ヱ゛ニスの商人 : 目次 ------------------------------------------------------------------------------- タイトル:ヱ゛ニスの商人 (The Merchant of Venice, 1596) 著者:シェークスピヤ (William Shakespeare, 1564-1616) 譯者:坪内逍遥 (1859-1935) 底本:新修シェークスピヤ全集第十五卷『ヱ゛ニスの商人』 出版:中央公論社 履歴:昭和八年十一月廿五日印刷,昭和八年十二月三日發行 ------------------------------------------------------------------------------- ヱ゛ニスの商人 シェークスピヤ 著 坪内逍遥 譯 ------------------------------------------------------------------------------- 目次 * 登場人物 * 第一幕 第一場 * 第一幕 第二場 * 第一幕 第三場 * 第二幕 第一場 * 第二幕 第二場 * 第二幕 第三場 * 第二幕 第四場 * 第二幕 第五場 * 第二幕 第六場 * 第二幕 第七場 * 第二幕 第八場 * 第二幕 第九場 * 第三幕 第一場 * 第三幕 第二場 * 第三幕 第三場 * 第三幕 第四場 * 第三幕 第五場 * 第四幕 第一場 * 第四幕 第二場 * 第五幕 第一場 ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 登場人物 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 登場人物 * ヱ゛ニスの公爵。 * モロッコーの君、アラゴンの君、ポーシャ姫の求婚者。 * アントーニオー、ヱ゛ニスの商人。 * バッサーニオー、其友にしてポーシャの求婚者。 * サラーニオー、サラリーノー、サレリーオー、グラシャーノー、ヱ゛ニスの紳士にしてアントーニオー、バッサーニオーの友達。 * ロレンゾー、ヂェシカの情人。 * シャイロック、富有なる猶人《ヂウ》にしてヂェシカの父。 * チューバル、猶人《ヂウ》にしてシャイロックの友。 * ランセロット・ゴッボー、(道外方)シャイロックの僕。 * 老ゴッボー、ランセロットの父。 * リオナードー、バッサーニオーの家來。 * バルタザー、ステファノー、ポーシャ姫の家來。 * ポーシャ、富有なる若き女主人。 * ネリッサ、其侍女。 * ヂェシカ、シャイロックの女。 * ヱ゛ニスの貴族等、法廷の諸官吏、監守、ポーシャ姫の家來ら及び其他の侍者ら。 場所 一半はヱ゛ニスにて、一半はポーシャ姫の居所たるベルモントにて。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第一幕 第一場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第一幕 第一場 ヱ゛ニス。街上《がいじゃう》。 アントーニオー、サラリーノー并《ならび》にサラーニオー出る。 アント 實際、何故斯う氣が欝《ふさ》ぐか、解らない。君たちはそれが爲に欝々《くさ?》しッちまふといふが、 自分でも欝々《くさ?》する。一體、どうして斯うなったのやら、 何處で拾って來たのやら、どうして取附かれたのやら、何が種で、何から生れたのやら、 予《わたし》にも解らない。で、つい腑抜のやうになって、 こりゃ自分ぢゃァないのかと思ふ位です。 サラリ 貴下《あなた》は、きっと大洋《うみ》の事が氣になって、お心が動搖してゐるんです。 ねえ、今頃は貴下《あなた》の商船が、めい?立派な帆を張って、 御領主か、持丸《もちまる》長者か、でなきゃ海の山鋒でゞもあるかのやうに、 浪の上を翼《はね》を擴げて突走ってゐませうからね、恐れ入って、 へたこらお辭儀をする餘所《よそ》の小船共を目下に見て。 サラー ほんとに、わたしが貴下《あなた》なら、其船の事が氣になって、 魂の七分がたは始終《しょっちゅう》海原をうろついてゐるに相違なり。 風向を知るために、草の頭を押立《おツた》てゝ見たり、港は何處だ、 船附《ふなつき》は、海路は、と海の圖と首ッ引をして、 かりにも難船を氣附かはせるやうなことがありゃァ、 大欝《おほふさ》ぎに欝《ふさ》ぎ込むに相違ありません。 サラリ 雜炊の熱いやつを吹くにつけても、若しも海で斯ういふ颶風《はやて》がやって來たらと思ふと、 わたしなら忽ち瘧《おこり》にとッつかれます。砂時計の砂の走るのを見ても、 洲や淺瀬を思ひ出して、若しや貨物を滿載したアンドリュー號が、 今頃砂の中にゐすわって、己が墓場をキッスでもするやうに、 大帆柱を横ッ倒しにしてゐやァしないかと心配しないぢゃゐられますまい。 教會堂へ往って、有難い石の伽藍を拜むにつけても、 すぐ思ひ出すのは怖しい暗礁、きゃしゃな船の横ッ腹に、 そいつが一寸でも觸るが最後、香料類は浪の上へ撒散らされる、 絹も綾も、鳴渡る海の被ひ物になってしまふ。つまり、斯う言ってゐる口の下に、 如是《こんな》にある財産が、まるで全滅《かたなし》になってしまふんです。 さう思った日にゃ欝《ふさ》がないぢゃゐられませんや。 おっしゃらんでも解ってゐますよ。アントーニオー、 貴下《あなた》は船貨《つみに》の事を心配しておいでなさるに相違ない。 アント いゝえ、決してさうぢゃない。仕合せな事には、 わたしの店の損得は一艘の船や一ヶ所の取引先に任してはない。 又、今年の運命がわたしの収入の全部でもない。だから、 船貨《つみに》の事で心配はしません。 サラリ はてね、ぢゃァ、戀わづらひですかね? アント 馬鹿なことを! サラリ 戀わづらひでもない?ぢゃァ、つまり、愉快でないからして欝《ふさ》いでおいでなさるて譯ですね、 それなら、笑って、跳廻って、あゝ、愉快だとおっしゃることも出來さうなものですね、 欝《ふさ》いでるンぢゃないて事になりゃァ。ねえ、實際、 造化の神さまは、昔から、随分 奇妙《おつりき》な人間を拵へるものですよ、 常住《しょっちゅう》覗いてゐるやうな細ッこい目附をして、 嚢笛《ふくろぶえ》の音を聞いても、 鸚鵡《あうむ》のやうにげら?笑ひ出す手合があるかと思ふと、こいつは堪らない、 と如何な苦蟲も可笑がるやうな戯談《じゃうだん》を聽いても、白い齒一つ見せない變人もある。…… バッサーニオー、ロレンゾー竝《ならび》にグラシャーノー出る。 サラー あそこへ御親戚のバッサーニオーさんが見えた。それからグラシャーノーも、 ロレンゾーも。さやうなら。上等の御連中の方へ貴下《あなた》を引渡します。 サラリ 貴下《あなた》の御機嫌がなほるまでは、こゝにゐる積りでしたが、 立派な御友人連が見えたから、わたくしはお暇《いとま》しませう。 アント 君がたこそ大切な友人です。あゝ、こりゃ何か用があるので、 好い機《しほ》にして外すのですね。 サラリ (バッサーニオーらに行逢ひて)諸君、今日は。 バッサ やァ、兩君、何時笑はうね?え、何時?非常に御 疎濶《そくわつ》だね。もう歸るの? サラリ いづれ御都合のよい時分に伺ひませう。 サラリーノーとサラーニオーと入る。 ロレン バッサーニオーさま、首尾よくアントーニオーさんにお逢ひになりましたから、 わたくし共はお別れにいたしますが、どうぞお晝食《ちうじき》時に御一しょになる場所をお忘れ下さいますな。 バッサ 大丈夫。 グラシ アントーニオーさん、どうも貴下《あなた》の顏色がわるいよ。 貴下《あなた》は世の中の事を氣にし過ぎる。 あんまり苦勞して世の中を手に入れたのぢゃ得にはなりませんよ。 實際、貴下《あなた》は怖しく變りましたぜ。 アント グラシャーノー、わたしは此浮世を只浮世として見てゐる。 めい?が何か一役づゝ遠邇《えんぢ》なければならない舞臺だと思ってゐる。 さうしてわたしの役は憂欝な役なのだ。 グラシ わたしゃ道化役だね。年を取って皺くちゃになっちまふまでも、陽氣に笑って暮したいね。 うん?呻吟《うな》って血を減らして、心臟を冷くしっちまふよりゃァ、 酒を飲んで肝臟を熱《ほて》らしてゐたいね。温かい血が通ってゐる癖に、 祖父《おぢい》さんの大理石像のやうな面附《つらつき》をする必要はないぢゃありませんか? 覺《おき》てゐながら、睡《ね》てゐるやうな目附をしたり、 むしゃくしゃ腹が因《もと》で黄疸《わうだん》になったりする必要はないぢゃありませんか? ねえ、アントーニオー君、……僕は貴下《あなた》を愛敬してゐる、 愛敬してゐるから言ふのですが……世間に一種の人間があります、 上部《うはべ》を薄膜《うすかは》で張詰めて、淀んだ水よろしくといふ面附《つらつき》をして、 賢明《りこう》さうだとか、威嚴《くらゐ》があるとか、 思慮が深さうだとか言はれたい爲に、じっと沈黙《おしだま》って 「わしは大豫言者でござる、わしが口を開く時分には犬共吠るな!」 といひさうにしてゐる奴がある。ねえ、アントーニオー君、 僕はさういふ奴等を知ってゐる、何にも言はないから賢明《りこう》だらうと思はれてゐる奴等だ、 が、無論、口をきかせた日にゃ、それを聽いた者は堪へかねて、 同胞の惡口をすれば地獄へ墮ちると知ってゐながら、 「馬鹿」と罵らざるを得ない位のものです。此事については、 尚ほ別に言ふがね、とにかく、 欝《ふさ》ぎの蟲なんかを餌にして世評といふ愚沙魚《だぼはぜ》を釣るのはおよしなさいよ。 ……さ、ロレンゾー。……さやうなら、暫時《しばらく》。僕の諌言《いけん》の結末は、 何《いづ》れ晝食《ちうじき》後につけませう。 ロレン では、わたしらはお晝食《ちうじき》時までお別れにいたします。 わたしは只今のお話の、口をきかない賢明《りこう》な人になっちまひます、 グラシャーノーさんがわたしにゃ物を言はせませんからね。 グラシ さァ、もう二年僕と一しょにゐて見るがいゝ、君は自分の聲を忘れッちまふぜ。 さやうなら。 アント わたしも、此お庇《かげ》で、おひ?多辯家《おしゃべり》になりませうよ。 グラシ ありがたう?。物を言はないでゐて好いものは、乾した牛の舌と賣れ口のないお娘《むす》ばかりさ。 グラシャーノーとロレンゾーと入る。 アント 何をいってるのか! バッサ あの男は常住《しょっちゅう》たわいもないことばかり言ってゐる、 無駄口にかけてはヱ゛ニスぢゅうで一番です。奴の道理といっては、 二 斗《と》の[米|會]《もみがら》に混ってゐる小麥二粒位の割合でせう、 それで、其二粒を探し出さうとすると、一日もかゝるが、 探し出して見たところで、骨折っただけの價値《ねうち》はないのです。 アント 時に、例の婦人の素生をお話しなさい、 貴下《あんた》が是非とも内々で參詣したいといふ其御神體の事をお話しなさいよ、 けふは打明けるとい約束ぢゃありませんか? バッサ アントーニオー、わたしは、貴下《あなた》が御存じの通り、 少々身分不相應な端手《はで》な生活をしたゝめに、 すっかり財産をなくしてしまったのです。以後は、無論、甘んじて、 生活の度をずっと引下げてやって行かうと思ってゐます。 しかし一番氣になるのは、どうしたら、わたしの贅澤過ぎた生活が拵へた大きな負債を、 立派に濟《な》すことが出來るかといふことです。アントーニオー、 殊に、貴下《あなた》に負ふ所が多い、金錢の上でも、 情誼《じゃうぎ》の上でも。それで、わたしは、貴下《あなた》の深切を信ずるからして、 敢て何もかも打明けるんです、負債消却に關するわたしの一切の計畫をも、 目的をも、打明けるんです。 アント バッサーニオーさん、どうか打明けて話して下さい。若しそれが、 貴下《あんた》のする事はいつもさうだが、不名譽でない事である以上、 わたしの財布も、わたしの一身も、わたしの力の及ぶ限り、 必ず貴下《あんた》の御用に立てます。 バッサ 小學校へ通ってゐた頃、箭《や》をなくすることがあると、 それを探し出すため、同じ方角へ同じ射心《いごゝろ》の箭《や》を前よりも注意して射って見た、 さうして、二本冒險したゝめに、却って二本ながら取返したこともありました。 こんな子供の時の經驗をお話するのは、畢竟、 これから申さうとする事は全く小兒の考《かんがへ》に類してゐるからです。 わたしが貴下《あなた》に負ふ所は莫大です、然るに輕忽な少年らしくも、 それを悉く失ってしまったのです、 併しながら若し貴下《あなた》が第一の箭《や》を射放しなすった同じ方角へ、 もう一本射放して下さるならば、わたしは大丈夫……今度はよく覘《ねらひ》を附けますから ……二本ながら拾って來るか、さうでなくば、後の冒險だけを持って歸って、 第一のに對しては厚く感謝の意を表して、負債者とならうと決心してゐます。 アント 貴下《あんた》はわたしをよく知ってゐる癖に、 持って廻って氣を引くやうなことをおっしゃるのは、 詰らん時間つぶしです。わたしが貴下《あんた》の爲に全力を盡すのをお疑ひなさるのは、 ありッたけのわたしの財産を浪費なさるよりも、わたしに對する侮辱です。 ですから、只どうすれば好いかをおっしゃい、 貴下《あんた》がわたしの力で出來るとお思ひなさることをおっしゃるがいゝ。 何でもしませう。だから、言って御覽なさい。 バッサ ベルモントに立派な遺産を有ってゐる一人の姫御寮があるのです。 さうしてそれは美人なのです、美人といふ語《ことば》では言ひ盡されない程の美人であって、 驚くべき才徳をも具《そな》へてゐるのです。わたしは嘗《かつ》て、 無言の色よい通信を其眼から得たことがあります。 名はポーシャといって、彼《か》のケートーの女《むすめ》、 ブルータスの妻のポーシャに比べても、決して劣ることのない淑女ですから、 早くから廣い世界に其評判が傳はって、東西南北の風のまに?、 各所の海岸から有名な貴族や王族があこがれ寄るのです。 姫の黄金色の縮髪《ちゞれげ》は、彼《か》の金毛《きんもう》の毛皮のやうに、 顳[需|頁;u986C]《こめかみ》の邊《へん》に垂れてゐるのです、 ベルモントの姫の邸《やしき》は、取りも直さず、コルコスの濱なのです、 そこへ多勢のヂェースンが姫を尋ねてやって來るのです。 おゝ、アントーニオー、若しわたしに資力があって、 彼《あ》の手合と同等の競爭者になられさへすれば、 成功は大丈夫だと此心が豫言してゐるのです! アント 貴下《あんた》が知ってゐる通り、わたしの財産は悉く海に在るのです。 即座の用に立つ正金もなければ、品物とてもない。 だから、まァお出かけなさい。わたしの信用でヱ゛ニスでどの位役に立つか、 試みて見ませう。出來る限り無理して、 貴下《あんた》をベルモントの其美しいポーシャさんの處へお送りすることにしませう。 さ、すぐに往って、金を貸しさうな男を尋ねて御覽なさい、 わたしも尋ねませう。信用で借りようと、友誼づくで借りようと、 其邊はどちらでもいい。 二人ともに入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第一幕 第二場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第一幕 第二場 ベルモント。ポーシャ邸の一室。 ポーシャとネリッサと出る。 ポーシ ネリッサや、わたしの此小さい身體《からだ》が、ほんとに、 此大きな世界に[厭/食;u995C]々《あき?》してしまったのよ。 ネリッサ お姫《ひい》さま、若し貴下《あなた》のお不幸《ふしあはせ》が御好運と五分々々で、 お有り遊ばしたなら、さうおっしゃるのも御 道理《もつとも》でございませう、 けれどもわたくしが考へますには、人は何にも食べないでゐても、 飢《かつ》ゑて病人になりますけれど、十分過ぎる程いたゞいても、 やっぱり病氣になりますのね。ですから中位《ちゅうくらゐ》といふことは、 決して中位の幸福《しあはせ》どころぢゃございませんのよ。度を越す時は白髪を速《まね》く、 程を守れば壽《いのちなが》しでございますわね。 ポーシ 好い格言《ことば》ね、さうして言ひかたも巧いわ。 ネリッサ それをよく守れば尚ほ好うございませう。 ポーシ さうね、訓《をしへ》を守るのが訓《をしへ》を知るのと同樣に容易《やさ》しいことであれば、 小さなお堂も忽ち大伽藍となり、賤《しづ》が伏屋《ふせや》も忽ち金殿玉楼となるでせう、 けれども自分の口にする訓誡《をしへ》を自分で守り得る僧官《ばうさん》は、 それは餘程すぐれた人です。爲すべき善い事を二十人に教へるのは容易《やさ》しいけれど、 それを守る二十人中の一人になるのはむづかしいことなの。 智慧は情を制《おさ》へるために種々《いろ?》の規則を工夫します、 けども熱してゐる血氣は其冷い命令を跳越えるしまふの、 若氣といふ狂氣兎《きちがひうさぎ》は跛者《びっこ》の教訓が掛けて羅網《あみ》なんか飛び越すのが定例《きまり》よ。 しかしこんな事を言ってゐたって、夫を擇ぶための參考にも何にもなりゃしない。 あゝ?!「擇ぶ」といふ言葉!わたしは好きな人を擇ぶことも出來なければ、 厭《いや》だと思ふ人を拒むことも出來ない。 生きてゐる女《むすめ》の意思は死んだ父の遺旨《ゐし》で以て制限されてゐるんだもの。 ね、ネリッサ、つらからうぢゃないかね、一人も擇ぶことが出來ず、 一人も拒むことが出來ないといふのは? ネリッサ たっといお方の御臨終のお思附は、必ず結構だと申します。 お父樣はおえらい方でいらっしゃいました、 ですから金と銀と鉛の三つの匣《はこ》を御覽じてお父樣の御本意をお中《あ》て遊ばすお方を御採用といふ方法でお婿さまにおなり遊ばすお方は、 きっと、貴下《あなた》を眞實《ほんたう》にお愛し遊ばす方に相違ありませんのよ。 それはさうと、今までにお出になったお歴々の殿方のうちで、 幾らかお氣に召しました方がお有り遊ばしますか? ポーシ 名をいって見とくれ。お前が名をいふと、わたしが評をしますからね、 それで以てわたしの心をお察しよ。 ネリッサ 第一番に、ネープルズのお殿さまは如何でございますの? ポーシ さうね、あの人は全然《まるで》仔馬よ。だって馬の話をするより外は何にもしないんだもの。 自身で馬に蹄鐵《かなぐつ》を穿かせることが出來るのを大層な才能でゞもあるやうに自慢するの。 あの方のお母さんは、鍛冶工《かじや》とわるいことをしてゐたのぢゃないか知らん。 ネリッサ その次はパラタインの伯爵さまです。 ポーシ あの人は苦い面《かほ》をするより外に藝はないの。 「若しわたしがお氣に入らんければ、お勝手になさい」と言ってる人のやうによ。 面白い話を聞けばからって、莞爾《にっこり》ともしない。あの人は、 年を取ると、きっと泣蟲學者になるだらと思ふわ、今の若さに、 あゝ無作法に欝《ふさ》ぎ込んでゐるんだもの。あんな人達は何方《どっち》も眞平よ、 あの人達と結婚する位なら骨を咬《くは》へてゐる髑髏《しゃれかうべ》と夫婦になったはうが優《まし》だわ。 ……神さま、どうぞ、あの二人《ふたアり》からわたくしをお護り下さいまし! ネリッサ フランスの貴族さんのルボンさんを如何おぼしめします? ポーシ 神さまがお拵へになったのだから、人間と見做しておきませう。 ほんとに、わたし、人を嘲弄するのは罪惡だと思ってゐます、 けどもあの人だけはね!だって、あの人は馬にかけてはネープルズさん以上だし、 苦い面《かほ》をする癖もパランタインさんよりずっと?上手《うはて》に惡だし、 何一つ長所《とりえ》の無い癖に、誰れの惡い眞似もする、 鶫《つぐみ》が囀れば浮れてケーパー踊をはじめる、自分の影坊師と格鬪《たゝきあひ》をしかねない人なの。 若しあの人と結婚するやうだと、二十人の夫を迎へるも同然よ。 あの人、わたしを嫌へばとて、恕《ゆる》してやりますけれど、 よしんば一生懸命にわたしを愛したからって、決して酬いてなんかやるものかね。 ネリッサ では、あの、貴下《あなた》、何とおっしゃいますの、 フォークンブリッヂさまに對しては?あのイギリスの若い男爵さん。 ポーシ 何といふって、お前、わたしあの人に對しては何にも言はないの。 だって、あの人はわたしの言ふことが解るまい、さうしてわたしにはあの人の言ふことが解らないもの。 あの人はラテン語もフランス語もイタリー語も知るまい、さうしてわたしは、 お前、正眞正銘、イギリス語といっては、三錢がたも有ち合しちゃゐない。 あの人は、つまり、立派な男の畫像よ、 だけど無言劇《だんまりしばゐ》を相手に話をする譯にもいかないからね! どうだらうあの人の服裝《なり》は?あの胴衣《ちょっき》はイタリーで買ったらうし、 あの太筒袴《ふとずぼん》はフランスだらうし、あの帽子はヂャーマニーだらうし、 それから、あの擧作進退《たちふるまひ》は、きっと各國でもって寄集めて來たのよ。 ネリッサ スコットランドの殿さまを如何おぼしめします?あの方の御隣國の。 ポーシ 隣國づからお互ひに深切なのでせうよ、 だって過般《いつぞや》あのイギリスさんからみっしりお見舞を受けた其返禮を早晩きっとすると言ってるんだもの。 それには、あのフランスさんが保證人になって、右相違なく御返却申すべくといふ奥印まで捺《お》したらしいわ。 ネリッサ あのお若いヂャーマンさんはいかゞ?サクソニーの公爵さまの甥御さま。 ポーシ 午前《ひるまへ》はあの人わたし大嫌ひ、素面《しらふ》でゐるから。 午後《ひるすぎ》は一等 可厭《いや》よ、醉ってるんだもの。 あの人は最上《いっち》好い時分にさへ人間並より少し惡い方なんだから、 最上《いっち》惡い時分には獣類《けだもの》並よりほんの少ゥしわばかり好い方なの。 どんな不運な破目にならうとも、どうかしてあの人とは一しょにゐないやうにしたいと思ひますの。 ネリッサ でもあの方が擇ばうとおっしゃって、萬一、正しい匣《はこ》をおあてなさいましたなら、 其時いやだとおっしゃっては、お父樣の御遺言にお背き遊ばすことになりませう。 ポーシ だからさ、ひょんなことにならないやうにする爲に、後生だから、お前、 さうでない方の匣《はこ》の上へライン酒の大きな盃を載せといとくれ、 さうすれば其 匣《はこ》の中に、よしんば惡魔が居ようとも、外にさういふ誘惑物があれば、 あの人はきっとそれを擇ぶよ。ネリッサや、わたし何でもするわ、 あんな海綿《のみすけ》さんの奥さんになる位なら。 ネリッサ お姫《ひい》さま、決してその御心配には及びません。 あの方々はわたくしに御決心をお知らせになりましたが、 何《いづ》れもお國へお歸りになりますさうでございます、御遺言通り、 匣《はこ》で決るのではなく、何か他の方法で以て縁組が出來ないやうであれば、 もう彼れ此れ申込みはしないとおっしゃいまして。 ポーシ お父さまの御遺言通りにしない位なら、千萬年生きたっても、 私は月の女神のやうに清淨な處女で暮します。まァ、嬉しい、それでも、兎に角、 理《わけ》がわかって、あの人たちがみんな歸っていってくれて。 あの中の一人だっても、早く歸ってくれゝば好いと思ってゐなかったのは無いんだもの。 ……どうぞ首尾よく出立いたしますやう! ネリッサ ね、お姫《ひい》さま、あの、貴下《あなた》記《おぼ》えていらっしゃいますか? お父さま御 存生《そんじゃう》の時分に、モントファラットの侯爵さまと御一しょに此處へ見えました、 學者でさうして軍人の、ヱ゛ニスのお方を。 ポーシ 然々《あゝ?》、バッサーニオーさん。たしか然ういったっけ。 ネリッサ さやうでございます。あの方は、わたくしの不束《ふつゝか》な目でお見受申しました殿方の中の、 一番お立派なお方で、あゝいふ方こそ美しいお方のお殿さんに全くお似合はしいと存じます。 ポーシ あの方はわたしもよう記《おぼ》えてゐます、お前が褒める通りだと思ふわ。…… 家來出る。 どうしたの!何ぞ用かい? 家來 お姫《ひい》さま、六人のお方々が、お暇乞《いとまごひ》をなさらうとてお待兼でございます。 それから七番目のモロッコのお殿さまからお先觸《さきぶれ》が參りました、 今晩おお殿さまが此邸《こゝ》へお着《ちゃく》になりますさうにございます。 ポーシ 六人の客に「さやうなら」をいふのと同じ心持で、 其七番目のお客に「いらっしゃい」がいへるものなら、喜んで迎へるんだけれど。 若し其方がお上人《しゃうにん》さんのやうな氣質の人なら、 よしんば顏は惡魔のやうに黒くったっても關《かま》はない、 懺悔の聽役にでもなって貰ひたいわ、縁談なんか申込まれるより。…… さ、ネリッサ。……お前は先へお出。……やっと一人送り出したと思ふと、 またすぐに訪問《おとづれ》がある。 みな?入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第一幕 第三場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第一幕 第三場 ヱ゛ニス。公街《こうがい》。 バッサーニオーとシャイロックと出る。 シャイ 三千 兩《ダケット》。なるほど。 バッサ さう、三ヶ月間。 シャイ 三ヶ月間。なるほど。 バッサ 今もいった通り、それに對してはアントーニオーが義務を負ひます。 シャイ アントーニオーさんが義務を負ふ。なるほど。 バッサ 貸してくれますか?承諾してくれますか?返辭を聽かして下さい。 シャイ 三千 兩《ダカット》を三ヶ月間、……アントーニオーさんが義務を負ふ。 バッサ さ、その返辭を聞かして下さい。 シャイ アントーニオーさんなら立派だ。 バッサ 立派(な紳士)でないといふやうな評判を聞きましたか? シャイ おゝ、何の??。わしが立派といったのは、 あの人なら十分信用がおけるといふ事を貴下《あんた》さんにいはうとしたのです。 しかし、あの人の財産は、まだ手に握られてゐるんぢゃァない。 トリポリスへ往ってゐる商船《ふね》が一艘、印度へも一艘。 それから取引所《リヤルトー》で聞けば、三番目の船はメキシコへ往ってをり、 四番目はイギリス、其他あっちこっちにまだ幾らも商船《あきなひぶね》を出してゐなさるさうだ。 しかし船は、たかゞ、板子で、水夫《せんどう》はたかゞ人間だ。 陸《をか》の鼠もあれば、海の鼠もある、陸《をか》の盗賊《どろばう》もありゃ、 海の盗賊《どろばう》もある、海賊のことさ。おまけに、浪や風や暗礁といふ危險なものがある。 が、あの仁《じん》なら、ま、よろしい。……三千 兩《ダケット》。…… あの人になら貸してもいいらしい。 バッサ 懸念にゃ及ばんよ。 シャイ さ、懸念に及ばんやうにしたい。懸念に及ばんやうにしたいから、 よく考へて見るのです。……アントーニオーさんにお目にかゝれますかい。 バッサ わたしらと一しょに食事をしてくれゝばね。 シャイ 豚肉《ぶた》の臭《にほ》ひを嗅ぎにかね? お前さんがたの有難がるあのナザレの豫言者が惡魔を追込んだ其 住居《すみか》を食へといふのかね? お前さんがたと賣買《うりかひ》もしようし、話もしようし、 一しょに歩き廻りもしようが、食ったり飲んだり祈ったりは、 お前さんがたと一しょにはしない。……取引所《リヤルトー》で何事かあったかな? 誰れだ、やって來るのは? バッサ あれがアントーニオーさんです。 シャイ (傍白)どうだ、まるで媚び諛《へつら》ふ収税吏《しうぜいり》といふ態《ざま》だ! キリスト信者だから大嫌ひなんだが、殊に阿呆根性から、 無報酬《たゞ》で金を貸出して、ヱ゛ニスの利息割を狂はせて、 商賣の邪魔をしやァがるから憎いのだ。 彼奴《あいつ》の擧足《あげあし》を捉《と》ることが出來りゃ、 いつかは此 怨《うらみ》を晴らしてくれる。 きゃつは神聖なおれの國民を目の敵《かたき》にして、場所もあらうに、 多勢商人が寄集ってゐる處で、俺の事や俺の商賣を惡口しやァがる、 おれの骨折って儲けるものを高利と呼びゃァがる。 あんな奴を恕《ゆる》しておくやうぢゃ俺の國の者は罰當りだ! バッサ ねえ、シャイロック。おい?。 シャイ 今、手元にある金高《きんだか》を勘定してゐるんです、が、ざっと胸算した處では、 迚《とて》も三千 兩《ダケット》の全額は調ひさうもありませんわい。 しかし、關《かま》ったことァない。わしの同族の物持、チューバルがわしに用立てくれませう。 わしの同族の物持、チューバルがわしに用立てくれませう。が、一寸お待ちなさい! 何ヶ月とかいはっしゃりましたね?……(アントーニオーに)旦那、相かはらず御機嫌よろしう。 只今、貴下《あんた》さんのお噂をしてをりました。 アント シャイロック、わたしは餘分なものを取ったり與《や》ったりして貸借《かしかり》をしない流儀だが、 友人の必要に應じるために慣例を破るのだ。 (バッサーニオーに)幾らお入用だといふことを、貴下《あんた》にお話なすったのですか? シャイ はい?、三千 兩《ダカット》。 アント さうして三ヶ月間。 シャイ つい失念しました。……三ヶ月間。……さうおいひなすったっけ。 ぢゃァその證書を。……かうッと……が、一寸申し上げたい、 たしか貴下《あんた》は、利子を取って借りたりはしない、とおっしゃりましたやうでしたね。 アント 決して利子を取って貸したことはない。 シャイ ヂェコブ(ヤコブ)が叔父のレーバンの羊に草を食はせてゐました時分に ……そのヂェコブは聰明《りこう》な阿母《おふくろ》の取計《とりはからひ》のお庇《かげ》で、 御先祖のエブラハムさんから三代目に當る相續人なんだが、……さうだ、三代目だ…… アント それが如何したといふのだ?その男が利息を取ったのかね? シャイ いや?、利息は取りませんだった、貴下《あんた》のいはっしゃるやうに正面から取りはしない。 ま、ヂェコブのした事をお聽きなさい。ヂェコブは叔父のレーバンと約束して、 若し條文《しま》や斑點《ぶち》のある仔羊が生れたなら、 それはみんな骨折料にヂェコブがが貰ふ筈にしましたので、 秋の暮に牝羊に交尾慾《さかり》が來て、牡の後を附廻して、 いよ?生殖に取りかゝる時分になって、抜目のないヂェコブは、 或木の枝の皮を剥いて、それを交尾《つる》んでゐる牝羊の目の前に突立てゝおきました、 すると、其時に懐姙《はら》んで生んだ仔は、どれも?斑《ぶち》であったので、 それが殘らずヂェコブのになりました。これがすなはち利殖《かねまうけ》の法なので、 ヂェコブは天福を得たのです。利殖《まう》けるのは天福だ、 盗んで利殖《まう》けるのでなけりゃね。 アント ヂェコブのした事は、言はゞ一種の冒險だ、人力で左右し得べき事ではない、 天の力で御差配なされる事なのだ。併し其事蹟が聖書に書いてあるのは、 利息を取れといふ爲かい?或ひは金貨や銀貨は牝羊や牡羊と同じだといふのか? シャイ そりゃどうだか知りませんがね、とにかく、わしは金にも子を生せます。 ……が、ま、お聽きなさい。 アント ねえ、バッサーニオー、あれをお聽きなさい。 惡魔も人並に聖書を引合に出して、おのが目的の後楯にする。 併し惡魔が聖書を提供するのは、惡黨が笑顏を作ってゐるやうなものだ、 見かけの立派な林檎が心で腐ってゐるやうなものだ。 あゝ、贋《まが》ひ物も、存外、外面《うはべ》は立派なものさね! シャイ (獨語のやうに)三千 兩《ダケット》。こりゃ中々の大金だ。 十二ヶ月から三ヶ月とすると……すると、かうッと……其割合が…… アント ねえ、シャイロック、わたしたちの頼みを聽いてくれますかね? シャイ アントーニオーさん、貴下《あんた》は何度も?取引所《リヤルトー》でわしの惡口雜言は言ひなすった、 わしの貸金や利子の事で。いつもわしは、只肩をゆすぶって、じっと堪《こら》へてゐた、 辛苦を忍ぶのはわしら一族の運命だと諦めてゐたからです。 貴下《あんた》はわしを邪教信者だの、人殺し犬だのと呼んで、 此 猶太《ユダヤ》上被《うはぎ》へ唾液《つばき》を吐きかけなすった、 わしがわしの物を利用したのが不埒だといふだけのこッて。ぢゃァ、今日になって、 わしに御用がおあんなさるんだね。へゝ、そこで以て、 わしの處へ來なすって、「これ、シャイロック、金を貸してくれ」、 斯う貴下《あんた》がいはっしゃる。貴下《あんた》さんが、わしの髭へ唾液《つばき》を吐きかけ、 野良犬を閾口から蹴飛すやうに、わしを足蹴にした貴下《あんた》さんが、 金を貸せといふ御要求だ。わしは何と返辭をしよう? わしは斯んな風に言はないだらうかね「犬の金が有りませうか? 三千 兩《ダカット》を犬が用立てるてな事が出來ませうかい?」と? それとも腰を低くかゞめて、奴隷のやうに息をかすめて、卑屈らしい小聲で、斯ういひませうか、 「旦那さま、貴下《あんた》さんは先の水曜日にゃァ唾《つばき》を吐きかけて下さいました、 又いつぞやはわしを犬とおっしゃって下さいました。 其御 恩顧《ひいき》に報いまするために、これ?だけの金子《きんす》を御用立いたしまする」と? アント 此後とてもわたしはお前を蹴飛すかも知れず、唾を吐きかけるかも知れない。 若しお前が金を貸してくれるなら、深切づくでなく貸してくれるがいゝ。 深切づくで貸す場合には、不生産的の金銀に子を産せるなんて事は決してあるまじきことだからね。 むしろ敵に貸す積りで貸してくれ、さうすれば、若し違約した場合には、 敵討《かたきうち》の積りで、公々然《おほっぴら》に科料が取立てられるといふものだ。 シャイ まァ?、さう腹を立てなすっちゃァ困る!わしは貴下《あんた》さんの親友になって、 これから可愛がって貰ひたいのだ。恥辱《はぢ》をかゝされたことも忘れッちまって、 當座の御入用を用立てるばかりでなく、その金に對して鐚《びた》一文の利子をさへも取らない料簡です。 それだのに、貴下《あんた》は聽かっしゃらん。深切づくで貸さうといふのに。 バッサ それなら、深切かも知れない。 シャイ 其深切の證據を見ませう。わしと一しょに登記所へござらっしゃい、あそこで、 貴下《あんた》の一 判《ぱん》で可い、證書に御捺印なさい。 それから、ほんの戯談《じゃうだん》に、かういふことを約束しておきませう、 萬一、貴下《あんた》が云々《しか?゛》の日限までに、云々《しか?゛》の場所に於て、 證書面の金額を御返濟なさらんやうな場合には、其科料として、 貴下《あんた》さんのそのお肉を、ちょうど一ポンドだけ、 貴下《あんた》のお肉體《からだ》の何處からでも、わしの好く處から切取っても、 異議はないといふことを。 アント よろしいとも。わたしは其證書に印《いん》を押して、 あゝ猶人《ヂウ》も中々深切だといひませうよ。 バッサ わたしの爲に、そんな證書に捺印なすっちゃいけません。 寧《むし》ろわたしは此窮迫状態のまゝでゐませう。 (據《よんどころ》ない運命だと諦めませう。) アント なァに、心配なさるなよ。期限をきらすやうなことはありません。 此二月の中に、即ち、其證書の期限よりも一月前に、 證書面の九倍以上の入荷がある筈です。 シャイ (獨語のやうに)おゝ、祖先のエブラハムどの、 何といふあさましいことだキリスト信者は。 自分達が世智辛いことばかりしてゐるから、 他人《ひと》もやっぱりさうだらうと疑ふんだ! ……(バッサーニオーに)ね、もし、貴下《あんた》さん、 よしんば彼《あの》御仁《おかた》が期限をきらしたとして、 其科料を取立てゝ、それがわしの何の利益になります? 人肉を一ポンド取立てゝ見たところで、 羊や牛や山羊の肉だけの價値《ねうち》もなけりゃ利得《まうけ》にもならん。 ね、これから可愛がって貰ひたいばっかりに深切を盡さうといふのです。 それを受けて下されば可し、下さらんけりゃ、さやうならだ。 どうか、わしの好意を思って、あんまり酷くして下さるな。 アント よろしい、シャイロック、證書に印《いん》を捺《お》しませう。 シャイ ぢゃ直ぐ登記所へお出なすって。あそこで御一しょになりませう。 此をかしい證書の書き方を公證人へお指圖なすって下さい。 わしは歸って早速 金子《きんす》を調達して…… だらしのない奴に任せといたんで、心配でなりませんから…… 宅を一寸見廻って、すぐ御一しょになります。 アント 急いで往って來なさい。…… シャイロック入る。 あのヒブルー人、どうやらキリスト信者になりさうだ。 大分《だいぶ》深切者になった。 バッサ 口先が深切で肚《はら》の黒い奴があるから、油斷は出來ませんよ。 アント さァ、往きませう。此事は心配するにゃ及びませんよ、 わたしの船が其期限より一月も前に歸って來るから。 二人ともに入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第一場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第一場 ベルモント。ポーシャ邸の一室。 コーネットの盛奏。モロッコの君 并《ならび》に其從者出る。 其後よりポーシャ姫、ネリッサ并《ならび》に侍者多勢。 モロッコ 顏の黒いのをお嫌ひなさるな、これは爛々たる太陽どのと隣りやって育った標章《しるし》の制服なのです。 日の神の火が氷柱《つらゝ》をさへ能う融《とか》さん北國生れの、 眞白な顏色の男を連れておいでなさい、貴下《あんた》への心中立《しんぢゅうだて》に、 互ひの腕《かひな》に瘡《きず》を附けあうて、そいつか、私しか、 どっちの血が赤いかを試しませう。憚《はゞか》りながら、 わたしの此顏色は、勇者をも怖れしめたものです、 又、わたしの國の評判 處女《むすめ》共が、實際、此顏をば愛しをりましたぢゃ。 それ故、わたしは、此顏色を取換へようとは思ひません、お姫《ひい》さん、 何とかして貴下《あんた》に好いて貰ひたいと思ふ爲の外には。 ポーシ わたくしは世間の處女のやうに、目の指圖ばかりでは物を選びません。 まして、わたくしの運命は籤《くじ》で豫定されてをりますから、 自儘《じまゝ》に選ぶことは出來ませんの。併し、若し父が、 先日お話したやうな方法で以て、わたくしをお選當《えりあて》遊ばすお方の妻になるやう、 預《あらかじ》め制限しておきませんのでしたら、 御高名な殿下、わたくしは貴下《あなた》をも、 今日《こんにち》までに御 入來《じゅらい》のどのお方とも全く同じに、 お見上申さうと存じてをります。 モロッコ それだけ承《うけたま》はって、先づ滿足です。 では、どうか匣《はこ》へ御案内下さい、わたくしの運命を試みます。 曾《かつ》てはペルシャ王を斬り、又、 三度までもトルコ王ソリマンを打破ったさるペルシャ王族をも斬殺した此偃月刀を誓ひに掛けて、 お姫《ひい》さん、わたしは貴下《あんた》の爲になら、 如何《どん》な怖しい眼玉をも睨み返して御覽に入れる、 地球上の如何《どん》な勇猛な心をも壓倒して御覽に入れる、 牝熊の胸から乳を吸うてゐる仔を引奪《ひッたく》ッても御覽に入れる、 餌食に飢《かつ》ゑて吠猛《ほえたけ》ってゐる獅子にからかへとおっしゃれば、 随分からかっても御覽に入れる。けれども、あゝ、どうも情《なさけ》ない! 如何《どん》な勇猛のハーキュリーズも、骰子で勝負を爭ふ場合には、 臆病者のリカスの手から、却って如何《どん》な好い目が出るかも知れん。 そこで大豪傑も小わっぱに負ける。隨《したが》って、 われらも、盲《めくら》の運命めに案内される以上は、つまらん奴が手に入れ得るものをも能う手に入れんで、 それを悔み死に死ぬのかも知れん。 ポーシ 何《いづ》れとも御運にお任せなさらねばなりませんのですから、 全くお止め遊ばすか、或ひはお試み遊ばすならば、其前に御 誓言《せいごん》を願ひます、 萬一、選びあやまらせられました場合には、以後、 いかなる婦人へも結婚は申込まないといふ御 誓言《せいごん》を願ひます。 ですから、ようお思案《かんがへ》遊ばせ。 モロッコ 二度とは縁談は申込みません。さ、運試しの席へ御案内下さい。 ポーシ いゝえ、まづ教會堂へ參りませう。御運試しは午餐後に遊ばしませ。 モロッコ あゝ、運命の神の御意次第で、おれが人間中の幸福者《しあはせもの》になるか、 一番みじめな者になるかゞ定《きま》るのぢゃ。 コーネット。皆々入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第二場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第二場 ヱ゛ニス。街上《がいじゃう》。 ランセロット出る。 ランセ きっと、おれの良心めは彼れ此れ言やァしないだらう、 主人の猶人《ヂウ》を袖にしておれが駈落をしたからって。 惡魔め、肱《ひじ》の脇へ來やがって、頻りにおれを誘惑すらァ 「ゴッボー、ランセロット・ゴッボー、ランセロットさんや」、 でなけりゃァ「ゴッボーさんや」、でなけりゃ 「ランセロット・ゴッボーさんや、脚《すね》をお働かしなさいよ、 飛出しんなさいよ、逃げッちまひなさいよ」。すると、おれの良心めが言ふわ 「うんにゃ氣を附けろ、正直なランセロットや。氣を附けな、正直なゴッボーや」、 でなけりゃ、今いったやうに「正直なランセロット・ゴッボーや、逃げちゃ不可《いかん》よ、 駈落なんかは七里けっぱいだよ。」ところが、最も勇敢な惡魔の大將が乃公《おれ》を促《せつ》く。 「さァ!」と惡魔が言はァ。「さァ?!」と惡魔が言はァ。 「一生懸命に大勇氣を奮《ふる》ひ起して逃げろ!」と惡魔めが言やァがる。 ところが、おれの良心め、おれの心臟の首ねッこの處にぶらさがってゐて、 如何にも賢明さうにおれに言ふわ、「我正直なる友ランセロットよ、 御身は正直なる男子の子息だね、何故ッて、親父ゃ少々臭い方だから、 少々來《きた》ってる方だから、聊《いささ》か好きな方だからね。 そこで、良心めが言ふわ、「ランセロット、動いちゃ不可《いかん》よ。」 すると、「動け」と惡魔が言はァ。「動いちゃ不可《いかん》」とおれの良心が言ふ。 「良心さん」とおれが言はァ「貴下《あんた》の御意見は御尤」。……かうッと、 おれの良心のいふ通りにすりゃァ、 おれは旦《だん》つくの猶人《ヂウ》の處にじっとしてゐなけりゃならないが、 その旦《だん》つくは、御免なさいまし、まァ、一種の惡魔のやうなものだ。 しかし若し旦《だん》つくから逃げることになりゃァ、おれは惡魔の言ふ通りになるんだが、 的《れこ》と來ては、……眞平御免なさいまし、…… 正眞正銘《しゃうじんしゃうめい》まがひなしの惡魔さんだ。 いや、猶人《ヂウ》は、大丈夫、惡魔の權現《ごんげん》だ。それだのに、俺に、 その猶人《ヂウ》と一しょにゐろッて諌言《いけん》するてィのは、 おれの良心もよっぽど胴欲《どうよく》な良心だなァ。 惡魔の言ふことのはうが深切だ。……惡魔さん、おれは逃げるよ。 おれの足は貴下《あんた》の御命令のまゝだ。おれは逃げるよ。 老ゴッボー手籠を提《さ》げて出る。 ゴッボ お若いお方さん、もし?、猶人《ヂウ》の旦那のお邸《やしき》へは、 如何參りますかね? ランセ (傍白)おうや、おや!こりゃおれの眞實《ほんたう》の實《うみ》の親父どんだ! 霞眼《かすみめ》どころでないからして、雲霧目《くもきりめ》とでもいふ奴だ、 で以て全然《てんで》おれが目に入らないのだ。一番、問答打ってくれう。 ゴッボ お若い旦那さん、お願ひでござります、猶人《ヂウ》の旦那さんのお邸《やしき》へは如何まゐりますかね? ランセ 次の曲り角で右手《みぎツて》へ曲るんだがね、一等次の曲り角へ往ったら左手《ひだりツて》へ曲るんだ、 それから其次の曲り角へ來たら、何方《どっち》でも曲らないで、 遠廻りにぐるりと曲ると猶人《ヂウ》の宅《うち》だ。 ゴッボ やれ?!そいつは解りにくさうな道でござりますね。 時に、貴下《あんた》、御案内でござりますならお知らせ下さいまし、 その猶人《ヂウ》さんの許《とこ》にをりましたランセロットといふ者は今でもまだ居りますか知らん。 ランセ あのランセロットの旦那のことかい?……(傍白)さ、見てろ。 今おれが雨を降らせて見せるから。……ランセロットの旦那の事かね? ゴッボ 何の貴下《あんた》、旦那なんかぢゃござりません、貧乏人の倅《せがれ》なのでござります。 爺《てゝ》は、自身で申しては何でございますが、正直な、非常に貧乏な者で、 お冥加なことには、まだ?結構に生延びさうにござります。 ランセ はて、親父なんか何だってかまやしないよ、おれはランセロットの旦那の事をいってるのだ。 ゴッボ へい?!貴下《あんた》さんのお友達の、へい、そのランセロットの奴でござります。 ランセ だがさ、ね、此《こゝ》を以ての故に、困るねえ、お老爺《ぢい》さん、 ね、此《こゝ》を以ての故に、いゝかね、お前はランセロットの旦那の事を聞くんだらう? ゴッボ へい?、旦那さん、全く、その、ランセロットの事でござります。 ランセ ね、此《こゝ》を以ての故に、ランセロットの旦那だよ。お父《とツ》さん、 ランセロットの旦那なら、もう何《なんに》も言ひなさんなよ、如何《いかん》となれば、 いゝかね、あの若い紳士は、宿命 并《ならび》に運命、 別しては三姉妹なんかんといふ變妙來《へんめうらい》な學問の然《しか》らしむる所でね、 實際、死亡に及んだよ、すなはち、お前たちの使ふ平凡な語《ことば》で言へば、 天へ上っちまったよ。 ゴッボ やれ?、それはまァ、とんでもないこっちゃ! 彼奴《あいつ》はわしの老後の杖であったに、柱であったに! ランセ はてな、おれの體が棒きれや支柱《つッかひ》や杖や柱に見えるか知らん。…… お父《とツ》さん、おれがわからないかね? ゴッボ あゝ?!お若い旦那さん、貴下《あんた》は何方《どなた》だか、 わしは存じません。併しどうぞおっしゃって下さいまし、わしの小僧めは、 ……南無あみだぶ、……生きとりますか、死んぢまひましたか? ランセ お父《とツ》さん、おれがわからないかい? ランセ いかさま、成程ね、よしんば目が見えたって、お前さんにはおれはわかるまいよ。 子を知るは賢明なる父なりとあるからね。ねえ、お爺さん、 お前さんの息子さんの事を話してあげるからね(膝まづいて) さ、祝福しとくれ。事實は早晩明白となるべし。人殺しは隱しおほされるものでなしッてね。 もっとも、息子は隱せるかも知れないけれども、長い間にゃ露顯すらァね。 ゴッボ あ、もし?、お立ちなすって下さい。なんの、大丈夫、 貴下《あんた》さんが、倅《せがれ》のランセロットである筈はない。 ランセ おい?、もう好い加減に戯談《じゃうだん》は止しにして、ねえ、 祝福しとくれよ。おれはランセロットだよ、 嘗《かつ》ては小僧ッ子であり、現に倅《せがれ》であり、 將來まさに赤ん坊たらんとする所のランセロットだよ。 ゴッボ どうも倅《せがれ》だとは思へない。 ランセ さァ、どう思ふのが當然だか、そりゃ知らないがね、とにかく、 おれはランセロットだよ、猶人《ヂウ》のの召使でね、 さうしてお前さんのお女房《かみさん》のマーヂェリーてのは、 たしかにおれのお母《ふくろ》だよ。 ゴッボ あれの名はマーヂェリーだ、全くだ。あゝ、若しお前さんがランセロットなら、 お前は間違ひなくおれの肉親《しんみ》の倅《せがれ》だ。 (後向《うしろむき》になってゐるランセロットの頭を撫廻して) おや??!何て髭を生やしたこっちゃ!貴樣の頤の毛は、 宅《うち》の轅馬《ながえうま》のドビンの尻尾《しつぽ》の毛よりも多いがや。 ランセ (立上りながら)ぢゃァ、ドビンの尻尾の毛は、逆《さか》に延びると見えるな。 先《せん》だって見た時には、大丈夫、おれの面《つら》の毛よりゃ奴の尻尾の毛のはうが多かったがなァ。 ゴッボ やれ?、えらい變りやうぢゃ!時に、御主人との折合はえいか? 旦那へ贈品《みやげもの》を持って來た。え、どんな鹽梅ぢゃ? ランセ 上等々々。だがね、おれのはうぢゃ駈落することに決っちまったんだ、 だから突走って見なけりゃ決著《きまり》はつかんがね。 おれの旦《だん》つくは全くの猶人《ヂウ》だよ。 あんな奴に贈品《みやげ》なんか!首縊《くびくゝ》り繩でもくれてやるがいゝ。 おれは彼奴《あいつ》に奉公したゝめに飢《かつ》ゑ死をしかゝったよ。 御覽よ、一本々々、おれの指の數が算《かぞ》へられらァ、おれの肋骨《あばらツぼね》で以て。 お父《とつ》さん、いゝとこへ來てくれた。 その贈品《みやげもの》をバッサーニオーさんといふ旦那へ獻《あ》げてくんな、 あの他人《ひと》は立派な新しい好い制服《そろひ》を家來に被《き》せらァ。 あの人に奉公が出來なけりゃァ、おれはもう地面《ぢびた》のありったけ駈落だ。 ……や、何て間がいゝこったらう!その旦那がやって來らァ。 お父《とツ》さん、さ、早くあの方へ。此上、猶人《ヂウ》に奉公してるやうぢゃ、 人間ぢゃないからなァ。 バッサーニオー出る、リオナードー其他の從者と共に。 バッサ さうしてもいゝ。が、急いでしなくっちゃ不可《いかん》ぞ、 遲くも五時には夜食の準備《ようい》が出來るやうにね。 此書面をそれ?゛渡して貰ひたい。制服《そろひ》を早速仕立てるやうにね。 それから、グラシャーノーには、すぐわしの宿へ來るやうにね。 家來心得て入る。 ランセ お父《とツ》さん、さ、あの人へ。 ゴッボ へい、貴下《あなた》さま、御機嫌さま宜しう! バッサ ありがたう。何かわしに用かね? ゴッボ へい、あの此處に居りまする倅《せがれ》めは、貧乏な小僧めでござりますが…… ランセ 貧乏な小僧ぢゃありません、へい、大金持の猶人《ヂウ》の家來なんで。 もっとも、委細の事は親父から證明いたします筈でございますが…… ゴッボ 倅《せがれ》めは、是非とも、その、貴下《あなた》さまに、へい?、是非その…… ランセ 全く、その、一言以て之を蔽へばです、目下の處は猶人《ヂウ》に奉公してゐるんですが、 是非《ぜツぴ》、その、これは、何《いづ》れ、親父から御證明に及ぶでせうが…… ゴッボ 主人と倅《せがれ》とは、貴下《あなた》さまの前でござりますが、とかく、その、 縁遠いはうでござりますので…… ランセ 早い話が、斯うなんです、猶人《ヂウ》がわっしをね、虐待したもんですから、 わっしもね、つい、その、據《よんどころ》なくって……もっとも、 此點は親父が、老年の事でありますから、何《いづ》れ當人の口から御明言するでありませうが…… ゴッボ 手前が持參いたしました此一皿分の鳩は、旦那さまに獻上いたしたうござります、 さうしてお願ひと申しますは…… ランセ 極《ごく》簡單に申しますと、お願ひといふのは、必しも、敢てその、 わっしの一身に關係しないでもないやうな事なんで、……何《いづ》れ、それは、 此正直な老人から申し上げるでせうが、わっしが申しては何ですが、 老人ではありますけれども、わっしの親父は貧乏人なんで、それでその…… バッサーニオー 一人で二人の分をいふがいゝ。……でお前がたの望《のぞみ》といふのは? ランセ 貴下《あんた》に御奉公がしたいんで、へい。 ゴッボ それがお願ひの勘目《かんもく》なのでござります、へい。 バッサ (ランセロットに)わたしはお前をよく知ってゐるよ。願ひは聞屆けました。 お前の主人のシャイロックが、けふはお前をわたしに使ってくれといって推擧したよ、 金持の猶人《ヂウ》から暇を取って、貧乏紳士の家來になるのを、 推擧といっていゝか、如何か知らんが。 ランセ 「神に惠まるゝは富めるなり」て諺《ことわざ》の上の句と下の句とを、 旦那のシャイロックと貴下《あんた》とで分持って居なさらァね。 神樣に惠まれてゐるのは貴下《あんた》なんで、富んでるのが旦那なんだ。 バッサ 中々うまいことをいふね。……お父《とつ》さん、息子と一しょに行きなさい。 元の旦那に暇を貰ったら、わたしの宿へ訪ねて來るがいゝ。 ……(家來に)他の奴らのよりも華美《はで》な飾りの附いてるのを被《き》せてやってくれ。いゝか? ランセ お父《とツ》さん、さ、お入り。……おれには迚《とて》も奉公口なんか得られないよ、迚《とて》もね。 おれの智慧ぢゃァ迚《とて》も口上は述べられないからなァ。…… はてな(掌紋を見て)イタリーぢゅうにおれのよりも上等の掌《てのひら》を有ってる奴があるか知らん、 これ大上吉《だいじゃうきち》、幸運疑ひなしといふ掌《てのひら》なんら。 へッ、こりゃ取るに足らん長壽線《ながいきすぢ》といふ奴だ。 これは嚊《かゝ》澤山といふ詰らん線《すぢ》だ。あゝ?! 嚊《かゝ》を十五人有ったって何にもならんや!男一人に寡婦《ごけ》が十一人、 生娘が九人ぢゃァ、へッ、ほんの些細な御収入と來てけつかる。えゝと、 それから三度 溺死人《どざゑもん》になるのを助かる。 それから羽蒲團の尖角《とがりかど》で九死一生の目に逢ふ。 へッ、どれも?詰らない災難除だ。運命て奴は女神だといふが、 此樣子ぢゃ中々深切な女子《あまッこ》だね。……お父《とつ》さん、 さ、おいで。おらァ旦《だん》つくから今直に暇を取っちまふからね。 ランセロットとゴッボーと入る。 バッサ リオナードー、どうか頼むよ、今いった品々を買求めて、 それを順序よく積込んで、急いで戻って來て貰ひたい、 今夜のうちに主要《おも》な友人連を饗應《もてな》したいと思ふから。 急いで往って來てくれ。 リオナ 精々盡力いたします。 グラシャーノー出る。 グラシ (リオナードーに)御主人は? リオナ あそこにをられます。 リオナードー入る。 グラシ バッサーニオーさん! バッサ グラシャーノー! グラシ 貴下《あんた》にお願ひがあるよ。 バッサ あゝ、承諾《のみこ》んだよ。 グラシ 決して否《いや》とはいはせませんよ。僕は、どうあっても、 ベルモントまで、貴下《あんた》と一しょに往かなくっちゃならん。 バッサ ぢゃァ仕方がない、一しょに往くさ。だがね、グラシャーノー、君にいっておくことがある。 君はあんまり無作法で、口のきゝ方が亂暴でもあり、臆面が無さ過ぎるよ。 天眞爛漫は君の持前なんだから、僕等はそれを瑕疵《きず》だとも思はないんだけれども、 君の性質を知らない者が見た時分には、如何《どん》なに放逸な人間のやうに思ふかも知れない。 どうか、君のその陽氣な活[さんずい|發;u9F51]《はねかへ》り過ぎる心を、 おとなしい、冷靜な氣分の幾滴かを注射して、もう少し沈靜させるやうに力《つと》めて貰ひたいね。 さうでないと、君の無作法な擧動の爲に、わたしまでが先方に誤解されて、 望《のぞみ》を失ふやうなことになるまいものでもないからね。 グラシ バッサーニオーさん、ま、聞いて下さい。大丈夫です、僕は嚴肅な態度を装ひますよ、 物をいふにも鄭重にやります、容易に怒罵《どな》るやうなことはしません、 衣嚢《ポッケット》にお經の卷《ほん》をいれときますよ、 むづかしい面附《つらつき》をしてゐますよ。そればかりぢゃない、 食事時にお祈[しめすへん|壽;u79B1]《いのり》がはじまると、 如是《こんな》鹽梅に帽子で目をかくして、溜息をして「アーメン」といってね、 一切もう大まじめに、禮法通り、本文通りにやりますよ、 お祖母さんの御機嫌を取ることにかけては場數の巧者といふ鹽梅式にね。 若しそれをやらなかったら、將來決して僕を信用なさらんがいゝ。 バッサ ま、とにかく、お手並を拜見しよう。 グラシ だがね、今夜は例外ですよ。吾々の今夜する事を以て僕の將來を量って下すっちゃ困りますからね。 バッサ 無論、そんなことをしちゃ、笑止千萬だ。今夜は寧《むし》ろ思ふさま無禮講式に、 大陽氣にやって下さい、愉快に浮かれようといふ計畫《つもり》でみんながやって來るんだから。 併しこれでお別れしよう、わたしは用事があるから。 グラシ 僕もロレンゾーの連中の許《とこ》へ往かんけりゃならん。 何《いづ》れ夜食時にお訪ねしませう。 二人とも入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第三場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第三場 同所。シャイロック宅の一室。 ヂェシカとランセロットと出る。 ヂェシカ わたし殘念に思ひますの、お前が暇を取って出ていってしまふのを。 我家《うち》はまるで地獄なんだけれど、今まではお前といふ陽氣な鬼がゐたもんだから、 幾らか面白くないのを紛れることが出來たんだけれど。だが、さやうなら。…… (貨幣をランセロットに與へて)少しだけれど、お前に。……それからね、ランセロット、 きっと夕飯の時に、ぢきにロレンゾーさんにお逢ひだらうから…… お前の今度の御主人のお客さんになって見えるんだからね ……どうぞ此手紙を渡しとくれ。(手紙を渡して)内密《ないしよ》よ。 ……ぢゃ、さやうなら。お前とお話をしてゐるのをお父さんに見附られたくないから。 ランセ さやうなら!涙で舌が放流(拘留)されッちまふ。……嗚呼異教徒とはいへ稀なる美人、 猶人《ヂウ》とはいへど可憐の處女ッ!…… こりゃァ屹度《きつと》キリスト信者の中によくないことをする奴があって、 ついお前さんを産ませてしまったんだね。……が、さやうなら。 馬鹿涙めが落ちゃァがるので、おれの男らしい勇氣がへこたれッちまふ。……さやうなら。 ランセロット泣きながら入る。 ヂェシカ さやうならよ、ランセロット。……あゝ?、何て情ない因果だらう、 現在のお父さんの子と生れたのを恥しく思ふといふのは! けども、たとひ血はつながってゐたって、品行上では親子ぢゃない。 おゝ、ロレンゾー、お前が約束を守ってさへおくれなら、 わたしゃ思ひ切って決心します、キリスト信者になって、お前の女房になります。 ヂェシカ入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第四場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第四場 同處。街上。 グラシャーノー、ロレンゾー、サラリーノー及びサラーニオー出る。 ロレン なァに、夕飯の時に抜出して、わたしの宿《とこ》で假裝の支度をして、 直《すぐ》に戻って來ることにしようよ。一時間ありゃ大丈夫だ。 グラシ 準備がまだよく出來てゐないよ。 サラリ 炬火持《たいまつもち》の事なんかも、まだ定《きま》っちゃゐませんぜ。 サラー 手際よく運ばないやうぢゃァ拙《まづ》いから、わたしァ寧《むし》ろ中止したはうがいゝと思ふね。 ロレン まだやっと四時でさ。準備する間《ひま》が二時間もあらァね。…… ランセロット書状を持って出る。 やランセロット先生、何だね? ランセ えへん、此状《これ》を御開封下されますれば、委細明白に相分るでございませう。 ロレン (受取って)こりゃ見覺えのある手だ。ほんとに美しい手なんだ。 書かれた此白い紙よりも之を書いた手の方がずっと美しいんだ。 グラシ (他の者に)艶書《ラヴレター》だよ、きっと。 ランセ (ロレンゾーに)お失禮いたします。(と行きかける)。 ロレン どこへ往くんだい? ランセ へい、あの古い旦那の猶人《ヂウ》の許《とこ》へ、 今夜新しい旦那のキリスト信者さんと夕飯を御一しょにおあがんなさいと言ひつけに往くんです。 ロレン おい、ちょっと、これを取んな。(貨幣を渡して)ヂェシカさんにさういってくんな、 決して間違へはしませんッて。内密《ないしよ》でいふんだよ。…… ランセロット(いろ?滑稽な仕草あって)入る。 さ、諸君、今夜の催しの準備にかゝって下さい。炬火持《たいまつもち》は出來たよ、 わたしの手で。 サラリ よし來た、ぢゃ、わたしは直《すぐ》に取りかゝらう。 サラー わたしもやるよ。 ロレン 一時間も經ったらグラシャーノーの宿へ來て下さい、わたしもグラシャーノーもあそこへゐるから。 サラリ よろしい、さやうなら。 サラリーノーとサラーニオーと入る。 グラシ 今のはヂェシカさんからだらう? ロレン 何もかも君に話しッちまはなけりゃならない。ヂェシカがね、 親父の宅《とこ》から抜出す手續をいってよこしたんだよ、 金貨や寶石を持出すといふことや、 侍童《わらはごしゃう》の被《き》る服《きもの》の準備をしてゐるといふことや何か細々といってよこしたんだよ。 もし親父のあの猶人《ヂウ》が天へ上るやうなことがありゃ、 全くあの品の高い娘のお庇《かげ》だね。 あゝいふ娘には災禍《わざはひ》なんてものが取附かう筈が無いね、 不信者の猶人《ヂウ》を親に持ったといふ祟《たゝり》でゞもありゃ格別だがね。 さ、一しょにゆかう。歩きながら讀んで見たまへ。 ヂェシカさんが炬火持《たいまつもち》の役を務めようてんだよ。 二人とも入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第五場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第五場 同處。シャイロックの宅の前。 シャイロックとランセロットと出る。 シャイ なァに、今に見ろ、貴樣だって目があるからにゃ、 此シャイロックさまとバッサーニオーとの差別《ちがひ》が見分けられる時が來るだらうから。 ……(奥に向ひて)こら、ヂェシカ!……もう大食ひは出來んぞ、 おれの家《とこ》で食倒したやうには……熟眠《ねばう》をしたり、 大鼾《おほいびき》をかいたり、着物を引裂いたるすることはもう出來んぞ。 ……えゝ、ヂェシカといふに! ランセ えゝ、ヂェシカといふに! シャイ だれが貴樣に呼べといった?おれは呼べと吩咐《いひつけ》はしないぞ。 ランセ だって、貴下《あんた》が常住《しょっちゅう》のやうに、わしにさういったからさ、 貴樣は吩咐《いひつ》けなけりゃ何一つ能《え》い爲しない奴だって。 ヂェシカ出る。 ヂェシカ お呼びなの?何御用? シャイ ヂェシカや、わしは宴會に招《よ》ばれて往く。 鍵は悉皆《みんな》そこにあるぞよ。……だが、何の爲に往くか? ……深切心があっておれを招《よ》ぶんぢゃァない、 只機嫌を取らうためだ。併し此方《こっち》も憎い餘りに往ってくれる、 奢《おご》り散らすキリスト信者の物を喰ひ潰してくれるために。 ヂェシカや、娘よ、ようく家に氣を附けなよ。……あゝ、往きたくないわい。 何となく不吉な事が起りかけてゐるやうな氣がする、ゆうべ金財布を夢に見たから。 ランセ さ、どうぞ、お出かけなすって。わしの若い旦那が貴下《あんた》の御 擯斥《ひんせき》 (御臨席)を待ってますからね。 シャイ へん、彼奴《あいつ》等の擯斥《ひんせき》は覺悟の前だ。 ランセ それからね、多勢で以て、いろ?な催しの計畫《もくろみ》をしてゐなさるんです。 ……その茶番狂言を貴下《あんた》に御覽なさいといふ譯ぢゃありませんけれどね、 ……若し間違って御覽なさるやうなことがありゃァ、先《せん》の復活祭の月曜日 (四月十四日)の午前の六時に、鼻血が出たのァ、其 前兆《しらせ》だったんでさ、 四年前の聖灰日の午後にも出やがったっけが。 シャイ え、何だと、茶番の催しがある?……なァ、ヂェシカや、戸口は何處もかも、 閉めッちまひなさい。太鼓の音や、あの捻れ首の、可厭《いやア》な、 きい?聲の笛が聞えて來たら、決して窓口へ上んなさるな。 紅白粉《べにおしろい》を塗りこくったキリスト信者の阿呆面《あはうづら》を見ようために、 決して街中へ頭なんぞ突出しなさんなよ。家の耳は殘らず塞いときなさい、 といふのは窓のこった。馬鹿げきった、浮ついた物音なんかを、 此眞面目な邸内《やしきうち》へ入らせてはなりませんぞ。…… あゝ、どうも今夜は宴會なんぞへ出かけたくない。が、往って來よう。 ……(ランセロットに)おい、貴樣は先へ往って、直《ぢき》に參られますと言ひな。 ランセ ぢゃ、お先へ參ります。……(ヂェシカに)嬢さん、かまはないでね、 窓からお覗きよ。 いきなキリスト信者が通る、 猶太《ユダヤ》娘が見て惚れさうな。 と歌ひながら入る。 シャイ 何を言ったんだ、え、あの(ヘーガーの血脈《ちすぢ》の)阿呆 奴《やっこ》めが? ヂェシカ 「嬢さん、さやうなら」といったッきりなの。 シャイ あの阿呆め、悪氣はない奴だが、大食ひで、爲になる仕事となると大の懶惰者《なまけもの》で、 晝日中、野良猫よりもよく眠《ね》やァがる。 なまけ蜂はおれの巣にはおかれない。だから暇をくれて、 借金で贅澤をしをる奴におッつけてくれた、浪費《むだづかひ》の手傳をさせるために。 ……さ、ヂェシカ、お入り。おれは、多分、直《ぢき》に戻って來るだらう。 吩咐《いひつ》けた通りにしなよ。入ってから、 戸口々々をよくお閉めなさい。しっかり締めれば、しっかり占める。 經濟家に取っちゃ今でも意味の深い諺《ことわざ》だ。 ヂェシカ さやうなら。……(シャイロック入る)思ひ通りに事が運べば、 わたしはお父さんを失くしてしまふし、お父さんは娘を失くしてしまふんだ。 ヂェシカ入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第六場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第六場 同處。 グラシャーノーとサラリーノーと假面を被って出る。 グラシ この庇小屋《さしかけごや》だぜ、ロレンゾーが待ってゐてくれと頼んだのは。 サラリ もう二時間は過ぎたくらゐだ。 グラシ 時間より後れるといふのは不思議だね、 戀人は時計の針をまだるっこがらなけりゃ[言|虚;u8B43]《うそ》だからねえ。 サラリ ところが、戀の女神の鳩車だって、結びたての戀の絆に封印を附けるためにゃ全速力で駈出すけれど、 とうに契約濟の夫婦仲を繼續させるとためといふのぢゃァ、 ねッから乘氣にならんさうだ! グラシ そりゃ何事もさうだ。宴席から起つ時分にゃ、誰れだって、 最初席に着いた時程の鋭い食慾は有ってゐないからね。馬だってもさうだ、 長い曲りくねった道程《みちのり》を迚《とて》も往《ゆき》ほどの熱心を以て還《かへ》らうとはしないからね。 何事でも、手に入れッちまってからよりは、追求する方が身が入るのが定例《きまり》さ。 商賣船《あきなひぶね》が、炭や幕で以て飾り立てゝ、 本國の港から初めて出帆する有樣は、まるで道樂息子のお出ましだ、 輕薄な風が賣女のやうに、ちやほやと吹いて來て、手を引張るやら、 抱きしめるやらだ!ところが、その歸って來る姿を見ると、 これもまた道樂者の朝歸りそのまゝだ、肋《あばら》は傷《いた》み、 帆は破れて、輕薄な賣女の風に思ふさま玩弄《おもちゃ》にされて、 乞食になって戻って來らァね、痩せて、ぼろッこになってね。 サラリ (向うを見て)あそこへロレンゾーが來た。話はまァ後にしよう。 ロレンゾー出る。 ロレン 諸君、長く待たせて濟まなかった。わたしの故《せゐ》ぢゃないよ、 用の都合で、つい、その、諸君を待たせたんですよ。其代り、 若し諸君が、將來細君を盗み出さうとするやうなことがあったら、其時にゃ、 わたしが諸君のために、どんなにでも長く見張りをしますよ。 さ、こっちへ來てくれたまへ。こゝに住んでるのです、舅《しうと》の猶人《ヂウ》は。 ……おい!だれか居るかい? ヂェシカ侍童《わらはごしゃう》の服を被《き》て樓上《にかい》へ出る。 ヂェシカ 貴下《あなた》は誰人《どなた》です?念の爲に返事をして下さい、 大丈夫、聲を知ってる積りですけれど。 ロレン ロレンゾーよ、お前の好人《いゝひと》。 ヂェシカ ほんとにロレンゾーよ、成程、好人《いゝひと》だわ、 貴下《あなた》ほど好いてる人はないんだもの。ね、ロレンゾーさん、 わたしは貴下《あなた》の有《もの》だといふことを、貴下《あなた》の外に、 誰れが知ってるでせう? ロレン 天とお前の胸とが其事の保證人だよ。 ヂェシカ そら、此 匣《はこ》を受取って頂戴。受取るだけの價値《ねうち》はあってよ。 夜なので嬉しい、貴下《あなた》がわたしを見ないから。 だって、わたし、如是《こんな》扮裝《なり》をしてるから恥しいもの。 だけど、戀は盲《めくら》だから、戀をする者は、 どんな子供氣な阿呆らしいことをしたっても、それが自身の目には見えませんとさ。 でも若しわたしが如是《こんな》扮裝《なり》をしてるのが見えようもんなら、 キューピッドさんだって、眞赤な顏をなさるでせうよ。 ロレン よ、降りていらっしゃい、 貴嬢《あんた》はわたしの炬火持《たいまつもち》の役をしなけりゃならないのだ。 ヂェシカ え、此恥しい姿《なり》で以て炬火《あかり》の前へ出ろって? まァ!かうしてゐるだけでも眞實《ほんと》に恥かゞやかしいわ。 炬火持《たいまつもち》は物を見顯《みあらは》す役ぢゃなくって? わたしゃ隱れてゐなけりゃならない身の上なのよ。 ロレン だから、隱れてゐるよ、貴嬢《あんた》の本態は、 可愛らしい侍童《おこしゃう》姿に。とにかく直《すぐ》に降りていらっしゃい。 でないと、秘密な夜はずん?更けッちまふし、 バッサーニオーの宴會ではわたし達も待ちかねてゐるから。 ヂェシカ わたし戸締りをしてね、もっとお金を體に附けて、 すぐ貴下《あなた》と一しょになるわ。 ヂェシカ樓上《にかい》に消える。 グラシ 此 僧帽《フード》に誓《ちかひ》をかけて、中々愛嬌者だね、 猶人《ヂウ》とは思はれない程に從順だね。 ロレン わたしがあの娘を眞底可愛がらないやうなことがありゃ、 此ロレンゾー罰が當ッちまふ。何故って、君、あの娘は怜悧《りこう》でもあり…… 若しわたしに批判の權利があるなら、美しくもあり、若しわたしの目が間違ってゐなけりゃ、 眞實でもある、これは現にあの娘が實證を與へたことなんだ。だから、わたしは、 その怜悧《りこう》な、美しい、眞實な女に相當するだけの敬愛の情を、 一生、あの娘に對して表さなければならないと思ふのだ。…… ヂェシカ假裝のまゝで街上《がいじゃう》へ出る。 おや、もう來たの?……さ、諸君。往かう! 假裝仲間が今頃は待ちくたびれてゐるだらう。 ヂェシカ及びサラリーノーと共に入る。 アントーニオー出る。 アント どなた? グラシ アントーニオーさん! アント 何をしてるんだね、グラシャーノー!他の者は何處にゐます? もう九時だよ。友人連はみんな貴下《あんた》を待ってますよ。 今夜は狂言は止《やめ》だ。順風になったから、 バッサーニオーさんはもう直《すぐ》に乘込むでせう。 わたしは貴下《あんた》を探しに二十人も人を出した。 グラシ 難有《ありがた》い。乘込んで出帆さへすりゃ、今夜はもうそれで澤山だ。 二人ともに入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第七場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第七場 ベルモント。ポーシャ邸の一室。 コーネットの盛奏。ポーシャ出る。あとよりモロッコーの君及び其從者。 ポーシ さ、その幕を開けて、三種《みいろ》の手匣《てばこ》を、殿下に御覽にお入れ。 ……さ、お擇び遊ばせ。 モロッコ 眞先《まっさき》に黄金《きん》の匣《はこ》には、かういふ銘が刻《こく》してある、 「吾を選ぶ者は衆人の欲するものを得む」。其次の銀の匣《はこ》には、 こんな約束が書いてある、「吾を選ぶ者は其徳相當のものを得む」。 此第三の、光《つや》のない鉛の匣《はこ》は、警告までが無愛想ぢゃ。 「吾を選ぶ者は其有する總額《すべて》を他《ひと》に與ふるか若しくは危《あやふ》うせざるべからず」。 ……擇び當てた場合には、如何してわかります? ポーシ 匣《はこ》の一つにわたくしの肖像畫《にがほゑ》が入ってをります。 それをお選び遊ばせば、わたくしの身も貴下《あなた》の御所有となるのでございます。 モロッコ 何《いづ》れかの神明、何卒《なにとぞ》われらの判斷力を案内なされて下されい!…… かうっと。……銘をもう一度 査《しら》べ返して見よう。此鉛の匣《はこ》は何といふか? 「吾を選ぶ者は其有する總額《すべて》を他《ひと》に與ふるか若しくは危《あやふ》うせざるべからず」。 他《ひと》に與へる。何の爲に?鉛の爲に?鉛の爲に總額《すべて》を危《あやふ》うする。 此 匣《はこ》めは人を威嚇《おどか》しをるわい。凡《およ》そ人が總額《すべて》を危《あやふ》うするのは、 何か旨い利益が得られさうに思へばこそぢゃ。黄金《わうごん》の心は、 見すぼらしい鐵屑《かなくづ》などには手を觸れん筈ぢゃ。 おれは鉛なんぞの爲に何一つ他《ひと》に與へようとも、 危《あやふ》うしようとも思はん。……純潔な色をしてゐる銀の匣《はこ》は何といふ? 「吾を選ぶ者は其徳相當のものを得む」。其徳相當のもの!待ったり、モロッコー、 公平に自分の價格《ねうち》を測量《みつも》って御覽なさい。 お前の價値附《ねだんづけ》で評價したなら、無論十分の徳がある。 が、それが果して此お姫に對して十分の徳といへるか、どうか? いや、併し、自分の徳を自分で危惧《あやぶ》むのは、自ら卑うする劣弱な根性ぢゃ。 おれの徳相當のもの!これ無論お姫に相違なり。 おれは門閥に於てもお姫に相當し、財産《しんだい》に於ても、品位に於ても、 育ち柄に於ても。が、就中《なかんづく》、切なる戀愛の眞情《まごゝろ》に於て相當してゐる。 もうこれで迷はんことにして、直《すぐ》に選んだら如何か?……待てよ、 もう一度 黄金《きん》に刻してある文句を見よう。 「吾を選ぶ者は衆人の欲するものを得む」。はて、これこそ姫ぢゃ。 世界中の者がお姫を欲しがってゐる。地球の隅から隅まで、 誰れも彼れも、此 活菩薩《いきぼさつ》のお厨子《づし》に接吻しようとてやって來る。 虎の住むハーケニヤの荒原も、茫々たるアラビヤの大沙漠も、此頃では、 ポーシャ姫にあこがれ寄る貴公子等の往還も同然ぢゃ。 天の面《おもて》へ唾を吐きかける覇氣滿々の大海原も、 それら外國の貴族等の血氣を制《おさ》へる關門とは能うならんで、 彼等は小溝でも飛越すやうに渡り越して、お姫の顏を拜みに來る。 ……此三つの匣《はこ》の一つに、神々しいお姫の像が入ってゐる。 鉛に入ってゐるらしからうか?そんな下等《けち》なことは想像するさへも罰當りぢゃ。 鉛なんぞは人目にかゝらん墓穴の中の棺に用ふるさへ、 お姫の場合には粗末過ぎる。では、銀の中に埋まってゐると思はうかな、 銀は黄金《きん》の十分の一の價格ぢゃが?勿體ない?! かういふ結構な寶玉《はうぎょく》が黄金以下の金屬に嵌められた例《ためし》はない。 イギリスの貨幣に天使《エンジェル》の姿を黄金《きん》へ打出したのがあるが、 それは外面に刻してあるのぢゃ、これはそれとはちがって、 黄金《きん》の寢床《ねどこ》の内部に天人が臥《ね》ておいでなさる。…… 鍵を下さい。これを選びます、その結果が如何あらうとも! ポーシ さ、これをお取り遊ばせ。若しわたくしの像《すがた》がその内にありましたならば、 わたくしは貴下《あなた》の所有《もの》です。 モロッコー金の匣《はこ》を開ける。 モロッコ おや?!こりゃまァ何ぢゃ?髑髏《しゃれかうべ》ぢゃ、空虚《がらんどう》になってゐる眼の中に、 卷いた書附が入ってゐる!讀んで見よう。 讀む。 光り輝く者皆が黄金にあらずとは。 汝 嘗《かつ》て幾たびか聞きたるならん。 古來人あまた其命を賣りぬ、 只わが外面を看んと欲して。 知らずや金色に燦《きらめ》く墓も蛆蟲を包藏す。 汝若し鐵面皮なるが如くに性賢明なりせば、 手足の若き如くに分別老成なりせば、 かくの如き返答は記入せられざりしならん。 さらばなり、汝が求婚《もとめ》は冷却し了《をは》んぬ。 冷却ぢゃ、全く。全くの徒骨折《むだぼねをり》ぢゃ。熱よ、さらば。 來れ、嚴霜《げんさう》!……ポーシャさん、さやうなら。 長々とお暇乞《いとまごひ》をする勇氣はない。 失敗した者は斯うして歸って行くのぢゃ。 從者をつれて入る。コーネット盛奏。 ポーシ 嬉しや、助かった。……さ、幕をお引き。 あゝいふ顏色の人たちは、みんな選びそこなってくれゝば好い。 みな?入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第八場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第八場 ヱ゛ニス。街上《がいじゃう》。 サラリーノーとサラーニオーと出る。 サラリ だってね、わたしは確かにバッサーニオーが帆の下にゐるのを見たよ。 グラシャーノーも一しょに乘込んだよ。しかし、あの船にゃ、大丈夫、 ロレンゾーはゐやしなかった。 サラー 猶人《ヂウ》の奴め、怒號《どな》りたてゝ、とう?侯爵さんを引張りだして、 バッサーニオーの船を檢査《しらべ》に行った。 サラリ ところが、行きかたが遲かったもんだから、船は出てしまった。 しかしロレンゾーとヂェシカとが遊山船の中に一しょにゐたといふことを侯爵さんへお知らせした者があった、 それから、アントーニオーさんも、たしかに二人はあの船にゃ居りませんでした、 と申しあげなすった。 サラー あの猶人《ヂウ》の奴めが、街中でわめき立てたやうな、あんな目茶苦茶なあんな亂暴な、 あんな出放題な怒號《どな》りかたは、わたすあ曾《つひ》ぞ聞いたことが無い。 「むすめやァい!おゝ、おいらの大事の金貨やァい!おゝ、 おいらの大事の娘がキリスト信者と駈落しをった! おゝ、おいらのキリスト信者の金貨を!裁判してくれ!法律は無いのか! おれの金貨を!おれの娘を!封印をしておいた財嚢《かねぶくろ》を、 封印しておいた二つの大切な金貨嚢《きんかぶくろ》を、二倍の金貨を娘に奪《と》られてしまった! それから、寶石を、二個《ふたつ》の寶石を、 二個《ふたつ》の大切な結構な寶石を娘に奪《と》られてしまった! 裁判して下さい。娘を探し出して下さい。娘が寶石を持ってゐます、 金貨を持ってゐます!」 サラリ だから、ヱ゛ニスぢゅうの惡太郎どもが隨《つ》いて廻って 「おいらの寶石、おいらの娘、おいらの金貨」なぞと囃《はや》し立てる。 サラー アントーニオーさんに注意して、約束の期限を間違へさせないやうにしないと、 此八當りで、とんでもない目に逢ひなさるだらうよ。 サラリ 成程、いゝ御注意だ。きのふ、あるフランス人に逢ったがね、 その男の話によると、フランスとイギリスとの間の、 あの狹い海峡で以て、貨物をみっしり積込んだ我國の或船が難船したさうだ。 わたしはそれを聞いた時に、すぐアントーニオーの事を思って、 腹の中で、どうか、それがあの人のでなければいゝが、と思ったがね。 サラー そのことを早くアントーニオーに話したはうがいゝね。 併し、あんまり突然《だしぬけ》でなくね、どんなにか心配なさるだらうから。 サラリ あんな深切な人は迚《とて》も又とは無いね、世界に。 わたしはバッサーニオーとアントーニオーとが別れるのを見たがね、 バッサーニオーが急いで歸って來る積りだといふと、あの人は 「いや、さうしないはうがいゝ。何も、わたしの爲に、肝腎の事を中途半端にするには及ばん。 十分、事の成就するやうに、機を俟《ま》つがいゝ。猶人《ヂウ》に渡したあの證書の事なんかは、 貴下《あんた》の戀とは全く無關係の事にして、心を思ひ切愉快に持って、 一《ひと》へに先方の氣に入るやう、又、 貴下《あんた》の眞情《まごころ》を其場合に應じて最も都合よく發表するやうにお力《つと》めなさるがいゝ」 ってね。さういってゐる中に、あの人の目は涙で一ぱいになったので、 顏をそむけて、後向に手を出して、非常に感動して、 バッサーニオーの手を揮《ふ》って、さうして別れたよ。 サラー あの人はバッサーニオーがあればこそ此世に生甲斐があると思ってゐるのだ。 ね、二人であの人を捜して、欝《ふさ》ぎこんでゐるのを、 何とかいって慰めようぢゃないか? サラリ さうしよう。 二人ともに入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第二幕 第九場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 第九場 ベルモント。ポーシャ邸の一室。 家來をつれてネリッサ出る。 ネリッサ はやくよ、早くおしよ。幕を直《すぐ》お開け。 アラゴンの殿さまが、もう御誓約をお濟しになて、すぐにお選びにいらっしゃるのよ。 コーネット盛奏。アラゴンの君、ポーシャ及び其從者ら出る。 ポーシャ 御覽遊ばせ、匣《はこ》はそこにございます。わたくしの像の入ってゐるのをお選び遊ばせば、 直《すぐ》にも結婚の式を執行いたします、然《しか》しお間違へ遊ばした場合には、 何にもおっしゃらないで、直《すぐ》さまお出立遊ばさねばなりません。 アラゴ 誓約したことは都合三ヶ條ある。第一には、 どの匣《はこ》をわたしが選んだかを決して何人にも口外しないといふこと、 次には、若しも正しい匣《はこ》を選び誤るに於ては、終生決して處女に對し、 又と結婚を申し込まないといふこと。最後に、若し運 拙《つたな》くして選び誤ったなら、 速《すみや》かにお別れして立去るといふこと。 ポーシ 其三ヶ條は、不束《ふつゝか》なわたくしの爲に、此 暗選《あてもの》をお試み遊ばすお方は、 どなたも御誓約なされます。 アラゴ わたしとて其様に覺悟いたしてをる。……どうか心願の叶ひますやう! ……金と。銀と。粗末な鉛。 「吾を選ぶ者は其有する總額《すべて》を他《ひと》に與ふるか若しくは危《あやふ》うせざるべからず」。 おれに與へさせ、危《あやふ》うさせる爲には、 もちっと美しい顏色をせにゃならんわい。……金の匣《はこ》は何といふ? や!かうッと。「吾を選ぶ者は衆人の欲するものを得む」。衆人の欲するもの! 此「衆人」といふのは、衆愚といふ意味かも知れん。 衆愚は外見によって物を選擇する、おろかな目が教へる以上の事は知らん。 内面へは目が及ばんで、燕のやうに、外部の塀際の、雨風の當る處に巣を造って、 ゆき當りばったりの生を營む。おれは衆愚の欲しがるやうなものをばうとは思はん、 平々凡々の徒と歩を一にしたり、蒙昧な多數人と伍を同うすることを屑《いさぎよ》しとしないから。 ……さうなると、お前だ、銀の玉手箱どの。もう一度、お前が附けてゐる題目を聞して貰はう。 「吾を選ぶ者は其徳相應のものを得む」。むゝ、文句は好い。 何故なれば、何等の徳もなく長所もない癖に、萬一を僥倖して名譽を得よつと試るなんぞは、 不埒千萬なことだからなァ。其身不相應な僭越な望《のぞみ》は起さんが可い。 あゝ、身分や爵位や官職が賄賂で得られるといふやうなことが地を拂って、 名譽は只 一《ひと》へに當人の潔白な功績によってのみ買取られることゝなったらばなァ! さうなれば、今帽を脱いでゐる者で帽を戴くやうになるものが、 何人位あるだらう!今、命令してゐる者の中に、命令される身分となる者が、 何人《どの》位あるか知れない!まがひもない高家の胤《たね》の中から、 どのくらゐ百姓種の秕《しひな》が選分けられねばならんかも知れず、 [禾|孚;u7A03]殻《もみがら》や塵芥《ごみくた》の中から、 何程《どれほど》立派な代物《しろもの》が拾ひ出されて、 新たに磨きをかけられることになるやら分らん! 併し選擇に取りかゝらう。「吾を選ぶ者は其徳相應のものを得む」。 わたしは徳があると假定しよう。 此 匣《はこ》の鍵を下さい。すぐにわたしの運命を開けて見よう。 銀の匣《はこ》を開ける。 ポーシ (傍白)そんなに手間をかけてお開けなさるほどのものぢゃないのよ。 アラゴ こりゃ何だ?しょぼ?目をしてゐる阿呆めが卷物をひろげて捧呈《さゝ》げてゐる畫《ゑ》だ! 讀んで見よう。ポーシャ姫とは似ても似つかん面附《つらつき》をしてゐをる! おれの希望《のぞみ》とおれの徳とがこれほどに似つかんとは思はなんだ! 「吾を選ぶ者は其徳相應のものを得む」。おれの徳は阿呆の頭以上には相當せんのか? これがおれへの賞典か?これ以上の徳はおれにないのか? ポーシ 過失と批判とは、質《たち》の異《ちが》ったお仕事です、 御一しょに遊ばさないがよろしいでせう。 アラゴ 何が書いてあるか? 讀む。 七たび火は此 器《うつは》を鍛へり。 選んで誤らざらんとせば、 智をもてまた七たび鍛はざるべからず。 世には影坊師に接吻する者あり、 然《しか》るは只影坊師の惠を得んのみ。 我は知る、世に活《い》ける阿呆あるを、 銀を以て外面を掩ふ。此者即ち是《これ》。 汝何者を迎へて妻となすとも、 我常に汝の素頭《すかうべ》たらん。 去りね?。汝の事は果てたり。 こんな處にくづついてゐれば、ます?阿呆らしく見えるだらう。 申込に來た時には、阿呆頭を一つしか有ってをらなんだが、 歸りには二つになった。……姫《ひい》さん、さやうなら。 約束を守って、じっと此悲歎を辛抱します。 アラゴン從者をつれて入る。 ポーシ 夏の蟲が、われから手燭の火で焼かれたわね。ほんとにまァ聰明《りこう》さうな阿呆! ちょうど選びそこなふ役に立つだけの智慧しかないのねえ。 ネリッサ 「お刑罰《しおき》と縁組とは運次第」といふ古い諺《ことわざ》は、 虚言《うそ》ぢゃございませんのね。 ポーシ さ、ネリッサや、幕を引いておゝき。 家來出る。 家來 お姫《ひい》さまは何處にいらっしゃいます? ポーシ こゝよ。お殿さま、何か御用? 家來 お姫《ひい》さま、御門前へ、只今若いヱ゛ニスの方が、 お馬でお著《つき》になりました、御主人の御 來著《らいちゃく》の前知らせにお越《こし》なされたのでございます。 其御主人のお使物《つかひもの》とございまして、 種々《いろ?》有形の御挨拶、と申しますのは、御鄭重な御口上の外に、 種々《いろ?》高價な御贈物をお持たせになりました。 手前は曾《つひ》ぞあゝいふ如何にも戀のお使《つかひ》らしいお使者を見たことはありません。 今に結構な初夏《はつなつ》の時候が來るといふ四月頃の日和も、 此お使《つかひ》が其御主人の御 來著《らいちゃく》を報ぜられますお使者振ほど快うはございません。 ポーシ もうおよし。今に、お前は、實《じつ》は其男はわたくしの親戚の者でとか何とかいひだしさうよ、 賞《ほ》めるのにそんな餘所行《よそゆき》言葉を使ふんだもの。 さ、往きませう、ネリッサ。わたしそんなに樣子の好い戀の急使《はやうち》は、 如何《どん》な男だか早く見たいから。 ネリッサ (獨語のやうに)戀の神さま、どうか、それがバッサーニオーさまでございますやう! みな?入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第三幕 第一場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第三幕 第一場 ヱ゛ニス。街上《がいじゃう》。 サラーニオーとサラリーノーと出る。 サラー 時に、取引所《リヤルトー》に何か珍聞があるかね? サラリ 相變らずあの噂が榮えてゐる、 アントーニオーのみっしり積込んだ貨物船が海峡で難船をしたといふ噂が。 たしか、彼處《あそこ》はグッドヰンとかいふ處で、非常に危険な淺洲なんだ、 あそこにゃ澤山の立派な船が埋葬されてゐるといふ噂だ、 若し「噂」といふ鐵棒引《かなぼうびき》が[言|虚;u8B43]《うそ》をつかない山の神なら。 サラー あゝ、その鐵棒引《かなぼうびき》がね、例の薑菓子《しゃうががし》を齧って、 近所の手前だけの涙を製造して、死んだ三人目の亭主を泣いてるんだ、 と思はせるたぐひの大うそつきだと安心なんだが、事實《ほんたう》だから、困る。 ところで、餘計な廻りくどい文句は一切ぬきにして、 極《ごく》平ッたく、有りのまゝにいふとね、 あの善良なアントーニオーさんは、あの正直なアントーニオーさんは…… あゝ、如何いふ語《ことば》を以てしても、わたしは迚《とて》もあの人の徳に相當する…… サラリ さ、さ、結末々々。 サラー え!何だッて?結末?結末は、あの人が船を失《なく》したんだよ。 サラリ どうか、それが、あの人の不幸《ふしあはせ》の結末であらばいゝがなァ! サラー 時後《ときおく》れにならないうちに、早速アーメンと言っておかうよ、 惡魔めが祈[しめすへん|壽;u79B1]《きたう》の邪魔をしさうだから。……見たまへ、 奴、猶人《ヂウ》に化けて、彼處《あそこ》へやって來たから。…… シャイロック出る。 どうだね、シャイロック?何か珍聞は無いかね、商人《あきんど》仲間に? シャイ お前さんがたは知ってゐなさる筈だ、誰よりもよく知ってゐなさる筈だ、 わしの娘の飛走ったことを。 サラリ 違ひない。さいいやァ、わたしは、あの娘さんの翼《はね》をこしらへた仕立屋を知ってゐたんだ。 サラー さういやァ、シャイロックだっても、 あの小鳥の羽《はね》が夙《とう》にもう生揃ってゐたのを知ってゐた筈だ。 羽《はね》が生揃やァ、親鳥を棄てるのァ小鳥の癖だァな。 シャイ だから、女《むすめ》めは罰當りだ。 サラリ 違ひない、惡魔自身が裁判をすりゃァね。 シャイ 現在のおれの血や肉が謀叛《むほん》をするとは! サラー 呆れッちまふぜ、おい?!いゝ年をして謀叛《むほん》が起る? シャイ いゝや、女《むすめ》めはわしの血でもあり、肉でもあるのだ。 サラリ とは思はれないね。お前と娘さんの肉とでは、黒玉と象牙ほどに異《ちが》ふからね。 血だってさうだ、赤葡萄酒と白葡萄酒ほどに異《ちが》ふよ。 それはさうと、アントーニオーが海で損をしたとか、しないとかいふ噂を、お前さんは聞かないかい? シャイ あゝ、あれもわしの損の卦だ。身代限りめ、浪費者《むだづかひや》め、 あいつ今日びは、市《いち》へ面出《つらだ》しを能《えい》しない。 つい此 間《あひだ》までは取引所へ、めかしたてゝ出て來をった劣乞食《どうこじき》め! あの證書を忘れるな。あいつ、おれの事を常住《しょっちゅう》高利貸だと惡口しをった。 あの證書を忘れるな。あいつめ、キリスト信者の仁義深切をいひたてに、 いつも無報酬《たゞもんめ》で金を貸しをった。あの證書を忘れるな。 サラリ だがね、無論、あの、何だらう、よしんば期限が切れたからといって、お前、 肉なんて取立てやしまい。何の役にも立ちゃァしない! シャイ 魚を釣る餌になる。腹の滿《は》る役には立たんまでも、 怨《うらみ》を晴らす役には立つ。あいつ、わしに恥を掻かせて、 五十萬からの損をさせをった。おれが損をすれば笑ひ、 おれが得をすれば嘲弄し、おれの國の者をさげすみ、おれの商賣を妨げ、 おれの友達へ水をさし、おれの敵を煽《おだ》てをった。 何故そんなことをしをったか?おれが猶人《ヂウ》であるからだ。猶人《ヂウ》には目がないか? 猶人《ヂウ》には手がないか?鼻や耳や口はないか?四肢五體は?感覺は? 好き嫌ひは、情慾は?猶人《ヂウ》はキリスト信者と同じものを食はんか、 同じ刄物で怪我をせんか、同じ病に罹《かゝ》らんか、同じ方法で治らんか、 同じ冬を寒がり、同じ夏を暑がらんか?おいらだって、針で突かれりゃ血が出るわい。 くすぐられりゃ笑はんでをられるか?毒を飲まされりゃァ、死ぬまいか? 侮辱されりゃ、復讐《しかへし》をしないでゐようか? 他の事がお前がたと同じなりゃ、それもお前がたに似てゐる筈だ。 若し猶人《ヂウ》がキリスト信者と侮辱したら、仁愛を表招牌《おもてかんばん》の奴が何をするか? きッと復讐《しかへし》だ。なりゃ、キリスト信者が猶人《ヂウ》を侮辱すりゃ、 忍從が慣《なら》はしの猶人《ヂウ》だって、其例からいや、 復讐《しかへし》をしなくってよ。非道はお前がたが教へたからするのだ、 教へられた以上の事をしなくッてどうするものだ。 召使一人出る。 召使 お二人さん、主人アントーニオーが、お二人さんにお目にかゝりたいと申して、 宅でお待ちしてをります。 サラリ わたしたちも、さっきから、御主人をお探し申してゐたところだ。 チューバル出る。 サラー 奴の一族がまた一人やって來た。三人目んは、惡魔自身が猶人《ヂウ》に化けてやって來るかも知れない。 サラーニオー、サラリーノー及び召使入る。 シャイ どうだねチューバル!ヂェノアから如何《どん》な知らせがあった? お前、むすめに遇ったかね? チュー 娘さんがゐるといふ噂を聞くたぼに、其方角へ出掛けては見たが、 どうしても、目附からなかったよ。 シャイ そら????!いよ?金剛石《ダイヤモンド》をなくしてしまった、 フランクフォルトで二千 兩《ダケット》で買った金剛石《ダイヤモンド》を! こんな情ない災難は曾《つひ》ぞまだ猶太《ユダヤ》國民の身の上に落ちかゝったことはないのだ! 曾《つひ》ぞまだおれは如是《こんな》目にあったことはないのだ! あの指輪で二千 兩《ダケット》、それから、其他にも大切な、大切な寶石。 我兒《むすめ》めは、おれの此足の下で斃死《くたば》りをってもいゝから、 耳の寶石を附けて戻って來てくれい!おれの足の下で葬式車に載せられてもいゝから、 その棺《ひつぎ》の中に、あの金貨が入れてあってほしいわい! ……え、何の手がゝりもないか?ぢゃァ、いよ?さうか! ……どの位探索費に使ったか知れない。では彌々《いよ?》損の上塗だ! 盗賊《どろばう》めが、あれだけ持っていった上に、 その盗賊《どろばう》を捜すために、又、これだけ費用をかけて、 何の償《つぐな》ひも出來ず、腹慰《はらいせ》も出來ず。 おれの外には、世間に災難を身に受ける奴はないのか! 溜息を吐《つ》く者は、世の中におればかりなのか! 涙を流す者は、世の中におればかりなのか? チュー なにね、世間にもいろ?不運な人がありまさァ。 わしがヂェノアで聞いたところでは、あのアントーニオーがねえ…… シャイ え、え、何だと?アントーニオーが如何したと? チュー 貨物船をしてやられたげな、トリポリスから戻って來る途中でね。 シャイ ありがたい、ありがたい。眞實《ほんたう》か、ほんたうか? チュー その難船で命拾ひをした水夫から聞いたんぢゃ。 シャイ チューバルさん、ありがたう。いゝ知らせだ、いゝ知らせだ! はゝゝゝゝゝ!何處で聞いたね?ヂェノアで? チュー そのヂェノアでね、わしが聞いたには、娘さんが一晩に八十兩《ダケット》つかったげな。 シャイ あゝ、此胸を貫かれるやうだ。とう迚《とて》もあの金は手に戻らん。 一場所で八十兩《ダケット》!八十兩《ダケット》! チュー アントーニオーの債主連が、わしと一しょにヱ゛ニスまで同行しましたがね、 あの男は、迚《とて》ももう、破産するより外にしかたはあるまいと言ってましたよ。 シャイ 有りがたい。うぬ、痛めつけてくれる、責めさいなんでくれる。 そいつは有りがたい。 チュー その債主連の一人がわしに指輪を見せたがね、それは娘さんが小猿一疋と取換っこにしたのぢゃげな。 シャイ 畜生!……チューバル、それおれをさいなむといふものだ。 あれは大切もないトルコ玉だ。おれがまだ獨身でゐたころに、 死んだ妻《さい》から貰ったのだ。猿の千疋や萬疋に代られる代物《しろもの》ぢゃないのだ。 チュー 併しあのアントーニオーは、あいつァきっと身代限りになりをるに相違ない。 シャイ むゝ、そりゃ全くだ。全くのこった。チューバル、 お前往って役人を傭《やと》っておいてくれ。 二週間以前に頼んでおいてくれ。期限が切れたら、あいつの心臟を取立てゝくれる。 あいつさへヱ゛ニスにをらんければ、おれが如何《どん》な營利《とりひき》でもすることが出來る。 さ、チューバル、出かけさっしゃい、 さうして祈[しめすへん|壽;u79B1]會《きたうくわい》で又逢ふことにしよう。 さ、チューバルさん。祈[しめすへん|壽;u79B1]會《きたうくわい》であふことにしよう。 二人ともに入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第三幕 第二場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第三幕 第二場 ベルモント。ポーシャ邸の一室。 バッサーニオー、ポーシャ、グラシャーノー、ネリッサ及び侍者ら出る。 ポーシ ま、お待ち遊ばせ。お選び遊ばす前に、せめて一日か二日御猶豫なさいまし、 何故なれば、若しお間違へ遊ばすと、お別れせねばなりませんもの。 ですから、ま、暫らく、お待ち遊ばせ。何となくわたくしは、 いつまでも?御一しょにゐたいのですの、でも、これは愛ではありません、 けれども憎惡は決してかういふ感じを起させるものでないといふことはお解りございませう。 とにかく、わたくしが十分お解りにならないやうなことがあってはなりませんから、…… けれども處女の身では、どうしても思ふことが口へは出せませんから…… いよ?お選び遊ばすまでに、せめて一月か二月お留申しておきたいのです。 どの匣《はこ》を選べばよいか、お教へすることも出來ますけれど、 さうしては誓言《せいごん》を破らねばなりません、ですから申しますまい、 ですから貴下《あなた》がお間違へ遊ばすでせう、さうなった時分には、 あゝ、誓言《せいごん》を破ればよかったに、と申すやうな大それたことを願ふかも知れません。 怨めしいは貴下《あなた》のお眼です、其お眼のために、わたくしの心は二つになって、 半分は貴下《あなた》の有《もの》、それから殘った半分は貴下《あなた》の有《もの》、 ではない、あの、わたくしの有《もの》なのですけれど、わたくしの物は貴下《あなた》の者なのですから、 つまり、悉皆《みんな》貴下《あなた》の有《もの》なのです。 あゝ、正當な所有主《もちぬし》に其の權利を與へないといふは、 何といふ不正《いけな》い世の中でせう!さういふ世の中ですから、 或ひは貴下《あなた》の有《もの》でありながら、貴下《あなた》の有《もの》になれないかも知れません。 萬一、さうなった時には、それは運命の故で、わたくしの罪《とが》でないとおぼしめして下さいまし。 こんなにお饒舌《しやべり》をいたしますのも、實《じつ》は、 成るべく時間を延ばして、長びかせて、お選び遊ばすのをお止申したいからです。 バッサ どうか、早く選ばせて下さい。かうしてゐるのは、まるで拷問臺にかけられてゐるやうな心持ですから。 ポーシ 拷問臺にかけられてゐるやうなとおっしゃいますの! では、貴下《あなた》の御愛情には、何か二心《ふたごころ》がお有り遊ばすのでせう、 白状遊ばせ。 バッサ 此戀成就するや否《いな》やといふ、可厭《いや》な疑惑の二心《ふたごころ》があるばかりです。 もしわたくしの愛情に二心《ふたごころ》なぞが伴ひ得るなら、 雪が火に伴ひ得るでせう。 ポーシ ですけれど、拷問臺にいらっしゃるから、それでさうおっしゃるのぢゃないこと? 拷問されますと、人は心にもないことを申すものでせう。 バッサ 必ず助ける、とお約束なすって下されば、眞實《ほんたう》の事を白状しませう。 ポーシ 白状遊ばせ、助けてあげます。 バッサ 「白状すれば、……憧《こが》れれをります」といふより外はありません。 あゝ、責めさいなまれても嬉しい、責めるお役人が斯ういふ命の助かる返答《へんじ》を教へてくださるのですから! ……さ、とにかく匣《はこ》のある處へ。運命を試みませう。 ポーシ では、あちらへ!あのうちの一つにわたくしの像が入ってゐます。 若し貴下《あなた》が愛して下さいますれば、きっとお中《あて》になりませう。 ……ネリッサや他の者は悉皆《みんな》離れておいで。 さうすれば、萬一、御運の拙《つたな》かった時分に、 其音樂に送られて影をお隱しになれば、取りも直さず、 それが白鳥の最期《いまは》の歌とも聞かれませう。 ……それだけでは比喩《たとへ》が不具《かたは》ぢゃとおいひなら…… わたしの目から溢れる涙川が、其水鳥の丁度好い死場所になりませう。 けれど若しお中《あて》遊ばしたら、音樂は如何いふ役に立つであらう? その時には、音樂は、新《あらた》に御即位遊ばす天皇を賀し奉る臣民の奏樂になるのです。 婚禮の日の明方《あけがた》に、まだ夢心地でゐる花婿を呼醒して儀式の席へ伴《つ》れてゆく、 そのなつかしい樂しい音樂になるのです。……あれ、今お進みなさる。 ……昔トロイ王が涙ながらに最愛の姫君を海の怪物の犠牲《いけにへ》にお獻《さゝ》げなされた時、 年の若いハーキュリーズが難なくそれを取返しなされた其お姿にも負けない立派さです、 其上、深切なお心立はハーキュリーズどころではない。 わたしは取《とり》も直さず其 犠牲《いけにへ》で、あそこに立ってゐる女共は、 トロイの市《まち》の女房共ぢゃ、めい?娘を奪《と》られて、 泣きはらした貌《かほ》をして、勇士の手際を見ようために、海岸へ出て來てゐるのぢゃ。 ……さ、ハーキュリーズさん!お前が死ねば、わたしも死ぬ。 戰《いくさ》をなさるお前よりも、戰《いくさ》を見てゐるわたしのはうが、 どの位辛いか、怖いか、おそろしいか知れない。 音樂。其間にバッサーニオー肚《はら》の中で匣《はこ》を批判してゐる思入《おもひいれ》。 唱歌。 浮いた情けは何處許《どこもと》で育つ? 心《しん》の臟でか、頭腦《つむり》の中でか? 如何して生れた、何として育った?    聞かしゃ、聞かしゃ。 浮いた情けは目の中で生れ、 眺め暮して肥りはすれども、 生れ故郷の目の中で死ぬる。 浮いた情けの弔ひ鐘を 鳴らそ、鳴らそ。ディーン、ドーン、ベルヽ。 みな? (聲を揃へて)ディーン、ドーン、ベルヽ。 バッサ 全くその通りに、目に訴ふることをのみ主とするものは内容の乏《とぼ》しいものぢゃ。 とかく世人は虚飾に欺かれる。法律上に於ても、 甚しい非道邪曲の訴訟が、巧辯を以て美しう辯護さるれば、 其罪惡が掩はれて見えない。宗教上に於ても、 おそろしい墮地獄の大不埒を嚴肅な面《かほ》の老僧が經文《きゃうもん》を引いて有がたさうに祝福すれば、 其 穢《きたな》さが美しくなって隱れてしまふ。 いかな惡徳も外面《うはべ》には幾らかづゝ美徳の徴《しるし》を見せてゐる、 それをせぬやうな、そんな愚直な惡徳は曾《かつ》て無い。 頤にはハーキュリーズやマーズ神の虎鬚を生やしてゐながら、 其心は砂で築いた階段同樣な輩《やから》が何位《どのくらゐ》あるか知れない。 強者らしく見せよう爲に、表面《うはべ》には勇者の飾《かざり》を附けてゐるが、 内面を査《しら》べると、そやつらの肝臟は乳のやうに白いのぢゃ。 美人を見い、美といふものもまた目方で賣買が出來る。 目方が不思議な作用《はたらき》をして天工を欺く。 首には紅白粉《べにおしろい》の重い目方が加はるほど、其女が、 輕々しい浮薄な女となるのが定例《きまり》ぢゃ。 あの蛇のやうに縮れた金髪も、風に戯《たはむ》れて、 みだりがはしう波を打つあの美しい金髪も、 見かけばかりの借り物で、まことは他人の遺産なのぢゃ、 その金髪を育てた頭蓋骨《とうがいこつ》は、今は墓穴に収まってゐる。 なりゃ、總じて粧飾《かざり》といふものは、 危険な海へ人を誘《いざな》ふ燦《きらめ》く濱邊、 西印度の夷女《ゑびすをんな》をも美しう見せる美麗な顏[巾|白;u5E15]《かほかけ》、 つまり、狡猾になった世間めが、聰明者をもおとしいれる見たとこだけの實《まこと》なのぢゃ。 ぢゃによって、燦爛たる黄金よ、マイダス王が齒を立てかねた堅い食料よ、 おれは汝《おまひ》を取らん。また汝《おまひ》をも取らん、 蒼白い顏をして、人と人との間の小使役に駈り使はれる銀よ。 併し(鉛の匣に)おのしは……耳ざはりの好いことは言はないで、 寧《むし》ろ他《ひと》を威《おど》すやうなことを言ってゐる見かけのわるい鉛の匣《はこ》 ……おのしの飾りけのない言分《いひぶん》が、 能辯なのよりもおれの氣に入った。これを選ばう。 どうぞ喜ばしい結果の得られますやう! 侍者バッサーニオーに鍵を渡す。 ポーシ (傍白)もう?他《ほか》の感じは、どれも?みんな?忽ちのうちに消えてしまった ……疑ひも失望も慄《ふる》へてゐた杞憂《しんぱい》も淺はかな邪推嫉妬も! ……おゝ、戀よ、程を守るのぢゃ、程を、逆《のぼ》せてはなりません、 程よく喜《よろこび》を降して下さい。度を過してはなりません。 あゝ、あんまり嬉し過ぎる。もっと少なくして下さい、わたしゃ嬉しさに傷《あた》りさうぢゃ。 バッサ これに何が入ってゐるか?…… 鉛の匣《はこ》を開きて おゝ、美しいポーシャ姫の肖像! ま、何といふ神のやうな名畫工なればこそ是程までに天工に逼《せま》ることが出來たぞ! や、此眼は動くのか知らん?それとも、おれの瞳に映るので、 動くやうに見えるのか?甘い呼吸《いき》が通ってゐるらしい此脣、 かういふ息が通へばこそ此美しい脣も開くのであらう。 頭髪《かみのけ》を畫《ゑが》く爲には、畫工《ゑかき》が蜘蛛の眞似をして、 金絲《きんし》の網を編みをったわい、 蜘蛛の巣が蚋《あぶ》を取るよりも尚しっかりと男の心を捕へさせる魂膽ぢゃな。 が、それよりも此目附……畫工《ゑかき》は如何《どう》してこれを書き了ったか? 此目を一つ書いたならば、畫工《ゑかき》の兩眼はそれが爲に恍惚《うつとり》となってしまひ、 殘った一眼を書くことは出來なかったらうと思ふに。 が、併し(とポーシャと見くらべて)わしの賞讚の事實が此肖像の美に遠く及ばんと同じやうに、 此の肖像は御本體の美には遠く及ばん。……こゝに卷物がある、これがわしの運命の要目ぢゃ。 讀む。 外見によりて選擇せざる汝は、 毎《つね》に運よく、毎《つね》に正しく選擇をぞすなる。 かゝる幸運の汝に歸しぬる以上、 足ることを知りて又求むる勿れ。 汝若し之を以て滿ち足れりとなし、 此運命を以て天福なりと信ぜば、 汝の姫が今立てる處に進みて、 愛の接吻を以て我妻たれと求めよ。 あゝ粹《すゐ》な?書き物。……お姫《ひい》さん、失禮ながら。 お許可《ゆるし》の書面通りに、接吻《キッス》を獻じて、 貴下《あなた》をお受取に參りました。併しながら、譬へば、 一生懸命に競技に熱中してゐる者が、自分では首尾よくやりおほせた積りでゐても、 公衆が一齊に喝采するのを聞くと、頭がくら?となってしまって、 今の喝采は、或ひは自分を賞《ほ》めたのではなかったかと疑ひ惑って、 ぼんやり目を見張って突立ってゐるやうに、 わたくしも丁度そんなやうな心持なのです。 わたくしはまだ目の見える所を疑ってゐるのです、 貴下《あなた》が慥《たし》かに其通りだと確證して、 奥印を押して下さるまでは。 ポーシ バッサーニオーさま、わたくしは只今御覽遊ばす通りの、只これだけの者なのでございます。 わたくし自身としては、今の身の上以上にならうといふ如何いふ大望もないのですけれど、 貴下《あなた》のお爲を思ふと、今よりも二十倍も、六十倍も偉くなりたいと思ひますの、 千倍ももっと美しくなり、一萬倍ももっと富有《ゆたか》になりたいと思ひますの。 只もう貴下《あなた》に重んじて戴きたいためばっかりに、 才徳をも容貌《きりゃう》をも財産をも友達をも、 量り知れないほど立派にしたいと思ひますの。 けれども今のわたくしは、何もかも取集めましても、つまり、 何にもならないものばかりなのです、ない盡しなのです、 教育のない、しつけの無い、訓練のない女なのです。 たゞ幸福《しあはせ》なことには、 もう教へたっても能《よ》う習ふまいと思はれるほどには年を取ってをりませんし、 尚ほ幸福《しあはせ》なことには、柔順な性質《うまれつき》ですから、 何事でも、貴下《あなた》のお指圖は、殿さまから、御領主から、 國王から承《うけたま》はることのやうにして遵奉いたします。 わたくし及びわたくしの財産は、今から貴下《あなた》の御所有に移すのです。 つい今までは、わたくしが此 邸《やしき》の主君《あるじ》であり、 家來共の主人であり、自身の女王《にょわう》でもあったのですけれど、 今から直《すぐ》に、此 邸《やしき》も、これらの者共も、 此わたくしみづからも、貴下《あなた》の御所有となるのでございます。 此指輪をお引渡しの證據品といたします。萬一にも、 貴下《あなた》が此指輪をお棄遊ばすか、おなくし遊ばすか、 他人にお遣《や》り遊ばすやうなことがあれば、 それは貴下《あなた》の御愛情の亡びた兆候でございます、 きっとお怨言《うらみ》を申立てます、さう思しめして下さいまし。 バッサ お言葉に對して、何とももう申すことが出來ません、 只もう此 五體《からだ》中に沸立つ血が御返辭なのです。 わたしの感覺や知覺は混亂してゐます、譬へば、 人望のある君主が巧みな演説をせられた時分に、公衆が滿足して、 最初は各自《めい?》小さい聲で何か喜んでゐるが、 その各自《めい?》の喜びの聲が最後《おしまひ》には雜然《ごっちゃ》になって、 表白《いひあらは》すと表白《いひあらは》さんとに係らず、 只もう喜んでゐるといふことだけは確實《たしか》だが、 何が何やら分らない大混亂となってしまふやうに、 わたしは只もう嬉しいのです。とにかく、此指輪を、 萬一にも此指から離すやうなことがあれば、此命も此處から離れます。 すなはち、必ずバッサーニオーはもう生きてゐないのだと思って下さい! ネリッサ 殿さまと奥さまとへ申しあげます。先刻から差控へをりまして、 どうか御良縁のお調ひ遊ばしますやうにと願ってをりました私共がもうお目出たうを申します場合かと存じます。 殿さま、奥さま、おめでたうございます。 グラシ 御前、バッサーニオーさま、えゝ、姫君さま、 お二方とも御存分のお喜びを御享樂あらんことを祈ります、 小生《てまへ》の存じ寄りもお二方の御存じ寄りも別々とは存じませんから。 隨《したが》ひまして、お二方の御婚禮式がいよ?御實行と相成りまする場合には、 どうか、わたくしにもまた結婚式を擧げることを御許可願ひたいと存じます。 バッサ よろしいとも、その心當りさへあるなら。 グラシ ありがたうございます、既に心當りが一人あります。わたくしの目も、 貴下《あなた》のお目同樣に、随分機敏に活動しました。 貴下《あなた》が姫君を御覽の間に、わたくしはお腰元に目を附けました。 貴下《あなた》が戀なさる、わたくしも戀をしました。つまり、 貴下《あなた》も氣早《きばや》だが、わたくしも氣早《きばや》なのです。 貴下《あなた》の運命も、實際のところ、あの匣《はこ》に引懸ってゐたのです。 如何《いかん》となれば、わたくしは、此處で、汗の出るほど辯を費し、 上頤の干上るほど種々《いろ?》の誓言《せいごん》をして、 やっと此處にゐる此美人から斯ういふ約束を得ました…… 約束が果して永續するものでありますなら……即ち、 若し貴下《あなた》が御運がよくって姫君と御夫婦にお成りになるやうであったら、 此婦人もまたわたくしと夫婦にならうといふ約束なんです。 ポーシ ネリッサ、それは眞實《ほんたう》かい? ネリッサ お姫《ひい》さま、御意にさへ叶ひますれば。 バッサ グラシャーノー、君は全く誠意《ほんき》なのですか? グラシ はい、全く誠意《ほんき》なのです。 バッサ わたしらの祝宴が更に光榮を加へる譯になる、 君らの結婚式を兼ることが出來れば。 グラシ (ネリッサに)ねえ、千 兩《ダケット》賭けて、 眞先《まっさき》に男の子を生む競爭をお二人としようぢゃないか? ネリッサ 強壯?といふのは丈夫といふこと? グラシ 勿論!強壯でなくッて子が出來るものかね。……や、だれだかやって來た。 ロレンゾーと猶人《ヂウ》の娘ぢゃァないか?おや?、 おれの親友のヱ゛ニスのサレリーオーぢゃないか? ロレンゾー、ヂェシカ及びヱ゛ニスの使ひとしてサレリーオー出る。 バッサ これは?、ロレンゾーとサレリーオー、ようこそ。いや、わたしはまだ昨今の身だから、 主人 貌《かほ》をするのも如何《いかゞ》はしいが。 ……ポーシャさん、失禮ですが、 わたくしの國人《こくじん》であり親友である人達を歡迎しますから、 お許し下さい。 ポーシ わたくしも歡迎いたします。ようこそおいでなさいました。 ロレン ありがたうございます。實はわたくしは、 貴下《あなた》に此處でお目にかゝらうとは思ひがけませんでした。 けれども、途中で、ふとサレリーオーさんに逢ひましたところ、 是非一しょに來い、とおっしゃいましたので伺ひました。 サレリ 全くでございます。それには理由《わけ》のあることです。 ……アントーニオーさんから宜しくと申されます。 バッサーニオーに書状を渡す。 バッサ 此書面を開封する前に、アントーニオー君は如何《どん》な樣子です、 何も變りはないか、それを聞かせて下さい。 サレリ さ、お身體《からだ》には何も別條はありません。 とにかく精神はしっかりしておいでになります。 くはしいことは其御書面でお解りになりませう。 グラシ ネリッサ、あの婦人に愛想をなさいよ、手持無沙汰さうだから。 ……サレリーオー君、暫く。(握手して) ヱ゛ニスに何か變った事でもあるかね? 御大將アントーニオーさんは如何してござるね? われ?の成功を聞きゃァ、大將きっと喜んでくれるだらう。 われ?はヂェースンだ、首尾よく金毛《きんもう》の羊の毛皮を手に入れたよ。 サレリ (獨語のやうに)出來るものなら、 あの人の失《なく》した金の毛皮を手に入れてくれゝばよかったのになァ。 ポーシ (バッサーニオーの樣子に目を附けて獨白) あの書面の中には、何か不祥な事が書いてあるのに相違ない、 バッサーニオーさんの顏の色が蒼白《まツさを》になった。 大事のお友達でも亡なったのであらう。 さうでもなくば沈著な男子の心は決してあのやうに惑亂させる筈はない。 おや、なほと樣子がわるい!(バッサーニオーの傍へよりて)失禮ですが、 バッサーニオーさん、わたくしは貴下《あなた》の半身であるのですから、 其御書面に何が書いてあるか存じませんけれど、 半分ほどは是非わたくしもうけたまはる權利があると存じます。 バッサ あゝ、ポーシャさん、こゝに書いてある數行の文字《もんじ》は、 曾《かつ》て紙を染めた最も不快な言葉なのです! 姫《ひい》さん、わたしが最初 貴下《あなた》に申入をした時分に、 わたしは聊《いささ》かも包み藏《かく》さずお話した、 わたしの財産はわたしの血管中に流れてゐるものより外には何にもない、 ほんの一紳士たるに過ぎない者だと申しておいた。 さうしてそれは全くの事實でした。しかし姫《ひい》さん、 わたしは無財産の者だといったのは、今になって見ると、 まだ大變な虚言者であったのです。無一物だと申した時分に、 實は無一物よりも一層わるい境遇だと申すべきでした。 何故なれば、實は、旅費其他を得るために、親友をわづらはして、 其仇敵たる者から金子《きんす》を借入れさせたのです。 こゝに書面があります。此書面は其信友の肉體そのまゝ、 書いてある一語々々が口を開いてゐる傷口のやうに、 生血を迸出《ほとばし》らせてゐるのです。…… しかいサレリーオー、こりゃ事實かい?アントーニオーの船は悉皆《みんな》破船したのかい? え、一艘も助からない?トリポリスからも、メキシコからも? え、イギリスからも、リスボンからも、バーバリーからも? え、印度からも?只の一艘さへも、あの怖しい暗礁にぶッつかるのを免れなかったのか? サレリ はい、一さうも。そればかりでなく、今更、アントーニオーさんが、 よしんば現金で返濟しようとはいはれましても、 猶人《ヂウ》の奴は最早《もう》受取らんといってをります。 人間の皮を被ってゐて、あんな殘忍な、人殺し根性で固った奴は、 曾《つひ》ぞ見たことがありません。彼奴《あいつ》は朝に晩に侯爵さまをせがんで、 若し此裁判をして下さらんやうぢゃ、國家の法律は無いも同然だと罵《のゝし》ります。 二十人からの大商人衆《おほあきうどしゅう》、公爵御自身、 其他 貴顯方《きけんがた》が種々《いろ?》と奴を御説得になりましたが、 奴は飽迄《あくまで》も證書面通り是非科料を貰ひたい、是非裁判をして下さい、 と執念深く申し立てゝをります。 ヂェシカ わたくしが父と一しょにをりました時分に、 父は同國人のチューバルやチューズなぞに、 おれはアントーニオーに貸した金子《きんす》を二十倍にして返されるよりも彼奴《あいつ》の肉の方が欲しいなんて毒づいてをるのを聞きました。 (バッサーニオーに)殿さんへ、若しお上《かみ》のお力で、 法律で以て何とかなさいませんければ、 アントーニオーさんはとんだ目にお逢ひなさいませうと存じます。 ポーシ 御難儀なすっていらっしゃるのは、貴下《あなた》の御親友なのですか? バッサ わたしの最も大切な友人なのです、極めて深切な、最も高潔な、 信義を行って曾《かつ》て倦み疲れることを知らない、 實にイタリーに於ける如何なる人よりも、 最《もつ》と多く古昔《いにしへ》のローマ人風の氣高い精神を有してゐる男なのです。 ポーシ その方が猶人《ヂウ》からお借《かり》になった額は如何程です? バッサ わたしの爲に、三千 兩《ダケット》。 ポーシ え、それっきりですか?六千 兩《ダケット》にして返濟して、 其證書をお消しなさい。六千 兩《ダケット》を倍にしても宜《よろし》い、 場合によってはそれを三倍にしたっても差支ありません。 さういふ御信友が頭髪《かみのけ》一筋でも、 バッサーニオーさんの爲《せゐ》でお失《なく》しなさるやうなことがあってはなりません。 先づ早速教會堂へ一しょにいらしって、わたくしを妻と呼んでおいて、 それからヱ゛ニスの御信友の處へ御出立遊ばせ。お心に煩ひがあるのに、 こゝにポーシャの傍にお留り遊ばすべきでないと存じます。 そんな些細な負債は、二十倍にしてお拂ひ遊ばすやうに金子《きんす》をお渡し申しませう。 お支拂が濟んだら、御信友をお伴れなさいまし。それまでは、 腰元のネリッサとわたくしは、處女や寡婦の生活《くらし》をしてをります。 さ、早う參りませう!結婚式の其日に御出立といふのですから。 ね、御友人がたをおもてなし遊ばせ、陽気なお顏をしていらっしゃい。 貴下《あなた》は、苦勞してお迎した方ですから、大事に?しますわ。 が、ま、其御書面をうけたまはりませう。 バッサ (讀む)バッサーニオー君足下、吾等の船舶は悉く難破したり、 債主等は次第に苛酷となりぬ、小生が境遇は全く逼迫せり、 猶人《ヂウ》に對する證書は既に其期限を越えたり。 之を拂ふに及びては吾等は生存し能はざるべきが故に、 願はくは最期に只一目貴君に見《まみ》えんことを、 然らば貴君と吾等との間に最早何等の相負ふ所もなく思ひ殘す所もなからん。 併しながら便宜《びんぎ》に任せらるべし。自ら好んで來らん意あるにあらずば、 我書をして貴君を強ひしむる勿れ。 ポーシ おゝ、何事を棄てゝおいても、御出立遊ばせ。 バッサ 貴下《あなた》の快諾を得た以上は、急いで出立しませう。 併し、歸って參るまでに、決して必要のない床《とこ》に一日でも多く眠るやうなことはありますまい、 無要な逗留に二人の面會を延引させるやうなことはありますまい。 みな?入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第三幕 第三場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第三幕 第三場 ヱ゛ニス。街上《がいじゃう》。 シャイロック、サラーニオー、アントーニオー及び監守。 シャイ 監守さん、あいつに注意なさい。……えィッ、慈悲の話ァ眞平御免だ。 あいつァ金を只で貸す馬鹿者だ。監守さん、注意さッしゃい。 アント シャイロックどん、ま、聽きなさい。 シャイ 證書通りにして貰ふんだ。取消せといったって、無駄だ?。 わしは是非證書の通りにすると誓言《せいごん》をしたんだ。 お前は何の理由もないのに、おれの事を犬だといった。 が、犬だから牙の用心をするが可い。公爵さんは、きっと裁判してくださるだらう。 ……(監守に)何だって、馬鹿々々しい、こんな奴の頼みを聽いて、外出を許したんだ、 碌でもない事をする男だ。 アント どうか、ま、わしのいふことを聽いてくれ。 シャイ 證書通りにして貰ふんだ。聽きたくないてば、お前のいふことは。 證書通りにして貰ふんだ。だから最早《もう》言はっしゃるな。 おれはキリスト信者共の中裁なんぞを聞いて、頭を振って、 溜息を吐《つ》いて、我《が》を折るやうな、そんな骨無しの、 鈍物扱ひにされたくないのだ。えィ、追《つ》いて來なさるな。 もう問答は否《いや》だ。證書通りにするんだ。 シャイロック入る。 サラリ 人間と一しょに棲んでる奴で、あんな頑固《いんごう》な犬畜生はありゃァしない。 アント うっちゃっておゝきなさい。もう後を追ふまい、頼むのは無用だ。 あいつはわたしの命を欲しがってゐるのだ、其理由はよく解ってゐる。 わたしは折々歎願《なきつ》かれて、 あいつに科料を取られようとした大勢の人を救った。 だから、わたしを怨んでゐるのだ。 サラリ 大丈夫、公爵さんは、此度《こんど》の科料なんかお認可になる筈はあるまいと思ひます。 アント 公爵さんだって法律の明文を拒むことは出來ない。 何故なれば、外國人が、此ヱ゛ニスで有する正當の權利を拒否せられるやうでは、 國家の政道が立たん譯になる。此國の商業上の利益は諸外國との貿易で以て成立ってゐるからね。 だから、さ、行きませう。此頃うちの苦勞や損失で大分《だいぶ》痩せたから、 明日殘酷な債主へ拂ふ一ポンドの肉がおぼつかない位のものだ。 ……さ、監守さん、往きませう。どうぞ、バッサーニオーが、 負債を拂ふまでに間に合ってくれゝが可いが、さうなりゃ、わたしァ何も心殘りは無い。 みな?入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第三幕 第四場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第三幕 第四場 ベルモント。ポーシャ邸の一室。 ポーシャ、ネリッサ、ロレンゾー、ヂェシカ及びバルターザー出る。 ロレン 奥さま、お前で申しては何でございますが、 貴下《あなた》は友誼の神聖といふことに就いて、 全くお立派な正しいお考へをお持ち遊ばしていらっしゃると存じます、 そのお心持は、殿さまの御不在をじっと御辛抱遊ばしますのに善く見えてをります。 併し若し貴下《あなた》が此御厚情をお盡しになりますのは、 何方《どなた》の爲であるか、其方がどれほど大切な、 殿の御信友であるか、どれほどお立派な紳士でおあんなさるかを御承知になりましたなら、 尋常一樣のお義理立とは違ひまして、 お盡し榮《ばえ》のあるお務《つとめ》だと御自慢遊ばしてもよいとおぼしめすでございませう。 ポーシ わたしは曾《かつ》て善い事をして悔んだことはない、 この後もさうでありませう。平生《ふだん》、兄弟のやうに相敬愛する親友といふものは、 容貌にも立振舞にも氣質にも、必ず何處か似た處のあるものですから、 わたしは、アントーニオーといふ人が夫の心友である以上、きっと夫に似てゐるの相違ないと思ひます。 若し果してさうであれば、わたしの費した費用は言ふの足りません、 自身の魂に似た方を焦熱の苦みからお救ひ申したと思へば! が、かういふと何だか自慢のやうだわ。もう此話は止しませう。 他に話すことがあります。ロレンゾーさん、 わたしは夫の歸られるまで、此 邸《やしき》の監督をお前さんにお任せしたいのです。 さうしてわたしは、内々天に祈誓をかけて、 こゝにゐるネリッサだけを伴《つ》れて、夫の歸られるまで、 人を避けて、靜かにお[しめすへん|壽;u79B1]《いのり》をしてゐることに定《き》めました。 二 哩《マイル》ほど離れた處に庵室があります、そこに當分ゐることにします。 どうか辭退しないで下さい、これはお前さんを愛する爲でもあり、 二つには、或止むを得ない事情があってお頼みするのですから。 ロレン 承知いたしましてございます。正當のお吩咐《いひつけ》である以上は、 どんな事でも仰せに從ひます。 ポーシ 邸《やしき》の者は最早《もう》とうにわたしの意《こゝろ》を知ってゐますから、 バッサーニオーどのとわたしの代りに、お前さんとヂェシカさんを主人と思ひますでせう。 では、また逢ひますまで、御機嫌よう。 ロレン 御機嫌よろしう、御安泰に往っていらっしゃいまし! ヂェシカ 奥樣、何事も御滿足にお過し遊ばしますやうお祈り申してをります。 ポーシ sりがたうよ、わたしの方でもお前さん方に其通りを祈ります。 さやうなら、ヂェシカ。…… ヂェシカとロレンゾーと入る。 さ、バルターザー。(バルターザー進む)。 お前は年来正直に奉公してくれましたが、改めて骨を折って貰ひたいことがあります。 此書面を持って大急ぎで、パデュアまで往って、之をわたしの親戚のベラーリオー博士に手渡しておくれ。 それから、可いかい、博士がお前に渡す一切の書類や衣服を受取って、どうぞね、 出來るだけ急いで、あの、そら、渡し場まで持って來とくれ、 ヱ゛ニスへ通ふ彼《あ》の渡し場までよ。かれこれ言ってゐないでね、 すぐ出掛とくれ。お前より先に彼處《あそこ》へ往ってゐるから。 バルタ 奥さま、出來るだけ急いで參りまする。 バルターザー入る。 ポーシ さァ?、ネリッサ。わたしゃお前さんのまだ知らない差迫った仕事があるのよ。 わたしたちは今に所天《うちのひと》に逢ひますよ、 先方《むかう》では思ひも附かないうちに。 ネリッサ 先方《むかう》でもわたしたちの顏を見ますんですか? ポーシ あゝ、見るのよ。けどもね、わたしたちは妙な扮裝《なり》をしてね、 平生《ふだん》は持ってゐないものを飽迄《あくまで》持ってゐるやうに見せかけるの。 賭をしてもいゝことよ……お前とわたしが青年の服裝《なり》をして行くんだがね ……きっとわたしの方が活[さんずい|發;u9F51]で以て、小意氣なの、 短劍の附け具合なんかも品がよくってね。それから、 聲は聲變り前といふ調子で話すのよ。ぴい?聲よ。 それから、ちょこ?歩きなんかはしないでね、大股に歩いて、 大口を叩く小綺麗な青年のやうに、喧嘩をした話をしたり、 眞實《ほんと》らしい[言|虚;u8B43]《うそ》を吐《つ》いたりするの。 やれ、何處々々の令嬢が戀慕したけれど撥付けてやった、すると、 だれ?は戀煩ひになって死んだ、だって如何もしかたがなかったとか、何とか。 それからまた、後悔してね、さういふものゝ、あゝ、殺さなけりゃよかったなんて言ふのよ。 さういふやうな詰らない[言|虚;u8B43]《うそ》を二十も三十もしゃべるの。 それを聞きゃ、人は、きっと、わたしを學校を出てから、一年以上にもなるだらうなんていふでせう。 わたし然《さ》ういふ高慢ちきな不良少年の青い仕草は、幾らでも知ってゐるから、 行って見ようと思ふの。 ネリッサ まァ、では、私も男にされるのですか? ポーシ あれさ、ま、何といふ物の言ひかたです!……さ、ゆきませう、 馬車に乘ってから、詳しい事は話しませう。車は園《その》の門口に待ってゐます、 だから急いで往きませう。今日のうちに二十 哩《マイル》行かなければならないから。 二人とも入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第三幕 第五場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第三幕 第五場 同處。庭園。 ランセロットとヂェシカ。 ランセ あゝ、全くだ。何故ッて、可いかね、親父の罪は子に報うッてからね。 だから、大丈夫、貴女《あんた》は危いよ。 わたしゃ貴女《あんた》に對しては遠慮しない流儀だから、 思ひついた事は正に憫然《びんぜん》と忠告してあげるんですよ。 だから、安心していらっしゃいよ、貴女《あんた》は、大丈夫、 地獄へ墮ちるからさ。それを助かりさうな望《のぞみ》ッてば、 たった一つしかないね。その望《のぞみ》さへも、實は贋物《まがひもの》でさ。 ヂェシカ どんな望《のぞみ》?ねえ、てば? ランセ さァ、貴女《あんた》は或ひはお父《とツ》さんの子ぢゃないかも知れん、 猶人《ヂウ》の女《むすめ》ぢゃないかも知れんて望《のぞみ》でさ。 ヂェシカ 成程、それぢゃァ贋物《まがひもの》だわね。さうなるといふと、 またお母さんの罪がわたしの身に報うかも知れないわ。 ランセ いかさま、すると、貴女《あんた》は、父方から言っても、母方から言っても、 地獄に墮ちるらしいねえ。前門にお父《とツ》さん防ぐと、 後門にお母《ふくろ》さんがやってくるといふ譯だね。 ぢゃァ、どっちも駄目《おじゃん》だ。 ヂェシカ いゝわ、わたし所天《うちのひと》に救って貰ふから。 所天《うちのひと》はわたしをキリスト信者にしてくれたもの。 ランセ いかさま、いよ?以て御亭主は不埒だね。 在來のキリスト信者だけでも多過ぎて、一しょに暮すにゃ困る位のもんだ。 そこへ以て來て、キリスト信者を殖《ふや》して何かすりゃ、 豚の値《ね》が高くならァ。みんなが豚を食ふやうになると、今に、 金を出したっても、急灸《じわやき》の一片《ひときれ》にありつくことも出來なくなるだらう。 ロレンゾー出る。 ヂェシカ ランセロット、今お前さんの言ったことを所天《うちの》にいふよ。 あれ、あそこへ來たわ。 ロレン ランセロット、おれが焼餅を焼くかも知れんよ、 おれの女房をそんな隅ッこへ伴《つ》れていったりなんかすると。 ヂェシカ いゝえ、ロレンゾー、その心配にゃ及びませんのよ。 ランセロットとわたしとは喧嘩してるの。 彼《あ》れは露骨《あけすけ》に言ふの、わたしは猶人《ヂウ》の女《むすめ》だから、 天のお慈悲は少ゥしも無いって。それから彼《あ》れがね、 貴女《あんた》は社会の爲に善くない人だって、 猶人《ヂウ》をキリスト信者に改宗させたりなんかして豚の値を高くするからっていふの。 ロレン ランセロット、お前が女 黒人《くろんぼ》に乘っかったよりゃァ、 ずっと社會の爲になるよ。ランセロット、お前はあの黒人《くろんぼ》を懐姙《はら》ませたね。 ランセ 懐姙《はら》んだといやァ、無論、赤兒《あかんぼ》を産むんだらう。 が、黒人《くろんぼ》が赤坊《あかんぼ》を産むてィのは、はて、 こいつァ胡亂《うろん》な話だ。 ロレン とかく阿呆は地口《ぢぐ》ることが達者だ!今に、一番 聰明《りこう》な人達は、 何にも言はなくなッちまふだらう。 さうして饒舌《しやべ》って賞《ほ》められるのは鸚鵡《あうむ》ばかりになるだらう。 ……こら、早く彼方《あつち》へ往って、 食事の準備《したく》をしておくやうに吩咐《いひつ》けてくんな。 ランセ そりゃとうに出來てますよ、……みんな胃嚢《ゐぶくろ》を有ってますからね。 ロレン おやッ、つまらない揚足を取るね!ぢゃ、君、食卓の準備を吩咐《いひつ》けて下さいよ。 ランセ それも出來てますよ、へい。たゞ、まだ、カワ゛ってないばかりで。 (ナイフや肉叉を食卓に備ふることをカワ゛ーといふ。専門語である。) ロレン ぢゃ、どうか「カワ゛」ってくれ。 ランセ 「冠《かぶ》」るわけには參りませんね。身分柄を存じてをりますからね。 (と帽子をひねくる) ロレン まだ駄洒落を言ってるのかい!有ッたけの智慧を一時に見せびらかさうといふのか、お前は? おい、頼むよ、眞面目な人間には眞面目で物を言って貰ひたいね。 お前の仲間の處へ往って、食卓にカワ゛ーをして、それ?゛食物《しょくもつ》を盛《よそ》っておけ、 と吩咐《いひつ》けてくんな、今に食事をするから。 ランセ へい?、それでは食卓の儀は速《すみや》かに盛《よそ》はせます、 お食物《しょくもつ》の儀はカワ゛ーさせます、 そこでお食事に御 入來《じゅらい》の儀は、へい?、御氣分次第、御意次第。 ランセロット入る。 ロレン やれ?、智慧も分別もあったもんぢゃない、あの言葉の使ひざまは如何だ! あの阿呆め、駄洒落を一大隊も諳《おぼ》え込んでゐやァがる。 随分 彼《あ》れよりも身分の高い手合の中にも、彼奴《あいつ》同樣に、 曖昧な兩義語を使って、意味には重きを置かないで濟してゐる阿呆共が幾らもある。 ……ヂェシカさん、どうしたね?ねえ、お前、如何思ふね、 バッサーニオーさんの奥さんは氣に入ったかい? ヂェシカ 何とも言へない程によ。バッサーニオーさまは、品行をお愼みなさるが當然だわ。 何故ッて、あんな結構な奥さまをお持ちになったから、 此世にいらっしゃるうちから極樂へお上りになったんだもの、 だから、若し此世でお愼みにならないと、もう決して天へお上りなさることは出來ないでせうよ。 だって、若し或二人の神さまが天で何か勝負事をなすって、 二人《ふたアり》の美人を賭物《かけもの》になすったとする、 さうしてポーシャさまが一方《かた?》の賭物《かけもの》だとすると、 かた?の方へは何か、別に添へなけりゃならないに違ひない、 迚《とて》もこんな粗末な人間界には、 あの方に負けないやうな美人はもう他にありゃしないもの。 ロレン ちょうどさういふ結構な亭主をお前は持ってるのだぜ、 奥さんとしてのポーシャさまの値打に負けないやうな亭主を。 ヂェシカ いゝえ、それもね、ま、わたしにお聽きなさいよ。 ロレン いづれ承《うけたま》はりませう。ま、食事に往かうよ。 ヂェシカ いゝえ、氣が向いてる時に、讃めて見たいわ。 ロレン 食ひ氣にも相應に氣が向いてるだらうから、食べながらが可いだらう。 食べながらなら、何といはれたって、食物《くひもの》と一しょに呑込んでしまふからね。 ヂェシカ よろしい。棚下しをするよ。 二人ともに入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第四幕 第一場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第四幕 第一場 ヱ゛ニス。法廷。 公爵、重役の豪族ら、アントーニオー、バッサーニオー、グラシャーノー、 サレリーオー及び其他出る。 公爵 アントーニオーはをるか? アント はい、これにをりまする。 公爵 お前は實《まこと》に氣の毒なものぢゃ、敵手《あひて》方のシャイロックは、 岩石の樣な頑固《かたいぢ》な人非人で、慈悲心なぞは些少《いさゝか》も無い奴ぢゃからなう。 アント 承《うけたま》はりますれば、いろ?お心に掛けさせられまして、 彼れめを段々お諭《さと》し下さいましたさうにございますが、 あくまでも頑固に申し張りまする以上、正當なる方法では、到底、 彼れが惡意をまぬかれますまいと存じますゆゑ、觀念 仕《つかまつ》りまして、 如何やうな苛酷、殘虐な要求にも應じまする覺悟にございます。 公爵 誰れか往って、シャイロックを法廷へ呼び入れい。 サレリ 扉口《とぐち》に控へてをります。……あれへ參りました。 シャイロック出る。 公爵 そこを開けて彼れを予《わし》の前に立たせい。……シャイロック、世人《せじん》もさう思ひ、 予《わし》もさう思ふが、其方が斯樣に頑固に意地わるく申し張るのは、 裁判落着の間際までの事であらう、いよ?となれば打って變り、 只今までの不思議な殘忍な仕方以上に不思議な慈悲を施すであらうの。すなはち、只今、 頻りに責促《せめはた》ってをる此憐れな商人の肉一ポンドの科料を免除し遣《つか》はすばかりでなく、 殊勝にも仁愛の心を起して、 元金《もときん》の大半をさへも免《ゆる》し遣《つかは》すであらうと思うてをるぞ。 といふのは、近頃引續いて其身に降りかゝった損失の爲に、 頭《かしら》をも擡《もた》げ得ぬ此 大商人《おほあきうど》の現状を、 其方とても、氣の毒に思ふことであらう。心が鐵石《てつせき》の如く頑固で、 聊《いさゝ》かも慈悲を心得をらぬトルコ、 韃靼の野蠻とても彼れを憫《あは》れまずには居るまいことぢゃ。 シャイロック、われ?一同、其方《そち》がやさしい返答を期待してをるぞ。 シャイ 手前の決心は、先日申上げておきました。是非とも、證書面通り、科料を受取る、 と神に誓《ちかひ》を立てました。それを、ならぬ、とおっしゃりゃァ、 お國の自由や法律は反古《ほご》も同然となりませうぞ。 或ひはお訊ねなさいませう、何故三千 兩《ダケット》の金を取らんで、 腐れ肉の一ポンドを要求するかと、其お答は致しません。 が、かりに、それは手前の「氣質」だと申したら、如何でございませう? 例へば、鼠があばれて困るので、手前が、 それを殺してくれる者がありゃ一萬 兩《ダケット》遣《つかは》さうと申したとしたら、 如何でございませう?え、お分りになりましたか? 世間には、口を開いてゐる豚を見りゃ胸がむかつくの、 猫を見りゃ氣が狂ふのといふ者もありゃ、 嚢笛《ふくろぶえ》の音《ね》を聞くと堪らない不快《いやア》な氣持になって、 小水を催す者もあります。好惡《すききらひ》は激しい愛憎の主人《ぬし》で、 それが人の心持を支配して、反感をも同感をも起させます。 そこで、こ答しますが、丁度、何故口を開いてゐる豚が忍耐《がまん》が出來んか、 何故無害有益な猫や嚢笛《ふくろぶえ》が堪らなく厭《いやア》に感ぜられて、 何故 恥辱《はぢ》をかいてまでも忍耐《がまん》が出來んかといふ理由が申されないと同じやうに、 見す?損と知りながら、アントーニオーに對して、斯ういふ訴訟をしますのも、 彼れに宿怨《しゅくえん》がありまして、蟲が好かないからでございます。 それ以上の理由は申すことも出來なけりゃ、申さうとも存じません。 お解りになりましたか? バッサ (こらへかねて、横合から)そりゃお答にはならんわい、人情知らずが! 殘酷な訴訟の申開《まうしひらき》は、それでは立たんぞ。 シャイ (見返りもしないで)お前さんの氣に入るやうな申開《まうしひらき》をする義務は無い。 バッサ (やゝ激して)好かんから殺すといふのは人情ぢゃ無いわい。 シャイ (冷然と)憎いと思ふ位なら殺したいと思ふのが人情だ。 バッサ 不快に感じたからって、すぐにそれを憎むといふ事はない。 シャイ (きッとなって)え?お前は蝮《まむし》に二度咬ませる氣か? アント (バッサーニオーに)もし?、どうか、猶人《ヂウ》と問答をしてゐるのだとお思ひなさい。 彼れを説得することが出來りゃ、大海の岸に立って高浪に退《さが》れと命ずることも出來ませう、 狼に對《むか》って、何故仔羊を奪《と》って牝羊を鳴かせたかと詰《なじ》ることも出來ませう、 峯の松共《まつども》が山風に煽られて騒がしく搖れ動くのをお禁《とゞ》めなさることも出來ませう、 いや、其の他の如何《どん》な困難な事でも出來ませう。 世の中に猶人《ヂウ》の頑固な心ほど和らげがたいものはありません。 ですから、もう何もおっしゃらんが可い、何《なんに》もなさらんが可い、 わたしはむしろ簡明な手續を經て、速《すみや》かに御裁判を受けて、 猶人《ヂウ》の望《のぞみ》通りにならうと思ひます。 バッサ (シャイロックに)三千 兩《ダケット》に對して、此に六千 兩《ダケット》を持參してゐる。 シャイ 六千 兩《ダケット》中の一 兩《ダケット》が六つに割れて、 其一分 宛《づゝ》が一 兩《ダケット》であったからッて、 受取る氣はない。證書通りが望《のぞみ》だ。 公爵 (シャイロックに)さやうな無慈悲な事を申して、慈悲を乞はねばならん時が來たら如何する? シャイ どんな御裁判をだって怖れる筈がありませうかい、曲った事をしてゐない手前が? もし、お邸《やしき》にゃ買収なすった多數《おほぜい》の奴隷がをりませう、 それを閣下《あなた》がたは驢馬や犬のやうにこっぴどくお使ひなさる、 その筈です、買取っておしまひなすった奴等だからだ。 若し、手前が、閣下《あなた》に、彼奴等を自由にしておやんなさい、 姫《ひい》さんがたのお婿さんになさい、何故あんな酷い仕事をおさせなさる、 彼奴《あいつ》らの寢床《ねどこ》も閣下《あなた》がたのと同じ柔かなのにして、 何故同じやうに美《うま》い物をお食はせなさらんと申したなら、 閣下《あなた》は、「彼奴等は俺の所有物だ」とおっしゃるでございませう。 手前も然《さ》うお答します。手前が要求する肉一ポンドは高い價《ね》で買取りましたもので、 手前の所有物でございますから、戴きたいと申すのです。 それを「ならん」とおっしゃりゃ、お國の法律は反古《ほご》も同然です! ヱ゛ニスの政令は丸ッきり無效だ。是非とも御裁判を願ひます。 如何で?願へませうかね? 公爵 予が國主たるの權力を以て此法廷を閉ぢても可いのぢゃが、 豫《かね》て此訴訟を採決さするために召喚しておいたベラーリオーといふ博學のドクトルが、 もう程なくこゝへ參る筈ぢゃ。 サレリ 御前、あちらに、其 博士《ドクトル》の書面を持參いたしました使《つかひ》の者が差控へてをります。 只今パデュアから著《ちゃく》ししました。 公爵 其書面をこれへ。使《つかひ》の者も此方《こちら》へ。 一役人命を奉じて入る。 バッサ しっかりなさい、アントーニオー!決して落膽なさるにゃ及ばん! たゞ一滴たりともわたしの爲に貴君《あなた》の血を失《なく》させる位なら、 わたしが、此肉も、血も、骨も、何もかも、彼《あの》猶人《ヂウ》にくれたやるから。 アント わたしは病《やまひ》に取附かれてゐる弱い羊なのですから、 先へ死ぬのは當り前です。果物《くだもの》でも一番脆い質《たち》のが眞先《まっさき》に落ちます。 わたしもさうなのです。バッサーニオーさん、貴下《あんた》は後に生殘って、 わたしの爲に墓誌《ぼし》を書いて下さるのが何よりの御深切です。 ネリッサ、法律家の書記らしき服裝をして、役人に案内されて出る。 公爵 パデュアのベラーリオー博士のお使者《つかひ》ですかな? ネリッサ さやうでございます。これがベラーリオーの御挨拶でございます。 書状を公爵に渡す。 此間、シャイロックはしゃがんで、しきりに庖刀《はうちゃう》を靴の踵《かゝと》で磨《と》いでゐる。 バッサ 何故お前はさう一生懸命に庖刀《はうちゃう》を磨《と》いでゐるのぢゃ? シャイ そこにゐる身代限《しんだいかぎり》から科料の肉を切取るためだ。 グラシ やい、猶人《ヂウ》、靴の底で磨《と》ぐよりも、貴樣の其石のやうな酷薄な心の底で磨《と》いだはうが、 ずっと切れるやうになるだらぜ。だが、如何《どん》な善く切れる刃物だって、 首切が使ふ斧《まさかり》だって、貴樣の胸で以て磨《と》ぎ上げる邪見の刀刃《きっさき》にゃ叶やすまい。 やい、どんな祈[しめすへん|壽;u79B1]《いのり》も貴樣の胸には通じないのか? シャイ お前の智慧相應な祈[しめすへん|壽;u79B1]《いのり》では通じない。 グラシ おゝ、此罰當りの、剛情な犬畜生め!貴樣のやうな奴を生しておくのは政道の手ぬかりだ。 下等動物の靈魂《たましひ》が人間の體内に宿るといふピサゴーラスの説も、 貴樣を見てゐると、いかさま眞實《ほんたう》かと思はれさうになるわい。 貴樣のその犬のやうな靈魂《たましひ》は、元は狼に宿ってゐたのだ、ところが、 人間を咬殺した科《とが》で絞殺《しめころ》された時に脱出《ぬけだ》して、 貴樣の汚はしい、お母《ふくろ》の胎内に入って其靈魂の中へ浸込んだのに相違ない。 狼のやうな、殘酷な、無慚な、貪婪な根性が其證據だ。 シャイ お前が怒鳴ったゝめに、(と證書を示して)この證書から印形が消えりゃァ兎も角もだが、 餘り大きな聲を出すと肺の臓が傷《いた》むばかりだ。 若僧さん、今のうちに繕《つくろ》はんと、智慧嚢《ちゑぶくろ》が臺なしになって、 始末が附かなくなるだらうぜ。おれは裁判を俟《ま》ってゐるのだ。 公爵 (書面を讀みをはりて)ベラーリオーからの此書面によると、 年の若い博識のドクトルを當法廷へ推薦するとある。それは何處に居られる。 ネリッサ すぐ彼方《あちら》に、お許可《ゆるし》のお辭《ことば》を承《うけたま》はるまで、 差控へてをられます。 公爵 無論、差支はない。だれか、あちらへ參って、丁寧に案内をせい。 其間に、ベラーリオーからの書面を、一同の者へ讀み聞かせい。 書記 (讀む)尊翰《そんかん》拜受の際は、吾等重病にて臥床《がしゃう》中の儀と思し召されたく候。 然る處、お使者の來著《らいちゃく》と同時に、若き博士バルターザーと申す者、 ローマより訪問の爲に參り合せ候ふ故、猶人《ヂウ》對商人アントーニオーの訴訟事件は、 同人に申し聞け、立會《たちあひ》にて多くの書籍に就きて調査を遂げ、 自分の存じ寄《より》を提供いたしたる上、更に博學なる彼れをして其足らざるを補はせ置き申し候、 同人學識の儀は如何程賞讚致し候ふも猶 溢美《いつび》ならざるを覺え候。 すなはち、切に相勸め、吾等代理として閣下に拜趨《はいすう》いたさせ候。 願はくは其年齡を缺くの故を以て閣下の御優遇を缺くが如きこと無からんことを。 體《たい》若うして智老いたる彼れの如きは、吾等の未だ曾《かつ》て見及ばざりし所に候。 御採用あらんには、其實力は更に善く彼を推薦いたし候はんと存じ候。 公爵 ベラーリオー博士の書面の趣意は其通りぢゃ。(ポーシャ姫、法學博士の服裝にて、 手に一卷の法律書を携へて出る。)多分、あれへ參ったのが其博士であらう。 ……ようこそ。ベラーリオーどのでござるか? ポーシ さやうでございます。 公爵 ようこそ。まづお著席《ちゃくせき》なさい。只今 審問《とりしらべ》中の訴訟の事は御承知でござるか? ポーシ くはしく承知いたしてをります。其商人は何《いづ》れに控へをります? 其 猶人《ヂウ》は? 公爵 アントーニオーとシャイロック。兩人《ふたり》とも前へ出い。 ポーシ シャイロックといふのは其方か? シャイ シャイロックは手前でございます。 ポーシ 其方の此度《こんど》の訴訟は甚だ不思議な訟《うった》へぢゃ、 併し手續には何の不都合もないから、ヱ゛ニスの法律の表としては、 其方を非難することは出來ん。……(アントーニオーに) 其方の生死は原告に一任せねばならんやうに聞いたが、さやうか? アント はい、さやうに申しをります。 ポーシ 證書に對して異議はないか? アント ございません。 ポーシ では、猶人《ヂウ》が、慈悲を施さんければならん。 シャイ ならん、とおっしゃるのは、どういふ據《よんどこ》ろない理由がございまして? ポーシ 慈悲は據《よんどこ》ろなく施すべきものではない。 慈悲は、春の小雨の自からにして地を潤すが如くに、降《くだ》るものぢゃ。 其 徳澤《とくたく》は二重である。慈悲は、之を與ふる者に取っても幸福であれば、 受ける者に取っても幸福なのぢゃ。慈悲は最も偉《おほ》いなる人に在って、 更に最も偉《おほ》いなる美徳となる。此徳が君主の胸に在れば、 其光は金の冠《かんむり》にも幾倍する。彼《か》の國王が手に持たせらるゝ笏は、 徒《ほん》の俗界に於ける威力や尊嚴の標章《めじるし》たるに過ぎないが、 慈悲は目に見えぬ心の中に宿る寶《たから》で、永世不滅の神の徳ぢゃ。 隨《したが》って、慈悲を以て正義を和ぐるに及んで政道が初めて天道に合《かな》ふのである、 人間の力が其時はじめて神の力に似るのである。だから、猶人《ヂウ》よ、 お前は頻りに正義を主張するが、正義ばかりで裁判したなら、吾々共の中、 只の一人でも救はれるものはあるまい。お互ひに旦暮《あけくれ》神に慈悲を祈る、 其心を推し及ぼして他人に慈悲を施すのが人情といふものぢゃ。 かやうに言葉を費《つひや》すは、其方の、 正義一邊の申立《まうしたて》を緩和《なだ》めようが爲である、 それをお前が強ひて申し張れば、ヱ゛ニスの嚴格な法廷は、 據《よんどこ》ろなくそこにゐる商人に宣告を下さんければならん。 シャイ 手前が非分なれば、命をお取り下さい!手前は正義を要求します、 證書通りの科料を要求いたします。 ポーシ 商人は金を能い拂はんのか? バッサ いや、金は、わたくしが彼れに代って支拂ひます、元金《もときん》の二倍にいたしまして。 若しそれで足りませねば十倍にもして支拂ひます、わたくしの手なり、首なり、 心臟なり、抵當にいたしましても。それでも足らぬと申すやうでありますれば、 正義 呼《よば》はりは表向で、底意は害心に相違ございません。 (跪いて)願はくは、政府の御權力を以て、大義の爲に、 聊《いささ》か法律を曲げさせられまして、此人非人を御 掣肘《せいちう》下されたい。 ポーシ いや、それは出來ん。ヱ゛ニス中の如何なる權力を以てするも、 定まったる國家の法令を改めることは出來ん。一度例を作ると、 それが原《もと》で、種々の間違が續出して、長く國家のわづらひとなるから、 さういふことは出來ん。 シャイ (感心して)ダニエル樣の再來だ!全くのダニエルさんだ! (跪いてポーシャの服の縁に接吻して)お若いには似合ぬ、 恐れ入った、賢明な裁判官さまだ! ポーシ どうか其證書を見せてくれ。 シャイ はい?、これにございます、憚《はゞか》りながら、これにございます。 ポーシ シャイロック、此金額を三倍にして返濟しようと申してをるぞ。 シャイ 誓言《せいごん》したんだ、天に誓言《せいごん》をしてしまったんだ。 おのが靈魂《たましひ》に僞誓《ぎせい》の罪が負はされませうかい? いやだ、ヱ゛ニス一國を貰っても否《いや》だ。 ポーシ さて、此證書は、已《すで》に期限が切れてをるから、 猶人《ヂウ》は之によって正當にその商人の胸元から肉一ポンドを切取る權利がある。 ……慈悲《なさけ》をかけてやれ。三倍の金を受取って、此證書は予《わし》に裂かせてくれ。 シャイ さァ、證書面通りの、支拂さへ濟みますれば。 貴下《あなた》はお立派な裁判官さんでおあんなさるらしい。 法律をよく知ってお出なさるし、解釋の仕方も堅固《しつかり》したもんだ。 手前は貴下《あなた》をば立派な、國家の法律の柱石だと存じますから、 其法律を盾に、貴下《あなた》の申します、ずん?御裁判をなさいまし。 靈魂《たましひ》をかけて誓言《せいごん》します、 人間の舌の力では手前の心を變へさせることは出來ません。 是非、證書通りに願ひます。 アント 手前も切にお願ひ申しまする、どうか御裁判下さいますやうに。 ポーシ では是非に及ばん。其方の胸へ彼れが刃物を受ける準備《ようい》をせい。…… シャイ おゝ、公明正大な裁判官さん!若いに似あはん偉いお人だ! ポーシ 蓋《けだ》し此證書面に認《したゝ》めてある科料は、 法律の意義竝びに目的上より見て、十分是認せらるべき性質のものである。…… シャイ 全く其通りです。おゝ、賢明な、公平な裁判官さん! まァ?、お前さんは、見かけよりゃ、ずっと老成な、偉いお方だ! ポーシ それゆゑ、(アントーニオーに)胸元を開け。 シャイ はい、胸でございます。さう證書に書いてあります。 でございませう?「すぐ胸元より」と書いてございます。 ポーシ さやう。……肉の重さを量る秤器《はかり》はあるか? シャイ 準備《ようい》してをります。 ポーシ シャイロック、其方自辨で外科醫者を呼寄せておけ、 傷口をとめんと、出血の爲に命を失ふかも知れんから。 シャイ そんなことが證書に書いてございますか? ポーシ 書いてはない、が、その位の情けは、かけるのが當然ぢゃ。 シャイ 見附かりません。證書には見えません。 ポーシ 商人、何か申し殘すことがあるか? アント たゞ、聊《いささ》か。覺悟はとうに致してをります。 ……バッサーニオーさん、お手を。御機嫌よろしう! わたしが貴下《あんた》の爲に斯ういふことになったからといって、 歎いて下さるな。運命の神が、わたしに對しては、 まだしも深切にしてくれます。不幸《ふしあはせ》な人間を零落させて財産に離れさせながら、 一思《ひとおも》ひに死なせもしないで、額に皺を湛《たゝ》へた凹んだ目で吾と我貧窮を眺め暮させるのが例であるのに、 その悲惨《みじめさ》だけはまぬかれさせてくれます。どうぞ、 奥さんへよろしく。アントーニオーは如何して死んだか、 どんなに貴下《あんた》を愛してゐたか、有體《ありてい》に懇《ねんご》ろにお話しなすって、 奥さんに判斷して貰って下さい、嘗《かつ》てバッサーニオーさんに一人の心友があったと言へるか如何かを。 貴下《あんた》が親友を失ったと悔んで下されば、 わたしは貴下《あんた》の爲に負債を支拂ふのを決して悔みません、 といふのは、若し猶人《ヂウ》がずっと深く切りゃ、 (笑を含みて)わたしは眞に「全心」を傾けて支拂ふことになるのですから。 バッサ アントーニオー、わたしは今現に生命其者程に大切な妻を娶ってゐる。 けれども、生命其者も、その妻も、全世界も、わたしに取っては、 あんたの命以上に貴いものではない。わたしは何もかも棄てゝしまふ、 みんな犠牲《いけにへ》にしてかまはないから、どうかしてあんたを此惡魔から救ひたいのです。 ポーシ (獨語のやうに)若し細君が傍にゐて、さういふことをお前さんが言ふのを聞いてゐたら、 餘り有難がりもすまいね。 グラシ わたしにも妻《さい》があって、それを非常に愛してゐるんだが、 いっそ死んで天にゐたら、言傳手《ことづて》をして神樣に直訴して、 此狼のやうな猶人《ヂウ》の心を入替させて貰ふものをなァ! ネリッサ (獨語のやうに)さういふことは、細君に聞えない處で言はないと、 家庭に風波が起りますよ。 シャイ キリスト教信者の男共は皆な是如《あれ》だ。おれにも一人、娘がある。 キリスト信者を夫に持たす位なら、 バラバス(強盗)の血統《ちすぢ》の者にでも連添はせたはうが優《まし》だ! ……時間が無駄になります。どうか早く御宣告を願ひます。 ポーシ そこにゐる商人の肉一ポンドは其方の物である。 法廷が之を是認し、法律が之を其方に與ふるぞ。 シャイ 公明正大な裁判官さん! ポーシ すなはち、其方みづから手を下して、彼れが胸元から其肉を切取らねば相ならんぞ。 法律之を許可し、法廷之を是認するぞ。 シャイ 最も博學なる裁判官!……宣告だ!覺悟しろ。 氣込んで、つか?と進んで、アントーニオーの胸元へ刄《やひば》を當てようとする。 ポーシャそれを遮って。 ポーシ いや、ちょっと待て。まだいふことがある。此證書には、 血は只の一滴たりとも其方に與ふると書いてはないぞ。 明瞭に「肉一ポンド」とのみ記してある。然る上は、 證書面通り肉一ポンドを取れ、併しながら若し之を切取るに當って、 キリスト信者の鮮血を只一滴でも灑《そゝ》ぐに於いては、 其方の地所も、家財も、ヱ゛ニスの國法によって、 悉く之をヱ゛ニスの國庫に沒収《もっしう》いたすぞ。 シャイロック驚きて、おぼえず二三歩さがる。 グラシ おゝ、公明正大な裁判官さん!どうだ、猶人《ヂウ》。おゝ、博學なる裁判官! シャイ それが法律でございますか? ポーシ (法律書を開きつゝ)自身の目で其條文を見るがよろしい。 畢竟、其方が、一《 ひと》へに嚴重な證書面通りの裁判を申し乞ふが故に、 おのが望み以上の、嚴重な裁判を受けんければならんのである。さう覺悟をせい。 グラシ おゝ、博學なる裁判官!どうだ、猶人《ヂウ》。成程、博學な裁判官さまだ! シャイ ぢゃァ、彼れの申出通りにします。證書を三倍にして支拂やァ、 あのキリスト信者を許してやります。 バッサ その金はこゝにある。 と財嚢《かねぶくろ》をさし出す。 ポーシ 待て!……猶人《ヂウ》はあくまでも法律の明文通りの裁判を要求してゐるのである。 待て!急ぐには及ばん。猶人《ヂウ》は科料以外何物をも受取るべきでない。…… グラシ おゝ、猶人《ヂウ》!公明正大な裁判官さん、成程、博學な裁判官さまだ! ポーシ であるから、肉を切取る準備《ようい》をせい。血を流してはならんぞ、 また肉は丁度一ポンドだけ、それより以外、多くも少くも切取ることは相ならんぞ。 若し聊《いささ》かでも、丁度一ポンドの、以上又は以下を切取るに於ては、 よしそれが、たかが、一分又は一厘ほどの輕重であるとも、いや、 只 髪毛《かみのけ》一筋だけの量目の差を秤皿《はかりざら》の上に生ずるに於ては、 其方の命は無いぞ、其方の財産は悉く國庫に沒収《もっしう》いたすぞ。 グラシ 今ダニエルさんだ、成程、今ダニエルさまだ!どうだ、罰當り、降參したらう! ポーシ なぜ猶人《ヂウ》は躊躇してゐる?科料を取れ。 シャイ 元金《もときん》だけを受取って、歸らせて貰ひませう。 バッサ とうから渡さうとしてゐるのぢゃ。さ、こゝにある。 ポーシ いや、彼れは公けの法廷に於てそれを受取らんと申したのぢゃ。 彼れは只法律通り、證書通りの科料の外を受取ることは相成らん。 グラシ いよ?以てダニエルさんだ、今ダニエルさまだ!おい、猶人《ヂウ》、 好い言葉を教へてくれて、難有《ありがた》う。 シャイ 元金《もときん》だけも受取れませんか? ポーシ 其方が受取るものといっては、命がけで切取るべき科料の外には無い。 シャイ ぢゃ、うぬ、どうとも勝手にしやァがれ!もう論判は無益《むだ》なこった。 憤然と席を蹴って去らうとする。 ポーシ 待て、猶人《ヂウ》。其方にはまだ法廷の御用がある。(法律書の明文を示しつゝ) ヱ゛ニス市の法律によると、外国人が、直接若しくは間接の方法を以て當ヱ゛ニス市民を殺さうとした場合に、 それが露見に及べば、其財産を二分して、被害者たらんとせし者は其一半を取り、 他の一半は國庫に沒収《もっしう》する規定である。而《しか》うして其犯罪者たる者の一命は、 一《 ひと》へに公爵の御仁恕に任せ、何者も之に對して異議を申し立てることの出來んことになってゐる。 其方の罪状は正にそれに相當する。 直接又間接にそこにゐる商人の命《めい》を奪はんと企てたことが明瞭であるから、 只今申し聞かせた罪科はまぬかれんぞ。であるから、 速《すみや》かに土下座をして公爵のお慈悲をお願ひ申せ。 グラシ 自分で首を縊《くゝ》って死ぬお許可《ゆるし》でも願ふがいゝ。 だが財産は悉皆《すつかり》沒収《もっしう》されッちまふんだから、 繩を買ふだけの餘裕だってないだらう。 政府の費用で以て首を縊《し》めて貰はんけりゃなるまい。 公爵 吾々の精神の其方と異なることを知らせるために、願《ねがひ》を聽くまでもなく、 其方が一命は赦してやる。さて、財産は、一半はアントーニオーに取らせ、 他の一半は國庫に収める。但し全く悔悟すれば、或は科料だけで差許すかも知れん。 ポーシ さやうです、アントーニオーの分は格別、國庫へ収める分は、 さういたしてもよろしうございます。 シャイ (やけになって)いゝや、命も何もかも取って下さい。赦して貰ふにゃ及ばん。 家を支へてゐる大柱を取られるのァ家を取られるのだ。 生活の資本《もとで》を取られるのァ命を取られるのだ。 ポーシ アントーニオー、其方は彼に對して、何等の慈悲《なさけ》を掛けて遣《つか》はす氣か? グラシ 無料《たゞ》で首を縊《くゝ》る繩《なは》を一筋《ひとすぢ》。 其他に何がやれるものか、あの罰當りに。 アント 憚《はゞか》りながら、公爵閣下をはじめ御列席の方々へ、 猶人《ヂウ》が財産の一半は科料でお赦しになりますやう願ひまする。 殘る一半は、若し當分の間手前に預け置きくれますれば滿足にございます、 右は、猶人《ヂウ》の死後に至りまして、 近頃 窃《ひそか》に彼れが女《むすめ》と共に遠國《ゑんごく》いたしましたロレンゾーと申す青年に引渡すことにいたしまする。 尚別に二ヶ條のお願《ねがひ》がございます。すなはち、 此御仁惠に對して、彼れが速《すみや》かにキリスト信者と相成るといふこと、次に、 死後一切の財産を女《むすめ》夫婦に讓るといふ證書を此法廷に於いて認《したゝ》めまするやうお吩咐《いひつけ》を願ひたうございます。 公爵 その通り申し附けよう、もし否《いな》むに於ては、 只今言ひ渡した赦免をも取消す。 ポーシ 猶人《ヂウ》、よろしいか?どうぢゃ? シャイ (元氣全く沮喪して)よろしうございます。 ポーシ 書記役、財産 讓渡《ゆづりわたし》の證書を。 シャイ どうかお暇《いとま》を下さいまし。病氣にございます。 證書は後からお送り下さい、宅で記名いたします。 公爵 歸ってよろしい、が、命令《いひつけ》通りにいたせ。 グラシ やい、洗禮を受けるには、立会人が二人要るぞ。 だが、若しおれが裁判官であったら、立会人をもう十人ふやして、 貴樣を洗禮盤よりも絞罪臺へつれていったらうものをなァ。 シャイロックよろめき?入る。 公爵 どうか、邸《やしき》へお出あって、御會食を願ひたい。 ポーシ ありがたうございますが、どうか、 御容赦を願ひたうございます。わたくしは今晩パデュアへ參らんければなりませんのですから、 直《すぐ》さま出立いたすのが順當と存じます。 公爵 御都合がわるいとは、殘念なことで。……アントーニオー、 十分にお報をするがいゝ。お前は此方のお庇《かげ》で助かったんぢゃ。 公爵、重役、其他入る。 バッサ 謹んでお禮を申上げます、わたくし竝《なら》びにわたくしの信友は、 今日《こんにち》、閣下の賢明な御裁判によって、 一命にかゝはりまする科料をまぬかれました。つきましては、 猶人《ヂウ》に遣《つかは》しまする筈の此三千 兩《ダケット》を、 喜んで閣下に獻上いたしまして、 聊《いささ》か御厚意に報いまする當座の章《しるし》といたしまして…… アント 尚ほ此後幾久しく、今日《こんにち》の御恩は忘れませんで、 愛敬の誠意を致したいと存じてをります。 ポーシ 自分で滿足してをる者は、既に報酬を得てゐるのです。 わたしは貴下《あなた》を救ひ得たので自ら滿足してをるのですから、 すなはち最早《もう》已《すで》に報酬《むくい》を得てゐるのです。 わたしは曾《かつ》てそれ以上の報酬を望んだことはありません。 どうか、又お目にかゝる時分に、お見知りおきを願ひます。御機嫌よう。 これでお別れします。 バッサ 失禮ながら、是非とも押返してもお願ひ申さねばなりません。 何かわたし共からお持帰りを願ひたい、記念として、 お禮と申す譯ではなく。どうか二つの事を御許容願ひたい、 御辭退をなさらないことゝ失禮をお赦し下さることゝを。 ポーシ それ程におっしゃるから、仰せに從ひます。(アントーニオーに) 貴下《あなた》の手袋をいただきたい、記念として身に附けませう。 (バッサーニオーに)それから、貴下《あなた》の御好意に對して、 その指輪をいただきませう。手を引込めちゃ不可《いけ》ません。 他に何もいただきはしない。御厚志のお有んなさる以上、 それを否《いや》とはおっしゃるまい。 バッサ (困って)此指輪は、どうも困りましたねえ、こりゃ粗末《ひど》いのですから! 如是《こんな》物をさしあげては、わたくしの恥辱になります。 ポーシ それの他には、何《なんに》もいただきたくありません。 非常にそれが欲しくなって來ました。 バッサ これには、價値《ねうち》以外の據《よんどこ》ろない仔細があります。 ヱ゛ニスぢゅうで最高の指輪を獻ずることに致しませう、 廣告して捜し出して獻じます。こればっかりは、何卒《どうぞ》御免を蒙ります。 ポーシ 貴下《あなた》は、御吹聽だけは、中々大氣なお方です。 最初わたくしに強乞《ねだ》れとお教へになったのですよ、 さうしておいて、強乞《ねだ》る奴は、畢竟《つまり》、 どういふ待遇を受けるかといふことを改めてお教へになったのですね。 バッサ 實は、その、此指輪は、妻《さい》がわたくしにくれましたのです。 さうして、これをわたしに穿《は》めさせました時に、妻《さい》が、 決して手離してはならん、遣《や》ってはならん、失《なく》してもならんと、 わたくしに誓言《せいごん》をさせたのです。 ポーシ さういふ口實《いひわけ》は人に物を遣《や》るまいと思ふ時に、 多くの人の役に立ちます。若し貴下《あなた》の細君が狂女《きちがひ》でなくって、 其指輪ぐらゐは頂戴してもよい功勞がわたくしに在るといふことを御承知なされば、 貴下《あなた》がそれをわたしに下すったって、 いつまでも敵意をお抱きなさることもあるまいと思ひます。 いや、御機嫌よう! ポーシャとネリッサと入る。 アント バッサーニオーさん、指輪をあの方におあげなさい。 奥さんの命令《いひつけ》でもあらうけれど、 あの人の功勞とわたしの友誼とを以てそれに易《か》へて下さい。 バッサ さ、グラシャーノー、君、走っていって、追付《おツつ》いて、 あの仁《じん》に此指輪を渡して、成らうことならアントーニオーの邸《やしき》まで連れて來て下さい。 早く!急いで。…… グラシャーノー入る。 さ、貴下《あんた》とわたしは、すぐお宅へ往くことにしよう。 さうして明朝《あした》は、朝早くベルモントの方へ飛出すことにしませう。 さ、アントーニオー。 二人ともに入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第四幕 第二場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第四幕 第二場 同處。街上《がいじゃう》。 ポーシ 猶人《ヂウ》の宅を尋ねあてゝ、此證書を手渡して、記名をさせとくれ。 今夜の中に出立して、夫たちよりは一日前に歸りませう。 此證書を見たら、ロレンゾーが嘸《さぞ》喜ぶだらう。 グラシャーノー出る。 グラシ 若先生、あゝ、やっと追付ました。主人バッサーニオーが考へ直して、 此指輪を獻ずることにいたしました、相願はくは、御臨席を乞ひまして、 粗酒を獻じたいと申してをります。 ポーシ それは出來ませんが、指輪は最も喜んでいたゞきます。どうか、 さうおっしゃって下さい。更にお願ひは、どうか、 此青年にシャイロックの宅を教へてやって下さい。 グラシ 承知しました。 ネリッサ (ポーシャに)貴下《あなた》、一寸お話申したい。 (ポーシャだけに)わたくしの夫の指輪も、取れるかどうか試《や》って見ませう、 あれも一生手離しちゃいけないと誓言《せいごん》させておいたのです。 ポーシ (ネリッサだけに)きっと取れるよ。 決して女に遣《や》ったんぢゃないって、そりゃ必然《きっと》おそろしく主張《いひは》るだらうよ。 けれどもわたしたちは夫たちを恥ぢしめて言ひ負かしてやるわね。 (大きな聲で)早く!急いで。わたしの待ってる場所は承知だらうね? ネリッサ さ、貴下《あなた》、其家へ御案内願ひます。 皆々入る。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30 ヱ゛ニスの商人 : 第五幕 第一場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 第五幕 第一場 ベルモント。ポーシャ邸への小徑。 ロレンゾーとヂェシカと出る。 ロレン あゝ、好い月だ。ちょうど如是《こんな》晩であったらう、 氣持の好い風が、窃《そつ》と樹の葉を鳴らさない程に接吻《キッス》して行く、 ちょうど如是《こんな》晩であったらう、王子のトロイラスが、 トロイの城壁に攀登って、クレシダ姫が臥《ね》てゐるギリシャ陣屋の方へ向いて、 深い、切ない溜息を洩したのは。 ヂェシカ ちょうど如是《こんな》晩でしたらう、處女《むすめ》のシスビが、 怖々《こは?゛》露を蹈みしだいて、約束の場所へは往ったもの、 戀人が來ないうちに、獅子の影が見えたので、驚いて逃げてしまったのは。 ロレン ちょうど如是《こんな》晩だったらう、女王《にょわう》のダイドーが、 柳の枝を手に持って、荒海の磯際にたゝずんで、もう一度戀人をカーセーヂへ招き返さうとしたのは。 ヂェシカ ちょうど如是《こんな》晩でしたら、魔法使ひのミディヤ姫が、 老爺《おぢいさん》のイーソン王を若返らせる爲に、靈藥の草を集めたのは。 ロレン ちょうど如是《こんな》晩だったね、猶人《ヂウ》の娘のヂェシカが、 金持の親父をだまくらかして、ろくでなしの情夫《いろおとこ》と一しょにヱ゛ニスを脱出《ぬけだ》して、 ベルモントまで驅落したのは。 ヂェシカ ちょうど如是《こんな》晩でしたね、ロレンゾーといふ若い人が、 可愛いの、好いたのと、口から出放題の誓言《せいごん》をして、 さんざッぱら彼《あ》の娘をだましたのは。 ロレン ちょうど如是《こんな》晩だったね、可愛いヂェシカが、 小ちゃい嚊左衛門《かゝアざゑもん》のやうに、 亭主の惡口《たなおろし》をするのを、亭主がだまって、 おとなしく聽いてゐたのは。 ヂェシカ 如是《こんな》晩盡しをするのなら、夜通しかゝったって負けやしないのだけれど、 ね、誰れか來たわ。……そら、足音がするでせう? ステファノー出る。 ロレン 何人《だれ》です?寂《しん》とした此夜中に、 そんなに大急ぎでやって來るのは? ステフ お家の者です。 ロレン お家の者!と言ふのは、どうしたお方!お名前は? ステフ 名前はステファノーと申します。お姫《ひい》さまは夜明前にお著《つき》になります。 只今、途々《みち?》の十字架を一々に御參拜遊ばして、 おめでたい御結婚の將來を祈願していらっしゃいます。 ロレン だれが御一所です? ステフ お上人《しゃうにん》さんとあのお腰元さんばかりでございます。 殿さまは、まだ御 歸邸《きてい》になりませんのですか? ロレン まだです。まだ何のお便りもありません。…… とにかく奥へ往かうよ、ヂェシカ、さうして相當の儀式を整へて、 お姫《ひい》さんのお歸りを迎へよう。 ランセロット出る。 ランセ ソーラ、ソーラー!ウォーハー、ホー!ソーラ、ソーラ! ロレン だれだい呼ぶのは? ランセ ソーラー!若しや此邊に、ロレンゾーの旦那とロレンゾーの細君《ごしんぞ》は居ませんでしたかね! ソーラ、ソーラ! ロレン おい?、呼號《どな》るのは止しな。こゝにゐるよ。 ランセ ソーラ!何處だね?え、何處だね? ロレン こゝだよ。 ランセ どうか彼仁《あのひと》に知らせてやって下さい、 御主人から飛脚が來たってね。彼《やつ》の喇叭は吉左右《よいしらせ》で一ぱいでさァ。 で、御主人《とのさま》には、いよ?夜明前に、お著到《ちゃくたう》と御座い。 ランセロット入る。 ロレン ぢゃ、入らうよ、さうして彼方《あちら》でお歸りを待たう。 ……が、それにも及ばないね。入る必要もないや。…… ステファノーさん、どうか、貴下《あんた》、奥へ知らせて下さい、 お姫《ひい》さまは最早《もう》直《ぢき》にお著《つき》だって。 それから、樂人たちを戸外《そと》へ出張させて下さい。…… ステファノー入る。 どうだい、此 芝堤《しばどて》にほんのり映る月の影の美しいこと! こゝに二人《ふたアり》で腰を掛けて、そよ?と聞えて來る樂《がく》の音《ね》を聞かうよ。 うつくしい樂《がく》の音《ね》と此 闃《しん》とした夜の靜かさとは善い鹽梅に調和するよ。 ヂェシカ、お掛けよ、御覽、天の床は、まるで、 燦然《きら?》した金の小皿を一ぱいに敷竝《しきなら》べたやうだ。 あのうちの一等 少《ちツ》ちゃい星だっても、 あゝして空を廻轉する途々《みち?》、天使《てんのつかひ》のやうな美しい聲をして歌を唄ふんだとさ、 嬰兒《みどりご》のやうな目附をした天童たちが天樂《てんがく》を奏するのに合せて。 人間の靈魂だって、やっぱり然《さ》ういふ音樂を奏するんださうだが、 ……此滅び行く穢《きたな》い泥の衣服《きもの》に包まれてゐるから、 我々の耳には聞えないのだ。…… 音樂者共出る。 さァ?!眠てゐるお月さんを讃美歌で以て起して下さい。 それから早速お歸りなさるやうに、ふるひつくやうな面白い曲を奏して、 お姫《ひい》さまのお耳をえぐって下さい。 ヂェシカ わたし些《ちっ》とも面白かないわ、好い音樂を聽いたっても。 ロレン それはお前さんがあんまり眞劍になるからさ。 何故って、あのあばれ盛りの家畜や、まだ馴らされてゐない若駒なんかでも、 狂氣《きちがひ》のやうに跳廻って、吼えたり高嘶《たかいなゝき》したりするのが、 彼奴《あいつ》らの血氣壯《さか》んな證據でもあり持前でもあるのだが、 あれらでも、若し偶然《ふい》と喇叭の聲を聞いたり、又は何か音樂の調《しらべ》を聞いたりすると、 一齊に立止って、其あら?しい目の色までも温柔《おとなし》やかな目附になる、 それは全く音樂の魔力なんだ、だから、詩人が、昔、オルフュースといふ樂《がく》の名人があって、 音樂の力で、木をも石をも流《ながれ》をも動かしたなんぞと言ひ傳へたのさ。 といふのは、どんな冷淡な、頑固な、兇暴な者だっても、音樂を聞きゃァ、 一時は性質が一變せざるを得ないからさ。少しも音樂の素養がなく、 美しい調《しらべ》を聞いたって、少しも感動しないやうな者は、 きっと謀叛《むほん》したり、惡計《わるだくみ》をしたり、 強盗をしたりするよ。そんな奴の感情は、夜のやうに遲鈍で、 冥府《よみのくに》のやうに暗黒なんだ。 そんな男は信ぜられないよ。……あの音樂をお聽き。 ポーシャとネリッサと出る。 ポーシ あの燈光《あかり》は客間から射してゐるのだがね。 あんな小さい燭火《ともしび》の光りでさへも、 如此《あゝ》遠くまで及ぶんだよ。ちょうど如是《こん》な風に、 善い行爲《おこなひ》が澆季《げうき》の世を照すのです。 ネリッサ 月が照り渡ってゐましたうちは、あの燈光《あかり》は見えませんでしたよ。 ポーシ それと同じに、大きな光榮は小さい光榮を消してしまひます。 王がお出座《でまし》にならないうちは代理の宰相が光り輝いて見えるけれど、 お出座《でまし》になると、消えてしまふ、内地の小流《こながれ》が海へ落込んでしまふやうに。 ……おや!音樂が聞える。 ネリッサ あれはお邸《うち》の音樂でございますよ。 ポーシ 何事も周圍との關係だねえ。晝聞くよりも何となく趣味が深いやうに思ふわ。 ネリッサ 靜かな故《せゐ》でございますね。 ポーシ 烏《からす》の聲だっても雲雀《ひばり》の聲と同《おんな》じに聞えませう、 何方《どっち》にも付屬物《つきもの》が無かったなら。ナイチンゲールだっても、 若し鵞鳥《がてう》が囂《やかま》しく鳴立てゝゐる晝日中に囀ったなら、 たかゞ、鷦鷯《みそさゞい》ぐらゐにしか聞かれないでせう。 大抵のものは、機《をり》に合へばこそ程よく折合って、 正當な名譽をも得れば、眞實《ほんたう》の長所をも現すのです、……しづかに! 月の女神は、今ちょうど戀人のエンディミオンと一しょに眠ってゐなさるのよ、 起さないはうがよい。 音樂止む。 ロレン あの聲は、ポーシャさまだよ、きっと。 ポーシ よう死ってゐるわね、盲《めくら》が惡い聲なので郭公の聲を記《おぼ》えてゐるやうに。 ロレン 奥さま、ようお歸りになりました。 ポーシ わたしたちは夫がたの御無事を祈願してゐたのです、ですから、 其 靈驗《れいげん》で以て、多分、御安泰であらうと思ひます。 もう歸られましたか? ロレン まだお歸りにはなりませんが、其お知らせのお使ひは參ってをります。 ポーシ ネリッサ、奥へ往って衆人《みんな》に申しつけとくれ、 わたしたちが外出したことは樣子《そぶり》にも見せないやうにね。 ……ロレンゾー、お前さんもね。ヂェシカ、お前さんもね。 タケットの音《ね》。 ロレン 殿さまのお著《つき》です。喇叭が聞えます。 奥さま、わたくしどもはお饒舌《しやべり》ではございませんから、 御心配なさいますな。 ポーシ 何だか、晝が罹病《わづら》ってゞもゐるやうな夜景色だねえ。 しかし晝にしては少し蒼ざめ過ぎてゐるわ。言はゞ、ま、 太陽が隠れてゐる時の晝だね。 バッサーニオー、アントーニオー、グラシャーノー及び其從者出る。 バッサ 太陽は隱れてゐても、貴女《あなた》さへ出歩いていらっしゃれば、 いつでも晝のやうに明るい。 ポーシ あかるいと被仰《おっしゃ》って下されば、嬉しいけれど、 若しかるい、輕々しいと被仰《おっしゃ》られたら、如何しませう? 輕々しい妻は、とかく夫に不快な思ひをさせます。 併し何事も神の御差配です。ようお歸り遊ばしました。 バッサ ありがたう。わたしの信友を歡迎して下さい。これが彼人《かのひと》です、 これがアントーニオーです、わたしの大恩人の。 ポーシ 此方の御恩は、決してお忘れになってはなりません、 貴下《あなた》の爲に大變にお盡しになったと承《うけたま》はりましたもの。 アント それは最早《もう》、とうに濟んでしまったことです。 ポーシ 貴下《あなた》、まァ善く入らしって下さいました。 迚《とて》も言葉では申し盡されませんから、御挨拶は省きます。 グラシ (ネリッサに)あの月が證人だ、貴女《あなた》の言ふことは無理だ。 全く裁判官の書記に遣《や》ったんですよ。 ポーシ おや、もう口論《いさかひ》なの!どうしたの? グラシ つまらない金の指輪の事です、先だって彼女《あれ》がわたくしにくれた、 刃物屋が小刀へ彫附けるやうな「見棄てちゃ厭《いや》よ」ッて文句が彫ってあった指輪なんです。 ネリッサ 文句や値段の事をいふ必要はありません。貴下《あなた》は、 わたくしが彼品《あれ》をあげました時に、死ぬ時までも身に附けてゐて、 死ねば墓へ一しょに埋めさせるッて、誓言《せいごん》をなさいました。 わたくしは兎も角も、あゝいふ激しい誓言《せいごん》をなすったのに對して、 斟酌して、大切になさらなければならなかった筈です。裁判官の書記生に遣《や》ったって! いゝえ、神さまがわたくしの裁判官です、其書記生とやらは、 きっと鬚なんか生えてやしますまい。 グラシ そりゃ、その、生えちゃゐなかったけれど、いづれ、その、 丁年になりゃ生えるよ。 ネリッサ えゝ、生えませうとも、女が丁年になって男に化るものならばね。 グラシ いゝえ、全く、その、全く、若い男に遣《や》ったんだよ。 小僧ッ子なんだ、小さい、丈《せ》の低い少年なんだ、 お前よか高かない位の。裁判官の書記生で以てね、 よく饒舌《しやべ》る奴で、報酬に是非 彼品《あれ》をくれろと言ったんだ。 わたしは、どうしても、その否《いや》といへなかったんだ。 ポーシ そりゃ貴下《あなた》の方がわるい。遠慮なく申さねばなりませんが、 ネリッサから初めてあげたものを、さう輕々しくお棄てなさるのは、 貴下《あなた》がわるい。誓言《せいごん》をして、決して變らないといふ證據に、 眞實の鎹《かすがひ》として、貴下《あなた》の肉體へお穿《は》めなされたのぢゃありませんか? わたしも夫へ一つの指輪を獻《あ》げて、決して手離さない、 といふ誓言《せいごん》をして貰ひましたの。現に、あそこに居られます。 わたしは誓言《せいごん》しても宜《よろ》しい、夫は、 よし世界中の財《たから》と取換へても、決して彼品《あれ》を手離すやうなことはせられますまい。 ねえ、グラシャーノー、貴下《あなた》は酷い、ネリッサが悔しがるのは道理《もつとも》です。 わたしが若しそんな目にあったら、きっと氣が狂《ちが》ふでせう。 バッサ (傍白)こりゃ寧《いつ》そ左の手を切ってしまって、 指輪を奪《と》られまいとして、如是《こんな》になったと言張ったはうがいゝ。 グラシ バッサーニオーさまも、御自分の指輪をお遣《や》りなすったんです、 裁判官がくれろと強請《ねだ》ったんで。又、實に、 遣《や》らざるを得なかったのです。そこで其書記生の小僧が、 奴は書記として骨を折ったのですから、わたしのを強請《ねだ》ったのです。 主從とも、指輪以外のものは取らないのです。 ポーシ 貴下《あなた》、どの指輪をお遣《や》りになりました?よもや、 わたくしがあげましたのではありますまい。 バッサ 失策した上に、虚言までも吐くことが出來れば、彼品《あれ》は遣《や》りはしません、 と言ひたいのですが、わたしの指は、御覽の通りです、指輪は無いのです。 ポーシ ちょうど其通りに、貴下《あなた》の輕薄な心には、眞實は無いのです。 あの指輪を見るまでは、決して同じ閨《ねや》では休みますまい。 バッサ ポーシャさん、若し貴女《あなた》が、誰れにあの指輪を遣《や》ったか、 だれの爲に遣《や》ったか、何の爲に遣《や》ったかを御承知になり、 どの位わたしが煩悶して、指輪の外は何物をも取らない、と言はれるに及んで、 據《よんどこ》ろなく彼品《あれ》を手離した、といふことを了解して下すったなら、 そんなに御立腹なさらんでも可いだらうと思ふ。 ポーシ 若し貴下《あなた》が、あの指輪の値打を御存じであり、 指輪をあげました當人の人格を半分だけでも御承知になり、 又、貴下《あなた》の御名譽上、 あの指輪は是非保存遊ばさねばならないといふことをお考へになりましたなら、 貴下《あなた》はあの指輪を手離しておしまひ遊ばすことは、 どうしても出來なかったでございませう。どんな理のわからない男だって、 貴下《あなた》が熱心に、これは遣《や》られない、とお拒みになったら、 結婚の記念品であるものを、 それでもくれいと押強《おしづよ》に言張る筈は無からうぢゃありませんか? 成程、ネリッサの申す通りでせう。必定《きっと》、 どこかの婦人にお遣《つかは》しになったに相違ありません。 バッサ いゝえ、決して、わたしの名譽をかけて、婦人なんぞに遣《つかは》したのではない。 民事の裁判官に遣《や》ったのです、三千 兩《ダケット》を贈らうとしたところが、 如何しても受けないで、あの指輪をくれといったのです。 それを一たんは拒絶して、現在信友の命を救ってくれた恩人が、 不快な顏をして歸って行くのを打棄《うっちゃ》っておいて見たのですけれど、 何分にも其儘にしてはおかれないからうぢゃありませんか? そこで止むを得ず、指輪を持たせて其後を追っかけさせたのです。 義理を思ひ、恥を思ふと、恩知らずといふ汚名で以て、 自分の面《かほ》に泥を塗るに忍びなかったのです。 姫《ひい》さん、恕《ゆる》して下さい。輝く月も星も照覽あれ、 若し貴女《あなた》があの場にゐたなら、貴女《あなた》みづから、 大恩ある博士へあの指輪を遣《や》ってくれと、きっと、 おっしゃったに相違ない。 ポーシ 其博士とやらを、此 邸《やしき》の近邊《きんぺん》へ來させないやうに遊ばせ。 何故なれば、其人がわたくしの大事の指輪を、 貴下《あなた》がわたくしの爲に必ず保存するとおっしゃった其指輪を持ってます以上は、 わたくしとても、貴下《あなた》同樣に、かまはなくなるかも知れません。 くれいといへば、何でも遣《つかは》すかも知れません。 はい、此肉體をも、臥床《ふしど》をも、貸すまいものでもありません。 はい、其人と知合になりますわ。ですから、一晩も邸《やしき》をおあけ遊ばすな。 百眼怪《アーガス》のやうに見張っていらっしゃい。さうでなく、 手放してお置き遊ばすと、今はまだ汚れてゐない女の操《みさを》に誓《ちかひ》をかけて、 どんな惡い事をするか知れませんよ。 ネリッサ (グラシャーノーに)わたしとてもね。ですから、御用心なさいまし。 わたしの儘にさせておくと、其書記生を引入れるかも知れませんよ。 グラシ 引入れて見るがいゝ、おれが忽ち取捉《とツつかま》へて、 商賣道具のペン軸を壓折《へしを》ってくれる。 アント 此《か》ういふ不慮《ひょん》な事になりましたのは、不幸にも、 悉皆《みんな》わたくしが原因なのです。 ポーシ お氣づかひ遊ばすな。決して貴下《あなた》を惡く思ふやうなことはございませんから。 バッサ ポーシャさん、 どうか此度《こんど》の不都合は萬々《ばん?》止むを得なかったことだと勘辨して下さい。 此 多數《おほぜい》の友人の前で、わたしは誓言《せいごん》します、 貴女《あなた》の其美しい眼を誓《ちかひ》にかけて…… ポーシ まァ、あれだものを!わたくしの眼にかけて、と被仰《おっしゃ》れば、 右の眼と左の眼と、兩方にかけるのでせう。すなはち、 それは二心《ふたごころ》の誓言《せいごん》です、嘸《さぞ》信用が出來ませうよ。 バッサ まァさ、さう言はないで、堪忍して下さいよ。 もう決して、二度とは約束を破らないから。 アント わたくしは此 身體《からだ》を一たんバッサーニオーさんの爲に抵當に入れましたのです、 若し指輪を持って行った彼《あの》御仁のお庇がなかったなら、 最早《もう》とうに亡《なくな》ってゐる一命です。それゆゑ、このたびは、 此 靈魂《たましひ》を抵當にいたしまして、決してバッサーニオーさんに、 二度と約束を破らせないといふ保證人になりますから、 どうか、曲げて御勘辨を願ひます。 ポーシ では、貴下《あなた》を保証人にいたします。……之を夫に渡して、 前のよりも大事にするやうにおっしゃって下さい。 アント さ、バッサーニオーさん。決して失《なく》さないといふ御 誓言《せいごん》をなさい。 バッサ おや?!こりゃ博士に遣《や》った彼《あの》指輪だ! ポーシ あの人の貰ひましたの。バッサーニオーさん、御免なさい。 其指輪を持って來ましたので、ゆうべ博士を泊めましたの。 ネリッサ グラシャーノーさん、わたしも御免なさいね、あの丈《せ》の低い書記生の小僧さんも、 此指輪を持って來ましたからね、内しょで泊めてやりましたの。 グラシ こりゃ、宛然《まるで》、泥濘《ぬか》りも何《なんに》もしてゐない夏の最中に、 道普請といふ格だ!えッ!亭主は曾《つひ》ぞまだ浮氣らしいことをしもせんのに、 女房連に、もう如是《そんな》目に逢はされるのかい? ポーシ さう口ぎたなくおっしゃるなよ。まァ、皆さんが吃驚《びつくり》してさ。 ……こゝに手紙があります。ゆっくりお讀みなさい。それはパデュアから、 ベラーリオーから來たのです。それをお讀みになると、 博士はポーシャで、書記生はネリッサといふことが解ります。 こゝにゐるロレンゾーが證人です、わたしらは貴下《あなた》と一しょに出立して、 つい今しがた歸ったのです。まだ家へは入らなかったのよ。 ……アントーニオーさん、ようお出なさいました、 わたくしは貴下《あなた》の思ひもかけていらっしゃらない吉《よ》い消息《たより》を貯へてゐます。 すぐに此書面を御開封なさい。其中に、貴下《あなた》の商船の三艘が貨物を豐《ゆたか》に積載せたまゝで、 思ひがけなく港入《みなといり》をしたといふことが書いてあるませう。 どういふ不思議な手續きで、其書面がわたくしの手に入ったかは、 お解りになりますまい。 アント 口がきかれません。 バッサ ぢゃァ、貴女《あなた》が博士であったのを知らなかったのか? グラシ 留守中に泊ったといふ書記生はお前なのかい? ネリッサ さうよ、けども只泊ったゞけなの。男の化けない以上はね。 バッサ 可愛らしい博士さん、貴女《あなた》なら、留守中にお泊りなすったって關《かま》はない。 アント 奥さん、貴女《あなた》のお庇《かげ》で命も財産も拾ひました。 此書面によると、わたくしの持船は安全に着港したに相違ありません。 ポーシ ちょいと、ロレンゾー!お前さんにも、 わたしの書記生が何やら好い報知《しらせ》を持って來てゐますよ。 ネリッサ さうです、さ、無報酬でお渡ししませう。(證書を渡して)さァ、 これは財産家の猶人《ヂウ》からの特殊財産 讓渡《ゆづりわたし》證書です。 受取人は貴下《あなた》とヂェシカさん、猶人《ヂウ》が死ねば、 其遺産が全部貰へるのです。 ロレン ありがたうございます。飢ゑてゐる者へ靈果《マンナ》が降って來たやうでございます。 ポーシ もう大抵明けさうです。貴下《あなた》がたは、恐らく、 まだよくお解りになりますまい。ま、入りませう。 さうして彼方《あちら》で存分にお尋問《たづね》下さいまし、 何事でも有《あり》のまゝにお答《こたへ》しませう。 グラシ それがよろしい。そこで、第一に、わたしの妻《さい》に宣誓させて尋問すべき事は、 もう朝まで二時間とはないのだが、いっそ明日の晩まで待つか、 又は直《すぐ》に寢るかといふことです。併し、成るべくは、 夜が明けても暗からんことを望むね、博士の書記生と寢るまでは。 さて、今日《こんにち》より以後、最も警戒を要する一大事は、 ネリッサの指輪を決して失《なく》さないやうにする事だ。 皆々入る。 ヱ゛ニスの商人(完) [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/07/30