オヂュッセーア:目次


土井晩翆 (1871-1952) 譯,ホーマー(Homer, 紀元前九-八世紀) 著 「オヂュッセーア(Odyssey)」。
底本:オヂュッセーア,冨山房,昭和十七年十二月二十八日印刷,昭和十七年十二月三十日發行, 昭和十八年八月三十一日再版發行。


オヂュッセーア

ホーマー 著

土井晩翆 譯

目次

卷頭圖

插圖


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:序


詩聖ホメーロスの作 -- 或はホメーロスの史的存在を否定する學者の説によれば多數人の合作 -- 『イーリアス』及び『オヂュッセーア』に關して私は一昨年刊行の『イーリアス』譯の序中に卑見を述べた。

アンドルー・ラングはHomer and the Epicの最後に『二大敍事詩はホメーロスと呼るゝ一大詩人に相違なし』と斷じた。 私は今日この結論を第六感的に肯定する。 即ち兩篇は三千餘年の昔の大詩人がトロイア戰爭及び其他に關する幾多の神話傳説歌謠等を天才の鎔爐中に淘汰し集大成したものと思ふ。 一般に時代を劃する大作は集大成である、東洋に於て唐代の杜甫は集大成の模型である。

ホメーロスの兩篇に後世の添加があつたことは明かである。『イーリアス』第二歌の舟師聯名、 第十歌のドロネーア插話、第十八歌の海の仙女の聯名は其例である。 『オヂュッセーア』の第二十四歌も同樣とアリスタルコスが斷定した。

トロイア戰爭がそれだけ史實に確實か、永遠の謎である、が戰爭そのものゝあつたことは間違ない。 此戰の若干部が『イーリアス』の題目である。此戰の終了後、ギリシャ艦隊が分れ分れに歸港する中、 著名の一將軍、イタケー島王オヂュシュウス -- ラーエルテースの子でペーネロペーアの夫、 テーレマコスの父 -- が漂浪十年の後、微服して國に歸り、 不在中狼藉を働いた奸人の一團を斃す物語が『オヂュッセーア』の内容である。

前述の如く『イーリアス』と同樣に『オヂュッセーア』は古來の傳説神話歌謠等の渾然たる集大成である。 兩篇は西歐最美最高の詩として三千年に亙つて愛誦され珍重されて今日に及んだ。 其飜譯は無數である。其中著名のチャップマン或はポープの譯と雖も完美ならずといはれる。 キングスリィが"The mighty thunder-roll of Homer's verse"と讚美して『ハイペーシヤ』の中に註解を下し、 『チャップマン或はポープの成しかねたことを試みるのは僭越である。 ホーマアを英文に立派に直すことは全く不可能である、 その多くの理由の一は原作中の平々凡々の語も雄大の音調を有するのを英語に直し難いからである。 手當り次第に一例を取らばboos megaloio boei[e_]nをgreat ox's hideと直す國語を以て、 どうして原作の音律を傳へ得ようぞ』と説いた。 まして語脈文脈の全然相違する日本語を以てギリシャ原典を韻文化することは至難である。 しかし『イーリアス』譯と同樣に私は本篇のheroic hexameter毎行を七五複行に直し、 原典と等しく一萬三千餘行に譯了した。西歐文化の東漸以來、ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、 ユーゴー等の飜譯は無數に刊行されたが、最高のホメーロスの韻文律はまだ無い。 敍事詩は韻文に譯すべしと信ずる私は微力を盡して、こゝに陳呉の役を勤めた。 原典の黄金を瓦礫に變へたことは恐縮の極である。謹んで今日及び後世の批判と叱正を仰ぐ。

昭和十七年三月

仙臺に於て 土井晩翆

注:三笠書房版(世界文學選書18,『オデュッセーア』,昭和二十五年一月十五日印刷,昭和二十五年一月二十五日發行)に書かれた、 昭和廿四年十二月四日付けの序では、「謹んで今日及び後世の批判と叱正を仰ぐ。」の後に、次の文が追加されている。

この度三笠書房より出版するに當り、折惡しく譯者病床にあり、そのため、校正その他一切を出版社に一任す。 他日、萬一生き殘つたならば更めて訂正することあるべし。

更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:梗概


梗概

ギリシヤの西岸に近いイタケー島の王オヂュシュウスが、 美人ペーネロペーアと婚して獨子テーレマコスを生める間も無く、 列王諸侯と共にトロイアに遠征する。十年に亙る戰の後、 トロイア城が陷落して國王プリアモスはじめ將士悉く亡び、ギリシャ諸將はそれぞれ凱旋して故郷に歸る。 オヂュシュウスは部下を率ゐて歸國の途にキコーネス族を襲ひ、 初めは勝つたが遂に敗れる(第一冐險)。北風彼らを驅り、ギリシヤの南端マレーアに運ぶ。 そこから直ちに歸國したなら、ペーネロペーアは求婚者に煩されず、愛兒テーレマコスは十歳の小兒であつただらう。 しかし暴風が再び、彼らを襲つて十日の間海上を漂はせ、十一日目にロートス(草)常食者の郷に着かせる(第二冐險)。 つづいて一同は獰猛のキュクロープス族の地に着き、 そこで屠殺される從者の仇討にポリペーモスの隻眼を潰す(第三冐險)。 次に風を司どるアエオロス王の島に着き、欵待一ヶ月の後出航し、從者の無謀の故に難に逢ふ(第四冐險)。 數日の後喰人種ライストリゴーネ族の地に着き、襲はれて從者の大多數は亡され、 殘りは只一艘の舟に乘じて逃れる(第五冐險)。逃れて妖姫キルケーの島アイアイエーに着き滯留一年(第六冐險)。 次にハイデースの司祭する冥土に行きて種々の亡靈に逢ふ(第七冐險)。 次に舟を進めて妙音の妖女セーレーネス(第八冐險)及びスキュルレーとカリブデスの難(第九冐險)に逢ふ。 次にトリイナキエーに着き、飢に迫られ神牛を屠殺した罰として一切の從者と舟とが亡ぶ(第十冐險)。 オヂュシュウス唯一人舟の破片に身を託して神女カリュプソーの島オーギギエーに着く、 神女彼を戀して八年間仙窟に抑留する(第十一冐險)。 此間イタケー島に於てはトロイア陷落後第六年迄は平穩。 その後近隣の若き貴族らペーネロペーアに再婚を迫つて彼女を苦める。

海上及び其他の冐險二ケ年とオーギギエー島の滯留八ケ年の後、 即ちトロイア陷落の十年後、仙島からオヂュシュウスの解放を仙女パルラス・アテーネーが計畫する。 是を本篇の發端として是より四十餘日に亙る事件、即ちトロイア遠征の門出から二十年目に最後の行動が敍述せられる。 以下日の順序により本篇二十四歌の一々に照し合せて梗概を述べる。(詳細の梗概は各歌の初めに。)


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:主要の神と人


主要の神と人

(一)神怪物等

クロニオーン
即ちヂュウス、最高の神、クロニーオーンとも發音す。
ポセードーン(ポセーダーオーン)
海王神、オヂュシュウスを憎む神。
アテーネー(アテーナイエー)
ヂュウスの息女、オヂュシュウスの守護神。
ヘルメーアス(ヘルメース)
傳令の使神、アレゲーポンテースとも曰ふ。『アルゴスを殺せる者』の意。
プローテウス
變化自在の海の仙翁。
カリュプソー
オヂュシュウスを戀して九年間其仙窟に抑留せし仙女。
キルケー
魔法に因りて人を化して獸となす神女。
リュウコエテー
オヂュシュウスの難を救へる仙女。
ポリペーモス
一眼の巨大なる怪物、キュクロープス族。
セーレーネス(即ちサイレン)
歌に因りて人を死に致す妖女。
スキルレー
妖魔。
カリプデス
妖魔。

(二)人

オヂュシュウス
本詩の主人公、イタケー嶋王。
ラーエルテース
前者の父。
ペーネロペーア
オヂュシュウスの妻。
テーレマコス
オヂュシュウスの獨子。
メントール
オヂュシュウスの友。
ユウリクレーア
オヂュシュウスを育てし忠實の老女。
ペーミオス
オヂュシュウスの館中に仕ふる歌謠者。
ユーマイオス
忠僕、牧人長。
メランチオス
惡僕。
イーロス
乞食。
ネストール
グレーニヤの老王。
ペーシストラトス
前者の子息。
メネラーオス
スパルテーの國王。
ヘレネー
前者の王妃。
アルキノオス
パイエーケス族の王。
アレーテー
前者の王妃。
ノーシカー
王女。
デーモドコス
これらに仕ふる歌謠者。
×    ×    ×    ×    ×

アンチノオス
求婚者中の主要なる者 -- 次に擧ぐるは皆その同志者 -- ユウリマコス。アムピノモス。アゲラーオス。ユウリアデース。エラトス。ペーサンドロス。 アムピマコス。クテーシポス。ユウリダモス。アムピメドーン。ポリュボス及び其他。
附言
イーリアス譯に於ける如く、此譯に於ても、固有名詞は調の爲めに自由に發音するを原則とした。 メネラーオスをメネラ⌒オスと縮めしは其一例。一般に⌒は一字を省ける記號。

更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第一歌


第一歌

歌神ムーサへの祈、(一 - 一〇)。 神女カリュプソー其島中にオヂュシュウスを抑留す、ポセードーンを除くすべての神々彼を憐れむ(一一 - 二〇)。 ポセードーン不在の時神々の會議。ヂュウスはアイギストスの罪と罰とを追想す、アテーネーはオヂュシュウスの保護を望む、 ヂュウスはかの英雄がポリュベーモスの目を潰せる故に父なる海神の怒を招くことを説く、 而して彼を救ふべき方法を講ぜんと宣す(二一 - 八〇)。 ヘルメースが諸神の命をカリュプソーに傳へんことをアテーネー主張し、 自らイタケーへ行きテーレマコスを勵まさんと陳ず(八一 - 九五)。 メンテース王の姿を取りてアテーネーはイタケーの郷、 オヂュシュウスの館を訪ふ、佞人らペーネロペーアに婚を挑みて館中に集る、 テーレマコスは假裝せる神女を歡待す(九六 - 一四三)。佞人ら縱に宴を催す、 テーレマコスは神女に對して父の消息絶えしを嘆く(一四四 - 一七七)。 神女はオヂュシュウスの健在竝に將來の歸郷を保證す、 テーレマコスは父の歸りて佞人らを懲さんことを望む(一七八 - 二五一)[。] 神女アテーネーの勸告、明日集會を催し求婚者らを逐ふべく、 又、テーレマコスはピュロス及びスパルテーを訪ひて父の消息を探るべしと、 父の死せる場合、父の生ける場合に處すべき道を神女は示す(二五二 - 三〇五)。 テーレマコスはメンテースの姿を取る神女に感謝す、神女辭して天に昇る、 前者は又求婚者の群に歸る(三〇六 - 三二四)。 樂人ペーミオスは彼らの前にアカイア軍歸途の禍を歌ふ、 ペーネロペーア之を聞くに忍びず、哀訴す、テーレマコスは母を促して退かしむ(三二五 - 三六七)。 つづいて彼は求婚者らに明日の集會と彼の所念とを告ぐ、アンチノオスの冷笑とテーレマコスの答 (三六八 - 三九八)。ユウリマコスは今去りゆける客について問ふ、 テーレマコスの答、父を見るべき望無しを告ぐ(三九九 - 四二〇)。 歌舞は夕に到りて止み衆おのおの其家に去り、テーレマコスは其室に歸りて臥す(四二一 - 四四四)。

智謀に富める英雄を歌の神女よ、我に説け、
聖都トロイア亡して彼は其後飄泊の
旅を續けつ、諸の都城を眺め俗を知り、
はた海洋の上にして夥の禍事凌ぎ去り、
おのが生命又部下の歸郷の爲めにいそしみぬ。
情願いとど切ながら彼は從者を救ひ得ず、
狂愚のわざにわれと我が壽命を彼ら失へり、
[1-8]ヒュペリーオーン日輪の神の聖牛屠りつつ、
食へば神はいきどほり彼らに歸郷得ざらしむ。
ヂュウスの息女願はくは我らに一部是を説け。

[1-8]十二歌、三三九 - 三九八。日の神はヒュペリーオーンの子(神話)なれども、日の神をヒュペリーオーンと諸詩人は往々に呼ぶ。

外の諸將は一齊に破滅の運を免れつ、
戰及び海の難逃れて家に歸りきぬ。
ひとり故郷と家妻とに憧れわぶる英雄を、
神女の中に端嚴の姿いみじき[1-14]カリュプソー、
其配偶となさんとし、其洞窟にとめおけり。
さあれ春秋廻り行き、やがて諸神の命により、
めづる故郷のイタケーに歸來の年の到る時、
なほ艱難を免れず、親しき友の間にも、
勞苦續けり。諸の神一齊に憐めど、
[1-20]ポセーダーオーンただ獨り、すぐれし勇士オヂュシュウス、
故郷に歸り着かん前、彼に憤怒を續けたり。

[1-14]本篇五十一行以下。
[1-20]又ポセードーン、海の神。

[1-22]アイチオプスの遠き地を今海神は訪ひ來る、
その邊境に住む民は内に二つの領分つ、
一は光輪昇る郷、他は夕陽の沈む郷。
彼ら捧ぐる牛羊の牲を受くべく訪ひ來り、
神喜びて宴につく。他の神々は一齊に
ウーリュンポスの山上にヂュースの宮に集りぬ。
人と神との父ヂュウス其時衆に宣し曰ふ、
(アガメムノーンの譽れの子オレステーヌに殺されし
アイギストスを胸中に思ひわびつつ、[1-30]すぐれたる
彼を忍びて群神に向ひ即ち宣し曰ふ)

[1-22]地名はアイチピアー、民族名はアイチオプス(複アイチオペス)。
[1-30]「風采のすぐれたる」と解すべし、憎むべき奸夫なれども。

『見よ、いかばかり神明を人間の子ら咎むるや!
すべての禍難神よりと彼らは叫ぶ、然れども
運命以外禍は彼れ自らの狂よりぞ。
斯く運命に逆ひてアイギストスは愚かにも、
その正妻に通じつつ、[1-36]アガメムノンを凱旋の
其日斃せり、恐るべき應報すでに知りながら。
われ[1-38]アルゴスを屠りたる賢き使ヘルメース、
彼に送りて殺害と不義の非行を警めき、
長じて國に歸り來るオレステースの復讐の
あるを思ひて、其非行犯す勿れと警めき。
誠をこめて慇懃に使は斯くと喩せしも、
狂夫は聽かず、一切の罪悉く償へり。』

[1-36]三歌百九十四及十一歌四〇九以下。
[1-38]牧人アルゴス、全身に多くの目を有する者。

藍光の日のアテーネー其時答へて陳じ曰ふ、
『ああ其統御至上なるわれらの天父[1-45]クロニデー、
かの者正に刑罰の至當に因りて斃れたり。
かかる行爲に傚ふ者同じく斯くぞ亡ぶべき。
さもあれ我の心痛の(もと)は賢きオヂュシュウス、
(めい)薄くして永らくも友を離れて惱む者、
今海洋のただ中の島に囚はる、 -- 鬱蒼と
樹木の茂る島の中、そこに神女の住めるあり、
その一切の海の底知りて、虚空と大地とを
分つ巨大の諸柱(もろはしら)、高く聳ゆる[1-53]大柱、
手にて支ゆる[1-54]アトラスの子なり、彼女は悲しめる
不幸の勇士抑へ留め、つねに柔和の甘言に
誘ひて媚びて、彼をして其憧憬の遠き郷、
故郷イタケー忘れしむ。憐なるかなオヂュシュウス、
故郷の空に立ち昇る烟をさへも眺むべく、
情念切に死を思ふ。ウーリュンポスを統ぶる君、
君いかなれば動かざる?[1-60]アルゴス出師そば近く、
廣きトロイア平原に、犧牲捧げし、オヂュシュウス、
君いかなれば斯くまでも彼に對して不興なる?』

[1-45]呼格。
[1-53]山を曰ふ。
[1-54]ホメーロス詩中に其系統は説かれず、アフリカの一高山は此名を取る。
[1-60]こゝにてはアカイアと同意義。

雷雲寄するクロニオーン其時彼に答へ曰ふ、
『ああわが愛女、何等らの語汝の[1-64]齒端洩れ出づる?
我いかにしてオヂュシュウス -- 神に似る者忘れ得ん?
智は一切の人間を凌ぎ、天上もろもろの
神に犧牲を捧ぐるも亦衆人に優るもの。
只如何にせんポセードーン絶えずも彼に(いきどほ)る、
キュクローペスの全衆の中に最も勝る者、
ポリュペーモスの[1-70]隻眼を碎きし故に憤る。
荒涼廣き海の領、領を治むるポルキスの
息女トオウサ洞窟にポセードーンと語らひて、
生める怪物、 -- かれの爲め海神怒り、英雄を
殺さざれども彼をして永く浮浪の旅續け、
あこがれ慕ふ其郷に未だ歸るを得ざらしむ。
いざ今共にオヂュシュウス歸郷の幸を得んがため、
力合はせて計らはん、ポセードーンは其怒
棄てむ、不滅の一切の神の逆らひ、只ひとり
味方無くして爭ふも彼はは何を成し得んや?』

[1-64]齒の防壁(直譯)。
[1-70]九歌三八三以下。

藍光の目のアテーネー其時答へて彼に曰ふ、
『ああ其統御至上なるわれらの天父クロニデー、
慶福滿てる神々の嘉みするところオヂュシュウス、
賢き勇者、あこがれの故郷に歸り着くべくば、
さらばアルゴス屠りたる使ヘルメーアスをして、
[1-85]オウギューギエーの島に行き、鬢毛美なる仙媛に
神の決議を速に傳へしむべし、艱難に
耐ゆる勇武のオヂュシュウス遂に故郷に着くべきを。
我はイタケー音づれて彼の子息を勵して、
力を添へて長髮のアカイア人を集めしめ、
寄せ來る侫者拂はせむ、彼らは絶えず數多き
羊群及び角曲がり(あゆみ)よろめく牛群を --
オヂュシュウスの持つものをほしいままにも屠り去る。
更に我またスパルテー、又沙勝ちのピュロスへと、
かの子導き其父の歸國の報を探らせむ、
斯くして彼は人中に其名譽をかち得べし。』

[1-85]本歌五五以下。

しかく宣してアテーネー、アムブローシャの黄金の
美麗の靴を其足に穿ちぬ、海に又陸に
風の呼吸の如く()く神女を運び行く靴を、
[[1-99]神女はたまた青銅の強き鋭き槍を取る、
その槍重し、おほいなり、堅し、かくしてアテーネー
この槍用ゐ、一切の抗がふものを服せしむ。]
ウーリュンポスの高きより神女かくして飛び降り、
イタケー人のただ中に、勇士の館の入口に、
その中庭を前にして青銅の槍携へつ、
タポスの領主メンテース、其影なしてたちとまる。
そこに神女の目に映るゆゆしき佞者いくたりか、
おのが屠りし牛王の皮、館門の前に布き、
其上に坐しおのがじじ棋を戰はし樂めり。
舘の從者は僮僕は彼らの爲めに身を勞し、
或は瓶に酒と水混じ、或は海綿の
氣孔多きを手に取りて、[1-111]卓を清めて客の前、
之を据ゑつつ、更に又夥多(あまた)の肉をきざむめり。

[1-99]九九 - 一〇一を後世の插入と諸評家は曰ふ。
[1-111]一客一卓にして古代ゲルマーネンの如し(日本も)。

神女來るをまつさまにテーレマコスは認めたり、
佞者の群を前にして胸に悶々の情抱き、
心におのが英剛の父をそぞろに忍びやり、
とある(には)より現はれて舘より佞者攘ひ得ば、
おのれはた又名譽を保ちて領土治め得む。
しかし念ぜる彼の今認め得たるはアテーネー、
即ち急ぎ門の前進み、賓客永らくも
戸外に立ちて停るを痛みて、彼の側近く
寄せて右手を握りつつ、青銅の槍うけとりて、
彼に向ひて翼ある言句放ちて陳じ曰ふ。

『客よ、安かれ、此家の歡待受けよ、まづ食を
取りて而してくつろぎて君の望めるところ曰へ。』

しかく宣して導けば續けりパラス・アテーネー、
斯くして高き館の中、一間(ひとま)に入りて携へし
槍を巨大の圓柱に立てかけ、清く磨かれし
臺に据ゑたる、其側に英武すぐれしオヂュシュウス、
用ゐ馴れたる幾條の長槍ともの立ち並ぶ。
斯くして彼を導きて、巧に織られ美麗なる
帛を布きたる椅子の上、倚らせ足臺下に据ゑ、
其かたはらに自らも飾れる椅子に身を寄せて、
佞者の群にかけ離る、 -- 無禮の群に交らば、
其喧囂に耐へずして、客は恐らく飮食を
厭はむ、更に離るれば父の消息學び得む。
やがて一人の婢女美なる黄金の瓶携へて、
銀盤の上傾けつ、彼らの雙手清めしめ、
續きて清く磨きたる卓を傍に据ゑ直す。
威儀ある老女麺麭を取りて彼らの前におき、
更に珍味のものもろを出し供へて飽かしめつ、
肉截る者は數多く調理の皿を卓上に
並べ捧げつ、黄金の(さかづき)客の前に置く、
給仕は酒をつぎ乍ら屡前に現はれぬ。

やがてゆゆしき佞者らは現はれ來り、順を追ひ、
椅子に或は曲祿に各々其身を定むれば、
給仕ら寄せて洗淨の水を彼らの手に灑ぎ、
籠に滿たせる麺麭を婢女は彼らの前供へ、
小僮酒を盃に溢るるばかり滿たさしむ。
斯くして衆は備はりし食に向ひて手を延しぬ。
さはれ飮食終りつつ口腹おのおの飽ける時、
求婚の群また外に歌と舞踊の興求め、
切に望めり、其の二つ酒席すべての飾なり。
斯くして給仕美麗なる琴を齎らし手渡せば、
やむなく歌ふペーミオス、無慙の群を前にして
弦を拂ひて朗々とまづ前曲を歌ひ出づ。
テーレマコスは藍光の(まみ)もつ神女アテーネー、
神女に頭さし寄せつ外に知られず語り合ふ。

『いかに客人、わが言を聞きて不興を催すや?
君見る如く彼の群は歌を樂み琴を愛で、
(みだり)に人の生計の資を貪りて飽き足らず、
あゝ其人の[1-161]白骨は陸のいづれのほとりにか
雨に朽つらむ、然らずは波浪に洗ひ流されむ。
若しイタケーに歸りくる彼を、かの群見るとせば、
彼を恐れて逃ぐるため、黄金及び絹帛の
富に優りて健脚の早きを切に願ふべし。
さはれ運命非なるより彼は亡びて一毫の
慰めわれに殘されず、大地に住める人、誰れか
彼の歸郷を説かんとも空し、其事失はる。
さはれ請ふ今打明けて委細を我に物語れ、
君は何人?いづこより?いづれか故郷?父母はたそ?
何らの船に乘り來しや?水夫ら君をイタケーに
如何にはこべる?何者と彼ら自ら稱せしや?
徒歩にてこゝに、この郷に君來るにはあらざらむ。
又眞實に物語り、我に正しく知らしめよ、
君はじめての來訪か?或は嘗つて我父の
賓客たりしことありや?此屋訪ひ來る人絶えず、
父また常に喜びて屡人を訪ひ行けり。』

[1-161]萬葉集の『永漬くかばね、草むすかばね』

藍光の目のアテーネー答へて彼に陳じ曰ふ、
『君問ふ處、眞實に陳じて君に知らしめむ。
われメンテース、わが父は勇武の名あるアンキァロス、
艣櫂親しむ子ら多き郷土タポスはわが所領。
言語異なる諸の國を廻りつ、テメセーに
銅を求めて、携へし鐡に換ふべく航海の
途に水夫ら諸共に我今こゝに訪ひ來る。
今わが船は都市遠く廣野にのぞむレートロン、
港に寄れり、ネーイオン緑林茂る丘の下。
はた此家との交は父祖傳來と誇り得む、
君それ行きて老雄の[1-188]ラーエルテースおとづれて、
彼に親しく之を問へ、わが聞くところ、都市離れ、
田野に隱れ零丁の生營むと人は曰ふ。
老婢ひとりにかしづかれ、時に經めぐる葡萄園、
その豐饒の地をたどり、疲勞に肢體惱む時、
老女は彼に飮食を與へ、いたはり慰むと。
我いまこゝに來れるは、すでに故郷に君の父
歸ると人に聞けるため -- さはれ神命斯くあらず、
わが知るところオヂュシュウス地上の生を失はず、
渺々廣き海洋の一點(しほ)の圍む島、
中になほ生く、然れども荒き蠻人彼の意に
反して強ひて推し留め、邦に歸るを得せじめず。
我今敢て豫言せむ、神明之をわが胸に
銘ぜり、我は此事の -- 飛鳥の跡に靈占の
術を善くする身ならねど -- 必ず成ると信じ知る。

[1-188]テーレマコスの祖父即ちオヂュシュウスの父。

故郷を離れ淹留の期は今すでに長からず、
鐡鎖きびしく彼れの身を留むることは長からず、
智謀ゆたかの彼は善く歸郷の策を巧むべし。
さはれ今曰へ、眞實を君今われに打ち明けよ、
君は果してオヂュシュウス英武の父の子なるやを。
頭ならびに美しき雙眼いみじ、彼に似る、
彼と我とは親密に交り來ること長し。
そはアルゴスの諸英雄もろとも立ちて海洋を
渡り、トロイア目ざしつつ船に乘じて去りし前。
その後我は彼を見ず、彼も同じく我を見ず。』

しか陳ずれば聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『客人、われは眞實に君にこの事を語るべし、
まさしく彼の子と我をわが母は曰ふ、然れども
我は得知らず、何人もまことの父を知り難し。
その老齡を安らかに領土の中に過し得る
榮めでたき人の子とああ我生れ得ましかば!
さはれ有らゆる人類の中の最も不幸なる
人の子なりと衆は曰ふ、君への答かくばかり。』

藍光の目のアテーネー其時更に彼に曰ふ、
『ペーネロペーア斯く君を生みたり、後に譽無き
子孫の系を此家に神は必ずあらしめず。
さはれ今曰へ、眞實を願はくは我に打ち明けよ、
何らの宴ぞ?集會ぞ?今眼前に見るところ、
君に何らの要ありや?それ招宴か、婚席か?
こは持ち寄りの宴ならず、衆人こゝに傲然と
此館中に振舞へる、其數々の不行儀を、
心ある者眺め見ば不快の感を催さむ。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『君慇懃にこの事を問ひ究むれば我告げむ、
ああ其昔英雄のわが父家にありし時、
家は榮えて衆人の侮辱を受けしことあらず、
神明今は禍を轉じてわが父は、
あらゆる人の中にして其名最も世に知れず。
トロイア軍を敵として同僚ともの打死(うちじに)か、
あるは飽くまで戰ひて親しき友の腕の中、
彼れ其生を終りなば、痛くは我は悲しまず。
全アカイアの衆軍は墳墓を彼に築くべく、
彼れ光榮を來るべき子孫の上にもたらさむ。
さはれ怪風吹き去りて彼は空しく跡を絶ち、
ただ嘆息と悲哀とをわが身の上に殘すのみ。
さもあれ今は我只に彼を悲むのみならず、
神明更に新たなる禍こゝに齎しぬ。
ドウリキオンと森繁るザキュントス又サメーの地、
その列島を司る諸種の豪族又更に、
わが磽碑(こうかく)のイタケーを領するやから、わが母に
婚を迫りて此家を叨に荒らす、母は又
その憎むべき再醮を拒まず、しかも決し得ず、
かくして彼ら宴飮を續け、わが屋の潰滅を
來らし、やがて程もなくわが一身を亡さむ。』

その時神女アテーネー憐憫深く答へ曰ふ、
『聞くもいたはし、君はげに離るる父を求むべし、
父歸りこば彼の手は無耻の黨類懲すべし。
今歸りきて前門に彼もし立ちて、(たて)(かぶと)
其身を堅め、投槍の二條を取らば如何ならむ?
メルメロスの子イルロスの領土エピュレー、其地より
わが城中に廻り來て、芳醇酌みて樂みし
其時、彼の風貌を初めて見しを我思ふ。
かしこに先に輕舟に乘りて行きたるオヂュシュウス、
青銅の矢にまぶるべく人命斃す毒汁を、
求めたれども意を遂げず、神の怒を怖れたる
イルロス遂に恐るべき塗料を彼に拒みたり。
されど我父かれを愛で彼の望を遂げしめぬ。
かかる姿にオヂュシュウス佞者の中に進みなば、
黨類すぐに斃されて苦き[1-266]婚儀を味はむ。
さはれ果して歸り來て此館中に佞人を
懲すを得るや、然らずや?その一切は神明の
御胸の中に横はる。われ今君を警めむ、
策をめぐらし黨類を追ひ攘ふべく勉めよと。
意あらば君いま我に聞け、われの忠言心せよ。
あすの日アカイア豪族を集議の席に呼び入れよ、
彼らに君の意を語れ、神明君の證とせよ、
しかして家に歸るべくかの黨類に押し迫れ。
また君の母再醮を心に願ふことあらば、
家計豐かの其父の家に歸るを()しとせむ。
かくて其ため一族は婚儀整へ、めでおもふ
息女の上にふさはしく多大の嫁資を備ふべし。
更に我また忠言を君にいたさん、聽くべくば。
長く他行の君の父、其消息を探るべく、
舵手(かこ)二十人乘組の善き船選び波分けよ、
人界の子の何ものか君に知らせむ、さもなくば、
神より出でし[1-283]風聞を廣く傳ふる聲聞かん。
先づピュロスの地おとづれて問へ英邁のネストール、
次に轉じてスパルテー訪へかし、アカイア軍勢の
最後に郷に歸りたる、かの金髮のメネラオス、
父の生存また歸國確かとそこに聞き知らば、
辛勞いかに多くとも更に一年なほ忍べ。
之に反して父は逝き、永く現世(げんぜ)に背けりと
聞かば即ち好愛の祖先の郷に立ち歸れ。
しかして墳塋(ふんえい)かれのため築き、勇士にふさはしく
葬儀豐かに行ひて其後母を他に送れ。
さはれ此らの一切を皆悉く成就せば、
次に思案をめぐらして、かの黨類を此館の
中に打取る術こらせ、彼を或は計略の
祕密に因りて斃さんか、或はまたくあらはにか?
小兒の如く振舞ひそ。[1-297]君童齡はすでに過ぐ。
或は君まだ聞かざるや?オレステーヌの勇武なる、
その高名の父王を彼に奪ひし奸佞の
アイギストスを斃し得て、世の賞贊を博せしを。
打ち見るところ君はげに美なり壯なり、望むらく、
勇を揮ひて後の世に芳名永く殘せかし。
我今かなた碇泊の輕舟及び僚友に
歸らん、われを待ちわびて彼ら不興を感ずらむ。
さはれ君よく意を注ぎわが忠言を心せよ。』

[1-266]殺されむ。
[1-283]風説(オッサ)はヂュウス或は諸神より出づと曰はる。
[1-297]テーレマコスは今二十一歳。

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『客よ、いしくも好意もて君は此らの事語る、
父の其子に曰ふ如し、我は必ず忘るまじ。
さはれ行旅に急ぐともなほ休息をこゝに取り、
湯沐果てて爽かの氣力君が身みたす時、
美なる尊き禮物をわれの紀念に携へて、
欣然として碇泊の舟へと歸れ、これはこれ
好愛の友なべてその客に捧ぐる習のみ。』

藍光の目のアテーネー即ち答へて彼に曰ふ、
『行旅を急ぐ我を今君願くは留めざれ、
熱情君を動してわれに與へん禮物は、
我の再び來る時、惠め、故郷に携へむ、
選擇善かれ、我も亦君に答禮捧ぐべし。』
藍光の目のアテーネーしかく陳じて颯然と、
さながら鳥の飛ぶ如く去りて忽ち跡見えず、
殘れる彼の胸の中、勇と力を植ゑつけつ、
父に對する思慕の念増さしむ、彼は更に又、
胸に驚異の念滿ちて神明にやと訝りぬ。

やがて求婚の群の中、神の如くに彼は入る、
彼らは坐してすぐれたる樂人の歌默然と
聞けり、歌ふはアカイアの悲慘の歸軍 -- トロイアを
退く道に[1-327]アテーネー・パラスの命じなせる業。
そのすぐれたる吟謠をイーカリオスの息女たる
ペーネロペーア、樓上に聞き取り、胸を痛ましめ、
その閨房を立ち出でゝ高き階段降り來る、
降るは獨り彼ならず、二人の侍女は從へり。
かくて求婚の群の前現はれ出でし麗人は、
その豐頬を美はしき面紗の下に隱しつつ、
穹窿高き堂の中、柱によりて立ちとまる。
侍女はおのおの肅然に左右とたてる、其時に
潸然として麗人は涙にくれてすぐれたる
樂人に曰ふ、『ペーミオス、君は幾多の物語、
歌人の襃むる英雄の、又神明のそれを知る、
今その一つ衆人の前に吟ぜよ、默然と
(はい)を啣みて聞き取らむ、されども獨りかの歌を
吟じて我を苦めな、わが心肝は碎けんず、
忘れ難かる哀愁は特に不便(ふびん)の身を襲ふ。
なつかしきかなわが夫、ヘラス並にアルゴスに
英武の譽高かりし君をいかでか忘れ得ん!』

[1-327]アテーネーの殿堂に於てトロイア王女カッサンドレーにロクリスのアイアース無禮を加へたる其罰として。

その時母に聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ、
『その性情の驅るがまま、此樂人は妙音を
放ちて衆に興を與ふ、願はくは咎めたまはざれ、
歌人は事の本ならず、本はヂュウスぞ、意の儘に
技藝秀づるもろ人におのおの才を惠む者。
ダナオイ族の薄命を歌ふも彼の咎ならず、
あらゆる詩歌の中にして、聽者の耳に最新と
ひびくものこそ最大の讚美、人より博し得め、
乞ふ心肝を堅くして忍びて彼を聞きたまへ。
トロイアよりし凱旋の歡喜の(さち)を失へる
そはオヂュシュウスのみならず、淪亡げにも數多し。
いざ閨房に立ち歸り(はた)(つむぎ)に、ふさはしき
君が務に就きたまへ、侍女に命じてその業を
遂げしめたまへ、辯論は男子すべての領にあり、
特に此屋の主公たる我の眞先になすところ。』

しか陳ずれば驚きて閨房さして歸る母、
愛兒の述ぶる聰慧の言句を胸に銘じつつ、
侍女もろともに樓上の室に退き、今さらに
消息絶えし良人を思ひ、涙にかきくるる、
やがて藍光の目の神女眼を彼の目に注ぐ。
こなた暗影迫りくる室の中には、求婚の
群騷ぎ立ち、麗人の閨分つべく爭へり。

その時衆に聰明のテーレマコスは叫び曰ふ、
『ああわが母の求婚者、汝ら厚顏無耻の群、
此宴席を樂むも、かかる騷擾戒めよ、
今聞く如く、妙音の調(しらべ)恰も神明に
似つつ吟ずる樂人に、耳を貸さんは(よか)らずや?
さはれ明日集會の席に來りて我に聞け、
そこに汝ら衆人に言明白に我曰はん。
わが居館より退きて新たに別の宴開け、
おのれの産に口腹を滿たせ、互に相招け、
ただし償なさずして、只一人の産をのみ、
貪ることは更に善く、更に優ると思ひなば、
しか爲せ、されど照臨の諸神に我は祈るべし、
ヂュウス來りてかかる業遂に罰せん、汝らは
此館中に斃されてまた復讐の時無けむ。』

その言聞きて皆唇を噛みしめて、
テーレマコスの決然と陳ずる聲に驚けり。
ユーペーテスの子アンチノオスその時答へて彼に曰ふ、

『テーレマコスよ、明かに神は汝を導きて
かく高聲に陳ぜしめ、かく勇敢に語らしむ。
さはれ汝をクロニオーン、海の圍めるイタケーの
島の主公と爲さざらむ、よし[1-387]相續の權あるも。』

[1-387]反語なり。次のテーレマコスの答を見るべし。

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『アンチノォスよ、わが言に汝不快を感ずるも、
我はヂュウスの守護を得て、此島王とならんとす。
汝は曰ふや、人の世の中にこの事最惡と?
王者は惡き者ならず、豪華の館は忽に
彼の有たり、衆人の崇敬同じく彼に向く。
さはれ老若もろもろのアカイア人の諸領主は、
別に數多に波圍む此イタケーの中にあり。
わが英剛のオヂュシュウス死せばいづれか霸者たらむ、
その時我はわが爲めに彼れ英剛のオヂュシュウス、
戰利に得たる此館と奴隸の主たるべし。』

その時ポリュボス生める息、ユウリマコスは彼に曰ふ、
『テーレマコスよ、アカイアの誰か果して波圍む
此イタケーの王たらむ?事神明の胸にあり。
さもあれ汝その産を保ち此屋の主公たれ、
又何人も寄せ來り、その暴力に訴へて、
汝の産を奪ひ得じ、イタケー無人の地ならずば。
さはれ俄かの賓客に關し汝にこと問はむ、
彼いづくより來れりや?いかなる國の住民と
彼たたへしや?いづこにか其家族ある?郷士ある?
オヂュシュウスの歸るべき消息彼やもたらせる?
或は債を求むべく彼れ此國に來れるや?
飛ぶが如くに原上を去りて端倪すべからず、
その面貌を窺へば彼は卑賤の輩ならず。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『ユウリマコスよ、わが父の歸郷の望絶えはてぬ、
消息何のほとりより來るも信をわれ措かず、
豫言者呼びて館中にわが母たづね問ふ處、
神祕の言は今すでにわが念頭に掛り得ず。
かの賓客は父の友、タポスの地よりたづね來ぬ、
アンキアロスは彼の父、彼は名のりぬメンテース、
#x8263;揖あやつる子らの群、タポスは彼を司る。』
テーレマコスは斯く答ふ、されども神と客を知る。

いみじき歌と舞踊とに衆はそゞろに興じつつ、
時を過して夕陽の沈むを共に相待てり。
やがて樂む衆の前、黯き夕は寄せ來る。
かくして衆は甘眠を求めおのおの家に去る。

テーレマコスは庭中に設けて彼に造られし
高き美麗の一室に -- そこより四邊眺むべき
室に歸りて床に就き、千々の思に胸滿す。
[1-428]ペーセーノルの子オープスのむすめ、正しくしとやかの
ユーリュクレーア彼に添ひ松明照し先に立つ、
(ラーエルテースそのむかし彼女の若き眞盛りに、
牛の二十の價もて贖ひ來り、館中に
その貞淑の妻ともに愛でしも妻に憚れば、
かれの閨には近寄らず、絶えて膚には觸れざりき、
テーレマコスを幼齡の折にはぐくみ一切の
家人に優り愛でたりし)ユーリュクレーア先に立つ。

[1-428]ペーセーノールを縮む。

斯くして彼は堅牢に造りし室の戸を開き、
臥床に就きて柔かの衣服靜かに脱し去り。
即ちこれを忠順の老女の手へと打ち渡す。
老女は之を慇懃にたたみて()して、飾ある
いみじき床の傍の釘のへ之を打ち懸けつ、
斯くして老女室を出て銀の輪をもて戸を閉ざし、
革紐引きて閂をこれに通して退きぬ。
テーレマコスは羊毛の夜着によすがら包まれつ、
神女パラスの勸めたる航海思ひめぐらしぬ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第二歌


第二歌

テーレマコスに招集さるるイタケーの住民(一 - 十四)。 老雄アイギプチオス招集の理由を問ふ(五 - 三四)。 テーレマコスは求婚者の亂暴を説き衆人の憐みを乞ふ(三五 - 七九)。 求婚者の一人アンチノオス起ちてペーネロペーアの詐謀を責む、 曰くテーレマコスは彼れの母を母の父イーカリオスの許に返すべし、母は新夫を自ら選むべし、 然らば求婚者は此館を去らん(八〇 - 一二八)。 テーレマコスにとりて喜ぶべき吉兆現はる -- 老翁ハリテルセースは求婚者に勸め生命惜しくば退散せよと曰ふ(一四六 - 一七六)。 求婚者の一人ユウリマコスはハリテルセースを叱り、求婚者は何人をも怖れずといふ(一七七 - 二〇七)。 父の消息を探るべくテーレマコスは、スパルテーとピュロスとに行くべき船を求む(二〇八 - 二二三)。 メントールはイタケー住民に對して其無關心を咎む(二二四 - 二四一)。 レーオークリトス答へてメントールに曰ふ、求婚者は何人をも畏れず、オヂュシュウスの歸をも恐れず、 テーレマコスは出發せざるべしと、即ち集會を散ず(二四二 - 二五九)。

テーレマコスは海岸に行きアテーネーの冥助を乞ふ。神女はメントールの姿にて現はれ、 準備を命じ、自ら船と船員とを求むべしと約す、(二六〇 - 二九五)。 テーレマコス館に歸る、アンチノオス彼を宴會に誘ふ、テーレマコス之を拒む、求婚者の嘲弄(二九五 - 三三六)。 テーレマコスは老女ユーリュクレーアに準備を命ず(三三六 - 三六〇)。 老女驚きて之を諫む[。]テーレマコスは老女を慰め、母に此旅行を告げざれと戒め、 求婚者の群衆に歸る(三六一 - 三八一)。 神女アテーネーはテーレマコスの姿を取りて船員に近づき之を勞ふ、艤舟す、 次に求婚者を眠らせ、而してメントールの姿を取り來りてテーレマコスを探す(三八二 - 四〇四)。 テーレマコスの出發 -- アテーネーに伴はれてピュロスへと(四〇五 - 四三四)。

指は薔薇(そうび)の色赤き(あけ)の神女の現はれに、
臥床離れて起き上るテーレマコスは颯爽と、
即ち衣裳整へて肩に鋭利の剱を掛け、
其燿ける雙脚(そうきやく)に華麗の靴を穿たしめ、
其面影は神明に髣髴として室を出で、
(たゞち)に音吐朗々の使者に命じて、集會の
席に頭髮長やかのアカイア族を招かしむ。
使者高らかに令傳へ、衆人迅く集りぬ。
衆人斯くて一場に集りあへる時、
テーレマコスは青銅の槍を手に取り現はれぬ、
身ひとつならず、脚速き狗子(くし)らは彼のあとを逐ふ。
而して神女アテーネー、聖き威光の彼を蓋ふ。

()は老齡に屈めども、善く百千の事を知る
アイギプチオス老雄は、其時衆に説きはじむ、
(かれの愛兒は神に似るオヂュシュウスに伴ひて、
駿馬産するイリオンに舟に乘じて赴けり、
そは豪勇のアンチポス、そを[2-19]獰猛の怪人種、
キュクロープスは洞窟の中に屠りて(くら)ひけり、
他にまた三兒、そのひとりユウリュノモスは求婚の
群にまじれり、他の二人常に家業にいそしめり、
されども去れる[2-23]兒を忍び常に悲嘆に沈む彼)
今流涕の目を擧げて衆の向ひて陳じ曰ふ。

[2-19]後篇九歌にくはし。
[2-23]殺されしをば未だ知らず。

『イタケー島に住める者、わが言ふことに耳を貸せ、
先に英武のオヂュシュウス舟に乘じて去りし後、
此地に絶えて集會も又評定もあらざりき。
()そ今我ら集めしは?誰に今その要ありや?
其人果して青年か、但し或は老年か?
彼れ歸りくる軍勢の消息或は耳にすや?
斯くして彼のいやさきに聞ける處を報ずるや?
或は外の公の事を思ふや、陳ずるや?
わが見るところ、其者は正し、無用の者ならず、
ヂュウス願はく、その胸に思ひところを成らしめよ。』

その幸先(さいさき)の善き言句テーレマコスは喜びて、
此上長く座にあるに堪へず、言句を陳べんとす。
即ち衆の前に立つ、其手に笏を與ふるは、
ペーセーノール、傳令者、善き忠言を致すもの。
斯くして彼はいやさきにアイギプチオス老雄に、

ああ(をぢ)、衆を集めたる人は眞近し、すぐ知れむ、
われ也、衆を集めしは。われに優愁迫りくる。
われの初めに耳にして(あらは)に衆に告げんもの、
即ち來る軍勢の消息未だ耳にせず、
又われ外の公の事を思はず、述べもせず。
只わが上に、わが家に降りし二重の災難を
述べん。われ先づ英邁の父失へり、彼れ昔、
汝の中に君臨し、恩愛父の如かりき。
更に今又おほいなる災難到り、わが家は
無慘に倒れ、わが産は皆悉く滅ぶべし。
わが郷黨の中にして、秀でたる者、名ある者、
擧りて厭ふわが母に婚を求めて相迫る。
母の父なるイカリオス -- 其意に叶ひ好む者、
選びて之に豐かなる嫁資をもたらすわが母を
與ふべき者 -- そのもとに彼ら憚り音づれず。
しかも連日わが家に絶えず彼らは寄り來り、
牛と羊と肥え太る山羊を屠りて口腹を
飽かし、意の儘放縱に甘美の酒を飮み干して
わが屋に貯藏するところ、大部は爲めに費さる。
その災を攘ふべき英武の父に似たるもの
あらず、我らは無念にも之を攘ふを善くし得ず、
彼らは我を柔弱に、勇を缺くとし思ふらし、
勇力われに備らば難をいかでかとめざらむ!
かれらの行爲此上に忍ぶべからず、わが家は
無慘に亡び去らんとす。汝ら共にいきどほれ、
汝のめぐり近隣に住む人々の休戚を、
心に掛けよ、神明の怒懼れて警めよ、
神は非行をいきどほり禍害報ゆることあらむ。
ウーリュンポスの神ヂュウス、又集會を司り、
又集會を解き散らす[2-69]テミスによりて我は乞ふ、
やめよ、わが友、ただ獨り我を無慘の憂愁に
任かせよ -- 強きオヂュシュウス先に敵意を挾み、
アカイア人に災難を加へしことのありとして、
その報とし今我に汝ら害を施して、
衆勵さばいざ知らず。汝ら我の財奪ひ、
われの資産を傷ふは畢竟我に惡からじ。
汝ら之を傷はば他日報は來るべし。
城中めぐり聲擧げて我は償求むべし、
やがて一切悉くわれに報ひて拂はれん。
今は汝はわが胸に無限の悲哀起さしむ。』

[2-69]習慣、規定、……を意味する語、ホメーロスに於てはヂュウスの使者、イーリアス二十歌五行にもあり。

憤怒はげしく述べ終り、涕流して手に取れる
笏を大地に投げ落す。衆は憐憫胸に充ち、
皆悉く默然と口を閉してひとりだに、
テーレマコスを苛酷なる言句に責むる者あらず。

アンチノオスは只獨り答へて彼に陳じ曰ふ、
『テーレマコスよ、高言の汝、何らの言を吐く?
情に任かせてわれわれに汝耻辱を加へんず、
汝われらの求婚者咎むべからず、責むべきは
汝の母ぞ、計策を心に思ひたくむもの。
アカイア人の心情を彼女巧に欺きて、
すでに三年、今正にほどなく四年過ぎんとす。
衆に希望を抱かしめ、其おのおのに使やり、
約し乍らも胸中の思全く相(そむ)く。
即ち彼女胸中に策をめぐらしたくらめり。
即ち室におほいなる(はた)を設けて、幅廣き
華麗の帛を織り出し、衆に向ひて斯く曰ひき、
「オヂュシュウスはや身まかれば、わが身に婚を求めつゝ
迫る汝ら若き人、待てかし、絲をいたづらに
棄てず、われ此織物を造り終らんあした迄。
ラーエルテース老雄に、死の運命の迫りこん
その時、彼の亡骸(なきがら)を蓋はん爲めに織れるもの。
資財豐かに持ち乍ら葬衣なくして伏すとせば、
アカイア族のある女性必ず我を咎むべし。」
しか曰ひしかば我々のやさしき心うべなへり。
斯くてそれよりおほいなる機を彼女は日日に織り、
しかして夜々に燭光の下の其機ほどき去り、
三たび春秋めぐる迄アカイア人を欺けり。
四たび廻れる月と日の重なる時に一人の
侍女あり、祕密知れる者、ひそかに之を報ずれば、
行きて果して華麗なる機をほどくを見出でたり。
露顯の故にやむなくも彼女は機を織り上げぬ。
今かく我ら求婚の群は汝に之を告ぐ、
汝並びにアカイアの諸人ひとしく知らんため。
いざ今母に家を去り、其意に叶ひ、又父の
しかく爲すべく命ずべき人と結婚なさしめよ。
されども彼女なほ永くアカイア人を惱めんか?
豐かに神女アテーネー賜へる惠み、 -- 纎麗を
極むる物を造る術、又優秀の才と藝、
更に計策 -- いにしへにありしアカイア女性らの
誰しも持つと聞かぬもの、[2-119a]アルクメーネー、[2-119b]チュウロウと
寶冠美なる[2-120]ミュケーネー共にひとしく持たぬもの --
ペーネロペーア獨り持つ、ただ惜しむらくこの技を
正しく用ゐ行はず。神明彼れの胸中に
與ふるところ、其性をなほ續けんか?衆人は
汝の産を費さん。げにも彼女はおほいなる
譽れ受くべし、而かうして其ため汝莫大の
産を失ひ、痛恨を禁じ得ざらむ、思はずや!
彼女好めるアカイアのとある一人と婚すべき
その前、われら他の業に或は外に行かざらむ。』

[2-119a]ヘーラクレスの母。
[2-119b]サルモニュウスの息女、共に(十一歌)冥府に於てオヂュシュウスに逢ふ。
[2-120]都市ミュケーネーは此名を受く。

彼に其時聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『アンチノオスよ、我を生み我を育てし其人を
家より逐ふは許されじ、わが父或は外邦に
生きむ、或は逝きつらむ。我もし母を去るとせば、
イーカリオスに莫大の償拂ふこと難し、
彼より我は禍を受けん、而して神よりも
同じく受けむ、わが家を去るにのぞみてわが母は、
世に恐るべき復讐の靈に祈らむと曰ひ得んや!
羞耻の念を胸中に[2-138]汝いささか持つとせば、
わが家を去れ、おのが財用ゐて別に宴を張れ。
汝ら互に其家にかはるがはるに宴を張れ。
されども汝咎うけず他の一人の資財ただ
費すことを善しと爲し、優るとなさばしかく爲せ、
費せ、我は常住の神に向つて訴へん、
ヂュウスは他日此行爲咎めて罸を加ふべし、
かくして汝此家の中に空しく斃されむ。』

[2-138]「如上の事を汝不滿に思はば」(別譯)。

テーレマコスは斯く陳ず、其時彼れにクロニオーン、
ウーリュンポスの高嶺(たかね)より飛び來る二羽の鷲送る。
風の呼吸に吹かれたる其二羽の鷲悠々と、
互に近く伴ひて初め靜かに翼張る、
されど近づき囂々の聲ある會のただ中に、
衆の頭を見おろして飛びくだる時羽震ひ、
死の運命をほのめかし、猛き爪もて散々に、
彼らの頸を頬を裂き、しかして衆の家を越し、
都城を越して飄然と右邊(うへん)をさして飛び去りぬ。
その目親しくこれを見て鷲に驚く衆人は、
恐らくやがて來るべき變事思ひて胸騷ぐ。
その時衆に老雄のハリテルセース陳じ曰ふ、
(マストールの子、ただ獨り鳥を占ひ、凶兆を
述ぶる其術同齡の友に遙にまさる者、)

彼れ今衆に慇懃の思をこめて陳じ曰ふ、
『イタケー島に住める者、わがいふことに耳をかせ、
これらの事を求婚の群にことさら我は曰ふ、
彼らに今やおほいなる災迫る、オヂュシュウス、
友を去ること遠からず、近きにありて殺害と
死とをすべての求婚の群の()やがて來さんず、
しかのみならず高朗のイタケー島に住める他の
多くの者も害受けん、これに(さきだ)ち思ふべし、
彼らの群を制すべき其(すべ)いかに。彼ら又
おのれ自ら制すべし、しかせん事は特に善し。
經驗積みて善く知れば、我の豫言は誤らず、
アカイオイ軍その昔イリオンさして乘りいだし、
智謀に富めるオヂュシュウス共に同じく立ちし時、
彼に告げたるわが豫言今やまさしく成らんとす。
我は述べたり、災難の多くに逢ひて同僚を
皆悉く失ひて、人に知られず、ふる郷に
二十年めに歸らんと、是らの事は今成らむ。』

ユーリュマコスはポリボスの子なり、彼今答へ曰ふ、
『ああ(をぢ)、豫言なしたくば家に歸りて子らのため、
しかせよ、後に災難を彼ら或は免れん、
今此事に關しては我の豫言はいやまさる。
多くの鳥は太陽の光の下に翔けめぐる。
しかもすべては前兆を示すに非ず。オヂュシュウス
遠きあなたに亡びたり、汝も彼ともろともに
死せば善かりし!願くは此らを豫言する勿れ、
かれ若し惠與爲すとせばわが()にこそと期待して、
テーレマコスの憤激を、なほ此上に増すなかれ、
さはれ汝に今曰はん、わが曰ふところ()と成らむ、
多くの古き事知りて、言句によりて汝より
年わかき者そそのかし、其忿情を煽りなば、
まづいや先きに其者にとりて危害は大ならむ、
([2-191]彼は汝の言の爲め何らの事も不可ならむ、)
しかして(をぢ)よ、汝にはわれら苦痛を加ふべし、
そのため汝心中に惱み苦難は重からむ。
しかして衆中我はまづテーレマコスを喩すべし、
彼は宜しく其母に郷に歸るを命ずべし、
家の愛女にふさはしく豐かの嫁資を整へて、
彼女のために親戚はそこに婚禮行はむ。
その決定に先だちて、思ふに我らアカイアの
子らはうるさき求婚を廢するなけん、何者も
我ら恐れず、能辯のテーレマコスも何者ぞ!
叟よ、汝が無益にも述べたる豫言聊かも
我らは敢て顧みず、いよよ汝を憎むのみ。
婚嫁につきて衆心をペーネロペーア亂す間は、
此家の資財更にまた濫費されつつ、正當の
()の權利棄てられむ。われらは日日に麗人を
得るべく誓ひ相待たむ、しかして婚を許さるる
ほかの女性を得んとして此()退くことなけむ。』

[2-191]一九一行は後世の插入。

その時彼の聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ、
『ユーリュマコスよ、素生善き求婚者等よ、今我は、
これらにつきて汝らにもはや求めず、また曰はず、
神明すべて、アカイアの人々すべて之を知る。
さはれ二十の船員を具する(ひとつ)(はや)き船
我に與へよ、波の上あなたこなたを廻るもの、
スパルテー又沙地勝ちのピュロスに我は行かんとす。
遠き昔に旅立ちし父の消息聞かんため。
人界の子のあるものは告げん、或は消息を
善く告げる者、神より出づる風評聞き得べし。
父なほ生きていつしかは歸國すべしと聞くを得ば、
我は一年猶長く家資の浪費を忍ぶべし。
之に反して人の世に父はや無しと聞き知らば、
わがなつかしき累代の祖先の郷に歸りきて、
墳墓を築き、その上に禮に叶へる盛大の
式を擧ぐべし、かくて後母を新夫に與ふべし。』

しかく陳じて坐に着けばつづきて立てるメントール、
そは英邁のオヂュシュウス親しみ合ひし舊き友、
舟に乘じて旅立てる其時彼に一切を
托し、家政を整へて衆人治めしめし者、

彼れ今立ちて慇懃の思をこめて衆に曰ふ、
『イタケー島に住める者、わが曰ふことに耳を貸せ、
笏を手に取る王侯の誰れしもこゝに愛深く、
[2-231]恩情持ちて治めざれ!彼は胸中正當の
事を知らざれ!邪惡なる(わざ)を行へ!ここの民
先きにおのれを統べ治め、慈愛恰も父に似し
オヂュシュウスのすぐれしを、今や全く忘れたり。
素生の高き求婚の群、胸中に奸計を
たくらみ暴く振舞ふを我は咎むる者ならず、
オヂュシュウスは歸らずと陳じて彼ら、此家の
産を荒して生命の危難迫るを顧みず。
われ只外の民衆を怒る、彼らは默然と
空しく坐して言句なし、多數のかれら口開き、
數は少き求婚の群を咎むることをせず。』

[2-231]反語。

ユーエーノール生める息、レーオークリトス答へ曰ふ、
『ああ驕慢のメントール、心亂れて述べたつる
何らの言ぞ!衆人を煽りてわれを抑へしむ、
數多くとも宴席に我に向ふは難からむ。
イタケー島のオヂュシュウス自ら歸り、館中に
素生の高き求婚者宴するを見ていきどほり、
之を逐はんと試みば(あこがれ)長く良人の
歸郷を待てる其妻も彼の危難を恐れつつ、
之を喜ぶことなけむ、多數の身方備ふるも
彼は耻辱の運を得ん、汝の言葉愚かなり、
いざ衆民よ、散じ去り、おのおのおのが業に就け、
ハリテルセース、メントール昔よりして其父の
友たる二人、子のために旅の準備を整へむ、
さはれ思ふに彼れ長くここイタケーに留りて、
父の消息學ぶべし、旅は恐らく成らざらむ。』

しかく陳じて速んい此の集會を解き去れば、
衆人すべておのがじし家に歸りつ、求婚の
群は再びオヂュシュウス領する館をさして行く。
テーレマコスは唯ひとり岸に來りて、白浪(はくろう)
手を洗ひつつ、アテーネー神女に祈あげて曰ふ、
『ああ聞し召せ、わが家にきのふ降臨なせる神、
神は長らく家去りし父の消息探るべく、
舟に乘じて渺々の海を渡れとのたまひき。
さはれアカイア衆人は此らの事をおしとどむ、
特に驕傲たぐひなき求婚の群おしとどむ。』

しかく祈りて陳ずれば、かたへに神女アテーネー
近づき、影も音聲もメントールの如くして、
彼に向ひて翼ある飛揚の言句宣し曰ふ、

『テーレマコスよ、此後は拙く怯なること勿れ、
言語並に行につねにすぐれしオヂュシュウス、
其勇猛の心膽を汝其身に受け繼がば --
さらば汝の航海は空しかるまじ()と成らむ。
されども汝若し彼とペーネロペーアの子ならずば、
汝の願成るべしと望まむことは叶ふまじ。
父とひとしく勝れたる子らは此世に多からず、
多數は父に及び得ず、ただ少數はこを凌ぐ。
されど此後苟くも汝怯れず、拙ならず。
オヂュシュウスの計略を汝の胸に宿しなば、
此らの(わざ)を仕遂ぐべき希望汝の上にあり。
されば愚かの求婚の群の思と計畫を
心に掛くること勿れ、彼らは惡し、知慮足らず、
近きに迫る滅亡と凄き運命同じ日に、
彼らすべてを斃すべし、彼らは露も悟り得ず。
汝もくろむ航海はやがて近きに爲さるべし、
汝の父における如く我は汝に親しまむ、
汝のために善き舟を備へ、汝の伴たらむ。
汝歸りて求婚の群にしばらくまじはれよ、
旅するために糧食を備へて舟に蓄へよ、
瓶には美酒を納むべし、我はただちに民衆の
中より友を選ぶべし、海の圍めるイタケーに
新たなる船、古き船其數多し、其中を
くはしく調べ、最良のものを選びて速に、
船員これに乘りこませ、大海原に泛ばせむ。』

ヂュウスの愛女アテーネーかく宣すれば、其言を
テーレマコスは耳にして後聊もためらはず、
胸に思案を凝らしつつ家に向ひて歸り來る、
素生の高き求婚者、或は山羊の皮を剥ぎ、
或は庭に家豬の肉(あぶ)る光景眺め見る。
アンチノオスは彼を見て(ゑみ)を含みて寄せ來り、
即ちかれの手を取りて彼に向ひて陳じ曰ふ、

テーレマコスよ、高言し、心を制し得ざる者、
惡き言句(ごんく)を行を汝心に宿さざれ!
先の如くに飮食をわれらと共になすぞ善き、
船を、すぐれし船人をアカイア人は準備せむ、
かくして汝速にピュロスの聖地訪ひ行きて、
そこに汝の英邁の父の消息探り得む。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『アンチノオスよ、驕傲の汝の群に交りて、
心ならずも宴につき樂むことは叶ふまじ。
わが()の資産莫大にこれまで汝求婚者、
貪り盡し足らざるや!これ迄我は小なりき。
我いま既に人と成り、耳に多くの言を聞き、
善く悟り得て胸中のわれの心も強まれり、
行きてピュロスに旅するも、或は家に留るも、
汝に凄き運命を向くるを我は試みむ。
今われ去らむ、わが述べし旅は空しきものならず、
我は汝の手よりして船と人とを得べからず。
他の船乘らむ、かくあるを汝好みてたくらめり。』

しかく陳じておのが手をアンチノオスの手より解く。
館の中には求婚の群宴席を整へつ、
テーレマコスを冷笑(あざわら)ひ、嘲弄の言放ち曰ふ、
中の一人若き者傲然として友に曰ふ、

テーレマコスは我々に死と滅亡をたくらめり。
ピュロス或はスパルテー、そこより彼は應援の
友を集めて仇すべし、彼の熱望ものものし、
或は彼は豐沃の[2-328]エピュレー目がけて旅立ちて、
人命斃す怖るべき毒をそこより持ち歸り、
ひそかに之を杯盤に入れて我らを亡ぼさむ。』

[2-328]一歌二五九。

同じく若き驕傲の他の一人は陳じ曰ふ、
『誰か知るべき、彼も亦舟に乘じて國を出で、
友を離れて死せんとは!オヂュシュウスの逝ける(ごと)
然らば彼は我々に痛く[2-334]勞苦を増さしめん、
即ちわれら一切の彼の資産を頒つべし、
しかして彼の母及び新夫に家を與ふべし。』

[2-334]反語。

しかく彼らは陳じ合ふ。テーレマコスは其父の
穹窿高き室に入る、黄金及び青銅は
積まれ、櫃には衣服滿ち、更に香油も夥し、
古き甘美の葡萄酒の樽は同じく並びあり、
水をまじへぬ神聖の芳醇、中に充ち溢る、
勞苦を終へてオヂュシュウス家に歸らん日を待ちて、
芳樽こゝに整然と壁に添ひつつ並びあり。
錠をおろせし嚴重のたたみ戸そこに設けられ、
そこに日夜に監督の一女性あり、周到に
心用ゐて守る者ユウリュクレーア、彼や誰そ?
ペーセーノールうめる息、オプスを父に持てる者。

彼を寶庫に呼び入れてテーレマコスは陳じ曰ふ、
(うば)よ、わがため、もろ〜の瓶に良き酒、 -- 薄命の
父、英邁のオヂュシュウス、死と運命をまぬがれて、
歸らん時に捧ぐべく、汝撰びて蓄ふる
無上の美酒に次がんもの -- 願はくは汝酌み入れよ。
十二の壺に酒充たし、栓もて密に口塞げ、
更にわが爲め良き麥を革の嚢に滿たしめよ。
臼に挽かれし良き麥の二十[2-355]メトラを滿たしめよ、
是らすべてを整へて他人に語ること勿れ。
夕に到り樓上の室にわが母昇り行き、
靜に床に就かん時、我はこれらを持ち去らん。
我は今よりスパルテー並にピュロス沙勝ちの
郷を訪ひ行き、わが父の歸家の消息を探らんず。』
しか陳ずれば愛づる媼、ユウリュクレーア愁然と
痛く呻めきて、翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、
『嗚呼わが愛兒、いかなれば斯る思念を胸中に
宿すや?汝この家の獨子(ひとりご)、廣き(あめ)の下
旅しいづこに行かんとや?見ずや英武のオヂュシュウス、
國を離れて外邦の民の間に亡びしを!
しかして汝旅立たば、彼らただちに奸計を
めぐらし、汝亡して家の資財を頒つべし。
かかれば汝動かずに殘りて家を守れかし、
荒き海路をさまよひて苦難を受くること勿れ。』

[2-355]何程の量か不明。固體液體ともにメトラを單位としたるらし。

その時彼に聰明なるテーレマコスは答へ曰ふ、
『媼よ、心を安んぜよ、わが此決意神により、
さはれ此事わが母に告げざることをまづ盟へ、
われの旅行に出でてより十二日過ぐる前、
(彼女自ら思ひでてわが旅聞かばいざ知らず)
我を偲びて流涕に美貌汚すは胸苦し。』
しか陳ずれば嚴肅の盟を媼は神に立つ、
老女かくして神聖の盟を果し終る後、
十二の壺に彼のため甘美の酒を注ぎ入れ、
善く縫はれたる革嚢(かくのう)に挽かれし麥を注ぎ入る。
テーレマコスは求婚の群にまじりて館に入る。

かなた神女アテーネー更に新たに思案しつ、
テーレマコスの姿取り都市の四方におとづれて、
説きて諸人のそばに立ち、夕を待ちて迅速の
舟をめざして來るべく促し勸め、又次ぎて
ノエーモーンに(プロニオス生めるすぐれし子に)説きて、
船脚早き一艘を求む、相手は(うべな)へり。
光輪沈み、夜の影あらゆる路を蓋ふ時、
潮の上に迅速の船の一艘おろされつ、
あらゆる船具、小舟もて運ばれ中に充たされぬ、
かくて港のいや先きに舟は(とゞま)り、いさましき
僚友ともに集りて神女の聲に動かさる。
その時神女アテーネー更に新たに思案しつ、
脚を進めて英邁のオヂュシュウスの館に行き、
甘き眠を求婚の群に注ぎて欺きて、
醉ひ疲れたる手中より其盃を落さしむ。
斯くして彼ら眠るべくおのおの家に歸り去る、
睡まぶたの上に落ち、もはや席には耐へざりき。
その時神女アテーネー、聲も姿もメントール、
似せて、美麗に築かれし館より外に、獨子の
テーレマコスを呼び出し、即ち彼に宣し曰ふ、

『テーレマコスよ、脛甲の堅き僚友今すでに、
櫂のかたへに坐を占めて汝のくるを待ち焦る、
おくれためらふこと勿れ、いざ迅速に打立たむ。』

しかく宣して眞先に神女パルラス・アテーネー、
歩みを早く進むればテーレマコスは後を追ふ。
斯くして行きて波の上泛べる舟に着ける時、
頭髮長きアカイアの子らは岸邊に佇めり。
テーレマコスは凛然とその時衆に宣し曰ふ、

『友よ來りて糧食をはこべ、わが()に一切は
すでに整ふ、わが母はこの事知らず、從者らも
同じく知らず、ただ一人此計畫を悟り知る。』

しかく宣して先頭に立てば僚友あとを追ふ、
かくて糧食一切を搬びて岸に歸り着き、
オヂュシュウスのめづる子の命ずるままに舟に積む。
神女パルラス・アテーネー(さきだ)ち乘りて(とも)の坐に
就けば、續きて舟に乘るテーレマコスは其そばに
同じく座しつ、水夫らは繋げる綱を解き去りて、
皆一齊に乘り込みて其銘々の席に着く。
藍光の目のアテーネー其時、舟に便(たより)善く
いぶき高くも波の上ほびきゼビュロス吹き送る。
テーレマコスは衆に呼び、其手船具を握るべく
命を下せば一齊に衆ことごとく從へり。
樅の帆柱高らかに起し、横木の(うろ)の中、
据ゑて立てつつ綱をもてしかと彼らは結び付け、
善く(あざな)へる革紐を引きて白帆(はくはん)高く張る。

かくて快風白き帆を滿たせば、波は鞺鞳と、
激しく高く龍骨をめぐりて叫び、其上を
(つんざ)き走る快船は潮蹴立ててまつしぐら。
船具を黒き舟の上整へ終る水夫らは、
今芳醇を滿たしたる盃ともに取り上げつ、
とこしへおはす神明に、特に藍光の目の神女、
クロニオーンの愛女へと念じ奠酒の禮捧ぐ。
船は進めよもすがら、あすの曙光のあくるまで。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第三歌


第三歌

テーレマコスとメントールの姿を爲せる神女アテーネー共にピュロスに上陸、 其時ネストール岸にポセードーンを祭る。宴に招かる(一 - 六六)。 食後問答、テーレマコス父の消息を聞く(六七 - 一〇一)。 ネストールはアカイア軍の歸國とアートレデース兄弟の爭を話す。 但しオヂュシュウスの消息を知らず。(一〇二 - 二〇〇)。 テーレマコスは薄命を嘆ず、ネストール之を慰む、而してアテーネーは彼が信仰の足らざるを咎む(二〇一 - 二三八)。 アガメムノーンの死についてネストール委細に話す。又家郷を長く離るゝ不利を説きてテーレマコスを諭す。 されどまづメネラーオスを訪ふことを勸む(二三九 - 三二八)。 夜に至り宴席を徹す(三二九 - 三四一)[。] ネストールは船に歸らんとする彼らを留む、アテーネーはあとにテーレマコスを殘らしめ、 自ら空中に姿を隱す、ネストールは青年に神の冥護を祝し、犧牲を約す(三四二 - 三八四)。 宮中に奠酒の禮終る後各人其室に退く(三八五 - 四〇三)。 翌朝ネストールは其子とテーレマコスとをしてアテーネーに牲を獻ぜしむ、祭と宴會(四〇四 - 四七二)。 ネストール車を備へ、其子ペーシストラトスをしてテーレマコスを案内せしむ、兩青年ピュロスを立ち、 翌日の夕ラケダイモーンにつく(四七三 - 四九七)。

オーケアノスの美はしき水面(みなも)離れて日輪は、
高く[3-2]青銅の空のぼり、不滅の神を、豐饒の
大地に宿る人間を照し、光明燦と射る。
その時衆はネーリュウス創めしピュロス、堅牢の
都城に着けり。其岸に住民黒き牛屠り、
犧牲となして緑髮のポセードーンにたてまつる。
[3-7]組は九つ、おの〜の組は數ふる五百人、
また組ごとに屠るべく牡牛九頭を率ゐたり。

[3-2]天を青銅の矢或は鐡の天となす。
[3-7](イーリアス二歌五九一以下)ネストールは九市を治め、舟九十艘をイーリオンに率ゆ。

臟腑を喫しつ、股の肉炙ちて神に住民の
捧ぐる時に、客人の一行岸に來り着き、
白き帆おろし、おしたゝみ、陸に上れば、もろともに
テーレマコスは歩を進め、神女パルラス先に立つ。
その時藍光の目を持てるアテーナイエー彼に曰ふ、

『テーレマコスよ、聊かも今は羞恥(はにか)むこと勿れ、
汝の父の白骨はいづこ、何等の運命に
彼は逢へるや、知らんため汝は海を航し來ぬ。
駿馬を御するネストール、彼に直ちに今進め、
いかなる思其胸に彼宿せるや、探り見よ。
事の眞相述ぶるべく、彼自らに祈り乞へ、
彼は賢し、僞を汝に告ぐる者ならず。』

其時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『あゝメントール、いかにわれ彼に行くべき?語るべき?
われ猶いまだ巧妙の言句に馴れず、しかも又
年若き者、年長にものたづぬるは恐れあり。』

藍光の目のアテーネー神女答へて彼に曰ふ、
『テーレマコスよ、胸の中、汝自ら悟るべし、
とある神明又更に教へん、われの見るところ、
汝諸神の意に反し生れ育ちし者ならず。』

しかく宣してアテーネー・パルラス神女速かに、
先だち行けば、其あとにテーレマコスは附きてゆく。
かくてピュロスの人々の集り坐せる群に着く。
そこに老雄ネストール、其子とともに坐を占めぬ、
衆は食事を整へて、肉を炙りつ、肉を刺す。
されど異郷の客を見て衆はひとしく寄せ來り、
其手を取りて慇懃に招きて席に坐らしむ。
老ネストール生みたる子ペイシストラトスいやさきに、
近寄り二者の手を握り、岸の沙上に柔軟の
毛皮の上に、其父と其兄トラシュメーデース、
二人の側に席設け、酒宴の(には)に臨ましめ、
やがて臟腑の若干(そこばく)を與へつ、金の盃に
美酒を灑ぎて慇懃に、アイギス持てるクロニオーン、
其愛女なるアテーネー神女に向ひ陳じ曰ふ、

『客よ、地を震るポセードーン、おほわだつみの大神に
祈れ、君らは正しくも神の祭に出て會へり。
法の如くに奠酒禮行ひ祈り遂ぐる後、
同じく禮を致すべく、芳醇みてる盃を
此若人に君わたせ、思ふに彼も神明に
祈捧げむ、人の子は皆一齊に神需む。
彼は若くて年齡は正にわれのに等しかり、
かゝるが故にまづ君に我れ金盃をたてまつる。』

しか陳じつゝ芳醇の滿てる金盃捧ぐれば、
アテーナイエー喜べり、おのれに先に金盃を
捧ぐる彼の聰明を、其正しさを喜べり。
直ちに彼は海の王ポセードーンに祈り曰ふ。

『大地を抱くポセードーン、われらの祈聞し召し、
われらの業の完成を願はく拒みたまはざれ、
まづ光榮をネストルと其子の上に埀れたまへ、
而して次に其外のピュロスに住める衆人に、
下したまはれ、捧げたる牲に對する恩賞を。
テーレマコスと我とには、黒き船乘りこゝに來し
目的遂ぐる安らかの、歸郷の惠埀れたまへ。』

しかく祈祷を捧げたる神女自ら之を遂げ、
テーレマコスに美麗なる二柄(ふたえ)(はい)を與ふれば、
オヂュシュウスのめづる子は同じく共に祈上ぐ。
かくて衆人皮下の肉炙りて火より遠ざけて、
おの〜分を頒ち取り、盛に共に宴を張る。
やがて一同口腹の願おの〜飽ける時、
ゲレーニャ騎將ネストールまづ衆人に陳じ曰ふ。

『異郷の客は何人か?飮食すでに飽きたれば、
彼らに之を尋ね問ふ時は今こそ、然らずや?
いかに客人いづこより汐路を分けて君や來し?
用事のためか、但し又定まる目的(めあて)あらずして、
潮の上を漂ふや?他郷に害を(もた)らして、
危險を冐し荒れめぐるかの[3-74]海賊を見る如く?』

[3-74]同樣の問をキュクロープスがオヂュシュウスに爲す。(九歌)

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
(消息絶えし父につき問ふべく、かくて人の世に
譽を得べく、憐みて藍光の目のアテーネー、
テーレマコスの胸の中、凛たる勇氣植ゑつけぬ。)
『あゝアカイアの譽なるネーリュウスの子、ネストール、
いづこよりぞと君は問ふ、いでや委細を陳ずべし。
[3-81]ネーイオン山仰ぎ見るイタケーよりし、われら來ぬ。
來るはまたく私用なり、公事ならずと敢て曰ふ。
高き譽のオヂュシュウス -- 君ともろともトロイアの
都市屠るべく戰へる -- しか人は曰ふ -- わが父の
すぐれし、しかも不幸なる消息われは求め來ぬ。
トロイア軍と戰えへる勇將、多く痛むべく
斃れ死したる消息を、われ聞き知れり、たゞひとり
クロニオーンはわが父の死滅をさへも知らしめず。
いづくに彼は亡べりや?敵に敗れて陸上に
死せりや?あるは海上か?[3-90]アンピトリテー司どる
潮の中か?何人もこを明かに語り得ず。
そのため我は今こゝに君の御膝のもとに來ぬ。
わが薄命の父の死を君は告ぐるを慾するや?
或は君もしいづこにか彼を見つるや?あるは又
旅の者より聞きつるや?父は不幸に生れたり。
遠慮或は憐憫の言句をわれに曰ふ勿れ、
君の親しく見たるまゝ其眞相をものがたれ、
アカイア軍勢惱みたるトロイア族の郷の中、
言語或は行によりてわが父オヂュシュウス、
君を助けしことあらば、乞ふ今われに物語れ、
ありし昔を思ひ出で其眞相をものがたれ。』

[3-81]一歌一八六。
[3-90]海の仙女。

ゲレーニヤ騎將ネストール其時答へて彼に曰ふ、
『あゝ友、汝われをして思ひ出でしむ、アカイオイ、
無敵の勇士、トロイアの郷にうけたる苦しみを。
時にあるひはアキリュウス先だち暗き海の上、
船に乘じて漕ぎ廻り、獲もの求めしことありき、
時にあるひはプリアモス王の都城の傍に
戰ひたりき。その(には)に斃れし勇士幾何ぞ?
アレースに似しアイアース逝き、アキリュウスまた逝けり、
パートロクロス -- その知慮は神に似る者また逝けり、
同じくそこにわが愛兒アーンチロコス、勇にして
戰及び競走にすぐれし者も亦逝けり。
そのほかわれら身に受けし苦難の數は幾何ぞ?
其一切を人界の子の何者か語り得む!
わが剛勇のアカイオイ、そこにうけたる災難を
問ふべくこゝに五六年、留るも遂に效なけむ、
その前汝等倦み果てゝ故郷をさして歸るべし。
九年に亙りわが軍は種々の謀略めぐらして、
敵の覆滅努めしも、クロニオーンは成らしめず。
そこに其時誰人もオヂュシュウスの聰明に
競ひ得ざりき、一切を凌ぎて彼はたくらみぬ。
若き客人、汝もし誠に彼の息ならば、
汝の父は偉なりけり。汝に我は驚けり、
その曰ふところ髣髴と正しく彼を聞く如し。
若しかくも物曰ふを誰か果して思ひ得む!
その頃常に英邁のオヂュシュウスとわが身とは、
集會あるひは評定の席に意見を一にして、
絶えて爭ふことあらず、共に計りてアカイアに
至上の好果あれかしと、心碎きてつとめにき。
かくして遂にトロイアの堅城われら攻め落し、
船に乘じて神命によりて軍勢散れる時、
アカイア族はクロニオーン不幸の歸郷もくろみぬ。
彼ら多くは聰明にあらず、正義のわざなさず、
故に多くは雷霆の神女のアテーネー、
其怒より悽慘の運に出逢へり、藍光の
神女は不和を起さしむ、アトレーデース兄弟に。
二人は法に從はず、只輕躁に一切の
アカイア族を、夕陽の沈む時刻に[3-138]呼び集め、
酒に亂れて紛々と衆人寄せて來る時、
二人は立ちて軍勢を呼び集めたる故を述ぶ。
まづメネラオス口開き、アカイア軍の一切に、
大海原の波こして郷に歸るを説き勸む。
アガメムノーンは聊かも之を好まず、アテーネー
神女の凄き憤り、和げんため神聖の
牲捧ぐべく、衆人のあとに殘るを冀ふ。
されど神女の聽かざるを悟らざりけり、痴なりけり、
不滅の神は怱々に心をかゆる者ならず。
アトレーデース兄弟は斯くして立ちて言暴く、
互に論じ爭へば、アカイア軍はもの凄く
叫び立てり、衆人の意見二つに分れたり。
かくて夜すがら二派の者互に怒り憤り、
床につきけり、クロニオーンわれの破滅もくろめり。
あくるあしたに一隊は、大海原に船おろし、
[3-154]帶(ゆるや)かの女性らを、寶の中に積みのせぬ。
他の一隊は陸上に殘り留り、牧童に
羊の群の附く如く、アガメムノーンに從へり。
かくて半は船に乘り白帆(はくはん)張れば迅速に
船は走れり、大神は魚群るる海しづめたり。
船テネドスに着ける時、歸郷の思切にして、
牲を諸神に捧げしも、之を許さずクロニオーン、
酷き大神また更に凄き爭起さしむ。
その時智謀豐かなるオヂュシュウスに伴へる
其一隊は、又更にアトレーデース、衆の王、
アガメムノンに合すべく曲頸の船引きかへす。
されども我は附き來る船を率ゐて逃れたり、
禍難を -- 神のもくろみを悟り得たれば逃れたり。
チューデーデース其伴に勸め同じく逃れたり。
又金髮のメネラオスおくれて後を逐ひ來り、
レスボス島に着ける時、われらは評議中なりき、
これより先は岸高きキオスの上手(かみて)進みゆき、
[3-171]プシュリエーの小さき島、左に眺め航せんか?
キオスの下手(しもて)風荒きミマスに添ひて走らんか?
休徴(しるし)を乞へば神明は納受ましまし、命ずらく、
目ざすは沖のユウボイア、海の眞中(まなか)の波わけよ、
かくせば最迅(もとも)速にゆゝしき禍難避くべしと。
やがて一陣颯々の風吹き起り、鱗族の
群がる海を船迅く進みて、其夜速かに
[3-178]ゲライストスの岸上り、波浪凌ぎし恩を謝し、
多くの牡牛の(もゝ)の肉ポセードーンにたてまつる。
その後四日アルゴスに馬術巧みの英剛の
ヂオメーデース率ゐたる船一齊に泊りぬ。
我はピュロスに船向けぬ、一たび神の命により、
吹きはじめたる順風はつゞきて吹きてやまざりき。
斯くして我は、若き子よ、郷に歸りて何事も
知らず、アカイア族人の生死いづれか我知らず。
されど靜かに館中に坐して世人の曰ふところ、
聞きたるまゝに其儘に包み隱さず語るべし。
世人は曰へり、英邁のアキルリュウスの[3-188]生める息、
ミルミドネスの軍率ゐ、無事に故郷に歸れりと。
同じくピロクテーテース、ポイアスの子またさなり。
イドメニュウスは戰場を去りし部衆の一切を、
クレーテーへと連れ歸る。海は一人も傷はず。
アトレーデースの運命は離れて汝聞きつらむ、
國に歸りて無慙にもアイギストスに殺されぬ。
殺せし彼は罪惡の報來りて斃れたり、
胸に奸計蓄へしアイギストスの殺したる
其恩愛の父の仇、討ち果し得し[3-197]可憐の子、
かゝる子あとに殘し得ば死するも恨あらざらむ。
友よ、わが目の見る處、雄々し美はし、後の世に
美名を殘し得んがため、汝勉めて勇を鼓せ。』

[3-138]集會は朝に於てするを法とす。
[3-154]捕虜のトロイア婦人、Vossは「帶美はしき女性」と譯す。
[3-171]エーギア海中レスボスとキオスとの間にあり。
[3-178]ユウボイア島の南東の岬。
[3-188]即ちオプトレモス。其行動をオヂュシュウス冥府に於てアキリュウス語る(十一歌)。
[3-197]オレステース(一歌二九八また本歌三〇六)。

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『あゝアカイアの譽なるネーリュウスの子、ネストール、
げにもかの人いみじくも仇を斃しぬ、アカイアの
民は譽を捧ぐべし、後の世ともに贊すべし。
あゝ我に亦かゝる勇 -- 神の惠のあらまほし、
非道のわざをたくらみてわれを侮り辱しめ、
無禮加ふる求婚の群を懲さん其勇氣、
かゝる惠を神明は我に授けず、わが父も
われも等しく命薄し、すべてを忍ぶ外あらず。』

ゲレーニャ騎將ネストール其時答へて彼に曰ふ、
『あゝ友、君の物語りわれに思ひ出起さしむ、
われ聞くならく、君の()に君を侮る求婚の
群は母堂を本として、非道のわざをたくらむと。
今我に曰へ、甘んじて君は服すや?衆人は
神の聲聽き從ひて君を憎惡の的とすや!
誰か知るべき、オヂュシュウス他日歸りて身ひとつに、
或はアカイア族と共、彼らを懲すこと無しと!
藍光の目のアテーネー、アカイア軍のそのむかし
苦難を受けしトロイア府、その敵人の許にして、
彼に應護を埀れし(ごと)或は君を憐まむ。
彼をパルラス・アテーネー助けし如くあきらかに、
他の神明が人々を助けしことはわれ知らず。
斯くのごとくに若し神女君を憐み助けなば、
其時こそは無慘なる彼らは[3-224]婚を忘るべし。』

[3-224]婚禮は問題に非ず。殺さるべし。

其時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『あゝ叟、しかく成るべしと我は未だし信じ得ず、
君曰ふ所甚だし、われ只畏る、望めども、
神明之を許すとも、事恐らくは成らざらむ。』

其時彼に藍光の目のアテーネー宣し曰ふ、
『テーレマコスよ、何らの句汝の齒端洩れいづる!
神は意あらば離るゝも容易く人を救ふべし。
家に歸りて凱旋の日の喜を見る前に、
多くの苦難受くることわれこそ望め、憐れにも
アガメムノーン、其妻とアイギストスの奸謀に
斃れし如く、わが家の爐邊に命を落すより。
さもあらばあれ物凄き死の運命の襲ふ時、
神といへども其めづる子らを助けて一切に、
ひとしく來る滅亡を拒がむ事は叶ふまじ。』

その時彼に聰明のテーレマコスは陳じいふ、
『あゝメントール、惱しきこれらの談話打切らむ。
もはや父には歸郷無し、不死の神明はやすでに
死滅を、凄き運命を、彼に向ひてもくろめり。
今は別事をネストルに問ひて答をわれ聞かむ。
あらゆる人にたち優り、彼は正しく賢かり、
われ聞くならく人生の[3-245]三代彼は長なりと、
わが見るところ不滅なる神にも彼は似たるかな。
ネーレーデース、ネストール、あゝ君まこと打ちあけよ。
アトレーデース權勢のアガメムノーンの死や如何に?
その時いづこメネラオス?アイギストスの非道なる、
彼は何らの策により勝れる武將斃したる?
王弟その時アカイアのアルゴス中にあらずして、
他郷にあるに乘じつゝ。彼兇行を遂げたりや?』

[3-245]イーリアス一歌二五二。

ゲレーニャ騎將ネストールその時答へて彼に曰ふ、
『若き客人、この事を包まず君に語るべし。
若し金髮のメネラオス、トロイア去りて歸り來て、
アイギストスの館中に活けるを見なば何事か
起りつらんか?君も亦胸に描きて思ひ得む。
アイギストスは殺されて屍體葬むる者は無く、
都市より遠く郊外に棄てられて、土に伏せる身は、
野犬鷙鳥(してう)につんざかれ、アカイア女性ひとりだも
彼のために泣かざらむ、彼の兇行すごかりき。
遠く異郷に赴きてわれら多くの勤勞に
いそしめる頃、アルゴスの牧野の奧に悠々と、
彼は甘言弄しつゝ、アガメムノーンの妻に媚ぶ、
初めは[3-265]クリュタイムネストレ麗人操堅くして、
情思正しく身を護り不義の行喜ばず。
更に夫人を守るべくアトレーデース、トロイアに
行くに臨むて命じたる樂人ひとりそばにあり、
されども彼女神明の意に迫られて靡くとき、
無人の島に樂人を奸夫は誘ひ驅りやりて、
そこに鷙鳥の餌食たり獲物たるべく棄て去りぬ。
かくて心を許し合ひ、夫人を家につれ歸り、
夥たの牛の股の肉炙りて神の聖壇に
捧げ、思ひも寄らざりしゆゝしき非行成し遂げて、
彼は錦繡黄金の供物を更にそこに掛く。
其頃われらトロイアを去りてもろとも波わけぬ、
アトレーデース及び我、互に睦み友たる身、
アテーナイの地スーニオン、其神聖の崎に着く。
そこにポイボス・アポローン其穩かの矢を放ち、
メネラーオスの走る船、船の舵とるプロンチス、
(オネートールの生める息、颶風はげしく襲ふ時、
あらゆる人に立ちまさり、巧に船の舵とりて
彼凌ぐもの)射斃して其一命を亡ぼしぬ。
かくして王は行く先を急げどそこに留りて、
部下を葬り、墳上にその弔祭を營みぬ。
營み果てゝ又船を暗紅色の海の上、
走らせ高き[3-285]マレイアの麓の崎につける時、
轟雷震ふクロニオーン、辛き航路をたくらみて、
怒號はげしき大風(たいふう)のいぶきを起し、大山(たいざん)
如く高まる銀浪を激しく湧かし、惱まして
衆を二隊にひき分けつ、その一着けりヤルダノス
流るゝほとり、キュドーネス族人すめるクレーテー。
(こゝに霞める海の上、ゴルチェーンの端にして、
波浪の上に滑かの嶮崖高く聳え立つ、
南風こゝに左手の崎パイストスめがけつゝ、
大潮驅れば、小さき岩、其大潮を驅り攘ふ。)
こゝに一隊到りつき、死滅を辛く船員は
免れ得たり、然れども巖に船を打ちつけて、
怒潮は船を碎きたり。他の一隊の船五艘、
風と汐とに搬ばれてアイギュプトスの岸に着く。
かくしてこゝに糧食と黄金集め、船に乘り、
言語異なる民族の間に彼はさすらへり。
時を同じく故郷にて、アイギストスは彼の兄、
アトレーデース亡ぼして、衆をおのれに服せしめ、
黄金を富むミュケーネー七年長く治めけり。
第八年に英剛のオレステースは、アテーナイ、
旅せる地より歸り來て、すぐれし父を亡ぼせる
アイギストスに仇報ひ、無慚の惡徒打ち斃す。
其復讐の終るのち、無慚の母と奸夫との
爲めに弔祭行ひて、アルゴス人を宴に呼ぶ。
其同じ日にメネラオス、雄叫び高き勇將は、
船に多くの寶積み、岸にのぼりて彼を訪ふ。

[3-265]クリュタイムネーストレー。
[3-285]ラコニアの東南の丘。

友よ、君また館中内に資財を殘し、驕慢の
群をのこして郷遠く長くさまよふこと勿れ、
無慘の群は恐らくは、君の資財を貪りて、
おのが間に頒つべく、君の旅行も空ならむ。
たゞ我、君に勸むるはメネラーオスを訪はんこと、
遙かに遠き異郷より彼は近頃歸り來ぬ。
大海原に荒れ狂ふ颶風一たび此の郷に、
人の航路を外らしなば、彼は再び其地より
歸るを胸に望み得じ、危險に滿つる漫々の
水は鳥だも一年を過ぐるも渡り得べからず。
水夫率ゐて船に乘り、君今彼の許に行け、
陸路望まばわれ君に馬と車を備ふべし、
わが子は君に伴はん、彼善く君を導かん、
ラケダイモーン聖郷に、メネラーオスの金髮に。
彼に願ひて眞實を語らしむるを善しとせむ。
彼は虚言の人ならず彼の心はいとさとし。』

陳じ終れば日は沈み暗四方より襲ひ來ぬ。
藍光の目のアテーネー神女その時陳じ曰ふ、
『あゝ叟、君はよろしきに叶ひてこれら物語る、
いざ今牲の舌を絶ち、[3-332]酒を混じて海の神、
ポセーダーオーンまた外の神に奠酒の禮を爲せ。
禮を畢りて眠るべし、眠の時は近づけり。
日ははや沈み、光明はすでに隱れぬ、長らくも
諸神の宴に(はんべ)るは然るべからず、歸るべし。』

[3-332]飮み善くする爲めに純酒に水を混ず。

ヂュウスの神女かく宣し、衆人ひとしく之を聞く。
やがて令使は衆の手に清めの水を濯ぎかけ、
若き從者は滿々と酒を壺中に充たしめつ、
中より酌みて盃を衆に奠酒のため與ふ、
かくして衆は牲の舌、火中に投じ酒灑ぐ。
其禮了へて意のまゝに衆人酒盃ほせる時、
神に姿は髣髴のテーレマコスとアテーネー、
もろともに辭してうつろなる船に歸るを冀ふ。

されど其時ネストール、之をとゞめて陳じ曰ふ、
『ヂュウス並に不滅なる他の神靈よ許さゞれ、
衣服乏しく貧しくて、おのれも客も安らかに
被りて睡る絨氈も、衾も家に十分に
あらぬあるじを去る如く、彼今われの許さりて、
迅く波切る輕舟に歸るを神よ許さゞれ。
華麗の氈と衾とをわれわが家に備へたり。
わが生命のある限り、オヂュシュウスの如きもの
生める愛兒は甲板の上に眠るを許されず、
此家にわれを嗣がん者、われの子孫も必ずや、
此家を訪ひて來るべき客慇懃にもてなさむ。』

藍光の目のアテーネー神女答へて彼に曰ふ、
『叟よ、いみじく曰はれたり、しかあることはげにもよし、
テーレマコスは當然に君の言葉に從はむ。
即ち君の館中に今宵の夢を結ぶべく、
君もろともに彼行かむ、されども我は碇泊の
舟に歸りて船員を勵まし委細語るべし。
彼等の中に年長を誇るは獨り我ばかり。
友誼によりて附き來る他の人々は年若し、
齡は正に英邁のテーレマコスと相等し。
我今去りてうつろなる黒く染めたる船のへに
いねん、あしたは剛勇のカウコーネスの族訪はむ
彼等は我に債を負ふ、そは舊くして其額は
些少に非ず。さはれ君、此訪ひ來る若人を、
車に乘せて君の子の一人導たらしめよ、
而して惠め脚速く力すぐれし善き馬を。』

宣し終りて藍光の目のアテーネー忽然と、
(みさご)に變じ飛び去れば、皆駭然(がいぜん)と空仰ぐ。
その目親しく之を見し老王そゞろに愕きて、
テーレマコスの手を取りて即ち彼に陳じ曰ふ、

『友よ、神明年若き君をかく迄導けば、
君は怯れて勇無しとわれ聊かも思ひ得ず。
ウーリュンポスの神殿に住める諸神の中にして、
彼は正しくヂュウスの女、[3-378]トリートゲネーア・アテーネー
アルゲーオイの族中に君の尊父をめでしもの。
あゝ神、惠豐かにてわれに譽を得さしめよ。
われに並にわが息に、又恩愛のわが妻に。
我は捧げむ一歳の牝牛、人手にまだ觸れず、
額廣くて軛負ひ牽かれしことのあらぬもの、
角に黄金卷きつけて神女に之を捧ぐべし。』
しかく祈りて陳ずるを聽けり、パルラス・アテーネー、
ゲレーニャ騎將ネストールかくて華麗のおのが()に、
衆一同をひきゐゆく、子らと聟らをひきゐ行く。
かくして王の莊麗の館に着きたる衆人は、
椅子に或は肱掛に列を正して着座しぬ。
その時王は衆の爲め葡萄の美酒の壺開き、
水混ぜしむ、其酒は十一年を過ぎて後、
家令はじめて口開き、封解きしもの、これを今、
混じて王は地に灑ぎ、アイギス持てるクロニオーン、
ヂュウスの神女パルラスに心をこめて乞ひ祷る。
奠酒の禮を終る後、心ゆく迄酒酌める
衆人、おのおの其家に床に就くべく歸り行く。
ゲレーニャ騎將ネストールその時かれの若き客 --
オヂュシュウスの愛兒なるテーレマコスを、柱廊の
下に刻める床のへにやすらはしめつ、(かたへ)には
ペーシストラトスやすましむ、こは館中の諸子の中、
未だ娶らず、衆兵を率ゐて勇を奮ふもの。
王は自ら宏壯の館の奧なる一室に、
睡る。夫人は彼の爲め床と食とを整へぬ。

[3-378]ボイオーチアの河トリトーンのほとりに生る。

薔薇の色の指もてる曙の神女の現はれに、
床を離れて立ちあがるゲレーニャ騎將ネストール。
出で來て高き大門の前に設けし[3-406]石の椅子、
其上王は腰おろす、油に磨き滑かに
光るばかりの石の椅子、王の父なるネーリュウス、
神に等しき評定者、いにしへこゝに倚りしもの、
(かれ)運命の制を受け、すでに冥王のもとに去り、
今はゲレーニャネストール、アカイア人の守護として、
笏を握りてこゝに座す、彼のめぐりに子息だち、
室を出で來て集りぬ、ストラチオスとエケプローン、
ペルシュウスとアレートス、いみじきトラシュメーデース、
ペーシストラトス第六につゞきて到り、諸共に
テーレマコスを導きて彼らの側に座らしむ。
ゲレーニャ騎將ネストール其時衆に陳じ曰ふ、
『いざ速かに愛兒らよ、われの願を成し遂げよ、
諸神の前に我は先づ祭いたさむ。アテーネー、
神女は先に海神の祭の(には)に現はれき。
いざ原上に人をやり牝牛一頭探させよ、
而して之を迅速に牧童ひきて來るべし、
また一人は剛勇のテーレマコスの黒き舟
訪ひて、水夫ら連れ來れ、但し二人を殘すべし、
又一人は金工のレーエルケースこゝに呼べ、
彼は來りて黄金に牝牛の角を飾るべし。
他の一同は諸共にこゝに殘りて女中らに、
わが莊麗の館の中、告ぐべし宴を備ふべく、
而して椅子と薪材と清水(せいすゐ)運び來るべく。』

[3-406]此時代の君主は門前に出でゝ、衆に話す習慣と見ゆ、四歌三一一に他の例あり。

しか陳ずれば衆人は皆いそしめり、平野より
牛は來れり、剛勇のテーレマコスの水夫らは、
船脚早き堅牢の船の中より、金工は
その手の中にその技の噐具 -- 鍛冶の噐具 -- 金床を、
槌を、微妙に造られて金の細工に使はるゝ
火箸を取りて訪ひ來る。牲の祭をうくる爲め、
アテーナイエーまた來る。ゲレーニャ騎將ネストール、
その時金を金工に渡せば彼は細工して、
牝牛の角に捲きつけて眺めむる神女喜ばす。
ストラチオスとエケプローン牛の角取り牽き來る、
またアレートス室を出で花を刻める瓶の中、
水を湛えて持ち來り、他の手は麥の籠を取る、
トラシュメ⌒デース戰を善くする者は、鋭利なる
斧を手に取り、斃すべく牝牛の傍に屹と立つ、
またペルシュウス鉢を取る。其の時老將ネストール、
式を初めて手を淨め、麥を蒔きつゝ慇懃に、
神女に祈り頭より[3-446]毛髮切りて火に投げぬ。
祈をこめて神聖の麥を衆みな蒔ける時、
ネストールの子、勇猛のトラシュメ⌒デース、そばに立ち、
おろす鋭刄牛の頸打ちて其筋つんざきて、
其一命を打ち絶やす、その時聲を高らかに、
老ネストールの諸の娘と嫁と貞淑の
ユーリュヂケーと皆祈る、夫人の父はクリュメース。
地上倒れし其牲を衆引き起し支ふれば、
ペーシストラトス、兵士らの主將は喉を切りささぬ。
暗紅の血の迸り牲の[3-455]命の絶えし時、
衆は直に(かた)の如くして、
すべての股を截りおろし、而して二重の脂もて、
之を包みつ。其上に(なま)の肉塊横たへぬ。
薪の上に老王は之をあぶりて、暗紅の
酒を灑げば、若き子ら(かたへ)に五叉の串を取る。
かくして股の燒けし時、衆は臟腑を喫し終へて、
殘りの肉を刻みつゝ串もて之を貫きて、
之を炙りぬ、先光る串を兩手(もろて)に握りつゝ。

[3-446]彼の頭よりとする、又牛の頭よりとする、二種の解あり、イーリアス三歌二七三に牲の頭の毛を剪る。
[3-455]直譯すれば『生命骨を去れる時』

ネーリュウスの子ネストール、其末娘艷麗の
ポリュカステースねんごろにテーレマコスを浴せしむ。
湯沐(ゆあみ)終れば橄欖の香油を膚にまみらしめ、
下着竝に華麗なる上衣を彼にまとはしむ、
かくて浴室出で來る彼は風貌神に似て、
進みて王者ネストール、座せる(かたへ)に身を据ゑぬ。
衆は炙りし皮下の肉、串より拔きて一齊に、
其座に着きて宴開く、すぐれし僕は黄金の
杯に芳醇みたしつゝ、席の間をあしらひぬ。
衆人かくて飮食の願おのおの滿てる時、
ゲレーニャ騎將ネストール衆に向ひて陳じ曰ふ、

『わが愛兒らよ、鬣の美なる駿馬を
車につけよ、われの客テーレマコスの旅の爲め。』

しか陳ずれば衆人は其言聞きて順ひて、
車の下の脚迅き兩馬の首に軛つく。
係の女性又ために車の中にパンと酒、
また神寵の王者らの好める美味を積みのせぬ。
テーレマコスは華麗なる車の上に身を乘せぬ、
(かたはら)に兵の將ペーシストラトス、ネスト⌒ルの
生める子息はもろともに乘りて手中に鞭を取り、
鞭打ち當てゝ驅り行けば、兩馬勇みて平原を
飛ぶが如くに奔り行く、ピュロスの城市後にして、
附けたる軛右左ひねもす強く振はして。

光輪入りて暗黒はあらゆる街路襲ひくる、
その時二人[3-488]ペトライに -- オルシロコスの息にして、
アルペーオスを祖父とする、ヂオクレースの家に着く、
ヂオクレースは慇懃に宿れる二客もてなしぬ。

[3-488]メセーネー州の北東部。

指は薔薇のくれなゐの曙の神女の出づる時、
二頭の馬に軛附け、華麗の車身を乘せて、
響を返す柱廊を門戸を二人かけだしぬ、
鞭を當つれば喜びて兩馬さながら飛ぶ如く、
麥の實れる原上に來りぬ、そこに兩人は
旅を終りぬ、斯くの如、駿馬は二人を運び來ぬ、
光輪入りて暗黒はあらゆる街路今おほふ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第四歌


第四歌

テーレマコスとペーシストラトスの二青年、ラケダイモーンに着ける時メネラーオスは恰も其子女の二組の結婚式を擧ぐ。 客の歡迎(一 - 六七)。 テーレマコスは宮殿の莊麗に驚く。王彼にオヂュシュウスに付て語る、テーレマコス泣く(六八 - 一一九)。 ヘレネー出で來り、テーレマコスを見て勇將の子なるべしと曰ふ。 ペーシストラトス然りと答ふ。メネラーオスは歡喜してオヂュシュウスに對する好意を語る、 衆人共に感激して泣く(一二〇 - 一八八)。 ペーシストラトスは話を明日に延すべしといふ。ヘレネー酒を與へ慰む、 オヂュシュウスの智謀と勇氣の物語(一八九 - 二八九)。 翌日王はテーレマコスに來訪の目的を聞く、其答、王はオヂュシュウスの運命を痛む(二九〇 - 三五〇)。 王がプローテウスの女に救はれし話(三五一 - 四六一)。 プローテウスは安全の歸國の方法を教ふ(四八五 - 五四七)。 プローテウスは又オヂュシュウスがカリュプソーに抑留さるるを説く。 メネラーオスの歸國の話(五四八 - 五九二)。 王はテーレマコスを留むれど聽かず(五九三 - 六七四)。 メドーンは之を知りペーネロペーアに告ぐ、彼女悲みて侍女らを叱る。 ユーリュクレーアの意見、ペーネロペーアはアテーネーに祈る(六七五 - 七六七)。 アンチノオスは二十人を選び舟に乘りテーレマコスを待つ(七六八 - 七八六)[。] 神女アテーネー、ペーネロペーアの睡眠中に其妹の姿の幻を送る、 幻はテーレマコスの運命を語る(七八七 - 八四一)。 求婚者らの埋伏(八四二 - 八四七)。

ラケダイモーン・スパルテー、地は低うして谷多き
郷に二人は着ける後、メネラーオスの館を訪ふ。
訪へば其時衆客を王は招きて館中に、
其子並にその女子の婚賀の宴を開きあり、
女子は勇武のアキリュウス生める子息にゆかんとす。
此事さきにトロイアに王はうべなひ約したり、
神明ははまたこを嘉みし、婚儀をこゝに成らしめぬ。
即ち車馬を整へて新夫治むるミュルミドーン、
著名の都市に其愛女彼今正に送らんず。
更に晩年奴隸より生れし其子、剛勇の
メガンペンテ⌒スの娶るべき、アレクトールの生める女子、
スパルテーより王は呼ぶ。すぐれし佳人、風貌は
アプロヂテーに彷彿のヘルミオネーをそのはじめ、
生めるヘレネー其後は神に嫡子を惠まれず。

かくして彼等、光榮のメネラーオスの鄰人ら、
並に友は、高き屋の巨館の中に歡樂の
宴に列る、その中に伶人ひとり豎琴を
彈じ、巧みに吟ずれば踊手二人、其歌に
合はせ、酒宴の席の中、身をひるがへし踊り行く。

こなたすぐれしネスト⌒ルの子息並に剛勇の
テーレマコスは、車馬ともに館の門前に立ち留る。
その忽ちに光榮のメネラーオスの忠實の
家臣、内より出で來るエテオーニュウス認め得つ、
之を王者に告げんため脚を返して内に入り、
即ち彼の側近く立ちて羽ある言句曰ふ、

『ヂュウスの愛づるメネラオス、見よ客二人こゝにあり、
其風貌はおほいなるヂュウスの系にさも似たり、
尊命いかに?駿足を彼らの爲に解くべきか?
或は彼ら去らしめて他の歡待に任せんか?』

金髮の王メネラ⌒オス怫然として彼に曰ふ、
『エテオーニュース、あゝ汝、ボエートオスの子たる者、
先には愚昧ならざりき、今はた何の妄言ぞ!
此より後に災難の無きをヂュウスに念じつゝ、
此地に歸り來る迄、他の慇懃のもてなしを、
われら受けしは幾許ぞ!いざ客人の馬を解き、
彼らを内に請じ入れ、わが宴席に就かしめよ。』

しか宣すれば、かれの臣、館を急ぎて走り出で、
他の忠僕に呼びかけて、おのれに附きて來らしむ。
かくて流汗淋漓たる馬、軛より解き離し、
(うまや)に入れて馬槽(うまぶね)を前に据ゑつゝ其中に
小麥を投じ、其中に白き大麥まぜ入れつ、
車は之を中庭の白く燿く壁に寄せ、
しかして二客導きて華麗の館に入り來れば、
ヂュウスの愛づる老王の宮に二人は驚けり。
げに光榮のメネラ⌒オス、其屋根高き宮殿は、
日輪又は月輪に似たる光輝に燿けり。
この光景を其目もて親しく眺め飽ける後、
よく琢かれし浴場に入りて二人は(ゆあみ)しぬ。
侍婢は二人を浴せしめ、香油を膚に塗りし後、
柔軟にしてさはりよき肌着上着を纒はしめ、
アトレーデース、メネラオス王の(かたへ)に坐らしむ。
やがて美麗の黄金の瓶に淨水をもたらして、
一人の侍婢は銀盤の上に注ぎて、彼らの手
清めしめつゝ、琢かれし卓を彼らの前に据う。
つつましげなる家婦は又、パンを齎らし卓上に
供へ、數多の食品を添へ慇懃にもてなしぬ。
肉切る者は樣々の皿高らかに、
捧げ來りし黄金の杯ともに前に据う。

その時金髮のメネラオス二人を歡迎しつゝ曰ふ、
『いざや客人、食を取り、樂しめ、宴の終る後、
此の世に君ら何人か、我おもむろに問はんとす、
思ふに其名世に響き、笏を取る者 -- クロニオーン
ヂュウスの愛づる王公は、君ら生めるに非ざるや?
卑賤の人はかかる子を世に産み出づる術なけむ。』

しかく陳じて目の前に禮を具へて据ゑられし、
炙れる牛の背の肉を取りて二人の前におく、
二人即ち手をのして供へられたる食を取る。
やがて衆人飮食の願おのおの滿てる時、
テーレマコスはネストルの子のそば頭近くよせ、
他の人々に聞かぬやう聲を潛めて陳じ曰ふ、

『ネストリデース、わが愛づる心の友よ、眺め見よ、
響朗らの宮の中、見よ青銅の燿きを!
また黄金と白銀と象牙琥珀の數々を!
ウーリュンポスのクロニオーン其宮殿も斯くあらむ。
言に盡せぬ珍寶に、われ驚嘆の外あらず。』

洩るる其の言耳にして今金髮のメネラオス、、
彼らに向ひ翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、
『若き君らよ、さに非らず、人界の子の何ものも、
神に競へず、彼の宮並に寶不朽なり、
人界の子のある者は其富われに敵せんか、
はた敵せじか、先に我れ痛く惱めり、さまよへり、
かくて寶を船に積み第八年に歸り來ぬ。
我さまよへり、[4-84]キュプロスに、ポイニーケーに、又更に
アイギュプトスに、つぎて又アイチオピアー、シイドーン、
[4-85a]エレムボス又リュビュエーに、 -- そこに[4-85b]仔羊角を持つ、
羊はそこに一年に三たび其子を産みいだす。
そこには君主もろともに牧人嘗て乳酪を
缺かず、同じく肉かかず、甘美の乳は充ち溢る、
そこには羊一年を通じてつねに乳出す。
これらの國を經めぐりて富を盛に營々と、
集め求めし其間、奸人我の兄をその
姦婦の策に從ひて俄かに討ちて亡せり。
斯くある故に司る資財を我は樂まず。
君らの父は誰にせよ、父よりこれら聞きつらむ、
われは多大の災を受けたり、多くの珍寶を
藏め豐に富める家、無慘にわれは失へり。
さはれ僅かにわが家産ただ三の一保ちつつ、
こゝに住むともよからまし、馬の産地のアルゴスを
離れて遠くトロイアに亡べる諸友今あらば!
わが宮中に坐を占めてわれは屡々亡友の
これらすべてを偲び出で悲み呻き、時として
わが魂に哀愁に耽けるを許し、時として --
辛き冷めたき哀愁は長からざれば -- 嘆止む、
その哀愁に耽る時、特に偲ぶは彼ひとり、
彼を偲べばそゞろにも睡眠あるは飮食も
我につれなし、アカイアの軍中誰か勤め得て、
オヂュシュウスに及べりや?彼は務めき、忍びにき。
さはれ禍難はかれの運、しかしてわれは彼のため、
哀痛はげし、彼れ去りてこのかた長し、勇將の
生死いづれをわきまへず、ラーエルテース、彼の父、
ペーネロペーア、彼の妻、テーレマコス、彼の息、
彼そ偲びて嘆くべし、生れて間なく父去りぬ。』

[4-84]地中海の東及び東南の諸地。
[4-85a]アラビヤにあり。
[4-85b]熱帶地方には羊の角早く生ず。

しか陳ずれば恩愛の父を偲びて悲める、
子は泫然と瞼より涙おとして地にそゝぎ、
雙の手あげて雙の目を紫染むる羊毛の
衣におほふ。かくと見る王、金髮のメネラオス、
其胸中に念頭に思ひめぐらす、彼をして
父を忍びて身みづから語らしめんか?あるは又、
おのれ眞先に問ひかけて事の始終をたづねんか?

斯く胸中に念頭に王の思ひをこらす時 --
黄金の矢のアルテミス神女に似たるヘレネーは、
屋高くして芳香の薫んずる室を出で來る。
アドレーステー其時に細工巧みの椅子を据ゑ、
アルキュッペーは柔軟の羊毛の氈持ち來り、
又ビューローは白銀の籠を持ち出づ、〔こは昔、
アイギュプトスの[4-126]テーベーに -- そこには富める家多し --
アルカンドレー(ポリュボスの夫人)の彼に贈る物、
メネラーオスに其時に主公與へき、銀製の
浴盤二つ、鼎二個、十タランテの金添へて。
更に夫人はヘレネーに佳麗の品を惠みけり、
即ち彼の與へしは黄金製の苧環(をだまき)と、
又黄金の縁とりて白銀製の丸き籠。〕
こを今侍女のビューローは中に紡げる絲滿たし、
携へ來りヘレネーのかたへに据ゑつ、其上に
菫色なる羊毛を捲ける苧環横へぬ。
麗妃はやがて椅子に坐し、王趾を輕く臺に据ゑ、
紅唇すぐに綻びて委細を王にたづね問ふ。

[4-126]エジプトの都市中、ホメーロスの歌ふところは「百門のテーベー」のみ(イーリアス九歌三八一)。

『ヂュウスのめづるメネラオス、われらは知るや、屋の中に
今訪ひ來る客人は自ら如何に名のるやを?
僞るべきか、眞實を曰はんか、曰へと魂は宣る。
無耻なる我の故により、アカイア軍が恐るべき
戰爭おこし、トロイアに向ひたる時、オヂュシュウス
立つに臨みて殘したる、あらたに()れし彼の息、
テーレマコスに此客は怪しき迄に似たるかな、
彼を眺めてわれはたゞ驚くばかり、これ迄に
かゝる類似を男子にも女子にも嘗てわれは見ず。』

その時彼に金髮の王メネラオス答へ曰ふ、
『王妃よ、汝見る如く我も(まさ)しくしか思ふ。
オヂュシュウスの手は足は、其眼光の閃は、
頭並に毛髮は、正しく客のそれなりき。
われの故より不幸なる彼の惱やいかなりし!
今オヂュシュウス偲びいで我今こゝに物語る。
見よや此人(まぶた)より苦き涕を地にそゝぎ、
紫染むる衣もてせはしく其眼おほへるを。』

ペーシストラトス、ネストルの息その時に彼に曰ふ、
『ヂュウスの愛づるメネラオス・アトレーデース、民の王、
君の親しく曰ふ如し、オヂュシュウスの子なり彼れ、
されども彼は思慮深し、始めてこゝに訪ひ來り、
君の目の前喋々の言句を吐くを喜ばず。
神の音聲聞く如く我らは君の聲崇む。
ゲレーニャ騎將ネストールわれを遣はし、此人を
導かしめぬ、彼れ切に親しく君を訪ひ來り、
助言もしくは應援を君より得べく冀ふ。
父出で行きて殘る息、(ほか)に保護する者なくば、
其館中に數々の惱受けざることを得ず、
テーレマコスの父は今家を離れて遠ざかる、
彼に禍防ぐべき他の者民の中に無し。』

其時彼に金髮の王メネラオス答へ曰ふ、
『さてこそ!われの故をもて數多の苦難忍びたる
親しき友の其子息、今わが家を訪ひ來しな!
轟雷震ふクロニオーンわれら二人に、快船に
海を渡りて歸ること許ししならば、アカイアの
他の一切にいや優り彼を歡迎せしならむ。
斯くして我れの命受くる都城の一つ空となし、
イタケー島を後にして、其財産と其息と、
その民衆を率ゐくる彼を其跡わが近く
住ましめ、爲めに館築き、かれの都城とならしつらむ。
かくて親しみ交りて、死の黒き雲いやはてに
二人を蔽ひ包む迄、世の何ものも相愛し、
相樂しめる我々を離し得ること無かりけむ。
されど天上妬みあり、彼を不幸の身となして、
その憧憬(あこがれ)故郷(ふるさと)に獨り歸るを得ざらしむ。』

しかく陳じて一同に悲痛の嘆き起さしむ。
その時泣けりアルゴスのヘレネー、ヂュウス生むところ、
テーレマコスも亦泣けり、アトレーデース・メネラオス
泣けり、ネストル生める[4-186]子も乾ける(まみ)を持たざりき、
即ち彼は燿けるエーオースの[4-187]子のために、
打たれし[4-188]アンチコロスをば思ひ出して悲みつ、
彼を思ひて翼ある言句即ち陳じ曰ふ、

[4-186]ペーシストラトス。
[4-187]メムノーン。
[4-188]ペーシストラトスの兄。

『アトレーデーよ常人にはるかに優り智慧ありと、
老ネストール館中に、われら互に相問ひて、
其の風評をしつる時、君を屡たゝへにき。
今願はくは我に聽け、宴のもなかに哀痛を
致すを我は喜ばず、やがて曙光は照すべし、
そも人界の子たるもの、死の運命に到る時、
之を悲み哭するを、われは咎むる者ならず、
頬傳はりて地に落つる涙を流し、髮を切る、
死者に對する唯一の禮はかくこそあるべけれ。
我また兄を失へり、彼はアルゲーオイの中、
劣れるものに非ざりき。アンチコロスを君知るや?
遲く生れて我は見ず、されど人曰ふ、神速の
脚に勇氣にわが兄はすべての人を凌げりと。』

金髮の王メネラオス其時答へて彼に曰ふ、
『賢くしかも年長の人の曰ふべき、果すべき
事をかく迄若き友、君いみじくも述べしかな!
斯く父より()れしかば君はかしこく物を曰ふ。
其誕生に結婚に當りてヂュウス・クロニオーン、
神より惠受くる者 -- その裔易く見分けらる。
かくの如くにネストルに神はたえずも恩寵を
與ふ、即ち館中に身は穩かに老い進み、
而して子らは聰くして剛勇無比に槍使ふ。
いざ是までに流したる涕われら收むべし、
而して更に飮食を思はむ、誰か淨水を
わが手にそゝげ、あしたの日、テーレマコスと我身とは、
早き朝よりもろ共に心おきなく語らはむ。』

しか陳ずれば光榮のメネラーオスの忠僕の
アスパリオーン水そゝぎ、手を一同に清めしむ。
衆人かくて手をのして供へられたる食を取る。
ヂュウスの生めるヘレネーは更に新たに思案しつ、
ただちに衆の酌む酒の中に一種の藥味容る、
愁と怒打ち消して禍難を忘れしむる者、
これを壺中に混ぜるを飮みたる日とは、其日には
彼の父母(ちちはは)死せりとも泣かず、あるひは人ありて
愛する子らを兄弟を、利劔振ひて打ち斃す
其慘状を目の前に、親しく見るも茫として
泣かず、頬より潸々(さん〜)の涙をおとすことあらず。
ヂュウスの生めるヘレネーにかかる竒效の良藥を、
トーンの妃ポリュダナム與へき、妃生れたる
アイギプトスの豐饒の土地に藥草夥し、
混じて良藥たるもあり毒たるものも亦多し。
こゝに住むもの皆醫なり、あらゆる人に立ちまさり、
其道くはし、彼ら皆パイエーオンの裔なりき。
かくヘレネーは壺の中竒藥を投じ芳醇を
注がしめつゝ改めて更に言句を陳じ曰ふ、

『ヂュウスのめづる[4-235]メネラーエ・アトレーデーよ、もろ〜の
貴人の子らよ思ひ見よ、神は萬能 -- ある時は
(さち)を時には禍をあなたこなたの人に附す。
いざ今こゝに館中に坐して再び宴開き、
談話に興を催せよ、時宜に叶ひて我曰はむ。
猛き心のオヂュシュウス其辛勞やいかなりし?
其一切を我は今語る能はず、算へ得ず、
今たゞ述べん、此勇士アカイア軍の惱みたる
トロイアの地に勇敢に行ひたりし跡ひとつ。
即ち彼はおのが身に酷き鞭あて傷つけ、
奴隸の姿見る如く肩に襤褸を投げかけて、
廣き街の敵人の都市にひそかに入り込みつ、
アカイア軍のたゞなかにありし姿に引換へて
またく異なる人間の -- 乞食の姿に身を贋せつ、
あはれの姿粧ひてトロイア城に入りこみぬ。
衆人これを悟り得ず、我たゞ獨り辧へて、
間を出せば巧辧に彼は答へをまぎらしぬ。
されども彼に湯沐みさせ膚に香油をまみらしめ、
衣服纒はせ嚴重の盟 -- 即ちアカイアの
水師に陣に歸る前、トロイア人に彼の身を
裏切ることはなすまじく、其嚴重の盟、われ
立つれば、彼はアカイアのすべての意圖を打明けぬ。
つづきて彼は青銅の長き刄にトロイアの
勇士斃して歸り去り諜報多く齎しぬ。
あとにトロイア女性らは泣けり、たゞわれ喜べり、
すでに變りしわが心郷に歸るを念じつつ、
めづる祖先の郷あとに、我の愛女に、閨房に、
わが良人に背かせしアプロヂテーの與へたる
われの不幸を悲みぬ、其風貌も其智慧も、
他の何人に比ぶるも、露劣らざる良人に。』

[4-235]呼格。

その時彼に金髮のメネラーオスは答へ曰ふ、
『王妃よ、汝いみじくもこれらの事を物語る。
われは是まで數多き英武の人の意志と智慧、
親しく見たり、更にまた地上の大部訪ひ行けり、
されども未だわが目もて眺めしことはあらざりき、
やさしく、しかもいさましき、オヂュシュウスの如きをば。
例へば一事 -- トロイアに死と災難を齎らして、
[4-272]木馬の中にアカイアの諸將もろとも潛みたる
其時英武オヂュシュウス成せし忍びし跡を聞け。
ヘレネー汝、其時に其所に來りき、 -- とある神、
トロイア族に光榮を望める神や遣はせる --
相貌神の如くなるデーイポボスは伴ひき。
三たびわれらの埋伏の木馬めぐりて手を觸れて、
汝すべてのアルゴスの女性の聲を眞似つつも、
ダナオイ族の諸將らの名を一々に呼びかけぬ。
チュウデーデース・オヂュシュウス並に我は、一同の
もなかに坐して呼びかくる汝の聲を耳にしぬ、
我ら二人は立ち上り、跳り出すか、さもなくば
内より答與ふべく、切に心に念じつゝ、
焦せるを、ひとりオヂュシュウス、嚴しく抑へ留めたり。
他のアカイアの諸將らは皆一齊に物曰はず、
アンチクロスはたゞ獨り汝の言に答へんと、
念じたりしを、オヂュシュウス強き手を以て其口を
嚴しく抑へ、一同のアカイア族を救ひ得て、
汝を神女アテーネーつれ去る迄は解かざりき。』

[4-272]八歌四九二。

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『ヂュウスのめづるメネラオス、アトレーデース、民の王、
聞きていよ〜われ辛し、かかる勳功あり乍ら、
彼の心は鐡ながら、悲しき死滅を遂げりとは!
これ迄まりや物語り、いざ今床に就かまほし、
甘き睡に床のへに樂しく夢を結ばまし。』

しか陳ずればアルゴスのヘレネー侍女に命下し、
柱廊の下床を据ゑ、紫色のうるはしき
褥しかしめ、其上に氈をひろげて纒ふべく、
膚にうれしき柔軟の手織を更に重ねしむ。
侍女は宮室立ちいでて、松明おのおの手にとりつ、
床を据うれば兩客を從者(づさ)慇懃に導きぬ。
かくしてそこに玄關の間の中二人床につく、
テーレマコスの剛勇と又ネストールのすぐれし子。
しかして高き屋の奧に、アトレーデース打臥せば、
女性の中に比なきヘレーネーそばに床につく。

指は薔薇の色紅き曙の神女の現はれに、
雄叫び高きメネラオス、床を離れて立ちあがり、
衣服を纒ひ鋭利なる(つるぎ)を肩の上にかけ、
その燿ける雙脚に華麗の靴を穿ちなし、
相貌さながら神に似て其宮殿を立ち出でつ、
[4-311]テーレマコスのそばに坐し、彼に向ひて陳じ曰ふ、

[4-311]三歌四〇六。

『テーレマコスよ大海の廣き波路を打わたり、
ラケダイモーンわが郷に君來れるや何の用?
公事か私事か明かに、乞ふ、君われに聞かしめよ。』
しか曰ふ彼の聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、

『ヂュウスそだてしメネラーエ・アートレーデー、民の王、
我來れるはわが父の消息君に聞かんため。
われの資財は貪られ、豐饒の地は亡され、
仇なすやからわが家に集り來り、數々の
羊或は角まがり蹣跚として歩む牛、
絶えずも屠る -- わが母に婚を求むる無禮の徒。
君の膝下にこの故にわれは來りぬ、わが父の
無慘の死滅いづこにか?君や親しく目にて見し?
あるふは旅の飄浪のとある人より、その口の
述ぶる所や耳にせし?ああ彼非命の子と{[生]あれ}ぬ。
慈悲憐憫の思より空しき慰藉曰ふ勿れ、
彼の最後の榮光を見たるが儘に乞ふ告げよ。
父、英剛のオヂュシュウス、もしアカイア惱みたる
トロイア族の中にして、約せる如く行を
あるは言句を君のため果せし(いさほ)ありとせば --
わがため之を思ひいで、我に眞實ものがたれ。』

金髮の王メネラオス憤然として彼に曰ふ、
『あら怪しからず、卑怯なる無慙の群の求婚者!
はるかすぐれし英雄の床を奪ひていねんとや!
譬へば牡鹿猛勇の獅子の宿りに、かれの子を --
新たに生れ乳を吸ふ其子をねかし、自らは
草を求めて繁る丘、緑の谷を巡る時、
獅子はあかししわが宿に歸り來りて、そこにねし
仔鹿二頭に無慙なる死の運命を來たす如、
かくの如くにオヂュシュウス彼らに破滅齎らさん。
ああわが天父クロニオーン、アテーナイエー、アポローン、
堅固の都市のレスボスにピロメレデスと爭ひて、
奮然として身を起し、激しく敵を打倒し、
アカイア族の一同の歡呼をあびしオヂュシュウス、
願はくかくの如くしてかの求婚の群の中、
現はれ出でよ、オヂュシュウス、かれら忽ち滅ぶべし。
はた君われに問ふところ願ふ所に答ふべし、
()れて別事を話すまじ君を欺くことはせじ、
誠を語る海上の[4-349]翁の我に曰ふところ、
一事も君に隱すまじ -- 僞り語ること無けむ。
切に歸郷を念じたる我を神明もろ〜は、
牲を怠る故をもて、アイギプトスに留めにき。
げに神明は命令を人の守るを喜べり。
アイギプトスの前にして大海原の大波の
中に島あり、此島に人はパロスの名を與ふ、
島は岸よりほど遠し、追風(おひて)激しく荒ぶ時、
乘り出す船は一日を費しこゝに到るべし。
こゝに究竟(くきやう)の港あり、そこより人は飮食の
水汲み入れてもろ〜の船を沖へと漕ぎいだす。
二十日間、神明は其地にわれを留めたり、
大海原の大波瀾のりゆく舟のもろもろを、
導く風は其呼吸留めて空にあらはれず、
かくして糧の蓄も人の勇氣も盡きんとす。
その時われを憐みて、救を埀れし一神女、
エードデエーは年老いしわだつみの主、おほいなる
[4-366]プローテウスの愛娘。 -- 其心情をはげしくも
我れ動かせり。飢により胃腸惱みて島の中、
あなたこなたと漂ひて、曲れる針に魚を釣る
從者離れて我ひとり、歩める時に近づける
神女はわれの(かたはら)に立ちて即ち宣し曰ふ、

[4-349]後に(三六六)いふプローテウス。
[4-366]變化自在の海神。

『異郷の人よ、愚かにも汝かく迄智慮缺くや?
あるひは汝甘んじて禍受けて喜ぶや?
かくも永らく島中に閉され、汝逃げるべき
道を求むることをせず、汝の伴ら皆弱る。』

しかく神女は宣すれば我は即ち答へ曰ふ、
『いかなる神におはすとも、君に答を陳ずべし、
我は好みて此島に留るにあらず、しかれども
大空住める神明の不興を我や招きけむ。
神は一切よく知れば乞ふ君、我に宣し示せ、
いかなる不死の神明か抑へて途を塞ぎたる?
鱗族むるゝ大海をいかに渡りて歸るべき?』

しか陳ずれば美しき神女たゞちに答へ曰ふ、
『異郷の人よ、眞實に我は宣すべし。
ポセードーンの臣にして、アイギュプトスに生れたる
プローテウスは海の仙、誠の心持てる者、
あらゆる海の深み知り、屡々こゝを來り訪ふ、
我を生めるは彼なりとあまねく世には曰ひ傳ふ。
何らの策を用ゐてか、待伏しつゝ老仙を
捕へ得つらば、彼は善く歸る道筋、道程(みちのり)を、
鱗族むるゝ大海をわたる手段を教ゆべし。
しかして更に汝もし、ヂュウス育てし汝もし、
望まば告げむ、道長き悲しき旅をなせる間に、
何等の吉事はた凶事汝の館にありしをや。』

しか曰ふ彼の言を聞き、我は答へて彼に曰ふ、
『此老仙を捕ふべき道願くは君告げよ、
恐らく彼は先に見て悟りてわれを逃るべし、
はかなき弱き人の子は神を制すること難し。』

しか陳ずれば美はしき神女たゞちに答へ曰ふ、
『異郷の人よ、眞實を極めてわれは知らすべし
日輪のぼり大空の最中に進み到る時、
僞曰はぬ海中の老いたる仙は波をわけ、
黒き漣漪におほはれて西風いぶく息の下、
岸に昇りて洞窟のうつろの中に横はる。
海を住居のうるはしき女性のうめる海豹は、
鰭なす脚に波を出で、千仞深き海の香の、
苦きを共に吐きなして、仙を圍みて群れ眠る。
曙光現はれいづる時、我は汝を導きて、
そこに並びて臥さしめむ。汝努めて漕座善き
舟の中よりすぐれたる三人(みたり)の伴を撰ぶべし。
今老仙の巧み皆擧げて汝に示すべし。
彼は眞先(まさき)に海豹の數を算へて經廻らむ、
五つ五つと數へ行き、其一切を見たる後、
羊の中の牧人の如く眞中に眠るべし。
彼の眠りに沈めるを眺むる時は速かに、
汝の勇氣ふりおこし、汝の威力奮はせよ。
悶き狂ひて逃れんとする老仙をつかまへよ。
彼は地上の一切の動ける者の姿とり、
あるひは水の、又は火の姿をとりて試みむ。
されど嚴しく取り押へ、力弛むること勿れ。
しかして汝そのはじめ、その寢ねたるを見し儘の
姿を取りて口開き、汝に問を出す時、
その時汝手を弛め、かの老仙を解き放ち、
問へ、神明の何ものか斯くも汝を虐ぐる、
問へ、鱗族のむらがれる海上いかに歸るべき。』

宣し終りて汐亂る海に神女は飛び込めり。
我は即ち岸上に引き上げられし船さして、
脚を進むる道すがら、種々の思に胸亂る。
やがて白波打寄する海と船とに至り着き、
食事整へ終る時、アムブロシヤの夜來る時、
其時われら一同は岸の沙上に打ち臥しぬ。
薔薇の紅き指もてる曙の神女のいづる時、
道筋廣き大海の岸を歩みて、もろ〜の
神に祈願を捧げつつ、すべてに亙り信頼を
最も多くおき得べき從者三人伴へり。

神女はやがて大海の廣き胸中潛り行き、
波の下より海豹の四頭の皮を持ち來る、
皮は新たに剥ぎしもの、父に對してもくろめる
神女は岸に沙穿ち、床を設けてそこに座し、
待てるその側眞近くにわれら一同進み寄る、
そを一列に臥さしめて各自を皮におほひ去る。
海に育てる海豹の放つ臭氣は堪へ難し、
かくしてわれらの埋伏は頗る辛き業なりき。
海の魔物の傍らに誰か果して臥すを得ん?
されど我らを憐みて神女思案をこらしつゝ、
香氣微妙のアムブロシャ携へ來り、各人の
鼻孔の下にまみらして、辛き臭氣を打ち消しぬ。
忍耐強く朝の間を、かくてわれらは相待てり、
やがて海より海豹は群を爲しつゝ出で來り、
皆悉く岸の上列を作りて横はる。
眞晝となれば老仙は、海よりいでゝ海豹の
肥えし姿を打眺め、巡り(けみ)して數算へ、
われを共々海獸の中に數へて計略の
あるを聊か悟り得ず、同じく岸に横はる。
かくと見るより一同は(をめ)き叫んで迫り寄り、
腕を延ばし捕ふれば、彼れ老獪の()を出し、
まづいや先きに鬣の美なる獅子王の姿取り、
次には大蛇、やがて豹、次に巨大の野豬となり、
次に流るる水となり、緑葉繁る巨樹となる。
されど我らは忍耐の力を鼓して取り抑ゆ。

魔法巧みの老仙は遂に變化に倦み果てつ、
即ち()ある言句もてわれに向ひて問ひて曰ふ、
『アートリュウスの子よ、我を、埋伏しつゝ捕ふべく
助けし者は何神ぞ?汝何をか求むるや?』

しか宣するに答へつゝ即ち我は陳じいふ、
『老仙、君は善く知れり(などかかる語に欺くや?)
長らく我の此島に閉ざされ、籠居果しれず、
悄然として我が心衰へ行くを君知れり。
いざ君告げよ(神明は事一切をよく知れば)、
神明中の何者か我を留めてわが歸路を
妨げなすや?いかにしてわれ海渡り歸るべき?』

しか陳ずれば老仙はたゞちに答へわれに曰ふ、
『暗紅色の海渡り、故郷に歸り行かまくば、
身を船舶に乘する前、汝よろしくクロニオーン、
また諸の神明に捧ぐべかりき(うま)し牲。
祖先の郷に立ち歸り美麗の館に歸り來て、
親しき友を眺むべき(めい)は汝に許されず、
アイギプトスの大川に(神より降る大水に)、
再び行きて大空にすむ神明のもろもろに、
尊き牲を供へずは、かかる運命許されず、
牲供へなば望むまゝ神は歸郷を惠むべし。』

老仙のぶる言を聞き、痛く惱みぬわが心、
また茫々の波わたり、長くて辛き海越えて、
アイギプトスに歸るべく命ぜる言の辛きかな。
しかはあれども言句もて我は答へて彼に曰ふ、

『君の命ずる如くしてわれ此の事を行はむ。
さはれ今いざ眞實にこれらの事を我に曰へ、
イリオン去れるネストール、彼と我との殘し來し
アカイア軍の一切は、舟もろともに恙なく、
歸り行きしや?戰を終りし後に舟の上、
或は友の腕の中、非命に死せし者ありや?

しか陳ずれば老仙は直ちにわれに答へ曰ふ、
『アトレーデーよ何故にこれらの事を尋ぬるや?
われの心に思ふ事、これらを汝知ることは、
よからず。知らば涕涙を抑ゆることは難からむ。
滅べる者の數多し、殘れるものも亦多し、
汝もろとも戰へる、青銅鎧ふアカイアの
將軍中のたゞ二人、旅の間に亡びたり。
大海中のいづこにか留まる將軍ひとりあり。
長き櫂ある船のそば將[4-499]アイアース亡びたり、
先きには彼をポセードーン、ギューライ島の大いなる
巖の上に着かしめて海より彼を救ひたり。
海の淵より神明の意志に戻りて助かると、
心亂れて驕慢の言句を放つこと無くば、
アテーナイエー憎みしも、死命を遁れ得つらんに。
その大言を耳にせるポセードーンは忽ちに、
その力ある手の中の三叉の戟をとりあげて、
ギューライ島の大岩を打ちて二つに(つんざ)きぬ。
岩の半ばはその儘に -- 將アイアース其上に
座して心の亂れたる他は大海に陷りぬ。
かくして彼は大潮の狂へる深き海の中、
運ばれ去りて鹹水を飮みたる後に亡びたり。
汝の兄は端嚴の神女ヘレーネーの救より、
うつろの船にのりゆきて死の運命を免れぬ。
山嶽高きマレーアを目ざして彼は進みしも、
颶風襲ひて鱗族のむらがるところ[4-515]大波の
鞺鞳として吠え叫ぶ大海原にただよはす。
されど神明更に又風の方向變へし時、
歸郷の途は安らかに彼ら祖國に着き得たり、
着きしは國の端にして、チュエステースがそのむかし、
住みたるところ、今は子のアイギストスの住むところ。
アガメムノーン歴代の祖先の郷に歸り得て、
歡喜に耐へず、思はず伏して大地を抱擁(かいいだ)き、
歡喜溢れて泫然と熱き涙をふり落す。
されども彼を看守者は看守臺より認めたり、
アイギストスの奸計がニタランタの黄金に、
誘ひてこゝに駐めし者、知らざる隙に王の過ぎ、
勇を奮ふを恐れつつ、こゝに一年看守しぬ。
彼今報を齎らして領主の館に進み來ぬ、
直ちにすごき奸策をアイギストスはもくろみぬ。
民衆中の倔強の者二十人選び上げ、
埋伏せしめ、更にまた命じ宴席設けしむ。
アガメムノーン招くべく胸に詐謀を藏めたる
奸人かくてもろ〜の車馬整へて迎へ行き、
かくて破滅を悟らざる王を導き内に入れ、
宴し終りて斃したり、恰も牛を牛小舍の
ほとりに屠り去る如し。アガメムノーンの從者らも、
アイギストスの從者らも、みな館中に斃れたり。』

[4-499]ロクリスの將軍。
[4-515]「大に悲み呻めく彼を」と解するものあり。此くだり原典の本文二種あり、順序相違す。

しか陳ずるをうち聞ける我の心は(つん)ざかる、
われは沙上に座を占めて悲み泣きて、我が心
もはや生くるを、日輪の光を見るを願はざり。
されど心の行くばかり悲みまろび泣ける時、
海の老仙、眞實の心もつ者われに曰ふ、

『アートリュウスの子、はてし無く、長く悲むこと勿れ、
悲み泣くも效あらず、むしろ急ぎて速かに
祖先の邦に歸るべく勉めよ、そこに奸物は
生きつゝあらむ、さもなくばオレステースは先だちて、
彼を斃して汝たゞ其葬式に出で逢はむ。』
其言聞きて我が心、又豐かなる魂は、
悲しみつゝも胸中に更に新たに奮ひ立つ、
斯くして我は翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

『二將の運命今知りぬ、君第三の名を告げよ、
渺々廣き海の中、未だ亡びず生ありて
留る彼は何者ぞ?悲み乍ら我聽かむ。』
しか陳ずれば老仙はすぐに答へて我に曰ふ、

ラーエルテースの子なり彼れ、イタケー島に住める者。
とある島にて潸々(さん〜)と涙はげしく泣く彼を
見たり、強ひてもカリュプソウ仙女はおのが館中に、
彼を抑へて去らしめず、郷に歸るを得せしめず。
櫂を備ふる船あらず、又渺々の大海の
上を渡りて漕ぎ進む部下亦彼に備はらず。
されども汝大神のめづる金髮メネラオス!
馬の産地のアルゴスに逝くは汝の命ならず、
[4-563]エリューシオンの野の中に、大地の端に、神明は
汝を引かむ、金髮のラダマンチュウス住むところ、
人類そこに幸福の生をとこしへ營めり、
そこに雪なし、陰慘の冬長からず、雨も無し、
オーケアノスは人類の氣を爽やかになさんため、
つねに呼吸の調へる微風ゼピュロス吹きおくる。
ヘレネー娶る汝をばヂュウスの聟と彼ら見る。』

[4-563]大地の端にあり。冥土アイデースと反對の方面にあり。ホーマー以後不老不死の仙郷と歌はる。今日パリ府の著名の一地劃シャンゼリゼーは此の名の彿譯なり。

陳じ終りて老仙は波浪の下に潛り去る。
_明に似る部下ともに船をめがけて歸る我、
行く〜胸は百千の種々の思ひにかきみだる。
かくて進みて岸上に揚げたる舟に歸り着き、
食事を終へてかんばしき夜の到る時一同は、
大わだつみの岸の上身をよこたへて打ち臥しぬ。
薔薇の色の指もてる曙の女神の現はれに、
まさきに船を神聖の海におろして浮ばしめ、
その整々の船の上、帆柱たてゝ帆を張りぬ、
乘りこむ水夫一同はみなそれ〜゛の漕座占め、
列を正して一齊に櫂に白波をこぎ進む。
かくてヂュウスを(もと)とするアイギプトスの大河に、
船を停めて莊嚴の牲神明に奉る。
とこしへゐます神明の怒和らげ解きし後、
アガメムノーンの不滅なる譽のために墓建てき。
これらのことを成し遂げて、神の惠める順風に
吹き送られて、うれしくも祖先の郷に歸り來む。
さもあらばあれわが館にテーレマコスよ、くつろぎて
十一二日過ぐる迄、汝の足を駐めよかし。
其後われは快く汝を送り、華麗なる
品を呈せむ、三頭の駿馬並に良き車、
更に加へん佳麗なる酒盃 -- これより神明に
奠酒せよかし、とこしへに永くわが身を思ひでゝ。』

しか陳ずれば聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『アトレーデーよ、長らくはこゝにわが身を留めなせそ。
君のかたへに一年の長きに亙り留るも、
故郷の思、恩愛の親の思もなからまし、
君の口より打出づる話、かばかり樂しかり。
たゞ如何にせん、神聖のピュロスにありて同僚は
痛くも我を待ち詫びぬ、君は長くと留むれど。
はた又君の惠贈は願はく什噐たらしめよ、
われの故郷のイタケーに駿馬曵き行く要あらじ、
こゝに殘さんむ、君めでよ、君の領主に廣野あり、
中に[4-603]ロートス夥し、またキュペローン夥し、
小麥並に裸麥また豐饒に大麥も。
廣き平地へイタケーにあらず、牧場またあらず、
馬の産地に引換へて優れる山羊の産地なり。
海に臨める島々は馬疋を驅るに便ならず、
また牧場に惠まれず、イタケー島は特に斯く。』

[4-603]九歌八三のロートスと別種。

しか陳ずればメネラオス雄叫び高き王は笑み、
手をのし彼をかい撫でゝ即ち彼に陳んじ曰ふ、
『好き子、いみじく曰ひしかな、高貴の種を現はしぬ。
さらば贈與の品代へむ、我このことを能くすべし。
わが館中に藏めたる什噐の中に、最上に
華麗に價貴きもの、選びて君に贈るべし。
そは巧妙に造られし混酒の噐、全部みな
銀より成りて其縁は黄金を以つて飾るもの。
ヘーパイストスの作にして、むかしシィドーンのプァイゲモス、
われの歸國の道すがら其宮中に寄りし時、
われに贈れるものなりき、君にこを今呈すべし。』

斯くも彼らはかかる事相互のあひに語り合ふ。
今客人ら神に似る王者の宮をさして來む。
彼らは羊曵き來り又[4-622]『老の(オイノス)』を携へり、
また額巾(ひたひぎぬ)美はしき彼らの妻は麺麭を。
かくして衆は王宮に宴を設けてくつろぎぬ。

[4-622]酒はギリシヤ語にオイノスといふ。試に漢字を當つ。

こなたは例の求婚者、オヂュシュウスの館の前、
先の如くに傲然と群がり寄せて鋪床せる
庭のおもてに圓盤を、槍を投げつゝ樂しめり。
彼らの中に頭にて勇氣最も優る者、
アンチノオスと美貌なるユウリマコスは共に座す。
プロニオスの子、ノエーモーン、二人のそばに近よりて、
アンチノオスに向ひつゝ言句を陳じ問ひて曰ふ、

『アンチノオスよ、ピュロスよりテーレマコスの歸り來る
時はいつぞや?何人か之を知れりや知らざるや?
わが船に乘り彼れ立てり、其船われにエーリスの
廣野に航し渡るべく要あり、そこに一二頭
牝馬並びにまだ馴れぬ忍從つよき騾馬は群る、
其騾馬の中一頭をつれ來てわれは馴らさんず。』

其言聞きて驚ける二人は、ネーリュウス基せる
ピュロスに彼の行きたるを思ひもかけず、國の中、
羊或は家豬を蓄ふ人のそばにと思ひ居き。
ユウペーテース生める息、アンチノオスはかくて問ふ、
『我に眞實ものがたれ、立ちしはいつぞ?イタケーの
何らすぐれし青年が共に行きしや?行きたるは
只傭人と奴隸とか?げに彼れ之を能くし得む。
しかして我の知らんため、眞實われに打明けよ、
暴力用ゐ、汝より彼は黒船奪ひしや?
慇懃の句にほだされて汝好みて與へしや?』

プロニオスの子ノエーモーンその時答へて彼に曰ふ、
『我は好みて與へたり、胸に憂を抱きつゝ、
斯くある人の乞ふ時に我ならぬ身も何とせむ?
かかる惠與を拒むこと、いといと難き業ならむ。
[4-652]われらの中に民衆の間にありてすぐれたる
青年彼に從へり、しかして我はメントール、
あるひは彼に似たる神、船を指揮する樣を見き。
驚くべきは次の事、昨日の朝にメントール
我は見たるに、先きつ頃彼はピュロスに船出しぬ。』

[4-652]「我らの次ぎて」と解するものあり。

陳じ終りてノエーモーン父の館へと歸り去る。
殘る二人の傲慢の心は痛くいきどほり、
遊戲をやめて坐るべく求婚者らに命下す。
ユウペーテース生める息アンチノオスは怫然と、
其時彼らに陳じ曰ふ、而して彼の黒き胸、
怒に滿ちて雙眼は燃ゆる焔を見る如し。

『あら怪しからず!おほいなる業は不敵に行はれ、
テーレマコスは旅立てり、我が成るまじといひしもの。
多數のわれら侮りて、民の中なる精英を
選び集めて小倅は船を浮べて立ち去れり。
やがて後には禍の種となるべし、願くは
我らに仇をなさん前ヂュウス力を絶てよかし。
いざ今我に一艘の船と同志の二十人
與へよ、歸り來るべき彼に對して埋伏し、
イタケー及び嶮要のサモスの(あひ)に待ち受けん、
父を求める彼の旅やがて無慘に果てんため。』

しか陳ずれば衆人は彼を贊して然かせしむ、
かくてたゞちに一同はオヂュシュウスの館に行く。
求婚者らが心中に深く案ぜるたくらみを、
ペーネロペーア悟りしは聞きしは長き後ならず。
執事メドーンは庭の()に立ちて、中にて衆人の
もくろむ儘に其言を親しく耳に聽き取りて、
ペーネロペーアに告ぐるべく其室さして進み行く、
敷居をこゆる彼を見て夫人即ち陳じ曰ふ。
『執事よ彼ら求婚者などて汝を遣はせる?
その業やめて一同に酒宴の準備なすべしと、
オヂュシュウスの童女らに言を傳へんためなりや?
ああ求婚者の言をやめ、また集會を打ちすてゝ、
今日を最後に此場にその宴席を開けかし!
あゝ[4-686]汝らはうるさくも、こゝに群がり、聰明の
テーレマコスの所有なる資財を盡す幾何ぞ!
汝らいはけなかりし日、オヂュシュウスの爲人(ひとゝなり)
嘗て汝の親父より、耳にすることなかりしか?
彼は不正の言と行爲(わざ)民の間になさざりき。
そも世の常の權威ある王者の習ひ、ある人を
めで、ある人を忌み憎む、されども彼は一人にも
不正の行爲をなせし事斷じて嘗てあらざりき。
さるを汝ら其心、其業今にあらはなり、
むかし受けたる恩徳に感謝の念はつゆもなし。』

[4-686]求婚者が眼前にある如く二人稱にて曰ふ。

その時メドーン聰明の執事は彼に答へ曰ふ、
『ああわが王妃、かかる事最惡ならば善からまし!
されども彼ら求婚者これより更におほいなる
非道の業をもくろめり。クロニオーンよ果さざれ!
テーレマコスを歸途に待ち、利刄に彼を斃すべく
彼ら企つ。神聖のピュロス並に淨境の
ラケダイモーンに其父の消息求め彼ゆけり。』

しか陳ずれば(驚愕のあまり)王妃は膝ふるひ、
心碎けて久しきに亙り、言なく涕涙、
其雙眼にたゝへつゝ、其玲瓏の聲も止む、
やがて沈默長き後言句をのべて答へいふ、

『執事よ何の故ありてわが子去りしや?人間に
とりては海の馬として渺々の水渡る船、
乘るべき要は無かりしを -- 其脚速き船の上、
彼の名さへも人中に殘らぬことを望みてか?』

その時メドーン聰明の執事答へて陳じ曰ふ、
『我は得知らず、ある神が彼を勵まし進めしや?
あるはピュロスに進むべく彼の心は願ひしや?
父の歸郷か、薄命か、いづれか學び知らんため。』

執事はかくと陳じ了へ、オヂュシュウスの邸を去る。
胸を劈く哀愁におほはれ、館に數多ある
椅子の一つに腰掛くる氣力も盡きて、精巧の
室の敷居に泣き崩れ、ペーネロペーア悲めば、
之を圍みて宮中にすめるすべての童婢らは、
老も若きも一齊に皆悉く咽び泣く。

其時痛き慟哭の王妃かれらに向ひ曰ふ、
『親しき友らわれに聞け、共に生れて育ちたる
女性に嘗てあるまじき、大難我にクロニオーン
與へぬ、先に獅子に似て、心雄々しくダナオイの
中にあらゆる徳備へ、ヘラス並にアルゴスに
其勇名の轟ける良人我は失へり。
更に今又狂風は館の中より我が愛兒、
わが知らぬ間に漠然と遙かの旅に吹き去りぬ。
わが子うつろの黒き船めざしてこゝをたてる時、
あはれ汝ら無情にも、そを明に知り乍ら、
床より我をめざますを一人も念ぜざりしよな!
我もし彼が此旅を念ぜる事を知りつらば、
旅の情願切なるも彼を留めて行かしめじ、
さなくば我を館中に死なしめ彼は立ちつらむ。
今速かにドリオスを -- 嫁げる折にわが父の
與へし者を、老僕を、繁る樹園を()る者を、
誰そ速に呼び來れ、ラーエルテースを彼をして
音づれしめん早急に、彼は委細を陳ずべし。
さらば嶽父は胸中に策を蓄ひ出で來り、
市民に對し訴へん、神にも似たるオヂュシュウスの、
又其父の種をしも彼らは亡びしめんとす!』

ユーリュクレーア親愛の乳母其時陳じ曰ふ、
『あはれ王妃よ、殘忍の刄を以て()を斃せ、
あるひは館に此儘に留まらしめよ。打ち明けむ。
我は委細を皆知れり、彼が命ぜしその儘に、
麺麭及び芳醇を與へり、我は盟ひたり、
一二の日過ぐる前、或は王妃自らが
彼の出立(いでたち)悟る前、此事洩すべからずと、
涙流して玉貌を汚さんことのなきがため。
あはれ王妃よ沐みして身に清淨の(きぬ)纒ひ、
かしづく婢女ら伴ひて樓上さしてのぼりゆき、
アイギス持てるヂュウスの女、アテーナイエーに祈り乞へ!
神女はやがて死よりさへ君の愛兒を救ふべし。
すでに惱める[4-754]老翁を惱ます勿れ、神々が
アルケーシオスの子の裔を憎むべしとは思はれず、
必らず中の一人は生きながらへて、高らかの
館並びに廣大の肥沃の土地を領すべし。』

[4-754]ラーエルテース[。]

しかく陳じて雙眼の涙王妃に收めしむ。
王妃即ち浴みして身に清淨の(きぬ)まとひ、
かしづく婢女ら伴ひて樓上さして上りゆき、
籠に神聖の麥滿たし、アテーナイエーに祈り曰ふ、

『アイギス持てるヂュースの子、アトリュートーネー、きこしめせ。
智謀に富めるオヂュシュウス、此館の中、牛羊(ぎうよう)
肥えたる股を君のため、先に炙りしことあらば、
そをわがために思ひ出で、救はせたまへわが愛兒、
遠ざけ給へ兇惡のかの憎むべき求婚者。』

音聲高く祈る言、神女憐み聞しめす。
しかして暗き館の中、騷ぎ亂るゝ求婚の
群の一人わかき者、傲然として陳じ曰ふ、
『見よ衆人のあこがれの妃は婚禮の備して、
愛兒の死滅備はるを、笑止や、絶えて悟り得ず。』
しかく陳じぬ、衆人に備へられたる事知らで。

彼らに向ひアンチノス即ち言句陳じいふ。
『愚かなる者、警めよ倨傲の言句曰ふ勿れ、
恐らく誰か内に入り之を報ずることあらむ。
いざ立ちあがり、心中に我らのすべて一齊に
願ふところを、沈默の中に遂ぐるを得せしめよ。』

しかく陳じて精英の二十の伴を選び擧ぐ。
彼等は起ちて快船と海の岸とに急ぎ行く。
行きて眞先に海水の深きが中に舟おろし、
黒く染めたる其舟に帆と帆柱を備へしめ、
型の如くに革紐の環の中すべて一齊に、
櫂をたしかに結びつけ、白帆を高く張り擴ぐ。
やがて不敵の從者らは彼らに武具を運び來ぬ。
斯くて一同乘り込みて深きに舟を進ましめ、
そこに食事を認めて、待てり夕の近寄るを。

ペーネロペーアかなたには今樓上の室の中、
飮食すべて斥けて臥床にひとり横はり、
思ひ煩ふ、其愛兒の運命を逃るるや?
婚を求むる傲慢の群の手中に斃るるや?
獵の一群獅子王を圍みて襲ひ來る時、
さすが怖れて猛獸も千々に思をみだす如、
思ひ亂るる王妃にも甘き眠は襲ひ來ぬ。
すべての四肢を弛ましめ佳人しづかに睡り行く。

その時藍光の眼の神女更に新たに思案しつ、
一の幻影造り成し、其相貌を一女性、
イープチュエーに似せしめぬ、イーカリオスの息女にて、
ユウメーロスはその夫、彼はペライの郷に住む。
かくして之を神に似るオヂュシュウスの邸にやる、
ペーネロペーア悲に耐へず嗚咽のはげしきを
憐み、彼れの慟哭とにがき涕涙とむるため。
(かんぬき)結ぶ革紐を傳ひて影は忍び入り、
ペーネロペーアの枕もの立ちて即ち陳じ曰ふ、

『ペーネロペーア憐れにも眠るか?心惱して。
涙流して悲しむを、見よ、慶福の神々は
君に許さず、君の子は他日必ず歸り來ん。
神にそむきて彼はまだ罪を犯せしことあらず。』

夢の戸口に穩に睡眠深き、思慮深き、
ペーネロペーア言句もて影に向ひて答へ曰ふ、
『わが妹よ、何故こゝに來れる?こゝ離れ、
遠きほとりに住む君は先におとづれ稀なりき、
胸を心をかき亂すわが哀悼を、數々の
憂をすべて鎭めよと君今我に命ずるや?
ああ我れ先に獅子に似て心雄々しくダナオイの
中にあらゆる徳備へ、ヘラス並にアルゴスに
その英名の轟ける尊き夫失へり。
更に今またわが愛兒、舟に乘じて旅立ちぬ、
幼き彼は世の苦勞、世間の相を善く知らず。
彼に對するわが思、夫を思ふになほ優り、
戰き慄ひ畏怖に滿つ、その訪ひ行ける人の中、
或は海の廣き中、何事彼に起らんか?
見よ、數多き敵人は彼の歸郷を待ち受けて、
祖先の土地につかん前、亡ぼすことをたくらめり。』

しか曰ふ彼に朦朧の影は答へて陳じ曰ふ、
『心安かれ、何事も痛く憂ふること勿れ、
彼に神女は附き守る、同じく外の人々も
仰ぎ擁護を乞ふところ、之を能くするアテーネー、
神女パラスは哀愁にしづめる君を憐みて、
ことさらわれを遣はして此らのことを報ぜしむ。』

彼の答へて思慮深きペーネロペーア陳じ曰ふ、
『君もし神の使者ならば、神の音聲聞きつらば、
乞ふ我に曰へ、わが夫、不幸なるものいづこにか、
今尚ほ活きて日輪の光を眺めるゝありや?
或は死してハイデース冥王の府に留るや?』

その時彼に朦朧の影は答へて陳じ曰ふ。
『彼は活けりや死したるや?君に向ひて詳細に
我今こゝに曰ひ難し、空しき言句曰ふは不可。』
しかく陳じて門とざす閂傳ひすべりいで、
風の呼吸の中に消ゆ。イーカリオスの息女今、
暗夜の中に明かの夢靈の來り訪へる後、
心の惱癒されて眠の床を離れ出づ。
今かなたには求婚者、テーレマコスのものすごき
殺害胸にもくろみて舟に乘じて波渡る。
海のもなかに岩勝ちの小さき島あり、イタケーと
嶮崖高きサモスとの間、其名はアステリス、
中に二つの口開き船に便なる港あり。
アカイア族の一行はこゝに相手を埋伏(まちふせ)ぬ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第五歌


第五歌

神々の會にアテーネーはオヂュシュウス父子の救を獻言す(一 - 二十)。 ヂュウスはヘルメーアスをカリュプソーに遣はしオヂュシュウスの解放を命ぜしむ(二一 - 四二)。 カリュプソーの島地の光景(四三 - 七四)。 歡待の食事の後、使者は來旨を述べて仙女を悲ましむ(七五 - 一四七)。 仙女はオヂュシュウスにやむなく歸國せしむることを述べ誓言をなす(一四八 - 一九一)。 但し危難の來るべきを告ぐ(一九二 - 二二七)。 筏の制作(二二八 - 二六一)[。] 島を離れて十八日を過ぎてパイエーケス人の地に近づく(二六二 - 二八一)[。] 海神ポセードーン暴風を起して彼を苦しむ(二八二 - 三三二)[。] 仙女リューコテエー彼を憐み彼を警む(三三三 - 三八一)。 アテーネー暴風を鎭む。二日海波に漂ひ泳ぐオヂュシュウス(三八二 - 四四四)。 海神に祈り河口に入る(四四五 - 四六四)。 上陸、林中に臥す(四六五 - 四九三)。

諸神竝に人間に、天の光明齎して、
(あけ)の神女はその夫[5-2]チイトーノスの床離る、
その時諸神集會の席に集る、そが中に
雷音高きクロニオーン、至上の威力打ち振ふ。

[5-2]トロイアのラーオメドーンの美貌の子、イーリアス十一歌の二。

仙女の宿に囚はるゝ勇士をつねに憐める
アテーネー、今神々にオヂュシュウスの難を説く。
『天父ヂュウスよ、慶福の他の常在の神々よ、
笏を手に取る王公が、心やさしく慈悲深く、
民を愛して正しきを行ふことは無用なり、
むしろ常々冷酷に不正の行爲(わざ)をふるまへや!
神にも似たるオヂュシュウス、父の如くにやさしくも、
治めし民はひとりだも、彼を思はず何事ぞ!
激しき禍難蒙りて、彼れ今とある島の中、
艷なる仙女カリュプソー、領する郷にやむなくも
留る、かくしてなつかしき祖先の郷に歸り得ず、
櫂を備ふる舟持たず、渺々として果しなき
海の[5-17]おもてを漕ぎ行きて導く水夫またあらず。
更に今はた奸黨は、彼の愛兒を歸りくる
途に計りて斃さんず、父の消息探るべく
彼はピュロスと神聖のラケダイモーン訪ひ行ける。』

[5-17]原語「海の背」

雷雲寄するクロニオーン、その時答へて彼に曰ふ。
『何らの言句、わが愛兒、汝の齒端洩れいづる!
オヂュシュウスが歸り來て、彼らをいたく懲すこと、
これ計畫は定れり、しかも汝のきめしこと。
テーレマコスは然るべく導け、汝こを能くす。
然らば彼は安らかに、祖先の郷に歸るべし、
求婚者らは策敗れ、舟に乘じて歸り來ん。』

宣し終りて其愛兒ヘルメーアスを呼びて曰ふ、
『ヘルメーアスよ、常々に今に汝は使たり、
行きて鬢毛(びんもう)美はしき仙女にわれの決意曰へ、
心の猛きオヂュシュウス、祖先の郷に歸るべし、
神明及び人間の[5-32]導なくて歸るべし、
強く組まれし筏舟、乘りてスケリエーの地に着きぬべし。
神に類する民族のパイエーケスはそこに住む、
彼らは彼を心より神の如くに敬はむ。
しかして彼を船に乘せ、祖先の郷に往かしめん、
しかも青銅黄金を衣服を多く惠むべし、
オヂュシュウスがトロイアの鹵獲の分を身に受けて、
邦に安けく歸るとも、かばかり多く取り得まじ。
斯くの如くに運命は彼に定まる、親しきに
再び逢ひて、宏壯の館と郷とに歸るべし。』

[5-32]此句は後に述ぶる所に反す、「導ありて」に非ずや?

しか宣すれば其命を聽ける[5-43]アルゲーポンテース、
すぐに華麗の、神聖の履、黄金を鑄りしもの、
脚に穿ちぬ、迅速に風の呼吸を見る如く、
波浪の上を、無邊なる大地の上を運ぶもの、
次に一つの杖を取る、こは意のまゝに人間の
眼を閉づるもの、眠よりまた人間をさますもの、
アルゲーポンテ⌒スこの杖を手に携へて飛び來り、
ピイエリエーの空の上、天より下り海に入り、
潮の上を、海の鳥見るが如くに急ぎ行く。
渺々としてはてしなき淋しき波の上わたり、
厚き翼を鹽水にひたし、魚遂ふ海の鳥、
その鳥に似てヘルメース、潮の上を翔けり行く。
はじめは遠く隔りし島も今着き、紺青の
海より陸にかけ上り、脚を進めておほいなる
洞窟、そこは鬢毛の美なる仙女の住む處、
こゝに到りてヘルメース、中に仙女を見出しぬ。
洞裏の爐には炎々の火焔盛に燃えたちて、
杉、白檀の樹の薫り、燒けゆく儘に島中に
廣く匂へば、織機(おりはた)の前を往來(ゆきき)し、黄金の
()をはしらせて、玲瓏の聲に仙女は歌謠ふ。
洞のめぐりは鬱蒼と繁る赤楊(はんのき)白楊(はこやなぎ)
またかんばしき絲杉も、同じく共に榮えしげる。
長き羽翼の禽鳥は、そこに塒を營めり、
即ち鷹と梟と、其舌長き海鴉、
大わだつみの波の上、わざにいそしむ海の鳥。
又うつろなる洞窟を、めぐりてこゝに葡萄蔓、
盛にしげり、延びゆきてその累々の房を埀る。
四の泉は相竝び、互に隣り、滾々(こん〜)
清き眞水を吐き出し、異なる方向に流れしむ。
またあたりには菫草、また[5-72]セリノスの柔き、
平野は青む、神明もこゝに來らば眺め見て、
目を驚かし、しかも又心に歡喜生ずべし。
使アルゲーポンテース今こゝに立ち驚けり。
この光景を眺め見て、心に驚異滿てるのち、
直ちに彼は洞窟の廣きが中に入り來る。
艷なる仙女カリュプソー、面して彼を認め知る、
離れて遠く住めるとも、不死常在の神々は、
互に共に彼と是、知らざること絶えてなし。
たゞ英豪のオヂュシュウス、中に見られず、彼は今、
海の岸の()ひとり坐し、例の如くに泫然と、
涕を流し、慟哭と悲嘆に心るんざけり、
(涕に曇る目をあげて、渺々の海眺めつゝ)。
艷なる仙女カリュプソー、燦爛として燿ける
椅子に珍客坐らしめ、ヘルメーアスに問ひて曰ふ、
『はしき尊きヘルメーア!黄金の杖携へて、
今訪ひ來る何故ぞ?先きは光臨稀なりき。
望むところを打明けよ、しかも成すべき事あらば、
望むところを成すべしとわが心曰ふ、よくし得ば。
[5-91](いざ近寄りてわが手より、君、歡待を受け納れよ。』)

[5-43]「アルゴスを斃せし者」。
[5-72]和蘭セリと譯さば可笑しからむ。
[5-91]九十一行は善き版に省かる。

しかく宣してアムプロシヤ滿たせる卓を、珍客の
前に据ゑつゝ、(くれない)の神酒に水を相まじふ。
使アルゲーポンテース、勸めの儘に飮食を、
とりつ、程なく飮食に心を飽かし了ふるのち、
仙女に向ひ、翼ある飛揚の言を陳じ曰ふ、

『仙女よ、君は我が來る故をたづねぬ、眞實を
君に委細に陳ずべし、陳ぜよとこそ君はいへ、ヂュウスはこゝに來るべく、好まぬ我に令くだす。
誰か好みて渺々のはてなき潮わたるべき?
神に對して百牛の牲を、かしこみたてまつる、
其人間の生める都市、こゝに一つもあらざるを。
さはれアイギス持てる神、ヂュウスの意志を他の神は、
侮ることを得べからず、空しくするを得べからず。
ヂュウスは宣す、九年間、トロイア城を攻め圍み、
第十年にそを破り、國に歸れる人々の
中に、最も不幸なる一人、汝の宿にあり、
彼ら歸郷の途にしてアテーナイエー怒らしめ、
神女はために暴風と激浪起し惱ませり。
他のすぐれたる同僚は皆悉く亡べども、
かの一人を風浪は運びてこゝに到らしむ。
彼を至急に歸すべく、神は汝に命下す、
友を離れて此島に死するは彼の運ならず、
之に反して宿命は彼に定まる、親しきに
再び逢ひて宏壯の館と郷とに歸るべく。』

しか陳ずればカリュプソー、艷なる仙女わなゝきて、
彼に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、
『非道なるかな、あゝ諸神!妬情何とて斯く強き!
神女のたれか、人間と睦みかたらひ、恩愛の
契結べば忽ちに咎め怒るぞあさましき。
薔薇の色の指もてる(あけ)の神女が、オーリオーン
愛づれば、やがて安樂に生くる諸神は相妬み、
黄金の座のアルテミス、無垢の神女は、愛人を
オルチュギエーに穩やかの[5-124]矢を放ちつゝ射斃しぬ。
デーメーテール、鬢毛の美なる神女が、イアシオーン
戀して、情に打ち負けて、三度鋤かれし畑の上、
やさしく契こめし時、之を悟りてクロニオーン、
銀色光る霹靂を飛ばして(をつと)射殺しぬ。
我れ人間に睦めるを、あゝ神々よ妬しとや!
暗紅色の海の上、銀色光る霹靂を
飛ばしてヂュウス迅き船碎けば、獨り龍骨の
上に跨る彼の身を、われこそ救ひ得させたれ。
〔他のすぐれたる同僚は皆悉く亡べども、
かの一人を風浪は運びてこゝに齎しぬ。〕
我は優しく彼を愛で、彼を養ひ、更に又、
老を知らざる不死の身と、爲すべき事を説きたりき。
さはれアイギス持てる神、ヂュウスの意志を他の神は、
侮ることを得べからず、空しくするを得べからず。
彼に逼りて強ゆるもの、ヂュウスなりせば、渺々の
海のりこして彼は去れ、さもあれ我は送り得ず。
櫂を備ふる舟は無し、大海原の波の上、
彼を導き進むべき水夫はたまたこゝに無し。
さもあれ彼の安らかに、祖先の郷に歸るため、
われ喜びて助言せん、又何事も隱すまじ。』

[5-124]此文句は一般に(三歌の二八の如く)苦痛なき死を曰ふ。

使アルゲーポンテース、其時答へて彼に曰ふ、
『かく彼をして去らしめよ、ヂュウスの怒警めよ、
後に汝に憤り罪することのなきがため。』

強きアルゲーポンテース、しかく宣して別れ去る。
ヂュウスの命を開ける後、いみじき仙女カリュプソー、
(脚を進めて)英豪のオヂュシュウスを尋ね行き、
岸の()坐せる彼を見る、涙にくれて彼の目は
絶えて乾かず、郷思ふ悲痛のあまり、一命は
今や殆ど亡びんず、仙女をすでに好まねば。
されど夜には、うつろなる洞窟中に慕ひよる
仙女の側に、やむなくも好まぬ乍ら添寢しつ、
晝にはつねに、岸の上また岩の上、座をしめて、
呻き歎きに、涕涙に、無慘に心碎きつゝ、
渺々としてはてしなき海を眺めて悲しめり。

その傍に近よりて、艷なる仙女陳じ曰ふ、
『もはや此地に、薄命の君よ、悲しみ一命を
そこなふ勿れ、心より我今君を去らしめむ。
いざ大木を青銅の斧に倒して、幅廣き
筏を造り、其上に板を張れかし、朦朧と
曇る海の()故郷(ふるさと)に筏は君を運ぶべし。
我はその中麺麭(パン)と水、又紅の芳醇を、
心を暢ぶるものを納れ、君の飢渇を禦ぐべし。
更に衣服を纒はしめ、又順風を吹き送り、
君の故郷に安らかに歸り着くこと得せしめむ。
廣き大空司り、われに優りてもくろみて、
もの成し遂ぐる諸神靈、しか爲すことを嘉みしかば。』

しか陳ずればオヂュシュウス、忍從強き英雄は、
身をわなゝかし、翼ある言句をのべて答へ曰ふ、
『神女よ、汝しか曰ふは、われの旅にはあらざらむ、
大わだつみの恐るべき難き淵の()、一片の
筏にのりて行けといふ、迅き船すら其上を、
ヂュウスの風を喜びて、乘り切ることは難からむ。
我は汝にそむくべし、筏に此身托すまじ、
我に對して新たなる禍害もくろむことは無しと、
ゆゝしき強く誓言を、汝たつるを慾せずば。』

其言きゝてカリュプソー、艷なる仙女ほゝゑみて、
纖手をのして撫しつゝも、答へて彼に陳じ曰ふ、
『君は誠に癖物ぞ、容易ならざる事を知り、
かゝる言句を陳ずべく、心の中に計らへり。
君に對して新たなる禍害もくろむこと無きを、
大地と高き大空と -- 又もろ〜の神にとり、
すべての中におほいなる、また恐るべき盟たる --
深く流るゝ[5-187]スチュクス、皆照覽をなせよかし。
同じくかゝる要あらば我自らに致すべき、
考慮と助言、今君に我は親しく陳ずべし。
我の思案は正しかり、我が胸中の魂は、
憐憫深きものにして、鐡にて造るものならず。』

[5-187]冥土の河、此にかけて曰ふ誓最も恐るべし。

しかく宣して速かに艷なる仙女カリュプソー、
眞先に立ちて導けば、其跡つきて彼は行く。
やがてうつろの洞窟に、神と人とは來りつき、
ヘルメーアスが立ち去りし椅子のへ彼は座を占めぬ、
しかして仙女その前にあらゆる品を -- 人間の
口になすべき飮食を、竝べ備へて自らは、
親しく神に髣髴のオヂュシュウスの前に坐す。
アムプロシヤとネクタール侍女は傍に竝び据う。
兩者はかくて供はれる調理の品に手を()して、
やがて程なく飮食に、口腹おの〜滿てる時、
艷なる仙女カリュプソー、まづ口を開き陳じ曰ふ、

『[5-203a]ラーエルチャデー、神の種、智謀に富める[5-203b]オヂュシュウよ、
かく速かにあこがるゝ祖先の郷に、君は今
歸り行かんと慾するや?樂しき旅よ、君にあれ、
さはれ祖先のなつかしき故郷に歸り着かん前、
禍難の運に逢ふべきを、君もし胸の悟り得ば、
わが傍に留りて此洞窟の主となり、
不死の身たるを願ふべし、君が日に日にあこがるゝ
恩愛の妻見ることを、よしいかばかり願ふとも。
風姿容貌彼よりもわれは劣ると思ひ得ず。
やがて死ぬべき人間の女性、いかでか神々に、
其容貌と風姿とを競ひ爭ふことを得む!』

[5-203a][5-203b]共に呼格、前者は「ラーエルテースの子」のそれ。

智謀豐かのオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『尊き神女わが言を咎むる勿れ、われは知る、
ペーネロペーア、聰明の妻は人の目見るところ、
風姿容貌、君よりは劣るを我は深く知る、
彼は死すべき人なるに、君は不死なり不老なり。
しかはあれども、あこがれの祖國の郷に歸るべき、
其喜びの日を見るを、我ねんごろに冀ふ。
よし、とある神、暗紅の海のもなかに我筏、
破らば破れ、胸中に我れ忍從の心あり、
潮の上に戰場にわれは多くを忍び來ぬ、
多くをすでに勤め來ぬ、新たの禍難來るもよし。』

しかく陳ずる程もなく、夕陽入りて暗來る、
兩者即ち洞窟の奧の深きに進み入り、
互の添ひて愛慾の歡喜に耽る、夜もすがら。

薔薇の色の指もてる曙の女神の現れに、
オヂュシュウスは迅速に上下の被服身の纒ふ、
仙女は美なる銀色の長き[5-230]霧綃の薄き(きぬ)
纒ひて腰のめぐりには、黄金製の美はしき
寶帶結び、面帕のいみじきものを着けつゝも、
ラーエルテースの勇しき子の門出を計らへり。
即ち彼に手頃なる青銅製のおほいなる、
雙刄(もろは)鋭き斧與ふ、而して斧は橄欖の
木にて造りし華麗なる柄を緊密に備へたり。
よく磨かれし手斧、また續きて彼に與へたる
仙女は彼を導きて、島の端へと脚進む、
そこに赤楊(はんのき)白楊(はこやなぎ)、天に冲する松柏の
巨木乾きてさらされて、切りなば水に浮ぶべし。
巨木叢立つ此場を示し終りてカリュプソー、
艷なる仙女その脚をかへして洞に歸り去る。
木を伐り倒すオヂュシュウス、(わざ)迅速に進みゆき、
二十の巨木倒るゝを、青銅をもて斷ち割りつ、
巧に之を琢き上げ、準繩あてゝ直くしぬ。
艷なる仙女カリュプソー、今齎らせる錐とりて、
彼はすべての木材に、穴を穿ちて彼と此、
互に組ませ、(かすがひ)と釘と用ゐてさしかたむ。
術にくはしき船大工、荷を積む船の胴體を
程よく廣き幅にして、造り上ぐるを見る如し。
さほどの幅にオヂュシュウス、その筏船造り上ぐ。
しかして彼は甲板を設け、多くの肋材を
之にとりつけ、上縁(うはべり)の長きを附して成し遂げぬ。
次に造るは一條の帆柱 -- 之に帆桁添へ、
更に筏の方向を導く舵を造りあぐ。
而して波を禦ぐため柳の小枝、全躰に
亙りて纒ひ、船中に多くの[5-257]材を積みのせぬ。
艷なる仙女カリュプソー、今また布を齎して、
帆を造らしむ。これも亦彼は巧みに成し終り、
帆索(ほつな)桁索(けたつな)帆脚索(ほあしつな)皆一齊に整へて、
遂に梃子(てこ)もて清淨の潮に筏浮ばしむ。
四日すぐれば一切の業悉く成り終る。
次の日美なるカリュプソー彼に(くん)ずる衣着せ、
沐浴せしめ、住み馴れし島より彼を送る時、
暗紅色の葡萄酒を、革の袋に滿たしめて、
他の大なる袋には清水みたし更に又
ほかの袋に、食物と豐かの美味を滿たしめつ、
かくて呼吸の暖かき軟風徐々に吹き送る。
その風受けてオヂュシュウス、欣然として帆を張りて、
席に坐しつゝ巧妙に舵を使ひつ、夜となれば、
天の列宿仰ぎ見て、ねむり眼瞼(まぶた)におとづれず、
プレーイアデス、彼にあり、遲く沒するボォーテスも、
又別名を人呼びて車輪と曰へる北の星、
ひとつ處を廻りゆき、オーリオーンの座と對し、
オーケスノスの潮流にひとり沈まぬ大熊座。
此星つねに左手に見つゝ波浪を渡るべく、
艷なる仙女カリュプソー、彼の教を施しぬ。
日數十七すぐるまゝ、潮をわくるオヂュシュウス、
第十八の日となりて、パイエーケスの郷の山、
朦朧として程近く其眼前に現れぬ、
霧たちこむる波のをち、山の姿は盾に似る。

[5-230]陳思王の「洛神賦」。
[5-257]「重みを附くるため」と解するものあり、「臥床として」と解するもあり。

[5-282]アイチオピアー辭しかへる大地ゆるがすポセードーン、
ソリュミの山の遠きより、今波わたるオヂュシュウス、
眺め認めて勃然と、心おほいにいきどほり、
即ち(かうべ)打振りておのが心に陳じ曰ふ、

[5-282]一歌二三。

『竒怪なるかな、神々はオヂュシュウスの身につきて、
思慮を變へたり、われ遠くアイチオピアーを訪へる間に。
パイエーケスの地に近き彼は、そこにて災難の
強き絆を運命によりて、やがてはほどき得む。
さあれ見よ、見よ、猶永く我は危害を加へんず。』

しかく宣して三叉戟(さんさげき)とりて海神ポセードーン、
黒雲集め、海みだし、四方の風を悉く
荒立たしめて、海陸を、共にひとしくものすごき
雲に蔽へり、暗黒の夜は天より降り來る。
ユーロス、ノトス、また共にあらき呼吸のゼピュロスと、
天に生れて激浪を起すボレース、一齊に
襲ひ來れば、オヂュシュウス膝も心もわななきつ、
さすがに強き英豪の胸をみだして嘆じ曰ふ、

『あゝわれ誠に不幸なり、最後に來るは何者ぞ?
祖先の郷に着かん前、禍難はげしく海上に
蒙るべしと宣したる仙女の言の正しきを、
我今怕る、見よ此等皆悉く成らんとす。
かゝる叢雲集め來て、ヂュウスは廣き大空を
蔽ひて更に大海を亂す。しかして一切の
はげしきあらし襲ひ來る、われの死滅は確かなり。
アトレーデース喜ばせ、廣きトロイア平原に、
死せるアカイア諸將等の、(さち)は遙かに我を越す。
ペーレーデース死せるそば、我にトロイア軍勢が、
青銅の盾投げし時、その時われは一身を
棄てゝ死滅の運命に附隨し行かばよかりしを。
さらば葬儀を營みて友はわが名を揚げつらむ。
無念や、今は運命は、われに悲慘の死を與ふ。』

しかく陳ずる彼の上、大波高く、もの凄く、
襲ひ來りて、筏船はげしく廻り轉ぜしむ、
筏離れて水中に落ちたる彼の、手にとりし
舵はいづこぞ?帆柱は亂れて狂ふ咆哮の
あらしに打たれ、眞中より二つに折れて倒るれば、
帆布帆桁は諸共に、遠き冲へと流れ行く。
而して彼は水の下、永くも深く沈められ、
襲ひ寄せくる大潮を、速く逃れて浮び得ず。
先に神女の惠みたる衣服は水に便ならず。
程へて遂に浮び出で、口より鹹き水を吐く、
その鹹き水、頭より瀧の如くに流れ落つ。
無慘にかくも惱めども、彼は筏を忘れ得ず、
潮の中に飛び込みて、追ひて取り得つ、其中に
再び坐して恐るべき死の運命を避けんとす。
流に添ひて大潮は、あなたこなたに其筏、
逐ひて恰も秋深く、北風吹きて平原に
(あざみ)の房を驅る如し、房は互にからみ合ふ。
斯くの如くに海上に、風は筏を運び行く。
南吹く風投げ去りて、北吹く風に運ばしめ、
東吹く風引きわたし、西吹く風に驅らしめて。
その時彼を認めたるリューコテエーは、カドモスの
息女、(くるぶし)美しきイーノウ、先は言語ある
人の子、今は海の中、神の光榮頒つ者。
漂ひめぐり艱難を受くる勇將、憐みて
飛翔の鷗見る如く、波浪をわかて上り來て、
多く綱ある筏のへ坐して言句を陳じ曰ふ、

『不幸の者よ、いかなれば大地ゆるがすポセードーン、
かくも激しき憤り汝に苦難の種蒔くや?
されども彼は意に任せ、汝を殺すことなけむ。
わが曰ふまゝに汝爲せ、汝恐らく知慮缺かず、
衣服ぬぎ去れ、筏をば荒ぶ颶風に任せ去れ、
手もて泳ぎて陸上に、パイエーケスの郷のへに、
着くをつとめよ、運命をそこに汝は逃れ得む。
受けよ、これこの神聖の被頭(かつぎ)、而して胸の下
附けよ、然らば艱難と死滅の恐れあらざらむ。
されども汝陸に手を觸る其時、此かつぎ
解きて放ちて葡萄酒の色なす波に投げすてよ、
陸よりすてよ、而うして汝は陸に上り行け。』

しかく陳じて神聖のかつぎを神女かれに附し、
潮さかまく大海にさながら鷗見る如く、
潛り沈めば、暗緑の波浪は彼の影隱くす。
忍耐強きオヂュシュウス、其時思ひめぐらして、
大息しつゝ勇猛のおのが心の中に曰ふ、

『あゝ無慘なり、此筏乘りすつべしと命ずるや?
恐らく、とある神明は策たくらむに非るや?
否ゝ我は從はず、非難はそこにありといふ
陸はわが目の見るところ、遠くかなたに隔れり。
よし〜我は行はむ、わが最善と思ふこと、
組み合はされて木材の離れ去ること無き限り、
筏の上に留りて、苦難を受けて忍ぶべし。
されど大波襲ひ來て筏を破り挫く時、
其時こそは泳ぐべし、他に妙案は思ひ得ず。』

かく胸中に念頭に思ひ廻らす折もあれ、
大地ゆるがすポセードーン、轟々としてもの凄く、
逆捲きかゝる大波を起して彼を襲ひ打つ。
風すさまじく吹き荒れて、[5-268]乾ける殼の堆積を
襲ひて四角八面に粉々として散らす如、
波浪は長き船材を散らす、其中一材に
さながら馬を御する(ごと)、身を打乘するオヂュシュウス、
カリュプソーより惠まれし衣服を遂に脱ぎすてて、
神女賜へる神聖のかつぎを、すぐ胸の下
まとひ、兩手をさしのべて泳がんために海中に
眞逆樣に躍り込む。こを眺めたるポセードーン、
頭ゆるがし、自らの心の中に陳じいふ、

[5-268]前の三二八。

『斯くも夥たの災難を受けて波浪の只中に
さまよへ汝!クロニオーン養ふ民にまじる迄。
これ迄とても災難を足らずと汝思ふまじ。』
しかく宣して(たてがみ)の美なる駿馬を走らして、
その莊麗の宮殿のある[5-381]アイガイに到り着く。

[5-381]アカイアの都市、隣れるヘリケーと共に海神を祭る、ユウボイアの岸といふ説もあり(イーリアス八歌二〇三)。

今やヂュウスの息女なるアテーナイエー、新たなる
策を案じて諸々の風の呼吸を抑へとめ、
鳴りを靜めて眠らしめ、しかしてひとり迅速の
北吹く風を呼びおこし、ヂュウスの裔のオヂュシュウス、
死と運命を免れて櫂の友なる民の群、
パイエーケスにまじる迄、前の波浪を[5-387]碎かしむ。
二日と二夜高まれる潮の中にたゞよひて、
彼は屡々もの凄き死の暗影の寄るを見ぬ。
髮美はしき曙の神女次の日出でし時、
風は全く吹きやみて空は靜和に立ち返る、
その時彼は大浪の背に乘り乍ら、あこがれの
鋭き(まみ)に程近く陸地の影を認め得ぬ。
憎める神に惱まされ、長く病の床に臥し、
激しき苦痛身に受けて弱り果てたるとある父、
そを慶福の神々が救ひ苦難を攘ふ時、
彼の壽命の全きを子らは痛くも喜ばむ。
陸と森とをオヂュシュウス眺めてかくも喜びつ。
雙脚使ひ、陸上に登らんとして泳ぎ行く。
されど岸への隔が呼べば聞ゆる程となり、
鞺々として大波の岸うつ音を聞ける時 --
乾ける陸に打寄するすごき大浪轟々と、
碎けて咆えて銀浪の泡はすべてを掩ひ去り、
船を寄すべき港、またかゝり場一もあらずして、
たゞ突き出づる海岸と岩と暗礁あるばかり --
かくと眺めてオヂュシュウス、膝わなゝかし、勇猛の
心挫けて大息し、嘆じて獨り陳じいふ、

[5-387]不明、波を鎭むの意か?

『無慘なるかな、クロニオーン、思ひもかけず、この陸地
見るを許して、われかくて、入江を渡り終ふる時、
この銀浪を遁るべき港は絶えて目に觸れず。
岩壁かれにそゝり立つ、之を圍みて咆哮の
潮はあらび聳えたつ、岩石すべて滑かに、
海水深し、いづこにもわが雙脚をとゞめ得て、
禍難を遁れいづるべき地點を見るを得べからず。
恐らく陸に上らんと慾する我を、大波は
捕へて岩に打ちつけむ、われの努力は空ならむ。
されどなだらに傾ける海岸あるひは港口、
探らんために激浪を切りて泳ぎを續けなば、
恐るゝところ暴風は、更に新たに鱗族の
群るゝ海上、嘆息のはげしき我を驅り去らむ。
或は、とある神靈は、[5-421]アンピトリテー養へる
群の中より妖鯨を我に向ひて驅り出さむ。
大地をゆするポセードーン、かく迄われに怒るかな。』

[5-421]神女、海中の生物を司どる。三歌九一、一二歌六〇。

斯くの如くに胸中に思ひわづらふ折もあれ、
其時荒き岸めがけ、大波彼を運びゆく。
藍光の目のアテーネー、教ゆる處なかりせば、
必ず彼は皮膚はがれ、碎け去りけん彼の骨。
彼は進みて兩手もて巖をつかみ、大波の
過ぎ去る間呻吟の聲を放ちてすがりつく。
かくして彼は禍を遁れぬ、されど歸る波、
またも進みて彼を打ち、沖にはるかにはこび去る。
恰も烏賊をその巣より捕へて引きて出だす時、
その吸盤に數多く小石の附着する如く、
まさしくかくも剛健の彼の手よりし剥がれたる、
皮膚の片々(きれ〜゛)巖に附き、大波かれを盖ひ去る。
その時、明眸アテーネー、彼に叡智を與へずば、
不幸重なるオヂュシュウス(めい)拙くも逝きつらむ。
陸をめがけて推し寄するその大波の線離れ、
彼は傾くなだらかの海岸或は港口、
見だす希望をいだきつゝ陸眺めつゝ泳ぎ行く。
かくて泳ぎて溶々と清く流るゝ川口に、
つける其時、無上なる好き場所彼の目に寫る、
そこには岩は滑かに、又よく風を防ぐべし。
流るゝ川を認め得て彼は念じて祈り曰ふ、

『いかなる神におはすとも、ポセードーンの脅迫を、
波浪の中に逃れ來し、われの言葉をきこし召せ、
漂浪のはて來り訪ふその人の子は、不滅なる
神の目にさへ尊とかり、われ亦まさにしかありて、
惱みて君の川流と君の膝下にたどり來む。
憐み給へ慇懃に祈を捧げたてまつる。』

しか陳ずれば、川の神すぐに流の波をとめ、
彼の行手を靜穩になしつゝ、彼を安らかに
河口の岸に救ひ上ぐ。魂は波浪に碎かれて、
彼は兩膝緩めつつ強き兩手を埀れしめぬ。
肢體はすべて腫れ上り、口と鼻より海水は
激しく流れ、呼吸なく音聲絶ちて昏々と、
激しき疲勞襲ひ來て、彼は死せるが如く伏す。
されど呼吸を吹き返し胸に正氣の囘る時、
起ちて其身に纒ひたる神女のかつぎ解き放し、
大海さして走りゆく流に之を投ずれば、
流れ流るゝ大水は運び囘しぬ、速かに
神女は之を手に取りぬ。川より歸るオヂュシュウス、
蘆萩の中に横はり、穀を與ふる地を抱き、
大息しつゝ勇猛の心の中に陳じいふ、

『あゝ我乍ら憐れなり。最後はいかに成りゆかむ?
川の邊りに身をおきて、不安の一夜過しなば、
嚴霜白露もろともにわれの肢體を惱まして、
しかも寒風朝早く、河より我を襲ひ來て、
其果弱り疲れたる我一命を失はむ。
されど我若し蔭暗き森と丘とに上りゆき、
繁き緑の林叢に中に眠らば、我の身を
疲勞と寒氣離るとも、甘眠我に來るとも、
恐るゝところ猛獸の餌食獲物となりやせむ。』

思ひ煩ふ彼は今更によき途思案しつ、
森に進みてこの(には)を、流に近く四方より
見らるゝ高き地と知りつ、同じ場より生え出でし、
[5-477]エライ・エースとピュリエース、二つ籔の下に入る。
濕氣を帶べる寒風の力はこゝに進み來ず、
また燿ける日輪も光をこゝに通じ來ず、
降雨もこゝに洩れて來ず、さばかり厚く叢林の
枝と枝とは絡み合ふ。其繁る下、オヂュシュウス
這ひ入り、すぐに手を擴げ、廣き即座の床造る。
見よ落葉は、うづたかく積み重なりてそこにあり、
寒氣あくまで強くとも、冬の季節にその下に、
二人或は三人を掩ふに足りてあまりあり。
耐忍強きオヂュシュウス、之を眺めて喜びつ、
其たゞ中に埋まりて身に落葉の堆を積む。
あたり近くに隣る人、絶えてあらざる野邊の末、
あしたに到り他より火の種を借ること無きがため、
殘燼黒き灰の下、火の一片を留る如、
斯く落葉にオヂュシュウス其身をおほふ。アテーネー
その時彼の目の上に眠を注ぐ、速かに
疲れし眼蓋おひひ去り、疲勞を彼に癒すため。

[5-477]果の橄欖と野生橄欖。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第六歌


第六歌

パイエーケス族の王者の息女ノーシカーの夢に現はるゝ神女アテーネー、 命じて川に衣服を洗はしむ(一 - 四七)。 姫は父の許を乞ふて出て行く(四八 - 七〇)。 從者をつれて川に行き洗淨を了へ遊戲す(七一 - 一〇九)。 少女らの叫オヂュシュウスを目ざます。彼のためらひ、彼の決心(一一〇 - 一三六)。 少女ら彼の出現に驚きて逃げ去り、姫ひとり殘りて彼の哀訴を聞く(一三七 - 一八五)。 兩者の問答、姫は彼に衣食を與ふ(一八六 - 二五〇)。 車に附隨して都城に來らしむ。されども城外に殘りて世間の口の端にかゝることなからしむ。 又彼をして王宮を訪ひ女王の哀憫を起す方法を講ぜしむ(二五一 - 三一五)。 勇士は進んで都城附近アテーネーの聖林に到り神女の助を祈る(三一六 - 三三一)。

斯くしてそこに勝れたる耐忍強きオヂュシュウス、
睡魔疲勞に打ち負けて臥せり、こなたにアテーネー、
パイエーケスの人民と其都城とをさして行く。
これらの民のその昔住みし廣きヒュペレーア、
驕慢にして暴力は遙かにまさり、掠奪を
彼らつねに施せるキュクローペスに隣りしき。
彼らを神に似たる君、ノーシトオスは導きて、
ここに移して城壁に都市を圍ませ、家を建て、
神殿築き、耕作の地を衆民に相頒つ。
命數つきて彼れ既に冥王の府に去り行けば、
神に叡智を惠まれてアルキノオスは今は王。
ラーエルテース生める子の歸郷の策を案じつゝ、
藍光の目のアテーネー神女今其の館を訪ふ。
かくして神女莊麗の一つの室を訪ひ來る、
そこに風姿は神に似る一人の處女は眠りふす。
名はノーシカー、英邁のアルキノオスの生める者、
其傍に右左、美をカリテース惠みたる、
二人の侍女は添ひ臥しぬ、華麗の扉閉ざされて。

風の呼吸の如くして神女は姫の床の(もと)
急ぎ來りて枕頭に立ちて彼女に陳じいふ、
船に名高きヂュマースの息女は姫と同じ年、
姫と親しく睦む者、其相貌に身をにせて、
藍光の目のアテーネー姫に向ひて、陳じ曰ふ、
『あゝノーシカー、母君はなどて懈怠の君生みし?
君の華美なる衣服皆うち棄られてこゝにあり、
君の婚期は今近し、されば自ら美はしく
裝なすべく、侍女らにも同じく綺麗を備ふべし。
かゝる事より名聲は廣く世間に擴まらむ、
然らば父も貞淑の母も等しく喜ばむ。
曙光あしたに出づる時、君洗淨の(には)に行け、
助となりてもろともに我も行くべし、迅速に
君の備を爲すがため、——處女(をとめ)の時期は長からず。
パイエーケスの上流者、君を望めり今まさに、
尊き素性は此郷に同じく君に備はれり。
あくるあしたに速かに父に乞ふべし、君のため
騾馬を車を備ふるを、中に收めてもろもろの
衣帶並にうるはしき被服袿裳搬ぶべし。
乘車は君に歩行(かち)よりも便宜なるべし、洗淨の
場はわれらの都城より離れて遠し、さあらずや?』
しかく宣して藍光の目のアテーネー立ちさりて、
ウーリュンポスに歸り行く、そこに人曰ふ神明の
つねに搖がぬ宮立てり、之を震はす風あらず
之を濕す雨あらず、こゝに近づく冬あらず、
雲は跡なく晴朗に白光空にみち布けり。
こゝに日に日に慶福の諸神は長く樂めり、
少女に諭し終ふる後アテーナイエーそこに行く。

華麗の王座備へたる曙の神女は現はれて、
かつぎの美なるノーシカー覺ませば、夢に驚ける
姫は宮中さしてゆき其恩愛の父母に、
委細を報じ告げんとし、そこに二人のあるを見る。
かしづく女性もろともに母は爐邊に近く坐し、
暗紅色の絲紡ぐ。パイエーケスの貴族らに
呼ばれて、父は今正に、其評定の席さして、
館を出でんとしつる折、愛女來りて彼に逢ふ。
即ち近く側にたち、父に向ひて陳じいふ、
『はしき父君、願はくは堅固の輪のある一輛の
車を與へたまはずや?華麗の衣服數々は、
汚れしまゝに重なれば、流に行きて洗はんず。
君自らも上流にまじり評議に預れば、
身に清淨の衣々(きぬ〜゛)を纒はんことぞふさはしき。
又館中にめで思ふ五人の子息君にあり、
二人は既に婚すれど殘は佳耦まだあらず、
舞踏の(には)に行かんとき、彼らは清く洗はれし
衣服を纒ふを喜ばむ、これらの事をわれ念ず。』

しか陳ずれど花やかの婚儀につきて恩愛の
父に話すを憚りぬ、父は猜して答へ曰ふ、
『愛兒よ、騾馬も他の物も我は汝に拒むまじ、
汝の爲めに家僕らは堅固の輪ある一輛の
車備へむ、高くして上に被蓋を附くるもの。』

しかく宣して家僕らに命ず、彼らは命を聽く。
彼ら即ち外に出で、堅固の輪ある一輛を --
騾馬の曵くもの整へて柔和の獸下に据う。
姫は室より燦爛の衣携へ出で來り、
しかして之を琢がれし車輛の中に收め入る。
その時慈母は櫃の中、心をこめしさま〜゛の
甘美の料理納め入れ、山羊の皮もて作りたる
嚢に酒を注ぎ入る、やがて車上に姫は乘る。
更に黄金の瓶の中、慈母は橄欖の油入れ、
姫と侍女とに沐浴の後に膚にまみらしむ。
かくして姫は輝ける手綱と鞭を手に取りて、
騾馬にあてつつ進ましむ、蹄の音は戞々(かつかつ)と。
勢強く騾馬駈けて姫と衣裳を搬び行く、
姫もろともに若干の侍女は同じく乘り進む。

衆女はやがて美はしき川の流れに來りつく、
こゝに年中洗淨の(には)あり、水は滾々(こん〜)
湛へ、いかなる汚染をも洗ひ淨めてあまりあり。
こゝに衆女は車より二頭の騾馬を解きはなし、
甘美の草を喰ますべく流れ渦卷く河に沿ひ、
驅りたて行きつ、自らは手もて衣服を車中より、
取りて流に持ち來り、たゞちに之を洗淨の
場に投じて踏みにじり、互に競ひ勤め合ひ、
あらゆる汚染皆洗ひ、淨め終りて一列に、
衣服を濱の岸の上擴ぐ、そこには陸めがけ、
鞺々として寄せ來る波浪、汀の石洗ふ。
衆女はやがて清流に沐し、香油を膚に塗り、
つづきて河の縁の上、坐して食事を整へつ、
赫々照らす日によりて衣服の乾き干るを待つ。
姫も侍女らも一齊に其口腹の飽ける時、
頭上の被帛脱ぎ棄てゝ球の遊戲にとりかかり、
玉腕白きノーシカー歌を唱へて先に立つ。

弓矢を好むアルテミス、テーイゲトスの高き峯、
エリュマントスの山の上、颯爽として馳せめぐり、
野豬を、脚とき鹿を逐ひ、樂む時に彼の侍女 --
アイギス持てるクロニオン生める神女は -- 林間の
子らは -- もろとも群を狩り、神母レートー亦嘉みす、
其時神女、艷美なる侍女一切に其かしら、
其面優に拔き出でて目だつ -- 正しく其の如く、
未婚の姫は昂然と侍女らの中に輝けり。

やがて車に騾馬を附け、華麗の衣服おしたたみ、
家路をさして正に今姫が立たんとしつる時、
藍光の目のアテーネー、更に一つの策案んず、
オヂュシュウスは目を醒まし、パイエーケスの城中に
彼を導く明眸の王女を眺め見るべしと。
斯くして姫は一人の侍女をめざして球を投ぐ、
球は(ねらひ)を誤りてうづまく水の中に落つ、
之を眺めて高らかに衆女叫べばオヂュシュウス、
驚きさめておき直り、ひとり心に陳じ曰ふ。
『あゝあゝ何の人間の郷に我今つきたるや?
彼らは酷く獰猛に心も正しからざるや?
或は彼ら外人に優しく神を畏るゝや?
若き女性の叫ぶ聲、今わが耳を襲ひ打つ、
こは山々の高き嶺、又は川流湧き出づる、
源泉又は緑なる平野に住める仙女らか?
或は我は言語ある人の住居に近づくや?
いざ身を起し試みにわが目親しく探り見ん。』

しかく陳じてオヂュシュウス、その剛強の手を延して、
木より繁れる葉の枝を、折りて裸かの肉身の
耻づべきほとり掩ひつつ、靜かに籔を立ち出でて、
勇を恃める獅子王の如くに脚を進め行く。
その獸王は雨風に打たれて(まなこ)爛々と、
燃えつ、或は牛の群、羊の群に、時にまた
野生の鹿に向ひ行く、飢餓は迫りて彼をして、
堅固の欄の中にすら餌食求めて進ましむ。
まさしく斯くもオヂュシュウス赤裸の姿顧みず、
要に迫られ鬢毛の美なる女性の中に入る。
その鹽水に汚れたる姿に、怖れ驚ける
衆女走りて、突き出づる岸の沙場に逃れ去る。
アルキノオスの王女のみ獨り留る、アテーネー
其胸中に勇を鼓し、恐怖を身より拂ひ退()く。
王女かくしてまのあたり立てり、その時オヂュシュウス
思ふ、美目の姫の膝抱きて哀訴致さんか?
都城を我に濕すべく、我に衣服を與ふべく、
離れて立ちて甘美なる言句用ゐて願はんか?
思案凝らせるオヂュシュウス、膝を抱かば憤激は
姫の心を滿たすべし、離れて立ちて甘美なる
言句用ゐて願ふこと、優りて善しと定め得つ、
ただちに彼は巧妙の言句を陳じ姫に曰ふ、

『神女か人か?いづれとも、姫に願ひを聞え上ぐ。
廣き大空しろし召す神のひとりに君まさば、
(たけ)と姿と麗容と正しく、偉なるクロニオーン
生める尊きアルテミス神女に君を(たく)らべん。
さにあらずして地に住める人間中の一ならば、
君を生みたる父母(ちちはは)は他より三倍(さち)さらむ、
同じく君の兄弟もしか(さち)ならむ、舞の座に
若樹に似たる麗人の入るを眺めて君がため、
歡喜溢れて其心常に熱してやまざらむ。
されど豐かの嫁資により、君を導き其家に
致さん者は、一切の他人を凌ぎ幸ならむ。
男女いづれの間にもかゝる麗容、われの目は
未だ眺めず、茫然と今驚嘆の外あらず。
げにそのむかし、デーロスに、アポルローンの祭壇の
近くに見たる棕櫚の樹の、若きは君に似たりけり、
多數の民に伴はれ、かしこに昔我行けり、
その途上には痛むべき禍難は我に伴ひき、
地上にかゝる美はしき樹はいづこにも生じ得ず、
之を眺めて茫然と我の心は驚けり。
正しく斯くもあゝ姫よ、君に驚く我は今、
御膝に觸るを忌み恐る。災難こゝに我を驅る。
昨日ぞ我は二十日目(はつかめ)に黯紅色の海さりぬ、
オーギュギエーの島あとに。げに昨日迄疾風に、
潮に吹かれ驅られし身、神の此場に上げられし
我なほこゝに惱まんか?わが災難は未だしも
終るに非ず、神明はその前、事を起すべし。
ああ憐憫を埀れよ姫、多くの禍難を受けし後、
我は眞先きに君の許來れり、他には此國を、
都市を領する人々のいづれも絶えて見ず知らず。
乞ふ姫、都市を知らしめよ、又もしこゝに來る時、
携へつらば纒ふべき襤褸(らんる)を我に惠めかし。
しかして神は胸中の君の望を許せかし、
願はく、家を良人を、更にいみじき同心を
神惠めかし、同心に妻と夫と相睦み、
家を治むることよりも優り尊き事あらず。
これは彼等の仇敵にとりては痛き苦惱なり、
友にとりては歡喜なり、彼等親しくこを知らむ。』

玉腕白きノーシカーその時答へて彼に曰ふ
『旅人、君は見るところ下賤に非ず、痴愚ならず。
其意に任せ各に、惡き者にも善き身にも、
其運命をわけ與ふウーリュンポスのクロニオーン、
君に此命授けたり、君はすべてを思ふべし。
我等の都市に領内に君今到る。身に纒ふ
衣服を君は缺かざらむ。又不幸なる哀願の
人の受くべき他の品を同じく君は缺かざらむ。
君に都城を示すべし、この民族の名も告げむ。
パイエーケスの民族は此の地此の都市領となす、
アルキノオスは英邁の王者、わが身の父にして、
パイエーケスの權勢を力を彼の手に握る。』

しかく陳じて鬢毛(びんもう)の美なる侍女らに叫び曰ふ、
『留まれ、侍女ら、人を見ていづくに汝逃げ去るや?
敵意抱きてこゝに()と汝ら彼を思へるや?
パイエーケスの領内に敵對すべく侵し入る
人間嘗つて世にあらず、嘗つて生れしことあらず。
不死の神明わが民を常に憐れみいつくしむ。
波浪亂るゝ海の中、人を離れて跡遠く、
住めるわれらに他の民は嘗つて交はることあらず。
さはれ此人幸薄く漂浪のはてこゝに來ぬ、
そを勞はるはわが勤め、乏しき旅客訪ひ來るは、
ヂュウスよりこそ、彼ら皆小惠さへも嬉しまむ。
されば侍女らよ、客人に其口腹を滿たしめよ、
風の吹かざる(には)選び、流るゝ水を浴びしめよ。』

しか陳ずれば少女らは立ち止まりつゝ叫びあひつ、
風なき(には)にオヂュシュウス導き行きて英邁の
アルキノオスの生みいでし王女の命に從へり。
斯くて衆女は傍に其纒ふべき衣服置き、
又橄欖の香ばしき油を金の壺に入れ、
與へて彼を清流の中に其水浴びしめぬ。
その時若き女性等にオヂュシュウスは陳じ曰ふ、

『侍女逹、離れ遠ざかれ、我は自ら水浴びて、
雙の肩より鹽水を洗ひ落して、芳香の
油をぬらむ、長らくも膚は油を缺きたりき。
さはれ汝ら前にして流を浴びじ、鬢毛の
美なる女性のまのあたり、赤裸になるぞ面映ゆる。』

しか陳ずれば皆去りて姫に如上をものがたる。
かなたすぐれしオヂュシュウス流に浴し、右左
廣き肩より又背よりまみれし鹽の水洗ひ、
同じく彼の(かうべ)より海の鹽垢掃ひ去り、
斯くて全身皆淨め膚に香油をまみらしめ、
まだ所天なき若き子の與へし衣身に纒ふ。
ヂュウスの生めるアテーネー、其時彼を一層に
身の丈高く力ある姿たらしめ、頭より
ヒアキントスの花に似る捲毛を流れ下らしむ。
ヘープァイストスとアテーネー二神のために一切の
技教へられ、巧妙の優美の品を作り成す
その名工が、黄金と白銀の上被する如、
しかく神女は英雄の肩に頭に美を注ぐ。
その時彼は立ちあがり、白波寄する岸に坐し、
美に莊麗に輝けり。王女は之を眺め見て、
鬢毛美なる少女等に向ひ即ち陳じ曰ふ、

『侍女らよ、腕の眞白なる汝ら我の言ふを聞け。
パイエーケスの神聖の地の此人の來れるは、
ウーリュンポスの位するすべての神の旨に因る。
先きには彼れはわれの目に美しからず見えたりき、
今はさながら天上に住める神明見る如し。
ああ斯る人こゝに住み我が良人と呼ばること、
我は願はし、この郷は彼の心に協へかし。
さはれ侍女らよ客人にその口腹を飽かしめよ。』

しか陳ずるを打ち聞ける衆は王女の命の儘、
オヂュシュウスの身近くに飮食設け列ぶれば、
耐忍強きオヂュシュウス、勇士は之を一心に
貪り取りぬ、永らくも其口腹は飢ゑたれば。

玉腕白きノウシカー其時思ひめぐらしつ、
衣服たたみて華麗なる車の中に納め入れ、
軛を強き蹄ある驢馬に附けつゝ乘車して、
オヂュシュウスに打向ひ、はげましつゝも陳じ曰ふ、

『客人いざや立ち上り、都市に赴け、聰明の
父の館に導かん、思ふにそこに上流の
パイエーケスの人々は君に親しく面すべし、
されど我曰ふ如く爲せ、君は思慮なき人ならじ、
野邊を耕地を一同にわれらの通り行くかぎり、
侍女等と共に速かに君は車輪の驢馬のあと、
急ぎて脚をはこべかし、われ其道を案内(あない)せん。
高く城壁廻らせる都市に程なく到るべし、
都市の左右に良き港おのおの一つ、而うして
都市の入口いと狹し、其[6-264]進退の便(たより)善き
船揚げられて道に沿ふ、船のおのおの置場あり。
ポセードーンの宮廻り集會の(には)そこにあり、
深く地中に埋められし巨石によりて固められ、
人々そこに黒船の船具即ち帆と綱具、
調ひ直し、又櫂の先を削りていそしまむ。
パイエーケスはしかれども弓、胡簶(やなぐひ)を念とせず、
念ずるものは帆柱と櫂といみじき船とのみ。
彼らはこれに心こめ波浪さかまく海渡る。
但しわれらの國の中、思ひ上れる人はあり、
後日彼らはわれ責めん、その口の端ぞ恐ろしき。
此の途の()にわれに逢ふ卑しき者は斯く曰はむ、
『ノウシカーにつきて行くかの美はしく丈高き
人は何もの?いづくにか得られし?やがて(つま)たらむ。
近きに人はあらざれば、遠くへだたる民族の
さすらひ人を船よりし王女(いざな)ひ來りしか?
或は切に祈られて、とある神明天上を
降り來りて、とこしへに王女の(つま)となるべきか?
王女自ら他の郷に求め所天を得るとせば、
めでたからまし。此場のパイエーケスの上流の
多くは彼を求むれど王女は之をあなどりぬ。』
かくも衆人陳ずべし。誹謗はわれに來るべし。
その恩愛の父と母、まだ世にあるにその意志に
背き、婚儀の公けの日の來る前、異性らと
交はる女性ありとせば我なほ之を咎むべし。
さらば客人、君は善く我の言句を解すべし、
さらば父より速かに示導歸郷の便を得ん、
道の近くにアテーネー神女の美なる白楊の
森あり、泉そこにわき、周圍に原野ひろがれり。
かしこに父の料地あり、又豐かなる果園あり、
都市よりそこの隔は呼べば聞ゆる程にして。
わが一行の都市に着き父の居館に到る迄、
君はしばらくそこの坐し、時の到るを待てよかし。
しかしてわれら王宮にはや到れりと思ふ頃、
パイエーケスの都市に君來りて王者アルキノオス、
わが英邁の父の宮いづくと人に尋ね見よ。
そを知ることは難からず、幼き童兒なほ君を
導き得べし。王者たるアルキノオスの住める宮、
造作、之に似る者はパイエーケスの中に無し、
其宮さして外園を君は竊かに忍び行き、
ただちに廣間通り過ぎ、わが母の(もと)急ぎ行け、
母は爐邊に近く坐し、燿く火焔身を照らし
[6-306]目を驚かす華麗なる眞紅の絲を紡ぎつゝ、
侍女らを後に從へて、身は圓柱によりぬべし。
そこに[6-308]同じくわが父の椅子はおかれて其上に、
あたかも神を見る如く坐しつつ彼は盃をあげむ。
其父過ぎて兩手もてわが母の膝かき抱き、
君慇懃に彼の請へ、その郷いかに遠くとも、
いと迅速に喜びの歸還の便を得んが爲め。
君に對して胸中にわが母好意持つとせば、
君は親しきものに逢ひ、而して君の堅牢の
居館並に父祖の地に歸る望は豐かなり。』

[6-264]「アムプリエリツサイ」兩方にめぐる、容易く取扱ひ得る。
[6-306]「目を驚かす」を母にかけていふ説あり。
[6-308]「焔のそばに」といふテクストあり。

しかく宣して輝ける鞭ふりあげて騾馬を打つ、
打たれて騾馬は速かに流るゝ川をあとにしつ、
脚を進めて迅速に平野に沿ひてかけり行く。
徒歩の侍女らとオヂュシュウス共に續くを得んがため、
王女は手綱かいとりて程よく鞭をうち當てぬ。
やがて夕陽沈む時アテーナイエー司どる
いみじき森に共に着き、オヂュシュウスはとまり坐し、
直ちに偉なるクロニオーン生める神女に祈り曰ふ、

『アイギスもてるヂュウスの子、アトリュトーネー、聞こしめせ、
今こそ我に聞くこしめせ、大地をゆするポセードーン、
先きに此身を打てる時、君は祈願を聽かざりき。
パイエーケスの款待と愛とを今ぞ得せしめよ。』
その哀願をアテーネー・パルラス神女納受しぬ、
されども未だまのあたり姿は見せず、父神の
弟恐れ憚りぬ。オヂュシュウスが父祖の地に
歸らん迄はポセードーン激しく彼に憤る。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第七歌


第七歌

王女ノーシカー王城に歸る(一 - 一三)。 オヂュシュウスまた王城に向ふ、神女アテーネー少女に變裝して彼を導く(一四 - 三八)。 城中に入る時、アテーネーは國王王妃につきて委細を告げ、終りて其神殿に去る(三九 - 八二)。 國王の宮殿及宮人の記述(八三 - 一一二)。庭外の廣き果樹園の記(一一三 - 一三二)。 オヂュシュウス宮中に進み、王妃の前に跪く(一三三 - 一四五)。 彼の哀願 -- 長老竝に國王の歡待(一四六 - 一八四)。 國王衆に告げ、彼の歸國の便宜を計らしむ(一八五 - 二〇六)。 彼の陳謝(二〇七 - 二二五)。 衆人去る後王と王妃とは親しく勇士と談ず、カリュプソーを去りし後の物語(二二六 - 二九七)。 國王との問答(二九八 - 三三四)。臥床に就く(三三五 - 三四七)。

耐忍強きオヂュシュウス勇將斯くも祈る時、
かなた二頭の強き騾馬、姫を都城に搬びさる。
かくして父の光榮の宮に王女は到り着き、
騾馬門外に留むれば、さながら神に彷彿の
兄弟ともの其めぐり、群がり立ちて車輪より、
二頭の騾馬を解き離し、衣服を内に搬び入る。
やがて王女は室に入る、其時ユーリュメドーサは、
王女の爲めに火を焚けり、老いたる侍女はその昔、
アペィレーより奪はれて船にてこゝに來る後、
パイエーケスの王として神の如くに仰がるる
アルキノオスに衆人の撰びて獻じたりし者。
彼女は宮に腕白き姫ノーシカー育て上げ、
今またここに火を焚きて室に食事を整へり。

今オヂュシュウス身を起し都城をさして行かんとす、
之を憐むアテーネー、めぐりに濃霧湧きたたす、
パイエーケスのとあるもの、彼と相見て嘲弄の、
言句を發し、何人と怪しむことのなきがため。
かくて華麗の都市の中まさに入らんとしつる時、
藍光の目にアテーネー若き女性の姿取り、
瓶携へて前に立つ、彼と相見る英豪の
オヂュシュウスは口開き、彼に向ひて問ひて曰ふ、

『ああ若き子よ、汝よくこゝらの民の王者たる
アルキノオスの王宮に我を導き行き得るや?
遙かに遠き異郷より、旅に惱める我こゝに
初めて來る、かるが故、此都市あるは此土地を
領する人のいづれをも我は全く相知らず。』

藍光の目のアテーネーその時答へて彼に曰ふ、
『ああ旅の叟、尋ね問ふその館、君に示すべし。
たふとき我の父の()と、彼れの館とは相近し。
いざや無言に進み行け、我その道をしるべせむ。
異郷の人を彼ら善く忍びて容るゝことあらず、
見知らぬ地より來るものを歡待すべき道知らず、
彼らは船の迅速の力たのみて漫々の
大海わたる、大地()る神は此事惠みたり、
船は飛鳥の羽の如く人の思の如く疾し。』

しかくパルラス・アテーネー宣して先に速に、
導き行けば、オヂュシュウス神女のあとに附きて行き、
船に名高き國人の都市を斯くして過ぐる時、
パイエーケスは氣も附かず、鬢毛美なるアテーネー、
稜威(いつ)の神女は憐みて、勇士のめぐりもの凄き
濃霧を蒔きて、國人の目にふるゝこと無からしむ。
行く〜かくてオヂュシュウス、驚き見たり整々の、
船と港と貴人らの議場と更に長くして、
高く聳ゆる城の壁、壁は其上柵を植う。
やがて華麗を極めたる王の居館につける時、
藍光の目のアテーネー、オヂュシュウスに向ひいふ、

見よ旅の叟、これこそは示せと君のいひし館。
クロニオーンの育てたる貴人ら中に宴張るを
君は見るべし、中に入り、心に畏怖を抱かざれ。
いづこの地より來るとも、人苟くも勇あらば、
その爲す業の一切に於て必ず優るべし。
君宮中に入らん時、王妃の前に先づ進め、
アレーテーなる名に因りて王妃は呼ばれ、其父祖は
アルキノオスを -- 國王を生みたる者と相同じ。
ナウシトオスをその昔、大地震はすポセードーン
生みたり、母は麗容の特にすぐれしペリボイア、
ユーリメドーンは末の子と此のペリボイア生みなしき。
此勇將は倨傲なる巨人の族を治めしも、
遂には之を敵として斃し、自ら亦亡ぶ。
ポセードーンは麗人と契りて其子勇猛の
ナウシトオスを生みなして、パイエーケスに主たらしむ。
ナウシトオスは二子を生む、レークセーノル、アルキノス、
レークセーノル子息なき時にポイボス・アポローン
射て宮中に斃れしむ、あとに殘るは唯一の
むすめ即ちアレーテー、アルキノオスはこを娶り、
夫に仕へ其家を統ぶる女性の何人も
嘗つて受けざる敬愛を彼に加へて尊べり。
かくて王妃は心より其子によりて崇められ、
アルキノオスに -- 國王に -- 同じく、更に人民に
心よりして崇めらる、民は恰も神明を
仰ぐが如く、都市の中、脚を進むる彼の呼ぶ。
蓋し王妃は聰明の思慮聊かも謬らず、
常に女性に好意寄せ、又男性の爭を、
解かしむ、君に此王妃好意を寄することあらば、
君は親しき友に逢ひ、而して君の屋の高き
居館並に父祖の地に歸る望は豐なり。』

藍光の目のアテーネーしかく宣して立ちわかれ、
波浪亂るる海こしてスケリエーの地あとにしつ、
マラトーン及び街廣きアテーネー市に到り着き、
善く堅牢に造られし[7-81]エレクチュウスの宮に入る。
しかしてこなたオヂュシュウス、アルキノオスの華麗なる
宮に到りて黄銅の門に入る前思慮こらす。

[7-81]大地より生れし神、イーリアス二歌五四七。

偉なる國王アルキノス、其屋根高き宮殿は、
日輪あるは月輪の光の如く燿けり。
宮の左右に戸口より奧に及べる黄銅の
壁はキアノス緑なる飾の縁をへたり。
又もろ〜の黄金の扉は奧を締め閉ざし、
また黄銅の入口に白銀製の柱立ち、
その柱頭は銀にして、戸にとりつけし把手は金、
門の左右に黄金の又白銀の狗子ら立つ、
ヘープァイトス巧妙の工みに作り上げしもの、
偉なる國王アルキノス、其城門を守るべく、
立てる彼らは不死にしてとこしへ老ゆることあらず。
又戸口より奧にかけ左右の壁に打添ひて、
數多の椅子は設けられ、椅子は女性の手よりして
巧みの(わざ)に織られたる美妙の氈に蔽はれつ、
その()に坐してもろ〜のパイエーケスの貴人らは
飮食するを習とす、彼らの儲蓄豐かなり。
また金製の子らの像、善く据ゑられし臺の上、
立ちて、手中に煌々と燃ゆる松火かざしつゝ、
(よる)堂上に宴飮を張る賓客を照すめり。
更に女性の五十人、此宮中に勤め合ふ、
その或者は金色の穀、石臼にひき碎き、
又或者は機を織り、又地に坐して絲を繰り、
丈高き樹の颯々と震ひてやまぬ葉に似たり。
彼らいみじく織る布を傳へ橄欖の油埀る。
パイエーケスが迅き舟波浪の上に御すること、
他の民族にいや優る、正しくかくも其婦女ら
善く機を織る、アテーネーいみじき(わざ)を學ぶこと
彼らに惠み聰明の心を之に與へたり。

庭の外には戸に近く[7-112]四日鋤くべき廣やかの
果樹園ありて其四方皆生垣を廻らせり。
そこに數多の樹々高く生々として繁りたつ、
そは累々と重なれる梨子と柘榴(ざくろ)と林檎樹と、
更に甘美の無花果と豐かに繁る橄欖樹。
是等の樹々はとこしへに、冬又夏に其果實
落つることなし、ゼビュロスの呼吸に吹かれ、あるものは
新たに實り、あるものは豐かに熟し、斷間なし
梨また梨は連りつ、林檎と林檎重なりつ、
葡萄の房も無花果も累々として重なれり、
かなたに更に豐沃の葡萄園あり、其一部
平坦にして暖かに日光うけて乾かさる、
そこに葡萄の房摘みて働きたてる人もあり。
又踏み碎く人もあり。端には未だ熟せざる
房は花辯を地に拂ひ、或は色を深めゆく。
又果樹園の端近く美麗の花壇設けられ、
四季を通じて其中に種々の芳薫咲き匂ふ。
こゝに清流二條あり、一は遍く園中に
灑ぎ、他は又内庭の端を流れて宮館に
向ふ、此より都市の民その用水を酌み出だす。
アルキノオスの宮中に諸神の惠斯くありき。

[7-112]一農夫が四日間に働くべき土地。

耐忍強くオヂュシュウス此場に立ちて打眺め、
眺めて胸に一切に對する驚異みてる時、
脚を速めて城門を過ぎ宮殿の中に入る。
パイエーケスの貴人逹又評定者、中にあり、
盃あげて烱眼のヘルメーアスに酒灑ぐ。
彼ら眠うぃ思ふ時最後に神に酒灑ぐ。
耐忍強きオヂュシュウス、アテーナイエー注ぎたる
霧に包まれ、堂の中直ちに過ぎて、アレーテー
王妃並にアルキノス王のまともに到り着く。
王妃の膝にオヂュシュウス兩手掛くれば忽然と、
不思議の霧は晴れわたり、勇者の姿現はれぬ、
見知らぬ者の出現に滿堂ともに言葉なく、
愕然として眺めやる。オヂュシュウスは願ひ曰ふ。

『ああアレーテー、神に似るレクセ⌒ノール生むところ、
多くの苦難受けし後、われ今こゝに君のもと、
夫王並に宴飮の此等の客のもとに來ぬ。
神よ、彼らの生ける間に幸を與へよ、各は
子に嗣がしめよ其富を、民の捧ぐる榮光を。
さもあれ君に今願ふ、我の歸郷を速かに
計らふことを、友離れ我は永くも苦めり。』

しかく陳じて爐のほとり勇士は低く地に坐せり。
而して衆は鳴を靜めて口を閉づ。
されども終に衆の中、エケネーオスは口開く、
パイエーケスの民族の中に最も年長く、
辨口すぐれ、いにしへの道に精通したるもの、
彼れ今衆に慇懃の思をこめて宣し曰ふ、

『アルキノオスよ、見る如く異郷の客が爐のほとり、
地に座ること善とせず、禮に背けり、然れども
衆は默して物曰はず、偏に君の命を待つ。
いざ客をして身を起し銀鋲打てる椅子の上、
身を倚らしめよ、而うして執事に令し、酒を混ぜ、
奠酒の禮を雷霆の神の御前(みまえ)になさしめよ、
心をこめて慇懃に祈らば神は常に聽く。
而して家婦は客をして所藏の食をとらしめよ。』

しか陳ずればアルキノス、強き王者は之を聞き、
叡智に富みて巧なるオヂュシュウスの手をとりて
爐より其身を起さしめ、最愛の息ラオダマス、
勇氣に富める若き子が、隣にすぐに莊麗の
椅子に倚れるをたたしめて、オヂュシュウスを坐らしむ。

而して侍婢は美麗なる金の瓶子に水を入れ、
携へ來り、白銀の盤のへ注ぎ、珍客に
其手を洗ひ清めしめ、終りて傍に卓据ゑぬ。
而してパンを淑かの家婦は齎らし、貯へし
あまたの調理もろ共に心盡して卓に載す。
耐忍強きオヂュシュウス勇將かくて飮み食ふ。
その時僕にアルキノ⌒ス強き王者は宣し曰ふ。

『ああポントノエ、葡萄酒を噐中に混じ、堂上に
座せるすべてに分てかし。雷霆震ふ大神に
酒を灑がん、哀願の切なる者に神は聽く。』

[7-179]ポントノスの呼格。

しか宣すればポントノス蜜の如くに甘美なる
酒を混じておのおのの(はい)に芳醇滿たさしむ。
受けたる衆は奠酒禮終りて後に能く酌みぬ。
その時衆にアルキノ⌒ス口を開きて陳じ曰ふ、

『パイエーケスの主領らよ、評定者らよ、われに聞け、
この胸中のわが命ずるままに我は曰ふ。
饗宴すでに終へたれば各々家に行きやすめ。
あしたに我は長老の更に多くを呼び集め、
客を堂上もてなして、いみじき牲を神明に
捧げまつりて其後に彼の歸郷を計らはむ、
わが歡迎の故により、わが珍客の苦痛なく、
辛勞なくて喜びて、道程いかに遠くとも、
その親愛の郷國に早くも歸りつかんため。
未だ故郷に着かぬ前、旅程の中にある間、
彼は禍難を受けざらむ。一旦そこに着かん後、
其誕生の曉に、つらき嚴しき運命の
紡げる織れる一切を彼は受くべけむ。
されども彼は天上を降れる神の一ならば、
然らば何か新たなる事を神明たくらまむ。
いみじき牲を捧げたる昔も今も神明は、
形を取りて眼前に現はれ出でゝ、人間と
席を同じく共にして其饗宴を樂しめり。
とある人間ただ獨り寂しき路に逢ふ時は、
神は隱れず、彼と人共に其類相同じ、
キクローペスも亦然り、巨人の族も亦同じ。』

その時彼の聰明のオヂュシュウスは答へ曰ふ、
『ああアルキノス、さることを心に思ふこと勿れ、
われの肢體も風貌も廣き天上つかさどる
諸神に似たる者ならず、ただ人間に似たるのみ。
人間中に君の知る苦難最も多き者、
正に其者、艱難を我と較ぶることを得む。
さもあれ我は一層の苦患 -- 諸神の意のよりて、
親しくわれの味へる苦患を述ぶることを得む。
さはれ苦難は多くともわれに食事を許せかし。
げに憎むべき口腹の慾に優りて淺ましき
者無し、苦難身に受けて心中いかに悲むも、
あらがひ難き力もて迫りて食を思はしむ。
斯の如くに我も亦心に悲哀抱けども、
口腹われに飮食をはげしく常に促して、
そを滿たすべく忍び來し苦難すべてを忘れしむ。
さはれ明日あけぼのに不幸の我を郷國に、
多くの苦難嘗めし後、歸らしむべく願はくは
君らいそしめ、わが資財、侍女ら並に屋の高き
居館一たび見るを得ば死するも我に憾なし。』

しか宣すれば衆人は其適切の言を聞き、
すべて讚して珍客の護送のことを計らへり。
かくて奠酒の禮畢り思ふが儘に酌める後、
衆はおのおの其家に休息すべく立ち歸り、
ただ堂上にオヂュシュウス勇將ひとり居殘れる、
かたへに王妃アレーテー、又神に似るアルキノス、
坐せり、侍女らは飮食の噐具をひとしく收め去る。
玉腕白きアレーテーまづ其時に口開く、
オヂュシュウスの身に着ける上衣下衣の美なるもの、
そは自らが侍女と共に作りしものと認め知る、
かくして王妃翼ある飛揚の言句のべて曰ふ。

『客人、我はいやさきに君に問はまし、何人ぞ?
いづくの地よりこゝに來し?衣服を誰か與へたる?
海にたゞよひこゝに()と君は曰ひしに非るか?』

智計に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『王妃よ我の災を委細に話[注:語の誤り?]り盡さんは、
容易にあらず、神明は飽く迄我を惱ませり。
されども君の問ふところ、求むる處陳ずべし。
オーギュギエーと呼べる島、海の遠きに横はる。
そこに狡獪カリュプソー、鬢毛美なる、怖るべき
仙女は住めり、アトラスのむすめ、之れとは神明の
中の誰しも交らず、また人間も交らず。
さはれヂュウスは白光る雷霆をもてわが速き
船を打ちつつ、暗紅の海のもなかに碎き去り、
かくて不幸の身をひとつ仙女の宿に近づけぬ。
〔そこに勝れし一切の他の同僚は失はれ、
我はあやつる迅速の龍骨しかと腕にとり、
九日漂ひ流されぬ、十日目黒き夜の中に、
オーギュギエーに神明はわれを着かしむ、鬢毛の
美にして(こす)きカリュプソー、仙女はそこにわれを容れ、
心をこめて款待し、食を與へて説きて曰ふ、
永きに亙り老いずして、不滅の壽命享くべしと。
されどもわれの胸中にやどる心を説き伏せず。〕
そこに七年引き續き、仙女カリュプソー與へたる
不滅の靈衣、涙もて潤しわれは日を送る。
八たび春秋めぐり過ぎ、ヂュウスの使者の命に因り、
(或は彼女其心意われと自ら變ぜしか?)
われを促し郷國に歸らんことを説き勸む。
即ち堅く組み上げし筏の上に乘らしめつ、
パンと甘美の葡萄酒を與へて、われに不滅なる
靈衣纒はせ、暖かき微風起して送り出す。
十七日を重ね經てわれは海上渡り來ぬ。
第十八にこの領に聳ゆる山は、朦朧と
姿を現じ初むれば、不幸重ねしわが心
喜びをどる、然れどもなほ艱難は伴へり。
大地震はるポセードーンわれに禍難をたくらめり、
即ちわれに強暴のあらしを起し、ゆく路を
妨げ、海をかき亂す、劇しく呻めく我の今
筏の上に留るを、怒濤許さず、暴風は
之を無慘に打ち碎く、かくしてわれは飛びこみて、
泳ぎて瀾を乘り切れば、風と波とはもろともに
われを運びてこの郷に、君の領土に到らしむ。
されどもそこに上陸を試みつらば、激浪は
巨岩の岸に、痛はしき地上にわれを打ちつけむ、
斯くと悟りて退きて、泳ぎ返して見出したる
川に到りぬ、看るところこゝ最善の(には)にして、
岩石すべて滑かに、風を防ぐに便りよし。
われは即ち勇を鼓し、陸にわが脚進むれば、
かんばしき夜は襲ひ來ぬ、神より降る川流を
かくて離れて、林叢の中に臥しつゝ、木葉を
四圍に寄すれば、果しなき甘眠神はわれに埀る。
そこに心は悲しめど木葉中に打臥して、
我は眠りぬ、よもすがら、眠りつゞけぬ、あした迄、
また眞晝迄、やがて日は沈み、甘眠われを去る。
その時我は岸のへに、君の息女にかしづける
女性の遊眺めたり、中に息女は神に似き。
われの哀願聞き入れて、彼女は思慮に事缺かず、
途に相逢ふ若き人、行ふべしと思はれぬ
其わざわれに施しぬ、(若きはつねに思慮を缺く。)
即ち我に量多くパンと、輝く葡萄酒を
與へ、流に浴せしめ、更に衣服を惠みたり。
深く惱める我は今これらの事實敢て曰ふ。』

その時彼にアルキノス答へて即ち陳じ曰ふ、
『あはれ客人、侍女と共にわが屋に君をつれざりし
われの息女は誤りて、此らの事を正當に
計り得ざりき、いやさきに君は彼女に求めしに。』

智謀の富めるオヂュシュウス其時答へて彼に曰ふ、
『あはれ王者よ、わが爲めに罪なき息女責めなせそ。
侍女らと共に附き來よと彼女は我に命じたり。
されど畏れて又耻ぢてわれは其命拒みたり、
附き來る我を見る時の君の怒りを恐れたり。
地上に宿る人間は猜疑深きを習とす。』

その時彼にアルキノス答へて即ち陳じ曰ふ、
『あはれ客人、胸中のわれの心は、理由なくて
(みだり)に怒るものならず、すべて適度を善しとせむ。
ああわがヂュウス・クロニオーン、アポローン及びアテーネー、
われは祈らむ、斯る君 -- われと思を共にする
君は此地にわが息女妻とし、われの義子として、
呼ばれん事を、家と富われ喜びて與ふべし、
君もしこゝに留らば。パイエーケスは然れども
強ひては君を推しとめず、ヂュウスは之を喜ばず。
しかして君に敢へて告ぐ、君の護送を明日の日と
定めむ、時の到る迄、臥床の上にあくまでも
君睡れかし。衆人は波靜かなる海漕がむ、
君の故郷に邸宅に、或は君の意の儘に、
ユウボイエーの遠きより更に隔る地にまでも。
わが國人ら金髮の[7-322]ラダマンチスを導きて、
大地の子たる[7-323]チチューオス訪はしめし時、かの島を
眺め、すべての陸の中最も遠きものと曰ふ。
彼らは其地おとづれて疲勞を知らず、同じ日に
またも故郷をめざしつゝ歸の旅を成し遂げぬ。
されば君亦心中に知るべし、われの御する舟、
其いみじさを、若者の波をこぎ行く巧さを。』

[7-322]ヂュウスとユーローパの子(イーリアス十四歌三二二)。
[7-323]十一歌五七六。

しか陳ずればオヂュシュウス、善く忍ぶ者、喜びて、
神に祈願を捧げつゝ即ち言句陳じ曰ふ。

『天父ヂュウスよ願はくは、アルキノオスが其言を
みな能く果し得んことを、彼の譽は萬穀を
生ずる地上果なかれ、われはた歸國得んことを。』

斯くして二人彼と此、互に言句陳じ合ふ。
玉腕白きアレーテー、侍女に命じて柱廊の
下に臥榻を設けしめ、暗紅色の美麗なる
(しとね)をそこに布かしめつ、敷布をのべて、其上に
更に彼の身被ふべき羊毛の氈とゝのへぬ。
衆女はかくて松明を手にかざしつゝ堂を出で、
堅固の臥榻いそがしくしつらへ終り、オヂュシュウス、 --
勇士のそばに歸り來て、彼を促し陳じ曰ふ、

客人いざや身を起し、わがしつらへる床に就け。』
しかく陳じぬ、彼にとり、寢るは無上に嬉しかり、
かくして勇士オヂュシュウス、此鳴りひゞく柱廊の
下に設けし堅固なる床に其身を横へぬ。
アルキノオスは高き館其奧深き房に臥す、
かたへに王妃アレーテー其寢臺をしつらへぬ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第八歌


第八歌

アルキノオス集會に於てオヂュシュウスの歸國を決す(一 - 四五)。 パイエーケスの貴人らアルキノオスの堂上に酒宴を開く、デーモドコス歌ふ(四六 - 九六)。 競技(九七 - 一三〇) ユリアロス血氣にはやりオヂュシュウスを嘲弄す(一三一 - 一六四)。 オヂュシュウス奮然として出場し圓盤を投げて衆人を驚かす(一六五 - 二三三)。 アルキノオス青年に命じ舞踏をなさしむ(二三四 - 二六五)[。] デーモドコス歌ふ、アレースとアプロヂーテーの戀及びヘーパイストスの復讐を(二六六 - 三六九)。 二青年の球抛げ(三七〇 - 三八四)。 オヂュシュウスに衆人の寶物贈與。ユリアロスの陳謝と寶剱の贈與(三八五 - 四二二)。 アルキノオス侍女の命じオヂュシュウスを浴せしむ、 王妃は櫃を持ち出し衆人贈與の品を收む(四二三 - 四六八)。 オヂュシュウス伶人を譽めトロイア城陷落を歌はしむ(四六九 - 四九八)。 オヂュシュウス懷舊の涙(四九九 - 五三一)。 アルキノオス彼の悲を見、漂浪の話を求む(五三二 - 五八六)。

薔薇の色の指もてる(あけ)の神女の現はれに、
強き王者のアルキノス、床を離れて身を起す、
都府の破壞者オヂュシュウス勇士同じくたち上る。
強き王者のアルキノス、船の近くに建てられし
パイエーケスの集會の席に衆人率ゐ行く。
一同そこに着ける後、互に近く磨かれし
石のへ坐しぬ。しかうして神女パルラス・アテーネー、
アルキノオスの從臣の姿を取りて城中を
遍く巡り、オヂュシュウス勇士の歸國もくろみつ、
人おのおのの側に立ち彼に向ひて陳じ言ふ、

『パイエーケスの主領らよ、評定者らよ、いざや立て、
會議の(には)に赴きてかの珍客につきて聞け、
海を渡りて賢明のアルキノオスの宮中に
到れる客は其姿不死の神明見る如し。』

しかく陳じて各の勇と心を引きたたす。
かくて忽ち集會の席は、續々寄せ來る
衆徒のために滿されぬ。ラーエルテース生める子を、
聰明の子を眺めたる衆驚けり。アテーネー
かれの頭に肩のへに神にも似たる威容添へ、
打見るところ身長を躯幹を共に増さしめぬ。
かくして彼は堂々と威容整へ、一切の
パイエーケスに崇められ、パイエーケスが之により
オヂュシュウスを試めすべき種々の競技に勝つべかり。
衆人かくて集りて共に一つに成れる時、
アルキノオスは口開き衆に向ひて陳じ言ふ。

『パイエーケスの諸頭領、又評定われに聞け、
わが胸中にあるところ心の命をわれ述べむ。
彼れ東方の人なりや?はた西方の人なりや?
何人なりや?我が知らぬ漂浪の客訪ひ來る、
彼は迫りて其郷にわれの護送を乞ひ祈る。
わが從來の例により彼の護送を急がせむ。
わが館さして來る者、何人にまれ、長き時、
こゝに留り、空しくも護送求めて泣かざらむ。
いざ波の上黒き船、初航海に浮ばせよ、
而してわれの國内の五十二人の若き者。
これ迄常に其技倆すぐれし者を撰び出せ。
しかしすべて一切の櫂を漕座に附くる後、
船より出でてわが館に來り、せはしく宴席の
準備つとめよ、われは能く物を豐かに供ふべし。
若き衆徒にわが命はかくぞ。しかして笏持てる
他の主領らは華麗なるわが宮中に訪ひ來れ、
かの珍客を堂上に共に款待なさんため、
誰しも拒むこと勿れ、また神聖の歌ひ手の
デーモドコスを呼び來れ、彼はすぐれて吟謠を
神に授かり、興ずれば歌ひて人をたのします。』

しかく陳じて先頭に行けば笏持つ諸頭領
つゞけり、使者は神聖の歌人のもとを訪ひて行く。
また撰ばれし五十二のわかき人々、國王の
命を奉じて鞺鞳と高鳴る海の岸に行く。
かくして舟に海岸に到れる時に、一同は
その黒き舟[さんずい|亢](こうやう)の大海原に曵きおろし、
帆柱立てて帆を張りて、革もて造る環の中に、
漕座における環の中に、すべての櫂を整へつ、
すべてを型の如くして白帆(はくはん)高く張りひろげ、
波上に舟を泊らしてすべてを終へて、アルキノス
秀いで賢き國王の居館をさして進み行く。
其柱廊に中庭に室にひとしく、此國の
老いたる者と若き者、みな一齊に群りぬ。

彼らの爲めにアルキノス屠りし羊十二頭、
牙のましろき八頭の家豬、又歩み蹣跚の
二頭の牡牛、皮を剥ぎ調理し、宴の備なす。

令使その時そば近くいみじき歌手を導きぬ、
詩神は彼をいつくしみ、禍福ひとしくわけ與ふ、
かれのかたへにポントノス、酒宴の客のたゞ中に、
銀鋲うてる椅子を据ゑ巨柱に之を支へしめ、
又玲瓏の音つる琴を頭上に、留釘(とめくぎ)に、
懸けて釣りさげ、手をのして之に觸るべく指し示す、
更に令使は伶人のそばに卓据ゑ籠をおき、
また意の儘に飮ますべく葡萄の美酒の盃を添ふ。
衆人やがて目の前におかれし美味に手を延しぬ、
かくておのおの口腹の慾を飽くまで滿たす時、
詩神はめづる伶人を促し、高き勇將の
あと歌はしむ、其ほまれ大空高くひびくもの、
ペーレーデース・アキリュウス、オヂュシュウスと[8-75]爭へる、
あとを歌へり、そのむかし諸神の宴のただ中に、
兩雄荒く口論(くろん)しぬ、アカイア軍の兩雄の
其爭を衆の王アガメムノーン喜べり。
神の宣託たづぬべく、王神聖の[8-79]ピュートーの
宮の(しきみ)を越えし時、アポローン爲めに豫言しき、
高きヂュウスの旨により其時すでにトロイアと、
アカイアの(あひ)おほいなる禍難の(うづ)は捲き寄せぬ。

[8-75]トロイア戰爭の進行に付きて、アガメムノーン神託を祈りし時、
神答へて曰く、アカイア軍中の二名將爭を起さばトロイア敗るべしと。
其後宴會の時アキリュウスはトロイアは勇戰に因り敗らるべしと曰ひ、
オヂュシュウスは計略に因るべしと曰ひて爭ふ。
[8-79]デルポイのこと。

これらの事を微妙なる伶人うたふ。オヂュシュウス
其時強き手を延ばし黯紅色のおほいなる
上衣を引きて頭上(とうじやう)におほひ、華麗の面隱す、
眉毛の下の涕涙をパイエーケスに耻づるため。
されどいみじき伶人の其吟誦を終ふる時、
涕拭ひて頭より被りし上衣取り去りつ、
二つ把手ある盃を取りて諸神に酒そゝぐ。
伶人またも歌ふとき、パイエーケスの諸頭領、
歌の言葉を喜びて、彼を促し立つる時、
オヂュシュウスは其頭おほひ隱してうごめきぬ。
其流涕を一切の他の衆客は認め得ず、
王アルキノスただひとり彼のかたへに坐を占めて、
之を認めつ悟り得つ、はげしき(うめき)耳にしつ、
ただちに王者アルキノス、櫂を愛する友にいふ、

『パイエーケスの諸頭領、また評定者われに聞け、
ひとしく衆に分たれし、宴は今はや滿ち足れり。
豐かの宴に伴へる絃歌はたまた滿ち足れり
いざ今起ちて外に出ですべての競技試みむ、
わが客人が其郷に歸らん時に其友に、
告げんがために、拳鬪に相撲に速き駈足に、
また跳躍に、いかばかり我らが衆を凌ぐやを。』

しかく陳じて先頭に進めば衆は從へり。
音玲瓏の豎琴を留釘の上つるし懸け、
デーモドコスの手を取りて令使は堂を立ち出でつ、
パイエーケスの諸頭領、競技見るべく進みたる
其同じ道踏み行きてかの伶人を導けり。
かくして彼ら集會の(には)に到れば、百千の
群は續きぬ、高貴なる青年あまた身を起す、
[8-111]アクロネオース身を起す、オーキュアロスとエラトリュス、
ナウチュウス又プリムニウス、アンキュロスとエレトミュス、
プローリュス又ポンチュウス、アナベーシオネス又トオーン、
ポリネーオスの息にして、テクトニデース祖父とする
アンビアロス等身を起す、又アレースに似たるもの、
ナウボリデース・ユリアロス立てり、いみじき風彩は
ラーオダマスに、相次ぎてパイエーケスを凌ぐもの。
無雙の王者アルキノス生める三人ハリオスと、
ラーオダマスと、神に似るクリュトネーオス皆立てり。

[8-111]「泳ぐ者の意」、他も皆海に縁ある語。

徒歩競走をまつさきに衆一同は試みぬ。
其出發のはじめより、徑路はるかに連るを、
衆一同は飛ぶ如く塵を蹴立てて走り行く。
中に最もすぐれしは、クリュトネーオス、無雙なり。
衆をこすこと、畑の上、二頭の騾馬の[8-124]鋤かむ程。
さほどの距離を拔んじて、後れし相手凌ぎ勝つ。
衆人次に鬪爭のはげしき角力試みつ、
ユウリアロスは此(わざ)にすぐれし勇士打ち破る、
アムビイアロスは跳躍の技にて次の勝を得つ、
エラトリュウスは圓盤の投げの競技に他を凌ぐ、
アルキノオスのすぐれし子、ラーオダマスは拳鬪に。
競技にかくも衆人の心おのおのたのしめり、
アルキノオスの子息なるラーオダマスは次に曰ふ、
『友よ彼の客、とある(わざ)學びて知るや?試みに
問はずや、かれの躰格はあしきに非ず、眺め見よ、
股は(こむら)を兩腕を其強剛の頸筋を、
其おほいなる勇力を、若き勇氣は見るところ、
彼は缺かさず、只種々の惱みによりて挫かれぬ、
人間いかに強くとも海は力を打ち挫く、
海に優りて挫く者他にあるまじく我れ思ふ。』

[8-124]一日に鋤く程の距離か。

ユウリュアロスは之を聞き、彼の答へて陳じ曰ふ、
『ラーオダマスよ、いみじくも正しく君は説けるかな、
いざ客に行き、しか述べて彼に挑戰試みよ。』

アルキノオスのすぐれし子、其言聞きて立ち上り、
衆のもなかに進み行き、オヂュシュウスに向ひ曰ふ、
『ああ珍客よ、ある技を學びしならば、君も亦
試みること善からずや?學べる君と我は見る、
その生命のある限り、手足を以て成し遂ぐる
業に優りておほいなる譽は絶えてあらざらむ。
いざ試みよ、辛勞を君の胸より取り拂へ、
歸郷の旅は長らく延引されず、はや既に
船は波のへおろされて水夫の用意整へぬ。』

智謀豐かのオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『ラーオダマスよ、何故に我を嘲り、斯く曰ふや?
競技に越して憂愁はわれの心の中にあり、
是迄われはさま〜゛の艱難うけて苦めり、
今汝らの集會に坐して、故郷にあこがれて、
國王及び衆人に求めて祈るわれ見ずや?』

ユウリアロスは侮りて彼に向ひて陳じ曰ふ、
『異郷の客よ、世の中に競技は廣く行はる、
之を學べる人々に我は汝を比ぶまじ、
むしろ漕座の多き船、あなたこなたに乘りまはし、
商事營む水夫らの頭となりて、商品に
心を配り、強慾に利益を求めあさるもの、
此らの輩に比ぶべし、競技學べる者に似ず。』

智謀に富めるオヂュシュウス目を怒らして彼に曰ふ、
『汝何者!亂言を吐きて(おろか)の者に似る、
げにも諸神は人の子にあらゆる長所得さしめず、
美貌を智謀を能辯を誰か一つに兼ね得べき?
ある一人は風彩に於ては劣る、然れども
巧妙の言神は貸す、かくして衆は喜びて
彼を仰げば、欣然と蜜の如くに甘美なる
言句を陳じ、集會の席に視聽をそびやかす、
途行く時に衆人は神の如くに彼を見る。
またある人は其風姿さながら神を見る如し、
されども彼の言句には優雅なるもの絶えてなし
汝もさなり、風彩は燿くばかり、神も亦
之を補ふことを得ず、されど心は愚かなり。
汝叨りに亂言を吐き、胸中のわが心、
かくも劇しく激せしむ、われは汝の言ふ如く、
競技を知らぬ者ならず、わが青春にわが腕に
たよりし頃は、其道に首先のほまれかち得たり。
今憾むらく災難と憂によりてわれ弱る。
げに戰場に海上に經たる苦難は幾何ぞ!
さはれ斯く迄惱めどもわれは競技を試みむ、
汝の述ぶる亂言はわれの心を激せしむ。』

しかし陳じて外套を纒へるまゝに飛び出し、
厚き巨大の[8-187]圓盤を -- パイエーケスが競ふ時、
用ゐるよりは重量のはるかに優るものを取る。
こを振り廻し、強剛の手より遙かに投げとばす、
[8-190]盤は唸りて飛び行きぬ、飛び行く下に、長き櫂
使ひ、航海巧みなるパイエーケスは一齊に、
地上にかがみうづくまる、盤は飛び行き從來の
すべての記録打越しぬ、その時パラス・アテーネー、
人の姿を取り來り、記號をつけて彼に曰ふ、
『ああ客人よ、盲目の人も手探り明かに、
これこの記號認むべし、外にまぎるゝことあらず、
遙かに他より拔きいでぬ、競技に對し信を()け、
パイエーケスの何人もこれに屆かず、飛びこさず。』

[8-187]圓盤扱げは後、特にスパルタに行はる。初めは石にて造られ、後、鐡、錫等に。
[8-190]原文は「石」。

智謀豐かのオヂュシュウス其言聞きて喜べり、
群集中に好意ある伴を認めて喜べり。
かくして勇士手も輕くパイエーケスに向ひいふ、
『若き人々飛ばし見よ、かしこに、 -- 我はまた後に、
等しき距離に、更に又一層遙か飛ばし得む、
心と意氣と促さば、誰人にまれ、こゝに來て、
別の競技をなさしめよ -- 汝ら我を怒らせり --
拳鬪、角力、駈け走り、いづれを問はず試みよ。
ラーオダマスを別にして、國人すべて試みよ。
かれは今わが主公たり、誰れか主公と爭はむ?
他國にありて客となり、厚き款待うけ乍ら、
主公に對し苟くも競技を挑む者あらば、
そは配慮たらぬうつけ者、やがてすべてを失はむ。
主公を除き何人もわれは拒まず、侮らず。
むしろ親しく彼を知り、試みんことわが願ひ。
世間の人のなす技のいづれも我は拙ならず、
よく磨かれし圓弓をわれは扱ふことを知る、
同僚われの傍に近く並びて敵人を
目がけて勁矢飛ばすトキ、其敵軍の群りに
我は眞先に矢を放ち、其一人に射當つべし、
わがアカイオイ、トロイアの戰場中に射たる時、
[8-220]ピロクテーテースただひとり、弓勢(ゆんぜい)われを凌ぎたり、
彼を除けば、食を取り地上にすめる一切の
他の衆人に優れるを、敢て自ら我は曰ふ。
ただし昔の諸英雄 -- ヘーラクレースあるは又、
[8-224]オイカリエーのユウリトス、之らと競ふことをせず、
彼ら弓技に打誇り、神明とさへ爭へり。
かのおほいなるユウリトス、此故をもて早く死し、
家中に長壽享けざりき。アポローン彼に(いきどほ)り、
弓技挑みし故をもて、彼れの一命亡ぼせり。
われ又槍を他の人の矢さへ到らぬ距離に投ぐ。
ただ競走はわれ恐る。パイエーケスのある人ら、
われに優らむ、船中屡々食に乏くて、
われ激浪のただ中に痛く劇しく惱まされ、
かくして爲めに無慘にも手足弛みて力なし。』

[8-220]アカイアの弓の名將。イーリアス二歌七一八。
[8-224]同七三〇。

しか陳ずれば、衆人は默然として言葉なし、
王アルキノスたゞひとり答へて彼に陳じ曰ふ、
『客人 -- 君のいふところわれらの耳に惡からず、
集合の()にそばに立ち、君に無禮の言吐ける
かの一人にいきどほり、君は望めり一身に
備はる勇を見すべしと、言句正しくいふ(すべ)
心に悟り知る者は君の勇氣を誹謗せじ。
さはれ今わが言を聞け、國に歸りて館の中、
君、恩愛の妻と子と並びて宴を張らん時、
われらの長所思ひ出で、他の勇士らに説かんため、
遠き祖先の昔よりヂュウスが斷えず連綿と、
此國人に與へたる長所を君の説かんため。
角力(すまひ)に又は拳鬪にわれらすぐれし者ならず、
さはれ我らは善く走る。又、善く船を乘りまはす。
われらの常に愛づる者、饗宴、絃歌、また舞踊、
衣服の着換へ、温浴と又温柔の閨とあり。
パイエーケスの舞踊者のすぐれし者よ、いざや立て、
踊れ、しからば客人は故郷に歸りつかん時、
親しき友に語るべし、航海及び競走に、
舞踊並に吟謠にわが國人の秀づるを。
たそ今行きて、わが館の中に必ずありぬべき、
音玲瓏の豎琴をダーモドコスに運び來よ。』

神の姿に髣髴の王アルキノスしかく曰ふ、
令使は立ちて王宮の中より琴を持ちきたす。
民の中より擧げられて場の整理を司どる
監督九人一齊に今立ち上り、舞踊()
地面をならし平げて、其れの區劃を取り擴ぐ。
令使は側に近づきて、デーモドコスに玲瓏の
音する琴を與ふれば、場裏眞中(まなか)に彼は行く。
彼を廻りて花やげる舞踊たくみの少年ら、
おのおの脚に清淨の場を踏みつゝ舞ひおどる。
オヂュシュウスは其脚の動き眺めて驚けり。

今伶人は琴を彈き、アプロヂーテー、王冠の
美なる神女とアレースの[8-267]戀をいみじく謠ひ出づ、
ヘーパイストスの館の中、二神ひそかにかたらへり。
神は神女に數々の贈與をなして主公たる
ヘーパイストスの閨汚す。其かたらひを先に見し
使者ヘーリオス急ぎ行き、彼の委細を洩し告ぐ。
心惱ます消息をヘーパイストス耳にして、
鍛冶場に來り、物凄き計略思ひ廻らしつ、
彼ら身動きならぬため金床(かねとこ)の上おほいなる、
金砧(かなしき)据ゑて斷ち難き、ゆるまし難き鎖鑄ぬ、
斯くアレースにいこどほり、罠を造りて終へし時、
彼の臥床のあるところ其寢室に足運び、
床脚めぐり幾重にも、鎖うちかけ、更に又
幾條となく、天井の高き上より蜘蛛の巣の
細きが如き鎖埀る、そを何者も、慶福の
神明さへも見るを得ず、巧極めて造られき。
斯くして床をめぐらして罠をあまねく張れる後、
地上あらゆる郷の中、彼の最もめで思ふ、
都市レームノス、堅牢に築ける(には)を訪ふまねす。
今黄金の武具着くるアレース、看る目鋭くて、
ヘーパイストス、巧みなる神工遠く去るを見つ、
ヘーパイストス、巧みなる神工の館訪ひ來る、
寶冠美なる[8-288]キュテレーの愛を求めて訪ひ來る。
威力の猛きクロニオーン、父なる神の宮居より、
神女は今し歸り來て座しぬ、其時アレースは、
内に入り來て手を握り、名を呼び彼に陳じいふ、
『戀しき君よ、閨に行き、うれしき夢を結ばまし、
ヘーパイストス今家にあらず、怪しき言句吐く
[8-294]シンテーイスのレームノス郷を目ざして立ちさりぬ。』
アプロヂーテー其言を聞きて合歡樂みて、
共に連れ立ち、床の()に添臥なしぬ、然れども、
ヘーパイストス巧みたる鎖その時降り來て、
彼らは四肢を動かすを揚ぐるを共に得べからず、
しかも今更逃走の術はあらずと悟り得ぬ。
レームノスの地つける前、脚を返せる跛行神、
ヘーパイストス、其時に(神ヘーリオス彼が爲め
看守し、報を齎せば)彼らに近く迫り來ぬ。
(心惱みておのが()にヘーパイストス歸り來つ、)
激しき憤怒身を焚きて、室の戸口に立ち留り、
聲すさまじく高らかに諸神に向ひ叫び曰ふ、

[8-267]三六六行迄つづく。
[8-288]アプロヂーテー。
[8-294]イーリアス、一歌五九四。

『父のヂュウスよ、もろ〜の常住不死の神々よ、
來りて、こゝに笑ふべく、しかも宥せぬわざを見よ、
われの跛行の故をもて、アプロヂーテー、ヂュウスの子、
常にわが身を侮りて、不義のアレースめでおもふ、
彼は美にして脚直し、されども我は生れ得て、
不具なり、しかも其責は他に探すべき要あらず、
ただただ父と母とのみ、われ生れずば善かりしを!
さはれ乞ふ、見よ、わが閨に入りて二神が愛慾に
耽らんずるを、われの目は見るに忍びず、惱むのみ。
さはれ愛慾強しとも、こゝに彼らは一瞬も
横はること叶ふまじ、すぐに直ちに同牀の
望捨つべし、然れども無耻の息女を娶るべく、
われの贈れる結納の其一切を悉く、
われ其父に返さずば、罠と鎖は解かるまじ、
彼女誠に美なれども情を抑ゆる(すべ)知らず。』

『しか陳ずれば黄銅の家に諸神は群りぬ、
大地を抱くポセードーン來れり、人を救ふもの、
ヘルメーアスと銀弓の神アポローン亦來る、
(神女らさはれ憚りて各々宮に居殘りぬ。)
恩賜豐かの神明はかくて戸口に佇みつ、
ヘーパイストス行へるこの巧妙の策を見て、
慶福永き神明は笑ひ崩れてはてしらず。
中に各相隣る神は互に告げて曰ふ、

『不義の行遂げがたし、遲きは()きに追ひつかむ、
ヘーパイストス遲けれど、ウーリュンポスを家とする
諸神の中の(はや)きもの、アレース神を捕へたり、
跛行なれども術をもて不義の償拂はせむ。』

斯の如くに群神は相互に(あひ)に語り合ふ、
ヂュースの寵兒アポローン、ヘルメーアスに問ひて曰ふ、
『ヂュースの子なる[8-335]ヘルメーア、恩賜豐かの使者、汝、
堅き鐡鎖に縛られてアプロヂーテーもろともに
臥床の上にいぬること、いかに汝は慾するや?』

[8-335]呼格。

使、アルゲーポンテース彼に向ひて答へ曰ふ、
『銀箭放つアポローン、其事われに起これかし、
[8-340]アプロヂーテー金髮の(かたへ)に床に臥すを得ば、
三倍強き解けがたき、鐡鎖縛るも不可ならじ、
汝等諸神、女神らと共に見るとも厭ふまじ。』

[8-340]好笑。 -- 土佐の高知の幡摩屋橋に女犯の罰として美人お馬と共に若き僧がさらしの刑を受けた時、之を見たる行人は「お馬と共ならばさらしも可」といひしとぞ。

しか陳ずれば天上の不死の神明皆笑ふ。
ポセーダーオーンただ獨り笑ふはず、術は巧妙の
ヘーパイストスにアレースを許さんことを乞ひ願ひ、
即ち彼に翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『願はくは彼を解き放て、われは約せむ、命のまゝ、
彼れ神明を前にして正しく科料拂ふこと。』

技術たくみの跛行神答へて彼に陳じ曰ふ、
『大地を抱くポセードーン、この事、われに求めざれ、
狡兒のために保證する。其事宜しからざらむ。
科料と鐡鎖まぬがれてアレース逃れ去らん時、
我いかにして神明の前に汝を縛り得ん?』

大地を抱くポセードーン其時答へて彼に曰ふ、
『ヘーパイストスよ、アレースが科料正しく償はず、
逃亡なさば其科料我は汝に拂ふべし。』

技術巧みの跛行神答へて彼に陳じ曰ふ、
『汝の言に背くこと有り得べからず、善かるまじ。』

ヘーパイトス斯く陳じ堅き鎖を解き放つ、
その堅牢の鎖より解き放たれし二位の神、
直ちに起きて奔り去る、トレーケースに彼は行き、
これ矯笑をめづる神キュプロス島の中にある
バポスに行けり、祭壇はそこに薫りて森深し。
そこに册づくカリテスら神女に湯沐(ゆあみ)なさしめて、
天上不死の神明の用ゐる香油まみらして、
目を驚かす纖麗の衣服膚に纒はしむ。
しか巧妙の伶人は歌へり、聞きてオヂュシュウス、
其胸中に喜べり、櫂の長きを使ひ馴れ、
航海の術すぐれたるパイエーケスも喜べり。

その時國王アルキノス、ラーオダマスとハリオスに
命じ、もろとも踊らしむ、二人に競ふ者あらず。
技術すぐれしポリュボスが二人のために作りたる
眞紅美麗の球を手に彼らおのおの取りし時、
一人は後に身を曲げて之を眞直に天に投げ、
一人は地より飛び上り、脚の地上に歸り來て、
着くに先だち欣然とたやすく球を攫み取る。
眞すぐに高く球投ぐる術を試み終る後、
王子二人は手より手に球投げかはし、豐沃の
大地の上に舞ひおどる、わかき人々場中に、
立ちて喝采はてしなく、轟々として騷ぎ立つ。
其時勇士オヂュシュウス、アルキノオスに向ひいふ、
『民の間にいとしるき、あゝ權勢のアルキノス、
舞踊の子らのいみじきを君は誇れり、其言は
正しかりけり、眺め見て我驚嘆の外あらず。』

しか陳ずれば喜べる強き尊きアルキノス、
櫂の友なる國の人パイエーケスに向ひ曰ふ、
『パイエーケスの諸頭領又評定者われに聞け、
わが見るところ、わが客は叡智誠にいちぢるし。
いざ友愛の贈物、ふさはしき物呈せずや!
すぐれし君主十二人、民の間に長として、
こゝ司どる、次ぎて我第十三に位せり。
彼らおのおの外套と善く洗はれし下着とを、
一タランタの黄金に添へてこの場に持ち來れ、
ただちにこれを一つにし、客に渡さば手に取りて
心喜び悠々とわが宴席に就きぬべし
ユウリアロスは言句もて、又贈與もて客人の
意を柔げよ、先きに彼述べし言句は不可なりき。』
しか陳ずれば衆人は之に贊して令下し、
各々使者を家にやり、贈與の品を齎らしむ。

ユウリアロスは其時に答へて彼に陳じいふ。
『民の間にほまれあるあゝ權勢のアルキノス、
君の命ずる如くして客の心を和らげむ。
彼に一振黄銅の(つるぎ)贈らむ、(つか)は銀、
新たに切りし象牙もて造りし鞘の包むもの、
こを贈るべし彼に取り、價賤しきものならず。』

しかく陳じて客の手に銀鋲うてる(けん)與へ、
飛揚の羽を具へたる言句を彼に陳じ曰ふ、
『あゝ珍客よ安かれや!粗暴の言句わが口を
洩れなば風は速かにこれを遠きに吹き去れよ。
神明、君に愛妻を見るべく許せ、郷國に
歸るを許せ、友離れ、君は長くも苦しめり。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『友よ汝も康かれよ、神は慶福與ふべし、
われをなだむる慇懃の言句に添ふる贈物、
後に到りて此の(つるぎ)惜み悲むこと勿れ。』

しかく陳じて肩の上、銀鋲うてる剱を懸く。
日は沈みたり、高貴なる贈與の品を彼の爲め、
アルキノオスの宮殿に諸令使共に持ち來す、
すぐれし王者アルキノス、生める子息ら受取りて、
貴き母の傍に此等の寶ならべおく。
強き尊きアルキノス衆を率ゐて先たてば、
皆一齊に内に入り高き椅子のへ座を占めぬ。
その時王者アルキノス、王妃に向ひ宣しいふ、

『あらゆる中の最美なる櫃を、王妃よ、持ち來れ、
而して中に清らかの上着下着を容れよかし。
又彼のため大釜を火に温めて湯を沸かせ、
浴し畢りて珍客がパイエーケスの貴人らの、
持ち來らせる一切の贈與並ぶを見んがため、
又饗宴を樂しみてわが伶人を聞かんため。
我れ亦彼に美はしき金の盃與ふべし、
かくせば彼はおほいなるヂュウス或は他の神に
奠酒の禮をいたす時、とこしへ我を偲ぶべし。』

しか陳ずればアレーテー侍婢らに命じ、迅速に
巨大の鼎烈々の火焔の上に据ゑしめぬ、
侍婢らは命に從ひて鼎を据ゑて水を入れ、
あまたの薪齎らして燃やして熱く湯を沸かす、
猛火鼎を取り捲きて水は次第に沸きいだす。
かなたに王妃アレーテー華麗の櫃を寶庫より、
客のためにと取り出だし、パイエーケスの齎せる
衣服黄金さま〜゛の寶を中に納め入る。
王妃は更に其中に上着下着を添へ加へ、
客に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、
『客よ、自ら此櫃の蓋を調べて紐かけよ。
黒き船のへ柔かき眠に君の入らん時、
途に或は人ありて君を欺くことあらむ。』

耐忍強きオヂュシュウス勇將これを打聞きて、
ただちに櫃の蓋を閉ぢ、先きに貴きキルケーが、
彼に教へし法のよる祕密の紐をかけ結ぶ。
やがて老女は出で來り誘ひて彼を浴室に
導き浴をとらしめぬ、其温浴を眺め見て
彼は心に喜べり、鬢毛美なるカリュプソー
仙女の館を出でし後かゝる款待あらざりき。
(館にありては神明の如くに彼は遇されき。)
侍女らは客を浴せしめ、香油を彼の膚に塗り、
華麗の上着又下着其身の上に纒はしむ、
斯くして彼は浴室をいでゝ芳醇酌みあへる
衆の間に加はりぬ、其道筋にノーシカー、
美貌を神の惠む者、部屋の柱によりて立ち、
其目の前を通りゆくオヂュシュウスに驚きつ、
即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

客よ康かれ。やがての日、祖先の邦にあらん時、
君それ我を思ひでよ、眞先きに君を救ひたり。』

智謀豐かのオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『あゝノーシカーカー、おほいなるアルキノオスの生むところ、
神女へーレー妻とする雷霆の神クロニオーン、
願はく我にわが郷に歸る喜あらしめよ。
かしこにありてとこしへにさながら神を見る如く、
君に祈願を捧ぐべし、君はわが(めい)救ひたり。』

しかく陳じて國の王アルキノオスのそばに坐す。
給仕ら正に一同に食を頒ちて[8-470]酒混ず、
やがて令使は衆人のひとしく崇めたふとべる
デーモドコスを -- 伶人を導き、そばに入り來り、
酒宴の客のただ中に、高き柱によらしめぬ。
智謀に富めるオヂュシュウス、令使に物を問ひ乍ら、
多量に殘る野豬(しゝ)の肉、牙眞白なる野豬の背の
肉の一部を切り取りぬ、脂肪豐かに富めるもの、

[8-470]水をまぜて味を程よくす。

『令使よ、これを持ち行きてデーモドコスに(はま)しめよ。
我は憂に沈めども彼に祝の言寄せむ。
地上における人間のすべて捧ぐる愛と敬、
そを伶人は身に收む、神女ムーサは伶人の
種屬をいたくめでおもひ、彼らに歌を教へたり。』

伶人即ち命により肉携へてすぐれたる
デーモドコスの手に渡す、受けて伶人喜べり。
衆人かくて眼前におかれし美味に手を延しぬ。
されど衆人飮食を取りておのおの飽ける時、
智謀に富めるオヂュシュウス、デーモドコスに向ひ曰ふ、
『デーモドコスよ、一切に優りて我は君崇む。
ヂュウスの息女ムーサ、はたアポローン君に教へしか?
アカイア軍の運命とアカイア軍の行動と、
その成功と受難とをいみじく君は述べ歌ふ、
さながら之を見し如く、或は他より聞く如く。
さはれ題目今變へよ、アテーナイエーもろともに
木馬作れるエペイオス、其構造を今歌へ。
智謀に富めるオヂュシュウス木馬に戰士滿たしめて、
計りて之をイリオンに入れて都城を亡しき。
君もし、これをいみじくもわれに向ひて歌ひ得ば、
たゞちに我は一切の人に遍く宣すべし、
好意を君に抱く神、君に聖歌を與へぬと。』

しんか陳ずれば、伶人は神の鼓吹を被りて、
歌ひぬ、むかしアカイオイ、其陣營を燒き拂ひ、
漕座よろしき舟に乘り、海に航して別れ去り、
殘れるものは英剛のオヂュシュウスともろともに、
木馬にひそみ、トロイアの堅城外に身をおきぬ。
トロイア軍は知らずして木馬を城に曵き入れぬ。
その城中に立てる時、かたへに坐そて論じあふ
衆は容易く決し得ず、意見は三つに別れたり。
其一は曰ふ剱戟を取りて木馬を撃ち碎け、
更に二は曰ふ懸崖の下に木馬を突き落せ、
第三は曰ふ神明を和らぐ供物たらしめよ。
その三の説行はれ、運命遂に窮りぬ。
トロイア軍の滅亡を案じ勉むるアカイオイ、
其アカイアの勇將らひそみかくるゝおほいなる
木馬を城に入れし時、死の運命は定りぬ。
伶人つぎて又歌ふ、隱れ伏したる木馬より、
現はれいでしアカイアの勇士都城を掠めしを。
アカイア勇士堅牢のトロイア城を掠め去る。
中に、さながらアレースに似たる英剛オヂュシュウス、
メネラーオスともろともに[8-518]デーイポボスの館襲ふ。
勇將そこに猛烈を極め戰ひ打ち勝ちぬ。
神女パルラス、アテーネー助けし故に打ち勝ちぬ。』

[8-518]プリアモス王とヘクーバより生れし子、ヘレネーを返すことに反對したる者。

譽すぐれし伶人はしかく歌へり、オヂュシュウス
心碎けて眼蓋より涕流して頬ぬらす。
子らと都城を無慙なる運命よりし救ふべく、
戰ひつゝも民の前、都城の前に斃れたる
勇士をいたむ彼の妻、今臨終の息を引く
其最愛の良人に、身をなげかけて慟哭の
聲高らかに嘆く時、無情の敵はうしろより、
可憐の妻の背を肩を槍もて撃ちて囚へ去り、
苦難憂愁はてしなき奴隸たるべく逐ひて行く、
その無慘なる運命にあはれ紅頬しをれ行く、
正しく斯くもオヂュシュウス涙流して悲めり。
灑げる涙、然れども、衆はひとしく認め得ず、
ひとり勇士の傍に坐せる國王アルキノス、
知りてはげしき慟哭の聲を親しく耳にしつ、
櫂を愛する國人のパイエーケスに向ひ曰ふ、
『パイエーケスの諸頭領また評定者われに聞け、
デーモドコスに玲瓏の()の豎琴をやめしめよ、
洩れなく衆は此歌をきゝて樂しむものならず、
宴はじまりて神聖の伶人歌ひはじめたる、
その時以來珍客は慟哭つくることあらず。
思ふ、まさしくおほいなる悲哀は彼の胸閉ざす。
主人も客も一齊にともにひとしく樂しむは、
(まし)なるべきを、さらば今伶人歌をやめよかし。
崇めたふとぶ珍客の爲めにすべては爲されたり。
護送も然り、心こめ贈る品々亦然り。
少しなりとも知あるもの、彼にとりては賓客も
また哀告をなす者もみな同胞と相等し。
されば客人たくらみて隱すをやめよ、一切を
わが問ふ事を悉く打ち明くること(もと)も善し。
君の名は何?われに曰へ、父と母とに、城中に
郷に近く住む者に呼ばるゝ君の名は何か?
賤しき者もたひときも、人間の中ひとりだに、
名の無き者は絶えて無し、おのおの生を享くる時、
彼を生みたる父と母、彼に一つの名を與ふ。
君の故郷と住民と都市とを我に今告げよ、
知あり靈あるわが船はそこに導き着きぬべし。
パイエーケスに水先を導く者は絶えて無し。
われらの船は人間の思を情を皆知れり、
また人間のすむ都市を、みのり豐かの野を知れり、
而して更に雲と霧掩ひかくせるわだつみの
其深き淵迅かに乘り過ぐ、しかも其船に
破損或は沈沒を怖るゝ憂絶えて無し。
さはれ、わが父、ナウシトス、われに話せしこと聞ける、
彼は曰ひけり、「ポセードーン怒りをわれに催しぬ、
すべての人を安らかに導く故に催しぬ。
パイエーケスの人々の堅く造れる船舶が、
護送の途を歸るとき、暗き海のへ、海の神、
こを碎くべし、おほいなる山を都城に崩しつゝ。」
老父はしかく述べたりき。神は果してしか爲すや、
しかなさざるや一切は皆神明の命の儘。
さはれ客人僞らず、隱すことなく我に曰へ、
いづくに君はさまよひし?如何なる邦に君ゆきし?
彼ら並びに堅牢に築ける都市をものがたれ、
或は酷く荒くして正義を絶えて知らざるや?
或は客にねんごろに、神を畏れて謹むや?
君また告げよ、いかなればトロイア、アカイア兩軍の
その運命をきける時、君かくまでも悲しめる?
[8-579]その運命を神々は備へて、人の滅亡を
定む -- 子孫の聞き得べき詩の題目となさんため。
イリオン城を前にして君の親屬斃れしか?
息女の夫、妻の親、血筋つづける者に次ぎ、
恩愛特に深きもの、すぐれしものゝ斃れしか?
げに聰明の資を抱きわれに親しみ睦むもの、
そは同胞に比ぶるもいさゝか劣るものならず。』

[8-579]著者の句。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第九歌


第九歌

アルキノオス王に答へてオヂュシュウス素性を明かす(一 - 三八)。 しかしてイーリオンを去る後の冐險を物語る、 第一の冐險はキコネス族の郷土に上陸して土民と戰ひて敗北したるそれ(三九 - 六六)。 暴風吹きて南に漂はす(六七 - 八一)。 第二の冐險、ロートス喰ふ民族の郷に於けるもの(八二 - 一〇四)。 第三の冐險、キュクローペスとの戰、第一日、近くの島に上陸し山羊を獵す(一〇五 - 一六九)。 第二日、一二人の伴を率ゐてオヂュシュウス進んで怪人ポリュペーモスの洞窟に到る、 怪人の殘虐、伴の二人を殺して喰ふ(一七〇 - 三〇六)。 第三日、怪人再び伴の二人を殺して喰ふ、復讐のたくらみ、夕また二人の伴殺さる。 オヂュシュウス酒を勸めて怪人を醉はしめ、其目(一目の怪人の)を潰す(三〇七 - 四三五)。 第四日計を廻らしてオヂュシュウス六人の伴と共に逃る、 逃るる時に盲目となれる怪人を嘲笑す、怪人怒りてポセードーンに復讐を祈る、 一行は山羊の島に歸る(四三六 - 五五九)。 第五日航海を續く(五六〇 - 五六六)。

智謀に富めるオヂュシュウスその時答へて彼に曰ふ、
『萬民中に譽ある、ああ權勢のアルキノス、
かゝる伶人、その歌は、神にさながら髣髴の、
すぐれしものを耳にする、 -- それはは何の歡喜ぞや!
衆人ともに樂しみて、堂にひとしく整然と、
坐して飮宴催しつ、伶人の歌耳にして、
卓には珍味相並び、給仕は美なる芳醇を、
壺より酌みて經めぐりて、客おのおのの盃に
注ぐ、斯くして陶然と客悉く樂しめる、
こは人生の最大の歡喜と我はたゝふべし。
此事われの胸中に最美のことゝ感ぜらる。
然るにわれの艱難を問ふべく君の心向く、
その(はて)、我は一層に悲み涙催さむ。
眞先きに何を説くべきか?何を最後に陳ずべき?
天上住める神われに苦惱を多く與へたり。
眞先きにわれの名を揚げて君に知らせむ、後の日に
つらき運命逃れ得て、遙かに遠きわが館に
歸り宿りて思ひ出で、君の親友たらんため。
智謀に富むと衆人に知られし我ぞオヂュシュウス、
ラーエルテース父として譽は天にひゞくもの。
潮に浮ぶ縹渺のイタケー島は我が故郷、
緑葉震ふネーリトン山は其中いちじるし、
互いにめぐり相近く隣れる島は何々ぞ?
ドウリキオンとサーメーと深林おほふザキュントス。
わがイタケーは[9-25]日沒の方に、内地にいと近し、
(他は曙と[9-26]白日に向ひ、はなれて横はる。)
岩根さがしき島なれど、地は少年を善く育つ。
我の故郷にいや勝り、なつかしきもの他にあらず。
艷なる仙女カリュプソー、我を(をつと)と爲さんとし、
我を抑へてうつろなる洞窟中にとめたりき。
[9-31]アイアイエーのキルケーも巧に計り、館中に
留めて我の妻たるを切に願ひてやまざりき。
されどもわれの胸中の情動かすを得ざりけり。
親を離れて遙なる異郷の中に、高樓に、
生活いかに樂しとも、人にとりては其郷と
親とに優り、なつかしくうれしきものはあらざらむ。
いざ[9-37]イーリオン立ちいでて、我のヂュウスの加へたる
辛苦に滿つる漂浪の次第を君に語るべし。
イリオン去りし一同は風に吹かれて[9-39]イスマロス、
[9-40]キコネス族の地につきて、掠めて民を打斃し、
都市より婦女と財寶を多く奪ひて、衆人に
均しく分ち取らしめぬ、足らざるものはなかりけり。
足迅速に此郷を去る行くべしと、一同に
其時われは命ぜしも、愚にして彼ら命きかず。
葡萄の美酒を傾けて彼等は海の岸のうへ、
多くの羊、蹣跚(まんさん)の歩みの牝牛打ち屠る。
とある(あひだ)にキコネスは行きて隣れる同族に、
-- 數多くして勇武なる友に叫べり、其友は
内地に住みて車上より敵うつことに巧妙に、
時に應じて又徒歩に戰ふことをよく知りぬ。
季節に應じ、萠えいづる花の如くに、葉の如く
あした群がる敵は寄す、其時ヂュウス惡運を
下して爲めに不幸なるわが軍勢は苦しめり。
船の近くに戰鬪は激しく荒れて、彼と此
勢猛く黄銅の槍を互に投げ飛ばす。
朝より初め、神聖の日の闌くる迄、敵軍の
數は優れど追ひ返し、わが軍岸に留れり。
されど光輪西空(にしぞら)に傾く頃は、キコネスは
勝ちてわが軍、アカイアの軍を散々打敗る、
脛甲堅き同僚の斃るゝものは、船ごとに
六を數へて、殘るもの死を免れて逃げ去りぬ。
親しき伴を失ひて我ら悲痛をたへざれど、
死の運命を逃れ得て喜び船をすゝめたり。
三たび不幸の友の名を -- キコネス族に敗られて、
原上遂に斃れたる友を -- 呼べども答なし。
斯くして我らは整齊のもろ船前に勸めたり。
雲を集むるクロニオーンその時われの船目がけ、
もの(うさまじ)く吹き狂ふ北風おこし一齊に、
陸と水とを雲に蔽ふ。夜は天より降り來ぬ。
船は波浪にただよひて傾ける儘走り行き、
颶風は(すご)く帆を打ちて三つ又四につんざきぬ。
破滅怖れて一同は帆を船中に引きおろし、
櫂を用ゐて蒼惶と舟を陸地にこぎよせぬ。
疲勞並に艱難に痛く心を惱まして、
そこに一同二日(ににち)二夜(にや)續き岸上横はる。
鬢毛(びんもう)美なる(あけ)の神、第三日を送る時、
また帆檣を立て直し、白帆を揚げて船上に
坐し、順風に又舵手にわれらの舟を進めしむ。
かくて何らの害うけず祖先の國につくべきを、
[9-80]マレイア岬巡る時、波は潮は北風は
[9-81]キュテーラあとに遠ざけて、沖にわが船ただよはす。
鱗族むるゝ海の上、九日(こゝのか)續き凄じき
あらし我らをたゞよはす、次の十日目[9-83]ロートスを、
喰ふ習の民族の[9-84]郷にわが船到り着く。
そこに岸のへ打上り、飮料水を汲みとりつ、
而して船を前にして一同いそぎ食を取る。
飮食終り、衆人の口腹すべて飽ける時、
われは從者を遣はして探り知らしむ、此郷に
何の種類の民族の住みつつ生を營むや?
二人の從者撰び拔き、之にひとりの令使附し、
送ればすぐに一同はロートス喰ふ民に行く。
ロートス喰ふ民族は、われの從者を殺さんと
敢て計らず、只これにロートス取りて喰はしむ。
(あぢ)甘くして蜜に似るロートス取りて喰みし者、
彼は報告齎らして歸り來るをはや厭ひ、
竒異なる食の民族の間に殘り留りて、
ロートス取りて郷國に歸る願を忘れ果つ。
我は叱りて泣き叫ぶ彼らを引きて連れかへり、
うつろの船の甲板に漕座のもとに縛り附け、
親しき外の從者らに、速く波切る舟の上、
急ぎて乘れと命下す、ロートス喰ひ其爲めに、
祖先の郷に歸ること忘れんとする憂より。
直ちに衆は舟に乘り整然として相並び、
各漕座占め乍ら、櫂もて波浪うちて行く。

[9-25]西方。
[9-26]東南。
[9-31]アイギア海中の島。
[9-37]以下數歌に亙る冐險談の發端。
[9-39]トレーケーの一都市、酒の名産地。
[9-40]第一冐險。キコネス族はイーリヤス二歌八四六行に名ざさる。
[9-80]三歌二八七。
[9-81]マレイアの南西の島。
[9-83]蓮の一種、テニスンの『ロートス喰ふ者』あり、青年時代の傑作。このロートスは四歌六〇三のロートスと別種なり。
[9-84]地中海の西部アフリカのリビアの岸らし。

悲哀を胸に抱きつゝ衆人船をこぎ進め、
氣は傲慢に無法なる[9-106]キュクローペスのすめる地に
着けり、彼等は不滅なる天の諸神に倚り頼み、
手もて樹木を植ゑつけず、絶えて働くことをせず、
さもあれ蒔かず、鋤かざるに、小麥大麥、累々の
房を生ずる葡萄蔓 -- これらすべては豐饒に
生じ來りておほいなるヂュウスの雨に育てらる。
評議の會はここに無し、又定れる法も無し。
此らの民は高山の峯のへ、つねに空洞の
岩窟中に赴き臥して、おのおの妻と子に對し、
無上の櫂を打振ひ、又他の民を顧みず。

[9-106]「圓眼」の意。海神ポセードーンの裔。ヘーショットのテオゴニイ一四四行に「一眼」と明記さる。
但しそこにはウーラノスとガイアの子と稱せらる。其郷はシシリイと一般に古代作者は曰ふ。

キュクローペスの郷の岸、岸を去ること遠からず、
また近からず、之に添ひ、一つ[9-117]小さき島を見る、
その草木の繁る島、中に野生の山羊多し、
人の歩みて近づきて追ひ散らすこと絶えてなし、
山の頂かけ廻り、森のほとりに辛勞を
積む獵人の一人だに來りて襲ふことあらず、
ここ牧人の影を見ず、又耕作の地もあらず、
蒔かるることは絶えて無し、鋤かるゝことも亦あらず、
山羊の鳴き聲ひびくのみ、また人間の跡を見ず。
(へさき)を赤く染めし船キュクローペスの(もと)になし、
漕座よろしき船つくる工匠素よりこゝに無し、
(船はあまねく人間の住める都城を訪ひ行きて、
人の求むるものを取る -- 此らのために數多き
人と人とは船に乘りおほわだつみの波渡る。)
素より島を豐沃の郷となすべき人あらず。
さはれ此島あしからず、時に應じて一切を
産み出す。波の洗ふ岸、岸に添ひたる草原は
軟かにして濕ひて葡萄の蔓はつねに()ゆ。
耕す事は容易くて、時に應じて豐かなる
みのり收むることを得む、地味は頗る肥えたれば。
この地一つの泊り善き港を具ふ -- 綱つけて
錨投ずる要あらず、大綱結ぶ迄もなし、
舟乘入れて岸に揚げ、水夫の心望む迄、
順風そよぎ到る迄、永く留ることを得む。
港の端に、洞窟の下より清く湧き出でて、
泉流れつ、あたりには白楊の樹を生えしげる。
われらはここに乘り入りぬ、ある神ここに暗黒の
夜の間に導きぬ、光明たえてあらざりき。
船をめぐりて霧深く、黒暗々の雲おほひ、
天上高く照る月は絶えて光を現はさず。
漕座宜しき諸船(もろふね)はかくて岸上のりあげぬ、
その前誰も目を擧げて島を認むることを得ず。
岸をめがけて、激浪の寄せ來る影も眺め得ず。
船を岸上のり揚げて、かくてすべての帆をおろし、
衆は一同船を出で渚の上におりたちて、
いねて一夜の夢結ぶ、あすの曙光を待ち乍ら。

[9-117]ラケイア意味不明、「小」か「長」か。

指は薔薇の(くれなゐ)(あけ)の神女のいでし時、
驚異の(まみ)を見張りつゝ一同島をさまよへり、
アイギス持てるヂュースの子、仙女はわれら一同の
食事の料に山々に群がる山羊を追ひ出せば、
彎弓及び柄の長き投槍あまた一同は
舟より取りて、三隊に分れて狩を早急に
はじむ、其時豐なる獲物を神は惠みたり。
われに從ふ舟一二、一二の舟の各に
九頭の山羊は頒たれぬ、わが舟獨り十を得ぬ。
かくて終日夕陽の全く沈みはつる迄、
坐して多量の肉喰ひ、甘美の酒を酌みほしぬ。
舟中未だ酒盡きず、其貯は多かりき、
かの神聖のキコネスの住める都城を陷いれ、
水夫おのおの壺の中、豐かの量を酌みとりき。
しかしてわれら眼前のキュクローペスの地を眺め、
烟を眺め、人間と小羊の聲ききぬ、
やがて光輪しづみ去り、黒暗々の夜となれば、
鞺鞳として波よする岸のへわれら臥して寢ぬ。
指は薔薇の紅の曙の神女のいでし時、
我は衆人呼び集め、之に向ひて陳じ曰ふ、
『親しき伴ら、汝らは暫くこゝに殘れかし、
われはわが船わが從者率ゐ、これらの人の(もと)
往きてたづねて探り見む、彼ら何らの質なりや?
彼等果して暴慢の荒き非道の者なりや?
あるは他郷の人をめで神を恐れて愼むや?』

しかく陳じて舟に乘り、同じくわれの從者らを
乘りこましめつ、令くだし、[9-178]つなぎの綱をほどかしむ。
衆人かくて船に乘り、漕座につきて整然と
並び、櫂もてわだつみの波浪を切りて進み行く。
程遠からぬ其土地につきたる時に目を擧げて、
渚に近く陸上に桂の樹々に蔽はれし
高き洞窟見出しぬ、その洞窟のただ中に、
羊の群と山羊の群、夜を過すめり、あたりには
中庭ありて地の中に深く埋めし種々の石、
長き松の木、高く葉の繁りし樫に圍まれぬ。
そこに巨大の怪物に似たる一人住ゐせり。
外に伴無く身獨りに羊の群を飼へる彼れ、
他の一切に交らず、離れ、非道のわざをなす。
目を驚かすばかりなる巨大の姿眺むれば、
麺麭食ふ人に似ず、他の丘陵とかけ離れ、
ひとり聳ゆる高山のしげれる嶺にさも似たり、
その時我は愛で思ふ伴侶にそこに岸のうへ、
船のかたへに留りて船守るべく命下し、
我は自ら勝れたる一二の伴を撰び出し、
進みて行きぬ、その酒はユーアンテース生める息、
[9-198]其住む都はイスマロス、神アポロンの祭司なる
マローンの我にたびしもの、神の緑の聖林に
住めるが故に彼及び其妻と子をわれ()りぬ。
守れるが故にくさ〜゛のいみじき贈われに爲し、
精練なせる黄金の七タランタを、更に又、
またく銀より鑄りなせる壺を惠みつ、又更に
彼は一二のアンポーラ、中に純なる芳醇を
滿たして我に贈與しぬ、その芳醇は其家の
從者も侍婢も皆知らず、只彼及び恩愛の
妻と一人の老女のみ、其芳醇を味へり。
從者ら敢て蜜に似る此芳醇を酌まん時、
主公は壺に二十倍水を混じてこを與ふ、
しかも壺より香んばしきいみじき薫たちのぼる、
之を味ふことをせず慾を留むるは辛からむ。
こを充したるおほいなる革の袋を携へつ、
更に包みて食物を携ふ、蓋しわが心
思へり、力逞ましく荒べるものに出であはむ。
法も正義も辯へぬ手荒き者に出で逢はむ。

[9-178]一三七行と矛盾す。
[9-198]本歌三九。

やがて一同速かに洞窟さして到り着く、
巨人は中にあらずして牧場(まきば)に家畜飼ひ居たり。
其洞窟の中入ればすべては見る目驚かす。
簀子(すのこ)の上は乾酪に充ちつ、欄には小羊と
小山羊と數多群居つゝ各々類に分たれぬ、
老いし家畜と若きもの、更に新たに生れたる
小さき者はそれ〜゛に各群をなしゐたり。
すべての容噐、鉢と皿、搾りとられし乳に滿つ。
かくと眺めし從者らは我に勸めむ、乾酪を
若干(そこばく)收め歸るべく、而して次に速かに、
欄より小山羊、小羊を奪ひて驅りて迅速の
舟に收めて漫々の海路を渡り行くべしと。
されども我は聽かざりき、(聽かば誠に善かりしを、)
我は巨人を見んとしき、款待いかに、見んとしき、
さもあれ彼の出現はわれの從者に辛かりき。

しかしてそこに火を燃やし、神に犧牲をたてまつり、
われら自ら若干(そこばく)の乾酪喫しつ、洞中に
坐しつゝ彼を待ち設く、やがて巨人は食物の
調理の爲めに乾きたる樹木携へ歸り來つ、
洞の戸口に抛げつけて凄き音響起さしむ、
恐るゝ我ら一同は洞の奧へと逃げて行く。
其おほいなる窟内に脂肪に富める家畜らを、
乳搾るべき家畜らを彼は驅り入れ、戸の口の
外に牡山羊を牡羊を、すべての牡を殘らしめ、
次に一つのおほいなる巖を擡げ戸を閉ぢぬ、
其岩重く堅固なる四輛車二十合はすとも、
大地よりしてかかる岩起すは難き業ならむ、
斯くある程の大岩を彼は戸口に据ゑ置きぬ。
やがて坐を占め、鳴く山羊と羊の乳を搾り取り、
すべてを(かた)の如くして仔山羊を母のもとにやる。
やがて眞白き乳汁の半を彼は凝り固め、
編みたる籠のただ中に積み重ねつゝ納め入れ、
他の半をば鉢に入れ、おのが飮料たらしめつ、
更に同じく夕ぐれのおのれの用と供へ置く。
かくて勤めてせはしげに巨人は業を終る時、
わが一行を認め得て言句を陳じ、問ひて曰ふ。

異郷の汝何ものぞ?波渡り來る、いづこより?
用事の爲に來れるか?命をかけて漫々の
潮をわけて經めぐりて、他郷の人に災難を
來たす海賊見る如く、冐險しつつ彷徨ふか?』

しかく陳じていや更に轟き渡る音響に、
巨大の相に恐ぢ怖るわれらの心碎けしむ。
しかはあれども口開き答へて我は彼に曰ふ。

『われらはすべてアカイオイ、かのトロイアに別れ來て、
あらゆる風におほ海の上に吹かれて、わが故郷
めざし、果なく漫々の八汐路我らさまよへり、
恐らくヂュウス、クロニオーン斯く一切を計へり。
普天の下に譽あるアガメムノーン、光榮の
アトレーデースもろともに我戰を行へり。
彼は雄都を陷いれ、種々の種族を亡せり。
しかして我は今ここに君の膝下にゆくりなく
來る、願はく款待の誠を盡せ、さもなくも
異郷の人にふさはしき惠施せ我が頭上に。
秀いづる勇者願はくは神を尊べ、われこゝに
哀求者たり、クロニオーン・ジュウスは常に哀求の
人に憐憫加へつつ異郷の者に保護を埀る。』

しか陳ずれば殘忍の心の彼は答へ曰ふ、
『異郷の汝、愚かなり、遠き郷より來しならむ。
神を恐れて其罰を避けよと汝われに曰ふ、
キュクローペスはアイギス持てるヂュウスを憚らず、
又神々を憚らず、我の力はいやまさる。
心の命にあらずんば、ヂュウスの憎み避けんため
汝を、又は從者らを惜みて許すこと無けむ。
さもあれ我の知らんため告げよ、來りていづこにか
汝の舟を停めたる?遠きはてにか近きにか?』
我を試して斯くいへり、されど多くを知れる我れ、
彼の思念を悟り得て言葉巧みに答へ曰ふ、

『大地を震ふポセードーン、岬にわれの船を寄せ、
君の郷土の端にある巖に之を打ちつけて、
破り碎きぬ、海上を吹く風之を引き去りぬ。
我と是らの從者のみ凄き破滅をのがえ得ぬ。』

しか陳ずれど殘忍の心の彼は答せず、
身を振り起し、從者らに恐るべき手をさしのべて、
二人を捕へ、地の上に仔犬の如く投げつけぬ、
碎けし腦は無慘にも溢れ大地を濕しぬ。
彼は斯くして屍の四肢を碎きて夕食に、
山に育ちし獅子王の如く貪り食ひ盡し、
臟腑も肉も髓滿てる骨一片も得餘さず。
其無慘なる行爲(わざ)を見て、ヂュウスに向ひ手を擧げて、
泣きて祈れる一同は、皆絶望に氣も滅入る。
キュクロープスは人間の肉を喰ひて巨大なる
胃腑に充たしめ、まじりなき乳汁更にのみ下し、
家畜の(あひ)に身をのして洞窟中に臥し眠る。
其時我は勇ましく胸に計略廻らしぬ、
近きに迫り、鋭利なる劍を腰より引き拔きて、
手もて探りて、心嚢が肝臟おほふ其ほとり、
胸刺すべしと、然れども思ひ直してしかなさず。
然かせばそこに恐るべき最期をわれら遂げつらむ。
高き戸口に怪物の据ゑたる重き大岩を、われらの手もて除くこと遂に成し得る業ならず。
呻吟(うご)めき乍ら神聖の(あした)をかくてわれら待つ。

薔薇の色の指持てる(あけ)の神女の出づる時、
型の如くに一切を爲しつつ彼は火を起し、
家畜よりいsて乳搾り、仔山羊を母のもとにやる。
斯くて(せは)しくその行爲(わざ)を怪物果し遂ぐる後、
朝の食事に無慘にも從者二人をまた屠る。
食事終れば大岩を、其戸口よりやすやすと、
除き家畜を洞窟の外へ驅り出し、然る後、
肥えし家畜を山のへに、キュクロープスが擾々(ぜう〜゛)
驅り行くあとに殘されて、我は胸裏にものすごく
策を廻らし怪物に仇を報いて、アテーネー
我に譽を惠むため、斯く計らふを善しと見ぬ。
キュクロープスの欄の中、橄欖の木の緑なる
幹あり、彼が乾く時、用ゐる爲めに切りしもの、
大海わたる大船の -- 二十の櫂を備へたる --
黒く染めたる運送の舟の大なる帆柱に
巨大の幹は其長さ比ぶべからむ、視るところ
長さ並に其太さ、正しくかかる程なりき。
幹に近より我は其一オルギイア斷ち截りて、
從者のそばに之を置き、命じて之を削らしむ。
彼らは樹皮を滑らかに削れば、我は近よりて、
端を鋭く尖らしめ、火中に燒きて鋭くし、
而して暗き洞窟に飽くまで滿てる不潔なる
糞土の中に竊やかに隱して見るを得ざらしむ。
甘眠彼を襲ふ時、誰そ勇を鼓しわれと共、
怪物の目に此(くひ)を打ち込むべきや?鬮引きて
定むることを衆人にわれは命じぬ、幸に
わが撰ばんと望みたる四人に鬮は引かれたり、
しかして我は五番目に同じく鬮に定めらる。
夕べとなれば怪物は美毛の家畜驅り歸る、
斯くして彼は速かに、肥えし家畜に一切を
廣き洞裏に驅り入れて、戸外に一も殘す無し、
何らの豫感しかせしか?或は神の命よりか?
やがて戸口におほいなる巖をおこし引き据ゑつ、
腰を卸して、啼く山羊と羊の乳を順々に、
型の如くに搾り取り、仔山羊を母の下にやる。
馴れ來し業を速かに怪物かくも爲し終る、
終りて彼はわが從者二人を屠り食と爲す。
その時我は黯紅の酒を盛りたる木鉢取り、
キュクロープスに近づきて即ち彼に向ひ曰ふ、

『キュクロープスよ、人肉を喰へる後に酒を飮め、
飮みて知るべし、我舟はかかる芳醇收むるを。
汝が我を憐みて郷に返すを望みつゝ、
神酒をわれは齎せり、されど汝の強暴は
忍ぶべからず、此後に、無法の者よ、何人も
汝を訪はじ、斯くばかり、汝は荒く振舞へり。』

しか陳ずれば怪物は受けて甘美の酒を飮み、
心おほいに喜びて再び之を所望しぬ、
『與へよ、更に心よく、而して我に速かに、
汝の名のれ、しかなさば、汝の好む贈與せむ。
キュクロープスに豐かなる地はおほいなる葡萄の果
與へ、而して大神の雨はこの果を熟せしむ、
されど此酒げにいみじ、アムブロシアか?ネクタルか?』

其言聞きて燿ける美酒を二たび又三たび、
我れ怪物に與ふれば、愚かに彼は飮みほしぬ。
キュクロープスの心今朦朧として、酒のため
亂るる時に、柔和なる言句を我は陳じ曰ふ、
『キュクロープスよ、汝問ふ譽れのわが名いざ告げむ、
然らば汝約に因り、われに贈與を忘れざれ。
「誰も無し」とぞ我れ名のる、われの父母また一切の、
友悉く殘りなく「誰も無し。」とぞわが名曰ふ。』

しか陳ずれば暴戻の心を吐きて彼は曰ふ、
『他の從者らを喰ひ盡し、我は汝を、「誰も無し」、
最後にとりて啖ふべし、これこそ我の贈與なれ。』

しかく陳じてのけざまに仰向き、はたと地に倒れ、
その逞しき頸曲げて臥せば、眠は -- 一切を
制するものは -- 襲ひ來つ、眠の中に醉ひしれて、
嘔吐劇しく酒と肉彼の喉より噴きいだす。
其時我は熱灰の積れる中に杙を入れ、
之を熱しつ、從者らを勵まし勇を鼓せしめつ、
ただ一人だも驚怖して逃げ去ることの無からしむ。
はじめ緑の橄欖の樹の杙やがて熱灰に、
燒けて盛に灼々と燿き照れば、火中より
こを取り出し、怪物に近く迫れり、從者らは
あたりに立てり、とある神勇氣はげしくふきこめり。
衆は即ち先尖る橄欖の杙、手に取りて、
キュクロープスの一つ目に刺せば、上手に立てる我、
劇しく杙をねぢ廻はす、人あり錐に船板を
穿てる時に、下手なる從者ら左右(さう)に革紐を、
引きつゝ之を動かせば、錐はたへずも廻り行く、
正しく斯くも燒け尖る杙、怪物の目の中に
廻れば、熱き木頭をめぐり劇しく血は流る。
かくて熱火は怪物の眼蓋を眉を悉く、
焦がし盡せば眼球もはぜりひびきて潰れたり。
さながら鍛冶のおほいなる斧を手斧を、寒冷の
水に投じて沸々とひびかせ鍛ひ煉る如し、
(蓋し斯くして鋼鐡の強き力ぞ産みなさる。)
かくも彼れの目橄欖の杙の廻りに鳴り響く。
物凄き迄高らかに彼は叫べり、あたりなる
巖は鳴れり、驚怖してわれらしざれり、怪物は
かの鮮血に塗れたる杙を(まみ)より拔き取れり。
かくて苦痛に狂ひたる彼は此の杙投げ棄てつ、
風吹きすさぶ嶺上の洞窟おのが宿とする、
キュクローペス同族に、大音響擧げて呼はりぬ。
その音聲を耳にして彼らおのおの四方より
寄せて戸口に群立ちて苦惱の故を問ひて曰ふ、

『ポリュペーモスよ、かんばしき夜にかく迄聲揚げて、
わが甘眠を妨ぐる、其本何の惱みぞや?
誰そ人間のある者が強ひても家畜驅り去るや?
誰そ計略に暴力に汝を斃し亡ぼすや?』

ポリュペーモスは洞窟の中より衆に答へ曰ふ、
『暴力ならず計略にわれ斃すもの「誰も無し」』

衆は答へて翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、
『孤獨の汝斃すもの「誰も無し」とやおほいなる
ヂュウスの下す病苦をば逃るることは叶ふまじ、
宜しく汝、父の神ポセードーンに祈れかし。』

しかく陳じて去り行けり、我は心に喜べり、
わが名並に巧みなる計略彼を欺けり、
キュクロープスは呻き泣き、苦痛に惱み雙手もて、
手探り行きて戸口よりかの大岩を取り除けつ、
而してそこに自らは腰おろしつつ手を延ばし、
羊と共に戸口より逃るる者を捕へんず
さほどに我を思慮なしと彼は心に願ひけむ。
さもあれ我は思案しぬ。至上の策は何なりや?
從者並に一身の死を(まぬが)るる法いかに?
かく思案しつ一切の策と略とをたくらみぬ、
命のためにたくらみぬ、危難間近く寄せ來れば。
やがて至上の謀略は次の如しと思はれぬ。
善く肥え太り、氈毛の厚き美麗のおほいなる
牡羊あまたこゝにあり、菫色なる毛は厚し、
又善く綯へる小枝あり、非道振舞ふ怪物の
キュクロープスが其上に常に臥すもの、これをもて
三頭づつに牡羊を音を潛めて繋ぐべし。
中の一疋一人を運び左右は守り行かむ。
斯くの如くに三頭の羊一人を運ぶべし。
而して我は群羊の中に最もすぐれたる
其一頭を撰び取り、氈毛厚き胸の下、
身を横へて堅忍の心を固め雙腕の
力をこめて美しき其羊毛を掴むべし、
かくて悲痛の思もて曙の神女を待ちわびぬ。

薔薇の色の指持てる曙の神女のいづる時、
其時牡の群羊は牧場さして出で行きつ、
殘れる牝は搾らざる張り切る乳房もてあまし、
欄のほとりに啼きて立つ。かなた(あるじ)は痛はしく、
惱み乍らも戸の口にますぐに立ちて、出て行ける
其群羊の背をさする。愚かに彼は悟り得ず。
其群羊の毛の深き胸に從者のとりつくを。
群の最後に出でてゆく牡羊 -- 彼れは氈毛の
厚きを着けて、計略をたくらむ我を運び行く。
其時力逞しきポリュペーモス彼の背を
撫でつゝ曰へり『何故に汝最後に洞窟を
出づるや?前は群羊の後を逐ふこと無かりしを。
いつも眞先に大股に脚を進めて牧草の
柔軟の花汝噛み、いつも眞先に溪流の
岸のへ汝進み着き、いつも眞先に夕ぐれに
欄に歸るを望みてき。然るを今は最後なり。
汝主人の目の爲めに悲しむならむ、「誰も無し」
彼の惡き者、みじめなる友と計りて醉はしめて
わが目を燒けり、惡き者未だ死滅を免かれず。
我と等しく感じ得て汝有言(うごん)の者となり、
いづこに彼はわが憤怒避け隱るゝや、語り得ば
かれの腦漿碎かれて、洞窟中に地の上に
あなたこなたに擴がらむ、取るに足らざる「誰も無し」
彼の加へし災難を我は斯くして輕くせむ。』

しかく陳じて群羊を彼は戸外に出しやる。
其洞窟と欄とより少しく進み行ける我れ、
眞先に我は牡羊を離れ、從者を次に解く。
かくして衆は脚長き脂肪に富める群羊を、
あなたこなたに急がしく驅り立て遂に舟に着く。
死滅逃れし一同を親しき友ら眺め得て
喜び、しかも逃れざる他を聲揚げて悲しめり。
されども我は號哭を衆に許さず、眉ひそめ、
之を(とゞ)めて速かに令を下して氈毛の
美なる群羊驅り入れて、船を波上に浮ばしむ。
衆は斯くして速かに乘りて漕座に身を据ゑつ、
列を正して一齊に櫂動かして波を切る。
かくて呼ばはる音聲(おんじやう)の屆く距離まで到る時、
其時我は嘲弄をキュクロープスに放ち曰ふ、 --

『キュクロープスよ、うつろなる洞裏に汝暴力を
振ひて、弱き人の伴啖ふべきには非ざりき。
無慚の汝、訪ひ來る客を汝の家の中、
屠り啖ひ、憚らず、其兇行の報、今
痛く汝に加へたり、ヂュウス並びに外の神。』

しか陳ずれば怪物は更に一層怒増し、
巨大に山の頂の巖を碎きわれに向け、
(へさき)緑の我が船のまともに近く投げ飛ばす。
(手の取る舵の端近く及ばざること僅かなり)
其落ち來る岩のため海の大波たちさわぎ、
海の大潮捲き返し、陸上さして速かに
漂ふ船を運びさり、岸邊に近く迫らしむ。
其時我は雙の手に長き棹取り、岸邊より
沖へと舟を押しやりつ頭を振りて合圖しつ、
從者に命じ勵まして危險の位置を逃るべく
櫂に就かしむ、一同は即ち屈み漕ぎ進む。
波浪を漕ぎて先よりも二倍の距離に到る時、
キュクロープスに我は呼ぶ、之を周圍の從者らは、
(とど)めて我に温柔の言を述べつゝ諫め曰ふ、

『ああ無謀なり、何故に野蠻の者を怒らすや?
彼は巨巖を海に投げ、わが舟陸に戻らしぬ、
かしこに我等一命を失ふべしと思へりき。
彼れ若し人の叫喚をあるは談話を聞くとせば。
鋭き巨巖投げ飛ばしわれの頭腦とわが舟の
木材共に碎くべし、かくも劇しく彼は投ぐ。』

しか陳ずれど勇猛の我の心を諫め得ず、
我は憤怒の心もて更に再び呼ばはりぬ、
『キュクロープスよ、何者か汝の(まみ)を恐ろしく
潰せる?これを人間の誰か汝に問ふとせば、
答へよ、それはオヂュシュウス、都市の破壞者、イタケーを
領とし、そこに住める者、ラーエルテースその父と。』

しか陳ずれば怪物は呻きてわれに答へ曰ふ、
『ああ、ああ悲し、いにしへの豫言正しく今當る。
こゝに住みたる丈高きいみじき占者、彼の名は、
ユーリュミデース・テーレモス、豫言の道にいみじくて、
キュクローペスの族中に豫言なしつゝ年老いぬ。
後にこれらの事すべて成らむと我に彼告げき、
オヂュシュウスの手によりてわれの視覺は去るべしと。
されども我はおほいなる美なる人間、堂々の
威力揮ひて來るべきを、常に心に期待しき、
圖らざりけり、丈低く、賤しく、力弱き者、
酒もて我を陷れ、かくしてわが目亡ぼしぬ。
さはれこなたにオヂュシュウス來れ、贈遺を致すべし、
汝に歸國惠むべく地を()る神に祈るべし。
我は彼の子、彼はわが父親(ちゝ)なりと宣し曰ふ、
意あらば彼はわれの(まみ)癒さん、彼を外にして、
不死の神明、人間のいづれも是を善くし得ず。』

しか陳ずるに答へつゝわれは言句を叫び曰ふ、
『汝の魂を生命を滅ぼし去りて、冥王の
宿に汝を送ること(まさ)しく叶ひ得ましかば!
正しく大地()る神も汝の(まみ)を癒し得ず。』

しか陳ずれば、星ひかり天に雙手をさしのして、
ポセードーンに大神に彼は祈りて叫び曰ふ、
『ああ[9-528]ポセードーン、地を抱く神、きこしめせ、
我もし君の息ならば、君もし我の父ならば、
さらば、都城を破壞する彼れオヂュシュウス -- イタケーに
住めるラーエルテースの子 -- 故郷に返すこと勿れ、
されど親しき者に逢ひ、祖先の郷に、堅牢に
造りし家に歸るべき、運命彼にありとせば、
あらゆる從者失ひて悲慘の姿取り乍ら、
他人の舟に乘り、遲く歸りて家に難受けよ。』

[9-528]暗き海の司配者。

祈りてしかく陳ずれば髮黒き神きこしめす。
彼は再びいやましの大いなる岩かけ擧げつ、
巨大の力打込めて振りて遙かに投げ飛ばし、
(へさき)緑の我船のうしろに近く落ちしめぬ
手にとる舵の端近く及ばざること僅かなり。
其落ち來る岩のため海ははげしく波騷ぐ、
潮は先に舟を驅り、あなたの岸に迫らしむ。

かくして舟は島に着く、そこに殘せる漕座善き
數多の舟は相接し並び泊れり、從者らは
之をめぐりて坐して泣き、我らを待ちて悲しめり。
わが舟こゝに着ける時、之を沙上に引き揚げつ、
我ら一同わだつみの波うつ岸におり立ちつ、
キュクロープスの群羊を舟よりやがて引き出し、
之を頒ちて何人も分を失ふなからしむ。
されど群羊別つ時、かの牡羊をこと更に
脛甲堅き從者らは我に與へり、岸の上、
之を屠りて雲寄するクロニデースに -- 一切を
治むる神に -- 牲として、其股燒けり。然れども
ヂュウスは之を顧みず、すべての漕座善き船の --
親しきわれの從者らの -- 亡びんことを計らへり。

斯くて夕陽沈むまで終日われら岸に坐し、
多量の肉と甘美なる酒を用ゐて宴を張る。
やがて日輪沈み去り暗黒來り襲ふ時、
衆は一同わだつみの波うつ岸に横はる。

薔薇の色の指持てる曙の女神の現はれに、
われは從者を呼び起し、令を下して一齊に、
彼らを舟に乘りこませ、繋げる綱をほどかしむ。
衆は即ち速かに船に乘り入り、椅子につき
列を正して一齊に櫂に波浪をつんざけり。
斯くてこゝより漕ぎ去りぬ、親しき友を失ひて、
悲しみ乍ら、さりながら死を逃れしを歡びて。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十歌


第十歌

オヂュシュウス物語の續き、第四の冐險 -- 一行は風の神アイオロスの島に着き、 一箇月そこに款待され、發するに望み、風を封じ込めし革嚢を與へられる(一 - 二一)。 イタケーの故郷近くに來れる時、オヂュシュウスの疲れて眠るに乘じ、 從者等は革嚢中何の寶ありやを知らんとsいて封を破る、 爲めに逆風再びアイオロス島に吹き返す(二二 - 五五)。 アイオロス怒りて一行を追ひ攘ふ(五六 - 七九)。 七日を經て第五の冐險 -- 喰人種の郷に着き、多くの住者殺されて巨人の食となる(八〇 - 一二四)。 第六の冐險 -- オヂュシュウスの舟は逃れて妖女キルケーの住所アイアイエー島に着く(一二五 - 一三六)。 島に上陸し三日の間酒食を取りて休む(一三七 - 一八五)。 四日目に一半の從者ら探險に出でキルケーの館に到り、魔藥をを與へられて化して獸となる、 オヂュシュウスはこの報に接し行きて途に神使ヘルメーアスの逢ひ、 其惠める靈藥を携へて、キルケーを屈服せしむ(一八六 - 三九九)。 他の從者らも誘はれてキルケーの館に來る、一同こゝに一箇年滯留(四〇〇 - 四六八)。 オヂュシュウス歸郷を乞ふ、キルケー彼を促して冥王の府に赴かしむ(四六九 - 五七四)。

アイオリエーの名を負へる島に一同やがて着く。
諸神のめづるアイオロス -- [10-2]ヒッポタデースこゝに住む
その[10-3]浮島のめぐりには堅牢無比の黄銅の
壁を廻らし、滑かの巖石高く聳え立つ。
かれの宮中生れたる子女は合はせて一二人、
息女は六人(むたり)、花やかの子息同じく又六人(むたり)
彼は息子に妻として六人(むたり)の息女與へたり。
めづる父親母親のうれしき側にとこしへに、
彼らは宴す、其左右(さう)に無量の美味は滿ち溢る。
宮に終日肉の香といみじき笛の音と滿つ、
夜に到れば氈の上、又彫刻を施せる
いみじき床の上にして彼らは妻と共に臥す。
彼らの都市と華麗なる宮に一同やがて着く。
こゝに一月(ひとつき)アイオロスわれをもてなし、種々の事、
イーリオンまたアルゴスの舟と歸郷をたづね聞く、
我は即ち順々に委細をすべて話し説く。
しかして彼にわが旅行、われの歸郷を慇懃に
願へば、彼は何事も拒まず、之れが備へしつ、
齡九歳の牛の皮剥ぎて造りし皮嚢、
中にすべての颯々の風の呼吸を入れしもの、
われに與へぬ、クロニオーン彼をば風の司配とし、
其意のまゝに風を止め、風を起すを得せしめき。
即ち彼は船中に風の嚢を銀製の
燿く紐に繋ぎとめ、風洩るゝこと無からしめ、
獨り我らと我船を運ばんために、ゼピュロスの
風の呼吸を起さしむ。されども事は成らざりき、
悲し、われらの狂愚より我らほと〜破滅しぬ。
日夜重ぬる九度(こゝのたび)、舟は整々漕ぎ進み、
十日になれば程近く祖先の國は眼前に
現はれ、岸に火を燃やす人の姿も眺むべし。
その時甘き睡眠は疲れし我を襲ひ來ぬ、
祖先の郷に迅速に着かんがために、我は手に
舵を取りつゝ從者らの誰にも與へざりし故。
その從者らは彼と此れ互に言葉換はしつゝ、
曰へり黄金、白銀をヒッポタデース、弘量の
アイオロスより惠まれて我れわが家に齎らすと。
かくて從者のあるものは鄰れる者に陳じ曰ふ、
『ああ羨まし、わが主公、いづこいかなる地に行くも
彼はあらゆる人間に愛され、しかも尊ばる。
彼は華麗の寶物を鹵獲となしてトロイアの
地より携ふ、しかうして同じ旅を爲し乍ら、
我は空手に一物を取らず、故郷に立ち歸る。
しかも今又アイオロス、好意を持ちて彼にこの
贈遺をなして喜ばす、いざ此贈遺しらべ見む、
黄金及び白銀は皮嚢中に幾何ぞ?』

[10-2]ヒッポテースの子。
[10-3]アポローンの山島デロス亦浮島と曰はる。ヘロドトース二卷一五六節はエジプトにあるアポローン崇拜の浮島につきて述ぶ。

しかく陳じぬ、(よこしま)の思念彼らに打勝ちぬ。
皮の嚢は開かれぬ、あらゆる風は吹き立ちぬ、
故郷を後に疾風は潮の上に速かに、
泣ける從者ら襲ひつゝあらび狂ひて吹き去りぬ、
我は驚き目を覺まし、わが沈靜の胸に問ふ、
船より落ちて海中に此一命を棄つべきや?
あるひは默し生存に人の(あひ)にや留るべき?
やがて決して耐へ忍び留まり、かしら掩ひつつ、
わが船中に横はる。惡風船を驅り立てて、
アイオリエーの島に着く、從者は共に呻き泣く。

斯くて一同陸上におりたち、井より水を汲み、
船のかたへに速かに從者彼らの食を取る。
斯くて一同飮食を終れる後に我は立ち、
使者とひとりの從者とを伴ひつゝも、アイオロス
住む莊嚴の館さして行きて眺めぬ其王者、
其恩愛の妻と子と共に食事を催すを、
即ち入りて入口の柱に近く敷居のへ
坐しぬ。彼らは驚けり、而して我に問ひて曰ふ、
『オヂュシュウスよ、如何にして來れる?とある惡き神
惱ましつるや?慇懃に我は汝を送りきに、
故郷の館に好む地に汝の歸り着かんため。』

しかく彼等は陳ずれば、心痛めて我答ふ、
『不良の從者また更に惡き睡眠痛むべく、
我を害せり、そを癒せ、君らは之を善くすべし。』

しかく陳じて温柔の言句を以て衆に乞ふ、
されども衆は皆默す、父は答へて我に曰ふ

『人中最も忌はしき汝とく去れわが島を、
めでたき天の神明のもろ〜に憎まるゝ
人を憐み送りやる -- この事我に許されず、
去れ不滅なる神明に忌まれて汝歸り來ぬ。』

しかく陳じて、狂ほしくうごめく我を追ひ攘ふ。
そこより心苦しめて一同船を進め行く、
狂愚の故にやむなくも惱みて櫂を働かし、
いたく疲れぬ、吹き送る順風遂に現はれず。

六たび日夜を重ね來て海を亙りて七日めに、
ラモスの高き都市に着く、[10-81]テーレビュロスにたどり着く、
ライトリューゴネスの族この都市治む、この郷に
群を驅るもの、歸るもの牧夫互に呼び答ふ。
睡らぬものは此郷に二重の賃を儲くべし、
牛を飼ふ賃、銀色の羊飼ふ賃儲くべし、
[10-86]夜と晝との往來は互に近く相迫る。
こゝの港はいみじくて之を廻りて右左、
嶮しき巖聳え立ち、岬を爲して彼と此、
互に向ひ波の上突き出でつゝも、港口
狹からしめぬ、此場に今一同は來り着き、
港の中に兩端の曲れる船を繋ぎ止む。
うつろの港、其中に船は接して繋がれぬ。
港の中は波立たず、大波小波跡がなく、
見渡す限り海面は煌燿として靜かなり。
されども我は唯獨り港の外に黒き船、
陸地の端に泊らしめ、綱もて岩につなぎ附け、
さがしき巖 -- 展望のよろしき上に攀ぢ登り、
見ればそこより人間と家畜のわざは跡もなし
ただ烟のみ大地より上るをわれは眺め見る。
こゝに地上に食を取り住むは何らの人類か?
之を知るべく從者らの中より二人撰び出し、
更に一人の傳令の使を添へて送りやる。
岸におりたつ三人の進む平の道の上、
高き山より木材を都市に齎す車馬通ふ、
やがて進みて都市の前、水汲み女子と相見たり、
ライストリューゴネスの一、アンチパテスの娘なり。
アルタキエーの名を呼べる清き泉に降り行き、
そこより水を妙齡の處女は都に運ぶめり。
其傍近く立ち言句放ちて處女に問ふ、
こゝの庶民に令下すその國王は何ものぞ?
問はれて彼は父王の館の高き屋指し示す。
一同やがて莊麗の館に入り來ておほいなる
王妃、恰も山の嶺見るが如きに恐ぢ怖る。
王妃其時速かに集會(しふえ)の座より其夫、
アンチパテスを呼び出せば無慚の破滅たくらみつ、
直ちに從者一人を捕ひ屠りて食となす、
二人はやがて辛うじて逃れて船に歸り着く。
夫王即ち大音に呼べば都城の四方より、
無數にライストリューゴネス其聲聞きて寄せ來る。
姿は人に似もやらず、怪物見るにさも似たり。
彼らは重き大石を巖壁よりし離し取り、
投ぐればすぐに船のそば、凄き音響湧き起る、
打ち殺さるゝ叫喚と打ち碎かるゝ船の音。
肢躰を彼ら魚の(ごと)刺して運びて食となす。
海中深き灣の中彼等屠殺を行へる、
その()に我は鋭利なる剱を腰より引き拔きて、
(へさき)緑のわが船を繋げる綱を切り放ち、
すぐに從者を勵まして危險の地より逃るべく、
力を籠めて櫂取れと令を下せば從ひつ、
無慚の死滅恐れつゝ波つんざきて船すゝめ、
高く聳ゆる岩壁をあとに海へと乘り出す、
しかく免れ喜べど殘の舟は皆亡ぶ。
親しき友を失ひて胸は悲痛に滿つれども、
死滅をのがれ喜びて一同船を漕ぎ進め、
[10-135]アイアイエーの島に着く、人語あやつる怖るべき
神女キルケー、鬢毛の美なる神女はこゝに住む。
アイエーテース無慚なる者の妹、彼と此れ、
共に住めるは人間を照らすヘリオス、しかうして
母はペルセー、ペルセーをオーケアノスは生み出でき
船泊むべき灣内に船より出でて岸のへに、
無言の中にわれら着く、とある神靈導けり。
疲勞並びに哀痛に痛く心を惱ましめ、
岸にのぼりて二夜二日沙上にわれら横はる。
鬢毛美なる曙の神第三日を齎せば、
我は即ち鋭利なる剱と槍とを携へて、
舟のそばより脚進め、善き展望の地に上る、
人の業見て人の聲聽かんが爲に攀ぢ上る。
見わたすかなた、繁き森、林のしげみ貫きて、
烟のぼりぬ、キルケーの館より、廣き大地より。
其立ち昇る烟見て、行きてしかして探ること、
然るべきやと胸の中われは思案にかきくれぬ。
思案にくれてやがて斯く行ふことを善しと見ぬ。
即ち船に、わだつみの岸に、歸りて從者らに
食を與へて然る後探りに人を出すことを。
斯くしてわれは漂へる舟の近くに歸り着く。
その時とある神明は淋しき我を憐みて、
角いかめしき一頭の大鹿道に送り出す、
森の繁みをわけいでて、水を飮むべく、日輪の
猛威にいたく弱りつつ、溪流さして降り來る、
その降り來る大鹿の(せな)のもなかをわれは射りぬ、
飛ばす鋭き黄銅の槍に其背を貫かれ、
呻きて鹿は塵中に伏して、魂魄身を去りぬ。
その時巨獸踏まへつゝ、傷口よりし黄銅の
鋭き槍を拔き取りつ、之を地上に横たへて、
しかして樹々の小枝また柳の條を折りとりつ、
之を善く繼[絲|(勹/米)]ひ、一尋の長さの繩を編み上げて、
之を用ゐて恐ろしく大なる鹿の脚しばり、
しばりて之を首に懸け、槍を杖つき辛うじて、
黒き舟へと運び行く、片手に之を肩の上
支ふることは難かりき、さばかり彼は大なりき。
かくて巨獸を舟の前どうとおろして、温柔の
言句を以て衆人を勵まし我は陳じ曰ふ、

[10-81]或説は之を形容詞となし、「城門互に離るる」と解す、即ち廣大なる都市の意に。
或説は固有名詞となす(シシリイの北西岸の都市)
[10-86]夜半の太陽の郷についての漠然たる知識より來ると見ゆ。
[10-135]シシリイの岸と稱せらる。

『親しき友よ、いかばかり心悲嘆に滿つるとも、
運命の日の到る前、冥王の府に入る勿れ。
ああ今奮へ、船の中、飮食未だこと缺かず、
食事を與へ、飢餓のため衰へ弱ること勿れ。』

しか陳ずれば速かに一同われに從へり、
彼ら即ちわだつみの岸の近くに進み來て、
そこに投げられ横はる鹿の巨大に驚きつ、
驚異の(まみ)を張りし後、われに返れる一同は、
水を灑ぎて手を洗ひ、美々しき食事整へり。
かくて夕陽しづむ空、多量の肉と甘美なる
酒を用ゐて宴開き終日岸の上に坐し、
日輪遂に沈む時岸のへ臥して横たはる。

薔薇の色の指もてる曙の神女の出でし時、
我は評議の席設け、衆に向ひて陳じ曰ふ、

『事情誠に惡くとも我の言句に耳を貸せ、
友よ、われらは今知らず、[10-190]西はいづこぞ、ひんがしは?
光明照らす太陽の沈むやいづこ?現はるる
ほとりやいづこ?然れども何らの策の殘れるや?
そを迅速に思慮すべし、我に取りては策あらず、
嶮しき高き展望の地上に我は攀ぢのぼり、
島を眺めり、其あたり無限の波浪擴がれり、
島は低くも横たはる、中に一條立つ烟、
繁れる森と林とのあなたに我眼認めたり。』

[10-190]東西を知らずとは如何なる郷土にあるやを知らずの意なるべし。

しか陳ずれば一同の心胸裏に碎け去る、
彼らはライストリューゴネス、アンチパテスの爲せし行爲(わざ)
又人食ふ獰猛のキュクロープスを思ひ出で、
痛く呻きて澘然と淋漓の涙ふりおとす。
さはれ彼らの號哭も何らの益を齎さず。

その時我は脛甲の善き從者らを二分しつ、
その兩隊のおのおのに一人の首領相定む。
我自らは一隊を、ユウリュロコスは他を率ゆ。
而して籤を黄銅の兜の中に迅速に、
振れば即ち勇猛のユウリュロコスの籤出でぬ。
出で行く彼ともろともに、二十二人の從者らは
慟哭しつゝ進み行く、殘れる者も共に泣く。
一行やがて開けたる谿谷中にキルケーの
館 -- 滑かに磨かれし石より成れる館を見る。
その傍に深山の狼および獅子群れぬ、
神女が先に藥劑を與へて魅して馴らすもの。
その猛獸は入り來る人を襲ふを敢てせず、
甘へて媚びておほいなる尾毛を振りて跳ね踊る。
主人宴より歸る時、之を迎へて畜犬の
尾を搖る如し、(喜べるものを主人は齎せば、)
かくの如くに獅子および鋭き爪の狼は、
尾を搖る、されど猛獸に彼らはすべて恐ど怖る、
かくて鬢毛美はしきかのキルケーの戸の外に、
彼ら佇み家の中、いみじき(はた)を前にして、
歩みながらも美はしく神女の歌ふ聲を聞く、
神明すべて爲す業はいみじ、美はし、かゞやかし。
その時部長ポリテース -- 我の最も愛で思ひ、
たふとぶ從者 -- 言句もて衆に向ひて陳じ曰ふ、

『友よ聞かずや?戸の中にいみじき機を前にして、
歩み乍らに美はしく神女或はある女性、
床震ふ迄歌ふなり、いざ速かに音なはむ』

しか陳ずれば從ひて衆は大聲あげて呼ぶ、
たゞちに神女現はれて光る華麗の戸を開き、
招けば衆は思慮無くて附きて戸内に進み行く、
ユーリュロコスは奸計を猜して獨り立ち留る。
倚子に或は高倚子に神女は衆を坐らしめ、
乾酪、麥粉、黄なる蜜、[10-235]プラムネ産の葡萄酒を、
混じ造れる飮料の中に頗る恐るべき
毒を注ぎて取る者に歸郷の念を忘れしむ。
衆人受けて飮み乾せば、ただちに杖を振り上げて、
神女かれらの身を打ちて家豬ゐる檻に閉ぢこめぬ。
頭と聲と荒き毛と姿、全く家豬にして、
前に同じく變らぬは獨り彼等の心のみ、
泣きつつ檻に囚はるる衆に、キルケー投げ與ふ
食は、土の()まろび這ふ家豬の食とし馴るるもの、
即ち(ぶな)と樫の實とまた山ぐみの木の果なり。

[10-235]プラムネー山(サモス島の西イカリエー島)の産(一説)イーリアス十一歌六四〇。

その痛むべき運命の友の消息齎して、
ユーリュロコスは速かに黒く塗りたる船に着く。
されど劇しき悲しみに心打たれて彼は今、
切に願ふも一言も述べ得ず、涕兩眼に
溢れ、痛める胸中にたゞ慟哭を思ふのみ。
之を眺めて驚ける衆人かれに問へる時、
我に返りて友僚のつらき破滅をのべて曰ふ、

『ああ譽あるオヂュシュウス、君の命ずる如くして、
森の間を進み行き、開けし谷の中にして、
磨ける石に造られし華麗の館をわれら見き。
中に神女か、はた女人、おほいなる(はた)前にして、
歩みながらにいみじくも歌へり、われら呼ばはれり。
直ちに彼女現はれて燿く扉打ち開き、
招けば衆は思慮なくてひとしく附きて内に入る、
我ただ獨り奸計を猜して外に立ち留る。
群がり内に消え去れる衆中またと一人だも、
現はれ出でず、時長くし坐して待てども現はれず。』

その言聞きて肩の上、銀鋲打てる黄銅の
おほいなる剱投げかけつ、更に弓矢を身に帶びて、
我れ立ち上り命下し、同じき道を伴せしむ、
されども彼は我膝を兩手に抱き伏して乞ひ、
泣きて飛揚の翼ある言句を我に陳じ曰ふ、
『ああ君、ヂュウス育てし子、好まぬ我を行かしめな、
殘せやこゝに、我は知る、君も再び歸り得じ、
他を連れ歸ることを得ず。むしろ殘れるものと共、
はやく逃げ行け、禍の運命かくて免れむ。』

しかく陳ずる彼にわれ言句陳じて答へ曰ふ、
『黒く塗りたる中廣き舟に、この場に留りて、
ユーリュロコスよ、飮食を爲しつつ汝殘れかし。
されども我は出で行かん、強き運命我にあり。』

しかく陳じてわが舟を、海を離れて出でて行く。
されども聖き谿谷を過ぎて、魔法女キルケーの
おほいなる館訪はんとし、脚を進むる道の上、
黄金の杖携へてヘルメーアスは我に逢ふ、
出で逢ふ神は青春の若き人士の相を取る。
口の(ほとり)に始めての柔毛(にこげ)を見たる若盛り、
斯くして彼はわが手取り我に向ひて陳じ曰ふ。

『未知の難所を通り過ぎ、いづこに汝、身ひとつに、
不幸の者よ、行かんずる?汝の伴はキルケーの
館の中にて家豬のごと家豬の檻にぞ囚へらる。
そを救ふべく來れるや?思ふに汝自らも
歸るを得まじ、他と共に同じくそこに留らむ。
されども我は禍を解きて汝を救ふべし、
この藥草のいみじきを取り、キルケーの館に行け、
これぞ汝の頭より惡しき運命攘ふべき。
我れキルケーの姦策をすべて汝に示すべし、
彼は汝に飮料を備へて中に毒入れむ、
されども斯くて汝をば魅する能はじ、しかするを
われの與ふる妙藥は許さず、委細今告げむ。
長き杖振りキルケーが、正に汝を打たんずる
其時、汝鋭利なる剱を腰より拔き放ち、
殺を念ずる如くして、キルケー目がけ突きかかれ、
さすれば彼は驚怖して閨に汝を誘ふべし。
その時神女横はる閨を頒つを拒まざれ、
さすれば彼は伴を解き、汝をつとめてもてなさむ。
さもあれ彼に神明に盟立てよと命ずべし、
此上更に災難を汝に對し計らずと、
さなくば武具を剥ぎ取られ汝微弱の者たらむ。』
しかく[10-302]アルゲーポンテース、陳じて地より藥草を
拔きて與へて、我に斯くしき特性宣り示す。
その根は黒し、然れどもその花乳の如くなり。
神々これにモーリュの名與ふ、死すべき人間は
之を掘ること易からず、神は一切みな能くす。

[10-302]即ちヘルメーアス。

ヘルメーアスは樹々しげる島より立ちておほいなる
ウーリュンポスに向ひ去る、しかして我はキルケーの
館に向へり、途すがら種々に心を苦しめて。
やがて鬢毛美はしき神女の(かど)の外に立ち、
立ちつゝそこに呼はれば、神女は我の聲を聞く。
直ちに外に現はるゝ神女燿く戸を開き、
我を招けば胸中に憂ひ乍らも附きて行く、
入れば即ち美はしくたくみいみじく銀鋲を
飾れる高き椅子の上、われを坐らせ、慇懃に、
わが雙脚の臺を据ゑ、しかして後にたくらみて、
光る黄金の盃の中混成の汁滿たし、
更に私かに恐るべき毒を投じて飮ましめぬ。
我は即ち之を受け飮めども絶えて害されず、
その時魔女は杖あげてわれを打ちつゝ叫びいふ、

『いざ今汝獸欄に行きて他と共にそこに臥せ』
其言聞きて奮然と我は鋭利の剱を拔き、
殺を念ずる如くしてキルケー目がけ突きかゝる。
その時彼は高らかに叫びて我の下に伏し、
わが膝抱き悲みて、われに羽ある言句曰ふ、

『ああ君()そや?いづこより?都市と親とはいづこぞや?
恐るべき毒飮み乍ら殺害受けざるぞ訝かしき。
此毒飮みて、白き齒の防壁通りゆかしめし
人間にして、此毒に耐へ得る者は絶えてなし、
されども獨り耐へ得たる心は君の胸にあり。
オヂュシュウスか、君はそも?黄金の杖携ふる
使アルゲーポンテース、嘗て話しき、輕舟に
トロイアよりし歸り來て、君は我身を訪ふべしと。
いざ今鞘に其(つるぎ)收めよ、君と我と共、
わが温柔の閨に入り休まむ、床を共にして、
愛にひたりて快く契り、睦みて語らはむ。』

しかく陳じぬ、その時に我は答へて彼に曰ふ、
『キルケー、汝いかにしてわが温情を求むるや?
汝は我の從者らを此館中に家豬と化し、
而して更に姦計を我に對してもくろみて、
閨に進みて温柔の床に上れと誘ふや?
我の武裝を剥ぎとりて微弱の者と爲さんため。
汝の閨に入らんこと我は斷じて肯んぜず。
新たに更に姦計を我にたくらむことなしと、
神女よ、汝おごそかの盟をなすに非ずんば。』

『しか陳ずれば速かに、神女は令に從ひて
誓ふ、斯くしておごそかの誓言宣し終る後、
我は即ちキルケーの華美を極むる閨に入る。
かゝる間に部屋部屋に四人の侍女はいそがしく
勤め働く、館中につねに(かしづ)く女性逹、
彼らはすべて泉より、森より、更に大海に
走り流るゝ神聖の川より、生れいでしもの。
侍女の一人は紫の華麗の氈を椅子の上、
かけておほいて其下に、麻の布帛を擴げ布く。
第二の侍女は、椅子の前、白銀製の數々の
卓を据ゑつゝ、其上に黄金製の籠をおく。
侍女の第三、白銀の壺の中にて蜜に似る
甘美の酒に水をまぜ、黄金盃をまた配る。
第四は水を汲み來り、鼎の下に炎々の
火焔おこして、沸々と中に熱湯たぎらしむ。
かくて燿く黄銅の鼎の中に沸きたる湯、
浴槽中に汲みとりて程よく水を混じ入れ、
中にわが身をひたらしめ、頭を洗ひ、肩淨め、
わが心肝を弱らせし疲勞を身より攘ひ去る。
洗ひ終りて浴槽を出づれば、やがて滑らかの
香油を四肢にまみらして、上衣下衣を纒はしめ、
いみじき技工施せる、銀鋲打てる華麗なる
椅子に、わが身を據らしめて、更に足臺(あしだい)下に据う。
續いて更に一人(いちにん)の侍女、黄金の壺の中、
手洗ふ水を持ち來り、銀盤の上わがために
傾け、かくて琢かれし卓は近くに据ゑられぬ。
其時家事を司どる老女はパンと數々の
珍味をあまた貯藏より齎らし來り卓にのせ、
我に勸めぬ、然れども我は心に樂しまず、
外に思を廻らして禍難を感じ坐につけり。

斯くわれ坐して食物にわが手延さず、おほいなる
悲哀に沈む、かくと見る神女キルケー近寄りて、
傍へに立ちて翼ある飛揚の言句我に曰ふ、

『あゝオヂュシュウス、いかなれば斯くも聲なき人の如、
坐して心を惱まして手を飮食に延ばさざる?
あるひは外の計略を君や疑ふ?何事も
恐るゝ勿れ、おごそかの誓を君のため立てぬ。』

しかく陳じぬ、その時に答へて我は彼に曰ふ
『思へキルケー、苟くも正しき人はいかにして、
親しきおのが友僚を解きて、親しく眼前に
見るに先だち、飮食に其手を延ばすことを得ん!
わがめで思ふ友僚を解きて此目に見せしめよ。』

しか陳ずればキルケーは其手に杖をとりあげて、
館より外に走りいで、家豬を收むる檻の戸を
開き、九歳の家豬の相備へるものを驅り出す。
彼ら面して相立てば其おのおのゝ前に來て、
仙女は先と變りたる竒異の藥を施しぬ、
先にゆゝしきキルケーの與へし惡き藥にて、
生じしめたる荒き毛は衆の四肢より剥げ落ちぬ。
而して衆は忽然と又人間の姿とり、
先より更に美しく若く身の丈高くなる。
其時衆はわれを見て各々わが手握り締め、
歡喜に滿ちて一齊にをめき叫べば、洋々の
音館中に鳴りわたり、神女もために情動く。
仙女の中にすぐれたる彼は近くに立ちて曰ふ、
『ラーエルテース父として智謀に富めるオヂュシュウス、
ヂュウスの裔の君よ、いざ、舟と岸とをさして行き、
すべての前に眞先に舟陸上に引き上げよ、
次に貨物と一切の船具藏めよ洞の中、
しかしてこゝに立ち歸り親しき從者具せよかし。』

しか陳ずれば勇猛の我の心は諾へり。
かくして我は迅き船、並に岸をさして行き、
そこに親しきわが從者、舟のかたへに泫然と、
はげしく涙ふりおとし、悲哀にくるゝ姿見る。
牧場に草を()み飽きて、小屋に群がり歸り來る
母牛迎へて其めぐり、喜び勇み跳ね躍る
仔牛は、もはや檻の中留ることを敢てせず、
母を圍みて咆え叫び、廻り走るもかくやらむ、
從者ひとしく眼を見張り我を眺めて、泫然と
涙流して、わが側に群り寄せぬ。うれしめる
彼らの心さながらに生れ育ちしイタケーの
さがしき國に、生國に、祖先の郷に着く如し。
呻めき叫びて從者らは羽ある言句陳じ曰ふ、

『神の育てしオヂュシュウス、君の歸りの嬉しさよ、
嬉し、さながらイタケーの故郷に歸り着く如し、
さはれ我らの友僚の死滅やいかに、物語れ。』

その時、我は温柔の言句用ゐて陳じ曰ふ、
『すべての中に眞つさきに舟陸上に引き上げよ、
次に貨物と一切の船具を洞に取り入れよ、
而して汝悉く急ぎて我に附き來れ、
行きて見るべし神聖のかのキルケーの家の中、
汝の友の飮食に耽るを、量は限りなし。』

しか陳ずれば速かに衆人われの言に聽く、
ユウリロコスはただひとり聽かず、友僚警めて、
彼らに向ひ翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『不幸のわれらいづこにか行かんとするや?いかなれば、
かのキルケーの館中に行くべく禍難求むるや?
妖姫は人を豚と化し、狼と化し獅子と化し、
強て迫りておほいなる其宮殿を守らしむ。
キュクロープスも斯く爲しき、わが友僚が輕率の
オヂュシュウスともろともにかの洞窟に行きし時。
思慮なき彼の故によりわが友僚は亡びにき。』

その言聞きて憤る我は胸裏に思案しぬ、
わが長剱を逞しき腰より拔きて振りかざし、
よしや血縁近しとも、彼の頭を切り落し、
大地に之を投ぜんか?案ずる時に從者らは、
かはるがはるに温柔の言句用ゐて諫めいふ、

『神より生れしオヂュシュウス、君もしわれに命じなば、
彼をばこゝに船の側殘して船を守らせむ、
さはれ我をばキルケーの館に導き行けよかし。』

しかく陳じて岸邊より、舟より衆は立ち上がる、
ユウリロコスも中廣き船のかたへに留らず、
もろとも立てり、恐るべき我の(とがめ)を恐るれば。

かゝる間にキルケーは其館中に心こめ、
わが從者らを浴せしめ、膚に香油をまみらしめ、
其身のめぐり柔軟の上衣下衣を纒はしめ、
館に歡宴開かしむ。來る友僚之を見る、
共に互に彼と此認め、一切ことごとく
悟れる時に泣く聲は、あまねく館に鳴りひびく。

其時神女近よりてかたへに立ちて宣し曰ふ、
『ラーエルテース生める息、智謀にとめるオヂュシュウス、
もはやさばかり慟哭の涙を流すこと勿れ、
鱗族むるゝわだつみの上の苦惱やいかばかり、
又陸上に敵人の迫害いかに、我は知る、
いざ今汝食を取り葡萄酒を飮め、そのむかし、
さがしき故郷イタケーを初めて汝立てる時、
持ちしが如き心いま、歸り來りていさましく、
汝の胸を滿す迄。汝弱りて力なし、
空しく過ぎし艱辛の路を思へり、快樂に
汝の心滿されず、さばかり苦惱なめたれば。』

しか陳ずれば勇猛のわれらの心順へり。
かくしてこゝに一年をまたく過してやすらひつ、
日に日に肉を喫し飽き、甘美の酒を味へり。
かくして四季はめぐりゆき、月また月は移り去り、
長き日遂に來る迄、またく一年過ぎされば、
其時我の親愛の從者はわれを呼びて曰ふ、

『いみじき君よ、困難を逃れ助かり、堅牢に
築ける家に立ちかへり、祖先の郷を望むこと、
もし命ならば、今こそは、君も祖國を思へかし。』

しか陳ずれば勇猛のわれの心は從へり。
かくて夕陽沈むまで、多量の肉と甘美なる
酒を用ゐて宴開き、終日そこに坐を占めつ、
やがて日輪沈み去り、四方に闇のよする時、
わが從者らは暗翳の室のほとりに眠り伏す。

されども我はキルケーの華美を極むる閨に入り、
膝にすがりて彼に乞ふ、神女はわれの聲を聞く、
即ち彼に打向ひ、我は言句を陳じ曰ふ、
『あゝキルケーよ、先の日に我を故郷に送るべく、
なしたる約を今果せ、我の心は今急ぐ、
從者の心またさなり、彼らは我を惱まして、
君のあらざる隙を見て、われを圍みて哀訴せり。』

しか陳ずれば美麗なる神女答へて我に曰ふ、
『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス、
もはやわが屋に意に背き、汝とどまること勿れ、
さはれ初に又一度更に旅行に立ちいでて、
冥府の王者アイデース、其妃のペルセポネーアの
宮に訪づれ、テーベーのテーレシエース、盲目の
占者の靈をたづぬべし、彼の知性は確かなり、
ペルセポネーアただ彼に、死したる後も知あるべく
惠を與ふ、他の死者はただ影として翔くるのみ。』

しか陳ずるを耳にしてわれの心は打碎け、
臥榻の上に坐して泣き、此世に殘りながらへて、
また日輪の光明を見るべき願あらざりき。
されど轉々反側と號哭すでに滿てる時、
我は即ち言句もて答へて彼に陳じ曰ふ、

『あゝキルケーよ、其旅に導くものは誰ありや?
黒き舟乘り何人もアイデース住む宮訪はず。』

しか陳ずれば美麗なる神女ただちに答へ曰ふ、
『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス、
導く者を求めつゝ、思ひ煩ふこと勿れ、
ただ帆檣を打立てゝ白き帆を張り、船中に
坐せよ、然らば[10-507]ボレアスの呼吸汝を搬ぶべし。
オーケアノスを舟の上過ぎてあなたに着かん時、
そこに平らの岸の上高き白楊、實らざる
楊柳 -- ペルセポネーアんの聖林、汝見なん時、
オーケアノスの水深き岸に汝の船揚げて、
汝自らアイデース住む陰濕の宮を訪へ。
そこアケローンに流れ入るピュリプレゲトーン又さらに、
川スチュクスの枝流なるコーキュトスあり、(いはを)あり、
轟きわたる川二つ流れ落ち合ふ處あり。
そこに勇士よ、近よりて其時我の命の儘、
縱と横とは一ピュゴン長さの濠を穿てかし、
しかしてそこに亡靈に捧げんために、眞先に
乳と蜜との混液を、次に甘美の葡萄酒を、
更に三たび目、清水を灑ぎ其上麥粉蒔き、
體を具せざる亡靈に切に祈りて盟曰へ、
郷イタケーに着かん時、まだ子を生まぬ一頭の
すぐれし牝牛、又更に美味の燔祭捧げんと、
テーレシエスに又特に全身黒き牡羊を --
群の中なる最上を -- 屠りて牲となすべしと。
斯くてすぐれし亡靈の群に祈をなせる後、
牡羊及び色黒き牝羊とりて牲とせよ、
彼らの頭エレボスに向けよ、汝はふりかへり、
流るゝ水に顏向けよ、その時そこに一群の、
今は世に無き亡靈の數々寄せて來るべし。
その時汝從者らを勵まし之に命ずべし、
酷き刄に屠られてそこに伏したる羊らの、
皮を剥ぎ去り、火に燒きて、おほいなる神アイデース、
又恐るべき其配のペルセポネーア祭るべく。
次に汝は鋭利なる剱を腰より拔きはなし、
そこに坐すべし、汝まだテーレシエスに聞かぬ前、
群るゝ亡靈紅血に近寄ることの無きがため。
そこにただちに靈視者は、首領、汝に來るべし、
彼は汝に旅を告げ、往き又還る道程を、
鱗族群るゝわだつみの上の航路を示すべし。』

[10-507]北風。

しかく陳ずる程もなく黄金の座の曙の神
現はる。仙女其時に我に上衣と下衣とを
與へて躰を盖はしめ、身は銀色の裾長き、
織のいみじき莊麗の衣裳を穿ち、腰の上
黄金帶を纒ひつゝ、頭上に被覆(かづき)いただけり。
我は諸室を通り過ぎ、やさしき言に衆を呼び、
かはるがはるに各の前に立ちつゝ陳じいふ、

『友よ、あまりに甘眠を貪り過すこと勿れ、
いざや行くべし、端嚴のキルケーわれを促せり。』
しか陳ずれば勇猛の彼らの心從へり。
さはれ一人も缺けずして共に進むに非ざりき。
エルペーノール、衆中に齡最も若き者、
あまり軍に強からず知性も確かならぬ者、
友を離れて神聖の神女キルケーの館の中、
酒を過せる酩酊に涼を求めてやすらへり。
ざはめき動く友僚の音ろ騷を耳にして、
さめて俄に飛び上り、長き梯子のあるところ、
行きて降るを心中に彼は忘れて逆さまに、
高き屋根より地の上にどうと墜ち來つ、頸の骨
痛く碎きて斃れ伏し、(たま)冥王の府に沈む。

かなた其道進み行く從者に向ひ我は曰ふ、
『愛づる祖先の郷さして行くと汝等思ふらむ。
キルケーわれに示せしは別の途なり、アイデース、
又恐るべき彼の配ペルセポネアー住むところ、
テーレシエス、テーベーの人の魂訪はん途。』
しか陳ずれば、胸中に彼らの心打ち碎け、
立てる其場に坐して泣き、その頭髮をかきむしる、
されど彼等の慟哭は何らの益を齎らさず。

悲哀にくれて澘然(さんぜん)と涕流してわが船に、
また岸のへにわが脚を進めし時にこなたには、
キルケー行きて黒船の側に牡牛牝羊の
黒きを備へ、しかも皆我らの(まみ)に見せしめず。
神はいづこに行かんとも、神意に反し(まみ)あげて、
彼を見ること、何人も絶えて能くすることならず。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十一歌


第十一歌

アイアイエーの島を立ちいでしオヂュシュウスはキムメリオイの郷に着き、キルケーの命ずる如く牲を獻ず(一 - 五〇)。 エルペーノールの靈眞先に現はる。オヂュシュウスは母の亡靈を見る(五一 - 八三)。 テーレシエースは彼が故郷に歸るべきを、又途中の災厄を示す(八四 - 一三七)。 母の靈との問答(一三八 - 二二四)。將軍首領らの妻女の亡靈陸續として出で來る(二二五 - 三三二)。 以上の物語の繼續をアルキノオス又衆賓はオヂュシュウスに求む(三三三 - 三七六)。 物語の續き -- アガメムノーン冥府に現はれ非命に斃れしを説く(三七七 - 四六六)。 オヂュシュウスとアキリュウスの問答(四六七 - 五四〇)。 アイアースの靈現はる(五四一 - 五六七)。 ミーノース、オーリオンらの靈現はる(五六八 - 六〇〇)。 ヘーラクレースの幻影(六〇一 - 六二四)。 歸船(六二五 - 六四〇)。

大海原の岸のうへ揚げたる船に着ける時、
われら眞先に神聖の波に其船引きおろし、
黒く塗りたる其船に帆を帆柱をとりつけつ、
群羊引きて中に入れ、かくして衆は悲しみて、
潸然として涕涙にくれつつ船に乘り込みぬ。
その時聲は玲瓏に、鬢毛美なる、恐るべき
神女キルケーわが爲めに、(へさき)緑の舟の帆を
滿たす順風、たより善き助けの風を吹きおくる。
舟のあたりに一切の船具をかくてとりつけて、
われら一同坐せる船、風と舵手とは導けり。
わだつみわたる舟の帆は張り擴げらる()一日(ひとひ)
やがて日輪沈みゆき、海路は闇に閉ざされぬ。
やがてわが舟水深きオーケアノスの端に着く、
霧と雲とに覆はれて[11-14]キムメリオイの民族は、
こゝに其都市(もとゐ)して、こゝに其生營めり。
日輪高く天上をさして燿き昇る時、
あるは天より地をさして日輪降り來る時、
その煌煌の光もて照して臨むことあらず、
たゞ陰慘の暗き夜不幸の民の上を掩ふ。
こゝに到りて舟泊め、岸のへ揚げて群羊を
曵き出しつつ一同はオーケアノスの川に添ひ、
脚を進めてキルケーの先に[11-22]示せし(には)に着く。
ペリメーデース、わが從者ユウリュロコスともろともに
牲を保てば、鋭利なる剱を腰より我は拔き、
縱横共に一ピュゴーン、穴を穿ちて其中に、
亡者すべてに供ふべく、乳と蜜との混液を、
次に甘美の葡萄酒を、更に三度(みたびめ)清水を、
注ぎ入れつつ、其上に白き麥の粉蒔き散らす。
體を具せざる亡靈に斯くして我は祈り乞ふ、
我イタケーに着かん時、まだ仔を生まぬ一頭の
すぐれし牝牛、又更に美味の燔祭捧ぐべし、
[11-32]テーレシエスに又更に全身黒き牡羊を --
群の中なる最上を -- 屠りて牲と爲すべしと。
かくて盟と祈とを爲して亡者の群に乞ひ、
終りて羊曵き出し、穴に臨みて喉切れば、
黯紅色の血は流る。今は世に無き亡靈の
群その時に[11-37]エレボスを出でて續々寄せ來る。
〔若き男性又女性、惱續けし老齡者、
新たの悲哀感じたる優にやさしき少女逹、
穗先鋭き槍により突かれて逝ける勇士逹、
紅血染むる武具帶びて戰場中に死せる者、
これらの亡者四方より、穴の邊に啾々の
聲を放ちて寄せ來る、我は恐怖に青ざめぬ。〕
その時我は從者らを勵まし之に令下し、
酷き利刄に屠られてそこに伏したる群羊の
皮を剥ぎ去り炙り燒き、おほいなる神アイデース、
又もの凄き彼の配ペルセポネーア祭るべく、
告げて自ら鋭利なる(けん)を腰より拔き放ち、
テーレシエスに話す前、體を具せざる亡靈が、
寄せて血汐に近づくを防がんためにそこに坐す。
[11-51]エルペーノール、船員の靈は眞先に出で來る、
廣き大地の胸の中、彼は未だに埋められず、
哀悼まだし、埋葬もまだし、他の勞迫り來て、
彼の死體はキルケーの館のもなかに殘されぬ。
彼を眺めて胸中に我は憐み、潸然と
涕流して翼ある言句を彼の陳じ曰ふ、
『エルペーノール、いかにして暗き郷よりいでて來し?
黒き船にて我れ來しに、徒歩にて汝先だてり』。

[11-14]ホメーロスに於ける詩的想像の民、所は冥府の入口の北に、オーケアノスに臨み、大地の西にあり、常に雲霧に掩はる。
[11-22]十歌五一六。
[11-32]豫言者、前歌に述べられる。
[11-37]暗き死の谷(イーリアス八歌三六七など)。
[11-51]十歌の終に彼の屋上より落ちて死せる一段あり。

しか陳ずれば呻吟の聲を放ちて彼は曰ふ、
『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス!
()を害せしは神明のあしき運命、また大酒。
我れキルケーの館の中、眠に落ちて知らざりき。
長き梯子を降り來て歸りの路を踏むべきを、
屋根より下に逆さまに落て、わが頸脊柱の
節より碎け魂魄は、冥王の地に沈みたり。
あとに殘して倶ならぬ彼らにかけてわれは乞ふ、
君の夫人とそのむかし幼き君を育てたる、
君の父、また獨子のテーレマコスにかけて乞ふ、
我かく觀ず、君は今アイデース住む宿去りて、
アイアイエーの島目がけ、堅牢の舟すゝむべし。
そこに到らばわが主公、願はく我を思ひでよ、
埋葬されず哀悼を受けざる我をあとにして、
其地を離れ去る勿れ、神の怒は降らんず。
わが携へし武具ともに我の屍體を荼毗(だび)に附し、
白波寄する岸の上、この薄命の友のため、
塚を築きて來るべき後の世のため記念せよ。
かく我が爲に成し了へて櫂を墓のへ打立てよ。
生きし昨日は友僚と共に用ゐしわが櫂を。』

しかく陳ずる亡靈に答へて我は陳じ曰ふ、
『ああ薄命のわかき友、これらの事を皆爲さん。』
かく幽明の友二人悲痛の言句相交へ、
坐しぬ、利劔を手に取りて我は血汐に臨みつつ、
わが僚友の幻影は多くの言句陳じつつ。

次に出でしは今は無き母の亡靈おほいなる
[11-85]オートリュコスの息女たるアンチクレーア、そのむかし
われイリオンに向ふ時、なほ世にありし我の慈母、
眺めて我は涕涙を流して彼を憐みぬ、
さはれ哀痛切ながら、テーレシエスに問はん前、
彼女血汐に近よるを(無情ながらも)許し得ず。

[11-85]十九歌三九五。

やがて續きてテーベーのテーレシエース、黄金の
笏を手に取り、現はれて我を認めて陳じ曰ふ、
『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス、
薄命の友、いかなれば日の光明をあとにして、
こゝに來りて亡靈を、樂しからざる郷を訪ふ?
さはれ穴よりあとに曵き、利劔を鞘に收めずや、
[11-96]血汐すすりて眞實を汝の我の告げんため。』

[11-96]亡靈血を啜れば言語を發することを得(一五三及び其他)。

其言聞きて身を引きて銀鋲かざる利き剱、
もとの鞘へと收むれば、暗紅色の血をすする
尊き占者、翼ある言句を我に陳じ曰ふ、

『ああ譽あるオヂュシュウス、樂しき歸國求むるな!
とある神明妨げむ、思ふに大地震ふ者、
これを汝に許すまじ、彼は汝にいきどほる。
彼れの愛兒を盲目となせる汝にいきどほる。
濃藍染むる海逃れ、[11-104]トリナキエーの島の上、
眞先に汝堅牢の船を渚に引き揚げて、
一切を見て一切を聞く神明のエーリオス、
其神明の養へる牛と羊を見なん時、
おのれの心從者らの心を抑へ制し得ば、
苦難受くともしかも尚故郷に歸ることを得ん。
かの牛羊を傷はず、歸路にひたすらいそしまば、
苦難受くるもイタケーの故郷に歸ることを得ん。
之に反して傷はば從者も舟も皆破滅、
我この事を豫言せん、汝はよしや逃るとも、
他人の舟に身を托し、友一切を失ひて、
無慘の姿歸り着く家に禍難を眺むべし。
そは驕傲の人の群、汝の産を貪りて、
汝の妻に求婚の禮物具して來る者。
されども汝歸る時、彼らの暴を懲すべし。
かくて汝の館中に、計略により、あるは又、
利刄によりて求婚のこれらの群を亡ぼさば、
其時汝旅に出でいみじき櫂を携へよ、
やがて着くべき郷の民、彼らは海の知識なし、
彼らは()する食物に鹽を混ずることあらず、
舳艫を暗き紅に染むる船舶絶えて見ず、
船に對して羽翼たるいみじき櫂をつゆ知らず。
見逃すことのあるまじき著名の記號今告げむ。
(ほか)の旅人道のへに逢ひて汝の櫂を見て、
ををしき肩に擔ふもの殼振ふべき箕と曰はむ。
いみじき櫂を其時に汝大地に植ゑ立てよ、
ポセーダーオーン大神に其時汝よく選び、
牡牛牡羊牡の家豬のすぐれし牲を奉れ、
しかして家に到る時、廣き大空しろしめす
不滅の神の諸々に、各々順に從ひて、
牲を屠りて奉れ。遙かに海に遠ざかる
汝の上に臨終は遂に來らむ、穩かに
傾き盡きし老齡に、しかして領に住む民は、
幸福ならむ。我は斯く眞實すべて説き示す。』

[11-104]一二歌一二七。

しか陳ずれば翼ある言句に我は答へ曰ふ、
『テーレシエーよ、まさしくも神々かくは定めたり。
さはれ願はく眞實に今次の事説き示せ、
今は世に亡きわが母の亡靈こゝに我は見る、
靈は默して血に近く坐して、而して彼の子を
(おも)を合して見んとせず、言句かはすを敢てせず。
君よ教へよ、いかにして彼は其子を認むべき?』

しか陳ずれば其時にただちに彼は答へ曰ふ、
『汝の胸に銘ずべきわれの言句はいと易し、
今は世に亡き亡靈の誰しも、汝血のそばに
寄るを許さば、其者は眞を汝に語るべし、
寄るを拒まば其者はあとに空しく歸るべし。』

しかく豫言を述べ終へてテーレシエスの幽魂は、
冥府の王者アイデースやどる宮殿に歸り行く。
我は地上に坐して待つ、やがてわが母進み來て、
黯紅色の血を飮みて直ちに我を認め得つ、
悲哀の聲に翼ある言句を我に陳じ曰ふ、

『猶生き乍ら陰慘の闇にわが子よ、いかにして
來れる?ここら眺むるは生ける者には易からず。
おほいなる川、恐るべき流、生死の(あひ)にあり、
オーケアノスはまづ先に、 -- これを徒歩にて渡ること、
叶ふべからず、堅牢の船をもつこと無かりせば。
船と從者もろともに漂泊長く時を經て、
トロイアあとに今こゝに汝來るやイタケーに
未だ行かずや?館の中汝の妻まだ見ずや?』

しか陳ずるに答へつつ我は即ち彼に曰ふ、
『ああわが母よ、テーベーのテーレシエスの幽魂に
問ふべく、我はアイデスの冥府に來る要ありき。
是まで未だアカイアに我近寄らず、わが郷に
まだ踏み入らず、とこしへに苦難忍びて漂へり。
アガメムーン[注:アガメムノーンの誤り?]に伴ひて駿馬産するイリオンに、
トロイア軍と戰を爲すべく立ちしその日より。
さはれああ母、眞實にこの事我に説き示せ、
現身長く伏せしむる死により汝斃れしは、
何等の命か?斃しは或は永き病患か?
あるひは[11-173]弓手アルテミス、柔軟の矢に斃れしか?
郷に殘せるわが父をわが子を次に我に曰へ、
彼らに我の光榮は保たれありや?但し又、
我歸らずと宣し曰ふ他人に奪ひ取られしや?
またわが妻の上を曰へ、志望やいかに意思いかに?
彼は子ととも一切を堅く守りて留まるや?
アカイア族の優秀のある者彼を娶れるや?』

[11-173]本歌一九八。

しか陳ずれば端嚴の母はただちに答へ曰ふ、
『汝の家にいみじくも善く耐忍の心もて、
汝の妻は今殘る。さはれ嘆きの夜と晝、
澘然(さんぜん)として涙なる彼に續きて來り去る。
次に汝の光榮は未だ他人に奪はれず、
テーレマコスは平穩に領地治めて平等の
宴に列なる、列なるは法を行ふ者の身に
ふさはし、衆は皆招く。汝の父は田園の
中に殘りて都市に來ず、[11-188]彼には夜を過すべき
寢臺あらず、夜着あらず、華麗の褥またあらず、
冬には彼は奴隸等と同じく庭に、爐のほとり、
灰燼の中横はり、身に襤褸を纒ふのみ、
しかして夏と豐饒の季節來る時、彼のため
葡萄の畑の一隅に、四方(よも)より散りて落ち來る、
其木葉を料として、低き寢床は設けらる。
そこに悲しく横はり、汝の歸郷待ちわぶる、
彼に老齡推し寄せて、胸に悲嘆を滿たさしむ。
されども我は世を辭して死の運命に隨へり。
狙正しき[11-198]弓の神來りて、彼の柔軟の
矢を放ちつつ館中に、われ斃せしに非りき。
又悼むべき老衰に、四肢より命を奪ひ去る
其病患の襲ひ來て、われ斃せしに非りき。
ああ譽あるオヂュシュウス優しき汝思ひいで、
あこがれ慕ふ傷心に我の甘美の命盡きぬ。』

[11-188]老人の境遇あまりに悲慘解すべからず。
[11-198]神女アルテミス(五歌一二三)(本歌一七三)靜穩に死せることをかく曰ふ。

其言聞きて胸中に我は念じぬ、今は無き
わが恩愛の母の靈、今此腕に抱かんと、
三たび斯くして抱くべく念じ進みて飛びかかる、
三たび彼女はわが手より影また夢を見る如く、
飛び去る、斯くておほいなる悲哀は我の胸滿たす、
かくして我は翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『冥王の府にあり乍ら、互に腕を投げかけて、
共に悲しき號哭に、飽かんと念じ走り寄る
我を、愛兒を、いかなれば、あはれわが母、待たざるや?
ペルセポネーアあるはまた、我の劇しく慟哭を
盡すを念じたくらみて、我に此影遣はすや?』

しか陳ずれば端嚴の母は直ちに答へ曰ふ、
『ああ一切の人間の中に最も不幸なる
わが子、汝をヂュウスの女ペルセポネーア欺かず、
一たび現世棄つる時、人は皆この制を受く、
一命つきて幽魂の白き骨より別るれば、
肉と骨とは筋によりはや結ばれず、炎々と
劇しく燃ゆる凄き火の猛威によりて亡びさる、
その時魂は飄々と風の如くに飛び廻る。
今速かに光明に向ひて急げ。忘るるな、
これらすべてを、後の時、汝の妻に告げんため。』

母と其子と斯くかたる、かなた冥王の凄き配、
ペルセポネーア遣はせる數多の女性寄せ來る、
現世の中にすぐれたる人の妻、また其むすめ、
黯紅色の血をめがけ、四方よりして群れ來る、
その各に相續き、問ひ正すべく念じつつ、
我は心と最上と念ずる者を行ひて、
刀身長き(つるぎ)、われの腰より拔き放ち、
亡靈ともに一齊に血汐すするを警めぬ。
斯くしてかれら相つぎて、かはるがはるに寄せ來り、
おのおの(おの)が系統を述べぬ、すべてに我問ひぬ。

素性尊き[11-235]チューロウはまさきに我の前に立つ、
自ら稱ふ、すぐれたるサルモーニュスの息女ぞと、
クレーチュウスは、アイオロス生める息にてかれの(つま)
むかしは彼女神聖の[11-238]エニーピュウス -- 一切の
川流中にすぐれたる清く流るる河の靈 --
戀してこれの岸の上屡々(しば〜゛)足を搬びにき。
[11-241]大地を圍み震ふ神、河靈の姿身に假りて、
渦卷き走る大川の口にて彼に添寢しぬ、
その時暗き大潮は、山の如くにおしよせて、
渦卷き上り、神靈を女性と共に蔽ひ去る、
その時神は處女の帶解きて眠を起さしむ。
愛の抱擁とげし後、神はしづかに立ち上り、
彼の手を取り慇懃に(はね)ある言句陳じ曰ふ、

[11-235]二三五 - 三三二、冥府に出で來る女性の群。
[11-238]エイリスにある川、或はテッサリイにあるとも曰ふ。
[11-241]ポセードーン。

『女性よ、我の抱擁を喜べ、年のめぐる時、
汝すぐれし子を産まむ、不死の神明()ぬる床、
見よ、空ならず、心してはぐくめ、汝これらの子。
家に今行き、口閉ざし、わが名を人に曰ふ勿れ、
汝に告げむ、我こそは大地震はすポセードーン。』

しかく陳じて波騷ぐ大わだつみに潛り入る。
彼女孕みて[11-254]ペリエースまたネーリュウス二兒を生む、
二人生ひ立ち、おほいなるヂュウスの強き臣となる、
イアオールコス廣き地に住みて、家蓄にペリエース
富みたり、更に沙深きピュロスに住めりネーリュウス。
女性の中にすぐれたるヂュロウ後に(つま)とせる
クレーチュウスに三兒生む、アイソーン、ペレース、アミュタオーンン。

[11-254]二歌一二〇。

アンチオペーを次に見る、彼を生めるはアソーポス、
ヂュウスの腕に抱かれて寢ねしと彼女誇り曰ふ、
アムピイオーン、ゼートスの二兒はかくして生れたり、
二人初めてテーベーの七つの門ある都市を建て、
城上更に塔を建つ、塔もし無くばテーベーの
廣き領土に住みがたし、勇氣はいかに強くとも。

アルクメーネー次に見る、アムピトリオーンその(をつと)
ヂュウスの腕に身を任せ、その抱擁に生みし子は、
ヘーラクレース、勇にして獅子の心をもてるもの。
心傲れるクレーオーン、生みたる息女メガレーを --
アプピトリオーン[11-270]生める子が娶れるものを -- 次に見る。
オイヂポデース生める母[11-271]エピカステーを次に見る、
心にそれと知らずして彼女はおのが子と契り、
無慚の罪を犯したる、其子同じく知らずして、
父を殺せり、此事を神明不意に衆に告ぐ、
(是より先に)神明の凄き意思より、カドモスに
苦難を忍び、テーベーの都を彼は治めてき。
彼女悲痛は堪へずして、高き梁より輪索埀れ、
縊れて死して、アイデース冥府の王の堅固なる
門を潛りぬ、其あとに母たるものの怨靈の
報ゆる所、おほいなる禍難に其子惱まさる。

[11-270]ヘーラクレース也、ヂュウスの子とも曰はれ、アムピトリオーンの子とも曰はる。
[11-271]即ちヨーカスタ、其悲劇はソホクレースの大作。

次に見たるはクローリス、其艷麗の姿見て、
無量の寶ネーリュウス贈りておのが妻としき、
イアソスの息 -- ミュニエーのオルコメノスを治めたる
[11-284]アムピーオンの末の子と此麗人は生れいで、
ピュロスを治め、良人に數多いみじき子を生みぬ。
ネストール又クロミオス、ペリクリュメースすぐれしに
加へて更にペーローを、人の驚く剛勇の
女性をうみぬ。周邊の人々共に求むれど、
父ネーリュウスうべなはず、イーピクロスの牧へる群、
額は廣く角曲がる群、驅り出すに難きもの、
ピュラケーよりし驅る者に唯與ふべし。この事を
すぐれし[11-292]占者企てぬ、されども神のすごき命、
嚴しき鐡鎖、牧羊の子らは占者を(いまし)めぬ。
やがて日は往き月替り、めぐりめぐりて年滿ちて、
季節再び歸る時、イーピクロスはかの占者
許して釋けり、一切の[11-296]豫言を彼になさしめて、
かくしてヂュウス、おほいなる神の念慮は果されぬ。
ヂュウンダレオス娶りたる[11-298]レーデー次に我は見る、
猛き心の二人の子彼は夫のために生む、
馬術たくみのカストール、又拳鬪にすぐれたる
ポリュヂューケース、其二人生けるを大地掩ひ去る、
ヂュウスの厚き恩寵を地下にありても身に受けて、
かはるがはるに、一日はながらへ、次の日は死して、
受くる光榮、神明のそれにも彼ら等しかり。

[11-284]母は(後文三二六)クリュメネー即クローリスの祖母。
[11-292]メラムプースといふ、其兄がペーローを戀せる故に、代りて企てしなり。
[11-296]子の無き故を占はせしなり。
[11-298]所謂レダ、白鳥の姿をとれるヂュウスに抱擁されしもの(後世の神話)、アガメムノーンの奸婦クリュタイムネーストレーはチュンダレオスとレーデーとの息女。

アローユースの娶りたるイピチメデーア次に見る、
ポセードーンの抱擁を彼女自ら誇りいふ、
生れし二兒はもろともに享けたる壽命長からず、
オートス神に等しくて、エピアルテースほまれあり、
豐かの大地はぐくみし中に最も偉なるもの、
又美なるもの、(光榮のオーリオーンを外にして。)
年齒僅に九歳にて身の幅廣し九ピューゴーン、
しかも身の丈彼と是、共にひとしく九キルギュア。
ウーリュンポスの神々を敵に、はげしき鬪爭を、
荒ぶるび狂へる戰鬪をなすべく二人たけびつ、
ウーリュンポスの嶺の上、オッサを、更に其上に、
樹木しげれるペーリオン重ねて天にのぼらんず。
もし青春に逹し得ば、二人はこれを遂げつらむ。
されど鬢毛美はしレートー生める[11-318]ヂュウスの子、
二人を撃てり、こめかみに未だ和毛(にこげ)の生えぬ前、
顎髯(あごひげ)未だうらわかき彼らの(おも)に生えぬ前。

[11-318]アポローン。

[11-321a]パイドレーまた[11-321b]プリクロス、更にゆゝしき[11-321c]ミーノスの
生みたる娘、艷麗のアリアドネーを次に見ぬ、
アテーナイ府の丘の上、クレーテーよりテーシュウス
彼を連れんとせしも得ず、[11-324]の言を聞き、
ヂーエー島にアルテミス、艷女を先に亡ぼしぬ。

[11-321a]テーシュースの妻 -- 義子ヒッポリトスに邪戀の美人。
[11-321b]アテーネー王エレクチュウスの息女、其良人ケパロスを棄つ。後に良人に誤りて殺さる。
[11-321c]下文五六八。
[11-324]ヂオニュソースは嫉妬して彼女を讒せしならん。

續きてわれは眺め見る[11-326a]マイラ並に[11-326b]クリュメネー、
また憎むべき[11-327]エリピュレー、夫を金に換へしもの、
これまで述べし者の外、わが見しすべて、英雄の
妻女一々われこゝに、名ざして語ることを得ず、
神聖の夜はその前に過ぎ去りぬべし、今は我
睡るべき時、舟にゆき親しき從者もろともに、
或はこゝに。 -- 我が歸國、神と君とは計らはむ。』

[11-326a]ヂュウスに愛され、ロクロスを生む、ロクロスはアムピオーン及びゼートスと共にテーベー城を築ける者。
[11-326b]上文二八四、ピラコスの夫人、イーピクロスの母と後世ユウスタチオは曰ふ。又オルコメノスの王イアソスの夫人なりとの説あり。
[11-327]米一五歌二四四、アムピアラーオスの妻、アプロヂーテーより傳はる金の首輪に迷ひ、良人を裏切りて亡ぼしむ、後ち其子の爲めに復讐さる。

しか陳ずれば影くらき殿中、衆は默然と
口を閉して、魅せられし如くに耳を傾けぬ。
玉腕白きアレーテー、其時衆に陳じいふ、
『パイエーケスの國人ら、彼の姿は、身の丈は、
又整へる精神は、いかに汝に訴へし?
彼はわが客、然れども共に汝にとりて客、
急ぎて彼を立たしめな!彼に贈遺の要あれば。
汝ら惜むこと勿れ、多くの寶、神明の
助によりて汝等の館に飽く迄充ち足れり。』

パイエーケスの國人の中に最も高齡の、
エケネーオスは其時に、衆に向ひて陳じ曰ふ、
『的を外れず、理に適ふ、いみじき言句、聰明の
女王の口の述べられぬ。我らは之に從はむ、
さはれ言行決するはアルキノオスのなす處。』

アルキノオスは其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『我れ(なが)らへて櫂の友、パイエーケスに命令を
傳ふる限り、此言は必ず果し遂げられむ、
さはれ願はく、賓客は、いかに歸郷を急ぐとも、
忍びてこゝに明日までは殘らんことを、一切の
贈遺の品の揃ふ迄、彼を送るは衆人の、
務、 -- 中にも此館のあるじたる身のわが務。』

智謀に富めるオヂュシュウス其時答へて彼に曰ふ、
『あゝ一切の民の中、權威すぐれし[11-355]アルキノエ、
君もしこゝに一年もわが滯留を命じつゝ、
我が送還を計りつゝ、贈與豐かになすとせば、
我喜びて從はむ、手中に滿つつ珍寶を
祖先の郷に齎らして、歸り着くこそ(まし)ならめ、
しかせばわれのイタケーの歸郷眺むる衆人は、
更に一層尊敬と愛とを我に加ふべし。』

[11-355]呼格。

アルキノオスは其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『あゝオヂュシュウス、君を見て詐欺姦計の(ともがら)
疑ふことは無用なり、黒き大地はかゝるもの、
慮僞を計らふしれものを、あまねくよもに育つれど。
誰しもかゝる姦計を見破ることは易からず。
君に美麗の言句あり、又善良の心あり、
君は伶人見る如く、巧に事を物語る、
アルゴス諸人もろともに受けし辛苦を物語る。
いざ今我に明らかに此等の事を物語れ、
君もろともにイリオンに、進みてそこに運命の
破滅に逢ひし英雄の或者、君は見ざりしか?
曰ふばかりなく夜は長し、未だ殿中眠るべき
時は到らず、願はくは驚異の的の業を説け。
君の辛苦を殿中に委細に説くを敢てせば、
然らば我は神聖の曙までも坐し聞かむ。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『あゝ一切の民の中、權威すぐれしアルキノエ、
物語りする時はあり、又睡るべき時はあり、
君もし話聞かまくば我は拒まず語るべし、
更に一層先よりも悲慘の事を、後の日に
到り無慘に殺されしわが同僚の運命を。
彼らは凄きトロイアの叫喚あとに逃れさり、
家に歸りて憎むべき姦婦のために殺されき。

ペルセポネーア、神聖の冥府の王妃、數多き
女性の魂ををちこちに去り散らしめし其あとに、
アトレーデース、悲しめるアガメムノーンの亡靈は、
來れり、彼の傍に、彼もろともに歸る後、
アイギストスの殿中に斃れし者は群れり。
暗紅色の血をすゝる彼は直ちに我認め、
劇して泣きて澘然(さんぜん)と涕灑ぎて雙の腕、
我に向ひて突き出し、われに觸れんと念ずめり。
されどいにしへ柔靱の彼の肢躰に宿れりし
強き力は勢は、今はや彼に殘されず。
彼を眺めて泣ける我、胸に憐憫充たしめて、
彼に向ひて翼ある飛揚の言句陳じいふ、
『アトレーデース、權勢のアガメムノーン、民の王、
屍躰を長く伏せしむる死の運命のいづれぞや、
君斃せるは?舟の上、劇しき風の猛烈の
呼吸を暴く呼びだして、ポセーダーオーン斃せしや?
あるは陸のへ、牛羊のすぐれし群を襲ふ時、
あるは都城と女性らを掠めんために戰に
あらべる時に、敵の手にかゝりて君は斃れしや?』

しかく陳ずる我に彼ただちに答へ陳じいふ、
『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス
劇しき風の猛烈の呼吸を暴く呼びだして
ポセーダーオーン舟のへにわれ斃せしに非ざりき、
又陸上に敵の者われ殺せしにあらざりき、
わが姦惡の妻と共、我に死滅をたくらみて、
さながら日とが飼槽のそばに牡牛を屠るごと、
アイギストスは宴席に無慚に我を斃したり。
かくて無慚の死を遂げし我をめぐりて陸續と、
わが從者らも殺されぬ、勢強く富める人、
婚賀の宴か會食か、大饗宴を開く時、
牙は眞白の家豬の群、屠らるゝ樣斯くあらむ。
是まで君はあまたたび、或は只に身一つの、
或は群るゝ軍中の、人の殺死に逢ひつらむ、
しかはあれども杯盤と豐かに盛れる食卓の
そば、宴席に斃れ伏し、流血床に漲れる
かゝる慘状眺め得ば君は無上に呻くべし。
王プリアモス生める女子、[11-421]カッサンドレー、わがそばに
毒婦クリタイムネ⌒ストレー斃しし時の叫喚は、
悲しき極の聲なりき。床に倒れて横たはる
われ臨終に手をのして剱に觸れしもあだなりき。
毒婦は我を棄てゝ去り、冥王の府に今向ふ
我がため手もてわが目蓋また我口を閉ぢざりき。
かゝる姦計胸中にたくらむ女性 -- 之よりも
優りて更に恐るべく憎むべきもの世にあらず。
毒婦は我の -- 正當の夫の死滅企てゝ、
正しくかゝる姦計をその胸中にめぐらしぬ。
あゝ我れ家に歸る時、歡喜溢れてわが子らと、
わが家僕らを見んとしき。彼女無上の悖逆を
犯し、身の上、一切の後に來るべき女性らの
上、また更に貞淑のそれの上にも恥與ふ。』

[11-421]アガメムノーンが、トロイアより捕虜として愛人として携へ歸りし者、エスキュラースは是一段を敷衍して大悲劇「アガメムノーン」を作る。

しか陳ずれば翼ある言句(ごんく)に我は答へ曰ふ、
『無慚なるかな雷霆のヂュウス、女性の策用ゐ
アートリュウスの後裔を痛く憎みて惱せり。
多くの者はヘレネーの故に亡びぬ、隔たれる
君にクリュタイムネ⌒ストレー其姦計をたくらみぬ。』

しか陳ずれば翼ある言句に彼は答へ曰ふ、
『されば女性に君も亦心を許すこと勿れ、
身の知るところ一切を皆打ち明くること勿れ、
その或ものを曰ふは善し、そのある者は隱すべし、
さもあれ君は、オヂュシュウス、夫人の爲の害無けむ。
イーカリオスの息女たるペーネロペーア思慮深く、
痛く賢く胸中に豐かに叡智蓄へり。
戰場さしてわれ〜の立ちし其時、うらわかき
新婦の彼女、乳房もていはけなき子をはぐくみぬ。
今や其子は民衆の多くの前に幸に
其坐を占めん、歸り來る父は親しく彼を見ん、
しかして彼は其父を善きに適へて抱くべし。
さはれ親しく目を擧げて飽かず愛兒を眺むるを、
わが妻われに得さしめず、其前我を亡せり。
今われ一事君に曰ふ、銘ぜよ之を胸の中、
故郷に歸り着かん時、人に知られずひそやかに、
舟を岸のへ打揚げよ、女性に信をおく勿れ。
さはれ今いざ、眞實にこの事われに物がたれ、
生けるわが子の消息を君は或は聞きたりや?
オルコメスノスに今ありや?あるひは沙地のピュロスにか?
メネラーオスのそば近くスパルテーにか、廣大の?
オレステースは陸上に今なほ生を保つなり。』

しか陳ずれば其時に我は答へて彼に曰ふ、
『アトレーデース、何故に我に此らの事を問ふ?
彼の生死は我知らず、空しき言を曰ふは()し。』

かくして二人相向ひ悲壯の言句かはしつゝ、
澘然(さんぜん)として涕涙を流し乍らも佇立めり。
やがて諸靈は近寄りぬ。ぺ−レーデース・アキュリュウス、
パートロクロス又次てアーンチロコス、アイアアース、
其のアイアース風彩と躯幹すぐれてダナオイの
すべての衆に立ちまさる、(アキルリュウスを外にして。)
脚神速のアキリュウス其靈我を認め知り、
慟哭しつゝ翼ある飛揚の言句我に曰ふ、

『ラーエルテース生める息、智謀豐かのオヂュシュウス、
凄し、今はた胸中にいかなる大事もくろむや?
()も如何にしてアイデース冥王の府に降り來し?
今は世になき人の影、知覺なきもの住む郷に。』

しか陳ずれば、其時に我は答へて彼に曰ふ、
『あゝアキリュウス・アカイアの中に最も優る者、
テーレシエスに問はんため、我は來れり、磽碑(かうかく)
わがイタケーに如何にして歸るべきかを問はんため。
未だに我はアカイアに行かず、祖先のわが郷に
脚を印せず、災難に常に惱めり、然れども
あゝアキリュウス、誰人も君にまさりて幸ならず。
生ける時は神のごとアルゲーオイは悉く
君を崇めき、死して今こゝに冥王の府にありて、
死者の間に威を振ふ。死を泣く勿れアキリュウス。』

しか陳ずれば其時に直ちに彼は答へ曰ふ、
『あゝ譽あるオヂュシュウス、我の死滅を慰めな!
今は世に無き亡靈の群治めるも何かせむ!
むしろ資産の多からぬ貧しき者の僕となり、
之に仕へて農園に勤むることぞ優るべき。
さはれ今わが譽ある子息につきて我に問へ、
彼れ戰陣に加はるや?[11-493]頭領たるを勉むるや?
また我父のペーリュウス、彼の消息知らば曰へ、
ミュルミドネスの衆中に彼尚ほ譽保てりや?
老齡彼の手を脚を弱むる故に、[11-496]ヘルラスの、
又プチエーの衆人は、彼を輕んじ侮るや?
むかしトロイア平原に敵の勇士ら打斃し、
アルゲーオイを防ぎたる、我今こゝに日輪の
光の下にわが父を助くることを得べからず。
むかしの儘の我にして、しばしなりとも父の屋に
行かば、威力と剛勇の手とは彼らをひるません、
彼らは父を窘めて其光榮を奪はんず。』

[11-493]原語プロモス、又「先鋒」の意あり。
[11-496]ミルミドネスの住める二都市。

しか陳ずれば其時に我は答へて彼に曰ふ、
『げに勝れたるペーリュウス、其消息は我知らず、
さもあれ君の愛兒たるネオプトレモス、彼につき、
命のまにまに一切をすべて誠に語るべし。
脛甲堅きアカイオイ、其陣中に整齊の、
船のへ彼を[11-509]スキュロスの島よりわれは導きぬ。
トロイア城を前にして評議の席を開く時、
眞先に彼は口切りて絶えて誤ることあらず、
彼に勝るは只我と神にも似たるネストール。
二軍トロイア平原に利刄互に揮ふ時、
彼は必ず陣中に殘り留ることあらず、
常に眞先に馳せ出して勇氣誰にも讓るなし、
多くの敵をものすごき亂軍中に打てる彼。
アルゲーオイの同僚を守りて彼の斃したる
敵を一々名ざすこと、又述ぶること叶ふまじ。
されども彼が黄銅の利刄に打てるものの中、
テーレポスの子、剛勇のユウリピロスはすぐれたり、
とある[11-521]女性の贈與よりケーテーオイ族もろともに
打たれし彼の風貌はたゞメムノーンに讓るのみ。
またエーペオス造りたる[11-523]木馬の中に、アルゴスの
勇士ら忍び入りし時、この埋伏の戸の口の
開閉ともにわが任と定めて委ねられし時、
他の勇ましきアルゴスの諸將並に諸元帥、
澘然(さんぜん)として涙埀れ、ともに其膝震はしぬ。
君の愛兒は只ひとり、われの親しく見しところ、
秀麗の(おも)青ざめず、涙は頬を濕さず、
勇氣溢れて凛然と、利劔の柄を黄銅の
槍を握りて、木馬より躍り出でんとあまたたび
切に願へり、トロイアに禍難はげしく加ふべく。
其トロイアの高き城わが手に遂に落ちし時、
彼は鹵獲の豐かなる配分うけて舟のへに、
恙なき身をのせゆけり。彼は鋭き黄銅に
打たれず、あるは接戰に疵つかざりき、かゝること
戰場中に免れず、アレース暴れて狂ほへば。』

[11-509]エーギア海中の島、ネオプトレモスの生誕地とストラボーン(ギリシヤの地理學者)は曰ふ。
[11-521]テーレポスの妻アスチオケーがプリアモス王よりうけたる寶の故にケーテーオイ族トロイア軍に參加して亡ぶ。
[11-523]トロイア城陷落の原因。

しか陳ずれば脚速きアキルリュウスの亡靈は、
子の優秀を聞き終へて、大(またぎ)にぞ歸り行く、
アスポデロスの花にほふ廣野を渡り欣然と。
今は世になき亡靈の數々泣きてわが側に、
其時立ちて愛でおもふ人の消息たづね問ふ、
テラモニデース・アイアース、彼れの靈のみただ獨り、
離れて立ちて近寄らず、われの勝利を憤ほる。
神母テチスの供へたるアキルリュウスの武具に付き、
水師のそばに訴に彼を敗りて我勝てり、
〔判ぜしものはトロイアの子らとパルラス・アテーネー。〕
かゝる爭、訟に、われ勝つべきにあらざりき。
武具の爭本となり、大地は彼の[11-549]頭蔽ふ、
ペーレーデース外にして、他の一切のダナオイに
業も姿もすぐれたる將アイアスの頭蔽ふ。
其時彼に蜜に似る甘美の言句我は曰ふ、

[11-549]爭に敗れたる彼は自殺せり。

『あゝアイアース、すぐれたるテラモニデース、今死して
かの忌はしき武具のためわれに對する憤、
忘るべきには非ざるか?アルゲーオイに神々は
禍難加へて彼らには堅城たりし君死せり。
アリルリュウスの英剛に對する如くアカイオイ、
絶えずも君の死を思ふ、禍難の本は外ならず、
ただクロニオーン猛勇のダナオイ軍を忌み嫌ひ、
之に禍難を齎らして無慚に君を亡ばしむ。
いざ今こゝへ、あゝ勇士、猛き心を柔げて、
言句互に慇懃に語り合はんはよからずや?』

ちか陳ずれど答なく、去りてもろもろエレボスに
住める亡靈、 -- 今は世になき群集の中に入る。
なほ怒れども彼は尚ほ我に語らむ、また我も、
さもあれ我の胸中の心は外の亡靈を --
今は世になき群集を見るべく切に冀ふ。

次に見たるは[11-568]ミイノース、ヂュウスの高き榮の子、
黄金の笏手にとりて坐して冥府の子ら裁く、
城門廣きアイデース其殿中のをちこちに、
坐して或は佇みて彼ら王者の裁受く。

[11-568]ヂュウスとユーローペーとの子、ヂュウス白牛の姿を取り、佳人を乘せてクレーテーに行き、ミイノースとラダマンチュウスとを生む。

次に見たるはオーリオーン、巨大の姿、生ける時
淋しき山に屠りたる、其もろもろの獸群を、
アスポデロスの花匂ふ廣原渡りて驅りて行く、
手には黄銅の太き棒、折れず碎けぬものを取る。

次に見たるはテオチュオス、彼はガイアのほまれの子、
大地の上に横はり九ペレトラの廣さ掩ふ、
二羽の禿鷲左右坐して臟腑に喰ひ入りて、
其肝臟をつんざけり。彼は手をもて逐ふを得ず、
花さき匂ふパノピュース、過ぎてピュートー目ざい行く
ヂュウスの配のレートーを奪はんとせる彼なりき。

次に見たるは[11-582]タンタロス、劇しく苦難うくる者、
湖水の中に立てる身の顎まで水は涵し來る、
其水中の立ち乍ら渇に惱みて飮むを得ず、
老の身かがめ其水を飮まんと望むたびごとに、
水は地中に吸はれ消え、彼が佇づみ脚の下、
黒き大地は現はれぬ、ある神之を乾かせり。
彼の頭上に丈高き樹々の緑の葉はしげり、
實は累々と相結ぶ、梨と柘榴と林檎の木、
更に甘美の無花果(いちじく)といあyしげりゆく橄欖樹、
これを目がけて進みより、老の手のして其果實、
取らんとすれば風寄せて雲間に之を吹き飛ばす。

[11-582]諸神より愛せられ、増長して非行を犯せし者。

次に見たるは[11-593]シシューポス、痛く苦難に惱む者、
兩手を延して巨大なる岩を高きに搬ぶ者、
彼は兩手に力こめ、其兩脚をふんばりて、
巨岩を高き頂に押しやる、されど頂に
正につかんとする時に、とある力は押し戻す、
無情の岩は輾々と麓をさして落ち下る、
かくて新に彼は又其勞はじめ、淋漓たる
汗は四肢より流れ落ち、湯氣は(とう)より立ちのぼる。

[11-593]アイオロスとアレーテーの子と稱せらる、コリントスの建設者、策に富む、神の祕密を洩せる故に罰せらる。

續きて威風堂々のヘーラクレスの幻影を
見たり、かの身は不滅なる神の間になほありて、
宴に列なり、黄金の(くつ)のヘーレー、おほいなる
ヂュースと共に生むところ、(くるぶし)美なるハーレーを
配となすなり。其影をめぐりて死者の幽魂は、
よもに飛び散る鳥のごと騷げり、彼は弓を手に、
矢を弦上に挾みつゝ今發たんとする如く、
あたりを見廻し物凄く暗夜の如く佇めり。
腰を廻りて纒ふ帶、黄金製の彼の帶、
目を驚かす巧妙の(たくみ)は之に施さる、
見るは荒熊、暴き野豬、目は爛々の獅子王に、
更に加へて爭と戰、人の殺戮のもの凄き世の姿。
技工いみじくかゝる帶すでに一たび作れりし
彼は再びかゝる者作らざること優ならめ。

ただちに彼は目を揚げてわれを認めつ、澘然(さんぜん)
涙流して翼ある言句をわれに陳じ曰ふ、
『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス、
あゝ不幸なり、君も亦惡しき運命肩に負ふ、
我その昔太陽の光の下に負ひし(ごと)
クロニーンの子と生れ、われ莫大の災難に
逢へり、遙かに[11-621]劣る者、彼を驅使して其命を
聽かしむ、かくて[11-622]困難の勞苦に我は從へり。
ある時われを遣はしてこゝより狗を曵かしめぬ、
これより更に難き行爲(わざ)無しと心に念じつゝ。
其狗われはアイデース領土の外に曵きだしぬ。
導きたるはヘルメアス、又青い目のアテーネー。』

[11-621]ミケーネーの王ユウリュスチュウス(イーリアス十九歌一二四)[。]
[11-622]後世之れをヘーラクレスの一二の勞といふ。

しかく陳じてアイデース住める館に歸り行く。
されども後に屹然と我は殘りて亡びたる
其いにしへの英雄の或者來るを待ちわびぬ。
かくて望めるいにしへのペーリトオスとテーシュウス、
即ち神のほまれの子眺むることを得たるべし。
されども此に先立ちてすごき亡靈聲あげて、
集り來れば蒼白の恐怖は我の身を襲ふ、
ペルセポネーア冥王の妃、中より恐るべき、
かの[11-635]ゴルゴーン、怪物の首を送らば如何にせむ。

[11-635]此怪物を見るものは恐れて石と化す。

舟にただちに歸り着く我は從者に命下し、
皆一齊に乘りこませ、繋げる綱をほどかしむ。
從者即ち乘り入りてともに漕座に腰おろす。
櫂に漕ぐ後、順風の吹くに乘じてわが舟は、
オーケアノースの水下り(しほ)に引かれて進み行く。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十二歌


第十二歌

一行はアイアイエーに着き、まづエレペーノールを葬る、神女キルケー旅の前途を示す(一 - 一四一)。 妖女セーレーネスの島における第八冐險(一四二 - 二〇〇)。 スキルレー及びカリブデスに對する第九冐險(二〇一 - 二五九)。 トリーナキエーに於ける第十冐險(二六〇 - 三三八)。 從者ら飢に迫られ、神牛を殺して其肉を喰ふ(三三九 - 三九八)。 海上の暴風に襲はれ從者悉く亡び、オヂュシュウス唯一人九日漂流の後オーギュギエーに着く(三九九 - 四五三)。

オーケアノスの川流をあとに見なせる我船は、
大海原の渺々の波浪を凌ぎ渡り來て、
アイアイエーの島に着く、曙の神女の舞の庭、
また其宮のあるところ、又日輪のいづる郷、
こゝに到りて一同は沙上に舟を引揚げつ、
中より出でゝ、波よする渚の上におりたちつ、
程なくこゝに身をふせてあすの曙光のいづるを待つ。

薔薇の色の指もてる神女のいでし時、
我は從者をキルケーの宮に遣あし、先の日に
無慚に死せる若き友エルペーノルの死屍、求め、
運び歸りて木を伐りて、遠く突き出し岬の()
悲しみ乍ら火葬しつ、涕はげしくふりおとす。
かくて屍體を、生前に用ゐし武具を燒ける後、
塚を築きて其上に用意の墓標齎らしつ、
同じく墓の頂に(かた)良き櫂を打ち立てぬ。

衆はおのおのこの事にいそしむ、かなたキルケーは、
アイデースより一行の歸り來るを感じ知り、
すぐに服粧とゝのへて訪ひ來ぬ、侍女は麺麭と
多量の食と黯紅のかゞやく酒を持ち來たす。
その時神女一同のもなかに立ちて陳じ曰ふ、

『汝まことに不敵なり、すべての人はたゞ一度、
死するに、汝二度死すや?生きて冥府に降るとは!
いざ食を取り、酒を酌め、こゝに、この日の終る迄。
しかしてやがて燦々と曙の神女の出づる時、
汝よろしく帆を揚げよ、われは海路を示すべし、
陸上又は海上に惡しき思念の招くべき
災難苦惱無きが爲め我一切を皆説かむ。』

しか陳ずれば勇猛の心のわれら從へり、
かくて夕陽沈む迄、終日ここに坐を占めて、
多量の食と芳醇の酒の(うたげ)を樂めり。
夕陽沈み暗黒の夜の四方によする時、
衆は即ち舟つなぐ綱のほとりに横たはる。
その親める衆人を離れ、キルケーわが手取り、
去りて沙上に坐らしめ、自ら近く横たはり、
我に委細を尋ぬればよきに適ひて我答ふ、
その時我の端嚴の神女向ひて宣し曰ふ

『今一切はかく成りぬ、いざ今我の言を聞け、
我言後に神明の助によりて思ひでむ。
[12-39]セーレーネスにまづ先に汝行くべし、寄り來る
人一切を悉く誘ひ惑はす魔女の群、
何人にまれ知らずして、セーレーネスに近寄りて
その聲音を聞かん者。彼は故郷に歸り行き、
迎へて圍む妻と子の喜ぶ顏を眺め得ず、
セ−レーネスは青々(せいせい)の野に坐し、歌を
朗々と吟じて彼を迷はさむ、岸のへそばに累々の
死人の骨はうづたかし、皮膚は縮みて之につく。
そのそば汝漕ぎ逃げよ。しかして前に從者らの
耳に蜜臘捏ねて入れ、汝の外に誰にしも
妖女の聲を聞かしめな、汝自ら聞かまくば、
衆に命じて帆柱の(もと)に汝を縛らせよ、
眞すぐ立てる身の手足しかと柱にくくらせよ。
かくして汝喜びてセーレーネスの聲聞かむ。
繩を解くべく從者らの汝の命じ乞はん時、
彼らは、いよよ嚴重に繩に汝を縛るべし。
かくて從者ら此場を波浪をわけて進むべし。
其後取らむ途いかに?我は汝に明かに
示すは難し、汝よく心に計り決すべし。
途二つあり、各々を我は委細に示すべし。
其一方に大岩はそそりたつなり、其の上に
[12-60]アムピトリテイ、黒き眼の神女の波は寄せ碎く。
是らの岩に神明は[12-61]プランクテーの名を與ふ、
是らを越すを得べからず、(はね)のあるものも、大神に
アムブローシヤを運び行く柔しき鳩も越すを得ず、
此れらの一羽滑かの巖は常に捕ひ去る、
その時、天父補ひて外の一羽を送るめり。
こゝに來れる人間の船はここより逃れ得ず、
逆捲く波浪、炎々の焔のあらしもろともに、
船の破片と水夫らの屍體ころがし弄ぶ。
波浪を渡る舟の中、たゞ一つのみここ過ぎぬ、
アイエーテスを立ちいでし[12-70]アルゴウ獨り譽得ぬ。
打つけられて大岩に碎くべかりし其船を --
イエーソーンを愛でおもふ神女ヘーレー導けり。
途の他方に嶮崖は二つ向へり、其一つ、
嶮しき嶺は大空に高く聳えて、暗き雲
之を蔽ひて消え去らず、夏には或は收穫の
秋に晴れたる大空は嶺をめぐりて現れず。
こを攀づること踏むことは人の能くする事ならず、
二十の手足もつとても遂に能くする事ならず、
巖は極めて滑かに磨き上げしにさも似たり。
此嶮崖のたゞ中に洞窟ありてほの暗く、
西に向へり、エレボスに、其方角に、譽ある
オヂュシュウスよ、汝そのうつろの船を進むべし。
力いかほど強くとも人は過ぎ行く船に立ち、
一矢飛ばして洞窟に逹することを得べからず。
こゝに住めるはスキュルレー、其咆ゆる聲物凄し、
聲は新たに生れたる仔犬のそれにさも似たり、
さはれ妖女の相好はげにも恐ろし、何人も
之を眺めて喜ばず、神といへども喜ばず。
すごき怪物、竒怪なる脚は十二を數ふべし。
頗る長き頸は六、そのおのおのに恐るべき
頭つゞきて口の中、齒は三層に緊密に、
隙なく並び、陰慘の黒き死滅を含むめり。
腰より下の半身を、洞窟内に潛めたる
妖女、頭を恐るべき淵より外に突きいだし、
こゝに獲物を探すめり、海豚(いるか)海豹(あざらし)更にまた
巨大の獸 -- いづこにか捕へて(えば)となさんもの、
その幾萬を咆哮のアムピトリテー、はぐくめり。
害を受けずに船の上こゝに逃れしと誇り得る
水夫は未だ嘗つて無し、その諸の頭もて、
(へさき)緑に染めなせる舟より人を魔はさらふ。

[12-39]即ち妖女サイレンなり。ホーマアには其數二、後世の詩作には三、しかしてポルキスの息女と稱す。
[12-60]後世彼をポセードーンの妻と稱す、ホーマアにありては單に海の女神とのみ。
[12-61]さまよふの意。
[12-70]後のギリシヤの詩題となれる船、金羊毛を探し行けるもの。トロイア戰より一代以前なり。

他の嶮崖は前よりも低きを汝眺むべし。
二つは近し兩崖の間、射る矢は屆くべし、
緑葉繁るおほいなる無花果の樹は上にあり。
此岩の下カリュブデス黒き汐水吸ひくだす。
一日三度のみくだし、同じく三度おそろしく
吐き出す、彼の吸はん時汝其場にある勿れ。
あらば汝を危難よりポセードーンも救ひ得ず、
むしろ眞近くスキュレーの嶮崖沿ひて、速かに
汝の舟を進め去れ、船の水員六人を
失ふことは全體を皆失ふに勝らずや!』

しか陳ずれば答へつゝ我は即ち陳じいふ、
『神女願はく宣し示せ、眞實われに宣し示せ、
我いかにしてカリュブデス恐るべき者避け得べき?
スキュルレーよりいかにして我れ我が從者守るべき?』

しか陳ずれば美はしき神女答へて我に曰ふ、
『不敵なるかな、汝また戰爭苦難求むるや?
汝は不死の神明に、從ふことを能くせずや?
魔女スキュルレー恐るべし、彼は不死なり、不滅なり、
不滅のすごき禍害なり、敵とすること得べからず。
彼を防ぐを得べからず、逃るることぞ至上なる。
巖のそばに武裝しつ汝ためらふ事あらば、
恐るゝところ、かの妖魔前と等しき數々の
頭出して、數々の等しき從者取り去らむ。
されば努めて船進め、クラタイイスに呼べ叫べ、
人の禍たれかしと彼は生みたりスキュルレー、
母は妖魔を戒めて汝を襲はしめざらん。

[12-127]トリーナキエー島次に汝見るべし、其中に
エーエリオスの牛の群、羊の群は養はる、
七つ數ふる牛の群、羊の群も亦等し、
群おのおのは五十頭、彼らは絶えて子を生まず、
彼らは絶えて死を知らず、二神女之を養へり、
ヒュペーリーオーン・エーリオス父とし、ネアイラ母とする
鬢毛美なる[12-133a]パエトーサ、[12-133b]ランペチエーは養へり。
いみじき母は二仙女を生みて育てゝ里はなれ、
トリーナキエー島遠く送りてそこに住まはしめ、
父なる神の愛で思ふ牛と羊を護らしむ。
汝歸國を念じつゝ彼らに害を加へずば、
よし災難に苦しむもイタケーの地に歸り得ん。
害を加ふる事あらば、我は豫言す、人と舟
ともに等しく亡ぶべし、汝一人は遁るるも、
從者失ひ慘憺の姿に遲く歸るべし。』

[12-127]シシリイ島の古名。『三叉(トリーナクス)』(海神ポセードーンの鋒)より來る。
[12-133a]「光る者」。
[12-133b]「輝く者」。

しかく陳ずる程もなく、黄金の座のエーオース
現はる、かくてキルケーは島の奧へと別れ去り、
我はわが船さして行き、睡れる從者よびおこし、
命じて舟に乘りこませ、繋げる綱をほどかしむ。
たゞちに衆は乘り入りて、漕座の上に整齊と
列を正して身を据ゑて櫂に波浪をつんざきぬ。
人語あやつる怖るべきキルケー、鬢毛美なる神、
(へさき)緑のわが船の後より白帆滿たすべく、
順風吹かせ進ませむ、海路うれしき友として。
かくて直ちに一切の船具を揃へ整へて、
衆は座につき順風と舵手とは舟を導けり。
その時我は從者らに心痛めて陳じいふ、

『美麗の神女キルケーは我に豫言を宣したり、
只一二人そを知るは、友よ宜しきことならず、
我ら或は亡びんか或は死より逃れんか。
汝に之を知らすべくわれは委細を語るべし。
神女眞先に命じたり、セーレーネスのふしぎなる
其音聲と花にほふ彼らの野とを避くべしと、
我只一人其聲を耳にすべしと。然れども
汝ら我を帆柱の許に嚴しく(いまし)めよ、
眞すぐにこゝに殘る身を、縛り、柱に繩結べ。
繩を解くべく汝らに我の命じて願ふ時、
汝らいよよ、嚴重に繩もて我を縛るべし。』

しかく陳じて從者らに我は委細をものがたる、
その()にわれの堅牢の舟を順風吹きやれば、
船脚早く速にセーレーネスの島に着く、
着けばわが舟送り來し風はたゞちに收まりぬ、
風收りて海靜か、神は波浪を睡らしむ。
從者はやがて身を起し、白帆をおろしおしたゝみ、
之をうつろの舟の中收め、漕座に身を据ゑて、
琢ける樅の櫂使ひ、潮を白くつんざきぬ。
その時我は黄銅の鋭き()もておほいなる
蝋の圓盤細やかに、截りて指もて之を捏ぬ、
ヒュペリーオーン・エーリオス放てる熱き光線と、
力こめたる指により、蝋はほどなく柔かに
成れば、こを以て順々に我は從者の耳と閉づ。
彼らは我の帆柱の許に眞直に立てる身の、
手足もろとも一齊に縛り、柱に繩結び、
しかして後に座につきて櫂に白浪切り進む。
其迅速に進む船、呼ばゞ聞ゆる隔たりに
近づき寄るを、神怪のセーレーネスは見逃さず
口を開きて朗々の歌を高らに吟じ曰ふ、

『アカ−イオイの譽なる、音に名高きオヂュシュウス、
來れ、汝の船とめて、わが音聲に耳を貸せ、
わが口いづる歌の聲、甘美は蜜に似たるもの、
そを聞かずして黒船に過ぎ行く者は嘗て無し、
聞きたる者は樂しみて知識を増して去り行けり、
我らは知れり、トロイアとアカイア二軍、トロイアの
平野の上に神明の工によりて惱めるを、
我らは知れり、豐饒の大地に起る一切を。』

美妙の聲を張り上げて斯く陳ずれば我が心、
猶も聞くべく憧れて、繩を解くべく從者らに
眉を動かし命ずれど、きかずに櫂に取り縋る、
パリメーデース、ユウリュロコス二人たゞちに立ち上り、
更に多くの繩とりて嚴しくわれを縛りつく。
やがて一同此(には)をあとに次第に遠ざかり、
セーレーネスの歌と聲、はや聞くべくもあらざれば、
直ちにわれの親愛の從者は、我の封じたる
蝋を耳より拔き出し、又わが繩を取り去りぬ。
妖女の島を去りて後、次に直ちに大波と
烟の立つを見たる我、又轟々の音を聞く。
その時すべて恐怖する從者の手より櫂落ちて
渦卷く水を撥ね飛ばす、かくて其場にその儘に、
舟はとまりて進み得ず、漕ぐもの誰もあらずして。
其時我は船中をあまねく過ぎて從者らを
勵まし、あまき言句もて其一々に告げていふ、

『親しき友よ、災難に今まで我ら無知ならず、
キュクロープスが兇暴の力用ゐて洞窟に、
囚へし時に比ぶれば、今の危難は大ならず。
我の勇氣と分別と策とによりて彼の時は、
免がれ得たり、此度も後日記念の種ならむ。
いざ勇奮へ、わが言の如くに汝みな服せ。
汝漕座に身を据ゑて、櫂を用ひて大海の
波をつんざけ。恐らくはヂュウス憐み、われをして
今ふりかかる運命を逃るることを得せしめむ。
楫取!汝わが命をききて胸裏に忘るるな、
汝うつろの我が船の楫を手の取る、警めて
かの煙より波浪より、離れて船を遠ざけよ、
しかして岩に近く行け、油斷をなさば、行く道を
船誤りて其爲に我ら危難に陷いらむ。』

しか陳ずれば速かに彼らはわれの言を聽く。
されどもわれはスキュルレー不敵の妖を話し得ず、
話さば衆は恐怖して櫂に波浪を切るを廢め、
避けて逃れて船底に其身を隱すことあらむ。
我はその時キルケーの固き命令うち忘れ、
(彼女きびしく戒めて武裝をわれに禁めしを。)
凛々しき武具に身を堅め、手には二條の
おほいなる槍を携へ、奮然と(へさき)に進み、甲板に
立ちてそこにて、スキュルレー -- 從者に破滅來すべき
岩の妖怪いで來るを眞先に見んと待構ふ。
されども之を認め得ず、雲霧に暗き岩に向け、
あなたこなたと見張る目は效なく遂に倦疲る。

かくて悲嘆にくれ乍ら船は海峽進み行く、
スキュルレーその一方に、他方に凄きカリュブデス
海の汐水もの凄く吸ふ神怪のカリュブデス、
しかして彼の吐く時は烈火に懸けし釜の如、
水沸々と湧き上り、紛々として渦卷きて、
泡沫高く雙方の岩の頂さして()る。
しかして彼の鹽はゆき水吸ふ時は、わだつみは
深きにかけて渦卷ける姿現はし巖石を
めぐりて凄く咆え叫び、下には黒き砂なして、
大地現はる、かくと見て從者恐怖に青ざめむ。
彼を眺めて恐怖しつ、死滅を思ふ、その(あひ)に、
見よスキュルレー從者らの中に最も力あり、
勇氣ある者六人を船より捕へ奪ひ去る、
(まみ)を返してわが早き船を從者を眺むれば、
彼らの脚と手と共に空中高く擧げらるる、
其時從者高らかに叫び、救助を求めつゝ、
是を最後に聲搾り悲嘆のあまりわが名呼ぶ。
譬へば長き鉤竿をとりて海人崎に立ち、
ちさき鱗族捕ふべく欺く餌をさきづけし
野飼の[12-253]牛の角の端、海の深みに投じ入れ、
斯くて捕へしもがく魚、陸にひらりと釣りあぐる。 --
其樣見せて從者らはもがきて岩に上げられぬ。
そこに妖魔の門口に喰はるる彼ら泣き叫び、
最後、亡びのもがきよりわれに其手をさしのぶる、
海路あまねく經廻りて受けし禍難の中にして、
其光景はわが目もて見たる悲慘の極なりき。

[12-253]不明、竿端に牛角製一片を附くるか。

かくして我ら恐るべきスキュルレー又カリュブデス
逃れて次に神明のいみじき島に着かんとす。
ヒュペリーオーン・エーリオス神の領せる數多き
羊の群と牛の群、額の廣き群ここに。
黒き船中海上にありても我ははや既に、
歸りて小屋に納まれる牛と羊の鳴聲を
聞き得つ、かくて、テーベーのテーレシェース、盲目の
豫言者、のべし警めと、アイアイエーのキルケーの
のべし言句を思ひ出づ、二者はひとしくエーリオス、
人喜ばす神明の島を避けよと警めき。
心痛めてその時に我は從者に陳じ曰ふ、

『危難に汝惱めども從者よ我に耳を貸せ、
人喜ばすエーリオス、神の島をば避くべしと、
嚴しく我に命じたるアイアイエーのキルケーと、
テーレシェース豫言者の言を汝に今告げむ。
そこに最も恐るべき災難我を待つといふ。
さればかの島觸れずして黒き舟こぎ通せ。』

しか陳ずれば從者らの心碎けて悲しめり、
ユウリュロコスはその時に憎き言句に答へ曰ふ、
『君は強かり、オヂュシュウス、力勝れて其手足、
絶えて疲れず、全躯みな堅き鐡より成れりけり。
君は勞苦に惱まされ睡求むる從者らの、
岸に登るを肯んぜず、海の圍める島の中、
君は美々しき飮食の調理をなすを得せしめず、
雲霧に暗き波の上、島を離れて遠ざかり、
早く寄せ來る、夜の下にさすらふべしと令し曰ふ!
船もろ〜を破るもの、つらき嵐は暗黒の
夜より生る。卒然と颶風のあらび襲ふ時、
不滅の神の意に叛き、船を劇しく打ち碎く
ノトスあるひはゼビュロスの怒號を擧げて來る時、
誰か果してもの凄き死滅の運を遁れ得ん?
いざ暗黒の夜の威に屈して、岸に碇泊の
船のかたへに甘美なる(ゆふ)の食事を備ふべし。
あしたは早く船に乘り渺々の海渡るべし。』

ユウリュロコスはかく陳じ、衆は等しく皆贊す。
その時我はとある神、われに向ひて災難を
巧らむことを認め知り、彼に向ひて陳じいふ、

『ユウリュロコスよ汝らは孤獨の我に押し迫る、
さらば汝ら一齊に堅き盟を我に爲せ、
盟へ、牝牛の群または羊の群に逢はん時、
汝らの中一人も惡しき狂愚の思より、
牛を或は羊をも屠殺することありまじく、
不死のキルケー與へたる食を甘んじ取るべしと。』

しか陳ずれば、命のまゝ從者直ちに盟立つ。
かくて一同嚴重に立てし盟を終る後、
(着きたる島の)中廣き港に入りて船とゞむ、
甘美の泉そばにあり、一同かくて陸上に
おりたち、やがて心こめ食の調理に取りかゝる。
食事終りて口腹の慾に一同飽ける時、
船より妖魔スキュルレー(さら)ひ喰ひし友の上、
すゞろに思ひ澘然(さんぜん)と涕流して悲しめり。
其悲める同僚にやがて甘美の眠來む。
曉方近く夜は更けて星の次第に沈む頃、
雲を集むる神ヂュウス、劇しき風を、恐るべき
あらしを起し、雲をもて大地を海を一齊に
おほひかくせば暗黒の夜は[12-315]再び襲ひ來ぬ。
薔薇の色の指もてる曙の神女はやがて出づ、
その時舟を引き上げてうつろの洞の中に容る、
そこに仙女の舞の園また休らひの椅子を見る、
我は即ち一同を集めて之に陳じ曰ふ、

[12-315]原本には「天より」。

『友よ、船中食ふべく飮むべき料はさわにあり、
されば汝ら警めて牝牛に觸るること勿れ、
觸るれば禍難測られず、牛は羊は恐るべき、
神エーリオス -- 一切に臨みて照す神のもの。』

しか陳ずれば一同の猛き心もうべなへり。
その(のち)ノトス一月に亙りて絶えて吹きやまず、
吹くはユーロス、ノトスのみ、他の一切の風吹かず。
食物及び赤き酒、缺かざる限り、從者らは
命惜めば警めて牛に其手を觸れざりき。
されど船中、一切の食悉く盡きし時、
かくてやむなくわが從者、曲る針もて鱗族を、
鳥を -- 或は側近く來れるものを捕ふべく、
(飢に其腹咬まるれば)あなたこなたを廻る時、
其時我は只ひとり衆と離れて島めぐる、
歸郷の途を示すべく、不滅の神に祷るため。
衆と離れてをちこちと島を廻りて、あらぶ風
吹きこぬ(には)にたどり來つ、水に雙手を清めつゝ、
ウーリュンポスの一切の神に祈願を奉る、
神は其時甘美なる眠をわれの目に注ぐ。
その()にかなた同僚をユウリュロコスはそそのかす。

『禍難に汝苦むも、わが同僚よ、我に聞け、
何らの形とるにせよ、人にとりては死は憎し、
されど最も忌むべきは飢餓によりての死なるべし。
いざや我らはエーリオス神の至上の牛捕へ、
廣き大空しろしめす神に犧牲を捧ぐべし。
祖先の郷に、イタケーにいつしか歸り着くべくば、
ヒュペリーオーン・エーリオス神に直ちに殿堂を
造りてそこに數多きすぐれし牲を捧ぐべし。
角ますぐなる牛のため神は怒りてわが舟を
亡ぼさんとし、外の神同じく之に贊せんか、
然らば海に一跳に入りて命を失はん、
淋しき島に(おもむ)ろに朽ち果つるより勝らずや?』

ユウリュロコスはかく陳じ、衆は等しくみな贊す、
かくて彼らはエーリオス神の至上の牛捕ふ、
(へさき)緑の我船を隔つることは遠からず、
廣き額の美はしき牝牛の群は草喰()めり。
捕へし牛の傍に彼らは立ちて神明に
祈る、其時船の中白き大麥あらざれば、
高く聳ゆる樫の木の葉を摘みとりて之に換ゆ。
祈も終りて衆人は牛を屠りて皮を剥ぎ、
まづ股の肉截り取りつ、之を二重の脂肪もて、
包みて更に其上に他の生肉を打ちのせぬ。
火焔に燒くる牲のうへ灑ぐべき酒あらざれば、
清水をもて之に換へ、臟腑すべてを火に炙る。
股肉全く燒き終り、臟腑を口にしつる後、
殘りの肉を切りきざみ、串もて之を貫きぬ。
その時我の眼蓋(まぶた)より甘き眠は逃げ去りぬ、
しかして我は身を起し船と岸とに歸り行く、
されど眞近く整齊の船のほとりに到る時、
燒けし脂肪の好き薫我のほとりに漂へり。
その時我は慟哭の聲を放ちて神に曰ふ、

『天父ヂュウスよ、幸多き他の常住の神々よ、
無慙に我を眠らして我の破滅を來せしな!
我の不在にわが從者、非道のわざを行へり!』

ヒュペリ⌒オーンに其時に、使となりて裾長き
ランペチエーは速かに、牛の屠殺を告げ來る、
神は怒りて其時に諸神の中に立ちて曰ふ、

『天父ヂュウスよ、幸多き他の常住の神々よ、
ラーエルテース生める息、オヂュシュウスの從者らを
罰せよ、彼等傲然と我の牝牛を屠りたり、
ああわがめづる其牝牛、天上さして昇る時、
天上降り地に歸る時に等しくめづる者、
牛に對して正當の償われに拂はずば、
われは冥府に降り行き死者の間に燿かむ。』

雲を集むる神ヂュウス彼の答へて宣し曰ふ、
『[12-385]エーリエ、汝、不滅なる神の間に、豐沃の
大地に休む人類の間に照りて燿けや!
此ら罪ある者の船、われはかゞや雷霆を
飛ばして之を黯紅の海のもなかに碎くべし。』
鬢毛美なるカリュプソー之を我身に告げたりき、
神女は之を使たるヘルメーアスに聞くと曰ふ。

[12-385]呼格。

(かの時我は身を起し)舟と岸とに歸り着き、
その一々の前に立ち從者はげしく叱りしも、
何らの效もあらざりき、牝牛はすでに屠られぬ。
たゞちに神は從者らに凄き凶兆現はせり、
剥がれし皮は這ひめぐり、串に刺したる肉は皆
炙れる者も(なま)なるも牛の如くに咆え叫ぶ。

その後過ぎし日は六日(むいか)、六日に亙りわが從者
囚へ來りし神の牛、すぐれし牛の肉喫みぬ。
しかしてヂュウス・クロニオーン次に七日(なぬか)を齎らせる
其時さしも暴れたりし颶風は跡を收めたり、
たゞちに我ら船に乘り、たてし柱に白き帆を
張りたる後に漫々の大海原に乘り出しぬ。
かの島あとに去りし後、陸土の影は一もなし、
たゞ漫々の大海のと空のみ常に前にあり、
その時ヂュウス、クロニオーンわが中廣き舟の上、
黒き叢雲懸らしむ、海も暗みぬ雲の下、
舟走りゆく程も無く忽然として襲ひ來る
ゼヒュロス怒號ものすごく颶風となりて吹き荒ぶ、
颶風の力すさまじく、二條の帆綱吹きちぎれ、
帆柱後に倒れ落ち、すべての船具一齊に、
みな船底に落ちて行く、その時倒れ落ち來る、
柱無慙や艫の上、舵手の頭を打碎く、
頭骨すべて破れたる彼は、恰も潛水の
人の如くに甲板を落ちて魂魄身を離る。
その時ヂュウス轟雷を起して凄く霹靂を
飛ばせば、之に打たれる舟全體は震動し、
硫黄の烟漲りて從者舟より皆墜ちぬ。
かうして黒き船のそば落ちて怒濤に運ばれて、
鷗の如く浮き沈む、神は歸國を衆に斷つ。
殘れる我は船の上、脚を運べる程もなく、
大波寄せて舟縁を龍骨よりし洗ひさる、
裸となれる龍骨を汐は運びて帆柱を、
捥ぎ取る、これに牛皮にて造りし綱は掛けられき。
その綱をもて龍骨を柱に共に繋ぎ附け、
之坐しつゝ物凄き颶風にわれは驅られ行く。

今やゼビュロス咆哮のあらしの呼吸收むれば、
ノトスは速く寄せ來り、かの物凄きカリュブデス
さして再び歸るべく、われの心を傷ましむ。
夜すがら波に運ばれて旭日の光いづる時、
スキュルレー住む嶮崖とかの恐るべきカリュブデス
妖魔の許にわれ着きぬ。魔は潮水をのみ下す。
その時我は飛び上り、かの無花果の大木に
すがり、さながら蝙蝠を見るが如くに埀れさがる、
しかとわが脚支ふべき、木に登るべき足場なし、
樹の根は遠く下にあり、枝は高らに空高く、
長くも太く繁り合ひカリュブデス住む淵おほふ。
かくしてしかと無花果の樹にすがりつゝ、龍骨と
柱妖魔に吐かるるを待てばやがては現はれぬ。
(さばき)求むる若人の種々の爭裁きつゝ、
議席を立ちて夕ぐれの食にあり人向ふ頃、
かゝる時刻に船材はカリュブデスより現はれぬ。
かくと眺めて手と足をすがれる木より引き離し、
其船材のそば近く海のもなかに飛び入りつ、
やがて其上身を托し手もて波浪を漕ぎ進む。
こを人天の父ヂュウス、スキュルレーには見せしめず、
若し見せしめば恐るべき死滅を我は遁れ得じ。

九日(こゝのか)續き波の上運ばれし身を十日(とほか)の夜、
オーギュギューの島の上に諸神ひとしく搬び來ぬ、
鬢毛美なるカリュプソー、人語あやつる恐るべき、
神女はそこに慇懃に迎へて我をいたはりぬ。
こを語るべき要あらじ、昨日君と王妃とに
こを殿上にのべたりき。一たびすでに明瞭に
のべたるものをまた更に語らんことは厭ふべし。』


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十三歌


第十三歌

パイエーケスの一同オヂュシュウスに餞別として品々を贈遺す(一 - 一七)。 勇士の出發(一八 - 六二)。 イタケーに着く(六三 - 九二)。 上陸す(九三 - 一二四)。 パイエーケス人歸航の途にポセードーンに罰せらる(一二五 - 一八四)。 アテーネー、牧童に扮してオヂュシュウスに現はれ、彼の今故郷にあることを告ぐ(一八五 - 二八六)。 神女身を露はして彼に次ぎて取るべき道を示す(二八七 - 四四〇)。

した陳ずればほの暗き殿中坐せる一同は、
魅せられたるが如くして默然として聲も無し。
王アルキノスその時に答へて彼に陳じ曰ふ、

『ああオヂュシュウス黄銅の(しきみ)を持てる高き屋に
君は訪ひ來ぬ、しかあれば、痛く禍難に惱みしも、
思ふに、歸る路すがら、[13-6]迷ひ漂ふことあらじ。
更にこの我が殿中に常に輝くもてなしの
葡萄酒酌みて、伶人の歌に其耳傾くる、
友一同の警めの一言我は陳ずべし。
客に捧ぐる衣服類みな琢かれし櫃の中、
收められあり、精好の黄金の噐も又その他、
パイエーケスの貴人らの齎らし來る餞別(はなむけ)も。
更に各おほいなる三脚鼎(みあしかなへ)と水盤を、
客に贈らむ、償は[13-14]民衆よりし集め來ん、
(おのれ)報を受けずして他に施すは辛ければ。』

[13-6]わが護送の故に。
[13-14]客に多量に贈遺する時は庶民より辨ぜしむ(十九歌一九七)。

アルキノオスののぶる言、喜び衆は受け入れつ、
やがて睡に入らんとて、おのおの家に歸り行く。
薔薇の色の指持ちてあした生るるエーオース
いづれは衆は黄銅の噐を携へて舟に行く。
しかして強きアルキノス、淨き王者は舟めぐり、
舟を進むる人々の故障となるを警めて、
漕座の下の衆人の贈れる噐物取り納む。
衆人かくて王の館また訪ひ來り宴を張る。
その時強きアルキノス彼らの爲めにクロニオーン、
雲を集る雷霆のヂュウスに牲を奉る。
かくて股肉を燒きし後、美々しき宴に衆人の
樂しむ中に、神聖のデーモドコスは -- 一同の
共に崇むる伶人は -- 歌へり。されどオヂュシュウス、
光燿く日輪に屡々頭めぐらして、
西に沈むを冀ふ、歸郷の念は切なれば。
畑にある者、赤色の二頭の牛に堅固なる
鋤を終日曵かしめて夕になれば食思ふ、
夕の食に急がせて彼に嬉しく日輪の
光沈めば膝節は疲れながらも歸り行く。
(まさ)しくかくも終日はオヂュシュウスに嬉しかり。
俄に彼は櫂めづるパイエーケスの一同に、
アルキノオスに又特に、口を開きて陳じ曰ふ、

『ああ權勢の[13-38]アルキノエ、庶民に高く臨む君、
奠酒をなして恙なく我を送りて、幸あれや!
心に念じ願ふもの、護送並に良き贈與、
今悉く爲されたり、天上の神願くは、
こを幸と爲せよかし。又願くは歸家の上、
妻の貞淑、朋友の無事のうれしさ見んことを。
ここに殘れる一同の正しき妻と子孫とに、
幸あらしめよ、神明はその一同に繁榮を
惠め、しかして郷の内、災難絶えて無かれかし。』

[13-38]呼格。

しか陳ずれば衆人は喜び贊し、珍客の
言句正しき故をもて、彼の護送を促せり。
その時強きアルキノス彼の家臣に向ひ曰ふ、

『ポントノオスよ強烈の酒に程よく水まぜて、
わが殿中の皆々に配ばれ、かくして一同は
ヂュウスに祈り、珍客を彼の故郷に導かむ。』

しか陳ずればポントノス、蜜の如くに甘美なる
酒を薄めて、一同の前に立ちつつ配り行く。
衆は即ち其席におのおの立ちて、天上の
神に向ひて酒そゝぐ。其時經てるオヂュシュウス、
二つ把手ある盃を王妃の手のへ捧げつゝ、
速き飛揚のある言句を彼に陳じ曰ふ、
『王妃よ、さらば!末永くめでたく榮えおはしませ!
あらゆる衆生(しゆじよう)襲ひ來る死と老齡の()ん迄は。
我は故郷に向ふべし、君は子孫と臣民と、
アルキノオスともろともに此殿中に榮えませ!』

しか陳じてオヂュシュウス、勇士は館を離れ行く。
王アルキノス一人家臣を彼に伴はせ、
大わだつみの岸のそば船のへ彼を送らしむ。
しかして王妃アレーテー三人(みたり)の侍女を伴はす、
その第一は清淨に洗ひし上衣また胴着、
次に第二は堅牢に造りたる櫃、第三は
更に續きて麺麭と赤き葡萄酒搬び行く。
かくして侍女らわだつみの岸のへ船に到り着く。
そこにすぐれし護送者は、是らすべての飮食の
品をたゞちに受けとりて、うつろの舟に收め入る。
うつろの船の甲板に(へさき)にやがて衆人は、
氈と布とを打廣げ睡の床を設くれば、
オヂュシュウスは乘り込みてそこに靜に横たはる。
孔ある石に繋ぎたる舟の大綱衆人は
其時解きて整然と漕座の上に身を据ゑつ、
身をそり返し櫂先に海の潮を劈きぬ。
その時こなたオヂュシュウス、甘美の睡穩かに
彼の目蓋に落ち來れば、死せるが如く横たはる。
四頭の牡馬頸ならべ、繋がる儘にまつしぐら、
亂打の鞭に一齊に跳り上りて飛ぶ如く、
平野の上を駈り行き、早くも道の端につく。
(まさ)しく斯くも舟の(とも)跳りて進み行く後に、
轟きわたる大海の黒き潮は亂れ立つ。
斯くして船は安らかに絶えず走れば、一切の
羽禽の中にいと速き鷹も船脚追ふを得じ、
斯くして船は速かに海の波浪をつんざきつ、
中に聰明神に似る一人の勇士のせて行く。
彼は先には人間の戰、海の激浪を
凌ぎ渡りて無量なる苦難親しく嘗めし者、
その一切を忘れたる彼の睡は靜かなり。

あした生るるエーオース、神女の光、前觸れて、
いづる明星燦爛を極むる影の上る時、
其時海をわたり來し舟は島にぞ近づける。
ここイタケーの郷の中、老いし神[13-96]ポルキュスの
(まつ)らふ港一つあり、港の先に突き出づる
二つの岬きりぎしは、高く内にはなだらなり。
岬の外はすさまじく風に激浪狂へども、
岬の中は靜かなり、乘り入る船は投錨の
地點に着きて、繋がずも靜にそこに泊るべし。
湊の奧に橄欖樹立ちて緑葉繁りあふ、
其樹に近く(ほの)暗き洞窟一ついといみじ、
[13-104]ネーイアデスと呼ばれたる仙女の群の住むところ。
洞の中には酒の壺また兩手ある瓶を見る。
石にて刻み造るもの、蜂またこゝに蜜造る。
またおほいなる石造の(はた)も同じく中にあり、
こゝに仙女は黯紅の目を驚かす帛を織る。
こゝに絶えずも湧き出づる泉またあり、更に又
洞に二つ門ありて、北向くものは人間も
入るべし、南むくものは、神聖にして人間の
入るを許さず、不滅なる神明ひとりこゝを過ぐ。

[13-96]一歌七二。ヘーショットのテオゴニイ二六五 - 二七一にはポルキュスをゴルゴーンの父となす。
[13-104]泉流、河川、湖沼等の守護者。

前よりこゝを知れる儘、衆は港に漕ぎ入りぬ、
しかして船は岸の上其全長の半迄、
かゝる漕手の手によりて勢強く上げられぬ。
善き木材に造られし船より、やがて陸上に、
おりたつ衆は、オヂュシュウスおほふ燿く氈と布、
彼もろともにうつろなる舟より陸に引上げつ、
酣眠正にたけなはの彼を沙上に横たへぬ。
パイエーケスの貴人らが、アテーネーより教へられ、
別るる彼に與へたる品々次に引き上げて、
衆は之らを橄欖の根元に近く、道よりは
通りがかりに或者が掠め去るべき憂より、
かくて故郷に衆は去る。こなた大地を震ふ神、
聰明恰も神に似るオヂュシュウスをその初、
[13-126]嚇せし言句思ひ出で、ヂュウスの意見問ひて曰ふ、

[13-126]一歌二一。五歌二九〇。

『今より後は、あゝヂュウス、我は不滅の神明の
(あひ)に尊敬失はむ。パイエーケス族、[13-129]我の裔、
彼ら朽つべき人間は、我の尊敬はや棄てぬ。
我は宣しき、オヂュシュウス、多くの危難うけし後、
故郷に歸り行くべしと。君は眞先にうべなひて、
約せる故に全くは、彼の歸郷を禁じ得ず。
睡れるままに舟の上、海を渡りて導きて、
彼らは彼をイタケーに運び、無量の贈物、
黄銅、黄金、莫大の布帛のたぐひ惠みたり、
鹵獲の一部分たれて、トロイアよりしオヂュシュウス
無事に故郷に歸るともかばり多く携へじ。』

[13-129]七歌五六。

雲を集むるクロニオーン答へて彼に宣し曰ふ、
『威力盛に地を震ふ汝何らの言を曰ふ!
神は汝を侮らず、高く貴く、年齒また、
すぐる者に輕侮を加ふることは易からず。
もし人間のある者が力を恃み威を振ひ、
敬を汝に致さずば後に復讐なし得べし、
汝の願ふ如く爲せ、心の好む儘になせ。』

大地を震ふポセードーン答へて彼に宣し曰ふ、
『君の宣する言の儘、我はとくにも爲しつらむ、
さはれ黒雲よする君、君の怒をわれ恐る、
[13-149]いざや今我護送より歸るパイエーケスの船、
美麗の船を霧こむる海路の上に碎かんず!
斯くせば彼等警めて人の護送を廢すべし。
我また彼の住む都市を大なる山に蔽ふべし。』

[13-149]第八歌の終參照。

黒雲よするクロニオーン答へて彼に宣し曰ふ、
『我の心に最上と思はるる者我述べん、
パイエーケスの市民らが都城に立ちて、其歸航
眺むる船を、陸近く汝は打ちて、其ままの
(かたち)の巖に化せしめよ、あらゆる者は驚かん、
しかして彼ら住める都市大なる山に蔽はせよ。』

その言聞きてポセードーン、大地(ゆる)がし震ふ神、
パイエーケスの住める郷スケリエーの地めざし來て、
待つ間程なく()の船は、大海原を速かに
渡り間近く進み來る、之に近づくポセードーン、
其剛強の平手もて、激しく打ちて忽然と、
石に化せしめ、水中に根ざさせ、やがて遠退きぬ。
其櫂長く航海の術の最も巧なる、
パイエーケスは今隣る友を顧み眺めつゝ。
やがて互に翼ある飛揚の言句交じへいふ、
『ああら不思議や!何ものか船脚早く歸り來し
舟を波のへ留めたる?今迄現に見たる船!』

しかく陳じぬ、然れども其れの由縁は皆知らず。
其時王者アルキノス衆に向ひて陳じ曰ふ。
『無慚なるかな!わが父がいにしへ我に宣したる、
豫言正しく今成りぬ。あらゆる人を安らかに
送るが故にポセードーン海の大神怒らんと。
彼は曰へけり、佳麗なる船護送より歸る時、
霧たちこむる海の上、海の大神亡ぼさむ。
しかして我の都城をば大山をもておほふべしと。
老父はかくも宣したり、之れらの事は今成りぬ、
いざ今我の曰ふところ、皆一齊に聞き入れよ、
若しとある者此後に、われの都城に來るとせば、
彼の護送を爲す勿れ、ポセードーンに牲として、
牛十二頭たてまつれ、或は彼は憐みて、
われの都城をおほいなる山もて蔽ふこと無けむ。』

しな陳ずれば衆人は恐れて牲の供なす。
パイエーケスの諸の頭領及び評定者、
かくして壇をめぐり立ち、ポセードーンに、海王に、
祈祷捧げぬ。こなたには目ざむる勇士オヂュシュウス、
祖先の郷に寢ねしかど、長き不在の故をもて
未だに之を悟り得ず、ヂュウスの神女アテーネー、
パラスは霧を漲らす。神女願へり、求婚の
群の犯せる一切の罪をいましめ懲す前、
妻も市民も友人も彼を知ること無かるべく、
人目逃るる彼に善く一切すべて説くべしと。
かくしてこゝの一切を主公はすべて認め得ず。
長き道筋、上陸の便なる港、更に又、
高き巖も青々(せいせい)の樹木もすべて認め得ず、
斯くして彼は身を起し、立ちて祖先の郷を見る。
しかして彼は嘆聲を放ち、兩手をふり上げて、
股を打ちつゝ愁然と飛揚の言句陳じ曰ふ、

『ああああ何ら人間の郷に今我着きたるや?
彼ら野蠻か?傲慢か?まつたく正義知らざるか?
あるひは人に慇懃に、神を恐れてかしこむや?
これらの貨物いづこにか運び去るべき?はた我は
いづれに向かん?この貨物パイエーケスの國許に
あるべかりしを。我は今とある勝れし國王の
郷に來つるか?彼は善く我を故郷に送らんか?
是らの貨物いづこにか藏め去らんや?我知らず、
こゝに殘すは不可ならむ、他人は之を取り去らむ。
パイエーケスのもろ〜の主領並に評定者、
彼らは賢からざりき、又正しくもあらざりき、
彼らは我をイタケーに導くべしと宣しつゝ、
之を遂げず、他の郷に我を導き來りしな!
ああ哀願を聞き入れてすべてを治め、(あやま)るを
咎むるヂュウス、願はくはパイエーケスを懲さんを。
さはれ今我この貨物數へ調べむ、送り來し、
彼ら或は中廣き船に收めて去りたるか?』

しかく陳じて華麗なる三脚鼎を、水盤を、
金の容噐を、うるはしき布帛すべてを數ふれば、
皆悉く備はれり。されども彼は鞺々の
波浪の岸を愁然と、おのが領土と知らずして、
泣きつゝ廻る、其側に近く、來れるアテーネー、
羊を牧へる青春の子の相好を取る神女、
美妙の姿、王侯の子らのそれにも似通ひつ、
肩に二重の精巧の上着を纒ひ、燿ける
その兩脚は沓うがち、手に一條の槍を取る、
これを眺むるオヂュシュウス、欣然として近く寄り、
彼に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『ああ君、我は眞つ先きにこの地に君を眺め得ぬ、
まさきくあれや、君も亦惡しき思をよも持たじ、
救へ此らの品々を、救へ我身を、神明に
對する如く君の乞ひ、君の御膝の下にあり。
しかして我の知らんため眞實(まこと)を我に告げて曰へ、
ここは何處(いづく)ぞ?何國ぞ?いかなる民やこゝに住む?
沖より遠く眺むべき島國なりや、豐沃の
とある陸土の岸にして海に向ひて傾くや?』

藍光の目のアテーネー彼に向ひて答へ曰ふ、
『あはれ客人、此郷を君もし我に問ふとせば、
(かしこし)とせじ、さもなくば遠きはてより訪ひ來りしか?
さほど無名の郷ならず、多くの人は之を知る、
曙光並に日輪の方に住む者之を知る、
同じくかなた玄冥の方に住む者亦知れり。
げに此郷は嶮しくて馬を驅るには便ならず、
領土廣きにあらざれどさほど不毛の郷ならず、
中に穀物夥し、葡萄の房もよく實る。
雨露の惠はとこしへに郷の豐饒齎せり。
山羊と牛とを飼ふに善し、あらゆる樹木こゝに生ゆ、
常に枯れざる潺湲の泉隨所にまた湧けり、
客人されば、イタケーの名はトロイアになほ聞ゆ、
遙かに遠くアカイアを隔つといへるトロイアに。』

其言ききて喜べる忍從強きオヂュシュウス、
アイギス持てるヂュウスの子、神女パルラスアテーネー、
告げたる如く、身は現に故郷にあるを喜びつ、
神女に向ひ翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、
但し眞實(まこと)を述べ説かず、計策種々に胸中に
思ふ廻らし、さらぬ事斯くして彼は陳じ曰ふ、

『げにイタケーの名は遠く、海のあなたの領廣き
クレーテーにてわれ聞けり、しかして貨物携へて、
我今ここの地につけり。等しき貨物、子に殘し、
かしこを我は逃れたり、イドメニュースの愛づる息、
[13-260]オルシロコスの健脚を斃せる故に逃れたり、
クレーテーにて健脚に數多の勇士凌ぐ彼、
トロイア城にわが受けし鹵獲を彼は奪ふべく
念じぬ(我は其爲めに陸に勇士の戰に、
海に風波の爭にいたくも苦難うけしなり。)
我又彼の父親にトロイアの地に慇懃に、
仕へることをなさずして他の群集を率ゐたり。
我は一人の伴をゐて路傍に近く身を潛め、
野より歸れる彼をわが鋭利の槍に打ち取りぬ。
黒き暗夜は天おほひ、誰しも我を認めねば、
我は即ち人知れず彼の生命斷ち切りぬ。
かくして彼を黄銅の鋭き利刄斃す後、
我は直ちに船に乘り、[13-272]ポイニーケース任侠の
民に赴き、わが獲たる戰利の品に喜ばせ、
ピュロス或はエーリスにエーペーオイ族司どる
神聖の地に我れの身を護送なすべく計らしむ。
されど暴風吹きあれて目ざす方よりやむなくも、
外に漂ふ一同は()を欺くに非ざりき。
そこより更にさまよひて夜間にこゝに進み來つ、
努めて船を灣中に漕ぎ入れ、飢は迫れども
疲勞のあまり一同は食を思ふの暇無く、
船より出でゝ岸の上に先づ一齊に横たはる、
その時甘き睡眠はわが一身を襲ひ來ぬ、
衆はうつろの船の()に貨物すべてを取り出でゝ、
砂上に臥せるわれそば並べ据ゑつ、かくて後、
シードニエーの殷賑の都府をめざして舟に乘り、
立ち去り行きぬ。殘されし我は悲嘆に暮るるのみ。』

[13-260]此名は三歌四八八にあれどこゝにては全く假構の人名。
[13-272]航海術に長ぜる富豪の民族と當時稱せらる。

しか陳ずれば微笑める藍光の目のアテーネー、
玉手をあげて彼を撫で、やがて忽ち丈長く、
手工すぐるる麗人の姿を取りて前に立ち、
かくて飛揚の羽速き言句を彼に宣し曰ふ。

『あらゆる策に、オヂュシュウス、汝を凌げ得るものは、
いかに巧みに賢きか?神なほ之を(かた)んぜむ。
虚僞たくらみて飽くことを知らざる汝けうとしや!
こゝに祖先の郷にして汝は未だ詐僞やめず、
虚言をやめず、心より汝は之を喜べり。
さはれ今いざ斯る言もはや曰ふまじ、計策に、
我も汝も皆優る、汝は思慮と言句とに、
人間中に秀づれば、我亦神の一切の
中に智謀の名は高し、汝知らずや!我こそは
ヂュウスの神女アテーネー、パラスぞ!先に一切の
苦厄の際に汝の身防ぎ守りて、近き頃、
パイエーケスの衆人に汝を愛さしめたりき。
我今こゝに來れるは汝と共に議せんため、
パイエーケスの貴人らが我の意見と思慮により、
去るに望んで贈りたる汝の貨物隱すため、
家に歸りて厄難を忍び耐ふべき運命を
更に汝に告ぐるため。汝飽く迄こを忍べ、
こゝに故郷に漂泊の後に着けりと一切の
男女に汝曰ふ勿れ、人の無禮を飽く迄も、
汝忍びて、口閉ざし、あらゆる苦難身に受けよ。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『難かり、神女、人間の聰明いかに優るとも、
(まみ)えて君を認むるは、あらゆる姿君は取る。
我は善く知る、その昔、アカイア軍勢トロイアに、
奮戰苦鬪したる時、君よく我を惠みしを。
されど其後プリアモス住める堅城陷れ、
歸國の船にアカイオイ、乘れるを神の散らしたる、
其時以來ああ神女、我は君見ず、わが危難
防がんために我船に君乘りし時認め得ず。
碎けし心胸中に常に抱きて悄然と
われさまよへり、其後に神は禍難を解き去れり。
パイエーケスの富裕なる民の間に言句もて、
君は我身を勵まして自ら都市に導けり。
ヂュウスにかけて今君に膝つき祈る。遠くより
眺むべき島イタケーはこゝと覺えず、恐らくは
別の地點に我あらむ。我の心を惑はして、
かく宣しつゝ、徒らに、神女よ、われを嘲るや?
祖先の郷に我れ來しや?乞ふ眞實をものがたれ。』

藍光の目のアテーネー神女答へて彼に曰ふ、
『斯る念慮はとこしへに汝の胸にやどるめり、
されば悲境にあらん時、我は汝を捨ておけじ、
汝誠に辨口に長じ、聰くて知慮深し。
別人ならば漂浪の旅より郷に歸り來て、
欣然として恩愛の妻子を家に眺むべし。
されど汝はしかなせそ、尋ね問ふことまだ早し、
汝の妻をまづ試せ、不憫の彼は家にあり、
悲しき夜と悲しき日、連綿としてはてしなく、
涕涙つねに盡きせざる汝の妻の上を過ぐ。
我は素より疑はず、心の中に能く知れり、
すべての從者失ひて汝故郷に歸ること。
されども我はポセードーン、父の弟、海王と
爭ふことを善しとせず、彼は愛兒の眼を汝
潰せし故に、胸中に汝を怒る念滿てり。
さはれ、今立てイタケーを汝の信のため見せん。
海の老王ポルキュスの港はこゝぞ、その端に、
橄欖の樹の緑の葉しげりて立つを眺むべし。
其樹に近く仄暗き洞窟一つ、いといみじ、
ネーイアデスと呼ばれたる仙女の群の住む處。
暗き洞窟、その中に汝しばしば、其昔、
すぐれし牲を仙女らに捧げたる者そこにあり、
かなたに立つはネーリトン、繁る樹木の蔽ふ山。』

しかく宣してアテーネー霧を拂へば、現はるる
大地を眺め喜べる忍耐強きオヂュシュウス、
おのれの國を認め得て、口を土壤に觸れしめつ、
立ちて雙手をさしあげて、すぐに仙女に祈り曰ふ、
『ヂュウスの息女、仙女團、ネーイアデスよ、生きて我れ
緒仙を見んと思ひきや?いざ今われの慇懃の
祈の納れよ、ヂュウスの女、戰利齎すアテーネー、
我が一命を擁護して我の愛兒を()えしめば、
昔の如く數々の供物を我は獻ずべし。』

藍光の目のアテーネー神女即ち彼に曰ふ、
『信ぜよ、汝、胸中に此らを懸念する勿れ、
いざ速かに神祕なる洞裏に深く此貨物、
納め入るべし、安らかに汝の爲めに藏されん、
其後共に最善の策をもろとも計らはむ。』

しかし[注:しかくの誤り?]宣してアテーネー、暗き洞窟進み入り、
貨物藏むる個處探る、こなたに近くオヂュシュウス、
黄金の噐具、黄銅の品まら華美の衣帛等、
パイエーケスに贈られし種々の珍寶、搬び來つ、
程よく之を納むれば、アイギス持てるヂュウスの女、
神女パルラス・アテーネー戸口にしかと石を据う。

やがて兩者は神聖の橄欖の樹の下に坐し、
かの傲慢の求婚の群の死滅を計りあふ、
藍光の目のアテーネーまづ口を開き宣し曰ふ、

『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス、
思ひ廻らせ、無慚なる求婚者らを懲す法、
三年(みとせ)に亙り汝の()、わが物顏に放縱に
彼らは荒し、貞節の汝の妻を追ひ求め、
嫁資を贈れり、不憫なる彼女は常に良人の
歸りを待ちて悲しめど常に彼らに約束と
希望を與へて便(たより)しつ、しかも心は他を思ふ。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『神女よ我に一切を、君もし告ぐること無くば。
アトレーデース、アガメムノン、其悲慘なる運命と
同じく、我は殿中に無慚に亡び失せつらむ、
いざ侫物を懲すべき策を願はく君計れ、
トロイア城の胸壁を碎きし時の如くして、
我に勇氣を鼓吹して、神女よ、我の側に立て。
ああ藍光の目の神女、心をこめて我が側に
君立つとせば、三百の人一齊に敵として
我れ戰はむ、莊嚴の君の助を力にて。』

藍光の目のアテーネー答へて彼に宣し曰ふ、
『さなり汝の傍に我はあるべし、何時(いつ)にても
此等の事を爲さん時、我は汝を忘るまじ。
汝の産を貪れる彼れ憎むべき求婚者、
其あるものは肝腦と血とに大地を汚すべし。
いざ汝をば、人々に認められざる者とせむ、
其しなやかの肢體より、美麗の皮膚を枯れしめむ、
其かしらより黄色の髮悉く去らしめむ、
見て人々の厭ふべき襤褸汝に纒はせむ、
しかせば汝、求婚のすべての群に館中に、
汝殘せる妻と子に、醜き姿示すべし。
汝眞先きに足向けて家豬を養ふ者を訪へ、
彼は汝に好意あり、汝の爲に家豬を飼ひ、
汝の子息、貞淑のペーネロペーアめで思ふ。
家畜のそばに彼あるを汝見るべし、其群は
アレトウセーの泉流のほとり[13-408]コラクス岩のそば、
好む樫の實、黒き水、その意のままに飮む喰ふ、
かくして群は便々と脂肪豐かに肥え太る。
かしこに汝留まりて坐して委細を彼に問へ、
その間も我は麗人のすむスパルテー訪ひ行きて、
テーレマコスを、[13-413]オヂュシュスよ、汝の息を呼び出さむ。
ラケダイモーン、スパルテー、メネラーオスの住む處、
彼れ訪ひ行けり、生か死か、父の消息知るがため。』

[13-408]昔の原住者、野獸を狩りし時誤りて岩に觸れて死す、母アレトーセー、悲しみ縊首す。此岩は彼の名に呼ばる。
[13-413]呼格。

智謀に富めるオヂュシュウス、答へて彼に陳じ曰ふ、
『神女よ、すべて知り乍ら、なにとて彼に告げざりし?
波浪の上にただよひて、艱苦飽く迄わが愛兒
受くべきためか?其(あひ)に家産を他人貪るに!』

藍光の目のアテーネー答へて彼に宣しいふ、
『汝さまでに胸中に彼の掛念をなす勿れ、
かしこに行きてすぐれたる光榮彼の得るが爲め、
我は親しく遣はせり、彼に何らの苦勞無し。
アトレーデースの宮の中、すべてに足りてやすらへり。
故郷に歸りつかん前、彼の殺害もくろみて、
少年あまた黒船に乘りて彼をば待ち構ふ。
さはれ此事()と成らじ、汝の産を貪れる、
かの求婚の群のもの、其前地下に沈むべし。』

しかく宣してアテーネー、杖取りあげて彼に觸れ、
其しなやかの肢體より美麗の皮膚を枯れしめつ、
その頭より金色の髮悉く去らしめつ、
老いたる人の皮膚をもて彼の肢體を盖ひ去り、
彼の今まで美麗なる雙の目霞み曇らせつ、
裂け破れたる、不潔なる烟にくもるぼろぎぬを、
上着を彼に纒はしめ、更に其上鹿の皮 --
足疾く走る鹿の皮 -- 大なるものを纒はしめ、
しかして他に一條の杖と、をちこち破れたる
きたなき一の背嚢を與ふ、結び繩共に。

この謀計をなしおへて神と人とは別れ去る、
オヂュシュウスの子のために、ラケダイモーンに神は行く。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十四歌


第十四歌

オヂュシュウス來りて牧者ユウマイオスを訪ふ(一 - 二八)。 牧者彼を歡迎す(二九 - 七一)。 食事の間牧者は求婚者の傲慢を訴へ、主公の落命を嘆く(七二 - 一四七)。 主公の歸るべきをオヂュシュウス説く、されど牧者はこれ迄度々來訪者に欺かれたるが故に容易に信ぜず、 またテーレマコスの運命に關しての心配を述ぶ(一四八 - 一九〇)。 牧者に問はれてオヂュシュウス長き造話を語り、あまり遲からずにイタケーの領主歸るべしとの風聞を述ぶ(一九一 - 三五九)。 牧者之を信ぜず(三六〇 - 四〇八)。 牧童ら歸る來る、共に晩餐を取る(四〇九 - 四五六)。 夜寒し、オヂュシュウス物語をなし、外套を借らんとす(四五七 - 五〇六)。 牧者彼の外套を與ふ、他の牧童ら睡る、ユーマイオス獨り出でて警戒す(五〇七 - 五三三)。

港を立ちてオヂュシュウス、荒れたる道を進み行き、
林地を上り丘陵の高きを過ぎて、アテーネー
説きたる處、牧人の宿訪ひ來る -- 先きに彼れ
得たる奴隸に立ちまさり、主人の産を守る者。
その牧人は戸の口に坐したり、ここの農園は
四方遙かに見はるかす高處にありて眺め良し、
廣き此場に廻らせる垣は牧人手をくだし、
旅に主公の出でし時、ラーエルテース老翁と
主婦とに敢て告げずして、家畜のために建てしもの、
その材料は遠くより曵き來る石、荊棘を
上に戴き外面(そとも)には互に近く數多く、
樫の樹切りて造りたる筏をちこちに植ゑられsき、
また農園の内側に、家畜をやどす小屋として、
互に近く相隣る十二の欄は設けらる、
その各に五十頭、仔を産みいづる牝の家豬、
地に轉ぶ家豬收めらる、牡はその欄外にあり。
牡は遙かに少なかり、かの傲慢の求婚者、
貪り喰ひて減じたり、(命を受けたる牧人は
脂肪に富める最上のものを送るを習とす、)
かくして殘る牡の群、三百六十今數ふ。
これら家畜を日の夜に守る四頭の猛き狗、
牧者の長は之をよく養ひ育て仕馴らせり。
戸口に坐して彼は今牛皮截ち切り、雙脚に
纒はん沓を作り居り、他の三人はそれ〜゛に、
あなたこなたに家豬の群追ひつつ行けり、彼は又
殘る第四の牧人を都城に送り、一頭の
家豬を驅りたて、傲慢の求婚者らに到らしむ、
彼らは之を牲として、肉を食ひて飽かんとす。
オヂュシュウスを今不意に猛き狗子らは眺め見て、
狺々として、吠へかかる、其時さときオヂュシュウス、
手中の杖を投げ棄てて、大地の上に身をかがむ、
そこにおのれの農園に彼は禍難に逢はんとす。
されど牧人速かに脚を搬びて跡を追ひ、
手中の皮をなげすてて、戸口を出でて走り來つ、
犬を叱りてをちこちに礫の雨に逐ひやりつ、
(それと知らずに)その主公迎へて彼は陳じ曰ふ。

『ああ(おぢ)危かりしよな、犬に突然噛みつかれ、
激しく害を蒙らば、非難は我に致さしむ。
さはれ諸神は我に他の痛み悲しみ與へたり。
主公は神に似たる人、彼を哭して我ここに
坐して空しく他のために、肥えたる家畜養へり、
ああ無慘なりわが主公、彼もし今も生ありて、
目に日輪を見るとせば、食を求めてさまよひて、
異邦の人の都市の中、迷ひ行くらむ、かなしさや、
さはれ老人、身に附きてわが小屋の中入り來れ、
汝の心麺麭と酒とに滿ちて足らん時、
告げよ、何處より來りしや?何らの禍難忍びしや?』

しかく陳じて小屋さして優しき牧者先に入り、
彼を招きて座につかせ、柴木を厚く下に敷き、
野生の山羊の毛の深き幅廣き皮その上に、
重ねぬ、おのが(しとね)なり、之を眺めてオヂュシュウス、
彼の歡迎切なるを喜び彼に陳じ曰ふ、

『ヂュウスは君に、不滅なる他の神明ともろともに、
望める物を與ふべし、君はいしくも我を愛づ。』

[14-55]ユーマイオスは、牧人は、其時答へて彼に曰ふ、
『君より更に劣る客、來るも之を侮るは、
我の不正とする所、客は富めるも貧しきも、
すべてヂュウスの許より()。わが饗應は小なれど、
愛をこめたり、小なるは若き主人の(もと)にして、
恐れを抱く僮僕に取りての習、是非も無し。
先きの主公の歸郷をば、悲し諸神は抑へたり。
ああ慇懃に我を愛で、心やさしきわが主公、
其僮僕に、勤勉に仕へしものに與ふべき
すべてを我に得さしめむ、即ち家宅また耕地、
また配偶を得せしめむ。神は働く者の(わざ)
成らしむ、われの業成らむ、我こを勤め、これに依る。
ああわが主公歸り來て老いなば我に恩寵を
惠むべかりし、然れども彼は亡べり。[14-68]ヘレネーの
族人失せよ、彼のため亡べる者は幾何ぞ!
アガメムノーンの名のために主公らは起ちき、イリオンを --
馬の産地を目ざしつつ、トロイア軍を打たんため。』

[14-55]原文は二人稱にいふ、『牧人ユーマイオスよ汝は其時答へて曰へり』口調の爲めならむ。後にも屡あり。
[14-68]トロイ戰爭の基たる美人ヘレネー。

しかく陳じて速かに上着に帶を卷きつけつ、
脚を搬びて種々の家豬群れゐる小屋に進み入り、
中より二頭をとりいだし彼と之れとをもろともに、
屠りて切りて串に刺し、烈火の上にかざしつつ、
炙り終りて串のまま、熱き調理を携へて、
オヂュシュウスの前におき、白き粉上にふりまきつ、
蜜の如くに甘美なる酒を[14-78]蔦木(つたき)の杯の
中に程よく水を和し、向ひ坐しつつ勸め曰ふ、

[14-78]上流者は金銀の盃を用ゐ、農民らは木盃を用ゐしなり、テオクリトスの牧歌一の二七參照。

『いざや客人此肉を、僮僕われの捧ぐるを
()せよ美肉の肥えたるは求婚者等の取るところ、
彼らは天の冥罰を思はず、絶えて慈悲知らず。
不滅の神は人間の不正の行爲(わざ)を喜ばず。
ひとり正義を、人間の正しきわざを喜べり。
世には無慚のやからあり、我意(がい)に任せて他の領を
侵す、しかして掠奪をヂュウスの之に許す時、
船を滿たして揚々と故郷をさして歸り去る、
されど恐怖は物凄く彼らの胸の中に寄す。
さもあれここの求婚者知るところあり、とある神
われの主公の無慚なる死をささやけり、其故に
彼らは婚を正しくは求めず、おのが()に行かず、
悠々としてわが資財貪り、惜むところ無し。
見よオヂュシュウス生れ來る其日其日に宵々に、
牲を屠りて祭ること只に一二に止まらず。
葡萄の美酒を傲然と汲み出し飮みて果知らず。
主公の産は果しらず、本土或はイタケーの
島に住へる豪族の誰しもかかるおほいなる
富をば持たず、二十人彼らの産を集むるも
絶えて及ばず、試みにいま我れ君に數ふべし。
[14-100]本土に牛の群十二、羊の數も亦等し。
家豬の群また同じ數、山羊の小屋亦相等し、
主公の[14-103]僕とよそ人はもろとも之を養へり。
[14-104]島の端には十一の山羊の群あり、草喰める
其おほいなる群を善くすぐれし牧夫養へり。
これらの人の各々は肥えたる山羊の群の中、
姿最も善きものを、日日求婚の徒に送る、
しかして我は家豬の群、心盡して養ひつ、
其最上を撰び取り、かの求婚の徒に送る。』

[14-100]一〇三の島と相對して曰ふ、二十歌一八五 - 一八八、ピロイチオス本土より家畜を携へ來る。
[14-103]特殊の意に於て(雇人と相對し)
[14-104]イタケー。

ユウマイオスはかく陳ず、默々としてオヂュシュウス、
酒肉とりつつ求婚の徒をこらしめの策案ず。
飮食飽きて口腹の願の既に終る時、
のみし酒盃を牧人は更に滿たして客人に
與ふ、そを受け欣然と心喜ぶオヂュシュウス、
彼に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『あはれわが友、何ものぞ?君曰ふ如くいみじくも
富みて秀でて、財をもて君を買ひたる其人は?
アガメムノーンの名のために彼は死せりと君は曰ふ。
誰そ彼れ?我は恐らくはかかる勇士に逢ひつらむ。
我善く彼の消息を傳へ得べきや?然らずや?
ヂュウス並にその外の不死の神明知ろしめす。』

家豬を養ふ牧人のかしらこたへて彼に曰ふ、
『彼れの消息齎してこゝに訪ひ來る流浪人、
中に主公の妻と子を納得せしめ得るは無し。
流浪の者はひたすらに只款待を願ふのみ、
眞實のぶる心なく、只に虚言を喋々す。
即ち彼ら漂浪のはてにイタケー訪ひ來り、
わが女主人に打向ひ眞實ならぬことを曰ふ。
女主は彼らをもてなして尋問種々になし乍ら、
あはれ涕涙澘として彼れの(まみ)より流れ落つ、
良人よそに亡ぶ時、泣くは女性の習のみ。
老人、君も速かに一つの話作り得む、
(ある人、君に纒ふべき衣服を惠み得さす時。)
ああわが主公、はや死して野犬野鳥は其皮を
肉を骨より裂きつらむ、魂魄彼を去りつらむ。
或は彼は海中に魚の餌となり、白骨は
さびしき岸にさらされて空しく沙に埋れんか?
あはれ異郷に彼死して、あとに殘れる一切の
友に -- 中にも、われの身に悲嘆かもせり、いづこにか
かかるやさしき他の主公求めんとして得らるべき!
父と母とのわが故郷 -- 恩愛の親我を生み、
我を育てしわが故郷 -- そこに行くとも求め得じ、
故郷に歸り父母を、親しくわれの雙眼に
見るべき願切ながら、之を慕ひて悲しむは、
今こゝに無きオヂュシュウス悲しみ慕ふ程ならず。
あはれ客人!こゝに無き彼を名ざすは恐あり、
彼はいたくも我を愛で、心に思ひ煩へり。
今は遠きにへだたるも、我は友として彼を呼ぶ。』

耐忍強きオヂュシュウス彼に答へて陳じ曰ふ、
『君は一切みな拒み、主公はもはや歸らずと
斷じて我の言きかず、いかに疑念の深きかな!
我はみだりに物曰はず、盟を立てゝ宣すべし、
オヂュシュウスは歸らんと。歸り來りて其家に
彼れの入る時、好音の報直ちに我にあれ、
即ち我に華麗なる上着下着を纒はせよ。
これらは我に要あれど前には敢て我受けず。
貧に屈して詩を曰ふ者多し、かかる者、
恰も我は冥王の門の如くに忌みきらふ。
わが證者たれ、神明の中に眞先にああヂュウス、
また慇懃の此卓子、主公の(ゐろり)、證者たれ、
彼は歸らむ、一切はわがいふ如く成りぬべし。
今年の中にオヂュシュウス此地に歸り來るべし、
かの月終り、この月の始まる時にオヂュシュウス、
この()に歸り來るべし、しかしてこゝに彼の妻、
彼の愛兒に凌辱を加ふる者を懲すべし。』

その時、汝、[14-165]ユーマイエ、彼の答へて斯く曰へり、
『われ好音の此の報、君に對して拂ふまじ、
オヂュシュウスは其家に歸るべからず。さはれ今、
飮むべし。心やすらかに、他事を話して、 -- 此事は
忘れむ、蓋し人ありてわれの主公を語る時、
我の心は胸中にそゞろ悲嘆に耐へがたし。
誓の言は打ち棄てん、さはれ願はくはオヂュシュウス、
歸り()よかし、我と共ペーネロペーア、老翁の
ラーエルテース望む儘、テーレマコスももろともに、
テーレマコスを -- オヂュシュウス生める愛兒をわれ嘆く、
諸神は彼を育くみて新芽の如く長ぜしむ。
我思へらく、人中にありて心身もろともに、
テーレマコスは其父に露いさゝかも劣らずと。
さるを神明人間のあるもの彼の聰明の
心害しぬ。その故に父の消息探るべく、
彼はピュロスの神聖の郷に行きたり、其歸路に、
求婚の群待伏せし、[14-181]アルケーシオス英雄の
族を空しくイタケーの島より絶やし去らんとす。
彼遁るるか、獲らるるか、ただ天命にまかすべし、
クロニオーンおほいなる手をのべ彼を救へかし、
いざや老人、今君の悲哀を我にものがたれ、
われに眞實打ち明けて我に委細を知らしめよ。
君は何者?いづこより?親と故郷はいづくにぞ?
何らの船に乘りきしや、水夫はいかにイタケーに
君を導き來りしや?彼らそもそも何者ぞ?
徒歩にて君が故郷に來しとは我は思ひ得ず。』

[14-165]呼格。
[14-181]祖先。

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『よしよし、我は一切の事實を君に語るべし。
こゝなる小屋の内にして心靜かに宴すべく、
我ら二人に甘き酒、食物ともにしばらくは、
足らば、(しかして他の者はその勤勞に從はば)
然らば神の意によりて、われの惱める一切を
われの胸裏の悲しみを、語りつゞけて一年に
亙るも、之を盡すこと容易き業にあらざらむ。
廣き島なる[14-199]クレーテー、其地に我は生れたり、
父は其地の富める者、その嫡妻の生みいでし
子ら數多く其館に養はれたり、わが母は
買はれし妾婦、 -- 然れどもヒュラキーデース・カストール、
他の嫡出の子の如く等しくわれを重んじき、
彼れの子たるを唱ふるはわが光榮となすところ。
クレーテースの族の中彼を恰も神の(ごと)
民は崇めき、繁榮と富とほまれの子らのため。
さもあれ彼を冥王の館に無常の運命は、
携へ行けば、剛膽の殘れる子らは籤引きて、
父の資産を相頒ち各々之を領し取り、
われに極めて僅少の産を與へて家を添ふ。
われ勇にして敵避けず、人々我を侮らず、
かくして、とある豪族の息女を迎へて妻としき、
今は老齡身に迫りすべての威力あとも無し、
されども君は刈株を目に見て先の收穫を
推し測るべし、飽く迄も我は禍難を身に受けぬ。
アレース及びアテーネー、我に敵陣破るべき
勇と威力を惠みたり、敵に破滅を來すべく、
勇士の群を埋伏の途にやるべく撰ぶ時、
其時常に勇猛のわれの心は死を知らず、
遙かに衆に先んじて鋭利の槍に敵人を、
われは斃せり、健脚に追はれて彼ら斃れたり。
われ戰陣にかくありき、われ耕耘の業好かず、
家政治めて善き子らを養ふことを喜ばず、
常におのれの喜ぶは櫂を用ゐる船のわざ、
更に戰鬪、磨かれし投槍及び鋭き矢、
之を恐るる敵人にとりて誠につらきもの。
これらの物の好愛をわが胸中に神植ゑき、
我は我なり、人は人、好めるは皆變る。
トロイア人をアカイアの健兒攻めしに先だちて、
九度まで我は衆人を率ゐて船の脚速く、
異邦の民に進み行き、獲たりし物は多かりき。
その中我の意の儘に撰び取りしが、又後に
多くの物を籤引きて、家は俄かに富を増し、
其のため我をクレーテー郷人畏れ敬ひき。
されど轟雷のクロニオーン、多くの勇士斃したる
かの憎むべき遠征を、思ひ計りてきめし時、
船イリオンに導くを、イドメニュウスの剛勇と
我とに衆は求めたり、その時われら囂々の
嚴しき聲に迫られて拒まん道はあらざりき。

[14-199]十三歌二五六參照。

そこにアカイア軍勢は九年に亙り戰ひつ、
第十年にプリアモス王の都城を亡ぼして、
舟のへ郷に歸るとき、神の怒りに散り去りぬ。
しかして我の禍を知慮あるヂュウスたくらめり。
家に歸りて愛兒らの又嫡妻の歡會を、
又財寶を樂しめるそは一月の間のみ、
神にすかされわが心、[14-246]アイギュプトスに航行を
望める勇士もろともに、舟の艤裝を促せり。
九艘の舟は艤裝され、衆人とみに集れり。
わが忠實の從者らは六日に亙り宴を張る、
之に多くの聖きものわれは與へて神明に、
牲をし捧げ、一同の饌に豐かに備へしむ。
七日目廣きクレーテーあとに見なして船に乘る、
颯々としてボレースの順風強くふき送り、
舟やすらかに進み行き、流れを下る如くなり、
舟一艘も害受けず、皆安らかに恙なく、
一同座して順風と舵手に任せて乘り進む。
アイギュプトスの溶々の清き流れに五ヶ日目に、
着きたる我ら諸の船を岸邊に繋ぎとむ。
その時我は忠實の從者に命じ、留りて
船守らしめ、更にまた斥候隊を遣はして、
陸に上りて展望に便なる地點求めしむ。
されども彼ら貪慾の情に驅られて暴力を
振ひ、直ちに豐沃のアイギュプトスの地をあらし、
多くの女性、孱弱の小兒の輩を掠め取り、
無慘に男子打屠る、その報すぐに都市に入る。
報に接して衆人は曙光かゞやき出づる時、
進み來りて原上に歩兵と騎兵、劍戟の
きらめき滿てり、その時に雷を喜ぶクロニオーン、
われの部隊に恐惶を起さしむれば、一人も
敵の目の前停らず、災難よもに迫り來ぬ、
敵は多數を鋭利なる武噐を用ゐて亡ぼしつ、
或は囚へ牽き去りて、強ひて勞務に服せしむ、
而してヂュウスわが胸に一つの思案起らしむ、
(今し思へば我そこに、アイギュプトスに、亡滅の
運命負はば善かりけむ -- 災今も身を襲ふ。)
直ちにわれは精巧の兜(とう)より取りはづし、
楯を肩よりひきおろし、手中の槍を投げ棄てて、
馬上の敵の王の目の前にひれふし膝抱き、
哀求むれば憐みて敵王我を救ひ取り、
車臺の上に澘然(さんぜん)と泣きたる我を坐せしめて、
館に向へり、衆兵は激しく我に憤り、
わが殺害を念じつつ槍ふりあげて寄せ來る、
されども王は退けぬ、異郷の客を擁護して、
非業を憎むクロニオーン、ヂュウスの怒恐るれば。

[14-246]河名並に國名。

かくして我は七ヶ年アイギュプトスの地にとまり、
その國人に交ちて施興をうけつつ富と得き。
やがて光陰推し移り第八年の來る時、
ポイニーケーのとある者、先に多くの禍を
人に加へし惡き者、いたく姦智にたけし者、
來りて我を説き伏せてポイニーケーに到らしむ。
その故郷には彼の産、彼の宅あり、その(には)
彼ともろとも、其歳の暮れはつる迄留まりぬ。
月また月と推し移り日は日に次ぎて代り行き、
一年はやく廻り來て季節再び囘る時、
リビエー行きの船の上、彼は我身をのらしめぬ、
惡き企計は我をして共に船荷を督せしめ、
而して後に我を賣り其償金を得んとしき。
疑念ありしも止むを得ず、我船上に伴へり。
船ははげしく飄々と吹く順風に送られて、
クレーテー過ぎ沖を行く、その時ヂュウス一同に
破滅たくらみ、クレーテー過ぎたる後に陸の影、
全く消えて渺々の海と空のみ見ゆる時、
すごき黒雲クロニオーン、湧かし來りて行く船の
上に蔽へば、大海の表も爲に暗み行く。
轟雷起すクロニオーン、其時凄く霹靂を、
飛ばして、船を眞向に打てば全體ゆり動き、
硫黄の烟充ち滿ちぬ。舷側こして海中に
落ち入る衆は一齊に鷗の如く船めぐり、
怒濤に捲かれ運ばれぬ、神は歸國の途奪ふ。
悲痛に心惱みたる我の手中にクロニオーン、
其時(へさき)緑なる舟の折れたる帆柱の
巨大のものを授けつつ、危難再び脱れしむ、
之にすがりて凄じき颱風に吹かれ運ばれぬ。
九日(こゝのか)かくて吹かれ行く我を十日目暗黒の
夜に逆まく大潮は[14-315]テスプロ⌒トイの郷に寄す。
テスプロ⌒トイに君臨のペードーン王はねんごろに、
償無くして我を納る、彼の愛兒はゆくりなく、
寒と疲勞に惱みたる我を見出し手をかして、
[14-319]助け起して、其父の館に我身を導きぬ。
しかして王はわが膚に上着下着を纒はしむ。
オヂュシュウスの消息をこゝに始めて我聞けり。
王は語りき、其國に歸らん彼を慇懃に
あしらひたりと、又彼の集めし寶我見たり。
そは黄銅と黄金と工み(たへ)なる鐡の噐具。
子孫十代相つぎて之を用ゐて餘ある、
かほどの寶、王宮に集めらるるを我見たり。
王また曰ひき、緑葉の高く繁れる樫の中、
ヂュウスの聲を聞かんため、[14-328]ドードーネーに行きたりと、
永く別れしイタケーの富裕の郷に公然に、
あるは私に歸るべき、神の教を知らんため。
王は宮中酒灑ぎ、誓をなしてかく曰ひき、
舟は波上におろされぬ、愛づる祖先の故郷(ふるさと)
かれ送るべく從者らはすでに備を整ふと。
されども王は先んじて我を送れり、國人の
ある船、麥の産地なるドーリキオンに行かんとす。
そこの王者はアカストス、我をその(もと)ねんごろに、
護送なすべき命うけし、衆は心に姦計を
思へり、斯くて我はまた禍難を再び受けんとす。
かくて陸より程遠く船海上をはしる時、
直ちに彼ら我の身を奴隸にせんとたくためり、
即ち我の身につけし上着下着を剥ぎとりつ、
襤褸の衣服、破れたる下着をわれに纒はしむ、
無慘の姿哀にも正に君の目見る如し。
夕に到りイタケーの耕地に船は到りつく。
その時彼ら漕座善き舟のへ我を、善く[絲|(勹&米)]へる
繩にきびしく縛めつ、やがて一同下りたちて、
波浪よせくる岸の上、急ぎ夕べの食を取る。
されど、諸神はすら〜と我の(いましめ)解きほどく。
その時我は襤褸もてわれの頭をおし隱し、
磨ける舵を傳はりて下りて波に胸ひたし、
兩手をのして水を切り、岸に向ひて泳ぎだし、
かくて極めて迅速に彼らを離れ水離れ、
陸に上れば緑葉のしげれる木々の林あり、
こゝにひそみて横たはる。彼らは高く叫喚を
擧げてをちこち往來(ゆきき)しぬ。されども我を見出し得ず、
探索遂に效無しと悟りてあとに引返し、
船に乘り入る。もろもろの神はかくしてやすやすと、
我を隱して又つぎに、我を導き賢明の
人の耕地に到らしむ、生きるはわれの命なりき。』

[14-315]エペーロスの全海岸及内陸に住める者、後にはエペーロスの中央にある三區中の一のみを領とす。
[14-319]息子の導く時は客人款待の道を行う。三歌三十六參照。
[14-328]當時エスプロートイの領内にありと見ゆ。イーリアス十六歌二三三にドードーネーを司るヂュウスに祈る言句あり。

ユーマイオスよ、其時に汝答へてかく曰へり、
『客人げにも不幸なり、君は苦難と漂浪の
委細をわれに打明けて我の心を動かせり。
されど誠と思はれず、オヂュシュウスの消息の
此事信をおきがたし。かかる身にして何故に
かく喋々と虚言する?主公歸るや、歸らずや?
我明らかに之を知る、彼はすべての神明に
憎まる、彼をトロイアに見よ神明は死なしめず、
又戰爭の終るのち友の手中に死なしめず、
しかせばすべてアカイオイ彼に墳墓を殘すべし。
颱風の精は譽なく彼を遠くに吹き去れり。
しかして我は衆人と離れて家豬のそばにあり、
ある消息の到る時、ペーネロペーア、聰明の
女主もし我を呼ばずんば、我は都に行かざらむ。
その消息を曰ふ者に衆はすべての事を問ふ、
久しく去りて歸らざる主公を嘆く(ともがら)も、
彼の資産を平然と貪り食ふ輩も。
[14-378]アイトーロスのとある者、僞り、我を欺きし
その日このかた、一切の尋問我は喜ばず、
人を殺せる科により、彼は四方を逃げまはり、
遂に我家を訪ひ來しを我慇懃にもてなせり。
クレーテーにてオヂュシュウス、イドメニュースともろともに、
破れし舟を繕ふを見たりと彼は僞りき。
又僞りき、財寶を齎し從者もろともに、
夏か秋かにわが主公故郷に歸りくるべしと。
悲多く老いし君、君を神明わが許に
送れり、敢て僞りてわれ喜ばすこと勿れ。
君を敬ひもてなすは、之を求めるためならず、
客を擁護の神恐れ、君を憐れむためにこそ。』

[14-378]イタケーの東にあり。

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『飽く迄物を信ぜざる心は君の胸にあり、
われ誓言を用ゐるも君を納得させがたし。
いざや然らば約すべし。ウーリュンポスを家とする
高き諸神よ、兩人の間に後に證者たれ。
君の主公が此家に歸り來らば、其時に、
上着下着をわが膚に纒はせ、われを導きて
ドーリキオンに行かしめよ、そこに心は安からむ。
我が曰ふところ謬りて主公はこゝに歸らずば、
奴隸を用ゐ、嶮崖の上より我を突きおとせ、
然らば外の乞食らは虚言を吐くを恐るべし。』

ユーマイオスは其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『ああ客人よ、先に我が屋の中君を招き入れ、
款待致し、しかる後君を殺して生命を
奪はば我は今すぐに、又此後も末遠く、
[14-405]世間にありて名聲と有徳の譽羸ち得べし、
而して[14-406]心穩かにクロニオーンに祈り得む。
さはれ夜食の時到る、今速かに小屋の中、
伴間のものら歸れかし、美味の夜食を整へん。』

[14-405]反語。
[14-406]惡人は穩かに神に祈るを得ず。

かくして二人かれとこれ向ひ互ひに陳じ合ふ、
家豬の群また牧人らやがて(かたへ)に歸り來つ、
中に休やひ睡るべく獸を欄に驅り納む、
驅られて中に群れる家豬は囂々鳴き叫ぶ。
その時心慇懃のあるじ仲間に命じ曰ふ、
『遠き國よりたづね來しわが客のため屠るべく、
すぐれし家豬を引き來れ、われらも共に益を得む、
白き牙ある家豬のため永らくわれら苦しめり、
わが勞力の成るところ、他は平然と喰ひ去る。』

しかく陳じて青銅のつらき斧もて薪割る、
伴間は年は五歳なる肥えたる家豬を引き來り、
爐邊に近く立たしめぬ、あるじは神を尊びて、
心用ゐて手はじめに、白き牙ある其家豬の
頭の粗毛切り取りて、之を火中に投じ入れ、
彼らの主公オヂュシュウス恙なくして其家に、
歸らんことを一切の不滅の神に祈り上げ、
切り殘したる樫の樹の一棒あげて家豬を打ち、
その生命を斷ち去れば、衆は喉切り毛燒して、
直ちに牲を切り開く。すべて四肢より一片を、
主人は切りて肉片を油ぎりたる脂肉(あぶらみ)
中に包みて大麥の粉をふりかけ火に投ず、
衆は殘りをこまやかに切りて串もて貫きて、
心をこめて之を燒き、燒きて串より拔き出し、
料理臺の()さしおけば、あるじの牧者其前に、
よく公平を心して、肉頒つべく身を起す。
しかして彼は平等に七つにわけて相くばり、
一を仙女とヘルメース -- [14-435]マイアスの子に奉り、
祈祷さゝげて其殘みな衆人に相頒ち、
オヂュシュウスには牙白き[14-437]家豬の脊筋の長きもの、
與へて彼を敬ひて彼の心を喜ばす。
智謀に富めるオヂュシュウス彼に向ひて陳じ曰ふ、

[14-435]マイアスはヘルメスの母。
[14-437]八歌四七五。

『ユーマイオスよ、かかる身に譽の肉を與へたる
君は願はくクロニオーン、我もろともにめでよかし。』

ユーマイオスは其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『尊き客よいざ()せよ、今眼前にあるものを
樂しみ享けよ、神明はある物與へ、ある物を
許さず、すべて意の儘に、彼は一切皆能くす。』

しかく陳じて(はつ)の肉不滅の神に奉り、
美酒を奠ぎて盃を都城破壞のオヂュシュウス、
勇士に渡し、自らは其分け前の側に坐す。
メソーリオスは麺麭(めんほう)を配る、彼こそ牧人が、
其故郷よりオヂュシュウス立ちたる後に得たるもの、
おのれの財を引き出し、[14-451]タポスの地より買ひしもの、
ラーエルテース老雄も女主人も(あづか)らず。
やがて一同眼前におかれし食に手をのばす。
かくて一同飮食の願おのおの滿てる時、
メソーリオスは卓上の殘れるものを始末しぬ。
口腹充ちて衆人は彼らの床に行かんとす。

[14-451]イタケーの北にあり、そこの住民の一部は海賊にして又、商賣をよくす、十五歌四二七及び六歌四二五參照。

月なく暗き夜到り、クロニオーンよもすがら、
雨を降らして、雨運ぶゼビュロス強く吹きすさぶ。
その時主公牧人を試さんために口開く、
好意ある彼其上着脱ぎておのれに與ふるや?
或は誰か從者らのひとりに之を命ずるや?

『ユーマイオスよ牧人のすべてよ、我の言を聞け、
自慢の言を我のべむ。飮酒は人を痴ならしめ、
慧き者をも歌はしめ又朗かに笑はしめ、
或は之を促して舞はしめ、口にいふまじき
言句を彼に放たしむ、酒今我をそゝのかす、
かくして我は口切りぬ、はや何事も隱すまじ。
嗚呼我れ年は若うして、むかしトロイア原上に、
伏兵仕立て導ける時の如くに猛からば!
率ゐし將はオヂュシュウス、アトレーデース・メネラオス、
其兩雄に誘はれて、我第三の將たりき。
一同やがてトロイアと其高壁に着ける時、
城の周圍の繁き籔、蘆と沼との傍に、
鳴を鎭めて武具の下、身をひそやかに横たへぬ。
北風寒く吹き落し、夜凄しく襲ひ來ぬ。
更に空より雪降りて[14-476]霜の結ぶを見る如し、
寒し、しかして一同の楯は氷に掩はれぬ。
他の一同は膚の上、外套及び下衣を着て、
楯に兩肩おほはせて心靜かに睡り行く。
然るに我は立つ時に、風邪の恐れあるまじと、
思慮淺くして[14-481]外套を友の手許に殘し來つ、
楯を携へ、輝ける肌着を着けて進み來ぬ。
更けゆく夜の第三時、星の傾き沈む時、
オヂュシュウスが傍にいぬるを肱に突き乍ら、
彼に向ひて我曰へり、彼は直ちにそを聞けり。

[14-476]「雪が霜に似る」とは竒異の言句。
[14-481]冬の節に外套を着けずとは實際にあるまじきこと。

『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス、
生者の中にもはや我殘るべからず、被服なき
我を寒氣は斃すべし、ある神我を欺きて
下着のもにて立たしめぬ、助かる道はよもあらじ。』

謀議並びに戰爭に共にすぐれしオヂュシュウス、
われの愁訴を打ち聞きて胸に竒計を産み出し、
微けき低き聲をもて、我に竊かに陳じ曰ふ、
『默せよ、ほかのアカイオイ、われらの言を聞かぬため。』

しかして彼は其肱に頭支へて衆に呼ぶ、
『諸友よ、我の言を聞け、我は尊き夢見たり、
あまりに遠く船離れ我ら來れり、誰人か、
走りて行きて民の王アトレーデースに願ひ曰へ、
船より更に軍勢の多くをこゝに送るべく。』

しか陳ずれば速かに[14-499]アンドレイモーン生める息、
トアス即ち身を起し、紫染むる外套を、
棄てて水陣めがけ馳す、彼の殘せる被服着て、
我はしづかに横はる、程なく曙光現はれぬ。
そのいにしへの時のごと、我若うして強からば!
然らば小屋に牧人は客に對する愛及び、
勇に對する敬に依り、われに被服を與ふべし、
襤褸を纒ふ姿見て彼らは我を侮れり。』

[14-499]イーリアス二歌六三八。

ユーマイオスよ、其時に汝答へて斯く曰へり、
『ああ老人よ、いみじくも君は之らを物語る、
斯れば君は缺かざらむ、被服並びに外の物、
こゝに來りて哀訴する不幸の人の得べき物、
あしたにならば(はだへ)より君は襤褸を拂ふべし。
こゝに膚を盖ふべき衣服、着替の下着など、
數多からず、各人はたゞ一着を持てるのみ。
オヂュシュウスの愛づる息、テーレマコスの歸る時、
彼は親しく一切の被服を君に與ふべし、
しかして君の好むまま望む所に送るべし。』

しかく陳じて身を起す牧人やがて客のため、
爐邊に近く床を敷き、羊と山羊の皮に掩ふ。
オヂュシュウスはそこに臥す、臥したる彼に幅廣き
厚き被覆を牧人は掛けぬ。 -- あらしのあるる時、
之に備ふる着替へとし常に座右における物。

斯くしてそこにオヂュシュウス、臥せば(かたへ)に年若き
牧人ともに打臥しぬ。ユーマイオスは只一人、
家豬を離れて此室に床設くるを喜ばず。
身支度なして外に出づ、オヂュシュウスは之を見て、
主公の留守に其産をいたはる彼を喜べり。
彼は眞先に剛強の肩のへ、利劔投げかけつ、
頗る厚き外套を風凌ぐべく身に着けつ、
能く飼はれたる山羊剥ぎて得たる毛皮を携へつ、
更に狗群と惡漢を攘はんために槍を取り、
北風よけて空洞に其牙白き家豬の群、
眠るところにもろともに臥すべく彼は出でてゆく。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十五歌


第十五歌

アテーネー、スパルテーに行き、テーレマコスの歸國を促す(一 - 四二)。 別れの日メネラーオスと王妃ヘレネーとの餞別と送行(四三 - 一四二)。 テーレマコスとペーシストラトスが出發する時、ヂュース前兆を示す、ヘレネー之を解説す(一四三 - 一八一)。 テーレマコスはペーシストラトスとピュロスに別る(一八二 - 二一九)。 神女に牲を獻ずるテーレマコスの許に逃亡者來り、テオクリュメノスと名のり、救助を求む、 之を許して共に乘船し、イタケーにつく(二二〇 - 三〇〇)。 オヂュシュウスと牧人の問答(三〇一 - 三三九)。 牧人はラーエルテースの消息を語る。又自己の經歴を語る(三四〇 - 四九二)。 テーレマコス其部下ペーライオスに命じてテオクリュメノスを案内せしむ(四九三 - 五二四)。 ヂュウス吉兆を示す(五二五 - 五三八)。 テーレマコス歩してユーマイオスを訪ふ(五三九 - 五五七)。

其時パルラス・アテーネー、[15-1]ラケダイモーン廣き郷、
目ざして立てり、オヂュシュウス産めるすぐれし若人に、
歸郷の念を促して彼を旅路に立たすため。
テーレマコスとネストルの生める[15-4]善き子をアテーネー、
メネラーオスの宮殿の柱廊に臥すを見出しね。
ネストルの子は温柔の眠に夢は靜かなり。
テーレマコスを甘美なる眠は絶えて囚へ得ず、
父を思ひて夜もすがら彼は目冴えて眠られず。
藍光の目のアテーネー側に來りて彼にいふ、

[15-1]四歌六二四、ラケダイモーンに於けるテーレマコスの段に續く。
[15-4]ペーシストラトス。

『テーレマコスよ、家離れ漂ふ事を警めよ、
あとに汝の産殘り、又知る如き傲慢の
人殘りあり、憎むべき彼等は産を奪ひとり、
(ある)は互に()を頒つ。汝の旅は無用なり。
音聲高きメネラオス王をとく〜促して、
汝を旅に立たしめよ、慈母を館中見るがため。
ユウリマコスと婚すべく彼女の父と兄弟は
彼女に勤む、しかうしてユウリマコスは他を凌ぎ、
嫁資を豐かに齎らして、更に今また益し加ふ。
汝の意志に逆らひて産は家より奪はれむ。
女性は胸に何思ふ?汝親しく之を知る、
婚する者の其家を女性は富ますこと願ひ、
先の子女らも、今は無きむかしはまでし先夫をも、
思ひ出して悲しみて、たづぬることは絶えて無し。
されば汝はとく歸り侍女の忠なるもの選び、
汝の家の一切の資産を之に托すべし、
やがて神明良き妻を汝の爲に見出さん。
我また他事を宣すべし、汝心に銘じおけ。
かの求婚の主領らのあるもの、家に歸り來る
汝を途に -- イタケーと土地磽碑のサモスとの
(あひ)の[15-30]地峽に待伏せて、斃さんとして議を凝す。
さはれ此事()と成らじ、之に先んじ貪慾の
かの求婚の或ものは大地の下に埋られむ。
さはれ汝は堅牢の舟を諸島に近づけず、
夜中ひたすら漕ぎ進め、汝を守り擁護する
とある神明うしろより、善く順風を送るべし。
かくて眞先(まさ)きのイタケーの岸に安けく着かん時、
舟とすべての從者らを汝都に送るべし、
されど汝は眞先に家豬の牧人行きて訪へ、
彼は汝の爲め牧し、毎に好意を抱く也。
そこに一夜を過すべし、而して彼を使者として、
都に送り貞淑のペーネロペーア母人(はゝびと)
報ぜよ、汝恙なくピュロスの地より歸りぬと。』

[15-30]四歌の終に説く如し。

しかく宣してアテーネー、ウーリュンポスに向ひ去る。
跡に殘れる若き人、踵を觸れてネストルの
子に甘睡を(さま)さしめ、彼に向ひて陳じ曰ふ、
『ペーシストラトス、ネストルの子息、いざ立ち、單蹄の
馬を驅り來て旅の爲め、早く車につけよかし。』
ペーシストラトス、ネストルの子息答へて彼に曰ふ、

『テーレマコスよ、いかばかり、我ら旅行を急ぐとも、
暗き夜中に驅るを得ず。間なく曙光は現はれむ。
槍の名將メネラオス・アトレーデース、數々の
贈與の品をもたらして、之を車上に載するまで、
また慇懃の言葉もてわれらの離別送るまで、
待て、款待を示したる -- 客を愛する主人をば、
客たるものはとこしへに、心に留めて忘るまじ。』

しかく陳ずる程もなく、黄金の座の曙の神
現はる、やがてメネラオス、鬢毛美なるヘレネーの
かたへの臥床立ちいでて、二人のそばに寄り來る。
オヂュシュウスの愛づる息之を認めていそがしく、
いみじく光る衣服身に纒ひて、更におほいなる
マントル強き雙肩の上に投げかけ、室外に
出で、寄り來るメネラオス主公の前にたちて曰ふ、
オヂュシュウスの愛づる息テーレマコスは立ちて曰ふ、

『アトレーデース、メネラオス、神の育てし民の王、
今願はくは我をしてめづる故郷に去らしめよ、
我の心は戀々と家に歸るを望むなり。』

音聲高きメネラオス彼の答へて陳じ曰ふ、
『テーレマコスよ、歸家の念切なる君を我ここに
長く留むる心なし。あまりに客を愛するも、
あまりに客を憎しむも、共に等しく款待の
誠をいたす道ならず、たゞ中庸を(よし)と爲す。
立たんとする心なき客を促し立たしむる、
あるひは歸家を念ずるを抑ゆる、共に不可ならむ。
殘らん客は愛すべし去らんとするは送るべし。
さはれ美麗の贈物携へ來り車の()
我が載するまで待ちて目に眺めよ、更に館中に
我は食事を備ふべく侍女らに命を下すべし、
食を終りて其後に廣く大地を旅するは、
主公のとりて譽なり、客にとりては利益なり。
ヘルラス及びアルゴスの郷の旅行を喜ばば、
我は汝に(ともな)はむ、馬を軛に繋げ附け、
異郷の都市に導かむ。そこに彼らは空しくは
われ去らしめず、ある物の贈遺をわれに致すべし、
或は細工巧みなる黄銅製の三脚の
鼎か、又は大釜か、二頭の騾馬か、金盃か?』

彼に對して聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『アトレーデース、メネラオス、神の育てし民の王、
我は故郷に歸るべき願切なり、立ちし時、
あとに(わが)産治むべき監視の者をおかざりき、
恐るるところ、わが父を探す我まづ斃れんか?
あるいはいみじき珍寶は家より奪ひ去られんか?』

音聲高きメネラオス・アトレーデース之を聞き、
すぐに王妃に又侍女に、貯へおける食物を
用ゐ殿中盛なる宴を張るべく令下す。
ポエートースの生める息ラーエルテース臥戸いで、
彼の近くに出で來る、彼の住所は遠からず。
音聲高きメネラオス、彼に命じて火を起し、
肉炙らしむ、其命に背かず彼は從へり、
王者はやがてかんばしき其寶藏に降り行く。
身ひとつならず、ヘレネーとメガペンテース伴へり。
かくて數多の珍寶を藏むる(には)に到るとき、
アトレーデース、メネラオス二柄の酒盃とりあげつ、
メガペンテース -- めづる子に、白銀をもて造りたる
混酒の鉢を運ばしむ。ヘレネー櫃のそばに立つ、
中に王妃の織りなせる刺繍いみじき衣裳あり、
女性の中にすぐれたるヘレネー此れの間より、
刺繍最も美はしく、幅も最もおほいなる --
底に最後に祕められて星の如くに光るもの、
取りいで共に殿を過ぎ、テーレマコスのそばに來ぬ。
王、金髮のメネラオス彼に向ひて陳じ曰ふ、

『テーレマコスよ、胸中に君望む儘願はくは、
神女ヘーレー妻とする轟雷高きクロニオーン、
君に歸郷を惠めかし。[15-113]わが館中にある寶、
中に最も華美にして貴きものを進ずべし。
ヘーパイトス作りたる混酒の(うつは)、精巧に
全部はすべて銀にして縁は金より成れるもの、
我進ずべし、こをむかし、シィドーン王者パイヂモス、
其館中にわれを泊め、去るに臨みて慇懃に
われに贈れり、いざ是をわれ今君に讓るべし。』

[15-113]一一三 - 一一九は四歌六一三 - 六一九と同じ。

しかく陳じてメネラオス・アトレーデース、客の手の
中に二柄の酒盃おく、メガペンテース猛き子は、
白銀製の混酒の噐、かがやく物を齎らして、
同じく客の前におく、かたへに立てる豐頬の
ヘレネー衣裳携へて彼に向ひて陳じ曰ふ。

『若きいとし子、我も亦君に此品進ずべし、
ヘレネーの手の思ひ出に、君のうれしき成婚の
その日、花嫁着けよかし、其時迄は母人(はゝびと)
家に此品あづくべし、さらばぞ、今は喜びて、
祖先の郷に、堅牢に築ける家に歸れかし。』

しかく陳じて客の手に渡せば受けて喜べり、
ペーシストラトス又更に受けて車上の箱の中、
これらの品を收め入れ、眺めて心驚けり
髮うるはしきメネラオス彼らを内に導きつ、
主客それぞれ椅子によりまた高椅子によりて座す。
淨めの水を黄金の美麗の瓶に齎らして、
侍女は彼らの手洗ひに銀盤上に傾けつ、
終りて側に磨かれし一つの卓をおき据ゑぬ。
その時容儀しとやかの家婦は麺麭齎らしつ、
衆の口腹充すべく卓に多くの食を載す。
ポエートースの生める子は肉をきざみて相頒ち、
メネラーオスの生める子は黯紅色の酒そゝぐ。
一同かくて手をのして供へられたる食を取る。
やがて一同飮食を終り口腹飽ける時、
テーレマコスとネストルのすぐれし子息もろともに、
二頭の馬に(くびき)着け、華美の車上に身を乘せて、
館門及び反響の前廊過ぎて驅け出だす。
アトレーデース、金髮のメネラーオスは跡を追ひ、
奠酒終りて立たすべく、黄金製の盃に、
蜜の如くに甘美なる酒を充して右手(めて)に持ち、
馬前に立ちて慇懃に別れの言句のべて曰ふ、

『さきくあれかし若き子ら、民の王たるネストルに
わが慇懃の言致せ、アカイア軍勢トロイアに
戰ひし時、我に彼れ父の如くに振舞へり。』

其時かれに聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『ヂュウスの愛づるメネラオス!君曰ふ如く[15-155]かの人に
着く時委細陳ずべし。ああイタケーに歸る時、
オヂュシュウスに其館の中に告ぐるを得ましかば!
あらゆる友誼うくる後、君の許より歸り來て、
あまた貴き珍寶をこゝへ齎らし歸りぬと。』

[15-155]ネストール。

しかく陳ずる若人の右手(めて)に[15-160]一羽の鳥飛べり、
飼ひ馴されし農園の大なる鵝鳥眞白きを、
爪につかめる鷲なりき、男女の群は聲あげて
追ひ行く、鳥は群集の(かたはら)近く飛び來り、
乘馬の前を掠めさり右に翔けりぬ、、眼前に
之を眺めて衆人の胸に歡喜は湧き出でぬ。
ペーシストラトス、ネストルの生める子息は口切りぬ、

[15-160]後文五二五にも。

ヂュウスのめづるメネラオス、民の王者よ、思ひ見よ
此前兆は誰のため、君か我らの二人にか?』

アレース愛づるメネラオス、其言ききて思案しぬ、
熟慮の末に然るべき答をいかに與ふべき?
その時裳長く曵くヘレネー先に陳じ曰ふ、

『われに聽けかし、豫言せん、われの心に神明の
あるもの之を吹き込めり、豫言必ず成りぬべし。
その子その親住むところ深き山より出で來り、
農園場にはれたる鵝鳥を鷲は捕へたり、
かくの如くにオヂュシュウス、苦難を忍び、漂浪の
果に故郷に歸り來て、復讐なさむ、恐らくは
彼今すでに歸り來て敵に禍たくらまむ。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『ああヘーレーを妻とするヂュウスはしかく爲せよかし。
然らば君をわれ郷に神の如くに仰ぐべし。』

陳じ終りて別れ去る二人は馬に鞭うてば、
平野に向ひ城中を過ぎて勇みて驅け走る、
背に負ふ軛震はして終日長く驅け走る。

やがて日輪沈み去り、闇はあらゆる道を蔽ふ、
その時二人ぺーレーに、[15-186]ヂオクレースの郷に着く、
アルペーオスの孫にしてオルシロユスは彼の父。
そこに一夜を過したる二人に領主餞す。

[15-186]一八五 - 一八八と三歌四八七 - 四九〇とを比すべし。

薔薇色の色の指もてる曙の女神のいづる時、
二人は馬に軛かけ、華美の車の上に乘り、
館門及び反響の前廊をすぎて驅け出し、
鞭を當つれば揚々と雙馬勇みて馳け走る、
かくて二人は速かに高きピュロスの都市につく、
テーレマコスは其時にネストルの子に向ひいふ、

『[15-195]ネストリデーよ、いかにして約してわれの情願を
聽くや?われらは父親の友誼によりて、とこしへに
友と互に相誇る、更に年齡また等し。
しかも此旅一層にわが親好を募らしむ。
ヂュウスの愛兒、願はくは、船より外に誘はざれ、
君の老父は款待を望みて、強ひて好まざる
我を殿中留むべし、我は歸郷を只急ぐ。』

[15-195]ネストリデース(ネストールの子)の呼格。

しか陳ずれば胸中にネストリデース思案しぬ、
いかに約して正當に彼の願を果すべき?
思案のはてに斯くなすを宣しと彼は悟り得つ、
即ち馬を()き船に、白浪寄する岸に向け、
車上にのせし珍寶を -- メネラーオスの與へたる、
衣服並に黄金を、出して舟の中に入れ、
而して友を促して羽ある言句(ごんく)陳じ曰ふ、

『我れわが家に歸りつき老父に委細語る前、
急ぎて舟に乘込みて從者(ずさ)一同に令下せ、
我善く我に胸中に事明かに辯へり、
父の氣性は激しくて空しく君を去らしめず、
自ら此に脚むけて君を誘はん、恐らくは、
空しく素手に歸るまじ、怒りは激しかりぬべし。』

しかく陳じて鬣の美なる雙馬を走らしつ、
ピュロスの都市に、又早く彼の居館に到りつく、
テーレマコスはこなたにて從者促がし命じいふ、

『友よ船具を整へよ、此のわが黒き船中に
我ら一同のりこみて海路の旅に進むべし』

しか陳ずるを耳にして一同之に從ひつ、
直ちに舟に乘り入れて漕座につけり一齊に、
テーレマコスはいそしみて事に從ひ(とも)のそば
祈りて祭るアテーネー、その時彼の傍に、
人を殺してアルゴスを逃れ來りし遠來の
預言者ひとり近づけり、彼の遠祖は[15-225]メランポス。
遠祖は昔群羊に富めるピュロスに住居して、
富裕の生を營みて巨大の館を構へたり、
その後彼は[15-228]ネーリュウス心猛くて聲名の
高き者避け、國を去り異郷の空の客となる、
其ネーリュウス一年のすべてに亙り彼の産、
押へ保ちき、其間王[15-231]ピュラコスの館中に
彼は嚴しき縲紲の難に悲慘の日を經たり、
そはネーリュウス[15-233]生める女のためなり、更に恐るべき
懲罰の神エリニュウス彼の心を暗ませり。
されども遂に運命を逃れ、ピュロスにピュラケーの
地より、高らかに鳴き叫ぶ、其牛群を驅り來り、
かのネーリュウス振舞ひし非行に對し仇報い、
[15-238a]少女をおのが[15-238b]兄弟の家に導き婦たらしむ。
しかして彼はアルゴスに -- 駿馬の郷に移り行き、
そこに民衆治めつつ其運命に從へり。
しかしてそこに婦を娶り、高き館を營みぬ、
アンチパテース、マンチオス二人の健兒生れたり。
アンチパテース勇猛のオイクレーエス生みなしぬ、
オイクレーエス生みたるはアンピアラオス、楯もてる
ヂュウス並にアポローン、あらゆる愛を注ぎたる
民の鼓吹者、しかれども彼老齡に逹し得ず、
[15-247]妻の受けたる賄賂より彼れテーベーに斃れたり。
アルクマイオン更にまたアムピロコスは彼の二兒、
またマンチオス生みたるはポリペーデース、クレートス、
黄金の座の曙の神、[15-250]の故にクレートス
奪ひて、彼を天上の諸神の(あひ)に住まはしむ。
ポリペーデースをアポローンすぐれし豫言者たらしめつ、
アンピュラオスの死せる後、至上の人の子たらしむ。
父に對して憤るポリペーデース國を去り、
[15-255]ヒュペレーシエーに住居してすべての人に豫言しき。
テオクリュメノスは彼の息、今し來りて舟の上、
黒く染めたる舟の上、テーレマコスの前に立ち、
奠酒なしつつ、神明に祈捧ぐる彼を見て、
即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

[15-225]十一歌二九二のすぐれし占者はメランポス。
[15-228]十一歌二八一行參照、ネーリュウウスに女あり、ペーローといふ、ピュラケーより牛群を奪ひ來るべき者に之を與へんと宣す。
メランポス其弟ビアースのため彼女を得んとしてピュラケーに行き、失敗して檻禁さる、一年にして之を脱して志を遂ぐ。
[15-231]ピュラケーの王。
[15-233]ペーロー。
[15-238a]ペーロー。
[15-238b]ピアース。

[15-247]十一歌三二七、妻はエリピュレー。
[15-250]同樣にラーオメドーンの子、チートーノスも奪はる(五歌一)、オーリオーンも然り(五歌一二一 -)。
[15-255]イーリアス二歌五七三。

『ああ君、こゝに神明の牲を捧ぐる君を見て、
我れ君に乞ふ、神明と牲とに掛けて、更に又
君と從者の(かうべ)とに掛けて我乞ふ、願はくは、
眞實われに打明けて、隱すことなく我に曰へ、
君は誰ぞや?いづくより?親と都市とはいづくにぞ?』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『客よ、此事眞實に我今君に語るべし、
我れイタケーの郷の産、父は名に負ふオヂュシュウス、
さはれ酷くも彼は今、悲慘の最後を遂げつらむ、
そのため我は從者らと黒く染めたる舟率ゐ、
昔別れし我が父の消息求めこゝに來ぬ。』

テオクリュメノス、神力を備へし者は答へ曰ふ、
『さりや、我亦同國の人を殺して郷を逃げ、
こゝに來れり、彼の友又兄弟の數多く、
馬の産地のアルゴスに、アカイア人に威を振ふ。
彼らの手より逃れ出で、死の運命をまぬがれて、
ここに來れり、民族の(あひ)に漂ふわれの運。
逃れ來りて君に乞ふ、此船中にわれを置き、
敵手に落すこと勿れ、思ふに彼ら我を逐ふ。』

その時彼の聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『しか請願の君を我れ船より敢て斥けず、
我につき()よ、かしこにて一切をもてなさむ。』

しかく陳じて青銅の槍を彼よりうけとりて、
之を進退便(たより)よき舟の甲板上におく。
大海原を行く舟に彼は自ら乘り入りつ、
(とも)のほとりに座を占めて、やがておのれの傍に、
テオクリュメノス坐らしむ、衆は纜解き放す。
テーレマコスは其時に彼の從者ら勵まして、
船具の準備命ずれば、衆速かに之を聽く。
即ち樅の帆檣を起し、うつろの承口(うけぐち)
中におしたて、前繩を用ゐて(しか)と支へしめ、
牛の皮革を綯へる索、曵きて白帆を張り上げぬ。
藍光の目のアテーネー、其時空に飄々と、
激しく早く吹きすさぶ順風送り舟進め、
早く走りて汗漫の潮の上を渡らしむ。
舟は過ぎ行くクルーノイ、[15-295]カルキス(清い河の郷)。

[15-295]共にエーリス中の郷。

日輪沈み、暗黒は海一面を蔽ひ去る、
ヂュウスの風に扇がれて船はペアイに近附きつ、
エペーオイ族司どる聖きエーリス過ぎ行きぬ。
死を遁るるか、囚はれか?いづれと思ひ煩ひて、
テーレマコスは山嶽のけはしき[15-300]諸島めざし行く。

[15-300]「もろもろの影出沒の島めざす」といふ説もあり。

こなたに二人小舍の中、オヂュシュウスと牧人と、
夕食取ればもろともに、自餘の牧者も亦食す。
飮食終り口腹の慾をおのおの去れる後、
オヂュシュウスは試しみる、牧人眞に慇懃に、
我をもてなし其小屋に居るを望むや?都市さして
去るべく我を促がすや?試して彼に陳じ曰ふ。

『ユウマイオスよ、又外の牧人たちよ、我に聞け、
あすの朝明(あさけ)に都市さして出でたたんことわが願ひ、
我は君らの煩らひとならざらんため乞食せむ。
願はくは我に助言せよ、しかして我を案内(あない)する、
善き導きの人惠め。即ち都市にたどり行き、
一盃の酒、一片の食を求めてさまよはむ。
しかして行きて神に似るオヂュシュウスの館を訪ひ、
ペーネロペーア、貞淑の(きさき)に委細ものがたり、
威勢に誇る求婚の群の間にまじるべし、
無量の食を持てる群、我に食餌を與へんか。
彼ら心に願ふもの、我速かに爲し得べし。
今、君に曰ふ、心して善くわが言に耳を貸せ。
すべての人の働に美と譽とを貸し與ふ、
[15-320]ヘルマイアース、天上の使者の惠みの故により、
火を炎々と起すこと、乾ける薪造ること、
肉を截ること、炙ること、或は酒を灑ぐこと。
すべての奉仕、下のもの上に致さん其務、
奉仕に於ては何人も我と競ふを敢てせじ。』

[15-320]十九歌三九六、ヘルメーアスは又詐謀を人に教ふ、又二十四歌九に亡靈を導く。

ユーマイオスは之を聞き心傷めて陳じ曰ふ、
『あはれ客人、何故にかかる思を胸中に
宿せる?もしも求婚の彼らの群に入るとせば、
かしこに君は亡ぶべし、君は破滅を求むるや?
彼らの非法驕慢は[15-329]鐡の天まで行き及ぶ。
彼ら用ゐる從僕はまつたく君の類ならず、
皆一樣に年若く、華美の服裝膚のへに
纒ひて、常に頭髮は香油に光り、秀麗の
容顏もてる(やから)のみ、その磨かれし食卓に、
麺麭及びさまざまの珍味と美酒は滿ち溢る。
さればかしこに行かずして君はこの場に留れかし、
我に、仲間の誰しもに、君煩累(わづらひ)の種ならず。
オヂュシュウスのめづる息、歸り來らば其時に、
彼は膚に纒ふべく君に衣服を惠むべし、
しかして君の意の儘に好む地方に送るべし。』

[15-329]十七歌五六五にも天は鐡より成るといふ、青天の輝きは金屬より成ると思はれし也、或は神の住處として堅牢不變なるが故にかく稱せしならむ。

耐忍強きオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『ユーマイオスよ、君をわれ愛づるが如くヂュウス亦、
同じく愛でよ、漂浪と苦難の我を救ふ君。
げに人にとり漂浪の厄ほど辛きものあらず、
げに口腹のあさましさ、其ため人は其心、
惱まし、斯くて漂浪と禍難と悲哀身に纒ふ。
君今我を留まらせ、彼を待つべく諫むれば、
オヂュシュウスの父と母今いかならむ、われに曰へ、
父老境の入口にたちにき、彼の去りし時。
二人は今も日輪の光の下に猶生くや?
或は死して冥王の宮居に既に行きつるや?』

あるじの牧者その時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『客人、われは眞實に委細を語るべし、
ラーエルテース今も生く、さはれ魂肢體より
其屋の中に離るるをヂュウスはつねに乞ひ願ふ、
家を離れし彼の子をあまりに痛く嘆く彼れ、
更に嘆くは貞淑の其妻の上、妻死して、
悲痛の極に彼は今時ならなくに衰へぬ。
妻もすぐれし子の上を、悲しむあまり無慚なる
最後を遂げぬ -- 願はくは、こゝに留り、われを愛で、
我に善きわざいたすもの、かくの如くに逝く勿れ。
悲しみつつも彼女なほ此世に在りし其間、
之と語らひ訊ぬるを我喜びとなしたりき、
彼女うみたる末娘、裳の長きクチメネー、
すぐれし少女もろともに彼女はわれを育くみて、
我に對する其愛は子らに對する愛に似き。
かくして二人青春の花やぐ年となりし時、
無量の嫁資を受納して、サメーの人の花嫁と
愛女は成りぬ、しかうして我には華美の服裝を
與へ、脚には沓はかせ、かくして我を田園に
送りぬ、げにも母夫人、心よりしてわれ愛でき。
今は之れらを失へり、されど不滅の神明は、
わが爲す業を榮えしむ、我今之に安んじて、
之より食ひ且つ飮みて猶客人に頒つを得。
されども今の女王よりは、うれしき言句(ごんく)、行の
消息聞かず、かの館に、かの憎むべき求婚者、
大なる禍難降り來る。又從僕は女王の前、
言句を述べて意を迎へ彼女の要をたづね聞き、
食ふ且飮み、更に又、おのが心に喜べる
ものを領して、其家に齎らすことを思ふのみ。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『ああ牧人よ、若くして祖先の郷と雙親を、
あとに殘していかばかり、君漂泊の道踏める!
いざ今我に眞實に之らの委細打ち明けよ。
君の父また母人の住ひしところ、道廣き
都城は仇の手にかゝり、破れて遂に亡びしや?
或はひとり牛羊を牧せし君を敵人は、
襲ひて囚へ、舟の乘せ、ここの主公の館に來て、
君を賣りしや、然るべき身の代彼は拂ひしや?』

その時あるじ、牧人の長は答へて彼に曰ふ、
『客よ此らを慇懃に君は尋ねて我に問ふ、
口を閉ざして心こめ、樂しめ、坐して酒をのめ、
此頃夜はいと長し、睡らんとせばそれも善し、
話を聞きて樂しむも亦善し、君は時ならず
眠催す要は無し、眠り過すはよかるまじ。
他のある者の心肝は彼に命じて小屋を去り、
床に入らしむ、あけの朝曙光と共に起き出でて、
食を終りて彼は善く主公の家畜野に驅らむ。
されども我ら兩人は飮みて喰ひて小屋の中、
うけし昔の禍をかはるがはるに思ひ出で、
樂しまんとす、災難の多きに惱み、漂泊の
長きに耐へし人にとり、後には悲哀また樂し。
これらを君に今告げむ、君はこれらをたづね問ふ、
[15-403]オルチュギエーの上にして、シュリエーの名を呼べる島、
日輪脚を返す郷、君は聞けりや?其島の
人口さまで多からず、されども地味は豐沃に、
牧草多く、羊群に葡萄に麥に皆富めり。
飢饉はこゝに音づれず、不幸の民を惱ませる
惡しき疫癘、この郷を襲ひ來ること絶えて無し。
されども都市の中にして人々遂に老ゆる時、
銀弓の神、アポローン、之に伴ふアルテミス、
共に來りて穩やかに[15-411]矢を射て之を斃れしむ。
島に二つの都市ありて、(あひ)にすべてを相分つ、
二つの都市をその昔オルメノスの子、われの父、
クテーシオスは治めてき、不滅の神に似たる人。

[15-403]不明。キュクラーデス中の一と曰ふ説あれど本文中述ぶる航海の方向に一致せず。
[15-411]老境に至りて靜かに死するを得せしむ(十八歌二〇二、二十歌六一)。

海を渡るに巧みなるポエニーケース、狡猾の
國人こゝにその昔、美麗の品を黒船に
積みて來りぬ、同國の一人の女性その時に、
わが()に住めり、丈高く美にして手工巧みなり、
こを狡獪のかのやから誘ひて遂に陷いる。
即ち始めうつろなる船のかたへに衣濯ふ
彼とある者、愛慾の床に契りぬ、かかる事
脆き女性を -- 行ひの堅きものをも -- 惑はさむ。
やがて彼女に誰人か?いづこよりかと彼は聞く、
其時すぐに屋根高き父の館を説き示し、
彼女はいへり「[15-425]シードーン、黄銅に富む郷の産、
我かく誇る、富み榮ゆるアリュバースこそ我の父。
憎きタポスの海賊ら、我の野邊より歸る時、
襲ひ囚へてこの郷に、こゝに主人の館の前、
導き來り我賣りぬ、主人は善き()拂ひたり。』

[15-425]ポエニーケーの都。

彼女竊かに契りたる其者答へ陳じ曰ふ、
『汝再び父母の高き館を、兩親を、
親しく眺め見るが爲め、國に歸るを願はずや?
彼らは今のながらへり、富みて榮ゆと人は曰ふ。』

その時女性口開き彼に答へて陳じ曰ふ、
『汝ら水夫、恙なく我を故郷に送るべく、
堅き盟を爲すとせば、我は汝の言聽かむ。』

しか陳ずれば一同は曰はれし如く盟しぬ。
やがて一同盟ひつつ、その證言を終へし時、
女性は更に一同に向ひ答へて陳じ曰ふ、
『默せよ、暫し、汝らの中の誰しも路の上、
泉のほとり我に逢ひ我と相見て口開き、
言句を述ぶること勿れ、恐らく誰か老翁の、
家に到りて報ずべし、然らば彼は疑ひて、
我を緊しく(いまし)めて、汝の破滅計らはむ。
胸に言葉を封じおけ、急ぎて旅の品を買ひ、
やがて船中もろ〜の貨物の滿ちて足れる時、
其時我に速かに彼の館中にたよりせよ、
わが手に握み得る限り、我黄金を持ち行かむ、、
渡海の賃を更に又我は汝に與ふべし。
富める主人の館の中、我かれの子にかしづけり、
怜悧のこの子、我ととも折に戸外に驅けり出づ、
彼を船のへつれ行かむ、言語異なる外國に、
つれ行き賣らば莫大の價を汝もうけ得ん。』

しかく陳じて華麗なる館に彼女は歸り行く。
滯在こゝに一年の長きに亙り、中廣き
船に貨物の數々を彼らはやがて集め入る。
斯くして國に歸るべく舟に貨物の滿てる時、
彼女に便り致すべき使者を彼らは遣はせり。
琥珀の玉を點綴の金の首輪を携へて、
この狡獪の使者來る、わが父の()に入り來る。
この珍寶に館の中、侍女ら並びに端正の
母も手を觸れ、驚嘆の(まみ)に眺めて拂ふべき
價を附しぬ、其時に彼女に使者は默然と、
頭を埀れて合圖して、やがて船へと歸り去る。
その後我の手を取りて彼女は家を出でて行く、
出で行く時に、入口に、父を圍みて飮宴を
なしたる衆の杯と卓と彼女の目に觸れぬ、
衆は飮宴了えへて後、集議の席に出で行けり。
彼女直ちに盃を三個盜みて胸に入れ、
出で行くあとを思慮なくて我追ひゆけるあさましさ!
やがて日輪沈み去り、暗はすべての路掩ふ、
脚を早めて譽ある港に着きてそこに見る
ポイニーケーの人々の海路を迅く渡る船。
間なく一同乘りこみて大海原の旅を行く、
我等二人も倶なりき、ヂュウスは風を吹き送る。
六日六夜おし通し、絶えず一同海わたる、
第七日をクロニオーン・ヂュウス齎らし來る時、
弓矢を好むアルテミス、彼女を射れば船底に、
海の鷗の如くして、彼女はどうと落ちて死す。
こを海豹と鱗族の餌食たるべく衆人は
海に投じぬ、其あとに殘れる我は悲しめり。
風と波とは一同をイタケー島に齎らしぬ、
ラーエルテース其産を出して我を買ひ取りぬ、
斯くして我は此郷をわが雙眼に眺め見き。』

神の裔なるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『ユーマイオスよ、心中に忍びこらへし災難の
委細を述べて君は我が心を痛く傷めしむ。
さはれヂュウスは禍と共に幸をも施せり、
多くに忍び耐へし後、君はやさしき人の()
着きしならずや?心して彼は衣食を缺かしめず、
樂しき生を今君は送れり、されど數々の
人間の都市經たる後我さまよひてここに來ぬ。』

斯くの如くに兩人は互に語り陳じあひ、
やがて眠に入りしかど、ただしばしのみ、長からず。
黄金の座の曙の神ほどなく出でぬ。かなたには
テーレマコスの從者たち岸に近づき帆を捲きつ、
迅く帆柱横たへて櫂もて舟を碇泊の
(には)に進めつ、其碇下して繩を結び附く。
やがて波よる岸のへに衆は船よりおり立ちつ、
食事を備へ、黯紅の酒を混じて宴を張る。
やがて一同飮食の願おのおの充てる時、
衆に向ひて聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ。

『汝一同今都市に黒く染めたる舟をやれ、
その間に我は野に行きて牧者の群をたづぬべく、
我の農園見たる後夕べ都に下るべし、
そのあくる朝、航海の賃を汝に拂ふべし、
肉と甘美の酒をもて善き饗宴を備ふべし。』

テオクリメノス、相好は神に似る者、彼に曰ふ、
『いとしき友よ、いづこさし、我行くべきか?磽碑の
此のイタケーの豪族のいづれをさして行くべきか?
君の母人、君の館めざしてすぐに行くべきか?』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『他の折ならば我が館を訪ふべく君に求むべし、
客の款待備はれり、されども今は不便なり、
我留りてこゝにあり、しかして母も訪ひ來る
君に逢ふまじ、屋の中に母はしばしば求婚の
群の目の前現はれず、ただ樓上に帛を織る。
我今君にある人を示さん、彼を訪ひて見よ、
そはポリュボスの生める息、ユーリマコスぞ、名のしるき
彼を恰も神のごと、イタケー人は眺め見る。
彼は最も高貴なり、最も切にわが母と
婚し、しかしてわが父の譽を繼ぐを(こひねが)ふ。
さはれ婚儀に先だちて、禍衆に來らずや?
天上やどふクロニオーン、オリュンピオスは之を知る。』

しかく陳ずる彼の右手(めて)、上に一羽の鳥とべり、
鷹なり、ポイボス・アポローン遣はす迅き使なり、
爪に一羽の鳩擢み、之をつんざき、粉々と
テーレマコスと舟の(あひ)、地に其羽毛降らしむ。
テオクリュメノスその時に從者離れて彼を呼び、
親しく彼の手をとりて彼に向ひて陳じ曰ふ、

『テーレマコスよ君の右手(めて)、神無くしては鳥飛ばず、
我まのあたり彼を見て善兆なりと信じ知る、
イタケー人の中にして、君に優りて高貴なる
家系はあらず、とこしへに君の力はおほいなり。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『客よ陳ずる君の言、成らば何らの喜ぞ!
然らば(すぐ)にわが手より、款待及び種々の品、
君は受くべし、見るものは、君を多福の人とせむ。』

つづきて彼は信頼の、ペーライオスに向ひ曰ふ、
『クリュチーオスの生める息、ペーライオスよ、ピュロス迄
行ける群中、汝善く最も我の命きけり、
今此客を導きて汝の家に歸り行き、
心をこめてもてなして崇めよ、我の到る迄。』

その時槍の名手たるペーライオスは、答へ曰ふ、
『テーレマコスよ、この(には)に君の滯在長くとも、
われ珍客を勞はらむ[注:「(ねぎ)らはむ」の誤りか?]、彼は款待缺かざらむ。』

しかく陳じて船に彼れ乘りて從者に命下し、
同じく共に乘り入りて繋げる綱をほどかしむ。
直ちに衆は乘り入れて、漕座の許に身を据ゑぬ。
テーレマコスは雙脚に華麗の沓を結び着け、
黄銅の穗の鋭きを附けたる強き大槍を、
船橋よりし取り出す、衆は大綱解き放つ。
オヂュシュウスのめづる息テーレマコスの命の儘、
衆は都城をめがけつつ、潮をわけて舟進む。
テーレマコスの雙脚は急ぎの彼を運び行き、
かの農園に到らしむ、そこの無數の家豬の群、
其群の中、忠實な彼の牧人は睡り臥す。

系圖表
系圖表

更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十六歌


第十六歌

テーレマコス來訪し、ユウマイオスとオヂュシュウスと共に朝食す(一 - 五四)。 オヂュシュウスをおのが館中に連れ行くことをテーレマコスは憚かる。 而して館中の、状勢を語り、ユウマイオスを母の許に遣はす(五五 - 一五三)。 テーレマコス其父を認む(一五四 - 三二〇)。 アンチノオス再びテーレマコスの殺害を計る、アムピノモス之を停む(三二一 - 四〇八)。 アンチノオスの害意と忘恩とをペーネロペーア責め叱る(四〇九 - 四五一)。

オヂュシュウスと善き牧夫、二人は共に小屋の中、
曙光出づれば朝食の準備にかゝり、火を起し、
他の牧夫らを家豬の群率ゐて外に出で行かす。
テーレマコスは近づけり、吠ゆる習の番犬ら、
彼を迎へて尾を振りて吠えず、其時オヂュシュウス、
狗の(ざる)るを認め得つ、又足音を耳にしつ、
すぐに羽ある言句(ごんく)もてユーマイオスに陳じ曰ふ、
[『]ユーマイオスよ、今こゝに、友か或は知り合ひの
ある人、君に來るべし、見よ番犬は吠ゆる無く、
尾を振り彼に戲むるる、又足音を我は聞く。』

其言未だ終らざる中に見よ彼のめづる子は、
來り戸口の前に立つ。牧夫驚き身を起し、
葡萄の酒に水を割る鉢、手中より取り落し、
慌てふためき蒼惶と、主人の側に出で來り、
彼の(かしら)に、美はしき二つの(まみ)に、雙の手に、
かはるがはるに口づけつ、[16-16]滂沱の涙ふりおとす。
遠き郷より十年の年月過ぎて歸りくる
遲き生れの獨り子を -- 其ため痛く苦勞せし
愛兒を迎へ喜びて胸に抱き取る父や斯く?
やさしき牧夫、神に似るテーレマコスの取りすがり、
死より遁れしものの如、彼の肢躰に口づけつ、
聲揚げ泣きて、翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

[16-16]涕泗滂沱(詩經陳風)。

『ああ我に取り光たるテーレマコスよ歸りしな!
ピュロスをさして船出せし後また見むと思ひきや!
いざ内に入り、遠くより新たに歸り來りたる
君を親しく眺め見る歡喜を我に得さしめよ。
君は牧夫に農園に訪るること多からず、
つねに都に留れり、かの求婚の憎むべき
群を親しく眺むるを君の心は喜べり。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
(をぢ)よ、然かせむ、こゝに我汝めがけて訪ひ來る、
(まみ)に親しく眺め見て汝の報知聞かんため、
母人(はゝびと)なほもわが家に殘るや?あるはある人に
すでに婚家を遂げたりや?オヂュシュウスの寢し床は、
夜具を剥がれて蜘蛛の巣に包まれ、室に殘れるや?』

その時小舍のあるじなる牧夫答へて彼にいふ、
『さなり彼女は飽くまでも忍耐強き心もて
君の館に今もあり、悲しき夜と悲しき日、
涕涙つねに盡きせざる彼女の上を過ぐるなり。

しかく陳じて黄銅の槍を彼より受けとれば、
テーレマコスは内に入り、石の敷居を横ぎりぬ。
入り來る彼に椅子讓り、父オヂュシュウス席を立つ。
テーレマコスは之を見て彼を押し留め陳じ曰ふ。
『ああ、客人よ、その儘に坐せよ、我らは小屋の中、
別に座席を設くるべし、設くる人はこゝにあり。』

しか陳ずればオヂュシュウス戻りて前の席に着く、
彼れの子のため牧夫は緑の小枝敷ける上、
皮廣ぐればその上にテーレマコスは座を占めぬ。
やがて牧人前の日に喫し餘せる燔肉を、
鉢に盛りつつ珍客の二人の前に置据ゑつ、
又せはしなく麺麭を充せる籠を前に置き、
蜜の如くに甘美なる酒を常春藤(きづた)の鉢の中、
水を混じて自らはオヂュシュウスの前に坐す。
かくして衆は手をのして、前におかれし食を取る。
やがて一同飮食の願おのおの滿てる時、
テーレマコスは忠實の牧者に向ひ問ひて曰ふ、

(おぢ)よ此客いづこより?水夫らいかにイタケーに
彼導ける?水夫らはいづこの者と名のりしや?
客は徒歩に來れることはよもやあらじ。』

彼に答へて忠實のユーマイオスは陳じいふ、
『若君、われは一切の委細を君に陳ずべし、
廣き島なるクレーテー、その産なりと彼は曰ふ、
曰ふ、人間の種々の都市、廻り廻りてをちこちを、
天上不死の神明の命ずるままにさまよふと
テスプロートイ、民族の舟を逃れてわが許に、
この農園に來る彼、今われ君に渡すべし。
君の意の儘彼になせ、救を乞ふと彼は曰ふ』

彼に向ひて聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ、
『ユーマイオスよ、聞くところ、我の心を痛ましむ、
我いかにして此客をわが家の中に迎ふべき?
我は弱齡、わが腕に信頼、未だ措き難く、
故なく我に無禮する(ともがら)懲らすことを得ず。
わが母人(はゝびと)も胸中に二つの思想相亂る、
夫の臥床(ふしど)、人民の意見重んじ、我が家に、
われもろともに留りて家政を治め行くべきか?
あるはアカイア人中の高貴なるもの、婚求め
嫁資を豐かに贈る者、之に伴ひ去るべきか?
それはさておき此客は汝のもとに訪ひ來る、
我はかの身にまとふべき華麗の衣服與ふべし、
兩刄(もろは)(つるぎ)與ふべし、穿たん沓を與ふべし、
彼の心に望む儘、いづこへなりと送るべし。
汝望まば農園に留めもてなせ、それも善し。
汝並びに一同の産を減らすはつらからむ、
我は衣服と食物のすべてをこゝに送るべし。
かの求婚の憎むべき群に此人混ずるは、
忍びがたかり、あまりにも彼ら倨傲の習あり、
さぞかし客をあざけりて我の心を疾ましめむ。
多數の人を前にして事を遂ぐるは、勇猛の
人にとりても易からず、多數は力まさるなり。』

耐忍強きオヂュシュウス彼に向ひて陳じ曰ふ、
『あはれ我が友、一言を述ぶるを我に許せかし、
君今述ぶる言を聞き、心碎くるばかりなり、
かの憎むべき求婚の群は、やさしき君の意に
背きて、強ひて兇暴のわざを館に振舞ふと。
君は自ら甘んじて彼等の制に從ふや?
或は神の聲により衆人君を憎めりや?
爭いたく荒ぶ時、兄弟こそはたのもしき、
然るを君は兄弟に對して怨含めるや?
我れこの魂に青雲の力を備へ得ましかば!
我れオヂュシュウスの子なりせば、(ある)は流轉の末こゝに
歸り來れる彼ならば、(歸る希望は今もあり)
ラーエルテース生める息、オヂュシュウスの(たて)に來て、
かの憎むべき兇暴の群を痛くも懲すべし、
我れ若し之を善くせずば、直ちにわれの頭撃て!
衆を恃みて若し彼ら孤身の我に打勝たば、
そも善し、われは館中に討果されて、
一命を失ふことを甘んぜん、家の賓客さいなまれ、
侍女ら無慘に美はしき館の中を曵きずられ、
美酒はむなしく酌み干され、食は果なく貪られ、
兇行終る時しらず、かかる亂暴狼藉を
生きてわが目に見んよりは、我は一死を甘んぜん。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『客よ、此事眞實に君に對して語るべし。
われに對して憎怨を民抱くこと絶えて無し、
戰いたく荒ぶ時、頼みとすべき兄弟に
對し、不滿を抱くこと我身の上にたえて無し。
クロニオーンはわが家にただ獨子を賜ふなり、
[16-118]アルケーシオス、獨子はラーエルテース、彼も亦
オヂュシュウスを唯一の男子と生めり、オヂュシュウス
獨子の我生みしかど、嬉しむ間なく旅立ちぬ。
そのため[16-121]憎き數知れぬ敵人(たて)の中にあり。
こゝらの島を司どる彼らすぐれし豪族ら、
ドーリキオンとサメーとに、或は森におほはるる
ザキトンス又磽确のイタケー島に威を振ひ、
わが母人(はゝびと)に婚求め、わが家の資財空しくす。
其忌はしき求婚を母は拒まず、又これの
始末つくるを敢てせず、かくして彼ら我家を
貪りつくし、更にまたわが身をさへも斃さんず。
さはれ此事一切は神の膝のへ横たはる。
(おぢ)よ、汝は速かにペーネロペーア訪ひ行きて、
われ安全に、ピュロスより歸り來ると告げて曰へ。
今われこゝに殘るべし、たゞ母にのみ告げて後、
汝この地に歸りこよ、他のアカイアの誰にしも
曰ふ事勿れ、禍を我に多數は、たくらめり』

[16-118]系圖左の如し。
アルケーシオス - ラーエルテース - オヂュシュウス
母系は
オートリュコス - アンチクレーア - オヂュシュウス
[16-121]一歌二四五以下、彼らの名は二十二歌にあり。

ユーマイオスは其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『君に曰ふ儘に一切を我悉く了し得ぬ、
さはれ眞實打ちあけて委細を我に告げよかし、
同じ途行き、不幸なるラーエルテース老翁に
同じく之を告ぐべきか?オヂュシュウスを嘆けども、
是迄彼は農業の監督なしつ、館中に、
氣の向く時は從僕と共に飮み且食ひたりき。
されども君がピュロスさし旅立ち出でし此かたに、
人の噂は斯くも曰ふ、前の如くに飮食を
彼また取らず、農業の監督すでに棄て去りて、
ただ悲しみて坐するのみ、骨のまはりに肉落つと。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『そは一層に痛むべし、さはれ、しばらく捨ておかむ。
あらゆる事が人間の撰に應じ成るべくば、
さらば眞先にわが父の歸郷を我は求むべし。
報じ終らば立ち歸れ、祖父を探して野の中を
彷徨ひ廻ること勿れ、ただ我母に告げて曰へ、
事迅速にひそやかに侍女のひとりを祖父のもと、
使となして遣はせと、彼女委細に報ずべし。』

しかく陳じて促せば牧人やがて沓を取り、
其雙脚に結びつけ、都をさして立ち出づる、
農園あとに別れ行く姿認めてアテーネー、
身の丈高く美はしく、更にいみじき手藝ある、
女性の姿粧ひて近くかたへに寄せ來り、
小屋の戸口の前にたち、オヂュシュウスに現はれぬ。
テーレマコスは眼前の神女を見得ず、氣も附かず、
(諸神は人の一切に姿現はすことあらず。)
オヂュシュウスは眺め得ぬ、、狗子らは見ても鳴き吠えず、
恐れて低く呻きつつ小舍のあなたに退きぬ。
その時神女眉を埀れ合圖をなせばオヂュシュウス、
かの農園のおほいなる壁より外に室を出で、
神女の前に佇めば、彼に宣しぬアテーネー、

『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス、
今こそ汝おのが子に語りて隱すこと勿れ、
かの憎むべき求婚の群に、死滅と禍を
齎らし、華美の都市さして行かんが爲ぞ、我も亦
戰ふ思切なれば、汝を遠く離るまじ。』

しかく宣して黄金の杖もて觸るるアテーネー、
しかして清く洗はれし上衣下衣を、逞ましき
胸のめぐりに纒はしめ、身の丈及び青春の
氣を増さしめぬ、肌の色かくて俄かに淺黒く、
頬はふくらみ、黒き鬢顎のめぐりに生ひいでぬ。
かく爲し了りアテーネーあなたに去ればオヂュシュウス、
足を返して小屋に入る、彼の愛兒は驚きつ、
神ならずやと恐懼しつ、さらぬほとりに眼をそらし、
飛揚の翼備へたる言句を彼に陳じ曰ふ、

『客人、前と相違して君今我の前に立つ、
衣服も元のものならず、肌も前とは異なれり。
廣き天上家とするその神明の一ならむ、
恩寵我に埀れよかし、いみじき牲と黄金の
飾の品を捧ぐべし、我に不吉なあらしめそ。』

耐忍強きオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『神にはあらず、など我を不滅の靈に(なぞら)ふや?
汝の父ぞ、わが爲に汝無量の禍を、
受けていたくも悲しめり、衆の暴威に身を()して。』

しかく陳じて子に口を觸れつつ勇士澘然と、
是まで抑へとどめたる熱き涙を地に落す。
しかいふ彼を中々におのれの父と信ぜざる
テーレマコスは口開き彼に向ひて陳じ曰ふ。
『客人、君はわれの父オヂュシュウスにはよもあらじ、
とある神明欺きて、われの悲痛を増さんとす。
神明來り意のままに、若き姿を又時に、
老の姿を容易くも與へざりせば、人の子は
いかでかかくも意の儘に姿を變ふることを得ん!
先には襤褸身にもとひ老いたる姿、今は君
天上高く知ろし召す神そのままの姿なり。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『テーレマコスよ、恩愛の父を故郷に迎へ得て、
甚だしくも怪しみて驚く勿れ、よしもなし
他のオヂュシュウス此郷に歸り來ることあるべきや!
われは彼なり、艱難の多くを凌ぎ、飄浪の
はてに二十の春秋を過ぎて故郷に歸り來ぬ。
戰利齎らすアテーネー神女の力かくは爲す、
望むが儘に、能くすれば、我を斯くこそ變ゆるなれ、
即ち時に乞食(こつじき)に我を似せしめ、又時に
美服を纒ふ青春の盛りの子らに似せしむる --
天上高き知ろし召す諸神にとりてたやすかり、
人間の子を光榮となすも卑賤となすも亦』

しかく陳じてざにつけば、テーレマコスははや悟り、
父にすがりて滂沱たる涙はげしく振り落す。
今や二人に號哭の願はげしく湧き起る、
まだ飛びかけぬ雛鳥を農民巣より奮ふ時、
さすがに猛き荒鷲も、其爪曲がる荒鷹も、
いたく鳴くべし、それよりも劇しく二人泣き叫ぶ。
斯くの如くに澘然と涙二人の頬傳ふ。
その流涕の父子の影のこして夕日沒りつらむ、
されども我に歸り來てテーレマコスは父に曰ふ、

『何らの船に水夫らはここイタケーにわが愛づる
父を導き來りしや?彼何者と自稱せる?
徒歩にてこゝに來れるを我は斷じて思ひ得ず。』

耐忍強きオヂュシュウス、その時答へて彼に曰ふ、
『愛兒よ、我は眞實にこれを汝に語るべし。
パイエーケスは航海にすぐれ、彼らを訪ひ來る
人を故郷に送りやる。彼らは我を導けり。
船脚速き船中に眠れる我を海こして、
ここイタケーに連れ來り、青銅、黄金、織りなせる
衣服、いみじき種々の品、彼らは我に與へたり。
これらは神の意志により今洞窟に藏めあり。
神女パルラス・アテーネー、其勸めより我こゝに
來り、無慙の敵人を屠らんために思案せん。
かの求婚の群の數、知らせよ、委細物語れ、
何らの類ぞ?數いかに?我よく之を知らんため。
かくして我は思慮深き胸裏にとくと計らはむ、
他の同勢の助なく、我々たゞ二人にて、
彼らに向ひ進まんか?援助を他より求めんか?』

テーレマコスは思慮深く父に向ひて陳じ曰ふ、
『あはれ父上、剛健の腕と豐かの智謀とに、
秀いづる君の名聲を、我はとくより聞き知れり。
さはれ今君曰ふところ、あまりに我を驚かす、
強き多數を敵として只二人にて勝ち得んや!
かの求婚の人の數、十、二十には(とゞ)まらず。
遙かに多し、今すぐに數へて君に知らしめむ。
ドーリキオンにすぐれたる青春の子ら五十二は、
寄せて來りて六人の從僕之に伴へり。
又サメーより求婚の二十四人は寄せ來る、
ザキントスよりアカイアの二十人また訪ひ來る。
さらに我郷イタケーの貴人こぞりて十二人、
傳令メドーン之に添ひ、更に微妙の伶人と、
肉の調理に巧みなる二人の僕は伴へり。
これらすべてを館中に、敵にまはして戰はば、
かの暴虐を懲すべき行爲(わざ)は破滅の種ならむ。
むしろ好意を齎らしてわれら二人を助くべき
其者君は胸中に思ひいでずや?試みよ。』

耐忍強きオヂュシュウス其子に向ひ陳じいふ、
『我は汝に示すべし、心をこめて我に聞け、
天父ヂュウスとアテーネー、二神の助足らざるや?
或は外に救援を求むべしとや、汝曰ふ?』

その時、彼に思慮深きテーレマコスは答へ曰ふ、
『君今名ざす二位の神、げにも無上の助たり、
天上高く雲の中、座をすむれども人間の
すべてに、不死の神明に、彼らひとしく命下す。』

耐忍強きオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『求婚者らと我々の(あひ)にアレース勝敗を
わが館中に()むる時、彼ら二神は長らくも、
其激戰をよそにして遠く離るゝこと無けむ。
さはれ汝は曉のめざむる時に家に行き、
かの傲慢の求婚の群の間に混じ入れ。
老いし不幸の乞食(こつじき)の姿を取れる我の身を --
汝の父を城中に牧夫は後に導かむ。
われ館中に侮どられ、不法に苦難受くるとも、
汝心を胸中にしづめてこれを忍ぶべし。
わが足攫み館中を曵きずり、門の及ぶとも、
われに飛刄を投ぐるとも、汝眺めてこらふべし。
さはれ甘美の言句もて諫め、無思慮のふるまひを
制止するべく努め説け、されど彼らは聽かざらむ、
蓋し彼らの宿命の禍すでに近づけり。
われ又他事を示すべし、汝心に銘じおけ、
智謀豐かのnアテーネー我に思案を惠む時、
頭を曲げて合圖せん、其時汝認め得て、
わが館中にある限り[16-284]武噐一切を悉く、
收めて之を屋根高き寶庫の奧に引き移せ、
しかして武噐を求婚の群もし求め物曰はゞ、
汝宜しく甘言を用ゐてかくも騙すべし、
「トロイアさしてオヂュシュウス門出の時の面影を、
今は此等の武噐留めず、火焔の呼吸(いぶき)くすぼらし、
汚しぬ、故に我これを烟よりして遠ざけぬ。
なほ此外にクロニオーン、大事を我に思はしむ、
恐らく酒に醉ひ痴れて、汝ら不和を引き起し、
互に疵を蒙らし、かくて酒宴を求婚を
汚さんことの無からずや?鐡はおのづと人を牽く。」
されど汝と我とには、二口の剱と投槍の
二條を、更に牛皮張る楯の二枚をのこしおけ、
進んで敵を打たんため。而して次にアテーネー、
神女パラスと聰明のヂュウス彼らを欺かむ。
我又一事示すべし、汝心に銘じおけ。
汝誠にわが子にて、我の血筋を受くとせば、
われオヂュシュウス今こゝにあるを誰にも曰ふ勿れ、
ラーエルテース、愛すべき牧人、家僕いづれにも、
ペーネロペーア彼にすら、斷じて此を曰ふ勿れ、
我と汝と只二人女性の心探るべし、
家僕の中のあるものを同じく調べ正すべし、
その中たれが心より我等をあがめ怖るゝや?
誰か全く省みず、すぐれし汝をあなどるや?』

[16-284]是らは廣間の壁に掛けらる、槍に對しては特殊の容噐廣間の巨柱にあり。

その時彼の譽あるテーレマコスは答へ曰ふ、
『ああ父上よ、後にしてわれの心の何ものか、
君は知るべし、脆弱の思はわれに取り憑かず、
さもあれ君の企みは、我らに共に益ありと
信じ得がたし、新たなる考慮を君にこひ願ふ。
農場めぐり各々を、調ぶる時は莫大の
時を要さむ、其間求婚者らは悠々と、
我らの産を貪りて少しも惜しむこと無けむ。
女性の中の或者は君を侮どる、あるものは
罪なし、之を檢するはわれも素より贊すべし。
わが農場に農夫らを檢することは我は今、
望まず、棄てゝ、此事を後日に讓り殘すべし。
アイギス持てる天上のヂュウスの(しるし)、君知らば。』

しかく彼らはかかる事陳じ互に語り合ふ。
テーレマコスと從者らを先にピュロスに乘せ行きし
かの堅牢の舟は今イタケーさして漕ぎ歸る。
水尋深き灣の中、進め入れたる舟を今、
黒く染めたる舟を今、彼らは陸に曵き上げぬ。
いそしむ僕ら其時に船具はづして運び去る。
直ちに衆は美麗なる品を豪族[16-327]クリュチオス、
其許運び、又使者をオヂュシュウスの邸にやる。
テーレマコスが野に殘り、城中さして進むべく
船に其命下したる、仔細つぶさに謹愼の
ペーネロペーアに告ぐるため、慈母は恐らく胸中に
憂怖抱きて澘々の涕を埀るることあらむ。
其使者及び忠實の牧者は同じ消息を、
共に母公に齎らしてひとつの(には)に出で逢へり。
即ち二人莊嚴の王者の館に着ける時、
使者は侍女らの中に立ち、口を開きて陳じ曰ふ。

[16-327]十五歌五四〇、ペーライオスの父。

『女王よ、君のいとしめる御子(おんこ)はすでに歸り來ぬ。』
ペーネロペーアの側近く、また牧人は佇みて、
テーレマコスの命の儘、仔細を彼に物語り、
王子の曰ひし言すべてくりかへす後辭して去り、
邸と居館を後にして家豬の群へと立ちかへる。

求婚者らは胸中に惱みてしかも驚けり、
やがて彼らは館を出で、その中庭の大いなる
壁過ぎ拔けて門前に皆一齊に座を占めぬ。
ユウリマコスはポリュボスの生める子、彼はまづ陳ず、

『ああわが諸友!おほいなるわざを、旅を不敵にも、
テーレマコスは成し遂げぬ、成し遂ぐまじと思ひしを。
いざ最上の黒き船、波浪の中に引きおろし、
漕手を中に充たしめよ、同志の群に速かに、
家に歸れと迅速に使命を傳へ行かんため。』

其言未だ終へざるにアムピノモスは其場より、
振り向き、船を水尋の深き灣内眺め見つ、
また帆をたたみ、櫂を手に握る水夫らを眺め得つ、
輾然として笑ひつつ、其同僚に叫び曰ふ。

『使命を早く傳ふべき要ははや無し、見よ彼ら
歸り來れり、とある神これを彼らに告げつらむ、
或は彼ら認めしも船に追ひつき得ざりけむ。』

しかく陳じぬ、衆人は立ちて波浪の岸に行く。
かくて同志ら陸のへに直ちに黒き舟を上ぐ、
思ひ揚がれる從僕は彼らの爲に武具運ぶ。
しかして彼ら群りて集會(しうゑ)の場に到り着き、
同志以外は老若を問はず、場裏に入らしめず、
ユウペーテースの生める息、アンチノオスは口を切る、

『竒怪なるかな、神々は彼の危難を救ひたり、
代る代るに斥候は、風に打たるる懸崖の
上に日に日に座を取りぬ、光輪沈み去る後は、
夜陸上に居眠らず、脚迅速の舟に乘り、
波浪を切りて神聖の曙の神女を待ちわびぬ。
捕へて之を屠るべくテーレマコスを待ち伏せて。
然るに彼を神明のあるもの家に導けり。
さはれ彼等はここにしてテーレマコスに無慚なる
破滅の道を試みむ。彼れの遁は無かれかし、
彼の生命あるかぎり、われらの業は成らざらむ。
彼は叡智に策略に共に等しく秀でたり、
庶民も我に親愛を寄せ來ることはあらざらむ、
いざ起て、彼が集會の席にアカイア民衆を
集むる前に。われ思ふ、彼は斷じてためらはず、
憤怒はげしく衆人の前に立ちつつ語るべし。
われらが彼の恐るべき破滅企て遂げざるを。
衆人之を耳にせば我らの非行咎むべし、
かくて彼等は災難を加へ、祖先の故郷より、
我らを逐ひてやむなくも他の民族に行かしめむ。
いざ立て、都市を離れたる途に、或は原上に、
斃して之を爲さしめな。彼の資産と財寶は、
我ら一同取り納め、よきに叶ひて分つべく、
家屋は母に、又母と婚する者に持たしめむ。
若し此言句汝らの意に滿たずんば、若し汝
彼のながらへ、父祖の産受け嗣ぐことを喜ばば、
然らばこゝに集りて彼の資産を意の儘に
貪ることの無かれかし、かくて各其屋より、
婚嫁の品を齎らして妃に求むべし、最多なる
資財並に運命を持つ者遂に婚し得む。』

しか陳ずれば一同は默然として言葉無し。
やがて彼等に口開き、アムピノモスは陳じ曰ふ、
(アレートスの子ニーソスは此高貴なる子を生めり。
麥に豐かに草青きドーリキオンのかなたより、
かれ求婚の群率ゆ。ペーネロペーア特に其
言句好めり、善良の氣質を彼のもてる爲め、)
彼今衆に慇懃の心をこめて陳じ曰ふ。

テーレマコスを殺すこと、諸友よ、我は聊かも
好まず、すべて王族の裔を殺すは恐るべし。
汝ら之にさきだちて諸神の意思を尋ぬべし、
天父ヂュウスの神託が、しかする事を命ぜんか、
然らば彼を殺すべく、又他に勸め、しかさせむ。
諸神もしこを許さずば控ふることを勸むべし。』
アムピノモスはしか陳ず、其言衆は喜べり。
つづいて衆は身を起し、オヂュシュウスの館に行き、
中に進みて高倚子の磨ける上に座を占めぬ。

ペーネロペーア思慮深く其時一事思ひつき、
かの暴戻を極めたる求婚の徒の前に出づ、
彼れら愛兒を亡さむ其計らひを館中に
知れり、この事聞き取りし傳令メドーン告げたりき。
王妃は侍女を從へて廣廳さして出で來る。
かくして彼ら求婚の群の目の前到る時、
王妃は堅く築かれし室の柱の側面に、
沿ひて頬の()燿ける美なる面帽つけて立ち、
アンチノオスを叱り責め、彼の名呼びて陳じ曰ふ。

『アンチノオスよ、傲慢の者よ、惡事を
計る者、汝を人はイタケーの同齡者中、第一に
思慮も言句も善しといふ、されど汝はしかあらず。
狂者よ、汝、何故にテーレマコスの死と非命
たくらむ?ヂュウスみそなはす祈願の人を何故に
汝侮る?惡と惡施し合ふは善からんや!
汝知らずや?其昔、汝の父が衆民を
怕れてこゝに逃げ來しを。父はタポスの海賊に
與みし、われらに親しめるテスプローテス民族を
いたく害せる故を以て、彼らの怒強かりき。
彼らは彼を打殺し、其心臟を打碎き、
多量の資産、意の儘に奪ひ取らんとたくらみき。
されど其時オヂュシュウス()せる彼らを抑へにき。
然るに汝恩人の家を荒らして償はず、
彼れの夫人に心寄せ、彼の愛兒を打たんとす、
ああ今汝其惡をやめよ、同志を警めよ』

其時ポリュボス生める息ユウリマコスは彼に曰ふ、
『イーカリオスの息女なる、ペーネロペーア、さとき君、
我を信じて此事を心に思ひ煩ふな。
我生命のある限り、地上に光見る限り、
テーレマコスの -- 君の子に手をるゝものあらざらむ。
昔にあらず今あらず又行末もあらざらむ。
我は斯く曰ふ、曰ふところ必ず果し遂げられむ。
若し斯る者ありとせば、其黒き血はわが槍の
穗先めぐりて流るべし。都城破壞のオヂュシュウス、
屡々かれの膝のへに我を坐せしめ、我の手に
炙れる肉を、わが口に赤き葡萄酒與へたり、
テーレマコスは此故にあらゆる人の中にして、
わが最愛者 -- 求婚の群より來る亡滅を
絶えて怖るる要あらず、神より來るは避け難し。』

しか慰めてしかも猶彼の破滅の備しぬ。
王妃はやがて燿ける樓上さして上り行き、
戀しき夫、オヂュシュウス懷ひて泣けり。藍光の
目のアテーネー程もなく甘眠彼の目に注ぐ。

夕に到りオヂュシュウス親子のもとに忠實の
牧人歸り來る時、二人夕餉の備して、
今年生れの家豬の子を屠れり、時にアテーネー、
ラーエルテース生める子の(かたへ)に近く立ちよりて、
其杖をもてオヂュシュウス拍ちて再び老となし、
賤しき衣服彼の身の廻りにつけぬ、牧人が
彼を認めて胸中に遂に祕密を守り得ず、
ペーネロペーアに走り行き報ずることを恐るれば。

テーレマコスは牧人にまづ口開き陳じ曰ふ、
『ああ忠實の[16-461]ユーマイエ、歸り來しよな、都市の中、
うはさは如何に?傲慢の求婚者らは埋伏の
(には)よりすでに歸れるや?なほわが歸路を(ねら)へるや?』

[16-461]呼格。

牧夫の汝、ユウマイエ、その時汝かく曰ひき、
『斯る事ども都市を過ぎて探り問ふこと念頭に
われおあかざりき、ただ速く使命を遂げて又こゝに
歸り來らん事をのみ、われの心は命じたり。
君の同僚遣はせしかの脚速き傳令に
われは逢ひたり、眞つ先に彼は王妃に言づてぬ、
他にわれ一事知り得たり、親しくわが目眺め見て。
エルマイオスの丘のそば、都城見おろす途のうへ、
過ぎて其時われは見ぬ、脚迅速の
一艘の船灣中に入り來るを、中に多數の人乘りぬ、
楯と兩刄の槍も亦其船中に多かりき。
例の者ぞと猜したり、確かの事は曰ひがたし。』
しか陳ずれば、剛健のテーレマコスは微笑みて、
目を擧げ父を顧みつ、牧夫よりして目をそらす。

やがて一同其勞を終り食事を整へて、
宴を設けておのおのの心に滿たぬ所なし
されど一同飮食の願を攘ひのけし後、
臥床を念じ、睡眠の靈の惠みを味ひぬ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十七歌


第十七歌

乞食の姿せるオヂュシュウスを城市に導くべくユウマイオスに命じ終りてテーレマコス先づそこに行く(一 - 二七)。 愛兒を迎へてペーネロペーア大歡喜し、伴へるテオクリュメノスを歡迎す(二八 - 一六五)。 求婚者ら食事の準備、同時にユウマイオスとオヂュシュウス城市に向ふ途上牧者メランチオスに罵らる(一六六 - 二五三)。 館前の廣場に入りたるオヂュシュウス其愛犬アルゴスを見る(二五四 - 三二七)。 乞食につきてアンチノオスとユウマイオスとの對話(三二八 - 四〇四)。 オヂュシュウスをアンチノオス罵り辱む(四〇五 - 四九一)。 ペーネロペーア使を遣はしてオヂュシュウスを招く(四九二 - 五八八)。 ユウマイオスは暇を乞ひて牧場に歸る(五八九 - 六〇六)。

薔薇の色指持てる神女の現れに、
オヂュシュウスの愛兒なるテーレマコスは、雙脚の
下に美麗の沓を着け、其剛健の手に叶ふ
強き長槍携へて、將に都城に行かんとし、
彼に從ふ忠實の牧夫に向ひ陳じ曰ふ、
『母に此身を示すべく、叟よ我今都市さして
行かんと慾す。其目もて親しく我を見る前は、
想ふに母は悲しみに耐へず、聲あげ澘々の
涙流して止むざらむ。汝に下す命は斯く --
不幸の客を導きて都市に赴き、彼をして、
そこに食物乞はしめよ、情あるものは一片の
麺包及び一杯の酒を與へん、我は身に
憂抱けば一切の人を助くること難し。
客もし痛く此言を怒らば彼によかるまじ、
我は只、只、眞實をこゝに隱さず述ぶるのみ。』

智謀に富めるオヂュシュウス彼に答へて陳じ曰ふ、
『あゝ友、こゝに留るをわれの心も喜ばず、
食を乞ふ者、田野にて求むるよりも、都市にあり
求むることは優るべし、情ある者は施さむ。
我今既に田園に留まり、すべて一切を
主人の命を下すまゝ、行ふほどの年ならず。
さらば君行け、命により、此人我を導かむ、
焚火に我に温まり日輪熱を増さん後。
我の衣服はあまりにも破れぬ、朝の寒冷は
身を害すべし、行く先の都市は遠しと君はいふ。』

しか陳ずれば農園を、テーレマコスは速かに、
過ぎて急ぎて求婚の群に禍害を工みつつ
やがて堅固に造られしおのれの家に到り着き、
手にせる槍をおほいなる柱に寄せて立て掛けつ、
石の敷居を踏み越えて其館中に進み入る。

ユウリュクレーア、彼の(うば)(たへ)に刻める椅子の上、
皮を敷きつゝありし者、まさに彼を認め得つ、
泣きてただちに寄せ來る。オヂュシュウスに仕へたる
侍女らひとしく一齊に彼のめぐりに集りつ、
彼を抱きて其肩と其かしらとに口を觸る。
やがて其室出で來るペーネロペーア、宛然と、
[17-37]アルテミス又黄金のアプロヂテーの姿して、
胸に愛兒をかき抱き、嬉し涙を澘然(さんぜん)と、
流して彼の雙の目と頭に口を觸れつゝも、
高らに叫び、翼ある言句陳じて彼に曰ふ、

[17-37]女神アルテミスは清淨の處女神(十八歌二〇二)、麗容にして身幹高し(六歌一五二)、
ヘレネー(四歌一二一)はアルテミスに比せらる。ノーシカアーも同じ。(六歌一〇二)。

『よくこそ歸り來りしよ、テーレマコスよ、わが光、
父の消息求むべく、わが意に叛き、ひそやかに
ピュロスに汝立てる後、再び見んと思ひきや!
汝の見たるものにつき、我に委細を告げよかし。』

テーレマコスは思慮深く答へて彼に陳じいふ、
『母よ、我今恐るべき死滅のがれて歸り來ぬ、
わが慟哭を起さざれ、われの心を亂さざれ、
むしろ浴して清淨の衣を君の身に纒ひ、
かしづく女子ら伴ひて樓上高く上り行き、
天王ヂュウス報復の業を正しく果しなば、
疵なき牛の大牲(おほにへ)を奉るべく神明に
盟へ、その間に集會の(には)を訪ひ行き、我はかの
客を呼ぶべし、かなたより伴ひ、こゝに來しものを。
我はいみじき同僚ともろとも彼を先立たせ、
ペーライオスに命じたり、其屋に招き、心こめ、
わが歸る迄慇懃に彼をもてんし崇めよと。』

しか陳ずれば言葉なくペーネロペーア立上り、
浴して後に清淨の衣をおのが身に纒ひ、
天王ヂュウス報復の業を正しく果しなば、
疵なき牛の大牲を捧ぐべしとの盟たつ。

こなた大槍。手にとりてテーレマコスは館を出づ、
脚神速の狗二匹、彼に伴ひ驅け出でぬ、
その時彼にアテーネー、神聖の美を注ぎ掛く、
斯くして來る彼を見て衆一齊に驚きぬ。
彼のめぐりに傲慢の求婚の群寄せ來り、
口に甘言陳じつゝ心に危害たくらみぬ。
其數多き一團をテーレマコスは外にして、
行き、[17-68]メントール坐せるそば、アリテルセーヌ、又更に
[17-69]アーンチポスの坐せる側、昔より皆父の友、
並ぶほとりに坐を取れば、各人彼に問ひたづぬ。
その時槍の名手たるペーライオスは近よりて、
都市を過ぎ來て集會の(には)にかの客導けば、
客は長くは打ち棄てぬテーレマコスは近く寄る、
ペーライオスはまづ先に彼に向ひて陳じ曰ふ、

[17-68]二歌二二五。
[17-69]オヂュシュウスの伴、同名の人怪物に喰はる(二歌一九)。

『テーレマコスよわが家に侍女らを早く行かしめよ、
メネラーオスが與へたる贈遺を君に返すべし。』

テーレマコスの思慮深き、即ち答へて彼に曰ふ、
『ペーライオスよ、此事の成行いかに、皆知れず、
わが館中に傲慢の求婚の群ひそやかに、
われを殺して父の産おのおの頒ち取るべくば、
かの贈遺をば誰よりも君の取るこそわが願。
彼らに對し死と非命、我幸ひに計り得ば、
君喜びて喜べる我に贈與を運び()よ。』

しかく陳じて不幸なる客を其屋に導けり。
やがて一同[17-85]堅牢に築ける家に到る時、
その外套を脱ぎ捨てゝ椅子、高椅子の上に懸け、
善く磨かれし浴場に行きておのおの浴を取る。
その一同を浴せしめ、侍女らは之に橄欖の
油まみらし、柔軟の上衣肌衣を着せしむ、
かくして彼等浴場を出でておのおの椅子による。
侍女らの一人黄金の華麗の瓶に水を入れ、
携へ來り銀盤の上に傾け、衆人に
手を洗はしめ、傍に磨ける卓子寄せ來る。
その時家婦はしとやかに、携へ出でし麺包を
卓子の上にのせて、貯へし種々の調理の品を添ふ。
其時王妃まのあたり、館の柱のそば近く、
椅子にその身を凭せつゝ、靜かに細き絲を繰る。
衆人やがて手をのして前におかれし食を取る。
衆人やがて飮食の慾をおのおの滿たす時、
ペーネロペーア、聰明の王妃は彼に陳じ曰ふ、

[17-85]直譯すれば『善く住居さるる』

『テーレマコスよ、樓上に我は上りて床の上、
身を横たへむ、其床はつねに灑げる涕涙に
濕ひ今は憂愁の(には)なり、先にオヂュシュウス、
アトレーデース諸共にイリオンさして立ちしより。
求婚者らがこの館に來るに先だち、汝まだ、
父の歸郷の消息の委細をわれに打明けず。』

テーレマコスの思慮深き、答へて母に陳じ曰ふ、
『之らにつきて眞實を、母よ、委細に語るべし。
ピュロス並に衆民を統べて治むるネストール、
目ざして行ける我々を高き屋の中招き入れ、
心をこめて慇懃に、永き不在の歳月の
後に歸れる愛づる子を、父のもてなす如かりき。
彼慇懃に一同をめでぬ、譽の子ら共に。
父勇猛のオヂュシュウス、生れるやあるは亡べりや?
地上の誰も告げざれば、絶えて知らずと彼曰へり。
されど駿馬と堅牢の車輪を仕立て我を乘せ、
槍の名將メネラオス・アトレーデースに遣はしぬ。
そこに着してアルゴスのヘレネー見たり、彼のため
神はアカイア、トロイアの民を等しく惱ましむ。
音聲(おんじやう)高きメネラオス、直ちに我に問ひて曰ふ、
ラケダイモーン・スパルテー何らの要に訪ひ來しと。
その時我は一切の眞實彼にものがたる。
そを打聞けるメネラオス答へて我に叫び曰ふ、

『竒怪なる哉卑怯なる奴輩おのれを顧みず、
力優れる英雄の臥床におのれ臥さんとや!
譬を曰はば母鹿が、生れて間なく乳ばなれぬ
仔鹿二頭を、勇猛の獅子王やどる洞の中、
ねかし、谷間を、樹々しげる丘を廻りて草を()む、
其間に彼の洞窟に、猛き獅子王歸り來て、
仔鹿二頭に物凄き死の運命を齎らさん、
正しく斯くもオヂュシュウス彼らの死滅もたらさん。
嗚呼あゝ、ヂュウス、アテーネー又ポイボス・アポローン、
先に堅固に築かれし、レスボス島の中にして、
ピロメーレーデス對手とし、彼を爭ひ鬪ひて、
激しく之を打斃し、アカイア人の喝采を
博せし如く、オヂュシュウス求婚者らに向ひなば、
彼らの壽命短くて、[17-137]苦き婚儀を味はむ。
汝が我に問ひ訊ね、答を願ふ一切に
つきては、我は眞實を離れて曰はんすべ知らず、
我は汝に僞らず。されども海のまことなる
老翁のべし一切は包み隱さず、今告げむ。
彼は語りぬ、オヂュシュウス孤島にいたく惱めるを
見ぬと。仙女のカリュプソー、其館中に彼の意に、
反して彼を押し留む、彼は故郷に歸り得ず。
大海原を乘りこして、彼を故郷に送るべく、
櫂を揃へる船あらず、船を進むる伴あらず。」
槍の名將メネラオス・アトレーデース斯く告げぬ、
是らを我は聞きはたし歸りぬ、不死の神明は
順風與へ速かに我を祖先の地につけぬ。』

[17-137]死との婚嫁を曰ふ。

しかく陳じて愛深き母の心膽ゆるがしぬ、
テオクリュメース、風采は神に似る者つぎて曰ふ、
『ラーエルテース生める息オヂュシュウスにかしづける
尊き王妃、わが言を聞けかし、彼は善く知らず、
我は誠に豫言して何をも隱すことなけむ。
諸神の中にクロニオーンまづ證者(あかし)たれ、款待の
此食卓も、我が訪へるオヂュシュウスの此爐火も、
證者たれかし、オヂュシュウスすでに祖先の地にありと。
彼は坐してか、歩きてか、かの求婚のともがらの
不法あまねく探りつゝ、彼らの危害たくらめり。
漕座よろしく船のへに坐して我かく飛ぶ鳥に
占ひ得たり、占ひてテーレマコスにこを告げぬ。』

ペーネロペーア思慮深く答へて彼に陳じ曰ふ、
『あはれ客人、君の曰ふ言句の成るぞ願はしき。
成らばただちに君は見む、わが友愛を數々の
贈與を -- さらば君に逢ふ人々君を祝ふべし。』

しかく彼らは斯ること陳じ互ひに語りあrふ、
求婚者らはその間、オヂュシュウスの館の前、
先に倨傲に振舞ひし、鋪床の上に圓盤を
飛ばし或は槍を投げ、遊び戲る、おのがじし、
夕の食事の來る時、四方の野より羊群が
牧夫に追はれ歸る時、其時メドーン傳令の
使のひとり、求婚の群に最も喜ばれ、
其宴席に侍する者衆に向ひて陳じ曰ふ、

『若き君逹、遊戲もて君らの心樂しめり、
さらば館中入り來れ、われは食事を備ふべし。
取るべき時に晩餐を取るは全くあしからず。』

しか陳ずるに從ひて、立ちあがりつゝ衆は行く。
一同やがて堅牢の屋形に來り着ける時、
その外套をぬぎ捨てゝ、椅子高椅子の上におく。
かくて彼らはおほいなる數多の羊、肥えし山羊、
同じく脂肪豐かなる家豬と牝牛を打ち屠り、
食を備へり、其間、オヂュシュウスと忠實の
牧夫は、野より都市さして行くべく脚を急がしむ。
ユーマイオスは牧人の頭、其時陳じ曰ふ。

『あはれ客人、君は今日(けふ)都市に行くべく乞ひ願ふ、
正に主公が、我に命下せし如く、(然れども
こゝ農園を守るべく君の殘るはわが願、
されど主公は畏るべし、又崇むべし、後にして、
彼は叱らむ、一切の主公の咎め身につらし。)
いざ起て、行かむ、白日はすでに傾く、程もなく、
夕べとなりて寒冷は痛くわれらを惱まさむ。』

智謀豐かのオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『我善く悟り、善く知りぬ、善く知る者に汝今
これらを命ず。いざ行かむ、不斷に我を案内(あない)せよ。
さはれ切られし枝にして身を支ふべきものあらば、
我に與へよ、行く路は滑り易しと汝曰ふ。』

しかく陳じてオヂュシュウス肩のめぐりに破れたる --
見るめ怪しき旅嚢 -- [絲|(勹/米)]ひし紐あるものを掛く。
ユウマイオスは彼に今心に叶ふ杖與ふ。
斯くて二人の出で行ける後に殘りて、番犬と
牧夫ら共に農園を守りぬ。彼は其主公 --
老いし乞食に髣髴と杖にすがりて身のめぐり、
みじめの襤褸纒へるを -- 都市に向ひて導けり、
かくして二人もろともに[17-204]辛き險しき道たどり、
都市に近づき清水の潺湲として湧きいづる
泉のそばに來り着く。市民こゝより水汲めり。
([17-207]イタコス及びネーリトス又ポリュクトルこの泉、
昔構へき。)白楊は水に育ちて、鬱々の
林を爲して圓形に圍み、上なる巖より、
水あざやかに落ち下る。岩の上なる祭壇は
仙女の群に捧げられ、旅行く人は牲ささぐ。

[17-204]パイパロエサン(意不明)。
[17-207]イタケーの古の三雄、プテレラーオスの三兒と稱せらる。第一よりイタケーの名、第二よりネーリトン山の名來る。

[17-212]メランチュウスはドリオスの子なり、彼今求婚の
人々のため食として、大なる山羊をひき來り、
彼らをこゝに見出せり、二人の牧者伴へり。
こゝに彼らを見出して彼れ兇暴の言を吐き、
口きたなくも罵りてオヂュシュウスを激せしむ。

[17-212]或はメランチオス、十八歌三二一のメラントウはドリオスの娘。

『笑止や、笑止!惡き者、惡き者をぞ導ける、
誠に常に神聖は類と類とを一つにす。
憐れの牧者、汝今此貪食の此乞食、
うるさき者を -- 宴席の邪魔を -- いづこに導くや?
彼は柱のそばに立ち、肩擦り寄せて乞ふところ、
鼎、水盤ならずして、只食物の殘のみ。
此者我の有たらば、農場の番、獸欄の
掃除、仔山羊の飼草のはこびを我は命ずべし。
然らば彼はうすき乳飮みて其股太らせむ。
されども彼は惡き業學びて、敢て正業に
勉むることを喜ばず、食を民衆の間に乞ひ、
乞ひて求めて飽くことを知らぬ口腹養へり。
汝に我は敢て曰ふ、わが曰ふ所()とならむ、
神に類するオヂュシュウス其邸宅に彼行かば、
頭のめぐり衆人の手に抛たむ足臺を、
あなたこなたにのめさるゝ彼の[17-232]肋骨破るべし。』

[17-232]頑丈の肋骨に當らば足臺も破む。

しかく陳じて、過ぎ乍ら、狂愚の彼は足飛ばし、
オヂュシュウスの腰を蹶る、されど路より押しのけず。
勇士しづかに悠然と立ち留りて思案しぬ、
急ぎ進みて杖ふりて彼の一命絶さんか?
或は彼を攫み上げ、大地に頭を打たせむか?
思案の末に耐へ忍び、心制しぬ、然れども
牧夫は彼を罵りて手を擧げ高く祈り曰ふ、
『[17-240]泉の仙女ヂュウスの子、あゝ聞き召せ、オヂュシュウス、
嘗て御前(みまえ)に仔羊の、仔山羊の股を燒き炙り、
脂肪に包み捧げたる其事あらば、わが祈願
成らしめ給へ、神明に引かれて彼の歸らんを。
惡き牧人、羊群を亡ぼしつゝも都市の中、
常にめぐりて誇りつゝ常に僭して曰ふ處、
その大言の一切を彼は其時碎くべし。』

[17-240]十三歌一〇四。

山羊を導く牧の人、メランチオスは叫び曰ふ、
『竒怪なるかな何らの語、狗子の唇洩れいづる!
彼を此後イタケーを離れて遠く黒船に、
乘せて他郷に送りやり、賣りて多くの財を得む。
テーレマコスを銀弓の神アポローン、館の中、
今日斃せかし、あるは又求婚の群彼を打て、
國を離れしオヂュシュウス、彼も他郷の望盡く。』

しかく陳じて足遲き二人をそこに後にして、
メランチオスは速かに行きて主公の館に行き、
行きてただちに内に入り、求婚者らの側に坐す、
彼の最も親しめるユウリマコスのまのあたり。
給仕の群は若干(そこばく)の食物彼に運び來る、
又麺麭をしとやかの家婦は齎らし喫せしむ、
その後やがてオヂュシュウス、又忠實の牧人は、
着きてあたりに並び立つ、そこに豎琴ならす音、
彼らに聞ゆ、ヘーミオス、今吟謠を始めたり。
その時彼は牧人の手をとり彼に陳じいふ、

『ユーマイオスよ、こは正にオヂュシュウスの美なる館、
他に宮殿は多くとも、容易く認め得らるべし。
室また室は相續く、又中庭は胸壁と
[土|(尸/任/牛)]とによりて飾られて門は能く閉ぢ二重なり。
力を以てこを犯し押し入ることは難からむ。
今館中に衆人は宴を開くを我は知る、
肉の薫は立ちのぼり、又豎琴の音聞ゆ、
琴は酒宴の伴として神明創め作りたり。』

ユーマイオスよ牧者たる汝その時かく曰ひき、
『君は容易く善く知れり、他の事物にも皆(さと)し、
いざ今思ひ計るべし、此事いかに成り行かん。
君今先に堅牢の此の館の中進み行き、
かの求婚の一團にまじれ、我が身は殘るべし、
されどもこゝの留るを望まば、我はまづ行かむ。
されども長くためらひそ、ある者君を戸の外に、
認めて打たん、逐ひやらむ、君よく之を思案せよ。』

耐忍強きオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『我よく知れり、よく悟る、君は悟れる者に曰ふ、
さはれ君まづ先に行け、われは此場に停らむ、
打たれ、或は突かれたる、つらき經驗身の多し、
われの心は強固なり。戰場又は海上に
惱みしことは幾何ぞ!こたびも數に加はらむ。
ただ口腹のあさましき慾をば隱すよしも無し、
不祥の慾は人界に禍來す幾何ぞ!
漕座善き船このために、敵に災致すべく、
艤裝されつゝ渺々の廣き大海渡り行く。』

しかく彼らは斯ること陳じ互に語りあふ。
その時臥せる狗ありて頭を耳を(もた)げ上ぐ、
耐忍強きオヂュシュウス、むかし飼ひたる、しかれども、
愛撫の暇なかりける、狗[17-283]アルゴスは彼なりき、
トロイアさして其主公たちたる後に若人は、
彼を驅り立て、野の山羊を兎を鹿を逐はしめき、
今は主公はあらざれば、打棄てられて門前に、
騾馬と牛との獸糞の山なすばかり堆高く
積れる中に横たはる、其堆積を搬び行き、
オヂュシュウスの(しもべ)らは彼の農園肥やすべし。
無慘や、かくてアルゴスは蚤に責められ横たはる。
されども主公オヂュシュウス近くに立つを認め得て、
可憐の狗は尾を振りつ、二つの耳を埀れ下げぬ、
されども弱りはてし彼、主公の側に近寄るは
叶はず、主公隔りて之を眺めて暗涙を、
ユーマイオスの目を逃れ、拭ひて不意に彼に問ふ、

[17-283]名は『迅き』を意味す。

『ユーマイオスよ、獸糞の中に臥したる此狗は、
目を驚かす、美麗なり、さもあれ我は知り難し、
美麗の外に迅速の走りを彼は爲し得るや?
或は彼は世の人が其食卓のそばにおき、
飾りとなりて愛撫する其畜類の一なりや?』

その時、汝ユウマイエ、答へて彼に斯く曰ひき、
『故郷を離れ、みまかりし人に飼はれき此狗は。
彼の姿もその術も、トロイアさしてオヂュシュウス、
彼を殘して出でたちし、其時ありし儘ならば、
彼の迅さと力とを眺めて君は驚かむ。
叢林茂る深みより彼は野獸を驅り出して、
絶えて恐るゝことあらず、彼らの道を善く知れり。
今は無慘や病みせり、主公は國を隔てたる
遠きに死せり、怠慢の婢女らは狗をいたはらず、
また奴僕らは、その主公すでに司配をやむる時、
正しき業を行ふを、もはや心に喜ばず、
奴隸と人のなる時は、雷鳴高く轟かす
クロニオーン其者の徳の半ばを奪ひ去る。』

しかく陳じて堅牢に構へる館に進み入り、
廣間を過ぎて驕慢の求婚者らのそばに行く。
しかしてこなたアルゴスを死の運命は捕へ去る、
オヂュシュウスを二十年過ぎて眺めし程もなく。

神の姿に髣髴のテーレマコスは、牧人の
進み來るを眞先に眺めて彼に合圖して、
側に呼び寄す、寄せられて彼は四方を見わたしは、
かたへに一つ椅子を見る、そは館中に食を取る
求婚者らに品頒くる調理の人の坐る椅子、
牧人之を運び行き、テーレマコスの目の前に
据ゑて自ら之に坐す、侍者は調理を齎らして、
彼に與へて麺麭を更に籠より取りて出す。

つゞきて(すぐ)にオヂュシュウス屋形の中に進み入り、
蹌踉(そうろう)として杖に倚り、見る目憐れの老齡の
乞食に似せぬ。無慘なる襤褸は彼の身を包む。
しかして彼は門の内、白楊の木の閾のへ、
工匠むかし準繩にあてて眞直に精巧に、
削り琢きし絲杉の柱にもたれ寄りかかる。
テーレマコスは之を見て牧人そばに呼び寄せつ、
美なる籠より麺麭の大塊取りつ、兩手もて
抱くばかりに量多き食を添へつつ陳じ曰ふ、

『これらの食を携へて客に與へて更に曰へ、
殘る隈なく求婚の群に近づき求めよと。
物の乏しき人に取り、耻は全く無用なり。』

しか陳ずれば、その言句聞きて牧人立ちて行き、
彼のかたへに停りて飛揚の言句陳じ曰ふ。
『テーレマコスは、客人よ、君に之らの物與へ、
殘る隈なく求婚の群に近づき乞へと曰ふ、
乏しく物を乞ふ人に耻は無用と彼は曰ふ。』

思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『天父ヂュウスよ、願はくは、テーレマコスに福利あれ
胸裏に彼の願ふもの皆悉く彼に成れ!』

しかく陳じて雙手あげ、施物を受けて、脚下(あしした)
おける不潔の袋のへ載せつつ、かなた伶人が
館の中にて吟謠を續くる間、口にしつ、
やがて其食終る時、玲瓏の歌亦終り、
求婚者らは館の中どよめき騷ぐ。アテーネー
その時近くオヂュシュウス、ラーエルテースの子のそばに
佇み、彼を動かして求婚者より麺麭の
屑を乞はしめ、之により正と不正を見わけしむ、
さはれ神女は或者の危難を去るを念とせず。
斯くして彼は各人に求むるために、右手より
初め、進みて手をのばす、乞食に馴れし樣見せて。
衆人彼を憐みて施し乍ら怪しみつ、
いづこよりして來りしや、はた何者とたづね合ふ。
その時山羊の牧者たるメランチオスは衆に曰ふ、

『高き王妃の求婚者、われに聞けかし、此客に
つきては。彼をわれの目は先に親しく、眺めたり。
ユウマイオスは -- 牧人は彼をこゝもと導けり。
さはれ養生はいづこにか、其事我は善く知らず。』

アンチノオスは其言を聞き、牧人を叱り曰ふ、
『音に聞えし牧人の汝、何故此者を、
都市に導き來りしか?他の放浪者、宴席の
詛ひ、うるさき乞食の徒、われらに足るに非ざるや?
こゝに群り集まりて主人の財を浪費する
彼らを念に掛けずして、更に汝は彼呼ぶや。』

その時汝ユウマイエ、答へて彼に斯く曰ひき、
『高貴の汝、アンチノオス汝(まさ)なく物を曰ふ、
誰か進みて外に行き叨に客を求めんや?
若し其客が公に奉仕の者にあらざらば、
預言者、あるは疾病を治療する者、木の(たくみ)
或は歌ひ樂します善き伶人に非ざらば。
之らは廣き大地のへ特にあまねく招かれん。
誰か乞食を呼び寄せておのが煩勞來すべき!
求婚の徒の中にして、オヂュシュウスの僕にとり、
汝最も無情なり、特にも我に無情なり。
さもあれ我は顧みず、ペーネロペーア、聰明の
王妃はたまた神に似るテーレマコスの生ける間は。』

彼に向ひて思慮深きテーレマコスは陳じ曰ふ、
『默せよ、彼の喋々の言を弄して答ふるな、
アンチノオスは苛酷なる言句によりて怒らすを
毎におのれの習とし、人にも勸めしかせしむ。』

しかして次にふりかへりアンチノオスに陳じ曰ふ、
『アンチノオスよ、子を父の思ふが如く、汝善く
我を顧み、兇暴の言句を吐きて、わが館の
中より客を逐へと曰ふ、神よ此事成らしめな!
客に與へよ。物取りて、我は惜しまず、しか命ず、
此らにつきてわが母を恐るゝ勿れ、神に似る
オヂュシュウスの館中の何らの僕も恐るゝな。
されども汝胸中にかかる思を宿すなく、
自ら多く貪りて他に與ふるを喜ばず。』

アンチノオスは其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『テーレマコスよ、高言を吐きて心を制し得ず、
何らの言句汝いふ?我が爲す如く求婚者、
彼に[17-408]惠まば三箇月彼は此家に來るまじ。』

[17-408]下文に曰ふ如く「惠」は足臺を投げつくること。

しかく陳じて食卓の下におかれし足臺を、
とりて示しぬ、宴席にかれの雙脚受くるもの。
他の衆人は皆與ふ、しかして彼は麺麭と
肉を袋に納め入れ、閾のほとり速かに
行きて、アカイア衆人の施すところ喫せんとし、
アンチノオスの傍らに、さはれ、留りて彼に曰ふ、

『與へよ君は、アカイアの中に賤しき者ならず、
打見るところ高貴なり、またく王者の如くなり。
他人に優り麺麭の多くを、されば君我に
與ふべからむ、君の名をさらば世上にたたひべし。
我も昔は幸多く富みて華美なる家に住み、
我を訪ひ來る放浪の群に屡々施しき、
彼ら何者、いづこより漂ひ來しか、問はざりき。
われに僮僕多かりき、又厚生の料にして
富豪の稱を來すもの、我は無數に貯へき。
されどもヂュウス、クロニオーン((まさ)なく神は望みたり)
四方をあらしさまよへる海賊ともの旅長く、
アイギプトスにわれ送り、われの破滅を來らしむ。
アイギプトスの川のうへ、左右に彎れる船とめし、
我は其時、信頼の最も厚き從者らに
命じて、そこの留りて船の數々守らしめ、
又偵察をなすが爲、他を觀測の地に送る、
然るに彼ら其慾に驅られて暴威打振ひ、
アイギプトスの人民の豐けき田野忽ちに、
あらし犯して女性らと小さき子らを奪ひとり、
又丈夫らを屠り去る、其風聞は忽ちに
都市にひゞきぬ、こを聞きし國人曙光もろともに
進み來りぬ、原上は歩兵、騎兵と黄銅の
利刄の光充ち滿ちぬ、轟雷めづるクロニオーン、
わが從者らを無慘にも逃走せしめ、敵前に
留ることを得せしめず、禍難はよもに擴がりぬ。
敵は利刄を閃めかしわれらの多數亡して、
殘れるすべて捕へ去り、迫り苦役に就かしめぬ。
我をば彼ら其客に、キュプロス島に君臨の
ドメートールに(イーアソス生みたる息に)與へたり、
そのキュプロスを我逃れ苦難のはてにこゝに來ぬ。』

アンチノオスは其時に答へて彼に陳じ云ふ、
『この宴席の煩ひを、詛ひを我に送りしは、
何等の神ぞ?わが卓を去りて眞中に汝立て、
[17-448]アイギプトスとキュプロスの苦難をのがれ得んがため。
汝なにらの不敵なる又厚顏の乞食ぞや!
らはる〜゛に衆人をめぐれば彼ら愚かにも、
施し與ふ、わが物にあらねば何ら節約も
躊躇もあらじ、各々の前に豐かに物があり。』

[17-448]先きに經驗したる如き。

思案に富めるオヂュシュウス退き乍ら彼に曰ふ、
『笑止や!君は風貌は美なれど心なかりけり。
他人の卓に坐し乍ら、麺麭とりて與ふるを
慾せず、こゝに目の前に物は豐かに横たはる、
おのれの家にある時は鹽一粒も與ふまじ』

アンチノオスは其言を聞きて一層怒り増し、
彼を睨めて勃然と飛揚の言句陳じいふ、
『汝誹謗の言吐けり、汝宜しく覺悟せよ、
此殿中を恙なく汝退くことを得じ。』

しかく陳じて足臺を彼に投げつつ右の肩、
脊の一端をはたと打つ、されども彼は屹然と
巖の如く立ちとまり、つゆよろめかず、默然と
しづかに頭ゆるがして、胸に復讐たくらみつつ、
やがて戸口に立ち歸り、坐して滿ちたる佩嚢を
しづかに下し、求婚の群に向ひて陳じ曰ふ、

『王妃、ほまれのいみじきに婚を求むる諸人(もろびと)よ、
我に聞けかし、胸中の心の聲を我述べん。
おのれの資産、牛の群、白き羊の群守り、
禦ぎて爲に戰ひて人は或は打たるゝも、
心にさまで苦痛なし、心はさまで悲しまず。
されども我はあさましき -- 人に禍持ち來す --
この口腹の慾のため、アンチノオスに打たれたり。
されど諸神と復讐の女神、乞食を憐れまば、
アンチノオスに成婚に先んじ死滅來るべし。』

彼に答へてアンチノス、ユーペイテスの子は陳ず、
『坐して靜かに食を取れ、客よ、さなくば他處に去れ、
汝の言を憤る若き人々、手を足を
取りて殿中引きずりて、汝の皮膚を剥ぎ取らむ。』

しか陳ずれば一同は、却つて彼に猛然と
怒りを起し、その中の若き一人叫び曰ふ、

『アンチノオスよ、不幸なる流浪の彼を無慘にも
汝打てるは惡しかりき、若し神ならば何とせむ。
諸神は時に遠くより訪ひ來る客に身を似せて、
種々の姿を裝ひて人間の都市經廻りつ、
あまねく人の正しきや、(よこしま)なりや、もそなはす。』

しか陳ずれどアンチノス其忠言に耳貸さず。
テーレマコスは其父の打たれしを見て胸中に、
痛く嘆けど目蓋より涙大地に落ちしめず、
無言に頭ゆるがして胸に復讐たくらみぬ。

ペーネロペーア聰明の王妃は客の殿中に
打たれしを聞き、取り圍む侍女の間に陳じ曰ふ、
『汝をしかくアポローン、すぐれし弓手打てよかし!』
彼に家政を司るユウリノメーは答へいふ、

『ああ願はくは誤らず、われらの祈願成れよかし、
然らば群の一人だも曙の光明眺め得じ。』

ペーネロペーア聰明の王妃は彼に向ひ曰ふ、
(うば)よ、彼らはすべて敵、すべて惡事をたくらめり。
アンチノオスは就中黒き運命見る如し、
憐れの孤客殿中をめぐりさまよひ、施しを
あまねく衆に求めたり、窮乏彼を促せば。
他の一切の人々は與へて嚢滿たせしに、
アンチノオスは足臺を投げて右肩の端うちぬ。』

その内房に座を占めて、王妃はかくも一群の
侍女に語りぬ、オヂュシュウス王者こなたに食取りぬ。
やがて王妃は忠實の牧者を呼びて彼に曰ふ、

『ああ忠實のユウマイエ、かの客人をわが許に
來らしめずや、迎へ得て我は親しく物問はん、
心を猛きオヂュシュウス其消息を彼聞くや?
或は見しや?漂浪の長き者とし彼は見ゆ。』

牧人、汝ユウマイエ、汝其時答へたり、
『あなれ王妃よアカイアの諸人ひとしく默せかし、
彼の陳ずる言により君の心は魅せられむ。
舟を逃れて眞つ先に我を訪ひ來し客人は、
三夜三日引き續き、わが小屋の中泊りて、
其艱難の物語未だに話し終へざりき。
神に學びて美妙なる歌を諸民に聞かしむる、
其伶人を打眺め、人は飽かずも恍惚と
なりて其耳傾けん願は終る時あらず、
斯くも彼れわが屋の中にわれを恍惚たらしめぬ。
彼は陳ぜり、昔よりオヂュシュウスの友なりと、
ミーノース族住むところ、クレーテーこそ其郷と。
その郷離れ、をちこちと漂泊しつつ、艱難を
忍びてこゝにたどりぬと。彼は曰ふめり。又陳ず、
オヂュシュウスの噂聞く、テスプロートス豐沃の
郷に、近くに生らへて寶故郷に倶すべしと。』

ペーネロペーア聰明の王妃は彼に答へ曰ふ、
『かの客人をこゝに呼べ、我に親しく語るため。
求婚者らは戸の口に、或はこゝに()の中に、
坐して遊戲を爲すもよし、彼らの心樂しめり。
彼らの資産麺麭と甘美の酒は其家に、
奪はれずして横たはり、家僕ら之を喫し去る。
彼らは日日にわが家に、群集なして寄せ來り、
牛羊及び肥え太る山羊を捕へて打ち屠り、
宴を催し芳醇の燿く酒盃酌みほして、
絶えて憚ることあらず、わが屋の産は荒されぬ。
わが屋の産を守るべきオヂュシュウスの如き者
今無し。さはれオヂュシュウス祖先の郷に歸り來ば
ただちに彼は子と共に彼らの暴に報ゆべし。』

テーレマコスは其言を聞きてはげしく(くしやみ)して、
驚くばかり殿中に反響せしむ、之を見て
ペーネロペーア打笑ひ、ユウマイオスに陳じ曰ふ、

『わがため行きて客人をこゝに目の前つれ來れ、
見ずや、我子はわが言を聞きて高らに嚔しぬ。
かかれば彼ら求婚の群のすべてに誤らず、
死は來るべし、誰一人死を逃るるを得べからず。
我また別に曰ふ處、汝心のよく留めよ、
客人すべて眞實を告ぐと我もし知る時は、
彼に華麗の服裝を、上着下着を得さすべし。』

しか陳ずるを聞き了へて牧人すぐに足進め、
來りて彼の側に立ち、(はね)ある言句陳じ曰ふ、
『ペーネロペーアわが王妃、テーレマコスを生めるもの、
君を呼ぶなり、旅の叟、彼女は痛く惱みつつ、
その良人の消息を聞くべく切に冀ふ。
君一切の眞實を語ると彼女知らん時、
君が特にも求め乞ふ上着下着を與ふべし、
しかして君は遍歴を、衆の間に試みて、
食を求めて飽き得べし、心ある者施さむ。』

耐忍強きオヂュシュウス彼のその時答へ曰ふ、
『ユウマイオスよ速かに、イーカリオスの息女たる
ペーネロペーア、聰明の王妃にわれは眞實を
告ぐべし、彼を善く知りて、我は艱苦を共にせり。
さもあれ我は殘虐の求婚者らの群恐る、
彼らの暴と驕慢は、(かみ)鋼鐵の天に入る、
何らの害も施さず殿中過ぎて行く我を、
かの者打ちて無法にも痛く苦痛を嘗めしめぬ。
テーレマコスも何人も此兇暴をおしとめず。
されば光輪沈む迄、よしや思ひに耐へずとも、
其の室内に殘るべくペーネロペ⌒アに君願へ。
やがてその時良人の歸郷に付きて問はしめよ。
爐邊に近く座を占めて我は語らむ、わが衣
いとむさくろし、君は知る、眞先に君に我乞ひぬ。』

しかく陳ぜる其言聞きて牧人立ちかへり、
敷居の上を越ゆる時ペーネロペーア彼に曰ふ、

『汝は客を連れてこず、かの漂浪者何の意ぞ?
彼は劇しく或者に恐怖抱くや?あるは彼
此屋の中にはにかむや?恥は乞食に便ならず。』

その時汝、ユウマイエ、王妃に向ひ斯く曰ひき、
『彼は正しく物を曰ふ、思ひあがれる暴虐の
群の無禮を避くる時、他人もしかく思ふべし。
君光輪の沈む迄、室に殘れと彼は曰ふ。
王妃よ、やがて其時に君ただひとり客人に
而して彼の言を聞き、彼に語るぞ善かるべき。』

ペーネロペーア、聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『[17-586]この客人は痴者ならず、事の成行善くしりぬ。
彼らの如く驕傲に惡をたくらむしれ者を
人界の中何處(いづく)にも他に又見るを得べからず。』

[17-586]二つの讀方あり、他は『何物なりや知らねどもこの客人は痴者ならず』

王妃はしかく陳じ曰ふ、善き牧人は一切を
話し終りて辭し去りてかの求婚の群に入る。
しかして外の何者も聞き得ざるやう、其頭
テーレマコスの近づけて、羽ある言句陳じ曰ふ、

『若君、我は去り行きて家豬らすべてを守るべし、
そは君の産、我の産。こゝなるすべて君守れ。
身の安全をいや先に計れ、心を戒めて
禍難を避けよ、アカイアの群は惡事をたくらめり、
我らに禍難到る前、ヂュウスよ彼ら斃せかし。』

彼のその時聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『叟よ、誠にしかくあれ、食し終りて汝行け、
しかして明日(あした)、善き犧を齎らしここに歸りこよ。
ここのすべてを神明と我もろともに計るべし。』

しか陳ずれば牧人は琢ける倚子にまた坐しつ、
酒肉とりて思ふまま口腹充たし終る後、
酒宴の客に充ち滿てる廣間と庭をあとにして、
家豬の群へと歸り行く。客は舞踊と歌謠とに
興じぬ。すでに日は沈み夕の時刻は襲ひ來ぬ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十八歌


第十八歌

オヂュシュウスと乞食イーロスとの決鬪(一 - 一一七)。 アムピノモスに對し乞食に扮せるオヂュシュウスの警告(一一八 - 一五七)。 ペーネロペーア、求婚者の面前に現はる(一五八 - 二〇五)。 客の虐待さるを坐視せるが爲めテーレマコス母に叱らる(二〇六 - 二四二)。 ペーネロペーア巧に求婚者より嫁資を求む(二四三 - 三〇三)。 館中第一夜を過すオヂュシュウス、爐火の世話を爲すべく女中らに語る、其一人メラントー彼を罵る(三〇四 - 三四五)。 ユウリマコスはオヂュシュウスを罵り、足臺を投げ附く、アムピノモスはテーレマコスと相談し衆客を退散せしむ(三四六 - 四二八)。

こゝに一人乞食(こつじき)を職とする者いで來る、
彼は遍くイタケーの街路巡りて食を乞ひ、
飮食つねに飽かずして其健啖に名を知らる、
打見は躯幹大なれど彼は勇なし力無し。
アルナイオスは其名なり、生れし時に彼の母、
しかく名づけぬ、しかれども若き人らは[18-6]イーロスの
綽號(あだな)を呼べり、命により走り使ひをなすがため。
彼今來り、この屋よりオヂュシュウスを逐はんとし、
罵り咎め、翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

[18-6]恐らく神の使イーリスの名より來れるならむ。イーリスはイーリアス二歌七八七及び其他に出づ。

『失せよ老ぼれ、戸口より、さなくば汝脚取りて
曵きずらるべし、曵きずれと我に命じて衆人の
目配せるに氣付かずや?さもあれ我は之を耻づ。
口論やがて腕力に移らぬ前にとく失せよ。』

智謀に富めるオヂュシュウス睨みて彼に答へ曰ふ、
痴者(しれもの)、汝何を曰ふ!我は汝を(そこな)はず。
又罵らず、量多く汝受くるも羨まず、
ここの敷居は兩人を容るべし、汝他の施與を
嫉む要なし、汝また我と等しく漂浪の
(ともがら)ならむ、神明は人に好運與ふべし。
拳を揚げて挑まざれ、あまり挑まば老いたるも、
我は怒りて血汐もて、汝の胸と唇を
塗るべし、さらば明日の日は我は靜かに樂しまむ、
ラーエルテースの生むところ、オヂュシュウスの此家に
汝再び恙なく歸り來るとは思はれず。』

流浪イーロス其時に憤然として陳じ曰ふ、
『無慘や、鳥滸の痴漢(しれもの)(くりや)の老女見る如く、
いかに喋々することか!右に左に打ち据ゑて、
穀物荒す家豬の牙見るが如くに、齒のすべて
汝の顎より拔きとりて、之を地上に散らすべし。
身支度せずや!こゝにある一同われの戰を
眺めんために。いかにして若きに汝敵せんや?』

高き戸の前、磨かれし敷居の上に兩人は、
斯くの如きに憤然と劇しく強く爭へり。
その爭を力あるアンチノオスは眺め見て、
輾然として打笑ひ、求婚者らに陳じ曰ふ、

『ああわが友よ、かかる事、嘗て起りし事あらず、
今神明は此家にかかる娯樂を齎しぬ。
かの客人とイーロスは互に怒り爭ひて、
拳を擧げて打たんとす、鬪はしめよ速かに。』

しか陳ずれば一同は打笑ひつつ立ちあがり、
襤褸纒へる兩人の乞食の側に群がりぬ。
その時、衆にアンチノオス、ユーペーテスの子は陳ず、

『求婚者らよ、我に聞け、我今一事のべんとす、
山羊の胃袋若干は、脂肪と血とを中んい充て、
われらの宴に備ふべく今ぞ火上に横はる。
二人の中の孰れとも勝ちて優者とならんもの、
その者をして好む儘一つを選び取らしめよ。
其者常にいつ迄もわれらの宴に加はらむ、
他の何者も内に入り乞食を爲すを得べからず。』

アンチノオスは斯く陳じ、一同之を贊し容る。
智謀に富めるオヂュシュウスはその時工み衆に曰ふ。

『老いたる、しかも辛勞に弱れる者はいかにして、
敵し得べきや若者に。彼の打撃に敗れよと
さはれ無慘の口腹の慾はわが身をそゝのかす。
さはれ一同嚴重の盟を立てゝ我に曰へ、
誰しも流浪のイーロスを贔負きにあまり、手を擧げて
我を無法に打据ゑて、彼に勝たすることをせじと。』

しか陳ずれば其言の如くに衆は誓ひ曰ふ。
かくて一同嚴重の盟を宣し終る時、
神に惠まれ力あるテーレマコスは陳じ曰ふ、

『客よ雄々しき胸中の心、此者負かすべく、
君を促すことあらば、アカイア人の誰しもを
敢へて恐るゝこと勿れ、君を打つもの敵多し、
我こそ君の主人なれ、見よ聰明の友二人、
アンチノオスはこを贊す、ユウリマコスはこを贊す。』

しか陳ずれば一同は之を贊しぬ、オヂュシュウス
腰のめぐりに破衣帶(やぶれぎぬ)とし、美なる逞しき
股現はせば、廣き肩、又おほいなる兩の腕、
また其胸は露出しぬ、しかして更にアテーネー、
近くに立ちて、衆民の牧者の四肢を偉ならしむ。
かくと眺むる求婚の群はいたくも驚きつ、
おのおの側に立つ者に向ひ互に陳じ曰ふ、

『自ら招く災難に間なくイーロス面すべし。
かほどの股を老人は襤褸の外に現はせり。』

かくは陳じぬ、こなたにはイーロス胸をわななかす、
されど僕らは無理強ひに恐怖の彼に帶せしめ、
引き出し來れば彼の肉、四肢のめぐりに打震ふ。
アンチノオスは之を見て叱りて彼に向ひ曰ふ、

『汝無慘の大言者、身に降り積る災難に
弱り果てたる老人の前に(おのの)き、かくばかり
恐るるならば、(なが)らふる效なし、生れ來ぬは善し。
我は汝に宣すべし、わが言ふ所きと成らむ。
いたく汝を打ち負かし、彼れ優勝の者たらば、
我は汝を黒船の中に投げ込み、遙かなる
本土に、王者[18-85]エケトスの許に送らむ。殘虐の
彼は汝の[18-86]鼻と耳、無慘の()もて打ち落し、
汝の陰部切り取りて、狗に與へて噛ましめん。』

[18-85]惡虐の君主としてエペーロスのほとりに著名なりしといふ。
[18-86]この刑罰は二十二歌四七五以下メランチオスに加へらる。

しか陳ずれば、いや増しの戰慄彼の四肢襲ふ、
衆は即ち圈内に彼を引き行く。兩人は、
拳を擧げぬ。オヂュシュウス耐忍強き雄豪は
思ひ煩らふ、魂魄の離るる迄に打つべきか?
(ある)は打撃を輕くして地上に倒れ伏させんか?
思案凝して末遂に定めぬ、打撃輕くせむ、
しかせばアカイア群集の誰しも彼に氣付くまじ。
兩者はやがて拳揚げ、イーロス敵の右の肩
打てば、こなたは耳の下覘ひて敵の頸を打ち、
骨を碎かば紅血をすぐに口より吐き出し、
呻きてどうと塵埃の中に斃れて齒をきしり、
大地を蹴りぬ、斯くと見て求婚者らは手を揚げて、
死なんばかりに聲揚げて笑へり。こなたオヂュシュウス、
脚を攫みて戸口より引きずり出し、中庭に
行き、柱廊の門に着き、離して敵を中庭の
壁に凭らせ、イーロスの手中に杖を握らしめ、
聲振り揚げて翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

『家豬と狗とを威すべく、こゝに汝は座を占めy、
無慙の身をも顧みず、乞食(こつじき)及び外客の
主となる勿れ、しかなさば更に大難來るべし。』

しかく陳じて兩肩の上に、醜く破れたる
佩嚢及び吊り繩を投げかけ、行きて速かに
先の敷居に立歸り、再びそこに腰おろす。

その時衆は樂しげに笑ひて入りて彼に曰ふ、
『ヂュウス並に不滅ある他の神明のもろ〜は、
客よ、汝に最上の願、心の望むもの、
與へん、汝國中に彼の乞食(こじき)を止めたり。
飽くことを知らぬ痴者(しれもの)を、我ら本土に -- 一切の
人を傷むる殘虐の王エケトス -- に送るべし。』

しか陳ずればオヂュシュウス、言の前兆喜びぬ。
脂肪と血とを充したるかの大いなる胃袋を、
アンチノオスは彼に据ゑ、アムピノモスは籠よりし、
二塊のパンを取り上げて同じく彼のそばに置き、
また黄金の盃を擧げて祝して陳じ曰ふ、
『客よ、老爺よ、めでたかれ、後にはやがて幸運は
君に來らむ、數々の禍難に今は惱めども。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『アムピノモスよ、謹愼の人とし君は我に見ゆ、
君の父またしかありき、其高名を我聞きぬ、
ドーリキオンのニイソスは武勇すぐれて富みたりと、
其父の子と呼ばれたる君慇懃の人と見ゆ。
さらば一言陳ずべし、心をこめて我に聞け、
大地の上に呼吸して動くすべての者の中、
人間よりも脆きもの大地はぐくむ事あらず、
諸神の手より幸をうけ四肢輕やかに動く間は、
行末かけて災難を絶えて受けじと人は曰ふ、
さはれ不滅の神明の手より禍來る時、
たゞ忍耐の思もて心ならずも之を受く。
地上に住める人間の心は常に推し移る、
人間及び神明の父持ち來す日の如し。
我も昔は人の世に幸を受くべき者なりき、
さはれ客氣に腕力に任せて父の威光借り、
又兄弟を頼みとし、不法のわざは多かりき。
人たるものは苟しくも不法の行爲(わざ)をなす勿れ、
ただ默然と神明の賜ふところを享受せよ。
我は今見る求婚の群が不法をたくらみて、
人の資産を浪費しつ、無禮を妻に加ふるを、
我敢へて曰ふ、かの人は、親しき友と故郷とを、
永く離るゝことあらず、彼は甚だ程近し。
さはれ君をば神明よ、家に導け、オヂュシュウス
祖先の郷に歸る時、彼の眼の前立つ勿れ、
その()に彼の到る時、流血なくて求婚の
群と彼との別るゝは、よもあるまじと我思ふ。』

しかく陳じて奠酒して、甘美の酒を飮みほしつ、
人を率ゐる彼の手に金の酒盃を置き返す。
彼は悲哀を抱きつつ、頭を埀れて悄然と、
禍難を胸に感じつつ、廣廳すぎて引き返す。
されど運命遁れ得ず、テーレマコスの手と槍に、
最期遂ぐべくアテーネー、かの一身を(いま)しめぬ。
斯くして彼は立返り、先に雜りし倚子に坐す。
その時藍光の目の神女、イーカリオスの息女たる
ペーネロペーア聰明の(きさき)の胸に念を納る。
かの求婚の群の前、現れいでて、其心緒
亂して、斯くて先よりも更に一層主公より、
又子息より尊敬を儲くべしとの念を納る。
王妃即ち意味も無く笑みて老女に陳じ曰ふ、

『ユーリノメーよ、我が心今にはじめて、求婚の
群に姿を現はすを望む、彼等は憎けれど。
更にわが子の爲となる言句を彼に陳ずべし、
かの驕慢の求婚の群に混ずつ勿れとぞ、
彼等甘言述ぶれども蔭に惡事をたくらめり。』

その時家政司どるユーリノメーは答へ曰ふ、
『これらすべてを宜しきに叶ひて君はのたまへり、
いざ今行きて、述べたまへ、いみじき御子(みこ)に包まずに。
さはれ眞先に身を洗ひ、御顏に香油塗りたまへ、
涙にぬるゝ頬をもて、出で行きたまふこと勿れ。
止むことなしに、とこしへに嘆き沈むはよかるまじ。
不滅の神に君祈り、御子の成長望めりし
願は成りて、彼は今顎に髯こそ()へいづれ。』

ペーネロペーア聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『身を洗ふべく、わが面に香油塗るべく慇懃に
ユウリュノメーよ、やさしくも我に勸むること勿れ。
空洞(うつろ)の船に身を乘せて良人去りし其日より、
ウーリュンポスを司どる神はわが美を亡ぼせり。
アウトノエーと其友のヒポダメーアの兩人に、
來りて我の傍に廣間に立てと命じ曰へ、
男子の中に身ひとりに行くは仲々面はゆし。』

しか陳ずれば室を過ぎ、老女は行きて兩人の
女性に使命もたらして命じてこゝに來らしむ。

藍光の目のアテーネー、更に一事をまた念じ、
イーカリオスのうめる子に甘美の睡打ちそゝぐ、
かくて王妃は椅子に凭り睡り、關節みな弛む、
睡れる彼にすぐれたる神女、アカイア衆人を
驚かすべく天上の不滅の惠授けつつ、
まさきに美なる面貌をアムブロシヤもて化粧しぬ、
そは寶冠の美しき神女[18-194a]キュテレ⌒ア、[18-194b]カーリスの
華美の舞踊の(には)さして行く時、膚に附くるもの。
王妃を更に丈高くまた逞しく見えしめつ、
新に截りし象牙にも優りて白く粧ひつ、
かく成し終へてアテーネーいみじき神女立ち去りぬ。
その時室を出で來たる玉腕白き侍女二人、
さざめき乍ら近寄りぬ。王妃はやがて眠より
覺めて、玉手に美しき頬をなでつつ陳じ曰ふ、

[18-194a]即アプロヂーテー。
[18-194b]其侍女(英語グレース)。

『甘き眠は深重に惱める我を補へしな!
同じく甘き死の眠、かの清淨のアルミテス[注:アルテミスの誤りか?]、
[18-203]賜はば我によかりしを。さらば心に悲しみて、
あらゆる徳を具へたるわが良人を嘆きつつ、
命弱らすこと無けむ、あゝ良人はすぐれけり。』

[18-203]二十歌六一にも同じく。

しかく陳じて燿ける樓上よりし降り來ぬ。
身一人ならず、侍女二人王妃もろとも降り來ぬ。
女性の中にすぐれたる王妃はかくて、求婚の
群に近づき、堅牢の(たて)の柱に添ひて立つ、
燿く面被(かづき)艷麗の(おもて)の前にかざしつつ。
二人の侍女は心こめ右と左に添ひて立つ。
之を眺めて一同の膝はわななき、愛慾に
心奪はれ、麗人の(かたへ)に臥すを乞ひ祈る。
テーレマコスに打向ひ、王妃その時陳じ曰ふ、

『テーレマコスよ、汝今心と思念堅からず、
若かりし日は今よりも汝かしこく振舞ひき。
今や長じて青春の域に到りつ、外邦の
人も汝の身の(たけ)を、又秀麗の面影を
眺め、富貴の家の子と稱へん時にいかにぞや!
テーレマコスよ、汝今心と思念堅からず。
何ら無慘の行は此らの室に起りしぞ!
かの客人のかく迄の虐待汝見過すや!
我等の保護を頼みつつ、わが屋の中に坐せる客、
かかる無慙の虐待を受けて惱まば何とする?
さらば汝は人中に恥を侮蔑を蒙らむ。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『あはれ母上、その怒我は恨に思ふまじ。
しかはあれども我心無知には非ず、善惡の
すべてを我は(わきま)へり(先は幼穉の身なりしが。)
されど賢く一切を我はたくらむ事を得ず、
あなたこなたに我のみの周りに立ちて一同は、
非道を胸にたくらめり、しかして我は救助無し。
イーロス客と鬪ひて、其結末は求婚の
群の望める如からず、客の力は優りたり。
天父ヂュウスとアテーネー又アポローン惠めかし、
願はく彼ら求婚者、わが館中に打敗れ、
或は外の中庭に、或はここに廳中に、
皆悉く頭埀れ、かのイーロスの如くして、
四肢悉く弛まんを、見よ彼れ庭の門の前、
坐して(かうべ)をうなだれて醉ひたる者にさも似たり。
彼は脚にて立つを得ず、膝は(ゆる)めば、思ふ儘
その屋に歸ることを得ず、望む所に行くを得ず。』

斯くも二人はかゝる事互に語り陳じ合ふ。
ユーリマコスは其後にペーネロペ⌒アに向ひ曰ふ、
『イーカリオスの息女たるペーネロペーア、聰き君、
君をすべてのアカイオイ、[18-246]イーアソス領アルゴスに
見なば、明日より求婚の群は一層増して、
君の館にて宴張らむ、姿も丈も整齊の
心も、すべて一切の女性を君は凌ぐなり。』

[18-246]むかしアルゴスに君臨の王、十一歌二八三は彼なるべし。

その時彼に聰明のペーネロペーア答へ曰ふ、
『ユーリマコスよ、わが持てる姿と身との秀麗を、
不滅の神は亡ぼしぬ、イリオンさしてアカイオイ、
船出し、共にオヂュシュウスわが良人の去れる時。
彼もし此所に歸り來てわが生涯を看守らば、
わが名聲は先よりも更にいみじく大ならむ。
さもあれ今は我悲し、ある神我に禍す。
思へばむかし我夫、祖先の國を出でし時、
わが右の手の先取りて、我に、向ひて曰ひたりき、
『妻よ、トロイア敵地より、脛甲堅きアカイオイ、
皆一齊に無事にして歸る可しとは思はれず。
人は曰ふなり、トロイアの民は勇武の軍人(いくさびと)
彼らは槍をよく飛ばし、彼らは強く弓を張り、
又駿足の馬を御し、かくして彼ら速かに
激しき凄き戰の勝負の運をさだむとぞ。
知らず、神明かしこより我を返すや、さはなくて
囚はれ我は留るや、其故留守を心せよ。
我の遠きにあらん時、父と母とを慇懃に
いたはれ、ありし日の如く、否猶一層に。
顎髯生えて青春の齡とわが子成るを見ば、
その時汝家を去り、望める者と婚すべし。』
良人かくは述べたりき、其事すべて今成らむ。
忌むべき婚儀、薄命のわが身の上に來る時、
そは暗黒の夜なるべし、ヂュウスはわれの幸奪ふ。
はげしき悲痛今我の胸を襲へり、何事ぞ、
彼らは我に求婚の正しき型を行はず。
()も富む者の息女たるいみじき者に、慇懃に
婚を求めて、しかも他の同志の群と競ふ者、
此等の人は肥えし牛、肥えし羊を曵き來り、
こを花嫁の宴の爲め供へ豐かの嫁資贈る、
彼は他人の飮食を償無しに貪らず。』

しか陳ずれば喜べり、耐忍強きオヂュシュウス、
心に一事もくろみて、一同よりし贈物
王妃求めて、其美なる言句に彼等欺けば。

ユウペーテスの生める息アンチノオスは答へ曰ふ、
『イーカリオスの息女たるペーネロペーア、聰き君、
アカイア中に誰なりと、ここに贈遺を齎さば、
君は受くべし、其贈遺拒むは絶えて善かるまじ。
アカイア中のすぐれ人、君と婚せん其前は、
我等一同わが業に進まじ、他にも赴かじ。』

アンチノオスは斯く陳じ、善く一同の意に叶ふ。
かくて各人使者をやり家より寶齎らしむ。
アンチノオスに華麗なる刺繍の衣もたらさる、
おほいなるもの、黄金の締金(しめがね)十二之に附き、
いみじき形に曲げられし釦金(とめがね)こゝに備へらる。
ユウリマコスに速かに、日輪のごと燿ける --
琥珀の玉を連ねたる黄金製の頸飾。
ユウリダマスに一雙の耳環(みゝのわ)、三の珠をもて
飾りたるもの、齎らさる、優美の光かゞやけり。
ポリュクトールの生める息、ペーサンドロス、其屋より
其從僕は裝飾の美なる首環(くびわ)を齎らせり。
斯くアカイアの諸人(もろびと)は華麗の品を齎らせり。
ペーネロペーア其時に樓上さして登り行く。
侍女らは之に伴ひて華麗の品を搬び行く。
しかしてこなた一同は、舞踊と歌のいみじきに、
心を向けて樂みて殘りぬ、(ゆふべ)到るまで。
暗照すべく一同は、三つの火鉢を廳中に
設けて、中に乾ける木、長くさらされ善く乾き、
新に斧に割られたる薪を積みつ、更に又
火把(たいまつ)これに打ち雜ふ、オヂュシュウスに仕へたる
侍女らは之を順々に燃やす、 -- 彼らにオヂュシュウス、
智謀に富める英雄は -- ヂュウスの裔は陳じ曰ふ、

『久しく家を離れたる君オヂュシュウス、その侍女ら、
汝ら立ちて内に入り、行きて王妃の傍に、
絲を紡ぎつ羊毛を梳きつゝ、そこに留りて、
淋しかるべき貞淑の王妃の心慰めよ。
その間に我は衆人のために燈火を心せむ、
美なる玉座の(あけ)の神出づるを彼ら待たんとも、
我を弱らすことあらじ、我は誠に耐へ忍ぶ。』

しか陳ずるを聞く侍女ら顏見合して打笑ふ。
頬美はしきメラントー無禮に彼を辱しむ、
もとドリオスの子なりしも、ペーネロペーア(はぐ)くみて、
息女の如くいつくしみ、望める玩具與へてき。
ペーネロペーアの悲みをさはれ彼女は氣にとめず、
ユウリマコスに慇懃を通じて彼に添寢しぬ。
その時彼女罵詈の言、オヂュシュウスに述べていふ、

『みじめの客よ、無慙にも汝の心亂れたり、
汝は鍛冶場あるは他の衆の集る(には)に行き、
そこに眠るを敢へてせず、こゝに喋々ものを曰ひ、
貴人のあひに(きも)太く述べて憚るところなし。
斯る無用の言吐くは醉ひて心の狂へばか?
或は醉に非ずして心は常に亂るるや?
乞食イーロス負かしたる故に汝は高ぶるや?
汝宜しく警めよ、イーロスよりも優るもの、
すぐに現はれ、剛強の手もて汝の頭打ち、
血にまみれたる汝の身館より外に逐ふべきを。』

智謀に富めるオヂュシュウス睨みて彼に答へ曰ふ、
『無耻の汝のいふ所、我はかなたに速に
テーレマコスの行き告げむ、汝の四肢は碎かれむ。』

しかく陳じて女性らを叱りて脅すオヂュシュウス、
其曰ふところ實なるを知りて恐れて女性らは、
各々膝をわななかし廣間を過ぎて退きぬ。
殘れる彼は燈明を燃やし、火鉢の傍に
立ちて一同を見渡しつ、默然として胸の中、
思ひたくらむ其事はやがて成るべきものなりき。
しかはあれどもオヂュシュウス胸に一層猶強く、
悲憤の思入るがため、求婚の群無禮なる
言控ゆるを、仲々に許さざりけりアテーネー。
ユウリマコスはポリュボスの生みたる子息、彼は今
オヂュシュウスを恥かしめ、衆に哄笑起さしむ、

『我に聽けかし、すぐれたる王妃に婚を願ふ友、
胸の中なる我が心命ずる所述べん。
オヂュシュウスの此(たち)に、かの者來しは神の意思、
禿げたる彼の頭より、見よ光明の燿くを、
毛髮かれの頭上に痕跡さへも留め得ず。』

しかく陳じて彼は又オヂュシュウスに向ひ曰ふ、
『離れて遠き農園に、客よ、汝を連れ行かば、
好みて汝働くや?(豐かに賃は拂はれむ)
壁の材料集むるや、大なる樹木植うべきや?
然らばそこに一年を通し麺麭與ふべし、
身には衣服を纒はせむ、足には沓を備ふべし。
しかはあれども惡習に染みたる汝、正業に
就くを好まず、衆人を廻りて之に食を乞ひ、
常に飽かざる口腹を滿たさんことを願ふらむ。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『ユウリマコスよ、願はくは長き春日の節にして、
草刈る業に兩人の(あひ)に競走起れかし、
我は程よく曲りたる鋭き鎌を手に取らむ、
君も同じくかゝる物取れかし、斯くて草刈りを
夕暗襲ひ來る迄飮食絶ちて試みむ。
又願くは良き牛の二頭あれかし、大にして
其色赭く年齡と力彼れ此れ異ならず、
善く草喰みて肥えしもの、力飽く迄強きもの、
又四ギュオンの畑ありて、土壤は鋤にくづをれよ、
その時われの畦道(あぜみち)を絶えず切り割く姿見む。
若しクロニオーンいづこにか、今日の戰鬪の激しきを
起さば、楯と槍二條、又頭上にかぶるべき
純青銅の善き兜、われは持たまし、然る時、
我に勇つみて先鋒の中に加はる影を見む。
然らば我の口腹の慾を罵ること無けむ。
君は甚だ傲慢に心甚だ(むごたら)し。
ただ少數の勝れざる友の間にまじるため、
君は己を力ある大なる者と眺め見る。
さもあれ若しもオヂュシュウス、祖先の郷に歸り()ば、
今は頗る廣き門、忽ち狹くなりぬべし、
門口過ぎて忽惶と戸口に逃ぐる君の身に。』

しか陳ずれば勃然とユウリマコスは憤り、
すごく睨みて翼ある飛揚の言句彼に曰ふ、
『あゝ無禮者、速かに汝に害を加ふべし、
貴人のあひに喋々と汝は述べて憚らず、
かかる無用の言吐くは醉ひて心の狂へばか?
或は醉に非ずして心は常に亂るゝや?
乞食イーロス負かしたる故に汝は高ぶるや?』

しかく叫びて足臺を攫むを見たるオヂュシュウス、
ドウリキオンに生れたるアムピノモスの膝近く、
身を潛ませば、足臺は酌取る者の右の手を
打ちぬ、瓶子は戞然と地上に落ちて響立て、
打たれし者は呻きつつ、仰向けざまに塵に伏す。
求婚者らは薄暗き廣間の中に騷ぎ立ち、
中の一人傍に立ちたるものに向ひ曰ふ、

『ここイタケーに來る前、かの流浪者は他の郷に
行かば善かりき、しかならば斯る騷擾起るばじ。
乞食の爲めに我々は爭ひ騷ぐ、饗宴の
(たのしみ)もはやなかるべし、賤しき事は打勝てり。』

その時強く正しかるテーレマコスは衆に曰ふ、
『無慙の伴ら狂ひしな、飮食其度過せしを
隱すべからず、或神はしかく汝等動かしぬ。
宴は終れり、いざ家に歸り、心の命の儘、
靜に寢ねよ、何人も我はこゝより追ひ出さず。』

しか陳ずれば一同は共に唇噛み乍ら、
かく大膽に述べたてしテーレマコスに驚けり。
アムピノモスは其時に衆に向ひて陳じ曰ふ、
(アレートスの子ニーソスのすぐれし息と彼れ生る)
 
『友よ正しく言説を彼は述べたり、何人も
怒りて彼の驕傲の言句酬ゆること勿れ。
また訪ひ來る客人を、またオヂュシュウス、英雄の、
館に宿れる一切の僕を虐待する勿れ。
いざ各々の盃に酌取る者よ酒そゝげ、
奠酒を了えへて各々が家に歸りて(いね)ん爲め。
かの客人はこの館に、テーレマコスの歡待に
任せて我等辭し去らむ。此館さして彼は來ぬ。』

しかく陳ずる其言句、衆一同を喜ばす。
ドーリキオンに生れたる傳令の人、ムーリオス、
アムピノモスの從者、今壺中の酒に水をまぜ、
かはるがはるに各人の前に立ちつつ、酌み分けつ、
衆は諸神に、奠酒しつ、やがて甘美の酒を酌む。
斯く奠酒して願ふ儘、甘美の酒を酌める後、
衆は各々その家に眠り臥すべく歸り行く。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第十九歌


第十九歌

オヂュシュウス計りて武噐を庫中に收む(一 - 五三)。 ペーネロペーア現はれ出づ、侍女メランドー惡言を吐き、オヂュシュウスを罵りてペーネロペーアに叱らる(五三 - 九九)。 素生を問はれてオヂュシュウス巧に造話し、我はクレーテー人にして嘗てオヂュシュウスを歡待したりと曰ふ(一〇〇 - 二〇二)。 ペーネロペーア之を聞き、良人を思慕して泣く、オヂュシュウス之を慰め、遠からず良人の歸るべきを告ぐ(二〇三 - 三〇七)。 王妃心より客を歡待し、老媼に命じ、客の脚を洗はしむ(三〇八 - 三八五)。 老媼客の脚の疵痕を見て主公たるを悟る(三八六 - 五〇四)。 王妃は弓の競技を行ふべしと告ぐ、客之を贊す(五五九 - 六〇四)。

あとに英武のオヂュシュウス廣間に殘り、求婚の
群の殺害、アテーネー神女と共にたくらみつ、
テーレマコスに打向ひ、(はね)ある言句陳じ曰ふ、

『テーレマコスよ、一切の武噐悉く取り收め、
入れよ、しかして求婚の群そを求め問はんとき、
汝柔和の言句もて、欺きすかし述べて曰へ、
「煙を避けて收めたり、イリオンさしてオヂュシュウス、
立ちし其日に殘したる武具は面影今留めず、
火焔の呼吸(いぶき)襲ひ來て皆悉く(くすぼ)りぬ。
更に大事を神明はわが胸中に注ぎたり、
恐るるところ、酒の醉ひ、喧嘩起して汝らは、
互ひに害し傷ひて、求婚及び宴會を
汚しもやせむ、(おのづか)ら鐡こそ人を引き付くれ。』

しか陳ずれば、其父にテーレマコスは從ひて、
ユウリュクレーア、彼の姥、呼び出し之に向ひ曰ふ、
『姥よわが爲め女性らを、其部屋部屋に閉ぢこめよ、
われ其間、わが父の武具を庫中に藏むべし、
父あらざればなか〜に省みられず廳中に
煙によりて(くすぼ)りぬ、憐れや我は若かりき。
火焔のいぶき來ぬ(には)に、我今之を藏むべし。』

ユーリュクレーア、愛深き姥は答へて彼に曰ふ、
『あはれ、若君今にして此家を思ひ此産を、
守らんために分別を起し給ふぞ君に善き。
さはれ燈明かざしつつ前に女性の行くことを。
君は許さず、何人か代りて君に伴はむ?』

彼に答へて聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ、
『そは此客ぞ。いやしくもわれより食を得るとせば、
よし遠きより來るとも彼の座食は許されず。』

しかく陳ずる其言句、空しく風に飛ばざりき。
命に從ひ堅造の門を彼女は皆閉ざす。
かくて二人は立ち上り、オヂュシュウスと譽ある
テーレマコスは、浮彫の楯を兜を鋭刄の
槍を運べば、其前に神女パルラス・アテーネー、
黄金の燭携へて華麗の光照りかざす。
かくと眺めて其父の、テーレマコスは陳じ曰ふ、
『ああ今我目見るところ、父よ、何らの驚異ぞや!
館の壁、又[19-37]華麗なる柱のほとり、樅の樹の
(むね)、また高き圓柱のすべて、我目の見るところ、
恰も燃ゆる火の如く燦爛をして燿けり。
(まさ)しく天の神明のある者こゝの内にあり。』

[19-37]これらの構造明かならず、古き註釋者は壁に添ふ柱と柱との間の飾りなるべしと曰ふ。

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『默せよ、心抑へとめ、無用の問をなす勿れ、
ウーリュンポスを司どる其神明の道ぞこれ。
さはれ汝は今休め、我のみこゝに留りて、
汝の母と女性らの心を猶も動かさむ、
母は泣きつつ一々の仔細を我にたづぬべし。』

テーレマコスは其言を聽きて廳中通り過ぎ、
炎々燃ゆる松明の下に室へと進み行く、
甘き眠りの襲ふ時眠り馴れたる其室に。
しかして行きて床に就き、あすの曙光を待ちわびぬ。
あとに英武のオヂュシュウス廣間に殘り、求婚の
群の殺害、アテーネー神女と共にたくらみぬ。
ペーネロペーア聰明の王妃樓より今降る、
姿は似たりアルテミス、アプロヂーテー亦斯くや?
衆女即ち爐に近く、王妃の使ひ馴れそ椅子
据ゑに、象牙と白銀を飾りたるもの、工人の
イクマリオスが其昔足おく臺を一部とし、
作りたるもの、其上に羊の毛皮敷かれあり。
ペーネロペーア、聰明の王妃はそこに今坐しぬ、
玉腕白き諸の侍女ら室より出で來り、
廣間に殘る麺麭を、卓子を更に驕傲の
人々酌みし盃を、皆悉く掃ひ除け、
火爐の殘燼投げ棄てて、更に新たに
其中に薪材高く積み上げて火光火熱を發せしむ。
その時侍女のメラントウ、オヂュシュウスを[19-65]又咎む、

[19-65]十八歌三二一にメラントウの罵詈あり。

『客よ今猶、館の中めぐりてこゝによもすがら、
人をなやまし、女性等に對し看守を爲さんとや?
無慙の者よ、館を出で、外に汝の食を取れ、
さらずば汝松明を投げつけられて逃るべし』

智謀に富めるオヂュシュウス凄く睨みて彼に曰ふ、
『無禮の女、何故に怒りて我に迫り來る?
そは穢れし身襤褸(らんる)着け、普ねく人を經廻りて
食を求むる爲なるか?我れ止むを得ず、斯くは爲す。
流浪し食を乞ふ者はかくあることを習とす。
我も昔は人中にありて富裕の家に住み、
我に來れる流浪者は何者にまれ、其願
何事にまれ、彼に善く屡々我は施しき。
無數の家僕我れ持ちき、是あるために暮し善く、
富者と呼ばはる一切の資材ひとしく我れ持ちき。
されどもこれをクロニオーン、其意に因りて亡せり。
女よ汝警めよ、衆女の中にすぐれたる
美貌もいつか悉く亡びん時のあるべきぞ。
汝のあるじ勃然と汝に對し(いきどほ)
時あるべきぞ、オヂュシュウス歸らん時のあるべきぞ。
希望は盡きず、しかも彼死して故郷に歸らずも、
[19-86]アポルローンの惠より、テーレマコスを彼れ生めり。
その屋の中に(よこしま)行爲(わざ)なす女性ひとりだも、
彼を遁るる事を得ず、彼は幼稚の身に非ず。』

[19-86]十四歌一七五諸神は人を育つ。

しか陳ずれば聰明のペーネロペーア之を聞き、
侍女メラントウ咎めつつ、怒りて之に叫び曰ふ、

『耻無き牝狗膽太し、汝非道を行ふを
我豈知らず過さんや?償ふべきぞ(かうべ)もて。
わが口よりし聞ける故、汝まさしく知りぬべし、
わが良人の消息をわが館中にかの客に
問はんとするを。わが心かくも激しく惱むなり。』

ユーリノメーを -- 家婦を -- 呼び王妃は次に陳じ曰ふ、
『倚子と羊の毛皮とをユウリノメーよ、持ち來れ、
かの客そこに座を占めて我に親しく語るべく、
また我が言を聞きぬべし、我今彼の問はんとす。』

しか陳ずれば速かに、磨ける椅子を齎らして、
家婦は据ゑつつ其の上に羊の毛皮打ち掩ふ。
智謀に富めるオヂュシュウス、やがてしづかに座につけば、
彼に向ひて聰明のペーネロペーア口を切る、

『客よ眞先に口切りて我今君に問はんとす。
君は何者?いづこより?いづこに郷に親とある?』

思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じいふ。
『あはれ王妃よ、廣大の地の上住める何人も
君を咎むることあらず、譽れは天に轟けり。
多數の強き人を御し、正義を支へ守るもの、
正しき王者、神明を畏るる者の譽れ亦、
かくこそあらめ彼のため黒き大地は豐饒に、
大麥小麥産みいだし、樹木は果物實らしめ、
羊は絶えず子を孕み、海は魚類をもち來す、
皆善政の故にこそ、其もと民は皆榮ゆ。
さればこの屋の中にして我には別の事を問へ、
われの種族を問ふ勿れ、われの故郷を問ふ勿れ、
思ひ出せばわが心、更に一層憂愁に
滿たさるべきを、悲しみの多き此身ぞ、更に又
他人の家に身を置きて、泣き悲しむは善しとせず、
果なく絶えず悲しむは正しき事と思はれず、
恐らく僕のある者は、或は王妃自らも、
我を咎めて酒のため亂れて泣くと思ふべし。』

ペーネロペーア聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『見ずや、客人わが持てる姿と身との秀麗を
不滅の神は亡ぼしぬ、イリオンさしsてアカイオイ、
船出し、共にオヂュシュウスわが良人の去れる時。
彼もしこゝに歸り來てわが生涯を見守らば、
わが名聲は先よりも更にいみじく大ならむ。
さもあれ我は今悲し、ある神われに禍す。
ドーリキオンと、森繁るザキントス、又サメーらの
諸島領する貴人らと、又明朗のイタケーの
あなたこなたに住める者、彼らは共に一齊に
厭へる我に婚求め、わが屋の産を盡すなり。
そのため我は外邦の客を、物乞ふ人々を、
又公けに奉仕する[19-135]使の者を省みず。
只オヂュシュウス戀ひわびてそゞろ心を傷めしむ。
彼らは婚を押し迫る、我は計略たくらみぬ。
神は眞先にわが胸に機織ることを吹き込みぬ、
かくして我は館中に、大機据ゑて織りそめぬ、
其絲細く幅廣し。われは直ちに衆に曰ふ。

[19-135]會を招集し、又、祭を司るもの。

『ああわが若き求婚者、オヂュシュウスははや逝けり、
迫りて婚を求むとも、しばらく忍べ、此衣
織り成す迄は -- 此絲は我に空しく亡びざれ --
ラーエルテース老雄の葬衣これなり、廣く手を
延ばす死靈の使來て彼を斃さん時のそれ。
多くの資材あり乍ら、葬衣無くして逝くとせば、
アカイア女子のあるものは必ず我を咎むべし。』

しか陳ずれば驕傲の彼らの心うべなへり。
かくして我は晝の中、かの大機を織りなして、
夜に到れば側近き燈火の下に解き去りぬ。
三年かくてアカイアの彼らを遁れ欺きぬ。
やがて怱々時進み、日は又移り、滿ち缺くる
月まためぐり、いつしかと四囘の年の來る時、
われを裏切る憎むべき侍婢の手引に襲ひ來て、
彼らはわれの祕密知り、いたくも我を罵りぬ。
かくして我はやむを得ず、心に背き織り遂げぬ。
今はた我は成婚を遁るるを得ず、他の策を
又考ふることを得ず、婚を勸めて兩親は
しきりに迫る。しかうしてわが子は知りて、財寶を
亡ぼす者を憤る、わが子はすでに人となり、
ヂュウスに因りて譽れある家を治むる力足る。
さもあれ君の素生また其郷國を我に曰へ、
[19-163]樫より又は巖より生れし君によもあらじ。』

[19-163]人は木石より生るといふ神話が此間の本を爲すと古き註釋者が唱ふ。
されど必ずしも神話を引くに及ばず。當然の詩的文句なり。
但しヘーショットの「業と日」一四四に猛き戰死を堅き樹木より生ると書く。
アポロニウスのアルゴノーチカ四歌一六四一以下に同樣の事を歌ふ(ウイーダッシのオヂュシュウス譯の註)。

思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『ラーエルテース生める息、オヂュシュウスのおん(きさき)
尊き君は我が素性たづぬることをやめざるや?
さらば告ぐべし、之により、今あるよりも一層の
悲しみ我は催さむ。我の如くに永らくも
故郷を去りて、人間の多くの都市をさまよひつ、
苦惱を受くる人にとり、こは定まれる習のみ、
されども我は君が問ひ尋ぬる所陳ずべし。
黯紅色の海の中、國あり其名[19-172]、
地味豐かにて美はしく、四邊は水に圍まれて、
無數の民の住む處、中に九十の都市を含む。
言語はこゝに一ならず、互ひに混ず、アカイオイ
こゝに住むなり、剛勇の[19-176]クレーテス族、更に又
[19-177]キュドネー族、ドーリエス、ペラスゴイ族また住めり。
中の大都市クノーソス、王者ミノース統べ治む、
[19-179]九年の間おほいなるヂュウスと話し合ひし者、
彼は我が父剛勇のヂューカリオンの父なりき。
ヂューカリオン我を生み、イドメニュースを又生めり、
イドメニュウスは[19-182]船に乘り、アトレーデースもろともに、
イリオンさして出で立ちぬ、譽の我名アイトーン、
われは末の子、わが兄は優りて更に賢しかり。
オヂュシュウスをわが郷に迎へてわれは贈與しき、
蓋しトロイア目がけたる其船、颶風吹き去りて、
マレイア過ぎて漂はし、クレーテーへと導けば、
荒き湊の一地點アムニーソスに船入りて、
[19-189]エイレーチューア洞窟のほとりにあらし避け得たり。
愛と敬とを捧げたる親しき友と宣しつつ、
たゞちに彼は都市に來てイドメニュウスを尋ね問ふ。
されどもすでに曲頸の船に乘じて、イーリオン
めざして、兄の立ちてより十か十一、日は過ぎね。
われは代りてわが家に此珍客を導きて、
貯藏の品の數盡し、心をこめてもてなしつ、
更に伴ひ來りたる其一行の仲間には、
庶民の[19-197]貯藏もたらして麥粉を與へ、輝ける
葡萄の美酒と(いけにへ)の牛とを與へ、喜ばす。
これらすぐれしアカイオイこゝに留る十二日、
怒る或神起したる暴き北風吹きすさび、
彼らを船に閉ぢこめて岸に登るを得せしめず。
十三日目風やみて一同海に乘り出しぬ。』

[19-172]十四歌一九九以下と比すべし。
[19-176]原住民、他は移住民。
[19-177]三歌二九二。
[19-179]九歳の時にと解するものあり。
[19-182]イーリアス二歌六四五。
[19-189]イーリアスに數度説かるる助産の女神。
[19-197]十三歌十四。

造り話をかく陳じ事實の如く思はしむ。
聞ける王妃は澘然(さんぜん)と涕流して[19-204]くづほれぬ。
高嶺(たかね)の上にゼピュロスの息吹散らして(こほ)る雪、
春に至りてユウロスのいぶきに遂に溶け去れば、
爲めに河流は滔々と水かさ増して陸ひたす、
かくの如くに艷麗の頬を涙にうるほして、
其良人の目の前にあるを悟らず、慕ひ泣く
王妃眺めてオヂュシュウス、心に之を憐れみぬ。
さはれ其目は屹として、角また鐡の髣髴と、
目蓋の中にをののかず、勉めて涙おしかくす。
涙にくるる慟哭を王妃飽く迄盡す後、
更に再び口開き彼に向ひて陳じ曰ふ、

[19-204]原文「顏が溶く」。

『果して君の曰ふ如く、君は誠にかしこにて、
すぐれし從者もろともに、わが良人を館中に
もてんしたりや?我は今、尋問君に致すべし。
我に曰へかし、良人は如何なる衣服纒ひしや?
彼は如何なる人なりし?從者はまた如何なりし?』

思案に富めるオヂュシュウス、彼に答へて陳じ曰ふ、
『王妃よ、長き歳月を隔て、昔を説くことは
難し、かの人かしこより別を告げて旅立ちて、
我の故郷を去りしよりこのからこゝに二十年、
心に浮び出づる儘さはれ今我陳ずべし。
すぐれし勇者オヂュシュウス、身に纒ひしは紫の
毛皮の上衣二重にて、二つ溝ある黄金の
[19-227]ペロネーつけぬ、其上に巧みbの彫は施さる、
前の脚もて獵犬は斑の仔鹿とりおさへ、
(もが)ける牲に喰ひ付ける、そを黄金に彫みたる
巧に人は驚けり、生物二つ、其一は
仔鹿を捕へ首を絞め、他は逃れんと足踠(もが)く。
更に其身に燿ける下衣纒ふを我見たり、
乾ける葱の皮に似る光澤もてる其衣、
しかも極めて柔軟に、日輪に似て輝けり。
多くの女性彼を見て皆驚嘆の目を張りぬ。
更に一事を陳ずべし、君願はくは忘れざれ、
我は得知らず、オヂュシュウス、家にてかくも粧へりや?
速く波切る船のへに友人之を與へしや?
異郷の人は與へしや?多くの人にオヂュシュウス、
崇められけり、アカイヤの中に此儔は稀なれば。
我また彼に青銅の(つるぎ)、二重の紫の
華麗の上衣、縁とれる下衣揃へて進じつつ、
漕座宜しき船のへに禮を盡して送りたり。
彼は聊か年上の傳令一人倶なりき、
彼は如何なる者なりし、これを我いま陳ずべし。
兩肩圓し、色黒し、毛髮縮れたりし彼、
ユウリパテスの名を呼びぬ、すべての伴に立ち優り、
心協へばオヂュシュウス、特に彼をば愛でたりき。』

[19-227]襟留め胸飾。

しかく陳じて慟哭の思王妃に起さしむ。
オヂュシュウスが今告ぐるすべての記號認め得て、
涙にくるる慟哭を王妃飽く迄盡すのち、
彼に答へて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ。

『ああ客人よ、これ迄は君憐憫の的なりき、
今より後は館中に愛され且敬されむ。
君の語りし()の衣服、わが身自ら取り出でて、
疊みて彼に與へたり、更に飾となるために、
光燿く襟留を之に附けたり。しかはあれ、
めづる祖先の此郷に彼を迎ふることあらじ。
運命惡しくオヂュシュウス、うつろの船に身を乘せて、
名状難き災のイリオンさして旅立ちぬ。』

思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じいふ、
『ラーエルテース生める息オヂュシュウスのおん(きさき)
良人思ひ泣くあまり、美貌を汚すこと勿れ、
心を()ぶること勿れ、さもあれ我は咎むまじ。
婚を結びて契りこえん、愛兒を生める女性らが、
其良人を失ひて泣くは世の常、その夫
神に類すと曰はれたるオヂュシュウスの異なるも。
さはれ王妃よ、嘆やめ、我の言葉に耳を貸せ、
我は眞實打明けて隱すことなく君に曰ふ、
近頃我はオヂュシュウス恙なくして富裕なる
テロプロートイ民族の(あひ)にありきと聞き及ぶ、
しかして彼は諸の民の間に、數多き
美麗の寶集めたり。されども彼は其めづる
從者並に其舟を、トリナキエーの島去りて、
黯紅色の海の()に失ひ去れり。神聖の
牛を屠りてクロニオーン、またヘリオスを怒らせば、
從者らすべて一齊に怒濤の中に亡び去り、
怒濤はひとりオヂュシュウス、船の破片に乘らしめて、
血統神に近かしりパイエーケスの邦の岸、
着かしむ、そこに其民は神の如くにオヂュシュウス、
崇めて多く贈遺爲し、無難に彼を其國に
送らんとしき。其郷に殘るを望みしも、
多くの土地を經廻りて諸處に寶を集むるは、
更に一層宜しきに叶ふと遂に思案しぬ。
斯くの如くにオヂュシュウス、世の人間に立ち優り、
智謀頗る深ければ彼と競はむ者あらず。
テスプロートイ民族の王者、其名は[19-287]ペードーン、
しかく陳じぬ、其王者その宮中に奠酒して、
我に盟へり、オヂュシュウスめづる故郷に送るため、
舟を浮べて從者らの準備全く整ふと。
然るに彼に先だちて我を送りぬ、麥多き
ドーリキオンに國人の船行くこをとなりたれば。
其時彼はオヂュシュウス集めし寶われに見す、
王の宮中集りし寶は無數、ある人の
子々孫々の十代を支へ養ふことを得む。
王また曰へりオヂュシュウス、長らく離れ遠ざかる
祖先の國に公然と行くべき?あるひはひそやかに
歸り行くべき?クロニオーン・ヂュウスの告ぐる神託を
[19-299]樫の巨樹より、聞かんため、ドードーネーに赴けり。
斯くの如くに無事にして彼は頗る近き間に
歸り來らん、其友と祖先の郷に長らくは、
遠く離るること無けむ。君に誓言陳ずべし、
神明中にいや高きヂュウス眞先に證者たれ、
わが訪ひ來る英邁のオヂュシュウスの(かまど)、亦。
これら一切悉くわが曰ふ如く成りぬべし。
古き月去り新らしき月あらはれてオヂュシュウス
必ずこゝに歸るべし、或は[19-307]此の日此時に。』

[19-287]十四歌三二一。
[19-299]社前の老樹に神の囁きを聞く。
[19-307]『今年中に』と解するもあり。

ペーネロペーア聰明の王妃其時彼に曰ふ、
『ああ客人よ、願はくは成就せよかし其預言!
その時君は速かに多くの贈遺歡待を
我より受けて逢ふ者に(さち)ある人と曰はるべし。
さはれ胸中我思ふ、思ふが如く事成らむ、
オヂュシュウスは其家に、歸らじ、君は身の護送
得ること無けむ、此家にオヂュシュウスが其むかし、
敬せる客を迎へ入れ、或は之を送りたる
跡に傚ひて、しかすべき主人の無きを如何にせむ。
さはれ女中ら、珍客の脚を洗ひて彼のため
寢臺しつらひ、其上に上着と毛布用意せよ、
よく温たまり黄金の座の(あけ)の神、彼れまたん。
明日ともならば朝早く彼を浴させ脂塗れ、
かくして彼は我家にテーレマコスの側に坐し、
食事思はむ。求婚の群のあるもの、我客の
心惱ますことあらば禍ならむ、いかばかり
強く怒るも思ふ事、こゝには彼に成らざらむ。
あはれ客人、君をして穢れに膚に襤褸(らんる)着け、
この食卓に就かしめば、叡智に思慮に他の女子を、
われは凌ぐと、如何にして君は判ずることを得む。
此世に人の生命を享くる期間は長からず、
人もし心酷くして酷き行振舞はば、
其生ける間は衆人は彼の不幸を祈るべく、
其逝く後は衆人は彼に嘲弄加ふべし。
人もし心正しくて正しき所爲(わざ)を行はば、
其かんばしき名聲は、他人によりて遠近に
世上に廣く傳はりて、尊き人と呼ばるべし。』

思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じいふ、
『ラーエルテース生める息、オヂュシュウスのおん(きさき)
長き楫ある舟の乘り、かのクレーテー雪積る
山々あとに波わけし、其日このかた良き床と、
華美のしとねは、われに取り、寧ろ忌むべき物となる。
夜すがら眠ならずして汚れし床に横たはり、
黄金の座の曙の神、待ちしもこゝに幾宵か、
我は今宵も其の如く床に其身を横たへむ。
他人に足を洗はすを我の心は喜ばず、
此館中に侍女として君に仕ふる女性らの
中に誰しもわが膝に觸るるを我は喜ばず。
しかはあれども慇懃に誠をいたす或老女、
心に嘗つて我が如く苦難忍びしものあらば、
其者ことはわが膝に觸るるを我は拒むまじ。』

ペーネロペーア聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『いみじき客よ、遠くよりわが家訪ひて尋ね來し
客人中に、君に似て賢き者はあらざりき、
君は誠に賢明に正しき事を述ぶるかな。
我に一人の老女あり、彼は頗る誠なり、
わが良人の()れし時、之を其手に取り上げぬ、
(今は)不幸のかの人を育てしものは彼なりき、
老いては力無しといへ、君の御脚を洗ふべし。
ユウリュクレーア、老實の汝、今立ち珍客を --
汝の君と同齡の人を -- 洗へや、オヂュシュウス
其脚今は斯くならむ、其手同じく斯くならむ、
禍難によりて人間は早くぞ痛く老嗄(おいか)るる。』

死か陳ずれば老夫人手もて(おもて)を掩ひつつ、
熱き涙を澘然(さんぜん)と埀れて嘆きて呻きいふ、
『あはれ[19-363]若君、悲しくも君に致さむ術あらず、
神を畏るる君をしもヂュウスは特に憎めるよ。
人間中の何者も、君と等しく轟雷の
神に肥えたる股肉燒き、犧牲捧ぐるものあらず、
君は捧げて老齡の域に靜かに入ることを
祈り、はた又光榮の子を育つることを祈りしよ。
さるを今はたクロニオーン、君に歸國の日を奪ふ。
異郷の人の燿ける館に[19-370]若君到る時、
ああ客人よ、恥知らぬ女性ら君を嘲けりて
笑ふが如く、彼を亦かしこの女性笑ふべし、
彼らの無禮嘲弄の數々君は避くるため、
彼らに足を洗はせず。イーカリオスの息女たる
ペーネロペーアわが女主の命喜びて我は聽く。
ペーネロペーア女主のため、又君のため胸中に
種々の思ひにくれ乍ら、君の脚をぞ洗ふべき。
さはれ一言わが述ぶる所を君よ耳にせよ、
種々の客人漂浪のはてに此屋におとづれぬ、
しかはあれども是までに聲に姿に又足に、
オヂュシュウスに似たること君の如きはあらざりき。』

[19-363]二人稱にしてオヂュシュウスに呼びかけて曰ふ、
[19-370]以下「若君」を三人稱にいふ。

思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『さなり老婦よ、我々の二人を共に目にとめし
すべての人はしかく曰ふ、げにもいみじく相似ると、
(まさ)しく汝かしこくも今はた我に曰ふ如し。』

しか陳ずれば彼の脚洗はんために、燿ける
銅盤とりて、其中に老婦は水をなみ〜と
充たし、熱湯加へ入る、その間にこなたオヂュシュウス、
爐邊遠のき、速かに暗きに向ひ座を占めぬ、
彼は心中すばやくも思へり、老婦觸るる時、
脚の傷痕認めなば、すべては露顯なすべしと。
やがて老婦は近寄りて、主公と知らず彼の脚
洗ひ、忽ち傷痕を認めぬ、野豬の白き牙
傷つけしもの、その昔オウトリュコスと其子らを
パルネーソスに訪へる時。 -- オウトリュコスは[19-395]母の父、
神ヘルメス與へたる詐謀僞盟に長ぜし身、
仔山羊並に仔羊の股肉を燒きて其神に
奉るため喜びて、其神彼に伴へり。
オウトリュコスはイタケーの富裕の家を訪ひ來り、
かれの息女の今正に産み落したる子を眺む、
ユウリュクレーア取り上げて、食事の後に、其膝に
赤子を置きて、翼ある飛揚の言句彼に曰ふ、

[19-395]アンチクレーア(十一歌八五)。

『オウトリュコスよ、今君の息女うみたるはしき子に
其名親しく選べかし、祈によりて子は()れぬ。』

オウトリュコスは其時に答へて衆に陳じ曰ふ、
(じやう)聟御(むこご)よ、彼に今我の選べる名を附けよ、
物を育つる豐沃の大地の上の數々の
男女に對しいきどほり、我今此處に旅し來ぬ、
されば此子は[19-409]オヂュシュウス、怒りの人と呼ばるべし。
長ずる後に母方のパルネーソスのおほいなる
館に來らば、其處にある資財を分けて慇懃に
彼に贈らむ、喜びて彼は故郷に歸るべし。』

[19-409]動詞「オヂュッソマイ」は「怒る」なり。

かかりし故にオヂュシュウス、いみじき贈與受けに行く。
オウトリュコスと其子らは來れる客を喜びて、
其手をとりて慇懃の言句を述べて相迎ふ。
アムピテエーは彼の祖父、オヂュシュウスを抱きかかへ、
かれの頭と美はしき二つの(まみ)に口觸れぬ、
オウトリュコスは譽ある子らに命じて、饗應の
備なさいむ、其命に應じて子らは立ちあがる、
斯くてただちに一同は五歳の牡牛曵き來り、
屠りてこれの皮を剥ぎ、これをこしらへ、これを解き、
巧に之を切りきざみ、之を串もて貫きて、
心をこめて燒き(あぶ)り、そを一同に分け與ふ。
斯くて終日夕日の沈み入るまで、一同は
樂しく宴を續けつつ、心に飽かぬ者あらず。
かくて夕日は沈み去り、暗のよもよりよする時、
臥榻の上に横たはり、眠の神の惠受く。

薔薇色なす指持てる(あけ)の神女のいづる時、
オウトリュコスの子息らは、狗を率ゐて狩獵にと
出で立つ、是に剛勇のオヂュシュウスは伴へり。
パルネーソスの森深き嶮しき山を、一同は
攀ぢて登りて、速かに風吹く嶺にたどりつく。
[19-433]瀲灔として沆瀁のオーケアノスのあなたより、
今や旭日(あさひ)は爛として大地の上に光射る、
狩獵の群は林藪に進む、其前先んじて、
狗は匂ひ嗅ぎ乍ら驅くれば、是におくれじと、
オウトリュコスの子ら續く。是らと共にオヂュシュウス
影長く曵き槍とりて、すぐ獵犬のあとにつく。
そこにその時林藪の中に巨大の野豬臥しぬ、
その林藪は繁くして(しめ)れる風は吹き入らず、
燦爛として燿けり日の光さへ貫かず、
降りくる雨もしみ入らず、しかく繁きに更に又、
樹々より落ちてうづたかく木の葉はこゝに降り積る。
跫然として驅け來る人と狗との脚の音、
其脚音に襲はれて、巣より飛び出す暴き(しし)
頭の粗毛(あらげ)逆立てて、眼を爛々と燿かし、
まともに衆の前に立つ、その時猛きオヂュシュウス、
力を籠めて長槍を高く振りあげ、眞つ先に
撃たんと焦り進みよる、之に先んじ暴き(しし)
斜めに彼に飛びかゝり、猛き牙もて其膝を
噛みつつ肉を刳り去る、されども骨を貫かず、
その時猛きオヂュシュウス獸の右の肩覘ひ、
突けば燿く槍の先うらかく迄に刺し通す、
豬は呻きて地に倒れ魂魄體をぬけ出でぬ。
オウトリュコスの親愛の子らは屍體を始末して、
勇武恰も神に似るオヂュシュウスの負ひし疵、
心をこめて包み上げ、[19-457]呪文を()して黒き血を
停めつ、斯くて一同は父の館へと歸り行く。
オウトリュコスは其子らと力合はせて膝の疵、
全く癒やし、數々の華麗の贈遺(はなむけ)し、
勇み旅立つ客人を好意盡して慇懃に
イタケーさして相送る。父と母とは喜びて、
歸郷の愛兒相迎へ、事の委細を、其受けし
疵の仔細を尋ね問ふ、オウトリュコスの子らと共、
パルネーソスに赴きて、狩せる時に暴き豬、
白き牙もて噛みつきし仔細を愛兒ものがたる。
今脚とりて拭ふ時、ユウリクレイア其疵を
認め、悟りて愕然と、思はず脚を手離せば、
脚は卒然盤中に落ちて銅噐は鳴りひびく、
盤はただちに一方に傾き水は(くつが)へる。
同じ刹那に喜びと悲しみ寄せて老婦人、
涙は雙の目に溢れ、曰はんとすれど聲咽ぶ。
即ち[19-473]手にて顎に觸れ、オヂュシュウスに向ひいふ。

[19-433]文選の「海の賦」、「靜にして深し」の意。
[19-457]呪文によりて苦痛負傷を癒やすは古來ギリシヤの習慣なりき。
[19-473]イーリアス一歌、クロニオーンの顎にテチス手を觸れて懇願す。

『さてこそ、君はオヂュシュウス、いとし昔の若き君、
先には我は知らざりき、君の身すべて觸れざれば。』

しかく陳じて目をかへし、ペーネロペーア眺めやり、
其良人の今館の中にゐますを告げんとす、
されど王妃は見返すを得ず、又悟るを得ず、
アテーナイエーその心外にむけしむ。オヂュシュウス
ただちに右の手をのして老女の喉を掴み締め、
左の手もて身に近く彼女を寄せて陳じ曰ふ、

(うば)よ、何故わが破滅願ふや?汝其胸に
われを育てぬ、今我は多くの苦難經たるのち、
二十年目になつかしき祖先の郷に歸り來ぬ。
汝の胸に神告げて、汝は我を見出せり。
他の館中の誰人も悟らざるやう口閉ぢよ、
さらずば汝にしかと曰ふ、わが曰ふ所成るべきぞ。
かの驕傲の求婚の群を、神もしわが爲に
斃さば、外の館中の侍女らを我の屠る時、
汝の身をも許すまじ、われを育てし媼ながら。』

ユウリュクレーア聰明の乳母答へて彼に曰ふ、
『何らの言句わが殿の齒の防壁を洩れいづる?
君は知るべし我心堅くて撓むこと無きを、
我今堅き石の如、鐡の如くに身を持たむ。
しかして一事君に告ぐ、心に之を忘れざれ、
かの驕傲の求婚の群を、神もし君のため
斃さば、我は館中の侍女らにつきて語るべし、
いづれぞ君を侮るは?いつれぞ清く罪なきは?』

思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『媼よ何故之を曰ふ?此事全く無用なり。
我は一切皆悟る、又各々をよく辯ず、
すべてを神に委ねつつ、汝よろしく默すべし。』

しか陳ずれば老婦人、館中すぎて足進め、
洗ひの水を持ち來す、先のはこぼれ、くつがへる。
かくて主公の脚洗ひ、これに橄欖の油塗る、
終りて暖を取るがため爐火の近くにオヂュシュウス、
倚子を引き寄せて之に坐し、襤褸(らんる)の膝の疵を掩ふ。
ペーネロペーア聰明の王妃その時彼に曰ふ、

客人、我はある小事、君に問ふべく冀ふ。
思念煩悶絶えずとも甘美の睡來るべき
人に對して樂しかる休みの時はやがて來ん。
されども神は果しなき苦惱を我に齎らしぬ、
日中我は我が業と侍女らのそれに氣を配り、
たゞに愁と涙とにわれの樂しみ見出すのみ。
しかして夜の襲ふ時、すべての人の眠る時、
臥床の上に横たはる我を、しげくも群れる
鋭き惱み襲ひ來て、劇しくわれを悲します。
パンダレオスの愛娘(まなむすめ)、橄欖色の[19-518]鶯が、
嚴寒去りて陽春の新たに廻り來る時、
繁る樹木の枝の上、身を宿らして玲瓏の
調かへつつ、嬌舌にいみじき歌を歌ひつつ、
めづる其子のイチュロスを -- ゼートス王に儲けたる
子を -- 過ちて青銅の()もて殺しし子を -- 嘆く。
(まさ)しく[19-524]斯くもわが心二つの道に搖れ動く、
夫の(ねや)と人民の輿論の聲を敬ひて、
われの資財を、僕婢らを、高き屋のあるわが館を、
堅く守りて子と共に永く此場に殘らんか?
無量の嫁資を館中に齎らし來り、成婚を
望むアカイア貴人中、すぐれし者に嫁すべきか?
わが子は先に幼くて心弱くて、良人の
館を我去り他に行くを肯んぜざりき、然れども、
すでに長じて青春の齡となりし彼は今、
前と全く相反し、我が立ち去るを冀ひ、
アカイアの人其資産あらし盡すを憤る。
さはれ君今わが夢を聞きて、其意義我に解け、
我れ夢むらく、家のそば鵝鳥二十羽、水槽の
中より小麥(ついば)みぬ、我之を見て樂しめり。
嘴曲がる大鷲は其時颯と山降り、
鵝鳥のすべて頸碎き、屠り殺して晴朗の
天に再び舞ひもどる、鵝鳥は館にちらばりぬ。
夢の中にて澘然(さんぜん)と涙流してわれは泣き、
髮美はしきアカイアの女性らそばに集りて、
鵝鳥を鷲の殺ししを同じく共に痛み泣く。
直ちに高き屋の上に鷲は再び翔け來り、
聲は人間その儘に我に嘆きをとめていふ、
『喜べ、譽世に廣き、イーカリオスのまなむすめ、
こは夢ならず成りぬべき善き幻に外ならず。
鵝鳥は彼ら求婚者、我は先には猛き鷲、
今は汝の(つま)として、こゝに來りて驕傲の
かの求婚の群の上、つらき運命もたらさむ。』
しか陳ずれば甘美なる睡はわれを離れたり、
あたり見廻し家のそば、先の如くに水槽の
中より小麥(ついば)める鵝鳥をわが目眺めたり。』

[19-518]愛娘が轉生して鶯となる。
[19-524]此譬喩は心動きて嘆くといふに過ぎず。

思案に富めるオヂュシュウス即ち答へて彼に曰ふ、
『王妃よ、いかに其夢を別の意味にて解くべきや?
(鷲の影とる)オヂュシュウス、いかに其事成るべきを
告げしならずや!求婚のすべての群に滅亡は
迫りぬ、中に一人だも死の運命を免れまじ。』

ペーネロペーア、聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『客よ、我身はかく觀ず、夢は誠に解きがたし、
夢中に見たる一切は世の悉く成るとせず。
影の如くに朦朧の夢の門口二つあり、
中の一つは角をもて、他は象牙もて造られぬ、
象牙の門を通り過ぎ來れる夢の一切は、
人を欺く者にして成らざる事を持ち來す。
磨ける角の門を過ぎ、外に出で來る一切の
夢の示現は遂げられてすべての人の目に映る。
わが見し夢は角の門過ぎ來しものと思はれず、
もしさもあらば我に取り、我子にとりて大歡喜。
我今一事君に曰ふ、心に之を能く記せ。
オヂュシュウスの館よりわが別るべき憎き日の
曙正に今來る、我は競技を設くべし、
夫は先に館中に舟の龍骨臺に似る、
十二の斧を一列に、縱に並べし事ありき、
斧におの〜孔明けり離れて矢射り、一列の
孔を通せと求婚の群に其()を競はせむ、
群のある者剛弓の絃を手中に易く張り、
十二の斧の孔すべて皆悉く射透さば、
彼に我身は附き行かむ、資財に富みて華麗なる
館を見棄てて附き行かむ、むかし嫁ぎし此館を。
あはれ此館夢にだも行末遠く偲ばれむ。』

思案に富めるオヂュシュウス其時彼に答へ曰ふ、
『ラーエルテースの生める息、オヂュシュウスのおん(きさき)
館の中なる其競技もはやためらふこと勿れ、
思案に富めるオヂュシュウス其前こゝに到るべし。
競技の彼ら、剛弓を其手に取りて絃を張り、
十二の斧を射透さむ、其前彼は到るべし。』

ペーネロペーア聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『客よ、君もし廳中にわが傍に座を占めて、
我喜ばすことあらば、眠は我の目に落ちじ。
されども人はとこしへに眠を缺くを得べからず、
物生み出す大地のへ、すべての者に一齊に
不死の神明定れる運命頒ち與へたり。
今はた我は樓上に上り、臥床に自らを
横たへぬべし其閨は、オヂュシュウスが憎むべき --
言に盡せぬイーリオン見るべく立ちしその日より、
われの涙にそぼぬれて今は嘆きの(には)となる。
我はかしこに休むべし、君は此場に寢ねよかし、
褥を床に敷き擴げ、或は寢臺据ゑさせて。』

しかく陳じて華麗なる樓上さして上り行く、
身ひとつならず其あとに、侍女は從ひのぼり行く。
侍女もろともに樓上にのぼりし王妃、その夫
オヂュシュウスを戀ひて泣く、されどもやがてアテーネー、
神女は彼の目蓋のへ甘美の眠降らしむ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第二十歌


第二十歌

思案にくれて眠れざるオヂュシュウスは神女アテーネーに慰められて遂に眠る(一 - 五五)。 ペーネロペーアは神女アルテミスに祈り、死して結婚を免れんことを求む(五六 - 九〇)。 オヂュシュウス目覺む、ヂュウス瑞兆を示す(九一 - 一二一)。 老媼ユウリクレーア、テーレマコスの客人の樣子を告ぐ。其後侍女らに宴會の準備を命ず(一二二 - 一五九)。 三人の牧夫ユウマイオス、メランチオス、ピロイチオス家畜を曵き來り、各々オヂュシュウスと語る(一六〇 - 二三九)。 求婚者らテーレマコスの殺害を控ゆ(二四〇 - 二四六)。 食事、テーレマコスは客を侮る勿れと警告す(二四七 - 二七八)。 クテイシポス侮りてオヂュシュウスに牛の脚を投げ附く、テーレマコス之を咎む(二七九 - 三一九)。 テーレマコスを衆人嘲る、預言者テオクリュメノス彼らに禍の近づくを語れど衆は冷笑して宴を續く(三二〇 - 三八六)。

斯くて英武のオヂュシュウス、身を前廊に横たへつ、
まだ(なめ)さざる牛の皮地上に擴げ、その上に
アカイア人の屠りたる羊の毛皮多く布く、
ユウリュノメーは横たはる彼に外套投げかけぬ。
オヂュシュウスはそこに臥し、心の中に求婚の
群に殺害たくらみて(まぶた)を閉ぢず。その時に
侍女らは室を出で來る、求婚者らと慇懃を
通ぜる彼ら嘻々として笑ひ興じて出で來る。
之を眺めて胸中に彼の心は騷ぎ立つ、
彼は心に魂に深く思案を打ち凝らす、
猛然として襲ひ打ち其各を斃さんか、
是を最後に今宵のみ彼の驕傲の求婚の
群に添臥許さんか、思亂れて(たま)は吠ゆ。
見知らぬ人の影を見て、かよはき子らをかばひつゝ、
母性の狗が猛然と撃つべく彼に吠ゆる如、
侍女らの惡事憤る勇士の胸はたぎりたつ、
やがて胸打ち氣をしづめ、おのが心を叱り曰ふ、

『忍びこらへよ、わが心、これより優る屈辱を
汝忍べりその昔、不敵に暴び我伴を
キュクロープスが喰ひし時、汝忍びて智計もて、
死を覺悟せる一同を洞より外に引き出せり。』

しかく陳じて胸中の心を彼は叱りとむ。
心は斯くて從順に緩まず絶えず耐へ忍ぶ、
されども彼は轉々とあなたこなたに寢返りぬ。
熱火盛んに(おこ)し立て、脂肪と血とを滿たしたる
腑腸をこれにかざしつゝ、あなたこなたとひるがへし、
其速かに燔かるゝを願へる人を見る如し、
斯くの如くにオヂュシュウスあなたこなたと身をかへし、
思ひ案じぬ、いかにして耻なき群を懲すべき?
彼は多にして我は一。その時近くアテーネー
神女天より降り來つ女人の姿粧ひて、
其枕頭に近く立ち、口を開きて彼に曰ふ、

『人間皆の中にして運命最も非なる者、
など眠らざる?此家は汝のものぞ、妻と子は
こゝにあらずや、すぐれし子、誰も羨み願ふもの。』

思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『これらの事をわが神女、君は正しく語り曰ふ、
さはれ胸裏にわが心痛くも思ひ煩へり。
耻なき此等求婚の群を身ひとつ如何にして
懲し得べきか?一團となりて彼らは内にあり。
それにも増さる一大事われの心を惱ませり。
ヂュウスと君の助得て無慙のやから斃すとも、
我如何にして遁れ得ん、君願はくは善く計れ。』

その時藍光の眼の神女答へて彼に陳じ曰ふ、
『信なき者よ、何事ぞ!朽つべき脆き人の身の
弱く叡智の少きを、なほ或者は頼みとす。
我は神なり、一切の禍難の中に飽く迄も
我は汝を守るべし、我明らかに敢へて曰ふ、
死すべき脆き人間の五十群がり圍み來て、
我等兩者を斃すべく焦るも何か恐るべき、
彼らを破り更に其肥ゆる牛羊奪ふべし。
さはれ汝は今眠れ、終宵(よすがら)眠成らざらば、
疲勞を來す恐れあり、汝危難を遁るべし。』

しかく陳じて甘眠を彼の目蓋の上灑ぎ、
ウーリュンポスの空さして勝れし神女立ち歸る。
四肢を緩むる甘眠に同じく心緩まされ、
オヂュシュウスの眠る間に聰き王妃は目を覺まし、
其温柔の床の上、坐してそゞろに涙埀る。
されど飽く迄涙埀れ、心やうやく輕き時、
ペーネロペーア、慇懃にアルテミスを呼び祈り曰ふ、

『あゝアルテミス、いや高き神女、ヂュウスのまなむすめ、
あゝ願はくは一箭に君わが胸を射通して、
すぐに我が生奪はんを、あるは願はく暴き風、
我をさらひて霧深き道々過ぎて吹き飛ばし、
[20-65]オーケアノスの環を爲して流るゝ中に投げよかし。
パンダレオスの娘らを昔嵐は吹き去りき、
その兩親は[20-67]神明に屠られ、彼ら館中に、
淋しく孤兒と殘されき、そを乾酪と甘美なる
蜜と酒とに艷麗のアプロヂイテーはぐくみぬ、
更にヘーレー、一切の婦女に優りて美と智とを
彼らに與へ、アルテミス、神女は更に身の(たけ)を、
更に加へてアテーネー手工の道を授けたり。
雷を喜ぶクロニオーン訪ひて、彼等の婚姻の
成就乞ふべく、おほいなるウーリュンポスに、艷麗の
アプロヂイテー今進む、ヂュウスはすべて一切の
朽ちて死すべき人間の好運非運皆知れり。
その留守の間に少女らを嵐の精はかきさらひ、
復讐の精、憎むべきエリーニュスらに仕へしむ。
ウーリュンポスに住める神我を亡ぼせ、その如く、
あるは鬢毛美はしき神[20-80]アルテミス我を射よ、
さらば心にオヂュシュウス描き、忌むべき地下にさへ、
行くべし、かくて賤劣の人の心を慰めじ。
晝間は絶えず其心痛めて泣くも、宵々に
眠善くせば、人は能く禍難を忍ぶことを得む、
眠の靈の降り來て人の目蓋を包む時、
靈はあらゆる一切の禍難をすべて離れしむ。
さもあれ我に神明は怪しき夢を遣はせり、
昨夜の夢に良人に似る者われの側に臥す、
姿正しく軍勢を率ゐて立ちし彼の儘。
夢には非ず眞實と思ひて我は喜びき。』

[20-65]冥府の入口として。
[20-67]ヂュウスの神殿に犯せる罪の故に殺され、而して孤兒となれる娘らを諸神憐む。
[20-80]六二と重複。

陳じ終れば黄金の座の(あけ)の神現はれぬ。
王妃の嘆き咽ぶねを聞けり英武のオヂュシュウス、
その時彼は心中に、王妃は既に認め知り、
恰も彼の枕頭に立ちしが如く思ひやる。
かくして彼は立ち上り、身を覆ひたる外套と、
毛布を集め、室内の椅子になげかけ、室外に
牛皮運びて地にひろげ、ヂュウスに手揚げ祈り曰ふ、

『あゝわが天父クロニオーン、諸神此身を苦しめて、
後に海越え山越えて我を故郷に齎らすを
嘉みせり、さらば館中に目覺る者の一人の
めでたき言句、館外に更にヂュウスの(しるし)あれ。』

祈りてしかく陳ずれば、明知のヂュウス之を聽き、
ウーリュンポスの雲深き上より電火ひらめかし、
殷々の雷轟かし、オヂュシュウスを喜ばす、
更に臼挽く一女性、王者の臼のあるところ、
間近き家の室外に、嬉しき預言今叫ぶ。
十二の女性、人間を養ふ小麥大麥を、
臼に挽きつゝ粉となして、彼は常にいそしみ働けり。
外の女性は挽き終り、眠に入りぬ、然れども
中に最も弱き彼、まだ挽き終ることを得ず、
しばし休みていふところ、主公に取りて(しるし)なり。

『人間及び神明の父なるヂュウス、星ひかる
天より高く殷々の雷聲君は轟かす、
しかも雲なし、或人にこは君示す徴なり。
不憫の我のいふ言葉、神願はくは成らしめよ、
正に此日を最後とし、オヂュシュウスの館の中、
求婚の群、歡樂の彼らの宴を開けかし、
麥挽く我を心憂く疲らせ、四肢を弛ませて
彼らは今日を最後とし、こゝに其宴開けかし。』

しかく陳ずる其預言、クロニオーンの雷ともに
オヂュシュウスは喜べり、罪ある者を懲すべし。
オヂュシュウスの華麗なる館に今はた他の侍女ら、
集り寄りて炎々の火を爐の上に焚きおこす。
其時風姿神に似るテーレマコスは床離れ、
衣服を穿ち、肩の上鋭利の(つるぎ)投げかけつ、
光澤(つや)善き脚に華麗なる沓を穿ちつ、青銅の
鋭き穗先具へたる大身の槍を手に握り、
行きて戸口に立ちとまり、ユウリュクレーア呼びていふ、

『姥よ、汝等客人に臥床と食を供へしや?
或は彼は歡待を受けず臥せるに非ざるや?
賢しけれどもわが母の習は常にかくありき、
分別缺きて、人間の中にさもなき(ともがら)
痛く敬ひ、善き者を退け去りて尊ばず。』

ユウリュクレーア聰明の老婦答へて彼に曰ふ、
『おん母君は咎は無し、君いだづらに咎めざれ。
彼の客人は座に就きて、思ふが儘に酒酌みぬ、
食事は如何に、尋ぬれば、そは要なしと答へにき。
しかして客が睡眠と臥床に心寄せし時、
彼女は侍女に命下し、爲に臥床を設けしむ、
されども客は不幸なる又悲慘なる者として、
寢臺(ねだい)の上に毛氈の下に眠るを悦ばず、
まだ鞣されぬ牛の革、及び羊の革の上、
身を前廊に横たへぬ、我らは之に覆ひたり。』

しか陳ずるを聞き終へてテーレマコスは槍を手に、
廣間を過ぎて出でて行き、足()き二人從へて、
脛甲堅きアカイオイ合議の(には)に進み行く。
ペルセーノール生める子はオープス、彼の息女たる
ユウリュクレーア其時に侍女らに向ひ呼びて曰ふ、

『集れ侍女ら、あるものは廣間を掃きて水を撒け、
又あるものは精巧に造れる椅子に紫の
(おほひ)を掛けよ、あるものは海綿をもて卓拭ひ、
壺と二柄の盃のいみじきものを清めよや、
又あるものは清水を求めて泉さして行き、
そこより汲みて速かに、急ぎてこゝに歸り來よ、
求婚の群此館に永らく見えぬことあらじ、
近きにやがて到るべし、今日は即ち[20-156]祭の日。』

[20-156]新月祭、月の初め新月の時アポローンを祭る。

しか陳ずれば女人らは其命聽きて從へり。
其二十人暗き水湛ふる泉さして行き、
他は居殘りて館中にかひがじしくもいそしめり。
アカイア人の從僕らやがて入り來て熟練の
腕を振ひて薪伐る、女中ら水を汲み來る。
ユウマイオスは一切に群の中にて勝れたる
家豬三頭を伴ひて、彼らのあとを追ひ來り、
内に入りつゝ後庭に放ちて餌を喰ましめつ、
やがて優しき言句もてオヂュシュウスに問ひていふ、

『いかに客人、アカイオイ彼らは君を崇めしか?
或は先の如くして耻辱を君に與へしか?』
思案に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、

『ユウマイオスよ、願はくば、他人の館に傲然と
非行たくらみ、耻知らぬ此ら無慙の(ともがら)
非禮咎めて天上の神々痛く懲らせかし。』

斯の如くに斯る事二人互ひに陳じ合ふ。
二人の側に今近くメランチオスは入り來る、
山羊の牧人、彼は今二人の從者伴ひて、
群の中なる善き者を宴に備へに曵き來る。
これらを響く前廊の下に繋ぎて彼は又
オヂュシュウスに打向ひ罵詈の言句を吐きていふ、

『他郷の者よ、汝なほ食を求めて此館の
中をさまよひ、煩ひを起すや、外に去らざるや?
汝と我とおのおのの拳の力知らん前、
別るゝことは無かるべし、汝非道に食を乞ふ。
知らずや汝アカイア人の宴席他にもあり。』

思案に富めるオヂュシュウスしか陳ずるに答せず、
ただ默然と頭振り、胸に復讐たくらみぬ。

そこに牧豎の首領たるピロイチオスは第三に、
肥えたる牝山羊、若牝牛求婚者へと曵き來る。
渡船を願ふ人々の願ひを容るゝ渡守、
[20-188]船に乘せつゝあなたより率ゐ來りし此家畜、
こを鳴りひびく前廊の柱にしかと繋ぎ留め、
家豬の牧者に近よりて彼に向ひてひて曰ふ、
『たそかの客は?此館の中に新たに來りたる
彼は何者?何人の種と自ら稱ふるや?
かれの血族いづくにぞ?祖先の郷はいづくにぞ?
幸なき者よ、其姿王者によくも似たるかな、
されども諸神酷くして、王者にさへも災難を
加へ、流浪の輩を惱ますことを常とせり。』
しかく陳じて近よりて右手の伸べて相迎へ、
彼に向ひて翼ある言句(ごんく)陳じ曰ふ、

[20-188]イタケー島のあなたの本土より(一四歌一〇〇以下)。

『まさきくあれや旅の(をぢ)、今は不幸に惱むとも、
來らん明日は願はくは君幸運の身たれかし。
天父ヂュウスよ、君よりも[20-201]優りて酷き神あらず、
君自らの生みいでし[20-202]人間、君は憐まず、
災難及び痛はしき苦惱に之を陷る。
我かの客を見しときに、汗を流して涙埀れ、
オヂュシュウスを偲びたり、我は思へり、客に似て
彼は襤褸を身に纒ひ、世に飄浪を續くらむ、
生を絶やさず日輪の光を今も見るとせば。
若しさもあらで、すでに無く、冥府の王の館に今、
オヂュシュウスのありとせば、悲しからずや、若くして
[20-210]ケパレーニアにありし身に彼は牛群飼はしめき。
今や無數に牛は殖ゆ、額の廣き此の家畜、
これを其程に殖やすこと他の人間に叶ふまじ。
然るを食となさんため驅り來よかしと人は曰ふ、
而して館に居殘れる子息を露もいたはらず、
諸神の降す復讐を畏れず、永く家(さか)
主公の産をおのおのに別けんと彼ら志す。
今胸中のわが心、此らにつきて樣々に
思ひ煩らふ、主人の子棄てゝ異郷に逃げ去り、
群羊曵きて外邦の人に助けを借らんこと、
誰かは之を善しとせむ、しかはあれども居殘りて、
他人の爲に群を飼ひ、心惱むはなほ(おろか)
されど事態は忍ばれず、やむなく去りて力ある
王者の許に走らんと、とくの昔に念じにき。
されど不幸のわが主人、今なほ偲ぶ、何處よりか、
現はれ出でて求婚の群を館より逐へかしと。』

[20-201]人間はややもすれば神々を咎む(一歌三十二)。
[20-202]王侯貴人はヂュウスの子と稱へらる(四歌六三)。
[20-210]サーメ島。

思案に富めるオヂュシュウス、即ち答へて彼に曰ふ、
『牛飼ふ者よ、惡しき者、愚かの者に君は似ず、
叡智の心君持つと我明かに感じ知る、
故に打明け嚴肅の盟を立てゝ君に告ぐ、
證者たれかし、神明の第一、ヂュウス、歡待の
卓子はたまた我が着けるオヂュシュウスのかの(いろり)
君猶こゝに殘る中、オヂュシュウスは歸り來む。
望まば君は目を擧げて正に親しく眺むべし、
こゝに今はた威を振る求婚者らの殺害を。』

牛飼ふ者は其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『あゝ君が曰ふ此言葉、クロニオーン成らしめよ。
その時こそは君知らめ、我の力をわが腕を。』
同じく共に、神明にユウマイオスは聰明の
オヂュシュウスが其館に歸り來るを乞ひ祈る、

斯くの如くに斯る事彼ら互に陳じ合ふ。
テーレマコスの殺害をその間にこなた求婚の
群たくたみぬ。たくらめる衆の[20-242]左に空高く
かよはき鳩を攫みたる荒鷲一羽飛び來る。
アムピノモスは之を見て衆に向ひて陳じ曰ふ、

[20-242]右ならば吉兆、左ならば不吉兆(十五歌五二五)。

『テーレマコスの殺害のわが計畫は成らざらむ、
その計畫を打ち棄てゝ、むしろ酒宴を事とせむ。』

アムピノモスはかく陳じ、其言衆を喜ばす。
一同やがて神に似るオヂュシュウスの館に來つ、
其外套を脱ぎ棄てゝ椅子高椅子の上にうけ、
大なる羊肥えし山羊彼らはやがて打屠り、
脂肪の厚き家豬及び牝牛を更に打屠り、
其内臟を火に炙り、衆に頒ちて葡萄酒を
壺に注ぎて水混ず。又牧人は[20-253]盃を
配り、牧豎の(かしら)なるピロイチオスは佳麗なる
籠よりパンを取り出し、メランチオスは酒を()ぐ。
衆は面前据ゑられし食に向ひて手を伸しぬ。

[20-253]女中が給仕をなさず牧人が爲すは竒異の風習。

テーレマコスは策案じ、オヂュシュウスを堅牢の
館の中にて石造の敷居に近く坐らしめ、
前に粗末の腰掛と小さき卓を供へつゝ、
燒きし臟腑の配分(わけまへ)を置き、黄金の盃に
酒を灑ぎて翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

『こゝに靜かに衆人の(あひ)に坐しつゝ酒を酌め、
君に加へん求婚の群の侮、またあらび、
われ君のため防ぐべし、こゝ公の館ならず、
オヂュシュウスの館にして、わが爲め彼は設けたり。
いかに汝ら求婚者、無禮の言と暴行を
謹しめ、喧嘩騷動の起らん事の無きために。』

しか陳ずれば一同は其唇に齒を噛みて、
かくも激しき言句吐くテーレマコスの驚けり。
ユウペーテース生める息アンチノオスは衆に曰ふ、

『テーレマコスんのいふ處、(つら)くも汝アカイオイ
忍びて納れよ、我々を脅かしつゝ彼は曰ふ。
我らの願クロニオーン、許さざりけり、さもなくば
彼の能辯この館にとくにも封じ終へつらむ。』

アンチノオスのしか曰ふをテーレマコスは顧みず。
今從僕ら市を過ぎ、諸神の聖き犧牲(いけにへ)
曵きぬ、しかして髮長きアカイア人ら、銀弓の
アポルローンの蔭深き森林中に集りぬ。

外部の肉を一同は燒きて串より引き拔きて、
之を各相頒ち、美々しき宴をこゝに張る。
給仕の者は自らの受けたる分を等しきを、
オヂュシュウスの側に置く、しかなすことは神聖の
オヂュシュウスの愛兒なるテーレマコスの命に依る。

しかはあれどもオヂュシュウス胸に一層猶強く
悲憤の思入るが爲め、求婚の群無禮なる
言扣ゆるをなかなかに許さざりけりアテーネー。
今求婚の群の中つねに不法に振舞ひて、
クテーシポスの名を呼びてサメーに住める一人あり。
量り知れざる其資財頼みとなして此痴漢、
永き不在のオヂュシュウスの王妃に婚を求めたり。
彼は其時驕慢の求婚者らに向ひ曰ふ。

『貴き汝、求婚者、わがいふ言に耳を貸せ、
此の客人ははや既に(かた)の如くに平等の
分を受けたり、[20-294]いやしくもテーレマコスの館さして、
來れる客を侮るは正しかるまじ、善かるまじ。
いざ我も亦客人に物を贈らむ、彼も亦、
オヂュシュウスの館宿る浴場(よくば)の女兒ら、あるは他の
僕におのれの分として物を贈るを得んがため。』

[20-294]二九九以下に照し合はせて嘲弄の反語なるを知るべし。

しかく陳じて傍の籠の中より牛の脚、
逞ましき手に取り上げて投げつく、之をオヂュシュウス
()はしてのがれ得つ、その胸中にものすごく
苦く笑へり、投げし脚、堅固の壁を打ちて落つ。
テーレマコスは斯くと見てクテーシポスを叱り曰ふ、

『クテーシポスよ、客人を打たざりしこと仲々に
汝の魂のために善し、客人脚を避け得たり。
さらずば我は鋭利なる槍に汝の胴突かむ、
汝の父は婚禮の宴の代りに葬禮の
營み爲さむ。館の中不法の行爲(わざ)を示さざれ。
先には我は若かりき。我は長じて一切の
善き事及び惡き事、今悉く辯じ知る。
我らの羊屠らるゝ、我らの美酒の酌み干さる、
我らの食の盡くさるゝ、すべて眺めて忍びたり、
難かりしかな、身一人に多くのものを抑ゆるは。
もはや我身を敵として不法の事をなす勿れ、
されど汝等利刄もて我を討たんと慾するか?
そも善しわれの願なり、絶えず不法のわざ眺め、
わが客人の虐げを、わが華麗なる館中に
侍女ら無慙の引摺を見るは何らの恨ぞや、
こを見るよりは一命を失はんこと遙か増し。』

しか陳ずれば一同は皆默然と口(つむ)ぐ。
その時衆にアゲラオス(ダマストールの子)は陳ず、
『友よ、正しき言説を彼は述べたり、何人も
怒りて彼の驕傲の言句酬ゆることなかれ。
また訪ひ來る客人を、またオヂュシュウス英豪の
館に仕ふる一切の僕を虐待する勿れ。
テーレマコスと母人に、我ねんごろに一言を
述べん、願はくは兩人の心のこれを受け入れよ。
先には二人胸中に、オヂュシュウスの恙なく
祖先の郷に其館に歸り來るを期したりき、
若しオヂュシュウス誤らず必ず歸り來るとせば、
しからば王妃館中に留り、迫る求婚の
群拒みしは(うべ)ならむ、誰かは之を咎めしか。
されども今や明かに彼の歸郷の望みなし。
いざ今君の母人のかたへに坐して説きて曰へ、
嫁資の最も豐かなる高貴の者に嫁すべしと、
然らば君は意の儘に飮食なして相續の
産喜びて治むべく、母は他の家治むべし。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『あゝ[20-339]アゲラエよ、我は今ヂュウスに掛けて、我父の
苦難にかけて敢て曰ふ、(死するもあるは(さまよ)ふも、
彼イタケーに遠ざかる)母の婚儀を延ばすまじ、
望める者と婚すべく我は勸めて莫大の
嫁資を贈らむ、然れども望まぬ母を館より、
暴言吐きて追ひ出すは恐ろし、神は許すまじ。』

[20-339]呼格。

テーレマコスは斯く陳ず、其時神女アテーネー、
求婚者らに(とめ)がたき笑起させ、其心
亂しぬ。彼等他の人の顎もて笑ふ如くして、
[20-348]血汐に染める肉喰ひ、しかも其(まみ)一齊に
涙を滿たし、其心慟哭痛く催せり。
[20-350]テオクリュメース、神に似る預言者即ち陳じ曰ふ、

[20-348]亡びの前兆として他の文學民族物語にもよくあり。
[20-350]十五歌二四一。

『無慘!何らの禍汝ら受くる!汝等の
(かうべ)(おも)雙膝(もろひざ)は夜の暗黒に捲き込まる。
[20-353]悲嘆の音は物すごし、頬は涙に濕へり、
華麗の壁と棟木とは血汐に塗れ、もの凄し。
入口及び廣庭は、暗の下なるエレボスに
降る幽鬼の群に滿ち、天上高き日輪は
影を隱して、慘憺の陰雲四方(よも)に埀れこめぬ。』

[20-353]直譯「嘆は燃さる」。

しか陳ずれど一同は樂しく嘻々と打笑ふ、
ユウリマコスはポリュボスの生める子、彼は陳じ曰ふ、
『新たにこゝに他郷より來れる[20-360]客の氣は狂ふ。
いざや若人速かに、館より彼を引き出だし、
集議の(には)に行かしめよ、こゝらを彼は夜と見る。』

[20-360]テオクリュメース。

テオクリュメース神に似る預言者答へて彼に曰ふ、
『ユウリュマコスよ、導きの人與ふべく我乞ふはず、
我に二つの(まみ)と耳、二つの脚は備はれり。
さまで卑しく造られぬ心は胸の裡にあり。
これらと共に室外に我出で行かむ、汝等に
禍害來るを我は知る、オヂュシュウスの館の中、
みだりに人を侮りて、不法のわざを工らめる
此求婚の一團の一人も禍害遁るまじ。』

しかく陳じて堅牢に築ける館を出でて行き、
ペーライオスを訪ひ來り、心をこめて持てなさる。
こなた互に目くばせし、その[20-373]客人ら嘲りて、
求婚の群一同はテーレマコスを怒らせり。
若き倨傲のある一人即ち彼に陳じ曰ふ、

[20-373]テオクリュメースと乞食の姿せるオヂュシュウス。

『テーレマコスよ、君のより更に劣れる客はなし。
何らの客ぞ、君持てる此漂浪の乞食人!
食と酒とを乞ひ乍ら彼は何らの業知らず、
何らの武技を心得ず、只に地上の重荷のみ。
また他の客は笑止にも預言せんとて立ちあがる。
君今我の言を聽け、遙かに宣し、しかするは。
漕座を多く備へたる船にかれらをのらしめて、
シケロイ人のもとにやれ、さるべき價獲らるべし。』

求婚者らの斯る言、テーレマコスは顧みず、
默して父を眺めやり、耻なき此ら求婚の
群に父の手降るべき其時待ちて耐へ忍ぶ。
イーカリオスの生む所、ペーネロペーア、聰明の
王妃は衆に相對し、華麗の椅子を据ゑて坐し、
館の中なる衆人の各述ぶる言を聞く。
多くの牲を屠りたる彼らは笑ひ興じつゝ、
欣々として樂みて豐かの宴の備なす。
されど神女と勇士とが、力合はせて正に今、
開くかんとする宴よりも、更に優りて痛はしき、
宴は無かりき、その[20-394]は彼らの惡の報なり。

[20-394]「惡業を先に彼らはたくめる故。」


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第二十一歌


第二十一歌

神女に鼓吹されたるペーネロペーア庫中よりオヂュシュウスの剛弓を取り出す、 之を見てユウマイオスとピロチオスの二人、主公を思ひ出して泣く、 アンチノオス之を叱る(一 - 一〇〇)。 テーレマコスは衆に宣し、弓の競技の準備を爲し、自ら弓を張らんとして能くせず(一〇一 - 一三九)。 アンチノオスとユウリマコスとの外の求婚者亦能くせず(一四〇 - 一八七)。 オヂュシュウス二僕の忠實を見て、一切を告げ、彼らを歡ばしめ、命令を下す(一八八 - 二四四)。 ユウリマコスも亦弓を取を張り得ず、アンチノオスは競技を明日に延期すべしと曰ふ(二四五 - 二六八)。 オヂュシュウス弓を試みんと願ふ、衆人之を憤れどもテーレマコスは之を許す、 しかして侍女らを奧に退かしむ(二六九 - 三五八)。 ユウリマコス剛弓をオヂュシュウスに渡す、勇士弓を張りて十二の的を穿つ(三五九 - 四二三) テーレマコス武裝して父の傍に立つ(四二四 - 四三四)。

ユウリマコスは其間弓を手にとり、炎々の 火にかざしつつ、をちこちと返しぬ、されど彼も亦、 弦を張り得ず、驕慢の心はげしく呻き泣き、 憤然として一同に聲を放ちて叫び曰ふ、

イーカリオスの愛娘(まなむすめ)ペーネロペ⌒アの胸中に、
藍光の目のアテーネー一つの策を案zせいむ、
オヂュシュウスの館にある弓と輝く鐡の斧、
競技の材を滅亡の始めとなして、求婚の
群の目の前おくべしと。王妃即ち階上の
室に登りて、青銅の曲れる華奢の[21-6]鍵を取る、
象牙の柄ある其鍵を王妃手中に携へて、
かしづく侍女ともろともに奧の端なる庫に入る。
そこに主公の集めたる種々の寶物藏めらる、
青銅及び黄金と技巧いみじき鐡の噐具、
更に曲れる剛弓と之に副へたる箙あり、
箙の中に呻吟を來す鋭き箭は多し。
ユウリュトスの子、神明にさながら似たるイーピトス、
ラケダイモンにその昔逢ひたる者の贈物。
[21-15]オルシロコスの家の中、メセーネーにてその昔、
二人互に相逢へり、オヂュシュウスは此郷の、
すべての民の拂ふべき補償求めてこゝに來ぬ。
メセーネー人其むかし羊三百、牧者とも
イタケーよりし掠め取り、船のへこれを持ち去りぬ。
其時わかきオヂュシュウス、父親及び諸の
他の長老に送られて使となりて遠く來ぬ。
イーピトスまた[21-22]失へる馬を求めてこゝに來ぬ、
そは牝の騾馬の十二頭、まだ乳離れぬ仔も共に。
後にこれらは彼の身に死と非命とを齎らしぬ、
すぐれし業に長じたるヘーラクレース、ヂュウスの子、
倨傲の息をイーピトス訪ひ來し時に齎らしぬ。
ヘーラクレース其家に訪ひ來し客を殺したり、
無慙の者は神明の怒を敢て顧みず、
[21-29]供へし卓を顧みず、遂に其客亡して、
堅き蹄の其牝馬其館中に留めたり。
オヂュシュウスにイーピトス、其頃弓を與へたり、
父ユウリュトス常日頃携へなれし此弓を、
その高き屋に臨終の時に其子に讓りたり。
報となしてオヂュシュウス、鋭利の剱と長槍を
與へ、友誼の(いとぐち)と爲せしも遂に宴席に
相見る機會失ひぬ、之に先んじヂュウスの子、
かの剛弓を與へたるユウリュトスの子イーピトス、
神に似る者亡ぼせり。黒き船のへ戰場に
進みし時にオヂュシュウス、身に此弓を携へず、
親しき友の紀念とて此弓家に殘されぬ。
イタケーにてはオヂュシュウス常に手中に携へき。

[21-6]弓を藏むる庫の鍵。
[21-15]三歌四八八。
[21-22]失はれたる馬は父ユウリュトスの有、之をオウトリコス奪へり。イーピトス之を囘復せんとして來り、ヘーラクレースに逢ふ。
[21-29]客の供へし卓は神聖なり。

女性の中に勝れたるペーネロペーア、今藏に
到りて樫の閾踏む、そは木工がその昔、
巧に削り尺金にあてて眞直にしたるもの、
彼は其上柱を立て、磨き光れる戸を立てぬ。
王妃は今や革紐を戸の把手より疾く緩め、
その鍵穴に鍵を入れ、探正しく廻らして、
戸の閂をはね返す、戸は牧塲に草はめる
牛の如くに(うなり)立つ、斯くして鍵に彈かれて、
華麗の扉鳴りひびき、王妃の前に開かれぬ。
王妃其時高床に進む、そこには櫃あまた、
並びて中に薫しく匂ふ衣服を收めたり。
櫃の中にて手を延して輝く鞘に包まるる
弓を王妃は支へたる懸釘よりし取りはづす。
王妃はそこに坐を占めて、膝のへ之を打のせつ、
激しく泣きて良人の弓を鞘より取り出す。
涙にくるる慟哭に胸の飽く迄滿つる時、
曲れる弓と箙とを、(箙の中に呻吟を
來す鋭き矢を入れて、)すべて手中に携へて、
堂廳さして求婚の群集れる場に行く。
隨ふ侍女ら運ぶ櫃、中に主公の貯へし
青銅及び黒金の武具の數々收めらる。
女性の中に勝れたるペーネロペーア、求婚の
群に面して立ち留り、堅固の堂の圓柱に
よりて、輝く面帕にその艷麗の頬蓋ふ。
左右おの〜忠實の一人の婢女は册けり。
ただちに彼女求婚の群に向ひて陳じ曰ふ、

『思ひあがれる求婚の群よ、わが曰ふ言を聞け、
主人の永く不在なる隙に乘じて、汝等は
絶えずここにて飮み喰ひ、わが此館を煩はす、
しかも何等の口實を汝ら造ることを得ず、
ただただ我と成婚の願強しと辯じ曰ふ。
いざさは來れ求婚者、わが一身は賭と見ゆ。
汝らの前おほいなるオヂュシュウスの弓置かむ、
其手の中にいと易く弓に弦張り、十二個の
ならべる斧を矢を飛ばし射透さん者、其者の
跡を我逐ひ、稼ぎ來し此館あとに去りぬべし、
資財あく迄豐かなる華麗の此屋別るるも、
我は後の日夢になほ思ひ出して忘るまじ。』

しかく陳じて忠實のユウマイオスに牧人に
命じて、弓と燿ける鐡斧を前に供へしむ。
ユウマイオスは泣き乍ら、之を受けとり前に据う。
又かなたより他の[21-83]牧者主人の弓を認め得て、
泣けり、其時憤然とアンチノオスは叱り曰ふ、

[21-83]ピロイチオス。

『愚かの野人何事ぞ、只一日の事思ふ
哀れの二人、いかなれば淑女の思亂すべく、
叨に啼きてやまざるや?見よ、さなきだに良人を
失ふ故に其心悲哀にくれて打ち沈む。
汝ら默し座に就きて喰へ、或は門口を
出でて他所(よそ)にて泣き叫べ、求婚者らに決定(けつじやう)
競ひとなして其弓はこの場に殘せ、われ思ふ、
この彫琢の大弓は容易く人に張らるまじ。
こゝに集る一同の中に、英武のオヂュシュウス
見るがごときはあらざらむ、わが目親しく彼を見き、
今も我なほ思ひ出づ、かの時我は若かりき。』

しかく陳じて胸中の彼の心の望みいふ、
かの剛弓に弦を張り、鐡斧の列を射るべしと。
笑止や彼は眞先にオヂュシュウスの射放てる
(やじり)味ふ者なりき。先には彼は堂中に
勇士侮り辱しめ、又同僚をいあざなへり。

その時強き清淨のテーレマコスは衆に曰ふ、
『ああ見よ、ヂュウス・クロニオーン、我の理性を奪ひ去る。
賢けれども我母は今明かに宣し曰ふ、
新たに人に伴ひて馴れし此館去るべしと、
そを聞き我はほほゑみて愚かの心悦べり。
求婚者らよ、いざや立て、懸けたる賞は一淑女、
かゝる女性はアカイアの全土の中に又ありや?
アルゴスあるはミケーネー又神聖のピュロスにも?
更に此島イタケーに、暗き本土のあなたにも?
汝ら既に之を知る、我の襃むるは無用なり。
汝ら今や口實を設けて廻避する勿れ、
あまりに長く弓張を延ばしそ、成果我は見ん。
及ばず乍ら我も亦、此弓張を試みむ。
若し我弓に弦を張り鐡斧十二を射通さば
新たの人に伴ひてわが母館を棄てさるも、
我れ嘆くまじ、ただ一人淋しくあとに殘るとも、
すぐれし父の取り馴れしすぐれし武具を使ひ得て。』

しかく陳じて其背より眞紅の上衣ぬぎすてつ、
眞直に立ちて鋭利なる剱を肩より取りはづし、
十二の斧を据うるため一條長き溝穿ち、
尺度にあてて眞直(ますぐ)にし、かくして斧、並べつつ、
あたりの土を踏み堅む。嘗て學びしことなくて、
かく整然と据ゑたるを衆は眺めて驚けり。
やがて進みて敷居のへ立ちてぞ弓を試みる。
三たび張るべく念をこめ、弓を震はす、しかれども
三たび力は緩み去る、努めて弦を張り了へて
鐡斧の十二射通さん望みはいとゞ切乍ら。
四たび新たに勇を鼓し、正に張らんとしたる時、
オヂュシュウスは頭振り、彼の切望おしとゞむ。
その時強き清淨のテーレマコスは衆にいふ、

『無念や!後に到りても我は(おく)れて弱からむ、
或は今は若くして、或人我にいきどほり、
襲はん時にい防ぐべきわが腕力にたより得ず。
いざや汝ら、我よりも強き力を持てる者、
來りて弓を試みよ、競技終りを告ぐるため。』

しかく陳じて手に取りし弓を放して地におろし、
組み合はされて磨かれし門の扉にたてかけつ、
その華麗なる弓端に迅き飛行の矢を寄せて、
歸りて先に占めたりし椅子に再び身をもたす。

ユーペーテース生める息、アンチノオスは衆に曰ふ、
『同僚すべて順により、右(まはり)にて立ち上れ、
酒注ぐ者の注ぎ初むる場より順々立ち上れ。』

アンチノオスのいふところ、衆一齊に(うべな)へり。
その時先に立ちたるはオイノプスより生れたる
レイオーデース占者(うらないしや)、酒を混ずる瓶の側、
堂の最も奧深く常に其座を占むる者、
彼のみ獨り邪を憎み、求婚者らに憤る。
まさきに彼は手に弓と速き飛行の矢を握り、
行きて閾の上に立ち、まづ其弓を試みぬ、
されども之を張るを得ず、馴れざる脆き彼の手は、
弓を曲げんとして弱り、求婚者らに陳じ曰ふ、

『ああ同僚よ、弓弦を我は張り得ず、あだし人
試みよかし、此弓は貴人の群の多くより、
魂と命を奪ふべし、日に日にこゝに群りて、
我等一同心こめ、獲得せんとする者を
得ずに空しく生くるより、死するは寧ろ優らずや!
今ある人は胸中に望みて切に冀ふ、
オヂュシュウスの王妃たるペーネロペーア娶らんと。
其者弓を試みて、やがて成果を見なん時、
彼は宜しくアカイアの美服纒へる他の女性
娶りて嫁資を贈るべし、こなた王妃は莫大の
寶携へ運命を帶び來る者と婚すべし。』

しかく陳じて手に取りし弓を放して地におろし、
組み合はされて磨かれし門の扉に立てかけつ、
その華麗なる弓端に迅き飛行の矢を寄せつ、
歸りて先に占めたりし倚子に再び身を凭たす。
[21-167]アーンチノオス之を聞き憤然として叱り曰ふ、

[21-167]行のはじめにある時はアーンチノオスと發音して可。

『[21-168a]レーオーデスよ、何らの語汝の[21-168b]齒端洩れいづる!
汝何らの(おどかし)ぞ、聞きてわが胸いきどほる、
汝は弓を引くを得ず、其故汝敢ていふ、
弓は貴人の多くより魂と命を取るべしと。
勇ある者は弓と矢を手中に握る、然れども
かかる勇士と育つべく母は汝を生まざりき、
されども外の求婚者勇ある者はすぐ引かむ。』

[21-168a]呼格。
[21-168b](齒の防壁を)汝の唇を(フオッス)、

しかく陳じて[21-175]メランチョス牧人呼びて命じ曰ふ、
『急ぎて汝堂中にメランチオスよ火を(おこ)せ、
火の傍らに大椅子を齎らせ、毛皮打ちかけて、
しかして内に貯ふる脂肪の巨塊もち來せ、
若き貴人ら暖めて脂肪とかして[21-179]弓に塗り、
弓をかくして試みて競技の終告げんため。』

[21-175]調のためかく發音す。
[21-179]弓は(つの)製、後文三九五より知るでし。

しか陳ずれば速かにメランチオスは火を(おこ)し、
火の傍らに齎らして椅子に毛皮を打ちかけつ、
しかして内に貯ふる脂肪の巨塊とりいだす、
そを暖めて若き群、弓を試む、然れども
力あまりに弱くして之を張り得る者あらず。
されども中の二頭領、力最も優るもの、
アンチノオスと神に似るユウリマコスはあきらめず。

オヂュシュウスの僕にして、牛を飼ふ者、又家豬を
飼ふもの、二人もろともに其時館を立ち出づる、
其あと逐ひてオヂュシュウス、同じく館を出で行きつ、
一同やがて門外に庭より外に出でし時、
聲を放ちて温言に二人の伴に向ひ曰ふ、
『牛を飼ふ者、又家豬を飼ふ者、我は物曰はん、
或は默しやむべきか?心は命ず物曰へと。
汝何らの者なればオヂュシュウスを助くるや、
彼れ突然に或神に引かれて歸り來るべくば、
オヂュシュウスを助くるや?求婚者らを助くるや?
心並びに魂の命ずる儘にわれに曰へ。』

[21-199]牛を飼ふ者その時に答へて彼に叫び曰ふ、
『ああわが天父クロニオーン、これこの願成れよかし、
かの人歸り來れかし、ある神かれを連れよかし。
然らば汝わが力、わが手のわざを悟るべし。』

[21-199]ピロイチオス。

ユウマイオスも諸の神に同じく祈願しぬ、
オヂュシュウスの恙なく故郷に歸り得んことを。
その時彼は兩人の心誠に忠なるを
認め、ただちに答へつつ彼らに向ひ陳じ曰ふ、
『見よ!我こそは正に彼れ、多くの苦難嘗めし後、
春秋(はるあき)二十過ぐる後、我は故郷に歸り來ぬ。
あらゆる僕の中にして我は知る、わが故郷
望むは汝二人のみ、汝二人を外にして、
我の故郷を神明に祈れる者を見ず聞かず。
いざ汝らに來るべき(まこと)の事實明すべし。
かの驕傲の群を我神助によりて斃し得ば、
其時我は汝等に妻と資産を得さすべし、
又わが側に汝等の家造るべし、やがて後、
テーレマコスの兄弟と友と汝を見なすべし。
いざ今來れ、明かの證據汝に示さんず、
汝心によく悟り、われに信頼するが爲め、
見よ此疵を、その昔、オウトリュコスの子らととも、
[21-220]パルネーソスに行きし時、野豬の牙より受けし疵。』

しかく陳じて大いなる疵の痕より襤褸を剥ぐ。
二人は之を打ち眺め、すべて委細を悟り得つ、
涕流して聰明のオヂュシュウスに腕のばし、
彼を抱きて其頭其雙肩に口づけぬ。
かくして泣ける三人の上に日輪沒りつらむ。
されど氣附けるオヂュシュウス二人を抑へ告げて曰ふ、

『涕涙及び慟哭をやめよ、或者館内を
出でて我らを認め知り、内に報ずる恐れあり。
館に今入れ、相次ぎて、さはれ一時に入るは不可、
我は眞先に、其後に汝らつづけ、合圖せむ。
かの驕傲の求婚の群はこぞりて悉く、
弓と箙を我の手に渡すを絶えて許すまじ。
されども汝、忠實のユウマイオスよ、館中を
過ぎてかの弓齎らしてわが手に渡せ、しかうして
女性らに告げ、堅固なる館の扉を閉ぢしめよ。
女性の中のとある者、我らの庭に湧きおこる
人の呻吟騷音を聞くことあらば、門外に
女性は進むこと勿れ、默して内に仕事爲せ。
しかして汝忠實のピロイチオスよ、中庭の
門を閉ざして鍵をもて封じ、すばやく繩かけよ。』

しかく陳じて堅固なる居館をさして立ち歸り、
先に占めたる倚子の上再び其身憇はしむ。
また剛勇のオヂュシュス[シュスに⌒]の二人の僕も内に入る。


『無念なるかな、わが心惱む、身のため、衆のため、
惱みはいかに辛くともそは婚姻の故ならず、
海の圍めるイタケーに、又もろ〜の他の都市に、
鬢毛美なるアカイアの女性は常に夥し。
ただ此弓を張るを得ず、力に於て剛勇の
オヂュシュウスに斯くばかり劣るとすれば、來るべき
子孫の耳に聞くところ、我ら何らの耻辱ぞや!』

ユウペーテース生める息、アンチノオスは答へ曰ふ、
『ユウリュマコスよ、さにあらず、汝自らよく知んぬ。
アポルローンの[21-258]神聖の祭けふしも國中に
行はるるを、何人か弓を張るべき?靜肅に
弓は置くべし、又斧はすべてsの儘立ておかむ、
ラーエルテース生める息、オヂュシュウスの館に來て、
之を奪ひて去らん者、あり得べしとは思はれず。
酒注ぐ者に神のためまづ杯を充たしめよ、
さらば我等は奠酒して曲れる弓を放つべし。
あしたとならば山羊飼へるメランチオスに命下し、
群の中なる最上の山羊をこの場に曵かしめん、
弓の譽れのアポローン神に股肉をたてまつり、
其後弓を試みて競技の終告げんため。』

[21-258]新月祭、アポルローンの祭の日[。]

アーンチノオス斯く陳じ、衆は一同皆贊す。
從僕やがて衆の手に清めの水を灑ぎかけ、
若き給仕ら飮料を混酒の壺に滿たし入る、
かくして神にまづ捧げ、やがてすべてに酌み廻る。
奠酒をはりて一同は心ゆく迄酌みほしぬ、
衆に其時オヂュシュウス策たくらみて陳じ曰ふ、

『高き王妃に求婚の衆人われの言を聞け、
胸の中ならわが心命ずる儘に我曰はむ。
ユウリマコスと神に似るアンチノオスは就中
我冀ふ、いみじくも彼は正しく陳べて曰ふ、
弓の試み休むべく、すべてを神に委ぬべし、
神はあしたに其好む人に力を()ぶべしと。
いざ今我に磨かれし弓を手渡せ、もろともに
腕の力を試し見む、しなやかなりし四肢の中、
いにしへ我に備はりし力は今も猶ありや?
漂浪及び缺乏によりて力は盡きたりや?』

しか陳ずるを耳にして衆の憤激甚し、
善く磨かれし弓の弦彼もし張らば何とせむ!
アーンチノオス憤然と叫びて彼を叱り曰ふ、

『無慙!異郷の汝今、微塵も理性備はらず、
我ら貴人もろともに汝靜かに宴し得て、
足らずや?汝飮食を缺かず、われらの曰ふ言句
會話を汝聞かざるや?汝の外に外邦の
客も乞食もひとりだにわれらの言句聞くを得ず。
蜜の如くに甘くして、其度を過ごし飮む者を、
傷ふ酒は正に今無慙に汝を傷へり。
酒はいにしへラピダイの國を訪ひ來しケントール、
[21-296]ユウリチオーンすぐれしをペートリオスの殿中に
害せり、彼は酒により、おのが心を傷ひて、
ペートリオスの殿中に狂ひて不法行へり、
之を怒れる勇士だち、彼を襲ひて鋭利なる
刄に彼の耳と鼻()ぎ落しつつ、戸口より
前廊過ぎて曵きずりぬ、彼は狂へる心もて、
其災害を受け乍ら悄然として去り行けり。
酒に亂れてまづ先に彼は禍難を蒙りぬ、
ケントウロイと人間と斯くして遂に戰へり。
強ひても汝弓張らば斯の如くに大難は
來り、國中一人だも汝に對し友情を
寄せ來るまじ、速かに我らは黒き舟の上、
汝を乘せて[21-308]エケトスに、あらゆる人を傷へる
王者の許に送るべし、そこより汝のがれ得ず、
むしろ靜かにゝに飮め、若き者とな爭ひそ。』

[21-296]竒怪なるケンドール族の一人、酒に醉ひ、招かれし宴席に於て花嫁に無禮を加へて殺さる。ペートリオスはイーリアス一歌二六三に見ゆ。
[21-308]十八歌八五。

ペーネロペーア聰明の王妃其時彼に曰ふ、
『アンチノオスよ、苟くもテーレマコスの家に訪へる
其客人を遮るは、道理に合はず不可ならむ。
其剛強の手と力頼みとなして、すぐれたる
オヂュシュウスの大弓を彼の客人が張るとせば、
彼はその屋に我を倶し妻とすべしと思へるや?
その胸中にかかる事いかでか彼は望むべき!
汝らの中ひとりだに此を心中悲みて、
こゝに宴すること勿れ、ふさはしからず汝らに。』

彼にポリュポス生める息ユウリュマコスは答へ曰ふ、
『イーカリオスの息女なるペーネロペーア、聰き君、
かの者君を娶ること相應しからず、思ひ得ず。
さはれ我らは後の日の男女の評を忌み畏る、
アカイア族の中にして劣れる者は評せんか、
「卑しき者は勝れたる人の(きさき)と娶らんと
望めり、されど誰人もかの弓つひに張るを得ず。
その時ひとり漂浪の乞食來りて易々と
かの弓張れり、並べたる十二の鐡斧射通せり」
斯くぞ彼らは語るべき、何ら我らの耻辱ぞや!』

ペーネロペーア聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『ユウリュマコスよ思ひ見よ、尊き人の家の産、
非道に喰ひ盡すもの、民の間に好評を
得がたし、さるを汝らは只かの一事耻とすや?
見よ客人は身に高く體格げにみじかり、
高貴の系のある人を父とし彼はたたへ曰ふ。
いざとく彼に磨かれし弓を與へよ、結果見む、
斯く今我は陳じ曰ふ、わが曰ふところ()と成らむ、
アポローン彼に光榮の與へて彼は弓張らば、
上衣下衣を華麗なる衣を彼に着さすべし、
狗と人とを防ぐべき鋭利の槍を與ふべし。
兩刄(もろは)の剱を與ふべし、脚に穿たん沓を又、
しかして彼を其心望む處に送るべし。』

その時彼に聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ、
『さなり母人、アカイアの誰にも優り、意の儘に
與へ或は拒むべく弓の權利は我にあり、
岩石多きイタケーを、駿馬産するエーリスに
向ふ[21-347]諸島を司どる貴人ら我を如何にせむ。
今我弓を持ち去れとかの客人に命ずとも、
我意に反し力もて之を制することを得ず。
母人、室に立ち歸り、織機及び絲捲の
ふさへる業に心寄せ、婢女に命じて其勤
なさしめ給へ、はた弓はすべて男子の(つかさどり)
特にも我の司、家の主權は我にあり。』

[21-347]サメー、ドーリキン、ザキントス等。

しか陳ずれば驚きて王妃は室に立ち歸り、
愛兒の言葉胸中に深くも思ひめぐらしつ、
(かしづ)く婢女らもろともに樓上さして上り行き、
オヂュシュウスを偲び泣く、やがてパルラス・アテーネー、
甘き眠りの靈をして彼女の目蓋おほはしむ。』

今忠實の牧人は曲れる弓を取りて立つ、
かくと眺めて求婚に群は堂中わめきたつ、
中にひとりの驕傲の若人彼に叫び曰ふ、
『曲れる弓をいどかにか運ぶや、汝無慙なる
牧者、心の狂へるや?アポローン及びもろ〜の
神明我を惠む時、汝養ふ脚早き
狗は汝を里遠く豚のかたへに噛み裂かむ。』

しか陳ずれば牧人は衆のひおしく堂中に
激しく叫ぶ聲に恐ぢ、弓を其場にさしおきぬ。

されど其時こなたよりテーレマコスは嚇し曰ふ、
(をぢ)よ、その弓運び行け、彼らに聽かば惡しからむ、
恐れよ、我は若くとも汝を逐ひて農園に
到り石もて打つべきぞ、われの力はおほいなり。
あゝ願はくはこゝにある求婚者らのすべてより、
腕と力ともろともに優らましかば!しかあらば
我は直ちに凄ましく、其ある者を此館の
外に別れて去らしめ、彼れ姧計をもくろめり。』

しか陳ずれば求婚の群一齊に樂しげに、
テーレマコスを嘲笑ひ、彼に對する憤激を
緩めぬ。かなた牧人は堂中過ぎて運び行き、
オヂュシュウスの(かたはら)に立ちて其手に弓捧ぐ。
テーレマコスは其時にユーリュクレーア呼びて曰ふ、

『ユーリュクレーア、聰き(うば)、テーレマコスはかく命ず、
館の堅固に造られし扉きびしく閉ざすべし、
もしとある者、堂中の人の呻吟喧騷を
聞くことあらば、警めて室外いづること勿れ、
ただただ内に留まりて默して業にいそしめと。』

しか陳ずれば(こた)ふべき老女言葉に[21-386]翼無く、
堅固に成りし宮室の扉きびしく閉ぢ終る。

[21-386]默すの意。

ピロイチオスは館外に默然として躍り出で、
堅固の塀を廻らせる庭の諸門をみな閉ざす。
そこにたま〜前廊に舟具の綱ぞ横はる、
ビブロス草を綯ひしもの、彼はこをもて嚴重に
扉を締めて内に入り、先に坐りし椅子に倚り、
オヂュシュウスを眺めやる。勇士は正に弓を手に、
あなたこなたに打返し、おのれ家郷を離れたる
其間に蟲は弓の先喰はざりしやと檢べ見る。
之を眺めて求婚のある者隣る者に曰ふ、

『見よ見よ彼はさかしらに委細に弓を調べ見る、
思ふに此に似たる弓、彼は其家に貯ふる?
或はれに似るものを造らんずるや?災難に
馴れし浮浪の彼は今手中に弓を打返す。』

群の中なる驕傲の若人一人陳じ曰ふ、
『首尾よく彼はかの弓に[21-402]弦を張り得む、他の事に
あたりて之と同樣に利益を彼の得ましかば。』

[21-402]「反語、之に失敗せん、他にも失敗せよかし」の意。

求婚の群かく陳ず、思案に富めるオヂュシュウス、
その時弓を手にとりて委細にとくと調べ見つ、
豎琴及び吟謠に馴れたる人が、新しき
琴柱の上に -- 兩端をよく[絲|(勹/米)]はれたる腸絲(すがいと)
しかと固めて結びつつ -- 容易に弦を張る如く、
力用ゐず速かにかの大弓に(つる)張りつ、
右手をのべて[21-410]嘈々(さう〜)と弦を鳴らしてためし見る、
弦は美妙の()に歌ひ、恰も燕鳴く如し。
かくと眺むる求婚の群、愕然とおほいなる
悲哀に打たれ色を變ゆ。ヂュウスは高く雷震ひ、
(しるし)送ればオヂュシュウス耐忍強き英雄は、
[21-415]測り知られぬクロノスの子の瑞兆を喜べり。
かくして彼は食卓の上に露はに横はる
迅き飛行の矢を取りぬ、他はうつろなる胡簶(やなぐひ)
收まる、之をアカイオイ間もなく其身に味ははむ。
弓に取りたる矢を(つが)へ、矢筈と弦を引きしぼり、
倚子に坐れるその儘に勇士正面(まとも)に覘ひ射る、
飛箭正しく立ち並ぶ斧の眞先の孔を
射つ、續きてすべて一齊に穿ち通して青銅の
鏃あなたに飛び行けば、テーレマコスに叫び曰ふ、

[21-410]「琵琶行」-「大絃嘈々」。
[21-415]ヂュウスの神意深くして測られず。

『テーレマコスよ、客人は汝の館に幸に
汝の耻とならざりき、我は覘ひを誤たず、
弓張る事も迅かりき、求婚の群侮りて
われを責めしは誤てり、我の力は確かなり。
今や時なり、日中にわがアカイアの貴人らに
[21-429]宴を備へて然る後、吟謠及び豎琴に
興を添ふべし。饗宴に飾り加ふる者は是れ。』

[21-429]日中に求婚者らを屠るべしの意。

しかく陳じて眉ひそめ、合圖をなせば神に似る
オヂュシュウスのめづる息、テーレマコスは鋭利なる
剱を肩の上なげかけつ、手に長槍を携へつ、
燿く武具に身を堅め、父の近くに()と立ちぬ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第二十二歌


第二十二歌

オヂュシュウス第一箭を放ちてアンチノオスを射殺し、初めて衆のその身を現はす(一 - 四一)。 ユウリュマコスの辨解を哀願(四二 - 六八)。 戰初まる。ユウリュマコスとアムピノモスの死(六九 - 九四)。 テーレマコス武庫より武噐を出す(九五 - 一一五)。 ユウマイオス敵の逃路を閉づ。メランチオス隙を覘ひ、求婚者の爲めに楯と槍とを武庫より出す(一一六 - 一四六)。 再び覘ひ寄るメランチオスの捕縛(一四七 - 一九九)。 アテーネーの助により槍戰幸に終る(二〇〇 - 三二九)。 伶人及びメドーン罪なしとて宥さる(三三〇 - 三八〇)。 死屍の搬出、館中の掃除の後、罪ある女中ら誅せらる、メランチオス亦殺さる(三八一 - 四七七)。 硫黄を以て館中を淨むるオヂュシュウス、後堂より來る親しき侍女らと語る(四七八 - 五〇一)。

破れし襤褸(らんる)脱ぎ棄てゝ智謀に富めるオヂュシュウス、
羽箭滿たせる胡簶(やなぐひ)と弓とを取りて、おほいなる
敷居の上に立ち上り、其足もとに飛行()
矢を取り出し、求婚の群に向ひて叫び曰ふ、

『見るや汝等!ものすごき是れ此の競技終りたり。
さはれ是迄何人も嘗て射當てし事の無き
的あり、われは之を射てアポルローンの譽得む。』

しかく陳じてアンチノス目がけてすごき矢を飛ばす、
折しも彼は二つ柄の黄金製の美麗なる
大盃(おほさかづき)を手にとりて美酒を酌むべく口許に
正に擧げたり、念頭に死滅の思ひ露もなく。
さなり、誰かは求婚の群の中にて思ひ見し?
多數の中に唯ひとり、勇力いかに強くとも、
アンチノオスに陰慘の黒き運命來たらすと。
されども彼の喉目がけ、オヂュシュウスの射放つ矢、
鏃鋭く柔軟の頸を貫き射通しぬ。
射られてどうと斃れたる彼は手中の盃を
落しぬ、やがて滾々(こん〜)と凄く流るゝ紅血を
鼻孔よりして出す彼、(かたへ)の卓を脚延して
蹴りて倒して炙りたる肉と麺麭一切の
品鮮血にまみれしむ。斃れし彼を眺め見て、
求婚の徒ら堂中に異常の騷ぎ引き起し、
蒼惶として高椅子をおりて飛び出し、堅牢に
造れる壁に打沿ひて、あなたこなたに目を配る、

されど取るべき大槍も盾もひとしく見當らず。
彼ら怒號の聲上げてオヂュシュウスを咎めいふ、

『客人、汝、人を射て禍招く、もはや他の
競技をなすを得べからず、汝の破滅確かなり。
イタケー中の若人の至上の者を殺したる
汝こゝにて荒鷲の餌食となりて斃るべし。』

しかく陳ずる衆人は思へり、客は意思ありて
射しに非ずと、愚かなる彼らは未だ悟り得ず、
破滅の綱は一同の上に(まさ)しくかゝれるを。
智謀に富めるオヂュシュウス眺めて衆に叫びいふ、
『狗畜生ら、汝らは、トロイアよりの我が歸國
無しと思ひて、わが家の産を盡せり、汝らは
我に仕ふる女性らを力に任せ犯したり、
我の生けるを知らずして王妃に婚を求めたり、
汝ら高く天上を治むる神を尊ばず、
今より後に來るべき人の怒りを省みず、
破滅の網は汝らの上に正しく今かゝる。』

しか陳ずれば蒼白の恐怖は衆の身を襲ふ、
破滅をいかに遁るべき、各々あたり見廻しぬ、
ユウリュマコスは只一人彼に答へて陳じ曰ふ、

『君は誠にこの郷に歸り來れるオヂュシュウス、
わがイタケーの君ならば、アカイア人の館中の
行爲(わざ)、田園のあしきわざ咎むるところ皆正し。
さはれ非行の本たりしアンチノオスは今すでに
かなたに倒れ横はる、彼は此らを行へり、
彼はただただ婚姻を求め願ひしのみならず、
むしろ別事を -- クロニオーン許さぬ事をもくろめり。
戸口豐かのイタケーの主領たるべくもくろめり。
埋伏設け君の子を暗殺すべくもくろめり。
されども彼は運命によりて今はた斃れたり。
部下を願はく君許せ、後に國中經廻りて、
集めて君の館中に盡くせしすべて償はむ、
牛二十頭償として各人齎さむ、
しかして君の意の儘に青銅及び黄金を
獻ぜん、之に先だちて君の怒りを咎め得じ。』

智謀に富めるオヂュシュウス睨みて彼に叫びいふ、
『ユウリュマコスよ、祖先より傳へて汝家の中、
所有のすべて、又他より取りて加ふるものすべて、
われに贈るも、求婚の群悉く其不義を
償はん前、殺戮のわが腕とむることを得ず。
汝の前にあるものはわれと戰ふ一事のみ、
或は死滅運命を避け得るものは逃るべし、
されど思ふにもの凄き破滅逃るゝ者あらじ。』

しか陳ずれば一同の膝と心と緩み去る、
二度目に口を聞きたるユウリュマコスは衆に曰ふ、

『あゝ同僚よ、此者はその剛強の手をとめじ、
彼は琢ける大弓を箭をすでに手にとれば、
すべて我らを斃す迄、敷居に立ちて恐るべき
羽箭飛ばしてやまざらむ、いざ戰鬪を心せよ、
利劔を振へ、早き死を齎らす飛箭防ぐべく、
卓をかざして楯とせよ、彼に向ひて一齊に
力合はせて打懸れ、恐らく彼を閾より
門より攘ひ逐ふを得む、かくて市中に奔り出で、
急を告ぐべし、其間、彼は最後の矢を射らむ。』

しかく陳じて青銅の兩刄(もろば)の利劔拔き放ち、
敵に向ひてまつしぐら、猛然として物凄く
叫び進みぬ、剛勇のオヂュシュウスはその刹那、
羽箭飛ばして彼の胸、乳房のほとり[弓|票]と射り、
肝臟ぐさと貫けば、ユウリュマコスは手中より
剱を落して卓の上、床のへばたり斃れ伏し、
喘ぎもがきて、二つ柄の酒杯並びに一切の
美味を床のへ捲き散らし、額大地に打つけて、
心亂れて兩脚を延して椅子を蹴倒しつ、
やがて程なく朦朧の霧に雙眼蓋はれぬ。

アムピノモスは其時に、鋭利の剱を拔きかざし、
オヂュシュウスの英剛を目がけ、進んで突きかゝり、
室より外に逐はんとす、されども彼に先んじて、
テーレマコスはうしろより、青銅の穗の槍飛ばし、
二つの肩の最中突き、胸を通して貫けば、
地響きなしてどうと伏し、額大地に打つけぬ。
アムピノモスを貫ける槍をその儘そこに棄て、
テーレマコスは馳せ戻る、刺し貫ける長き槍、
引き拔く彼を敵人の一人或は剱に討ち、
或は前に屈む時襲はんことを恐るれば。
斯くて走りて速かに其恩愛の父の側、
近くに立ちて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『父君、我は今君に盾と長槍二筋と、
善く顳顬(こめかみ)に適すべき青銅製の兜とを、
持ち來すべし、我も亦武裝なすべし、牛豚を
飼へる二人もしかすべし、武裝すること(まし)なれば。』

智謀に富めるオヂュシュウス、答へて彼に陳じ曰ふ、
『急ぎ走りて持ち來せ、孤獨の我を敵人ら、
門より攘ひ得ざるため、弓もてその間防ぐべし。』

しか陳ずれば其命にテーレマコスは從ひて、
いみじき武具を貯ふる倉庫目がけて走り行き、
四面の盾と八張の弓と、冠毛飾りたる
青銅製の兜四箇、合せて迅く取り出し、
飛ぶが如くに速かに父に齎らし、着せしめ、
つぎて眞先に青銅の武具をおのれの身にまとふ、
二人の僕も同樣に美々しくよろひ身を固め、
計略密にぬかりなきオヂュシュウスのそばに立つ。

防ぎて其身守るべき矢のある限りオヂュシュウス、
覘定めて求婚の群を一々館中に、
斃せば彼ら陸續と打重りて地に伏しぬ。
されども飛行迅き矢は今悉く射盡さる。
其時彼は身を返し、光り燿く壁に添ひ、
堅固の館の戸柱に寄せて剛弓立てかけつ、
四重の革の[22-122]大盾に左右の肩を掩はしめ、
凛たる威風ものすごく頭上ゆらめく冠毛を、
つけたる兜、精巧に造りしものを頂きつ、
穗は青銅のおほいなる二條の槍を手に取りぬ。
堅固に成りし壁に添ひ、裏門一つそこにあり、
美々しく建てし宮館の高き敷居の傍らに、
通路に到る[22-128]戸口あり、疊戸しかとこを閉ざす、
こゝに眞近く立ち乍ら看守なすべく忠實の
僕に命じき、オヂュシュウス、こゝの通路は只一つ。
其時衆に聲あげてアゲレオースは叫び曰ふ、

[22-122]盾は手に取らずやはり鎧の如く身につく。イーリアス十二歌三九六を見るべし。
[22-128]此一段不明。

『わが同僚よ、たそ一人裏門出でて衆人に
告げずや、早く警報を起さしむるぞ急務なる。
其頃迄に彼の者は最後に矢種盡すべし。』

彼に答へて山羊飼へるメランチオスは叫び曰ふ。
『ヂュウスの愛兒[22-136]アゲラーエ、その事絶えて叶ふまじ。
かの中庭の善き戸口[22-137]あまりに近し、口狹し。
勇ある者は只ひとりそこに多數を斥けむ。
さはれ今我走り行き、君に武裝を倉庫より
持ち來たすべし、オヂュシュウス並に彼の光榮の
子息正しく他處ならず、かしこに武具をおきつらむ。』

[22-136]呼格。
[22-137]オヂュシュウスに。

しかく陳じてメランチョス、山羊飼ふをのこ、走り出で、
段をのぼりて堅牢の館の倉庫に進み入り、
盾の十二をまた槍の同じき數を、冠毛を
つけし兜の同數を、そこよりすぐに取り出し、
運び歸りて求婚の群のすべてに手渡しぬ。
かくて一同速かに武具を穿ちて大槍を、
手に手に揮ふ、之を見て容易ならずと感じ知り、
さすがに猛きオヂュシュウス心と膝とわなゝきて、
テーレマコスに打ち向ひ、(はね)ある言句陳じ曰ふ、

『テーレマコスよ、館内の侍女の一人あるは又、
メランチオスか、我々に凄く戰挑むらし。』

彼に答へて聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ、
『あゝあゝ父君、我こそは其(あやまち)を犯したれ、
他の何人も咎あらず、かの緊密の庫の戸を
開ける儘に去りたるを、目敏く敵に悟られぬ。
いざ忠實のユウマイエ、迅く行き庫の戸を閉ぢよ、
侍婢の一人斯くせしや?或は思ふメランチョス、
ドリオス生めるかの狡奴しかなしたるや調べ見よ。』

斯くの如くに斯ること二人互に陳じ曰ふ、
かなた再び山羊飼へるメランチオスは、華麗なる
武具を取るべく藏に入る、こを認めたる忠實の
牧者直ちに近寄りて、オヂュシュウスに陳じ曰ふ、

『ラーエルテース生める息、智謀に富めるオヂュシュウス、
見よ見よ我ら疑ひしかの者、憎き邪魔の者、
再び庫に進み入る、君明かに我に曰へ、
力は彼に優る我、彼を囚へて殺さんか?
或は君の館の中、彼の犯せし數々の
無道のわざを懲すため、生かしてこゝに曵くべきか?』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に宜しいふ、
『テーレマコスともろともに、かの驕慢の求婚の
群いかばかり暴ぶとも、此館中に抑ふべし。
汝等二人迅()く行きて彼れの手足をとりしばり、
倉庫の中に打ち倒し、扉きびしく打ち固め、
ただちに奴の一身を繩目きびしくしばりつけ、
高き棟木に屆く迄、柱に彼を吊り上げよ。
しかせば彼はながらへて嚴しき苦痛味はゝむ。』

しか陳ずれば兩僕は聞きて直ちに順ひつ、
内に潛める彼の目を遁れて藏に忍び入る。
メランチオスは藏の奧進みて武具を探すめり、
柱に沿ひて左右二人ひそかに立ちて待つ。
山羊飼ふをのこ、メランチョスやがて敷居を越え來り、
その片手には華麗なる兜を、他にはおほいなる
盾を携ふ(古びた其盾(かび)汚れたり、
ラーエルテース、剛勇の若き昔に帶びし者、
今は庫中に收められ、革の縫目は緩びたり。)
出で來る彼に飛びかゝり、擒へて彼の頭髮を
攫み引摺り内に入れ、恐るゝ彼を地に倒し、
荒き繩もて兩足を兩手に曲げて、後方に
其背の上に縛りつく、 -- ラーエルテース生める息、
耐忍強きオヂュシュウス命ぜし如く縛りつゝ、
かくして彼の全身を繩目きびしく縛りあげ、
高き棟木に屆くまで柱に彼を吊り上げつ、
かくして汝ユウマイエ、彼を嘲り斯く曰ひき、

『メランチオスよ、よもすがら、飽く迄こゝに看守せよ、
汝に正にふさはしき此柔軟の床にねよ、
オーケアノスに大水をいづる黄金の座に神女、
やがて汝は見逃さじ、時は正しく求婚の
群に食事を備ふべく山羊をかの()に曵く頃ぞ。』

かくして彼は恐るべく縛められて殘されぬ。
かくして二人武具を着け、燿く扉閉ざす後、
計略密に、ぬかりなきオヂュシュウスの許に行く。
息卷き猛き敵味方面して立てり、敷居のへ、
こなたは四人、堂の中かなたは多數、皆強し。
その時神女アテーネー、ヂュウスの愛女近よりぬ、
相好及び音聲(おんじやう)はさながら似たりメントール。
見て喜べるオヂュシュウス彼に向ひて陳じ曰ふ、

『あゝメントール、わが破滅救へ、善き事盡したる
汝の友を思ひでよ、われらの齡まだ同じ。』

人を鼓舞するアテーネー來ると猜し斯くいひぬ。
同じくかなた求婚の群かしましく聲を揚ぐ、
ダマストールの生める息、アゲラーオスは先づ叱る。

『ああメントール警めよ、オヂュシュウスに誘はれて、
我と戰ふこと勿れ、彼を助くること勿れ。
見よ見よ、我ら一同の願必ず成るべきぞ。
是ら無慙の父と子を、我ら一同斃す後、
此堂中に汝今たくらむ事の報とし、
汝同じく殺されむ、汝(かうべ)を失はむ
われ青銅の武噐を取り汝の(めい)を絶やす後、
汝の資財 -- 内なるも或は野外あるものも、
奪ひて之をオヂュシュウス持てる資財と混ずべし。
汝の子女ら館中にながらふ事を許すまじ。
汝の妻がイタケーの都市を逃るを許すまじ。』

しか陳ずればアテーネー、心おほいに憤り、
怒の言句叫びつゝ、オヂュシュウスを叱り曰ふ、

『あゝオヂュシュウス、汝今勇氣と力失へり。
玉腕白きヘレネーの故より九年長らくも、
トロイア人と戰ひて、あまたの敵を亂軍の
戰場中に打ち取りつ、或は希謀たくらみて、
街路の廣きイーリオン落せし汝今いかに!
おのれに館と領土とに歸り來りて汝今、
敵に對して勇なしと自ら思ひ悲しむや?
いざこゝに來てわが側に立ちてわが行爲(わざ)眺め見よ、
多數の敵に打向ひ、汝の先の恩惠を
今ぞ報ゆるメントール、アルキモスの子なすわざを。』

しかく陳じぬアテーネー、しかして未だオヂュシュウス、
テーレマコスに十分の勝利授けず、父と子の
勇氣と力ためすべく、念を凝せるアテーネー。
煙に暗き堂上の棟木にやがて飛びあがる
神女はすぐに身を變じ、[22-240]燕となりてそこに座す。

[22-240]一歌三二〇、三歌三七二。

ダマストールの生める息、アゲラーオスともろともに
ユウリュノモスは一同を勵ます、アムピメドーン又、
同じくデーモプトレモス、ペーサンドロス、更に又
ポリュクトールの生める息ポリュボス、 -- これら一同の
中に最も猛き者、命にために戰へり。
他ははやすでに剛弓と飛箭によりて斃れたり。
アゲラーオスは其時に衆に向ひて叫び曰ふ、

『あゝ同僚よ、彼は今恐るべき手を收むべし。
高言吐きてメントールはや出で行きて彼らのみ
あとに殘され眞先の戸口に立ちて戰へり。
汝らすべて一齊に大槍飛ばすこと勿れ、
中の六人眞先に飛ばせ、或はクロニオーン、
オヂュシュウスを疵つけて、我らに譽與へんか?
よしよく彼を斃し得ば、他は顧みる要あらず。』

しかく陳ずる言を聽き、一同やがて猛然と
槍と飛ばせり、然れども效あらしめずアテーネー、
槍のあるもの堅牢に築ける館の柱打ち、
又あるものは緊密に閉ざさる扉、あるものは
青銅重き鏃もて空しく壁につきさゝる。
かくて一同投げ飛ばす鋭き槍を遁れ避け
耐忍強きオヂュシュウス從者に向ひ叫び曰ふ、

『ああ同僚よ、汝らに我今命ず、求婚の
群に向ひて槍飛ばせ、彼らは先に犯したる
罪に加へて更に又我らを討つを志す。』

しかく陳じて同僚と共に鋭き槍飛ばし、
覘ひてデーモプトレモス射て斃したりオヂュシュウス、
ユウアリデース斃したるテーレマコスの相次ぎて、
ユウマイオスはエラトスを、ペ⌒サンドロスを牛飼は
斃せば彼ら一齊にうつぶし床にかみつきに、
殘りの敵は退きて堂の奧へと潛み去る、
こなたは急ぎ飛び出し、死屍より槍を引き拔きぬ。

やがて再び盛り返し、敵は一同猛然と
槍を飛ばしぬ、然れども效あらしめずアテーネー、
槍のあるもの堅牢に築ける館の柱うち、
又あるものは緊密に閉ざせる扉、ある者は
青銅重き鏃もて空しく壁につき刺さる。
アムピマコスは槍投げてテーレマコスの手首(たなくび)
掠めぬ、つらき青銅は皮膚のおもてを傷つけぬ。
クテーシポスの大槍はユウマイオスの盾の上、
肩を掠めて飛びこしてやがて大地の上に落つ。
その時聰きオヂュシュウス、ユウリダモスを打斃し、
アムピメドーンをテレマコス、ユウマイオスはポリュボスを、
打てり、しかして牛飼へる彼は打ち取るクテシポス、
其胸射りて傲然と彼に向ひて叫びいふ、

『ポリュテルセース生める子の汝叨りに罵りぬ、
さもあれもはや愚かにも高言放つこと勿れ、
言句を神に托せずや、神は遙かにいや優る。
わが英剛のオヂュシュウス館を廻りて乞へる時、
汝は彼に[22-291]牛の脚投げたり、酬今かくぞ。』

[22-291]二十歌二九九。

角の曲れる牛飼へる彼はかく曰ふ。オヂュシュウス、
ダマストールの子に近く大槍飛ばし打ち當てに、
ユウエーノール生める息、レオクリトスの側腹を、
テーレマコスは覘ひ射り、裏かく迄に貫けば、
がばと倒れてうつぶして額大地に打ちつけぬ。
折しも神女アテーネー、見る目もすごき[22-297]アイギスを
堂上高くうちかざし、衆の心をおびえしむ。
衆はかくして晝永き春の季節に蒼惶と
牛の一群とびかゝる(あぶ)に襲はれ逃ぐるごと、
慌てふためき館中を皆一齊に逃げ走る。
嘴曲がり爪曲がる荒鷲山を舞ひ下り、
小鳥の群を猛然と襲へば、群は平原に
沿ひて雲より遠く下に低く飛びつつ逃げて行く、
逃げ行く群を猛鳥は襲ひ屠れば防ぎなく、
遂に遁るる者あらず、眺むる目にはゆゆしかり。
斯くの如くに求婚の群館中を逃げ行くを、
四角八面襲ひ討つ、討たれてうめく一同の
頭割かれて淋漓たる紅血床に漲りぬ。
レーオーデースその時に走り來りてオヂュシュウス、
其膝抱き哀願の言句陳じて彼に曰ふ、

[22-297]イーリアスの五歌七三八以下詳説。

『オヂュシュウスよ、願はくは我を憐め、侮どるな、
我は言語に行に、此館中の女性らを
絶えて犯ししことあらず、他の求婚の群の中、
かく爲すものを我むしろ諫むることを勉めたり。
されども彼ら我が言を用ゐず、惡しき手を引かず、
かくして遂に兇行の報をかれら羸ち得たり。
かれらの中の占者たる我れ罪なくて逝くべきか!
過ぎし昨日の善行に感謝は遂にあらざるか!』

智謀に富めるオヂュシュウス目を怒らして答へ曰ふ、
『彼らの中の占者ぞと汝自ら稱ふるや?
さらば屡々館中に汝は祈り曰ひつらむ、
こゝに故郷にわが歸着、うれしきことのあらざれと、
王妃汝に伴ひて汝に子らを生むべしと。
つらき死滅をいかにして汝遁るることを得ん!』

しかく叫びて剛強の手に取り上げし()(つるぎ)
アゲラーオスが斃されて大地に棄てし利き劍、
こを振りかざし敵の頸まなか覩ひて斬りおろす、
斬られて叫ぶ彼の首落ちて塵中轉げゆく。

テルピアデース・ペーミオス、伶人強ひて迫られて、
かの求婚の群の側、歌ひし者は死を遁れ、
後門近く洋々の調いみじき豎琴を
手にして立ちて、兩樣に思を胸に廻らしぬ。
館逃れ出でおほいなるクロニオーンの堅固なる
祭壇 -- そこにその昔、ラーエルテース、オヂュシュウス、
炙りて神に牛の股捧げし(には)に坐すべきか?
急ぎ走りてオヂュシュス[シュスに⌒]の膝を抱きて乞ふべきか?
思案凝して末遂に彼は定めぬ、オヂュシュウス、
ラーエルテース生める子の膝を抱きて乞ふべしと。
斯くして彼は豎琴を、銀鋲うてる椅子及び
酒を混ずる大瓶の(あひ)に地上に横たへつ、
急ぎ走りてオヂュシュス[シュスに⌒]の膝を抱きて慇懃に、
哀しみ告げて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『オヂュシュウスよ、願はくは我を憐れめ、侮るな、
神明及び人間の前に吟ずる伶人を、
殺さば後におほいなる悲哀を君に及ぶべし。
我は獨學、師を持たず、あらゆる歌を神明は、
わが胸中に吹き込めば、神と君とに歌ひ得む、
かくある故にわが喉を斬らんと思ふこと勿れ、
しかして君の愛兒たるテーレマコスは陳ずべし、
われ此館に音づれて、酒宴の後に求婚の
群にわが歌謠ひしは、願に非ず、意にあらず、
我に優れる強力の多數に驅られ、しかせしを。』

しか陳ずるを力あるテーレマコスは耳にしつ、
近く佇む其父に向ひ、直ちに陳じいふ、
『彼は罪なし、青銅の(やいば)に彼を討つ勿れ、
更にメドーンを -- 館中に(いとけ)なかりし我れの身を
護りし僕を許すべし、ピロイチオスか、牧豚の
ユウマイオスか、今すでに彼を殺せしことなくば、
或は彼は館中に雄叫ぶ君に逢はざらば。』

しか陳ずるを怜悧なる僕のメドーンは耳にしぬ、
彼は新たに剥がれたる牡牛の皮に身を包み、
高椅子のもとすくだまり、死の運命を遁れ得き、
牡牛の皮を脱ぎ捨てて椅子の下より飛びいでし、
僕のメドーンはすばやくもテーレマコスの膝抱き、
哀願しつつ、翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『ああ君、我はここにあり、君は討たざれ、父君に
また告げよかし、彼の産盡くして君を愚かにも、
敬はざりし求婚の群憤る餘波として、
利き青銅の刄もて我が一命を絶たざれと。』

智謀に富めるオヂュシュウス、ほゝゑみ彼に陳じ曰ふ、
『憂ふる勿れ、わが愛兒、既に汝を助けたり。
かくして汝、心中に悟り、他に又説き得べし、
善の行爲は惡よりも遙かに優りすぐるるを。
いざ今汝、堂内を去りて出で行き、中庭に
屠殺の(には)を遠ざかり、坐せ、伶人ともろともに、
我は爲すべきわが業を此の堂中に終るべし。』

しか陳ずれば兩人は堂中辭して出でて行き、
偉なるヂュウスの祭壇のかたへに坐して、をちこちを
眺め、戰々兢々と絶えず一命危ぶみぬ。

はたまたこなたオヂュシュウスあまねく堂を見わたしぬ、
敵のある者運命を遁れて潛み居らずやと。
されど眺めぬ、一同が皆悉く斃れ伏し、
血汐と塵にまみるるを、譬へば漁夫が灰色の
海より其目細やかの漁網に曵きて、屈曲の
渚のうえに打揚ぐる魚群に似たり、鱗族は
群れて沙上に横たはり、激浪を戀ふる程もなく、
やがて赫燿日は照し、其生命を奪ひ去る、
斯の如くに求婚の群重なりて横たはる。

智謀に富めるオヂュシュウス、テーレマコスに向ひ曰ふ、
『テーレマコスよ、いざ行きてユウリュクレーア、忠實の
媼つれ來れ、胸中に思ふ所を語るべし。』

しか陳ずれば恩愛の父の言葉に從ひて、
テーレマコスは戸を敲き、ユウリュクレーア呼びて曰ふ、
『わが屋の中に一切の婢女を率ゐる老婦人、
ユウリュクレーア身を起し、こゝに來よかし、わが父は
汝を呼べり、胸中の彼の思ひを告ぐるため。』

しか陳ずれば老婦人、言語(はね)無く默然と、
華麗に住める其室の扉開きて現はれつ、
進めば之を導きてテーレマコスは先に行く。
老女は入りてオヂュシュウス、死躰の側に鮮血に
塗れて立つを眺め見る、野飼の牛を噛み殺し、
貪り盡し獅子王が現はれ來ると見る如し、
其獸王の胸及び左右の頬は、殺されし
無慙の牲の黯紅の血汐に染みて物凄し。
斯くの如くに[22-406]オヂュシュウス鮮血あびて物凄し。
言句にあまる血の流、死躰のすごさ眺め見つ、
さばかり猛き戰のありしを思ふ老婦人、
思はず聲を立てんじる、そを警むるオヂュシュウス、
彼に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

[22-406]「ゝゝ足と上なる手とが血に塗る」(直譯)足と手ばかりにあらざるべし。

『老女よ唯に胸中に喜べ、叫ぶこと勿れ、
殺害されし人々に向ひ誇るは聖からず、
これらをおのが惡業と神の命とは亡ぼせり。
地上に住める人間の善き者あるは惡き者、
彼らを訪ひて來し時に彼らは絶えて敬はず。
斯かる非道の報より彼ら無慙の死を遂げぬ。
さはれ、いざ、今、館中の女性につきてわれに曰へ、
我侮りしものは誰そ、罪なき者は又たそや?』

ユウリュクレーア忠實の媼は答へて彼に曰ふ、
『[22-420]育てし殿よ、一切の眞實我は陳ずべし。
君の館中奉仕する女性はすべて五十人、
或は羊毛(けづ)るべく、あるひは婢女の役すべく。
我は彼らの一切になすべき業を教へたり。
彼らの中の十二人、邪路に其脚ふみ入れて、
われを崇めず、更にまたペーネロペーアたうとばず。
テーレマコスの成人は未だ日淺し、母君は
彼に此らの女性らを指揮することを(とゞ)むなり。
さはれ我今、莊嚴の樓上さして上り行き、
王妃に曰はむ、ある神は彼に甘眠與へたり。』

[22-420]直譯すれば「わが子よ」、若し「若君」と譯さばテーレマコスと誤るべし。

智謀に富めるオヂュシュウス彼に答へて陳じ曰ふ、
『王妃を未だ起さざれ、先に非行を企てし、
女性らこゝに來るべく、汝まづ今行きて曰へ。』

しか陳ずれば老婦人、衆女に彼の命傳へ、
こゝに促がし來すべく堂中、過ぎて出でて行く。
しかして彼は今こなた、テーレマコスと牛飼と、
家豬飼ふ者を呼び集め、羽ある言句陳じ曰ふ、

『まづ女中らの手を借りて屍體を外に搬び去れ、
次に華麗の高倚子と卓の汚れを悉く、
海綿及び水をもて洗ひ流して清むべし。
しかして館を悉く整へ元に返す後、
固く築ける此堂の外に女中ら引き立てて、
[22-442]と庭の善き塀の(あひ)の空地に連れて行き、
長劍拔きて斬り斃せ、彼らの命奪ふ迄、
しかして彼ら竊やかに彼の求婚の群と共、
語らひ合ひし快樂の[22-445]アプロヂーテイ忘る迄。

[22-442]天上?不明。
[22-445]「戀愛」の抽象語を戀愛の神女に代ふ。「アレース」を武勇に換ふる如し。

しかく陳ずる程もなく女中らすべて一團に、
慟哭しつつ潸然と涙流して入り來る。
彼ら眞先きに斃されし死骸すべてを搬び行き、
善き塀のある中庭の柱廊のもと下ろし据ゑ、
死骸互ひにもたせ合ふ。親しく之をオヂュシュウス
令し迫りぬ、迫られて女中ら死屍を搬ぶ後、
次に華麗の高倚子と卓の汚れを悉く、
海綿及び水をもて洗ひ流して打ち清む。
テーレマコスと牛飼とユウマイオスはもろともに、
造營美なる館の土間、巧みに鋤に掻きならす、
其掻屑を女中らは戸外に搬び棄てさりぬ。
彼らは館を悉く整へ、元に返す後、
固く築ける堂の外、女中らすべて引きたてて、
トロスと庭の善き塀の(あひ)の空地に連れて行き、
脱れ出づべき術の無き手狹の場に閉ぢこめぬ。
その時、衆に聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ、

『我の頭に我が母の頭に誹謗被らせ、
求婚者と共に寢し此等耻なき女性らの
命を絶つに潔き利劍いかでか用ふべき!』

しかく陳じて彼は今、(へさき)緑の舟の綱、
とりて大なる圓柱に結び、トロス[22-466]に投げかけつ、
高くつりあげ、何人も足地に觸るを得ざらしむ。
翼の長き(つぐみ)また鳩が塒に急ぐ時、
藪の繁みに張られたる羅網にかかり、いたはしき、
最後の床に可憐なる其一命を絶つ如く、
女性ら共に一齊にならぶる頭、其めぐり、
輪索纒ひて悲慘なる最後彼らに遂げしめぬ。
足搖がして悶えしもただ寸時のみ永からず。

[22-466]442。

戸口、中庭打ち過ぎてメランチオスを引きて來し、
彼らは凄き刄もて彼の耳鼻切り落し、
更に陰部を切り取りて直ちに狗に喰はしめ、
怒りのあまり兩足を兩手を共に切り落す。
續きて彼ら兩足を兩手を共に水に洗ひ去り、
オヂュシュウスの館に來ぬ、業は終りぬ、遂げられぬ。
その時、主公、いとしめるユウリュクレーア呼びて曰ふ、

『媼よ穢を攘ふべき[22-481]齎らせ、わが館を
清めんために我に火を齎らせ、汝更にまた、
ペーネロペーア侍女と共にここに來れと命じ曰へ、
又館中の一切の女性らここに呼び來れ。』

[22-481]イーリアス十六歌二二八、硫黄を以て盃を清む。

ユウリュクレーア忠實の媼は答へて彼に曰ふ、
『育てし殿よ、是らをば君はいしくも宣へり。
さはれおん身に纒ふべく上衣下衣を今君に
我れ齎さむ、襤褸もて廣き雙肩掩ひつつ、
此館中に立つ勿れ、咎の種となりぬべし。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『何より先に堂中に我にまづ火を持ち來せ。』

しか陳ずれば忠實のユウリュクレーア從ひつ、
火と硫黄とを齎らしぬ、オヂュシュウスは是をもて、
廣間を館を中庭を皆悉く淨め得ぬ。

老女はやがて華麗なるオヂュシュウスの館過ぎて、
行きて[22-496]衆女に命傳へ、促し、來り進ましむ。
衆女はやがて松火を手に携へて出で來り、
オヂュシュウスを取り圍み、悦び迎へ、かき抱き、
彼の頭に、雙肩(もろかた)に、雙手(もろて)に觸れつ、口つけて、
その慇懃の情洩らす。衆女すべてを認め得し
主公を、泣きて嬉しまむ甘美の願打捕ふ。

[22-496]前文四一五、罪無き者。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第二十三歌


第二十三歌

ユウリュクレーア行きて王妃に主公の歸着を報ず(一 - 八四)。 王妃促され、出で來りて主公に面すれども未だ信ぜず(八五 - 一一六)。 其間オヂュシュウスは館中の殺害の報、外に洩れざるやう、計りて衆人に歌舞せしむ(一一七 - 一五一)。 オヂュシュウス浴して華衣を纒ひて王妃に面す、王妃は確かの證を得て始めて十分に信じ大歡喜す(一五二 - 二三〇)。 兩人の歡話、テーレシエースの預言の話(二三一 - 二八八)。 歡會の後オヂュシュウス十年の漂浪を物語る(二八九 - 三四三)。 臥床を離れてオヂュシュウス、老父を農園に訪はんとてテーレマコスらと共に出發(三四四 - 三七二)。

その時、老女嬉々として笑ひさざめき、樓上る、
良人正に館中にありと王妃に告ぐるため、
膝はすばやく動けども脚は屡々躓きつ、
行きて王妃の枕許立ちて即ち陳じ曰ふ、

『ペーネロペーア、はしき君、起き出でたまへ、永らくも
常に憧れ望みたる其事(まみ)に見んがため。
遲かりしかど此館にオヂュシュウスは歸り來ぬ。
館を惱まし、産盡し、テーレマコスを虐げし
かの驕傲の求婚の群を彼今斃したり。』

ペーネロペーア、聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『媼よ、汝を神々は狂はしめたり、神々は
すぐれて敏き(ともがら)を愚物に變じ、更に又、
思慮無きものを分別の道に進むる力あり。
先には思慮の堅かりし汝を彼ら(そこな)へり。
何故汝亂言を吐きて、悲哀に閉ざさるる
われをかく迄愚弄する?何故我を捕へつつ、
瞼蓋へる甘眠を破りて我を目覺すや?
言に盡せぬ忌はしのイリオンさして、オヂュシュウス
立てるこのかた、我未だかかる甘眠なかりけり。
いざ今汝樓降り女性の室に歸り去れ。
我に仕ふる女中らの中のある者、かかること
來りて告げて、眠より我驚かし醒しなば、
我はたゞちに荒らかに叱りて室に歸るべく
命ぜしならむ、汝をば老に免じてしかなさず。』

ユウリュクレーア、はしき媼、答へて彼に陳じ曰ふ、
『いとしの君を我いかで愚弄なすべき!しかはあれ、
オヂュシュウスは正しくも我曰ふ如く内にあり、
彼らが先に館中に辱しめたる客は彼れ、
テーレマコスはとくよりも彼れ館中にあるを知る、
されども彼は、細心に父の計略隱しにき、
かの驕傲の(ともがら)の非道の懲らし得んがため。』

しか陳ずれば喜びて王妃は床を飛び離れ、
老女を抱き澘然(さんぜん)と雙の(まみ)より涙埀れ、
彼に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、
『いとしの媼よ、我に今眞を打明け語れかし。
正に汝の曰ふ如く良人歸り來しならば、
只身一人に如何にして、耻なき彼ら求婚の
群に其手を加へ得し?彼らは常に多數なり。』

ユウリュクレーア、はしき媼、答へて彼に陳じ曰ふ、
『我は見ざりき、問はざりき、ただ殺されし(ともがら)
(うめき)を聞きて、堅牢に築ける家の奧深く、
戸の緊密に閉さるる中に恐れて坐し居たり。
テーレマコスは -- 君の子は -- やがて來りてわれ呼びぬ、
オヂュシュウスの命により、我を呼ぶべく彼は來ぬ。
呼ばれて行きて、オヂュシュウス死屍の間に立つを見ぬ、
(獅子の如くに鮮血に塗れて立つを我は見ぬ。)
彼らは堅き床の上、彼を廻りて倒れ伏し、
重なり合ひて横たはる、君もし見なば喜ばむ。
死躰はすべて中庭の門のほとりに集められ、
彼は華麗の館内を硫黄を用ゐ、火を起し、
淨め、しかして又君を呼ぶべく我を遣はしぬ。
いざ今我に附き來れ、二方(ふたかた)共に數々の
苦難忍べり、今こそは心歡喜に入るべけれ。
長きに亙り願はれし事今すでに遂げられぬ、
主公は家に恙なく歸り來りて君および
彼の愛兒を眺めたり、無禮に彼を虐げし
求婚の群一切を彼れ館中に亡せり。』

ペーネロペーア聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『媼よ愼め、嬉々としてさざめき誇ること勿れ。
汝知るべし、館中に彼の歡迎いかばかり、
中にも我を我子との喜びいかに、汝知る。
さもあれ汝曰ふ所、(まこと)の言と思はれず、
かの求婚の(ともがら)を驕慢及び惡行を
怒りて不死の神明のあるもの之を亡せり。
[23-65]地上地上に住める人間の善き者あるは惡しき者、
彼らを訪ひて來し時に彼らは絶えて敬はず、
邪行の故に禍を彼らは受けぬ。オヂュシュウス
さはれ歸郷を失へり、彼自らもはや逝けり。』

[23-65]二二歌 四一四 - 四一五。

ユウリュクレーア、はしき媼、答へて彼に陳じ曰ふ、
『齒の防壁を洩れいづる何らの言ぞ!はしき君
(ゐろり)の側に良人の今ましますを知らずして、
歸りこずとは何事ぞ!疑常に深き君!
さらば、いざ他の明らかの證據を君に語るべし、
眞白き牙に猛き()が、彼を噛みたる傷痕(きづあと)を。
主公の脚を洗ふ時、我明かに之を見て、
君に告げんと願へりき。されども彼は大智もて、
其手を揚げて我に口、塞ぎて言を抑へたり。
いざ附き來れ、一命を賭けつつ我は盟ふべし、
我もし君を欺かば、われを無慙に殺せかし。』

ペーネロペーア、聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『媼よ、いかほど賢くも常住不死の神明の
深き心を探ること汝の身には叶ふまじ。
さはれ、ともかく今行きて愛兒に逢ひて求婚の
群の死躰を眺むべし、殺せる人を眺むべし。』

しかく陳じて高樓をおりくる王妃、心中に
種々に思へり、良人に離れて物を問ふべきか?
(かたへ)に立ちて彼の手に頭に口を附くべきか?
やがて堂中進み入り、石の敷居を通り過ぎ、
オヂュシュウスと相向ひ、照らす火光のたゞ中に
こなたの壁に添ひて坐す、夫はかなた巨大なる
柱の前に見下して坐しぬ、親しく(まみ)に見て、
すぐれし王妃何事か曰ひいだすやを期待しぬ。
されども彼女驚愕に打たれて坐して物曰はず、
時には彼の面影をまことに眺め認めしも、
時には襤褸纒りたる彼を信ずることを得ず。
テーレマコスは斯くと見て母を叱りて叫び曰ふ、

『あはれ母人無情なり、心なにとて斯く硬き?
何故父に離るるや?何故彼の側に坐し、
口を開きて問はざるや、あらゆる事を聞かざるや?
多くの禍難身にうけて春秋めぐる二十(たび)
かくして郷に良人の歸り來る時、(かたくな)
心固めて近よらぬかかる女性は他にありや?
あはれ母人、石よりも硬きは君の心なり。』

ペーネロペーア、聰明の王妃答へて彼に曰ふ。
『愛兒よ、我に胸中に心は痛く驚けり。
我は物曰ふことを得ず、又問ひ正すことを得ず、
まともに彼の面影を眺むるを得ず、故郷(ふるさと)
歸り來りしオヂュシュウス、果して眞に彼ならば、
我ら互に善く知る(すべ)あらむ、他の人に
[23-110]知られず、唯に二人のみ知れる一つの證據あり。』

[23-110]下文一八八前後に曰ふところ。

耐忍強きオヂュシュウス、其言聞きて微笑みつ、
テーレマコスの速かに羽ある言句陳じ曰ふ、

『テーレマコスよ館中に我をためすを母人に、
許せ、然らば速かに確かに母は悟るべし。
垢に塗れて見苦しき襤褸をわれの纒ふため、
彼女は我を侮りて我を主公と認め得ず。
(それはさて措き)最善の道をいまはた究むべし。
衆民の一人を、ある他の者が殺す時、
其一人の仇報ふ友は頗る乏しくも、
殺せる者は親戚と祖國をあとに逃るべし、
況んや我はイタケーの青年中の最優者、
都市の柱石殺したり。これに關して熟慮せよ。』

彼の答へて聰明のテーレマコスは陳じ曰ふ、
『熟慮は父よ、君の任、人々は曰ふ、君よりも
優れる智慮は世に無しと、死して朽つべき人間の
中の誰しも智に於て君に競ふを得べからず。
情念切に我今は君もろともに進むべし、
我敢て曰ふ、凛々の勇氣いささか身に缺かず。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『然らば我は最善と思ふ處を陳ずべし。
眞先に汝湯浴(ゆあみ)して華麗の衣、身に着けよ、
また館中の女性らに美服纒へと命じ曰へ、
手の玲瓏の豎琴をとりて尊き伶人は、
興味豐かに舞ひ踊る衆一同を率ゆべし。
然らば道を通る者、あるひは近く住める者、
外より之を聞き取りて婚儀の宴を思ふべし。
然らば我に農園の樹木の繁り訪はん前、
かの求婚の(ともがら)の屠殺の報は都市中に、
廣く傳はること無けむ。かしこに行きてもろともに、
何らの策をクロニオーン惠むや?思ひめぐらさむ。』

しかく陳ずる其言句聞きて一同從ひつ、
眞先に湯浴み、身を淨め華麗の衣纒ふれば、
女性ら共に身を飾る。手に玲瓏の豎琴を
取る神聖の伶人は彼らの胸に甘美なる
歌の願を、面白き舞の願を起さしむ。
やがて舞踊の男子らと帶美はしく女性らの
足ふみならす饗より巨大の館はどよめきぬ。
其どよめきを館の外、聞きたる者は陳じ曰ふ、

『さては多數の曰ひ寄りし王妃は婚せしな!
無慙なる哉、契り來し其良人の歸る迄、
操を通し、其館を守り保つを敢てせず。』

事の眞相知らざりしあるもの斯くは陳じ曰ふ、
その()に家事の司なるユーリュノメーは、館中に
オヂュシュウスを浴せしめ、身に橄欖の油塗り、
華美の外衣と下着とを肌の廻りに纒はしむ。
しかして神女アテーネー、彼の頭に美を注ぎ、
前より更に(たけ)高く、又逞しく見えしめつ、
ヒュアキントスの花のごと捲毛豐かに埀れしめぬ。
神女パルラス・アテーネー、ヘープァイストスとろともに
あらゆる技巧授けたる勝れし(たくみ)、白銀の
上に黄金引きのばし、いみじき作を成す如く、
彼の頭と雙肩に優美の影は投げられぬ。
かくて浴場出で來る姿は神を見る如く、
前に坐したる高倚子に再び倚るて欣然と、
妻に正面(まとも)に相向ひ、羽ある言句陳じ曰ふ、

『竒怪なるかなオリュンポス住める神明、一切の
女性を越して冷酷の心汝に與へたり。
多くの禍難身に受けて春秋廻る二十(たび)
斯くして郷に良人の歸りくる時、(かたくな)
心固めて近よらぬ斯る女性は他にありや!
媼よ、わが爲め床を敷け、我其上に休らはん、
ああ此女性、胸中の心鐡より成れりけり。』

ペーネロペーア聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『怪しき君よ、聊かも我は君をし重く見ず、
また輕んぜず、驚かず。君もし眞に彼ならば、
イタケーよりし船出せし君の御姿よく知れり。
そはともかくも、はしき媼、ユウリュクレーア、彼の爲め、
床を敷けかし、堅牢の彼の造れる(しつ)()に、
そこにしつらふ床の上、羊毛及び燿ける
華麗の氈を、もろ〜の夜具を殘らず備へせよ。』

その良人を試すべく、しか陳ずればオヂュシュウス、
憤然として聰明の妻に向ひて叫び曰ふ、

『女よ、汝斯く迄も無情の言句吐きしよな!
我が床他所に移せるは何者なりや?神來り、
其意の儘に容易くも之を移すに非ずんば、
しかすることは熟練の人にとりても難からむ。
死して朽つべき人間の誰しも、若く強くとも、
之を動かすことを得ず、よく造られし床のへに、
大なる記號施さる、しか爲したるは正に我れ。
柱の如く巨大なる幹を有せる橄欖樹、
緑葉繁く中庭の中に梃々そばたちき。
之を廻りて閨房を石を竝べて築き建て、
仕上げて上に堅牢の屋根を葺きつつ、更に又、
よく緊密に組み上げし扉を之に附け足しぬ。
しかして次に橄欖の緑葉しげる枝を剪り、
青銅の斧根元まで樹幹の皮を剥ぎ去りつ、
巧みに之を滑かに削り、尺度におしあてて、
床の柱と直くしつ、錐を用ゐて孔穿ち、
始は斯の如くして、遂に臥床を造り上げ、
象牙と銀と黄金を用ゐて之の飾とし、
紅紫かがやく牛王の革紐これに延し張りぬ。
汝に示す證は斯く。しかはあれども我知らず、
かの床今もその儘にありや、あるひは何人か、
すでにかの樹の幹切りて別所に移し去りたりや。』

オヂュシュウスの陳じたる確かの證據認めたる
王妃、其時其(には)に膝と心とくづほれつ、
涙流して駈け寄りて雙の(かいな)を良人の
頸に投げ掛け、其口を頭に附けて叫び曰ふ、
『ああオヂュシュウス、他の事に人中最も賢かる、
君今怒ること勿れ、我ら二人の添ひ遂げて、
若き盛りを樂しみて、やがてもろとも老境に
入るを妬める神々は、此らの苦難齎らせり。
初めに君を見たる時斯くの如くに悦びて、
迎へざりしを今更に君願はくは怒らざれ。
我を訪ひ來る人間のある者、甘き言句もて
欺くことを恐れつつ、胸の中なるわが心、
常に震へり、惡行をたくらむ者の多ければ。
〔[23-218]クロニオーンの生みなせるアルゲーエーのヘレネーも、
他日再び其郷に、武勇秀づるアカイアの
子らに連れられ、歸るべき運命知らば、外邦の
人の(かたへ)に愛慾の床に就くことなからまし。
耻づべき行爲犯すべく、[23-222]或る神彼を誘へり。
我ら二人の悲しみの基となりし狂妄の
思を、彼女そのはじめその胸中にもたざりき。〕
さはれ君今わが閨の記號委細に物語る、
他の何人も此祕密嘗て眺めしことあらず、
こそ知る者は君と我、更に一人の侍女ばかり、
嫁ぎし時にわが父がわれに與へし一女性、
そはアクトール生みしもの、閨の扉を守るもの、
今こそ硬きわが心君の御言にくづほれる。』

[23-218]以下二二四行迄アリスタルカスは省く。前後に關係なし、無用なり。
[23-222]アプロヂーテー。

しか陳ずれば哀慟の思今更いや増す
彼は、嬉しき聰明の妻を抱きて涙埀る。
狂へる風と大波に吹き亂さるる堅牢の
舟を怒りのポセードーン、大海原に碎く時、
辛くも波浪逃れたるたゞ少數の船人は、
身に鹽垢を塗らして泳ぎて岸につくを得つ、
九に一生を贏ち得て岸を上る時、
欣然として陸上の姿眺めてうれしめる、
まさしく斯くも良人をペーネロペーア眺め得て、
うれしみ、頸の廻りより玉の腕を離し得ず。
うれしみ泣ける兩人の上に、薔薇の色の指
持てる神女は出でつらむ。されど明眸アテーネー、
計りて長き「夜」の旅(とゞ)め、同じく黄金の
倚子の神女を干漫のオーケアノスの岸の上、
留め光を人界に持ち來すべき駿足の
[23-246]ラムポス及びペートーン、雙馬御すを得ざらしむ。

[23-246]「光る者」と「照す者」。

智謀に富めるオヂュシュウスその時妻に陳じ曰ふ、
『妻よ、すべての爭ひの結果未だし近づかず、
後に無量の苦難あり、辛くて多し、然れども、
その一切を悉く成し終ることわれの任。
我と伴との還郷を求めてむかし冥王の
宮に親しく降りたる、其日にわれに慇懃に
テーレシエース[23-253]陰靈が述べし預言は斯くありき。
(そはさておき)今はいざ、閨に行くべし、はしき妻
そこに寢ねつつ甘美なる眠の郷に入らむため。』

[23-253]

ペーネロペーア、聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『臥床は君の望む儘、忽ち設け得らるべし、
神明すでに君をして祖先の郷に、堅牢に
築ける館に、恙なく歸り來るを得せしめぬ。
さもあれ神が告げ示し、君が心に銘じたる
その難題を聞かまほし、後にいたりて聞くもよし、
さもあれ今に速かに聞き得ることは惡しからず。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて妻に陳じ曰ふ、
『訝かしきかな、いかなれば汝は切に我をして
此らの事を述べしめる?汝の心、わが心
うれしむ事にあらねども、さはれ包まず語るべし。
テーレシエース陰靈はわれに命じき、櫂を手に
とりて遍く人間の造れる都市を巡り行き、
かくして末に海洋を見たることなく、食物に
鹽を混ぜぬ不思議なる人種の郷に行くべしと。
此らの民は紅に頬を染めたる船知らず、
船の翼と稱ふべき佳良の型の櫂知らず。
彼又我に明かの徴しをのべき、今告げむ。
彼は命じぬ、我が旅に他の旅人の出で逢ひて、
わが逞ましき肩の上其箕を擔へりと曰はん時、
其時櫂を地の上に植ゑて、しかしてポセードーン、
海を領する大神に、牡羊牡牛更に又、
牝を挑む家豬、牲として捧げまつりて然る後、
祖先の郷に立ち返り、廣き大空領とする
その諸の神明に順に從ひ、神聖の
牲を宜しく捧げよと、然らば海を遠ざかり、
絶えて苦痛を伴はぬ死は來るべし、老境に
靜かに沈むわが上に。我を廻りて衆民は
榮え富むべし、かゝる事皆成るべしと彼曰ひき。』

ペーネロペーア聰明の王妃答へて彼に曰ふ、
『神明、君に前よりも優る老境來らさば、
然らば禍難遁るべき君の望みは豐かなり。』

斯る事ども彼と此二人互ひに陳じ合ふ、
ユウリュノメーと老いし媼、火光燿く松火の
下温柔の夜具の床、貮人のためにしつらへぬ。
斯くて急ぎて床のべて、老いし女性は其室に
退き歸り、自らも臥床の上に横はる。
ユウリュノメーは閨の侍女、今松火(たいまつ)を手に持ちて、
オヂュシュウスと王妃とを設けし床に導きぬ、
床に導き終る後侍女また室に退けば、
馴れし昔の閨房に二人樂しく進み入る。
テーレマコスと牛飼とユウマイオスは、舞ひ踊る
脚を停めて、女性らに同じく共に停めしめ、
夜陰の暗の迫り來る廣間の中に横はる。

こなた二人は歡會の愛に飽く迄浸る後、
喃々として相語り、[23-301]融々とすて樂めり。
女性の中にすぐれたる王妃は語る、館中に
忍び堪へしを、求婚の無慙の群を眺めしを、
王妃を種に彼の群は牛羊多く屠りしを、
又其故に貯藏せる瓶より美酒の酌まれしを。
ヂュウスの裔のオヂュシュウス、勇士は語る、幾何の
災難人に被らせ、同じくおのれ辛勞の
數々嘗めしいにしへを、王妃は聞きて樂しみつ、
あらゆる話畢る迄、(まぶた)「埀」降り來ず。
話始まる、最先(いやさき)は[23-310]キコネス族を討ちしこと、
次に[23-311]ロートス常食の豐かの郷に入りしこと、
[23-312]キュクロープスの爲せる業、無慘に彼の勇ましき
部下を喰へる報とし痛く(かたき)を取りしこと。
次の話は[23-314]アイオロス訪ひしことども -- 迎へられ、
送られたれど彼になほ運命未だ還郷を
許さず、又も襲ひ來し颶風はいたく悲しめる
彼を鱗族群がれる海上搬び去りし事
其次ぎ[23-318]ライストリュゴネス、其民族の都なる
テーレピュロスに辿りしに、彼らは船と堅甲の
部下を斃して、オヂュシュウス一人僅かに逃げしこと、
次には妖女[23-321]キルケーのたくらみ深き物語、
次には漕座あまたある船に乘じて[23-322]冥王の
小暗(おぐら)き宮に進み入り、テーレシエース -- テーバイの
靈に物問ひ、又そこに逝ける昔の友に逢ひ、
幼き昔いつくしみ愛せし母に逢ひしこと、
之に續きて更に又[23-326]セーレーネスの玲瓏の
歌をききたる物語、[23-327]動ける巖、恐るべき
カリブデースとスキュルレー、害を受けずに人間の
逃れし(ためし)無き場に到れる話。[23-329]ヘーリオス
其神牛を部下の者屠れる故に、天上の
クロニオーン霹靂を飛ばし、一同悉く
斃し亡ぼし、彼ひとり死を免れし物語。
[23-333]オーギュギュエーの島の上次に着きしに、カリュプソー、
あるじの仙女空洞の中に養ひ、引き留め、
彼を夫となさんとし、長く久しくとこしへに、
不老不死の身たるべく甘言のべて誘ひしも、
歸郷念ずる胸中の彼の心に觸れざりき。
話は續く、難を經て、[23-338]パイエーケスの國につく、
そこに衆人慇懃に神の如くに尊びて、
青銅、黄金、數々の衣服を贈り、舟仕立て、
彼を祖先のなつかしき故郷に歸り來らしむ。
これを最後の言として話は終り、甘美なる
眠襲ひて四肢ゆるめ胸の煩ひ解き放つ。

[23-301]左傳隱公元年。
[23-310]九歌三九以下。
[23-311]九歌八二以下。
[23-311]九歌五一六以下。
[23-314]十歌の初め以下。
[23-318]十歌八十以下。
[23-321]十歌一三三以下。
[23-322]十一歌。
[23-326]十二歌一八五以下。
[23-327]十二歌二三四以下。
[23-329]十二歌三五〇以下。
[23-333]十二歌四五〇以下。
[23-338]五歌二六二以下、六歌、七歌、八歌。

藍光の目のアテーネー、其時一事思ひ立つ、
其閨房の樂しみと睡と既に滿ち足ると、
オヂュシュウスを思ふ時、神女たゞちに黄金の
高き座による曙の神、オーケアノスのあなたより
起し來りて、光明を世に傳へしむ、オヂュシュウス
今温柔の床離れ王妃に向ひ陳じ曰ふ、

『妻よ我らは十分の勞苦をすでに味ひぬ、
汝のこゝに居殘りて苦しく我の還郷を
思ひ惱みし其間ヂュウス並に他の神は、
歸郷の思ひ切なりし我を禍難に囚へたり。
されども長き憧憬の閨に倶なる今日よりは、
汝勉めてわが家の産に心を向けよかし。
かの驕慢の求婚の群は羊を屠りたり、
さほどを我は掠奪に囚り補はん、アカイアの
衆亦われに施してわが獸欄を滿たすべし。
さはれ我今樹ゝ繁るわが農園に赴きて、
わが爲め痛く悲しめる尊き父にまみゆべし。
汝の怜悧認むれど別れに臨み曰ひおかむ、
わが館中に屠りたるかの憎むべき求婚者、
彼らについて風評は旭日と共に擴まらむ。
侍女を伴ひ樓上に登りて汝そこに座せ、
誰をも見やること勿れ、誰にも物を問ふ勿れ。』

しかく陳じて華麗なる武具雙肩の上につけ、
テーレマコスと牛飼とユウマイオスを呼び起し、
すべてに命じ手の中に各々利噐を握らしむ。
一同やがて命を聽き、青銅をもて武裝しつ、
門を開きて出でて行く、オヂュシュウスは導けり。
地上にすでに光明は臨めり、されどアテーネー、
暗の間に隱しつつ衆を都市よりつれ出しぬ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:第二十四歌


第二十四歌

神使ヘルメース求婚者らの亡靈を冥府に導く(一 - 一四)。 そこに先に行けるアキリュウス等の靈あり、アキリュウスとアガメムノーンの問答(一五 - 九八)。 求婚者らの亡靈の一、アムピメドーンとアガメムノーンの問答(九九 - 二〇四)。 ラーエルテースの農園を訪ひてオヂュシュウス私かに老父の擧動を視、やがて進んで彼に語る、 されど未だ身を明かさず(二〇五 - 二七九)。 老父の悲哀とオヂュシュウスの造話(二八〇 - 三一四)。 老父の慟哭を見るに耐へず、遂に身を明かす。老父の狂喜(三一五 - 三四九)。 祝宴(三五〇 - 三八六)。 老僕ドリオス、諸息子をつれて宴席に入り來る(三八七 - 四一二)。 求婚者らの殺害の報市中に擴まる(四一三 - 四二一)。 アンチノオスの父ユウペーテース市民に復讐を叫ぶ(四二三 - 四三八)。 メドーン及ハリテルレース之に反對す(四三九 - 四六二)。 されどユウペーテース多數を率ゐて進撃す、神女アテーネーの助によりてラーエルテース槍を飛ばして彼を斃す(四六三 - 五二八)。 神女兩軍に和解を命ず(五二九 - 五四八)。

[24-1]キュルレーネーのヘルメース、今求婚の群の魂
呼びぞ起せる、彼は手に黄金製の華麗なる
杖を握りて、是をもて思ふが儘に、人の目に
觸れて眠らせ、時に又眠れる者を目醒めしむ。
こをもて起し驅り行けば、悲鳴を揚げて群は行く。
暗き神祕の洞の奧、連り懸る蝙蝠の
中の一匹巖より落つれば、彼ら呻き鳴き、
高きに飛びて羽敲きて互に接し寄る如く、
魂は一同呻きつつ行けば導くヘルメース、
之を助けて陰慘の小暗き道を通り行く。
オーケアノスの流過ぎ、又リューカスの岩を過ぎ、
エーエリオスの門を過ぎ、又「夢」の國過ぎ行けば、
アスポーデロス咲き匂ふ野邊に程なく來り着く、
此世を去れる者の影、幽魂こゝを宿となす。』

[24-1]ヘルメーアス神の生れし處、アルカヂアの山。

着きて彼らは[24-15]見出しぬ、ペーレーデース、アキュリュウス、
パートロクロス、勝れたるアンチロコスの魂を。
更に又見るアイアース、彼の躯幹と相好は、
アキュルリュウスを外にそてダナオイ中の最たりき。
アキルリュウスを取り圍み諸靈すべては群がりぬ。
アガメムノーン、權勢のアトレーデ⌒スの幽魂は、
アイギストスの家の中、彼もろともに殺されし
諸人の魂を伴ひて、嘆き乍らに近寄りぬ。
アキルリュウスの陰靈は彼に向ひてまづ語る。

[24-15]二十行以下九十八行迄は十五行「見出しぬ」の前にありしこと。

『アトレーデーよ、轟雷のクロニオーンは、一切の
人に優りてとこしへに君を愛づとぞ人曰ひき、
アカイア勢の惱みたるかのトロイアの郷にして、
勇士多數に號令を君の下せる故をもて。
さはれ眞先に君の上、死の運命は襲ひ來ぬ、
生きとし生ける者は皆其運命を遁れねど。
ああトロイアの中にして王者の榮うけし君、
榮の中に運命と死とに出逢はゞよかりしを。
さらばすべてのアカイオイ、君に墳墓を築くべく、
君は子孫に後世に光榮傳へ得たりけむ。
さはれ無慘の死に因りて逝くべき君の命なりき。』

アトレーデ⌒スの幽魂は答へて彼に陳じ曰ふ、
『[24-36](さち)なり、汝、神に似るペーレーデース・アキリュウス。
アルゴス遠く離れ來てトロイアの地に逝ける者、
トロイア、アカイア兩軍の勇士汝のしかばねを
爭ひ、爲に斃れたり、汝沙塵のうづまきの
中に偉大の身をさらし、軍馬忘れて打伏しぬ。
終日われら戰へり、颶風起してクロニオーン、
停むることのなかりせば、戰ひ果てやなかりけむ。
やがて汝のしかばねを戰場よりし船の上、
搬びて臺に横たへつ、香油と湯とに美麗なる
膚を淨めて其めぐり、熱き涙を澘然(さんぜん)
ダナオイ諸人振り落し、其毛髮を截り取りぬ。
悲報を聞きてわだつみの底より、神母一團の
海の仙女を從へて現はれ出でつ、叫喚は
凄く波上にとゞろけば、アカイア軍は恐ぢ震ひ、
脚わななかし駈け出し、皆船中に行かんとす。
されども是をネストール、智は最上と評せられ、
古りにし事の數々を知れる者こそ停めたれ、
その慇懃の心より衆に向ひて彼は曰ふ、

[24-36]十一歌四八三前後。

『留まれ汝、アカイオイ、逃るる勿れ若き子ら、
海の底より不滅なる仙女の群を伴ひて、
アキルリュウスの屍を見るべく、[24-56]神母來るなり。』

[24-56]イーリアス十八歌三十七前後神母テチス仙女の群を伴ひてパトロクロスを哭せるアキリュウスを訪ふ。

しか陳ずれば剛勇のアカイア軍は畏怖をやむ。
海の老翁父とする仙女ら汝取り圍み、
痛く嘆きて不滅なる靈衣汝に纒はしむ。
更に九名の[24-60]ムーサイは音玲瓏の聲あげて、
互に應へ悲しめり、[24-61]アルゲーオイの中にして、
涙を埀れぬ者あらじ、歌神の力斯くありき。
日夜重ぬる十と七、死して朽つべき人間も、
天上不死の神明も共に汝を悲しめり。
十八日目炎々の焔汝の(から)を燒き、
肥えし羊と角曲る牛の多數は傍に
屠らる。かくて神明の衣と香油、甘き蜜、
包みて塗りて(から)燒ける火焔のめぐり、アカイアの、
歩兵と騎兵、數多き勇士各鎧ひつつ、
其行進を始むれば、轟音高く湧き起る。
ヘーパイトスの炎々の火焔汝を燒き了へし
(あけぼの)に、アキリュウス、汝の白き骨集め、
神母與へし黄金の瓶中これを一同は、
純酒香油の中に漬く、ヂオーニューソスその初め
與へたる瓶、神工のヘーパイストスの作と曰ふ、
此寶瓶の中にこそ汝の骨は納まるれ、
メノイチオスの生める息、パトロクロスの骨ともに、
(アンチコロスの骨は別、パトロクロスを除きては、
彼を汝は一切の友に優りてめでたりき。)
此らの上にアカイアの槍に勝れし軍勢は、
ヘレースポントス海峽に臨み、突き出し岡の上、
ひとつの墳墓、莊麗に大なるものを築きあぐ、
今生ける者又後に來らん者の一切が、
海上遠くかなたより眺むることを得んがため。
やがて其後諸神より汝の母は佳麗なる
品を求めてアカイアの勇士競技の場に置く。
屡々汝英雄の葬儀の席にありつらむ。
とある王者の死せる時、其弔禮に武裝して、
若き人々勇しく技を競ふを見しならむ。
さはれ汝の名にために、脚は[24-90]銀色玲瓏の
神母テチスの齎らせる此等華麗の賭物を、
見ば驚かむ、かく迄に神は汝を愛でたりき。
斯くの如くに汝善く死後にも其名失はず、
つねに我には戰の終りて、何の喜ぞ?
われの歸國にクロニオーン、アイギストスの手の許に、
憎き姧婦の手の下に、無慙の破滅工らめり。』

[24-60]ムーサイはホメーロス作中たゞこゝにのみ九名とのべらる。
[24-61]其名はヘーショットの「テオゴニイ」七六に初めて擧げらる。
[24-90]ホーマー詩中「銀色の脚」と歌はるるはテチスのみ、後世の詩人はアプロヂーテーにも之の句を用ふ。

斯くの如くに斯る事彼ら互に陳じ合ふ、
其時アルゲーポンテース、オヂュシュウスに殺されし
求婚者らの魂率ゐ[24-100]彼らの側に近よりぬ。
之を眺めて驚ける二靈急ぎて進み來つ、
アトレーデース、權勢のアガメムノーン其魂は、
むかしイタケー訪ひし時、迎へて彼をもてなせし
メラネウスの子、(はえ)ありしアムピメドーンを認め得つ、
アガメムノーンの靈は先づ彼に向ひて陳じ曰ふ、

[24-100]第十五行。

『何事ありて地の底にアムピメドーンよ、降り來し、
齡等しき撰拔(えりぬき)の群と我見る、都市の中、
勝るる者を拔くとせば、斯く拔く外に(すべ)あらず。
暴き嵐と大波を起して、荒ぶ海の上、
船の中なる汝らを、ポセーダーオン斃せしか?
あるは汝ら陸上に、牛をあるひは氈毛の
美なる羊を奪ふ時、あるひは都市と婦女子らを
敵人守り防ぐ時、汝を彼ら斃せしか?
委細を我に語れかし、汝の客と我れ名のる。
イリオンさして漕座善き船のへ共に進むべく
オヂュシュウスに説かんとし、メネラーオスともろともに、
汝の家を訪ひし我、汝は既に忘れしか?
全く一月過ぎし後、始めて海を渡り得き、
都市の破壞者オヂュシュウス、説き伏すことは難かりき。』

アムピメドーンの陰靈はその時答へて彼に曰ふ、
『アトレーデース、權勢のアガメムノーン、民の王、
ヂュウス育てし君がいふこれらの事を皆覺ゆ。
我亦君に一切を委細くはしく語るべし。
我らの破滅のいたはしき最後を君に語るべし。
永き不在のオヂュシュウスの(きさき)に我ら曰ひ寄りぬ、
彼は厭へる求婚を拒まず、されど成し遂げず、
死滅と暗き運命をわれらに向ひ(たくら)みつ、
一つの竒策逞ましく其胸中に思念しつ、
その室内におほいなる織機立てて、幅廣き
絲細やかの帛を織り、すぐに我らに陳じ曰ふ、

『我に曰ひ寄る若人ら、オヂュシュウスは身まかれば、
汝ら婚をあせるとも、我れ此機を終ふる迄、
忍びこらへよ、此絲の空しくなるぞ我に憂き、
ラーエルテース老雄の葬衣今こそ我は織は、
死の物凄き運命はやがて彼を捕ふべし。
多くの資財あり乍ら、葬衣無くして棺中に
入らば、アカイア女性らは痛くも我を罵らむ。』

しか陳ずれば誇りかのわれらの心從へり。
かくして室に日中は(おほい)なる機織りつづけ、
夜に到れば松火を燃せる下に()をほどき
アカイア人を三年に亙り巧みに欺けり。
時は流水の如くしてかくて月逝き日は廻り、
四たび春秋返り來て季節次第に進む時、
侍女のある者、明かに知る者之を知らせ來ぬ。
かくて華麗の機ほどく王妃を襲ひ咎むれば、
[24-146]王妃は終に止むを得ず、心ならずも織り果てぬ。
おほいなる機織り果し、之を洗へば日月の
光の如く燿ける帛を我らに示したる
その時とある惡き神、オヂュシュウスを導きて、
豬を飼ふ者の住むところ、故郷の端に到らしむ。
そこに同じく英剛のオヂュシュウスのめづる息、
沙地ピュロスより黒船に乘りて來りて相會し、
共に我々求婚の群の亡滅たくらみつ、
やがて華麗の都市に來ぬ、オヂュシュウスは後にして、
先に立ちたる其愛兒テーレマコスは導けり。
膚に襤褸を纒ひつつ、杖にすがりて蹌踉と、
弱りはてたる老齡の乞食の姿粧へる
オヂュシュウスを、堂中に豬飼の僕は引き入れぬ。
堂中不意に現はれし彼を我らの群の中、
誰しも認め知るを得ず、長老はは又認め得ず、
罵詈の言句をあびせかけ、或は物を投げつけぬ。
おのれの館の中にして斯く罵られ打たるるを、
堅固不拔の心もてしばらく彼は耐へ忍ぶ。
やがてアイギス携ふるヂュウスの意思に動かされ、
華麗の武噐を其愛兒テーレマコスともろともに、
持ち行き藏の中に入れ、閂しかとしめ閉ざす。
次に竒謀を工らみて妻に命じて剛弓と
鐡の斧とを求婚の群の目のまへならべおき
賭物となしぬ。不運なる我らの爲に死の始。
我らの中の何人も此凄まじき剛弓の
弦張ることを善くし得ず、我らは痛く弱かりき。
オヂュシュウスの手の中に其剛弓の來る時、
我らすべたは一齊に叫び叱りぬ、いかばかり
望むも言を弄するも弓をば彼に與へじと。
テーレマコスは唯一人彼を勵まし促しぬ。
智謀に富めるオヂュシュウス、其時弓を手に取りて、
容易くこれが弦を張り、斧の輪十二射通しつ、
身を振り起し進み行き、閾に立ちて物凄く
見まはし乍ら矢を飛ばし、アンチノオスをまづ射りつ、
つづきて我ら一同を正面(まとも)に覘ひ、恐るべき
飛刄放てば一同は重なり合ひて倒れたり。
その時知りぬ、神明のある者、彼を助けしを、
彼ら荒びて堂中を縱横無碍に駈け廻り、
到るところに打ち屠る、凄き叫喚湧き起り、
頭粉々と斬られ落ち、紅血床に溢れたり。
アガメムノンよ、一同は斯の如くに亡び去り、
オヂュシュウスの館中に死屍は棄てられ横たはるる。
我らの友らそれ〜゛の館中にあり、こを知らず、
黯紅の血を(しかばね)の創口よりし洗ひ去り、
臺に横たへ泣くべきを。死者に對する禮は斯く。』

[24-146]一二八 - 一四六は十九歌一三九以下に同じ。

アガメムノンの陰靈は答へて彼に陳じ曰ふ、
『めでたかりけりオヂュシュウス、ラーエルテース生める息、
いしくも汝おほいなる勇もて妻を贏ち得たり。
イーカリオスの息女たるペーネロペーア貞操の
心はいかに高きかな、若く嫁ぎし良人を
常に忘れぬ(たうと)さよ、彼の譽はとこしへに
亡びず、人の世の中に不滅の神は造るべし、
ペーネロペーア、良妻の爲に感謝の歌を詩を。
チュンダレオスのうめる[24-199]女は之を異なり、姧計を
企らみ、若く嫁ぎたるその良人を亡して、
忌々しくも人界に歌はれぬべし、一切の
女性の上に(善きにさへ)彼は惡名齎せり。』

[24-199]クリュタイムネーストレー。

地底に深く冥王の領する(さと)の中にして、
立ちて是らの事どもを兩者互に陳じ合ふ。

[24-205]オヂュシュウスの一行は都市を離れて早く着く、
ラーエルテース所有せる、美なる農園 -- 其昔
ラーエルテース辛勞を積みたる末に得しところ。
眞中に彼の居宅あり、之を繞りて數多く
小屋は並べり、彼のため誠盡して働ける
僕らはこゝに食を取り、こゝに休らひ、こゝに座す。
[24-211]シケレー生れの老女またこゝにあり、都市離れ
その農園に住居する老いし主公にかしづけり。
其時伴に愛兒とにオヂュシュウスは陳じ曰ふ、

[24-205]二十三歌の終よりこゝに續く。
[24-211]奴隸の賣買盛なりし都市と見ゆ。二十歌三八四參照。

『この堅牢の()の中に汝は入りて速かに、
晝餉(ひるげ)のために最上の豚一頭を料理せよ、
その間に行きて我が父を我は試さむ、父は能く
其老眼を見開きて、果して我を認むるや?
あまりに永く離れたる我を見知るを善くするや?』

しかく陳じて身に着けし武具を彼らに手渡しぬ。
彼らはやがて()の中に急ぎ入りぬ、オヂュシュウス
父試すべく累々の房をつけたる葡萄園、
廣き果樹園訪ひ行けど、そこにドリオス見當らず、
僕の一人も其子らも絶えて影なし、一同は
葡萄の園の垣とする石集むべく出で行けり、
しかして老いしドリオスは其一行を導けり。
斯くて見たるは父ひとり、葡萄の園の中に立ち、
植木のまはり地を掘るを、彼はみじめの、つぎはぎの
汚れし肌着身に纒ひ、脛には(いばら)防ぐため、
又繼ぎはぎの牛皮(うしかは)脛衣(はゞき)を纒ひ、更に又
(とげ)立つことの無きがため手袋つけつ、頭上には
山羊革製の帽冠り、胸に憂を滿たしめぬ。
胸に憂を滿たしつつ老の齡に弱りたる
父を眺めて、英剛の忍耐強きオヂュシュウス、
高く聳ゆる梨の木の下にたちつつ涙しぬ。
その時彼は胸の中、心の中に思案しぬ、
父を抱きて口を觸れ、祖先の郷に歸り來し、
その顛末を詳細に、一々彼に告ぐべきか?
あるひは先に試すべく一々彼に問ふべきか?
思案の果は斯くなりき、即ち父を試すため、
心にも無き嘲弄の言句用ゐること善しと。
しかく念じて英剛のオヂュシュウスは近寄りつ、
頭を埀れて樹のめぐり大地を掘れる父の側、
近くに立ちて譽ある子息は彼に陳じ曰ふ、
『あはれ老人、果樹園の整理につきて仲々んい、
君の手腕は拙ならず、樹も無花果も、累々の
葡萄も梨も橄欖も畑もひとしく一齊に
此農園の中にして、君の注意を受くと見ゆ。
さはれ一事を我述べん。君願はくは怒らざれ。
(打ち見るところ)慇懃の配慮は君に致されず、
君老齡に弱りはて、汚れて、身には惡衣着る。
怠る故に賞せずと主公は敢て曰はざらむ、
わが見る所、相好に躯幹に君は聊かも
奴牗の身とは思はれず、王者の相を傳へたり。
食を終りて湯あみして後温柔の床に入る、
かゝる種類の人と見ゆ、こは老人の享くる分、
いざ今我に眞實に委細を君よ告げよかし、
君は如何なる人の僕?たゞ農園を管理すや?
しかして事の眞實を示して我に知らしめよ?
我見るこゝはイタケーか?こゝを訪ひ來し路の上
計らず逢ひし此者はしか曰ふ、彼は聰からず、
むかし相見しある客が今尚生きて世にありや?
或は今は世を辭して冥王の府に宿れりや、
此事彼に問ひしかど、彼は一々明かに
答ふることを敢てせず、また我言に耳貸さず。
我今君に明かに告ぐべし、耳を傾けよ。
いにしへ我はわが愛づる祖先の郷に、わが家を、
訪ひしある客もてなしき、外の何らの遠來の
客も彼ほど我家の歡待うけしことあらず、
彼は自らイタケーの生れとたゝへ、其父は
アルケーシオス生むところ、ラーエルテースなりといふ、
彼を我()に招き入れ、貯藏は我に多ければ、
心盡して慇懃に彼をもてなし、親しみき。
善きに叶ひて歡待の禮物彼に施しき、
七タランタの善く鑄れる黄金彼に施しき、
花の模樣の浮彫の白銀の壺施しき、
一重の(ひだ)の外套と氈を各々十二枚、
華麗の上着又下着これも各十二枚、
此らの外に精妙の術に通ずる妙齡の --
彼自らの撰びたる女性を四人施しき。』

老いたる父は澘然(さんぜん)と涙流して答へ曰ふ、
『客よ、(まさ)しく君は今問ひ尋ねたる郷にあり、
されど不正の、驕慢の人々今はあるじたり、
君莫大に與へたる禮物遂に空しかり、
もし君彼のイタケーに生けるをたづね來しならば、
彼は、慇懃の誠籠め、禮物酬ゐ、君去るを
送り、盡さんむ歡待を初めし者に致す道。
さはれいざ今明かに眞實われに告げて曰へ、
彼を、不幸の客人を、わが子を -- わが子なりしもの --
君慇懃にもてなして其後こゝに幾年(いくとせ)ぞ?
不運なるかな、其友に、祖先の國に遠ざかり、
今はた彼は海中に魚の餌食か、陸上に
野獸野鳥の餌たるべし、彼を生みたる父と母、
我らは彼に葬禮の衣纒はせ泣くを得ず、
ペーネロペーア聰くして嫁資多かりし彼の妻、
(ひつぎ)の上に横たはる彼を哭して、然るべく
死者に對する禮として、其目を閉づることを得ず。
しかして我に眞實を語りて委細知らしめよ、
君は何人?いづこより?親と都市とはいづこぞや?
君を、すぐれし同行を、こゝに乘せきし快き船、
いづこにありや?あるは又君は他人の船の上
乘りたる客か?其船は君をおろして去りたるか。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『是らをすべて明かに君に向ひて陳ずべし、
[24-304]アリュバースより我來る、華麗の館そこにあり、
ポリュペーメーモンは我の祖父、アペーダースは我の父、
エペーリトスと我呼ばる、[24-306]シカニエーより神明の
あるもの我を彷徨(さまよ)はせ、やむなくこゝに到らしむ。
乘り來し船は都市近く、こゝの農園のそばにあり。
運命非なるオヂュシュウス訪ひ來し我の郷離れ、
立ち去りしより春秋は五度歸り廻り來ぬ、
されども彼の立てる時、竒端の鳥は右側に、
飛びたり、之を喜びて我は同じく喜べる
彼を送りて別れたり、二人其時望みにき、
他日親しく交はりて善き禮物を替はさんと。』

[24-304]單に造語、以下の祖父と父と己との名亦然り。
[24-306]後世ローマの詩人は之をシシリイ全土となす、ホーマー作中こゝに只一囘擧げらる、恐らく漠然たるもの。

しか陳ずればおほいなる悲哀の雲に蔽はるゝ
父は雙手をさしのべて、[24-316]灰燼握み、白髮の
頭の上にふりかけて、呻き嘆きて絶間なし。
かくと眺むるオヂュシュウス、そぞろに心動かして、
強き鋭き興奮は、いたく鼻孔を襲ひ來つ、
躍りて父をかき抱き、唇觸れて叫び曰ふ。

[24-316]イーリアス十八歌二三、パトロクロスを哭してアキリュウス此の如く嘆く。

『父君!我ぞ、正に我、正しく君の問へる子ぞ!
正しくこゝに二十年、初めて國に歸り來ぬ。
悲哀並に流涕の嘆に沈むことなかれ、
委細を君に陳ずべし、但し急ぐを要とせむ。
我れ館中に求婚の群悉く屠り去り、
彼らの無慙の兇行と憎き無禮に酬ゐたり。』

ラーエルテース其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『汝果してオヂュシュウス、我の子にして今こゝに、
歸りしならば證いかに、我の所信の爲に曰へ。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『さらば眞先に創痕を親しく君の目もて見よ、
パルネーソスの山の階上(うへ)行きたる我を暴き豬が、
白き牙もて噛みしあと、母の父たる親愛の
オートリュコスに君と母われ遣はしき、其昔
彼らが郷に來し時に、約せる寶得んがため。
更に我また整齊の樹園の木々を語るべし。
我に賜ひしその木々を、幼き我は園中を
渉りて、君の後を逐ひ、あなたこなたを經廻りて、
一々君に尋ぬれば、一々君は名を告げき。
十三本の梨の樹と更に十本林檎の樹、
無花果更に四十本君は與へき、葡萄の樹、
其五十列與ふべく君は約しき、それ〜゛の
時に應じて實るもの、ヂュウスの季節天よりし
降ればすべて累々と蔓のたわゝに埀るゝもの。』

しかく陳じて明かにオヂュシュウスの擧げし證、
そを認めたる老齡の膝も心もくづほれぬ、
めづる子息を兩腕に抱きて、息も絶えんずる
老いたる父を、耐忍の強き勇將引き寄せぬ。
息を返して胸中に彼の心の歸る時、
父は再び翼ある言句の述べて答へ曰ふ、

『あゝわが天父クロニオーン!無慙の業を求婚者
償ひなさば、神明はウーリュンポスにおはします。
さはれ我今胸中に痛く煩ふ、イタケーの
すべての敵徒速に寄せ來ることを、又使者を
ケパレーニアの諸の都市に向ひて遣ることを。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に陳じ曰ふ、
『心安かれ、胸中に思ひ煩らふこと勿れ、
樹園に近きかの家に君もろとも行かまほし。
テーレマコスを、牛飼を、更に豬飼を先にやり、
食事の備速になすべく我は命じたり。』

しかく陳じて華麗なる館に向ひて進み行く、
其堅牢に造られし館に兩人到るとき、
テーレマコスは牛飼と豬飼の二人もろともに、
肉切り分ち、黯紅の酒を薄めて待ち居たり。

シケレー生れの老女今ラーエルテ⌒スを館中に
沐浴せしめ、橄欖の油を彼の膚に塗り、
華麗の衣纒はしむ、その時神女アテーネー、
近きに立ちて衆民の司の四肢を大になし、
前より更に丈高く勢強く、見えしめぬ。
かくて浴場出で來る、姿恰も不滅なる
神明に似る父を見て、彼の愛兒は驚きつ
彼に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『あはれ父君、常住の神明中のある者は、
君の姿を身の丈を前より優して見えしめぬ。』

ラーエルテース賢明の父は答へて彼に曰ふ、
『あゝわが天父クロニオーンまたアテーネー、アポローン、
ケパレーニアの君として、本土の岸に堅牢に、
築ける砦[24-378]ネーリコス、取りし昔の我のごと、
あらましかばと今念ず、さらば昨日館の中、
肩に鎧ひて、傍に立ちて、彼らを -- 求婚の
群を -- 敗りて館中に、彼ら多くの兩膝を
ゆるめしならむ、汝見て心に歡喜滿ちつらむ。』

[24-378]リューカヂア(サンタモーラ)島中の都市リューカスの古名と古の學者は曰ふ、
リューカスの名はイーカリオスの子リューカヂオス(ペーネロペーアの兄弟)より來れるならむ。

斯の如くに斯る事二人互に陳じ合ふ、
しかしてこなた衆人は勞を終りて、饗宴の
備をなして、整然と種々の椅子のへ身を寄せつ、
一同やがて食物に各々其手打ち延ばす。
其時老爺ドリオスは、野外の勞に疲れたる
子らを率ゐて室に入る、子らを養ひ、老人の
頽齡よりし弱れる心をこめて慇懃に
いたはる老女、シケレーの彼女、彼らを呼び來る。
オヂュシュウスを眺め見て彼らはすぐに認め得つ、
廣間の内に驚きて立てり、その時オヂュシュウス、
柔和の言句用ゐつゝ彼に向ひて陳じ曰ふ、

『叟よ、食事の席に就け、驚異をやめよ、我々は
手を食物に延すべく焦り乍らも、汝らの
此宴席に入りくるを望みて長く相待てり。』

しか陳ずればドリオスは兩手をのして速かに、
オヂュシュウスの側に行き、其手首(たなくび)に口を觸れ、
彼に向ひて翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、
『あはれわが君、憧れて、しかも望みをおきかねし
我らに君は、神明の導ありて歸り來ぬ、
祝へ、うれしめ、限りなく神明幸を賜ふべし。
さはれ君今明かに陳じて我に知らしめよ?
ペーネロペーア聰明の王妃はすでに知りたるや?
君の歸りを、あるは又われら使を馳すべきや?』

智謀に富めるオヂュシュウス、答へて彼に陳じ曰ふ
『叟よ王妃ははや知れり、汝勞すること勿れ。』

しかく陳じて磨かれし椅子に再びよりかゝる。
その譽あるオヂュシュス[シュスに⌒]をめぐり、同じくドリオス
子らは祝ひの言述べて彼の兩手(もろて)に取りすがり、
其後父のドリオスの側に善く坐を占めぬ。
かくして彼ら館中に宴を開きて忙しはし。

かなた、すばたき使たる[24-413]オッサ市中を馳せめぐり、
求婚者らの凄まじき死と運命を傳へ行く。
衆人これを耳にして四方(よも)より馳せて寄せ來り、
泣きて呻きてオヂュシュス[シュスに⌒]の館の表に群りつ、
館より死躰ひきだして各々之を葬りぬ、
外のの都市より來し者の死屍は各々船人に
托して速き船のへに之を故郷に送らしむ。
かくて衆人集會の(には)に憂ひて赴きぬ。
其集會の場に中、衆悉く寄せし時、
ユウペーテース身を起し衆に向ひて陳じ曰ふ、
オヂュシュウスが眞先に射て斃したる其愛兒、
アンチノオスを悲しめる思は胸を苦めて、
涙流して愁然と衆に向ひて陳じ曰ふ、

[24-413]噂、評判の人化。

『友よ、アカイア一同にかの者凶事たくらみぬ。
彼は舟のへ勝れたる多數の伴を率ゐ行き、
諸舟(もろふね)を失へり、伴一同を失へり。
ケパレーニアのすぐれしを彼は歸りに亡ぼせり。
ピュロス或はエペーオイ領する美なるエーリスに
急ぎて彼の行かん前、あゝわが友ら奮ひ立て、
立たずば長く將來に亙りて汚名殘るべし。
子息或は兄弟を殺せる者を斃さずば、
後世子孫聞くところ何ら我らの耻辱ぞや!
然らば我に生命はもはや樂しき者ならず、
むしろ直ちに世を辭して死者の間に交はらむ、
いざ立て、彼らに先んじて海を渡りて逃ぐる前。』

泣きつつしかく陳ずれば、アカイア諸人憐みぬ、
その時メドーン、清淨の伶人ともに睡覺め、
オヂュシュウスの館中に進み來りて衆人の
もなかに立てば、一同は皆驚愕の目を見張る、
その時メドーン聰明の思慮を抱きて衆に曰ふ、

『わが言を聞け、イタケーの人々、神助あらずして、
オヂュシュウスはかの業を企てたるに非ざりき。
我は親しく神を見き、オヂュシュウスの傍に
近く立てるを、其姿髣髴たりきメントルに。
彼は不滅の神としてオヂュシュウスの目の前に、
現はれ彼を勵ましつ、又求婚の群を馳り、
堂中荒れて雄叫べば彼ら重なり斃れたり。』

しか陳ずれば蒼白の恐怖かれらを捕へたり、
その時衆に老雄の[24-451]ハリテルレース陳じ曰ふ、
彼れマストルを父として未來を過去を獨り知る。
彼今衆に慇懃の思をこめて陳じいふ、

[24-451]二歌一五七及び十七歌六八。

『我に聞けかしイタケーの人々われのいふところ、
汝らの子の愚かなる業とどむべく、諭したる
我と庶民の司なるメントルの言きかざりし、
その(ともがら)の非行より、是等の事は起りたり。
彼ら不法に竒怪なる業を犯して、王者たる
人の資産を浪費しつ、其王妃には無禮なる
耻辱を加へ、良人は歸らずとこそ宣したれ。
汝ら今はわが命に從ひ、われの言を聽け、
行くこと勿れ、恐らくは禍難自ら招くべし。』

しか陳ずれど、衆人の(なかば)以上は叫喚を
揚げて(やかた)に押しよせぬ、殘りはそこに留りぬ。
ハリテルレスに從はず、ユーペーテスの言を聽く
彼らは急ぎ蒼惶と、武噐を取るべく馳け出す。
青銅光る武具を身にやがて一同帶ぶる後、
陸續としして群りて廣き都城の前に立つ、
ユーペーテース愚にも其一同の指揮を爲し、
愛兒の仇を報ゆべく宜しぬ、されど歸るべき
運命彼にあらざりき。そこに亡ぶは彼の(めい)
その時パラス・アテーネー、父のヂュウスに向ひ曰ふ、

『あゝわが天父、クロニデー!諸神の中に首たる者、
いかなる思慮を胸中に宿すや?問へる我に曰へ、
戰及び恐るべき爭、君は猶更に
起さんずるや、親しみを兩者の(あひ)に企つや。』

雷雲寄するクロニオーン答へて彼に宣し曰ふ、
『愛女よ、汝何故に斯る事ども尋ね問ふ?
オヂュシュウスが歸り來て彼等に仇を報ゆるは、
汝自ら廻らしゝ其計略にあらざるや?
汝の願ふ儘に爲せ、されど適宜を示すべし。
オヂュシュウスは求婚の群に復讎遂げたれば、
彼ら宜しく盟ふべし、彼は生涯王者たれ、
子息或は兄弟の破滅の怨忘るべく、
我は彼らを誘ふべし、先の如くに一同に、
かくて互に相睦め、富と平和は豐かなれ。』

しかく宣して始めより焦りし神女アテーネー
起せば、彼は欣然とウーリュンポスを駈け降る。
こなた一同意に叶ふ美味を飽く迄取りし時、
智謀に富めるオヂュシュウス、まづ口を開き陳じ曰ふ、
『誰そ今出でて物見せよ、衆徒ら近く寄せざるや?』

しか陳ずればドリオスの一子は彼の命奉じ、
出でて戸口の前に立ち、近く衆徒の寄るを見つ、
オヂュシュウスに速かに羽ある言句陳じ曰ふ、

『彼ら近きに寄せ來る、いざ速かに武裝せむ。』
しか陳ずれば一同は奮ひて立ちて武裝しつ、
オヂュシュウスの傍に、四人並にドリオスの
六人の子ら相並ぶ、ラーエルテース、ドリオスの
二人、頭は白けれど止むなく共に武具を帶ぶ。
かくて燿く青銅に嚴しくよろひ終る後、
門を開きて切つて出づ、オヂュシュウスは先頭に。

その時神女アテーネー、聲も姿もメントルに
髣髴として現はれて、彼らの側に近く立つ、
智謀に富めるオヂュシュウス之を眺めて喜びつ、
テーレマコスに、めづる子に向ひ、ただちに陳じ曰ふ、

『テーレマコスよ、戰場に勇士の力ためさるる、
そこに汝は今立ちてまさしく觀じ思ふべし、
祖先の家に汚れの名いさゝか來すべからずと、
力に勇に我祖先普天の下に勝れしぞ。』

その時彼に聰明のテーレマコスは答へ曰ふ、
『さなり父上、今君の仰せの儘に勇を鼓し、
敢て祖先の尊き名我れ汚すまじ、んそなはせ。』

しか陳ずるを耳にしてラーエルテース喜びて、
叫びぬ『我にけふ此日何らの(さち)ぞ、あら嬉し、
わが子わが孫相並び勇を互に相競ふ。』

その時彼に藍光の目のアテーネー近く立ち、
呼びぬ『われらの友の中、我の最も親しめる
ラーエルテスよ、藍光の(まみ)の神女とヂュウスとに
祈り、ただちに影長く曵く大槍を投げ飛ばせ。』

しかく宣して精力を彼に吹きこむアテーネー、
其時彼はおほいなるヂュウスの息女呼び祈り、
影長く曵く大槍を直ちにひようと投げ飛ばし、
ユウペーテスの青銅の面蓋(おもおひ)帶ぶる其兜、
打てば兜は防ぎ得ず、鋭刄面を貫けば、
どうと地上に倒れ落ち、鎧は上に高鳴りぬ。
オヂュシュウスは譽ある彼の愛兒ともろともに、
雙刄(もろは)の槍と(つるぎ)もて、敵の先鋒襲ひ打ち、
將に彼らを亡ぼして、歸れぬものとなさんとす、
その時衆にアイギスを持てるヂュウスのまなむすめ、
アテーナイエー聲あげて抑へ止めて叫び曰ふ、

『やめよ悲慘の戰を、イタケー人ら、流血の
禍無くて速かに汝よろしく分くるべし。』

アテーナイエーしか叫べば、一同畏怖に襲はれつ、
神女の聲を耳にして、恐るゝ者の一切の
手より利刄は悉く大地の上放れ落ち、
命惜さに一同は都城に向けて脚返す。
耐忍強きオヂュシュウス其時凄く雄叫びて、
空飛ぶ鷲を見る如く勢猛く追ひ迫る、
その時電火霹靂をクロニーオーン投げ下し、
そのまなむすめ藍光の(まみ)の神女の前おとす。
藍光の目のアテーネー、オヂュシュウスに宣しいふ、

『智謀に富めるオヂュシュウス、ラーエルテース生める息、
汝扣へよ、悲慘なる此戰の爭を、
やめよ、さなくばクロニオーン・ヂュウス汝に怒るべし。』

アテーナイエーかく曰へば勇士喜び從へり。
形に聲にメントール、彼に正しく髣髴の
アイギス持てるヂュウスの子、神女パルラス、アテーネー、
未來の爲めに雙方に堅き盟を結ばしむ。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:跋


冨山房の『讀書界』昭和十六年七月號の中に、私は『ホーマアの研究と翫賞』と題して一短篇を書いた。 『イーリアス』譯の序跋と多少重複するが、今之を増補して跋文に代へる。

『イーリアス』と『オヂュセーア』は現代に傳はつた西歐最古最秀の詩であり、 一般西歐詩文の源泉であり、典型である。これは誰しも周知のことである。 此二作を標準としない史詩は西歐には是まで無かつたであらう。

(一)アポローニウス(略BC二九五 - 二一五)はホーマアを手本として、 金羊毛を探し行ける海上の冐險話『アルゴノーチカ』四卷を書いた、 (二)ローマのヱルギリウス(BC七〇 - 一九) はホーマアとアポローニウスを手本にしてローマ建國の英雄を十二卷の『エイネード』に歌つた。 (三)セネカの甥ルーカヌス(AD三九 - 六五)はシーザーとポムペイとの戰を『ファルサリア』に歌つた。 西歐近代になると(四)キリスト教徒と囘教徒との戰を『エルサレムの解放』に歌つたタッソー。 (五)『狂へるオルランドー』に中世武勇談を説いたアリオストー。 (六)アダム、イヴの樂園追放を歌つたミルトン、(七)ワスコダガマの海上冐險を歌つたカモーエンス。 (八)『メシアス』を書いたクロプシュトック。(九)『アンリアード』を書いたヲルテイルがある。 これらの大詩人は皆ホーマアと呼ばるゝ太陽を中心とした遊星であり、 その赫々たる光を自體に反映して種々の軌道を思ひ思ひに囘轉してゐる。

"The glory that was Greece"(光榮そのものたるギリシヤ) -- 是はエドガア・アラン・ポーの十四歳の時の名句である、 『國民中に精神的老人無し』と曰はれたギリシヤ -- 世界文明史に不朽の功績を殘したギリシヤ -- 其最上の精華はホーマアである。

ギリシヤ文化の極盛時代には詩聖ホーマアの作として二篇に疑を抱く者は無かつた。 プラトーは『イオーン』篇に於て、ソクラテスの口から、ホーマアを詩人中の最高者最神聖者と讚せしめ、 『レパブリカ』第十卷には又ギリシヤの最賢者をして『少年時代よりホーマアを崇拜し、 今なほ彼を語る時、言語は唇頭に震ふ』と言はしめて居る。 アリストテレスは少年時代のアレクサンダー大王の師として彼にホーマアを愛誦せしめた。 大王が珠玉を鏤めた黄金の筐に『イーリアス』を入れて常に陣中に携へたことは著名の史實である。 雄圖を抱いて印度遠征の歸途、バビロンに於て熱病の爲め青春の盛三十二歳で崩御した大王の臨終に、 侍醫カリステネースは『イーリアス』第二十一歌一〇七行『パトロクロスも亦死せり』を誦したといふ。 『イーリアス』第三歌一七九行『秀いづる王者、勇ましき戰士、 一人に兼ぬる者』は大王の愛誦の句であつたと傳へられる。

ギリシヤ最大の彫刻家フェヂアスはオリンピア神殿に納むべきクロニーオーン(ヂュピター)を彫む時、

『クロニーオーンしか宣し、うなづき埀れぬ雙の眉、 アムブロシヤの香漲れる毛髮斯くて天王の不死の頭上に波だちて震へり巨大のオリュンポス』

(イーリアス第一歌五二八 - 五三〇)の三行に鼓吹された。 ローマの名將スキピオがBC一四六カルタゴの滅亡を無量の感慨に眺め、 他日ローマも同樣に運命に逢はんと觀じ、

『日は來るべしイーリオン、聖なる都城亡びの日、槍に秀いづるプリアモス、民衆ともに亡びの日』

(同第六歌四四八 - 九)を微吟した(アッピアンのカルタゴ戰爭史百三十二章)

多少の詩才を有した暴君ネロが運窮つてローマを落ち行き、追ひ來る騎兵の馬蹄の音を聞いた時、

『奔馬の迅き脚の音、我の耳底を襲ひうつ』

(同第十歌五三五行)を吟じて最期を遂げた。大シーザーの暗殺の報に接してローマに驅けつけたオクタビウス (後のアウグスツス)は慨然として、

『非運に逝ける愛友を救はんことの叶はねば、願はく、すぐに我死なん……』

(同第十八歌九八 - 九九)を口吟した。

ローマの改革黨の名士チベリウス・グラツカスが殺された時(BC一三三)、反對黨のスキピオ(前述)は

『かかる行爲に傚ふ者、同じく斯くぞ亡ぶべき』

(オヂュッセーア第一歌四七行)を誦すした。

『思ふに彼も神明に祈捧げむ、人の子は皆一齊に神需む』

(オヂュッセーア第三歌四八行)は宗教改革者メランヒトンの愛誦の句であつた。

人生觀、運命觀等宗教道徳に付いての名句は『オヂュッセーア』に夥しい。 千辛萬苦を凌ぎ、神明に祈を捧げた偉人が、天佑によりて素懷を遂げたことが朗々吟誦すべき妙詞を以て歌はれてゐる。

『イーリアス』譯の序中にも述べたが、ホーマアは何時何處で生れたか、 二大詩は彼の作か否か -- 之らに關する議論は果しが無い、しかし一般の讀者にとつては、 或處に或時に西歐最大の詩が作られたと曰ふだけで充分である。 英文の讀める方は『ブリタニカ』の「ホーマア」の項を手始めに讀まれるが宜しい。

アレクサンドリア時代前後から世に現はれたホーマアに關する文獻は所謂汗牛充棟どころでは無い、 漢魏六朝以來二千餘年に亙る經書研究の累積は之に髣髴たるものであらう、 ウィルヘルム・エンゲルマンのBiblioyheca Seriptorum Classictum中Homerusの項を見ると、 亡羊の嘆を發せざるを得ない。 十九世紀後半以來ドイツ諸大學に提出されたギリシア、ローマの古典に關する學位論文は皆印刷されてあるが其目録 (一八九四年及び一八九九年グスターフ・フォック社刊行)を見るとSeriptores Graeceに關するものが九千四百六十七篇、 其中ホーマアに關するものが九百九十六篇ある。いかに徹底的系統的に調べるドイツ學者でも之を讀破した者はあるまい。 私は只これほどホーマア研究が累積されてあることを曰ふばかりである。一般讀者はかかる事に沒頭するに及ばぬ。 まづい乍らも此譯を繰返して、アレクサンダー、スキピオ、アウグスツスの如く千古の妙篇を身讀するが宜しい。

ギリシヤのアルファベットも知らなかつた二十歳頃、私はポープの英詩を讀んで驚嘆したことを今思出す。 ポープは殆んど獨學的で、ろくにギリシヤ語を讀めなかつたらしい、 (『オヂュッセーア』譯の半分は二人の助手FentonとBroomeとが成した)、 しかし其絶大の韻文作成の天才によつて(甚しい誤謬と添加と省略とに關らず) 絶好の讀みもの「ポープのホーマア」を作りあげた、 恐らく一般に英國のホーマア讀者はポープによるものが多數であらう。 ポープは此譯の完成のお蔭で一生座食するだけの原稿料並に「當代第一」の名聲をかち得た。 これが今より二百餘年前である、(『イーリアス』の一歌 - 四歌を刊行したのは一七一五年) 其頃でも英國の富が莫大であつた事が推察される。

その英國を今日我々は東洋より驅逐して着々成功を收めつつある、オーストラリヤ、ニューゼーランド、 タスマニアも皇國の領土となる事は恐らく遠くはあるまい。 三百年前のスペインの如く英國の運命は九天直下しつつある。 むかし大史家マコーレーはいつかはロンドンも廢墟たらんと嘆じた。元の首相ボールドヰンは、 英國もいつかは空しく史上の名となること昔のギリシヤ、ローマと同樣であらう、 しかし人文史上に多少の貢獻を成したと曰はるれば、英國の存在は無意義では無い、 かく考へて我々は今日に努力すると述べた。 個人の生滅は大海の浮漚の如し、 帝國の興廢は波浪の起伏に似たりとバイロンが『ドンヂュアン』第十五歌の終に歌つた。 ギリシヤ亡びて二千餘年、しかも其精華ホーマアは永遠に生きる。 (此跋文中固有名詞は普通の發音をとつた)

昭和十七年三月二十五日

仙臺に於て 土井晩翆

注:三笠書房版(世界文學選書18,『オデュッセーア』,昭和二十五年一月十五日印刷,昭和二十五年一月二十五日發行)に書かれた、 昭和廿四年十二月四日付けの跋では、「その英國を今日我々は……我々は今日に努力すると述べた。」が削除されている。


更新日:2003/08/30

オヂュッセーア:Poems


None like Homer hath the World ensphered,
Earth, seas, and heaven, fix'd in his verse, and moving;
Whom al times' wisest men have held unpeer'd.


-- Chapman.

High on the first the mighty Homer shone,
Eternal adamant compos'd his throne.


-- Pope.

The great Maeonian, sire of tuneful song,
And prototype of all that soar'd sublime.


-- Shenstone.

Twice is almighty Homer far above
Troy and her towers, Olympus and his Jove.
First, when the god-led Priam bends before
Him sprung from Thetis, dark with Hector's gore;
A second time, when both alike have held,
And Agamemnon speaks among the dead.


-- Landor.

Homer ist die abgespielte Wahrheit einer uralten Gegenwart.


-- Goethe.

Trois mille ans ont passé sur la cendre d'Homère,
Et depuis trois mille ans Homère respecté
Est jeune encore de gloire et d'immortalité.


-- Marie-Joseph Chénier.


更新日:2003/08/30