オセロー:目次


坪内逍遙(1859-1935)譯 シェークスピヤ作「オセロー」。
底本:新修シェークスピヤ全集第二八卷,中央公論社,昭和十年四月一日印刷,昭和十年四月十日發行。


オセロー

シェークスピヤ 作

坪内逍遙 譯


更新日: 2003/02/16

オセロー:登場人物


登場人物

場所

第一幕はヹニス。其他はサイプラス。


更新日: 2003/02/16

オセロー:第一幕 第一場


第一幕

第一場 ヹニス。街上。

ロダリーゴーとイアーゴーが出る。深夜。
(ロダリーゴーは、ヹニスの若紳士。イアーゴーは黒面將軍オセローの旗手。 ロダリーゴーは元老議官の(むすめ)デズデモーナに戀慕してゐる。 表面だけ率直で腹の黒いイアーゴーは其取持を頼まれたを幸ひに、ロダリーゴーを好い食ひ物にしてゐた。 其うちに、デズデモーナはオセローと竒異な戀愛關係を生じて、(あたか)も、此夜、 父の家を拔け出したのである。 ロダリーゴーがそれを傳聞して苦情を(なら)べるのをイアーゴーが巧みに辨解するが、 やゝ低能なロダリーゴーだが、さすがに承服しない。)
ロダリ
えィ!聽かない〜。僕の財布の紐を自分の同樣に締めくゝりをしてゐた君が、 (知らなけりやともかくもだが)知つてゐたてのは(あンま)りだ。
イアゴ
だつて、貴下(あんた)ァ善く僕の言つてることを聽かないんだよ。 僕がそれを夢にでも知つてゐたんなら、どんなにでも憎むがいゝ。
ロダリ
君は彼奴(あいつ)を憎んでると言つてゐたぢやァないか?
イアゴ
憎んでゐなかつたら輕蔑したまへ。此市(このまち)の三人の歴々が、 僕を彼れの副官にしようてんで、帽子まで脱いで口をきいてくれたんだよ、實際、 自分ながら其くらゐの値打はあるだらうと思つてゐる。とことが、 奴め持前の我を張つて、うぬが意見通りにするために、大層らしい兵語を使つて、 僕の推薦状共を(けむ)に卷き、持つて廻つた言譯の結局(とゞのつまり)が、 「實は、最早(もう)、其副官は()めてしまひました」と來た。 といふのは何者かといふと、いや、どうも、素敵な算術家なんだ、 マイケーエル・キャッシオーと言ふ、女難で地獄へ墮ちさうな男だ、 フロレンス生れで、曾て軍隊を指揮したことなんかァはなく、兵の驅引と來ちやァ、 長袖の文官共でも知つてゐるやうな書物上の空論以外は、 絲繰女(いとくりをんな)のそれにも劣らうといふ智識が其奴(そいつ)身上(しんしやう)なんだ。 實力はカラ駄目、辨口(べんこう)ばかりて奴だ。ところが、其奴(そいつ)が登用され、 ローヅでも、サイプラスでも、基督教國、異教國、到る處で、手竝を見せた筈の此俺は、 其帳簿どんの風ッ下に追ひ下げられて、其算勘のお名人樣がまんまと副官に御立身だ、俺は…… あゝ、なんまみだぶつ……ムーアどんの旗手だ。
ロダリ
ほんとに、僕ァ彼奴(あいつ)絞罪係(くびしめがか)りになりたいとさへ思つてゐる。
イアゴ
だつて、爲方(しかた)が無いよ。これが勤務上の災厄なんだ、呪ひだ。 今日びは贔屓や引立で立身が出來る。順繰ぢやァない、昔は一の者の後繼は二の者といふ風であつたが。 それで判斷するがいゝ、俺があのムーアに忠義を盡さんけりやならん理由があるか、どうかを。
ロダリ
僕ならあんな奴に隨身しちやァゐない。
イアゴ
まァさ〜。自分の都合で隨身してゐるんだよ。人間は、皆が皆、(かしら)にもなれもせなけりや、 (かしら)になつたからつて、皆が皆に、忠實に隨身して貰ふことも出來ない。 隨分世間には膝をちよこつかせて忠義三昧をする馬鹿正直な奴等もある。 其奴(そいつ)等は主に驢馬も同樣に柔順(おとなし)(くびき)を掛けられて、 飼料(かひば)だけ貰つて滿足して、()けるまで働いてから追ひ出される。 すあいふ奴ァ叩き(のめ)してくれたい。中にァ又、面附(つらつき)だけ忠義さうに飾り立てゝ、 内心は自己(うぬ)に仕へて、殿樣へは御奉公の外面(うはツつら)だけを獻納(たてまつ)つて、 絞れるだけ絞り、懷中(ふところ)が温かくなるといふと、自己(うぬ)をお殿さまにする奴等もある。 それらは幾らか性根玉のある奴等だが、俺が其一人だ。はて、若し俺がムーアでありや、 俺がイアーゴーで無いことは君がロダリーゴーである程に確かだ。 彼奴に隨身するは自分に隨身する爲だ、忠義の爲ぢやァ無い、さう見せかけてゐて、 實は自分(うぬ)が爲だてことは神樣が善ッく御存じだ。何故と言ひたまへ、 僕が本心を外部(うはべ)へ曝け出すやうになりや、早晩、 此心臟を袖に載せて小烏(こがらす)めに(つゝ)かせることになるだらう。 見懸通りの男ぢやありやしないよ。
ロダリ
何て果報者だらう、あの厚脣めは、若し以て旨く占めッちまやァがるやうなら!
イアゴ
女の親父を呼び立てゝ叩き起したまへ。奴の後を追ッ掛けて、樂しみに毒を注ぎ込んで、 街中へ觸れ散し、それから女の親族共を煽り立てゝ、奴がどんな極樂に住んでゐやうと、 虻や蜂で苦しませてやりたまへよ。奴の喜悦(よろこび)を奪ふことは出來ずとも、 色なりと取ッ變ッちまふやうに、さんざ苛責(さいな)んでやりたまへ。
此中に、二人ともブラバンショーの屋敷の前へ來る。
ロダリ
これが彼女(あのをんな)の家だよ。大きな聲で呼ばらう。
イアゴ
さ、さ、けたゝましく呼び立てたまへ。繁華な都會中(まちなか)で、 深夜に油斷の最中に、突然火事を見附けたといふ風にね。
ロダリ
もし〜、ブラバンショーどの!ブラバンショー樣!もし〜!
イアゴ
起きなさい〜!もし〜!ブラバンショーどの!盜賊(どろばう)です! 盜賊(どろばう)です!盜賊(どろばう)です!お屋敷内をお(しら)べなさい、 お孃さんを、お財嚢(かねぶくろ)を!盜賊(どろばう)です!盜賊(どろばう)です!
ブラバンショーが半裸體のやうな寢衣姿(ねまきすがた)で、樓上の窓口に現はれる。
ブラバ
けたゝましく呼び立てるのは何の爲ぢや?何事が起つたんぢや?
ロダリ
閣下(ごぜん)、御家内は御別状はございませんか?
戸締りは善うございますか?
ブラバ
何でそれを訊問(たづ)ねるんぢや?
イアゴ
はて、さて、御盜難ですぞ。やれ、ま、見ッともない、早く上衣(うはぎ)をばお召しなさい。 貴下(あなた)の心臟は破られましたぞ、貴下(あなた)の魂ひは半分がた亡くなつたんですぞ。 現に、今、年寄りの黒羊が貴下(あなた)(とこ)の白羊に乘り掛つてるんです。 さ、早く起きておいでなさい!早く鐘を叩き鳴らして()てゐる(まち)の者をお起しなさい、 でないと、鬼が貴下(あなた)をお祖父さまにしますぞ。さ、さ、起きたり〜。
ブラバ
やう、(きさま)らは氣が狂うたのか?
ロダリ
もし、元老院議官さま、(てまへ)の聲にお覺えがございますか?
ブラバ
いゝや、無い。誰れぢや、お前は?
ロダリ
ロダリーゴーでございます。
ブラバ
尚ほ惡いわ。我が家の前を徘徊(うろ)つくなと申し附けておいた筈ぢや。 又、眞ッ直に我女(むすめ)は遣られんと明言しておいた筈ぢやに、 晩餐の狂氣水に(くら)ひ醉ふて、狂人の爲體(ていたらく)となつて、おのれ、 害心を抱いて、(わし)が安眠をば驚かさうとして來をつたんぢやな。
ロダリ
あゝ、もし……いや……もし……
ブラバ
併しながら、(わし)には勇氣もある、身分もある、今に見い、 今宵の所行を後悔させてくれるから、さう思へ。
ロダリ
ま、ま、さうおつしやらないで……
ブラバ
何で盜難ぢやなぞと申すんぢや?こゝはヹニスぢやぞ。予が屋敷は野中の一軒屋ぢやないわい。
ロダリ
ブラバンショーさま、(てまへ)は誠實な心でお知らせに參つたのでございます。
イアゴ
ま、めつそうな、貴下(あなた)は惡魔に指揮(さしづ)されりや、 神樣にお(つか)へすることさへもお止めになりさうなお人だ。 御忠告に來た私共を惡漢(わるもの)だなんぞと思ふてござると、 大事のお孃さんをバーバリー馬めが物にして、今にひん〜言ふお孫さんや曾孫(ひこ)さんが出來ますぞ。 御親類に種々(いろ〜)な馬が出來ますぞ。
ブラバ
何て(けがらは)しい奴ぢや、(きさま)は?
イアゴ
もし、(てまへ)はお孃さんとムーアとで以て背中の二ァつある獸類(けだもの)製造(こしら)へてることをお知らせ申さうとて來たもんなんで。
ブラバ
惡黨ぢや、(きさま)は。
イアゴ
貴下(あなた)は……元老院の議官さまで。
ブラバ
(ロダリーゴーに)此責任は(きさま)にある。ロダリーゴー、 (わし)(きさま)を善く知つとるぞ。
ロダリ
さァ、どんなお咎めでも受けませうよ。ですが、若し貴下(あなた)さまが御承知の上で、 どうやらさうらしうも思はれるんですが、一時二時といふ此眞夜中に、 大事のお孃さんを、船頭の外にやお從者(とも)をも()れさせないで、 あの淫亂なムーアの手に渡して、勝手な眞似をおさせなされた事が、それが御承知の上でありや、 私共(てまへども)は非常な失禮をしたのでございますが、若し御存じないのですなら、 其お叱責(しかり)は御無體でございます。 決して貴下(あなた)を禮儀作法に背いて嘲弄なんかしてゐるのぢやございません。 改めて申します。お許可(ゆるし)が無くッてなら、 お孃さんはとんだ不埒をお働きなすつたのです。 あッちこッちと漂浪徘徊(うろつきまは)る外國人に義務をも御縹緻(きりやう)をもお智慧をも御運命をも何もかも()つておしまひなすつたんです。 早速お(しら)べなさいまし、若しお孃さんがお居間になり、お屋敷内になりござりましたなら、 貴下(あなた)を欺いた(とが)如何(どん)な御處分でも甘んじて受けませう。
ブラバ
(俄かにあわて出して、奧にむかつて)こら〜、火絨(ほくち)を〜! 蝋燭を持つて來い!家中の者を呼び立てい!……夢見がわるいと思ふてゐた。 こりや如何やら眞實(ほんと)らしいわい。……燭火(あかし)燭火(あかし)
ブラバンショーうろたへて入る。
イアゴ
さおなら、これで別れんけりやならん。こゝにゐりやムーアめの敵役(かたきやく)になれんけりやならんが、 そいつァ職柄上、妙でない。といふのは、 たとひ此事で彼奴(あいつ)何樣(どんな)に痛めつけられようともだ、 政府は平氣で奴を()めさせるわけにやァいあない。何故ッていふに、 (ちよう)ど始つたサイプラスの戰場へ、總督として送られようて噐量のある人物は奴の外にやァ無い。 だから、地獄の拷問ほどに奴を憎いと思つたつて、斯うして生きてゐる必要上、 (いやでも)友誼(なかよし)の旗印を掲げてゐにやならないんだよ、 が、そりや(ほん)看版(かんばん)だ。……ねえ、君、間違ひなく見附ける爲に、 集つて來た追手連をサヂタリー館へ案内して來たまへ、俺も彼處に居るから。 ぢや、さよなら。
イアーゴーが急いで入る、 と同時にブラバンショーが把火(たいまつ)を持つた家僕(しもべ)共を大勢つれて平舞臺へ出る。
ブラバ
(興奮の(てい)で)こりや全く疑ひもない災難、(むすめ)は居らん。 あさましい將來には只もう悲歎(かなしみ)があるばかりぢや。…… こりや、ロダリーゴー、何處でお前は(むすめ)を見た?……おゝ、不幸な奴! ……ムーアと一しよにゐたといはつしやるか?……あゝ、親にやァなるまいもの! ……どうして(わし)(むすめ)ぢやと言ふことが解つたか? ……おゝ、かういふ事をしをらうとは!……(むすめ)はお前に何樣(どん)な事を言ふた? ……(家僕(しもべ)らに)もつと把火(たいまつ)を持て。 親類共を殘らず起せ。……(ロダリーゴーに)もう結婚してしまうたのか?
ロダリ
勿論でございませうよ。
ブラバ
やれ〜!……如何して脱け出しをつたか?……おゝ、現在血を分けた我が子が! 親逹よ、これからは行爲(おこなひ)外部(うはべ)だけを見て、 娘どもの心をば信ずまいぞ。或ひは若い者共の心をば惑亂さする麻藥なぞがあるんぢやないかな? ……ロダリーゴー、そんなことを何かで呼んだ(おぼ)えはないか?
ロダリ
はい、讀んだことがございます。
ブラバ
實弟(おとゝ)を起せ。……おゝ、お前に(むすめ)をやりやァよかつた! ……(家僕(しもべ)らに)(きさま)彼方(あツち)へ、おのしは其方(そツち)へ。 ……(ロダリーゴーに)(むすめ)とムーアめを取押へるには何處へ往つたらよからう?
ロダリ
警護の人逹をお()れなすつて、(てまへ)と一しよにお出向き下されますれば、 大丈夫、見附けまする。
ブラバ
案内して下さい。家毎に呼び立てよう、大概の家は(わし)の命令を聽くであらう。 ……(家僕らに)武噐を持つて來い、やい〜!夜廻りの役人どもを起せ。 ……さ、さ、ロダリーゴーどん、今に此骨折に報いをします。
ロダリーゴーに案内されて、皆々入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第一幕 第二場


第一幕

第二場 ヹニス。街上。

黒將軍のオセローとイアーゴーが把火(たいまつ)を持つた從者大勢を從へて出る。 此街の或家にデズデモーナが(かくま)つてあるのである。 (あたか)も其家の附近での問答と解してよい。

(イアーゴーは先走りして、オセロー主從の會ひ、ロダリーゴーの事をさん〜゛あしざまに告げ口して、 おのが信用を増すべく(つと)めた。 オセローは其過去生を悉く艱苦と戰役に費した至つて樸直(ぼくちやく)な武人なのである。 戰場に臨んでは驚くべき冷靜で沈着で勇敢でもあるのだが、俗世間の事には極めて迂闊な好人物、 だから、イアーゴーの率直めかした巧妙至極な諂諛(へつらひ)欺瞞(だま)され、 其言ふまゝを信ずるのが例になつてゐる。)

イアゴ
戰場ぢや人殺しもしましたが、企んで殺すのァ此良心が許しません、 不正な根性が足らなさ過ぎるんで、時々損をします、 八九度も奴の肋ッ(あばらぼね)の下の此處とこをズブリとやッつけやうかと思つたんでしたが。
オセロ
いや、さうせんかつたはうがえい。
イアゴ
だつて、奴め、ぺら〜と貴下(あなた)の事を口穢く惡口しました。(てまへ)は聖人ぢやありませんから、 (とて)堪忍(がまん)が出來にくかつたんです。……それはさうと、 御結婚は確乎(しつかり)お濟しなさいましたか?あの議官どのは人望があつて、 實際の勢力は公爵さん以上なんですから、此御結婚を無效にするか、或ひは其權力で以て、 國法の許す限り、貴下(あなた)を譴責しようとするに相違ありませんよ。
オセロ
思ふやうにさせとくがえい。 此國に盡した(わし)の功勞が彼仁(あのじん)の愁訴ぐらゐは沈默させるぢやらう。 まだ人には言はんが……自慢を名譽ぢやと思ふたら、公言もしようと思ふとるが…… (わし)は王族の血統ぢやから、今度手に入れた幸福(結婚の)位ゐは、 當然大威張で要求し得る價値があると思ふとるんぢや。なァ、イアーゴー、 畢竟はぢや、あのデズデモーナどんが可愛けりやこそぢや、でなきや、 何で此天地間に家を有たん自由な身を(家庭なんぞといふ)窮屈な境涯に()へようぞい、 大海(に有る限り)の寶物(たからもの)()へても。……や、あれを見い! 何ぢや、あの把火(たいまつ)は?
イアゴ
あれは起きて來た父御(てゝご)や縁者逹ですよ、きッと。 お隱れなすつたはうが善うごせう。
オセロ
うんにや、隱れちやならん。(わし)の徳や身分や潔白な精神に相當するやうに行ふべきぢや。 ……彼等(あいつら)か?
イアゴ
さうぢやないやうです。
キャッシオーを先きに公爵からの或役人らが把火(たいまつ)を持つて出る。
オセロ
や、公爵の御家來衆、おゝ、副官か!先づ、機嫌ようて!何事か起りましたかな?
キャシ
公爵の御諚です、すぐ大急ぎで御出頭なされますやうにとの事でございます。
オセロ
何事が起つたんぢやらうなァ?
キャシ
サイプラスから何か知らせがあつたらしう存ぜられます。急を要する一大事でございませう、 今晩、軍艦からの注進が十二たびほど接踵(せつしよう)して參著(さんちやく)しましたので、 議官逹は悉く起き出でられ、既に公爵殿の御許で御會合でございます。 貴下(あなた)は急いで御召しでしたが、お宿にお見えになりませんので、 お行方を尋ねるお使者を、元老會は三方へお遣はしになりました。
オセロ
こゝで逢ふてよかつた。こゝの家に一寸いひ殘しておいてから、一しよにゆかう。
とオセローはデズデモーナを(かくま)つてある家へ入る。
キャシ
旗手(はたがゝり)どの、將軍はこゝで何をしてをられるんです?
イアゴ
さァ、今夜、ある大きな陸船(おかぶね)を手にお入れなされたんです。 若しそれが合法的な鹵獲物と(きま)りやァ、將軍は一生果報者でさ。
キャシ
わからないねえ。
イアゴ
御結婚なすつたんだ。
キャシ
え、誰れと?
イアゴ
はて、あの、デズ……
といひかける。此途端に、オセローが戻つて來る。で、イアーゴーは話題を轉じて
さ、將軍、參りませう?
オセロ
おゝ、往かう。
キャシ
あ、あそこへ、貴下(あなた)をお尋ねしてゐる別の組が參りました。
イアゴ
いや、ありやブラバンショーですぞ。將軍、御用心なさい。 惡意を抱いて參つたのですから。
ブラバンショーは、ロダリーゴーに案内させ、把火(たいまつ)や武噐を持つた警護の者大勢を從へて出る。
オセロ
こら!まて!
ロダリ
(ブラバンショーに)閣下、ムーアでございます。
ブラバ
(警護の者に)それ、盜賊を叩き伏せい!
警護の者が氣込む。
イアゴ
うぬ、ロダリーゴーめ!さあ、來い、(きさま)の相手は俺だ。
とロダリーゴーへ躍りかゝらうとする。オセローの從者ら劍を拔いて氣込む。 とオセローは雙方(さうはう)の間へ割つて入つて押し隔てゝ、沈着に
オセロ
ぎらつく劍を鞘に藏めい、夜露で錆るわい。……(ブラバンショーに)はて、 武噐なんかお用ひなさらずとも、閣下(あなた)の御年齡で以て立派に御命令が出來ましたらうに。
ブラバ
(怒り猛つて)おゝ、おのれ、汚穢(けがらは)しい盜賊め、(むすめ)を何處へ(かく)しをつた? 非道人の其方、(妖術を以て)(むすめ)を惑はしをつたに相違ない。…… 分別力のあるあらゆる人々に訴へる、魔術の鎖にでも縛られんけりや、あんな柔和な、美しい、 幸福な少女が、同じ國の風流な貴公子をさへも避くる程に婚禮を嫌ふてをつた娘が、 世間の物笑ひとなるをも(かま)はず、親の手元を脱け出して、 見るから怖ろしい(きさま)の如き者の其眞黒な胸元へ駈け込むといふ筈がない! ……世間の人々よ、判斷せい、こりや解り切つてをることぢや。…… (きさま)汚穢(けがらは)しい魔法を使ふて、心を鈍うする藥石なぞを用ひ、 纖弱(かよわ)(むすめ)をば欺騙(たぶらか)したに相違ない。 きッと糺明せんではおかんぞ。たしかにさうぢや。きッとさうぢや。 ぢやによつて、引ッ捕へて引ッ立つる、國家の風俗を亂し、禁制の邪法を行ふ罪人として引ッ立つる。 ……(警護の者に)彼奴を取押へい。手向ひしたら用捨には及ばん。
雙方(さうはう)共に又も立掛かる。
オセロ
(峻嚴に)控へい、雙方(さうはう)共に。(キャッシオーらに)戰はんけりやならん(きつかけ)なら、 指揮役(さしづやく)なんか待たんわい。……(ブラバンショーに)何處へ參つたらよろしいのです、 其申し譯を致しませうが。
ブラバ
牢へ行け、規定通りの(とき)が來て、(きさま)を法廷へ呼び出すまで。
オセロ
さうしても差支へはありますまいかな?それで公爵殿が御滿足なさりませうかな? 差掛つた御用向とあつて、只今お使者(つかひ)が參つて出頭を命ぜられた所ですが。
役人甲
いかにも、其通りにございます。公爵は(あたか)も御會議中です、 閣下の御許へもお迎ひのお使者が參つたに相違ございません。
ブラバ
えッ!公爵殿が御會議中!此眞夜中に!……いや、彼奴を引ッ立てめされ、 わしの此訴訟(うつたへ)些屑事(かりそめごと)ではない、 公爵殿をはじめ同僚の誰れ彼れとても、よも之を餘所事(よそごと)ぢやとは思はれまい。 此樣な行爲をば打棄てゝおくやうでありや、奴隸や異教徒が我が國の政事を取行ふことゝならう。
皆々入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第一幕 第三場


第一幕

第三場 會議室。

公爵をはじめ元老院議官ら卓子を圍んで著席し、サイプラスからの報告を評議してゐる。 扉口(とぐち)には若干の役人らが立つてゐる。
公爵
此等の注進は矛盾してうぃるから信ぜられぬわい。
議官甲
いかにも、區々(まち〜)でございます。此書面には百七艘だとあります。
公爵
わしのには百四十艘とある。
議官乙
手前のには二百艘とございます。數こそは正しう合ひませんが…… 推測の注進には斯ういふ相違はありがちでございます。とにかく、 トルコの軍艦がサイプラスへ攻め寄せまする事だけは何れも符合致してをります。
公爵
いや、有り得るべきことぢや。多少の錯謬(あやまり)があつたからとて、 安心は出來ん。心懸りな知らせぢや。
水夫
(奧で)あ、もし〜!あ、もし〜!あ、もし〜!
役人甲
軍艦からの注進でございます。
一水夫が出る。
公爵
何事ぢや?
水夫
トルコの軍勢はローヅ島へ向つてをります。さやう申し上げいとアンヂェローどのが申されましてございます。
公爵
諸君、どう思はれる、斯う模樣の變つたのを?
議官甲
どう考へましてもそんな筈はありません。身方(みかた)の目をくらます謀計でございませう。 サイプラスはトルコに取つては大切の要衝地でございます、 而もローヅ程に警備されてゐないのですから、之を陷すのは一段容易です。其理(そのり)を考へますと、 ()るに容易(たやす)く、得れば益の多い第一の要害を後へ廻して無益な冐險をするほど、 それほど無謀な、トルコとも存ぜられません。
公爵
いや、大丈夫、ローヅへ向ふのぢやあるまい。
役人甲
また注進が參りました。
他の使者が出る。
使者
申し上げます、土耳古人(オツトマイト)はローヅを指して進んでをりましたが、 同處で後陣の艦隊と聯合いたしましてございます。
議官甲
さうあらうと存じてゐた。……何艘ほどと見えたな?
使者
三十艘ほどでございます。只今、元の路へと漕ぎ戻りをりますが、 サイプラスを目指してをりますことはもはや明白でございます。 以上は忠勇の御臣下、モンターノー殿から、 何卒(なにとぞ)御信用下されますやうにとの誠意の御注進でございます。
公爵
ぢや、サイプラスへ攻め寄ると(きま)つた。……マーカス・ルーナーコスは當市にをるかな?
議官甲
只今はフロレンスへ參つて居ります。
公爵
ぢや、書面を遣つて下さい、大急ぎで。
議官甲
ブラバンショーとムーアが參りました。
ブラバンショー、オセロー、イアーゴー、ロダリーゴー及び役人ら出る。
公爵
オセロー將軍よ、公敵土耳古人(オツトマン)を追討の爲に、即出張して貰はねばならんことになつた。 ……(ブラバンショーに)おゝ、あんたのをるのにや氣が附かなんだ。よう來て下さつた。 今夜の事件に就いて貴君(あんた)の意見を聽いて助力を乞ひたう思ふてゐた所ぢやつた。
ブラバ
手前もでございます。失禮ならがお赦し下されませう、 かく夜中に起き出でましたのは自分の役柄を重んじました爲でもなく、 御用向を傳聞いたした爲でもなく、國家の安否を思ひました爲でもございません、 我が身に係る愁傷が井堰を越へて氾濫し、餘所(よそ)他の悲歎(かなしみ)を呑み盡し、 今尚ほそればかりが漲つてをります。
公爵
とは又、どうした事なんぢやな?
ブラバ
(むすめ)が!おゝ、(むすめ)めが!
衆議官
えッ、亡くなられましたか?
ブラバ
手前に取つては亡くなつたも同然です。はい、(だま)されました、 盜まれました、庸醫者(やぶいしや)から買つた魔藥で、 妖術で弄辱(はづかし)められたのでございます。 と申すのは、(いやしく)も分別力があり、不具者でなく、 盲でも無い人間が魔法にでも昏惑(くらま)されんければ斯樣な不合理な過ちを致す筈はございません。
公爵
はて、それが何者であらうとも、さやうな非道を行つて、貴君(あんた)(むすめ)さんを奪ひ、 また其娘さんの操をば奪つた不埒者は、貴君(あんた)自身國法の明文に照らし、 最も嚴重に處分なさるがよろしい、よし其犯人が(わし)の實子であらうと、 容赦には及びませんぞ。
ブラバ
有難く存じます。(オセローを指ざして)此ムーアが其犯人でございます、 國家の御用で特にお召寄せとやら拜承(うけたまは)りましたが。
衆議官
やれ、それは氣の毒千萬!
公爵
(不審げに、オセローに)で、之に對して貴君(あんた)の言ひ開きは?
ブラバ
何も(言ひ開きなぞの)あらう筈がございません、全く其通りなのでございます。
オセロ
國家の大權を扱はせらるゝ元老方、敬愛致しをりまする議官方に申し上げまする、 手前が此御老人に令孃を()れ去りました事は事實であります。 事實、結婚もいたしました。但し手前の犯罪の源泉は只それッきりございます。 手前は甚だ口不調法でありまして、平和の際に用ひます柔和な語遣(ことばづか)ひは至つて下手でございます。 と申すは、吾等の此腕(かひな)は七ヶ年生長(おひた)ちますと、それ以來今日まで、 只九ヶ月程を除き、常に陣營でばかり全力を盡してをりました。 (したが)つて、戰爭以外の此廣い世界の事は、手前甚だ不案内で、何も能う話さんのでございます。 でありますから、手前の利益になるやうな申し開きは(とて)も能うすまいと存ずるのであります。 が、諸閣下のお許しを蒙りまして、手前が情事の經路を只有體(ありてい)に申し述べて見ませう、 如何(どん)な藥、如何(どん)呪文(まじなひ)如何(どん)な妖術で以て…… さういふ手段を用ひたといふ嫌疑でありますから…… (あの)仁の(むすめ)を手に入れましたかを申し述べませう。
ブラバ
處女は決して大膽なもんぢやァない。平素はあんなにしとやかで、靜かで、 わが心の動搖に對してさへも(かほ)を赧めるやうな娘が、そんな恍惚娘(おぼこむすめ)が、 性にも、(とし)にも、國士(くに)にも、外聞にも、あらゆるものに背いて、 見るさへも怖ろしう思ふてゐたやうな者に戀慕する筈がありませうか! そんな心得違ひを、自然の法に逆らふて、圓滿な性格の女がしようなぞとは不具な、 間違ひ切つた判斷でございます、惡魔の所爲でなうて何で其樣な珍事が起りませうぞ? ゆゑに、手前は改めて誓言仕(つかまつ)りまする、血を掻き亂す藥劑か、 乃至(ないし)同樣の效驗(きゝめ)あるやうに禁厭(まじな)うた或飮物を以て(むすめ)をば惑しをつたに相違ございません。
公爵
誓言したからとても證據にはならんわい、只今申し立てたやうな、淺薄(あさはか)な推測以上に、 もつと明確な、證跡があらばともかくも。
議官甲
オセローどのに承はりたい、お手前は果して邪曲な手段を以て敢て其少女を惑しめされたのであるか? 或ひは正當に言ひ寄られ、心と心とが相許した結果、懇懃(ねんごろ)になられたのであるか?
オセロ
どうか、サヂタリー館へお使者(つかひ)を遣はされまして、婦人をお呼び寄せの上、 其父の面前で御訊問下されませ。彼女(かのをんな)が手前を非道人のやうに申し立てましたら、 奉職(うけたまは)つてをりますお役目悉くお取り上げの上、此一命をもお取り下さい。
公爵
デズデモーナを伴れて來い。
オセロ
(イアーゴーに)旗手、御案内をせい、處は、君が善う知ッとる。
イアーゴー(なら)びに公爵の侍臣數人入る。
婦人が參りますまでに、天に對して申しますやうに、謹んで元老諸閣下に、 手前が内情の過失(あやまち)を正直に打明けて申し上げまする、 如何にして彼の婦人の歡心を得るに至りましたかを。
公爵
お話しなさい。
オセロ
婦人の父が手前を愛してくれまして、屡々招いてくれまして、 (きま)つて手前の經歴を訊ねました。(とし)から(とし)へと經來りました戰爭や、 城攻(しろぜめ)や、勝敗の模樣なぞを。手前はそれを悉く話しました、 幼年の(をり)の事から、話せと求められました其間際の事までも。 不幸極まる災厄、海上乃至(ないし)戰場での怖ろしい出來事、 間一髮で危險を脱しました話、殘忍な敵に捕へられて奴隸に賣られ、後に身請(みうけ)され、 諸國を遍歴いたした話、だゝッ廣い洞穴、或ひは荒れ果てゝ人跡のない荒野原、 或ひはけはしい石山、或ひは天にとゞきさうな山や大岩の事等を話しましたのが手續きでありまする。 それから又、同胞相食(あいくら)ふキャニバルの事、食人族の事、 肩の下に首のある人種の事なぞも。それをデズデモーナは熱心に聽きたがつたのであります、 ところが、家事向の用があつて、とかく、呼び立てられます。それを又、 急いで濟しまして戻つて參つて、恰も、貪り(くら)ふがやうにして手前の話を聽いたのであります。 で、それを觀まして、或時、好き機會に於て、 手前の一生の閲歴を更に詳細と話してくれと改めて望ませまするやうにしむけました、 斷片的(きれ〜゛)には聽いてゐたが、一貫しては聽いてはをらんからと申させるやうにしむけました。 それを手前承諾ひたして、先づ、幼少の折の艱難辛苦を話しまして、 折々彼女(あれ)に涙を落させました。話し終りますと、 彼女(あれ)は其報酬に(おびたゞ)しく溜息を致しまして、 實に不思議な、非常に不思議な、氣の毒千萬な事、實に〜氣の毒な事ぢやと申しまして、 あゝ聽かなんだらばよかつたと申しながらも、あゝ、 若しさういふ男を天がわしに下されたならばなァと申して、手前に感謝し、 若しも手前の友人に、彼女(あれ)を愛する者があつたら、手前の履歴話を話せと言へ、 さうすれば彼女(あれ)は忽ち其人を切愛するやうになるであらうと申し開けましたのであります。 で、それに力を得て、手前は意中を打明けました。彼女(あれ)は手前の艱難に同情して手前を愛し、 手前は同感してくれましたゆゑに彼女(あれ)を愛したのであります。 これが用ひました唯一つの妖術なのでありまする。……あれへ婦人が參りましたから、 其證言をお聽き下されませ。
デズデモーナ、イアーゴー及び侍者役らが出る。
公爵
さういふ話を聽いたら、(わし)(むすめ)とても或ひは心を動かされるであらう。 ブラバンショー、既に(きず)が附いてしまつた上は、及び限り繕ふやうにしたが利方ぢや。 折れた武噐でも空手よりは(まし)ぢや。
ブラバ
(むすめ)が何と申すかをお聽き下さい。 (なかば)彼女(あれ)からも言ひ寄つたやうに申しをりますのに、 尚ほ手前が彼れを罪人視いたすやうでありましたら、此(かうべ)の上に破滅下れ! ……(デズデモーナに)こりや、(むすめ)よ。お歴々が御列座なされるところで問ふぞよ、 其方(そなた)は誰れに第一に服從せねばならんものと思ふてをる?
デズデ
お父さま、わたくしの義務は、こゝでは二つになつて居るのでございます。 (うみ)の御恩、養育の御恩のあるお父樣はわたくしの義務の主でおありなさいます。 ですから、それに對してはお父樣を第一に尊敬せねばなりません。 これは(むすめ)としての務めなのでございます。けれども、 今はこゝに夫がをられます、お母樣が貴下(あなた)を其お父樣以上に大事になされましたと同じに、 わたくしも夫のムーアどのに務めを盡さねばならんと存じまする。
ブラバ
(大不快の體で)ぢや、機嫌よう暮しやれ、さよなら!…… (公爵に)もう濟してございます。どうか御用向をお進め下さい。…… 實子(うみのこ)より貰ひ子のはうが(まし)であつたわい!…… (オセローに)ムーアどの、こゝへござれ。……さ、只今、此熄(むすめ)を心から、 お主に遣はしますぞ、まだ手に入つてをらなんだなら、心から、 遣はしたうはない(むすめ)でござるが。…… (デズデモーナに)(むすめ)其方(そなた)ゆゑに、又と子の無いのを俺は心から喜んでをる、 其方(そなた)此樣(こん)な不埒をしをつたから、 俺の心が酷くなつて子供らを嚴重にばかり取締りさうぢやから。…… (公爵に)もう濟しましてございます。
公爵
あんたの身に似合はしい訓言を申して見よう、 それが蹈段(ふみだん)ともなつて雙方の仲直りの助けとなるまいものでもない。 ……救ふ道の無い場合には最惡を覺悟すると、歎き(かへ)つて終局するか、 生中(なまなか)依頼(たのみ)があると増長する。 過ぎ去つた不幸(ふしあはせ)を哀しむのは新しい不幸(ふしあはせ)を招く(もとゐ)である、 禍厄(わざはひ)が來て救ひがたい時は忍耐すると、それが轉じて調戲(たはむれ)ともなる。 物を()られても笑つてゐりや、()ッた奴らから幾分かを取返すことゝもなるが、 益もない悲歎にくれるのは更に又自ら失ふのである。
ブラバ
(しか)らばサイプラスをばトルコ人に遣はされませ。 笑ふてさへゐりや()られんも同然でございませうから。 御訓言も、それを拜承(うけたまは)つて他に何の關係(かけかまひ)なく、 只慰藉(なぐさめ)だけを頂戴の出來る手合には結構でございますが、 心に痛みがあつて、乏しい忍耐から借物をせにやならん者には、 訓言を拜承(うけたまは)るのは餘計な負擔(ふたん)でございます。 訓言は甘くもあり、苦くもあつて兩樣に利くものでございますよ。 が、要するに、(ことば)(ことば)です、 傷を負ふた心臟が耳から藥を注ぎ込まれた藥で治つた(ためし)はございません。 どうか御用向をお進め下さい。
これにてオセローも席に著く。と公爵はじめ元老一同改めて議事に取りかゝる。
公爵
(オセローに)トルコが大軍をひきゐてサイプラス島に向うてゐる。 オセロー、彼地(かのち)の要害はあんたが最も善う心得とる筈ぢや。 (かね)てあそこには老巧な假總督を置いちやあるが、 無上の力を有する輿論はあんたでなくちや安心出來んというてをる。 それゆゑ、甚だお氣の毒ぢやが、あんたの輝かしい新幸運を、殺風景な征討に從事して、 當分、暗いものにしておいて貰はにやならん。
オセロ
諸閣下に申し上げまする、酷い習慣に慣らされました手合には、 石や(はがね)を枕とする戰場が三度撰(さんどえり)綿毛床(わたげどこ)なのでございます。 困難な事と聞くと、直ぐさま飛び込んで參りたいのが持前でございますから、 土耳古人(オツトマン)征伐の役目は必ず相勤めまする。 それにつきまして、折入つて請願(つかまつ)りますが、どうか、妻をば、 身分相應にお取扱ひ下されますやうに、身分相應な住所、扶持(ふち)、便宜、 及び附人を下しおかれますやうに願ひまする。
公爵
父に預けてはどうぢやな?
ブラバ
其儀は御辭退申します。
オセロ
いや、手前におきましても。
デズデ
わたくしとても。父の目の前にをりまして厭ァな思ひをさせたうございません。 お慈悲ぶかい公爵さま、不束(ふつゝか)なわたくしが只今申し上げます事をお聽き下さいまして、 どうぞ此お願ひをお許し下さいますやうに。
公爵
デズデモーナ、其願ひとは?
デズデ
私がムーアどのを戀ひ慕ふて一しよに暮しらう思ふてをります事は、 家をも身をも振捨てゝ、何事をも運命に任せようと致しました私の大膽な振舞ひで世間に知れ渡りました、 それは夫の役柄をも善う心得てゐてした事でございます。 私はオセローどのゝ心をば相貌(すがた)(なが)めて、其徳と勇氣とへ魂ひをも運命をも獻げました。 ですから、皆樣にお願ひ申しまする、夫が戰場へ參りますのに、 私が浮れ胡蝶かなんぞのやうに取殘されてをりましては、妻となつた(かひ)もなく、 久しい間の留守居をば(さぞ)かし辛う思ひませう。何一つ奉仕することも出來ませず、 其上、戀しい人に別れて、獨りで留守居をするのは、(とて)も辛い事だらうと存じます。 一しよに行かせて下さいませ。
オセロ
彼女(あれ)の願ひをお聽き屆け下さいますやう。天も御照覽下され、 決して情慾の滿足を欲してお願ひをするのではございません、…… 血氣時代はもう過しました、手前の慾ははや()んでをります…… 情慾の爲や自分勝手の爲に申すのではございません、 彼女(あれ)の望みを十分に遂げさせたいばかりに申すのであります。彼女(あれ)が一しよにゐたら、 重大な御用向を忽諸(おろそか)にしはせぬかなぞと思し召して下されますな。 (はね)の生えたキューピッドめの惡戲(いたづら)で、萬一にも手前の兩眼が(みだりが)はしう鈍り、 (たは)け遊びをして、御用向を汚すやうな事がございましたら、 手前の(かぶと)下賤女(はしためをんな)の用ふる鍋ともなるがえい、 ありとあらゆる汚名や惡名が此素頭(すかうべ)に落ち降るがえい!
公爵
はて、留めおくとも伴ひ行くとも、あんたの心任せになさるがえい。 當用は火急を要する。早速出發して下さい。
議官甲
今夜中に御出發なさらんけりやなりますまいぞ。
オセロ
承知いたしました。
公爵
(議官らに)明日の九時に又會合しませう。オセロー、たれか一人部下の者をお殘しなさい、 辭令書は後から送ることにしよう、あんたの職權、其他、緊要な事も其れと同時に。
オセロ
では、旗手を殘しておきませう。正直な忠實な者でございます。 (さい)の事も彼れに託しおきます。何品(なにしな)にもあれ、 必要な品々は彼れにお命じあつてお送り下されますやう。
公爵
よろしい。……(元老、其他に)御機嫌よう。…… (ブラバンショーに)ブラバンショーその、徳さへあれば、そこに自から美しさが備はる。 あんたの壻どのは決して醜い男ぢやない。
議官甲
さやうなら、ムーアどの。折角、デズデモーナどのをおいたはりなさい。
ブラバ
いや、ムーアどの、氣を附けて見てゐなさい、目があるなら。 父を(だま)した女ぢや、お手前をも(だま)しかねまいぞ。
公爵、議官、ブラバンショー、役人ら皆入る。
オセロ
(ブラバンショーの後ろ姿へ)彼女(あれ)の貞節は此命を賭けても! ……イアーゴー、デズデモーナは君に頼んでおかんけりやならん。 君の妻君を附き添はせて、都合の附き次第、伴れて來て貰ひたい。 ……さ、デズデモーナどの、愛を語つたり、家事、俗事を語つたりする時間は、 たッた一時程しかない。時刻が來りや直ぐ往かんけりやならん。
オセローはデズデモーナを伴つて入る。
ロダリ
(落膽し切つて)イアーゴー……
イアゴ
(わざと呆惚(とぼけ)て)え、何でございますね?
ロダリ
どうしたらいゝだらう?
イアゴ
はて、寢床に往つて()たらいゝだらう。
ロダリ
すぐにも身を投げて死んぢまひたい。
イアゴ
そんな事すりや、君との關係もけふ限りだよ。はて、馬鹿な人だ!
ロダリ
生きてるのが苦痛だのに、生きてるのは馬鹿らしい。死神の外に良い醫者のない時分にや、 死ぬより外に處方書(しようはうがき)はない。
イアゴ
馬鹿な事を!僕ァ二十八年間も世間て者を觀て來たんだが、 利害の見分が出來るやうになつてから、見受けた人間で、 うぬを可愛がる法を本當に心得てゐる奴ァ一人も無い。俺なら、 賤少女(あまツちよ)に惚れて、其爲に身を投げるなんぞと言ふよりも前に、 いつそ人間を止めて狒々(ひゝ)にでもなッちまはァ。
ロダリ
だつて、どうしたら可いだらう?こんなに未練なに恥辱(はぢ)だとは思ふけれど、 僕にやそれを忍耐し得る徳が無い。
イアゴ
徳だ!へッ馬鹿な!無花果の割目だねえ、かうなるのも、あゝなるのも、 (みンな)人間樣御自身のお細工なんだよ。人間の肉體(からだ)は花畑で、 精神(こゝろ)は其(手入れをする)庭師なんだ。蕁麻(いらぐさ)を植ゑようと、 萵苣(ちさ)を蒔かうと、ヒソップを生して麝香草を引拔(ひツかぬ)かうと、 たッた一種(ひといろ)だけにしておかうと、いろんなものをごッちやに植ゑ込まうと、 うッちやつといて痩地(やせち)にしようと、精出して肥料(こやし)をくれようと、 はて、善くするのも惡くするのも、吾徒(こちとら)の勝手なんだ。 人間の一生を天秤だとする、若し情慾の皿だけあつて、 それに釣り合ふ理性の秤皿(はかりざら)て者が無かつたなら、 始終(しよツちゆう)、卑劣な情慾て奴の爲に愚劣(ぶま)な事ばかり爲出來(しでか)すんだらうが、 御方便に、理性て者があるんで、荒れ狂ふ情だの、突き刺すやうな肉慾だの、 悍馬(ぢや〜うま)のやうな淫亂根性だのを冷却させることが出來る。 君が戀と呼んでるのも、其奴(そいつ)斷片(かたはれ)か、小條(ずはえ)だらう。
ロダリ
そんなんぢやない、決して。
イアゴ
いや、血の氣のせゐだよ、だらけた根性がさせるんだよ。さ、さ、しつかりしたまへ。 身を投げるッ!小猫や盲狗(めくらいぬ)ぢやあるまいし。 ねえ、一旦、信友になると言つた以上、俺は、 斷絶(ちぎ)れッこなの無い碇綱(いかりづな)で以て自分と君とを繋ぎ合してしまつたんだ、 さうして今が一等君の爲に眞實を盡すべき時だらうと思ふ。……ねえ、金の才覺して、 さうして戰場へ從ひて來たまへ。僞髭(つくりひげ)(つら)を變へてに…… いゝかい、金の才覺をして。デズデモーナがいつまでもあのムーアを、 また彼奴もあの女をいつまでも……金を衣嚢(かくし)へ入れてね…… 可愛がるなんてことァあるまじき事だ。發端(はじまり)急激(やみくも)だつたんだから、 きッとそれに相應した破綻が起るだらう。……衣嚢(かくし)に金を忘れちやいかんよ。 ムーア人て者ァ、本來氣の變り易い者だ。……衣嚢(かくし)に金をだぜ、いゝかい?…… 今は甘果(ローカスト)とも甘がつて賞翫してる者が忽ち苦果(コロキンチダ)ほどに苦い物になるだらう。 女もきッと若いのへ心を移す。肉が飽饜(たんのう)すりや、 見ちがへたことに心附く、きッと取易へたくなる、きッと。だから、金を衣嚢(かくし)へ入れてね。 若しどうしても地獄へ墮ちたけりや、溺死(どざゑもん)よりやァもつと氣の利いた死方があらうてもんだ。 ……出來るだけ金をこしらへてね。 宿なしの野蠻人と狡猾なヹニス女が殊勝げに取結んだあの(もろ)い契約、あれが、 俺と惡魔連の智慧で以て斷絶(ちぎ)り得られるものなら、大丈夫、 女を君の(もの)にして見せるよ。だから、金を才覺すること。馬鹿な! 身を投げるなんぞァ七里けつぱい!女を手に入れ得ないで土左衞門になる位ゐなら、 望みを遂げた上で絞罪(しばりくび)になつたはうがいゝだらうぢやないか?
ロダリ
きッと力になつてくれるんですか、君の言ふ通りにすりや?
イアゴ
大丈夫。……さゝ、金をこしらへたり。……何度も言つたことだが、もう一度言ふ、 俺はムーアが憎いんだ。それにやァ深い理由(わけ)がある。君だつてさうだ。 だから、お互ひに協力して復讐をしようよ。間男になることが出來りや、君はお樂しみだし、 俺にも慰みになる。「時」の(はら)内にや種々(いろん)な事件が孕まれてゐて、 早晩、それが生れる。進軍ッ!……さ、金の準備(ようい)をしてね。明朝(あした)また改めて話さう。 さよなら。
ロダリ
何處で會ふんだい、明朝(あした)は?
イアゴ
俺の宿で。
ロダリ
朝早く往くよ。
イアゴ
さ、さ。さよなら。……おい、一寸、ロダリーゴー!
ロダリ
え?
イアゴ
土左(どざ)(やめ)だぜ、いゝかい?
ロダリ
氣が變つた、地面の有ッたけを賣る積りだ。
ロダリーゴー入る。とイアーゴーは瞑想に耽る。
イアゴ
かうして何時もあの阿呆めを財嚢(さいふ)代りにするんだ。はて、 慰樂(なぐさみ)にも利益(まうけ)にもならんのに、 あんな愚物(ぬけさく)を相手に暇潰しをするやうなら、 長年磨いて來た智慧の看板に泥を塗るも同然だ。……小癪(こじやく)(さは)るムーアめ、 奴は俺の床中で俺の役をしをつたといふ噂がある。 (うそ)(まこと)か知らんが、それを事實と見做して返報してくれよう。 奴め俺を信用してゐやがるから、一段為事(しごと)が爲易い。 ……キャッシオーめは好い男子(をとこ)だ……かうッと…… 彼奴の位置を奪つて、一擧兩得の惡だくみを思ふ存分に爲果(しおほ)せる ……はてな、はてな!……かうッと。……(ほど)經てからオセローに讒言(ざんげん)をしてくれる、 彼奴は奴の(かゝ)懇懃(ねんごろ)にしてゐると。 彼奴は男振といひ、柔和な氣質といひ、嫌疑を受け易い女たらしだ。 ムーアめは磊落な、正直な性質(うまれつき)外面(うはべ)ばかりの忠義をも眞實だと思ふ男だ、 驢馬同樣に鼻面(はなづら)容易(たやす)く引廻すことが出來る。……しめた。生れた。ところで、 此怪物(ばけもの)彌々(いよ〜)明るみへ持ち出すのァ惡魔と夜に受持つて貰はにやならん。
イアーゴーも入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第二幕 第一場


第二幕

第一場 サイプラス島の港。埠頭。

假總督のモンターノーが二紳士と出る。二紳士は岬の(はな)へ登つて往つて海上の模樣を視察する。 モンターノーも海の方を見詰めてゐる。けふにも攻めて來る筈であつたトルコの艦隊が、 昨夜來の暴風で、どうなつたかと懸念して見張つてゐるのである。
モンタ
何か見えますか、海上に、岬から?
紳の一
何も見えません。浪がすさまじく荒れてゐrます。空と海との間にや帆影一つ見えません。
モンタ
(くが)は大荒れでしたからねえ、あんなに風の爲に城壁が震動したことは曾て無かつたと思ひますよ。 海上も同樣だつたとすると、如何(どん)(かし)はの肋ッ(あばらッぽね)だつて、 臍穴(ほぞあな)附著(くツつ)いりやゐまいて。何樣(どん)報知(しらせ)が來るか知らん?
紳の二
トルコの艦隊が散々離々(ちり〜゛ばら〜)になつたて報知(しらせ)が來ませう。つい、 此泡立つてる岸頭(がんとう)只立(ついた)つて御覽なさいまし、 逆卷く大浪は空を()つてるやうに見えます。 風に煽られた高浪は凄じい鬣尾(たてがみ)()り立てゝ、 あの火のやうな小熊星(せいゆうせい)へ水を投げ懸け〜して、 居据(いずわ)りの北斗星の守衞役(まもりやく)を消しッちまひさうです。 こんなに海の荒れるのァ(つひ)ぞ見たことがありません。
モンタ
何處かの港へ避難したとすりやァだが、でなきや、トルコの艦隊はきッと沈沒しッちまつたに相違ない。 持ちこたへる筈が無い。
紳士の三出る。
紳の三
(昂奮しつゝ)新聞です〜!(いくさ)はもう終りました。 此熨蝟\(おほあらし)でトルコの奴らァさん〜゛に叩きみじかれましたので、 奴等の計畫は中止です。その無慚な難破の實際をヹニスから來たわが軍艦が見屆けたんです。
モンタ
えッ!それは眞實(ほんと)ですか?
紳の三
もう其船が入港(はひ)つてゐます、ヹローネサ號なんです、 ムーア將軍オセローどのゝ副官マイケーエル・キャッシオーといふ仁はもう既に上陸しました。 ムーアどのはまだ海上だといふ事ですが、何でも、 此サイプラスの全權を委任されて參られたやうに承はりました。
モンタ
それァ重疊です。彼の人は總督には最も適任です。
紳の三
ですが、其キャッシオーて仁は、トルコの敗滅したのを悦びながら、 愉快がると同時に、ムーアどのゝ事を氣づかッて、頻りに安全を祈つてゐられます。 暴風(あらし)の爲に本船と離れ〜゛に成ッちまつたんださうですから。
モンタ
どうか無事であらせられたいもんだ。わしは()の人の部下になつてゐた事があつたが、 あの人はァ全く立派な武人だ。……おい〜、海岸へ行かうよ!入港する船を見ながら、 オセローどのゝ、お待受けをしよう、海と空が一つに見えるほどまで向うを見詰めて。
紳の三
ぢや、參りませう、さ、さ。今にも別の船が入港しさうです。
キャッシオーが出る。
キャシ
(モンターノーに)感謝いたします、此要衝地の勇士モンターノーどの、 ムーアを御称讚下さるはかたじけない!……あゝ、天よ、どうぞ彼れをして風波の難をのがれしめたまへ、 ……わたしは危險な海上で彼れを見失つてしまつたのです。
モンタ
乘つてをられた船は堅固なのですか?
キャシ
船は岩疉(がんでふ)ですし、水夫どもゝ(つと)に認められた腕逹者なのですから、 決して絶望はいたしません、大丈夫であらうとは思つてゐますが……
此時、奧で、「船だ〜〜!」と叫ぶ聲がする。と紳士の四が出る。
キャシ
や、あの騷ぎは?
紳の四
(まち)全空(がらあき)です、あらゆる階級の者が、海岸へ出まして、船だ〜!と呼んでゐます。
キャシ
そりやきッと總督の船でせう。
奧で大砲の音。
紳の二
禮砲を放しますから、身方(みかた)に相違ないでせう。
キャシ
どうか、何人が著されましたか、確めて來て戴きたいものです。
紳の二
承知しました。
紳士の二入る。
モンタ
時に、副官どの、將軍は御結婚なすつたんですか?
キャシ
さ、(とて)も御良縁なんです、傳竒や小説にも無いやうな立派な婦人を迎へられました、 詩人連も()め立てるに窮しさうな、 持つて生れた美質だけで画工をも草臥(くたび)れさせさうな美人ですよ。
紳士の二出る。
どうでした!入港したのは誰れでした?
紳の二
將軍の旗手のイアーゴーとかいふ人です。
キャシ
幸福(しあはせ)とは速く都合よく著きましたねえ。暴颶(あらし)も、荒海も、吠え立てる風も、 何の罪も無い船腹の邪魔をしようとして埋伏(まちぶせ)をしてゐる二心者の暗礁や淺洲も、 美の感覺があるんでせう、持前の殘忍を中止にして、 あの天女のやうなデズデモーナさんを安全に通過させたんですな。
モンタ
デズデモーナさんとは?
キャシ
今お話した御大將の御大將ともいふべき奧さんです、勇敢なイアーゴーが警護して參つたのです。 思つたよりも七日ほど早く著きました。……大ヂョーヴ神よ、どうか、 オセローをお護り下されまして、強大な御息で以て將軍の帆をふくらませて、 彼れの大船をして此港を祝福せしめたまへ、デズデモーナの(かひな)で息ぜわしく愛の喘ぎをなし、 吾々一同の沈んだ勇氣を振ひ起し、此サイプラス全島に慰安を(もた)らさしめたまへ。
デズデモーナを先きに、イミーリヤ、イアーゴー、假裝してゐるロダリーゴー其他大勢の從者らが出る。
あゝ、御覽なさい、船の寶物(たからもの)上陸(あが)りましたぞ! ……サイプラスの諸君、奧方です、お(しも)に〜。(デズデモーナに)奧さま、 おめでたうございます!天の御惠み、お前にも、お後にも、どの方面にも、(あまね)くあれ!
デズデ
ありがたう、キャッシオーさん。で、(をつと)の消息は御存じですか?
キャシ
まだお著きになりません。ですが、きッと御無事で、程なくお著きだらうと存じます。
デズデ
おゝ、でもわたし……どうして別れ〜になつたのですの?
キャシ
あの恐ろしい風波の爲に……
此時、奧で、又、「船だ〜!」と叫ぶ。
や!船が著いたやうです。
奧で禮砲の音。
紳の二
砦から挨拶をしてゐます。今度のも身方(みかた)の船です。
キャシ
確めて來て下され。
紳士の二は入る。
(イアーゴーに)旗手どの、ようこそ。(イミーリヤに)……ようこそ、お内儀。 (と抱擁して)……イアーゴーどの、かういふ禮法は手前の教はつた禮法です、 お氣にお()へるな。
とイミーリヤに接吻する。
イアゴ
(磊落に)手前に對して舌が働く程に(饒舌なほどに)其唇が(貴君に對しても)働いたら、 いや、もう澤山だとおいひなさるだらう。
デズデ
まァ、あんなことを、口數は(すくな)い女だのに。
イアゴ
いや、どう(つかまつ)りまして。始終(しよツちゆう)しやべりつゞけです、 手前が、眠くつてならない時だつてもです。はて、奧さまの前ぢやァ、 成るたけ舌を胸中へ包み込んで、 口中で小言(ぶつゝ)いてもをりませうがね。
イミリ
其樣(そん)な事を言はれる覺えはありませんよ。
イアゴ
どッこい〜、おぬしァ(よそ)へ出りや畫に畫いた女だし、客の間ぢや鈴の音よろしくだが、 臺所ぢや野良猫だ、惡だくみをしてゐても菩薩の顏をしてゐるが、 腹を立つたりといふと、夜叉そこのけだ、家事をさせりや懶惰者(おひきずり)だが、 床へ入りや好い稼ぎ人だ……
デズデ
まァ、何て口ぎたない!
イアゴ
いや、眞實(ほんと)の事です、でなきや、手前はトルコ人でさ。 ……おぬしァ起きりや遊ぶ、()りや働くて女だ。
イミリ
わたしや(死んでも)(さん)貴郎(あんた)には書いて貰ひますまいよ。
イアゴ
さうさ、書かせないはうがよからう。
此間、デズデモーナは夫オセローの未著を頻りに心配してゐるのだが、 それを人々に氣取られるのを流石に氣にする所から、それを紛らすために、わざとイアーゴーへ話しかける。
デズデ
ねえ、若しわたしの(さん)をお書きだとしたら、何樣(どん)な風に書いてくれます?
イアゴ
おゝ、奧さま、そいつやァ御免を蒙りませう、手前は惡口一方の男ですから。
デズデ
さ、ま、さういはないで。……(かういひながら懸念さうに、キャッシオーに) 誰れか港のはうへ行きましたか?
キャシ
はい、參りました。
デズデ
(傍白)面白くはないけれど、わざと面白さうにして氣を紛らしませう。…… さ、どんな風の(さん)をしてくれますの。
イアゴ
只今考へ中です。が其名案めが、まるで荒布へ(もち)ッて風に、 此頭へ粘著(へばりつ)きやァがつて、腦味噌ぐるみ引摺り出しさうな鹽梅式です。 いや、どうやら詩神(ミユーズ)どんが産氣づいて來ました。…… ま、こんな風なのが産れました。……「若し女が(きれい)でさうして聰明(りこう)でありや、 美と才とがありや、一方は役に立つ、もう一方はそれを役に立てる。」 (才が美を利用します。)
デズデ
巧い(さん)なのね。……ぢや、若し(きたな)くッて聰明(りこう)であつたら?
イアゴ
さァ、「(きたな)くッて聰明(りこう)でさへありや、 早晩其穢(きたな)さに相應した或癡者(しれもの)を見附けませう。」
デズデ
だん〜わるくなるのね。
イミリ
ぢや、(きれい)でさうして阿呆であつたら?(美人だが低能だつたら?)
イアゴ
はて、「(きれい)な女が阿呆で果てよう筈がない、淫行(あはう)をすりや其お(かげ)で、 嗣子(あとゝり)を産むことが出來るからよ。」
デズデ
そんなのは居酒屋で阿呆共を笑はせる阿呆らしい無理故事附け。 ぢや、どんなみじめな(さん)をおしです、若し其女が(きたな)くッてそして阿呆であつたら?
イアゴ
「どんなに(きたな)くッて、おまけに阿呆でありませうとも、 美しうて而も聰明(りこう)な連中がする例の(きたな)らしい惡戲をせないものァありやしません。」
デズデ
あら、ま、何て物知らずでせう、あんたは!一等惡いのをば一等善いものゝやうにお言ひだ。 だが、如何(どん)(さん)をおしです、眞實(ほんたう)に立派な婦人で、 其持つて生れた美徳を楯に、見事わしを惡く言はれるものなら、さ、言つて見よ、 といふやうな女があつたら?
イアゴ
さァ、「美しくッて高ぶりもせず、辨もいゝが(かしま)しく喋説(しやべ)りもせず、 金に事は缺かないのだが、華美(はで)な好みもせず、其慾は今でも遂げられると言つてゐながら、 慾に克ち、返報(しかへし)をする好い機會が來ても、怒りをも、怨みをも忍ぶことの出來る女、 鮭の尻尾を大口魚(たら)の頭と取換(とツかへ)ッこなんかせない程度の分別はあるんだが、 其分別を(つひ)ぞまだ鼻ッ先きに見せない女、 ()いて來る送り狼共を(つひ)ぞ振返つても見もせん女、 若し其樣(そん)な女がありや、其女は……」
デズデ
其女はどうなの?
イアゴ
「阿呆ッ子供に乳を飮せたり、小使帳を()けたりするにやァ相應」でさ。
デズデ
おゝ、ま何て不具な力のない結論だらう!イミーリヤ、お前の御亭主だけれど、 此人の言ふことなんか眞に受けちやァいけないよ。……ねえ、キャッシオーさん、 ほんとに不作法な、卑陋(びろう)なことばかりいふ人ぢやなくッて?
キャシ
(デズデモーナの前へ進んで)無遠慮はあの仁の持前なのです。 學問よりも戰術に長じてゐるんですから、それをお認めなさるべきです。
といひつゝデズデモーナの手を取つて、キッスの禮を行ひ、尚ほ何か小聲で挨拶してゐる。
イアゴ
(二人の樣子を獨り立離れて、じろ〜見てゐて、傍白)へッ手を握りやァがる。 ……さう〜、耳こすりけつこう。……さういふ小ちやい蜘蛛の巣で、 今にキャッシオーといふ大きな蠅を取捉(とツつかま)へてくれる。…… さう〜、いや〜笑つたり。今に其馬鹿慇懃が(うぬ)の首ッ(かせ)になるぞよ。 御尤も、全く其通り。若し其樣(そん)小戲(こいたづら)で副官職が免職(ふい)になるやうなら、 さう度々三指を舐めんはうが可かつたらうぜ。 といふ口の下に又ぞろ風流士(しやれもの)の眞似が始りさうだ。 ……ようよう!舐め方上等!見事々々!全く其通り。……おや、又かい脣へ指を三本? そいつが灌腸管であつたらよからう!
喇叭の音と共に大砲の音。
ムーアどのだ、あの喇叭に(おぼ)えがある。
キャシ
全く。
デズデ
此方(こツち)から往つて出迎へませう。
キャシ
あ、もうお見えになりました。
オセローが從兵大勢を()れてさすがに昂奮した顏色で出る。 とデズデモーナが駈けよつて出迎へる。
オセロ
おゝ、わしの女軍人どの!
とデズデモーナを抱擁する。
デズデ
おゝ、なつかしいオセローどの!
オセロ
(わし)よりも先きに著いてゐなさらうとは、豫期せなんだゝけに、それと同程度に喜ばしい。 いや、ほんとに嬉しい!あらしの後に(いつ)(こん)(なぎ)が來るんなら、 風も吹け、死人が驚いて起きるほどにも!船も惱みをれ、オリムポスのやうな高浪に()り上げられて、 それから又、天から奈落へ落ちるやう潛りをれ!……今死んだなら此上も無い幸福(しあはせ)ぢやらう、 これ以上の悦びは豫期しがたい運命めが又と持つて來ようとも思はれんから。
デズデ
まァ、縁起でもないことを!……神さま、二人の愛と悦びとは月日と共に積りまするやうに!
オセロ
神々よ、どうか()うあらしめられませ!……此嬉しさは(とて)も口では言はれん、 此處にそれが(と胸に手をあてゝ)支へてゐる。(あンま)り喜びが多過るんぢや。 斯う、斯う。(と情熱的にキッスして)これが二人の身の最大不和であるやうに!
イアゴ
(此樣子を冷眼に見やつて、傍白)おゝ、今は大分好い調子だ。が、見てろ、 今に俺が其音締(ねじめ)をば緩めてくれる、此誠實な俺がよ。
オセロ
さ、さ、城内へ行かう。……諸君よ、お聞きなさい、戰爭はもう終りましたぞ、 トルコ人は悉く溺死しました。……や、此島の舊知己(むかしなじみ)どの、 御機嫌よう!……(デズデモーナに)なァ、デズデモーナどの、 あんたもきッと此サイプラスぢや歡迎して貰はれるであらう、 (わし)も非常に皆さんに可愛がられた。おゝ、デズデモーナどの、 つい取止めもなく喋説(しやべ)り過した、(あンま)り嬉しいので惚けたんぢや。 ……イアーゴー、御大儀ぢやが君は港へ往つて(わし)の荷物を揚げさせて、 それから船長を砦へ案内してください。()れは立派な男ぢや、どうか丁寧に扱ふてくれ。 ……さ、さ、デズデモーナ、改めて(と抱擁して)先づ、目出たう逢ふた、此サイプラスで。
とデズデモーナの手を取つて先きに立ち、皆々を從へて入る。
イアーゴーとロダリーゴーだけ殘る。
イアゴ
(モンターノーに)又港でお目にかゝりませう。……(ロダリーゴーを見返つて、小聲で) こゝへお出でなさい。……若し君に勇氣があるなら……戀をすると、 卑劣な男も性來以上の高尚(勇敢)な氣質になるとかいふが……それが本當なら、ねえ、 聽きたまへ。副官は今夜守衞所で夜警をする。……そこで、先づ言つておあkんけりやならんが ……デズデモーナは彼奴(あいつ)に惚れてゐる。
ロダリ
あの男に!其樣(そん)な事があらう筈はない!
イアゴ
指を斯う當てゝ、(生意氣な事なんか言はないで)謹んで聽いたがいゝよ。 ねえ、あの女がムーアに惚れた最初(しよツぱな)が如何に無法であつたかてことを考へて見たまへ。 虚喝(ほら)ッ話や架空(うそ)(はなし)を聽くが面白かつたからといふだけだらうぢやないか? 女がいつまでも虚喝(ほら)ッ話に惚れてをられると思ふかい? よもや君はそんな馬鹿なことァ思つちやゐまい。目放樂(めはうらく)てものが無くッちやならんよ。 鬼ッ(つら)を見てゐたのぢや何の慰樂(なぐさみ)にもならなからう? 慰み事が濟んで血が鈍りはじめると、 其飽饜(たんのう)した心を煽つて生々した情慾を起さすにやァ是非とも可愛らしい面附(つらつき)とか、 似つこらしい年輩とか、好い風采(やうす)とかゞ入用なんだが、 それがムーアにやァ一つもない。さァ、さういふ入用な物が無いとすると、 そこは優しい女氣だ、一ぱい食はされたことに氣が附いて、胸をわるくする、 ムーアめを慄毛(おぞけ)をふるつて(いやが)るやうになる、 天性に教へられて、是非とも二の代りの男を求めないぢやァおかない。そこでだ、 果してさうだとすると……こりやもう當然な、明白なことなんだが…… さて、其お見出しにあづからうつてィ幸福者(しあはせもの)は、 あのキャッシオーの外にあらう筈がない。奴は大の浮氣者だ、(みだら)な、 極内の慾を遂げよう爲にこそ禮儀だの、深切だのを(よそほ)ひもするが、 良心なんかは氣も無い奴だ。はて、彼奴の外に誰れがある?あらう筈はない。 (ずる)い、狡猾(わるがしこ)い野郎、機會を(ねら)つてばかりゐる野郎、 好い機會が無きや手細工で以て、僞物(いつはりもの)(つく)り出さうて横著者だ。 おまけに、彼奴(あいつ)、面は好し、年は若し、 世間知らずの浮氣女に好かれる資格は何一つ不足してうぃらん極道者なんだ。 さうして女めがもう彼奴に目を著けたんだ。
ロダリ
(わし)にやどうも信ぜられない。あの婦人は神聖な美徳に富んでゐるもの。
イアゴ
神聖な無花果の割目が聞いて(あき)れる!あの女が飮む酒だつて葡萄酒から出來てるよ。 彼女(あれ)が神聖だつたらムーアにや惚れなかつたらう。神聖な肉饅頭が聞いて呆れる! え、彼奴の掌を彼女(あれ)弄物(おもちや)にするのを見なかつたかい? あれに氣が附かなかつたのか?
ロダリ
うん、見たよ。見たけれど、あれは禮儀だよ。
イアゴ
何の、淫亂(すけべゑ)根性からだよ。 醜穢(きたな)猥褻(みだら)なお芝居の始る其序開きの知らせなんだ。 脣と脣とが接近したらう、息が抱き合ふ程に。無論、醜穢(けがらは)しい料簡がさすんだ! あの馴々しさが先陣となつて其後から(邪淫の)御本陣が押して來る、 大將と大將の取組合ひが始る。ペッ〜!……ま、ともかくもおれに任せたまへ、 君をヹニスから伴れて來た俺だ。(わるく計らふ筈はない。)ねえ、今夜君も夜警をしたまへ、 指圖は俺がするから。キャッシオーめは君を知らない。俺はすぐ近くに居ることにしよう。 何とかしてキャッシオーを怒らせるんだ、大聲で話をするなり、彼奴の惡口をいふなり、 何でも(かま)はん、臨機應變にやらかすんだ。
ロダリ
なるほど。それで?
イアゴ
ところでだ、彼奴(あいつ)ァ氣短で腹立ッぽいから、或ひは君を()つかも知れない、 ()たすやうに持ち掛けるがいゝ。それを種に俺がサイプラスの奴等に大騷動を起させる。 キャッシオーめを免職させなけりや如何しても元の鞘に收まらないやうにして見せる。 すれば君の望みは手短に遂げられる、俺が巧い段取を工夫しようから。 それで以て邪魔物が一等都合よく除かれるんだ、さうせんけりや、 (とて)吾徒(こちとら)希望(のぞみ)は遂げられない。
ロダリ
やつて見よう、君が機會さへ與へてくれりやァ。
イアゴ
大丈夫。砦で又會ふことにしよう。俺は大將の荷物を取りに往つて來にやならん。さよなら。
ロダリ
さよなら。
ロダリーゴー入る。
イアゴ
キャッシオーめがあの女に惚れてるて事は確實(たしか)だらうと思ふ。 あの女が彼奴(あいつ)に惚れてるてことも、ま、有りさうなこッた。ムーアめは、 氣にくはん奴ぢやァあるが、誠實な、情の深い、立派な人物なんだ、だから、 デズデモーナに取つちや最も深切な好い(ていしゆ)でもあるに相違ない。 ところでだ、俺もあの女に氣がある、淫亂心(すけべゑごころ)ばかりぢやない…… 或はそんな罪を犯すまいものでもないが……どッちかといや、返報(しかへし)してやりたいからだ、 あの多淫(すけべゑ)なムーアめ、 どうやら俺の夜被(よぎ)中へ潛り込みやァがつたらしい。 さう思ふと、毒藥で臟腑を引ッ掻き廻されるやうだ、 (かゝ)(かゝ)とを取換へて彼奴と五分々々になるまでぢやァ、どうしても腹が癒ん、 若しそれが出來そこなつたら、 如何(どん)な智慧分別を以てしても(とて)も療治の出來んやうな邪推根性を起させてくれよう。 それにや、あのヹニスの痩狗(やせいぬ)、 奴の焦慮(あせ)りを過ぎるのを操つて使嗾(けしか)けることが出來さへすりやァ、 キャッシオーめはこッちのものだ、さん〜゛にムーアめを讒言(ざんげん)してくれよう。 ……といふのは彼奴もどうやら俺の寢帽子をかぶりやァがつたらしいから。 ((かゝ)と不義をしてゐるらしいから。)……さうしてムーアめに禮を言はせて、 俺を可愛がらせ、襃美まで()れさせる、大馬鹿扱ひにして其安心を失はせ、 氣が狂うほど苦しましてやる其報酬(むくひ)に。……(手を額に當てゝ) こゝにはあるんだ、が、まだ雜然(ごちや〜)してゐる。 惡計(わるだくみ)の本體はいざとならんけりや解らない。
といひ〜イアーゴー入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第二幕 第二場


第二幕

第二場 街上。

傳令の役人が布告文を持つて出る。と市民大勢從ひて出る。
傳令
オセロー大將軍の御意でありまする、只今トルコ艦隊が全滅したといふ注進が參りました。 でありますから、御めい〜に勝軍(かちいくさ)をお祝ひ下さい。舞蹈(ダンス)なり、 花火なり、遊戲、宴樂、御めい〜のお心任せにお催し下さい。今夕(こんせき)は右吉左右の外に、 將軍が御新婚の御披露をも兼ねて行はせられるのであります。以上、 將軍の御申し渡しであります。賄所(まかないじよ)は何れも開放してありまする、 五時から十一時の鐘の鳴るまでは飮食ともに御隨意であります。……天よ、 サイプラスの島の上にもオセロー將軍の御身上にも幸福(さいはひ)を下したまへ!
皆々入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第二幕 第三場


第二幕

第三場 城内の廣間。

オセロー、デズデモーナ、キャッシオー(名はマイケーエル)及び侍者役ら出る。
オセロ
マイケーエル、今夜の取締りは貴君(あんた)に頼みますぞ。お互ひに不體裁に及ばんうちに止めるがえい、 浮かれて程を過しちやならん。
キャシ
イアーゴーが萬事心得てをります。が、手前に於ても特に見張ることに致しまする。
オセロ
イアーゴー、ありや誠實な男ぢや。マイケーエル、ぢや、機嫌よう、 明日また早朝に面談しよう。……(デズデモーナに)さ、デズデモーナどの、 買物は濟んだが、それが二人の間の收穫(みいり)となるのはこれからぢや。…… ぢや、きげんよう。
キャッシオーだけを殘して皆々入る。
イアーゴーが出る。
キャシ
ようこそ、イアーゴー。お互ひに夜警をせにやならんよ。
イアゴ
まだ時間ぢやないよ。副官。まだ十時前だ。將軍は、あのデズデモーナどんが可愛いので、 斯んなに早く引ッ込んでしまはれたんだ。が、それも尤もだ、無理はない。 まだ一晩と濃厚(しつぽ)り樂んぢやゐないんだからなァ。 ヂョーヴだつて情婦(いろおんな)にしたがりさうな美人だ、ありや。
キャシ
全く絶群の御婦人であらつしやる。
イアゴ
おまけに、保證(うけあひ)だ、中々手管(しな)もありさうだね。
キャシ
いかにも、(とて)も若々しうッて物優しい( ひと)だ。
イアゴ
どうだ、あの眼は!男を挑發(そゝりた)てる陣太鼓ともいふべき目附だ。
キャシ
愛嬌のある眼だ、けれども飽迄(あくまで)温淑(しとやか)な目だと僕ァ思ふね。
イアゴ
あれで物を言つたとなりや、それこそ男の心は引ッ掻き廻される、まるで非常鐘よろしくだ。
キャシ
實際、圓滿な婦人です。
イアゴ
ま、御夫婦お目出たくおしげりなされませだ!……おい、副官、 こゝに酒を一壜(ひととくろ)持つて來たんだ。それからねえ、 サイプラスの壯漢連が一組黒將軍の爲に祝盃を擧げようてつて、 つい戸外(そと)まで來てゐるんだ。
キャシ
いや、イアーゴー君、今夜は御免だ……僕ァ酒と來ちや不幸にも全くの弱蟲だ。 何か外の款待(もてなし)の法をば工夫して貰ひたいもんだねえ。
イアゴ
だつて、奴等はわれ〜の親友なんだよ。一盃ぐらゐいゝだらう。君の代りに僕が飮むことにしよう。
キャシ
今夜はたッた一盃飮んだきりだ、而も巧く水を割ッといたんだ、けれども、御覽なさい (と顏や額に手を當てゝ)此通りだ。かういふ不幸な弱點があるんだから、 此上(とて)も冐險する勇氣はない。
イアゴ
これさ〜!今夜は祝宴だらうぢやないか?壯漢連が、是非ッて、望んでゐるんだよ。
キャシ
其人逹は何處にゐるんです?
イアゴ
ついあの戸口にゐる。ねえ、呼び入れてやつて下さいよ。
キャシ
よろしい。……(獨白)さうしたくはないんだが。
キャッシオー入る。
イアゴ
たッた一盃(くら)はせさへすりやァ、前に飮んでゐるんだから、彼奴め、 若いお主婦(かみ)の飼犬のやうに怒りッぽくなつて、喧嘩ッ早くなるだらう。 ところでだ、あの病的な、色氣狂ひのロダリーゴー野郎、あの阿呆めも、 今夜はデズデモーナの爲といつて、一升入りで祝盃をあほりやァがつた。 彼奴(あいつ)も夜警をする。それから、サイプラスの三人の(わか)(もの)、 おそろしく氣位の高いやつら、命にかけても武人の名譽を重んじようといふ此島の精英(うでツこき)共、 あいつらにも俺が滿々(なみ〜)と飮ませて醉ッぱらはせておいた。彼奴(あいつ)らも夜警をする。 そこで、さういふ醉漢(よツぱらひ)どもの中へあのキャッシオーを投込(はふりこ)む、 さうすりや、島の者を怒らせるやうな事が自然と起る。……
此時、奧で大勢の笑ひ聲が聞える。
や、來たやうだ。……空想通りに巧く行きや、風もよし、潮時もよし、 俺の船は得手に帆だ。
キャッシオー又出る。つゞいて假總督モンターノー及び他の紳士が大勢出る。
給仕が酒壜(さけどくり)を持つて出る。
キャシ
いや、もう眞ッ平です。大きなやつで飮まされたんですから。
モンタ
いや〜、ほんの小さいのです。實際、三合とは入らないのです。
イアゴ
(わざと浮かれて)こら、酒だ〜!
(歌ふ)鳴らせ金屬盃(かねさがづき)を、チリカン、チリカン。
鳴らせ、も一つ、金屬盃(かねさがづき)を、チリカン。
軍人(いくさにん)ぢやて人間でござる、
人の一生は(てのひら)ほどぢやよ、
ならば飮まんせ軍人(いくさにん)

給仕!酒だ〜!

此間に、キャッシオーに酒を注ぐ。
キャシ
(もう大ぶ呂律が怪しくなりかけて)いや、どうも、すッばらしい歌だねえ。
イアゴ
僕ァこれをイギリスで習つたんだ。イギリス人は實に飮むことにかけちやァ拔群(ずばぬ)けてゐる。 デンマーク人もヂャーマン人も布袋ッ腹のオランダ人だつて……さァ〜、飮んだり〜! ……イギリス人に比べると、(フイ)だ。
キャシ
イギリス人は飮むことがそれほど老練かね?
イアゴ
はて、デンマーク人なんぞを盛り潰すのァお茶の子だ。ヂャーマン人を倒すにも手間暇は要らずよ、 オランダ人なんざア、まだ次ぎの一升入りへ注がないうちに小間物店を出しッちまふ。
キャシ
(だん〜上機嫌になつて)將軍の御健康を祝します!
モンタ
副官どの、手前がお相手をしますぞ。正當に、立派に。
イアゴ
あゝ、イギリスは愉快な國だ!
(歌ふ)王のスチーブンは立派な殿さま、
けれどもお筒袴(ずぼん)がたつた三兩。
それでも百文がた高いというて、
仕立係りを阿呆とお叱り。
お歴々でもそのよなものぢやに、
おぬしや身分も低いぢやないか?
國は驕奢(おごり)で滅ぶと申す、
古い外套()(すま)しや。

さァ〜、酒だ〜!

キャシ
こりやいゝ、前のよりも更に又上等な歌だねえ。
イアゴ
もう一度歌はうかね?
キャシ
(ふつと我れに返つて)いや〜。そんな事をする(やから)は、己れの位置、 身分を(はづかし)める者と申さんけりやならん。はて、神天に(おは)します、 必ず救はれる者もあれば、到底、救はれない者もあります。
イアゴ
其通り〜。
キャシ
僕はです、……將軍に對して、また何人かに對して失禮になつちやァ困りますが、 ……自分は救はれる積りであります。
イアゴ
副官、僕とてもだよ。
キャシ
なるほど、だが、失敬だが、僕より先きぢやァないよ。副官は旗手よりも先きに救はるべきだからね。 ……こんなことは最早(もう)よさう。さ、さ、職務のかゝらう。……神よ、我々の罪過を救はせたまへ! ……諸君、職務に掛りませう。……いや、諸君、僕を醉つてると思つちやいけないよ。 こりや旗手君だ。こりや僕の右の手だ。こりや左の手だ。醉つちやゐませんよ。 しッかりと立つことも出來りや、明確(はツきり)と物を言ふことも出來ます。
といひ〜倒れかゝる。
皆々
なるほど、いかにも。
キャシ
ぢや、よろしい。僕を醉つてるだなんぞと思つちやァいけませんよ。
とキャッシオーよろめき〜入る。
モンタ
諸君、守衞所へ。警護に著手しませう。
イアゴ
(モンターノーに)今、先きへ往つた男を御覽なすッたか? あの男はシーザーの傍に立つて指揮をしても恥かしくない武人ですが、 只一つあゝいふ惡い(やまひ)があります、あれと其長所とが五分々々。 氣の毒なことです。オセローどのが信任し過ぎてをられますから、 あの(やまひ)(もと)で、此島に騷動が起らなけりやようござんすがね。
モンタ
あんなことが屡々あるんですか?
イアゴ
あれが眠り(こけ)る前置です、いつでも。酒で頭がぐらつきさへせにや、 時計の二周りも夜警に堪へる男なんですが。
モンタ
將軍に其事を注意しといたはうがいゝでせう。或ひは心附いてゐなさらんのかも知れない、 君子人ですから、キャッシオーの長所ばかりを認めて、短所に目が屆かないかも知れない。 ねえ、さうぢやありますまいか?
此時、ロダリーゴーがうそ〜と出る。
イアゴ
(ロダリーゴーに傍白)おい、どうしたのだ、ロダリーゴー!さ、さ、副官の後をよ。早く。
ロダリーゴー入る。
モンタ
お氣の毒なことだ、あのムーアどのが、 副官の重任をそんな根の深い病癖のある男に一任しておかれるといふのは。 ムーアどのにさう言つたはうが誠實でせうよ。
イアゴ
いや、手前にやァ出來ませんよ、此島に代へても。キャッシオーは無二の親友ですから、 どうかして、其うちに、あの(やまひ)を治してやりたいと思つてゐます。…… やッ!あの騷ぎは?
奧でロダリーゴーの聲で 「助けてくれ!助けてくれ!」と叫ぶ。キャッシオー拔劍してロダリーゴーを追ッ掛けて出る。
キャシ
うぬ、惡黨めが!畜生ッ!
モンタ
どうしたのです、副官?
キャシ
こいつが手前に對して指揮立(さしづだて)をしたのです! うぬ、藁網かぶりの(とつくり)のやうになるまで叩きみじいてくれるぞ。
ロダリ
何だ、叩きみじくッ!
キャシ
うぬ、まだ(ぬか)しやァがるか?
とロダリーゴーを打擲(ちやうちやく)する。
モンタ
(仲へ割つて入つて)まァさ〜、副官どの。まァ〜、お待ちなさい。
とキャッシオーの(かひな)を支へる。
キャシ
えィ、放しなさい。放さんと、頭を叩きみじくぞ。
モンタ
これさ〜、あんたは醉つてるんだよ。
キャシ
何だ、醉つてるッ!
とモンターノーを()つ。これにてモンターノーも(かツ)となつて、劍を拔く。 遂に眞劍の立廻りになる。
イアゴ
(ロダリーゴーに傍白)あッちへ〜!出ていつて、騷動々々と呼び立てるんだ。
ロダリーゴー急いで入る。イアーゴーは二人を止める(ふり)をしながら
あ、これさ〜、副官どの……兩君とも、どうしたといふんです。…… (奧にむかつて)おい〜、誰れか來てくれ!……副官……まァさ〜…… モンターノーどの……まァさ〜。……おい〜、誰れか來てくれ! いや、どうも上等な夜警だ!
奧で非常鐘が鳴り渡る。ロダリーゴーが鳴らしたのである。
誰れだ鐘を鳴らしやァがるのは?……やい、畜生ッ!市中(まちぢゆう)が目を覺すだらうぢやないか? ……どうしたものです、副官、まァ〜……一生の耻辱になりますぞ。
此中にモンターノーは手傷を負ふ。
途端に、オセローが從者大勢を伴れて出る。
オセロ
何事が起つたんぢや?
モンタ
やッ、まだ血がとまらん、致命傷(おもで)を負つたらしい。
オセロ
まてッ!待たんと命がないぞ。
キャッシオーはいよ〜見さかひがなくなつて荒れ廻り、モンターノーも今は死物狂ひになつて鬪つてゐる。 イアーゴーは其仲へ割つて入る。
イアゴ
まァさ〜!副官……これ〜……モンターノー……兩君とも……職掌をも義務をも忘れッちまたんですか? これさ〜!將軍の嚴命です。まァさ〜、苦々しい!
オセロ
如何したんぢや?どうして如是(こんな)事が起つたんぢや?われ〜はトルコ人になつたのか? 天がトルコ人にさへおさせなさらんやうな事を自身が行ふのか? (峻嚴に)基督教信者の恥辱ぢや、野蠻な爭鬪を止めい。止めをらんで、 尚ほも怒りをほしいまゝにしをる者は、(おの)が靈魂を輕んずるんぢや、 止めをらんと命は無いぞ。
此時、モンターノーは手傷に弱つて倒れる、キャッシオーはイアーゴーに抱きとめられる。 此間、非常鐘は尚ほ頻りに鳴つてゐる。
あのかしましい鐘を鎭めい、島の者が(おどろ)くわい。……二人とも、どうしたんぢや? ……イアーゴー、君は非常に愁傷してゐるやうぢや、一體、こりや誰れが始めたんぢや? (わし)の爲を思ふなら、眞直に言うてくれ。
イアゴ
(愁然として)一向に存じません。つい先刻(さツき)までは親友でした、 これから床入をしようといふ新夫婦のやうに仲が好かつたのでしたが、 急に、その……惡い星にでも()てられたやうに……劍を拔いて、 互ひに胸を目掛けて、怖ろしい勢ひで攻撃しはじめたのです。 が、此馬鹿らしい喧嘩が如何して始つたかは存じません。 喧嘩中半(なかば)へ此體を運んで來た如是(こんな)(すね)なんか、 あゝ、(いつ)そ名譽の戰爭で以て亡くしッちまつてゐりやよかつた。
オセロ
どうしたんぢやマイケーエル、君までが斯んな無謀なことをするとは?
キャシ
(やッと我れに返つて、()ぢ入つて)どうぞお赦し下さい、申し上げやうもございません。
オセロ
モンターノーどの、お手前は平素、作法の正しい御仁ぢや、お若いころから謹嚴と沈着で世人にも知られて、 賢明な人逹に稱讚されてゐたお方ぢやのに、如何したんですな、其立派な名譽を棄てゝ、 夜間の狼藉者といふ斯樣(かやう)な惡名をお受けなされるのは?御返答が承はりたい。
モンタ
オセローどの、自分は重傷を負つてゐますから。……委細は……何分、息が苦しくッて申されません ……御部下のイアーゴーどのが承知の筈です。自分としては、今夕申したこと、 致した事を、毛頭、不都合とは存じてをりません、自愛が惡徳でない以上、 暴人に襲はれた場合に自ら衞るのが罪惡でありません以上。
オセロ
(憤激して)もうどうも忍耐(がまん)が出來ん……血が冷靜な理性を御しはじめた、 憤怒が判斷を(くら)まし、先きに立つて事をしようとしてゐる。 やい、(わし)が若し一歩でも進みや、又は此(かひな)を擧げでもすりや、 (きさま)等の最上位者でも嚴罰は免れんぞ。 ……知らせい如何(どう)にして如是(こんな)不埒な爭鬪が起つた? 誰れが始めた?其發頭人はそれが俺と同産の雙生子(ふたご)であつたつても容赦はせんぞ。 何てことぢや!非常時の都會で、人心の恟々(きよう〜)としてゐる際に、身方(みかた)同士、 私鬪を行ふなぞとは、夜中に、而も治安を司るべき守衞所(つめしよ)に於て! けしからんことぢや。イアーゴー、誰れが始めたんぢや?
モンタ
(イアーゴーに)贔屓目や職務上の交誼(よしみ)なんかで、事實相違の事をいはれるやうだと、 君は軍人ぢやありませんぞ。
イアゴ
そんなに向け〜とお言ひなさるなよ。……(小聲で獨語のやうに) あゝ、(いつ)そ此舌を切り取つてしまひたい、キャッシオーの非分になる事を口にする位ゐなら。 が、事實通りを言つたつて、よもや不爲(ふため)になりもすまい。 ……(オセローに)將軍、かうなんでございます。モンターノーどのと(てまへ)が話をしてをりますと、 そこへ「助けてくれ」と(わめ)いて、駈けて來た者があつたんです、 それをキャッシオーが、拔劍で追ッかけて來て、直ぐにも斬り殺さうとしたんです。 で、此お方が割つて入つてキャッシオーを止めてをられる間に、(てまへ)(わめ)く野郎を…… (わめ)いて、市中(まちぢゆう)の騷動になつちやァと思つて……果して大騷ぎになりましたが ……追ッ掛けたんです。ところが、其奴(そいつ)の脚は早くッて(とて)も追ひ附けないんで。 で、戻つて來ました、叩き合ふ劍の音が聞えて、キャッシオーの怒つて(わめ)く聲が聞えましたから ……こんなことァ今夜まぢやァ(つひ)ぞなかたんです。戻つて來ますと…… 其間はほんの暫時です……兩氏は一塊團(ひとかたまり)になつて、撃つやら、突くやら。 貴下(あなた)がお引別なすつた時には二度目に又やりかけた所でした。 これ以上申すことは出來ません。ですが人間は、つまり人間です、如何(どん)な賢人だつて、 我れを忘れる事があります。キャッシオーはあのお方に少々不埒を働きました、 けれども腹が立つと十分身の爲を思つてくれる人をも()ちかねないのが人情でございます、 いや(たし)かにキャッシオーは其逃げてつた奴から容易ならぬ侮辱を受けたらしいのでございます、 (とて)も堪忍の出來んやうな。
オセロ
イアーゴー、君は誠實な、深切な心から、 事を小さく取りつくろつてキャッシオーを(かば)はうとすてゐるんぢや。 キャッシオー、(わし)は君を愛しとるが、以後はもう部下にやせんぞよ。……
此時、デズデモーナが侍女(こしもと)共をつれて出る。
見い、我妻(おく)までも(此騷ぎで)起されて出て來た…… (キャッシオーに)見せしめにせにやならんぞ。
デズデ
ま、どうしたのでございます?
オセロ
いや、(御心配なさるな)もう濟んでしまうた。さ、さ、寢床へお歸りなさい。…… (モンターノーの傍に立寄つて)あんたの手傷は(わし)が自身で御療治しませう。 ……あッちへおつれせい。
侍者らモンターノーを介抱して入る。
イアーゴー、市中を警戒(とりしま)つてくれ、此珍事で立騷いでゐる者共を落ち著かせてくれ。 ……さ、さ、デズデモーナ、叩き合ひで(かうば)しい眠りを破られるのは軍人の習ひぢや。
イアーゴーとキャッシオーの外は皆入る。
キャッシオーは慚愧後悔して、兩手に顏を埋めて、しよげ切つてゐる。
イアゴ
どうしたんです、副官、あんたも怪我をしたんですか?
キャシ
もうどんな療治だつて役にや立たない。
イアゴ
そんなことがあつてたまるもんか!
キャシ
名譽を、名譽を、名譽を!あゝ、僕ァ名譽を失ッちまつた! 身に附いた不死不滅のものを失ッちまつた、殘つたのァ獸類(けだもの)にもあるものばかりだ。 イアーゴー、僕ァ名譽を失ッちまつた、名譽を!
イアゴ
僕ァかういふ正直者だから、實際、怪我をなすつたのかと思つた。 名譽よりや手傷のはうがまだしも感覺(かんじ)がある。名譽なんざ空な、 (うそ)ッぱちの被負物(しよはせもの)でさ、功勞がなくッても時々は手に入るが、 罪が無くッても時々は無くなる。名譽が種無しになる筈が無いよ、 自身で種無しにしたとさへ思はなけりや。これさ〜!將軍の機嫌を取返す方法は幾らでもあるよ。 一時の腹立で免職を命ぜられたんだ。憎くッてぢやァない、政略上の懲罰なんだよ、 (ちよう)(とが)のない犬を毆りつけて、猛烈な獅子を(おど)かすのと同じ手なんだ。 改めて請願すりや元の通りになるよ。
キャシ
(いつ)(さげす)み憎んで下さいと請願したはうがいゝ、あんな善良な將軍を欺いて、 こんな不束(ふつゝか)な、飮んだくれの、無分別な身を以て副官なんかになつてゐるくらゐなら。 酒に醉つて、たは言を吐いて、爭ひ(のゝし)り、惡言(あくげん)を放ち、 うぬが影を相手に大言を吐くなんざァ!おゝ、おのれ、目に見えない酒の精め、 (うぬ)にまだ名が無いなら、これから(うぬ)を惡魔と呼ぶぞ。
イアゴ
時に、ありや何者でした、君が劍を拔いて追ッ掛けなすつた奴は? 彼奴(あいつ)が何をしたんです、君に對して?
キャシ
知らない。
イアゴ
そりや、どうも不思議だねえ!
キャシ
大體は(おぼ)えてるが、何もかも只もう(ぼう)ッとなつてゐる。 喧嘩をしたのは(おぼ)えてるが、何が原因だつたか、(ちツと)も。……おゝ、神よ、 おのが魂ひを盜む仇敵(あだがたき)を自分で以て其口中へ入れるとは! 歡んで、浮れて大喝采をして、自分から獸類(けだもの)に成り下るとは!
イアゴ
だつて、今はもう大丈夫だよ。え、どうしてさううまァく囘復しッちまつたんです?
キャシ
ドロンケンといふ惡魔樣が、癇癪といふ惡魔樣にお代りなすつたんだ。 後の缺點で前の缺點がよう解るから、われながら愛想が盡きる。
イアゴ
これさ〜、君は道學者だ、(あンま)り嚴格過ぎる。時や場所や現下の國情からいや、 心底こんな事が起らなかつたらと思ふけれど、起ッちまつた上は(爲方がない) 何とか工夫するさ、身の爲になるやうに。
キャシ
どうぞ復職させて下さいと頼むとする、將軍はきッと言ふだらう、(きさま)は酒亂だと! 僕に九頭蛇(ハイドラ)ほどの口があつたつて、さう言はれりやもう言句(ごんく)は出ない。 ……つい今ぢや分別力のある人間、それが忽ちのうちに大馬鹿者になり、 又、忽ち畜生になッちまふとは!おゝ、竒怪千萬!過度の酒盃(さかづき)は悉く災禍(わざはひ)なんだ、 さうして其中實(なかみ)(酒)は惡魔だ。
イアゴ
これさ〜、善い酒は(惡魔どころか)可愛い使魔(つかはしめ)なんだよ、利用次第で。 酒のわる口はもう止め〜。時に、副官どの、僕が貴君(あんた)に好意を有つてことは解つてませうね。
キャシ
そりや十分解つてるよ。……亂醉しッちまふとは!
イアゴ
だつて、君だつて、誰だつて、時としちや亂醉することもあらうわさ。……ねえ、 どうしたらいゝかを忠告しませうよ。……今ぢや將軍の奧さんが將軍なんだ。といふのはだ、ねえ、君、 昨今の御大は只もう奧さんの才能や美貌を(なが)めたり考へたりすることにばかり身をも魂をも打込んぢまつてをられる。 だから、奧さんへ一切の事を打明けて、さうして、復職の執成しを頼むんだ。 きッとさうなさるやうに盡力してくれるよ。寛大で、深切で、 動かされ易いけつこうな性質(うまれつき)だ、頼まれりや其以上の事をせにや氣が濟まんといふ婦人だ。 將軍と君の間の此外れた關節は、あの婦人に繃帶して貰ふに限る。 さうすりや、此破れかけた情宜が前よりも一層堅固に成るに相違ない、請合ひだ。
キャシ
好い忠告をして下すつた。なるほど。
イアゴ
眞實正銘、全く君の爲を思ふからいふのだ。
キャシ
全くさうだらうと思ふ。明朝(あした)早くデズデモーナさんに執成しを頼んで見ることにしよう。 若しそれが叶はんやうなら、僕の運もこれまでだ。
イアゴ
御道理(ごもつとも)。ぢや御きげんよう、副官。僕ァ夜警をせにやならん。
キャシ
御機嫌よう、イアーゴーどの。
キャッシオー入る。
イアゴ
北叟笑(ほくそゑ)みして)するとだ、俺を惡黨だてのは何奴(どいつ)だ? 俺の忠告は飽迄(あくまで)も眞實な、好意から出てゐる。道理(もつとも)らしうもありや、 何樣、ムーアの機嫌を取返す好方便(かうはうべん)らしうもあるぢやないか? (なび)き易いあのデズデモーナにかういふ正當な願ひを持ち込むにや手數は要らない。 彼女(あれ)は自由な元素同樣、ふんだんに施しをしたがる女だ。 さうしてあの女の口でムーアを口説くとする、よしんば洗禮をだ、いや、 贖罪の符號を捨てさせることだつても……奴の魂ひはあの女の色香に縛られッちまつてるから ……()かさうと、起さうと、好勝手にならァ。 奴の(もろ)い心に於けるあの女は全然(まるで)神樣なんだから。 ……するとだ、どういふわけで俺が惡黨なんだらう、 キャッシオーの爲になる眞ッ直な(たひら)かな道を教へてやつてゐる此俺がだ? ……へッ、これが地獄道といふ奴だ!惡魔が大罪惡を人間にさせようとする時分にや、 先づ殊勝らしい樣子をして誘惑(おびきだ)す、俺が今するやうに。 ……といふのは、あの馬鹿正直めが運直しをデズデモーナに頼み込み、 女がまた彼奴の爲に手強くムーアに辯護を試みてをる其最中に、 女がキャッシオーを呼び戻したがるのは邪淫の爲だと、 俺がムーアめの耳に疫毒を()ぎ込んでくれる。すれば、 女がキャッシオーの爲に骨を折りや折るほどムーアに疑はれることになる。 さうしてあの淑徳を瀝青(まつやに)に變らせて、女めの深切を種に、彼奴ら殘らず、 只一網に取ッちめる大投網(おほとあみ)(こしら)へてくれよう。
ロダリーゴーが出る。
どうしたね、ロダリーゴー!
ロダリ
()いて來たのは獵をしに來たんだ、それだのに獵犬(かりいぬ)らしい働きは(ちツと)も出來ない、 ほんの其數に入つてゐるばかりだ。貨幣(かね)はもう大がい亡くなッちまつた。 今夜は(とて)()たれた。此樣子ぢや、骨折損の草臥儲(くたびれまうけ)だけをして、 貨幣(かね)悉皆(すツかり)亡くしてから、 (お庇で)ちッとばかり怜悧(りこう)になつてヹニスへ歸るのが結果(おち)だらう。
イアゴ
情けないもんだなァ忍耐心の無い人間てものァ!如何(どん)負傷(きず)だつて、 漸々(ぜん〜)でなくッちやァ治らないぜ!ねえ、人間は智慧で爲事(しごと)をする、 魔術でやらかすんぢやない、とすると、智慧の爲上(しあ)げにや時間がかゝる。 好い具合に運んでるぢやないか?キャッシオーが君を()つた、君はそれ、 ほんの少ゥしばかりの負傷(けが)したお(かげ)で彼奴を(はふ)り出してしまつたらう。 他の事も日光()に當つて追々好い鹽梅になつてゆくが、先きへ花の咲いたのから實を結ぶのが順序だ。 ま、ま、暫く忍耐(がまん)してゐたまへ。……おや、もう朝だぜ。愉快に働いてると、 時が速く經つ。退出々々。さ、さ、宿泊所へ歸りたまへ。いづれ又、話をしよう。 これさ、行きたまへといふのに。
ロダリーゴーしぶ〜入る。
爲事(しごと)は二つだ。先づ、 (かゝ)吩咐(いひつ)けてキャッシオーめを奧へ取持たせにやならん。 むゝ、さうさせよう。……其間に、俺はムーアめを別所(よそ)へ伴れ出して、 (ちよう)どキャッシオーがデズデモーナに頼み込んでゐる最中に伴れて戻る。 さうだ、それが手だ。……ぐづッかしてゐると、計略(たくらみ)が冷めて寢刄になる。
イアーゴーも入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第三幕 第一場


第三幕

第一場 城の前。

キャッシオーと數人の樂人が出る。
(前幕の數時間後と假定していゝ。デズデモーナの居間下の窓の前で、樂を奏させるのである。 新婚を賀して其家の前で奏樂するのは當時の慣例。)
キャシ
はて、師匠たち、こゝでやつて貰はう。それだけの報酬はするよ、何か短いものをね。 「めでたき早朝(あさけ)、將軍閣下」をやつて貰はう。
樂を奏し終る時分に、道外(だうけ)方が出る。
道外
ねえ、師匠たち、其樂噐はネープルスへでも往つてゐたのかい? 怖ろしく鼻にかゝるねえ。
樂人甲
どうしてゞす?
道外
そりやいつでもそんな風に、ブー〜鳴るのかい?
樂人甲
はい、さやうです。
道外
あ、なるほど、そこに一件(tale)が下つてゐるんだ。
樂人甲
え、一件とは?
(taleとtailの口合である。他の作中にも屡々使用される。taleは「話柄」、 即ち一件の義ともなる。tailは體の下部に埀下してゐるもの、即ち男性噐、 これも一件と俗には謂ふ。 ブー〜いふ箇處の附近に埀下してゐるといふ卑陋(びろう)な洒落。)
道外
はて、俺が知つてるブー〜鳴る樂噐の傍にや、大概、一件がぶら下つてゐる。…… それはさうと、師匠たち、これが禮金だ。將軍はねえ、(とて)も君たちの音樂がお氣に入つたさうだ、 だから、後生だ、もうどうか止してくれといふお沙汰だ。
樂人甲
ぢや、止めませう。
道外
だがね、聞えない音樂なら、やつたつてもいゝだらうよ。 將軍は(あンま)り音樂好きぢやァゐなさらないさうだけど。
樂人甲
聞えない音樂なんざありませんよ。
道外
ぢや、其(ふえ)悉皆(みんな)袋へおしまひ、俺はこれで別れるから。 さ、早く(氣取つて)空中へ消えてなくなれッ!
樂人らは、そこ〜にして入る。
キャシ
おい〜、君に頼みたいことがある。
道外
はてね、甥だなんてと呼ばれる(ゆかり)はない筈だが。
キャシ
駄洒落は止してくれ。輕少だが、こりや君へ。(鼻藥をくれて)…… 若し奧さんにお仕へしてゐる婦人が起きてをられたなら、 キャッシオーといふ者が少々お會談を願つてゐると取次いで貰ひたい。 どうだらうなァ?
道外
へい、もう起きてをられますよ。若しこゝへまでも起きて來られさうな樣子でしたら、 いかにも、さやう、申し次ぎ奉るでもございませう。
キャシ
何分頼むよ。
道外方惡身をしつゝ出る。
イアーゴーが出る。
いゝところへ、イアーゴー。
イアゴ
あんた、寢なかつたらしいね、ゆうべは?
キャシ
さうさ。あんたに分れる前に、夜が明けッちまつた。失禮だつたけれど、つい、今、 あんたの細君をお呼び立てしてゐたところです。デズデモーナさんへの橋渡しを頼むために。
イアゴ
すぐに此處へよこしませう。さうして僕はムーアどのを、 どこか餘所(よそ)へ引ッ張りだす工夫をしよう、君たちが遠慮なしに用談の出來るようにする爲に。
キャシ
いや、どうも有りがたう。
イアーゴーは城の中へ入る。
故郷のフロレンス人だつて、あんな深切な誠實な男はゐない。
イミーリヤが出る。
イミリ
お早うございます。ほんとにお氣の毒ねえ、御不興をお受けなさいまして。 でも今に御首尾がお直りなさいませう。大將さまも、 奧さまも始終(しよツちゆう)そのお話をなされてゞす、 さうして奧さまは精々お執成しをなされてゞございますの。すると、 ムーアさまはおつしやいます、貴君(あんた)が手をお負はせなすつた方は、 サイプラスでは(とて)も高名で、お歴々に縁故の深いお仁だから、 とくと利害を考へると、どうしても免職させない譯にはいかん、が、 憎いと思つちやゐないんだから、故障(さはり)さへ無くなりや、 誰れが頼まなくッても、自分が好んで呼び返す積りだとおつしやつてゞございましたのよ。
キャシ
ですがね、……成るべくなら、若し不都合ぢやないといふお考へですなら、 デズデモーナさまと暫時(しばし)差向ひで、お話の出來るやうに取計つて戴きたいものですが。
イミリ
さ、さ、お入りなさいまし。御案内しませう、御遠慮なく御胸中をお打明けなさることの出來ますところへ。
キャシ
いや、どうも有りがたう。
二人ともに入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第三幕 第二場


第三幕

第二場 城内の一室。

オセロー、イアーゴー及び紳士役數人出る。
(近世の實演では、皆々板附きで、オセローは諸方へ送る書面を恰も封印してゐる最中である。)
オセロ
イアーゴー、此書面を船頭に渡して、元老會へよろしく申したと傳へさせてくれ。 それが濟んだら、(わし)は城壁の(へん)を歩いとるから、あそこへ來てくれ。
イアゴ
承知いたしました。
オセロ
諸君、砦を一見致しませうかな?
紳士ら
(とも)仕りませう。
皆々入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第三幕 第三場


第三幕

第三場 城内の庭園。

デズデモーナとキャッシオーとイミーリヤが出る。
デズデ
大丈夫です。キャッシオーさん、貴下(あなた)の爲に力の及ぶかぎりを盡しませうから。
イミリ
奧さま、どうぞさうしてあげて下さいまし。眞實(たく)も自分の事のやうに心配してをりますのよ。
デズデ
おゝ、ほんとにイアーゴーは誠實な人です。……キャッシオーさん、 貴下(あなた)と夫とをきッと元通りの仲よしにして見せませうよ。
キャシ
有りがたうございます、マイケーエル・キャッシオーの身は今後如何(どう)變りませうとも、 御厚恩は決して忘れません。(いつまでも貴女(あなた)に忠勤を盡します。)
そりやよう存じてゐますの。ありがたう。貴下(あなた)は夫を愛しておいでゝもあり、
久しいお知合でもありますもの、大丈夫です、よし(當分) 御疎遠にいたすにしても、それは只世間體だけといふやうなことのさせませうよ。
キャシ
さァ、ですが、その、世間體と申すことが長く續きます間には、 そいつが水ッぽい、つまらん餌食でも肥ります、些細な事情が(もと)でも生長(おひた)ちもします。 (てまへ)が居りませんうちに代役の者が出來ますりや、 將軍は(てまへ)の愛や勤勞をお忘れになッちまふに相違ございません。
デズデ
其御心配は御無用です。此イミーリヤを證人に、貴下(あなた)の復職を受合ひますから。 大丈夫ですよ、わたしが盡力すると誓つた以上、どこどこまでも盡力しますから。 夫を決して寢かしやしません。聽いてくれるまでは起しておきます、 (とて)も辛抱がしきれなくなるまで口説きます。寢床を稽古場に、食卓を懺悔臺のやうにします。 夫が何をしてゐても、必ず貴下(あなた)請願(ねがひごと)を持ち出すことにします。 ですから、安心していらつしやい、 貴下(あなた)の此訴訟を棄てる位ゐなら死んだはうがいゝとさへ思つてゐます。
遠くへオセローとイアーゴーが出る。
イミリ
奧さま、殿さまがお見えになりました。
キャシ
(そは〜して)奧さま、お(いとま)をいたゞきます。
デズデ
まァ、こゝに待つてゝ、わたしのいふことを聽いていらつしやいな。
キャシ
いゝえ、……心が落ち著きませんで、只今はお願ひ申しにくうございますから。
デズデ
では、(よろ)しいやうに。
キャッシオーあわてゝ入る。
此うちに、オセローとイアーゴーは近づく。イアーゴーはキャッシオーの後ろ影を見送つて、 わざとだしぬけに、
イアゴ
おや!何てこッた。
オセロ
えッ何が?
イアゴ
(吃り口調で)いゝえ、何でもないんです。……が或ひは……いや、何も、その……
オセロ
今、(さい)に別れて出て行つたのは、キャッシオーぢやなかつたか?
イアゴ
え、キャッシオーですつて!なァに大丈夫、さうぢやありますまい、貴下(あなた)がお出になつたのを見て、 罪人か何かのやうに、窃々(こそ〜)逃げて行く筈ァありませんもの。
オセロ
いや、どうも()れのやうだつた。
此中にデズデモーナが出迎へる。
デズデ
あなた、御機嫌ひかゞ?今ね、願ひ事に來た或人と話をしてをりましたの、 御不興を受けて萎れ返つてゐる人と。
オセロ
といふのは誰れの事ッちやね?
デズデ
副官のキャッシオーさんなんですの。ねえ、あなた、若しわたしの徳なり力なりを重んじて下さいますなら、 ねえ、彼人(あのひと)を今直ぐ赦してあげて下さいな。貴下(あなた)を、 眞實思つてゐる人なんですのよ、不埒をしたつて、つい、氣が附かなくつてしたんで、 たくらんでしたんぢやありませんのよ、若しさうでなかつたら、わたしにや人柄を見別ける目が無いのです。 ねえ、彼人(あのひと)を元通りにしてあげて下さい。
オセロ
今こゝから出て行つたのか?
デズデ
はい。(とて)も恥ぢ入つて、歎いてゐるんですの、 歸んなすつた後で此方(こツち)まで貰ひ泣きをします程に。ねえ、元通りにしてあげて下さい。
オセロ
デズデモーナどの、今はいかんよ、其内にどうかしよう。
デズデ
だつて、そりや(ぢき)なの?
オセロ
あんたの頼みだから、成るたけ早く。
デズデ
今晩の夕食頃?
オセロ
いゝや、今夜といふわけにはいかん。
デズデ
ぢや、明日の中食頃?
オセロ
明日の中食は(うち)ぢやせん。砦で、將官連に會ふ筈ぢやから。
デズデ
そんなら明日の晩とか、火曜日の朝とか……火曜日の(ひる)とか、夜とか…… 水曜日の朝とか、ねえ、時を()めといて下さい。三日以上になつちやいやよ。 ほんとに後悔してゐるんですもの。不埒をしたといつたつて、通例なら……もつとも、 (いくさ)の時にや如何(どん)な身分の高い人をも見せしめに罰しなくちやならないさうですけれど…… 通例なら、絶交なさる程の越度(をちど)ぢやないでせう。……いつ呼び返して下さるの。 オセローどの、おつしやつて下さい。……ほんとに、まァ、貴下(あなた)が何か、 お頼みなさる時分に、わたしがいやだなんていふことがあるでせうか? わたしがそんなにぐづッかしてゐるやうなことがあるでせうか? えッ、人も人ですのよ!マイケーエル・キャッシオーは貴下(あなた)と一しよに宅へ申し込に來た人でせう、 私が貴下(あなた)の事を惡く言つてた時分に、何度も〜貴下(あなた)の肩を持つた人でせう、 其人の執成しをしてゐるだのに、こんなに骨が折れるとは!ほんとに、若しこれがわたしなら……
オセロ
頼む、もうよしてください。いつでも呼び返す。あんたの頼みは何でも聽く。
デズデ
こりや恩惠でも何でもないのよ。手袋を穿()めて下さいましたとか、 滋養になるものを召食(めしあが)れとか、温かくしてゐらつしやいとか、 只もう貴下(あなた)のお爲めになる事を願つてゐるのとおんなじですのよ。 いゝえいゝえ、ほんとに、わたしが貴下(あなた)の本心を試さうと思つた日にや、 それこそ重い、むづかしい、お許しなさるのが怖いやうな事をお願ひしますよ。
オセロ
どんな事だつて(いや)とはいはんによつて、頼む、ま、 暫く彼方(あツち)()つてゐて下さい。
デズデ
はい〜、おつしやる通りにします。ぢや、さやうなら。
オセロ
さよなら、デズデモーナどの。今に行きます。
デズデ
イミーリヤ、おいで。……あなたのお好きなやうに。わたしや、どんなにでも、 お言葉通りにいたしますの。
デズデモーナとイミーリヤは入る。
オセロ
かはゆい奴ぢや!此魂ひも奈落に墮ちよ、(わし)がお前を可愛がらんやうなことがあつたら! お前を可愛がらん時が來りや、そりや此世界は混沌(めツちやくちや)になつた時ぢや!
イアゴ
閣下……
オセロ
え、イアーゴー、何ぢや?
イアゴ
御縁談をお申し込みの時分に、 あのキャッシオーは奧さんと貴下(あなた)の仲をもう既に知つてゐたんですか?
オセロ
うん、何もかも(初めから(しま)ひまで。)
イアゴ
ちよッと考へたことがありますんで。どうといふ不都合もないんですが。
オセロ
どう考へたんぢや?
イアゴ
(あの)男が奧さんをお知りしてゐようとァ、夢にも思つてゐませんでしたからね。
オセロ
知つてゐたとも。仲人役をしたんぢや、屡々。
イアゴ
えッ、實際?
オセロ
なに、實際?うん、實際ぢや。それが如何(どう)したといふんぢや? ()れは誠實な男ぢやないか?
イアゴ
さァ、誠實だとおつしやるんですか?
オセロ
なに、誠實ぢやと思ふとるかッて?うん、誠實ぢや。
イアゴ
なるほど、さうかも知れません。
オセロ
お前は如何(どう)思ふ?
イアゴ
如何(どう)思ふとおつしやるんですか?
オセロ
如何(どう)思ふとおつしやるんですかッ?……(傍白)如何(どう)したといふんぢや、 口眞似ばかりしをる。打明けるのが怖ろし過ぎるやうな竒怪な事でも考へてゐるやうに。 ……(イアーゴーに)何か仔細があるらしい、つい今、お前は「何てこつた」と言つた、 キャッシオーが(さい)に別れて出て行つた時に。何がどうしたんぢや? それから、又、縁談中に()れが仲人をしたといふ事を話した時に、「えッ、實際?」 と驚いたやうに言うて眉に皺を寄せた、 何か頭中に怖ろしいことでも收藏(しまひこ)んでをるがやうに。 俺の爲を思ふなら、思ふとることを知らしてくれ。
イアゴ
(ぢッとオセローの顏を見詰めて)閣下、 (てまへ)が閣下を敬愛してをりますことは御承知でございませうね。
オセロ
うん、さう思ふとる。誠實で、眞實に俺を思ふてくれて、 何事でも口へ出す前に先づ善う考へる男ぢやと思ふとればこそ、 言ひかけては躊躇するのを只事ぢやないと驚くんぢや。 ほれは腹の黒い(てあひ)なりや、人を騙す手なんぢやが、 正直者がそれをするのは、何か堪忍(がまん)の出來ん祕密の憤懣なぞがあつて、 それをば洩しかねて悶へてゐるんぢや。
イアゴ
あのマイケーエル・キャッシオーは……(てまへ)は誓言します…… 誠實な男だと思つてゐます。
オセロ
俺もさう思ふ。
イアゴ
多分、人は見かけ通りの者でございませうねえ。若しさうでないやうのがありや、 さう見えないやうにしたいもんで。
オセロ
無論、人は見かけ通りのもんぢやらうて。
イアゴ
ぢやァ、キャッシオーは誠實な男でございませうよ。
オセロ
いや、まだ何か思ふとることがあるらしい。……どうか俺に話してくれ。 お前が思ふとることを、思ふとる通りに……如何(どん)な最惡な事でもかまはん、 其最惡のまゝに話してくれ。
イアゴ
どうか、それは御免を蒙ります。本務上の事でありや、如何(どん)な事も致しますが、 奴隸だつて、思想の自由だけは許されてゐます。思つてゐる通りを言へとおつしやるんですか? はて、どんな邪曲(よこしま)な考へを手前が抱いてゐまいもんでもございませんよ、 如何(どん)な立派な宮殿へでも怖ろしく(むさ)いものは這入込まない譯にやいきませんからね。 どんな清淨な胸中にだつて薄汚い考思(かんがへ)めが正しい考思(かんがへ)と同席して裁判沙汰をやらかしますからね。
オセロ
イアーゴー、(きさま)は親友に對して惡意を抱いとるんぢや、 其親友が侮辱されとると思ふとりながら、それをば知らせようともしをらんやうなら。
イアゴ
どうか……(どもつて躊躇しつゝ)ま、多分、これは(てまへ)の邪推だらうと存じますんですが ……正直、(てまへ)は、とかく、( ひと)過失(あやまち)を見附ける惡い癖があるんです、 どうかすると、有りもせんことをあるやうに邪推することがあるんですから…… どうか、さういふ不具な、當推量(あてずゐりやう)なんかをお氣にお懸けになりませんやうに、 ふと申した曖昧な事なんかゞ(もと)で御心配なさるやうなことのございませんやうに。 貴下(あなた)の御不安心の種にあるばッかりで、何のお爲にもならず、 自分としても男らしくないとか、不誠實だとか、無思慮だとか、 わるくいはれるばかりですから、思つてゐる事を申し上げりや。
オセロ
なぜそんなことをいふ。
イアゴ
閣下、名譽は、男にも女にも、魂ひから直接(すぐ)二番目の寶物でございます。 (てまへ)の財布を盜む奴ァ(ほん)些屑物(つまらぬもの)を盜むんです、 何かぢやあるが、つまり、何でもないもんです、(てまへ)(もの)だつたが、 今は其奴の(もの)、其以前にも數千人が使つてゐたものです。ところが、 (てまへ)から名譽を()る奴ァ、()つたつて奴が物持になりもしない癖に、 (てまへ)は素寒貧になッちまひます。
オセロ
こら、是非とも(きさま)が思ふとる事を言はせんぢやおかんぞ。
イアゴ
いや、そいつァ御無理でせう、 たとひ(てまへ)の心臟が貴下(あなた)のお手中にあつたつてもです。 (いは)んや(てまへ)が保監してをります間はです。
オセロ
やッ!(さては!)
イアゴ
おゝ、閣下、決して邪推(わるずゐ)をなすつちやいけませんよ。 邪推(わるずゐ)は人の心を(もてあそ)んで餌食にする緑眼玉(あをめだま)怪物(ばけもの)です。 (さい)に不義をされてゐても、其運命をよく知つてゝ、其不埒者を愛せない男は仕合者ですが、 おゝ、何て淺ましい月日を送るこッてせう、其女に惚れてゐて、疑つて、(あやぶ)んで、 しかも尚ほ可愛がらずにやゐられないやうな男は!
邪推(わるずゐ)」の原語jealousyは主として性に關した猜疑、邪推を指す。 で、「嫉妬」と譯しても恰當な場合がある。が、「嫉妬」、「悋氣」、 「ヤキモチ」とばかり譯しては、内包が大分不足だと思はれるから、 わざと本文の如くに譯しておいた。
オセロ
おゝ、みじめな〜!
イアゴ
貧乏でも足ることを知つてゐりや、大金持も同然ですが、どえらい物持だつて、 貧乏になりやせんかと絶えず心配をしてゐるぢや、其心は冬枯です。 あゝ、天よ、どうぞ吾々人間に邪推心(わるずゐしん)を起さしめられませんやうに!
オセロ
(心が惑亂しかけて)はて、何故そんなことをいふ? (きさま)は俺が邪推なんかをして月の形の變る度に上へ〜と疑念をば積み重ねるやうな生活を送ると思ふか? いゝや、俺は疑へば直ぐに解決してしまふ。山羊に生れ變りや知らんこと、 (きさま)が想像するやうな、そんな空は疑惑で心を勞する俺ぢやないわい。 俺は決して、邪推はせん、(さい)が美しくて、善う物を食ふて、 交際好きで、よう喋説(しやべ)つて、よう歌ふて、よう奏でて、よう踊る女ぢやと言うたからとて。 淑徳さへありや、それらは悉皆(みんな)えいこッちや。 よしまた俺にいろんな弱點(ひけめ)があらうと、その爲に、 (さい)が背反するぢやらうなんぞといふ危惧(おそれ)も、 疑惑(うたがひ)も持つてをらん彼女(あれ)に眼があつて(わし)を選んだんぢやから。 いゝや、イアーゴー、俺は疑ふ前に先づ見る、疑へば證據を求める、さうして證據が(あが)りや、 愛を棄てるか、疑心を棄てるか、どちらかにしッちまふんぢや!
イアゴ
さう承はつて安心しました。それで(てまへ)も安心して忠義の務めを盡すことが出來ます。 ですから、これは義務ですから、申し上げます、お聽き下さいまし。尤も、 まだ證據を見たんぢやございませんが……ねえ、もし、奧さんに御注意なさいまし、 キャッシオーとの御關係をです……目を斯う著けて、お疑ひなさるでもなく、 油斷をさなるでもなく、御磊落な、高尚な、寛大な御氣質を好い幸ひに、 いゝやうにごまかさうとする奴のあるのが癪なんです。御注意なさいまし。 (てまへ)は國の者の性質はよく知つてゐます。 ヹニスぢや(ていしゆ)にや見せ得ない惡戲(いたづら)をも天にや見透かされてしまつてゐます。 彼奴らの最上の良心は、それを()ないでおくのぢやァなくッて、 知られないやうに(つと)めるまでゝす。
オセロ
きッと()うか?
イアゴ
お父さんをお(だま)しなすつた婦人です、貴下(あなた)と御結婚なさらうために。 貴下(あなた)の顏を怖がつて(ふふ)へてござるやうに見えてた時分に、 實ァ(とて)も惚れ切つておいでなすつたんでございませう。
オセロ
いかさま、()うだつた。
イアゴ
はて、そこでさ、果して()うだとすると、あの(とし)であんなに巧く取繕つて…… 魔術の故だらうと思はせて親御を鷹同樣の目ないにしてしまふ程の腕前のある奧さんです ……いや、こyらどうも相濟みません、眞ッ平御免下さいまし、つい、その、 貴下(あなた)を思ひます餘り申し過ぎまして。
オセロ
いや、禮をいふ、有りがたう。
イアゴ
どうやらお氣色に障つたやうに存じますが。
オセロ
いゝや、(ちツと)も、(ちツと)も。
イアゴ
いや、どうもお氣色を損じたやうに存じます。ねえ、もし只今申し上げました事は、 只もうお爲めを思ふゆゑぢやと思し召して下さいますやうに。…… どうも大變にお氣に障つたらしい。どうか、 今申した事は(ほん)疑念(うたがひ)だとお思ひ下さいまして、 それ以上の御推測なんかなさいませんやうに。
オセロ
しやせん。
イアゴ
萬一、變な御推測をなさいますやうですと、今申した事が(もと)で、 (てまへ)の思ひがけなかつた、とんだ結果が生じないとも限りませんから。 キャッシオーは(てまへ)の敬愛してゐる親友なんで……どうもお氣に障つたらしい。
オセロ
いゝや、どうといふこともない。俺はデズデモーナを不貞な女とは()う思はん。
イアゴ
どうか、いつまでもさうあらつしやいますやうに!奧さんも、貴下(あなた)もです!
オセロ
が、どうして人情の自然に背いて……
イアゴ
さやう、そこなんです。……遠慮なく申しますが、本來なら、自分の生れた國の 氣質や身分を善く釣り合つた申し込みが幾らもあつたのに……さういふのを好くのが人情の自然だのに ……嫌ふてのは、不自然でもありや不釣合でもあつて、何となく臭いやうな、 (きたなら)しいやうな……御免下さい……こりや何も、特に、 奧さんを指して申してるんぢやありません。もつとも、奧さんだつて、 若しとつくりと分別を爲直して、國の者と貴下(あなた)とをお見比べなさるやうなことがありますりや、 後悔なさるまいものでもありませんが。
オセロ
(かほ)を背けて)さよなら〜。また何か認めたことがあつたら知らせてくれ。 お前の(さい)に見張役をさせてくれ。もう退つてえい。
イアゴ
ぢや、お(いとま)をいたゞきます。
と行きかけて、イアーゴーは物蔭で樣子を(うかゞ)つてゐる。 オセローは煩悶の思入れ。
オセロ
(獨白)なぜ俺は結婚したのか?……あの、誠實な奴、今言うた以上に見聞きしたことがあるに相違ない。
イアゴ
(戻つて來て)閣下、どうか此事はもう強ひて御穿鑿なさいませんやうに。 成行にお任せなさるがよろしい。キャッシオーは至極の適任ですから、 復職は當然だと存じますが、もう暫く遠ざけておゝきになりましたら、 それで以て自から彼れの本心も、又、何を手蔓(てづる)にしてゐるかもお解りになりませう。 奧さんが躍起となつて彼れの復職をお強請(ねだ)りなさるやうですと、 それでも大ぶん樣子が知れませう。ま、それまでは、 (てまへ)の申した事は取越苦勞に過ぎんのだとお思ひなさいまし…… われながらさうらしいと思つてゐるのでありますから…… そしてどうか、奧さんを清淨潔白だとお思ひなすつて。
オセロ
無分別の事なんかは決してせん。
イアゴ
ぢや、改めてお(いとま)をいたゞきまする。
イアーゴー入る。
オセロ
あいつは至つて誠實な上に、世故にも長じとつて、あらゆる人間の性質を知りぬいとる奴ぢや。 ……萬一にも彼女(あれ)が手におへん荒鷹であつたなら、 たとひ其煖脚紐(すねひも)が俺の命の緒であらうと、斷ち切つて風下に追ひ拂つて、 後は運次第にしてくれう。或ひは俺が色が黒うて、文官共のやうな優美な交際術に長じてうぃらんから、 或ひは(とし)が下り坂になつとるから……いや、まだそれほどでもないんぢやが…… それで愛想を盡しをつたか?……侮辱されたのを慰める法といや、 彼奴(あいつ)を憎むより外にや無い……おゝ、何て呪はしい夫婦仲ぢや、 ああいふ美女共をわが(もの)と呼ぶのは、ほんの名ばかりで、 其眞情は我が(もの)でないちふのは!愛する女を他人に自由にされて、 ほんの其片隅だけを有つとる程なら、 蝦蟇(ひきがへる)にでもなつて穴牢の(むさ)い空氣を吸ふとるはうが(まし)ぢやわい! ……が、とかくそれが上流社會の災厄(わざはひ)ぢや、彼等は其點では下賤の者よりも劣つてをる。 二本角の生えるのは産れると共に定まる災厄で、死と同じに免れがたい運命なんぢや。 ……あゝ、デズデモーナが來た。
デズデモーナとイミーリヤが出る。
デズデ
ねえ、あなた、どうなすつたの?お食事(もてなし)準備(ようい)が出來て、 お招きになつた島の(ひと)たちも皆な貴下(あなた)を、 お()ちなすつていらつしやるんですのに。
オセロ
そりや濟まなかつた。
デズデ
なぜ其樣(そん)な切なさゝうな息づかひをなさいますの?お氣分でもわるいんですか?
オセロ
(額をおさへて)痛いんだ、額が、此邊が。
デズデ
きッと、夜ッぴてお()らなかつたからでございませうよ。 もう、ぢッきに治りませう。わたしが(きつ)ゥく(ゆは)へたなら、 すぐよくおなりでせう。
とハンケチでオセローの額を(ゆは)へようとする。
オセロ
いや、それぢや小さすぎる。
とオセローが焦れ氣味ではずみに、ハンケチが床の上に落ちる。 デズデモーナがそれを拾はうとするのを止めて
うッちやつとき。さ、一しよに行かう。
と立上る。
デズデ
ほんとに御氣分がわるくッちやいけませんことねえ。
オセローはデズデモーナと共に奧へ入る。とイミーリヤが落ちてゐるハンケチを拾ひ上げて、
イミリ
ま、いゝ鹽梅にハンケチが手に入つた。 こりやあのムーアさまが初手に奧さまへお()げなされたお贈物。 氣まぐれな我夫(うちのひと)がこれを盜んで來てくれと百たびも口説きなすつたんだけれど、 手離しちやならんぞと嚴重に言ひつかつておいでなすつた品だから、 奧さまが(とて)も大事にして、キッスをしたり、物を言つて見たり、 始終(しよツちゆう)手離さないでいらしつたから、盜まうにも(をり)がなかつた。 ……此型を()つてイアーゴーどのに渡さう。これを何にするんだらう、天道ぢやなし、 解らない。只もう氣まぐれな我夫(うちの)の機嫌を取る爲ばかりに。
イアーゴー出る。
イアゴ
どうしたんだ!何してゐるんだ?
イミリ
お叱りなさるなよ、あんたにあげるものがあるわよ。
イアゴ
くれる物?ろくな物ぢや……
イミリ
え?
イアゴ
なからう、女房のくれる物なら。
イミリ
おゝ、それッきり?あのハンケチは欲しかないかい?
イアゴ
え、どんなハンケチ?
イミリ
どんなハンケチ?ムーアさまが初手にデズデモーナさまにお()げなすつた、それ、 あんたが何度も〜盜んでくれとお言ひなすつたあれさ。
イアゴ
あれを盜んでくれた?
イミリ
いゝえ、うつかり落しなすつたのを、好い具合に居合せてゐたから拾つたのさ。 ほら、これよ。
イアゴ
うい奴。よこせ。
と取らうとするのを、避けて、高く手でかゝげて。
イミリ
これで以て何するつもり?あんなに躍起となつて盜んでくれとお言ひなすたけが。
イアゴ
はて、(とハンケチを引ッ(たく)つて)そんな事ァ如何(どう)でもいゝぢやないか?
イミリ
いゝえ、大して必要があるんぢやなけりや、返して下さい。憫然(かはい)さうに、 これが無くなりや、奧さまは、お氣が狂ふかも知れないから。
イアゴ
知らん顏をしてゐな、要ることがあるんだ。さ、あッちへいけ。
イミーリヤしぶ〜入る。
此ハンケチをキャシオーの宿に落しておいて、拾はせる。 空氣ほどの輕いものでも、疑つてる者にや、聖書の御本文ほどの證據になる。 これが何かの役に立つだらう。ムーアめは俺の毒が利いて()う大ぶ變つてゐる。 邪推嫉妬(やきもち)の本來は劇毒だ、初めはそれを苦いとさへも思はないんだが、 おひ〜血に働きかけると、肉體(からだ)中を硫黄の山のやうに燒き立てる。 ……そら、どうだ、あそこへやつて來た。
オセローが煩悶の思入れで出る。
罌粟(けし)でも、惡魔林檎(マンドラゴラ)でも、世界中の如何(どん)睡藥(ねむりぐすり)でも、 もう昨日だでのやうに心持よく眠ることは出來まい。
オセロ
(默想に沈みつゝ)え!え!不義不貞を働く?
此中に、イアーゴーは(しづ)かにオセローに近づきて、如何にも氣の毒さうな思入れで
イアゴ
將軍、どうなすつたんです!あの事ァ、どうか、もう……
オセロ
えィ、退れ!()ッちまへ!(きさま)は俺を拷問臺に載せをつた。 生中(なまなか)、少ゥしばかり知つたよりやァ(おびたゞ)しう侮辱されたはうが(まし)ぢや。
と煩悶する。
イアゴ
どうなすつたんで!
オセロ
何とも感じちやをらなんだんぢや、内々で邪淫を行ふとつたか知らんが。 見もせんし、疑ひもせんし、どういふ害をも蒙つちやをらなんだ。 其翌晩ぢやて善う眠つた、安樂ぢやつた、愉快ぢやつた。 彼女(あれ)の唇にキャッシオーが接吻(キツス)した跡なんか見えもせなんだ。 物を盜まれても、當人がそれに心附いてをらんけりや、知らせんはうがえい、 すれば()られんも同然なんぢやから。
イアゴ
どうもとんだお氣の毒なことをいたしました。
オセロ
全軍の者が、先驅(さきばらひ)の雜卒らまでが、彼女(あれ)の大切な肉體を賞翫してをらうとも、 おれはまだ幸福だつたんぢや、知らずにさへをつたなら。おゝ、 もう永遠に此心の平穩は去つてしまうた!滿足は去つてしまうた! 野心をも美徳とならせる羽飾を著けた軍隊も、目ざましい戰爭も、もうさよならぢや! おゝ、もうさよならぢや!高嘶(たかいなゝき)をする軍馬も、すゝどい喇叭の()も、 (むね)を躍らせる陣太鼓も、耳を貫く軍笛(いくさぶえ)も、 あの莊嚴な大旗(おほばた)も、名譽の戰爭に附物のあらゆるあの特質、 譽れも、飾りも、立派さも、もうさよならぢや!おゝ、(きさま)、おそろしい大砲よ、 粗暴(あらけな)い喉で以て、不死不滅のヂョーヴ神の物すごい雄叫びの眞似をしをる大砲よ、 (きさま)ももうさよならぢや!オセローの職分は去つてしまうた!
イアゴ
めつさうな、とんだ事を!
オセロ
やい、おのれ(と突然イアーゴーの胸ぐらを取つて)俺の(さい)(たし)かに淫婦か、 きッとさうか、現の證據を見せをれ。でないと、不死の靈魂を誓ひにかけて、 (きさま)は犬であつたはうが(まし)であつたらうぞ、俺の憤激に(こた)へるよりは。
イアゴ
ま、それほどまで!
オセロ
現の證據を見せをれ。少くも疑念(うたがひ)を懸ける隙も、穴も、 手がかりも無い程度の證據を擧げい。でないと、命はないぞ!
イアゴ
ま、ま、閣下……
オセロ
萬一にも彼女(あれ)讒誣(ざんぷ)し、俺を苦しめをるんぢやと、もう祈祷は無要ぢやぞ。 慈悲心も棄てい、どんな惡行をも積み重ねい、天を泣かせ、 地を(おどろ)かすやうな惡事をも行ひをれ、此上の墮地獄罪を加へやうはないんぢやから、うね。
此間に、イアーゴーは、地上に押附けられて、へたばる。
イアゴ
おゝ、こりやどうも!おゝ、とんだ目に、お逢はせなされる!……ねえ、もし、 貴下(あなた)丈夫(をとこ)ですか?魂ひや分別を有つておいでなさるんですか? ……((しづ)かに()ち上つて)さよなら、御機嫌よろしう。 (てまへ)は退職いたします。……おゝ、何てみじめな馬鹿ものだ、 正直が過ぎた爲に惡者に思はれる。あゝ、竒怪千萬な世の中!世間の人逹、 御用心なさい、正直にするのァ危險ですぞ。……(オセローに)有難うございます、 學問しました。これからァ人に深切なんかしますまいよ、怨まれるばッかりですからねえ。
と行きかける。
オセロ
いや、待て。正直にせにやならんわ。
イアゴ
いゝえ、もう怜悧(りこう)になります、正直は大阿呆です、爲を思つて爲て損をしますからね。
オセロ
(思ひ惑つて)えィ、どう考へたらえい!……(さい)は貞實のやうでもあるし、 不貞のやうでもあるし、(きさま)の言ふ事が、正しいやうでもあるし、 正しうないやうでもある。えィ、現の證據が見たいわい。 月神(ダイヤン)(おもて)のやうに淨らかであつた彼女(あれ)の名が汚れた、 俺の顏のやうに(きたな)うなつた。繩か、劍か、毒か、火か、 人を溺らせる川か何かゞありや(とて)ももう堪忍ならん。 たしかな證據が見たい、證據が!
イアゴ
こりや、まァえらいお腹立!とんだことを申し上げてしまひました。 ……證據が見たいと仰しやるんですか?
オセロ
見たいどころか!見ずにはおかんわ。
イアゴ
隨分、御覽は出來ます。が、如何(どう)いふ風に?如何(どん)な風にして其證據を? 現場で、馬鹿な顏をして御覽じようてんですか……奴が奧さんに乘ッかつてるところを?
オセロ
ちゝ畜生ッ!けがらはしい!
イアゴ
その現場をお見せするのァ、こいつァ大ぶ難澁(やゝこし)爲事(しごと)なんでさ。 はて、二人で寢てる所を他人の目に見せるなんてのァ、何が何でも(あンま)りな所行なんですからねえ! ……(オセローに)とすると如何(どう)しませう?どうしたらようごせう? 困りましたねえ。如何(どう)したらお氣が濟むだらう?…… 現場を見ようとおつしやるのは御無理でさ、よしんば、 彼奴らが山羊や猿や盛りの附いた狼や食ひ醉つた癡漢(あはう)なんぞのやうに淫亂だつて。 が、つい其事實の入口まで御案内する程度の確實(たしか)な事情をお話するだけで、 それで、お氣が濟むんですなら(お易い御用です)申し上げませう。
オセロ
彼女(あれ)が不義しとるといふ活きた理由を知らせい。
イアゴ
あゝ、いやな役だ。が、馬鹿正直な心から、つい、斯う乘ッ掛ッちまつた以上、 申さないわけにやいかない。……つい最近の事です、キャッシオーと同衾してをりましたが、 齒が痛んで寢られませんでした。……人によつちや()ると心が緩んで祕密をつい口走る者があります、 キャッシオーがそれなんで。聽いてますとね、寢言なんです「デズデモーナさま、 御用心なすつて二人の仲を氣取られないやうになさいまし」、……それから、 私の手を掴んで振廻して「おゝ、かはいゝお方!」といつて、手づよく接吻(キツス)をしたんです、 まるで(てまへ)の脣に生えてでもゐるものを引ッこぬかうとするやうに、 それから、(てまへ)の腰へ(すね)を乘せて、溜息をします、接吻(キツス)をします、 それから又斯ういふんです「あゝ、憎い運命め、 なぜあなたをムーアなんかに()りやァがつたんだ!」と。
オセロ
おゝ、竒怪千萬!竒怪千萬!
イアゴ
いや、こyら、あの(ほん)の夢なんです、彼奴の。
オセロ
だつて、それが經驗した事を示しとるから、夢にもせい、嫌疑は十分ぢや。
イアゴ
なるほど、薄弱な證據を強める役にや立ちます。
オセロ
(憤然として)女を八裂にしてくれよう。
イアゴ
まァ〜、よく御分別なさいまし。まだ(なンに)も見たんぢやありませんからね、 奧さんは貞實かも知れません。……時に、おたづねしますが、 奧さんが草莓の刺繍(ぬひとり)をしたハンケチを持つておいでなさるのを御覽なすつたことがありますか?
オセロ
俺がさういふのを彼女(あれ)()た。彼女(あれ)への最初の贈品(おくりもの)なんぢや。
イアゴ
(意外らしく)一向存じませんでした。そのハンケチで以て……奧さんのに相違ございませんが ……今日キャッシオーが髭を拭ひてゐました。
オセロ
え、若しさうならば……
イアゴ
さ、若しさうならばです、いや、どのハンケチにしろ、奧さんのである以上、 他にも證據があるんですから、大ぶ怪しいてことになります。
オセロ
おゝ、下司奴(げすやつこ)め命を四萬程も有つてゐればえゝに! 一つきりぢや俺の復讐には足りんわい。……して見ると、事實の相違ない。 こら、見い、イアーゴー、俺のおろかな戀慕の情は、此通り、 天外へ吹き飛してしまふわい。もう去つてしまうた!……物すごい復讐神よ、 地獄の穴中から起きて來てくれ!おゝ、戀愛よ、 (きさま)冠冕(かんむり)や心臟の王座は、あの殘虐な憎惡(にくしみ)へ引渡してしまへ! えゝ、胸よ、腫れあがりをれ、(きさま)は、今、蝮蛇(まむし)めに刺されとるんぢや!
イアゴ
ま、ま、お氣をお鎭めなさいまし。
オセロ
おゝ、血が見たいわい、血が、血が!
イアゴ
ま、ま、御忍耐(がまん)なさいまし、其うちにお氣の變ることもございませうから。
オセロ
決して決して(變らぬ)。彼のポンチック海の氷の(うしほ)は、 其()き進む勢ひが猛烈で、一度も逆流はせず、 プロポンチック海とヘレスポント(の海峽)へ一直線に流れる、 血を見ようと望む俺の心も、其通りぢや、一旦かうと思ふた以上、もう後ろは見返らんぞ、 卑屈な戀愛へ退潮(ひきしほ)なんかはせん、百川を吸ふ海のやうに、 ぞんぶんに復讐をせない以上。……あの磐石の大空に(と(ひざまづ)いて)誓ひをかけて、 こゝにうや〜しく誓言をいたしまする。
と祈念し了つて起ち上らうとする。とイアーゴーがそれを止めて
イアゴ
ま、ま、お起ちなさいますな。(と同じく跪いて)照臨あれ、長永(とこしなへ)に燃えゆる天の妙光、 吾々を圍繞(ゐねう)する四大元素、こゝにイアーゴーが其智慧の、其手の、 其心の一切の作用(はたらき)を、恥辱を受けられましたオセロー將軍の爲に獻じまする! 將軍の命とあれば、如何(どん)な殘酷な行爲でも、(てまへ)は、 それを良心の指揮(さしづ)として奉じまする。
二人ともに立ち上る。
オセロ
其好意を口だけで感謝はせん、かたじけないと思ふた證據に、直ぐさま(きさま)にさせることがある、 此三日以内に、キャッシオーめはもう生きとらんと知らせてくれ。
イアゴ
(おほせ)の通りにいたします、親友はもう死にました。ですが、どうか、奧さんだけは……
オセロ
(奧を見込んで)おゝ、淫婦めが!うぬ、うぬ!……(イアーゴーに) さ、こゝで別々にならう。俺はこれから奧へ往つて、何とか手短に殺す工夫をしよう、 あの美しい夜叉めを。……今から(きさま)を副官にするぞ。
イアゴ
ありがたうございます、いつまでも御奉公いたします。
二人ともに入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第三幕 第四場


第三幕

第四場 城の前

デズデモーナとイミーリヤが道外方をつれて出る。
デズデ
キャッシオーさんは何處に下宿(ライ)してゐなさるか、知つてゐますか?
道外
とんだことを!あの方が何處で虚言(ライ)なすつたなんて、そんなことは()申しません。
デズデ
なぜなの?
道外
だつて、キャッシオーさまは軍人(いくさにん)でございませう。 軍人(いくさにん)虚言(ライ)したなんぞと申さうものなら、 すぐズブリッとやられまさァ。
デズデ
馬鹿が!お宿は何處だと聞いてるのだよ。
道外
いや、それを申し上げまするのは虚言(ライ)することになりますんで。
デズデ
まァ、何をいつてるんだよ、たわいもない!
道外
でも、(てまへ)は、あの方が何處にお泊りですか一向に存じません。 それですのに、いゝ加減に製造(こしら)へて、甲處(あそこ)乙處(こゝ)と申しますのは、 大きな虚言(ライ)でございませうから。
デズデ
知らない?ぢや、だれかに聞いて來たらよからう。
道外
では、世人と一問答して參りませう。と申すのは、訊問の上で、(解りましたら) 御返辭いたすでございませう。
デズデ
解つたらね、こゝへ來て下さるやうにね。殿さんへはわたしが執成(とりな)しておいたから、 大抵、首尾よく參りさうですと言つとくれ。
道外
その程度の御用でしたら、多分、人間の智慧で以て出來さうでございますから、 早速相試みまするでございませう。
と道外方、例の如く勿體ぶつて入る。
デズデ
イミーリヤ、あのハンケチをわたし何處で()くしたんだらうねえ?
イミリ
一向に存じませんよ。
デズデ
ほんとに、金貨の一ぱい入つてゐる財布を()くしたはうが、まだよかつたものを。 ムーアどのは眞實なお人だから、 (世間の)疑念(うたがひ)深い人逹のやうな卑しい心がないからこそよけれ、 でなきや、とんでもない邪推をなさるかも知れない。
イミリ
疑念(うたがひ)深くはあらつしやらないんですか?
デズデ
だれが?オセローどのがかい?そんな厭ァな毒氣なんか、 夫の生れ故郷の太陽がとうに吸ひ取つてしまつたらうよ。
(人體には四種の液が混合して充溢してゐる、其混合鹽梅で、 性格の良否や健康の度が決せられるといふ古い醫學説に(ちな)んだ語。)
イミリ
あれえ、殿さまがお見えになりました。
デズデ
今日は傍を離れますまい、キャッシオーさんを呼び返すといはれるまでは。
オセローが出る。
デズデ
御氣分はいかゞでございます?
オセロ
どうといふこともない。(傍をむいて傍白)おゝ、裝ふのは苦しい! ……デズデモーナ、あんたは如何(どう)なんぢや?
デズデ
無事でございますの。
オセロ
手をお貸し。(とぢつとデズデモーナの手を握つて)此手は(あぶら)ぎつとるなう。
デズデ
だつて、まだ(とし)も取らず、苦勞なんか知らない手ですもの。
オセロ
こりや情が深くッて、氣が大きいといふ證據ぢや。おゝ、(ぬく)とい(ぬく)とい、 そして(あぶら)ぎつとる。あんたの此手は、決して我儘をさせんやうにして、 斷食や祈祷や難行、苦行をさせんけりやいかんよ。とかく、 かういふ手にや血氣壯(さか)んな惡魔めが宿りをつて、謀叛をする。 ……いや、こりや善い手ぢや、情けの深い手ぢや。
デズデ
さうおつしやつて下すつて當然よ、わたしの心をあんたに()げッちまつた手ですもの。
オセロ
氣の大きい手ぢや。昔は心が手を與へた、が、近頃の式は只手ぢや、心ない。
デズデ
何おつしやつてるの、解りませんわ。……さ、あの、お約束した事をね。
オセロ
何ぢやつたかねえ、約束した事とは?
デズデ
お目にかゝつて直接にお願ひなさいと言ふて、今キャッシオーを迎ひにやりました。
オセロ
(顏をそむけて)涙が出をつて目が痛うてならん。ハンケチを貸してくれ。
デズデ
はい、こゝにございます。
いや、(わし)()つたのを。
デズデ
こゝにや持つてませんの。
オセロ
え、持ッとらん?
デズデ
はい、持つてません。
オセロ
そりやァ不埒ぢや。……あのハンケチは…… エヂプトの女が(わし)のお(ふくろ)()れた大切な物なんぢや。 其女は魔法使ひで、大抵の人の心を見透すことが出來た。 其女がお(ふくろ)に言うたには、あのハンケチを持ッとる間は、 持主の愛嬌が増すばかりぢやから、夫の愛をほしいまゝにすることが出來るが、 若しあれを失ふか又は他人に(つか)はすちふと、夫は妻を嫌ふやうになつて、 心を餘所(よそ)へ移さうぞと言つた。お(ふくろ)は其最期(いまは)に、 あれを(わし)()れて、若しも(さい)を迎へるやうな場合となつたら、 之を其女に遣れと言うた。で(わし)があんたに遣つた。ぢやから、隨分とも氣を附けて、 其大事な眼のやうにいとしがつたがえい。あれを(なく)したり、( ひと)に遣つたりすりや、 又と類のないやうな破滅となるぞよ。
デズデ
まァ、そりや眞實(ほんと)ですか?
オセロ
眞實(ほんと)ぢや。あの織物にや魔力がある。 太陽が二百囘も地球を(めぐ)る間生きて來たちふ魔女がぢや、神通力を得た間際に、 あの刺繍(ぬひとり)をばしたんぢや。あの絹を育てた(かひこ)も神聖なりや、 あれを染めた液汁も、ある祕法家が或少女の心臟の木乃伊(ミイラ)から取つたもんぢや。
デズデ
まァ、ほんとに!全くなんですの?
オセロ
全く事實ぢや。ぢやから、よく注意せんけりやいかん。
デズデ
ぢや、あんなもの見なけりやよかつた!
オセロ
(さツ)と氣色を變へて)えッ!なぜぢや!
デズデ
なぜ其樣に()慳貪(けんどん)におつしやるんです?
オセロ
失ふたのか?なうしたのか?こら、行方が分らんやうになつたか?
デズデ
(當惑して)あゝ、如何(どう)したらよからう!
オセロ
な、何ぢやと?
デズデ
いゝえ、なくしはしません、けども、若しあれをなくしたら如何(どう)なの?
オセロ
(鋭く)何ッ!
デズデ
(おびえて)いゝえ〜、なくしやァしません。
オセロ
ぢや、取つて來て、見せなさい。
デズデ
お見せしませうとも、ですが、今はいけませんの。……あゝ、(解つた) こりや、きッとわたしのお願ひを(そら)すためなのよ。……ねえ、あの、 キャッシオーさんを元の通りにして下さいね。
オセロ
あのハンケチを取つて來な。……(傍白)いよ〜疑はしい。
デズデ
ねえ、もし、ねえ。……あんな立派な人は又とはありやしませんのよ。
オセロ
ハンケチをッ!
デズデ
ねえ、あのキャッシオーさんのことをさ。
オセロ
ハンケチをッ!
デズデ
(はじめ)ッから貴下(あなた)をば頼みにして立身しようといてゐる人でせう、 貴下(あなた)と一しよに危ない目にも逢つた人でせう……
オセロ
ハンケチをッ!
デズデ
ほんとに、あんまりよ、あんたは。
オセロ
えィ、いッちまへ!
と手荒くデズデモーナを突きのけて、大胯に急いで入る。
イミリ
先刻(さツき)から無言で傍看してゐたが、呆れて)あの方、 邪推深くァおあんなさらないんですか、あれでも?
デズデ
こんなことは初めてなのよ。きッと、あのハンケチに何か不思議なことがあるのかも知れない。 あれを(なく)したのは情けないわねえ。
イミリ
一年や二年ぢや男の心は解りませんのよ。男は只もう胃嚢(ゐぶくろ)なんですの、 さうしてわたしらは只もう食物ですの。ひもじくなりや、わたしらを食ひます、 けども、お腹が滿(ふく)れると、つい吐き出しッちまひますのよ。…… あ、キャッシオーさんと我夫(うちの)が來ました。
キャッシオーとイアーゴーが出る。
イアゴ
外に爲樣(しやう)はない、奧さんに頼むに限るよ。……あゝ、ちようどいゝや! さ、うんと頼んで見たまへ。
デズデ
おゝ、キャッシオーさん!何か變つた事があありまして?
キャシ
いえ、例のお願ひで參りましたのです。どうかあなた樣のお力で甦生いたしまして、 平素、心から尊敬してをりまする將軍の御恩澤にあづかりたいと存じてをるのでございます。 いづれとも身の落著きが定めたくてなりません。萬一、(てまへ)の罪過が非常に重く、 過去の功勞を以ても、現在の懺悔を以ても、今後必ず忠勤を勵みますると申し上げても、 到底、御機嫌を取戻すことが出來ませんやうでございますれば、 せめてもそれを承知(うけたまは)るのが御恩惠でございます。 さうなりや(よんどこ)ろないと諦めまして、處世の方針を改めます、 何とかして運命の施與(ほどこし)にあづかりますやうに。
デズデ
まァ、ほんとに、お氣の毒なキャッシオーさん!執成(とりな)しちや見たんですけれど、 今は、あの、どうも調子がわるいんですの。夫がいつものやうぢやないんです。 氣分が變つた程に顏が變つてゐたなら、夫とは心附かない程なんですの。 ほんとに、神かけて、貴下(あなた)の爲に出來るだけの力を盡しましたのよ、 (あンま)り無遠慮に言つたゝめに、不機嫌の的にさへもなりましたの! ま、暫く御辛抱なさいまし、出來るだけの事はします、自分の爲になら()ィしないやうな事をしませう。 それで滿足して下さい。
イアゴ
え、將軍が腹を立たれましたか?
イミリ
つい今しがたあッちへおいで遊ばしたの、如何にも不安さうな、變な顏をなすつて。
イアゴ
將軍が腹を立たれた?こりやァ不思議だ。 俺は大砲で將軍の旗下の者が空中までも撃ち飛ばされたのを見たことがある。 それから、まるで惡魔が荒れるかのやうに、現在の御舍弟をも將軍のすぐ肘のそばから吹き拂つたものだ。 (それでも平然としてゐた將軍だのに!)……將軍が腹を立たれるとは? こりや何か容易ならんことがあるんだらう。……往つてお目にかゝつて來よう。 何か仔細(わけ)がある、腹を立たれたとすると。
デズデ
どうぞさうして下さい。
イアーゴー入る。
きッと、ヹニスから何か政事上の知らせがあつた爲に、でなきや、 此サイプラスで最近露見した或陰謀かなんかの爲に煩悶してをられるのでもあらう。 さういふ時には目下へ八當りをするのが男の常です、眞實(ほんたう)は、 ずッと〜重大な事を相手にしてゐるんだけれど。きッとさうだらう、ちようど、 指が一本痛むと、それが(もと)で、健全な身體中が痛くなつて來るやうなものよ。 いゝえ、男は神さまぢやァない、新婚の當座のやうに(いつ)も深切にして貰へるものと思つてゐると、 (あて)が外れる。……イミーリヤ、わたしや濟まないことをしたわね、 (ひが)み根性の女武者だもんだから、 つい我夫(うちの)無情(つれなさ)をとやかくと糾問三昧してゐましたが、 考へて見りや、此方(こつち)が惡いのよ、我夫(うちの)にはどういふ(とが)も無かつたのよ。
イミリ
どうか、まァ、おつしやいます通り、お政事向の事が(もと)であればようございますが、 貴女(あなた)のお身に掛つた詰らないお疑念(うたがひ)なんかぢやなくッて。
デズデ
あゝ、あゝ!疑はれるやうな理由なんかありやしないのに。
イミリ
ですが、さうおつしやたつて、疑念(うたがひ)深い人(嫉妬(りんき)深い人)てものは、 聽きやァしませんのよ。理由があつて疑ぐるのぢやないんです、疑念(うたがひ)深いから疑ぐるのです。 邪推(嫉妬)といふ化物は、つい獨り手に生れるものなんです。
デズデ
オセローどのゝ心は、どうぞ、そんな化物が入りませんやうに!
イミリ
アーメン!(どうぞ然うしたうございます。)
デズデ
我夫(うちの)を搜して來よう。……キャッシオーさん、そこいらを歩いていらつしやい。 よい(をり)さへありや、きッと貴下(あなた)のお願ひを持ち出しませう、さうして、 出來るだけの事はしませう。
キャシ
どうも、ありがたうございます。
デズデモーナとイミーリヤは入る。
とビヤンカが出る。此女は此島の賣笑婦で、キャッシオーの馴染である。
ビヤン
キャッシオーさま、ごきげんよう!
キャシ
おや、何の用で此處へ?ビヤンカさん、あんたも無事かい?實は、今、 あんたの(うち)へ行かうと思つてたところだ。
ビヤン
わたしやまたあんたの宿へ伺はうとしてゐたんですの。まァ、一週間も顏をば見せないでさ! 七日七夜も!百六十八時間も!戀しい人の來ないのを待つてるのは日時計の百倍にも、 二百倍にも當りますのよ!あゝ、數へくたびれッちまふわよ!
キャシ
ビヤンカ、堪忍してくれ、此間中は、おそろしく氣に掛かることがあつたんだよ。 が、其中暇を見て、いづれ、此無沙汰の償ひをしよう。
デズデモーナのハンケチを懷中から出して
ビヤンカさん、此模樣を寫してくれないか?
ビヤン
あら、キャッシオーさま、こりや何處から來たの?新しい好い人からの御進物でせう! これで、長い間おいでにならなかつた理由(わけ)が解つた。これほどとは思はなかつた。
キャシ
馬鹿をいふな!其樣(そん)な邪推はどッかの鬼に教はつたんだらう。 其鬼の(つら)へ叩き返してやんな。情婦(いろをんな)から貰つた記念品だらうと疑ふんだな? とんでもないこッた、全く。
ビヤン
ぢや、誰れのです?
キャシ
知らん、(わし)の部屋に落してあつたんだ。此模樣が氣に入つたから、 持主が取りに來ないうちに……きッと取りに來るだらうから…… 寫しを取つておきたいんだ。持つてッて取つとくれよ。けふはこれで別れよう。
ビヤン
別れる!なぜ?
キャシ
こゝで、今、將軍にお目にかゝらうとしてゐるんだ。女を伴れてゐるのを見られると困る、 信用にかゝはるからね。
ビヤン
どうして?
キャシ
あんたを嫌ふんぢやないよ。
ビヤン
好かないばかしでせう。ねえ、もう少し家の方へ一しよに來て下さいね、それから、 今夜は早く行くと言つて下さい。
キャシ
一しよにと言つたつて、もう幾らも行かれやしないよ、こゝに用があるんだから。 いづれ、又、ぢきに會ふよ。
ビヤン
けつこうよ。……ぢや、爲方(しかた)がないわねえ。
二人ともに入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第四幕 第一場


第四幕

第一場 サイプラス。城の前。

オセローとイアーゴーと出る。此以前に、 イアーゴーは「よしやデズデモーナとキャッシオーとが同衾もしくは接吻した事實があつたとしても、 單にそれだけで以て不義姦通とは認定しがたからう」といふ風の逆説をオセローに向つて試みたらしい。 それに對してオセローは、「既にそれだけの證跡がある以上、 姦通と認めないわけにはいかん」と是れはまた至極の常識説を主張したらしい。 此場のイアーゴーの冐頭のセリフは、オセローの其語に對しての評と見るべきである。
イアゴ
さうお考へですか?
オセロ
さうお考へですかとは?
イアゴ
え、内々で接吻したとしますと?
オセロ
そりや赦すべからざる接吻ぢや。
イアゴ
裸體(はだか)で一時間と同衾しました以上、たとひ、惡い事はせなかつたといたしてもですか?
オセロ
(苦々しげに)なに、裸體(はだか)で同衾して、それで以て、惡い事をしない? そりや惡魔をも欺かうとする僞善なんぢや。そんなことをやる奴らは、 どんなに其志意(こゝろざし)が正しからうと、忽ち惡魔に誘惑される、天の御罰を蒙る。
イアゴ
何もいたさんけりや(とが)はなからうぢやありませんか?……ですが、 (てまへ)が若し(さい)にハンケチを遣りや……
オセロ
したら、如何(どう)なんぢや?
イアゴ
はて、やッちまやァ、もう(さい)(もの)なんです。(さい)(もの)である以上、 それを誰れに遣らうと勝手だらうと思ひますね。
オセロ
貞操も妻の(もん)ぢや。それを( ひと)に遣つてえいといふのか?
イアゴ
貞操てものは目にや見えないもんでさ。持つてない奴が持つてることも折々あります。 ……ですがハンケチは……
オセロ
あゝ、その事は忘れッちまつてゐたかつたのに!さう〜……あゝ……憶ひ出した、 ……あの事が此(むね)の先きへ、 疫病の屋脊(やのむね)に大鴉めが(むらが)りをるやうに突き上げて來る。 ……さう〜。彼奴(あいつ)がハンケチをば持ッとつたと(きさま)が言うたつけな。
イアゴ
はい、さう申しました……が、それが如何(どう)か致しましたか?
オセロ
(きさま)らしくもないわい。(どうしたかなぞと問ふのは。)
イアゴ
不埒をしてゐたのを見たと申したからッて、何でもないぢやございませんか? 斯う〜いふ事を我れから喋説(しやべ)り立てゝゐたと申したからッて? ……そんな奴は世間にふんだんにございまさ、押強く出て口説き落したにせよ、 婦人(をんな)の方から戀慕(でれつ)いて据膳をしたにせよ、 手に入れた以上、男て奴ァ、えて喋々(べら〜)と口外するものでござりますから……
オセロ
彼奴(あいつ)が何か言ひをつたか?
イアゴ
はい、申しました、が、いざとなりや、きッとそんあ覺えはないと言ふに相違ございませんや。
オセロ
え、何と言ふた!
イアゴ
實は、その、申したんです……えゝ、その……何でしたつけか、その……
オセロ
何?何と言うたんぢや?
イアゴ
()たと。
オセロ
()れと一しよにか?
イアゴ
一しよにです……お乘せなすつたと申してもいゝでせう。
オセロ
一しよに!乘せたといや、人を欺いたといふ意味にも取れるが…… 一しよに()る!……えィ、(けが)らはしい!ハンケチ……自白……ハンケチ! 自白してから、それで以て絞罪(しばりくび)にされる。(それが普通の順序だのに) 絞罪(しばりくび)にしてから自白させる。おゝ、身が(ふる)へる。 何か確實な事を知らせるのでなかつたら、 こんな目の(くら)むやうな激烈な感情が人間の心を掻き亂す筈がない。 こんなに身神を惱亂させるものは言葉なんかぢやない。ぺッ〜! 鼻と鼻が、耳と耳が、口と口が!あらうことか!……自白!……ハンケチ!……おゝ、畜生ッ!(惡魔!)
オセローは苦悶の餘り、遂に悶絶する。
イアゴ
(例の北叟笑(ほくそゑ)み)利くわ……利くわ、藥が! かういふ風に馬鹿正直めは直ぐ(つかま)る。 さうして多勢(おほぜい)の立派な貞女が何の罪もなくッて濕衣(ぬれぎぬ)()る。 ……(キャッシオーの近づくのを見て、急に倒れてゐるオセローの傍に寄つて)もし〜、 どうなすつたんです?閣下々々!オセローさま!
キャッシオーが出る。
やキャッシオーどのですか?
キャシ
如何(どう)したんです?
イアゴ
將軍が癲癇を起されたんです。これで二度目ですよ、昨日も一度あつたんだ。
キャシ
顳顬(こめかみ)(こす)つてあげて御覽なさい。
イアゴ
いや、(こす)らんはうがいゝ。昏睡病てものはそッと此儘にしておかないといけない、 でないと、口から泡ァ吹いて、亂暴を働くことがある。……あゝ、動き初められた。 あんたは暫く引退(ひきさが)つておいでなさい。もう(ぢき)に囘復されるだらう。 將軍が去られた後で、あんたに話したい重要な事がある。
キャッシオー入る。
閣下、いかゞです?頭に怪我をなさりやしませんでしたか?
オセロ
(例の額の角を聯想して)俺を嘲弄するのか?
イアゴ
嘲弄!め、めつそうな。男らしく何事も御運命と御忍耐(がまん)なさいますやうに!
オセロ
角が生えりや其男は獸物(けだもの)ぢや、化物ぢや。
イアゴ
繁華な都會にや隨分多數の獸物(けだもの)だの眞面目くさつた面附(つらつき)な化物だのが居りまさ。
オセロ
さういや、彼奴(あいつ)がいよ〜さう言うたか?
イアゴ
はて、まァ、男らしくなさいまし。(くびき)を掛けられてゐる髭男(有妻者)は、 大抵御同樣に車を牽いてゐますよ。こりや我有(おのれ)だと言つてゐながら、 其實、共有(もあひ)臥床(ねどこ)に毎晩寢てる者が幾百萬人となくございまさ。 貴下(あなた)のはまだけつこうです。油斷安心の床中で、 淫婦(いたづらもの)の口を(ねぶ)つて、そいつを貞女だなんぞと思ふのァ、 それこそ、地獄の呪ひでさ、惡魔の奧の手の嘲弄でさ!いゝや、(てまへ)なら知りたいと思ひますね、 知りや爲樣(しやう)がありますから。
オセロ
おゝ、きさまは分別者ぢや。其通りぢや。
イアゴ
ねえ、暫く立離れて、ぢッと辛抱なすつて隱れておいでなさいまし。 先刻(さツき)貴下(あなた)が……御愁歎の餘り、御自分にもお似合ひなさらに御煩悶の結果 ……氣絶なさいました其途端に、キャッシオーめがやつて來ましたんです。 で、(てまへ)は好い加減に取繕ひまして、話したいことがあるから、 後に來いといつて立去らせました。つい近くに隱れておいでなすつて、 彼奴の目や鼻に現はれる冷笑だの、嘲弄だの、輕蔑だのにお目をお留めなさいまし、 (てまへ)が彼の件を改めて話させませうから、何處で、如何(どう)して、 何度ほど、何時ごろから媾會(あひびき)したか、又、何時會ふことになつてるかつてことを。 ようごすか、奴の身振にお目をお留めなさいまし。忍耐しておいでなさらなくちやいけません。 でなきや、男らしくもなく、怒りに心を奪はれたお方だと申さんけりやなりません。
オセロ
やい、イアーゴー!大丈夫ぢや、上手に(こら)へて見せる、が……イアーゴー! ……思ひ切つた慘いことをもするぞよ。
イアゴ
けつこう、が、あんまりお()きなすつちやいけませんよ。 さ、引ッ込んでいらつしやいまし。……
オセロー物かげへ入る。
北叟笑(ほくそゑ)みをして)そこで、キャシオーにビアンカめの事を尋ねてくれよう。 ……情けを賣つて著たり食つたりしてゐるいたづら女、彼奴(あいつ)キャシオーに首ッたけだ。 多勢(おほぜい)を騙して一人に騙されるのが賣女の因果だ。……あいつの事を尋ねりや、 キャッシオーめ大笑ひをせないぢやゐまいて。……來た〜。
キャッシオー出る。
奴が笑ふのを聞きやァ、オセローめは狂人のやうになるだらう。人情に(くら)いオセローだ、 キャッシオーの笑ひや身振や愉快さうな樣子を見てそれを悉く邪推の種にするに相違ない。 ……副官、如何(どう)なすつたね?
キャシ
そんな名で呼ばれると尚ほつらい、其名を失つた爲に死にさうになつてんだ。
イアゴ
デズデモーナさんにうんと頼み込みや大丈夫だよ。(聲をひそめて)ねえ、 これがあのビアンカの手で出來ることでありや、すぐにも成功するだらうがなァ!
キャシ
(笑ひ出して)あゝ、ありや憫然な奴さね!
オセロ
(物蔭にて傍白)あ、もう笑つとる!
イアゴ
あんな情合のある女は見たことが無いよ。
キャシ
あゝ、憫然(かはい)さうな奴ぢや!ほんとに僕に惚れてゐるらしいよ。
オセロ
(物蔭にて)笑ひに紛らして言ひ消さうとしてゐるらしい。
イアゴ
ねえ、おい、キャッシオー。
オセロ
(物蔭にて)これからあの事を話をさせうとするらしい。さうぢや、さうぢや、うまい〜。
イアゴ
是非、夫婦になるんだと言つてたが、さうかい?
キャシ
はゝゝゝゝゝ!(じようだん言つちやいけない!)
オセロ
(物蔭にて)勝ち誇つて笑ひおるか、惡黨めが?勝ち誇りをるか、うぬ?
キャシ
夫婦になる!え、淫賣なんかと!憫然(かはい)さうに僕ァそれほど馬鹿ぢやァないよ。 そんなに見下げまい。はゝゝゝゝ!
オセロ
(物蔭にて)そゝゝゝゝ。勝つと笑ふのが(きま)りだ。
イアゴ
でも、あんたが彼女(あれ)と夫婦になるてことは大評判ですぞ。
キャシ
頼む、虚言(うそ)にも程があるよ。
イアゴ
これが虚言(うそ)だつたら、僕ァ惡黨なんだ。
オセロ
(物蔭にて)侮辱しをつたんぢやな?よしッ。
キャシ
そりやあのお猿めが自分で言ひ觸らしたことなんだよ。 自惚心(うぬぼれ)から夫婦になれるものと自分で()めてゐるんだ、 約束なんかしたんぢやない。
オセロ
(物蔭にて)イアーゴーが手招きしをる。いよ〜これからぢやな。
キャシ
つい今も此處へ來たよ、何處へでも()いて來るんだ。 此間もあるヹニス人と海岸で話をしてゐると、そこへ彼の阿呆(ぬけさく)がやつて來て、 ほんのこッた、かう頸ッ玉へかじりついて……
といひつゝ、イアーゴーの頸を抱擁する。
オセロ
(物蔭にて)「おゝ、かはいゝキャッシオー」と言ふたかのやうな身振をしをる。
キャシ
……ぶらさがる、しなだれかゝる、哭きわめく、僕を引ッ張る、引摺り廻す。はゝゝゝゝゝ!
といろ〜に身振をしつゝ話す。
オセロ
(物蔭にて)閨房(ねま)へ引ッ張り込んだ時の樣子を話してをるんぢや。 おゝ、うぬ、其鼻を引ッ()いで、犬にも投げてくれたいんぢやが、犬が居るらん。
キャシ
いづれ、(やつ)とは手を切らんけりやならん。
イアゴ
やッ!あ、あそこへ奴がやつて來たよ。
キャシ
噂をしてゐた臭猫だ!が、麝香猫よろしくだね。(香水を芬々(ぷん〜)と匂はせてゐるから。)
ビヤンカが出る。
()慳貪(けんどん)如何(どう)しようてんだ、 其樣(そん)なに附き(まと)つちや困るぢやないか?
ビヤン
(同じく腹立たしさうに)惡魔の母子(おやこ)にでも附き(まと)はれたがいゝ、 あんたのやうな人は!如何(どう)しようといふんですよ。 先刻(さツき)お渡しなすつたあのハンケチを?あれを持つて歸つたのは()い阿呆でした。 わたしの此模樣を寫せッて?……なるほど、誰れのだか解らない物でせうよ、 さうしてあんたの部屋に落してありさうな物よ!何處かのお轉婆さんの御進物でせうに、 此模樣を寫してくれッて?……あんたのホニホロさん(いたづら女)にやつたらいゝでせう。 どこで手に入れなすつたにしろ、わたしや其樣(そん)なものゝ細工をするのはいや。
と泣いたり、怒つたり。
キャシ
どうしたのだ、ビヤンカさん、え、どうしたんだよ!どうしたといふんだ?
オセロ
(物蔭にて)や、ありや俺のハンケチに相違ない!
ビヤン
ねえ今晩なら、夕食においでなさい。でなきや、此次ぎこッちでい。といふ時分に來て貰ふことにしませう。
ビヤンカぷり〜して入る。
イアゴ
追ッかけて〜。
キャシ
追ッかけよう、町中を喚き廻るかも知れないから。
イアゴ
あそこで夕食をなさるかい?
キャシ
その積りです。
イアゴ
ぢや、またお逢ひするでせう、是非、お話したいことがありますから。
キャシ
どうぞおいで下さい。來てくれますか?
イアゴ
さ、さ、もう何も言はんで。
キャッシオー入る。
オセローが物かげから出る。
オセロ
イアーゴー、どうして殺してくれようか、あいつを?
イアゴ
御覽になりましたか、不埒をしてゐながら笑ひ嘲つてをりますのを?
オセロ
おゝ、イアーゴー!
と苦悶の思入れ。
イアゴ
ハンケチをも御覽でしたか?
オセロ
ありや俺のか?
イアゴ
大丈夫、貴下(あなた)のです。奧さんを好い阿呆扱ひにしてゐます! 奧さんがお遣んなすつたのを、奴は其馴染の淫賣に遣つたんでさ。
オセロ
九年もかゝつて弄殺(なぶりごろし)にしてくれたい!……()い女を! 美しい女を!かはいゝ女を!
イアゴ
あゝ、もし、それを忘れていしまひなさらなくッちやいけませんよ。
オセロ
さうぢや、あの女め、腐りをれ、死滅(くたば)りをれ、今夜のうちに地獄へ落ちをらう、うぬ! 生かしちやおかんぞ。うんにや、此心は石となつた、叩きや此手に傷が附くぢやらう。 ……あゝ、此世界中に又とあんな可愛い奴はゐまい、彼女(あれ)は帝王の傍に()てゐて、 あゝもせい、かうおせいと命令を下し得るやうな奴だy。
イアゴ
ねえ、もし、それぢや不可(いけ)ませんよ。
オセロ
女め、うぬ!……俺は只有のまゝの事を言うとるんぢや。針爲事(はりしごと)も上手ぢやし、 音樂だつて、立派にやりををる……おゝ、荒熊をも柔順(おとなし)うさせるやうな聲で歌ひをる。 ……高尚な、豐かな才があつて、工夫が上手で……
イアゴ
ですから一層罪が深いんでさ。
オセロ
おゝ、千倍も萬倍もぢや、……さうしてあんな温和(おとなし)い性質!
イアゴ
さァ、どの男にでも柔順(やさし)過ぎますんですね。
オセロ
いかにもさうぢや、其通りぢや。……が、殘念ぢやわい、イアーゴー! おゝ、イアーゴー!憫然(かはい)さうぢやわい、イアーゴー!
イアゴ
それほど御未練がおあんなさるなら、不埒をしたつていゝてなことになすつたらいゝでせう。 貴下(あなた)さへお介意(かまひ)なさらなきや、誰れにも關係(かけかまひ)のない兒ッてす。
オセロ
女めを寸々に切り裂いてくれる。姦通をしをるとは!
イアゴ
全く(けが)らはしい御所行です。
オセロ
俺の部下の者と!
イアゴ
いよ〜以て(けが)らはしいんです。
オセロ
イアーゴー、何か毒藥を手に入れてくれ……今夜。……詰問なんぞはすまい、 彼女(あれ)のあの艷麗(あでやか)(かほ)(かたち)で俺の此決心が鈍ッちやァならんから。 今夜ぢやぞ、イアーゴー。
イアゴ
毒藥はお止めなさいまし、床中で絞め殺したはうがようごすよ、 不義をして汚した其床中で。
オセロ
けつこう〜。因果應報ぢや、氣に入つた。けつこうぢや。
イアゴ
それから、キャッシオーですが、あいつは(てまへ)がやッつけませう。 夜中までにや吉左右(きちさう)をお知らせします。
オセロ
非常にけつこうぢや。
奧で喇叭の聲がする。
や、あの喇叭は何ぢや。
イアゴ
ヹニスから何か參つたんですよ、きッと。……(一方を見やつて)あ、 公爵からロドーヰ゛ーコーさまがお使に見えたんです。あ、奧さんも御一しよです。
ロドーヰ゛ーコー(ブラバンショーの近親)を先きにデズデモーナ及び侍者らが出る。
ロドヰ゛
大將どの、御機嫌よろしう!
オセロ
ありがたう、あんたにも。
ロドヰ゛
ヹニスの公爵(なら)びに元老會からの御書面でございます。
封書をオセローに渡す。
オセロ
謹んで御書面を拜受します。
開封して讀みかける。此間に、デズデモーナ、イアーゴーらが、 めい〜改めてロドーヰ゛ーコーに挨拶をする。
デズデ
ロドーヰ゛ーコーさん、何か變つた事でも起りましたんですか?
イアゴ
お目にかゝりまして恐悦に存じます。ようこそ此サイプラスへ。
ロドヰ゛
ありがたう。副官のキャッシオーどのもお逹者ですか?
イアゴ
さァ、逹者でをられます。
デズデ
ねえ、(うちの)とあの方の間に情けない仲たがひが起りましたのよ。けれども、 あんたが口をきいて下さいましたら、元の鞘に收まりませうと思ひますの。
オセロ
唐突(だしぬけ)に見返つて)え、うけあへるかい?
デズデ
(驚いて)えゝ!
オセロ
(そしらぬ振で書面を讀む)「此儀相違なく執行せられたく……」
ロドヰ゛
お呼びなすつたんぢやない、御書面を讀んでおいでなさるんです。 ……ぢや、將軍とキャッシオーろが不和になられたのですか?
デズデ
ほんとに情けない仲たがひなんです。どうかして元の通りにしたいと氣を揉んでゐますけれど、 キャッシオーさんがお氣の毒ですから。
オセロ
うぬ、ちッ、畜生めが!
デズデ
えッ?
オセロ
そんなこと言うてもえいか?
デズデ
おや、怒つておいでのやうだわ!
ロドヰ゛
あの書面が氣に障つたのでせう、 たしかキャッシオーを當分代理人にしておいて歸國をしろといふ訓令なんですから。
デズデ
まァ、ほんとに嬉しいこと。
オセロ
ほんとか?
デズデ
えッ?
オセロ
それほど氣が違ふた()、けつこうぢや。
デズデ
えッ、なぜです、オセローどの?……
とデズデモーナが不審がつて傍へ行く。とだしぬけに
オセロ
惡魔め!
といひもあへず打擲する。皆々とりおさへる。
デズデ
こんな目に逢はされる覺えはない。
椅子又は床上に倒れて泣く。
ロドヰ゛
あゝ、將軍、こりやあんまりな()され方です。手前が目撃したと申したつて、 ヹニスぢや誰れ一人信じ得ますまいぞ。慰めておあげなさい、奧さんは泣いておいでゝす。
オセロ
おゝ、惡魔めが、惡魔めが!若しも此大地が女の涙で子を孕むもんなら、 此女(こいつ)が落しをる一滴々々が悉皆(みんな)クロコダイルにならうわい。 ……()ッちまへ!
デズデ
ゐると、お腹が立ちますなら、參ります。
デズデモーナ泣く〜行きかける。
ロドヰ゛
ほんとに從順な奧さん。ねえ、將軍、呼び返しておあげなさい。
オセロ
おい、御しんぞさん!
デズデ
えッ?
デズデモーナは戻つて來る。
オセロ
(ロドーヰ゛ーコーに)何か御用がおありかね?
ロドヰ゛
だれが、手前がですか?
オセロ
(怒りを制しつゝ)さやう。あんたが返らせいと望んだんぢや。 反轉(かへ)るのは此女の得手なんぢや。何度でもくる〜と引ッ繰返ります。 それから、泣くことも上手ぢや。幾らでも泣く、それから從順でもある、 あんたのいふ通り從順ぢや。非常に從順ぢや。……(泣き倒れてゐるデズデモーナに) もつと〜涙を出すがえい。……(ロドーヰ゛ーコーに)さて此書面の儀ぢやが…… (デズデモーナに)おゝ、ようもそんなこしらへ泣きが出來る!…… (又ロドーヰ゛ーコーに)一旦、歸國せいといふ御命令なんぢや。…… (又デズデモーナに)退(さが)んなさい、後に呼びにやるまで。…… (又ロドーヰ゛ーコーに)嚴命に從ふてヹニスへ歸ることにします。…… (又デズデモーナに)えィ、退(さが)れッちふに!
デズデモーナ泣く〜入る。
(又ロドーヰ゛ーコーに)代理はキャッシオーにさせます。それから、今夕は、 あなたを御招待して、御一しよに晩餐がしたい。ようこそお出で下された此サイプラスへ。 ……(奧を睨んで)狒々(ひゝ)め、山羊め!
ぶつ〜いひながらオセローは入る。
ロドヰ゛
(見送つて、呆れて)これがムーアどのか、元老會が(こぞ)つて圓滿な人格者と稱讚されるムーアどのか、 怒りのために本性を失ふやうなことの曾てないといふ? どんな思ひがけん(わざは)ひの彈丸(たま)にも、 偶然の災厄の投槍にも(あた)りもせず、貫かれもせぬといふ堅徳の人と見えませうか?
イアゴ
大變に變られましたよ。
ロドヰ゛
正氣でせうか?氣がどうかしてゐなさるんぢやありませんか?
イアゴ
あらつしやり通りです。手間の口からは何とも申しかねます、 若しあらつしやるべきやうで若しなかつたらば…… どうか、さうあらつしやればいゝがと願つてゐるんでございますんですが!
ロドヰ゛
奧さんを打擲なさるとは!
イアゴ
ありや全くよくないこッてごした。だが、あれッきりで濟みやようごすがね?
ロドヰ゛
始終(しよツちゆう)あるんですか、あんな事が? あの書中の事が氣に障つて、けふに限つて、あんな不都合をせられたのか?
イアゴ
あゝ、あゝ!見た事も知つてる事も手前の口からは申しかねます。 お氣を附けて御覽なさりや、手前が申さなくッても、將軍御自身の擧動でお解りになりませう。 後から()いていらしつて、尚ほ樣子を御覽なさいまし。
ロドヰ゛
見ちがへてゐたのが殘念ですわい。
皆々入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第四幕 第二場


第四幕

第二場 城内の一室。

オセローとイミーリヤと出る。イミーリヤを特に呼び附けて糾問してゐるのである。
オセロ
ぢや、(なンに)も見なんだちふか?
イミリ
聞いたこともございませんのよ、あやしいと思ひましたことなんかも。
オセロ
が、キャッシオーと彼女(あれ)が一しよにをる所は見たんぢやらう?
イミリ
はい、ですけれど、どういふ不都合な事もありやしませんでしたの、 お二人のお口から出たことは、一言だつて聞き洩らさなかつたんですけれど。
オセロ
え、耳こすりなんかしやせんかつたか?
イミリ
いゝえ、決して。
オセロ
あんたに其場を外させやうとしやせんかつたか?
イミリ
いゝえ、決して。
オセロ
扇子を取つて來いとか、手袋とか、假面(マスク)とか、何か物を取りに出しやせんかつたか?
イミリ
いゝえ、決して。
オセロ
そりや不思議ぢや。
イミリ
(手強く)閣下、奧さまが御貞實なことはわたしが此魂ひを懸けて保證します。 さうで無いとおぼしめしていらつしやいますなら其お考へはお棄てなさいましよ、 全くのお邪推なんですの。 若しかどッかの惡い奴が貴下(あなた)のお(つむり)へそんな事をお入れしましたなら、 そんな奴は蛇の呪ひとかいふ天罰にかゝるがいゝ!ほんに、奧さまが御貞實で潔白であらつしやらんやうなら、 世間に果報な男なんか一人だつてありやしません、世界一の貞女だつて無類の不義者になるんですもの。
オセロ
彼女(あれ)を呼んで來てくれ、こゝへ。
イミーリヤ入る。
大ぶ立派に言ひをる。が、あれ程の事は(いやし)くも周旋役(とりもちやく)をする女なら言ひ得る筈ぢや。 あいつは狡慧(すばしこ)うて、不義密通の祕密箪笥の錠とも鍵ともなる賤女(めらう)ぢや。 でも、跪いて祈祷をしをることがある、俺はそれを見た。
イミーリヤに伴はれてデズデモーナが出る。
デズデ
貴郎(あなた)、何か御用でございますの?
オセロ
どうか此處へ來て下さい。
デズデ
どういふ御用?
オセロ
目をお見せなさい。(わし)(かほ)を御覽なさい。
デズデ
まァ、何て氣味のわるい事を?
オセロ
(イミーリヤに)お内儀(かみ)さん、(いつも)職務(つとめ)を頼むよ。 二人だけ殘しといて、戸を閉めて下さい。人が來たら咳拂ひをするか、エヘンと言つて下さい。 なァ、例の内密事(ないしよごと)を頼む、内密事(ないしよごと)を。 えィ、早くせい。
イミーリヤ呆れて入る。
デズデモーナ跪いて
デズデ
(こは〜゛)膝を突いて申します、なぜ其樣(そん)なことをおつしやるんです? お言葉附きで怒つていらつしやるのは解つてますけれど、どういふわけなのかは解りません。
オセロ
やい、(きさま)は何者ぢや?
デズデ
貴郎(あなた)の妻です、あなたの貞實は妻です。
オセロ
さ、さう誓言してから地獄へ往け。でないと、(つら)が天人のやうぢやから、 夜叉も惡魔も(きさま)をば()(つかま)へんかも知れん。 ぢやから、二重の墮地獄罪を犯しをれ、貞實ぢやなぞと誓言して。
デズデ
それは神さまが御存じです。
オセロ
神たちはよく御存じぢや、(きさま)が不信不義を働いとるのを。
デズデ
(急に起ち上つて)えッ、不信不義とは?誰れに?誰れと?わたしがどんな不信不義を?
オセロ
(兩手で(かほ)を掩つて)あゝ、デズデモーナ!()ッちまへ! いッちまへ!いッちまへ!
デズデモーナが立寄るのを手荒く排斥(おしの)けて男泣きに泣く。
デズデ
あゝ、まァ、情けない!なぜお泣きなさるのです?其涙はわたしが原因なんですか? ねえ、今度のお召返しを父が()た事とでも疑つていらつしやるのなら、 それはわたしの知つたことぢやありませんのよ。(わたしの咎にして下さいますな。) 貴郎(あなた)が父と縁を切るとおつしやりや、わたしも縁を切つてしまひますわ。
オセロ
もしも天が艱難や辛苦で以て試さうとなされたのならば、 あらゆる恥辱(はぢ)苦痛(くるしみ)を此素頭(すかうべ)へ注ぎかけ、 貧苦の淵に脣際まで身を浸らせ、我が身をも、 わが最上の望みをも奴隸の境涯に墮落させてしまはせられたのなら…… まだしも魂ひの何處(どツ)かに一滴(ひとたら)し程の忍耐が殘つてもをるぢやらうが…… あゝ、みじめぢや、いつまでも〜世の嘲りの的となつて、指ざされるあさましい身となるとは! が、それはまだ堪忍もせう、耐忍(がまん)もせう、立派に。 ぢやけれど俺の心臟を祕藏しておく(たから)の藏、此命の流れの、 湧くのも涸れるのもそれ一つで(きま)る其泉、そこに居りや生きとるが、 そこを離れりや死なんけりやならん其源の泉から追ひ出されてしまふとは! 又は其泉をあの(けが)らはしい蝦蟆(ひきがえる)交尾(つる)ませて孕ませる水溜りにしとかなきやならんとは! ……おゝ、忍耐よ、お前も顏の色をも變へい、若々しい薔薇のやうな脣をしてゐる天童よ、 もう斯うなつたら、鬼のやうな(つら)になりをれ!
デズデ
よもやわたしの貞實を疑つていらつしやるんぢやないでせう?
オセロ
おゝ、貞實ぢや!肉店に(たか)つて卵を()る最中にも交尾(つる)みをる夏の蠅にやうに貞實ぢや! おゝ、(きさま)は毒草ぢや、色も、香も、美しいわい、いとしらしいわい、 目や鼻が痛うなるわ。えィ、うぬ、生れて來をらなんだらよかつたものを!
デズデ
まァ、情けない、自分では知らない何樣(どん)な惡い事をしたんでせう!
オセロ
(デズデモーナの顏を見詰めて)えィ、此眞白な紙は、此見事な書物は、 其上へ「淫賣婦」と書くために(つく)られたんか!どんな事をしたッ? どんなわるいことを?おゝ、うぬ、淫賣めが!此頬が鍛冶場のやうになり、 廉恥心が灰になッちまふわい、(きさま)のした事を口へ出さうとすりや。 どんな事をしたとッ?天もその爲に鼻をおさへ、月も目を塞ぎ、 出逢ふ何でもをも舐め廻すあの多情な風でさへも洞穴に隱れてそれを聞くまいとする程の事なんぢやわ。 どんな事をしたと?づう〜しい淫賣めが!
デズデ
ほんとに、そりや、あんまりなお言葉です。
オセロ
ぢや、淫賣ではないちふのか?
デズデ
わたしは基督信者です。夫の爲に、此體を道ならぬ物に觸れさせて、 汚すまいとしてゐるのが淫賣とやらでないのなら、わたしは決してそんなものぢやありません。
オセロ
ぢや、淫賣ぢやないのか?
デズデ
はい、お救ひを受ける身なんですから。
オセロ
え、きッとさうか?
デズデ
おゝ、神さま、お赦し下さい。
オセロ
ぢや、(まこと)に濟まなんだなう、 俺はお前をオセローと結婚しをつた彼の狡猾(わるがしこ)いヹニスの淫賣めと取違へとつたわい。 (奧にむかつて)こら〜、お内儀(かみさん)、 ピーター上人(しやうにん)とは反對の方角で役をしとるお内儀(かみさん)、 おい、地獄の門番さん!
デズデ
(こら)へかねて椅子の上へ泣き倒れる。
イミーリヤが又出る。
お前、お前、さうぢや、お前さんぢや!もう吾徒(こちとら)の用事は濟んだ。 さ、これがお前さんの骨折料ぢや。どうかよう錠を下して、内密(ないしよう)にしといてくれ。
財布をイミーリヤの前へ()げ出しておいて入る。
イミリ
あら、まァ、あの方、何を思つて、あんなことを?……(デズデモーナを介抱しるゝ) もし、どうなさいました?え、どうなさいましたんですよ、奧さま?
デズデ
何だか夢を見てゐるやうなの。
イミリ
奧さま、どうなすつたんですの、殿さまは?
デズデ
だれがさ?
イミリ
はて、まァ、お殿さまがですのよ。
デズデ
たれなの、お殿さまての?
イミリ
あなたのお殿さまの事でございますの。
デズデ
(うつとりとなつて)わたしにや殿さんはありません。(なンに)も言つておくれでない。 泣くことも出來なけりや返辭をすることも出來ない、けども涙より外に出るものはない。 ……ねえ、お願ひです、今夜はわたしの寢床へ、婚禮の時のあの敷布を掛けておいておくれ、 いいかい?それからお前の(うちの)を呼んで來とくれ。
イミリ
ほんとに、まァ、とんでもないことになッちまつた。
イミーリヤ入る。
デズデ
當然なんだ、こんなにされるのは本當に當然なんだわ。 まァ、どんな事をしたんだらう、些少(ちツと)ばかしの惡いことさへ、 あんなに眞劍になつて咎め立てをなさるといふのは?
イミーリヤが夫のイアーゴーをつれて出る。
イアゴ
奧さん、何ぞ御用ですか?……どうなすつたんです?
デズデ
わたしにや言へない。ちひさい兒を教へるには手柔かにして容易(やさし)い事から始めるのが(きま)りです。 叱るにしても、さう()るのが當然ぢやないの?ほんとに、わたしや叱られりや、子供なんだもの。
イアゴ
一體、どうしたといふのです?
イミリ
ねえ、イアーゴーどの、お殿さまは奧さまを淫賣呼ばはりをなすつて、(とて)も、 その、正直な心ぢや聽いてゐられないやうな口ぎたないことをおつしやつたんだよ。
デズデ
イアーゴーどの、わたしがそんな風の女でせうかねえ?
イアゴ
どんな風のです?
イミリ
今イミーリヤが夫が言はれたといつてゐたやうな。
イミリ
淫賣だとお言ひなすつたのよ。くらひ醉つた乞食だつて、あんな酷いことは言やしないよ、 ほんの當座の女房にだつて。
イアゴ
どうしてそんなことをおいひなすつたのです?
デズデ
知りません、けれども、わたしや決してそんなもんぢやァない。
イアゴ
お泣きなさいますな、お泣きなさいますな。……やれ〜!
イミリ
諸處方々からのあんなお立派な御縁談をも、お父さまをも、 お國をも、御親友をも、お棄てなすつたのが、淫賣呼ばはりをされるために? さう思ふと、どうして泣かないでゐられるものか?
と、イミーリヤ泣く。
デズデ
みじめなわたしの運命!
イアゴ
無法千萬な將軍、どうしてそんな氣におなんなすつたか?
デズデ
さァ、神さまは御存じであらうけれど。
イミリ
こりや、きッと、斯うだ、もしそれが間違つたらわたしや絞罪(しばりくび)にされてもかまはん、 或根こそげ惡い奴が、お節介な、取入ることの上手な惡黨めが何かんお役目に有り附かうために、 讒言(ざんげん)したのに相違ないのよ。
イアゴ
馬鹿ッ、そんな奴があるものか、あらう筈がない。
デズデ
若しそんな者がありましたら、天よどうぞお赦し下さいませ。
イミリ
(憤激して)何の、首縊繩(くびしめなは)よ、赦して下さいましでさ! そんな奴の骨は、地獄の鬼よ、噛み碎いてくれ!淫賣なんぞとお呼びなさる理由はない! え、誰れがお相手だよ?何處で?何時?如何(どん)な風に? 何樣(どん)な證據があるんだ?……きッと〜、ムーアさまはお(だま)されなすつたんだ、 どつかの惡黨めに、どえらい惡黨めに、怖ろしい惡い奴に。おゝ、神さま、 そんな奴をお見せ下さいまし、さうしてありッたけの善人の手に笞を持たせて、 其惡者めらを眞裸(まツぱだか)にして、ぶつて〜ぶちのめして、世界中を追ひ廻して下さいまし、 東の(はて)から西の(はて)まで!
イアゴ
外へ聞える、大きな聲をするな。
イミリ
おゝ、にくいやつら!……(イアーゴーに)あんたの分別を引ッくらかへして、 わたしとムーアさまとが(あや)しいなんてことを思はせたのも、きッとそんな奴に相違ないわよ!
イアゴ
馬鹿ッ、つまらんことをいふな。
デズデ
おゝ、イアーゴーどの、夫の機嫌をなほすには如何(どう)したらいゝんだらうねえ? お願ひですから、夫のとこへ往つて來て下さい、此天上の光明にかけて、 如何(どう)して機嫌を損じたのやら、わたし夢にも知らないんだから。 ……かう跪いて(と跪いて)……萬一わたくしが夫に背きまして不義を働きますやうなら、 胸でなり、行爲(おこなひ)でなり、目でなり、耳でなり、どの感覺なりで、 夫以外の人をいとしいと思ふやうな事がありましたら、或ひは今現に、或ひは曾て、 或ひは未來に於て……たとひ夫がわたくしを乞食のやうに扱つて振棄てゝしまひませうとも…… 假にも夫をいとしいと思ひませんやうなことがありましたら、 あらゆる慰めを此身からお取上げ下されませ!……邪慳にされるのは辛い、苦しい、 夫に邪慳にされゝば死ぬかも知れん、けれども、いとしいと思ふ此心は變らない。 わたしにや「淫賣」なんてことは言はれない。口にするさへ汚らはしい。 そんなわるい名を附けられるやうな事が、世界中の榮燿が得られるからッて出來るもんぢやァない。
デズデモーナが取亂して泣くのをイアーゴーらが慰める。
イアゴ
ま、ま、お氣をお鎭めなさいまし。ほんの一時の御機嫌ですよ。 政事上の事が何かお氣に障つたんで、それで八當りをなさるのでさ。
デズデ
それッきりならいゝけれどもねえ……
イアゴ
大丈夫、それッきりですよ。
奧にて喇叭の聲。
おや、ありや夕食の知らせだ!ヹニスのお使者たちがお饗應(もてなし)を待つておいでゝす。 さ、さ、奧へ、お泣きなさいますなよ。今におめでたくなりますよ。
イミーリヤに介抱されてデズデモーナ入る。
イアーゴーが歸りかけると、其途端にロダリーゴーが出る。
とイアーゴーは困つたと思ひながら、わざと平氣で
どういたしましたね、ロダリーゴー君!
ロダリ
君の爲向(しむ)けはあんまりだらうぢやないか?
イアゴ
え、あんまりとおいひなさるのは?
ロダリ
イアーゴー、毎日々々、何とか、かんとか言ひぬけて、僕の望みを遂げさせようと骨折つてくれるよりも、 寧ろ成るべく其望みを遂げさせまいとしてゐるのだとしか思はれない。 もう僕ァ忍耐(がまん)が出來ない、今日までいゝ阿呆にされたのをも此儘にや濟さない積りだ。
イアゴ
ロダリーゴー君、まァ、僕の言ふことを聞きたまへ。
ロダリ
いゝや、もう聽き()いた、君の口と()る事とは丸ッきり別々だ。
イアゴ
そりや酷いよ、そんな風にいふのは。
ロダリ
全くの事をいつてるんだ。僕ァ有つてたものを悉皆(みンな)(つか)ッちまつた。 デズデモーナへ渡すといつて君が持つていつただけの寶石類がありや道心の堅固な尼だつてもう大概墮ちる頃だ。 彼女(あれ)がそれを受取つて、喜んですぐにも逢はうといつたやうに君は言つたが、 そんな嬉しい目にやいまだに逢はない。
イアゴ
ま、ま、いゝよ、それでいゝんだよ。
ロダリ
何がいゝんだ!ま、まだ!まァ、まァぢや濟まさないぞ。いゝんだよとは何だ! いゝや、全く卑劣だ、(あンま)りだ。君は僕をペテンに掛けたんだな。
イアゴ
ま、いゝぢやないか、そんなに言はなくッても。
ロダリ
いゝや、決していゝことはない。僕は此通りをデズデモーナに逢つて言ふんだ、 彼女(あれ)が寶石を返してくれゝば、僕はもう此望みを捨てゝ不正な戀をしたのを後悔する積りだけれど、 若しあれが戻らんけりや辨償(つぐなひ)は君から貰ふぞ。
イアゴ
や、立派にいはれた。
ロダリ
口ばかりぢやァない、きッと其通りにするぞ。
イアゴ
はて、それでこそ男性的だ。僕ァ君を今までよりもずッと買ひ上げて敬意を表するよ。 ……ロダリーゴー、手を、手を。(と握手して)君が僕を怨むのは道理(もつとも)だ、無理はない。 けれども僕ァ此事ぢや、正直に骨を折つてゐたんだよ。
ロダリ
だつて、さうは見えなかつた。
イアゴ
成程、さう見えなかつたらう。君が疑ふのを、だから無理とはいはない。 だが、ロダリーゴー、若し君に、あの、何がるなら、前とは違つて、 今は有ると思ふんだが、といふのは勇氣だ、其勇氣をだ、今夜僕に見せてくれたまへ。 若し(あす)の晩にデズデモーナが君の手に入らなかつた、 人を陷れた罪で僕を此世から叩き出して、命を取るがいゝ、 どんな怖ろしい機械をでも工夫して。
ロダリ
で、その、爲事(しごと)といふのは?やられさうなことかね?
イアゴ
ねえ、ヹニスから特使が來て、キャッシオーがオセローの代理になることになつた。
ロダリ
ほんとにか?ぢや、オセローも、デズデモーナもヹニスへ歸ることになるんだね。
イアゴ
いゝや、いゝや。ムーアはモーリタニヤへ往くんだ、あの美しいデズデモーナも一しよに、 何かこゝに留まらんけりやならんやうな事が起らん以上は。ところでだ、 足をとめるにやキャッシオーめをかたづけるに限る。
ロダリ
え、かたづけるてのは?
イアゴ
はて、オセローの代理になれんやうにするんさ、奴の腦天を叩きみじいてよ。
ロダリ
で、それを僕に()ろといふのかい?
イアゴ
さうだ、君に自分の利益になることを敢て()ようといふ勇氣があるならだ。 奴は今夜淫賣の(とこ)で夜食をする。そこへ僕も往く。 奴はまだ自己(うぬ)が榮進したことなんか知らないでゐる。 若しあそこから奴の歸るのを……そりァ十二時と一時の間といふ事に俺が(はか)らふ ……見張つてゐりや、やッつけるのはお心任せだ。 俺も近くにゐて助太刀をする、さうして挾討(はさみうち)にしッちまはう。 さ、さ、そんな變な顏をしてゐないで、一しよに來たまへ。 奴を殺さんけりやならん理由(わけ)を改めて話さう、 成程と君が思ふやうに。もう十分夕食時だ。夜がずん〜更ける。さ、さ。
ロダリ
もつとくはしく理由(わけ)が聽きたい。
イアゴ
聽きや、成程と會得が行くよ。
イアーゴーはロダリーゴーと手を組み合せて、いかにも親友らしくして入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第四幕 第三場


第四幕

第三場 城内の他の一室。

オセロー、ロドーヰ゛ーコー、デズデモーナ、イミーリヤ及び侍者役ら出る。 恰も夕食後の(てい)
ロドヰ゛
どうか最早(もう)おかまひ下さいますな。
オセロ
おゝ、歩くのは手前の勝手なのです。(御介意下さるな。)
ロドヰ゛
奧さん、もうお(やす)みなさい、何かとありがたうございました。
デズデ
ほんとによう來て下さいました。
オセロ
さ、參りませう!……(ふと、デズデモーナを見て)おゝ……デズデモーナ……
デズデ
何でございますの?
オセロあんたはすぐ寢たらよからう。ぢきに戻つて來るから。
(はた)の者は皆な退()がらせなさい。えいかね?
デズデ
かしこまりました。
オセロー、ロドーヰ゛ーコー及び侍者役ら入る。
イミリ
どんなでござますの?先刻(さツき)よりやおやさしうおなりなすつたやうに見えますが。
デズデ
すぐ戻つて來るとお言ひでした。お前をも退(さが)らせて、 床へ入つてゐろといふおいひつけなの。
イミリ
わたくしを退(さが)らせろつて!
デズデ
あゝ、さういふお吩咐(いひつけ)なの。ですから、イミーリヤ、 わたしの寢衣(ねまき)を持つて來といてから退(さが)つてお休み。 お氣に逆らはないやうにせにやならない。
イミリ
ほんとにあんな方にお逢ひなさらなけりやよろしかつたんですのにねえ……
デズデ
わたしやさう思はないの。いとしいと思つてゐますから、無情(つれな)くされても、 叱られても、怖い顏をされても……(ピン)を外しとくれ…… みんななつかしいやうに見えるのよ。
イミリ
おつしやりつけの、あの敷布はお床に上へ掛けておきましたよ。
デズデ
どうでもいゝの。……ほんとに人間は何て馬鹿らしいものだらうねえ! 若しわたしがお前よりも先きに死んだら、ねえ、どうぞ其敷布で以て包んどくれね。
イミリ
あれ、ま、馬鹿なことをおつしやい!
デズデ
(夢を見てゐるやうな思入れで)わたしのお母さまの小間使ひにバーバラといふのがゐたつけが、 色男があつたの。ところが、其男が氣が狂つて、バーバラwば捨てッちまつたの。 彼女(あれ)常住(しよツちゆう)口癖にしてゐた柳の唄、それは古い唄なんだが、 彼女(あれ)の身の果を詠んだのかと思ふやうな唄なの。 さうして彼女(あれ)は其唄を唱ひながら死んじまつたのよ。 今夜はあの唄がわたしの心を離れさうにない。きッと、かたかたへ首をうなだれて、 死んだバーバラのやうに、あの唄を唱はないぢやゐられまいだらうと思ふわ。 ……さ、はやくしとくれ。
イミリ
夜のお召物を取つて參りませうか?
デズデ
いゝえ、此(ピン)を外しとくれ。……あのロドーヰ゛ーコーさんは立派な人だねえ。
イミリ
ほんとに好男子でいらつしやいますのよ。
デズデ
辯舌もいゝしね。
イミリ
ヹニスのある御婦人は、()の方のお脣に觸れることが出來るなら、 パレスタインへまでも跣足參詣(はだしまゐり)をしようとおつしやつてゞございましたの。
デズデ
(歌ふ)
あはれ娘はシャモーアの蔭に、
 歌へ、柳を、只青柳を!
胸にや手をあて、膝には(かしら)
 歌へ柳を、柳や柳!
(はた)の小川も共音(ともね)に鳴いて、
 歌へ柳を、柳や柳!
落す涙にや石さへ(なご)む、
上被(うはぎ)を脱ぎつゝ。
これを悉皆(みンな)そッちへ……(と又歌ふ)
 歌へ柳を、柳や柳!
さ、早くよ、もうぢきにお見えになるだらうから。……
と又歌ふ。
歌へ、青柳や、此身の(かざ)し、
 (ぬし)にや(とが)ない、身をこそ怨め、……
いゝえ、さうぢやなかつた。……おや!だれやら戸を叩いてるぢやないの?
イミリ
風でございますよ。
デズデ
(又歌ふ)
(ぬし)を浮氣と()めたりや(ぬし)が、
 歌へ柳を、柳や柳!
餘所(よそ)女子(をなご)[と?]懇懃(ねんごろ)したら
 餘所(よそ)の男と寢やれと被言(おしや)る。
さ、さ、お退(さが)り。さよなら。……あゝ、目が(かゆ)い。 泣く前兆(しらせ)か知らん?
イミリ
いゝえ、何でもありやしませんのよ。
デズデ
でもさう言ふぢやないの。……あゝ、男てものは、男てものは! ねえ、お前、ほんとに如何(どう)思つて?……ねえ、イミーリヤ、…… 世の中にあんなあさましい事をして夫に恥をかゝせうやうな女があるでせうか?
イミリ
ありや、ありませうとも、隨分。
デズデ
全世界を貰つたつて、お前は其樣(そん)なこと()やァしまい?
イミリ
だつて、あなたはなさりませんお積り?
デズデ
(窓外の月を仰ぎつゝ)何の、あの天のお光りにお誓ひして、決して。
イミリ
わたくしだつてもね、あのお光りの前ぢやァ……でも、暗いところでなら、隨分。
デズデ
ま、全世界を懸けて、お前は其樣(そん)なことをする氣なの?
イミリ
世界と言やァ大きな(もん)ですのよ、(ちツ)とばかし惡い事で、 それが貰はれますればねえ。
デズデ
いゝえ、いゝえ、お前がまさかそんな事を!
イミリ
いゝえ、致しますでせうよ。()ッちまつてから取消しさへすりやようございますもの。 勿論、わたくしだつて、 合せ指輪のたッた一つや薄絹の三四尺や上被(うはぎ)女袴(ペツチコード)や帽子ぐらゐの些屑物(つまらないもの)と取換ッこぢや致しやしません。 ですが、全世界といふんでせう、誰れだつて間男ぐらゐはしませう、 ……亭主を王さまにすることが出來りやァ。その爲になら煉獄とやらへ入れられてもかまやァしません。
デズデ
いゝえ、わたくしはいつそ死んじまつたはがいゝ、全世界を貰へばからッて、 假にも其樣(そん)な事をするやうなら。
イミリ
だつて、惡いてのは、つい、此世界だけでのこッてせう、それなりや、 其報酬の此世界が貴女(あなた)のお手の(もの)になりや、御自分の世界内での惡い事なんですから、 御自分で如何(どう)にでもならうぢやありませんか?
デズデ
そんな女があらうとはわたしは思はない。
イミリ
ありますとも、一ダースほども。どころぢやありません、 それが生んだ兒で其賭物(かけもの)の世界が一ぱいになる程もありませうよ。 ですが女房がわるいことをするのは、つまり亭主がわるいからですの。 當然、せんけりやならん事をしませんで、餘所(よそ)の前埀へお(たから)を注ぎ込んだり、 勝手な邪推(わるずゐ)嫉妬(やツかみ)をして(わめ)きたてたり、 わたしたちに窮屈な思ひをさせたり、撲打擲(ぶちちやうちやく)をしたり、 意地わるく小使錢を減したり何かするからですの。はて、 わたしたちの胸にだつて癇の蟲もゐます、(やさ)しらしいのが持前ですけれど、 返報(しかへし)をしようて意地もあります。 女房だつて同じ感覺を有つてるんだてことを宿六共が知るがいゝんです。 女房だつて見もすりや、()ぎもすりや、甘い、酸いを食べわける舌を有つてまさァね。 なぜ男はわたしたちを他の女に見かへるんでせう?慰樂(なぐさみ)か? まァ、さうでせう。好いた、惚れたが(もと)なのか?さういふこともありませう。 はて、わたしたちだつて、好きもする、惚れもする、慰樂(なぐさみ)もしたいと思ふ、 ふとした癡情(まよひ)も時々は起らうぢやありませんか? ぢや(ちツ)とわたしたちを大事にするがいゝんです、でないと、 女が惡い事をするのは、男が惡い事をして見せたからだと思ひ知らせてやります。
デズデ
(やす)み、お(やす)み。神さま、たとひ惡い事を見聞きしましても、 其惡い事を見習はず、それで却つて身の足らはぬのを(なほ)すやうな習慣をお授け下さいませ。
二人ともに入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第五幕 第一場


第五幕

第一場 サイプラス。街上。

イアーゴーとロダリーゴーが出る。闇夜の(てい)。町家の軒下。 二人はこゝでキャッシオーを暗撃(やみうち)にすべく待伏せをすようとしてゐるのである。
イアゴ
ねえ、此店臺の蔭に立つてゐたまへ、もう直ぐに來るだらう。細刄(ほそみ)の鞘を拂つといて、 しつかりやッけたまへ。早く〜。びく〜するにや及ばんよ、 俺が直ぐ脇にゐるから。望みが成るか成らんかは、これで(きま)るんだ、 それを思つてしッかり腹を据ゑたり。
ロダリ
直ぐ傍に居てくれたまへ、やりぞこなふかも知れんから。
イアゴ
うん、直ぐこゝにゐるよ。度胸を据ゑて、足場を()めたり。
イアーゴーは少し立離れる。
ロダリ
(獨白)こんな事ァ(あンま)りしたかァないけれども、彼男(あのおとこ)の言ふことも聽いて見りや、 如何にも道理(もつとも)だ。たかゞ人が一人ゐなくなるまでだ。 (と拔劍して)斯う劍を拔いた以上、もう奴の命はない。
軒下に忍ぶ。
イアゴ
(獨白)あの腫物(ふきでもの)(野郎)を痛がるほど(こす)りこくつたら、 大ぶ氣を持つて熱くなりやァがつた。ところでだ、奴がキャッシオーを殺さうと、 キャッシオーが奴を殺さうと、互ひに殺しあはうと、どのみち俺にや得だ。ロダリーゴーが生きてゐりや、 デズデモーナへ遣ると言つて奴から騙取(ごちやまか)したあの金や寶石を皆な(まど)へと言やァがるが ……勿論、そんなことァ出來ない。……キャッシオーめが生き殘りや、 奴が端嚴(りつぱ)なので俺の()る事は何もかも(まづ)く見える。 のみならず、ムーアめが俺の言つたことを奴に打明(ぶちま)けッちまふまいものでもなし…… とすると(とて)危險(けんのん)だ。さうだ、彼奴(あいつ)ァ生しちやおかれない。 ……やッつけよう。……や、來たやうだ。
キャッシオーが町傳ひに出る。
ロダリ
歩きつきに覺えがある、奴だ。……(急に前へ躍り出て)うぬ、命は貰つた!
とキャッシオーを一突き突く。
キャシ
其一突で、あぶなく命を失ふところだつた、著込(きごみ)がもう少し薄かつたら。 (きさま)のを試してくれよう。
劍を拔いて、二三合してロダリーゴーを突く。とロダリーゴーは重傷(おもで)を負つて倒れる。
ロダリ
おゝ、やられた!
此時イアーゴーは闇を幸ひに、そッと背後(うしろ)からキャッシオーの脚を一薙(ひとなぎ)しておいて、 逃げて入る。
キャシ
一生不具者となつてしまつた。……おい〜、助けてくれい!人殺しだ!人殺しだ!
キャッシオー倒れる。
オセローが出る。
オセロ
(傍白)キャッシオーの聲ぢや、イアーゴーが約を遂げたな。
ロダリ
(倒れたまゝで、苦しげに)おゝ、おれァ惡黨だ、惡い事をした!
オセロ
(傍白)たしかにさうぢや。
キャシ
あゝ、助けてくれ、おい〜!把火(あかり)を!外科醫者を!
オセロ
(傍白)奴ぢや。……おゝ、勇敢な、正義のイアーゴー、 それほどまでに俺の恥辱(はぢ)を思ふてくれるか!教へを受けたぞお。…… あばずれ(あま)め、情夫めはもう死んだぞ、(きさま)の非運ももうすぐぢや、 淫賣め、待つてをれ。(きさま)の目の妖術も俺の心から消えッちまうた。 邪淫で汚しをつた(きさま)の寢床を邪淫の血で染めてくれよう。
オセロー入る。
ロドーヰ゛ーコーとグラシヤーノーが出る。
キャシ
おい〜!夜番の者はゐないのか?通行人はないのか?人殺しだ!人殺しだ!
グラシ
何か變事があつたらしい。けたゝましい叫び聲が聞えます。
キャシ
おゝ、助けてくれ!おゝ!
ロドヰ゛
おや!
ロダリ
おゝ、あさましい〜(おれァ惡黨だ)!
ロドヰ゛
二三人の(うめ)き聲が聞える。物すごい晩です。 おびきよせてどうかしようとするのかも知れません、もつと人が來てからにしませう、 けんのんですから。
ロダリ
だれも來てくれないのか?ぢや、俺は血がとまらないから、死んぢまはァ。
ロドヰ゛
おや!
此時、イアーゴー把火(たいまつ)を持ち、拔劍を(ひつさ)げて出る。
グラシ
あそこへ下著(したぎ)一枚ッきりで把火(あかり)と武噐を持つた者が來ました。
イアゴ
誰れだ、そこにゐるのは?人殺しだ〜と呼んでゐるのは誰れだ?
ロドヰ゛
わたしたちは知らん。
イアゴ
呼ばつてるのをお聞きなさらなかつたんですか?
キャシ
こゝです〜!どうぞ助けて下さい!
イアゴ
おやッ、どうしたんだ?
グラシ
ありやたしかオセローどのゝ旗手ですよ。
ロドヰ゛
いかさま。あの勇敢な男。
イアゴ
(把火をかざしつゝ)情けない聲で呼ばつてゐるのは誰れだい?
キャシ
イアーゴーか?おゝ、僕ァ手を負つた、惡黨共にやられた!頼む、どうかしてくれ。
イアゴ
やれ〜、副官どのですか!どうした惡黨めがそんなことをしやァがつたか?
キャシ
一人は、多分、其邊(そこいら)にゐるだらう、逃げ得なかつた筈だ。
イアゴ
おゝ、卑怯な奴らめ……(ロドーヰ゛ーコーとグラシヤーノーに) そこにゐなさるのはどなたです?こゝへ來て手助けをして下さい。
ロダリ
おゝ、助けてくれ!おゝ!
キャシ
あれだ、其一人は。
イアゴ
おゝ、うぬ、人殺しめが!おゝ、惡黨ッ!
走りよつてロダリーゴーの胴を刺す。
ロダリ
おゝ、極惡人のイアーゴーめ!おゝ、うぬ、犬畜生め!
イアゴ
人を暗撃(やみうち)にしやァがるとは!……どこへ行きやァがつたか其兇賊どもは? どうして斯う鎭り返つてゐるんだ(まち)は?……おい〜! 人殺しだ!人殺しだ!……(ロドーヰ゛ーコーらに)君たちは誰れだ? 敵なのか、身方(みかた)なのか?
ロドヰ゛
とくと見た上で評をなさい。
イアゴ
把火(たいまつ)で透して見て)ロドーヰ゛ーコーさまですか?
ロドヰ゛
さやう。
イアゴ
こりや、どうも、失禮いたしました。キャッシオーが惡黨の爲にやられましたんです。
グラシ
キャッシオーが?
イアゴ
兄貴、どんなだね?
キャシ
(すね)を眞二つにやられた。
イアゴ
やれ、まァ、とんだこつた。……諸君、把火(あかり)を願ひます。 俺の下著で其傷を縛らう。
此時ビヤンカが出る。
ビヤン
どうしたんですの。大きな聲をなすつたのは誰れなの?
イアゴ
(皮肉な口吻で)大きな聲をなすつたのは誰れだッて!
此うち、ビヤンカはキャッシオーに目を附けて走り寄つて、跪き、介抱しつゝ
ビヤン
おゝ、まァ、いとしいキャッシオーさん!大事の〜キャシオーさん! おゝ、キャッシオー、キャッシオー、キャッシオー!
イアゴ
おゝ、おのれ、札附きの淫賣めが!……キャッシオーどの、 あんたに手を負はせた奴に幾らか心當りがありますか?
キャシ
(なンに)もない。
グラシ
どうも實にお氣の毒なことだ、わたしは今貴君(あんた)をたづねて居たところなのでした。
イアゴ
脚絆の紐をお貸し下さい。そ、そ。おゝ、椅子輿(いすごし)がほしいなァ、 らくに(かつ)いで往かせるために。
ビヤン
あゝ、どうしよう、今にも息が切れさうな!おゝ、キャッシオーさん、キャッシオーさん!
イアゴ
諸君、手前はあの賣女が此惡事の同類ぢやァないかと疑ひます。…… キャッシオーどの、まァ、暫く引ッ(こた)へておいでなさい。 おい〜、把火(あかり)を貸して下さい。……(ロダリーゴーの死骸の傍に立寄つて) 知つてる顏なのか、さうぢやないのか?……あゝ、こりや僕の友人だ、 同國人のロダリーゴーだ!でないのかな?……いや、たしかにさうだ。…… やれ、やれ!ロダリーゴーだ。
グラシ
え、あのヹニスの?
イアゴ
全く奴でございます。お知合でございましたか?
グラシ
知合!如何にも。
イアゴ
(はじめて心附いたらしく)グラシヤーノーさまでしたか?これは、どうも失禮いたしました。 こんな變事の際ですから、つい、お見それ申しました。相濟みません。
グラシ
いや、お目にかゝつて悦ばしい。
イアゴ
どうだね、キャッシオー?……おゝ、椅子輿(いすごし)を、椅子輿(いすごし)を。
グラシ
ロダリーゴーであるとは!
イアゴ
奴です、全く奴なんです。
此うち、從者らが椅子輿(いすごし)を持つて來る。
けつこう〜、其輿をこゝに誰れか、注意をして、これで(かつ)いで行つて下さい、 僕ァ將軍の侍醫を呼んで來ようから。……(ビヤンカに)おい〜、姉さん、 そんな骨折は止めるがよからう。……キャッシオーどの、こゝに殺されてる男は、 僕の親友だつたんだよ、こいつがあんたに如何(どう)いふ遺恨を持つてゐたんです?
キャシ
遺恨のあらう筈はない、逢つたこともない男だ。
イアゴ
(ビヤンカに)おや、蒼白(まつさを)な顏をしてゐるね?……おゝ、あッちへ(かつ)いで行つて下さい。
キャッシオーもロダリーゴーも(かつ)ぎ去られる。
諸君、まァ、暫くお待ち下さい。……(ビヤンカに)蒼白(まつさを)な顏をしてゐるね! ……(グラシヤーノーらに)あの女の目附の凄さを御覽なさいまし。…… (ビヤンカに)いや、そんなに目を据ゑたつて、今にもつと言はせて見えるから、さう思ふがいゝ。 ……(グラシヤーノーらに)どうか、あれを御覽なさいまし。よくお目をおとめなさいまし。 諸君、如何(いかゞ)です?いや、惡い事は自然と物を言ひますよ、舌は使はなくッても。
イミーリヤが出る。
イミリ
あれ、まァ、どうしたんです?あんた、何事が起つたんですの?
イアゴ
キャッシオーどのが、こゝで、ロダリーゴーと逃げてつた奴らとに暗撃(やみうち)にされなすつたんだ。 すんでに殺されなさる所だつた。ロダリーゴーは死んじまつた。
イミリ
あれ、まァ、あのお方が!あの、キャッシオーさまが!
イアゴ
こりや、淫賣買の應報(むくい)なんだ。イミーリヤ、頼む、 今夜夜食を何處でしなすつたか、キャッシオーどのに聽いて來てくれ。 ……(ビヤンカに)おや、今いつたことを聽くと、(ふる)へるね?
ビヤン
あの方、夜食は、わたし(とこ)でなすつたのよ、けども、 それで(ふる)へてるのぢやないわよ。
イアゴ
おゝ、おぬしの(とこ)で?ぢや、引ッ立てる、一しよに來い。
イミリ
(ビヤンカを見て)お、けがらはしい、淫賣めが〜!
ビヤン
わたしや淫賣ぢやないわよ、そんな惡口をおつしやるあんたとどう變つたこともない眞人間の女なんです。
イミリ
わたしとかはつたとこがない!おゝ、(けが)らはしい〜!
イアゴ
諸君、あッちへ參つてキャッシオーどのゝ樣子を見ませう。……(ビヤンカに)姉さん、 まだおぬしに聽きたいことがある、一しよに來な。……イミーリヤ、 急いで砦へ行つて此事を殿さんと奧さんにお知らせしてくれ。 ……(グラシヤーノーらに)どうぞお先きへ。……(傍白)事が成るか成らないかの(さかひ)は今夜だ。
皆々入る。

更新日: 2003/02/16

オセロー:第五幕 第二場


第五幕

第二場 城内の寢室。

デズデモーナが床の上に眠つてゐる。その傍に燭火(ともしび)。 オセローが忍び足で出る。
オセロ
(情けなげに)これが爲なんぢや、これが爲なんぢや、全く。……あゝ、 清らかな星たちよ、どうか、口に出させないでくれ!……これが爲なんぢや全く。 でも、彼女(あれ)の血は流すまい。雪よりも白い、 雪花石よりも滑ッこい彼女(あれ)皮膚(はだ)にや傷はつけまい。 でも、生しちやァおかれん、生かしておきや、此上又、何度も男をおとしいれをるぢやらうから。 燭火(あかり)を消して、それから、此燭火(あかり)を消すんぢや。やい、 燃えとる燭火(あかり)の奴め、(きさま)は消したつても、又、 元通りにすることが出來る、あゝ、惜しいことをしたと思や。けれども (とデズデモーナの寢顏をしげ〜と見詰めて)(きさま)燭火(あかり)は、 巧妙至極に造られた、自然の傑作である此燭火(あかり)は、 一度消してしまうたりや、又と其光明を燃え立たせプロミシュースの火なんかはどこにもないんぢや! 一度摘んでしまうたら、此薔薇は又とは咲かせることが出來んのぢや。 必ず萎れッちまふ。枝に在るうちに香氣(にほひ)()いでおかう。
とデズデモーナを接吻(キツス)して。
あゝ、かうばしい息ぢや、正義の神だつてもこれを()いだなら其劍を折りかねまいわい! もう一度、もう一度。……死んでも此通りでゐてくれい、殺してからも可愛がりたい。 (又接吻して)もう一度、これが最後ぢや。あゝ、こんなに甘うて〜、 而も此樣(こん)なに毒のある奴が又とあッつらうか?……泣かずにやをられん。 が、此涙は殘酷な涙ぢや、いや、此涙は神聖なんぢや、かはゆいから罰するんぢや。 ……や、目を覺すわ。
デズデ
だァれ?……オセローどのですか?
オセロ
うん、おれぢや。
デズデ
まだお()らないんですか?
オセロ
デズデモーナ、今夜の祈祷は濟んだか?
デズデ
はい、すましました。
オセロ
天のお慈悲をまだ能う願ふてをらん犯罪(わるいこと)があるなら、今のうちに、 急いで願ふがえい。
デズデ
あら、まァ、なぜ?なぜそんなことをおつしやるの?
オセロ
さ、早うせい。俺はそこいらを歩いとるから。覺悟の出來とらん者を殺したくない。 いや、決して!靈魂を殺したくはない。
デズデ
え、殺すとおつしやるの?
オセロ
うん、殺すんぢや。
デズデ
ぢや、神さま、どうぞわたしをお赦し下さいませ。
オセロ
アーメン!手前も心からお祈りします。
デズデ
さうおつしやるやうぢや、よも殺すお積りぢやないでせう。
オセロ
ふむ!
デズデ
でもわたし怖いわ!そんな風に目をぎよろつかしていらつしやる時は、 何か怖ろしいことをなさる時ですから。怖いが自分には解らない、 惡い事をした覺えなんかないんだから。でもわたし何だか怖いわ。
オセロ
犯した罪を考へるがえい。
デズデ
貴郎(あなた)をいとしいと思ふ以外にどういふ罪をも犯しちやゐません。
オセロ
さうぢや、その爲に殺すんぢや。
デズデ
そりや非道です、いとしいと思つてゐるから殺すとおつしやるのは。 あゝ、ま、なぜ其樣(そんな)に下脣をお噛みになるんですの? 何か殘酷な事を思つていらつしやるの、總身を顫はせておいでになるのは、 それがその前表(まへじらせ)なんですか?でも、よもや、わたしを殺すんぢやないでせう。
オセロ
しッ、しづかにせい!
デズデ
はい。(しづかにします。)どうしたんでございますの!
オセロ
俺の大事の、あの、お前に遣つたハンケチを、あれをキャッシオーに遣つたらう?
デズデ
いゝえ〜、決して遣りやしません!呼びにやつて、あの人に訊いて下さい。
オセロ
氣をお附けなさい、死際の寢床にゐるんぢや。僞りの誓言なんかしなさるな。
デズデ
はい。だつてまだわたし死にやしません。
オセロ
いゝや、もう直ぐ死ぬんぢや。ぢやから有り(てい)罪惡(つみ)を自白せい、 たとひ一つ〜誓言をして否認しても、 (うめ)き苦しんでゐる俺の此信念を除くことも鎭めることも出來やせんわい。 もう(きさま)の命は無い。
デズデ
ぢや、神さま、どうぞわたしをばお助け下さいませ!
オセロ
アーメン!手前もお祈りします。
デズデ
ぢや、わたしを助けて下さる?わたしや(つひ)ぞ不埒をした覺えなんかありません。 キャッシオーさんを贔屓にしたのは、神さまがお許しなされますやうな世間一般の人情からしたのです。 物なんか()げたことは決してありません。
オセロ
うんにや、奴があのハンケチを持ッとるのを(たし)かに見た。 おのれ、僞誓(ぎせい)をしをるか!俺の此心が石になるわ。 正義への犧牲にと思ふてゐたのに、斯うなりや、虐殺する氣にもなるわい。 あのハンケチを(たし)かに見た。
デズデ
ぢや、拾つたんでせう、わたしは遣りやしません。呼びにやつて眞實(ほんと)の事を言はせて下さい。
オセロ
もう言うてしまうたんぢや。
デズデ
えッ、何て言ひましたの?
オセロ
(きさま)を物にしたと。
デズデ
え、物にッて?どういふ風に?不義密通?
オセロ
うん。
デズデ
そ、そんな事を言ふ筈はありません。
オセロ
奴の口はもう(ふさ)がッちまうた。誠實なイアーゴーが處分をした。
デズデ
おゝ、ぢや、あの、もう亡くなつたんですか?
オセロ
奴の頭髮(かみのけ)が一本々々に性命を有ッとらうと、 俺の此復讐心は(あきた)らんと思ふくらゐぢや。
デズデ
まァ、情けない!あの( ひと)(むじつ)の罪で殺されたんです。 それで以て此身までも破滅となつた。
オセロ
うぬ、淫婦めが!俺の目の前で彼奴(あいつ)の爲に泣きをるのか、うぬ?
デズデ
おゝ、わたしをば追ひ出して下さい、殺さないで!
オセロ
えッ、下にゐをれ、淫婦め!
起き上らうとするデズデモーナを手荒く床上へおさへ附ける。
デズデ
明朝(あした)まで待つて下さい。せめて今夜だけは生しといて下さい!
(もが)くのをおさへ附けて。
オセロ
うぬ、抵抗(あらが)ひをるなら……
デズデ
せめて、もう半時間!
オセロ
かうなつた以上、猶豫はせん。
デズデ
でも一言(ひとこと)祈祷(いのり)をするうち!
オセロ
もう遲い。
敷布をかぶせてデズデモーナを壓殺(おしころ)す。暫時沈默。と奧で()を叩く音。
イミリ
(奧で)殿さま〜!もし〜!殿さま〜!
オセロ
やッ、あの物音は?……まだ死なん?まだ死にきッちやをらんか? 酷いことをしても慈悲心はある、長う苦しませておきたうない。……かう、かう。
(古いテキストに、こゝでオセローが短劍でデズデモーナを刺すといふトガキの書き添へられたのがあつて、 それが俳優が演ずる際の一つの型となり、最近まで傳はつてゐる。或ひは、 單に窒息の爲に死んだものとすると、後に暫時でも息を吹き返して物を言ふのが不自然に思はれるから、 いつとなくさういふ型が始められたのかも知れない。)
イミリ
(奧で)もし〜!もし〜!殿さま〜!
オセロ
(ぎよッとして)ありや、イミーリヤぢや。……(奧にむかつて)今すぐ。 ……(床を見て)死んじまうた。……キャッシオーの死んだことを知らせに來をつたんぢやらう。 ……つい、今音がしたが。……やッ!もう動かん?墓のやうに、(しづ)かになつた。 ……呼び入れようか?可いか知らん?……やッ、また動いたやうぢや。……いゝや。 ……どうしたらえいかな?……入つて來たら(さい)に物を言ひをるぢやらう。 (さい)に!あゝ、(さい)!だれの(さい)ぢや!……俺にはもう(さい)はないんぢや。 ……おゝ、堪らんわい!おゝ、つらや、つらや!今こそどえらい月蝕や日蝕が始り、 さうして其天變で、此地球が驚いて、大きな口を開きをるでもあらう。 (大地震が起るかも知れん。)
イミリ
(奧で)申し上げたいことがあるんです。もし〜、殿さま〜!
オセロ
つい忘れとつた。さ、さ、入れ〜。……一寸待つてくれ、今直ぐに開ける。 ……(とばり)を引いておかう。……
と床の(とばり)を引いてデズデモーナの死骸を隱し、やがて扉口(とぐち)の錠を外し、 戸を開く。
何處にをる?用とは何ぢや?
イミーリヤ狼狽の(てい)で走り入る。
イミリ
おゝ、殿さま、あッちで非道な人殺しがございました!
オセロ
え、今?
イミリ
つい今でございますの。
オセロ
そりや月の位置(ゐどこ)が狂うて、(いつも)よりも下界に近づいとるから、 それで人間が亂心するんぢや。
イミリ
キャッシオーさんがロダリーゴーといふ年の若いヹニスの人をお殺しなすつたんです。
オセロ
なに、ロダリーゴーが殺された!キャッシオーも殺されたか?
イミリ
いゝえ〜、キャッシオーさんは殺されなさりやしません。
オセロ
なに、キャッシオーは殺されん!……ぢや、調子ッ外れだ。(手筈が狂つた。) 甘いと感じたのが(復讐の味が)苦しくなるわい。 (心地よいと思ふてゐるのに、あゝ、無念な!)
此途端に、デズデモーナが息を吹き返して、息もたえ〜゛ながら
デズデ
あゝ、何の覺えもないのに!覺えもないのに!
イミリ
あれ、何です、あの泣き聲は?
オセロ
え、あの、とは!何が?
イミリ
あゝ、まァ!ありや(たし)かに奧さまのお聲でした。……
寢床(ベツド)へかけよつて、(とばり)を開いて見て
あれい!だれか來て下さい!だれか來て下さいよう!おゝ、奧さま、もう一度お口をおきゝ下さいまし! デズデモーナさま!おゝ、もし、何とかおつしやいまし!
デズデ
何の(とが)もなくッて死ぬんです、わたし。
イミリ
おゝ、ま、だれが此樣(こん)な目にお逢はせしたんです?
デズデ
だァれもしないの、わたしがわるいのよ。さよなら。殿さんへよろしく言ッとくれ。 おゝ、さよなら!
とデズデモーナ死ぬ。
オセロ
どうして殺されたんぢやらうな?
イミリ
あゝ、それが誰れに解りませう?
オセロ
俺がしたんでは無いと自分で言うたらう?
イミリ
はい、さうおつしやいました。此通りを知らせて來にやならない。
オセロ
女めは虚言(うそ)()きをつたから、焦熱地獄へ落ちおるぢやらう。 殺したのは俺ぢや。
イミリ
おゝ、ぢや、奧さまは尚ほと天人です、あんたは尚ほと惡魔です!
オセロ
不埒を働きをつた淫婦なんぢや。
イミリ
いゝ加減なことをおいひなさい、あんたは惡魔です。
オセロ
彼奴(あいつ)は水性の浮氣女ぢや。
イミリ
さういふお前さんは火の性だ、粗暴な人です、奧さまを不義者だなんて! おゝ、あの、天人のやうな、貞實なお方を!
オセロ
キャッシオーめと姦通しをつた。きさまの亭主に聞け。おゝ、地獄のどん底へまでも墮ちようわい、 若し正當な理由が無うて、俺が如是(こんな)事をしたんならば。 くはしい事は亭主に聞け。何もかも善う知つとる。
イミリ
うちの人に!
オセロ
(きさま)の亭主にぢや。
イミリ
奧さまが不義をなすつたつて?
オセロ
うん、キャッシオーめと。萬一にも姦通なんかしてをらなんだのなら、 たとひ無瑕(むきず)の黄金石で以て天が別の世界を造つて、 彼女(あれ)と取換へッこにしようとせられても、賣り渡すこッちやないんぢや。
イミリ
(呆れて)うちの人がッ!
オセロ
うん、眞先に知らせたのは彼れぢや。誠實な男ぢやから、 不義非道を(むさ)い〜蛆蟲の滑液(ぬめり)ほどにも憎むんぢや。
イミリ
うちの人が!
オセロ
くどいわい!先刻(さツき)から(きさま)の亭主がというとるのに。
イミリ
おゝ、ま、奧さん、惡計(わるだくみ)が眞實な心をいゝ嘲齋坊(てうさいばう)にしたんですよ! ……うちの人が奧さまが不義をなすつたと。
オセロ
うん、(きさま)の亭主がぢや。解つたか?俺に忠實な、(きさま)の亭主がぢや、 あの誠なイアーゴーがぢや。
イミリ
若しそんなことをいつたのが本當なら、あの人の極惡な魂ひは日に一分づつ一厘づつ腐ッちまふがいゝ! まッかな大譃吐(おほうそつき)!どうして、奧さまは(いつ)そ惚れ過ぎてゐなすつたんだ、 此汚い、見ッともない男に。
オセロ
えッ!
イミリ
やい、思ふ存分惡い事をしやァがれ。ほんとに物體至極もない事をしやァがつた、罰當りが、 こんな(結構な)奧さんを有つてゐたのも物體ないことだつたが。
オセロ
だまれ!默らんと爲にならんぞ。
と劍を拔く。
イミリ
わたしを如何(どう)する力なんかあるもんか、お前に?やれ、馬鹿ッ! 土くれ同然の唐變木!とんが事をしやァがつた……そんな劍なんか怖いものか! 此事を觸れ散らして來よう、二十たび殺されたつてかまふものかね。 ……だれか來て下さい!あれい〜!だれか來て下さい!來て下さい! ムーアめが奧さまを殺したんです!人殺しです!人殺しです!
扉口(とぐち)へ駈けていつて、大きな聲でわめく。其間、 オセローはそれを制しようともせず、デズデモーナの寢床(ベツド)に突ッ伏して(うめ)いてゐる。
とモンターノー、グラシヤーノー、イアーゴーらが大あわてで奧から出る。
モンタ
何事が起つたのです?(オセローに)將軍、どうなすつたのです!
イミリ
おゝ、イアーゴーどの、來なすつたの?あんたはほんとにいゝ氣なもんですよ、 (ひと)のした人殺しの罪を脊負はされて平氣でゐなさるとは。
グラシ
どうしたのです?
イミリ
(イアーゴーに)あんた、男なら、此奴(こいつ)に、そりや虚言(うそ)だと言つて下さい。 此奴(こいつ)はあんたが此奴(こいつ)に奧さんが不義をしてゐなさると言ひつけたと言ふんだよ。 そんな事はあらう筈はない、あんたはそんな惡黨ぢやありやしない。さ、言つて下さい、 わたしや胸が一ぱいになつてゐる。
イアゴ
さうだと思つたから言つたんだ、御自分でも成程、さうもあらうと、 お思ひなすつたことを言つたまでだ。
イミリ
でも、まさか、奧さまが不義をしてゐなさるなんてことはお言ひぢやあるまい?
イアゴ
言つた。
イミリ
ま、酷い、とんでもない虚言(うそ)を!ほんとに、まァ、虚言(うそ)虚言(うそ)、 非道な虚言(うそ)を。キャッシオーさんと密通なすつたなんて!…… 相手はキャッシオーさんだと言つたの、あんた?
イアゴ
うん、さういつた。さ、もう默ッとれ。
イミリ
いゝえ、默らない、言はずにやァゐられないよ。 奧さまは此床中に殺されておいでなさる……
皆々
おゝ、とんだこと!
イミリ
あんたの言つた事が(もと)で、殺されなすつたんだよ!
オセロ
いや、諸君、御不審なさるにや及ばん。其通りです、實際。
グラシ
いや、どうも、竒怪千萬な事!
モンタ
おゝ、何ともはや、驚き入つた御所行!
イミリ
わるだくみです、わるだくみです、わるだくみです!……あゝ、 思ひ當ることがある。おゝ、きッと、こりやわるだくみだ!…… さうかとも思つたッけが。……斯う悲しくッちや、わたし死んじまふかも知れない。 ……おゝ、わるだくみだ、わるだくみだ!
イアゴ
えィ、氣でもちがつたのか?さ、家へ歸れ。
イミリ
皆さま、どうぞ物を言はせて下さいまし。夫に從ふのが當然ですけれども、今は聽きませn。 ……イアーゴーどの、わたしやもう(うち)へは歸るまいよ。
此うちに、オセローは、又更に苦悶の思入れで寢床(ベツド)の上に突ッ伏して泣き(うめ)く。
オセロ
おゝ!おゝ!おゝ!
イミリ
さうよ、さう突ッ伏して(うめ)きやァがるがいゝ、おのしは此世の中に生きてゐた一等可愛らしい、 何の罪も無いお人を殺しやァがつたんだ。
オセロ
(起ち上つて)いや、彼女(あれ)は姦通をしをつたんぢや!…… (グラシヤーノーに)叔父さん、つい、あんたとは氣が附かんぢやつた。 姪御はあそこに()とりまする、其息の根を、つい、先刻、止めましたのは、此手です、全く。 怖ろしい殘酷な行爲とも見えるでありませう。
グラシ
あゝ、憫然(かはい)さうなデズデモーナ!父御(てゝご)が先きへ亡くなつたのはまだしもであつた。 お前の結婚で、父御(てゝご)憤激(おこら)せられ、 其爲に(おい)の玉の緒が眞二(まツぷた)つに切れる(もと)ともなつたぞよ。 若し(ながら)へてをられて、此有樣を見られたなら、心が亂れて、自暴自棄となつて、 果は善心を呪ひ退(しりぞ)け、如何(どん)な墮地獄罪を犯されまいものでもなかつた。
オセロ
かはいだうなことでありますが、女めがキャッシオーと千度も不しだらを働きをつたことは、 イアーゴーがよく存じとります。キャッシオーが自白したのであります。 女めは手前が愛の最初の記念にとて(つか)はした品を姦夫に與へて情けに酬いをつたです。 現に、男がそれを持ッとるのを見屆けました。ハンケチです、父が、其昔、おふくろに贈つたものです。
イミリ
(いよ〜夫がした事だと覺つて)おゝ、神さま!おゝ、どうしたらよからう!
イアゴ
こら、しづかにしな。
イミリ
いゝえ、言ひます!言ひますよ!しづかにしろッて!いゝえ、默つちやゐない、 北ッ風のやうに自由勝手に言ッちまふのよ。いゝえ、天が、人間が、惡魔が、何が來て叱つたつて、 (どな)つたつて言はないでおくものかね。
イアゴ
馬鹿を言はないで、早く歸れ。
イミリ
いゝえ、歸らない。
これにてイアーゴーは劍を拔いて、いきなり、イミーリヤを刺さうとする。 グラシヤーノーが目早く見附けて遮る。
グラシ
何をする!女を劍で?
イミリ
おゝ、おのれ、ムーアの大馬鹿野郎め!おのしが今言つたハンケチてィのは、わたしが或時 ……頼まれてゐたから……拾つて我夫(うちのひと)にやつたのよ、あんな物を、 なぜあんなに熱心(むき)になつて盜んでくれと頼むのか、と不審に思つちやゐたけれど。
イアゴ
うぬ、惡黨女め!
イミリ
あのハンケチをキャッシオーさんにお遣りになつたつて!いゝえ〜、とんでもないことを! わたしが拾つて我夫(うちのひと)に遣つたんだよ。
イアゴ
畜生ッ、虚言(うそ)()け!
イミリ
いゝえ、決して虚言(うそ)ぢやない。皆さま、決して虚言(うそ)ぢやございません。 ……(オセローに)おゝ、人殺しの大馬鹿者め!如是(こんな)大馬鹿者に、 ほんとに〜物體ない、あんな結構な奧さまをば!
オセロ
(イアーゴーを睨んで)天に石は無いのか、雷の石の外にや?うぬ、極重惡人!
(こら)へかねて拔劍してイアーゴーに走りかゝらうとする。 それをモンターノーがさゝへて、劍をもぎ取る。 此途端にイアーゴーは背後(うしろ)からイミーリヤを一刺し刺し、そのまゝ、逃げて入る。
グラシ
やッ、女が倒れる。彼奴(あいつ)めが妻女(にようぼ)を殺しをつたに相違ない。
イミリ
さうです〜。……おゝ、わたしを奧さんの側に()かして下さい。
グラシ
(さい)を殺しておいて逃げてゆきをつた。
モンタ
おッそろしい惡黨だ。……これを、此劍をお取り下さい、今ムーアの手から奪ひとつたんです。 あんたは外で戸口をばお守り下さい。ムーアを外へ出す位ゐなら殺したはうがよろしいでせう。 手前は彼奴(あいつ)を追ひ掛けませう、あの大惡黨めを。
モンターノーとグラシヤーノーとは戸外へ入る。
オセロ
勇氣までも失ふてしまうたか、どんな青二才でも、此手から劍を取ろをる。 あゝ、(しか)し、人間の資格が(すた)つた身ぢや、武人の名も(すた)る筈ぢや! かまうことァない。
イミリ
(息もたえ〜゛ながら)奧さま、あの唄が前知らせになりましたのねえ! ねえ、もし、わたしの聲が聞えますの?白鳥の眞似をしてわたしや唄を(うた)ひながら死にますのよ。 (歌)柳や、柳や、柳や!……ムーアどの、奧さまは貞女でいらしつたのに、酷いムーアどの、 お前さんに惚れきつてござらつしやつたのに。……どうぞ天へ昇られますやう、 本當(ほんと)の事を申してゐるのですから。思つてる通りを言つて、死ぬんぢや、死ぬんぢや……
といひ〜イミーリヤ息絶える。
オセロ
閨房(ねま)にはもう一本劍がある、スペインの氷河で鍛うた劍が。…… (と帳内を搜して)おゝ、こゝにある。……(戸外にむかつて)叔父さん、外へ出してください。
グラシ
(戸外で)強ひて出ようとすると、一命にかゝはりますぞ。 武噐を持つてござらんから自由がきゝますまいぞ。
オセロ
ぢや、先づこれを御覽なされた上で御返答をなさい。 でないと赤手(すで)ぢやけれど隨分お相手になりますぞ。
これにてグラシヤーノーが出る。
グラシ
どうしたのです?
オセロ
御覽なさい、武噐は持ッとりますぞ。これ以上の武人の腰に帶ばれたことはありません。 手前は此痩腕と此劍とで、貴君(あんた)一人どころか、 其數十倍の障碍をも見事切り開いて(まか)り通つたこともあつたですぞ ……が、おゝ、無益な高言!運命に克つことは出來ん!……もう駄目ぢや、もう。…… 御心配なさるな、武噐を持ッとらうと。これがわしの一生の旅の果ぢや、 わしの最後の船著(ふなつき)ぢや。……驚いて退却(しりごみ)をなさるか? そりや無用な御心配ぢや。わしの胸へ、つい藺草(ゐぐさ)を一本でもお向けなさりや、 オセローは退却します。……あゝ、何處へ行かう、此オセローは?…… (跪いてデズデモーナの(しがい)に接近して)どんな顏をしてゐる? おゝ、不仕合せな奴!襯衣(はだぎ)のやうな青白うなッとる! 大審判(おほさばき)の日に一しよになつたなら、 其顏の色が俺の魂ひを天上から奈落へまで()(おと)して、 鬼共にそれを掴ませるでもあらう。おゝ、冷たい。冷たくなッとる! おのしの貞操のやうになう。……おゝ、極重惡人!……おゝ、夜叉よ、惡魔よ、 俺に此天人の姿を拜ませんやうに笞で以て追ッ拂つてくれ!業風(がふふう)でで俺を吹き廻してくれ、 硫黄の火で(あぶ)つてくれ、火の海へ浸してくれ!おゝ、デズデモーナ! デズデモーナ!もう死んでしまうた!おゝ!おゝ!おゝ!
此時、ロドーヰ゛ーコーとモンターノーが、椅子輿で()かれてゐるキャッシオーと共に出る。 つゞいて役人共がイアーゴーを召捕つて引ッ立てつゝ出る。
ロドヰ゛
不仕合せな粗忽人は何處に居られますな?
オセロ
そりや、オセローというてゐた男ぢや。こゝにゐます。
ロドヰ゛
毒蛇めは何處に居ます?こゝへ引出しなさい。
オセロ
(イアーゴーの足を見詰めて)足元を見とるが、小説(つくりごと)と見える。 (傳説のやうに、足の指先きが二股になつちやァゐない。)うぬが果して惡魔なら、 殺すことは出來ん筈ぢや。
唐突(だしぬけ)に走りよつてイアーゴーを刺す。皆々驚いて引分ける。
ロドヰ゛
劍を()ぎ取つておしまひなさい。
イアゴ
手傷ァ負つたが、急所ぢやァない。
オセロ
それを殘念ぢやとは思はんわい。うぬ、わざと生しときたい、 俺は死ぬはうが幸福(しあはせ)ぢやと思ふとるから。
ロドヰ゛
以前は善人(いゝひと)でおあんなすつた貴君(あんた)なんだが、 こんな惡計(わるだくみ)に罹られた只今となつては、おゝ、オセローどの、 何と申してよろしいやら?
オセロ
何となりと。正義の爲に殺人(ひとごろし)をしたんぢやとさへ傳へて下さりや滿足です、 私怨の爲ではない、正義の爲にしたのであります。
ロドヰ゛
(イアーゴーを指して)此奴(ほゞ)悪計(わるだくみ)を白状いたしました。 あんたは、此奴と相談の上で、キャッシオーを殺さうとなすつたのですか?
オセロ
さやう。
キャシ
將軍、お憎しみを受ける覺えなんかありません。
オセロ
今はさう思ふ、すまなかつた。……(ロドーヰ゛ーコーに)其人鬼めに()うて見て下さい、 どういふわけで(わし)を靈肉共に陷れようとしをつたかを。
イアゴ
問ふのは無用だ。知るだけの事は知つてゐなさるんだ。もうこれからは物は言はない。
ロドヰ゛
なに、もうせないのか?
グラシ
今に拷問して言はせて見せよう。
オセロ
(イアーゴーに)はて、(なンに)もいはんのが身の爲ぢやらうて。
ロドヰ゛
(オセローに)まだ御存じぢやありますまいから。先刻からの始末を、お話しませう。 ……(と書面を出して)これは殺されたロダリーゴーの衣嚢(かくし)にあつた書状です、 それからこゝに、もう一通。 これにはロダリーゴーの手でキャッシオーどのを暗殺する手筈が(したゝ)めてあります。
オセロ
おゝ、惡黨!
キャシ
おゝ無慚とも非道とも!
ロドヰ゛
また別に不平たら〜゛の書面が一通、これもロダリーゴーの衣嚢(かくし)から出たのです。 多分、あの極重惡人へ遣はす爲に書いておいたものらしいのですが、 まだ遣はさんうちにイアーゴーが逢つて、始末が附いたものと見えます。
オセロ
おゝ、非道な奴!……キャッシオー、どうして君はあのハンケチを手に入れたんぢや?
キャシ
自分の部屋で拾つたのです。つい今、奴が白状した所によりますと、 おのが望みを遂げる手段に故意(わざと)落しておいたといふ事です。
オセロ
おゝ、馬鹿であつた俺は!馬鹿であつた!馬鹿であつた!
キャシ
尚ほ此ロダリーゴーの書面中にイアーゴーを非難した文言があります、それに()りますと、 夜警の晩にロダリーゴーが手前へ喧嘩を吹き掛けたのは、あのイアーゴーの教唆なのです。 その爲に手前は御勘氣を蒙つたのでした。先刻死んだと思つてゐたロダリーゴーが息を吹き返して、 イアーゴーが彼れを害した事、教唆した事等を申し立てましたのです。
ロドヰ゛
(オセローに)此上は此室(こゝ)を立出でて、吾々と御同行なさらねばなりませんぞ。 あんたの職權はお取上げになるのです、 さうしてキャッシオーどのが代つて此サイプラスを治められることになるのですから。 ……(イアーゴーを見返つて)此奴めは、何か長く苦痛をさせる好い工夫がありや、 さういふ嚴刑に處することにしませう。……あんたは囚人として獄にお下りにならんけりやならん、 罪科の性質をヹニスの政廳(せいちやう)へ申逹すますまでは。……さ、罪人を引ッ立てい。
オセロ
いや、しばらく。其前に少々申したいことがあります。手前が國家に對して幾らか功勞のあつた事は、 當局に於て御承知の筈です……いや、それはもう申すまい…… 只だ御書面で手前の不仕合せの一條を本國へお申し送りの際、 願はくは、(いさゝ)かもお庇ひ下さることなく、 又、(いさゝ)かも誣告(ふこく)せられるやうなこともなく、 どうか、有のまゝにお傳へ下されたい、思慮分別は足りませなんだが、 十分に其妻を愛してゐた男であり、決して容易に人を疑はん男ではあつたが、 (たばか)られて心が亂れ、無智の印度人の如くに、 其全族にも()へがたい眞珠を我が手で()げ捨てましたと、又、 曾て泣いたことのなかつた眼から、意氣地なく、 アラビヤに生える護謨(ゴム)の木のやうにぽた〜(しる)を埀しましたとお傳へ下さい。 さてさうお書きになつたら、更に又、斯ういふことをお書き添へ下さい。 其以前、アレッポーにをりましたところ、頭帕(ターバン)を被つとるトルコ人めが、無禮にも、 ヹニス人を打擲すて我が國を誹謗いたした際、手前は其外道めの喉元を引ッ掴んで、 (ちやう)如是(こんな)風に……
と隱し持つてゐた短劍で唐突(だしぬけ)に我が胸を刺して
突き殺しましたとお書き添へ下さい。
ロドヰ゛
おゝ、無慚至極な段落!
グラシ
お打合はせしておいたこともすッかり無效(むだ)となつてしまひました。
オセロ
(デズデモーナに(しがい)に向つて)(おまへ)を殺す前に接吻(キツス)をした。 かうして(といひ〜屍の上へ伏し重なりながら)自殺して、接吻(キツス)しつゝ、 死ぬより外に爲方(しかた)がない。
といひ〜息絶える。
キャシ
勇敢な人ですから、或ひはこんなことがありやしないかと思つてゐたんですが、 武噐を持つてをられようとも思ひがけませんでした。
ロドヰ゛
(イアーゴーに)やい、スパルタ犬め、苦痛や飢や荒海なんかよりも怖ろしい惡黨め! 此床に上の無慚な積荷を見ろ。悉皆(みンな)(きさま)()たことだ。 あゝ、目もあてられない。掩ひ隱しておきあんせう。(と帳を引きつゝ)…… グラシヤーノーさん、あんたは此家にお留り下すつて家財一切を御押收なさい、 あんたが相續なさるべきですから。……(キャッシオーに)總督、 此惡漢の審判はあんたに、お託し()ます、時も、場所も、拷問に爲方(しかた)も。 おゝ、必ず御勵行下さい!手前は直ぐさま船に乘り込み、 此慘事の顛末を本國の當局へ傳へることにいたしませう。
皆々入る。
オセロー(完)


更新日: 2003/02/16