天路歴程:目次 ------------------------------------------------------------------------------- 天路歴程(警醒社,大正二年十二月九日印刷,昭和九年十月廿日十九版) ジヨン・バンヤン (1628-88)作 松本雲舟(1882-1948) 譯 目次 * 序 * 天路歴程に就て * 正篇序歌 * 正篇:一 * 正篇:二 * 正篇:三 * 正篇:四 * 正篇:五 * 正篇:六 * 正篇:七 * 正篇:八 * 正篇:九 * 正篇:十 * 正篇:十一 * 正篇:十二 * 正篇:十三 * 正篇:十四 * 正篇:結辭 * 續篇序歌 * 續篇:一 * 續篇:二 * 續篇:三 * 續篇:四 * 續篇:五 * 續篇:六 * 續篇:七 * 續篇:八 * 續篇:九 * 續篇:十 * 續篇:十一 * 續篇:十二 ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:序 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 序 天路歴程を初めて日本に飜譯したのは、故佐藤喜峯氏といふ漢學者であつた。 明治九年七一雜報に連載し、同十三年單行本として出版された。今その世に殘存せるものを見るに、 半紙へ木版で印刷したもので、故川義綏氏の題字と故中村正直氏の題詩とで卷頭を飾つてゐる。 ジヨン・バンヤンといふ名がジヨン・パンヨンと讀んであるのも面白い。傳ふる所に據れば、 これは支那譯から重譯したもので、天路歴程といふ書名も支那譯をその儘に使用したものだと云ふ。 けれどもその譯文はなか〜善く出來てゐる。會話の文を口語體にしたところなどは、 後から出た譯よりも進んでゐる感がある。それから書中の詩は漢詩をその儘插入してあるが、 原詞の意味がいかにも忠實に現はれてゐる。それに依つて見ても、支那譯は甚だ善く出來てゐるものと想はれる。 明治十三年頃に斯る立派な天路歴程の譯書が日本に出たのは、全く支那譯のお蔭であつた。 その次に世に出たのは、ホワイト氏の譯書である。これは明治十九年初めて出版された。 馬琴風の文體で、あまりに飜案し過ぎてゐる嫌がある。插繪にチヨン髷をつけた男などが出て來るのは滑稽である。 それから佐藤氏のには漢詩が其儘入つてゐるが、これには詩の譯が一つもない。實際この書は重譯でないといふ外には、 佐藤氏の譯の少しも優つた所がないのである。 明治卅七年には池亨吉氏の天路歴程前篇の譯書が世に出た。同四十一年十一月には同氏譯の續篇が出版された。 これは前の二書に較べて、餘程原書に忠實に譯したものである。 けれども其頃の一般の飜譯界といふものが今ほど進歩してゐなかつた。 飜譯といふものは、どれほどまで原文を忠實に寫さなければならぬかといふやうな事は殆んど問題になつてゐなかつた。 誤譯指摘といふやうな事も勿論なかつた。原文の一字一句を荀くもせずに、 それが立派な日本文になるやうにといふやうな考は其頃の飜譯家の頭には浮ばなかつたと言つて可い。 さういふ時代に出來た池氏の飜譯にさういふ缺點のあるのは止むを得ない。殊に池氏は往時新體詩人であつた。 善く泳ぐ者は溺るといはれてゐる。新體詩人であつた池氏には、 あまり技巧のないバンヤンの詩を忠實に譯すだけの根氣がなかつたらしい。 それ故三節のものを一節に改譯したり、それから一寸原意を採つて改作したりしてある。 殊に續篇に於ては肝要な節がツマらぬといふ口實の許に抄畧したりしてある。 今より十年前には譯者もそれで平氣な顏をしてゐることが出來たし、讀者もそれで滿足することが出來たのである。 餘は決して在來の飜譯者の惡口を言ふのではない。 日本の一般飜譯界がいかに幼稚なものであつたかをこれに依つて示さうとするのである。 今日本の飜譯界は實に進歩した。論文の飜譯はまた晦澁なものが多いやうであるが、 小説の飜譯に至つては實に立派なものが澤山に出て來た。人名や地名が外國のものであるといふほかに、 飜譯と創作との區別がつかぬほど上手になつた。これは日本の文章が長足に進歩したのと、 飜譯家の良心が鋭敏細緻になつたお蔭であらう。この點から觀ると、 日本の基督教界は飜譯に於ても一般の社會から後れれゐるやうである。 聖書改譯委員の手になつたマコ傳の飜譯などを見ても、原語には忠實かも知れぬが、 現代の日本の文章として餘り上出來ではないやうに想はれる。まして、聖書改譯ほど金もかけず、 念も入れない其他の飜譯書には餘り見るに足るものがない。これは基督教界の人逹が一般の社會と沒交渉になつてしまつて、 新しく勃興してゐる日本の文藝に觸れることが尠ないためであらう。 天路歴程は聖書と偕に不朽の書物である。新らしい時代には新らしい言葉を以つて讀まるべきものである。 それ故に私は天路歴程の改譯を思ひ立つた。曩にバンヤンの「聖戰」及び「恩寵溢るゝの記」を譯した行懸り上、 その三大傑作を完成したいといふ心もあつたし、 又新らしい時代の言葉で天路歴程を世の中に紹介することの必要を感じたからである。 私はこの改譯が前に在る三氏の譯よりも優つてゐるとは言はない。唯飜譯者として一層鋭敏な良心を以て、 その全體を忠實に飜譯したことを告白する。忠實な飜譯--これがこの書の誇である。 天路歴程といふ言葉は「ピルグリム・プログレス」の譯字として餘り古めかしい感じがする。 なんとか改めた方が善いと言ふてくれる人もあつたが、いかにも語呂が善いのと、 その名が深く人心に浸み込んでゐるので、今これを變へることの不得策なことを感じて、 その儘に存することにした。 大正二年十一月十一日 雲舟生 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:天路歴程に就て [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 天路歴程に就て 餘は「恩寵溢るゝの記」の卷頭に、バンヤン傳を掲げたが、それには天路歴程に就いて言ふべきことの多くを省いた。 最早その時には、天路歴程の飜譯を心に豫期してゐたからである。 で、茲《こゝ》にそのあらましを書きつけて見る。 一 洞穴《ほらあな》の場所を夢見し時 これに就ては、バンヤン傳に書いて置いたので、それを參照されたい。 洞穴《ほらあな》で夢を見たといふ、その洞穴《ほらあな》は牢獄である。 然《しか》もそれはバンヤンが十二年幽囚された郡の牢獄ではなく、 その後六ヶ月幽囚されたベツドフオード橋上の市《まち》の牢獄である。 彼がそこに囚《とら》はれの身となつたのは、一六七六年の春から夏にかけてなので、 その夢見た時もその間にあつたと言はねばならぬ。けれどもその夢の全部が獄中で物されたかといふに、それは疑問である。 天路歴程正篇には竒妙な區切が一つある。 基督者《くりすちやん》と有望者が歡樂山《たのしみのやま》で牧羊者《ひつじかひ》に別れたことを記した後に、 バンヤンは「折しも私は夢から醒めた」と言つてゐる。それから次の節に、 彼は「私は又睡つて再たび夢を見た。見ると同じ二個《ふたり》の旅人が山を下つて、 都をさして往來を歩いて往く」と記してゐる。これは正篇にある唯一つの區切であるが、 物語の脚色としては尠《すこ》しも必要がないものである。 それ故正篇全部は獄中に完成したのでなく、 この區切以下の三分の一は釋放後に物されたのではあるまいかと想はれる。 この推測は多分事實であらう。バンヤンが釋放されてベツドフオードの獄舍《ごくや》を出たのは、 一六七六年の秋である。さうしてその翌年に彼は天路歴程の原稿を出版するために倫敦に行つてゐる。 それ故その終りの三分の一は一六七六年の秋から七七年の春にかけて物せられたといふ推測が出來る次第である。 二 天路歴程の出版 バンヤンが天路歴程を出版するに就いては、その序歌にある通り、諸人に相談したものと見える。 或る人は出版しろと言ふし、又或る人は出版するなかれと言つた。意見は區々《まち〜》であつたが 自分の善しと信ずる所に從がつて出版することに決意した次第である。その出版に依托を受けたのは、 倫敦のポールトリーにピーコックといふ書店を持つてゐたナタニエル・ポンダアといふ人であつた。 彼の名がバンヤンの著作の發行者として記されたのはこれが初めてゞあつたが、 それから十年の間彼は幾度《いくたび》もバンヤンの著作を發行するに至つた。 二人は初めて出版上の關係を結んだのであるが、ポンダアの名は既にベツドフオードの非國教徒の間に知られてゐた。 一六七一年彼の店から、「救はれたる英國」といふ書物が出版された。 それはベツドフオード郡の國教會の副監督の位置から放逐されたロ・ート・バアロットの著書であつた。 尚ほその他にも縁故《ゆかり》があつた。 當時バンヤンの釋放に骨を折つたオウエン博士はその著書をナタニエル・ポンダアに出版させてゐたので、 恰度この時にも「信仰の理由」といふ書物を上梓してゐた程である。 バンヤンは倫敦に到着したので、オウエンの盡力に謝するために、これを訪問したのであらう。 その時二人の談話《はなし》は天路歴程の出版に及んだに相違ない。 さうして遂にピーコック書店にこれを引受けさせることになつたのであらう。 天路歴程の原稿の到着は出版社の生涯にも著者の生涯にも、時代を劃《くわく》することになつた。 その後彼は「バンヤン・ポンダア」といふ異名で本屋仲間に通つてゐた。 一六七七年十二月廿二日、この夢物語は印刷を終つて、出版免許を乞ふことになつた。 その免許の下りたのは、一六七八年二月十八日であつたので、同年早く公けにされて、 世上の喝采を博した。一六七七年及び同八年の倫敦出版書籍目録には、 黄がかつた灰色の紙表で、小さいオクタヴォ(一葉八折)の新型の書、紙數は全體で二百三十二頁、 定價は一シリング六ペンスとある。 三 天路歴程の増補 これより以前に出した「恩寵溢るゝの記」のやうに、「天路歴程」も著者の手に依つて、 最初出版した後から増補された。第一版と同年に出た第二版と、 一六七九年に出た第三版とで、著じるしい増補が施された。第一版には、 基督者《くりすちやん》が妻子にその心を打明ける節《くだり》がない。 世才氏《せさいし》が出て來ない。傳道者と二度目に邂逅《であ》ふこともない。 耳門《くゞりもん》で好意者《かういしや》が基督者《くりすちやん》に與へる訓言もなかつた。 又|優美殿《ゆうびでん》での基督者《くりすちやん》と愛子《あいこ》との談話《はなし》、 勝手者《かつてもの》とその仲間との談話《はなし》及び彼と旅人逹との談話《はなし》、 ロトの妻が化したといふ鹽の柱のこと、 巨人絶望者の妻|疑念女《うたぐり》の記事全體、旅人逹が川の向ふ岸で輝やく白衣《しろぎぬ》を着た王の喇叭手に遇つたことは、 後から附加《つけた》されたのである。又第一版には、數篇の歌の前に附いてゐる説話や對話もなかつたのである。 天路歴程、正篇の第一版は全體に於て、その後六年に出版された續篇の第二版よりも文字の綴り方が亂暴であつた。 例へばSlough of DespondがSlow of Dispondに、Plable[注:Pliableの誤り]がPlyableに、 lieがlye又はlyに、dieがdye又はdyになつてゐる。 要するに第一版以來僅かに數ヶ月で世に出た第二版でなされた最も重要な増補は世才氏《せさいし》の出現であるし、 又翌年世に出た第三版の著じるしき増補は勝手者《かつてもの》の譚《はなし》である。 尚ほこの第三版には、初めてロ・ート・ホワイトの描《か》いた著者の肖像の版畫が載せられた。 この肖像によると、バンヤンは一匹の獅子の居る洞穴《ほらあな》に睡つて居る。 その上に基督者《くりすちやん》が片手に書物を持ち、片手に杖を持ち、 脊に重荷を負《しよ》つて、下に在《あ》る滅亡《ほろび》の市《まち》から、 日光の浴する天の都に苦しげに登つて行くのであつた。 四 出版の景氣 天路歴程が初めて世に出た時のナタニエル・ポンダア書店の盛況を描《か》いた畫《ゑ》がある。 一人の學者がピーコックの店看板の下から出て來ると、一人の農夫が片手に鞭を持ち、 片手に金を持つて店に入つて行く。 又店の戸口の側には華やかな好男子と美くしい貴婦人と小學校の生徒と眞面目な人々が今買つたばかりの天路歴程の物語を皆《み》な熱心に讀んでゐる所である。 この畫《ゑ》はその盛んな人氣を描《か》いたものとして事實に近い。 五 虚榮の市塲のモデル バンヤンが斯る傑作を成す感興を何處《いづこ》から獲たか。 それに就て批評家の中《うち》には彼が住んだ場所の自然の景色及びその社會的境遇にその感興の源泉を見出さうとする者もあつた。 勿論その多くはあまり役に立たぬ推量である。しかしそこに尠《すく》なくとも一つの除外例がある。 天路歴程の比喩《たとへ》の最も著じるしい光景の一つである虚榮の市塲は、 バンヤン在世の時の實際の市塲を型にしたものであるといふことが出來る。 さういふ市塲はその當時商賣上に最も大切なものであつた。 エルストウの市塲はヘンリー二世が同地の修道院の尼さん逹に免許状を與へし以來、 大規模のものであつた。けれども虚榮の市塲の歴史的土臺になつたらしく想はれるものは數世紀の間、 ケムブリツジに近いスツルブリッジで開かれた市塲である。 フランクフォルトやライプジツヒやノヴゴロドの大市塲のやうに、それは數週間繼續した。 その市塲はケムブリツジ大學の副大法官に依つて告示され、同市長や市會議員に依つて莊重に開塲された。 その市塲の廣さは半|哩《まいる》四方で、假小舍が長い列に並べられた。それは廣大な商品陳列塲であつた。 彿蘭西の呉服商はその絹を、フランダアス人はその羅紗を持つて來る。 蘇國やケンダルの商人は荷馬車で、倫敦の商人は艀《はしけ》で各《おの〜》その商品を運んだ。 凡ての新しい發見物や外國の生産物は初めて茲《こゝ》に公衆に展覽された。 商賣の取引が濟むと、遊興が始まつた。四角な市塲の中央には、頂上《いたゞき》に風見のある大きな五|朔柱《さくちゆう》が立てられて、 その市塲の周圍には、コヒー店や酒樓や音樂堂や茶番、手品《てづま》、野師、野獸、怪物、一寸法師、巨人、 綱渡りのやうなものを見せる建物があつた。一四八一年には、彿蘭西のルイ十一世に擬した竒怪な假裝會が催ふされた。 十五世紀には、ヨ−ク侯が金襴の天幕《てんと》を張つて、多くの貴族貴婦人と奏樂隊を伴なふて、 茲《こゝ》に一日を費やした。年々十哩か十二哩四方の田舍紳士が息子娘を連れて、この市塲になつて來た。 その光景は實に虚榮の市塲の通りであつた。 バンヤンはケムブリツジに近傍に居つたことがあるので、數囘はスツルブリツジのこの著じるしい光景を見たの相違ない。 彼はこれをこの比喩《たとへ》の内に借りて、虚榮の市塲を描き出したのである。 六 續篇の胚胎 この旅物語の意外な成功は、誰よりも先づバンヤン自身の大いなる驚きであつた。 そのために彼は斯る冐險を再びすることを企だつるに至つた。正篇を完成した時には、 既に續篇を物する考へが閃まいてゐたやうにも見える。正篇を結べる詩の最後の二行に、 空しく凡てを棄て去らば、 われ夢見んか、なほ一度 とあるのを見てもそれが解る。けれども彼が最初の計畫はその描寫を對照に依つて完成することであつた。 彼は既に神の都に志ざす善人の生涯を寫したので、今度はその反對に地獄に向つてゆく惡人の生涯を描かんとした。 一六七九年「天路歴程」が完全な形になつて第三版を發行して間もなく、彼は「惡人氏の生死」といふ書物を公けにした。 然るに一六八三年にT.S.と名乘る一人の作者がバンヤンの比喩譚《たとへはなし》を完成する目的で、 ナタニエル・ポンダアから出した正篇と大さも型《かたち》も似てゐる書物を公けにした。 それは「天路歴程第二篇」と稱された。その一部は殘存して、以前詩人ソーセイの圖書室に藏されたが、 今でも浸禮教會同盟の圖書室に在るとのことである。その作者は後年僞作された第三篇の塲合のやうに、 その書物をバンヤンの自作なるが如く裝ふつもりではなかつた。唯バンヤンの著書を補ふつもりであつたらしい。 七 續篇の出版 一六八三年に出たT.S.氏の書物は、バンヤンの夢物語を増補しやうといふ唯一の企てゞはなかつた。 他にも澤山類似の書が出來た。その翌年|眞性《まこと》の續篇が出たが、その初めに げにも近頃、旅人と   名をば自から僞稱《かた》るあり。 わが名は半ば他の人の   書物の上に縫はれけり 云々《しか〜゛》と記してゐるのを見ても、その澤山にあつたことが解る。 バンヤンの自作の續篇は一六八五年か八四年に出版された。その表紙は正篇のと同樣であつた。 又同じくナタニエル・ポンダアに依つて發行された。正篇の第一版には、插繪がなかつたが、 續篇の第一版には、基督女《くりすちやな》とその伴侶《つれ》とが天の都へ出立せんとする所を描いた口繪があつた。 その繪の下にはバンヤンの睡つてゐる肖像が描いてあつた。五十二頁と五十三頁の間には、 大勇者が大きな剱を横たへて旅人逹の先きに立つてゐる粗末な版畫が插んであつた。 百六十二頁と百六十三頁の間には、旅人逹が巨人絶望者の首の前で樂しさうに踊つてゐる繪が插んであつた。 八 續篇の人物のモデル バンヤンは婦人の宗教的生活に多大の興味を持つてゐた。彼はガヨス(續篇中の人物)の唇《くち》から、 婦人が男子と同じやうに恩寵にあづかれることを述べさせてゐる(本文四百十四頁參照)。 バンヤン自身はその人生の旅路に於て、二人の婦人と道連れになつた。然も不思議に幸ひであつた。 バンヤンの後妻であつたエリサベスは良人《をつと》のために判事や長官に抗議を申込んだほど毅然《しつかり》した婦人であつた。 勇ましい氣質の基督女《くりすちやな》な取も直さずこのエイサベスを理想化したのである。 又氣立の柔《やさ》しい哀憐女《あはれみ》には、早く世を逝《さ》つたバンヤンの先妻の懷しい思ひ出があるらしい。 併《しか》し基督女《くりすちやな》には四人の息子があるが、 バンヤン自身には三人の息子と三人の娘とがあつたので、その家庭の事情は兩者必らずしも一致しない。 唯一つの除外例は基督女《くりすちやな》の末子《ばつし》をヨセフと云ふが、 バンヤンの末子《ばつし》も實際同名であつたことである。 基督女《くりすちやな》の物語を作る上に初めから感ぜられた一つの困難は、 基督者《くりすちやん》が前に爲したやうな危險な旅に女や子供を出立させることであつた。 但し中世期の美はしい武士道を茲《こゝ》に利用して、大勇者《たいゆうしや》といふ勇士を道案内に附けたので、 この困難は除かれることが出來た。 九 正續兩篇の比較 二つの夢が同じ旅路の出來事なので、兩者は形式《かたち》の上の變化があまりない。 基督者《くりすちやん》の旅物語が世に現はれてから、六年を經た。 續篇の初めに著者はその時の經過を職務の多忙に歸してゐる。さうして第二の夢を見たのは、 洞穴《ほらあな》でも牢屋でもなく、「森の中に宿を定めて」と言ふので、もつと快い境遇であつた。 基督者《くりすちやん》の塲合のやうに、基督女《くりすちやな》が旅立つ時にも、隣人《となりびと》から邪魔をされた。 その隣人《となりびと》の一人は矢張その後をついて來る。けれども柔弱者《じゆうじやくもの》は歸つて行つたが、 哀憐女《あはれみ》は歸らなかつた。 續篇は正篇と同じ路筋《みちすじ》が記してある。滅亡《ほろび》の市《まち》、耳門《くゞりもん》、 註釋者《ちゆうしやくしや》の家、困難の岡、優美殿、謙遜の谷と死の蔭の谷、虚榮の市塲、歡樂山《たのしみのやま》、 迷魂《まよはし》の地、ベラウの地、橋なき川は孰《いづ》れにも出て來る。 基督女《くりすちやな》の旅路で、基督者《くりすちやん》が通行の時に見た同じ人に出遇ふことがあるし、 又基督者《くりすちやん》の妻子であると聽いて、厚い待遇《もてなし》を受けることが度々《たび〜》ある。 かやうに兩書は形式《かたち》が似てはをるが、その内容に於て重要な變化がある。註釋者《ちゆうしやくしや》の家で、 續篇の旅人逹は基督者《くりすちやん》の見なかつた大切な事を見せられた。 又|落膽《らくたん》の沼でも、基督女《くりすちやな》の一行は能く踏石に氣をつけて、 基督者《くりすちやん》のやうにそこに溺れることはなかつた。 死の蔭の谷でも、基督女《くりすちやな》などがそこを通つたのは、晝間なので、アポリオンは遠くその姿を見せたに過ぎなかつた。 巨人絶望者もその一行を牢内に閉籠めるどころか、大勇者《たいゆうしや》その他に首を渡さなければならぬ破目になつた。 殊に謙遜の谷は、兩篇に著るしい對照をなしてゐる。自尊の念の高い男子と受働的な柔和な心の女子にとりて、 謙遜の谷は全たく別種の趣があつた。基督者《くりすちやん》には、その谷はアポリオンとの激しい爭鬪の塲所であつたが、 基督女《くりすちやな》の一行には、緑の牧塲を靜かな水の穩かな住居《すまゐ》であつた。 美くしい滿足した心を有する哀憐女《あはれみ》には、いと懷かしい谷であつた。 又|柔《やさ》しい氣質の恐怖者《おそるゝもの》もこの谷の快暢《のどか》なのを悦んで、地を抱いて、 咲ける花に接吻したほどであつた。心謙《こゝろへりくだ》つて柔和なる者にとりて、この谷はいつも緑に、 百合の花美はしい所であつた。 宗教生活の受働的な信頼する女性的方面は能く續篇に現はれてゐる。 この物語に於ては、傷《いた》める葦の如き生涯、浮世の荒波に慄へる靈魂《たましひ》に對して、 懷《ゆか》し同情が見出される。バンヤンの創造せる人物中、藁にも躓《つまづ》くほど氣が弱く、 然《しか》も獅子を怖れなかつたといふ恐怖者《おそるゝもの》などは餘程面白い。 その他柔しい心の人逹には、弱心者《こゝろよわ》、逡巡者《ためらふもの》、 氣落者《きおちもの》とその娘の多怖女《こゝろつかひ》などがある。 それと同時に哀憐女《あはれみ》や基督女《くりすちやな》のやうな清教徒的な氣品の高い婦人の代表者があるし、 又クロムウエルの鐡騎を想はしめる丈夫《をとこ》らしい人逹もある。 女子に對する純潔と親切を有する強膽《ごうたん》なる勇士である大勇者《だいゆうしや》を初め、 強健なる靈魂《たましひ》を有する正直翁《しやうぢきおう》、エルサレムの刀を帶びて、 勇敢なる戰をなせる眞理剛者《しんりごうしや》などはそれである。 一見した所、續篇はその價値《ねうち》に於て正篇とあまり隔りはない。正篇よりも不適宜な所があるし (例へば基督女《くりすちやな》の子供逹が皆な結婚して、間もなく子供が出來るやうな)、 力の足りぬ所があるし、又平凡な對話などもあるやうであるが、それらを取除いて見て、 バンヤンの天才は兩篇に同じく閃いてゐると言へやう。 基督者《くりすちやん》と基督女《くりすちやな》との二つの物語は相携へて時間の旅路を無窮に進むべきであらう。 十 バンヤンの先驅者 一三三〇念彿蘭西のチヤリツヅの帝立寺院の僧侶ギラウム・デ・ギルヴイユは「靈魂《たましひ》の旅路」といふ書物を世に出した。 これは英語に譯されて、一四三三年ウイリアム・カクストンに依つて印刷された。 バンヤンがその天路歴程を物するに當りて、大いにこの書に負ふ所ありとは、幾度《いくたび》も繰返して言はれてゐる。 バンヤンとデ・ギルヴイユとの間に共通の思想のあつたことは、兩書を較べて見ると直ちに解る。 天の都の光景《さま》を見て、旅路を始めること、耳門《くゞりもん》を通ること、 恩惠《めぐみ》の家で厚遇さるゝこと、旅人が武裝することなどが、いかにも能く似てはゐるが、 バンヤンがどれだけデ・ギルヴイユに負ふ所があるかは疑問である。 永遠《とこしへ》の都を眺めることや、基督者《くりすちやん》の靈魂《たましひ》を靈の鎧で裝ふことは、 新約聖書にある思想である。デ・ギルヴイユの耳門《くゞりもん》は唯それを通行するといふに留まつて、 譚《はなし》に重要な地位を占めてゐない。又行路の最後に凡ての人を待つてゐる死の門を意味するのである。 所でバンヤンの耳門《くゞりもん》は人々が信仰の生活に入るには是非通るべき狹い門である。 故に譚《はなし》の重要な地位を占めてゐる。 それから恩惠《めぐみ》の家と優美殿とは保羅《ぱうろ》の所謂活ける神の殿《みや》を現はせる信仰の家であると同時に、 スペンサアの「妖女王」の哀憐《あはれみ》の家と同じく、 昔時《むかし》途《みち》で旅人を待遇《もてな》す家のあつたことから暗示されたものである。 デ・ギルヴイユの著書以來、夢物語や譬喩譚《たとへばなし》といふやうなものが澤山に出た。 又旅物語も澤山に出た。一々茲《こゝ》にはその書名を擧げないが、 それらは自然にバンヤンの夢の先驅者になつてゐるやうに見える。 しかしウイリアム・カクストンの印刷したデ・ギルヴイユの譯書が十七世紀に於てバンヤンのやうな低い身分の人の手に入つたかどうか頗《すこ》ぶる疑がはしい。 旅物語といふ思想は屡々文學上に現はれてゐるが、當時その文學の書類が職工や鑄物師の便宜には容易に供されなかつた。 確かにバンヤンは材料を集めてそれからその作に取り懸つたのではない。 斯る作物をしやうとする思想は牢獄に居る間に知らず識らずに湧いて來たのである。 それは正篇の序歌の初めに述べてある通りである。群がる想《おもひ》は無數にして制《おさ》ふる所を知らずと言つてゐる。 要《えう》するに天路歴程はバンヤンの獨創の書と言つて可い。若し彼が斯る思想を何處から獲て來たかと言へば、 それは無論聖書である。彼の死の蔭の谷はサー・ジヨン・マンデヴイルの「危險の谷」から暗示を受けたのではなくして、 詩篇第二十三篇から來たものである。旅人を武裝させたことは、 ジェロム・ウイリツクスの基督者《くりすちやん》の武者《つはもの》の版畫から暗示されたのではなくつて、 エペソ書の第六章から來たのである。耳門《くゞりもん》はデ・ギルヴイユから暗示されたのでなくつて、 福音書の狹き門から來たのである。 十一 ダンテの比較 バンヤンは聖書に耽溺した。負ふ所あるのは重に聖書である。 ベツドフオード牢獄の夢想家は三世紀以前の偉大なるフローレンス人と同じ源泉からその神興を獲たのであつた。 天路歴程が猶太《ゆだや》の地味に生じた英國の花であることは、 「新曲」が矢張同じ地味を生じたタスカンの花であると同樣である。 茲《こゝ》に尠《すこ》しく二人の生涯と作物を比較して見ると、 先づ第一に兩者の異象《まぼろし》はその初めが一樣である。バンヤンは正篇では洞穴《ほらあな》で夢を見、 續篇では森に妨《さま》よふて夢を見てゐる。ダンテも暗い森に入り込んで、 睡つてその異象《まぼろし》を見たのであつた。それから兩者は見えざる物を取扱つてゐる。 世俗の利害に囚《とら》はれた人逹には見ることの出來ない人生の理想を眼に見えるやうに現はしてゐる。 兩者は同樣に想像の光彩を輝かすと同時に、熱誠な目的に依つて活氣を與へられてゐる。 兩者は又同樣に單純に確かな力ある語《ことば》を使つてゐる。 一方は力の籠つたタスカンの方言を使ひ、他方は自分の周圍に居る平民の繪のやうな英語を使つてゐる。 兩者共にその偉大な靈魂《たましひ》を苦痛で訓練された。併《しか》し斯る訓練から人生の最高の仕事は成就するのである。 偉大なるフローレンス人の異象《まぼろし》は永き失意と追放のさすらひから生れたのである。 又この偉大なる英人はその内部生活に於てシナイの火と雲と暗《やみ》とを見んとして永く待望むと同時に、 その外部生活に於ては、暗鬱なる牢獄の裡《うち》に一層永き時を送つた。 ダンテの三段物《トリロジイ》とバンヤンの譬喩《たとへ》は一見した處、別々の境涯に動いてゐるやうである。 けれども深く兩者を洞察すると、一道の脈絡がそこに存するのである。 基督教の見地からすれば、兩者は人間の靈魂《たましひ》の歴史が分《わか》たれねばならぬ二つの部分を代表してゐる。 その二つの部分は互ひに相補つて完《まつ》たくなるのである。英人の詩に於ては、 靈魂《たましひ》の最初の部分が現はされる。靈魂《たましひ》が地上にある時の浮沈とその状態、 即ち第一の生涯である。伊太利人の詩には、靈魂《たましひ》の最後の部分が現はされる。 來世における靈魂《たましひ》の状態即はち第二の生涯である。 死は二つの敍事詩を分《わか》つ境界であると同時に、又それを結び着ける紲《きづな》である。 バンヤンに依つて、我等は天國と地獄の門口《かどぐち》に逹するが、そこを通過しない。 ダンテに依るとその旅路は地上の生活を後に殘せる所に始まつてゐる。 靈魂《たましひ》の歴史の此の二つの部分は相待つて存在してゐる。 故にこの二人の詩人はその一つの部分を題目にしてゐるが、その説く所は兩面に渡つてゐる。 孰《いづ》れもその基督者《くりすちやん》の靈魂《たましひ》の理想的全歴史に對して悟る所いかに深邃《しんすゐ》なるかを示してゐる。 十二 成功の要素 天路歴程が成功した先づ第一の原因は、比喩《たとへ》を愛する念が人生に深く根ざしてゐることである。 文學上に比喩《たとへ》を用ゆることが東洋人の氣質にいかに善く適合するかは、 聖書を手にしたものは誰でも認むる所である。併《しか》しそれを愛することは、 啻《たゞ》に日の麗《うら》らかに輝く東や南に限らない。 雪深き曠原《かうげん》の露西亞の農夫も亦これを愛して、 その裡《うち》に新らしい魅力を見出すのである。又テーンはその成功の祕訣を數へて言つた。 「新教の基礎は恩寵に依つて救はれるといふ教理である。 バンヤンはほどこの教理を能く了解してゐた作者はない。」 勿論バンヤンは信仰に依つて義とせらるゝといふ教理を眞心より信じた。 この信念は彼が基督教生活の概念に透徹してゐた。けれども斯る教理を悦こばぬものでも、この書物を愛讀する。 されば尚ほ他にその成功の要素を尋ねゝばならぬ。天路歴程の文學的性質を數ふれば、 先づ第一にその完全なる自發性である。それは生命《いのち》の單純な自由を持つてゐる。 苦心の徴候《しるし》もなければ、推敲の痕《あと》もない。 その異象《まぼろし》は努めざるに花の如く美くしく開いてゐる。 これは技巧を隱すに成功したからではない。作者が自分の創造に囚《とら》はれないからである。 眞正《まこと》に神興はそこから出て來る。作者はその題目を取扱かふにあたりて、 何等の思慮をもめぐらしてゐない。その序歌に言ふ如く、全たく別のものを書かんとしてゐた時に、 想ひは火花の如く群がつて、斯る作を生じたのである。 實に天路歴程は批評家の意見を眼中に置かないで書かれた最後の英國の書物と言へる。 又それは讀者を顧慮せずに書かれたものであることは、序歌に隣人《となりびと》を樂しますためではないと言ふてゐるのでも解る。 又バンヤンをして不朽ならしめた此書を成すことは、彼にとりて決して眞面目な業務でなく、 又辛ひ重荷でもなかつた。されば矢張序歌に、この下書きをなすために、空しき時のほか費さなかつたと言ふてゐる。 兎に角彼は凡てそれの知れる所を話した。併《しか》しその話す所の凡てを彼が知つてゐる譯ではない。 天才は神の賜物である。天來の妙音は樂噐以上に出づる。最も深く我等を動かすものは、 自由なる生命の魅力である。それは天才に事業にも、嬉々として遊べる子供にも、樹や鳥や花の樂しき状《さま》にも、 森や牧塲《まきば》の自由な粗野な生活にも見出すことが出來るが、何處《いづこ》に於ても名状しがたき魅力を與へるのである。 その祕密に逹することは、人生の神祕に逹することである。 天路歴程はかやうに自由な自發的生命を有すると同時に、戲曲的統一を有する作である。 スペンサアの「妖女王」の如き誠に偉大なる作であるが、甚だ統一を缺いてゐる。 それは「アラビア夜話」の如く、個々別々な譚《はなし》の集合である。 それは單に讀者を彷徨せしむる荒野《あれの》である。そこには路《みち》がないので、讀者は路《みち》を失ふ氣遣もない。 それ故に讀者はその書物の精神に到逹するには、種々《いろ〜》の障礙を排さねばならぬ。 然るに天路歴程に於ては、排すべき障礙もなく、その開卷の句から讀者の興味は喚起されるのである。 物語はいかにして統一してゐて、脈絡整然としてゐる。勿論宜しきを得ざる所も容易に指摘することは出來るが、 それは長物語には止むを得ぬ缺點であつて、路《みち》のない荒野《あれの》などは尠《すこ》しもない。 その出現する人物は決して逡巡《ぐづ〜゛》してゐない。故に決して讀者を疲らすことはない。 いかなる人物もそこに現はれると、 鮮やかにその人格を示すので、後でも見違へるやうなことはない。教へたり、慰さめたり、 樂しんだりして、やがて消え去るが、その餘り早きに失するを殘念に想ふほどである。 天路歴程は單にその戲曲的統一があるので面白いばかりでなく、 その人物がいかにも突然に力強く描いてあるのが面白い。 抽象な言葉は忽ちにして肉と血に裝れて活躍する。活溌な少年である無學者でも、頑固者でも、 柔弱者《じゆうじやくもの》でも、誰も彼も皆な人格を備へて活きてゐる。 日常我等が街道で遇ふ人逹と少しも變つてゐない。 これは又能く人情の機微に觸れた書物である。 ガヨスの家で「善く溶いた乳の皿」を子供等に持ち來したといふやうな家庭的な細かい注意や、 盜賊《どろばう》が遠くに居る時に有望者が意張のを戲れに攻撃する所などいかにも世話に碎けてゐる。 ベラウの地で子供等が旅人逹に花束を集めて持參する所や、森の中で鳥の好き音《ね》がする所や、 正直翁《しやうぢきおう》に居睡《ゐなむり》をさせぬために、謎を掛け合つたりする所など、 何んともいへぬ妙味を覺へる。 バンヤンは深く人情に通じてゐたので、その人物を描くにその社會的差別などを無くしてしまつた。 彼の書物はエリサベス時代から近代への過渡の連鎖である。 ウオーヅオースやジヨージ・エリオツトと共通に、彼が功績の一つは、 その奧邃《おうすゐ》なる洞察を以つて、最も低き生活の眞正《まこと》の偉大を認めたことである。 彼が描ける人物は平凡な境涯に屬してゐる。田舍の町で毎日出遇れる平民である。 尚ほその穩かな外觀の後には、情熱の世界が燃えてゐる。嚴かな悲劇が展《ひろ》げられる。 測りがたき深遠が口を開いてゐる。又歡樂の絶頂に逹することもある。 ベツドフオードの町とエルストウの村の間で出遇ふ平民は天國の配前《わけまへ》にあづかる。 彼等の行動は世界を貫通せる人道に貢獻し、彼等の信念は高く神の御心に係はるのである。 尠《すこ》しも貴族的宗教派的臭味のない平民の書とはこれである。 天路歴程は博大なる基督的精神を有する書である。されば聖書に親しむものは、又この書にも親しむのである。 天路歴程にはパウロもケパもないが、基督は在る。世界人である基督には國民性はない。 されば基督に最も近き働きをなす人は世界的|衷情《ちゆうじやう》に最も近く來たるのである。 これは天路歴程が天《あま》が下の民《たみ》には何處でも歡迎される所以である。 外國宣教師が異教徒に神と人との眞正《まこと》の思想を與へんとするに當りて、 飜譯せんとする第一の書物の一つはこれである。 それはいかなる方言に譯しても有ゆる國民性の下に潛める世界的|衷情《ちゆうじやう》に觸れるからである。 それはいみじくも「鳥の歌が曉に從ふごとく、いかなる國にでも聖書に從ふ」と言はれた。 その道理は遠く求めるにも及ばない。半世紀あまり前に、 マカウレイは「天路歴程が斯る書類の中で強き人間の興味を占有する唯一のものである。 他の比喩譚《たとへばなし》唯空想を樂しますに過ぎないが、これはいかなる人も涙なしには讀まれない」と言つた。 それは唯頓智と巧妙に依つて知力を樂しますばかりではない。人の心情を堅く握《つか》むのである。 これは此書が次第に朽ち行く書物の裡《うち》に生殘る所以である。 またこれは有らゆる階級から愛せられる。教養のある者も無い者も共にこれを樂しむのである。 まだ浦若き子供に愛讀されると同時に、人生の戰塲を過ぎて靜かな晩年を送つてゐる老人をも慰さめるのである。 牧羊者《ひつじかひ》や農夫の寂しき小舍《こや》で唯一つ見出されるのは、天路歴程である。 十三 埋沒しゐたる初版 サウセイは一八三〇年に天路歴程の新版を出した。その時には正篇の第一版は一部もその存在してゐることが知れなかつた。 唯英國博物館にその第二版が一部あつた。出版社はサウセイのために早い版を熱心に尋ねたし、 又その友人逹も親切に搜してくれたが、一六八二年の第八版を手に入れたに過ぎなかつた。 然るにその後第一版が五部、第二版が四部、第三版が三部世に現はれた。天路歴程の生長を示すこの三版のほかに、 今日まで凡ての版が存在してゐるが、唯第七版と第十七版とを缺いてゐる。 十四 バンヤン生前の版數 天路歴程は一六八八年に第十一版に逹したが、これはバンヤン生存中の最後の版である。 その十一版の部數は十萬部であつた。これは讀者の比較的に少ない當時に於て實に著るしい事實であつた。 十五 天路歴程の飜譯 天路歴程が外國に飜譯されたのは、一六七八年初めてその正篇が出版されてから恰度五年目の一六八二年であつた。 バンヤン自身は一六八四年にその續篇の序歌で、「人々互ひに相殺す彿蘭西やフランダースにも、 わが書は朋友《とも》兄弟《はらから》と親しまれ、和蘭にても黄金《こがね》の上に量られぬ」と言つてゐるが、 その飜譯を出したのは和蘭が初めであつた。それから一六八五年には彿蘭西譯が出た。 併《しか》しその一年前にバンヤンがその「天路歴程」の彿蘭西にあつたやうに言ふてゐる所を見ると、 もつと早い譯があつたのかも知れぬが、その一部も殘存してゐない。 獨逸に飜譯されたのは、一七〇三年が初めで、然もそれは和蘭から重譯したものであつた。 シルレルの詩である「旅人」と「あこがれ」にはバンヤンの感化が顯著であると言はれてゐる。 ウイランドは十八世紀に於てシルレルよりも早く生れた詩人であるが、英語を學ぶために先づ第一に天路歴程を讀んだ。 或る時友人と共に英文學の話をして、自分が讀んだものゝ中で最初に思ひ出すのは天路歴程であるといつたさうである。 斯くしてその飜譯は益々廣まつて、今では百餘種の各國譯を見るに至つた。 十六 天路歴程の模倣書 天路歴程の第三篇と稱する僞書が一六九三年に出た。その表紙には明白にバンヤン作とはしてなかつたが、 「第一第二の兩篇の著者ジヨン・バンヤンの生涯と死とを附録せる第三篇」と記された。 その序文には「J.B」と署名された。その本文の書出しの言葉は、 「基督者《くりすちやん》とその妻|基督女《くりすちやな》に就て前に二つ夢を見たが…… 私は又睡に落ちた。私の頭の中の異象《まぼろし》は戻つて來て、私は又別の夢を見た云々《しか〜゛》」といふのである。 讀者は容易《たやす》く欺かれた。それはバンヤン自身が第三篇の作をば半ば約束したからである。 續篇の終りに、「私が再たびかの路《みち》へ行く折があつたら、 茲《こゝ》に書き洩したことを聞きたい人逹にまたお話し仕ませう。 今は暫くわが讀者にお別れします。左樣なら」と言つてゐるからである。 併《しか》し一六九三年に出た天路歴程の第十三版の表紙の裏に次のやうな廣告が現はれた。 「天路歴程第三篇といふ夢物語が一六九二年に出版されてゐるが、それは無名の作者が世を欺みける僞書である。 然もバンヤンの生涯と死の虚僞の報告を附けて、バンヤンの眞作であるやうに見せかけてゐる。 實はバンヤンが第三篇の骨子とその大部分の原稿はナタニエル・ポンダアの許《もと》にあるので、 都合善き時に出版する筈である。」斯る廣告がなされたに係はらず、バンヤンの眞作といふ第三篇は遂に世に出ず、 その僞書のみが相應に世の行なはれた。この他模倣書として世に出たものは一々數へ切れない。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇序歌 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇序歌 初めわれペンを手にして 物書かんとしつれども かゝる型《かたち》の小さき書《ふみ》 作るの心さらになく、 全たく他のもの作る 企てをもて書き初め、 出來あがらんとする頃に 氣がつき見れば、かくなりぬ。  事の次第はかくありき、 現代の聖徒の状態《さま》や 特質書きてありけるに、 聖徒の旅と榮光《さかえ》ある 状《さま》は計らず今までに 筆を執りたる二十の 册子よりも大いなる 比喩譚《たとへばなし》となりにけり。 かくしてわれは二十倍も 尊きむくひ身に受けん。 火より飛び散る花のごと 想像《おもひ》に想像《おもひ》増し加ふ。 想像《おもひ》よ、かくも速やかに 生れ來らば汝《なれ》棄てん。 汝《なれ》が無數になりぬれば、 將に成るべきこの書《ふみ》を 喰らひ盡すの怖れあり。 かくなしつれどわれはなほ かゝり型《かたち》で世の中に わが筆と墨、示さんと 想はずに、唯作りぬる、 その理由《わけ》われも知れるなし。 隣人《となりびと》をば娯《たの》します 心もあらず、尚更らに わが樂しみのためでなく、 止むにやまれず筆執れり。 この下書きをなすために 唯暇の時費やせり。 尚惡しき想ひを側《わき》に 反して身をば誤まらぬ ためにこれをば企てり。 筆執ることの樂しさに、 想ひは忽ち群がりて、 黒も白きも出で來り 抑ゆることのならばこそ。 われはそれをば筆にしぬ、 かくして遂に大いさも 長さも幅もこの通り。 出來あがりにしその時に われ人々にこれ示し、 その意見をば尋ねしに、 これを生かせと言ふもあり、 これを殺せといふもあり。 ジヨンよこれを印刷し 見よと言ふ者、あるは又 否然らずと言ふもあり。 益をなさんと言ふもあり。 否よと言ふもありにけり。 板鋏みになれる身の、 いかにせばいと善かるべき。 遂に想ひぬ人々の 意見區々《まち〜》なるからは、 これを印刷せしめなん。 かくして事はまとまりぬ。 他人《ひと》の意見は同じ溝 走らずともその事を 爲さんとせるはいとも善き 意見はどれか試すため。 更に想ひぬ人々の 慾するところ拒みなば その大ひなる歡樂《たのしみ》と なせることをば妨げん。 されどこの書《ふみ》世に出るを 好まぬ人にわれ言ひぬ、 卿《おんみ》等の怒に觸るゝとも、 同胞《はらから》これを悦べば、 忍んで成行き見たまへと。 卿《おんみ》等これを讀まぬなら 唯うち棄てゝ置きたまへ、 肉食《にくじ》き好む者もあり、 骨しやぶるを好むあり。 さあれその思わくをこそ 和らげるため人々に わが想ふこと述べにけり かゝる文體もちゆとも わが目的を失なはず、 人の益なさぬ譯《わけ》やある。 黒雲雨を地に降らせ、 白雲雨を催《もよ》ふさず。 黒と白とにかゝはらず、 銀の滴《しずく》を降らしなば、 地に産出す收穫《かりいれ》に、 兩《ふた》つを讚めて孰《いづ》れをも 咎めずに、その産出す 果物《なりもの》をこそ貯はへん。 兩《ふた》つの力、果物《なりもの》に 混じて差別《けじめ》つかばこそ。 泉枯るればそを滿し、 滿《みつ》れば水を吐き出して その祝福を盡しなん。 魚捕ふる人を見よ、 いかなる道具作れるぞ。 いかなる術《すべ》を用ゆるぞ。 係蹄《わな》、絲、鉤《はり》と網を見よ。 かゝる道具を用ゐても 手索《てさぐ》りと擽《くすぐ》るなくば、 いかでか魚捕へなん。 鳥を捕る人|種々《いろ〜》の 手段《てだて》もちゆるものぞかし。 鐡砲と網と黐《もち》の枝、 燈《あかり》と鈴と種々《いろ〜》の 名ざしがたきものを持ち、 這ひ又歩き又立ちて、 身振りさま〜なすといへ、 笛吹き口笛吹かざれば いかでかこれを捕へなん。 かくして尚ほもその鳥を 取り遁《にが》すこともありぬべし。 眞珠は蟾蜍《ひき》の頭に 宿るといへどまた牡蠣の 殼にも見出すことあらん。 黄金《こがね》より善きもの何にも 持たぬといへど、その暗示、 あらばいかでか輕んじて そを見つけんとせざるべき。 わが小さき書《ふみ》は人々の 氣に入る色彩《いろ》を缺くといへ 華やかに空しき想《おもひ》 宿せるものに勝りたる ところあらずといふべきや。 「完《まつ》たき吟味なすときに、 汝《な》がこの書《ふみ》の値《ねう》ちする ところに飽足らず」とや。 いかなる譯《わけ》ぞ「暗し」とや。 またそは「作り話」とや。 暗く作れる言葉にて 眞理《まこと》の光かゞやかす 人もあらんと信ずなり。 「されど確實、缺く故に 弱き者をば溺らして 譬《たとへ》は人を盲にす」と。 いふものなきにあらざらん。 人々に聖《きよ》き事記す 筆はまことに確實ぞ。 譬《たとへ》で語るその故に 確實ならで善かるべき。 神の律法《おきて》も福音の 律法《おきて》も共に昔しより、 型と影と譬《たとへ》にて 告げられたるにあらざるか。 謹直《まじめ》の人はいと高き 智慧に逆らふことあるを 怖れば、いかでその裡《うち》に 欠點《あら》さがしをばなすべきぞ。 否、彼は身を卑下《へりくだ》り、 針とその孔や犢《こうし》や羊、 牝《め》の犢《こうし》、牡牛や鳥や草、 羔《こひつじ》の血にて神語る こと探さんと努めなん。 光と惠《めぐみ》その内に 見つくる人は幸《さち》ぞかし。 わが確實を欠くことや、 わが無作法にてあることを あまりに早く定むるな。 表面《うはべ》は確かに見ゆること 實は確かにあらぬなり。 比喩《たとへ》をいかで卑しめん。 害ある物を易く容れ、 善き物失くす怖れあり。 暗く曇れるわが言葉、 眞理《まこと》保つはさながらに 箪笥に黄金《こがね》包むごと。 預言者逹は澤山に 譬《たとへ》用ゐて眞理《まこと》をば、 世に示しけり、然りまた 基督《くりすと》とその弟子逹の こと想ふ人は明らかに、 かゝる上衣《うわき》にその眞理《まこと》 裝はふことを悟るべし。 凡ての智慧をその辭句に 貯はへたる聖書にも、 到るとことにうす暗き 形や譬《たとへ》充ち滿つと 言ふをいかでか怖るべき。 まばゆき光、聖書より、 發して暗き夜の時は 晝に變るを知らざるや。 よしわれを咎むる人も その一生を眺めなば、 わが書《ふみ》にあるより暗き 行をそこにて見出さん。 然りそのいと善き事にも いと惡しき行のあること、 かゝる人にぞ知らしめよ。 公平の人の前にて、 彼が憐れの一行に わが十行を較べんか、 銀の祠《ほこら》の彼が虚言《うそ》 に勝りていと善き意味を わがこの書《ふみ》に見出さん。 眞理《まこと》は布に包むとも 審判《さばき》を知らせ、心|矯《た》め、 悟性《さとり》を開き、意志《こゝろばせ》 從がはしめて、記憶をも、 想像の樂しみに充し、 またわが惱み鎭めなん。 テモテは完《まつた》き言葉をば 用ゐて、老婆の妄りなる 談《はなし》拒めと言はれけり。 されど眞面目のパウロさへ 比喩《たとへ》の使用《もちゐ》、いづこにも 彼に禁ぜることはなし。 比喩《たとへ》の裡《うち》に眞珠と 金の寶石、隱れあり、 いと氣をつけて掘るべきぞ。  尚ほ一言を加へなん。 あゝ神の人よ、御心に 觸りしや、他の衣裳をば、 わが物に着せて、あらはに わが物を見するを汝《なれ》は 慾するや。われ三つの事を 述べてぞ善きに從がはん。 (一)、われはこの仕方用ゐて、 拒まるゝわけ見出さず。 言葉に、物に、讀者に 濫《みだ》りなること何にもせす、[原文のまま] 形と喩《たとへ》、扱ふに、 手荒きことは何にもせず。 唯|種々《いろ〜》の仕方にて、 眞理《まこと》進むること求む。 拒まれず、否、その上に、 今日息通ふ人よりも その言葉と行爲《おこなひ》に 一層神を樂します 人の許容《ゆるし》をわれ受けぬ。 さればわが心現はし かくのごと、いと優れたる 神の人にぞ知らせなん。 (二)、高木のごとき人々も 對話風にぞ物書けり。 されどそのため誰一人 その人々を卑しまず。 眞理を紊《みだ》すそのために かゝる技巧を用ゐなば、 その人々は呪はれん。 汝《なれ》と我とに眞理をば、 自由に突進せしむるは、 神樂します仕方なれ。 主の目的に適ふやう われらの心耕やして、 筆を進むるその向《むき》を 初め我等に教へたる 主にまさりて誰か善く、 その仕方をば知るべきぞ。 卑しきことを利用して、 聖《きよ》き先驅となすは主ぞ。 この仕方に似たるもの 聖書に用ゐし場所多し。 一つの事を呼はれば、 他の一つが、現はるゝ。 さればわがそを用ゆるも、 金色《こんじき》に輝やく眞理 隱さぬのみか、晝のごと 明るく光放ちなん。 わが筆收むその前に この書の益を示しなん。 しかる後、強きを倒ふし、 弱きを立たすその御手《みて》に、 凡てのことを委せなん。 この書は汝《なれ》が眼の前に 不朽の獲物求む人 描きて彼が郷里《ふるさと》と その行く先きを初めとし、 彼が爲さずに止めしこと、 又その爲せしことのみか、 榮光《さかえ》の門に到るまで、 走りしの状《さま》示すなり。 生命《いのち》の冠《かむり》獲んとして 勢ひ込んで旅立てる 者をも茲《こゝ》に示すべし。 その人々の苦心消え 馬鹿のごとくに死せるわけ、 茲《こゝ》にてまたも見るを得ん。 この書の勸めに從がはゞ、 旅人の身に汝《なれ》はなり、 聖《きよ》き地のある方角を 悟りて汝《なれ》は進みなん。 怠ける者も元氣づき、 盲者も樂しき物を見ん。 珍らしく益ある事を 求むるか、また小説の 裡《うち》に眞理を認むるや。 汝《なれ》は忘れ勝にてあるや、 元日より大晦日まで 汝《なれ》は胸の裡《うち》に留むるか。 さればわが空想を讀め、 栗毬《えが》のごとくに執着《くつつ》きて、 助けなき者慰さめを その中よりぞ受くるべし。 物語風なる故に 人の心は動くべし。 小説らしくも、この書には 健やかにして誠なる 福音のほか何にもなし。 汝《なれ》は沈鬱より身を去りて、 愚かなるより遠ざかり、 愉快なること慾するや。 謎とその解釋《ときあかし》讀み、 瞑想に耽るを慾するか。 肉を喰ふを愛するや。 或は雲上の人を見て、 それと語るを慾するか。 夢見て尚睡らぬことを 慾するや、或は忽ち 笑ひて泣くを慾するか。 自失するとも害もなく、 迷はされぬを慾するや。 自ら讀むも、その讀める 所知らぬを慾するか。 同じ行を讀むために、 祝福さるゝか否やをば 尚ほ知ることを慾するや。 おゝさらば茲《こゝ》に來たりて、 汝《なれ》が頭と心とに わが書《ふみ》をこそ横たへよ。 ジヨン・バンヤン [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:一 私がこの世の荒野を歩いて行つた時に、ある洞穴の側に休んで、そこに横になつて、眠つた。 眠ると、一つの夢を見た。夢の中で、見てゐると、襤褸《ぼろ》を着た一人の男が或る場所に立つてゐた。 自分の家から顏を反向けて、手には一册の書物を持ち、脊には大きな荷物を負つてゐる。見てゐると、彼はその書物を開けて、 中を讀んだ。それを讀んで、泣いて慄《ふる》へた。最早《もう》堪へきれなくなつて、悲しげな聲を擧げて泣きながら、 「私はどうしたら可いだらう」 [イザヤ書60:406] と言つた。 こんな有樣で、彼は家へ歸つた。出來るだけ辛抱して、妻や子に自分の悲嘆《かなしみ》を悟られまいとした。 けれども長く默つてゐられないほど、その苦惱《なやみ》は増して來た。それ故遂に妻や子に心を打明けて、かう話した。 「これ、妻も子供逹も聽きなさい。私はお前方の頼る柱だのに、この身に重い荷物を負つてゐるために實に困つてしまつた。 私の確に聞いた所では、天からの火でこの市《まち》は燒き拂はれるさうだ。其の怖ろしい最後には、 私はもとより、私の妻であり、可愛い子供逹であるお前方まで、むざ〜滅びてしまうだらう。 遁れる道を見つけて、救《たす》かりたいと思ふが、未だ見つからない」。 これを聞いて家の人逹はひどく吃驚した。彼の言ふことを眞實《ほんたう》だと信じたからでなく、 その頭がどうかしたのだと想つたからである。それ故日が暮れたのを幸ひ、睡むつたら頭が落着くだらうと思つて、 大急ぎで彼を床に臥《ねか》せた。けれども彼は夜も晝と同じ苦しみで、睡らずに嘆息《ためいき》と涙に一夜を過した。 朝になると、家の人逹はどうです御氣分はと尋ねた。彼は益々惡いといふ。そして又もや例の話を始めたので、 家の人逹は顏を蹙《しか》めた。 で、いつそのこと荒々しく情《つれ》なく待遇《もてな》したらその煩悶が癒《なほ》るかも知れぬと想つて、 嘲笑つて見たり、叱つて見たり、全く顧視《かまは》なかつたりした。そこで彼は自分の部屋の閉ぢこもつて、 家の人逹のために祈つたり、憐れんだり、又自分の不幸を悔んだりした。又唯獨り野原を歩いて、時には讀んだり、 又時には祈つたりした。かうして數日を送つた。 或る時彼が野原を歩きながら、例の通りその書物を讀んでゐると、大に心が苦しくなつた。 讀みながら前のやうに泣き出して、「どうしたわ私は救はれるだらう」 [使徒行伝16:30] と叫んだ。 彼はいかにも遁げ出したいやうに、此方《こつち》を見たり、彼方《あつち》を見たりしたした。でも、 何方《どつち》に行つて善いか解らないので、靜かに立つてゐた。さうしている内に、傳道者といふ人が彼の側に來て、 「貴君《あなた》は何故泣きなさるのか」と問ねた。 彼は答へた。「私は手に持つてゐる此書物で、私が死なねばならんこと、 死んでから審判《さばき》を受けねばならんことが解りましたものゝ、 さて死ぬのはいやだし、審判《さばき》も辛いものですから」 傳道者は言つた。「どうして死ぬのがいやですか。この世には惡い事が澤山あるぢやないですか」 彼は答へた。「私の脊に負つてゐるこの重荷が墓場より低い所へ自分を沈めるだらうと心配しますものですからな。 私は地獄に落るですわい、牢屋に行くのさへ辛いのに、審判《さばき》を受けて、それから刑罰に遇ふのは辛いですわい。 この事を想ふと泣ずにはゐられません」 傳道者は言つた。「そんな事情があるなら、貴君《あなた》はどうして靜然《じつ》として立つてゐなさるか」 彼は答へた。「何處へ行つて善いか知りませんものですから」 そこで傳道者は一つの羊皮紙の卷物を彼に與れた。その中に、「來たらんとする怒を避けよ」 [マタイ伝3:7] と書いてあつた。 彼はそれを讀んで、いかにも心配さうに傳道者を眺めて、「何處へ避けなければならぬでせう」と言つた。 傳道者はいと廣い野原の方へ指をさして、「あそこに耳門《くゞりもん》 [マタイ伝7:13] が見えませう」 「いゝえ」と彼が言つた。 「それではあそこにぴか〜する光 [詩編109:105] が見えるでせう」 「はい、見えます」 そこで傳道者が言つた。「あの光を見守つて、眞直にお出でなさい。さうすると門があります。 その門をお叩きになると、どうしたら可いか、貴君《あなた》に教へてくれます」 私が夢の中で見てゐると、かの人はそこから驅け出した。自分の家の前から遠くも行かない内に、彼の妻子 [ルカ伝14:26] がそれを見つけて、歸つて下さいと泣きながら彼を見送つた。けれどもかの人は指を耳に當て、 「生命《いのち》、生命、限りなき生命」と叫びながら走つた。後を振かへらずに [創世記19:17] 野原の眞中まで遁げのびた。 近所の人逹も出て來て彼の驅けてゆくのを見た。驅けてゆくのを嘲ける者もあるし、脅す者もあるし、歸れと叫ぶ者もあつた。 その中に腕づくで彼を連戻らうと決心した二個の人があつた。一人は強情者といふ名で、もう一人は柔弱者といふ名であつた。 もうその時かの男は餘程遠く行つてゐたが、二人は何處までもと追いかけて行つたので、暫らくすると、 彼に追い着いた。そこでかの人は言つた。「近所の方々、どうして茲《こゝ》まで來なすつた」。二人は言つた。 「貴君《あなた》を連れて歸らうと思つて」。けれども彼は言つた。「そんな事が出來ますものか。 貴君方は滅亡《ほろび》の市《まち》に住でゐられるのですぞ。私も其處で生れたんですが、それを悟つたですわい。 貴君方は晩《おそ》かれ早かれ、そこで亡くなられて、墓場よりも低く沈んで、火と硫黄の燃てうぃる處へお出でなさるでせう。 だからお二人とも決心して、私と一緒にお出でなさい」 「なに」と強情者が言つた。「友逹や樂しみを棄て行けといふのですか」 「さうです」と基督者《くりすちやん》が言つた。(その人の名はかう言つた) 「貴君方にお棄てなさいといふものを皆なよせても、私がこれから求めて [コリント書(2)40:18] 樂しまうと思ふものゝ尠《すこ》しばかりに較べる値《ねうち》もありませんからな。 私と一緒にお出でになつて、それを獲なすつたら、私と同じやうに樂しく暮せます。 私の行きますところは充ち足りて餘りある [ルカ伝15:17] のですからな。さあ參りませう。私の言ふことに僞《うそ》はないですから」 強。「一體世の中を棄てまで、貴君の求めなさるものは何ですか」 基。「私の求めるものは、朽《くさ》りもせず、穢れもせず、衰へもしない嗣業《たから》です [ペテロ書(1)1:4-6] 。それは天に安全に貯へてあつて、熱心に求める者には、定められた時に賦へられるのです。 それを御知りになりたければ、私のこの書物を讀んでごらんなさい」 「馬鹿らしい」と強情者が言つた。「そんな書物はあつちにやつておきなさい。貴君は私共と歸るつもりですか、 歸らんつもりですか」 「いや、歸りません」と基督者が言つた。「もう手を犁に置いたのですから」 [ルカ伝9:62] 強。「柔弱さん、私共はこれで歸りませうや、この人を連れないで。 世間にはこんな頭の狂つた白痴《たわけ》のお仲間もありますものですよ。何か思ひ詰ると、 理《わけ》の解つた七人の人よりも自分の眼の方を悧巧がりますわい」 柔弱者が言つた。「まあ、さう惡口を言ふものでもありません。基督者さんの言ふことが眞實《ほんたう》なら、 その求める物は私共の持つてゐる物よりも善いですな。私の心は一緒に行きたくなりましたわい」 強。「何だと、馬鹿も善いかげんになさい。私の言ふことを聽いて、お歸りなさい。 こんな氣違者は何處へ連れて行くか解るものですか。さあ歸りませう、歸りませう。悧巧になりなさい」 基。「いや貴君も柔弱さんと一緒にお出でなさい。彼處《あちら》には先程お話し仕たやうなこともあるし、 そのほか一層《もつと》榮光《さかえ》あるものが澤山あります。僞《うそ》だと思ふなら、この書物を讀んでごらんなさい。 この中に記してある眞理は、皆なこれを作つた人の血で確證《たしか》めてあるのです」 「ねい、強情さん」と柔弱者が言つた。「私は心が決りました。この善い人と一緒に行つて、 運試しをして見ますわい。して、基督者さん、その望みの地に行く路が解つてますかい」 基。「傳道者といふ人が、私にあの向ふにある小さい門の所へ急いで行つて、路筋を教はればと指圖してくれました」 柔。「それなら、基督者さん、さあ行きませう」 やがて二人は一緒に行つた。 「どれ私は家に歸らうか」と強情者は言つた。「こんな血迷つた氣違共の仲間にもなれんから」 私が夢の中で見てゐると、強情者が歸つてから、基督者と柔弱者とは野原を話しながら行つた。 二人はこんなことを語り合つた。 基。「さて、柔弱さん、どうですか。お前さんが一緒に行つて下さるのは嬉しいです。 強情さんだつて私が感じたやうに未だ現はれない力と怖を感じたら、あんなに輕々しくは歸らなかつたでせう」 柔。「さて、基督者さん、かうして貴君と私と二人切になつたのだから、 もつと精《くは》しく話して下さい。一體その求める物は何ですか。どうして貰へるのです、 又私共は何處へ行くのですか」 基。「私の心ではそれが善く解つてゐるのですが、私の舌では能く話せません。 でも、知りたいとお思ひになれば、私のこの書物でその事を讀んであげませう」 柔。「そしてその書物に書いてあることは確に眞實《ほんたう》だと思ひなさるですか」 基。「實際さうです。僞ることの出來ない人が作つたのですから」 [テトス書1:2] 。 柔。「成程。どんな事が書いてありますか」 基。「限りなき國があつて、そこに住はされるといふのです。限りなき生命《いのち》を與へられて、 私共はその國にいつまでも住へるといふのです」 [ヨハネ伝10:27-29] 柔。「成程、それからどうです」 基。「榮《さかえ》の冠がそこで私共に與へられる。それから衣服《きもの》も與へられる。それを着ると、 私共は大空の日のやうに輝くさうです」 [テモテ書(2)4:8] 柔。「それは善いですな。そしてそれから」 基。「そこでは最早泣くことも悲しむこともない。そこの主人である者は私共の目から悉く涙を拭ふて下さるさうです」 [イザヤ書25:8] 柔。「そこではどんな者の仲間入りをするんでせう」 基。「そこで私共はセラフイムやチラビムの仲間に入るのです。見る目を眩すばかり美しい者ださうです。 それから私共より先に其處へ行つた幾千幾萬の人逹に遇へます。その内には惡い者は一人もなく皆な愛に充ちて聖いのです。 皆な神の目の前を歩いて、永久に受容られて神の前に立つてゐるのです。 つまり、私共はそこで黄金《こがね》の冠をつけた長老逹を見るでせう。 それから黄金《こがね》の琴を鳴す聖い乙女を見るでせう。それから其處の大君に愛を濺《そゝ》いだために、 この世で片々《きれ〜゛》に切れ、焔に燒れ、獸に喰れ、海に溺らされた人逹が、皆丈夫で、 不朽の生命《いのち》を衣のごとく着てゐるのを見るでせう」 [イザヤ書6:2] [テサロニケ書(1)4:16,17] [黙示録4:4] [黙示録14:1-5] 柔。「それを聽いたゞけでも胸がどき〜しますな。でも、そのやうなものが貰へるでせうか。 どうして私共もその分配にあづかれるのでせう」 基。「其國の支配者である主はこの書物の裡《うち》にその事を記しておかれます。 それによると、私共が誠にそれを得たい志があれば、容易にそれを下さるといふことです」 [イザヤ書55:1-8] 柔。「やあ、どうも有難う。さあ、ちと急ぎませう」 基。「私は急ぎたくつても、脊にこの重荷を負つてゐるので、早く歩かれません」 私が夢の中で見てゐると、二人はこの談話《はなし》を終つた頃恰度、野原の眞中にあつた大變泥の深い沼の側に來た。 二人とも氣が付かなかつたので、突然沼の中に陷ちた。その名は落膽の沼といはれた。 それ故二人は暫時《しばらく》轉んで痛しくも泥まみれになつた。殊に基督者は脊に負つてゐる重荷のために、 沼の中に沈み出した。 柔弱者が言つた。「あゝ、基督者さん、貴君は何處に居るのですか」 「實際のところ、私にも解りません」と基督者が言つた。 そこで柔弱者は怒り出した。荒々しい聲でかう言つた。「もう少し前に貴君が話してくれた幸福といふのはこれですかい。 まだ出立したばかりにこんな禍《わざはひ》が起るやうでは、この末どんなことになるか知れない。 茲《こゝ》で生命《いのち》拾いが出來たら、私は止めますから、貴君一人立派な國に行くが善いです」 恁《か》う言つて彼は死物狂ひに一二度身をもがひて、家路に近い沼の岸の方へ這ひ上つた。彼が行つてしまつたので、 基督者は最早彼を見なかつた。 基督者は獨り落膽の沼の中に取殘されて轉んだり起きたりしてゐた。これども彼が這ひ上らうと努めたのは、 家路に遠く、小さい門へ近い沼の岸の方へである。彼はいかに力を盡せども、脊に負つてゐる重荷のために這ひ上れなかつた。 けれども私が夢の中で見てゐると、助力者《たすくるもの》といふ人が側に來て、「何をそこで仕てゐるのか」と問《たづ》ねた。 「貴君」と基督者が言つた。「私は傳道者といふ人からこの路を進んで、彼處《かしこ》の門へ行つたら、 來るべき怒を避けることが出來ると教へられましたのでな。こゝまで參りましたが、此沼に落ちてしまひました」 助。「どうして貴君は踏石を見なかつたですか」 基。「あまり怖ろしさに近路を遁げやうとしたので、陷《おつこ》ちました」 そこで、助力者は「手を伸ばしなさい」と言つた。基督者が手を伸ばすと、助力者は彼を引上げて [詩編40:2] 安全な地に置いて、その路を進んで行きなさいと告げた。 そこで私(夢見てゐる著者)は基督者を助け出した人の許に歩み寄つて、もし、貴下。 此處は滅亡《ほろび》の市《まち》から彼方《かしこ》の門へ行く路なのでせう。 さうしたらこの地面を繕つて、もつと安全に憐れな旅人が彼處《あすこ》に行かれるやうにしたら善いでせうにな」と言つた。 すると彼は私に言つた。「この泥深い沼は繕ふことが出來ない場所なのです。 人々が自分の罪を認める時に隨いて來る泡と汚物とが絶ず流れてこの窪地に入るので、 これは落膽の沼と呼れてゐます。罪人が自分の淺ましい状態《ありさま》から目を醒しても、 まだその靈魂《たましひ》には多くの恐怖《おそれ》と疑惑《うたがひ》が起るので、 その落膽した恐怖《おそれ》が皆な一緒になつて、此處へ滯るのです。 この地面の惡いのはさういふ譯があるからです。 「此處をこの儘惡くしておくのは王樣の御意《みこゝろ》ではありません。王樣の勞働者は陛下の測量師の指圖によつて、 これまで千六百年間もこの小さい地面を繕はふと思つて働いてゐるのです。私の識つてゐる所では、 此處を善き土地にするには有益な教草《をしへぐさ》が一番善い材料だといふので、尠《すくな》くとも二萬|輛《くるま》、 さやう數にしたら幾百萬の教草を四季絶間なく王の領地の諸方から持つて來て、これを繕はうと思つて埋めて見たのだが、 矢張相變らず落膽の沼です。この後どれほどのことをしても矢張この通りでせう。 「實際立法者の指圖で、堅固な善い踏石がこの沼の眞中にも置いてあるのです。 だが、天氣が變つたやうな場合に汚物が澤山流れ込むと、踏石は見えなくなつてしまふ。さうでなくつても、 旅人の頭が眩んで、踏石のあるのを知ずに、他を歩くので、泥まみれになつてしまふ。 然し、あの門までゆけば、地は善くなるのです」 私が夢の中で見てゐると、此時柔弱者は家に着いた。近所の人逹は彼を訪ねて來た。 戻つて來たのは悧巧だと言ふ者もあるし、基督者と一緒に無鐵砲なこのとしたのは馬鹿だと言ふ者もあつた。 又彼の卑怯を笑ふ者もあつた。試《や》り出したら、僅ばかりな困難のために止めるといふ法はないと言つた。 柔弱者は人々の中にしほ〜としてゐた。けれども遂には餘程信用を囘復した。 やがて人々は話を變へて、そこにゐない憐れな基督者を嘲笑《あざけりわら》つた。 基督者は獨り寂しく歩いてゆくと、遠く野原を横切つて、向ふから自分の方へやつて來る人を見付けた。 二人は偶然にも互に路を横切る時に出遇《でつこ》はした。この紳士の名は世才氏といつて、 基督者が出立して來た所から近い、甚だ大きな、肉慾といふ町の人であつた。この人は基督者に出遇つて、 多分これだなと思ひついた。(基督者が滅亡の市から出立したことは、彼が住んでゐた町のつみならず、 その他の場所でも喧ましく風評《うはさ》されてゐた) それ故世才氏はその行きなやめる状《さま》や嘆息《ためいき》や呻き聲などを眺めて、 これが基督者だらうと想つて、話しかけた。 世。「貴君にはお家内やお子さんがおありですか」 基。「ありますが、この重荷を負つてから、前のやうに妻子のことを嬉しく思へません。まあ、妻子はないも同樣です。」 [コリント書(1)7:29] 世。「御相談して見たいことがありますが聽いて下さるか」 基。「善事《いゝこと》でしたら、何なりとも。善い相談にあづからねばならぬ場合にあるのですから」 世。「それなら忠告しますが、貴君は早くその重荷を下したら善いでせう。さもなければ貴君の心はいつまでも落着きませんわい。 又神が貴君に賜つた祝福の利益をも味ふことが出來ないでせう」 基。「私の求める所はこの重荷を免れることなのです。ところでそれが自分では出來ません。 又私逹の國では誰も私の肩からそれを取つてくれる人はないです。 それ故お話し仕ましたやうに、此重荷を免れたいばかりに、この路を歩いてゆくのです」 世。「重荷を免れるために此路を行けと貴君に告げたのは誰ですか」 基。「それは大變偉さうな尊い人のやうでした。名は傳道者と言はれました」 世。「そんな莫迦なことを言つたんですか。その人が貴君に指圖したほど危險な難澁な路は世界にありませんや。 貴君がその人の勸言《すゝめ》に從つてごらんなすつたら、成程と解るでせう。 見受るところ、もうこれ迄も、餘程貴君は難澁されたやうですな。落膽の沼の泥がまだ貴君の身に着いてゐるやうですね。 だが、あの沼は悲しみの初めで、これから先が大變ですぞ。まあ、まあ、私は貴君より年上だから、お聽きなさい。 貴君はこれから進むと、疲勞《つかれ》、苦痛《くるしみ》、飢餓《うえ》、危難、赤裸《はだか》、劒難、 獅子、龍、闇黒《やみ》といふやうなものに出遇ひなさる。一口に言えば、死に出遇ひなさるのだ。 これは今でも多くの證據があるんですから、確かな事ですぞ。見も知らぬ人の言ふことを聽いて、 そんな無分別に身を棄る法があるものですか」 基。「さうですか。しかし、私の負つてゐるこの重荷は貴君の今仰やつた事を皆な寄せたよりも私にはもつと怖しいですからね。 いや、私はこの重荷を下すことが出來るなら、路でどんな事に遇つても顧ひません」 世。「どうして初めそんな重荷を負うやうになつたんですか」 基。「私の手に持つてゐる此の書物を讀んでからです」 世。「さうでせう。氣の弱い者は誰でもあまり高尚な事に關はると、突然貴君のやうな煩悶に陷るものだ。 その煩悶は貴君のその容子でも解るやうに、人間を人間らしからざるものにするばかりか、 どんなものか、自分でも解らないものを獲たがる氣違地味た眞似をさせるものですぞ」 基。「私は獲たいと思ふものを承知してゐます。それはこの重荷を下して安心することです」 世。「でも、こんなに多くの危難が伴ふことを知りながら、どうして安心をこの路に求めるのですか。 殊にですな(まあ暫く辛抱してお聽きなさい)、私の指圖する通りになされば、 この路を行つて出遇ふやうな危難を受けずに、貴君の求めるものを獲られますのだ。 さやう、救助《すくひ》手近にあるのです。そればかりか、こんな危難の代りに、充分安全に、 友情と滿足を受けなさるでせう」 基。「どうぞその祕訣を私に明して下さい」 世。「彼處《あそこ》の村(道徳村といふ)に遵法者といふ仁《 ひと》が住んでをられる。 大變|思慮《かんがへ》の深い、名高い人で、貴君の負うてゐるやうな重荷を肩から下して人助けをするのが上手です。 さやう、私の知つてゐるだけでも、これまでさうして善い事を澤山された。 それから重荷のために稍《やゝ》頭の狂つた人逹を治すのが上手です。その人の許《とこ》へ御出でなさい、 直ぐ助けてくれます。その人の家《うち》は此處から一哩ほどはありません。若し留守だつたら、 儀禮者といふ竒麗な若い息子さんが居りますからな。その息子さんも老父《おとつ》さん同樣に中々上手なものです。 だから、何れにしても貴君は重荷を下してもらへます。それから、貴君は以前《もと》の住家《すみか》に歸らないでも善いなら、 實際私はお歸りにならんことを望みますが、さうすれば此村には今空家が澤山あるから、 内儀《おかみ》さんやお子さん逹を御呼び寄せなさい。家《うち》は安く借られます。 食物も廉《やす》くつて品が善いです。生活《くらし》は極めて樂なものです。何しろ、 近所|隣人《となり》は正直ですし、風俗は僞《うそ》がなくつて善いですからな」 今や基督者は尠《すこ》し途方にくれた。この紳士の言ふことが眞理《まこと》ならば、 その忠告に從ふこと最も賢い道であると間もなく決心して、更に進んでかう言つた。 基。「では、その正直な方の家へはどう行きますか」 世。「あそこに高い山が見えませう?」 基。「えい、能く見えます」 世。「あの山の側にお出でなさい。お出でなすつて最初《はじめ》の家がそれですから」 そこで基督者は路を變へて、救助《たすけ》を乞ふために遵法者の家に行くことにした。 山の側まで來て見ると、中々に高い。路の方へ寄つた山腹は覆ひかぶさるやうなので、 基督者は山が頭の上に落ちてくるのことを恐れて、それ以上進む氣になれなかつた。彼はそこに靜然《じつ》と立つたまゝ、 どうしてよいかわからなかつた。彼の重荷は前の路を歩いてゐた時よりも、一層重くなつたやうである。 山からは火の焔が現はれたので、基督者は燒かれはしないかと心配した。 冷汗をかいて、ぶる〜慄へた。そこで世才氏の勸言《すゝめ》に從つたことを悲しみ始めた。 その時自分に遇ひに傳道者がやつてくるのを見た。その姿を見て彼は恥かしさを顏を赤めた。 傳道者は益々近くやつて來た。側へ寄つて、眞面目な怖い顏を彼の方へ向けて、基督者を詰問《なじ》つた。 「茲《こゝ》で何をしてゐますか、基督者さん」と彼は言つた。その言葉に基督者は答ふる所を知らなかつた。 唯默つてその前に立つてゐた。そこで傳道者は尚進んで言つた。 「貴君は滅亡《ほろび》の市《まち》の壁の外で泣いてゐた方ではないですか」 基。「いかにもさやうです」 傳。「私は貴君に小さい耳門《くゞりもん》へ往く路を教へませんでしたか」 基。「いかにも、さやうです」 傳。「どうしてかう早く側道にそれたのですか。貴君は今路の外にをりますぞ」 基。「私は落膽の沼を越ると間もなく、一人の紳士に遇ひました。その方が、あそこの村へゆくと、 この重荷を下してくれる人があると教へてくれましたので」 傳。「どんな人物でしたか」 基。「紳士然とした人で、種々《いろ〜》な事を言つて、遂に私を説伏せてしまひましたので。 で、私は茲《こゝ》まで來たのですが、この山の上に覆ひかぶさつてゐるのを見ると、 突然立ち竦《すく》みました。頭の上に落ちて來さうですから」 傳。「その紳士は貴君に何と言ひましたか」 基。「はい、何處へ行くと問《たづ》ねましたので、私はそれを話しました」 傳。「さうしたら何と言ひましたか?」 基。「私に家族があるかと問《たづ》ねますので、あることは有るが、私の脊に重荷を負はされてるので、 前のやうに家族と一緒にゐても樂しくなくなつたと言ひました」 傳。「さうしたら其人はなんと言ひました?」 基。「其人は早く重荷を免れなさいと言ひますので、免れたいは山々なので、彼處《かしこ》の門へ行つて、 救助《すくひ》の場所へはどう行つたらよいか、そこで指圖を受けるつもりですと言つてやりました。 さうすると彼はもつと善い近路があると言ひました。それは貴君が私を出立させなさつたやうな困難は伴はない路ださうです。 其路をゆくと、このやうな重荷を下すに妙を獲てゐる紳士の家があると言ひますので、 私は其人を信じて、若しや容易《たやす》くこの重荷を免れぬものかと思つて、路を變へて茲《こゝ》まで參りました。 所で此處まで來ると、御覽のやうな物を見たので、その危險を怖れて、立留りましたが、どうして善いか解らないのです」 やがて傳道者は言つた。「暫く靜に立つてお出でなさい。神の言葉を貴君に示しますから」 基督者はそこで慄へながら立つてゐた。 そこで基督者は言つた。「爾曹《なんじら》愼みて告ぐる所の者を拒むなかれ。 もし彼等地にて示せるものを拒みしならば、まして天より示せる者を拒みし我等免かるゝことを得んや」 [ヘブル書12:25] それから又言つた。「義人は信仰に依りて生くべし。もし退かば、わが靈魂《たましひ》に適はざるべし」 [ヘブル書10:38] それを適用してかう言つた。「貴君はこの不幸に走り込うとする方です。 貴君はいと高き者の勸言《すゝめ》を拒《しりぞ》け、御自分の足を平和の路から退かうとしてをられるのです。 敢て自ら滅亡《ほろび》に落ちなさるのですぞ」 そこで基督者は死せるが如くその足下に倒れて、「私は禍《わざはひ》です、滅びてしまひます」と叫んだ。 それを見て、傳道者は彼の右の手を捕へて、「凡ての罪と冐涜とは人に赦されん [マタイ伝12:31] 。信ぜざるなかれ、唯信ぜよ [ヨハネ伝20:27] 」と言つた。 そこで基督者は尠《すこ》し元氣づいて、前のやうに傳道者の前に慄へながら立つてゐた。 傳道者は進んで言つた。「もつと熱心に今お話しすることを聽いて下さい。先づ貴君をかどはかした者は誰か、 又誰の所に貴君を遣うとしたのかお話し仕ませう。貴君の遇つた其人は世才者といつて、其名の通りに、 此世の教理《をしへ》ばかり好きです。(だから、いつも道徳町の教會へ行くのです)。 又彼がその教理《をしへ》を無上に愛するのは、十字架もなにも要らんからなのです。 それから又彼はその俗人根性から、私の路の方が正當でも、邪魔立をするんです。 あの人の勸言《すゝめ》の中で、貴君が全然嫌はねばならん事が三つあります。  一、貴君をかの路から離れさせたこと。  二、十字架を貴君に嫌はせるやうに努めたこと。  三、死の管轄内に至る路に貴君の足を入れさせたこと。 第一。貴君は彼がその路から貴君を離れさせたと、貴君がそれに同意したことを嫌はねばなりません。 それは世才者の勸言《すゝめ》を聽いて、神の勸言《すゝめ》を拒むからであります。 主は窄《せま》き門より入ることを努めよ [ルカ伝13:24] 生命《いのち》に至る門は狹し、それを見出す者稀なり [マタイ伝7:13,14] と仰せられた。それは即ち私が貴君に送つた門のことです。あの小さい耳門《くゞりもん》からまたそこへゆく路から、 あの惡者は貴君を誘ひ出して、滅亡《ほろび》の方へ連れて行かうとしたのです。だから、 彼が貴君をあの路から誘ひ出したのを憎みなさい。またその言ふ事を聽いた御自分を嫌ひなさい。 第二に、貴君は彼が十字架を貴君に嫌はさせるやうに努めたことを嫌はねばいけません。 それは埃及の財寶《たから》以上に選ばねばならぬものです。そればかりか、榮光《さかえ》の主は、 その生命《いのち》を救はんとする者はこれを失なふべしと仰せられたでせう。主に隨はんとする者は、 父母妻子兄弟姉妹、いや自分の生命《いのち》すら憎まなければ、その弟子たることは出來ないのです。 だから、さう仕ないでは、眞實《ほんたう》のところ、限りなき生命《いのち》を持つことは出來ない、 所でそれを貴君の死であるやうに熱心に説き勸める者があるのだから、 さういふ教理《をしへ》を貴君は憎まなければならない。 第三に、貴君は彼が死の管轄に至る路に貴君の足を入れさせたのを憎まなければならない。 これについて、貴君は誰の所に彼が貴君を送らうとしたのか、 又その人が貴君の重荷を下させることは到底出來ないことを考へなければならない。 貴君が重荷を下してもらふために遣れた其人は、遵法者といふ名で、奴隸婦人の息子です。 その婦人は今も生きてゐて、その子供逹も同樣に奴隸の身分です [ガラテヤ書4:21-27] 。それから貴君が頭の上に落ちさうだと怖れなすつたこのシナイ山は、不思議に今も殘つてゐるのです。 その婦人も子供逹も奴隸の身であるのに、どうして貴君は彼等から自由にしてもらふことが出來ませう。 だから其の遵法者は貴君を重荷から自由にすることは出來ない。これまで彼に依つて重荷から免れたものは一人もありません。 これからも有りやうがない。人は律法《おきて》の行《おこなひ》に依つて義とせられることは出來ない [ローマ書3:28] 。律法《をきて》の業《わざ》に依つて活ける人は誰も重荷を免れることは出來ないからです。 だから、世才者は異邦人で遵法者は欺僞師《かたり》です。その息子の義禮者はにこ〜作り笑ひをしてゐても、 唯の僞善者で、貴君を助けることは出來ない。實際あんな莫迦共からお聽きになつた空騷の中には、 貴君を惑はせて、私が貴君を置いた路から連れ出して、 貴君の救《すくひ》を邪魔しやうといふ企畫《たくらみ》のほかには何にもないです」 恁《か》う言つて傳道者はその言葉を確むるための聲高く天に叫んだ。 すると憐れな基督者が麓に立つてゐた山から言葉と火が吹き出たので、身の毛が逆立《よだ》つた。 その言葉はかう響いた。「凡そ律法《おきて》の行《おこなひ》によるものは詛《のろ》はるべし。 そた律法《おきて》の書《ふみ》に記せる凡ての事を絶えず行はざる者は詛はると記さるれば也」 [ガラテヤ書3:10] 今や基督者は死ぬほか仕方がないやうなので、悲しげに泣き出した。世才氏に出合つた時を呪つた。 幾度も繰返しては彼の勸言《すゝめ》に耳傾けた自分を莫迦者と呼んだ。 又かの紳士の議論は唯肉情から出たものであるのに、 義《たゞ》しい路を棄てさせるほど自分を支配するに至つたことを想ふと大に恥しくなつた。 さうしてから、彼は次のやうな言葉と意味で又傳道者に問《たづ》ねた。 基。「貴君はどうお考へですか。どうにか希望《のぞみ》がありませうか。 私が今立戻つたら耳門《くゞりもん》の方へ進めませうか。こんなことのために見棄られて、 そこから恥かしめて追歸されはしないでせうか。あの人の勸言《すゝめ》に耳を貸したことはいかにも殘念ですが、 私の罪は赦されませうか」 傳道者は彼に言つた。「貴君の罪はいかにも大きい。貴君はそれに依つて二つの惡を犯しなすつた。 即ち善い路を棄てなされたことと、禁じられた路に踏込みなすつたことである。 併し耳門《くゞりもん》を守る人は貴君を受容れませう。人々に好意のある方ですからな。 「唯」と言葉を次ぎ「もう二度と側路に入らぬやうに用心なさい。主の怒が尠《すこ》しでも燃えると、 路で滅されますからな」 [詩編20:12] [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:二 やがて基督者は立戻る支度をした。傳道者は彼に接吻《くちつけ》して、にこ〜しながら道中氣を付けてお出でなさいと告げた。 彼は急ぎ足に歩いて、路で遇ふ人にには誰にも言葉を交へなかつた。又誰かに物を問れても、答へもしなかつた。 禁制の地に踏込んだ人のやうに歩いた。世才氏の勸言《すゝめ》に從つて後にした路へ出るまでは、 決して安らかな想はしなかつた。斯して幾時か立つて、基督者は門へ逹した。その門の上には、 「叩けよ、さらば開かるべし」と記してあつた。で、彼は再三叩きながら、かう言つた。 「われを茲《こゝ》へ入らしめてよ。   憐れみて開けたまへ。 値《ねうち》なき謀叛人とていかでその、   盡きせぬ贊美《ほまれ》歌はざらん」 遂に好意者といふ沈着《おちつ》ひた人が門へ出て來て、「どなたか、どこからお出でなすつたか、 どういふ御用ですか」と問《たづ》ねた。 基。「重荷を負うた憐れな罪人でございます。私は滅亡《ほろび》の市《まち》から參りまして、 來るべき怒から救はれたいために、シオンの山を指して行く者でございます。 この御門を通行して參るやうに教へられましたが、何卒《なにとぞ》お通し下さいますやうにお願ひいたします」 好。「それはどうも。悦んでお通し仕ませう」と言つて、門を開けた。 そこで基督者が歩いて入らうとすると、かの人に引張こまれた。基督者は「どういふ譯ですか」と言つた。 するとかの人は話した。「この門から尠《すこ》し離れた所に、堅固な城がありまして、ベルゼブルがその大將です。 そこから其の惡魔と部下の者共がこの門に來る者を内に入らぬ前に殺さうと思つて矢を放つものですから」 そこで基督者は「危ない所を有難うございました」と言つて、内へ入ると、その門番の人が、 「誰の指圖で茲《こゝ》へお出ででしたか」と問《たづ》ねた。 基。「傳道者さまに此方《こちら》へ參つて叩くやうに教へられましたので、さう致しました。 又、此方《こちら》へ參れば、私が爲すべきことを言つてきかされるからとの事でした」 好。「開ける戸は貴君の前にあります。誰もそれを閉ることは出來ません」 [黙示録3:8] 基。「今になつて私の骨折の效能が解り出しました」 好。「どうしてお一人で來なすつたか」 基。「私の近所の人逹は誰も私のやうに身の危險を悟りませんから」 好。「誰か貴君の御出立になつたのを知つてますか」 基。「はい、私の妻子が最初《はじめ》私を見つけて、呼び戻さうとしました。それから近所の人逹も大きな聲を出して、 呼び戻さうとしましたが、私は指で耳を掩《ふさ》いで、やつて參りました」 好。「でも誰か貴君を歸らせやうと思つて、隨《つ》いて來ませんでしたか」 基。「はい、強情者と柔弱者とが。ですが、説服《ときふ》せることが出來ないことを悟つて、 強情者は嘲りながら歸るし、柔弱者は尠《すこ》しの間私と一緒に來ました」 好。「どうして彼はこゝまで來ませんでしたか」 基。「落膽の沼に來るまでは一緒でしたが、その沼に突然落ちましてな。 さうすると隣人《となりびと》の柔弱者は落膽《がつかり》して、それ以上進めませんでした。 自分の家ひ近い方に這ひ上つて、自分に代つて、その立派な國を獨り獲よと私に言ひ殘して、 彼はその路に歸り、私は私の路を參りました。彼は強情者の後を慕ひ、私はこの門を慕ふたのでございます」 そこで好意者が言つた。「あゝ可哀想な者だ。天の榮光《さかえ》は彼にとりて、 それを獲るために僅かな危險を犯す價値《ねうち》がないほどつまらぬものだらうか」 基督者が言つた。「柔弱者のことを打明けてお話し仕ましたが、實際私のことをも打明けてお話しいたせば、 彼と私との間には何も優劣はないのでございます。彼が自分の家へ歸つたことが眞實《ほんたう》なら、 私が世才氏といふ人の俗論に動かされて、死の路へと側《わき》にそれたことも眞實《ほんたう》ですからな」 好。「あゝ、あの男にお會ひでしたか。なに、あの男が貴君を遵法者の手で重荷を下させやうとしましたと。 あれは二人共|欺僞師《かたり》ですぞ。それで貴君はその勸言《すゝめ》に從ひましたか」 基。「はい、我慢の出來るだけ從ひました。遵法者を尋ねて、 その家の側に聳へてゐる山が私の頭の上に落ちさうになつてゐる所まで參りましたが、 そこで詮方なく立留りました」 好。「その山ではこれまで大勢死にました。これからも一層《もつと》大勢死ぬでせう。 碎片《こな〜》になる所を、貴君は能く免れましたな」 基。「實際私はそこでどうなるのか解りませんでした。氣が沈んで茫然《ぼんやり》してゐると、 仕合せにも亦傳道者さまに御目にかゝりました。あの方が來て下すつたのは、神のお惠みで、 さもなければ私は茲《こゝ》へ來られなかつたです。私のやうな者はかうして茲《こゝ》へ來て、 かやうに貴君とお話しの出來るやうになるよりも、あの山で死んだ方が適當であつたでせう。 いや、此入口を通されたといふのは、私にとりてなんといふ有難いことでせう」 好。「茲《こゝ》へ來る時は誰も拒まれは仕ません。前にどんな事をしてゐても、 それは顧《かま》はないです。誰でも決して棄られはしないです。だから、基督者さん、 一緒に尠《すこ》し歩いて、貴君の行くべき路を教へてあげませう。前を御覽なさい。 狹い路が見えませう。それは貴君の行くべき路です。その路を開いたのは、先祖逹や、預言者、 基督と其弟子逹で、定木《じようぎ》で作れるだけ眞直なものです。これこそ貴君の行くべき路です」 基督者が言つた。「ですが、旅人が路を迷うやうな曲り角や迂曲《うね》つた所はございませんでせうか」 好。「さやう、これに接して路が澤山あります。それは皆間違つてゐて、廣いです。 それでも正しい路と正しくない路の見分けは直ぐ着きませう。正しい路は眞直で狹いですからな」 私が夢の中で見てゐると、基督者は尚ほ進んで、脊に負うつてゐる重荷を下してくださることは出來ますまいかと問《たづ》ねた。 未だにその重荷を免れることが出來ずにゐたし、又人の助力《たすけ》を借りなくつては、 とてもそれを免れることが出來なかつたのである。 好意者は彼に言つた。「重荷のことは、まあ暫らく辛抱なさい。拯救《すくひ》の場所へ御出でなさると、 自然《ひとりで》に脊中から落ちますから」 そこで基督者は腰の帶を引き締めて、旅の用意をした。すると彼の人はかう言つた。 「この門から餘程行くと、註釋者の住居《すまゐ》のところへ出ますから、そこをお訪ねなさい。 その人は立派な事を見せてくれます」 基督者はこの友人に別を告げた。好意者も道中|恙《つゝが》なかれと言つた。 基督者は註釋者の家に着くまでやつて來て、その戸を幾度か叩いた。遂に誰か戸口に出て來て、「誰ですか」と問ねた。 基。「私は旅の者でございますが、御家の御主人のお知合の方の指圖で、有益な御教訓を蒙むるためにお訪ねいたしました。 御主人に御面會をねがひます。」 そこでその人は此家の主人を呼びに行つたので、暫くすると、主人が出て來て、どういふ御用ですかと問ねた。 基督者が言つた。「私は滅亡《ほろび》の市《まち》から參りまして、シオンの山へ行く者でございます。 此路の入口の御門に立つてゐられました方から、此家にお訪ねすれば、 旅の心得になるやうな立派な事を教へていたゞけるといふことを伺ひましたものですから」 註釋者は言つた。「お入りなさい。いかにも貴君の益《ため》になることをお話し仕ませう」 そこで彼は僕《しもべ》に命じて蝋燭を點けさせて、基督者を案内して、部屋に入つて、 僕《しもべ》に一つの戸を開けさせた。戸が開いた時に、基督者は壁に懸けられたいかにも重々しい人の畫像を見た。 その樣子はといふに、眼《まなこ》を天に向け、最も善き書物を手に持ち、眞理の律法《おきて》を唇に記し、 世界を脊にして立つて、恰《あたか》も人々と辯論するやうである。金の冠を頭《かうべ》に戴いてゐた。 基督者が言つた。「これはどういふ譯ですか」 註。「この畫像は、千人に一人といふ人です。彼は子供を設けて、生みの苦しみをなし、 その子供逹が生れると、自身育てなさるのです。 [コリント書(1)4:15] [ガラテヤ書4:19] 御覽の通り、眼を天に向けて、手には最も善き書物を持つて、眞理の律法《おきて》が唇に記してありませう。 これは彼の職務《しごと》が暗き事共を先づ知つて、罪人に釋き明すにあることを表はすのです。御覽なさい、 彼は立つて人々に教を説いてをるやうでせう。又御覽の通り、世界に背中を向けて、冠を頭に被つてゐる。 これは彼が主に使へる愛のために、今在るものを輕んじ卑しみて、 來世には必ずその報ひとして榮光《さかえ》を獲ることを表はしたのです。」と註釋者は尚ほ語《ことば》を次ぎ、 「貴君に先づこの畫像を御らんにいれたのは、これは貴君の行かれる場所の主がこの路で出遇《でつこは》しなさる難澁な場所で、 貴君の案内者となるやうに言ひ付けられた唯一《たゞひとり》の人だからです。だから、 私が御目にかけたことを善く御注意なさい。又御らんになつた所を善く心に留めて、 旅行中貴君を正しい方に導くやうな振をするものがあつても、それは死にゆく路ですぞ」 やがて彼は基督者の手を取つて、いと大きな客間に案内した。それはこれまで掃除したことがないので、 塵《ごみ》だらけであつた。註釋者は暫らく室内《へや》を見廻してゐたが、やがて僕《しもべ》を呼んで掃除させた。 掃除が始まると、埃が澤山飛ぶので、基督者は息が詰りさうであつた。註釋者は側に立つてゐた少女《をとめ》に、 「茲《こゝ》へ水を持つて來て、部屋に撒きなさい」と言つた。少女《をとめ》が水を撒くと、心持の善いほど竒麗に掃除が出來た」 基督者が言つた。「これはどういふ譯ですか」 註釋者が答へた。「この客間は福音の清き恩寵《めぐみ》に依つて潔《きよ》められたことのない人の心です。 この塵《ごみ》はその人の全身を穢した生來《うまれつき》の罪、内心の腐敗です。 最初掃除を初めた僕《しもべ》は即ち律法《おきて》です。それから水を持つて來て、それを撒いた少女《をとめ》は即ち福音です。 御覽の通り、最初掃除を始めると、埃が飛び散つて、あの男では部屋が竒麗にならず、 貴君は息が詰りさうでしたでせう。これは、律法《おきて》といふものはその働きに依つて、 罪から心を潔《きよ》めないばかりか、いくらそれを見付けて禁じても、活き返つて、元氣づいて、 靈魂《たましひ》の裡《うち》に増加して、これを征服する力がなくなることを表はしたのです。 「それから御覽の通り、少女《をとめ》が部屋に水を撒くと、心持の善いほど竒麗になつたでせう。 これは福音が心に清い貴い感化を及すと、御覽の通り、少女《をとめ》が床に水を撒いて塵《ごみ》を鎭めたやうに、 罪は破れて征服されて、靈魂《たましひ》はその信仰に依つて潔《きよ》められて、 その結果|榮光《さかえ》の主と共に住むに應《ふさ》はしくなることを表はしたのです」 尚ほ私が夢の中で見てゐると、註釋者は彼の手を取つて、小さい室《へや》に案内した。 そこには二人の小さい子供が各《おの〜》椅子に腰をかけてゐた。年上なのは名を情熱者と云つて、 他の一人は忍耐者といつた。情熱者は大變不滿足らしいが、忍耐者はいかにも落着いてゐた。 基督者は「どうして情熱者は不滿足ですか」と問ねた。註釋者は答へた。「この二人の後見人が來年の始めまでに、 至極善い物を下さるといふのですが、情熱者はそれが今慾しいと言ふし、 忍耐者の方は快く待つてをるのです」 やがて見てゐると、一人の者が情熱者の側へ、財寶《たから》の袋を持つて來て、その足許にうち開けた。 すると彼はそれを取り上げて、さも嬉しさうに、忍耐者を嘲り笑つた。暫らく見てゐると、 彼はそれを皆|費《つか》ひ果して、襤褸《つゞれ》のほか何にも彼に殘らなかつた。 やがて基督者は註釋者に言つた。「もつと精《くは》しくこの譯を私に解明して下さい」 註釋者は言つた。「この二人の少年は模型《かた》です、即ち此世の人の情熱を來るべき世の人の忍耐を表はすのです。 御覽の通り、情熱者は今年中即ち此世にて何もかも得ようとしてをる。この世の人は皆かうです。 彼等は現在凡て善きものを持たねばならない。來年即ち來世まで、善きものゝ配分《わけまへ》を待つことが出來ない。 『手の中の一羽の鳥は籔の中の二羽』といふ諺は、 來世の善きものに對する有らゆる神の證明《あかし》よりも彼等にとりて一層《もつと》力があるのです。 だが、御覽の通り、彼は忽ち皆な費《つか》ひ果して、現に襤褸《つゞれ》のほか何にも殘らなくなつたでせう、 それと同樣に斯る人々も此世の終りにはさうなるのです」 基督者は言つた。「私は忍耐者が極めて善き智慧を持つことを、多くの理由から悟りました。 第一、彼は極めて善きものを待つてゐるからです。第二に彼は他の人が襤褸《つゞれ》のほか何も持たない時に、 榮光《さかえ》を持つ身となるからであります」 註。「いや、それにもう一つ附加《つけた》すべきことは、來世の榮光《さかえ》は決して滅ぶることはないが、 此世の榮光《さかえ》は突然過ぎ去ることです。だから、情熱者は初めに最も善い物を持つたからといつて、 何も忍耐者を笑ふ理由はない。却つて忍耐者は最後に最も善き物を持つので、情熱者を笑ふべきであらう。 なぜといふに、後の者は誰も隨《つ》いて來る者がないので、何者にも場所を讓らないでも善いのです。 だから、初めに配分《わけまへ》を持つ者はそれを費《つか》ひ果す時がある筈ですが、 最後に配分《わけまへ》を持つものはいつまでも限りなく、それを持つべきである。だから、 かの富める者に對して、『汝は生ける時に善き物を受け、又ラザロは惡しき物を受けたり、 されば今や彼は慰められ、汝は苦しめらる』 [ルカ伝16:25] と言はれたのです」 基。「それで今ある物を貪るよりも、來るべき物を待つのが最上なことが解りました」 註。「仰やる通り、見える物は一時で、見えざる物は永久です。それはさうですが、 此世の物と私共の肉の嗜慾《たしなみ》とは互に隣り同志でせう。然るに來るべき物と肉慾とは全く赤の他人ですからな。 一方は忽ち仲好くなるし、又一方は絶えず離れ〜゛になるものです」 私が夢の中で見てゐると、註釋者は基督者の手を取つて、或る場所に案内した。 そこには壁に對つて火が燃えてゐた。一人の者がその側に立つて、常に多量《たくさん》な水を洒《か》けて、 それ消さうとしてゐたが、火は益々高く、ます〜熱く燃え立つた。 そこで基督者が言つた。「これはどういふ譯ですか」 註釋者は答へた。「この火は心情《こゝろ》に働く恩寵の業《わざ》です。 それを消し止めやうと思つて水を洒《か》ける者は惡魔です。 だが、御覽の通り、それにも係らず火は益々高く、益々熱く燃え立つのです。その理由《わけ》を貴君に見せませう」 恁《か》う言つて基督者を壁の後側に連れて行つた。そこには一個《ひとり》の人が手に油の噐を持つて、 絶えず窃《ひそか》に火へ洒《か》けてゐた。 基督者は言つた。「これはどういふ譯ですか」 註釋者は答へた。「これは基督です。絶ずその恩寵の油を持つて、 人の心情《こゝろ》に始められた業《わざ》を保持《たもた》るゝのです。 さういふ譯なので、惡魔がどんな事をしても、基督の民は尚その靈魂《たましひ》に恩惠《めぐみ》を受けるのです。 御覽の通り火を保つために壁の後に人が立つてゐるでせう。これは誘惑された者にとりて、 この恩寵の働きがその靈魂《たましひ》をどんなに保つてゐるかを認めることの困難を表はすのです」 私が見てゐると、註釋者は又彼の手を取つて、宮殿の戸口の方へ案内した。見よ、戸口には大勢の人が入りたいやうだが、 敢て入らうとはせずに立つてゐた。戸口から尠《すこ》し離れて、一個《ひとり》の人が洋卓《ていぶる》の側に座つて、 一册の書物と印氣壺を前に置いて、そこへ入つて來る者の名を書き留めやうとしてゐた。 又その入口には甲冑《よろひ》を着た多くの人が立つて守つてゐて、そこへ入らうとする者の目に物見せくれんと待構へた。 今や基督者は稍々《やゝ》仰天した。遂に人々は甲冑《よろひ》着た者共を恐れて後退《あとじさ》りした。 その時いかにも逞しい容貌《かほ》をした人が署名するために座つてゐる人の所へやつて來て、 「どうぞ、私の名を書附けて下さい」と言つた。さうしてから、彼は劒を拔いて、頭に甲《かぶと》を被つて、 武裝せる者共を目がけて戸口の方へ突進した。彼等は死力を盡して彼を防いだが、その人は尠《すこ》しも屈せず、 縱横無盡に斬り捲つた。かくてわが身にも數多《あまた》の傷を受け、 拒《ふせ》げる者共に數多《あまた》の痛手を負はせてから、敵の仲に路を切開いて、宮殿の内へ進み入つた。 すると樂しい聲が内から聽えて、宮殿の上を歩いてゐる人々すら、かう言ふのであつた。 來れや、來れ、 永遠《とは》の榮光《さかえ》は、汝《なれ》のものぞ」 かくて彼は内へ行つて、人々と同じやうな衣裳を着た。そこで基督者は微笑んで、 「私にもこの譯は解るやうに思ひます」と言つた。 基督者は言つた。「これで御暇《いいとま》いたしませう」 註釋者は言つた。「まあ、暫らく、もう尠《すこ》し、もう尠《すこ》し、御目にかけるものがある。 それからお出立なさい」 彼はまた基督者の手を取つて、いと暗い室《へや》に案内した。そこには鐡の檻の中に一個《ひとり》の人が座つてゐた。 その人は見たところ、いかにも悲しさうに、眼を地に埀れ、手を拱《こまね》いて、 心の破れるやうに嘆息《ためいき》をしながら座つてゐた。基督者は言つた。「これはどういふ譯ですか」。 すると註釋者は自分で問ふて御覽なさいと言つた。 そこで基督者はその人に言つた。「貴君はどういふ御方ですか」 その人は答へた。「私は元來《もと》こんな者ではなかつた」 基。「元來《もと》はどういふお方でしたか」 その人は言つた。「元來《もと》は天晴立派な信者だと、自分でも思ひ、他人《 ひと》も許した者です。 元來《もと》は自分ながら、天の都に適《ふさは》しい者と思つて、彼處《かしこ》にゆけると想つては歡んだ者です」 基。「で、今はどうなすつたか」 その人。「今は絶望の人で、かうして鐡の檻に閉込られて居るのです。免れることは出來ませぬ。 あゝ今は免れられない」 基。「で、どうしてこんな有樣におなりでしたか」 その人。「目を醒して氣をつけることを忘れたので、色慾を縱《ほしいまゝ》にしたり、 神の言葉の光と善に對して罪を犯したり、聖靈を憂へさせて、これに去られ、惡魔を招いて、これに來たれ、 神さまを怒らせて、これに見棄られ、遂に私の心情《こゝろ》は硬くなつて、 悔改めることも出來なくなりました」 そこで基督者は註釋者にむかつて言つた。「かういふ方には、もう望みはないものですか」 「この人に尋ねなさい」と註釋者が言つた。 その人。「えい、全たくありません」 基。「どうしてです?祝福の御子は大變|慈悲《なさけ》深い方ですのに」 その人。「私は自分のために新しく彼を十字架に磔《つ》けました。その人格を輕んじました。 その美しきを輕んじました。その血を聖からぬ物と思ひ做《な》しました。 恩寵の聖靈《みたま》をも輕んじました。だから私はすべての約束から自分を閉出したのです。 で、今は脅迫のほか何も私にありません。確なる審判《さばき》、 烈しき忿怒《いかり》が仇敵《あだかたき》の如く私を喰ひ盡すだらうといふいかにも怖ろしい脅迫があるばかりです」 [ヘブル書6:4-6, 10:28, 10:29] 基。「どうしてこんな有樣に成りなされましたか」 その人。「色慾と快樂とこの世の利益のためです。それさへ自由になれば幾らでも樂しめると思つてゐましたが、 今ではそれがどれもこれも、私を咬んで毒蟲の如く身を苦しめるのです」 基。「ですが、今では悔改めて立ち返ることが出來ませんか」 その人。「神は私が悔改することをも拒みたまふのです。神の言葉は私の信ずる心を挫きます。 實は神御自身私をこの鐡の檻に閉籠られたのです。私を出すことの出來る者はこの世に一人もありません。 あゝ、未來永劫、どうして私はこんな辛《ひど》い目に遇はねばならんだろう」 そこで註釋者は基督者に言つた。「この人の不幸を心に留めて、いつまでも身の戒めとなさい」 基督者は言つた。「いや、怖ろしいことですな。神のお助けで、目を醒して氣をつけませう。 この人の不幸な源因《いはれ》を避けますやうに祈りませう。で、もう、私は出立すべき時ではありませんか」 註。「もう一つ貴君に御目にかけるから、それまでお待ちなさい。御出立はそれからになさい」 彼は又基督者の手を取つて、とある寢間に案内した。そこには一個《ひとり》の人が床から起き出でやうとして、 着換をする時に、身をぶる〜慄はせた。 基督者は言つた。「この人はどうしてかう慄へるのですか」 註釋者はその譯を基督者に話しなさいと、その人に言つた。 そこで其人は語り出した。「私は今晩睡てゐて、夢を見ました。天が眞黒になつて、雷は鳴る、稻妻はする。 その物凄さに私は苦しくなりました。夢の中で仰向いて眺めると、雲が幾重にも千切れて、喇叭の大きな聲が聽えた。 又一片の雲の上に一個《ひとり》の人が座つて、幾千の天上の民がそれに從つた。彼等は皆な燃ゆる焔の中にあつたので、 天上も燃ゆる焔のやうであつた。やがて『起きよ、爾曹《なんじら》死せる者、審判《さばき》に來れ』と言ふ聲を聽いた。 それと同時に岩は裂け、墓は開かれ、その中に死せる者は皆出て來た。非常に歡んで、上の方を眺めてゐる者もある。 山の下に身を隱さうとしてゐる者もある。やがて雲に座れる人が書物を開いて、 世の者共に近寄れと告げた。然し烈しき焔が彼の前から流れ出でたので、彼と彼等の間を分け隔てゝ、 恰《あたか》も法廷で判事と囚人と相對《あひたい》するやうでした。 [ヨハネ伝5:28,29] 「又雲に座れる人がお伴の者共に、『莠《はぐさ》と糠《もみがら》と切株とを一緒に集めて、火の湖に投入よ」 と命ずるのを聽きました。すると恰度《てうど》私の立てる側に、底なき坑《あな》が開いて、その口から、 夥多《おびたゞ》しく黒烟と火の炭とが凄まじい音をして出て來ました。又同じ人が、「わが麥を倉に收めよ」 と言ひました。すると數多《あまた》の人が捕へられて雲の上に運ばれて、私だけ後に殘りました。 私も身を隱さうとしたが、出來なかつた。雲に座つてゐる人がまだ自分に眼を付けてゐたからである。 私の罪は又心に浮かんで來た。私の良心は八方から私を責めた。そこで私は睡氣から醒めました」 [マタイ伝22:12, 8:0] [テサロニケ書(1)4:13-18] [ローマ書2:14,15] 基。「どうして、そんな夢を見たゞけで、怖がりなさるのですか」 その人。「いや、私は審判《さばき》の日が來たのに、何の用意もしてゐないと思ひましたので。 それから何より怖かつたのは、天の使はさま〜゛の人を集めて行つたのに、私だけ取殘されたことゝ、 地獄の坑《あな》が恰度《てうど》私の立つてゐる所に口を開いたことでした。 私の良心は又私を惱しました。それから審判者《さばきぬし》がいつも私に目をつけて、 容貌《かほ》に怒色《いかり》を含んでゐるやうに思ひましたので」 註釋者は基督者に言つた。「凡てこれらの事を能くお考へになりましたか」 基。「はい、これに依つて希望《のぞみ》と恐怖《おそれ》を覺へました」 註。「凡てこの事を能く心に留めておきなさい。これからお進みになるべき路で、 貴君を勵す刺馬輪《しばわ》ともなりますから」 そこで基督者は腰の帶を引締めて、旅立うとした。 註釋者は言つた。「では基督者さん、慰安者《なぐさむるもの》いつも貴君と偕《とも》にありて、 都に上る道すがら、貴君を導きたまはんことを」 そこで基督者はかう言ひながら、路を進んだ。 「珍しき益ある事をわれは見ぬ。   樂しき怖ろしき事をわれは見ぬ。 手に取んとする心根を堅うする事われは見ぬ。   われをして心にそれを思はしめ。 その示せるところ悟らしめてよ。   あゝ善き註釋者《ときあかして》よ、いざ汝《なれ》に感謝せん。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:三 私が夢の中で見て居ると、今しも基督者が差かゝつた往來は、兩側が石垣で圍れてゐた。 其は拯救《すくひ》の垣と呼ばれた。基督者は脊に荷物を負つて、尠《すくな》からず難澁しながら、 此往來を急いだ。 彼はかうして稍《やゝ》登りになる場所へ來るまで急いだ。その場所に一つの十字架が立つてゐた。 その少し下つた麓に一つの墓があつた。私が夢の中で見てゐると、基督者が十字架の側まで上つて來ると、 その重荷は肩から弛んで、脊から落ちて、ころ〜と墓の口まで轉がつて、そこへ落ちて入つて、もう見えなかつた。 そこで基督者は嬉しく晴々として、いかにも樂しさうにかう言つた。 「主は御自身の悲哀《かなしみ》に依つて私に休息《やすみ》を下され、又御自身の死に依つて生命《いのち》を下された」 彼は尚暫らく立つて、不思議さうに眺めてゐた。 十字架を見た爲めにかやうにその重荷から安らかになつたのは彼にとりていかにも驚くべきことであつた。 で、彼はつく〜゛と再三眺めてゐると、頭の中の泉から、涙が頬に流れ出た。 彼が立つたまゝ眺めて泣いてゐると見よ、輝ける三人の者が側に來て、「卿《おんみ》平安《やす》かれ」と挨拶した。 それから第一の者は彼に向つて、「卿《おんみ》の罪は赦されたり」 [マルコ伝,2:5] と言ひ、第二の者は彼の襤褸《つゞれ》を脱せて、代りの衣を着せ、又第三の者はその額に記標《しるし》をつけ、 且つ印を押した一つの卷物 [エペソ書1:13] を與へて、歩みながらこれを讀んで、天上の門に着いたら差出すやうにと告げた。 さうして三人は消え失せた。そこで基督者は嬉しさに雀躍《こをどり》して、かう歌ひながら進んだ。 「かくも遙に罪を負ひてわれは來りぬ。   わが裡《うち》にありし憂愁《うれい》は茲《こゝ》に來て安し。 いかなる場所ぞ、これの地は。   わが祝福の初めは茲《こゝ》ぞかし。 わが脊より重荷の下りしは茲《こゝ》ぞかし。   重荷をわれにくゝりし紐の斷《き》れしは茲《こゝ》ぞかし。 福《さち》ある十字架!福《さち》ある墓よ、   わがために恥を受にし人こそ尚も福《さち》なれや」 私が夢の中で見てゐると、彼はかうして、麓の方へ下つてゆくと、路から尠《すこ》し離れた處に、 足械《あしかせ》をした三人の者が熟睡してゐるのを見た。一人は淺薄者《あさはかもの》、 次は怠惰者《なまけもの》、第三は我儘者といふ名であつた。 基督者はこの時彼等の臥《ね》てゐるのを見て、側へ行つて目を醒してやることが出來るかと思つて、 叫んだ。「貴君方は帆檣《ほばしら》の上に睡てゐるのも同じですぞ。 [箴言23:34] 死の海は貴君方の下にありますぞ。どん底のない灣です。だから、目を醒して、茲《こゝ》を去りなさい。 御思召があるなら、その足械《あしかせ》を取つてあげませう」。彼は又かう言つた。 もしや吼ゆる獅子のやうな者 [ペテロ書(1)5:8] が茲《こゝ》を通りかゝつたら、貴君方は確にその牙にかゝつて餌食になつてしまひます」 すると彼等は基督者を見あげて、かういふ答へをした。淺薄者は「危險なことはありはしない」と言つた。 怠惰者は「もう尠《すこ》し睡やう」と言つた。我儘者は、「自分の頭の蠅を追ひたまへ」と言つた。 そして三人は又ごろりと寢てしまつた。基督者はおのが路を進んだ。 そんな危險にある人々を起してやつて、勸め喩《さと》して、足械《あしかせ》を取つてやらうと、 いかにも心置きなく親切にしてやつたのに、此方《こちら》の親切を無にされたのを思ふと、 心苦しき次第であつた。かやうに心苦しく思つてゐた時に、 細路の左手の石垣を轉落ちて來る二箇《ふたり》の人に目がついた。 二人は彼の方へ急足で來た。一人は虚禮者といつて、他の一人は僞善者といつた。 さて愈々《いよ〜》側へ來たので、彼は二人と言葉を交した。 基。「貴君方は何處からお出でになりましたか、又どこへお出でになるのですか」 二人。「私共は虚榮の國に生れた者で、シオンの山を拜むために參るのです」 基。「それならどうして此路の取着《とつつき》に立つてゐる門からお出でなさいませんでしたか。 『門よりせずして、他より越ゆる者は窃賊《ぬすびと》なり強盜なり』 [ヨハネ伝7:1] と書いてあるのを御存じないですか」 二人は言つた。「入口の門に往くのは、私共の國の人は迂遠《まはりとほ》いと言ひましてね。 だから、いつも近路をして、私共のやうにこの石垣を乘り越します」 基。「ですが、私共の指して行く都の主君が發表された聖旨《みむね》を犯すといふのは、 取も直さず罪過《つみとが》ではないでせうか」 二人はそれに對して何も頭を惱ますに及ばない。それは一千年以上も續いたその國の習慣《ならはし》で、 必要なら、證據を御目にかけることが出來ると言つた。 基督者が言つた。「ですが、その習慣を律法《おきて》で吟味したらどうです」 二人は又その習慣が千年以上も長く立つたので、 公平なる裁判官に依つて正當と認められた物として今許されることは疑ひないと言つた。 それから又言つた。「この路まで來れば、どの路から來たつて差支へはない筈です。 私共はこの路に居るから、居るのです。見受けます所、貴君はあの門を入つて、この路に來られたのでせう。 私共は又石垣を乘り越えて、この路にあるのです。今どこに貴君の状態が私共より善い所がありますか」 基。「私はわが主の規則で歩くのです。貴君方は御自分の空想で作られた規則で歩みなさるのです。 貴君方はこの路の主より見れば窃賊《ぬすびと》の仲間です。だからこの路の終になれば、 貴君方は誠の人でないことが見露《みあら》はされませう。主の指圖を受ずに自分勝手にお出でになつたからには、 又主の仁惠《めぐみ》を受ずに自分勝手に出て行れるでせう」 二人はこれには答へず、唯自分の頭の蠅を追ひなさいと言つた。やがて三人は互に物をも言はず、 想ひ〜に路を進んだ。唯一度二人の者は基督者に向つて、律法《おきて》と儀式を守ることにかけては、 自分逹もおさ〜彼に劣らないと言つた。二人は尚|語《ことば》を次《つい》で、 「だから、私共は貴君が私共と異なつてゐるやうに思はれない。 唯違ふのは貴君の着てゐられる上衣《うはぎ》ばかりです。 察する所、それは貴君の赤裸《はだか》の恥を隱すために、隣近所の人逹から貰つたものでせう」 基。「律法《おきて》や儀式を守つても、門から來なければ、貴君方は救はれないでせう。 それから私の着てゐるこの上衣《うはぎ》は、私の往きます其處の主君から戴いたのです。 御言葉の如く、私の赤裸《はだか》を隱すためです。これは親切の記標《しるし》として戴いたので。 それまで襤褸《つゞれ》の外何も持つてゐなかつたのですからな。これは又歩きながら、 私の慰安《なぐさめ》となるのです。私はかう思ふのです。私がその都の門へ着くと、 身にその上衣《うはぎ》を着てゐますので、確に善い者と認められるであらうと。 私の襤褸《つゞれ》を脱せて下すつたその日に、無料《たゞ》で下すつた上衣《うはぎ》ですからな。 それに又私の額には記標《しるし》があります。多分貴君方はお氣がつかれなかつたでせうが、 これはわが主の最も親しき友人の一人が私の肩から重荷を下した日に着けてくれたのです。 それから又路を歩きながら讀んで自ら慰めろといつて、印を押した卷物を貰ひました。 天上の門へ着いたら、私が確に順路を辿つて來た符號《しるし》にこれを差し出せとのことでした。 貴君方は凡てさういふものを持つてゐられないでせう。門からお出でがなければ、持つてゐられますまい」 二人はこれについて答へなかつた。唯互に見合せて笑つた。やがて皆その路を進んだ。 基督者は一足先へ歩いて、最早口を利ず、唯心の裡《うち》で、嘆息したり、慰められたりした。 又幾度も輝ける者の一人から貰つた卷物を讀んでは、元氣づいた。 やがて私が見てゐると、彼等は共に困難の岡の麓まで來た。其麓に一つの泉があつた。 又そこには門から眞直に通ずる路の他に、二つの他の路があつた。岡の麓で、 右と左に曲つてゐた。けれどもかの狹い道は直に岡へと差掛つた。岡の此方《こちら》の登り路は困難坂と呼れた。 今基督者は泉へ行つて、清水を飮んで、元氣をつけて、それから岡へ登りながら、かう歌つた。 「岡は高くも、われ登らん。   困難いかで、われを挫くべき。 生命《いのち》の路|茲《こゝ》に在りと見るからは。   いざ振へ、心情《こゝろ》よ、弱るな、怖るゝな。 困難なりとも、正しき路を行くぞ善し。   容易なりとも、惡しき路の末は禍《わざはひ》ぞ。」 他の二人も亦《また》岡の麓へ來た。けれども岡が嶮しく高いのを見た。それから二つの他の路の通ずるのを見た。 この二つの路は岡の向ふ側で、基督者の登つて行つた路と再び合ふだらうと思つて、二人はその路を進むことに決めた。 所がその一つの路の名を危險道といひ、他の一つの名は滅亡道といつた。 そこで一人は危險道の方へ進むと、大きな森へと入つて行つた。他の一人は眞直に滅亡道へと進んだが、 薄暗い山の多い荒野へ入り込んで、そこに躓《つまづ》き倒れて、起き上ることも出來なかつた。 基督者の跡はと見送ると、彼は岡へと登つてゆく。初めは急ぎ足であつたのが、並足になつて、 並足から、やがて、彼は手と膝で攀ぢ上り初めた。それほど道は嶮しかつた。 所で岡の頂上へ半分途《はんぶんみち》の所に、爽快な園亭《あづまや》があつた。 この岡の主が疲れた旅人を憇《やす》ませるために建てたものである。基督者はそこへ辿り着いて、腰をかけて休んだ。 やがて懷《ふところ》から卷物を取り出して、讀んで自ら慰めた。 それから又十字架の側へ立つた時に貰つた上衣《うはぎ》即ち衣裳を打ち眺めて氣を晴した。 かうして暫らく獨り樂しんでゐると、遂に睡くなつて、ぐつすりと寢込んだので、 夕方になるまで其處にさうしてゐた。睡てゐる中に手から卷物を落した。それでもまだ睡つてゐると、 一個《ひとり》の人が側へ來て、彼を呼び醒して言つた。「蟻に行け、惰《おこ》たる者よ、 その爲す所を見て、賢くなれ」 [箴言6:6] 。そこで基督者は突然躍り上つて、路を急いだ。一心に進んで、遂に岡の頂上に逹した。 所が岡の頂上に辿りつくと、二個《ふたり》の人が遽《あわたゞ》しく此方《こちら》へ走つて來た。 一人の名は憶病者といつて、他の一人は疑惑者《うたがふもの》といつた。基督者は二人に言つた。 「貴君方はどうしたのです。なぜ惡い方へ驅けて行きなされますか」 憶病者は答へた。「私共はシオンの都へ志して、この難所を登つたのですが、行けば行くほど、 益々危險に出遇ふので、振向いて、還つてゆく所です」 疑惑者も言つた。「私共の恰度前に二匹の獅子が路に横はつてゐたものですからな。 それが睡てゐるのか、醒《おき》てゐるのか解らないのです。兎に角その側へ行うものなら、 立所《たちどころ》に引き裂れてしまつたでせう」 そこで基督者が言つた。「私を怖がらすのですな。でも何處へ遁れて身を安全にしやう。 自分の國へ歸れば、火と硫黄が準備してあるのだから、確に身を滅してしまふ。 若し天の都に往くことが出來るなら、必然《きつと》身を安全にすることが出來る。 試《や》つて見よう。歸れば唯死ぬほか何にもない。前へ進めば、死の怖はあるが、 それを越せば永久に續く生命《いのち》がある。私は前へ進んで行くことにしませう」 かくて疑惑者と憶病者が岡を走り下ると、基督者はその路を進んだ。 けれども人々から聽いた事を思ひ返すにつけて、卷物を讀んで、慰めを得たいと思つて、懷《ふところ》を探つた。 然るに探しても、それが見付らなかつた。そこで基督者は大《おほい》に心を惱して爲すべき所を知らなかつた。 いつも自分の心を慰めてくれ、又天の都へ入る通劵《てがた》となるべきその卷物が失《なく》なつたのである。 それ故途方に暮れて、どうして善いか解らなかつた。 遂に彼は岡の中腹にあつた小亭《あづまや》で睡つたことを思ひ出した。で、跪づいて、 愚かな事の爲めに神の赦しを乞ふて、やがて卷物を尋ねに引返した。その後戻りする路で、 基督者の心の悲みはどんなであつたらう。 身の疲を休めるために尠《すこ》しの間の休憇所《やすみじよ》として設けられたその場所に愚かにも睡つてしまつたことが心を咎めて、 嘆息《ためいき》を吻《つ》いたり、泣いたりした。 彼はこれまで旅行中にも幾度か自分を慰めてくれた卷物を幸《さひはひ》にも見付けたさに、 行く〜路の兩側に氣をつけて後戻りした。かうして彼は座つて睡つた小亭《あづまや》の見える所までやつて來た。 小亭《あづまや》を見ると、その悲しみは一層新しくなつた。睡つたことの惡かつたことを一層鮮かに心に思ひ浮べた。 その睡眠《ねむり》の罪深さを嘆いて、かう言ひながら歩いた。「晝間睡つたり、困難の眞中で睡つたりするといふのは、 あゝわれ惱める人なる哉」 [ローマ書7:24] 。岡の主が旅人の精神を憇《やす》めるために設けられた所だのに、私は肉體の安樂を貪るために、 我儘なことをした。こんなに澤山無駄足をしたのも止むを得ない。 昔時《むかし》イスラエル人がその罪のために紅海の路で後戻したのもこんなであつたらう。 この罪深い睡眠《ねむり》さへ仕《し》なかつたら、樂しく踏める路を、私はこんなに悲しんで歩まねばならぬ。 こんな事がなければ、もう餘程|前《さき》へ進んだものを。一度で濟むところを三度歩くやうになつた。 それにもう日暮なので、闇を歩かねばならぬ。あゝ、睡りさへしなかつたなら」 やがて彼は再び小亭《あづまや》に着いて、そこへ座つて暫く泣いてゐた。遂に悲しげに腰掛の下を眺めると、 (基督者の運が盡きなかつたと見えて)、卷物がそこにあるのに目がついた。彼は慄へながら急いで、 取り上げて、懷《ふところ》に收めた。この卷物を再び手にしたこの人の歡喜《よろこび》はどんなであつたらう。 この卷物は彼の生命《いのち》の保證状、志ざせる港への通劵《てがた》である。 そこで彼はそれを懷《ふところ》に納めてから、その落ちてゐた場所に眼を向けさせられたことを神に感謝した。 そして嬉し涙を零《こぼ》して再び旅立つた。今度はいかにも速く岡を登つたが、まだ登らぬ前に、日が暮れてしまつた。 そこで又|睡眠《ねむり》の徒勞《いたづら》であつたことを思ひ出して、かう言つて自ら悔んだ。 「あゝ罪深き睡眠《ねむり》よ。汝のために私は旅路に行き暮れてしまつた。私は日の光なしに歩かねばならない。 闇は行程《ゆくて》を蔽ひ隱してゐる。又罪深き睡眠《ねむり》のために、 物凄い禽獸《とりけもの》の聲も聽かねばならない」。 その時又疑惑者と憶病者の獅子の姿に驚されたと言つたその話を思ひ出した。 基督者は又呟いた。「さういふ獸は餌を求めて夜分《よる》歩き廻るさうだから、暗闇で出遇つたら、 どうして避けられよう。どうして片々《きれ〜゛》に裂れずに免れられよう」 かうして、おのが不始末を嘆きながら、進んで行つたが、目をあげて見ると、前には優美殿といふ宏壯な宮殿があつて、 往來の側に立つてゐた。 私が夢の中で見てゐると、彼は急ぎ足になつた。出來るならそこに宿《とま》りたいと思つて、 前に進んだ。まだ遠くも行かない中に、いと狹い通路《みち》に入り込んだ。 それから門番の小舎《こや》まで二丁ばかりあつた。彼は氣を配つて歩いて行くと、 路に二疋の獅子が居るのを見出した。疑惑者と憶病者が危險だといつて遁げ歸つたのはこれだなと想つた。 (獅子は鎖に繋いであつたが、その鎖は見えなかつた)。彼は怖れた。 自分も二人の跡を追ふて歸らうかと想つた。自分の前には死のほか何にもないと想つた。 所が警護者といふ門番が小舎《こや》から基督者がぐづ〜して歸つて行きさうなのを認めて、 かう言つて叫んだ。「貴君は氣が弱いですな。獅子は怖くはないです。鎖で繋れてゐますから。 それは信仰を試みて、その無い人を看破るためにそこへ置いてあるのです。 路の眞中を通りなさい。どうも仕やしません」 やがて基督者は怖々に進んだ。門番の指圖に從つて善く氣をつけたので、獅子の吼ゆる聲を聽いたが、 害を受けなかつた。そこで彼は手を拍《たゝ》いて喜んで、進んで、門番の衞つてゐる門の前に來た。 基督者は門番に言つた。「これは何誰《どなた》のお家ですか、今夜お宿《と》め下されますまいか」 門番は答へた。「この家は岡の主が旅人を撫《いた》はつて保護したいために建てられたのです」。 門番は語《ことば》を次いで問ねた。「貴君は何處からお出でになつたのですか、又何處へお出でになるのですか」 基。「私は滅亡《ほろび》の市《まち》から參りまして、シオンの山をさして行く者であります。 もう日が暮れましたので、今夜茲《こゝ》へ宿《と》めていたゞきたいのですが」 門。「お名前はなんと仰《おしや》るのですか」 基。「私は今では基督者《くりすちやん》と名乘つてゐますが、初めは悖徳者《はいとくしや》といふ名でした。 神を知らざるヤペテの種族《やから》から出たのですが、神のお勸言《すゝめ》で、 セムの潔《きよ》い天幕に住《すま》ふことになりました」 [創世記9:27] 門。「どうしてかう晩《おそ》くお出でになりましたか。日が暮れましたに」 基。「もつと早く茲《こゝ》に來る筈でしたが、お耻かしい事には、 岡の中途んいあつた小亭《あづまや》で睡つたものですから。 いや,それでももつと早く來られたのですが、睡てゐる時に、通劵《てがた》を失《なく》して、 そのまゝ岡の頂上まで來てしまひました。探しても見付りましものですから、 仕方なしに心に悲しみながら睡た處へ往つて見ると、見付かりましたので、漸《やうや》く參りました次第です」 門。「それでは此處の處女《むすめ》を一人呼びますから、その處女《むすめ》が貴君のお話を聽いて、 善いと思つたら、此家の掟に從つて、家の方々の所へ貴君をお連れ申すでせう」 かう言つて門番の警護者が鈴《りん》を鳴すと、その響につれて、 家の戸口から敏子といふ沈着《おちつ》いた美はしい處女《をとめ》が現はれて、「何に御用ですか」と問ねた。 門番は答へた。「この方は滅亡《ほろび》の市《まち》からシオンの山に旅をなさるのですが、 日が暮れて疲れなすつたさうで、今夜|茲《こゝ》へ宿《とめ》ていたゞきたいといふことです。 で、私は貴孃《あなた》をお呼びして、この方とお話し仕ていたゞいて、それで貴孃《あなた》が此家の掟に照して、 宜しいと思召《おぼしめし》たら、宿《とめ》て下さるでせうと話した次第です」 やがて處女《をとめ》は基督者に向ひ、何處から來て、何處にお出でなさるのですかと問《たづ》ねたので、 彼はそのことを話した。處女は又どうして此路をお出でになつたのかと問ねたので、 彼はそのことを話した。それから又|處女は彼が路で見たり出遇つたりしたことを問《たづ》ねたので、 彼はそれを話した。遂に處女は彼の名を問《たづ》ねた。そこで彼は言つた。 「私は基督者と申す者ですが、今夜は是非|茲《こゝ》へ宿《と》めていたゞきたうございます。 此處《こちら》は旅人を撫《いたは》つて保護するために、岡の主のお造りになりました處と伺ひましたので」 すると處女《をとめ》は微笑んで、眼に涙ぐんだ。暫く言葉を絶つてから、恁《か》う言つた。 「私、家の二三人の方を呼びますから」 處女《をとめ》は入口に驅け寄つて、愼子と敬子と愛子といふ三人の處女《をとめ》を呼んで、 暫らく基督者について相談して、家の内に入れることにした。家内の人々は大勢玄關の處まで基督者を迎へに來て、 かういふ挨拶をした。「どうぞ此處《こちら》へ。貴君は主のお惠みにあづかる方でございます。 この家は岡の主が貴君のやうな旅のお方を懇《ねんごろ》にするためにお建てになりましたので」 基督者は頭を下げて、處女《をとめ》等の後をついて、家に入つた。家に入つて座ると、 處女等は飮みものを勸めて、尚|夕餐《ゆふめし》の出來るまで、善き時間つぶしに、 處女の中二三人が基督者の身の上を委《くは》しく聽くことの決めた。敬子と愼子と愛子とはその話相手に定められた。 そこで恁《か》ういつて口を開いた。 敬。「ねい、基督者さん、かうして今夜貴君を親切にお宿《と》め申したのですから、私共の益《ため》になるやうに、 貴君が道中でお遇ひになつたことを精《くは》しく御伺ひしたいものですのね」 基。「それは何によりです、歡んで御言葉に從ひます」 敬。「最初どうして都詣《みやこまうで》をなさる御心におなりでしたか」 基。「私が故國《ふるさと》を出奔しましたのは、怖ろしい聲が私の耳に響きましたからです。 その聲といふのは、若し私がそこに住んでをれば、避けられぬ滅亡《ほろび》に出遇ふといふものです」 敬。「お國から此路へお出でになりましたのはどうしてゞすか」 基。「それは神の思召《おぼしめし》からでございませう。滅亡《ほろび》の怖ろしさにびく〜してゐた時には、 何處へ行つて善いか解らなかつたのです。所が偶然私が慄へて泣いてゐる時に、傳道者といふ方がお出でになつて、 私がそれまで知らなかつた小門《くゞりもん》を教へて下さいました。 そして私はこのお家へ眞直に向いて來る路を取りましたのです」 敬。「では、註釋者の家へはお寄りになりませんでしたか」 基。「はい、寄りまして、種々《いろ〜》な事を見ました。皆一生忘れられない事ばかりですが、 其の内でも鮮然《はつきり》覺へてゐますのは、基督が惡魔の妨げあるにも係らず、今でも心の恩寵の働きをなしたまふことと、 それから一個《ひとり》の人が罪を犯して神の仁惠《めぐみ》に絶望せることと、 それから又眠つてゐる間に審判《さばき》の日の來た夢を見た人のことと、それだけです」 敬。「貴君、その夢の話もお聽きになりまして」 基。「はい、怖ろしい夢だと想ひました。その人が話してゐる最中に、胸がどき〜しました。 でも、それを聽いて嬉しかつたです」 敬。「註釋者の家で御覽になつたのはそれだけですか」 基。「いえ、まだあります。その御案内を受けて、立派な御殿を見せていただきました。 そこに居る人逹は皆|黄金《こがね》の衣を着てゐました。一個《ひとり》の大膽な人があつて、 武裝した人逹が入口を護つてゐる中を切開きました。そして内に入つて、限りなき榮光《さかえ》を獲ました。 そんな事を見ると胸が躍りまして、十二ヶ月もその方の家に逗留してをりたかつたですが、 まだ先へ進まねばならんと思ひまして」 敬。「その他、路で何かごらんになりまして」 基。「見た所ぢやありません。それから尠《すこ》し參りますと、十字架に懸つて血を流してゐる者を見たやうな氣がしました。 其人を見るや否や、私の脊中から重荷が落ちてしまひました。實はその重荷を負つて呻いてゐたのでしたが、 その時身から離れて落ちてしまひました。前にそんな事を見たことがありませんので、いかにも不思議でした。 暫らく立つて眺めてゐますと(眺めずにはゐられませんでしたので)、三人の輝ける者が側に來ました。 その一人が、私の罪は赦されたと證《あか》し仕てくれますし、もう一人の方が私の襤褸《ぼろ》を脱せて、 御覽の通りなこの繍《ぬい》のある衣物《きもの》を下さいました。それからもう一人の方が私の額にある、 これこの記號《しるし》をつけて、この印のある卷物を下さいました」(と彼は懷《ふところ》から卷物を取り出した)。 敬。「その他に御覽になつたことはありませんでしたか」 基。「これまでお話し仕ました事は善い方ですが、その他さま〜゛な事を見ました。 淺薄者《あさはかもの》、怠惰者《なまけもの》、 我儘者《わがまゝもの》といふ三人が私が來た路から尠《すこ》し離れた處に、鐡の足械《あしかせ》をされて、 横に睡てゐました。でも私にはとても起してやることが出來ませんでした。 それから又虚禮者と僞善者とがシオンに往くのだと言つて、石垣を乘越えて來ました。 私は親しく二人にお話し仕たのでしたが、信じませんものでしたから、忽ち見失ひました。 それから何より困難なのは此の岡を登ることでした。又獅子の口の側を通るのも困難でした。 御門の側のあの性《ひと》の善い門番がゐられませんでしたら、仕方なしに後戻したかも知れません。 今かうして茲《こゝ》にあることを神に感謝いたします。 又私をも待遇《もてな》して下さる貴孃《あなた》方にお禮を申します」 やがて愼子も基督者の話の有益な事を思つて、二三の事を尋ねた。 愼。「時々はお旅立ちになりましたお故國《くに》のことをお思ひになるでせうね」 基。「はい、思ふことは思ひますが、大變耻かしくも嫌になります。 實際私の出て來ました故國《くに》のことが氣になる位なら、歸る機會《をり》は幾らもございました。 でも、今ではもつと善い國、即ち天の國を志しますので」 [ヘブル書11:16] 愼。「それでも貴君がその頃お樂しみになりました事で今でも御心に纒《まと》ひ着いてゐるものは御座いませんか」 基。「はい、ありまして、大《おほい》に私の意《こゝろ》に逆ひます。 殊に心の慾と肉の想ひとは私の國の人や私自身には樂しみでしたものですから。 今ではそんな事は皆な私の憂となりまして、自分が想ふやうになるなら、 もうこれ以上そんな事を考へないつもりですが、所が兎角善い事を仕やうと思ふと、 惡い事が身に着き纒《まと》ひまして」 [ローマ書7:15-19] 愼。「貴君を惱ますその事が時に消え失せたやうにお思ひになることもございませうね」 基。「はい、稀《たま》にはございます。さういふ事が起る時は、まあ私の黄金時代ともいふのですな」 愼。「煩ひが時々消え失するやうになるのはどうしてゞすか、御記憶なさいまして」 基。「はい、十字架の側で見ましたことを思ふ時に、さうなります。又私の行手を思ふて心の熱する時に、さうなります」 愼。「シオンの山に行くことをそれほど御執心なのはどうしてゞすか」 基。「それは、十字架に懸つて死なれたその方が生きてそこに居られますのを見たいからです。 又今日まで私の裡《うち》にあつて私を惱したその事を遁れたいからです。 又そこには死がないといふことですから、最も好きな友逹と一緒にいつまでも暮したいです。實際のところ、 私は私の重荷を下してくだすつた其の方を愛しますが、私は心の病で疲れてゐるからであります。 だから、最早死のない處へ行つて、皆さんと一緒に聖なる、聖なる、聖なるかなと絶ず唱へたいのです」 やがて愛子が基督者に言つた。「貴君には御家族がございまして。御結婚あそばした方ですか」 基。「私には妻と四人の小さい子供がございます」 愛。「どうして御一緒にお連れなさらなかつたの」 基督者はさう言はれたので泣いて言つた。「私はどんなにさう仕たかつたでせう。 ですが彼等は皆なして私の旅立つのに全然反對なものですから」 愛。「でも、貴君は御家族の方に、後に殘つてゐる危險をお話しなすつて、悟らせようとはなすつたのでせう」 基。「さうですとも。神が私共の市《まち》の滅びることを私に示して下すつたと話しても、 彼等は私が戲談《じようだん》でも言ふかと思つて、私を信じませんでした」 [創世記19:14] 愛。「その時貴君のお勸言《すゝめ》が御家族の方の心に入るやうに、神さまにお祈りになりまして」 基。「はい、心を痛めて祈りました。何といつても妻子は可愛い者ですからな」 愛。「それにしても貴君御自身の悲しみ、滅亡《ほろび》の恐怖《おそれ》をお話しになりまして。 貴君には滅亡《ほろび》のことが充分に解つてゐなさるやうに想はれますが」 基。「はい、幾度も、幾度も、幾度も話しました。彼等は私の顏の恐怖《おそれ》を見ましたし、 私の涙も見ましたし、又私の頭の上に落ち懸つてゐる審判《さばき》の怖ろしさにびく〜してゐるのを見たのですが、 それでも私と一緒に來る心を起させるには足りませんでした」 愛。「御家族の方がお出でなさらなかつたには、それ相應の理屈がおありなのでせう」 基。「それは、妻にとりては、此世を棄てたくなかつたでせうし、子供にとりては、 若い時の愚かな樂しみの氣を奪《とら》れてゐるものですから。 あれやこれやで、私一人をかうして彷徨《さまよは》せることになつたのです」 愛。「貴君がいくら言葉で、連れて來たいやうに仰《おし》やつても、 貴君のこれまでのお振舞があまり眞面目でなかつたので、御家族の御心を鈍らせなすつたようなことはございませんか」 基。「實際私はこれまで澤山|過失《あやまち》をしたことを知つてゐますので、 自分の生活を誇ることは出來ません。それから善い事があるから他人《 ひと》にもさせたいと思つてどんなに説き勸めても、 自分の品行が惡ければ、何の甲斐もないことを知つてをります。ですが、私は何か不似合な振舞でもして、 彼等が旅立つのを嫌がらせないように大變氣を付けました。所がさうしますと、却つてあまり堅苦しいと申しますし、 それから妻子のためには彼等が惡いと想はぬ事まで克己しました。神に對して罪を犯したり、 隣人《となりびと》に惡い事をしたり仕ないように、私の心が優しくなればなるほど、 それが却つて彼等の邪魔になつたようで御座います」 愛。「それは眞實《ほんたう》ですのね、カインが兄弟を憎みましたのも、自分のする事が惡くつて、 兄弟の方が義《たゞ》しかつたですからね [ヨハネ書(1)3:12] 。 貴君の奧樣もお子樣もそんな事のために貴君に抗《さか》らひなすつたなら、 それはもう善い方に染むことの出來ない證《しるし》ですね。 貴君の靈魂《たましひ》は御家族の方と血肉の縁が離れて居りますのです」 私が夢の中で見てゐると、かうして話してゐる内に、夕餐《ゆうめし》の仕度がされた。 仕度が出來ると、その席に着いた。食卓には脂こい物や精製した酒が備へられた。 卓上での談話《はなし》は皆岡の主の關することであつた。主が爲したまへること、 主がそれを爲したまへる由來、又その家を建てたまへる所以などを話した。 この人々の話す所によると、主は大《おほい》なる勇者で、死の力を有する者と戰つて、 身にも非常な危險を冐して、遂にこれを殺されたといふので、益々主が慕しくなつた。 基督者が言つた。「皆さんの仰せの通り、又私の信じます通り、主はそのために多くの血を流したまひました。 主の所業《しはざ》に恩寵の榮光《さかえ》の加はりましたのは、純粹の愛から御國のために盡されたからであります」 すると又家内の人々の中には、主が十字架で死なれた後にも、自分逹と一緒に居て話しをされたことや、 又主が天《あま》が下|東から西に類《たぐひ》ないほど、 憐れな旅人を愛することを親しく語られたことを證《あかし》する者があつた。 且つその證《あかし》したことの例を擧げた。即ち主は自分の榮光《さかえ》を脱ぎ棄てゝ、 貧しき者に盡されたのである。又主がシオンの山に自分獨り住みたくないとの御言葉を聽いたと言つた。 それから又主は多くの旅人が本來生れは乞食でも、塵芥《ちりあくた》のやうな身でもこれを王公となしたまふことを話した。 かうして、一同|夜更《よふく》るまで語り合つた。そして主の保護を祈つてから、 眠《ねむり》に就いた。基督者の寢《ねか》されたのは大きな二階の部屋で、日の出の方へ窓が開いてゐた。 その部屋は平和の間といつた。早昧《あけがた》まで彼は睡つた。やがて目が醒ると、かう歌つた。 「いづこにわれは今あるぞ、 耶蘇《いえす》の愛と注意《きつけ》にて、 かくもてなさる旅人ら、 罪ゆるされて、我もはや、 御空《みそら》に近く宿りけり」 朝になると皆起き出でた。暫く話しをしてから、基督者に此處の珍らしい物を見てから御出立なさいと言つた。 そして先づ第一に書齋に案内して、太古《おほむかし》の記録を見せた。私は夢に覺へてゐるが、 先づ見せたのは岡の主の系圖である。彼は日の老ひたる者の子で。永久《とこしえ》の世から來たのである。 その記録には又彼の爲したまへる業《わざ》や、彼が採用して、使はれた幾百名の人名が精《くは》しく記された。 又星移り物變るとも、決して朽ることなき住居《すまゐ》にその人々を置かれたことも記した。 それから娘逹は主の僕《しもべ》共の爲した値《ねうち》ある業《わざ》を讀んで聽せた。 即ち彼等が國々に打勝ちしこと、義を行ひしこと、約束を蒙りしこと、獅子の口を塞《ふさ》ぎしこと、 火の勢《いきほひ》を消せしこと、劔《つるぎ》の刄を遁れしこと、弱きを強ふせしこと、 戰《いくさ》に勇しき者となりて、異邦人の軍を破りしことなのである」 [ヘブル書11:32,34] それから又此家のことを記した記録を讀んで聽せた。即ち主はどんな者でも、 過し時に主の人格と所業とを大《おほい》に侮蔑《あなど》つたやうな者でも、 悦んで厚く迎へたまふといふのであつた。この書齋にはその他多くの有名な事蹟を記した數多《あまた》の歴史があつて、 基督者はこれを皆一覽した。何《いづ》れも古今の出來事を記したもので、 その豫言と讖言《しんげん》とは確に成就せられて、敵には怖れとなり驚きとなり、 旅人には慰めとなり歡びとなるべきものである。 その翌日彼等は基督者を武噐庫《ぶきぐら》に案内した。 そこには主が旅人のために備へられた有らゆる武噐があつた。 即ち劔《つるぎ》や盾や甲《かぶと》や胸當や凡ての祈祷《いのり》や壞《やぶ》るゝことなき履《くつ》などである [エペソ書6:14-18] 。主に使へる者が天の星の群るやうに多數でも、充分|武裝《よそは》ふことが出來るほどであつた。 又主の僕《しもべ》共が不思議の事をした種々《いろ〜》な軍噐を見せた。モーセの杖 [出エジプト記17:9] 、ヤエルがシセラを殺した鎚と釘子《くぎ》 [士師記1:20] 、ギデオンがミデアンの軍勢を敗《やぶ》つた[竹/(子|瓜);#2-83-54]《らつぱ》と空壺と燈火《ともしび》を見せた。 それからシャムガルが六百人を殺した牛の策《むち》を見せた。 又サムソンが大《おほい》なる功績《てがら》を立てた腮骨《あぎとぼね》を見せた [士師記15:16] 。それから又ダビデがガテのゴリアテを殺した投石索《いしなげ》と石、 並びに主が罪人を奢《ほふ》るために奮《ふる》ひ起ちたまひ日に用ゐらるゝ劔《つるぎ》を見せた。 その他|數多《あまた》の立派な物を見せられたので、基督者は大《おほひ》に歡んだ。 これを見終つて、彼等は又眠《ねむり》に就いた。 私が夢の中で見てゐると、翌《あく》る朝基督者は起き上つて、出立しやうとすると、 彼等はもう一日逗留して下さいと言つた。天氣が麗朗《うらゝか》ならば、 歡樂山《たのしみのやま》を見せてあげたい、そこは現在居る所よりも志す港に近いから、 一入《ひとしほ》慰めを添へるだらうと言つた。そこで彼は同意して、逗留した。 朝日が登る頃、彼等は家の一番高みに彼を連れて行つて、南を眺めさせた。で、彼は南を眺めると、 遙か遠くにいとも美はしい山郷《やまざと》が見えた。森も葡萄の園も有《あら》ゆる果物《くだもの》も花も美はしく、 泉も噴水も美はしく、いかにも樂しき光景《ながめ》であつた。やがて彼がその郷《さと》の名を問《たづ》ねると、 あれはイムマヌエルの地ですと言ふ。尚ほ語《ことば》を次いで、「かしこの地はこの岡のやうに、 旅人は誰でも通る道筋でして、そこまでお出でなさいますと、天の都の門が見えますし、 又そこの住んでをる牧羊者《ひつじかひ》逹も出て參ります」と言つた。 今や彼が出立しやうとすると、彼等も承知した。けれどもそれより先に尚一度|武噐庫《ぶきぐら》に參りませうと言つた。 そこで彼を連れて行つて、道中どんな攻撃を受けるかも知れぬからと言つて、 頭から足まで堅固な甲冑を着せてくれた。かやうに武裝してから、一同に送られて門前に出で立つた。 そこで彼は誰か旅人は通りませんでしたかと門番に問ねた。門番は「はい」と答へた。 「その人を御存じですか」と基督者が言つた。 門。「その人の名前を問ねましたら、信仰者と言ひました」 基督者が言つた。「あゝ、それなら私も存じてます。私と同じ町の者で、じき近所です。 矢張り私の生れた土地から參つたのです。それにしても餘程もう行つたでせうか」 門。「今頃は岡を下つた時分でせう」 「さうですか」と基督者が言つた。「門番さん、御機嫌よう。私に親切にして下すつた報ひに、 主の御祝福を貴君のために祈ります」 やがて彼は出かけた。敏子と敬子と愛子と愼子とは岡の麓まで彼と同伴した。 彼等は岡を下りてしまふまで、前の談話《はなし》を繰返しながら歩いた。 その時基督者は言つた。「登りも骨が折れましたが、下りも中々危險ですな」 愼子が言つた。「はい、ほんとうにさうですね。謙遜の谷まで下つてしまふまでは、 貴君に限らず、何誰《どなた》でも中々のお骨折でございます。途中で滑り勝なものですから」。 尚四人は語《ことば》を添へて、「だから、私共は岡の下までお見送りいたしましたのです」と言つた。 基督者は大變用心しながら、下つて行つたが、それでも一二度滑つた。 その時私は夢の中で見てゐると、この連れ立つた善き娘逹は基督者が岡の麓に着くと、 一塊《ひとかたまり》の麺麭《パン》と、一瓶の酒と一總《ひとふさ》の葡萄を贈つた。 やがて彼は路を進んだ。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:四 可憐なる基督者はこの謙遜の谷で、又辛い目にあつた。まだ幾らも行かない内に、 一個《ひとり》の醜き惡魔が野原を越えて向ふからやつて來るのを見た。それはアポリオンであつた。 基督者はびく〜して、引返へさうか、踏み留まらうかと心に惑つた。けれども彼は背中に鎧を着てゐないことを考へた。 だから惡魔に背後《うしろ》を向《むけ》ることは投槍で衝くに一層の便宜を與へるやうなものである。 で、彼は遣つて見ようと、踏み留まることに決心した。「自分の生命《いのち》を救ふより他、 今何も眼中にない。それには踏み留まることが最上の索である」と想つた。 そこで彼は進んで、アポリオンに出遇つた。その怪物は見るも怖しかつた。魚のやうに鱗を着てゐた。 それは彼の誇であつた。龍のやうな翼、熊のやうな足をして、腹から火と烟を吹いた。 口は獅子のやうであつたが、やがて基督者の側へ來ると、ジロリと眺めて、かういつて問ねた。 「何處からお出でなすつたか。又何處へ行くんですか」 基。「私は有《あら》ゆる罪惡の場所であります滅亡《ほろび》の市《まち》から參りました者で、 シオンの都へ行くのでございます」 アポリ。「ぢや、お前は私の臣僕《けらい》の一人ではないか。その市《まち》は私《わし》の國で、 私《わし》はその王樣で又神樣ぢや。お前はこの王樣から遁げるといふのは、どうしたものぢやい。 お前はもつと私《わし》に仕へれば可《よ》し、仕へなけれや、一撃《ひとうち》に叩き殺すがどうぢや」 基。「私は實際貴君の領地に生れました者ですが、貴君の仕事は困難ですし、 貴君が下さる賃金では人が生きてゐることが出來ないのです。罪の賃金は死ですからな [ローマ書6:23] [。]だから私も大分の年になりましたので、分別ある他の人の眞似をして、身の振方を探しましたのです」 アポリ。「そんなに雜作なく臣僕《けらい》を失《なく》すやうな王樣はないぞ。私も中々お前を失《なく》すまい。 だが、お前が仕事と賃金に不服なら、安心して、まあ還れ。私《わし》の國で間に合ふものなら、 なんでもお前に遣ることを茲《こゝ》で約束するから」 基。「私はもう王の王にてゐます他の方に身を捧げたのですから、どうして貴君と一緒に歸られませう」 アポリ。「お前に遣り口は、諺に所謂小惡から大惡に變るのぢや。彼の臣僕《けらい》だなんて公言する者共が、 暫くすると彼を出し拔いて、又私の所へ還つて來るのが常習《ならひ》ぢや。 お前も矢張さうせい。それが一番ぢや」 基。「私は彼を信仰しまして、忠信ならんことを誓ひました。ですからどうして茲《こゝ》から歸ることが出來ませう。 謀叛人として絞殺されますからな」 アポリ。「お前は私にも同樣叛いたぢやないか。でも、今心を改めて還れば、何事も大目に見てやる」 基。「私が貴君に從つたのは、少さい時のことでした。 しかし私が今その旗の下に立ちます大君は私を釋放《ときはな》つて下されますし、 又貴君に從つて爲した事も赦して下さると信じます。それから又、あゝ破壞のアポリオン殿。 打明けて申せば、私は彼の仕事、彼の賃金、彼の臣僕《けらい》、彼の政治、彼の交友が好きです。 又貴君の國よりも彼の國が一層好きです。だから、もうこれ以上私を勸めて下さいな。 私は彼の臣僕《けらい》ですから、彼に從ひます」 アポリ。「頭を冷《つめた》くして、もう一度考へて見ろ。お前はこの路を進んで行つてどんな物に遇ふつもりか。 お前の知つてゐる通り、大概彼の臣僕《けらい》共は終を善くせんぢや。 それは彼等が私《わし》と私《わし》の路に叛いた者であるからだ。 彼奴輩《あいつら》は耻かしい死に状《ざま》をしてゐるぢやないか。 そればかりか、お前は彼に仕へる方が私《わし》に仕へるよりも善いと言ふ。所で彼は自分に仕へる者がどんな目に遇つても、 それを救ふために自分の居る所から未だ甞《かつ》て出て來たことがないぢやないか。 然るに私《わし》はどうぢや、幾度となく、有《あら》ゆる世界を能く知る通り、 忠實に私《わし》に使《つか》へる者が彼と彼の部下に捕へられることあれば、 權力と詐謀《はかりごと》に依つて、私《わし》はこれを救ひ出すではないか。だから、お前も救つて上げる」 基。「彼が直ちに人々を救はれないのは、彼等が最後まで自分に執着するかどうか、その愛を試すためなのです。 貴君が彼等が見苦しい最後を遂げると言はれますが、彼等自身にとりてはそれは最も光榮な最後なのです。 現在の救助《たすけ》などは、あまり多く待望まないで、彼等はその榮光《さかえ》のために忍耐するのです。 彼等の主がその榮光《さかえ》と天使の榮光《さかえ》を以て來らるゝ時に、 彼等も榮光《さかえ》を持つことが出來るのですからな」 アポリ。「お前は既に彼に仕へて不忠實ぢやないか、それでどうして彼から賃金が受取れると思ふか」 基。「どうして、おゝ、アポリオン殿、私は彼に不忠實であつたですか」 アポリ。「お前は出立の初め、落膽の沼に沈みかゝつた時に、氣落ちしたぢやないか。 お前はお前の君主が重荷を取去るのを待つべき筈だのに、不正な方法でそれを取り去らうとしたぢやないか。 それから又獅子の居るのを見て遁げ還るやうに説服《ときふ》せられかゝつたぢやないか。 それからお前は旅行の談《はなし》をしたり、見たり聞いたりした事を語る時に、 お前の言葉付にも所作にも内々虚榮を求めてゐたぢやないか」 基。「それは皆な事實です。貴君の言ひ殘しなすつたことがまだ澤山あります。ですが、 私の仕へ崇むる君主は惠深いので、いつでも赦して下さいます。 それから又そんな弱味は貴君の國で持つやうになつたのです。そこで養はれたのです。 私はそのために呻き苦しみ、又そのために悲しんで、わが君主の赦免《ゆるし》を獲ました」 そこでアポリオンは激しき怒を發して、かう言つた。「私《わし》はその君主の敵だ。私《わし》は彼の人格《ひとがら》、 彼の律法《おきて》と人民を憎むのぢや。私《わし》がやつて來たのは、お前の邪魔をするためぢや」 基。「アポリオン殿、貴君は爲さる事にお氣をつけなさい。私の居る所は王の支配したまふ往還、聖き路でございます。 だから御自分にお氣をつけなさい」 アポリオンは道幅狹しと踏張つて、恁《か》う言つた。「私《わし》は何が怖いものだ。さあ死ぬ覺悟をしろ。 私《わし》は地獄に誓ふが、これより一歩も進ませんぞ。茲《こゝ》でお前の靈魂《たましひ》を亡き者にしてくれる」 かう言つて彼は基督者の胸に焔の投槍を投げつけた。基督者は手に楯を持つてゐたので、それを受け留めて、その危害を防いだ。 基督者は最早これまでと剱を拔いた。アポリオンは激しく彼を攻めかけて、雨霰と繁く投槍を投げつけた。 基督者は力限りそれを防いだが、それでも頭と手足に負傷した。そのため尠《すこ》し退避《たじろ》ぐと、 アポリオンは得たりと付け入つたので、基督者も亦《また》元氣を出して、出來るだけ丈夫《をとこ》らしく防ぎ戰つた。 この激しき戰は半日以上も續いたので、基督者は力殆んど盡きた。實に基督者は手傷のために、 次第〜に弱つて行つたのである。 アポリオンはその機《をり》を付け込んで、基督者は肉迫し、組みついて、これを地に投げ着けた。 それと共に基督者の剱は手から飛んだ。そこでアポリオンは、「さあどうだ」と言つて、力一杯壓《をさ》へつけたので、 基督者は蟲の息になつた。けれども神の思召《おぼしめし》であらう。アポリオンが槍を振つて、 この善人の最後の止めを刺うとしてゐると、基督者は逸早《いちはや》く手を延して、剱を拾ひ取つて、 おゝわが敵よ、私のことを喜ぶない。仆《たふ》れたつて起き上るぞ」 [ミカ書7:8] と言ひながら、力に任せて衝いてかゝると、深傷《ふかで》を受けたやうに退避《たじろ》いた。 基督者はそれを見て、「何事にあれ、我等を愛したまふ者に依つて、勝ちて尚餘りあり」 [ローマ書8:37] と言ひながら、再び打つて懸つた。するとアポリオンは龍の翼を廣げて、飛び去つた。基督者は再び彼を見なかつた。 この戰に於て、私のやうに實地に見聞した者でなければ想像の出來ぬことは、アポリオンが戰ひながら、 始終|喚叫《わめ》いたり、恐ろしい吼へたりしたその聲である。彼は龍のやうに語つた。又他方に於て、 嘆息《ためいき》と呻き聲が基督者の心から洩れた。それから兩刄《もろは》の劔《つるぎ》でアポリオンを傷つけた時ほど、 彼が愉快な容子をしたのを見たことがなかつた。實に彼はにつこり笑つて、天を仰いだ。 いかにもこれは甞《かつ》て私の見たる最も恐ろしき戰であつた。 戰が終ると、基督者が言つた。「私は茲《こゝ》に獅子の口から私を救ひたまひし主に感謝いたします」 そして彼はかう言つて歌つた。 「この惡魔の大いなる長《をさ》   ビルゼブルはわれを滅ぼさんとて、 彼を送りぬ、武裝して。   地獄の怒もて、彼は激しくわれを攻む。 さあれ祝福のミカエル、われを助けたり。   われは劔《つるぎ》の力にて、忽ち彼を飛しめぬ。 されば絶ざる讚美、われに歌はしめよ。   常に聖名《みな》を感謝し、祝福せしめよ」 やがて一本の手が現はれて、幾片《いくひら》の生命《いのち》の樹の葉を差出したので、基督者はそれを取つて、 戰で受けた傷に押當ると、立所《たちどころ》にそれが癒《なを》つた。そこで彼は其場所に腰を下して、 尠《すこ》し前に貰つた麺麭《パン》を喰ひ、飮物を飮んだ。さうすると元氣づいたので、剱を拔いて手に持つたまゝ、 旅に出で立つた。まだ他に敵が間近に居るかも知れぬと想つたのだが、この谷にはアポリオンの外他の敵には全く出遇なかつた。 この谷が終ると、又その次に、死の蔭の谷といふがあつた[原文のまま]。 天の都への路はその谷の眞中を通ずるので、基督者はそこを通行せねばならない。 この谷といふのがいかにも物淋しい場所で、預言者エレミアは恁《か》う記してゐる。 「曠野《あれの》、坑《あな》多くして荒れたる地、旱魃《ひでり》の地、死の蔭の地、 (一人の基督者のほか)人の過ぎざる、又人の住はざる地なり」 [エレミア書2:6] と。 さて基督者はこの谷でアポリオンと戰つたよりも尚|辛《ひど》い目にあつたことは、次に記す通りである。 私が夢の中で見てゐると、基督者が死の蔭の谷の境に逹すると、二箇《ふたり》の人に出遇つた。 それは善き國のことを惡く評判する人逹の子孫 [民数記13章] で、急がしく引返す所であつた。その人逹に、基督者はかう言つた。 基。「何處へお出でなさるのですか」 二人は言つた。「後へです。後へです。貴君も生命《いのち》と平和が惜しければ、矢張お歸りなさるですな」 「一體どうしたのですか」と基督者が言つた。 「どうした所ですかい」と二人が言つた。「私共は貴君のやうにその路を進んで、出來るだけ行つたのでさ。 實際もう還つて來られなく所でした。もう尠《すこ》し進むと、かうして貴君にお話しも出來なかつたでさ」 「一體どんな事に遇れたのです?」と基督者が言つた。 二人。「私共は死の蔭の谷へ入らうとする所でしたが、好運《しやはせ》にも前を見たものですから、 危い所まで踏み込まずに、それを見つけました」 基。「一體何を見なすつたですか」 二人。「何もどころですか。谷といへば瀝青《ちやん》のやうに眞暗ですし、坑《あな》の中には妖怪、變化《へんげ》、 龍などが居るのが見えますし、それから絶えず吼ゆる聲や喚く聲が聽えまして、 恰度《てうど》何とも言へぬ不幸の人が手鐡《てかせ》足械《あしかせ》をされて苛責に遇つてゞもゐるやうでした。 谷の上には陰氣な亂れ雲が懸つて、死がいつも翼を擴げてゐ [ヨブ記3:5] ますし、實に亂れに亂れたその物凄さといつたらないです」 そこで基督者が言つた。「貴君方がどう言はれても、これは私の志す港へ行く路に相違ありません」 二人。「貴君の路かも知れませんが、私共は、まあ御免です」 そこで彼等は別れた。基督者はその路を進んだ。いつ攻撃されるか計られないので、拔いたまゝ剱を手にして行つた。 私が夢の中で見てゐると、この谷の續くだけ遠く、右手にはいと深い溝があつた。 その溝は有《あら》ゆる時代に盲目が盲目の手引をして、憐れにも共に滅びた所である [ルカ伝6:39] 。それから左側《ひだり》を見ると、いと危險な沼地があつた。いかに善人でもその中に落ちると、 底がないので足の立場《たてば》がなかつた。この沼地にはダビデ王も一度落ちたことがあつて、 全能なる者に救ひ出されなかつたら、そこで敢なくなつたに相違ない。 道筋は茲《こゝ》で又非常に狹くなつた。で、性《ひと》の善い基督者は一層難澁した。 暗《やみ》の中で、一方に溝を避けようとすれば、他方で沼地に墜ちさうになつた。 又非常に氣を付けて、沼地を遁れようとすると、溝に落ちさうになつた。かうして彼は進んだ。 苦しげに嘆息《といき》するのが聽えた。そのやうな危險のほかに、道筋がいかにも暗いので、 幾度前に足を踏みだしても、それが何處か解らず、又次に足の遣り場を知らなかつた。 この谷の中程に、地獄の口があつて、それが又近く路に沿つてゐた。「私はどうしたら可からう」と基督者は想つた。 斷切《しつきり》なしに[原文のまま]焔と烟が澤山現れて、火花と怖ろしき音を發した。 それはこの前のアポリオンのやうに、基督者の剱を怖れないものなので、彼は剱を鞘に收めて、 凡ての祈祷《いのり》といふ他の武噐を用ひて、聲を擧げて、 「あゝ主よ、希《こひねが》はくはわが靈魂《たましひ》を救ひたまへ」 [詩編116:4] と叫んだ。 かうして餘程進んだが、尚ほ焔は彼の方へ逹せんとした。彼は又悲しげな聲とあちこち突進する音を聽いた。 で、時には片々《きれ〜゛》に裂れると想つたり、巷の泥のやうに踏みつけられるかと想つたりした。 この怖ろしい光景《ありさま》を見、又この物凄い音を聽きながら、彼は數哩進んだ。 そして或る場所に來ると、鬼の群が向ふから自分の方へやつて來たので、彼は立留つて、 どうしたら善いだらと思案し出した。時には半ば還らうかと想つたこともあるが、 又この谷も半分は通り過ぎたらうにと想ひ返した。顧みればもう多數《あまた》の危險に打勝つた。 還る危險は前に進む以上かも知れない。そこで彼は進むことに決心した。然るに鬼はいよ〜近づいて來る。 けれども殆んど身に迫つて來た時、彼はいと烈しい聲を張り上げて、「われは主なる神の力の裡《うち》に歩まん」 [詩編71:16] と叫んだ。すると鬼共は引き退つて、最早近よらなかつた。 尚ほ一つ洩らしてはならぬ事がある。今や憐れな基督者は心亂れて、自分の聲が解らなくなつた程である。 恰度《てうど》彼が地獄の口を通り過ぎんとした時、一個《ひとり》の惡者が後方《うしろ》からつけて來て、 窃《ひそか》に忍びよつて、痛ましい神を涜《けが》す言葉を澤山|耳許《みゝもと》で囁いたので、 基督者はそれが自分の心から出るやうに想つてしまつた。今が今まで最も愛した者を涜《けが》すのかと想へば、 これまで出遇つた事共よりも尚ほ基督者を惱ますのであつた。彼は避けることが出來ても、 それを避けようとはしなかつた。耳を蔽ふ分別も出ず、その涜《けが》す言葉の出所も知らなかつた。 基督者は餘程長い間この面白からぬ状《さま》で旅したが、自分の前を行く人の聲を聽いた。 それは、「假令《たとへ》われ死の蔭の谷を歩むとも、災禍《わざはひ》を怖れじ、 爾《なんぢ》はわれと偕《とも》に在《いま》せばなり」 [詩編23:4] と言ふのであつた。 それを聽いて彼は歡んだ。その理由《わけ》はかうである。 第一。彼はこれが爲に神を畏れる者が自分の外にもこの谷にあることを知つたからである。 第二。この暗い幽鬱な状態にあつても、神が彼等と偕《とも》にあることを悟つたからである。 よしやこの場所に伴ふ阻碍《さまたげ》のために、神は目に見えなくつても、 自分と偕《とも》に在《いま》したまはぬだらうかと想つた。 第三。彼は前に行く人逹に追ひ着いたら、次第に道連が出來るといふ望みを起した。 またもや彼は進んだ。前に行く人を呼んで見たが、その人も自分は一人だと想つてゐるので、答へもしなかつた。 その内にほのぼの夜が明けた。そこで基督者は、「死の蔭を變じて朝となしたまへり」 [アモス書5:8] と言つた。 朝になつたので、彼は振返つて眺めた。還らうとしてゞはなく、暗《やみ》の中をどんな危險を犯して來たか、 日の光で見たいためであつた。 すると一方にある溝や、他方にある沼地が判然《はつきり》と解つた。又その間を通ずる路の狹いことも能く解つた。 又妖怪や變化《へんげ》や坑《あな》の中の龍なども遠くの方に見えた。この類《たぐひ》は夜が明けると、 近くは寄つて來ない。併《しか》し「主は暗きより隱れたる事共を現はし、死の蔭を光に出したまふ」 [ヨブ記12:22] と記してある通り、彼に現はされた。 今や基督者はこの寂しき路の有《あら》ゆる危險から救はれたので、大に感動した。 その危險はこれまでも怖ろしかつたが日の光に照して見れば、益々明かにその怖ろしさが解つた。 この時太陽は登つた。これは又一つ基督者にとりて仁惠《めぐみ》であつた。 茲《こゝ》に注意せねばならぬことは、死の蔭の谷の前の方も危險であつたが、 彼がこれから行かうとする後の方も、行くことは出來るが、尚一層危險であつた。 彼が現に居る處からこの谷の端《はて》までには、路の到る處に、係蹄《わな》や、捕機《おとし》や彈機《はじき》や網があるし、 又|坑《あな》や陷坑《おとしあな》や深い穴や傾斜《なだれ》た處などがあるので、 若し前の半分路を通つた時のように、今も暗かつたら、千の生命《いのち》があつても、そのために失《なく》なつたであらう。 けれども今は恰度《てうど》太陽が登つてゐる。そこで彼は言つた。「彼の燈火《ともしび》わが首《かうべ》の上を照し、 彼の光に依つてわれ暗《やみ》を歩めり」 [ヨブ記29:3] 。 この光に依つて、彼は谷の端《はづれ》へと來た。私が夢の中で見てゐると、この谷の端《はづれ》に、 血と骨と灰と混然《ごつちや》になつた死骸とがあつた。前に此路を通つた旅人のも有るらしい。 これは又どうした譯かと思ひめぐらしながら、不圖《ふと》尠《すこ》し前を見ると、一つの洞穴があつた。 そこは羅馬法王と異教者といふ二箇《ふたり》の巨人が昔時《むかし》住んだ所である。 この巨人共が權力を振ひ暴威を逞しうしたので、人々は無殘にも殺されて、 その骨と血と灰とは茲《こゝ》に横はつてゐるのである。けれども基督者が大した危險もなく此處を通つたには、 聊《いささ》か私に不審であつた。後で解つたが、それは異教者が久しい以前に死んだのと、 法王の方は未だ生きてゐても、年を老《と》つたのと、若い時に出遇つた數多《あまた》の激しい衝突のために、 精神が衰弱し、關節《ふし〜゛》が硬張つてしまつたので、洞穴の口に坐つて、 側を通る旅人があると齒をむき出してこれを罵つたり、捕まへることが出來ないのを殘念がつて爪を噛むよりほかには、 どうすることも出來なかつたのだ。 見てゐると、基督者はやがて其路を進んで、洞穴の口に坐つてゐるこの老人を見た。 老人は彼を追ひかけることは出來ないが、それでもこちらを向いて 「お前逹の心を直してやるには、もつとお前逹を燒き殺さねばなるまい」と言ふのを聽いて、 どうして善いか解らなかつた。けれども基督者は心靜かに、平氣な顏をして、側を通り拔けたので、何等の害も受けなかつた。 そこで基督者は歌つた。 「あゝいとも不思議の世なるかな。   茲《こゝ》にて遇ひし惱みにも、 われの生命《いのち》は保たれぬ。   あゝ福《さち》なるかな、 われを救へるその御子よ。   暗《やみ》と魔と地獄と罪のその危險、 われを圍みに、この谷間にて。   係蹄《わな》と坑《あな》と捕機《おとし》と網とは、 われの行程《ゆくて》に横はり、   値《ねうち》なく弱きわれをば、 捕へ惱ませ斃《たふ》さんとしたれども、     さあわれ生きぬ。榮光《みさかえ》耶蘇《いえす》にあれ」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:五 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:五 基督者はその路を進んで、やがて小高い處へ來た。それは旅人に行く先を眺めさすために設けられたのである。 基督者はその上に來て、前を眺めると、信仰者が前に行くのが見えた。 そこで基督者は高い聲をして、「おゝい、おゝい、お待ちなさい。御一緒に參りませう」と言つた。 信仰者は後を振向いた。で、基督者はなほ、「お待ちなさい、お待ちなさい、直ぐ追ひ着きますから」 然るに信仰者は答へた。「いえ、私は生命《いのち》懸けです、血に渇く敵《あだ》が私の後に居りますから」 これを聽いて基督者は稍々《やゝ》心を激して、全力を盡して、忽ち信仰者に追ひ着いて、やがて彼を追ひ越した。 かうして後なる者は先になつた [マタイ伝19:30] 。其時基督者はその兄弟を追ひ越したので、自慢さうに笑つた。けれども足許に氣を付けなかつたので、 彼は突然躓《つまづ》いて倒れて、信仰者に扶け起されるまで、起き上れなかつた。 私が夢の中で見てゐると、二人はいと睦じさうに連れ立つて、道中で起きた種々《いろ〜》な事を面白く話し合つた。 基督者はかう言つて口を開いた。 「いや愛する兄弟、信仰者さん、私は貴君に追ひ着いて嬉しいです。神が私共の心を和げて、 かうして御一緒に樂しく路を歩かれるのは、何よりです」 信。「實をいへば、私共の町から貴君と御一緒に、私は來たいと思つたでしたが、 貴君が先に立たれたものですから、止むを得ず獨りで來たわけでした」 基。「私が旅立つた後、貴君はあの滅亡《ほろび》の市《まち》にどれ位長くお留りでしたか」 信。「長くは居りませんでした。貴君がお立ちになつた後で、 あの市《まち》は間もなく天からの火で地に燒け落つといふ風評《うはさ》がぱつと立ちましてね」 基。「え、そんなことを市《まち》の人逹が言ひましたか」 信。「はい、一時は誰でもその事ばかり口にしました」 基。「所で、その危險を免れやうとなすつたのは、貴君のほかにないんですか」 信。「今申したやうに、風評《うはさ》は大變でしたが、確にそれをさうと信じなかつたです。 熱心に語り合つてゐるかと思ふと、貴君が旅立つたことを生命知らずだのと言つて、 莫迦にしてゐる者もありました。ですが、私はあの市《まち》の最後は天からの火と硫黄で滅されるだらうと信じましたものだから、 かうして遁げ出しました」 基。「近所の柔弱者の風評《うはさ》をお聽きになりませんでしたか」 信。「え、聽きました。あの男は落膽の沼まで貴君と一緒に來て、そこに落ちたといふ話ですな。 自分ではその事を知らせまいとしてをるやうですが、確に泥まみれになつてゐましたよ」 基。「近所の人逹はあの男のことをどんなに言つてました?」 信。「歸つてから、大變笑の種になつたようです。皆なして嘲けつたり莫迦にしたりして、 碌に仕事もさせてやらないです。で、今では市《まち》を出かけない先よりも七倍も惡くなつてゐるでせう」 基。「でも、あの男の棄てた路は市の人逹も莫迦にしてゐるんでせう。それにどうしてそんなに彼を責めるんですか」 信。「所が市《まち》の人逹は、『彼奴《あいつ》を縊殺《くびりころ》せ、裏切などする奴は。 口と心と違ふ奴は』など言ひましてな。神は敵をそゝのかして彼を懲しなさるんでせう。路を棄てた者には善い戒めですな」 基。「貴君はお立ちになる前にあの男とお話しになりましたか」 信。「一度|街道《まちなか》で遇ひましたが、向う側を通つて、此方を横目で見て、 いかにもその仕たことを耻かしがるやうですので、言葉をかけませんでした」 基。「私も最初出かけた時には、あの男に望みをかけましたですが、今ではあの市《まち》と一緒に滅びるだらうと案じてゐます。 『犬が還つて來てその吐き出したものを喰ひ、豕《ぶた》が洗ひ潔《きよ》められて、又泥の中に臥す』 [ペテロ書(2)2:12] といふ諺はあの男には誠ですな」 信。「私もあの男のために御同樣に案じますが、それだからと言つて、どうしやうも御坐いませんな」 「で、まあ信仰者さん」と基督者が言つた。「あの男のことはこれだけにして、もつと直接に私共の身の上を語りませうや。 先づ貴君がお出でになつた路でどんなことにお遇ひでしたか。必然《きつと》何事かにお遇ひになつた筈です。 さもなければ却つて不思議でさ」 信。「私は貴君の落ちなすつたあの沼は免れまして、無事に耳門《くゞりもん》へ着きました。 唯一度|淫亂女《みだら》といふ者に出遇つて、危なく身を汚すところでした」 基。「能くその女の網を免れなさいました。ヨセフもその女にはえらい苦勞をしました。 貴君のやうに免れたことは免れましたが、危《あやう》く生命《いのち》を失《なく》すところでした。 で、その女は貴君にどうしましたか」 信。「實見なさらねば、御想像の出來ないほど、御世辭が上手でしてな。私にもたれかゝつて、 どんな御滿足でも叶へますからと約束して、無理に側路へ連れて行かうとしました」 基。「その女の約束といふのは、良心の滿足を叶へるといふのではございませんでせう」 信。「それは勿論情と肉の滿足をさすのです」 基。「よく、その女を遁れなすつた。『主に憎まるゝ者はその坑《あな》に陷いり』 [箴言22:14] ますからな」 信。「いで、私が全くその女を遁れたか、遁れないか、自分では解りません」 基。「でも、貴君はその女の言ふ事を聽なかつたでせう」 信。「え、身を穢したわけぢやないです。甞《かつ》て見た古い書《ほん》に、「娼婦《あそびめ》の歩みは地獄に赴く」 [箴言5:5] と書いてあつたのを思ひ出しましたので。だから、私は眼を閉《つぶ》つて、女の姿に迷はされないやうにしました。 女は私を嘲つてゐましたが、私はそこを通り拔けました」 基。「その他道中で攻撃に遇ひなさらなかつたですか」 信。「困難といふ岡の麓に來た時に、餘程の老人に遇ひましたが、その老人が私の身分や行く先のことを問《たづ》ねますので、 私は旅人で、天の都をさして行くのだと話しました。すると老人が、『お前は正直者らしい、が、 私の所で暮す氣はないか、賃金はあげるから』と、かう言ふです。で、私は老人の名前と住所を問《たづ》ねました。 老人はそれに答へて、自分は初めの人アダム [コリント書(1)15:45] といふ者で、欺僞《いつはり》といふ町に住んで得ゐると言ひました。で、私はその仕事といふのは何で、 又その與《く》れる賃金は何ですかと問《たづ》ねますと、老人はその仕事といふのは多くの快樂で、 遂にはその世繼となすことが、その賃金だと言ひました。私は更に、どんな家に暮してゐるか、 又他にどんな僕《しもべ》を使つてゐるかと問《たづ》ねると、老人はかう言ふです。 自分の家には世界の有《あら》ゆる美味《うまい》ものが貯《しま》つてある。 又その僕《しもべ》といふのは皆な自分が産んだ者だといふ。それではどれほど澤山子供があるのかと問《たづ》ねると、 娘が唯三人で、肉の慾、眼の慾、世の誇といふ名だが、お望みなら、その三人を貴君に嫁に進ぜようと恁《か》う言ふのです。 それなら何時《いつ》まで私を一緒に住《すまは》せるつもりかと問《たづ》ねると、 老人の生てゐる間はいつまでもと言ひました」 基。「それで、老人と貴君の間に話はどう落着しましたか」 信。「初めの内は、あまり好《うま》いことを言ふので、老人と一緒に行かうかしらと想ひましたが、 老人と話しながらその額を見るとどうです。『その行爲《おこなひ》と共に古き人を脱ぎ棄つべし』 と書いてあるぢやありませんか」 基。「それからどうなすつた?」 信。「その時私の心は燒けるやうに熱くなりましてね。この老人がどんな事を言つても、どんな甘い話をしても、 私はその家に連れて行つて、奴隸に賣るのだわいと氣が付きました。 「そこで老人に向つて、私は貴君の家の戸の側へは行きませんから、もうお話しするがものはないと言ふと、 老人は怒り出して、お前の後へ人を尾《つ》けてやつて、路でお前の心を苦しましてやると罵りました。 それに顧《かま》はず、私は振向いて出かけましたが、そこから出かけやうととすると、 恐ろしい力が私を引張つて、身體を半分老人に引奪《ひつた》くられるやうに想ひましたので、 私は『あゝわれ惱める人なるかな』 [ローマ書7:24] と叫びました。そしてかの岡へと登りました。 「それから其岡を半分ばかり登つて、後を眺めると、風のやうに疾《はや》く、私を追ひかけて來る者があるのです。 そして休息《やすみ》場のある處で私に追ひ着きましてね」 「恰度そこです」と基督者が言つた。「私が坐つて休んで、眠りこけて、懷《ふところ》から卷物を落しましたのは」 信。「まあ、兄弟、お聽き下さい。その男が私に追ひ着くや否や、唯一聲叫んで、叩《なぐ》りました。 私は叩《なぐ》り倒されて、死んだやうになりましたが、暫くすると正氣づいて、どうしてそんな辛ひことをしたかと問《たづ》ねると、 その男が、お前は窃《ひそか》に始めの人アダムに心を寄せるからだと言ふのです。 さう言ふかと思ふと、又私の胸を激《ひど》く叩《なぐ》つたので、私は仰向けにその足許に倒れて前のやうに氣絶したのです。 それから正氣づいて、助けてくれと言ひますと、助ける譯にはゆかないと言つて、又私を叩《なぐ》りつけました。 それは私の最後であつたに違《ちがひ》なかつたのだが、そこへ一個《ひとり》の人が現はれて、 その男を禁《と》めて下すつたです」 基。「その禁《と》めた人は誰ですか」 信。「初めはその人が解りませんでした。が、側を通られる時に見ると、その兩手と横腹に穴があるです。 それでこれは我等の主だと悟りました。そして私は岡を登りました」 基。「貴君に追ひ着いたのは、モーセでせう。モーセには容赦はないです。 その律法《をきて》を犯す者に慈悲《なさけ》をかけることを知らないです」 信。「私も能くそれが解りました。モーセに出遇つたのは、それが初めてゞはなかつたです。 私がまだ無事に家に居つた時も、やつて來ましてね、私が其家《そこ》に留まつて居るなら、 家ぐるみ燒いてしまうがどうだと言ひましたです」 基。「岡の頂上で、モーセにお遇ひになつた横に、家があつたでせう、御覽になりませんでしたか」 信。「えい、見ました。それからその家に來る前に、獅子が二匹ゐました。 でも獅子は午《ひる》頃ですから眠《ね》てゐるだらうと想ひました。 まだ先に行つても日も充分あるやうでしたから、門番の側を通つて、岡を下りました」 基。「實際門番は貴君が側を通られるのを見たと言ひましたよ。でも、あの家をお訪ねになると宣《よ》かつたですな。 一生忘れられないほど澤山珍らしい物が見られましたに。それはさうと謙遜の谷で誰にお遇ひでしたか」 信。「えい、不滿足者といふ人に遇ひましたが、頻りに一緒に還るやうにと勸めました。 その理由《わけ》といふと、この谷は全く仕方のない處だと言ふのです。それに又、この路を行くことは、 傲慢者《ごうまんもの》や尊大者《そんだいもの》や自惚者《うぬぼれもの》や榮華者《はでもの》 などといふ私の友逹に逆らふことになるので、 若しこの谷を渡るやうな莫迦な眞似をすると、甚だしくその友逹を怒らせるだらうと言ひましたです」 基。「それに對してどうお答へでしたか」 信。「その名指れた人逹は肉縁よりすれば、私の同族に相違ないが、私はかうして旅に出た以上、 その人逹は私を見離すし、私の方でも見棄てたのですから、もう縁も故《ゆかり》もない間柄ですと言つてやりました。 それから又この谷のことは全くお考へ違ひぢやないですか、『名譽の前に謙遜あり』 [箴言15:33] とも『墮落の前に高ぶれる心あり』 [箴言18:12] とも言ふではないですか。だから、私は心に好いてこれは値《ねうち》があると思ふ者よりも、 最も賢ひ人逹が榮譽《ほまれ》とする方を撰んで、此谷を通つて行きますと言つてやりました」 基。「そのほかあの谷で出遇つたものはありませんか」 信。「えい、羞耻者《はづかしや》といふ人に遇ひました。この道中で種々《いろ〜》な人に遇ひましたが、 その男には一番弱りました。他の者なら尠《すこ》し議論するかどうかすれば、否と言ふことが出來ましたが、 その厚顏《あつかま》しい羞耻者《はづかしや》ばかりは持て餘しました」 基。「して、その男は何と言ひましたか」 信。「何にどころですか。先づ第一に宗教そのものに苦情を言ひましてな。そも〜宗教に心懸くるのは、 人間として憐れむべき下品な卑屈な業《わざ》だと言ふのです。それから心を優しくするなどは男らしくない事だし、 又言《ことば》と行ひに氣をつけて、放埒な當世氣質《とうせいかたぎ》に慣《なら》された自由を束縛して、 自分の身を縛るやうなことをするのは、當世の笑ひ草になると言ふのです。それから又|勢力《ちから》ある者、 富める者、賢い者は誰でも私のやうな説を持ちはしない。先づ莫迦になつて、誰もまだ知らぬ事のために、 自ら好んで凡ての持物を失《なく》すほどにならない内はそんな考《かんがへ》は起さないと言ふのです [ヨハネ伝7:48] [コリント書(1)1:26] [ピリピ書3:7-9] 。そればかりか其の人逹の住んだ當時の旅人は重に卑しく下賤な身分と境遇であるし、 又無學で凡ての自然科學を理解する力が無かつたと言ふのです。そんな調子で未だ他に種々《いろ〜》並べ立てました。 説教を聽いて泣いたり悲しんだりするのは耻かしいとか、嘆息《ためいき》をしたり呻いたりして家へ歸るのも耻かしいとか、 僅かばかりの過失《あやまち》をして隣人《となりびと》に赦免《ゆるし》を乞ふのは耻かしいとか、 他人《 ひと》から物を取つてもそれを償なうのは耻かしいとか言つてました。 それから又宗教といふものは大きな人物に尠《すこ》しばかりの不徳な點があると、それに大業な名をつけて、 これを他人扱ひしたり、同じ宗教の兄弟分だといつて、賤しい者に親しんで、 これを尊敬するといふやうになるものです。これは耻かしい事ではないですかと言ふのです」 基。「して、貴君は何と御言ひでしたか」 信。「言ふ所ですか。初めは何も言ふことが出來なかつたです。その男にあまり説き立てられて、 血が面《かほ》に逆上して來ました。その羞耻者《はづかしや》に血を逆上させられたので、私は全くそれに敗る所でした。 ですがその内に、人の崇《たふと》ぶ所のものは神の前には憎まれる [ルカ伝16:15] ものだといふことを思ひ出したです。それから又その羞耻者《はづかしや》は人間のことばかり言ふて、 神の事や神の言葉は何にも言はないことを悟つたです。そればかりか、審判《さばき》の日に、 生死《いきしに》を定められるのは、世の傲慢な精神に據《よ》るのではなくつて、 いと高き者の智慧と律法《おきて》に據《よ》ることを悟つたのです。 だから、私は世の中の凡《すべて》の人が反對しても、神の言ひたまふ所は最上だ、最上であると悟りました。 神は宗教を撰びたまふ。神は柔《やさ》しい良心《こゝろ》を撰びたまふ。 天國のために自ら愚《おろか》なりとする者は最も賢い者としたまふ。 基督を愛する貧しい人はこれを憎む世の最も大《おほい》なる人物よりも富《とめ》る者としたまふ。 私はこれらの事を想つて、羞耻者《はづかしや》よ、去れ、お前はわが救《すくひ》の敵だと言つてやつたです。 どうして私はわが主なる君に背いてお前を寛待《もてな》すことが出來るか。そんな事をすれば、 主の來りたまひ時に、どうして私は顏向が出來るか。私が今主の路を耻ぢ、その僕《しもべ》たることを耻るとせば、 どうして私は祝福を待つことが出來るか [マルコ伝8:38] 。まあさう言つたですが、所でその羞耻者《はづかしや》はいかにも圖太い奴で、振拂ふと思つても、 どうしても私を離れないです。私に着き纒《まと》つて、仕切なしに私の耳の側で、 宗教に伴ふ弱點をあれこれと囁くのです。ですが最後に私はいくらそんな事を言つても無駄だらう、 彼の輕んずる所は、私の最も譽《ほまれ》とする所だからと言つてやりました。 そして遂にこの煩《うるさ》ひ男を振り拂つたです。振り拂つた時に、私はかういつて歌ひました。 「天の召呼《まねき》に從ふ者の、   出遇ふ試練《こゝろみ》さま〜゛に、 肉の慾《ねがひ》によくかなひ、   二度《ふたゝび》みたび新手もて、 襲へばいつか我等こそ、   ために捕はれ破られん。 さらば旅人、旅人よ、   油斷せず、男のごとく振舞へよ」 基。「それは歡《よろこ》ばしい、兄弟、よくも大膽にその惡者を退けなすつた。御言葉のやうに、 それは仕方のない奴ですな。圖太くも街中へまで私共に隨《つ》いて來て、 大勢の前で私共を耻かしがらせるやうにします。善い事でも耻かしがるやうにな。 あんな鐵面皮の奴でないと、あれほどの眞似は出來ません。ですが私共は彼に抵抗しませう。 圖太いには圖太くつても、馬鹿者を扇動《おだて》るだけで、他の者には手を出さんさうですから。 『賢き者は榮光《さかえ》を繼ぎ、愚《おろか》なる者は耻羞《はじ》これを取り去るべし』 [箴言3:35] とソロモンが言つてますからな」 信。「羞耻者《はづかしや》に打勝つには、神に叫んで助《たすけ》を求めねばならぬと想ふです。 神は私共が此地上にある間、眞理のために勇ましきことを望まれませうから」 基。「御尤もです、さてその他誰にかあの谷でお遇ひでしたか」 「信。「いえ、遇ひません。私は日のある中に、あの谷の殘りも、死の蔭の谷も越えましたので」 基。「それは宣《よ》うございました。私は餘程それと趣が變つてゐます。 私はあの谷に入るや否や、アポリオンといふ穢《けがら》はしい惡魔に遇つて、長い間恐ろしい戰《たゝかひ》をしました。 私は實際殺されると想つたです。殊に投げつけられて壓潰《おしつぶ》された時には片々《こな〜゛》になるかと想ひました。 投られる拍子に、剱は私の手から飛びますしね。おまけに、お前の生命《いのち》はおれのものだと言はれたですが、 私が叫びますと、神は聽いて下すつて、有《あ》らゆる困難から救はれました。 それから死の蔭の谷に入りましたが、殆んどその半分路は何んにも光がないんです。 幾度も自分はそこで殺されるのだと想ひましたが、遂に夜が明けて、日が登りましたので、 それからは氣安く靜かに歩きました」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:六 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:六 それから私が夢の中で見てゐると、二人が進んで行く内に、信仰者が不圖《ふと》路の向ふ側を眺めると、 駄辯者《おしやべり》といふ者が尠《すこ》し離れて自分等と並んで歩いてゐるのを見出した。 此處は大勢の者が充分歩けるだけの道幅であつた。彼は丈の高い男で、 近くよりも遠くで見た方が優雅《やさし》かつた。信仰者はこの男に話しかけてかう言つた。 信。「やあ、何處へ。天國へお出でですか」 駄。「其處へ參るのです」 信。「それは結構です。では御一緒に參りませう」 駄。「御一緒に願へれば有難いわけです」 信。「さあ、それでは御一緒に參りませうか、道々有益なことを話し合つて時を費《つぶ》しますかな」 駄。「貴君方とでも誰とでも善い事を話すのは、私は大好きです。 又貴君方のような善い事に心掛ける人に遇つたのは嬉しいことです。 實際のところ、旅に出てさいいふ心掛で時間を費《つぶ》す者はあまり有りませんからな。 大抵|無益《つま》らん事を喋舌《しやべ》つてゐる者が多いでさ。そのために私はどんなに迷惑したか知れません」 信。「それは實際悲しむべき事ですね。天の神の事を語るほど、 人間の舌と口を用ゆる値《ねうち》のあることは地上にはありませんですにな」 駄。「貴君の仰《おつし》やることは確信に充ちてゐるので、どんなに嬉しいか知れません。 附加《つけた》して申せば、神の事を話すほど愉快なことも、有益なことはありませんからな。 人間は不思議な事に興味を持つならば、實際愉快ですからな。例へば歴史や物の奧義の話しをしたり、 あの聖書に樂しく美しく書いてあるやうな竒蹟や不思議の神兆《みしるし》の話しをするのが好きなら、 どんなに愉快か知れません」 信。「それは眞實《まこと》です。ですが、さういふ話をして樂しむよりは、益を得る方が、 私共の重なる目的ではないでせうか」 駄。「私の申す所もそれです。さういふ事を話すのは、大變有益ですし、さうすると多くの事の知識を得ます。 虚《むな》しき地上の事や、恩澤ある天の事を知られますからな。さういふ大體のことは兎に角、 新たに生れることの必要や、人の仕事の不十分なる事や、基督の義の大切なことなぞを學ばれますからな。 それから悔改《くひあらた》めのことや、信ずることや、祈ることや、耐忍ぶことなどをも學べます。 それから又福音の大《おほひ》なる約束や慰安《なぐさめ》がどんなものであるかを悟つて、 自分の慰めとすることが出來ます。それから又、僞《いつは》りの説を拒み、眞理を明かにし、 又無學な者を教へることが出來ます」 信。「一々御尤もです。貴君からさういふ事を伺ふのは嬉しいです」 駄。「しかるに嘆かはしいことには、さういふ話をすることが乏しいのは、限りなき生命《いのち》を得るために、 信仰の肝要なことや、靈魂《たましひ》に恩寵の働きの必要なことの解る者が尠《すく》ないからです。 譯も解らないで律法《おきて》の行爲《おこなひ》をしてゐても、到底《とても》天の國に逹することは出來ないです」 信。「失禮ですが、さういふ天の知識は神の賜物でせう。人間がどんなに骨を折つても、 それを獲られないでせう。ました唯その事を話した位では」 駄。「それはさうですとも。人は天より賜ふにあらざれば、何物をも受くること能はず [ヨハネ伝3:27] 。又凡て恩寵に因りて、行爲《おこなひ》に因るにあらず [テモテ書(2)1:9] 。その他幾らでもこの事を證言《あかし》するための聖書の言葉を引くことが出來ます」 信仰者は言つた。「それでは、何か一つの事を見つけて、これから話さうぢやありませんか」 駄。「御望みのことなら何でも。天の事でも地の事でもお話し仕ませう。 道徳のことでも、福音のことでも、聖《きよ》いことでも聖《きよ》からざることでも、 過去のことでも來るべき事でも、外國の事でも國内の事でも、實質のことでも枝葉のことでも、 私共の益になる事なら何でもお話し仕ませう」 これを聽いて信仰者は吃驚した。先刻《さきほど》から獨りで歩いてゐた基督者の方に歩み寄つて、 ひそ〜とかう言つた。「何《ど》うも豪氣な道連を得ましたよ。必條《きつと》この人は大變立派な旅人でせう」 これを聽いて基督者は柔《やさ》しく笑つて、かう言つた。「あの男に貴君も捕まりましたな。 二十枚も舌を持つてゐるんですから、知らない者は欺《だま》されます」 信。「では、御存じせしたか」 基。「御存じどころか。あの男が自ら知るよりも、私の方が能くあの男を知つてゐる位です」 信。「一體何者ですか」 基。「あの男は駄辯者といつて、私共と同じ町の者でさ。貴君が全く御存じないのは不思議です。 併《しか》し私共の町も廣いですからな」 信。「それは誰の忰《せがれ》ですか。何處に住んでゐたのですか」 基。「あれは口輕者の忰《せがれ》で、口八丁通に住んでゐましたので、口八丁通の駄辯者といへば誰でも知つてゐるです。 立派な口は利きますが、可哀想な男です[」] 信。「所がいかにも竒麗な男に見えるぢやないですか」 基。「さうです。全くあの男を知らぬ者にはね。外ではいかにも立派ですが家では全く醜いです。 あれを竒麗な男だと仰《おつし》やつたので、私は畫工《えかき》の作を見た時に、 その畫《え》を遠くから見るといかにも立派でしたが、近くで見るといかにも穢なかつたことを思ひ出しました」 信。「それは戲談《じようだん》ではないですか、お笑ひなさる所を見ると」 基。「神かけて戲談《じようだん》ぢやありません。假令《たとへ》笑ひましても。 それに私は虚言《うそ》をいつて人を誣《しゆ》る事はしません。もつと打明けてあの男の事を話しませう。 あの男はどんな仲間とも、又どんな雜談との際でも、今貴君に話したやうな事を言ふです。 居酒屋に腰を掛けてゐる時でもさうです。飮めば飮むほど、益々さういふ事を口にします。 宗教は彼の心情《こゝろ》にも、その家にもその品行にも置き處がないので、皆それを舌の尖《さき》に置くのです。 だから、宗教は彼には空談《むだばなし》の種です」 信。「さうですか。それでは私はあの男に大《おほい》に欺《だま》されたのです」 基。「欺《だま》された!さうでせう。諺にも『彼等は言ふのもにして行はず [マタイ伝23:3] 。されど神の國は言葉にあるにあらず、力にあればなり [コリント書(1)4:20] [』]と言ふてあるでせう。彼は祈祷《いのり》のことや、悔改《くひあらため》のことや、信仰のことや、 新に生れることを話しますが、それを語ることだけしか知らないんです、 私はその家へ往つたこともありますし、内でも外でも彼に氣を付けてゐましたがね。 私があの男について申すことは實際です。彼の家には宗教の香《にほひ》もないです。 鷄卵《たまご》の白身に味がないやうに、まるで空虚《からつぽ》です。祈りもなければ、 罪を悔ゆる徴候《しるし》もないです。さやう、畜生だつて、彼よりも一層《もつと》能く神に仕へませう。 あの男を知つてゐる者が皆宗教を汚し、誹《そし》り、耻かしめるのは皆そのためです。 彼の住んでゐる町ではその界隈一體に宗教のことを善く言はないのは、あの男のためです。 彼を知つてゐる世間の人は、『外では聖人、内では惡魔だ』と言ひますが、 彼の家の者も成程さうだと想つてゐます。彼は守錢奴《しみつたれ》で、惡口で、解らず屋なので、 その僕《しもべ》共も彼をどうすれば善いのか、どう話しをして善いのか解らないです。 彼と何か取引した者は、『あの男と取引するよりも土耳古《とるこ》人とした方が、餘程善い。 その方が遙に公平な取引が出來ると言ふのです。あの駄辯者は隙さへあれば彼等を踏み付けたり、 詐《いつ》はつたり欺《だま》したり、出し拔いたりしました。 そればかりか彼は自分の忰《せがれ》をも自分の足跡を踏むやうに育てゝゐまして、 若し忰《せがれ》逹の中に馬鹿らしく臆病な者(優しい氣立を彼はさういふのです)があると、 馬鹿だの、呆者《たはけ》だのと呼んで、決して自分でもそれを用ゐないし、他人《 ひと》にも薦めないのです。 私の考ふる所では、彼の日常が惡いために、どれだけの人が躓《つまづ》き倒れてゐるか知れないです。 神が制して下さらんと、まだどれ位多くの人を滅すか知れません」 信。「成程、兄弟、御言葉を信ずるほかありません。貴君が彼を知つてうおゐでになるといふばかりぢやなく、 又基督者として、人々の風評《うはさ》をなさるからです。貴君が惡意でそんあ事を仰《おつし》やるとは想へません。 正に御言葉の通りでせう」 基。「私も貴君のやうに何にも彼のことを知りませんでしたら、最初貴君がお考へになつたやうに矢張考へたでせう。 又宗教の敵である人逹から、さういふ風評《うはさ》を聽いたのなら、唯惡口とも想つたでせう。 惡人の口から善人の名と仕事に對して惡口を聽くのは有勝の事ですからな。ですが、私が今言ひました事や、 その他澤山に知つてゐる惡い事で、彼の非道は證明されます。そればかりか善人は彼を嫌つて、 兄弟とも友逹とも呼びはしません。彼を知る人逹の仲では、その名を言ふことすら赤面するほどです」 信。「成程、言葉と行爲《おこなひ》は別物ですな。これから私も能くその差別に氣をつけませう」 基。「それは實際別物ですとも、靈魂《たましひ》と身體のやうに別れてゐます。 靈魂《たましひ》のない身體は死骸同樣です。言ふだけで行はなければ、これは又死骸同樣です。 宗教の精髓といふべきものあ實際上の方面にあるのです。純粹の宗教即ち 『神なる父の前に穢れなく仕ふることは孤兒《みなしご》と寡婦《やもめ》をその患難《なやみ》の中に顧み、 自ら守りて世に汚れざること是れなり』です。そんなことはあの駄辯者の想ひも寄らぬことで、 彼は聽くことと言ふことで善き基督者になれると想つてゐるほど、自分の靈魂《たましひ》を欺むいてゐるんです。 聽くことは種を播くやうなものです。話すことに依つて裁かれるといふのは、 [マタイ伝13:23] 私共自身も心得べきことです。その時には「汝は信じたりや」とは問はれないで、 「汝は行ひたりや、或は唯口で言ふばかりなりしや」と言はれて、それに依つて裁かれるのです。 世の最後《をはり》は收穫《かりいれ》に比べられます。御承知の通り收穫《かりい》る者はその實の外なんにも考へないです。 私が恁《か》うお話し仕たのは、信仰がなければいかなる物も受け容れられないといふことでなく、 あの駄辯者の告白する所が其日になるといかにも價値《ねうち》なきことをお示し仕たのです」 信。「それで思ひ出しますのは、モーセが記した潔《きよ》い獸のことです [レビ記11] [申命記14] [。]潔い獸は蹄《ひづめ》が分れて反嚼《にれか》む類のもので、蹄《ひづめ》を分つばかりのものや、 反嚼《にれか》むばかりのものではありません。兎が反嚼《にれか》むけれども、蹄《ひづめ》が分れてゐないので、 潔くないです。それはいかにもあの駄辯者に似てゐるではありませんか。彼が反嚼《にれか》むのは即ち知識を求めることです。 その言葉を反嚼《にれか》むけれど、その蹄《ひづめ》は分れてゐません。即ち罪人の路から分れてゐません。 兎のやうに、犬や熊の足を持つので、それだから潔《きよ》くないです」 基。「貴君のお話しで教への誠の意味が能く明らかになりました。私も一つそれに附加《つけた》しませう。 パウロは或る人々、いや口ばかりの人を呼んで、鳴銅《なるかね》や響く鐃[金|友;#1-93-06]《ねうはち》の如く [コリント書(1)13:1] と言ひましたね。それを又他の處で説明して、生命《いのち》なくして響《ひびき》を發するもの [コリント書(1)14:7] と言つてゐます。生命《いのち》のない者といふのは、即ち眞正《まこと》の信仰なく、 福音の恩寵にあづからぬものゝことです。 それ故|假令《たとへ》その話す所の言葉は天使の言葉や聲のやうであつても、 生命《いのち》の子供と一緒に天國に置かれない者共です」 信。「成程。初め私はこの男と連になつたことを悦びましたが、今では困つてゐます。 どうして彼を遠ざけたら可いでせう」 基。「私の勸言《すゝめ》を聽いて、私の申す通りに仕てごらんなさい。さうしたら、神が彼の心を動かして、 それを改めざる限り、氣が咎めて、彼は貴君に隨《つ》いて來なくなりませう」 信。「どうしたら可いんですか」 基。「先づ彼の所へ行つて、宗教の力について何にか眞面目な話を仕かけるんですな。 さうすれば彼はその談《はなし》に乘つて來て、宗教の力を讚めませうから、そこで露骨に、 それならその力が貴君の心情《こゝろ》や家や品行に現はれてゐますかと問《たづ》ねてやるんです」 そこで信仰者は再び前へ進んで、駄辯者の側へ寄つて、「やあ、失禮しました。どうです、お變りもありませんか」 駄。「えい、有難う。もつと早く御出でになると、澤山お話が出來ましたにな」 信。「さあ、それでは、御心に任せて、これからお話し仕ませう。そこで先づ御言葉に甘へて、 お尋ねして見ませう。神の救ひの恩寵が人の心に働きましたら、どんなにそれが現はれませうか」 駄。「では、何んですか。物の力に就《つい》てお話しするのですな。成程それは善い御尋ねです。 悦んで答へしませう。先づ手短に申すと、第一、神の恩寵が心に働くと、罪に對して大いに泣き叫ぶに至りますな。 第二に……」 信。「まあ、お待ち下さい。先づその一つの事だけを考へて見ませう。それは寧ろ、 靈魂《たましひ》をして罪を嫌ふやうにする所に現はれるといふべきぢやありませんか」 駄。「では、罪に對して泣き叫ぶのと、罪を嫌ふとの間に差別がありますか」 信。「大いに有ります。罪に對して泣き叫ぶことは方便にも出來ます。が、それを嫌ふとは、 誠心《まごころ》より憎まなければ出來ません。多くの人が教壇から罪に對して叫ぶのを聽いたですが、 所でその心と家とその品行には案外罪が蔓《はびこ》つてゐるのを見ました。 ヨセフの女主人がいかにも貞操なやうに大聲を擧げて叫んだですが、それにも係はらず、 意《こゝろ》では彼と不義をしたいと思つてゐたでせう。又ある人が罪に對して泣き叫ぶのは、 恰度母親が膝に載せてゐる子供に對して泣き叫んで、やれ、解らずやだの、惡戲娘《いたづらこ》だのと言つた所で、 つまりは又抱き上げて接吻《きつす》するやうなものです」 駄。「貴君は人の擧足を取りなさるのだな」 信。「いゝえ、そんなことはありません。私は唯物の筋道を正したいのです。さて、 その次に心の恩寵の働きが現はれた證據は何ですか」 駄。「福音の奧義に對する大いなる知識です」 信。「いや、その徴候《しるし》が最初にあるぢやないですか。併《しか》し初めでも後でも、それは虚僞《うそ》です。 福音の奧義に對する知識、大いなる知識に逹しても、それでも未だ恩寵の働きが靈魂《たましひ》に現はれないことがあります。 いかに凡ての知識があつても、數ふるに足らず、神の子供たることが出來ない者もあります [コリント書(1)13:2] 。基督は弟子逹に向つて、『爾曹《なんぢら》皆これ等のことを知れりや』と言はれると、弟子逹は『然り』と答へた。 さうすると、『爾曹《なんぢら》これを行はゞ幸ひなり』と附言《つけた》された。 基督はそれを知る者を幸ひなりとされたのではなく、それを行ふ者を幸ひなりとされたのです。 それは行爲《おこなひ》の伴はない知識があるからです。僕《しもべ》はその主人の意《こゝろ》を知つてゐても、 これを行はずです [ルカ伝12:47] 。天使の如く知れども、基督者でない者もあります。 だから、貴君の仰《おつし》やるその徴候《しるし》は眞實《まこと》ではありません。 實際知ることは、口先ばかり逹者な人を悦ばしますが、それに反して行ふことは、神の悦びたまふことです。 人の心には知識がなくつても善いといふのではありません。知識がなければ心も亦《また》空です。 知識といつても二通りあります。一つは單に物の道理を知るに留まる知識と、 他の一つは信仰と愛の恩寵に伴なふ知識で、これこそ人の心を動かして神の聖旨《みむね》をなさしむるものです。 第一の知識は口先ばかりの人にも用ゐられますが、第二のがなければ、眞正《まこと》の基督者は滿足しません。 『われに智慧を與へたまへ。さらばわれ爾《なんぢ》の律法《おきて》を守らん。全き心をもてこれに從はん』 [詩編19:34] とも言ふてあります」 駄。「又擧足をとるのですな。それでは人の徳は建てられません」 信。「さて、恩寵のこの働《はたらき》が人の心に現はれるに、まだ他に徴候《しるし》がありますが、 どうぞ御説明下さい」 駄。「私はもう止めませう。到底《とても》話が合ひさうもないから」 信。「貴君がお嫌なら、私の方で致しませうか」 駄。「勝手にしなさい」 信。「靈魂《たましひ》に働く恩寵の働きは、その當人にも側《わき》の人にも解るものです」 當人に解るといふのは恁《か》うです。その人が罪を認めることです。殊にその本性の汚れてゐること、 不信仰の罪とのために、若し耶蘇基督《いえすきりすと》を信ずることに依つて、 神の御手より憐れみを受けなければ確に罪に定められることを認めます [マルコ伝16:16] 。さういふ事を見るにつけ、感ずるにつけ、罪を悲しみ、耻るやうになります。 それから心の裡《うち》に現はれる世の救主《すくひぬし》の姿を見て、 生命《いのち》のために救主《すくひぬし》に頼ることが絶對に必要なことを見出すのです。 飢え渇くが如く云々《しか〜゛》 [マタイ伝5:6] といふ約束のやうに、飢え渇くが如く救主《すくひぬし》を慕ふに至ります。 然る後に救主《すくひぬし》に對する信仰の厚いと薄いに從《よ》つて、 彼の歡喜《よろこび》と平和にも厚薄《こうはく》があるし、聖淨《きよき》を愛するその愛にも、 益々主を知らんとするその願望《ねがひ》にも、此世に於て主に仕へんとするその願望《ねがひ》にも厚薄があります。 かやうにその人が現はれるのだが、さてそれを恩寵の働きだと悟る者は極く稀です。 それはその心が腐つてゐるのと、考へ方が間違つてゐるので、この事を思ひ違へるのです。 だからこの働きを心に持つ者は、それが恩寵の働きであると確然《しつかり》悟るまで、充分に善く判斷せねばなりません。 それが他の人に現はれて見える場合は、一、その人が基督に對する信仰を實驗的に告白すること、 二、その告白に應《かな》ふやうな生活即ち淨《きよ》い生活をなすことです。その心も淨《きよ》く、 その家族も淨《きよ》く(家族あらば)、その品行も淨《きよ》い生活です。 常に深くその罪を嫌ひ、罪のために窃《ひそか》にその身をも嫌つて、家族の内に罪を絶ち、 世間には淨《きよ》きことを擴めやうとするのあるのです。 僞善者や駄辯《おしやべり》な人のやうに唯口先ばかりでなく、 實際に聖言《みことば》の力によれる信仰と愛に從つてこれを行ふのです。 これで恩寵の働きとその現はれとを手短に述べましたが、非難すべきことがあつたら、非難して下さい。 若しありませんなら、失禮ですが、第二の問を説明しませう」 駄。「いや、私は今聽くだけで、非難はしません。で、第二の問といふのは」 信。「それはかういふことです。貴君は私が今述べましたその初めの部分を經驗したこおtがありますか。 貴君の生活と品行が同一であると證明が出來ますか。それとも亦《また》、 貴君の宗教は言葉と舌の端《さき》に留まつて、行爲《おこなひ》の眞實《まこと》がないのですか。 どうぞこれに就《つい》てお答へ下さい。それは自ら讚むるものが嘉《よ》しとせられるのではなくつて、 主の讚むる者のみが嘉《よ》しとせられるからです。それに又自分は斯くかくの者なりと言つて、 その品行も又その隣人《となりびと》もその言葉の僞《いつは》りであることを證明すれば、 大いなる惡事ですからな」 これを聽いて駄辯者は始めて顏を赧らめたが、やがて氣を取直して、恁《か》う答へた。 「貴君は今經驗や良心や神のことに話を持つて行かれるが、神に訴へて人の語る所を糾《たゞ》さうとなさるのですな。 さういふ談話《はなし》は想ひも寄らぬことです。又さういふ問に答へたくもありません。 貴君は示教者でない限り、私を無理に答へさせることは出來ません。貴君がさうしやうとしても、 私は貴君を私の裁判官にはしません。それは兎に角どうしてさういふ事を私に問《たづ》ねるのですか」 信。「貴君が話上手な方と思ひますから、又貴君には空想のほかに何があるのか解りませんから。 それに實のところ、貴君は宗教を口端《くちさき》に置く人で、貴君の品行と口に説く所とは全く違つてゐると聽きましたから。 世間では、貴君のことを基督者仲間の汚點《けがれ》だと言つてますぞ。 貴君の穢らはしい品行のために宗教はどれほど損をするか知れないさうです。 もう既に貴君の惡い癖に躓《つまづ》いた者もあるし、これから躓《つまづ》かうといふ危險にある者も多いさうです。 貴君は宗教も居酒屋も貪慾も不潔も罵詈《ばり》も虚言も無益な仲間と遊ぶことも混然《ごつちや》にしてゐるんでせう。 遊女のことを、『女の面汚し』といふ諺がありますが、實に貴君は信者の面汚しです」 駄。「そんな人の風評《うはさ》を聽いて、輕々しく判斷なさるやうでは、貴君も餘程《よつぽど》短氣な根性曲りですな。 もう話すにも及ばない、左樣なら」 其時基督者は側に來て、兄弟に言つた。「私が言つた通りでせう。貴君の言葉とあの男の貪慾と合ふわけがないです。 あの男は自分の生活を改めるよりも、貴君と道連れを止めたいでせう。だから、私が言つた通り、 行つてしまつたのですが、行くが可いです。損をするのはあの男ばかりです。 これで私共はあの男から離れる面倒が省けました。いつまでも隨《つ》いて來るつもりでしたらうが、 さうされては、私共の面汚しですからな。使徒も『爾曹《なんぢら》斯る者より遠ざかるべし』 [テモテ書(1)6:5] と言ふてをられますからな」 信。「それでもあの男を尠《すこ》しでも語り合ふことが出來たのは嬉しいです。 時にはそれを思ひ出すこともあるでせう。思ひ出さないにしても、露骨《あからさま》に言ふだけのことは言つておいたので、 あの男が滅びても、私には係りがないです」 基。「貴君が露骨《あからさま》に話された話されたのは結構でした。 當今《ちかごろ》はそれほど信實に人のために想ふことが稀になつたので、 宗教も多くの人の鼻に着くやうになつたのです。口先きばかりの馬鹿者が言葉の上で宗教を弄んで、 淺ましい穢れた品行をしながら、信者の中にのこ〜這ひ込むので、世の物議を釀したり、 基督者教を傷つけたり、眞面目な人々を悲しませたりするんです。 世間の人逹が皆貴君のやうにしたら、宗教がもつと人々の慰めとなるか、聖徒の交りに堪へられなくなつて遁げ出すかでせうに」 そこで信仰者は歌つた。 駄辯者は初めこそ、誇り顏をばなしたりき。   大膽に物言ひ、又は前にある、 凡てのものを追ひ下さんとしたりけり。   されど忽ち信仰者に心の働き説るれば、 虧《か》けて行きけり、望《もち》を過ぎたる月のごと。   心の働き知らざる者は皆かくやあらん」 かうして二人は路で見たところを語りながら進んで行つたので、一人なら退屈な路もいと容易であつた。 そして今や荒野に差しかゝつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:七 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:七 さて二人はこの荒野を通り越さうとした時に、信仰者が不圖《ふと》後を見ると、 一人彼等について來る者があつた。見知れる人である。信仰者は兄弟に言つた。 「あゝ誰が彼處《あそこ》に來ます」。基督者も眺めて言つた。「あれこそ懷しい傳道者です」 「あゝ、さうですね。私にも懷しい方だ」と信仰者が言つた。 「耳門《くゞりもん》へ來る路を私に示して下すつたのも、あの方です」 やがて傳道者は二人の側へ來て、かういつて挨拶した。 傳。「やあ、懷しいですな、お變りもありませんか」 基。「これは、これは、傳道者さま、かうしてお目にかゝりますと、貴君の先日の御親切や、 私の永久の幸福のために撓《たゆ》まず御盡力下さつたことを思ひ出します」 性《ひと》の善い信仰者も言つた。「能く來て下さいました。傳道者さま、貴君と御一緒になつたことを、 私共憐れな旅人にはどれほど有難いことですか」 そこで傳道者は言つた。「やあ、御兩人、最後にお別れしてからの御消息はどうです。 どんな事にお遇ひでした。どんな振舞をなすつた?」 そこで基督者と信仰者は道中で起つた種々《いろ〜》な事や、此處まで來た有樣や、 出遇つた困難などを詳しく話した。 傳道者は言つた。「それは何により嬉しい、貴君方が試練《こゝろみ》に遇つたのが嬉しいのぢやない、 その試練《こゝろみ》に勝利を得なすつたことが嬉しいのです。多くの弱味があるにも拘はらず、 今日が日まで此の路を續けて來なすつたのが嬉しいのです。 「その事をこれほど嬉しく思ふのは、私自身のためで、又貴君方のためです。 私は蒔き、貴君方は穫《か》つた。蒔く者も穫《か》る者も共に悦ぶ [ヨハネ伝4:36] 日は將に來らんとするのです。心を挫《くじ》いてはいけない。 『若し倦むことなくば、適當な時に穫《か》るべし』 [ガラテヤ書6:9] です。榮《さかえ》の冠は貴君方の前にある。それは朽ちざるものです。「さらばこれを得んために走るべし」 [コリント書(1)9:24-27] です。この冠を得ようと思つて出かける者は幾らもある。その人々が餘程行つたと思ふと他の者がやつて來て、 それを引奪《ひつたく》つてしまふ。『されば持つ所の者を固く保ちて、その冠を人に奪はるゝ勿《なか》れ」 [黙示録3:11] です。貴君方は未だ惡魔の鐵砲の逹《とゞ》く所に居られるのですぞ。それに『罪を爭そひ拒《ふせ》いで未だ血を流すに至らず』 [ヘブル書12:4] です。 それだから神の國を常《いつ》も眼の前に置いて、見えざる物を能くお信じなさい。 又來世のことの外この世の事は一切胸の裡《うち》に置かないやうになさい。 それから何によりも先づ、貴君方の心情《こゝろ》を能く顧りみて、色慾を入れないやうになさい。 『心情《こゝろ》は凡ての物よりも僞《いつ》はる者にして至つて惡し』 [エレミア書17:9] ですから、鐡石の如く顏を向けなさい。然《さ》らば天地《あめつち》の力は貴君方に添ふて來るやうになるのです」 基督者はこの勸言《すゝめ》に感謝して、尚ほ前途の爲めになる話をして下さいと言つた。 この人は預言者で、自分逹の身に起る事や、それを拒《ふせ》いで打克つ方法をも話すことが出來ると能く解つてゐたからである。 信仰者もこの願《ねがひ》に同意したので、傳道者は次のやうに語つた。 傳。「息子逹、貴君方は『多くの艱難を經て神の國に至るべきこと』 [使徒行伝14:22] と、それから又[『]邑《まち》毎に縲絏《なはめ》と患難なんぢを待つ[』] [使徒行伝20:23] といふ福音の眞理の言葉をお聽きでせう。だから貴君方の長い旅路もなにや彼やの惱みを豫想せねばならないのです。 もう既にその證言《あかし》の眞實《まこと》なることは幾分解つてませうし、 これからもつと〜それが解るでせう。貴君方は今この荒野を通り越しなさる所だが、 間もなく一つの町が次第に行く先に見えて來ませう。その町で貴君方は敵に圍まれて、 殺されるほど苛《ひど》ひ目に遇ふかも知れない。『貴君方の中|何《どち》らか、 或は兩人《ふたり》とも血を流して證據《あかし》を立てることになりませう。されど『死に至るまで信實なれ、 さらば主は生命《いのち》の冠を爾《なんぢ》に與へん』 [黙示録2:10] とありますぞ。そこに斃《たふ》れる者は非業の死を遂げて、その苦痛《くるしみ》も多分大きいでせうが、 同伴《つれ》の者がこれからの旅路で遇ふ多くの困難を免れるからです。兎に角その町へ行けば、 私の茲《こゝ》で言ふた所が事實となつて現はれるから、その時には友人である私を思ひ出して、 男の如く振舞つて、信實なる創造主《つくりぬし》なる神に靈魂《たましひ》を委せて善く働きなさい」 やがて私が夢の中で見てゐると、二人が荒野を越えると直ぐ眼の前に町があつた。その町の名は虚榮といつた。 この町には虚榮の市といふ市塲が開かれた。それは年中開かれた。どうして虚榮の市といふ名を獲たかといふに、 その開かれる町がいかにも輕《かろ》く虚榮であるのと、そこで賣られる品物もそこから來る者も皆虚榮で、 賢い人の「凡て來る者は空《むな》し」 [伝道の書1:2] といふ言葉の通りであるからである。 この市塲は新らしく催《もう》けられたのでなく、昔から立つてゐるのものである。その由來を茲《こゝ》に示さう。 およそ五千年の昔に、この二人の正直者のやうに、天の都へと旅立つ旅人があつた。 所でベルゼベルや、アポリオンや、レギオンやその仲間の者共は、 旅人等が天の都へ行くにはこの虚榮の町を通らなければならぬことを看て取つて、 茲《こゝ》に市塲を開くことを工夫した。即ち有らゆる虚榮の品物を賣る年中休みなき市塲である。 この市塲で賣買《うりかひ》する商品は家屋、地所、職業、地位、名譽、昇進、尊稱、邦家、王國、色慾、快樂の類。 それから有らゆる娯樂品があつた。即ち娼婦、遊女、妻、夫、子供、主人、僕婢《しもべ》、生命《いのち》、 生血、身體、靈魂《たましひ》、銀、金、眞珠、寶石その他なんでもあつた。 それから又この市塲には、常《いつ》でも手品、欺騙《かたり》、競技、勝負事、道化、物眞似師、曲者《くせもの》、 無頼漢《ごろつき》のやうな類がゐた。 茲《こゝ》に又|無代價《ただ》で見られるのは、盜賊《どろぼう》、人殺、姦淫、罵詈讒謗《ばりざんぼう》、 血塗騷動《ちまみれさはぎ》などである。 これほど大きくない他の塲にも、種々《いろ〜》な通りや街があつて、適當な名が付いてゐて、 どの品はどこで賣られるいふやう定《きま》つてゐる。 茲《こゝ》でも同じく此市塲の品々がいと容易《たやす》く求められる適當な場所や通りや街、 即ち各州及び各王國があるのである。英吉利通り、彿蘭西通り、伊太利通り、西班牙通り、獨逸通り等があつて、 種々《いろ〜》虚榮な品物を賣るのである。それから他の市塲でもその市塲を代表する或る一つの品があるやうに、 この市塲でも羅馬の品物が大《おほい》に賞美されてゐる。わが英國の品物などは、他の者と同じく嫌はれてゐる次第である。 前にも言つたやうに、天の都への路は恰度この大きな市塲のある此町を通じてをるので、 誰でもこの町を通らずに天の都へ行かうとする者は、この世より去らねばならなかつた [コリント書(1)5:10] 。君の君なる主も、この町、否、この市塲を通つて其の郷國《ふるさと》に行かれたのである。 この市塲の長《をさ》はベルゼブルであつたと想ふが、その時主を招いてその虚榮物を賣らうとした。 そればかりか、若しも主がこの町を通行する時に、ベルゼブルに平伏《ひれふ》して拜まれたならば、 彼はこの市塲の主君となられたであらう。げに彼は尊い御方なので、ベルゼブルは街から街へと彼に隨《つ》いて歩いて、 暫時《しばし》の間に世界の凡ての國々を彼に示して、出來るならば、この祝福の主を惑はせて、 その虚榮物の二三を安く買はせやうとした。けれども彼はその賣品に目をくれなかつたので、 斯る虚榮物のために一錢も費《つか》はずに此の町を去られた。かやうに此市塲は古くから催《もう》けられて、 いかにも大きなものである。 さて前にも言つたやうに、二人の旅人は此市塲の中を通らなければならなかつた。彼等はそこへ入つて行つた。 然るに見よ、二人が市塲に入るや否や、市塲の人逹は擧《こぞ》つて騷ぎ出した。 いはゞ町全體は蜂の巣の破《わ》れたやうな騷ぎである。それには種々《いろ〜》理由がある。 第一、この旅人の着てゐる衣物《きもの》はこの市塲で賣買されてゐる衣物《きもの》とは違つたものであつた。 それ故市塲の人逹はいと珍らしさうに眺めた。阿呆だといふ者もあるし、狂人だといふ者もあるし、 外國人だといふ者もあつた。 第二、その衣服を怪しんだと同樣に、その言葉をも怪しんだ。誰も二人の言ふことが解らなかつた。 二人は自然とカナンの國語を話した。けれどもこの市塲の人逹はこの世の人であつた。 それ故市塲の端から端に至るまで、どれもこれも野蠻人のやうであつた。 第三、二人の旅人が甚だその品物を輕んじたので、商人逹は尠《すく》なからず笑止はつた。 二人はそれを見向きもしないほど頓着しなかつた。賣らうとして呼びかける者があつても、 二人は耳に手を當て、「わが眼を外に向けて、虚《むな》しき事を見ざらしめたまへ」 [詩編19:37] と叫んで、天を仰いでは、その賣買ひすべきものは天にあることを示した。 折しもこの二人の振舞を見てゐた者は嘲弄半分に、「何をお買ひになりますか」と言つた。 二人は眞面目にその人を眺めて、「私共は眞理を買ひます」 [箴言23:23] と言つた。そこで二人は益々輕蔑《かろしめ》られるやうになつた。嘲ける者もあるし、譏《そし》る者もあるし、 非難する者もあるし、叩《なぐ》り付けてしまへと怒鳴る者もあつた。遂には事が面倒になつて、 市塲は上を下への大騷動になつた。間もなく市塲の長《をさ》にこの事が知らされたので、 長《をさ》は急いでやつて來て、最も腹心の部下に言ひ付けて、 市塲を轉倒《ひつくりかへ》すやうな騷擾《さはぎ》を起した此二人を吟味させることにした。 そこで二人は吟味のために曵《ひか》れた。そこに坐つてゐる人逹が、お前方は何處から來て、何處へ行くのだ。 又どうしてそんな異樣な裝束《いでたち》をしてゐるのかと問《たづ》ねた。二人はそれに對して、 自分|等《たち》は世の旅人で、天のエルサレムにある本國に行く所で、町の人にも商賣人にも何んの不都合もしないのに、 かやうに凌辱《はづか》しめられ、又旅の邪魔をされた。唯一度何にを買ふつもりかと問《たづ》ねられたので、 眞理を買ふつもりだと言つた丈《だ》けです。かう答へたが、吟味を命ぜられた人逹はそれを信じないで、 氣まぐれの狂人で、市塲を攪亂《みだ》さうと思つて來たに相違ないと言つた。 それ故二人を捕へて、笞打つて、泥塗《どもまみ》れにした上に檻の中に入れて、市塲へ晒者《さらしもの》にした。 二人は暫らくそこに晒されて寄り來る人の玩弄物《なぶりもの》にされ、惡意と復讐の的にされた。 市塲の長《をさ》すらこの二人の災難を見て笑つてゐた。けれども二人は忍耐して、 嘲弄《あざけり》に報ゆるに嘲弄《あざけり》を以てしないで、却つてこれを祝した。 惡口には善言《よきことば》を報ひ、害を爲す者を親切にしてやつた。 それ故市塲でも幾分物の解つた人逹は群衆《おほぜい》を押し留めて、 この二人に續けさまにした凌辱《はづかしめ》の卑劣なことを非難し出した。 そこで群衆《おほぜい》の者はその人逹に怒《いかり》を移して、檻の中に居る二人と同樣の惡者だの、 その片割だのと言つて、これをも苛《ひど》い目に遇はせやうとした。かの人逹はそれに答へて、かうして見受くるところ、 この二人は靜かで眞面目で、人に害を與へるやうな意《こゝろ》はなさそうである。 この二人を凌辱《はづかし》めるほどなら、この市塲で商ひをしてゐる者の中には、 檻に入れる所か、頭手《とうしゆ》架を施しても差支へない者が澤山居ると言つた。 雙方|種々《いろ〜》と口論した末に、(その間二人はいと賢く眞面目に控へてゐた)喧嘩になつて、 入り亂れて叩《なぐ》り合つた。それでかの憐れな兩人《ふたり》は、又も吟味役の前に曵れて、 重ねて市塲を騷がせた罪に定められた。無慈悲にも打れて、足械《あしかせ》手鐡《てかせ》を嵌《はめ》られて、 市塲をあちこち鎖で曵き廻された。二人の肩を持つたり、心を寄せたりする者があつてはならぬといふので、 その見せしめに怖がらすためである。けれども基督者と信仰者は尚も賢く身を愼しんで、 いと柔《やさ》しく忍んで、身にふりかゝる耻と辱しめとを受けたので、(數こそ少いが)、 市塲の種々《いろ〜》な人が味方になつた。これが尚ほ反對派の怒を増して、この二人を殺さうとするに至つた。 檻や足械《あしかせ》では慊《あきた》らない、市塲を騷がせ、人々を惑はした爲めに、殺してしまはうと脅かした。 やがて二人は重ねて沙汰のあるまで、再び檻に押し込められた。二人はそこに入れられて嚴しく足械《あしかせ》をされた。 そこで二人は信實なる友である傳道者から聽いたことを再び思ひ出した。この通路《みち》と苦痛《くるしみ》とが、 傳道者の言つた通りであつたことがいよ〜確かになつた。孰《いづ》れ一人は最後の患難《なやみ》を受けるであらうが、 それも却つて幸福ならんと互ひに慰め合つた。孰《いづ》れも自分こそ其の撰びにあづかりたいと窃《ひそか》に願つた。 けれども萬物を治めたまふ者の全智なる配慮《おもんばかり》にまかせて、どうならうとも、 その境遇にいと滿足して耐へ忍んだ。 やがて定められた都合好き時に、二人は法廷に曵かれて、罪を宣告されることになつた。 その時になつたので、敵の前に呼び出されて、起訴された。判事の名は善嫌者《ぜんきらひ》閣下といつた。 その起訴状は形こそ稍《やゝ》異なれ、その實質は同一であつた。その内容は恁《か》うである。 この者共は商賣のの敵にして、又邪魔者なること。この者共は町を騷がせ、分爭《あらそひ》を起し、 最も危險なる説を以て黨派を作り、わが君主の法律を輕んぜること。 信仰者はそれに答へて、自分は唯いと高き處よりも尚ほ高く在《ゐま》す主に逆らふ者に逆らつたのみであると言つた。 彼は又言つた。「私自身平和の人でありますから、騷動など起しはいたしません。 私共が黨派を作つたやうに言はれますが、それは私共の眞理と罪なきことを見て出來た黨派で、 唯惡い方から善い方へ移つたまでのことです。且つ又貴君の仰《おつし》やる王といふのは、 わが主の敵であるベルゼブルのことでありますならば、私は彼とその使臣《けらい》とを蔑視《かろ》んじます」 やがて誰でもその主なる大君のために、法廷の囚人に對して言ふべきことがある者は前に現はれて證《あか》しをせよと觸れ渡された。 そこで三人の證人《あかしびと》が現はれた。即ち猜忌者《ねたむもの》、迷信者、阿諛者《おべつかもの》である。 三人は問《たづ》ねられた。「卿等《をんみら》は法廷の囚人を知つてゐますか、又主なる大君のために、 此者について何か言ふべきことがありますか」 そこで猜忌者《ねたむもの》は起立して、かういふ事を述べた。「閣下、私は長らく此者を存じてをりますので、 誓つて、この尊い御前《みまえ》で證《あか》しをいたします。さて此の者は……」 判。「暫らく -- 先づ誓言《ちかひ》をなされよ」 そこで彼は誓ひをして、かう言つた。「閣下よ、此者は名前こそ尤もらしいですが、 私共の國で最も賤しい人間の一人でございまして、君主も人民も法律も習慣も尊敬しませんで、 信仰と潔《きよ》めの道とかいふ不忠不義な思考《かんがへ》で凡ての人を籠絡しやうと思つて有《あら》ゆる事をいたすのです。 殊に私は一度親しく此者から聽きましたが、基督教とわが虚榮の町の風俗とは正反對で、 到底《とて》も調和しないと言つてゐました。閣下よ、この者の言ふ事は、凡て私共の讚むべき行爲《おこなひ》を非難するなかりか、 それを爲せる私共をも非難いたすのであります」 この時判事は彼に言つた。「卿《おんみ》はその他に申し立つることがありますか」 猜。「閣下、申したい事は澤山ありますが、法廷を煩はすことになつてはと存じます。 併《しか》し他の方々の擧げなさる證據だけでは此者を死に處するには不充分でありました場合には、 もつと遠慮なく私は申し立てるつもりであります」 かくて猜忌者《ねたむもの》は席に着かされた。やがて迷信者が呼び入れられて、囚人を指さして 主なる大君のために此者に對して申し立てることがあるかと問《たづ》ねられた。やがて彼は誓《ちかひ》をして、 口を開いた。 迷。「閣下よ、私は此者と大した知合ではありません、又この上知らうとも思ひません。 併《しか》しこの者が大變毒々しい奴であることは、先日この町で聊《いささ》か彼と議論したので、 承知してをります。其時彼の言ふ所を聽くと、私共の宗教は無用なもので、 そんなものでは決して神を悦ばすことは出來ないと申すのです。閣下よ、彼の言葉を推して行くと、 私共の禮拜は無駄で、私共は尚ほ罪にあり、遂には地獄に落つるといふ事になりますことは、 閣下の能く御存知の通りであります。私の申し立てはこれだけでございます」 やがて阿諛者《おべつかもの》が誓はされて、 主なる大君のために法廷にある囚人に對して知れることを申し立てよと命ぜられた。 阿。「閣下、及び紳士諸君、私は長いこと此奴を知つてをります。又彼が語るまじき事を言ふのを聽きました。 彼はわが貴きベルゼブル王を罵しり、且つ又名譽ある御朋友の方々なる舊人卿、淫樂卿、贅澤卿、虚名願望卿、 わが老齡なる放蕩卿、貪慾君その他の貴族の人逹をいかにも見下げたことを言ひました。 それから又彼は凡ての人が自分のやうな意《こゝろ》を持つてゐるならば、 此等の貴族の唯の一人も此町に存《なが》らへさせぬだらうと言ひました。そればかりか、閣下、 彼は怖るゝ所もなく、判事でゐられます貴君を罵しつて、不敬な惡者だと叫びました。 その外この町の身分ある方々を誹《そし》つたと同樣な種々《いろ〜》な惡名を閣下に加へました」 この阿諛者《おべつかもの》がこの話をし終へると、判事は法廷の囚人に向つて言葉をかけた。 「汝は無頼漢《ごろつき》、外道、謀叛人である。聽いたか、この正直な方々が汝の罪跡《つみ》を數へたことを」 信。「少々申し開きをいたしたいのですが」 判。「これ、これ、汝は生して置くべき奴ではない[。]即座に殺すべきだが、 我が寛大なるを人々に知らすために、暫らく汝、無頼の下郎の言ひ分を聽いてやらう」 信。「第一、猜忌者氏の言はれたことにお答へします。私は唯いかなる規則でも法律でも習慣でも人民でも、 神の言葉に逆《そむ》くものは、全く基督教に反對だと言つた丈《だけ》で、 その他何にも申しません。若し私の言ふ處が間違つてゐたら、その誤謬《あやまり》を説き喩《さと》して下さい。 貴君方の前で直ぐにも取消します」 「第二に、迷信者氏の御申立に就《つい》てお答へしますが、私は唯神を禮拜するには、 聖《きよ》い信仰を要するといつた丈《だけ》です。 しかもその聖《きよ》い信仰といふものは神の聖意《みこゝろ》の聖《きよ》い默示がなければ有るものではありません。 それ故いかに神を禮拜しやうとしても、聖《きよ》い默示に適《かな》はなければ、唯それは人間の信仰で、 限りなき生命《いのち》には何んの役にも立たないものです。 「第三に、阿諛者氏の申された事に就《つい》ては、(私が口にしたといふ惡名などは兎に角) この町の王を始めとして、此の仁《 ひと》が擧げられた其の賤族《やから》も從臣《けらい》も、 この町やこの國に居るよりも地獄に居る方がもつと應《ふさ》はしいと思ひます。 それだけです。主よ私を憐れみたまへ」 そこで判事は(それまで側へ立つて聽いて看視してゐた)陪審の人々を呼んで、「陪審官諸君、 御承知の如く、此者のために此町に大騷動が起りました。 諸君は又此の信用ある方々が此者に對して申し立てられた所をお聽きになりましたでせうし、 又この者の答へと白状をもお聽きになつた筈です。されば此者を絞殺《しめころ》すとも、 生命《いのち》を救《たす》けるとも、卿等《おんみたち》の心次第ですが、 一應わが法律《おきて》を御教示する方が順當と考へます。 わが大君の臣下なるパロ大王の治世《みよ》 [出エジプト記1章] に當り、一つの法令が制定された。それは宗教の違つた者が殖へて、おのれよりも餘り強くならんことを心配して、 その生める男の子を河に投げ込しめるといふにあつた。又大君の臣下なるネブカドネザル大王の治世《みよ》 [ダニエル書3章] に制定された法令では、平伏《ひれふ》してその黄金《こがね》の像を禮拜しない者は、燃ゆる爐の中に投げ入れるといふのであつた。 又ダリウスの治世《みよ》にも又一つの法令が制定された。それは誰でも或る定められた時の間は、 王の外いかなる神でも拜んだ者は獅子の穴に投げ入れられるといふのであつた。 さて此の謀叛人は思想《おもひ》ばかりか(想ふさえ赦すべからざるに)、言葉と行爲《おこなひ》に於て、 此等の法律の本旨を犯してをる。故にその罪は決して容赦すべからざるものである。 パロの法令は禍惡《わざはひ》を防ぐために、推量で制定されたもので、 それに觸れる罪惡《つみ》はこれまで顯《あら》はれたことはなかつたのだが、 茲《こゝ》に始めて一つの犯罪が現はれた。第二と第三に對しては、 御承知の如く此者はわが宗教に對して逆らのであります。又その白状した謀叛についても、 死罪に相當するのであります」 やがて陪審官は別室に退いた。その人々は盲人氏、無善氏、惡意氏、好色氏、放漫氏、我儘氏、横柄氏、 敵意氏、虚言氏、殘忍氏、光嫌氏、難和解《むづかしや》氏などであつた。 彼等は互にその意見を述べた後、滿場異議なく判事の前に彼を有罪にすることに決した。 先づ第一に陪審長の盲人氏が言つた。「私はこの男が異端であることを明かに認めます」 無善氏は言つた。「斯る奴はこの世から追ひ拂ふべしだ」 好色氏は言つた。「私にはとてもこの者を忍ぶことは出來ない」 放漫氏は言つた。「私も忍ぶことは出來ん。此の者はいつも私の仕打を咎め立てするものぢやから」 「絞殺《くびりころ》すさ、絞殺《くびりころ》すさ」と我儘氏が言つた。 「憐れむべき畜生だ」と横柄氏が言つた。 「心がむか〜して來ます」と敵意氏が言つた。 「彼奴は惡黨だ」と虚言氏が言つた。 [「]手早く片付けてしまひませう」と光嫌氏が言つた。 やがて難和解《むづかしや》氏が言つた。「全世界を與《く》れるといつても、彼奴《あいつ》と仲直りはしまい。 早く死罪にしたら可いですな」 一同はさうすることにした。そこで信仰者は現に居る所から、もと居つた場所に曵き立てられて、 そこで工夫の出來る最も殘酷な死罪を行ふことに宣告された。 そこで人々は彼を曵き出して、法に照して死刑を施した。先づ彼を笞打つて、それから拳《こぶし》で打ち叩いて、 それから小刀《ないふ》でその肉を刺し、而して後に石を投げつけ、それから剱を刺し通し、 最後に火刑柱で燒き捨てた。これが信仰者の最後であつた。 さて私が見てゐると、群衆の後に、一兩の馬車と一對の馬とが信仰者を待つてゐた。 敵人が彼を殺してしまふや否や、馬車に迎へ入れて、喇叭の音《ね》につれて、 天の都への近道である雲の中を運び去つた。さて基督者の方は暫らく猶豫されて、 牢屋に送り返へされて、そこに一時留まつた。 けれども萬物を宰《つかさ》どりたまふ主は人々の憤怒《いかり》の力をも自分の手に收められたので、 基督者は漸《やうや》くに免れて、その路を進んだ。 彼は歩みながら、恁《か》う歌つた。 「あゝ信仰者よ、主のために眞實に、   爭へる汝《なれ》は福《さち》なるかな。 信なき者が空しき快樂《けらく》に耽りつゝ   地獄の底に泣き叫けぶ時、 歌へ、わが共、いざ歌へ。   傳はり朽ちず、汝《なれ》の名は、 人々|汝《なれ》を殺すとも、   汝《なれ》こそ今も生きてあり」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:八 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:八 私が夢で見てゐると、基督者は一人ぼつちではなかつた。 (基督者と信仰者が市塲で迫害された時の言語動作を見てゐた人の中に)有望者と名のる人があつた。 彼は自ら進んで基督者に心を寄せ、兄弟の約を結んで、一緒に連れ立ちたいと言つた。 かやうに一人は眞理の證《あか》しのために死に、その灰が蘇生《いきかへ》つて基督者の旅の道連れとなつたのである。 有望者は又基督者に向つて、市塲には心を動かした人々が多いので、程なく跡を慕つて來ますと言つた。 かくて私が見てゐると、二人が市塲の外に出ると間もなく、前に行く人に追ひ付いた。 それは勝手者といつた。二人は彼に向つて、「貴君は何處の國の方ですか。この路を何處までお出でゞすか」と言つた。 彼はそれに答へて、自分は御世辭町の者で、天の都へ行くのですと言つたが、その名前は知らせなかつた。 「御世辭町ですか」と基督者が言つた。「そこには誰れぞ善い人が住んでゐますか」 「さやう、住んでゐないこともありません」と勝手者が言つた。 「どうぞ、貴君のお名前をきかせて下さいませんか」と基督者が言つた。 勝。「私と貴君と赤の他人ですし、貴君も私と赤の他人でせう。貴君もこの路をお出でになるなら、 悦んで道連れになります。さもなければ、獨《ひとり》で行くまでのことです」 「御世辭町のことは」と基督者が言つた。「私も聽いたことがあります。豐かな土地ださうですな」 勝。「えい、實際さうです、私の同族《みうち》にも澤山金持があります」 基。「貴君の同族《みうち》とは、失禮ですが、どんな方逹ですか」 勝。「町全體といつても可いですが、殊に御都合卿、其時次第卿、御世辭卿などで、 あの町に最初さういふ名が附いたのも御世辭卿の先祖からです。それから圓滑《ぬらくら》氏、二心《ふたこゝろ》氏、 何でも御坐れ氏がありますし、わが教會の牧師の二枚舌氏は私の母には父側の兄弟です。打ち明けたところ、 私は身分ある紳士となつてゐるのですが、私の曾祖父《ひいじいさん》といふ者は此方《こちら》を向きながら、 彼方《あちら》に舟をやる船頭でしたので、私もその世渡りで身代の大半《おほかた》を作《こし》らへたのです」 基。「貴君には御配偶《おつれあひ》がありますか」 勝。「えい、私の妻といふのはさる徳のある婦人の娘で、又|頗《すこぶ》る徳のある女です。 實はあの御機嫌取夫人の娘ですからな。ですから、家柄も極く尊いし、仕込も善くつて、 殿樣の御機嫌も取れるし、百性の御機嫌を取ることも知つてゐます。 實のところ私共の宗教は極く四角張つたものとは尠《すこ》し違ひますが、それといつて唯小さな二つの點だけです。 第一、私共は決して風や潮《うしほ》に逆つて爭ふことはしません。第二に、私共は宗教が銀の上靴を穿いたやうな盛んな時にだけ、 一番熱心です。太陽がきら〜輝いて、人々が歡んで迎へる時に、その尻馬に乘つて街の中を歩くのは好いですからな」 其時基督者は尠《すこ》し離れて同伴《つれ》なる有望者の側へ寄つて、「思ひ出しましたが、 これは多分御世辭町の勝手者ですぞ。若しさうなら、何處にもこれほど油斷のならぬ道連れはありませんでせう」 有望者は言つた。「問《たづ》ねてごらんなさい。自分の名をいふことを耻かしがりはしますまい」 そこで基督者は再び彼の側へ行つて、「貴君の話を聞いてゐると、世の中に又とない物識りのやうですが、 私の見當が間違はなかつたら、貴君の名を當てゝ見ませうか。御世辭町の勝手者さんとは貴君のことでせう」 勝。「それは私の名ぢやないです。實は私と仲の好くない者がつけた綽名《あだな》です。 善人は兎角惡く言はれるものですから、私も甘んじてそれを受けてゐるんです」 基。「しかしそんな名をつけられるには、何にか由來《いはれ》があるんでせう」 勝。「いや、何んにもないです。そんな名をつけられた由來《いはれ》を強て求むれば、 私は何事でも、その時々の都合を謀つて、いつも運好く儲けるからでせう。儲けるといつたつて、 それは私から見れば天の御惠みでさ。それを意地惡く兎や角いふ法はないです」 基。「それでは矢張貴君は私が風評《うはさ》に聽いた方ですな。しかし正直な所、 その名前は貴君が思つてゐられるよりも、いかにも能く貴君に似合つてゐるではないですか」 勝。「貴君までさう思ひなさるなら、これも仕方がありません。しかし御一緒に行かせて下されば、 道々善くお世話をいたしませう」 基。「私共と一緒だと、風と潮《うしほ》んい逆つて行きなさらねばなりません。 それは貴君の説と反對ぢやないですか。即ち宗教が銀の上靴を穿《は》いて全盛の時と同樣に、 やつれて襤褸《ぼろ》を着てゐる時でも、貴君はこれを信ぜねばならんですよ。 宗教が歡迎されて街々をねり歩く時ばかりか、足械《あしかせ》手械《あしかせ》をはめられてゐる時でも、 貴君はその味方にならねばならんですよ」 勝。「私の信仰を壓《おさ》へつけることは御免かうむりませう。それは自由にしていたゞいて、 兎に角御一緒に參りませう」 基。「私の述べた事を私共と同樣に爲さらんなら、一足でも御免です」 そこで勝手者は言つた。「私の舊來《ふるくから》の主義は害なくて益あるものですから、 私は決して棄てません。御一緒に行けなければ、貴君に追ひ付れなかつた前のやうに、 一人で行くまでのことです。悦んで私と道連れになるものが又後から來るでせう」 さて私が夢で見てゐると、基督者と有望者はかの者を棄てゝ、餘程離れて先きに歩いた。 二人の中|何《ど》ちらかゞ振り向いて見ると、三人の者が勝手者の後をついて來た。 見よ、三人が側まで來ると、勝手者は腰を卑《ひく》めて辭儀をすると、三人も亦《また》彼に挨拶した。 この人々の名は財寶保《たからもつ》氏、金好《かねすき》氏、吝嗇《しみつたれ》氏といつた。 勝手者氏は前からこの人々に知合であつた。小さい時の學校友逹で、北國の貪慾郡《むさぼりごほり》、 儲好《まうけすき》といふ市塲のある町の掴取《つかみとり》先生といふ人の教へを受けたのである。 この先生は取り方の術を彼等に教へた。即ち奪取《ひつたく》り、賺《すか》し取り、諂《へつ》らひ取り、 欺《だま》し取り、及び宗教の假面《めん》を被つて取ることである。この四人は先生の術の奧義に逹して、 各《おの〜》塾を開くことが出來るほどであつた。 前に言へる如く、彼等は互ひに挨拶してから、金好氏は勝手者氏に向ひ、「あの前を行くのは誰ですか」 と言つた。基督者と有望者の姿がまだ前に見えたからである。 勝。「あの二人連は遠い國の者で、その流儀で都詣うでをするのでさ」 金。「それなら、私共と善い道連れだのに、どうして待たないですか。あの人逹も、私共も、 貴君も皆な都詣うでの道中でせう」 勝。「それはさうですとも、所が前に行くあの人逹はいやに頑固で、自分の思考《かんがへ》ばかり大切にして、 他人《ひと》の説なんて丸で莫迦にして、どんなに信心家でも、彼等の言ふことに一から十まで合せなければ、 仲間外れにするといふわけです」 吝。「それは善くない、『義《たゞ》しきに過ぐるなかれ』 [伝道の書7:16] といふのはそれです。さういふ人逹の頑固は自分のことは棚にあげて、 他人《 ひと》のことをかれこれ責めるといふものです。 それで貴君とはどんなに又どれほど意見が合はなかつたですか」 勝。「あの人逹はいかにも片意地で、天氣などは顧《かま》はずに旅を續けなければならぬと言ひましたが、 私は風と潮《うしほ》とを待つ方の説です。それから彼等は神のためにはどんな危險でも思ひ切つて冐さうといふのですが、 私は生命と財産を保つために出來るだけ便宜を計りたいです。又あの人逹は他人《 ひと》がどんなに反對しても、 自分の思考《かんがへ》を曲げないといふのですが、私はその時の模樣と身の安全の保てるだけ、 宗教に從はうとといふのです。又あの人逹は宗教がやつれて襤褸《ぼろ》を着て侮られる時でも、 これに從はうといふのですが、私は金の上靴でも穿《は》いて、日の照つた處をやんやと迎へられる時だけ、 これに從はうといふのです」 財寶保。「さうですとも、勝手者さん。貴君の守るべきところはそこです。私から見れば、 馬鹿といふほかありませんな。その持てる者を保つ自由を與へられてゐながら、 それを失《なく》すといふのは悧巧ぢやないですからな、なんでも蛇の如く慧《さと》かれでさ [マタイ伝10:16] 。日の照る時に乾草《かれくさ》も作るべしですからな。蜂をごらんなさい、冬中は靜に引籠つて、 愉快に益を受けることが出來る時だけ羽叩《はゞた》きするでせう。神は時には雨を降らせ、 時には日を照しなさるのです。雨が降る時に出かける馬鹿者があるにせよ、私共は安心して好い日和を待たうぢやありませんか。 私はどうかといふと、神の善き祝福を賜はつて身を安らかにすることの出來るやうな宗教が好きです。 神は此世の善き者を私共に下すつたのでせう。さうすれば神のためにそれを保つのは理の當然ぢやありませんか。 アブラハムもソロモンも宗教で家を富《とま》したのでせう。ヨブも善人は「黄金《こがね》を積むこと塵の如し」 [ヨブ記22:24] と言つたではないですか。しかしあの前に行く人逹が、貴君のお話しになつたやうな人物なら、 さういふ善人ぢやありません」 吝。「その事は私共は皆な同説でせう、だからこれ以上言ふ必要もないでせう」 錢[譯注:金(好氏)の誤植]。「さうです、實際その事を最早《もう》言ふ必要はありません。 聖書も道理も(私共が信ずるやうに)信じない者は、その身の自由を知らず、その身の安全も求めないのですからな」 勝。「さて兄弟逹、私共はかうして皆都へ志ざす者でせう。そこで惡しき事から心を反《そら》すやうに、 貴君方に一つの問を出すことを許して下さい。 まあ茲《こゝ》に一個《ひとり》の人があるとしませう。牧師でも商賣人でもかまはない。 その人の前に此の世の善き幸福が得られるやうな便宜が與へられたとするのですな。 但しそれを得るためには、尠《すくな》くとも表面《うはべ》だけでも、 今までは係はつたことのない宗教の或る事柄に非常な熱心を現はさねばならぬことにするのです。 そこで彼はその目的を逹するために此手段を用ひては可けないでせうか。 或はこの手段を用ひても義《たゞ》しい正直な人といへるでせうか」 金。「貴君の問の奧底が能く解りました。では、お先へ御免蒙むつて、一つ答へを作つて見ませうかな。 最初に牧師の關する問《たづ》ねから申しませう。假りに有力な牧師があるとしませう。 今は唯僅かな給料を貰つてゐるが、前途にはもつと〜澤山な給料を望んでゐるとするのですな。 その望みを逹する機會を得るために、益々勉強するし、益々繁く熱心に説教するし、 又信者の機嫌を取るために、その主義をいくぶん抂《ま》げるとするですな。 私の考では、その人に神の召呼《まねき》さへあれば、さういふことをしても、又それ以上どんな事をしても差支へない。 矢張正直な人だと思ふ。何故なれば、 一、その人がもつと澤山の給料を望むことは當然であります。(それは不法ではない)、 その望みは攝理に依つてその人の前に置れたものですからな。良心に問ふまでもなく、 得られるものなら、得るが善いです」 二、それから又その人が給料を望んで、益々勉強し、益々熱心な説教家となるとすれば、 益々善き人物となり、從つてその才能も伸びるから、神の聖意《みこゝろ》に從ふわけです。 三、それから又信者の機嫌を取つて、そのために自分の主義を幾分變ゆるといふのは、 第一、その人に克己の精神あること、第二、その態度の優しく愛嬌のあること、 第三、牧師の職に益々適當してゐることを示すのです。 四、さればその牧師が給料の少ない方から多い方に變つても、それを以て直ちに貪慾なりとすることは出來ない。 寧ろそのために才能を伸し、益々精を出すために、能くその職分を盡し、 その手に供へられた機會を利用して善事をなした者となすべきであります。 次には商賣人に關するお問《たづ》ねですが。これ又假りに一人の商賣人があるとして、 世にも貧しい商賣をしてゐるとしませう。所が宗教を信じたがために、取引の具合が善くなつて、 金持の妻君が見つかるし、店の顧客《とくい》も益々殖へて善くなつたとします。 私の考へでは、それが正當でないわけがないです。何故なれば、 一、宗教を信ずるといふことは、その人がどんな手段で信じたにせよ、これは一つの徳です。 二、金持の妻君を貰ひ、店に顧客《とくい》が殖へるといふは不正なことぢやありません。 三、それから又、宗教を信じて斯る利益を得る人は、先づ自分が善き者になつて、 善きことを以つて善き物を得るのですからな。善い妻君、善い顧客《とくい》、善い利益《もうけ》、 それは皆な宗教を信じたといふ善き事から出たのです。だから、凡てこれを得るために宗教を信ずることは、 有益な善い工風です」 勝手者の問に對して金好氏がかやうに答へたので、一同やんやと喝采した。 その言ふ處は全體に最も健全で有益なるものと想ひ込んだ。誰もこれに反對することは出來ないと想つたので、 基督者と有望者がまだ呼んだら聽える所にをるのを見て、 追ひ付いたら直ぐこの問をかけて攻め立てることに一同申し合はせた。 あの二人が前に勝手者に反對した仇返しをしやうとするのである。そこで二人を呼びかけた。 二人は立ち宿《とま》つて、靜に人々の來るのを待つてゐた。彼等は途々《みち〜》相談して、 今度は勝手者でなく、財寶保《たからもつ》にその問をかけさせることに定めた。 勝手者とかの二人は言ひ爭つて尠《すこ》し前に別れたばかりなので、 まだその熱氣《ほとぼり》が殘つてゐるかも知れぬからである。 さて彼等は互に近づいて、輕く挨拶してから、財寶保《たからもつ》は基督者とその同伴《つれ》に問を出して、 答へが出來れば仕て下さいと言つた。 そこで基督者は言つた。「宗教を信ずる者には、赤坊でもそれ位の問なら一萬でも答へられます。 聖書にもある通り、パンのために基督に從ふことが不正なら、基督とその教を隱れ家にして浮世の富を得、 樂しみをなさうといふのはいかにも不埒なことです。そんなことを言ふ者は異教徒か、僞善者か、惡魔か、 魔法使位のものです。 一、異教徒といふのは、例へばハモルとシケムとがヤコブの娘と家畜に心を寄せた時に、 割禮を受けるほかその望みを遂げる途《みち》がないのを見て、二人はその仲間に向つて、 かう言つた。『若し唯われらの中に男子みな彼らが割禮を受くるごとく割禮を受けなば、 彼等の家畜と財産《もちもの》と其の諸《もろ〜》の畜《けもの》は我等の所有《もの》となるにあらずや』 [創世記34:22] 。實際彼等の慾しいのはその娘と家畜でして、宗教を隱れ家にしてそれを手に入れやうとしたのです。 あの物語を全體讀んでごらんなさい。 二、僞善なるパリサイ人といふも亦《また》この類の宗旨です。長い祈祷《いのり》にかこつけて、 實は寡婦《やもめ》の家を呑まんとするのです [ルカ伝21:47] 。だから神の審判《さばき》から受くる刑罰はどれほど大きいか知れない。 三、惡魔のユダも亦《また》この類の宗旨です。彼は財嚢《かねいれ》のために宗教を信じ [ヨハネ伝12:6] 、その中のものを占有《せし》めやうとしたのだが、遂に棄てられ、身離されて、沈淪《ほろび》の子となつたのです [ヨハネ伝17:12] [。] 四、魔法使のシモンも亦《また》これと同じ宗旨です。彼が聖靈を受けたと言つたのは、實は金を儲ける下心だつたのです。 それ故ペテロの口から罪の宣告を受けたのです。 [使徒行伝80:18-20] 五、そのやうに此世の財《たから》のために宗教を信ずる者は、又この世の財《たから》のために宗教を棄つるに至ることは、 私ばかりの考ではない。確にユダは此世の財《たから》のために宗教を信じたので、宗教をも基督をも賣るに至つたのでせう。 だから貴君方のやうに、此問の答へて、是《よし》といつたり申分がないと思つたりするのは、 矢張異教徒的で、僞善的で、又惡魔的なことです。貴君方はその業《わざ》に依つて報を受けなさるでせう」 そこでかの人逹は互ひに顏を見合はせて、基督者に答ふる所を知らなかつた。有望者は基督者の答の健全なことを讚めたので、 人々は尚ほ默り返つた。勝手者と其の同伴《つれ》は逡巡《しりご》みして後れて、 基督者と有望者を遣り過さうとした。そこで基督者は同伴《つれ》に向つて、 「この人逹は人間の宣告にさへ言ひ開きが出來ぬやうでは、神の宣告にどうして言ひ開きをするのだらう。 又私共のやうな土の噐に言ひこめられて默つてゐるやうでは、燒ける火の焔に責めたてられたら、何とするだらう」 やがて基督者と有望者は再び彼等を後に殘して、安樂といふ優しげな原までやつて來た。 二人はそこに來て心も晴々とした。しかしその原は狹かつたので、間もなくそこを通り越した。 さてこの原が盡んとする處に、金儲の山と呼れる小山があつた。この山は銀山で、 往時《むかし》この路を通つた人々の中には、その珍らしさに誘はれて、 そこを見物するために本道を離れ去つた者もあつた。しかしあまり銀抗の口へ近づいて、 足下《あしもと》の地面に欺《だま》されて、うか〜とそこへ乘つて、地が崩れて殺された者もあつた。 或は不具になつて、死ぬ日まで、元の身體にならぬ者もあつた。 やがて私が夢の中で見てゐると、路から尠《すこ》し離れて、銀山に向つた處に、 デマスといふ者 [テモテ書(2)4:10] が(紳士然と)立つてゐて、通行の人を呼んで見物させやうとした。 彼は基督者とその同伴《つれ》に向つて、「おゝい、その路を離れて此方《こつち》へお出で。 見せたい物があるのだ: 基。「路を離れさせてまで私共に見せたいといふのは、どれほど値《ねうち》のあるものですか」 デマス。「茲《こゝ》に銀山があつて、財寶《たから》を掘つてゐる者が大分ある。お前さん方も來て見なさい、 ちつとばかり骨を折ると、直《ぢ》き金持になれますぞ」 そこで有望者が言つた。「行つて見ませう」 「行きますまい」と基督者が言つた。「これまで此の場所のことや、 茲《こゝ》で澤山殺された者のことを聽いたことがあります。それから又その財寶《たから》といふのは、 それを索《もと》める者の係蹄《わな》で、全くはその旅路の邪魔をするのです」 やがて基督者はデマスに向つて、聲をあげて言つた。「其處《そこ》は危ないところでせう。 多くの旅人の邪魔ではないですか」 デマス。「それほど危なくはありません、不注意なことさへしなければ」かう言つたが、 その顏は赧くなつた。 そこで基督者は有望者に言つた。「一歩《ひとあし》でも抂《ま》げてはいけません。 靜かにこの路を進んでゆきませう」 有望。「私は保證しますがね、あの勝手者が茲《こゝ》へ來て、私共と同じやうに招かれると、 必ず見物しに彼處《あつち》へ行きますよ」 基。「それは無論です。彼の主義はその途《みち》へ彼を連れてゆくでせう。百に一つも助かりはしません」 やがてデマスが再び呼んだ。「兎に角來て見ませんか」 基督者は聲荒く答へた。「デマス、貴君はこの路の主に背いて、義《たゞ》しき道の敵ではないか。 貴君自身がこの路から背いたので、既にわが主の審判官《さばきびと》から罪を定められたではないか。 しかるにどうして貴君は私共を連れて行つて同樣な罪に落さうとするのか。そればかりか、 私共が側道《わきみち》へ行けば、わが主なる大君は、確にそれをお聽きになるに違ひない。 さうすれば大膽に畏れなく主の前に立てる私共は、耻かしめを受くるに違ひない」 デマスは再び自分も貴君方の兄弟の一人だから、若し貴君方が暫らく留まるならば、 自分も一緒に行きませうと呼《よば》はつた。 そこで基督者は言つた。「貴君の名前は何んですか。私が今呼んだ通りの名でせうか」 デマス。「さうです。私の名はデマスです。アブラハムの裔《すゑ》です」 基。「さうでせう。ゲハジは貴君の曾祖父《ひいじい》さんで、ユダは貴君のお父《とつ》さんで、 貴君はその足跡を踏む者でせう。貴君のする事は皆惡魔の戲れぢやありませんか。 貴君のお父《とつ》さんは謀叛人として絞《くび》り殺されたのだから、貴君の受くる報酬《むくひ》もそんなものでせう。 確に覺へておきなさい。私共の大君の許《もと》にゆけば、必ず貴君の此の振舞を言上しますから」 かう言ふすてゝ二人は路を進んだ。 折しも勝手者とその仲間の者は再び後の方へ見えだしたが、一と招きでデマスの方へ引き寄せられた。 さて彼等は崖をのぞくかうとして坑《あな》に落ちたか、銀を掘るために下へ降りて行つたか、 或はいつも立ちのぼる毒氣にその底で窒息したか、その邊の事情は能く解らないが、 兎に角彼等は決して再びその路に姿を見せなかつた。 そこで基督者は歌つた。 「勝手者と銀のデマスは相結び、   一人が呼べば、他の一人、 利益《もうけ》を獲んと走りゆく。   かくて此世に留まりて、 最早一歩もゆかばこそ」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:九 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:九 さて私が見てゐると、此の原を越えてから直きに、旅人等は古い石碑が往來の側に立つてゐる處へ來た。 それを見て、その異樣な形を二人は不審に想つた。それは恰《あた》かも一人の女が柱の形に化したやうであつた。 それ故二人はそこに立つて、唯つく〜゛と眺め入つたが、暫らくはそれが何にか考へつかなかつた。 やがて有望者はその石碑の頂《いたゞき》に只ならぬ筆ぶりで書いてある文字を見つけた。 けれども自分は學問がないので、(學識のある)基督者を呼んでその意味が解るかどうか見てもらつた。 そこで枯れは側へ寄つて、字くばりなどを暫らく見て、これは「ロトの妻を憶《おも》へ」 [ルカ伝17:32] といふ意味であることを悟つて、それを同伴《つれ》の者に讀みきかせた。 そこで二人はこれこそソドムの災禍《わざはひ》を免れて行きながら、慾深い心に引れて後を振り向いたので、 忽ち鹽の柱に化したといふロトの妻であると悟つた。この思ひがけない驚くべき状《さま》を見て、 二人は又話に花を咲かせた。 基。「あゝ兄弟、これは時節柄の見ものですな。 デマスが金儲の山を見ろといつて私共を招いた直ぐ後にこれが現はれたのですからな。 若し私共がデマスの望みにまかせらた、どうでせう。貴君は餘程心が動いたやうでしたが、 私共がうか〜行つてごらんなさい。この女のやうに後から來るものゝ見せしめにされる所でした。 有望。「私は實に馬鹿でした。後悔します。今ロトの妻になつてゐないのが不思議な位です。 この女の罪と別に違ひがありませんからな。この女は唯振り向いたのですし、 私は行つて見やうとしたのです。神の恩寵《めぐみ》は有難い。 そんな事が心の裡《うち》にあるといふのはお耻かしい次第です」 基。「茲《こゝ》で見た所を心に留めておきませう。來るべき時の助になりませうから。 この女は一つの審判《さばき》を免れて、ソドムの滅亡では死なかつたが、現に私共の見るやうに、 他のことで滅されて、鹽の柱に化せられた次第です。」 有望。「誠に、この女は私共にとりて警戒《いましめ》とも懲罰《こらしめ》ともなります。 この女の罪に習ふなといふ警戒《いましめ》です。又この警戒《いましめ》を受けても思ひ留まらないと、 立地《たちどころ》に審判《さばき》に遇ふといふ表號《しるし》です。 コラ、ダタン、アビラムとその部下二百五十人がその罪のために滅びたのも [民数記26章] 、用心すべき表號《しるし》又|懲罰《こらしめ》です。 これども特に一つ深く考へねばならぬ事は、この女が唯後を振り向いただけで、 (一足も後へ踏み出したといふことは書いてありません)、鹽の柱に化するほどなら、 デマスやその輩《ともがら》が彼處《かしこ》に立つて能くも大膽に財寶《たから》を探してゐられますな。 殊にこの女の蒙つた天罰は、見せしめとして彼等の見える所にあるではないですか。 目を擧げたら、どうしてもそれを見ずにゐられないわけですに」 基。「それは實に不思議な事ですが、彼等の心がそれだけ狂暴《やけ》になつてをるとも言へるです。 これを譬ふれば裁判官の前で人の懷中《ふところ》を狙ひ、 斬首臺《くびきりだい》の下で巾着切をなす者に誠に能く似てゐますな。 ソドムの民は『主の前に』罪人なる故に、非常なる罪人だと言はれてゐます。 [創世記13:13] その頃までソドムの地は神から親切にされて、エデンの園のやうに麗はしかつたのだが、 主の目の前で罪を犯したのです。それ故一層神の怒りを増して、 その災禍《わざはひ》を熱して主の火を天から降らしむるに至つたのです。さういふ次第ですから、 目の前に絶えず實例を置いて警戒《いまし》められるのにかゝはらず、 それを見ながら罪を犯すというふのは、最も嚴しい天罰を受けなければならないのです」 有望。「實際御言葉の通りです。でも、貴君も、いや殊に私がその實例とならなかつたのは何よりの仁惠《めぐみ》でした。 これを好い機會《をり》として、神に感謝し、神の御前《みまえ》に畏《かし》こみ、 常にロトの妻を思ひ出すことにしませう」 さて私が見てゐると、二人はその路を進んで、愉快《こゝろよ》い川の邊《ほとり》に出た。 それはダビデ王が「神の川」 [詩編46:4] と呼び、ヨハネが「生命《いのち》の水の川」 [黙示録22:1] と呼んだ所である。今しもその路は川の岸に沿ふてゐるので、基督者とその同伴《つれ》とは大歡びで歩いた。 流の水を掬《く》んで喉を濕《うるほ》して、疲れた心を慰め、又元氣づいた。それから川の岸には兩側に緑の木立があつて、 種々《いろ〜》な果實《くだもの》が生《な》つてゐた。又其葉を食すると、食傷《しよくあたり》を防ぎ、 その他旅に疲れた身躰《からだ》に起り勝ちな他の病にも效能《きゝめ》があつた。 又川の何《いづ》れの側にも妙に美くしい百合の咲いた草原《くさはら》があつて、年中青々としてゐた。 この草原は安らかなので、二人は横になつて眠つた。目が醒めると、再び木の實を集め、 又流の水を掬《く》んで、やがて又横になつて眠つた。かうして二人は數日數夜を送つた。 「水晶の流は清く道に添ひ、   旅行く人を慰さめぬ。 緑の草場、百合かほり、   美味き木の實をそなへけり。 その果實《くだもの》と葉と木とが   生えし由來を君知るや、 知らば忽ち所有物《もちもの》を、   賣りてぞ買はん、この野原」 やがて二人は(未だ旅の終りではないので)出立の用意をして、喰ひ且つ飮んで、出發した。 さて私が夢の中で見てゐると、二人がまだ遠くも行かないのに、川と路とはやがて分れたので、 二人は尠《すく》なからず名殘を惜しんだ。それでも二人は路を離れやうとはしなかつた。 さて川を離れてからの路は難澁で、足さへ長い旅のために疲れを生じた。 それ故旅人はその路のために大《おほい》に心を苦しめた [民数記21:4] 。そこで二人は歩みながら、善き路もあれかしと願つた。すると尠《すこ》し前に當つて、 路の左側に、一つの草原と、その方へ越えて行く踏み段があつた。 その草原を拔路《ぬけみち》の原と呼ばれた。そこで基督者は同伴《つれ》に向つて、 「この草原が私共の路筋と並んでゐるなら、この中を通り拔やうぢやありませんか」。 かう言つて踏み段に上つて見ると、見よ、垣の向う側にも路があつて、こちらの道と並んでゐる。 そこで基督者が言つた。「これは私の望み通りです。此の小路の方が遙に樂です。 さあ、有望者さん、こちらを通り拔けませう」 有望。「それでも、若しこの小路を行つて、本道を離れてしまひはしませんでせうか」 「そんな事はありますまい」と基督者が言つた。「御らんなさい、本道筋と並んでゐるではないですか」 そこで有望者は同伴《つれ》に勸められて、その後をついて踏み段を越えて行つた。 そこを越えて小路の入ると、いかにも足が輕くなつた。それから前を見ると、 一個《ひとり》の人が自分等のやうに歩いてゆくのを見出した。その人の名は空頼者《そらたのみ》といつた。 二人は彼を呼び留めて、「この路は何處へ行きますか」と問《たづ》ねた。 「天國の門へ」と彼は言つた。 「ごらんなさい」と基督者は同伴《つれ》に向つて、「私が行つた通りでせう。矢張この路を行つて差支へないです」 そこで二人は隨《つ》いて行つた。空頼者は二人の前に進んだ。然るに見よ、夜になつて、全く暗くなつてしまつた。 そのために後から行つた二人は前《さき》に行つた人の姿を見失なつた。 前に行つた者は、(その名の通り空頼者なので)、足許を愼しまなかつたので、深い坑《あな》に落ちた。 その坑《あな》はこの土地の大君が空しき榮華《さかえ》を恃《たの》む馬鹿者を捕へるために設けられたものである。 彼はそこに落ちて片々《こな〜゛》に碎けた。 基督者とその同伴《つれ》とは彼の落つる音を聽いた。どうしたのですかと呼んで見たが、 答へはなく、唯呻く聲が聽えた。そこで有望者は、「私共は今何處にをるのでせう」と言つた。 その同伴《つれ》は默つてゐた。本道を離れて、とんだ處へ案内したと疑はしくなつたからである。 折しも雨が降り出して、雷鳴《かみなり》、稻妻も凄まじく、水さへ溢れ出した。 有望者は打ち嘆いて、「本道を離れなければ可かつたですね」と言つた。 基。「この路を行つたら、本道を離れようとは誰も想ひませんでしたからな」 有望。「私は初めから變だと思ひました。だから、貴君に一寸念を押したのです。 もつと鮮然《はつきり》言ひたかつたのですが、貴君は私よりも年上ですから」 基。「まあ、兄弟、腹を立てゝ下さるな。貴君を本道の外へ連れ出して、 こんな危ない目にあはせたのは、何んとも申しやうもないのです。どうぞ、兄弟、赦して下さい。 惡い氣で仕たわけではないのですから」 有望。「いや、兄弟、そんな心配は止めて下さい。何んとも思つてゐませんから。 これは却つて私共の幸福《さいはひ》になるでせうから」 基。「私は情深い兄弟と一緒なのを嬉しく思ひます。それは兎に角かうして立つてもゐられませんから。 引き返さうぢやありませんか」 有望。「それでは、兄弟、今度は私が前《さき》に行きませう」 基。「いや、どうぞ私を前《さき》に行かして下さい、危險なことでもあつたら。[、の誤り?] 私が前《さき》に當りますから。私のために、路を離れるやうになつたのですから」 「いや」と有望者が言つた。「貴君が前《さき》へ行かない方が可いでせう。 貴君は心が紊《みだ》れてゐなさるから、又路を迷ふかも知れません」 やがて何處《いづこ》ともなく人の聲がして、「汝のゆける道なる大路に心をとめよ、歸れ」 [エレミア書31:21] と聽えたので、二人は心を勵まされた。けれどもその時には水が大いに増したので、 歸り途《みち》も甚だ危なかつた。「その時私は私共の居る路から出ることは容易《やさ》しいが、 外からその路に歸つて來ることは六ヶ|敷《し》いものだと想つた)。なほ二人は歸らうと努めたが、 暗さは暗し、洪水は漲《みなぎ》つてゐるし、その歸り途《みち》で、九度《こゝのたび》か十度《とたび》、 溺れる所であつた。 二人は有らん限りの力を盡したが、その夜はかの踏み段に返ることが出來なかつた。 それ故遂に僅かな樹蔭を頼つて、そこへ腰を下して夜の明けるのを待つことにした。 所が疲れてゐるので、ぐつすり睡込んでしまつた。 さて二人が横臥《よこた》はつてゐる場所から遠からぬ所に疑惑城と呼ばれる城砦《しろ》があつた。 その城主は絶望者といふ巨人であつた。その領内に二人は睡つてゐたのであつた。 絶望者はその朝早く起き出でて、あちこち見廻つてゐたが、忽ち基督者と有望者がその領内に睡つてゐるのを見付け出した。 そこで猛惡な凄い聲を出して、目を醒させて、「お前逹は何處から來た。どうしておれの領地へ入つて來たか[」]と問《たづ》ねた。 二人は旅人で、道に迷つた者であることを話した。 そこで巨人は言つた。「お前逹は昨夜おれの領地に忍び込んで、睡込むなど、不屆千萬である。 曵き立てゝ行くからさう思へ」 そこで二人は無理やりに連れて行かれた。巨人は二人より強いのだから仕方がない。 二人は身の過失《あやまち》を知つてゐるので、別に言ひわけもしなかつた。 それ故巨人は二人を追ひ立てゝ、その城砦《しろ》の中へ入れて、甚だ暗い牢屋へ押し込めた。 そのむさ苦しい惡臭いのに二人は堪へられなかつた。この牢内に、二人は水曜日の朝から土曜日の夜まで置かれた。 一片《ひときれ》の麺麭《パン》も、一滴《ひとしづく》の水も、燈火《ともしび》も與へられず、 又二人がどうしてゐるか問《たづ》ねる者もなかつた。 されば茲《こゝ》に二人は友もなく知人《しりびと》もなく、傷《いた》ましい限りを盡した。 殊に基督者は獨り合點の無分別から、兄弟をもこんな惱みに連れ込んだので、 此處で二重の悲しみに嘆くのであつた。 さて巨人の絶望者には一人の妻があつて、その名を疑念女《うたぐり》といつた。 巨人は臥床《ふしど》に入つてから、その日の出來事、即ち二人の囚人《めしうど》を捕へたこと、 領地を侵したので二人を牢屋に繋いだことを妻に話して、この上どうしたら善からうと問ねた。 妻はその二人が何者で、何處から來て、何處へ行くものかと問ねたので、巨人はその事をも話した。 そこで妻は翌《あく》る朝起き出でたら、用捨なく叩きなさいと巨人に勸めた。それ故巨人は起き出づると、 重い野生林檎の樹の棍棒を持つて、牢屋の中へ降りて往つて、まるで犬かなにかのやうに、 先づ二人に罵しりかゝつた。けれども二人は一言も口返答をしなかつた。やがて二人に飛びかゝつて、 畏ろしくも打ち叩いたので、二人は身をかはすことも、床の上で寢返りするとも出來ぬほどであつた。 その日一日、唯|嘆息《ためいき》と苦い涙にかきくれた。その次の夜、巨人の妻は尚ほ夫と話しをして、 二人がまだ生きてゐることを聞いて、二人に自殺を勸めるやうに忠告した。 翌《あく》る朝になると、巨人は前のやうに凄まじい姿で出かけて行つて、 二人が昨日の打擲で痛く苦しんでゐるのを看て取つてから、 お前逹は此處を出やうとしても出られぬのだから、短刀で自殺するなり、首を縊《くゝ》るなり、 毒藥を呑むなりするほか仕方はあるまいと言つた。 こんな苦しい想をして生きてゐるがものはなからうと言つた。所で二人はどうぞ赦して下さいと頼んだ。 そこで巨人は凄まじい顏をして、攫《つか》みかゝつて、あはや息の根を止めやうとしたが、 折しも俄に痙攣を起して(天氣の麗らかな日に、時々彼は痙攣を起した)、一時の間その手が不隨になつた。 それ故巨人は出で去つてたので、二人は又取殘されて前のやうにどうしたものか考へ込んだ。 やがて囚人はその勸言《すゝめ》に從つたものかどうか、互ひに相談して、かう語り合つた。 「兄弟」と基督者が言つた。「どうしたものでせう。かうして生きてゐても悲慘《みじめ》な生命《いのち》ですな。 私には生きてゐたが可いか、直ぐ死んだが可いか解らなくなりました。 わが靈魂《たましひ》は生くるよりも息を閉ぢんことを望む [ヨブ記7:15] のです。墓場はこの牢屋よりも氣樂でせうから。どうです、あの巨人の言ふ通りにしませうか」 有望。「實際今のこの状《さま》は身の毛がよだつやうです。かうしていつまで存《なが》らへるよりも、 死んだ方が遙かに増しでせう。だが、まあ、考へませう。私共のさして行く國の主は、 『汝殺すなかれ』 [出エジプト記2:13] と言はれたでせう。それは他人《 ひと》を殺すばかりぢやない、 他人《 ひと》に勸められて自分を殺すことをも尚ほ嚴しく禁じられたのでせう。 そればかりか他人《 ひと》を殺すのは、その人の身躰《からだ》だけを殺すに留まるが、 自から殺すのは、身躰《からだ》も靈魂《たましひ》も一緒に殺すのです。 そればかりぢやない、兄弟、墓場の方が氣樂だと言はれましたが、地獄を御忘れですか。 人殺しをした者は確にそこへ行かねばなりませんぞ。「凡そ人を殺せる者は限りなき生命《いのち》なし云云《しか〜゛》」 [ヨハネ書(1)3:15] とありますからな。それから又考へてごらんなさい、凡ての律法《おきて》はあの巨人絶望者の手にあるのぢやございますまい。 私の知る處では、私共のやうに巨人に捕はれたもので、その手から遁げ出した者もあるといふことですぞ。 世界を造りたまへる神でなければ解らんことが茲《こゝ》にあるです。 それは巨人絶望者が死なないとも限らんことです。 或はいつか一度彼がこの牢屋の錠を下《おろ》すことを忘れるかも知れません。 若しかさういふ事が起つたら、勇ましく奮起して、あらん限りの力を盡して彼の手を遁れやうぢやありませんか。 私はさう決心しました。もつと前にさうしなかつたのは馬鹿でした。兎に角、兄弟、辛抱しませう、 もう尠《すこ》しです。自分で自分を殺すやうなことは止めませう」 かう言つて、有望者は兄弟の心を和《なだ》めた。 さて夕暮になると、巨人は囚人《めしうど》が自分の勸めに從つたかどうか、見るために、又牢屋へ下つて行つた。 所がそこへ來て見ると、二人は生きてゐた。實際生きてゐることは生きてゐるのだが、 麺麭《パン》と水を缺《か》いてゐるので、又叩《なぐ》られた時に受けた傷のために、 僅かに息が通ふばかりであつた。しかし兎に角生きてゐるので、巨人は見るより凄まじく怒り出して、 お前逹はおれの言ふことを聽かぬからには、生れなかつたことを悔ゆるほど辛《ひど》い目に遇はせてやるからさう想へと言つた。 これを聞いて、二人はぶる〜胴震ひがした。殊に基督者の方は卒倒してしまつた。 暫らくすると、正氣づいて、再び巨人の勸めに從がつた方が善いかどうか相談した。 又も基督者はさうしたいやうであつたが、有望者は再び次のやうに答へた。 「兄弟」と彼は言つた。「貴君はこれまで實に勇ましかつたのに、それをお忘れですか。 アポリオンも貴君を取り挫《ひし》ぐことができなかつた。死の蔭の谷で見たり、 聞いたり、觸れたりしたものも、皆貴君を取り挫《ひし》ぐことが出來なかつた。 いかなる困難も、恐怖《おそれ》も、驚愕《おどろき》も既に貴君は通り越して來たではありませんか。 それを今更なにを怖れるのですか。これこの通り、私といふ者が貴君と一緒にこの牢屋に居りませう。 この私は本來貴君よりもつと〜弱い人間です。又この巨人は貴君と同じやうに私をも傷付けたのです。 私の口からも麺麭《パン》と水とを斷ち切つたのです。そして私も光のない黒闇で嘆いてゐるのです。 ですが、もう少し忍耐の修業をしやうぢやありませんか。 貴君はあの虚榮の市塲で男らしく振舞れたではありませんか。 鏈《くさり》をも、檻をも、血だらけの死をも怖れなかつたではありませんか。 だから、尠《すく》なくとも基督者たるに耻ざるために、出來るだけ忍耐して身を保たうではありませんか」 やがて又夜になつた。巨人とその妻とは臥床《ふしど》に入ると、囚人《めしうど》はどうしました、 お勸めに從ひましたかと妻は問ねた。巨人はそれに答へた。彼奴等は強情な惡者だ。 自ら殺《くたば》るよりは、どんな困難でも辛抱しやうと言ひやがる」 そこで妻は言つた。「では、明日お城の庭に二人を曵き出して、貴君が今まで殺しなすつた者共の骨や髑髏を見せてやつて、 それから一週間も經たない内に、彼等も矢張その通り片々《きれ〜゛》に引き裂かれることを知らせておやりなさい」 翌《あく》る朝になると、巨人は又二人の所へ往つて、城の庭へ曵出して、妻が言ふ通りそれを二人に見せた。 そして言つた。「これはお前逹のやうに、一度は旅人で、矢張お前逹のやうに、私の領地へ侵入したのだ。 私は好い頃に、此奴等を片々《きれ〜゛》に引き裂いたのだが、お前逹も十日の内にはさうしやうと思つてゐる。 さあ、もう一度牢屋に下つてをれ」かう言つて、途々《みち〜》二人を叩《なぐ》りつけるのであつた。 それ故二人は土曜日一日、前のやうに悲しい状《さま》で横になつてゐた。 やがて又夜になると、疑念《うたぐり》婦人とその夫の巨人は臥床《ふしど》に入つて、 また囚人《めしうど》のことを相談した。その時老ひたる巨人は、どんなに叩いても、勸めても、 二人の息の根を止めることが出來ないのを不審がつた。それを聞いて、妻は答へた。「もしや、 誰れか救《たす》けに來るのを望んで生きてゐるのではないでせうか。 それとも身に開錠噐《ぢやうまへひらき》をを持つてゐて、それで遁げ出さうとしてゐるのではないでせうか」 「さう言はれゝば、成程な」と巨人が言つた。「それでは翌《あす》の朝、二人の身體を搜して見やう」 さて二人は土曜日の夜中に祈り出して、夜の明けんとする頃まで、祈りつゞけた。 いよいよ日の出の近い頃、性《ひと》の善い基督者は、吃驚眼を醒した人のやうに、 熱情をこめて恁《か》う言ふのであつた。「なんといふ莫迦だらう、私は。 自由に歩ける時に、こんな息苦しい牢屋に蹲踞《うづくま》つてゐるなんて。 さうだ。私の胸には約束といふ鍵があるのだ。それで疑惑城のいかなる錠でも開けることが出來ると教へられてゐたのに」 そこで有望者は言つた。「それは善い音づれた[だ?]。兄弟。それを胸から取り出して、やつてごらんなさい」 やがて基督者はその鍵を胸から引き出して、牢屋の戸に當てがつて見ると、 鍵の轉《めぐ》ると同時に、閂《くわんのき》が外れて、戸はやす〜と開いたので、 基督者と有望者とは外に飛び出した。やがて城の庭に導く外側の戸の所へ來て、又鍵を當てがうと、その戸も開いた。 それから鐡の門もそれで開く筈だと思つて、そこまでやつて來た。その錠は極めて嚴重であつたが、矢張其鍵で開いた。 やがて二人はその門を押し開けて、逸早《いちはや》くも遁げ出した。所がその門が開く時に、 軋《きし》る音がしたので、巨人の絶望者は目を醒して、急いで起き出て、囚人《めしうど》を追ひかけやうとしたが、 手足が利かなくなつた。例の痙攣が起きたので、どうしても追ひかけることが出來なかつた。 そこで二人は落ち延びて、王の街道に出た。最早そこは巨人の領地の外なので、安全であつた。 今や二人はかの踏み段を越えたので、後から來る者が巨人絶望者の手に落ちることのないやうに、 その踏み段になんとか工夫をしたいものだと考へ始めた。やがて二人は申合はせてそこに一本の柱を建てゝ、 その横にかういふ文字《もんじ》を彫り付けた。「この踏み段のかなたは疑惑城への路である。 その主は巨人絶望者といつて、天の國の王を輕んじ、聖《きよ》き旅人を滅さうとする者である」 このため後から來た者は記された此の文字《もんじ》を讀んで、その危險を遁れた者も多かつた。 かうしてから、二人は次のやうに歌つた。 「路の外にぞ、ゆきぬ我等は。   禁ぜられし地、踏みぬ我等は。 後に來る人、ゆめ油斷すな。   城の名まへは、疑惑ぞよ。 城主《あるじ》の名まへは、絶望ぞ。   これを侵して、囚《とら》はるな。」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:十 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:十 やがて二人は尚ほ進んで、遂に歡樂山《たのしみのやま》に來た。 その山は前に語つたかの岡の主の有《もの》であつた。二人はその山に登つて、花園や果樹園《くだものばたけ》や、 葡萄園や噴水などを見た。そこで二人は水を飮んだり、身體を洗つたり、又思ふまゝに葡萄を喰つたりした。 その山の頂には、牧羊者《ひつじかひ》が羊の群を牧《か》つてゐたが、折しも路傍《みちばた》に立つてゐた。 旅人はその側へ行つて、(疲れた旅人が路傍《みちばた》で誰れかと立ち話をする時に能くさうするやうに)、 杖に恁《よ》りかゝつて、かう問ねた。 「この歡樂山《たのしみのやま》といふのは何誰《どなた》の有《もの》ですか。 それから茲《こゝ》に牧《か》つてある羊は何誰《どなた》のですか」 牧羊者《ひつじかひ》、「この山はイムマヌエルの領地です。その都も茲《こゝ》から見えます。 この羊も主の有《もの》で、主は彼等のためにその生命《いのち》を捐《す》てたまふたのです」 [ヨハネ伝10:11,12] 基。「これは天の都への路ですか」 牧。「確かにその路でございます」 基。「茲《こゝ》からどれほどありますか」 牧。「是非|其處《そこ》へ逹しやうと思ふ者のほか、とても行けないほどあります」 基。「路は安全ですか、危險ですか」 牧。「安全であるべき者にとりては安全です。『されど罪人はこれに躓《つまづ》かん』です」 [ホセア書14:9] 基。「此所《こゝ》には、路で疲れて弱つた旅人が救助《たすけ》を求める所がありますか」 牧。「この山の主から私共は、『旅人を待遇《もてな》すことを忘るゝなかれ』 [ヘブル書13:2] と言ひ付けられてゐますので、此處《こゝ》の善いものは何んでも貴君方の心まかせです。 私が又夢の中で見てゐると、牧羊者《ひつじかひ》逹は二人が旅の者であることを認めて、 種々《いろ〜》な事を問ねた。何處から來ましたかの、どうして此の路へ入つて來たかの、 又茲《こゝ》へ來たうと思ひ立つても、この山まで登つて顏を見せる者は極く稀だのに、 どうして茲《こゝ》まで辛抱が出來ましたかのと言ふので、いと懷しげに二人を眺めて、 「よくこそ、歡樂山《たのしみのやま》にお出でなすつた」と言つた。 さてこの牧羊者《ひつじかひ》逹はその名を知識者、經驗者、警醒者、至誠者といふ者であつたが、 二人の手を執《と》つて、天幕の裡《うち》に招いて、折から備へておいた物を配《わか》つて二人を待遇《もてな》した。 尚ほ彼等は言葉をつゞけて、「貴君方は暫らく茲《こゝ》に逗留なすつて、 私共とお近親《ちかづき》になつて下さい、それからこの歡樂山《たのしみのやま》の善い物でもつと心を慰めなさいまし」 そこで二人は悦んで逗留しますと言つた。それに夜もいたく更けたので、最早休むことにした。 やがて私が夢の中で見てゐると、 翌《あく》る朝|牧羊者《ひつじかひ》逹は山の上を散歩するやうに基督者と有望者を呼び起した。 そこで二人は一緒に出かけて、四方《よも》の樂しい眺望《ながめ》を見ながら、暫らく散歩した。 やがて牧羊者《ひつじかひ》逹は互ひに「旅の方に不思議な事を見せてあげませうか」と言つた。 さうすることに定《き》めて、先づ誤謬《あやまり》の岡と呼ぶ小山の頂につれて往つた。 その岡の窮まる所は嶮しい絶壁になつてゐた。その底を見下すやうに告げられたので、 基督者と有望者とは覗き込んだ。その底には頂から落ちて片々《こな〜゛》になつた人の屍《かばね》が澤山にあつた。 そこで基督者は言つた。 「それはどういふわけですか」 牧羊者《ひつじかひ》逹は答へた。「御聽きになつたことがございませう。 ヒメナヨとピレトが復生《よみがへり》は既に過ぎたりと説くのを聽いて、 多くの人が謬《あや》まられましたことを」 [テモテ書(2)2:17,18] 二人は答へた。「えい、聽きました」 牧羊者《ひつじかひ》逹は言つた。「御覽の如く、 この山の谷底に片々《こな〜゛》になつてゐるあの亡骸《なきがら》はその人逹です。 かうして今日まで埋けもしないで置かれるのは、 あまり高く登らうとする者やああんり近くこの山の端に近よる者を戒しめるために、 他の者の實例《みせしめ》にするためです」 私が見てゐると、やがて牧羊者《ひつじかひ》逹は他の山の頂に二人を連れて行つた。 それは用心の山といつた。そこで二人は遠くを眺めるやうに告げられた。 で、さうすると、數多《あまた》の人がそこにある墓場の中をあちこち歩いてゐるのがぼんやり見えるやうであつた。 その人逹が時々墓石に躓《つま》づいたり、又墓場の中から出て來られない所を見ると盲目らしかつた。 そこで基督者が言つた。「これはどういふわけですか」 牧羊者《ひつじかひ》逹は答へた。「この山の下から一寸離れた所に、 この路の左の手にあたつて、草原へ出る踏み段があるのを御覽になりませんでしたか」 二人は答へた。「えい、見ました」 牧羊者《ひつじかひ》逹は言つた。「その踏み段から、一筋の小徑があつて、 眞直に巨人絶望者の居る疑惑城に通じてゐます。この人逹は(と墓場の裡《うち》に居る者を指さして) 貴君方のやうに都詣に出かけて、その踏み段の所まで來たのです。 右の路は其處《そこ》にさしかゝると難澁だものだから、その草原の方へ出る路を選んだのです。 そして巨人絶望者に捕らはれて、疑惑城に投げ込まれて、暫らく牢屋に入れられてから、 遂に目をくり拔かれて、あの墓場の中へ連れて來られたのです。 そして今日までかうしてぞろ〜してゐるのですが、賢い人の言つた、 『悟明《さとり》の道をはなるゝ者は死にし人の集會《つどひ》の中に居らん』といふ言葉に能く當つてゐます」 そこで基督者と有望者とは互に顏を見合はせて、涙をはら〜と流したが、 それでも牧羊者《ひつじかひ》逹は何んにも言はなかつた。 やがて私が夢で見てゐると、牧羊者《ひつじかひ》逹は麓の或る場所へ二人を連れて行つた。 そこには山腹を穿《うが》[つ]てゐる入口があつた。彼等はその戸を開けて、中を見なさいと言つた。 二人が覗いて見ると、その中は眞暗で、黒烟が立つてゐた。又火の燃ゆるやうなごう〜といふ音につれて、 苛責の泣き聲を聽き、又硫黄の香《にほひ》がぷん〜した。そこで基督者が言つた。 「これはどういふわけですか」 牧羊者《ひつじかひ》逹は言つた。「これは地獄の間道《ぬけみち》で、僞善者の通る處です。 エサウのやうに長子《あに》を賣る者や [創世記25:23] ユダのやうにその主を賣る者や [マタイ伝26:15,16] 、アレキサンデルのやうに福音を謗《そし》る者や [テモテ書(2)4:14] 、アナニヤと其の妻サツピラのやうに佯《いる》はり紛らさうとする者 [使徒行伝5:1-10] などは、皆茲《こゝ》を通るのです」 その時有望者は牧羊者《ひつじかひ》逹に向つて、「しかしこの人逹も、 私共のやうに、それ〜゛都詣の裝ひをしてゐたと思ひますが、さうではありませんか」 牧。「さうです、長い間その裝ひをしてゐました」 有望。「それにも係はらないで、これほど悲慘《みじめ》な最後を遂げたところを見ると、 この人逹の進んだ路程《みちのり》はその頃どれほどだつたのですか」 牧。「この山を通り越した者もあるし、通り越さない者もありました。[」の誤り] そこで二人の旅人は互に言つた。「私共も強い者に叫んで力を求めなければなりませんな」 牧。「さうです。その力を得られたら、又それを用ひなければならんでせう」 この時旅人逹は前に進みたいと思ふし、牧羊者《ひつじかひ》逹もさうさせたかつた。 そこで一緒に山の端の方へ歩いた。やがて牧羊者《ひつじかひ》逹は互ひに言つた。 「この旅の方逹が私共の望遠鏡を使ふ心得があるなら、天の城門を見せてやりませう」 旅人逹は厚くその志を感謝したので、やがて麗朗《うらゝか》といふ高い岡の頂に連れて行つて、 その眼鏡を渡して眺めさせた。 二人は眺めやうと試みた。けれども牧羊者《ひつじかひ》逹に見せてもらつた先程の事などを思ひ出して、 手がぶる〜した。それが妨げとなつて、確然《しつかり》眼鏡を覗いて見ることが出來なかつた。 それでも門のやうなものと、又其所の榮光《さかえ》ある状《さま》とが見えたやうに思つた。 やがて二人は次の歌をうたひながら、立ち去つた。 「凡て他の人の知らざる祕事《ひめごと》も   牧羊者《ひつじかひ》には現はされけり。 さらば君、深く隱れしその不思議、   來りて見よや、牧羊者《ひつじかひ》のもと。」 二人は別れに臨んで、一人の牧羊者《ひつじかひ》は路の畧圖《りやくづ》をくれた。 他の一人は二人に向つて、阿諛《へつらひ》者を愼しみなさいと言つた。 第三の者は迷魂《まよはし》の地に睡つてはゐけないと注意した。 又第四の者は道中の安全を祈りますと言つた。折しも私は夢から醒めた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:十一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:十一 私は又睡つて、再び夢を見た。見ると同し二箇《ふたり》の旅人は山を下つて、 都をさして往來を歩いて往く。さてこの山の下から尠《すこ》し行つた左手に當つて、 己惚國《うぬぼれこく》といふがあつた。 その國から今旅人の歩いてゐる路に出て來る小さな曲つた横路があつた。 それ故二人は茲《こゝ》でその國から出て來たいかにも活發な少年に出合つた。その名は無學者といつた。 そこで基督者は彼に向つて、何處から來て、何處へ行かれるのかと問ねた。 無學。「私ですか。私はこの路の左手を一寸行つた處に國がある。その國に生れた者でして、 天の都をさして參るのです」 基。「天の門へ入るのは中々六ヶ敷いといふことだが、貴君はどうしてそこへ入るつもりですか」 無學。「他の善人逹のするやうに」 基。「では、その門へ行つたら、どんなものを見せて、門を開けてもらふつもりですか」 無學。「私は主の聖意《みこゝろ》を知つて、これまで正しい生活をしてゐました。 誰の者でもその人に返しましたし、祈りはするし、斷食はするし、所得の十分の一は獻げるし、 施物《ほどこし》はするし、それから都へ行かうと思つて、郷里《ふるさと》をも棄てました」 基。「しかし貴君はこの路の入口にあつた耳門《くゞりもん》から來ないで、 その曲つた横道かた茲《こゝ》へ來たのでせう。だから、御自分ではどう思はれるか知らないが、 呼出の日になると、多分貴君は盜人《ぬすびと》なり強盜なりと咎められて、都には入れないかも知れません」 無學。「お二方は私と赤の他人でせう。私は貴君方を知りません。 貴君方はお國の宗教に從ひなさるが可いし、私は又自分の國の宗教に從ひます。 それで結構ではありませんか。貴君方の仰《おつし》やるその耳門《くゞりもん》といふのは、 私の國から遠方なことは誰でも知つてゐます。私の近在では誰もそこへ行く路を知つてゐる者はありますまい。 又知つてゐても知らんでも、そんな事はどうでも顧《かま》はんです。御覽の通り、 立派な愉快な緑の徑があつて、私の國から出て來られますし、又その方が近道ですからな」 基督者はこの人が悧巧さうに己惚てゐるのを見て、有望者に囁いた。 「彼よりも却つて愚かなる人に望みあり [詩編26:12] ですな。又、愚かなる者は出でゝ途《みち》を行くに當りてその心足らず、 おのれの愚なることを凡ての人に告ぐ [伝道の書10:3] とありますが、どうでせう、もつとこの人と話しませうか、それとも暫らくこの人より先へ歩いて、 今まで言つて聽せたことを考へさせて、それから又待ち受けて、段々にこの人の爲めになるやうにしてやりますか」 そこで有望者は歌つて言つた。 「無學の者にいま暫し、   言はれしこと想はしめよ、 善き勸めをば嫌はずに、   守らば、いとも大いなる、 所得を知らで在るべきや   神は悟性《さとり》をたまふゆゑ、 それを持ざる者いかで、   神の救ひを受くべきぞ」 有望者はそれに附言《つけた》して、一時に皆なあの人に言ふのは善くありませんよ。 仰せの通り、尠《すこ》し先へ行つて、それから『負ふことの出來る』 [民数記11:14] ほどづゝ話してやりませう」 そこで二人は先へ進んだ。無學者は後から來た。二人は彼を離れて尠《すこ》し行くと、いと暗い小徑へ入つた。 そこで一個《ひとり》の人が七つの惡鬼のために七つの強い繩で縛られて、 [マタイ伝12:45] かの岡の側で見た地獄の入口の方へ曵れて行くのを見た。基督者はそれを見て身を慄はした。 同伴《つれ》の有望者も慄へた。しかし惡鬼がその人を連れ去る時に、 基督者は振り向いてそれが誰だか眺めた。そしてどうもそれが背教の町に濟んでゐる變心者といふ人らしいと想つた。 けれども捕まへられた盜人《ぬすびと》のやうに首をうな埀れてゐるので、顏が能く見えなかつた。 しかし通りすぎる時に、有望者はこれを見送つて、その背中に、 「放蕩先生、永罰の背教者」といふ銘を書いた紙が張つてあるのを見た。 そこで基督者は同伴《つれ》に言つた。「私は今思ひ出したことがあります。 それはこの近所の善人の身に起つた事です。その人の名は薄信者といひましたが、しかし善人で、至誠の町に住んでゐました。 その事件といふのは恁《か》うです。この通路の入口に當りて、廣道門から出て來る小徑で、死人小路といふのがある。 それはいつもそこで人殺があるので、さう呼ばれてゐるさうです。 所でその薄信者が私共のやうに、都詣に出かけたのですが、圖らずもそこへ憇《やす》んで睡つたのです。 恰度その時、廣道門からその小路へ差しかゝつたのは、三人の力の強い惡者で、 小膽者《せうたんもの》、不信者《ふしんもの》、有罪者《つみあるもの》といつて三人兄弟です。 彼等は薄信者が睡つてゐるのを窺つて、まつしぐらに驅け寄つた。 折しもかの善人は睡眠《ねむり》から目を醒して、いざ起ち上つて歩き出さうとする所です。 で、彼等はこれを取りかこんで、嚇文句《おどしもんく》で、立つてをれと言つた。 それを聽いて、薄信者は布片《ぬのきれ》のやうに蒼白《あをさ》めて、腰を拔して、 低抗することも遁げ出すことも出來ない。そこで小膽者は、「財布を出せ」と言つた。 が、薄信者は、(元よりその金を失《なく》したくないので)、ぐづ〜゛してゐた。 すると不信者は飛びかゝつて、懷中に手を入れて、銀の袋を一つ攫《つか》み出したので、 「泥棒、泥棒」と叫ぶと、有罪者は手に持つてゐた太い棒で、薄信者のの頭を叩《なぐ》りつけたものだから、 唯その一打で地にへばりついて、だく〜と血が出て死にさうであつた。 泥棒共は暫らくその側に立つてゐたが、やがて人の來る足音がしたので、 それが篤信の市《まち》に住んでゐる大惠者であつては大變だと思つて、 踵《きびす》をめぐらして遁げ出した。取り殘された善人は漸《やうや》く起き上つて、 よろめきながらその路を歩いて行つたさうで、まあさういふ話です」 有望。「泥棒はその人の持つてゐた物を皆な奪つたですか」 基。「さうではないです。寶石をいれておいた場所は搜さなかつたさうで、それだけは殘つたのでした。 でも、話しによると、その善人はその追剥のために、路用を大分《あらかた》取られたので、 非常に難儀したさうです。それでも寶石は取られなかつたのと、僅かな端錢《はしたぜに》が殘つてゐたので、 どうやらかうやら旅を終つたさうです。いや、(私が聞き違へをしなければ)、寶石を賣るわけにもゆかないので、 生命《いのち》を繋ぐために、乞食をしなければならなかつた。乞食でも何んでも出來ることをして、 大抵|空腹《すきはら》を抱へて、殘りの路を大分《あらかた》歩いたといふことで」 有望。「でも、通劵《てがた》を奪はなかつたのは不思議ですな、天の門を通されるにはなくてはならぬものだに」 基。「いかにも不思議です。が、それを奪はれなかつたのは、なにもあの人の機轉ではありません。 賊に襲はれると狼狽《うろた》へてしまつて、抵抗する力もなければ、 物を隱す餘裕もなかつたのですから、その善い物を奪《と》られなかつたといふのは、 全く神の思召《おぼしめし》で、あの人の骨折ではありません」 有望。「でも、その寶物を奪られなかつたのは、せめてもの慰さめでしたな」 基。「それを尋常《あたりまへ》に用ゐたら、大きな慰さめである筈ですが、 私にその話をしてくれた人の言ふところでは、金を奪られたことをあまり落膽《がつかり》してしまつて、 殘りの道中でその寶物を使ふこともなにも仕なかつたさうです。 實際の殘りの道中で大方その寶物を忘れてゐたのです。時には思ひ出して、それに慰さめられかゝると、 忽ち盜難の心配が新らしく起つて來て、他のことを考へる餘裕もなかつたさうです」 有望。「實に可哀想の人ですな、それでは唯非常に悲しむばかりですな」 基。「悲しむ?さうです、實際悲しむばかりです。私共でも盜難にあつて傷を受けて、 そんな知らぬ土地であの人のやうな目にあつたら、悲しまずにはゐられませんからな。 悲しみのあまり死なゝかつたのは不思議な位です。又話しによると、 殘りの途《みち》すがら唯もう愚痴やら不平やら並べたてゝばかりゐたさうです。 途々《みち〜》誰かに追ひついたり、追ひつひたりすると、直ぐ盜難の話を持ち出して、 その場所や、その有樣や、盜んだ人逹のことや、盜まれた物や、傷を受けたことや、 漸《やうや》く生命《いのち》だけは救《たすか》つたことなどを話したさうです」 有望。「でも、それほど困窮《こま》つたなら、その寶物を賣るか質入するかして、 路用の當てれば可いに、どうしてさうしなかつたでせう。不思議ですな」 基。「そんなことを言ふと頭に殼をつけた黄[奚|隹;#1-93-66]《ひよつこ》のやうですぞ。 どうしてそれを質に入れませう。また誰にそれを賣りませう。その盜難にあつた國では何處へ行つたつて、 そんな寶石は一文の價値《ねうち》もないです。又かの人にした處がそれを賣拂つて一時凌ぎをしやうとはしなかつたのです。 その寶石を持たずに天の都の門へ行きますれば、 忽ち拒絶《しりぞ》けられて嗣業《よつぎ》を受けることが出來ないのは、 かの人も能く知つてゐますからな。さうすれば千萬の盜賊に出遇つて、惡事をされるよりも、もつと辛いです」 有望。「兄弟、貴君はどうしてさう皮肉ですか。 エサウは僅か一杯の羹物《あつもの》のために長子《あに》の權を賣つたでせう [ヘブル書12:16] 。その長子《あに》の權はエサウの最も大ひなる寶物であつたのです。 エサウもさうするからには、どうしてもあの薄信者もさうすることが出來ないですか」 基。「成程エサウは長子《あに》の權を賣りました。その他にも澤山さういふ事をしたものはありますが、 さうして皆なあの卑劣な男のやうに大切な祝福から自ら離れるです。 しかしエサウと薄信者との間には區別を立てねばなりません。その持物の區別も肝要です。 エサウの長子《あに》の權は模型的だが、薄信者の寶物はさうではありません。 エサウはその腹を神のやうに拜んだが、薄信者はその腹をそんなことはしない。 エサウの願望《ねがひ》は肉體の慾であつたが、薄信者はさうではありません。 そればかりかエサウはその慾を滿すことに眼《まなこ》眩んで、 『我は將に死なんとせるに、この家督の權われに何にの益をなさにや』 [創世記25:32] と言つたさうですが、この薄信者は唯僅かばかりの信仰を持つてゐるだけですが、その僅かな信仰に依つて、 そんな無闇なことはせず、寶物を大切にしてエサウが家督の權を賣つたやうなことはしなかつたのです。 エサウに信仰があつたやうなことは何處にも書いてないでせう。實際僅かな信仰もなかつたのでせう。 だから、肉慾の動くまゝに、(信仰のない者はそれに抵抗することが出來ないから)、 その家督の權を賣つても、又その靈魂《たましひ》も何にもかも賣つて、地獄の鬼に渡したところで、 不思議なことはないです。つまり牝驢馬のやうなもので、『その慾の動く時、誰かこれを止めえんや』 [エレミア書2:24] ですからな。その心が肉慾の方へ動く時には、その報ひにはかまはず、 それを遂げやうとするですからな。然るに薄信者はそれとは全く性《たち》が違つて、 その心は聖《きよ》い事に向つて居るのです。靈なるもの、上なるものを求めて日を送つてゐるのですから、 さういふ性《たち》の者がどうして(假令《よし》買ふ人があつても)その寶物を賣つて、 空しき物で心を滿さうとしませうや。いくら腹を滿《くち》くなるといつて、 一文の錢でも馬草を買ふためには誰も出さんでせう。又|斑鳩《しらこばと》をどんなに仕込んでも、 烏《からす》のやうに腐肉《くされにく》を喰ひませんでせう。元より信仰のない者は肉の慾のために、 持つてる者を質入れもするし、抵當にも入れるし、賣り拂ひもしますし、 又自分の身をも即座に渡しますが、信仰のある者はたとへ僅かな信仰でも、 そのためにそんな事は出來ません。そこです、兄弟、貴君の間違つてゐるのは」 有望。「眞實《ほんたう》にさうでしたな。だが、貴君があまり皮肉だから、つい勃《むつ》としました」 基。「いや、貴君を雛鷄《ひよつこ》に譬へたのは、頭に殼をのせて何處までも顧《かま》はず驅け廻るので、 いかにも敏捷《すばしこ》いからです。併《しか》しそんな事はどうでも可いことです。 これまで言つた事を考へて見れば、貴君と私との間に何にも蟠《わだか》まりはないでせう」 有望。「それは兎に角、基督者さん、その三人の奴等はどうも私には、卑怯な連中だと思はれますがな。 さもなければ通りがゝりの人の足音を聽いて遁げ出すなんてことはない筈です。 それから薄信者にした處で、どうしてもつと大膽に振ひ起たないでせう。 せめて一度位立ち合つてから、どうしても駄目なら降參するが可いです」 基。「彼奴等が卑怯だと言ふ者は多いですが、いざといふ時に存外それが解らんと見えます。 とりわけ薄信者には大膽な處などは一つもないです。それは兄弟、貴君があの人であつたら、 降參するまでも、必ず一立合ひしたでせう。それはさうと貴君も盜賊が今側にうぃないから腹一杯なことを言つてゐられますが、 若し薄信者のやうに、貴君の前に現はれたらどうです。別な考を起されるかもしれません。 又考へてごらんなさい、彼等は唯旅稼ぎの盜人《ぬすびと》です。 何《いづ》れも底なしの地獄の王の手下だから、必要な場合には、王が親《みづか》ら出て來て加勢しますが、 その聲といつたら、まるで獅子の吼ゆるやうです [ペテロ書(1)5:8] 。いつか私もあの薄信者同樣な目にあつて、恐ろしい事だと思ひました。 あの三人の惡漢《わるもの》に取り圍まれたので、私は基督者らしく抵抗し始めると、 惡漢《わるもの》共が一聲擧げたと思ふと、もうそこへその首領《かしら》が現はれてゐました。 (諺にもある通り)一文錢で買へる生命《いのち》とは私の身の上でしたが、神の聖意《みこゝろ》で、 私は堅い甲冑を着けてゐました。そんな身の固めはしてゐても、尚ほ男らしく振舞ふことは中々困難でした。 親しくその戰《たゝかひ》に臨んだ者でないと、その鬪《たゝかひ》がどれほど難儀だか話しが出來ません」 有望。「さうですか、でも、大惠者といふ人がそこへ通りかゝつたと思つて遁げ出したのでせう」 基。「それは實際大惠者が現はれると、あの惡漢《わるもの》共もその首領《かしら》も、皆遁げ出します。 大惠者は王の勇士だから無理もないです。勿論薄信者と王の勇士の間の區別を認めなさるでせう。 王の臣民は誰でも王の勇士ではありませんから、いざといふ時に、 彼のやうに戰《いくさ》をして手柄を立てることは出來ません。 ダビデのやうにゴリアテを取扱ふことが小さい子供に出來ると思ふのは無理でせう。 鷦鷯《みそさゞい》には牛の力はない筈です。強い者もあるし、弱い者もある、 信仰の大なる者もあるし、少ない者もある。その人は弱い者の一人だつたので、脆くも敗けたのです」 有望。「大惠者がその代りにゐたらどうでしたらう」 基。「彼の人であつても、手に餘ることがありませう。大惠者は武術にかけては逹人で、 刀で拒《ふせ》ぐ間は、充分敵に當るに足りますが、若し小膽者でも、懷疑者でも、その他の者でも、 手の裡《うち》に入つて來たら最後、後《おくれ》を取つて、 そのために打ち倒されるやうな事が出來るです。 倒ふれるやうなことでは、もうどうも出來ませんからな[。] 「大惠者の顏を誰でも眺めた者は、その突傷や斬傷《きりきづ》に目がつくので、 私の言ふことを直ぐ成程と思ふでせう。私は一度あの人が(勿論|戰鬪《たゝかひ》の最中だが) 生命《いのち》を保たん望みも失なへり [コリント書(2)1:8] と言つたのを聽いたことがあります。又ダビデも斯る力強《てごは》ひ惡者共のためには、 呻めいたり、嘆いたり、唸つたりしたことがあります [サミュエル記下24:10] 。それからヘマン [列王記上4:31] やヒゼキア [列王記下18] もそれ〜゛當時の勇士で、彼等に襲はれて奮ひ起つて戰つたが、 しかも二人とも全くその甲冑を打ち碎かれたのです。かのペテロも時には思ひ切つたことをやる人で、 使徒の首領《かしら》と言はれたこともあるが、矢張彼等に左右されて、賤しい小娘をすら恐れたこともあつたでせう。 「それに地獄の王はいつも彼等が口笛を吹けば聞える處に居つて、いつでも彼等が危なくなると、 出來るだけ早くやつて來て彼等を助けるのです。その王に就《つい》ては、 『劔《つるぎ》をもてこれを撃つとも利かず、鎗《やり》も矢も漁叉《もり》も用ふる所なし、 これは鐡噐《くろがね》を見ること藁の如くし、銅《あかがね》を見ること朽木のごとくす、 棒もこれには藁屑と見ゆ、鎗《やり》の閃めくをこれは笑ふ』 [ヨブ記41:26-29] と言はれてゐます。人は斯る者に對してどうすることが出來ませう。 それはどうにかしてヨブの馬でも手に入れて、それに乘り廻すほどの熟練と勇氣があるなら、 目醒しい事も出來ませう[。]その馬といふのは、『頸に勇しき鬣《たてがみ》を粧《よそほ》ひ、 その飛ぶこと蝗蟲《いなご》のごとく、その嘶《いな》なく聲の響は恐るべし。 谷をあがきて力に誇り、自ら進みて武者《つはもの》に向ふ。懼《おそ》るゝことを笑ひて驚ろくところなく、 劔《つるぎ》に向ふとも退ぞかず、矢筒その上に鳴り、鎗《やり》と矛相閃めき、 猛り狂ひつ地を一呑みにし、喇叭の聲鳴り渡るも立ち留ることなし。 喇叭の鳴る毎にハーハーと言ひ、遠方《とほく》より戰ひをかぎつけ、 將帥の大聲および吶喊《とき》の聲を聞き知る』 [ヨブ記9:19-25] といふですからな。 「しかし貴君や私のやうな徒歩《かち》の者にとりては、一人の敵に遇ふことも願はしくはありませんし、 又|他人《 ひと》が後《おく》れを取つたと聽いても、俺ならばと威張もしませんし、 それに又いかにも自分で強さうな顏をしてゐる者は、大抵やつて見ると、から駄目です。 前にも申しましたが、あのペテロをごらんなさい。威張くさつて、傲慢な心にまかせて高言を吐き、 假令《たとへ》凡ての人が主を棄てゝも、飽くまで主のために盡すと言ひながら、 いざ惡黨《わるもの》に遇ふと、その敗けて遁げる状《ざま》といつたら有りませんでした」 「だから、大君の往還でかういふ盜難があると聽くからには、二つの事を心がけてゐねばな[ら]んです」 「先づ第一に鎧を着て、忘れずに楯を取つて出かけることです。昔し人ありて蛇レビヤタンと勇しく戰つて、 これを降參させることが出來なかつたのは、全くその用意がなかつたからです [イザヤ書27:1] 。實際その用意がなければ、私共は尠《すこ》しも畏《こは》がられない筈です。だから、戰《いくさ》に慣れた者は、 『このほか信仰の楯を取るべし。この楯をもて悉《こと〜゛》く惡しき者の火箭《ひや》を消すことを得ん』 [エペソ書6:16] と言つたのです。 「第二には又、私共は王の保護を願つて、私共と一緒に行つていたゞくことです。 ダビデが死の蔭の谷を歩いた時に、尚ほ悦んだのはそのためです [詩編23] 。又モーセは神なしに一歩も行く能はず、寧ろその立てる場所に死なんとした位です [出エジプト記33:15] 。あゝ兄弟、神が私共と一緒に行つて下されば、私共を圍みて立ちかまへた千萬《ちよろず》の人をも怖れることはありません [詩編3:6] 。しかし神なしには、いかに力自慢な援助者《たすけ》でも、殺されて倒れてしまふです。 「私自身は、いつぞや格鬪したことがありますが、かうして生存《いきなが》らへてをりますのは、 全く(いとも善なる神のお蔭で)自分の勇氣を誇ることは出來ません。 もうあんんあ衝突をせずに濟めば、どんなに嬉しいでせう。 でも、まだ私共は全く危難を越えたとはいはれますまい。 併《しか》し獅子にも熊にも喰はれずに今まで來たのですから、 次の割禮なきペリシラ人からも神は私共をお救《たす》け下さるだらうと思ひます」。そこで基督者は歌つた。 「あはれ薄信の者よ、   盜人《ぬすびと》の内に汝《なれ》はありしや、 盜まれしや、さらば心せよ。   信ずる人は信をませ、 三人《みたり》はおろか千萬《ちよろず》の、   人にも汝《なれ》は勝つべきぞ」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:十二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:十二 かうして二人は進んだ。無學者は隨《つ》いて來た。やがてある場所へ來たが、 一筋の路がその路から分れてゐるのを見た。然《しか》もそれは今まで歩いて來た路のやうに眞直らしい。 何《いづ》れも眞直に見えるので、二つのうちどちらに進んでよいやら解らぬので、 茲《こゝ》で二人は立ち留つて考へ込んだ。二人が路で考へてゐると、見よ、 色の黒い人がいと輕い衣裳《ころも》を着て、側へやつて來て、 どうしてそこへ立つてゐるのですかと問ねた。二人はそれに答へて、自分等は天の都へ行くものですがあ、 どちらの路を取つてよいか解らないですと言つた。するとその人は 「私についてお出でなさい。私もそちらへ行く者ですから」と言つた。 そこで二人はその後について行くと、その路は次第に曲つてしまつて、 二人は志すところの都から遠ざかつて、僅かの間に全くその方角から顏を背向けてしまつた。 けれども二人は尚も隨《つ》いて行つた。それから次第々々に、二人が氣のつかない前、 網の張つてある中に連れ込まれたので、忽ちそれに絡まつてどうすることも出來なくなつた。 すると同時に白い衣《ころも》は黒い人の背から脱け落ちた。 そこで二人は初めてその居る處を悟つた。身を遁れることが出來ないので、 暫らくそこにころがつて泣いてゐた。 やがて基督者はその同伴《つれ》に言つた。「とんだ事をしてしまつた。 牧羊者《ひつじかひ》逹が諂《へつ》らふ者を愼めと言つたぢやありませんか。 賢い人の言葉にも、『その隣人《となり》に諂《へつ》らふ者は彼の脚下《あしもと》に網を張る』 [箴言29:5] とありますが、今日こそそれを悟りました」 有望。「それに私共は道中の案内記を貰つてゐるのですから、それを見れば確かでしたな。 しかるsについそれを讀むことを忘れたものですから、滅ぼす者の途《みち》を避けられなかつたのです。 ダビデは私共よりも餘程賢こいですな。『人の行爲《おこなひ》については、 われ汝の口唇《くちびる》の言《ことば》によりて、滅ぼす者の途《みち》を避けたり』 [詩編17:4] と言つてゐます。 かう言つて二人は網の中で嘆いてゐた。遂に輝やける者が細い紐の鞭を手に持つて二人の方へやつて來るのを見た。 彼は二人の居る處へ來て、何處から來たもので、そこで何にをしてゐますかと問ねた。 二人は彼に向つて、私共はシオンをさして行く憐れな旅人です。白い衣《ころも》を着た人が來て、 自分も亦《また》そこへ行く者だから、隨《つ》いて來いと言はれたものですから、 うか〜と路の外へ誘ひ出されてしまひましたと言つた。そこで鞭を持てる者は 「それは追從者《ついしようもの》といつて、『光の使《つかひ》に姿を變へた僞《いつは》りの使徒』 [コリント書(2)11:13] です」と言ひながら、網を引き裂いて、二人を出してくれた。そして又二人に向ひ、 「私についてお出でなさい、元の路に戻してあげませう」と言つて、二人を案内して、 追從者にさそひ出された處まで後戻りした。やがて彼は二人に向つて、「昨夜は何處へ宿《とま》りましたか」 と問ねた。「歡樂山の牧羊者《ひつじかひ》逹の許《もと》に宿《とま》りました」と言ふ。 「それではその牧羊者《ひつじかひ》逹から道中の案内記を貰ひませんでしたか」と彼が問ねた。 「はい貰いました」と答ふ。「では、岐路《わかれみち》に立つてゐる時に、その案内記を出して讀みませんでしたか」 と彼が言つた。「はい、讀みませんでした」と答ふ。「何故です」と彼が問ねた。 「忘れました」と言ふ。「牧羊者《ひつじかひ》逹は諂《へつ》らふ者を愼しめよと言ひませんでしたか」 と彼は更に問ねた。「はい、言はれましたが、あの立派な口を利く人がそれだとは想ひ設けませんでした」と答へた。 やがて私が夢の中で見てゐると、彼は二人に横になれと命じた。二人がさうすると、 その歩むべき善き路を教へるのだと言つて、嚴しく二人を懲しめた。 懲しながらも、「凡てわが愛する者はわれこれを責《いま》しめ、これを懲す。 この故に爾《なんじ》勵みて悔ひ改ためよ」 [黙示録3:19] と言つた。かう仕てから、二人を出立させて、牧羊者《ひつじかひ》逹から受けた他の指圖を善く守りなさいと言つた。 そこで二人は厚くその親切に感謝して、靜かに正しい路を進みながら、かう歌つた。 「路を行く人、茲《こゝ》に來て、   旅人、迷ひし跡を見よ、 善き勸めをば忘れたる、   故に捕はる網の中、 よし救はるれ、されど見よ、   鞭のこらしめ受けたるを、 これぞ汝がため戒しめぞ」 それから暫らくすると、この往來の向うから一人靜かに此方《こなた》をさして來る人を遙《はるか》に認めた。 基督者は同伴《つれ》に向つて、「あそこにシオンに背を向けて、此方《こちら》をさして來る人がありますな」 有望。「さうですな、氣を付けませう、又諂《へつ》らふ者かもしれませんから」 彼は次第々々に近づいて、遂に二人の側まで來た。それは無神者といふ者で、「何處へ行きます」と二人に問ねた。 基。「私共はシオンの山へ參る者です」 すると無神者は唯から〜と笑つた。 基。「どうしてお笑ひになるのですか」 無神。「あまり莫迦げてゐますから。そんなに骨を折つて旅をしたつて、まあ疲《くた》びれ儲けですからな」 基。「それでは、貴君、私共は受け入れられないと思ひなさるのですか」 無神。「受け入れられない處ぢやない。貴君が夢に見てゐるやうな場所は何處をさがしてもこの世には有りはしません」 基。「では、來世にあるのですな」 無神。「私が自分の國にゐた時に、貴君が今言はれたやうな事を聽いたことがありましてな。 それを聽いて、行つて見る氣になつて、二十年もその都を探しましたが、 出かけた日のやうに今でも見つかりませんや」 [伝道の書10:15] 基。「私共もそれを聞いたのですが、確にさういふ場所があると信じてゐます」 無神。「私も故郷にゐる時にさう信じなければ、何にもはる〜゛探しには出ません。 (それに私は貴君方よりも遠くまで探しに行つたので、さういふ場所が見つかりさうなものだに)、 見つからないから、かうして戻つて來たのです。それを見たいと思つて何事も捨てゝかゝりましたが、 どうも仕方がないので、又その捨てた物を取つて安樂に暮したいと思つてゐます」 そこで基督者は同伴《つれ》なる有望者に言つた。「この人の言ふことは眞實《ほんたう》でせうか」 有望。「御用心、これも諂《へつ》らふ者の一人ですぞ。 前にもかういふ奴等の言ふことを聽いて、どんな目に遇つたと思召す。それにしても、 シオンの山がないですと?歡樂山から都の門を見たぢやありませんか。 それに又私共は今信仰に依つて歩いてゐるではないですか [コリント書(2)5:7] 。さあ、參りませう。あの鞭を持てる者に又追ひつかれないとも限りません。 貴君こそ私を教へて下さるべきだのに、私から喩《さと》されるとは何事です。 『わが子よ、哲《さと》き言葉を離れしめる教を聞くことを止めよ』 [箴言19:27] です。さあ、兄弟、そんな者に聞くことを止めなさい。私共は靈魂《たましひ》の救ひを信じませう」 基。「兄弟、私が貴君に問ひかけたのは、私共の信ずる眞理を疑がつたからではありません。 試みに貴君の心に結んだ正直の果實《み》を引き出して見たいと思つたのです。この人のことは、 私も承知してゐます。これは世の神を拜んで盲目になつた人です。さあ、參りませう、 お互ひに眞理を信じるのですからな。『虚僞《いつはり》は眞理からは出ません』 [ヨハネ書(1)2:21] や」 有望。「それでこそ神の榮光《さかえ》を望んで悦べるといふものです」 かう言つて、二人はこの人から離れて行つた。この人は笑ひながら立ち去つた。 やがて私が夢の中で見てゐると、二人は進んで、或る土地に入つたが、そこは空氣のかげんで、 何にも知らずにそこへ入つて行つた者にはおのづから眠氣を催ふさしめる所であつた。 そのため有望者は氣が至つて倦怠《だる》くなつて、いかにも眠くなつた。そこで基督者に言つた。 「私はどうも眠くつて、眼を開けてゐることが出來なくなりました。 茲《こゝ》へ休んで、一睡《ひとねむり》しやうぢやありませんか」 「それは可《い》けません」と基督者が言つた。「眠つたら、もう決して起きられませんから」 有望。「何故です、兄弟、睡眠《ねむり》ほど働らき疲れた者に心地善いことはないでせう。 一睡《ひとねむり》したら、それは爽快《さつぱり》しますぜ」 基。「そら、牧羊者《ひつじかひ》逹の一人が迷ひの地を愼しめよと言つたではありませんか。 その意味は睡ることを愼しめと言ふのです。『さらば我等他の人の睡るがごとく、睡ることをせず、 醒めて愼しむべし』 [テサロニケ書(1)5:6] です」 有望。「やあ、私が過失《あやま》りました。私一人だつたら、睡つてしまつて危なく死ぬところでした。 『二人は一人に優る』 [伝道の書4:9] といふ賢い人の言葉は誠ですな。かうして貴君と道連れなのは私の仕合せですが、 貴君もその骨折を必らず善く報はれますよ」 「では」と基督者が言つた。「此處《こゝ》で眠氣さましに、一つ善い談話《はなし》でもやりませうかな」 「それは何によりです」と有望者が言つた。 基。「何にから始めませう」 有望。「神が始めしたまふまゝにね。どうぞお先へ」 基。「では、最初歌を一つうたひましてから」 聖《きよ》き人々、睡き時、   茲《こゝ》に來りて旅しゆく 二人が供に話したる   ことばを聞いて學べかし。 けだるく睡き眼をさまし、   危うき地をば免かるゝ、 仕方はこれよ、いと聖《きよ》く、   友の交はり保つこと。 やがて基督者はかう言つて談話《はなし》を始めた。「一つお問ねしませう。 貴君は最初どういふ考へから、かういふ境遇になりましたか」 有望。「それでは何んですか、私が最初どうして自分の靈魂《たましひ》の幸福を求めるやうになつたかといふのですか」 基。「さうです、さういふ意味です」 有望。「私は永いこと私共の市塲の見せものや、賣りものを樂しく思つてゐたのですが、 今ではそんな物をもつと永く樂しみにしてゐたら、必らず身を滅亡《ほろび》に沈めたらうと信じてゐます」 基。「その物といふのはどんな類ひですか」 有望。「この世の有らゆる財寶《たから》と富です。それから又暴行、暴食、暴飮、暴言、虚《いつ》はること、 不潔なること、安息日を破ること其の他|靈魂《たましひ》を滅すやうな傾きのある事は何んでも好きでした。然るに遂に、 貴君のことや、又あの虚榮の市塲で信仰と善き行《おこなひ》のためにお死になされた懷しい信仰者のこと繧「て、 聖《きよ》い事を聽いたり考へたりした爲めに、『これらの事の果ては死なり』 [ローマ書6:21] 、又『これらの事のために神の怒は背逆者《もとれるもの》に至る』ことを悟りました」 基。「では、直ちにその確信の力の下に身を投げなすつたですか」 有望。「いや、私は直ちに罪の惡いことや、それを行ふことに伴ふ刑罰などを知らうとは思ひませんでした。 それどころか私の心が聖言《みことば》に感動し出したので、努めてその光に對して眼を閉《つむ》らうとしました」 基。「しかし、神の祝福の靈が始めて貴君に働くに至つたのを、どういふわけでそんな扱かひをなすつたのですか」 有望。「その理由《わけ》は種々《いろ〜》あります、第一、私はそれが神の働きといふことを知りませんでした。 神は先づ罪を知らせることに依つて、罪人を悔改めしめたまふとは想ひませんでしたので。 第二に、罪はまだ私の肉體に甚だ快いので、それを捨てかねたのです。 第三に、とても昔し馴染の友逹と離れたくなく、共に居つて、共に樂しみたかつたのです。 第四に、初めて罪を悟つた時には、堪へがたいほど惱ましく心苦しくつて、それを心に思ひ出すことさへいと堪へがたかつたのです」 基。「時には、その惱みを免かれたやうな事もあつたでせう」 有望。「えい、ありましたが、それでも又心に浮んで來ましてな。すると前よりも更に〜惡くなりました」 基。「一體何にがそんなに罪を再び心に思ひ浮ばせますのですか」 有望。「それにも種々《いろ〜》あります、第一、途中で善人に遇ひましたりすると。 第二、誰か聖書を讀むのを聽きますと。第三、頭が痛くなり出しますと。 第四、誰か隣の人でも病氣なことを想ひますと。第五、死んだ者のために鐘が鳴るのを聽きますと。 第六、自分の死することを想ひますと。第七、他人《 ひと》が頓死したことを聽きますと。 第八、殊に自分が間もなく審判《さばき》に曵《ひか》れねばならぬことを想ひますと」 基。「何《ど》れかさういふ場合が起つた時に、貴君は何時《いつ》でも安らかに罪の咎めから免かれることが出來ましたか」 有望。「いや、とても出來ません。私の良心は益々そのために堅く捕へられましたから。 それならまた罪に戻つて行けるかといふに、(わが心は勿論罪に向つてはゐないです) それは私にとりて二倍の苦痛でした」 基。「それからどうなすつた?」 有望。「どうしても私は生活を改めるやうに努めねばならぬと考へました。さもなければ、確に罰せられると想ひました」 基。「それで改ためるやうに努めましたか」 有望。「努めました。自分の罪ばかりか、罪深い友逹からも遁れて、祈つたり、讀んだり、罪に泣いたり、 隣人《となりびと》に眞理を語つたり、種々《さま〜゛》な宗教《をしへ》の義務《つとめ》に耽りました。 その他種々《いろ〜》やりましたが、茲《こゝ》には一々申しかねます」 基。「その時は心持が宜しうございましたか」 有望。「えい、暫らくは。それでも遂に私は再び惱みに襲はれました。 私が心を革《あら》ためたので、尚ほ烈しくなりました」 基。「どうして又それが、心を革《あら》ためてから來たのでせう」 有望。「それが來るといふには種々《いろ〜》な譯があるのです。殊に『我等の義はこと〜゛く汚れたる衣のごとし』 [イザヤ書64:6] とか、『律法《おきて》の行爲《おこなひ》によりて義とせらるゝ者なし』 [ガラテヤ書2:16] とか、『汝等命ぜられし事を皆な行《な》したる時も、我等は無益の僕《しもべ》なりと云へ』とかいふやうな言葉を讀んだからです。 それらの事から私は自分でかやうに道理をつけました。若し私の義が凡て汚れた衣のやうならば、 又|律法《おきて》の行爲《おこなひ》によつては、誰も義《たゞ》しとせられないならば、 又凡ての事を行《や》つても、尚ほ私共が無益の僕《しもべ》であるならば、 天に行くために律法《おきて》を守るのは愚かな次第であること。又考ふるに、 若しある人が商人から百|磅《ポンド》借りたとして、その後は一々現金で拂つたとしても、 その古い借金が帳消しにならない内は、商人《あきんど》はこれを訴へて、 支拂うまで牢屋に入れることが出來る次第であることなぞです」 基。「成程、そこで貴君の身にそれをどういふやうに適用《あては》めたのですか」 有望。「さやうです。私は自分のことをかう想ひました。 私は罪のために神の帳面に莫大な額《たか》を記入されてをるのだが、 現在私が心を革《あら》ためたからといつて、到底《とても》その負債を拂ひ切れない。 だから私は現にどんなに改心しても矢張滅ぶべきものである。 これまでの罪過《つみとが》で永罰を招いたのだから、それからどうして身を免かれることが出來ませうと」 基。「それはいかにも尤ともな御着眼です。それからどうです」 有望。「その他、私が悔改めて以來、心を惱ましたことは、私の行つた最も善い事でも至細に眺めて見ると、 その裡《う》に矢張罪があることが解つたことです。新らしい罪が私の最も善ひ行《おこなひ》の裡《うち》に混つてゐたのです。 それ故今ではこれまで好んで自分の善くなつたことや、義務《つとめ》をつくすことを自慢したにかゝはらず、 假りにこれまでは過失《あやまち》のない生活を送つたとしても、 一日の中に行ふ罪だけでも地獄に送られるに充分であると想はなければならぬ樣になりました」 基。「それからどう爲さいましたか[」] 有望。「爲す所ぢやありません。信仰者に心を打明けるまではどうすることも出來ませんでした。 あの方と私とは親しい間柄でしたので。あの方の話によると、決して罪を犯したことのない人の義を受くるのでなければ、 自からの義や、あらゆる世の中の義を受けても、自分を救ふことは出來ないとのことでした」 基。「その言ふ所は眞實《ほんたう》だと思ひなすつたか」 有望。「私が自分の悔改めを嬉し悦んでゐる時に、そんな事を言はれたら、そんな心配をするあの方を莫迦者と呼んだでせう。 所で私は自分の弱點を知り、最も善き行《おこなひ》にも罪がつきまとふことを知りましたので、 どうしてもあの方の意見に從はねばなりませんでした」 基。「最初信仰者がその事を言ひ出した時に、 貴君は決して罪を犯したことがないと當然言ふことの出來るやうな人があると思ひましたか」 有望。「正直な所、初めその言葉は怪しく響きましたが、暫らくあの方と話したり一緒にゐたりする内に、 充分それを信じるやうになりました」 基。「その人はどういふ方で、どうしてその人に依つて義とせられねばならぬか [ローマ書4章] お問ねでしたか」 有望。「えい、あの方の話によると、それはいと高き者の右に坐したまふ主|耶蘇《いえす》ださうです。 又私が主耶蘇に依つて義とせらるゝには、彼が世に在りし時に親しくなしたまひしことや、 十字架に懸つて苦しみたまひしことを信ぜねばならぬと申されました。 その時私はその人の義がどうして神の前に他の人を義とする功徳があるのですかと問ねますと、 あの方の答へでは、主は大能の神で、その爲すべき所をなして、御自分のためでなく、 私のためにその死を遂げなすつたさうです。で、私が彼を信じますならば、 その爲されし事も、その行爲《おこなひ》の價値《ねうち》も私の身に歸するとのことでした」 基。「それから貴君はどう爲すつた?」 有望。「私の信ずる所に異議がありましてな。それは主が私を悦んで救ひたまふことはないと思ひましたので」 基。「その時信仰者はなんと言ひましたか」 有望。「あの方は主の許《もと》に行きて見よと言はれました。で、私はそれは推測でせうと言ふと、 いや、さうではない、私は既に招かれてをる [マタイ伝11:28] とのことでした。それからあの方は私を勵まして一層自由に主の許《もと》に來らしめるやうに、 主耶蘇が口授された書物を下さいました。その書物といふのは、天地は廢《すた》るとも [マタイ伝5:18] その一點一畫も壞《くづ》るゝことはないさうです。 そこで私は自分が御許《みもと》に參つた時にはどうせねばなりませんかと問ねました。 するとあの方が申されるには、先づ跪づいて、 [詩編55:6] 心を盡し精神を盡して、私は主を現はしたまへと天の父に懇願せねばならないとのことでした。 そこで私は進んで、どういふ風に主に懇願したものでせうと問ねますと、行け、然らば恩寵《めぐみ》の座に主を見出すべし [ヘブル書4:16] 主は年中そこに坐つて、來る者の罪を赦したまふとのことでした。 で、私はそこへ參つても言ふべきことを存じませんと言ひますと、かういふ樣に言へとのことでした。 『神よ罪人なる私を憐れみたまへ。私をして耶蘇基督を知り、これを信ぜしめたまへ。 彼の義がありませんならば、或は私がその義を信じませんならば、 私は全く投げ棄てられる者であります。主よ、私は爾《なんじ》が惠深き神にて在《いま》し、 御子耶蘇基督を世の救主《すくひぬし》と定めたまひしことを聽きました。そればかりか、 爾《なんじ》は私のやうな憐れな罪人《つみびと》にも悦んでその救主《すくひぬし》を與へたまふさうであります。 私は實に罪人《つみびと》であります。主よ、さらばこの機《とき》を失はず、 恩寵《めぐみ》を大きく擴げてわが靈魂《たましひ》を救ひたまへ、 御子耶蘇基督を通して、アーメン』といふやうに」 基。「そして貴君は言はれた通りになさいましたか」 有望。「はい、幾度《いくたび》も幾度《いくたび》も幾度《いくたび》も」 基。「それで天の父は貴君に御子を現はしなすつたか」 有望。「いえ、初めにも、二度目にも、三度目にも、四|度《たび》目にも、五|度《たび》目にも、六|度《たび》目にも、 現はして下さらなかつたです」 基。「それからどうなすつた?」 有望。「どうするつて。どうしやうもなかつたです」 基。「祈ることを止めやうとは思ひませんでしたか」 有望。「えい、幾百囘となく」 基。「それでも全く止めなさらにのはどういふ理《わけ》ですか」 有望。「話しに聽いた、この基督の義がなければ、 全世界も私を救ふことは出來ないといふことを眞實《ほんたう》だと信じてゐたからでせう。 それ故私は今祈りを止めたら死ぬに極《きま》つてゐる。どうせ死ぬなら恩寵《めぐみ》の座で死にたいと想ひました。 それと同時に心に浮んだのは、『若し遲からば待つべし。必ず臨むべし、滯《とゞこ》ほりはせじ』 [ハバクク書2:3] といふことです。そこで天の父が御子を示して下さるまで、祈りつゞけることにしました」 基。「どういふやうに主が現はれましたか」 有望。「肉眼では見えませんでしたが、悟道《さとり》の眼で主を見ました。 その次第を申すと、或る日私は非常に悲しくつて、一生これほど悲しいことはないと思ひました。 その悲しみは自分の大いなる穢れた罪が鮮かに見えるからでありました。 地獄のほか何んにも見えないで、唯わが靈魂《たましひ》の永遠に罰せられることばかり想つてゐると、 突然主耶蘇が天から私を見下したまふのを見ました。そして『主耶蘇基督を信ぜよ、さらば汝救はるべし』 [使徒行伝16:30,31] といふ聲を聽きました。 「しかし私は、それに答へて、『主よ、私は大ひなる、いと大いなる罪人《つみびと》であります』といふと、 『わが恩寵《めぐみ》汝に足れり』 [コリント書(2)12:9] と主は答へられました。そこで私は『されど主よ、信ずるとはどういふことですか』と言ふと、 『我に來る者は餓えず、我を信ずる者は決して渇かくことはなし』 [ヨハネ伝6:35] といふ聲から、信ずると來るとは同じことだ。來る者は即ち心を盡し情を盡して基督に救はれんと走る者だから、 實際基督を信ずるのであると解つたので、眼はおのづと涙ぐんで、尚も、『しかし、主よ、 私のやうな斯《かゝ》る大いなる罪人《つみびと》も實際|爾《なんじ》に受け容れられて救つて下さるのですか』 と問ねると、『我に來る者はわれ決してこれを棄てじ』 [ヨハネ伝6:37] と言はれるのを聽きました。そこで私は、『しかし主よ、爾《なんじ》の御許《みもと》に來りて、 私の信仰を正しく爾《なんじ》の上に置くためには、どういふやうに爾《なんじ》を考へねばなりませんか』と言ふと、 『基督耶蘇は罪人《つみびと》を救はんために世に來れり [テモテ書(1)1:15] 。彼は凡て信ずる者の義とせられんために、律法《おきて》の終りとなれり [ローマ書10:4] 。彼は我等を愛し、その血を以つて我等の罪を洗ひ潔《きよ》めたり [黙示録1:5] 。彼は神と人との間に立てる中保者《なかだち》なり [テモテ書(1)2:5] 。彼は我等のために懇求《とりな》さんとて恆に生くるなり』 [ヘブル書7:25] と言はれました。これらの事からして、私は主の人格《ひとゝなり》の裡《うち》にある義を眺むべきこと、 又主の血によりて十分にわが罪を洗ひ潔《きよ》めらるべきこと、 又主が天父《ちゝ》の律法《おきて》に服《したが》つて、刑罰に身を渡されたのは、 御自分のためではなくつて、その救ひを受けて感謝する者のためであることを悟りました。 それからといふものは私の心は喜悦《よろこび》に滿ち、私の眼は涙に滿ち、 私の情は耶蘇基督の御名とその民とその路とに憧がれるやうになりました[。] 基。「それこそ貴君の靈魂《たましひ》に基督が現はれたまうたのです。 それがために貴君の靈がどんな風になつたか、詳しくお話し下さい」 有望。「それに依つて私はこの世の中は凡てその義《たゞ》しきに係はらず、 罪を定められる状《さま》にあることを悟りました。又天の父は自から義《たゞ》しくゐましたまふのだが、 罪人《つみびと》の來るを悦び、これを正しくも義《たゞ》しき者とせられることを悟りました。 又それに依つてこれまでの生活の卑しきことが大いに恥かしくなりました。 又自分の無知なることを感じて當惑しました。 耶蘇基督がそれほど美《うる》はしく見えることがあらうとはそれまで想《おもひ》もよりませんでした。 又そのために聖《きよ》い生活が好きになつて、 主耶蘇の名譽《ほまれ》と榮光《さかえ》のためならいかなる事をも爲したいと願うに至りました。 私の身體に千|斛《こく》の血があるとしても、今やそれを主耶蘇のために濺《そゝ》ぎ盡したいと想ひました」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:十三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:十三 やがて私が夢の中で見てゐると、有望者は後を振向いて、先程後に殘した無學者がついて來るのを眺めた。 で、彼は基督者に向つて、「あれ、あそこに先刻《さつき》の若者がぶら〜゛とやつて來ますよ」 基。「えい、成程來ますな。しかし私共と連れ立たうとも思はぬやうですな」 有望。「でも、今まで私共と一緒に歩いたら、惡くはなかつたでせうに」 基。「それは實際です。しかし彼はさう想つてゐないでせうよ」 有望。「それはさうでせう。しかし待つてゐてやりませう」 二人は待つてゐた。やがて基督者は若者に向つて、「やあ、早くお出でなさい。 どうしてさう逡巡《ぐづ〜゛》してゐるのですか」 無學。「獨り歩きが好きですからな。好い連《つれ》がない以上はこの方が善いです[」] そこで基督者は有望者に向つて、(ひそ〜と)「どうです、私が言つた通り、彼は私共と一緒に歩くのがいやなんです。 しかし兎に角」と言葉を次いで「お出でなさい。茲《こゝ》は寂しい所だから、 暫らく話しながら行きませう」。やがて無學者に話しをむけて、「どうです、その後はお變りもありませんか。 神と貴君の靈魂《たましひ》との間柄は今どんなです」 無學。「まあ、善いですな。私はいつも善い心持に胸が一杯なので、途《みち》を歩きながらも心が愉快です」 基。「どんな善い心持ちですか。お話し下さい」 無學。「神と天のことを想ふからです」 基。「想ふだけなら惡魔も永罰を受けた人もいたします」 無學。「ですが、私はそれを想ひ、又それを慕ふのです」 基。「來ることを好まぬ者でもそれだけのことはします。『怠たる者は心に慕へども、得ることなし』 [箴言13:4] です」 無學。「ですが、私はこれを想つて、そのために一切を捨てました」 基。「それは疑がはしい。一切を捨てるといふのは六ヶ敷いことです。さやう、 想つたよりも六ヶ敷いことです。それは兎に角どういふ譯で、 又どうして貴君が神と天とのために一切を捨てるやうになつたのですか」 無學。「私の心がさうしろと申しますので」 基。「賢い人は『おのが心を頼る者は愚人なり』と言つてゐますぜ」 無學。「それは惡い心を言つたのです。私のは善い心で」 基。「どうしてさう言へますか」 無學。「天のことを望ませて私を樂しますからです」 基。「それは心の僞《いつは》りによるかも知れないでせう。 人の心といふものは未だ望みをおく土臺もないことを望ませて、人を樂しませるですからな」 無學。「しかし私の心と生活とは善く一致してゐますから、私の希望《のぞみ》には確かな土臺があるのです」 基。「貴君の心と生活とが善く一致するとは誰が言ひましたか」 無學。「私の心がさう言ひました」 基。「それも貴君の心が言ふのですか。自分が盜賊《どろぼう》でも、自分には解らないから、 友逹に聽いて見ろといひますぜ。さういふことは神の言葉のほかには證據はないです。 他の證據は何んの役にも立ちません」 無學。「でも、善い思想を持つのは善い心ぢやないですか。 それから神の訓戒《いましめ》を守るのは善い生活でせう」 基。「さやう、善い思想を持つのは善い心で、神の訓戒《いましめ》を守るのは、善い生活ですが、 それも實際行ふのと、唯それを考へるのとは、全く別な事ですからな」 無學。「貴君はどういふことを善い思想、又神の訓戒《いましめ》を守る生活と思ひなさるのですか」 基。「善い思想にも種々《いろ〜》あります。私共自身のこと、神のこと、基督のこと、 その他種々《いろ〜》のことがありませう」 無學。「私共自身に關する善い思想とはどんなことですか」 基。「神の言葉に適ふやうなことです」 無學。「どういふ時に私共自身のことに關する思想が神の言葉に適ひますか」 基。「私共自身に關する判斷が神の言葉で判斷する所と變らない時にです。 これを説明しますと、神の言葉に生れつきのまゝなる人に對して、『世に義人なし、善をなす者なし』 [ローマ書3:10] [詩編14:1] といふてありませう。それから『人の心の思念《おもひ》の凡て圖るところは恆に唯惡しきことなり』 [創世記6:5] とあります。それから『人の心の圖るところは、その幼なき時より惡し』とあります。 さて自分のことを考へて、成程その通りだと思へるなら、私共の思想は神の言葉に合ふたので、 善いものといへるのです」 無學。「私の心はそれほど惡いものとは、信じられません」 基。「それだからして、貴君は生まれてこの方自分のことについて、一度も善い思想を持たないのです。 それは兎に角、神の言葉は私共の心を判斷するやうに、私共の行爲《おこなひ》をも判斷します。 私共の心と行爲《おこなひ》とに對する思想が、神の言葉で判斷する所に一致すれば、 その一致する故に兩《ふた》つとも善いのです」 無學。「といふ譯は」 基。「神の言葉に人の道は曲つた道なので、善くない、戻れるものである [詩編125:5] とか、人は生れながらにして善き道を知らず、これを離れたとか、言ふてありますが、 さて人が自分の行爲《おこなひ》を考へて、謙遜な心を以つて、成程その通りだと言ふなら、 それこそ自分の行爲《おこなひ》に對して善い思想を持つてをるのです。 なぜなればその思想は神の言葉の判斷と一致しますからな」 無學。「神に關する善き思想とはどういうことですか」 基。「それも私共自身に關するものと同じやうに、 神に對する私共の思想が神の言葉に言ふてある所と一致することです。 即ち神の在《ゐま》すことやその性質について、神の言葉に教へてある通りに私共が考ふることです。 さういふことは今|茲《こゝ》に言ひ盡すことは出來ませんが、 唯神と私共の關係について申せば、 神は私共が自ら知るよりも一層善く私共を知り又私共が自ら罪なしと思ふ時に又場合に神は私共の罪を知りたまふと考へたり、 神は私共の最も深き思想《おもひ》を知り、又私共の心はその奧深き底までも、 常に神の眼の前に開け放たれてゐると考へたり、又凡て私共の義は神の鼻に着くので、 私共がどんな善いことを仕ても、それを依頼《たより》にして神の前に立たうとしても、 神はそれを見るに堪へたまはぬといふやうなことを考へたりするのは、 これ私共が神に對して善き思想を持つからです」 無學。「私だつてそれほど馬鹿ではないから、神が私よりも遙に能く見たまふことや、 どんな善いことをしても、それで神に近づくことが出來ぬ位のことは考へてゐます」 基。「それなら、どうしやうと思ひますか」 無學。「手短にいへば、義とせられるためには、基督を信ぜねばならぬと思ひます」 基。「それは又どうしてゞす。貴君は基督の必要なことを認めもせずに、 これを信ぜねんばならぬと思ふのですか。それから貴君は生れつきの欠點も、又現在の欠點も認めてゐないでせう。 それから又貴君の言ふことゝ爲さる所を見ると、まるで基督御自身の義によらずとも、 神の前に自分を義《たゞ》しうすることが出來るといふ人のやうですな。 それでも貴君は基督を信ずると言ひますか」 無學。「私は充分に能くそれを信じます」 基。「どういふやうに信じますか」 無學。「私は基督が罪人《つみびと》のために死にたまひしことを信じます。 私がその律法《おきて》を守りますと、主の恩寵《めぐみ》を受けますから、 それに依つて咒詛《のろひ》を赦されて神の前に義とせらるゝのであります[。] 即ち基督はその功徳《いさほし》に依つて、天父《ちゝ》の御旨にかなふやうに、 私に宗教の務《つとめ》をして下されたので、そのために私は義とせられるのです」 基。「貴君のその信仰の告白に對して、私に答へさせて下さい。 第一、貴君の信ずる處は空想の信仰です。そんな信仰は神の言葉の何處にも記されてゐません。 第二、貴君の信ずる所は僞《いつは》りの信仰です。 何故なれば基督御自身の義によりて潔《きよ》いものとせらるゝことを採りて、 自分の義にそれを適用《あては》めるからです。 第三、さいうふ信仰では、基督は貴君の人格《ひとゝなり》を義とするのでなくつて、 貴君の行爲《おこなひ》を義とせられるのです。 貴君の行爲《おこなひ》のために貴君の人格《ひとゝなり》が義とせられるといふのあ僞《いつは》りです。 第四、それ故さういふ信仰は欺僞《さぎ》的のものなので、審判《さばき》の日に貴君は神の怒を免れることは出來ません。 眞正《まこと》に義とせられるゝ信仰は、 人の靈魂《たましひ》が律法《おきて》に依つて失はれたる境遇《ありさま》にあることを感じて、 基督の義に避難所《かくれが》を求めることなのです。 (その基督の義といふものは、人の行爲《おこなひ》が神の御旨に適つたので、 義としてやらうといふ恩寵の働きではなくつて、基督御自身が律法《おきて》に從ひなされて、 私共の身代りになつて、私共の爲すべき筈のことをなし、又受くべき筈の苦しみを受けなされたのです)。 この義こそ、眞正《まこと》の信仰の承認する所ですから、その裾の下に、 人の靈魂《たましひ》は蔽はれて、初めて神の前に汚れなきものとして現はれることが出來るのです。 赦されて刑罰から脱《まぬ》かれることの出來るのはさういふ次第です」 無學。「何んですと。基督御自身は別に私共のために爲された譯でないでせうに、 それに頼らうとなさるのですか。そんな己惚から、私共の煩惱の手綱は弛んで、勝手氣儘な生活をするやうになるのです。 信じさへすれば、基督御自身の義に依つて全く赦されるとすれば、どんな生活をしても顧《かま》はないことになるでせう?」 基。「無學といふのは貴君の名前ですが、成程貴君は名前のやうな方ですな。 私の言つたことに對する貴君の答へを見ても解ります。貴君は罪を赦す義とはどんなものか知らないです。 又その信仰に依つて神の重い怒を免かれて、貴君の靈魂《たましひ》を安全にすることも知らないです。 それから又貴君は基督のこの義を信ずることの眞正《まこと》の功驗《しるし》を知らないです。 それは基督に在る神に全く心を傾け盡して、その御名とその言葉とその道とその民とを愛することであつて、 貴君のやうな何も知らぬものが想像するやうなことではないです」 有望。「基督がいつかこの人に現はれたことがあるかどうか尋ねてごらんなさい」 無學。「何んです、神が人に現はれるですと。貴君方でも誰でも、そんな事を言はれるのは、 頭の狂つてゐる結果《せい》だと信じますな」 有望。「驚きますな。基督は神の裡《うち》に隱れてゐますので、 普通《あたりまへ》のことでは肉の眼には留らないです。 誰でも基督を充分に知らうとすれば、父なる神が基督を現はして下さるのを待たねばならんです」 無學。「それは貴君の信仰でせうが、私の信仰ではありません。 私の信仰も勿論貴君方の信仰のやうに善いものではあるが、唯私の頭には貴君方のやうに澤山な妄想がないだけです」 基。「私に一言させて下さい、その事はさう輕々しく言ふてはいけませぬ。(私の同伴《つれ》も言はれたやうに、) いかなる人でも、天父《ちゝ》の示現《しめし》がなければ耶蘇基督を知ることは能はざることを私は斷言して憚りませぬ。 いやそればかりか、靈魂《たましひ》を確《しか》と基督に委ねる信仰も、(それが正しければ) 矢張それは神の大《おほい》なる力が働いたからです[。]その信仰の働きについても、 氣の毒にも無學なる貴君は知らないのです。だから、目を醒して、自分の淺ましい事を悟つて、 耶蘇基督の許《もと》に飛んで行きなさい。基督の義は即ち神の義ですから(基督自身が神なので)、 それに依つて貴君は刑罰から救はれるのです」 無學。「貴君方はあまり足が早いので、私は一緒に歩けません。どうぞお先きへお出で下さい。 私は暫らく後に留まります」 そこで二人は歌つた。 「無學の者よ、十度《とたび》まで、   善き勸めをば輕んぜよ。 汝《なれ》は愚かといふべけれ。   汝《なれ》はそれをば拒むとも、 久しき前にかくなせる、   その惡しきをば悟らなん。 人よ早くも、思ひ出で、   身を屈するも、怖るゝな。 善き勸めをば守れかし、   なほもこれをば輕んぜば、 滅ぶる者とならんこと、   鏡にかけて見るごとし」 やがて基督者は同伴《つれ》に向つて恁《か》う言つた。 基。「さて、有望者さん、貴君と私とは又二人で歩かなければなりませんな」 私が夢の中で見てゐると、二人は先へ急いで行つた。無學者は後からぶら〜とやつて來る。 基督者が同伴《つれ》に向つて、「いかにも可哀想な男ですな。やがてどんでもない事になるに相違ない」 有望。「あゝ、私共の町にさへ、こんな有樣で居る者は澤山ですからな。 一家族全體、街全體どころか、都詣での旅人にもありますからな。 私共の方にさへそれですから、あの人の生れた所にはどれだけあるか解らんでせう」 基。「主彼等の見ざらんがために、その目は盲《くら》くせり云云《しか〜゛》 [ヨハネ伝12:40] といふ言葉は實際ですな。さてこれから二人切りで話しませう。 貴君はかういふ人逹についてどう思ひますか[。]貴君のお考へでは、かういふ人逹が罪を悟り、 又それに依つてその状態《ありさま》が危ういことを怖れる時機があると思ひますか」 有望。「いや、お先きにその答へを聽せて下さい。貴君の方が年上ですから」 基。「それなら申しますが、時にはさういふこともあると思ひます。 彼等は生れながらの無學で、罪を悟ることがつまりその益をなすことを知らないです。 だから無暗《むやみ》とそれを打ち消さうとしたり、 憚かるところもなく絶えず自分の心の慾するまゝに我とわが身に諂《へつら》つてゐるのです」 有望。「仰せの如く、私もさういふ恐怖《おそれ》はつまりあの人逹の益をなすと信じます。 又それに依つて都詣での門出を正しくすべきでせう」 基。「その恐怖《おそれ》が正しいものなら、それに相違ありません。 『神を畏るゝは智慧の始めなり』 [ヨブ記28:28] といふ言葉もありますからな」 有望。「正しい恐怖《おそれ》については、どう御思ひですか」 基。「眞正《まこと》の恐怖《おそれ》或ひは正しい恐怖《おそれ》といふものは、次の三つの事で知られます。 第一、その起源《おこり》に依つて知られます。即ちその恐怖《おそれ》は罪を悟ることに依つて起るのです。 第二、その恐怖《おそれ》は人の靈魂《たましひ》を基督に追やりて、 これに堅く把握《つかま》つて救《すくひ》を求めさすのです。 第三、その恐怖《おそれ》は神とその言葉とその路とを大《おほい》に尊敬する念を人の心に生じて、 これを繼續せしめます。人の心はそのために柔《やさ》しくなつて、その路を離れて、右や左に向つて、 神の御名を汚したり、その平和を破つたり、聖靈を悲しませたり、 或は敵の惡口を言つたりすることを恐れ愼しむやうになります」 有望。「成程、仰《おつし》やる所は眞理です。それはさうと私共はもう迷魂《まよはし》の地を越えましたらうか」 基。「どうしてゞす?この談話《はなし》に飽きましたか」 有望。「いや、さうぢやないですが、私共が今何處に居るのか知りたいものですから」 基。「さやう、茲《こゝ》を越えるにはもう二哩とありません。まあ、談話《はなし》に返りませう。 今言ふやうな譯ですのに、あの無學者はかやうに罪を悟ることを怖れるばかりで、それが身の益になることを知らないから、 打ち消さうと努めるのです」 有望。「どうしてこれを打ち消さうと努めますか」 基。「第一、彼等はさういふ恐怖《おそれ》が(實は神の仕業であるのに)惡魔の仕業だと思ふので、 自分等を直接滅びに導くものとしてこれを拒むのです。 第二、彼等は又さういふ恐怖《おそれ》が自分等の信仰を損《そこな》ふものと思ふのです。 所で彼等は憐れむべきかな、その信仰を全く持つてゐないのですから、 却つてその恐怖《おそれ》を拒むので心が頑なになるのです。 第三、彼等は恐れる必要などないと早合點するものだから、恐れることがあつても、無遠慮に自分を頼んで何氣ない振をします。 第四、その恐怖《おそれ》は自分逹の憐れな古い己惚心を取り去られる傾きがあるので、 有らん限りの力を盡してこれに抗《さから》ふのです」 有望。「それに就《つい》て尠《すこ》しは私にも身に覺へがあります。 自分のことを知らぬ前には、私も矢張さうでしたからな」 基。「もうこれで、あの無學者のことは切りあげて、他の有益な問題を話しませう」 有望。「それは何によりです。どうぞお始め下さい」 基。「それなら、御存じですか。十年ばかり前に、貴君の地方に、一時者といつて、宗教に熱心な人がありましたのを」 有望。「えい、知つてゐます。正直の町から二哩はなれた悖徳《はいとく》町の者で、 復歸某《あとかへりぼう》の隣家《となり》に住んでゐました」 基。「それです。復歸者《あとかへりもの》とは同じ屋根の下に住《すま》つてゐました。 そこであの男は一時餘程心が醒めてゐまして、自分の罪とその報ひをも認めてゐたやうでした」 有望。「私もさう思ひました。(私の家はあの人の許《ところ》から三哩とは離れてゐなかつたですが)、 折々私の許《ところ》へ來ては、はら〜涙を流してゐました。實際私も氣の毒に思ひまして、 幾らか望みをかけてゐましたのですが、それでも、主よ、主よと叫ぶ者、 悉《こと〜゛》く望みがあるわけでもありませんからな」 基。「一度彼は私共が今仕してゐるやうに都詣でに行くつもりでしたが、 不圖《ふと》惜身某《ほねをしみぼう》といふ者と知合になつてから、私とは全く遠ざかつてしまひました」 有望。「あの人のことを語る序《ついで》に、 あのやうな人逹が突然後戻りする理由《わけ》を尠《すこ》しばかり研究しませう」 基。「それは大變有益ですな。先づおさきへ」 有望。「私の見る所では、それには四つの理由があると想ひます。 第一、さういふ人逹の良心は醒めてゐても、意《こゝろ》は未だ改たまつてゐないのです。 だから、罪を悟る力が次第に薄らぐに從つて、信仰を勵ます力も止むので、自然と元の通りになつてしまうのです。 食傷した犬を見てゐると、苦しい間だけは、喰つた物を皆な吐き出して棄てませう。 しかしそれは(若し犬に心があるなら)、心に好いてさうするのでなくつて、唯胃が苦しいからです。 だから病氣が癒《なを》つて、胃が樂になると、元より吐いた物に未練があるので、 やがて身をめぐらして、皆な舐めてしまひます。『犬かへり來りて、その吐きたる物を喰ふ』 [ペテロ書(2)22:12] といふのは眞實《ほんたう》のことですな。私が恁《か》う申すのは、さういふ人逹が天國のために熱心なのは、 唯地獄の呵責を感じて怖れるからなので、若しその地獄の感じと刑罰の恐れが寒《さ》めて冷たくなると、 それと同時に天國と拯救《すくひ》とに憧れる心も冷たくなつてしまうからです。 つまる所、罪と怖とが消え去ると、天國とその幸福《さいはひ》に憧れることも無くなるので、 遂に舊《もと》の路に還るのですな。 第二の理由といふのは、彼等が卑屈な恐怖《おそれ》に壓服されてゐることです。 それは何にかといふに人を怖れることです。『人を恐るゝ者は罟《わな》に落ち入る』 [箴言29:25] とある通りです。それだから地獄の焔が耳の側でぽつ〜と燃えてゐる間は、 天國のことに熱心のやうですが、やがてその恐怖《おそれ》が尠《すこ》し薄らぐと、 忽ち想ひ直しをします。即ち一切を捨てるといふやうな危險(それがどういふ譯か解らぬものだから) を冐さぬ方が賢こくあるまいか、 いや尠《すく》なくとも避けられない無益な難儀に遇はぬやうにする方が賢こいのだと思つて、 又|舊《もと》の俗人に歸るのです。 第三、宗教に伴なふ耻《はづか》しめも、彼等の路の躓きとなるのです。 彼等は高慢で生意氣なものですから、宗教もその眼には低く卑しく見えます。 だから地獄と來るべき怒の感じを失なうと、又|舊《もと》の路に歸つてしまうのです。 第四。罪あること及び恐怖《おそれ》を深く考へることは、彼等の禁物です。 自分の不孝でもその來ない内は、そのために慮《おも》んぱかることを好まないです。 假令《たとへ》初めの内だけは行末の不幸を見て、 義《たゞ》しき人のやうにそれから遁れやうとするので、安全なこともありますが、 今も言ひましたやうに、それは罪と恐怖《おそれ》の想ひを避けたいからで、 一度その恐怖《おそれ》と神の怒に目醒めた心がなくなると、歡んでその心を頑《かた》くして、 又|嗜《す》き好んで、ます〜頑《かた》くなるやうな路に行つてしまうのです」 基。「いかにもさうです。つまる所、その意《こゝろ》と志とが改たまらないのが欠點です。 恰度彼等は裁判官の前に立つ重罪人のやうですな。ぶる〜震へて、心から改心してゐるやうに見えるが、 つまるところ絞首索《しめなは》を恐れてゐるので、聊《いさゝ》かもその犯した罪を憎んでゐるのではないのです。 これ故この人を赦して自由にして御らんなさい。矢張|盜賊《どろぼう》であり、惡者であるのです。 しかし其の意《こゝろ》が改まれば、決してそんな事はありません」 有望。「私は彼等が後戻するわけを申しましたから、貴君はどうぞその仕方を聽せて下さい」 基。「悦んで申しませう。先づ第一に、彼等は出來るだけ神のこと、死のこと、 來るべき審判《さばき》のことを忘れて考へないやうにするのです。 第二に、密室の祈りや、肉慾を制することや、用心することや、 罪を悲しむこと其他の私《ひそ》かなる勤行《つとめ》を次第にやらなくなるのです。 第三に、活々《いき〜》した温情《あたゝか》な基督者との交際《まじはり》を止めるやうになるのです。 第四に、それから説教を聽くこと、聖書を讀むこと、 聖《きよ》い會衆《つどひ》に連らなること其他の公けの勤行《つとめ》に冷淡になるのです。 第五、それから信者の身の上について穴探しを始めて、しかも(見つけ出した他人《 ひと》の弱點を擧げて)、 自分が宗教を投げすてる口實に色をつけるやうな惡魔らしいことをやります。 第六、それから肉的なだらしない放蕩者などを慕つて、これと交はるやうになるのです。 第七、それから窃《ひそか》に肉的な猥褻な談話《はなし》などをやり出して、 正直だと想はれてゐる人にさういふ話をする者でも見つけると嬉し歡んで彼の人だつてと言つて、 尚ほ憚からずその例に倣《なら》うに至るのです[。] 第八。その後は小さな罪は公然犯すやうになるのです。 第九。やがて頑くなになつて、その本性を表はすのです。 かうして再たび災禍《わざはひ》の灣に船卸《ふなおろ》しをやるのですから、 竒《く》すしき恩寵《めぐみ》に救はれなければ、自分を欺むいて、永久に滅びてしまうのです」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇:十四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇:十四 今や私が夢の中で見てゐると、この時旅人逹は迷魂《まよひ》の地を通り過ぎて、ベラウ(配偶)の地 [イザヤ書62:4] に入つた。そこの空氣はいとも快く愉快であつた。路も眞直にその中を通じてゐたので、 二人は暫らくそこに憇《やす》んで樂しんだ。げに茲《こゝ》には絶えず諸鳥《もゝとり》の歌ふ聲が聽えて、 もろ〜の花が日毎に地に咲き出づるのを見た。班鳩《やまはと》の聲もこの地に聽えた [雅歌2:12] [。]この國には夜も晝も日が輝やいた。茲《こゝ》は死の蔭の谷から遠く離れて、 巨人絶望者の手の屆かぬ所であつた。此所《こゝ》から疑惑城などはとても見えなかつた。 又茲《こゝ》から二人の指して行く都が鮮然《はつきり》と見えた。又茲《こゝ》で二人はその都の住人に幾人か遇つた。 この地は天國の境界《さかひ》なので、輝やける者共が絶えず往來してゐるのであつた。 又この地で新婦《はなよめ》と新郎《はなむこ》の約束が新たにせらるゝのであつた。 「新郎《はなむこ》の新婦《はなよめ》を悦こぶ如く、汝の神なんぢを喜びたまふべし」 [イザヤ書62:5] とあるは此處《こゝ》である。茲《こゝ》に二人は穀物と酒とに乏しくなかつた。 道中で求めた物は皆な此所《こゝ》に充分あるのであつた。茲《こゝ》で彼等は都の方から來る聲を聽いた。 それは高い聲で、「汝らシオンの女《むすめ》に言へ。視よ、汝の救ひ來る。視よ、主の御手にその恩寵《たまもの》あり」 [イザヤ書62:11] といふのであつた。又こゝの人民は、「聖《きよ》き民よ、主にあがなはれたる者」 [イザヤ書62:12] などと互ひに呼ぶのであつた。 さて二人はこの地に歩み入ると、この國に憧がれながら、遠く離れた所に居つた時よりも、 その喜びは一層であつた。猶ほ次第に近づくと、都の全景が益ます明らかになつて來た。 眞珠と寶石で建てられた都である。街道《とほり》には黄金《こがね》が[石|甫]《し》いてあつた。 いかにも自然に出來上つてゐる。都の榮光《さかえ》が日の光にきら〜と反射するのを見て、 基督者は懷かしさ氣病みした。有望者も同じ煩《わづ》らひに心をなやました。 二人は暫らく路傍《みちばた》に横たはつて、苦しさに聲を放つて、 「若しわが愛する者に逢はじ、われ愛によりて疾《や》み煩《わづ》らふと告げよ」 [雅歌5:8] と叫んだ。 やがて少し元氣づいて、煩《わづら》はしき想ひが稍々《やゝ》堪へられるやうになつたので、 二人はその路を進んで、尚ほ益ます近づくと、そこには果樹園《くだものばたけ》があるし、 葡萄園《ぶどうぞの》があるし、花園があつて、その入口は皆往來に向つて開け放してあつた。 今しも二人が其處《そこ》へやつて來ると、見よ、園丁《にはつくり》が路に立つてゐた。 旅人は園丁《にはつくり》に向つて、「この立派な葡萄園と花園は何誰《どなた》の所有《もの》ですか」と問ねた。 園丁《にはつくり》は答へた。「これは大君の所有《もの》で、 御自分の樂しみに又旅人の慰めになるやうに茲《こゝ》に培養なさるのです」 かう云つて、園丁《にはつくり》二人を葡萄園に案内して、美味い果實《くだもの》を馳走した。 それから大君の樂しみにせられる遊歩場や小亭《あづまや》などを見せてくれた。 そして二人は茲《こゝ》に足を留めて眠つた。 さて私が夢の中で見てゐると、この時二人はこれまで道中で仕なかつた程、 寢ながら話しをするのであつた。それを訝《いぶ》かしく想ふと、園丁《にはつくり》はやがて私に向つて、 「この事を不思議に思ふのですか。これはこの葡萄園の葡萄の味がいかにも美味いので、 『睡れる者の口を動かしめ』 [雅歌7:9] るのです」 やがて私が見てゐると、二人は目を醒して、都をさして出かけませうと互ひに言つた。 ところで前にも言つたやうに、この都は純金なので [黙示録21:18] 、日の光がそれに映つていかにも華やかにきら〜するので、日遮《ひよけ》の道具でも用ひなければ、 中々|面《おもて》を向けて見てゐられなかつた。私が見てゐると、二人はやがて進んで行くと、 二個《ふたり》の人に出遇つたが、その衣は黄金《こがね》のごとく輝やき、 又その顏は光のごとく輝やいてゐた。 この人々は二人に向つて、何處から來ましたかと問ねたので、二人はそのことを話した。 彼等は又何處へ宿《とま》つて、道中ではどんな困難や危險に遭ひ、 又どんな慰安《なぐさめ》や愉快《たのしみ》に遇つたかと問ねたので、 そのことをも話した。やがてその人々は言つた。「貴君方はこれからまだ二つの困難に出遇ひませう。 それから都へ入れます」 そこで基督者とその同伴《つれ》はその人々に一緒に行つて下さるまいかと頼んだ。 すると彼等はさうしませうと言つたが、「しかし貴君方は自分の信仰でそこに逹せねばなりません」と附言《つけた》した。 そこで私が夢の中で見てゐると、彼等は連れ立つて、門の見える所まで一緒に行つた。 更に私が見てゐると、彼等とその門との間には、一つの河があつた。けれども渡るべき橋がない。 そして河は甚だ深かつた。で、この河のあるのを見て、旅人逹は大いに困却した。 所が一緒に來た人々はかう言つた。「貴君方はこの河を渡らなければなりませぬ。 さもなければあの門へ行くことは出來ないのです」 そこで旅人逹は「あの門へは他に路がありませんか」と問ねた。彼等はそれに答へた。 「無いでもありませんが、世の基《もとゐ》の置かれて以來、その路を踏むことを許されたのは、 たゞエノクとエリヤの二人だけです。その他の者は終りの喇叭の鳴る時まで、そこを通ることを許されません」 そこで旅人逹、殊に基督者は落膽《がつかり》してしまつて、彼此《あちこち》と眺めて見たが、 この河を遁れることの出來る途《みち》はとても見つかりさうでもなかつた。 そこで二人は人々に向つて、「この河は何處も水が深いでせうか」と問ねた。 すると彼等は「いやさうでもありませんが、兎に角この場合貴君方に力を貸すことは出來ません」と言つて、 尚ほ言葉をついで、この河の深いも淺いも、つまり此所《こゝ》の大君に對する貴君方の信仰次第です」 そこで二人は身仕度をして、水に入つたが、直ぐに基督者は沈みさうになつたので、大聲を擧げて、 善き友である有望者に向つて、「私は深い水に落ちました。浪が私の頭の上を越しました。 主の波が私の上を行きます」 [詩編69:2,42:7] と言つた。 有望者は言つた。「確然《しつかり》なさい、兄弟。川底《そこ》に足が着きます、大丈夫です」 基督者は言つた。「あゝ、もう、死の悲しみに圍まれたので、私はとても乳と蜜の流れる地を見られません」 [出エジプト記3:8] 。 時しも大いなる暗黒《やみ》と恐怖《おそれ》が基督者の上に落ちかゝつたので、前を見ることも出來なかつた。 その上非常に氣が遠くなつて、これまで道中で出遇つた種々《いろ〜》元氣を與へられた經驗を思ひ出すことも出來ず、 順序立つて話すことも出來なかつた。けれども口走る所によると、この河で死すべきこと、 到底《とても》天國の門へ逹することが出來ないことを心に怖れて痛く心配してゐるのがあり〜と知れるのであつた。 側に立つてゐる人々が認めたやうに、彼は旅に出てからと、その前に、自分が犯した罪を想ひ出して惱みに惱むのであつた。 又その仕切なしに喋舌《しやべり》ちらす言葉に依つて察すると、化物や惡靈が現はれて彼を惱ますのであつた。 それ故有望者は非常に苦心して兄弟の頭を水に沈まぬやうに支へてゐた。それでも幾度《いくたび》も全く沈んでしまつて、 暫らくして浮き上つたが、もう半ば死んでゐるやうであつた。有望者は心を盡して彼を撫《いた》はつて恁《か》う言つた。 「兄弟、門が見えますぞ。多勢《おほぜい》その側に立つて私共を出迎へてゐますぞ」。 けれども基督者は答へた。「貴君を、貴君を出迎へてゐるのです。貴君の望み有ることは前から解つてゐます」。 「貴君も同然ですぞ」と有望者が基督者に言つた。「あゝ、兄弟」、と基督者は言葉をつゞけて、 「私が義《たゞ》しかつたら、確然《きつと》主は今起つて、助けて下さるでせうが、 私の罪のためにこんな係蹄《わな》に陷いれて、見棄てなさるのです」。 そこで有望者は言つた。「兄弟、貴君は惡人に對して言はれた言葉を全く忘れなすたか。[原文のまま] 『彼等は死ぬるに苦しみなく、その力は却つて堅し。彼等は人のごとく憂にをらず、 人のごとく患難《なやみ》に遇ふことなし』 [詩編73:4-5] とありませう。だから此の水の中で貴君の苦しみ惱みなさるのは、神から棄てられた徴候《しるし》ではありませんで、 貴君がこれから受けなすつた御惠みを心に思ひ出しなさるか、又惱みの中にも主にありて生きなさるかどうか、 試みるために送られたのですぞ」 その時私が夢の中で見てゐると、基督者は暫らく思案してゐた。有望者は尚ほも言葉を繼いで、 「確然《しつかり》なさい。耶蘇基督は貴君を安全になしたまひますぞ」 すると基督者は忽ち大聲をあげて、「おう、再たび主が見えた。[『]汝水の中を過ぐる時、われ共に居らん。 河の中を過ぐる時、水汝の上に溢ふれじ』 [イザヤ書43:2] と主は私に言はれた」 そこで二人は勇氣を出したので、それから水の敵も彼等が渡つてしまうまで、石の如く靜かになつた。 で、基督者は直ちに足の立ち場を見出した。やがて河も次第に淺くなつた。かくして二人は河を渡つた。 河の向う岸には、兩個《ふたり》の輝やける人が現はれて、彼等を出迎へてゐた。 彼等が河から上ると、挨拶して恁《か》う言つた。「私共は案内の天使《つかひ》でございまして、 救ひの世嗣《よつぎ》となられる方々を案内するために遣《つか》はされました」。 かうして二人は門の方へ案内された。 茲《こゝ》に注意すべきは、都が大いなる岡の上に立つてゐることである。 けれども旅人逹は兩個《ふたり》の人の腕に扶《たす》けられてゐるので、安々とその岡へ登つた。 又その朽つべき衣は河の中へ脱ぎ棄てた。河へ入いる時は着てゐたが、出る時は着てゐなかつた。 それ故二人はいかにも身輕に足早に、雲よりも高い所に築かれた都の敷地へと登つて行つた。 まるで空中をさして行くのだが、途々《みち〜》樂しげに語り合つた。 無事に河を渡つたことや、かやうに榮えある人々と連れ立つことがいかにも嬉しいのであつた。 二人が輝やける人逹と話した所はその場所の榮光についてゞあつた。 かの人逹はその美くしさと榮光《さかえ》とは口に言ひ盡すことは出來ないと言つた。 「あれこそ、シオンの山、天のエルサレムで、千萬《ちよろづ》の天の使《つかひ》の在るところ、 また成全《まつたう》せられたる義人の靈魂《たましひ》の在るところです [ヘブル書12:22,23] 。貴君方は今神の淨樂園《ぱらだいす》へ行つて、生命《いのち》の樹を見、 決して凋《しぼ》みざる果實《このみ》を喰べなさるのでせう [黙示録2:7] 。又そこに御出でになると、白き衣を着せられて、 [黙示録3:5] 、大君と日毎に往來《ゆきゝ》し、又話しをして世々限りなき日に至るでせう [黙示録21:4] 。そこでは地上の下界にある時に見たやうな、悲しみ、哭《なげ》き、痛み、 死といふ物を再び見ることはありません。前の事は既に過ぎ去つたからです [黙示録21:4] 。貴君方は今アブラハム、イサク、ヤコブその他の預言者の許《もと》に行きなさるのです。 それは神が來るべき惡から除外《のけ》られた人逹で、今はその寢床に休んで、 各々その義《たゞ》しきを行つてゐるのです」 そこで二人は問ねた。「私共はかの聖《きよ》い場所で何にをいたすべきでせうか」 かの人々はそれに答へた。「貴君方は彼方《あそこ》でこれまでの凡ての辛苦に代る慰めを受けなさる。 又これまでの凡ての悲哀《かなしみ》に代る歡びを受けなされます。凡ての祈りでも、 涙でも、途上《みち》で大君のために受けた苦しみでも、貴君方の播いたものは、 その實を穫《か》らねばなりません [ガラテヤ書6:7,8] 。彼處《かしこ》では黄金《こがね》の冠を被り、聖《きよ》く在《ゐま》す者の窮《かぎ》りなき姿と面影を喜んで、 その眞《まこと》の状《さま》を見るでありませう [ヨハネ書(1)3:2] 。又|彼處《かしこ》では讚美と鬨の聲と感謝を以つて絶えず主に仕《つか》へられます。 貴君方が世にある時には仕《つか》へたいと思つても、肉の弱さがために中々六ヶ敷かつたですが、 もうそんな事はありませぬ。彼處《かしこ》では貴君方の眼は全能者の姿を見て喜び、 又貴君の耳はその樂しき聲を聽いて喜びなされませう。 彼處《かしこ》で貴君方は先きに世を逝《さ》つた友逹に再び合つて悦び、 又貴君方よりも後にその聖《きよ》い場所に來たる人々を悦んで迎へられるでせう。 彼處《かしこ》で貴君方は榮光と威嚴とに裝はれ、 又|榮光《さかえ》の王と一緒に乘るのに應《ふさ》はしい裝具《そなへ》をなさしめられませう。 主が雲間の喇叭の鳴ると共に風に乘りて來たまふ時、貴君方は主と一緒に來たるでせう [テサロニケ書(1)4:13-14] 。又主が審判《さばき》の座に座りたまふ時、貴君方はその側に座れませう。 又天の使《つかひ》でも人間でも、惡事をなした者に主が宣告をなさる時に、 その者共は主の敵であると同時に、貴君方の敵である故に、貴君方もその審判《さばき》に口出しが出來ませう。 又主が再たび都に還らるゝ時は、貴君方も亦《また》喇叭の音《ね》と共に往《つ》いて、 いつまでも主と偕《とも》に住めませう。 さてかやうに語りながら、門の方へ近づくと、見よ、一群の天軍が現はれて彼等を迎へた。 かの二人の輝やける者はこれに向つて言つた。「これは世に在りし時に、わが主を愛して、 聖名《みな》のために一切を捨てた人逹であります。主はこの人逹を連れて來るやうに私共を送られましたので、 遙々《はる〜゛》その道連れになつて一緒に參りました。 これから内《うち》へ案内して購主《あがなひぬし》に御拜謁させてその欣喜《よろこび》に入れたいと存じます」 そこで天軍は大きな聲を擧げて、「羔《こひつじ》の婚姻の筵《むしろ》に招かれたる者は幸ひなるかな」 [黙示録19:9] と叫んだ。又その時白い輝やける衣を着た王の樂人が數多《あまた》現はれてこれを迎へ、 妙なる樂の音を天にも應《こた》へるほどに高く掻き鳴らした。これらの樂人は基督者とその同伴《つれ》とに挨拶して、 世を離れて來たことを幾千度《いくちたび》となく歡び祝うた。さうして又聲を擧げたり、喇叭を鳴らしたりした。 かうして、二人は四方から取り圍まれた。前に行く者もあるし、後に行く者もあるし、右に行く者もあるし、 左に行く者もあつた。(宛《あた》かも天つ通路《かよひじ》に二人を警護するやうであつた)。 途々《みち〜》絶え間なく妙なる樂の音は調《しらべ》いと高く掻き鳴らされた。 その光景《さま》がいかにも樂しさうで、宛《あた》かも天も下つて來て彼等を迎へるやうに見えた。 かうして一同共に歩いた。歩きながら樂人逹はいよ〜歡ばしき音《ね》を掻きならしたが、 その音樂につれる顏色と身振を見ても、いかに基督者とその兄弟とがその仲間に歡んで迎へられたかゞ解つた。 今やこの二人は天國へ入らざる先きに、見渡すかぎり天の使《つかひ》の群に圍まれて、 その妙なる調《しら》べを聽いたので、もはやその中にある心地した。それに此處《こゝ》からは都も一目に見えた。 都では凡ての鐘が鳴り響いて彼等を迎ふるやうに想はれた。 いや、別《わ》けても自分逹もこの人逹と一緒にいつまでも限りなくそこに住へるのだと想へば、 温かな嬉しい想を身にひし〜と覺ゆるのであつた。舌にも筆にもそのこよなき歡喜《よろこび》を現はすことは出來ない。 かうして彼等は門に到着した。 さて門に着いて見ると、その上には金文字でかう記してあつた。 この衣を洗ひし者は幸ひなり。彼等は生命《いのち》の樹の實を受くるの權を有し、又門より城に入ることを得べし」 私が夢の中で見てゐると、輝やける人逹がその門におとづれるやうに二人に告げた。 二人がさうすると、直ちに或る人逹が門の上から此方《こちら》を眺めた。 それはエノク、モーセ、エリヤといふやうな人逹である。案内の人々はこれに言つた。 「この旅人逹は此處《こゝ》の大君を愛する所から、滅亡《ほろび》の市《まち》より來た者であります」 すると旅人逹は初めに受け取つた證状《てがた》の卷物を差し出した。 それが王の御前《みまえ》に運ばれると、王はそれを讀んで、「この人逹は何處に居りますか」と言はれた。 「門の外に立つて居ります」と人々は答へた。 王はやがて門を開けるやうに命じて、「眞理を保てる義《たゞ》しき國民を入らしめよ」 [イザヤ書26:2] と言はれた。 今や私が夢の中で見てゐると、この二人は門に入つて行つた。視よ、その入ると同時に、二人の姿が變つた。 その着たる衣物《きもの》は黄金《こがね》のやうに輝やいた。 縱琴と冠を持てる者が亦《また》二人を迎へて、それを與へた。 その縱琴は讚美するため、その冠は榮譽《ほまれ》の表象《しるし》である。 やがて私が夢の中で聽いてゐると、都中の鐘が悉《こと〜゛》とく喜びに鳴り響いた。 又「わが主の歡樂《よろこび》に入れよ」 [マタイ伝25:21] と言はれた。 かの二人も大きな聲を擧げて、かう歌つた。「願はくは、讚美と尊敬《たふとき》と榮光《さかえ》と權力と、 寶位《くらゐ》に坐する者および羔《こひつじ》の上に歸して、世々限りなからんことを」 [黙示録5:13] さて門が開いて二人を入れやうとする時、恰度私は後から眺めてゐた。視よ、都は日輪のごとく輝やいてゐた。 街道《とほり》には黄金《こがね》が[石|甫]《し》きつめられた。そこを往來する人逹は皆な頭に冠を被つて、 手に棕櫚の葉と黄金《こがね》の縱琴を持つて、讚美を歌つてゐた。 又そこには翼のある者も居つて、絶間なく互ひに呼び合つて、「聖なる、聖なる、聖なるかな、主よ」 [黙示録4:8] と言つた。やがて間もなく門は閉められた。私はそれを見ると、自分もその内に入りたかつた。   さて私はすべて此等の事を眺めてから、頭《こうべ》をめぐらして後を眺めた。 すると無學者が河の側までやつて來たのが目についた。やがて彼はそこを渡つたが、 前の二人が出遇つたやうな難儀を半分もしなかつた。實は其處《そこ》に空望者といふ船頭があつて、 その小舟で彼を渡したのであつた。そして彼は前の人逹のやうに、岡を登つて、門に逹しやうとした。 けれども彼は唯一人である。誰ありて彼を迎へて尠《すこ》しでも勵ましてくれなかつた。 彼は門までやつて來て、その上に記してある文字を見上げた。そして直ちに入れるものと想つて、叩き始めた。 然るに門の上から人々が見おろして、「何處から來ましたか、どうしたいのですか」と問ねた。 「私は王の前にて飮み食ひしたことがあります。又王はわが街道《ちまた》で教へられたことがあります」 [ルカ伝] と彼は答へた。やがて人々は王の許《もと》へ行つて見せる證状《てがた》がりますかと問ねた。 そこで彼は懷中《ふところ》を探したが、何にも見つかるわけがない。 「何にもないのですか」と人々が言つたが、彼は一言も答へなかつた。 やがてこの事を王に申し上げると、王は元より彼に會ふとは言はれない。 唯基督者と有望者を都に案内した二人の輝やける者に命じて、行つてその無學者を捕へて、 その手足を縛つて、曵き立てよと言はれた。そこで彼等は彼を捕へて、空中を運んで、 私が前《さき》に岡の傍《そば》で見た戸口の所へ來て、その中に彼を入れた。 それは天の門からも、滅亡《ほろび》の市《まち》からと同樣に、地獄への路であつた。 かくして私は目を醒して、それが夢であることを見た。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:正篇結辭 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 正篇結辭 讀者よ、わが語りしこの夢を、   われと汝《な》が身と隣人《となり》にも、 解き明かし見よ。されどゆめ、   あやまり解きて、益もなく、 身の害《そこな》ひとすなかれ。   あやまり解かば惡の素因《もと》。 また心せよ、わが夢の、   外觀《うはべ》にあまり興がるな。 われの形容《かざり》と比喩《たとへ》をば、   笑ひ草となすことは、 子供と莫迦にまかせおき、   なれは眺めよ、物の相。 幕《とばり》をのけて内を見よ、   譬喩《たとへ》を返して過《あや》まつな。 索《たづ》ねばそこに誠心《まごころ》の   助けとなるべきものあらん。 そこに見出す鐡淬《かなくづ》を、   投ぐれば下に黄金《こがね》あり。 粗金《あらがね》それを卷くとても、   核《しん》は林檎につきものぞ。 空しき凡てを棄て去らば、   われ夢見んか、なほ一度。 天路歴程正篇終 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇序歌 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇序歌 行けよ、わが小さき書物、     いづこにも、最初《はじめ》のわが 旅人のおとづれて、     その顏示せる所には。 人ありて、誰ぞと言はゞ、     基督女《くりすちやな》と答へよ。 入るを許さば、子供等を、     つれてぞ入れよ、その家に、 その子供らは何者か、     何處《いづこ》よりそも來りしか、 汝《な》が知るところ語れかし。     その容貌《かほ》と名を知らば可《よ》し、 知らずば問へよ、過ぐる時、     基督者《くりすちやん》といふ旅人を、 待遇《おてな》せしことあらずやと。     然りと言はゞ知らしめよ、 こはその親族《みうち》なることを、     その妻子《つまこ》にてある由《よし》を。 家と屋敷を後にして、     來たるべき世を尋ねんと、 旅に出でたるそのわけを。     途《みち》にてあへるその難儀、 夜晝《よるひる》あへるその苦惱《なやみ》、     蛇踏み、惡魔と戰ひて、 多くの惡にうち勝てる、     その話をば語れかし。 都詣ふでを愛《いつ》くしも、     強く烈しくその路《みち》を、 護りてくれし人々が、     父の御旨をなさんため、 いかにこの世を拒みしか、     その話をも語れかし。 都詣ふでの旅人が、     受けし賜物、語れかし。 王は彼等を愛《いつ》くしみ、     これを看取りて、立派なる、 住居《すまひ》を備へたまふなり。     荒き風、漲《みな》ぎる潮《うしほ》、 來たるとも、主に頼りつゝ、     その路《みち》かたく行ける者、 遂に悦ぶその平和。     これを知りたる人々は、 初めに行ける人のごと、     心と手もて卿《おんみ》等を いたはり祝し、旅人に、     深きなさけを示さなん。   異議 第一  さあれ人々、このわれが、     誠になれのものなるを、 信じぬならばいかにせん。     旅人とその名かたりて、 實物《ほんもの》らしく裝ひて、     他人《 ひと》のもてなし受くる者、 世にはあまた有るものを。   答  げにも近頃、旅人を、     名をば、自から僞稱《かた》るあり。 わが名は半ば他の人の、     書物の上に縫はれけり。 さあれその形貌《さま》いかにあれ、     全たくわれのと異なれり。  若しや汝《な》が唯一筋の     路《みち》にてこれと出遇ふとも、 他人《 ひと》の決して用ゐざる     安くは眞似をなしえざる、 汝《な》が固有の言葉もて、     想ふところを言へよかし。  人々なほも汝《なれ》が身を、     穢多のごとくに彷徨《さすら》ひて、 惡しき仕方に國|穢《けが》し、     不正の事に善き民を 欺むくものと疑がはゞ、     一筆われに書きおくれ。 なれこそまこと唯一なる、     わが旅人と證《あか》しせん。   異議 第二 さあれその生命《いのち》と手足、     害《そこ》なはんとする者を たづぬることもありぬべし。     かゝる人の戸口おとなひ、 その怒をまさばいかにせん。   答  わが書物よ、恐るゝなかれ。     かゝる恐怖《おそれ》は根なし草。 わが最初《はじめ》の旅の書は、     海と陸とを行きしかと、 富める、貧しき國々に、     輕しめられしこともなく、 門前拂ひされざりき。     人々互ひに相殺す、 彿蘭西や、フランダースにも、     わが書は、朋友《とも》、兄弟《はらから》と 親しまれ、和蘭にても、     黄金《こがね》の上に量られぬ、 高地の人も荒き愛蘭人も、     わが旅の書に懷かしむ。  開け初《そ》めにし新英國にも、     いとにこやかに迎へられ、 新らしき衣《ころも》をまとひ、     玉を飾りて、華やかに、 その姿をば示しけり。     いとも雅《やさ》しく歩むわが 旅人を歌ひ語る者、     日毎に幾千あるならん。  近く行き見よ、家々に、     耻も恐れもあらばこそ。 市《いち》も田舍もねんごろに、     わが旅人をもてなさん。 いづこに顏を示すとも、     笑ふて迎へらるべきぞ。  勇ましき武夫《ものふ》はわが     旅人を愛し敬まふ、 量《かさ》の大きな物よりも、     これを重んじ尊とべり。 雲雀《ひばり》の足は鳶《とび》よりも、     善しと言ふこそ嬉しけれ。  若き淑女《たをやめ》、女子《をなご》らも、     わが旅人に親切を 示せることもいと多し。     その部屋に、胸に、心に、 わが旅人は抱かれぬ。     彼が女子《をなご》に配《わか》ちたる、 謎は竒麗にすこやかに、     讀書の勞にいやまさる、 二倍の益を報ひけり。     げにその獲たる賜物は、 黄金《こがね》にまさると言ふべけれ、     街に歩ゆめる子供らも、 わが旅人に出遇ひなば、     恙《つゝ》がなかれと挨拶し、 當時唯一の若者は、     この人なりと言ふならん。 彼を見ざるもその風評《うはさ》、     聽く者これを敬まうて、 その友たるをこひねがひ、     旅の話を悦こばん。 初めは彼を愛せずに     馬鹿よ阿呆と呼べる者、 その見聞きせる彼のこと     語りてこれをほめそやし、 愛する者にこれを送らん。     さらばわが第二の卷《まき》よ、 なが顏示して恐るゝな。     先きにゆけるかの者に、 親切なしり人誰れか、     いかで汝《なれ》をば害すべき。 汝《なれ》の運べる貯藏《たくは》へは、     若き人、老ひたる人をも、 疑ふ者、恆《つね》の心ある、     者をも益す、豐かなる、 善きもの數多《あまた》持てる故。   異議 第三  彼が笑ふ聲あまりに高し、     彼の頭は雲にあり。 彼の言葉、その話はいと暗し。     いかでその目標《めじるし》認めん と言ふ人あらばいかにせん。   答  笑ふも泣くも、涙ぐむ     その眼によりて察せらる。 人は心の痛む時、     却つて笑ふものにこそ、 ヤコブとラケルとその羊、     見ては、接吻《きす》し又泣きぬ。  彼の頭《こうべ》に霧《くも》あるは、     智慧が衣《ころも》を着けたるを、 示せるものといふべけれ。     暗き言葉に隱れたる、 物を悦び見つけんと、     人の心を激すため。  曇れる調子に語らるゝ、     言葉の意味を學ぶこそ、 誠の人の誘惑《いざなひ》ぞ、     暗き喩《たとへ》はいと深く、 心の奧に入るぞかし。     喩《たとへ》を借《か》らぬ物よりも、 堅く頭《かうべ》に結ぶべし。     さればわが書よ、失望に、 旅を礙《さま》たげらるるなかれ。     見よや、なが行く先きは、 友にして敵にはあらじ、     なが子供らと言葉とは、 友の中《うち》にぞ抱くかれん。     わが最初《はじめ》の旅人に、 隱れしところ顯《あら》はせよ、     基督者《くりすちやん》の閉《とざ》して、路《みち》ゆきし、 ところを開け、鍵をもて、     あな麗はしの基督女《くりすちやな》よ。   異議 第四 汝《な》が最初《はじめ》の旅人の、     作法好まぬ輩《やから》あり、 作り話とこれをなし、     塵のごとくに投げすてん。 斯るやからに出あひなば、     われは何にをか言ふべきぞ、 彼等がわれを卑しまば、     われも卑しみ返さんか   答  かゝる輩《やから》に出あひなば、     基督女《くりすちやな》よ、愛の心もて、 いつも挨拶なすべきぞ。     惡口に答えふることなかれ。 顏を顰《しか》めば、微笑めよ、     彼等がこれをかくほどに、 賤しむことは、その性《たち》か、     惡しき風評《うはさ》を聽けばこそ。  乾酪《ちーず》好まぬ者もあり。     魚肉《さかな》好まぬ者もあり。 友を愛さぬ者もあり     家を愛さぬ者もあり 豚を走らせ、雛[奚|隹;#1-93-66]《ひな》いじめ、     禽《とり》を愛せず、梟《ふくろふ》と、 杜鵑《ほとゝぎす》、愛する者あり     基督女《くりすちやな》よ、その選擇《このみ》にぞ、 まかせて汝《なれ》はわが身をば、     悦び見つける、人さがせ。 身を謙《へりく》だり、爭はず、     旅衣《たびころも》にて出で合へよ。  行けよわが小さき書、     なれを待遇《もてな》す人々に、 祕かに保つ物示し、     それが彼等の益となり、 汝《なれ》とわれより遠く善き、     旅人たるを願はしめよ。  行きて語れよ、人々に、     汝《な》が基督女《くりすちやな》にてあることを、 汝《なれ》と四人の子供こそ、     旅人たるべき人々の、 運命《さだめ》知らするためなるを。     行きてまた、汝《なれ》と旅せる、 人々のこと、語れかし、     これは隣人《となり》の哀憐女《あはれみ》よ、 久しくわれと旅をせり     その處女《をとめ》の顏を見て、 怠くる者と旅人の、     異なる所を學べかし。 若き少女《をとめ》ら、來るべき、     世を獲《え》し彼女《かれ》を見ならへよ。 小さき娘等、神に從ひ     老いたる罪人《つみびと》、鞭を受く、 若者はホサナと叫び     老ひたる者これを詈《そし》りたる、 その日にいかに似たるかな     次に悠々《ゆる〜》地を歩む 白髮《しらが》の翁《おきな》正直の、     ことを語れよ、公明の、 心を持てる彼こそは、     主の跡ふんで十字架を、 堪へにしことの見事なる、     白髮《しらが》頭に、基督を、 戀して罪に泣く人ぞ。     また恐怖者《おそるゝもの》のこと語れ。 都詣でに出で立ちて、     恐れと涙に寂しき、 時を過すも遂にその、     嬉しき獲物えたる彼、 元氣下れと善き人ぞ、     善き人なれば生命《いのち》あり、  また、弱心者《こゝろよわ》のこと語れ。     前にも行かず、後にも、 行くを慾せぬ人遂に、     殺されなんとしたる時、 大勇者《たいゆうしや》に生命《いのち》救はれぬ。     徳少なくも誠心《まごゝろ》は、 敬神《うやま》ふ想《おもひ》に現はれき。     又|逡巡者《ためらふもの》のこと語れ。 拐杖《かせつえ》の人、過失《あやまち》多からず、     弱心者《こゝろよわ》と彼、相愛し、 その言ふところ、一致せり、     弱きは彼等の運なれど、 一人は歌ひ、他人《ひとり》舞ふ。     又かの眞理剛者《しんりごうしや》を、忘るゝな。 いと若くとも勇者なり。     元氣強くて誰にても、 彼には顏を向けがたし。     大勇者《たいゆうしや》と彼は忍び得ず、 疑惑城をば打壞し、     絶望者をば殺しけり。 又|氣落者《きおちもの》をば見落すな。     多怖女《こゝろづかひ》は彼の娘ぞよ。 外被《おほひ》の下に横たはり、     表面《おもて》は神にすてられし、 ごとく見ゆるも靜《しづ》やかに、     堅く歩みて、旅の主、 その友なるを見出せり、     凡てこれをば語り終へ、 わが書よ、弦《いと》にふれよかし。     觸るれば、樂を發すべし。 蹇者《あしなへ》踏《おど》り、巨人|慄《ふる》ふ。     これらの謎を汝《な》が胸に、 保ちて、釋《と》けよ、自由にぞ。     神祕の個所はいと深き、 想像《おもひ》湧くまで殘せかし。     この小さき書は、これを愛する、 人と我が祝福たらしめよ。     これを買ふ者いかでかは、 金失へりと言ふべきぞ。     この第二の書は旅人に、 應《ふさ》はしき善き果《み》を結び、     迷ひし人を説き勸め、 足と心を正しき路《みち》に、       返すを祈る作者  ジヨン・バンヤン [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:一 懇懃《ねんごろ》なる友逹よ。 何時《いつ》ぞや、私が夢に見た基督者《くりすちやん》といふ旅人とその天《あま》つ御國《みくに》への危險な旅行のお話しをしたが、 それは私にも愉快であり、又|貴君《あなた》方にも有益であつた。 私は又彼の妻子のことや、彼等が彼と一緒に旅立つことを好まなかつたことや、 彼が餘義なく妻子を殘して出かけたことについて、見たところを貴君方にお話し仕た。 彼は妻子と一緒に滅亡《ほろび》の市《まち》に留まりては、 來らんとする破滅の危難に走らねばならぬので、その怖ろしさに、私が貴君方に示したやうに、 妻子を捨てゝ出立したのである。 さて私は繁雜《せはし》ない世事に礙《さまた》げられて、かの人が出立した地方には、 私の例《いつも》の旅から遠ざかつたので、今まで彼が後に殘した妻子の身の上を更に尋ねる機會《をり》がなかつた。 それ故貴君方にお知らせすることも出來なかつた。ところで近頃用事があつて、 再たび彼處《かしこ》に下つて往つた。さて其處《そこ》から一|哩《マイル》ばかりの森の中に宿を定めて、睡ると、 また夢を見た。 私が夢の中で見てゐると、一人の年老《としと》つた紳士が私の臥《ね》てゐる側へ來た。 老人の行く先きは、幾分私が旅する路筋《みちすぢ》なので、私は起《た》ち上つて、 一緒に出かけたやうに想つた。二人は歩きながら、旅人が常に爲すやうに、互ひに談話《はなし》を始めたが、 いつしか基督者《くりすちやん》と其の旅のことに話が及んだ。私は老人に向つて、 「貴下《あなた》、この路の左手で、あそこの下にあるのは何町ですか[」] すると聰明氏(老人はかういふ名であつた)が言つた。「あれは滅亡《ほろび》の市《まち》といつて、 繁華な地ですが、人民の状態《ありさま》がいかにも惡くつて、怠け者の寄合です」 「矢張あの町でしたか」と私が言つた。「私も一度あの町に行つたことがありますが、 いかにも仰やる通りですな」 聰。「いかにも左樣ですな。ならうことなら、實際そこに住んでゐる者のことをもつと善く言ひたいですがな」 「いや、貴下《あなた》は」と私が言つた。「見受けますところ、心掛の善い方ですな。善い事を聽いたり、 話したりなさるのがお好きでございませう。それにつけ一寸と伺がひますが、 何時ぞやこの町から(基督者《くりすちやん》といふ)一個《ひとり》の人が天國の方へ旅立つたさうですが、 お聽きになつたことはありませんか」 聰。「それは聽きましたとも。そして私はあの人の道中で出遇つた苦心艱難、戰つたこと、 虜《とりこ》になつたこと、泣き叫んだこと、呻いたこと、嚇《おど》されたこと、 恐れたことをも聽きました。それから又|貴君《あなた》に申上げたいことは、 私の國中その噂さが廣まつたことです。彼の身の上やその爲したことが、 家毎に傳はつて、その道中記を求めて手に入れたといふ次第です。 まあ、その危なかしい旅はその路を慕ふ者を多く出したと言つて可いでせう。 彼が茲《こゝ》に居た時には、皆から馬鹿者だと言はれたのですが、彼が行つた今では、 大いに持囃されてゐるのです。今では立派に暮してゐるといふことですのでないだから[注:原文のまま]、 決してそんな無鐵砲な眞似はしないと頑張つた者でも、今ではその所得を羨やんで口に埀涎《よだれ》でさ」 「それは」と私が言つた。「あの人が立派に暮してゐることは人々の想つてゐる通りです。 彼は今|生命《いのち》の泉の邊《ほと》りに又その裡《うち》に住んで、 骨折《ほねをり》も悲しみもなしに、必需物《なくてはならぬもの》を得て居ります。 彼處《かしこ》にはなんの憂《うれ》ひもありませんからな。 それで人々は彼《あ》の人のことをどんな噂さをして居りますか」 聰。「噂さですか。それは妙な噂さをして居ります。彼は今白い衣を着 [黙示録,2:4] 、頸には金の鎖をかけ、頭《かうべ》には眞珠を鏤《ちりば》めた金の冠を被つてゐるさうだと言ふ者つもありますし、 又彼の道中で時々姿を現はした輝やける者がその友逹になつて、隣り同士のやうに親しくしてゐるさうだと言ふ者もあります。 それから又彼が居る其處《そこ》の主からその大庭の邊《ほとり》に甚だ豐かな樂しい住居《すまゐ》をたまはつて [ルカ伝,14:14-15] 、毎日主と偕《とも》に飮み食ひし、又散歩したり、話しを仕たりして、 萬《よろづ》の審判者《さばきびと》なる主に莞爾《にこ〜》と迎へられ、 その寵愛を受けるさうであると確かに信ぜられてゐるのでです。 尚ほまた、その國の主なる大君の間もなくこの地に來たりたまふて [ユダ書,14] 、彼の人が旅立たうとした時に、隣人《となりびと》等はそれを見て尠《すこ》しも同情しないばかりか、 非常にこれを嘲《あざ》けつたのはどういふ理由《わけ》かそれを聽きなさるだらうと待ち設けてゐる者もあるのです。 「今や基督者《くりすちやん》がます〜主の愛情を受けるに從がひまして、先きに彼が旅人となる時に受けた凌辱《はづかしめ》を、 主自からお受けになつたやうに心に懸けたまふでありませう。基督者《くりすちやん》は主を愛して、 あれほど苦しい想《おもひ》をしたのですから、主がそれほどに思召《おぼしめす》のも不思議ぢやありませんからな」 「さうですか」と私が言つた。「それは嬉しいです。あの可憐《あはれ》な人のために、 喜ぶことは、今その骨折《ほねをり》から休んで、涙ながら播いた種を歡びを以つて刈り取る [詩編,126:5-6] からです。 「又今では敵の鐵砲玉の逹《とゞ》かぬ所にをるし、又彼を憎む者から遠ざかつてをることです。 又さういふ事の風評《うはさ》がこの國中に擴がつたといふのは嬉しいですな。 それは必らず後に殘された者に善い影響を與へますからな。それから、貴下《あなた》、 思ひ出しついでに伺ひますが、あの人の細君や子供逹のことについて何にかお聽きになりましたか。 可哀さうに、どう爲つたでせう、心配です」 聰。「誰ですか。基督女《くりすちやな》とその息子逹のことですか。 それなら基督者《くりすちやん》のやうに立派な振舞をしました。初めは馬鹿なことをして、 基督者《くりすちやん》の涙にも懇願《ねがひ》にも服しなかつたのでしたが、 不思議にもつく〜゛考へ直したのでせう。旅の仕度をして、彼の後を慕つて行きました」 「それは、まあ、結構至極です」と私が言つた。「それで、何んですか、細君も子供逹も皆なですか」 聰。「左樣です。私は恰度其處に居合はせましたので、その一部始終を悉皆《すつかり》知つてゐますから、 その事なら委《くは》しいお話しが出來ます」 「それなら」と私が言つた。「その評判は眞實《ほんとう》なんですな」 聰。「眞實《ほんとう》ですとも。皆な都詣でに出かけたのです。 その善い細君と四人の子供逹と揃ひましてな。ところで私は暫らく貴君《あなた》と連れ立つて行けるでせうから、 その一部始終をお話し仕ませう。 この基督女《くりすちやな》は(これはその婦人が子供逹を連れて、旅に出たその日から恁《か》う名乘つたのです)、 その良人《をつと》が河を渡つてしまつて、最早何んの消息《たより》も聽けなくなつたので、 獨りつく〜゛物想ひをするやうになつたのです。第一、良人《をつと》を失なつて、 二人の間の愛の縁《えにし》といふものは全たく斷《き》れてしまつたでせう。 御承知の如く、彼の人も私に向つて、「愛する者の失《な》くなつたことを思ひ出して、 深き物想ひに沈むのは、生ける者の自然の情で、どうも仕方がありません」と言つたことがあるのです。 ですから、良人《をつと》のことを思へば、涙の止め度もなかつたでせう。 唯《ただ》そればかりぢやない、基督女《くりすちやな》は自分のことを深く考へて、 良人《をつと》を情《つれ》なく待遇《もてな》したことが、 最早彼を見ることが出來ない一つの原因となつたのではあるまいか、 そのために良人《をつと》は自分から取り去られたのではあるまいかと思ひ惑つた。 そこで愛する良人《をつと》に對して不親切であつたことや、道ならぬ仕打をしたことや、 無情な素振をしたことなどが、心にむら〜と浮んで來ましたので、 良心はそのために苦しくなるし、自分の罪も解つて來たのです。 それから良人《をつと》が絶えず呻いて、辛《から》い涙を流して、 悲嘆にくれたことなどを思ひ出すにつけて、良人《をつと》が自分や子供逹に一緒に行きなさいと切《しき》りと頼んだり、 柔《やさ》しく勸めて下すつた時に、どうしてあんなに強情を張つたであらうと思へば、 尚も腸《はらわた》が千切れるやうであつた。又|良人《をつと》が重荷を脊中に負《しよ》つてゐながら、 自分に言つたことや、自分の前で仕たことが、稻妻のひらめくやうに心に浮んで來て、 心の網を片々《きれ〜゛》に裂いたのです。 殊に「私は救はれるためにどうしたら可からう」といふ良人《をつと》の苦しげな[口|斗]《さけ》び聲が、 いかにも悲しげにその耳に響いた。 そこで家内は子供逹に向つてかう言つた。「子供逹よ、私共はもうどうも仕方がありません。 私はお父さんに惡いことをしたので、お父さんは行つておしまひになつた。 お父さんは私共も一緒に連れて行きなさりたかつたですのに、私は自分も行かうとせず、 お前さん逹にも生命《いのち》を獲る妨げをしました」。 これを聽いた、子供逹は皆な涙を流して、お父さんの後を行かうと泣き[口|斗]《さけ》んだ。 そこで基督女《くりすちやな》は「あゝ、良人と一緒に連れ立つて行くのが私共の運命でした。 さうしたらこんな辛い目には遇はずにどんなに善かつたでせう。 これまで私は愚かにも、お父さんの惱苦《なやみ》を、馬鹿げた想ひ過ぎか、 あまり氣が沈み過ぎたので起つたとば[か]り想つてゐましたが、 今ではそれが別な源因《わけ》からであつたことが解りました。 それは全たくお父さんが生命《いのち》の光 [ヨハネ伝,8:12] を與へられなすつたからで、そのお助けに依つて、死の係蹄《わな》を免かれなすつた [箴言,14:27] のでせう」 そこで子供逹は皆んな泣いて、「あゝ悲しい日でしたな」と[口|斗]《さけ》んだ[。] その翌《あく》る夜に基督女《くりすちやな》は一つの夢を見た。 見よ、一つの廣い羊皮紙がその前に開かれた。それには彼女の行状が全體《すべて》記されてゐた。 これまでの罪が墨黒々《すみくろ〜》とその上に眺められた。 そこで彼女は睡《ね》てゐながら高い聲で、「主よ、罪人《つみびと》なる私をあはれみたまへ」 [ルカ伝,18:13] と[口|斗]《さけ》んだ。小さい子供逹はその聲を聽いた。 その内に今度は二個《ふたり》の惡鬼が寢床の側に立つて、「この女をどうしてやらう、 睡《ね》ても醒めても、あはれみを乞ひ求めるぢやないか。この儘にしておかうものなら、 この良人を取り遁《にが》したやうに、この女も遁《に》がしてしまう。 今の内になんとか工夫して、この女の思想《おもひ》を中途で止めておかないと、 又旅に出かけてどうしやうもなくなる」と語つてゐるのを見たやうに想つた。 さて、彼女はびつしより汗をかいて目を醒して、ぶる〜慄へてゐたが、やがて暫らくすると又眠りに落ちた。 今度は良人の基督者《くりすちやん》が多くの天人に圍まれて祝福の場所に居つて、 手に縱琴を持つて、頭《かうべ》に虹を戴いて玉座に座つてゐる者の前に立つて、 それを彈いてゐるのを見た。又彼が王の足下《あしもと》にある敷石に平伏《ひれふ》して額《ぬか》づきながら、 「私を此處にお連れ下さいましたことを心よりわが主なる王に感謝いたします」と言ふのを見た。 すると周りに立つてゐる人逹が一聲に呼ばはつて、その縱琴を彈いた。けれども基督者《くりすちやん》と其の仲間のほか、 人間には誰もその言ふ所のことを話すことが出來ない。 翌《あく》る朝|基督女《くりすちやな》は起き出でゝ、神に祈つて、子供逹と暫らく話しをしてゐると、 門《かど》の戸をほとほとゝ叩く者があつた。基督女《くりすちやな》はその人に言つた。 「神の御名《みな》でお出でになりましたなら、お入り下さい[」] その人は「アーメン」と言つて、戸を開けて、「御家の平和ならんことを」と挨拶した。 さうして彼はかう言つた。「基督女《くりすちやな》さん、私が何故參りましたか、御存知ですか」 そこで彼女は顏を赧《あか》めて、身を震はせた。この人は何處から來たのか、 又どんな用事があるのか、知りたさに胸が熱くなつた。 やがてその人が言つた。「私は名を祕密者といつて、高い處に住んでゐる者の一人でございます。 私の住んでゐます處の噂によると、貴女《あなた》は其處へお出でになる御志《おこゝろざし》がありますさうですな。 又そこでの評判によると、貴女《あなた》は以前|良人《をつと》に逆らつて、その旅立ちの時に心を頑《かたく》なにしたことや、 お子さん逹に何にも教へずに置きなさることを、あゝ惡かつたとお氣が付かれたさうですな。 基督女《くりすちやな》さん、惠み深き主が私を遣はされましたのは、主はいつでも罪を赦す神でゐますこと、 それから幾度《いくたび》でも咎《とが》を赦すことを歡《よろ》こびたまふことを貴女《あなた》にお話しるすためですぞ。 主は又|御前《みまえ》に貴女《あなた》をお招きになつて、その食卓に座らせ、 その家の肥えたるものを馳走し、貴女《あなた》の父ヤコブの産業《ゆづり》を與へやうとしてをられます。 「そこには貴女《あなた》の良人《をつと》であつた基督者《くりすちやん》も多くの友逹と一緒に、 仰ぎ見る者には、生命《いのち》を與へ賜ふ者の御顏《みかほ》を常に眺めてをります。 若し貴女《あなた》の足音が天父《ちゝ》の家の閾に歩み入つたことが聽えたら、 あの人逹はどんなに歡《よろこ》ぶか知れません」 基督女《くりすちやな》はこれを聽いて大いに耻かしく思つて、首をうな埀れてゐた。 この客人は尚ほ進んで言つた。「基督女《くりすちやな》さん、 こゝに貴女《あなた》の良人《をつと》の王樣から貴女《あなた》へ下すつた手紙があります」 基督女《くりすちやな》はそれを手に取つて、封を被《ひら》くと、 いみじき香膏《にほひあぶら》のやうな薫がした [雅歌,1:3] 。又それは金文字で記してあつた。その手紙の文面には、 王が良人《をつと》の基督者《くりすちやん》にして下すつたやうに彼女にもして下さるつもりである。 王の都に來て、限りない喜悦《よろこび》を以つてその御前《みまえ》に住《すま》はうと思へば、 唯《ただ》この路のほかにないと認《したゝ》めてあつた。これを讀んで、 性《ひと》の善い女は全たく耐《こら》へ切れなくなつて、客人に向つて泣きながら、 「貴下《あなた》、どうぞ私と子供逹を御一緒に連れて行つて下さい。 そこへ參つて、王樣を拜まして下さい」 そこで客人は言つた。「基督女《くりすちやな》さん、苦は樂の種です。 先きにお出でになつた基督者《くりすちやん》さんのやうに、貴女《あなた》も天の都に入るまでには、 種々《いろ〜》の苦しい目にお遇ひにならねばなりません。貴女《あなた》の良人《をつと》に爲されたやうに、 それは貴女《あなた》がこれからお出でならねばならない路の入口に立つてゐるのです。 出來るだけ速くなさい[。]それからこの手紙を懷《ふところ》へ入れておい[て、]心の底に根ざすまで、 自分でも讀み、又子供逹にも讀んでおやりなさい[。]これは旅の家で必らず歌ひなさらねばならない歌の一つですし、 又|彼處《かしこ》の門に逹した時にこれをお渡しにならねばなりませんから」 さて私が夢で見てゐると[、]この聰明翁は茲《こゝ》まで話をして來[て、]いかにも感動したらしかつたが、 尚ほ進んで、話を續けた。 やがて基督女《くりすちやな》は息子逹を呼んで、口を開いて恁《か》う言つた。 「さて、息子逹よ、見らるゝ通り、私は近頃お父さんの亡くなられたことを大變心苦しく想つてをります[。] それは何にも私がお父さんの幸福を全たく疑がうからではありません。お父さんが幸福なことを、 私、今では安心してゐます。私は又自分の有樣やお前さん逹の有樣が生れつき悲慘《みじめ》なことを想ふと、 大變心苦しいです。又お父さんが惱んでおゐでなさる時にした自分の仕打を想ふと、 良心に大きな重壓《おもし》を着けられたやうです。私は自分の心とお前さん逹の心を頑《かたく》なにして、 お父さんに逆らつて、一緒に參りませんでしたからね。 この事を想ふと、全たく私は死にさうですが[、]昨夜夢を見ましたし、今朝このお客樣がお出でなすつたので、 勵まされました。さあ、子供逹、仕度をして天《あま》つ御國《みくに》に導く門へ參つて、 お父さんにお目にかゝつて、その國の律法《おきて》に從がつて、お父さんやそのお友逹と御一緒に平和に暮しませう」 すると子供逹はお母《つか》さんの心の傾むける處を知つて、涙を流して嬉しさに泣いた。 やがて客人は暇《いとま》を告げた。母子《おやこ》は旅の仕度に取り懸つた[。] やがて出立しやうとしてゐると、基督女《くりすちやな》の隣人《となりびと》である二人の女がこの家に來て、 戸を叩いた。基督女《くりすちやな》は前にも言つたやうに、この女逹に向つて、 「神の御名《みな》でお出でになりましたなら、お入り下さい」と言つた。 これを聞いて、女逹は呆れ返つた[。]かういふやうな言葉は聞き慣れてゐなかつたし、 又それが基督女《くりすちやな》の唇から出やうとは想ひもよらなかつた。 併《しか》し二人は入つて來た。然るに見よ、 性《ひと》の善い基督女《くりすちやな》は今しも家出をしやうとその仕度|際中《さいちゆう》であつた。 そこで二人はかう言つた。「お隣りの奧樣《おくさん》、これは、まあ、なんですかよ」 基督女《くりすちやな》は、臆病夫人といふ年長《としかさ》な女に向つて、 「私は旅の仕度をしてゐるところですの」と言つた。 (この臆病夫人といふは、基督者《くりすちやん》が困難の岡の上で遇つた、 かの獅子を恐れさせて彼をも歸らしめやうとした者の娘である) 臆。「何んの旅にお出かけなの」 基女《くりす》。「良人《をつと》の後を慕ひましてね」。恁《か》う言つてさめ〜゛と泣いた。 臆。「まあ、そんなことを、奧樣《おくさん》、お子さま方が可哀想ぢやありませんの。 そんな女らしくないことをするのは身を滅ぼす基《もと》ですわ」 基女《くりす》。「いえ、子供逹も一緒に參りますの。一人も後へ殘らうとしませんからね」 臆。「まあ、驚ろきました。どうして又誰に勸められて[、]そんな心におなりですの」 基女《くりす》。「あゝ、奧樣《おくさん》、貴女《あなた》だつて私ほどに解れば、 必然《きつと》御一緒にお出でになりませうに」 臆。「まあ、どうしてそんな新知識を得なすつたの。貴女《あなた》の心を友逹から離らせて、 誰も何處だか知らないところに出かけさせるやうな」 そこで基督女《くりすちやな》が答へた。「私は良人《をつと》に行かれてから以來《このかた》、 殊に良人《をつと》があの河を渡りましてから以來《このかた》、大層心苦しうございましてね。 良人《をつと》が惱んで居ります時に、どうしてあんなに情《つれ》なく待遇《もてな》しましたかと思ふと一番苦しいですの。 今だつてその頃と同じことに、良人《をつと》の跡を慕つて行くほか仕方がないと思つてゐました矢先きに、 昨夜《ゆうべ》夢の中で良人《をつと》を見ましてね。 私の心はもう良人《をつと》の側に行つてしまひました。良人《をつと》はその國の王樣の御前《みまえ》に暮してをりましてね。 王樣の食卓で王樣と御一緒に座つて食事をして居ちます。そして天人の仲間入りをして、 與へられた家に住んでをりますが、その家に較べますと、 此世の最も善い御殿などはまるで賤《しづ》が舍《や》のやうでございました。 其處の大君は又私に使者《つかひ》を下すつて、私がそこへ參りますと、 饗應《ふるまひ》にお招き下さる約束をなさいました。その御使ひの方が今|茲《こゝ》におゐで下すつて、 お招きの御手紙をいたゞきましたところですの」恁《か》う言つて、 その手紙を取り出して、それを讀んでから、又女逹に向つて、これについてどうお考へなさいますか」 臆。「まあ、狂氣の沙汰ですね。貴女《あなた》でも御良人《ごりようじん》でも自ら好んでそんな困難を冐しなさるのは。 貴女《あなた》も確かお聽きでした[で]せう、御良人《ごりようじん》がお出かけなすつて早々にお遇ひなすつたことをね。 お隣人《となり》の強情さんも一緒に行《い》らしつたので、能く御存じのことですし、 それから柔弱さんも御同樣ですが、あの方逹は御利口だから遠くまでお出でならなかつたでせう。 それから風評《うはさ》によると、御良人《ごりようじん》は獅子だの、アポリオンだの、死の蔭だの、 その他|種々《いろ〜》な物にお遇ひになりましたつてね。 それから虚榮の市塲でお遇ひになつた危難などは、よもや、貴女《あなた》、お忘れなさいませんでせう。 御良人《ごりようじん》は男でさへ、そんな難儀を受けなすつたに、 貴女《あなた》は纖弱《かよわ》い女ではございませんか、 さうしたら、まあ、どうでせう。それから、能く考へてごらんなさいまし、 この四人の美しい小さな方々は貴女《あなた》のお子さまでせう、 貴女《あなた》の肉、貴女《あなた》の骨ではございませんか。 それは貴女《あなた》の御身だけならどんな向ふ見ずなことをしても可《よい》でせうが、 この可愛い方々のためを思ふて、家にお留まりなさいましな」 けれども基督女《くりすちやな》は言つた。「私を誘惑なさいますな。お隣りの奧樣《おくさん》。 私は今手の裡《うち》にある一つの價格《あたひ》所得《もうけ》を獲たいと思つてゐますの。 この好い機會《をり》に心を勵ましませんでしたら、それこそ大馬鹿でございます。 貴女《あなた》は私が種々《いろ〜》路で出あひさうな難儀などを仰やいましたが、 それは却つて私が正しい路に居る記標《しるし》ですから、なにも失望しやしません。 苦は樂の種ですし、さうすれば樂はもつと大きな樂の種になりますからね。 貴女《あなた》が神の御名《みな》で私の家にお出で下す[つ]たのでなければ、どうぞ、 お歸り下さい。この私を心配させて下さいますな」 これを聞いて、臆病夫人は立腹して、同伴《つれ》の女に言つた。 「參りませう、さあ、哀憐女《あはれみ》さん、勝手にさせませう。 私共の勸言《すゝめ》も、交際《つきあい》も馬鹿にしてゐらつしやるのですから。」 けれども、哀憐女《あはれみ》は默つて立つてゐて、容易にその隣りの婦人に從はなかつた。 それには二つの理由《わけ》がある。第一、その心に基督女《くりすちやな》を憐れに想つた。 で、祕かにこの方が是非行きなさるなら、尠《すこ》しの間一緒に行つて、 その手助をしてあげたいと想つた。第二、その心に自分の靈魂《たましひ》が憐れになつた。 基督女《くりすちやな》が言つたことに、その心は動かされたからである。 で、又|祕《ひそか》に、もつとこの基督女《くりすちやな》さんとお話しをして見たい、 さうして仰やることに眞理と生命《いのち》があるなら、自分も心を決めて一緒に行きたいと想つた。 そこで哀憐女《あはれみ》は臆病夫人にかう答へた。 哀。「ねい、奧樣《おくさん》。私、かうして御一緒に今朝|基督女《くりすちやな》さんをお訪ねしましたでせう。 それだのに基督女《くりすちやな》さんはもう二度と歸らぬ旅にお出かけださうですから、 暫らく御見送りして途中の手助けをしてあげたいと思ひますわ、 こんなに天氣の好い朝ですしね」 恁《か》う言つたが、もう一つの理由の方は言はないで、心の裡《うち》に隱しておいた。 臆。「まあ、あなたも馬鹿な眞似がして見たいのですね。兎に角、御用心して、御利巧に願ひます。 險呑な所にさへゆかなければ險呑ぢやなし、險呑な所へゆけば、險呑ですからね」 臆病夫人はかう言つて、自分の家に歸つた。基督女《くりすちやな》はやがて旅路に出で立つた。 ところで臆病夫人はその家に歸ると、隣近所の女逹を呼び集めた。それは蝙蝠眼《かうもりめ》夫人、 無分別夫人、輕薄夫人、沒分曉《わからずや》夫人などである。 この女逹がその家に集まると、直ぐさま基督女《くりすちやな》の身の上と、 その思ひ立てる旅のことをかう言つて話し始めた。 臆。「皆さん、今朝何にもすることがなかつたものですから、基督女《くりすちやな》さんをお訪ねしたんですよ。 いつものやうに、門口《かどぐち》で戸を叩きますとね、『神の御名《みな》でお出でになりましたら、 お入り下さい』とのお返事でせう。別段變つたこともないでせうと想つて、私は家へ入りましたが、 入つて見ると、まあ、どうでせう。この町を立ち去る仕度をしてゐるのですよ。 御自分ばかりか、その子供逹までね。どうなさいましたと聽くと、一寸《ちよつ》とどうでせう。 良人《をつと》の跡を慕つて、旅に出るつもりですつて。それから又夢を見なすつたり、 その御良人《ごりようじん》の居られる國の王樣が其處に來るやうにつて、 招待の手紙を下すつたのですとさ」 その時|沒分曉《わからずや》夫人は言つた。「それで何んですか、ほんとうに行くのでせうか」 臆。「えい、どんな事があつても、行くんでせうさ。なぜかと言ふに、 私は是非家に留まりなさいと大變勸めて見たのですがね。 (途中で種々《いろ〜》な難儀に遇ひなさるからなど言つてね)さうすると却つてそれが[、] あの女《ひと》の旅立ちを大變に勸めたやうになつてしまつたの。やれ、樂は苦の種だの、 さうすれば樂しみは更に樂しみになるだのと、それは種《いろ》んな言《こと》を臆面もなく喋舌《しやべ》るのよ」 蝙蝠眼《かうもり》夫人。「まあ[、]目先きの見えない馬鹿な女《ひと》ねえ。 あの良人《をつと》の苦しみでも懲りさうなものですのに。良人《をつと》の方だつてもう一度|茲《こゝ》に居るなら[、] 無事息災なことを悦んで、そんな向ふ見ずの險呑なことをするものですかね」 無分別夫人は又かう言つた。「そんな氣違ひぢみた馬鹿はこの町から行つてしまう方が可いですわ。 そんな女《ひと》がゐない方が肩が輕くなりますわね。 そんな女《ひと》がこゝに住んでゐて、そんな氣でゐられて御覽なさい。 誰も安心してその側に住んで居られませんわ。氣がじめ〜して、近所|交際《つきあい》もせず、 そんな事ばかり話されては、どんな賢こい人でも遁げ出しますわ。 だから、私はあの女《ひと》が行つてしまつたつて、一寸《ちつと》も悲しかありません。 まあ行つてしまつて、その代りに誰かもつと善い人に來てもらう[ん]ですね。 そんな氣の狂つた馬鹿な女《ひと》が居ればこそ、世の中は面白くないですわね」 輕薄夫人も次のやうに言つた。「さあ、そんな話は止めませう。 私は昨日|淫蕩者《みだら》の奧樣《おくさん》のお宅に伺ひまして、 年の若い娘逹のやうに樂しく遊びましたのよ。そこに落ち合つた人逹はね、 私に、それから肉戀《にくれん》夫人、その他三四人と、好色夫人と猥褻夫人とその他の人逹でしたがね。 彈いたり踊つたり、有らんかぎりの快樂《たのしみ》をしましたわ。 あの淫蕩者《みだら》の奧樣《おくさん》も感心に程の好い女《ひと》ですが、 好色者さんと來たら、ほんとに美《い》い男ですね」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:二 この時|基督女《くりすちやな》は出立した。哀憐女《あはれみ》もこれと一緒に行つた。 子供逹も連れて行かれた。基督女《くりすちやな》は恁《か》う言つて談話《はなし》を始めた。 基女《くりす》。「哀憐女《あはれみ》さん、これは、まあ、思ひがけませんお厚情《なさけ》ですのね。 かうしてあなたが尠《すこ》しの間でもお見送り下さいますのは」 そこで年の若い哀憐女《あはれみ》(この女は若かつた)が言つた。 「私はあなたと御一緒に行くだけのことがあると思へば、もう町には歸りませんわ」 「それなら哀憐女《あはれみ》さん」と基督女《くりすちやな》が言つた。 「私と御一緒に行らしやいまし。私共の旅路の終りは能く解つてをります。 私の良人《をつと》は、西班牙の鑛山の有らゆる黄金《こがね》にも代へ難い處に居りますのよ[。] あなたが私の御案内だけでお出でになつても、よもや拒まれはしますまい。 私と子供逹とをお招き下された王樣は哀憐《あはれみ》を好みたまふ方ですからね。 それに、御宜しければ、あなたをお雇ひして、私の侍女《こしもと》にしてお連れ申しますわ。 さうすれば何んでもあなたと私と共同に用ゐることが出來るでせう。 だから、唯私と御一緒に行らつしやいな」 哀。「でも、どうして私が確《たしか》に待遇《もてなし》を受るといふことが解りませう[。] 確かな人からその希望《のぞみ》を與へられましたら、何にもぐづ〜しないで、參りますけれど。 路がどれほど煩はしくつても、能力《ちから》ある御手《みて》に助けられましてね」 基女《くりす》。「それなら、愛する哀憐女《あはれみ》さん、かうなすつたらどうでせう。 耳門《くゞりもん》まで御一緒に行らしやいね。そこで又お尋ねしますからね。 そこで御氣が進まぬやうでしたら、お心まかせにお返し仕ませうし、 それから御一緒にお出で下すつて、私と子供逹に御親切にして下すつたお禮もいたしませう[。] 哀。「それなら其處まで參りませう。後のことは成り行きのまかせるとしましてね。 天《あま》つ大君の御心にかないますやうに、私の行末はなりませうから」 そこで基督女《くりすちやな》は心に歡《よろこ》んだ。道連れを得たばかりでなく、 この憐れな娘を説き勸めて、その身の救ひを慕はせるやうにしたからである。 やがて彼等は一緒に行つた。すると哀憐女《あはれみ》は泣き出した。 基督女《くりすちやな》は言つた。「どうして、あなた、泣きなさるの」 哀。「私の憐れな親族《みうち》はあの罪深い町に居りますでせう。その有樣、 境遇をつく〜考へますと、あゝ[、]ほんとに悲しくなりますわ。あの人逹を導いてくれる人もなく、 來たるべきことを話してやる人もないのかと思ふと、尚更悲しくつて仕方がございません」 基女《くりす》。「旅には情《なさけ》と申します。あなたがお友逹のために泣きなさいますやうに、 私の良人《をつと》基督者《くりすちやん》も別れる時に私のために泣きました。 私が良人《をつと》に氣をつけなかつたこと、思はなかつたことを悲しみました。 ですが、良人《をつと》の主にてゐまし、又私共の主にてゐます神さまは、 良人《をつと》の涙を集めて、この壜の裏《うち》に置きたまひました。ですから、 今私と貴女《あなた》とこの可愛い子供逹はその涙の果實《み》と功徳とを刈り集めるのであります。 ねい、哀憐女《あはれみ》さん、あなたのその涙を失なはないやうに仕たう御座います。 『涙と共に播く者は、歡《よろ》こび歌ふて刈り取らん』 [詩編126:5] ともありますし、『その人は貴とき種を携さへ、涙を流して出で行けど、禾束《たば》を携さへ喜びて歸り來たらん』 [詩編126:6] といふ言葉もありますからね」 そこで哀憐女《あはれみ》は歌つた。 いとも深き[、]惠みの主よ     みこゝろならば、われを導き、 その門《かど》までも、その羊欄《をり》までも、     聖岡《みをか》の上にも行かしたまへ。 主のめぐみと、聖《きよ》けき路を、     側《わき》にそれてぞ、踏み迷ふをば、 主よ、われに許したまはざれ、     よしやわが身に、事起るとも。 主をしてわが、後に殘せる、     わが同胞《はらから》を集めしめてよ、 主よ人々が[、]眞心をもて、     汝《な》がものなるを、祈らしめたまへ[。] さてわが聰明翁《さうめいおう》は尚も話を進めた。 やがて基督女《くりすちやな》は落膽《らくたん》の沼までやつて來たが、暫らくそこに立ち止つた。 そして「私の良人《をつと》が泥に溺れて死にさうになつたのは、此處ですね」と言つた。 此處は大君の命令に依つて、旅人のために修繕をさらたのであるが、 前よりも一層《もつと》惡くなつてゐるのが、基督女《くりすちやな》の目に着いた。 で、私はそれは眞實《ほんとう》ですかと老人に問《たづ》ねると、聰明翁《さうめいおう》は言つた。 「さやう、それは眞實《ほんとう》ですとも。 主の勞働者《はたらきびと》だと言つてゐる者の中でも僞者《にせ》が多いですからな。 大君の往還を直すと言ひながら、石の代りに塵埃《ちりあくた》を運ぶのですから、 直すのでなくつて壞すのです」 それ故|基督女《くりすちやな》は子供逹を連れて、茲《こゝ》で暫らく立ち留つてゐた。 そこで哀憐女《あはれみ》は言つた。「さあ、試しにやつて見ませう。用心だけはしまして。」 やがて彼等は踏み石に能く眼をつけて、よろめきながら渡り始めた。 しかし基督女《くりすちやな》は一度ならずも二度までも、滑り落ちんとした。 さて漸《やうや》く渡り終はらんとする頃、「主の言《ことば》を信ぜし者は福《さいは》ひなり[。] そは主の語りたまひし如く必ず成るべければなり」 [ルカ伝104:15] と自分逹に向つて言はれる聲を聽いたやう[注:以降10語程度判讀不明] やがて彼等は又進んだ。哀憐女《あはれみ》は基督女《くりすちやな》に言つた。 「あなたのやうに私も耳門《くゞりもん》に歡《よろこ》んで受け容れられます望みが確かにあるますなら、 落膽《らくたん》の沼など、私、何んとも思ひませんわ[」] 「さうですね」と基督女《くりすちやな》が言つた。「あなたは御自分の痛み處を御存じですし、 私も自分の痛み處を存じてをります。ねい、哀憐女《あはれみ》さん、私共は旅路を終るまでには、 種々《いろ〜》澤山な辛い事に遇ひますでせう。私共のやうに立派な榮光《さかえ》に逹したいと思ふたり、 私共のやうな幸福を羨やむ者は多くありますが、さういふ人々でも恐怖《おそれ》や、係蹄《わな》や、 惱みや、苦しみには遇ひたくないのです。だから、私共を憎む者と一緒になつて、 出來るだけ私共を攻撃しますからね」 さて今や聰明氏は私自から夢を見るやうにして立ち去つた。 そこで私は基督女《くりすちやな》と哀憐女《あはれみ》と子供逹が一緒に連れ立つて門の方へ行くのを見た。 歩きながら、どうしてその門におとづれ[る]べきであらうか、 又自分逹のために門を開けて下さる方になんと言つたら可《よ》からうかと、 暫らく互ひに話し合つた。そして基督女《くりすちやな》は年上なので、 入口の戸を叩いて、一同のために[、]そこを開ける人に話しをすることに定《き》めた。 そこで基督女《くりすちやな》は叩き初めた。その憐れな良人《をつと》のやうに、 再三叩きに叩いた。けれども更に應《こた》へる者もなく、 唯一匹の犬が自分逹を吠えながら出て來るのが聽えるやうであつた。 一匹の犬、しかも大きな犬である。女と子供逹はびく〜した。暫らくはその猛犬が飛びかゝりさうなので、 怖くなつてその上戸を叩く氣がしなかつた。それ故非常に當惑して心が上つたり下つたりして、 爲すべき所を知らなかつた。犬が恐いので、叩くにも叩かれず、さうかといつて、 引返すにも引返されない[。]若し還《かへ》らうものなら、門の主に見付かつて、怒られるかも知れない。 遂にもう一度叩いて見やうと想つて、初めよりも激しく叩いた。やがて門の主は言つた。 「何誰《どなた》ですか」。すると犬も吠えることを止めた。そして門は彼等のために開かれた。 その時|基督女《くりすちやな》は鄭寧《ていねい》にお辭儀をして、かう言つた。 「主よ、何卒《なにとぞ》御免下さいまし。この侍女《はしため》は主の御門を叩きました」 そこで門の主が言つた。「あなた方は何處からお出でなさいましたか。又どういふ御用ですか」 基督女《くりすちやな》は答へた。「私共はいつぞや基督者《くりすちやん》の來ました處から參りましたのでございまして。 用向も同じでございます。天の都へ參りたいのでございますから、 何卒《なにとぞ》この御門を通るお許しを受けたう存じます。それから貴方樣《あなたさま》、 私は天國に居ります基督者《くりすちやん》の妻の基督女《くりすちやな》と申すものでございます」 すると、門の主は怪しんで、「何んです、旅人になつた、永年さういふ生活を嫌つた人が」 すると基督女《くりすちやな》は首をうな埀れて、「はい、御尤ともでございます。 私の可愛い子供逹も旅人になりました」 やがて門の主は基督女《くりすちやな》の手を取つて、門内に引き入れた。 そして「幼兒《をさなご》を我に來たらせよ [ルカ伝18:16] とありますからな」と言つた。そして門を閉ぢて、門の向ふの上にある喇叭手を呼んで、 歡びの聲を擧げ、喇叭を鳴らして、基督女《くりすちやな》を待遇《もてな》すやうに命じた。 喇叭手はその命令に從がつて、喇叭を鳴らすと[、]妙えなる音《ね》は空中に充ち渡つた。 さてその間|哀憐女《あはれみ》は門外《そと》に立つてゐて、拒まれはしないだらうかと心配して、 慄へて泣いてゐた。けれども基督女《くりすちやな》は先づ自分と子供逹のために許容《ゆるし》を受けてから、 やがて哀憐女《あはれみ》のために取りなしを始めた。 基督女《くりすちやな》は恁《か》う言つた。「貴方樣《あなたさま》、 まだ御門の外に私の一人の伴侶《つれ》が立つて居ります。 その方も私と同じ考へで茲《こゝ》に參りましたのでごじますが、 大變心配してゐられますのです。私が良人《をつと》の王樣からお招きを受けたのと違つて、 其方はお招きを受けずに參つたからでございます」 今や哀憐女《あはれみ》はいと堪へがたくなつて、一分間は一時間ほどに長かつた。 で、基督女《くりすちやな》がもつと充分に取りなさうとしてゐると、 哀憐女《あはれみ》は自ら門を叩いてその邪魔をしてしまつた。あまり激しく叩くので、 基督女《くりすちやな》は吃驚《びつくり》した。すると門の主は「誰ですか[、]あれは」と言つた。 基督女《くりすちやな》は「あれが私のお友逹でございます」と言つた。 やがて門の主は門を開けて、外を眺めた。哀憐女《あはれみ》は卒倒して門の外に倒れてゐた。 自分のために門を開かれることはあるまいと想つて、心配のあまり氣絶したのであつた。 そこで門の主は哀憐女《あはれみ》の手を取つて、「娘よ、起きなさい」と言つた。 「あゝ、貴方樣《あなたさま》」と哀憐女《あはれみ》が言つた。「私は氣を失なひました。 生《いき》も絶え〜でございます」 門の主はそれに答へた。「或る人の言葉に『わが靈魂《たましひ》衷《うち》に弱りし時、 われエホバを思へり。しかして我が祈、汝に至り汝の聖き殿《みや》に及べりといふことがあります。 だから、心配なさらず、起き上つて、あなたのお出でになつたわけを私にお話しなさい[」] 哀。「私はお友逹の基督女《くりすちやな》さんのやうに[、]お招きにあづかつて參つたのではございません。 基督女《くりすちやな》さんは王樣のお招きをお受けになつたのですが、 私は唯|基督女《くりすちやな》さんのお招きを受けましたばかりで、それですから、 心配いたすのでございます」 門の主。「この婦人が此所《こゝ》へあなたと連れ立つやうに望んだのですか」 哀。「さやうでございます。ですから、御覽の通り、私は參りました。 どうぞ。御|恩惠《めぐみ》と罪のお赦しがございますなら、この憐れな侍女《はしため》にもお分ち下さいまし」 そこで門の主は再び、哀憐女《あはれみ》の手を取つて、靜かに内へ導いてから、言つた。 「どんな手段で私のところへ來ても、私を信ずる者のために、私は祈ります」 それから側にゐた人逹に向ひ、「なにか持つて來て、この哀憐女《あはれみ》さんに嗅《かゞ》してやりなさい、 元氣の着くやうに」と言つた。すると人々は沒藥の袋 [雅歌1:13を持つて來てやつたので、哀憐女《あはれみ》はやがて氣力を囘復した。] かうして基督女《くりすちやな》と子供逹と哀憐女《あはれみ》とは旅路の初めに主に迎へられて、 親切な言葉に預かつた。基督女《くりすちやな》逹は尚ほ進んで恁《か》う言つた。 私共は罪を悲しむものでございますから、主のお赦しを願ひたう存じます。 それから、どうぞ私共の爲すべき事をお教へ下さいまし」 「私が赦しを與へるのは」と門の主が言つた。「言葉と行爲《おこない》とによるのです。 言葉によるとは、罪の赦しの約束です。行爲《おこなひ》によるとは、私がそれを獲た方法です。 接吻《くちつけ》 [雅歌1:2] をもて、私の唇からその言葉を取りなさい。さうすれば第二の行爲《おこなひ》の方も顯はされます」 私が夢の中で見てゐると、門の主は澤山な善き言葉を彼等に語つたので、 彼等は大ひに歡《よろこ》んだ。主は又門の頂上《いたゞき》に彼等を導いて、 どんな行爲《おこなひ》に依つて(主の十字架を指す)彼等が救はれたかを示し。 そして途々《みち〜》その十字架の光景《さま》を想ふては、慰さめを受けるやうにと話した。 やがて主は暫らく彼等を下の夏座敷に導かれたので、彼等は互ひに語り合つた。 基督女《くりすちやな》は恁《か》う言つた。「私共が茲《こゝ》に入れたのは、 どんなに嬉しいか知れません。」 哀。「あなたもさうでせうが、私は殊に飛び立つほど嬉しうございます」 基女《くりす》。「私は門の側に立つてゐました時に一寸と恁《か》う想ひました。 幾ら叩いても、返事がありませんので、これまでの骨折は全然《すつかり》無駄のやうにね。 殊にあの醜い犬があんなに激《ひど》く私共を吠えるんですもの」 哀。「私はあなたが厚く迎へ入れられて、私ばか後に殘されたので、非常に氣をもみました、 私はあの『二人の婦《をんな》磨《うす》ひき居らんに、一人は取られ、一人は遺《のこ》さるべし』 [マタイ伝24:41] といふ言葉通りになるのかと想ひましたの。ですから、大變苦しくつて、困つた、 困つたと叫ばないでは居られませんでした。もうその上門を叩く氣にもなりませんでしたが、 不圖《ふと》門の上に書いてある文字《もんじ》を見上げて、勇氣が出ました。 そしてもつと叩かなければ、死ぬよりほかないと想ひましたので、 私はどうしてか、無我夢中に叩きました。私の心は生きるか死ぬるかといふ境に徨《さま》よひましたのですね」 基女《くりす》。「そんなに夢中でお叩きになつたのですか。お叩きになるのがあまり熱心だものですから、 その音に私は吃驚《びつくり》しました。私の一生の間にあれほどの叩く音を聽いたことがありません。 『人々勵《はげ》みて天國を取らんとす』 [マタイ伝11:12] とあるやうに、腕力でお入りになるつもりかと思ひました」 哀。「だつて、可哀想でせう。私のやうな場合になりますとね、 誰でもさうせずにはゐられません。私だけ閉め出されてますし、大きな猛々しい犬がその邊《へん》に居るのでもの。 ですから、私のやうに氣の弱い者は誰でも死物狂ひに叩くでせう。 で、いかゞでございます。主は私の不作法をなんと仰せられましたか。お怒りにふれましたでせうか」 基女《くりす》。「主はあなたが激しくお叩きになるのを聽いて、 いかにも邪氣《あどけ》なくお笑ひになりました。ですから、あなたは充分主の御意《みこゝろ》に適ひましたでせう。 お怒りになつた御樣子は見受けません。でも、どうしてあんな犬をお飼ひなのか、 私は心の裡《うち》で變に想ひますの。前から犬のことなど知つてゐましたら、 私だつてそれ相應の心組でゐますけれど。でも、かうして私共は門の内に入れましたのね。 門の内に居るのですから、心一杯嬉しうございます」 哀。「主が今度お出でになつたら、どうして御庭にあんな穢れた犬をお飼ひなさるのか、 お尋ねして見ませうか。よもや御機嫌を損じなさりはしないでせう」 子供逹はそれを聞いて、「あゝ、さうなさいね。それからあの犬を絞殺《しめころ》すやうに頼んでね。 茲《こゝ》から行く時に噛まれるといけないから」 やがて主は再び彼等の許に來られた。哀憐女《あはれみ》はその前に平伏《ひれふ》して拜んで、かう言つた。 「主よ、私の唇の言葉で獻《さゝ》げます讚美の獻げ物をお受け下さいまし」 すると主は哀憐女《あはれみ》に向つて、「お起ちなさい。平和御身にありますように」と言はれた。 けれども彼女は尚ほ顏を地につけて、「あゝ主よ、私が主と爭ふ時には、主は義《たゞ》しくゐます。 唯主の審判《さばき》についてお伺がひし度《と》うございます [エレミア書12:1] あの強さうな犬はどうしてお庭に居りますのですか。私共のやうな女子供はあの犬を見ますと、 その恐さに御門から遁げ出しますほどですのに」 彼はそれに答へて言つた。「あの犬には他に持主がある。 その人の地所に閉ぢ込められてゐるのだから、わが旅人逹は唯その吠える聲を聽くだけです。 あれはそこに遠く見える城に飼はれてゐるのだが、こゝの壁の側まで來ることが出來るやうになつてゐます。 その吠える聲が大きいので、多くの正直な旅人を驚ろかすが、 却つて惡い方から善い方へ追ひやるのです。實際その飼主は私にも、 私の有《もの》にも少しも好意を持つてゐないので、旅人が私の所に來るのを邪魔したり、 又旅人にこの門を叩くのを怖がらせやうとすてゐるのです。 又ある時には、あの犬が鎖を破つて來て、私の愛する者を惱ますこともあるのです。 だが、私がこれまでそれを忍んでゐた。又旅人逹には適宜な助けを與へてをるので、 犬の手にかゝつて、噛み着かれるやうなことはないのです。 だから、あなたもかねてさういふ事を知つてをれば、あの犬を怖れはしないでせう。 人の軒《のき》に立つて物乞ふ者をごらんなさい。貰ひ物を受けやうと思つて、 犬に鳴かれたり、吠えられたり、噛まれたりする位、平氣なものです。 だから一匹の犬、他人の庭の犬、その吠えるので旅人の益になるやうな犬なら、 誰でも私の許に來やうとする者を妨たげはしない。『われ我が愛する者を獅子の口より救ひ、 その生命《いのち》を犬の力より脱《のが》れしむ』 [詩編2:20,21] です」 そこで哀憐女《あはれみ》は言つた。「私はさやうな事とは存じませんでした。 何にも解らずに、とんだ事を申しました。主は何事をも善くしたまふことを悟りました」 その時|基督女《くりすちやな》はその旅路のことに話を向けて、その路筋《みちすじ》を尋ねた。 さうすると彼は前にその良人《をつと》を待遇《もてな》したやうに、彼等にその食物を與へ、 その足を洗つて、主の足跡なる路に出立させた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:三 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:三 私が夢の中で見てゐると、彼等はその路を進んで行つた。天氣はいかにも心地よかつた。 そこで基督女《くりすちやな》は恁《か》ういつて歌つた。 「旅人とわがなれる、     その日ぞ嬉しき。 旅にわれを動かせる、     その人ぞ嬉しき。 永遠《とは》の生、求めぬる、     前こそ永けれ、 今ぞわれ、早く走る、     晩《おそ》きは爲さぬに優《まさ》るらん。 わが涙、よろこびになりぬ。     わが恐怖《おそれ》、信仰に變りぬ。 始めぞ(人の言ふごとく)     物の終りを示しなん」 さて基督女《くりすちやな》とその仲間が歩める路を仕切れる石垣の向ふ側には、一つの庭園《には》があつた。 その庭園《には》は前に記した吠える犬の飼主の所有《もの》であつた。 その庭園《には》に生えてゐる果樹《くだものゝき》から石垣の此方《こなた》に枝が飛び出して、 果實《くだもの》が熟《みの》つてゐるので、旅人の中にはそれを[てへん|宛;#1-84-80]《も》ぐいで食つて、 身を害《そこ》なふものもあつた。基督女《くりすちやな》の子供逹は幼なき者の慣《なら》ひとして、 忽ちその樹と吊下つてゐる果實《くだもの》に心を引れて、それを[てへん|宛;#1-84-80]《も》いで食ひ始めた。 母親はそんな事をしては可《い》けないと禁《と》めて見たが、子供逹は肯《き》かなかつた。 「子供逹よ」と母親は言つた。「その果實《くだもの》は私共のではありませんから、 取つてはいけません」 けれども母親もそれが敵のものとは知らなかつた。知つてゐたなら、死ぬほど怖れたに違ひない。 兎に角そこを通り越して、路を進んだ。やがてそこから五六町行くと、 いかにも醜い二個《ふたり》の人が向ふからやつて來た。 そこで基督女《くりすちやな》と哀憐女《あはれみ》は面[巾|白;#2-08-83]《かほおほひ》に顏を隱して、 子供逹を先きに立たせて、その人逹とすれ違はうとした。遂に彼等と出遇つた。 するとその二人は側へ寄つて來て、彼等を抱かうとした。 基督女《くりすちやな》は「お退《の》きなさい。さつさとお出でなさい」と言つたが、 この二人は聾者のやうに、基督女《くりすちやな》の言葉を聞かばこそ、これを手ごめにしやうとした。 そこで基督女《くりすちやな》は又二人に言つた。「お退《の》きなさい。さあ、お出でなさい。 金など持つてはゐません。御覽のやうな旅人です。他人樣《ひとさま》の慈善《なさけ》で生きてゐる者ですもの」 するとその一人が言つた。「俺逹は何にも金が慾しいわけづあない。一寸お願ひがあつて來たのだ。 小《ち》いとばかり言ふことを聽いてくれゝば、何時《いつ》までも姉御にするがな」 基督女《くりすちやな》はほゞその意味を察して、「そんな事は耳の汚れです、 御意《おこゝろ》に從がふことは出來ません。私共は急ぎます。貴方《あなた》方の相手をしてはゐられません。 私共は生きるか死ぬるかといふ大事の用を控へてゐるのですから」 かう言つて基督女《くりすちやな》と其の伴侶《つれ》とは又行き過ぎやうとすると、 かの二人はその路を遮切《さへぎ》つて言つた。 「お前さん逹の生命《いのち》を貰はうとは言はない。別な用事があるのだ」 「それなら、何んでせう」と基督女《くりすちやな》が言つた。 「私共の身も靈《たましひ》も自由にしやうとなさるんでせう。 そのためにお出でになつたと思ひますが、そんな目にあつて、行末の幸福を無にするよりは、 此の塲で私共は死にます」 それから二人の女は聲を張り擧げて、「人殺し、人殺し」と叫んだ。 そして婦人を保護する律法《おきて》に從つて身を處した [申命記22:25-27] けれども尚ほかの者共はその慾を遂げんと強迫した。で、女逹は又叫び續けた。 さて女逹の居る所は、今しがた通つて來た門から遠くなかつたので、 その聲は彼處《かしこ》へ聽えた。で、その家の人逹は出て來て、基督女《くりすちやな》の聲であることを知つて、 救《たす》けるために急いだ。尠《すこ》し來ると、女逹がいかにも危うい状態《さま》にあるのが、手に取るやうに見える。 子供逹は側に立つて泣いてゐた。そこで救《たす》けに來た人は大きな聲で惡漢《わるもの》共に言つた。 「これあ、何にをするか[。]お前逹はわが主の民を犯すつもりか」恁《か》う言ひながら、取捕まへやうとすると、 二人は逸早《いちはや》く石垣を飛び越して、かの大きな犬を飼つてゐる人の庭園《には》へと遁げ込んだ。 そして犬に護られて姿を隱した。救《たす》けに來た人は女逹の側へ寄つて、 別にお怪我もありませんかと問《たづ》ねた。女逹はそれに答へた。「有難うございます。 主のお蔭で、別に怪我はございません、唯少々驚きましたゞけで、よくお救《たす》けに來て下さいました。 さもないと、とんだ目に遇ふ所でした」 この救助者《すくふもの》は尚ほ二言三言慰めてから、次のやうに言つた。 「あなた方があそこの門で待遇《もてな》しを受けなすつた時に、 孱弱《かよわ》い女と知りながら、どうして主に道案内者をお願ひなさらなかつたですか。 さうしたらこんな災難も危險も避《よ》けなすつたに。主は必《き》つと一人の道案内者を遣はしなさいますから」 「さうでしたね」と基督女《くりすちやな》が言つた。「私共は目の前の御祝福に氣を奪《と》られて、 危險の來るのを忘れてしまひました。それに、王樣の御殿の近所に、あんな惡者が潛んでをらうとは、 誰れも想ひませんですもの。眞實《ほんとう》に道案内の方を一人、主にお願ひすれば宣《よ》うございました。 でも、主は私共の益《ため》になることを御存じでゐながら、どうして道案内の方を一人お附け下さらなかつたでせう」 救《すくひ》。「求められもせずに物を與《や》るといふのは、必ずしも必要ぢやありませんからな。 さうすると、その物の價値《ねうち》が尠《すく》なくなつてしまひます。 然るに物の必要が感じられた時に、その物を授かつたらどうです。その必要を感じた人の眼に、 その適當な價値《ねうち》が解つて、從つてその後の役にも立ちませう。 わが主が先きに道案内者を授けられたら、あなた方はこんな場合に出遇つても、 それを求めなかつた手ぬかりを歎かずに濟んでしまつたでせう。何事も善い方に働らくので、 あなた方を一層用心深くするやうになります[。] 基女《くりす》。「主の御許《みもと》にもう一度戻りまして、愚かな振舞を申上げまして、 それから道案内の方をお願ひいたしたら善うございませうか」 救《すくひ》。「あなた方が愚かであつたのを悔んでおられますことは、 私から主にお取次ぎいたしておきますから、お戻りになるには及びますまい、 あなた方が何處にお出でになつても、尠《すこ》しも乏しいことはありません。 わが主が旅人を待遇《もてな》すために備へたまふ宿には何《いづ》れも、 充分に仕度して、どんな計畫《たくみ》でも拒《ふせ》げるやうになつて居ります。 『彼等のために爲さんことを我に求むべきなり』 [エゼキエル書36:37] と主は言ひたまうです。そして求める値《ねうち》のないものなら拙《つま》らん物ですからな」 恁《か》う言つてから、彼は元の塲所へ歸り、旅人逹はその路を進んだ。 やがて哀憐女《あはれみ》は言つた。「なんだか氣が拔けて茫然《ぼんやり》しましたのね。 これでもう危ない所は通り越したのでせうか、もう悲しい事はございませんでせうね」 「あなたは無邪氣な方ね」と基督女《くりすちやな》は哀憐女《あはれみ》に言つた。 「でも、あなたには咎《とが》はありません。私は出かける前から、かういふ危難があらうと思ひながら、 なんの備へもしませんでしたのが、大變な過失《あやまち》でした。 ですから、私はどんなお咎《とが》めでも受けませう[」] 哀憐女《あはれみ》は言つた。「家《うち》をお出なさる前から、どうして御存じでしたのですか。 どうぞその譯を聞せて下さいな」 基女《くりす》。「それではお話し仕ませう。私は家を出る前に、或る晩寢床の中で[、] かういふ夢を見ました。世にもあるまじき樣子をした二人の男が私の寢床の側に立つて、 どうしたら私の救ひを妨たげることが出來ようかと相談してゐるのです。 その言つた語《こと》もよく覺へてゐますがね。その當時私は心を惱ましてゐた時ですので、 その二人は、此の女をどうしてやらう。睡《ね》ても起きても罪の赦しを[口|斗]《さけ》び求めてゐる。 この儘に仕ておかうものなら、この良人《をつと》の方を取り遁《にが》したやうに、 この女も取り遁《にが》してしまふなどと言ひました。それだけでも私は用心して、 備へをしなければなりませんでしたのに」 「さうでしたのね」と哀憐女《あはれみ》が言つた。「でも、そんな怠惰《おこたり》があつたので、 私共は自分の足らない所を知る折《をり》を與へられましたのね。 それから主のお惠みの豐かなことも明らかになりました。ほんとうに主は私共の求めぬ親切を盡して下さいますし、 唯御自分のお心の樂しみから、私共を強い敵の手からお救ひ下さいましたのね」 暫らく恁《か》う言ふことを話しながら、進んで行くと、路の側にある一つの家に近づいた。 その家は「天路歴程」の記録の初めの部分に精《くは》しく記してあるやうに、 旅人を救《たす》けるために建てられたものである。 そこで彼等はその家(註釋者《ちゆうしやくしや》の家)の方へ近づいた。 その門口《かどぐち》に行くと、家の中から高い話し聲が聽えた。彼等は耳を聳《そば》だてゝ聽いてゐると、 基督女《くりすちやな》の名も語られた。 基督女《くりすちやな》がその子供を連れて旅に出かけたといふ風評《うはさ》は廣まつてゐたのである。 これは人々にとりて大ひに興味あることであつた。彼女は基督者《くりすちやん》の妻で、 此間まで旅に行くなどいふことは聞くのも嫌ひな女であると耳にしてゐたからである。 それ故彼等は尚ほ立《たゝ》づんで、その門口《かどぐち》に居るとは知らずに、 基督女《くりすちやな》のことを讚めてゐる善き人々の談話《はなし》を聽いた。 遂に基督女《くりすちやな》は前に門を叩いたやうに、その戸を叩いた。 すると戸口から無垢子《むくこ》といふ一人の少女《をとめ》が出て來て、戸を開けて、眺めた。 そこには二人の女が立つてゐる。 そこで少女《をとめ》が二人に言つた。「どなたをお訪ねなさいますか」 基督女《くりすちやな》は答へた。「此家《こちら》は旅の者のために御便宜を謀つて下さる所と伺ひました。 私共は御覽の通り旅の者でございますから、どうぞお厚情《なさけ》にあづかりたいと存じて參《あが》りました。 もう日暮れ方ですし、夜歩きも嫌でございますから」 少女《をとめ》。「お名前はなんと仰しやいますか。主人に申し上げて見ますから」 基女《くりす》。「私は基督女《くりすちやな》と申しまして、數年前に此の路を旅しました者の妻でございます。 これはその四人の子供でございます。この娘も私の道連でして、矢張都へ參るのでございます」 これを聞いて、無垢子《むくこ》は内に驅け込んで、人々に言つた 「門口《かどぐち》に居るのは誰だと思ひなさいます? 基督女《くりすちやな》さんとその子供逹とその連《つれ》の女《かた》がお待遇《もてなし》にあづかりたいと言つて待つてをりますの」 そこで人々は嬉しさに飛び立つて、行つて、その主人に話した。やがて主人は戸口に現はれて、 基督女《くりすちやな》を眺めて言つた。「あなたが基督女《くりすちやな》さんですか。 あの人の善い基督者《くりすちやん》さんが旅人の生活を始めた時に後を殘して來たといふ方ですな」 基女《くりす》。「私は良人《をつと》の惱みを餘所《よそ》に見て、 獨り旅立たせましたほどの強情な女でございます。 これはその四人の子供でございます。私もかうして參りましたのは、 このほかに正しい路はないと信じたからでございます」 註。「それなら、或る人がその息子に向つて、今日わが葡萄畑に往きて働らけといふと、 息子はその父に否《いや》ですと言つたが、後悔して行つた [マタイ伝21:28,29] と記してあることに應《かな》ひますな」 基督女《くりすちやな》は言つた。「左樣でございます。アーメン。神さまよ、 それが私にとりて眞正《まこと》の言葉にてあらしめたまへ。そして汚れなく、 咎《とが》なきものとなりて、平和に神さまの御前《みまえ》に出づることを得しめたまへ[」] 註。「どうしてそんなに戸口に立つてゐますか[。]さあお入りなさい。あなたはアブラハムの娘ですもの。 私共は今まであなたの事を話してゐたのです。あなたがどうして旅人になられたか、 その消息《たより》があつたものですからな。さあ、子供逹もお入りなさい。 さあ、娘さんも、お入りなさい」 かう言つて、彼は一同を家内《うち》に案内した。さて彼等が内に入ると、座つてお休みなさいと言はれた。 さうしてゐる内に、この家で旅人の接待掛りの人逹がその室《へや》にやつて來た。 一人が笑へば、他の一人も笑ひ、かくて一同に笑つて、基督女《くりすちやな》が旅人になつたことを悦《よろ》こんだ。 又子供逹を眺めて、その顏を手で撫でゝやつて、親切に迎へる意《こゝろ》を表はした。 又やさしく哀憐女《あはれみ》をも待遇《もてな》して[、]主人の家に能く來て下さいましたと言つた。 暫らくは晩餐《ゆうめし》に間があるので、註釋者《ちゆうしやくしや》は彼等を示現《しめし》の間に連れて往つて、 基督女《くりすちやな》の良人《をつと》である基督者《くりすちやん》が何時《いつ》か見たところの事を示した。 檻の中の人や、恐ろしい夢を見た人や、敵の中で路を切り開いた人や、 人々の中で最も大ひなる者の肖像や、その他|基督者《くりすちやん》に有益であつたものを皆見せられたのである。 かくして此等の事が基督女《くりすちやな》とその伴侶《つれ》に稍々《やゝ》會得されてから、 註釋者《ちゆうしやくしや》は再たび彼等を伴なつて、先づ一つの室《へや》に來た。 そこには手に芥掻《ごみか》きをの熊手を持つた一人の男が居た。 彼は下の方を見るだけで、その他は見ることが出來なかつた。 又そこには彼の頭の上の方に一個《ひとり》の人が立つてゐて、手に天上の冕《かんむり》を持つて、 芥掻《ごみか》きの熊手を棄てゝ、その冕《かんむり》を受けよと差し出してゐるのであつた。 けれどもその男は上の方を見ない、又上に眼を着けもしないで、 唯藁や小さな木屑や床の塵埃《ごみ》を掻き集めるのであつた。 そこで基督者《くりすちやん》が言つた。「私にもこの意味が少しは解るやうでございます。 これはこの世の人の形貌《かたち》ではありませんか、いかゞでせう」 「能く言ひ當てなすつた」と註釋者《ちゆうしやくしや》が言つた。 「その芥掻《ごみか》きの熊手は人の肉情を示してゐます。あれ、御覽なさい、 この人は藁や木屑や床の塵埃《ごみ》を掻き集めることに氣を取られてゐるので、 手に天上の冕《かんむり》を持つて、上から自分を呼んでゐる者の言ふ事を聽きません。 これは天國のことを一つの作話として、此世の事ばかり確實なやうに想ふ人の心を示したのです。 それからこの人は下の方ばかり見て、その他の所を見ることが出來ないでせう。 これは世の中の事が人の心に入つて勢を得ると、全たく神から遠ざかつてしまふことを示してゐるのです」 そこで基督女《くりすちやな》は言つた。「あゝ、この芥掻《ごみか》きの熊手より私を救ひたまへ」 「さういふ祈祷《いのり》は」と註釋者《ちゆうしやくしや》が言つた。 「使はれないから、今では錆ついてゐます。『我をして富ざらしめたまへ』 [箴言30:8] と祈る者は千人に一人もありません。藁や木屑や塵埃《ごみ》などをいかにも大切さうに慕ひ求める者が多いですからな」 これを聞いて、哀憐女《あはれみ》と基督女《くりすちやな》は泣いて、「ほんとうに、 その通りでございます」と言つた。註釋者《ちゆうしやくしや》はこれを示してから、 今度はこの家の中で最も善い室《へや》に連て往つた。それは最も立派な室《へや》であつた。 その室《へや》中をぐる〜見廻したが、何にも目に留らない。 そこには壁の上に、甚だ大きな蜘蛛が一匹居るのだが、それは見落した。 そこで哀憐女《あはれみ》が言つた。「貴女樣《あなたさま》[注:貴方樣《あなたさま》の誤り]、何にも目に留まりません」 けれども基督女《くりすちやな》は默つてゐた。註釋者《ちゆうしやくしや》は言つた。 「もう一度御覽なさい」 基督女《くりすちやな》はもう一度見廻してから、言つた。 「一匹の醜い蜘蛛が手で壁に吊下つてゐますが、その外には何にも居りません」 そこで註釋者《ちゆうしやくしや》は言つた。「この廣い室《へや》んい居るのは、唯一匹の蜘蛛だけですか」 基督女《くりすちやな》は了解《わかり》の速い女なので、眼に涙を浮べて言つた。 「はい、茲《こゝ》には一匹《ひとつ》どころか、澤山居ります。 しかもその毒はこの蜘蛛の毒よりも一層《もつと》害がございます」 これを聞いて、註釋者《ちゆうしやくしや》はさも滿足さうに基督女《くりすちやな》を眺めて、 「お言葉の通りです」と言つた。そのために哀憐女《あはれみ》は顏を赧らめ、 子供逹は顏を隱した。皆なその謎の意《こゝろ》が解り始めたからである。 やがて註釋者《ちゆうしやくしや》は又言つた。「御覽のやうに、 この蜘蛛は『手もて握《つか》まりて、王の家に居る』 [箴言30:28] のです。さう記してあるのは、あなた方がいかに罪の毒に充ちてゐても、 信仰の手に依つて、王の家に屬する最も善い室《へや》に握《つか》まつて、 そこに住むことを示したのです」 基督女《くりすちやな》は言つた。「さういふ事とは想ひましたが、全くそれを悟つたわけではありませんでした。 兎に角私共は蜘蛛のやうだと想ひました。どんな立派な室《へや》にゐましても、 私共は蜘蛛のやうに醜く見えるでせう。この毒のある醜い蜘蛛を見て、 信仰の働きを學ばうとは思ひもよりませんでした。あれ、あゝして蜘蛛は手で握《つか》まつて、 此の家《や》の最も善い室《へや》に住んでゐますからね。 ほんとうに神さまは何《ど》んな物でも無駄には造りたまひませんですのね」 彼等は皆な嬉しさうに、眼に涙を浮べた。互ひに顏を見合はせ、 又|註釋者《ちゆうしやくしや》の前に首《こうべ》を下げた。 註釋者《ちゆうしやくしや》はやがて他の部屋に彼等を連れて行つた。 そこには一羽の牝鷄と數羽の雛鳥がゐた。暫らくこれを見てゐなさいと彼は言つた。 やがて一羽の雛鳥が水槽《みずおけ》のそばに來て、水を飮まうとした。 飮みながら、一口ごとに、頭を擡《もた》げて、眼を天の方へ向けた。 そこで註釋者《ちゆうしやくしや》は言つた。「この小さい雛鳥のする所を見て、 あなた方が恩惠《めぐみ》を受ける時に、仰ぎ見て、その來たる所を認めるやうになさるが可いです。」 彼は尚ほ言葉を繼いで、「あれ、御覽なさい」と言つた。そこで彼等は氣をつけて見ると、 牝鷄が雛に對する振舞に四つの方法があるのを認めた。 (一)一日中分け隔てなく凡ての雛を呼ぶこと。 (二)時々その二三の雛を特別に呼ぶこと。 (三)雛を翼の下に集めるために優しき聲を立てること。 (四)消《け》たゝましい聲を立てることである。 註釋者《ちゆうしやくしや》は言つた。「この牝鷄をあなた方の王樣に比《なぞ》らへ、 又この雛鳥をその臣下《けらい》逹に較べてごらんなさい[。] 王樣がその人民に對してお採りになる處置はいかにもこの牝鷄に似てゐます。 一般に分け隔てなくお呼びの時には、何も格別に與へられません。 特別にお呼びの時には、常に何物かを與へられます。又翼の下にある者には、 優しい聲を立てられます[。]又敵の來たるを見ると、烈しく叫んで、これを警《いま》しめられます。 あなた方は女子《をなご》ですから、恁《か》ういふことは解り易いだらうと思つて、 特にこの部屋にお連れしたのです」 「左樣でございますか、貴方樣《あなたさま》」と基督女《くりすちやな》が言つた。 「どうぞもつとお見せ下さい」 やがて註釋者《ちゆうしやくしや》は屠獸塲《ほふりば》に彼等を案内した[。] そこには一人の屠手《ほふりて》が一匹の羊を殺さうとする所であつた。 見よ、羊は靜かに忍んで死に就いた。そこで註釋者《ちゆうしやくしや》は言つた。 「あなた方はこの羊から忍ぶことをお學びなさい。呟やきもせず、不平も言はず、 不正な事を忍ぶことをです。御覽の如く、羊はいかにも靜かに死に就きましたな。 耳の所から皮を剥れても、抗《さか》らひもせず、忍んだでせう。そこです。 王樣はあなた方にその羊と呼んでゐられますからな」 それから、彼はその庭園《には》に彼等を案内した。そこには種々《さま〜゛》の花が澤山あつた。 「どうです。この花を御覽ですか」と註釋者《ちゆうしやくしや》が言ふと、 「はい」と基督女《くりすちやな》が言つた。そこで註釋者《ちゆうしやくしや》は語《ことば》を繼いで、 「御覽なさい、花はその丈も、その性質も、その色も香《か》も趣きも、千差萬別でせう。 又優り劣りもあります。又|園丁《にはつくり》が置く所に安んじて、互ひに爭そふといふことはありません」 次に註釋者《ちゆうしやくしや》はその畑に彼等を案内した。そこには小麥や穀物が播いてあつた。 能く見ると、その穗は皆な切り取《とら》れて、唯麥藁だけが殘つてゐた。註釋者《ちゆうしやくしや》が言つた。 「この地は肥しをされ、耕やされ、又種を播いたのである。併《しか》し恁《か》う坊主にされてはどうしたものでせう」 そこで基督女《くりすちやな》は言つた。「その殘つてゐます物を燒くか、肥料《こやし》になさいますのですね」 註釋者《ちゆうしやくしや》は更に言葉を繼いで、「それです、私共の求める所はその果《み》です。 それが無ければ、火にて燒れるか、人の足に踏みつけられるだけです。 あなた方もそんな事にならぬやうにお氣をつけなさい」 やがて戸外《おもて》から家へ歸らうとすると、 一羽の小さな駒鳥が一匹の大きな蜘蛛を口に啄《くは》へてゐるのに目が着いた。 そこで註釋者《ちゆうしやくしや》は「これを御覽なさい」と言つた。 一同はそれを眺めた。殊に哀憐女《あはれみ》は驚ろいてゐた。基督女《くりすちやな》は言つた。 「駒鳥のやうなこんな小さい竒麗な鳥が、あんな餌を口にするといふのは、 いかにも見下げはてたことゝ存じます。駒鳥は他の多くの鳥よりも、人懷《ひとなつ》こくつて、 パンの屑か、その他害にならぬ物を食つて生きてゐるものと思ひましたに、 これでは何んだか氣味が惡うございます」 註釋者《ちゆうしやくしや》はそれに答へた。「この駒鳥は或る信者逹に能くあてはまる表號《かた》です。 彼等は唯見た處では、この駒鳥のやうに、聲音も色合も動作も綺麗です。 それから又眞面目な信者を非常に愛するやうに見えます。又他の人の及ばぬほど、 眞面目な信者と交はり、その友となることを慾しますので、 恰度善い人のパン屑で生きてゐると思ふやうに見えます。ですから、 事にかこつけては、信者の家に出入りしたり、主の任命を受けたりするのです。 ところで自分獨りの時には、駒鳥のやうに、蜘蛛を捕まへて、これを一口に喰つてしまつたりするのです。 食物を變へ、不義を飮み、水のやうに罪を呑み下すのですからな」 彼等が家に戻つても、未だその時には晩餐《ばんめし》の仕度が整のはなかつたのだ、 基督女《くりすちやな》は又|註釋者《ちゆうしやくしや》に向つて、 もつと他の有益な事を見せて下さるか、話して下さいと願つた。 そこで註釋者《ちゆうしやくしや》は説き出して恁《か》う言つた。「牝豚が肥えて來るに從つて、 泥に落ちやうとします。牡牛が肥えて來るに從つて、好んで屠所《ほひりじよ》に進みます。 それと同じやうに、肉慾の人は健かなるに從つて、惡に傾むくものです。 竒麗にいsたい、立派にしたいといふのは、婦人の願ふ所ですが、優しく奧ゆかしいのは、 神の眼に最も價《あたひ》高く見ゆるもので、身を飾ることです。 一晩や二晩目を醒してゐるのは易しいが、一年中となると六ヶ敷い。 それと同じやうに、信者となる始めは易しいが、終りを全たうすることは六ヶ敷いです。 船長なる者は暴風《あらし》に遇ふと、甘んじて最も價《あたひ》の少ない荷物から投げ棄てますが、 誰だつて始めに最も善い物を棄てはしない。然るに神を畏れぬ者にはさうではありません。 一つ破損した所があると、船が沈んでしまふ。それと同じゆあに、一つ罪があると、罪人《つみびと》を滅ぼしてしまひます。 友を忘れる者はその恩を忘れるのです[。]然るに救主《すくひぬし》を忘れる者はわが身に無慈悲なものです。 罪に住《すみ》て、來世の幸福を望む者は、むぎなでしこを蒔いて、 小麥か大麥で穀倉を滿さうとする人のやうなものです。人若し善く生きやうと思ふならば、 その最後の日を目の前に置いて、これを常に身の警護《まもり》となすべきです。囁くことと、 想《おもひ》の定まらざることは、罪が世にある證據です。神が光を置きたまへるこの世が、 人間にとりて大切なものなら、神の稱美したまふ天國はどんなものでせう。 多くの惱みの伴なふこの人生の過ぎ行くのがそれほど嫌なら、天上の生命《いのち》はどんなものでせう。 誰でも人間の善を讚め立てるのであるが、神の善に心を寄せる者は誰でありませう。 私共は時に食事をなすのですが、食して尚ほ餘すところがありませう。 それと同じやうに、耶蘇基督《いえすきりすと》の功徳《いさほし》と義とは全世界の需要を充して尚ほ餘りあるです」 註釋者《ちゆうしやくしや》はかう言つてしまつて、再び庭園《には》に彼等を連れて行つて、 一本の樹を示した。それは内側は全たく枯れて死んでゐるのだが、尚ほ生長して葉が茂つてゐた。 哀憐女《あはれみ》はこれを見て言つた。「これはどうしたのでせう」。 註釋者《ちゆうしやくしや》は言つた。 「この樹の外側は立派ですが、内側は枯れてゐませう。 神の庭園《には》にある多くの者はこれに比べられるのです。 その者共は口でこそ神を讚め立てるが、實際神のために何んにも仕てゐないのです。 即はち葉は立派でも、その心は惡魔の火絨《ほくち》箱の火絨《ほくち》になるほか仕方がありません」 今や晩餐《ゆうめし》の仕度が出來て食卓は廣げられ、御馳走は皆な並べ立てられた。 一同席に着いて、一人が感謝してから、食事を始めた。 註釋者《ちゆうしやくしや》は家に宿《と》めた者には食事の時に音樂を奏して待遇《もてな》すのが常であつた。 で、樂人逹は樂噐を鳴らした。又|一個《ひとり》の人が歌つたが、その聲はいかにも美くしかつた。 その歌は次のやうである。 主こそわれを、支へたまふ。     主こそわれを、養ひたまふ。 なくてはならぬもの、われ求む時、     いかで乏しき、ことぞあるべき」 歌と音樂が終へた時に、註釋者《ちゆうしやくしや》は基督女《くりすちやな》に問《たづ》ねた。 「最初どんな事に心を動かして、旅人の生涯を送るやうになりましたか」 基督女《くりすちやな》は答へた。「初め良人《をつと》を失《な》くしましたことを思ひ出しますと、 心から悲しうございました。でも、それは唯自然の人情でございます。 それから良人《をつと》の惱みと旅路のことを思ひ出しまして、 自分の情《つれ》ない仕打をつく〜覺りました。 あゝ惡かつたと思ふにつけ、池にでも身を投げやうかと存じましたが、 仕合せにも良人《をつと》が今幸福でゐます所を夢に見ますし、 それから又|良人《をつと》が住《すま》つてゐる國の王樣から私に參るやうにといふ手紙をいたゞきました。 その夢とその御手紙で私の心は動きまして、遂に旅立つやうにされたのでございます」 註。「門出の前になにか妨げは起りませんでしたか」 基女《くりす》。「はい、私の隣人《となり》に臆病婦人といふ方がございました。 その方は私の良人《をつと》に獅子を怖がらせて歸らしめやうとした人の親族《みうち》でございます。 その方は私を馬鹿にしまして、そんな事をするのは身の程を知らぬ冐險だと申しました。 又私の良人《をつと》が道中で遇ひました難儀や困難を數へあげて、私の心を挫《くじ》かうとなさいました。 でも、私はそんな事には可《か》なりに打勝ちました。 ですが、夢に二人の醜い男が旅の道中で私を誤まらせやうと相談しましたには、大變心を惱ましました。 それは今でも私の心に往來《ゆきゝ》しまして、遇ふ人は誰でも怖ふございます。 若しや辛《ひど》い目を見せられはしないかと思つたり、この路の外へ向けられてはしないかと考へたりしますものですから、 何誰《どなた》にもお話しいたさないつもりでしたが、貴方樣《あなたさま》だけにはお話しいたします。 この路に入る御門と御家《おうち》のとの間で、私共はえらい目に遇ひましたので、 人殺しと叫びました位ひでございます。私共を襲ひましたその二人の男はどうも私が夢に見ました二人らしうございます」 そこで註釋者《ちゆうしやくしや》は言つた。「あなたのその始めも善いが、終りは益々善いでせう」。 それから今度は哀憐女《あはれみ》に向つて、「あなたは何んに心を動かして茲《こゝ》に來ましたか、孃さん」と言つた。 哀憐女《あはれみ》はそれを聞いて、顏を赧めて、ぶる〜して、暫らく默つてゐた。 そこで註釋者《ちゆうしやくしや》は言つた。「恐るゝことはありません、唯信じて、 心の裡《うち》にあることをお話しなさい[」] やがて哀憐女《あはれみ》は恁《か》う言つた。「ほんとうに私は經驗に乏しいものですから、 わざと默つてをりました。それに又行末どうなるものか心配でなりませんものですから。 私は基督女《くりすちやな》さまのやうに、異象《まぼろし》のことも、夢のこともお話しが出來ません。 それから善い親族《みうち》の者の勸めを拒みましたことを悲しむといふやうなことも存じませんものですから」 註。「それでは孃さん、どういふ譯でかう爲さるやうになりましたか」 哀憐《あはれ》。「それは何んです、基督女《くりすちやな》さまが町をお出かけなさる仕度をしてゐなさいました時に、 私ともう一人の方と偶然|基督女《くりすちやな》さまをお訪ねいたしまして、戸を叩いて、内へ入りました。 内に入つて、基督女《くりすちやな》さまの仕てい出でんさいますことを見まして、 どうなさるのですかとお問《たづ》ねいたしました。 すると基督女《くりすちやな》さまは御良人の許《もと》にお出でなさる所だと仰しやるでせう。 それから起ち上つて、夢の中で御良人にお遇ひになつた話をして下さいました。 御良人は不思議な場所に、天人逹と一緒にお住居《すまゐ》になつて、冠を被り、琴を彈き、 大君の食卓で飮食《のみく》ひし、彼處《かしこ》に連れて行かれたことを感謝して讚美を歌ふてゐなさいましたさうです。 基督女《くりすちやな》さまがさういふ話をなさいますと、私の心の裡《うち》が熱くなりました。 で、私はそれが眞實《まこと》なら、父母《ちゝはゝ》や生れた土地を棄《すて》て、 基督女《くりすちやな》さまと一緒に行けるものなら、行きませうと窃《ひそか》に想ひました。 それから基督女《くりすちやな》さまにそれは確かな事實でせうか、とお問《たづ》ねしたり、 私も御一緒に連れて行つて下さいますかとお願ひしたりいたしました。 私共の町はいつ滅びるか解りませんから、とても住《すま》つてゐられないと悟りましたので。 それでも私は沈んだ心で參りました。參るのが嫌ではございませんが、 後には私の親族《みうち》が澤山殘つてゐるからでございませう。でも、恁《か》うして參るのは、 私の心の底よりの願《ねがひ》でございます。 基督女《くりすちやな》さまと御一緒にその御良人の王樣の許《もと》に參れるものなら、參りたう存じます」 註。「あなたの御出立の由來《いはれ》も善いですな、眞理に信用を置きなすつたのだから。 あなたはルツです。ルツはナオミを愛し、主なる神を愛するために、その父母《ちゝはゝ》と生れた國を離れて、 見ず知らずの民の中に來たので、『ねがはくはエホバ汝の行爲《わざ》に報ひたまへ。 ねがはくはイスラエルの神エホバ、即はち汝がその翼の下に身を寄せんとて來たれる者、 汝に充分の報ひをたまはらんことを』 [ルツ記2:11,12] と言はれたのです」 やがて晩餐《ばんめし》が終つて、寢床の仕度がされた。女逹は一人々々寢かされ[、] 子供逹は一緒に寢かされた。哀憐女《あはれみ》は寢床に入つたが、嬉しくつて眠られなかつた。 今や遂には失なはれるだらうといふ疑惑《うたがひ》がこれまでよりも遠く離れ去つたからである。 で、哀憐女《あはれみ》はかゝる惠みを與へたまふた神を祝福し又讚美した。 翌《あく》る朝、彼等は日の出と共に起き出でゝ、出發の仕度をした。 けれども註釋者《ちゆうしやくしや》は「茲《こゝ》からは順序を正して行かなければいけません」と言つて、 暫らく一同を留まらせた。そして初め彼等を出迎へた少女《をとめ》に向つて、 「この方逹をお連れして、庭園《には》の浴場に御案内なさい。そこで沐浴《ゆあみ》して、 旅路の垢を洗ひ潔《きよ》めなさいますやうにね」と言つた。 やがて無垢子《むくこ》といふ少女《をとめ》は彼等を連れて庭園《には》に行つて、 浴場に案内した。そして旅の途中で御招待申し上げた此家の御主人があなた方にお勸めなさいますことですから、 御身體を洗つて、御竒麗にあそばせと言つた。で、浴場に入つて、女逹も子供逹も皆な身體を洗つた。 それ故浴場から出て來ると、麗はしく潔《きよ》くなつたばかりか、いかにも元氣づいて、 關節《ふし〜》も力強くなつてゐた。家の内に來て見ると、沐浴《ゆあみ》に行く前よりも、 更に美はしくなつてゐた。 彼等が庭園《には》の浴場から戻ると、註釋者《ちゆうしやくしや》は側に引き寄せて、 つく〜と眺めて、「月のやうに美はしいですな」と言つた。 やがて彼の浴場で沐浴《ゆあみ》した者には記號《しるし》をつける慣《なら》はしなので、 その記號《しるし》を取り寄せさせた。その記號《しるし》が持參されると、彼等はそれを捺《お》して、 その志《こゝろざ》せる場所へ行つても知れるやうにした。その記號《しるし》といふのは、 イスラエルの子等が埃及《えじぷと》の國から出て來た時に喰つたといふ酵《たね》入れぬパンに因《ちな》めるものであつた。 その記號《しるし》は彼等の眼の前の間に捺《お》された [出エジプト記13:8-10] 。この記號《しるし》は顏の飾りともなつて、 大いにその美しさを増した。又その品格をも増したので、その容貌《かほ》は天の使《つかひ》のやうになつた。 やがて註釋者《ちゆうしやくしや》は再たびこの女逹を侍《はんべ》つてゐるかの少女《をとめ》に言つた。 「衣服室に行つて、この方逹のために衣物《きもの》を持つてお出でなさい」。 そこで少女《をとめ》は行つて、白い衣を持參して、主人の前に置いた。 すると彼はそれをお着なさいと一同に命じた。それは白く潔《きよ》い立派な麻の衣物《きもの》であつた。 女逹がそれを着返へると、互ひに怖ろしいほどに見えた。他人《 ひと》のことは見えるが、 自分がどれほど美はしい姿になつたか、見ることが出來ないからである。 で、彼等は互ひに他人《 ひと》のことを讚めそやした。「あなたは私よりも竒麗なのね」と一人が言へば、 「いえ、あなたこそ私よりも雅《ゆか》しく見えますわ」と言つた。 子供逹も亦|吃驚《びつくり》して、これはどうした事であらうと茫然《ぼんやり》立つてゐた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:四 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:四 やがて註釋者《ちゆうしやくしや》が大勇者《だいゆうしや》といふ一人の臣僕《けらい》を呼んで、 剱と兜と楯を授けてから、「この娘逹を送つて、次の宿所《とまり》である優美殿まで案内しなさい」と言つた。 そこで彼は武噐を取つて、彼等の先きに立つて出かけやうとした。註釋者《ちゆうしやくしや》は「道中御無事で」と言つた。 家の人々は皆な彼等を見送つて、御機嫌やうと言つた。やがて彼等は恁《か》う歌ふながら、路を進んだ。 「こゝはわが第二の宿所《やどり》、     われら茲《こゝ》にて、幾千代《いくちよ》も、 他《ほか》の人には隱されし、     善き物見たり、聽きもしぬ。 芥掻《ごみか》き人や蜘蛛と鷄《とり》、     雛鷄《ひなどり》も亦|教訓《をしへ》をば、 われに教へぬ、さらばその、     教訓《をしへ》にわれを合はしめよ。 屠牛《はふりて》と庭園《には》と畑と、     駒鳥とその餌と、 枯れたる樹とは力ある、     勸言《すゝめ》にわれを從がへぬ。 さればわれ醒めてぞ祈り、     心つくして眞面目に 日毎に十字架負ひつゝ、     主にぞ仕へん、畏敬《おそれ》もて」 私が夢の中で見てゐると、彼等は進んだ。大勇者《だいゆうしや》は先に立つて歩いた。 進み行く内に、やがて基督者《くりすちやん》の脊に負《しよ》つた重荷が落ちて、 墓の中にころげ込んだ場所に來た。茲《こゝ》に彼等は暫らく足を停めた。茲《こゝ》で又神を祝福した。 基督女《くりすちやな》は言つた。「私は今一寸とあの御門の側で言はれました事を思ひ出しました。 それは私共が言葉と行爲《おこない》に依つて赦罪《ゆるし》を獲た仕方ださうでございます。 約束といふことに就きましては、私にも幾らか解つて居りますが、 行爲《おこなひ》に依つて赦罪《ゆる》されるとか、それを獲た仕方で赦罪《ゆる》されるといふ方は、 どういふことで御座いませう。大勇者《だいゆうしや》さまは御存じのことゝ思ひますが、 どうぞ御高説《おかんがへ》をお聽せ下さいまし」 大勇《だいゆう》。「行爲《おこなひ》に依つて赦罪《ゆる》されるといふのは、罪の赦しを獲ねばならぬ人のために、 或る人が身代りとなつたことです。言ひ換へれば、その人が自分で赦されたのではなく、 他の人が身代りになつたといふその仕方で赦罪《ゆるし》を獲るのです。 その問題を一層《もつと》大きくして言へば、 貴女《あなた》や哀憐女《あはれみ》さんやお子さん逹が獲なすつたその赦罪《ゆるし》は他の人の身代りに依つて獲られたのであります。 他の人といふのは、貴女《あなた》方をあの門へ導いて下すつた彼の君です[。] かの君が赦罪《ゆるし》を獲なさるには、二つの仕方があります。自《みづ》から義《たゞ》しきを行つて、 貴女《あなた》方の罪を蔽ひたまひしことゝ、又その血を流して、貴女《あなた》方の罪を洗ひたまへることです」 基女《くりす》。「かの君が御自分の義《たゞ》しきを私共にお配《わ》け下さるとすれば、 御自分はどうなさいますでせう」 大勇《だいゆう》。「いや、かの君は貴女《あなた》方の求めに應じても、 又御自身にお用ひになつても、尚ほ餘りある義《たゞ》しきを有したまふのであります」 基女《くりす》。「どうぞ、そのことを御説明下さいまし」 大勇《だいゆう》。「心より歡《よろこ》んで致しませう。それに就いて先づ第一に定《き》めて置かねばならぬことは、 私が今お話しする彼の君は世に比ぶべき者がないことです。かの君は一人で二つの性質を持つてゐられます。 その二つの性質は見分けるのは易いが、分つことは出來ません。 その何《いづ》れの性質にも、各《おの〜》備はれる義がありまして、 その各《おの〜》の義はその性質に缺くべからざる要素となつて居ります。 若し容易《たやす》く、その性質を滅ぼさうと思へば、その正しきこと、 即はちその義を取り去るにありといへる程です。ですから、私共がその義を配《わ》けてもらつて、 自《みづ》から義《たゞ》しく生活しやうとしても、それは出來ない。 そればかりか、かの君の人格《ひとゝなり》の内には尚ほ一つの義があります。 それは此の二つの性質が一つに結合するからであります。それは人たる性質から見分けられる、 神たる性質の義でもなく、又神たる性質から見分けられる、人たる性質の義でもない。 その二つの性質の統一せる所に立てる義であります。 即はちこれこそが神がかの君に委ねられた中保《なかだち》の任務《つとめ》を果さしめるその完全《まつたき》より分れるのです。 ですからその第三の義は、かの君がそれに依つて神の現はされた聖旨《みむね》を成遂げ、 或ひはそれに服從なされたり、又それに依つて、罪人《つみびと》を救ふて、 その罪を掩《お》ふてやりなさるのです。それは『一人の逆に由りて多くの罪人《つみびと》とせられし如く、 一人の順によりて多く義とせらるべし』と言ふてある通りです」 基女《くりす》。「では。他の二つの義は私共には役に立ちませんのでせうか」 大勇《だいゆう》。「さうです。その二つはかの君の性質と任務《つとめ》には缺くべからざる要素でありますが、 第三のものとは混同することが出來ませんからな。併《しか》し第三の義がその目的とする所を果すのはその二つの義があるからです。 神たる性質の義はかの君に順の徳を與へます、又その人たる性質の義はその順を以て義《たゞ》しきを行なふ力を與へます。 又この二つの性質の統一せる所に立てる義はその定められたる業《わざ》を爲すべき權威を與へるのです。 ですから、神としての基督にとりては不用な義が一つあるわけです。 基督はそれが無くつても神ですからな。又人としての基督にとりて御自分には不用な義が一つあるわけです。 基督はそれが無くつても完全な人ですからな。又神人としての基督にとりて不用な義が一つあるわけです。 基督はそれが無くつても完全なる神人ですからな。それだから、基督にとりては、 神として、人として、神人として、御自分のためには不用な義が一つあるわけですから、 それを輿ふることを惜しみたまはぬのです。それは即はち罪を赦す義であつて、 基督が御自分には不用なので、これを他の者に配《わか》ちたまふのです。 で、それは義の賜物と呼ばれてゐます [ローマ書5:17] 。主なる耶蘇《いえす》基督は御自分を律法《おきて》の下《もと》に置きたまふたので[、] この義を與へなければならぬのです。律法《おきて》はその下《もと》にある基督《キリスト》を束縛して、 義《たゞ》しきを爲さしめるのみならず、愛の行ひをなさしめるからです。 つまり律法《おきて》に依つて、二つの上衣《うはぎ》を持つならば、何んにも持たないものにその一つを與へねばならんのです。 わが主は實は二つの上衣《うはぎ》を持ちたまふので、その一つは御自分のために用ゐ、 その一つは惜しみたまはず、快くそれを持たぬ者に與へられるのです。 ですから、基督女《くりすちやな》さんや、哀憐女《あはれみ》さんや、又お子さん逹の罪の赦しは、 他の人の行爲《おこなひ》に依り、業《わざ》に依つて獲られたのです、あなた方の主基督はその業《わざ》をなしたまふ者で、 これを求める憐れな罪人《つみびと》に出遇へば、いつでもその業《わざ》の賜物を與へたまふのです。 それから又基督の業《わざ》に依つて罪を赦されるためには、 私共の罪を庇《かば》ふために備へられたものに相當した値段を神に拂はなければならんのです。 罪は私共を義《たゞ》しき律法《おきて》の正當な呪咀《のろひ》に渡しました。 その呪咀《のろひ》から義とせられるには、贖罪《あがなひ》の道の依つて、 私共が爲した害に相當する價《あたひ》を拂はなければならないのです。その價《あたひ》はあなた方の主の血です。 主はあなた方の位置に立ち、身代りとなつて、あなた方の罪過《つみとが》からあなた方を贖《あが》なひ、 あなた方の穢れた醜ひ靈魂《たましひ》を義にて庇《かば》ひたまふのです [ローマ書8:34] 。それ故に神來たりて世を審《さば》かれる時に、 あなた方の順番になつても、あなた方を害したまふことはないのです」 基女《くりす》。「立派な御高説《おかんがへ》でございます。 言葉と行爲《おこなひ》に依つて赦罪《ゆる》されるといふことに就て種々《いろ〜》學ぶ所がございました。 ねい、哀憐女《あはれみ》さん、この事をつとめて心に留めておきませうね。 子供逹、お前さん方も覺へておきなさい。それでは、貴君《あなた》、 私の良人《をつと》基督者《くりすちやん》の重荷を肩から落して、 嬉しさに三度躍らせましたのも、そのためではございませんか」 大勇《だいゆう》。「さうです。他《ほか》の手段では斷ち切ることの出來ないその重荷の紐を切つたのは、 その信仰です。又御良人が十字架の下《もと》に至るまで、忍んでその重荷を運ばされたのは、 この信仰の徳を明らかに解らせるためです」 基女《くりす》。「さうでございませうね。私でさへ、これまで心が輕く嬉しうございましたのが、 今ではその十倍も輕く嬉しくなりましたのですもの。ですから、私、自分の感ずる所は假令《たとへ》僅かでございましても、 それから推して恁《か》う想ひます。世にも最も重い荷を負《しよ》つた人があるとしまして、 今私のなすやうに、見もし信じもすたとすれば、その心情《こゝろ》はどんなに樂しく悦《よろ》こばしいでせうとね」 大勇《だいゆう》。「此等のことを眼にて見、心に想へば、私共の重荷を取り去られて、 慰めと安心を受けるばかりか、愛慕の情を心の裡《うち》に生じます。 かやうに罪の赦しが約束の語《ことば》に依つてのみ來たのでないことに一度《ひとたび》想ひ至らば、 誰でもその贖罪《あがなひ》の仕方と手段に感動して、 自分のために身代りになりたまふたその人を愛慕するでせう」 基女《くりす》。「さやうでございます。私のために血を流して下すつたかと思へば、 私の心情《こゝろ》からも血が出るやうに想ひます。あゝ愛の主、あゝ祝福の主。 主は私を持たんことを慾して、私を購《か》ふて下さいました。主は私を持たんことを慾して、 私に相當な價《あたひ》よりも萬倍も高く私の身の代を拂つて下さいました。 ですから、私の良人《をつと》が眼に涙を浮べて、早くも苦しき旅に出で立つたのも不思議がございません。 良人《をつと》は私をも一緒に連れ立たうとしましたに、その頃私は穢れた惡い女でございましたので、 良人《をつと》獨りを遣《や》りました。あゝ哀憐女《あはれみ》さん、 あなたのお父さんとお母さんも茲《こゝ》にお出でになりましたらね。 それからあの臆病夫人もね、殊にあの淫亂の奧樣がお出でになつたらと、私、心より思ひますわ。 さうしたら、必らずその心情《こゝろ》は感動するに違ひありません。 臆病夫人の恐怖《おそれ》も淫亂の奧樣の盛んな色慾も、これを見なすつたら、 あの方逹を再たび家《うち》に戻したり、善き旅人となるのを嫌はせたりすることは出來ませんわ」 大勇《だいゆう》。「あなたは今温たかな愛情で話しをなされますが、 いつでもその通りでゐることが出來ると思ひますか。 それからこの事は誰にでも顯《あら》はされはしません。 耶蘇《いえす》の血を流したまふことを見た人には誰にでも顯《あら》はされるといふのではありません。 實際十字架の側に立つて、耶蘇《いえす》の胸から血しほが地に滴《した》たるのを見てゐた者は澤山にありますが、 それを見て悲しむ所かこれを笑ひました。その弟子となる所が、 耶蘇《いえす》に對して心を頑《かた》くなにいたしました。 ですから今あなた方が私の談《はなし》を聽いて特に感動なすつたのは、 深くその事を想ひめぐらされたからです。あの牝鷄が分け隔てなく一般に呼ぶ時には、 雛鳥に餌を與へないといふ話を憶《おも》ひ出してごらんなさい。 だから、これはあなた方に對する特別の恩寵です」 さて尚ほ私が夢の中で見てゐると、彼等が進んでゆくと[、]基督者《くりすちやん》がその道中で、 淺薄者《あさはかもの》と怠惰者《なまけもの》と我儘者《わがまゝもの》とが横になつて睡《ねむ》つてゐるのを見た處に來た。 すると見よ、その三人の者は路傍《みちばた》から尠《すこ》し離れた處に鎖で縊《くび》り殺されてゐた。 そこで哀憐女《あはれみ》はその案内者で又指導者である人に言つた。 「この三人はどういふ方ですか。どうして縊《くび》り殺されたのですか」 大勇《だいゆう》。「この三人は甚だ善くない性《たち》のもので、自分逹が旅人たる心がないばかりか、 出來るだけ他人《 ひと》の邪魔をしました。自分逹が怠惰で愚かであるばかりか、 出來るだけ他人《 ひと》にもさうさせやうとするし、又行末の幸福を獨斷《ひとりぎ》めすることを教へたりしました。 基督者《くりすちやん》さんが通られた時には、睡つてゐたのでしたが、 今あなた方が通る時には、縊《くび》れ死んで居ります」 哀憐《あはれ》。「では、この人逹に説き伏せられた者もあるのですか」 大勇《だいゆう》。「さやう、數名の者に路を誤まらせました。 説き伏せられた者の中には、徐歩者《のろま》といふ男もありました。 また息切者《いきぎれもの》、腑拔者《ふぬけもの》、未練者《みれんもの》、眠氣者《ねむけもの》、 それから間拔子《まぬこ》といふ若い女などは、説き伏せられて、路を迷ひ出て、この人逹のやうになりました。 それから又主のことを惡く言つて、主は殘酷な監督者だなどゝ人々に言ひ觸《ふら》したのです。 又善き御國《みくに》のことを惡く言つて、善い所だなどゝいふ者もあるが、 その半分も善くないと言ひ觸《ふら》したのです。又主の僕《しもべ》逹を罵《のゝ》しつて、 その最も善い人逹をも、物好きで、厄介な、世話燒きだと言つてゐました。 それから神の麺麭《ぱん》を殼と呼び、神の子供の慰安《なぐさめ》を空想と呼び、 旅人の勞苦《ほねをり》を當《あて》のない事と呼んでゐたのです」 「まあ」と基督女《くりすちやな》が言つた。「そんな人逹なら、ちつとも可哀想なことはありません。 こんな最後が相當ですわ。こんなに往來の側で縊死《くびれ》てをるのは、 他人《 ひと》の見せしめになつて宣《よろ》しう御坐いませう。 この人逹の罪状《つみ》を鐡か眞鍮の板にでも刻んでその惡事をなした此處へ立てゝおいたら、 他《ほか》の惡い人逹の戒しめになつて宜《よろ》しくはないでせうか」 大勇《だいゆう》。「それはさうしてあります。もう尠《すこ》し石垣の方へ寄つて御覽なさい」 哀憐《あはれ》。「いえ、いえ、見ますまい。この人逹が縊殺《くび》られて、その名は朽ち果てゝも、 その罪はいつまでも滅びないで居りませう。それでも私共が茲《こゝ》へ來ません前に縊殺《くび》られたのは、 誠に仕合せでした。さもないと纖弱《かよわ》い女の私共にどんな事をしたか知れません。 それから歌つて、恁《か》う言つた[。] 三人《みたり》はこゝに縊殺《くび》られて、     眞理《まこと》に逆らふ者共の、 見せしめとこそなりにけれ。     旅人の友にあらざる、 人よ、怖れよこの最後《をはり》。     わが魂よ、油斷すな。 聖《きよ》きに反く人々に。 彼等はそれから進んで、困難の岡の麓まで來た。 その善き友なる大勇者《だいゆうしや》はまた先きに基督者《くりすちやん》が茲《こゝ》を通行した時に起つたことを話す折を得た。 そこで先づ第一に彼等を泉の傍へ連れて行つて、恁《か》う言つた。 「御覽なさい。これは基督者《くりすちやん》さんがこの岡を登る前に水を飮んだ泉です。 その時は竒麗な善い水でしたが、今ではこんなに穢《きた》なくなつてゐます。 それは旅人は茲《こゝ》へ來てその渇いた喉を濕《うるほ》すことに猜《ねた》む者が足で濁したのです」 [エゼキエル書34:18,19] そこで哀憐女《あはれみ》は言つた。「どうしてさう猜《ねた》むのでせう」 「それは兎に角」と案内者が言つた。「この水を汲んで、竒麗な善い噐《うつは》に入れると、 用ゆることが出來ます。泥は底に沈んで、水は自然《ひとりで》に澄んで來ますからな」 恁《か》う言はれたので、基督女《くりすちやな》と其の同伴《つれ》とはさうせねばならなかつた。 水を汲んで、土噐《つぼ》に入れて、泥が底に沈んでしまふまで置いて、それから皆なして飮んだ。 次に案内者は先きに虚禮者と僞善者とが見失はれた岡の麓にある二つの横道を見せて、言つた。 「これは危險な路です。先きに基督者《くりすちやん》さんが通行された時に、 二個《ふたり》の人が茲《こゝ》で失はれました。御覽のやうに、 今では鎖や杙や溝で通行止めがしてあるのですが、それでも尚ほこの岡を登る苦しみを避けやうと想つて、 此路《こちら》を行つて見やうとする者があるのです」 基女《くりす》。「悖戻者《もとるもの》の路は艱難《なやみ》でございませう [箴言13:15] 。この路に進み行く者が頸の骨を折らなければ不思議な位です」 大勇《だいゆう》。「實に向ふ見ずな者共です。王の僕《しもべ》逹が圖らずその者共に遇ふことがあつて、 呼び留めて、その邪《よこし》まな路であることを話して、 その危險なことを注意してやるとしませう。さうすると嘲笑《あざわら》つて口返答をして、 いくら王の名で私共に話して下すつても、そんな言《こと》は聽きたくもありません。 私共は自分の口から出た言《こと》を行へばそれで可いです [エレミア書44:16,17] といふやうなことを申します。いや、もう尠《すこ》し能く御覽なさい。 この二つの路には、杙や溝や鎖で止めてあるばかりか、籬《まがき》さへ結つて、 充分に警戒してあるのです。それだのに、尚ほその方へ行きたがるのですからな」 基女《くりす》。「さういふ人逹は怠け者で、苦しいことをするのを好まないのでせう。 だから、登り路は嫌なのですね。『惰《おこ》たる者の道は棘《いばら》の籬《まがき》に似たり』と記してある通りですのね。 ですから、その人逹はこの岡を登つて、都まで殘りの路を續けるよりも、係蹄《わな》に歩み込みたがるのでせう」 やがて彼等は前に進んで、愈々岡にさしかゝつた。一同その岡へ登つたが[、] 頂上まで進まぬ内に基督女《くりすちやな》は喘ぎ出した。さうして言つた。 「これは息苦しい岡で御坐いますのね。これでは安逸《やすき》を好む人逹が靈魂《たましひ》のことをそつち除けにして、 もつと易い路を行きたがるのも無理ではありません」 哀憐女《あはれみ》も言つた。「私は休みたう御坐います」 子供逹の中で小さい者は泣き出した。けれども大勇者《だいゆうしや》は言つた。 「さあ、參りませう。茲《こゝ》で休みなさいますな。もう尠《すこ》し上に行くと、 主の小亭《あづまや》がありますから」。恁《か》う言つて、小さい子供を手に抱へて、 先きに立つて案内した。 彼等は小亭《あづまや》に着いて、大變歡《よろこ》んで腰をかけた。 皆な汗でびつしよりになつてゐた。哀憐女《あはれみ》は言つた。 「勞《つか》れた者にとりて休むほど嬉しいことはありませんのね。 旅人のためにこんな休息所《やすみじよ》を備へて下すつた主はなんといふ善い方でせうね。 この小亭《あづまや》のことは、種々《いろ〜》伺つてゐましたが、 かうして見るのは初めてゞございます。でも眠らないやうに用心しませうね。 基督者《くりすちやん》さんはお睡りになつたばかりで、とんだ目にお遇ひでしたさうですから」 やがて大勇者《だいゆうしや》は小さい子供逹に向つて、「さて、好い子供さん逹、どうです。 變りもありませんか。道中を續けることが出來さうですか」 一番小さい子供が言つた。「私は氣が遠くなつてましたが、叔父さんが手を貸して下すつたので、 どうも有難たう。今私はお母《つか》さんから伺がつたことを想ひ出しました。 天國へ行く路は梯子を昇るやうで、地獄へ行く路は坂を下るやうだと。 でも、私は坂を下つて死に行くよりか、梯子を昇つて生命《いのち》に行きたい」 そこで哀憐女《あはれみ》は言つた。「でも、諺に下り坂は易しといふではありませんか」 けれどもヤコブ(その子の名)は言つた。「いえ、 下り坂も卑下《へりくだ》るといふことは一番六ヶ敷いさうですからね」 「うん、善い子供だ、立派な返事が出來た」とその先生である大勇者《だいゆうしや》が言つた。 それを聞いて、哀憐女《あはれみ》は微笑んだが、小さい子供は顏を赧めた。 「さあ、あなた方は」と基督女《くりすちやな》が言つた。「尠《すこ》し御食事をなさい[。] かうして腰をかけて足休めをしてゐる間に、尠《すこ》し美味しいものでもね。 註釋者《ちゆうしやくしや》さまがあの御家をお暇《いとま》します時に下すつた柘榴《ざくろ》が一つございます。 それからまた蜂の巣を一つと興奮劑の飮料《のみもの》の小さい瓶を一つ頂だきました」 「あの方があなたを側にお呼びになつたので、何にか下すつたのだらうと想つてをりました」 と哀憐女《あはれみ》が言つた。 「さうでしたのね」と基督女《くりすちやな》が言つた。「でも、哀憐女《あはれみ》さん、 私は初めて家《うち》を出ます時に申した通りに今でもするつもりですの。 あなたが歡《よろこ》んで私の道連れになつて下すつたのですから、 私の持つてゐます善いものはなんでもお配《わ》けいたします」 かう言つて、それを皆なに配《わ》けた。哀憐女《あはれみ》も子供逹もそれを食べた。 基督女《くりすちやな》は又|大勇者《だいゆうしや》に向つて、 「あなたも私共の仲間にお入りになりませんか」と言つた。けれども彼は答へた。 「あなた方は旅に行きなさるのですし、私はやがて歸るのですからな。 あなたの持つてをられる物は大いにあなた方の益となるやうに望みます。 私は家《うち》で毎日食べてをりますから」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:五 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:五 かうして彼等は食ひ且つ飮んで、暫らく喋舌《しやべ》つてゐた。やがて案内者は言つた。 「日暮れになりさうですから、宜しければ、もう出かけませう」そこで一同立ち上つた。 小さい子供逹は先きに立つて進んだ。然るに基督女《くりすちやな》は飮料《のみもの》の壜を置き忘れたので、 子供の一人をやつてそれを取つて來らせた。そこで哀憐女《あはれみ》は言つた。 「茲《こゝ》は物忘れする場所ですのね。基督者《くりすちやん》さんは茲《こゝ》で卷物をお忘れなすつたさうですし、 基督女《くりすちやな》さんは茲《こゝ》で壜をお忘れになりました。 これには、貴君《あなた》樣、なにか原因《わけ》がございませうか」 案内者はそれに答へた。「その原因《わけ》は睡ることゝ、物忘れすることです。 目醒めてをるべき時に睡れる者もあるし、記憶《おぼ》へてをるべき時に忘れる者もあるからです。 唯さういふ原因《わけ》で、休息場《やすみば》で旅人が物を失《なく》すことが度々あります。 ですから旅人はどんなに嬉しい時でも、既に受取つたものに氣をつけて、 記憶《おぼ》へて居らなくてはなりません。さうしないから、幾度《いくたび》も歡びが涙になつたり、 照る日に雲が懸《かゝ》つたりするのです。此所《こゝ》で起つた基督者《くりすちやん》さんの話でも能く解りませう」 やがて疑惑者《うたがふもの》と臆病者とが基督者《くりすちやん》に遇つて[、] 獅子の怖ろしさを説いて還らしめやうとした處に來て見ると、そこに仕置臺があつた。 その臺の前に、路に向つて、一つの廣い板金《いたがね》に、數行の歌と、 その下に此所《こゝ》へ仕置臺を立てた由來が記してあつた。その歌は恁《か》うである。 この仕置臺を見る人、     心と舌に氣をつけよ。 さらば此所《こゝ》に滅びなん、     先に失せたる者のごと」 歌の下の言葉は恁《か》うである。「この仕置臺は憶病若しくは疑惑《うたがひ》に依つて、 旅路を進むことを怖れる者を罰するために設けられたのである。 又かの疑惑者《うたがふもの》と憶病者の兩人《ふたり》は基督者《くりすちやん》の道中を妨げとした爲めに、 燃ゆる鐡の焔《ほのほ》の舌にて燒き殺された」 哀憐女《あはれみ》はこれを讀んで言つた。「懷かしき方の御言葉の通りでございますのね。 『あざむきの舌よ、汝に何を與へられ何を加へらるべきか。 ますらをの利《と》き箭《や》と金雀花《えにしだ》の熱き炭《ひ》となり』 [詩編120:3,4] とございませう」 やがて獅子の見える所まで進んで行つた。元より大勇者《だいゆうしや》は強い人なので、 獅子を怖れなかつた。けれども獅子の居る所まで來ると、先きに立つた子供逹はこれを見てびく〜し出した。 尻込みして後へ戻つて來た。これを見て案内者は微笑んで言つた。「どうしました。 お子さん逹、あなた方は危なげのない時には先へ立つて進むのが好きだが、獅子でも見えると、 後から來るのが好きなんですな」 さて進み行くほどに、大勇者《だいゆうしや》は剱を拔いて、獅子の居るのを物ともせずに旅人逹のために路を明けてやらうとした。 折しもそこに獅子の後援《あとお》しをする者が一人現はれて、旅人の案内者に向つて、 「お前たちはどうして茲《こゝ》へ來ましたか」と言つた。 この男の名は獰猛者《どうもうしや》、又旅人を殺す故に血塗者《ちまみれもの》と云つて、 巨人の種族に屬した。 旅人の案内者は言つた。「この女逹と子供逹とは都詣に行くので、 茲《こゝ》は是非通らねばならん路です。お前さんや獅子が居つても、兎に角こゝを通らねばならない」 獰《どう》。「こゝは彼等の路ではないから、通すわけには參らん。私は邪魔してやらうと思つて來たのだ。 獅子の後援《あとおし》をしてな」 實際のところ、獅子共の猛惡なのと、その後援《あとお》しをする者の獰猛な態度のために、 この路は近頃|往來《ゆきゝ》も大かた打ち絶えて、蓬草《よもぎ》が生ひ繁つて路を塞《ふさ》ぐほどであつた。 その時|基督女《くりすちやな》は言つた。「大路《おほぢ》を通る者がなくつても、 途《みち》行く人は暫らく徑《こみち》を歩みましても、私が起つた以上はさうはさせません。 私は起つてイスラエルの母となるのです」 [士師記5:6,7] 獰猛者《どうもうしや》は獅子に依つて誓つて、誰が起つても、さうはさせない[、]茲《こゝ》を通行させぬから、 還《かへ》つて行けと命じた。 道案内の大勇者《だいゆうしや》は忽ち獰猛者《どうもうしや》に近づいたと見る間に、剱を揮《ふる》つて、 したゝかに斬り付けたので、獰猛者《どうもうしや》は後に退《さが》らなければならなかつた。 そこで獅子の後援《あとおし》をしやうとした者は言つた。「お前は私の領内で私を殺さうとするのか」 大勇《だいゆう》。「私共は王の往還に居るのだ。その路にお前は獅子を置いたのだ。 この女逹、この子供逹は、纖弱《かよわ》い身でも、お前の獅子などのためにこの路を捨てるものではないぞ」 かう言つて、又一太刀斬り下げて、これを倒ふした。この一打《ひとうち》で、その兜を打ち碎き、 次の打《うち》で、片腕を斬り落した。その時巨人は凄まじい聲で唸つたので、女逹は吃驚《びつくり》した。 しかしそのぐつたりと地に腹這ひになつたのを見て喜んだ。獅子は鎖に繋いであるので、 どうも仕なかつた。今や獅子の後援《あとお》しをしやうとした年老ひた獰猛者《どうもうしや》が死んだので、 大勇者《だいゆうしや》は旅人逹に言つた。「さあ、私に隨《つ》いてお出なさい。 獅子はどうも仕やしません」そこで一同は進んだが、女逹は獅子の側を通る時に、ぶる〜と慄へた。 子供逹は死にさうに色蒼ざめてゐた。けれども何んの害も受けずに通り越した。 やがて門番の小舍の見える所に來た。彼等は直ちにそれを目ざした。 この邊《あたり》は夜行《よみち》が危險なので、そこに着くまで急ぎ足になつた。 さてその門へ着くと、案内者はこれを叩いた。門番は「どなたですか」と叫んだ。 案内者が「私です」と言ふと、門番は早くもその聲を知つて、出て來た。 案内者は前にも幾度《いくたび》か旅人を導いて茲《こゝ》に來たことがあるからである。 門番はおりて來て、門を開けた。案内者が恰度その前に立つてゐるのを見て、 (女逹はその後にゐたので見えなかつた)、恁《か》う言つた。 「やあ、大勇者《だいゆうしや》さん、こんなに晩《おそ》く何に用ですか」 大勇者《だいゆうしや》は言つた。「旅人逹を連れて參りましたが、主人の指圖で、 今夜|茲《こゝ》へ宿《と》めていたゞかなければなりません。もつと早く茲《こゝ》へ着くはづでしたが、 途中で獅子の後援《あとお》しをしやうとした巨人に邪魔立てをされましてな。 でも暫らく激しく戰つて、それを斬つて捨てまして、まあ、かうして無事に旅人逹を連れて來ましたのでさ」 門番。「貴君《あなた》も内へ入つて、今夜はお宿《とま》りなさらんか」 大勇《だいゆう》。「いや、今夜の内に主人の許《もと》へ歸りませんとな」 基女《くりす》。「あゝ、貴君《あなた》にお別れするのはどんなに辛ふございますか知れません。 これまで私共を愛して、親切にして下さいましたのに。 それから私共のためにあんなに激しく戰つて下さるし、 誠心《まごゝろ》から私共を勵まして下さいました御恩は決して忘れません」 哀憐女《あはれみ》は言つた。「あゝ、私共の旅の終りまで、貴君《あなた》に御一緒に行つていたゞけましたらね。 私共のやうな纖弱《かよわ》い女の身で、こんな艱難《なやみ》の多い路を、友もなく、 保護者もなくつてどうして參れませう」 子供逹の中で最も小さいヤコブも言つた。「どうぞ、叔父さん、一緒に行つて私共を助けて下さいな。 私共は弱いし、路がこんなに危ないですから」 大勇《だいゆう》。「私は主人の指圖のまゝです。 主人が最後《おはり》まで貴女《あなた》方を御案内するやうに許してくれますなら、悦んでお供します。 兎に角あなた方は初めにやり損なつたですな。主人が私に茲《こゝ》まで御一緒に來るやうに言ひ付けた時に、 旅を終るまで一緒にやつて下さいとお願ひになると、主人はそのお頼みを許しましたらうにな。 兎に角私は一と先づ歸らなければなりません。それでは基督女《くりすちやな》さん、哀憐女《あはれみ》さん、 勇ましいお子さん逹、左樣なら」 やがて門番の警護者は基督女《くりすちやな》に向つて、その生國《せいこく》や親族《みうち》のことを問《たづ》ねた。 で、基督女《くりすちやな》は答へた。「私は滅亡《ほろび》の市《まち》から參りました者で、 寡婦《やもめ》でございます。良人《をつと》は亡くなりました。 良人《をつと》は旅人の基督者《くりすちやん》と申しました」 「え、何に」と門番は驚いて、「あの人があなたの良人《をつと》ですか」 「はい」と基督女《くりすちやな》が言つた。「これはその子供逹でございます。それからこの方は」 と哀憐女《あはれみ》を指さして、「私と同じ町の婦人《ひと》でございます」 やがて門番はかういふ時の慣例《ならはし》に從つて、鐘を鳴した。 すると戸口に卑下子《ひげこ》といふ一人の處女《をとめ》が現はれた。門番はこの處女《をとめ》に向つて、 「基督者《くりすちやん》さんの奧樣の基督女《くりすちやな》さんとそのお子さん逹が都詣での途中でお寄りになつたと取次いで下さい」 處女《をとめ》は内へ引込んで、その事を話した。基督女《くりすちやな》はまだ戸口に立つてゐた。 その中にもいと眞面目な人逹が側へ寄つて、「さあ、基督女《くりすちやな》さん、お入りなさい。 あなたはあの善い人の奧樣ですつてね。さあ、お入りなさい[、]あなたは祝福《しやはせ》は方です。 さあ、お連れの方逹もお入りなさい」 そこで基督女《くりすちやな》は内に入つた。その子供逹も同伴《つれ》もその後に隨《つ》いて行つた。 内へ通ると、いとも大きな部屋があつて、そこにお座りなさいと言はれたので、一同座つてゐた。 家の長《をさ》も來客に面會して、歡迎しやうとのことであつた。やがて長《をさ》は入つて來て、 旅人逹の身の上を聽いて一人〜に挨拶の接吻《くちつけ》をして、恁《か》う言つた。 「やあ、善くお出でになりました。あなた方は神の恩寵《めぐみ》の噐《うつは》です。 善くお出でになりました。あなた方は私共のお友逹です」 さて餘程夜も更けたし、旅人逹も旅疲れがしてゐるし、 それに戰鬪《たゝかひ》や恐ろしい獅子を眼《ま》の當りに見て弱つてゐるので、 出來るだけ早く寢《やす》ませて下さいと願つた。けれども此家の人々は、 「先づ少しばかり食事をして元氣をおつけなさい」と言つた。 それは門番が前にこの人逹の來るのを聽いて、内の人逹に知らせておいたので、 羔《こひつじ》 [出エジプト記12:21] John と、それに常時《いつも》つきものである醤油《さうす》とを仕度しておいたからである。 やがて夕餐《ゆうめし》を濟せて、祈祷《いのり》をなし、詩を歌つて、又休ませて下さいませんかと願つた。 基督女《くりすちやな》はその時言つた。「誠に厚顏《あつかま》しいお願ひでございますが、 私の良人《をつと》が此家《こちら》に參りました時に休みました部屋に、 私共を寢《やす》ませていたゞくことは出來ませんでせうか」 で、そこに案内されて、皆一つ室に寢《やす》んだ。やがて横になつてから、 基督女《くりすちやな》と哀憐女《あはれみ》とは適當な寢物語を始めた。 基女《くりす》。「良人《をつと》が旅立ちます時に、かうして後を慕つて行かうとは、少しも思ひませんでした」 哀憐《あはれ》。「それから恁《か》うして、御主人のお休みになつた床や部屋にお休みにならうとは、 お想ひにならなかつたでせうね」 基女《くりす》。「それから良人《をつと》の顏を見て、慰さめられたり、 良人《をつと》と一緒に主なる大君を拜まうとは尚更思ひませんでしたが、 今ではさういふ事になると信じてゐます」 哀憐《あはれ》。「まあ、お聽きなさい。あの音は何んでせう」 基女《くりす》。「あれは確に樂の音《ね》ですね、私共が茲《こゝ》に居るのを歡《よろこ》ぶためにでせう」 哀憐《あはれ》。「まあ不思議ね。家の内でも音樂、心の裡《うち》でも音樂、 いと高き天でも音樂、それは皆な私共が茲《こゝ》にあるのを歡《よろこ》ぶためとはね」 かうして暫らく話してから、やがて睡つてしまつた。 さて翌《あく》る朝、目が醒めると、基督女《くりすちやな》は哀憐女《あはれみ》に言つた。 「あなたは夜中に睡つてゐながらお笑ひになりましたが、どうしましたか。 夢を御覽になつたのでせう」 哀憐《あはれ》。「れさうですの、樂しい夢でしてね。ほんとうに私が笑ひまして」 基女《くりす》。「えい、心からお笑ひになつたの。哀憐女《あはれみ》さん、 どうぞ其の夢のお話しをして下さい」 哀憐《あはれ》。「私は夢の中で、唯獨り寂しい處に座つて、心のなやみを歎いてをりました。 まだ座つてそれほどもならぬ内に、大勢の人逹がぐるりに集まつて來て、 私を見たり、又私の言ふことを聽うとしたりしました。大勢の人が聽いてゐても、 尚ほ私は心のなやみを歎き續けました。で、私を笑ふ者もあるし、馬鹿だといふ者もあるし、 私を押退《おしの》けやうとする者もありました。その時私は天を仰いで眺めてゐると、 一人の翼のある者が私の方を指して來るのを見ました。その人は眞直に私の側へ來まして、 『哀憐女《あはれみ》よ、卿《おんみ》はなにを歎くのか』と申されました。 で、私が種々《いろ〜》訴へますと、それを聽いて、『卿《おんみ》平和《やす》かれ』と言つて、 その手巾《はんけち》で私の眼を拭つて、金と銀で私を裝つて下さいました。 それから私の手を取つて、『哀憐女《あはれみ》とやら、隨《つ》いてお出で』と言はれまして、 空へ昇つてゆかれますので、私もその後について、黄金《こがね》の門へ參りました。 その方が門をお叩きになると、内から開けられたので、その方は入つて行かれます。 私もその後から玉座のある所まで參りました。その玉座に座りたまふ御方が、 『よく來なすつた、娘よ』と言はれました。その場所は眩しいほどぴか〜してゐて、 まるで星のやう、いな、太陽のやうでした。そこにあなたの御良人も居られたやうに想ひます。 そこで夢が醒めましたのですが、私、笑ひましたでせうか」 基女《くりす》。「笑ひましたとも、えい、そんな吉《い》い夢を御覽になつたのですもの、 確にそれは吉《い》い夢に相違ありません。もうその初めの方は眞實《ほんとう》になつてゐるのですから、 後の方も最後《しまい》には眞實《ほんとう》になりますよ。 『まことに神は一度《ひとたび》二度《ふたゝび》と告示《tげしめ》したまふなれど、 人これを曉《さと》らざるなり。人|熟睡《うまい》する時、または床に睡る時に、 夢或は夜の間の異象《まぼろし》の中にて、彼れ人の耳をひらき、その教うる所を印して堅うす』 [ヨブ記33:14-16] とございます通り、私共の心は睡れる間に醒めてゐることがあります。ですから、 神樣は人の目醒めてゐる時のやうに、 睡つてゐる時でも、言葉や、諺《ことはざ》や表號《しるし》や譬喩《たとへ》で語りたまふのです」 哀憐《あはれ》。「さうですね、さういふ夢を見ましたのは嬉しうございます。 その内に夢の通りになつて、又笑ひたうございます」 基女《くりす》。「もう起きる時でせうね。起きて種々《いろ〜》します事を承《うけた》まはりませう」 哀憐《あはれ》。「若し暫らく留まるやうに言はれましたら、どうぞ、 快く御承知なすつて下さいね。私は暫らく此家に逗留して、あのお孃樣方ともつと善くお近づきになりたうございますわ。 あの愼子さんと敬子さんと愛子さんとはいかにも御立派な氣高いお顏をしておゐでなさるのね」 基女《くりす》。「どう仕て下さいますか、それを見てからね」 やがて起き出でゝ、身支度をして、娘逹もおりて來た。互ひに挨拶して、快《よ》くお寢《やす》みになりましたかと問《たづ》ねた。 「大變善く寢《やす》みました[、]と哀憐女《あはれみ》が言つた。 「私、生れてからこんなに善いお宿に宿《とま》つたことはございません」 その時愼子と敬子とは言つた。「あなた方は暫らく御逗留なすつても宜しいのでせう。 さうしたら此家にあるものは、なんでも差し上げます」 「それは快く差し上げますのよ」と愛子も附言《つけた》した。 やがて旅人逹はさうすることにして、一月餘りも茲《こゝ》に逗留して、 互ひに甚だ有益に暮した。ある時愼子は基督女《くりすちやな》が子供逹にどんな躾をしてゐるか知りたいと思つて、 子供逹と問答して見ても宜しいでせうかと言つた。基督女《くりすちやな》はどうぞ御自由にと承知したので、 愼子は一番年下のヤコブから始めた。 愼子は言つた。「さあ、ヤコブさん。あなたをお造りになつたのは、どなたですか、言つてごらんなさい」 ヤコブ。「父の神、子の神、また聖靈の神です」 愼。「善い子ですこと。では、あなたをお救ひになつたのは、どなたですか」 ヤコブ。「父の神、子の神また聖靈の神です」 愼。「尚更善い子ね。では、父の神はどうしてあなたをお救ひになつて」 ヤコブ。「その恩寵《めぐみ》に依つてゞす」 愼。「子の神はどうしてあなたをお救ひになつて」 ヤコブ。「その義と死と血と生命《いのち》に依つてゞす」 愼。「それでは聖靈の神はどうしてあなたをお救ひになつて」 ヤコブ。「その照らすことゝ新らしくすることゝ、保つことに依つてゞす」 そこで愼子は基督女《くりすちやな》に向ひ、 「あなたはお子さん逹を美事《みごと》にお躾けなさいましたのね。 一番小さい方さへこんなに善く御答へなさいますのですから、 他の方には同じお問《たづ》ねをするには及びませんでせう。 では、今度は下から二番目の方にお問《たづ》ねしませうかね」 やがて愼子は言つた。「さあヨセフさん(その子はヨセフと言つた)お尋ねしても宜しいですか」 ヨセフ。「えい、どうぞ」 愼。「人はどういふ者ですか」 ヨセフ。「道理の解る者で、弟の言つたやうに、神から造られたのです」 愼。「救はれるといふ語《ことば》についてどういふ事が想はれますか」 ヨセフ。「人は罪に依つて自ら奴隸と艱難《なやみ》の状態に落ちたといふ事が想はれます」 愼。「では、三位《さんみ》の神に依つて救はれるといひますが、それに依つてどういふ事が想はれますか」 ヨセフ。「罪はあまりに大きな力ある暴君なので、神のほかには、 私共をその手より離すことは出來ないといふ事と、それから神は人を愛し、 これに善くしたまふので、その憐れな状態から離れしめられるといふ事です」 愼。「それでは、憐れな人々を救ひたまふ神の聖意《みこゝろ》は何んですか」 ヨセフ。「神はそれに依つて、聖名《みな》と、その恩寵《めぐみ》と、その正義を頌《あが》めさせたまふ。 又その造られし物に永遠《とこしへ》の幸福を與へたまふのです」 愼。「それでは、救はれる人々は誰でせう」 ヨセフ。「それは神の救ひを悦《よろこ》んで受ける人々です」 愼。「善い子ですね、ヨセフさん。それを能くあなたに教へなすつたお母樣《つかさん》もお母樣《つかさん》ですし、 それを能く聽きなすつたあなたもあなたです[。] やがて愼子は次男のサムエルに言つた。 愼。「さあ、サムエルさん、あなたも悦んで私と問答して下さいませうね」 サム。「はい、いたします、悦んで」 愼。「天國とは何んですか」 サム。「神の住みたまふ所ですから、最も祝福《さいはひ》な場所、又状態です」 愼。「地獄とは何んですか」 サム。「それは罪と惡魔と死との住家《すみか》ですから、最も禍《わざはひ》の場所又状態です」 愼。「あなたはどうして天國へ行くことを望みますか」 サム。「神を見、倦《う》むことなく神に仕へられるからです、又基督を見、 永久に基督を愛することが出來るからです。又此世では決して悦ぶことが出來ないほど、 心の裡《うち》に聖靈を充すことが出來るからです」 愼。「ほんとうに善い子ね。能く學びなさいました」 やがて愼子は長男のマタイに話しかけた。「さあ、マタイさん、あなたも私と問答して下さいますか」 マタイ。「えい、悦んで」 愼。「では、お尋ねしますが、神より前に何にか存在したものが御座いますか」 マタイ。「ありません。神は限りなく在《ゐま》したまひます。だから、神のほかには、 世の始めの日まで、存在したものは何にもありません。六日の間に、 エホバは天と地と海とその内にゐる一切の物を造りたまひました」 愼。「では、聖書のことはどう想ひますか」 マタイ。「それは神の聖語《みことば》であります」 愼。「その内には、あなたに解らない事は書いてありませんか」 マタイ。「あります、澤山」 愼。「あなたはさういふ解らない所に出遇つたら、どうなさいますか」 マタイ。「神は私よりも賢い方だと想つて、どうぞ、神が私の益となると思召すことは、 凡て解るやうにして下さいと祈ります」 愼。「それでは死せる者の復活《よみがへり》といふことを、どう信じてゐられますの」 マタイ。「私は人皆な葬むられしまゝの状《さま》で復活《よみがへ》ることを信じます。 さう信じるには、二つの理由があります。一つは神がそれを約束したまへること、 又他の一つは、神は能くそれを爲したまふことです」 そこで愼子は子供逹に言つた。「あなた方はこの上にもお母《つか》さんに教へていたゞきなさいましね。 まだ學ぶことが澤山ございますから。それから他の人でもあなた方に善い話をして下すつたら、 熱心にお聽きなさいましね。あなた方のために、それは善い事を話して下さるのですから。 それから心を留めて、天地萬物があなた方に教へる所を學びなさいましね。 それから殊にあなた方のお父樣が旅人とおなりになる原因《もと》であつた御書《ごほん》を能く讀んで、 それを味はひなさいましね。私もあなた方が此家に居られます間に、 私に出來るだけのことは教へてあげませうね。聖《きよ》き徳を建つるやうなことを、 あなた方がお尋ね下すつたら、私、どんなに嬉しいでせう」 恁《か》うして旅人逹は此所《こゝ》に滯在して一週間經つた頃、 哀憐女《あはれみ》を訪ねて來た人があつた。それは性急者氏《せつかちし》といつて、 哀憐女《あはれみ》に親切らしく仕た。可成教養のある人で、信者の振をしたが、 實は甚だしい俗物であつた。彼は哀憐女《あはれみ》の許《もと》へ、一度ならず、 二度三度訪ねて來て、戀ひ慕つてゐることを白状した。哀憐女《あはれみ》の容貌《かほ》は麗はしかつたので、 一層その心を誘ふのであつた。 哀憐女《あはれみ》はいつも仕事に心忙《こゝろせは》しかつた。 自分のためには何にもすることがないので、他人《 ひと》のために長襪《ながたび》や衣物《きもの》を作つて、 貧しい人逹に惠んでやつたりした。性急者氏《せつかちし》は哀憐女《あはれみ》がその作《こし》らへたものを何處にどうするのか、 知らなかつたが、兎に角その怠け者でないのを見て、大いに心を動かした。「善い細君になるがな」と彼は獨語《つぶや》いた。 やがて哀憐女《あはれみ》はこの家の娘逹に事情を明して、この人の身の上について尋ねた。 娘逹は哀憐女《あはれみ》よりもこの人のことを能く知つてゐたので、 彼が極めて性急《せは》しない若者であること、信者の振をしてゐるが、 多分善といふ力については赤の他人でせうと話した。 「さうですか、それでは」と哀憐女《あはれみ》は言つた。「私はもうお目にかゝりますまい。 私の靈魂《たましひ》の阻碍《さまたげ》となつては大變ですから」 愼子はそれに答へた。「あの方のことなら大して御心配にも及ばないでせう。 今まで通り貧しい者のために盡しておゐでなされば、直《ぢ》きにあの方の執心《おもひ》も冷めませうから」 で、その次の時にかの人が來て見ると、哀憐女《あはれみ》はいつもの通り、 貧しい人のために種々《いろ〜》な物を作つてゐた。そこで彼は、「やあ、いつもの御仕事ですね」と言つた。 「はい、自分のためやら、他人《 ひと》のためやら」と哀憐女《あはれみ》が言つた。 「日にどれ位ひ儲かりますか」と彼が言つた。 「私がかういふ仕事をいたしますのは」と哀憐女《あはれみ》が言つた。 「善き事に富み、善き基《もとゐ》を蓄はへて、來たるべき時の備へをして、 限りない生命《いのち》を獲たいため [テモテ書(1)6:18,19] なのでございます」 「それでは、かういふ物を作《こし》らへて、それをどうなさいますのですか」と彼が言つた。 「裸なる者に着するためですの」と哀憐女《あはれみ》が言つた。 これを聞くと、性急者《せつかち》の顏色が變つて、もう再たび哀憐女《あはれみ》の許《もと》に來なくなつた。 人にその理由《わけ》を尋ねられた時に、彼は恁《か》う言つた。「哀憐女《あはれみ》は竒麗な娘《こ》だが、 その心懸《こゝろがけ》が氣に喰はんものですからな」 彼が立ち去つた時に、愼子は言つた。「私がお話し仕た通り、 性急者《せつかち》さんは早速あなたを思ひ切つてしまつたでせう。 で、これから必條《きつと》あなたのことを惡く言ひ觸《ふら》しますよ。 信者の振をしたつて、哀憐女《あはれみ》さんを愛するやうに見せかけたつて、 哀憐女《あはれみ》さんとあの人とは全たく性が合ひませんから、一緒になれる道理がありません」 哀憐《あはれ》。「そんなこと誰《どなた》にも申したことはございませんが、 これまでゞも良人《をつと》を持たうと思へば持てました。 でも、皆な私の心懸《こゝろがけ》を好かない人逹ばかりで。 私の人格《ひとがら》には何にも惡い所を見つけないのですが。 ですから、縁談《はなし》は出來ずじまひでした」 愼。「今では哀憐女《あはれみ》といふこは名ばかりになつてしまひましたのね。 だから、あなたのお心懸《こゝろがけ》から出て來る實行《おこなひ》は、 誰も堪へられなくなつたのですね」 「さうですのね」と哀憐女《あはれみ》が言つた。「誰も私を迎へて下さらなければ、 私は一生獨身で暮すばかりですわ。私の心懸《こゝろがけ》を良人《をつと》とも想ひましてね。 だつて、私は自分の性質を變へることは出來ませんし、それから心の合はない人に身を任せることは、 一生經つたつて出來ませんからね。私には仁子《じんこ》といふ一人の姉がございまして、 さういふ品の惡い人の許《ところ》へ縁付きましたのですが、とても折合ひがつきません。 それでも姉は始めの志を貫ぬかうと決心して、貧しい人逹に親切にしましたものですから、 良人《をつと》にさんざん罵《のゝ》しり辱かしめられて、擧句のはてにはその家を逐ひ出されてしまひました」 愼。「でも、その方は信者なのでせう、確然《きつと》」 哀憐《あはれ》。「まあ、さうなのでせう。でも、今の世の中はそんな人ばかりごちや〜してゐますのね。 私、そんな人逹は眞平です」 その内に基督女《くりすちやな》の長男のマタイが病氣になつた。中々の重病で、 腹が大變痛むし、時々これが最後《おはり》かと思ふほど痙攣《ひきつ》けるのであつた。 けれどもそこから程遠からぬ所に老練者といふ年老いた評判の善い醫者があつた。 基督女《くりすちやな》はその來診を求めたので、使者《つかひ》をやると、早速來てくれた。 醫者は部屋に通つて、一寸と子供を診察して、これは腸痛《ちやうつう》だと判斷した。 やがてその母親に向つて、「マタイさんは近頃どんなものをお喰《あが》りでしたか」と言つた。 「喰べ物といつて」と基督女《くりすちやな》が言つた。 「なにも良くないものは喰べませんのですが」 醫者は答へた。「この子は何にか胃に消化《こな》れない物が入つたので、 それで苦しんでゐるのです。どうにかしないと中々痛みは去りますまい。 私の想ふには、早く胃を潔《きよ》めてやるですな。さもないと危險《むづか》しいですわい」 その時サムエルが言つた。「お母樣《つかさん》、兄さんはそら、[てへん|宛;#1-84-80]《も》ひで喰つたでせう、 あの、路の入口にあつた門を入つて直きにね。そら石垣の向ふ側の左手に菓實《くだもの》の園《はたけ》があつて、 その石垣から木の枝が埀下《さが》つてゐてね。その實を兄さんは[てへん|宛;#1-84-80]《も》ひで喰ひましたね」 「さうでしたね」と基督女《くりすちやな》が言つた。「それを取つて喰べたのね。惡戲兒《いたづらこ》だから、 私が禁《と》めても、聞かないで喰べました。」 老練。「どうも良くない物を喰べたらうと思ひました。しかも一番毒な菓實《くだもの》を食つたとはな。 それはベゼルブルの園《はたけ》の菓實《くだもの》ぢや。誰もその事をお前さん方に注意しなかつたとは不思議ですな。 それを喰つて死んだ者は澤山あるに」 そこで基督女《くりすちやな》は泣き出した。「あゝ、惡戲兒《いたづらこ》も惡戲兒《いたづらこ》だし、 不注意な母も母です。息子のためにどうしたら可いでせう」 老練。「まあ、さう力を落しなさるな。子供は快《よ》くなりますよ。 吐いて潔《きよ》まりさへすれば」 基女《くりす》。「どうぞお醫者樣、お金はどんなにかゝつても、充分御治療下さいまし」 老練。「いや、私は法外な金など慾しくはない」 恁《か》う言つて、先づ潔《きよ》めの療治をしたが、あまり效能《きゝめ》が弱かつた。 それには山羊の血と燒けた牝犢《わかきめうし》の灰と牛膝草《ひそぷ》の汁 [ヘブル書9:15-19] を用ゐたのである。老練者はその潔《きよ》めの效能《きゝめ》があまり弱いのを見て、 更に一つの藥を製《こしら》へた。それはex carne et sanguine Christi(基督の肉と血)を調劑したものである John これに約束を一匙二匙とそれに準じた分量の鹽 [マルコ伝9:49] を加へて、丸藥にしたものである(醫者といふものは御存じの如く竒妙な藥を病人に與《く》れることがある)。 これは一度に三粒づゝ、 斷食をしながら、悔改《くひあらため》の涙の一パイント(わが三合一勺餘)の四分の一半で呑み下すべきものであつた。 この藥を調《とゝ》のへて、呑ませやうとした。子供は腹が痛んで痙攣《ひき》つて片々《こな〜》になりさうであつたが、 なほそれを呑むことを嫌がつた。 「さあ、さあ、これをお呑みなさい」と醫者が言つた。 「胸が惡いから嫌だ」と子供が言つた。 「これを飮まなくつてはいけません」と母親が言つた。 「呑んでも吐いちまいから嫌だ」と子供が言つた。 「お醫者樣」と基督女《くりすちやな》は老練者に向つて、「これはどんな味がいたしますのでせう」 「惡い味ぢやない」と醫者が言つた。 で、基督女《くりすちやな》は丸藥の一つを舌の先で甞《なめ》て見て、 「マタイや、このお藥は蜜よりも甘いのよ。お前さんがお母《つか》さんを愛するなら、 兄弟を愛するなら、哀憐女《あはれみ》さんを愛するなら、 又お前の生命《いのち》を愛するなら、これをお飮みなさい」 さて種々《いろ〜》と拒んで見たが、やがて神の祝福を短く祈つて、子供はそれを呑んだ。 するとその效能《きゝめ》が著るしく顯《あら》はれて、忽ちその身は潔《きよ》まつて、 安らかに眠り、靜かに休むことが出來るやうになつた。熱も下るし、汗も引いて、 全然《すつかり》腹痛が癒つてしまつた。暫らくすると起き上つて、 杖にすがつて室《へや》から室《へや》へと歩き廻つて、 愼子や敬子や愛子に、病氣のことや、その癒つたことを話したりした。 かやうに子供が癒つたので、基督女《くりすちやな》は老練者に問《たづ》ねた。 「先生のお骨折で、子供が癒りましたが、御禮はどれほどいたしたら宜ろしいでございませう」 醫者は言つた。「あなたは醫學校の校長へお禮をして下さい。そのお禮は規約で定めてあります[」] [ヘブル書13:11-15] 基女《くりす》。「先生、この丸藥は他の病《やまひ》にも效きますのですか」 老練。「これは萬能丸ぢやから、旅の道中で起る一切の病氣に效きます。 善く調劑すれば、意外に永く保ちます」 基女《くりす》。「どうぞ、先生、十二箱ほど私に調《こしら》へて下さいますか。 それがあつたら、他の藥は入りますまいから」 老練。「この藥は病人に效くやうに、病氣の豫防にも善いです。 私は斷言しますが、人若しこの藥さへ用ゐて居れば、必らず限りなく生きます John 。ぢやが、基督女《くりすちやな》さん。この丸藥を用ゐるには私の上げる處方通りになさい。 その他の用ゐ方をしても何んの效能《きゝめ》もないぢやて」 恁《か》う言つて、醫者は基督女《くりすちやな》と子供逹と哀憐女《あはれみ》とに藥を與へた。 それからマタイには熟しない生梅は食はないやうに注意して、人々に接吻《くちつけ》して、歸つて行つた。 先きに話したやうに、愼子は子供逹に向つて、何んでも益になる事は何時《いつ》でも尋ねなさい、 悦《よろこ》んでお答へしますと言つて置いたことがある。 そこで病氣をしたマタイは愼子に尋ねた。「一體どうして藥は口に苦いのでせう」 愼。「それは肉の心には神の言葉とその力とがいかにも氣まづいことを表はすのです」 マタイ。「藥が善いものなら、どうして身を潔《きよ》めたり、嘔氣《はきけ》も催すのでせう」 愼。「それは神の言葉が力ある作用《はたらき》をなす時には、 人の情と意《こゝろ》とを清めることを表はすのです。 ですから、藥が身體《からだ》に效くやうに、神の言葉は靈魂《たましひ》に效くので、 見た所變りはありません」 マタイ。「それでは火の焔が天上に立ち登るのを見たり、 太陽の光と快い力で下界を照すのを見たりして、どんなことを學びませうか」 愼。「火の立ち昇るのを見ては、私共の熱く熱せる願望《ねがひ》が天に上ることを教へられます。 又太陽が熱と光と快い力を下界に送るのを見ては、世の救主《すくひぬし》がいと高きにゐましても、 尚ほ下界の私共に恩寵《めぐみ》と愛とを下したまふことを教へられます」 マタイ。「それでは雲は何處からその水を得るのでせう」 愼。「海からです」 マタイ。「それから學ぶべきことは何んでせう」 愼。「それは道を説く者がその説から神を得るに似てゐます」 マタイ。「雲が地上に水を降りそゝぐのはどうしてゞせう」 愼。「それは道を説く者が神について知れる所を悉《ことご》とく世の中に輿ふべきことを表はすのです」 マタイ。「では、虹が太陽から生ずるのはどうしてゞすか」 愼。「それは神の恩寵の契約が基督に於て私共に堅うせられたことを表はします」 マタイ。「それでは泉が地の中を通つて海から來るのはどうしてでせう」 愼。「神の恩寵が基督の身體《からだ》を通して、私共に來るのを表はします」 マタイ。「泉の中には高い山の頂上から湧くものがあるのはどうしてゞせう」 愼。「それは恩寵の靈《みたま》が大きな力ある者にも、又貧しく低き者にも湧き出づることを表はすのです」 マタイ。「それでは火が蝋燭の心に點くのはどうしてゞせう」 愼。「それは恩寵が心の燃えなければ、私共の裡《うち》には眞正《まこと》の生命《いのち》の光がないことを表はします」 マタイ。「蝋燭の光を保つために、心も蝋も皆な費やされるのはどうしてゞせう」 愼。「それは私共の裡《うち》にある神の恩寵を善き情態に保存するために、 私共の身も魂も皆な用ひ盡すべきことを表はします」 マタイ。「それでは塘鵝《がらんてう》といふ鳥は自分の嘴で自分の胸を突き破るさうですが、 どうしてゞせう」 愼。「それは自分の血でその雛を養なふためですから、基督がその雛である人民を愛するために、 死とその血に依つてこれを救ひたまふことを表はします」 マタイ。「鷄の鳴くのを聞いて何にを學びますか」 愼。「ペテロの罪とその悔改《くひあらた》めとを思ひ出します。鷄の鳴くのは日の出を告げるのです。 だから、鷄が鳴いたら、世の終りの怖ろしい審判《さばき》の日のことを心の想ひ起しなさい」 もうこの時は一月餘りにもなつたので、暇《いとま》を乞ふて出立しても宜しいでせうと家の人々に告げた。 その時ヨセフは母親に言つた。「あの註釋者《ちゆうしやくしや》さんの家《うち》に人を遣つてね。 大勇者《だいゆうしや》さんに來てもらふのを忘れないやうになさいね。 これから前《さ》きも道案内をしてもらふやうに」 「善く氣が付きました。私はぼんやりしてゐました」と母親が言つた。 で、依頼状《たのみじやう》を認《したゝ》めて、門番の警護者に願つて、 註釋者《ちゆうしやくしや》の家に誰れか適當な人を遣つてもらふことにした。 その使者《つかひ》が註釋者《ちゆうしやくしや》の許《もと》に往くと、 註釋者《ちゆうしやくしや》はその依頼《たのみ》の手紙を讀んで、使者《つかひ》に言つた。 「早速遣しますと傳へて下さい」 さて基督女《くりすちやな》が滯在した家の人逹は、愈々その出立するつもりなのを見て、 家中の者が皆集まつて、かやうに有益な客人を送別するために、王に感謝した。 さうしてから、家の人逹は基督女《くりすちやな》に言つた。 「あなたに見せるものがございます。それを見せるのは旅人に對する此家の習慣《ならはし》になつてをりますから、 あなたもそれを見て、途々深くその意味を考へて下さい」 恁《か》う言つて、基督女《くりすちやな》と子供逹と哀憐女《あはれみ》とを密室に案内して、 エ・が自ら喰ひ、その良人《をつと》にも喰はせたので、 兩人共《ふたりとも》淨樂園《ぱらだいす》から逐はれたといふその林檎の一つを見せて、 これをどう想ひますかと問ねた。基督女《くりすちやな》は「それは食べて善い物か、毒であるか、 私には解りません」と言つた。そこで家の人々はその事實を打明けたので、 基督女《くりすちやな》は兩手を擧げて、吃驚《びつくり》した[」] [創世記3:1-6] [ローマ書7:24] 次にとある場所に連れて行つて、ヤコブの梯子 [創世記28:12] を見せた。折しも幾多の天使がその上に昇つてゐた。基督女《くりすちやな》は天使の昇るのをつく〜゛と眺めた。 その連《つれ》の人逹もこれを眺めた。やがて又他の物を見せるつもりで、 他の場所に連れて行かうとした。然るにヤコブは母に向ひ、「もう尠《すこ》し此處《こゝ》に居りたいと言つて下さい。 これはいかにも珍らしい光景《もの》だから」 それ故又引返して、この樂しい光景《ありさま》を見て眼を慰さめた。 やがて次の場所へ案内されたが、そこには黄金《こがね》の錨が懸つてゐた。 家の人々は基督女《くりすちやな》にそれを取り下して御覽なさいと告げて、尚ほ恁《か》う言つた。 「これはあなた方には是非無くてはならぬ物ですから、 いつも面[巾|白;#2-08-83]《かほおほひ》の裡《うち》に懸けておいて [ヘブル書6:19] 、そして天氣が惡くなつたら確《かた》くその上に立ちなさいまし」と言つた。 で、一同はそれを取りおろして歡《よろこ》んだ。 次には山の上に案内した。そこはわが祖先のアブラハムがその子イサクを獻げた處である。 その日まで遺《のこ》つてゐる祭壇や薪や火や刀を見せた。一同はそれを見て、兩手を擧げて、 自分逹を祝福して、「あゝ、アブラハムこそ、主を愛して、又|己《おのれ》に打克つた人ですね」と言つた。 これらのものを見終つてから、愼子は一同を食堂に案内した。 そこには立派な・アジナルといふ樂噐(英國にて十六世紀頃普通に用ひられし婦人用の有鍵の樂噐)が一對備へてあつた。 愼子はそれを奏でゝ、これまで見せたことを次にやうな優しい歌に直した。 「エ・の林檎を示されし、     汝《なれ》は氣をつけたまへかし。 天の使《つかひ》の昇りける、     ヤコブの梯子を見せられぬ。 一つの錨受けとりぬ。     されば汝《な》がいと善き物を、 アブラハムのごと、捧ぐまで、     足れりと想ふことなかれ」 折しも戸を叩く者があつた。門番が開けて見ると、大勇者《だいゆうしや》であつた。 彼が入つて來たのを見て、一同どんなに歡《よろ》こんだか知れない。 先日彼が巨人でる年老いた獰猛の血塗者《ちまみれもの》を殺して、 獅子の危難から自分逹を救つてくれたことなどが、又新らしく心の浮んで來た。 大勇者《だいゆうしや》は基督女《くりすちやな》と哀憐女《あはれみ》に向つて言つた。 「私の主人はあなた方の道中を慰めるために、お二人に酒を一壜と燒米と柘榴《ざくろ》を二つ下さいました。 それからお子さん逹には、無花果と乾葡萄を下さいました」 やがて彼等は暇乞《いとまご》ひをして出立した。愼子と敬子は見送りに出た。 門の側へ來た時に、基督女《くりすちやな》は門番に向つて、 此頃通つた人はございませんかと問《たづ》ねた。 門番は言つた。いや、唯《た》つた一人先頃通りました。その人の話しでは、 あなた方の通行なさる王の街道筋で大盜難があつたさうですが、盜賊共は間もなく捕まつて、 間もなくお仕置に遇ふさうです」 それを聞いて、基督女《くりすちやな》と哀憐女《あはれみ》とは怖ろしがつたが、 マタイは言つた。「お母《つか》さん、怖いものですか、大勇《だいゆう》さんが一緒に行つて、 道案内をして下さるんですもの」 そこで基督女《くりすちやな》は門番に向ひ、「私が此家《こちら》へ參りましてから、 貴君《あなた》には一方《ひとかた》ならぬ御親切にあづかりました。 子供逹も可愛がつて、御親切にして下すつて、なんともお禮の申しやうもございません。 これは些少《わづか》なものでございますが、どうぞ、 貴方《あなた》を尊敬《うやま》ひます表象《しるし》にお受け下さいまし。」 恁《か》う言つて、門番に金天使(バンヤン時代の金貨の名にて十圓に當る)を一枚手渡した。 門番は鄭寧《ていねい》に會釋して、「あなた方のお衣裳《めしもの》をいつも白くなさいまし、 頭《かうべ》には膏《あぶら》を絶やさぬやうになさいまし [伝道の書9:8] 。哀憐女《あはれみ》さんも御逹者でゐて下さい。生命《いのち》を失《なく》してはいけません。 哀憐女《あはれみ》さんの御仕事を無にしてはいけません」と言つた。 それから子供逹に向つて、「なんでも若い時の慾を避けて、 [テモテ書(2)2:22] 眞面目な賢い人逹と一緒に信仰の心を追ひ求めなさい。さうすればお母《つか》さんはお歡《よろこ》びなさるし、 それから眞面目な人逹からは讚められます」 そこで彼等は門番に感謝して、出立した。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:六 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:六 さて私が夢の中で見てゐると、彼等は前に進んで、岡の端《はづれ》まで來た。 その時敬子は何にか思ひ出して叫んだ。「あゝ、私は忘れ物をしました。 基督女《くりすちやな》さんと連の方に進《あ》げやうと思つてゐて。 私、歸つて、持つて參ります。」恁《か》う言つて驅け出してそれを取りに行つた。 敬子が去つた時に、基督女《くりすちやな》は路から少し離れた右手の森の中から、 いと珍らしい妙《たえ》なる歌の聲が聽えるやうに想つた。その歌の言葉は恁《か》うである。 「生れ來しより ながめぐみ、     わが身の上に あらはなる。 汝《な》が家にこそ いつまでも、     わが住居《すまゐ》をば 定めなん」 靜かに聽いてゐるとそれに答へて、恁《か》う歌ふのが聽えるやうであつた。 「いとたふとしや、 主の神、     とはにかはらぬ 主のめぐみ、 巖《いはほ》のごとき その眞理《まこと》、     幾千代《いくちよ》までも 續かなん」 やがて基督女《くりすちやな》は愼子に向つて、その珍らしい歌の聲がどうして起るのですかと尋ねた。 愼子はそれに答へた。「あれはこの國の鳥の泣き聲ですの。普段は中々歌はないのですけれど、 春になつて、花が咲き出でゝ、 [雅歌2:11,12] 日が暖たかに照るやうになりますと、朝から晩まで聽えます。 私は時々その歌を尋ねて外に出ることもあります。又時には家に飼ひ馴すこともあります。 あの鳥は淋《さみ》しい時の好いお友逹でしてね。林も森も寂しい所にもあの鳥のために懷かしくなります」 折しも敬子は戻つて來て、基督女《くりすちやな》に向つて、「ごらんあそばせ、 あなた方が私共の家でお見になつた事は皆なこの通り覺書にして持つて參りました。 あなた方がそれを御忘れになりました時に御覽なさるやうにね。それを思ひ出しなさることは御心のためにも善し、 それから慰さめにもなりませうから」 やがて岡を下つて、謙遜の谷へ入つた。その岡は嶮しくつて、路は滑り勝であつたが、能く氣を付けたので、 無事に降つた。谷へ着くと、敬子は基督女《くりすちやな》に言つた。 「此處《こゝ》はあなたの御良人の基督者《くりすちやん》さんが穢れた惡魔のアポリオンに遇つて、 怖ろしい戰《たゝかひ》をなすつた處ですの。それに就いてはあなたもお聞きになりましたでせう。 でも、どうぞ元氣善くお出でなさいまし。大勇者《だいゆうしや》さんが道案内をして指圖して下さるのですから、 何事もありませんでせう」 恁《か》う言つて、二人の娘は案内者の手に旅人逹を委せた。案内者は前に進むし、娘逹は歸つて往つた。 そこで大勇者《だいゆうしや》は言つた。「この谷は恐がらないでも可いですよ。 自《みづ》から招かなければ、尠《すこ》しも害を受けることはありません。 基督者《くりすちやん》さんが茲《こゝ》でアポリオンに遇つて、激しい戰《たゝかひ》をなすつたことは事實ですが、 そんな格鬪をするやうになつたのは、あの岡を下る時に滑つたからです。 あそこで滑べると、どうしても戰はねばならなくなるのですからな。 それでこの谷はさも難所のやうになつてしまひました。世の中の人は、 何にか怖ろしい事がどこかに起つたと聽くと、その場所には妖怪變化が出沒するやうに風評《うはさ》するのですがな。 さういふ事が起つて來るといふのは、自分逹の行爲《おこなひ》から皆な招いたことなのです。 一體この謙遜の谷といふは、地味が豐かで、鳥も飛び交ふ所です[。] それは兎に角、ひよつとしたら何處かこの邊に、基督者《くりすちやん》さんがどうして茲《こゝ》で難儀をしましたか、 その理由《わけ》を知らせるものが見付るかも知れません」 その時ヤコブは母に言つた。「あれ、あそこに柱が立つてゐます。 何にか書いてあるやうにね。行つて、見ませう」一同そこへ行つて見ると、 「基督者《くりすちやん》が茲《こゝ》に來る前に滑つた事と、此所《こゝ》にて戰へることは、 後より來たる者の警戒《いましめ》である」と記してあつた。 そこで案内者は「御覽なさい。お話し仕た通りに、 基督者《くりすちやん》さんが此所《こゝ》で難儀をした理由《わけ》を知らせるものがありますでせう」と言つて、 尚|基督女《くりすちやな》に向ひ、「他の人も多勢《おほぜい》さういふ辛《ひど》い目に遇つてゐるのですから、 基督者《くりすちやん》さんばかり咎めるには當らないです。 この岡を下るよりも登る方が易しい位ですからな。世界中何處にもこんな岡はあまりないといふことです。 それは兎に角あの善い人の話は止めませう。大膽に敵に打勝つて、安息を獲てゐるのですからな。 私共は高きに在《ゐま》す主にお願ひして、假令《たとへ》試練《こゝろみ》られても、 基督者《くりすちやん》さんのやうに辛《ひど》い目に遇はんやうに仕たいものです。 「この謙遜の谷のことをもう一度お話しすれば、これほど善い豐かな地は何處にもないほどです。 地味が肥えてゐるので、御覽の通り、緑の草場が澤山あるでせう。誰でも私共のやうに夏季《なつば》に初めて茲《こゝ》へ來れば、 その美はしい景色に惚々《ほれ〜》してしまひます。どうです、この緑色の谷は。 それからあの百合の花の美しいこと [雅歌2:1] 。この謙遜の谷で善い領地を貰つてゐる勞働者《はたらきて》は、私も大分知つて居ります。 『神は驕傲者《たかぶるもの》を拒みて、卑下者《へりくだりもの》に惠みを與ふ』 [ヤコブ書4:6] と言ひますからな。實に豐かな土地で、物の生熟《みの》ること夥《おびた》ゞしい[注:原文のまま]程です。 茲《こゝ》から直ぐ父の家に行けて、 もうこれ以上岡や山を登下《のぼりお》りする苦艱《くるしみ》をしたくないと思ふ者もありますが、 さう言つた所で、路は路ですから、その端《はて》まで行かないではな」 こんな事を話しながら歩いて行くと[、]一人の童《わらべ》がその父の羊を飼つてゐるのに眼が着いた。 その童《わらべ》は甚だ粗末な裝《なり》をしてゐたが、その容貌《かほ》はいかにも生々としてゐて、 頗《すこ》ぶる可愛らしかつた[。]唯獨り坐つて、歌をうたつてゐる。 大勇者《だいゆうしや》は、「お聽きなさい、あの牧羊《ひつじかひ》の子供の言ふところを」と言つた。 そこで皆な耳を傾むけた。童《わらべ》は歌ふ。 [「]下にをる者 落つるなし。     低きにをる者 傲《おご》るなし 謙遜《へりくだ》るもの かはりなく、     神のみちびき 身の受けん、 わが持てるもの 少なくも、     多くもわれは 充ち足れり。 主よ滿足を 賜へかし、     それをも汝《なれ》は 貯へり。 都まふでに ゆく人は、     あまたの重荷 身にぞ負ふ、 今乏しくも 後に幸福《さち》、     これぞ世々に いとも善し」 そこで案内者が言つた。「あれをお聽きですか。あの子供は絹や天鵝絨《びろうど》を着てゐる者よりも、 樂しく生活をしてゐるのですぜ。胸に安心草を澤山貯へてゐますからな。 それは兎に角前の談話《はなし》を續けませう。 「この谷には以前わが大君の別莊があつて、茲《こゝ》に居られるのが大變お好きでした。 又この草場は空氣が好いものですから、こゝを散歩なさるのがお好きでした。 それに茲《こゝ》に居れば、騷がしく又忙がしい世の中から自由ですからな。 どこの國も騷々しく混雜《ごた〜》してゐますに[、]この謙遜の谷ばかりは空漠な寂しい所ですからな。 靜かに想ひに耽ることは他の場所で出來|惡《にく》いことですが、 茲《こゝ》では尠《すこ》しも礙《さま》たげられることはありません。 旅人の生活を愛せぬ者の外は誰もこの谷を通りませんからな。 基督者《くりすちやん》さんが偶然にも茲《こゝ》でアポリオンに出遇つて、 激しい戰をなされたが、以前は茲《こゝ》で天の使《つかひ》に遇へたし [ホセア書12:5,6] 、眞珠も見付かつたし [マタイ伝13:46] 、又|生命《いのち》の言葉も見付つかつたのです。 「わが大君が以前|茲《こゝ》に別莊を持つてゐて、茲《こゝ》を散歩することを愛されたことは、 今言つた通りですが、尚ほ附言《つけた》したいことがあります。 それは大君がこの土地を愛し慕ふ人々のために、一年中の收入を備へて置いて、 或る時季に忠實にそれを支拂ひなすつて、人々の道中の費用《つひへ》を支へ[、] 又その旅路に出るのを一層勵ましたまふことです」 さて進み行く程に、サムエルは大勇者《だいゆうしや》に言つた。 「伯父さん、この谷でお父樣とアポリオンと戰つたさうですが、どの邊で戰つたのでせう。 この谷は廣いですからね」 大勇《だいゆう》。「あなたのお父さんがアポリオンと戰はれたのは、 丁度|忘勝《わすれがち》の青野を越した處の狹い通路《とほり》で、 あれあの向ふに見ゆる所です。實際|彼處《あそこ》はこの地方で一番危險な場所です。 何時《いつ》でも旅人がそんな攻撃を受けるのは、その受けた御恩を忘れて、 自ら重んずる心がなくなつてゐる時です。ですから、彼處《あそこ》では、 他にも隨分難儀した人があります。尚ほ彼處《あそこ》へ行つて、 もつと精《くは》しくお話し仕ませうが、彼處《あそこ》には今でも戰つた跡が殘つてゐますし、 又その記念碑もある筈です」 その時|哀憐女《あはれみ》は言つた。「これまで歩いて來ました處では、 この谷が一番|宣《よ》うございますわ。此所《こゝ》は一番私の氣に入りました。 馬車の音も荷車の音もしないかういふ所は私大好きです。 何にも煩らはしい事のない恁《か》ういふ所でこそ、自分の身の越し方や、仕て來た事や、 大君の召呼《まねき》を受けたことなどを熟々《つく〜》と考へられますのね。 深く思へば、心は啓き、精神は融けて來て、遂にはその眼はヘシボンの池のやうに澄んで參りませう [雅歌7:4] 。涙のこの谷を通つて眞直に行く者は、茲《こゝ》に一つの泉を作り、 又|茲《こゝ》に在る者に神が天より降らしたまふ雨がその池を滿すといふのは [詩編84:6,7] 此處《こゝ》のことなのでせう。それから又この谷は大君がかの葡萄園を與ふ [ホセア書2:15] と仰やつた所なのでせう。此處《こゝ》を通る者は、基督者《くりすちやん》がアポリオンに出遇ひなすつた時のやうに、 歌はねばならなくなりませう」 案内者は言つた。「眞實《ほんとう》にさうです。私は幾度《いくたび》もこの谷を通りましたが、 茲《こゝ》ほど善い處はないです。私が案内した旅人も多いですが、皆な同樣に言ひました。 『我は貧しくして、心|傷《いた》み、わが言葉に畏れ戰《をのゝ》く者をのみ顧りみるべし』 [イザヤ書66:2] と大君の言ひたまふた通りです」 やがて前にも記した戰鬪《たゝかひ》のあつた場所に來た。 そこで案内者は基督女《くりすちやな》と子供逹と哀憐女《あはれみ》とに言つた。 「此所《こゝ》がさうです。此地に基督者《くりすちやん》さんが立つてゐると、 アポリオンがあの高みから攻めかゝつて來たのです。 これ、私が言つた通りこの邊《あたり》の石には今でもあなたの良人《をつと》の血の痕《あと》が殘つてゐるでせう。 御覽なさい、彼此《あちこち》にアポリオンの碎けた投槍の細片《かけら》が轉《ころ》ばつてゐます。 この地面がこれほど踏み荒された處を見ても、どれほど勝敗を爭そつたか解ります。 又この石の碎片《かけら》をごらんなさい、側打《そばづえ》を喰つて微塵に碎けたのです。 實際|基督者《くりすちやん》さんは茲《こゝ》で男らしく振舞はれました。 偉い元氣を出しなすつた所は、ヘルクレスかとも想はれました。 アポリオンは遂に負けて、隣の谷に逃げ込んでしまつたです。それは死の蔭の谷といつて、 私共が直ぐこれから通る所です。あれ、あそこに、 その戰鬪《たゝかひ》と基督者《くりすちやん》さんの勝利を後の世に傳へるために彫付けた記念碑が立てゝあります」。 それは恰度|路傍《みちばた》にあつたので、一同その側に寄つて、 記してある文字《もんじ》を讀んだ。その一言一句は次の通りです。 「いと珍らしくも眞實《まこと》なる、     激しき戰《いくさ》茲《こゝ》にありき。 基督者《くりすちやん》とアポリオンとは、     互に鎬《しのぎ》けづりけり。 勇ましくも人は振るまひ、     魔物は遁れ去りにけり。 この石碑《いしぶみ》はわれ立てぬ、     その戰《いくさ》をば證《あか》すため」 一同|此所《こゝ》を過ぎて、死の蔭の谷|境《さかい》に來た。 これは前の谷よりも長くつて、然も多くの人の證《あか》しするやうに、 惡い者の出沒するいと不思議な場所であつた。けれども晝間ではあるし、 大勇者《だいゆうしや》が道案内をしてゐるので、女逹や子供逹も安心してこの谷へ入つて行つた。 愈《いよ〜》この谷に入ると、死人の呻くらしひ聲が聽えるやうであつた。 いかにも大きな呻き聲である。又甚だしい呵責に遭つてゐる人々の口から出るらしい悲歎の言葉が聽えるやうであつた。 かういふ事のために子供逹はぶる〜と慄へ出すし、女逹は色を失なつて眞蒼になつた。 けれども案内者は一同を慰さめ勵ました。 それから尠《すこ》し行くと、彼等の踏んでゐる地面が下に穴でもあるやうに震ひ動くのを感じた。 又蛇でも鳴くやうな聲がしたが、未だ何んにも見えなかつた。そこで子供逹は言つた。 「こんな寂しい所はまだ終へないでせうか」けれども案内者はこれを勵まして 「足下《あしもと》に氣をつけて下さい。係蹄《わな》にでも引懸るといけませんから」と言つた。 折しもヤコブは病《やまひ》を惹起《ひきおこ》した。その原因は恐怖《おそれ》のためらしかつた。 母親は註釋者《ちゆうしやくしや》の家でもらつた甘露酒の壜を取り出してこれに飮ませ、 また老練者の調《も》つた丸藥を三粒呑ませると、子供は元氣づいた。 それから進んで、谷の中程まで來た時、基督女《くりすちやな》は言つた。 「なんだか向ふに、これまで見たことがない怪しい姿のものが見えるやうですのね」。 そこでヨセフは言つた。「お母《つか》さん、何んですか。」母親は言つた。 「なんだか醜い物ですの、坊や、それは醜い物」「でも、お母《つか》さん、どんなやうな物ですか」 「どんな物つて、口では言へません。もうだん〜近くなります」と母親は言葉を切つて、 「もう近くなりました」と言つた。 大勇者《だいゆうしや》は「まあ、まあ。一番怖い人は私の側に密着《くつつ》いておゐでなさい」と言つた。 すると間もなく惡魔は進んで來たので、案内者はそれに立ち抗《むか》つた。 然るに惡魔は間近く寄つて來ると、姿を掻き消して見えなくなつてしまつた。そこで人々はいつぞや、 「惡魔を拒《ふせ》げ、さらば彼れ爾曹《なんぢら》を遁げ去らん」 [ヤコブ書4:7] と言はれたことを思ひ出した。 そのため尠《すこ》し元氣づいて、前に進んだが、まだ遠くも行かぬ内に、 哀憐女《あはれみ》が後を振り返へると、獅子に能く似た物が猛然として隨《つ》いて來るのを見たやうに想つた。 凄まじい吼ゆる聲がする。それが吼ゆる毎に、谷中に鳴り渡り、又人々の心を疼《いた》ましめるのであつた。 唯平氣なのは案内者だけであつた。獅子は進んで來る。大勇者《だいゆうしや》は後に踏み留まつて、 旅人逹を皆な遣り過した。獅子は勢ひ込んで來る。大勇者《だいゆうしや》はいざ來たれと身構へをしてゐた。 すると獅子はその禦《ふせ》ぎ戰はんとする決心 [ペテロ書(1)5:8,9] を見て、後退《あとじさ》りして、最早進んで來なくなつた。 やがて又前進した。案内者は先に立つて行つた。間もなく、路幅一杯に陷《おと》し坑《あな》の掘つてある所まで來た。 それを越える仕度も出來ない内に、濃い霧と暗黒《やみ》が覆ひ被さつて來たので、 何にも見えなくなつた。そこで旅人逹は「あゝ、私共はどうしたら可いでせう」と歎息した。 けれども案内者はそれに答へて、「恐れてはいけません。靜かに立つて、事の成り行き見てゐなさい」と言つた。 人々は路が塞《ふさ》がつてゐるので、そこに佇立《たゝず》んでゐた。 すると又敵の騷がしい聲や突進する音が益々明らかに聽えるやうな心地した。 又|坑《あな》の中から火と烟とが益々|判然《はつきり》と見えて來た。 そこで基督女《くりすちやな》は哀憐女《あはれみ》に向つて、 「今こそ私は良人《をつと》の旅の苦しみが解りました。此所《こゝ》のことは種々《いろ〜》と聞いてゐましたが、 來て見るのは初めてゞす。良人《をつと》は氣の毒でしたので。 こんな所を夜中に獨りで通りましたのですから。 良人《をつと》は大抵《あらかた》夜途をそて此所《こゝ》を越えたのですからね。 それに又群がる惡鬼に圍まれて、一寸との隙でもあれば、寸裂《ずた〜》にされてしまつたのでせう。 死の蔭の谷のことを風評《うはさ》する人は澤山にございますが、自分で親しく來て見ませんければ、 實際どんな所だか話しは出來ませんね。『心の苦しみは心自から知る、他人はその喜びにあづからず』 [箴言14:10] とありますね。恁《か》うして茲《こゝ》にゐますのは怖しいですのね」 大勇《だいゆう》。「これは大水の中で働らいて、深みへ沈んで行くやうですな。海の底へ潛り込むか、 山の底へ埋《い》け込まれるやうですな。八方塞がりとはこの事でせうが、 『暗きを歩みて光を得ざるとも、エホバの聖名《みな》を頼み、おのれの神にたよれ』 [イザヤ書50:10] とありますからな、私は前にも言ひましたやうに、此谷を幾度《いくたび》も往來《ゆきゝ》して、 今よりも一層《もつと》辛《ひど》い目に遇つたこともあるのですが、 御覽の通り、今でもかやうに生てゐます。私は何にも自慢は申しません。 私を救つたのは自分の力ぢやありませんからな。唯主の救助《たすけ》を頼るばかりでさ。 さあ、御一緒に祈つて、この暗《やみ》を照し、又|茲《こゝ》の惡魔ばかりか、 地獄の有らゆる惡魔を追ひ拂つてもらひませう」 そこで彼等は聲を擧げて祈つた。すると神は光と救ひを送られたので、最早その路に妨たげがなくなつた。 でも未だ谷を通り越したといふわけではない。尚ほ進んで行くと、 嫌な胸惡い臭氣《にほひ》が甚だしく發《おこ》つて來て、 いかにも臭苦《いきぐる》しく[注:原文のまま]なつた。そこで哀憐女《あはれみ》は基督女《くりすちやな》に向つて、 「あの御門のことや、註釋者《ちゆうしやくしや》さんの御家や昨夜《ゆうべ》宿《と》めていたゞいたお家のことなどを思ふと、 茲《こゝ》は又なんといふ不快な所でせう」 「でもね」と子供の一人が言つた。「茲《こゝ》を通るだけなら、 茲《こゝ》に永く住んでゐるやうに惡くはないでせう。こんな路を通らなければ、 私逹に用意された家に行けないといふ一つの理由《わけ》は、 天の住家《すみか》が一層心持の善いやうにといふのでせう」 「善く言ひました、サムエルさん」と案内者が言つた。「それこそ成人《をとな》にも劣らない言ひ分です」 「えい、もう一度|茲《こゝ》から出られたら」とサムエルが言つた。 「私は今までよりもどんなに光と良き路を貴ぶか知れません」 そこで案内者は言つた。「追々にこの谷から出ませう」 更に又進んで行く間に、ヨセフは言つた。「この谷は未だ終らないのかな」 その時案内者は言つた。「足下《あしもと》に御氣を付けなさい。係蹄《わな》のある所に來てゐるのですから」 それを聽いて皆な足下《あしもと》を見ながら進んだが、それでも係蹄《わな》には頗《すこ》ぶる惱まされた。 今しも係蹄《わな》のある所に來て見ると、左手の溝の中に棄てられた人に眼が着いた。 その肉は悉とく掻き裂れてゐる。そこで案内者は言つた。「あれは輕率者《けいそつもの》といつて、 矢張この路を進んだのですが、あゝしてもう長いこと横たはつてゐます。 この者が捕まつて殺された時に、注意者《ちゆういもの》といふ人が一緒にゐたのですが、 その方は免れました。今ではこの近所で殺された者はどれほどあるか解りません。 それだのに輕々しく旅立つて、案内者も頼まないといふのはいかにも無鐵砲でさ、 あの基督者《くりすちやん》さんが、茲《こゝ》を免れたといふのは不思議な位です。 あの人は神から愛されてゐたし、その心も勇ましかつたからでせうが、さもなければ、 とても無事ではなかつたでせう」 やがて漸《やうや》くその谷の盡くる所に來た。 恰度|基督者《くりすちやん》が茲《こゝ》を通行した時に見た洞穴《ほらあな》の邊《あたり》に來ると、 そこから一人の巨人が現はれた。それは大槌者《おほづちもの》と言つた。 彼は巧い言《こと》をいつては若い旅人を欺《だま》して滅ぼすのを仕事にしてゐた。 今彼は大勇者《だいゆうしや》の名を呼んで、 「こんな事をするのはならんとお前に幾度《いくたび》言つたか知れんぢやないか」と言つた。 大勇《だいゆう》。「どんな事をです?」 大槌《おほづち》。「どんな事だ。どんな事つて能く知つてゐるではないか。 兎に角今日はそんな事の出來ぬやうに片付けてくれる」 大勇《だいゆう》。「まあ、勝敗を決する前に、戰はねばならん理由を明らかにしませう」 女逹や子供逹はどうすることも出來ずに、ぶる〜慄へながら立つてゐた。 巨人は言つた。「お前はこの國を盜むのだ。盜賊《どろばう》の中で一番惡い盜み方をするのだ」 大勇者《だいゆうしや》は言つた。「そんな漠然たることを言はないで、 もつと委《くは》しく言つてくれ」 巨人は言つた。「お前は拐帶者《かどはかし》をやるぢやないか。女や子供を集めては、 知らぬ他國へ連れて行つて、わが主人の國を弱くするではないか」 けれども大勇者《だいゆうしや》は答へた。「私は天の神の臣《けらい》で、 罪人《つみびと》を説き付けて悔改めさせるのが私の役目だ。 私は男や女や子供を暗《やみ》から光に向け、又サタンの力から神に向けるやうにせよと命ぜられてをるのだ。 さういふ理由で戰はうといふなら、お望み次第に、さあ來い」 巨人は襲つて來た。大勇者《だいゆうしや》は剱を拔いてこれに立ち抗《むか》つた。 巨人は棍棒を持つてゐる。忽ち挑み戰つたが、最初の打撃《うち》に巨人は大勇者《だいゆうしや》を倒して片膝をつかせた。 それを見て、女逹と子供逹は泣き出した。大勇者《だいゆうしや》は忽ち元氣を囘復して、 勇ましくも奮ひ起つて、巨人の腕に斬《き》り付けた。かうして一時間ばかり火花を散して戰つたが、 巨人の鼻孔《はな》から出る息は、沸《た》ぎれる大釜の湯氣のやうであつた。 やがて二人は暫らく別れて憇《やす》んだ。大勇者《だいゆうしや》は熱心に祈つた。 女逹と子供逹とは戰ひが終るまで歎息《ためいき》をついたり、泣いたりするほかどうしやうもなかつた。 二人は憇《やす》んで息を吻《つ》いてから、又挑み戰つた。 今度は唯|一撃《ひとうち》で、大勇者《だいゆうしや》は巨人を地に打ち倒した。 「待て、待て、もう一《ひ》と勝負」と倒れながら巨人が言つた。 そこで大勇者《だいゆうしや》は寛大にも巨人を起き上らせて、再たび渡り合つた。 巨人は大勇者《だいゆうしや》の腦天めがけて微塵に碎けよとばかりに、 棍棒を打ち下したが、僅かな所で誤まつた。 大勇者《だいゆうしや》はそれを見て、滿身の勇氣を奮《ふる》つて、つと走り寄り、 第五の肋骨《あばらぼね》の下を刺し貫ぬいた。すると巨人は力衰へて、がらりと棍棒を落した。 大勇者《だいゆうしや》は返す刀に、巨人の首を打ち落した。それを見て、 女逹と子供逹は大いに喜んだ。大勇者《だいゆうしや》も自分を救ひたまひしことを神に感謝した。 さうしてから、その邊《あたり》に一本の柱を起てゝ、巨人の首をその上に懸けて、 通行人に讀ませるやうにその下に次の文字《もんじ》を記した。 「この首の主《ぬし》こそさきに、     旅する人をなやまして、 路を遮へ切り、耻かしめ、     情け用捨はなかりけり。 旅人の道案内《みちしるべ》なる、     われ大勇《だいゆう》は茲《こゝ》にその、 敵なる彼と戰かふて、     遂に打ち取る、この首を」 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:七 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:七 さて私が見てゐると、彼等は進んで、旅人に前途《ゆくて》を眺めしめるために築いた小高い處に登つた。 それは基督者《くりすちやん》が初めてその兄弟の信仰者の姿を見かけた處である。 やがて一同そこに腰をかけて憇《やす》んだ。又|茲《こゝ》で飮み食ひして、 あれほど危險な敵から救はれたことを、互ひに祝した。恁《か》うして坐つて喰べながら、 基督女《くりすちやな》は案内者に向つて、戰の折にお怪我はございませんでしたかと問《たづ》ねた。 大勇者《だいゆうしや》はそれに答へて、「えい、ほんのかすり傷です。 それも害にはなりません。實にそれはわが大君とあなた方に對する愛の證據ですからな。 後には恩寵《めぐみ》に因りて、私の報賞《むくひ》を増していたゞく資本《もとで》ともなりませう」 基女《くりす》。「でも、棍棒で打つてかゝられた時には、怖くありませんでしたか」 大勇《だいゆう》。「私は自分の能力《ちから》を頼りはしません。 凡ての者より強くありたまふ者に頼りますからな。それが私の義務《つとめ》ですもの」 基女《くりす》。「でも、彼の者に最初お打《うた》れなすつて、片膝をおつきになつたでせう、 あの時はどんなでございましたか」 大勇《だいゆう》。「あの時でも、唯大君に任せてゐましたから、大君は遂に打ち勝たれました」 [ローマ書8:37] その時マタイは恁《か》う言つた。「そんな談話《はなし》を聽くと、 尚更私は神が不思議な位ゐ善い事をして下されたことを想ひます。あの谷から私共を連れ出したり、 あの敵の手から救つたりね。あゝいふ場所で、これほどまでに愛の證據を見せて下すつたのだから、 もつと〜神に頼《よ》りたのまないではいられませんね」 やがて一同起ち上つて、前に進んだ。 それから尠《すこ》し行くと、一本の樫の樹があつた。その側に來て見ると、 一人の年老いた旅人がその樹蔭に睡つてゐた。その旅人であることは、 その衣物《きもの》や杖や帶の樣子で解る。 道案内の大勇者《だいゆうしや》はその旅人を搖り起した。すると老人は眼を開いて、叫び出した。 「何用ぢや、一體誰だ、お前さんは。茲《こゝ》に何用があるのぢや」 大勇《だいゆう》。「まあ、そんなに怒りなさいますな。あなたの友逹だと言つて可いんですから」 それでも老人は起ち上つて、尠《すこ》しも油斷せず、此の人逹は一體何者だらうと身構へてゐた。 案内者は言つた。「私は大勇者《だいゆうしや》と言ひまして、この方々が天國に行きなさる道案内をいたす者です」 それを聞いた老人は言つた。「それはどうも面目ございません。 先日|薄信者《はくしんもの》の金を奪つた者がありますが、若しや貴君方はその一味の者かと危ぶみましたものですから。 かうして能く能く御顏を見れば、いや、えらい正直な方々ですにな」 大勇《だいゆう》。「それでは若し私共がその一味の者でしたら、貴老《あなた》はどうしてお防ぎになるつもりでしたか」 老人。「どうして防ぐとな。それは息の根の續く限り戰ひますだ。なあに、 矢たら敗《おく》れを取りやしませんや。基督者《くりすちやん》たるもの自から屈しない限り、 決して降參するものぢやございません」 大勇《だいゆう》。「成程|貴老《あなた》は正直な御老人だ」と案内者が言つた。 「雄鷄にすれば種が善いのですな。貴老《あなた》の言はれる所は眞實《ほんとう》です」 老人。「さう言はれて見れば、私にもあなたが眞正《まこと》の旅路の事を能く御存じなことが解りました。 大抵の者なら私共|基督者《くりすちやん》ほど弱虫はないと想つてゐますからな」 大勇《だいゆう》。「かうして御遇ひしたのは何よりです。どうぞ御名前と御郷里を聞せて下さい」 老人。「私の名は一寸困りますが、郷里は愚鈍町《おろかまち》といつて、 滅亡《ほろび》の市《まち》二百四十哩《マイル》ばかり離れてゐます」 大勇《だいゆう》。「あゝあの國の方ですか。それでは大分推量が出來ますぞ。 若しや貴老《あなた》は正直翁《しやうぢきおう》ではござらぬか」 これを聞いて老人は赤面して言つた。「正直の徳を持つてゐるものではありませんが、 唯正直といふ名前でして。その名に應《ふさ》はしいやうな性質を得たいとは思つてゐますがな。 それは兎に角として、貴君は私が唯其處から來たといふだけで、どうして私の名前まで推量が出來ましたかな」 大勇《だいゆう》。「貴老《あなた》のことはいつか主人から聽いたことがあります。 主人は地の上に起ることは何でも承知してゐますからな。 それは兎に角|貴老《あなた》の御郷里から善い人が出るのを度々不思議に思ひました。 貴君の町は滅亡《ほろび》の市《まち》よりも惡いさうですからな」 正直。「はい、彼處《あそこ》は日の目にも遠いものですから、人間も冷たく無情になります。 ですが、氷の山の中の人でも、一度《ひとたび》義の太陽に照されると、 その凍つた心情《こゝろ》が融けて來ますでな。私のやうな者が實にそれです」 大勇《だいゆう》。「成程、成程、それに相違ありません」 やがて老人は挨拶のしるしに旅人逹に聖《きよ》い愛の接吻《くちつけ》をして、 銘々の名を聽き、又旅に出てからの模樣を尋ねた。 そこで基督女《くりすちやな》は言つた。「私の名は多分お聞及びで御座いませう。 あの基督者《くりすちやん》の妻でございまして、この四人は私の子供でございます」 老人は基督女《くりすちやな》の身分を聽いて、どれほど喜んだか知れない。 雀躍《こおどり》して笑ひながら、幾度も祝福して言つた。 「あなたの御良人のことは種々《いろ〜》聽いたことがあるでな。 その旅行とおやりになつた戰鬪《たゝかひ》のこともな。お喜びなされ、 御良人の名は世の中に鳴り響いてゐますぞ。その御信仰、その御勇氣、その御忍耐、 とりわけその御誠實のために、名高くおなりですな」 老人はそれから子供逹の方へ向いて、その名を尋ねたので、一人々々その名を語つた。 そこで老人は子供逹に向ひ、「マタイさん、あなたは税吏《みつぎとり》のマタイの如くおなりなさい、 但しその惡に習はず、その徳に學びなさい [マタイ伝10:3] 。サムエルさん、あなたは豫言者サムエルの如く、信仰と祈祷《いのり》の人におなりなさい [詩編99:6] 。ヨセフさん、あなたはポテパルの家にゐた時のヨセフのごとく、 誘惑から遁れて、身を潔《いさぎ》よくなさい [創世記39] 。それからヤコブさん、あなたは義《たゞ》しき人ヤコブのごとく、又主の兄弟ヤコブのごとくおなりなさい」 [使徒行伝1:13,14] それから人々は老人に向つて、哀憐女《あはれみ》がその町と親族《みうち》を遺して、 基督女《くりすちやな》とその子供逹と一緒に來た顛末を話した。 それを聞いて正直な老人は、恁《か》う言つた。「哀憐女《あはれみ》さんといふお名前ですか。 では、あなたは道中にどんな困難が起つても、哀憐女《あはれみ》の護送されて、 遂には彼岸《あちら》で哀憐《あはれみ》の源《みなもと》を見てお喜びになりませう」 道案内の大勇者《だいゆうしや》はその始終を聽いて、いかにも嬉しさうに、にこ〜してゐた。 やがて皆な一緒に歩き出したが、案内者は老人に向つて問《たづ》ねた。 「あなたの地方から旅に出た人で、恐怖者《おそるゝもの》といふ人を御存じありませんか」 「はい、能く知つてゐます」と老人が言つた。「あれは志は堅い男でしたが、 何にを言ふにも、私がこれまで遇つた旅人の中で一番の厄介者でした」 大勇《だいゆう》。「それでは能く御存知なのですな。 あの男の性質も能く呑み込んでをられる位ですから」 正直。「知つてゐますとも、大の仲よしでしてな。 二六時中《しよつちゆう》一緒に居ました。行末のことを考へ初めたのも、實はあの男でして、 その時も私は一緒に居たのでした」 大勇《だいゆう》。「私もあの人を案内して、私の主人の家から天上の都の門へ連れ立つたことがあります」 正直。「厄介な男でしたでせう」 大勇《だいゆう》。「いかにもさうでした。でも、私は我慢に我慢をしました。 私のやうな仕事をしてゐる者は、度々あゝいふ人の案内を頼まれますからな」 正直。「それではどうぞあの男のことを少し聽せて下さい。あなたの御案内を受けてどんな事をやりましたか」 大勇《だいゆう》。「まあ、あの人はその行かうと思ふ處へ逹しられまいと常《いつ》も恐れてゐました。 何に事につけ、誰かそれについて尠《すこ》しでも反對がましきことを言ふ者があると、 それをびく〜してゐました。何んでもあの人は落膽《らくたん》の沼に落ちたまゝ一月ばかり唸つてゐたさうですぜ。 しかも自分の前を幾人も通行するのを見ながらです。その中には手を貸してあげませうと言つた人も多勢《おほぜい》あつたさうですが、 さうして貰はうともしなかつたさうです。さうかと言つて歸つて行きもしない。 天の都!!そこへ行けぬ位ゐなら、死んだ方が増しだと言ひながら、困難に出遇ふごとに力を落して、 他の人が途に棄てた藁にでも躓《つまづ》くといふ始末です。 それは兎に角|落膽《らくたん》の沼に長い間ぐづ〜してゐましたが、 ある天氣の好い朝に、どうしてか知りませんが、その沼から這ひ上つたさうです。 沼を越すことは越しても、自分でさうとも思はなかつたでせう。 想ふに、落膽《らくたん》の沼はあの人の心にこびりついてしまつたでせう。 その沼を到る處に擔《かつ》ぎ廻つたのですな。さもなければあれほどまでに苦勞性なことは出來ませんからな。 それからあの門、といへば解りませう、此路の入口に立つてゐるあの門までやつて來ましたが、 餘程の間その前に立つてゐて、叩かうともしないのです。門が開いてゐる時でも、後へ退《さが》つて、 他の人に讓つて、自分はそこへ入る値《ねうち》がないものだと言ひました。 で、門へはある人々より先へ着たでしたが、皆なさつさと彼の人を置いて行つてしまつた。 いつまでも立つたきり、ぶる〜慄へてゐるのですから、可哀想な人ですな。 その状《さま》を見れば、誰だつて不便《ふびん》に思ひまさ。 しかし彼の人は歸らうとはしない。漸《やうや》く門に吊下つてゐる槌を取つて、 微《かすか》に一つ二つ叩きますと、やがて門が開けられたので、又前のやうに尻込をしました。 しかし門を開けた人は彼の方へ歩み寄つて、『貴君は慄へてゐなさるやうですが、何に御用ですか』 と問《たづ》ねました。すると其聲を聞いて、彼の人はばつたり地に倒れて了つたので、 さう問《たづ》ねた人はいかにもその氣の弱いのを不思議がつて、恁《か》う言ひました、 『平和なれ、私は貴君のためにこの戸を開けたのですから、さあ、お入りなさい、 貴君は祝福されてゐるのですぞ』その言葉を聞いて、彼の人は起き上つて行きました。 所が門の内へ入つても、顏を見られるのを耻かしがりましてな。 それでも暫らくはそこで御存じのやうな待遇《もてなし》を受けてから、 お出かけなさいと言つて、進むべき路筋《みちすぢ》を教へられ、私共の家へとやつて來ました。 所で門の前に來た時のやうに、私の主人|註釋者《ちゆうしやくしや》さまの家の前にぐづ〜してゐました。 餘程長く立つてゐる間に寒くなつたが、訪れやうともせず、又歸らうともしない。 その頃は夜長の寒い時でしてな。そればかりか彼の人の懷には私の主人に宛てた添書を持つてゐたのです。 それにはこれは臆病な者ですから、迎へ入れて厚く撫《いた》はり、強い勇ましい案内者をつけてやつて下さいと記してあるのですが、 それでも戸を叩くことを怖々《びく〜》してゐるのですからな。 で、その邊で立つたり坐つたりすてゐる内に、可哀想にも、凍えて死にさうになりました。 他の人々がどん〜戸を叩いて内へ入つて往くのを見ながら、自分はびく〜して叩けないといふのですから、 よくよくの愚圖助ですな。漸《やうや》くのことで私が窓の外を眺めると、 誰だか戸の外に立つたり坐つたりしてゐますから、出て行つて、何誰《どなた》ですかと問《たづ》ねました。 すると可哀想な人は、眼に一杯涙を浮べてゐますので、その求むる所が私に解りました。 で、私は家へ入つて、その趣を主人に告げました。主人は内に迎へ入れよと申すので、 私はもう一度出て行きました。所があの人を内へ入らせるのは中々の骨折でした。 が、でも漸《やうや》く入りました。わが主人は不思議なほどあの人を親切に待遇《もてな》された。 卓子《ていぶる》には善い食物が尠《すこ》しばかりありましたが、それを分けて彼の人の木皿に入れてやられた。 その時彼の人は添書を差出したので、主人はそれを讀んで、その願望《ねがひ》を適へてあげると言はれた。 暫らくそこに居る間に、幾分元氣もつくし、尠《すこ》し心も慰さめられたやうでした。 私の主人は至つて優しい心の方で、殊にさういふ怖がる者を撫《いた》はつて、 その心を勵ますやうになさいました。兎に角に其處の寶物を見せてもらつて、 都へ上る旅仕度をしますと、私の主人は前に基督者《くりすちやん》さんにしたやうに、 良い飮料《のみもの》の一壜と若干《そこばく》の快い食物を下された。 そこで私は彼の人の案内をして、一緒に出かけました。だが、 彼の人は碌々口も利かずに、大きな嘆息《ためいき》ばかり吻《つ》いてゐました。 「やがて三人の者が縊殺《くび》られてゐる處へ來ると、彼の人は自分も今にかういふ最後を遂げるだらうと言ふのです。 それでも十字架と墓とを見た時には、流石に嬉しさうでした。 停《とゞ》まつて尠《すこ》し眺めてゐたいといふので、暫らくさうしてゐる内に稍《や》や元氣がよくなつたやうでした。 やがて困難の岡へと差しかゝりましたが、これにはさまで心を痛めず、 獅子をもそれほど怖がらぬやうでした。彼の人の惱苦《なやみ》といふのはさういふ類の事ではなく、 遂には天の都へ迎へ入れられやうかといふ心配であつたのです。 「やがて私は彼の人が承知もしない内に、優美殿に連れて行きました。 内へ入いつて、其家《そこ》の處女《をとめ》逹に紹介《ひきあ》はせますと、 耻かしがつて處女《をとめ》逹の仲間に入らずに、獨りで居たがるのです。 それでも彼の人は善い談話《はなし》は好きな性《たち》ですから、度々衝立《ついたて》の蔭で聽いてゐるやうでした。 彼の人は又古い事を見たり、見た所を心に深く想つたりするのが大好きでした。其後私に話しましたが、 彼の人は先きに立寄つた耳門《くゞりもん》の側に家か註釋者《ちゆうしやくしや》さまの家かに永く留まりたかつたのださうですが、 厚かましくそれを願ふことも仕なかつたのです。 「それから優美殿を出て、岡を降つて、謙遜の谷に入りましたが、 私はそれまであんなに善く岡を降つた人を見たことがありません。 彼の人は身を卑下《へりくだ》ることに頓着しなかつたから、 あれほど幸ひであつたのでせう。想ふのあの谷とあの人との間には情の通ずる所があるのですな。 彼の人の道中で一番元氣が好かつたのは、あの谷に居る時ですからな。 「其處で彼の人は横になつて、地を抱き [エレミア書3:27-29] 谷に咲いてをる種々《いろ〜》な花に接吻《くちつけ》するのですからな。 毎朝夜明に起き出でて、あの谷をあちこち散歩しました。 「それから死の蔭の谷の入口に來ると、私は彼の人もこれで駄目かと思ひました。 なにも歸りたいと言ひ出したわけぢやありません。歸るのは常《いつ》も嫌がつてゐましたので、 唯|恐怖《おそれ》のために死にさうなのです。『あゝ化物に捕まりさうだ、 化物に捕まりさうだ』と泣き叫ぶのです。どうにも手が着けられません。 あまりに立ち騷ぐし、泣き叫びますので、若しそれを化物が聽きつけたら、 却つて増長して襲つて來さうでした。 「だが、その時氣が付きましたことは、彼の人が通る間といふものは、 私が前《さき》にも後にも見たことがないほど、あの谷が靜かであつたことです。 想ふに敵共はその時特に主の差止めを喰つて、恐怖者《おそるゝもの》の通行する間、 これに手出しをすることはならんと命令されたのかも知れません。 「全然《すつかり》話しをするのも餘り冗漫《くだ〜》しいですから、 もう一節《ひとくだり》二節《ふたくだり》に留めておきませう。 それから虚榮の市塲に來ると、彼の人は市塲の有らゆる人を相手に戰はうとするのです。 市塲の人々の馬鹿らしさに彼の人があまり勃氣《むき》になつたので、 二人共頭でも叩《なぐ》られはしないかと心配しました。 それから迷魂《まよはし》の地では、尠《すこ》しも睡むがらないです。 だが、橋のない河に來ると、又弱り込んでしまひました。 そこで彼の人は、自分はもう茲《こゝ》で溺死《おぼれ》てしまひます。 遙々《はる〜》慕つて來ました主の御顏ももうこれで拜むことは出來ませんと言ひました。 「茲《こゝ》で又甚だ竒態なことを見ました。それは河の水が甞《かつ》てそれまで見たことがないほどその時淺かつたことです。 それ故彼の人は遂に渡りましたが、靴の濕《ぬ》れた位のものでした。 それから天の門へ登つて行きましたので、私は善く迎へられるやうに願つて、暇《いとま》を告げました。 彼の人は『迎へ入れられたいです、迎へ入れられたいです』と言ひました。 そこで私共は袂《たもと》を別《わか》つたのでして、最早その姿は見えませんでした」 正直。「それでは彼の人は遂にやり遂げたですな」 大勇《だいゆう》。「さうです、さうです。それに就ては初めから疑ひはなかつたのです。 なにしろ心の秀《すぐ》れた人ですからな。唯あまりに常《いつ》も自分を卑下してゐたので [詩編88] 、その生涯が自分の重荷となるし、又他人にも厄介をかけるやうになつたのです。 彼の人は人並はづれて罪を感じ易いですからな [ローマ書14:21] [コリント書(1)8:13] 。他人の害になることを仕てはならぬと心配するし、正當な事でも、 罪を犯すまいと思ふから、差控へることが度々あつたですからな」 正直。「だが、それほど善い人が一生の間どうして大抵鬱々としてゐたのでせう」 大勇《だいゆう》。「それには二つの理由《わけ》があります。 一つには神が賢くもさうなすつたのです。笛吹く者も、泣く者もなければなりませんからな [マタイ伝11:16-19] 。あの恐怖者《おそるゝもの》は、そのめそ〜した低い音《ね》を出す人なのです。 彼の人の仲間は他の樂噐よりも哀しげな調子の出る一種の喇叭を鳴すのです。 實際低い音《ね》は樂音の土臺だと言ふ者もありますからな。 それに私は心の憂《うれひ》に初まらぬ懺悔は何んにもならぬと思つてゐます。 音樂者が第一の弦《いと》に觸れて出すのは常《いつ》も低い音《ね》で、 それからあらゆる調子に移るのでせう。神が人の靈魂《たましひ》を鳴す時に、 先づ指を觸れなさるのは、矢張その低い音《ね》を發する弦《いと》です。 唯あの恐怖者《おそるゝもの》の不完全なのは、その低い音《ね》の外には、 その最後の目的を逹するために、他の調子を出すことが出來ないことです」 (私がかやうに憚《はゞか》らずに比喩《たとへ》で話すのは、若い讀者《ひとたち》の才智を熟《みの》らすためです。 默示の書《ふみ》にも。救はれた者を玉座の前で喇叭や縱琴を奏でて、その歌をうたふ音樂者の仲間に譬《たと》へてある。[)] [黙示録5:8,14:2,3] 正直。「お話しによりますと、あの人は大變熱心な人でしたな。 困難も獅子も虚榮の市塲も全たく怖れないで、唯罪と死と地獄を怖れたといふのですからな。 唯自分が天國へ入れるかといふに就て疑ひがあつた譯ですな」 大勇《だいゆう》。「御言葉通りです。彼の人が苦しんだといふのは畢竟《つまり》それからです。 御觀察の通り、それは心が弱いからであつて、旅人の生活を實際にやらうといふ精神が弱いからではありません。 諺にもある通り、路に立つてゐるなら、燃えてゐる木でも咬みつくのですが、 彼の人の心を壓《おさ》へ着けてゐる事は、誰だつて容易に振り拂ふことは出來ないですからな」 その時|基督女《くりすちやな》は言つた。「恐怖者《おそるゝもの》といふ方のお話は私に有益でございました。 今まで私のやうな者は一人もあるまいと思つてゐましたが、その善い方と私とは何處か似た所がございます。 唯二つの事が違つてゐますけれど。それはその方の惱みはあまり大きくつて、 外に發したのでせうが、私のは心の裡《うち》に抑えへてゐます。それからその方の惱みは堅く結ぼれて、 待遇《もてなし》をするために備へられた家の戸を叩くことも出來なくしたさうですが、 私は惱めば惱むほど尚ほ激しく戸を叩きます」 哀憐女《あはれみ》も言つた。「私の心情《こゝろ》を打ち明けてお話し仕ますと、 その方に似た所が私の裡《うち》にもございます。私はいつも、 地獄のことを怖れてゐますし、又他のものは何にを失なつても、 天國の住居《すまゐ》を失なうことを怖れてゐますからな[注:原文のまま]。 それはもう天國に住居《すまゐ》する幸福さへ私にございますれば、そのために全世界と別れても本望でございます」 マタイも言つた。「恐怖《おそれ》が一つの原因となつて、 私も自分は中々救はれる値《ねうち》はないと考へさせられました。 その人のやうな善人でもさうなら、私のやうな者はその筈ですね」 「恐怖《おそれ》がなければ、恩寵《めぐみ》もないんですね」とヤコブが言つた。 「でも、地獄を恐れたつて、いつも恩寵《めぐみ》があるわけではないですね[。] 唯神を畏れない所に、恩寵《めぐみ》がないだけは確かでせう」 大勇《だいゆう》。「能く言ひました、ヤコブさん。的確《てつきり》當てましたな。 神を畏れるのは智慧の始めで、それから始めないものは眞中も終もないですからま。 それは兎に角|恐怖者《おそるゝもの》の談話《はなし》はこれで切り上げませう。 お別れに恁《か》ういふ歌をうたつてやりませう。 「恐怖者《おそるゝもの》よ汝《なれ》はよく、     神をば畏れ、又|汝《なれ》を 害《そこ》なふ事を此世にて、     爲さんことをば怖れしな。 汝《なれ》が怖れし地獄こそ、     他の人も亦恐るべし。 汝《な》が智慧かける人々は、     遂には身をば滅ぼさん」 さて私が見てゐると、彼等は尚ほ話しながら歩いた。大勇者《だいゆうしや》が恐怖者《おそるゝもの》の話を終へたので、 今度は正直者が他の人の話を始めた。その人は頑固者といつた。 正直者は言つた。「その人は旅人のやうな振をしたが、 なんでも此の路の初めにある門までは來なかつたやうですよ」 大勇《だいゆう》。「貴老《あなた》はいつかその人と話しをしたことがおありですか」 正直。「はい、二三度話しました。だが[、]いつもおれはおれだといふやうに、頑固でした。 他人《 ひと》のことには頓着しないし、理窟にも實例にも頓着しないです。 唯自分の心の向くことをして、その外の事は一切仕ないですからな」 大勇《だいゆう》。「その人はどういふ主義を持つてゐましたか、御存じでせう」 正直。「その人の言ふ處によると、人間は旅人の徳を習ふと同時に、 その不徳をも習ふことが出來るから、二つながら習ふ者は確に救はれるといふのでした」 大勇《だいゆう》。「さうですか。若しその人の言ふ所が旅人の徳を分つと同時に、 その不徳にも染らざるを得ないといふのなら、あまり非難することは出來ません。 實際私共は絶對に不徳を免かれることは出來ません。唯それを免れられるのは、 私共が心を用ゐ又力を盡す状態だけですからな[。] だが、御話しの場合はさういふ事ではありますまい。御言葉を察しますと、 その意味はその人がさうして差支へないといふ意見を持つてゐたといふのですな」 正直。「さやうです、さやうです。さういふ意味でございます。その人はさう信じて、行なつたのです」 大勇《だいゆう》。「だが[、]どんな據《よ》り所があつてそんな事を言ふんでせう」 正直。「なんでも、聖書にその據《よ》り所があるさうです」 大勇《だいゆう》。「どうぞ、正直さん。その二三箇所を示して下さい」 正直。「承知しました。その人の言ふには、他人《 ひと》の妻を犯すことは、 神に愛されたダビデもやつたのだから、自分もさうすることが出來る。 又言ふには、一人以上の女を持つことはソロモンもやつたことだから、自分もさうすることが出來る。 又言ふには、サラと埃及《えじぷと》の信心深い産婆は僞言《うそ》をついて、 ラフバを救つたから、自分もさうすることが出來る。 又言ふには弟子逹は主の命だと言つて、他人《 ひと》の驢馬を取つたから、自分もさうする事が出來る。 又言ふにはヤコブは欺僞《さぎ》と假扮《ごまかし》で父の財産を得たから、 自分もさうすることが出來るといふやうなわけです」 大勇《だいゆう》。「實に言語道斷ですな。確かにさういふ意見を持つてゐましたか」 正直。「彼が堂々と聖書を見なさいとか、その證據を見なさいとか論ずるのを聽きました」 大勇《だいゆう》。「世に許すべからざる説ですな」 正直。「尚ほ能くお解りになつて戴きたいのは、誰でもさう仕て差支へないとは彼も言ひません。 さういふ事を仕た人々と同じ徳を持つ人なら矢張さう仕て差支へないと言ふのです」 大勇《だいゆう》。「愈《いよい》よ以て不埒千萬ですな。昔しの善人は心の弱いために罪を犯したのです[。] それを彼は無遠慮な心で仕ても可いといふのですな。 子供が風に吹き飛ばされたり、石に躓《つまづ》いたりして、倒れて泥まみれになつてゐるのを見て、 彼は故意《わざ》と倒れて、豕《ぶた》のやうに輾轉《ごろ〜》しても可いといふのですな。 誰でもそれを見たら、徳の力のために眼が暗んだと想ふでせう。 『彼等は聖言《みことば》に從はざる故に、これに躓《つまづ》く[。]これ彼等斯く定められたるなり』 [ペテロ書(1)2:8] と記してあるのは眞實《ほんとう》ですな。善人の徳を持つてゐるなど想つて、 その惡に自から耽る者は、惡に耽つて差支へないと思ふと同じく、 その徳を持つてゐると想ふのが妄想も甚だしですな。『神の民の罪を喰ふ』 [ホセア書4:8] ことは、その徳を持てる者の記標《しるし》ではありません。 又さういふ説を懷く者が實際心の裡《うち》に愛と信仰を持つとは信ずることが出來ません。 想ふに貴老《あなた》は彼に強く反對なすつたでせうが、彼とはどういふ辨解をしましたかな」 正直。「彼が言ひますには、口で反對を唱へて實際にそれを行ふよりも、 口で唱へる所を行ふ方が遙かに正直ですとな」 大勇《だいゆう》。「怪《け》しからん答ですな。勿論口には斯る事に反對しながら、 窃《ひそ》かに慾に心の手綱を弛めるのは惡いことだが、罪を行つて、 尚ほこれを辯護するといふは、一層惡いことです。 前者は偶然に人を躓《つま》づかすこともありませうが、後者は係蹄《わな》で人を陷《おとしい》れるやうなものです」 正直。「この人のやうな事を口には言はないでも、この人と同じ心の者は多いですな。 だから、旅に行くことがいつまでも輕しめられるのです」 大勇《だいゆう》。「實際お言葉の通りなので、歎かはしいですな。 だが天の神を畏れる者もその中から出て參りませう」 基督女《くりすちやな》が言葉を挾んだ。「世の中には妙な説もございますのね。 死する間際に悔改める餘裕が充分あるなどと申す人がありますのですから」 大勇《だいゆう》。「あまり賢くもありませんな。一生の旅をするのに一週間二十哩《マイル》も行けば善いものを、 その週間の最後の時間まで旅をぐづ〜゛してゐるなどいふは嫌はれ者ですな」 正直。「成程さうですな。ですが自から旅人だと任じてゐる者でも實は大方そんなものですな。 私は御覽のやうな老人で、もう長いこと此の路を旅しましたので、 種々《いろ〜》な事を見聞きしました。 「或る人逹は全世界を追ひ卷くるやうな勢で出で立つても、幾日も經たない内に、 野たれ死をして、約束の地に決して見ずにしまふ者もありました。 又或る人は初めは何んの約束もせず唯ぶら〜と出かけて、一日の壽命も六ヶ敷からうと想はれた者が、 遂に甚だ立派な旅人となつた者もありました。 又或る人は大急ぎで驅け出したかと思ふと、暫らくすると又大忙ぎで驅け戻る者もありました。 又或る人は初め天國をさして旅立つ時には、確にさういふ場所があるのだと言ひながら、 もうその間際まで來た時に、後戻りして、そんな所は有りはしないといふ者もあつたさうです。 又或る人はどんな敵でも恐れはしないと高言を吐きながら、風聲鶴唳《ふうせいかくれい》にも膽《きも》を冷して、 信仰も旅路も何にも彼も棄てゝ遁げる者もあつたさうです」 恁《か》ういふ事を話しながら進み行くと、向ふから驅けて來る人があつた。 そして「皆さん、殊に、弱い方々は生命《いのち》が惜しければ、早くお遁げなさい、 この前《さき》に盜賊《どろぼう》がゐますぞ」と言つた。 そこで大勇者《だいゆうしや》が言つた。「それは先きに薄信者《はくしんもの》を襲つた三人の者かも知れない[。] よし、目に物見せてくれる」 彼が恁《か》う言ふので、皆な進んだ。一同眼を配つて盜賊の出て來るのを油斷しなかつたが、 大勇者《だいゆうしや》のことを聽いたか、他に獲物があるためか、盜賊は遂にこの旅人逹を襲はなかつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:八 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:八 やがて基督女《くりすちやな》は疲れたので、自分と子供逹のために宿舍《やどや》を求めた。 そこで正直者は言つた。「もう少し行くと宿舍《やどや》があります。 そこはガヨス [ローマ書16:23] といふ大變敬はれてゐる弟子の住家《すみか》です」 それ故一同そこへ立ち寄ることに定めた。老人がその宿の善い風評《うはさ》をしたからである。 やがてその門口《かどぐち》に來たので、戸も叩かずに内へ入つて往つた。 宿舍《やどや》の戸は叩かないのが普通《あたりまへ》である。。 その家の主人を呼ぶと、主人は出て來た。そこで今夜|宿《と》めてもらへませうかと問《たづ》ねた。 ガヨス。「はい、皆樣が眞實《まじめ》な方々でございますれば。 私の家は旅人ばかりお宿《と》め申す所ですから」 基督女《くりすちやな》も哀憐女《あはれみ》も宿舍《やどや》の主人が旅人を愛する者だと聞いて、 痛く歡《よろこ》んだ。やがて部屋を定《き》めてくれといふと、 ガヨスは基督女《くりすちやな》と其の子供逹と哀憐女《あはれみ》とに一室を示し、 又|大勇者《だいゆうしや》と老人とに他の一室を示した。 やがて大勇者《だいゆうしや》は言つた。「ガヨスさん。夕餐《ゆうめし》の仕度をしてくださらんか。 この旅人逹は今日は遠くから來て、疲れてお出でゞすから」 「もう晩《おそ》うございまして」とガヨスが言つた。「食料を買ひに出ることは出來かねますが、 何んぞ有り合はせのもので、御滿足は出來ませんでせうか」 大勇《だいゆう》。「有り合せのもので結構です。貴君のやうな主人《あるじ》なら、 平素の貯へも乏しくはないでせうから」 やがてガヨスは下に往つて、 好味者《あじこのみ》といふ料理人にかやうに多勢《おほぜい》の旅人逹のために夕餐《ゆうめし》の仕度をするやうに命じた。 さう仕てから、再び登つて來て、恁《か》う言つた。「やあ、皆樣、善くお出で下さいました。 この家で皆樣をお待遇《もてな》しするのは何によりの歡びでございます。 御晩餐の御仕度の整ひますまで、善い談話《はなし》でもなすつて下さいまし。 お話し相手をいたしませうから」一同はそれは何によりですと言つた。 そこでガヨスは言つた。「あの年かさの御婦人は何誰《どなた》の奧樣ですか。 それからこの若いお孃さまは何誰《どなた》のお娘樣《こさま》ですか」 大勇《だいゆう》。「この御婦人は往時《まへ》に旅人でした基督者《くりすちやん》といふ方の奧樣です。 これはその四人のお子さん逹です。又この娘さんはお知合の一人で、 勸めて一緒に連れてお出でになつたのです。このお子さん逹はその父上を慕つて、 その足跡を踏《ふま》うとなさるのです。だからその父上の宿つた處か、 その足跡でも見やうものなら、嬉しさに心を躍して、同じ處に宿りたがつたり、 その跡を踏みたがつたりします」 そこでガヨスが言つた。「この方々が基督者《くりすちやん》さまの奧樣とお子さん逹でしたか。 私はその御良人のお父樣も、お祖父樣も能く知つてゐます。その家筋から善い人が澤山に出ました。 その御先祖は元とアンチオケ [使徒行伝11:26] に住んで居られました。先代の方々は(御良人から直接御聽きでもございませうが) 皆な立派な御人物でした。私の存じてゐますだけでも旅人の主やその路や主を愛する人々に對するその態度を見ると、 孰《いづ》れも徳の高い勇氣のある方々でした。又御親戚の中にも、 眞理のために試練《こゝろみ》を忍びなすつた方々が多いと聽きました。 御良人のお出なすつた、家系《いへすぢ》の御先祖の一人であるステパノは石で撃ち殺されなすつたし、 矢張同じ家系《いへすぢ》のヤコブは剱の尖《さき》で殺されました [使徒行伝12:2] 。パウロやペテロのことは申すまでもありませんが、御良人のお出なすつた家系《いへすぢ》では、 昔時《むかし》獅子の穴に投げ込まれたポリカルプだのがございますし、 それから日中籠に吊されて胡蜂《くまはち》に刺し殺された人もありますし、 それから袋に入れて海中に投げ込まれた人もあります。 そのやうに御家中で旅人の生活を愛するために害された方や、殺されなすつた方を皆な數へることは到底《とて》も出來ません。 なにはともあれ御良人にはかういふ忘れかたみの四人のお子樣がおありなさるのは何によりお目出たいですな。 どうぞお父樣の御名を汚さぬやうに願ひたいものです。お父樣の足跡を踏んで、 お父樣と同じ目的《めあて》に進んでいたゞきたい」 大勇《だいゆう》。「いや、實際皆な末頼母《すえたのも》しい少年でして、心からそのお父樣の路を慕つてをられます」 ガヨス。「私が申しますのもそこです。 それでこそ基督者《くりすちやん》さまの家族は地の面《おも》に廣がつて、益々殖えますでな。 それにしても基督女《くりすちやな》さまは御令息方のお配偶《つれあひ》になるやうな娘さん逹をお見つけになるですな。 さうすればお父樣の御名前も御先祖の御家柄も世に忘れられませんからな」 正直。「この御家柄が斷絶するやうなことがあつては殘念ですな」 ガヨス。「斷絶はしないでせうが、減るかも知れません。ですから、基督女《くりすちやな》さま、 どうぞ私のお勸めを用ゐなすつて下さい。さうすればお家が續きますから」と言つて、 宿の主人は更に言葉を繼ぎ、「基督女《くりすちやな》さま、 あなたのお連れの哀憐女《あはれみ》さんが茲《こゝ》にお出でなのは、何よりではありませんか。 どうでせう、哀憐女《あはれみ》さんと御縁組なすつては。哀憐女《あはれみ》さんが御承知ならば、 御長男のマタイさんとお配合《めや》はせになりましては。さうなされば御子孫繁生ですからな」 そこで此の縁談は纒《まとま》つて、やがてその内に結婚させることになつた。 ガヨスは尚ほ言葉を續けた。「世には御婦人方を非難する者もございますが、 私はそのために辯護いたします。死と呪詛《のろい》とは女によりて世に來たれり [創世記3] とございますが、『神はその子を遣したまへり、彼は女より生る』 [ガラテヤ書4:4] とあるのを見ますと、生命《いのち》や健康も矢張女から世に來たのでございませう。 舊約の婦人を見ましても、母親逹は何《いづ》れも世の救主《すくひぬし》の母とならうと思つて、 子供を慾しがつたでせう。救主《すくひぬし》がお生れになつた時も、 男や天使の前に、これを歡《よろこ》んだのは婦人逹ですからな [ルカ伝1:42-46] 。男は誰一人、僅かな金でも基督に差し上げたといふことを讀みませんが、 女逹は基督に從つて、その所有《もちもの》を盡してこれに仕へました [ルカ伝8:23] 。それから基督の足を洗つたのも女ですし [ルカ伝7:37-50] 。又主の御身體に豫じめ埋葬の膏《あぶら》を注いだのも女でした [マルコ伝14:8] 。それから主が十字架をさして行かれた時に泣いたのも女ですし [ルカ伝23:27] 、十字架から主に從つて、その埋められる墓に行つたのも女でした [ルカ伝23:55] 。それから復活《よみがへり》の朝初めに主を見たのも女ですし [ルカ伝24:1] 、又主が死から復活《よみがへ》られたことを初めに弟子逹に知らせたのも女でした [ルカ伝24:22,23] 。 ですから女の方は非常に惠まれてゐるのですから、私共と同じく恩寵の生活にあづからねばならないのです」 その内に料理人は晩餐の仕度の大抵出來上つたことを知らせて、 それから一人の召使に布《きれ》や木皿を並べて、又鹽麺麭を配らせた。 その時マタイが言つた。「この布《きれ》だの、晩餐《ゆうめし》の前觸だのを見たら、 今までよりも尚ほ腹が空つたやうです」 ガヨス。「この世には種々《いろ〜》な役目をする教理《をしへ》がありますが、 それに依つて貴君が天國の王樣の晩餐にあづかりたいといふ願望《ねがひ》をもつと澤山に起しなさるやうにしたいものです。 説教とか、書物とか、儀式とかいふやうなものは、私共が主の家に參つてあづかり饗應に較べると、 食卓に木皿を並べたり、鹽を載せたりする位のところです」 やがて晩餐《ゆうめし》になつた。初めに揚げた肩を一皿と波打つ胸を一皿とが食卓の上に並べられた。 ダビデは肩を揚げて、心を神に注いだのである。又彼はその心情《こゝろ》の庫《くら》なる胸を波打せて、 豎琴にもたれながらこれを彈《かな》でるのを慣《なら》ひとした。 この二つの皿は甚だ鮮《あた》らしく美味かつたので、一同心から歡んで喰べた。 次に出されたのは、血のやうに赤い酒の瓶《かめ》であつた。 [申命記32:14] [士師記9:13] John 。そこでガヨスは言つた。「御自由に飮《あが》つて下さい。 これは神と人の心を悦ばせる眞正《まこと》の葡萄に汁でございます」それ故一同これを飮んで樂しんだ。 次に能く粉末《こな》にされた乳を盛つた皿が出た。ガヨスは言つた。 「これはどうぞお子さま方に食《あ》げて下さい。成長《おほき》くなりなさるやうに」 [ペテロ書(2)2:1,2] その次に出されたのは、牛酪《ばた》と蜜の皿であつた。そこでガヨスは言つた。 「これは御自由に召し食《あが》つて下さい。これを食《あが》ると、判斷も善くなるし、 悟性《さとり》も強くなりますから。 主が幼少《ちい》さい時に召食《めしあが》つたのも、この食物の皿でございます 『惡を拒み、善を選ぶことを知るをえんために、牛酪《ばた》と蜜とを喰《くら》はん』 [イザヤ書7:15] とごじますからな」 あがて林檎の皿が出された。それはいかにも善い味の果實《くだもの》であつた。 その時マタイは言つた。「林檎を食つても可いでせうか。この果實《くだもの》で、 蛇が私共の先祖の母を惑はしたのですね」 それを聞いてガヨスは歌つた。 [「]林檎ぞわれら  惑はしぬ。     されど靈魂《たましひ》  穢せしは。 林檎にあらで、  罪ぞかし。     禁制《とゞめ》の林檎  喰ひなば、 血をば汚さん。  されどそを、     許されし時  喰ひなば、 われらの  益となりぬべし。     されば主の鴿《はと》  教會よ 愛に病むとき  主の酒を、     盛りし瓶《かめ》より  飮めよかし。 主の林檎をば  食へよかし」 そこでマタイは言つた。「私が躊躇《ためら》つたのは、この前、果實《くだもの》を喰つて病氣になつたからです」 ガヨス。「禁制の果實《くだもの》を喰べなすつたから、病氣におなりでしたが、 主の許したまふ果實《くだもの》ならそんな事はありません」 こんな談話《はなし》をしてゐる間に、他の皿が出された。それは胡桃《くるみ》の皿であつた。 すると食卓に坐つてゐた誰か一人「胡桃《くるみ》は弱い齒を痛めますね。殊に子供の齒をね」と言つた。 するとそれを聞いて、ガヨスは歌つた。 「胡桃《くるみ》の殼は、  堅くとも、     中に核《しん》をば  保つゆゑ、 喰《くら》ふ人をば  欺むかず。     さればその殼  開けかし、 美味きものをば、  得るために、     胡桃《くるみ》はこゝに  もたらさる 碎いて食《くら》ふ  ためにこそ」 そこで一同いかにも樂しく、長い間、食卓に坐つて、種々《いろ〜》な事を話した。 やがて正直者は言つた。「宿の御主人。私共が胡桃《くるみ》をむいてゐる間に、どうぞ、 かういふ謎を解いて下さい。 「人ありて、狂へる如く思はるれ、 棄つれば、なほもそれを得ぬ」 一同耳を聳《そばた》てゝ、善きガヨスが何んと言ふだらうと不思議がつてゐた。 ガヨスは暫らく靜かに坐つてゐたが、やがて恁《か》う答へた。 「貧しき者に所有物《もちもの》あたへなば、 復《また》も得べきぞ、その十倍を」 ヨセフはそれを聞いて言つた。「能く解けましたね。解けないかと思つた」 ガヨスは言つた。「なに、私はその方には中@慣れたものです。 龜の甲より年の效ですかな。貧しい者を親切にすることはわが主から學びましたが、 その親切から利益《もうけ》のあることは經驗上で悟りましたのです。 『散《ちら》せば返《かへ》りて増すべし。與ふべきを吝《おし》みて、却りて貧しきに至る』 [箴言11:24] 。『自から富めりといへど、何にも持たぬ者あり。自から貧しといへど、 資財《たから》多き者あり』 [箴言13:7] と言つてある通りでさ」 その時サムエルは母の基督女《くりすちやな》に囁いた。「お母《つか》さん、茲《こゝ》は大變善い人の家ですね。 だから暫らく此家《こゝ》に逗留しませうよ。 マタイ兄さんと哀憐女《あはれみ》さんとを茲《こゝ》で祝言させてから前《さき》に進みませう」 主人のガヨスは側でそれを聽きつけて、「どうぞ逗留して下さい、なあ、坊ちやん」 そこで彼等は一月あまりも茲《こゝ》に滯在した。その間に哀憐女《あはれみ》はマタイに配合《めやは》された。 茲《こゝ》に滯在してゐる内にも、哀憐女《あはれみ》はその習慣《ならはし》に從つて、 上衣や着物を作つては貧しい者に與へたので、旅人逹の評判を善くした。 談話《はなし》は後に戻つて、晩餐《ゆうめし》が濟むと、子供逹は旅の疲れに、 早く寢床に入りたがつた。そこでガヨスは誰か呼んで寢室《ねま》に案内させやうとしたが、 哀憐女《あはれみ》は私が寢床にお連れしますと言つた。やがて哀憐女《あはれみ》は子供逹を寢床に連れて行くと、 皆な快く睡つた。けれども他の者は夜通し起きてゐた。 ガヨスと彼等とはそれほど意氣が合つたので、別れたくなかつた。 主のことや、自分逹のことや、旅のことなどに談話《はなし》は盡きなかつたが、 謎を持ち出した正直翁《しやうぢきおう》は座睡《ゐねむり》を始めた。それを見て大勇者《だいゆうしや》が言つた。 「やあ睡くなりましたか。さあ、眼を擦つて、一つ謎を解いてごらんなさい」 正直翁《しやうぢきおう》は「どれ伺ひませうか」と言つた。 そこで大勇者《だいゆうしや》はかう言つた。 「殺さんと思へば先づ打ち勝るべく 外に生きんと思へば、先づ内に死すべきぞ」 「やあ」と正直翁《しやうぢきおう》が言つた。「それは六ヶ敷い謎ですな。解くのも六ヶ敷いが、 行ふのは尚ほ六ヶ敷い。それはさうと、宿の御主人、宜しければ、貴君にこの役目を讓りませう。 どうぞ解いて下さい。それを伺がひませう」 「それは可けません」とガヨスが言つた。「貴老《あなた》にかけられた謎ですから、貴老《あなた》がお解下さい」 そこで老人は恁《か》う言つた。 [「]罪殺さんと思ふ者、 先づ打勝れよ、恩寵《めぐみ》にて。 生きんとすれば、主を信じ、 自我《おのれ》を裡《うち》に死なしめよ」 「能く解けましたな」とガヨスが言つた。「善い教訓《をしへ》と經驗がその内にありますよ。 先づ第一に、恩寵《めぐみ》が現はれて來て、その榮光《さかえ》に人の心を征服するまでは、 とても罪に反對することは出來ませんからな。それに又罪は人の心を縛る所の惡魔の索《なは》であるなら、 それが弱い身體《からだ》から弛めらるゝまでは、とても抵抗出來ませんでせう。 その次に、道理や恩寵《めぐみ》の解る人なら、 自分の不品行の奴隸になつてゐるやうな者のことを恩寵《めぐみ》に滿ちた活きた證據とは信じませんからな。 今一寸と思ひ出しましたが、茲《こゝ》に一つお聞きになる値《ねうち》のある話があります。 二個《ふたり》の人が旅に行きました。一人は年若く、もう一人は年を老《と》つてゐるます。 若者の方は中々|不品行《ふみもち》で情慾を掴み伏せねばならぬが、老人の方は衰弱してゐるので、 情慾も衰へてゐます。若者は老人と同じやうに歩調《あゆみ》を運んでゆきますと、 矢張いかにも身輕に路を行くことが出來ました。二人は一寸と同じに見えますが、 孰《いづ》れがその恩寵《めぐみ》を明らかに輝やかしてゐるのでせうか」 正直。「それは無論若者の方ですな、若者が罪の最も大きな反抗に頭を向けてゐるのは、 恩寵《めぐみ》が最も強い最上の證據ですからな。 殊に實際その半分も反抗に遇はない老人と同じ歩調を保つてゐるといふのですからな。 それだのに老人といふ者は兎角想ひ違ひをしてわが身を有難がるものですからな。 その想ひ違ひといふのは、元來自分の情慾の衰へたのを、 恩寵《めぐみ》に依つて罪に打勝つたのだと思つて、自分を欺むき易ひですからな。 若し恩寵《めぐみ》に充てる老人なら、物事の失敗を澤山見て來たので、 若者に忠告することも出來ませう。だが、老人と若者が一緒に出立するとすれば、 若者の方にこそその心の裡《うち》に働く恩寵《めぐみ》が最も美しく露出《あらは》れますな。 老人が罪を犯さぬのは、自然に情慾の力が大變弱いからです」 かういふ話をしてゐる内に夜が明けてしまつた。 さて家の人逹が起き出ると、基督女《くりすちやな》は息子のヤコブに聖書の一章をお讀みなさいと言つた。 ヤコブはイザヤの第五十三章を讀んだ。それが讀み終ると、正直翁《しやうぢきおう》は傍から口を出して、 「救主《すくひぬし》が燥《かは》きたる地より出づ」と言はれたり、 「我等が見るべき麗はしき姿なく、美くしき貌《かたち》なし」と言はれるのは、 どういふ譯ですかと問《たづ》ねた。 それを聞いて、大勇者《だいゆうしや》が言つた。「第一の言葉は、 基督の出なすつた當時の猶太《ゆだや》の教會は殆んど宗教の潤澤《うるほひ》と精神を失つてゐたことを言ふのです。 第二の言葉は不信者に對して言はれたのです。不信者は我等の主の心を見透す眼を持たぬものだから、 唯その外見《うはべ》の賤しい状《さま》に依つて、主を判斷するのです。 譬《たと》へば寶玉が質素な地殼《から》の中に包まれてゐるのを知らぬ人のやうなものです。 その一つを見付けても、それが何んだか解らぬものだから、普通《ただ》の石のやうに棄てゝしまひます」 「成程」とガヨスが言つた。「そこで大勇者《だいゆうしや》さま、 幸ひ貴君が茲《こゝ》にお出でになりましたのですから、朝の茶菓が濟みましたら、 野原へ行つて見ませう。貴君は武術の逹人ですから、必らず何にか善いことが出來ませう。 茲《こゝ》から一|哩《マイル》ばかりの所ん、殺善者《さつぜんしや》といふ巨人がゐまして、 この邊一體の王の街道を非常に荒します[。]その巣窟のある所も解つてをります。 その巨人は盜賊仲間の親分でしてな。これさへ除いたら、この邊一體に穩かになります」 人々はこれに同意して、出かけた。大勇者《だいゆうしや》は剱と楯を持つて、兜を戴いた、 他の人々は槍を持つて行つた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:九 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:九 やがて一行は殺善者《さつぜんしや》の居る所に來て見ると、 今しも彼はその子分共が道中で引捕へて來た弱心者《こゝろよわ》といふ旅人を兩手に掴んでゐた。 巨人は先づ殘らず引剥いて、それからその骨まで舐《しやぶ》らうとした。 彼は生來《うまれつき》の人食者《ひとくい》であつた。 やがて巨人は忽ち大勇者《だいゆうしや》とその一行が武噐を携へて洞穴《ほらあな》の口に現はれたのを見つけて、 何用だと怒鳴つた。 大勇《だいゆう》。「他の用でもない。お前は王の往來から旅人を曵張り出しては、 多勢《おほぜい》殺した覺へがあらう。その復讐に來たのだ。さあ、洞穴《ほらあな》から出て來い」 これを聞いて、巨人は武裝して出て來て、大勇者《だいゆうしや》に挑み戰つた。 渡り合ふこと一時間あまりして、互ひに息を吻《つ》くために休んだ。 その時巨人は言つた。「どうしてお前はおれの領分に入つて來たのか」 大勇《だいゆう》。「前にも言つたやうに、旅人の血を復讐するためだ」 やがて再び渡り合つた。始め巨人は大勇者《だいゆうしや》を追ひ捲《まく》つたが、 やがて大勇者《だいゆうしや》が勢を盛り返し、滿身の勇氣を奮つて、躍り掛つて、 巨人の頭と横腹に斬り付けて、尚ほその武噐を手から捲《ま》き落した。 やがてこれを斬り殺して、その首を刎《は》ねて、携へ歸ることにした。 又旅人の弱心者《こゝろよわ》を連れて、その宿舍《やどや》に凱旋した。 歸つて來て、その首を家の人逹に示して、前にも仕たやうにこれを晒して、今後かやうな事を企つる者の懲戒《いましめ》にした。 やがて一同は弱心者《こゝろよわ》に向つて、巨人の手に落ちた次第を尋ねた。 するとこの氣の毒な人は答へた。「私は御覽の通りの病身でして、 日に一度は常《いつ》も死の使者《つかひ》の訪問を受けましたので、 これではとても家に落着いては居られないと想ひまして、旅人の生活を送ることになりました。 郷里は不確《ふたしか》の町でして、私も私の父もそこで生れました。 私は全たく身體《からだ》にも心にも元氣がない人間ですが、假令《たとへ》蟲の爬《は》ふやうにしてでも、 旅路に一生を過したいと思ひます。實は此の路の初めの御門に參りました時に、 其處の主は厚く私を待遇《もてな》して下さいまして、 私の弱々しい容子や弱々しい心をお咎めなさいませんばかりか、旅で無くてはならぬ品々を賜はりまして、 最後の望みを遂げよと仰《おつし》やつて下さいました。註釋者《ちゆうしやくしや》さまのお家へ參りましても、 非常な御親切を受けました。困難の岡は私にはあまり困難だらうといふので、 一人の御臣僕《ごけらい》に背負はれてそこを登りました、 私はこんなにそろ〜と歩くほか仕方がないものですから、道中で何誰《どなた》も私と一緒に連れ立つては下さいませんでしたが、 それでも旅人逹から大變お世話になりました。何誰《どなた》もお通り掛りの時に、 私を撫《いた》はつて、『心の弱き者を慰さめ』 [テサロニケ書(1)5:14] たまふのが主の御意《みこゝろ》ですからなどゝ勵まして下すつて、前《さき》へお進みになりました。 それから襲撃《おそひ》の細道へ差しかゝりますと、あの巨人に出遇ひまして、 いざ勝負せよと言はれましたが、何にをいふにもこんな弱蟲ですから、 ぶる〜慄へてゐます内に、捕まつてしまひました。それでも殺されはしないと想ひました。 無理やりに洞穴《ほらあな》へ連れて行かれましたが、生きて歸るだけは歸れると信じてゐました。 凡て旅人といふものは敵の手に虜《とりこ》になつても、 心を傾けて主に頼りさへすれば死ぬことがないといふのが神の律法《おきて》だと伺つてゐましたものですから。 所有物《もちもの》を奪《と》られるのは覺悟してゐましたが、御覽の通り、生命《いのち》だけは救《たす》かりました。 これは全く神の思し召と貴君方のお力と有難く存じます。これから先きの難儀も思ひやられますので 私は今から走れる時には走りますし、走れない時にはそろ〜歩き、 そろ〜も歩けない時には、腹這ひになつても進むことに決心しました。 まあ、兎に角、私が專心《ひたすら》に天國のことを想ひますのは、何により有難いことです。 路は前にありますし、私の心は橋のない河の向ふにあります。御覽のやうな弱蟲ではございますがな」 そこで正直翁《しやうぢきおう》は言つた。 「貴君は數年前|恐怖者《おそるゝもの》といふ旅人とお知合ひではありませんでしたか」 弱心《こゝろよわ》。「知つてをりますとも。あの人は滅亡《ほろび》の市《まち》北へ二百四十|哩《マイル》、 私の郷里からも恰度同じほどに離れてゐる愚鈍《おろか》の町の者でございます。 實を申せば、あの人は私の父方の叔父でごじますので、能く存じてをる筈でございます。 あの人と私とは氣質《きだて》も能く似てゐますし又身の丈こそ私よりも少し低いですが、 容貌《かほ》は能く似てゐます」 正直。「成程さうでしたか。どうも御親類ではないかと思ひました、 顏の白いところといひ、眼付といひ、言葉つきといひ、能く似てゐますからな」 弱心《こゝろよわ》。「私共二人を知つてゐなさる方は大抵さう申します。 それから又あの人の胸の裡《うち》を察すると、私にそつくりな所がありますからな」 その時ガヨスは弱心者《こゝろよわ》に向ひ、「まあ、どうぞ、御ゆつくりなすつて下さい。 恁《か》うして歡《よろこ》んで御待遇《おもてな》しするのですから、 なんでも慾しいものがございましたら、どし〜言つて下さい。 僕《しもべ》共もどうぞ御自由にお使ひ下さい。何んなりと御用をつとめる仕度をしてゐますから」 そこで弱心者《こゝろよわ》は言つた。「それは想ひもかけませぬ有難いお情けで、 雲間を洩れる日光のやうな氣がいたします。あの巨人の殺善者《さつぜんしや》が私を捕まへて、 最早これ以上進ませまいと決心しました時に、こんな有難い情を私に施さうとしましたのでせうか。 あの巨人が私の懷中を探りました時に、私をガヨス樣の宿舍《やど》にとまらせるつもりでしたでせうか。 それがまあ、さうなつたのですな」 さて弱心者《こゝろよわ》とガヨスがこんな話しをしてゐた時に、あはたゞしく走つて來て、 門口《かどぐち》で呼はる者はあつた。こゝから一|哩《マイル》半ばかりの處に、 不當者《ふたうもの》といふ旅人が雷電《かみなり》に打たれて死んでゐます」 弱心《こゝろよわ》。「あゝ、あの人が殺《やら》れましたか。 二三日前、茲《こゝ》まで來ない内に、あの人が私に追ひついて、 連れ立つて行かうと言ふので、巨人の殺善者《さつぜんしや》に私が捕まつた時まで一緒にゐましたが、 あの人は足早に遁げてしまひました。まあ、あの人は死ぬために遁げるし、 私は生きるために捕まつたやうなものですな」 「直ちに殺されんとせる者、     いと悲しき状《さま》より救はれし例《ためし》あり。 神の攝理は死に向ふとも、     卑下《へりくだ》る人の生命《いのち》延せる例《ためし》あり。 われ捕へられ、彼れは遁げしかど、     意地惡き手は彼に死を、われに生命《いのち》を與へけり」 さてその頃マタイと哀憐女《あはれみ》とは結婚した。又ガヨスの娘のフイベをマタイの弟のヤコブに配合《めあは》せた。 それから尚ほ十日の上も彼等はガヨスの家に留まつて、旅人の慣はしに從つて、その時の間を費した。 出立する時に、ガヨスは送別《わかれ》の宴を張つて、飮み食ひして、共に樂しんだ。 さて愈《いよ〜》出かけねばならぬ時が來たので、大勇者《だいゆうしや》は宿泊《やど》の勘定を尋ねた。 けれどもガヨスはその家では旅人を待遇《もてな》しても支拂ひを受けぬ習慣《ならはし》であると言つた。 その年中宿めて置いても矢張さうである。實に善きサマリア人 [ルカ伝1:34,35] がどんな入費《つひへ》でも、その歸途《かへり》に皆悉《すつかり》仕拂ひをするからと約束すて行かれたので、 その方から勘定を貰ふつもりだと言つた。それを聞いて、大勇者《だいゆうしや》は彼に向つて恁《か》う言つた。 「愛する者よ、爾《なんぢ》は旅人なる兄弟にまで凡て忠信をもて行へり、 彼等教會の前にありて、爾《なんぢ》の愛を證《あか》しせり。爾《なん》ぢもし神に適ふべく、 彼等の旅を助けば、その行ふところ善なり [ヨハネ書(3)56] といふてある通りですな」 やがてガヨスは人々や子供逹に別を告げた。殊に弱心者《こゝろよわ》を撫《いた》はつて、 途上《みち》での飮料《のみもの》を與へた。 さて一同出立する間際になつて、弱心者《こゝろよわ》はぐづ〜してゐた。 大勇者《だいゆうしや》はそれに氣が付いて、「さあ弱心者《こゝろよわ》さん、一緒にお出でなさい。 私は貴君の案内者になりますから。他の人逹と同じ心持でゐて下さい」 弱心《こゝろよわ》。「あゝ、私の身分相應の連がありましたらばな。 貴君方は皆な元氣で御丈夫な方ですし、私は御覽のやうな弱蟲でございますので、 後からぽつ〜參ることにいたしませう。 私の種々《いろ〜》な弱點《よわみ》が私にも貴君方にも仇をなすといけませんから。 私はこんな弱々しい性《たち》な者ですから、他人樣《ひとさま》の耐《こら》へなさることでも腹が立つたり怖氣たりします。 何にしろ、笑ふのが嫌ひ、派手に飾ることが嫌ひ、無益なことを尋ねられるのが嫌ひでございましてな。 それはまだしも、他人樣《ひとさま》が自由に物事をなさるのを見ても腹が立ちますやうなわけで。 なにを申しても、眞正《まこと》の道の解つてゐない、無學文盲の信者でございますからな。 時には主を歡《よろこ》ぶ人を見ましても、私にはそれが出來ないと思ふと心苦しくなりましてな。 實に私は強い人の中にをる弱い人でもありますし、丈夫な人の中にをる病人でもありますし、 又厄介視された燈火《ともしび》のやうなものです。 『遁げんとする者は安らかなる人の想ひには厄介視されたる燈火《ともしび》の如し』 [ヨブ記12:5] とあります通りです。ですからどうして可いか解りません」 「ですが、兄弟」と大勇者《だいゆうしや》が言つた。「私は心の弱ひ人を慰めたり、 弱い人を扶けたりするのが役目ですから、是非貴君も一緒にお出でなさい。 貴君を待ちもしませうし、助力《ちから》にもなりませう。貴君のためなら、 私共の説を言ひ張つたり、私共の仕たいと思ふ事でも成るべくいたしますまい。 又貴君の前で何にか不審な點について議論などはいたしますまい。 貴君を後の殘して行くよりは、貴君のためならどんな事でもいたしませう [ローマ書14] から」 さてガヨスの門口《かどぐち》で、 熱心に語り合つてゐる間に逡巡者《ためらふもの》といふ人が拐杖《かせつえ》を着いてやつて來た。 これも亦旅行く人である。 弱心者《こゝろよわ》はその人を見ると、「やあ、能く茲《こゝ》にお出でなさいました。 私は恰度今身分相當の道連《つれ》がないのを歎いてゐましたが、 貴君なら私の願ひ通りの人です。善く來て下さいました。善く來て下さいました。 逡巡者《ためらひ》さん、貴君と私なら助け合ふことが出來ませう」 「貴君のお連れになるのは嬉しいですな」と逡巡者《ためらふもの》が言つた。 「弱心者《こゝろよわ》さん、恁《か》うしてお目にかゝつたからには、もう別れることのないやうに、 拐杖《つえ》を一本差し上げませう」 「いや、お志は有難うございますが」と弱心者《こゝろよわ》は言つた。 [「]私はまだ蹇者《びつこ》でないから杖は入らないでせう。それでも、 犬でも吠えついた時には可いでせうかな」 逡巡《ためらひ》。「わが身でも杖でも、御用に立つならいつでも仰《おつし》やつて下さい。 なあ、弱心者《こゝろよわ》さん」 そこで人々は進んだ。大勇者《だいゆうしや》と正直翁《しやうぢきおう》は先に立つた。 基督女《くりすちやな》とその子供逹とはその次に進んで、 弱心者《こゝろよわ》と拐杖《かせつえ》を持つた逡巡者《ためらふもの》とはその後に隨《したが》つた。 その時|正直翁《しやうぢきおう》は言つた。 「なあ、大勇者《だいゆうしや》さん、かうしてもう路を歩いてゐるのですから、 何にか今までに旅した人の有益な話しでも仕て下され」 大勇《だいゆう》。「歡《よろこ》んで致しませう。 多分貴君方は先きに基督者《くりすちやん》さんが謙遜の谷でアポリオンに遇はれたことや、 死の蔭の谷でなされたえらい難澁などをお聽きになりましたでせう。 それからあの信仰者さんが淫亂者女《みだら》や初めの人アダムや不滿足者や羞耻者《はづかしや》といふ四人の惡者に道中で遇つたことなどを、 お聞き洩しはなさりますまい」 正直。「はい、皆な聽きました。殊にあの信仰者さんは羞耻者《はづかしや》のは大變弱らされたさうですな。 誠に煩《うる》さい奴ですから」 大勇《だいゆう》。「左樣です。あの旅人逹の言はれたやうに、彼ほど誰にでも持餘された者はないでせう」 正直。「それから、貴君、基督者《くりすちやん》さんと信仰者さんが駄辯者《おしやべり》に遇つたのは何の邊でせう、 彼も名物男でしたな」 大勇《だいゆう》。「彼こそ己惚れた馬鹿でしたが、その流儀に從ふ者が多いですな」 正直。「さうですな。あの信仰者さんさへ欺《だま》される所でしたからな」 大勇《だいゆう》。「さやう。基督者《くりすちやん》さんが早くもそれを看破る方法を教へたから善かつたでしたな」 こんな談話《はなし》を仕ながら進み行く内に、傳道者が基督者《くりすちやん》と信仰者に遇つて、 虚榮の市塲で起る災難を豫言した處へ來た。 そこで案内者は言つた。「此の邊で基督者《くりすちやん》さんと信仰者さんが傳道者さんに遇つて、 虚榮の市塲で辛い目に遇ふことを豫言されたのです」 正直。「さうでしたかな。それにしても傳道者さんはどんなにその事が言ひ惡《にく》かつたでせう」 大勇《だいゆう》。「それはさうですが、傳道者さんは二人を同樣に勵ましなすつたし、 それからあの二人は實に偉い、獅子にやうな人逹ですな。鐡石の志でどんな事にも顏を向けましたからな。 裁判官の前に立つて、尠《すこ》しも恐れなかつた所などは、まあどうでせう」 正直。「誠に信仰者さんは立派に苦しみを受けなすつたな」 大勇《だいゆう》。「いかにもさうでした。それから立派な果《み》を結びましたからな。 あの人が死んだ爲めに、有望者さんやその他|種々《いろ〜》の人が悔改めたといふ事ですから」 正直。「もつと、どうぞお話し下さい。貴君は何んでも善く御存じですから」 大勇《だいゆう》。「基督者《くりすちやん》さんが虚榮の市塲を出てから遇つた者の中で、 一番狡い奴は勝手者《かつてもの》でしたな」 正直。「勝手者《かつてもの》ですと、それはどんな人ですか」 大勇《だいゆう》。「極めて狡い奴で、全くの僞善者です。世の風潮につれて、宗教を信じて、 しかも惡賢くつてそのために損をしたり、苦しんだりすることを慾しないのですからな。 その宗教の流儀は時と場合に依つて變るのです。その細君といふのも矢張さういふことが得意でした。 その男はどん〜説を變へてしまつて、又それを變へる度に言ひ譯をするのです。 所で私が聽きました所によると、勝手者《かつてもの》は善くない最後を遂げたさうで。 又その子供逹の中にも誠に神を畏れる人から敬まはれたやうな者は一人もなかつたさうです」 折しも虚榮の市塲の開かれる其町が見える所まで來た。で、その町に近づいたことを知つて、 どうしてその町を通行したら可いか、互ひに相談した。恁《か》うしたら可いと言ふ者もあるし、 あゝしたら可いと言ふ者もあつた。遂に大勇者《だいゆうしや》は言つた。 御承知の通り、私は幾度も旅人の案内をして此の町を通つたことがあります。 で、私の知合の人にクプロのナソンといふ年老《と》つた御弟子があります [使徒行伝21:16] が、その家へなら宿れます。宜しければ、その家の方へ參りませう」 「結構ですな」と正直翁《しやうぢきおう》が言つた。「結構でございます」と基督女《くりすちやな》が言つた。 「結構でございまするな」と弱心者《こゝろよわ》が言つた。その他皆な同樣に言つた。 さてその町の外まで來た時は、もう夕暮であつた。 けれども大勇者《だいゆうしや》はその老人の家に行く路を知つてゐた。やがて其家《そこ》へ着いて、 門口《かどぐち》で訪れると、老人は内に居て、その聲を聽くや否や、誰が來たのか解つた。 で、戸を開けたので、一同内へ入つた。やがて主人のナソンは言つた。 「何誰《どなた》も今日はどこからお出でになりましたか」。「あの親切なガヨスの家から參りましたので」 と一同は言つた。「それは中々の行程《みちのり》でしたな。さぞお疲れでございませう。 さあ、お坐り下さい」そこで一同に坐つた。 その時案内者は言つた。「さあ、皆さん、寛《くつ》ろいで下さい。此家《こゝ》の主人は皆さんを歡迎してくれますのですから」 「さうですとも」とナソンが言つた。「歡迎いたします。何でも御入用なものを言つて下さい。 出來るだけのことは致します」 正直。「私共の大いに入用なのは、宿所《やど》と善き御交際ですが、今こそ兩方《どちら》も得られませう」 ナソン。「宿所《やど》は御覽の通りですし、善き御交際も出來ぬことはありますまい」 「それでは」と大勇者《だいゆうしや》が言つた。「旅人逹にその部屋を見せてやつて下さい」 「承知致しました」とナソンが言つた。そしてそれ〜゛その部屋を見せて、それから非常に立派な食堂に案内して、 そこで夕餐《ゆうめし》を食べてゐる内に、やがて寢る時刻が來た。 各自《めい〜》その部屋に入つて、やゝ旅の疲れが癒つてから、正直翁《しやうぢきおう》は宿の主人に向つて、 此の町には善い人々が澤山ありますかと尋ねた。 ナソン。「尠《すこ》しはあります。善くない者に較べれば、ほんとうに僅かです」 正直。「さういふ人々の中の誰にか面會出來ますまいか。旅に行く者には善い人を見たいものですからな。 恰度海に帆かける者が月や星の出て來るのを見たがるやうにな」 やがてナソンが足をこつ〜言はせると、その娘の恩惠女《めぐみ》が現はれた。 で、彼は娘に言つた、「恩惠女《めぐみ》や、お前、行つて、私の友逹に言傳《ことづて》て下さい、 それ、悔恨者《くゆるもの》さんや、聖淨者《きよきもの》さんや、聖徒好者《せいとすき》さんや、 不僞者《いつはらぬもの》さんや、悔悟者《さとるもの》さんの許《ところ》へ行つてね、 今晩貴君方にお目にかゝりたいといふお客樣が私の家に二三人來てゐられますからとな」 そこで恩惠女《めぐみ》がその人々を呼びにゆくと、やがて皆なやつて來た。 互ひに挨拶してから、皆な洋卓《ていぶる》の側に坐つた。 やがて主人のナソンは言つた。「御近所の方々、御覽の通り、お客樣方が私の家にお出でなさいました。 皆な旅の方逹で、遠くからわざ〜シオンの御山《みやま》をさして行きなさるのであります」と言つて、 基督女《くりすちやな》を指さし、「この方は何誰《どなた》だと思ひなさいますか。 これは名高い旅人で、信仰者さんと一緒に私共の町で辱かしめを受けなすつた基督者《くりすちやん》さんの奧樣で、 基督者《くりすちやん》と申されます」 それを聞いて、彼等は吃驚《びつくり》して、恁《か》う言つた。 「恩惠女《めぐみ》さんのお招きを受けた時に、基督女《くりすちやな》さんにお目にかゝらうとは尠《すこ》しも想ひませんでした。 これは驚きましたが、いかにも愉快ですな[」] やがて彼等は基督女《くりすちやな》に向つて、その無事を祝し、この若い方逹はその良人《をつと》の子供ですかと尋ねた。 基督女《くりすちやな》が左樣でございますと言ふと、彼等は子供等に向つて、 「貴君方の愛して仕へなさる大君は貴君方のお父樣にして下すつたやうに、貴君方にもして下されます。 そして今お父樣が安らかに生活《くらし》なさる處に貴君方を連れて行つて下さいませう」と言つた。 やがて彼等が席に着くと、正直翁《しやうぢきおう》は悔恨者《くゆるもの》を初め、人々に向つて、 この町の近頃の有樣を問ねた。 悔恨《くゆるもの》。「市塲の立つ時には目を廻すほど忙しいですからな。 紛擾《ごた〜》してゐる時に、私共の心と精神を紊《みだ》れないやうにしておくのは中々六ヶ敷いです。 かういふ場所に住んで、私共のやうに恁《か》ういふ事をしてゐる者は、二六時中油斷がなりません」 正直。「どうです。近頃は町の人逹は靜穩《おだやか》ですか」 悔恨《くゆるもの》。「以前よりはずつと穩やかです。基督者《くりすちやん》さんと信仰者さんがこの町でどんなに扱はれたましたか、 それは御承知の通りですが、近頃では餘程穩やかになりました。 信仰者さんを燒殺した後は、最早《もう》人を燒殺すなどといふことは耻かしくなつて致しません。 その頃私共はうつかり街を歩けなかつたですが、今では頭を出しても差支へありません。 又その頃は信者といふ名も嫌はれましたが、今では町の在る邊では(御存知の通り、この町は大きいですから) 宗教は尊敬されて參りました」。恁《か》う言つて悔恨者《くゆるもの》は人々に向ひ、 「御道中はいかゞでした。どんな事がございましたか」 正直。「旅人並に私共も種々《いろ〜》な事に出遇ひました。 路が善いこともあつたし、惡いこともあつたし、岡を登つたり、降つたり、まあ、 安らかなことはありませんでした。風は常《いつ》も順には吹《ふか》んし、 路で遇ふ人は皆な友逹ぢやありませんでした。これまでも種々《いろ〜》辛い障礙《さまたげ》に出遇ひましたが、 これから先きもどんな目に遇ふか解りません。なにしろ昔しから 『善人は惱みを受くべし』と言はれてゐるのは、眞實《ほんとう》のことですな」 悔恨《くゆるもの》。「障礙《さまたげ》と仰《おつし》やるが、どんな障礙《さまたげ》にお遇ひでしたか」 正直。「その事なら、案内の大勇者《だいゆうしや》さんにお尋ね下さい。その方が精しいお話しが出來ませうから」 大勇《だいゆう》。「私共は三四度惱まされました。 先づ基督女《くりすちやな》さんとお子さん逹は二人の惡漢《わるもの》に惱まされて、 もう少しで生命《いのち》を失《なく》すとことでした。それから又巨人|血塗者《ちまみれもの》や、 巨人大槌や、巨人|殺善者《さつぜんしや》からも惱まされましてな。その最後の殺善者《さつぜんしや》に就ては、 その巨人に惱まされたといふよりも、實は此方《こちら》が巨人を惱ましたのでしたがな。 その次第は恁《か》うでした。私共は暫らく前會の主人《あるじ》ガヨスの家に宿《とま》つてゐました時でしたが、 武噐を用ゐる時機《とき》はないかと心懸けてゐましたので、旅人に仇なす者に邂逅《めぐりあ》ひたいと思つて出かけました。 その邊に名高い奴がゐると聽いたものですから、ガヨスはその邊に住んでゐるので、 其奴の出沒する所を私よりも善く知つてゐました。あちこちと詮索して、 遂に洞穴《ほらあな》の口を見付けた時の嬉しさと言つたら、實に勇氣が百倍しました。その巣窟に近く往きますと、 その時恰度巨人は茲《こゝ》に居られる弱心者《こゝろよわ》さんを可哀想にも腕づくでその巣窟に曵ずつて來て、 生命《いのち》を奪《と》らうとしてゐました。所が私共を見ると、他にも餌食があると想つたか、 弱心者《こゝろよわ》さんを穴に殘して、出かけて來ましたので、 私共は非常な危うい場合に立ちました。巨人の勢はすさまじかつたですが、 遂に地に倒れて、首を斬られて、斯る大罪を爲す者の見せしめに、路傍《みちばた》に晒されました。 これは僞《うそ》のない話で、羔《こひつじ》の如く獅子の口を脱《のが》れた人が茲《こゝ》に居りますから、 その確實《たしか》な事を保證するでせう」 そこで弱心者《こゝろよわ》は言つた。「それは眞實《ほんとう》でございます。 私の苦痛《くるしみ》と慰安《なぐさめ》はそれを保證いたします。 巨人は私の骨を剔《えぐ》つてくれるぞと脅《おびや》かしますので、私はどんなに苦しみましたか。 又|大勇者《だいゆうしや》さまの一行が武噐を手にして來て、私を救《たす》けやうとなさるのを見て、 どんなに慰められましたか解りません」 その時|聖淨者《きよきもの》が言つた。「旅に行く人になくてはならぬものが二つあるのですな。 それは勇氣と汚れのない生涯です。勇氣がなければ、その路を進むことが出來ませんし、 それから生涯が放埒なら、旅人の名をすら汚すやうになりますからな」 聖徒好者《せいとすき》も亦言つた。「かういふ御注意は貴君方には何んの必要もないとでせうが、 世の中には隨分旅路を歩きながら、旅人でないやうな事を言つてゐる連中もございますな」 不僞者《いつはらぬもの》は恁《か》う言つた。「それは眞實《まつたく》です。 さういふ連中は旅の衣物《きもの》も持たぬし、旅人の勇氣も持ちません。 歩くにも眞直には進まずに、その足並が曲つて、一歩は内に、一歩は外に出ます。 それからその長襪《ながたび》も後の方に外れて、ぼろ〜になつたり、裂けたりして、 主を辱かしめるのですな」 「さういふ事は」と悔恨者《くゆるもの》が言つた。「旅人逹の惱みになるのですな。 さういふ欠點と汚穢《けがれ》から行く路を竒麗にしなければ、恩惠《めぐみ》にあづかることも出來ず、 又旅人の生涯を送ることも出來ませんな」 恁《か》ういふ談話《はなし》をして時を過してゐる内に、夕餐《ゆうめし》が食卓に並べられた。 一同食堂に行つて、飮み食ひしたので、その疲れた身體《からだ》も快くなつた。 それから各自《おの〜》臥床《ふしど》に入つた。 この市塲でも久しいことナソンの家に滯在した。その間にナソンの娘の恩惠女《めぐみ》は基督女《くりすちやな》の息子サムエルに、 又その娘のマルタはヨセフに配合《めあは》されることになつた。 さて此の市塲は昔時《むかし》と違つて、今は穩やかなので、彼等は永い間|茲《こゝ》に滯在した。 で、旅人逹は町の善い人逹と多勢《おほぜい》知合ひになつて、種々《いろ〜》そのために力を盡してやつた。 哀憐女《あはれみ》は例の通りに、貧しい人逹のために精出して働いたので、 皆なその恩に感じて、これこそ信者の裝飾《かざり》だと讚めた。 實際のところ、恩惠女《めぐみ》もフイベもマルタも皆な甚だ善い氣質《きだて》なので、 人妻として澤山な善い作用《はたらき》をした。この女逹は皆子寶が多い方であつた。 それ故|基督女《くりすちやな》の名は前にも言つたやうに、益々世に現はれた。 彼等が茲《こゝ》に滯在してゐる間に、一個《ひとり》の妖怪《ばけもの》が森の中から出て來て、 町の人を多勢《おほぜい》殺した。又その妖怪《ばけもの》は町の子供逹をさらつて行つて、 その子守をすることを教へた。町では誰もこの妖怪《ばけもの》に抵抗《てむか》ふ者はなかつた。 その來たる音を聞くと、皆な遁げてしまつた。 その妖怪《ばけもの》は地上の有らゆる獸に似てゐなかつた。身體《からだ》は龍の如く、 七つの首《かしら》と十の角《つの》があつた John 。人の子供を殺すのが大好きだが、尚ほ一人の婦《をんな》に自由にされてゐた。 この妖怪《ばけもの》は人々に條件を持出した。靈魂《たましひ》よりも生命《いのち》を愛する人々はその條件を受容れて、 これに服從した。 さて大勇者《だいゆうしや》はナソンの家に旅人逹を訪ねて來た人々と語り合つて、此の獸を退治して、 その足で割《さか》れ、その口に呑れる危險から町の人民を救ふことを約束した。 やがて大勇者《だいゆうしや》は悔恨者《くゆるもの》と聖淨者《きよきもの》と不僞者《いつはらぬもの》と悔悟者《さとるもの》と一緒に武噐を持つて出かけた。 妖怪《ばけもの》は初めの間非常に暴れ廻つて、大いに敵を侮つてゐたが、 人々は武術に優れてゐたので、したゝかに打ち敗つて、これを退却させた。やがて人々はナソンの家に歸つた。 その妖怪《ばけもの》は常《いつ》も時を定めて現はれて、町の子供を奪ひ取らんとするのであつた。 で、勇敢な人々はその時を見定めて、尚ほ續いてこれを攻撃した。 そのため遂に妖怪《ばけもの》は負傷したばかりでなく、蹇《ちんば》になつて、 前ほどは町の子供を荒さなくなつた。この獸が傷のために死ぬだらうと確かに信ずる者もあつた。 この故に大勇者《だいゆうしや》とその仲間とはその名が大いにこの町に響き渡つた。 物の道理の能く解らぬ人々でも、この人逹を敬ひ尊とんだ。從つて旅人逹は此町で害を受けることはなかつた。 けれども町には土龍《もぐら》ほどしか世間を見たことがなかつたり、 獸ほどしか物の解らないやうな淺はかな人逹があつて、此の人々を敬ひもせず、 その勇氣と冐險を何んとも思はなかつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:十 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:十 やがて旅人逹は再たび進み行かねばならぬ時が近づいたので、旅の仕度をした。 その事を町の友逹に知らせてやつて、旅立の相談をした。それから暫らく互ひに別れて、 大君の保護を祈つた。町の人々は弱い者や強い物や、女や男に適當した物を贈つた。 又なくてはならぬ物を携帶させた。やがて一同前に進んだ。町の友逹は都合が好い處まで見送つて、 又そこで大君の保護を祈つて、袂《たもと》を別つた。 旅人逹は一同に進んだ。大勇者《だいゆうしや》は先に立つて行つた。 女子供は今や足が弱くなつてゐたが、漸《やうや》く辛抱して歩いた。 そのために逡巡者《ためらふもの》や弱心者《こゝろよわ》は痛くその状態《さま》に同情した。 さて町の人々に暇《いとま》を告げてから、間もなく信仰者が死刑になつた場所へ來た。 で、そこに足を停めて、信仰者に能く十字架を忍ばしめたまひしことを神に感謝した。 又信仰者が男らしく苦しみを受けたればこそ、自分逹はその功徳《いさほし》に依つてかやうに恙ないことを感謝した。 それから基督者《くりすちやん》と信仰者のことを話したり、信仰者の死後に、 有望者が基督者《くりすちやん》の道連になつたことなどを話したので、路は大分はかどつた。 やがて金儲の小山に着いた。そこにが銀鑛があつた。デマスはそのために旅路を離れ、 勝手者《かつてもの》はそこへ落ちて死んだと噂される處なので、人々はこれを見て感慨に堪へなかつた。 やがて金儲の小山の向ふにある古い記念碑である鹽の柱に近着いた。 又そこからソドムの町と硫黄の燃ゆる湖が見えた。で、前に基督者《くりすちやん》が訝《あや》しんだやうに、 思慮あり分別のある人々がどうしてこの方へ迷ひ込んで行くのだらうと怪しんだ。 又人間といふ者は他人が害を受けてもそれに餘り心を動かされぬものである。 その事が愚かな眼を引着けるやうな價値《ねうち》のある時には殊にさうであると考へた。 今や私が見てゐると、彼等は進んで、歡樂山《たのしみのやま》の此方《こちら》にある川の側に來た。 川の兩岸には麗はしい樹が生ひ繁つてゐた。その葉は服用すれば食過に效能があつた。 そこにある草原《くさはら》は年中緑で、安らかに臥すことが出來た [詩編23:2] 。 この川の側に草原に、羔《こひつじ》の小舍《こや》の欄《をり》があつた。 これは旅路を行く婦人逹の嬰兒《をさなご》である小羊を養ひ育てるための家である。 又|茲《こゝ》に羔《こひつじ》を憐れんで、これを預かつてくれる人が一個《ひとり》あつた。 その人は『腕《かひな》に小羊を抱きこれをその懷に入れ、 乳をふくます者をやさしく導く』ことが出來た [イザヤ書40:11] 。今や基督女《くりすちやな》は四人の嫁逹に言ひ聽せて、その小さい子供逹をこの人に預けさせた。 小さい子供逹がこの水の側に住ひ庇はれ、助け養はれたならば、來るべき時に何にも缺く所がないからである。 この人は小羊の中に迷ひ歩きて失はれた者があれば、再たびこれを連れ戻り、 傷つけられた者はこれを裹《つゝ》み、病める者はこれを強くするからである [エゼキエル書34:11-16] 。茲《こゝ》には食物や飮料《のみもの》や衣物《きもの》を缺くことはないし、 盜賊や追剥に襲はれる憂ひもない。この人はその預けられた一疋の小羊を失はんよりは、 先づ自から死せんとするからである。それから茲《こゝ》では確かに善き榮養と勸言《すゝめ》を受けることが出來るし、 正しき路に歩むことを教へられるし、又それが尠《すく》なからざる恩惠《めぐみ》であることを教へられる。 茲《こゝ》には又佳い水や樂しい草原《くさはら》や、美くしい花や、種々《いろ〜》な樹木や、 善い果實《くだもの》の樹などがある。その果實《くだもの》はベゼルブルの園《には》から壁の此方《こちら》に埀れてゐたのを、 マタイが食つたやうなものではない。いな、それは健康でない者を健《すこや》かにし、 又健康な人を益々健《すこや》かならしむる果實《くだもの》である。 そこで基督女《くりすちやな》の嫁逹はその小さい子供逹をこの人に預けることを承知した。 彼等を勵ましてさうさせたのは、それに依つて小さい子供逹が皆な王の保護にあづかれるからであつた。 實に茲《こゝ》は年の少ない子供逹や孤兒《みなしご》の養育所であつた。 今や進み行く程に、拔道の野の側に着いた。基督者《くりすちやん》とその同伴《つれ》の有望者とが、 巨人絶望者に捕へられ、疑惑城に幽閉されたのは、そこにある踏み段から此の野原に入つて行つたからである。 さて一同はその踏み段に坐つて、どうしたら最も善いか、互ひに相談した。 大勇者《だいゆうしや》の如き人物が案内者なので、一同の勢は甚だ強かつた。 この際巨人を滅ぼし、その城を毀《こぼ》ち、 今後|茲《こゝ》を通行する旅人を安らかにするのが最も善い策ではなからうかと言はれた。 だが、それに贊成する者もあるし、反對する者もあつた。聖《きよ》くない地に立ち入るのは正當でせうかと言ふ者もあるし、 目的さへ善ければ、差支へないでせうと言ふ者もあつた。その時|大勇者《だいゆうしや》は言つた。 「唯最後に言はれた御主張はいつでも眞實だとは申せませんが、私は罪に抗《さか》らひ、 惡に打ち勝ち、信仰の善き戰をたゝかふやうに命令されてをりますので、 若し巨人絶望者の如き者と戰はなければ、誰と善き戰をたゝかひませう。 ですから私はあの巨人の生命《いのち》を取り、疑惑城を滅ぼすことにいたします」。 恁《か》う言つて更に言葉を次ぎ、「誰か私と一緒に行く方はありませんか」 そこで正直翁《しやうぢきおう》は言つた。「私が行きます」 「私共も行きます」と基督女《くりすちやな》の四人の息子であるマタイとサムエルとヤコブとヨセフとが口をそろへて言つた。 彼等は力の逞ましい若者なので。 そこで彼等は女逹を路に待せて置いた。弱心者《こゝろよわ》と拐杖《かせつえ》をついた逡巡者《ためらふもの》とには、 彼等が歸つて來るまで、女逹を護らせることにした。假令《たとへ》巨人絶望者が甚だ近くに住んでゐても、 路の内に居りさへすれば、小さな童《わらべ》でも導びけるからである [イザヤ書11:6] [。] やがて大勇者《だいゆうしや》と正直翁《しやうぢきおう》と四人の若者は巨人絶望者を尋ねて、 疑惑城へと乘り込んだ。その城の門へ着くと、劇しく打ち叩いて啻《たゞ》ならぬ音を立てた。 すると年老いた巨人は門へ出て來た。その妻の疑念女《うたぐり》も從いて來た。 やがて巨人は言つた。「そんな亂暴に叩くのは誰だ。そんな叩き状《ざま》をして巨人絶望者を煩はすのは何者だ」 大勇者《だいゆうしや》は答へた。「私は大勇者《だいゆうしや》といつて、 天國の大君の許《もと》に旅人を案内する者だ。門を開けて、私《わし》を入れろ。 それから戰ふ仕度をしろ。お前の首を斬つて、疑惑城を滅ぼすために來たのだから」 さて絶望者は巨人のこと故、人間に負ける氣配《きづか》ひはないと思つた。 又「これまで天使《てんのつかひ》にも打勝つたのだから、大勇者《だいゆうしや》など怖るゝに足らず」と想つた。 で、彼は身を堅めて、門の外に現はれた。頭には鋼鐡《はがね》の頭巾を被り、 火の胸當を着け、鐡の履《くつ》を穿き、手には大きな棍棒を携さへた。 そこで六名の人々は彼を圍んで、前後から打ちかゝつた。 すると巨人の妻の疑念女《うたぐり》も出て來て良人《をつと》に加勢をしやうとしたので、 正直翁《しやうぢきおう》は唯だ一撃《ひとうち》にこれを斬り棄てた。それから互ひに必死と戰つた。 遂に巨人絶望者は斬り倒されたが、痛く死ぬことを嫌つた。悶《もが》きに悶《もが》いて、 猫のやうに幾度《いくたび》も息を吹き返した。けれども大勇者《だいゆうしや》はやがて止めを刺して、 その首を刎《は》ねた。 やがて疑惑城を取り毀《こぼ》つたが、これは巨人絶望者の死んだ後なので、雜作もなかつた。 けれどもそれを壞すのに七日を費した。 城の内で餓えて死にかゝつた氣落者《きおちもの》といふ旅人とその娘の多怖女《こゝろづかひ》とを見出した。 この二人は生きながら救はれた。その他城内には到る處に死骸がごろ〜してゐるし、 又牢内には白骨累々とすてゐるので、見るからにぞつとするほどであつた。 大勇者《だいゆうしや》とその同伴《つれ》とはこの手柄を成し遂げてから、 氣落者《きおちもの》とその娘の多怖女《こゝろづかひ》とを保護することにした。 この親子は暴君であつた巨人絶望者のために疑惑城に囚はれてゐたが、 性《ね》が正直な人逹であつた。そこで巨人の首を提げて、 (その胴體は埋めてその上に石を積み層《かさ》ねた)待せて置いた人々の居る路へと戻つて、 その手柄談《てがらばなし》をした。弱心者《こゝろよわ》と逡巡者《ためらふもの》とはそれが實際巨人絶望者の首なのを見て、 雀躍《こおど》りして嬉しがつた。さて基督女《くりすちやな》な提琴《さげごと》を彈き、 娘の哀憐女《あはれみ》は琵琶を彈く嗜好《たしなみ》があつたので、 あまりの嬉しさに、一曲を奏でた。すると逡巡者《ためらふもの》は踊りたくなつた。 そこで氣落者《きおちもの》の娘の多怖女《こゝろづかひ》が手を取つて路の内を踊り廻つた。 彼が踊るといつても、拐杖《かせづえ》手離せないのだが、それでも善く足拍子を取つた。 又|少女《をとめ》は次の歌の音《ね》につれてかにも美事《みごと》に踊つたので、やんやと喝采された。 「疑惑《うたがひ》の城こぼたれしとも、     絶望の巨人、首|失《なく》すとも、 罪は城をば、築き直して、     巨人をまたも生かしなん」 氣落者《きおちもの》はどうかといふに、樂の音も彼を歡《よろこ》ばすに足りなかつた。 空腹《ひもじさ》に死にかゝつてゐるので、舞踊《おどり》よりも、食物に有りつきたいのだ。 で、基督女《くりすちやな》は壜を取り出して酒を與へ、又食ふ物を整へた。 そのため間もなくこの老人は我に返つて、いかにも元氣が快《よ》くなつた。 さて私が夢の中で見てゐると、かういふ事を終つてから、大勇者《だいゆうしや》は巨人絶望者の首を取つて、 それを棒の尖《さき》に貫ぬいて、 基督者《くりすちやん》が巨人の領地へ入らぬやうに後から來る旅人を警告《いまし》めるために路傍《みちばた》に建てた柱の右に置いて、 その下にあつた大理石に次のやうな數行の詩を記した。 「これぞ先の日、旅人を、     脅《おび》やかしたる者の首。 城は毀《こぼ》たれ、その妻の、    疑念女《うたぐり》とても殺されぬ。 氣落者《きおち》と娘|多怖女《こゝろづかひ》とは、     大勇者《だいゆうしや》にぞ救はれぬ。 疑がふ人は眼を放ち、     眺めば心解くるらん。 蹇者《あしなへ》の踊るを見ても、     恐怖《おそれ》は消えぬ、この首の」 この人逹は斯も勇ましく疑惑城を襲つて、巨人絶望者を殺してから、前に進んで、 やがて歡樂山《たのしみのやま》に着いた。 茲《こゝ》は基督者《くりすちやん》と有望者が種々《いろ〜》珍らしい場所を見物して心を慰さめた所である。 茲《こゝ》で又彼等は牧羊者《ひつじかひ》逹と懇意になつた。牧羊者《ひつじかひ》逹は前に基督者《くりすちやん》にしたやうに、 歡樂山《たのしみのやま》に彼等を歡迎した。 さて牧羊者《ひつじかひ》逹は一行の多勢《おほぜい》なのを見て、 大勇者《だいゆうしや》に向つて、(彼とは元より相識れる仲なので) 「やあ貴君は善い仲間を作《こし》らへましたな。何處でこの人逹を見付けましたか」 そこで大勇者《だいゆうしや》は答へた。 先づ初めには、基督女《くりすちやな》と、     一群《ひとむれ》の息子と嫁よ。 北斗星のごと、極をさし、     罪より恩寵《めぐみ》へ向かざれば、 いかでか茲《こゝ》にあるべしや。     次は翁《おきな》の正直よ、 同じく旅に登りけり。     誠心《まごゝろ》もてる逡巡者《ためらひ》や、 後に殘るを好まざる、     弱心者《こゝろよわ》とて亦同じ。 性《ひと》善き氣落者《きおち》とその娘、     多怖女《こゝろづかひ》も來りけり。 我等は茲《こゝ》に待遇《もてなし》を、     受くるをうるや、尚前に、 進むべきやを知らしめよ」 これを聞いて牧羊者《ひつじかひ》逹は言つた。「これは愉快な御同勢《ごどうせい》ですな。 茲《こゝ》に歡迎いたしますとも。強い者でも、弱いものでも、同じやうに歡迎いたします。 私共の主はいと小さき者がどんな取扱かひを受くるか、絶えず目をつけてゐられますからな [マタイ伝25:40] 。弱い者を待遇《もてな》すことを輕んずるわけには參りません」 恁《か》う言つて、家の戸口に一同を案内して、「さあ、お入りなさい、弱心者《こゝろよわ》さん。 お入りなさい、逡巡者《ためらふもの》さん。氣落者《きおちもの》さんも御令孃の多怖女《こゝろづかひ》さんも」 恁《か》う言つて、牧羊者《ひつじかひ》逹は案内者に向ひ、「この方逹はどうも尻込みをなさるやうですから、 一々お名前を呼んだのですが、貴君や他の強い方逹は、どうぞ御自由にお入り下さい」 そこで大勇者《だいゆうしや》は言つた。「今日私は貴君方の顏に恩寵《めぐみ》の輝いてゐるのを見ます。 そこでこそ主の牧羊者《ひつじかひ》ですな。『脇や肩で弱き者を推し除けずに』 [エゼキエル書34:21] 、その家に至る路に花を散しなさるのですからな」 やがて弱々しい人逹は先に入つた。大勇者《だいゆうしや》と他の人逹はそれに隨《した》がつた。 席が定まると、牧羊者《ひつじかひ》逹はまた弱い人逹に言つた。 「どうぞお望みのものを言つて下さい。弱い人を扶《たす》けたり、 横着な者を戒しめたりするものは、茲《こゝ》で何んでも整へられますから」 それから御馳走は出されたが、皆な消化《こな》れ易い、味も佳く、滋養のある食物であつた。 食事が濟むと、臥床《ふしど》に入つたが、銘々に適當な部屋を與へられた。 朝になると、山は高く晴れ渡つて、日は麗《うら》らかであつた。 旅人は出發前に種々《いろ〜》珍らしい物を見せるのは、牧羊者《ひつじかひ》逹の慣例《ならはし》なので、 彼等が身支度をすて、茶菓を濟むと、直ぐ野へ案内して、 初めは前に基督者《くりすちやん》に見せたと同樣なものを彼等に見せた。 それから今度は新らしい或る場所に案内した。先づ第一に見せられたのは、驚嘆の山である。 遙《はるか》に見渡せば、一個《ひとり》の人が言葉を以つてその山を顛覆《くつかへ》すさうとしてゐた。 人々はそれを見て、牧羊者《ひつじかひ》逹にはこれはどういふ譯ですかと問《たづ》ねた。 すると牧羊者《ひつじかひ》逹は答へた。「あの人は天路歴程の正篇にあつた大惠者といふ人の息子でして、 彼處《あそこ》に居るのは、どんな困難に遇つても、信仰さへあれば [マルコ伝11:23,24] 、それを路から取り除けることが出來ることを旅人逹に教へるためです」 それを聞いて、大勇者《だいゆうしや》は言つた。「私はあの人を知つてゐますが、非凡な男です」 次に無垢の山といふ他の場所に案内した。 そこには全身悉とく白い裝ひをした者が一人居つた。 僻見者《ひがみ》と妬忌者《ねたみ》といふ二人の者が絶え間なく彼に泥を投げつけてゐた。 然るに見よ、泥をいくら彼に投げつけても、尠《すこ》しの間に落ちてしまつて、 その衣物《きもの》は泥を投げつけられないと同じやうに竒麗に見えた。 そこで旅人逹は「これはどういふ譯ですか」と言つた。牧羊者《ひつじかひ》逹は答へた。 「これは敬神者《けいしんしや》といふ人で、sの衣物《きもの》はその生涯の無垢なることを表はすのです。 この人に泥を投げつける者はその幸福を憎む者です。だが、御覽の通り、 泥はその衣物《きもの》に尠《すこ》しも附きません。世の中で信に無垢な生涯を送る人はまたこの通りです。 さういふ人を汚さうとする者があつても、その骨折は無駄です。 尠《すこ》しの時が經つてから、神はその無垢の光を明らかにし又その義《たゞ》しきを眞晝の如くならしめたまひます」 やがて又人々を案内して、博愛山に連れて行つた。そこには一個《ひとり》の人が一束の反物《たんもの》を前に置いて、 それを上衣や着物に仕立て、自分の周圍《まはり》に立つてゐる貧しい人に施してゐた。 併《しか》しその反物《たんもの》の束は決して尠《すく》なくならなかつた。 「これはどうしたのでせう?」と人々が問《たづ》ねた。牧羊者《ひつじかひ》逹は答へた。 「これは貧しい人のためにその勞力《ほねおり》を與へる心のある人は、 決して缺《とぼ》しきことがないのを貴君方に見せるためです。 人を濕《うる》ほす者は自から濕《うる》ほすのです。寡婦《やもめ》は預言者に菓子を與へても、 その桶の中にあるものは尠《すこ》しも減ることがないといひますからな」 それから又人々を案内して、とある場所へ行つたが、 そこには馬鹿者と無智者《ちえなし》といふ二人が黒人の身體《からだ》を白くしやうと思つて洗つてゐた。 ところで洗へば洗ふほど、黒くなつた。人々はこれはどういふ譯ですかと問《たづ》ねると、 牧羊者《ひつじかひ》逹は恁《か》う言つた。「性の惡い者はこの通りです。 さういふ人に善い名を負はせやうと思つて、どんなに手を盡しても、 結局《つまり》はその人を益々忌はしくするだけです。パリサイ人もその通りでしたが、 凡ての僞善者も矢張同樣です」 その時マタイの妻の哀憐女《あはれみ》はその母の基督女《くりすちやな》に向つて、 「御母樣《おつかさま》、この山に普通地獄の拔道といはれてゐる穴がありますさうですね。 それを見物出來ないでせうか」。そこで母親は牧羊者《ひつじかひ》逹のこの事を話した。 牧羊者《ひつじかひ》逹は山の中腹にあるその入口へ行つてその戸を開いて、 哀憐女《あはれみ》に暫らく耳を澄してお出なさいと言つた。 で、哀憐女《あはれみ》は耳を傾けてゐると、誰とは知らず、 「あゝわが産みの父親《おや》が恨めしい。私の足を縛つて、平和と生命《いのち》の路へ行かせないのだから」 と言ふのが聽えた。又他の一人は言つた。「あゝもつと早くずた〜に裂かれた、 生命《いのち》を救ふために靈魂《たましひ》を失ふこともなかつたらうに」。 又他の一人が言つた。「もう一度生れるなら、こんな所に來ないように、自分の慾を制しやう。」 かういふ聲がすると同時に、哀憐女《あはれみ》の立つてゐる地が呻いて震へたので、彼女は蒼くなつて、 ぶる〜慄へながら、「此處《こゝ》から救はれる男女は幸はひなことです」と言つた。 牧羊者《ひつじかひ》逹は人々にこれら事を示してから、連れ歸つて、その家で出來るだけの待遇《もてなし》をした。 然るに哀憐女《あはれみ》は年若い姙婦なので、そこで目に着いたものを慾しいのだが、 耻かしがつてそれを言ひ出すことが出來なかつた。母親は哀憐女《あはれみ》が打ち沈んで見えるので、 どこか惡いですかと尋ねた。で、哀憐女《あはれみ》は言つた。 「食堂に姿見がかゝつてゐましたでせう。あの姿見が、どうしましてか、私の心を離れませんの。 ですから、あれを戴きたいと思ひますのですが、さしませんと、流産するといけませんから」 それを聞いて、母親は言つた。「牧羊者《ひつじかひ》逹にその事を話して見ませう。 拒《いや》とは仰《おつし》やるまい」 けれども哀憐女《あはれみ》は言つた。「あの方逹にそんな事を知られるのは耻かしうございますわ」 「いえ、耻かしくはありません」と母親が言つた。「さういふものを求めるのは美徳です[」] 哀憐女《あはれみ》は言つた。「それなら、お母さん。どうぞ、牧羊者《ひつじかひ》逹に、 あれを賣つて下さるやうに言つて下さい」 さてその鏡といふのは世にも珍らしい品であつた [ヤコブ書1:23] [コリント書(1)13:12,] [コリント書(2)3:18] 。それを一方から見ると、その人の姿が鮮やかに現はれるし、又他方から見ると、 旅人の主の顏と姿がありあり見えるのであつた。然り、この鏡を眺めて、 主の頭《かうべ》にいたゞかれた棘《いばら》の冠を見たといふ者もあるし、 その手や足や脇腹にある釘跡の穴を見たといふ者もあつた。 然り、この鏡には尚ほ一ついとも優れたことがあつた。 それは人がこの鏡に對して主を想へば、主の生きたまふ姿でも、死したまへる姿でも、 地に在《ゐま》す姿でも、天に在《ゐま》す姿でも、身を卑しくせられし状《さま》でも、 身を揚げられし状《さま》でも、苦しみを受けるために此世に來たりたまふ状《さま》でも、 支配するために此世に再臨したまふ状《さま》でも、その想ひ通りな主に姿を見られるのであつた。 やがて基督女《くりすちやな》は一人で牧羊者《ひつじかひ》逹の許《もと》に行つた。 (その牧羊者《ひつじかひ》逹は知識者、經驗者、警醒者、至誠者といつた)。 そして恁《か》う言つた。「私の嫁に、唯今|姙娠《みもち》の女が一人ございまして、 御家で見かけましたものを慾しいとか申して居るのでございます。 それを下さりませんと流産でもいたしはせぬかと氣配《きづか》はれます」 經驗。「では、その方をお呼び下さい。私共の力に及びますことなら、そのお望みをかなへますから」 恁《か》う言つて、哀憐女《あはれみ》を呼び迎へて、「哀憐女《あはれみ》さん、 貴女《あなた》の慾しいと仰《おつし》やるものはどんなものですか」 哀憐女《あはれみ》は顏を赧めて、「あの食堂にかゝてゐます大きな鏡でございます」 それを聞いて、至誠者は走つて行つて、鏡を取つて來て、歡《よろこ》んでそれを與へることを承知した。 哀憐女《あはれみ》は頭《かうべ》を下げて感謝して、恁《か》う言つた。 「これで貴君方の御眼に私が惠まれてゐますことが解りました」 牧羊者《ひつじかひ》逹は他の若い女逹にも、それ〜その慾しがるものを與へた。 又その良人《をつと》逹が大勇者《だいゆうしや》と一緒に巨人絶望者を殺し、疑惑城を毀したので、 その襃美を澤山與へた。 牧羊者《ひつじかひ》逹は基督女《くりすちやな》の頸に首環《くびわ》をはめてやつた。 四人の娘逹にもさうした。又その耳には耳環をはめ、額には寶玉を飾らせた。 人々はもう御暇《おいとま》したいと言ふので、牧羊者《ひつじかひ》逹は平和に行かせることにした。 けれども前に基督者《くりすちやん》とその同伴《つれ》にしたやうな警戒《いましめ》をこの人々には與へなかつた。 その理由《わけ》はさういふ事に能く慣れてゐる大勇者《だいゆうしや》が道案内をしてゐるので、 どんな危險が近着いても、直接適宜な警戒《いましめ》を與へることが出來るからである。 基督者《くりすちやん》とその同伴《つれ》とは牧羊者《ひつじかひ》逹からさういふ警戒《いましめ》を受けても、 尚ほいざといふ場合にそれを應用することが出來なかつた。であるから、今この一行は他の者よりも便宜であつた。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:十一 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:十一 やがて歩きながら、恁《か》う歌つた。 「見よ旅人にふさはしき、     救助《すくひ》は妙《たへ》に仕組まれぬ。 障碍《さまたげ》なしに迎へられ、     來世は我等が目標《めじるし》ぞ。 樂しき生活《くらし》なせよとて、     珍らしき物與へらる。 何處《いづこ》へ行くも示せとて、     それらのものを賜はりぬ」 牧羊者《ひつじかひ》逹に別れてから間もなく、 先きに基督者《くりすちやん》が背教の町に住んでゐる變心者《へんしんしや》といふ者に出遇つた場所に來た。 道案内の大勇者《だいゆうしや》は人々に基督者《くりすちやん》のことを思ひ出させるために恁《か》う言つた。 「こゝは基督者《くりすちやん》さんが脊中に叛逆《むほん》の文字を貼られた變心者《へんしんしや》といふ人に遇つた處です。 その人といふのは、人の忠告などに耳を貸しませんで、一旦墮落すれば、いかに諭しても止め度がありません。 彼が十字架と墳墓《はか》のある所に來かゝると、一個《ひとり》の人がそれを見さしてやらうとしたが、 彼は齒かみをしたり、足を踏み鳴したりして、どうしても郷里に歸るつもりだと言ひ張つたさうです。 耳門《くゞりもん》へ來る前に、傳道者と遇ふと、傳道者はもう一度引返すやうに、 彼の頭《かうべ》に手を按《おか》うとしたが、それでも強情を張つて、種々《いろ〜》傳道者に失禮な事をして、 遂に垣を乘り越して、その手を遁れたさうです」 やがて人々は進んだ。そして先きに薄信者《はくしんもの》が盜賊に遇つた場所に來ると、 恰度そこに一人の男が劍を拔いて立つてゐた。その顏は血だらけであつた。 それを見て大勇者《だいゆうしや》は言つた。「貴君は何誰《どなた》ですか」 その人は言つた。「私は眞理剛者《しんりごうしや》といふ旅の者で、 天の都へ參らうとするのですが、今この路で、三人の者が私を取り圍んで、 三つの個條を持ち出しました。それは(一)その仲間の一人になるか。 [箴言1:10-19] 。(二)さもなければ茲《こゝ》から歸るか。(三)さもなければ茲《こゝ》で殺されるかといふのです。 それに對して、私は先づ第一の個條に答へました。第一に、私は久しい間|眞正《まこと》の男子であるので、 今更|盜賊《どろばう》の仲間入りは想ひも寄らんことです。 それでは第二の個條はどうだと彼等が言ひますので、私は言つてやりました。 私が出て來た郷里が不便な土地でなければ、何にもそこを見棄てはしない。 全たく私に適してをらず、又私に甚だ不利益なので、見棄てゝ此路に來たのである。 さう言ふと、それなら第三はどうかと彼等が問《たづ》ねましたので、 私は又言つてやりました。私の生命《いのち》は大切だから、そんな輕々しく棄てるわけにはゆかない。 何にもお前逹から兎やかく言はれる因縁はない。そんな差出口を利くと容赦はせぬぞ。 そこで三人の者、即ち粗大者、輕率者、世話燒者は劍を拔いて私に撃つて掛つたので、 私も亦劍を拔いて拒《ふせ》ぎ戰ひました。三人を相手に三時間あまりも戰ひましたかな。 そして私もこの通り數個所に傷を受けましたが、三人にも負傷を負はせてやりました。 今しがた三人は行つた所ですが、風聲鶴唳《ふうせいかくれい》とは善く言つたもので、 貴君方の足音を聞きつけたらしいのです。だから遁げ失せたのでせう」 大勇《だいゆう》。「三人と一人とは大變でしたな」 眞理剛《しんりごう》。「實際です。だが、敵の多寡《たか》などは、 眞理を味方にする者などは何んでもないでさ。『縱《たと》ひ軍人《いくさびと》營をつらねて、 我を攻むるとも、わが心おそれじ。たとひ戰ひ起りて我を攻るとも、我はなほ恃《たのみ》あり』 [詩編27:3] 。とありますからな。それに私は或る書《ほん》で、唯獨りで一軍と戰つた人のことや、 驢馬の腮骨《あばらぼね》で多勢《おほぜい》を殺したサムソンの事などを讀みましたからな」 そこで案内者は言つた。「どうして大きな聲でして、誰かに加勢を求めませんでしたか」 眞理剛《しんりごう》。「それは大君に求めました。大君は私の求めを聽いて、 見えざる援助《たすけ》を與へて下さるからな。私にはそれで充分です」 それを聞いて、大勇者《だいゆうしや》は眞理剛者《しんりごうしや》に向ひ、 「貴君のその振舞は天晴ですな。どうぞ貴君の劍を見せて下さい。 で、それを見せると、大勇者《だいゆうしや》は手に取つて、暫らくそれを眺めてゐたが、 やがて、「うん、これは正銘のエルサレムの劔《つるぎ》ですな」 眞理剛《しんりごう》。「さうです。かういふ劔《つるぎ》を一振持つてゐて、 これを用ゆる腕前があれば、どんな敵にでも向ふことが出來ますし、 又使ひ方が解つてをれば、それを持つてゐても心配はありません。 その燒刄は決して鈍りません。肉でも骨でも靈魂《たましひ》でも精神でも何んでも切れます [ヘブル書4:12] 」 大勇《だいゆう》。「貴君は餘程長く戰ひなすつたでせうに、能く疲れませんな」 眞理剛《しんりごう》。「それは剱が手に粘り着くまで戰ひましたさ。 剱が手から生えたやうに一緒に固着《くつつ》ひてしまつて、血が指から流れるやうになりますと、 最も勇ましく戰ふことが出來ました」 大勇《だいゆう》。「善く戰ひなすつた。罪を爭ひ拒《ふせ》ぎて血を流すとは貴君のことです [ヘブル書12:4] 。私共は貴君に力を添へます[の?]で、さあ、一緒に參りませう。互ひに伴侶《つれ》になりませう」 人々は彼を撫《いた》はつて、その傷を洗ひ、又その元氣をつけるために、 所持してゐる飮料《のみもの》などを與へて、やがて一緒に進んだ。 さて大勇者《だいゆうしや》はこの人と道連になつたのを歡《よろ》こんだ。 (その腕前の優れたのを見て、大いにこれを愛したからである)。 又自分は弱々しい人逹と一緒なので、この人を得て、心強くなつたのである。 で、種々《いろ〜》なことを彼に尋ねた。第一、その國元はどこですかと言つた。 眞理剛《しんりごう》。「私は暗黒國《あんこくこく》の者でして、そこで生れました。 私の父母はまだそこに存命してをります」 「暗黒國《あんこくこく》ですと」と案内者が言つた。 「それでは滅亡《ほろび》の市《まち》と同じ海岸に在るぢやありませんか」 眞理剛《しんりごう》。「はあ、さうです。私が旅に出た譯といふのは恁《か》うです。 或る時|實話者《まことをはなす》といふ人が私共の地方へ來まして、基督者《くりすちやん》の仕たこと、 即ち滅亡《ほろび》の市《まち》から妻子を棄てゝ去つて、旅人の生活をなすに至つたことを話してくれました。 道中で蛇に襲はれてそれを殺したことや、又その志せる處に遂に逹したことなどを精しく話しました。 それから主の宿に着く度に手厚く歡迎されたことや、殊に天の都の門へ着いた時に非常な歡迎を受けたことを話しました。 その人の言ふ所に據《よ》ると、輝ける者の仲間が、喇叭の音《ね》につれて基督者《くりすちやん》を出迎へたさうですな。 それから都中の鐘が彼の到着を祝ふために鳴るし、又彼は黄金《こがね》の衣裳を着せられたさうですな。 その他|種々《いろ〜》な事を話されたが、一々|茲《こゝ》には申しません。 要するにその人から基督者《くりすちやん》とその旅行の話を聽きまして、私の心は燃え立つやうに、 その後を追ふて行きたくなつて、父や母の禁《と》めるのも聞かず、遂に家を拔け出して、 遙々《はる〜゛》茲《こゝ》まで來ました」 大勇《だいゆう》。「あの耳門《くゞりもん》からお出でになつたでせうね。どうですか」 眞理剛《しんりごう》。「さうです。矢張その人が耳門《くゞりもん》からこの路に入らないと、 何んにもならぬと言ひましたから」 「どうです」と案内者は基督女《くりすちやな》を顧りみて、 「貴君の御良人の旅路の風評《うはさ》は遠近《をちこち》に知れ渡つてゐますな」 眞理剛《しんりごう》。「え、この方が基督者《くりすちやん》さんの奧樣ですか」 大勇《だいゆう》。「さうです。それからあの四人の若い方逹が息子さんで」 眞理剛《しんりごう》。「それはそれは。矢張旅にお出でになるのですな」 大勇《だいゆう》。「さうです。基督者《くりすちやん》さんの後を慕ひなすつてな」 眞理剛《しんりごう》。「それは何より嬉しいことです。 あの善い人は自分と一緒に行かなかつた人逹が後から慕つて來て、 天の都の門へ入つたら、どんなに嬉しがるでせう」 大勇《だいゆう》。「それは勿論あの人には愉快ですな。自分が天の都へ入つた嬉しさの次には、 そこで妻子と遇ふ嬉しさでせうな」 眞理剛《しんりごう》。「談話《はなし》の傳手《つひで》ですから伺ひますが、 どうぞ御意見を聽して下さい。天の都に入ると、私共は互ひに見分けがつかなくなるといふ者がありますが、どうでせう」 大勇《だいゆう》。「そんな考へを持つてゐる人でも、天の都へ入つても、 その人自身の事は解ると想ふでせう。又その人自身が祝福を悦ぶことが出來ると想ふでせう。 既に自分のことが解るし、又自身が祝福を悦ぶとすればどうして他の人が解らないでせうか。 又他の人の祝福を悦ぶことが出來ないでせうか。それから夫婦親子などは第二の自分ではないですか。 元より天國ではさういふ關係は溶けてしまひませうが、それでも天國で親子夫婦の見分がなくなると思ふよりも、 そこで遇つて互ひに悦ぶと思ふ方が道理に合つてゐるやうですな」 眞理剛《しんりごう》。「それで御意見が解りました。 そのほか私が旅に出たことについてお問《たづ》ねになることがありますか」 大勇《だいゆう》。「ではお尋ねしますが、御兩親は貴君が旅人となるのを御承知なしましたか」 眞理剛《しんりごう》。「いや、どうしまして。私を家に引き止めやうと思つて、 種々《いろ〜》な手段《てだて》を盡しました」 大勇《だいゆう》。「それは又どんな事を言ひましたか」 眞理剛《しんりごう》。「旅などは怠け者のする事だと言ひました。 ぐら〜した怠け者になりたくなければ、決して旅人などになりたがるものではないといふんです」 大勇《だいゆう》。「その他にはどう言ひましたか」 眞理剛《しんりごう》。「それから危險な路だと言ひました。旅人の行く路は、 世界で一番危險な路だと言ひました」 大勇《だいゆう》。「この路がそれほど危險なことを説明しましたか」 眞理剛《しんりごう》。「えい、種々《いろ〜》細かいことを」 大勇《だいゆう》。「例へばどんな事ですか」 眞理剛《しんりごう》。「基督者《くりすちやん》さんが溺死かゝつた落膽《らくたん》の沼のことや、 耳門《くゞりもん》を叩いて入らうとする者があると、ベルゼブルの城からこれを射殺さうとする弓手《ゆみとり》のことや、 森や暗い山のことや、困難の岡のことや、獅子のことや、血塗者《ちまみれもの》、 大槌者《おほつちもの》、殺善者《さつぜんしや》といふ三人の巨人のことなどを話しました。 それから又謙遜の谷に穢れた惡鬼の出沒することや、 基督者《くりすちやん》がその惡鬼のためにもう少しで生命《いのち》を奪られる所であつたことなどを申しました。 それから死の蔭の谷を通らねばならぬぞ。その谷には妖怪《ばけもの》が居るぞ、光がなくつて眞暗だぞ。 路には係蹄《わな》や坑《あな》や穽《おとし》や彈機《はじき》が一杯だぞと言ひました。 それから巨人絶望者のことや、疑惑城のことや、旅人がその巨人に遇へば必らず殺されることなどを話しました。 それから危險な迷魂《まよはし》の地を通らねばならぬぞ。それを越えても、まだ橋の懸つてゐない川があるぞ、 その川は此岸《こちら》と天國の間にあるのだぞと申しました」 大勇《だいゆう》。「それだけですか」 眞理剛《しんりごう》。「いや、まだあります。この路には欺むく者が澤山待伏せして、 善人から路を連れ出さうとしてゐると言ひました」 大勇《だいゆう》。「どうしてその事を説明しましかた[」] 眞理剛《しんりごう》。「世才氏《せさいし》といふ人が待伏せして欺むかうとしてゐることや、 虚禮者や僞善者がいつも路に居ることや、勝手者《かつてもの》や駄辯者《おしやべり》やデマスが私を捕へやうと想つて押し寄せることや、 諂《へつ》らふ者が網で私を捕へやうとすることや、 それから又青二才の無學者と同じやうに、私が都の門へ行つても、そこから岡の中腹にある穴に送り返されて、 その拔道から地獄に送られるだらうと言ひました」 大勇《だいゆう》。「それだけでも、充分人を落膽《らくたん》させますな。だが、それで最終《おしまひ》ですか」 眞理剛《しんりごう》。「いや、まだです。それから又昔しからその路に出かけて、 餘程遠くまで行つた人々も多くあるが絶えず風評《うはさ》に登る榮光《さかえ》などは何にも見出さずに、 空しく歸つて來て、その路に一足でも足を踏み出したことを馬鹿〜しく思つてゐると言ひました。 例へば強情者だの、柔弱者《じゆうじやくもの》だの、疑惑者《うたがふもの》だの、憶病者だの、 變心者《へんしんしや》だの、年老いた無神者だの、その他|種々《いろ〜》の名を擧げました。 この人逹の中には、餘程遠くまで行つて、榮光《さかえ》を見つけやうとしたが、 誰一人として一本の羽《はね》の重さほどの利益をも見つけなかつたと言ひました」 大勇《だいゆう》。「尚他に貴君を落膽《らくたん》させるやうなことを言ひましたか」 眞理剛《しんりごう》。「さうです。恐怖者《おそるゝもの》が旅に出たが、路が寂しくつて、 一寸《ちつと》も樂しい時がなかつたことや、又|氣落者《きおちもの》が餓死《うゑじに》をしさうであつたことや、 それから(私は殆んど忘れてゐましたが)、 基督者《くりすちやん》その人も天國の冠を獲たといふので大評判になつてゐるが、 實際は黒い河に溺れて、そこを越すことが出來ずに、死んでしまつたさうだと言ひました」 大勇《だいゆう》。「そんな事を聽いて、貴君は落膽《らくたん》しましたか」 眞理剛《しんりごう》。「いえ。そんな事を何んとも思やしません」 大勇《だいゆう》。「それはどうしてゞす」 眞理剛《しんりごう》。「私は實話者《まことをはなす》の言つたことを信じてゐましたので、 どんな事を言はれても惑ひませんでした」 大勇《だいゆう》。「それは貴君の信仰の勝利でした」 眞理剛《しんりごう》。「さうでしたな。私は信じてゐますので、 恁《か》うして出かけて來て、有ゆる敵と戰ひました。信じたればこそ茲《こゝ》まで來たのです」 (一)まこのtの勇氣 持てるもの、     茲《こゝ》に來たりて ためし見よ。 雨と風とは 絶え間なく、     吹き荒《すさ》むべし この路に。 されど元氣を 挫《くぢ》くなく、     一度誓へる 所をば、 貫ぬかざれば 止むべしや、     旅人たるの、 こゝろざし。 (二)悲しくつらき話しをば、     身のまはりに 置かるとも、 などかそのため 迷ふべき、     力はなほも 増すばかり。 いかで獅子をば 怖るべき、     巨人とゝもに 戰はん。 かくてぞ彼は 持つべきぞ、     旅人たるの その權利。 (三)穢れし惡鬼 妖怪《ばけもの》も、     いかで挫《くじ》かん その元氣。 遂には生命《いのち》 繼ぐことを、     知る者いかで 赫《おど》すべき。 空しき想《おもひ》 飛び去らん。     人の言ふこと 怖れんや、 夜晝《よるひる》彼れは 努めなん、     旅人たるの こゝろざし[。] [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22 天路歴程:續篇:十二 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 續篇:十二 折しも迷魂《まよはし》の地に着いた。そこの空氣は自然に睡氣を催ふさしめるのであつた。 さうしてそこには一面の荊棘《いばら》が生ひ茂つてゐた。そこ彼處《かしこ》を切り拓《ひら》いて、 迷魂《まよはし》の小亭《あづまや》が建てゝあつた。人がそこに座るかあすれば、 再たび今生《こんじやう》に目を醒して起き出るかどうか、それは疑問である。 それ故人々は一列になつてこの森へ進んだ。大勇者《だいゆうしや》は道案内なので、 先きに立つて進んだ。眞理剛者《しんりごうしや》は殿《しんがり》となつた。 惡鬼や龍や巨人や盜賊が後方《うしろ》から襲ふて來て、害をなすやうなことがあつてはと、 その萬一を慮《おもん》ぱかつて、護衞したのである。 一人々々拔いた剱を手に提げて、進んだ。皆な茲《こゝ》が危險な場所であることを知つてゐたからである。 又出來るだけ互ひに勵まし合つた。大勇者《だいゆうしや》は弱心者《こゝろよわ》に直ぐ自分の後から續くやうに指圖した。 氣落者《きおちもの》は眞理剛者《しんりごうしや》の直ぐ眼の前を歩かせることにした。 まだ遠くも行かない内に、濃霧と暗黒《やみ》とが人々を包んでしまつた。 餘程長い間は互ひの姿も見えなかつた。で、暫らくは前を見て進むことが出來ないので、 餘義なく互ひに呼び交はす言葉を頼りにして進んだ。 茲《こゝ》は最も強い人逹もあはれに行きなやんだのであるから、 まして、足も心も弱い女や子供逹はどんなに辛かつたのであらう。 けれども先きに立つ人と後から來る人に勵まされて、覺束なくも路を辿るのであつた。 又|茲《こゝ》では路が泥濘《ぬか》つて惡いので、甚だ疲れ易かつた。 それに此の土地には一軒の宿舍《やどや》も飮食店もないので、 弱々しい人逹を憇《やす》ませることが出來なかつた。それ故ぶつ〜言ふ者もあるし、 顏を膨らす者もあるし、嘆息《ためいき》をする者もあつた。 それと同時に叢林《ぼさ?》に轉ぶ者もあるし、杖を泥に取られる者もあるし、 又子供逹の中には、泥濘《ぬかるみ》で靴を失くした者もあつた。 「もう力が盡きてしまつた」と一人が叫べば、「おゝい、貴君は何處に居るのですか」 と他の一人が叫ぶし、又「叢林《ぼさ?》に強く引懸つてしまつて、拔け出ることが出來ません」と第三の人が叫んだ。 やがてとある小亭《あづまや》に着いた。それは暖かで、旅人の疲れを憇《やす》めるにいと適《ふさ》はしかつた。 その屋根は立派に造られ、緑の葉で飾られ、又腰掛や長椅子が備へ付けてあつた。 又疲れた人が凭《よ》りかゝるやうに、一つの柔らかな寢椅子もあつた。 旅人逹は既に路の惡いのに惱まされてゐたので、これはどう考へても、誘惑であつた。 けれども誰一人そこに入つて憇《やす》みたいと言ひ出す者がなかつた。 それは多分人々が絶えず案内者の忠告を善く守つたからであらう。 又案内者は危險な場所に立ち至ると、その危險とその性質とをいと忠實《まめやか》に人々に話すのであつた。 若し人々が危險の間近にある時には、常《いつ》もその精神を鼓舞し、 互ひに内の慾を拒むやうに奬勵させた。さてこの小亭《あづまや》は怠惰之友と呼ばれて、 實は疲れて憇《やす》みたがつてゐる旅人を誘ふために造られたものであつた。 やがて私が夢で見てゐると、人々はこの寂しい土地を進んで、とある場所に着いた。 そこでは兎角人が路を踏み迷ひ易かつた。さて明るい内なら、 案内者は邪《よこしま》の路に迷ひ込まぬやうに充分人々に語ることが出來たのであるが、 今しも暗黒《やみ》なので、暫らく當方《とはう》に暮れた。けれども彼は天の都に往復する路の地圖を懷中してゐた。 で、火を擦つて(彼は何處へ行くにも火打箱を携へてゐたので)その地圖の書《ほん》を披《あ》けて見ると、 そこから用心して右手の路に向ふやうに記してあつた。 若し茲《こゝ》でこの地圖を見ることに氣が付かなかつたら、 多分人々は皆な泥の中で生命《いのち》を落したであらう。 實は人々の少し前には、最も綺麗な路の端《はづれ》に、一つの坑《あな》があつた。 その坑《あな》には泥が一杯に詰つてゐるので、どれほど深いか、誰も知つてゐない。 それは旅人を殺すために掘られたものであつた。 その時私(夢見る作者)は窃《ひそ》かに「旅を行く人は誰でも、當方《とはう》に暮れた場合に、 進むべき路を見出すために、恁《か》ういふ地圖の一つを携帶したいであらう」と想つた。 さて人々はこの迷魂《まよはし》の地を去つて、他の一つの小亭《あづまや》のある處に來た。 それは街道の傍に建てられた、さうしてその小亭《あづまや》には、不注意者と無謀者といふ二人の者が横たはつてゐた。 この二人は遙々《はる〜》旅して茲《こゝ》まで來たのだが、旅の疲れを休めるために其の中に座つてかやうに熟睡して倒れたのである。 旅人逹はそれを見て、眠れる者の淺ましさを憐れみて、靜かに立つて首を振つた。 この二人を睡らしたまゝにして立ち去らうか、それとも側に寄つて呼び醒して見やうか、 人々はその爲すべき所を相談した。遂に若し出來るならば、側へ行つて起すことに決めた。 けれども自分もその小亭《あづまや》に座らぬやうに、 又その種々《いろ〜》並べてある誘惑にかゝらぬやうに互に用心することにした。 そこで小亭《あづまや》に入つて、二人を呼び起した。案内者は二人を知つてゐたので、 その名を呼んで見たが、聲も立てねば、答も仕なかつた。案内者は二人を搖動《ゆすぶ》つたりして、 種々《いろ〜》手を盡してこれを起さうとした[。] するとその一人は「金が取れたら、お前に拂ふさ」と言つた。 それを聞いて案内者は頭《かうべ》を振つた。又他の一人は「刀《かたな》を手に握れるだけ、おれは戰ふぞ」と言つた。 それを聞いて、一人の子供は笑つた。 そこで基督女《くりすちやな》は言つた。「これはどういふ譯でせう[」] 案内者は言つた。「なに、寢惚けて喋舌《しやべ》るのです。 お打ちなさるなら、この二人を打つてごらんなさい。あなたがどんなに爲すつても、 矢張こんな風に喋舌《しやべ》りますから。昔しもかういふ人があつて、海の波に打たれ、 船の帆柱の上に偃《ふ》す者のやうに睡つてゐた時に、『われ醒めなば、酒を求めん』 [箴言23:34,35] と言つた通りです。睡つてゐながら、なにか喋舌《しやべ》るのですが、 その言葉は信仰や道理に依つて支配されてゐないのです。 その旅に出たことゝ、茲《こゝ》に腰をかけるといふのが、既に辻褄が合はぬやうに、 その言葉といふものは尠《すこ》しも辻褄が合ひません。兎に角これは不幸です。 不注意な者が旅に出ると十中の八九は恁《か》ういふ破目になります。 この迷魂《まよはし》の地といふのは、旅人に敵對する者の最後の隱家《かくれが》の一つですからな。 御覽の通り、もう旅路の盡る所にあるので、敵にとりては一層便利です。 敵の方では、馬鹿者は疲れたら必條《きつと》茲《こゝ》に坐りたがるだらうと思ひませう。 それに旅路も終らんとしてゐるので、疲れてゐるに相違ありませんからな。 だからして、迷魂《まよはし》の地はベラウの地に近く、又旅人の馳場《はせば》の終りに近く置いてあるのです。 なんでも旅人は用心するに限ります。さもないと此の二人のやうに、睡氣に落ちて、 誰も呼び起すことが出來なくなりますからな」 それを聞いて、旅人逹は身を慄はせて、早く前に進みたがつた。殊に殘りの路を行くに提燈の光を借りるために、 火を點すことを案内者の乞ふた [ペテロ書(2)1:19] 。で、案内者は火を點した。暗黒《やみ》は非常に甚だしかつたが、その光に助けられて、殘りの路を進んだ。 けれども子供逹は痛くも疲れて、路をもう少し安らかならしめたまへと旅人を愛する主に叫んだ。 そのために尚ほ少しの間進むと、風が起つて、霧を散らしたので、空氣は少し透明になつた。 それでもまだ迷魂《まよはし》の地の外には出なかつた。唯互ひに少し安き心地をして、 路を歩むことが出來た。 今やこの地の端《はづれ》に出やうとする頃、前途《ゆくて》に當りて、痛く惱める人の嚴かな聲が聽えた。 人々は進み寄りて眺めるとその想ひし通りに、一個《ひとり》の人が跪づいて、兩手を眼《まなこ》の上に擧げて、 天に在《ゐま》す者に熱心に語つてゐるのであつた。人々は側に寄つたが、 その言ふ所が解らなかつた。で、その終るまで、靜かに待つてゐた。 やがてその人は語り終ると、起ち上つて、天の都をさして驅け出した。 そこで大勇者《だいゆうしや》は彼に聲をかけて、「お待ちなさい、一寸と、 天の都へお出でなさるなら、御一緒に參りませう」その人は立留つたので、 人々はその側へ行つた。正直翁《しやうぢきおう》はその人を見るや否や、 「やあ、私の知つてゐる人でさ」と言つた、眞理剛者《しんりごうしや》は「さうですか、何誰《どなた》です」と問《たづ》ねた。 正直翁《しやうぢきおう》はそれに答へて、「矢張私の郷里から來た者でして、 名を不屈者といひます。確に善い旅人です」 やがて互ひに側に來た。すると不屈者は直ぐ正直翁《しやうぢきおう》を認めて、 「やあ、正直翁《しやうぢきおう》もそこにお出でゝすな」 「さやうぢや」と正直翁《しやうぢきおう》が言つた、「貴君がそこに居るやうに、私も確に茲《こゝ》に居ります」 「なにより嬉しいですな」と不屈者が言つた。「貴君を此の路で見付けたのは」 「私も矢張嬉しい」と正直翁《しやうぢきおう》が言つた。「貴君が跪づいてゐられたのを見ましたので」 それを聞いて、不屈者は赤面して言つた。「やあ、跪づいてゐる所を見たのですか」 「見ましたとも」と正直翁《しやうぢきおう》が言つた。「それを見て、心が嬉しかつた」 「それでどう思ひましたか」と不屈者が言つた。 「どう想ふ!」と正直翁《しやうぢきおう》が言つた。「どう想ひませう。これは路に正直の人が居るわい、 次第に道連れになれるなと想ひました」 不屈者は言つた。「貴老《あなた》が惡く想ひなさらなかつたとすれば、私はどんなに仕合せでせう。 若し私がさういふ者でなければ、獨りでどんなに苦しみを忍ばねばならんでせう」 「それは眞實《ほんとう》ですな」と正直翁《しやうぢきおう》が言つた。 「貴君のその恐怖《おそれ》は旅人の主と貴君の靈魂《たましひ》との間柄が正しいからだと想ひます。 『恆《つね》に怖れる人は幸はひなり』とありますからな」 眞理剛《しんりごう》。「さて、兄弟、今しがた貴君が跪づいて居られた理由《わけ》はどういふのですか、 どうぞお聽かせ下さい。何にか特別の惠みを受けなすつたためですか。 それとも別に譯がありますか」 不屈。「いや、唯お互ひに迷魂《まよはし》の地にありますのでな。私は茲《こゝ》に來る道すがら、 つく〜危險な路にあることを想ひました。旅路を遙々《はる〜》茲《こゝ》まで來て、 足を憇《やす》めたばかりに滅ぼされた者も澤山ありますのでな。私は又この場所で殺される人の死状《しにさま》を想ひました。 茲《こゝ》で死ぬ人は激しい死に方をしませんから、死ぬことを怖がりません、 睡るやうに逝つてしまふので、樂しみ願つて死の旅に出立します。 實際滿足してその睡い病氣の心任せになつてしまふのです」 その時|正直翁《しやうぢきおう》は言葉を遮切つて言つた。「二人の者が小亭《あづまや》に睡つてゐるのを見ませんでしたか」 不屈。「えい、見ました、見ました。不注意者と無謀者を見受けました。 あゝして横たはつたまゝ、遂に腐つてしまふでせう [箴言10:7] 。それは兎に角、私の話を續けさせて下さい。私はさうして想ひ沈んでゐますと、 年を老《と》つてゐても、いかにも愉快な裝ひをした婦人が私の前に現はれて、 三つの物を私に與《く》れやうと言ひました。即はちその身體《からだ》とその財布とその寢床です。 實を申せば、私はその時疲れてはゐるし、睡くはあるし、 それに梟《ふくろ》の雛のやうに貧しかつたのです。その魔女は多分その事を知つてゐたのですな。 私は再三それを發付《はねつ》けたのですが、その女は平氣な顏でニコ〜してゐるのです。 私が怒り出しても、全つたくお顧《かま》ひなしです。さうして又それを申し出して、 その言ふ通りにすれば、私を幸福な偉い者にしてやると言ひます。 自分は浮世の女主人《おんなあるじ》で、人間が幸福《さいはひ》になるのは自分の力ですと、 その女が言ひました。私がその名を問《たづ》ねると、泡沫《うたかた》夫人だと言ひました。 それを聞いて、私は尚ほその女から遠ざからうとしたのですが、それでもまだ女は誘惑を續けました。 そこで私は貴君方が御覽になつたやうに跪づいて、兩手を擧げて、聲高く、神の助けを祈つたのでした。 さうすると貴君方がお出でになつた時に恰度その貴婦人は立ち去りました。 そこで私は尚ほその大いなる救拯《すくひ》を感謝いたしたわけでした。 實際その女は私に善からぬことを企だてたのですからな。 私に旅を止めさせやうとしたに相違ありません」 正直。「それは無論惡い企謀《たくらみ》があつたのですな。それは兎に角その女を、 私は見たこともあるし、その女の譚《はなし》を讀んだこともありやうです」 不屈。「多分さうでせう」 正直。「泡沫《うたかた》夫人!。それは丈《せい》の高い優雅《しとやか》な貴婦人で、 色は淺黒くはないですか」 不屈。「すあです。全然《すつかり》的中《あたり》ました。恰度さういふ女です」 正直。「いかにもすら〜と話しをして、言葉の區切り〜に微笑みはしませんか」 不屈。「正《まさ》しくその通りです。さういふ特徴があります」 正直。「帶のあたりに大きな財布を着けてゐて、時々その中に手を入れて、 金を弄《いじ》くつて、さもさうするのが心の娯樂《たのしみ》のやうに見えませんでしたか」 不屈。「その通りです。あの女を茲《こゝ》へ立たせて置いても、 それ以上にあの女のことを傳へることは出來ません。あの女の人相はそれで善く現はれました」 正直。「それならあの女の肖像《にかほ》を描いた人は善い畫工《えかき》なのですな、 あの女のことを書いた人は眞實《ほんとう》の事を記したのですな」 大勇《だいゆう》。「その女は魔女です。その魔術のために、この土地は人を迷はす所となつたのでさ。 その膝を枕にする者は、斧を掛けてある下の斷頭臺《くびきりだい》に頭を載せて置くやうなものです。 その美しさに眼をくれる者は誰でも神の敵と見なされますからな [ヤコブ書4:4] 。凡て旅人の敵を皆な華やかに見せかけるのも、あの女の仕業《しわざ》です。 實にあの女は旅人の生涯から多くの人を躓《つまづ》かせました。 あの女は大變な饒舌家《おしやべり》で、常に自分もその娘逹も旅人の誰れ彼の尻につきまとつて、 この世の歡樂《たのしみ》を讚めそやします。あの女は厚かましい耻しらずの淫婦なので、 誰にでも言葉をかけます。貧しい旅人だといつも嘲笑《あざわら》つて、富める者には莫迦にお世辭が善いです。 狡いことをして金でも儲けた者があると、あの女は得意になつて家から家に觸れ歩きます。 饗宴《ふるまひ》や酒宴《さかもり》が大好きで、いつもさういふ座席に忙《せは》しないです。 ある所ではあの女のことを女神のやうに言ひはやすので、これを崇拜する者もあります。 あの女には欺僞《さぎ》をする時間があるし、公然定めた場所があるのです。 その欺僞《さぎ》についても自分に善く較らべられる者はないと陽《あから》さまに言つてゐます。 誰でも自分を愛し、自分を重んじてくれる者なら、孫のやうな者とでも一緒に住むことを約束します。 又ある場所とある人々の前には、その財布の黄金《こがね》を塵芥《ちりあくた》のやうに播き散らします。 慕はれたり、善く言はれたり、人の胸に憑《よ》りかゝるのが好きです。 自分の持物を讚めて倦むことを知らず、自分を最も善く思ふ者を愛します。 自分の勸言《すゝめ》に從ふ者があれば、王冠でも王國でも與へることを約束しますが、 しかもその多勢《おほぜい》の人逹を絞首臺に連れて行き、幾千萬人でも地獄に陷いれるのです」 不屈者が言つた。「あゝ、私があの女の言ふ事を拒んだのは何んといふ仕合せでしたらう。 さもなければ何處に連れて行かれたやら」 大勇《だいゆう》。「何處ですと。それは神のほかに知る者はありません。 でも、大概《おほかた》『滅亡と沈淪《ちんりん》に人を溺らす所の愚にして害ある種々《さま〜》の慾』 [テモテ書(1)6:9] に連れて行つたでせう。アブサロムを父に逆《そむ》かせ、又ヤラベアムをその主人に叛《そむ》かせたのもあの女です。 主を賣るやうにユダに勸めたのも、又|聖《きよ》い旅人の生涯を棄てるやういデマスを説き服せたのもあの女です。 あの女がこれまで爲した害惡を言ひ盡すことは出來ません。君臣の間も、親子の間も、 隣り同士の間も、夫婦の間も、われと我が身の間も、肉と靈との間も、 皆な惡くするのはあの女です。だから、不屈者さん。貴君のお名前のやうに、毅然《しつかり》と屈しないで下さい」 この談話《はなし》を聞いて、旅人逹は歡び且つ慄へた。やがて聲を合せて、恁《か》う歌つた。 「旅人の身こそ危うし、     その敵はいかに多きぞ。 罪ある路は多くとも、     生ある者は知りがたし。 溝の幾つは飛び退《の》くも、     尚ほ躓《つま》づかん、泥濘《ぬかるみ》へ、 フライ鍋をば避くるとも、     尚ほ飛び入らん、火の中へ」 それから私が見てゐると、彼等は遂にベラウの地に着いた。茲《こゝ》には夜も晝も日輪が輝やいた。 人々は疲れてゐるので、茲《こゝ》で暫らく憇《やす》むことにした。 この國は旅人の共用地であつた。茲《こゝ》には天國の大君に屬した果樹園《くだものはたけ》や葡萄園《ぶどうはたけ》があつて、 旅人たる者は誰でもそれを取つて喰《くら》ふことを許された。 人々は茲《こゝ》で暫らく休んでゐる中に、鐘が鳴つて、喇叭がいかにも樂しげに響くので、 睡ることが出來なかつた。しかし全たく善く睡つたやうに、いかにも氣が爽快《さはやか》になつた。 茲《こゝ》で又|街道《まち》を歩く者共の話し合ふ聲がした。 「また多勢《おほぜい》旅人が町に着きましたな」と一人が言へば、 「もう河を渡つて、今日|黄金《こがね》の門に入つた者も澤山あります」と他の一人が答へた。 「恰度今輝ける者が澤山町に來られましたから、又旅人逹が到着すると見えますな。 茲《こゝ》に出迎へて、旅人逹の悲哀《かなしみ》を慰めるためでせうから」と言ふ者もあつた。 やがて旅人逹は起ち上つて、あちこちと歩いた。今やその耳は天音に充され、 その眼は天の異象《まぼろし》を見て悦んだ。この地では、聞くもの、見るもの、 感ずるもの、嗅ぐもの、味はふもの、何に一つとしてその胃や心の害にならなかつた。 その越えて行かねばならぬ川の水を味はつて見ると、尠《すこ》し苦味があつたが、 呑み下して見ると、氣持が善かつた。 此處《こゝ》には昔しから旅人であつた人逹の名簿や、その人逹が爲した有名な事蹟の歴史があつた。 又この町の者の談話《はなし》に據《よ》ると、或る人が川を渡る時には、 滿潮になるし、又他の人が渡る時には、干潮《ひきしほ》になるのであつた。 されば渡る人に從がつて、淺瀬になつたり、川岸に溢れたりするのであつた。 此所《こゝ》で町の子供逹は王の花園へ行つて、旅人逹のために花束を集めて來て、 いと親切にこれを持つて來た。茲《こゝ》には又|樟腦《しやうのう》、甘松香《かんしやうかう》、 [口|百]夫藍《さふらん》、省藤《とう》、肉桂、乳香、沒藥、伽羅《きやら》、その他重なる香料を生じた。 そのために旅人逹が茲《こゝ》に滯在せる間の部屋は、いかにも香《かんば》しかつた。 又その香膏《にほひあぶら》を身體《からだ》に塗つて、定められた時に川を渡る準備をした。 さて茲《こゝ》に滯在して、善き時機《をり》を待つてゐる間に、 天の都から、旅人|基督者《くりすちやん》の妻である基督女《くりすちやな》といふものに大切な用向で、 一人の飛脚が來たといふことが町で評判された。尋ね歩いた擧句に基督女《くりすちやな》の居る所の家は見付つた。 飛脚は一通の書面を基督女《くりすちやな》に渡した。その文面には、 「御機嫌麗はしかれ。善き御婦人よ、主はあなたをお召しになりますから、 今より十日の内に、あなたは不滅の衣をまとひなさいまして、主の聖前《みまえ》にお出でなさいませ。 この事を一寸お知らせいたします」と認《したゝ》めてあつた[。] 飛脚の男はこの手紙を讀み聽せてから、自分が眞正《まこと》の使者《つかひ》である確かな記標《しるし》を見せて、 急いで御仕度なさいましと告げた。その記標《しるし》といふのは、その尖《さき》を愛で磨ぎ澄した一本の矢であつた。 で、基督女《くりすちやな》は忽ち心を動かして、定めらてた時に行かねばならぬことを次第に覺悟するに至つた。 基督女《くりすちやな》はその時が來たのと、自分が仲間の内で第一に川を渡るべきことを悟つて、 道案内の大勇者《だいゆうしや》を呼んで、事の由《よし》を告げた。 すると大勇者《だいゆうしや》は心からその報知《しらせ》を歡《よろこ》んで、 自分にもさういふ飛脚が來たら、どんなに嬉しからうと言つた。 基督女《くりすちやな》は萬事旅の用意について指圖を願ひますと言つた。 で、大勇者《だいゆうしや》は、云々《しか〜》なさいまし、と指圖して、 それから一同に川岸まであなたを御見送りしませうと言つた。 それから、基督女《くりすちやな》は子供逹を呼んで、一人々々祝福してから、 彼等の額におかれた記號《しるし》が讀めるのを歡《よろこ》ぶこと、 茲《こゝ》まで一緒に來たのが嬉しいこと、又その衣を皆ないかにも白くしてゐるので心殘りがないこを話した。 遂にその持てる僅かなものを貧しい人逹に置土産にして、 使者《つかひ》の來るのを用意して待つやうに、息子逹と娘逹に告げた。 案内者と子供逹に恁《か》う言つてから、次に眞理剛者《しんりごうしや》を呼んで、 「貴君は何處でも眞心を盡しなさいました。死に至るまで忠信でおありなさいまし。 さうすれば大君は貴君に生命《いのち》の冠を下さいませう [黙示録2:10] 。それからどうぞ子供逹の面倒を見てやつて下さいまし。 若し何時でも弱ることがございましたら、どうぞ慰めてやつて下さい。 息子逹の妻でございます私の娘逹のことにつきましては、皆な今まで忠實でございましたから、 約束されましたことは最後《しまひ》に成就されるでございませう」。 それから基督女《くりすちやな》は不屈者に一つの指環を與へた。 それから基督女《くりすちやな》は正直翁《しやうぢきおう》を呼んで、 「あなたは眞《まこと》のイスラエル人で、心に詭《いつは》りのない方ですのね」 John と言へば、正直翁《しやうぢきおう》もまた、「シオンの山へ御出立の日は好い天氣にしたいものですな。 それからあなたがお渡りになる時に川が靴も濕《ぬら》さぬほどでしたら、 どんなに嬉しいでせう」と言つた。基督女《くりすちやな》はそれに答へた。 「水があつても、なくつても、私は渡りますつもりでございます。 天氣がどうでありましても、彼方《あちら》へ參りさへすれば、幾らでも坐つて休んで乾かす時がございませう」 やがて性《ひと》の善い逡巡者《ためらふもの》が基督女《くりすちやな》の側に來た。 で、基督女《くりすちやな》は彼に向つて、「貴君は茲《こゝ》までお出でなさるに隨分御難儀をなさいましたね。 でもこれからお休みになつて晴々《せい〜》となさいませう。どうぞ御目を醒まして、 御仕度をなさいまし。想ひがけない時、お使者《つかひ》が參りますから」 その後から氣落者《きおちもの》とその娘の多怖女《こゝろづかひ》が入つて來た。 基督女《くりすちやな》はこの親子に向つて、 「あなた方はいつも巨人絶望者と疑惑の城から救はれなすつたことを思ふて感謝なさいまし。 その惠みのために、安らかに茲《こゝ》までお出でなさることが出來たのですから。 どうぞお目を醒まして恐怖《おそれ》を棄てゝ下さいまし。お氣を確かにして、 最後《をはり》まで望みをお持ちなさいまし」 やがて基督女《くりすちやな》は弱心者《こゝろよわ》に向つて、 「あなたは巨人|殺善者《さつぜんしや》の口から救かりなさいましたのね。 これから限りなく生命《いのち》の光に住んで、嬉しくも主に御目にかゝれませう。 唯御忠告いたしますが、主があなたに使者《つかひ》を遣はされます前に、 大君の善を恐れたり、疑がひ易いお心を悔ゆるやうになさいましね。 さうしませんとその弱點《よわみ》のために、 主の御前《みまえ》に立つて赤面なさるやうな事がございませうから」 さて基督女《くりすちやな》の行くべき日になつた。沿道はその出立を見物する人逹で一杯になつた。 また見よ、川の向ふ岸には、都の門まで基督女《くりすちやな》を送るために、 上から下つて來た馬と馬車とが一杯であつた。やがて基督女《くりすちやな》は出かけた。 川の岸まで見送つた人々に告別《わかれ》の言葉を殘して、川へ入つた。 基督女《くりすちやな》が此岸《こちら》で言ひ殘した最後の言葉は、 「主よ、御許《みもと》へ私は參ります。願はくは御名《みな》を崇めさせたまへ」といふのであつた。 その子供逹と友逹は、基督女《くりすちやな》がその出迎へた人々に伴れられてその姿が見えなくなつたので、 そこから立ち歸つた。やがて基督女《くりすちやな》は川を渡つて、都の門へ入つて、 良人《をつと》の基督者《くりすちやん》と同じやうに、有らゆる歡喜《よろこび》の儀式を以つて迎へられた。 母親に行かれてしまつたので、子供逹は泣いた。 けれども大勇者《だいゆうしや》と眞理剛者《しんりごうしや》は調子の佳い[金|友;#1-93-06]《ねうはち》や縱琴を彈いて歡《よろこ》んだ。 やがて人々は銘々その宿に歸つた。 程經て、町に再たび飛脚が來た。今度は逡巡者《ためらふもの》を招くためであつた。 やがて飛脚は彼を尋ねて、「私は貴君が拐杖《かせつえ》をつきながらも、 愛して從がじなされた主の御名《みな》に依つて參つたのでございます。 私は參りました用向は、來る復活祭の翌日に、主はその王國《みくに》で晩餐を共にしたひから、 貴君をお呼び申せとのことでした。ですから、どうぞ旅の仕度をして下さい」。 飛脚は恁《か》う言つて、その眞正《まこと》の使者《つかひ》である記號《しるし》として、 「われ汝の黄金《こがね》の盞《さかづき》を碎き、銀《くろがね》の紐を解たり」 [伝道の書12:6] といふ言葉を述べた。 そこで逡巡者《ためらふもの》は同伴《つれ》の旅人逹を呼び集めて、恁《か》う言つた。 「私の許《もと》に使者《つかひ》が參りました。貴君方にも確に參るでせう」。 さうして眞理剛者《しんりごうしや》にその遺言書を作るやうに頼んだ。 彼が人々に紀念《かたみ》として遺すものは、 拐杖《かせつえ》と他人《ひと》の幸福《さいはひ》を望む心のほか何んにもなかつた。 で、彼は恁《か》う言つた。「此等の拐杖《かせつえ》は私の足跡を踏んで來る若い方に遺します。 その人に私よりも一層《もつと》確《しつか》りやつていたゞくことを切にお願ひいたす心を遺して參ります。 やがて彼は大勇者《だいゆうしや》にこれまでの親切な案内を感謝して、愈《いよ〜》出かけた。 川の水涯《みぎは》に着いた時に、恁《か》う言つた。「もう此等の拐杖《かせつえ》も要らなくなりました。 彼岸《あちら》には馬も馬車も待つてゐますので、それに乘れませうから」。 彼が最後に言ひ殘した言葉は、「歡《よろ》こびて生命《いのち》を迎へん」といふことであつた。 やがて彼は進んで行つた。 その後|弱心者《こゝろよわ》の許《もと》に消息《たより》があつた。飛脚は號筒《らつぱ》を鳴して、 その部屋の入口に音づれた。やがて室《へや》に入つて來て、恁《か》う言つた。 「私が參りましたのは、主が貴君をお召しになりますことをお知らせするためにです。 近い内に、貴君は主の御顏《みかほ》の光輝《かゞやき》を御覽になりませう」 私の僞《いつは》りでない記號《しるし》には、「窓より窺《うか》がふ者は目昏《めくら》む」 [伝道の書12:3] といふ語《ことば》を進上いたします」 そこで弱心者《こゝろよわ》は友逹を呼んで、自分の許《もと》に使者《つかひ》の來たこと、 又その使者《つかひ》の僞《いつは》りならぬ記號《しるし》を受けたことを話した。 それから恁《か》う言つた。「私はどなたにも紀念《かたみ》とするものがありませんので、 遺言書の作りやうがございません。この弱い心は私の參る所には必要がございませんから、 後に殘すことは殘しますが、最も憐れな旅人にでも差上げるほどの値《ねうち》はございません。 ですから、眞理剛者《しんりごうしや》さま、私が去りました後で、どうぞお願ひですから、 塵塚《ちりつか》にでも埋めて下さい」かう言つてから、やがて出立の日が來たので、 前の人のやうに川へ入つた。その最後の語《ことば》は、「信仰と忍耐を保たん」といふのであつた。 さうして彼岸《あちら》へ渡つた。 それから餘程日が經つて、氣落者《きおちもの》が呼ばれた。飛脚は來て、恁《か》ういふ消息《たより》を傳へた。 「貴君でせう、慄へなさる方は。主のお召しですから、次の安息日に主の許《もと》へお出で下さい。 さうして凡ての疑惑《うたがひ》から救はれた歡喜《よろこび》を申し述べなさい」 又|使者《つかひ》は自分の使者《つかひ》が眞正《まこと》である證據《しるし》として、 「蝗《いなご》もその身に重し」 [伝道の書12:5] といふ言葉を與へた。 さて氣落者《きおちもの》の娘である多怖女《こゝろづかひ》はその事を聽いて、 父親と共に行くことを願つた。そこで氣落者《きおちもの》は友逹に向つて、 「私も娘も皆さんの御存知のやうな者でありまして、 これまで皆さまにどれ位ゐ御迷惑をかけたか知れません。 私も娘も申し殘したいことは、私共のやうに力を落したり、 又女々しく怖れたりすることが、私共の立ち去りました後には、 何誰《どなた》にも傳はりませんことゝです。 私が逝《さ》りました後には、どうもそれが他人《ひと》樣の心に入らうとするかも知れませんから。 打明けて申せば、私共が初めて旅人となります時に、さういふ幽靈が私共に附纒ふて、 どうしても振り離すことが出來ませんのでした。その幽靈は彷《さま》よひ歩いて、 旅人に附纒はうとするでありませうが、どうか私共を善い手本として、 戸を閉めてそんな者を入れないやうにして下さい」 やがてこの親子の出立すべき時が來たので、川の水涯《みぎは》に行つた。 氣落者《きおちもの》の最後の言葉は、「いざさらば、夜に暇《いとま》を告げ、 歡びの日をば迎へん」といふのであつた。その娘は歌をうたひながら川を渡つたが、誰にもその言ふ處が解らなかつた。 それから暫らく日が經つて、飛脚が町に來て正直翁《しやうぢきおう》を尋ねた。 その住居《すまゐ》に來て、恁《か》ういふ手紙を渡した。「卿《おんみ》は今日から一週間の内に、 父の家に來たりて、主の御前《みまえ》に立つことを命ぜられました。 私の使者《つかひ》の僞《いつは》りならぬ記標《しるし》は『歌の調《しらべ》の娘等は皆な身を卑《ひく》くす』 [伝道の書12:4] といふ語《ことば》です」 そこで正直翁《しやうぢきおう》は友逹を呼び集めて、恁《か》う言つた。 「私は逝《さ》りますが、別に遺言はいたしません。私の正直につきましては、 私はそれを持參いたしまして、後から來る人にその風評《うはさ》をさせませう」 やがて出立すべき日になつたので、川を渡らうとした。折しも川は水が漲《みなぎ》つて、 所々岸に溢れてゐた。けれども正直翁《しやうぢきおう》はその存生《そんしやう》中にに、 良心者といふ人と茲《こゝ》で遇ふ約束をしておいたので、その人はその約束通り、 正直翁《しやうぢきおう》に手を貸して、川を渡らせた。 正直翁《しやうぢきおう》の最後の語《ことば》は、「恩寵《めぐみ》は支配せり」といふのであつた。 かうして彼は世を逝《さ》つた。 その後|眞理剛者《しんりごうしや》が同じ飛脚に依つて主の召を蒙つたといふ評判が立つた。 その召呼《まねき》が眞正《まこと》である記標《しるし》として、「吊瓶《つるべ》は泉の側にて壞《やぶ》る」 [伝道の書12:6] といふ語《ことば》が與へられた。彼はその覺悟をして、友逹を呼び集めて、その事を話して、 恁《か》う言つた。「私は今わが父の家に參ります。茲《こゝ》に來るまで多くの難儀をいたしました。 彼岸《あちら》にさへ到着すれば、今までの有ゆる艱難は更に悔ゆる所はありません。 私のこの剱は私の後から來る旅人に遺します。この剱を獲る人は、私の勇氣と手練《てなみ》を受くるでありませう。 私のこの傷痕《きづあと》は持參いたして、私がどんな戰をしましたか、報酬《むくひ》の主にお目にかけたいと思ひます」 やがて出立の日になつたので、多勢《おほぜい》の人は川の岸まで見送つた。 彼が川へ入る時に、「死よ、爾《なんぢ》の刺《はり》は何處《いづこ》にあるや」 [コリント書(1)15:55] と言つた。やがて彼が渡つてしまふと、彼岸《かなた》では有らゆる喇叭を鳴らして、彼を迎へた。 やがて不屈者が主の召を受けた。この不屈者は旅人逹が迷魂《まよはし》の地で跪いて祈つてゐる所を見つけたその人である。 飛脚は公然彼にその消息《たより》を傳へた。その趣旨《おもむき》は 「主がいつまでも彼を遠く離しておくのを好みたまはぬので、生命《いのち》の變化に備へなさい」 とのことであつた。それを聞いて、不屈者は考へ込んだ。で、使者《つかひ》は言つた。 「貴君はなにも使命《つかひ》の眞正《まこと》なることを疑がふ必要はありません。 その眞實《まこと》である記標《しるし》には、「轆轤《くるま》は井《ゐど》の傍《かたはら》にて破れたり」 [伝道の書12:6] といふ語《ことば》を進ぜませう」 そこで不屈者は案内者の大勇者《だいゆうしや》を呼んで、恁《か》う言つた。 「私は不幸にも旅路を久しく貴君と連れ立つことが出來ませんでしたが、御知合になつた時から、 種々《いろ〜》御世話になりました。就いては一つお願ひがあります。 私は家を出ます時に、妻と五人の小さい子供を殘して參りました (貴君はまた御主人の家にお歸りになつて、これからも聖《きよ》い旅人逹の道案内をなさるでせうから)、 どうぞ私の家族に人を遣つて、私の身に起りましたことを知らせてやつて下さい。 それから私が幸ひにも茲《こゝ》に到着したことや、 私が唯今祝福の裡《うち》にあることを話してやつて下さい。 又|基督者《くりすちやん》さんとその奧樣の基督女《くりすちやな》さんのことや、 基督女《くりすちやな》さんとその子供逹とが父親の後を慕つて旅に出たことなどを話してやつて下さい。 又|基督女《くりすちやな》さんが遂げなすつた仕合せな最後の事や、 その行く先きのことなども話してやつて下さい。私は家族へ遣るものといつて、 祈祷《いのり》と涙のほか何にもありません。唯貴君がお知らせ下すつて、 私の家族が説得されましたら、それで結構でございます」 不屈者はかやうに事を始末して、出立の時が來たので、川へ入つて行つた。 折しも川波はいとも靜かであつたので、不屈者は川の中途で暫らく立留つて、 見送りの人々に向つて、恁《か》ういふ話をした。 「この川はこれまで多くの人の恐怖《おそれ》でありました。 實は私もそれを想ふて幾度《いくたび》も怖れたのであります。 然るに今私は安らかに立つて居ります。私の足が川の底に堅く立つて居ることは、 イスラエル人がヨルダンを渡つた時に、契約の櫃《はこ》を舁《か》ついでゐた祭司逹の足 [ヨシュア記3:17] のやうであります。この川の水は實際苦味があつて、胃を寒からしめます。 しかし渡りゆく彼岸《かなた》で私が待たれますことを想へば、 私の胸は熱い火のやうに燃えてまゐります。 「私は今や旅路の終りにあります、私の惱みの日は終りました。 私のために荊棘《いばら》の冠を被りたまへる主の頭《かうべ》と、 私のために唾《つばき》せられたその御顏をこれから行つて拜まうと思ひます。 「私は今まで主の噂と信仰に依つて生きて居りましたが、これから彼岸《かなた》へ參れば、 眼《ま》のあたり主を見て生活し、主の御側に居つて樂しむことが出來ませう。 「私はこれまで主のことを聽くのが好きで、主の足跡が地にあるのを見ては、 その跡を踏みたいと望みました。 「主の御名《みな》は私にとりて香箱《にほひはこ》のやうでした。 實に有ゆる香料よりも芳しかつたのであります。 主の御聲は私にとりて最も快かつたのであります。 主の御顏は世の人が日の光を慕ふにもまして、私には慕はしかつたのであります。 又主の御語《ことば》は常食として私を養なひましたし、又疲れて弱つてゐる時の藥にもなりました。 主は私を支へて、私を邪曲《よこしま》より拔け出されました。 實に主は私の歩調《あゆみ》をその路に於て強くなさいました」 彼がかういふ話をしてゐる間に、その顏色が變つて、その氣魄は沈んで行つた。 で、彼は、「御許《みもと》に參ります、私を受けたまへ」と言ひ終つて、その姿が見えなくなつた。 天《あま》つ國では馬や馬車が馳せ違ふし、喇叭を鳴らす者や笛を吹く者があるし、 歌手《うたひて》や樂人が弦《いと》を奏《かな》づるし、いかにも榮光《さかえ》に充ちてゐた。 かやうに旅人逹は歡迎されて、美はしき都の門へ一人々々入つて行つた。 基督女《くりすちやな》の連れ立つた四人の子供とその妻子のことについては、 彼等が彼岸《かなた》へ渡つしまふまで、私はそこに留まつてゐなかつた。 聞く所によると、彼等はまだ其處《そこ》に住んでゐるので、 そのために其處《そこ》では基督者《くりすちやん》の子孫が益々増加するさうである。 私が再たびかの路へ行く折があつたら、茲《こゝ》で書き洩したことを聞きたがる人逹にまたお話し仕ませう。 今は暫らくわが讀者にお別れします。さやうなら。 天路歴程續篇終 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/08/22