ペール・ギュント : 目次 ------------------------------------------------------------------------------- 底本:世界童話大系第十九卷から『ペール・ギュント (Peer Gynt, 1867)』。 著者:イプセン (Henrik Ibsen, 1828-1906)。 譯者:楠山正雄 (1884-1950)。 出版:世界童話大系刊行會。 履歴:大正十四年八月三日印刷,大正十四年八月八日發行,昭和二年九月十五日再版發行。 ------------------------------------------------------------------------------- ペール・ギュント イプセン 作 楠山正雄 譯 ------------------------------------------------------------------------------- 目次 * 人物 * 第一幕 * 第二幕 * 第三幕 * 第四幕 * 第五幕 ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/28 ペール・ギュント : 人物 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- * オーセ 百姓の後家 * ペール・ギュント その息子 * 小麥を袋を背負つた二人の老婆 * アスラック 鍛冶屋 * 婚禮の客。料理番頭。音樂師の群その他 * 旅の百姓の夫婦連れ * ソルウェイクと小さいヘルガ その娘たち * ヘーグスタット莊の百姓 * イングリッド その娘 * 花婿とその兩親 * 三人の山の牧小屋の少女逹 * 緑色の着物の女 * 鬼の老王 * 鬼の式部官 * そのほか大ぜいの鬼たち * 鬼の少年少女たち * 二人の魔女、地の精、小人、すだまその他 * 醜い子供。闇の中の聲。鳥の叫び聲 * カリ 小前百姓の妻 * コッツン氏 * バロン氏 * フォン・エーベルコップ氏及びトルームペーテル・ストローレ氏 * 旅客。どろばう、けいづかひ * アニトラ ベヅーアン族(アラビヤ沙漠の遊牧種族)酋長の娘 * アラビヤ人、奴隸の女、舞踏する女たちその他 * メムノンの記念像〔歌を歌ふ〕 * ギゼーのスフィンクス〔無言〕 * ベグリッフェンフェルト 教授、哲學博士、カイロ瘋癲病院の院長 * フーフー マラバールの海岸から來た言語改革者 * フッセイン 東洋の或國の大臣。 * 國王のミイラを擔ふフェルラー(エジプトの百姓) * その他多勢の瘋癲病院患者とその看護人 * ノルウェー船の船長及びその乘組員 * 外國の船客 * 牧師。會葬者。寺役人。ボタン製造師。痩せ男 十九世紀の初めにはじまり、その六十年代に至つて終るこの戲曲の事件は、 一部はグートブラントの谷間及びその周圍の山中に行はれ、 一部はマロッコの海岸や、サハラの砂漠、カイロの瘋癲病院、海上その他に於て行はれる。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/28 ペール・ギュント : 第一幕 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- オーセの住居の背戸に近く闊葉樹に覆はれた傾斜地。一筋の小川が下へと流れてゐる。 その流の末に古い水車がかゝつてゐる。暑い夏の日の晝。 ペール・ギュント、二十歳、屈強の男子、坂をおりて來る。その母親オーセ、小柄なきやしやな造り、 何か腹を立てゝ小言をいひながら、續いておりて來る。 オーセ 嘘だよ、ペール。 ペール・ギュント〔立ち止まることなしに〕 うゝん、うゝん、嘘なんかつくもんか。 オーセ それなら誓ふか、ほんたうだと。 ペール・ギュント なんだつて誓ふのだ。 オーセ ふん、それ見ろ、誓へまい。てんから嘘にきまつてゐるのだ。 ペール・ギュント〔立ち止まる〕 だつてほんたうだもの——誓へなら誓ふよ。 オーセ〔彼と向ひ合つて〕 全體よくもぬく〜と恥《はづか》しさうにもしないなあ。もうまる一週間もうちをあけてよ。 それも草取でいそがしい眞最中に、ふら〜と遠方まで馴鹿《となかい》狩りに行くといつて出掛けてしまつて、 えいやつと戻つて來たと思ふと、いやもうそぼろな姿で、鐵砲はなくすし、一疋だつて獲物はなし—— あげくにもつて行つて、しら〜゛しい、眞晝間、とはうもない大獵の嘘話で、 おつかさんをだまさうとかゝつてゐる。ぢやあまあ一體どこでそれに出會つたといふのだい。 ペール・ギュント イェンヂンの尾根の左手でよ。 オーセ〔嘲るやうに笑ふ〕 おや、さうかい。 ペール・ギュント ひどい風がどつと尾根の方から吹きつけて來てなあ、どうでも眞一文字に樹の洞《うろ》をぬけて行かなければ、 外に道がなかつたのだ。するとそのうしろにあいつはかくれていやがるのだ。 オーセ〔前のやうに〕 はあてね。 ペール・ギュント そつと耳を立てゝ聞いてゐると、蹄《ひづめ》を堅い萬年雪でごし〜研《と》いでゐる、 ふと氣がつくと角の先が岩や石の破《わ》れ目を透けてちら〜見える。 大石の蔭にかくれてのぞくと、いやはや、どえらい馴鹿《となかい》がゐる—— それは何十年にもこの邊で全く見たことのない、どえらいやつがゐるのだ。 オーセ まさか。 ペール・ギュント ずどんと一發。みごとに當つた。ところで、馴鹿のやつひつくり返らうといふ所を、 すかさず馬乘りに飛び乘つて、左の耳をつかんで、肩胛骨《かひがらぼね》めがけてずぶりと刀を突込んだ。 ——するとどうだ、あいついきなり一聲ううとたけつて、起き上がると、 ぽんと四つ足で飛び上がつて、角だらけの首をぐいとうしろに反らせたものだ。 握つてゐた刀も鞘もはふり出させた上に、おれの體をしつかり腰のところでねぢつけて、 兩足につゝかい棒をこしらへて、まるで火掻きではさむやうにして、 それからはたゞもうまつしぐらにイェンヂンの尾根をどこまでも、嵐のやうな勢で駈け出した。 オーセ〔思はず〕 やれ危い—— ペール・ギュント おつかさん、イェンヂンの尾根を見たことがあるかい。何でも一哩もの間、 鎌の刄位の道幅で續いてゐる。萬年雪の合間んい崖崩れや、雪や小石や砂利がまばらに散らばつてゐる下に、 右を向いても左を見ても、眞黒な水がどすんと默つて口をあいてゐて、 三千五百尺とか、四千百尺とか、深さがあるといふのだ。 そこを矢のやうな早さで、あいつとおれが大嵐の中を飛んで行くんだ。 いやはや、おれはまだこんなひどい馬に乘つたことがなかつたぞ。 まるでお日樣の光に乘つて歩いてゐるやうな、目まぐるしい旅だつた。 尾根と淵との間の、目の眩《くら》むやうな深い谷の中を、 鳶色の脊中をした鷲が舞つてゐたが、見る〜小さな綿毛がとぶやうにふはり〜飛んで行つた。 浮氷《うきごほり》の塊が岸の上でこはれる。けれども音はまるで聞えない、 たゞ目眩《めま》ひの精靈が飛び上がつたり、踊を踊つたり、歌をうたつて、 輪になつてまはつて、耳と目をかすめて行くだけだ。 オーセ〔目まひを感じながら〕 まあ〜。 ペール・ギュント するといきなり、石が一つ崩れたと思ふと、すぐ鼻の前に雷鳥が一羽、びつくり跳ねおきて、 くつ〜と羽ばたきしながら、かくれてゐた岩のわれ目からついと馴鹿《となかい》の足もとに飛び立つた。 馴鹿は面くらつたか、からりと方向がかはつて——空で一つ大きくもんどりうつと、 地獄のどん底へずる〜と落ちて行く。 オーセ〔よろめいて一本の樹の幹につかまる〕 ペール・ギュント〔つゞける〕 上を仰ぐとまつ黒な岩壁のしかめ面が、下をのぞけば底なしの闇が—— まづ、こはれた霧の階段を下りて、それからびつしり固まつてゐる、 かもめの群のおびたゞしい中をぬけると、おどろいてきやあ〜叫びながら飛び散つた—— ずる〜、ずる〜、ずる〜、まつしぐらに下へ下りて行く。 すると深い底がほんのり明るくなつて、馴鹿《となかい》の腹のやうに白く光る。—— おつかさん、それを何だと思ふ、おれたちの影が山の湖水にうつるのだ。 その鏡のやうな水面《おもて》をさして、おれたちは眞一文字に、もんどりうちながら、 矢のやうな速さで落ちて行くのだ。 オーセ〔あへぐ〕 ペール、まあ大へん、それから——。早くお話し。 ペール・ギュント 山の上からも鹿、湖水の底からも鹿——ちやうど一しよにぶつかつた。ざんぶり、ばつちやり、 さあ、泥水の中にはまり込んだ。——いつまでもさうしてはゐられない、 やがてどうやら上がる場所を見つけた。鹿はおよぐ、おれはとり付く——そこでおの通り歸つて來た—— オーセ でも馴鹿《となかい》は—— ペール・ギュント ふん、多分まだはねまはつてゐるだらうよ。——〔指を噛み、くるりと踵を返して言葉をつぐ〕 追つかけて行つてごらん、つかまるから。 オーセ それでお前首を挫《くじ》きはしなかつたかえ。膝を折りはしなかつたかえ。 脊骨は何ともなかつたかえ。あゝ神樣——お有難うございます。 お蔭さまで子供の命が助かりました。——なるほど、ズボンに孔があいたね。 でもその位何でもないさ、どんなことになるかしれないところだつたのだからね。 そんな途方もない藝當をやつたのだもの。〔ふと考へて口をつぐみ、 口をあいて大きく目を見張つたまゝペールをじつと見て、しばらくいふ言葉が出ずにゐる。やがて口を切る〕 まあ、とんでもない大嘘つきめ。いやはや、呆れた、よくもさう出たらめが。 お前がうたつてきかしたその歌は——お前のおとつさんがまだ若い頃、たしかあつた—— あの話だ。グートブラント・グレスネの——さうだ——あの話にちがひない。 なにのお前のことではあるものか—— ペール・ギュント それがおれにもやはりあつたのさ。そんな話はよくあるものだよ。 オーセ〔いぢわるく〕 さうだとも、はじめから嘘話ならよぢくつたり、ひねくつたり、 きれいな飾毛をつゞくり合せたり、やせこけたもとの胴體はあと方も見えないまでにすることもでよう。 お前のやり方はたゆどどれさ、何でも途方もない大げさな話にして、鷲の脊中やら、 そのほかの何やら、氣まぐれな思ひ付きで飾り立て、そこを切つたりかしこをつないだり、 ついうつかりと釣り込まれて、もう百たびも聞かされた話に、しまひまで氣づかせないまでにいおほせたのだ。 ペール・ギュント 誰かそんな下らん話をする奴があれば、おれはそいつを死ぬまでぶちのめしてやる。 オーセ〔泣きながら〕 あゝ、わたしは黒い棺にはいつてしまひたい、ほんたうに神さま、 生れてまゐらなければよろしうございました。祈らうが泣かうが、こいつの根性は直りませぬ。 ペール、お前は墮ちた、救はれないぞ。 ペール・ギュント まあ、おつかさん、お前のいふことは一々もつともなことばかりだ。 だから機嫌をそこねずに、どうかもう一度—— オーセ おだまり。お前のやうな人でなしを息子にもつて、どうして機嫌よくしてゐられよう。 外にたよるものもないしがないやもめの身の上で、それが始終恥かしい目にばかり逢つてゐては、 どんなにか辛いだらではないか。〔また泣く〕御先代の盛りの時分のもので、 今までのこつてゐるものがどれほどあると思ふのだ、 あのラスムス・ギュントさまののこしなすつた金貨入りの袋も今はどこへ行つた。 あゝ〜お前のおとつさんが袋の口をゆるめて——つい砂か何ぞのやうに外國の土地にふりまいて來なすつたのだ。 行く先々で地面を買ひちらして、金塗の馬車をのりまはしなすつたのだ。 あれだけの榮燿も今はどこでどうしたものか、あの評判だつた冬の宴會の時なぞは、 客人といふ客人が壜と杯をもつて、おとうさんのうしろの壁でひしめき合つたものだつた。 ペール・ギュント ふん、去年の雪の話をしても始まらない。 オーセ おだまり、何だね、おつかさんに向つて。この家のざまを見ろ、 一枚おきに窓硝子の穴はぼろきれでふさいである。 柵も垣根もみんなぶつ倒れてゐるし、牛や馬は雨にも風にもさらされたまゝだし、 畑も牧場も草の生へはうだい。毎月々々變つた差押へがやつてくる。—— ペール・ギュント これ〜、もうばあさんめいた愚痴は止めてくれよ。いつだつて運といふ奴は、 どん底に落ちこんでゐるやうな時に限つて、よけい高くとび上がるものなのだ。 オーセ ふん、肝腎、その運の芽ぐむ土地には草も生へまいよ。 さてはて、さういふがお前は希有な子だよ——その頃コペンハーゲンから來なすつた牧師さまが、 お前の名前を聞きなさると、それは小ましやくれた活溌な風で、てきぱきと惡びれずに答へたものだ。 それでこの位の利口な子はおそらく王子さまとしてもはづかしくないといひなすつた。 このうれしい、深切な言葉をいつてくれたお禮には、お前のおとつさんが小馬に橇までつけて、 牧師さまにやりなすつた。——いやはや、どころでそらからあとの結構づくめといつたら。 村の和尚さま、大尉さま、その外の誰かれが、毎日々々やつて來て、 飮むやら食ふやら、それはもうおなかのはち切れるほどつめ込んだものだ。 だが近所はためしてからつきあふものだよ、その「ジョン大盡」さまも袋をかついで、 旅商人《たびあきんど》におちぶれると、その日から、ぱつたりと人音が絶えてしまつたぢやないか。 さてはて、お前ももうとつぱな男ではないか。 年をとつていくぢのない母親の杖とも柱ともなつてくれなければならないのだよ—— 畑はせつせと作つてもらひたいし、のこつた家畜共の世話もやいてもらひたい、—— 〔また泣く〕あゝもうこの碌でなしは、一向このおかあさんのたそくになつてはくれないで、 暇と金を使ひつぶしてばかりゐるのだ。うちにゐれば、爐ばたにのそ〜して、 石炭や薪をいぢるばかりだし、さもなければよその舞踏場へはいり込んで娘たちを追ひまはしたり、 ——どこへ行つてもきまりのわるい情ないことばかりで、中でも一ばんたちの惡い連中を相手に喧嘩はするし—— ペール・ギュント〔離れて行かうとする〕 行かしておくれ。 オーセ〔跡を追ひながら〕 現にこの間ルンデに大喧嘩があつて、 みんな氣ちがひ犬のやうに掴み合つたり引つかき合つたりちた時もお前は居合せてゐたではないか。 その時お前の相手になつた、あの鍛冶屋のアスラックの腰の番《つが》ひをはづしたとか—— それまででなくとも指の節《ふし》をどうかしたといふのではないか。 ペール・ギュント とんでもない大嘘だ。 オーセ〔あつくなつて〕 小前百姓のカリが叫び聲を聞いたといふぞ。 ペール・ギュント〔肘をこすりながら〕 うん、だがそれはおれの聲だよ。 オーセ ——お前だと。 ペール・ギュント だつておれは——やられたんだ。 オーセ 何だつて—— ペール・ギュント あいつが撲つたんだよ。 オーセ 誰が—— ペール・ギュント 誰がつて、アスラックがさ。 オーセ ぷい、ぷい、ほんとにぷいだ。えゝ、つばをひつかけてやりたい。 あんな碌でなしのならずものが、あんな下司野郎の嘘つきがお前に手を上げたとえ。 〔また泣きながら〕まだその上にそんな事が。もうわたしはこれまでに目の中の涙を泣き出してしまつたのに、 まあその上に、そんなことがあつたら、それこそもう冗談ではすまされない。 さあきかう、あいつはお前を打つたのだね。お前もみごと打ち返してはやらなかつたのだね。 ペール・ギュント するとおいらは、鐡砧《かなしき》にされても、槌の方にまはつても、 どの道泣かれるのかい。〔笑ふ〕泣くものではないよ、おつかさん—— オーセ お前、こんどもまた嘘をついたのかえ。 ペール・ギュント こんどだけはな、うん〜。まあいゝ子だから涙をお拭きよ——〔左の手をまるめて〕 ごらん——この鐡火箸《かなひばし》でおれはあいつを、あの鍛冶屋の體ごと摘み上げてな ——〔右の手をまるめて〕これを槌にして打ちのめしてやつたよ。 オーセ もうお前は何といふ亂暴者だらう。わたしやお墓に入るまで氣の休まるひまはないだらうよ。 ペール・ギュント うん、そんなことはない、もつといゝ運を授かつてゐる筈だよ、 それは何千倍もいゝ運がこの小さなきたない可哀いおつかさんにね。 まあおれに便つておとなしく待つておいでよ。今に村中がおつかさんにちやほやしてくるやうになる。 おれがえらくなるまで待つておいで。それはほんたうにえらくなるんだから、馬鹿にしない方がいい。 オーセ〔嘲るやうに〕 ふん、お前が。 ペール・ギュント 人はどうなるか分かるものか。 オーセ まあお前もこれだけは覺えてゐるがいゝよ。いつか自分で自分のズボンの穴を繕はなくてはならにのだといふことをね。 ペール・ギュント〔あつくなつて〕 王さまにおれはなるのだ。 オーセ もういよ〜氣違が本物になる。どうしたらいゝだらう。 ペール・ギュント まあ、しばらく見ておいで——おれはきつとなる。 オーセ しばらく待つておいで、王子になる。昔からそんなことをいふやうだよ。 ペール・ギュント 見てゐるがいゝや。 オーセ もうおだまり。まるでどうかしてゐるよ——だがまあ息子さん、 わたしたちも始終冗談やでたらめを口癖にいふ中には、どうした事になるまいものでもないさ。 ヘーグスタットの娘なんかお前に思召しがあつたぢやないか。 ついお前がその氣で申込めばわけなしに手に入つたかも知れなかつた—— ペール・ギュント さうかなあ。 オーセ おやぢさんは氣の弱いぢいさんで、娘の氣に逆はうとはしない。なるほどあのぢいさんも頑固な一徹者ではあるけれど、 イングリッドも負けてはゐないからね。そこであの子の行きたい方へ一足でも二足でも曵き摺られて、 つまりはぶう〜いふながらついて行くやうになるのだ。〔また泣きはじめる〕 あゝ、お前、ペールや、せつかくの立派な娘をなあ——古い地主の家柄ではあるし。 お前にもう少し氣の利いたところがあれば、今頃は立派な婿さんでゐられるのに—— そんな破れ靴をひきづつてゐないでも。 ペール・ギュント〔そゝくさと〕 やあ、それではすぐ行つて承知さして來よう。 オーセ どこへさ。 ペール・ギュント ヘーグスタットへ。 オーセ まあとんでもない、もうお前が申し込む席なぞはありはしないよ。 ペール・ギュント それはなぜさ。 オーセ 情ないことに、その運は人に取られてしまつたよ。 ペール・ギュント 何だつて。 オーセ〔すゝり泣きながら〕 それはお前が空の中でひとり勝手に馴鹿《となかい》をのりまはしてゐた間に、 マース・モーエンがみんな浚《さら》つて持つて行つた。 ペール・ギュント 何だと、あの女嫌ひが。まさか—— オーセ うん、ところがあの男を御亭主にしたのだ。 ペール・ギュント 待つておいで、白に鞍を置いて來るから。〔行かうとする〕 オーセ そんな馬鹿なことをいふのはおよし。婚禮はもうあしたあるのだから—— ペール・ギュント ぢやあ今夜ならまだおそくはない。 オーセ とんでもない。そんなことをして、この上笑はれものにならうといふのかい。 ペール・ギュント 馬鹿な。うまくやつて見せるから。〔叫び聲と笑ひ聲〕それ來た、出かけよう。 よぼくれた馬はおいて行かう。あいつに乘つて行くのでは閑《ひま》がかゝるなかりだ。〔母を高く抱き上げる〕 オーセ お放しつたら。 ペール・ギュント いんにや、かうやつて抱いたまゝ嫁さんのうちに擔《かつ》ぎこむのだ。〔小川の中にざぶ〜入つて行く〕 オーセ 助けてくれ。大へんだ。大へんだ。沈む。沈む。—— ペール・ギュント 大丈夫。この位なことで死ぬやうな安い體ぢやないよ。 オーセ さうだとも。惡魔は首つり臺に連れて行くつもりでゐるだらう。 〔ペールの髮の毛をひきむしる〕このけだものめ。 ペール・ギュント これ靜かにおしよ。こゝは下が辷るからな。 オーセ 畜生、馬鹿。 ペール・ギュント まつたくその通り。だからよけいな舌を動かさないがいゝ。 男はそんなこと位笑つて通してやる。そら一ばん危いところへ來たぞ—— オーセ しつかり押へてゐておくれよ。 ペール・ギュント そら、こい。さあペールが馴鹿の背中に首尾よく乘つたところでござい—— 〔兩足をあげて刎ねる〕おれが馴鹿《となかい》でお前がペールだよ。 オーセ あゝ、わたしどうしたらいゝんだらう。 ペール・ギュント そらぐづ〜いふ中に渡つてしまつた。〔陸にあがる〕 さあそこで馴鹿に一つでかいキスを渡し賃代りにしてもらはうぢやないか。 オーセ〔耳打ちをくはせる〕 そら、これが渡し賃だ。 ペール・ギュント おゝ痛い。どうも奧さん、けちですね。 オーセ おろしておくれ—— ペール・ギュント まづ嫁さんのうちの前へ行つたらおろしてやる。 あの頑固親爺のところへ出かけて、あいつの惡口をいつてもらひたい。 マース・モーエンは馬鹿でござると—— オーセ おろしておくれつてば。 ペール・ギュント これからその跡で、お前のペールがどんなに立派な若者だといふことを話してもらふのだ。 オーセ うん、よし〜、それはきつとしてやるとも。あらひざらひぶちまけてやる。 横からも縱からもお前のありやうをみんなの前でさらけ出して見せてやる—— ペール・ギュント 何だと。 オーセ〔背中の上でぢだんだを踏みながら〕 それは百姓たちがおしまひに、まるで溢れものを追ふやうに、 お前に犬をけしかけて追ひたてるまで、わたしは口を閉ぢないつもりだ。 ペール・ギュント ふん、それではおれは一人で行かう。 オーセ あゝ、さうするがいゝ、だがわたしも二本の足があるからな。 ペール・ギュント だが行くだけの力があるものか—— オーセ 何、無いと、わたしは隨分亂暴だぞ——石位叩き割る、石位。火打石位噛みくだいてやるぞ。 放しておくれ。 ペール・ギュント ぢやあ約束すれば—— オーセ いやだ。わたしはお前より先へ行つて、お前がどんな人間だかみんなに知らせてやるのだ。 ペール・ギュント まあ考へて見ておくれよ。 オーセ 犬をけしかけさせてやるのだ—— ペール・ギュント そんなことはさせるものか。 オーセ これ何をしようといふのだ。 ペール・ギュント 水車場の屋根ののせておくのだ〔屋根の上にのせる。オーセ叫ぶ〕 オーセ おろしてくれ。 ペール・ギュント いふことを聞くか。 オーセ 何くそ。 ペール・ギュント おつかさん、後生だから—— オーセ〔涙のまゝ草をむしつて投げつける〕 やいペール、早くおろさないか。 ペール・ギュント 自業自得だ。〔傍に寄つて〕まあおとなしくじつとしておいでよ。 足でどたばたやるのではない。石に足をつつかれたりすると危い。轉げ落ちるばかりだ。 オーセ 馬鹿。 ペール・ギュント そんな風にじたばたするものではない。 オーセ 貴樣、鬼の取り換へ子のやうに消えてなくなるがいゝや。 ペール・ギュント これさ。 オーセ 畜生。 ペール・ギュント お前却つて、おれのもくろみを喜んでくれてもよささうなものぢやないか。 いやかい。どうだね。 オーセ おいらはお前をぶつて〜ぶちのめしてやりたい。 ペール・ギュント ぢやあさやうなら。ぢやあ御機嫌よう、ぢき歸つて來るよ。 まあおとなしく、日向ぼつこをしてゐるがいゝ。 〔出て行く。しかしもう一度振返つて、戒めるやうに指を上げていふ〕 ぢやあいゝかい、暴れては駄目だぞ。〔出て行く〕 オーセ ペールよう——やれ〜、駈けて行つてしまつた。馴鹿《となかい》乘の大將め。 嘘つきの王子め。聞えないか——あゝもう駄目だ。とつとと駈けぬけて行つてしまつた—— 〔叫び立てる〕助けてくれ、目がまはりさうだ。 袋を背負つた二人の老婆、水車場の方へ向つて通りかゝる。 第一の老婆 やれ〜、誰だどなつてゐるのだ。 オーセ わたしだよ、わたしだよ。 第二の老婆 オーセかい。ごらん、やれ〜——まあ大層な高上りだね。 オーセ ふん。このくらゐでは大して下界も見えないのさ。 いづれその中、天國までも引き上げてもらへようといふものだ。 第一の老婆 無事に行つておいでなさい。 オーセ 梯子を持つて來ておくれよ。おりるのだから。あのペールめが—— 第二の老婆 息子さんが、どうしたね。 オーセ まあ、お前さんたちも、わたしがどんなめに逢つたかみんなに話していくれ。 第一の老婆 いゝともね。 オーセ 何しろこゝからおろしておくれ。わたしはヘーグスタットまで行かなくてはならない。 第二の老婆 あの人が行つてをるのかい。 第一の老婆 ぢやあお前さんたち笑ひ者にされるよ。なぜといつてあすこにはあの鍛冶屋が待伏せしてゐるだらうから。 オーセ〔兩手をしぼる〕 やれ〜情ない。どうしませう。あいつらがあの子の命をとるかも知れない。 第二の老婆 あゝ死神は長い脛《すね》をしてゐるからね。とつつかれたが最後逃げたつて助かりはしないよ。 第二の老婆〔山の方に聲をかける〕 エイヴェンドよ、アンデルスよ。來てくれ。 第一の男の聲 どうかしたのかい。 第二の老婆 ペール・ギュントがおふくろを水車場の屋根にのせて行つたのだよ。 灌木と雜草に覆はれた小丘。うしろは垣一つを隔てて往來。 ペール・ギュント歩道を上つて來て、そゝくさと垣の所までのぼり、 立ち止まつて見はらしの上からそこらを眺める。 ペール・ギュント あすこがヘーグスタットだ。もうすぐ行かれるぞ。〔片足垣の上にかけてまた考へる〕 イングリッドが家に一人でゐてくれるといゝが、どうだらうな。〔目を細くして遠方を眺める〕 いけない。大ぜいお客がうぢや〜來てゐる——ふん、やはり引つ返す方が利口かな。 〔足をまたひつこめる〕それにしても貴族の後姿を見て、奴らが針を刺すやうなことをいふだらうぞ—— それは冷つこい、きつくこたへるやつを。〔二足三足垣から離れて、放心したやうに樹の葉をむしる〕 誰か強い興奮劑でもくれるものはないかしら。さもなければ人に見つからないやうにすると入つて行く工夫はないかしら ——誰も知らない人間に見えるといゝのだが——とにかくほんたうに強い人間になるのが一ばんいゝのだ—— それはいくら嘲けられてもこたへないまでにいゝのだ。〔ふと物に驚いたやうにそこらを見まはし、 やがて草籔の中にかくれる。二三人晴着を着た男女が婚禮の式場に向つて前をとほりすぎる〕 一人の男〔話しながら〕 あいつの親爺は飮みぬけだつたよ。あいつのおふくろはそれを苦にやんでゐた。 一人の女 それだからあの息子があのとほり碌でなしになのも無理はないさねえ。 男女はとほりすぎて行く。間もなくペール・ギュントが這ひ出して來て、耻ぢて赤くなつた顏でらを見送る。 ペール・ギュント〔小聲で〕 何をおれの惡口をいつてゐたのだらう。〔無理に肩をそびやかして〕いやはや勝手にいはせておけ。 まさか惡口で首がちぎれる氣遣もないだらう。〔雜草の中に横になり、仰向けに長々と寢て、 兩手を頭にかつて空を眺める〕竒妙な雲だなあ、まるで馬のやうだ。それに人間が一人乘つてゐる—— 鞍もおいてある。手綱もある。それからそのあとに魔女が箒の柄に乘つてついて行く 〔一人小聲で笑ふ〕あれはおふくろが泣きわめいてゐるのだ。ペールめ、畜生めといつて—— 〔だんだん目を閉ぢる〕あゝおふくろめ、こんどはおどかされた——。 ペール・ギュントが先に立つて馬で行く、大勢があとにつゞく—— そののつた馬は金で飾つて銀の冠をかぶつてゐる。自分は籠手《こて》をつけ、 劍に鞘をはいてゐる。外套は長く裾をひいて、絹の筋をぬひ出してゐる。 勇氣凛々たる一隊があとから馬でついて行く。しかし一人として、 彼れほど立派にのりこなすものはない。日の光の中で彼ほど光りかゞやくものはない。 垣の所には大勢かたまつて立つたまゝ、帽子をひりかざし、口を開いて仰ぎ見てゐる。 女たちは敬禮をしてゐる。世間一統彼を知らぬものはない。 ペール・ギュント皇帝とそのおびたゞしい家來たちを知らぬものはないのだ。 五十錢銀貨ときら〜する一圓金貨を、小砂利のやうに路ばたにまいて通る。 教區内の民は一人のこらず殿樣のやうにゆたかになる。はるか大洋の上をペール・ギュントは乘り越えて行く。 天使の國の王子は海べに立つて待ちむかへる。天使の國の少女たちはのこらずそばに仕へる。 天使の國の皇帝も、天使の國の貴族たちも、今、馬上ゆたかに打たせてくる彼の姿を見ると、 あわてゝ宴席から立ち上がる。王冠をぬいで皇帝の申上げる挨拶の言葉をきけ—— 鍛冶屋〔往來をとほるほかの若者に向つて〕 おい見ろよ、ペール・ギュントを。のんだくれの豚を—— ペール・ギュント〔墓地の上で半分起き上がつて〕 さて、皇帝の—— 鍛冶屋〔垣に寄りかゝつて齒をむき出して笑ふ〕 おい起きないか。うん。 ペール・ギュント 何だきさま。鍛冶屋だな。何しに來た。 鍛冶屋〔ほかの者に〕 こいつはまだリュンデの踊が骨にからんでゐる。 ペール・ギュント〔立ち上がる〕 鍛冶屋め、出て行くがいゝぞ。 鍛冶屋 うん、行くとも、行くとも。だが野郎、この六週間ばかりどこにゐた。 山の魔女に浚《さら》はれてゐたか。それとも何かしてゐたか。 ペール・ギュント おい鍛冶屋、おれはじつに稀代の晴業《はれわざ》をして來たのだぞ。 鍛冶屋〔ほかのものに目くばせする〕 聞かしてくれ、ペール。 ペール・ギュント お前たちには聞かしたつてつまらないよ。 鍛冶屋〔しばらく間をおいて〕 ヘーグスタットへ行くつもりだらう。 ペール・ギュント うゝん。 鍛冶屋 一頃はあすこの娘が貴樣をすいてゐたといふ噂ぢやないか。 ペール・ギュント やい、だまらないか、馬鹿—— 鍛冶屋〔少しあとしざりする〕 まあ、ペール、さうおこるなよ。イングリッドに振られても—— いくらも世間に女はあるさ。かりにもジョン・ギュントの息子だ。なあ。 まあ宴會へおし出せ。新造でも年増でもよりどりだ—— ペール・ギュント くそ、畜生—— 鍛冶屋 きつと一人位見つかるだらうよ——さやうなら。花嫁さんによろしくいつてやらう—— 皆々笑ひ聲と囁き聲の中に出て行く。 ペール・ギュント〔しばらく見送つて、脅すやうな身振、やがて半分向き變る〕 おれにすれば、ヘーグスタットの娘が、どこの誰とどうしようと構つたことはない。 それがおれに何だ。〔自分の姿を見まはす〕ズボンが破れてゐる。 ぼろ〜な、よごれくさつたなりをしてゐる——新しいのと着換へて來ればよかつたなあ。 〔どん〜と地びたをふむ〕肉切庖丁でさくやうに、あいつらの胸から侮辱を抉《えぐ》りとつてやりたい。 〔ふとあたりを見まはす〕あれは何だ。口笛のやうぢやないか。 誰か人がそこで笑ひをかみころしてゐるやうでもある。うちへ、おふくろのところへ歸らう。 〔行きかける。しかしまら立ち止まつて、下の婚禮式場の方に向つて耳をすます〕踊がはじまつたな。 〔じつと目をすゑて耳を立てる。一足一足前の方へ出て行く。目は輝く。兩方の脛を手でこする〕 娘たちがうぢや〜ゐる。一人の男に七人も八人もかゝつてゐる。 あゝ、たまらないなあ——とても行かずにはゐられない——だがおふくろさへ、 水車場の屋根ののせて來なかつたらいゝのだが。〔彼の目はまた下の方に注ぐ。ちよいと飛ぶやうにしながら笑ふ〕 よう〜、ハリング踊をやつてゐるわ。うん〜グットムルがヴァイオリンをうまくひいてゐるぞ。 岩の上を瀧がどう〜とたぎり落ちるやうだ。それからまあ、あの着飾つた娘逹の夥《おびたゞ》しい群はどうだ。 ——畜生、どうでもなれ、もうとてもがまんがならなくなつた。 垣を飛び越えて往來へ下りる。 ヘーグスタット莊の婚禮式場。後景に母家。來客大ぜい。 草原の上では盛んに活溌な舞踏がはじまつてゐる。音樂師が卓の上に腰をかけてゐる。 料理番 頭《がしら》が扉口に立つてゐる。料理番の女が建物の間をあちこちと駈け歩いてゐる。 年をとつた人たちはそここゝに腰をかけて話をしてゐる。 一人の女〔丸太の上に腰をかけてゐる一群の中に席を占める〕 お嫁さんですか。えゝ、どうも少し泣いてゐるんですよ。なあに何でもないんですよ。 どこでも花嫁さんはそんなものです。 料理番頭〔ほかの群の中で〕 さあ皆さん、たんと召し上がつて下さい。 一人の男 いや、有難う。だがさう矢繼ばやにつがれてはたまらない。 一人の若者〔一人の娘の手をとつて前をとほりすぎながらヴァイオリンひきに〕 やれ〜、グットルム、絃《いと》の切れるまでやれ。 娘 牧場《まきば》の向ふまで聞える位すばらしくやつて下さいよ。 娘たち〔踊つてゐる一人の若者のまはりに輪をつくりながら〕 まあよく、跳ぶわねえ。 一人の娘 あの人 脛《すね》に羽が生えてゐるやうだわ。 若者〔踊りながら〕 野天なら屋根は高し、壁は遠いからな。 婿〔二三人ほかの人と立話をしてゐる父親に、小聲で話しかけながら、近づいて上着をひつぱる〕 おとツつあん、あの人が厭《いや》だといふのだよ。それはいばつてゐるのだよ。 父 なに、嫁が來ないと。 婿 自分で扉《と》をしめてはいつてしまつたのだ。 父 ぢやあ鍵を探すがいゝ。ぼんやりしてゐる奴があるか。 婿 どこにあるか知れないもの。 父 馬鹿だなあ、貴樣は〔またほかの人の方を向いてしまふ〕 婿〔庭の上をうろ〜する〕 一人の若者〔家の後から出て來る〕 娘さんたち萬歳だ。だん〜面白くなるよ。ペール・ギュントがやつて來た。 鍛冶屋〔今し方入つて來て〕 誰があいつを呼んだのだ。 料理番頭 誰も呼ばないよ。〔母家の方へ出て行く〕 鍛冶屋〔娘たちに〕 あいつが何かいひかけてもかまはないがいゝよ。 一人の娘〔ほかの娘たちに〕 わたし知らん顏をしてゐませうね。 ペール・ギュント〔のぼせて元氣よく入つて來る、人々の群の前に立止まつて兩手をうつ〕 お前さんたちの中で誰が一ばんの踊り手だね。 一人の娘〔ペールが傍へ來ると〕 わたしではないわ。 もう一人の娘〔同じやうに〕 わたしでもないわ。 第三の娘 わたし。どうしまして。 ペール・ギュント〔第四の娘に〕 ぢやあもつとうまい人の出て來るまでお前お出でよ。 その娘〔くるりと背を向ける〕 そんな閑はないわ。 ペール・ギュント〔第五の娘に〕 ふん、ぢやあ君だ。 その娘〔行きかける風をして〕 家の方に用があるのよ。 ペール・ギュント 今夜はどうしたのだ。お前たちみんなどうかしてゐるぜ。 鍛冶屋〔すぐそのあとでペールに向ひ小聲で〕 あの連中はぢいさんたちと組むのだよ。 ペール・ギュント〔慌てゝ一人の年寄に向ひ〕 それではもうあいてゐる人はないのですか。 その人 探してごらん。〔くるりと向ふを向いてしまふ〕 ペール・ギュントそれなりだまつてしまふ。ぼんやりきまり惡さうに人々を見る。 みんなも彼の顏を見るが、誰も物をいふものはない。ほかの群に近づく。 どこへ行つても皆だまつてゐる。彼がそこから離れると、みんなはくす〜笑つてあとを見送る。 ペール・ギュント〔一人ごと〕 人を嘲る目附だ。針のやうに鋭い囁き聲と笑顏。鋸の刄をやすりでこするやうにきい〜やつてゐる。 垣根の方にすご〜退く。ソルウェイクが小さいヘルガの手を引いて、兩親と一緒に庭に出て來る。 一人の男〔ペール・ギュントのすぐ傍にゐる一人の男に向つて〕 もし、見なれない顏ですね。 もう一人の男 西の方から來た連中ですか。 最初の人 さやう、ヘダルから來たのです。 もう一人の男 成程、はゝあ。 ペール・ギュント〔今來た人たちを出迎へ、ソルウェイクを指さして父親にたづねる〕 あなたの娘さんと踊らせて頂けませんか。 その人〔おだやかな聲で〕 よろいうございますとも。でも、こちらの御主人に御挨拶をしてまゐりませう。 彼らは家の中に入る。 料理番頭〔酒を勸めながらペール・ギュントに〕 お前さんもせつかく來たものだから一ぱいやつたらどうです。 ペール・ギュント〔夢中で今行つた人たちのうしろを見送りながら〕 いや、わたしは踊りたいのだ。お酒は澤山です。〔料理番頭出て行く。ペール・ギュント家の方を見て笑ふ〕 どうもきれいな娘さんだな。あんなきれいな娘があるかしら。 じつと靴の先とまつ白な前掛を見つめた樣子はどうだ。 おつかさんの着物のひだをいぢつてゐる樣子はどうだ。 ハンケチに包んで讚美歌の本を持つてゐたな。あの娘を見て來なくてはならない。〔うちの中に入らうとする〕 一人の若者〔ほかの大ぜいとうちの中から出て來る〕 ペール、もう踊はやめて行くのかい。 ペール・ギュント いゝや。 若者 ぢやあにげて行つちやいけないよ。〔肩をつかんで向き返らせようとする〕 ペール・ギュント 行かせてくれ給へ。 若者 お前、鍛冶屋をこはがつてゐるのか。 ペール・ギュント こはがつてゐると。 若者 またリュンデの二の舞をやるといけないからな。 若者たち笑つて舞踏場の方へ行く。 ソルウェイク〔扉口で〕 わたしと踊らうとおつしやつたのはあなたではありませんか。 ペール・ギュント えゝ〜、わたしですとも。あなたはもうお忘れになりましたか。〔娘の手を取る〕さあいらつしやい。 ソルウェイク でもおかあさんが、あまりいつまでもしてゐてはいけないとおつしやつたわ。 ペール・ギュント おかあさん、おかあさんて、あなたは去年生れた赤さんですか。 ソルウェイク お笑ひになつてはいやよ—— ペール・ギュント あなたはもう一人前になりましたか。 ソルウェイク この五月に堅信禮を受けました。 ペール・ギュント ぢやあお名前は何といひます——お互に名を知らなくてはね。 ソルウェイク ソルウェイクと申しますの——そしてあなたは何とおつしやるの。 ペール・ギュント ペール・ギュント。 ソルウェイク〔手をひつこめる〕 あら。 ペール・ギュント どうしたのです—— ソルウェイク 靴下の紐がこんなに堅くなつてしまひましたわ。〔離れて出て行く〕 婿〔母親の着物をひつぱりながら〕 おつかさん、あの人厭だつて—— 母 いやだつて、何が。 婿 あの人厭だつてさ。 母 何がさ、一體。 婿 錠をあけておくれよ。 父〔疳癪を起して小聲に〕 貴樣のやうな奴は廏《うまや》につながれて草でも食つてゐろ。 母 ぢきいゝやうになりますよ。まあしばらくそつとして、そつとして。〔彼女は奧の方へ行く〕 一人の若者〔踊仲間を殘らずつれて舞踏場から出て來る〕 ペール、ブランデーを一ぱいやらないか。 ペール・ギュント いゝや。 若者 一滴もいけないか。 ペール・ギュント〔暗い顏をして若者を見る〕 何かあるのかい。 若者 このとほり少しばかり用意してゐる。〔瓶を一本出して飮む〕 あゝ、どうも刺すやうだ——どうだい。 ペール・ギュント ぢやあもらはうか。〔飮む〕 もう一人の若者 ぢやあこんどは僕のを一口舐めてもらはうか。 ペール・ギュント いや、いけない。 同じ若者 こら馬鹿なことをいふものぢやない。まあ飮めよ、ペール。 ペール・ギュント ぢやあ一雫だよ。〔また飮む〕 一人の娘〔小聲で〕 さあ、行きませうよ。 ペール・ギュント お前さん、わたしがこはいのかい。 第三の若者 それはお前をこはがらないものはないさ。 第三の若者[注:第四の若者の誤りか?] リュンデではついこの頃君の竒術を拜見したよ。 ペール・ギュント いよ〜となれば、もつと面白いことをして見せるよ。 第一の若者〔囁く〕 そら、奴さん、調子にのり出した。 ほかの若者〔ペールのまはりに輪をこしらへて〕 いつてごらん、いつてごらん、何が出來るかな。 ペール・ギュント あした—— ほかの若者逹 いや、けふだぞ、ペール。 一人の娘 あんた、魔法が使へて。 ペール・ギュント それは使へなくつてさ。惡魔でも呼び出すのだ。 一人の男 おれのおばあさんは何でもおれの生れない前にそんなことをやつたといふ話だ。 ペール・ギュント 嘘をいふな、おれだけしか出來る筈がないものがどうして出來よう。 おれは一度惡魔を胡桃《くるみ》の中へ取りこめたことがあつた—— それは一ぱい蛆のわいてゐる胡桃だつた。全くよ。 五六人の男〔笑ひながら〕 成程、さうだらうとも。 ペール・ギュント 惡魔め罵つたり、わめいたり、しまひには何でもほしいものをくれようといつた—— 一人の男 それでもやはり入れられたんだな。 ペール・ギュント 當り前さ。それからおれは穴を塞いでやつた。へえツ。あいつが中でぶん〜ごと〜いふ音を聞かせたかつた。 一人の娘 まあ、そんなことが。 ペール・ギュント それはまるで熊蜂が中で唸つてゐるやうだつた。 一人の娘 まだ中に入つてゐるの。 ペール・ギュント うゝん、うゝん、もうとうに飛び出してしまつた。あの鍛冶屋がおれに仇《あだ》をするのもあいつのせいなのだ。 若者 さうかなあ。 ペール・ギュント おれは鍛冶屋のところへ出かけて行つて、この胡桃《くるみ》の實をわつてくれといつたのだ。 よし、わつてやるとアスラックがいつて、鐡砧《かなしき》の上に置いたはいゝが、 あいつ、あのとほり不噐用な奴で、——何をするにも例の大槌をふりまはすものだから—— 群集の中からの聲 惡魔を打ち殺したか。 ペール・ギュント あいつは人間を扱ふつもりで打ち下した。だが惡魔は焔のやうにひら〜と屋根からぬけ出して、壁を突き破つた。 五六人 そして鍛冶屋は—— ペール・ギュント あいつ、そのまゝ兩手を焦がして立つてゐた。それからといふもの、 おれたちの仲がおしまひになつたのさ。 皆々笑ふ。 一二人 まんざらまづくもない。 もう一人 どうしてあいつの作り話の傑作さ。 ペール・ギュント 君たちはおれが作りごとをいつてゐると思ふのか。 一人の男 お前が作つたと。いやはや、どう致して。おれたちは大昔からその話は大抵聞いて知つてゐる。 ペール・ギュント 嘘をいへ。これはおれの實驗だ。 その男 ほかのことゝ同樣にな。 ペール・ギュント 誰だつて鐙《あぶみ》をはなさずに空へのぼつて行けるか。おれは出來るぞ。 もつとほかのことでも出來る。それをさうでないといふものがあるか。 どツといふ笑ひ聲。 群集の中の一人 ペール、空をのぼつて見せろよ。 大ぜい さうだ、ペール、まあ先へやつて見せるがいい。 ペール・ギュント うん、うるさく責めたりなんかして、後悔しないがいゝぞ。 おれはお前たちの頭の上で嵐のやうに駈けまはつてやる。 村中殘らずおれの足の下に這ひつくばつてしまふだらう。 老人 あいつ、いよ〜氣が違つたか。 ほかの男 馬鹿さ。 第三の男 法螺吹きよ。 第四の男 嘘つきさ。 ペール・ギュント〔彼らをおどすやうに〕 さうよ、まあおとなしく待つてゐろ。 一人の男〔半分醉つてゐる〕 うん、待つてゐろ貴樣、ぢきに襟首をねぢり上げてくれるから。 五六人 それから貴樣の體の皮をなめして、目の玉を青く染めてくれるから。 群集散り〜になる。老人たちはぷん〜おこつてゐる。若者たちは馬鹿にして笑つてゐる。 婿〔ペールの傍のつか〜と進みながら〕 ペール、お前さんは空の上を馬に乘つて上がるといふがほんたうかね。 ペール・ギュント〔短く〕 うん、ほんたうよ。望みならガロップでも何でもして見せる。 婿 それから姿の見えなくなる上着はどうだね。 ペール・ギュント それは笠のことだらう——うん、それなら持つてゐるさ。 彼から離れて向ふへ行く。ソルウェイク、ヘルガの手をひいて庭をとほりぬける。 ペール・ギュント〔彼らを出迎へる。目が輝いてゐる〕 あゝ、ソルウェイクさん。あゝ、ほんたうによく來てくれました。〔腕首をつかむ〕 おかあさんのお許しが出たのだから、さあ踊りませう。 ソルウェイク 放して下さい。 ペール・ギュント なぜさ。 ソルウェイク あなた、隨分亂暴ね。 ペール・ギュント 馴鹿《となかい》だつて、夏が來れば亂暴になりますよ、まあ、おいで、 そんなに強情をはるものではないよ。 ソルウェイク〔手をひつこめる〕 およしなさい。 ペール・ギュント なぜいけないの。 ソルウェイク あなた醉つていらつしやるわ。〔ヘルガと向ふへ行つてしまふ〕 ペール・ギュント あの惡黨どもの體にぐつさり匕首《あいくち》をつつこんでやりたい——あいつら殘らず。 婿〔肘でペールをつく〕 お前さん、お嫁さんのところへそつとわたしをつれていつてくれませんか。 ペール・ギュント〔うつかりと〕 お嫁さんだと。あれはどこにゐるんだ。 婿 物置の中に。 ペール・ギュント へえ。 婿 お前さん、それをしておくんなされば、これほどうれしいことはないのだが。 ペール・ギュント いや、おれはほかのことを今考へてゐるところだ。 〔ふとある考がひらめく。小聲に、口早にいふ〕イングリッドが。物置にゐると。 〔ソルウェイクに近づく〕あなた考へ直してくれましたか。 〔ソルウェイク行かうとする。ペール道を塞ぐ〕あなたはわたしが宿無しのやうな風をしてゐるので、 恥かしがつてゐるのだね。 ソルウェイク〔慌てゝ〕 そんなことはありませんわ。決してあなたはさうではないのですわ。 ペール・ギュント 成程、わたしは少しどうかしてゐるかも知れない。だが腹が立つからだ。 なぜといつてお前さんはわたしに嘘をついたからさ。ねえ、こんどはくるだらう。 ソルウェイク 駄目ですわ。それはもう行きたいのですけれど。 ペール・ギュント 誰をお前、こはがつてゐるの。 ソルウェイク 一ばん、おとうさまが。 ペール・ギュント ふん、馬鹿な。あの人は穩かな、キリスト樣のやうな人ではないか。 何をいふものか。ねえさうではないか。 ソルウェイク 何といつたらいゝでせう。 ペール・ギュント あの人たちは信心家だ。おとうさんもさうだし——おかあさんもお前もさうだらう。 どうだ、口が利けないのかい。 ソルウェイク 構はずにおいて下さい。 ペール・ギュント いや、いけない。〔低い聲でしかし早口に、脅すやうに〕おい、わたしは鬼に化けるよ。 こん夜眞夜中すぎにお前さんの部屋に入つて行くぞ。 ぴちや〜いつたり、がさ〜爪の音がしたら、猫が來たのだ位に思つてゐると違ふ。 そこでわたしは出かけて行つて、夢魔のやうにお前さんの血を飮みほしてしまふ。 お前さんの妹の髮の毛から皮までたべてしまふ。さうだ、その時はじめて、 わたしが夜になると人狼になることがわかる——わたしは腰から背中から心の髓まで食ひかぢつてしまふのだ ——〔ふと調子を變へて、頼むやうに〕ねえソルウェイクさん、踊らうよ。 ソルウェイク〔氣味惡さうにペールを見て〕 もうあなたがこはくなつたわ。〔家の中へ入る〕 婿〔またいざり寄る〕 お前さん、來てくれゝば牡牛を一疋上げるよ。 ペール・ギュント よし、來た。 二人母家の後に姿をかくす。それと同時に大ぜいの客の群が舞踏場からこちらへなだれこんで來る。 大抵は醉つぱらつてゐる。動搖と擾亂。ソルウェイクとヘルガと兩親が、 ほかの老人たちの群と共に扉口に現れる。 料理番頭〔群の先頭に立つてゐる鍛冶屋に向ひ〕 もう靜かにして下さい。 鍛冶屋〔上着をぬぐ〕 いんにや、こんどこそやるだけやるのだ。ペール・ギュントか、おれか、 砂をつかむまでは止めないのだ。 二三人 うん、やらせろ〜。 ほかの男 いや、たかがひつかきつこよ。 鍛冶屋 拳固が物をいふのだ。口で爭つてももうはじまらない。 ソルウェイク まあ我慢して下さいな。 ヘルガ〔母に〕 ねえ、あの人、喧嘩するのでせうか。 若者 おれたちはあいつに嘘をいはせて、からかつてやる方が面白いと思ふがなあ。 もう一人の若者 あいつの面《つら》につばを吐きかけてやれ。 第三の若者 この席から追ひ出せ。 第四の若者〔鍛冶屋に〕 おい鍛冶屋、加勢をしてやらうか。 鍛冶屋〔上着をはふり出して〕 あのやくざ馬め、殺してくれる。 ソルウェイクの母〔ソルウェイクに〕 ごらん、あの法螺吹きが、みんなからどんなに思はれてゐるか。 オーセ〔棒を持つて出て來る〕 忰《せがれ》はどこへ行きました。あの惡者め、こんどこそつかまへたぞ。 もうあいつ、ぶつて〜ぶちのめさなければ腹が癒えない。 鍛冶屋〔シヤツの袖をまくる〕 あんな奴を打ちのめすには、そんな棒位では足りないのだ。 二三人 鍛冶屋はあいつをぶんなぐるつもりだね。 ほかの男 どうしてぺちやんこにするつもりさ。 鍛冶屋〔兩手につばをかけ、オーセを見てうなづく〕 首をしめてくれるのだ。 オーセ 何だと、首をしめる。まあやつて見ろ、どうするか—— このオーセには爪もあれば、齒もあるぞ。あいつはどこにゐる。 〔庭の向ふに呼びかける〕ペールやい。 婿〔駈け出して來る〕 大へんなことになつた。おい、おとツつあん、おい、おつかさん。 父 どうしたといふのだ。 婿 ペール・ギュントが、どうだらう—— オーセ〔叫ぶ〕 みんなにころされたか。 婿 何だと、ペール・ギュントが——あすこをごらん。 皆々 やあ、嫁さんをつれて。 オーセ〔棒を落す〕 畜生め。 鍛冶屋〔雲から落ちたやうに〕 あの石高道《いしだかみち》を、あの野郎山羊のやうに駈け上がつて行くぞ。 婿〔泣きながら〕 おつかさん、あいつがお嫁さんをつれて行くよ。熊が豚を攫《さら》ふやうに。 オーセ〔おどすやうに上を見上げる〕 あゝ、おつそ落ちて死ね——。〔また心配さうに叫ぶ〕やい、氣をつけて上がれよ。 ヘーグスタット莊の百姓〔帽子もかぶらず出て來て青くなつておこつてゐる〕 あいつかどわかしを働きやあがつて、首の骨をぶつくぢいてやる。 オーセ そんなことをどうしておれがさせるものか。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/28 ペール・ギュント : 第二幕 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 連山の中の高所にある狹い山道。早朝の事。 ペール・ギュント早足に不機嫌らしく山道を上がつて來る。イングリッド半ば花嫁の晴着のまゝ彼を引き止めやうとしてゐる。 ペール・ギュント 出て行つてくれ。 イングリッド〔泣きながら〕 これだけのことのあつたあとで行けといつてどこへ。 ペール・ギュント そんなことをおれが知るものか。 イングリッド〔兩手を振りしぼる〕 何て不實な人だらう。 ペール・ギュント 人を恨む代りに、お前はお前で自分の道を行くのだ。 イングリッド どうせ二人の犯した罪で離れたくも離れられないわ。 ペール・ギュント 出來たことは出來たことだ。どうでもなれ。貴樣たち女どもは殘らずどうかしてしまへ ——たゞ一人だけ別として—— イングリッド その一人といふのは。 ペール・ギュント どうもお前ではなささうだよ。 イングリッド ぢやあ誰。 ペール・ギュント 行つてくれ。出て來たもとの所へかへつてくれ。さあ行け。父親の所へ。 イングリッド まあペールさん—— ペール・ギュント だまれ、やかましい。 イングリッド お前さん、口でいふとおりにまさか思つてはゐないのだらうね。 ペール・ギュント 何だと。 イングリッド 人を誘ひ出して置いて——こんどは振りすてるのね。 ペール・ギュント 全體おれを引止めるだけのものが何かあるか。 イングリッド ヘーグスタットの田地と、ほかにも澤山あるわ。 ペール・ギュント 貴樣襟に讚美歌の本を入れてゐるか。肩の上に黄金色《こがねいろ》の髮の毛がのつてゐるか。 愼しく前掛に目を伏せてゐるか。おつかさんの着物のひだをいぢつてゐるか。どうだ。 イングリッド だつて—— ペール・ギュント この五月に堅信禮をすませたか。 イングリッド いゝえ、でも—— ペール・ギュント 貴樣の目ははづかしさうに見えるか。おれの頼む言葉を拒むことが出來るか。 イングリッド まあペール、お前、どうかしたのかねえ。 ペール・ギュント 貴樣の顏を見るものが淨められるか、どうだ。 イングリッド いゝえ、でも—— ペール・ギュント ぢやあ行つてしまへ。〔行かうとする〕 イングリッド お前さん、そんなことをすれば、首がなくなることを承知かい。 ペール・ギュント それがどうした。 イングリッド それに引き換へて、お前がわたしに實意を立てゝさへくれゝば、お金の田地も名譽もお前のものになるのだよ。 ペール・ギュント おれは馬鹿なんだらうよ。 イングリッド〔わつと泣きくづれる〕 お前はだましたんだ—— ペール・ギュント 好きでしたことだ。 イングリッド わたしはもうむちやくちやだ。 ペール・ギュント おれは氣が違つてゐたよ。 イングリッド〔おどすやうに〕 でもこの報ひはきつと來るぞ。 ペール・ギュント どんな報ひが來てもおれにはやすいものだ。 イングリッド ぢやあいよ〜。 ペール・ギュント 傍へ寄つてくれるなよ。 イングリッド どうするか覺えてゐる。〔おりて行く〕 ペール・ギュント〔しばらくだまつてゐる。やがて叫ぶやうに〕 出來たことはどうでもなれ。世界の女ども殘らず七里けつぱいだ。 イングリッド〔首を振り向けて嘲るやうに叫び返す〕 一人だけは別でね。 ペール・ギュント うん、一人だけはな。 おの〜自分々々の行く方へ出て行く。 山中の沼のほとり、そのまはりの土地は柔かくじく〜水づいてゐる。嵐が起りかけてゐる。 オーセ、絶望的に方々に叫び廻り、探し廻る。 ソルウェイク、オーセに追ひつかうとして骨を折つてゐる。 彼女の兩親とヘルガが少しあとからおくれて來る。 オーセ〔兩腕を振りまはして髮の毛をかきむしる〕 一切のものが怒り威《たけ》つて凄じくわたしに向つてくる。空も、水も、 その上怖ろしい山までが。霧の雨が空からおちて、あの子の道をくらませる。 わるだくみな水はあれを殺すつもりで待伏せをしてゐる。 山は山崩れや地割れであれをおしつぶさうとしてゐる——。 それから人間もやはりさうだ、みんなはあれの命をとらうとして追ひかけまはす。 どうかしてとられまいものでもない。あれをとられたらどうしようぞ。 あゝ鬼のとりかへ子め、惡魔があれを誘惑したらどうしませう。 ソルウェイクの方を向く。 まあそれこそ全くの嘘のやうな話ではないか。あれは作りばなしや嘘ばなしをして興がる外に何をしたといふのだらう ——あれの精一杯のことはたゞあの腮《あご》一つを動かすだけのことだ。 それはまじめなしごとといつては、芥子ほどもしたことがなかつた。 それがあの——あゝ、この體一つが、一どきに泣いて笑ふこともできさうだ。—— あゝ、わたし逹はどこまでも悲しみと苦しみにとりつかれてゐることだらうね。 まあ、御承知でもあらう、わたしの夫といふ人は、のんだくれで、 村中うろつきまはつて大きな聲でさわいだり、しやべつたり、 あげくに財産をめりや〜につかひはたしてしまつたのさ。 その間、ペール坊とわたしは家にはふつておかれて——わたし逹の精一杯のしごとは、 たゞ何事も忘れるといふことだけだつた。しかしいつまでも〜それに耐へるといふことは苦しいことだつた。 運命を目のあたりに見るといふことはおそろしいことだ。 それはむろん誰だつて心配の根を絶ちたいと思ふし、 一生けんめい考を遠い〜所へ向けたいと考へる。ブランデーに心をやるものもあれば、 嘘話に我を忘れるものもある。そこでわたし逹は——そら、王子だの鬼神だの、 いろ〜ちがつた獸たちのお伽ばなしに身を入れたまでではないか。 花嫁さらひのお話にしてもやはりそれだ。あゝ、それにしてもあんな惡魔の紡ぐ絲にどうしてあれが引つかゝつたものか。 また新しい恐怖が加はる。 ひやあ。あの聲は何だ。水の精か水の魔物だな。ペールや。ペールや。——あの山の上に上がつて見よう。 彼女は小高い丘を駈上つて沼を見おろす。ソルウェイクの兩親がヘルガと一緒に追ひついて來る。 オーセ 山の中ぢゆう探して影も形も見えません。 父〔思案するやうに〕 困つたことですね。 オーセ〔泣きながら〕 小羊は失はれました。 父〔やさしくうなづく〕 さやうさ。失はれたといふのですね。 オーセ いゝえ、そんな風にいふにはあたらない。あいつはいい奴さ。 あれの代りにいつそみんな死んでしまふがいゝのだ。—— 父 お前さん、馬鹿な。 オーセ それはわたしは馬鹿かも知れませんさ。でもうちの忰《せがれ》までは、あの子は惡くはいはせない。 父〔やはりおだやかな調子でやさしい目をしながら〕 あの人はどうかしたのです。あの人の心は石になつたのです。 オーセ〔痛々しく〕 いゝえ、そんなことはない。神さまがそんなひどいめに御會せになる筈がない。 父 あの人の罪を贖《つぐな》ふことが出來ると思ひますか。 オーセ〔夢中で〕 でもあれは空の上へあがつて行けるのだ。 母 まあ、あなた、氣が違つたのですか。 父 おや、お前さん、どうしなすつた。 オーセ いゝえ、決してあの子の手にあまるといふものはない。まああの子に長い命さへあれば、分ることですよ。 父 まあ絞首臺にかけられた時にはじめて分かるさ。 オーセ〔叫ぶ〕 どうして、そんなことがあるものか。 父 あの人は死刑執行吏の手に渡つた時、多分後悔するかもしれぬ。 オーセ〔夢中になり〕 あゝ、お前さんたちはこの可哀さうな女を氣違にする。何でも、あれを探し出さなくては。 父 あの人の靈魂を救ふためにな。 オーセ それから彼《あれ》の體も救ふのだ。沼にはまり込んだら上げて乾してやる—— 魔物の攫《さら》はれたなら鐘を撞《つ》いてやる。 父 こゝに羊の足跡がある。けものゝ足跡がある、 オーセ お蔭さまで助かりました。 父 これがキリスト教信者の義務です。 オーセ さう。ぢやあほかの奴らは邪宗徒だ。それは一人だつて一しよに來てくれるものはなかつた。 父 みんなあの人をあまりよく知りすぎてゐたからな。 オーセ あれもあいつらをあまり知りすぎてゐた。それでどうでせう、あれの命は。 父 こゝに人の足跡がある—— オーセ ぢやあ急いで行きませう。 父 この牧小屋のところで二手に別れよう。〔彼と妻は前の方へ行く〕 ソルウェイク〔オーセに〕 もつと話して下さいな。 オーセ〔目を拭く〕 倅《せがれ》のことですか。 ソルウェイク えゝ——もう殘らずね。 オーセ〔笑つて頭を擡げる〕 殘らずですと——もう飽きてしまふだらうよ。 ソルウェイク わたしが聞くよりかあなたの方が先に話しくたびれておしまひになるわ。 高い連山の澤地の樹のない、ちよつとした高地。 後景はるかに山の峰。影が長く落ちてゐる。夕方。もうおそい。 ペール・ギュント〔大股にとんで來て丘の手前で止まる〕 村中がおれを責めに來た。てんでんに鐡砲や棒を抱へてやつて來た。 中でもヘーグスタット莊の奴等のどなる聲が際立つて聞える—— もうどこへ行つてもペール・ギュントが逃げたといふ聲だ。 こいつは鍛冶屋と喧嘩をするのとは少し樣子が違ふぞ。命がけだ。 節々が熊のやうに強くなつた氣がする。〔そこらをたゝきまはり、空へ飛び上がつたりする〕 ぶち破《わ》れ。ひつくり返せ。瀧のやうになだれる瀬を止めろ。 打て、樅の樹を根こぎにしろ。これこそ命がけだ。力がついた。 元氣が出來た。たあいのない嘘話なんぞしちりけつぱいだ。 三人の牧小屋の女〔叫びつゝ、歌ひつゝ、丘の横を駈けて來る〕 ヴァールフィエルドのトロンド鬼よ。カーレー鬼にバール鬼よ。 山の魔の仲間よ。今夜はわたし逹に抱かれてお寢。 ペール・ギュント お前さんたちは誰に呼びかけてゐなさるのだ。 三人の山番の女 自分々々の山の魔に。 第一の女 トロンド鬼よ。わたしにこがれて來ておくれ。 第二の女 バール鬼よ、わたしのとこへはのぼせてお出で。 第三の女 小屋はどの部屋も空《がら》あきだよ。 第一の女 のぼせるはこがれる。 第二の女 こがれるはのぼせる。 第三の女 若い男が來てくれなけれや、鬼でも可哀がつてやらうよ。 ペール・ギュント ぢやあその若い男はどこにゐる。 三人の女逹皆々〔體がちぎれるほど笑ひながら〕 もうこゝへは來られないのだよ。 第一の女 わたしの男は、やれ惚れてゐるの、好いたのといひながら、 あいつはばあさんの亭《ていしゆ》になつた。 第二の女 わたしの男は、北の方のチゴイネルの女に出會つて、今ぢや二人して旅から旅にくらしてる。 第三の女 わたしや碌でなしの男に引導をわたしてやつた——あいつの骸骨は首くゝりの繩の上からにや〜してゐる。 三人の女逹皆々 ヴァールフィエルドのトロンド鬼よ。カーレー鬼バール鬼よ。 山の神の仲間よ。今夜はわたし逹に抱かれてお寢。 ペール・ギュント〔一飛びに飛んで女逹の中に立つ〕 わたしこそお前さんたちの鬼でもあれば若い男でもありさ。 三人の女たち お前さんはさういふ人なのかい。 ペール・ギュント それは天の神さまも照覽あれさ。 第一の女 小屋へ行かう。 第二の女 蜜柑水があるよ。 ペール・ギュント 溢れさしてもらはう。 第三の女 一體土曜日の晩はどこの部屋だつてあいてゐてはならないのだ。 第二の女〔ペールに接吻しながら〕 この人は眞赤に燒いた鐡のやうに、かつかと燃えてゐるよ。 第三の女〔同じことをして〕 湖水の中に浮いた子供の死骸の目のやうだ。 ペール・ギュント〔女逹の中で踊りながら〕 胸は重くても心は輕い。目で笑つても、のどは泣いてゐる。 三人の女〔山の頂に向つてべかつこうをして叫び歌ふ〕 ヴァールフィエルドのトロンド鬼よ。カーレー鬼にバール鬼よ。 山の魔の仲間よ。今夜はわたし逹に抱かれてお寢。 皆々ペールを眞中に引き包んだまゝ高地を越えて向ふへ踊つて行く。 ロンドの山中。日沒。日にかゞやいた雪峰が四方をとりまいてゐる。 ペール・ギュント、目は昏み、取りみだした體で出てくる。 ペール・ギュント ずん〜高く空のお城が上にのびる。やあ、何といふきらびやかな門だ。 止まれ。止まらないか。ふはり〜どこまでも漂つて行くのだな。 風見の上に鷄が、今にもとび立たうと翼を動かしてゐる——さて、 果てしなく漂ふ迷妄よ、くらい地獄の淵が一切を葬つて行く。 山岨《やまそば》の割れ目からのびてゐるあの幹や木の根はどうしたといふだらう。 あれはまるで、鷺《さぎ》の脚をした戰士のやうだぞ。もはやそれも消えかけてゐる。 虹の射出す光に似た閃きが目と腦天を通りすぎる。あのはるかな鐘の音《ね》は何だらう。 このわたしの眉を壓《おさ》へるやうにするものは何だらう。やあ、この額が何として高い波をうつことか ——赤く灼《や》けた環がしめつける。——畜生、どいつがわたしの頭にこんなものを卷きつけたか考へもつかない。 べつたり坐る。 イェンジンの屋根を一散走り——さういつても誰が本當にするものか、 えりにえつた險しい岩岨《いはそば》の上を花嫁さんをかついで渡つた—— しかもまる一日醉つぱらつてゐる。鷹や隼に追ひまはされ、山すだまの一類におどかされ、 半きちがひのばいたとふざけながら——さういつても誰が本氣にするものか。 ぢつと上を仰いで見る。 あすこに鳶色の鷲がのして行く。南を指して雁がとんで行く。 それをおれはこんな泥沼と腐れ物の中に膝までつかつて、のたうちまはつてゐなければならないとは。 とび上がる。 おれは飛ばうや。身を切るやうな鋭い風につかつてこの體を清めよう。おれは高く翔《かけ》らう。 おれは榮光《はえ》ある洗禮盤に、潔く身をひたさう。おれは山の牧場の上を遠く天《あま》がける。 靈を淨める馬に乘る。海の潮にわたつて、天使の國の君よりも高くのして行く。 ふん、若いむすめさん逹、ながめられるだけながめるがいい。おれはお前さんたちの中の一人だつて心にかけてゐはしない。 いくら待つてゐても時は空しく立つばかりだ。——だがさういひながらやはりいつか下に下りまいものでもない。—— あの二羽の鳶色の鷲はどうしたらう。——姿を消してしまつた。 畜生、どこへ行つたものやら。——おや、破風の頭が上がつて來る。 やれ、やれ、ずん〜高くなつて行く。雲と山の中から湧き上がつて來たのだ。 あれ、門がひろく開いて萬人を招いてゐる。はツは、あの家をおれは知つてゐるぞ。 あれはおぢいさんの新築した住居《すまゐ》だ。窓のぼろ切れもとり去られた。 それに古垣もなくなつた。どこの窓からも明りが射してゐる。今夜は廣間の宴會があるのだ。 そら、あれは牧師がナイフのむねでコップをからん〜いはせてゐるのだ—— あれは船長が瓶を投げつけて、鏡をこな〜゛にしてしまつたのだ。 ——あいつには勝手にさせるがいい。みんなめちやくちやにさせるがいい。靜かにおしよ。 おつかさん。何もくよ〜することはないさ。金持のジョン・ギュントの宴會ぢやないか。 ギュント一門萬歳。あのどたんばたんは一體どうしたことだ。 何だつてあいつはわめき叫んでゐるのだ。船長は息子を呼びこんでゐる。—— あゝ、牧師がわたしの健康のために祝盃を上げてくれやうといふのだらう。 ではペール・ギュント、審判の席へおはいり。それは歌を叫び聲で告げ知らされる。 ペール・ギュント、お前は偉大なものから出て來た、そして偉大なものがやがてお前から出て來るのだぞ。 前へ駈け出したが、頭を岩にぶつけて倒れる。それきり地面の上にはりついたやうに突つ伏したまゝでゐる。 或山の背、大きな闊葉樹の葉がそよいでゐる。 葉の茂みをすかして星が瞬いてゐる。小鳥が梢で歌つてゐる。 緑色の着物を着た一人の女が山の背をのぼつて行く。 ペール・ギュントそのあとからいろ〜と戀男じみた樣子をしてつゞく。 緑の着物を着た女〔立止まりふりかへる〕 それほんたう。 ペール・ギュント〔のどの上に指を切るまねをして〕 それがちがへばわたしはペールではないし、あなたもきれいな娘さんではないことになる。 わたしを夫にもちたいと思ひますか。それはわたしを夫にしたらなんにも骨の折れることはないでせう。 針仕事をすることも絲を紡ぐこともいらないし、それはおなかの破れるほどおいしいものをたべることも出來るし、 決して髮をつかんでひきずり廻すやうなこともしないし—— 緑の着物を着た女 ぶつこともないの。 ペール・ギュント どうしてそんなことをすると思ひますか。 苟《いやし》くも王の子たるものが婦人を打《ぶ》つとかなんとかいふことがあるものではない。 緑の着物を着た女 王さまの子ですつて。 ペール・ギュント えゝ。 緑の着物を着た女 わたしは鬼の王の娘ですわ。 ペール・ギュント へえゝ、あなたが。成程々々、わたしたちはいかにも似合つた同志ですね。 緑の着物を着た女 ロンデー山の山奧に、おとうさんはお城を持つてゐます。 ペール・ギュント わたしのおかあさんのお宮なんかそれこそ廣大なものだ。 緑の着物を着た女 あなた、おとうさんを御存じ。プローセ王を。 ペール・ギュント あなたはわたしのおかあさんを知つてゐますか。オーセ女王を。 緑の着物を着た女 わたしのおとうさんがおこると山が崩れますわ。 ペール・ギュント わたしのおかあさんがどうかして疳癪を起すと山が廻ります。 緑の着物を着た女 わたしのおとうさんは踊りながら一番高い軒埀木に人を蹴上げます。 ペール・ギュント わたしのおかあさんはどんなに強い早瀬でも馬で渉ります。 緑の着物を着た女 あなたはこんな襤褸《ぼろ》のほかに着物はないの。 ペール・ギュント ふん、わたしの日曜の晴着を見せたいものだ。 緑の着物を着た女 わたしはふだん着だつて金絲《きんし》に絹の服をきてゐるのよ。 ペール・ギュント わたしには麻屑か藁屑にしか見えない。 緑の着物を着た女 えゝ、あなたに覺えてゐてもらはなくてはならないことが一つあるのよ—— それはロンデー山の人逹の習慣《ならはし》なのですから。 何でもわたしたちの持物が二重の形を備へてゐるの。 ですからおとうさんの廣間へあなたがいらしても、 ことによるとそれは薄穢い岩屋のやうに思はれない、とも限らない。 ペール・ギュント それはそつくりわたしたちの方も同じことだ。 わたしたちが金だといつてゐるものがあなたには塵屑か煤《すゝ》のやうにしか見えないかも知れない。 きら〜光る伸板《のびいた》が古いぼろきれか靴下の束にしか見えないかも知れない。 緑の着物を着た女 黒いものは白く見えるし、醜いものは美しく見えます。 ペール・ギュント 大きいものは小さく見え、きたないものはきれいに見える。 緑の着物を着た女〔ペールの首に抱きつきながら〕 あゝ、ペール、それでこそあなたとわたしはそつくり相性ですわ。 ペール・ギュント 足とズボンのやうに、髮の毛と櫛のやうに。 緑の着物を着た女〔丘の下に向つて呼びかける〕 お嫁入の馬を早くもつてお出で。 無暗と大きな豚が繩のきれを手綱の代りにつけ、鞍の代りに古ぼけた袋を乘せて駈出して來る。 ペール・ギュントその背中にまたがり、緑の着物を着た女を自分の前にのせる。 ペール・ギュント はいどうど。ロンデー山門をぬけて行くのだ。とつとつと駈けろ、駈けろ、これがわたしの駿馬だ。 緑の着物を着た女〔しをらしく〕 ほんについきのふまでもわたしは、うぢ〜つまらなく這ひずりまはつてゐたものを ——今は何といふ變り方だらう。 ペール・ギュント〔豚に鞭を當てゝ、だくを踏ませる〕 貴人は馬具を見れば知れるといふものだ。 老鬼王のお城の廣間。鬼の式部官、地の精、小人などの大衆會。老鬼王は冠をかぶり、 手に笏を持つて玉座の上に腰を掛けてゐる。鬼の子供たちや近親はその兩側にゐながれゐる。 ペール・ギュントその前に立つてゐる。廣間の中ははげしいどよめき。 鬼の式部官 彼を誅戮《ちゆうりく》いたしませう。キリスト教徒の倅《せがれ》が鬼王陛下の最愛のお娘を誘惑いたしました。 若い鬼 彼の指に咬みつかうか。 もう一人 あいつの髮の毛を持つてひつぱらうか。 鬼の少女 あいつの腰に咬みつかせて下さい。 鬼の魔女〔大匙を持つて〕 あれは鬻か鹽汁にして煮てしまひませうか。 もう一人〔肉切庖丁を持つて〕 燒串に刺して燒きますか、鍋でいりますか。 老鬼王 まづみんなしばらく氣を靜めてもらひたい。〔顧問官らを傍に招きよせる〕 大げさなことをいふ必要はない。わたしたちは近年具合の惡いことがつゞいてゐる。 全體どうしてやつて行つていゝか見當もつかない位だ。あの若者を邪魔にする必要はない。 それに若者は立派な體をしてゐる。別に穢れた體でもないやうだ。 たゞ缺點といへば頭が一つしかないといふことだ。 だがうちの娘にしても頭は一つしかない。頭の三つある鬼なんといふものは近來全く流行おくれになつた。 もういまでは頭の二つある鬼さへだん〜少くなる。それもだん〜一つになつて行くやうだ。 〔ペール・ギュントに〕ではお前はわたしの娘をくれといふのだな。 ペール・ギュント お娘御と持參金には領地をわけて頂きたうございます。 老鬼王 よし〜、わたしが生きてゐる間は半分だけ領地をわけてやる、 あとの半分はわたしが死んだあとでお前のものにしてやる。 ペール・ギュント 至極結構でございます。 老鬼王 よし。だが待てよ、それには誓言をたてなければならない。 その一箇條でもやぶつたら一切約束はほぐだし、お前は生きてこゝから出ることは出來ないぞ。 まづ第一に、決してロンデー山の境から外に心を移さないといふ誓ひをたてなければならない。 晝を嫌ひ、爲事《しごと》を嫌ひ、苟《いやし》くも太陽の光のあたる場所を嫌はなければならない。 ペール・ギュント まあわたしを王と呼ばせて下されば、その位のことを守るのはわけはありません。 老鬼王 それから次に、こんどはお前の才智をためして見てやる。〔王座の上に飛び上がる〕 一ばん年をとつた式部官 〔ペール・ギュントに〕まづお前に鬼王の謎の胡桃《くるみ》を割るだけの智慧の齒があるかないか、 見てやらうといふのだ。 老鬼王 鬼と人間とのけじめはどこにある。 ペール・ギュント わたくしの思ひますところでは、一向にけじめはございません。 大きい鬼は咬みつくし、小さい鬼はひつかく——人間だつて彼らの勝手にやらせればつまりは同じことです。 老鬼王 全くそのとほり、その點またほかの點でも我々は同樣だ。 朝は朝で晩は晩だ。ところでやはり一つけぢめはあるのだ—— それはどういふところにあるか、いつて聞かせよう。 あちらの日の照つてゐる世界では、人間がかういふ、人よ、汝は汝たれ。 ところがこの我々の鬼の國ではかういつてゐる、鬼よ、汝は——汝を滿足させよ。 鬼の式部官〔ペール・ギュントに〕 どうだ意味深淵な言葉ではないか。 ペール・ギュント どうもよく分かりません。 老鬼王 これ〜滿足といふ言葉が大切なのだ。汝を滿足させよといふ、 これがお前の將來の格言にならなければならない。 ペール・ギュント〔頭を掻いて〕 へい、しかし—— 老鬼王 この國の主人にならうと思ふなら、これは堅く守らなければならない。 ペール・ギュント 成程分かりました。とにかくさう惡いことでもないのですから—— 老鬼王 次にお前は我々の日常の家庭生活振りをよくのみこむやうにしてもらはなければならない。 〔合圖をする。豚の頭をした二人の鬼が白い夜間帽子をかぶつて、たべ物や飮物を運んで來る〕 牝牛は菓子を——睾切牛は蜜柑水をこしらへる。 その味が酸つぱからうと甘からうと聞いてはならない。 大事なことは、お前が忘れてはならないことは、これこそすつかり國産で出來てゐるといふことだ。 ペール・ギュント〔勸められた御馳走をわきへのけて〕 こんな手造りの酒なんかしちりけつぱいだ。でどうもわたしはこの國の習慣には慣れさうもありません。 老鬼王 鉢が運ばれた、それは金で出來てゐる、その金の鉢の持主は娘の大事な婿だ。 ペール・ギュント〔眺めながら〕 これに書いてある、汝は人間の天性を制御せざるべからず。 まあ長い間にはのどを通るやうにもなりませう。どうかね。 老鬼王 よし〜、うまくいつた——お前つば氣を吐いてゐるか。 ペール・ギュント 習慣はやめられません。 老鬼王 それから次にキリスト教徒の服をぬがなければならない。鬼の國には相應の禮服があるものだからな。 こゝでは一切山で出來る。谷から來るものは何もない。たゞお前の尾の先についてゐる絹の房だけだ。 ペール・ギュント〔憤慨して〕 わたしに尾なんぞはありません。 老鬼王 そこで無論お前は尾をつけなければならない。これ式部官、わたしのよそ行きの方の尾をつけてやれ。 ペール・ギュント そんなことをしたら——冗談にも程がある。 老鬼王 尻に尾のないものにわたしの娘をやることは出來ない。 ペール・ギュント 人間を獸物《けだもの》にするのですか。 老鬼王 とんでもない、それは思ひ違ひだ。わたしはお前を立派な禮儀正しい婿さんにしてやるだけだ。 特別をもつて橙色の光の尾を下げさせてやる。これは最高の名譽のしるしなのだ。 ペール・ギュント〔思案しながら〕 成程昔からいふとほり、人間といつてもたかが宇宙の塵泥、 郷に入つては郷に從へだ。尾をつけて下さい。 老鬼王 なか〜お前は分つた男だ。 式部官 ところでどんなに優美な尾の振り方をするか、見せてもらひたい。 ペール・ギュント〔情なささうに〕 やれ〜、お前たちはわたしをこの上も苛めるつもりか、キリスト教徒の信仰までもすてろをいふのか。 老鬼王 いや、それは一向かまはない。宗旨は自由だ。それには何の義務もないのだ。 何でも鬼の國では上べの形さへ出來てゐればそれでよろしい。 そこで服裝や樣子さへ我々と一致すれば、心の中ではどんな恐しい信仰を抱いてゐやうとそれは構はない。 ペール・ギュント 成程いろ〜條件をお出しになるやうだが、結局思つたよりは、もののわかつた方ですね。 老鬼王 我々鬼の國のものは評判ほどわるいものではない。 これも君たちと我々の違ふところだ——しかしまづこれでむづかしい謁見の式も終つたといふものだ。 そこでこんどは我々の耳や目を樂しませることにしよう、音樂をやれ。 女たち音樂をやれ。鬼の豎琴をならせ。踊り娘たち出て來い。鬼の國の廣間の床を踏み鳴らせ。 音樂と舞踏。 式部官 どうだ面白いかな。 ペール・ギュント どうだと、ふん。 老鬼王 憚《はゞか》りなくいへ。あれをどう見る。 ペール・ギュント いやはや、何ともいひやうもなく恐しいものですね。鈴をつけた牝牛がこはれ腸膜絃の上をごそ〜やると、 それに調子を合せて、牝豚がはねまはるといつた恰好です。 役人たち あいつを食ひ殺せ。 老鬼王 まああれの感覺は、何しろ人間で違つてゐるのだからな。 鬼の娘たち ふん、あいつの耳も目も食ひつくしてしまひたい。 緑の着物を着た女〔泣きながら〕 おゝ、おゝ。妹たちと音樂をやつたり踊つたりしてゐるのに、 そんなひどい言葉を聞かなければならないとは。 ペール・ギュント おや〜あなたでしたか。何さ、ほんの宴會の冗談ですよ。 決して惡氣があつていつたのぢやありません。 緑の着物を着た女 きつと誓ひますか。 ペール・ギュント 踊も音樂も全く結構でした。さうでなければどんな祟りが來てもかまはない。 老鬼王 どうもこの人間の生れつきといふものはよほど竒妙だ。 何しろ長い間不思議にふかくしみこんでゐるのだからなあ。 人間は我々を相手の鬪《たゝかひ》に大きな傷手《いたで》を負ふが、すぐけろりと直つて、 あとものこらない位だ。そこでうちの聟どのなどもやはり人並にしをらしく、 キリスト教徒のうはぎはおとなしく脱ぎすてる。われ〜の蜜柑水の杯は飮んでくれる。 おまけに背中に尾まで平氣でつけさせる—— いはゞ何事によらずわたしのいひつけることにはおとなしく從ふといふものだから、どうもかうもない、 これでむかしながらのアダム魂も消滅してしまつたのかと考へたい位だ。 いやしかし一二三でまたそれがあと戻りしてしまつた。おい倅《せがれ》、そこでどうだ、 このたちの惡い人間の生れつきを療治する工夫があるのだが。 ペール・ギュント それはどういふことですか。 老鬼王 まづお前の左の目を少しひつかいてやる。それでお前が籔にらみになる。 その代り物を細かく正しく見るやうになる。それからこんどは右の目から目玉を抉《く》りぬくのだ—— ペール・ギュント あなたは醉つぱらつてゐるのですか。 老鬼王〔鋭利な得物を卓の上に並べる〕 さあ、このとほり道具は揃つてゐる。しばらく暴牛のやうに目かくしをするのだ。 そのあとではお前の花嫁は美しく見えるやうになる—— もう決して今のやうに鈴をつけた牝牛が琴をひいたり、 牝豚が踊を踊つたりするとことを間違つても見るやうなことはないのだ。 ペール・ギュント これはまるで氣ちがひの沙汰だ。 一ばん年とつた家來 老鬼王陛下のお言葉に間違ひはない。貴樣が氣が狂つてゐるのだ。 老鬼王 これからはつまらぬ心配や苦勞に目をくらまされることがなくなる。 どうだ、これまでお前の目は涙のにがい腐れ泉であつたらう。 ペール・ギュント それは全くです。説教の本にもさういつてゐます。汝の目そむかば抉《えぐ》り出すにしかずとね。 でも伺ひたいのはまたもとの人間の目に直せば直るものですか。 老鬼王 それはもうもどらない。 ペール・ギュント いやはや。さういふわけならお暇《いとま》いたしませう。 老鬼王 何をしようといふのだ。 ペール・ギュント 行きたいところへ行きます。 老鬼王 いやまて。この中へ入りこむのはわけはないが、鬼の王の門は外へは開かないのだ。 ペール・ギュント どうぞ無理に力づくで引止めないで下さい。 老鬼王 まあいつて聞かせるからよく聞きなさい、ペール。 君は鬼の國の仲間らしい才能を示した。たつた今も可なり立派に鬼らしい行動を示したではないか。 よろこんで鬼にならうとしたぢやないか。 ペール・ギュント さうです、たしかにさうでした。花嫁とこの王國を引出ものにたくさんのものを敢へて失はうとしました。 しかしこの世界の事には凡そ限りがあります。成程わたしは尻尾をもらひました。 それは全くです。しかし勿論あの式部官が結んだものはとくことが出來ます。 わたしはズボンをぬぎました。あれはつぎはぎだらけでした。 しかし無論あらをもう一度はくことも出來ます。とにかくあなた方の鬼の國らしい習慣からぬけ出すことはわけもないことです。 それは誓つていへといふなら牝牛を處女《をとめ》だともいひませう。 誓言位ならがまんができますからね。——しかし彼の生れながら人間性は、 あくまで正しい人間として死ななければならにことを忘れずにゐる。 生涯山の魔らしくくらす中に、未來永劫君逹の仲間から引下がることができなくなつて—— 心持も望みも一切鬼になつてしまふ。——いやなこと、いやなこと、 わたしにはもつと外のことがあるのだ。 老鬼王 よし、おれはかうなればどうしても堪忍の緒を切らずにはゐられない。 そのあとがどうなるか考へてみるがいい。このなまけもの、一體わたしを誰だと思ふ。 第一貴樣はわたしの娘を勝手にした。 ペール・ギュント それがどうしたのです。 老鬼王 お前はあれと結婚しなければならない。 ペール・ギュント よくもあなたはわたしに向つてそんな—— 老鬼王 何だと。貴樣はあれを欺いたことを忘れたか。貴樣はわたしの國に望みをかけたらう。 ペール・ギュント〔侮蔑の表情で〕 それだけですか。そんなこと何の下らない。 老鬼王 人間の仲間はいつもこの通りだ。靈魂の何のと大きな口を利くが、 いつもお前逹の拳《こぶし》の中に握りこめられてしまふ位のたあいなさだ。 貴樣慾望を滿たした報はないと思つてゐるな。よし待て、やがて思ひしらせてくれる。 ペール・ギュント 嘘のつり針で釣らうとしてもだめだ。 緑の着物を着た女 ペールさん、一年たゝない中にあなたはおとうさんですよ。 ペール・ギュント 扉《と》をあけろ。行かせてくれ。 老鬼王 をす山羊の皮にくるまつて、貴樣の種は生れて來る。 ペール・ギュント〔額の汗をふきながら〕 あゝ、夢ならさめてくれ。 老鬼王 その子を王さまの御殿へ送らうか。 ペール・ギュント 教區の厄介物さ。 老鬼王 ペール、それはお前の考次第さね。しかし一つたしかなことがある。 出來たことは出來たことだ。お前の子供はいやでも育つ。合の子は成長が早いよ。 ペール・ギュント 御老人、馬鹿牡牛のやうに振るまはないで下さい。わけをつけて話をしよう。 お互に仲直りをしようぢやないか。お前たちはわたしが王子でもなければ金持の子でもないことを知らなければなるまい。 わたしといふ人間をどういふ風に評價するか知らないが、たしかなことは、 わたしをお前さんたちのものにしたところで大した利益にもならないといふことだ。 緑の着物を着た女〔卒倒して鬼の娘たちに運ばれて去る〕 老鬼王〔しばらく非常に不快な表情でペールを見てゐたがやがていふ〕 みんなこいつを岩壁に叩きつけて粉々にしてしまへ。 若い鬼たち 陛下、その前に梟《ふくろう》と鷲ごつこをやつてはいけませんか、 狼遊びでも宜《よろし》い。胡麻鹽鼠と火の目の猫でも結構です。 老鬼王 うん、だが早くしろ。わたしはくたびれて寢むくなつた。おやすみ。〔出て行く〕 ペール・ギュント〔若い鬼に追ひまはされる〕 放してくれ、小鬼め。〔煙突にのぼつてにげやうとする〕 若い鬼たち おい小人來いよ。あいつの後から咬みつけ。 ペール・ギュント おゝ、おゝ。〔床の落穴からにげ出さうとする〕 鬼たち 穴をみんな塞いでしまへ。 鬼の家來たち さあこれで蠅一疋出られまい。 ペール・ギュント〔しつかり咬みついた小人を無理に振り放さうともがきながら〕 放してくれ、畜生。 鬼の家來〔指でペールをはじきながら〕 靜かにしろ、神妙にしないか。 ペール・ギュント やあ、鼠の穴がある。〔駈寄る〕 鬼たち それ小人、早くふさげ。 ペール・ギュント 年ととつた奴も惡いが、若い鬼めらは一そう惡い。 鬼たち あいつを叩き伏せろ。 ペール・ギュント あゝ、鼠のやうに小さいといゝのだが、あゝ。〔にげまはる〕 鬼たち〔ぐるりとまはりに集つて來て〕 輪をつぼめろ〜。 ペール・ギュント〔泣きながら〕 おれはしらみになりたい。〔倒れる〕 鬼たち さあ目の玉をほぢり出せ。 ペール・ギュント〔折りかさなる鬼の下に潰される〕 おつかさん助けて下さい、殺される。 お寺の鐘が彼方で鳴り出す。 鬼たち 山の鐘がなる。やあ大へんだ。 鬼たち慌てゝにげ出す、叫び聲とはげしい混亂。鬼の宮殿崩れる。何もかも消えてなくなる。 まつくら闇。 ペール・ギュントが一本の大きな枝でそこらを叩きまはす音が聞える。 ペール・ギュント 返事をしろ。お前は誰だ。 暗闇の中の聲 おれだ。 ペール・ギュント どけ、道をあけろ。 聲 廻つて行け。山は廣いぞ。 ペール・ギュント〔ほかの方面に道を變へて行かうとする。しかしまたぶつかつて突返される〕 お前は誰だ。 聲 おれだ。同じ事がよくもいへるな。 ペール・ギュント おれのいひたいことをおれがいふのだ。この劍でぶち切つてくれようか。 氣をつけろ。さあ來い。ずた〜に切つてくれよう。 サウル王は百に切つたといふ。ペール・ギュントは千に切つてやる。〔めつた斬りに切つてまはる〕 貴樣は誰だ。 聲 おれだ。 ペール・ギュント もうその馬鹿げた返事はやめにしてくれ。いつまでたつても何も分からん。何物だ貴樣は。 聲 くね〜入道。 ペール・ギュント はゝあ成程。はじめはまつ黒だつた謎が、これでいくらか胡麻鹽になつた。 道をあけろ、くね〜入道め。 聲 廻つて行けよ、ペール。 ペール・ギュント 通つて行くのだ。〔めつた打ちに打つ〕それ、倒れた。 〔前に進まうとする。またぶつかつて押戻される〕やれ〜、まだこゝにゐたか。 聲 ペール・ギュント、おれはいつでもまた起き上がるのだ。 くね〜入道は切られても傷はつかない。くね〜入道は死んでも生きてゐる。 ペール・ギュント〔枝を投げすてる〕 獲物は魔法で駄目にされた。こんどは拳固《げんこ》で向ふまでだ。〔向つて打つてかゝる〕 聲 まあ〜、拳固にたよるなり腕にたよるなりしてごらん。ふん、いづれ頂上まであがれよう。 ペール・ギュント〔またとじさりしながら〕 進んでも退いても遠さは同じだ——そとへ出ても中へひつこんでも道の惡いに變りはない。 あいつこゝにゐるかと思ふとそこにゐる。どつちを振向いてもあいつはゐる。 外へ出たと思ふと、もう輪の中に入つてゐる——お前は誰だ。名を名乘れ。正體を見せろ。 何物だ、貴樣は。 聲 くね〜入道。 ペール・ギュント〔そこらを手さぐりにして〕 死んでもゐない、生きてもゐない。どこからどこまでぬる〜して煙のやうに取止めもない。 形といふだけのものもない。 これではまるで、半分寢呆けたまゝ縺《もつ》れ合つてゐる熊の群の中で戰ふよりももつと惡い。 〔叫ぶ〕やい、おれに向つて來い。どうだ、出來るか。 聲 くね〜入道は氣違ではないよ。 ペール・ギュント 打つてかゝれ。 聲 くね〜入道は人は打たない。 ペール・ギュント 戰へ。戰はんか。 聲 くね〜入道は征服する、だが戰はない。 ペール・ギュント かうなると小人でも出て、つねつてくれてもいゝ。 ほんの赤ん坊の小鬼でも相手にしたい位だ。何か喧嘩の相手があればいゝ。 それがまるで何もないのだ——このとほりもう鼾《いびき》をかいてゐる。 起きろ、くね〜入道。 聲 何をしようといふのだ。 ペール・ギュント 力を出せよ。 聲 くね〜入道は敢へて爭はずに征服して行くのだ。 ペール・ギュント〔自分の腕や手を噛みながら〕 爪でも齒でもおれの肉にしつかり噛みついてくれ。 かうなると自分のあつい血の臭ひでも嗅がずにはゐられない。 大きな鳥が羽ばたきするやうな音が聞える。 鳥の叫び聲 あいつはまいつたか、くね〜入道。 聲 あゝ、追ひ〜によ。 鳥の叫び聲 妹たちはみんな遠方へ行つてゐる。みんな約束の場所に集らせよう。 ペール・ギュント おれを救ふなら早くしなければ駄目だ。さう下を向いて考へ顏をしてゐては駄目だ。 お前のその曲つた鍵をあいつの目の中にいきなりつつこむのだ。 鳥の叫び聲 のぼせてゐるね。 聲 もうこつちのものだ。 鳥の叫び聲 妹たち、大急ぎだ。 ペール・ギュント こんな氣苦勞の多い爭ひをしたあげくで命を賣るとは、こんな合はない賣物はないぞ。〔倒れる〕 鳥の叫び聲 それ〜、くね〜入道、倒れたぞ。つかまへろ。つかまへろ。 鐘の音、讚美歌の聲、遠方で聞える。 くね〜入道〔見る〜泡のやうに消えて行く。消えながら喘ぐやうな聲で叫ぶ〕 どうもこの男は手にあまつた。何しろ女が後ろについてゐるからなあ。 日の出。山中。オーセの小屋の前。扉はしまつてゐる。見る限り寂しく荒れてゐる。 ペール・ギュント、小屋の壁にもたれて眠つてゐる。 ペール・ギュント〔目を覺ます。鈍い、だるさうな目をしてそこらを見廻す。つばを吐く〕 あゝ鰊《にしん》の鹽漬がたべたいなあ。〔またつばを吐く。その途端ヘルガ、たべ物を入れた籠を持つて來る〕 おや、お前かい、何をさがしてゐるのだね。 ヘルガ ソルウェイクねえさん。 ペール・ギュント〔跳び上がりながら〕 あの人はどこにゐる。 ヘルガ 小屋の向ふに。 ソルウェイク〔姿は見せずに〕 傍へ寄るとわたし駈け出しますよ。 ペール・ギュント〔立止まりながら〕 きつとお前、腕づくでつかまへると思つてゐるのだね。 ソルウェイク みつともないわ。 ペール・ギュント ゆうべおれはどこへ行つてゐたと思ふ——それはまるで馬蠅のやうに、 鬼の王の娘がおれを追つかけまはしたのだ。 ソルウェイク ぢやあ、鐘をがん〜鳴らしたのはよかつたのでせう。 ペール・ギュント どうして、ペール・ギュントは奴らに引廻はされるやうな若者ではない——なあそうぢやないか。 ヘルガ〔叫びながら〕 あら、ねえさんが駈出して行くわ。〔跡を追つて駈けて行く〕 ペール・ギュント〔ヘルガの手をつかまへて〕 ごらん、ほら、かくしの中に入つてゐるものを。ね、銀のボタンだ。 これをお前に上げるからね——その代りたゞわたしの口上を傳へておくれ。 ヘルガ 放してよう。放してよう。 ペール・ギュント ほら上げたよ。 ヘルガ 放して頂戴よ。たべ物の籠があるのだから。 ペール・ギュント お前はいゝ子だからな—— ヘルガ わたし、こはいわ。 ペール・ギュント〔やさしくヘルガを放して〕 わたしのいふことはたゞこれだけだ。ねえさんにいつて、 決してわたしを忘れておくれでないといふのだよ。 ヘルガ駈出して行く。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/28 ペール・ギュント : 第三幕 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 松林の奧。灰色の秋の天候。雪が降つてゐる。 ペール・ギュントは腕まくりをして木を切倒してゐる。 ペール・ギュント〔ねぢくれた枝の生えた大きな松の木を切りながら〕 うん、貴樣はほんとに頑丈だな。昔ながら無愛想者だ。けれどもいくら頑張つたところでみんなもう無駄だ。 もうぢき切倒されてしまふのだから。 また松の木を伐る。 お前が鎖帷子《くさりかたびら》を着こんでゐることはわたしのもよくわかつてゐるのだ。 大して丈夫でないやうだつたら、それまで切りぬいてやるぞ。——うん。うん。 ねぢくれた腕を震はしてゐるな。お前にも怨んだり腹を立てたりするだけの頭の働きはあるんだな。 だが、どのみちお前は降參しなければならないのだ—— 急に仕事をやめて。 冗談ぢやない。こいつは古ぼけた木にすぎないぢやないか。冗談ぢやない。 鎧を着こんだ、無愛想者どころか、たかがひびだらけのただ山松の木なんぢやないか。 つまらない。——この木を伐るといふやつは、樂な仕事ぢやないな。 だがお前も亦木を伐つたり夢を見たり、とんだ氣違ひじみたわるいしやれだぞ。 わたしはもうやまてしまふんだ——こんな霧の中に住むなんてことは。 そしてお前の空想は夢の中に流し去つて確《しつか》りと目ざめるんだ。 ——やい、法外人め。お前は森に生れつくやうに呪はれてゐるんだ。 暫らく忙がしさうに木を伐る。 うん、全くお前は法外人だよ。今ぢやお前の爲にお膳立てをして御飯を持つて來てくれるおつかさんもあるまい。 食ひたい時はお前が自分で何でもしなければならないのだ。 お前は一日分の食糧を森や流れからなまのまんま持つて來る。そして自分で焚きつけを裂き取つて、 自分で火を焚きつけ、そこらをかけずり廻つておろんなものを拵へたり整へたりしなければならないのだ。 暖かく着物を着たいと思へば、自分でこつそり鹿を捕へに行かなけりやならないし、 家を建てたいと思へば、自分で石を切らなけりやならないし、 壁を作りたいと思へば自分で丸太を切り倒して建築場へ肩にかついで運んで來なければならないのだ。—— 斧をだらりとさげたまゝ、まつすぐに前方を見つめる。 家はすばらしいものを建ててやらう。塔や風見を屋根の棟から高くみごとに聳え立たせよう。 それから破風の上のかざりにはお臍から下は魚のやうな形をした人魚を彫つてやらう。 風見と戸口の錠前は眞鍮にしてやらう。硝子もぜひ使つてやらなくちやならない。 通りすがりの他國の人たちに、あの小山の※※[注:二字不明。中腹か?]できら〜輝いてゐるのは何だらうと、 びつくりして尋ねさせずにはおかないやうにしてやるんだ。 とんでもねえ話だ。またでたらめを始めるよ。お前はほんとに法外人だよ。 せつせと木を伐る。 木の皮を葺いたほつたて小屋で雨や霜を防ぐには澤山だ。 木を見上げる。 やあもうふら〜して立つてゐるな。そらもう一息だ。さうすればこいつはひつくり返つて、 地びたに倒れて、みつちり生えてゐる下木が周りで震ひ戰《おのゝ》くといふ寸法だ。 木の幹から小枝を伐り初める。ぢつと動かずに斧をぶらさげたまま立つてゐる。 誰かわたしの後をつけて來たものがあるな。——きつとお前のやうな奴だらう。 おいぼれたヘグスタットの無愛想者——わるくおれにからかはうと言ふのかね。 木のうしろに蹲つて木越しに覗いて見る。 若造だ。たつた一人きりだ。びく〜してゐたがるやうだ。 あいつが上着の下に隱してゐるのは何だらう。鎌だ。 立止まつてあたりを見廻してゐるな。——やあ、手を垣根の手摺の平なところへのせたぞ。 今度どうしようと言ふんだらう。何だつてあんなに體を曲げてゐるんだらうな——。 お、お、おや。指を一本切つちまつたぞ。まる〜一本切つてしまやがつた。 ——牡牛のやうに血を流してゐるな。——今度はぼろに拳《こぶし》を包んで行つてしまつたぞ。 起きあがる。 何てひどいことをする若造だ。かけ代へのない指一本だ。すつかり切取つてしまやがつた。 誰も無理にさせもしないのにな。ほう、今思ひ出した。 たゞあゝやつていやな徴兵を逃れやうと言ふんだな。それに違ひない。 みんなあいつを兵役に就かせようとしてゐたのだな、 そして勿論あの若造は兵隊が嫌ひだつたんだ。——でも切つて取つちまふとは——。 思ひ切つて切り離してしまふとは——。まあ、さう考へて——たいと思つて—— おまけにいよ〜やる氣になつて——でもほんたうにそれをやる——。 いや、とてもわたしには解せないことだ。 少し頭を振る。それからまた仕事に取りかゝる。 オーセの家の一間。何といふことなしに取散らしてある。 箱はあけたまゝになつてゐる。道具はそこらに取散らしたまゝでゐる。 一匹の猫が寢臺の上に寢てゐる。オーセと小前百姓の上さんがせつせと荷造りをしてゐる。 オーセ〔片隅に駈けて行つて〕 カリさん、こゝへお出でよ。 カリ どうしたの。 オーセ〔片隅で〕 こゝへお出でよ——どこにある。どこへ行けばある——どこにあるかいつて下さい。 でもわたし何を探してゐたんだつけ。わたしどうかしてゐるのだよ。箱の鍵はどうしたらう。 カリ 鍵穴にさしてある。 オーセ あのごろ〜いふ音は何だ。 カリ ヘーグスタットへ向ふ一ばんおそい荷車だ。 オーセ〔泣きながら〕 あゝわたしもどうか黒い箱でおくり出してもらひたい。あゝ人間は飽くまで生きて行かなければならないのだ。 神さま、わたくしをお哀れみ下さいまし。家中は荒れはてゝゐます。 ヘーグスタットの若者たちがせめて殘して行つたものを、こんどは執行吏が持つて行つた。 それは背中にかけた着物まで剥がして行つた。あゝそんなひどい裁判をした人逹、 ひどいめに逢ふがいゝ。〔寢臺の片端に腰かける〕地所も田畑もない貧乏人になつた。 あのぢいさんも因業だが法律は輪をかけて因業だ。——誰もわたしにかまつてくれるものもない、 情をかけるものもない、ペールは行つてしまふし、一人だつて相談相手になるものはないのだ。 カリ でもここには、この家にはお前さんが死ぬまでゐられるのだよ。 オーセ あゝ猫もわたしも人さまのお慈悲で命をつないでゐるのだ。 カリ いやはや、氣の毒なおつかさん、あのペールでは隨分高い代金をはらはせられた。 オーセ ペールだつて。どうしてお前さん、ちつとどうかしてゐるのだよ。 イングリッドだつてあゝして家へ歸つて來てくれたのが、つまり一向惡いことではありはしない。 いつそ惡魔にすがる方がよかつたのかもしれぬ。あの子は罪人だ。さうとも、 外の誰が罪人なものか。かはいさうなあの子を碌でもないけだものが迷はしたのだ。 カリ わたしお坊さんにいつて置く方がよくはないかしら。 どうもお前さんは自分で思つてゐるよりもずつと惡いやうだからね。 オーセ お坊さんの處へ。成程わたしもさう考へたところだ。〔ふと立上がる〕 でも、あゝ、わたしには出來ません。わたしはあの子の本當の母親だ。 あれを助けること位出來なくてはならない。もう世間の人皆あれに叛《そむ》いてしまつても、 わたしだけは出來るだけしてやらなければならない。 あれのためにこの上着だけ置いて行つた、これを繕はなくてはならに。 わたしはせめて毛皮の敷物でもとつてやりたかつたと思ふ。 長靴下はどうしたらう。 カリ あすこの襤褸《ぼろ》の中に埋まつてゐます。 オーセ〔かきまはしながら〕 はてな、ここに何があるのかしら。カリさん。これは鑄物の廢れ者さ。 これを使つてあの子はボタン作りのまねもやるだらう。鎔かして、鑄形に鑄て、 それから踏んづけることだらう。或時、——この家で客をしたことがある—— そこへあの子がはいつて來て、おやぢさんに錫の塊をねだつた。ジョンのいふに、錫はない。 クリスチャン王の貨幣ならある。銀貨だぞ。貴樣がジョン・ギュントの息子だといふところも見せるのだな。 やれ〜ジョン、あれも困つた人さ。何しろ醉つぱらつてゐたのだからね、 さうなれば錫だらうが金だらうが見さかひはありましない。 ここに、長靴下がある、やれ〜孔だらけだ。これはかゞらなければならないのだよ。 カリ あゝ、これはならないとも。 オーセ これをすましたら、わたしは寢床へはいらなきてはならない。 どうも體ががく〜して、ひどくぐあひが惡いやうだから——。 〔うれしさうに〕ねえ、カリさん、毛のシャツが二枚。あれだけは見おとして行つたよ。 カリ まつたくね。 オーセ ちよつともうけたね。一枚だけわきへどけておいておくれ。いや、それとも、 二枚ながらとり上げておかうよ。——あの子の着てゐるシャツはいかにも薄いし、破れてゐるからね。 カリ でもをばさん、罪になりはしないかしら。 オーセ それはさうさ、でも坊さんはこの罪にしても、外のわたし逹の罪にしても、 お情をかけて下さるのだよ。 森の中の新しく建てた移住者の小屋の前。扉の上に馴鹿の角が一つかゝつてゐる。 雪が小屋のまはりに深く積つてゐる。夕方の事。 ペール・ギュント扉の外に立つて、大きな貫木を扉にうちつけてゐる。 ペール・ギュント〔時々笑ひながら〕 貫木《かんぬき》をしつかりかつて置かなくてはならない。 しつかり扉《と》に貫木をうちつけて、氣違やいろ〜な男や女が入れないやうにして置かなければならない。 しつかりと貫木をかつて置かなくてはならない。意地惡の小鬼どもが入り込まないやうに用心しなければならない ——あいつらは暗くなるとやつて來る。扉《と》を叩いたりこと〜いはせたりする。扉をあけろ、ペール・ギュント、 おれたちは思想のやうにす早いのだ。寢床の下にも這ひ込むし、灰の中をも掻きまはす、 煙出しの穴をくゞつて、火の目をした龍のやうにする〜とおりて行く。 へゝん、ペール・ギュント、そんな材木や板きれで意地の惡い小鬼のやうな思想がしめ出せると思ふか。 ソルウェイク雪靴をはいて、枯草を踏んで出て來る。頭の上にショールをかぶつて、 手に荷物を一つ持つてゐる。 ソルウェイク ようごせいが出ますこと。わたしお追返さないで下さいまし。 あなたはわたしにこゝまで來いとおいひつけになつたのでせう。 ですから置いて頂きますわ。 ペール・ギュント やあソルウェイクか。ありさうにもないことだ。だが全くお前だ—— それでお前わたしの傍へ來るのが恐ろしくはないのか。 ソルウェイク あなたは一度ヘルガにことづけておよこしになりましたわね。 二度めのことづけは嵐がもつて來ました。あなたのおかあさんがお話しになつたことも、 そつくり夢の中でわたしの所へ傳はりました。寢苦しい夜、 空虚な寂しい晝が便りを傳へ〜したあげく、こんどわたしが來るやに[注:來るやうに?]なつたのです。 もう命の火が消えてしまつたやうに思はれます、もう心の底から笑ふことも泣くこともありません。 あなたがどんなに考へていらつしやるか、よくわたしには分りません。けれどわたしがすべきこと、 しなければならないことはよく分つてゐます。 ペール・ギュント でもお前のおとうさんは。 ソルウェイク この神さまの廣い世界の中に、わたしはもうとうさんともかあさんとも呼べる人がないのです。 わたしはあの人たちみんなから離れました。 ペール・ギュント ソルウェイク、お前わたしのところへわざ〜來たのかい。 ソルウェイク えゝ、あなたのところへだけ來たのです。あなたはわたしにとつて一切でなくてはならないのです。 お友逹でもあり慰め手にもなつてもらはなければなりません。〔泣きながら〕 何より惡いことは、小さい妹を置いて來たことでした——でもおとうさんから別れたのはずつと惡いことでした。 わたしを生んでくれた人と別れたといふことはまたその上に惡いことでした—— あゝ神さま、お許し下さいまし、あの人たちみんなから、もうもんなから別れた悲しみこと、 一ばん惡い一ばん辛いことでした。 ペール・ギュント それにお前、この春起つた災難は知つてゐるだらうね。あの一件でわたしは田地も財産も取り上げられてしまつた。 ソルウェイク 財産だの田地だの品物なんぞのことをあなたはおつしやるけれど、 わたしはいとしい人たちが踏んで來た道をふりすてゝ來たのですよ。 ペール・ギュント それからお前今の境遇を知つてゐるか。一足この森の外へ出れば誰かに出會ふが最後、 わたしは否應なしにつかまへられるのだ。 ソルウェイク わたしは雪靴で駈けて來ました。途中で道をたづねると、 みんなお前はどこへ行くといひました。家へ歸りますとわたしは答へました。 ペール・ギュント ぢやもう釘も板もしちりけつぱいだ。もう小鬼やお化の心配のために垣根を結《ゆ》ふ必要はない。 お前が小屋の主と一緒に住まつてくれるつもりなら、お蔭でこの小屋も禍《わざは》ひから淨められるといふものだ。 ソルウェイク。顏を見せておくれ。そんな近くでなく。まあわたしの顏を見てくれ。 あゝでもお前は明るい純潔な顏をしてゐるね。どれ抱へさしておくれ。 あゝでもお前はきやしやで輕いなあ。ソルウェイク、一緒にゐようね。 わたしは決して飽きないよ。お前をけがすやうなことはしないよ。 かう兩手を伸ばしてしつかりとお前を抱へてやる、やさしい情の深いお前のことだもの、 あゝお前を傍へ引寄せることが出來ようとは誰だつて考へたものはあるまい—— あゝでもわたしは晝は一日夜は夜通しお前に會ひたいとばかり思つてゐた。 さあこのとほり樹を伐つて家を作つたりしてゐたが、もうそれもやめよう。 みつともない下等な話だ。—— ソルウェイク それが下等であらうと立派であらうと——とにかくこゝはわたしの氣に入りました。 風が齒を噛ひしばつても息は却つて輕くつけます。山をおりるともうそこは空氣がないやうに、 息がつまるやうに思ひます。わたしをこゝまで追上げたのも、 一つは山の下に居づらかつた爲でした。でもこゝでは頭の上で樅の枝がごう〜音を立てゝゐても、 何といふ靜かな歌ふやうな景色でせう——こゝにゐると自分の家に歸つてゐるやうな氣がします。 ペール・ギュント それはほんたうかい。一生それは變らないかい。 ソルウェイク わたしの踏んで來た道をもう一度引返さうとは思ひません。 ペール・ギュント ぢやあお前はわたしのものだ。お入り。家の中で顏を見よう。さあお入り。 わたしは焚きつけにする樅の木の根をひろつて來なければならない。 火を暖くして明りを明るくしなければならない。お前が靜かに腰をかけてゐて、 寒さを感じるやうなことはけつしてさせないつもりだ。 扉をあける。ソルウェイク中へ入る。ペール・ギュントはしばらく立つてゐたが、 やがてうれしまぎれに高笑ひをして、空に跳びあがる。 ペール・ギュント 王樣の娘が來た。とう〜わたしは見つけて手に入れた。へゝ、 これではいよ〜御殿を立派に建てなければなるまい。 彼は斧を取上げて出て行かうとする。その途端年寄じみた女、 ぼろ〜になつた緑色の上着を着て林の中から出て來る。 醜い豚のやうな子供が手に酒甕を持つて、彼女の裾につかまりながら跛をひきひきついて來る。 女 今晩は、輕い足のペールさん。 ペール・ギュント 何だ。誰が來たのだ。 女 昔なじみですよ、ペール・ギュントさん。宅は近所ですからね。 お隣り同志といふわけです。 ペール・ギュント いやはや。これは知らなかつた。 女 あなたのも小屋を新築したのでせう。うちもやはりさうですよ。 ペール・ギュント〔行きかけて〕 わたしは急ぐから—— 女 えゝ、それはあなたはいつもさうですね。でもわたしはあなたの跡を追ひまはして、 やつとつかまつたのですもの。 ペール・ギュント お上さん、思ひちがひをしてゐるのだよ。 女 わたし先はさうでした。あなたがいろ〜と結構な約束をなすつた時分には。 ペール・ギュント 約束だと——何をとんでもない馬鹿なことをいふのだ。 女 あなたはわたしのおとうさんとお酒を飮んだあの晩のことを忘れたのですか、ほんたうに忘れたのですか—— ペール・ギュント わたしはつい知らないことは覺えてゐないよ。お前さんのくどくいふそれは何だい。 この前いつお前さんに會つたといふのだ。 女 わたしたちが會つたのは一ばん初めで一ばん終りでした。〔子供に〕 お前のおとうさんにお酒をおあげ。きつとのどが乾いてゐらつしやるのだから。 ペール・ギュント おとうさんだと、お上さん、醉つてゐるのだね。お前さん、あの子を何といつたつけ—— 女 どうもあの子の體の皮で豚だといふことはよくご存じだらうと思ひますがね。 はてさてあなたの目はどこにあるのでせう。ごらんなさい、あの子の足はびつこをひいてゐます、 それはちやうどあなたの心がやはりびつこをひいてゐると同樣です。 ペール・ギュント お前さん、ぢやあわたしを何だと—— 女 あなたは逃げるつもりですか—— ペール・ギュント この脛《すね》長小僧が—— 女 この子は早く育つたのですよ。 ペール・ギュント この小化物、わたしを父親扱ひにするか—— 女 まあさペール・ギュントさん、あなたは牡牛のやうに亂暴ですね。〔泣きながら〕 わたしがあの時山道や草原であなたに誘惑された時のやうにいまではもう美しくはないとして、 それはわたしのせゐでせうか。去年の秋お産した時に、惡魔がわたしの背中をつかんで引んまげたのです。 でも前のやうに美しいわたしを見たいとお思ひなら、それはほんのたゞあすこにゐる娘さんを扉の外へ突出して、 もうあの人のことはきれいさつぱり目にも入れず、心にも思はないやうにすればいい—— えゝ、それだけでいゝのです。間もなくこの厭な子だつて何でもなくなつてしまひます。 ペール・ギュント 行つてしまへ、魔女め。 女 よし、その代りどうするか—— ペール・ギュント 貴樣の頭を叩き割るぞ。 女 まあやれるならやつてごらん。へゝ、ペール・ギュントさん、 ぶたれてもこわくはないのよ。もうきつとわたしは一年中毎日缺かさずこゝへ戻つて來る。 扉《と》を少しあけて、お前さんたち二人ゐるところをのぞいてやる。 お前さんがあの娘さんと爐傍《ろばた》に腰をかけてゐれば——いゝかね、 お前さんがやさしくしてゐれば——甘つたるく猫なで聲など出してゐれば—— わたしはずか〜お前さんの傍へ行つて坐つて、わたしにも半座を分けてもらひますといひますよ。 さうなればあの人と、それからわたしが、變りばんこにお前さんを自分のものにするのだよ。 さやうなら、お前さん、あしたにでも結婚式はあげられるよ。 ペール・ギュント 貴樣、地獄の惡魔め。 女 ところでわたしわ忘れてゐたよ。お前さんはお前さんの生ました子供を、 跛さんを育てなければならないよ。小僧さん、お前はおとうさんの方へ行くだらうね。 小僧〔ペール・ギュントにつばを吐きかける〕 畜生、おれの手斧《ちやうな》で切つてやるぞ、待つてゐろ、待つてゐろ。 女〔子供に接吻する〕 まあ何て頭をこの肩の上にのせてゐるのでせう。お前が大人になれば、 いやでもおとうさんの生きた面影はお前さんのほかになくなる。 ペール・ギュント〔ぢだんだを踏みながら〕 あゝ、お前たちはずつと遠方にはなれてゐてそれこそ—— 女 それこそ今かうして近いところにゐる位にね。 ペール・ギュント〔兩手を握つて〕 しかも一切それは—— 女 ほんのはかなく消える思出のためにね。ペールさん、あなたお氣の毒ね。 ペール・ギュント それはほかのもう一人のためにいふことだ——あゝソルウェイク、 わたしの一ばん美しい、謂はゞ純金のやうな娘のために。 女 あゝあゝ、惡魔がいつたよ、無邪氣で何も知らないのもつらいものだとさ。 あの人のおとつつあんが酒を飮んだくれるために、おつかさんがあの人をぶつたとさ。 〔彼女は子供をつれて籔の中に入つて行く。子供壜をペール・ギュントに投げつける〕 ペール・ギュント〔長い沈默の後に〕 くね〜入道は「廻つて行け」と言つたが——なるほどこゝはさうしておかねばなるまい。 ——あゝわたしの金殿玉樓はがら〜ぴしやんと崩れてしまつた。あんなに近くにゐたあの女の廻りにも障壁が出來てしまつて、 何もかも急につまらないものになつてしまつた——わたしの喜びにもかびが生えてしまつた。——廻つて行け、若いの。 お前が障壁やいろんなものを通つてこゝからあの女のところに行ける一本道と言ふのはないのだと言ふことだつたが。 眞すぐに行きぬける道はないか。うん、きつとあるに違ひない筈だ。わたしの考がまちがつてゐないとすれば、 悔ひ改めのお題目を唱へればいゝのだ。が、おや〜これはどうしたことだ。わたしは聖書を持つちやゐないぞ。 たぶんわすれて來たのだらう。この道もない森の中ぢや誰もわたしを迷はぬやうに導いてくれるものはないのだ。—— 悔ひ改めだつて。それを完全にやりとげぬいちに生涯かゝつてしまふだらうさ。 それは定めしうるほひのない生活だらうよ。清らかに可愛らしく輝いてゐるものを打碎いて、 こな〜゛になつた破片をつぎ合せて見たところで何になるんだ。ヴァイオリンならそれもよからうが、 鐘ぢやどうにもしやうがない。緑の芝生を持つてゐたら踏みにぢつてしまはぬやうに氣をつけることだ。 だがあの魔女の鼻のやうな仕事はみんな僞《いつは》りにすぎなかつたのだ。 今となつちやあんな馬鹿げたこともすつかり見えなくなつてしまつたな。 全く去るもの日々に疎《うと》しと言ふわけだらう。でもいろんな考がわたしのうしろからこつそり忍び込んで來るやうだ。 あゝイングリッドよ。あの丘の上でダンスをしてゐたのは三人だつたな。 あいつらも亦わたしたちの仲間にはいりたがることだらう。 怨みのありつたけを言つてイングリッドのやうにわたしの胸に抱かれたり、 優しく差上げたりしてもらひたいとせがむことだらう。廻つて行け、若いの! だがわたしの腕は樅の木の根のやうに又、松の幹のやうに長いとしても—— それでもわたしはまたあの女を清らかに汚れなく描く爲に十分近くへ引きよせたいのだ。—— では出來るだけこゝらを遠廻りをやつて、果して損もしず得もしないか試して見なければならない。 ——こんなことは一つ一つ棄ておいて忘れるやうにしなければだめだ。—— 小屋の方へ數歩行きかけるが、また立止まつてしまふ。 あんなことをした後であの小屋にはいれるのか。あんなに汚れて恥かしいことをしたのに。 今なほ後に山の魔のわい〜連中をつれてはいりこむのか。話してしまはうか、 でも默つてゐたい。白状しようか、だが隱してもおきたい。—— 斧を投げ出す。 今日はお祭の前の晩だ。 わたしにとつてはたとへ今のやうな身でも會合の約束を守ることは神を[さんずい|賣;#1-87-29]《けが》すと言ふものだ。 ソルウェイク〔扉口で〕 いらつしやるの。 ペール・ギュント〔聞えないほどの聲で〕 廻つて行くよ。 ソルウェイク 何ですつて。 ペール・ギュント 待つておいで。暗いからね、少し重いものを持つて行かなければならない。 ソルウェイク お待ちなさい。お手傳ひしますわ、爲事はわけてしなければね。 ペール・ギュント いゝや、そこにゐておくれ。わたし一人で運ぶから。 ソルウェイク でもあんまり遠くへ行かないでね。 ペール・ギュント 辛棒おしよ。わたしの行く道が遠からうと近からうと、待つてゐなければけない。 ソルウェイク〔男が行つたあとでうなづいて見せて〕 えゝ、わたし待つてゐますわ。 ペール・ギュント林の中の道をおりて行く。ソルウェイク半ば開け放した扉口にいつまでも待つてゐる。 オーセの部屋。夕方。部屋は口をあいた爐の中の火光で照らされてゐる。 一匹の猫が寢臺の裾に寢てゐる。オーセ寢臺の上に寢て始終落着きなく兩手で掛物をいぢりちらしてゐる。 オーセ あゝ神さま、あれは來ますでせうか。もう時がだん〜迫つてまゐりました。 わたしは誰も使にやるものがありません。いふことは澤山あります。 あゝそれは隨分ありあまるほどあります。もう一刻も猶豫してはをられません。 こんなにも早くとは、誰がそんなことを思はうぞ。やれ〜情ない、 さうと知つたら、まさかあの子にあゝきびしくはしなかつたらうに。 ペール・ギュント〔入つて來る〕 今晩は。 オーセ あゝ有難うございます、神さま。お前とうとう來たね。 でもよくこの谷間へ顏が出せたねえ。お前の命のあぶないことは承知だらう。 ペール・ギュント あゝ命なんか成るやうに成つて行くさ。どうも顏を見ずにはゐられなかつた。 オーセ あゝ、これでカリもだまつてゐてくれるし、わたしは靜かに出て行かれるのだ。 ペール・ギュント 出て行くと。はてさて何をいつてゐるのだ。どこへ出て行かうといふのだね。 オーセ いやはや、終りが近くなつたのだよ。もうほんの僅かしか時がないのだ。 ペール・ギュント〔苛々しながら部屋の奧の方へ歩いて行く〕 これはどうだ。それではわたしも厄介逃れをしたといふものだ。 少くともこれで自由になつたと思へるのだ——ぢやあおつかさん、手も足も冷たくなつてゐるのかえ。 オーセ あゝペール、もう間もなく一切がすんでしまふのだよ——わたしの目が見えなくなつたらそつと瞑《つぶ》らせておくれ。 それから棺の用意をしてくれなければいけない。それは必ず立派な物にしておくれ。 あゝいや、もうやがて—— ペール・ギュント 落着いておいでなさい、まだその話をする暇はあるから。 オーセ あゝあゝ〔落着きなく部屋中を見廻す〕このとほりやつと殘して置いてくれたものはそれだけだ。 あいつららしいなあ。 ペール・ギュント〔苛々しながら〕 またか。〔とげとげしく〕ふん、それがわたしのせいだといふことはわかつてゐるよ。 それをいひたてたところで何になるのだ。 オーセ お前のせいだと。何のあれは惡い酒の祟りで、かういふ禍《わざは》ひがすべて起つたのだ。 ねえお前はお酒を飮んでたらう。それでは何をしたか自分でもわかるものではない。 それにお前は馴鹿《となかい》に乘つて來たあとだつた。お前の頭がどうかしてゐたのも不思議はないよ。 ペール・ギュント うん、うん、もうその話は澤山だ。一切この事件は澤山だ。 まあ何でも厭なことはいつかのまたの日までそつとおあづけにして置くことだ。 〔寢臺の端に腰をかける〕ところでおつかさん、話をしよう。 だがあれことと取止めない世間話だよ。何でもいやなこと面倒なうるさいことは忘れるのだ—— はてこれはしたり昔のまゝの古猫だな。ぢやあこいつはまだ生きてゐたのか。 オーセ これもこの頃は毎晩のやうにひどく啼きたてゝなあ。それがどういふ前兆だと思ふかい。 ペール・ギュント〔題目を變へて〕 何かこの村に變つた話があるかね。 オーセ〔微笑しながら〕 何でもどこかに一人、山の方へ行きたがつてゐる娘があるといふ噂だよ。 ペール・ギュント〔早口に〕 モーエンの氣違は不承してゐるのかい。 オーセ 何でもあの子は年寄たちの涙半分に頼むのもてんで聞き入れないといふ話だ。 お前もちよいと顏位出して何かいつてやる義理はあるね。—— きつとお前だとどうかなるかも知れない。 ペール・ギュント 鍛冶屋は、あいつはどうしてゐるだらう。 オーセ あの惡黨のことはおいひでない。わたしやあの子の名をいつて聞かせたいのだよ。 あの娘の名をね—— ペール・ギュント いや、あれかこれかほんの世話話をしようといふのだ——何でもいやなつらいこと、 うるさい面倒なことは忘れてしまふのだ。のどが乾いてゐるか、水を持つて來てやらうか。 手足は伸ばせるか、寢臺が小さいなあ。はてな——何だかこれはわたしが子供の時分に使つた寢臺らしい、 あゝおつかさん、毎晩のやうに寢臺のわきに坐つて毛の蒲團をかけてくれて、 いろんな歌をうたつてくれたことを覺えてゐるかえ。 オーセ あゝお前も覺えておいでかい。それからおとうさんが外國へ行つてお出での時分に橇の遊びをしたつけね。 蒲團が橇の代りになつて、床が氷の張つた入江になつた。 ペール・ギュント あゝやはり一ばん面白かつたのは、おつかさん、覺えてゐるか知らん。 氣ちがい馬に乘るのが一ばん面白かつたぜ—— オーセ あゝわたしが忘れたと思つておいでかい。あれはカリの猫をうちで借りたのだよ。 あれを樽の上にのせたのだよ。 ペール・ギュント お月さまの西のお城にも、お日さまの東のお城にも、ソーリヤ・モーリヤのお城にも、 道はでこぼこについてゐた。戸棚の中で棒を見つけるとそれを鞭の代りにした。 オーセ それは大威張りでわたしは箱の上に跨《また》がつてゐたものさ。 ペール・ギュント うん〜。おつかさんは手綱をだぶ〜に持つて、行く途中あつちを向いたりこつちを向いたり、 わたしに寒くはないかつて聞いたものだ。あゝほんたうにこのみつともないおばあさんのおつかさんが ——でもいつもやさしくしてくれたねえ——どこか痛いかえ。 オーセ 板が堅いものだから背中が痛いよ。 ペール・ギュント 手足を伸ばしてごらん、抱いてあげるから、ほらそつと、それで寢てゐるのだよ。 オーセ〔落着かずに〕 いゝえ、ペール、わたしは動きたいのだ。 ペール・ギュント 動く。 オーセ あゝ、動くのさ。始終そうしたいのだよ。 ペール・ギュント 馬鹿なことをいつてはいけない。掛物をおかけ。こゝの床のわきに坐つてゐてあげる。 ほらかうしていろんな歌をうたつて晩を短かくしてあげるから。 オーセ それよりか戸棚からお祈りの本を出しておくれ。 わたしは何だか心が落着かない。 ペール・ギュント ソーリヤ・モーリヤのお城で王子が宴會をなさるよ。 橇の蒲團の上におつかさんはおやすみなさい。草原を越してお城までつれて行つてあげるから。 オーセ でもペール、わたしはお城へよばれてゐるのかい。 ペール・ギュント それは二人とも呼ばれてゐるのだからね。〔一本の絲を猫の寢てゐる椅子の背中にぐる〜まいて、 一本の棒を取り寢臺の裾に腰をかける〕しい〜。黒、走るのだぞ。おつかさん、寒くはないか。 うん、うん、足音で知れる、グラネー(傳説の英雄ジグルトの乘つた駿馬)があるき出すと。 オーセ おやペール、あのりん〜鳴るのは何だい。—— ペール・ギュント 橇の鈴ですよ。 オーセ あゝ大へん、ひどい道ではないか。 ペール・ギュント 入江の上を走つてゐるのですよ。 オーセ こはいねえ。あのとほり竒妙な荒つぽい聲で、ざわ〜いつたり溜息をついたりするのは何だらう。 ペール・ギュント あれは原の上で松の樹が鳴るのです。靜かに坐つておいでなさい。 オーセ こんどは遠方にきら〜光るものがある。あの火はどこから來るのだらう。 ペール・ギュント お城の窓や扉口《とぐち》から洩れる火ですよ。ほら聞えませんか、 みんなが舞踏してゐるのが。 オーセ あゝ。 ペール・ギュント 扉の外にペトロ聖者が立つてゐて、あなたにお入りなさいといつてゐます。 オーセ あの人わたしたちに挨拶したかい。 ペール・ギュント 丁寧にしました。そしておいしい葡萄酒をついでくれました。 オーセ 葡萄酒を。それからお菓子はどうだね。 ペール・ギュント お菓子ですと。えゝ皿の上に山のやうに盛つてあります。 そして牧師のお上さんがあなたのためにコーヒーとデセールをこしらへてゐますよ。 オーセ あゝ有難い、わたしたち二人一緒に行けるのかい。 ペール・ギュント それはあなたの自由です。 オーセ あゝペール、お前のお蔭で大へんうきうきして來たよ。 ペール・ギュント〔鞭をならしながら〕 しい〜、さあ走れ、黒よ。 ペール・ギュント ペール、路は大丈夫かえ。 ペール・ギュント〔また鞭をならしながら〕 えゝ、路は廣いのですよ。 オーセ この旅でわたしは隨分くたびれた。 ペール・ギュント もうお城はすぐ目の前です。橇の旅行も間もなくおしまひになりますよ。 オーセ ぢやあわたしは仰向けに寢て目を瞑《つぶ》りませう。もうお前あとは一切まかせるよ。 ペール・ギュント さあ、どん〜゛飛ばせ、駿馬のグラネー。お城には大そう人が群がつてゐるぞ。 みんな門口の方へ騷いでうごめいてゐるな。ペール・ギュントとそのおふくろ樣のおいでだぞ。 どうお考へですね、ペトロ聖者さん。おつかさんははいつてはいけないかね。 ほんとにこんな正直な、年をとつた魂を見つけるまでは、 よつぽど長く搜さなければならないよ。自分で自分のことは言ひたくないが、 わたしはお城の門の處で引つかへしてもよいのだ。 でもお前さんがもてなして下さると言ふなら、ありがたくそれを頂かう。 もしさうでないのならお望みの儘にわたしはさつさと歸つて行くよ。 わたしは説教壇の卓の所にゐる惡魔のやうに澤山の嘘、僞《いつは》りをしでかしたものさ。 そして自分のおふくろのことを牝鷄だなんて言つたこともあるのさ。 おふくろはいつもクツクツ、コツコツ言つてゐたからね。 しかしお前さんはわたしのおつかさんを敬ひ尊ばなければいけないよ。 そしてほんとに氣樂にしてあげておくれよ。今ぢや教區から誰もおつかさんをぶちに來るものもあるまい。 ——おや〜、あすこに父なる神がおいでになつたぞ。ペトロ聖者さん。 それではお前さんはもうおはいりか。 沈痛な聲を出して。 「君よ、もつたいぶつて守衞じみた樣子はやめにして、わが母オーセを自由に入らしめ給へ。 聲高く笑ふ。そして母親の方に向き直る。 やれ〜、わたしは何がはじまるかわからなかつたのですね。 今度は人々はちがつた調子で踊つてゐますよ。 不安さうに。 おや、まあ何だつてそんなどんよりした眼をしてゐるんですか。おつかさん。 氣でも狂つたんぢやありませんか—— 寢臺の頭の方へ行く。 さうやつて寢てゐてはいけませんよ。そんなにじつと見つめては——。 何とか言つて下さいよ、おつかさんわたしですよ。あなたの倅《せがれ》ですよ。 母親の額と手を注意深くさはつて見る。それから椅子についた紐を投げ出してひそかに言ふ。 さう、さう。——もうお前は休んでも差支へないのだよ。グラネーや、やつと今旅は終つたのだから。 母親の眼を閉ぢて、なきながらその上にかゞむ。 今日までのことを殘らずお禮を言ひますよ、おつかさん。 あなたの折檻にも子守歌にもね。——けれどもおつかさんはわたしにも禮を言はなくちやいけませんよ。 今となつては—— 頬を母親の口に押しあてる。 さあ。これが馭者へのお駄賃だ。 小前百姓の女房〔はいつて來ながら〕 おや、どうしたの。ペールさんか。あゝ、ではいよ〜わたしたちは不幸のどん底まで來たといふものだね。 やれ〜、でもおつかさんはぐつすりおやすみだね。——いや、それとももしや—— ペール・ギュント しつ。死んだのだよ。 カリは死體の傍で泣く。ペール・ギュントは暫らく部屋を行つたり來たりしてゐる。 とう〜寢臺の側に足を止める。 ペール・ギュント どうかおつかさんのお葬式を相當にして出して下さい。 わたしはすぐここから立たなければならない。 カリ 遠方へおでかけかね。 ペール・ギュント 海の方へ。 カリ まあそんな遠方へ。 ペール・ギュント うん、まだもつと〜その先までも。 出て行く。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/28 ペール・ギュント : 第四幕 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- モロッコの南西海岸。椰子林。日除けをした下に蓆を地面に敷いて饗宴の卓が準備されてゐる。 林の奧にハンモックが幾つか釣つてある。沖合に蒸氣ヨット一艘、 ノルウェイとアメリカの國旗を飜したのが碇泊してゐる。一艘の小型ボートが濱の上に引上げられてゐる。日沒頃。 ペール・ギュント、立派な中年の紳士になつて、洒落た旅行服、金縁の二重眼鏡をチョッキからぶら下げて、 卓の端の主人席に立つて挨拶をしてゐる。コットン氏、バロン氏、 フォンエーベルコップ氏及びトルームペーテル[・]ストローレ氏食卓に向つてちやうど食事を終つた體である。 ペール・ギュント どうぞ諸君召上つて下さい。そも〜人間は歡樂をつくすために生れて來たものといたしますれば、 進んで歡樂の底まで十二分に味はひつくすべきものであります。 諺に曰く、なくしたものはなくした物、過ぎたことは過ぎこと——といかゞでございます、何かお一つ。 トルームペーテル[・]ストローレ ペール君、あなたは實に申分のない御主人公振りですな。 ペール・ギュント その御賞讚は謹んでわたしの金力と料理番や給仕に分けてやることにいたしませう。 コットン氏 Very nice(大ひに結構)そのお四人のために一ぱいくまうではありませんか。 バロン氏 Monsieu《ムシユウ》、あなたは今日Gar[c,]on(男やもめ)の仲間に屬する人としては稀に見るところのGout《グー》(趣味) 乃至Ton(氣品)を持つておいでになる。一個の——えゝ一個の——さあ何といふか—— フォン・エーベルコップ 氣息ですな。要するに靈魂の闇を破る光明であり、一個の汎世界主義者、區々たる偏見に煩はされず、 常に雲霧の外に立つて大觀する逹識の人であります。 さうしてこの三部曲を完成するものはこれ超人的なUr-natur《ウル・ナツール》(原始自然)そのものであります。 ねえ、ムッシウ、君のいふ意味もさうだらう。Nichit wahr《ニヒト・・ール》(ちがふかね)。 バロン氏 あゝ、まあそんなところさ。たゞフランス語ではそんなに大げさには聞えないがね。 フォン・エーベルコップ Ei was《アイ・ワス》言葉はいかにもごつ〜してゐる——しかし我にしてあくまでも現象の本體を追究して行くならば—— ペール・ギュント それはもう分つてゐます。わたしが結婚しずにゐる理由もそれです。さやう諸君、 事件は徹底的に明白であります。一體人間はどういふ風でなければならないか。 彼自身であれといふのがわたしの正しい答へであります。彼は彼自身と彼のものを顧慮すればよろしい。 それを一個の駄馬となつて、他人の災難や幸福をしよはされてはたまらない。 フォン・エーベルコップ けれどもその自己の内、且自己の爲、主義を徹底させるには隨分苦しい爭鬪が伴ふとわたしは言ひますよ。 ペール・ギュント さうです、そのとほりです。もとはさうでした。けれどいつも堂々と切拔けて來ました。 わたしは一度自分の意志に反して、ほとんど陷穴《おとしあな》に落ちかゝりました。 わたしは快活なしかもきれいな青年でした。それからわたしが心を捧げた女は、その女は、王家の出でした。 バロン氏 王家ですと。 ペール・ギュント〔無造作に〕 どうして、古い家柄の一つでしてね、御承知でもあらうか—— トルームペーテル・ストローレ〔卓をぴしりと叩いて〕 しかも鬼の王族さ。 ペール・ギュント〔肩を聳やかしながら〕 なんでも平民のしみで、彼らの名譽ある一紋章の柄を穢させたくないといふ化石頭の殿下ですよ。 コットン氏 ぢやあとても問題にならないぢやあないのですか。 バロン氏 一家が結婚に反對したのですか。 ペール・ギュント とんでもない事です。 バロン氏 ははあ。 ペール・ギュント〔用心深く〕 ある事情の爲に相手の家族はおいそれとわたしたちを結婚させようとしたのです。 しかし打明けてお話しますと、その結婚は何から何までわたしには氣に入らなかつたのです。 わたしはある點では意地つ張りで、獨立獨行して行くのが好きなのです。 それで養父が言葉に微妙な衣を着せて、わたしが自分の姓名や地位を變へて、 貴族に列するやうにと、その他全く承知出來ないやうな、 澤山の嫌なことも一緒にわたしに要求して來た時、わたしはきれいさつぱりその結婚から手を引いて、 養父の最後通牒をあからさまにつつぱねてやり——また年若い花嫁をことわつてしまひました。 敬虔な樣子をして卓をドンと叩く。 さうですとも、さうですとも、この世にはわれ〜を支配する運命といふものがあるのです。 われ〜哀れな人間はそれに頼ることが出來るのです。この理窟がわかればわれ〜は安堵するやうになります。 バロン氏 それでその事件はおしまひになつたのですか。 ペール・ギュント いえ〜、終るどころではありませんでした。といふのはおせつかいな人たちが、 猛烈に騷ぎ立ててその事件にはいり込んで來たからです。先方の一門の若殿原はもつとも兇惡でしたので、 わたしはそいつら七人を相手に決鬪をやりました。わたしは無事勝利を占めましたが、 その時の事は決して忘れられないのです。わたしの體からは血が流れました。 併し、その血こそわたしの人物の値打を定めてくれました。 そしてそこにさつきお話した運命の賢い支配を心づよくも、證據立ててくれたのでした。 フォン・エーベルコップ そのやうに人生の移り變りを御覽になれば、あなたは向上して思想家の列に伍するやうになりますよ。 われわれ平々凡々な經驗主義の人間が、分散した場面を個々別々に見て、 しまひまで暗中模索をやつてゐるのに、あなたはすべてを一つに纒めて一間の下に見ることが出來るのです。 あなたはすべてのものに一つのnorm《ノルム》(法則)を適用なさる。 一つの哲學の圓光から日光のやうにすべてが輻射するまでに、 あなたはとりとめない處世觀に一々の方向を與へられる。 ——それでもあなたは教育をお受けにならなかつたとおつしやるのですか。 ペール・ギュント すでにお話して來たやうにわたしは全く獨學でやつて來ました。 組織的な教育はまるで受けなかつたのです。けれどもわたしは思考し、 澤山の本を讀みました。わたしが學問をし出した時はいくらか年をとつてからでありましたので、 一頁一頁をこつ〜つゝいて行つたり、すべてを完全に修めたりすることは、容易なことぢやありませんでしたからね。 わたしは拔萃で歴史を學びました、完全に讀む暇はなかつたものですから。 それから、苦しい時には、人間といふものは何か確かなものに信頼したくなるものですが、 わたしは思ひ出したやうに宗教に凝つたものでした。そんな風にしてやつて行くと、 すべてが一層圓滑にはかどつて行くものです。何もかも讀んで呑み込まうとかゝるには及びませんから、 役に立ちさうなものだけをやることですな。 コットン氏 なるほどそれは實際的なやりかただ。 ペール・ギュント〔葉卷に火をつける〕 皆さん、ちよつとまあ大體わたしの經歴をお考へ願ひたい。 一體わたしがこの西部へ來た時はどんな状態だつたでせう。 嚢中無一物の哀れな若造だつたのです。わたしはパンを得んがために苦しい戰ひをしなければならなかつたのでした。 ほんとにもうこれではたまらんと思つた時もよくありました。 けれどもねえ諸君、生きてゐると言ふことはありがたいことでさ。 世の諺にも言ふ通り死は苦痛ですよ。どうです、ほら幸福がわたしに目をかけてくれたのです。 昔なじみの運命もわたしの便宜を計つてくれました。わたしは富み榮えて行きました。 行くとして可ならざるはなしと言ふわけで、わたしはどん〜榮えて行きました。 十年間にしてわたしはヂャールストンの船荷主仲間ではクレースス(ギリシアの昔富榮えた大王) と言ふ名をもらつてしまひました。わたしの評判はと言へば港から港へ四方八方に傳はり、 出る船も出る船も運よく大層なもうけをしたものです。 コットン氏 で何を御商賣になすつておいででした。 ペール・ギュント 重にカロライナに向けては黒坊の奴隸を、支那に向つては偶像を賣り込んでゐました。 バロン氏 Fi done!《フィ・ドン》(ちよッとどうも) トルームペーテル・ストローレ ひどいことだな、ギュント先生。 ペール・ギュント 君逹はわたしの商賣を善惡の境をふみ出してゐるとお考へでせう。 それはわたし自身も痛切に感じたところなのです。わたしはいとはしい仕事だとさへ感じたのです。 けれども實際一度始めて見ると、またと止めるのが骨ですよ。 ともかく何千とと言ふやうな人間を使つてゐる大きな商賣になつて來ると、 斷然全部をやめてしまふといふことは容易なこつちやありませんからな。 その斷然と言ふ奴がわたしの性に合はないのです。だが白状しますが、 別の方面では見す見す結果の知れてゐるものは、何だかいつもわたしをびくつかせてゐた。 物の掟を越えようとすることにはいつも恐れを感じてゐたのです。 おまけにもう老ひ込み始めて五十に手が屆かうとして來るし、 頭の毛はそろそろ白髮《しらが》が混つて來るやうになつたので、 體は如何に丈夫でもかう考へて來ると心細くなつて來たのです。 どんなに早くその時間が來て、陪審官の裁決が行はれて、 羊や山羊をちりぢりに分けてしまふものだか、誰にもわかつてはゐないのですからね。 ぢやわたしはどうすればよかつたのでせう。支那との取引をやめると言ふことはとても不可能でした。 ところがわたしは一計を案じて——直ちに支那と新しい取引を開いたのです。 わたしは春には偶像を船で出し、秋には靴下だの聖書だのラム酒だの米だの必要なものを支給して、 宣教師たちを送り出したのです。—— コットン氏 なるほど、で、もうかりましたか。 ペール・ギュント えゝ、勿論。大した景氣でした。宣教師たちは大膽不敵に働きました。 偶像が賣れる度に宣教師たちは一人の苦力《くりー》まちがひなく洗禮を受けさせました。 それですから結果は相殺になるわけで、傳道の野が荒蕪のままにおかれたことは決してないのです。 賣り込んだ偶像の傳播を宣教師たちがとどめてゐましたから。 コットン氏 なるほど、だがアフリカの商品は。 ペール・ギュント そつちの方も亦わたしの道徳が勝つたと言ふわけなのです。 わたしはあんな商賣を相當年の行つた男がやるのはまちがつたものであることを知りました。 その夢を見てゐる中に墓場にはいりこんでしまひ勝ですよ。 それに博愛傳道隊が掘つた澤山の陷穽《おとしあな》もあれば、 その上勿論この商賣に敵意を持つた海賊船艦もあれば、 さまざまな天候上の危險も伴ふものでした。けれどもかう言つたやうなものがすつかり勝利を占めてしまつたのです。 わたしは考へました。さあ、ペテール、方向をかへろよ、 そして罪亡ぼしを心がけろとね。そこで南の方にある土地を買ひ求めて最後に肉の輸入をやりました。 が、こいつがたま〜當つたのです。その土地の住民共は大そう繁殖し、大そう太つていやにてら〜して來ました。 これでわたしも喜べば土地の人たちも大喜びでした。 實際自慢でもなんでもありませんが、わたしは土地の人たちの父ともなつてやつたと言つても差支へないのです。 ——またさうやることがわたしの利益でもあつたのですが。 それからまたわたしは或共通のniveau《ニヴオー》(水平噐)で道徳を一樣に維持させようと學校をいくつも建ててやつたのです。 そしてその寒暖計がそれより低下しないやうにと嚴重に監視を怠りませんでした。 さて最後にわたしはこんなやうな事業から一切斷然手を引いてしまつたのです。 ——私は耕地全部とそれに附屬した家畜とを一切合際賣拂つてしまひました。 別れに臨んでわたしは大人にも子供にもGratis grog《グラチス・グログ》(一とほりの享樂)はしてやりました。 それですから男も女もみんな醉つぱらひややもめ同樣に、嗅煙草を吸ひました。 それですからわたしは次のやうに信じてゐるのです。—— もし惡をしないことが善なのだと言ふ言葉が無駄口でないとしたら—— わたしの以前の過ちは許されてゐるのです。 そしてわたしは十二分にわたしの徳行でわたしのまちがつた行爲を相殺してゐるわけになるのです。 フォン・エーベルコップ〔ペール・ギュントと杯をかちんと合せながら〕 外界の騷擾に頓着することなく、學説の闇から離れて、 ある主義がそんなにまで則して實行されたことを聞きまするのは、 いかにも心づよく思ふところです。 ペール・ギュント〔その言葉の最中勝手に盃を乾してゐたが〕 われ〜北國の者は如何にして吾人の戰ひをやりとげるか知つてゐます。 處世術の鍵は次のやうに簡單なものなのです。 即ち危險な毒蛇がはいりこまないやうに耳をしつかり閉ぢておくことですな。 コットン氏 その毒蛇とはどんなのを言ふのですか、君。 ペール・ギュント とても挽回出來ないやうに誘惑しようと、狡猾に瞞《だま》くらかす小さな奴を言ふのです。 また盃を傾けながら。 幸福を奪取する神髓、大膽にやつつける神髓は次のやうなところにあるのです。 人生の欺瞞的な罠の中にあつて自由勝手に動ける脚をもつて立つこと、 ——戰ひの日の向ふにもまだ數多くの日が殘つてゐるといふことをしつかり知ること、 ——背後にはいつも退却の爲の橋が殘つてゐるといふことを知ることなどですな。 この理論がわたしを支へてくれたのです。そしてわたしの經歴に光彩を添へてくれたのでした。 この理論を實にわたしは子供時代の家庭から受繼いだので、種族的の賜物と言つてもよいでせう。 バロン氏 あなたはノルウェー人ですか。 ペール・ギュント えゝ、生れはさうです。併し精神上は世界人です。 わたしにこのやうな幸福をもたらしたことをわたしはアメリカに向つてお禮を言はなければなりません。 わたしの豐富なる圖書館はドイツの最近の學校のおかげです。 またフランスからはわたしはチョッキだの禮儀だのびりつとする頓智などを、 ——イギリスからは勤勉な手とわたし自身の利益に對する鋭い感覺とを得ました。 ユダヤ人は「如何にして待つべきか」を教へてくれました。 またわたしはイタリーからdolce far niente《ドルス・ファル・ニエンテ》に對する趣味を受けました。 ——一時危險な場合にはわたしの生涯の度もりを延ばさうとスウェーデンの鐵鋼に頼つたこともありました。 トルームペーテル・ストローレ なるほど、スウェーデンの鐵鋼か—— フォン・エーベルコップ 武噐の支配者は何よりも先づわれ〜の尊敬を博しますからな。 二人はペール・ギュントと盃をかちんと合せて一緒に飮む。ペール・ギュントは葡萄酒に醉ひ始める。 コットン氏 何もかも實際結構です。——しかし、あなた。 あなたがそのお金をどうしようと思つてゐなされるか知りたいもんですな。 ペール・ギュント〔笑ひながら〕 ふん、どうするつて。え。 四人共〔つめよせながら〕 えゝ、聞かせて下さい。 ペール・ギュント よろしい。先づ第一にわたしは旅行しようと思つてゐるのです。 御承知の通りそれが爲めにジブラルタルでわたしの仲間にする爲にあなた方四人を船に乘せた次第ですよ。 わたしは自分の犢《こひつじ[注:こうしの誤り?]》の祭壇のまはりに友人たちの舞踊合唱隊と言つたやうなものがほしかつたのです—— フォン・エーベルコップ 大そう氣がきいてゐますな。 コットン氏 御尤も。だが誰も帆をかけて走るのでなければ帆を揚げるものはありませんからな。 あなたが目的をお持ちになつてゐることはわかりきつてゐますがそれは—— ペール・ギュント 皇帝になるのです。 四人共 何ですつて。 ペール・ギュント〔頷きながら〕 皇帝ですよ。 四人共 どこの。 ペール・ギュント 全世界の。 バロン氏 だがどんな方法でやるんです、君—— ペール・ギュント 金の力でさ。この計畫は何も決して新しいことぢやありませんよ。 それがわたしの一生涯の神髓だつたのです。子供の時でさへわたしは雲に跨がつて遠く海の上を飛び廻つたのを夢で見たのです。 わたしは金飾の鞘刀を持つて翔け昇つたものです。 そしてまたばつたりおつこつて四つんばひに匍ひ廻つたものです。 併し諸君まだわたしの目的は確固たるものです。——どこにあつたのだか覺へてゐませんが、 どこかにこんな本文、まあ文句でも構ひませんがありますね。 もし汝この廣大な全世界を得るとも、汝自身を失はば、汝の得たるところは荊の冠にすぎざるとね。 これは本文です。そしてこの言葉はまじめな眞理です。 フォン・エーベルコップ だがそれではギュント的自我と言ふものは何なのです。 ペール・ギュント このわたしの額の門の背後にある世界、その力によつて神が惡魔でないと同じやうに、 わたしはわたしよりほかの者ぢやないのです。 トルームペーテル・ストローレ わたしは今あなたがどこに眼をつけてゐられるのかわかつて來ました。 バロン氏 崇高なる思想家だ。 フォン・エーベルコップ 高遠なる詩人だ。 ペール・ギュント〔ます〜お調子に乘つて〕 ギュント的自我——それは希望とか願望とかの軍勢です。 ——ギュント的自我、それは空想とか慾求とか主張とかの海です。 短く言へばわたしの胸を盛りあげしめるところのすべてです。 そしてそれによつてわたしはわたしとして存在するのです。 けれども主が自分で世界の神と爲る爲に土を必要としたやうに、 わたしも亦皇帝として振舞はうと言ふには金が必要なのです。 バロン氏 だがあなたはお金をお持ちだ。 ペール・ギュント 十分には持つてはゐません。なるほどリッペ・デットモルトの皇帝としては、 三日天下位のことは出來ませう。だがわたしはe[n~] bloc《アン・ブロック》(全體)にわたし自身でなければなりません。 全遊星中のギュントで、頭のてつぺんから爪先まですつかりSir Gynt《サー・ギュント》でなければならないのです。 バロン氏〔有頂天になつて〕 地上で一番絶妙な美をお持ちになるんですな。 フォン・エーベルコップ 全世紀も年とつたヨハニスベルゲルもお持ちだ。 トルームペーテル・ストローレ チャールス十二世のすべての武噐も持つてゐなさる。 コットン氏 だが差し當つては何かもうけ仕事をお始めになることですな—— ペール・ギュント それはもう見つけてあるのです。こゝに碇泊してゐる中にその仕事が手にはいつたのです。 今夜われ〜は北方に出發します。船の上でわたしが受取つた新聞によつてわたしは重大な消息を目にしたのです—— 盃を差上げたまゝ立上る。 幸運といふ奴はいつもそれを掴へるだけの膽力を持つた男を助けるやうですな—— 客人たち はゝあ。どうしたといふのです—— ペール・ギュント ギリシアに反亂が起つたのです。 四人共〔飛び上つて〕 何ですつて、ギリシアに—— ペール・ギュント ギリシア人がヘラスで蹶起《けつき》したのですよ。 四人 それは豪氣だ。 ペール・ギュント そしてトルコはにつちもさつちも行かなくなつてゐるのです。 盃を乾す。 バロン氏 ヘラス。光榮の門が開かれてゐるのです。わたしフランスの劍を手にしてギリシア人たちを助けませう。 フォン・エーベルコップ ではわたしは戰の鬨《とき》の聲で——遠くの方から。 コットン氏 ではわたしもそのやうにやりませう——契約を取りきめてね。 トルームペーテル・ストローレ よし來た。わたしはまたベンデルで、世界に轟き渡つた拍車の革紐の止金 (シュウエーデン王チャールス十二世がベンデルでトルコの使節の衣を裂いた折見失つたといふ)を見つけませう。 バロン氏〔ペール・ギュントの首を抱かうとしながら〕 許して下さい、君。わたしは初めあなたを全く誤解してをりました。 フォン・エーベルコップ〔ペール・ギュントの手を握りながら〕 愚かな犬のやうなわたしはあなたを殆ど惡黨のやうに考へてをりました。 コットン氏 それでは餘りにひどい、まあ白痴位のところにな—— トルームペーテル・ストローレ〔ペール・ギュントに接吻しようとしながら〕 大將、わたしはあなたを下等なヤンキーの標本だと思つてゐましたよ——。どうぞお許し下さい。 フォン・エーベルコップ わたしたちには人を見る明がなかつたのです—— ペール・ギュント 何だつてそのやうなことをおつしやるのですか。 フォン・エーベルコップ わたしたちには今希望とか、願望とか、 慾望とかのギュント的軍勢が赫々《かく〜》たる異彩を放つて集つてゐるのがわかつたのです—— バロン氏〔感歎しながら〕 さうですとも、それこそギュント氏のギュント氏たるところです。 フォン・エーベルコップ〔同じ口調で〕 さうあつてこそギュントたることは襃むべきかなです。 ペール・ギュント だが、どうしたと云ふのですか—— バロン氏 おわかりになりませんか。 ペール・ギュント わかりつこないぢやありませんか。 バロン氏 何ですつて。あなたはその船舶や金をもつてギリシア人の味方をしようとしてゐるのぢやないのですか—— ペール・ギュント〔あざ笑つて〕  いや、どういたしまして。わたしは強い方の肩をもちます。そしてトルコ人たちに金を貸してやるのです。 バロン氏 とんでもないことを。 フォン・エーベルコップ 氣がきいてゐますな。だがそれは御冗談でせう。 ペール・ギュント〔少しだまつてゐた後、椅子に倚りかゝり、威嚴ある顏色をしながら〕 では諸君。友情が煙のやうにすつかり消え失せてしまはないうちにお別かれするのが一番よいかとわたしは思ひます。 何も持つてゐない人たちは容易に危險を冐したがるものです。 この世界で殆ど自分の影ほどの地帶も持つてゐないやうなものは、 火藥の食物になるために生れて來たやうなものです。 ところがわたしのやうに安全に地歩を占めてゐるものはその賭け物はそれよりもずつと大きいのです。 あなた方はヘラスに行くがよろしい。わたしはあなた方を上陸させてたゞで武噐をあげませう。 あなた方が爭鬪の焔を焚きつければ焚きつけるだけ、 わたしのおもはくにはまつて來るのですから。自由の權利の爲に手強い打撃を與へておやりなさい。 戰ひなさい。突進しなさい。トルコ人たちを地獄の熱苦に遭はせてやりなさい。 ——そしてトルコ兵の槍に刺されてあなた方の生涯の幕をおろしなさるがいゝ。 ——だがわたしは——失敬しますよ—— ポケットを平手で叩く。 わたしは金を持つてゐます。そしてわたし自身でありSir Peter Gynt《サー・ペーテル・ギュント》であるのです。 日除を出てハムモックが一部分だけ見えてゐる森の中に行く。 トルームペーテル・ストローレ 豚野郎のやくざ犬め。 バロン氏 榮譽なんてことを何とも考へてゐない—— コットン氏 まあ、榮譽なんてものはどこへ行つたつてありやしませんよ。 それより、若《もし》もギリシアが獨立すればわれ〜はすばらしい甘い汁を吸ふことが出來ようと言ふものです。 バロン氏 わたしは可愛らしいギリシアの處女たちに取りかこまれた勝利者になるのです。 トルームペーテル・ストローレ わたしはわがシュウェーデンの手に、かの英雄的な大拍車の革紐の止金をしつかり握るところを見るのです。 フォン・エーベルコップ わが偉大なる祖國の文化は海に陸に擴がつて行きます—— コットン氏 だが現金のないのには困つたものですな。God dam!《ゴッ・ダム》泣かずにはゐられません、 わたしはオリムプス山の所有者を夢見てゐたのですのに。 もしもその山が噂にそむかないとすれば、その中には銅脈があるに違ひないのです。 それをまた採掘することが出來ようと言ふものです。 またおまけにカスタリナの流れは人々が盛んに取沙汰してゐますが、瀑布から瀑布に續いて、 最小限に見積つたところで一千萬馬力は確ですよ—— トルームペーテル・ストローレ でもわたしは行きませう!わがシュウェーデンの劍は、ヤンキーの金なんかよりずつと價値のあるものなんです。 コットン氏 恐らくさうでせう。併し隊伍の間に押し込まれ、壓迫の中にわれ〜がすつかり溺れてしまつたら、 はたしてわれ〜の利益はどこにありませうか。 バロン氏 畜生。あんなに幸運の頂上近くに來たのに、今はその墓場の前でぴつたりとまつてしまつたんだな。 コットン氏〔ヨットの方に拳を振りながら〕 あの長い黒い長持の中には、印度成金の金色の黒奴の汗がしまひ込まれてゐるのです。—— フォン・エーベルコップ すばらしい思ひつきだ。さあ、早く。もうあいつの帝國もおしまひだ。——萬歳。 バロン氏 どうしようと言ふんですか。 フォン・エーベルコップ 權を握つてしまふのです。乘組員はざうさなく買收出來ますよ。 では早く船に乘りこむんです。わたしはあのヨットを併合してしまひます。 バロン氏 君——何ですつて—— フォン・エーベルコップ わたしはあるだけのものをすつかり失敬してしまうのです。 ボートの方へ下りて行く。 コットン氏 ぢあわたしも自分の利害關係上分け前を掴まなくちやならないぞ。 フォン・エーベルコップの後から行く。 トルームペーテル・ストローレ 何てひどいことをしやがるのだらう。 コットン氏 どろばうだ——mais《メイス》——enfun《アンファン》(だがつまりは)——どうもやはり。 後に續く。 トルームペーテル・ストローレ ではおれもついて行かなくつちやなるまい。——和衷共同のためにな—— だがおれはあくまで堂々と抗議するのだ—— 續いて出て行く。 海岸の他の部分。月光と亂雲。ヨットは全速力で、はるか沖合に出てゐるのが見える。 ペール・ギュント濱邊に沿つて駈けて來る。時々腕をつねつたり、また海をながめたりしてゐる。 ペール・ギュント 夢のおそはれたのだ——現《うつゝ》に欺かれたのだ——ぢきに目がさめるだらう。 船は海に坐つたまゝでゐる。それまで恐ろしい速さで進んだ。 なに幻に欺かれてゐるのだ。目が眩んでゐるのだ。醉つぱらつてゐるのだ。〔兩手をねぢる〕 どうもおれは死にかけてゐるのかも知れないぞ。〔髮をひつつかみながら〕夢だ。 どうして夢にきまつてゐる。いやはや、恐ろしいことだ。 だがあまりにほんたうすぎるといふまでだ。運がわすすぎたといふまでだ。 あの仲間の惡黨めら。あゝ死よ、まあどうぞわたくしのいふことをお聞き下さいまし。 あなたは飽くまで賢くつて正しくつていらつしやるのでせう。 どうぞお裁き下さいまし。〔兩手を上げて〕わたくしでございます。 ペール・ギュントでございます。あゝ死よ、ちよつとお目をおかけ下さいまし。 父よ、わたくしのためにしばらく手をお伸し下さいまし。さういたしませんでは、 わたくしは厭でも滅びなければなりません。船の機關が止まりますやうに。 あの盜賊どもをお引止め下さいますやうに。機關の故障の出來ますやうに。 どうぞお聞き下さいますやうに。ほかの人間の爲事はどうならうとかまひません。 世間の人たちはいづれゆつくり何とかいたしませう。あゝどうか神さま、 お聞き屆け下さいますれば、わたしは惠まれたものだ。 神さまはいつものとほり耳が聞えない。このとほりいゝものがあります。 神さまは救濟に破産しておいでになる。〔上の方に合圖をする〕 お聞き下さい。わたしは黒んぼの輸出をやめました。その代りに宣教師をアジアに輸出いたします。 むろんいゝことにはいゝ報ひのある筈でございます。 あゝわたくしの航海の行末をお守り下さいまし。 一道の焔がヨットから出て空に燃え上がる。そのあとから濃い煙がむく〜湧き上がる。 非常報知の空虚な叫びが聞える。ペール・ギュントは思はず金切聲を上げて、 あとはその上にべつたり坐つてしまふ。追々に煙ははれ上がつて船は姿を見せない。 ペール・ギュント あれこそ忿怒の劍だ。たゞ一撃であらゆるものが、人間も鼠もどん底へ沈んでしまつた。 あゝこのしあはせな偶然よ、永久に祝福あれ。〔感動をもつて〕あゝ偶然だと。 どうして、どうして、これは偶然以上だ、わたしは救はれるものであり、 彼らは滅びるもおんであつたのだ。あゝわたしにどんな罪があらうと、目のあたりわたしを助け、 わたしを守つて下すつたについて神さま、あなたに感謝と賞讚をさゝげます。 〔深い息をつく〕自分が特に保護せられてゐるといふことを知るほど、 安全な平和な感じを與へられるものがあらうか。しかし食後の菓子はどうした。 たべ物やのみものは。あゝ何かしらきつと見つかる、神さまはそのお世話をやいて下さるだらう。 何も慌てる理由はない——〔高聲に親しげに〕神さまは決してわたしのやうな哀れな小雀を打ち滅ぼさうとはなさらないだらう。 でも心持は謙遜でをれ。あの方に餘裕を上げよう。すべてを神さまの手に委ねよう。 がつかりしないでゐよう——〔突然恐怖の發作を起して〕籔の中で唸つてゐるのは獅子ぢやないか。 〔ペールの齒ががた〜震へる〕いや、獅子ではなかつた。〔勇氣を取直して〕實際獅子だ。 だがあゝいふ獸は向ふで道をよけるやうになるものだ。 また自分より優れた者を相手にするやうなことは冗談事でできないと彼らも知つてゐる。 彼らは自ら導く本能をもつてゐる——象と遊ぶのが危險だといふ事實を感じてゐる ——だが何でもよろしい——わたしは樹を見つけなければならない。 あすこにあかしやと椰子の林がある。一度のぼることさへ出來たら、 安全に保護される——一番好都合なのは椰子の木が一本か二本しかないことだがな。 〔樹にあがらうとする〕朝と晩は同じではない。この文句はもう厭になるほど考へて、 ねりにねられた名句だな。〔愉快らしく腰をかける〕精神がかううき〜した感じになるのは何といふしあはせなことだらう。 高尚に考へるといふことは、金があると思ふよりはよつぽどましだ。何でも神さまにお委せすることだ。 神さまはわたしにおよそ飮みほせる幸福の杯の分前がどの位といふことまで考へて下さる。 わたしの個人の幸福のために父親らしく心配して下さるのだ。—— 〔海の向ふに一瞥を與へて。溜息をつきながら囁く〕經濟的だとは——どうも、やはりいはれないなあ、あの方は。 夜。沙漠の果てに於けるモロッコ土人の野營地。夜警のかゞり火。兵卒らその傍に休んでゐる。 奴隸〔髮をひきむしりながら入つて來る〕 皇帝陛下の白馬が紛失しました。 もう一人の奴隸〔着物を引裂きながら入つて來る〕 皇帝陛下のお服を盜まれました。 一人の士官〔入つて來る〕 盜賊をつかまへそこねたものは、すべて足の裏に百づゝ鞭をくらはせるぞ。 騎兵ら馬に乘り各方面に向つて駈けて行く。 明け方。前のあかしあと椰子の林。 ペール・ギュント樹の上で折れ枝を手にもつて黒猿の群を防いでゐる。 ペール・ギュント 閉口。閉口。こんな不愉快な晩ははじめてだ。〔そこらをうつて廻る〕またそこにゐるのか。 憎らしい畜生だ。木の實を投げつけるな。いや、何かほかのものだ。 實に憎らしい獸だ。この猿めが。聖書に書いてある。汝よく守りて戰ふべしと。 そんなことが出來る位なら結構だ。おれはくたびれて口が重くなつた。 〔また攻撃をうける。我慢がならないやうに〕何をする。もうつく〜゛うるさくなつた。 あいつらの仲間のどれかをつかまへて首を絞めて、皮を引剥いで、 あの毛むくぢやらの毛皮にうまくくるまつて、ちよいと見ると奴らの仲間かと思はれるやうにしてやりたい。 全體我々人間といふものは何だ。塵に過ぎない。だから少しは流行を追ふのが一ばん賢い。 また碌でなしめが。うん〜、固まつてやつて來た。行つてしまへ。しツ。 あいつらは氣が違つたやうに進んで來る。かうなるとあの僞せ物のしつぽでもくつつけてゐればよかつたと思ふ ——するといくらかけだものらしく見えたかも知れない——おや、頭の上でがさ〜言ふぞ—— 〔上を仰いで見る〕爺さんの猿だ——握り拳に一ぱい泥をつめて持つてゐる ——〔こは〜゛身をすくめてしばらくじつと小さくなつてゐる。猿が動き出す。 ペール・ギュントは犬のやうにおとなしく、お世辭をつかふやうな身振りをする〕 いやはや、君かい。昔なじみのプス君だね。どうしてあれはいゝ獸物《けだもの》だつた。 あれは理窟をいつて聞かせればよく分つた。あれは物を投げなんぞはしないだらう—— どうしてそんなことを考へのも勿體ない位だ。ピプ、ピプ、わたしだよ。 わたしたちは第一流の友人になつた、アィ、アィ。どうです、 わたしはお前たちの言葉を語ることが出來るつもりだ、 ブスとおれとお互は親類同志だ。——だがあすは砂糖をやる——獸物《けだもの》め。 頭の上に何かのせやがつたな。うふッ、實に厭なことだ——きつと食物だらう。 これは妙な味だ、何ともいへない。元來物の趣味といふものは大抵習慣から來る事に過ぎない。 誰か賢人の言草に、唾を吐き吐き慣れて行くとさ。ところでまた若い新手が來た。 〔まはりを打つたり叩いたりする〕權利によつて創造の主である人間が無理にもどうにかしなければならにといふのは ——あゝ人殺し、人殺し。年寄猿もひどいが若いのはよけいひどい。 早朝。石の多い土地。はるかに沙漠を見はらしてゐる。片側の丘に洞穴があいてゐる。 一人盜賊と臟物買ひが洞穴の中で皇帝の馬と衣服を盜んで持つて來る。 立派な裝飾をした馬が一つの石に繋がれてゐる。遙か遠方に騎兵が通る。 どろばう 槍のほ先がきら〜光る——ほら、ほら。 けいづかい もうおれの首は砂地の上にころりところげたも同然だ。おゝこはい、おゝこはい。 どろばう〔胸の上で腕を組む〕 おらの親爺もどろばうだつた。息子もどろばうやめられぬ。 けいづかい おらの親爺も臟物買つた。そこで息子も臟物買ひ。 どろばう どうせもつて生れた運は爲方《しかた》がない。おとなしく持つて廻るんだ。 けいづかい〔耳を立てながら〕 林の中で足音が。逃げろ逃げろ。だがどこへ。 どろばう 洞穴は深い。預言者はえらい。 二人は臟物を置去りにしたまゝ逃げ出す。騎兵はだん〜遠方へ姿をかくす。 ペール・ギュント〔葭笛をきりながら入つて來る〕 何といふいゝ心持の朝だ。かぶと虫は砂の中で玉轉しをしてゐる。蛇は穴から這出した。あゝ朝だ。 いやはや朝の時には金がある——全體考へて見ると自然が晝の光を與へたといふことは不思議な力だ。 どうもしつかりと物がつかめて、飽くまで勇氣がふるひ起つて來たやうに感じる—— いざとなれば野牛の角を持つてつかまへる位わけなく出來さうだ—— どこを向いても何といふ靜けさだ。あゝ自然の喜びに限りはない—— それを前から大したものに思はなかつたのは實に不思議だ。 何だつて人間は街の中に自分から閉ぢこめられてゐるのだ。 有象無象にうるさくいぢめられるほかに何も目的はないぢやないか——まあ見るがいゝ、 蜥蜴《とかげ》がくる〜面白さうに動きまはつて何のことも考へずにゐる。 蟲けらの生活にも何といふ無邪氣さがあることか。てんでんに造物主の命令をおとなしく守つて、 それぞれの違つた姿を害《そこな》はずに持つてゐる。遊んでゐても喧嘩をしてもいつも彼ら自身だ。 それは最初の時かくあれと命ぜられたままの彼自身でゐる。 〔眼鏡をかける〕蟇蛙《ひきがえる》がゐる。岩のかけらの上にゐる。 まはりはどこも石ばかり、蛙の頭ばかりが動いてゐる。 そこに蛙は坐つて窓の中から世界をのぞいてゐるやうな恰好をして自分を滿足さしてゐる。 〔思案しながら〕滿足さして。自分を——。どこに書いてあつたのかしら。 何でもそんなことを子供の時分所謂古典で讀んだ覺えがある。 家内の祈祷本だつたかソロモンの箴言だつたか。やれ〜これで年々年代と場所の記憶が薄くなつて行くのが分かる。 〔籔の中に坐る〕ここに涼しい休み場がある。足を伸ばすことも出來る。 おやどこだ。こゝに羊齒《しだ》が生えてゐる、根はたべられるのだ。 〔少したべる〕これは動物の口にあふたべ物だ——だがかういふ本文がある、 汝の本性を抑へよ。それからかういふことも書いてある。おごるものはたしなめられる。 自らをへり下るものは高められるべし。〔不安らしく〕高められる。 成程それこそおれの身の上だらう——この先起る結果としてはそれ以上のことは考へられない。 運命はおれをこの場所から助け出してくれよう。そして新しい出發點の得られるやうに取計つてくれよう。 それは、ほんの試みといふものだ。やがて救濟がつゞいて來る—— どうか神さまがおれの健康さへ守つて下されば。〔機嫌を直し葉卷に火をつけのびをして砂漠を眺める〕 何といふののはうずもなく大きな荒れ地だらう—— はるかな遠方で駄馬が大股に歩いて行く。全體人間が考へてゐるやうなことはほんたうに神さまの思つてゐるとほりなのか、 この空虚な死の世界の中に立つて見ると分らなくなる。もうあらゆる命の泉の涸れつくしてゐるこの砂漠、 何の役にも立たない燃え殘りのかす。永久に黄色い山が横たはつてゐる世界の切端。 地球の創造以來その造り主に決して感謝をおくつたことのない死骸—— 何のためにこんなものが創造されたのだらう——自然といふものはいかにも無駄をするものだ—— あすこの東の方に目の眩《くら》むやうにきら〜輝いたまゝ漂つてゐるものは海かしら。 そんな筈はない。あれはほんの蜃氣樓だ。海は西の方にある。おれのうしろに砂漠から押出された水が積つてゐる。 〔ふと一つの考が心に浮ぶ〕水がこし出されるとするといゝことがあるぞ。 狹いだけの間をこし出されて來るその水にはけ口がいる。運河がいる—— すると生活の泉のやうに水は運河を通つて注入するそして砂漠に溢れる。 間もなくあすこの赤くやけてゐる墓場が全體涼しい小波の立つ海になつて溢れる。 オアシスはそのまん中で島のやうに浮上がるだらう。 アトラス山は北の方に緑の堆積を作ることだらう。帆をかけた船が翼をひろげて、 渡り鳥のやうに駱駝追ひの通つた道を南に向つて漕いで行くだらう。 人を生き返らせるやうな涼しい風が、この息づまるやうな空氣を吹きとばしてしまふだらう。 霧が雲の中からこされて來るだらう。人間が街から街と造り上げて行き大きな椰子の樹のまはりに草が青々と生えるだらう。 サハラの南の國は、文明の新しい船着になるだらう。チンバクタウの工場に機械がすゑつけられ、 蒸氣が煙を吐くだらう。ボルヌが立派な植民地になるだらう。博物學者はハベスを通つて、 上ナイルまで、安全に汽車旅行が出來るやうになる。このおれの海のまん中に、 肥えたオアシスの上に、おれはノルウェー人を移住させる。 あの谷間の人間の血は王族と血つゞきなのだ。アラビヤ人の血がその間に混つて行く。 灣に沿つた濱邊の街に、おれは首府のペーロポリスを建てよう。世界は老衰してゐる。 そこでこんどはおれの處女地ギュンチヤナが榮える番になるのだ。〔飛び上がるながら〕 ほんの資本さへあればすぐにもやつて見せることなのだ——海の門を開く金の鍵がほしい。 死に對する十字軍だ。拳を握り固めたおひぼれ爺め、久しく温めて寢たまゝでゐる袋を開くがいゝ。 人間は至るところの國々で自由を求めて狂ひまはつてゐる—— 箱船の中に入れられた驢馬のやうにおれは世界に向つて叫び聲を立てゝやらう、 その中できるにちがひない美しい、しかも奴隸の束縛をうけてゐる海岸に自由の洗禮を施してやる。 おれはどうしても進んで行く。東へでも西へでも資本を探しにどこへでも行く。 おれの王國は——差當りその半分でも、まあ一頭の馬でもいゝ。 〔馬岩の蔭で嘶く〕馬だぞ。おや、着物がある。寳石もある劔もある〔傍へ寄つて行く〕 ありさうにないことだ。でもこのとほりだ——だがどうしてだらう。 何でもおれは讀んだことがある。どこで讀んだか知らないが、 一心は山を動かすと——だが馬を動かしたのはどいふわけだ—— ふうん、こゝに馬がゐる。それが事實なのだ——それからあとは何であらうと、 はて、ab esse ad posse《アブ・エッセ・アド・ポッセ》で何とやらだ。 〔王さまの衣裝を着てその姿を眺めまはす〕サー・ペーテル殿下。 おまけに頭のてつぺんから足の爪先まできつすいの土耳古人だ。 成程人間はどんなことがあるかわかるものではない。 そこで我が信頼する駿馬のグラネー君、出かけようぞ。〔馬に乘る〕 金の鐙《あぶみ》が足の下でちやら〜いふ——何でも人間のえらいのは馬に乘つた姿で知れる。 〔沙漠の中に駈出して行く〕 オアシスの上にぽつつり立つてゐるアラビヤ人酋長の天幕。 ペール・ギュント東洋風の服裝で褥の上に坐つてゐる。 コーヒーを飮んで、長い煙管で煙草をすつてゐる。 酋長の娘アニトラを頭に少女たちの一群がその前で舞踏をしたり歌をうたつたりしてゐる。 少女たちの合唱 豫言者は來ませり。 豫言者は、主なる全能の神は、來ませり。 我等が中へ神は來ませり。 砂《いさご》の海を越えて來ませり。 豫言者は、主なる全智の神は、來ませり。 我等が中へ神は來ませり。 砂《いさご》の海を越えて來ませり。   笛よ鳴れ、太鼓よ轟け。   豫言者は來ませり。豫言者は來ませり。 アニトラ あの方の召した馬は樂園の川を流れる土のやうに白いのだ。皆膝をおつき。 皆頭をお下げ。あの方のお目はきら〜と輝いてやさしく照るお星さまです。 決して土に生れたものが、あの星の目のくらむやうな光の前に眞直に立つてゐられるものではない。 砂漠をぬけてあの方はお出でになつた。金が、眞珠の露があの方のお胸の上にふき出すのだ。 あの方の通つたあとには光が殘る。そのうしろはあのとほり闇なのに。 あの方のうしろには渇きと熱風が吹き荒《すさ》んでゐる。 榮光に溢れた方がお出でになつたのだ。砂漠を越えて人間のやうな姿でお出でになつたのだ。 カーバは空しい、カーバ(メッカに在る回教殿堂ゲーテ)は空しい、あの方がさうお告げになつた。 少女たちの合唱 笛よ鳴れ、太鼓よ轟け。 豫言者は來ませり。豫言者は來ませり。 踊りつゞける。だん〜やさしい音樂になる。 ペール・ギュント 成程、本で讀んだことがある——昔からいふのはほんたうだ—— 何ぴとも故郷に於て豫言者たるものなし——どうもかうしてゐる境遇が、 あのいかさまな商人どもの仲間に入つてゐるよりも、よほどおれの性に合ふやうだ。 なるほど、どうも全體に何となく空《くう》な取止めもない所があつた、 底までつきつめると、どうかしつくりしないやうな、 奧に何だかあやふやな危つかしいところがあつた——わたしはあれらの仲間にゐて一度もしつくりしたことがなかつた、 實際おれはこの連中の一人だと感じたことはなかつた。 全體どんな魔がさしてあんな船に乘込んだのだ。商賣人の中であくせく働くなんといふことはつまらない ——それを考へ直してみてやはり分らん。まあそんな廻り合せになつた。 それだけのことなのだ——人間は金で築いた土臺の上にゐるのも、 砂の上に家を建てゝゐるのもべつに變つたことはない。 お前は金時計や指輪やそのほかの裝飾品を見てあの人たちは地びたに頭を擦りつけて拜んでゐる。 寳石入りの胸飾りのピンを見て帽子をぬいで敬禮する。 だがお前の指輪もピンも全體お前の體についたものではないのだ——豫言者か。 成程この方が一そう明快な職業だ。少くともどういふ地歩を占めてゐるかといふことが分つてゐる。 それでうまく成功すれば喝采をうけるのはお前自身だ。お前の持つてゐるポンド金貨やシルリング銀貨ではない。 人間は人間のあるだけのものである。それによけいなノンセンスがつきまとつてゐるのではない。 機會や偶然のお蔭ではない、免状や特許をたよつてする仕事ではない——豫言者か。 これはおれに誂へ向きだ。そこへ全く思ひがけなく辷りこんだといふわけだ ——砂漠の上を馬で走らせて來て、この自然の子供たちに偶然行き合はせたといふだけだ。 豫言者がお出でなされたといふそれだけははつきりしてゐる。何もだますつもりはちつともないのだが ——だから嘘と向ふでいふものゝ返事をしたといふ事實の間には大きな差がある。 嘘と託宣の違ひだ。だからいつでも御免蒙らうと思へば出來る。更に束縛されると云ふところはない。 何でもないことなのだ。いはゞ全體な内證ごとなのだ。來た時と同じく出て行くだけだ。 馬はあのとほり鞍をおいてある。つまりいへばおれはこの局面の支配者なのだ。 アニトラ〔天蓋の入口から出て來る〕 豫言者さま。 ペール・ギュント 奴隸は何の用ぢや。 アニトラ 砂漠の子供らがあなたさまを天幕の戸口でお待ち申してをります。 あれらはあなたさまのお顏の光を分けて頂かうと祈つてをります。 ペール・ギュント 待て、いま彼らを遠くへ集めて置くがよろしい。わしは遠方でも彼らの祈る言葉はよく聞えてゐる。 それにわしは人間どもがこゝに來ることを好まないのだ。 人間といふものは取るに足りない蟲けら同然のものだ——その上救はれない惡ものだといつてよろしい。 アニトラ、あれらがどの位あつかましく欺き合ふかお前なぞは思ひもつくまい—— どうして彼らは罪の深いものどもだ——いや、そのことは今はやめて置かう。 娘たちは舞踏をしてくれぬか。豫言者は心をけがした、いやな記憶を忘れたいのだ。 少女たち〔舞踏しながら〕 豫言者は善にまします。 人の子らが行へる罪のために悲しみ給ふ。 豫言者は慈悲にまします。 神の意志はたたふべきかな。 罪人《つみびと》のために樂園の戸を開き給へり。 ペール・ギュント〔舞踏の間じつとアニトラに目をはなさずにゐる〕 矢車草が風になびくやうなきやしやな足だ。匂ひの高い香料のやうな娘だ。 どこか異常な骨相をそなへてゐる——尤も美の軌範にしつくりあてはまつてはゐないが。 しかし美といふのは何だ。これもその場その場に通用する金のやうに、ほんの習慣ではないか。 あたりまへの人間も酒に醉つてゐるとこはかへつて變つたものがよく見える。 掟に縛られたものには、強い爛醉の味はわからない。並はづれてでぶついてゐるとか、 極端な痩せつぽちとか、突拍子もなく若いとか、氣味の惡い程年をとつてゐるとか ——とにかく人並なんていふのは胸がわるい。あの子の足はそれは飽くまで綺麗だとはいひがたい。 あの腕にしても同樣だ。殊にかたつぽの腕がさうだ。しかしそれが決して傷にはなるまい。 むしろあれを特色としてほめてやりたい——アニトラ、お出で。 アニトラ〔傍へ寄つて來る〕 あの、御用げございますか。 ペール・ギュント 娘さん、お前は氣に入つたよ。豫言者は心を動かされた。 それを信じないといふなら、證據を見せて上げよう——わしはお前を天國に仕へる女にして上げよう。 アニトラ とんでもないことを。 ペール・ギュント 何だと。わしが冗談をいふと思ふか。わしは生きてゐることが眞實であるやうにあくまで眞面目でゐるのだ。 アニトラ でもわたくしには魂がございません。 ペール・ギュント それはむろん、魂は手に入れるやうにしなければならん。 アニトラ どういふ風にするのでございますか。 ペール・ギュント まあそれはしばらくわしに委せておけ——わしはお前の教育をしらべてみよう。 魂がないと。成程、いや成程、お前はあまり賢いとはいはれない。 殘念ながらそれは認める。だが、どうして魂の一つ位入るところは十分ある。 こゝへお出で。お前の頭のはちをはかつて見よう——あるとも。あるとも。 十分入る場所がある。尤も非常に深いものを知るといふことは出來ないかも知れない。 大きな魂を收めることは出來ないかもしれない。だが心配はいらない—— 少しもかまはしない——大丈夫、安心して魂を持つて行ける—— アニトラ 豫言者さま、有難うございますが—— ペール・ギュント 躊躇するのかい。どうした。 アニトラ でもわたしはどちらかといひますと—— ペール・ギュント お言ひよ。そんなことで時間を費してはいけない。 アニトラ わたしはそれほど魂をほしいとは思ひません——それよりかどうぞ頂きますなら—— ペール・ギュント 何がほしい。 アニトラ〔ペールの頭巾を指さして〕 その美しい猫眼石を。 ペール・ギュント〔でれりとなつて寶石を娘に與へながら〕 アニトラ、アニトラ。それでこそイブのまことの娘だ。 わしはお前に磁石でひかれるやうに感じてゐる。わしは男だからな。 それに名高い作者(ゲーテ)がいつておいたやうに、「久遠に女性なるもの我らをひきて行かしむ」だよ。 月の光の照つてゐる晩。アニトラの天幕の外の椰子の樹の茂み。 ペール・ギュントは手にアラビヤの琵琶を抱へて、一本の木の下に坐つてゐる。 髯も髮の毛も刈り込んである。前よりずつと若く見える。 ペール・ギュント〔琵琶を彈きながら歌つてゐる〕 われ、わが樂園に二重の錠をしめ かくて鍵を持ち去りぬ。 北風は海の彼方《あなた》にわれを運べり。 美しの女いくたりか棄てられて みぎはべに泣きて立てども。 南へ、なほ南へわが船は 鹽路をわけて進みぬ。 誇りかに美しく茂れる椰子の木の、 輝やけき海をめぐりて花環にも似たる處、 その地にてわが船をわれ燒き棄てぬ。 たくましき四本の脚の、 沙漠渡る船にわれ乘りぬ。 打鳴らすしもとが下に、そは泡立てぬ。 おゝ我を捕へよ。われはこれ天翔る鳥。 梢の上に唄ひてあるを。 アニトラよ、いましこそ椰子のうま酒。 今われは深くも知りぬ。 あはれアンゴラの山羊のチーズも、 アニトラよ、いみじき君が あゝ、味はひのなかばすらあらず。 肩に琵琶をかけて、前へ出て來る。 靜かだな。アニトラは聞いてゐるかしら。わたしの小唄が耳にはひつたかしら。 ヴェールやそんなものをかなぐり棄てゝ、カーテンの後ろから覗いてゐるのぢやないかしら—— おや。コルクが急に壜から拔けたやうな音がしたぞ。またしたと、おやもう一度聞えた。 あれが戀とといきなのかしら。それとも歌なのか。—— いや確かに鼾《いびき》だ。氣持ちのよい調子だな。 アニトラは眠つてゐるのだな。夜鳴鶯《よなきうぐいす》よ、囀るのはやめるがいい。 お前が玉を轉ばすやうな音色で大膽にも啼き立てると言ふと、いろ〜な恐ろしい目に遭ふぞ—— 併し經典の文句にもある通り、あつたらあつた時のことだ。 夜鳴鶯よ、お前は歌の名手だ。嗚呼わたしだつてお前にまけない歌の名手だ。 わたしのやうに夜鳴鶯は音樂で優しい内氣の可愛い女を罠にかけて迷はすのだ。 芳ばしい夜は音樂の爲に作られてゐるのだ。音樂はわたしたち共通の世界だ。 歌を唱ふことにかけては、ペール・ギュントも夜鳴鶯も變りはない。 少女の眠りと言ふ奴は實際わたしの情熱の一番ありがたがるところだ。 ——と言ふにはまだ少しも人に味はゝれたことのない廣口盃の上に飛出してゐる唇は ——だがアニトラは確かにやつて來るぞ。結局アニトラが出て來るに越したことはない。 アニトラ〔天幕から〕 御主人さま。夜なのにお召しになつたのでございますか。 ペール・ギュント 呼んでゐるとも、豫言者がお召しなのだ。わたしは狩でもするやうな怖しく騷がしい物音を立てた、 猫の奴の爲に目を醒まされてしまつたのだ。—— アニトラ いゝえ、あれは狩の時に立てるやうな騷がしさではございません。 もつと〜たちのよくない騷がしさなのでございます。 ペール・ギュント 一體何だつたのだね。 アニトラ どうぞそればつかりはお許しを。 ペール・ギュント 言へと言つたら。 アニトラ わたし、恥かしくつて—— ペール・ギュント〔側へよりながら〕 たぶん、わたしがお前に猫眼石をやつた時に、わたしの胸をこの上も一杯にしてくれた、 あれぢやないのかね。 アニトラ〔怖しがつて〕 あなた樣のやうな地上の寶物と言ふべきおかたが、おつかない古猫に似てゐるなんて。 ペール・ギュント アニトラや、情熱の立場から見れば牡猫《おねこ》も豫言者も全く同じやうなものだよ。 アニトラ 御主人樣。あなたのお唇から漏れる御冗談はまるで蜜のやうですこと。 ペール・ギュント アニトラ。お前は他の娘たちのやうに偉人と言ふものを外側からのみ判斷してゐるのだ。 わたしだつて心底は冗談で一杯なのだ。ことにお前と二人切りでゐる時はな。 わたしは身分が身分なので仕方がなく嚴かな假面をかぶつてゐるのだよ。 日々のお勤めにも束縛されてゐるのだ。みんなと一緒にことを取りきめたり心配をしたりする爲には、 わたしは屡々ひねくれた豫言者にならねばならないのだ。併しそれはほんの口先ばかり、 馬鹿馬鹿しい話さ。差し向ひでゐる場合には、わたしはペールさ——さうとも、わたしは一個の男子さ。 今の處は豫言者なんか用なしだ。わたしは本當のわたし自身をお前に示してゐるのだよ。 木の下に腰を下してアニトラを引寄せる。 さあアニトラや、椰子の樹の緑の涼しい木蔭で休まうぢやないか。 わたしは囁きながら横にならう。お前もにこ〜しながら横におなり。 さうしたらわたしたちはお互ひに役目をとり代へ合はう。 その時はお前の水々しい香り高い唇は、わたしのほゝえみに情熱を囁いてくれなければいけない。 アニトラ〔ペール・ギュントの足下に横たはる〕 わたしにはほんの少ししかわかりませんけれども、あなたのお言葉は、 まるで歌のやうに美しうございますこと。御主人樣。あなたの言葉をじつと聞いてをりますと、 魂が得られませうかしら。 ペール・ギュント 魂だの精神の光だの智慧だのと言ふものも、時節を見ていづれみんなもつことが出來るやうにしてやるよ。 東の方で薔薇色の光の流れの上を金の字で夜があけたと出る。 ——さうしたらお前に學課を教へてやらう。お前はすこやかに延びて行くだらう。 何も心配することはない。併しこの眞夜中の氣持ちのよい靜けさのまつたゞなかで、 磨り切れた智慧の殘りをはたいて、學校の先生の役割を演じようとするほどわたしは馬鹿ぢやない。 ——それに魂なんてものは正しく考へて見ると決して大した代物ぢやない。 ほんとに大切なのはたゞ情《なさけ》だ。 アニトラ もし御主人樣。あなたがお話しになつていらつしやいますと、猫眼石のやうな光がさしますよ。 ペール・ギュント 智慧も極度まで行くと馬鹿になるものだ。臆病だつて花を開いて暴君となる。 眞理も極端まで行つてしまふと逆に書きつけた智慧にすぎぬものとなり終つてしまふ。 さうだともアニトラや、もしもこの世に養ひの十分すぎる魂を持つてゐて、 しかも清澄な明知の境地に逹することの出來ない人たちがゐないとしたら、 わたしは犬のやうに僞りの誓を立てたことになるのだ。 わたしは掃溜の中の花とも言ふべき人々に會つたことがあるのだ。 だがその人でさへ世間の囂然《ごうぜん》たる響の爲に感覺を失つてその目標をとりちがえてゐるのだ。 ——このオアシスの周圍の荒地《あれち》を見るがいい。もしわたしがこのターバン(トルコ頭巾)を振りさへすれば、 わたしは大海の水をこの荒地全部に漲らすことが出來るのだが。 併しわたしは實際低能だつたよ、海や陸を作らうとは。 お前は生きると云ふことの何たるかを知つてゐるかね。 アニトラ 教へて下さい。 ペール・ギュント それは足を濡らさないやうに、完全に純一に自分自身として時の流れに運ばれて行くことだよ。 十分男盛りの時にこそわたしは自分のあるが儘の人間たることが出來るのだ。 年をとつた鷲はその羽が脱け代り、年をとつた時時勢遲れの人間は身をかゞめながらそろ〜歩いて行く。 年をとつた浮かれ女は一本の齒も殘してはゐない。 年をとつた百姓は萎びた手をしてゐる。——誰も彼も萎びた魂を持つやうになるのだ。 青春よ。あゝ青春よ。わたしは何もサルタンとして完全に、猛烈に、 棚に纒ふ葡萄や椰子の葉の下で、ギュンチアナの海岸の上に國威を振はうと言ふのぢやない。 ——一人の女の若々しい處女《をとめ》らしい心の王國の王位について、 それを治めて見たいと思つてゐるのだ。ねえアニトラや、 お前には今わたしがなぜもつたいなくもお前を魅惑したか——なぜお前の心を選んで、 言はゞそこにわたしのカリフの王位を打建てたかわかつたらう。 お前の熱望するところはまたわたしの熱望するところでなければならないのだ。 わたしは戀にかけては專制君主だ。お前はたゞわたしの爲だけに生きなければいけないよ。 わたしは黄金や寳石にやうにお前を束縛せずにはをかれないやうな人間になるだらう。 わたしたちが別れる時は死ぬ時だよ——勿論お前の方がだよ。よく注意しておきき。 お前と言ふものを何處から何處まで否應なしにわたしは十分納得するまで知らなければならない。 お前の髮の毛の眞夜中の美しさや、いろ〜の可愛らしい所は殘らずバビロンの花園のやうに、 お前のサルタンを會合所に引寄せずにはおくまい。 さうなれば結局わたしはお前のからつぽな額のことなんか何も不平を言ふまい。 なまじ魂があると、人間と言ふものはよく自分自身を深く考へることに耽り易いものだから。 まあお聞き、わたしたちがこの問題を話してゐる間、もしお前の望みとあらばお前の足くびに足輪をはめてやらう。 ——それがわたしたちにとつては一番よささうだ。わたしが代りにお前の魂にならうぢやないか、 その外のことは——はて、現状維持さね。 アニトラ鼾をかいてゐる。 何だ。眠つてゐるのだな。ぢやわたしの言つたことはみんな無益に素通りしてしまつたのだな! ——いや、いや、アニトラがわたしの艷めかしい言葉が流れ出るにつれて、 それを聞きながら夢を見入つてしまふと言ふのは、わたしの言葉のききめがあつたからなのだ。 立上つてアニトラの膝の上に裝飾品を置く。 そら寳石だよ、ほらまだあるよ。アニトラよ。眠つてペールの夢でも見るがいい。 ——お睡りよ。お前が睡つたと言ふことが、お前の皇帝の額の上に王冠をのせたことになつたのだ。 裸一貫で得た勝利を今宵ペール・ギュントは獲得したのだ。 隊商の通る道。オアシスが背景の中に遠く見える。 ペール・ギュントは彼の白馬に跨り前鞍にアニトラを乘せ、砂漠をよこぎつて全速でやつて來る。 アニトラ 離して下さいと言つたら。喰ひ付きますよ。 ペール・ギュント これ〜そんなことはしなさんな。 アニトラ あなたはどうしようと言ふのです。 ペール・ギュント どうすると言ふのかい。鷹と鳩をして遊ぶのさ。お前をつれて逃げるのさ。 ちよつと面白いぢやないか。 アニトラ とんでもない。あなたのやうなおいぼれ豫言者が—— ペール・ギュント 何を言つてゐるんだ。豫言者は決して年をとつてゐはしないよ。 馬鹿だね、お前は。わたしはこんなことをするだけ若いのだとは思はないのかい。 アニトラ 行かして下さい。わたしは家へ歸りたいのです。 ペール・ギュント 男たらしめが、何が家だ、養ひ父《おや》のところへ。それもよからうよ。 籠から飛び出したわたしたちのやうな氣ちがひ鳥が二度とあいつの目になんぞとまるものかい。 それからねお前一つ場所にあんまりぐづ〜してゐるのは決してりこうなやりかたぢやないよ。 一體うちとけて來ると言ふと、尊敬の念なんてものはなくなるばかりだからね。 ——ことに豫言者だとか何だとか言つてやつて來た場合は、 ちらつとかしこいところを見せつけて夢のやうに去つてしまはなければいけないのだ。 實際もう參詣もおやめにならなければならない時分だつたのだ。 あいつらはみんな魂が同樣してゐるのだ。砂漠の子供たちは。 ——香を焚くのもお祈りをするのも二つ共に衰へてだん〜終りに近くなつて來たのだ。 アニトラ さうね。でもあなたはほんとに豫言者なの。 ペール・ギュント わたしはお前の皇帝陛下さ。 アニトラに接吻しようとする。 まあちよつと見ろよ、小さな啄木鳥《きつゝき》がこんなにもぢ〜して。 アニトラ あなたに指にはまつてゐる指輪を下さいな。 ペール・ギュント さあさ、あげるよ。アニトラや。こんなものはみんな塵屑も同じさ。 アニトラ あなたの言葉は歌のやうだこと。またその調子の氣持よく響くといつたらありませんわ。 ペール・ギュント こんなにまで可愛がられるとは何と言ふ事なのだらう。わたしは馬から下りよう。 そしてお前の奴隸のやうにお前の馬を引いて行かう。 アニトラに手綱を渡して馬から下りる。 さあ、さ、わたしのばらの蕾よ。妙《た》えなる花よ。 わたしは太陽の光線に參つてしまふまで砂地の上を骨を折りながら歩いて行かう。 わたしは若いのだよ、アニトラ。それをよく心にとめておいておくれ。 お前はわたしのいたづらにびつくりしちやいけないよ。 戲れや佚樂《いつらく》は青春の唯一の標準なのだからね。 だからもしお前の智慧がもうちつと働いたらお前は一目でわかるはずなんだがな。 おゝわたしの美しい夾竹桃よ。——お前の戀人はいたづら好きだよ——それだからわたしは若いのだ。 アニトラ ほんとにあなたはお若いわ。もつと指輪を持つていらつしやらなくて。 ペール・ギュント 若くなくつてたまるものかい。さあ、つかまへてごらん。 わたしは牡山羊のやうに跳んだりはねたりすることが出來るのだ。 葡萄の葉でもこのあたりに生えてゐれば、わたしはそれを花冠のやうに頭にまくのだがな。 實際、わたしは若いのだ。どれ、これから一番踊らうか。 踊りながら唄ふ。 わたしは樂しいけあひどり。 つつついてごらん、小牝鷄。 ホップ、サ、サ!わたしの駈ける所をごらん—— わたしは樂しいけあひどり。 アニトラ まああ豫言者樣つたら汗をかいていらつしやるわ。その儘 溶《とろ》けておしまひになりさうね。 ——その帶の處にさがつてゐる重い袋をわたしにお渡しなすつたらいかゞ。 ペール・ギュント 優しい心づかひはありがたい。ではいつも財布を持つてもらうことにしやう。 ——戀することが出來る心は金なんかなくたつて滿足なのだ。 また踊りながら唄ふ。 お年の若いペール・ギュントは 狂ひ狂つた剽輕者よ—— おのが立つ瀬も知らずにゐやる。 おかしや、ペールの言ふことにや—— おかしや、お案じさつしやるな。 お年の若いペール・ギュントは 狂ひ狂つた剽輕者よ。 アニトラ まあ豫言者樣が踊りながらお進みになる風と言つたらほんとに面白いこと。 ペール・ギュント あゝ豫言者なんて嫌だなあ。——着物を取代つこしたらどうだらう。そら着物を脱ぐぞ。 アニトラ あなたの下着はあんまり長すぎてよ。帶も幅が廣すぎるし、 靴下はあんまりきつちりしすぎるわ—— ペール・ギュント Eh bien《エー・ビヤン》(かまはない) 膝まづく。 併しわたしに切なる悲しみを與へておくれ——戀で一杯になつた心にとつては悲痛はほんとに心もちのよいものだからな。 ねえ、アニトラ、わたしたちがわたしのお城に歸り着いたら早速—— アニトラ あなたの樂園にあるお城ね。——まだ〜それはよつぽど馬に乘つて行かなければならないのですか。 ペール・ギュント うん一千里かそこら—— アニトラ まあ遠すぎるわ。 ペール・ギュント ねえ、アニトラや。——わたしはいつか約束した魂をお前に授けてやるよ—— アニトラ どうもありがとう。でもわたし魂がなくつてもやつて行けるわ。 併しあなたは悲しいことを望んでおいでだつたわね—— ペール・ギュント うん、いかにも望んでゐた。ぴりつとこたへてしかし短くつて—— 二日か三日續くぐらゐの奴をね。 アニトラ アニトラはいかにも豫言者さまのお言葉通りにいたします。——さやうなら。 ペール・ギュントの指のところを素早く一打ち打つて、全速力で馬を飛ばせて砂漠を横ぎつて歸り去る。 ペール・ギュント〔あつけに取られて長い間突つたつてゐる〕 こんな筈ではなかつたが。 同じ場所、一時間後。 ペール・ギュントはまじめに考へこんで、少しづゝトルコ風の着物を脱ぎすてゝゐる。 一番しまひに外套のかくしから旅行帽を取出して冠り、再びヨーロッパ風の服裝をして立ちあがる。 ペール・ギュント〔頭巾を遠くの方へ投げやりながら〕 さあもうトルコ人なんかとはきれいさつぱり縁切りだ。——異教徒の眞似をしたつてつまらない話だ。 着物だけの問題で濟んで、諺に言ふやうに骨身に沁みこまなかつたのはしあはせだつた ——全體どんな魔がさしておれはあんな船に乘りこむ氣になつたのだらうま。 究極のところクリスチャンとして生活し、孔雀のやうなみえを去り、 行爲の基礎を法律と道徳との上に置き、常に自分自身であり、最後は墓標の側で演説をされ、 柩は花環を以つて飾られると言ふことが最も善いことなのだ。 數歩歩く。 蓮葉娘め。——もう少しのところでおれの頭をむちやくちやにしてしまふところだつた。 あんなにわたしをまどはしわたしを惱ました正體が何であつたかゞわかればわたしは山の魔になつてもいいぞ。 まあこれですんだのはほんとに出かした次第だ。冗談ももう一歩踏みこめばわたしは馬鹿げた人間に見えたことだらう。 ——わたしのやつてゐたことはまちがつてゐた。—— だがわたしの犯したあやまちはもと〜僞りの位置にあることから起つたのだからそれがせめてもの慰みだ。 墮落したのはわたしの自我ではない。實際あのやうな豫言者的の生活振がいけなかつたのだ。 あの生活には全然現實の鹽氣がないものだから、そんな生活をやつたものは、 そのしつぺ返しにこのやうな苦がい惱みを味はなくてはならないのだ。 豫言をやるなんて情けない商賣だ。人を五里夢中で歩かせる職務だ。 豫言者をやつてゐると、合理的な人間のやうな振舞をする瞬間に勝負を放棄してしまふのだ。 そんな風な工合にわたしはあのお多福に媚を呈するやうなつまらない事件までも、 それ相應のことをやつて來たのだ。だがそれだのに—— 急に笑ひ出して。 うん、今考へて見ると面白いな。跳んだり踊つたりして時をとゞめようとしたり、 戲《ふざ》けたり躍つたりして時の流れにさからはうとするなんて。 琵琶の絲を指で掻鳴したり、あまやかしたためいきをついたり、 そしてしまひは牡鷄のやうに毛を剥ぎ取られるなんて。 あんなやうな所行は實際豫言的の亂心から來てゐるのだ—— さだとも、毛をむかれてしまつたのだ。——ちぇつ、おれは全く綺麗さつぱり剥ぎ取られてしまつたのだ。 まあよし〜、わたしはまだ金が取つてあるのだから。アメリカに少しと、ポケットの中に少しある。 だからパンを乞ふほどに落ぶれなくともすむだらう。——實際この中庸を得た境遇が一番よいのだ。 わたしはもうわたし御者や馬の奴隸ぢやないのだ。 驛馬車や手荷物のことでぢれつくにも及ばないのだ。 要するにわたしはどうとも自由勝手にすることが出來る身の上なのだ。 ——どの道をとつて行つたらよいものだらうかな。わたしの前には澤山の道が横はつてゐる。 馬鹿と利口とはその選び方によりて違ひがわかるんだから。 わたしの實業家的の生活はもう讀み終えた章だ。わたしの戀の戲れも亦脱ぎ棄てた衣見たいなものだ。 わたしは蟹のやうにあと戻りの生活をしようとは思はない。 「進むか退くか、道のりは同じだ。出るかはいるかどちらもちよつとむづかしい。」 ——こんなやうな文句をわたしはあるすばらしい作品で讀んだやうな氣がする。—— とにかくわたしは何か新しいことをやつて見よう。わたしの生活を高尚なものにし、 費した勞力と金とに應《ふさ》はしい目的を見出さう。 わたしはわたしの生涯を僞るところなく書いて見ようかしら—— 人々の導きともなり模倣する處ともなるやうな本が出來るだらう。いや、まてよ——。 わたしはまだ〜゛春秋に富む身だ——一つ旅行科學者となつて過去の時代と、 時の夥しい腹中を研究して見たらどんなものだらうか。うん、たしかにこれこそわたしに適した仕事だ。 子供の時でさへわたしは古《いにしへ》の傳説を讀んだものだつた。 そしてそれからと言ふものはその方面の學問を見棄てる時とてはなかつたのだ。 ——わたしは人類の足跡を辿つて行かう。一枚の羽のやうに歴史の流れの上を漂つて行き、 夢の中の相のやうに再び過去を生かし——眞理と正義との爲に英雄たちが戰ふのを、 安全に保護された單なる陪觀者として見、——思想家が殺されたり殉教者が血を流したりするのを見、 幾多の帝國が興つては滅びて行く姿を見、——世界の時代がちよつとした種から生え育つて行くのを眺めて見よう。 つまりわたしは歴史と言ふクリームの上皮を抄《すく》ひ取つて見るのだ。 ——わたしはベッカーの一册ぐらゐは讀みかじり、年代記に從つて出來るだけ遠く旅行するやうにしなければだめだ。 ——實際いふと——わたしの基礎は徹底したものではない。 しかも歴史のこみ入つたからくりはわれ〜の眼を瞞《あざむ》きがちなものだ。 ——しかし、かまはん、出發點が亂暴ならば亂暴なだけその結果は一層獨特なものになるのだ。 ——ところで目的を選定《さだめ》てそれをめがけて一散に火花のやうに飛んで行くことは、 何と胸のわく〜することだらう。 靜かな感動をもつて。 周圍のすべてを四方八方に蹴破り散らし、家庭とか友人とかに對する束縛を切り離ち ——蓄積した富を吹き飛して原子に還し——戀愛とその歡びとにおやすみなさいを告げ ——心から卒直に眞理の神祕を見出さうとすること—— 眼の涙を拭ひながら。 これこそ眞の科學者のうくべき試練だ!——わたしはどうも樂しくてたまらない。 今こそわたしは自分の運命の謎を悟つたのだ。これからはたゞ萬難を排して根氣強くやることだ。 たしかにわたしが昂然として人間としてのわたしの價値を、 所謂人生の皇帝としてのペール・ギュントの價値を感じたところで差支へない話だ。—— わたしは過去の日の總計を所有するだらう。わたしはもはや現在の世路《せろ》には踏み入るまい。 現在は靴の裏ほどの價値もない。今日人間のやつてゐることはみんな不忠實で核心のぬけてゐることばかりだ。 彼等の靈魂には翼がなく、彼等の行爲には何の重みもない。—— 肩をそびやかして。 そして女どもよ——あゝ、あいつらは三文の價値もない奴等だ。 去る。 ある夏の日。遙か北の國の山地。森の中の小屋。大きな木の閂のついた扉があいたまゝでゐる。 その上には馴鹿の角。小屋の壁ぎわに一群の山羊。 髮の毛の美しいきれいな中年の女が一人、戸外《おもて》の日ならに坐つて絲を紡いでゐる。 女〔道を見下しては歌を唄ふ〕 冬も過ぎ春も暮れなん、 來ん夏も亦、ひととせもつひに過ぎなん。—— されどわれはよく知れり、君いつか歸り來まさん。 別れし時の誓のまゝに、わらはは君を待ちてすごさん。 山羊を呼ぶ。絲を紡ぎまた唄ふ。 神よ、君に力を授け給ひぬ。世界の中のいづくに君が行き給ふとも。 神よ。君に喜びを與へ給ひね。君、み神の足臺に立ち給ふとき。 君のまた歸ります日を、わらははこゝに待ちて過ごさん。 君天國にて待ちまさば、わらはもそこに出で會ひなん。 エジプト。黎明。砂地の中にメムノンの像。ペール・ギュント徒歩で歩いて出て來る。 そして暫らくあたりを見廻してゐる。 ペール・ギュント さあ、こゝから旅を始めれば都合がよいぞ。——そこで今度は姿を變へてエジプト人となつたのだ。 だがギュント式の自我に基礎を置いたエジプト人だ。この次はアッシリアに足を向けよう。 直ちに世界の創造時代に戻つて行かうとすれば徒らにまごつかざるを得なくなる。 わたしは聖書の物語を廻り道して辿つて行かうと思ふ。 その永年に亙る足跡をいつもわたしはついて行くことにしよう。 諺にもある縫ひ合せ目の中を覗くと言ふやうなことは全くわたしの實力や計畫の外にあることだ。 とある石の上に腰をおろす。 さあこゝでゆつくり休んで、氣永にこの像がそのいつも唄ふ曉《あけがた》の歌を唄ふまで待つことにしよう。 朝飯が濟んだらピラミツドへ登つて見よう。また時間があつたら後でその内部をもすつかり見て見よう。 それから陸路紅海の頭《はな》を廻つて行かう。たぶんポテイファール王の墓所を發見することが出來るかも知れない。 ——その次はアジアの方へ向きを變へよう。バビロンでは音に名高い賣春婦と架空園を搜して見よう。 言はゞ文明の重大なる足跡なんだからな。それから一足飛びにトロイのとりでへ行つて見よう。 トロイからはまつすぐに海を横切つて燦爛《さんらん》たる昔のアテネに旅行しよう ——そこでわたしは立ち所に石を一つ〜査《しら》べてレオニダスが防戰した山道を計つて見よう。 わたしはもつと勝れた哲學者の作物を手に入れよう。 それからまたソクラテスが苦しんだ牢屋も發見してやらう。彼も殉教者だ——。 あゝ、いや〜、さうだ——今あの地では戰ひが始つてゐるのだな——。 ぢやわたしのギリシア研究も延期しないわけにゆかぬわい。 時計を出して見る。 太陽が昇るのにこんなに手間がとれちやほんとに嫌になつてしまふな。 何しろわたしは時間がきち〜一杯なんだから。それからまづトロイを出てと—— いや、もうそこは濟んだところだつたつけ—— 立上がつて耳を傾ける。 あの朗かに聞えて來る竒體な囁きは何なのだらう—— 太陽昇る。 メムノンの像〔唄ふ〕 神々のなきがらゆ、うたふ鳥よみがへり、   若返りつゝ天《あま》がける。   全智に在《いま》すゼウス神、   戰ひの姿にそを形《かた》どりぬ。   智慧ある梟、 わがその鳥の夢を結ぶは何處《いづこ》ぞや。 この歌の謎解けずば   いまし死をばまぬがれじ。 ペール・ギュント おや〜、これは竒妙だ、——たしかに歌はあの像から出て來てゐたのだな。 これが過去の音樂か。石の聲の抑揚が聞えた。——學者の研究に資する爲このことを書きとめておかう。 手帖に書きつける。 「像は歌を唄へり。餘はその音響を明かに聞きたれども、歌の文句を辿るに至らざりき。 勿論すべては幻覺なりき。——この外に今日は何等重大なるものを觀察せず。」 また歩みを進めて行く。 ギゼーの村の近く。岩にきざまれた大きなスフィンクス。遠方にカイロ市のマホメット寺院の塔と尖塔。 ペール・ギュント現はる。眼鏡をかけて見たり手をくぼませて見たりして注意深くスフィンクスを査べる。 ペール・ギュント こんな化物のやうな殆ど忘れかけてゐる物に、これまで一體どこで出合つたらう。 北か南かでわたしはそんなものに出合つたことがあるのだ。それは人間だつたな。 人間としたら誰だつたらう。後になつて思ひ浮んだことだが、 あのメムノンは例のドヴレーの老鬼王のやうに、堅くこはばつて圓柱の斷礎の端つこにずつと据ゑられたまゝでゐたのだな。 ——だがこの上もなく竒體なあひの子は、獅子と女とが一つになつたこの易《か》へ子は ——お伽話の世界から現れたのだらうか、それとも何かほんとの姿に似せたものなのかしら。 お伽話の世界からと。さうだ、わたしはあいつを覺えてゐる。うん、言ふまでもなくわたしが腦天をぶんなぐつたくね〜入道だ、 ——さうだ、わたしはそれを夢見てゐたのだ——熱病にとりつかれてゐた時。—— もつと近くによりながら。 同じ眼だ、同じ唇だ。——あれほどは形が崩れてはゐない。この方がちつとずるさうだ。 併しほかはどこもかも眞からすつかりおんなじだ。——うん、くね〜入道だ。くね〜入道だ。 お前は後から見たり晝日中出合つたりすると獅子のやうだね。 お前はまだ謎をかけることが出來るのかい。さあ、わたしにやらしておくれ。 今度はわたしたちが、昔のやうにお前が答へられるかどうか見てやるのだ。 スフィンクスに向ひ聲を張りあげて。 おい、くね〜入道、一體お前は何者だ。 聲〔スフィンクスのうしろで〕 あゝ、スフィンクス、一體お前は何者だ。 ペール・ギュント おや〜、ドイツ語で鸚鵡返しに答へたぞ。これは竒體だ。 聲 お前は何者だ。 ペール・ギュント 馬鹿にまた流暢に喋るなあ。これは新しい觀察をしたぞ。そしてわたしの發見だ。 手帖に書きつける。 「ドイツ語にて鸚鵡返しに答ふ。ベルリンの訛あり。」 ベグリッフェンフェルト、スフィンクスの後ろより現れる。 ベグリッフェンフェルト 人間だな。 ペール・ギュント おや、では喋つてゐたのはあの男だつたのか。 また書きつける。 「續いて他の結果に到逹す。」 ベグリッフェンフェルト〔そは〜して大いにおどけた眞似をする〕 これは失禮、Mein Herr《マイン・ヘル》——。Eine Lebensfrage《アイネ・レーベンスフラーゲ》(人生の問題は)——。 何だつて今日に限つてこんな場所においでになつたのです。 ペール・ギュント 訪問です。わたしはわたしの若い頃の友逹に挨拶をしてゐるのです。 ベグリッフェンフェルト 何ですつて。スフィンクスに—— ペール・ギュント 頷いて。 さうです。昔は知つてゐた間柄です。 ベグリッフェンフェルト Famos《ファモス》(すてきだな)しかもあんな夜の後で。 わたしのこめかみは破れんばかりにづきん〜してゐます。 あなたはスフィンクスを御存知なのですね。答へて下さい。さあさ、あれが何だか言つて下さい。 ペール・ギュント あれが何だと言ふのですか。そんなことは全くわけもないぢやありませんか。あれは自分自身ですよ。 ベグリッフェンフェルト〔跳びあがつて〕 あゝ、人生の謎はわたしの視野の中にあかるく閃めいて來たぞ——ほんとにあれは自分自身ですね。 ペール・ギュント えゝ、ともかくあれはさう言つてゐるのですよ。 ベグリッフェンフェルト あれ自身か。革命よ。お前の時は迫つて來たぞ。〔帽子を脱いで〕Mein Herr《マイン・ヘル》、どうぞあなたの御名前を。 ペール・ギュント ペール・ギュントと言ひます。 ベグリッフェンフェルト〔有頂天になつて讚め稱へながら〕 ペール・ギュントですつて。寓意的ですな。わたしはそれを豫知することが出來ましたよ。 ——ペール・ギュントですつて。それは明かに未知の者を—— わたしに來るを豫言された來たるべき人——のことを意味してゐるに違ひりません—— ペール・ギュント 何ですか、一體。ではあなたはこゝでわたしに會といふことを——どうも光榮の至りで。 ベグリッフェンフェルト ペール・ギュントさん。意味深長です。謎のやうです。痛切です。言はゞ一言一句が深奧な教訓です。 あなたは一體どんな方なのですか。 ペール・ギュント〔謙遜して〕 わたしはいつも、自分自身たることに努力し續けて參りました。 そのほかのことは、さあこれが旅行免状でねえ、おわかりになつたでせう。 ベグリッフェンフェルト またあのやうな實に神祕的な言葉をお吐きになる。〔ペール・ギュントの手首を掴みながら〕 カイロへおいでなさるのですね。解釋家の帝王が見つかつた。 ペール・ギュント 帝王ですつて。 ベグリッフェンフェルト さあおいでなさい。 ペール・ギュント ほんとに人違ひぢやございますまいな。 ベグリッフェンフェルト〔ペール・ギュントを引張つて行きながら〕 自我の基礎に立つ解釋家の帝王です。 カイロ。高い壁と建物とに取圍まれた大きな中庭。閉ざした窓。鐡柵の檻禁所。 中庭に三人の番人。第四人目がはいつて來る。 新しく來た番人 シャフマン、院長は何處に行つたね。 一人の番人 今朝夜のあける少し前に出かけて行つたよ。 第一の番人 何か院長に面倒なことでも起つたにちがひないとわたしは思つてゐるのだ、 と言ふのは昨日の晩—— 他の番人 おい、靜かにしろよ。院長は戸口のところにおいでだぜ。 ベグリッフェンフェルト、ペール・ギュントをつれてはいり、門に錠をかけて鍵をかくしにしまふ。 ペール・ギュント〔獨り言〕 ほんとにすばらしく天分の豐かな人だなあ。あの人の言つてゐることはまるで見當がつかない。 〔あたりを見廻して〕するとこれは學者のクラブかな。 ベグリッフェンフェルト さあ、こゝに世界の解釋に努力せられる學者逹の集りが七十人、一人も殘らずゐるのがわかるでせう。 最近それは百六十人に殖えました。——〔番人に向つて怒鳴る〕ミッシェル、シュエリンゲルベルク、 シャフマン、フックス——すぐに檻禁所にはいれ。 番人たち わたしくたちまで。 ベグリッフェンフェルト ほかに誰がゐるだらう。さあはいつた。はいつた。世界が廻轉するとそれと一緒にわれ〜も廻轉しなければならないのだ。 〔番人たちを無理に檻禁所に入れる〕ペールと言ふえらいお方がけさやつて來られたのだ。 ——そのほかのことはお前たちの數推量に委せる、——これ以上言ふ必要を認めない。 檻禁所の戸に鍵をかけて鍵を井戸の中に投じる。 ペール・ギュント 一體わが親愛なる博士、總長、どうぞ—— ベグリッフェンフェルト わたしは博士でも總長でもありません。以然はさうでしたが——ペールさん、 あなたは祕密をお守りになれますか。 ペール・ギュント〔不安の念を高めて〕 一體何んです。 ベグリッフェンフェルト 氣を落さない約束をして下さい。 ペール・ギュント 出來るだけ努めませう。けれども—— ベグリッフェンフェルト〔ペール・ギュントを一隅につれて行つて〕 絶對理性は昨晩十一時にこの世を去つたのdえす。 ペール・ギュント それは〜。 ベグリッフェンフェルト ほんとに歎かはしいことなんです。御存知の通りわたしがこんな職に就いてゐるだけ二重に不愉快です。 といふわけはこのやうな營造物が今まで瘋癲病院と言はれて通つて來たのですからな。 ペール・ギュント 氣違ひ病院ですか、はゝあ。 ベグリッフェンフェルト 今はさうぢやありませんよ。いゝですか。 ペール・ギュント〔恐怖に青くなつて小聲で〕 今わたしはこの場所が何なのだかわかつた。あの男は氣違ひなのだ。 ——そして誰もそれを知つてゐるものはないのだ。 こつそり逃げようとする。 ベグリッフェンフェルト〔後を追ひかけて〕 併し、どうか誤解なさらぬやうに願います。絶對理性が死んだと言つたのはあれは冗談ですよ。 あれは自分を失つてゐるのです。皮から竒麗に脱け出してゐるのです—— 丁度わたしの同國のミュンヒハウゼンの狐のやうなものだ。 ペール・ギュント 一寸失禮いたします—— ベグリッフェンフェルト〔ペール・ギュントを引戻しながら〕 わたしは鰻のやうなものだと言つたのです。——狐のやうなものぢやありません。 針がめどを突通してゐるのです。——そして壁の上をのたうち廻つてゐました。 ペール・ギュント どつかに逃げ道はないものかな。 ベグリッフェンフェルト 首をちよんぎつてしまへ。鞭で打て。皮を剥いでしまへ。 ペール・ギュント 譫言《うはごと》を言つてゐるのだな。全く亂心してゐるのだ。 ベグリッフェンフェルト さあこの自己から脱出すると言ふことは、その結果として海に陸に完全な革命を起さずにおかないのだが、 これは極めて明白なことで佯《いつは》ることの出來ないところです。 ねえ、君。これまで氣違ひと思はれてゐた人たちが昨晩の十一時に最も新しい形相に於て理性に從ふ通常の人間になつたのです。 それからまた所謂健全な人たちが今言つた時間に、さつそく譫言を言ひ始めたと言ふことも顯著なる事柄です。 ペール・ギュント あなたは時間のことをおつしやいましたが、わたしの時間は切迫してゐるのですから—— ベグリッフェンフェルト あなたの時間ですつて。さうですか。それを聞いて今思ひ出しました。 〔扉を開いて呼びかける〕みんな出て來い。來たるべき時は宣言されたのだ。 理性は死んでしまつた。ペール・ギュント萬歳。 ペール・ギュント では、あなた—— 氣違ひたち一人一人、時を置いて中庭に出て來る。 ベグリッフェンフェルト おはやう。さあどうぞ、そして解法の黎明の萬歳を唱へよう。諸君の皇帝が諸君のところにやつて來られたのだよ。 ペール・ギュント 皇帝ですつて。 ベグリッフェンフェルト 勿論です。 ペール・ギュント だが大した名譽です。全く身に餘るところで—— ベグリッフェンフェルト おゝ、このやうな場合に佯《いつは》りの謙遜なんか言はないで下さい。 ペール・ギュント 併し少なくとも猶豫を與へて頂きたいです——いや、實際わたしには不適當ですよ。 わたしは全くたまげてしまひました。 ベグリッフェンフェルト スフィンクスの意味を見拔いたお方だ。自分自身であるところのお方だ。 ペール・ギュント だが併しそれは一寸厄介ですな。なるほどわたしは萬事につけてわたし自身であります。 けれどもあなたの意味に從ひますと、ここでは言はゞ、人間は自分自身を失ふべきものだと言ふことになりますな。 ベグリッフェンフェルト 失ふものですつて。いや、これは竒體な誤解をなさつたものだ。 こゝで言ふ意味はね、人間は猛烈に自分自身であると言ふことなんです。自分自身ですよ。 決してほかのものではありません。われわれは殘るところなく帆を張りあげて眞の自己として進んで行くのです。 各人は自己と言ふ樽の中に身を閉ぢこめて、あくまでも自己の獨特の醗酵をして行くのです。 ——自分の栓をもつてそれをしつかり密封し、自己の井戸の中でその木目を密にするのです。 ほかの人の惱みに流すやうな涙を誰も持つてはゐないのです。 またほかの人の考へなどに何の注意もしないです。 われ〜は思想に於ても言葉に於ても眞にわれら自身です。跳板《はねいた》が一番高く上つたところまでわれら自身でなければいけません。 ——ですから皇帝が玉座に坐るとしたら、あなたのやうな方こそその人になつて下さらなければいけないのですよ。 ペール・ギュント おゝ、とんでもないことです—— ベグリッフェンフェルト さあ、がつかりしちやいけません。自然界のものは殆ど皆初めは新しいものなのです。 「自己中心」——さああなたに一例をごらんに入れませう。 まあどれでも構はないから一番初めに出て來た奴をあなたの爲に選びませう ——〔陰鬱な樣子をした人物に〕フーフーや、こんにちは。 お前さんはまた不幸な刻印を押されたまんま永久にうろつきまはつてゐるのかね。 フーフー 人々が時代から時代へと解釋者を得ずに死んで行くのに、わたしが平氣でゐられませうか。 〔ペール・ギュントに〕あなたは見慣れないお方ですが、わたしの話をお聞きになりますか。 ペール・ギュント〔おじぎして〕 ぜひさうお願ひしたものです。 フーフー では耳をおかしなさい——遙か東の方に當つて砂濱の額を飾る花環のやうなマラバールの海岸があるのです。 オランダ人やポルトガル人たちの文化がその土地をすつかり取圍んでゐるのです。 おまけにその血を傳へたマラバール人たちの群がいくつも住んでゐるのです。 そしてこんな奴らが言語をめちや〜にしてしまつたのです。きやつらは今ではその國を支配してゐます。 ——併しずつと以前の時代には猩々《しよう〜゛》が支配者でありました。 森林の主人公たる彼は自由に戰ひ勝手に啀《いが》み合つたものなのです。 自然の腕が彼を造りあげたちやうどそのやうに彼は齒をむきだしたり、大きな口を開けたりしました。 彼は何のとがめも受けずに叫び立てることが出來たのです。彼は彼の王國の支配者だつつたのですからな。 ——併し惜しいことにはその時外國の壓迫が加つて來て、原始的な森の言葉を臺なしにしてしまつたのです。 四百年の暗黒時代が猿族を包みました。そしておわかりでせうが、 そんなにも夜が永びけば人間だつて沈滯してしまひます。 ——原始的の森の聲はもう出なくなつてしまひました。ぶう〜言ふ聲も唸る聲ももう聞くことは出來なくなりました。 ——もしもわたしたちがある觀念を言ひ表さうとすれば必ず言語に依らなければならないのです。 いろ〜の點で何て不自由極まることでせう。 オランダ人もポルトガル人もあひの子の種族もマラバール人もこれには皆苦しまねばならぬのです。 ——わたしはこれまでこの眞の原始的の森の言葉を廣めようと戰ひを試みて來ました。 ——その言葉の死屍を甦らさうと試みました。——人々が叫び立てることの權利を證明し ——自分自ら叫び立てゝ人々の爲に、詩にはこの叫び立てることが如何に必要であるかを示して來たのです。 だがわたしの仕事は殆ど顧みられなかつたのです。——今あなたはわたしの悲しみをよく御諒解なさることが出來ませう。 よくまあこんな話をお聞き下さいました。ありがたう。——ところで御意見があるならおつしやつて下さいまし。 ペール・ギュント〔小聲で〕 お前のまはりの狼共と一緒に吼えてゐるのが一番よいと何かの本で見たと思つたよ。 〔高い聲で〕君、もしわたしの記憶に誤りがないとすれば、 モロッコの大藪には詩人も代表者も持たない猩々《しよう〜゛》が澤山棲んでゐましたよ。 ——その猩々の言葉はマラバールのやうな響きを持つてゐましたが、 古めかしくて氣持ちのよいものでした。なぜあなたはほかのりつぱな人たちのやうに、 あなたの國に盡す爲に移民なさらないのですか。 フーフー わたしの言ふことをよくお聞き下さいました。ありがたう。——御忠告の通りにいたしませう。 〔大げさな身振りをして〕東方よ。汝は汝の歌人を拒めり。西方よ、汝はなほ猩々を有す。 行く。 ベグリッフェンフェルト なるほどあの男も彼自身であつたのですな。わたしは寧ろさう考へたいのです。 あの男は卒直にひたすら自ら自身の仕事に夢中になつてゐるのです。 あの男はその身から生ずるすべての者に於てあの男自身です。 ——あの男が夢中になつてゐればことあの男はあの男自身なのです。 さあこつちへ來なさい。もう一つの例をお目にかけませう。 今度の人物も同樣に昨晩以來理性と一致してゐる人間です。 〔背中にミイラをおぶつてゐるフェルラー(エジプトの百姓)に向つて〕 アピス王樣には御機嫌如何に渡らせられまするか。 エジプトの百姓〔ペール・ギュントに向つて荒々しく〕 おれがアピス王だつて言ふのか。 ペール・ギュント〔博士の陰にかくれながら〕 殘念ながらまだ全く場所なれてをりませんので。けれどもあなたの御音調から拜察いたしますと—— エジプトの百姓 お前も亦嘘をついてゐるのだな。 ベグリッフェンフェルト 陛下には一ぶ始終の御模樣を殘らずお説きあかし下さいますよう。 エジプトの百姓 よろしい、あの男にわたしの話を聞かしてやらう。〔ペール・ギュントの方を向く〕 お前はわたしが誰を肩にかついでゐるのだかわかるかね。 この方の名前は昔はアピス王と言つたのnだつたが、今ではミイラと言ふ肩書で通つてゐる。 そしてまら全く死んでゐるのだ。向ふに見えるピラミッドはみんなこの人が建てたのだ。 そして大きなスフィンクスを彫《きざ》み、博士の言ふ通り、右に左にトルコ人と戰つたのだ。 それだからエジプトは國を擧げてこの王を神として祭りあげたのだ。 そして外觀は牡牛に型どつつて寺院にこの王の像を据ゑたのだ。 ——併しこのアピス王こそは實はわたしなんだよ。わたしには大そうはつきりわかつてゐるのだ。 今君にはわからないかも知れないが、ぢきにわかるやうにしてやるよ。アピス王はね、狩に出かけたのだ。 そして暫らく馬から下りてお附きのものもつれずにわたしの先祖の土地の一部に引込んでしまつたのだ。 けれどもアピス王が肥やした田や畑には穀物が成長してこのわたしを養ひ育ててくれたのだ。 そでもしこれ以上の證據が知りたいと言ふなら言つて聞かせるが、わたしには眼に見えない角が生えてゐるのだよ。 ところで誰もわたしの偉大さを認めることが出來ないとは、さて〜氣の毒なことぢやないか。 生れながらにしてわたしはエジプトのアピスなのだが、 ほかの人たちの眼には一百姓としか見えないのだ。一體わたしがどうやつて行つたものか、 教へてくれることが出來るかな。——出來るなら正直にわたしに助言してくれ。 ——問題はどうしたらわたしがアピス王に似ることが出來るかと言ふことなのだ。 ペール・ギュント 陛下、それではピラミッドを築き、もつと大きなスフィンクスを彫《きざ》み、 博士の言ふ通りトルコ人たちと右に左にお戰ひなさいまし。 エジプトの百姓 なるほど、話だけは大そうすばらしいりつぱなものだが、わたしは百姓だ。 腹の減つた蝨だ。小屋に鼠を來させないやうにすることも出來かねる人間なのだ。 さつそくだが君——わたしをえらくも安らかにもし、 その上この背中のアピス王にそつくり似させるやうな、もつとよい方法を何か考へてくれないか。 ペール・ギュント では陛下には首をおくゝりになつて、それから地球の膝を枕に、棺桶の自然その儘の境うちにじつとねて、 すつかり死んでおしまひになつては如何ですか。 エジプトの百姓 さうしよう。首繩締に命を託さう。皮も毛もすつかり絞首臺に委せよう! ——初めのうちは變な心もちになるだらうが、ぢきそれもすうつと直つてしまふだらう。 向ふへ行つて首を縊る用意をする。 ベグリッフェンフェルト あなたにふさはしい人物ですね。ペール氏、——どうも手順のよい男で—— ペール・ギュント えゝ、えゝ。わたしのもわかつてゐます。——けれどもあの男はほんとに首を縊《くゝ》つてしまひませう。 南無三南無三。わたしは病氣になりさうですよ。——何が何だかわたしには殆どわかりません。 ベグリッフェンフェルト 移り過ぎて行く状態ですよ。永く續きはしますまい。 ペール・ギュント 移り過ぎて行くんですつて。一體どんな状態に。お許し下さい——わたしはぜひとも行かなければ—— ペール・ギュント〔ペール・ギュントを押へて〕 あなたは氣でも違つたのですか。 ペール・ギュント まだまだ——。氣が違ふなんて、鶴龜々々。 騷ぎが起る。大臣フーセイン群集を押のけて出て來る。 フーセイン 今日皇帝がおいでになつたと言ふ噂だが。〔ペール・ギュントに〕あなたがさうでございますか。 ペール・ギュント〔やけになつて〕 さうだとも。きまりきつてゐるよ。 フーセイン それはよろしうございました。——では勿論御裁可をまつ書類がまゐつてをりませうな。 ペール・ギュント〔髮の毛をかきむしりながら〕 いかにも。その方に言ふ通りだ。——氣違ひになればなるほど埒があくのだな。 フーセイン ではどうぞわたくしを一《ひと》しめしおしめし下さいますやうに。 〔ていねいにおじぎをしながら〕わたくしはペンでございます。 ペール・ギュント〔それ以上ていねいにおじぎしながら〕 いや、それではわたくしは皇帝御用の羊皮紙のはしくれでございます。 フーセイン 陛下、わたくしのお話を手短かに申せばかうなのでございます。 みんなはわたくしを吸取りの砂筐《すなばこ》だと思ひ違へてをりますが、 わたくしはペンなのでございます。 ペール・ギュント ペン樣。わたくしの話をつまんで申しますと、わたくしはまだ誰も書いたことのない一枚の白紙なのです。 フーセイン 誰もわたくしが何の役に立つものなのか少しもわからないのです。 みんなはわたくしを砂をまき散らす爲に使はうとしてゐるのです。 ペール・ギュント わたくしはある婦人が持つてゐた銀の釦金《ぼたん》の附いた本でありました。 ——氣が違つてゐようと正氣でゐようとどちらも同じ誤植です。 フーセイン ペンでゐながら一度もナイフの刄を味はつたことがないと言ふのは、 何と嫌になつてしまふ生活でせう、まあお察し下さいまし。 ペール・ギュント〔高く跳びあがつて〕 考へてもごらんなさい。高い處から飛び下りて——いくら落ちて行つても ——けつして蹄《ひづめ》が地面に觸れない馴鹿《となかい》のことを。 フーセイン ナイフよ。わたしの先は丸くなつてゐるのだ。——早くわたしの先を直しておくれ。 誰もわたしの先を直してくれなければ、世界は滅んでしまふでせう。 ペール・ギュント ほかの自ら出來あがつたものと同樣、主が大そう勝れてよいものだとお考へになつてゐる世界にとつて、 それでは氣の毒ですな。 そらナイフだ。 フーセイン〔それを握りながら〕 おゝ、これでインクが吸へるやうになれると言ふものだ。 自分の體を切ると言ふことは無茶苦茶にうれしいものだな。 自分の喉を切る。 ベグリッフェンフェルト〔ちよつとわきによりながら〕 どうかしみをつけないで下さい。 ペール・ギュント〔ます〜こはがりながら〕 おさへておやりなさい。 フーセイン わたしをおさへるつて。これはよい言葉だ。おさへろ。ペンをおさへろ。 紙をのせた机の上に。〔倒れる〕すつかり疲れてしまつた。 猶もう一言——どうぞ覺えてゐて下さい。彼は運命に導かれたるペンとして終始したりき。 ペール・ギュント〔くら〜して〕 一體わたしはどうすれば——。わたしはどうしたのだらう。あなた偉大なる——、 しつかりと支へて下さい。わたしはあなたの思ひの儘になります、——わたしはトルコ人です。 わたしは罪人です——山の魔です——けれどもお助け下さい。 何か急に勃發したものがあつたのです——。〔叫ぶ〕こんな際には急にあなたのお名前がわたしには思ひ浮べられないのです。 ——おゝ、わたしをお助けにおいで下さいまし、もし——氣違ひたちをお護り下さる方よ。 氣を失つてぐつたりとなる。 ベグリッフェンフェルト〔手に藁の輪を持ち、跳んでペール・ギュントの上に馬のりになる〕 へッ。泥沼の王位についたこの男を見るがいゝ。——自分自身を失つて——。 さあ王冠を加へてやらう。 ペール・ギュントの頭に藁の輪をはめる。叫ぶ。 自我主義皇帝萬々歳。 シャフマン〔監禁所の中で〕 ペール大王萬歳。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/28 ペール・ギュント : 第五幕 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 北海々上ノルウェーの沖合を走つてゐる船の甲板。荒模樣。 ペール・ギュントは白髮交りの髮の毛と髯とを生やした岩乘な老人となつて後甲板の船尾に立つてゐる。 ピージャケツを着長靴をはいて、半分船員の服裝をしてゐる。 着物はかなり着古してわるくなつてゐる。體は風雨に暴され、 幾分けはしい表情をしてゐる。船長は舵機を握つてゐる。舵手の側に立つてゐる。船員たち前方にゐる。 ペール・ギュント〔船檣に腕をつきながら陸地をぢつと見てゐる〕 冬の毛皮の外套を着たハリングスカルフが見えるな。——昔ながらに夕映えの中にその外套を逆立てゝゐる。 あいつの弟のジェーケルもそのうしろに斜めに聳えてゐるな。 あいつはまだ背中に緑色のマントを纒つてゐる。いたづら者になつてはいけないよ。いゝかい、昔なじみの子供たち。 その儘立つてゐるがいゝ。お前たちは花崗岩《みかげいし》の瘤《こぶ》にすぎないのだから。 船長〔前方に向つて叫ぶ〕 舵機《かぢ》に二人かゝれ。燈《あかり》を高く揚げろ。 ペール・ギュント 嫌に風が吹きやがるな。—— 船長 ——今夜は荒れますぞ。 ペール・ギュント 海から、ロンデー山は見えませうかな。 船長 いや、とても見えますものか。ロンデーはあの萬年雪に埋れた山のうしろですからな。 ペール・ギュント ではブローヘーは。 船長 見えませんな。綱具《つなぐ》の上にでも昇つたら、天氣のよい日にはガルトヘッピンゲンが見えませうよ。 ペール・ギュント ホールテイクはどの邊になるのでせうか。 船長〔指さしをしながら〕 この見當でせうな。 ペール・ギュント わたしもその邊だと思ひました。 船長 あなたは今どの邊に船がゐるのか、おわかりだと見えますね。 ペール・ギュント 國を出た時わたしはこの邊を通つて行つたのです。諺にも言ふ通り、 かすは何處までもこびりついて來るものだ。〔唾をはいて海岸の方を見つめながら〕 斷崖絶壁が藍色に連なつてゐるところ——谷間が掘のやうに狹く黒くどすんと淀んで ——そして下は低く開いた入江をくぎつてゐるところ——そこにはあんなやうな人間が住んでゐるのだ。 〔船長を顧みて〕この國ぢやまだ人家が稠密してはをりますまいな。 船長 えゝ。住宅は數が少なくてぽつり〜と立つてゐるばかりです。 ペール・ギュント 夜明けまでには着きませうか。 船長 大てい着きませう。夜中大した荒れさへなければね。 ペール・ギュント 西の方が曇つて來ましたな。 船長 曇つて來ましたね。 ペール・ギュント ちよつと待つて下さい。わたしたちが勘定をする時、 わたしのことを心がけておいて下さい。わたしはよくいふ言葉の通り、 船員たちに何か餘分にしてやりたいと思つてゐるのです。—— 船長 それはありがたうございます。 ペール・ギュント 別に大したことは出來ませんけれど。わたしは金を掘りあてたのです。 そして發見したものを見す〜失つてしまつたのです。 ——運命とわたしとは全く喧嘩をしてゐるのですな。 あなたも御存知の通りわたしはあの品をこの船に安全に保管してもらつてゐます。 あれがわたしの手に殘つたすべてゞす。——外のものはみんなめちや〜になつてしまつたのです。 船長 だがあれだけあれば、あなたの生れ故郷で重きを爲す人物になるのには多すぎるほどですよ。 ペール・ギュント わたしにはひとりもみよりと言ふものがありません。 金持ちのしわん坊ぢゞいを待つてゐてくれるものは一人もないのです。 ——さあ、おかげで好なくとも船着の世話場だけは助かるでせう。 船長 やあ暴風雨《あらし》がやつて來ますぞ。 ペール・ギュント ではお忘れなく——もし船員でほんとに困つてゐるものがあれば、 わたしはあまり細かしく金のことを心配してゐるわけぢやありませんから—— 船長 それは御親切です。船員の大部分の者は大そう困つてゐるのです。 あいつらは誰も彼も家に歸れば妻の子供もある身の上なんですからな。 あいつらの賃金だけでは殆どやりくりがつかない始末です。 併しもしあいつらがいくらか臨時に餘分の金を持つて家に歸ることになれば、 それこそは家に歸ることの樂しさは急には忘れられますまいよ。 ペール・ギュント 何ですつて。あの人たちには妻も子もあるのですか。あの人たちは結婚してゐるのですか。 船長 結婚してゐるかつていふのですか。如何にも誰も彼も結婚してゐます。 けれども皆のうちで一番みじめなのは料理番です。恐ろしい飢餓がいつもあの男の家ではなれつ子になつてゐるのですからな。 ペール・ギュント 結婚してゐるのですか。では家ではあの人たちを待つてゐる人たちがゐるわけなのですね。 あの人たちが歸るといそ〜と喜ぶ人たちがゐるのですね。え。 船長 勿論のことです。貧しいものは貧しいなりに待つてをります。 ペール・ギュント それで夕方あの人たちが家に歸るとして、それからどうなりませう。 船長 まあ感心な妻君だつたら御馳走に何かうまいものでも持つて來ませうな。—— ペール・ギュント それから突出し燭臺に一本のあかりを點すことでせうね。 船長 さうですとも。さうですとも。二本位點すかも知れませんよ。 そして晩飯には少しばかりのお酒をつけるでせう。 ペール・ギュント それから家の人たちは歌を唄ふでせう。爐に赤い火が燃えてゐます。 子供たちは兩親の廻りに集つて、部屋の中はぺちやくちやしやべる聲で一杯になりませう。 誰も彼もうれしさのあまりおしまひまでほかの人の話をおとなしく聞いてはゐないでせう—— 船長 全くその通りです。ですからあなたが今お約束なさつた通りに、 足りない所を補助して下さると言ふのはほんとに御親切な志です。 ペール・ギュント〔手摺を指ではじきながら〕 とんでもない眞平御免だ。貴方はわたしが氣でも狂つてゐるとお考へなのですか。 他人の餓鬼の包みを重くする爲めにわたしに金を出して貰ひたいと言ふのですね。 わたしは今のお金を手に入れるにはそれは〜辛い奴隸のやうな勤めをしたものなのです。 誰も年老いたペール・ギュントを待つてゐてくれるものはないのです。 船長 なるほどね。ではあなたの御勝手になさいまし。あなたのお金はあなたのものですから。 ペール・ギュント さうですとも。金はわたしのものです。誰もよその人のものぢやありません。 船長が錨をおろしたら、さつそく勘定をしませう。パナマからこゝまでの船賃を船室でとつて下さい。 それから船員たちに一 巡《まわり》ブランデーを振舞ひませう。それだけにとめておきます。 それ以上わたしが一文でもやるやうなことがあつたら、わたしの顎をひつぱたいて下さい、船長。 船長 受取だけは差上げますが、あなたをぶつ必要はありません。——だが失禮をします。 風がます〜荒れて來たやうですから。 船長前方に行く。あたりは暗い。あかりが船室にともつてゐる。 波は高まる。霧と密雲。 ペール・ギュント 家には子供たちの群がゐるなんて——やがて來る樂しみとして、 いつも彼等の心の中に宿つてゐるなんて——勝手な眞似をしてゐても猶ほ妻子のことが氣になつてしやうがないなんて。 わたしにそんなやうな氣を起させたものは一人だつてゐやしないのだ。 ——突出し燭臺のあかりだなんて。そんなあかりはみんな吹き消してやらう。 何かほかのことを考へついてやらう。——そうだ船員たちをみんなよつぱらはしてやらう。 ——一人だつてしらふで上陸させないやうにしてやらう。 あいつらがみんなよぱらつて妻子のところへ歸つて行くやうにしてやらう。 あいつらにあくたいをつかせて、鳴り響くまでテーブルをどん〜叩かせてやらう。 ——あいつらにどぎまぎしながらあいつらを待つてゐる連中をおどかさしてやらう。 かみさんのやつに悲鳴をあげて家を飛び出さして——子供たちをしつかり抱きしめるやうにしてやらう。 さうすればあいつらの喜びなんてものはめちや〜になつてしまふんだ。 〔船はぐいとかしぐ。ペール・ギュントはよろめいて辛うじて中心をとる〕 おや、おやこれはたしかに突上といふ奴だな。 海は賃金でも貰つたやうにせつせと働いてゐやがる。——北方の海岸地方ぢや海は相變らずだな。 ——昔ながらのひねくれた邪見ないぢ惡い海だ——〔耳をそばだてる〕 おや、あの叫び聲は何だらう。 見張りの者〔前方に〕 風下に難破船一艘。 船長〔中甲板で叫ぶ〕 強くおもかじ。風の方に船をやれ。 運轉士 難破船には人がゐるのか。 見張りの者 丁度三人見える。 ペール・ギュント 早く〜。船尾《とも》のボートを下しなさい—— 船長 ボートを下したつて浮かばないうちに水で一杯になつてしまひますよ。 前方へ行く。 ペール・ギュント 今の場合そんなことを言つてゐる奴があるものか。〔船員たちの數人に向つて〕 もしも諸君が男なら助けておやんなさい。一寸飛び込む位が何だ。 水夫長 こんな海ぢやそんなことは問題にならない。 ペール・ギュント あの人たちはまた叫んでゐるぢやないか。ほら一寸風がなぎた。 ——料理番、お前助けに行つちや見ないか。早くするんだ。金はわたしがやるぜ—— 料理番 いやですな。あなたが二十 磅《ポンド》をやると言つたところでお斷りしませう—— ペール・ギュント 畜生。臆病者。お前たちにはあの人たちにも家には妻子があると知つてゐても平氣でゐられるのか。 妻子はあの人たちの歸りを待ちこがれてゐるのぢやないか。 水夫長 なるほど、待つのは體の爲ですよ。 船長 あの砂洲はよけよう! 運轉士 あれ、難破船が轉覆しました。 ペール・ギュント 急に何もかも靜かになつた—— 水夫長 あなたのお考への通りあの三人が結婚してゐたとしたら、丁度世の中に三人のほや〜の後家が出來たわけでさあ。 暴風雨は強まる。ペール・ギュントは船尾の方に去る。 ペール・ギュント もう人々の間には信仰なんてものは殘つちやゐないのだ。 キリスト教精神なんてものもありはしない。——口で言つたり書いたりはよくするが、 ——善行をする奴は稀《ま》れだ。お祈りを捧げる奴に至つてはます〜稀れだ。 またきやつらは自分たちを支配する權力と言ふものに何の尊敬も拂つてはゐない。 ——だから今夜のやうな暴風雨《あらし》には主がおつかなくなるのだ。こいつらけだもの、 象に戲れるのは實際危險なことだと言ふことを氣をつけもし考へて見ねばならないのだ。 それでもなほきやつらは神の御不興になることをおほつぴらに冐さずにはゐられないのだ。 わたしは何も出來心で非難してゐるわけではない。わたしは手に金を握つて、 いつでも犧牲になる覺悟はしてゐる證據を見せることが出來るのだ。 併しそんなことをして、わたしに何の利益があるのだ。—— 格言には何と言つてある。良心の平かなるはこれ、わたの毛枕なりぢやないか。 おゝさうだとも、これが陸地なら全くその通りだ。 けれどもおれのやうな高雅な人間がこんなやうな碌でもない奴らと航海をしてゐる時、 船の上で腹を立てるやうなことがあればわたしは惠れてゐるのだ。 海の上ぢや誰だつて我を張り通すことは出來ない。 甲板から龍骨に到るまで他人と行動を共にしなければならないのだ。 水夫長やコックの奴に復讐してやる時が來たところで、 わたしはほかの奴らにはふり投げられてお陀佛になるにきまつてゐるのだ。 自分の身の安寧なんてことはこれいになくなつてゐる。 殺される時になれば人間はソーセージと同じやうにしか取扱はれないのだ。 わたしの誤りはこゝにあるのだ。つまりわたしは餘りおとなしすぎた。 そして結局それに向つて何の感謝もしたことがなかつたのだ。 もしわたしがもうちつと若かつたなら、鞍を變へて暫らくそれを乘りこなして見て、 どんな反應があるか試みて見たいと思ふのだが。時は十分にある。 教區にゐる人たちにペールは海外から帆を高々と揚げて歸つて來たと言ふことを知らせてやらう。 わたしは正當な又は不當な手段方法で農場を取戻してやらう。—— そしてまた新しくそれを建て直して、御殿のやうにりつぱなものにしてやらう。 併し誰も廣間にはいることは許すまい。みんなの者は帽子を振りながら門の道に立たせるやうにしよう。 彼らがいくらでも頼んだり願つたりすることは自由だ。併し誰にもわたしの錢は一文だつてやるものぢやない。 もしもわたしがこれまで運命の鞭の下に哭かねばならなかつたのだとするならば、 今度必ずわたしが代つて鞭打つてやる人たちを見つけ出してやらう—— 見慣れぬ船客〔暗の中でペール・ギュントの側に立ち親しげな樣子で彼に挨拶する〕 今晩は。 ペール・ギュント 今晩は。おや——。あなたはどなたですか。 船客 あなたと同じ旅行者ですよ。初めておめにかゝりますが。 ペール・ギュント さうですかな。わたしは旅客はわたし一人ぎりだと思つてゐましたが。 船客 まちがつて、さう思ひ込んでいらしつたことは今ではおわかりになりましたらう。 ペール・ギュント けれども、今夜になつてはじめておめにかゝるとは不思議ですな—— 船客 わたしは晝間の中はけつして出て來ないのです。 ペール・ギュント お體でも惡いやうですな。シーツのやうに白い顏をしていらつしやる。—— 船客 ありがたう。けつして病氣ぢやないのです。わたしは非常に健康なのです。 ペール・ギュント 何てひどいしけでせうな。 船客 えゝ、ありがたいあらしですな。 ペール・ギュント ありがたいあらしですつて。 船客 海は家ぐらゐの高さに波打つてゐます。あゝかうしてゐても口の中に水にはいるのがわかるやうです。 ちよつとまあ今難破する船のことを考へてごらんなさい。それからまた死體が海岸に打ちあげられる樣を考へてごらんなさい。 ペール・ギュント 桑原々々。 船客 あなたは今までに絞め殺されたり首を吊つたり——でなけりや水に溺れた人を見たことがありますか。 ペール・ギュント これはあんまりひどい—— 船客 死骸は殘らず笑つてゐます。併し彼等の笑ひはとつてつけたやうな笑ひです。 そして見て見ると死骸は大てい舌を噛み切つてしまつてゐるのです。 ペール・ギュント あつちへ行つて下さい—— 船客 たつたもう一つのことだけ聞かせて下さいまし。 例へばわたしたちが岩に打ちあげられて暗い海の底へ沈んで行くやうになるとすると—— ペール・ギュント あなたは危險状態に居られるとお考へなのですか。 船客 わたしにはほんとに何と申上げたらよいのかわからないのですが、まあわたしが浮び漂つてゐて、 あなたが海の底へ沈んで行くところを想像してごらんなさい—— ペール・ギュント 何を下らないことを—— 船客 いや、それはほんの假定の話ですよ。併し人間と言ふものは墓場に足をつつこんでゐると、 氣だてが優しく氣前がよくなるものですよ—— ペール・ギュント〔ポケットに手を入れる〕 ほおら、金のことですか。 船客 いや〜金なんかぢやありません。たぶんあなたは大そうありがたいあなたの死骸をわたくしに賜物として下さるでせうな—— ペール・ギュント あんまり脱線しすぎる。 船客 たかゞあなたの肉體ぢやありませんか。わたしの科學上の研究を助けるために—— ペール・ギュント 行つて下さい。 船客 併し考へてもごらんなさい、あなた。——その方があなたの利益なのですよ。 わたしはあなたの袖を切開してまた世の中の光にあてゝあげますよ。 わたしが特に求めてゐるものは夢のありかです。——それで綿密に注意をして縫合した痕跡《あと》をよくしておきますよ。—— ペール・ギュント あつちへ行つて下さいと言つたら。 船客 これは〜。でもあなた——たかゞ溺れた死骸の一つぢやありませんか—— ペール・ギュント 碌なことを言はない人だ。あなたはあらしの荒れ狂ふのをます〜扇動してゐるのだ。 あんまりひどい。今の場合は雨も降つてゐれば風も吹きまくつてゐる。 しかも恐ろしい海の上だ。そして何もかもわたしたちの壽命を縮める兆《きざし》のやうに見えるものばかりだ。 ——しかもあなたはその壽命をます〜早く縮めるやうなことばかりやつてゐる。 船客 あなたにはもうこの上談判を進める氣はないのですね。しかしね、 時がたつに從つていろんな變つたことが出來て來ますよ——〔親しげな樣子で頷く〕 併し遲くもあなたが沈んで行きなさる時にまたお會ひしませう。 その時はたぶんあなたはもつと上機嫌でございませうて。 船室に入る。 ペール・ギュント あんな科學者なんて全く不愉快な仲間だ。あいつらは自分勝手に何でも考へて—— 〔通りすがる水夫長に〕もし、一寸、君、あの船客はどうです。 どうも氣違ひじみてゐるぢやありませんか。 水夫長 この船にはあなたのほかに一人も船客はをりませんよ。 ペール・ギュント ゐませんつて。これはます〜おかしくなつて來たぞ。 〔船室から出て來た船のボーイに〕たつた今下りて行つた人はありや誰だい。 ボーイ 船の犬ですよ。 行きすぎる。 見張りの者〔叫ぶ〕 全面近くに陸地あり。 ペール・ギュント わたしの箱はどこへ行つた。トランクはどこへ行つた。荷物をみんな甲板に出さなくては。 水夫長 われ〜にはそれ以上に氣にかけなければならぬものがありますよ。 ペール・ギュント 船長、さつきのあれは何でもなかつたのです。 ほんの冗談にあゝ言つただけだつたのです。——きつとわたしは料理番を助けてやりませう—— 船長 船首の三角帆は吹きさらはれた。 運轉士 前檣《ぜんしよう》の三角帆ももつて行かれました。 水夫長〔前方から叫ぶ〕 船首の下の水切も。 船長 船はこつぱんみじんになつてしまふだらう。 船がこはれる。物音。混亂。 暗礁と激浪につゝまれた、陸地にすぐ下の處。船は沈む。 二人の人間を乘せたボートが飛沫の間に少しの間見えてゐる。 波がそのボートを襲ふ。ボートは水が一杯になつて顛覆する。 叫び聲が聞える。それから暫らくは全く靜かになる。 その後間もなくボートが底を上に見せて漂つてゐるのが見える。 ペール・ギュントはボートの近くの水面に現れる。 ペール・ギュント 救けてくれ。救けてくれ。や、ボートがあるな、救けてくれ。溺れさうだ。 經典の文句通りに神よわれを救ひ給へ。 ボートの龍骨を握る。 料理番〔向ふ側の水面に現れる〕 おゝ、神樣、わたしの子供たちの爲めに御慈悲を願ひます。 陸地に行きつかせて下さいまし。 龍骨を掴む。 ペール・ギュント 離せ。 料理番 離せ。 ペール・ギュント 毆るぞ。 料理番 おれだつて毆るぞ。 ペール・ギュント 毆つたり蹴つたりひどいめに遭はせるぞ。離せと言つたら。 このボートに二人のれるものか。 料理番 それはわかつてゐるよ。貴樣こそ離せ。 ペール・ギュント 貴樣こそ離せ。 料理番 何を糞。 二人は爭ふ。料理番は一方の手が利かないので、片手でしがみついてゐる。 ペール・ギュント その手を離してしまへ。 料理番 まあ旦那——救けてやつておくんなさい。家には可愛い奴がいくたりもゐるのです。 ペール・ギュント お前よりももつともつとわたしの生命《いのち》は必要なのだ。 わたしはまだ一人身で子供がないんだからな。 料理番 離せ。いゝ年をしやがつて。おれはまだ若いんだ。 ペール・ギュント さつさと沈んじまへ。お前は二人とも沈めようと言ふのだ。 料理番 お願ひです。どうか旦那手を離しておくんなさい。 あなたが死んだところで誰も淋しがつたり悲しがつたりするものはないぢやありませんか—— 〔手をすべらす。悲鳴をあげる〕あゝ溺れさうだ。 ペール・ギュント〔料理番を掴みながら〕 この一握の髮の毛でお前を引上げてゐてやるから、早くお祈りを唱へるがいゝ。 料理番 とても思ひ出せません。あたりが黒くなつて來ます—— ペール・ギュント さあ肝心の處だけを一言云ふがいゝ—— 料理番 われらに今日のこの日を與へよ—— ペール・ギュント おい料理番、そんなところは飛ばしてしまへ。 さうすれば全く心配なしにお前はお前のほしいものを殘らず手に入れることが出來るだらうよ。 料理番 われらに今日のこの日を與へよ—— ペール・ギュント あれまた同じことをほざいてゐる。お前が生前料理番をしてゐたことは人が知つてゐるのだ—— 料理番はペール・ギュントの握つた手より滑り離れる。 料理番〔沈みながら〕 われらに今日のこの日を與へ給へ、われらの—— 姿を沒する。 ペール・ギュント アーメン。いまはのきはまでもお前はあくまでお前自身でゐた。——やれ〜 〔ボートの底の上に匍ひ上がる〕命あつての物種だ—— 見慣れない船客〔ボートを掴む〕 今日は。 ペール・ギュント おや。 船客 あなたが叫んでゐるのが聞えましたので。——またお目にかゝれて愉快ですな。 どうです。この通りわたしの豫言は適中したでせう。 ペール・ギュント 離して下さい。離して下さい。一人だけがやつとなんですから。 船客 わたしは左の足で梶を取つてゐるのです。 ですから指の先が一寸でもこのボートへ載つてさへしたら浮いてゐられるのです。 しかしそれはさうと、あなたの死體は。 ペール・ギュント お默んなさい。 船客 どのみちここできれいさつぱり片づくのですから—— ペール・ギュント もう澤山です。 船客 では全然あなたのお氣に召すやうにしませう。 だまる。 ペール・ギュント どうしたのです。 船客 だまつてをります。 ペール・ギュント 氣味がわるい!——ではどうしようと言ふのです。 船客 わたしは待つてゐるのです。 ペール・ギュント〔髮の毛をかきむしりながら〕 氣が狂ひさうだ。——一體あなたは何者です。 船客〔頷く〕 あなたの友人です。 ペール・ギュント それから何です。言つて下さい。 船客 あなたは何だとお考へですか。わたしのやうなものはほかに誰も御存知ありますまいな。 ペール・ギュント 知つてたまるものですか—— 船客〔低い聲で〕 恐怖を通つて進み行く人生の闇夜《あんや》の巡禮のために、提燈のあかりをつけるのが、 わたしの仕事ぢやありませんか。 ペール・ギュント なるほど、さうことが明瞭になつて來ると、あなたはどうやら光明の使者のやうですね。 船客 ええ、——あなたは半年毎に一度でも恐怖の苦痛と言ふものを覺えたことがありますか。 ペール・ギュント そりや危險が迫つてくれば人間ですもの恐れもしますよ。—— しかしあなたのお言葉はどれもこれも二重の意味をもつてゐますね。 船客 ではあなたはこれまでたゞの一度でも恐怖の中に與へられる權利といふものを得たことがありますか。 ペール・ギュント〔旅客の方に目をやる〕 あなたはわたしの爲に扉《と》をあけてくれようと思つてやつて來たのですね。 ではもう少し前に來なければ何にもならないぢやありませんか——馬鹿な。 海がわたしを呑まうとしてゐる時を、よりによつて來るなんて、一體全體どういふおつもりなのです。 船客 ではその勝利はむしろあなたが爐ばたの爐でぬく〜してゐる時にあつたらしく思はれますかね。 ペール・ギュント たぶん、そんなことはありますまい。併しあなたは道化芝居をしてゐますね。 どうしてそんなことが人を鼓舞するものだとお考へになることが出來るのでせうな。 船客 わたしの國では微笑は悲壯的な型と同じやうに大いに賞讚されるのです。 ペール・ギュント 萬事は時によりけりです。經典にも書いてあるやうにね。 税吏に都合がよいやうなことは坊さんには禁物ですからね。 船客 骨壺の中で深い眠りに陷ちてゐる人々は平日には高靴をはかぬものです。 ペール・ギュント あつちへ行け。妖怪め。行つてしまへ。おれは死ぬもんか。どうしたつて岸邊に行きつくのだ。 船客 あゝ、その點なら御安心なさい。——第五幕ののまんなかで死ぬやうなことはありませんからね。 スーッと消える。 ペール・ギュント ああとう〜本音を吐いて行つたな。——あいつは哀れな道徳家だつたのだ。 高い山間の教區の墓地。 葬儀が行はれてゐる。墓の側には牧師と一團の民衆。讚美歌の最後の節が唱はれてゐる。 ペール・ギュントそこを通りかゝる。 ペール・ギュント〔門の處で〕 國者《くにもの》が一人死んだのだな。おれでなくつてしあはせだ。 墓地の中へはいる。 牧師〔墓の側で演説してゐる〕 さてあの人のみたまはその運命に從ふ爲めに去り、屍はここに空の莢《さや》のやうに横たはつてをります。 そこで皆さん、わたしは一言二言この死んだ人の現世に於ける經歴に就いて申上げたいと思ひます。 この人は金持ちでもなければ賢い人でもありませんでした。その聲は弱くその振舞ひは女々しかつたのであります。 心の中を語る時その人は恐縮しながら口ごもりながら話をしたのであります。 その人は自分の家庭を切廻すことも出來なかつたほどであります。 その人はほかの人たちのやうにまるで自分に適當な場所を與へてくれを乞はんばかりに、 教會にいざりこんで來たのでした。皆さんも御存じの通りあの人はグードブラントの谷間からやつて來たのでした。 そしてここに落着いた時はまだほんの若者でありました。 そして皆さん方はあの人がいまはの際まで右手をポケットに入れて匿《かく》してゐたと言ふことをおぼえていらつしやるでせう。 ポケットにつつこんだその右手ことわたくしたちの心の中にあの人の姿の特徴を刻みこんだ重なものでありました。 そのほかあの人の身を悶える樣子や、 何處へ行つても餘り人目にかかるまいと恥づかしがつて尻ごみしてゐた樣子などもあの人の特徴としてわたくしたちの心に殘つてをります。 けれどもあの人はひとり道を離れてあるいて行き、わたしたちの間ではいつも慣れ親まぬよその人のやうに見えましたが、 それでも皆さん方はあの人があんなに骨を折つて匿《かく》さうと努めてゐたのは何であつたかよく御存じでせうう。 ——あの人の繃帶をした方の手には指が四本きりしかなかつたのです。—— わたくしは今でもよく覺えてをります。何年か前のある朝のことでした。 ルンデーで徴兵檢査が行はれたことがありました。當時は丁度戰爭最中で、 みんなの話は盡く自分たちの國の損害やその運命に向けられてをりました。 わたくしはそこに立つて檢査の樣子を眺めてをりました。 卓の前にはお役人や軍醫を從へて大尉が坐つてをりました。 裝丁は一人々々あちこち調べられ、檢査の合格して軍籍に編入されて兵士に採用されました。 室内は滿員でありました。そして外の草原からはそこに群がつた若い人たちの聲高い笑ひ聲が聞えて來ました。 ある名前が呼ばれて、氷河の縁《へり》の雪のやうに青ざめた若者が今度は進み出ました。 係官はその若者に前に出るやうに命じました。若者は卓の前に進み出ました。 と見るとその若者の手は繃帶で包んでありました。若者は何か言はうと努めながら喘いだり息を呑みこんだりしました。 ——しかし大尉が如何に促してもその若者は一言も聲を出すことが出來なかつたのです。 ああさうでした。そしてとう〜、その若者は顏を火のやうにしたり、 急にだまりこんだり、せつかちにどもつたりして、 はからずもすべり落した鎌のために指を切り落したことを何かぶつ〜とつぶやきました。 急に室内はしんとしてしまひました。人々は意味ありげな視線を投げました。人々は皮肉な口つきをしました。 そしてだまつて輕蔑的な顏つきを雨霰《あめあられ》とその若者にあびせかけました。 若者は雹《ひよう》に降りこめられてゐるやうな氣がしました。 併し目を返してそれを見ようとはしませんでした。半白の老人の隊長はつと立上つて唾を吐き、 若者を指ざしながら「出て行け」と、怒鳴りつけました。 そして若者は隊長の前から下がつて行きました。人々はさつと後にさがつて道をあけました。 それでとう〜若者は兩側の人たちにとやかく云はれながらその間を通つて行かなければなりませんでした。 若者は扉のところまで來ました。そこからその男は一散に逃げ出したのであります。 ——どん〜どん〜若者は山を登つて行きました。森を通り拔け山腹を越え、 ごつ〜゛した險しい石の阪道を通つて山を登つて行きました。 その若者の家は上の山の間にあつたのです。—— それからおよそ半年ばかりして、若者は母親と許嫁と小さな子供を一人連れてこの地にやつて來ました。 若者は高い小山の中腹にある地面を借りました。その地面と言ふのは誰も手をつけるものもない荒地でした。 若者は自分の力が及ぶと、さつそく結婚をしました。そして家を建てたり、堅い地面を耕したりしました。 そして澤山の畑が論より證據で若者は大そう豐かな暮しをし、 金ピカの着物に波を打たせてきらびやかな身なりをしました。 教會に來るといつも若者はポケットに右手を入れてをりました。 ——しかしわたしは若者が九本の指しかないのに、 外のものとすつかり同じやうに一生懸命によく働くことを十分知つてをりました。 ——するとある春のこと山津波が出て、若者の家産は何もかも流されてしまひました。 若者の家族の命はみんな無事でありました。若者は何もかも臺なしになつてしまひ奪ひ去られてしまつたにもめげず、 また耕作をやりなほさうと働き始めました。 そして秋にならぬうちに若者の新しいよく用意して建てた山の農家からはまた煙が立登りました。 山津波にはよく用心してあつたのですが、雪崩のことはうつかり油斷してをりました。 それから二年たつてから何もかも雪の下に埋められてしまつたのであります。 けれども雪崩もまた若者の精神を碎くことは出來なかつたのです。 若者は土を掘り鎌をかけ車を使つて地面をならしました。—— そして翌年の冬まだ雪嵐《ふぶき》が始まらぬうちに若者のささやかな家は出來上りました。 家を起すことこれで三度目であります。 若者には三人の元氣で活溌な倅《せがれ》がありました。 子供たちは學校へ通はなければならなかつたのですが、學校はかなり遠い所にありました。 ——そして子供たちは山道がついてゐないところは、突き出た斷崖を通つて、 せまい岩の出張つたところを頼りに登つて行かなければなりませんでした。 皆さんはこの場合その男がどうしたとお考へですか。 長男は一生懸命どうやらかうやらやつて行かなければなりませんでした。 そして道が惡くなつて來るとその男は長男を支へる爲に長男の體に繩をまき、 自分は他に二人を背中に一人、腕に一人抱きかかへたものでありました。 このやうにしてその男は子供たちが成人するまで毎年一生懸命に働き續けました。 そしてもう息子たちの世話を受けても少しも差支へないやうになりました。 併し新しい世界に飛び出してりつぱな紳士となつた三人の息子たちは、 そのやうにして一緒に學校に通つたことも、自分たちの父親のこともすつかり忘れてゐたのでありました。 その男は近目でありました。自分のそばによつぽど近くゐる一團の人たちでなければ見ることが出來ませんでした。 その男にとつては我々の心に鋼鐵の鳴るやうに嚴かに聞えるところの言葉がシムバルの音のやうに無意味なものに思へました。 國民も祖國も高貴な輝かしいものも殘らず、その男の眼にはいつも霧に包まれたやうに映つたのでありました。 しかしこの男は實際いつも自分の身を卑下してをりましたよ。 あの徴兵檢査日以來と言ふもの、この男の顏が恥かしがつて赤く染まり、 この男の四本の指がポケットにいつも匿《かく》されてゐたと同じやうに、 この男の運命がこの男を壓迫し來つたといふことは確かなことであります。 ——皆さんはこの男を國法を犯した奴だと言ふでありませう。いかにもその通りです。 ですが併しこの男には、高山の上に漂ふ一抹の雲のやうに國法以上に出たところがあります。 この男はけつして愛國者ではありませんでした。教會にとつても國家にとつても何の木の實も結ばない木であります。 しかしあの高い山の脊では、この男が自分の天職を見出したあの小さい土地では、 この男は確かに偉大な人間でありました。何となればこの男はこの男自身でありましたから。 この男の持つて生れた調べは最後まで僞るところなく鳴り渡りました。 この男の一生は、音どめをした絃《つる》を張つた琵琶のやうなものでありました。 このやうなわけでありますからわたくしたちは、 百姓としての小さな戰ひを戰つてつひに斃れたこの沈默の勇者の冥福を祈つてやらうではありませんか。 心の奧底をあなぐり求めるのはわれ〜の爲すべきことではりません。 それは人間の爲すべきことではなくてその支配者たる神の爲すべきことであります。 ——それでもわたくしは自由に端的にわたくしの希望を述べて見たいと思ひます。 即ちわたくしはあの男が今は神樣の御前に完全に五體揃つたものとして立たんことを望むものであります。 會衆散る。あとにはペール・ギュントひとりだけ殘る。 ペール・ギュント あれこそわたしの所謂キリスト教だて。聞いてちつとも不愉快なところがない。 ——またあの話——牧師が飾りけなく説いた。搖ぐことなく自分自身であれといふ—— あの話は豐かな實際の教訓を含んででゐる。〔墓の上の目をおとして〕 この男はわたしが森へ出て木を切つてゐたあの日に指の間接をぶつつり切り下した奴があつたが、 あの男ぢやないのだらうか。さあそれは誰にもわかるまい。 わたしが心の上の縁者だと思つてゐるこの男の墓の側に、杖を握つてこゝにかうやつて立つてゐないとしたなら、 永い眠りに入つて夢現《ゆめうつゝ》の間にわたしの讚辭を聞いてゐるのは外ならぬわたし自身だと思ひこんだかも知れないのだ。 この世を去つた人の上に慈愛に滿ちた所謂想ひ出のまなざしをこのやうに投げてやるのは、 實際適當なキリスト教徒的な習慣だ。わたしは決してあのりつぱな教區の牧師さんの手で裁決を受けようとは思はない。 うん、全くわたしは墓堀りがわたしの處へやつて來て。 埋めてあげますからおいでなさいと言ふまでにはまだかなりの時があるのだ。 經典にも書いてある通り最善のものは最善なのだ。また萬の物その時ありだ—— また更に進んでは、汝の葬式を正しく營めとも書いてあつたなあ。 ——あゝ何と言つても、教會と言ふものは眞の慰安者だなあ。 わたしには今まで殆どそれがよくわからなかつたのだ。—— だが今ぢや健全な誰にも認められてゐる教會に安心してお世話になれるのはどんなにありがたいことだかはつきりとわかつて來た。 蒔いた種はいつか刈り取らなければならないのだ—— 人は自分自身でなければならない。自分及び自分のもののために、 大事小事に拘らず人は最善を盡さなければいけないのだ。時利あらずするも、 少なくとも主義に殉じて人生をやり通して來たと言ふ名譽は得ることが出來るのだ。 ——さあ家路に向ふとせう。行く道は險しからうが狹からうが、 運命は最後まで決して甘いものではないかも知れぬが—— それでもペール・ギュントは昔ながらに自分の思つた通りを行ひ、 貧しいけれども常に正しく自分のありのまゝに相變らずやつて行くとしよう。 去る。 水の枯れた小川の河底の跡の附いてゐる山腹。流れの側らに朽ち崩れた水車小屋一軒。 地面は割れて一面に荒廢してゐる。山腹の上の方に一軒の大きな農家。 競賣が農家の前で行はれてゐる。そこには大勢の人たちが集つて酒を飮んだり大そうやかましく騷いでゐる。 ペール・ギュントは水車小屋の側のがらくたの山の上に腰をかけてゐる。 ペール・ギュント 行つたり戻つたりすれば遠いのは當り前の話だ。出たりはいつたりすれば苦しいのは當り前だ。 ——時は老い行き、河は河岸を咬んでとゞまることをしない。 廻つて行けとくね〜入道が行つたな。——そこでわたしはこゝまで廻つてやつて來たのだ。 喪服を着た男 もう殘つてゐるものはあすこにあるがらくただけだ。〔ペール・ギュントを見つける〕 あすこにも亦知らない人がゐる。やあ、御機嫌よう。 ペール・ギュント いや、ようこそ。今日はこゝで皆さん方は大變おにぎやかですな。命名式のお祝か婚禮のお祝でもあるのですか。 喪服を着た男 まあそれよりむしろ新宅開きのお祝とでも申しませうか。 ——花嫁さんは蟲食つた、寢床の上に寢かされてゐる。 ペール・ギュント 蟲けらはぼろきれや雜巾を食べようとして爭つてゐる。 喪服を着た男 それで小唄はおしまひなのです。それでおしまひなのです。 ペール・ギュント 小唄の終りと言ふものはどれもこれも同じやうなものですな。 そして小唄はどれもこれも大變古いものではありませんか。 子供の時からわたしはそれを知つてゐましたもの。 二十代の若者〔鑄物用の湯びしやくを持つてゐる〕 といと御覽なさい。ずいぶん珍らしいものを僕は買つたでせう。 これでもつてペール・ギュントが銀のボタンを鑄たものなんです。 他の一人 僕のも見て御覽なさい。金袋です。半ペニイで買つたのです。 三人めの若者 これも見て下さいな。二ペンスで買つた行商人の袋です。 ペール・ギュント ペール・ギュントだつて。そりや一體誰のことなんです。 喪服を着た男 その男は死神とそれから鍛冶屋のアスラックの親類だと言ふことだけしかわたしは知らないのです。 鼠色の着物を着た男 わたしを見忘れてゐるなんて、あなた氣違ひかさもなければ酒に醉つてゐるのだ。 喪服を着た男 あなたはヘーグスタットの倉庫に扉《と》があつたことをお忘れでせう。 鼠色の着物を着た男 それは如何にもその通りです。併しあなたが何事にもさう几帳面の人でないことは知れてゐますよ。 喪服を着た男 もしもあの女が死神をだましさへしなかつたなら—— 鼠色の着物を着た男 さあ、親類衆。わたしたち一門の固めに一杯やりませう。 喪服を着た男 あなたの一門なんか糞くらへだ。あなたは酒によつぱらつてぐづ〜言つてゐるのだ—— 鼠色の着物を着た男 何をこのがらくた。やはり血だけ濃い水はねえのだぞ。 誰だつてペール・ギュントの親類だと思はずにゐられるかい。 喪服を着た男と去る。 ペール・ギュント〔ひとり言〕 知り合ひの人に會へば會ふものだ。 若者〔喪服を着た男を呼びかける〕 アスラックさん、もしもお前さんが酒なんか飮めば、 死んだおつかさんはお前さんの後を追ひかけて行くぜ。 ペール・ギュント〔立上がる〕 あの良農の話もこゝでは殆ど何んのきゝめもないと見える、 土は深く掘り下げれば下げるだけ、ものの香味が出て來るのだと言ふことが。 若者〔熊の皮を持つて〕 ごらん。ドウレーの猫だよ。これはそいつの皮だけだよ。いいかい。 クリスマスの前夜に山の魔を追拂つたのはあいつなんだぜ。 第二の若者〔馴鹿の頭蓋骨を持つてゐる〕 これは不思議な馴鹿で、イェンヂンでペール・ギュントを乘せて尾根や崖縁を越えて行つた奴なんだよ。 第三の若者〔槌を持つて喪服を着た男をよびかけてゐる〕 アスラックさんてば。この玄翁《げんのう》はお前さん知つてゐるだらう。 これは惡魔の胡桃を叩き割つた時お前さんが使つたものぢやないか。 第四の若者〔何も持つてゐない〕 マッツ・モーエン。これはペール・ギュントとイングリッドとが着て空中を飛んで行つた眼に見えない外套だよ。 ペール・ギュント さあ子供たち。ブランデーがあるぞ。わたしも思へば年を取つたものだ。 ——それでわたしのがらくたを一切競賣にしようと思ふのだ。 若者 ではをぢさんはどんなものを賣りに出すのだい。 ペール・ギュント 御殿が一つ。それはロンデーにあつて岩乘《がんじよう》に建ててあるのだ。 若者 ボタン一つで買はう。 ペール・ギュント 一杯獻上と氣張つて言ふものだ。それより以下に値をつけるのは罪惡だよ。 他の者たち これは面白いことを言ふおぢいさんだ。 見物人ペール・ギュントの周圍に群がる。 ペール・ギュント〔大きな聲して〕 駿馬のグラネーだ。誰か買ふものはないかね。 群集の一人 その馬は何處を走つてゐるのだね。 ペール・ギュント ずつと西の方だよ。日の入る近くさ。その馬はペール・ギュントが嘘をつくのと同じほど早く飛ぶことが出來るのだ。 數人の聲 何かもつと外に持つてゐないかね。 ペール・ギュント がらくたも持つてゐれば金も持つてゐるよ。わしはそれを買つて沒落してしまつたのだが、 損をしても賣つてしまふ。 若者 ぢやあ競賣にかけてごらんなさい。 ペール・ギュント それから銀の止金のついた一册の本の夢がある。それは釣針の代用にもなるのだ。 若者 夢なんかぢやしようがねえや。 ペール・ギュント さあわたしの帝國がある。これを諸君のまんなかに投げるからそれを爭つて手に入れるがいゝ。 若者 王冠も投げてくれるかい。 ペール・ギュント うん、綺麗な藁で作つた奴を投げてやらう。それは一番初めにかぶつたものに一番よく似合ふのだ。 それからまだあるぞ。腐つた玉子。氣違ひの灰色の髮の毛。それから豫言者の髯と。 こんなやうなものはみんな山の何處かに汝の道はここにありと書いてある場所を示してくれたものに進呈しよう。 寺役人〔登つて來てゐる〕 あなたがそんな竒態な眞似をなさつてゐると、 まああなたの行くべき道はまつすぐに留置場の方に續いてゐると言つてよいでせうな。 ペール・ギュント〔帽子を手に取つて〕 全くそんなところでせうよ。併しまあ一體ペール・ギュントと言ふのはどんな人だつたのです。 寺役人 下らない話なんですよ—— ペール・ギュント どうぞ話して下さい。伏してお願ひいたします—— 寺役人 その男は何でも恐ろしい嘘つきだつたと言ふ話ですよ—— ペール・ギュント 嘘つきですつて—— 寺役人 さうですとも——強くて偉大なことは何でもかんでもみんな自分がやつたんだと、 しじゆう人たちに信じさせてゐたのです。ですがわたしはこれで失禮します。 ——外に勤めがありますから—— 行く。 ペール・ギュント その評判の男は今何處へゐるのでせう。 かなり年をとつた男 海を渡つて外國へ旅をしに出かけましたよ。併し向ふへ行つたつて碌なことにはならないことは、 よく眼に見えてゐましたのさ。——その男が首を絞られてから今ではもう大分になりますよ。 ペール・ギュント 絞殺されたのですつて。なるほど。わたしもその位のことにはなるだらうと思つてゐました。 われ〜のペール・ギュントは最後まで彼自身であつたのですな。 可哀さうなことをしました。〔お辭儀をする〕さやうなら。 ——お蔭で今日は面白うございました。〔二三歩歩いてまた立止まる〕 元氣のよいお若い衆。また美しい娘さんたち、——お禮に旅行話でもしてあげませうかね。 數人の聲 えゝ、して下さい。でもあなたは旅行話なんて知つてゐるの。 ペール・ギュント それこそお安い御用さ。——〔ペール・ギュント近よる。彼は竒異な風貌を帶びて來る〕 わたしがサンフランシスコで金を掘つてゐる時のことでしたが、 その町には野師《やし》が一杯集つてゐましてね、爪先で胡弓を引くものもあれば、 膝で立つて、スパニッシュ・ハリングを踊るものもありました。また中には、 頭の皿にぽかんと大穴を明けられてゐながら詩を作り續けた者もあつたと言ふことでした。 野師たちの小屋には惡魔も亦やつて來ました。 そして外の者たちと一緒に當りを取つて見ようと考へました。 この惡魔は何が出來るかと言ふと、なるほど尤もと頷かせるやうな具合に、 本物の豚の啼き眞似をして見せると言ふのでした。 惡魔はまだ誰にも認められてはゐませんでしたが、その樣子は少なからず人々の注意を惹いて、 小屋は滿員の有樣でその藝當の期待されたことはすばらしいものでした。 惡魔は大きな廻し襟のついた外套を着て進み出ました。ドイツ人の言ふやうに、 人は羅絨《ラシヤ》にて飾らざるべからずと言ふこともありますからね。 けれども惡魔はその外套の下に——何ぞはからん—— 本物の生きた豚をまんまと忍ばせてゐたのでした。そしていよ〜藝當に取りかゝつたのです。 惡魔は豚を抓《つね》りました。すると豚は聲を出して啼いたのです。 そして自由に解き放されてゐる時の啼聲も、つながれてゐる時の啼聲も、 まるで架空の豚がほんとに啼いてゐるやうだと思ひ浮ばせるやうにやつたのでした。 それで最後に撲殺場で豚のあげるキーキー聲で藝當はおしまひになりました。 ——そして惡魔は丁寧にお辭儀をして引きさがりました。 ——批評家たちは今の藝を論じてその價値を定め合ひましたが、 啼き聲の全體の調子を攻撃するものもあれば、また辯護するものもありました。 ある人は音聲的表現が弱すぎたと思ひました。 しかるに一方ではあの死ぬ時の悲鳴に至つてはよくまああれだけ研究したものだと考へるものもをりました。 けれども皆は豚の啼き聲としては今の啼き眞似は馬鹿に大げさすぎた、と言ふ點では一致しました。 ——だからつまり最初に人々の人柄を見ずにやつたのが惡魔の手ぬかりといふわけなのですね。 ペール・ギュントお辭儀をして行つてしまふ。群集はだまつてポカンとしてゐる。 聖靈降臨祭の前夜。——深い森のたゞ中。後方に開墾地に一軒の小屋。 小屋の入口の破風の上には馴鹿の角の一對が掛つてゐる。 ペール・ギュントはこゞんで野生の玉葱を草生の間に拾ひ集めてゐる。 ペール・ギュント さてこれが一つの立脚點だが、次の立脚點は何處だらうかな。 あらゆることをやつて見て、一番よいものを選ぶやうにしなければ駄目だ。 わたしはその通りにやつて來たのだ。——シーザーから始めて、 下つては草食獸のネブカドネザルにまで行つたわけだ。 それで結局は聖書の歴史を通覽しなければならなかつた。—— 年を取つた子供はまたおつかさんの胸に戻りたがつてゐるのだ。 何と言つても本に書いてある通り、汝は地より生れいでたものなのだからな。 ——人生で重な仕事と言つたら自分の腹を滿たすことにあるのだ。 だが玉葱なんかで腹を滿たすなんてあんまりありがたいことぢやない。—— もつと狡猾に立廻つて罠を張るやうにしなければ駄目だ。小川には水が流れてゐるな。 これなら喉が乾いて困るやうなことはない。結局まあわたしは動物の中ぢや第一流のものなんだな。 死ぬべき時が來た時——もつともありさうに思はれることだが—— わたしは風に吹き倒された木の下を匍ひ廻るだらう。 そして熊のやうにわたしの上に木の葉の塚を積みあげ、木の皮に大きな字で、國の裝飾、 あらゆる他の獸類の皇帝。ペール・ギュントこゝに眠る。と書きつけてやらう。 ——だが皇帝はおかしいな。〔くす〜笑ふ〕このおいぼれの占者《うらないしや》ののぺてん師め。 お前が皇帝なんかであつてたまるものかい。お前は玉葱にすぎないのぢやないか。 わたしは今お前の皮をむいてやるのだぞ。ペール公。 お前は哀れみを乞ふたり唸り聲を立てたりして逃れようと思つても駄目だぞ。 〔玉葱を一個とりあげて順々に皮をむいて行く〕これが一番上の皮だ。 すつかりやぶけてゐる。これはボートの龍骨に掴つてゐる難破船の乘組員だ。 この皮は薄くつて貧弱だからあの船客だ。——でも味つて見るとペール・ギュントの臭味があるわい。 次の下の皮は砂金掘りの我利々々だ。——正義はすつかり失せてしまつてゐる ——以前は幾分でもあつたのだらうが。このかたい外皮のついた粒の粗い皮はハドソン灣の毛皮取りだ。 次の奴は王冠のやうだな。——おゝ、これはありがたい。 何の造作もなく片附けてしまへる。この短くて岩乘《がんじよう》なのは考古學者だな。 この汁の多い生々してゐるのは豫言者と言つたところだ。經典にも書いてあるやうに、 豫言者と言ふ奴は僞りの惡臭を發散して、正直な人の眼に涙を浮べさせるものだ。 この優しくまるまつてゐる皮は安らかによい機嫌で面白く暮してゐる紳士だな。 次の皮はこれは病氣らしいぞ、上に黒い縞がついてゐるな。 ——黒いと言ふ奴は、牧師と黒坊と兩方の意味にとれるものだ。 〔一度に數枚の皮をむく〕何てまあぐる〜いくつもまきついてゐるのだらう。 これぢやあおいそれを心《しん》は現れて來ないぞ。〔玉葱をすつかり皮をむいてしまふ〕 これはありがたいぞ。心の心までむいて行つてもだん〜小さくなりながらも皮ばかりなんだな。 ——自然もなか〜洒落たことをやるものだ。〔皮を投げ棄てる〕畜生、 考へることなんかやめてしまはう。考へながら歩けば轉びがちのものだ。 併しともかくそんな危險もわたしは平氣で嘲笑し去ることが出來るのだ。 ——四つの足で立つてゐれば一層安定があるわけだからな。 〔頭を掻く〕世の中のことは何もかも全く不思議なものだな。よく言ふ通り、 世の中つて奴は耳の影に狐がかくれてゐるやうなのだ。 それでいよ〜見あらはしてやつたぞと思つても、もうその本體は見えなくなつてしまつてゐるのだ。 人間が掴んだと思つたのはそれとは違つたものか——さもなければ全く空虚なものにすぎないんだ。 〔ペール・ギュントは小屋の近くに來てゐる。そして小屋のあることを認めてびつくりする〕 こんな荒地に小屋があるなんて——はておかしいぞ。〔眼を擦る〕 わたしが以前知つてゐるのとそつくり同じ建物のやうだな。 ——破風の上に張り出してある馴鹿の角と言ひ——臍のところから下は魚のやうな格好をした人魚と言ひ——。 嘘だ。あれは人魚ぢやない、釘だ——板だ——惡魔のやうな考へにしめ出しを食はせるための閂だ。—— ソルヴェイク〔小屋の中で歌ふ〕 降臨祭のお祝ひの支度もみんなできました。 遠くへ出かけたいとし子よ、 もうぢき歸つておいでだらうね。 仕事に骨が折れるのか、 てまどること、てまどること。—— それでもむかし契つたやうに、 わたしは待ちます、待つてます。 ペール・ギュント〔そつと身を起して死人のやうに青くなる〕 貞節を守つてゐる女もあれば——忘れてしまつた男もある。男は人生を賭で失つてしまつたが ——女はぢつと坐つて待つてゐる。おゝ、眞面目よ。——それは決して歸つて來はしない。 おゝ、恐怖よ。——そこにこそわたしの帝國はあつたのだ。 森の小路を通つて急いで行つてしまふ。 夜。松の木の茂つた荒地。山火事が燃え狂つたあと。黒焦げになつた木の幹が何哩となく打續いてゐるのが見える。 白い霧がこゝかしこに地面を低く匍つてゐる。 ペール・ギュント荒地の上を走つて來る。 ペール・ギュント 灰燼、飛びちらふ霧、風に運ばれるほこり——こゝで家を建るにはこんなもので澤山だ。 その家の中には惡臭と腐敗がこもつてゐるのだ。萬事が白く塗られたる墳墓だ。 空想と夢と死んで生れた智識とがピラミッドの基礎を据ゑたのだ。 しかもその空想や夢や智識を打越えて僞りの階段を歩一歩上へ上へと築いて行かねばならないのだ。 眞面目のことは避け、悔ひ改めることを恐れ、柱隱しの紋のやうに頭だけを見せびらかし、 所謂、Petrus Gyntus Caesar Fecit《ペトルス・ギュンツス・ケーザル・フェシット》 (大帝 雲脱《ユント》如是功業)と言ふ叫びで裁きの喇叭を滿たしてゐるのだ。 〔耳をそばだてる〕何だらう。あの子供の泣いてゐるやうな聲は。泣いてゐると言つても半分は歌でも歌つてゐるやうに聞えるな。 ——おや足元に絲鞠《いとまり》がころがつてゐるぞ。——〔蹴る〕どけ。ぢやまつけだ。 絲鞠〔地面の上で〕 わたしたちは思想です。あなたはわたしたちのことをお考へ下さるのが至當だつたのです。 あなたはわたしたちに驅け歩くことが出來る脚を與へて下さるのが當然だつたのです。 ペール・ギュント〔廻り道をしながら〕 わたしはあるものに生命を與へてやつた。——それは無樣な足の曲つた奴だつた。 絲鞠 わたしたちは鳴りひゞく聲のやうに天《あま》がけらねばならぬ筈だつたのです。 ——それだのにこゝにかうやつてわたしたちは灰色の絲鞠となつてころがつてゐなければならないのです。 ペール・ギュント〔躓きながら〕 絲鞠め。お前たちはとんでもない惡者だ。お前たちの父親の足元につけこまうとするのだな。 逃げる。 萎んだ木の葉〔風に吹かれて舞ひながら〕 わたくしたちは標語です。あなたはわたくしたちを揚言するのが當然だつたのです。 考へてもごらんなさい、あなたがぼんやりまどろんでゐるために、 どんなにわたくしたちが傷《いた》ましくも謎のやうなものになつてしまつたかを。 虫けら共はわたしたちの隙間と言ふ隙間に食ひ入りました。 わたしたちは決して果實の廻りの花冠のやうに絡みつくことはありませんでした。 ペール・ギュント でもお前さんたちが生れたことは無駄ぢやないのだ。——まあぢつと横になつてゐさへすれば、 肥料として役に立つと言ふものだよ。 中空の嘆きの聲 わたしたちは歌です。あなたはわたしたちを唄ひ出して下さるのが當り前だつたのです。 ——幾千度となくあなたはわたしたちをいぢけさせ、わたしたちを窒息させました。 わたしたちはあなたの心のどん底でしびれを切らして待つてゐましたのに、—— わたしたちは決して呼び出されることはありませんでした。ほんとにあなたの咽喉のひどいつたらない。 ペール・ギュントお前たちこそひどい奴等だ。下らない歌め。 ゆう〜詩作にかゝはりあつてゐる暇なんぞがわたしにあるものかい。 近道を行かうとする。 露のしづく〔木の枝から滴る〕 わたしたちはついに流されなかつた涙です。鋭い氷の槍もわたしたちは溶かすことが出來たのです。 矢鏃《やぢり》の尖が毛むくぢやらな胸にのこつて、傷はすつかり癒合してしまつたのです。 それでわたしたちの力は終つたのです。 ペール・ギュント ありがたう。——わたしはロンデーの修道院で泣きました。 ——それでも彼等は尻尾を縛りつけてしまつたのです。 折れた藁 わたしたちは行爲です。あなたはわたしたちを獲得すべき所だつたのです。首絞め人とも言ふべき懷疑がわたしたちを片輪にし、 わたしたちを引裂いてしまつたのです。裁きの日にはわたしたちは群がつてやつて來ませう。 そして事の次第を物語りませう。——その時にはあなたは災ひなるかなだ。 ペール・ギュント 狡猾な惡者め。わたしに對して不當な責務を負はせるとはもつてのほかだ。 急いで去る。 オーセの聲〔遙か彼方にて〕 まあほんとに何て言ふ馬車屋さんだらう。お前のためにわたしは氣も轉倒するばかりだよ。 雪はこの地でもまた新しく降り積つた。情ない雪のためにわたしはよごれてしまつたよ。 ——お前はすつかりわたしを迷はしてしまつたね。ペールよ。 お城はどこにあるのさ。きつと惡魔が、魔法の若枝でお前を迷はして行つたのだね。 ペール・ギュント 可哀さうに早く逃げ出す方がいい。惡魔の罪まで背負つて、 お前は間もなく小山の上の途中で氣絶してしまふだらう。——罪の重荷に堪へ切れないで。 走り去る。 荒地の他の部分。 ペール・ギュント〔唄ふ〕 墓堀りよ。墓堀りよ。何處に居るのだ、やくざもの。 吼え立てるよな音頭取りの歌よ。 帽子の縁《へり》に喪章を卷いて、—— わたしは死人を送らにやならぬ。 ボタン作り、道具箱と大きな鑄物びしやくを持つて傍道から出て來る。 ボタン作り よう、これは。おとつさん。 ペール・ギュント やあ、今晩は。 ボタン作り お急ぎですね。何處へ行かうと言ふのですか。 ペール・ギュント お通夜に行くのです。 ボタン作り ほんとですか。わたしはよく眼がきゝませんが——失禮ですが—— あなたのお名前はもしかするとペールさんとおつしやりあしませんか。 ペール・ギュント 人の呼ぶところぢやペール・ギュントと言ひますよ。 ボタン作り これはよいところでお目にかゝりました。 今夜はそのペール・ギュントさんの所へわたしは使ひにゆく所なのです。 ペール・ギュント あなたがお使ひにですつて。何の御用があるのです。 ボタン作り 何の御用と言つて、ごらんの通りわたしはボタン作りです。 あなたはわたしの鑄物びしやくの中にはいらなければいけません。 ペール・ギュント そこで何をすると言ふのです。 ボタン作り すつかり融かしてもらうのです。 ペール・ギュント 融かしてもらうのですつて。 ボタン作り そらこの通り中はからつぽで綺麗に掃除がしてありますよ。あなたの墓場はもう掘るばかりになつてゐるのです。 あなたの棺桶はもう注文してあるのです。蛆蟲共はあなたの體にたかつて思ひも儘に生きてゆくことでせう。 けれどもわたしは親方の言ひ付けで、さつそくながらあなたの魂を掴まへなければならないのです。 ペール・ギュント とんでもない話だ。無警告でそんなことをするなんて—— ボタン作り 誕生の際にも葬式の際にも、全然無警告で名譽ある客人逹に饗宴の日を指定するのは昔からの習慣ですからね。 ペール・ギュント えゝ、えゝ、それは御尤もです。わたしは頭がすつかりぐら〜して來ました。するとあなたは—— ボタン作り さつき申上げた通りのボタン作りですと言つたら。 ペール・ギュント あゝわかりました。祕藏つ子と言ふものは澤山の綽名を持つてゐるものですな。さて、ペール君、 これこれなんだ。君の行きつかうとする港もつまりこれなんだ。 併しねえあなた、これほど不公平な所爲はありませんよ。 實際わたしなんぞはもつとよい取扱ひを受けても決して恥かしくない人間です。 わたしはあなたが考へてゐるほどそんなに惡い人間ぢやまづないと思つてゐます。 ——わたしは世間の爲にかなり爲になる仕事をしました。—— まかり間違つたところでまあどぢな奴と呼ばれる位のものです。 格別の罪人と呼ばれるやうな人間ぢやありませんよ。 ボタン作り それはあなた全くいやみと言ふものですよ。あなたは高い意味に於ける罪人では決してありません。 それだからこそあなたは拷問の苦痛をすつかり免ぜられて、ほかの人たちと同じやうに鑄物湯びしやくの中に落されるのです。 ペール・ギュント まあ何とでもあなたの好きなやうに言ふがよい。——湯びしやくと言はうとどごくと言はうと。 石投げの石も山崩れの石も二つながら石ころたることに變りはない。サタンめ。どけ。 ボタン作り わたしの足を馬の蹄《ひづめ》のついた足と間違へるやうなそんなそゝつかしくつちや困りますな。 ペール・ギュント 馬の蹄だらうと狐の爪だらうと——あつちへ行つてくれ給へ。 君は自分の仕事に精を出せばよいのだ。 ボタン作り あなたは大きな誤解をしておいでです。わたしたちはお互ひに急がしい體です。 ですから手間を取らないために、わたしは一部始終のわけあひを説明しませう。 あなたは御自分の口からおつしやつた通り所謂英雄的規模の罪人ぢやありません。 ——殆んど中位の處にさへゐられない—— ペール・ギュント そんなことはおつしやるまでもなくわかりきつたことです。—— ボタン作り もう一寸我慢して聞いて下さい——でもあなたを有徳の人と呼ぶのはあんまり言ひすぎた次第ですからね。 ペール・ギュント さうですとも、わたしは御承知の通りそんなに呼んでくれと求めたことなんかありませんよ。 ボタン作り さうするとあなたはあれでもなければこれでもない。たゞどつちつかずの人間なんですね。 眞に大きなところのある罪人は今日では天下の公道では出會ふことも出來ません。 偉大な罪人になるには單に泥に轉がること以上のものが澤山必要なんですからね。 勇氣と熱誠が二つながら備つて始めて罪を犯すに到るのですから。 ペール・ギュント なるほど、あなたのお言葉は本當です。 人間は昔のベルセルケル(強力の勇士)のやうに何かをめがけて襲はなければならないのです。 ボタン作り あなたは却つてあなたの罪を輕く見てゐましたね。 ペール・ギュント ほんのうはかはに泥のはねかかつたやうなものでさあ、君。 ボタン作り あゝそれではぢきにわれ〜は議論が一致しませうよ。硫黄のぢごくは、 ほんの泥のとばしりを浴びたあなたの行くべき所ぢやない。 ペール・ギュント それで、結局わたしは元の通りでやつて行かれるのでせうな。 ボタン作り いや〜。結局はわたしはあなたを融かしてしまはなければならないのです。 ペール・ギュント わたしが外國に行つてゐた間に、あなたは國でずいぶんひどい小細工を考へついたものですね。 ボタン作り こんなならはしは蛇が出來たと同じやうに古くからあるものなんですよ。 これはよい材料の消失を防ぐために工夫されたものです。 あなたもこの職業を手がけたことがあるのだから、きつと知つてをいででせうが、 鑄物があけすけに言へばちよい〜下らない鐡糞《かなすそ》となつてしまふことがあるのです。 例へばボタンに時々絲を通す穴が少しもあいてない時があるのです。 こんな際にあなたは一體どうしましたか。 ペール・ギュント がらくたは投げ棄てゝしまひましたよ。 ボタン作り あゝ、そうでしたね。ジョン・ギュントは金入れや財布に一文でもある間は無駄費ひをするので有名ですたからね。 ところがね。わたしの親方はほんとのしまりやなんですよ。 それだからこそあんなに安穩に暮しても行けるのでせうがね。 親方は原料として利用することの出來るものは、 全く價値のないものでも一物たりとも棄てるやうなことはしないのです。 ところであなたを世界のちよつきのぴか〜光るボタンにするやうにもくろんだのです。 けれども絲を通す穴がなかつたものですから、あなたはごみ箱に投げ棄てられて、 そこからよく言ふやうに、俗衆の中に伍してしまはなければならなくなつたのです。 ペール・ギュント あなたはまさかわたしを猫や釋氏と一緒くたに融かし込んで、 何か新しいものを作ると言ふ積りぢやありますまいね。 ボタン作り いや、わたしは全くさう言ふ積りなんですよ。ほかの意味は少しもありません。 わたしたちはもうとつくに多數の人間をさうやつて來たのですから。 コンクスベルク(南ノルウェーの地名。王立造幣局がある)では刻印が磨滅するほど永い間流通した貨幣で、 これと丁度同じことをやつてゐますよ。 ペール・ギュント 併しこんなみじめなけちなことはありませんな。ねえ君、わたしを自由にのがして下さい。 ——穴のあいてないボタン。すりへらされた銅貨—— それがつまりあなたの親方の地位から言へば一個の人間に當るわけなんですね。 ボタン作り 人間に精神のある限り、また精神あるが故に、人間と言ふものはいつも金屬と同じやうな價値のあるものなのです。 ペール・ギュント そんなことはありませんとも。わたしはあくまでその議論には反對します。 金屬になる位ならむしろ何かほかのものになりますよ。 ボタン作り だがほかの何にならうと言ふのです。さあ、もうちつと頭を働かせてごらんなさい。 御承知の通りあなたは昇天するほど身輕ぢやありませんよ。 ペール・ギュント わたしは何も分に安んじないと言ふわけぢやないのです。そんな高遠なことを望んではゐません。 ——併しわたしの自我と言ふものを少しでも奪はれたくないのです。 舊式な法則によつて判斷してもらひ、暫らくの間、まあ百年ほども蹄の生えた先生と一緒にわたしを置いて、 不幸の上に不幸が續くと言ふのなら、ほんとに我慢も出來ようと言ふものです。 苦難は實に道徳的だと言ふことですからね。ところで苦痛と云ふ奴は結局そんなに金字塔式のものではないのです。 物の本にも書いてある通りそれは單に過程にすぎないのです。そして狐が言つたやうに、 たゞぢつと救ひの時の來るのを待つてゐるのです。 鬱々と押込められた生活をしてゐてもその間絶えずもつと幸福な日を望んでゐるものなのです。 ——併し粘土並に扱はれてよその鑄型の中にはめられなければならぬと言ふそんなちがつた考へや、 ——あの鑄物の湯びしやくの仕事や、ギュントたることをやめると言ふことなどは、 わたしの奧底の魂を叛逆させずにはをきませんよ。 ボタン作り やれ〜、ギュントさん。こんなつまらないことにそんなに力みかへるのは及びませんよ。 あなたは全然あなた自身ではなかつたのです。—— ですからあなたの權利が全く消滅したところで何でもないぢやありませんか。 ペール・ギュント わたしがわたし自身ぢやなかつた——。とこれは笑止千萬だ。 ぢやあペール・ギュントは何かほかのものであつたのですね。いや、ボタン作りさん。 あなたはめくらめつぽふに判斷を下してゐるのです。 もしもあなたがわたしの眞の心情を覗《うかが》ふことさへ出來たら、 そこのはたゞペールあるのみで、何處までもペールで、決してペール以外のものではない。 いや、それ以上のものですらないと言ふことがおわかりになるでせうにな。 ボタン作り それは不可能です。わたしは言ひつけられて來たのですから。ごらんなさい、 命令書にはかう書いてあります。汝はペール・ギュントを召連れざるべからず。 ペールは一生の使命を飽迄蔑視した。ほかの汚れた材料と一緒にペールを湯びしやくの中に叩き込め、とね。 ペール・ギュント 何てくだらないことを言つてゐるのだ。これはきつと誰かほかの人のことを言つてゐるのでせう。 本當にペールを指してゐるのでせうか。ラムススかジョンぢやありませんか。 ボタン作り ラムススやジョンを融かしたのはもうずつと昔のことですよ。 ですからもうおとなしくおいでなさい。わたしの時間を無駄に費やさしては困ります。 ペール・ギュント わたしはどうしたつて嫌ですよ。あしたになつて誰かほかの人のまちがひだつたと言ふことがわかつたら、 ずいぶん馬鹿を見ますからね。あなたは御自分のしてゐることを十分念を入れる方がよござんすよ。 あなたが自分の上に加へてゐる責任を御考慮なさい。—— ボタン作り わたしはそれを書いてもらつたのです。—— ペール・ギュント 少なくともわたしに猶豫を與へて下さい。 ボタン作り 猶豫を得たところでそれが何になるのですか。 ペール・ギュント 猶豫があればそれを利用して、 わたしは生れてから今日までずつとわたし自身であつたと言ふことを證據立てるつもりです。 それが議論のある問題なのですから。 ボタン作り 證據立てるつもりですつて。どんな方法で。 ペール・ギュント 證人と目撃者を連れて來まさあ。 ボタン作り お氣の毒ですが親方はその人たちも言ふことを受け入れないだらうと思ひますがね。 ペール・ギュント そんなことは無い。まあ萬に物その時あり——。ねえ、君、 わたしに暫らくわたし自身を貸して下さい。わたしはぢきに歸つて來ますよ。 人間と言ふものはたつた一度生れるものなのです。 そして生みつけられたまゝの自我と言ふものに喜んでこびりついてゐるものなのです。 さあ、あなたも御承知下さるでせうね。 ボタン作り ではさう言ふことにしませう。併し忘れないやうにして下さい。 わたしたちはこの次の十字路で會ひますからね。 ペール・ギュントは走つて去る。 荒地の更に奧深き所。 ペール・ギュント〔苦しさうに走つて來る〕 經典にも書いてあるが時は金なりだ。次の十字路と言ふのが、何處にあるのかわかつてゐればいゝんだがな。 ——近くにあるかも知れないし遠くにあるかも知れないのだから。 地は足元に熱く熱した鐡のやうに燃えてゐる。證人よ。證人よ。 一體どこへ行つたら證人を見つけることが出來るだらう。こんな森の中ぢやあ殆ど思ひもよらぬことだ。 世界と言ふものは不細工なものだ。人間が白日の如く顯然たる正義を證明しなければならぬ時に當つては、 何とみじめな仕廻になつてゐるものなのだらう。 老齡のために腰が曲り手に杖を持ち肩に袋をかついだ一人の老人が、 ペール・ギュントの前をよぼ〜歩いて行く。 老人〔立止まる〕 御親切な旦那樣。哀れな宿なしに一文やつておくんなさいまし。 ペール・ギュント 勘辨しておくれよ。あひにくポケットに小錢がないもんだからね—— 老人 おゝ、ペール王子。二度とおめにかゝらうとは思ひませんでしたな—— ペール・ギュント あなたはどなたです。 老人 ロンデーの老人をお忘れになりましたか。 ペール・ギュント まああなたが——そんなことは—— 老人 ドヴレーの王ですよ、君。 ペール・ギュント ドヴレーの王ですつて。本當にドヴレーの王樣だつて云ふんですか。 老人 恐ろしいことにわたしは下界に下つて來たのです。—— ペール・ギュント 王位を奪はれたのですか。 老人 一文なしになるまでも掠奪されたのです。それでかうやつて狼のやうにかつえて、 うろつき廻つてゐるのです。 ペール・ギュント これは萬歳だ。こんな證人はめつたにそこらに生《な》つてゐやしない。 老人 わが王子殿下にもお別れしてから少し頭が白くなりましたね。 ペール・ギュント おとうさん、歳月と言ふものは人をくらますものです。——さうです〜。 わたし逹の爭ひは休戰と言ふことにしませう。——とりわけ家族間の軋轢はやめにいたしませう。 あの頃はわたしも哀れな氣違ひだつたのですから—— 老人 あゝ、さうですとも、さうですとも。——殿下には年少氣鋭にわたらせられた。 あの年輩ではどんな事でもないものがありませう。けれども殿下には賢明にも花嫁をお斷りになつて、 心痛と恥辱からお逃れ遊ばしましたよ。と言ふのはあの時からと言ふものあの娘は全く變りました—— ペール・ギュント 御尤もです。 老人 あの娘は悲しい情ない生涯を送つたのです。そして今では——あの娘はトロンド鬼と一緒に暮してゐるのです。 ペール・ギュント どのトロンド鬼とです。 老人 ワイフェルトのです。 ペール・ギュント はゝあ、あいつですか。わたしが牧小屋の三人女を奪いとつてやつたのはあいつでした。 老人 併しわたしの孫は丈夫に大きく成長してりつぱなものになりました。 そして國中に屈強な子供たちを持つてゐます。—— ペール・ギュント もし、あなた、もうそんな下らないことを話すのはやめにしませう。 ——わたしにはそれとは全く違つたわたしの心を苦しめてゐるある事件があるのです。 ——わたしはかなりあぶなつかしい羽目にはまり込んだのです。 それでわたしは證人なり立會人なりの必要に大いに迫られてゐるのです。 ねえ義理のおろうさん、あなたにぜひお助け願ふことがあると言ふのはこゝの理窟なんですよ。 さうすればあなたにもわたしの健康を祝して飮む金位あげませう。 老人 どういたしまして。わたしが殿下のお役に立つことが出來るなぞとは。 その代りお役に立てば殿下にはわたしに身元證明書をお出し下さるでせうな。 ペール・ギュント 上げますとも。わたしはかなり現金には困つてゐるので、あらゆる方面で儉約をしなければならないのだ。 ではこの次第を聞いて下さい。勿論あなたはわたしがロンデーに求婚に行つたあのあの夜のことを覺えてゐませうな。—— 老人 覺えてをりますとも、殿下。 ペール・ギュント あゝ、もう殿下なんて云つて下さるな。併し言つたつて何でもありませんがね。 あなたはまぎれもない暴力を振つて水晶體に瑕《きず》をつけてわたしをやぶにらみにし、 わたしと言ふものをペール・ギュントから山の魔に變じてしまはうとなさいましたね。 その際わたしはどうしたでせう。わたしは敢然とそれに反對しました。—— そしてわたしは自分自身の脚によつてのみに立つことを誓ひました。 愛も權力も光榮も放棄すれば、わたし自身を維持するためにはすべてのものを打棄てゝしまつたのです。 ところでこの事實をですね、あなたは法廷に出て證明して下さらねばいけませんよ。—— 老人 いや、それが出來れば結構ですがね。 ペール・ギュント まあ、何だつてそんな譯のわからないことを言つてゐるのです。 老人 あなたはまさかわたしに何でもかんでも嘘を言へと強ひてゐるのぢやありますまいな、 まさかお忘れにはなりますまい。あなたは山の魔のズボンをはき、密糖水をおなめになりましたね。—— ペール・ギュント 如何にもあなたがわたしを蕩《たら》しこむやうに罠にはめたからです。—— けれどもわたしは斷乎としてきはどい試みを拒絶しました。 この一事をもつてあなたはわたしを判斷してくれなければいけません。 歌は一番おしまひが肝心なのですからね。 老人 ペールさん、だがそれは丁度反對の結果に終りましたね。 ペール・ギュント 下らないことを言つちやいけませんよ。 老人 あなたがロンデーを去つた時、あなたはわたしの標語をあなたの耳のうしろに書きとめて行きましたね。 ペール・ギュント どんな標語を。 老人 威力のある鋭い言葉を。 ペール・ギュント 言葉ですつて。 老人 全人類と山の魔との區別をつける言葉です。即ち山の神よ。汝自身を滿足せしめよ。 ペール・ギュント〔一歩退いて〕 汝自身を滿足ですつて。 老人 あなたはそれ以來體中の神經を働かせて、この言葉に從つて暮して來たのぢやありませんか。 ペール・ギュント 何ですつて、わたしがですか。ペール・ギュントがですか? 老人 これは恩知らずも甚だしい。あなたは山の魔として生きて來たのです。 けれどもそれをぢつと隱してゐたのです。わたしがあなたに教へた言葉が、 あなたに身上のよい人間として行動する道を示したのです。 ——それだのに今やあなたは、わたしと、そしてあなたが大いに感謝しなければならないその言葉とを、 來て鼻であしらはずにはゐられないのですね。 ペール・ギュント 汝自身を滿足だつて。山の魔が。エゴイストだ。みんなとるにたらぬことにきまつてゐる。 ほんとにそうだとも。 老人〔新聞の束を取り出しながら〕 あなたはわたしたちの仲間には新聞なんかないとお思ひでせう。まあお待ちなさい。 ちやんと活版刷《かつぱんずり》になつた『ブロックスベルク・ポスト』があなたのことをどんなに襃め讚へてゐるかごらんに入れませう。 また『ヘクレフィエルド新聞』もあなたが國を去つたあの冬からと言ふものは同じやうに、 あなたのことを稱讚してゐます。——その記事を讀んで見る氣はありませんか。少しも構ひませんよ。 ペールさん。ほらこゝにみだしが出てゐませう。「種馬の蹄」と書いてあります。 こゝにもありますよ。「山の魔の國家主義を論ず」と言ふのです。記者は、 二本の角も尾も皮一筋の血縁に比べれば大して重要なものではないと言ふことを人間に向つて力説してゐますよ。 「それは自分自身の滿足と言ふこと、これ山の魔の山の魔たる證劵を與ふるものである。」と、 記者は結論してゐます。——そして猶進んで、一例としてあなたの例を引いてゐますよ。 ペール・ギュント 山の魔だと言ふのですか。わたしが。 老人 えゝ、わかりきつたことでさあ。 ペール・ギュント ぢやあわたしはあの地に靜かにとどまつてゐた方がましだつたのかな。 氣もちよく平和にロンデーにとゞまつてゐた方がよかつたかな。 さうすれば心配も苦勞もしなくともすみ、靴の皮も減らすにも及ばなかつたかも知れない。 ペール・ギュントが山の魔だつて。こんな馬鹿〜しいことはない。 冗談も甚だしい。さやうなら。煙草錢に半ペンスあげませう。 老人 いや、それはいけません、ペール王子。 ペール・ギュント はなして下さい。あなたは氣違ひだ。さもなければ耄碌してゐるのだ。 病院へでも行きなさるがよい。 老人 えゝ、如何にもわたしは病院を見附けてゐるのです。 けれども先程お話した通りわたしの孫の小供らが國では驚くべくほど勢力あるものとなつて、 わたしはたゞ書物の中だけに存在してゐる人間だと皆は噂してゐます。 諺にも言つてある通り「親類が一番不親切」です。 わたしは自分がこんな目にあつて初めてこの諺の眞なることを悟りました。 作り話やお噺と見ます人は殘酷です—— ペール・ギュント 御老人、そんなやうな運命に遭つてゐる人は外にもおりますよ。 老人 ところでわたしたちの間には相互扶助會と言ふものもないし、慈善箱もないし、 貯蓄銀行もないのです。——ロンデーには勿論そんなものは不似合ひです。 ペール・ギュント いや、そこにはあの嫌な、汝自身を滿足せしめよと言ふ文句があるのでせう。 老人 おゝ、今さらあなたがあの言葉の不平をおつしやるのは御無理ですよ。 もしもあなたがどこをどう手段をかへて見てもやはり—— ペール・ギュント いや、あなたは全く感違ひをしてゐるのです。わたしはよく言ふ言葉通り裸一貫の身上なのです—— 老人 まさかあなたが——。殿下もやはり乞食なんですか。 ペール・ギュント 全くその通り。殿下の自我は質屋にはいつてゐるのです。 それと言ふのもあなた方にくらしい山の魔のせいです。 わたしはつまり朱に交つて赤くなつてしまつたのです。 老人 それを聞いて、わたしの希望はまたそのとまり木から落ちて來ました。 さやうなら。わたしはもがきながらも町に行くのが一番よささうです。 ペール・ギュント 町へ行つて何をしようと言ふのです。—— 老人 わたしは劇場へ參ります。諸新聞は國民的才能あるもの出でよと絶叫してゐます。—— ペール・ギュント 御無事で行つてらつしやい。みんなにもよろしく言つて下さい。 わたしも自由の身へなれさへしたら同じく町の方に行く積りです。 わたしは町の人たちに氣違ひじみたしかも深遠な滑稽劇を一つ書いてやりませう。 その劇の名は次のやうにするつもりです。「地上の光榮はかくしてうつろひゆきぬ」 ペール・ギュント道に沿ふて走り去る。老人は彼の後から呼び止める。 十字路。 ペール・ギュント さあ、ペール、今まで遭つたこともないやうな苦難に出會ふのだぞ。 あのドヴレーの滿足主義はお前に向つて判決を下したのだ。船は難破船だ。 乘組員は丸太と一緒に漂はなければならぬ。ほかのものは何でも構はないが、 汚れた貨物の山だけには掴まつてはゐけない。 ボタン作り〔十字路の所で〕 やあ、ペール・ギュントさん。證人は見つかりましたかね。 ペール・ギュント もう十字路にやつて來たのですね。わけのないもんですね。 ボタン作り 看板の上にでも書いてあるやうに、讀まないでもあなたの顏の上には要領が書けてゐますね。 ペール・ギュント わたしは狩に疲れてしまつた。——そして道に迷つてしまつたのかも知れない。—— ボタン作り さうです。一體この道は結局どこへ通じてゐるのでせう。 ペール・ギュント 本當に。森の中だし夜では—— ボタン作り 併しあすこに一人のとしよりがよぼ〜歩いて行きますね。 あの人に聲をかけて見ようぢやありませんか。 ペール・ギュント いや、ほつておきなさい。あいつはよつぱらつてゐるのですよ。 ボタン作り だが多分あの人は—— ペール・ギュント しつ。いけません。——ほつておきなさい。 ボタン作り さう、ではいよ〜仕事にかゝりますかな。 ペール・ギュント まあもう一つ、問題は、この「自分たること」とは何ぞや。と言ふことですよ。 ボタン作り これは珍らしい問題だ。殊に益々もつて竒妙なことは、たつた今何した人間の口から言ひ出されるとは—— ペール・ギュント さあ、卒直に答へて下さい。 ボタン作り 自分自身たることゝは自分自身を殺すことです。併しこの答はあなたには勿論よくおわかりになりますまい。 ですからかう申しませう。親方の趣旨を看板に見せつけながら、到る處に頑張ることですよ。 ペール・ギュント けれども親方の趣旨がその男にわからないやうな場合にはどうなるのです。 ボタン作り その男は親方の趣旨を推量しなければいけないのです。 ペール・ギュント 併し推量と言ふものはよく見當違ひのことがあるもんですからね。 ——そこで人間は中道でadundas《アドアンダス》(波にまかれて)運ばれて行くのです。 ボタン作り それは本當です、ペール・ギュントさん。 推量のあたらない處から裂けた蹄のある紳士は、この上もない罠を見つけ出すのです。 ペール・ギュント この問題は非常にこみ入つてゐますね。——ねえ、君、わたしはもう自分自身たることを述べ立てませんよ。 ——それを證明することは容易なことぢやありませんからね。 わたしの場合もその點だけは負けたものと見做さなければなりません。 併したつた今わたしがひとりで荒地の上をさまよつてゐますと、 わたしはわたしの良心の靴がわたしを抓《つね》るのを感じたのです。 わたしはひとりごとを言ひました。結局貴樣は罪人なんだとね—— ボタン作り あなたはまた萬事新規まき直しに始めようとしてゐるやうですね。—— ペール・ギュント いや、決してさうぢやありませんよ。わたしは單に行爲の上のみならず、 その言葉に於ても慾望に於てもある偉大なる人物のことを言つてゐるのです。 わたしは海外で實にたまらない生活を送つてゐました。—— ボタン作り たぶんね。そこであなたはわたしに一覽表を示されるやうにお頼みせずばなりますまい。 ペール・ギュント よござんすとも。暇を與へて下さればわたしは牧師さんを見つけて、 てつとりばやく懺悔を。それからあなたのところへ證人を連れて行きませう。 ボタン作り もしもあなたがわたしのところに證人を連れて來れば、 あなたは鑄物湯びしやくの中に入れられるのを免れるわけです。 併しペールさん、わたしは命令書を持つてゐるのです—— ペール・ギュント その紙は古いぢやないか。勿論よつぽど昔にかいたものなのでせう。 ——そりやわたしだつて隨分だらしのない生活をした時もあれば、 豫言者の眞似をした時もありました。そしてわたしは運命と言ふものを信頼したのです。 どうかわたしにやらして見て下さい。 ボタン作り 併し—— ペール・ギュント まあさ、あなただつてきつとそんなに仕事は出來やしますまい。 この地方は空氣に人の元氣を奮ひ起させるやうな處がありますね。 それがために人々が一ヤールばかり長生きをするのです。 あのヨステーダルの牧師さんが「この谷間にては人死すること稀れなり。」と、 書き記したことを思ひ出してごらんなさい。 ボタン作り では次の十字路で會ひませう。けれどもそれ以上は一歩も猶豫は許しませんよ。 ペール・ギュント 火箸で掴むやうにして坊さんを一人掴まへなければならない。 ヒースの一面に生えた山腹。山の背に沿ふて道が一本うねつて通つてゐる。 ペール・ギュント エスベンは鵲《かさゝぎ》の羽を拾つた時、こいつはいろ〜役に立つかも知れないと言つたと言ふことだが、 懺悔物語が臨終の間際に命乞の助けにならうとは考へたものはまづなかつたらうな。 全くどつちみちあぶなつかしい仕事だ。灰から火の中へ飛び込むなんて。—— けれどもそんな場合にも命あつての物種だと言ふ誰にでもあてはまる折紙附きの諺があるからな。 痩せた人、法衣を高々とまくりあげ、肩に補鳥網をかつぎ、山の背を急いでやつて來る。 ペール・ギュント あすこへ行くのは誰だらう。鳥網をかついだ坊主だな。わたしは全く汚れた運命の兒です。 和尚さん。今晩は。ひどい道ですな—— 痩せた人 えゝ、全くですな。併し人はどうして魂のために盡すことをしないのでせう。 ペール・ギュント それでも天國へ行かれる人なんてものがゐるのでせうか。 痩せた人 いゝや、それとは違つた道を歩いてゐるのだとわたしは思ひますよ。 ペール・ギュント 少しあなたと一緒に歩かして貰へますまいか。 痩せた人 さあ、さあどうぞ。わたしはつれのあるのは大好きなんですから。 ペール・ギュント あなたに御相談申したいことがあるんですが—— 痩せた人 さあ。さつさと言つてごらんなさい。 ペール・ギュント かう見えてもわたしは善良な人間なんです。わたしは國家の法律を嚴重に守りました。 だから禁錮も足枷《あしかせ》もまるで食つたことはありません。 けれども時々人間と言ふ奴は足場を失つて躓くことがあるもんですからね。 痩せた人 さうですとも。最も善良な人にでもそんなことはありますからね。 ペール・ギュント ところで、こんなつまらないことが—— 痩せた人 なにつまらないこととおつしやるのですか。 ペール・ギュント さうです。大體に於てわたしはいつも罪を犯すことを控へてをりました。 痩せた人 おゝ、それではおだやかにお別れしませう。——わたしは、 あなたが考へてゐるやうな人間ぢやありません。——わたしの指を見てごらんなさい。 どんなになつてゐるか。 ペール・ギュント 爪が何だか大そう發逹してゐますね。 痩せた人 それからわたしの脚を一寸見てごらんなさい。 ペール・ギュント〔指ざしながら〕 生れつき蹄が生えてゐるのですか。 痩せた人 わたしはさう思つてうぬぼれてゐるんです。 ペール・ギュント〔帽子をとりながら〕 わたしはてつきりあなたを單に普通の坊さんだとばかり思ひこむところでありました。 ところがわたしにとつてありがたいことには——。 全く最善は最善なりです。——玄關の扉《と》がおつぴらいてあれば—— 臺所口からはいるものはありません。王樣にお會ひすることが出來れとあれば——從僕などは用なしです。 痩せた人 あなたにはまるで偏見なんてものはないやうですね。それでは言つてごらんなさい。 わたしにどんなことがしてもらひたいのか。けれどもわたしに富や權勢を頼んだところで駄目ですよ。 わたしはそれに執着してゐるのですが、それを提供することは出來なかつたのです。 仕事と言ふ仕事がどんなに沈滯してゐるか、あなたには想像がつきますまい。 取引は大そうみじめに減少しました。靈魂の上から言つても何の爲すところもないのです。 たゞ時に迷つた魂が—— ペール・ギュント 人類はそんなにも目だつて改善されたのでせうか。 痩せた人 いゝえ、丁度その反對です。人類は恥かしくも沈淪《ちんりん》しました。 ——大多數のものは鑄物湯びしやくの中で生を終るのです。 ペール・ギュント あゝさうですか——その湯びしやくの話はわたしも聞いたことがあります。 何を隱さう、わたしがあなたのところへ參つたのはそのためなんですから。 痩せた人 言つてごらんなさい。 ペール・ギュント お願ひしても差支へないことでしたら、わたしは—— 痩せた人 避難の港を求めてゐるのでせう、えゝ。 ペール・ギュント 申上げる先きにもうあなたはわたしの歎願の筋をお察し下さいました。 あなたから今仕事が不景氣だと言ふことを聞きましたので、 わたしはあなたがあんまり事件の如何をやかましく詮議だてはなさらなからうと思つたのです。 痩せた人 けれども君—— ペール・ギュント わたしの要求は決して大それたものぢやないのです。 わたしは何も月給をくれと言ひ張るのぢやありません。 たゞ事情の許す限り親切なる取扱ひをしてくれと望んでゐるのです。 痩せた人 あなたの部屋に火でも入れろと言ふのですか。 ペール・ギュント たんとの火もいらないのです。——主として安全に平和に逃れる力—— 言葉通り、自由に退却することの權利を掴んで、より幸福な生活を始めるやうにしたいのです。 痩せた人 君、わたしは全く途方に暮れてしまひましたよ。 けれどもあなたには同じやうな趣旨の歎願を、善良な人たちが地上の活動の舞臺を去る時、 どれほど澤山呈出されるか想像もつきますまい。 ペール・ギュント 併しわたしの過去の經歴を考へて見ますと、 わたしは歎願を聞いてもらへる絶對の要求權を持つてゐるやうに思ひますが—— 痩せた人 併しこれはほんのつまらないことなのだとあなたは言ひましたね。 ペール・ギュント ある意味に於てはさうです。——しかし、今思ひ出しましたが、 わたしは奴隸の賣買をやつてゐたことがあります—— 痩せた人 世の中には意志や魂を賣買した人がをりますよ。併しそれをまづくやつたので、 その人たちは天國に入ることが出來なかつたのです。 ペール・ギュント わたしは婆羅門の偶像を澤山支那に積み出しました。 痩せた人 それも亦ほんの誇張にすぎませんよ。わたしたちは、そんなことを聞くと嘲笑します。 説教に、藝術に、文學に、もつともつと醜惡な像を積み出した奴等が澤山をりますからね。 ——それでもわたしは驚かない—— ペール・ギュント でもそれから御承知でせうが、わたしは豫言者の眞似をやつたのです。 痩せた人 よその國でですか。欺僞師ですね。大ていの人間の、山かんのとゞのつまりは鑄物湯びやくしですよ。 もしもあなたがそれよりほかに歎願の道がないのなら、如何にわたしに厚意があつたところで、 わたしはあなたをどうも隱してあげるわけには行きません。 ペール・ギュント でも、もう一つ聞いてやつて下さい。船が難破した際に—— わたしはボートの龍骨にかじりついてゐました。——諺にも溺れるものは藁をも掴むと言ひますし、 またわが身に勝る身寄りはなしと言ふことまで言つてありますからね。 ——そんなわけでわたしは、殆ど料理番の生命を奪つてしまつたのも同樣なのです。 痩せた人 そんなことはあなたが殆ど臺所の小女から、命でない何かほかのものを奪ひ去つたのとわたしにとつては全く同じことなんです。 失禮ですが何てうはごと見たいなことを言つてゐるのです。 こんな精神のぬけたくだらぬことに、こんな際高い金を拂つて買つた燃料を燃やさうなんて誰が思ふものですか。 怒つてはいけませんよ、わたしが嘲弄したのはあなたの罪状なんですから。 それからわたしがずゐぶんぶつきら棒にわたしの考をお話したこともお許しを願います。 ——さあ、君、あなたの頭からそんなつまらぬことは忘れておしまひなさい。 そして鑄物湯びしやくの考を十分にお練りなさい。 もしもわたしがあなたの宿をして上げたところであなたに何の得る所があるのです。 考へてもごらんなさい。あなたが物の分つた人であることはわたしも知つてゐます。 なるほどあなたは記憶がよい。それは眞實すぎる位のことです。 ——けれども想ひ出の國の回顧なんと言ふことは情の爲めにも智の爲めにも實際シュエーデン人所謂すばらしく哀れな遊戲でせう。 あなたは笑ふほどの事件も、怒鳴り立てるほどの事件も、歡喜の原因も、 失望の原因も、あなたを熱しさせる事柄も、ひやつとさせる事柄も少しも持つてはゐないのです。 たゞ一種のいらゞたしい何ものかを持つてゐるのにすぎないのです。 ペール・ギュント 物の本にも書いてある通り、靴をはいてゐない人が靴の何處がきゆうくつなのだか知るのは容易なことぢやありませんよ。 痩せた人 全くです。どつちつかずでゐると言ふことは結構なことですな。 わたしは片方のはんぱ靴よりほかには何の必要もないのです。 併したま〜靴のことに話が移つたのは幸ひです。靴のことを言つたので、 急ぎの用事を思ひ出しました。わたしは燒き肉を求めに行くのです。 それがうまい具合に大きくつて、脂がのつてゐてくれればよいと思つてゐるのですがね。 そんなわけで、全くこゝで立ち話に暇をつぶしてゐるわけには行かないのです。—— ペール・ギュント それではお尋ねいたしますが、どんな罪業の食物で人間は太つたものなのでせうか。 痩せた人 わたしにはわかつてゐます。その人間は夜も晝も自分自身であつたのです。 そしてそれが結局要點なのです。 ペール・ギュント 自分自身ですつて。ではそんな人たちがあなたの教區にはゐるのですか。 痩せた人 そこが問題なのです。少なくとも扉は教區の人たちのために細目にあいてゐるのです。 ようござんすか。人間は二つの方面で自分自身たることが出來るのです。—— ジャケツにも裏と表がありますからね。御承知の通り最近パリーでは太陽の光線を利用して寫眞を取ることを發明しました。 直接の繪と作ることも出來れば、陰畫と言ふ奴を作ることも出來るのです。 陰畫の場合には光と陰《かげ》とが逆になつてゐるのです。 そして普通の人の目には變てこなものに見えがちなものです。 けれどもそれにも拘らず畫像はその陰畫の中にひそんでゐるのです、 そして寫し出したいと思ふものを現はすことが出來るのです。 そんなわけですからもしも靈魂が陰畫式にその生涯の中におのが姿を寫したとしても、 その種板《たねいた》は全然棄てられてしまふやうなことはありません。—— 却つて一も二もなくその種板をわたしに渡します。そこでわたしはそれを手に取つて見て、 更にいと〜な手段を施します。そして適當な方法によつて、その成長を助長せしめるのです。 そしてしまひに種板にうつり込まれた畫像が現れはれるまで、 わたしはそれを硫黄やそのほかの原素などで、蒸したり浸したり燒いたりします—— さうやつて出來あがつたものが陽畫と言ふものなんです。 併しあなたのやうに自分自身をすつかり汚してしまつては、 硫黄も苛性加里もまるで役に立ちませんね。 ペール・ギュント 併し人があなたを頼つてやつて來るのは、 鳥のやうな眞黒な躰を眞白い雷鳥のやうにしてもらひたいためぢやありませんか。 あなたが今陽畫にしようと思つてゐる陰畫の像に下に書いてある名前は何て言ふのでせうか。 痩せた人 ペーテル・ギュントと言ふ名です。 ペール・ギュント ペーテル・ギュントですつて。本當に。ギュント氏本人ですか。 痩せた人 さうです。本人だと誓つてゐます。 ペール・ギュント なるほどその所謂ペーテル氏と言ふのは、信頼するに足る人物ですよ。 痩せた人 あなたはその人物を御存知のやうですね。 ペール・ギュント えゝ、ある程度までは知つてをります。——人間と言ふものはあらゆる種類の人間を知つてゐるものですからね。 痩せた人 時間は迫つてゐるのです。最近何處であなたはその人の會ひましたか。 ペール・ギュント 喜望峰の下でした。 痩せた人 ヂプオナ・スペランツァで。 ペール・ギュント さうです。しかしペーテル氏はつい最近また出帆したやうに覺えてゐます。 痩せた人 ぢやわたしはさつそく出かけなければなりません。首尾よく掴へることが出來ればよいと思ひますがね。 あゝ喜望峰——わたしはどうも忍ぶことが出來ないのです。—— スラヴァンゲルから來た傳道師のためにそこは荒らされてしまつたのですからね。 痩せた人は南の方へ一散に去る。 ペール・ギュント 馬鹿な野郎だ。だらりと舌を出して逃げて行きやがる。あいつは見事に賣られるだらう。 あのやうな馬鹿をぺてんにかけるのは面白いものだ。あいつは全く尊大振つて威張らうと言ふのだ。 實際あいつは肩で風を切つて歩くには堂々たる人間だ。今の商賣で肥るやうなことはまづあるまい。 ——あいつはぢきに道具をそつくりしよつたまゝ、とまり木からおつこちるこつたらうよ。 ——わたしだつてあんまり安閑としてはゐられないのだ。 わたしもいはゞ自我王の高貴な身分から投げ出されたやうなものだ。 流星が見える。ペール・ギュントはその方を見送つて頷づく。 流星の閃きよ。ペール・ギュントの挨拶を受けてくれ給へ。閃いて消えて闇の中に沒する—— 恐怖したやうにびくつとする。そして霧の中をます〜奧深く進んで行く。 暫らくの間しんとしてゐる。やがてペール・ギュントは大聲に叫ぶ。 誰もゐない、混亂の中には誰もゐない。——空なる所には誰もゐない。天上にも誰もゐない—— また前方に進んで行く。帽子を地上に投げる。そして髮の毛をむしる。だん〜おちついて來る。 靈魂が灰色の霧の包まれて無に歸すとは何と言ふに言はれぬ哀れな話だらう。 美しき大地よ。わたしが徒らにお前の草を踏みにじつたからと言つてわたしの事を怒らないでくれ。 美しき太陽よ。お前はその榮えある光を人も居ない小屋の中に無駄にさしこんでゐたのだ。 その小屋の中には、勇氣づけたり温めたりしてやるやうな人間は誰もゐないのだ。 人の噂ではその小屋の持ち主は決して家にゐたことはなかつたと言ふことだ。 美しの大地よ、美しの太陽よ、あなたがたは愚かにもわたしの母を生みわたしの母へ光を與へたのです。 精神と言ふものはけちで自然は浪費家です。人間は誕生を高い生命を拂つて買ふのです。 ——わたしは眼も眩むばかりの山の頂上に高く高く登つて行かう。そしてわたしは朝日をもう一度眺め、 契約の土地が嫌になるまで見つめてゐよう。それから吹雪に埋めてもらうやうにやつて見よう。 さうしたら人々はその吹雪の吹きつもつた上に「無何有人《むかうじん》の墓所」と、 書くことが出來ようと言ふものだ。それから後は——まあなるやうにやつて見るんだ。 參詣者たち〔森の小道を歌ひながら〕 あはれ、幸《さち》多き朝よ。 神のみ國の言の葉の 燃ゆる劍のごと地を打ちし時よ。 地の上より神の宮居へ 今ぞ世嗣《よつぎ》の子等の歌は 神のみ言葉となりて昇る。 ペール・ギュント〔恐怖したやうにうづくまる〕 けつしてあつちを見てはいけない。あつちは砂漠と荒地ばつかりだ。 ——わたしは死ぬよつぽど前にもう死んでゐたのぢやないかしら。 籔の中へ逃げこまうとするがはからずも十字路に出てしまふ。 ボタン作り おはやう。ペール・ギュント。君の罪業の明細書は何處にあるのだね。 ペール・ギュント あなたはわたしが出來るだけ一生けんめいに口笛を鳴したり怒鳴つたりしてゐたことを思ひませんか。 ボタン作り それは誰にも會はずじまひなんでせう。 ペール・ギュント 浮浪の寫眞屋にあつたきりですよ。 ボタン作り では執行猶豫は終りましたね。 ペール・ギュント えゝ。何もかも終りました。梟《ふくろう》は日の光を嗅ぎつけてゐます。 ポウ、ポウ、鳴いてゐるのを聞いてごらんなさい。 ボタン作り 朝のお祷りの鐘が鳴つてゐるのですよ—— ペール・ギュント〔指をさしながら〕 向ふに光つてゐるのは何でせう。 ボタン作り なあに、小屋からさして來るあかりですよ。 ペール・ギュント 悲しみ嘆いてゐるやうな聲も聞えるぢやありませんか—— ボタン作り 女が歌を唄つてゐるだけの話ですよ。 ペール・ギュント なるほどあすこへ行つたら——あすこへ行けば、わたしの罪業の明細書がありませう—— ボタン作り〔ペール・ギュントを掴へながら〕 あなたの家をかたづけておいでなさい。 二人は籔を出て小屋の近くに立つ。日は明け初める。 ペール・ギュント わたしの家をかたづけるんですつて。家と言ふのはこゝですよ。 あつちへおいでなさい。行つておしまひなさい。あなたの湯びしやくが柩のやうに大きくたつて、 わたしとわたしの罪業にとつちや小さすぎる位なんですからね。 ボタン作り では三度目の十字路で會ひませう、ペールさん。併しその時には—— わきを向いて出て行く。 ペール・ギュント〔小屋に近づく〕 行つたり戻つたりすれば遠いのも同樣だ。出たりはいつたりすれば狹くも思へよう。 立止まる。 いや。——家に歸つて來て中にはいると言ふ考ははげしい、果てしのない嘆きのやうなものだ。 數歩進むがまた立止まる。 廻つて行けとくね〜入道は言つたつけな。 小屋の中の歌を聞きつける。 いや〜、今度は道はまだ難儀でなくはないが、少なくともまつすぐ眞中についてゐるのだ。 小屋の方へ走つて行く。と同時にソルウェイクが戸口に現はれる。 教會に行く着物を着、讚美歌の本をハンケチに包み手に杖を持つてゐる。 ソルウェイクは戸口にまつすぐに温やかに立つてゐる。 ペール・ギュント〔閾の上に身を投げ伏す〕 お前が罪人に判決を下すのだつたら、それを言つておくれ。 ソルウェイク あの子は歸つて來ました。あの子は歸つて來ました。あゝありがたうございます。 手さぐりでもするやうにペール・ギュントの方に兩手を差延べる。 ペール・ギュント わたしの罪とわたしの過失をのこらず呼びあげておくれ。 ソルウェイク お前さんに何の罪があるものかね。わたしのたつたひとりの子供ではないの。 再びペール・ギュントを手さぐりでさがす。そして彼を見つける。 ボタン作り〔家のうしろで〕 罪業の明細書はどうしたね、ペール・ギュントさん。 ペール・ギュント わたしの犯した罪を聲高く叫んでおくれ。 ソルウェイク〔ペール・ギュントの側に坐る〕 お前はわたしの一生を美しい歌のやうにしてくれました。 お前さんがそれでもとうとう歸つて來てくれたことはありがたいことだつた。 それに聖靈降誕祭の朝にわたしたちが再會するなんて、よけいうれしいことぢやありませんか。 ペール・ギュント ではわたしは救はれない。 ソルウェイク 一切を支配するお方がこの世にはおいでになります。 ペール・ギュント〔笑ふ〕 救はれないとも。お前が謎を解くことが出來なければね。 ソルウェイク その謎と言ふのを言つてごらんなさい。 ペール・ギュント 言つて見ろといふのかい。ではいゝかい。 わたしたちが別れてから、ペール・ギュントがどこにゐたかお前にはわかるかね。 ソルウェイク 何處に居たつて。 ペール・ギュント 運命の刻印を額につけて、神の思召で初めて生れた時のやうにわたしは暮してゐたのだ。 お前は答へることが出來るかい。もし出來なければわたしはもとの家へ—— 霧に包まれた所へ下りて行かなければならないのだ。 ソルウェイク〔微笑しながら〕 おゝ、そんな謎ならやさしいものです。 ペール・ギュント ではお前の考を言つてごらん。わたしがわたし自身として、 全人格者ととして、眞の人間として何處にゐたか。 神の刻印を額につけてわたしが何處にゐたか。 ソルウェイク わたしの信《しん》の中に、わたしの望の中に、そしてわたしの愛の中に。 ペール・ギュント 何だつて——。まあ靜かに。そんなごまかしを言つて。 それではお前がこゝにゐるこのわたしといふ人間の母親なのか。 ソルウェイク さうですとも。でもその人間の父親と言ふのは誰なのでせう。 きつとその父親と言ふのは母親の願ひを聞いてその子を許してくれる人でせう。 ペール・ギュント〔一條の光がペール・ギュントの額に輝く。ペールは叫び出す〕 わたしの母親でわたしの妻だとは。おゝ、何てお前は罪のない清い女なのだらう。 ——お前の愛の中に——おゝ、そこへわたしを隱しておくれ。 ソルウェイクにすがりつく。そしてソルウェイクの膝に顏を埋める。長い沈默。日が昇る。 ソルウェイク〔小聲で唄ふ〕 お休み、わたしのいとしい子。 ゆすつてあげよう、見て上げよう。 子供は母の膝に坐つてをりました。 親子は二人一生遊んでゐたのです。 子供は一生母親の胸に休んでをりました。 神樣、どうぞこの喜びに長い幸ひのありますやう。 子供は一生わたしの胸にぴつたりついてをりました。 今は子供も疲れてゐます。 お休み、わたしのいとしい子。 ゆすつてあげよう、見て上げよう。 ボタン作り〔家のうしろで〕 ペールさん、では最後の十字路で會ひませう。その時こそわたしたちは——いや、もう何も言ひますまい。 ソルウェイク〔日の光を一杯にあびて聲高く歌ふ〕 ゆすつてあげよう、見てあげよう。 お休み、わたしのいとしい子、休んで夢でも見てごらん。 ——をはり—— [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/28