見まもつてゐた。 月は、すさまじい嵐に吹きまくられて殆んど姿を隱してゐたが、それでもなほ少しばかりの光が、 貪婪な巨浪の波頭をきら〜照らしてゐた。波頭の上に何か黒いものが漂うてゐる。それは難破船の破片だ。 たうとう波は吾々のボートへ押し寄せて來た。ボートは水で殆んど一ぱいになつた。 だがこのボートには有り難いことには誰が發明したのか空氣も通はぬ密閉した小室が澤山設けてあるので、 波の間からひよいひよいと水鳥のやうに浮び上つた。渦卷く泡の中に、私は黒いものが波の上を眞直に私の方へ急いで來るのを見た。 私はそれをおし除けようと思つて右手をのばした。すると私の手先を何者かの腕がつかまつた。 私の指はその手首を萬力のやうにがつきとつかんだ。私は隨分力は強い方だが、それでも、 この漂流者の身體の重味とひつぱる力とのために、肩が千切れさうになつた。もう二秒間も浪がつゞいてゐたら私はきつと手をはなしたか、 或は自分も一緒につれてゆかれたかしたにちがひない。けれどもボートの中に膝まで水をのこして、浪は通り過ぎてしまつた。

「さあ汲み出すんだ、水を汲み出すんだ」と叫びながらジョッブはせつせと水汲みにかゝつた。

けれども私はその時は水を汲むどころの騷ぎではなかつた。何故なら、月はもう雲間に沒してあたりは眞の闇であつたけれども、 一條のかすかな迷つた光りは、私のつかみあげた男の顏を照らしてゐたからだ。その男は船底に半ば横はり、半ば浮んでゐた。

それはレオであつたのだ。レオが波に押し返されて來たのだ。死んでゐるのか生きてゐるかはわからぬが、 正に死の(あぎと)から押し返されて來たのだ。

「さあ水を汲み出さなくちや沈んでしまふ」とジョッブは聲を張りあげた。

私は腰掛の下に結びつけてあつた柄のついた大きな錫の椀をとつて、三人で一生懸命に水を汲み出した。 嵐は吾々の上に、まはりに荒れ狂ひ、ボートは前後左右に飜弄された。嵐はうづを卷いて、 水烟は棘のやうに身を刺し、眼をおほふ中を物ともせずに、吾々は死物狂ひの歡喜に荒れ狂ふ惡魔のやうにたち働いた。 死物狂ひにも一種の歡喜があるものだ。一分!三分!六分!ボートはだん〜輕くなつてゆき、新しい波はもう押し寄せて來ない。 それからまた五分もたつとボートの中の水は大抵汲み出されてしまつた。その時突如として、 恐ろしい嵐のたけり狂ふかなたに、鈍い、深い轟きがきこえて來た。南無三!それは激浪の音であつたのだ。

ちやうどその時、月はまた輝きはじめた。こん度は狂風(はやて)の通つて來る後の方からである。 少しく間隔をおいて二條の白い綫が、遙か彼方から押し寄せて來る。それは浪なのだ。ボートが燕のやうに水を切つて進むにつれて、 浪の音はだん〜はつきりして來る。

「さあ舵をとるんだぞ、マホメッド」と私はアラビア語で言つた。「もう一度あの浪を乘り切らなくちやならん。」 それと同時に私は(かい)を握り、ジョッブにも橈をとらせた。一瞬にして、吾々のボートは、 泡立つ激浪の中へ、(まつしぐ)らに、競馬馬のやうな(はや)さで突進していつた。

船は浪にぶつつかつた。筆紙につくしがたい、心臟の破れるやうな昂奮の一二分がつゞいた。 私のおぼえてゐるのは、たけり狂ふ泡の海と、こゝに、かしこに、至るところに、 大洋の墓場から拔け出して來た怨靈のやうに頭を(もた)げて來る波濤だけである。 一度吾々は渦のなかにまきこまれたが、運がよかつたのかマホメッドの舵の操りかたがうまかつたのか、 ボートの舳は眞直ぐにゆつと浮き上つた。又しても怪物のやうな浪があつて來た。吾々はそれを乘り越へた、 といふよりも潛り拔けた。息詰まるやうな昂奮がちよつとしづまつて、アラビア人が歡喜の銅鑼聲をあげた。 ボートは激浪を乘りこえて、やゝ靜かな海へ出たのである。

けれども、船はほとんど水で一ぱいになつてゐたし、半哩ほど先には次の浪が押しよせて來てゐた。 吾々は又もや狂氣のやうに水を汲み出した。幸にも嵐はすつかり鎭まつて、月は皎々として輝き、 半哩以上も海上に突出してゐる岩だらけの岬がくつきりと見えた。浪はその岬までつゞいてゐるものと見えて、 岬の麓で浪が碎けて白い飛沫(しぶき)をたててゐた。 多分岬はそれからなほずつとつゞいて海面の下に沒して暗礁になつてゐるのであらう。 ちやうど吾々が二度目にボートから水をすつかり汲み出した時に、有り難いことにレオは眼をひらいた。 私は彼にそつと眼を閉ぢてゐるやうに言つた。彼は今の境遇を少しも知らずに、 多分もう起きて教會へ行く時刻だとでも考へてゐたのであらう、だまつて又眼を閉ぢた。 教會と言へば、ケンブリッヂ大學のあの居心地のいゝ自修室が何とも言へずなつかしい。 何故私はあの部屋をはなれてこんなところへ來るやうな馬鹿だつたんおだらう?

だが、吾々はまた浪のはうへ押し流されてゐた。しかし、風がしづまつてゐたので、 前のやうに急にではなく、たゞ潮流のまにまに押し流されてゐたに過ぎない。マホメッドはアラーの名を呼び、 私は神に念じ、ジョッブもなにかさけびながら吾々は浪にぶつつかつた。かうして危險は幾度も繰りかへされた。 だゞ以前ほど激しくはなかつただけのことである。マホメッドのたくみな舵の操縱と、密閉室のおかげで、 吾々の命はたすかつたのである。五分もたつと吾々は波を乘り切つて、櫂をとる力もなくなつてしまつたので、 潮に流されて、驚くべき速さで前に言つた岬のまはりを押し流されてゐた。

そのうちに船脚はだん〜のろくなつて、船はもう進まなくなつた。嵐は靜まり、空は拭つたやうに晴れ渡つた。 吾々は或る河口へついてゐた。潮の流れもおさまつて、船はしづかに海上に(うか)んでゐた。 月が沈むまでに船内の水の汲み出しもすつかり終つて、やつと船らしい形になつた。 レオはぐつすり眠つてゐたが私は起さぬ方がよいだらうと思つた。 彼は濡れた着物のまゝで寢てゐたのではあるが、暖い夜なので、 彼のやうな人竝以上に丈夫な人間には左程害はなからうと私も考へたし、ジョッブの考へもさうだつた。 それに第一手許に乾いた着替へはなかつたのだ。

まもなく月が沈んだ。そして吾々は、惱める女の胸のやうにひく〜と動いてゐる海上に漂うてゐた。 やつとのことで、今までのことを思ひかへす餘裕もできた。ジョッブは舳に、マホメッドは舵のところに、 そして私は船の中央のレオの寢てゐるすぐそばに腰をおろした。

月はしづ〜と美しく沈んでいつて、水平綫下に沒し去り、長い被布(ヴエール)のやうな影は空にひろがつて、 それをとほして星影が見えてゐた。しかしそれも間もなく東が白むにつれて消えてゆき、 夜は明けはなれて、空は紺青の色にかはつた。海は益々靜かになつて、海面にたちこめてゐる柔い靄のやうにおだやかになつた。 曙の天使は東から西へ、海から海へ、峰から峰へと、その胸と翼とから光をまき散して行つた。 光は闇を追ひ拂つて靜かな海上に、低い海岸綫に、海岸綫の彼方の沼の上に、その上に聳ゆる山の上に、 平和に眠れるものゝ上に、悲しみに眼ざめてゐるものゝ上に、惡の上に、善の上に、生けるものゝ上に、 死せるものゝ上に、廣大なる世界の上に、世界の上に呼吸してゐる、 またかつて呼吸してゐた萬物の上にあまねく降り(そゝ)いでいつた。

それは美しい眺めであつたが、しかもなほ悲しい眺めでもあつた。恐らくはそれはあまりに美しいかつたためであらう。 昇る日と沈む日!それは正に人類と人類にかゝはりをもつ凡ての物との象徴であり姿態である。 その朝はこのことが妙に沁々(しみ〜゛)と私の胸にこたへた。今日吾々のために昇る日は、 昨夜十八人の吾々の同業者のために沈んだ日ではないか!吾々の知つてゐた十八人のために永久に沈んだ日ではないか!

アラビア船は彼等と共に沈んでいつたのだ。沈んでいつた人々は、岩や海藻の中を、死の大海の中の人間の流れのやうに流れてゐるのだ! そして吾々四人は助かつたのだ!


更新日: 2003/02/12

洞窟の女王:エチオピア人の頭


第五章 エチオピア人の頭

たうとう日輪の先驅はその仕事を了へて、影は隈なく掃き清められ、 大日輪は大海原のベッドから雄姿をあらはして熱と光とを下界に(みなぎ)らした。 私は船の中にすわつて、おだやかに(ふなべり)に寄せて來る水の音を聞きながら、朝日の昇るのを見まもつてゐた。 そのうちにボートは少しづゝ押し流されて吾々が今しがたひどい危險を冐して來た岬のとつぱなにある、 竒妙な形をした巖のそばへ來た。それは巖といふよりもむしろ峰といつた方がよいかも知れぬ。 その巖は、私と太陽との間にすつくと聳えてゐて、私の眼から太陽を遮つてゐた。 それでも私はぼんやり巖を凝視(みつ)めてゐた。すると間もなく、背後の太陽の光りで、巖の輪廓がくつきりと照し出された。 私は仰天した。それも無理ではない。高さが約八十呎、麓の厚さが百五十呎もある巖の頂きが黒人の頭のやうな形をしてゐて、 此の上なく氣味の惡い、恐ろしい形相が刻みつけられてゐるではないか。それはもう疑ふべくもなかつた。 私のすぐ前に、厚い二つの脣と、肥つた頬と、背後の日光で、 驚くほどくつきりと照し出されてゐるづんぐりとつつたつた鼻とが見えるのだ。 恐らく幾千年間風雨にけづられてあんな形になつたでもあらう圓い頭蓋、かてゝ加へてその上には海草や苔がもじやもじやと生えてゐて、 それが日光を浴びてゐるところは、巨大な黒人の頭のちゞれ毛にそつくりなのである。たしかにそれは非常に妙であつた。 あまり妙なので、今では、私はこれはだゞの造化の戲れではなくて、有名な埃及(エジプト)のスフィンクスのやうに、 遠い誰の記憶にものこつてゐない太古の人々によりてつくられた巨大な記念碑だらうと思つてゐる。 恐らくそれは、この港に近づいて來る敵に對する警告と叛抗との表象としてこしらへたものであらう。 不幸にして吾々はその後果してさうであるか否かをたしかめることはできなかつた。 それは海からも陸からもそお巖へ近づくことはできなかつたのと、外にいろ〜しなければならぬ仕事があつたのとのためである。 今、その後に吾々が見た事柄によりて察すると、たしかにそれは人間の手によりてつくられたものである。 いづれにしても、それは二千年餘年前、 レオの遠い先祖のカリクラテスの妻であり埃及(エジプト)の王女であつたアメナルタスの頃にも立つてゐたのであり、 今後もいつまでも立つてゐるに相違ないのだ。

「お前はあれをどう思ふかい、ジョッブ?」とボートの端に腰を下して、ひどく悲觀した顏つきをしながら、 出來るだけ多く日光を吸ひとらうとしてゐた吾々の從者に向つて私は訊ねた。 そして私は惡魔の頭のやうな巖を指した。

「ひええ!」とはじめて巖を見たジョッブは答へた。 「まるで旦那樣があの巖の上へ坐つて肖像(すがた)をとらせなさつたやうですな。」

私は笑つた。その笑ひ聲でレオが眼をさました。

「おや!」と彼は言つた。「僕はどうしたんだらう?すつかり身體が硬ばつちやつた。 アラビア船はどうしたんです?すこしブランデーを下さい。」

「お前は、もつと硬くならなかつたのを有難いと思はにやならんよ」と私は答へた。 「あの船は沈沒して乘組員は、吾々四人のほかはみんな溺れ死んだんだよ。お前の命が助かつたのなんぞも全くの竒蹟だ。」 それから、もう明るくなつてゐたので、ジョッブがレオに頼まれたブランデーを戸棚の中でさがしてゐる間に、 私は彼に昨夜の冐險を話してきかせた。

「そりや大變でしたな」と彼はかすかに言つた。「それにつけても、吾々はよく〜生きるやうに選ばれてゐたんですな。」

そのうちにブランデーが來たので、吾々はみんなで大いに飮んだ。日光はだん〜強くなつて來たので、 五時間以上もずぶ濡れになつて骨まで冷えてゐたのが温まつて來た。

「おや」とレオはブランデーの瓶を下において喘ぎながら言つた。「あれは例の書類に 『エチオピア人の頭の如く刻まれたる巖』と書いてあつた頭ですね。」

「さうだ、あれがさうだよ」と私は言つた。

「して見るとみんな眞實(ほんたう)なんだなあ。」と彼は答へた。

「先きのことはわからんさ」と私は答へた。「そりやこの巖が前からこゝにあつたといふことはわかつたさ。 そして君の親父がこれを見たつてこともわかつたよ。だが、どうもこの巖があの書類に書いてあつた巖とは思はれんね。 それに、若しさうだとしても、そりや何の證據にもならんよ。」

レオは私を見て得意さうに笑ひながら「あなたは疑ぐり深い猶太(ユダヤ)人ですね、ホレース叔父さん」と言つた。 「この生きた眼で今にわかりますよ。」

「正にそのとほりだ」と私は答へた。「ところで、今吾々は洲を越へて河口へ漂流してゐるのだぜ。 さあジョッブ、櫂をもて、これから漕いでいつて上陸する場所があるかどうか見るんだ。」

吾々がはひつていつた河は、まだ海岸に立ちこめてゐる霧がすつかり()れきらないので、 確にわからなかつたが、あまり廣くはなさゝうであつた。アフリカの海岸は大抵どこでもさうであるが、 ここにも河口に相當大きな砂洲があつたので、風が陸の方から吹いて來たり、潮がひいたりしてゐる時なら、 吃水數吋のボートでも絶對にそれを越へることはできなかつたのであるが、その時は大變工合がよかつた。 それにボートの中には、もはやコップに一杯の水もなかつたのである。二十分のゝちに、 吾々はほとんど骨を折らずに、強い、しかし多少むらのある風に運ばれて、眞つ直に港内にはひつた。 (もや)はもう()れて、日は氣味のわるい程暑くなつて來た。このあたりの河幅は約半哩位で、 兩岸には沼地が多く、澤山の鰐が、丸太を竝べたやうに群がつてゐるのが見えた。 だが、一哩ばかり河上に、固い陸地らしいものが見えたので、吾々はそれを目がけて漕いで行つた。 それから十五分もたつと、船はそこに着いた。吾々は、一本の美しい樹にボートをつないで上陸した。 その樹は、葉は廣くて光つてをり、白ではなく薔薇色の木蓮(マグノリヤ)屬の花が咲いて、 それが水際におほひかゝつてゐた。それから吾々は着物を脱いで身體を洗ひ、 着物や船の中のものをひろげて天日に乾かした。みんなすぐに乾いた。それがすむと、 吾々は樹蔭で暑さをさけながら、ゆつくりと、すてきな、タン・シチウの朝食をすませた。 吾々はそれを船の中に澤山積んで來たのである。食事をしながらも吾々は前日暴風でアラビア船が沈む前に、 食料品をボートへ積みこんでおいた幸運を祝ひあつた。食事がおはつた時には着物はすつかり乾いてゐたので、 吾々は急いでそれを身につけて、少なからずすが〜しい氣持になつた。 疲れたのと少しばかり擦り傷を負ふた他には、吾々は他の乘組員たちの命を奪つた昨夜の恐ろしい冐險から別に被害を受けなかつた。 レオはもう少しで溺死するところだつたが、二十五歳の元氣ざかりの彼にとつては、それ位のことは何でもなかつたのである。

朝食がすむと吾々はあたりをしらべはじめた。吾々のゐたところは、幅二百(ヤード)、 長さ五百碼程の長方形な乾いた土地で、一方は河に面し、他の三方は見渡すかぎりの荒涼たる沼地であつた。 この乾地は周圍の沼地や河の水面から約二十五呎ばかり高まつてゐたので、どう見ても人間の手でつくつたものらしかつた。

「此處は波止場だつたのですね」レオは斷定的に言つた。

「莫迦な」と私は答へた。「こんな恐ろしい沼地の眞ん中に波止場をこしらへるやうな馬鹿があるもんか、 こんな蠻人の住んでゐる國に、それに蠻人だつて住んでゐるかどうかわかりやしない。」

「前から沼地ぢやなかつたのでせう、それに、こゝの住民も前から蠻人ぢやなかつたかも知れませんぜ」 と彼は嶮しい岸を見下しながら、そつ氣なく言つた。吾々は河の岸に立つてゐたのである。 「あそこを御覽なさい、あれは石造工事ぢやありませんか、どうもさうらしいですよ。」かう言ひながら彼は、 昨夜の暴風で一本の木蓮(マグノリヤ)が根こそぎにされて土塊(つちくれ)(もた)げてゐるところを指さした。 そこはすぐ河つぺりで、岸が急勾配で水面に下つてゐるところであつた。

「莫迦な」とまた私はつたものゝ、二人はそこへ下りていつて、上向きになつた木蓮(マグノリヤ)の根と岸との間に立つた。

「どうです?」と彼は言つた。

けれども今度は私は返事をしないで囁いてゐた。といふわけは、土が掘り返されたところから、 まぎれもない固い石の表が顏を出してゐたからだ。それは大きな區劃(くくわく)に切つて敷きつめ、 褐色のセメントでかたくつなぎあはせてあつたので、小刀(ナイフ)の蓋金でこすつて見てもあともつかなかつた。 そればかりではない。その石壁の底に土を(もた)げて何か突出してゐるものがあつたので、 兩手で柔い土を取り除けて見ると、それは直徑が一呎以上もある、厚さ三吋ばかりの大きな石の環であつた。 この發見は完全に私を沈默さしてしまつた。

「相當大きい船が繋がれてゐた波止場らしいですね、どうです、ホレース叔父さん?」とレオは昂奮して齒を出して笑ひながら言つた。

私はもう一度「莫迦な」と言はうとしたが、言葉が咽喉につかへて出なかつた。この石の環が自分で語つてゐたのだ。 昔、こゝに船が碇泊したことがあるのだ。そしてこの石壁は丈夫につくられた波止場の遺物にちがひないのである。

多分この波止場のあつた都市はそのうしろにある沼地の下へ埋沒してしまつたのであらう。

「どうやらあの物語はまんざら(うそ)でもなさゝうに見えて來ましたね、ホレース叔父さん」 とレオは雀躍(こをど)りして言つた。あの不思議な黒人の頭や、それに劣らず合點のゆかぬこの石造工事のことを考へて見ると、 私にはそれに對して眞つ直ぐな返事は出來なかつた。

「アフリカのやうな國には」と私は言つた。「ずつと前に亡びて忘れられてしまつた文明の遺物はそこらぢじゆうにあるにきまつてるさ。 埃及(エジプト)の文明がいつからいつまでつゞいてゐたかを知つてる人は一人もないし、 この文明にはきつと分派もあつたに相違ない。それからバビロン人や、 フェニキア人や波斯(ペルシヤ)人やその他の國民もみんな多かれ少なかれ文明をもつてゐたんだ。 近頃ぢや大流行の猶太(ユダヤ)の文明は勿論のことだしね。これ等の民族、或はそのうちのどれかゞこの附近に植民地をもつてゐたか、 或は貿易の根據地をもつてゐたのかも知れん。キルワで領事が吾々に見せてくれた埋沒した波斯(ペルシヤ)都市のことを記憶してゐるだらう。」

「全くそのとほりです」とレオは言つた。「大分叔父さんの説は前とかはつて來ましたね。」

「ところでこれからどうするかね?」と私は話頭を轉じて訊ねた。

誰も返事をしなかつたので、吾々は沼の縁まで歩いて行つて、沼地を見渡した。見たところ、それは無限につゞいてゐた。 そしていろ〜な水鳥の群が隱れがから翔び出して來て、時々空も見えない程になつた。 日は高く昇つてゐたので、沼の表や、泡だつた溜り水の池から嫌な格好をした毒瓦斯の雲が立ちのぼつてゐた。

「二つのことは明白だ」と私は當惑してこの光景を見つめてゐた三人の仲間に向つて言つた。 「第一にこれを渡ることはできん」といひながら私は沼を指した。「それから第二に、こゝに止つてをれば、 きつと熱病にかゝつて死んでしまふ。」

「それはわかりきつたことでございますね」とジョッブは言つた。

「さうすると吾々のすべきことは二つしかない。ボートににつて、どこかの港をさがして見るか、 これもなか〜危い藝當だが、それとも、帆か櫂で河上へ遡つて行つて何處へ着くか運だめしをして見るかだ。」

「みんなはどうするつもりか知らんが、僕は河上へ遡りますよ」とレオはきつと口を締めて言つた。

ジョッブは白目をむいて呻いた。アラビア人もアラーの名を唱へながら呻いた。私は、どうせ、 吾々は惡魔と深海との間にはさまれてゐるらしいから、どつちへ行つたつて大してかはりはないのだとおとなしく言つて聞かせた。 けれども私は實を言へばレオの言ふ方へ行きたかつたのである。あの大きな黒人の頭と石の波止場とが私の好竒心をひどく刺戟して、 私は内心恥かしい位だつた。どうしてもこの好竒心を滿足させようと私は腹できめてゐたのである。 そこで吾々は注意深く(マスト)をあはせ、荷物を積み直し、小銃を取り出して船に乘り込んだ。 幸にも風は海の方から吹き上げて來たので、帆を上げることができた。後になつて發見したのだが、 一般に日中數時間は風は海の方から吹いて來て、日沒には又陸の方から吹いて來るのがこの地方の通則であつた。

吾々は順風に帆をあげて三四時間河を遡航した。一度河馬の群が、 吾々の船から十尋から十二尋位のところへ現はれて恐ろしい聲を出して咆えたのでジョッブはひどく驚いた。 私も白状すれば、少なからず吃驚した。吾々はこの時はじめて河馬といふものを見たのである。 それに河馬の方でも竝々ならぬ好竒心をあらはしてゐたところを見ると、 白人といふものを見たのは吾々がはじめてだつたのであらう。(うそ)ぢやない、 一二度はその好竒心を滿たすために彼等は船の中へはひつて來ようとした。 レオは彼等に發砲しようとしたが、私は結果を恐れて止めさせた。又吾々は兩岸の泥の上に、 何百となく日向ぼつこをしてゐる鰐や、何千となく群がり飛んでゐる水鳥の群を見た。

正午頃になると太陽の熱度は益々加はつて、沼地から發散する惡臭はとてもたまらなかつたので、 吾々は始終用心のためにキニーネを()んだ。流れに逆らつて、 この炎天に重いボートを漕いでゆくなんてことはとても覺束なくなつた。 そこで、吾々は、河縁に叢り生えてゐる柳科に屬する樹の蔭へ()ぢのぼつて、 日沒が近づいてほつと息をつけるまで横になつて休息してゐた。 そのうちに前方に廣い水面があるらしいのが見えたので、晩の仕事をきめるまでに、そこまで漕いでゆくことにきめて、 ちやうど船の(ともづな)をゆるめようとしてゐたときに、前の方から、角の曲つた、尻に白い縞のある、 一匹の美しい羚羊が五十(ヤード)離れた柳の樹蔭に吾々が隱れてゐるのに氣づかずに河へ水を飮みに下りて來た。 レオが一番はじめてそれを見つけた。彼は熱心な狩獵家で、大きな獲物の血に飢ゑて、 何ヶ月もその夢を見てゐた位だから、すぐにきつとなつてセッター種の犬のやうに、ねらひをつけた。 それを知ると、私は彼のエッキスプレス銃を渡して、私も自分の銃を手にとつた。

「おい」と私は言つた。「射ち損はないやうに注意するがいゝよ。」

「射ち損ふ!」と彼は輕蔑してつぶやいた。「射ち損はうとしたつて射ち損へやしませんよ。」

彼は銃をとり上げた。葦毛色の羚羊は、腹一杯水を飮むと頭を上げてきよと〜向う河岸を見まはした。 彼はかうした獸の好んで通る路らしい、沼地の中の少し小高くなつたところに、夕燒の空を背景に立つてゐたのである。 私は百まで生きてもこの時の光景を忘れることができぬであらう。實に物淋しい風景ではあるが、 それでゐて狩獵家の心をわく〜させる光景だつた。

ズドン!羚羊は大きく跳んで逃げ出した。レオは射ち損じたのだ。ズドン!彈丸(たま)はまた獲物の眞つ下へ外れた。 さあもう一發、私も一發射たざるべからずだ。相手は矢のやうに飛んで行つて、もう百(ヤード)以上もはなれてゐる。 一發、二發、私はつゞけざまに射つた。「どうやらお前の獲物をうちとめたやうだぞ、レオ」と、 こんなときにはどんなに謙遜な狩獵家の胸にでもこみあげて來る喜びを抑へながら私は言つた。

「降參しましたよ、叔父さん。お目出たう。あなたのねらひは素晴らしいものだつた。僕のはひどかつたですよ。」

吾々は船から飛び降りて、羚羊のそばへ驅けつけた。羚羊は背骨を射ち拔かれて即死してゐた。 その皮をむいて、持ち去れるだけの肉を切りとるのに十五分かそこらかゝつた。そのために、 暗くなるまでに、やつと河が廣がつて、沼の凹地にできてゐる潟まで漕いでゆける位であつた。 ちやうど暗くなつた時に、吾々はこの湖の縁から三十尋ばかりのところに投錨した。 吾々は上陸するわけには行かなかつた。といふのは、上陸して見たところで、 野營のできるやうな乾いた地面があるかどうかもわからんし、 それに沼から立ちのぼる毒瓦斯が非常に恐ろしかつたのである。 まだ水の上にゐた方が毒瓦斯の危險が少ないと思つたのである。そこで、燈をともして、またタン・シチウの夕食をすまし、 それから眠らうとした。ところが眠るどころの騷ぎでない事がすぐにわかつた。 何故かといふと、燈の光りにさそはれたのか、それとも三千年來飢ゑてゐた、珍らしい白人の臭ひにさそはれたのか知らぬが、 何萬と數知れなぬ蚊が吾々を襲つて來たのである。それは私がかつて書物で讀んだり、實際に見たりした蚊の中で、 最も血に飢ゑた、最もしつこい、最も大きな蚊であつた。彼等は雲のやうになつて押し寄せて來た。 そしてぶん〜唸つて刺すので吾々は氣が狂ひさうになつて來た。煙草の煙なんぞは、却て益々彼等を元氣づけて、 活溌にとびまはらせるだけであつた。たうとう吾々は、頭からすつぽり毛布をかぶつて、その下で、 身體中をがり〜掻きむしりながら、しよつちゆうぶつ〜呪ひ聲を上げて、徐々に蒸鍋の中で蒸されるやうな思ひをして坐つてゐた。 その時、突然沈默を破つて、深い、ライオンの咆聲がきこえた。つゞいて、 吾々から六十(ヤード)足らずの葦の中で動いてゐる第二のライオンの咆聲が聞えた。

「ねえ小父貴」とレオが毛布の下から顏をつき出して言つた。レオは時々私をかういふ不屆きな呼び方をするのであつた。 「上陸しなくて幸運(しあはせ)だつたですな。畜生、蚊の野郎鼻を刺しやがつた」と言ひながら彼はまた顏をひつこめた。

まもなく月が昇つた。岸の上から水の面をこえて、ライオンは樣々な聲をあげて咆吼してゐたけれども、 吾々は大丈夫危險はないt考へてゐたものだからうと〜眠りかけた。

どういふわけか知らぬが、ことによると毛布の上から蚊がさしたゝめであらう、私がふと毛布の下から顏を出すと、 ジョッブの低い慄へ聲が聞えた。

「あれ、あそこを御覽なさい!」

吾々はみんな岸の方を見た。するとどうだらう。(みぎは)の近くの水面に二つの大きな輪ができて、 それがだん〜大きくなつてゐる。そしてその輪の中央に二つの黒いものが動いてゐるのである。

「あれは何だ?」と私はたづねた。

「ライオンの畜生どもですよ」とジョッブは答へた。その聲の調子には、個人的な呪ひと、習慣的な尊敬と、 爭はれぬ恐怖との念が交々(こも〜゛)まじつてゐた。「奴等は私どもを食ひ殺さうと思つてこつちへ泳いで來るのです。」

私はもう一度そちらを見た。ジョッブの言葉になちがひはなかつた。私は彼等の兇猛な眼の爛々たる光りを見ることができた。 たつた今殺された羚羊の肉の匂ひに誘はれたのか、それとも吾々自身の匂ひに誘はれたのか、 飢ゑた猛獸は吾々を目懸けて跳びかゝらうとしてゐたのである。

レオはもう既に銃を手にしてゐた。私は、もつと近くへ來るまで待てといつて()めて、 その間に私の銃をさがした。吾々から十五呎ばかりのところは淺瀬になつてゐて水の深さは十五呎ほどであつた。 第一のライオン -- それは牝であつた -- はすぐそこまで渡つて來て、ぶる〜つと身體を振つて、咆吼した。 ちやうどその時にレオが發砲した。彈丸(たま)は開いた口から頭の背後へ貫通して、 ライオンはその場にたふれて、水煙をたてて死んでしまつた。もう一つのライオン -- 成長しきつた牡 -- がそれから二歩ばかり後にゐた。彼が前肢を淺瀬にかけた時に何事かゞ起つた。ちやうど英國の池で、 かますが小魚を捕へる時のやうに、水の面がばた〜騷がしくなつた。 勿論その騷ぎは數千倍もひどかつたのであるが。すると突然ライオンが恐ろしい咆聲を上げて、 何か黒いものを曵きずりながら淺瀬へ飛び上がつた。

「大變だ」とマホメッドが叫んだ。「鰐が獅子の脚に食ひついた。」正にその通りであつた。 長い口とぎら〜した齒と鱗のついた胴體とを吾々は見ることができた。

それから最もおどろくべき光景がひきつゞいておこつて來た。ライオンはどうかかうか淺瀬へはひあがつたが、 鰐はなかば立ち、なかば泳ぎながらまだライオンの後肢に噛みついてゐた。 ライオンは四邊(あたり)の空氣が震動するやうな聲で咆えた。それから、兇猛な叫び聲をあげながら、 くるりと身を飜して鰐の頭に爪をたてた。鰐はあとからわかつたことであるが、片眼を敵にくりぬかせて、 その爪を拂ひのけながら少し前へすゝんだ。そこで今度はライオンは鰐の咽喉にとびついてしつかりと爪をたてた。 かくして二つの怪物は上になり下になつて淺瀬のうへをころげまはつて獰猛に鬪つた。 彼等の動作を一々見とゞけることは不可能だつたが、そのつぎにはつきり見えるやうになつた時には畫面は一變してゐた。 鰐は血の塊のやうな眞紅な頭をして、その鐡のやうな顎で、ライオンの臀のすこし上のところを咬へて、 締めつけたり、前後に振りまはしたりしてゐた。ライオンはといふと、ひどくいじめつけられて、 苦しさうな唸り聲をあげながら、敵の鱗のある頭に爪をたてゝ噛みつき、大きな後跂の爪を鰐の比較的柔い咽喉部の皮膚にたてて、 まるで手袋でも引き裂くやうに、引き裂いてゐた。

やがて急に戰は終りをつげた。ライオンの頭は、がくりと前に埀れて、鰐の背中にかぶさり、恐ろしい唸り聲を上げて死んでしまつた。 鰐は暫らくの間身動きもせずに立ち上つてゐたが、やがてライオンの屍躰を口にくはへたまゝ、 (おもむ)ろに横ざまに倒れた。ライオンの胴體は殆んど二つに噛み切られてゐたのであつた。

この命がけの決鬪は世にも驚くべき、戰慄すべきものであつた。こんな場面を見た人はあまり多くはなからうと私は思ふ。 そして、その結末はこんな風だつたのである。

それがすつかりすむと、吾々はマホメットを見張りにのこしておいて、その夜の殘りの部分を、 蚊には刺されながらも、比較的平和に過したのであつた。


更新日: 2003/02/12

洞窟の女王:古代基督教の儀式


第六章 古代基督教の儀式

次の朝東が白むと同時に吾々は起き上がつて、かうした場合にできる程度の簡單な沐浴をすまして、 出發の準備をした。お互の顏が見える程明るくなつた時、私は思はず失笑(ふきだ)してしまつた。 といふのは、ジョッブの肥つた、氣持のよい顏は、蚊に刺されたために殆んど實物の二倍にも膨れてゐたからである。 レオとてもそれと大して變りはなかつた。三人の中で私が一番無難だつた。それは私の淺黒い皮膚が丈夫なせゐにもよるだらうし、 顏の大部分に鬚が一ぱい生えてゐたせいにもよるだらう。 私は英國を出帆してから、ずゐぶん濃い私の鬚をのび放題にさせておいたのである。ところが、 外の二人は比較的竒麗に剃つてゐたので、蚊軍にとつては征服すべき平地の面積が私よりもずつと廣かつたわけである。 だゞマホメッドと來ては蚊のはうでほんたうのアラー信者の味を見わけたと見えて、 觸つて見ようともしなかつた。それから數日間、吾々はどんなにアラビア人の體臭を羨望したか知れない。

膨れぼつたい脣で笑へるだけ笑つてゐる間に、夜はすつかり明けはなれて、海の方から吹いて來る朝風が、 沼から立ちのぼつて行手をふさいでゐる濃霧を吹き拂つてしまつたので、吾々は帆を仕立て、 死んだ二頭のライオンと鰐とを注意深くしらべてから、潟を出て再び河筋をのぼつて行つた。 正午になつて、風が凪いだ時、吾々は幸運にも乾いた土地へ着いたので、そこへ上陸して火を焚き、 二匹の鴨と、羚羊の肉を少しばかりとを料理して食べ、翌日の夜明けまでそこに過した。 勿論前夜と同じやうに蚊軍に惱まされたが、それ以外には別に災難もなかつた。それから、一、二日は同じやうにして過ぎた。 別段これといふ冐險もなく、たゞ竒麗な、角のない特種(かはりだね)の羚羊を一つ射とめたことゝ、 樣々な睡蓮が咲き亂れてゐるのを見たゞけであつた。

吾々が旅をしてから五日目、吾々の計算によるとアフリカの東海岸から西の方へ、百三十五哩から百四十哩行つたときに、 はじめて、ほんたうに重大な事件が起つて來た。その朝は、十一時頃になるといつもの風が()んでしまつたので、 吾々は少し進んだばかりで多少疲れても來たので船を停めねばならなかつた。船の停まつたころは[原文のまま]、 吾々の漕いでゆく河と、幅五十呎ばかりのも一つの河とが合流してゐる所らしかつた。すぐそばに幾らかの樹が生えてゐた -- この地方では樹といふものはたゞ河縁にのみ生えてゐるのである -- そこで吾々は樹蔭へ行つて(やす)んだ。 地面は相當に乾いてゐたので、吾々は河縁に沿ふて少しばかり歩いて四邊(あたり)の樣子をしらべたり、 食用のために水鳥を射つたりした。五十碼(ヤード)も行かぬうちに吾々は、 この上ボートで河上へ漕いでゆくことは絶對に不可能であることを見きはめた、 といふのは吾々が上陸した地點から二百碼ほど上流には淺瀬と泥洲とがつゞいてゐて、 水深は六吋位しかなかつたからである、全くもつて、それは水の袋小路であつた。

そこで吾々は引きかへして、今度は別の河を岸に沿ふて河上へ上つて見た。 すぐに吾々は色々な徴候に照して、これは、ザンジバルの海岸のモンバサで見られるやうな古代の運河であるといふ結論に逹した。 このモンバサの運河といふのは、タナ河とオジイとを聯結するもので、タナ河を降つて來た船舶は河口の危險な砂洲を避けるために、 オジイへ行つてそれから海へ出るやうになつてゐるのである。 吾々の前にある運河は世界史に或る遠い昔の時期に、人間の手で鑿掘されたものに相違なく、その痕跡は、 昔曵船につかつたものらしい高い堤防の形にのこつてゐた。ところ〜゛水のために凹みができたり、 陷沒したりしてゐるのを除けば、粘土でかためた固い兩岩の堤防の間の距離はずつと同じで、 流れも深さも同じであるらしかつた。水流は極く少なく、或は皆無なので、運河の表面は草で塞がれ、 その間をきれいな水の小流が縫ふてゐた。それは、水鳥や蜥蜴(とかげ)やその他の毒蟲が絶えず通るためにできたのであらう。 そこで、河を遡航することができないことが明白になつたので、運河を上つて見るか、 それとも海へ引きかへすかより外に道のないことも明白になつた。兎も角吾々は、 現在のところにとゞまつてゐるわけにはゆかなかつた。そこに止まつてゐれば、太陽に照りつけられ、蚊に食はれて、 恐ろしい沼で熱病にかゝつて死ぬまでゝある。

「どうせ運河を上つて見なくちやならんだらうな」と私は言つた。三人はとり〜゛に贊成した。 レオはまるで此の上ない冗戲のやうな調子で、ジョッブは、いや〜ではあるが主命もだしがたしといつた調子で、 マホメッドはアラーの名を唱へて不信者の考へかたや旅のしかたを呪ひながら。

そこで、吾々は、もう順風を期待することもできなかつたので、日が低くなるのを待つて出發した。 はじめ一時間程は、どうかかうか船を漕いでゆくことができたが、 それから先は雜草があまりにはびこつてゐるために漕ぐことができないので、 原始的な、最も骨の折れる手段をとつて、船を曵いてゆかねばならなかつた。 マホメッドとジョッブと私の三人は二時間も船を曵いた。私は優に他の二人力はあると思はれてゐたのである。 レオは船首(へさき)に腰をかけて、マホメッドの劍で、流れのまはりにはびこつてゐる雜草を切り拂つてゐた。 暗くなると吾々は暫らく息んで、蚊の御見舞を受けてゐたが、眞夜中になると、幾らか涼しくなつたので、 また歩き出した。それから明け方に三時間程やすんで、また出發し、十時頃まで歩きつゞけたが、その時、 雷鳴が猛雨を伴つてやつてきたので、それから六時間といふものは、吾々はまるで水を浴びてゐてゐるやうな始末だつた。

それからあと四日間の旅の模樣はこゝでは詳しく述べる必要があるかどうか私にはわからない。 だゞ私がこれまでに送つた月日の中で最も、みじめな月日で、明けても暮れても、ひどい勞働と、暑さと、 蚊とに苦しめられてゐたとだけ言つておけばよいであらう。どこまで行つても果しのない氣味の惡い沼地なので、 吾々が熱病にかゝらずにすんだのは、始終キニーネや下劑を服用してゐたのと、 しよつちゆう是が非でも働かねばならなかつたためだらうと思ふ。運河にはひつてからの旅の三日目に、 沼から立ちのぼる(もや)をとほして、ぼおつと霞んでゐる丸い丘が見えた。それから、 四日目の晩に吾々が野營してゐると、この丘は吾々から二十五哩か三十哩位のところにあることがわかつた。

それまでに、吾々はすつかり疲れはてゝしまつて、手にはまめができて、 もはや一碼も船を曵いてゆくことはできなくなつたやうな氣がした。 いつそのことこの恐ろしい沼の中に横はつて死んでしまつた方がましだと思つた。 それは實にひどい場所であつた。こんなところへ來る白人はこれから先だつて滅多になからうと思つた。 疲れきつたので、船の中で眠らうと思つて横になると、 結局はこんないやな沼地の中で死んでしまふにきまつてゐる狂ひじみた旅の一行に加はつたのがいま〜しくなつて來た。 うと〜とまどろむと、これから二三ヶ月もたつたら、この船や、不幸な船の乘組員はどんな姿になるんだらうと思つた。 船はこはれて、中には臭い水がたまつてゐることであらう。そしてその水は霧を含んだ濕つぽい風に搖り動かされて、 朽ちはてた吾々の骨を洗つてゐることであらう。この船と、 この船に乘つて馬鹿げた傳説を信じて自然の祕密をさぐりに來た一行の運命はさうなるに相違ないと私は思つた。

もう既にから〜になつた私の骨に水が(さゞなみ)をたてゝ寄せて來て、 それをがら〜なぶつてゐる音が聞えるやうな氣がした。私の頭蓋骨がマホメッドの頭蓋骨の方へころげてゆき、 マホメッドのは私の方へころげて來て、遂にはマホメッドの頭蓋骨が脊椎の上に立つて、空つぽの眼窩で私をにらみつけ、 私のやうな基督教徒の犬が、ほんたうの信者の最期の眠りを妨げたと言つて私を罵つてゐるのが聞えるやうな氣がした。 この恐ろしい夢に身慄ひした。といふのは霧のこめた暗がりの中に、二つの大きな眼が、 私をじろ〜凝視(みつ)めてゐたからである。私は立ち上つて、つゞけさまに恐怖と狼狽との叫び聲をあげた。 すると他の者も、眠さと恐ろしさとで、よろ〜しながら醉つたやうに跳び起きた。 その時突然、冷たい鋼鐵(かうてつ)が眼の前に閃いて、刄の廣い槍が私の咽喉に擬せられた。 そしてその背後(うしろ)には別の槍がぎら〜と殘忍な光を放つてゐた。

「靜かにしろ」と一つの聲がアラビア語で、いやアラビア語といふよりも、アラビア語の澤山まじつた土語で言つた。 「河を泳いでこゝへ來たのは何者だ?言えい、言はなければ殺してしまふ。」 そして鋼鐵(はがね)はするどく私の咽喉におしつけられた。私は全身がひやりと冷たくなるのをおぼえた。

「吾々は旅の者で、偶然にこゝに來たのです」と私はできるだけ上手なアラビア語で答へた。 それが相手に通じたと見えて、その男は後をふり返つて、うしろの方に見えた(せい)の高い人間に向つて話しかけた。 「長老さま、殺しませうか?」

「その連中の皮膚はどんな色だ?」とどつしりした聲が答へた。

「白でござります。」

「殺してはならぬ」と彼は答へた。「四日前に、全能の女王から、『いまに白人が來る、白人が來たら殺してはならぬ』 といふお逹しがあつた。あの人々の持ち物と一緒に、全能の女王のお(やしき)へつれてゆけい。」

「こつちへ來い!」と男は船から私を半ば案内をし、半ば曵きずり出しながら言つた。 見ると他の連中も矢張り他の男につれ出されてゐた。

堤防の上にはかれこれ五十人ばかりの仲間の者が集つてゐた。薄明りですかして見ると、彼等は皆大きな槍をもつてゐて、 非常に丈が高く、頑丈な體格をしてゐた。皮膚の色はあまり黒くなく、 腰のあたりに豹の皮をまきつけてゐるほかは裸體のまゝだつた。

レオとジョッブとはすぐ前へ突き出されて私のそばに坐らされた。

「一體どうしたんだ?」とレオは眼をこすりながらたづねた。

「妙なことになつて來ましたな」とジョッブは叫んだ。ちやうどその時に騷ぎが起つて、 マホメッドが吾々の間へひよろ〜と轉げ込んで來た。そして、そのあとから、 影のやうな姿が槍をふりかざしながらついて來た。

「アラー!アラー!」とマホメッドは悲鳴を上げた。「助けたまへ、守りたまへ」彼はもう到底助からぬと思つてゐたのである。

「長老樣、これは黒人でございます、全能の女王は黒人のことはどう仰言(おつしや)いました?」と一つの聲が言つた。

「女王は黒人については何とも仰言(おつしや)らなんだが、殺してはいけない。お前はこちらへ來い。」

男は前へ進んだ。すると丈の高い影のやうな姿が前へ屈んで何事かを囁いた。

「ははつ!」と相手の男は答へて、何となく血を凝らせるやうな不氣味な薄笑ひを洩らした。

「白人は三人ともそこにゐるか?」と影のやうな姿がたづねた。

「はい、そこにをります。」

「では用意のものをもつて來て、河に浮いてゐるものゝ中でもてるだけのものを殘らずもつてゆけ。」

その言葉が終るか終らぬうちに、一同の者は蓋ひのついた駕籠をかついで來た。 駕籠にはめい〜四人の駕籠かきと二人の槍持ちとがついてゐた。どうやら吾々はその中へ乘せられるらしかつた。 「しめた」とレオは言つた。「誰か吾々を運んで呉れる者がるとは有り難い、ずゐぶん一人でてくつて來たからなあ。」

レオはいつでも物事を陽氣に考へる方だつた。

ほかの者がみんな駕籠の中にはひるのを見てから、私も外に仕方もないので駕籠に乘つたが仲々乘り心地は良かつた。 それは草の纖維で織つたものらしく、身體の動くまゝにしなやかに伸びたり縮んだりした。 そして上と下とが(かつ)ぎ棒にくゝりつけてあるので頭と首とをのせるにあつらへ向きに出來てゐた。

私が身を落ちつけると、すぐに駕籠かきどもは、單調な歌聲に足竝を合はせて威勢のいゝ早足で出かけた。 私は半時間ばかり、ぢつと横になつていろ〜なことを考へまはしてゐた。 こんなことをケンブリッヂの學友どもに話したら信ずるだらうかとか、 一體これから先どうなるであらうかとか思ひめぐらしてゐるうちに、いつしか眠つてしまつた。

かれこれ七八時間も眠つたに相違ないと思ふ。アラビア船が沈沒する前の晩以來ほんたうに安眠したのはこの時がはじめてだつた。 眼が覺めたときは、太陽はもう高く空に昇つてゐた。吾々はまだ、一時間四哩位の足どりで旅をしてゐた。 駕籠のうすいカーテンの隙間から、のぞいて見ると、有り難いことには、 もう果てしのない沼地を通り拔けて、ふやけた草原の中を盃形の丘の方へ旅してゐるのであつた。 この丘は吾々が運河から見た丘なのかどうか私は知らない。その後今になるまでつひにわからずじまひだつた。 といふのは後から知つたことであるが、この土人どもは、さうしたことについては、 殆んど何も教へてくれないからである。その次に私は吾々を運んでゐる人々を見た。 彼等は皆すばらしい體格で、六尺以下のものは殆んどなかつた。そして皮膚の色は黄味を帶びてゐた。 概して彼等の外貌は東アフリカのソマリ族に似てゐたが、髮は縮れ毛でなくて、漆黒の捲毛になつて兩肩に埀れてゐた。 顏は彎曲してゐて多くは大變容色(きりやう)がよかつた。特に齒竝は揃つてゐて美しかつた。 だがそんなに美しいにも拘らず、私は全體として、これ程兇惡な顏は見たことがないと思つた。 何となく冷やかで、無愛想で、殘忍性を帶びてゐるので私はどうも蟲が好かなんだ。 實際、その中の或る者の顏はあまり甚だしくて、薄氣味が惡い程であつた。

彼等について、もう一つ氣のついたことは、彼等が決して笑はぬといふことであつた。 時々、彼等は、私が前に言つたやうに單調な歌を歌つたけれども、歌を歌はない時は殆んど完全に默つてゐて、 笑ひのために彼等の陰氣な邪惡な顏が晴れ晴れすることは決してなかつた。彼等は一體何人種なのだらう? 彼等の話す言葉はアラビア語の系統であるが、彼等はアラビア人ではない。その點はたしかである。 アラビア人にしては色が黒すぎる、黒いといふよりもむしろ黄色すぎる。何故かは知らぬが彼等の顏つきを見ると私はぞつとした。 そしてそれが恥かしくなつた。私がなほも怪しんでゐるうちに、別の駕籠が私の駕籠と竝んだ。 その中には -- カーテンがあげてあつたので -- 白つぽい上衣(うはぎ)を着た一人の老人が坐つてゐた。 その上衣(うはぎ)は粗い麻布でつくつたものらしく、ゆつたりと身體のまはりに埀れてゐた。 私はすぐにそれは、岸の上に立つて「長老樣」とよびかけられてゐた影のやうな姿であると考へた。 この老人の樣子は實に驚くべきもので、雪のやうな長髯(ちやうぜん)は駕籠の兩側に埀れてをり、 鼻はかぎ鼻で、その上に、雙つの眼が、蛇の眼のやうに鋭く光つてゐた。そして顏全體には、 賢こさうな人を愚弄するやうな、とても筆紙にあらはすことのできない樣子が見えた。

「眼が覺めましたかな、他國の人?」と彼はどつしりした低い聲で言つた。

「はあ、覺めました、長老」と私は丁寧に答へた。この老人にとり入つておけばきつとよいことがあるだらうと思つたからである。

彼は美しい白髯をしごいて、かすかに笑つた。

「どこの國から迷つてお出でになつたか知らんが」と彼は言つた。「多分、この土地の言葉の知れてゐる、そして、 子供に禮儀をしつける國からお出でなさつたのぢやらう。で一體この土地へ何のためにお出でなさつた、 まだ人の知つてゐる限り、他國の人で、この國へ足を踏み込んだ者はないですぢや。 あんたと連れの衆とは、この世の中がいやにでもおなりなさつたか?」

「吾々は新しいものを見に來たんですよ」と私は大膽に答へた。「吾々は古いものがいやになつたんで、 まだ知らないものを知るために海から上つて來たんです。私の非常に尊敬する長老、吾々は勇敢な種族で死をも恐れないのです --といふのは死ぬ前に少しでも新しい事を知つて死ねばですね。」

「ふむ!」と老紳士は言つた。「それはほんたうかも知れん、あんたは(うそ)()いてゐると言ひたいが、 あんたの言葉に逆らふのも輕はずみぢやらう。ところで、その望みなら、全能の女王がかなへて下さるぢやらうて。」

「全能の女王といふのはどんな人です?」と私は好竒心にかられてたづねた。

老人は駕籠かきどもをちらりと見て、私の心臟をいくらかひやりとさせるやうなかすかな微笑を浮べながら答へた。

「そのことは、若し女王が、あんたを肉のついたまゝで御覽になる思召しなら、すぐにわかりますわい。」

「肉のついたまゝで?」と私は答へた。「それは一體どういふ意味ですか?」

老人は物凄く笑つたゞけで返事はしなかつた。

「長老の國の人種は何といふのです?」と私は訊ねた。

「わしの國の住民はアマハッガー族といひますぢや、つまり岩の民といひますぢや。」

「甚だ失禮ですが、長老のお名前は?」

「わしの名はビラリぢや。」

「吾々はどこへ行くんです?」

「今にわかりますわい」かう言つたかと思ふと、老人は駕籠かきに合圖して、先の駕籠のそばまで走らせた。 その駕籠にはジョッブが片脚をだらりと外へ投げだして寢てゐた。 けれども老人はジョッブからは大して要領を得なかつたと見えて、 すぐにレオの駕籠の方へ駕籠かきを走らせてゐるのが見えた。

その後は何もかはつたことは起らなかつたので、私は、氣持よく駕籠に搖られながら、また眠つてしまつた。 眼が覺めた時には、吾々は、熔岩でゞきた岩だらけの峽路を通つてゐた。 兩側の嶮しい崖には美しい樹や鼻の咲いた灌木などが澤山生えてゐた。

やがてこの峽路を廻ると、美しい光景が眼前に展開された。吾々の前には、廣さ四哩から六哩もある大きな盃形の地面があつて、 ちやうど羅馬(ローマ)圓形劇場(アムフイセアター)の樣な形になつてゐた。 この大盃の周壁(まはり)は岩だらけでぎつしり草籔に被はれてゐたが、 中央部は豐饒な牧場で、すばらしくよく茂つた獨立の立木がこゝかしこに點綴(てんてつ)され、小河が縱横に貫流してゐた。 このよく繁つた草原に、山羊や牛の群が草を食んでゐたが、羊は見えなかつた。はじめ私は、 この不思議な場所は何であるか想像もつかなかつたが、すぐに、それはずつと昔に活動を()めた火山の噴火孔で、 後にそれが湖になり、最後にどういふわけでか水が乾いたものであらうと考へついた。 私はこゝで言つておいてもよいが、その後にもつと大きな、しかしその他の點ではこゝと同じ場所をいくつも見た經驗に照して、 私の斷定は正しいと信ずべき理由をもつてゐる。いづれそれ等の場所については後で語る機會があるだらうと思ふ。 だが私に合點がゆかなかつたのは、山羊や牛を飼つてゐる人間の姿は見えるが、 人間の住家(すみか)らしいものは何處にも見當らなかつたことである。一體彼等はどこに住んでゐるのだらうと私はあやしんだ。 しかし私の好竒心はすぐに充たされた。駕籠の行列は左へ曲つて、半哩か、それよりもいくらか短い距離を、 噴火吼の崖のそばに沿ふて行つた。長老のビラリが駕籠から出てきたのを見て、私もそれにならつた。 レオもジョッブもその通りにした。一番はじめに氣のついたことは、かはいさうなアラビア人のマホメッドが、 へと〜に疲れて地べたに横たはつてゐたことであつた。彼は駕籠に乘せられずに、 こゝまでの道中をすつかり歩かされたものらしかつた。出發の時でさへひどく疲れてゐたのだから、 今はもう、ぐた〜になつて地べたにへたばつてゐた。

四邊(あたり)を見まはすと、吾々がとまつたところは大きな洞窟の入口で、その前に一つの臺があり、 その臺の上にはボートの中にあつたものがすつかり、櫂から帆に至るまで取り揃へておいてあつた。 洞窟のまはりには吾々を護送して來た人々や、それに似た人々が群がつて立つてゐた。 皆、(せい)が高く、きれいであつた。但し、皮膚の黒さは樣々で、或る者はマホメッドのやうに黒く、 或る者は支那人のやうに黄色だつた。彼等は腰に豹の皮をまきつけてゐる外は、みんな裸體で、 めい〜大きな槍をもつてゐた。

中には女もまじつてゐた。女どもは、豹の皮のかはりに小さい赤い羚羊の鞣皮(なめしがは)をまとうてゐた。 女は一體にきれいで、眼は大きく、黒く、顏の輪廓はくつきりしてゐた。髮は黒人のやうに縮毛ではなくて、 厚い捲毛で、黒から栗色までの中間の樣々な色合ひであつた。 少數ではあつたが或る女はビラリが着てゐたのと同じやうな黄色つぽい麻の上衣(うはぎ)を着てゐた。 あとから知つたことであるが、これは女どもの好みによるのではなくて、地位のしるしであつたのである。 その他、女の樣子は男のそれのやうに兇猛ではなく、それに、女たちは時々笑ひもした、 尤もそれはごく稀れであつたけれど。吾々が駕籠から降りると、すぐに女どもは、吾々の周圍に集まつて來て、 物珍らしさうに、しかし大して騷がずに吾々をしらべまはした。けれどもレオのすつきりした狩獵家らしい體格と、 くつきりした希臘(ギリシヤ)式の顏とは、明らかに彼女等の注意を惹いたらしく、 彼が帽子をとつて慇懃に一同に挨拶をして黄色い捲毛を見せると、ひそ〜と感歎の囁きが起つた。そればかりではなかつた。 麻の上衣(うはぎ)を着て鳶色と栗色との合の子の色の髮をした一番容色(きりやう)のよい一人の若い女が、 おもむろに彼の方へ進み出て、しづかに彼の頸へ腕をまきつけ、前屈みになつて、彼の脣に接吻した。 その樣子は、そのつもりでしたのでなくても、たしかに相手を誘惑するに十分だつたらうと思ふ。

私は今にもレオが槍で刺し殺されやしないかと思つて、思はず聲をあげて歎息した。 ジョッブは、「このお轉婆の奴、ふとい奴だ!」と怒鳴つた。當のレオは少し吃驚した樣子だつたが、やがて、 これはてつきり古代基督教徒の慣例の行はれてゐる土地へ來たのであるといふことに氣がついて、 落ちつき拂つて接吻を返した。

私はまた何か起りはしないかと思つて歎息した。ところが意外にも、少數の若い女はいま〜しさうな樣子を示したが、 年老(としと)つた女や男どもは、ほんの少し笑つたゞけであつた。あとでこの不思議な民族の習慣がわかつて來たときに、 この謎はすつかり解けた。アマハッガー族の女は、世界中の他の殆んどすべての蕃族の習慣とは反對に、 男子と全く平等であつて、少しも男子に束縛されてゐないのであつた。血統は凡べて母系にしたがひ、 吾々歐羅巴(ヨーロッパ)人が、父系の先祖のことを誇るやうに、彼等は、母系の先祖のえらいことや古いことを誇りとし、 父親には一向注意を拂はず、明らかに父親の知れてゐる場合でも、それを父親とはみとめないのであつた。 各部族はそれ〜゛家族と呼ばれてゐたが、この家族にはそれ〜゛名義上の父が一人づゝあつて、それは、 その部屬の選擧された直接の支配者であつた。たとへば、このビラリも七千人ばかりの人員を有する部屬の支配者であつた。 で、ある女が自分の氣に入つた男があると、公衆の面前でその男のそばへ行つて彼を抱擁して、それで、 自分がその男を選らんだといふことを示すことになつてゐた。ちようど、今、美しい、 そして非常に機敏なアステーンといふ若い女がレオを抱擁したのはそれである。若し男の方で接吻を送り返すと、 男が女の申込みを承諾したしるしになるのであつた。 そして此のとり極めは二人のうちどちらかゞ飽きてしまふまでつゞくことになつてゐた。 だが、こゝで附言しておかねばならぬことは、夫をかへることは、吾々が豫想するほど頻繁には行はれなかつたといふことである。 又そのために爭ひが起るといふやうなこともなかつた。少くも男の方には爭ひは起らなかつた。 彼等は自分の妻が外の男に思ひを寄せて去つてしまつても、それは、個人々々にはつらくても社會全體のためになることで、 且つ已むを得ないことであるとして、ちようど吾々が所得税や婚姻法を承認するのと同じやうにそれを承認してゐるのであつた。


更新日: 2003/02/12

洞窟の女王:アステーン歌ふ


第七章 アステーン歌ふ

公開接吻の儀式がすむと -- ついでに言つておくが、こんな風にして可愛がつてやらうと申込んだ女は私にはなかつたが、 ジョブには一人の女がつきまとうて、この謹嚴な男をおどろかせた -- ビラリ老人が前へ進み出て、 手を振つて洞窟の中へはひるやうに合圖をした。吾々がそちらへ行くと、 私とレオが密談があるのだからといふことを仄めかしても、それをきかずに、アステーンがあとからついて來た。

五歩も行かないうちに私は、吾々のはひつて行つた洞窟は自然にできたものではなくて、 人間の手でくりぬかれたものであることを知つた。吾々の判斷したところでは、それは長さ百呎、幅五十呎位で、 非常に天井は高く、何よりも寺院の歩廊に似てゐるやうに思はれた。この歩廊からは、 十二呎か十呎位の間隔をおいて通路が開けてゐた。それは小さい(へや)へ通ずるものらしかつた。 洞窟の入口から五十呎ばかりはひつて、ちやうど外の光りが暗くなつてきたところに火が燃えて、 周圍の壁に大きな影を投げてゐた。ビラリはそこの立ちどまつて、吾々にも坐るやうにつげ、今に者どもが食事を運んでくると言つた。 そこで吾々は吾々のために敷かれた豹の皮の上に坐つて待つてゐた。 やがて、若い娘たちが食事を運んで來た。それは山羊の肉の煮たのと、土製の壺に入れた新鮮な牛乳と、 玉蜀黍の燒いたのとであつた。吾々は殆んど飢ゑてゐたので、生れてから今までに、 こんなに甘美(おい)しい食事をしたことはないやうに思つた。實際食事が終るまでに、吾々は、 吾々の前に置かれたものを片つ端から殘らず平げてしまつた。

吾々が食事をすました時に、今までだまりこくつてじろ〜吾々を見てゐた、少々無愛想な吾々の主人のビラリは、 起ち上つて吾々に話しかけた。彼はこん度のことは實際不思議だと言つた。この岩の民の國へ、 他國の白人が來たのを見たり聞いたりした人は一人もなかつたのである。時々、といつても極めて稀れではあつたが、 黒人がやつて來て、黒人の口から、彼等よりも色の白い人間が船で航海してゐたといふ話は聞いてゐたが、 その白人がやつて來たのは前代未聞であつたのだ。然るに、彼は、吾々が運河を船を曵いて來るのを見たのである。 彼はあけすけに言つたが、その時、吾々を皆んな殺してしまふやうに命令を發したのださうである。 といふのは他國人が此の國へはひつて來ることは不法だつたからである。ところが、ちやうどその時に、全能の女王から、 吾々の命を助けよとおふ逹しがあつたので、それで吾々はこゝまでつれて來られたといふわけであつた。

「ちよつと長老」と私はそこで話の腰を折つた。「その全能の女王といふ方はまだずつと先に住んでをられるのに、 どうして吾々の來たことがわかつたのです?」

ビラリは後ろを振り向いて、誰もゐないことを知つたので -- アステーンは彼が話をはじめた時に退座してゐたのである -- 少しく不思議さうな笑ひを浮べて言つた。

「あんた方の國には眼がなくても見えたり、耳がなくとも聞こえたりする人はゐませんかな? まあ、何も訊ねなさるな、あの方にはわかつてゐたんですわい。」

私はそれを聞いて肩をすくめた。彼は言葉をつゞけて、吾々の處置については何の逹しもないから、 これから全能の女王に謁見に行くのだと言つた。この全能の女王といふのはアマハッガー族の女王であることは吾々は彼から聞いて知つた。

私が彼にどの位留守にするのかと訊ねると彼は急いで行けば五日目には歸れるだらうが、 何しろ女王のところまでゆくには何哩もある沼地を越さなくちやならんからと言つた。 それについて、彼は、留守中は萬事手落ちのないやうにしておくし、彼は個人として吾々が氣に入つたから、 きつと女王樣のお沙汰も命に別條はなからうと言つた。しかしそれと同時に、彼は、それも疑はしいと思つてゐることを隱さずに言つた。 といふのは、彼の祖母の代になつてからこの國に來た他國人も、彼の母の代にこの國へ來た他國人も、 彼自身の代になつてからこの國へ來た他國人も、みんな容赦なく殺されてゐるからといふのであつた。 しかもその殺し方は吾々が恐ろしがるから言はずにおくと言つた。 そしてこの死刑は女王自身の命令によつて行はれるのだといふことであつた。 少くも彼はさう思ふと言つた。何れにしても女王はこれまでに、彼等の命を助けるために口出しされたことはないのであるといふのであつた。

「だつて可笑しいぢやありませんか?」と私は言つた。「あなたはずい分御老體でゐらつしやる。 それだのにあなたは三代も前のことを言はれたが、 その時はまだ女王は生れてをる筈もないのに どうして女王があなたの祖母さんの若い時分などの人を死刑の命令を下すことができたんですか?」

ビラリはまた笑つた。それは此の老人に獨特の笑であつた。そして丁寧にお叩頭(じぎ)をして、 何の返事もせずに彼はいつてしまつた。それから五日間吾々は彼を見なかつたのである。

彼が去つたおとで、吾々は、この恐ろしい現在の境遇について、色々話しあつた。 私は、かはいさうな他國人を無慈悲なやりかたで殺すやうに命令するらしいこの不思議な全能の女王の話はもう眞平だつた。 レオもこれには氣を重くしてゐたが、この女王こそ、 まぎれもなくあの壺の破片に書いてあつた記録や親父の手紙の中に記してあつた女に相違ないと勝ち誇つたやうに指摘して自分を慰めてゐた。 その證據として彼はビラリがその女王の年齡や不思議な力について言つたことをあげた。 私は次から次へ起つてくる事件のためにすつかり氣をのまれてゐたので、 そんな馬鹿げた話の相手になる氣は毛頭なかつた。それで、外へ出て沐浴をしようではないかと提議した。 吾々は皆沐浴がしたくてたまらなかつた矢先きなのである。

そこで、吾々の意志を、ひどく無愛想な顏つきをした中年の男に傳へた。この男は、 老人の留守中その代理として吾々の世話をしてくれてゐる男らしかつた。 吾々は一團になつて、煙管(パイプ)に火をつけながら出かけた。洞窟の外には、澤山の土人が吾々の出てくるのを見守つてゐたが、 吾々が煙草の煙を吐きだすと、これは素敵な魔法使ひだと言ひながら、散り〜ばら〜に逃げ出してしまつた。 實際吾々について彼等が何より大騷ぎをしたのは煙草の烟だつた。吾々のもつて來た銃ですらこれ程彼等を驚かしはしなかつた。 それから吾々は流れの岸について靜かに沐浴した。但し女どもの中には、 どうしてもそんな處までも吾々について來ると言つてきかない者もあつた。アステーンもその仲間の一人であつた。

吾々が此の上なく氣持のいゝ沐浴を終へた時までには太陽は沈みかけてゐた。實際、 吾々が大きな洞窟の中へ歸つて來たときには、もうすつかり太陽は沈んでゐた。洞窟の中には幾つかの焚火が燃えてゐて、 その焚火のまはりには澤山の人々が集つて、ちら〜する焚火の明りと、壁のまはりや上に釣してある燈火(ともしび)の明りとで、 夕食をしてゐた。

暫くの間吾々はすわつて、この兇猛な連中が、彼等と同樣に不氣味な沈默のうちに夕食をしてゐるのを見てゐたが、 たうとう、彼等を見るのにも飽き、岩の壁にうつゝてゐる影の動くのを見るのにも飽きて來たので、私は、 吾々の新らしい接待係の男に、もう寢たくなつたと言つた。

一言も言はずに彼は起ち上つて鄭重に私の手をとりながら手燭をもつて、中央の洞窟から開いてゐる狹い通路の一つへ進んで行つた。 そのあとからついてゆくと、突然通路は廣がつて、八呎平方ばかりの、天然の岩をきつてこしらへた小さな室になつてゐた。 この室の一方には地面から三呎ばか高くなつた石の板があつて、それはちやうど船室の中の寢棚(バンク)のやうになつてゐた。 私の案内者は、私にその上に寢るのだと告げた。(へや)の中には窓もなく、家具もなかつた。 室内を仔細に點檢して見た結果、私は、これは以前には生きた人間の寢所ではなくて、 死人の墓場に使はれたもので石の板は屍躰をのせるためにつくられたものであるといふ氣味の惡い結論に到逹した。 そしてあとになつてから、この推定は全く正しかつたことがわかつた。このことを考へると私はどうしても胴慄ひがとまらなかつた。 けれども、どの道どこかで眠らなくてはならんといふことがわかつたので、 私はできるだけ自分の感情を殺して、ほかのものと一緒に船から運ばれて來た毛布をとりに洞窟へ引き返した。 洞窟の中でジョッブに會つた。ジョッブも同じやうな室に入れられたのであるが、 室の樣子がとても恐ろしくてぞつとするので、そこにゐることができなかつたのだと言つた。 そして、あんなところに居る位なら、一そ死んでしまつて、一思ひにお祖父さんの煉瓦の墓場へ埋められた方がましだと言つた。 そこで、彼は、若し差支へなかつたら私と一緒に寢かして貰ひたいと頼んだので、私は無論二つ返事で承知した。

その夜は大體に於て氣持ちよく過ぎて行つた。何故大體に於てなんて言ふかといふと、 私自身は生き埋めにされた夢を見てひどくうなされたからである。これはきつと周圍の墓場の光景が頭に沁みこんでゐたからであらう。 明け方に吾々は若いアマハッガー人が吹きならす高い喇叭の音におどろかされた。

これはてつきり起きろといふ合圖だらうと思つて、吾々は起き上つて、小河を洗面に行つた。 それがすむと朝食の準備ができてゐた。朝食の時、あまり若くない年増女が進み出て、皆なの前でジョッブに接吻をした。 不作法な點は別として、これは實に愉快な光景であつた。 謹嚴なジョッブが怖ろしさといやらしさとで弱つてゐた光景は終生忘れることができぬ。 ジョッブは私と同樣女嫌ひであつた。多分これは十七人も家族のある家に生れたせいだらうと私は思ふ。 そのジョッブが、自分の方では承知もしないのに公衆の面前で接吻をされたゞけならまだよいが、 自分の二人の主人もそれを見てゐる前なのだから、その時の彼の表情はかはいさうな程混亂を極めたものであつた。 彼はその場に起ち上つて、三十そこそこのこの年増女を邪險に押しのけた。

「とてもたまらん」と彼は溜息をした。すると女は、彼がはにかんでゐると勘違ひして、また彼に接吻した。

「あつちへ行け、いつちまへ、このあばずれ女!」と彼は、自分が食事をしてゐたスプーンを女の顏の前で上下に振りながら叫んだ。 「皆さんどうぞ御勘辨を願ひます。私はこの女にそんな素振りを見せたのぢやないのにこの女はまたやつて來るんです。 つかまへてゝ下さい。ホリイ樣、私にはとても我慢ができません、とても。こんなことは前に一度だつてなかつたんです。 これ位私の性分に合はんことはないんです。」こゝで彼は言葉を切つて、一生懸命に洞窟の方へ逃げ出した。 その時私は初めてアマハッガー人が笑ふのを見た。だが當の女は笑はなかつた。笑ふどころか、彼女は、 憤怒のあまり髮の毛を逆立てゝゐた。それを外の女がひやかすので彼女の怒りは益々募る一方であつた。 彼女はその場に棒だちになつて、憤怒に身をふるはしてぢつとにらみつけてゐた。 私はその形相を見て、ジョッブの謹嚴が却つて災難にならねばよいがと思つてゐたが、案の定、 あとになつて見ると私の推測は間違つてゐなかつた。

女が退つたのでジョッブは、ひどく昂奮しながら引き返して來て、傍へ寄つて來る女たちを一々心配さうな眼つきで見まはした。 私はその機會に家人たちに向つて、ジョッブには妻があつたのだが、家庭に不幸があつたゝめに、 こゝへ來てゐるのだから、そのために女を見ると恐がるのだと説明した。 だが一同の者は私の説明をきいてもだまつてゐた。彼等は、吾々の從者の行ひを、 彼等家族全體に對する侮辱だと考へ手ゐるのは明白だつた。

朝食がすむと吾々は散歩をして、アマハッガー族の家畜の群や耕地を檢分した。彼等は二種の牛を飼つてゐた。 一つは大きい、骨ばつた角のない乳牛で、いま一つは、小柄で肥つた肉牛であつた。 山羊は毛の長い種類で、肉をとるだけの目的で飼はれてゐた。少なくも私は山羊の乳を搾つてゐるのを見たことはなかつた。 アマハッガー族の耕作法は、非常に原始的なもので、農具といつては、たゞ鐡でこしらへた鋤があるばかりだつた。 この民族は鐡を精練して、細工することを知つてゐたのである。この鋤は大きな槍の穗のやうな形をしてゐて、 足をのせる肩がついてゐなかつた。そのために土を掘るのに大變な勞力がいつた。 それでも彼等は男も女も耕作をしてゐた。多くの野蠻人の習慣のやうに、手先きの勞働を全くしなくてもよい者はなかつたのである。 とは言へ前にも言つたやうに、權利は女の方にあつたのである。

はじめ、吾々は、この不思議な人種の起源や法律が皆目わからないので困つた。 彼等はまた不思議にこの點については何も教へてくれなかつた。しかしながら、時がたつにつれて -- といふのは、次の四日間は別に大した出來事もなかつたので -- 吾々はレオの女友逹のアステーンから若干のことを聞き知つた。 ついでに言つておくが、この女は、影のやうにレオのそばに附きまとうてゐたのである。 起源については、少なくも彼女の知つてゐる限りでは、起源といふやうなものはないといふことであつた。 しかし、女王のすまひの近所には、石造の壁や柱などの澤山たつてゐるコオルといふ岡があることを彼女は知らせてくれた。 物識りの言ふところによると、そこには太古に(うち)があつて人がすんでゐたので、 誰もこの廢墟のそばへ近寄らないで、たゞ遠くから眺めてゐるだけだとのことである。 國内には、これに似た廢墟が方々にあつて、沼地の平面から高くなつてゐる山には皆それがあることを彼女は聞き知つてゐた。 彼等が住んでゐる洞窟も、多分これ等の都市をこしらへた人々の手によつてくる拔かれたものであらう。 彼等は成文律をもつてゐず、ただ習慣だけを守つてゐたのであるが、この習慣は法律と同樣の拘束力をもつてゐた。 もしこの習慣を破るものがあると、家族の長老の命令によりて、死刑に處せられたのである。 私は死刑はどんな風にして行はれるのかと聞いたが、彼女はたゞ笑つてゐるばかりで答へなかつた。 そしていづれ近いうちに見られるだらうと言つた。

しかし彼等には女王があつた。全能の女王といふのが彼等の女王であつた。けれども女王が姿を現はすことは極く稀れで、 二三年に一度、罪人に死刑を宣告する時に姿を見せるだけであつた。 しかもその時には女王は大きな被布(ヴエール)を頭からかぶつてゐるので、誰にも顏は見えないとのことであつた。 女王の近侍の者は皆聾でその上に唖だつたので、少しも話を聞くことはできなかつたが、 女王はこの世の中に古往今來住んでゐたどの女よりも美しい女だといふ評判であつた。 又彼女は不死で萬物を支配する力をもつてゐるといふ噂であつたが、 アステーンはそのことについては何も知つてゐなかつた。女王は時々夫を選んで女子が生れるとその夫を殺し、 女の子が大きくなつて女王が死ぬと、 この女の子が女王の位をついで母の屍躰は大きな洞窟の中へ埋めるのであらうと彼女は信じてゐたが、 これ等のことについては何一つたしかなことを知つてはゐなかつた。たゞ國内到るところで女王の命にそむくものはなく、 若し命令をとやかくいふやうなことがあつたら直ちに死刑に處せられるとのことであつた。 彼女には護衞兵がついてゐたが正規軍といふものはないといふことであつた。

私はこの國の面積や人口はどれ程あるかと訊ねて見た。彼女は、この家族のやうな家族が都合十あつて、 その中には女王の家族のやうに大きな家族もあると答へた。そして、 これ等の家族はすべてこの丘のやうな丘にある洞窟の中に住んでゐるのであり、 かうした丘は沼地の中に散在してゐて、祕密の通路で往き來することができるだけであるとのことであつた。 この家族の間には時々戰爭が行はれたこともあるが、女王が中止を命ずると雙方ともばつたり止めてしまつたといふことである。 この戰爭と、沼地を渡るときにとりつかれる熱病とのために人口はあまる増えないのだといふことであつた。 彼等と他の人種との間には何の聯絡もなく、附近には他の人種は住んでゐなかつた。 それに敵は沼地を越へて來ることはできなかつたのである。 かつて軍勢が大河(多分それはザンベシ河のことであらう)の方から彼等を攻めようとしたことがあつたが、沼地で道に迷つてしまひ、 夜になつて、沼地の附近に浮動する大きな火の玉を敵の陣地と間違へてそれを攻めようとして、 半分は沼に溺れてしまひ、殘餘の軍勢は、すでに熱病と饑餓とのために死んでしまつて、 彼等に一撃をも加へることができなかつたといふことを繰り返して話し、吾々も、 駕籠でつれて來られなければ決してこゝまでは來られなかつたのだと附け足したが、 私もなる程それにちがひないと思つた。

吾々が四日間に聞いたこれ等の事柄は皆信ぜられない程驚くべき話ばかりで、しかもその中で最も竒怪な部分は、 例の壺の破片に記してあつた文句に多少とも符合してゐた。どうも、驚くべき、 又恐ろしい神通力をもつてゐるといふ噂のある不思議な女王が住んでゐるらしい樣子であつた。 私もレオにも一向そのわけはわからなかつたが、レオは勿論、私が前に何遍も傳説のことをひやかしたので、 私に對しては、殊の外得意であつた。ジョッブと來てはもうずつと前から考へることは一切やめて凡てなるゆきにまかせてゐた。 アラビア人のマホメッドはアマハッガー人に鄭重な待遇は受けてゐたが、それと同時に冷たい侮蔑をも受けてゐた。 彼は何に脅えてゐたのか知らぬが、非常にびく〜脅えてゐた。彼は一日中洞窟の隅に(うづ)くまつて、 アラーの神や豫言者マホメッドの名を唱へてひたすら加護を祈つてゐた。 どうかしたのかと私がしつこく聞いて見ると、彼は、この國の人間は男も女も人間ではなくて惡魔で、 この國は妖魔の國だから恐ろしいのだと答へた。實を言へば、私も一二度彼の意見に贊成したくなつたことがあつた。 かやうにして、ビラリが發つてから四日目の晩までは過ぎ去つたが、この晩に或る出來事が起つた。

吾々三人とアステーンとが、寢る前に、洞窟の中で焚火をかこんで坐つてゐると、これまで默つてゐたアステーンが、 突然起ち上つてレオの金髮の上に手をおいて彼に話しかけた。

今でも私は眼を閉ぢると、この世の中の最も竒怪な光景の最も機會な中心のやうに、彼の女の誇らしい、 格好のよい姿が、濃い影と、赤い焚火の光とに代る〜゛包まれて起ち上つたところがまざ〜見えるやうな氣がする。 彼女は起ち上つたと思ふと、かず〜の胸の思ひと豫兆とをほゞ次のやうに節をつけて語り出した。

君は吾が選びし人 -- 吾は初めより君を待ちぬ!
君はいとし美し。君の髮、君の白き皮膚は世に類ひなし。
君にまさりて力ある男々しき人はなし。
君が(まなこ)は空にして、(まなこ)の光は空の星。
()くる所なき幸ある君が(かん)ばせに、吾が心おのづと君に向きぬ。
君吾を見しときより、吾君にこがれぬ --
されば吾君をとりぬ -- おゝいとしき君よ。
(わざはひ)の來らざるやうしかと君をとらへ、
日のさゝぬやう、吾が髮もて君が髮をおほひぬ。
君は皆吾がものなりき吾は皆()がものなりき。
さるうちに日はすぎて(まが)つ日は遂に來りぬ。
あゝその日何事の起りしぞ。戀人よ、吾は知らず。
さはれ君は見えずなり、吾は闇に迷ひぬ。
アステーンよりも強く、美しき人君をつれゆきぬ。
されど君は振り向きて吾が名を呼び、君が眼は闇を探しぬ。
しかも彼の女の美しさは、君をひきて恐ろしき所につれゆきぬ。
あゝかくて、あゝかくて、吾が戀人よ --

こゝで此の不思議な女は、この話とも歌ともつかぬものをやめて、彼女の前に映つてゐる深い影に輝く眼をぢつと据ゑたやうに思はれた。 言葉の意味のわからぬ吾々には、それは無茶苦茶な歌のやうに聞えた。次の瞬間に、彼女の兩眼は、 何かはつきり見えない恐怖をうつし出さうともがくものゝやうに、空虚(うつろ)な、物凄い凝視にかはつた。 彼女はレオの頭においてゐた手を宙にあげて、闇の中を指さした。吾々はみんなその方を見たが、何も見えなかつた。 けれども彼女は何かを見たのである。或は見えたやうに思つたのである。しかもそれは、 彼女の鐡のやうな神經をも激動させるものだつたと見えて、彼女は、それから一言も言はずに、 ぱつたりと吾々の間に倒れて人事不省に陷つてしまつた。

この不思議な少女に近頃だん〜ほんたうの愛着を感じはじめて來たレオはひどく吃驚して、困りはてゝしまつた。 それから何もかも公平に言つてしまへば、私の心理状態は、迷信的恐怖の状態から大して離れてはゐなかつた。 場所といひその場の事情といひ、全くもつて不氣味極まるものだつた。

しかし、まもなく彼女は正氣に返つて、痙攣的に身慄ひした。

「今のは一體どういふ意味なんだ。ねえアステーン?」とレオは訊ねた。 彼は多年の勉強のお蔭で、アラビア語が非常にうまく話せたのである。

「何でもないのよ」と彼女は強ひて微笑しながら答へた。「妾の國の風習(ならはし)に從つて貴方に歌つてあげただけだわ。 まだ起りもしないことがどうして妾にわかるもんですか?」

「では何を見たんだね、アステーン?」と私はきつと彼女の顏を見ながら訊ねた。

「何でもないわ」と又彼女は答へた。「何も見やしなくつてよ。何を見たなんて妾に問ふちやいけないわ。 貴方がたはどうして驚きなさるんです?」かう言ひながら彼女はレオの方を向いて、 彼の顏を兩手でつかまへてまるで母親がするやうな風に、彼の額に接吻した。 私は文明人の中にも野蠻人の中にも、その時の彼女の眼つきのやうに愛情に充ちた女も眼つきを見たことがない。

「ねえ貴方」と彼女は言つた。「若し妾がゐなくなつても、貴方が夜、手を伸したときに妾の姿が見えなくなつても、 時々妾のことを思ひ出して下さいね。妾は貴方の足を洗ふ價値(ねうち)もない女ですけれど、 眞から貴方を愛してゐるのです。今のうちに妾たちは存分に愛しあつて幸福でゐませう。 墓場へ行けば愛も温か味も接吻もありませんものね。ことによると何も起らないかも知れないわ。 昔あつたことの苦い記憶かも知れないわ。兎に角今夜は妾たちのものよ、 明日は誰のものになるか、そんなことは誰にだつてわかりやしないわ。」


更新日: 2003/02/12

第八章 酒宴の後


第八章 酒宴の後

その翌日になると、その晩に吾々を歡迎するための酒宴が開かれるといふことを知らせて來た。 私は、吾々はみんな不調法な人間で酒宴などは好まんと言つて、八方斷わつたが、私の辯解は不愉快さうな沈默で迎へられたので、 この上ことわらぬ方がよからうと考へた。そこで日沒のすぐ前に、私はすつかり用意が出來たといふ知らせを受けたので、 ジョッブをつれて洞窟の中へはひつて行つた。其處で私はレオに會つた。レオの傍には相變らずアステーンがついてゐた。 この二人は外へ散歩に行つてゐたので、酒宴のあることをその時まで知らずにゐたのである。 此のことをきいたときアステーンの顏に恐怖の表情が浮んだ。彼女はうしろを振りむいて、 洞窟の中を通つて行く男の腕をつかまへて、何事かをせつかちに訊ねた。彼の答へはいくらか彼女を安心させたと見えて、 彼女はほつとした樣子だつたが、まだ〜すつかり安心しきつた風ではなかつた。 それから彼女はその場の頭分(かしらぶん)の男に何か諫言でもしようとした樣子であつたが、その男は、 ぶり〜怒りながら何か言つて彼女を拂ひのけた。だがまもなく氣が變つたと見えて、彼は彼女の腕をとつて、彼と、 焚火のまはりに車座をつくつてゐたも一人の男との間に彼女を坐らせた。彼女は、何かわけがあつたと見えて、 彼の言ひなりになつてゐるのがよいと考へたらしかつた。

その晩の焚火はいつもよりずつと大きく、そのまはりには廣い環をつくつて三十五人の男と二人の女とが坐つてゐた。 二人の女といふのはアステーンとジョッブに振られた女とであつた。男はみな、いつものやうに默つて坐つてゐた。 そしてめい〜自分のうしろの岩に掘り拔いた穴に眞つ直ぐに大きな槍をたてかけてゐた。 前に言つた黄色つぽい麻の上衣(うはぎ)を着てゐる者は一人か二人で、他の者は腰に豹の皮をまきつけてゐるだけだつた。

「これからどうなるんです、旦那樣」とジョッブは心配さうに言つた。「おや〜またあの女が來てゐる。 だがもう私を追ひまはす氣遣ひはありませんよ。私はてんで相手にしなかつたんですから。 奴等を見るとむず〜しますよ、どいつもこいつも、まつたくですよ。おや、 奴等はマホメッドにも食事をするやうに言つてゐますね。ほら、あの女が、マホメッドをあんなに鄭重に案内して來ますよ。 やれやれ、私でなくて助かりました。」

吾々が見ると、たしかに、問題の女が起ち上つて、かはいさうなマホメッドを隅つこからつれ出してゐた。 彼は、何かしら恐ろしい豫感に打たれて、アラーの名を念じながら、そこに慄へてゐたのである。 彼はついてゆくのが氣が進まぬらしかつた。だがそれは恐らく、これまで別の食事を與へられてゐた彼が、 急に慣例を破つてこのやうな恩典に浴したので薄氣味が惡かつたのであらう。 いづれにしても彼はひどく恐怖にうたれて、膝ががた〜ふるへるので、頑丈な、大きな身體を支へるのがやつとやつとだつた。 彼が兎に角承知してついて來たのは、彼の手をとつてつれて來た女がなだめすかしたからといふよりも、 むしろ後の方に大きな槍をもつたアマハッガー人の巨漢がひかへてゐたせゐだと私は思ふ。

「どうも樣子が變だ。」と私は言つた。「だが當つて碎けるより外にしようがない。皆んな拳銃(ピストル)をもつてゐるかね。 もつてゐるなら彈丸(たま)がこめてあるかどうかしらべておくがいゝぜ。」

「私はもつてますよ」とジョッブは彼のコルト(拳銃(ピストル)の名)を輕く叩きながら言つた。 「けれどもレオ樣は獵刀をもつてゐらつしやるきりですよ。尤もあれはずゐぶん大きいから大丈夫ですけれど。」

置きわすれた武噐をとりに行つてゐる間もないので、吾々は大膽に前へ進み出て、洞窟の壁に脊をむけて一列に竝んで坐つた。

吾々が座を占めるとすぐに酒を入れた土製の(かめ)がまはされた。 この酒はカフィール(きび)といふ名で南阿地方に知られてゐる穀物でこしらへたもので、 飮むと胃の腑がむか〜しさうであつたが味は決して惡くはなかつた。 酒の容れ物は非常に妙な形をした、ずつと昔にこしらへたもので、大きさは樣々だつた。 かうした甕は、あとで適當な時に詳しく述べようと思ふが、岩の墓場でよく見つかつた。 私はそれは埃及(エジプト)人の流儀に從つて死人の内藏を入れるために使はれたもので、 この土地の古代の住民と埃及(エジプト)人との間には多少の聯絡があつたのかもしれないと考へたが、レオは、 それはエトラスカンの流儀に從つて、死人の靈が使ふために墓場に置いてあるのだといふ意見だつた。 これ等の甕には皆二つづゝ把手がついてをり、大小さま〜゛で高さ三呎位もあるのから三吋位のまであつた。 形も亦樣々であつたが、どれもこれも此の上なく美しく、あまり光澤のない、少し粗い、非常に精巧な土噐であつた。 この土噐の他には、更に一層美しい、生きたやうな象嵌がしてあつつた。 その象嵌の繪の中には、非常に無邪氣な、今日の嗜好には投じないやうな自由奔放な戀の場面や、 少女の踊つてゐる繪や、狩獵の繪などがあつた。たとへば吾々がその時に飮んでゐた甕には、 片側には白人らしい元氣のいゝ人々が槍で象を攻撃してゐる繪がかいてあり、 その反對側には一人の獵師が矢で走つてゐる羚羊を射てゐる繪がかいてあつた。 但しこの方はあまりよい出來榮えではなかつた。

こんな危急の場合に、こんな話をするのは餘計な道草だが、この場合にはこれ位な道草を食つてゐても長すぎはしなかつた。 何故かといふと、この場面そのものが實に長くつゞいたからである。時々、酒の甕がまはされるのと、 焚火に薪を投げこむ外は、かれこれ一時間もの間、何事も起らなかつた。 誰も一言も物を言はなかつた。吾々は完全に沈默して、大きな焚火の燃えるのと、 土噐でこしらへた燭臺のちら〜する光が投げてゐる影とをぢつと見つめてゐた。 (ついで)に言つておくがこの燭臺は古代のものではなかつた。吾々と焚火との間の空いたところに、 短い四つの把手のついた、まるで屠殺屋の盆のやうな大きな木の盆がおいてあつた。 この盆の側には大きな、柄の長い鐡鉗(やつとこ)が一挺おいてあり、焚火の向う側にも同じやうな鐡鉗(やつとこ)が一挺おいてあつた。 この盆と鐡鉗(やつとこ)とは私には何だか薄氣味がわるかつた。 この酒宴は實に風變りな饗宴で、まるでバルメシイドの酒宴のやうに、食ふ物は何一つなかつた。

たうとう、私が、まるで催眠術にでもかゝつたやうな氣持ちになりかけてゐた時、何か言ひ出したものがあつた。 何等の豫告もなしに、焚火の向う側に坐つてゐて一人の男が大きな聲をだした。

「これから食ふ肉はどこにあるんだ?」

すると車座をつくつてゐた一同の者は右の手を火の方へさし出しながら、おさへつけたやうな調子で答へた。

「肉はいまに來る。」

「それは山羊か?」と前の男が言つた。

「角のない山羊だ。山羊よりも上肉だ。みんなでそれを殺すんだ。」一同は聲をそろへてかう答へながら、 一齊に半ば身體をめぐらして右手で槍の柄をつかみ、やがて又一齊にそれをはなした。

「それは牡牛か?」と前の男が言つた。

「角のない牡牛だ。牡牛よりも上肉だ。みんなでそれを殺すんだ。」と一同は答へて、再び槍をつかんではなした。

それからちよつと靜になつた。マホメッドの隣りに坐つてゐた女が急に彼にちやほやしだした。 彼の頬をたゝいたり、やさしい聲で呼びかけたりした。だが彼女の兇猛な眼は、 ぶる〜慄へてゐるマホメッドの身體を上から下までぢろ〜見まはしてゐた。私はそれを見ると恐ろしくて毛髮が逆立つた。 どうしてそれ程恐ろしかつたのかわからんが、みんなひどく恐ろしがつてゐた。 わけてもレオは一番ひどかつた。女は蛇のやうにマホメッドを抱擁した。たしかにこれは、 しまひまでやつてしまはなければならない或る儀式の一部分だつたに相違ない。 私はマホメッドの鳶色の皮膚の下が眞つ蒼になつたのに氣がついた。

「料理の用意はできたか?」と例の聲が早口で言つた。

「用意はできた、用意はできた。」

「壺は熱くなつたか?」とその聲はつゞいて言つた。その聲はけたゝましい叫び聲のやうに洞窟の中に沈痛に反響した。

「熱くなつてゐる。熱くなつてゐる。」

「大變だ」とレオは叫んだ。「あの記録をおぼえてゐますか、『彼等は異國人の頭に壺をのせゐたり』と書いてあつたでせう。」

彼がかう言つたとき、そして吾々がまだ身動きもせず、彼の話の意味をよくのみこみもしないうちに、 二人の荒くれ男が跳び上つて、長い鐡鉗(やつとこ)をつかんで、それを焚火の中へ投げこんだ。 その間に、マホメッドを抱擁してゐた女は、突然帶の下から緒綱をとりだして、 それをマホメッドの肩にかけてぎゆつと締めつけ、彼の隣にゐた男どもは彼の兩脚をつかんだ。 二人の男は同時に鐡鉗(やつとこ)をとつて、岩の床に火花をちらしながら、白熱した大きな土製の壺をさし上げた。 あつと言ふ間もあらばこそ、彼等はマホメッドの藻掻いてゐりところへ、一度のその壺をつき出した。 マホメッドは必死の叫び聲を振りしぼりながら、惡鬼の如くに戰つた。そのために、綱で縛られ、 二人の男に脚をおさへられてゐるにも拘らず、前へ進んできた者どもは一時目的を果すことができなんだ。 その目的といふのは、戰慄すべき、信ずることもできないことではあるが、赤熱の壺を頭にのせることであつたのだ。

私はあつと恐怖の叫び聲をあげて跳び上りながら拳銃(ピストル)をとり出して、本能的に、 今しがたマホメッドを抱擁して、今は彼の腕をつかんでゐる、惡魔のやうな女をめがけて、眞つ直に發射した。 彈丸(たま)は彼女の背中に命中して、彼女は即死した。私は今になるまで、それを喜んでゐる。 といふのは後でわかつたところによると、アマハッガー人の食卓の習慣につけこんで、 ジョッブに侮蔑された腹いせに、こんな恐ろしい復讐を企てた張本人はこの女だつたからである。 兎も角彼女は死んで倒れた。ちようど彼女が(たふ)れるときに、恐ろしいことには、 マホメッドが人間業とも思はれぬ力で、彼を拷問にかけてゐた者共をふりはらつて、 高く空中に跳び上つたかと思ふと、女の屍體の上に折り重なつて死んでしまつた。 私の射つた拳銃(ピストル)彈丸(たま)は、二人の身體を一度に射貫いたのだ。そして一擧にして虐殺者を(たふ)し、 犧牲者をそれよりも百倍も恐ろしい死から救つたのだ。それは恐ろしい出來事ではあつたが、 それと同時に慈悲深い出來事であつたのである。

しばらくの間は、みな、呆氣にとられて默つてゐた。アマハッガー人はまだ鐵砲といふものを知らなかつたので、 その威力に辟易してゐた。だが暫くすると、吾々のすぐそばにゐた一人の男が氣を取り直して、 槍をとつて一番近くにゐたレオを突かうとして身構へた。

「逃げろ」と叫びながら、私は、眞つ先に立つて、足のつゞく限り全速力で洞窟の奧の方へかけ出した。 私はできることなら外の方へ進んでゆきたかつたのであるが、途中に人がゐたし、それに入口には、 遙か彼方(あなた)の空を背にして立つてゐる群衆の影がはつきり見えたからやめたのである。 私は洞窟の奧の方へ進んで行つた。私のあとからはジョッブとレオとがついて來た。そしてそのあとからは、 女を殺されたゝめに物狂ほしいまでに怒つた食人種の群が、どや〜と押し寄せて來た。 私はぐつたり地べたに(たふ)れてゐるマホメッドの屍體を跳び越へた。その時に、 すぐそばにある灼した壺の熱が足を打つたのを感じた。そしてその光りで、マホメッドの手がかすかに動いてゐるのが見えた。 彼はまだ死にきつてはゐなかつたのである。洞窟のどん詰りには高さ三呎、深さ八呎ばかりの小さな岩の臺があつて、 その上には晩になると二つの大きな燭臺がおいてあつた。吾々三人はそこまで着くと、臺の上へ跳び上つて、どうせ死ぬとしても、 できるだけ高價に命を賣らうと用意した。ジョッブは右に、レオは中央に、私は左に陣どつた。 吾々の後には燭臺があつた。レオは前屈みになつて、岩の上に長く曵いた影の(みち)俯瞰(みおろ)してゐた。 それは焚火と火のついた燭臺のところで終つてゐて、その向うには、吾々を殺さうとしてゐる連中が、 槍の穗先をぎら〜させながら右往左往してゐた。彼等はこんなに怒つてゐるときでもブルドッグのやうに默つてゐた。 その他に見える物といつては、薄暗い中にまだかつかと燃えてゐる赤熱した壺だけであつた。 レオの眼には妙な光が浮んで、彼の美しい顏は石のやうになつた。彼は右手に大きな獵刀をもち、 その革紐を少し手頸の方へずらして、私の身體へ腕をまきつけて抱擁した。

「左樣なら叔父さん」と彼は言つた。「あなたは僕の親しい友逹でした。僕にとつては父親以上でした。 吾々はもう彼奴等から逃れる道はありません。彼奴らはもう數分間のうちに吾々を片附けて、 あとで食つてしまふでせう。左樣なら。こんなところへつれて來たのは僕です。勘辨して下さい。 ジョッブも左樣なら。」

「何事も神の思し召しだ」と私は度胸をきめて、齒がみをしながら言つた。ちやうどその時、 ジョッブが、わつと叫んで、拳銃(ピストル)をとり上げて發射した。そして一人の男を射つた。(ついで)に言ふが、 それは彼のねらつた男ではなかつた。彼のねらひがあつたゝめしなどはなかつたのである。

彼等はだん〜近く押し寄せて來た。私もできるだけ速く射ちつゞけて、彼等を喰ひとめた。 私とジョッブとで、例の女のほかに、既に、五人の男を殺したり重傷を負はせたりしたが、 その時はもう彈丸(たま)がなくなつてしまつた。しかし彈丸(たま)をつめかへてゐるひまなどはなかつた。 彼等は吾々がもう彈丸(たま)を射てなくなつたことなどは知らないのに、矢張りずん〜前へ押し寄せて來た。 その大膽さ加減は全く驚歎のほかはなかつた。

一人の大男が臺の上へ跳び上つて來た。するとレオは猿臂(ゑんび)を伸ばして短刀で突き殺してしまつた。 私も一人の男を同じやうに突き殺した。ところがジョッブは突き損つてしまつた。 一人の筋骨逞ましい男が彼の胴體をつかんで彼を岩からもぎ下した。 その時に革靱(かはは)がしつかりはまつてゐなかつたので、短刀がジョッブの手から落ちた。 運のよかつたことにはその短刀は柄の方を下にして岩の上に立つたので、 下になつて倒れたアマハッガー人の身體にぐざと突き刺さつた。 それからジョッブがどうなつたかははつきりわからないが、何でも彼は、 彼を襲つて來た男の屍體の上に倒れたまゝ死んだふりをしてゐたらしい。 私はすぐに二人の壯漢と挌闘をはじめた。彼等は幸ひにも槍を投げすてゝとびかゝつて來たのであつた。 私は生れてはじめて、もち前の強い腕力がこの時役に立つた。私は殆んど短い劍ほどもある獵刀を、 柄も通れと一人の男の頭につきさした。あまり力を入れたので鋭い刄物は彼の頭蓋骨を眼のところまで切り裂いてしまひ、 かたく中へ喰ひ入つたので、その男が急にばつたり横ざまに倒れたとき、短刀は私の手からめぢれてもぎはなされてしまつた。

すると又別の二人の男が私にとびかゝつて來た。私は彼等がやつて來るのを見ると、 彼等の腰へ片つ方づゝの腕をまきつけて一しよになつて岩の床の上へ倒れて上になり下になりして轉げまはつた。 彼等は仲々強かつたが、私は憤怒と、 いざといふ時になつて來るとどんな文明人の心にも匍ひこんで來る恐るべき鬪爭心とに燃えきつてゐた。 私は二つの腕を、二つの眞黒な惡魔の身體にまきつけて、ぎゆうぎゆう締めつけたので、 たうとう肋骨(あばらぼね)がめき〜と音をたてゝ碎けるのが聞えた。 彼等は蛇のやうに身體をねぢまげてのたうちまはりながら、(こぶし)で私を打つたり掻いたりしたが、 私は少しもゆるめなかつた。上からつき下す槍を避けるために、私は仰向きになつて二人の身體を私の上へのせて身をかばひながら、 徐々に彼等を締めつけていつた。その時に、私はどういふものか、今では平和教會の會員になつてゐる、 ケンブリッヂ大學の學長や、私と同輩の校友連が千里眼で、その時の私の姿を見たらどう思ふだらうと考へた。 まもなく私を襲撃した二人の男は氣が遠くなつて、(もが)くのを止めてしまつた。息ももうとまつて、彼等は死にかけてゐた。 それでも私は手を緩めなかつた。それは彼等の往生際が誠に惡かつたからである。他の蠻人どもは、 吾々が三人とも、出つ張つた岩蔭に倒れてゐたので、みんな死んで(しま)つたと思つたのか、 兎に角吾々の小さな悲劇などには介意(かま)つてゐなかつた。

振り返つて見ると、レオはもう岩からはなれたと見えて、滿身に燈火の光を浴びて立つてゐた。 まるで狼の群が一頭の牡鹿を倒さうとするやうに、彼を中心にして、蠻人どもがとぼかゝつてゐた。 彼の美しい蒼ざめた顏は、彼等の上にすつくとそびえたち、つや〜した捲毛が前後左右に搖れてゐた。 彼は渾身の力を出して、必死になつて戰つてゐた。それは勇ましい光景であつたと同時に、はら〜する光景でもあつた。 彼は一人の男を短刀でつき刺した。彼等は、レオのすぐそばまで押し寄せて、(ひし)めきあつてゐたので、 彼等は大きな槍を使つて彼を殺すことはできなかつたのだ。それに彼等は短刀も棒ももつてゐなかつたのである。 刺された男が倒れる拍子に、レオの手から短刀がもぎとられて、彼は今は身に寸鐵も帶びなくなつたので、 もういよ〜おしまひだと私は思つた。ところが、 どうしてなか〜、彼は、必死の力をふるつて一同をつき飛ばし、たつた今殺した男の屍體をつかんで宙にさし上げ、 彼を襲つて來る群衆目がけてそれをはふりつけた。そのはずみを食つて、五六人の男は地べたに倒れてしまつた。 しかし、頭蓋骨を打ち碎かれた一人の男を除くほかは、すぐに起き上つてまた彼におそいひかゝつて來た。 たうとう、狼の群はライオンを壓倒して來た。それでも彼は一度頽勢を挽囘して、 一人のアマハッガー人を(こぶし)で打ち倒したが、長い間には衆寡敵せず、遂に、 彼は樫の木が倒れるやうに岩の床の上に倒れてしまつた。彼にしがみついてゐた連中も彼と一緒に倒れた。 彼等は、彼の手足をおさへて、彼の身體からすつかり邪魔物をなくした。

「槍をもつて來い」と一つの聲が叫んだ。「こいつの咽喉を刺すんだ。それからこいつの血を入れる容れ物をもつて來い。」

私は觀念の眼を閉ぢた。何故かといふと、一人の男が槍をもつてやつて來たのに、私はレオを助けにゆくことができなかつたからである。 私自身がもう弱つてゐたし、それに私の上にのつかつてゐた二人の男はまだ死にきつてゐないので、 私はひどい苦しみに惱まされてゐたのである。

その時に何か急に騷ぎが起つたので、私は思はず眼を開けて、殺人の場面の方を見た。 少女のアステーンが、レオの倒れた身體の上に身を投げかけて、身をもつて彼の身體をかばひ、 彼の首つたまへしつかと抱きついたのであつた。皆の者は彼女を彼から引き離さうとしたが、 彼女は自分の足をレオの足にまきつけて、ブルドックのやうに、 或は木へ()じ登る人のやうに彼にしがみついてゐたので彼等はどうすることもできなかつた。 そこで彼等は、女を傷つけないやうに横の方からレオを突き刺さうとしたが、 彼女がどうにか自分の身でかばつたので、レオは負傷しただけであつた。

たうとう彼等は我慢ができなくなつた。

「男も女も一緒に田樂刺しにしてしまへ。」と先刻の物凄い酒宴の席で色々な質問をしたのと同じ聲が言つた。 「さうすりや、二人はほんたうに夫婦(いつしよ)になれるだらう。」

ついで私は一人の男が仁王立ちになつて槍をしごいてゐるのを見た。冷たい刄物が上の方でぎら〜光るのが見えたので、 私はまた眼を閉ぢた。

ちやうどその時、一人の男の聲が、凛として洞窟の中に鳴り響いて、岩の道に反響(こだま)した。

「止めろ!」

それつきり私は氣が遠くなつた。そして氣を失ふ瞬間に、私の朦朧とした意識に、これが最期だといふ考へがちらりと閃いたのであつた。


更新日: 2003/02/12

第九章 小さい足


第九章 小さい足

眼を開いて見ると、私は、あの恐ろしい酒宴の時に吾々が取り圍んで集まつてゐた焚火から、あまり遠くないところに、 毛皮の敷物の上に横はつてゐたのであつた。私のすぐそばには、レオがまだ氣を失つて横はつてをり、 脊の高い少女アステーンは、彼が脇腹に受けた深い槍傷を麻布で繃帶するために冷水で洗つてゐた。 彼女のうしろに、洞窟の壁に(もた)れてジョッブが立つてゐた。彼は見たところ負傷はしてゐなかつたやうだが、 打撲傷を受けて、ぶる〜慄えてゐた。焚火の向う側には、ぐた〜に疲れて眠つてゐるやうに、 吾々が物凄い血鬪で殺した連中の屍體が、不規則にのたうつてゐた。數へて見ると、 私が手にかけた可哀さうなマホメッドと例の女とのほかに十二人の屍體があつた。 左手の方には大勢の人が、生き殘つた食人どもをうしろ手に縛りあげて、二人づゝ一緒につなぎあはせてゐた。 兇漢どもはむつつりとして無關心に運命に服從してゐた。それは、 彼等の不氣味な眼にぎら〜輝いてゐる内心の憤怒とそぐはない妙な光景であつた。 縛られた人々の前に、一同の動作を指圖してたつてゐたのは、外ならぬ吾々の友人ビラリであつた。 彼は少し疲れてゐたやうではあつたが長髯(ちやうぜん)をたれてたつてゐる姿は、 ことの外鷹揚なもので、まるで牡牛を切るのを監督でもしてゐるやうに、冷ややかな、無頓着な樣子をしてゐた。

やがて彼はこちらを振り向いて、私が起き上がつて坐つてゐるのを見て、もう氣分がよくなつたであらうと非常に丁寧にたづねた。 私は、氣分がいゝかわるいか今のところ自分にもわからぬが、身體中が痛むと答へた。

それから彼はレオの身體の上へかゞみこんで傷をしらべた。

「たちのよくない傷ぢやが」と彼は言つた。「槍は内藏までは(とほ)つてゐないから、きつとよくなりますわい。」

「あなたが來て下さつたので助かりましたよ、長老」と私は答へた。「もう一分もおくれたら助かりつこはなかつたんです。 あなたの部屋の惡魔どもは、吾々の從者(とも)を殺したやうに吾々をみんな殺さうとしてゐたんですから」と言ひながら、 私はマホメッドの方を指した。

老人は齒ぎしりをした。彼の兩眼には異常な憎惡が閃いたのを私は見た。

「もう大丈夫ですわい」と彼は答へた。「今に聞いただけで肉から骨がもぎとれるやうな復讐をされるでせう。 これからみんな女王樣のところへつれてゆくのです。女王樣の復讐は、それはそれは恐ろしいもんですぢや。あの人は」 と言ひながら、彼はマホメッドを指して、「この連中がこれから殺される殺され方に比べると、 ずつと慈悲ぶかい殺され方をさつしやつた。で、一體全體どうしてこんなことになつたのぢやな?」

私は手みじかに今まで起つたことをかいつまんで話した。

「ほゝう!」彼は答へた。「此の土地ではな、異國人が入つて來ると、壺で殺して食ふことになつとりますのぢや。」

「まるであべこべな歡待ですな」と私は力なく答へた。「吾々の國では、異國人が來ると歡待して御馳走を饗應するんですが、 あなた方は異國人の肉を食つてあべこべに自分が饗應されるんですね。」

「それは習慣(ならはし)ですわい」と彼は肩を(そびやか)して答へた。「わしは惡い習慣(ならはし)ぢやと思つとりますがねえ。 ところで」と彼はしばらく躊躇してから言つた。「異國人の味はわしはあまり好まん。 ことに沼地を歩いて野生の鳥を食つて來たあとの肉はね。全能の女王が、あんた方の生命(いのち)を助けよと命令を下されたとき、 あの黒人のことについては何とも仰言(おつしや)らなんだものだから、あいつらはあの黒人の肉に餓ゑてゐたんですわい。 そこへもつて來て、あんたがお殺しになつたあの女が、あの黒人を燒壺で殺すやうにあいつ等をけしかけたんです。 だがその仕返しはきつとありますぢや。女王の怒りにふれるよりも一生日の眼を見ん方がましな位ですぢや。 あんたの手にかゝつて死んだ奴等は果報者ですわい。」

「それにしてもあんたはずゐ分勇ましく戰ひなすつた」と彼は言葉をつゞけた。「あんたはまるで、 年をとつた手長狒々(ひゝ)みたいだ。あの二人の男の肋骨を卵の殼か何ぞのやうにくだいてしまひなさつた。 それからあの若いのは獅子ぢや。あんなに多勢(おほぜい)のものを相手にして、見事に抵抗なさつた。 あの日との手にかゝつて三人の者は即死しとります。それから、もう一人も」 と言ひながら彼はまだぴく〜動いてゐる男の身體を指さした。「今に死んでしまひます。 何しろ頭を碎かれてゐますからな。それから縛られてゐる連中の中には、怪我をしてゐるものが大分ある。 何にしても勇ましい戰爭ぢやつた。だがな、狒々(ひゝ)さん -- あんたの鬚だらけの顏がさういへば狒々(ひゝ)そつくりですぞ -- あの身體に穴のあいてゐる男をあんたはどうして殺しなさつた?何でも奴等の話によると、 あんたはでかい音をさせなさつたさうぢや。そして音がするとあの男は前へのめつてしまつたといふことぢやが。」

私はできるだけ納得するやうに説明してきかせた。しかし説明はごく簡單にした。といふのは私はひどく疲れてゐたので、 たゞ説明しなければ、全能の女王の逆鱗に觸れるかもしれないと思つたのでそれが恐ろしさに、 仕方なしに火藥といふものゝ性質を話してきかせたのであつた。 すると老人は縛られてゐる男を一人ためしに鐵砲で殺して見せてくれんかと言つた。 私がそんな殘酷なことはできんから、身體がよくなつたら、何か獸を射つて見せると言つたら彼は怪訝な顏をしてゐたが、 このことを約束すると、彼は、子供が新しい玩具を約束された時のやうに喜んでゐた。

ちやうどその時にレオが、少量のブランデーで正氣づいて眼を開いた。吾々はまだ少しばかり、 ブランデーをのこしてゐたので、ジョッブがそれをレオの咽喉に()らしこんだのである。 そこで吾々の會話は終つた。

そのあとで、吾々は勇敢な少女のアステーンに助けられて、レオを安全に寢臺まで運んで行つた。レオはまだすつかり弱りきつて、 半意識の状態だつた。私は、自分の身を賭してレオの命を救つてくれたアステーンの勇氣に感謝のあまり、彼女に接吻したかつたが。 そんなことをして怒られたら大變だと思つてやめた。私は打ち傷や、擦り傷を負ふてはゐたが、 この四五日間つひぞ味はつたことのない安らかな氣持ちで、私の小さい墓場へこつそり引き返した。 寢る前に私は神に感謝することは忘れなかつた。その日の吾々くらゐ死のそばへ近づいて助かつた者は、かつて、 澤山はなかつたことであらう。

私はどんなに氣持ちのよい時でも眠つきの惡い方である。その晩やつとのことで眠りついてから見た夢はあまり愉快な夢ではなかつた。 氣の毒なマホメッドが、赤く燒けた壺から逃れようとしてもがいてゐる姿が幾度びも幾度びも夢の中に現はれた。 それから、此の幻影(まぼろし)の背景には、ヴエールをまとつた人の姿が、つゞけざまにふは〜浮んで、 時々ヴェールを脱いでゐるやうに思はれた。ヴェールを脱いだ姿は、或る時は素敵な妙齡の美人となり、 或る時は、げら〜笑つてゐる白骨のむくろとなつた。そして、ヴェールを脱いだり、着たりしながら、 不思議な文句をしやべつた。それはちよつときくとまるで無意味な文句のやうであつた。

生ける者はかつて死せし者なる。死せるものも死する能はず。心靈の輪廻には生も死もなければなり。 萬物は、時に眠りて忘らるゝことあれど永久に生くるものなり。」

そのうちに、たうとう夜が明けた。けれども、私は、身體ぢゆうが(こは)ばつて、痛んで、起き上れなかつた。 七時頃にジョッブがひどく(びつこ)をひきながらやつて來た。彼の丸い顏は、腐つた林檎のやうな色をしてゐた。 そして彼は、レオはよく眠つてゐるが大層弱つてゐると言つた。それから二時間程たつとビラリがやつて來た。 ジョッブはこの老人のことをビリイの山羊とかたゞビリイとか呼んでゐた。此奴の白い髯が山羊に似てゐるやうに彼は思つたのだ。 彼は燭臺を手にもつてゐた。脊の高い彼の身體は、殆んど小さい室の屋根まで屆いた。私は眠つたやうなふりをして、 (まぶた)をすこしあけて、老人の皮肉ではあるが上品な顏を見てゐた。彼は鷹のやうな眼でぢつと私を見ながら、 白い見事な髯をしごいてゐた。(ついで)に言つておくが、このやうな髯なら、 倫敦(ロンドン)のどの理髮屋でも、廣告用として、年百(ヤード)位は出すだらうと思ふ。

「あゝ」と彼は言つた。ビラリは獨語(ひとりごと)を言ふくせがあつたのだ。 「この人は醜い -- もう一人の人の美しいのにひきかへて、まことに醜い。ほんたうに狒々(ひゝ)そつくりだ。 狒々(ひゝ)とは吾ながらよい名前をつけたものぢやて。だがわしはこの人がすきだ。 この年になつて人が好きになるなんて不思議なこつたわい。かういふ諺がある -- 『誰も信じてはならぬ。 そして一番信用のおけない奴は殺してしまへ、凡ての女からは逃げるがよい。女は邪惡なもので、 しまひには相手を滅ぼしてしまふから。』これは良い諺ぢや、わけてもしまひの方がよい。 これはきつと太古から傳はつた諺ぢやらう。だが、わしはこの狒々(ひゝ)が好きだ。かはいさうに、 昨夜(ゆうべ)の戰爭でずゐぶん疲れとるぢやらう。どれ、眼を覺ますといけんから行くとしよう。」

私は彼が向うを向いて、爪先立ちで、そつと入口の處まで歩いてゆくまで待つてゐて、それから彼を呼びとめた。

「長老、あなたでしたか?」と私は言つた。

「左樣、わしぢや、だが、お邪魔はしませんわい。わしはほんの、あんたがどうしとるかと思つて見に來たんですわい。 それから、あんたがたを殺さうとした奴等はもう女王樣のところへ向けて旅立つたことをお知らせしようと思つてな。 女王樣はあんた方にもすぐ來て貰ひたいといふことぢやが、まだ行けますまいの?」

「えゝもう少しよくならなくちや」と私は言つた。「しかし日のあたるところへ出していたゞけませんか、 私はどうもこゝが嫌ひなんです。」

「もつともですわい」と彼は答へた。「こゝは何だか陰氣ぢや。わしはよくおぼえとるが、子供の時分に、 ちやうど今あんたが寢てゐるその腰掛の上に美しい女が寢てゐるのを見ましたわい。 あまりその女が美しかつたもんだから、わしは、燭臺をもつて、そつとこゝへしのんで來てその女の顏をつく〜゛眺めたもんだ。 手が冷たくさへなかつたら、わしは、その女は、眠つてゐるので、そのうちに眼をさますかも知れんと思つたこつちやらう。 それ程美しく、それほど安らかに、その女は白い上衣(うはぎ)を着て横つてをりましたのぢや。その女も白人で、 黄色い髮は殆んど足まで埀れとりましたわい。女王のおすまひになつてゐらつしやるところには、 かういふ靜かな墓場が澤山ありますぢや。そこに墓場を設けた人たちは、どうしてか知らんが、戀人の手などを腐らんやうにし、 死んでも死なゝいやうにするやうになつてしまひましたぢや、命の拔け殼をですぞ。わしはその女のそばへしのびよつて、 その冷たい顏に接吻しました。そして、この女が生きてゐた時分から今までに、 どんな多くの人が生れたり死んだりしたことであらう。遠い昔に誰がこの女を愛して抱擁したのだらうなどとあやしんだものですわい。 わしはな、狒々(ひゝ)さん、この死んだ人から隨分いろんな學問をしましたぞ、生の小さいこと、死の長いこと、 日の下にある凡ての物が一つの道を通つて、永久に忘られてしまふのだといふやうなことを知りましたわい。 ところが、そのうちに何事にもよく氣がつくが、少々せつかちなわしの母が、 わしの樣子のかはつたのに氣がついてわしのあとからついて來て、その美しい白人の女を見て、 わしがその女の妖術にかゝつたのぢやないかと心配したのですわい。實際またわしは妖術にかゝつてゐたのですぢや。 そこで、恐ろしさと腹立たしさとで、わしの母は、その女をまつ直ぐにあそこの壁にたてかけて、 髮に火を點けたので、その女は足のところまで燃えてしまつたのですわい。といふのは、 こんな風にして保存してある人間はまことに燃えがよいもんですぢや。まあ御覽、その女の燃えた烟がまだ天井にのこつとる。」

私はまさかと思つて上を向いて見ると、まぎれもなく油煙のやうな煤ぼけたあとが岩の天井にのこつてゐた。

「その女は足首まで燃えてしまひましたのぢや」と老人は感慨深い聲で言葉をつづけた。 「だがすぐにわしは引き返して來て、足だけはとりとめました。そして黒焦げになつた骨を切りとつて、 麻の(きれ)につゝんで、あそこの石の腰掛けの下へかくしときましたぢや。考へて見ると、 それはまだ昨日のことのやうな氣がする。誰も見つけてゐなきや、ことによるとまだあそこあるかも知れん。 實はその時から、今までわしはこの部屋へは入つたことはなかつたぢや。まあおまちなさい、ちよつと見て來る。」 かういひながら、ビラリはしやがんで、石の腰掛の下の穴を手探りした。やがて、彼の顏は輝いた。 そして彼は叫び聲を出しながら、何か埃だらけのものを取り出して、埃を床の上へ拂ひ落した。 それはぼろ〜になつた(きれ)につゝんであつた。彼はそれをほどいて、中から恰好のいゝ、 殆んど白人らしい女の足をとり出した。それは生き〜として、形もぢやんとしてゐて、 まるで昨日そこにおいたものゝやうであつた。私は驚いてそれをしげ〜と眺めた。

「なあ、狒々(ひゝ)さん、わしの言つたことはほんんたうぢやろ」と彼は沈んだ聲で言つた。 「こゝにまだ片足がのこつとるんぢやからな、さあ、手にとつてよく御覽なさるがいゝ。」

私は、この冷たい人間の小片(かけら)を手にとつて、燭臺の光でつく〜゛眺めた。 私は何とも名状することのできない、驚愕と、恐怖と、魅惑との一しよくたになつた感じがした。 それは輕かつた。生きた人間の足よりもずつと輕いやうに思つた。けれども肉はどう見てもまだ肉であつた。 ただ微かな香料の匂ひがしてゐるだけであつた。その他の點では、この足は皺が寄つたり(しな)びたりもしてゐず、 埃及(エジプト)のミイラの肉のやうに黒く醜くもなつてゐず、少しばかり焦げたところを除けば、 死んだ時と同じに完全であつた。偉大なる香料の防腐力は正に驚歎に値する。

私はこの過去の遺物を、ぼろ〜の麻布に包んだ。この麻布は、 この足の持主の屍衣(きやうかたびら)の一部分だつたと見えて少しばかり焦げてゐた。 私はそれを旅行鞄の中に(しま)つた。妙な安息所だと私は思つた。 それからビラリに(すが)つて、私はレオの樣子を見に行つた。レオはひどく傷ついてゐた。 恐らく皮膚があまり白過ぎた爲でもあらう、私より一層ひどく見えた。 それに脇腹に受けた傷からひどく出血したので、餘程弱つてゐたが、それでも非常に快濶で、 何か朝食が欲しいなどと言つてゐた。ジョッブとアステーンとは彼を駕籠の底、といふよりも、 わざ〜彼を寢かせるために柱から取つて敷いた粗麻布(ヅツク)の上へのせた。 そしてビラリ老人も手傳つて、洞窟の入口の物蔭へ彼をつれて行つた。 (ついで)に言つておくが、洞窟のんかは、昨夜(ゆうべ)の爭鬪のあとはすつかり取り片附けてあつた。 そこで吾々一同は朝食をすまし、その日と、その次の二日間の大部分とをそこで過した。 三日目の朝になると、ジョッブと私とは事實上恢復した。レオも大分快くなつたので、 私はビラリの幾度もの懇請をいれて、すぐにコオルへ旅立つことに同意した。 コオルといふのは、不思議な女王の住んでゐるところだといふことを吾々は聞かされた。 だが私は内々そんな旅をしてレオの身體にさはりはしないかと心配した。 わけても、やつと薄い皮がついたばかりの傷口が、身體を動かしたゝめに破れはしないかと心配した。 實を言へば、ビラリがあまり出立を急ぎさへしなければ、 私はこんなに早く出立することを承知するのぢやなかつたのだが、彼があまり氣をもむので、 彼の言ふことをきかねば、何か厄介なことか危險かゞふりかゝつて來るやうな氣がしたのだ。


更新日: 2003/02/12

第十章 萬感交々


第十章 萬感交々(ばんかんこも〜゛)

愈々(いよ〜)出立ときまると、一時間もたゝぬうちに、五挺の駕籠が洞窟の前の入口まで運ばれた。 駕籠にはそれぞれ四人づつの駕籠かきと二人づつの補缺とがついてゐた。 そしててんでに武噐をもつた五十人のアマハッガー人の一隊が、護衞と荷物の運搬とのためについて來た。 五つの駕籠の中で三つは勿論吾々のためのもので、一つはビラリをのせるためであつた。 私はビラリがついて來てくれると聞いてほつと安心した。五番目の駕籠はアステーンのだらうと私は思つた。

「長老、あの女も吾々と一緒に行くんですか?」と私は其の場の指圖をしてゐるビラリにたづねた。

彼は肩をそびやかして答へた。

「若しあの女の希望ならね。此の國では、女はすきなことができるのですぢや。吾々男は女を崇拜しとる。 そして何事も勝手にさせておく。といふのは女がなくちや世の中はたつて行きませんからな、 女は生命(いのち)のもとぢやからな。」

「はゝあ」と私は、妙な見方があるもんだなと思ひながら言つた。

「あんまり男が女を崇拜するもんだで」と彼は言葉をつゞけた。 「しまひには奴等は箸にも棒にもかゝらなくなつて來ますのぢや。 大抵二代目毎にさういふ風になりますがな。」

「さうなつたら、どうするんです?」と私は好竒心にかられてたづねた。

「その時には」と彼はかすかに笑ひながら答へた。「男が奮然として起ちあがつて、 若い女への見せしめに老年(としより)の女を殺してしまひまさあ。 そして、一番強いものは男だつてことを見せてやるんですわい。 わしの女房も、かはいさうに、二三年前にそんな風で殺されちまひました。ずゐ分悲しかつたが、 實をいふと、それからこつち人生は幸福になりましたわい。この年ぢや、 女子(をなご)どもゝ寄りつきませんからな。」

「要するに」と私は或る政治家の言葉を引用して言つた。「汝は、より大なる自由と、 より小なる責任との位置にたてりといふわけですな。」

私は十分要領を言ひあらはすやうに飜譯したつもりだけれども、 はじめはこの文句の意味が彼にはよく呑みこめなかつたが、そのうちに意味がわかつたと見えて言つた。

「その通りですわい、狒々(ひゝ)さん、やつとわかりました。だが、その責任はみんな殺されちまうんです。 だから老年(としより)の女は少ないつてわけなんです。奴等は自分で責任をしよつてゆきますだよ。」 それから彼は莊重な口調で言つた。「あの()についちや、どう言つたらよいかわかりませんが、 あの娘は勝ち氣な娘で、おつれの獅子(ライオン)さんに惚れとりますわい。 あの兒が獅子(ライオン)さんのあとをおひまはして、あの人の命を(たす)けたことは御存じぢやろ。 それにわし共の習慣によると、あの娘は獅子(ライオン)さんと結婚したんぢやから、 あの人のゆくとこへはどこでも行く權利がありますぢや。」彼はこゝで一段と意味ありげにつけたした。 「もし女王樣さへいけないと仰言(おつしや)らなければですぞ。女王樣の御言葉は誰の權利よりも強いですからな。」

「で若し女王が彼の女に彼から別れろと言はれて、あの娘がそれを()かなんだら、どうなります?」

「若し」と彼は肩をそびやかして言つた。「暴風が樹に()がれと命令して、樹がそれをきかなんだら、 どうなりますかな?」

かう言ひながら彼は答へも待たずにくるりと向きをかへて、彼の駕籠の方へ歩いて行つた。 それから十分間のうちに吾々はすつかり出發の用意をとゝのへた。

盃形の噴火孔を横切るのに一時間以上もかゝり、その縁をのぼつて外側へ出るのにまた半時間かかつた。 そこは素晴らしい景色であつた。吾々の前には、ゆるやかな勾配になつた草原が横たはつてをり、 草原のあちこちには大部分荊棘(けいきよく)類の樹が、群生してゐた。 このおだやかな勾配の底にあたる、九哩か十哩ほどさきに、吾々は、朦朧たる沼の海を認めた。 沼の上空には、ちやうど都會の上空に煤煙がかゝつてゐるやうに、どす黒い水蒸氣がかゝつてゐた。 この勾配を降りてゆくのは駕籠かきどもにとつて雜作はなかつたので、正午までに吾々は陰氣な沼の縁まで來た。 そこで吾々は駕籠を停めて晝食をしたゝめ、それからうね〜した小徑をつたつて沼地の中へはひつて行つた。 吾々のやうな馴れない者には、すぐに道は殆んどわからなくなつてしまつた。今でも私は駕籠かきどもが、 どうしてあんな道を迷はずに歩けたかを不思議に思つてゐる。行列の先頭には二人の男が長い竿をもつて進んで行き、 時々それを前の地面へさしこんでゐた。それは、どういふわけか土壤の性質がよく變つて、 一箇月前には安全だつた處でもその次には旅人の身體を呑んでしまふやうなことが屡々(しば〜)あつたからである。 こんな退屈な陰氣な景色は私はつひぞ見たことがない。何處まで行つても果しのない沼地であつた。 この沼地の中に生きてゐるものといつては水禽類と、それを食つてゐる獸とで、 ところ〜゛にある水溜りには、小さい鰐の一種や、黒い色をしたいやな水蛇や大きな蛙などがうぢやうぢやしてゐた。 蚊ときては、若しさういふことがあり得るとすれば、前に苦しめられた河よりもひどかつた。 しかしなによりも一番たまらなかつたのは、あたりに立ちこめてゐる、腐つた植物のひどい惡臭であつた。

ずん〜その中を進んで行くと、たうとう日は沈んだ。その時ちやうど吾々は、廣さ二エーカーばかりの、 高い地面に着いたのであつた。そこは、沼地の中の乾いたオアシスで、ビラリは、そこで夜營をするのだと言つた。 しかし、夜營といつても極く簡單なもので、ひからびた草や、 吾々がもつて來た少しばかりの薪でこしらへた小さい焚火をかこんで車座に坐ればよかつたのである。 そこで吾々は食事をしたり煙草をふかしたりした。この低地の暑さは非常なものであつたが、 不思議なことには、時々冷くなることもあつた。けれどもどんなに暑くても吾々は火のそばがなつかしかつた。 といふのは蚊は煙がきらひだからである。やがて吾々は毛布にくるまつて眠らうとしたが、ほかのことはまあ我慢するとして、 蛙の啼聲と、空に何百となく群がつて飛んでゐる(しぎ)の聲とのために、とても私は眠つかれなかつた。 私は、横を向いて隣にレオを見ると、彼はうと〜まどろんではゐたが、彼の顏はいやに赤みを帶びてゐた。 そして、ちら〜する焚火の明りで見ると、向う側にゐるアステーンが時々肱をついて顏を上げて、 ひどく心配さうに彼の寢顏を見てゐた。

それでも私にはどうすることも出來なかつた。吾々のもつてゐた唯一の予防藥のキニーネはもう澤山()んでゐたのである。 そこで私はごろりと横になつて幾千となく現はれて來る星を見まもつてゐた。そのうちに、 巨大な空の蒼穹はきら〜光る點で一ぱいになつてしまつた。その點はみんな一つの世界なのだ。 このすばらしい光景を見ると、人間といふものの弱少さがつく〜゛と感じられる。 まもなく私はそんなことを考へるのをやめた。無限を掴まうとしたり、 世界から世界へと大股に歩いてゆく全能の神の歩みのあとをつけようとしたり、 神の仕事か神の目的を察知しようとしたるすると心はすぐに疲れて來るものだ。 こんなことは吾々の知るべきことぢやない。智識は強者のものだ。然るに吾々は弱者なのだ。 あまりに物を知りすぎると、吾々の不完全な視力は却つて盲目になり、 あまり力をもちすぎると吾々の理性は壓倒されてしまふ。眞理にはヴェールがかゝつてゐるのだ。 吾々は太陽を見つめることができないと同じやうに、眞理の光輝を見ることはできないのだ。 眞理は吾々の能力を買ひかぶり勝ちなものだが、それはとるに足らぬものなのだ。 小さな容れ物はすぐに一杯になつてしまふ。あの天體を廻転させる力、それを司る叡知の千分の一でも詰めこまうものなら、 吾々は粉微塵に粉碎されてしまふだらう。外の世界では、又他の時代にはさうでないかも知れないが、 そんなことは誰にもわかりはしないのだ。この世界では、人間の運命は、たゞ勞苦に耐へる事だ。 運命に吹きまくられてゐる泡沫のやうな快樂を捉へようとして、吾々はあくせくしてゐるが、 その泡沫がこはれてしまはないうちに一瞬間でも手の中にのこつてゐれば、まだよい方である。

仰向きに寢てゐる空には、永遠の星が輝いてゐる。下には、沼から生れた小さな惡魔のやうな火の玉が、 あちこちに亂れ飛んでゐる。私はこの二つに人間のすがたが見られるやうな氣がした。

その晩はどうしたものか、かうした考へが私の頭の中で次から次へと起つて來た。 かうした考へは吾々を苦しめるばかりだ。何故なら考へるといふことは、思考の無力を示すだけの役にしかたゝないからである。 吾々は一體何のために默々たる空間に叫びかけるのだらう?吾々の曇つた理智で、 星のちらばつた大空の祕密を讀むことができるだらうか?空から何か解決がやつて來るだらうか? 決して何も來はしない。來るものは反響(こだま)ととりとめない幻影(まぼろし)だけだ! しかも吾々は墓場の彼方に解決があつて、信仰がそれを與へてくれるのだと信じてゐる。 信仰がなければ、吾々は精神的に死んでしまはねばならん。信仰の助けによつて、 吾々はなほ天國に()ぢのぼることができるのだ。

私は疲れてゐたが、眠つかれないので、たうとう、吾々のいまやつてゐることを考へはじめた。 何といふ亂暴な冐險だらう。しかもそれでゐて、幾世紀も前に壺の破片に記された文句と何と不思議に符合してゐることだらう。 滅びた文明の廢墟の中に、不思議な人民を支配してゐる女王とは一體どのやうな女だらう? 無限の生命を與へるといふ火の柱の意味は何だらう?肉體を何年も何年もの間腐らずに保存する藥液があり得るものだらうか? それはあり得るではあらうが、實際にはありさうに思はれぬ。氣の毒なヴィンシイが言つたやうに生命といふものが生じて、 一時繼續するのが不思議でないなら、生命がいつまでもつゞくことは猶更ら不思議ではないかも知れん。 若しそれがほんたうだとしたならどうなるだらう?その方法を見出した者はきつと世界の支配者になるに相違ない。 その人は世界中の富と智慧と力とを蓄積するに相違ない。普通の人間の一生づつを費して、 色々な藝術や科學ををさめることもできる。若しさうであるとしたならば、そして、私は一時もそんなことを信じなかつたが、 その女王が實際に不死であるならば、わざ〜食人種の中に交つて、洞窟の中に住つてゐるといふのは一體どういふわけだらう? この一點で疑問は氷解する。あの話は(うそ)つぱちなのだ。 あれを書いた時代には人々が迷信を信じてゐたから、あんな話を信じたのだ。それは兎に角、 私は無限の生命などはほしいとは思はぬ。私はもう四十年の間にあまりに多くの悲しみや苦しみを味ひ過ぎたから、 この上そんな状態が無限に續いたりしてはやりきれない。とは言つても、他の人と比較して見ると、 私の生涯は幸福の部なのだが。

しかし現在のところでは、吾々の生命は無限に續きさうであるよりも、 非常に短く切りつめられてしまひさうであることを思ひめぐらしながら、私はどうにか眠りに就いた。 私が眠つたので、きつと讀者は大助かりであらうと思ふ。

私が眼をさました時はちやうど夜明けであつた。護衞の者どもや駕籠かきどもは、 濃い朝霧の中に、幽靈のやうに動きまはつて出發の用意をしてゐた。焚火はもうすつかり消えてゐたので、 私は寒さにがた〜慄へながら起ち上つてのびをした。それからレオを見ると、 彼は床の上に坐つて兩手で頭を抱へてゐた。彼の顏は眞赤になり、眼はきら〜光つてゐたが、 それでゐて瞳のまはりは黄色くなつてゐた。

「どうだい氣分は、レオ?」と私は言つた。

「今にも死にさうな氣がしますよ」と彼は皺嗄れ聲で答へた。「頭は割れさうだし、身體ぢうが胴慄ひして、 むか〜するんです。」

レオはひどい熱病にとつつかれたのだ。私はジョッブのところへキニーネをとりにゆくと、 幸ひにキニーネはまだたつぷりあつたが、ジョッブもどうも背中の方がちく〜痛んで、 眩暈がしさうでしやうがないと言つてこぼしてゐた。外にどうもしやうがないので、 私は二人にそれ〜゛十グレンづつキニーネを()ませ、私も用心のために少しばかり服んだ。 それがすむと、私はビラリに會つて彼に事情を話して、どうしたらよからうかとたづねた。 彼は私と一緒にやつて來て、レオとジョッブとを見た。(ついで)に言つておくが、 彼はジョッブのことを肥つてゐて顏が丸くて、眼が小さいので、豚と呼んでゐた。

「やれやれ」と彼は相手に聲の聞えないところまで來ると言つた。「熱病だ!わしもさうだと思つた。 獅子(ライオン)の方は大分惡いが、まだ若いから命は助かるだらう。豚のはうはたいしたことはない。 この方は輕い熱病できつとはじめには背中の痛むやつだ。まああれだけ肥つとりや、少々痩せてもいゝだらう。」

「二人は旅をつゞけられますか、長老?」と私はたづねた。

「そりや勿論つゞけてゆかにやならん。こゝでとまつた日にや死ぬにきまつてますからな。 それに、地べたより駕籠の方がいゝですわい。途中に差支へさへなけりや、 今晩までには沼地をとほり拔けてよい空氣のところへ行けますぢや。さあ、あの二人を駕籠へのせて出かけよう。 朝靄の中に立つてるのはひどく身體に毒だから、食事は歩きながらすることにしよう。」

吾々はそのとほりにした。そして重い心で、また不思議な旅に旅立つた。はじめの三時間程は無事に過ぎたが、 そのあとで、もう少しで一番先頭にのつて行つたビラリの命を失ふやうな事件が起つた。 吾々はその時、沼地の特に危險な場所を通つてゐたので、駕籠かきは時々膝まで泥の中へ沈むことがあつた。 どうしてこんな道を重い駕籠をかついで行けるのか私にはわからなかつた。

やがて、吾々が、えつさ〜と進んでゐると、鋭い金切聲がきこえ、つゞいてわつといふわめき聲と、 ひどい水のはねる音とがきこえて、行列はぴつたりととまつてしまつた。

私は駕籠からとび出して前の方へ走つていつた。二重(ヤード)ほどさきに、一つの水溜りがあつて、 吾々の行列はその水溜りの嶮しい岸を通つてゐたのであつた。この水溜りを見ると、 恐ろしいことにはその水面にビラリの駕籠が浮いてゐて、當のビラリの姿はどこにも見えなかつた。 はつきり言つてしまへば、ビラリの駕籠かきの一人が運惡くも、日向ぼつこをしてゐた蛇を踏んだので、 蛇に踵を噛まれて、無理もないことだが、(かつ)いでゐた棒を離してしまつたのである。 そして彼は嶮しい岸の上でよろ〜したので駕籠にしがみついたところが、 駕籠が傾いたので殘りの駕籠かきが手を離した拍子にビラリと例の駕籠かきとは諸共に、 水溜りの中へころがり落ちてしまつたのである。私が水の縁まで行つた時には、二人とも姿は見えなんだ。 實際、その駕籠かきは、かはいさうに、それつきりたうとう、水溜りの中へ沈んでしまつたのである。 泥に呑まれてしまつたものか、或は多分蛇に噛まれて痙攣を起したものであらう。 とにかくこの男は消えて失くなつてしまつたのである。ビラリの姿も見えなかつたが、 彼が下でどの邊で藻掻いてゐるかといふことは水の上に浮いてゐる駕籠ががた〜動いてゐるのでよくわかつた。

「あ、あそこにゐる、長老樣はあそこにゐる」と一人の男が言つたが、その男は彼を助けに行かうとするでもなく、 他の者も誰一人助けに行かうとはしないで、たゞ立つて水のうへを眺めてゐるだけだつた。

「そこを退()け畜生!」と私は英語でどなつて、帽子を脱ぎすてゝ、かけつけて、ざんぶと泥池の中へ跳びこんだ。 二泳ぎばかりで、私はビラリが着物の下にこんぐらがつて藻掻いてゐるところまで泳ぎついた。

どうしてしたか私自身にもわからぬが、私は兎も角、着物を引きちぎつて、ビラリの身を自由にした。 彼の頭は、まるで、蔦の葉をつけた黄色いバッカス神の頭のやうに、緑色の泥をかぶつて水面へぽかりと浮んだ。 それから先は樂であつた。ビラリは仲々氣のきいた老人だつたので、溺死者がよくやるやうに、 私にしがみつくやうなことをせぬだけの常識をもつてゐた。そこで、私は彼の腕をつかんで、岸の方へひいてゆき、 やつとのことで泥の中から上つて來た。こんなひどひ目にあつて、泥だらけになつてゐながら、 美しい長髯から(しづく)をたらしてたつてゐたビラリの姿に、まだ押しも押されぬ氣品があつたのは驚くべきことであつた。

「この犬奴等(いぬめら)!」と彼は、やつと物が言へるやうになると駕籠かきどもに向つて言つた。 「貴樣等は、このわしが、長老のわしが溺れかゝつてゐるのを平氣で見てゐくさつたな。 この人がゐなきやわしはきつと溺れて死んでゐたんだ。このことはよくおぼえておくぞ。」 かう言ひながら彼は、ぎら〜光る濡れた眼でぢつと一同を見据ゑた。 その樣子を駕籠かきどもは氣味惡く思つたらしかつたが、むつつりして、平氣を裝ふてゐた。

「あんたは」と老人は、私の方へ向きなほつて私の手を握りしめながら言葉をつゞけた。 「安心さつしやい、良いにつけ惡いにつけわしはあんたの味方ぢや。あんたはわしの命を助けて下さつたが、 ことによると、今度はわしがあんたの命を助けるやうなこともあらうて。」

そのあとで、吾々はできるだけ竒麗に身體を拭ひて、駕籠をひき上げて、 溺れ死んだ一人だけをあとにのこして旅をつゞけた。 私はこの溺死した男が、偶然評判のよくない男だつたゝめか、 それともこの國の人間の生れつきの冷淡と利己主義のためかは知らぬが、 突然一人の仲間を失つたことに對して、誰一人悲しんでゐるものはなかつた。 悲しんでゐたのは彼のかはりに駕籠をかつぐ番になつた者だけであつた。


更新日: 2003/02/12

第十一章 コオルの平原


第十一章 コオルの平原

日沒までにかれこれ一時間もある頃に、吾々は、沼地からやつと拔け出して、逆捲く波のやうに次々に高まつてゐる土地へ着いたので、 限りなく在り難かつた。ちやうど最初の波の峰の手前に吾々はその夜を明かすことにした。 私は何をおいてもレオの容態をしらべてみた。彼の容態は、朝よりももつといけない位であつた。 そして新たな危險の徴候がおこつて、明けがたまで、それがつゞいた。私は一睡もしないで、アステーンの手傳をした。 この女は、私がこれまでに見た中で、最も親切な最も倦むことを知らぬ看護婦で、 一生懸命にレオとジョッブとの看護をしてゐた。こゝは、空氣も暖く、きれいで、 蚊もあまり多くはなかつたので、比較的凌ぎやすかつた。

翌朝の明け方になると、レオはすつかり頭が變になつて、身體が半分に割れたなんて囈語(たはごと)を言つた。 私はしまひにはどうなることかと思つてはら〜した。この種の熱病にかゝると大抵助からんといふことを私は何遍もきいてゐたのだ。 私が心配してゐるところへちやうどビラリがやつて來て、早速出かけにやならぬ、特に、 レオは十二時間以内にもつと靜かに落ちつける處まで行つて、まともな看護を受けなくちや一兩日中に死ぬにきまつてゐると言つた。 私は彼の言葉に從ふより外はなかつたので、レオを駕籠にのせて出發した。アステーンは彼のそばを徒歩でついて行つて、 蠅を追つてやつたり、駕籠から落ちないやうに見張つてやつたりしてゐた。

日の出から半時間のうちに、吾々は、先刻(さつき)言つた高臺の頂についた。 素晴らしい景色が吾々の前にひらけて來た。眼下には青々とした草原が横つてをり、ところ〜゛青葉が繁り、 花が咲いてゐた。 その背後(うしろ)の遙か彼方には、大きな、不思議な山が平原の中にひよつこり聳え立つてゐた。 吾々の立つてゐるところからそこまでは、かれこれ十八哩もあるだらうと私は思つた。 山の麓は草原の傾斜地のやうに見えたが、だん〜゛のぼつてゆくと、さうだ、あとで觀察したところによると、 平原の地平面から約五百呎ものぼつてゆくと、とてつもない大きな、壁のやうに眞つ直ぐな岩の斷崖があつた。 それは高さが千二百呎乃至千五百呎はたつぷりあつた。この山は疑ひもなくもと火山だつたらしい。 その形は圓いやうであつたが、圓の一部分しか見えないのだから、その大きさは正確なところはわからなかつたが、 何しろ隨分大きな山であつた。あとになつてから私はこの山の底面積は五十平方哩以下ではあり得ないことを發見した。

私は吊網の上に坐つて、平原の彼方に見えるこの莊嚴な光景を眺めてゐた。 するとビラリがそれに氣が附いたと見えて、彼の駕籠を私の駕籠のそばへ竝べさせた。

「あれが全能の女王の御殿ですぢや。」と彼は言つた。「これ程立派な宮殿をもつてをられた女王がありますかな?」

「まつたく驚きましたね」と私は答へた。「だがどうしてあの中へはひるんです? あの崖はとてものぼれさうにないぢやありませんか?」

「下を見なさい、狒々(ひゝ)さん。はら道があるだらう。あれは何だと思ひなさるかな。あんたは物識りのやうぢやが、 さあ言つて御覽。」

見ると、山の麓まで一直綫に、道路のやうな綫がつゞいてゐた。だがその上には芝が一杯生えてゐた。 そして、その兩側には高い堤防が築いてあつて、それはところ〜゛切れてゐたが、大體に於ては續いてゐた。 私は何のためかわからなかつた。道路に堤防をこしらへるのもをかしな話である。

「さうですね。」と私は答へた。「あれは道路でせう。でなければ、河床かそれとも」と言ひながら、 それが非常に眞つ直ぐに切り開いてあることに氣づいて、私は附け足した。「運河かと言ひたいところですが。」

前日の災難にもかゝはらず、すつかり元氣になつてゐたビラリは、大きくうなづきながら答へた。

「その通りぢや。あれは前にこの土地に住んでゐた人が、水を流し出すために切り開いた水路ですぢや。 わし共がこれから行く山の岩で圍まれた窪地は昔は大きな湖ぢやつたのだが、わし共の先祖が、 どうしてやつたのか、あの山の堅い岩を湖床まで切り拔いて水のはけ口をつくつたのですわい。 で愈々(いよ〜)水があの湖から流れて來て、この平地を通つて、あの高地の向うにある低地まで流れてゆきましたぢや、 わしどもの通つて來た沼地は多分そんな風にしてできたものぢやらうて。 で、湖がすつかり干上つてしまつたものだからわしどもの先祖は、その湖床に、立派な都市をこしらへたのぢやが、 今では、その廢墟と、コオルといふ名前とだけしか(のこ)つてをらんわけで、その後年々、 そこに洞窟や通路が切りひらかれたのぢやが、それは今に見ることができますわい。」

「さうかも知れんが」と私は答へた。「若しさうだとすると、湖水が雨水や、泉の水でまた一杯にならないのはどうしてです?」

「それはな、わしどもの先祖は賢い人ぢやつたので、矢つ張り水のはけ口はのこしといたんぢや。 ほら、右手の方に河が見えるだらう?」と言ひながら、 彼は吾々のゐるところから四哩程はなれた平原をうね〜流れてゐるかなり大きな河を指さした。 あれが下水ぢや、あれはこの道と同じ山腹から出てゐますのぢや。 はじめにこの水路から水は流れて出たのぢやらうが、わしどもの先祖が水を迂廻さして、 この方は道路につかふやうにしましたのぢや。」

「ではその下水の外にはあの山へはひる道はないんですか?」と私は答へた。

「一とこあるにはあつて、牛や徒歩の人が非常に骨を折つて中へは入れるけれどそれは祕密ぢや。 あんたが一月探したつて見つかりつこはない。それは一年に一度、 山腹や平地で草を食つて肥つた牛をあの中へ入れるときにつかふだけですわい。」

「女王はいつもあそこに住んでをられるのですか、それとも時々山の外へ出て來られるんですか?」 と私はたづねた。

「女王は何處へでもいらつしやるぢや。」

そのうちに吾々は大平原に着いた。そこには、半熱帶性の花が咲き、樹が生えてゐた。 樹は大抵一本づゝ生えてをり、せい〜゛三四本かたまつてゐる位で森になつてはゐなかつた。 犀や、野牛や、羚羊や、その他澤山の獸や駝鳥などが、樹蔭や草原の上などをぞろ〜歩いてゐるので、 私はもう我慢ができなくなつた。私は「エキスプレス」ぢや面倒なので短銃身のマルチニ型獵銃を駕籠の中へ入れてもつて來たのだが、 それをとり出し、一本の樫の樹の下に身體をこすりつけてゐる大羚羊を見つけて、雀躍(こをどり)して、 できるだけそばまで近づいて行つた。彼は私が八十(ヤード)の處へ近寄つてゆくまで知らずにゐたが、やがて、 くるりとこちらを向いて、私をにらみつけながら逃げ出す準備をした。私は銃を上げて、 横向きになつてゐる大羚羊の肩の下をめがけて引き金をひいた。 私は私の乏しい經驗を通じて、こんなに見事に獲物を(たふ)したことはない。 彼は一跳び宙に跳び上つて、ばつたり倒れてしまつたのであつた。 駕籠かきどもは何事が起つたか思つて立ち停つて、ひそ〜驚歎の囁きをかはした。どんなことにも吃驚しない、 むつつりしたこの連中にとつては異例のことであつた。その間に護衞の連中は獲物のそばへかけつけた。 私は獲物を見にゆきたいのは山々だつたが、それをぢつと抑へて、まるで一生羚羊撃ちをして來た人間のやうに、 ぶら〜自分の駕籠の方へひきかへして來た。そして、鐵砲を射つことを不思議な魔法と心得てゐたアマハッガー人は、 これで私に對する尊敬を大分増したゞらうと内心に北叟笑(ほくそゑ)んでゐた。

ビラリは感歎して叫んだ。「まつたく不思議ぢや、わしはこの眼で見なきやあんたの話を信じないところだつた。 あんたはわしに、さういふ殺しかたを教へてくれるつて言ひましたな。」

「教へますとも長老」と私は輕く言つた。「こんなことはわけはありません。」

とは言ひながら、私は、ビラリが愈々(いよ〜)銃を射つときにはきつと腹這ひになるか、 どつかへ身をかくしてゐようと堅く決心してゐた。

それからは何事もなかつたが、日沒から約一時間半前に、吾々は、前に言つた、舊火山の下まで來た。 辛抱強い駕籠かきどもが、昔の運河の河床に沿ふて、えつちら、おつちら、駕籠をかついで、たうとう、 雲表にそびえたつ褐色の絶壁のそばまで來たとき、その莊嚴な眺めは、何とも口では言ひ表はすことはできなかつた。 私はその閑寂と、その壯大さに壓倒された。上へのぼつてゆくにつれて、だんだんと上から蔭が這ひ寄つて來て、 そのうちに、たうとう吾々は天然石を切り拔いた切り通しの中へはひつて行つた。 火藥もダイナマイトもなしに、どうしてこんな大工事ができたものか私にはわからない。 この工事や、岩の中に洞窟を切り開く工事は、いづれもコオルの人民の國家事業で、 埃及(エジプト)のピラミッドと同じやうに何萬人の奴隸を使役して、何百年もかゝつてこしらへたものであらう。

たうとう吾々は絶壁の正面についた。 そして現代の技師たちが鐵道を敷設するときにこしらへる隧道(トンネル)を思はせるやうな暗い隧道(トンネル)の入口をのぞきこんだ。 この隧道(トンネル)からは多量の水が流れ出してゐた。 實を言へば天然石の切り開き工事がはじまつてゐる地點から吾々はこの水流に沿ふて上つて來たのだ。 この水流はやがて下へ流れて、前に言つた平野の中をうね〜と流れてゐる河になつてゐるのだが、上流の方では、 切り通しの半分は水路となり、それより八呎ばかり高くなつた他の半分は道路に用ゐられてゐたのである。 吾々の一隊は隧道(トンネル)の入口でとまつた。そして、或る者が、もつて來た土噐のランプに火を點してゐる間に、 ビラリは駕籠から降りて來て、吾々に向つて、女王の命令でこれから、 山の中の祕密の道を知られては困るから眼かくしをしてもらはねばならぬと、親切に、しかし、きつぱりとした口調で言つた。 私は喜んでこれに同意したが、旅の疲れにも拘らずもう餘程よくなつてゐたジョッブは、燒壺で殺される準備とでも思つたのか、 眼かくしをするのを嫌がつた。しかし私がここには壺もないし、焚火もない樣子だから大丈夫だと言つたので彼はいくらか安心した。 氣の毒なレオは、何時間も轉轉反側して苦しんでゐた擧句、有り難いことには、 ぐつすり寢こんでしまつたので眼かくしをする必要はなかつた。 尤も眠つてゐたといふより昏睡してゐたといつた方がよいかも知れぬ。私にはどちらだか、わからなかつた。 この眼かくしといふのは、アマハッガー人が着物をこしらへる黄色い麻布の切れつぱしで、 眼のまはりをしつかりとくゝつて、うしろでかたく結ぶことであつた。この麻布は、 その後私の發見したところによると墓場から掘り出したもので、私の想像したやうに土民のこしらへたものではなかつた。

(ついで)に言つておくが、アステーンも眼かくしをされた。 これは、彼女が吾々に祕密を開かすかもしれんといふ用意のためだつたのであらう。

それがすむと、吾々はまた歩きだした。やがて、私は、駕籠かきどもの跫音(あしおと)の反響と、 狹い空間に響き渡る爲に水の音が大きくなつたのとで、山の中へはひつてゐることを知つた。 岩の死んだ心臟の中を何處とも知れずつれてゆかれるのはあまり氣持のよいものではないが、 私はかうした經驗には馴れつこになつて(しま)つて、どんなことにも驚かぬやうになつてしまつてゐたのである。 そこで、私はぢつと横になつて、駕籠かきの跫音(あしおと)や水音をきゝながら、 愉快な旅路だと信じようとつとめた。しばらくすると駕籠かきどもは陰鬱な小歌を歌ひはじめた。 それは吾々がボートの中で俘虜にされたときにきいたのと同じ歌だ。 そのうちにその沈滯した空氣はだん〜重苦しくなつて息が詰りさうになつて來た。 そして遂に駕籠が幾度も角を曲つて、水の音はもう聞こえなくなつてしまつた。 すると空氣はまたいくらかさわやかになつて來たが、曲り角はそれから幾つも幾つもつゞいて、 眼がくし[原文のまま]されてゐる私は、全く見當も何もつかなくなつてしまつた。 私はいつかこの道を通つて逃げなければならぬやうなことがあるかも知れんと思つてゐたので、 頭の中で、通路の地圖を描いておかうと思つたが、それは到底だめであつた。 それからまた半時間もたつと、私は外氣の中へ出たことに氣がついた。眼かくしをとほしてぼんやり光りが感じられたし、 顏に新鮮な空氣があたるのをおぼえた。それから數分間の後、駕籠は停つた。 そしてビラリがアステーンに向つて眼かくしをとるやうに命じ、吾々の眼かくしもとつてくれるやうに命じた。 私は彼女の注意をまたずに、自分の眼かくしをほどいてあたりを見廻した。

案の定吾々は絶壁を通り拔けて、その反對側の、突き出た岩の眞つ下にゐたのであつた。 一番はじめに私が氣のついたことは、こゝから見ると絶壁はそんなに高くはないといふことであつた。 實際、五百呎などはなかつた。このことは、この湖床、或は太古の噴火孔の床は、 外側をとりまいてゐる平原の地面よりもずつと高いといふことを證明してゐた。 吾々の立つてゐるところは、岩にかこまれた大きな盃形の盆地で、前に吾々がゐたところとそつくりであつた。 たゞ大きさはその十倍もあつて反對側の絶壁の輪廓がやつと見わけがつく位であつた。 かやうに自然の牆壁で圍まれた平野の大部分は耕されて、石の壁で(かき)がしてあつた。 それはこの平野に澤山すんでゐる牛や山羊が畑の中へ入つて來ないやうにするためであつた。

この平野のあちこちには草の生えた丘がもち上つてゐて數哩彼方の中心に近いところに非常に大きな廢墟が見えるやうに私は思つた。 だがその時には私はそれ以上のものは何も見てゐるひまなどはなかつた。といふのは、すぐに吾々は、 吾々のこれまでによく知つてゐるアマハッガー人に寸分違はぬアマハッガー人にとりかこまれたからである。 彼等はあまり物は言はなかつたけれども、すぐ吾々のそばまでうよ〜たかつて來た。 その時、多くの武噐をもつた人々が隊をつくつて現はれ、象牙の杖をもつた士官に指揮されて吾々の方へ駈足で進んで來た。 彼等は、まるで蟻が巣の中から出るやうに、斷崖のおもてからとび出して來たのであつた。 士官も兵卒も、豹の革のほかにみんな上衣(うはぎ)を着てゐた。てつきりこれは女王の護衞兵だと私は思つた。

そのうちに隊長がビラリの前へ進み出て、象牙の杖を額に横たへて敬禮し、何かたづねてゐたが、 私にはその意味は全くわからなかつた。ビラリが簡單に答へると、軍隊は廻れ右をして崖の縁に沿ふて行進をはじめた。 吾々の駕籠の行列はそのあとについて行つた。かうして半哩も歩いた頃、吾々はもう一度停つた。 そこは高さ六十呎、幅八十呎もある途方もない大きな洞窟の入口であつた。 こゝでビラリは駕籠から下り、ジョッブと私とにあとからついて來るやうに言つた。 勿論レオはまだ身體がひどく惡かつたので、そんこと[原文のまま]をするどころではなかつた。 私はビラリの言葉に從つて大きな洞窟の中へはひつた。かなり奧の方まで夕日がさしこんでゐたが、 日の光がとゞかないところはランプでかすかに照らされてゐた。このランプの行列は、 まるで人通りのない倫敦(ロンドン)の町の瓦斯燈のやうに、果しのない遠くまで延びてゐるやうに思はれた。

私が第一に氣のついたことは、洞窟の壁には一ぱいに浮彫の彫刻がしてあつたことであつた。 それは大分前に言つた酒壺にかいてある繪のやうなものであつた。繪と繪との間には文字が書いてあつたが、 私にはそれはどこの文字かまるでわからなかつた。兎に角それは希臘(ギリシヤ)文字でも、埃及(エジプト)文字でもヘブライ文字でも、 アッシリア文字でもないことはたしかである。それは私の知つてゐるどこの國の文字よりも支那の字によく似てゐた。 入口の方は繪も字も擦れてよくわからなかつたが、奧の方へはひるにつれて、 まるで彫刻師がたつた今(のみ)をやめたかのやうに新くし[原文のまま]完全であつた。

護衞兵の一隊は洞窟の入口でとまつて、吾々を中へ案内した。しかし中へはひつてゆくと白衣を着けた一人の男が、 無言のまゝうやうやしく吾々に敬禮した。が、あとからきくと、それは唖だつたのである。

入口から二十呎ばかりのところに、洞窟と直角に兩側の岩をくり拔いて、小さい洞窟、 或は廣い廊下のやうなものがこしらへてあつた。そして、この廊下の入口の正面から向つて左側に二人の番兵がたつてゐたが、 それで見ると、これは女王の居間へ通ずる廊下の入口であらうと私は思つた。 右側の廊下には番兵はゐないで、例の唖者が、吾々に中へつひれと手眞似で示した。 ランプの點いたこのを道[原文のまま]數(ヤード)進んでゆくと、一つの(へや)の入口へ來た。 そこにはザンジバルの敷物に似た草でこしらへたカーテンがかゝつてをつた。 唖者は又丁寧にお叩頭(じぎ)をして、固い岩をくり拔いてつくつた相當に廣い(へや)へ案内した。 しかし、有り難いことには、この(へや)は、斷崖の表面(おもて)まで豎穴が掘り拔いて、 そこから明りを採るやうになつてゐた。この室には一つの石の寢臺と、洗面用の水を入れた壺と、 毛布の代用にするための美しく(なめ)した豹の皮とが備へつけてあつた。

レオはまだぐつすり眠つてゐたので吾々はこの(へや)に彼を殘しておいた。 アステーンもレオと一緒に殘つた。例の唖者はアステーンに鋭い一瞥を與へて 「お前は誰だ。誰の命令で此處へ來たんだ?」ととがめるやうな樣子をしてゐた。 それから彼はジョッブとビラリと私とに、次々と、同じやうな(へや)へ案内してくれた。


更新日: 2003/02/12

第十二章 女王


第十二章 女王

レオの病氣を見舞つたあとで、ジョッブと私とが何はおいても先づ第一に身體を洗つて竒麗な着物と着替へた。 吾々の着てゐた着物は、アラビヤ船が沈沒した時からまだ一度も着替へないのであつた。 前にも言つたことだが、吾々は運良くも、荷物の大部分はボートへ移してゐたので、 それを駕籠かきどもがもつて來てくれてゐたのである。吾々の着物は大抵、よく縮んだ、 丈夫なフランネルでこしらへたものであつたがかういふ土地を旅行するには、これに限ると私は思つた。

この時身體を洗つて、髮にブラシをかけて、清潔なフランネルに着替へたときの氣持のよさはいつまでも忘れられぬ。 たゞ一つ物足りなかつたのは石鹸のないことであつた。

あとできいたところによると、アマハッガー人は石鹸の代りに燒土をつかふといふことであつた。 これは馴れないうちは氣持がわるいけれども、石鹸の代用として中々隅におけないものだといふことである。

私は着物を着替へ、ビラリに狒々(ひゝ)と呼ばれたのも無理のない黒い鬚に刷子(ブラシ)をかけてこぎれいにすると、 ひどく空腹を感じて來た。だから、別の唖者 -- 今度の唖者は若い娘であつた -- が何とも合圖をせずに、 だしぬけにカーテンを開けて、紛れつこない手眞似 -- といふのは口をあけて奧の方を指ざすのであつた -- で食事の用意ができたことを知らせに來てくれたとき、私は少しも失敬だとは思はなんだ。 私は彼女のあとについて、吾々のまだはひつたことのない、隣の(へや)へはひつた。 そこにはもうジョッブが來てゐた。彼も美しい娘に案内されて來たので困つてゐた。 彼は、例の「燒け壺」の女が彼のそばへ進んで來たときのことをいつまでも忘れないで、 そばへ寄つて來る娘つ子はみんな同じやうな目的でやつてくるのぢやないかと疑つてゐたのだ。

「この若い娘どもの人を見る眼つきは、どうも作法にかなつてゐるとは言へませんね」と彼は辯解がましく言ひ言ひした。

この(へや)の大きさは寢室の二倍もあつて、もとは食堂としてつかはれたものらしくもあつたが、 又僧侶が死人に防腐用の香料を塗るためにつかはれたものらしくもあつた。といふのは、 これ等の洞窟は、大きな地下墓所のやうな形をしてゐて、その兩側には、 天然岩をそのまゝ切つてこしらへた縱横三呎高さ六呎ばかりのテーブルがあつて、 そのテーブルの上は人間が坐つたときに膝がはひるやうにくり拔いてあつた。 それから、よく(しら)べて見ると、はひつて左手にある一つのテーブルははじめ食卓に使はれたのだと思つたが、 それは思ひちがひで、これは屍體に香料を塗るために用ゐられたものであることが明瞭になつた。 といふのはその上に子供から大人に至るまでの大きさの人間に丁度ぴつたりあふやうに五つの人間の型が淺くくり拔いてあり、 時々液を流し出すために、下へ穴が掘り拔いてあつたからである。それでもまだ疑はしいと思へば、 その(へや)の周圍の壁を見ると、そこには、古代の、王か長者からしい白髯(はくぜん)の老人の、臨終から、 香油を塗つて、葬るまでの画面が彫刻であらはしてあるのが見られた。

私はこの浮彫の彫刻を大急ぎで一とほり見てまはつてから、山羊の燒肉と、新鮮な牛乳と、 玉蜀黍でこしらへた菓子とからなる素敵な食事の椅子にすわつた。これ等の食物はみなきれいな木の皿に入れてあつた。

食事がすむと吾々はレオの樣子を見に引き返して來た。といふのは、 レオは當分女王に謁見してその命令をきかなくてもよいといふことだつたからだ。 レオの(へや)へはひつて見ると、彼はまだひどく惡かつた。もうすつかり昏睡から醒めて、 頭の調子が全く變になり、ともすれば亂暴をはじめようとし、 しよつちゆうカム河のボート・レースのことなどを口走つてゐた。實際吾々がはひつて行つた時にはアステーンが、 彼をぢつと抱いて抑へつけてゐた位であつた。私が彼に話しかけると、私の聲をきいて落ちついたと見えて、 彼は大分おとなしくなつたので、やつとすかして、キニーネを()ませた。

私は彼のそばにかれこれ一時間も坐つてゐた。少なくも私は、大分暗くなつて來て、 吾々が袋を毛布で包んで即席にこしらへた枕の上にのつてゐる彼の黄金色の頭がやつと見える位であつたことをおもえてゐる。 その時、突然、ビラリが非常に物々しい樣子ではひつて來て、女王が私に會ひたいといふ旨を知らせた。 こんなことは滅多にない優遇だと彼はつけ足して言つた。 ビラリは私がそれをあまり有り難がらんので少しびく〜してゐたやうであつた。 (しか)し、實のところ、私は、どれ程、權力をもつた、不思議な女王かは知らんが、色の淺黒い、 野蠻人の女王と會見するのだと思ふと大した有り難味は感じられなかつた。まして私の心は、 可愛いレオのことで一ぱいで、彼の命が助かるかどうか;心配になり出した矢さきであつたのだ。 それでも、私は起ち上つて彼のあとについて行つた。すると床の上に何か光つたものが落ちてゐたので私はそれを拾ひあげた。 讀者諸君は、おぼえてゐるだらうが、例の箱の中に、壺の破片と一緒に、 鵝鳥と「日輪の御子」といふ意味の妙な象形文字の記した甲蟲形の寶石とがはひつてゐたのである。 この寶石は非常に小さいものだつたので、レオはこれを、普通に印の代りにつかふ大きな金の指輪にはめさせてゐた。 私がこの時拾ひ上げたのは、その指輪であつたのだ。彼は、熱の發作が起つたときに、 思はずそれを拔いて床の上へ投げすてたものだらうと私は思つた。うつちやつておけばなくなるかも知れないと思つたので、 私はそれを自分の小指にさしてジョッブとアステーンとレオとをあとにのこしてビラリのあとについて行つた。

吾々は通路を出て、廊下のやうな大きな洞窟を横ぎつて、向う側の通路へ行つた。 入口には二人の番兵が塑像のやうに立つてゐた。吾々の姿を見ると、彼等は頭を()げて敬禮し、 それから、槍をもち上げて、前に士官が象牙の杖でしたやうに、それを彼等の額に横たへた。 吾々は二人の間をとほつて中へはひつた。廊下は吾々の(へや)へ行く廊下と同じであつたが、 この方はランプの光りがずつと明るかつた。五六歩降りてゆくと、吾々は四人の唖者に會つた。 二人は男で二人は女である。彼等は丁寧にお叩頭(じぎ)をしてから、女は先にたち、男はあとからついて來た。 それから、吾々の(へや)のかゝつてゐたのと同じやうなカーテンのかゝつてゐる幾つかの入口の前を通りすぎて進んで行つた。 これ等の入口はあとでわかつたところによると、女王のつきそひの唖者たちの(へや)だつたのである。 それから又數歩進んでゆくと、今度は左側ではなく正面を向いた入口の前へ來た。 そこで通路は終つてゐるらしかつた。こゝには、二人の、白いといふよりも、黄色つぽい上衣(うはぎ)を着た番兵が立つてゐて、 吾々に敬禮をしてから、重いカーテンをあげて、吾々を縱横四十呎づゝもある大きな控への()へ通した。 この(へや)の中には八人か十人位の黄色い髮の女が象牙の針で刺繍らしいものをしてゐた。 この女たちも矢張り聾唖であつた。このランプの點いた大きな(へや)の端にも更に一つの入口があつて、 吾々の(へや)の入口にかかつてゐるのとは全くちがつた東國製らしい綴織(つゞれ)がかゝつてゐた。 そして、そこにはとりわけ美しい二人の唖の娘が立つてゐて、頭を低く下げ兩手をくみ合せて恭順な態度を持してゐた。 吾々が進んでゆくと、彼女等はめい〜片方の腕をのばして、カーテンを開けた。 するとビラリが妙なことをしはじめた。あの人品のある老紳士のビラリはそこにいきなりしやがんで、 兩手と兩膝とを地べたにつけて四つん匍ひになり、長い髯を地べたにひきづりながら、 向うの(へや)の方へ匍ひ出したのである。私は普通の姿勢で、立つたまゝあとからついて行つた。 すると彼は肩ごしにそれを見て言つた。

「匍ふんだ、匍ふんだ、狒々(ひゝ)さん、兩手と兩膝とをついて。これから女王の御前で出るのぢやから、 鄭重にしないと、きつと、其の場で殺されてしまひますぞ。」

私は立ち停つた。そしてこはくなつて來た。膝がしらががく〜して歩けなくなつた。 だが、すぐに私は考へ直した。私は英國人だ。その英國人たる私が、なる程猿と人には言はれたが、 實際猿のやうな眞似をして、得體の知れぬ野蠻人の女王の前へ出る理由がどこにある? それも殺されるにきまつてゐるとすれば別だが、さうでないかぎり私にはそんな眞似はできんし、 又しもしない。はじめに匍つて出れば、しまひまで匍つてゐなければならぬ。 それは自分の劣等さを承認するやうなものだ。かう思つて私は大膽に立つて歩いていつた。 やがて吾々は別の(へや)へはひつた。それは控への()よりずつと狹く、 壁には、入口にかけてあつたのと同じやうな、綴織(つゞれ)のカーテンがかけてあつた。 それは、控への()に坐つ刺繍をしてゐた唖者たちがこしらへたものであることが、後になつてわかつた。 室内のところ〜゛には、黒檀らしい黒い木でつくつて、象牙の嵌めこみ細工をした長椅子がおいてあり、 床には、絨氈(じうたん)のやうな敷物が敷いてあつた。この(へや)のつきあたりには床の間のやうなものがあつて、 そこにもカーテンが下つて、その間から光が洩れてゐた。それきりで、この(へや)には人は誰もゐなかつた。

ビラリは、苦しさうに、ぼつぼつと、この洞窟の中を匍つて行つた。私はそのあとから威張つて大股に歩きながらついて行つた。 だが私はこれは少し失策(しくじ)つたと感じた。 第一、老人が蛇のやうに腹匍つてゆくあとから歩いてゆくのは大して威嚴のある筈がない。 ビラリについてゆつくり歩くためには、一歩ごとに數秒間づゝ足を宙に振るか、 或はスコットランドのメリー女王が演奏に出る時のやうに、一歩歩いてはぢつと立ち停つてゐなければならなかつた。 ビラリは、年齡(とし)のせゐもあつたらうが、あまり匍ふのは上手でなかつたので、 その(へや)まで行くのに隨分長くかゝつた。私は時々もどかしくなつて、うしろから蹴つてやりたくなることもあつた。 蠻人の女王の前へ、愛蘭人が隊をつくつて市場へ出かけるやうな風をして出てゆくなんて實に馬鹿げてゐた。 實際吾々の樣子はそれにそつくりだつたので、私はもう少しで聲を出して笑ふところだつた。

たうとう吾々はカーテンのところまで來た。するとビラリは胸を地べたにぴつたりつけて平伏し、 兩手を死人のやうに前へのばした。私はどうしてよいかわからなかつたので、 室内をじろ〜見廻しはじめた。まもなく私はカーテン越しに誰か吾々を見てゐる人があるのに氣がついた。 姿はわからないが、はつきりと誰かに見つめられてゐるやうな氣がするのだ。 しかもその凝視は私の神經に妙な作用を起した。私は何故か知らんが、空恐ろしくなつた。 實際此處は妙なところであつた。壁は美々しく飾つてあり、柔かいランプの光りが照つてゐるにもかゝはらず、 どうも淋しいのだ。これ等の付屬物は淋しさをへらすよりも淋しさを増してゐたのである。 それは人つ子一人ない街燈のついた夜の街の方が、却つて眞つ暗な街より淋しいのと同じ理窟だ。 室内は實に靜かで、ビラリは屍體のやうに重いカーテンの前に平伏してをり、 カーテンの間からは、芳香が洩れて、薄暗い丸天井の方へ浮び上つてゆくやうに思はれた。 一分、二分と時は經つたが、生き物のゐるやうな氣配はなく、カーテンも動かなかつた。 けれども、私を見てゐる人の凝視は益々深く私の體の中へ沁みこむやうに覺えた。 私は何とも名状すべからざる恐怖に充され、額には油汗がにじみ出して來た。

そのうちにたうとうカーテンが動き出した。その蔭には一體何者がゐるのだらう? 裸體の蠻人の女王だらうか?憂ひにしづむ東國の美人だらうか? それとも當世風の若い婦人が(ひる)すぎのお茶を飮んでゐるのだらうか? 私には皆目見當がつかなんだ。で、そのうちの誰がゐたつて驚きはしなかつたであらう。 實を言ふと私には驚く餘裕もなかつたのだ。やゝあつてカーテンがひとりでに動いて、 その折り目の間から雪のやうに白い手がにゆつと現はれた。 そのしなやかな指のさきには薄桃色の爪がついてゐた。 この手はカーテンをつかんでそれをわきによけた。すると、私がこれまでに聞いたことのないやうな柔かい、 それでゐて鈴のやうにすきとほる聲がきこえた。その聲はまるで小川のせゝらぎのやうであつた。

「異國の方」とその聲はアラビア語で言つた。アラビア語とは言つても、アマハッガー人の話す言葉よりもずつと純粹な、 ずつと古いアラビア語だつた。「異國の方、何故そんなに恐がりなさるのです?」

私は内心ではびく〜してゐたが、おもてにはそんな氣ぶりは毛ほども出してゐないと自惚れてゐたのだが、 この問ひをきいて少し驚いた。私がどう答へようかとまごまごしてゐるうちに、 カーテンがあげられて、脊の高い姿が私の前に立つた。私が姿と言つたのは身體も顏も、 眞つ白な柔かい薄紗(うすもの)にすつかり包まれてゐて、一目見たときは、屍衣をまとうた死人にそつくりだつたからである。 しかし、私はどうしてそんな聯想が浮んで來たのか知らない。といふのは、このまとひ物は非常にうすくて、 その下に桃色の肉體がはつきりとわかつたからである。それは、偶然か、或は多分わざとであらうと思ふが、 着物のきこなしのせゐでそんな聯想をしたのだらうと思ふ。いづれにしても私は、こんな幽靈のやうなものが現はれて來たので、 一層恐ろしくなつて來た。そして、私の前にゐるものはたゞ者ではないといふことが確實になつて來たので、 頭の髮が逆立つて來た。だけど、私は私の前に立つてゐる白衣をまとうた木乃伊(ミイラ)のやうな姿は、 脊の高い美しい女で、身體の凡ての部分に生れつきの美しさをそなへてをり、 私がこれまで見た何者にも匹敵しがたい蛇のやうなしなやかさをもつてゐることがはつきりとわかつた。 彼女が手や足を動かすときには全身がうねるやうに見え、首を埀れるときのも、うね〜とまがつた。

「何故そんなに怖がりなさるのです?」再びやさしい聲がたづねた。その聲は、此の上なく柔かな音樂の旋律のやうに、 私の心臟をひきずり出すやうな氣がした。「妾に、男の人を怖がらせるやうなところがあるのですか? さうだとすると、今の男は、前とはずいぶん變つたのですね!」かう言ひながら、彼女は少し嬌態(しな)をつくりながら、 うしろ向きになつて片腕をのばしたので、美しい腕はすつかりあらはになり、ふさ〜とした漆黒の毛髮が、 雪白の上衣(うはぎ)の上をしなやかに埀れて、殆んど踵のところまでとゞいてゐるのが見えた。

「女王があんまり美しいので恐ろしくなつたのです」と、私は恭々(うや〜)しく答へた。 その實私はどう答へてよいか、わからなかつたのである。私がさう答へた時にまだもとの通りに平伏してゐたビラリが、 「よしよし、でかしたぞ狒々(ひゝ)!」とつぶやいてゐるのが聞えたやうに思つた。 「男はまだ矢つ張り(うそ)を言つて女を迷はすすべを知つてゐるのですね」と彼女は笑ひながら答へた。 その笑ひ聲は遠くの方で鈴を鳴らすやうに聞えた。「あなたは、妾の眼が、 あなたの心をさがしてゐたから恐かつたのでせう。それだからでせう。だけど妾は女ですから、 その(うそ)は堪忍してあげます。あなたは丁寧に仰言(おつしや)つたからです。 それで、あなたはどうしてこの洞窟住ひの人間の國へお出でなすつたのですか? この沼の國へ、いやなものばかりの國へ、古い死人の不氣味な幽靈の國へ? 何を見にいらつしやつたのですの、何故あなたは全能の女王の手中にとびこんで命の安賣りをなさるのです? それに又どうして私の話す言葉を知つておゐでなのです?これは古い言葉ですよ。 まだこのやうな言葉が使はれてゐるのですか?御覽のとほり、妾は洞窟の中で、 死人と一緒に住んでゐるので、世間のことはまるで知りもせず、又知らうともしなかつたのです。 ねえ、見知らぬ方、妾は、妾の形見とゝもに住んで來たのです。 そして私の形見は、私の手の掘つた墓場の中にあるのです。」彼女の聲はふるへて、 森の小鳥の聲のやうなやさしいしらべを帶びて來た。突然彼女の眼は、腹ばつてゐるビラリの姿の上に落ちた。 すると彼女は急に氣をとりなほしたやうであつた。

「あゝ、老人、お前はそこにゐるのね。一體どうして、お前の家族に間ちがひが起つたの? 實際、妾の客人たちは非道(ひど)い目におあひなさつたらしいね。 そして、そのうちの一人は、もう少しで「燒壺」で殺されてお前の子供等に食はれてしまふところだつたのだね。 他の方も勇ましく戰ひなさらなんだら殺されてしまふところだつたのだ? 何か言ひ開きができるなら言つて見い。でないとお前を、妾の復讐執行人に引き渡しますよ。」

女の聲は怒りのために(かん)ばしつて、岩の壁に、冷たく澄み渡つて鳴り響いた。 顏にまとうてゐるヴェールの奧で彼の女の眼がきら〜と輝いてゐるやうに私は思つた。 どんなことにも恐れるやうなことのない人間だと思つてゐたビラリも、かはいさうに、彼女の言葉をきくと、 恐怖のために眼に見える程わな〜と慄ひ出した。

「おゝ、女王樣、女王樣!」と彼は白髯(はくぜん)を地べたにつけたまゝで言つた。 「偉大なる女王樣、どうぞおなさけをおかけ下さいまし。わたしは昔も今も變りはない心からあなたのしもべでございます。 あれは、決して決して、わたしのたくらんだことでもなければ、わたしのとがでもございません。 みんな、あのたちの惡いわたしの子供等のしわざでござります。女王樣の客人のあの豚に嫌はれた女にそゝのかされて、 奴等が、この土地の習慣にしたがひまして、 女王樣の客人の狒々(ひゝ)獅子(ライオン)と一緒にまゐりました肥つちよの黒ん坊を食はうとしたのでござります。 女王樣から黒人については何のお逹しもなかつたものでござりますから。 ところが狒々(ひゝ)獅子(ライオン)とはそれを見て、その女を殺し、 又その下僕(しもべ)を殺して恐ろしい燒壺から助けたのでござります。 すると惡者どもは、血に餓ゑて狂氣になり、獅子(ライオン)狒々(ひゝ)と豚との咽喉をめがけて跳びかゝつて來たのでござります。 けれどもこの仁たちは勇ましく奴等と戰はれたのでござります。おゝ、女王樣! あなたの客人たちはほんたうに勇敢に戰つて澤山の相手を殺して自分たちの命は(まつた)うしました。 そこへ私がかけつけまして、この人たちをお助け申し、惡者どもは、このコオルへ送つて、 女王樣のおさばきを受けさせることにいたしたのでございます。」

「よろしい、そのことはもう知つてゐるよ老人、で明日は大廣間に席について、惡者どもの裁判をします。 こはがらんでもよい。お前は許しがたいところだが、許してあげる。もつとよくお前の家族の監督をするがよいぞ。 さあもう行きなさい!」

ビラリは、びつくりするほど元氣よく起き直つて、跪き、三度お叩頭(じぎ)をした。 そして白い髯を地にひきずりながら、はひつて來た時と同じやうに四つん匍ひになつてうしろへさがり、 遂にカーテンのむかうへ消えてしまつた。私は、この恐ろしい、 それでゐて此の上なく心をひきつける女と二人つきりであとにのこされたので少なからず驚いた。


更新日: 2003/02/12

第十三章 アッシャ面被をとる


第十三章 アッシャ面被(ヴェール)をとる

「さあ、()つちまつた」と彼の女は言つた。「あの白い髯の老年(としより)のお馬鹿さんが! でも人間といふものは一生かゝつて、ほんの少しばかりの智識しか得られないものですわね。 水のやうに智識をかき集めるが、智識は又水のやうに指の間から逃げていつてしまふのですよ。 でも手が、ほんの露で濡れたほどでも濡れてゐると、馬鹿者どもがよつてたかつて、 あの人は物識りだなんてはやし立てるのです。さうぢやありませんか? ところであの連中はあなたを何とか言ひましたね?狒々(ひゝ)なんて言ひましたね」と彼女は笑ひながら言つた。 「でもそれがあの連中の習慣なんですよ。想像力が乏しいもんだから、すぐに自分等によく似た獸を聯想して、 それを名前につけてしまふのです。あなたの國では、あなたは何と仰言(おつしや)るのですか?」

「ホリイと言はれてをりますよ、女王」と私は答へた。

「ホリイ」と彼女は言ひにくさうに言つた。けれどもその調子には此の上ない魅力があつた。 「でもホリイといふのはどういふ意味なのです?」

「ホリイといふのは棘のある樹のことなんです」と私は答へた。

「さう、さう言へばあなたには棘がありますね。それでゐて矢張り樹のやうですわ。あなたは強くて、醜いけれど、 わたしの見るところが間違つてゐなければ、心の底は正直な、頼み甲斐のある方で、それに頭のある方ですわ。 だが、ホリイ、そんなとこに立つてゐないで、こちらへはひつて妾のそばかけなさい。 妾は奴隸どものやうにあなたを四つん匍ひにさせたくはありません。 妾はあの連中が妾を拜んだり恐れたりするのに飽きてゐるのです。 で、時々氣に入らぬことがあると、妾は、なぐさみに奴等をすくめ殺して、 死骸が心臟まで蒼ざめてしまふのを見てやることがあります。」 かう言ひながら彼女は象牙のやうな手でカーテンをわきへやつて、私が通れるやうにした。

私はがた〜慄へながら中へはひつた。この女は非常に恐ろしい女であつた。カーテンの内側には、 十二呎に十呎ばかりの凹んだところがあつて、その中に一つの長椅子と一つのテーブルとがおいてあつた。 そしてテーブルの上には果物(くだもの)と水晶のやうな水とがおいてあつた。 そのそばには石をくりぬいてこしらへた聖水盤のやうな容噐があつて、それには清らかな水がなみ〜とはひつてゐた。 あたりは柔かなランプの光で照され、空氣にもカーテンにもえならぬ芳香がたゞようてゐた。 そして、女王のつや〜した毛髮や、身にまとうてゐる白衣から芳香が發してゐるやうに思はれた。 私はその小さい(へや)の中へはひつて、びく〜しながらそこに立つた。

「かけなさい」と彼女は長椅子を指さしながら言つた。「またあなたは怖れる理由(わけ)はありませんわ。 若し怖がる理由(わけ)があるとすれば、妾はすぐに殺してしまひますから。 矢張り長く恐がらせなくてもよいのですわ。ですから、まあ安心していらつしやい。」

私は水盤の近くの長椅子の脚許に坐つた。女王は長椅子の別の端にゆつたりと身を沈めた。

「さて、ホリイ」と彼女は言つた。「あなたはどうしてアラビア語が話せるやうになつたのです? アラビア語は妾の大好きななつかしい言葉です。といふのは妾はアラビア生れなのです。 生粹のアラビア人なのです。ヤーマン地方の美しい舊都オザールの生れで、カ−タンの子ヤラブの一族なのです。 でもあなたのお言葉には妾のきゝたいハミヤル族の言葉のやうな床しい響きはありませんわね。 それに或る言葉は變化してゐますわ。ちやうどこゝのアマハッガー人の使つてゐる言葉のやうに。 アマハッガー人はアラビア語をすつかり下品なものにしてしまつてゐるので、 あの連中に口をきく時には、妾はまるで他國の言葉を話してゐるやうな氣がするのですよ。」

「私は自分で勉強したのです」と私は答へた。「ずいぶん長い間勉強しました。 でもアラビア語は今でも埃及(エジプト)やその他の國で使はれてゐますけれど。」

「まだアラビア語は使はれてゐるんですか?それに埃及(エジプト)はまだあるのですか? 今の埃及(エジプト)國王(ファラオ)は誰です?矢張り波斯(ペルシヤ)人の子ですか?」

波斯(ペルシヤ)人はもう二千年も前に埃及(エジプト)を去りました。 その後トレミイ人や羅馬(ローマ)人や其の他いろ〜な民族がニイル河を支配してゐましたが、 みんな盛りを過ぎて滅びてしまひました。」と私は呆れながら言つた。 「でも女王はどうして波斯(ペルシヤ)のアルタクセルクスのことを御存じなのです?」

彼女は笑つて何とも答へなかつた。また私はぞつとして全身が凍るやうな氣がした。

「それから希臘(ギリシヤ)ですね」と彼女は言つた。「希臘(ギリシヤ)はまだありますの? あゝ妾は希臘(ギリシヤ)人が好きですわ。あの時分の希臘(ギリシヤ)人は美しくて賢こかつた。 けれども、心の中は、移り氣なくせに、荒つぽいところがありましたけれどね。」

「さうです」と私は答へた。「希臘(ギリシヤ)はまだあります。そして希臘(ギリシヤ)の國もできてゐます。 けれども今の希臘(ギリシヤ)人は昔の希臘(ギリシヤ)人とはちあひますし、希臘(ギリシヤ)の國だつて、 昔の希臘(ギリシヤ)と比べてはお話になりません。」

「ではヘブライ人はまだエルサレムにゐますの?そして賢王の建てた寺はまだ立つてゐますか? ヘブライ人はどんな神を拜んでゐるのでせう?ヘブライ人が仰山に説教したり預言したりしてゐたメシアは來ましたの? そしてそのメシアは地上を支配してゐますか?」

猶太(ユダヤ)人はちり〜゛になつて滅びてしまひました。そしてその破片は世界ぢうに散らばつてゐます。 それからエルサレムはもうありません。ヘロド王の建てた寺は--」

「ヘロド王ですつて」と彼女は言つた。「私は、そんな人は存じませんよ。だがまあ次を話して御覽なさい。」

羅馬(ローマ)人が燒いてしまひました。そして羅馬(ローマ)の鷲はその廢墟の上を翔んで行つて、 今では猶太(ユダヤ)は砂漠になつてゐます。」

「さう〜、羅馬(ローマ)人は偉大な國民だつた。そして、運命の神のやうに、いや彼等の鷲が餌に向つてとぶときのやうに、 眞つ直ぐに最後の滅亡につき進んで行つた!そしてあとには平和をのこしていつたのですわね。」

「孤獨をつくつて平和と呼ぶですかね」と私はラテン語で言つた。

「まあ、あなたはラテン語もお話しなさるのですね」と彼女は吃驚して言つた。 「隨分長く聞かなかつたので、ラテン語は妙に妾の耳に響きますわ。それにあなたの話は、 羅馬(ローマ)人の話の樣に語尾が下りませんね。今あなたが仰言(おつしや)つた文句は誰が書いたのです? 私はその文句は知りませんけれど、あの偉大な國民をよく穿つてゐますわ。どうやらあなたは物識らしいですね。 希臘(ギリシヤ)語もおできになるの?」

「えゝ、それにヘブライ語も少しはできます、よく話はできませんけれど、こんな言葉は今はみんな死語なんです。」

彼女は子供のようによろこんで手を打つた。「全くあなたは醜い樹だけれど、その樹には智慧の實がなつてゐることね。 ねえホリイさん」と彼女は言つた。「だけど、猶太(ユダヤ)人は、 妾が彼等に學問を教へると異人だとか異教徒だとか言つたから妾はきらひですが、 あの猶太(ユダヤ)人どものメシアは來ましたか、そして世界を支配してゐますか?」

「メシアは來ました」と私は恭々(うや〜)しく答へた。「けれども貧しい賤しい姿で來たもんですから、 猶太(ユダヤ)人は、このメシアを歡迎しないで、却つて迫害して十字架にかけました。 けれどもメシアは神の子ですから、その言葉と事業とは今だに生きのこつて世界の半分を支配してゐます。 尤も地上の國を支配してゐるのではありませんが。」

「あゝ、實に兇暴な狼どもだ」と彼女は言つた。「多くの神を信じ、利慾には眼がなく、 徒黨をくんで爭ひあつてゐるあいつ等の黒い顏が今でも見えるやうな氣がする。 では、彼等は彼等のメシアを十字架にかけたのですね?さうでせう、妾にもそれは信じられますわ。 メシアがほんたうに生ける精靈の子だつて彼等には何でもなかつたでせう。そのことは後で話しませう。 彼等は、傲然として威張つて來なければ神だとは思はんのですわ。ヱホバを拜むかと思へばバールを拜み、 アストレトを拜むかと思へば埃及(エジプト)の神々に手を合せるといふ風で、 利慾のためにはどんなことでもする奴等です。さうですか、 奴等はメシアが卑しい服裝(みなり)をして來たといふので十字架にかけたのですか、 そして今は世界の各地にちり〜゛ばら〜になつてゐるのですか。 さう言へば猶太(ユダヤ)の或る預言者がそんなことを言つたのをおぼえてゐますわ。 だが、猶太(ユダヤ)人のことなどは妾はどうでもいゝ。(そもそ)も妾の心を傷つけて、 ひがませて、妾をこんな處へ追ひやつたのは奴等の爲業(しわざ)ですもの。 奴等は妾がエルサレムで學問を教へてゐたときに、妾に石を投げましたよ。寺の門の前でね。 白い鬚を生した猶太(ユダヤ)の僞善者や學者(ラビ)どもが人々をけしかけて妾に石を投げさしたのです。 御覽なさい。まだその傷跡がのこつてゐますわ!」かう言ひながら、突然彼女は紗の被布(ヴエール)をめくつて、 腕を出し、ミルク色の美しい肌にのこつてゐる赤い傷痕を指して見せた。

私は恐ろしさにうしろへ身を退いた。

「失禮ですが、女王」と私は言つた。 「猶太(ユダヤ)の救世主がゴルゴタで十字架をになはれてからもうかれこれ二千年もつてゐます。 それだのに、まだ救世主(メシア)のゐない前に貴女が猶太(ユダヤ)人に學問を教へたといふのはどういふわけなのです? 貴女は私を馬鹿にしてゐなさるのですか?」

彼女は長椅子にもたれた。私はまた彼女のかくれた眼が私の心を探してゐるのを感じた。

「あなた」と彼女は非常にゆつくり用心ぶかく言つた。「この地上には、 まだあなたがよくお知りにならぬ祕密がのこつてゐるやうですね。 あなたはまだあの猶太(ユダヤ)人が信じてゐたやうに、生れた者は皆死ぬと信じていらつしやるのですか? 何だつて死にやしませんよ。そりや變化といふことはありますけれど、死といふことはないのです。 御覽なさい」と言ひながら彼女は岩の壁に彫つてゐる彫刻を指した。 「この彫刻を彫つた人種の最後の一人が疫病のために斃れてから、二千年の三倍もたつてゐるのですが、 この人たちは死んではゐませんよ。今でも生きてゐます。これによるとこの人逹の靈は、 現在こゝへ來てゐるのかも知れません。」と言ひながら彼女を[原文のまま]ちらりと見廻した。 「妾の眼にはまざまざとそれが見えるやうですよ。」

「ですけれども、此の世では死んでゐるのでせう?」

「さうです、一時はね。だけど、此の世へも何遍も生れかはつてゐるのです。妾は、この妾、 アッシャは -- 妾を愛してゐた人が生れかはつて來るのをこゝで待つてゐるのです。 妾は、その人が妾を見つけるまで此處にゐるのです。 その人が妾に會釋をする場所はこゝより外にはないのです。 妾のやうな全能のものが、幾度びも詩人たちに謳はれた希臘(ギリシヤ)の女神ヘレンよりも美しく、 賢者ソロモンの智慧にもまさる深く廣い智慧をもつてゐる妾が、地上の祕密を知り、 その富を知り、凡ての物を妾の役に立つやうにかへることのできる妾が、 暫くの間なら、あなた方が死と呼んでゐる變化にさへも打ち勝つことのできる妾が、 こんなところで、畜生にも劣る野蠻人を相手に暮してゐるのは何のためだとあなたはお考へですか?」

「私にはわかりません」と私はへり下つて答へた。

「それは妾が戀人を待つてゐるからなのです。 妾の生涯はことによると邪惡(よこしま)なものであつたかも知れません。 それは妾は知りません。何が惡で何が善だといふやうなことは誰にだつてわかりはしませんからね、 ところで妾は時が來なければ死ぬことはできないのですけれど、 たとひ死ぬことができたとしても死んであの人に會ひにゆくのは心配なのです。 といふわけは、妾とあの人との間に妾にはよぢ上れないやうな牆壁ができてゐるかも知れないからですわ。 それには澤山の星が永劫に飛びかうてゐる大無廣變な空間の中で、道に迷ふ心配もあります。 けれども、いつかは -- 五千年もさきのことか或は明日のことかもわかりませんが -- 妾の戀人が生れかはつて、どんな人間の巧案した掟よりも強い掟に從つて、 こゝで、昔妾たちが接吻をしたこゝで、妾を見つけ出す日が來るに相違ありません。 妾は以前にあの人に罪を犯したけれども、あの人の心はきつと妾に對して柔らぐにきまつてゐます。 あの人はもう妾を見覺えてゐないかも知れませんけれども、 それでも妾を愛するにきまつてゐます。 妾の美しさのためだけでも妾を愛するにきまつてゐます。」

しばしの間私は呆氣にとられて答へもできなかつた。あまり途方もない話なので、私の理智はそれをつかむことができなかつたのだ。

「でも女王」と私はたうとう口を開いた。「たとひ吾々は幾度も生れかはつて來るとしても、貴女はさうではないでせう、 若しあなたのお話がほんたうなら?」この時彼女の見えない眼が鋭く輝いたのを私は見た。 「貴女はまだ死んだことはないのでせう。」と私は急いでつゞけて言つた。

「さうです」と彼女は言つた。「といふわけは、半分は偶然のおかげで、半分は研究のおかげで、 妾は世界の最大の祕密の一つを解いたからです。いゝですか、生命(いのち)といふものはあるのですよ。 して見れば、その生命(いのち)をしばらくの間長びかすことができないわけがありますか? 生命(いのち)を歴史で一萬年とか二萬年とか五萬年とかゞ何でせう?一萬年くらゐたつたつて、雨や風のために、 山の高さは餘りかはりませんわね。二千年の間に、この洞窟は少しも變りませんでしたよ。 變つたのは獸と獸と同じやうな人間とだけです。生命(いのち)こそは不思議なものです。 しかし生命(いのち)を少し長びかす位の事は不思議でも何でもありませんわ。 自然には、自然の子である人間にと同じやうに物を活かす精氣があるのです。 この精氣を發見して、それを自分に通はせることさへできれば、 その人は自分の生命(いのち)とゝもに生きることができるのです。 尤もその人も永久に生きることはできません。自然の生命(いのち)も永久ではないですからね。 自然も(また)死なねばならぬのです。月の自然が死んでしまつたやうにですね。 尤も自然は死ぬといふよりも變化するといつた方がよいでせう。自然もまた生れかはつてきて生きるのですからね。 では自然が何時(いつ)死ぬか?といふと、それはまだ中々だと思ひますわ。 そして自然の祕密をすつかり知つてゐる人は、自然が生きてゐる限り生きて居られるのです。 妾はまだ自然の祕密をすつかり知つてはゐませんが、いくらかは知つてゐます。 多分これまでにこの世界にすんでゐた誰よりも多く知つてゐるかも知れません。 ところで、この事は、あなたには大きな祕密であるに相違ありませんわね。 ですからいまそれをお話してあなたを驚かすのはやめませう。若し氣が向いたら、 もう少しくはしく話してあげるかも知れませんが、まあ多分この事は二度とお話ししないでせう。 あなたは、妾がどうしてあなた方をこの國へおいでになつたのを知つて、 あなた方が壺で顏を燒かれるの助けてあげたか不思議に思つていらつしやるでせう?」

「不思議です」と私は力なく答へた。

「ではあの水を御覽なさい。」かう言ひながら、彼女は例の聖水盤を(ゆびさ)し、その上へ身を屈めて手をかざした。

私は起ち上つて水面を見つめた。すると忽ち水面は暗くなつたが、再び澄み渡つて來て、その中には、 吾々のボートが、あの恐ろしい運河に浮んでゐる光景がはつきりと見えた。 レオはその中に横たはつて蚊をよけるために上着を頭からすつぽりかぶつて眠つてゐた。 私と、ジョッブとマホメッドとは岸でボートを曵いてゐた。

私は慄然(ぞつ)として身を退き、これは魔法だと叫んだ。 實際、私が見たのは實際にあつた通りのことで微細な點にわたるまですつかりそのまゝだつたのである。

「いゝえ、ホリイさん」と彼女は答へた。「これは魔法ぢやありませんよ。魔法なんては愚人の夢です。 魔法なんていふものはありません。この水は妾の鏡です。 妾は時々過去のことをよび起して見たいと思ふとこの水の中にそれが映るのです。 この國のことや、妾の知つてゐることや、あなたの知つてゐることなら何でも映して見せてあげませう。 若しおのぞみなら、誰かの顏のことを考へて御覽なさい。 さうすると、その顏があなたの心からこの水に反射して映つて見えますから。 妾にはまだ祕密がすつかりわからんので、未來のことは何もわかりません。 アラビアや埃及(エジプト)の魔法使はずつと前にそれを知つてゐたといふことですが。 まあ、そんなわけで、妾は或る日のこと、二十年前に一度船で通つたことのある、 あの古い運河のことを思ひ出して、その樣子を見ようと思つたのです。 すると運河に一隻のボートが浮んでゐて、三人の男は岸を歩いてをり、 一人若い男がボートの中に眠つてゐるのが見えたのです。眠つてゐる人の顏はわかりませんでしたが、 何でも人品卑しからぬ若者のやうに思はれました。ですから私は人をやつて助けさしあげたのです。 ところで、もうこれでお別れにしませうね。だが、ちよつとお待ちなさい。 あの若い人のことをきかして下さい。ビラリが獅子(ライオン)と言つた人のことを。 妾はあの人を見たいのですが、あの人は病氣なのださうですね。 熱病で、それに負傷をしてゐらつしやるといふことですね?」

「ひどい重態なんです」と私は悲しげに答へた。「女王、いろ〜なことを知つてをられるあなたに、 あの病氣はどうにもならんでせうか?」

「それはなります。妾は(なほ)してあげることができます。だが、 あなたはどうしてそんなに悲しさうに仰言(おつしや)るのです。 あの若者を愛していらつしやるのですか?若しかしたらあなたの御子(おこ)さんなのですか?」

「あれは私の養子なのです。あの子をあなたの前へつれて參りませうか?」

「いやそれには及びません。發病してから一體何日になります?」

「今日で三日目です。」

「では、もう一日寢かしておきなさい。さうすればあの人はことによると自分で病氣を追ひ拂ふことができるかも知れん。 その方が妾が(なほ)してあげるよりはよいのです。妾の療法は、 生命(いのち)城砦(とりで)を搖ぶるやうな療法ですからね。 でも明日の晩の、發病した時刻までによくなりかゝらなかつたら、妾があの人のそばへ行つて治してあげます。 一寸お待ち、誰があの人を看護してゐるのです?」

「私どもがつれて來た白人の召使です。ビラリ老人が豚と言つた奴です。それから」とこゝまで言つた時に、 私はちよつとためらつてから言葉をつゝけた。「アステーンといふ女も介抱してくれてゐます。 この國の大層きれいな女です。この女ははじめてあの子を見たときに、あの子のそばへ寄つて來て、 あの子を抱擁し、それからずつとあの子のそばについてゐるのです。これは女王の人民の習慣なのださうですね。」

「妾の人民ですつて!妾に向つて、妾の人民だなんて言はないで下さい。」 と彼女は大急ぎで答へた。

「この奴隸どもは決して妾の人民ぢやありません。 奴等は妾がゆるしてやつてゐる間だけ妾の命令することをしてゐる犬です。 あいつ等の習慣なんて、妾には何もかゝはりはないのです。 それから、妾を女王なんて言はないで下さいね。私はおべつかを言はれたり、 尊稱で呼ばれたりするのに飽きてゐるのです。妾をアッシャと言つて下さい。 この名は妾の耳に快よく響きます。それは過去の反響(こだま)です。 そのアステーンとやらいふ女は妾は知らないが、ことによると、あの女かも知れない。 妾にその女を警誡せよと言つた者がある。そして妾もその女に警告をしておいた。 その女かも知れない。その女は -- 一寸お待ちなさい。見て見ませう。」 かう言ひながら彼女は前へ屈んで、水盤の上へ手をかざして、ぢつとその中を見つめてゐた。

「ちよつと」と彼女は靜かに言つた。「これがその女ですか?」

私は水の中をのぞきこんだ。すると、靜かな水の(おもて)にアステーンのきりつとした横顏が映つてゐた。 彼女は前こゞみになつてゐたが、その容貌は無限のやさしさをこめ、栗色の捲毛を右の肩に埀らして何か下の方をぢつと見てゐた。

「この女です」と私は低聲(こゞゑ)で言つた。 又もや私はこの竝々(なみ〜)ならに光景にすつかり度肝を拔かれてしまつたのである。 「この女がレオの眠つてゐるのをつみてゐてくれてゐるのです。」

「レオですて」とアッシャは氣の拔けた聲で言つた。「レオといへばラテン語で獅子(ライオン)のことだ。 あの老人もこれだけはうまい名前をつけたもんだ。妙なことがあるものだ」と彼女は獨語(ひとりごと)をつゞけた。 「實に妙だ、ことによると -- だがそんなことは有り得ない!」

彼女がいら〜した手つきで又水の上へ手をかざすと、水の(おもて)は暗くなつて、そこに映つてゐた(すがた)は、 それが現はれた時と同じやうに、音もなく、不思議に消えてゆき、再びランプの光が、おだやかな、 澄み渡つた生きた鏡の(おもて)を照した。

「ホリイさん、行く前に私に何かのぞみはありませんか?」と彼女はしばらく考へた後で言つた。 「あなたはこれからこゝで隨分ひどい生活をしなければなりませんわ。こゝの住民は皆野蠻人で、 文明の習慣は少しも知つてゐません。妾は別段そのために困つてはゐませんけれど」 と言ひながら彼女は小さいテーブルの上の果物(くだもの)を指した。 「妾の口を通るものは果物(くだもの)だけですのよ。果物(くだもの)麥粉(むぎこ)でこしらへた菓子と、 少しばかりの水とだけです。妾はあの娘たちに貴方の御用をするやうに言ひつけておきましたが、 御承知のとほりあの娘たちは聾で唖ですから、あの娘たちの聲色や手眞似をよむことのできない者には一番安全です。 妾はあんな風に仕上げるのに何百年もかゝりましたのよ。 やつと成功したと思ふとその娘があまり醜い子だつたので殺してしまつたりしたこともありました。 ところで何か妾にお(のぞ)みはありませんか?」

「さうですね、一つだけありますよ、アッシャ」と私は大膽に言つた。 (しか)他目(よそめ)には私が思つてゐる程大膽には見えなかつたやうな氣がした。 「私はあなたのお顏が見たいのです。」

彼女は鈴のやうな響のある聲で笑ひ出した。そして「よくお考へなさい、ホリイ」と答へた。 「あなたは希臘(ギリシヤ)の神々の傳説を知つてをられるやうですが、アクテオンといふ神は、 あまり美しいものを見たゝめに、無殘にも身を滅ぼしてしまつたでせう?妾があなたに顏を見せたら、 もしかするとあなたも同じやうに身を滅ぼしなさるかも知れませんよ。 抑へても抑へても抑へきれぬ慾情のために生命を蝕むやうなことになるかも知れませんよ。 いゝですか、言つておきますが、妾はあなたのものではありませんよ、誰のものでもないのです。 ただ、かつてこの世にゐた人で、まだ此の世へ出て來ないたつた一人の人の女ですよ。」

「ところでアッシャ、私はあなたの美しさなどは恐れはしませんよ、女の美しさなんてものは、 花のやうに(はか)なく過ぎ去つてゆくものです。そんな下らないものを私の心は見向きはしないのです。」

「あなたの言ふことは間違ひです」と彼女は言つた。「女の美しさは過ぎ去つてしまふものではありません。 妾の美しさは妾の生きてゐる限りつゞくのです。でも、どうしても我を通したいなら、 通しなさるがいゝ。けれども埃及(エジプト)の調馬師が小馬を御するやうに、あなたの情慾が理性を御して、 あなたの行きたくもないところへつれて行つたからつて、妾をとがめてはなりませんよ。 妾の顏を一度見たら、それで病みつきにならない人はないのです。 ですから妾はこゝの野蠻人にすら顏を見せないのです。でないとついうるさくなつて、 彼等を殺さねばならぬやうになりますからね。それでもあなたは御覽になりますか?」

「是非見せて欲しいです」と私は答へた。私はどうしても好竒心を抑へる事ができなかつたのである。

彼女は白い丸味のある、これまで私が見たことのないやうな兩の腕をあげて、 ごくゆつくりと毛髮(かみのけ)の下のところのとめ金を拔いた。すると突然、長い、 屍衣のやうな覆ひ物がする〜と彼女の身體から地上へ辷り落ちた。私の視綫は彼女の姿に注がれた。 彼女の身體には、ぴつたりと密着した白衣がまとはれてゐるだけで、それは、 生命以上の生命と、人間以上の、一種蛇のやうな艷麗さとをもつて、ふくよかな、 壓倒するやうな肉體美を見せるに役立つだけであつた。小さい足には金鋲でとめた雪駄を穿いてゐた。踝の美しさは、 彫刻家などの夢想を超絶した完全なものであつた。腰のまはりの白い肌着は純金の二頭の蛇のとめ金でとめてあつた。 そしてその上へ、美しい清らかな輪廓をゑがいて彼女の上體がふくれ上つて居り、肌着は雪白の胸のところでおはつてゐた。 そしてその胸のところで彼女は兩手を組んでゐた。私はそれから尚ほも上の方へ視綫をはこんで、彼女の顏を見た。 私は大袈裟なことを言ふわけではないが、まつたく、眼が眩んで、驚歎して思はず身を退いた。 私は天女の美しさを噂さには聞いたことがあるが、今それを見たのだ。たゞこの美しさは、 えも言はれぬ愛らしさと、純潔さとにもかゝはらず惡の美しさであつた。といふよりもむしろ、 その時には、私はさういふ印象を受けた。どうしてそれを言ひあらはしたものか、私には言ひ表はせない。 たゞもう言ひ表はせないのだ。私の見た感じを筆で書きあらはすことのできるやうな人は此の世にはない。 此の上なく黒い、柔かな、絶えまなく動いてゐる眼のことや、ほんのりと櫻色を帶びた顏にいろのことや、 廣い高貴な額のことや、その上にふさ〜と埀れ下つてゐる髮のことや、纖細な、 顏貌(かほかたち)のことなら言へるかも知れん。これ等のものもなる程美しい。何にも増して美しい。 けれども彼女の美しさそんなところにあるのではないのだ。それは生きた御光のやうに、 彼女の晴々した顏から發出してゐる何とも名状のできない神々しさにあるのだ。 私の前にたつてゐる顏は三十を越さぬ若い女の、完全に(すこや)かな、 熟しきつた美しさがはじめて外へあたはれたばかりの顏であつたが、それでゐて、名状すべからざる世故の辛酸をなめ、 悲しみも情慾も味はひつくしたあとがまぎれもなく刻まれてゐるのだ。 口のまはりの(ゐくぼ)に徐々にうかんで來る微笑も、この罪と悲しみとの影をかくすことはできなかつた。 それは、輝く眼の光りにも、堂々たる態度にもあらはれてゐて、まるで「妾を見なさい、 世の中のどの女にも増して美しいけれども、妾は年々歳々過ぎし日の思ひ出に惱まされ、情慾にかられ、 邪しまなことをしたために苦しんでゐるのです。そして贖罪の日が來るまでは、いつまでもいつまでも、 邪惡と悲痛とを重ねてゆくのです」とでも言つてゐるやうに思はれた。

磁石にでも吸ひ寄せられるやうに、 どうしても抵抗することができない力で私の眼は彼女のきら〜と光る(さう)の眼に吸ひ寄せられていつた。 すると彼女の眼から私の身體へ電流が傳はつたやうな氣がして、私はどぎまぎして眼がくらんで來た。

彼女は、えならぬ音樂のやうな聲で笑ひながら、勝ち誇れるヴィーナスにもふさはしい、 崇高な媚を含んだ樣子で、私を見てうなづいた。

「向う見ずな人?」と彼女は言つた。「あなたはアクテオンのやうにのぞみをかなへなさつたが、 アクテオンのやうにみじめに身を滅ぼさないやうに用心なさい。 あなたの心の中の煩惱の犬に身を咬み碎かれないやうに用心しなさい。 妾もたつた一人の人にしか心を動かさない處女の女神ですよ。 しかもその人といふのはあなたではないのですよ。どうです、もう十分御覽になりまして?」

「私はあまり美しいものを見たので眼がくらんで來ました。」 と嗄聲(しやがれごゑ)で言ひながら私は手をあげて兩の眼をおほふた。

「だから言はないこつちやありませんか。美は電光のやうなものです。美しいけれども、破壞力をもつてゐます。 特に樹は危險ですよ、ホリイさん。」かういひながら彼女はまたうなづいて笑つた。

こゝでアッシャは、ばつたり話をやめた。私が指の隙間から見てゐると彼女の顏は酷く變つて來た。 大きな眼は急にぢつと据つて來て、恐怖が、 暗い魂の底から湧き起つて來た何かたゞならぬ希望と爭鬪してるやうな表情を帶びて來た。 美しい顏が硬ばつて來て、柳のやうにしなやかな姿はびんと伸びてしまつたやうに思はれた。

「おや!」と彼女は將に獲物に向つて跳びかゝらんとする蛇のやうに頭をうしろへひいて、 半ば囁くやうに、半ば叱るやうに言つた、「その手にはめてゐる甲蟲形寶石はどこで手に入れなさつた? 言ひなさい。でないと、生命の精氣によつてその場であなたを打ち殺してしまひますぞ!」 かう言ひながら彼女は心持ち私の方へにぢり寄つた。彼女の眼はその間も爛々と焔のやうに輝いてゐたので、 私は恐ろしさに打たれて地べたに倒れながら、何かしどろもどろに言つた。

「靜かに!」と急に彼女は樣子をかへて、以前のやうなやさしい調子になつて言つた。 「妾はあなたを吃驚させましたわね。勘辨して下さい。だがね、ホリイさん。 殆ど無限の心は、時々、有限な心ののろまさ加減にたまらなくなつて、つい癇癪をおこしたくなるのです。 もう少しであなたの命はなくなるところでしたよ。だが、私は思ひ出しました。ところで、その甲蟲形寶石は?」

「拾つたんです」と私はまた立ち上りながら、力なくつて吃つて言つた。あまりに氣が顛倒してしまつたので、 私はその時は、この甲蟲形寶石のことについては、たゞそれをレオの洞窟で拾つたことだけしか思ひ出すことができなかつたのである。

「隨分妙ですね」と彼女は、いかめしい女にも似ず、急に女らしく身を慄はして、そは〜しながら言つた。 「妾も前にそのやうな形をした甲蟲形寶石を知つてゐたのですよ。 それは妾の戀人が首にかけてゐたのです。」かう言つて彼女は少しばかりすゝり泣いた。 私はそれを見て、この女も非常に年をとつてゐるかは知らんけれど、要するにたゞの女だといふことがわかつた。

「して見ると」と彼女は言葉を續けた。「あの寶石は對のものだつたに相違ないが、 妾はこれまで一つしか見たことがないのです。何しろあの寶石は由緒附のもので、 もつてゐる人は隨分珍重したものですからね。だけど妾の見たのは、こんなに指輪に嵌てはなかつたのです。 さあ、ホリイ、もう行きなさい、行きなさい。そしてできるなら、アッシャの美しさを見たあなたの愚かしさ忘れるやうになさい」 そして彼女は、私から身をそむけて、長椅子によりかゝり、クッションの中に顏を埋めた。 私は彼女の前から、よろ〜しながら引き退つた。どうして私の洞窟まで歸つて來たのか私はおぼえてゐない。


更新日: 2003/02/12

第十四章 地獄の精


第十四章 地獄の精

私が床の上に身を投げて、散り〜゛になつた心をかき集めて、 見たり聞いたりしたことを思ひかへしはじめたのは夜の十時近くであつた。 (しか)し、考へれば考へる程私は何が何だかわからなくなつた。私は氣が狂つてゐたのだらうか、 醉つ拂つてゐたのだらうか。それとも夢を見てゐたのだらうか? 或はまたすばらしい大きなぺてnに一ぱいかつがれてゐたに過ぎんのだらうか? 私のやうな理性のある、吾々の歴史の主要な科學的事實にも通じてをり、 歐羅巴(ヨーロッパ)で超自然と言はれてゐる魔術などを絶對に信じない人間が、たつた今、 二千年も生きてゐた女と話をしてゐたことを信ずることができたなんていふことがどうしてほんとうと思へよう。 全く、これは人類の經驗と矛盾してゐる。絶對に不可能なことだ。それにあの女の此の世のものとも思はれぬ美しさはどうだ。 あんな美しい姿を見て迷はぬ男は絶對にいないだらう。私のやうに、その方の道にかけては、 女嫌ひとしてとほつてゐる男でも、恐しいには恐しいが、あの女の幻を追ひ拂ふことはできなかつたのだ。 その惡魔のやうなおそろしさが、却つて私の心を惹きつけたのだ。 いゝ年をして今更あんな女に戀を感ずるなんて、馬鹿げてゐる。馬鹿げてゐる。あの女は私に警告した。 それを私はきかなんだのだ。そしてあの女のヴェールを脱がせたのだ。何といふことだらう。

私は何かしなくては氣が狂つてしまひさうな氣がしたので、髮をかきむしりながら長椅子から跳び上つた。 それに女王が甲蟲形寶石について言つたことは一體何のことだらう? あれはレオのもので、二十一年前に、ヴィンシイが私の(へや)にのこしていつた箱にあつたのだ。 するとあの話は結局ほんたうなのだらうか?壺の破片に書いてあつた文字も贋物ではなかつたのだらうか? さうだとすると、あの女が待つてゐたのは、死んだ戀人の生れ代つて來るのを待つてゐたのは、 つまりレオのことだらうか?そんなことは有り得ない!そんな想像は正氣の沙汰ぢやない! 人間が生れ代るなんていふ話がどこにあるものか?

だが二千年も生きてゐる女があり得るとすれば、そのことだつて有り得るかも知れん。 さうなればどんなことだつて有り得るわけだ。現にこの私だつて、 誰かの生れ代りで自分の前身をも忘れてしまつてゐるのかも知れん。 私はこの馬鹿げた考へに思はず笑ひ出して、岩の壁に彫つてある、 氣みづかしい顏をした古代の戰士の彫刻に向つて大きな聲で呼びかけた。 「なあ、大將、ことによると君と僕とは同じ時代に住んでゐたのかも知れんぜ。 もしかすると、君が僕で、僕が君なのかも知れんぢやないか。」かう言ひながら私はまた笑つた。 すると私の笑ひ聲は陰氣な洞窟の中にまるで、その戰士の亡靈が答へたかのやうに反響した。

それから、私はレオの樣子を見にゆくのを忘れてゐたことに氣が附いて、私のそばにともしてあつたランプを一つとつて、 靴を脱いで彼の寢室にあてられた洞窟の方へそつと出て行つた。夜の風が、彼の(へや)のカーテンをしづかになぶつてゐるのが、 まるで眼に見えぬ靈のしわざであるかのやうに思はれた。私はこつそり、 (あなぐら)のやうな(へや)の中へしのびこんで四邊(あたり)を見廻した。 ランプの明りで見るとレオは長椅子の上に横はつて、熱のために、しきりに身悶えしてはゐたが、眠つてゐた。 彼のそばには、半身を床の上に投げ出し、半身を石の長椅子にもたせかけて、アステーンがゐた。 彼女は片手でレオの手を握つてゐたが、彼女の方も矢張りうと〜まどろんでゐた。 それままことに愛すべき、といふよりもむしろ哀切な一幅の画面であつた。かがいさうに、彼の頬は赤く燃え、 眼の下には黒い隈がつき、息をするのも大儀さうであつた。彼の病氣はひどく惡いのだ。 私は、またレオが死んで私一人此の世にのこされるんぢやなからうかといふ恐ろしい恐怖に打たれた。 しかも、生きてをれば彼はアッシャに對して私の戀仇になるらしい。 たとひあの女の待つてゐる戀人といふのがレオではないにしても、この醜い中年の男の私と、 若い美男子のレオとぢや、まるで私の方に勝ち味はない。だが、有り難いことには私の正義感はまだ死んでうぃまつてはゐなかつた。 女王はまだそれを殺してしまひはしなかつた。で私はその場に立つたまゝ、私の子供、否子供以上のものが、 たとへ女王の待つてゐる男であるとしても、生命に別條のないやうにと心から天に祈つた。

それから、私は行くときと同じやうにこつそりと引き返して來た。それでも私はまだ眠ることはできなかつた。 レオが重態でねてゐた姿を見たり、そのことを考へだしたりしたのは却つて、私の不安を益々募らせるばかりであつた。 身體はぐた〜に疲れ、頭は無暗(みやみ)に昂奮して、想像力ばかりが、不自然に逞ましくなつて來る。 いろ〜な考へ、いろ〜な幻影、いろ〜な靈感が、驚くほどはつきりと浮んで來る。大抵怪竒なものばかりで、 中には氣味の惡いものもあれば、中にはこゝ數年來、過去の生活の(かす)中に埋もれてゐた考へや感覺を喚び起すのもある。 だがそれ等凡ての背後に、上に、あの恐ろしい女の姿がつきまとひ、あの得も言はれぬ蠱惑的な美しさの思ひ出が、 それ等凡ての中から輝き出て來るのである。私は洞窟の中をあちこち歩き廻つた。

突然私は、それまで氣のつかなかつたものを見つけた。岩の壁に一つの狹い孔があるのだ。 私は燭臺をとり上げて、それをしらべて見た。穴の先は通路になつてゐた。かうした場合に、自分の寢てゐる(へや)に、 何處へ通ずるとも知れぬ通路が開いてゐるのを見出すのは、誰だつてあまり氣持ちのよいものではない。 通路があるとすれば人が通ることが出來る。眠つてゐる間に通ることも出來るわけだ。 私はその通路が何處へ通じてゐるのか知りたいのが半分と、 何かしなければぢつとしてゐられない不安が半分とでこの通路へはひつて行つた。 通路の先には階段があつて、その階段を降りて行くとまた通路になつてゐた。 通路といふよりもトンネルと言つた方がよきかも知れぬ。何でも私の判斷では、このトンネルは、 私たちの(へや)へはひる廊下の眞下を通つて、中央の大岩窟を横斷してゐるらしい。 私はずん〜歩いて行つた。あたりは墓場のやうにしんとしてゐたが、 私は何とも名状しがたい感じといはうか誘惑といはうか、兎に角何物かにひきずられて、進んで行つた。 靴下だけ穿いた私の足は、滑かの岩の床の上へ音もなく降りて行つた。五十(ヤード)も歩いたと思ふ頃、 もとの道と直角に交つてゐる第三の通路へ出た。そこで大變なことが起つてしまつた。強い風がさつと吹いて來て、 私のもつてゐた手燭の燈を消してしまつたのだ。 私はこの不思議な眞つ暮な[原文のまま]岩の(はらわた)の中に一人でのこされてしまつたのである。 私は直覺になつた通路へ二歩ばかり踏みこんで立ちどまつた。若し途中で迷ひ兒になつたら愈々(いよ〜)大變だと思つたのである。 どうしたらよいであらう。私は燐寸(マツチ)をもつてゐない。眞暗な長い道をあとへ引き返すのは大變だし、 さうかといつて一晩その場に立ちつくしてゐるわけにもゆかぬ。それに一晩立ちつくしてゐたところで、恐らく何にもならぬだらう。 岩窟の中のトンネルの中では眞晝だつて眞夜中だつて眞つ暗に相違ない。私はうしろを振り返つて見た。 何も見えなければ何の音もしない。前の闇をすかして見た。するとたしかに、ずつと向うの方に、 かすかな火の燃えてゐるやうな光が見えた。あそこまで行けば明りが手にはひるだらう。兎に角しらべて見なくてはならん。 私はゆつくりと、非常に骨を折つて、手を壁にあて、穴にでも落ちては大變だと思つて一歩ごとに足で地面をさぐつて歩いて行つた。 三十歩ばかり行くとカーテンの隙間から明滅してゐる明りが洩れて見えた。五十歩行くと、 もうすぐ明りのそばへ來た。六十歩進んだ、やれ〜、私はほつとした。

すぐ鼻の先にカーテンがかゝつてゐるのだ。カーテンには隙間ができてゐたので、私は、 その向うにある小さな洞窟をはつきり見ることができた。それは墓場のやうで、中央(まんなか)に燃えてゐる焚火で照されてゐた。 焚火の焔の色は白つぽくて煙は上つてゐなかつた。左手には三吋かそこらの高さの小さい(へり)のついて石の棚があつて、 その上には屍體らしいものがのせて、何か白いものがかけてあつた。 右にも同じやうな棚があつて、その上には、刺繍をした被覆が散らばつてゐた。そして一人の女の姿が、 火の上へ身を屈めてちら〜する焔を見つめてゐた。女は私の方から見ると横向きになつて、屍體の方へ向いて跪づいた。 身には、黒い被布(ひふ)をまとひ、ちようど尼僧の外套のやうにすつぽりと全身をつゝんでゐた。 私がどうしようと思つてゐたときに、突然起ち上がつて黒い外套を脱ぎすてた。

それは實に女王であつたのだ!

女王は私の前でヴェールを脱いだときに同じやうに胸のところで低く切れた身體にぴつたり密着した白い肌衣(はだぎ)を着て、 腰には不氣味な兩頭の蛇をまきつけ、縮れた黒髮はゆつたりと殆んど足のところまで埀れてゐた。 (しか)し惡に魅られたやうに私の眼を捉へたのは彼女の顏であつた。だが今度はその美しさのためではなくて、 蠱惑的な恐怖の力のためであつた。美しいことも美しかつたが、その慄へる顏と、 上を向いた苦しさうな眼附きとに現はれた恐ろしい執念深さとは、何とも言ひ現はすことのできないものであつた。

しばらくの間私はぢつと立ちすくんでゐた。すると、彼女の兩手は高く頭の上に上がり、 白衣は金の帶のところまでする〜辷り落ちて、眼もくらむやうな美しい裸體が現はれた。 彼女が、指をにぎりしめてそこに立つてゐる間に、彼女の顏には恐ろしい惡の形相が益々加はり深まつて行つた。

突然、彼女が若し私を見つけたらどんなことが起るだらうと思ふと、ぞつとして氣が遠くなつた。 けれども、たとひ、そこにぐず〜してをれば殺されることがわかつてゐたとしても、 私はそこから立ち去ることができなかつたであらう。それ程にも私はすつかり魅惑されてしまつてゐたのだ。

彼女の握りしめた手が兩側へ下り、又頭の上へ上るにつれて、白い火焔(ほのほ)は殆んど天上にとゞく迄舞ひ上つて、 その氣味の惡い光は彼女の姿を照し、被覆に包まれた棚の上の白い姿を照し岩窟の隅々まで鮮やかに照した。

象牙のやうな腕は再び下へ下りた。ちようどその時に彼女はアラビア語で、疾風のやうな鋭い聲で語り出した。 その響きをきくと私の血は凝血してしまひ、忽ち心臟の働きはとまつてしまつた。

「呪はしき女、永久に呪はれてあれ。」

腕が下りると焔も下りる。腕が上ると大きな火の舌が燃え上る。そしてまた下りる。

「呪はしき女の記憶 -- 埃及(エジプト)女の記憶よ呪はれてあれ。」

焔は燃え上り、また下火になる。

「吾よりも美はしきニイルの娘、呪はれてあれ、

「吾が魔法を破りし女、呪はれてあれ、

「吾が戀人をはなさゞりし女、呪はれてあれ。」

焔はまた小さくなつた。

女王は眼の前へ手をやつて、今度は叱咤するやうな調子をやめて、高い聲で泣きだした。

「いくら呪つて見ても何にならう。あの女は妾の勝つたのだ、そして死んでしまつたのだもの。」

それからまた彼女は前よりも一層恐ろしい精力をふりしぼつてはじめた。

「呪はしき女、現在(いま)ゐる場所にて呪はれてあれ。吾が呪ひそこへ屆きて彼の女の休息を妨げよ。

「星の空をこえて女を呪へ。彼の女の影、呪はれてあれ。

「吾が力、そこまで屆きて彼女を見出せよ。

「彼女に吾が呪ひを聞かしめ、黒闇に身をかくさいめよ。

「彼女を絶望の穴に落ちしめよ、いつか吾彼女を見出すべければ。」

焔はまた下火になり、女王は兩手で雙の眼をおほうて泣いた。

「馬鹿なことを、誰が全能の翼の下に眠つてゐるもののところまで行けよう? 妾にだつて行けはしない。」

またもや女王の呪詛がはじまつた。

「彼女は生れ代れる時彼女を呪へ、呪はれて生れしめよ。

「生れ落ちたるその日より、眠りにつくその日まで彼女は呪はれてあれ。

「さなり、呪はれてあれ。かくてこそ吾が復讐成りて、彼女を打ち破るべければ。」

かうして火焔は燃え上つたり下火になつたりして、それがアッシャの苦しみ悶える眼に反焔(はんえn)した。 呪ひの聲は洞窟の中に物凄く響き渡り、火焔は明るく暗く明滅した。

しかし、たうとう彼女は疲れたと見えてやめてしまひ、岩の床の上にくづをれて、顏から胸へ美しい毛髮を打ち慄はしながら、 身も世もあらぬ思ひに苦しんでひどくむせび泣いた。

「二千年の間」と彼女は呻いた。「二千年の間妾はぢつと辛抱して待つてゐたのに、年はたてども、 世紀は變れども、あの苦しい思ひ出は少しも薄らがない。希望の光りは少しも明るくならない。 おゝ、二千年の間、情慾に心を蝕まれ、目のあたりに罪を見て生きてゐるなんて!

「戀しひ!戀しひ!私の戀人!今度來たあの他國の人はどうしてこんなにあなたのことを思ひ出させるのでせう? この五百年の間、妾はこんなに苦しひ思ひをしたことはない。妾はあなたに罪を犯したけれども、 その罪はもう拭ひ去つてしまつたではありませんか?何時(いつ)あなたは私のところへ歸つて來るのですか? 妾は凡ての物をもつてゐるが、あなたが缺けてゐては何にももたぬのと同じことです。 妾はどうしたらよいのでせう?どうしたら?もしかすると、 あの埃及(エジプト)の女はあなたのそばにゐて、妾のことを思ひ出して嘲つてゐることでせう。 どうしてあなたを殺した妾が死ぬことができなかつたのでせう? あゝ、妾は死ねないのがうらめしい!あゝ!」かう言ひながら地べたにたふれて、 心臟が裂けたのぢやないかと思ふまでよゝとむせび泣いた。

急に彼女は泣くのを止めて、起ち上り、着物をなほして、長い捲毛をいら〜しながらうしろへかきあげ、 棚の上に横はつてゐる屍體の方へ歩みよつた。

「おゝカリクラテス!」と彼女は叫んだ。私はこの名をきくとぞつと身慄ひがした。 「妾は苦しいけれど、もう一度あなたのお顏を見なければなりません。妾は、 妾のこの手で殺したあなたを見るのはこれで三十年振りです」 かう言ひながら彼女は、慄へる指さきで、屍體の上にかけてある敷布(シーツ)のやうな布の隅をつかんでちよつと手を止めた。 それから彼女はまるで自分の考へてゐることが自分ながら恐ろしいかのやうに、おごそかな囁聲で再び語り出した。

「あなた、起こしてあげませうか」と彼女はまるで屍體に話しかけるやうに言つた。 「さうすれば昔のやうに妾の前に立つてをれるでせう?妾、起してあげることならできてよ。」 かう言ひながら彼女は兩手を屍體の上へさし出した。彼女身體は見るも恐ろしい樣に硬ばり、 兩眼は光を失つてぢつとすわつて來た。私はカーテンのうしろで、それを見て、 恐ろしさに毛髮を逆立てて思はず身じろぎした。そして、氣のせいだつたのかそれとも事實だつたのか知らぬが、 被布(ひふ)の下がぶる〜慄ひ出し、 敷布(シーツ)がまるで眠つてゐる人の胸の上にでもかけてあるかのやうにもちあがつたやうな氣がした。 突然アッシャは手をひいた。すると屍體も動くのをやめたやうに思はれた。

「つまらない」と彼女は重々しく言つた。 「あなたの魂を喚び起すことができないのに假の生命(いのち)を喚び出して見たつて何にならう? あなたがたとひその場で起き上つたところで、あなたには妾はわからないのです。 たゞ妾の命令のとほりにするだけです。あなたの生命(いのち)は妾の生命(いのち)で、 あなたの生命(いのち)ぢやないのですもの!」

しばらく彼女はこんな風にして思ひにしづんでゐたが、やがて屍體のそばに跪いて、 脣を被布(ひふ)におしつけて泣きはじめた。この恐ろしい女が、胸の思ひを死人にうちあけてゐる光景は實に物凄いものであつた。 私は、もうそれを見てゐることができなくなつたので、(くびす)を返して、がた〜全身を慄はしながら、 眞つ暗なトンネルを、そろ〜匍ひ出した。そして慄へる胸の中で、地獄の精といふものを見たやうに感じた。

私は無我夢中でよろめきながら進んでいつた。途中で二度轉んだ。一度道を間違へたが、幸にもすぐに氣がついた。 二十分以上も匍つてゐるうちに、私は、來る時に降りて來た階段をとほつたやうに思つたが、 その時にはもうすつかり疲れきつてしまつてゐたのと、恐ろしさとで、床の上に轉んだまゝ正氣を失つてしまつた。

氣がついて見ると、うしろの方の通路へ光がさしこんでゐるのが見えたので、その方へ匍ひ寄つて見ると、 かすかな光が小さい階段の下へさしこんでゐるのであつた。私はそれを上つて、無事に私の(へや)へ辿りつき、 長椅子に身を横たへて、すぐにぐつすり眠つてしまつた。といふよりも寧ろ氣を失つてしまつたといふ方がよいかも知れぬ。


更新日: 2003/02/12

第十五章 アッシャの裁き


第十五章 アッシャの裁き

その次に私のおぼえてゐることは眼をあけてジョッブの姿を見たことであつた。 彼の熱病はもう殆んどなほつてゐた。彼は外の明りのさしこむところに立つて、私の服にブラシをかけたるかはりに、 それを振つて埃を落し、きちんと(たゝ)んで長椅子の下に置き、旅行鞄の中から着替へを出して、 その上にのせ、それがすむと、水のいつぱいはひつた壺を見てゐた。それが吾々の洗面噐であつたのだ。 彼はそれを見ながら獨り言を言ひはじめた。「こんなところには湯もありやしない。 奴等が湯を使ふのはお互ひを煮て食ふときだらうて。」

「どうしたんだ、ジョッブ?」と私は言つた。

「これはどうも、御免なすつて」と彼は頭を掻きながら言つた。 「旦那樣は眠つていらつしやると思つたもんですから、何だか(ねむり)が足りないやうですね。 旦那樣の眼を見ると昨夜はまるでお(やす)みにならなかつたやうに見えますよ。」

私は返事をするかはりに口の中で(うな)つス。成る程私は昨夜はまるで眠られなかつたにちがひないのだ。 しかもたゞ眠られなかつたのではなくて、一晩中此の上ない恐ろしい目にあつてゐたのだ。

「レオはどうしあたかね?」

「矢つ張り同じでございますよ。すぐになほりなさらないともう駄目ですよ。 尤もあのアステーンといふ野蠻人はまるで洗禮を受けた基督教徒(クリスチャヤン)みたいに、 一生懸命につくしてゐますがね。あの女はしよつちゆうレオ樣につききつて看護してゐますよ。 で私が差しでがましいことでもしようものなら大變です。髮を逆立てて、 何だかわけのわからぬ言葉で私を呪ふんです。あの顏附きでみるとたしかに呪つてゐるのだらうと私は思ふのです。」

「その時にお前はどうする?」

「私は丁寧にお叩頭(じぎ)をして、かう言ふのです。『娘さん、私には貴女の位置がまだよくわからんので、 まだレオ樣の奧さまと認めることはできんのです。私にとつてはレオ樣は大切な御主人ですから、 御主人が病氣で不自由をしてゐなさりや、看護する義務があるのです。それで私は私の足腰がたゝなくなるまでは、 私の義務をつくすつもりです』とね、それでもあの女はちつともきかないで、猶更ひどく私を呪つて追つ拂ふのです。 兎に角こんなところへやつてきたのがまちがつてたんですよ。私どもは裁きを受けたのです。 しかもその裁きの半分はまだ殘つてるんです。私どもは、この氣味の惡い洞窟の中に、 幽靈や死骸と一緒にいつまでもゐなきやならんのですからね。」

ジョッブの言葉は、昨夜のやうな恐ろしい一夜を過してきた私にとつては愉快な言葉ではなかつた。 しかも彼の言葉はほんたうなのことなのだ。たとひレオの病氣がなほつて、女王が吾々を放免してくれて -- これは實にあやしいことだが -- それから又女王がいつか怒りにかられて吾々をにらみ殺すやうなこともなく、 アマハッガー人に燒壺で殺されることも免かれたとしたところで、 何十哩も網の目のやうにつゞいてゐる沼地の中の道を逃げかへることなどは到底できはしないのだ。 たゞこの運命に耐へてゆくより外にしようがないのだ。それに私は、むしろそれを望んだ。 といふのはアッシャの美しさが忘れられないのだ。私はそのことを眞つ晝間に眞面目で言ふ。 昨夜見た恐ろしい光景も、私の頭からこの煩惱を追つ拂つてはくれないのだ。實を言へば、 これを書いてゐる今でもそれを忘れかねてゐるのだ。

私は起き上ると着物を來て食堂にあてられてゐれ例の塗油室へ行つて食事をした。 食事を私に運んでくれたのは、前に言つた唖の娘であつた。食事がすむと私は氣の毒なレオを見に行つた。 彼はもうすつかり正氣を失つてゐて、私の顏を見ても誰かわからない程の始末だつた。 私はアステーンにどうしたのだらうと訊ねて見たが、彼女は、たゞ頭を振るばかりで、しく〜泣き出した。 明かに彼女ももう殆んど希望を失つてゐるのだ。そこで私は、もし出來ることなら、女王に、 レオに會つてくれるやうに説きつけて見ようと決心した。若し女王に病氣を治す力があるなら、 きつと治してくれるに相違ない -- 少なくも彼女は自分では病氣を治すことができると言つた。 私が(へや)の中にゐる間に、ビラリがはひつて來た。そして彼もレオを見ると首を振つた。

「夕方には息をひきとるだらう」と彼は言つた。

「そんなことはないでせう、長老。」と私は答へて、重い心で出て行つた。

「全能の女王があんたをお召しですぞ、狒々(ひゝ)さん」と老人はカーテンをくゞるが早いか言つた。 「だがよく氣をつけなさるがいゝ。昨日あんたが女王樣の前へ出て這ひつくばらなんだので、 わしはもうあの場であんたが殺されることぢやらうと思つてゐたですぞ。女王さまはこれから、 あんたと獅子(ライオン)とを撃ち殺さうとした奴等をお裁きになるところですわい。 さあ、速くお出で。」

私は彼のあとからついて廊下を歩いて行つた。 吾々が中央の洞窟へ來ると澤山のアマハッガー人が急いでそこを通つてゐるのが見えた。 中には上衣(うはぎ)を着たものもあり、豹の皮だけしか身に着けてゐない者もあつた。 吾々は群衆の中に混じつて、この大きな殆んど果てしのない洞窟の中を歩いて行つた。 兩側の岩壁には非常に精巧な彫刻がしてあり二十歩ごとに大洞窟と直角に廊下があつた。 ビラリの言葉によると、それは皆墓所へ通ずるものであつた。 それは皆この土地に以前に住んでゐた住民が岩をくりぬいてこしらへたものである。 今では誰もこの墓所へ行つて見るものはないとのことであつた。 私は、いつか機會があつたら、そのなかへはひつて考古學的研究をして見たいと内心考へて樂しんでゐた。

たうとう洞窟のつきあたりへ來た。そこには、吾々が猛烈な襲撃を受けたところにあつたのと殆んど寸分もちがはぬ岩の臺があつた。 それによつて考へて見ると、この臺はきつと宗教上の儀式をするために、 特に死人の埋葬に關する儀式をするための祭壇らしい。ビラリの話ではこの臺の兩側には廊下があつて、 そのつきあたりの洞窟には死骸が一ぱいあるといふことであつた。「實際に」と老人は附け足して言つた。 「此の山ぢゆうが死人だらけですわい。しかもその死骸が大抵、原形(もと)のまゝにのこつとりますよ。」

この臺の前には澤山の男女が立つて、彼等に特有の陰氣な樣子をしてじろ〜あたりを見まはしてゐた。 これを見たら、どんな陽氣な人間だつて五分間とたゝぬうちにすつかり氣が滅入つて來るに相違ない。 臺の上には、象牙を嵌め込んだ黒い木製の粗末な椅子があり、椅子には、草の纖維で編んだ座席がこしらへてあり、 木の板でこしらへた足置き臺が、椅子の骨につけてあつた。

急に「女王だ、女王だ!」といふ叫聲が起つた。すると見物の群衆は一齊に地べたに平伏した。 彼等は一人々々、そして全體に即死したやうにぢつと身を伏せた。そして、 私一人が殺戮のあとにたつた一人生き殘つたやうに立つたまゝでゐた。 それと同時に、護衞兵の一隊が左側の廊下から列をつくつて出て來て、臺の兩側に整列した。 それから二十人ばかりの唖の男と同數の唖の女とが燈火(ともしび)をもつてあらはれ、 最後に、頭から足まで白衣をまとうた(せい)の高い姿があらはれた。それが女王であることは私には一目でわかつた。 女王は臺の上に上つて椅子に腰を下し、私に向つて希臘(ギリシヤ)語で話しかけた。 それはその場の者共に話の内容を知らせたくないからであらうと私は思つた。

「こちらへおいでなさい、ホリイ」と彼女は言つた。「そして妾の足下(あしもと)に坐つて、 妾があなたを殺さうととした者どもを裁くのを見てゐなさい。 妾の希臘(ギリシヤ)語が跛者のやうにとんちんかんになつても勘辨して下さいね。 あまり長い間聞いたことがないので舌が(こは)ばつて、うまく言葉が出ないのです。

私は敬禮して、臺の上に登り、彼女の足許に坐つた。

昨夜(ゆうべ)は良く眠れましたか、ホリイ?」と彼女は訊ねた。

「よく眠れませんでした!」と私はすつかりほんたうのことを言つた。そして内心、 私が昨夜の夜中に何をしてゐたかを彼女は知つてゐるのぢやないかと心配した。

「さうですか」と彼女は少し笑ひながら言つた。「妾もよく眠れなかつたのよ。昨夜は、 妾はいろんな夢を見ました。それはあなたのせゐですよ、ホリイ。」

「どんな夢を御覽になつたのです、アッシャ?」と私は何げなく訊いた。

「妾はね」と彼女は急いで答へた。「憎い人と戀しい人との夢を見たの」 それから彼女は話題をかへようとするかのやうに、護衞兵の隊長に向つてアラビア語で言つた。

「みんなの者を妾の前へつれておいで。」

隊長は最敬禮をして、部下のものをつれて右手の廊下へ出て行つた。 護衞兵だけは、腹這ひにならずに立つてゐたのである。

それからしばらく沈默がつゞいた。女王はヴェールに覆はれた顏を兩手の上にのせて考へにしづんでゐるらしかつた。 群衆は相變らず腹這ひになつてはゐたが、少しばかり身體をねぢつて、片眼で吾々を見てゐた。 女王が公衆の前に姿を現はすことは滅多にないと見えて、彼等はこんな窮屈な姿勢をしのび、危險を忍んでまでも、 彼女を見たがつてゐたのである。いや彼女といふよりも彼女の(まと)ひ物といつた方がよいかも知れぬ。 といふのは、私以外には彼女の顏を見た者は、その場には一人もゐなかつたのだから。 そのうちにたうとう、ちら〜する光が見え、廊下を歩いて來る跫音(あしおと)がきこえた。 やがて護衞兵の一隊が列をつくつてはひつて來た。そのあとからは、 吾々を殺さうとした連中の中の生存者が二十人あまりはひつて來た。 彼等の顏にはその野蠻な心の中に一ぱいになつてゐる恐怖が性來のふくれつ面の中にもありありと見えた。 彼等は臺の前に竝んで、見物人と同じやうに、洞窟の上に腹這ひにならうとした。だが女王はそれをとめた。

「それには及ばん」と女王は此の上なくやさしい聲で言つた。「いゝから立つてゐなさい。そのうちに、 手足を伸してゐるのに飽きてくるだらうから」かう言ひながら彼女は(ほが)らかに笑つた。

私は運命の宣告を受けた一同の者どもが恐怖のためにちゞみ上つたのを見た。 彼等は兇惡な惡人ではあるが、それでも私は氣の毒に思つた。數分間、恐らく二三分間は何事も起らずにすぎた。 その間、女王の頭の動き工合から推して考へると -- 勿論彼女の眼は見えなかつたので -- 彼女は罪人等を一々、ゆつくりと、注意ぶかくしらべて見てゐるやうであつた。遂に彼女は、私に向つて、 靜かな、落ちついた口調で話しかけた。

「あなたはこの連中をみんな記憶(おぼ)えでおいでですか?」

「えゝ、大抵はおぼえてをります」と私は言つた。私がさう言ふと、彼等は私の方をきつと睨んだ。

「では妾と、こゝにゐる皆の者に、前に妾がきいた話をしてきかせて下さい」

さう頼まれたので、私はできるだけ簡單に食人の酒宴のことや、 吾々の氣の毒な召使のマホメッドが苦しめられたことを話した。 被告も聽衆も、女王も皆、だまつて私の話をきいてゐた。私の話がすむと女王はビラリの名を呼んだ。 ビラリは、起ち上りはしないで、たゞ地べたにつけてゐた頭だけを上げて、 私の話は事實に相違ないことを證言した。それ以上の證據しらべはなかつた。

「みんな、聞いたであらう」と、たうとう女王は、いつもの調子とはまるで(ちが)つた、冷たい、 はつきりした聲で言つた。一體、 その時々の氣分によつて聲の調子ががらりとかはつて來るのはこの不思議な女の最も著しい特徴の一つだつたのである。 「何か言ふことがあるか、これから處刑をするのに不服があるか?」

しばらくの間は答へる者はなかつた。けれども、たうとう一人の立派な、胸の廣い、鷹のやうな眼をした中年の男が口を切つた。 彼は彼等が受けた命令は白人に危害を加へてはならぬといふ命令だけで、 黒人の下男のことについては何ともお沙汰がなかつたから、あの死んだ女にそゝのかされて、 あの黒人をこの國の古式によつて燒壺で殺して食はうとしたのであること、 又彼等が吾々を襲撃したのは一時の怒りの發作だつたので、今では皆ひどく後悔してゐることなどを申し立て、 最後に彼等に慈悲を埀れたまはんことを女王に歎願し、 せめて沼の中へ投げこんで死ぬも生きるも運にかませるやうなお取り計らひが願ひたいと懇願した。 (しか)し彼の顏色から察すると、所詮(どのみち)女王の慈悲を殆んど期待してはをらぬやうであつた。

やゝあつて、女王ははじめは低い聲で言つた。その聲はだん〜強くなつて、遂には洞窟の中に鳴り響くやうになつた。 「畜生ども、人の肉を食ふ畜生ども、お前たちは、二つの罪を犯したのぢや。 第一に、他國の人たちを、白人と知りつゝ、襲撃して、その下男を殺さうとした。 それだけでもお前たちは十分殺される資格はあるのぢや。しかしそれだけではない。お前たちは、 妾の命令にそむかうとしたのぢや。妾は、お前たちの父であり、 妾の下僕(しもべ)であるビラリをとほして妾の命令を傳へたではないか。 客人たちを手あつくもてなすやうに命じたではないか。それだのにお前たちは、 その客人たちを殺さうとしたのぢや。もしあの人たちが人間竝以上の勇氣と力とをもつてゐなかつたら、 お前たちのために(むご)たらしく殺されてゐたのぢや。お前たちは子供の時分から、 女王の法律は永久不變の法律であつてすこしでもそれを破る者は死罪になることを教へられてゐなかつたのか? 妾の口から出る片言隻句は皆法律ぢや。このことは、お前たちがまだ子供の時分に父から聞いたぢやらう? この洞窟がくづれ落ちやうとも、太陽がその歩みをやめようとも、妾の意志をとめることはできないのぢや。 お前たちは皆惡い奴ぢや。骨の髓までの惡人ぢや。お前たちの心の中には春の泉のやうに惡の泉が湧きかへつてゐる。 妾がゐなかつたら、お前たちは、とほの昔に、仲間同志で殺しあつて、もう此の世にお前たちの種は殘つてゐない筈ぢや。 ところで、お前たちは、妾の客人を殺さうとし、あまつさへ妾の命令にそむかうとした。 その罪にむくいるために妾はお前たちを次のやうに處罰する。 これから拷問の岩窟につれてゆき、拷問者の手に引きわたし、明日の日沒になつてもまだ生きてゐる奴は、 お前たちが妾の客人の下男を殺さうとしたのと同じ方法で殺してしまふ。」

女王の言葉が終ると、かすかな恐怖の囁きが洞窟の中に起つた。被告等は、彼等の運命のおそろしさを知ると、 日頃の無感覺な態度をすてゝてしまつて、地べたにたふれて、見るもむごたらしい樣子でゆるしを乞ひながら泣いた。 私もアッシャに向つて彼等の助命をたのみ、 それができなければせめてもつと恐ろしくない殺しかたで處罰してくれるやうに願つた。 だが女王の決心は鐡石の如く動かなかつた。

「ホリイ」と彼女はまた希臘(ギリシヤ)語で言つた。實を言ふと彼女の希臘(ギリシヤ)語は、 大抵の人に劣らぬ程上手ではあつたが、アクセントが少し變つてゐるので私には聞きわけるのに骨が折れた。 「ホリイ、それはできません。もしこの狼どもに少しでも慈悲をかけやうものなら、 あなた方の生命は一日だつて安全ではないのです。あなたにはこの連中がどんな奴等かわからないのです。 奴等は血をなめる虎で、今でもあなた方の生命(いのち)に餓ゑてゐるのです。 あなたはどうして妾がこの連中を支配してゐると思ひなさるの? 妾には一聯隊の護衞兵しかないのですから武力で治めてゐるのぢやありません。 恐怖で治めてゐるのです。妾の帝國は想像の帝國です。大抵私は人の一生に一度づゝは、 今したやうにして、二十人の者を拷問にかけて殺します。妾が殘酷だとか、 あんな下等なものどもに復讐をするのだとか思つて下さると困りますわ。あんな奴等に復讐をして何になります? 妾が怒りにかられて殺すやうにも見えませうし、妾が意地惡のために殺すやうにも見えませうが、 決してさうではないのです。空の小さい雲はわけもなくあちこちに飛んでゐるやうに見えますが、 その雲はひどい暴風に押されて動いてゐるのです。妾の場合もやはりさうなんです。 妾の氣分の變化は小さい雲のやうなもので、發作的に變つてゐるやうに見えるでせう。 けれども、その背後には、妾の目的の大きな風が常に吹きすさんでゐるのです。」 かう言つてから、彼女は急に護衞兵の隊長に向つて附け足した。

「妾の命令どほりにしなさい!」


更新日: 2003/02/12

第十六章 コオルの墓所


第十六章 コオルの墓所

囚人どもがつれ去られると、アッシャは手を振つた。すると見物人は後を向いて、 散り〜゛になつた羊のやうに這ひながらその場を去りはじめた。 しかし彼等は臺から大分離れたところまで行くと、起ち上つて歩いて行つた。あとには女王と私と唖者たちと、 僅かばかりの護衞兵とがのこつた。護衞兵の大部分は囚人どもと一緒に出て行つたのである。 これはよい機會だと思つて、私は、レオの病氣の重いことを話して、()に來て貰ふやうに頼んだ。 ところが、女王は、あの熱病にかゝつた者は、日沒か曉方(あけがた)でなければ死なないから、 夕方までに死ぬ氣遣ひはないと言つて、きいてくれなかつた。そしておまけに、 あの病氣は彼女が治すまでに出來るだけ進行させておくのがよいのだと言つた。 そこで私は起ち上つてその場を去らうとすると、女王は私を呼びとめて、 少し話したいことがあるし、洞窟の中の色々な不思議なものを案内したいから、あとからついて來るやうに私に言つた。

私はすつかり彼女に魅せられてしまつてゐたので、たとひ行きたくなかつたにしても、いやとは言へなかつた。 そこで私はお叩頭(じぎ)をして彼女の申出に同意した。すると彼女は椅子から立ち上つて、 唖たちに何か手眞似をして、臺から降りた。女王が臺を降りると四人の唖娘が手燭をもち、 二人は吾々の前に、二人は吾々のうしろに竝び、他のものは、護衞兵とゝもにその場を立ち去つた。

「さて。」と彼女は言つた。「こゝにある不思議な物を少しばかり御覽になりたいとは思ひませんか、ホリイ? このまあ大きな岩窟を御覽なさい。これまでに、こんな大きな洞窟を見たことがありまして? しかも、この洞窟は、他の澤山の洞窟とゝもに、この平原の都に昔住んでゐた民族がこしらへたものなのですよ。 このコオルの人民は、實に偉大な、不思議な人民だつたにちがひありません。しかし、彼等は埃及(エジプト)人と同じやうに、 生きてゐる者よりも死んだ者のことを多く考へたのです。 この洞窟とあの果しのない廊下とを掘るのにどれだけの人が何年位かゝつたとあなたは思ひます?」

「數萬人もかゝつたでせうね」と私は答へた。

「さうですよ、ホリイ。コオル人は埃及(エジプト)人よりも古い國民です。 妾は(キー)を見つけたので彼等の書いたものが少しは讀めますが、まあ御覽なさい。 これは彼等が最後にこしらへた洞窟の一つですよ」かう言ひながら彼女は、そばにある岩の方を向いて、 唖娘に、手燭をかゝげるやうに合圖した。臺の上には、象牙の杖を手にもつて椅子にかけてゐる老人の姿が彫つてあつた。 椅子の下には、私が前に言つたやうな妙な文字で、簡單な文句が記してあつた。アッシャは、ところ〜゛行き詰りながら、 聲を上げてそれを讀んで飜譯した。

「コオルの都の創設より四千二百五十九年に、此の洞窟(墓所)は後代の高貴なる市民の墓場とするために、 コオル王チスノが、コオルの人民と奴隸を使役し、三代の日子(につし)をかけて造營せるものなり。 天の上なる神の祝福よ、彼等の仕事の上にあれ、而してその上に肖像の刻まれたるチスノ大王の眠りを、 やがて眠りより覺むる日まで安らかならしめよ。又大王の從者、 竝びに今地下に眠れどもやがて起き上り來るべき大王の一族の眠りを安らかならしめよ。」

「わかつたでせう、ホリイ」と彼女は言つた。「この人々はこの洞窟ができてから四千年つも前にこゝに都をこしらへたのです。 その都の廢墟は今でもあの平原に殘つてゐますがね。しかも、妾が二千年前にこゝへ來たときにも、 こゝはちやうど今と同じだつたのですよ。それを考へてもこの都がどんなに古いものかわかるぢやありませんか。 だがまあ妾について來て御覽なさい。この大國民がどんな風にして滅亡したかを見せてあげます」 かう言ひながら彼女は洞窟の中央へ行つて、床にあいてゐる大きな穴へ丸い岩のはめこんであるところまで來てたち停つた。 「これは何だと思ひます?」と、彼女は言つた。「私にはわかりません」と答へると、彼女は洞窟の左側へ行つて、 入口の方を向きながら、唖娘に手燭をかゝげるやうに合圖した。そこの壁には赤い繪具で、 さつきのと同じやうな文字で何か書いてあつた。アッシャはこの長い文章を私に飜譯してきかせた。

「コオル大寺院の僧なる吾れ、ユニスは、コオルの創設より四千八百三年に、この燒場の岩に書き記す。 コオルは沒落せう!大廣間の祝宴も今はなく、コオルはもはや世界に霸を唱ふることもなく、 その海軍は世界に通商に出かくることもなくなりぬ。コオルは沒落せり。その雄大な事業も、コオルの全都市も、 港も、運河も、今は狼と梟と野鳥と、後に來れる蕃族との横行に委ぬるに至りぬ。 今を過ぐる二十五ヶ月前、一團の雲、コオルと、その數百の都市との上にかゝり、 その雲の中より疫病來りてコオルの民を老幼の(わか)ちなく殺してあまさず、彼等は老若、貧富、男女、貴賤の別なく、 皆黒くなりて死したり。疫病の猛威は日に夜をついで益々猖獗を極め、疫病より免がれたものは饑餓のために死にはてたり。 コオルの民の屍體は、あまりに數多くして、古式にのつとりて保存すること能はずなり、この洞窟の床の穴より、 下なる大坑(おほあな)に投げこまれたり。かくて遂に、 全世界の光なるこの大國民の生存者は海岸に赴きて船に乘り北の方に向けて出航せり。 いまこれを書き記す僧ユニスなる吾れはこの大都市の最後の生存者なり。 されば他の都市には未だ生存者ありやなきやは吾の知るとことに(あら)ず。 コオル帝國は今はなく、寺院の中には禮拜すべきものなく、凡ての宮殿は空しく、王侯も、隊長も、 商人も、美女も、今は永遠に地上より過ぎ行きたるをもつて、吾れはいま死するに臨み、 いたましき心もてこれを書き記すものなり。」

私は長大息した。この偉大な國民のたつた一人の生存者が、自らも(また)闇に落ちゆく前に、 その國民の運命をこゝに記してゐた姿は思つたゞけでもぞつとした。この老僧のその時の氣持はどんなであつたらう。 それは正に警世家の好箇の題材である。画家の題材である。否、考へることを知る凡ての人の題材であるではないか!

「ねえ、ホリイ」とアッシャは私の肩に手をのせて言つた。 「この北の方へ船出して行つた人たちが最後の埃及(エジプト)人の先祖だとは思ひませんか?」

「私にはわかりませんが」と私は答へた。「世界は隨分古いものゝやうですね。」

「古いつて?さうです、ほんたうに古いですよ。次から次へと藝術に秀でた富強な國民が起つては又過ぎ去つて行つて、 その記憶はもう殘つてゐないのです。このコオルの國民だつてその中の一つに過ぎないのです。 コオルの國民のやうに、洞窟でも掘つてのこしておかなければ、時が人間の事業を蝕んでゆきますし、 海にのまれることもあれば、地震で埋沒することもありますからね。地上に昔何があつたか、 またこれから先どうなるかを知つてゐる者はありません。ずつと昔ヘブライの賢者が言つたやうに日の下に新しき物なしですよ。 ですけれど妾の考へではコオルの人民は全部死にはてたのではないらしいですね。 他の都市には幾らか生き殘つたものがあつたやうに思はれます。そして、南の方から來た蕃族か、 それとも妾の先祖のアラビヤ人かがこの國へ押し寄せて來て、この國の女を妻としてできたのが、 現在のアマハッガー人ではないでせうか。だが、まあこちらへ來て御覽なさい。 これからあの記録に記してあつたこの洞窟の下にある大坑(おほあな)を御案内しませう。 こんなものはきつと二度と見られますまいから。」

そこで私は彼女のあとについて中央の洞窟から開いてゐる側道へはひり、澤山の階段を降りて、 洞窟の床から六十呎以上もあらうと思はれるところまで下つて行つた。道が行き詰りになつたところでアッシャは立ち停つて、 唖娘たちに手燭をかゝげるやうに告げた。なる程彼女が預言したとほりそれは二度と見られさうにもない光景であつた。 吾々の立つてゐたところは大きな(あな)の縁であつた。 その(あな)の大きさは私の考へでは倫敦(ロンドン)のセント・ポオル大寺院の敷地ほどもあつて、 その中には文字どほり、人間の骸骨が一ぱいに積み重ねられてゐた。あまりのことに私はあつと聲をあげた。 すると驚いたことには、その反響によつて、數千年來平衡を保つてゐた骸骨の塚が一角から崩れはじめ、 遂に(あな)の中全體が搖ぎ出して、まるで骸骨が吾々に挨拶をするために起ち上つたやうな光景を呈した。

「もうあちらへ行きませう」と私はその場から歩き出しながら言つた。「これが、疫病で死んだ人たちなんですね?」

「さうです。コオル人は埃及(エジプト)人と同じやうに死人に防腐劑を施したんです。 しかしその技術は埃及(エジプト)人よりも巧みで、埃及(エジプト)人は内藏や腦髓などを取り去つてしまつたのですが、 コオル人は血管の中へ防腐劑を注射したので全身がすつかり保存できたのです。だがまあ、 ちよつとこゝを御覽なさい。」かう言ひながら彼女は、小さい入口の前に立ちどまつて、唖娘に明りをかゝげさせた。 その室は吾々の寢室と同じやうな小さい室であつたが、石の寢臺が一つではなくて二つあつた。 寢臺の上には黄色い麻布で覆はれた人の姿が横はつてゐた。

「その布を脱がして御覽なさい、ホリイ」とアッシャは言つた。私はその言葉に從つて手を伸ばしたが、 すぐ又ひつこめた。何だか冐涜のやうな氣もしたし、それに實を言へば、 私はその場の嚴肅さに壓倒されてしまつたのだ。すると彼女が私の恐がるのを見て笑ひながら、自分で布をめくつた。 その下にはもう一枚薄紗がかぶせてあつた。それもめくると、三十五かそこらの、 たしかに美人だつたらしい白衣につゝまれた女の肉體があらはれた。 何千年とも知れぬ太古に死んだのであるにも拘らず、くつきりした顏だち、きやしやな肩、 長い睫毛は今でも仲々美しかつた。そして腕には一人のみどり兒が抱かれてゐた。 この哀切な場面に私は思はず涙のにじむのを禁ずることができなかつた。私は無量の感慨に打たれながら、 そつと被覆をもとのとほりにかぶせて、今度は反對の側にある屍體の方へ行き、前と同じやうに、被覆をとりのけた。 それは矢張り白衣をまとうた可成り老齡の男であつた。多分あの女の夫であつたのだらう。 そして妻の死後長く生きのこつてゐて、最後に妻のそばに横はつて永遠の眠りについたのであらう。

それから吾々はこゝを出て又別の墓所へいつた。しかし、次々に見た色々のことを書いてゐてはあまり長くなるからやめる。 たゞ、吾々が一番最後に訪れた墓所については一言しておかねばならぬ。それははじめに見たのよりももつと哀切なものであつた。 その墓所には二人の屍體しかなく、この二人は同じ一つの棚の上に一しよに横はつてゐた。 墓衣をとるのけて見ると二人の若い男女が胸と胸とを抱きあつて横はつてゐた。女は男の腕に顏ののせ、 男の脣は女の額にそいつけられてゐた。男の上衣(うはぎ)を脱がして見ると、 その心臟の上に刀傷(かたなきず)があり、女の美しい乳房の下にも同じやうな刀傷(かたなきず)のあとがあつた。 その傷が女の玉の緒を斷つたものらしい。その上の岩には、三つの言葉がほりつけてあつた。 アッシャはそれを飜譯してきかせた。それは死婚者といふ文字であつた。

この二人の男女の生前の身の上はどうであつたであらう。 死んでもなほはなれないこの二人の美しく若い男女の身の上を私は瞑目して空想した。 私は一時、殆んど時を超越してしまつた。私の洞察力は、過去の神祕に徹したやうに思つた。

しばらくするとアッシャは、死せる二人の戀人に墓衣をかけてやりながら、おごそかな、 鋭い聲で私に話しかけた。「これが人間の運命です。妾たちはみんな、しまひには、墓場へ、 そして墓場をつゝむ忘却へ行かねばならぬのですわ。こんな長生きをしてゐる妾だつて同じです。 その時になつたら、妾が自然から少しばかり智識をとつて、 ほんの僅かの間生命を伸してゐたことなどが何になりませう。 時の歴史に於て一萬年が何でせう?十萬年が何でせう?それは無にひとしいではありませんか? 冬の雪のやうにとけてしまふではありませんか?これが人間の運命です。 この運命はきつと妾たちをもとらへるのですわ。妾たちも眠るのです。 けれどもたしかに又眠りはさめます。そして覺めてはまた眠るのです。眠つては覺め、覺めては眠つてゐるうちに、 遂には世界が死滅してしまひます。妾たちの、それからこゝに眠つてゐる二人の最後のどんづまりは生でせうか、 それとも死でせうか?死は生の夜ですから、夜からはまた明日が生れ、明日からはまた明日の夜が生れます。 けれども日と夜も、生も死も、それがはじめに出てきたものゝ(ふところ)へ呑みつくされた時には、 吾々の運命は一體どうなるんでせう?ホリイさん、そんなに遠くまで見る事のできる人があるでせうか? 妾にはできませんわ!」

それから彼女は急に言葉の調子をかへて、附け足した。

「もうこれで澤山ですか?それとももつとこの墓所の不思議を色々御案内しませうか? コオルの國王チスノの眠つてゐるところへ御案内しませうか?」

「もう澤山です、女王」と私は答へた。「私はもう死の力に壓倒されてしまひました。 人間といふものは弱いもので、自分の最期を待つてゐるこの屍體の中にゐるとすぐ變な氣になつてしまひます。 どうぞ私をこゝからつれ出して下さい、アッシャ!」


更新日: 2003/02/12

第十七章 ほつと一息


第十七章 ほつと一息

唖娘のかゝげてゐる手燭の光は、ひとりでに闇の中を漂うて行くやうに進んでゆく。吾々はそのあとからついて行つた。 するとまもなく、前日ビラリが四つん這ひになつてはひつた女王の控への()へ通ずる階段についた。 私はこゝで女王に別れをつげようとしたが、女王はそれを()かなんだ。

「まあおはひりなさい、ホリイ」と彼女は言つた。「實を言ふと、妾はあなたの話をきくのが面白いのです。 まあ考へても見なさい。この二千年の間妾の話相手といつては奴隸か、 でなければ妾自身の魂だけだつたのです。でもそのために大分智慧を得るところはありましたが、 矢つ張りそれには飽きてきたのです。記憶が與へてくれる食物は苦いので、希望の齒でそれを噛まねばならんのです。 あなたの頭はまだ若い人に似つかはしく柔いけれど、物を考へる人の頭ですね。あなたを見ると、 妾は、妾が以前にアテンや、ベッカや、アラビアで議論をした老哲學者を思ひ出しますわ。 あなたの樣子にはまるで古い書類をひつくりかへして讀みにくい希臘(ギリシヤ)文字ばかり讀んで過して來た人のやうなところがありますからね。 ですからカーテンを開けて妾のそばにおかけなさいね。そして果物を食べたり、 面白い話をしたりしようぢやありませんか?妾はまたヴェールをとつて見せますわ。 あなたは私を見て美しいと言ひましたね。昔の哲學者もやつぱりさうでしたのよ。」

彼女は躊躇せずに、白いヴェールを脱ぎすてて立ち上つた。そして、皮を拔いだときのぎら〜した蛇のやうな、 眩しい、素晴らしい姿をあらはして、ぢつと私を見つめ、銀鈴のやうな聲でかるく笑つた。

彼女の氣分は一變してゐた。それは焔を燃して、死んだ戀仇を呪つてゐた時のやうに、 憎惡と苦悶に充ちた形相ではなかつた。罪人を裁いた時のやうに、氷のやうな物凄さももうなかつた。 それは勝ち誇つたヴィナスのやうであつた。輝かしい、生命が、彼女の身體から流れ出てゐるやうであつた。 彼女が房々した捲毛を振ると、四邊(あたり)に芳香がこぼれ(みなぎ)つた。彼女は、雪駄を穿いた小さな足で床をふみながら、 希臘(ギリシヤ)の婚歌の一くさりを口ずさんだ。彼女の樣子にはもう嚴めしいところなどは消えてなくなつてゐた。 物凄さも、冷やかさも、物識りらしい陰氣さもなくなつて、すつかり、蠱惑的な美女そのものであつた。

「ねえ、ホリイ、そこに、妾の見えるところにお坐りなさいね。そして、ほんたうのことを言ふと、 妾あなたにほめていたゞきたいのよ、妾は美しくつて?いゝえ、 そんなに急いで言つちやいけないわ。もつとよく見て頂戴、妾の姿から、妾の手足から、 髮から、皮膚の白さまで、みんなよくしらべて頂戴、そしてほんたうのところを言つて頂戴! どうです、ほんのちよつとしたところでも、たとへば睫毛の曲りかた一つだつて、この世の中に妾位美しい女が他にあつて? 妾の腰は少し大きすぎるとあなたは思ふでせう。だけどさうぢやないのよ。大き過ぎるのはこの金の蛇なのよ。 だからきちんとしまらないのよ。まあ手をかして御覽、そして兩手で妾の腰のまはりをはかつて御覽、 少し力を入れると兩手の指の端がとゞくでせう。ね、ホリイ!」

私はもう堪らなくなつてしまつた。私はたゞの男だのに、彼女は女以上のものであつた。 私はその場で彼女の前に跪いて、しどろもどろの言葉で、心の底から彼女を崇拜してゐるといふこと、 彼女と結婚するためなら死もいとはぬといふことを告げた。私でなくてどんな男だつて、 その時の彼女の姿を見て思ひを焦がさずにゐるわけには行かなかつたであらう。 しばらくの間彼女はちよつと驚いて妾[原文のまま]を見てゐたが、すぐに手を()つて陽氣に笑ひ出した。

「ずいぶん早いのね、ホリイ!」と彼女は言つた。 「あなたを妾の前に跪かせるのに何分かゝるかと妾は思つてゐたの。 ずゐ分長いこと妾は男が妾の前に跪づくのを見なかつたわ。 どんなに物を識つても、どんなに年を()つても、女は男に跪かれるのを見るのが樂しいものよ。 この樂しみが女のもつてゐるたゞ一つの權利ですからね。あなた、どうしようとするの? あなたは自分のしてゐることがわからないの?妾はあなたのものではないと言つたです。 妾の戀人は一人しかない。それはあなたぢやないのよ。ねえホリイ、あなたも賢い人だけれど、 矢つ張り、煩惱のとりこになるとたゞのお馬鹿さんね。あなた妾の眼が見たいの? 妾に接吻がしたいの?いゝわ、見たければ御覽なさい」かう言ひながら彼女は私の方へ身體をまげて、 黒い、沁み入るやうな眼でぢつと私の眼をみつめた。「それから、したければ接吻もしてもいゝわ、 有り難いことに接吻しても(あと)はのこりませんからね、心にだけは(あと)がのこるけれど。 だけどあなたがもし妾に接吻したら、あなたは妾が戀しくなつて、 そのあまり死んでしまふにきまつてゝよ。きつとさうですよ。」かう言ひながら彼女は、 更に私の方へ近く身體を屈げた。彼女の柔い毛髮は私の額に觸れ、彼女の芳ばしい呼吸(いき)は、 私の顏にふりかゝつたので、私は氣が遠くなつてしまつた。その時突然、私が、彼女を抱きしめようと思つて手を伸した瞬間に、 彼女は身體を眞直に伸した。彼女の樣子はまたがらりと一變した。彼女が手を伸してそれを私の頭の上に置くと、 彼女の指の先から何かしら冷たいものが流れ出したやうな氣がして、私は常識に立ち返つた。

「もうこんなみだらなお芝居はよしませう」と彼女は少し嚴肅な色を見せて言つた。 「よくおきゝなさい、ホリイ。あなたは善良な正直なかたですから、妾はあなたの身を滅ぼしたくないのです。 妾はあなたのものぢやないと言つたでせう。ですから、妾のことなどもう忘れておしまひなさい。 あなたには妾がまだよくわからんのです。今からほんの十時間前に、 妾が激情にかられてゐるときに、妾を御覽になつたら、あなたは、 きつと恐ろしさに慄へて妾のそばへもよりつけなかつたでせう。 妾の氣分は色々に變るのです。あの鉢の水のやうに妾の心は色々なものを反射(うつ)します。 けれどもそれはみんな過ぎ去つて忘られてしまふのです。けれども、妾がどんな風に見えても、 そんなことは深く氣にとめないで下さいね。あなたには妾がどんな人間であるかははわからないのですから。 今度妾にうるさくしなさると、妾はヴェールをきて顏をかくしてしまひますよ。」

私は起ち上つて、彼女のそばのクッションをしいた長椅子の上に身をしづめた。 風が吹き過ぎたあとでもまだ木の葉が慄へてゐるやうに、私の兇暴な情慾は一時過ぎ去つたけれども、なほ私は慄へてゐた。

「それで」と彼女は言葉を續けた。「この果物をお食べなさいな。人間のほんたうの食物はこれだけですわ。 そして妾よりも後に生れて、今日希臘(ギリシヤ)羅馬(ローマ)埃及(エジプト)や、 それよりむかうにゐる蠻人たちを支配してゐるといふヘブライの救世主の哲學を妾に話して聞かして下さいな。 それはよつぽど變つた哲學だつたのでせう?」

私はその時までに少し氣をとりなほして、私の弱さを見せたことをひどく恥ぢながら、 できるだけ丁寧に基督教の教義を彼女に話して聞かせた。だが彼女は天國と地獄の教理の外には大して注意を拂はないで、 (もつぱ)らその教義を説いた人にだけ興味を惹かれてゐた。 私は彼女の生國であるアラビアにもマホメッドといふ別の預言者が現はれて、 多くの信者をもつてゐることを話してきかせた。

「あゝわかりました」と彼女は言つた。「つまり新しい宗教が二つあるわけですね。一體人間に宗教心を起させるものは恐怖ですね。 修飾された利己心ですよ。それは隨分多くの宗教が起つては滅びてゆきましたわね。 多くの人間が生れては過ぎ去つてゆきますたわね。そしてあとには何も殘つてゐないのです。 殘つてゐるのは世界と人間の本性とです。ほんたうに、人間といふものが、希望は自己の内心にあるもので、 決して外から來るものではないつていふことを、 人間は自分で自分を救濟しなきやならんといふことを知つてゐるといゝのですがねえ。」

私は彼女の説は、つい近頃、コオルでなくて他の場所で聞いた説のやうに思つた。(つい)でに言つておくが、 私はこの説には少しも同意しなかつたが、こんな問題で彼女と議論しようとは思はなかつた。 それに議論をすればきつと私の方がまけて、私が宗旨變へをしなければならぬやううになるにきまつてゐると思つたのだ。 それで私はだまつてゐた。だが、後になつて、私はこの時だまつてゐた事をひどく後悔した。 といふのは、そのお蔭で、私はアッシャが(どん)な信仰をもつてゐるか、 彼女の「哲學」がどんなものであるかをたしかめるたつた一度の機會を失つてしまつたからである。

「さうですか、ホリイ」と彼女は言葉をつゞけた。「では妾の生國にも預言者が出たのですね。 そしてそれはの[原文のまま]僞預言者だと仰言(おつしや)るんですね。あなた方の預言者とちがふものだから。 だが妾のゐた時分には、アラビヤにはずいぶん澤山の神がをりましたよ。 馬鹿げてゐるぢやありませんか。どころで、ホリイ、あなたは妾の話にもう飽きたのですか、 すつかりおだまりになつたぢやありませんか。 それとも妾があなたに妾の哲學を教へやしないかと心配してゐるのですか。 さうすればあなたはすつかり妾の弟子になつてしまひますからね。でもあなたはずゐ分氣の變りやすい人ですね。 たつた半時間前に妾の前に跪いて妾を愛するなんて誓つたくせに。 あの時の恰好つたらなかつたわよ。では、これからどうしませうね?さうさう、 あのビラリが獅子(ライオン)と言つた人のところへ行つて見ませう。大變病氣がわるいんださうですね。 もうきつと熱がたかまつて病氣が餘程昂進してゐるでせう。でも今にも死ぬといふ時になつたら妾がなほしてあげますわ。 心配しなくつてもいゝことよ。妾が魔法なんかつかやしませんから。魔法なんてものはないつて言つたことがあるでせう。 自然の力に通じてそれを支配するだけなのですよ。でわもう行きなさい。妾も藥の用意ができたらすぐに行きますわ。」

行つて見ると、ジョッブとアステーンとはレオが死にかゝつてゐるといふので酷く悲しんでゐた。 そしてそこらぢゆうへ行つて私をさがしまはつてゐたのだと言つた。私は急いで長椅子のそばへ行つてレオを見た。 正に彼は死にかゝつてゐた。すつかり正氣を失ひ、重い息をつきながら、脣をふるはしてゐた。 そして時々、ぶる〜と全身が痙攣的にふるへてゐた。妾は[原文のまま]多少醫療の心得があるので彼の容態は、 もう一時間もたてば、いやもう五分もたてば、何とも手のつくしやうがなくなることがすぐにわかつた。 そして、自分の可愛い子供が死にかゝつて寢てゐるのに、アッシャのそばにつきまとうて、 みだらな思ひにふけつてゐた自分の我儘が呪はしくなつた。どんな良い男でも、 女の眼にかかつちや一たまりもなく墮落してしまふものだ。私は何といふろくでなしであつただらう! 現に、この三十分の間、私はレオのことなどおくびにも思ひ出さなかつたのだ。しかもそのレオたるや二十年の間、 私の最も親しいつれであつて、私がかうして生きてゐるのも主として彼のためであるのだ。 そしてそのレオは、今になつて、ことによるともう手おくれになつたかも知れないのだ!

私の兩手を()げながら、あたりを見まはした。長椅子のそばに坐つてゐたアステーンの雙つの眼には鈍い絶望の光が燃えてゐた。 ジョッブは、隅つこの方で、何かぶつぶつ言つてゐたが、私がぢつと彼をみつめてゐるのを見て、悲しみがこみあげて來たと見えて、 廊下へ出てしまつた。たゞもうたのみとするはアッシャだけである。彼女は、山師でない限り、 レオの病氣をなほすことのできるたつた一人の人だ。そして私は彼女を山師だなどとは信じなかつた。 私は彼女のところへ行つて頼んで來ようと思つた。ちやうど私が起ち上つたときに、 ジョッブが恐怖のために髮を逆立てて(へや)の中へはひつて來た。

「た、大變です!」と彼は息を切らしながら叫んだ。「いま屍體が廊下を辷つてやつて來ます。」

私は、しばらく何事かと思つたが、勿論、すぐに、これは、 きつとアッシャが白い被布(ヴエール)をかぶつて來たのを彼が見たのに相違ない、 そして彼女の歩きかたがあまりにしなやかで、しづかなので、 てつきり白い幽靈がそつとしのび寄つて來たのだと勘ちがひしたに相違ないと思つた。 實際疑ひはすぐに解けた。といふのは當のアッシャが、(へや)の中へ、 といふよりも洞窟の中へ姿を現したからである。ジョッブは後をふり向いて、白衣に包まれた彼女を見て「そら來た!」 と痙攣的に叫びながら、隅つこへ飛び退いて、壁に顏をかくした。アステーンは、地べたに平伏した。

「いゝ時に來て下さいました、アッシャ」と私は言つた。「私の子供は今死ぬとこだつたのです。」

「さうですか」と彼女は柔かに言つた。「まだ死んでさへゐなければ、すぐ治してあげます。 あの人はあなたの從者ですか?あなたの國では從者は客にあんな風にして挨拶するのですか?」

「あいつはあなたの服裝(みなり)を怖がつてゐるのですよ。まるで死人のやうに見えるものですから」と私は答へた。

彼女は笑つた。

「それからこの娘は、あゝわかりました。あなたが言つた娘ですね。 で、この人たちに二人ともこの場から出て行くやうに言つて下さい。 それから妾たちは病人を診察しませう。妾は目下の者に妾の智慧を見せたくないのです。」

そこで、私はアステーンにはアラビヤ語で、ジョッブには英語で、室を出てゆくやうに命じた。 ジョッブの方は二つ返事で出て行つたが、アステーンの方はさうではなかつた。

「女王樣はどのやうな御用があるのでせう?」と彼女は低い聲で囁いた。彼女は女王の恐ろしさと、 レオのそばにのこつてゐたいのとで迷つてゐたのである。「夫の臨終のそばについてゐるのは妻の權利ですわ。 妾は出てゆかなくつてよ、狒々(ひゝ)さん。」

「あの女はどうして行かないのです、ホリイさん?」と、洞窟の他の端で、彫刻を見てゐたアッシャはたづねた。

「この女はレオのそばから離れたがらないのです」と私はどう言つていゝかわからないので答へた。 アッシャはくるりと向き直つて、娘のアステーンを指だしながら、一語(ひとこと)、たつた一語(ひとこと)言つた。 (しか)しその一言には何とも言へぬ冐しがたい凛とした響きがあつた。

「行け!」

するとアステーンは四つん這ひになつて出て行つた。

「わかつたでせう、ホリイ」とアッシャは少し笑ひながら言つた。 「妾がこの國の人民に服從の教訓を與へておく必要があることが。 この娘はもう少しで妾の命令にそむくとこrでした。 今日の晝間妾が妾の命令にそむいたものをどんな風に處分するかあの娘は見なかつたのです。 さあ、あの娘も行つてしまつたから病人を見ませう。」かう言ひながら彼女はレオの寢てゐる長椅子の方へ辷り寄つた。 レオは壁の方へ頭を向けて寢てゐた。

「この人は仲々品のある方ですね」と彼女はレオの頭をのぞきこみながら言つた。

次の瞬間、彼女の(せい)の高い柳のやうな姿はまるで鐵砲で射たれたか、刀で刺されでもしたやうに、 よろ〜とよろめいて、後ずさりして(へや)を横ぎりて、後の岩壁につきあたつた。 そして彼女の脣の間から、私がまだこれまでに聞いたことのないやうな、恐ろしい、この世のものとも思はれぬ叫びが洩れた。

「どうしたのですか、アッシャ?」と私は叫んだ。「レオはもう死んだのですか?」

彼女は私の方へ向き直つて牝虎のやうに私に跳びかゝつて來た。

「この犬めが!」と彼女は、蛇の走る時のやうな物凄い囁聲で言つた。 「何故妾にこのことをかくしてゐたのです?」かう言つて彼女が腕を伸した時、 私は彼女が私を殺さうとしてゐるのだと思つた。

「何です?」と私はひどい恐怖に(とら)はれて叫んだ。「何をです?」

「あゝ」と彼女は言つた。「多分あなたは知らなかつたのですわ。たうとう妾の處へ歸つて來たのですよ。 妾は屹度(きつと)歸つて來ることを知つてゐたのです。知つてゐたのです。」 かう言つてから彼女は泣いたり笑つたりし始めた。そして氣を取亂した世の常の女と同じやうに 「カリクラテス、カリクラテス!」と口走つた。

「馬鹿な!」と私は心の中で思つたが、それを口に出しては言はなかつた。それにその時は、 私はレオの生死のことばかりで胸が一ぱいで、他のことは何もかも忘れてしまつてゐたのだ。 私が心配したのはアッシャのヒステリイがしづまらぬうちに、レオが死んでしまやしないかといふことだけだつた。 「あなたが助けて下さることができなければ」と私は言つた。「あなたのカリクラテスは、今に、 こときれてしまひますよ。いまにも死にますよ。」

「まつたくです」と彼女は、ぎよつとして言つた。「まあ、どうして妾はもつとはやく來なかつたのでせう? 妾の手ですら慄へてゐます。だけど心配はありませんわ。さあ、ホリイ、この藥瓶をとりなさい」 かう言つて彼女は上衣(うはぎ)のかくしから小さい壺をとり出した。「そしてその中にある液を、 この人の咽喉へたらして下さい。まだ死んでさへゐなければ直に治ります。速く、速く! でないとこの人は死んでしまひます!」

私は彼の方をちらりと見た。實際その通りであつた。レオは斷末魔の苦しみをしてゐた。 彼のやつれた顏は灰色にかはり、呼吸(いき)が咽喉にひつかゝつてごろ〜いつてゐた。 藥瓶は小さい木片(きぎれ)で栓がしてあつたので、私はそれを齒で拔いた。その時中の藥液が一滴私の舌へ飛んだ。 それは實によい味であつた。そしてしばらくの間私の頭はぼうとして眼の前に霧がかゝつたが、幸ひにも、 その效果は、それが現はれたのと同じ位の速さで消え去つた。

私がレオのそばまで行つた時は、レオは今にも呼吸(いき)をひきとらうとしてゐた。 彼は金色(こんじき)の頭を、ゆつくりと代る〜゛左右に向け、口を少しばかり開いてゐた。 私がアッシャに彼の頭をおさへてゐてくれるように頼むと、彼女は白楊(はくよう)の葉か、驚いた馬のやうに、 頭から足の爪先までぶる〜慄へてゐたが、どうかかうか私の言ふとおりにすることができた。 それから、私は彼の顎を無理に開けて、藥瓶の中味を彼の口の中へ注ぎこんだ。 すると忽ち、硝酸をかきまはしたときのやうに、水蒸氣が立ちのぼつた。 しかし、それを見ても、もう既に消えかゝつてゐた私の希望は増しはしなかつた。

だが、斷末魔の苦しみがやんだといふ一つの事だけはたしかだつた。はじめには私は、 もうその苦しみも通り越して、彼は三途の川を渡つてしまつたのではないかと思つた。 彼の顏は鉛のやうに青白くなり、胸の鼓動は既に前からかすかであつたのが、今ではすつかりとまつたやうに思はれた。 たゞ(まぶた)だけが時々ぴく〜動いてゐた。私は疑はしい眼つきでアッシャを見上げた。 彼女のヴェールは彼女が昂奮のあまり(へや)の中をよろけたときにうしろへ辷り落ちてしまつてゐた。 彼女はまだレオの頭をおさへてゐた。そして、レオの顏と同じやうに眞蒼(まつさを)な顏で彼の顏を見まもつてえゐた。 彼女のその時の苦悶と不安との表情は、私がこれまでに見たことがない程ひどいものであつた。 レオの命が助かるか助からないかは明かに彼女にもわからないのだ。五分間がのろ〜と過ぎた。 彼女の顏からはもうすつかり希望が消えてしまつた。心の苦悶のために彼女の卵形の顏は見る〜(やつ)れ、 痩せてゆくのが眼にも見える位だつた。眼のまはりは凹んで黒い隈がついてゐた。 脣にさへも血のけがなくなつて、レオの顏のやうに蒼くなり、見るもいたましい程慄へてゐた。 實際彼女の樣子はいた〜しくて見て居られなかつた。自分の悲しみも忘れて、私は彼女の心のつらさを思ひやつたのである。

「もう遲すぎたのでせうか?」と私は溜息をつきながら言つた。

彼女は兩手で顏をかくして答へなかつたので、私も思はずそつぽを向いた。だがその拍子に、 私は深い呼吸(いき)の音をきいた。下を見るとレオの顏に一綫の血のけが現はれ、 つゞゐて一綫又一綫血色が加はつて來た。そして、實に不思議といはうか、何と言はうか、 今まで死んだとばかり思つてゐた男がごろりと寢返りをうつたのである。

「見たでせう」と私は低聲(こゞゑ)で言つた。

「えゝ」と彼女は(しはが)れ聲で答へた。「あの人は助かりました!。ほんたうにもう遲すぎて間にあはんかと思ひましたわ。 もう少し、ほんの少し手遲れになつたら、あの人は助からなかつたところです!」 かういひながら、彼女は瀧のやうに涙を流して、胸も裂けるかと思はれる程、嬉し泣きに泣きくづれた。 しかもその泣き顏はこの上なく美しかつた。やがて彼女は泣くのをやめた。

「許して下さい、ホリイ。妾の意氣地のないのを許して下さい。」と彼女は言つた。 「妾も矢張り女ですわね。まつたくです!今朝あなたは、 あなたがたの宗教で言ふ苦しみの場所のことを妾に話して下さいましたね。 地獄とか何とか言つたでせう。そこへ行つた人は、みんな此の世で生きてゐたときの記憶をもつてゐて、 自分で犯した罪の責苦をいつまでも、いつまでも受けるのですつてね。妾はこの二千年の間、 丁度その地獄の苦しみの中で生きて來たのです。二千年と言へばあなたがたの(かぞ)へかたによると、 かれこれ六十六代です。その間、妾は、この地獄の中で、罪の記憶に責めさいなまれ、日となく夜となく、 滿されない慾望に苦められて、友もなく、樂しみもなく、死ぬこともなく、だゞ、 いつか妾を救つてくれる人が來るかも知れんといふ頼み少ない希望をつないで生きて來たのです。」

「それから、もつとお聞きなさいね、こんな話はもう二度と聞かれはしませんわ。 こんな場面はもう二度と見られはしませんわ。たとひ妾があなたに一萬年の生命を授けてあげてもよ。 若しお望みなら、お禮に、妾はあなたにそれだけの生命(いのち)をあげてもよいのですけれどね。 たうとう私の救ひ主が來たのですよ。妾が何十代も待つてゐたその人がたうとう來たのです。 いつか定められた日にその人が妾をたづねて來ることは妾にはわかつてゐました。 私の智慧には誤りはありませんからね。だけど、何時(いつ)來るか、 どんな風にして來るかは妾にもわからなかつたのです。それにしても、妾は何といふ無智だつたのでせう! あの人は長いことこゝに寢てゐて、病氣のために今にも死にかゝつてゐるのに、 妾はそれに氣が附かなかつたのです。二千年もその人を待つてゐた妾が、それを知らなかつたのです! そして、やつと、その人に會つたと思ふと、どうでせう!もう間一髮のところで手遲れにならうとしてゐたのです。 あの人は死の(あぎと)の中へ今にも呑みつくされようとしてゐたのです。 一旦死んでしまつたら、妾はきつともう一度地獄の中に生きなければならなかつたのです。 もう一度物倦い幾十世紀を送つて、戀人が歸つて來るのを待つてゐなければならなかつたのです。 あなたが藥をのまして下さつてから五分間といふもの、妾にも、あの人の生死の程はわかりませんでした。 これまでに過ぎ去つた六十代の年月も、あの五分間ほどに長くはありませんでした。ところが、 その五分間がたつても、何の效能(きゝめ)が現れないです。妾はもう藥が利かなくなつたのではないかと思ひました。 またもやあの人は死んでしまつたのかと思ひました。そして何十年間の苦惱が、一本の毒槍の穗先に集まつて、 その槍で、幾度びも幾度びも突き刺されるやうな氣がしたのです。またカリクラテスを失つたと思つたものですからねえ。 するとどうでせう。あの人は呼吸(いき)をし出したのです。御覽なさい。あの人は生きてゐます。 まの人はもう大丈夫生きてゐるのです。あの藥の利き目があらはれ出したら死ぬことはないのですから、ねえ、 ホリイ、考へて御覽なさい。實に不思議ではありませんか!あの人はこれから十二時間眠ります。 そして眠りから醒めると病氣は拭つたやうに竒麗に治つてしまふのです。そして生き返つて、 妾のものになるのです!」

彼女はこゝで言葉をきつて、レオの金色(こんじき)の頭に手をおき、 心からなるやさしさをこめて、彼の額に接吻した。その眺めは又なく美しいものではあつたが、 私は胸を切られるやうな思ひがした。私は嫉妬を感じてゐたのだ。


更新日: 2003/02/12

第十八章 行け!女


第十八章 行け!女

それから一分間かそこら沈默がつゞいた。その間女王はうつとりとして幸福の境地にひたつてゐるやうに見えた。 といふのは彼女の顏に天使のやうな歡喜が現はれてゐたからである。 彼女の顏は時々天使のやうになることがあつたのだ。ところが、 急に彼女は新しい考に打たれたと見えて、うつて變つた惡魔のやうな形相になつた。

「もう少しで忘れるところだつた」と女王は言つた。「あの女のことを、アステーンのことを。 あの女はカリクラテスの何にあたるのです -- あの人の下女ですか、それとも --」 と聲を慄はして言つて彼女は言葉を切つた。

私は肩をすくめた。「何でもアマハッガー人の習慣に從つてレオと結婚したといふことですが」 と私は答へた。「よくは知りません。」

女王の顏は夕立雲のやうに暗くなつた。年は()つても、アッシャには嫉妬の心は殘つてゐたのだ。

「ではもうおしまひだ」と彼女は言つた。「あの女は生かしておけない。今すぐにも!」

「何の罪でゞすか?」と私は恐怖に打たれてたづねた。「あの女には何の罪もありませんよ、アッシャ。 あの女は、この男を愛し、この男は喜んでその愛を受けたのです。何處にあの女の罪があるのです?」

「ほんたうにあなたは馬鹿ですね、ホリイ」と彼女は氣短かに答へた。「何處にあの女の罪があるかつて? あの女の罪は、あの女が妾と妾の戀人との間に邪魔になつてゐることです。 妾は、あの人をあの女から奪ひとることはできます。この世には、 妾の力に抵抗できる人はありませんからね。男といふものは誘惑が過ぎ去るまでの間だけは忠實なものです。 で若しその誘惑が十分に強ければ參つてしまひます。男といふものは繩と同じで、十分強くひつぱれば、 切れてしまふものです。男といふものは女の美で買へるものですよ、若し十分に美しければですね。 丁度女の美が十分の金さへ出せば金で買へるやうなものですね。妾の時分はさうでした。 恐らく此の世の續く限りさうでせう。この世界は一つの大きな市場ですよ。凡ての物が賣物で、 何でも一番高い値をつけた人の手に落ちるのです。」

「だがそんな無駄口をきくのはもうやめませう」と彼女は言葉をつゞけた。 「あなたと議論をしたり、智慧比べをしてゐる暇はありませんからね。何故あなたはそんなに議論がおすきなのです? あなたも近頃の哲學者なのですか?あの女はどうしても助けておけないのです。 妾はあの女の戀人を奪ひとることはできるけれども、あの女が生きてゐる限り、 あの人はあの女にやさしい思ひをむけるに相違ありません。それ妾には耐へられないのです。 妾の戀人の心の中に他の女がすんでゐてはならないのです。妾の支配は完全でなくちやならんのです。 あの女はもううれしいめをさんざして來たのですから、それで滿足しなくちやなりません。 戀の一時間は孤獨の一世紀にもまさつてゐますからね。今度は夜があの女を呑みつくしてしまふのです。」

「いや、いや」と私は叫んだ。「それは罪惡です。罪を犯せば惡い報いしかありません。 あなたのためです、そんなことをなさつてはいけません。」

「では妾たちと、妾たちの目的物との間に邪魔をしてゐるものを取り除くのが罪惡なのですか? 馬鹿な人ですねあなたは。さうすると妾たちの生涯は長い罪惡ですよ、ホリイ。 吾々は生きてゆくために、毎日毎日他の者を殺してゐるんですからね。此の世では強者だけしか長らへてゆくことはできないのです。 一本の樹が成長するためには二十本の樹が枯れてしまふのです。妾たちは失敗して倒れた人の死骸を乘り越へて、 地位と權力とにはしるのです。妾逹の食べる食物は餓ゑた赤ん坊の口からもぎとつたものです。 これが萬物のさだめですよ。あなたは、また、罪を犯せば惡い報いがあると言ひましたわね。 それはあなたが經驗が足りないからです。罪から善いことが生じたり、良いことが惡い結果を生んだりすることはざらにあるのですよ。 暴君の殘忍な怒りが、後世の多數の人の祝福になることもあり、聖者のやさしい心が一國民を奴隸にすることもあるのです。 人間は善かれ、惡しかれと思つて、あれをしたり、これをしたりしますが、それがどんな結果を生むかは知らないのです。 善と惡、愛と憎しみ、夜と晝、樂と苦、男と女、上なる天と下なる地、-- これ等のものは皆それ〜゛必要なのです。 それでこれ等のものがそれ〜゛何のためにあるのかを知つてゐるものはないのです。 ですから妾たちはこれが惡であれが善だとか、闇が憎むべきもので光が愛すべきものだとか言つてはなりません。 何故なら、他の人には惡が善であるかも知れず、闇が光よりも美しいかも知れず、 或はみんな同じであるかも知れないからです。わかりまして、ホリイ?」

私はこんな風の詭辯には到底逆らふことができないやうな氣がした。こんな詭辯を實行したら、 吾々の解してゐる道徳はすつかり破壞されてしまふことになる。 しかしアッシャのやうに人間界の法律に拘束されない人間は、正邪の道徳にも絶對に動かされはしないのだと思ふと、 私は今更のやうにぞつとした。

それでも私は何とかしてアステーンを全能の戀仇の手から救ひたかつた。 私は彼女がすきでもあり彼女を尊敬もしてゐたのだ。そこで私はもう一度訴へて見た。

「アッシャ」と私は言つた。「あなたの仰言(おつしや)ることは、あまりにこみ入つてゐて、 私にはわかりませんが、あなたは人はめい〜自分に對する法律をもつてをり、 自分の心の教へに從ふものだと私に言ひましたね。あなたが胸には、 あなたがこれからとつて代らうとする女に對して慈悲の心が少しもないのですか? 私には信じられませんが、あなたは長い年月の間待つてゐた戀人が歸つて來たと仰言(おつしや)いましたね。 よく考へて御覽なさい。その人を愛してゐる女を、そしてその人に多分愛されてゐる女を -- 少なくも、あなたの奴隸どもがその人を槍で殺さうとしてゐたのを救つてくれた女を殺して、 その手であなたはその人を迎へようとなさるのですか?それから貴女は、遠い昔に、この人に惡いことをされたと言ひましたね。 アメナルタスといふ埃及(エジプト)の女のために、この人をあなた自身の手にかけて殺したと仰言(おつしや)いましたね。」

「どうしてあなたはそのことを知つてゐるのです。どうしてそのアメナルタスといふ名前を知つてゐるのです。 妾はまだその名前を申し上げたことはないのに」と彼女は私の腕をつかんで叫んだ。

「多分そんな夢を見たのでせう。」と私は答へた。「このコオルの洞窟には不思議な夢がそこらぢゆうにうよ〜してゐますからね。 何でも夢が眞實の影だつたと見えますね。ところで、あなたはその狂ひのやうな罪惡から何が生じましたか? そのためにあなたは二千年も待たなければならんかつたのでせう。しかもまたそれを繰り返さうとなさるのですか? きつと良い結果は生じませんよ。若しあなたが、あの罪もない女を殺されたら、貴女はきつと呪はれます。 そして貴女の昔の愛の樹からどんな果實もつみとることはできないでせう。あの人は、あの人を愛し、 あの人をいたはつた女の血で汚れた貴女の手をとることができると貴女は思ひますか?」

「そのことならもう答へたぢやありませんか」と彼女は答へた。「あの女のやうにあなたも殺したつて、 あの人はきつと妾を愛するやうになりますよ、ホリイ。あの人はさうせずにはをれなくなるのです。 ちやうど妾が偶然あなたを殺さうと思へば、あなたがどうしても死から免かれることができないと同じです。 でもあなたの言ふことにも眞理があるかも知れませんわね。といふのは妾も少し氣がゝりになつて來たからです。 でことによつたら、あの女の生命(いのち)は助けることにしませう。 妾は何も好きこのんで殘忍なことをするのぢやありませんからね。 妾は人の苦しむのを見たり、人を苦しめたりしたくはないのです。 ではあの女を妾の前へ呼んで下さい。はやく、妾の氣が變らぬうちに」 かう言ひながら、彼女は大急ぎで、薄紗(ヴエール)で顏を覆うた。

これ位な程度でも兎に角私の歎願のきゝめがあつたのを喜んで、私は廊下へ出てアステーンを呼んだ。 彼女の白い上衣(うはぎ)が、數(ヤード)先に土噐のランプでぼんやり照らされてゐるのを私は見つけたのだ。 彼女は起ち上つて私の方へ走つて來た。

「妾の夫は死にましたか?どうぞ死んだなんて言はないで下さいね」 と彼女は上品な顏を上げて私を見あげながら叫んだ。見ると彼女の顏はすつかり涙で濡れ、 身も世もあげて戀人の無事を祈る眞心が、眞直ぐ私の胸に感じられた。

「いや、あの人は助かつたよ」と私は答へた。「女王が助けて下さつたのだ。」

彼女は深い溜息をつきながらはひつて來て、アマハッガー人の習慣に從つて、恐ろしい女王の前に平伏した。

「起て」と女王は此の上ない冷たい聲で言つた。「こちらへお出で。」

アステーンは女王の言葉に從つて、女王の前に立つて頭を()げた。

しばらく沈默がつゞゐたが、アッシャがそれを破つた。

「この男は誰だ?」と女王は眠つてゐるレオを指さしながら言つた。

「この人は妾の夫です」と彼女は低い聲で答へた。

「誰がこの人をお前の夫としてお前に與へたのだ?」

「妾が、この國の習慣に從つて、この人を夫にしたのでございます、女王樣!」

「お前が、この他國の人を夫にしたのは惡いことぢや。この人はお前の國の人ではない。 お前の國の習慣はこの人には無效ぢや。よくおきゝ。多分、お前は何も知らずに、 そのやうなことをしたのであらう。だから、許してあげる。でなかつたら、お前の生命(いのち)はないのぢや。 もう一度よくおきゝ、今からお前のすみかへ歸つて、今後この人に物を言つたり、この人を見たりしてはなりませぬぞ。 この人はお前のものぢやないのぢや。三度(みた)び、よきおきゝ。若しお前が妾の法律を破つたら、 その場でお前は死ぬのぢや。行け!」

しかし、アステーンは身動きもしなかつた。

「行け、女!」

するとアステーンは顏を上げた。彼女の顏は激情のために歪んでゐるのを私は見た。

「いゝえ、女王樣、私は參りません」と彼女は聲をつまらせて答へた。「あの人は妾の夫でございます。 妾はあの人を愛してをります。愛してをります。ですから、妾はあの人の傍をはなれません。 妾の夫から離れるように命令をなさる權利があなたにございますのですか?」

私はアッシャの全身が慄ふのを見た。そしてどうなることかと思つて私も慄へあがつた。

「どうぞ大目に見てやつて下さい」と私はラテン語で言つた。「あの女の言ふことにも無理はないのですから。」

「妾は大目に見てをりますよ」と女王は矢張りラテン語で冷かに答へた。 「妾が大目に見てゐなかつたら、この女はとほに死んでゐるのです。」 それからアステーンに向つて彼女は言つた。「女、妾がその場でお前を殺してしまはぬうちに行け!」

「妾は參りません!この人は妾のものです、妾の夫です!」 彼女は苦しさうに叫んだ。「妾が夫に選んだのです。そして妾が命を助けてあげたのです。 殺せるなら妾を殺して下さい!妾は、妾の夫を決して貴女には渡しません!」

アッシャは眼にもとまらぬ早業で、かはいさうなアステーンの頭に、輕く手を置いた。 私はアステーンを見た。そしてあまりの恐ろしさにうしろへよろけた。といふのは、 彼女の青銅色の結髮の上に、眞直に雪のやうに白い三つの指のあとがのこつてゐたからである。 アステーンは眼がくらんだやうに、兩手を上でさし上げた。

「大變だ」と私はこの超人的な力の顯現(あらはれ)魂消(たまげ)て言つた。だが女王は少し笑つたゞけであつた。

「何も知らない馬鹿娘が」と彼女は途方にくれてゐる女に向つて言つた。 「お前は妾のお前を殺す力がないと思つたのだね。あの鏡を見なさい。」 とかう言ひながら彼女はレオの鬚剃用の丸い鏡を指さした。「ホリイ、その鏡を女に渡して、 髮がどうなつたか見せてやつて下さい。そして妾に人を殺す力があるかないかを知らせてやつて下さい。」

私は鏡をとつてアステーンの眼の前に差し出した。彼女はそれを見てから、髮を手でさはつて、また鏡を見た。 そして忽ち、息のつまるやうにむせびながら地べたに泣きくづれた。

「さあもう行くだらうね、それとももう一度打ちませうか?」とアッシャは嘲るやうな口調でたづねた。 「見なさい、妾はお前にしるしをつけておいた。これでお前の髮がすつかり白くなるまでは、 どこでお前にあつても一目でわかる。若し今度お前の顏を見たら、お前の骨もその髮のやうに白くなると覺悟してゐなさい。」

かはいさうな女は、すつかり恐怖に打たれて、その場に起ちあがり、恐ろしい印しをつけられたまゝ、 ひどく歔欷(すゝりな)きながら、(へや)から這つて出て行つた。

「そんなに恐がるには及びませんよ、ホリイ。」と彼女が出てゆくと女王は言つた。 「妾は魔法をつかふのぢやありません。魔法なんてものはないのです。 あれはあなたの知らない力なんです。妾はあの女の度肝を拔くために印しをつけてやつたのです。 でなければ妾はきつと殺してしまふところだつたのですよ。ところで、妾はこれから、 下男に命じて夫のカリクラテスを、妾の(へや)の隣の(へや)へつれてゆかせることにしませう。 さうすれば、あの人を看護することもできるし、眼が醒めたら、早速挨拶をすることもできますから。 それからねホリイ、あなたも、あなたの召使の白人もその(へや)へ來るのですよ。 だが、たゞ一事だけ、あなたの生命(いのち)にかけておぼえてゐて下さい。 あの女がどうして出て行つたかといふことは一言も口外してはなりませんよ。 それから妾のこともなるたけ話さないやうにしてね。 これだけのことをあなたに警告しておきますよ。」かう言つてから彼女は命令を傳へるために(へや)を出て行つた。 あとにのこつた私は、以前にもまして、すつかり何が何だかわからなくなつてしまつた。 實際私は次から次へと起つて來る、色々な感情にこづきまはされて、全く途方にくれて終ひ、 氣が狂ふのぢやないかと思ひはじめた。けれども、幸か不幸か、私には、あまり考へてゐる時間はなかつた。 といふのはすぐに唖者が來て、眠つてゐるレオや吾々の所持品(もちもの)を、 中央の大洞窟の向う側へ運びはじめたので、しばらくの間、あたりががた〜騷々しくなつてしまつたからだ。 吾々の新しい(へや)は私がはじめてアッシャにあつたアッシャの居間と吾々が呼んでゐたカーテンを下した(へや)のすぐ隣にあつた。 その時は彼女がどこに寢てゐるのか私は知らなかつたが、それはすぐ傍だつたのである。

その晩は私はレオの(へや)で過した。しかし、彼は一晩ぢう死人のやうに眠りとほして、 毛すど一つ動かさなかつた。私もよく眠つた。眠る必要があつたのだ。だが私の眠りは、 これまでに經て來た樣々な恐怖や不思議な夢に充ちた眠りであつた。わけても一番多く見た夢は、 アッシャが戀仇の頭髮(かみのけ)に、指の(あと)をつけた恐ろしい魔法の夢だつた。 あの時のことは餘つ程恐ろしかつたと見えて、私は今でもよくあの夢を見る。 そして、戀人を奪はれ、カインのやうに烙印(やきいん)をおされて、戀人の顏に最後の一瞥を投げながら、 恐ろしい女王の前から泣きながらこそ〜と這ひ出て行つた女の姿が眼の前に見えるやうである。

もう一つ私の惱まされた夢は、あの巨大な骸骨のピラミッドの夢だつた。 あの骸骨が何千何萬となく一度に起ちあがつて、小隊となり、中隊となり、軍隊となつて、 うつろな肋骨に日光を浴びながら私の前を進軍してゆく光景であつた。 この骸骨の一隊はコオルの平原を通り過ぎ、宮殿の前を通りすぎ、 私のこれまでに見たことのないやうな豪奢な市街や殿堂の前を通り過ぎて行つた。 けれども廣場には彼等を歡迎する人影は一つもなく、彼等の行軍を窓から見てゐる女の顏は一つもなかつた。 たゞ彼等の行く手に、姿の見えない聲が叫んでゐた。「コオルの帝國は滅びた、滅びた、滅びた!」 そして日が沈むとこの骸骨はもとの墓穴へ歸つて一つづゝもとの通りに積み重なるのであつた。 その時に私はちやうど胴慄ひしながら眼をさました。見ると、私の寢てゐる長椅子との間に女王が立つてゐたが、 やがて音もなくすうつと(へや)から消え去つた。

そのあとで私はまた眠つた。今度はぐつすり朝まで眠つた。そして、朝になつて、非常にせい〜した氣持ちで起き上がつた。 たうとう女王のいつたレオの眠りのさめる時刻が近づいたのだ。そしてその時刻が近づいた時、 ヴエールにまとはれた女王が姿を現はした。

「ホリイ、見てゝ御覽なさい」と彼女は言つた。「もう熱は去つたから、今にこの人は正氣に返りますよ。」

彼女の言葉が了るか了らぬうちにレオはごろりと寢返りをうつて、兩腕を伸しながら、缺伸(あくび)をして眼を開いた。 しかし、女の姿が彼にこゞみかかつてゐるのを見て、兩腕で抱き寄せて接吻をした。 多分アステーンと間違へたのであらう。何にしても、彼はアラビア語で「やあ、アステーン、 何故そんなに頭をくゝつてゐるんだい?齒が痛いのか?」と言つて、それから英語で「どうも腹がペコペコになつた。 おいジョッブ、一體こゝは何處だい--え?」

私もそれを知りたいのですよ、レオ樣」と言ひながら、ジョッブは、こは〜゛アッシャの横を通りながら言つた。 彼はまだ女王を生きた人間だとは思ひきれないので、此の上なく恐がり、嫌がつてゐた[。] 「だが、そんなに話をなさつちやいけませんぜ、レオ樣、あなたは大變重病で、 ずいぶん心配をかけましたぜ、ところで、この御婦人が」と言ひながらアッシャの方を見て 「ちよつと退いて下されば、あなたにスープをもつて來てあげるのですが。」

この言葉でレオは、彼のそばに無言のまゝ立つてゐた「御婦人」の方へ注意を向けた。 「おや」と彼は言つた。「アステーンぢやなかつたんだね。アステーンはどこへ行つたんだい?」

この時はじめてアッシャが口を開いた。彼女の最初の言葉は(うそ)であつた。 「あの女は誰かをたづねてゆきましたの」と彼女は言つた。 「でその代りに妾がお附き添ひしてゐるのですわ。」

アッシャの聲の銀鈴のやうな響きと、彼女の死人のやうなヴェールとは、半ば目覺めたレオの頭をひどく面喰らはせたらしかつたが、 彼は何とも變事をしないで、がつ〜しながらスープを飮み干すと、また仰向けになつて夕方まで眠つた。 二度目に彼が眼をさましたときに、彼は私を見て、どうしたのだと訊ねた。 けれども私はできるだけ言葉をにごして翌朝まで返事をのばした。 翌朝彼が起きたときは奇蹟的に彼の元氣は恢復してゐた。そこで、私は、彼の病氣のことや、 私のしたことなどを少しだかり話してきかせたが、女王がそばにゐたので、あまり色々なことは言へなかつた。 たゞ、この婦人はこの國の女王で、吾々に好意をもつてをり、いつもヴェールを着てゐるのだといふことだけを話した。 といふのは私は無論英語で話してゐたのではあるが、表情で吾々が何を話してゐるかゞ彼女にわかるかも知れんと思つたし、 その上、彼女の警告も思ひ出したからであつた。

その翌朝には、レオはもう殆んど平生(ふだん)の身體に囘復してゐた。側腹(わきばら)(きず)も癒え、 性來頑強な彼の體格は、恐ろしい熱病を短時日のうちにすつかり振ひ落してしまつた。 それはひとへにアッシャがのませた藥の靈驗によることは勿論だが、 發病の期間が短かゝつたので衰弱があまり甚だしくなかつたせいでもあると私は思つた。 彼が健康を囘復すると、彼が沼の中を通るときに意識を失つてしまふまでの冐險の記憶をすつかりよび起した。 勿論アステーンのことも思ひ出した。彼はアステーンに對して大分愛着を感じて來てゐることを私は發見した。 實際、彼はこの氣の毒な娘について、私にいろ〜なことを矢繼早やにたづねたが、私はそれには答へなかつた。 といふのも、レオが最初に眼覺めたあとで女王に呼ばれて、嚴格な二度目の警告を受け、 決してあのことをレオに話してはならぬととめられてゐたからだ。 そして若し私がそれにそむいたら惡いことがあるといふことを婉曲に匂はされてゐたからだ。 それに、時が來れば女王が自分の口から凡てを打ち開けるとも言つてゐた。

實際彼女の樣子は以前とはがらりと變つてゐた。前のことから推して、 女王は彼女が前世の戀人であると信じてゐる男に、機會があり次第、言ひ寄ることだらうと思つてゐたが、 事實はさうでなかつた。それは彼女の方に理由があつたのだが、その當時は私にはどういふ理由(わけ)か見當がつかなんだ。 ただもう彼女はおとなしく彼の用を足してゐた。そして以前の尊大な樣子とはうつて變つたつゝましやかな樣子で、 彼に物を言ひかけるにも恭々(うや〜)しい調子で言ひかけ、できるだけ彼のそばをはなれないやうにしてゐた。 勿論此の不思議な女に對して彼の好竒心は刺戟されてゐた。わけても彼は彼女の顏を見たがつた。 私は、細部にはわたらないで、ただ姿や聲と同じやうに美しい顏だといふことは彼に話しておいたのである。 これだけでも若い男に危險な期待をもたせるには十分だから、若し彼にまだ病後の苦しみがのこつてゐず、 アステーンの親切と獻身的な世話とが骨身に沁みてゐなかつたら、アッシャの思ふつぼにはまつて、 彼は彼女に思ひを焦がすやうになつたに相違ないと私は思ふ。 だが、どういふものか、彼は、たゞ好竒心をもつてゐただけだつた。それに、 女王の途方もない年齡のことも少しも話さなかつたし、無理もないことだが、 この女が壺の破片に記してあつた女だといふこともさとつてゐなかつたに拘らず、 彼は、多少女王に怖れを抱いてもゐた。たうとう、三日目の朝、彼は着替へをしながら、 しきりに根掘り葉掘り私にアステーンのありかをたづねるので、私は、實は知らないのだと答へて -- 實際私は知らなかつたのだ -- 彼をアッシャにひきあはせることにした。 そこでレオが腹一ぱい朝食をつめこんでしまふと、吾々は女王の前へ出頭した。 女王の側づきの唖どもは、いつでも吾々を案内するやうに命ぜられてゐたのだ。

彼女はいつもおやうに、彼女の居間に坐つてゐたが、カーテンがあがると長椅子から起ち上つて、 兩手をのばして吾々に挨拶をするために前へ進み出た。いや吾々にといふよりもレオと言つた方がよいかも知れぬ。 といふのは私はもうすつかり冷淡に待遇されてゐたからである。

「ようこそお出で下さいました、お客さま。」とアッシャは此の上もないやさしい聲で言つた。 「あなたが立つていらつしやるお姿を見て、ほんたうにうれしうございますわ。 妾が最後のときにお救ひしなかつたら、あなたはそんなにしやんとお立ちになることはできなかつたのですもの。 だけど、もう危險はありませんわ。これからは、妾が、もう二度と危險の來ないやうにしてあげるだけですわ」 彼女はこの最後の文句に千鈞(せんきん)の重味をつけて言つた。

レオはお叩頭(じぎ)をして、丁寧なアラビア語で、他國の見知らぬ人間を手厚く介抱してくれた彼女の親切に感謝した。

「いゝえ」と彼女はやさしく答へた。「あなたのやうな方は、世の中が、病氣などにさしておきやしませんわ。 美しい方つて滅多にないんですもの。妾にお禮などいりませんわ。 妾はあなたがいらつしやたので幸福なのですから。」

「ふん!叔父き」とレオは私の方を向いて英語で言つた。「中々如才のない女ですな。 吾々はどうやらクロヴァーの中へころげこんだらしい。叔父さんもたんとよいことがあつたでせう。 ほんたうに、どうです、あの美しい腕は!」

私は彼にしづかにうするやうに眼くばせした。 それはヴェールの下から私を不思議さうに見てゐたアッシャの眼が疑はしさうに光つてゐるのが見えたからである。

「たしか、妾の召使どもが」と彼女は言葉をつゞけた。 「落度なくかしづいてくれてゐることゝ思ひますが、こんな見すぼらしい處にでも何かお氣に召すものがあつたら、 遠慮なく仰言(おつしや)つて下さい。ほかに何かおのぞみはございませんか?」

「あります」とレオは急いで答へた。「私のそばにゐた女は一體どこへ雲隱れしたのです?」

「あゝ」とアッシャは言つた。「あの娘ですか、あの娘なら見ましたわ。けれど何處へ行つた存じません。 行くと言つて出ましたが何處へ行つたかわかりません。ことによると歸つて來るかも知れませんし、 ことによると歸つて來ないかも知れませんわ。病人の看護といふものは退屈なものですし、 それに蠻人の女なんて浮氣者ばかりですから。」

レオはこの知らせを聞いて變に思つた。そして胸が苦しくなつた。

「どうも變だ」と彼は私に向つて英語で言つた。それから女王に向つて附け加へた。 「どうも私にはわかりませんなあ。あの娘とは -- えゝと、つまり私どもは -- お互ひに尊敬しあつてゐたのですがなあ。」

アッシャは非常に(ほがら)かに、少し笑つた。そして話題をかへた。


更新日: 2003/02/12

第十九章 黒山羊をくれ!


第十九章 黒山羊をくれ!

それからあとの會話は全くとりとめないもので、私には全く何を話したのか思ひ出せない。 どういふわけか、多分、威嚴をくづさないやうにするためだらうと思ふが、 アッシャはいつも程口數をきかなんだ。だが、やがて彼女は、レオに向つて、 その晩吾々を歡待するために舞踏の催しをするやうに準備してあると告げた。 私はそれを聞いて苦蟲を噛みつぶしたやうなアマハッガー人にもそんな樂しみがあるのかと思つて驚いた。 だがあとですぐわかつたやうに、アマハッガー人の舞踏といふのは、 他の國の舞踏とはまるでちがつたものであつた。それから、吾々が退出しようとすると、女王は、 レオに向つて、洞窟の中の不思議な事柄を少し見物してはどうかとすゝめたので、吾々は、 ジョッブとビラリとをつれて出かけた。

だが、洞窟の中を見物した模樣を一々書いてゐては、前に私がアッシャに案内されて見たときのことゝ大部分重複するから、 こゝでは一歳省略することにする。勿論レオは此の異状な光景を見て非常に興味を感じたが、 ジョッブは有難迷惑の樣子だつた。

洞窟の見物がすむともう午後四時を過ぎてゐたので、吾々は歸つて食事をした。 吾々は皆食事と休息の必要を感じてゐたのだ。特にレオはさうだつた。 六時になると吾々はジョッブをつれて、アッシャの前へ出た。 彼女はジョッブに十七人の兄弟姉妹があるといふことをきいて、彼に、その兄弟をすつかり、 でなければできるだけ澤山思ひ出して見よと命じた。それから、ジョッブに水の中を覗いて見るやうに言つた。 すると何年も前に過ぎ去つた、ジョッブの兄弟姉妹が團欒してゐる場面が、靜かな水の中に、 彼の頭で思ひ出すまゝに映つた。中にはつきりうつつてゐる顏もあればぼんやりふやけたのもあつた。 それは、ジョッブが咄嗟の場合に、みんなの顏をはつきり思ひ出せなかつた證據なのだ。 ジョッブはこれをみて、また、すつかり氣味わるがつてしまつた。 レオもこれはあまり好まなかつたと見えて、手の指を髮の中へつゝこんで「どうも氣味が惡い」と言つた。

それから、一時間あまりもたつた時に、唖どもが、手眞似で、ビラリがお目通りしたいと言つてゐる旨を告げた。 そこで、ビラリは、いつものやうに、ぶきつちよに四つん這ひになつてはひつて來て、 舞踏がはじまつたといふことをしらせた。まもなく吾々一同は起ち上り、 アッシャは白い被覆(ヴエール)の上に着てゐた黒い外套 (それは彼女が火のそばで死んで戀仇を呪つてゐたときに着てゐた外套であつた)を脱いで出かけた。 舞臺は、大洞窟の正面の滑らかな岩の丘の上の野天で開かれることになつてゐたので、 吾々はその方へ進んで行つた。洞窟の入口から十五歩ばかり進んだところに三つの椅子がおいてあつた。 まだ舞臺は見えなかつたので、吾々はその椅子に腰をかけて待つてゐた。 夜はまだきつとまつ暗とは言へないが、ほゞ暗くなり、月はまだ昇つてゐなかつたので、 こんな暗い中でどうして舞臺が見えるのかと吾々は不思議に思つた。

レオがそのことを訊ねると、アッシャは少し笑ひながら「今にわかりますよ」と言つた。

彼女の言葉が了るか了らぬうちに、そこらぢうから、黒い姿が、てんでに、 大きな松明のやうなものをもつて現はれて來た。それは何かよくわからなかつたが、非常によく燃えてゐて、 それをもつてゐる人のうしろで、一(ヤード)以上もある高い炎を上げてゐた。 五十人あまりの同勢がこの松明のやうなものをかざして進んで來る光景は、 正に地獄から惡魔が跳び出して來たやうであつた。レオがはじめて松明の正體を發見した。

「おや!」と彼は言つた。「あれは火のついて死骸だ。」

私は何遍も眼を据ゑてよく見た。正に彼の言つたとほりであつた。吾々を歡待するための松明の明りは、 洞窟から取り出して來た人間の木乃伊(ミイラ)であつたのだ。

燃える死骸をもつた人々は後から後からと進んで來て、吾々から二十歩ばかりはなれたところに集つて、 てんでにもつて來た死骸を組み合はせて大きな篝火(かゞりび)をつくつた。 その勢よく燃えること、タールの樽だつてこれ程よく燃えはしまいと思はれる位だつた。 しかもそれだけではなかつた。突然一人の巨漢(おほおとこ)が、胴體から燃え落ちた火のついた人間の腕をつかんで、 黒闇の中へかけこんだ。やがて彼が立ち停ると、一條の火柱が空中高く立ち昇つて、四邊(あたり)の闇と、 闇の中に輝き出したランプとを照した。ランプといふのは女の木乃伊(ミイラ)で、 岩の中にさした頑丈な杭に縛りつけてあつた。例の巨漢(おほおとこ)はその女の髮に火をつけたのだ。 その男は、それから、二番目、三番目、四番目のランプに火をつけてまはり、たうとう吾々は三方から、 燃えさかる死骸の環にとり圍まれてしまつた。

ネロは、基督教徒を生きながらタールの中へ漬けて、それで彼の庭園を照したといふことだが、 吾々もいま丁度それと同じやうな光景を見せられてゐるのだ。恐らく、 こんな光景を見た者はネロ以來吾々がはじめてであらう。たゞ幸ひなことには、 吾々のランプは生きた人間ではなかつた。

生きた人間のお祭り騷ぎの明りに、ずつと昔に死んだ人の死骸をつかふといふことは、 ひどく恐ろしいことでもあつたが、それと同時に何とも言へぬ魅力をももつてゐた。 そのこと自體が死者にとつても生者にとつても一篇の諷詩であつた。 中にはシーザーの死骸もアレキサンダーの死骸もあるかも知れないのだ。

一つの木乃伊(ミイラ)が踝の所まで燃えて終ふと、燃え殘りの足は蹴飛ばして終つて、 また別の木乃伊(ミイラ)が代りにおかれた。篝火(かゞりび)の燃料はかうして、 惜氣もなく補給されてゆき、焔はしゆう〜ぱちぱち音をたてながら空中二三十呎の高さまで燃え上つて四邊(あたり)の闇を照した。 そしてこの光りを浴びて、眞つ黒なアマハッガー人の姿が、宛然(さながら)、 地獄の火を焚いてゐる惡魔のやうにあちこちにとび廻つてゐるのである。 それでゐて人の心魂を恍惚(うつとり)させるやうな眺めでもあつた。 見てゐると死骸の中にかつてとぢこめられてゐた靈魂が這出して來て、 冐涜者に復讐をするのではないかといふやうな氣がした。

「妾はあなたに不思議なものを見せてあげると約束しましたでせう、ホリイ」 とアッシャは笑ひながら言つた。彼女の神經だけはこの樣な眺めを見ても平氣だつたらしい。 「あれを御覽なさい、(うそ)ではなかつたでせう。それにこのことにだつて教訓が含まれてゐるのですよ。 未來などを信じちやいけません。未來がどうなるなんて誰が知つてゐませう。 現在に生きることです。そして、人間の最後は灰になつてしまふのですから。 それから免れようなんて努力するのは無駄ですよ。この貴人や貴婦人たちが、 いつか彼等の纖細(しなやか)な肉體が、野蠻人の舞踏の明りに燃やされるのだつてことを知つたら、 どんな氣がしたでせう?だが、まあ御覽なさい。踊り子がやつて來ました。 陽氣な踊り子でせう?舞臺が明るくなりました。これから舞踏がはじまるのです。」

彼女の言葉がおはらぬうちに人間の篝火(かゞりび)のまはりに、めい〜豹の皮と羚羊の皮とを着けた約百人ばかりの踊り子が、 男の組と女の組との二列になつて、やつて來た。彼等は無言のまゝ、 吾々と篝火(かゞりび)との間に互に向きあつてゐた。それから舞踏がはじまつた。 地獄の惡魔の舞踏のやうな舞踏がはじまつた。その舞踏の模樣を描くことは到底不可能だが、 足を上げたり、二人で取つ組みあつたりするところは大分あつたけれど、 吾々のやうなまひめての者が見ると舞踏といふよりもむしろ芝居のやうであつた。 そして、その芝居の主題は、氣味のわるいものばかりだつた。

第一の場面は殺人未遂の場面で、その次に犧牲者を生き埋めにしようとし、 犧牲者が墓穴から出ようとしてもがいてゐる場面であつた。どれもこれも皆殺伐極まるもので、 それを演技者はまつたく一語も言はないで演じ、しまひには、犧牲者になる役者をかこんで、 皆の者が兇暴に踊り出し、犧牲者は篝火(かゞりび)の赤い光に照らされて、地べたにのたうち廻つて苦しむのであつた。

ところが突然この陽氣な芝居は中絶された。少しあたりにがや〜騷ぎが起つたかと思ふと、 大柄な、強さうな一人の女が、このいまはしい昂奮に狂醉して、吾々の方へよろめきながらとんで來て金切聲で叫び出した。

「黒山羊がほしい、黒山羊を貰ひたい。黒山羊をつれてきてくれ!」かう言ひながら彼女は岩の床の上にぶつ倒れて、 口から泡を吹き、のたうち廻つて、しきりに黒山羊をせがんで叫んだ。それは實に此の上ない不氣味な、 醜惡極まるながめであつた。

すると忽ち大部分の踊り子は彼女のまはりに集まつて來て輪をつくつた。 尤も少しはまだうしろの方で踊りをつゞけてゐる者もあつた。

「惡魔に取つ憑かれたんだ」とその中の一人が叫んだ。「誰か走つて行つて黒山羊をつれて來い。 さあ、惡魔や、おとなしくしておいで!おとなしくして!今に黒山羊をつれて來てあげるからね! 今つれに行つたのだから。」

「黒山羊がほしい。黒山羊を貰ひたい!」女は泡を吹きながらごろ〜ころげまはつてはまた金切聲を出した。

「よし、よし、惡魔や、今に山羊が來るからね、おとなしくしておいで、よい惡魔だから!」

そのうちに近所の(うまや)から、山羊が鳴きながら角をひつぱられて來た。

「黒い山羊か、黒い山羊か?」と憑かれた女は叫んだ。

「さうだよ、惡魔、夜のやうに黒い山羊だ」と言つてから一寸傍を向いて 「うしろへ山羊をかくしとけ、臀と腹とに白い斑點(ぶち)があるのを惡魔に見せないやうにしろ。 いますぐだよ、惡魔、さあはやく咽喉を切るんだ。皿はどこにある?」

「山羊!、山羊!、山羊!黒山羊の血をくれ、はやくくれ、くれつたら!おゝおゝおゝ、山羊の血をくれ。」

その時ぎやあつと怖ろしい鳴き聲をあげて山羊は殺された。するとすぐに一人の女が、 血の一ぱいはひつた皿をもつて驅けて來た。憑かれた女は、その時此の上なく物狂ほしくなつて、 泡を吹いてゐたが、その皿をひつつかんで、ぐいとそれを飮みほした。 すると忽ちあの恐ろしいヒステリイの發作はけろりと治つてしまひ、女は兩の腕をのばして、 につこり笑ひながら、また踊り子の群に混つてしまつた。踊り子等は、やがて、 來たときと同じやうに二列になつて出てゆき、吾々と篝火(かゞりび)との間は空つぽになつてしまつた。

私はもうこれで饗應はすんだのだと思つて、何だか氣持ちわるくなつたので、女王にもう起つてもよいかと訊ねた。 すると、突然狒々(ひゝ)のやうなものが跳び出して來て、火のまはりをぴよこぴよこ跳んでゆき、 反對側から出て來た獅子といふよりも獅子の毛皮を着た人間と出會つた。 その次に山羊や牛の皮を着て角を左右に振つてゐる人間が出て來た。 中には、ぎら〜光る鱗のついた蠎蛇(うはばみ)の皮を着て數碼(ヤード)もうしろの方へ尾をひいてゐる女もまじつてゐた。 假面舞踏者がすつかり揃ふと、彼等は、火のまはりを、異樣な身振りをして踊りはじめ、 それ〜゛自分の假裝してゐる動物の啼き聲を摸倣(まね)て、唸つたり、鼻を鳴らしたり、 蛇のやうにしゆう〜音をたてたりした。

その踊りは大分長くつゞいた。そのうちに吾々はこの默劇に飽きて來たので、レオと二人で少しぶらぶら歩いて、 人間の松明を見て來てもいゝかとアッシャに訊ねた。彼女は別にそれに逆らはなかつたので、 吾々は起ち上つて、左手の方へ歩いて行つた。一つか二つ燃えてゐる人間の身體を見ると、 吾々はすつかり胸が惡くなつて來たので、あとへ引き返さうとした。 その時吾々は一人の踊子に注意をひいた。その踊子は豹の扮裝をして、仲間の動物から離れて、 吾々のすぐそばでとりわけ元氣に踊つてゐたが、だん〜、 燃えてゐる木乃伊(ミイラ)木乃伊(ミイラ)の丁度等距離にあたる一番暗いところまで來た。 吾々は好竒心にかられてその方へついて行つた。すると突然、この踊り子は、吾々の前を通りすぎて、 外側の暗がりの中へ突き進んで行き、足で起ち上つて「こつちへいらつしやい」と低い聲で言つた。 吾々は、その聲を聞いて、すぐに、アステーンの聲であることを知つた。レオは私に相談もせずに、 くるりと身をめぐらして彼女のあとについて、外側の暗闇の中へ行つた。私もこは〜゛、 急いで二人のあとを追ふた。豹が、かれこれ五十歩も匍つてゆき、松明の明りも、 篝火(かゞりび)の光りもとゞかぬところまで來たときに、レオは豹の扮裝(なり)をしたアステーンに追ひついた。

「あなた!」といふ囁き聲が私の耳にきこえた。「たうとう妾はあなたを見つけました! きいて下さい[、]妾の命はいま女王のために取られかゝつてゐるのですわ。 きつと狒々(ひゝ)さんからお聞きになつたでせう。女王が妾を追ひ出したときの模樣は? わたしはあなたを愛してゐます。あなたは此の國の習慣で妾の夫になつたのですもの。 妾はあなたの命を助けてあげました。それだのにあなたは妾をお捨てになるの? ねえ、あなた、戀しいあなた?」

「勿論すてるやうなことがあるもんか」とレオは言つた。「僕はお前を探してゐたんだよ、アステーン[、] これから行つて女王にわけを話さう。」

「いゝえ、いゝえ、あの(ひと)は妾たちを殺してしまひます。 あなたはあの(ひと)の力を御存じないのです。そこにゐる狒々(ひゝ)さんは知つてゐます。 あの人は見たのですから。ねえ、あなた、逃れる道は一つしかありません。 若しあなたが妾をお見すてなさらないなら、今すぐに、沼地をこえて逃げて下さい。 さうすれば、もしかすると逃げおほせるかも知れません。」

「レオ、わしは頼むから」と私は言ひかけたが、アステーンはすぐに私の話を横取りした。

「いゝえ、この人の言ふことをきいちやいけません。はやく、はやく。死は目の間にあります。 今でも、ことによると女王は妾たちの話をきいてゐるかも知れませんわ」 彼女は片時の猶豫もなく、レオの腕に身を投げかけて、否應なしに相手を説きふせようとした。 彼女が身を投げかけた時に、彼女の頭から豹の頭が辷り落ちた。彼女の頭髮に、三本の白い指のあとが、 星あかりでかすかに光つてゐるのを私は見た。あまりに無鐵砲な計画に私は恐ろしくなつたのと、 それにまたレオは女にかけてはあまり強い方ではないことを知つてゐたので、 私はもう一度口をはさまうとした。すると後の方で、銀鈴のやうなかすかな笑ひ聲が聞えた。 私はうしろを振り返つた。恐ろしや!それは別人ならぬ女王であつた。 女王がビラリと二人の唖の男とをつれて立つてゐたのだ。私は()つと叫んでもう少しでその場に倒れさうになつた。 何故かといふとかういふ破目になつて來ては、 きつと恐ろしい悲劇がもちあがらねばおさまらぬにきまつてゐることを私は知つてゐたからだ。 しかも、最初に槍玉にあがるのはてつきり私らしいと思はれたからだ。 アステーンはといふと戀人を抱いてゐた手をはなして、兩手で眼をかくした。 レオはこの場の恐ろしさをまだ十分に知らなかつたので、たゞ顏を赧くして、 こんなきまりの惡い場面を見られた人が誰でもさうであるやうに、狐につまゝれたやうな顏をしてゐた。


更新日: 2003/02/12

第二十章 勝利


第二十章 勝利

それからしばらくの間、私が經驗したことのないやうな、何とも言へぬ苦しい沈默がつゞいた。 アッシャがそれを破つてレオに呼びかけた。

「お客さま」と彼女は言つた。その聲は此の上ないやさしい聲ではあつたが、 どこかに鋼鐡(はがね)のやうな冷たい調子をもつてゐた。「そんなに、 恥かしがらなくてもいゝでせう。まつたくよくお似合ですわ。豹と獅子(ライオン)なんて!」

「うるさいなあ!」とレオは英語で言つた。

「それからアステーン」と女王は言葉をつゞけた。「ほんとに妾はお前し知らずに通り過ぎるところだつた、 あの光がお前の髮についてゐる白い縞を照してくれなかつたら」かう言ひながら彼女は地平綫の上に昇つたばかりの、 皎々(かうかう)たる月を指さした。「さう!さう!舞踏ももうすんだし、松明も燃えつくしてしまつたし、 何もかも靜かになつて、灰になつてしまつたので、お前は、戀をするのに又とない時だと思つたのだね -- ところが、妾は、妾の命令にそむく者はないと思つてゐたのですよ、 お前はもうとつくに遠くへ行つてしまつたのだと思つてゐたのですよ。」

「妾をからかはないで下さい」とかはいさうな女は苦しい聲でうめいた。 「妾を殺して、きれいに片附けてしまつて下さい。」

「おや、どうして?熱い戀の脣から、そんなに速く、冷たい墓場の口へ行くのはよくありませんよ」 かう言ひながらアッシャが合圖すると、唖どもは、すぐさま、づか〜とアステーンのそばへやつて來て、 彼女の兩腕を兩方からつかんだ。畜生つと言ひながら、レオは近くの唖に跳びかゝつて、 その男を地べたに投げつけ、ぢつとその男を睨みつけながら(こぶし)を握りしめて立つてゐた。

アッシャは再び笑つた。「ずゐ分見事にお投げになりましたのね。ついこないだまで御病氣だつたにしては、 ほんたうにお強い腕ですこと。でもお願ひですから、この男は殺さないで、妾の命令(いひつけ)をさしてやつて頂戴! あの女に危害を加へるやうなことはさせませんから。夜の風が冷たくなりましたから、 あの()は妾の居間へつれてゆかうと思ふのです。あなたのお氣に入りの()ですもの、 妾だつて大事にしますわ。」

私はレオの腕をつかんで、地べたにへばつてゐる男のそばから彼を引きはなさうとした。 彼は半ば途方にくれてゐたが、私の言ふとほりになつて、その男からはなれた。 そこで吾々は丘を横ぎつて、洞窟の方へ向けて歩き出した。丘の上にはもう踊り子の姿は見えなくなり、 彼等の舞踏を照してゐた明りも消えて、たゞ白い人間の灰ばかりがあとにのこつてゐた。

それから吾々はまつすぐにアッシャの居間へ着いた。次に起ることについて不吉な豫感をもつてゐたゝめに胸がふさいでゐたので、 あまりに早く着いたやうに私には思はれた。

アッシャはクッションの上に腰を下して、ジョッブとビラリを退()け、氣に入りの一人の召使だけをのこして、 あとの唖どもには、ランプをおいて立ち去るやうに合圖をした。 吾々三人はその場に立つてのこつてゐた。不幸せなアステーンは吾々一同から少し左にはなれて立つてゐた。

「さてホリイ」とアッシャは口をきつた。「あなたは妾がこの惡いことをした娘に」 彼女はアステーンを指しながら言つた。「立ち去るやうに命令(いひつ)けたのを聞いてゐましたね。 あなたがあまり頼むもんだから妾はこの女の生命(いのち)を助けてやつたのですよ。 そのあなたが、なぜ、今夜妾が見たやうなことにかかりあひなさつたのです?返事をなさい。 そして、あなたのために言つておきますが、ほんたうのことを仰言(おつしや)い。 妾はこのことについては、(うそ)はきゝたくありませんから!」

「まつたくの偶然だつたのですよ、女王」と私は答へた。「私は何も知らなかつたのです。」

「妾はあなたの言葉を信じますよ、ホリイ」と彼女は冷やかに答へた。 「妾があなたを信じるのは、あなたのためにしあはせですよ。では罪はすつかりこの女にあるのですね?」

「罪なぞ何もありませんよ」とレオが遮ぎつた。「この女は誰の妻でもありませんよ。そして、 この國の習慣に從つて、私と結婚したらしいですよ。誰も害を受けたものはないぢやありませんか? いづれにしても、夫人(おくさん)、この()がしたことは私がしたことです。 この女を罰するなら、私も一しよに罰して下さい。」それから彼は怒りのために聲をはげまして言葉をつゞけた。 「若しこの唖どもに、この女に指でも觸らせたら、私は、そいつを八つ裂きにしてしまひますよ、言つておきますが!」

アッシャは氷のやうに默つてきいてゐた。そして何とも言はなかつた。だが、レオの言葉がをはると、 彼女はアステーンに向つて言葉をかけた。

「お前は何か言ひたいことがありますか。淺墓な女だ。はしたない情慾をみたすために、 妾の意志の風に逆うてまで、うかつにも漂うて行かうと考へるなんて、馬鹿な、 藁すべか羽根みたいなものゝくせに!どうしてお前はこんなことをしでかしたのです。 妾はそれがきゝたい!」

その時のアステーンの態度は世にも驚くべき勇氣と大膽との見本であつたやうに私は思ふ。 此の、あはれむべき、不運な女は、恐るべき女王の手中に生殺與奪の權を握られてゐると知りながら、 しかも以前の苦い經驗から彼女の敵手の力がどんなに偉大なものであるかを知りながら、 泰然自若として、絶望のどん底から、なほ、彼女に挑戰する力を曵き出したのであつた。

「妾がかういふことをしましたわけは」と彼女はきつと身體を伸して、けなげにつゝ立ち上り、 豹の皮を頭から拂ひのけながら答へた。「妾の戀は墓場よりも深いからです。 妾の心が選んだこの人と一緒に生きるのでなければ、妾は生きた死骸も同然だからです。 ですから妾は命を賭けたのです。今では妾の命はもうあなたの怒りにふれて無いも同じです。 けれども、いまでも妾は、命を賭けたことを喜んでゐます。命を賭けた以上は命を支拂はなければなりません。 この方は一度妾を抱きしめて、まだ妾を愛してゐると言つて下さつたのですもの。」

この時アッシャは半ば長椅子から起ち上つたが、また腰を下した。

「妾は魔法は知りません」」と彼女は豐かな聲量を一ぱいにはり上げて言葉をつゝけた。 「それに妾は女王でもありません。またいつまでも死なゝい命ももつてゐません。 けれども女の心といふものは、どんなに深い水の底へでも沈んでゆける程重いものですよ、 女王樣、女の眼はあなたのヴェールの奧まで見とほすことのできる程鋭いものですよ、女王樣!

「おゝお聽きなさい、妾は知つてゐます。貴女は御自分でこの人を愛してゐらつしやるのです。 それであなたの戀の邪魔になる妾を殺さうとなさるのです。妾は死にます。死にます。 死んで暗闇の中へ參ります。それともどこか妾の知らないところへ參ります。ですけれど、 このことだけは妾は知つてゐます。妾の胸には明りが輝いてゐます。 その明りによつて妾には眞理が見えます。 妾のないあとの未來が妾には卷物のやうにひろがつて見えるのです。 妾がはじめて妾の夫を知つた時」と言ひながら彼女はレオを指さして 「あの人の妾への結婚の贈り物は死であることも妾は知つてゐました。 そのことは突然妾にわかつたのです。けれども妾は背を向けないで、 その(あたひ)を支拂はうと決心しました。ところがどうでせう。今その死が來たではありませんか! それからいま運命の階段(きざはし)の上に立つて、そのことを知つてゐると同じやうに、妾は、 あなたが、あなたの罪から何の利益も刈りとることはできないつてことも知つてゐます。 あの人は妾のものです。あなたの美しさは、星の中の太陽のやうに輝いてゐますけれど、 あの人は決してあなたのものにならないで、いつまでも妾のものです。 あの人は此の世で、決してあなたを見むきもしなければ、あなたを妻と呼ぶこともないでせう。 あなたの運命も矢つ張りきまつてゐるのです。妾には見えます」彼女の聲は、 こゝで靈感を受けた女預言者の絶叫のやうに、一段と張り上つた。「あゝ、妾には見えます --」

その時、これに答へる憤怒の叫びが鳴り響いた。私は聲のする方へ顏を向けた。 アッシャはすつくと立ち上つて手を伸してアステーンを指さしてゐた。するとアステーンは急に默つてしまつた。 私はこのかはいさうな女をぢつと見つめた。私が見つめてゐるうちに、彼女の顏には、以前に、 變な歌を歌ひ出したときと同じやうな、悲しさうな、恐怖の表情が浮んで來た。 彼女の眼は大きくなり、鼻孔はひろがり、脣は白くなつた。

アッシャは一言も言はず、ごとりとも音をさせないで、たゞ身體をしやんと伸して、腕を差し出してゐた。 そしてヴェールにまとはれた彼女の高い全身は白楊(はくよう)の葉のやうに震ひ、 ぢつと犧牲者を凝視(みつめ)てゐる樣子であつた。アステーンはアッシャに凝視(みつ)められながらも、 兩手を頭へ上げて、一聲絹を裂くやうな叫び聲をあげて、くる〜と二度身を廻して、ばつたり床の上に倒れた。 レオと私とは彼女のそばへ走り寄つた。あゝ彼女はもう石のやうになつて死んでゐたのだ。 恐るべき女王の不思議な靈力、或は壓倒的意力に感電して即死したのだ。

しばらくの間レオは何が起つたのか知らなかつた。だが我に返ると、彼の顏は見るも凄まじい形相になつた。 荒々しい呪ひの言葉を叫びながら、死骸のそばから起ち上つて、向き直つたかと思ふと、 文字通り、アッシャに跳びかゝつた。だが、彼女はそれを見てゐた。そしてまた手を差し出した。 するとレオはよろ〜と私の方へよろけて來て、私がつかまへなければ倒れてしまふところだつた。 あとで彼は、その時のことを、まるでだしぬけに胸の(あたり)をこつぴどく打たれたやうな氣がしたと言つてゐた。 そして、その上に、まるで、すつかり男らしい勇氣を拔きとられたやうに、臆病になつてしまつたと言つてゐた。

その時、アッシャは言つた。「どうぞ妾をゆるして下さい、お客樣」と彼女はやさしく彼に話しかけた。 「若し妾の裁判(さばき)があなたのお氣に障りましたなら。」

「貴樣を許せつて、惡魔!」とかはいさうなレオは怒りと悲しみとに兩手を握りしめて叫んだ。 「貴樣を許してくれつて、この人殺しめ!きつと、殺せるものなら、殺してやる!」

「いゝえ」と彼女は前と同じやさしい聲で答へた。「あなたにはおわかりならんのです。 今こそあなたも知つてよい時です。あなたは妾の戀人です。妾のカリクラテスです。 妾の夫です!妾の力です!二千年の間妾はあなたをお待ちしてゐました、 カリクラテス。そして、今やつとあなたは妾のところへお歸りになつたのです。 それからこの女は」と死骸を指さしながら「妾とあなたとの仲を邪魔したのです。 ですから妾は殺してしまつたのですよ、カリクラテス!」

(うそ)をつけ!」とレオは言つた。「僕の名はカリクラテスぢやない。僕はレオ・ヴィンシイだ。 カリクラテスといふのは僕の先祖の名だ-- とまあ僕は信じてゐるんだ。」

「あゝ、あなたは、あなたの先祖がカリクラテスだと仰言(おつしや)るのですねえ。 で、あなたも矢つ張りカリクラテスなのです。カリクラテスの生れ(かは)りなのです。 妾のいとしい戀人なのです?[原文のまま]」

「僕はカリクラテスぢやない。それに貴樣の夫だつて、或は貴樣の何かだつて。 そんなものになる位なら、僕は地獄の惡魔の夫になる。惡魔でも貴樣よりはましだ。」

「ずゐぶんなことを仰言(おつしや)いますね、そんなことを、カリクラテス? でもあなたは長いこと妾を見なかつたのですつかりお忘れになつたのですわ。 妾はまだ仲々美しいのよ、カリクラテス!」

「僕は貴樣がきらひだよ、人殺し、それにちつとも貴樣なんか見たくない。 貴樣がどれ程美しくたつて、それが僕に何の關係があるんだ。僕はほんたうに貴樣が嫌ひだよ。」

「でも、ほんのもうしばらくたてばあなたは妾の膝の前に這つて、妾を愛するとお誓ひになりますよ」 とアッシャはやさしい、からかふやうな笑ひを浮べながら答へた。「さあ、いまがちやうど誂へ向きの時です。 このあなたを愛してゐた死んだ娘の前で、それを證據立てやうぢやありませんか。

「さあ、妾を御覽なさい、カリクラテス!」かう言ひながら彼女は、急に身を動かし、 薄紗(うすもの)のヴェールを拂ひのけ、低い肌着と蛇の帶とだけになつて、立ち上り、 輝くやうな美しさをあらはした。彼女がヴェールを脱ぎすてゝ立ち上つたときの姿には、 波の中から立ち上つたヴィナスか、大理石の中から拔け出したガラテアか、墓場から姿を現はした美裝した精靈のやうな風情があつた。 彼女は立ちあがつて、深い、ぎら〜光る眼差で、ぢつとレオの眼を見据ゑた。すると、 彼の握りしめた(こぶし)はひとりでにほどけ、彼の固くなつて慄へてゐた顏だちは、 彼女の凝視を受けてひとりでにゆるんで來るのを私は見た。彼の驚愕は讚歎とかはり、讚歎は憧憬と變つて、 もがけばもがく程彼女の恐るべき美はしつかり彼に喰ひ入り、彼の五官をとらへてそれをひきつけ、 彼の心の臟を、ひきずりだすのを私は見た。私にもかうした經驗はおぼえがある。 彼の二倍も年をとつて居る私もそれと同じ經驗をして來たのだ。否、現に、 彼女の美しい凝視は私に向けられてゐるのではないのに、私は同じ經驗を新たにしようとしてゐるではないか? さうだ、正にその通りだ。私はこの瞬間に、物狂ほしい迄に嫉妬を感じたことを白状しなければならぬ。 恥かしい話だが、私はレオに跳びかゝらうとした位だつた。この女性は、私の道徳感を攪亂(かきみだ)して、 殆んど破壞してしまつたのだ。誰だつて彼女の人間のものとも思はれる美しさを見たら、 十人が十人頭をかき亂されてしまふに違ひないのだ。だが、私はやつと、どうかかうか自分を制して、 もう一度この恐ろしい悲劇の絶頂を見るためにふり向いた。

「あゝびつくりした!」とレオは息を切らしながら言つた。「あなたは女ですか?」

「女ですとも、正眞正銘の女ですわ。そしてあなたの妻ですわ、カリクラテス!」と彼女は答へた。 そして、圓い象牙のやうな腕を彼の方へ差し出して、何とも言へぬ美しい笑ひを洩らした。

彼は飽かずに彼女をしげ〜と見まもつてゐたが、だん〜彼女の方へにじりよつて行つた。 その時急に彼の眼は氣の毒なアステーンの死骸の上に落ちたので、ぶる〜身震ひしてたち停まつた。

「どうしてそんなことが?」と彼は(しはが)れ聲で言つた。「貴女は人殺しです。 この女は私を愛してゐたのです。」

ほら、もう、彼は彼がアステーンを愛してゐたことを忘れてゐたのだ。

「そんなことは何でもありませんわ」とアッシャは樹の間を渡り行く夜風のやうなやさしい聲でつぶやいた。 「何でもありませんわ。若し妾が罪を犯したのなら、妾の美しさに免じて許して下さい。 妾が罪を犯したのも、あなたを愛すればこそです。ですから妾の罪などは、うつちやつて、 忘れて下さいね。」そして彼女はもう一度兩の腕を伸して「」いらつしやいと囁いた。 それから數秒間で萬事が決着してしまつた。

私はレオがもがいてゐるのを見た。彼が逃げ出さうとしてゐるのをさへ見た。だが、彼女の眼は鐡の鎖よりも強く彼をひきつけ、 彼女の美しさと、集中された意志と情熱との怪しい力は彼の心の中へ沁み(とほ)つて彼を壓倒してしまつた。 しかもしれは、死を賭してまで彼を愛した女の死骸を前にしての出來事なのだ。これは實に恐ろしい、 惡いことのやうに聞えるかも知れないが、あまり深く彼をとがめるわけにはゆかない。 罪は彼のせゐではないのだ。彼を邪惡にひきつけた女の誘惑は人間以上のもので、 彼女の美しさは人間の娘の美しさ以上のものだつたからである。

私は再び見上げた。その時には彼女の身體は、すつかり彼の腕に抱かれ、彼女の脣は彼の脣におしつけられてゐた。 かくして、死んだ戀人の屍體を祭壇として、レオ・ヴィンシイは、 戀人の血で手の染まつた殺人女と結婚の誓ひをかはしたのである。 その誓ひは一日(いちじつ)の誓ひであるとはいへ又永久の誓ひでもある。 何故なら、こんな風にして名譽も魂も情慾のために賣つてしまつた人は、 それから解放されることは容易なことではないからである。

突然彼女は蛇のやうに身をくねらして彼の抱擁から辷り拔けたかと見ると、再び低い聲で、 からかふやうな勝利の笑ひを洩らし、アステーンの屍體を指しながら言つた。

「妾は、しばらくすればあなたが妾の膝の前に這ひなさると言つたでせう、 カリクラテス?ほんたうに、あまり長い時間はかゝらなかつたわねえ!」

レオは恥しさと面目なさとで呻いた。彼はすつかり、壓倒され、打ちひしがれてゐたけれど、 自分がどれだけ墮落の深味へしづみこんだかに氣のつかぬ程性根が腐つてはゐなかつた。

アッシャ三度び笑つた。そして大急ぎでヴェールをかぶつて、不思議さうな眼をしてこの妙な場面を見てゐた唖娘に合圖をした。 すると唖娘は(へや)を出て行つたが、すぐに二人の男の唖をつれてひき返して來た。 女王はこの男の唖にまた別の合圖をした。そこで、三人の唖は、あはれなアステーンの死骸の腕をとつて、 洞窟の床を重さうに曵きずつて行つてカーテンの外へ運び出した。レオはしばらくすると兩手で眼をおほうた。 私もひどく昂奮したせいか、アステーンの死骸が、出てゆきがけに、吾々を見つめてゐるやうに思つた。

カーテンが搖れて、もとの位置にかへり、その蔭へ氣味の惡い一行が消え去つたときアッシャは 「あゝ過去の死人は過ぎ去つて行く」と嚴肅に言つた。それから、また彼女はがらりと氣分を一變して、 ヴェールを脱ぎすて、アラビラ[原文のまま]の住民の古い詩的なしなをつくつて、勝利の讚歌、 或は結婚の祝ひの歌を歌ひ出した。それは實に美しい情味に溢れた歌であつたが、 英語に飜譯するのは非常にむづかしい。それは、實際書いたり、讀んだりする歌ではなくて、 音樂にあはせて歌ふ歌である。それは二部に分かれてゐて、第一部は敍事詩で、第二部は抒情詩であつた。 私のおぼえてゐるかぎりを記すとそれは次のやうな歌であつた。

戀は沙漠の花に似たり。
たゞ一度花さきて枯れてゆく、アラビアの蘆薈(アルウ)に似たり。つらき浮世に花咲きて、 浮世の荒野を飾るなり、嵐の上の星のごとく。
戀の日輪は精靈にして、その周圍には神風そよぐ。
過ぎ行く人の跫音(あしおと)に戀は花咲き、過ぎゆく人にしなだるゝ。
過ぎ行く人はこれを摘む。蜜に充ちたる赤き花を摘みて、沙漠の中を運びゆく。 花枯るゝまで、沙漠の盡くるまで。
人の世の荒野に咲く赤き花は唯一つ、
その花こそは戀なれ!
吾等が放浪の闇を照す光は唯一つ。
その光こそは戀なれ!
吾等が絶望の夜に輝く希望は唯一つ。
その希望こそ戀なれ!
戀ならぬものは皆(いつは)りなり。水に(ゆら)ぐ影なり。風なり、空虚なり。
戀の大きさを知るものありや?
戀は肉より生れて靈に宿り、靈と肉とより樂しみをとる。
戀の美しさは星の如し。
その形は樣々なれど、美しさはみな一つ。その星の何處(いづこ)より昇り、何處(いづこ)へ沈むかを知る者はたえてなし。

それからアッシャはレオの方に向きなほり、彼の肩に手をおいて、前よりも一段と朗らかな、 勝ち誇つたやうな調子で歌ひはじめた。釣合のとれた歌の節は徐々に高潮に逹してロマンチックな散文から、 清淨、莊重な韻文にかはつていつた。

戀人よ、吾は長くおん身を戀しね。されどわが戀は衰へざりき。
吾、おん身を長く待ちし甲斐ありて、今や報ひは來れり。
遠き昔吾はおん身を見ぬ。おん身は吾より奪はれゆきぬ。
吾は墓場に忍耐の種を蒔き、希望の日にてそれを照らし、悔恨の涙もて水かひ、智慧のいぶきをかけぬ。
さればいま種子は芽生えて實を結べり。見よ、そは墓場より芽ばえぬ。さなり枯れたる骨と(しかばね)の中より。
吾、待ちわびし報いは今ぞ來れり。
吾は死に打ち克ち、死は死せる人を吾にかへしぬ。
されば吾樂しまsん、未來は美しければ。
吾等が過ぎ行く牧場(まきば)永久(とこしへ)に緑なり。
時は來れり。夜は溪間(たにま)へ去れ!
曙は山頂に接吻(くちづけ)せり。
戀人よ、吾等樂しく過さん、安らかに行かん。
吾等王冠を戴かん。
世の民はみな、吾等をあがめ、吾等に驚き、吾等の美と力とに眼くらみて平伏(ひれふ)さん。 吾等の(おほい)さは時より時へと鳴り響き、限りなき日を走りゆく戰車の如く(とゞろ)かん。
吾等笑ひながら勝利の榮華に馳せゆかん。
小山にをどる日光の如く笑ひながら。
勝利より新たなる勝利へと限りなく進まん。
力より新たなる力へと限りなく進まん。
光榮を身にまとひて倦まず進まん。
吾等の運命をはりて、夜の襲ひ來るまで。

彼女はこの不思議な歌を歌ひ了ると、ちよつとやすんでから言つた。

「多分あなたは妾の言葉を信じなさらんでせう、カリクラテス。 多分あなたは妾があなたをだましてゐるとお思ひでせう。 妾が長い年月の間生きてゐたとか、あなたが生れ(かは)つて來たのだとか言つても信じなさらんでせう。 ですけれどそんな風に考へないで下さいね。これには(いつは)りはないのですから。 たとひ太陽が西から出やうとも、燕が古巣を忘れやうとも、妾の心は(いつは)りを誓ひませんわ。 妾はあなたを見忘れはしませんわ、カリクラテス。たとひ目かくしをされようとも、 眼をとり去つて妾のまはりに闇の(かき)をゆはうとも、私の耳があなたの聲を覺えてゐます。 たとひ耳を奪はれても手であなたの額をさはれば、妾にはあなただとわかります。 いゝえ、たとひ五官を奪はれやうとも、妾の魂は、『これがカリクラテスだ』と妾の胸に囁きます。」

彼女はしばらく言葉をきつたあとでまつゞけた。「お待ちなさい。もしまだ合點がおゆきなさらなぬなら、 そして何か證據を御覽になりたいなら、今すぐその證據をお目にかけませう。ホリイ、あなたにも見せますわ。 お二人ともめい〜手燭をもつて、妾のあとからついて來て下さい。」

私は、いくら考へて見たつてわからぬことだらけなので、もう考へることをやめてしまつた。 そして吾々は手燭をもつて彼女のあとについて行つた。

アッシャが(へや)の端まで歩いて行つて、カーテンをあけると、そこに一つの小さい階段が現はれた。 それはこの薄暗いコオルの洞窟ではよく見受ける階段であつた。吾々はその階段を急いで降りて行つたが、 その時に私は、この階段はもとの厚さは七吋半もあつたらしいのに、 その中央部が三吋半くらゐに凹んでゐることに氣がついてどういふわけだらうとあやしんだ。 かうした場合には却つてちよつとしたことが氣になるものだ。

階段を降りきつたところで立ち停つて、擦り減つた階段を見つめてゐるとアッシャが私の方をふり返つた。

「この岩をこんなに踏み減らしたのは誰の足だらうと不審がつておいでなんですか、ホリイ?」 と彼女は訊ねた。「これは妾の足ですよ。この輕い妾の足なのです。 妾はまだあの階段が新しくて平らだつた時のことをおぼえてゐます。 だが、二千年あまりの間、妾は毎日々々この階段を通つたのです。 ですから御覽なさい。妾の雪駄で、固い岩がこんなに減つてしまつたのです!」

この階段は隧道(トンネル)につゞいてゐた。隧道(トンネル)を五六歩進むと、 掛幕(カーテン)のかゝつた入口があつた。それを一目見て、私は、その(へや)はいつかの晩、 明滅する焔の光で私が物凄い場面を見た時の室であることを知つた。 カーテンの模樣に見覺えがあつたのだ。で、それを見ると、あの恐ろしい光景がまざ〜と眼の前へ浮んで來て、 思ひ出しただけでも胴慄ひがした。それは墓所であつたのだ。アッシャはそのなかへはひつた。 吾々もそのあとについて行つた。私はこの墓所の祕密がこれからわかつて來るのだと思ふと嬉しくもあり、 また恐ろしくもあつた。


更新日: 2003/02/12

第二十一章 死者と生者との邂逅


第二十一章 死者と生者との邂逅

「此處が妾が二千年の間眠つてゐた場所なのです」とアッシャはレオの手から手燭をとつて、 それを頭の上にかざしながら言つた。

「此處に」とアッシャは岩の上に手をのせながら言葉をつゞけた。「私は毎晩毎晩、この長の年月、 外套一枚着て眠つたのです。妾の夫が妾の夫が」と言ひながら彼女は石の寢臺に寢てゐる固くなつた人の姿を指して 「こんなに固くなつて死んでをられるのに、妾が柔かい夜具にくるまつて寢るなんて不都合ですものね。 こゝに、妾は、毎晩毎晩、冷たくなつたつれあひと一緒に寢てゐたのです。御覽なさい、この石の板は、 今しがた妾たちが通つて來た階段と同じやうに、妾が身體を動かしたのでこんなに磨り減つてゐます。 それほどまでに妾は、あなたが眠つていらつしやる間もあなたに(みさを)をたてゝゐたのですわ。 これからあなたに妙なものを御覽に入れませう。生きてゐるあなたに死んでゐるあなたをお目にかけませう。 ようござんすか?」

吾々は返事もしないで、呆氣にとられて顏を見合せた。アッシャは前へ進み出て、屍衣の端をつかんでまた語り出した。

「吃驚なさることはありませんわ」と彼女は言つた。「あなたがたには不思議に見えるかも知れませんが、 現在生きてゐる者は、みんな以前にも生きてゐたことがあるのです。たゞ妾たちがそれを忘れてゐるだけのことです。 でこれから死んだあなたと生きてゐるあなたとをあはしてあげませう。おくら長い年月がその間に横はつてゐても、 あなたは矢つ張りあなたです。恐れるには及びませんよ、カリクラテス、これから、 こないだ生れ更つたばかりのあなたが、遠い昔に此の世を去つたあなたを御覽になるのです。妾は、 ほんの妾の生涯の一ページをめくつて、そこに書いてあることをあなたにお目にかけるのです。 さあ御覽なさい!」

急に身を動かして、彼女は冷い身體から屍衣を拂ひのけて、その上を手燭で照した。 私はそれを見て、ぞつとして身體をすくめた。實に、吾々の前に石の棚の上に白衣をまとうて横はつてゐたのは、 レオ・ヴィンシイそのまゝの人の姿であつたのだ。私はそこに生きて立つてゐるレオと、死んで横はつてゐるレオとをじろ〜見くらべた。 二人の間には少しの違ひもなかつた。たゞ横はつてゐる方のレオがいくらか老けて見えただけであつた。 顏の造作の一つ一つもすつかり同じで、レオの顏をなみ〜ならず美しく見せてゐる金色(こんじき)捲髮(まきげ)の刈りこみまで、 寸分もちがはなかつた。死人の顏の表情は、レオがぐつすり熟睡してゐるときの表情にそのまゝだつた。 私はこの死者と生者と位よく似た隻生兒(ふたご)を見たことがない。かういへば、 この二人がどれほど似てゐたかゞわかるであらう。

私は、レオがどんな樣子をして、この死んだ自分を見てゐるかと思つて彼の方を振りむいた。 彼は呆然としてゐた。そして二三分間棒立ちになつて、默つてそれを見てゐたが、たうとう吐き出すやうに叫んだ。

「それをかくして下さい、そして私をあつちへつれて行つて下さい。」

「まあお待ちなさい、カリクラテス」とアッシャは言つた。彼女はまるで神の靈示を受けた巫女のやうにつゝ立つて、 頭上に手燭をかざし、彼女自らの豐かな美しさと、屍衣をまとうて棚の上に横はつてゐる不思議な冷たい屍躰とを照しながら、 莊重な、闊逹な言葉で、おごそかに語り出した。

「お待ちなさい。これから或るものをあなたにお目にかけますわ。妾の罪をあなたに(かく)しておくのはよくありませんから。 ホリイ、死んだカリクラテスの胸のところを開けて下さい。妾の夫は死んだ御自分の身體に觸るのが恐ろしいでせうから。」

私は指を慄はしながら彼女の命令に從つた。 私のそばにゐる生きた人の眠つた(すがた)に手を觸れるのは何だか神聖を(けが)すやうな氣がした。 やがて冷たい胸があらはれた。そして、ちやうど心臟の眞上に、一つの傷痕があるのが見えた。 それは明かに槍か刀で刺した傷痕であつた。

「御覽になつたでせう」と彼女は言つた。「あなたを殺したのはこの妾なのですよ。 妾はあなたに生命(いのち)の代りに死を與へたのです。 妾は埃及(エジプト)女のアメナルタスのためにあなたを殺したのです。 この女は手練手管であなたを籠絡してゐたので、あなたはこの女を愛してをられたのです。 そしてその女は強かつたので、妾は、いまあの女を()ち殺したやうにその女を殺してしまふことはできなかつたのです。 妾は怒りのあまり、あわてゝ、ついあなたを殺してしまつたのですが、それからといふものこの二千年の間、 妾は、悲歎にくれて、あなたの再來をお待ちしてゐたのです。ところが今度はあなたはたうとう歸つて來られました、 今度は妾たちの仲を邪魔する者はなくなりましたから、こん度こそ妾は、あなたに、 死のかはりに生命(いのち)を差し上げます。それから、これまでだつて、これから先だつて、 誰ももつたことのないやうな力と富と美とをあげます。この死骸が、この長の年月の間、妾の冷たいつれあひであり、 妾の慰めでありましたが、もう、今となつては、生きたあなたが歸つて來られたのですから、 これには用はありません。このやうなものは、妾の忘れたいと思ふ記憶を喚びおこすばかりです。ですから、 これはもう塵に返してしまひませう。御覽なさい、妾はこの嬉しい時のためにすつかり準備しておいたのです。」

彼女は、彼女の寢臺につかつたのだと言つた別の長椅子から、大きな、柄の二つついた硝子の壺を取り出した。 その口は膀胱で閉ぢてあつた。彼女はこの蓋をゆるめて、先づ、そつと死骸の上に身を屈めてその額に接吻をし、 それから、蓋をとつて、中の液が一滴でも吾々や彼女自身の身體へ飛ばないやうに非常に用心をしながら、 壺の中の藥液を死骸の上にふりかけた。それから殘つてゐる(しづく)を胸と頭とに埀らした。 すると忽ちにして、もや〜とした水蒸氣が立ち昇つて、洞窟の中は、むせるやうな煙で一ぱいになつた。 そのために、この恐るべき酸が作用してゐるうちに死骸がどうなつてゐたかはちつともわからなかつた。 私はこの藥液は強裂な何かの酸だらうと思つた。屍躰の横はつてゐる場所から、じいゝつと熔けるやうな音や、 ぱち〜はじくやうな音が聞えてゐたが、煙が消え去るまでにはその音も止んでしまつた。 やがて煙はすつかり消えて屍躰の上の方に小さい雲のかたまりになつて上つてゐるだけになつた。 それから二三分間もたつと、その煙も消えてしまつた。そして、不思議に思はれるかも知れないが、 實際だから仕方がない。何千年もの間、昔のカリクラテスをのせてゐた石の長椅子の上には、 ぶす〜くすぶつてゐる三握りか四握りの白い粉だけしか見られなくなつた。酸が完全に屍躰を破壞してしまつたのだ。 下の石までも少し腐蝕してゐた。アッシャは身を屈めてその粉をつかみ、それを空中にまき散しながら、 落ちついた莊嚴な聲で言つた。

「塵は塵へ!過去は過去へ!失はれたるものは失はれたるものへ!カリクラテスは死んだ、そして生れ(かは)つた!」

灰は吾々の身のまはりに漂うてゐたが、やがて岩の床の上に散りしいた。その間、吾々は、 默つてそれの落ちるのを見てゐた。あまりのことに呆氣にとられて言葉も出なかつたのである。

「さあもう行きなさい」と彼女は言つた。「そして眠れたら、よくお(やす)みなさい。 妾はよく見張りをしてゐて考へねばならんうことがありますから。明日の晩には妾たちはこの土地をはなれるのですからね。 そして妾は明日の晩行く道を隨分長いこと歩いたことがないのですから」

そこで吾々はお叩頭(じぎ)をして彼女のそばを辭した。

吾々の(へや)へ歸つたときに、私はジョッブがどうしてゐるかと思つて彼の寢てゐる場所をのぞきこんだ。 彼は、吾々が、舞踏の最中にアステーンに會ひに行く前に、すつかり、あの舞踏に怖氣(おぢけ)をふるつて逃げ出してゐたのだ。 彼はぐつすり眠つてゐた。可愛い奴だ。彼の神經は多くの無教育な人間の神經と同じやうにあまり強くないので、 今日のをはりの恐ろしい光景を彼が見ずにすんだことを私は喜んだ。それから吾々は吾々の(へや)へはひつた。 レオはかはいさうに、生きた自分の氷つた像を見てからといふもの、まるで呆然としてゐたが、 (へや)へ歸ると、急にひどく悲しみ出した。もうあの恐ろしい女王の面前にゐのでではないのに、彼に、 今までに起つて來たこと、わけても、彼と離れられない仲にあつたアステーンが無殘にも殺されたことを思ひ出して、 悲しみが嵐のやうに一度にどつと押し寄せて來るのであつた。そして彼は悔恨と恐怖とに責めさいなまれて、 見るもいたいたしい位だつた。彼は彼自身を呪つた。吾々が壺の破片に記してあつた文字をはじめて見た時を呪つた。 其の文字は不思議にも實證されて來たのだ。それから彼は彼自身の弱さをひどく呪つた。だが彼はアッシャを呪はうとはしなかつた。 いつまでも吾々が何をしてゐるかを見てゐるかも知れないやうな、不思議な靈の力をもつた、 このやうな女のことを惡くいふことなどは誰にだつてできはしないのだ。

「僕はどうしたらいゝでせう、叔父さん?」と彼は悲しみのあまり、彼の手を私の肩において、 うなるやうに言つた。「僕はあの女を殺さしてしまつたのです。しかも殺されるのをだまつて見てゐたばかりか、 五分間もたゝぬうちに、あの女の屍骸の上で、あの女を殺した當の女と接吻をしたのです。 僕は墮落した獸だ。だが僕はそれをどうすることもできない。」こゝで彼は一段聲を沈めて 「恐ろしい魔法使ひだ。僕は明日も同じやうにするにきまつてゐます。僕はもう永久にあの女に支配されるにきまつてゐます。 僕にはそれが判つてゐるのです。たとひ、これから先二度とあの女を見なくても、 僕は一生あの女より他の女のことは考へんでせう。僕は針が磁石についてゆくやうにあの女についてゆくに違ひありません。 僕はいま此の場を逃げることができても逃げたくないのです。あの女からはなれることはできんのです。 僕の足がいふことをきかんでせう。だが僕の心はしつかりしてゐます。僕は心の中であの女を憎んでゐる。 少くも憎んでゐると思つてゐる。何もかも怖ろしい。それにあの死んだ男、あれをどうすることができやう? あれは僕だつたのです!僕は賣られて(とら)はれの身になつてゐるのですよ、叔父さん。 あの女はあの女の身の代金として僕の魂をとるでせう!」

その時私ははじめて、私もそれと同じやうな經驗をしたことを彼に話した。すると、レオは、 彼自身が溺れきつてゐたにも拘らず、私に同情してくれるだけの分別をもつてゐた。 このことは是非言つておかなくちやならぬ。多分彼は嫉妬するのがものでもないと考へたのであらう。 あの女については、彼の方では嫉妬する理由は何もなかつたからである。 私は彼に逃げ出さうではないかと勸めて見た。だがすぐに、到底逃げおほせるものではないことをさとつた。 それに、洗ひざらひ正直に言つてしまへば、何か素晴らしい力があつて、 この陰氣な洞窟からケンブリッヂへつれて行つてやらうと申し出たにしても、 吾々は二人ともアッシャからはなれる氣にはならなかつたらうと私は思ふ。 吾々は、蛾が身を焦すのを知りながら光からはなれることができないやうに、彼女から離れることができなかつたのだ。 吾々は札つきの阿片常用者のやうなもので、 正氣の時には自分のやつてゐることがどんなに恐ろしいものであるかをよく知つてゐるにかゝはらず、 その恐ろしい快樂をすてる氣にはならなかつたのだ。

誰だつて、一度彼女のヴェールをとつた姿を見、彼女の樂の音のやうな聲を聞き、 彼女の言葉に含まれてゐる若い智慧を呑んだ人なら、どんなことがあつたつてその快樂をすてる氣にはならぬだらう。 ましてや、レオの場合のやうに、この素晴らしい女から獻身的に愛慕され、 二千年もの間彼のために(みさを)を守つて來たらしい證據を見せられた日にはたまつたものではない。

疑ひもなく彼女は惡い人間だ。それに疑ひもなくアステーンが戀の邪魔をした時に、彼女を殺した。 だが、彼女は戀には忠實であつた。男の性質として、兎角女の罪は輕く考へ勝ちなものだ。 とりわけその女が美しくて彼を愛するあまり罪を犯したやうな場合には猶更さうだ。

私は今に至るまでアッシャを愛してゐる。そして他のどのやうな女に一生愛されるよりも、 たつた一週間でもいゝから、彼女に愛される身になつて見たいと思ふ。私の言葉を疑ふ人や、 私を馬鹿だと思ふ男に、一度アッシャのヴェールを脱いだ姿を見せたら、 その男の意見はすぐに變つて私に同感するにきまつてゐる。私は勿論男について言つてゐるので、 女はさうでないかも知れない。女はかういふ女をきらふかも知れないのだ。

二時間あまりの間、レオと私とは、吾々が今までに經驗した不思議極まる事件について語りあつた。 それは、嚴肅な事實ではなくて、まるで、お伽噺の中の夢のやうに思はれた。壺の破片にしるしてあつた文字が、 眞實であつたばかりでなく、吾々が、その事實であることを實際に確かめ、コオルの墓場の中で、 吾々の來るのを二千年も待つてゐた女にあつたなんて言つたつて誰が信ずるものがあらう? 彼女がレオを見て、これが彼女が二千年間待つてゐた戀人だといふことを一目で見わけたなんて言つたつて誰が信ずる者があらう。 だが、これは事實だつたのだ。吾々は人間の智識の無力さをつく〜゛痛感しながら、これから先の運命を天にまかせて床についた。


更新日: 2003/02/12

第二十二章 ジョッブの豫感


第二十二章 ジョッブの豫感

次の朝の九時頃ジョッブが吾々の(へや)へやつて來た。彼はまだ、驚きがしづまらないと見えてぶるぶる慄へてゐたが、 吾々の無事な姿を見てほつと安心した樣子であつた。吾々が無事でゐたことは、彼には意外らしかつた。 私がアステーンの無殘な最期を話して聞かせると、彼は益々吾々の無事であつたことを感謝したと同時に、 彼とアステーンとは互に好意をもちあつてはゐなかつたが、彼女のために女王のしうちをひどく憤慨して、 彼女のことをいろ〜惡しざまに言つた。

「だつて兎に角あの女はレオの生命を助けてくれたぢやないか」と私は言つた。

「さうです。しかし、その代りに、あの女はレオ樣の魂をとつてしまひますよ。 あの女はレオ樣をあの女と同じやうな魔法使ひにしてしまひますよ。 あんな連中にかゝりあふことは惡いことだと私や思ひますね。私や、昨夜眠れませんので、 床の中で、母親(おふくろ)に貰つた小さい聖書を開いて、魔法使ひのことの書いてあるとこを讀んでゐたら、 こはくなつて來て髮が逆立ちになりましたよ。ジョッブがこんなとこへ來てるのを見たら、 母親(おふくろ)がまあ何ていふだらう!」

「實際、妙な國だね、こゝは、それにこゝに住んでゐる人間どもゝ妙な人間どもだ!」

「さうでございますとも」とジョッブは答へた。「それに、こんなことを言ふと、 あなた樣は私を馬鹿だと考へなさるかも知れませんが、レオ樣の樣子は普通ぢやございませんよ」 -- (レオは早く起きて散歩に出てゐたのである) -- 「それから、私はこの國から無事にや歸れませんよ。 そのことを私は知つてゐるのでございます。昨夜私や夢を見ましたが、その夢の中で、私の年老つた親父が、 この國の晴着のやうな着物を來て、途中でとつて來たものと見えて、 この洞窟の入口から少し行つたところに澤山咲いてゐる妙な草花をもつて私に會ひに來ましたよ。 そして妙にかしこまつた口つきで、これでおさらばなんて言ふのです。 どうも私の生命(いのち)は長くないらしうございますよ。」

「馬鹿を言ふな、親父の夢を見たからといふて人が死ぬんだつたら、繼母(まゝはゝ)の夢を見た人はどうなるんだい?」 と私はからかつた。

「あなた樣は、私の親父を知らないからからかひなさるが」とジョッブは言つた。 「私の親父は特別なのです。私だつて別の人の夢を見たんなら何でもありませんが、 たとへばマリイ伯母さんの夢なんかなら何とも思ひませんが、私の親父と來たら特別なんです。 あの怠け者の親父がこんなところまで來るなんてよく〜のことです。 きつと私に用事があつたのでございますよ。だが、それはもう仕方がありません。 私は諦めてゐるのです。誰だつて一度は死なにやならんのですから。 けれどもせめて基督教式で埋めてほしいと思ひますよ。ホリイ樣、もしあなた樣が、いつか、 この土地から出なさる時があつたら、私の白くなつた骨だけをよくお願ひしときますよ。 あなた樣は多分出られるやうな氣がするのです。」

「おい、おい、ジョッブ」と私は眞面目になつて言つた。「そんな囈語(たはごと)を言ふもんぢやない。 どうしてそんな馬鹿なことを考へるのだ?吾々はこれまでだつて、ずい分妙な目にあひながら生きて來たのだから、 これからだつて生きて行けるぢやないか。」

「いゝえ」とジョッブは固く信じてゐるやうな調子で言つた。私に[原文のまま]それを聞くと何だ[原文のまま]惡くなつた。 「これは囈語(たはごと)ではありません。私の運命はもう極つてゐるのでございます。 私にはさういふ氣がするのです。實にいやな氣持ちで、どうしてこんな氣がするのか自分にもわからんのです。 蟲が知らせるといふことは誰にだつてあることでございます。あなた樣にだつて食事をしていらつしやる時に、 毒藥のことをお考へになつたら、お食事が胃の腑につかへるでせう。こんな暗い洞窟の中を歩いてゐる時に、 ナイフのことを思ひ出すと、背中がむず〜して慄へて來るでせう!それと同じです。だた私は、 死んだアステーンといふ娘さんと同じやうに、世間竝の人よりは少し勘が強いだけなんでございます。 だけど死ぬのはまあいゝとして、せめてあの燒壺で殺されるのでなけりやいゝと思つとるのでございます。」

「馬鹿な、馬鹿な1」と私は怒つて怒鳴つた。

「ほんたうに、こんなところで、あなた樣と議論してゐる場合ぢやありませんでした。だがこれから先も、 私を一緒につれていつて下さい、ホリイ樣。ところで、これから朝食をもつて參りませう。」 かう言ひながら彼は出て行つた。後にのこされた私はひどく氣がむしやむしやして來た。

私はジョッブを非常に可愛がつてゐた。この男は、私が生涯にかゝりあつた人間の中で、誰よりも氣だてのよい、 正直な男であつたので、私は召使といふよりも寧ろ友逹のやうにつきあつてゐたのである。 だから彼の身に何事か起るのではないかと思ふと、咽喉に塊りができるやうな思ひがしたのだ。 彼の言つたことは、なる程つまらぬことではあつたが、その言葉の底に、 何事かゞ彼の身に起ることを彼がかたく信じきつてゐることがわかつた。 それはたわいもない迷信であるにしろ、私はいくらかひやりとせざるを得なかつた。

やがて朝の食事が運ばれて來た。それと同時に散歩に行つてゐたレオも歸つて來た。 此の際、レオと食事とは兩方とも私には有り難かつた。といふのはそのお蔭で氣をまぎらはすkとができたからである。 朝食がすむと、吾々はまた散歩に出かけて、アマハッガー人が麥酒(ビール)の原料にする麥を蒔いてゐるのを見た。 彼等の麥の蒔きかたは、聖書に書いてある通りの蒔き方だつた。 即はち一人の男が山羊の皮でこしらへた袋を腰のまはりにゆはいつけて、 大股に歩きながら種子(たね)をまきちらして行つた。アマハッガー人のやうな恐ろしい人間でも種蒔きのやうな、 しをらしい、愉快な仕事をするのを見て私はほつとした。多分、そんなことをすることによつて、 彼等も爾餘(じよ)の人間とどこかに共通點をもつてゐるやうに思はれたからであらう。

散歩から歸るとビラリが待つてゐて、女王が吾々に會ひたいと言つてゐる旨を告げた。 そこで吾々はおそる〜彼女の前へ出た。アッシャといふ女は世間一般の通則の例外で、いくら彼女と親しくなつても、 情熱や、驚異や、恐怖の念を抱かせこそすれ、侮蔑の念を抱かせるやうなことはなかつたのである。

吾々はいつものやうに唖どもに案内された。唖どもが去るとアッシャはヴェールを脱いでもう一度レオに抱擁してくれと言つた。 それは前夜のうちに彼が變心したかどうかをためすためだつたのだが、彼は嚴格な禮儀としての必要以上に勇んで、 熱をこめて彼女を抱擁した。

女王は白い手をレオの頭にのせて、彼の眼をなつかしげにしげ〜と見ながら言つた。「ねえ、カリクラテス、あなたは、 いつになつたら妾をすつかりあなたのものだと呼べるやうになるかとあやしんでいらつしやるでせう。 いつになつたら妾たち二人が、お互にお互のものとなれるかを疑つていらつしやるでせう。 それを聞かしてあげますわ。先づ第一に、あなたは妾と同じやうにならなくちやならないのですよ。 不死の身になるといふわけではありません。妾だつて不死ぢやないのですから。けれども、 時といふものに襲撃されないやうにかたく武裝しなくちやなりません。それまでは、 あなたと妾とは夫婦になるわけにはゆかないのよ。でないと、あなたと妾とはちがつてゐるのですから、 妾の輝かしさがあなたを燒きつくして、あなたの身をほろぼしてしまふかも知れないわ。 あなたは妾をあまり長い間見ていらつしやることすらできないのよ。あまり長く見てゐると、 あなたの眼が痛んで、あなたの五官がくらんで來ますからね、ですから」と言ひながら彼女はちよつとうなづいて 「妾はすぐにヴェールをかけます」((つい)でに言つておくが彼女はさう言ひながらなか〜ヴェールをかけなかつた) 「だが、まあおきゝなさい。妾はあなたを堪へられない程苦しい目にあはせはしません。 といふのは今日の夕方、日沒の一時間前に、妾たちはこゝを旅立つて、若し萬物都合よく行き、 妾が道に迷ひさへしなければ、明日の晩までには、妾たちは、生命(いのち)の場所へついて、 そこであなたは火を浴びて、立派なお身體におなりなさるのです。その時にこそあなたは妾を妻と呼び、 妾はあなたを夫と呼ぶことができるのですよ、カリクラテス。」

レオはこの驚くべき言葉に對して何か口の中でむにやむにや言つたやうであつたが、彼が何を言つたか私はわからなかつた。 彼女は彼が狼狽してゐるのを見て、少し笑ひながら言葉をつゞけた。

「それから、ホリイ、あなたにもこの冥利にあづからせてあげませう。さうすればあなたはいつまでも若くてゐられるのです。 あなたに妾がこのやうな恩典をさづけてあげるのは、あなたは大變妾を喜ばせてくれたからですよ。そして、 あなたは大抵の人間の子のやうに、まつたくの馬鹿ではないからです。それに、あなたは昔の哲學者と同じやうに、 馬鹿らしい哲學を信じてはいらつしやるけれど、 立派な文句も女の眼にあふとどんな風になつてしまふかを忘れていらつしやらぬからですわ。」

「おや叔父さん」とレオはいくらか以前の快濶な氣分に返りながら言つた。 「するとあなたもあの女に變なことを言つたと見えますね、あなたはまさかと思つてゐましたよ、僕は。」

「有り難う、アッシャ」と私はできるだけ威嚴をくづさないやうにして答へた。「けれども、 若しあなたの仰言(おつしや)るやうな所があつて、その不思議な場所には、死を遠ざかる力のある火があるとしましても、 私はそのやうなものはほしいと思ひません。私にとつては、 この世はいつまでも住んでゐたいやうな柔かな巣ではなかつたですよ。 吾々の地球は石のやうな心の母親で、その母親が子供に與へる毎日の食物は石の麺麭(パン)です。 食物としては石を與へ、(かつ)()するためには苦い水を與へ、やさしくいたはつてくれる代りに鞭で育てるのです。 なる程、吾々は死をおそれます。それは、吾々のかよわい肉體をむしばむ蟲をおそれるからです。 死のとばりの彼方にある未知のものを恐れるからです。これども、私の考へでは、 生をつゞけてゆく方がもつとつらいのです。葉は緑で美しくても、(しん)は枯れて腐つてしまひ、 永久に吾々の心お記憶の蟲に噛まれながら生きてゐるのはもつとつらいのです。」

「だがね、ホリイ」と彼女は言つた。「長い生命(いのち)と力と美とをもつてをれば、 限りない權力と、人間にとつて貴重なものが凡て得られますよ。」

「でも、その人間にとつて貴重なものとは何です、女王?」と私は答へた。 「そのやうなものは皆泡沫ではありませんか?功名心なんていふものは果しのない梯子のやうなものではありませんか。 どこまで登つても、上には上があつて、休息の處がないぢやありませんか? 富なんていふものは、すぐに飽きてきて、吾々の樂しみを充す事もできなければ、 心の安息を買ふ事もできなくなるではありませんか?智慧だつて同じです。吾々は學べば學ぶ程、 吾々の無智を知つてくるに過ぎません。吾々がたとひ一萬年生きてゐたとて、太陽の祕密や、 太陽の彼方の祕密を解くことができるでせうか?」

「でも戀といふものがありますよ、ホリイ。戀は凡てのものを美しくします。 妾たちの踏む埃ですら神々しいものにしますよ。戀さへあれば人生は樂しい、高尚なものになりますよ。」

「さうかも知れませんが」と私は答へた。「(しか)し戀の相手が折れた蘆で、吾々を刺すものであつた場合はどうです。 戀をしてもそれが無駄だつたらどうです?悲しみを水の上に書きさへすればすむのにわざ〜それを石に彫りつけるものがあるでせうか? いゝえ、女王、私は、私の一生だけ生きて他のものと一しよに年を老り、壽命が盡きた時に死んで忘れてしまひますよ。 あなたが命をのばして下さると言つたつて、それは世界の大に比べれば、ほんの指の長さ位のものに過ぎません。 私は肉體の不滅より魂の不滅を尊びます。肉體がつゞく限りは、悲しみも、惡も、罪もつゞきますか[原文のまま]、 魂はさういふものから解脱されてゐますからね。」

女王は私の考へを、彼女一流の哲學をもつて(ばく)したあとで、言葉の調子も、話題もがらりと變へて言つた。 「ところで、カリクラテス、あなたはどうしてこゝへ妾をたづねていらつしやいましたのですか? 妾はまだそのわけを知らないのです。 昨夜(ゆうべ)あなたはカリクラテスといふのはあなたの先祖だと仰言(おつしや)いしまたわね[原文のまま]。 それはどうしてです?話して下さいな。あなたはずい分無口ですわね!」

レオはこんな風に頼まれたので、 彼の先祖の埃及(エジプト)女アメナルタスが壺の破片に記しのこしておいた不思議な物語を逐一アッシャに話してきかせた。 アッシャは熱心に聞いてゐたが、レオの話がをはると私に向つて言つた。

「ねえ、ホリイ、こないだ、妾は、あなたに、善から惡の生ずることもあり、惡から善の生ずることもあると言ひましたね。 種子(たね)を蒔く人はどのやうな實がなるか知らず、 人を打つものは打つた結果がどうなるかを知らないのだと言ひましたね。御覽なさい、この埃及(エジプト)女を、 このニイルの女王を。あの女は妾を憎んでゐましたし、妾は今でもあの女を憎んでゐますが、 あの女が橋渡しとなつて、あの女の戀人を妾のところへつれてくるやうにしたのです。 あの女のために妾は戀人を殺したのですが、その戀人が、あの女のおかげで妾の(もと)へ歸つて來たのです! それで」と彼女はしばらくしてから言葉をつゞけた。「その女は、子供に向つて、 妾があの女の子供の父親を殺したのだから、できるなら妾を殺すやうに言ひつけたのですね? カリクラテス、あなたはその父親なのです。そして或る意味では子供でもあるのです。 あなたは妾に復讐がしたいのでせう?御覽なさい」かう言つて彼女は、その場に跪いて、 白衣を開いて象牙のやうな胸をあたはに出した。「御覽なさい、この通り妾の心臟は打つてゐます。 あなたのそばにナイフがあります。重い、長い、鋭いナイフですから、邪しまな道にはひつた女を殺すには十分です。 さあ、それをとつて復讐しなさい。さあ()きなさい、急所をねらつてつきなさい。 さうすれば、あなたの望みは逹せられるのですよ、カリクラテス。そして、一生を幸福にお暮しない[原文のまま]。 惡に復讐して、先祖の命令に服從したことになるのですから。」

彼は彼女を眺めた。そして手を伸して彼女を起ち上らせた。

「起ちなさい、アッシャ」と彼は悲しげに言つた。「あなたは、私があなたを傷つけ得ないことを承知でいらつしやるのです。 あなたが、たつた昨夜(ゆうべ)殺した女のためにですら、私がどうもできなかつたことを御存じなのです。 私はあなたに刄向ふことはできません。私はあなたの奴隸です。どうして私にあなたを殺せませう。 あなたを殺す位なら、その前に私が死んでしまひます。」

「どうやら妾を愛し始めて來られたやうですわね、カリクラテス」と彼女は微笑ながら答へた。 「ではこれからあなたのお國のことでも承はりませうか?隨分大きな國なんでせう?羅馬(ローマ)のやうな帝國なんでせう? あなたはきつとお國へお歸りになりますわね。それがよろしいですわ。 妾もこんなコオルの洞窟の中なんかにあなたに住んでいた;あきたくありませんわ。 あなたが妾と同じやうな身體におなりになつたら、妾たちはこゝを出てゆきませうね。 大丈夫、妾は道を知つてゐますから。そしてあなたのお國の英國とやらへ歸つて、そこで一緒に暮しませう。 二千年の間妾ははやくこんな嫌な洞窟や、陰氣な顏をした連中に別れる日ばかり待つてゐたのですわ。 その日が近づいて來たのです。妾は子供が休日を待つてゐるやうに、胸を躍らせてその日を待つてゐるのですわ。 あなたはその英國の支配者におなりなんですもの --」

「ところが英國にはもう女王が既にあるのです」とレオは急いで言葉をはさんだ。

「そんなことはかまはないぢやありませんか」とアッシャは言つた。「そんな女帝は倒してしまへばよいでせう?」

この言葉をきいて吾々は困つてしまつた。 そして、そんなことをする位なら吾々自身が倒れてしまふ方がましだといふことを彼女に説明した。

「妙ですねえ」とアッシャは驚いて言つた。「人民が女王を愛するなんて、 きつと妾がコオルに住んでゐる間に世の中の樣子がまるで變つてしまつたのですわね。」

「それにあなたのやうに人を殺したりすると英國では罪を受けるのです。法律に照して、 多分斷頭臺にたゝされるでせう。」と私は言つた。

「法律ですて[原文のまま]」と彼女は嘲笑した。「あなたにはまだわからないのですか、 妾は法律を超越してるつてことが。そしてカリクラテスも今にさうなるのです。人間の法律なんてものは、 妾たちにとつては、山にぶつつかつて來る北風のやうなものです。嵐のために山が(まが)るでせうか? それとも山のために風が(まが)るでせうか?」

「だがもうこれでお別れにしませう。カリクラテスもうあつちへ行つて下さい。妾も旅の準備(したく)がしたいし、 あなたがたも、それからあなたがたの召使も準備(したく)をしなくちやならんのですから。 けれど、着物などはあまり澤山おもちにならぬ方がいゝですわ。三日も旅をしなくちやならんのですから。 それがすんだら、またこゝへ引返して來て、このコオルの墓場を永久に別れうぃ告げる計画たてませうね。」

そこで吾々は女王のそばを辭した。私は、吾々の前に開かれた、大變な問題についていろ〜と考へた。 女王はたしかに英國へ行かうと決心したらしい。彼女が英國へ行つたらどんなことになるだらうと思ふと、 私はぞつとした。彼女の力を私はよく知つてゐる。そして彼女はきつとその力を十分に發揮するに相違ない。 彼女は自分の邪魔をするものは、(たちどころ)に氣合をかけて()ち殺すにきまつてゐる。 そして自分では死ぬことがないのみならず、ことによると人に殺されこともないのかも知れないから、 しまひには大英國の絶對支配者になり、全世界の支配者になるかも知れない。 尤も彼女は、自分の支配する帝國を、かつて地上に榮えたどの帝國よりも遙かに立派な帝國にするにはきまつてゐる。 (しか)し、それには恐しい人命の犧牲を拂はなければならんにきまつてゐるのだ。


更新日: 2003/02/12

第二十三章 眞理の神殿


第二十三章 眞理の神殿

吾々の準備(したく)はあまり長くはかゝらなかつた。吾々は着替へを一枚づゝと豫備の靴とを鞄の中へ入れ、 めい〜一挺づゝの拳銃(ピストル)とライフル銃とをもち、食料品はたつぷり用意した。 そのお蔭で命拾ひしたことはその後一再ではなかつた。

所定の時刻の數分前に吾々はアッシャの居間へ呼ばれた。彼女もすつかり準備を了へて、 屍衣のやうなヴェールの上に黒い外套をまとうてゐた。

「冐險の用意はできまして?」と彼女は言つた。

「用意はできました」と私は答へた。「しかし私は、これから先のことを信じてはゐませんよ、アッシャ。」

「ほんたうに、あなたは昔のユデア人[原文のまま]そつくりですわね、ホリイ」と彼女は言つた。 「人の言葉を信じないで、自分の信じないことは用意に受け容れないところはそつくりよ。 私はあのユデア人のことは思ひ出しても腹がたちますよ。だがまあの鏡を見て御覽なさい」 と言ひながら彼女は清らかな水のはひつた水盤を指して「道は昔のまゝですよ。さあこれから、 いつまでつゞくかわからない新しい生涯の門出に旅立ちませう。」

「いつまでつゞくかわからない?」と私は鸚鵡返しに言つた。そして吾々は中央の大洞窟を通り過ぎて洞窟の外の明るみへ出た。 洞窟の入口には一挺の駕籠と六人の駕籠かきとが待つてゐた。それはみんな唖だつた。 その中に交つて、ビラリ老人がゐたので、私はほつとした。私はこの老人に一種の愛着を感じてゐたのである。 アッシャは彼女以外のものはみんな徒歩でついて行つた方がよいと考へたらしい。 吾々も(また)徒歩で行くことは一向かまはなかつた。何しろ長い間陰氣な洞窟の中に閉ぢこめられてゐたあとなので、 その方がせい〜してよい位であつた。偶然なのか、それとも女王の命令によるのか、 吾々が以前に恐ろしい舞踏を見た洞窟の前の廣場には見物人は一人もゐなかつた。 それで吾々の出發を知つてゐる者は、つきそひの唖だけだつたわけだ。しかもその唖は、 何でも祕密をまもる習慣になつてゐたのである。

數分間たつと、吾々は、斷崖の中に嵌めた巨大なエメラルドのやうな形をした大耕地或は湖床を横ぎつてゐた。 こゝで吾々はまた今更のやうに、コオルの人民が彼等の首都として選んだ場所の自然の壯大に驚歎し、 この都市の建設者がこの大きネ湖の排水工事に支拂つた、驚くべき勞力と、精巧と熟練とに驚歎した。 私の經驗の限りでは、人間が自然に對して加へた工事のうちで、これ位大仕掛けのものはまだ見たことがない。 スエズ運河もモン・セニス隧道(トンネル)もその規模の大きさに於て遙かにこれには及ばないと私は思つた。

吾々は、毎日此の時刻になるとコオルの大平原をおそつてくる氣持のよい涼しさ、四面岩山に圍まれてゐて、 海からも陸からも風の吹いて來ない土地で、幾分風のかはりになつてゐる涼しさを味はひながら、 約半時間も歩いてゆくと、ビラリが前に吾々に告げた大都市の廢墟だといふ建物をはつきりと見ることができた。

こんなに遠くから見ても、吾々はこの廢墟が如何に素晴らしいものであるかを知ることができた。 しかしこの事實は一歩(ひとあし)ごとに益々明白となつて來た。町の大きさは、 バビロンやテーベやその他の古代都市に比べるとさして大きいといふわけではない。 恐らくその外濠(そとぼり)で圍まれた地積は十二平方哩か、それより幾らか廣い位なものであらう。 それに城壁も、私の判斷したところでは大して高くはなく、四十呎を越してはゐないやうに思はれた。 それは、コオルの人民は、外敵の襲撃に對しては人間の手でつくつた城壁などの遙かに及ばぬ天嶮でまもられてゐたから、 城壁はほんの飾りのためと、内亂にそなへるためとに設けたものであつたからであらう。 だが、この城壁の幅は高さとほゞ同じ位であつて、切石で築いてあり、その外側は、 約六十呎の幅の壕で圍まれてゐた。その壕には今でも水の溜つてゐるところがあつた。 吾々は日沒の十分前にこの壕に着いてそれを渡り、城壁に()ぢ登つた。 吾々が城壁の頂きに登つて見おろした時の雄大な光景をうつす筆の力が私にないのが殘念でならぬ。 見渡す限りの廢墟、圓柱や寺院や神社や王城などが(こと〜゛)く落日の眞赤な光を浴び、 その間に緑の草籔が點々と散在してゐた。勿論これ等の遺物の屋根はずつと昔にくづれ落ちてなくなつてゐたが、 石造工事の途方もない大きさと、それに使用してある岩の堅さと耐久力とのおかげで、 大部分の隔壁や大圓柱は今なほ儼然と殘つてゐた。

吾々の眞正面に、かつてこの町の目貫きの大通りだつたらしい通りがあつた。といふのは、 それは非常に廣くて眞直だつた。テエムズ河岸(かし)通りよりも廣かつた。 あとで發見したによると[原文のまま]、この通りはすつかり石で敷きつめてあり、 今なほそこには草や灌木が少し生えてゐるだけであつた。 これに反して、昔公園だつたらいい場所には雜木がぎつしりと生えてゐた。 通りの兩側には廢墟の塊が堆積してをり、この塊と塊との間は密生した雜木林になつてゐた。 それは昔庭地であつた場所らしい。

やがて吾々は途方もない大きな廢墟の堆積のところまで來た。それは少くも八エーカーばかりの地面を占領してゐた。 寺院のあとであることが吾々にはすぐわかつた。

この寺院はテエベのエル・カルナックの寺院にも劣らぬ程大きなもので、一番大きな柱は基部の直徑十八呎乃至二十呎、 高さ七十呎もあらうと思はれた。この大寺院の正面に吾々一行は足を停め、アッシャはそこで駕籠から降りた。

「こゝに眠つてもいゝやうな(へや)が一つあつたのですがねえ、カリクラテス」と彼女は、 彼女を助けて駕籠から降ろしてゐたレオに言つた。「二千年前に、 あなたと妾があの埃及(エジプト)女の毒蛇と三人であそこに(やす)んだことがあるのです。 でもそれからこつち妾はあそこへ足を踏み入れたことがないから、もう倒れてゐるかも知れませんわね。」 それから彼女は吾々をつれて、くづれ落ちた階段を踏んで外庭へ出て、暗がりの中を見渡した。 やがて彼女は思ひ出したと見えて、壁につたつて五六歩左へ曲つたところで立ち停つた。

「矢つ張り昔の儘ですわ」と言ひながらアッシャは食料品や吾々の荷物をもつて來た唖を手招いた。 一人の唖が進み出て、ランプを取り出しそれに火をつけた。吾々はすぐ中へはひつた。 それは厚い岩をくりぬいてこしらへた(へや)で、中に大きな石の卓子(テーブル)がるところを見ると、 昔は居室(ゐま)につかはれてゐたものらしい。多分、この大寺院の門番の一人がそこに住んでゐたものであらう。

こゝで吾々は夜を明すことになつた。で、できるだけ竒麗に掃除をして、吾々、と言つても、 レオとジョッブと私とは冷肉を食つた。といふのは、前にも言つたと思ふが、 アッシャは麥粉でこしらへた菓子と果物と水との外には何も手に觸れなかつたからである。 吾々がまだ食事を了へないうちに、滿月が山壁の上に昇つて、四邊(あたり)に銀色の光を投げはじめた。

「妾がなぜ今夜あなた方をこゝへお連れしたか、わかりますか、ホリイ?」とアッシャは頬杖をついて、 莊嚴な寺院の柱の上に昇つてゐる、空の女王ともいふべき月をみまもりながら言つた。 「妾がこゝへお連れしたのはね -- あら妙ね、カリクラテス、あなたが今坐つていらつしやる處は、 ずつと以前にあなたの死骸が寢てゐた處ですよ。妾はそこからあなたの死骸をコオルの洞窟まで運んでいつたのです。 あの時の事が目に見えて妾は怖しくなりましたわ。」かう言ひながら彼女はぶる〜慄つた。

レオは急いで席をかへた。

「妾があなた方をおつれしたのはねね」と彼女はすぐに言葉をつゞけた。 「人間の眼がこれまでに見たことのないやうな素晴らしい光景をお見せしたいからですよ。 コオルの廢墟を照す滿月をお見せしたいからですよ。食事がすんだら外へ出て、この大寺院と、 昔こゝに住んでゐた人々が禮拜した神とを御目にかけませう。」

勿論吾々はすぐに起ち上つて出發した。だが、この滿月に照された寺院の光景を描くことは到底私には出來ない。 吾々は聲を出して物を言ふことすらも出來なかつた。 アッシャすらも彼女の長い命も物の數でない程古いこの廢墟に立つては嚴肅の氣に打たれてゐた。 吾々はたゞ低聲(こゞゑ)で囁き交すばかりであつた。すると吾々の低聲(こごゑ)は柱の間を辷りぬけて、 やがて、靜かな空の中へ消えてゆくやうに思はれた。あゝ空なる死んだ天體と、下なる死んだ都市とは、 何千年の間互にむかひあつて、ありし日の光榮を語りあつてゐたことであらう。

「いらつしやい」と吾々が吾を忘れて恍惚と眺め入つてゐたときにアッシャは言つた。 「これから石でつくつた美の花をお目にかけませう。これこそ驚異の絶頂ともいふべきものですわ。 多分、その美しさをもつて時の力を嘲笑し、ヴェールの後を見たさの念願で男の胸を焦させながら、 今でも殘つてゐるでせう」かう言ひながら、返事も待たずに、彼女はこの古い寺院の内院へ吾々を案内して行つた。

五十(ヤード)平方もあらうと思はれる内庭の中に、吾々は、 かつて人間の手で造られた最も偉大なる寓意的な藝術品とむかひあつてゐた。 といふのは、ちやうど庭の中央(まんなか)の、厚い岩の臺の上に、 直徑二十呎もある巨大な黒い色をした石の玉が据ゑつけてあつて、その上に、大きな、 愛らしく、神々しい翼のある美女の像が立つてゐたのである。柔かな月光に照されて、 くつきりと陰翳を隈どられて立つてゐるこの女像を見たときに、私は息もとまり、 心臟の鼓動も止まつてしまつた。

この女像は、純白の大理石を刻んでつくつたもので、幾千年の星霜を經た今日でも、 まだ月光を浴びて艷々と光つてゐた。その高さは二十呎以上もあらうと思はれた。 それは翼のある、限りなく美しい女人の像であつて、しかも、 それが實物よりも大きいことは却つて益々この像の人間的なまた靈的な美しさを増してゐるやうに思はれた。 女像は前屈みになつて、半ば擴げた翼と釣合のとれるやうな姿勢をして立つてゐた。

兩の腕を、限りなく愛するものを抱擁せんとする女の腕のやうに前に差し出し、全身の姿勢は、 この上なくやさしい心をこめて何事かを哀願してゐるやうな印象を與へた。 女像の完全優美を極めた姿は裸體であつたが、驚くべきことには、顏だけにはうすいヴェールをかけてゐたので、 顏の輪廓だけしかわからなかつた。顏のまはりに投げかけられてゐるうすいヴェールの一端は、 ふくよかな左の乳房の上に埀れかゝり、他の一端は今は破れて、顏のうしろへなびいてゐた。

私はこの女像から目をはなすとすぐに「この女は誰です?」と訊ねた。

「お見當がつきませんか、ホリイ?」とアッシャは訊ねた。「まあ、あなたの想像力はどうしてゐるのです? これは世界の上に立つて世界の子等に彼のヴェールをとれと呼びかけてゐる眞理ですよ。 御覽なさい、あの臺に書いてある文字を。きつとこれはコオルの人民の聖典からとつた文句だらうと思ひますわ」 かう言ひながら彼女は女像の臺の下まで進んで行つた。そこには例の漢字のやうな象形文字が深く刻まれてゐたので、 アッシャには容易に讀むことができた。彼女が飜譯してくれたところによるとそれは次のやうな意味の文句であつた。

「吾がヴェールを取り去りて、吾が美はしき顏を見る人はなきや?吾は吾がヴェールを取り去る人のものとなり、 その人に平和を與へ、智慧と善事の愛兒を與へん。」

その時聲あり叫びて曰く「汝を探しもとむる者皆汝を得んと欲すれど、見よ汝は未だ處女なり。 而して時の終るまで汝は處女ならん。女の胎内(はら)より生れたる者にして汝のヴェールを取り去りて生を(まつた)うせる者なく、 將來も(また)あらざるべし。死によりてのみ汝のヴェールは取除かれん、おゝ眞理よ!」

かくて眞理は雙の腕を伸ばして泣けり。彼女を得んとする者は彼女を得る能はず、眼のあたりに彼女の顏を見る能はざればなり。

「わかつたでせう」とアッシャは飜譯ををはつてから言つた。「コオルの人民の女神は眞理だつたのです。 眞理のために彼等は神殿をたてゝそれを探し求めたのです。 永久に見出されないことを知りながら、それを探し求めたのです。」

「それから」と彼女は悲しげに附け足した。「人類は今に至るまで眞理を探し求めてゐるが、矢張り見出されないのですね。 そして聖典に記してあるやうに將來とても見出すことはできないのです。死に於てのみ眞理は見出されるのですから。」

それから、吾々はもう一度このヴェールを(まと)うた美女の像を見てから、もと來た道を引き返した。 それつきり私はこの像を見たことがないが、それが殘念でたまらない。といふのは、世界を(かた)どつたあの石の玉には、 月の光で、綫が引いてあるのが見えたから、明るい時に見れば、 コオルの人民が世界の地圖をどんな風に考へゐたかわかつたらうと思ふからである。 いづれにしても、こんな太古に滅びてしまつた眞理を禮拜する民族が、地球の圓いことを認めてゐたといふことは、 この民族が多少の科學的智識をもつてゐたことを語つてゐる。


更新日: 2003/02/12

第二十四章 板橋を渡る


第二十四章 板橋を渡る

翌日夜明け前に吾々は唖どもに起された。吾々が眼をこすつて睡氣を拂ひ落し、 大理石の水盤の遺物の中に湧きだしてゐる泉で顏を洗つてしまふと、 アッシャはもう駕籠のそばに立つて出發の用意をしてをり、 ビラリ老人と二人の駕籠かきの唖とは忙がしさうに荷物をまとめてゐた。 アッシャはいつものとほりヴェールで顏をおほうてゐた。 その時私は不圖(ふと)彼女がヴェールで顏をおほうてゐるのは、 あの女人の像を見て思ひついたのではないかと考へた。 だが、彼女はひどく沈んでゐて、いつものやうに、悠然とした、堂々たる態度は全く見られなかつた。 吾々が行くと、彼女は今までふせてゐた眼をあげて吾々を見た。 レオは彼女にむかつて、昨夜はよく眠れたかどうかと訊ねた。

「よく眠れなかつたのよ、カリクラテス」と彼女は答へた。 「昨夜はほんたうに、不思議な、嫌な夢ばかり見て、ちつとも眠れなかつたのよ。 それが何の前兆だか妾にはわからないのです。何か惡いことが起るのぢやないか知らといふやうな氣もしたけれど、 妾の身體にそんなことがあるわけもないし、ほんたうに不思議ですわ」 彼女は急に女らしいやさしさを爆發させて言葉をつゞけた。 「でもね、もしも妾の身に何か起つて、あなたをのこして妾だけが眠つてうぃまふのぢやないかといふやうな氣がするのよ。 ねえ、カリクラテス、さうしたら、あなたは妾を待つてて下さるの、 妾があなたのいらつしやるのを何世紀も何世紀もお待ちしてゐたやうに?」

それから彼女は返事もまたずに言葉をつゞけた。「ではこれから出かけませう。 妾たちは遠くまで行かなきやならんのですから、そして明日の朝までには、 生命(いのち)の場所まで着いてゐなくちやならんのですから。」

五分間もたつと、吾々は荒廢した都市を拔け出て、朝日の光が最初の金色(こんじき)の矢を廢墟の上に投げかけたときには、 ちやうど城門のところまで來てゐた。吾々はこゝでもう一度廢墟をふりかへつて、 それをゆつくり探檢できなかつたのを殘念がりながら、壕を渡つて、外の平原へ出た。

日が昇るにつれてアッシャの氣分はなほつて來た。たうとういつもの状態にかへつた。 そして彼女は笑ひながら、前夜以來氣分の惡かつたのは、眠つた場所がいやな聯想を起させたせゐだと言つた。

「こゝの蠻人たちはコオルには幽靈が出るといつてゐますがねえ」と彼女は言つた。 「妾もそれはまつただと思ひますわ。昨夜(ゆうべ)のやうないやな晩たらありませんでしたわ。 妾はよくおぼえてゐますが、ちやうど、あそこで、妾の脚下(あしもと)にあなたが死んで横はつてゐたのですよ、 カリクラテス。妾はもう二度とあんなところへは行きませんわ、何だかいやな氣持がするんですもの。」

朝食のために、暫くやすんでから、非常に元氣を出して道を急いだので、 その日の二時までに吾々は火山孔の周縁をなしてゐる大きな岩壁の麓に着いた。 岩壁は吾々の着いたところから、屏風のやうな絶壁になつて千五百呎か二千呎位の高さまで聳え立つてゐた。 そこで吾々は足を停めたが、私はそれを見ても別に驚きはしなかつた。といふのは、 こんな絶壁は到底登るわけにはゆかないと思つたからだ。

「さあ、これからがほんたうに骨が折れるのですよ」とアッシャは駕籠から降りながら言つた。 「これから妾たちはこの連中に別れて、めい〜自分でゆかなくちやならんのです。」 それから彼女はビラリに向つて言葉を附け加へた。「お前と、この奴隸たちとは、こゝに(のこ)つて、 妾たちの歸りを待つてゐなさい。明日の正午までには歸つて來ますからね。」

ビラリは恭々(うや〜)しく頭を()げて、いつまでゝもお待ちいたしますと答へた。

それから、女王はジョッブを指して「ホリイ、この男もこゝに待つてゐる方がようでせう。 かういふ心の凡庸な、勇氣の乏しい人は、まちがひが起ると困りますから。 それに妾たちが行く場所の祕密は、普通平凡な人間が行つたつてしようがありませんからね。」

私は女王の言葉をジョッブに通譯してやつた。するとジョッブは、すぐさま、熱心に、 殆んど泣かんばかりにして一緒につれて行つてくれと私に頼んだ。 私は災難に遭ふことはもうとつくに承知してゐるから、それ以上の災難はありつこはないし、 それに、この物も言はない連中と一緒にのこつてゐては、燒壺で殺されるかも知れないから、 是非お供がしたいと言つた。

私はそれをアッシャに通譯すると、彼女は肩をすくめて答へた。「では一緒に來てもよいでせう。 妾は何でもないんですから、あの男のしたいやうにさせなさい。それにランプやこれをもつて行つて貰へますから」 と言ひながら彼女は十六呎ばかりの長さのある狹い板をを指さした。 その板は駕籠の吊棒の上にむすびつけてあつたので、私はカーテンをひろげておくためのものだと思つてゐたが、 これで見ると何か吾々のこれからやる異常な冐險に關係した目的に使はれるものらしい。

そこで、この板と一つのランプがジョッブに渡された。この板は丈夫な板ではあつたが非常に輕かつた。 私はいま一つのランプと油壺とを背負ひ、レオは食料品と、山羊皮に入れた水とを持つた。 それがすむと、女王は、ビラリと六人の駕籠かきとに向つて、 百(ヤード)ばかり彼方のマグノリヤの花の咲いてゐる林のうしろへ行つて、 吾々が見えなくなるまで待つてゐるやうに嚴命した。一同は丁寧に頭を下げて去つた。 それから女王は吾々に向つて用意ができたかどうかを簡單にたづねて、前面に屹立してゐる絶壁を眺めた。

「おやおや、レオ」と私は言つた。「まさか吾々はあの絶壁を登るんぢやなからうね?」

半ばうつとりとした氣持ちで、半ば神祕を期待するやうな氣持ちでゐたレオは肩をすくめた。 その時、アッシャはひらりと身をかはして斷崖をのぼりはじめた。勿論吾々もあとからついて行かねばならなかつた。 彼女が岩から岩へと、やすやすと、しなやかにとびうつつてゆくのは實に驚歎すべき見物であつた。 しかし、登つてゆくのは思つた程困難ではなかつた。それはこの邊はまだ岩に勾配があつて、 上の方程(ひど)い斷崖になつてはゐなかつたからである。けれども、處々いやな場所を通つたとき、 あとを振り返つて見ると、よい氣持ちはしなかつた。

こんな風にして、ジョッブの持つて來た板のしまつには困つたが、 それ以外には大した骨折りもなしに、吾々はかれこれ五十呎ばかりの高さまで登つた。 道がはすかいになつてゐるのでそれだけ登るのに、出發點から六七十歩も左の方へ來てゐた。 間もなく吾々は一つの岩の出つ張りまで辿りついた。それははじめのうちは狹かつたが、 進んで行くにつれてだん〜廣くなり、おまけに、花瓣(はなびら)のやうに内側へ傾斜してゐた。 そのために吾々は、進むにつれて徐々に岩の襞の中へ沈んで行つた。襞はだん〜深くなり、 遂にはデヴォンシャーの岩の小徑にやうになつて、下の勾配に誰か見てゐる者があつたとしても、 下からは見えなくなつてしまつた。この小徑は自然にできたものらしく、三四十碼(ヤード)もつゞいてゐたが、 急に、先が、矢張り自然にできた洞窟になつて終つてゐた。

アッシャはこの入口立ち停つて、ランプに燈をつけるやうに吾々に告げたので、私はその言葉に從つて、 一つをアッシャに渡し、一つを自分でもつた。アッシャは先頭に立つて、非常に用心しながら、 そろ〜と洞窟の中へはひつて行つた。それは洞窟の床がひどく不規則で、河床のやうに石ことがころがつてゐたり、 深い穴が掘れてゐたりして、穴の中へ落ちたら手足をくじくにきまつてゐたからだ。

この洞窟を通り過ぎるのに吾々は二十分あまりもかゝつた。長さは四五丁位しかなかつたやうに思ふが、 中途でねぢれたり曲がつたりしてゐたので、これを通り過ぎるのおは大抵ぢやなかつた。

だがたうとう吾々はこの洞窟を通り拔けた。そして私が外の薄暗がりに眼を馴らさうとしてゐたときに、 さつと一陣の風が吹いて來て、ランプが二つとも消えてしまつた。

此の時少し先の方へ進んでゐたアッシャが吾々を呼んだので、吾々は彼女の側まで匍つて行つた。 すると吾々の前面に、實に物凄い光景が現れた。吾々の前面の黒い岩に大きな裂け目ができてゐた。 それは遠い昔に、何か怖ろしい自然の異變のために裂けたものらしく、まるで、 幾度(いくた)びも幾度(いくた)び落雷に打たれてできたものゝやうであつた。 この裂目の兩側は斷崖であつたが、眞つ暗なところから見ると大して廣いものとは思はれなかつた。 何故暗かつたかといふと、吾々の立つてゐた地點は、兩側の斷崖の頂上から千五百呎か二千呎も下の方にあつて、 上からはひつて來る明りはこゝまでは殆んどとゞかなかつたからである。吾々がいま拔けて來た洞窟の入口は、 この斷崖から裂目の虚空の中へ、妙な形になつて五十(ヤード)程も伸びてゐた。 それhまるで鷄の脚から(けづめ)が伸びてゐるやうな工合であつた。 そしてこの巨大な岩の(けづめ)の尖端は細くなつて槍のやうに宙に突出してゐた。

「こゝを渡らなくちやなりません」とアッシャは言つた。「よく氣をつけないと眼が眩みますよ。 それに風に吹き落されないやうに用心しなさい。この裂目には、ほんたうに底がないのですから」 かう言ひながら、彼女は吾々に恐れを抱く餘裕も與へないで、ずん〜この(けづめ)の上を歩いて行つた。 私は彼女のあとに續き、そのあとからジョッブが板を曵きずりながらついて來て、レオは殿(しんがり)になつた。 この大膽不敵な女がこの恐ろしい處を平然として立つて進んでゆくのは實に驚歎すべき眺めであつた。 私は數(ヤード)進むと、空氣の壓力と、落ちたらどうなるだらうといふ恐ろしさとのために、 知らず〜兩手をついて匍はねばならなかつた。他の者も私と同じやうにした。

しかし、アッシャは、そんな醜くい眞似はしないで、風に抵抗するために身を屈げて、 見事に身體の平衡(つりあひ)を保ちながら、びくともせずに歩いて行つた。

數分間のうちに、吾々は一歩毎に狹くなつて來るこの恐ろしい橋を二十歩ばかりも進んで行つたが、 その時、急に強い風がさつと吹いて來た。アッシャは風の方へ身をもたせかけてゐたが、 風は彼女の外套の内側へ入りこんで、 黒い外套は彼女の身體をはなれてまるで傷ついた鳥のやうに底のない溪間へひら〜と落ちて黒闇に吸はれてしまつた。

私は岩の鞍にしがみついて四邊(あたり)を見廻した。岩の(けづめ)はまるで生き物のやうに、 ぶん〜音をたてながら吾々の下で震動した。それは實に物凄い光景であつた。 吾々は天と地との間の黒闇の中に宙ぶらりになつてゐたのだ。 下には底ひも知れぬ千尋の溪間は眞つ黒な口を開いてをり、 上は眼の眩むやうな斷崖の遙か彼方に一綫(ひとすじ)の蒼空が見えてゐるだけなのである。 しかも、吾々のいま立つてゐる虚空には、強い風が吹き荒れて、雲を追ひ、霧をうづまかせてゐるのだ。 吾々は殆んど眼が見えなくなり、全くどうしてよいかわからなくなつてしまつた。 私は今でもこの時の恐ろしさを時々夢に見て、汗びつしよりになることがある。

「さあ進んで來なさい、進んで來なさい」と吾々の前にゐる白衣の姿は言つた。 彼女は、外套を吹き落されて、今はすつかり白衣の姿になつてゐたのだ。その姿は、 女といふよりもむしろ疾風に乘つてゐる人魂のやうに見えた。「進んで來ないと下へ落ちて粉々になつてしまひますよ。 地面に眼をすゑて、しつかり岩につかまつて來なさい。」

吾々は彼女の言葉に從つて、震動する道を、えつさえつさと匍つて進んだ。風はひゆうひゆう唸りながら岩を(ゆす)ぶり、 岩は大きな音叉のやうにぶん〜唸つた。吾々は時々身のまはりを見まはしながら、進んで行つた。 どれ程進んで來たかわからないが、そのうちにたうとう(けづめ)の尖端に着いた。 そこは普通の卓子(テーブル)よりも少し廣い位の岩の板になつてゐた。そこに、吾々は、 しつかり岩につかまりながら身を横へて四邊(あたり)を見まはした。 アッシャは千尋の淵が下に口を開いてゐることなどは全く氣にもとめないで、 風に身を(もた)せて、長い髮をゆら〜と風になびかせながら立つてゐた。その時吾々は、 何故あの狹い板を用意して來たのかを知つた。吾々の前には虚空が(ひろ)がつてゐるのだ。 その向う岸には何かあるらしいが、どういふわけか、眞つ暗なのでわからなかつた。

「しばらく待たなくちやなりません」とアッシャは言つた。「今に明りがさして來ますから。」

私はその時は彼女の言葉がどういふ意味なのか想像できなかつた。こんなところへ、 どうして今まで以上の明りがさして來るのだらうと思つた。ところが私が怪しんでゐるまもなく、 突然大きな火焔の(つるぎ)のやうな、夕日の光が地獄の闇をつき破つて吾々の横はつてゐる岩の尖端を照し、 アッシャの美しい姿に、此の世のものならぬ神々しい光を浴せた。この時の美觀は到底私の筆では描き出せない。 どうしてこんなところへ夕日が差しこんだものか私には今だにわからないが、多分、 對岸の絶壁に、裂け目か穴があつて夕日がちやうどその直綫上に來たときに、そこまで光がさしこんで來たものだらうと思ふ。 その光は、眞つ暗な闇の横つ腹へ、鋭利な光の(やいば)をぐさりと突きさしたやうで、 光のところは實に明るくて、遠くからでも岩の縞目が見える位であつたが、光の(やいば)の外は、 さうだその利刄(りじん)から數吋はなれたところは、全くの黒闇だつた。

女王はこの光を待つてゐたのだ。そしてちやうどこの光のさしこむ時刻を見計つてこゝへ着くやうに手筈をして來たのだ。 この光によつて吾々は、行手に何があるかを見ることができた。吾々の立つてゐる岩の尖端から十一二碼(ヤード)先に、 多分淵の底から立つてゐるのだらうと思はれる、棒砂糖のやうな圓錐状の岩が立つてゐた。 そしてその圓錐の頂きがちやうど吾々の前面に向ひあつてゐた。しかしそこまでは四十呎も距離があるので、 それだけならどうにもしやうがなかつたのだが、その頂きが小さい火山孔のやうな形になつてその周邊に、 大きな楕圓形の石がのつてをり、その石の端が吾々から十二呎位のところまで突き出てゐた。 この石はこの小火山孔の周邊にのつかつてあやふく平衡を保つてゐたので、風がふくと搖れてゐるのが、 夕日の光で見えた。

「はやく、板を」とアッシャは言つた。「光のあるうちに渡らないとすぐに暗くなりますから。」

「まさかこんなものゝ上を歩かせるのぢやないでせうね?」 とジョッブは私の方へ長い板を差し出しながら(うな)るやうに言つた。

「きつとさうだよ、ジョッブ」と私は、陽氣に答へたものゝ、 こんな板の上を歩くのだと思ふとジョッブと同じやうによい氣持はしなかつた。

私はアッシャに板を渡した。彼女はそれを噐用に淵にかけた。板の一端はぐら〜搖れる石の上におかれ、 他の一端は、ぶる〜震動してゐる岩の(けづめ)の尖端に支へられた。 彼女は板が風に吹き飛ばされないやうに、それを片足で踏まへながら私に向つて呼びかけた。

「この前に渡つた時より、 向うの石の搖れかたがいくらかひどくなつたやうですから妾たちが乘つても大丈夫かどうかわかりません。 ですから妾が一番先に渡りませう。妾は怪我をする氣遣ひはありませんから。」 かう言ひながら、彼女は寸時も躊躇せずに、輕やかに、だが、しつかりと、この不安定な橋を踏んで、 忽ち向うの石に辿り着いた。

「大丈夫ですよ」と彼女は呼びかけた。「そちらの端をつかまへなさい。こちらの端には妾がのつてゐますから、 あなたの身體が乘つても大丈夫です。さあ、ホリイ、來なさい。すぐに暗くなりますよ。」

私は立ち上らうとしてもがいた。私が生涯の中でほんたうに恐ろしかつたことがあるとすれば、 それはこの時だつた。實際私は、躊躇して尻込みしたと言つても恥だとは思はない。

「まさか怖いのぢやないでせう」と彼女は突風のやんだ時を見計らつて言つた。 彼女は搖れる岩の頂點に立つて、鳥のやうに突風に羽ばたきしてゐるやうだつた。 「怖いのなら、カリクラテスに道をあけてあげなさい。」

この言葉を聞いて私は度胸をきめた。このやうな女から嘲笑される位なら、むしろ、 斷崖から落ちて死んでしまつた方がましだ!私は齒をくひしばつて、 下も周圍も底の知れぬ虚空の中にかゝつてゐる狹いたわんだ橋の上に立つた。 私は元來高い處に立つのが嫌ひなのだが、今まで、どんなにそれが恐ろしいものかをしみ〜゛味つたことはなかつた。 私は眩暈がしさうになり、きつと落ちるに相違ないといふやうな氣がした。背筋が寒くなつた。 現に落ちてゐるのぢやないかと思つたこともあつた。 で、手を伸して波に漂ふボートのやうに搖れてゐる對岸(むかう)の石につかまつた時の嬉しさは何とも言ひやうのないものであつた。 私は思はず神に感謝した程であつた。

その次はレオの番だ。彼は少し顏色は蒼ざめてゐたが、まるで綱渡りの娘のやうに走つて渡つた。 アッシャは手をのばして、彼の手をつかみながら言つた。「ほんたうにあなたは勇敢でした。 立派にお渡りになりました!昔の希臘(ギリシヤ)人の魂がまだあなたの心の中には生きてゐるのですわ!」

あとにはかはいさうなジョッブだけが向う岸にのこされた。彼は板のところまで匍つて來てわめいた。 「私には渡れません。あの恐ろしいところへ落つこちてしまひます。」

「渡らなくちやならんよ」と私はこんな時には不似合なおどけた調子で答へたのをおぼえてゐる。 「何でもないよ、蠅をつかむより容易(やさ)しいこつたよ」 私は私の良心を滿足させるためにこんなことを言つたのだらうと思ふ。何故といふと、 何でもなさゝうな顏はしてゐたけれど、實をいふと、世の中で蠅をつかむ位難かしいことはないからだ。

「できません--私には渡れません。」

「あの男ははやく來なければ、あそこで死んでしまふより外にしやうがありませんよ。 御覽なさい日はだん〜影つてゆきます。今に眞つ暗になりますから。」

見ると成程彼女の言ふ通りだつた。太陽は崖の裂け目から沈まうとしてゐた。

「そこにゐればひとりで死んでしまはなくちやならんよ」と私は呼んだ。「いまに暗くなるから。」

「さあ來い、ジョッブ、元氣を出せ」とレオは叫んだ。「何でもないよ」

かう言はれて、ジョッブは、いきなり、板の上に腹ばつたまゝ、馬乘りになつて兩脚を宙にぶらさげながら、 少しづゝ跳びはじめた。彼が歩いて來られなかつたのは無理もないのだ。

彼が板の上をはげしく跳ぶ()びに、數吋の岩でやつと釣合を保つてゐた大石はひどく搖れた。 おまけに彼が橋の中途まで來たときに、急に日が沈んで、あたりは、 カーテンをおろした部屋の中でランプが消えたやうに眞つ暗になつてしまつた。

「さあ來い、ジョッブ」と私は恐怖と苦悶の聲をしぼつて怒鳴つた。石はジョッブが跳ぶ(たび)にぐらぐら搖れて、 それにつかまつてゐるのも困難な位だつた。實に何とも言へぬ恐ろしい境遇だつた。

「神樣、お助け下さい!」と闇の中からジョッブの聲がした。「板が辷り落ちさうです」その時はげしくもがく音がした。 私はもうだめだと思つた。

ところがその時、彼が、苦しまぎれに虚空をつかまうとして伸した手さきが、私の手に觸れた。 私はそれをつかんでひつぱつた。金剛力を出してひつぱつた。うれしや、たうとうジョッブは私のそばで、 岩の上にあへいでゐた。だが板は!私は板が辷り落ちたのを感じた。つゝいてそれが突き出た岩角にぶつかる音が聞えて、 やがて板は闇の中に消えていつた。

「しまつた!」と私は叫んだ。「歸りにはどうするのだ?」

「僕にもわかりませんよ」とレオが黒闇の中から答へた。「落ちたのが板だけですんでまあよかつたやうなものですよ。 何しろこゝまで來られたので有り難い。」

だがアッシャは、私に向つて、彼女の手をとつてあとからついて來るやうに命じたゞけであつた。


更新日: 2003/02/12

第二十五章 生命の精


第二十五章 生命の精

私は命ぜられた通りにした。そして恐ろしさに慄へながら、今つれて行かれてゐる處は石の橋であるやうな氣がした。 足を外へつき出して見ても何も足に觸れるものはなかつた。

「落ちさうですね!」と私は喘いだ。

「では落ちなさい、大丈夫ですから」とアッシャは答へた。

しかし如何に彼女の力に信頼してゐても、これだけは信じかねた。 でも、一生のうちには吾々は不思議な祭壇に信仰を置かねばならぬこともあるものだ。ちやうど今がその時なのだ。

「落ちなさいつたら!」と彼女は再び叫んだ。私は外にどうする(すべ)もなかつたので落ちた。 私は二三歩程、岩の傾斜面を辷るやうな氣がしたが、それから虚空の中へ落ちていつた。 もう駄目だといふ考へが頭の中をかすめてとほつた。。ところがさうではなかつた! 私の足は忽ち岩の床にぶつかつた。そして私は自分が何か固いものゝ上に立つてゐることを知つた。 そこへはもう風も屆かなかつた。風は頭の上の方で唸つてゐるのが聞えた。 私がそこに立つて、神の恩惠を感謝してゐると、やがて、どさりと音がして、レオがすぐ私のそばへ辷り落ちて來た。

「おや、叔父さん!」と彼は叫んだ。「あなたはそこにゐるんですか。面白いですね?」

ちやうどその時、恐ろしい聲をたてながら今度はジョッブが吾々の眞上へ落ちて來たので、 吾々はその場にぶつ倒れてしまつた。吾々がやつと起き直つて見ると、アッシャがそばに立つてゐて、 ランプをつけるやうにと言つた。幸ひにもランプも油壺も壞れてゐなかつたのである。

私は蝋マッチの箱を見つけてそれを擦つた。マッチはこんな恐ろしい處で、まるでロンドンの客室でのやうに景氣よく燃えた。

すぐに二つのランプに燈がついた。その光で見ると、そこは實に妙な場所であつた。 それは半ば自然の力ででき、半ば人工を加へてこしらへたらしい、十呎平方ばかりの石室だつた。

「やつとみんな無事につきましたわね」と女王は言つた。「でも一時は、 あなた方があの搖れる石から振り落されて、底無しの溪間へ落ちてしまやしないかと思つてずゐ分心配しましたわ。 あの岩の裂け目は實際世界の臟物の中までとゞうぃいてゐるやうですからね。しかしあの男が」 と言ひながら彼女はジョッブの方を頤でさして「板を落してしまつたのだから、 歸り(みち)が容易ぢやありませんわ。何とか工夫しなきやなりませんから、あなたがたは、 しばらく(やす)んで、こゝをよく御覽なさい。 こゝは何だと思ひますか?」

「吾々にはわかりません」と私は答へた。

「昔一人の男がこゝに長年の間住んでゐたのだと言つたらあなたは信じなさいますか?ホリイ? 土地の人々が食物と水と油とをもつてきてあのトンネルの入口に置いてゆき、 その男は十二日目に一度づつそれを取りに行つてゐたのです。」

私は疑はしさうに彼女の顏を見た。彼女は言葉をつゞけた。

眞實(まつたく)なのですよ。その男は自分でヌートと言つてゐました。そして、 ずつと後の人でありましたけれど、コオル人の子孫として恥かしからぬ智慧をもつてゐました。 隱者で、哲人で、自然の祕密に大變よく通じてゐて、これから妾があなた方に御案内しようと思つてゐる、 自然の血であり命である火を發見したのはその人なのです。 その火を浴びてそれを吸ひ込んだ人は自然の命のつゞく限り生きられるといふ火を發見したのです。 ところがね、ホリイ、このヌートといふ人もあなたと同じやうに、 この智識を役に立てようとはしないで、人間は死ぬのが定命なのだから、いつ迄も生きてゐるのはよくないと言つて、 その火を探してゆく人がどうしても通らねばならぬ、この場所に住んでゐて、 誰にもその祕密を話さないで、アマハッガー人から仙人だとか生佛だとかいつて敬はれてゐたのです。

「ところが妾がはじめてこゝへ來ましたとき -- 妾がどうして來たか御存じですかカリクラテス? いつかそのことはお話しゝますが、それは不思議な話なのですよ。 -- 妾はこの話を土地の者から聞いて、その老人が食物をとりに來るのを待つてゐたのです。 そして老人につれられて、こゝへ歸つて來たのです。あの岩の裂け目を渡つたときはほんたうに恐ろしかつたですけれど。 それから妾は、妾の美しさと知慧とで、その老人にとり入つて、 たうとうその火の祕密を老人の口から話さしてしまつたのです。 けれど、老人がとめるものですから、火の中へははひらないで、そのまゝ歸つて來たのですが、 それから二三日たつて、あなたに會つたのですよ、カリクラテス、 あなたはアメナルタスといふ美しい埃及(エジプト)女と二人でこの土地へ彷徨(さまよ)うて來られたのです。 妾はあなたを見て、一生のうちではじめて戀を感じました。これは最初の戀でまた最後の戀でもあつたのです。 そこで妾はあなたと二人でこの自然の惠みを受けて不死の身にならうと思ひ立つてこゝへ來たのです。 埃及(エジプト)女もどうしてもあとに殘つてゐるのが嫌だといふのでついて來ました。 來て見ると、ヌート老人はこゝに死んでゐたのです。 白い髯が着物のやうに身體の上におほひかゝつてこゝに(たふ)れてゐたのです。」 かう言ひながら、彼女は私の坐つてゐるすぐ隣りを指さした。 「でももう老人の死骸はすつかりぼろ〜になつて風に吹き飛ばされてしまつたでせう。」

この時私が手を伸すと埃の中で何か硬いものが指に觸れた。それは黄色い人間の齒であつた。 私がそれを差し出してアッシャに見せると彼女は笑ひながら言つた。

「きつとしれはヌートの齒ですわ。ヌートとヌートの知慧との中で今のこつてゐるのはこの小さな齒だけなのですね! けれどもあの人は生命を自由に支配することができたのです。 ただ良心のためにそれを自分のものとしなかつたのです。 さて、その老人は死んでゐたものですから、妾たちは、これからあなたがたを案内するところまで行つて、 妾は死を賭してその焔の中へ跳びこんだのです。ところがその結果はどうでせう。妾は、不死の身になつて、 そしてこんなに美しくなつて出て來たのですよ。そこで妾はね、カリクラテス、あなたに向つて、 この不死の花嫁をおとりなさいと言つたのです。するとあなたは、妾のあまりの美しさに眼が見えなくなつて、 アメナルタスの胸へ顏を伏せて妾からかくれなさつたのです。妾は怒りのために氣が狂つて、 あなたのもつていらつした投槍をとつてあなたをつき刺してしまひました。 するとあなたは場所もあらうに生命の場所で、呻き聲をあげながら、妾の脚下(あしもと)へ倒れて死んでおしまひになりました。 妾はその時はまた妾の眼と意志の力とで人をにらみ殺す力があることに氣がつかなかつたものですから、 氣の狂つたあまり、あなたを槍で突き殺してしまつたのです。

「あなたが死んでおしまひになると妾はわつと泣き出しました。妾は不死の身になつたのに、 あなたはもう死んでしまはれたのですもの。妾は泣いて泣いて泣きくづれました。若し妾が普通の女であつたら、 心臟も破れたでありませう。するとにくい埃及(エジプト)女は、あの女の神の名を呼んで妾を呪ひました。 オシリスやイシスやネプチスやセット等の神々の名を呼んで、妾の身に(わざはひ)のあるやうに、 永久に妾が悲運に沈むやうに呪ひました。 あゝ妾は今だにあの女が黒い髮を妾に向けて嵐のやうに呪つてゐる姿がありありと見えるやうです。 でもあの女は妾に危害を加へることはできなかつたのです。妾があの女に危害を加へることができたかどうかは妾は知りません。 で妾はあの女と二人であなたの屍骸をもつて歸つたのです。そのあとで妾は、埃及(エジプト)女を歸してやりました。 それから何でもあの女には子供が生れて、その子供のためにあの物語を書き記しておき、それを見てあなたが、 あの女の戀敵であり、あなたを殺した下手人でもある妾のところへ歸つて來られたといふわけなのですわ。

「まあざつとかういふわけなのですよ、あなた、そして、この物語りに最後の結末をつける時が近づいて來たのです。 此の世の中の事は何事でもさうですが、この話にも善と惡とが入りくんでゐます。 恐らく善よりも惡の方が多いでせう。それにこの物語は血の卷物に書いてあるのです。 妾はありのまゝを申し上げました。何一つかくしてゐません。ところで、これから、 愈々(いよ〜)あなたが試煉を受けなさる前に、いま一つのことを申し上げておきます。 妾たちはこれから死の面前に立つのです。といふのは生命と死とはほんたうに隣りあつてゐるのですからね。 これから、お互に離れて、また長いこと待たなければならぬやうになるかどうか誰にだつてわかりはしません。 妾は豫言者ではなくてたゞの女ですから、未來(さき)のことはわかりません。ですけれど、 これだけのことは妾にもわかつてゐます。ヌートに聞いて知つたのです。 といふのは妾の生命は長く伸ばされて、輝かしいものにされたといふだけのことで、 永久に不死といふわけではないといふことです。ですから、これから出かける前に、 あなたが、心から妾を許して下さり、妾を愛して下さることを妾にどうぞ誓つて下さい、カリクラテス。 妾は隨分惡いことをしました。妾は罪を犯しました。ですけれど妾が罪を犯したのも戀故です。 それに妾の心はまだ硬くなりきつてはゐません。カリクラテス、あなたの愛こそ、妾の贖罪の門です。 以前に妾の情熱が妾に罪を犯さしたやうに、あなたの愛で妾の罪は救はれるのです。 滿たされない深い戀は地獄です。しかし戀が完全に酬いられると、それは翼となつて妾たちを空に翔けらせ、 妾たちの本領を存分に發揮させます。ですから、カリクラテス、どうぞ妾の手をとつて下さい。 さうして、妾を此の世で一番美しい一番賢い女だなどとは思はないで、まるで名もない田舎娘だと思つて、 恐がらないで妾のヴェールをとつて妾の眼を見て下さい。そして、妾を心から許す、 心から愛すると仰言(おつしや)つて下さい。」

彼女はこゝで言葉をきつた。彼女の聲にこもつた言ひしれぬやさしさは、 死者の思ひ出のやうに吾々の周圍に立ちこめてゐるやうに思はれた。 妾は[原文のまま]彼女の言葉以上にその聲に動かされた。それ程にもそれは人間味に溢れた聲であつた。 レオも不思議に感動してゐるらしかつた。これまで彼は蛇に魅惑された小鳥のやうに、 理性ではこれではいけないと考へながらも、彼女の美しさに魅惑されてゐたのであつたが、 今ではもうさうではなくて、ほんたうに、心底から、この不思議な輝かしい女を愛してゐることを彼は知つてゐたのだ。 私自身も實をいふとさうだつたのだ!いづれにもせよ、レオは兩眼に涙を一ぱいためて、 彼女のそばへかけ寄り、彼女の顏の薄紗(うすもの)をとつて、彼女の手を握り、 彼女の美しい顏をぢつと身ながら言つた。

「アッシャ、私は私の心の全部をさゝげてあなたを愛します。それから許すの何のといふことがあるなら、 私はアステーンの死について、あなたを許します。その外のことはあなたとあなたをつくつた神とのことで、 私は何も知らないのです。私の知つてゐることは、私が今までは愛したどの愛にもまさつてあなたを愛するといふことだけです。 私はこれからあなたのそばにゐようとも、あなたと遠くはなれようとも、心は永久にあなたから離れません。」

「では」と彼女は誇りを失はないで、しかもへりくだつた調子で言つた。「あなたが許して下さつた以上は、 妾ももう躊躇はいたしますまい。御覽なさい!」かう言つて彼女はレオの手をとつて、それを彼女の恰好のいゝ頭にのせ、 片脚の膝がしばし地に觸れるまで腰を屈めた。「御覽なさい!妾はあなたに身をお委せするしるしに、あなたに頭をさげます!」 それから彼の脣に接吻しながら「妾の妻としての愛のしるしにあなたに接吻します。」 ついで彼女は彼の胸の上に手をおいて「妾の犯した罪にかけて、今は拭ひさられた、 妾の待ち焦れてゐたわびしい數世紀の年月にかけて、妾の大きな戀にかけて、精靈にかけて、 凡てのものゝ母なる永遠の物にかけて -- 妾は誓ひます --

「妾がはじめて女になつたこの神聖な時にあたつて、妾は今後惡を棄てゝ善をなすことを誓ひます。 永久に妾はあなたの聲に導かれて眞直な義務の道を進むことを誓ひます。 そして、時の波を横ぎつて妾の(かひな)へ歸つて來られたあなたを、 妾の最後の日まであがめいつくしむことを誓ひます。

「さ、妾は誓ひました。ホリイ、あなたは證人です。こゝで妾たちは結婚したのです。 このうすぐらい(あな)を婚儀の(へや)として、妾たちの縁は萬物のをはりまで結ばれたのです。 こゝに妾たちは、吹く風に結婚證書を書き記します。その風はやがてそれを天上に持ちはこび、 このめぐり行く世界の周圍を永久にまはることでせう。

「それから結婚の贈物として、妾は、妾の美と、長い命と、はかり知れぬ知慧と、 數へきれない富とをあなたに差し上げます。この世の最も偉大なる者もあなたの脚下(あしもと)にひれ伏すでせう。 この世の美しい女子(をなご)たちは、あなたの美しさに眼が眩んで、眼をあけてあなたを見得ないでせう。 この世の賢者たちはあなたの前にたてば顏を赧らめてしまふでせう。

「御覽なさい、もう一度妾はあなたに接吻します。そしてこの接吻とともに、妾は海陸の支配權をあなたに差し上げます。 日光の降りそゝぐところ、水が月影を宿すところ、嵐のすさぶところ、虹の掛橋のかゝるところ、 雪におほはれた北の端より、青海原のベッドに横はる花嫁のやうに、 戀の南國が桃金孃(マートル)の匂かぐはしき吐息をつくところまで、(こと〜゛)くあなたの領土です。 あなたは神のやうに、善惡を掌握なされて、この妾でさへも、つゝましやかにあなたの前に跪くでせう。

「さあこれですみました。妾はあなたのために、妾の處女の帶を解きますが、嵐が來ようが、 光が來ようが、善が來ようが、惡が來ようが、生が來ようが、死が來ようがこの誓ひは變ることはないのでございます。」 かう言ひながら彼女は一つのランプをとつて、搖れる石が屋根のやうにかぶさつた(へや)の端の方へ進んで行つて、 そこで足を停めた。

吾々は彼女のあとについて行つた。そして圓錐形の壁に階段があるのに氣がついた。 もつと正確に言へば階段のやうな形にこしらへた岩の(こぶ)が突き出てゐたのである。 アッシャはこの階段をひらり〜と輕やかに降りて行つた。吾々もよろ〜あとにつゞいた。 五六十歩も降りて行くと、それは、漏斗形の長い岩の勾配になつてゐた。

この勾配は非常に急で、處々絶壁になつてゐたが、それでも通れないところはなかつたので、 吾々はランプの光を頼りに、難なく降りてゆくことができた。とは言へ、こんな風にして、 行先きがどうなつてゐるかも知らずに、死火山の中心に向つて降りてゆくことは、ひどく氣味のわるいものではあつた。

こんな風にして、かれこれ半時間も旅をつゞけてゆき、數百呎も降りて行つたと思ふ時、 吾々は漏斗の底に着いた。そこには狹い通路があつて、吾々は匍はなければそこを通ることは出來なかつた。 この通路を五十碼(ヤード)ばかりも匍つてゆくと、突然その先に途方もない大きな洞窟があつた。 その洞窟はあまり大きいので吾々には天井も側壁も見えなかつた。たゞ吾々の跫音(あしおと)が反響するのと、 空氣が重く沈んで靜まり返つてゐるのとで、それが洞窟であることがわかつた位である。 吾々は地獄の亡者のやうに、默りこくつて、白衣姿のアッシャを先頭にしてしばらくの間歩みをつゞけて行つた。 そのうちにまた通路があつて、こんどは前の洞窟よりも狹い第二の洞窟に着いた。 それからこの洞窟の奧につきあたると第三の通路があつて、そこから(かす)かな光が洩れてゐた。

何處から發してゐるのかわからないこの光を見つけたとき、私はアッシャの口からほつと安心の吐息が洩れるのを聞いた。

「さあ、これから地球の胎内へはひつて行くのですよ」と彼女は言つた。 「そこに、人間や獸や、木や花にまで命を與へる生命(いのち)が孕んでゐるのです。さあ用意しなさい。 これからあなたがたは生れかはるのです。」

彼女は素速く通路の中へはひつて行つた。吾々もつまづきながらあとにつゞいた。 吾々の心は恐ろしさと、恐い物見たさとで一ぱいだつた、この先きにどんなものがあるのだらう? 吾々がトンネルを進むにつれて、光は益々強くなつて燈臺の光のやうな大閃光となつた。 そればかりではない。この光とゝもに、雷鳴のやうな、大木の折れるやうな、 魂の中までも震撼させる音が聞えて來た。たうとう吾々はトンネルをくゞりぬけた。すると、どうだらう!

吾々は第三の洞窟に立つてゐた。それは長さと高さとはそれ〜゛五十呎もあり幅は三十呎位であつた。 下には白砂が敷きつめてあり、壁は火か水かの作用で滑らかになつてゐた。 この洞窟は他の洞窟のやうに暗くはなくて柔かい薔薇色の光に滿ちてをり、又とない美しい眺めであつた。 しかし先程見たやうな閃光も見えなければ雷鳴のやうな音も聞えなかつた。けれども、吾々が、 この不思議な光景に呆氣をとられてながめてゐるうちに、しばらくすると、恐ろしくも美しい出來事が起つた。 洞窟の遙か彼方にあたつて、轟然たる音響とともに -- それは非常に恐ろしい音で吾々はみんな慄へ上つた、 ジョッブの如きはその場にへたばつてしまつた程であつた -- 虹のやうに七色に彩られ、電光のやうに明るい、 恐ろしい火柱がかつと燃え上つた。そしてしばらくの間、さうだ約四十秒程の間、 それは音を立てゝ燃えてゐたが、そのうちにだん〜音もやみ光も消えてしまつて、あとには、 吾々がはじめに見たやうな薔薇色が殘つた。

「もつとこちらへいらつしやい!」とアッシャは歡喜のために聲を張り上げて言つた。 「これが、この世界の胸の中で打つてゐる生命(いのち)の泉です。生命(いのち)の心臟です。 これが萬物の精力の源泉たる實體です。地球の輝ける精です。これが無ければ地球は生きてゆけなくて、 月のやうに冷たくなつて死んでしまふのです。もつとこちらへ寄りなさい。そしてこの生きた焔であなたがたの身體を洗ひなさい。 そしてこの焔に力をあなた方の身體の中へ吸ひとりなさい。」

吾々は彼女のあとについて薔薇色の光の中を通つて、洞窟のつき當りまで行つた。そして、大きな鼓動が脈うち、 大きな焔の燃えてゐた場所の前に立つた。そこへ進んで行くにつれて吾々は心が馬鹿に素晴らしく陽氣になつてゆき、 生命(いのち)がはちきれるやうに充ち〜て來るのを感じた。この時の氣持に比べると、 どんなに吾々の力が充實してゐた時でもお話にならない位であつた。 これは焔から發散する靈氣が吾々の身中に入つて、吾々を巨人のやうに強くし、 鷲のやうに敏捷にしたに過ぎないのだ。

吾々は洞窟のつきあたりに立つて、明るい火の光を浴びながら、互に顏を見あはして、輕い氣持で、 神々しさに醉つたやうな爽快感を覺えながら聲を出して笑つた。この數週間にこりともしたことのないジョッブでさへも笑つた。 私は人間の知力の逹し得る(あら)ゆる天才が私の身體の中へ宿つて來たやうな氣がした。 沙翁のやうな素晴らしい無韻詩が口をついて出て來るやうな氣がした。 まるで肉體の束縛が解けて精神が自由に解放されたやうな氣持ちであつた。

私が、この新生の自己の素晴らしい力を享樂してゐたときに、突然遠くの方でごろ〜といふ恐ろしい音が聞えて來た。 その音はだん〜強くなつて、ごう〜、がら〜といふ音になり、それが結合して、此の上ない恐ろしい、 それでゐて素晴らしい音になつた。音は刻々吾々に迫つて來て、まるで光の駒に曵かれてゆく雷車のやうに轟いてゐた。 それとゝもに、眼も眩むやうな晃々たる七色の雲がまき起り、しばらく吾々の前に立つてゐたが、やがて靜かに渦をまいて、 轟然たる響とゝもに、何處へともなく消えて行つた。

この驚くべき光景を見て、吾々は皆その場にへたばつて、砂で顏を隱した。 たゞ女王だけはその場につゝ立つたまゝ火の方へ兩手をのばしてゐた。

光が消え去つた時、アッシャは語り出した。

「たうたう時が來ましたよ、カリクラテス。こん度あの大きな火焔が燃えて來たら、あなたはあの中へ跳びこまなくちやなりません。 でもその時はお召物は脱ぎなさい。あなたの身體には怪我はありませんけれどもお召物は燃えてしまひますから。 あなたは、あなたの五官が辛抱できる限りあの焔の中に立つてゐて、すつかり焔を跳びまはらせて、 焔の力をすつかりあなたのものにしなさい。妾のいふことを聞いてゐますね、カリクラテス?」

「聞いてゐますよ、アッシャ」とレオは答へた。「だけど、實を言へば -- 私は憶病者ではありませんけれど -- あの燃えさかつてゐる火の中へ跳びこんで大丈夫だらうかと思ふのです。 私もあなたもそのために滅びてしまふやうなことはないでせうか? でもやるにはやりますけれど」と彼は附け足した。

アッシャはしばらく考へてゐたがやがて口を開いた。

「あなたがお疑ひなさるのも無理はありません。ではかうしませう。妾があの焔の中に立つて、怪我もせずに出て來たら、 あなたもおはひりになりますね?」

「はひりますとも」と彼は答へた。「死んでも入ります。今も入ると言つたぢやありませんか?」

「私もはひりますよ」と私は叫んだ。

「何ですて、ホリイ」と彼女は聲を出して笑つた。「あなたは長生きしたくないといふぢやありませんか、どうしたのです?」

「私にもわからんですが」と私は答へた。「私は心の中で、あの焔を味つて生きろと呼びかけるものがあるのです。」

「ようござんす」と彼女は言つた。「あなたもまだすつかり性根を腐らしてはいらつしやらなかつたのね。 さあ御覽なさい。妾はこれから二度目に生きた焔を浴びます。ことによると妾はもつと美しく、 妾の命はもつと長くなるかも知れませんが、若しそれが叶はぬとしても、怪我をするやうなことはありません。」

「それから」と彼女はしばらくやすんだあとで言葉をつゞけた。 「妾が二度この焔を浴びようと思ふには別にもつと深いわけがあるのです。 はじめに妾がこの焔の力を味つたときには、妾の心は、 あの埃及(エジプト)女のアメナルタスに對する怒りと憎しみとで一ぱいでありました。 ですから、妾は一生懸命にそれをふりすてたいと思ひましたけれど、その時から今になるまで、 妾の魂には怒りと憎しみとの烙印(やきいん)が捺されてゐるのです。けれども今はちがひます。 今は妾の氣分は幸福な氣分です。そして今妾は此の上ない清淨な心に滿たされてゐます。 妾はいつまでも此のやうな氣持でゐたいのです。それだから妾はもう一度この焔で身體を洗ひ清めて、 あなたに似つかはしくなりたいのです。それだから、また、 あなたも焔の中へはひつた時は邪心を去つて心の平靜を保つてゐなさい。 魂の翼をゆるめて、おつかさんの接吻を念頭におき、最高善の姿を見つめてゐなさい。 と申しますのは、その恐ろしい瞬間に蒔かれた種が生長して、これからの限りない生涯の實を結ぶのですから。

「では支度をなさい!あなたの最期の時が近づいて、これから死を越へて、冥土へ行くのだと思つて支度をなさい。 光榮の門から美しい生命の國へ行くのだと思つてはなりませんよ。さあ、支度をなさい!」


更新日: 2003/02/12

第二十六章 あゝ何たる光景ぞ


第二十六章 あゝ何たる光景ぞ

それからしばらくの間沈默がつゞゐた。アッシャは、猛火の試煉を受けるために力を集中してゐるらしかつた。 その間吾々は互に身體を擦りよせてしがみつきながら、固唾を呑んで待つてゐた。

そのうちに遠くの方から、(かす)かな音が聞え、やがて音はだん〜高くなつて來た。 アッシャは此の音を聞くと素早く薄紗(うすもの)を脱ぎすて、金色(こんじき)の蛇の形をした帶を解いた。 それから美しい髮を外套のやうに身體のまはりに振り亂して、その髮の下で白い上衣(うはぎ)を脱ぎすて、 髮を埀れたまゝ髮の上から胴體に蛇の帶をしめなほした。そして彼女は、 アダムの前にたつてゐたイヴの姿さながらの姿で吾々の前に立つた。 身につけてゐるものとては、ふさ〜した髮を金の帶で身體にまきつけてゐるばかりであつた。 その時の彼女の美しさ、神々しさは、とても私の筆では傳へ難い。焔の雷車は刻々に近づいて來た。 焔が燃え上つて來たとき、彼女は黒い髮の塊りの中から象牙のやうな腕を出して、レオの頸にまきつけた。

「おゝ、戀しいあなた!」と彼女は低聲(こゞゑ)で言つた。 「妾がどんなにあなたを愛してゐたか、いつかあなたにわかるでせうか?」 かう言ひながら彼女は彼の額に接吻し、疑ふものゝやうにしばし躊躇(ためら)つた後、 つか〜と前へ進み出て命の焔の通路に立つた。

私は今でもおぼえてゐるが、この時の彼女の言葉と、レオの額にした接吻とには、 何かしら非常に強く私の心を動かすものがあつた。それはまるで母親の接吻のやうで、 祝福がこもつてゐるやうであつた。

風が林を吹き(なび)けるやうな音が、ごう〜と近づいて、渦卷く火焔の柱を前觸れする閃光が、 薔薇色の空に矢のやうにひらめき、更に火柱そのものゝ尖端が現はれて來た。アッシャはその方を向いて、 兩腕をさしのべてそれに會釋をした。焔は非常にゆるやかに渦を卷いて、 彼女の身のまはりを舐めまはした。私は焔の精が彼女の身體を舞ひ上るのを見た。 彼女はまるでそれが水ででもあるかのやうに、兩手でそれを(すく)ひ上げて、彼女の頭に注ぎかけた。 それから彼女は口を開けてそれを肺の中まで吸ひこみさへした。實になんとも言へぬ恐ろしくも()しき光景であつた。

それから彼女はしばらく動作をやめて、兩の腕を伸したまゝで立つてゐた。脣邊(くちべ)には神々しい微笑が浮んで、 まるで彼女自身が焔の精であるかのやうに見えた。

不思議の火は彼女の黒いぢゞれ()をなぶつて、まるで金色(こんじき)のレースのやうにその間からちよろ〜燃え上り、 黒髮のしなだれてゐる象牙のやうな肩や胸を匍ひ、咽喉から頭へ燃え上つて、きら〜輝く眼のところまで來て、 所得顏(ところえがお)に燃えさかつた。

あゝこの焔の中に立つてゐる彼女の美しさ!天から下つて來た天女だつてこれよりは美しくはなであらう。 今でも私は、裸體のまゝで火の中に立つて微笑んでゐたその時の彼女の姿を思ひ出すと氣が遠くなる。 もう一度あの姿が見られるなら、殘りの半生を棒に振つてもよいと思ふ。

だが突然に、何とも名状し難い變化が彼女の顏を襲つて來た。あまり突然で私にはどう言つていゝかわからない位だ。 それにその變化は私には何とも説明のしやうがないが、何しろ變化は變化にちがひない。 彼女の顏からは微笑は消えてしまつて、干乾(ひから)びた、硬ばつた容子にかはつてしまつた。 丸々してゐた顏は大變な心配事に惱まされたやうにやつれてゆき、眼の光も失せてしまひ、 品のよい眞つ直な體格はだんだん醜くまがつて來た。

私は眼を(こす)つた。そして何か錯覺に襲はれたのぢやないかと思つた。それとも、 あまり強い光を見たゝめに幻覺を起したのではないかと思つた。私が不思議の眼を(みは)つてゐる間に、 焔の柱は徐々にねぢれて、下火になつて、やがて大地の(はらわた)の中へ消えてしまひ、 あとにはアッシャの姿だけが殘つた。

焔が消え去るとすぐに彼女はレオのそばに進み寄つて、手を伸してそれを彼の肩においた。 私は彼女の腕をぢつと見つめた。あの丸々した美しさはどこへ行つてしまつたのだらう? その腕は痩せてごつ〜骨ばつてゐた。そして彼女の顏はどうだらう! 彼女の顏は私の見てゐる前で、見る見る年を()つていつた。レオもそれを見ただらうと私は思ふ。 彼はたしかに少し後退(あとずさ)りした。

「どうしたのです、カリクラテス?」と彼女は言つた。その聲はまたどうしたことであらう。 あの澄み渡つた鋭い響きはなくなつて、高いかすれたきい〜聲になつてしまつてゐるではないか。

「おやどうしたのです -- どうしたのです?」と彼女はどぎまぎしながら言つた。 「妾は眼が眩んでしまつたのです。火の(たち)がかはる筈もないのに、 生命(いのち)原質(もと)がかはる筈もないのに?言つて下さい、カリクラテス、 妾の眼はどうかしましたか?妾ははつきり物が見えないのです」 かう言ひながら彼女が手をあげて髮を觸ると -- あゝ恐ろしや! -- 髮は床の上へばさ〜拔け落ちてしまつた。 「まあ!まあ!まあ!」とジョッブは甲高い恐怖の聲で叫んだ。彼の眼は顏から飛び出し、 脣の間からは泡を吹いてゐた。「まあ!まあ!まあ!あの女が(しぼ)んでゆく!猿になつてゆく!」 かう言ひながら彼は發作を起して、口から泡を吹き、齒をくひしばりながら地べたにどさつと倒れた。

實際その通りであつた。アッシャは見る見る萎んで行つた。 彼女の美しい腰に卷いてあつた金蛇の帶はするりと臀を辷り拔けて地に落ちた。 彼女はだん〜小さくなつてゆき、皮膚のいろはかはつて艷々した白い色は、 古ぼけた羊皮紙のやうな薄汚ない黄褐色にかはつていつた。 しなやかな手は爪ばかりになり、保存しかたのまずい埃及(エジプト)木乃伊(ミイラ)の爪そつくりになつてしまつた。

やがて彼女はこの變化に氣づいたものと見えて、金切聲をあげて叫んだ。 あゝ、あのアッシャが床の上を轉げまはりながら、金切聲を上げて叫んだのだ。

彼女は益々小さく(しぼ)んでいつて、たうとう猿位の大きさになつた。 皮膚には無數の皺が生じ、醜い顏には何とも名状できない程の老齡のあとがきざみこまれた。 私はこんなものを未だかつて見たことがない。誰だつて、生後二ヶ月の赤ん坊位の大きさで、頭だけ大人のやうに大きくて、 その恐ろしい彼に、無限の年齡をきざみつけられたこの時の彼女の顏のやうなものを見た人はないに相違ない。

たうとう彼女はぢつとしてしまつた。といふよりもほんの(かす)かにぴく〜身體を動かすだけになつてしまつた。 二分前までは、此の世に又とない素晴らしい美人であつた彼女が、今は、猿程の大きさになつて、 彼女自身の髮の塊りのそばに、言語を絶した醜い姿をしてぢつと横はつてゐるのだ。けれども私はその時、 それは矢つ張り同じ彼女にはちがひないと思つた。

彼女はもう瀕死の状態であつた。それは有難いことであつた。といふのは生きてゐれば感情を持つてゐることだらう。 感情をもつてをれば變りはてた自分の姿を見てどんな感じがするだらう。彼女は骨ばつた手をあげて、 かすんだ眼であたりを見まはしながら、龜のやうに、そろ〜と頭を左右に振つた。眼はもう見えなのだ。 白い眼は角膜で蔽はれてしまつてゐたのだ。何たる哀れな眺めであらう!だが彼女はまだ物を言ふことはできた。

「カリクラテス」と彼女は(しやが)れた慄へ聲で言つた。「妾を忘れないで下さい、カリクラテス。 このはづかしい姿をあはれんでください。。妾は死にはしません。また來ます。もう一度美しくなります。 誓つてこれはほんたうです!おゝ --」かう言ひながら彼女はがくりと顏を伏せて動かなくなつてしまつた。

さうだ。かうして、二千年以上前に、彼女が僧侶カリクラテスを殺した同じ場所で、 アッシャは自分から倒れて死んでしまつたのだ。

極度の恐ろしさに打たれて、吾々も、砂の床の上に打ち倒れて、そのまゝ氣を失つてしまつた。

 

私はどれ位の間氣を失つてゐたのか知らない。多分數時間もたつたのであらう。 私が眼を開いた時には、あとの二人はまだ床の上に横はつてゐた。薔薇色の光はまだ曙の空のやうに輝き、 生命(いのち)の精の雷車はまだその軌道を走つてゐた。私が眼醒めた時はちやうど火柱が消えてゆくところであつた。 かつては光榮に包まれた女王であつた彼女の干乾(ひから)びた皺だらけの皮膚におほはれた醜い猿のやうな屍骸もまだそこに横はつてゐた。 あゝこれはいやな夢ではなかつたのだ。嚴肅な、前代未聞の事實であつたのだ!

どうして一體この樣な變化が起つたのであらう?命を與へる火の性質が變つたのであらうか? ことによると、この火は、時々生命(いのち)の精のかはりに死の精を吐き出すのではあるまいか? それとも、この火を二度浴びると中和して前に得た力が相殺されてもとのとほおりになつてしまふのであらうか? かう考へれば説明のつかぬことはない。といふのはアッシャの死んだ時の有樣は、 何か異常な方法で、二千二百年も女が生きてゐたら、これ程にも年を()るだらうと思はれる姿だつたからだ。

だが、この時何が起つたかは誰にだつてわかりつこはない。それは事實であつたのだ。 今までのアッシャは、生きながら墓所の中に閉ぢこもつて戀人の來るのを待つ外は世界の秩序に大した變化も起さずにゐたが、 若しこのアッシャが戀を得て幸福になり、不滅の若さと、神のやうな美と力と、 數千年の知慧をもつてしたら、社會に革命を起したかも知れはしない。人類の運命を變へたかも知れはしない。 かやうにして自然の大法に逆つた彼女は、どれ程強かつたにしても、遂にその自然の大法にはね返されて、 醜骸をさらすことになつてしまつたのだ。

しばらくの間、横になつたまゝ、ぼんやりと心の中で恐ろしかつたことを囘想してゐるうちに、 その場所の浮き〜した雰圍氣のせゐか間もなく私の體力は恢復して來た。 私は外の者のことを思ひ出したので、二人の正氣を恢復させることができるか、どうかを見るために、 よろ〜と起ち上つた。だが私は先づ第一にアッシャの下着と薄紗(うすもの)のスカーフを拾ひ上げた。 このスカーフこそは、彼女が彼女の眼も眩む美しさを人々の眼からかくすためにつかつてゐたものだ。 それから私は彼女のかはりはてた姿を見ないやうに顏をそむけて、それを彼女の屍骸の上にはふりかけた。 レオが正氣に返つてそれを見やしないかと思つて私は大急ぎでそれををへた。

それから砂の上に散らばつてゐた香の高い黒髮の塊りを踏んで、うつ伏せになつて横はつてゐるジョッブのそばへ行き、 彼の身體を仰向けにひつくり返した。私が彼を抱き起すと彼の腕は氣味惡くだらりと下つた。 私はそれを見るとぞつとして、けはしい眼をして彼の顏を見た。一目見たゞけで十分だつた。 吾々の忠實な老僕は死んでゐたのだ。これまで隨分恐ろしいことを見て來て、極度に傷けられてゐた彼の神經は、 この最後の物凄い光景を見て、すつかり打ち碎かれてしまひ、恐怖のために、 或は恐怖から生じた發作のために死んでしまつたのだ。

これも大變な打撃であつたが、吾々はもう次から次へと恐ろしい目に遭ひどほしだつたので、 その時は格別ジョッブの死には驚かなかつたと言つても讀者は理解してくれることゝ思ふ。 この男の死んだのは當然だつたのだ。それから十分程たつて、レオが呻きながら、そして四肢を震はしながら、 正氣づいた時、私は彼にジョッブの死んだことを話した。すると彼はたゞ「はあ」と答へただけだつた。 だが記憶しておいて貰ひたい。これは彼が無情な人間だからでは決してないのだ。 彼とジョッブとは非常に愛しあつてゐた仲だし、 それにその後屡々(しば〜)彼はジョッブのことを可哀さうだ可哀さうだといつて話す。 その時は彼の心がもう堪へられなかつたのだ。豎琴の出す音には、いくら強く打つたといつて一定の限度があるものだ。

さて私はレオを正氣に返した。嬉しいことには彼は死んでゐなかつたのだ。そして前に言つたやうに、 彼はその場に坐り直つた。その時私はまた恐ろしいことを眼にした。 こゝへ來たときにレオの髮は美しく金色(こんじき)に光つてゐたのが、 今ではすつかり胡麻鹽になつてをり、外氣に觸れるまでには雪のやうに白くなつてゐた。 それに彼は急に二十も年を()つたやうに見えた。

「どうしませう叔父さん?」と彼は少し頭がはつきりして、 今までのことを心の中に思ひ出して來ると、氣の拔けた死んだやうな聲で言つた。

「一かばちか逃げ出して見るんだね」と私は答へた。「お前がこの中へはひりたくなければ」 と言つて私はまた燃え上つて來た焔を指した。

「死ぬにきまつてをれば跳び込んで見てもよいのですがね」と彼は少し笑ひながら言つた。 「僕が躊躇したもんだからこんなことになつたのですよ。 僕が疑ひさへしなければアッシャは跳びこみはしなかつたかも知れないのです。 だけど僕がこの中へ跳び込んでどうなるかはつきりわかりませんからね。 僕の身體には此の火が反對の作用を及ぼして、僕が不死の身になるかも知れません。 その時には、僕はあの女のやうに二千年もあの女の來るのを待つてゐる忍耐が僕にはありませんからね。 僕は壽命がなくなつた時に死んでしまつて、アッシャを探しに行きます。 あなたこそどうです。あの中へはひつて見たら?」

だが私はたゞ頭を振つたゞけだつた。私の昂奮はもう(どぶ)の水のやうに死んでしまひ、 またもとのやうに、生きてゐる苦しみを長くするなどは眞つ平になつてしまつてゐたのだ。

「ところで、レオ、吾々は、こんな風になるまでこゝにのこつてゐるわけにもゆかないから」 と言ひながら、私は白い着物に被はれた小さな塊りと、固くなつたかはいさうなジョッブの屍骸とを指さして 「もう行かうではないか、だが、ランプはもう燃えきつてしまつたか知ら?」 私は一つのランプを取り上げて見た。たしかに油はから〜になつてゐた。

「油壺にまだすこしのこつてゐますよ、油壺がこはれてさへゐなければ」とレオは氣のない返事をした。

私は油壺をしらべて見た。有難いことにこはれてはゐなかつたので、私は手を慄はしながら油を注いだ。 幸にも麻のしんの燃え殘りがまだあつたので、私は蝋マッチを擦つてそれに火をつけた。 そのうちにまた火の柱の近づいて來る音が聞えた。

「もう一度あれを見てゆきませう」とレオは言つた。「もう此の世ではあんなものは二度と見られんでせうから。」

私はレオの意見に從つた。そして、火が消え去るのを待つて吾々も(きびす)を返して出發の用意をした。

けれども出かける前に、吾々はめい〜ジョッブの冷い手に握手した。隨分氣味の惡い儀式だが、この際、 それが吾々の忠僕に對して敬意を表する唯一の手段だつたのだ。白い着物の下の塊りは吾々は開けて見なかつた。 あの恐ろしい姿を二度と見たくなかつたのだ。けれども、あの恐るべき變化の刹那に拔け落ちて、 床の上に散らばつてゐる艷々した黒髮を吾々はめい〜一束づゝ拾ひあげた。 今でも吾々はこの髮束を保存してゐる。それがアッシャが吾々に殘してくれた唯一の記念(かたみ)なのだ。 レオは香ひの高い髮を彼の脣におしつけながら嗄れ聲で言つた。

「あの女は、僕に決して忘れてくれるなと言ひましたね。そしてまた會ふと誓ひましたね。 僕は誓つてあの女を忘れはしません。僕は誓ひます。僕たちがたとひこゝから逃げおほせることができても、 僕は一生、他の女には關係しません。そしてあの女が僕を待つてゐてくれたやうに、 どこへ行つてもあの女を忠實に待つてゐます。」

「さうだ」と私は獨りで考へた。「若しあの女が以前のやうな美しい姿で歸つて來たら。 だが若しあんな姿で歸つて來たらどうだらう!」

それから吾々は二人の屍骸と、それを包む薔薇色の光とに最後の一瞥を投げて、重い重い、 何とも言ひやうのない氣持を抱いてこゝから這ひ出たのであつた。


更新日: 2003/02/12

第二十七章 深淵を跳び越へる


第二十七章 深淵を跳び越へる

洞窟を通つて行くのは左して困りもしなかつたが、漏斗形の勾配のところまで來ると吾々は二つの困難にぶつかつた。 一つはそれを()じ登ることの困難で、いま一つは道がわからないための困難だ。 實際、私が幸ひにも色々な岩の形を心おぼえにとめておかなかつたら、吾々は、道がわからなくなつて、 恐ろしい火山の胎内へ迷ひ込み、絶望と疲勞とで死んでしまつたに相違ない。 實際吾々は幾度(いくた)びちがつた道へ踏み迷つたか知れない。一度はもう少しのことで岩の裂け目に落ちてしまふところだつた。 暗い、森閑とした道を、岩から岩へとかすかなランプの光りを頼りに匍ひまはつて、 一々岩の形に見覺えがあるかどうかをしらべながら進んで行くのは生やさしい仕事ではなかつた。 吾々は、えつたに口を開かなかつた。物を言ふ元氣もない程吾々はしよげきつてゐたのだ。 吾々はまるで犬のやうにだまりこくつて、躓きながら、時々轉んだり、怪我をしたりしながら進んで行つた。 吾々の心はひどく打ちのめされてゐたので、自分の身體がどうならうと、そんなことは大して氣にもとめなかつたのだ。 たゞ吾々はできるだけ命が助かりたいといふ一念で一ぱいだつた。自然の本能が吾々をさうさせたのだ。 吾々は三四時間も、迷路の中を辛苦して進んでいつた。(しか)し、 動いてゐる時計はもう一つもないので正確な時間は到底わからなかつた。 最後の二時間程はすつかり道に迷つてしまつて、別の漏斗形の中へ迷ひ込んだのぢやないかと心配したが、 そのうちにやつと、吾々が前に漏斗形の勾配を降りかけてから間のないところにあつた大きな見おぼえのある岩が見つかつた。 吾々はその岩を通り過ぎて別の道へ踏み込んでゐたのだが、あと戻りして何の氣もなしにそれを調べて見ると、 それが見おぼえのある岩だつたのだ。實にそれは竒蹟であつた。このお蔭で吾々は助かつたのである。

それから吾々は天然にできた岩の階段を大した困難もなく登つていつて、道にも迷はずに、再び、 昔ヌート老人が住んでゐたといふ小さい(へや)の中へ辿り着いたのであつた。

ところが、今度はまた新たな恐怖が吾々に當面して來た。ジョッブが恐ろしさのために、へまをやつて、 震動する大きな(けづめ)形の岩と、搖れる石との間の深淵を越へる板を落してしまつたことを讀者は記憶してうぃられるであらう。

板がなくて、どうしてあの大きな岩の裂け目が越せようか?

答へは一つしかない -- 運を天にまかせて、跳び越して見るか、それともこのまゝ死んでしまふかだ。 二つの岩の間の距離は左程廣くはない。十一、二呎だと私は思ふ。 それにレオは學校にゐた時分には幅跳びで二十呎も跳んだことがあるのを私は見た。 だがその時の條件を考へて見なくちやならない。それを跳び越へようとしてゐる男は二人ともへと〜に疲れてゐて、 そのうちの一人はもう四十の阪を越してゐるのだ。足場はぐら〜搖れる石で、跳んで行く先はぶる〜震へてゐる幅數呎の岩で、 それが突風の吹きすさぶ虚空にかゝつてゐて、下には千仞の淵が口を開いてゐるのだ。 だが私がこのことをレオに言ふと、彼は言下にどの道死ぬにはきまつてゐる、 たゞこゝに待つてゐてぢり〜死ぬか、思ひきつて跳んで見て手つ取り早く死ぬかどつちかだから、 一かばちか跳んで見るより外はないと答へた。

此の言葉には反駁の餘地はない。だが暗闇の中で跳ぶわけには行かないから、 吾々のなすべきことは夕日のさしこむのを待つことあるのみだ。 とは言へ夕方までにはまだ間があるのか、それとももうすぐなのか吾々は二人とも皆目見當がつかなかつた。 吾々の知つてゐたことは、 たゞ光が差しこんで來たらせい〜゛二分以上はつゞかないでまた暗くなるからいざといふ時の用意をしておかねばならぬといふことだけであつた。 そこで吾々は搖れる石の上へ匍ひ上つて用意をすることに決心した。 この決心がはやくついたのはランプが消えかゝつてゐたからだ。即ち、二つのランプのうちの一つはもうすつかり消えてしまひ、 あとの一つは油がなくなつた時どのランプの火でもさうであるやうに、ちよろ〜と斷續して燃えてゐた。 そこで吾々はこの消えかゝつたランプの光をたよりに、急いで(へや)を拔け出して、 大石の上へ匍ひ上つた。ちやうどその時にランプは消えてしまつた。

(へや)の中とこの石の上とではひどいちがひだ。(へや)の中にゐた時には、 たゞ上の方で突風のごう〜いふ音が聞えるだけだつたが、こゝへ來るとその突風の荒れ狂ふ眞つ只中に曝されてゐるのだ。 風の方向は刻々に變つていつて、猛り狂ひながら絶壁にぶつつかつた。吾々はそこに何時間も何時間も石にしがみついて横はつてゐた。 風の音に交つて、對岸の岩の(けづめ)の震動する音がぶん〜と響いて來る。 人間の見たどんな夢だつて、小説家の考へ出したどんな恐ろしい空想だつて、この恐怖に匹敵するものがあらうか。 吾々は難破船の乘組員が流木にしがみついてゐるやうに、石にしがみついて、 風にふかれながら、底の知れぬ空中に搖られてゐた。しかし幸ひにも氣温は低くなかつた。 風は實際生温かつた。でなかつたら吾々は凍え死んでしまつたであらう。吾々がこんな風にして石にしがみついてゐる間に、 實に不思議な出來事が起つた。

吾々がこの石へ渡つて來る前に、アッシャが岩の(けづめ)の尖端に立つてゐたとき、 風が彼女の外套をどつかへ吹き飛ばしたことを讀者は記憶してゐるであらう。 私はあまり不思議で讀者が信じないかも知れんから、こんな話はしたくないのだが、吾々が石にしがみついてうつぶしてゐたとき、 その外套が、どこからともなく、死者の思ひ出のやうにひら〜舞ひ落ちて來て、 レオの足から頭までふわりとかぶさつてしまつたのだ。はじめは、吾々には、それが何だか想像もつかなかつたが、 手觸りでアッシャの外套だと判つた。かはいさうにレオは、こらへてゐた悲しさがはじめて抑へきれなくなつて、 歔欷(すゝりな)いてゐるのが聞えた。きつとその外套はどつかの岩角にひつかゝつてゐて、 偶然こゝへ吹き飛ばされて來たのだらうが、實に竒妙な哀れつぽいめぐりあはせであつた。

それからしばらくたつと、突然、何の豫告もなしに、赤い(やいば)が闇をつらぬいて、 吾々の乘つてゐる石から眞一文字に對岸の震へる岩の(けづめ)までかつと照した。

「さあ今だ、この機會をはづしたら駄目だ」とレオは言つた。

吾々は立ち上つて身をのばした。

「誰から先に跳ばう?」と私は言つた。

「叔父さんから跳びなさい」とレオは答へた。「僕は岩の反對側に坐つて搖れないやうにしてゐます。 できるだけ走つてはずみをつけて高く跳ぶんですよ。それから先は神樣にまかせるんです。」

私は點頭(うなづ)いてレオの言葉に從つた。それから私はレオがまだほんの子供であつた時分からしなかつたことをした。 即ち、私はレオの方を向き直つて、彼を抱き寄せて、額に接吻した。 これはどうもフランス人らしいやるかたのやうに思はれるかも知れんが、 何しろ私は、親身の子供にもまして愛してゐたレオに、最後の告別をしたのだ。

「左樣なら、レオ」と私は言つた。「何處へ行つてもまたあひたいものだね。」

實際あと二分間も生きてはをれまいと思つたのだ。

それから私は、岩の端まで身をひいて、風がうしろへ廻るのを待ち、大石の上を三十三呎も走つて、 眼のまはるやうな虚空へ(まつし)ぐらに跳びこんだ。あゝ、私の足が石を離れたときの何とも言ひやうのないいやな心持ち、 跳び方が足りなかつたかなと感じたとき私の頭にさつと閃いた怖ろしい絶望感! しかも實際跳び方が足りなかつたのだ。私はの足は岩にとゞかないで虚空を踏みはづした。 たゞ私の胴體と手とだけが岩の端にとゞいたのだ。私は()つと叫びながらそれにしがみついた。 しかし片手が(すべ)つたので、私は他の片手で岩角をつかみながら後向きになつて、 眞直ぐに空中にぶら下がり、今跳んで來た石と向ひあつた。私はもがき苦しんで左手を岩にしがみつけ、 今度はやつと岩の(こぶ)をつかむことができた。そして、 私は烈しい赤光を身に浴びて千仞の淵を下に見おろしながらぶら下つてゐた。 私は兩手で岩の(けづめ)の兩端をつかんでゐたので、岩の突端は私の頭へさはつた。 だから私にたとひ力があつたとしても上に身をあげることはできなかつた。 せい〜゛一分間もぶら下つてゐて、底なしの淵へ落ちてしまふより外はなかつたのだ。 これ位いやな境遇を想像することのできる人があるなら聞かしてほしい! この半分間に苦しみのために私の頭は變になりかゝつた程だつた。

私はレオの叫び聲を聞いた。と思ふと突然彼が羚羊のやうに中空を跳び上るのが見えた。 この絶對絶命の場合渾身の力をこめて跳んだ彼の跳び方は實に素晴らしいものであつた。 恐ろしい深淵を物ともせずに跳び越へて、岩の突端に辿りつき、深淵へ振り落されないやうに、 すぐにうつぶせに身を倒した。私はレオが跳びついたときに、岩が搖れるのを感じた。 それと同時に、彼が跳んだはずみに、對岸の大石が、はずみを食つて、 この數千年來はじめて平衡を失つて、恐ろしい音をたてて、 かつてヌート老人がかくれ家としてつかつてゐた部屋の上へ轉げ落ちるのが見えた。 これで生命の場所へ行く路は數百噸の岩で永久に封じられてしまつたわけだ。

これ等の事柄はほんの一瞬の間に起つたのであつた。 しかも不思議にも私はこんな恐ろしい境遇にありながら無意識ではあらうがそれに氣がついてゐた。 もうこれつきりこの恐ろしい道を通る人はあるまいとなどと考へたことさへ私はおぼえてゐる。

次の瞬間に、私は、レオが兩手で私の右の手首を掴んだのを感じた。 彼は岩の上に腹這ひになつて、やつと私まで手がとゞいたのである。

「手を放してぶら下がりなさい」と彼は落ちついた、力のこもつた聲で言つた。 「さうすれば僕が引き上げて見ます。でないと二人とも落ちてしまひますよ。いゝですか?」

私は返事をするかはりに、先づ左手を岩からはなし、それから右手を岩からなはして、レオの腕にぶら下がつた。 それは實に恐ろしい瞬間であつた。成る程彼は大變力のある男であることは私は知つてゐる。 けれども、こんな恰好をしてゐて、 果して彼の力で私が岩の上をつかむことができるまで引つぱり上げることができるだらうか?

數秒間私はぶらりぶらりと左右に身體を振つてゐた。その間に彼は努力を集中してゐた。 やゝあつて私は彼の筋肉が上の方でめき〜鳴る音を聞いた。 そして私がまるで小さい子供か何ぞのやうにもち上げられるのを感じた。 たうとう私は左手を岩の上にかけて身體を支へた。それからあとはもう雜作はなかつた。 數秒間のうちに私は上へ匍ひ上つて、吾々は木の葉のやうに慄ひながら、 恐ろしさために、冷汗でぐつしより濡れて、その場に横へたまゝ喘いでゐた。

すると以前と同じやうに、夕日の光は、ランプの消えるやうにだしぬけに消えてしまつた。

ものゝ半時間も、吾々は、一言も口をきかずに、そこでやすんでゐたが、 やがて暗闇の中で、できるだけ上手に、大きな岩の(けづめ)の上を匍ひはじめた。 (けづめ)の突き出てゐる崖の正面まで辿り着いた時にはほんの少しばかりではあつたが明りが増して來た。 何しろもう上の方は夜になつてゐたからである。こゝまで來ると風も大分弱くなつたので進むのが樂になつた。 そして遂に第一の洞窟或は隧道(トンネル)の入口にまで着いた。 だが今度は別の困難が吾々を待つてゐた。ランプはもうなくなつてしまつてゐた上に、 水はヌートの(へや)にゐるときにすつかり呑みつくしてしまつたので、今は一滴も殘つてゐなかつた。 どうして吾々はこれからこの凸凹の洞窟を進んだらいゝだらう?

明かに吾々はたゞ觸覺だけにたよつて、(くら)い道を進んでゆくより外にしやうがなかつた。 そこで吾々は、はやく進まないとそのうちに精根がつきてしまつて、中途でへたばつてしまふことを恐れたので、 急いで洞窟の中へ匍つてはひつた。

あゝこの最後の隧道(トンネル)の恐ろしかつたこと!岩はでこぼこで、角だらけなので、 吾々は幾度(いくたび)もつまづいたり、ころんだりして、身體ぢゆう血だらけになつた。 たよりにするものとてはたゞ洞窟の側壁だけだつたので、吾々はそれを手さぐりしながら進んでいつた。 あまりの暗さに頭が變になつて、まちがつた道へはひつたのぢやないかといふ恐怖にとらはれたことが三度もあつた。 進んでゆくにつれて吾々はだん〜力を失つて弱つて來た。數分間進んではやすまねばならなかつた。 一度は中途で眠りこけてしまつた。數時間も眠つたことであらうと思ふ。といふのは眼が醒めて見ると、 四肢は硬ばつて擦れ傷から出た血はかたまつて干乾(ひから)びてゐたからだ。 それから又吾々はへと〜になつた足を曵きずつて進み出した。たうとう、精根つきはてゝがつかりしてしまつた時、 やつと日の目を見ることができた。吾々はそのとき、斷崖の外側へ通ずる隧道(トンネル)の外へ立つてゐたのだ。

その時は、すが〜しい風と、もう二度と見られまいと思つた朝燒けの空とから推して早朝であることがわかつた。 吾々は日沒後間もなく隧道(トンネル)の中へはひつたのだから、一晩中あの恐ろしいところは匍つてゐたわけだ。

「もう一息だな、レオ」と私は喘ぎながら言つた。「さうすりやビラリのゐる山腹へ出られる。 まだあの老人はゐるだらうな。さあ氣をゆるめずに行かう。」彼はこの時うつぶしになつてゐたのだが、 私の聲をきいて立ち上つた。そして吾々は互に身をもたせかけながら、五十呎あまりの崖を、つまづきつゝ降りて行つた。 どうして降りたのかちつともおぼえてはゐないが、何でも一番底にへたばつてゐたのだけをおぼえてゐる。 それから吾々はもう一歩も立つては歩けないので、匍ひながら、 彼女がビラリに向つて歸るまで待つてゐるやうに命じた林の方へ進んで行つた。こんな風に四十碼(ヤード)近くも行つたときに、 一人の唖が、だしぬけに吾々の左手に現はれた。この男は朝の散歩をしてゐたものらしかつたが吾々を見つけると、 妙な獸がとび出して來たとでも思つたのか、吾々のそばへ駈け寄つて來た。 彼は吾々の姿をよく見ると、兩手をあげて恐ろしさのために地べたに倒れようとした。 それから一目散に二百碼(ヤード)もはなれた林の方へ逃げだした。 吾々の姿があまりかはりはてゝゐたので、怖がつたのであることは一點の疑ひもない。 先づ第一にレオの髮は眞白になつてゐるし、着物はぼろぼろになつて殆んど身についてゐないし、 顏はやつれ、手は傷だらけだし、どう見ても、猫か、血だらけの豚といつた形相だつた。 私とても同じことであつた。それから二日たつてから私は自分の顏を水に映して見たが、 それが自分の顏だといふことが殆んどわからなんだ位である。

やがて、ビラリ老人が吾々の方へ急いでやつて來たので、私はほつとした。 このやうな場合にでも、この老人が鹿爪らしい顏に驚きの色を浮べてゐるのを見ると、 微笑せずにはゐられなかつた。

「おゝ狒々(ひゝ)狒々(ひゝ)!」と彼は叫んだ。「ほんたうにあんたと獅子(ライオン)とぢやらうな? 熟れた麥のやうだつた獅子(ライオン)(たてがみ)が眞白になつてゐるのはどうしたわけぢや? どこから來なすつた?豚はどうした?それから全能の女王樣はどうなされた?」

「死んぢまつた、二人とも死んぢまつた!」と私は答へた。「だがもう何も訊ねないで、助けて下さい。 食物と水とをはやく、でないとあんたの眼の前で吾々も死んぢまひます。 咽喉が(かわ)いて下が黒くなつてゐるのが見えませんか?話どころぢやないのです。」

「死んだ!」と彼は喘いだ。「そんな筈はない!不死の女王が死ぬなんて?」 それから彼は言葉をきつて、急いでその場へかけつけた唖どもに命じて吾々を天幕(テント)の方へつれてゆかせた。

幸ひにも吾々が着いたとき、火にかけてあつたスープが煮えてゐたので、ビラリがそれを吾々に食べさしてくれた。 吾々は自分で食べるだけの力もなかつたのだ。このスープのお蔭で吾々は、 疲勞のために死ぬのをまぬかれたのだとかたく信じてゐる。 それからビラリは濡れた(きれ)で吾々の身體から血や汚物を拭ひとるやうに命じた。それがすむと、 吾々は香草を積み重ねたしとねの上に横になつて、すぐに正體もなくぐつすり眠つてしまつた。


更新日: 2003/02/12

第二十八章 山を越へて


第二十八章 山を越へて

その次に私のおぼえてゐることは、身體が妙に硬ばつて、自分の身體が、 まるで打ちたての敷物(カーペット)のやうな氣がしたのを寢ぼけ頭にぼんやり意識したことであつた。 私は眼をひらいた。眞つ先きに見えたのは、 俄造(にはかづく)りのベッドの上にねてゐる吾々のそばにすわつて長髯をしごいてゐた、 鹿爪らしいビラリ老人の顏だつた。老人の顏を見ると、私の心に、最近に吾々が經驗した數々の冐險の記憶が甦つて來た。 それから私と向きあつて寢てゐる、傷だらけのレオの顏を見、眞白な彼の頭を見ると、 記憶は益々まざ〜として來た。私はまた眼を閉ぢてうめいた。

「ずいぶん長いことあんたは眠りましたぞ狒々(ひゝ)」とビラリ老人は言つた。

「どれ位眠りましたかね?」と私は訊ねた。

「太陽が一まはりして、月が一まはりする間、つまり一日と一晩あんたは眠りつゞけましたわい。 レオもさうぢや、御覽(ごらう)じ、まだレオは眠つとりますよ。」

「眠りといふものは有り難いもんだ」と私は答へた。「何もかもすつかり記憶を呑んでしまひますからな。」

「一體どんな目にあひなさつた?不死の女王が死なれなさつたといふのはどうしたわけですい、聞かして下され。 もしそれがほんたうだとすると、あんたの身もレオの身もちつとも油斷がなりませんぞ。 ことによると燒壺でやかれて食はれるかも知れん。あの連中はもう血に()ゑとりますからな。 それにアマハッガー人はあんたたちをひどく憎んどりますぞ。あんたたちは異國人ではあるし、 その上あんたたちのお蔭で、仲間の者が女王から責苦にあつたのぢやからなあ。 女王樣がゐなくなられたつてことを知つたら彼奴等はきつとあんなたちを燒壺で、 殺してしまふにきまつとりますわい。だがまあ、話をして下さい。」

かう頼まれたので、私は、女王は火山の火の中へ落ちて燒け死んだのだといふことを話してきかせた。 ほんたうのことを話したつてわかりつこないと思つたからだ。 それから私は逃げて來る道中の恐ろしかつたことを少しばかり話してきかせた。 これには老人も大分感動したらしかつたが、アッシャが死んだといふことはどうしても信じなかつた。 女王は何かの都合で一時姿をかくしたので、それを吾々が死んだと思つてゐるのだと彼は言つた。 そして、前にも彼のおやぢの代に十二年も女王が姿をかくしたことがあつたと言つた。 私はこれには何とも答へずに、たゞ悲しさうに首を振つた。彼女がもう歸つて來ないこと、 少なくともビラリはもう二度と彼女にあへないことが私にはあまりによくわかつてゐたのだ。

「ところで」とビラリは言葉をむすんだ。「あんたはこれからどうしなさるつもりぢやな、狒々(ひゝ)?」

「どうしていゝかわかりませんよ、長老」と私は言つた。「この土地から逃げることはできんでせうな?」

彼は首を振つた。

「それは大變にむずかしい。コオルを通つて行くわけにはゆきませんでな。あそこを通つた日にや、 アマハッガー人にみつかる。彼奴等は女王が一緒でないことを知ると、それ」と言ひながら彼は意味ありげに笑ひながら、 帽子をかぶるやうな手眞似をした。「だが、崖の中に、いつかもあんたに話したことがあるが、牛を牧場へ追ひ出す小徑がありまさあ。 その牧場の先には沼地があつて、それを通り拔けるのに三日かゝる。それから先のことは、私は知らんが、 七日もかゝつて歩いてゆくと大きな河があつて、その河は黒い海に注いでゐるといふことを聞いとります。 その河の岸までゆくことができりや、ことによると逃げられるかも知れんが、どうしてそんなところまで行けますかい?」

「ビラリ」と私は言つた。「あんたも知つてゐる通り、いつか私はあんたの命を助けてあげたことがある。 その代りに今度は私とレオの命を助けて貰ひたい。あんたの考へてゐるとほりだとすると、 いつかまた女王が姿を現はされるかも知れん。その時には良いことをしとくと女王のお賞めにも預かれようといふものだ。」

狒々(ひゝ)さん」と老人は答へた。「わしは恩知らずぢやありませんぞ。 あの犬どもがわしの溺れるのを見てぼんやり立つてゐた時に、 あんたがわしの命を救つて下さつたことは、よくおぼえとりますわい。 わしはわしにつくして貰つたゞけの恩返しをします。そして助かるものならあんたの命を助けて進ぜますわい。 明日の夜明けまでに支度をしなさるがよい。さうすれば、わしは女王の命令だと言つて、 あんたがたを、駕籠かきどもを(いつは)つて、山を越へて、沼地を渡つて、その先きまで送らせませう。 沼地を越へたら、その先はあんたがただけで進んでゆかにやならん。 さうすれば運がよけりや、黒い海とやらまで無事に行きつけるかも知れませんわい。 ところで獅子(ライオン)も眼が醒めたやうだから、食事をしなさるがよい。支度はしてありますからな。」

レオの工合は、すつかり眼がさめてしまふと、最初思つたほどわるくはなかつたので、 吾々は腹一ぱい食物を詰めこんだ。それがすむと吾々は泉のそばまで行つて行水をつかひ、 また歸つて來て夕方まで寢て、また腹一ぱい食事をした。ビラリはその日一日ぢゆうゐなかつた。 きつと駕籠や駕籠かきの用意をとゝのへてゐたのであらう。何故といふと、夜半頃に、吾々の夜營地へ、 可なりの人數の一行がどや〜と押しかけて來たので吾々は眼をさまされたからである。

夜明けになると老人もやつて來た。そして、少し工合が惡さうではあつたが、 女王の名をひきあひに出して、必要な人數をとゝのへ、別に、二人の道案内を命じて、 若し途中で裏切るやうなことがあつたときの用心に彼自身も一行に加はつて行くと吾々に告げた。 吾々はこの蠻地の老人が他國人の吾々につくしてくれた親切にひどく心を動かされた。 往復六日もかゝる恐ろしい沼地を、この年で旅をするのは竝大抵なことぢやない。 勿論、自分の一身上の利害の打算も加はつてゐたのかも知れぬ。女王が突然歸つて來て、 吾々をどうしたと訊ねられたときのことをも考へてゐたのかも知れぬ。(しか)し、それにしても、 この老人の心づくしは、一生身に沁みて忘られぬものであつた。

吾々は朝食がすむとすぐ駕籠にのつて出發した。身體の方は長く眠つたのと、 しこたま食物をつめこんだのとですつかり元氣が恢復してゐた。心の方は讀者の想像にまかせる外はない。

それから間もなく恐ろしい崖の登り道にさしかゝつた。道は自然に出來た道のところもあつたが、 大部分は古代のコオル人がつくつたものらしい鋸形の道だつた。 アマハッガー人が一年に一度づゝこゝから牛を牧場へ出すのださうだが、その牛はきつと足の丈夫な牛に相違ない。 勿論こゝでは駕籠は役に立たないので、吾々は歩いて行かねばならなかつた。

けれども、正午までに、吾々はこの大きな岩壁の頂上の平地まで着いた。 そこの眺望は實に雄大なものであつた。一方を見るとコオルの平原でその平原の中央には、 眞理の神殿の廢墟の柱がたつてをり、他方に眼を轉ずると、果しのない陰鬱な沼地がつゞいてゐた。 この岩壁はかつて火山孔の縁環であつたものに相違なく、厚さが一哩半もあつて、まだ灰滓(はひくづ)に被はれてゐた。 岩の上には何も生えてゐなかつたが、ところ〜゛に窪みができて、 そこには最近に雨が降つたものと見えて水がたまつてゐた。 吾々はこの雄大なる岩壁の頂きの平地を()じて進んだ。 そのうちに道は(くだ)り坂になつた。(くだ)り道は登り程困難ではなかつたが、 それほど生やさしいものでもなかつたので下まで降りきつたときはもう日沒だつた。 (しか)しその夜は吾々は、崖の麓から沼地までつゞいてゐる廣い裾野の上で安らかに夜營をした。

翌朝十一時頃から、吾々はこのいやな沼地の旅をはじめた。

まる三日間、泥濘と熱氣の中を、吾々の駕籠かきどもはよち〜と歩いて行つた。 そして、案内人がなければとてもわからない蕭條たる道を通り拔けて、たうとう、うね〜起伏した平地へ出た。 そこは耕地ではなく、樹がほとんど生えてッゐなかつたが、色々な鳥や獸が歩きまはつてゐた。 そして、こゝで翌朝吾々はビラリに名殘りをしい別れをつげた。彼は白髯(はくぜん)をしごきながら吾々にむかつて言つた。

「左樣なら、狒々(ひゝ)さん、それから獅子(ライオン)さんも左樣なら。 もうこれ以上わしはあんたがたをお助けすることはできません。だが、若し、あんたがたの國へ歸りなさつたら、 これに懲りて、もう二度と知らない處へは行かないやうになさるがよいですぞ。でないと、 今度は歸れなくなつて旅の行き詰りにあんたがたの白い骨を(さら)さにやなりませんからな。 もう一度おさらばぢや、わしもあんたがたのことを度々(たび〜)思ひ出すぢやろうが、狒々(ひゝ)、 あんたもわしを忘れて下さるなよ。あんんたの顏は醜いが心には眞情(まごころ)がこもつてゐる。」 それから彼は(きびす)をまはして去つた。彼のあとから丈の高い、氣むづかしさうな顏をした駕籠かきどもゝ去つて行つた。 吾々にはこれがアマハッガー人の見をさめだつた。吾々は、 まるで戰場から戰死者をつれて來る行列のやうに空駕籠をぶら〜させながら去つて行く彼等の後姿が沼地から立ち昇る霧に包まれるまで一行を見送つてゐた。 それから吾々は今更のやうに荒涼たる身のまはりを見まはし、二人で互に顏を見合せた。

思へば吾々四人の者がコオルの沼地へはひつて來たのは三週間前だつた。そのうちの二人は今は死んでしまひ、 吾々二人は、()しくもまた恐ろしい冐險の數々を經て生き殘つたのだ。三週間 -- たつた三週間だ! ほんたうに時といふものは、だゞ經過した長さだけでははかられないものだ。 その間に起つた事件によつてはからねばならぬものだ。吾々にはボートの中でつかまつてから三十年もたつたやうな氣がする。

「これからザンベシ河まで突き貫けにやならんね、レオ」と私は言つた。「だがそこまで行けるかどうかは神樣にしかわからない。」

レオは點頭(うなづ)いた。

彼は近頃めつきり口かずをきかなくなつた。そこで吾々は着のみ着のまゝの着物と、磁石と、拳銃(ピストル)と、 エキスプレス銃と二百發の彈丸(たま)とだけをもつて出發した。 これで吾々の雄大なコオルの廢墟の訪問の物語は終つたのである。

 

その後、吾々の身にふりかゝつてきた災難のかず〜は、不思議な、樣々なものではあつたが、 よく考へて見た上で私はこゝに記さぬことに決めた。こゝでは、私はたゞ、 私が前代未聞の出來事であると信じてゐる出來事を簡單に述べたゞけである。 しかも私は、これをすぐに世間に發表するつもりではなく、たゞ忘れないうちに書きつけておかうと思つただけゞある。 この旅をことを詳しく書いて發表すればきつと世間では面白がるだらうと思ふが、現在では、 吾々が二人とも生きてゐるうちは、そんなことはしないつもりである。

これから先のことは、一人の中央アフリカ旅行家の旅行記のやうなもので、 一般の讀者には興味のなみものである。だから、吾々は言語に絶した困苦をなめた末、 ビラリと別れた地點から約七十哩も南方にあたるザンベシ河へ辿りついたと言つておけば十分だ。 そこで吾々は六ヶ月間蠻人の部落で(とりこ)にされた。蠻人どもは吾々をたゞの人間ではないと思つたらしい。 それは主として、レオが若い顏をしてゐながら頭が眞つ白だつたからであらうと思ふ。 吾々は、この蠻族の手から免れてザンベシ河を渡り、南の方へ放浪の旅をつゞけ、今にも()ゑ死にしようとしてゐたときに、 運よくも混血のポルトガル人の狩獵家にあつた。この狩獵家は、その時、象の群のあとをつけて、 これまでにまだ來たことのない程、深く奧地まで入り込んで來たのであつたさうな。 吾々はこの男から親切なもてなしを受けて、數限りない苦しみや冐險を經て、最後に、彼の助けでデラゴア灣に着いた。 それは吾々がコオルの沼地を拔け出してら十八箇月以上も後のことであつた。 その翌日、吾々は運よくも、喜望峰(ケープ)から英本國へ歸航する汽船に便乘した。それは樂しい航路であつた。 吾々がサゞンプトンの波止場に足を踏みしめたときは、吾々が、 一見荒唐無稽に見える亂暴極まる探檢に旅だつてから丁度三年目であつた。 今私は昔なつかしい大學の部屋でこの最後の文字を書いてゐるのだ。レオは私の肩にもたれかゝつてゐる。 この部屋こそ、忘れもしない、二十二年前に、かはいさうな吾が友ヴィンシイが、 臨終の晩に、鐡の箱をもつてよろ〜してはひつて來た部屋だ。

これで現代の科學と外部の世界とに關する限りではこの物語はおしまひである。 レオと私とに關しては、この物語がいつになつたら終るのか私には見當もつかない。 だが、吾々は、まだ終つたのではないやうな氣がする。二千年以上前にはじまつた物語だから、 これから先き、遠い〜將來までつゞくかも知れない。

 

レオはほんたうに壺の破片に書いてあつた昔のカリクラテスの生れ更りだらうか? それとも、餘り先祖の顏によく似てゐたのでアッシャが見ちがへたのであらうか? もう一つの疑問は、この生れ更り物語りの中で、アステーンは昔のアメナルタスと何か關係があるのだらうか? これ等のことについても、その他のことについても讀者の方で自由に意見をたてて貰ひたい。 私の意見を言ふと、レオのことについてはアッシャは決して見ちがへたのではないと思ふ。

私は夜一人で坐つてゐて、まだ生れて來ない未來の暗闇の中を、心の眼でぢつと見つめながら、 この一大戲曲はこの次にはどんな形で、どんな姿で展開してゆくだらう、 そして次の幕は何處で演ぜられるだらうとあやしんだことが幾度でもある。 物には結末といふものがある。この戲曲(ドラマ)にも最後の幕があるに相違ないが、それは一體どんな幕であらう。 その最後の幕で、僧侶カリクラテスに、煩惱のためにイシスの神への誓ひをやぶらせ、 執念深い復讐の女神に追はれてリビアの海岸にのがれ、コオルへ來て最期を遂げさしたファラオの女王、 あの美しい埃及(エジプト)女のアメナルタスの演ずる役割は何だらう?

-- 洞窟の女王終 --


更新日: 2003/02/12