片上伸 (1884-1928) 譯,エマスン (Ralph Waldo Emerson, 1803-1882) 著「自然論
(Nature(1836),Essays1841から)」。
底本:昭和八年十一月二十五日印刷,昭和八年十一月三十日發行,岩波書店。
無數の環の精妙なる鎖は
最も近き環を最も遠き環に結び
眼はその往くところに前兆を讀み
薔薇はあらゆる國語を語る。
蟲はまた、人間とならむことを力めて
形態のあらゆる螺線を匍ひのぼる。
問ふて答へられない疑問といふものを、勿論吾々は有つてゐない。吾々は宇宙の創造の完全を確信すること、 萬物の秩序が吾々の心中に喚び起した好竒心は、如何なる好竒心でも、 その萬物の秩序が滿たし得るものであることを信ずるほどでなければならない。 人の境遇は皆人の問はんと欲する疑問に對して象形文字で記された解答である。 人は眞理なりと諒解せずとも生活に於いては實行してゐる。此と同樣に、 自然は既にその諸形體と傾向との中に自己の計畫を記述してゐるのである。 吾々の周圍に斯くも平和に輝いてゐる此の偉大なる幻影に質問せしめよ。 自然は如何なる目的で存在するかを問はしめよ。
あらゆる科學は一つの目的、即ち、自然の原理を發見せんとする目的を有つてゐる。 吾々は人種や機能の原理は發見したけれども、創造といふ觀念には、 未だなか〜逹してゐない。今吾々は眞理に到逹すべき路から遠く隔つてゐる。 それ故、宗教家は互に論難して相憎み、思索家は不健全にして輕浮なりと見做されるのである。 然し健全な判斷に遡へれば、最も抽象的な眞理は最も實際的な眞理である。 蓋し、眞の學説の現はれる時は、その學説の眞なることは常にそれ自らが證明するであらう。 その學説が一切に現象を説明するといふことが、その學説の眞僞を分つ所以である。 今や多くの事物は、ひとり説明せられてゐないのみならず、説明の出來ないものと思はれてゐる。 言語、睡眠、狂氣、夢、獸類、男女の性の如きはそれである。
哲學的に考察すれば、宇宙は自然と靈とから成り立つてゐる。故に嚴密に言へば、
吾々と隔離して存在する一切の事物、哲學が區別して非我と稱する一切の事物、即ち、
自然も人工も、一切の他人の自己の肉體も、この自然と云ふ名稱の下に分類されなければならない。
私は自然の價値を數へてその額を計算するに際して、この自然といふ語を兩義的に --
普通の意味と哲學的の意味とに用ゐるのである。蓋し、吾々の眼前の問題の如き普遍的な問題に於いては、
語義の不精確は重大なことではない。何等思想の混亂を生ずる恐はないであらう。
「自然」とは普通の意義に於いては、人間によつて變化させられた事のない本質を謂ふ。
空間、空氣、河、木葉がそれである。「人工」とは、以上の事物に人の意志が混合したものに用ゐられる語である。
家屋、運河、彫像、繪畫の如きが此の例である。然し人間の動作は何れも極めて輕微なもので、
少しばかり物を切り取り、炙り、
星は一種の崇敬の念を喚び起す。これ星は常に出現すれども、それに到逹する事は出來ないからである。 然しながら、すべての自然の事物も、心を開いてその感化を受けようとすれば、 みなこれに似た感銘を與へるものである。自然は決して卑陋な容貌を表はさない。 最も賢い人でも、自然の祕密を奪ひ、自然の完全を悉く見盡したために好竒心を失ふが如きことは無いのである。 自然は未だ賢者の玩具となつたことはない。花や動物や山は、賢者の幼時の單純な心を喜ばしたとひとしく、 彼の最も圓熟した時代の智慧をば反映した。
自然に就いてかく語る時、吾々は心中に或る明確な然かも最も詩的な感じを覺える。 即ち吾々は自然の幾多の事物から與へられる感銘の全一無缺であることを覺えるのである。 この感銘の全一無缺な事によつて、樵夫の伐る一個の材木と、詩人の見る樹木との間に區別を生ずる。 私が今朝見た愛すべき風景は、疑ひもなく二十、三十ほどの農圃から成立つてゐる。ミラーは此の畑を所有し、 ロックはかの畑を所有し、またマニングは向ふの森林地を所有してゐる。 然し彼等の中誰一人も、この風景を所有するものはないのである。蓋し地平線の中には、 あらゆる部分を全きものに統べて觀ることの出來る眼あるものの他には、何人も所有せぬ一つの財産がある。 即ちかくの如き人は詩人である。この財産こそ、此等三人の農圃に於いて最も優れたものであるが、 彼等の如き所有證明書は、この財産に對しては何等の權利を與へぬのである。
直言すれば、大人で自然を見得るものは少ない。多數の人は太陽を見ない。少くとも、彼等は極めて皮相的な見方をしてゐる。
太陽は大人にはその眼のみを照らすに止まるけれども、小兒にはその眼と共にその心をも照らす。
自然を愛する人は、内心と外部との感覺が今も變りなく眞に相調和してゐる人である。
成人の時期に至るまでも、幼兒の精神を失はない人である。かくの如き人には、
その天地との交通は常食の一部となつてゐる。現實の悲哀に暮るゝ身も、自然の面前に立てば、
奔放なる喜悦の情が其の
田野や森林が吾々に施與する最大の喜悦は、人間と草木との間にある不可思議な關係を暗示することである。
私は孤獨でもなければ、存在を認められずにゐるのでもない。草木は私に
然し、かくの如き喜悦の情を生ぜしむる力は、自然の中に存るのではなくして、人に、
寧ろ兩者の調和にうちに存することは確かである。これらの快樂に對しては、
嚴重に節制を守る事が必要である。何となれば、自然は必ずしも常に祭日の美服を纒つてゐない。
便益といふ總稱の下に、私は吾々の五官が自然に負ふてゐる一切の利益を列せしめる。
勿論、この便益とうふは一時的の間接な利益に過ぎないので、便益が人の靈に奉仕するが如き終極的なものでない。
しかも、この便益は低い種類のものではあるが、その種類のものとしては完全であり、且つ自然の諸效用の中、
萬人悉く諒解するのは獨り此のみである。人を載せて天界を浮遊するこの緑の圓球上に、
人を扶養し樂しましめんとて造られた不斷の豐饒な供給物を發見する時には、
人の不幸は恰も子供の癇癪のやうなものに思はれる。これらの華麗な裝飾品、これらの豐富な便利品、
頭上にあるこの空氣の大洋、足下にあるこの水の大海、中間に横はるこの大地の蒼穹、この光明の横道帶、
この埀れ下る雲の
人はあまたの沼地にかしづかるれど、
人はかくあまたとは氣づかざるべし。
自然は人間に仕ふるに於いて、單に材料であるばかりでなく、更にまた過程であり、結果である。 人は利益を齎らさんがために、自然の各部分は絶えず働いて、相互に他の部分の手足となつてゐる。 風が種を蒔けば、太陽は海水を蒸發させ、風はその蒸氣を原野に吹き送る。 そして地球の他の部分にある氷は、此の部面に於いては、雨であるものを凝結させる。 雨は植物を培ひ、植物は動物を養ふ。かくの如くにして神聖な慈悲は無限に循環して、 人間をば育むのである。
有用な人工とは、上述の如き諸の自然の恩惠物をば、人間の智慧に依つて再造し、
又は新らしく結合することである。人は最早順風を待つことをしないで、
蒸氣の力を用ゐて
然し、此の部門に屬する效用に就いては、特に細目を列擧する必要はない。 其の目録は無限であつて、其の實例は極めて明白であるから、私はこれらの實例を讀者の考察に任せ、 唯概括して、かくの如き利得的の恩惠は、更に其れ以上の利福に關係あるものであることを述べて置かう。 人の食を與へられるのは、その人を養はんがためではなくて、働かさんがためである。
古代の希臘人は、世界を
更によく考察するがために、吾々は美の諸相を三樣に分類してもよからう。
第一。先づ最初に、自然の物象を知覺するといふことだけが、既に一種の喜悦である。 自然に於ける諸物象と諸作用との與ふる感化が、人に對して極めて必要なことは、 この感化がその最も低級な職能を行ふ場合に於ても、猶それは便益と美との範圍を越へぬやうに思はれる程である。 有害な仕事或は交際のために拘束された肉體と精神には、自然は醫藥の如き效果を有して、 肉體と精神との調子を恢復させる。商人や代言人は市井の喧噪と奸計とより脱し來つて空や森を眺める時、 再び眞の人間に還る。即ち、此の永遠の靜けさの中に居ることを悟るのである。 眼の健康は、地平線を望むことを必要とするらしい。そして遠い遙かな彼方を望み得る間は、 吾々は決して倦むことがないのである。
然し、或時は自然は單にその愛らしい事で吾々を滿足させるだけで、何等有形的の恩惠を以てしないことがある。
私はわが家の
午後に於ても吾々の感受力が衰へることがなかつたなら、昨夜見た一月の日沒の美觀は、
これらに劣らぬ美しいものであつた。西の空の雲は幾つにも分れて、
それが更に言ひ知れぬ柔らか味を帶びた色合に
都市の住民は、田園の風景の樂しいのは單に半年の間に過ぎないと思ふてゐる。
私は冬景色の優美を喜び、且つ吾々は夏の快い感化に劣らず冬景色にも心を動かされるものであることを信ずる。
注意深い人の目には、一年のあらゆる刹那がいづれもその獨特の美を有つてゐる。
又同一の原野に於ても、一刻毎に、今までに眺めたこともなく、又將來再び見ることもない畫幅を見る。
天體は一瞬毎に變化して、その光輝と陰翳とを下の平原に反映する。周圍の畑に生ふる作物の状態は、
一週間毎に地上の表情を變化させる。牧場や路傍に相繼いで生ひ茂る雜草は、
夏の時を知らせる無聲の時計となつて、觀察の鋭敏な人には一日中の時刻をも知らせるのである。
鳥類や昆蟲類は、植物と同樣に、正確に時を違へず相繼いで來る。そして一年はすべてを容れる餘地を有つてゐる。
水流を見れば、變化は一層甚しい。七月には、ポンテデリア一名
然し此の美と見られ感ぜられるやうな自然の美は、その最小部分に過ぎない。 日中の諸光景、露滋き朝、虹、山、花盛りの果樹園、星、月光、靜かな水面に映る影、乃至これに類したものは、 もしあまりに烈しく追求する時は、單に幻影となり、その非實在性によりて吾々は嘲弄せられるのである。 月を眺めんがために屋外に出でよ。さらば月は單に一銀片に過ぎないであらう。 所用あつての旅路を照らす時の如くには、諸君の心を喜ばさぬであらう。 十月の黄なる午後にちらちらと閃めく美しさを、嘗て誰か捕へ得た者があるか。この美を發見せんがために出でて見よ。 則ちそれは消えて無くなる。この美は、諸君が乘合馬車の窓から眺める折の蜃氣樓に過ぎないのである。
第二。一つの高尚な要素、則ち、靈的要素の存在は、美を完全ならしむるに缺くべからざるものである。
愛してしかも女々しさに陷らないやうな高尚な神聖な美は、人間の意志を結合した時に見ることが出來る美である。
美は神が徳に印しづける標章である。あらゆる自然なる行爲は優美である。あらゆる勇壯な行爲もまた高雅である。
そしてその行爲の起つた場所と傍觀者とに光輝あらすめる。吾々は偉大な諸行爲を見て、
宇宙はその中に住む各個人の所有物であることを知る。あらゆる理性を備へた人間は、
その婚資又は資産として全自然を所有する。彼が欲するならば、全自然は彼の所有である。
人は自然から脱却することが出來るであらう。また多數の人のする如く、片隅に匍ひ退つて、
その王國を抛棄することも出來よう。然し人は資性の上から見て世界を所有する權利を與へられてゐるのである。
人は自己の思想と意志との精力の強弱に應じて、世界を自己の所有とする。サルトスは言つた、
「人の耕作、建設、航海の目的となる事物は皆徳に從ふ」と。 またギボンは、「風と浪とは常に手腕ある航海者の味方である」と言つた。
太陽や、月や、天上の一切の星も同樣である。或る高尚な行爲が -- 恐らく偉大な自然美を備へた舞臺で --
行はれる時、例へば、レオニダスとその部下の三百人の殉國者とが死守して一日を過す時、
日と月とが各昇り來つて、テリモピレーの懸崖に奮戰する彼等を一とたび眺める時、
アーノルド・ヰンケルリードが、かのアルプス高峯の
第三。世界の美を觀察するに今一つの方面がある。即ち智力の對象となる場合がそれである。 諸の事物は徳に對する關係の他に、思想に對しても關係を有してゐる。智力は、神の心の中に於けるが如き、 又何物の影響をも少しも受けずに存在する諸の事物の絶對的秩序を探し出すものである。 そして智力と活動とは、互ひに相次いで起るやうに思はれる。即ち、甲の獨占的活動は、乙の獨占的活動を生ぜしめる。 兩者は互ひに相親しみ難い或る物を有してゐるが、然しそれは動物の食物を取る時期と勞働する時期とが、 相交替するが如きものである。各自互ひに準備を整へ、相交替するのである。それ故既に述べた如く、 行爲に關して、人の求めざるに來り、且つ求めざるが故に來る美は、智力の理解と追求とを待つのである。 そしてそれが終ると、次ぎにまた、活動力の理解と追求とを待つのである。 神聖な事物は、何一つとして死滅せぬ。一切の善きものは永久に再造的である。 自然の美は、人の心の中に美を再現する。そしてそれは無益な觀照のためではない。新しい創造のためである。
凡ての人は世界の面貌によつて何程か感銘を與へられる。中には喜悦の情を覺えるまでに感銘を受ける者もある。 かくの如き美を愛するの念は、趣味である。更に他の一面に於ては、極めて過度に此の種の美を愛する結果、 單にその美を嘆賞するに滿足せずして、これを新しい形式に具現せんことを求める者もある。 此の美の創造こそは、藝術である。
藝術品の製作は、人性の神祕の上に一道の光明を投ずる。藝術品は世界の要略又は提要である。
自然の結果または表現をば、縮圖に示したものである。何となれば、諸の自然の作品は無數で且つ千差萬別であるけれども、
此等作品全部の結果或は表現は、一樣で無二であるからである。
自然は根本的に同樣な、否唯一無二の諸物象の海である。一片の樹の葉、一條の日の光、
一幅の風景、大洋、これ等はそれ〜゛人の心に相似の感銘を與へる。 そしてこれ等の物象のすべてに共通なるもの、 --
即ち完全と調和とは、美である。 美の標準は、自然の諸物象の全圓をなせることである -- 自然の全體なることである。
これイタリー人が美を定義して”il piu nell' uno”(單一に含有された多數)といふ中に表白してゐるところである。
如何なる物も其の物のみにて全く美なるものはなく、全體の中に含まれて美ならざる物は一としてない。
一個の物象はこの普遍の美を暗示するす隨つて初めて美なのである。詩人、畫家、彫刻家、音樂家、
建築家は、それ〜゛世界のこの光輝をば一點に集中し、各自の作品に依つて、美を愛する念を滿足せんことを求める。
またその美を愛する念が彼を動かして製作せしめるのである。かくて藝術は人間といふ蒸溜噐を濾過した一種の自然である。
かくて藝術に於いて、自然は
以上の如く、世界は人間の靈に對して、その美を慾求する念を滿足せしめんがために存在するのである。 私はこの美の要素を、窮極の目的と名づける。しかし何故に人の靈が美を求めるか。 その理由は問ふことも出來なければ、答へることも出來ない。美はその最大最深の意義に於いて、 宇宙の一表現である。蓋し、神は「全くうるはしきもの」である。そして眞と善と美とは、 同じ「全」の種々の相に過ぎない。然し、自然に於ける美は窮極のものではない。 それは内的にして永遠なる美の先驅であつて、其のもののみにて充實した完全の善ではないのである。 自然の窮極本原の一部分として存すべきであつて、 未だその最終若しくは最高の表現として存すべきものではないのである。
一、言語は自然の事實の記號である。
二、特殊の自然の事實は特殊の精神的事實の象徴である。
三、自然は靈の象徴である。
一、言葉は自然の事實の記號である。自然界の歴史の效用は、超自然界の歴史に於いて吾々に補助を與へることである。 言ひ換へれば、外界の創造の效用は、内界に創造される諸物體と其の變化とを表現する言語を吾々に與へることである。 道徳的若しくは智力的事實を表現するに用ふる言葉は、その語源を辿れば、 何れも或る物質的外觀から借りて來たものであることを發見する。 例へば「正」は「眞直ぐな」と言う意味で、「不正」は「曲れる」と言ふ意味である。 「精神」は本來「風」と言ふ事を、「違犯」は「線」を越へることを、 「傲慢なる」は「眉を上げる」ことをそれぞれ意味してゐる。吾々は情緒を表はすに「胸」と言ひ、 思想を表はすに「頭」と言ふ。さらば「思想」と情緒とは感覺し得る事物から借りて來た言葉であつて、 今は精神的性質に適用されてゐる。以上の如き變形の行はれる過程の大部分は、 言語の形勢されたのは遠い古代の事であるから、吾々には分らないが、これと同樣の傾向は、 日々兒童に依つて觀察することが出來るであらう。兒童と野蠻人とは、單に名詞即ち事物の名稱のみを用ゐ、 これを動詞に變じて類似の心的動作に適用するのである。
二、然しながら、精神的の意義を傳へる一切の言葉にかくの如き起源を有することは -- 言語史上極めて顯著なる事實ではあるが -- 吾々の自然に負ふところの最小部分に過ぎない。 符號的であるのは單に言葉のみではない。事物も亦符號の如きものである。 自然界の事實は何れも何等かの精神的事實の象徴である。自然に於ける一切の外觀は、 何等かの心意状態に對應する。而してその心意状態は、 その自然的外觀をば自己の繪姿として表現することに依つて始めて記述され得るのである。 激怒せる人は獅子である。狡猾な人は狐である。志操堅固の人は巖である。學問ある人は炬火である。 仔羊は無邪氣である。蛇は狡猾な惡意である。花は吾々に對して微妙な愛情を表現する。 光明と暗黒とは、智識と無智とを表はす吾々の慣用語である。また熱は愛の慣用語である。 吾々の背後と前途とに見ゆる距離は、それ〜゛記憶と希望との画像である。
誰か瞑想に耽る時、河流を眺めて、萬物の融合に思ひ及ばざる者があらうか。
その流れに一個の石を投じて見よ。四方に擴がりゆく幾多の環は、あらゆる感化の見ごとなる典型である。
人は
以上述ぶるが如き類似が、何等僥倖な不定な性質を帶びるものではなく、寧ろ恆久不變で、 自然を一貫するものであることは、容易に知られるのである。 これらの類似は此處彼處の二三の詩人の夢ではない。けれども人は推論家であるが故に、 一切の物象の間に存する諸關係を研究する。人が實在物の中心に立てば、 關係を示す一條の光線はあらゆる他物から生じ來つて彼に通ずる。 そしてこれ等の物象なくしては、人は諒解される事も出來なければ、 人を待たずしてこれ等の物象も諒解されることは出來ないのである。 博物學上の一切の事實はその事實ばかりでは、恰も男女の一方のみ存在するが如く、 何等の價値もなく不生産的なものに過ぎない。然し、博物學を人間の歴史に配偶せしめる時は、 それは生命に滿ちたものとなる。全植物類誌や、リニーアスや、ビュッホンの典籍は、 無味乾燥な事物の目録に過ぎない。然しこれ等の事物の中で最も些細な事實、 例へば、或る植物の習慣性とか、或る昆蟲の機官、仕事、或は鳴聲の如きも、 智的哲理の上の事實を説明するに適用され、また如何やうになりとも人間と關係させられる場合には、 極めて活溌に快く吾々を感動させる。植物の種子は -- 凡て議論に於いて、 殊に人體を種子と呼んでゐるポーロの聲に至るまで、かの小さな果實が、 人間の本性に關する力ある類推に、如何ほど用ゐられてゐることか -- 「肉の身として播かれ、育てられ靈の身となる。」地球がその地軸を廻轉し、 太陽の周圍を廻轉する運動は、日と年とを生ずる。そして日と年とは、無心の光と熱との一定の集合に過ぎない。 然し、人の一生と一年と一年の四季との間には類似の意味は少しも無いのであらうか。 四季はこの類似から何等の莊嚴をも哀感をも得ることはないであらうか。 蟻の本能は、單に蟻の本能として考察すれば、極めて些々たるものである。 然し、一條の關係の線が蟻より人に及ぶことを知る刹那、又この小さな勞働者が警戒者であり、 偉大な心を抱いた小さな身體であることを知る刹那、その有する諸の習慣は、 かの近頃發見されたといはるゝ、蟻は決して睡眠しないといふ習慣までが、悉く崇高なものとなる。
眼に見える諸物と人間の思惟との間には、右の如き根本的の對應があるから、 單に必要なもののみを所有する野蠻人は、物の形像を用ゐて談話をする。歴史を遡るに從つて、 言語は益繪畫的になり、遂にその幼稚の時代に至れば、言語はすべて詩歌である。 即ち、その時代には一切の精神的事實は自然界の象徴を以て表現されてゐるのである。 同一の象徴が、あらゆる國語の原始的要素をなしてゐることが知られてゐる。且つ又、 從來觀察されたところに依れば、何れの國語の慣用語句も、最も偉大な雄辯と力とを示す章句に於いては、 相近づくのである。而してこれは原始の言語で、また最終の言語でもある。 即ち、かくの如く言語が自然に對して直接に依存してゐること、 即ち外界の現象が人生に於ける何物かの典型に變換することは、 決して吾々を感動する力を失ふ所以ではない。これあつてこそ、元氣な農夫や未開墾地の住民の會話に、 かの何人の耳にも快く響く辛辣味を添へるのである。
人が自己の思想をばそれに適當な象徴と結合し、且つかくの如くしてその思想を言表する力はその人の性格の率直なること、
即ち眞理に對するその人の愛と、この愛を損失するところなくして他に傳へんとするその人の慾望とに依るのである。
人腐敗すれば言語に腐敗が伴ふ。されば性格の率直と思惟の主權とが、第二流の諸慾例へば、富、快樂、權力、
賞讚に對する慾望の爲めに破壞される時 -- 二心と虚僞とが率直と眞實とに代る時は、
人間の意志の解釋者としての自然の上に吾々が及ぼす力は、著しく失はれるのである。即ち、
新しい比喩的敍述を創造する力は絶え、舊い言葉は曲解されて、實在しない事物の代りをする。
譬へば、
然し、賢人は此の朽敗した語法を粉碎して、言葉を、見ることの出來る事物に再び結びつける。 されば繪畫のやうな言語は、直ちにまたそれを使用する者が眞理と神とに合一せる人であることを示す有力な證明書である。 吾々の談論が日常事實の地平線上に昇り、熱情に燃やされ、思想に高められる刹那、その談論は、 形像を身に纒ふのである。熱心に對話する人は、自己の智的過程を注目すれば、明らかにか朧げにか、 具象の形が一々の思想と相伴ふて彼の心中に浮んで來て、思想に衣服を與へることを知るであらう。 故に、名文と優れた談論とは常に比喩である。此の比喩的敍述は、自發的である。 經驗と現在の心意作用との混和である。本當の創造である。神がその既に造つた噐械を通して働くのである。
以上の事實は、田園生活が、力強い心の人には、 人工的な
三、吾々は斯くの如く特殊な意味を表現する時に、自然物の補助を受ける。しかし、
かゝる胡椒粒ほどの瑣事を傳へる爲めに、何といふ偉大な言語であることぞ!都會語の辭書や文典を人に供するために、、
斯くも高尚な生物の諸族、かくもありあまる程の物象、かくも夥しい天體を必要としたのであらうか。
吾々は鍋や釜に關する日常の瑣事を表はす爲めに、此の偉大な記號を用ゐてゐながら、
未だ嘗てそれを用ゐた事もないやうに、また用ゐる事を
これと同樣に、記憶すべき歴史上の言葉や、國民の俚諺は、 道徳的眞理の繪畫もしくは寓言として選び出された自然界の事實から成り立つのが普通である。 例へば轉がる石には苔生えず。手の中の一羽の鳥は籔の中の二羽に當る。 正しい道を行ゆく跛者は間違つた道をゆく競爭者に勝つ。 日の照るうちに乾草を作れ。一ぱいに水を盛つた茶碗を傾けずに運ぶのはむづかしい。 酢は酒の子。最後の一オンスが駱駝の脊骨を折る。長命の樹は先づ根を張る。 -- 其の他これに類似のものがある。 これ等はその本來の意義より見れば、些細な事實に過ぎないのであるが、吾々が反復して用ふるのは、 その類推的意義に價値があるためである。俚諺に於いて正しい事は、一切の寓話、寓言、 比喩の場合に於いても亦正しいのである。
心と物との間に存する此の關係は、唯或る詩人の想像するものではなくして、
神に
われ等殊に驚異することなくして、
これらの諸物實在し、
夏雲の如くわれらを襲ふことあり得るや。
蓋し、此の幸運な時には、宇宙は透明となり、その法則よりも更に高き法則の光が、
その内を貫いて輝くからである。此の關係は、世界開闢以來、埃及人及び婆羅門の時代から、
ピサゴラス、プレトー、ベーコン、ライプニッツ、スウェーデンボルグの時代に至るまで、
あらゆる大天才を驚かして研究を促した永久不滅の問題である。
スフヰンクスは路傍に坐してゐる。そして時代より時代へと、預言者はその側に來る毎に、
その謎を讀んで己が運命を試す。心靈には物質的形體を以て自己を表示せんとする必然性が存するやうに思はれる。
晝と夜、河と暴風、獸と鳥、酸とアルカリ、いづれも豫じめ神の大御心の中に必然の觀念となつて存在し、
さて此の精神界に於いて、先きに受けた感化變易によつて現在の状態にあるのである。
一個の事實は精靈の目的若しくは最終の結果である。眼に見える創造物は、眼に見えざる世界の終點乃至周邊である。
或るフランスの哲學者は言つた、「物質的事物は必ず造物主の根本思想の
此の理は幽妙である。そして、「衣服」、「滓」、「鏡」といふ如き比喩は人の想像力を刺戟するかも知れないが、 これを明らかにするためには、更に一層敏慧にして活力ある説明者の補助を求めなければならぬ。 「あらゆる經典は、それを表白したのと同一の精靈によつて解釋さるべきものである。」 -- これが批評の根本法則である。自然と調和せる生活、又は眞理と徳とを愛するの情は、 人の眼を淨めて、自然の經文を諒解させるであらう。 漸次に吾々は自然界の不滅な物象の原始の意義を知るに至るであらう。 かくて世界は吾々に取つては開かれたる一卷の書籍となり、 あらゆる物象はその隱れたる生命と窮極の原因とを表はすものとなるであらう。
上に暗示した如き見解によつて、恐ろしきほど廣漠にして無數なる物象を瞑想すれば、
新らしい興味が吾々を驚かす。「あらゆる物象は、正しく觀察すれば、
心靈の一新能力を
空間、時間、社會、勞働、氣候、食物、運轉、動物、機械力、これ等は日々吾々に無限の意味ある極めて眞摯な教訓を與へる。 これ等は悟性と理性とを兩つながら訓育する。物質の有する一切の性質は、 -- 例へば、 凝固力或は抵抗力、その惰性、その容積、その形態、その可分性の如きは、何れも悟性を教育する學校である。 悟性は此の價値ある舞臺の於いて活動する爲めの食料と餘地とを加へ、分割し、統合し、測量し、 發見するのである。その一方で理性は物と心とを結合させる類似を認めることによつて、 如上の教訓をばすべて己が思想の世界へ移すのである。
第一。自然は智的眞理に於ける悟性の訓練である。吾々が感覺し得る物象を取扱ふのは、相異、類同、
秩序、實在と外見、進歩の順序、特殊より一般への向上、一個の目的へ多樣の力を結合することと言ふやうな、
必要なる教訓を絶えず行ふことである。 構成さるべきその噐官の重要さに比例して此の機關を教授する上に非常な注意を要する。 --
如何なる場合にも
財産並びにこれより生ずる貸借の組織も、亦同樣な善き任務を果すのである。負債、その鐡面皮を寡婦、 孤兒、又は天才の子等が怖れ憎む冷酷な負債 -- 多大の時間を浪費し、 極めて下賤と見ゆる配慮のために偉人をも不具にし落膽させる負債は、 實に一個の教訓者で、その教訓は抛棄するわけには行かぬのである。 且つ、負債に最も苦しめる人に取つても最も必要な教訓者である。加之、古來巧妙に雪に比較して 「今日は平らに降るとも、明日は吹き寄せられて堆積せん」 -- と言はれてゐる財産は、 例へば時計の指針の如く、内部の機械の活動が表面に現はれたものである。 だから財産は悟性の體操であるが、靈の先見するところでは、一層深遠な法則を經驗して居るわけである。
悟性の修養上の極めて些細な差異、例へば、諸物の相違を知覺する力の差異に依つて、 個人の全性格と全運命とは影響されるのである。故に萬物は一塊となり集積して居るものではなくして、 個々に分割され分離されて居ることを人にい知らしめんが爲めに、空間が存在し、時間が存在するのである。 鐘と鍬とはおの〜獨特の效力を有して居て、兩者は何れも他の役目を行ふことは出來ない。 水は飮むに宜しく、石炭は焚くに宜しく、羊毛は着るに宜しい。然し、羊毛を飮み、水を紡ぎ、 石炭を食ふことは出來ない。賢人は、諸の事物を分類し、これに等級をつけて己が智慧を示す。 賢人が一切の創造物と其の價値とを測る尺度は自然の如く宏大である。愚人はその尺度に何等の目盛を有することなく、 人は何れも皆同樣であると想像する。これ等の愚人は善良でないものを直ちに最惡と呼び、 嫌でないものを直ちに最良と呼ぶのである。
これと同樣に、自然は何といふ綿密な注意を吾々に對してすることぞ!自然は少しも誤謬を恕さない。 彼女の諾は諾であり、彼女の否は否である。
農學、天文學、動物學の初歩(農夫や獵師や水夫の有する如き初歩智識)は、
自然の
人の心は如何に靜穩にまた快濶に、逐次物理學上の法則を諒解することぞ!人が宇宙の創造の評議に參加し、 「生存」の特典を感得する時は、何たる高尚な感情がその人の身を宏大させる事であらう! 洞察は人を精練する。自然の美は自己の胸に輝く。人間は彼がこの事を見得るよりも大であり、 宇宙はそれよりも小である。何となれば時間と空間との關係は、法則の知らるゝと共に消滅するからである。
茲に於いて再び吾々は探索すべき宇宙の宏大なるに感動し、畏怖するにさへ至るのである。
「吾々の知れるとおろは知らざるところに比すれば一點に過ぎない。」近時の科學雜誌を繙いて、
光、熱、電氣、磁氣、生理學、地質學に關して暗示されたる諸問題を考究し、
自然科學の興味が直ちに
自然の訓練に關する幾多の細目は省略してみても、吾々は二個の事實を統持することを忘れてはならない。
意力の作用、即ち、力の教訓はあらゆる事件が吾々に教へる。小兒が漸次に種々の感覺を得るころから、
かの「
第二。感覺し得る諸の物象は、理性の豫戒と合一して、良心を反映するのである。 萬物は總て道徳的なもので、そしてその無限の變化の中に絶えず靈性と交渉してゐる。 されば、自然は形態と色彩と運動とで輝いてゐる。かくて、かの遠き天界のあらゆる天體も、 極めて粗雜な結晶體から生命の理法に至る一切の化學的變化も、 一枚の葉の芽が示す生長の根本の原理から、熱帶地の森林や前世紀の炭坑に至るすべての植物的變化も、 さては海綿からハーキュリーズに至るあらゆる動物的機能も、皆悉く人に正邪の諸法則を暗示し或は大聲叱呼して、 かの十戒を反響してゐるのである。されば自然は永久に宗教の同盟者で、 己が有する一切の裝飾と富源とを宗教的情操に貸すのである。豫言者も僧侶も、ダビデも、イザヤも、 耶蘇も、みな深く此の自然の源泉から汲んだのである。此の倫理的性質は極めて深く自然の骨髓に透徹してゐて、 自然が造られた目的は此の性質の爲めであるやうに思はれる程である。 何等かの一局一部がよし個々の目的に應ずることがあるとも、此の倫理的性質は、 その一局一部の有する一般普遍の職能で、決して省略されることはないのである。 自然の中の何物もその最初の用途に於いて用ゐ盡くされることはない。 或る事物が或る目的に全力を擧げて用をなした場合にも、他の任務の爲めには全然新規のものである。 神にあつては、あらゆる目的はそれ〜゛一つの手段に換へられるのである。故に、商品の用も、 それのみを考へると、卑賤な見すぼらしいものである。然しその商品の效用も、心に取つては、 效用の理を教ふる教育で、即ち、事物はそれが用をなす限りに於いて善であることを教へ、 又諸部分と努力とが結合して目的を生み出すことは、如何なる事物にも緊要であることを示すのである。 價格と需要、穀物と肉類に於ける吾々の避け難い而も厭はしい訓練が、 此の教理の眞なることを第一に且つ大ざつぱに示して居る。
既に説明せし如く、自然のあらゆる過程は道徳律の飜譯である。道徳律は自然の中心點に在つて、
その周圍に光輝を放つ。此の道徳律は、あらゆる事實、あらゆる關係、あらゆる過程の眞髓である。
吾々が取扱ふ事物は、何れも皆吾々に説法する。田圃は無言の福音でなくて何であるか。 籾穀と小麥、雜草と植木、害蟲、雨、昆蟲、太陽 --
これらは何れも、春の最初の畝から、 冬の雪に蔽はれた野末の最後の枯草束に至るまでの神聖な標號である。然し、水夫も、牧羊者も、坑夫も、
商人も、各自異なる居り所にありながら、それ〜゛まさしく並行して同樣な結論に到逹する經驗を有してゐる。
それは、あらゆる組織は悉く根本に於いては同樣であるからである。またかの空氣を馨らし、
穀物の中に生長し、或は世界の海洋を孕ます此の道徳的情操は、 人の捉ふる所となつて靈に侵徹することも疑ひないところである。
自然が各個人に與ふる道徳的感化は、取りも直さず、自然が人に説く眞理の量と一致する。
誰が此の眞理の量を計ることが出來よう。怒濤の打ち寄する
茲に於いて、到る處で吾々の逢着する自然の統一 -- 變化の中の統一 -- が殊に會得せられる。 變化極まりない萬物は、何れも同一の感銘を與へる。クセノファーネスは、其の晩年、 いづこを眺めても、萬物悉く統一に急ぎ還ることを歎いた。彼は事物のくど〜しい變化の中に、 同一の實體を見るのに倦んでゐた。プローチウス(ギリシヤ神話にて、己が欲する體にその形態を變じ得る海神) の寓話には誠實な眞理が存する。一枚の葉、一滴の水、一個の結晶體、一瞬時、いづれも其の全體と相關係して、 各自は全體の完成に與かる。各分子は皆一個の宇宙であつて、忠實に此の大世界の肖像を寫してゐるのである。
類似は化石したソーラス(蜥蜴の屬)の
此の中心の統一は、行爲に於いては尚更に顯著である。言葉は無限の心が有する有限の機官である。 言葉は眞理に含まれたるものの擴がりを蔽ふことは出來ない。言葉は眞理を破壞し細斷して、 貧弱なものとする。しかし行爲は思想の完成であり公表である。 正しい行爲は觀る者の眼を滿たし、全自然と關係してゐるやうに思はれる。「賢人は一事を行ふて萬事を行ふ。 又、正しく行ふ一事に、正しく行はれたる一切の事の面影を見る。」
言葉お行爲とは禽獸界の屬性ではない。吾々はこの兩者にあつて始めて人間の形體を備へる。 あらゆる他の有機體は、人間の形體の退化したものである。此の人間の形體をその周圍にある多くの物象の中に見る時、 靈は悉く他を棄ててこれを選ぶ。靈は言ふ、「人間の形體の如きものから、我はその形體に話をしたい。 此の者は自分に返答してくれることが出來る。これは既に形を成した生きた思想を自分に與へて呉れることが出來る。」 實際、眼は -- 心は -- 常に男性及び女性といふ形體に伴はれる。そしてこれ等の形體は、 萬物の心體に存在する力と秩序とを比類なく最も豐富に報道するものである。 不幸にしてこれ等の形體は、何れも多少毀損されたやうな痕跡をもつてゐる。瑕がついてゐて、 外見上缺點はある。然しその周圍にある聾唖の自然とは遙かに異なつて、 これ等の形體は何れも思想と徳との底知れぬ海の上に立つ噴水管の如きもので、 一切の有機體中、此の思想と徳との入口となるものはこれ等人間の形體のみである。
人間の形體が、吾々の教育に如何なる用をなすかを詳細に研究するのは、愉快な研究であらうが、 然し、かくの如き研究に果てしがあらうか。吾々が未成年時代や壯年時代に交はる友の中には、 空や海の如くに吾々の思想と同じ大きさの人々がある。彼等はおの〜心靈の一種の感動に應じて、 その方面に於ける吾々の慾望を滿足せしめる。吾々は彼等を吾々から近い焦點距離に置いて彼等を匡正し、 または分析さへする力がない。吾々は彼等を愛せずには居られない。一友と深く交際して、 吾々が美質の標準を獲、且つ斯やうに吾々の理想に勝る眞人を送り給ふ神の力に對する吾々の尊敬の念を一層高める時、 尚又、其の友が一個の思想となり、彼の人格は一切の無意識の感化力を失はずにゐながら、 而かも心の中では堅實な芳ばしい智慧と化する時、 -- それは、友の任務の終らんとしてゐることを吾々に告げる徴候である。 かくて彼は程なく吾々の眼界から退き去るを常とする。
此の目的こそ宇宙の窮極原因ではないか、又自然は果して外部的に存在するか否か、
といふ高尚な疑問が絶えず心に浮ぶ。吾々が世界と名づける外相についての十分な説明は、
神は人の心を教へて、それをば、相適應した若干の感覺、例へば日月、男女、 家屋と商業と呼ぶが如き感覺の受容者たらしめるといふことである。
私の五官の報告が確實であるか否かを試驗すること、即ちその感官が私に與へる印象が、
外部にある物象と對應するか否かを識別することが、私に全く不能である以上、
輕薄な
然しながら、吾々が自然の諸法則は不變である事を十分滿足しながら、 他の一方面に於いては、自然が絶對に存在するものであるか否かの問題は依然として明らかに殘つて居るのである。 熱、水、窒素の如き特殊の現象の安定に對する吾々の信仰を動搖させることなくして、 而かも自然を實體にあらずして現象と見做し、必然的實在性を靈の作用に歸し、 自然を以て一個の出來事や一個の印象と見做すことは、教養の力が人の心の上に與へる一定不變の結果である。
自然の絶對的存在を信ずる一種の本能的信仰は、感覺と未だ一新せられない悟性との存するに因る。
これ等の感覺と悟性との見るところに依れば、人間と自然とは不可分離的に結合してゐる。
萬物は皆究極のものであつて、己が領域以外に眼を注ぐことは決してしない。
しかし此處へ理性が表はれると、かゝる信仰は破壞される。思索の第一歩の努力は、
吾々を自然の一部分であるかの如くに自然と結びつける感覺の專制を緩和するに力め、
自然は吾々から離れ、謂はゞ浮漂して居ることを示すのである。
此の一層高尚な作用の參加するに至るまでは、動物の眼は、劃然とした輪廓と色彩ある表面を、
驚くほど精確に見る。然し、理性が眼を開くや、輪廓と表面とには直ちに優美と表情とが加へられる。
此の兩者は想像と愛慕から生じ、物象の
吾々は進んで、教養の力を指示しよう。
第一。觀念論の哲學に於いて吾々が先づ第一に組織するものは、自然そのものから受ける暗示である。
自然は靈と共力して吾々を解放する目的で造られてゐる。ある機械的の變化、
又は少し吾々の居所の位置を變更することに依つて、吾々は一種の二元論の存することを知る。
吾々は海岸を眺めるには、走る船から望み、或ひは輕氣球から望み、
或ひは異常な空の色を通して望むによつて、不思議な感動を覺えるものである。
此の見地に於ける最後の變化は、全世界に繪畫のやうな風致を與へる。
稀にしあ車に乘らない人は、市街を人形芝居場となすには、唯馬車を驅つて彼の住む町を通過すればそれでよい。
談話をしたり、走つたり、賣買をしたり、喧嘩をしたりする
これ等の場合に於いては、觀察者と光景 -- 人間と自然との間に存する相違が、機械的方法に依つて暗示されてゐる。 是に於いて畏敬の念を混へた一種の快樂が生ずる。或ひは、一層低い崇高の念は、 恐らく次の事實から感ぜられると言ひ得よう。即ち、人は、世界は一個の光景に過ぎぬのに、 自己には幾分か永久不動なものがあることを知るといふ事實からである。
第二。更に高尚な方法で、詩人は右と同樣の快感を吾々傳へる。彼は少しの筆づかひで、
恰も空氣の上に畫くが如くに、太陽、山嶽、夜營、都會、英雄、處女を描き出す。
然し描かれたこれ等の物象は吾々の知るものと別に異なることはない。 單に少しばかり地上から高められて吾々の眼の前に浮漂してゐるのである。
彼は陸と海を弛め離して、自分の偉大な思想の中軸の周圍に廻轉せしめ、且つこれ等を新たに配置するのである。
勇壯な熱情に蔽はれると、詩人は物質をその熱情の象徴として用ゐる。
感覺の鋭い人は思想を事物に合一し、詩人は事物を己が思想に合一せしめる。
前者は自然を根柢あるもの、固着したものと見做し、後者は自然を流動するものと見做し、
自然の上に己が實在を印銘する。詩人には、此の御し難い世界も從順で撓め易いものとなる。
彼は塵や石をも人性を以て裝ふて、理性の言語たらしめる。 想像とは理性が物質世界を利用することであると定義してもよからう。
シェークスピアは、自然を屈服して表現する力に於いてあらゆる詩人に超越して居た。
彼の莊嚴な詩想は宇宙を恰も一個の玩具の如くに手から手に投げ取り、 宇宙を用ゐて彼の心中の最も皮相にある變り易い思想をも現はしてゐる。
巧妙な心靈の結合に依つて、彼は自然の最も遠隔な空間をも訪づれ、
且つ遠方に離散せる事物をも集合する。即ち吾々は、物質的事物の大きさは相對的であつた、
一切の物象は詩人の熱情に用をなさんがために收縮したり、擴大したりするものであることを知つて居る。
かくて、その
「疑ひ」こそは美の飾りなれ、
いとうるはしき大空を翔ける鳥か。
彼の熱情は偶然に得た結果ではない。彼が都市又は國家に對して語るにつれて、彼の熱情は擴がるのである。
否、そは(國家)偶然に建設せられしものにはあらず、
そは微笑める得意にあつて苦しむことなきが如く、
奴隸とならしむる不滿に逢ふとも滅ぶることなし。
そは權謀をも恐れず、束の間盛ゆる異教徒をも恐れず。
たゞひとり自から大政治をなす。
確實不變の力あるシェークスピアに對しては、
いしくも拒みたる
あの唇を取り去れ。
さてはその眼、 -- 朝あけを、朝を惑はす光を取り去れ。
ついでの話であるが、かくの如き誇張法の奔放な美は、文學上これに匹敵することは容易でないと言へるであらう。
詩人の熱情によつて一切の物質的對象が形を變化することは -- 即ち、詩人が巨大なものをも矮小ならしめ、
微小なものをも擴大する此の力は -- シェークスピアの戲曲より幾多の例を引いて證明することが出來るであらう。
私の手許には「
プロスペロわしは磐石の巖の岬を震動させたこともあれば、松杉の大木を根こぎにしたこともある。
プロスペロは部下を呼んで、狂氣のアロンゾとその從者とを慰めるために音樂を命ずる。
莊嚴な音樂ほど亂れた心を慰めるに適したものはない。 頭の中でいくら煮え拂 つても何の役にも立たぬお主 のその腦髓が、 どうか此の音樂で治るやうに!
更にまた
呪縛が見てゐるうちに釋 ける。恰 ど朝の光が、夜の暗をだん〜溶しつゝ忍び寄つて來るやうに、 囘復しかけた正氣が朗かな理性を掩うてゐる無明の雲霧を逐ひ拂ひをる。 ……だん〜分別が戻つて來るらしい。溷濁してゐる彼等の心が岸頭に、今に理性の上げ潮が打ち寄せるであらう。
諸事件の間に存する眞の和合(即ち觀念上の和合を指すのである。何となれば此れのみが眞であるからである) を知覺して、詩人はかくの如く世界の最も堂々たる形體と現象とを自由に使用し、靈の勝利を確立することが出來る。
第三。かくの如く詩人は自己の思想を以て自然を活動せしめるが、哲學者と異なる點は、
前者は美をその主要目的とするのに反し、後者は眞をその主要目的とするに在る。
然し哲學者も詩人とひとしく、萬物の外見上の秩序關係を
かくの如く物理學に於いてはせ、物質的事實は靈的事實の前に在つては低下せるものに過ぎない。
天文學者、幾何學者は、彼等の爭ひ難い分析に信頼し、觀察の結果を輕視する。
オイレルがその發見した弧線に關する法則について述べた「此の法則は一切の經驗に反して居るであらう。
しかもこれは
第四。智的科學は絶えず物質の存在について疑ひを生むものであると言はれてゐる。
テュルゴーは言つた、「物質の存在に疑ひを抱いたことのないものは、 形而上の問題に對しては適してゐないと斷言することが出來よう」と。
此の言は、不朽な必然的な自存の自然、即ち、觀念の世界に吾々の注意を結び付ける。
そして此の觀念の世界に面する時、吾々は外界の事態は一場の夢、一個の影に過ぎないと感ずるのである。
吾々が此の觀念といふ諸神のオリンパス山に侍る間は、吾々は自然を靈の附録であると考へる。
吾々は此等觀念の世界に登つて行く。そして此等の諸觀念は、かの至上實在の持つ思想であることを知る。
「觀念こそは無窮の
觀念の力が人に及ぶは比例的である。即ち、科學の對象としては、觀念に到逹し得る人は殆どない。
しかも人はすべて敬虔の念又は熱情に依つて、觀念の世界に登り得るのである。
そして何人もこれ等の觀念と稱する神聖な性質に觸れると、多少彼自身も神聖とならざるを得ない。
觀念は一個の新しい靈の如くに人間の肉體を一新する。吾々は身體が敏捷に且つ輕快になる。
吾々は空中を歩む。人生は最早煩はしいものではない。また今後も人生は決して煩はしいものであるまいと考へる。
觀念との靜穩な交通を續けてゐると、何人も年齡、災禍、死を恐れない。何となれば、彼の身は、
變化の領域外へ移されて居るからである。吾々が
第五。最後に、宗教と倫理とは -- 此兩者は觀念の實行若しくは觀念を人生に導入することと名付ける方が適當であらう --
自然を貶して、それを靈の下に置くことを暗示する點に於いて、一切の一層低き教養に對して、
同樣の結果を有して居る。倫理と宗教とは次の點に於いて異る。即ち、前者は人より始まる人間の義務の體系であるが、
後者は神より發するものである。宗教は神性を含むが、倫理は含まない。然し、
兩者は吾々の計畫に對しては同一である。即ち、兩者共に自然を足下に置く。
宗教の最初にしてまた最後の教訓は、「目に見ゆる事物は一時的のもので、
眼に見えざる事物は永久的のものである」と云ふのである。此の教訓は自然を侮辱するものである。
それは哲學がバークレーとヰ゛アサとに對して爲すべきことを無學の徒に行ふのである。 最も無智な宗派の教會に於いて聽くきまり文句は --
「世界のあらゆる非實體な表相を蔑視せよ。 それ等は、空虚である。夢である。非實在である。宗教の實在を求めよ」と云ふ言葉である。
これ等の宗派の信者は自然を蔑視する。
運動、詩歌、物理的及び智力的科學、宗教、これ等は何れも外界の實在に對する吾々の信念を動かさんとするが如くに思はれる。 しかし、一切の教養は吾々を觀念論に感染せしめるといふ一般的命題の細目を、餘りに立ち入つて擴げるのは、 何となく自然に對して忘恩であると思はれることを私は告白する。私は自然に對して、 小兒の有すが如き愛こそあれ、何等の敵意もない。私は暖い日に浴して、玉蜀黍や瓜の如くに擴がり生きる。 吾々をして自然を公平に説かしめよ。私は私の美しい母に石を投げることや、 また私のおとなしい巣を傷つけることを欲しない。私は唯、人間に關する自然の眞位置を (あらゆる正しい教育は、その眞の位置に人を置くことに貢獻するのである)、 其の基礎に到逹することが人生の目的、即ち人が自然と結合する目的であるその基礎として、 述べんと欲するのである。教養は自然に對する凡俗な見解を顛倒する。 心をしてその現實と呼び慣れてゐるものを、外見に過ぎないものと呼び、 幻影と呼び慣れて居るものを、現實と呼ぶに至らしめる。實際、小兒は外面の世界を信ずる。 外面の世界が唯外見に過ぎないとする信念は、後に至つて出來る思想である。 然し教養を受けると、外の世界は表面に過ぎぬとする信念は、 最初に外の自然の實在を信じたと同じやうに、必ず心の中に起るのである。
觀念論の説が通俗の信念よりも優越して居る點は、その説が人の心に最も望ましいやうな、
丁度その見解の下に精確に世界の現はすところにある。此の見解は、實に、
推理的
自然の容貌は敬虔に充ちて居る。彼女はイエスの像の如くに、
吾々が靈と名づける、かの言語に盡し難い本質を最も深く考へる人は、語ることは最も少い。 吾々は、粗野な、また、謂はゞ親しみ難い物質的現象の中に神を先見する。 然し、吾々が神そのものに定義を下し記載せんと試みる時は、吾々は言語も思想も失つて、 吾々は馬鹿や蠻人の如く無能力となる。此の本質は命題として記録されることを拒むにであるが、 吾々が智的に此の要素を禮拜する時、自然の最も高尚な使命は、神の出現として立つことである。 自然は、宇宙の靈が人に語り且つ人を自己の許に導き歸らうとつとめる機關である。
吾々が靈を考察する時、吾々は既に提示した諸見解が人間の全周圍を包含して居ないことを知る。 吾々はこれに關係する二三の思想を更に附加しなければならない。
自然は三つの問題を人の心に提供する。即ち、物質とは何であるか。物質は何處より來るか。 何處へ行くか。觀念論はこれ等の中で第一の問題のみに答へる。觀念論は言ふ、物質は現象であつて、實體ではないと。 觀念論は吾々自身の實在の證據と世界の實在の證據との間に全然不同のあることを吾々に知らせる。 即ち前者の證據は完全であるが、後者の證據は聊かも確信せしめる力を有たない。 心は萬物より成る自然の一部分であるが、世界は神聖な夢である。吾々はやがて此の夢より眼覺めて、 白日の光明と確實とに接するであらう。觀念論は大工仕事や化學の原理と異なる原理を以て自然を説明せんとする假説である。 しかし觀念論が單に物質の存在を否定するだけでは、靈の要求を滿足させない。それは神を私から離してゐる。 觀念論は私の知覺の壯麗な迷路に私を殘して置いて、目的もなく彷徨せしめる。それから吾々の感情が觀念論を拒む。 それは男女の實體的存在を否定して、愛情の發露を妨碍するからである。 自然は人間の生活によく透徹してゐて、自然の全體、またその各個體の中には何程か皆人性を有つてゐる。 然るに此の觀念論の學説は、自然を吾々によそ〜しいものとならしめる。 且つ、吾々が自然に認めるあの血屬關係を説明せぬ。
されば、現在の吾々の智識状態に於いては、 觀念論は單に靈と世界との間に存する永久の區別を吾々に告げる用をなす有用な序論的假説であるとして置かう。
しかし、眼には見えない思想の足跡を追ふて、物質は何處から來るか、何處に行くかを問ふに到ると、 數多の眞理は意識の奧から吾々に現はれて來る。吾々は至高の者が人間の靈に存在することを知る。 智でなく、愛でなく、美でなく、また力でもなく、それ等の一切を包含して各個また完全であるかの畏敬すべき普遍的本質は、 萬物がそのために存在し、萬物がそれに依つて存在するものであることを知る。 吾々はまた、靈は創造することを知る。自然の背後と自然を貫いて靈が存在し、 その靈は單一なもので、結合したものではなく、外部から、換言すれば、空間と時間とによつてでなく、 靈的に、即ち吾々を經て、吾々の上に働くものであることを知る。されば、靈即ち至上實在は、 吾々の周圍に自然を造らずして、恰かも樹木の生命が古い枝と葉との孔から新しい枝と葉とを發するが如くに、 吾々の内から自然を發生せしめることを知る。植物が地上に立つが如く、人間は神の御胸の上に坐してゐる。 人は幾多の汲めども盡きぬ泉の養はれ、必要に應じて、盡きざる力を汲み取るのである。 誰れか人の可能性に制限を附し得るものぞ。正義と眞理との絶對性を視ることを許されて、 一とたび上層の氣を吸へば、われ〜は人が造物主の完全な心に接近し、 且つ自己もまた有限界に於ける造物主であることを知る。此の見解は、智慧と力との源泉が何處に存するかを私に警告し、 且つ、恰かも、
永遠の宮殿を開く
黄金の鍵
を指すが如くに徳を指すのである。此の見解は其の表面に、眞理を示す最高の證明書を携へて居る。 それは私を鼓舞し私の靈を淨化して、私特有の世界を創造せしめるからである。
世界は、人間の肉體が發生する靈と同一の靈から發生して居るのである。 世界は更に劣つた神の一つの化身である。即ち無意識界に於ける神の放射である。 しかし世界は、一つの重要な點に於いて、吾々の肉體と相違してゐる。 即ち、肉體の如くに人間の意志に從屬して居ない。その靜穩な秩序を吾々人間は破ることが出來ない。 されば、世界は吾々の眼前にあつて神の御心を説く説明者である。 世界は吾々と神との背離を測る定點である。吾々が墮落すればする程、吾々と住家なる世界との對照は益々明白となる。 吾々は神から疎外せられたものであるだけ、自然の中に在つても異郷の人なのである。 吾々は鳥の聲を諒解しない。狐と鹿とは吾々から逃げ去り、熊と虎とは吾々を裂く。 吾々は玉蜀黍、林檎、馬鈴薯、葡萄の如き少數の植物しかその效用を知らない。 いづこを眺めても雄大なかの風景は、神の面影ではないか。しかし此の事は、 如何に人と自然との間に不調和が存するかを示すものであらう。 何となれば、若し近傍の野に勞働者が土を掘つて居るならば、 諸君は高尚な風景を心のまゝに嘆賞することが出來ぬからである。 詩人は、人が見えなくなつてしまふまでは、 風景に對する彼の喜悦の中にも何かそぐはぬもののあることを見るのである。
人の身體は悉く均齊にして
釣合はざる所なし。右の手は左の手と、
またづべての部分は世界の全部と釣合ふ。
何れの部分も最も遠きに隔つるものをも、兄弟 と言ひ得べし。
それは人知れぬ親睦 の、頭と足とにあればなり。
また頭と足とは、月と潮とも親睦 をもてばなり。
人に捉へられて其の餌食とならむ程遠く隔つるもの一もなし。
人の眼はいと高き星をも卸す、
げに小さき人の身に全世界はあれ。
吾等の肉體の中の草の知己あるを知るが故に、
草はよろこびて吾等の肉體を癒す。吾等のために、風は吹き、
大地は休み、天は動き、泉は流る。
眼に見ゆるものは悉く吾等の利益となり、
娯樂となり、寶となる。
宇宙全體は糧を供ふる戸棚か
はた吾等の樂みの室か。星は吾等を寢床に誘ひ、
夜は窓掛を引き、日はそれを取り去る。
樂の音と光とは吾等の頭に侍 く。
萬物は皆降下と存在にありては
吾等の肉體をねんごろに、
向上と原因とにては吾等の心にねんごろなり。人に氣づかざる數多の召使人に
侍 く
病に蒼ざめおとろへて
いづこの道を行くとも、己を助くる道歩み行くなり。
おゝ偉なるかな神の愛!人は一つの世界にて
なほ己に侍 く他の世界をも有てり。
此の主の眞理を感知すれば、人は科學に近づかんと欲する念を生ずるも、 方法に注意を拂ふこと深きために、目的は影を失つてしまふ。 科學の比の不完全な視力を思ふて、吾々はプレトーの「詩歌は歴史よりも活ける眞理に近し」 と述べた言葉を採るものである。心の臆測と豫言とはすべて、或る程度の尊敬を受くる價値のあるものである。 かくて吾々は、一の尊重すべき暗示をも持たない巧みに排列した學術的系統よりも、 寧ろ眞理の閃光を有する不完全な學説や文章を選ぶべきことを知るのである。 賢明な文人は研究と文章との目的に逹する最善の道は、人の未だ發見しない思想のあることを報知し、 希望によつて麻痺した靈に新しい活力を與へるにあることを感ずるであらう。
されば私は既に或る詩人が私に歌つて聞かせてくれた人間と自然とに關する數個の傳説を記して此論を結ばうと思ふ。 これ等の傳説は世間に常に存在し且つ恐らく何れの詩人の心にも再現するが故に、 歴史でもあり豫言でもあるだらう。
「人間の基礎は物質に置かれずして、靈に置かれたり。然るに靈の要素は永遠なり。 されば、靈より見れば、最も長く連續せる諸事件も、最も古き年代説も、 年若き近來のものなり。既に世に知らるゝ個々の人物を發生せる普遍的人間の週期より見れば、 世紀は點にして、全世界は一個の墮落の一時代のみ。
「吾等は自然と同感することを心中ひそかに疑ひ且つ否定す。吾等は自然に對する關係を是認し、 或ひは否認す。吾等は、ネブカドネザルの如くに、王位を黜かされ、理性を失ひ、 牛の如くに草を食ひつゝあるなり。されど誰か靈の治療力に制限を附し得んや。
「人間は零落したる神なり。若し人にして無邪氣ならば、生命は更に長く、夢より醒むるが如く靜かに不死の境に入らむ。 而してこれ等世界の紊亂の存續すること數百年ならば、爲めに世界は錯濫發狂せむ。 幸にして死と幼年とありて、これを防止せり。幼年は永遠の救世主にして、 墮落せる人の腕に抱かれて、天國に歸れとこれ等の人間に説く。
「人間は自己の手になりし侏儒なり。嘗ては彼は靈に依つて滲透され、靈に依つて熔解せられたりき。
彼はその溢るゝ大流をもて自然を滿たしぬ。日と月とは彼より出でたり。男よりは日、
女よりは月。人間の心意の諸法則と、其の行爲の諸期間とは、形に表はれては、晝となり、夜となりぬ。
歳となり、四季となりぬ。されど、人間は自己のみにて此の巨大なる介殼を造り終ふるや、
其の大流は退きぬ。最早世界の脈管をも毛細管をも滿たす能はずして、己は唯一滴に縮まりぬ。
かくて人間は、其の構造の今も尚、己に適合すれども、其の適合の尨大に過ぎたるを見るなり。
否寧ろ、嘗てはその構造も人間に適合したりしも、今や遠くより、又は高きにありて、
彼に對應するなり。彼はおづ〜として己の作品を崇拜するなり。今や男は日の從者、女は月の從者たり。
然かも尚ほ、人間は時に淺き眠より飛び起きて、己が身と其の家を驚嘆し、
己が身とその家との間に存する類似を不思議にも瞑想す。人は茲に於いて
今や、人は其の力の半をしか自然に適應しない、即ち、人は其の悟性のみを以て世界に働くのである。
彼は世界に住んで、その世界を治むるには一文惜しみの態度を以てする。 であるから世界に於いて最もよく働く人も、半人間に過ぎないのである。
その兩腕は強壯で、消化力は良好であるが、その心は獸化して居り、彼は利己主義な一蠻人となつて居る。
人が自然に對する關係は、また自然の上に及ぼす威力は、悟性に依つて到逹されるのである。
例へば、肥料を施し、火、風、水、磁針の利用、蒸汽、石炭、化學的農藝により、
又は齒醫者や外科醫に依つて人間を修繕するが如きはこれである。然かも、かくの如くして力を囘復せんとするは、
恰かも追放されし國王が一擧してその王位を囘復せずに、一寸づゝ領地を買求めるが如きである。 然し、濃い闇の中にも優れた光明の閃くこと
-- 人が其の全力を以て、即ち、 悟性と同時に理性を以て自然に作用すると云ふ實例が時々示されること -- がないではないのである。
其の實例を擧げると、各國民の太古に於ける竒蹟に關する傳説、イエス・キリストの生涯、
宗教上竝びに政治上の革命や、また奴隸賣買の廢止に見る如き主義の成就、スヱデンボルグや、ホーヘンローや、
本來の永遠の美を世界に囘復する問題は、靈の濟度によつて解決される。吾々が自然を眺める際、 吾々の眼に見える沒落や空虚は、吾々自身の眼に存するのである。視力の軸が萬物の軸に一致して居ないので、 萬物は透明ではなくして不透明に見えるのである。世界が統一を缺き、碎けて幾個の塊團になつてゐる理由は、 人が自己と分裂してゐるからである。靈の一切の要求を滿足するのでないと、人は博物學者であるとは言へない。 愛は知覺と均しく靈の要求するところのものである。實に此の愛と知覺との兩者は何れも其の一を缺けば、 完全なることを得ないのである。至高の意義に於いては、思想は信仰であり、信仰はまた思想である。 深みは深みを呼ぶのである。然し、實際に生活に於いては、思想と信仰との結婚は行はれては居ない。 世には己が祖先の因襲に從つて神を禮拜す無邪氣な人がある。然し、義務に對する觀念は、 人々の一切の能力を使用せしむるまでに發逹してはゐないのである。 また世には孜々として研究する博物學者がある。然し、彼等は研究の題目をば悟性の冷やかな光に凍らして終ふ。 祈祷もまた眞理の研究ではないか。 -- 知る事の出來ない無限の中へ試みる靈の突撃ではないか。 眞心を籠めて祈祷して、何物かを知り得なかつた人は未だ無いのである。 然しながら、忠實な思索家が一切の物象をば人間の關係から切り離して、 思想の光に照らして見んことを決心し、同時に最も神聖な愛情の火を以て科學を燃やす其の時に、 神は再び此の宇宙の中へ現はれ給ふであらう。
心に研究の準備が出來て居るならば、殊更に研究の對象を探すに及ばぬであらう。
智慧の不變の目標とするは、平凡なものの中に不可思議なものを見ることである。
一日とは何であるか。一年とは何であるか。夏とは何であるか。女とは何であるか。
小兒とは何であるか。睡眠とは何であるか。盲目な吾々には、これ等のものは感動を與へないやうに思はれる。
吾々は事實の露骨なのを隱すために寓話を作り、實に、その事實を心の更に高尚な法則に一致せしめる。
然し、其の事實を觀念の光に中で見る時は、その華麗な寓話は色褪せて
かくして吾々は新しい眼を以て世界を見るに至るのであらう。 世界は吾々の教化された意志に默從して、眞理とは何ぞや -- といふ智力の發する無限の考究と、 善とは何ぞや -- といふ愛情の發する無限の考究とに答へるであらう。かくて我が詩人の唱へたことが起るのである。 「自然は固定せずして流動す。靈は自然を變更し、型成し、製造す。自然が固定し、又は非情なるは、 靈の此處に存せざるためなり。純なる靈に對しては、自然は流動し、發揮し、且つ從順なり。 すべての靈はみづから一個の家を築き、その己が家のあなたに一個の世界を築き、 その己が世界のあなたに一個の天界を造る。されば世界は汝等のために存することを知れ。 汝等のためとて此の現象界は完全なり。吾等は何ぞや。たゞそのことをのみ知るを得るなり。 アダムの有せし一切のもの、シーザーの爲せし一切のものは、汝等も之を有し、また爲すを得。 アダムは己が家を天地と呼びぬ。シーザーは己が家を羅馬と呼べり。汝等は恐らく己が家を呼びて、靴直しの商店、 百段の耕地、或ひは學者の屋根裏部屋といはん。然かも、汝等の領土は美しき名こそなけれ、 彼等の領土と等しく大いなること、一線一點も違はざるなり。されば汝等獨特の世界を築けよ。 汝等が生活をば汝等の心の純なる觀念と合一すれば直ちに、汝等の生活は偉大なる調和を展開せん。 靈の流入に遇へば、それに應ずる革命は萬物の間に起るべし。 かくて、豚、蜘蛛、蛇、鼠疫、癲狂院、監獄、敵、かくの如き厭はしき外貌は直ちに消え失せん。 これ等は一時のものにして、最早再び眼に見ゆることなからん。自然の汚穢は、日に乾き、風に吹き散らん。 夏南より來るや、積雪は解け、地面はその前に緑を呈するが如く、進みゆく靈は通路に飾を施し、 己の訪るゝ美と、己を恍惚たらしむる歌とを伴はん。そは美しき面と、温き心と、 賢き談論とをば己が通路の周圍に誘ひ、終に惡しきものは最早見えざるに至らん。 かくて人は、自然の上に建てられたる此の人の王國に入りて、 恰かも次第々々に兩眼の明を囘復する盲人の感と同一の感に打たれて驚かん。 然かも、此の王國は、觀察によりて生ずるにあらず -- 且つ今は神を夢見るよりも、 遙かなる如き領土なり。」
渾圓の世界は見るも美しい
九重の神祕に包まれてゐる。
惑はされた豫言者は、その勞 しめる胸の祕密を
傳へることが出來ないが、
鼓動する自然の胸と合せて、
汝の胸を鼓動せしめよ。
それで凡ては明らかになる、東から西まで。
あらゆる象 の中に潛める靈は
同類の靈をさし招く
あらゆる原子 は自ら燃えて輝き、
その負へる未來を暗示す。
一年のうちの殆んど何れの季節を問はず、世界がその圓滿の域に到逹したやうな日の、
此の風土に來る時がある。その時には、大氣と數ある天體と地球とは、一つの調和をなして、
自然はその子等の思ふがまゝにさせようとしてゐるやうである。その時には、
地球の上部に位する蕭殺たる此の地方に在つても、かねて聞き及んで居る最も幸福な暖地の事物も何一つ欲しくはなく、
吾々はフロリダやキューバに於けるが如き照り輝く晝の光を浴びて暖まる。そのときには、
生きとし生けるものは皆滿足の色を帶び、地に横はる家畜の群も、偉大にして靜穩な思ひを懷いてゐるやうに見える。
かゝる平穩な日は、吾々が特に小春日和といふ名を以て呼ぶあの清らかな十月の季節の於いて、
他の季節に於いてよりは稍一層確かに期待することが出來るであらう。日は測り知り難い程に永く、
廣い丘に上や暖かな
これ等の魅力は醫藥の如くであつて吾々を醒まし且つ療す。これ等は吾々に固有の生得の飾りない愉樂である。 吾々は吾々自身に立ち歸る。
そして諸學派の虚飾的の空談が動もすれば吾々にすゝめて蔑視せしめようとする物質と親しみを結ぶ。
吾々は到底それと離れることは出來ぬ。心はその昔の故郷を愛する。吾々の渇きに對する水のやうに、
岩石も大地も吾々の眼と手と足とに取つては同じである。岩石は堅い水である。地は冷たい焔である。
何といふ健康、何といふ親和力ぞ!吾々が氣取つてよその人とむだ話をしてゐる時に、
いつでも、親しい友や兄弟のやうに、この一人の舊友は率直な顏をして來る。
そして吾々に對して頗る無遠慮に振舞ひ、吾々を慚愧せしめてその
吾々が或る自然の物象に心を寄せた一日は、全然穢れたものでなかつたやうに思はれる。
おの〜の結晶體にその完全な形を保有させて靜かな空氣の中に雪片の落下するのや、
エデンの園やテンプの谿を極めて容易に現出せしめる精神上の感受性は、必ずしも常に得られるものではなからう。
然し有形の山水風景はいつでも遠くはないのである。吾々はコモの湖やマデーラの群島を訪れることなくして、
これ等の風景の美に接することが出來る。吾々は一地方の風景の讚美を誇張する。
どの風景に於いても、驚嘆すべきは空と大地との出會ふところである。
そしてこれはアリガニー山脈の頂からも見られるし、そこらの小丘からも見られるのである。
星は、夜、カムパニアの野原や大理石に似た冷たいエジプトの沙漠の上に濺ぐあのまことに靈妙な壯大を以て、
極めて褐色の極めてありふれた共同地の上にも降るのである。 捲き昇る雲や朝夕の色は楓や
併し、煩瑣學徒がナチュラ・ナチュラタ即ち受動的自然と呼んだこの題目に關しては、
讀者の同感以上に語り過ぎることに極めてなり易い。度を過さないで此の題目に就いて直截に語ることは誰れにも殆んど出來ない。
それは雜多の人々のゐる中で、所謂「宗教の問題」を口走り易いのと同じである。
そこで敏感な人は、何か多少の必要に依るといふ口實がなくては、此の種のものに對する自分の嗜好に耽るのを好まない。
即ち、さういふ人は森の一區域を見るために、或ひは收穫を見るために、 或ひは遠い地方から植物なり鑛物なりを採集して來るために行く。
でなければ鳥銃なり又は釣竿なりを持つてゆく。この羞恥の情は、正當な理由を有してゐるに違ひないと私は思ふ。
自然に對するディレッタンティズムは無駄であり無價値である。
田園の
しかし丁度よい時機を見はからひ、この題目に就いてなほ多くのことを言はないまゝに殘して置くことにして、
かの能動的自然、ナチュラ・ナチュランスに對する吾々の崇敬を此の上長く省いて置かぬことにしよう。
それは靈活な根源で、よろづの物象が吹雪の如くその前から飛び散る。
それ自身祕理で、その造り出したものは(古代の人々が牧羊者プロ−チウスを以て自然を表現したやうに)
幾多の群團をなし、また筆紙に盡し難いほど、多種多樣に、その前に驅り出される。それは己を創造物の中に表はし、
微分子や小尖體から、變形に變形を重ねて、最高の均齊を得たものに逹し、 一つの衝撃も一つの飛躍もなく完成せる結果に到逹する。
草木も生えぬ
運動即ち變化と、本體即ち靜止とは、自然の第一及び第二の祕密である。即ち運動と靜止と。
自然の法則の全成典は拇指の爪か指環の印の上に書かれよう。小川の表面の渦卷く泡は、
吾々をして天上に於ける機械學の祕密を悟らしめる。海濱のどの貝殼もその祕密の鍵である。
自然は自己の法則を犯すやうな
事物は極めて密接に相關係してゐる。それ故眼の熟練を以てすれば、任意の一つの物から、
任意の他の物の關係と性質を豫言することが出來るであらう。若し吾々に見る眼さへあれば、 都市の墻壁からの一塊の石を見れば吾々は、
その都市の存在と同じく容易に必ず人が存在するに相違ないといふことを確かめることが出來る。
この合致は吾々すべてのものを一つにし、吾々の慣習的の尺度による非常な間隔をも無に歸せしめる。
吾々は、恰かも人爲生活も亦自然ではなかのやうに、自然生活から外れてゐることを説く。
宮中の婦人室にゐる非常に滑らかな捲毛の宮内官も、自己の目的物に對して萬能な白熊のやうな、
兇暴な原始的動物性を有してゐる。そして香料や艷書の中に浸つてゐても、
ヒマラヤ山脈や地軸と直接に關係してゐる。若し吾々がどれ程まで吾々が自然の子であるかを考慮すれば、
吾々が都會に就いて迷信的になつて、恰かもかの恐るべきまた慈愛に富む自然の力が、此所に住む吾々に訪れ來ることもなく、
またその力が都會を建設しなかつたかのやうに思ふには及ばぬ。石工を作つた自然は、家屋を作つた。
吾々は田園の感化に就いて、人の語り過ぎるのをよく聞く。自然物の心涼しげな自由な態度は、
赤い顏をしてゐる熱して激し易い被造物たる吾々に彼等を羨ましめる。
そして、若し吾々も露營して木の根を喰へば、彼等のやうに偉大になるであらうと思ふ。
しかし吾々をして
この主導力たる合致は、一片の事實に存する一切の意外と對照とに貫通し、 あらゆる法則の特質となつてゐる。人間はその頭腦の中に世界を携へてゐる。 天文學と化學との全部は唯一つの思想の中に懸つてゐる。自然の歴史は人間の腦裡に誌されてあるが故に、 則ち人間は祕密の豫言者であり發見者である。自然科學上のあらゆる既知の事實は、 それが實際に證明される前に、何人かの豫感に依つて先見されたのである。 自然界の極めて遠い諸々の地域を結合する法則を認めずしては、 人はその靴の紐も結ぶことが出來ない。月、植物、瓦斯、結晶物、これ等は具象せられた幾何學と數字である。 常識はみづからに屬するものを知り、化學の實驗に際してつも一見して事實を認める。 フランクリンや、ダルトンや、デ・ーや、またはブラックなどの常識は、 今その常識が見る通りの學理の整頓をなしたその同じ常識である。
若し合致が組織ある靜止を表はすとすれば、その反對の運動もまた組織の傾向を有する。 天文學者はかう言つた、「吾々に物質と少しの運動とを與へよ。さらば吾々は宇宙を建造するであらう。 吾々が物質を得たばかりではまだ十分でない。吾々はそれとともに一個の衝動、即ち物質を押し進め、 遠心力と求心力との調和を生ぜしむる一つの促進力を得なければならぬ。 一とたび鞠を掌中より上に投げよ。さらば吾々はこの宇宙の偉大なる秩序が如何にして發生したかを示すことが出來る」と。 形而上學者は言つた、「それは極めて不合理な要求である。そして明らかに、問題を證明なくして假定することである。 一體、君等は衝動の繼續と同樣にその發生を知るに成功し得なかつたのか」と。 然るに自然はかゝる討論を待つてはゐなかつた。唯、正當にもせよ誤れるにもせよ、 衝動を與へた。そして諸の圓球は廻轉した。それは一向大事件ではなかつた。 ほんの一刺衝に過ぎなかつた。しかし天文學者がこれを重視するのは正當である。 何となればその刺衝の結果には終極がないからである。かの顯著なる根源の刺衝は、 天體系統の一切の圓球を通じ、そのおの〜の圓球をあらゆる原子を通じ、あらゆる動物の種族を通じ、 またおの〜の個人の歴史と功業とを通じて、傳りひろがつてゐる。 厖大は事物の自然である。自然が世界に動物を送り、人間を送るには、 その固有の性質に聊かの過剩を附加せずしてはをれをしない。 遊星は與へたとしても、やはりそれに衝動を加へることが必要である。 かくして、自然は一切の被造物に、その固有の路の方向に進むべき多少の強力、 即ち各被造物をその道に置く刺衝力を附加したのである。 如何なる場合に於いてつも、多少の寛大がある。過分の一滴がある。 電氣なくば空氣は腐敗するあらう。そして男女の有するこの方向の強力なく、 頑信者や狂熱者の面影がなかつたら、何等の興奮も、何等の實效もないであらう。 吾々は標的に當てるために標的の上方を狙ふ。あらゆる活動は、その中に多少誇張の虚僞を含む。 そして時々何人か悲しげな面持ちをした鋭い眼を持つた人が來て、如何に卑しい射的の行はれてゐるかを見て、 これに加はることを拒み、しかもその祕密を口外するとする -- その時はどうなるか。 鳥は飛び去つたか。否々、用心深い自然は更に麗しい姿の、更に氣高い青年の新しい一隊を送る。 そして此等の青年に、めい〜の標的を固く守らしめるやうに、更に少しく過度の方向を取らしめる。 そしてその取れる方向の最も正しいところに於いて、青年をして稍一徹頑固ならしめる。 かくて射的は再び新しい廻轉を以て、更に一時代か二時代は續く。 面白い惡戲に耽る小兒は、自分の五官の愚弄物で、見るもの聞くもの毎に支配せられ、 自分の感覺を比較したり評價したりする力なく、口笛の音や彩色した木片や、 鉛の騎兵や犬の形をした薑餠に心を奪はれ、すべての物を個々のものとして見、 何ものをも概括することなく、新らしいものでさへあれば喜ぶのであるが、夜になると、 絶え間のない可憐な狂氣の一日が齎した疲勞に打ち負けて、臥てしまふ。 しかし自然は、この縮れ髮の笑靨のある狂人に對する自己の目的をば叶はしめたのである。 自然はあらゆる能力を働かした。そしてすべてこれ等の姿勢や運動に依つて、 體格んお均齊を得た發育を遂げしめたのである -- これ第一に重要な目的であつて、 自然自らのみとりほどに完全でない他の如何なるみとりにも任すわけに如何にものである。 この赫燿、この蛋白石のやうな光は、あらゆる玩具の頂を卷いてゐるやうに小兒の眼には見え、 しつかりと遊びに忠實ならしめる。そして彼は欺かれて自分の幸福を受けるのである。 われ〜も亦同じ術によつて生を與へられ、生を持續せしめられてゐる。 ストア派の哲學者等は好きなことを言ふがよい。吾々は生活に役立つために食ふのではなく、 肉の味がよく食慾の烈しいためである。植物の生命はその花や樹から唯一粒の種子を投げることを以ては滿足しないので、 夥しい種子を吝まず空中と地上とに滿たし、よし數千の種子は滅ぶとも數千の種子は地に植わり、 數百は萠芽し、數十は成熟するに至り、少くとも一粒は親樹に代ることが出來るためである。 萬物は同じ豫算ある浪費性を示してゐる。動物の身體は過度の氣づかひを以て取り圍まれ、 寒さにすくみ、蛇を見て驚き、或は不意に物音に驚くが、この過度の氣づかひは、 根據のない夥しき警戒によつて、結局或る一つの眞の危險から吾々を保護するのである。 戀人は何等將來の目的なく、結婚の中に己れ一個の幸福と完成とを求める。 自然は彼の幸福の中に自己の目的を隱してゐるのである。即ち子孫の蕃殖、乃至人類の永續を。
しかし世界の造るところの
同じやうに、自然の到る處に、何か人をだますやうなものが存在してゐる。
吾々をばだん〜遠くへ伴れて行つて、しかも何處にも到着しないで吾々に對して少しも信を守らない或る物がある。
すべて約束は成就に打超へてゐる。吾々は近接といふ一個の組織の中に生活してゐる。
すべての目的は、また均しく一時的である或る他の目的を豫想してゐる。完全な終極の成功は何處にもない。
吾々は自然の中に露營してゐるので、家庭を營んではゐないのである。 飢と渇きとは吾々を食ふことと飮むこととに導く。しかし麺包や葡萄酒は、
諸君が如何にそれを思ふまゝに混ぜたり料理したりしても、胃の滿ちた後にもやはり吾々を飢ゑ渇いたまゝにして置く。
吾々のすべての藝術や成就に於いても亦同じである。吾々の音樂、詩歌、吾々の言語そのものも、
滿足なものではなくて暗示に過ぎない。地球を一庭園に過ぎなくさせてしまふほどの富に對する渇望は、
その熱心な追及者を愚弄する。彼の求むる目的とは何であるか。
それは明らかに明智と美との成果を如何なる種類の畸形と卑俗との闖入からも安固にするといふことである。
しかし何といふ骨の折れる方法であらう!僅かの親交を安固にせんがために、何といふ多數の手段が用ゐられることぞ!
煉瓦と石とのこの宮殿や、幾多の僕婢や、この料理場や、數ある廏や、馬や馬車や、この銀行株劵や、
抵當品目録や、全世界を相手の商賣や、別莊や水邊の園宅や、此等は皆高く清い精神的の僅かの親交のためである!
それは街頭の乞食によつても亦均しく得らるべきものではなかつたか。否、凡てこれ等の物は、
人生の車輪の摩擦を除いて、親交の機會を與へようとするこれ等の乞食の不斷の努力から生じたのである。
親交と人格とは公言せる目的であつた。富は、動物的慾望を鎭め、烟の
人生に於けるこの瞞着と全く相類似して、豫期せられさうである通り、 外界の自然の面から眼の上に受ける同じ結果がある。森や水には一種のまどはす力と媚びとがあると共に、 當面の滿足を與へ得ないところがある。此の失望はどの風景に於いても感ぜられる。 私はかつてあたかも己が高さと運動の特權とを樂めるが如くにして、 羽のやうに頭上に浮べる夏の雲の柔らかさと美しさとを見たことがある。 しかもそれは寧ろ遠い彼方の祝祭の大天幕と花園とを眺めるやうであつて、 その場所その時にある帷幕とは見えなかつた。これは一種竒妙な嫉妬の情である。 しかし、詩人も自分の對象に十分に接近してゐないことを知つてゐる。彼の眼前の松の樹も、 河も、花の堤も、自然ではないやうに思はれる。自然はなほ他に存在してゐる。 あれやこれやは單に凱旋行列の邊端であり遠い反映であり反響であるに過ぎない。 その凱旋行列は既に通過して、今まさにその閃々たり光彩と歡喜とを以て、大方近傍の野原を行つてゐるのであらう。 或ひは若し諸君が野に出でて立つならば、その時は既に隣接した森の中を行つてゐるのであらう。 眼前の物象は、つい通過したばかりの盛觀の後に來るこの靜寂の感じを諸君に與ふべきものである。 日沒の中にある光彩に充ちた遠々しさよ、名状し難い壯麗と愛らしさとの奧深さよ! 然かも、何人がそれ等のあるところに行き、またそこに彼の手を置き足を据ゑることが出來よう。 それ等は永劫に亙つてこの渾圓の世界から墜ち去るのである。人間の男女の間に於いても、 かの沈默せる樹々の間に於けると同じである。いつでも相對的の存在で、即ち不在で、 遂に現存と滿足とは無い。美は遂に捕捉することの出來ないものであるのか。 人物に於いても風景に於いても、ひとしく到逹すべからざるものであるのか。 承諾を得て婚約した戀人は、少女が彼に承諾を與へたので、彼女の有した熱烈奔放な魅力を失つてしまふ。 彼が彼女を星のやうに追ふてゐた間は、彼女は天であつた。一旦彼の如きものに身を屈めて來れば、 もう彼女は天であることは出來ない。
かの迸り出る第一の衝動が、かくの如く遍く現はれてゐることに就いて、 善意を有する多くの被造物のかくの如き媚びと障碍とに就いて、 われ〜は何と言はうか。われ〜は宇宙の何處かに少しばかり欺瞞と愚弄とのあることを想像してはならないか。 そんなことを吾々に用ゐてゐることに就いて、眞劍な憤慨を感ぜずにゐられるか。 吾々は弄ばれた鱒か、自然の飜弄物か。しかも一たび天地の面を眺むれば、不機嫌は悉く鎭められ、 慰められて、更に賢こい確信に到逹する。聰明な人に對しては、自然は一つの宏大な望みとなる。 だから輕率に説明はされないであらう。自然の祕密は語られずにある。 幾たりも幾たりものエディポスが來る。彼は一切の神祕をその腦中に溢れるほど藏してゐる。 あゝ然し、自然の同じ魔術が彼の技巧をも無駄にしてしまつた。 一語も彼の唇に上り得ない。自然の偉大な軌道は、さながら深淵にかゝる新鮮な虹の如くに穹窿を劃つてゐる。 しかも如何なる大天使の翼も、まだそれを辿つてその彎曲の囘歸を知らせる程に強くはなかつたのである。 然しまた、吾々の行動は吾々が計畫したものよりも更に偉大な結果を生むやうに助力せられ導かれてゐるらしくもある。 吾々は生涯を通じて、諸の精靈の力に依つて四方から護衞されてゐる。 そして親切な企圖が吾々を待つてゐてくれる。吾々は自然と語を交すことは出來ない。 また人間と交るやうに自然と交ることは出來ない。若し吾々が自然の力と對抗して吾々の個々の力を量るならば、 吾々は自分が恰かも打ち克つべからざる運命の玩弄物の如きことを容易に感ずるかも知れぬ。 然し若し、吾ゝ自らを自然の作品と視ることなく、作者たる自然の心靈が吾々を通じて流れてゐることを感ずるならば、 吾々は先づ吾々の心の中に朝の平和が宿つて居り、重力と化學との無限の力、及びこれ等にも勝つて、 生命の無限の力が、その最高の形に於いて吾々の内に豫ねてから存在することを知るであらう。
諸の原因の聯鎖の中にあつて吾々が無力であるといふ思想が、吾々に起させる不安の念は、
自然の一状態即ち運動をあまり注目し過ぎるところから來てゐる。
然し