母と共に野外に逍遙する幼子 が、 幹の屈曲 が尋常 ならぬ一本の立木に指ざして、 『かあさん、あの木は小さい時、誰かに踏まれたのですねい。』と申したとか。 考へて見ますと、見事に發育すべきものを遮り、素直に生ひ立つ筈のものを屈曲 らする程、 無情なことは實は稀 で御座ります。心なき人こそ、幼子 を目し、 生ひ立ちて人となるまでは眞 に數に足らぬ無益の邪魔者の樣に申しませうが、幼子 は世に生れたる其日とは言はず、其前父母がいつ〜にはと、待設ける時分から、はや自から天職を備へて居りまして、 決して不完全な端た物では御座りません。されば私どもが濁世 の蓮花 、家庭 の天使 とも推すべき彼の幼子 の天職は、 いとも輕からぬことで御座ります。然るに世の浪風はこれを屈曲 らせ、心なき同胞は、あたら若木を踏みにじりて、終に花は汚れ、 天使は墮落するに至る景況を歎かぬ人はありますまい。邪道 に陷らうとする父の足をとゞめ、 卑屈に流れ行く母の心に高潔の徳を思ひ起させるのは、神聖なるミッションを擔 ひたる可愛の幼子 に限るので、 是に代つて其任を果すものは他に何も有りません。幼子 の戲 れ聲のせぬホームの空氣は、殊に冷 く、宛然 下宿屋の心地がします。そして其家の夫婦は、相互に、又世の同胞に對して、多少寛優 ならぬ處があるのは往々見る事です。是より推して、假に幼子 の住まぬ世を想像いたしますれば、 利慾に奔走する人心 が、此上どの樣に罪深くなることでせうかと、 恐ろしい樣に思ひます。扨 又、ホームの教導者を先づ教へ導き、 其清素爛漫の容姿 を發揮させ、其ミッションを完 うさせるのは、 亦兩親初め其同胞の務 です。即ち世の中の關係は、總て相支へ相扶 くるの道理に基くので、 例へば、私どもが棲息 うて雨風を凌ぐ家は、矢張り私どもの手に成らねばならず、 淺瀬を教ふる子供は、是非負うて行かねばならぬと同じ道理で御座りませう。
私は深く幼子 を愛し、其恩を思ふ者で、殊に共々に珍重す可き此客人 を尚一層優待いたし度く、 切に希望いたします。夫故 幼稚園、小學校などの設けは、私の心にとつていとも尊く、悦ばしいものです。夫已 ならず、近來少年文學の類がポツ〜世に見える樣になつて來ましたが、 これも眞心より感謝して居ります。それ故、只今譯して此小さき本の前編を出しますのも、 一つには、自分が幼子 を愛するの愛を記念し、聊 か亦ホームの恩人に對する負債 を償ふ端に致し度いのみです。
賤子しるす
セドリックには、誰も云うて聞かせる人が有りませんかツたから、何も知らないでゐたのでした。
おとツさんは、イギリス人だツたと云ふこと丈は、おツかさんに聞いて、
知つてゐましたが、おとツさんが、おかくれになつたのは、極く小さいうちの事でしたから、
よく
かあさま、とうさまは、もう、よくなつて?
と、セドリックが云ひましたら、つかまつたおツかさんの腕が、震へましたから、
ちゞれ
かあさま、おとうさまは、よくおなんなすツたの?
と同じ事を云つて見ると、どういふ譯か、急におツかさんの
さうだよ、もうお愈 りなすツたのだよ、もう……すツかり、 よくおなりなのだよ。だがね、おまへとわたしとは、ふたり切りになつてしまツたのだよ。 たツた、ふたりで、もう外に何人 もないのだよ。
と、曇り聲に云はれて、セドリックは、
段々月日が經つに
ほんたうに、誰だツて、笑はずにゐられやしませんよ、あんな愛らしい樣子をして、 妙なことをお言ひなさるのだものを。まあ聞いておくんなさい。此間大統領さまの選擧があつた跡で、 臺處へ來て、兩手をポッケットに突ツ込んで、火の前にお立ちなすツた處は、丸で繪にでも書き度い樣でしたがね、 何をおいひなさるかと思へば、まあ、かうなんですよ。『メレや、僕は共和黨だよ、かあさまも、 さうなんだよ、おまへもさうかえ?』とおツしやるから、わたしが、いゝえ〜、どういたしまして、メレは民權黨の固まりですよ。』といふと、 それは〜氣の毒さうな顏付をして、『さうかえ、それは大變だよ、國が亡びるよ、 民權黨はいけないんだから。』といつて、それからといふものは、 わたしを共和黨にするといツて、毎日の樣に、議論にお出でなさるぢやありませんか。
メレは此子が大好きで、さうして、いつも大自慢でした。
此女はセドリックの誕生の頃から居るので、主人がなくなつてよりは、お三どんも、小間使も、兒守も、何も彼も一人で兼ねて居ました。
此女はセドリックの
さうさ、あれが本當の品とでもいふのだらうよ。大家 の坊ツちやまだツて、 うちのやうな姿色 や、推出しの好いのは、ほんたうにありやしない。奧樣の舊いおめしを直して、拵 へたのだけれど、 あの黒天鵝絨 の服を着て、外を歩いていらツしやるもんなら、 どんな男だツて、女だツて、子供だつて、ほんたうに振り返つて見ないもんはありやしない、 丸で華族樣の若樣の樣だ。
と人に云ひ〜しました。
セドリックは自分が若殿樣のやうだか、やうでないか知りませんかツた。
全體若殿樣といふものが、どんなものかといふことさへ、知らないのでした。
自分の一番の友だちといふは、角の
其日は朝から大層暑くツて、セドリックは、友だちと一處に兵隊の眞似をして遊んでゐて、
恐しく熱くなりましたから、休息しようと思つて、ホッブスの店に這入つて行きましたら、
ホッブスは折節朝廷の儀式の圖のやうな、
ヨシ、いまの中、さんざ高上 りをして、下々 の人を蹈みつけるが好い。 今に見ろ、蹈みつけた人たちに、いやといふほど飛ばし擧げられるから。 (是は暴徒ヂナマイトの類を指して云ふ也。)わしのいふ言 に間違はない、みンな眼を開いて見てゐろ。
と言ひました。セドリックは此時、いつもの通り、高い椅子に、ちよんぼり腰かけて、
ホッブス
をぢさんは、侯爵だの、伯爵だのといふ人、たんと知つてるの?
ホッブスは、少し腹立ち氣味に、
そんな奴知つてゐてたまるものかよ、私 の店 へでも這入つて見るがいゝ、 どうしてやるか。弱いものいぢめをする壓制貴族めらを、こゝらの明箱 へなんぞ、 腰をかけさせてたまるものか。
と
をぢさん、夫 は何にも知らないもんだから、侯爵なんぞになるンでせう?
と云ひました。すると、ホッブスが、
どうして〜、大威張なんだ。なに、生れつき道理 が分らないンだ。不埒千萬な奴等だ。
と、話の眞最中に、下女のメレが顏を出しました。セドリックはお砂糖でも買ひに來たのかと思ひましたが、 さうではなく、何かびツくりしたといふ樣子で、少し顏色が變つてゐましたが、
坊ツちやま、お歸りなさいよ、かあさまが御用ですから。
と云ひました。セドリックは、彼の高い椅子から滑り降り、
さうかえ、かあさんと一處にとツかへ行くのかえ? をぢさん、さやうなら、又來ますよ。
と云つて、メレと一處に出かけましたが、メレが肝がつぶれて、物がいへないといふ顏付で、
自分をぢツと見てゐるのを、
メレや、どうしたのだえ?暑いのかえ?
と尋ねました。
いゝえ、ですがねえ、どうも不思議な事になつて來たと、思つてるンです。
なにかえ、かあさんが日向 へ出て、頭痛がなさるのかえ?
と、心配さうに聞きました。併しさうでもなかツたのでした。家に歸つて見ると、戸の外に小馬車が
ヘン、華族だツて、上方 だツて、しやうがあるもんか、 侯爵だツて、まあ、とんでもない……
と、ぶつ〜言つてゐました。セドリックは何だか不思議でなりませんが、母の處に行つたら、何事も話して貰はれると信じ、
メレが
オヤ、セデーかえ……
と聲をたてゝ走り寄り、兩方の腕で子供を抱へ、キッスをした樣子が、
何か驚いたことか、心配なことでもありさうでした。脊の高い紳士は、椅子を離れ、彼の鋭い眼で、セドリックを眺め、眺めながら、
瘠せた頬を骨ツぽい手で撫でてゐましたが、先づ滿足せぬでもないといふ顏付でした。やがて
ハヽア、左樣なら、これがフォントルロイ殿で御座るか?
と云ひました。
これから後、一週間の内といふものは、セドリックは、驚く事
かあさん、僕は侯爵になり度くないよ、だツて僕の友だちに、 侯爵なンかになるものは、一人もいないンだもの。かあさん、侯爵にならなくツちや、どうしてもいけないの?
といひました。然るに、此事は免れられぬものと見えて、其晩、二人は表の窓から、外の見すぼらしい町を眺めながら、
久しい間其話をしてゐました。セドリックは常の通り、兩手で片膝を抱へ、低い椅子の上に坐つてゐましたが、どうやら迷惑さうな、其顏は、
つめて考へた
セデーや、おとうさんが入らしツたら、矢張りさうさせ度いと思召すだらうと、 わたしは思ふのだよ。おとうさんは大層、おうちを戀しがツて入らツしやつたお方だツたよ。さうして、おまへは、まだ年も行かず、分るまいが、 そこには色々考へなければならぬ都合もあるのだからね。全體、わたしが、お前を引留めて遣らなければ、大層我儘な母になるのだよ。おまへが、 やがて成人すれば、何も彼もすツかり分りますよ。
とお云ひでした。セドリックは、氣がなささうに、
僕はね、ホッブスをぢさんに分れるのが厭で、しやうがないンです。僕も淋しいだらうし、 をぢさんだツて、さびしがるに違ひないンだもの、それから、みンなと分れるのが、大變厭だもの。
といひました。さて英國からフォントルロイ殿が迎にとて遣はされた、
ドリンコート家附屬の代言人、ハヴィシャムといふ人が、翌日此家に來ました時、セドリックは、尚
イヤアー、お早う。
と聲を掛けました。セドリックの方でも、
お早うー。
といひました。此日は
イヤアー、どうした?
と云ひました。セドリックは、此時、一生懸命に氣を落着けて、かう云ひました。
をぢさん、昨日 の朝こゝで話をしてゐたこと、覺えてゐますか?
さうさ、イギリスの事だツけな。
エー、それから、そら、丁度メレが這入つて來た時ね?
さうだ〜、ヴィクトリヤの事だの、華族の事なンか、話してゐたツけな。
それからね、そら……、そら(と口籠りながら)、あの、侯爵の事ね、覺えてゐないの?
ほんに、さうだツけなあ、あいつ等の事も話したツけ。
セドリックは額の
をぢさん、こゝらの明箱 へ、 侯爵なンかに、腰はかけさせないツて、いつたねい?
と、又言葉をつぎました。ホッブスは、少し威張加減に、
さうとも〜、こゝらへ腰でもかけようもんなら、ひどい目に逢はせてやるわ。
をぢさん、さういふけれども、此箱の上に腰をかけてゐるのは、侯爵だよ。
と聞いて、ホッブスは、殆んど椅子から跳び落ちさうな
何を言ふンだなあー。
と、びツくり聲で云ひました。セドリックは、遠慮氣味に、
エー、でも、僕が、侯爵なンです。あの、これから、それになるンです、譃 いひやしませんよ。
といひました。ホッブスは、これは、大變だといふ顏付で、
暑氣 にちツとやられてるな、今日はまた、すてきに暑いからなあ。 全體、どんな氣持がするんだ?どツか痛いのか?いつから、そんな心持になつたんだ?
と立續けに問ひ掛けて、セドリックの
をぢさん、心配してくれて有難う。だが、僕は何ともないンです、頭はどうもしやしません。 ねい、をぢさん、僕もそれが、ほんとだツて云ふのは、厭だけれど、昨日 、 メレが僕を連れに來たのも、それなんで、ハヴィシャムさんが、僕のかあさんに、 其事を話しに來たンです。さうして其人は代言人ですと。
ホッブスは、此時、椅子にどツかり居直り、ハンケチで
なんでも、どツちか、霍亂 でもするにちげいねいンだ。
と、とんきやう聲で云ひました。
いゝえ、をぢさん、そんなことはないンですよ、ねい、をぢさん、 仕方がないから二人とも、諦めなくツちやね。だツて、ハヴィシャムさんが、態々 イギリスから其話を聞かせに來たんで、僕のお祖父さんがよこしたンですと。
ホッブスは、呆氣に取られて、セドリックの眞面目な、あどけない顏を、見詰めながら、
おまへのおぢいさんとは、それは一體誰なんだ?
と尋ねました。
セドリックは、ポッケットの中に手を入れて、丸ツこい、子供らしい
僕はよく覺えてゐられなかツたからね、これに書付けて置いたンです。 (といひながら胡亂 な調子で、ドリンコート侯爵、ジョン、アーサ、モリノー、エロルと讀上げ) これが僕のお祖父さんの名なンです。さうして、お城に住んでゐるンですと。 さう〜、二つも三つもお城があるンですと。僕のとうさんね、死んだ僕のとうさんは、 一番の末子 で、僕は、とうさんがおなくなりなさらなければ、 侯爵になんか成りやしないンで、それから、とうさんの兄さんが二人おなくなりなさらなけりや、 とうさんも侯爵にならない處だつたんだけれど、みンな亡くなツちまつて、 僕きり殘つてゐて、他に男の子がないからね、僕がならなけりや、いけないンですと。 だから、僕のお祖父さんが、イギリスへ來いツて、迎ひによこしたンですよ。
ホッブスは、ます〜
おまへの名は……なんだツけな?
と問ひかけました。
あの、フォントルロイ殿、エロル、セドリックといふンです、 ハヴィシャムさんが、何んでもうさういひましたツけ。僕がね、 最初座敷に這入つて往つたらね、『これがフォントルロイ殿で御座るか。』ツていひましたツけよ。
フーン、おらあ、あきれツちまつた!
ホッブスをぢの、此言葉は、いつも非常に驚いたとか、氣の揉めるとかいふ時によく出ましたが、
差當り、仰天のあまり、他にいふことを思ひ付かなかツたのでした。
セドリックは、矢張り是が相當な、差支のない歎息の言葉と許り思つてゐました。
ホッブスを非常に敬愛して居る處から、
をぢさん、イギリスは大變遠いンだね?
と尋ねました。
さうさ、大西洋といふ海を渡つて、向うだよ。
と答へました。
僕は、それが厭なンですよ、ひよツとすると、いつまでか逢はれないね。 をぢさん、僕はそれを考へると、厭でしやうがないの。
親友も、離れざるを得ず、といふことがあるわ。
と、ホッブスがいひました。
さう、をぢさんと僕とは、幾年か親友だツたんだね。
さうとも、おまへが生れるとからだ、おまへがはじめて此町を抱かれて歩いたのは、 何でも、生れてから四十日程たつてからだツけ。
セドリックは、溜息をつきながら、
アヽ〜、僕は其時分、侯爵なんかならなけりや、いけないツて、思はなかツたツけ。
おまへ、よす譯には、いかないのかな?
どうも、さうは行かないやうですよ。かあさんがね、とうさんが入らツしやれば、 きツとさうさせ度いツておツしやつるだらうて云ひましたよ。だがね、僕はどうしても、侯爵にならなくツちやいけないンなら、 かうする積りですよ。ねい、僕は極く好い侯爵になるンです、壓制家になんかはならないンです。さうして、 も一度アメリカと戰爭しようなんていはうもンなら、僕が一生懸命に止めませうね?
これから、ホッブスと、久しき間、仔細らしく話をしてゐました。最初の不審が解けてからは、ホッブスは存外
併し、ハヴィシャム氏の驚いたことは、まだ外にいくらも有りました。
是は、イギリスに一生を送つて、米人と米國との風俗は、少しも見慣れて居らなかツた故でした。
職務上、ドリンコート家には、四十年間も關係して居りまして、之に附屬してゐる莫大の富も、
威光も好く知つてゐることゆゑ、自分は、全體、冷淡な
最初、先づエロル夫人に來意を告げました時、夫人は忽ち顏色を變へました。
オヤ、左樣ですか、左樣ならば、私は、あの子を手離さねばならぬのでせうか? まあ、あの樣によく懷 いて居りますに。只今まで心を盡して養育いたしますのが、 此上もない樂みで、そして他に何の樂みもない私にとつては、人の知らぬ程大事な子で御座りますのに……
といふ聲の震へた處は、如何にも愛らしく、眼には涙を一杯に
ちと申し惡 い事ですが、老侯は尊夫人 に對して、エー、その…… ひどく打ちとけては居られぬので、イヤ御承知の通り、老人と申す者は、兎角偏頗 な者でな。老侯も其偏頗心 の甚だ強い方で、一度思ひ込んだことは中々解きにくいのです。殊に米國といひ、 米國人といへば、一途に嫌ひな質 で、實は御子息の御結婚の事に付いては、 イヤ大した立腹で御座りました。愚老も實 以て、面白からぬ御沙汰の使者として推參致すは、 迷惑な次第です。併し早い話が、老侯は尊夫人 とは斷じて顏を合すまい、 たゞフォントルロイ殿は手元に引取り、自ら其教育の任を執り度いとの御所存で御座る。 元來、老侯は、ドリンコート城には餘程執心で、お住居 はおも御城中で、 炎症痛風を惱まるゝが爲、都には餘り御滯在はないのです。それ故、フォントルロイ殿も、 矢張りおもドリンコート城に御住ひになることで御座らう。尊夫人 はコート、ロッヂと申して、此城郭に遠からぬ、家屋を呈し、 又之に加へて適當なる歳入も差向けらるゝ御所存で御座る。且フォントルロイ殿が、爰 にお出入有つて母君の御機嫌を伺はるゝことは自由にいたし置かるゝ筈でござる。 只差留置かるゝは、御對面のことと城郭への御出入とのみで御座る。 只今申し上ぐる通り故、先方の申分も、さほど無理ならぬことかと存じます、テ。殊に申す迄もなく、斯くなる上はフォントルロイ殿にとりては、 教育其他萬事に如何程に御利益か測られませぬこと故、篤 と御勘考を願ひます。
と述べ立て、さて婦人は兎角涙もろいもの、かう聞いて泣出されては、
苦々しきことと、
カプテン、エロルも、ドリンコートを大層に慕うて居られました。 お國の事と云へば、何事もひどく懷かしく思召して、お家を離れて居らるゝが、始終御苦勞の種で有つたのでして、お家の事も御家名の事も、 格別大切に思はるゝ方でしたから、其子に故郷 の立派な處も見せ、 殊には又未來に賜はるといふ、爵位に對して、相應な教育を受けさせたいと、 若し御存命ならば、思召すは必定で御座ります。
といひ
夫が、矢張りその通りに致し度いと、思ふだらうと存じます上は、 私には他の考へも御座りません。仰せの通り、子供の爲には結構なことで御座りませう。 そしてあの侯爵樣は、まさか子供が此母を嫌ふ樣には、お躾け遊ばすことも、あるまいかと存じられます。萬一、左樣に躾けようと思召したとて、 子供の害にはなりますまいかと思ひます。眞 に父によく似て、 温和で忠實な質 ですから、假令 、長の年月顏を合せませんとても、 私を思ふことには、變りは御座りますまい。まして折節の對面をお許し下さるとならば、格別申分は御座りません。
と何氣ない言葉を聞いて、老人は心の中に、さては心得たる婦人、自分の勝手とては、露ほども思はぬと見えて、 別段先方に要求らしいことも申し出さないのかと考へ、
イヤ、尊夫人 が只管 、御子息の行末のためにと、 御配慮あるは、此老人も實に感服に存じまする。フォントルロイ殿も、御成人なりたる上、如何ほど悦ばるゝか、計られませぬ。 以來フォントルロイ殿の御一身、御幸福の爲には、老侯にも十分御盡力ある御所存なれば、 其邊は御心易く思召して、宜しからうと存じます。きツと老侯には尊夫人 に代つて、どこまでも御保護、御鞠育 あることはお請合致して置きます。
と聞いて、優しい母心に、少し思ひ迫つて、震へ聲になり、
どうぞ侯爵さまには、セデーにお目かけられて、愛して下されば好うございますが、 あれは氣立が誠に人懷こい方で、これまで優しく扱はれつけて居りますから……
といひましたが、ハヴィシャム氏は之には速答が出來ず、手持なさに又しはぶきしてゐました。
心の中に、どうか彼の
フォントルロイ殿は、きツとお氣樂には相違御座りません。畢竟尊夫人 が近隣に御住ひなさる樣、お取計ひあつたと云ふも、 フォントルロイ殿のお心の中を、推測つての御配慮で御座る。
と賢くも答へました。ハヴィシャム氏も、流石侯爵殿の申された通りを、
其のまゝ傳へるに忍びず、
へい〜、造作もなく見つかりますとも。又いつもの通り、今時分は、 ホッブスさん處 の帳場の傍 に、お腰をかけて、政事の話をして入らツしやるか、さうでなけりやあ、シャボンや、 蝋燭や、馬鈴薯 のあるなかで、御機嫌で遊んで入らツしやるに、ちげい御座いませんよ。 え、どうもお利發 で、お可愛いンですからね。
と、メレがいひました。エロル夫人は、其跡を繼いで、
はい、あの、ホッブスと申す人は、セデーが生れた時から御存じで、 大層深切にして下さるので、セデーが、實 にお近しいのでござります。
自分が角を過つた時、ちツと目に這入つた
御子息は、誠にお巧者の質 に見受けられます。
と、母に向つて申しました。
左樣で御座います、ことによると、さうかと存じます。物覺えは極く宜しい方で、 只今まで、主に年上な人と許り居りましたから、聞き覺えや、讀み覺えの六ヶしい言葉を遣ひましたり、 ませたことを申したりする癖が御座りまして、折々大笑ひをいたします。仰せの通り、どちらかといへば、巧者な性質 でせうが、 又時としては矢張り、極々子供らしう御座ります。
此後、ハ氏が再びセドリックに出逢ひました時、母の申されたことを思ひ合せて、
みンな好いかえ?一ツちで始まり……二ツで確乎 ……三ツでやれい——
と呼ばはつてゐました。ハ氏は我知らず首を馬車窓の外に出して、大層實を入れて勝負を眺めてゐましたが、
合圖の言葉と共に跳出した
セデー、ヤッツケローイ。ビレー!負けるナーイ。ヤレイ!ヤッツケローイ!
ハ氏は
矢張りこちらが勝ちさうだ。
といつてゐました。彼の
どうぞして、勝たせて見度いものだ。
と又我知らず獨りごちて、あとで人もゐぬに、間のわるさうに
ヤア、やツたな、セデー、エロル!えらいぞッ!
と朋輩等が叫びました。ハ氏は、此時暫し馬車の窓から首を引こめて、にこ〜しながら、後に寄り掛りました。
フォントルロイ殿、大 でかしで有つた。
と、又
ねえ君、僕が勝つたのは、僕の脛 が君のより少し長いからだらうよ。 なんでも、それにちがひない。ねえ君、僕は君よりか三日早く生れたらう、 だから、それが僕の得になつたんだね。僕は三日丈、君の上なんだもの。
と勝負に不首尾な自分の競爭者を慰める積りか、言つて居ました。かう思つて見ればビレも心わるくない、段々白い齒を露しかけました。
そして、其中に却つて自分が勝ちでもしたかの樣に、少し威張り氣味に成りました。
セデー、エロルは、どういふものか、人の不機嫌をなだめる方法を知つてゐました。自分が勝利を得て心の浮々してゐる時でも、負かされた人は、
自分ほど愉快ではあるまい、かうならば勝てたものと思はれゝば、
幾分かの心遣りになるだらうと、人の心の中を
其日、ハヴィシャム氏は、彼の走り
あなた知つてますか?僕は侯爵といふものは、どんなもんだか知らないンですよ。
さやうでござるか?
とハ氏に云はれて、
エー、知らないンです。ですが、僕みた樣に、侯爵になる人は、 知つてなくツちやいけませんかね?どうでせう?
左樣さ、まあ、そんなものでせう。
と、ハ氏が答へました。セデーは慇懃に、
あなた、僕にセイメイ して下さいな。(折々長い言葉を遣ふ時は少し誤ることあり。) 全體誰に侯爵にされるンです?
ハ氏は、此問に對して、
最初は君王とか、女皇とかが、其侯爵を授け給ふので、 大抵は、何か主君に對して勳功が有つたとか、大事業を起したとかの爲に、侯爵に擧げられるのです。
と、答へましたら、
アヽ、さうですか?そんなら大統領も同じものですね?
と、セドリックが申しました。
左樣か?お國の大統領の選擧されるのは、全く左樣な譯ですか?
エー、大變な好い人で、色ンなこと知つて居れば、大統領に選ばれるンです。 それから炬火 で行列をしたり、樂隊が出たり、皆 が演説をしたりするンです。(此時侯爵になり度くなかツたのだと思はせて、ハ氏の氣を損じてはと心配し、言葉忙 しくいひ替へて、)あの僕だツて、 侯爵といふもの知つてたら、なりたかツたかも知れませんよ、だけど知らなかツたんですからね。
と、いひました。
それは、大統領になつたとは少し譯が違ひます。
と、ハ氏が説明いたしました。
さうですか?そんならどんなに違ふンです?炬火 の行列なんかないンですか?
ハ氏は、今度は自分の
第一、侯爵といふものは、大層な格のあるものです。
と聞いて、セデーは、話の
大統領もさうなンですよ。松明 の行列は、二里も續くンです、 さうして花火を揚げたり、樂隊がなつたりするンです。 ホッブスをぢさんが連れてツて見せて呉れたンです。
ハ氏は、説明の腰を折られて、少し手持無沙汰に感じつゝ、
侯爵といへば、大抵は極く舊い門閥なンです。
と跡をつゞけました。
エー、それは何の事です?
と、セデーが問ひました。
大層舊い家がらのことです、甚だ舊いのです。
と聞いて、セデーは兩手を尚深く、ポッケットの中に突込みながら、
アヽ、さう、そんならあの公園の側の、林檎屋のお婆さんとおなじことですね。 あの人はきツとその舊いもん……もんぱつ でせう。だツて、どうも年をとつて〜、 どうして歩けるかと思ふ樣です。きツともう百位でせうよ。ですけれど、雨が降る時でも、やツぱり彼處 へ出てゐるンです。 僕大變可哀さうだと思ふンです。さうして僕の友だちも氣の毒がるンです。先 ツにね、ビレが一圓ほど金を持つてゐましたから、 僕がね、其お金が、みンなになるまで、毎日五錢づつ林檎を買つて遣り給へツて云つたンです。 さうすると、二十日になるンです。ですけど、一週間たつとビレが林檎が厭きツちまツたンです。 それでも、その時は、大變好い鹽梅でね、僕が丁度餘所 のをぢさんに五十錢貰つてね、 其代りに僕が買つたンです。だれだツてあんなに貧乏で、舊いもん……もんぱつの人は可哀さうですわね、 其おばあさんの、もんぱつなンかは、骨の中に這入ツちまツたンださうで、 雨が降れば尚わるくなるンです。
こゝに及んで、ハ氏は、對坐してゐる相手のあどけない、まじめ顏を眺めて、又手持無沙汰で、暫く言葉を續けられませんかツた。
あなたは、此老人の云ふことが、よく分らなかツたのでせう。 舊い門閥といへば、年をとつたといふことではないのです。舊い門閥といへば、其家の名が昔から世の人に知られてゐるのです。 大抵何百年といふほど、其名が人に知られ、國の歴史に載つてゐるものの事です。
それぢや、ワシントンの樣なンですね。僕なンかもう先 、 生れた時から聞いて知つてますよ。さうして、其前も、先 ツから人が知つてるンですよ。 ホッブスをぢさんがいつになつても、人が忘れやしないツて云ひましたよ。 それは、あの獨立の布告や何かのせゐです。それから七月四日の祭もあります。大變えらい人なンですもの。
抑 も第一世ドリンコート侯爵は、四百年の昔に位爵を授けられたお方です。
と、ハ氏は、嚴格に又説き始めました。
オヤ〜、それは大變な昔のことですね。あなた、それを僕のかあさんに話しましたか? きツと面白がりますよ。だツて、珍しいこと聞くのが、大好きですもの。 今にこつちへ來たら、二人で話して聞かせませう。侯爵が授けられてから、それからどうするンです。
其中で、英國の政事をとつたものも多くあります。 又は豪傑で、昔の大戰爭に出たのも有ります。
僕もさういふことがして見度いンです。僕のとうさんは、戰人 だツたンです。 さうして、大變な豪傑だツたんです。ワシントン見た樣な豪傑だツたンです。 だから、死ななければ侯爵になつたのかも知れませんね。僕は、侯爵が豪傑なら、 大變嬉しいンです。豪傑では、大層な利イキ です。僕は先 はね、 恐かツたンです。暗い處なンかね……だけど、革命の時の戰 の事や、 ワシントンの事なンか考へたら、もう直ツちまつたンです。
ハ氏は、例のゆる〜した調子で、妙な顏付をして、鋭い眼を、セデーに注ぎながら、
侯爵になれば、まだ他に利益が有ります。侯爵は、大抵は、大金持です。
と云つて、此童兒が、金の勢力といふものを知つて居るか居らぬかと、
眼を
お金が有れば、大變好いものですね、僕も、お金が澤山ある方が好きです。
左樣か?それは又何故です?
と、ハ氏は
だツて、金が有れば、色ンなことが出來ますもの、あの林檎屋のおばあさんに、 僕が金が有れば、あの露店 を入れる天幕と、火鉢を買つてやり、さうして、 雨が降る日には、毎 でも一圓づつ遣りますわ。さうすれば、 店を出さずと、家にゐられますもの。アー、それから……あの腰掛一つ遣りますわ、それがありさへすれば、骨がそんなに痛くはないンです。 あのね、あのお婆さんの骨は、僕たちのとは違つて、動けば痛いンですからね、骨がそんなにいたければ大變困るでせう、あなたや僕たちだツて。 僕がお金が有つて、それ丈、みンなして遣れば、骨がよくなるか知らんと思ふンです。
ハ氏は、
エヘン(と咳嗽 し、)それから、お金が有れば、まだ何をするお積りです?
まだ〜色ンなことをしますわ。第一、かあさんに、色ンな綺麗な物買つて上げます。針簿 だの、扇だの、金むくの指貫や指環だの、大字書だの、それから、 馬車だの買つて上げますわ。自分の馬車が有れば、乘合が來るの、待つてゐなくツても好いですからね。 それから、桃色の絹の着物が好きならば、買つて上げるけれど、黒のが一番好きなンです。 だから、大きな店へつれて行つて、色ンな物見せて、かあさんの一番好きなもの、 なんでも、おとンなさいツて云ひますわ。それから、ヂックね……
ヂックとは、誰のことです?
と、ハ氏が問ひました。
ヂックといふのはね、靴磨人 で、さうして、 大變好い靴磨人 なンです。いつでも、下町の角に立つてゐますよ。 さうして、僕は、もう幾年か前から知つてたンです。先 にね、 僕がまだ小さかツた時、僕がかあさんと一處に、外あるいてゐてね、かあさんが、 僕にぽん〜飛ぶ綺麗な鞠 買つて下すツてね、僕が持つて歩いてたら、 馬車だの馬だのゐる通りの眞中へ飛んでツちまつたでせう。だもんだから、 僕が大變失望して、泣いてたンです……僕、まだ小さかツたもんですからね、まだ女の子の着る着物なンか着てたンですもの。其時に、ヂックが、 人の靴を磨いてましたツけが、『イヤアー』と云ひながら、馬の歩いてる中へ駈け込んで、其鞠 を取つて來てね、さうして、 自分の着物で拭いて、『ソレ坊ツちやん、何んともないよ。』ツて、僕に呉れたンです。だもんだから、かあさんが、大變感心して、 僕も感心して、それからツていふものは、僕たちが下町へ行くたンびに、ヂックにものをいふンです。ヂックが、『イヤアー』ツていふから、 僕も『イヤアー』ツていつて、それから少し話をして、ヂックが、 商賣がどうだなンて話すンですが、近頃は不景氣だツていひましたよ。
と、
左樣ならば、あなたは、其ヂックとやらに、何かして遣り度いと仰しやるのですか?
と
エー、僕は、金で、ジェークの方 をつけて仕舞ひたいンです。
ハヽア、其ジェークとは、又誰のことです?
ジェークツていふのはね、ヂックの商賣仲間なンです。さうして、 どうも大變わるい仲間なンです。ヂックが、さういふンです、ちツとも正直でなくツて、 あゝいふ人がゐると、商賣の爲にわるいツて。よく人を欺 かしては、 ヂックを怒らせるンです。あなただツて、一生懸命に靴を磨いてゐて、 始終キチャウメンにしてゐて、あなたの仲間が、ちツとだツて、 キチャウメンでなくツて、ずるい事許りすりやあ、おこるでせう。 ヂックは、人に好かれるンで、ジェークは嫌はれるンです。だから、二度と、ジェークの處へは來ないンです。ですから、僕がお金が有れば、 お金を遣つて、ジェークの方 をつけて、ヂックには目にたつ看板を買って遣り度いンです。 ヂックが、看板があれば、大變都合が好いンだツて云ひますもの。それから、新しい着物と、新しい刷毛 を買つて遣つて、 とりつかせて遣り度いンです。ヂックが、何でも初めのとりつきが出來さへすれば、 好いツていつてるンです。
と聞き覺えたヂックの
あなたは何か……金持になつたら、あなたは、御自分の物に買ひ度いものは有りませんか?
と尋ねました。フォントルロイ殿は早速に、
それは澤山有りますわ。だけど、それより、メレの妹にお金を遣りますわ。 だツて、子供が十二人有つて、亭主が仕事がないンですもの。いつでも、こゝへ來ては泣くンです。さうしてかあさんが籠の中へ入れて、 なんや遣ると、また泣いて、『どうも奧さま、お禮は申し切れません。』ツていふンです。それから、ホッブスをぢさんに、金の時計と、鎖と、 ミヤシャムの煙管 とを置土産に上げ度いと思ふンです。 それから、こんどは、僕がし度いことが有るンです。
と云ふのを聞いて、
それは、また、どういふことです?
僕はね、共和黨の時の樣に、行列がして見度いンです。僕の友だち、 みンなと、僕との制服を拵へて、さうして、行列をして、調練するンです。 僕が金持ならば、かういふことを一つ遣つて見度いンです。
セドリックが、ます〜いきせきと話をしてゐる所へ、戸が開いて、エロル夫人が座敷に這入りました。
據處 ないことで、ひどく手間どりまして、誠に失禮いたしました。 只今、大層困窮をして居る女が、逢ひ度いと申して參つたので……
と、ハ氏に會釋して申しました。
ハヽ左樣で御座りましたか。イヤ只今御子息がさま〜゛御朋輩 のことや、 金滿家と成つた上は朋友の爲にかう〜して遣らうなどと、お話最中の所でした。
矢張りセデーが友だちと申す人で御座りますが、只今臺處で、 夫の病氣、彼是 で、ひどく困難いたす樣に申しまして。
此時、セドリックは、彼の大椅子の上から滑り下り、
僕、ひとつ行つて、逢つて來ませう。さうして、あの人の病氣を尋ねて遣りませう。 病氣でないときは、いくら好い人だか。いつか僕に木の刀 を拵へて呉れましたよ。大變な才子です。
といひながら、座敷を駈出しました。ハ氏は、此時少し座を正して、何か、エロル夫人に、改めて言ひ出づる樣子でした。
ハ氏は、猶暫く躊躇してエロル夫人の樣子を窺ひ、さて申しますに、
愚老が、ドリンコート城を出立致す前、老侯にお目通り致して、取計ひ方に付き、種々 御指圖を蒙りましたが、御嫡孫に於て、此度 英國へお引移相成ること、竝 に初對面のことなども、 成る可く歡 んで御待ちうけ相成る樣、注意いたせといふ仰せで御座りました。 それ故、御一身上大變動の起つたに付いては、御年輩相應な物でお悦びになるものは、 何に限らず、調へて差上ぐる樣、又お望の事は、何なりと御滿足ある樣致して、總 べて老侯の賜 と申し上ぐる筈に御座りますれば、 貧民を補助するなどのことは、或は老侯の御意中に無かツたこととは存じますが、是とて、フォントルロイ殿の御懇望とあれば、是非ないこと、 矢張り、御滿足ある樣御取計ひ申さずば、御勘氣を蒙るは必定で御座ります。
此時も亦
それは〜、侯爵さまの御深切、誠に有りがたう存じます。セデーも、 さぞ悦ぶことで御座りませう。ブリジェットと申す其女と、其つれあひとは、 大層セデーの氣に入りで御座りまして、一體誠に實直な好い人たちなので御座ります。 私も、始終、もそツと何 か致して遣り度いと思つて居りますが、兎角手が廻り兼ねまして…… 其つれあひと申すは、平生丈夫な時には、誠に實體 に働く方で御座りますが、久しい間病 つて居りまして、高價な藥や、時候相應な着物、又滋養物などもなくてはならぬので、大層困難をして居ります。 兩人とも、頂戴したものを麁末 にいたすことは必ず御座りますまい。
と申しました。ハ氏は、此時、痩せた手を胸のかくしに入れて、大きな紙入を取出しましたが、其鋭敏な容貌には、
何とも一寸鑑定のつかぬ思ひ入が現はれて居りました。其實、ハ氏は、心の中に、フォントルロイ殿が、
先づ第一に所望されたことの趣は
まだ御承知にはなりますまいが、ドリンコート侯爵は、至極御富裕で、 フォントルロイ殿の御所望とあらば、多少御氣隨な向も、決して遠慮せず、御滿足ある樣取計ツて差支は御座りません。 却つて老侯のお氣に叶ふ位のことゆゑ、只今フォントルロイ殿をおめし寄せ下さらば差むき、 五ポンド丈、お話の貧民救助として、お渡し申すで御座りませう。
と聞く、エロル夫人は嬉しげに、
五ポンドと申せば二十五圓に當ります。兩人にとつては、大金で御座ります。 思ひ掛けないことで、私までが夢の樣に存じられます。
ハ氏は、例の冷淡らしい笑顏になつて、
イヤ、御子息の御生涯には、既に大變動が有つたので、 以來は容易ならぬ權力をお握りなさることで御座る。
さうおツしやれば、ほんにさうで御座ります。まだ、あの通り頑是ない子で…… 誠に頑是ないので御座りますに、私がまあなんとして、其權力を暴用せず、適宜に、用ゐますやう教へたら宜しう御座りませう、 私は子供の爲に實 に氣遣はしう存じます、あの樣に幼いので御座りますもの!
流石、ハ氏の冷淡、世才的の心も、夫人の
イヤ、今朝 フォントルロイ殿にお目通りして、お話しいたしたことより愚考いたしまするに、 ドリンコート侯爵の位に登らるゝ上も、人を忘れて、己 の爲に謀るなどというお擧動 は、 必ず御座りますまい。只今は、まだ御幼年では在らせられますが、決して、御心配には及ぶまいと愚考いたします。
此時夫人は、セドリックを迎へに行かうとして座を立ち、つれ歸る道すがら、
セドリックが、何か
かあさん、あの焮 ……焮衝 リャウマチだツてね、 大變なリャウマチなンですね。それから、家賃が拂へないことなンか考へると、 其きん……きんさうが尚わるくなるンだツて、ブリジェットが言ひましたよ。 それから、バット(息子の名なるべし。)も着物さへ有れば、小僧に行かれるツてねえ、かあさん。
といふ聲が聞えて、さて座敷に這入つた時の顏は、大層に心配らしく、
あなたが、僕、呼んで入らツしやるツて、かあさんがいひましたよ。 僕は、あの、ブリジェットと、話をしてたンです。
ハ氏は、
ドリンコート侯が……
と云ひかけて、跡はお頼み申すといはぬ許りに、エロル夫人の
セデーや、侯爵さまは、おまへのお祖父樣なのだよ、おまへのおとうさんの、 ほんたうのおとう樣なのだよ。其お方は、大層御深切で、おまへの樣な、御自分のお子たちは、みンなおなくなりなさツたもんだから、 おまへを大變可愛く思召して、一つには、おまへがおぢいさまにお懷 き申す樣にさせ度い、 又一つにはおまへを樂しませ、人を助けることも自由にさせて遣り度いと思召して、 御自分は大層御有福で、おまへの慾しい物は何でも遣り度いとツて、 ハヴィシャムさまにさう仰しやつて、おまへのに澤山のお金をおよこし遊ばしたのだよ。 そして今其お金をいくらかブリジェットに遣つても宜しいのだよ。あの、家賃を拂つたり、亭主に何もかも買つて遣られる丈ね。 セデーや、好いだらう、嬉しいだらう、好いおぢいさまぢやないか?
と云つて、子供の丸々した頬にキッスをしましたが、其頬は、今おもひ掛けなく聞いたことに仰天して、
今、頂戴な、僕、直と遣つて來ても好いですか? もうぢきに行つてしまひますもの。
ハ氏は、
ブリジェットや、一寸お待ちよう、さあ、お金を遣るンだよ。お前のだから、 家賃を拂ふんだよ。僕のおぢいさんが、僕に下すツたンだよ。おまへとミチェルに遣れツて。
ブリジェットは、仰天聲、
アレ、セデーさま、どうしますべい。二十五圓ぢや御座りましねいか? 奧さま、まあ、どこにおいでなはる?
これを聞いて、エロル夫人は、座を立ちながら、
どれ、私が一寸行つて、よく譯を云つて聞かせて參りませう。
跡にハ氏は獨り殘されて、窓ぎはに立寄り、つく〜゛思案顏に、外を眺めてゐました。
心の中に考へて居つたは、今ごろ、ドリンコート城中の壯麗を極めた書齋の中に、身は奢侈と華美とに圍まれてこそ居れ、
まあ、泣いてましたよ!さうして、嬉しくツて泣くんだツて云ひましたよ。 僕、嬉しくツて泣く人、初めて見ましたよ。僕のお祖父さんは、大變な好い人なんですね、僕はそんなに好い人だツて知らなかつたンです。 それからね、侯爵になるのは、あの……僕が思つたよりはよツぽど好いもんですねい。 僕は侯爵になるの……あの隨分……大變嬉しくなつて來ましたよ。
次の週の内に、セドリックは、侯爵になり利益をます〜知り始めましたが、
併し何事でも自分の望む通り殆ど叶へられぬことのないといふことは、
中々セドリックの心に呑込めぬ樣子で、いつまでも十分には合點が行かなかツたのでした。
併しハ氏と段々話をする中に、自分の差當り望むことは、皆叶へられるといふこと丈は、
やう〜呑込めて來た樣でした。それは又セドリックの望の單純なことと、
其滿足しての悦びを見る事とは、ハ氏に取つて餘程の
だツて、僕はイギリスへ行つて華族になるんだもの。さうしてね、 僕、雨が降るたんびに、お婆さんの骨のこと考へるのは厭だもの。僕の骨なんかはね、ちツとも痛くはないんだよ。だから、 僕はどんなに痛いんだか知らないけれど、僕はお婆さんが氣の毒でね、早くよくなければ好いと思ふんだよ。
さて露店のあるじは、餘りの事に、自分に格外な果報の向いて來たことは合點行かず呆氣にとられて、 開いた口も塞がらぬ中に、兩人ははや立歸りました。セドリックは、
あの林檎屋のお婆さんは、大變好い人ですよ。先 にね、僕がころげて膝を擦りむいた時、 たゞで林檎を呉れたンですもの。それから、僕は始終あのお婆さんのことを忘れないんです。 誰だツて、深切にして呉れた人、忘れられませんわねい。
と云ひましたが、其正直、單純な心には、人の深切を忘れるものが世には
ナンデイ!かつがうたツて、知つてらあ!
あのね、誰だツて初めは本當ぢやないかと思ふんだよ。ホッブスをぢさんなんかも、 僕が霍亂 してゐるのかと思つたンだよ。僕も、初めは厭でたまらなかツたけれど、今はもう慣れてよくなつたンだね。 今の侯爵樣はね、僕のお祖父さんで、なんでも、僕が仕度い樣にしろツて、大變深切な人だよ、さうして本當の侯爵なンだよ。それから、 ハヴィシャムさんに預けて金をたんと僕によこして呉れたンだから、 ジェークのかたをつける樣に、君に少し持つて來てやつたンだねい。
それならもう失敬!これから繁昌したまへ。僕は君と別れて行くのは厭だけれど、 僕が侯爵になつたら、又來るかも知れないよ。君と僕とは親友だから、 手紙をよこしてくれ給へ、これは手紙をよこす時の所書 だよ。さうして僕の名は、セドリック、エロルぢやないよ、 フォントルロイ殿といふンだよ、失敬!
と、何氣なく云はうとしても、聲が少し震へて、さうして例の大きな茶色の眼を妙に
行ツちまはなけりや好いなあ。
と云つて、ハ氏に向ひ、會釋しながら、
旦那、どうも色々有難う。逢ひに連れて來て呉れて有りがたう。どうも妙な子で、 大變可愛くツて、ヘイ、エイ……其威勢の好い奴で、エー……エー……妙な子で。
と口籠りながら云ひました。さうして、セドリックの威勢の好い姿が、
脊高く、
をぢさん、なんか書いてあるよ、箱の中に、僕が、書いてくれツて頼んだンです。 ねい、『ホッブス氏 に呈す、舊友フォントルロイより。』でせう。
ホッブスは又烈しく鼻をかみました。さうして、ヂックの樣な、かす〜した聲で、
わしは忘れやしないが、おまへも英國の貴族の中に這入つて、わしを忘れちや困るよ。
僕、だれの中へ這入つたツて、をぢさんを忘れるものかね。僕は、をぢさんとゐた時が、一番嬉しい時だツたもの。 いつか、をぢさん、僕に逢ひに來て下さいな。僕のお祖父さんは、きツと大變嬉しがりますよ。僕が行つてをぢさんのこと話せば、 をぢさんにお出でなさいツて、手紙をよこすかも知れませんよ。をぢさん……をぢさん、あの、僕のお祖父さんが、侯爵なの、 かまやしないねい?あの若しお出でなさいツて云つたら、侯爵だから厭だなンて云やしないねい?
ホッブスは寛大らしく、
よし〜、さうしたら逢ひに行かう。
と云ひまして、そこで侯爵殿から、ドリンコート城に暫時來遊あれと、
丁寧なる招待状の來ることがあれば、ホッブスが、共和主義の
遂に、旅支度も
かあさん、ふたりとも此家好きだツたンですね? いつまでも好きになつてゐませうねい?
母は、低い優しい聲で、
セデーや、ほんにさうだよ。
それから馬車に乘り移つた時も、セデーは、殊さらに近く母にすり寄り、母がなごり惜さうに馬車窓から振り返つて見てゐました時、
セデーは母の顏を
イヤア、駈けツ通して來たンだよ、おまへに逢はうと思つて、大變な繁昌でね、 昨日の儲けで之を買つたンだ。おまへ、えらい人ンとこへ行つたら、持つて歩きねえよ。下で上げねえツていふもンだから、おれが騷ぐ内に、 包み紙が、とツか行ツちまツたんだ。そら、ハンケチだぞ。
と、のべつに言つて、セドリックが何とも返事の出來ぬうちに、合圖の鐘の鳴るのを聞いて、又
さいなら!えらい人ンとこへ行つたら、持つて歩きねえよ。
といふ聲を殘して、影は見えなくなりましたが、間もなく、込み合ふ中をくゞりぬけて、下の甲板に下り、波止場に足をかけるかかけぬに、
棧橋は船に引上つてしまひましたが、波止場に立ち止つて
さよなら!皆さん、さよなら!忘れては厭ですよ!リヴァプールに着いたら、 手紙をおよこしなさい!さよなら!さよなら!
と誰云ふとも知らず、暫く鳴りも止まず、きこえました。フォントルロイ殿は、欄干に
ヂックや、さよなら、有難うよ、ヂックや、さよなら!
と呼ばはつて居ました。すると、大きい蒸氣船は、靜かに動き出し、人々はまた大聲に呼ばはる。セドリックの母は、
ヂックや、さよなら!
と呼ばはつて居りましたが、汽船の
此の船旅の
セデーや、わたしの家といふのは、お城から大した遠いのではないよ、 少うし許りしか離れてゐないから、おまへが毎日駈けて來て逢へる位なのだよ。それから、おまへが色々かあさんに話すことが出來るだらうし、 いくら嬉しいか知れないよ、ねい?お城といふのは、大層美しい處だツて、 とうさまが、ようく話をなすツたツけよ。とうさんは、大層そこがお好きだツたが、おまへも、きツと好きになるよ。
と、其話が出る度に、かう申してはなだめました。セドリックは、大歎息で、此話を聞き、
さう、それでも、かあさんも一處なら、尚ほ好きになるわ。
と、云ひました。子供心に、母と自分とを別々の家に引別けるといふ不思議な取計ひがどういく譯かと、
思ひ惑はずに居られませんかツた。實は、
わたくしは、どうも云つて聞かせぬ方が良いかと思ひます。 聞かせました處で、よくわかりも致しますまいし、却つて驚いて、心持をわるくする許りで御座いませうから。それから又、 お祖父樣が、わたくしをそれ迄にお嫌ひ遊ばすといふことを承知いたさぬ方が、 心置きなく其まゝ、お懷 き申さうかと存じます。セデーは、これまで、 凡そ、憎しみとか不人情とかいふことを、一切見聞きいたしたことが御座りませんから、 だれか、わたくしを憎む者があるなどと申しましたら、それこそ、大した驚きで御座りませう。あの通り、やさしい子でござりますのに、 わたくしを思うて呉れますのが、亦一通りならず深いので御座りますから。 どうしても、ずツと年をとりますまでは、申して聞かせぬ方が、自分の爲のみか、 侯爵さまのお爲にも、宜しからうかと存じられます。若しさもなくば、セデーが、 あの通りな子でも、矢張りお祖父樣との間に隔てが出來ようかと存じます。
それ故、セドリックは、自分が、年をとるまでは、分らない理由があつて、
かういふ都合になつて居るので、大きくさへなれば、それが話して貰はれるかと思つてゐました。
尤も、不審に考へられることは考へられましたが、畢竟
僕はどうもそれが厭なンです、どの位厭だか、あなたが知らないほど厭です。 だけど、世の中には色々苦勞があるもので、誰でも辛抱しなければならないツてね。 メレもよくさういひ〜しましたし、ホッブスをぢさんも、さういつたことが有りましたよ。 それから、かあさんが、お祖父さまのお子がみンな死んでしまツたんで、 それは大そう悲しいことだから、お祖父さまと御一處にゐるのが好きにならなくツちやいけないツて、 さういひましたよ。ねい、誰だツて子供がみンな死んぢまツたなんていへば、氣の毒ですわねい。 おまけに、一人は急に死んだんだツて。
此
それなら、あなたは、老侯が好きになる樣にして見ようと、思召すのですか?
と云ひますと、セドリックが、
エー、だツてお祖父さまは僕の親類でせう、誰だツて親類が好きでなくツちやいけませんわ。 それから、お祖父さまは、僕に大變深切なンですもの、人が色ンなことして呉れて、 何でも好きなもの遣るなンていへば、親類でなくツたツて、好きになるでせう。 だけれど、親類で、そんなにして呉れゝば、尚好きになるぢや有りませんか。
と云ふのを聞いてハ氏が試みに問ひました。
どうでせう、お祖父さまは、あなたが好きでせうか?
セドリックは何氣なく、
エー、好きでせうよ、だツて僕は又お祖父さまの親類なんでせう。 それから僕はお祖父さまの息子の子供でせう、だから好きに極つてるぢやありませんか。 好きでなきやあ、僕の慾しいもの、なんでも遣るなンて、云ひやしませんだらう。 さうして、あなたを迎へになンか、よこしやしませんぢやないか?
アヽ、なるほど、さういふ譯なのですか?
エー、さうですとも、あなただツて、さうだと思ひませんか? 孫の好きでないお祖父さんなンか、ありやしませんでせう。
さて、船醉で引籠つて居つた人々も、追々甲板の上に出て來て、長椅子に
それだから、あの人があんなに頭が禿げてるンですよ、だツて幾度か頭の皮を剥がれゝば、 もう髮が生えやしませんからね。一番しまひに、 パロマチャウィーキン人の王が、ウォップレスレマンプキイ人の酋長 の髑髏で拵へた庖丁で、 やられてからは、髮が生えませんかツたと。 此時ほど危い目にあつたことは、まあないンですと。其手に庖丁を振廻された時は、 大變とびツくらしたもんだから、かみの毛がちよツきりおツ立ツちまツて、 どうしても寐 ませんかツたと。さうして、其王が、今其まンまで、 ヂェレの皮を被つてゐて、丸でブラシ の樣ですと。かあさん、僕は、 ヂェレをぢのした樣な、經驗 した人見たことがないンです。 それで、ホッブスをぢさんに、すツかり話してやり度くツて、たまらないンですよ。
時々、天氣が惡くツて、人々は甲板に出られないで、下の座敷に閉ぢ込められてゐる時、
セドリックに勸めて、ヂェレのけいけんばなしを話させました。
すると、セドリックは大層得意な調子で、熱心に話をしましたが、一同
あのね、かあさん、みンなは、ヂェレの話を大層面白さうに聞いてましたよ。 だけれど、かあさん、あの僕は……ひよツよしたら、そんなことをいふのは、 わるいかも知れないけれど……みンな、ほんたうぢやないかも知れないとおもふ時があるンですよ。 みンなヂェレが出逢つたこツちやないのだかと思ふンです。でも、みンな自分だツていひますね、どうも、妙ですね。かあさん、 アヽ、ひよツとしたら、少し忘れてまちがふのかも知れませんよ。度々 、頭の皮をはがれたからね。幾度 も頭の皮をはがれゝば、 忘れツぽくなるかも知れませんわねえ。
さて、セドリックが同行の人々と、リヴァプールへ
オヤ、メレや、お前、もう來て居たかえ?かあさん、メレが來てゐますよ。
といひながら、メレの餘り滑かならぬ
メレや、わたしは、お前がこゝに居て呉れて嬉しいよ、おまへの顏をみた許りで心が落着く樣だよ。 所慣れないで變なのが、いまへが居るので、よつぽど心やりになるよ。
と低い聲で云つたのは、エロル夫人でした。メレは、其言葉と共にさしのべられた小さな優しい手を、しツかりと握り締めました。
心の中に、母の身になつて、遠く
やつこどの、可哀さうに、中々樂は出來まいよ。
と、互にひそ〜話して居りました。併し
かあさん、これは大層きれいな家ですねい?かあさんが、これから、 こゝに入らツしやるんだから、好いことねい。さうして、隨分大きい家ぢや有りませんか?
といひました。なる程、ニューヨークの彼の疲弊した町に有つた家と比ぶれば遙か綺麗で、
爽快な
あの、奧樣あ、此猫は、御殿の奧の取締が、よこしたんでございますよ、 まあなんといふ深切な人ですか。さうして、奧樣がおいでなさるツて、なんていことなく、みンな支度をしたんださうですよ。 わたしも一寸お目に掛りましたが、あの、なくなつた旦那さまを、大層祕藏にしたさうで、大へんに惜しいことをしたツて、 云つて居りましたよ。それから、猫でもゐたら、ちツたあ、うちの樣な氣がするかもしれないツて、およこしなせいましたよ。 それから、カプテン、エロルは、お小せいツから、知つてゐたんだツていひましたツけが、押出しの好い可愛い子だツけ、 さうして大きくなつても、えれい人にも眼下 の人たちにも優しくツて、ほんたうに立派な人だツけツていひますツけ。せいから、 わたしも、かういひましたよ。こんだおいでなさる坊ツちやまが、とンと、そんなですよ、わたしや、あんな立派なお子、 見たことが有りませんてね。
さて此部屋で、少しみなりをとり繕ひましてから、又下に降りて、こんどは大きな立派な座敷に通りました。此座敷の天井は、
殊さらに少し低く、
今夜は參らなくとも宜しうござりませうね。切 て今晩丈は、 一處に居つても宜しうございませう。あなたの思召 は如何で御座ります?
と低い聲でいひますと、ハ氏が又同じ樣な調子で、
左樣で御座るて、今晩はまづお入りにならずとも宜しからうと存じます。 愚老が食事でも濟ましませば、先づ參上いたして、御來着の趣 を老侯に通じるで御座りませう。
エロル夫人は、セドリックに、眼を移しますと、彼の黄と黒との
侯爵さまは、私が、あれを手離します苦しみの、半分も御承知有りますまいと存じます。
と、いつて、少し改まつて、ハ氏に向ひ、かういひました。
あなた、どうぞ、あの金子 の事は私がお斷り申したと、 侯爵樣にお傳へ下さいますまいか?
金子 !其金子 とおツしやるのは、老侯が歳入として、 お定めあらうといふものの事では御座りますまい?
と、不審さうにいはれて、又何氣なく、
さやうでござります、その事を申すので御座ります……全體、此家を頂戴するのも、 子供の側に居るに上都合と申すだけで、餘儀なくお受をいたしたので、 其外は、質素にさへいたしますれば、不自由はせぬほどの用意は御座りますから、金子 の事は、先づお斷りいたしたうござります。 侯爵さまが、私をば、さまでにお憎しみ遊ばす處ですから、若し金子 を戴けば、 どうやら、セドリックを金子 に引換へる樣で、心よく御座りません。 今セドリックをお引渡しするといふのは、たゞあれの利益とおもひますれば、母の情愛で、自分の事は忘れて居りますのと、かうなることは、亡父 も望む所であらうと考へますからのことで御座ります。
それは甚だ思寄らぬ仰せで御座ります。老侯にも、あなたのお心を汲みかねて、 御立腹になることであらうと思はれます。
侯爵さまも、少しお考へ下されば、必ずお分りになるだらうと思ひます。わたくしは、其金子 がなければ困難いたす譯でもない處を思ひますれば、私をお憎しみ遊ばして、御自身の孫にあたるセドリックを、現在、 母とお引分けになる其方の御給與なさるもので、贅澤をいたさう心には、どうもなれません。
ハ氏は、暫時默考して居りましたが、やゝあつてから、
さやうならば、お言葉通りに申し上ぐるといたしませう。
イヤ、ハヴィシャム、歸つたかな?どうで有つた?
御意に御座ります。フォントルロイ殿は、母君と共に、 コート、ロッヂに在 らせられます、御兩人とも、海上甚だ御無難で、御機嫌うるはしう御座ります。
老侯はこれを聞いて、なにか待ちどほで、氣が
それは結構といふものだ、それはそれでよしと。ハヴィシャム、くつろぐが好い、 一杯やつて、落着いたら、其跡を聞かう。
フォントルロイ殿は、母君と彼の處に御一泊あつて、明朝は、 御同道いたして、お屋敷に伺ふ筈で御座ります。
老侯は、椅子の横に
フヽン、其跡はどうだ?此件に付いては、巨細 を申し送るに及ばぬといつて置いたから、 まだ何事も知らずに居るのだ。全體どんな奴だな、其小息子といふは? なに、お袋のことは聞かずとも好い、子供はどうだ?
ハ氏は、手づからコップについだポウト酒を、一口飮んでまだ
御意に御座りますが、何分七歳といふ御弱年で御座りますから、 御性質等の御尋問に對しては、一寸、お答へに苦しみますて。
これを聞いて、老侯の疑惑、掛念は、ます〜
なに、馬鹿か?たゞし、犬ツ子の樣な不器用者か? 腹がアメリカだといふ處が、現然と見えて居るといふのか?
イヤ、お腹がアメリカの御婦人で、此弊が有るといふ處は、 一向見えぬ樣で御座ります。愚老は子供のことは至つて疎 い方で御座りますが、 いづれかといへば、先づ立派な若君と鑑定いたしました。
例の沈着、冷淡な調子で答へました。ハ氏の物言ひは、全體、平生が落ちついて、油の乘らぬ方でしたが、
此時は殊更不斷より
どうだ?壯健 で、よく伸びた方かな?
御意に御座ります、殊の外御壯健で、御發育も甚だ宜しい樣見受けました。
侯爵どのは、一層
なにか、手足なども、すらりとして、外見 は好い方か?
此時、ハ氏は、薄い脣の
先づ一と通り、立派な御人品の樣見受けましたが、此邊は、愚老の判斷、 甚だ覺束ないものと、御猶豫を願ひます。併し御前のお眼に止りました本國生れの童兒と、 多少趣味の變つた所は、必ず御座りませう。
老侯は急に
さうあらう〜。米國の子供といへば、禮儀作法も知らぬ乞食めらだといふことは、 いつも聞くことだ。
御意に御座りますが、若君に限つて不作法のお振舞は決して御座りません。 只今本國の子供と違ふと申し上げましたは、判然とは申し惡 う御座りますが、 同年輩の者よりは、成人 に交はられた故かして、幼稚らしい處に、 又成熟らしき處の混淆して居る風采の事を申し上げたので御座ります。
イヤ、それが即ち米國風の出過と申すのだ、兼ねて聞いて存じて居るわ。 きやつ等は、それをば、早熟とか快活とか名をつけてをるわ。何 れ、氣色に障るほど不作法に違ひあるまい。
ハ氏は又少しポウト酒を飮みました。此人は侯爵どのに
エロル夫人より、御前に申し上ぐる御傳言が御座ります。
老侯は、又獅子の吼える樣な御聲に息卷いて、
傳言だと、あれからならば聞きたくもない。あの女のことは、 なる丈聞かせぬ樣にして貰ひたいわ。
御意には御座りますが、此御傳言は、ちと大切な一條で御座ります、 と申すは夫人に御恩賜あらうといふ年給を、御斷り申し上ぐる旨、申し出でられた次第で……
侯爵どの、ぎツくり驚かれた樣子で、又大聲に、
なに、何と申す?それはまたなんだ?
ハ氏は、前申した通りに、再び陳じました。
夫人は決して其金子 を頂戴する必要はない樣に申されます。況 して御前との御交りも、御親密と申すではなし……
此時老侯は烈火の如く怒り、さながら言葉を吐きだすが如く、
なに、親密でないと申すか?ヘヽン、親密どころでは有るまい。 あの女のことはおもうても胸がわるいわ。ちよツ!舌長い、貪慾なアメリカ女め! 見度くもないわ。
御前樣、恐れながら、夫人を貪慾と仰せられますは、ちと愚老の胸に落入り兼ねます。一事 の請求をなされた譯ではなし、 たゞ御恩賜の金子 をお請けせられぬ許りでは御座りませぬか?
それも是も策だわ。
と、跳ねつける樣な調子に、老侯どの、
私 をひとつ陷 めて、面會でもささうといふのだらう。 只今の樣に申すのも、畢竟わしに精神を感服させて、一仕事と考へて居るのだらうが、 さうは參らぬ。わしは一向感服致さぬて。それが米國風の出過といふものだ。此屋敷近い處に、非人如き生活をされては、わしの迷惑だ。 フォントルロイの母で有つて見れば、生活も相應な格にさせねばならぬと云ふものだ。兎に角金は取らするが好い。
たとひ、金子 をお遣はし有つても、お用ゐはあるまいと存じられます。
老侯は又くわツとして、
遣はうが遣ふまいが、それに構ひはない、どうでも遣る物は遣るとせう。 わしが何もして遣はさんから、非人の生活をせにやならぬなどと、 世間へ觸れられては、大した迷惑ぢや。ハヽア、ひとつは子供をわしにわるく思はせうといふ手だな。 さもなくとも、わしの惡口は十分吹き込んだのだらう。
イヤ、左樣なことは一切御座りますまい。夫人より傳言の御座りました處をお聞きとりなされませば、 左樣なことは一向ないことが判然いたしませう。
老侯は憤怒と、苛立と、痛症とにて、苦しげに太い息をつき、
左樣なことは聞く耳持たぬわい!
と怒鳴らせ給ふも、構はず、ハ氏は、靜に其傳言を述べました。
夫人が、申し出られまするには、御前が自身を忌み給うて、フォントルロイ殿をお引別になつたといふことは、 なるべくフォントルロイどのに知らせぬ樣御注意を願ひ度い、と申す譯は、フォントルロイ殿が、深く自身を慕はるゝ處から、萬一、 老侯に對して隔意を生じてはと、掛念されるので、到底眞 の理由は御會得の出來ぬものと看做しますれば、 若君が多少御前を憚 つて、御前に對する情愛が薄くなるは誠に殘念と思はれる樣子です。 若君には、只今御幼稚で御會得は六かしい事故、何 れ御生長の後、委細御承知にならうと申し上げてあるさうで御座ります。 初對面に隔意のない樣といふのが、夫人の切に配慮致さるゝ點で御座ります。
御前は仰向けにどツかと椅子の背に
なんと申す?其事はお袋が云うて聞かせぬと申すのか? 左樣では、よもやあるまい?
ハ氏は冷淡に、
イヤ、御前、其事は一言も申して御座りません、それ丈は保證いたします。 若君は、最も情愛深き御祖父樣と信じて居られます。誠に完全無缺の御性質と確信して居られます點に、 疑ひを惹き起すことなどを、お聞かせ申したものは一切御座りませぬ。況 してニューヨークに於きましては、一々御指揮の通り取計ひましたれば、 御前をば非常な慈悲寛大の御方 と、思召して居られます。
それに相違ないか?
イヤ、其事許りは愚老が幾重にも保證いたし置きます。さて、これから御對面で御座ります。 舌長しと、お叱りを蒙るかは存じませぬが、母君のことは一切惡しざまには仰せなき方が、 御上策かと愚考いたします。
ヘン、七歳の小僧が、何を辨 へやうぞ?
御意には御座りますが、其七年間、始終母君が御付添で御座りますから、 若君が此上もなく親愛して居られます。
さて翌日、フォントルロイ殿と、ハ氏とが乘つた馬車が、ドリンコート城に行かうといふ長い竝木道を通りました時は、
あの女は僕を知つてるンでせうか?知つてると思ふンでせうね?
と云つて、
今日は!御機嫌は如何?
といひますと、女が嬉しさうな顏つきをした樣に、セドリックには見えました。 初めから、微笑んだ口が、いよ〜廣く開きまして、眼元にも深切さうな處が現はれて來ました。
若樣、よくお入りで御座いました。まあお見事な若樣で入らツしやいますこと! 御好運と御幸福とを幾久しく祈り上げます!
と申しました。フォントルロイ殿は帽子を振つて、再び會釋する中に、馬車は、女の側を通つて、先に進みました。
僕は、あの女がなんだか好きです、子供が好きな樣な顏して居ますもの。 僕は時々こゝへ來て、あの子供たちと遊び度いもンですね。
まだ外にも大勢、子供が有りますかしら?
ハ氏は、門番の子供などと遊び
ハヴィシャムさん。どうも綺麗な處ですね?
僕はこんな綺麗な處、見たことがないンです、 あのニューヨークの中央公園よりか、まだ綺麗ですね。
行く
全體、門から入口まで、どの位あるンです?
と問ひました。
左樣、三英里 か、四英里も有りませうか?
さうですか、自分のうちの門から、そんなに離れてるツて、大變ですね。
セドリックは、ひとつ驚いて幾分も過ぎないに、またびツくりして感服すべき新しいものに出逢ひました。
或時は、青草の上に横になつたり、又は馬車音に驚き、綺麗な角の生えた
アヽ、こゝに見せ物でもあつたンですか。それとも、いつでも、 こゝに住んで居るンですか?一體誰のなンです?
と問はれて、ハ氏は、
いつも、こゝに居るのです。それは侯爵樣、即ち、あなたのお祖父樣のものです。
是から間もなく、お城が見えて來ました。其眼の前に
どうも僕は、こんな綺麗な處、見たことがないンです、王樣の御殿の樣ですね、 いつか、御殿の畫 を畫草紙 で見たことが有りましたツけ。
といひました。さて、這入らうとする玄關の扉は、雙方開いて有つて、
召使どもは二列に
メロン夫人、フォントルロイ殿で御座りますぞ。 若樣、取締のメロンと申す婦人で御座ります。
セドリックは眼付に嬉しい情を現はし、握手の手を延べて、
あなたでしたか、あの猫をよこしてくれたのは?どうも有りがたう。
といひますと、メロン夫人は、門番の妻の顏ほど、嬉しさうな顏になつて、ハ氏に向ひ、
いづれでお眼通りいたしても、若樣をお見違へ申すことは御座りますまい。 お顏も、御樣子も、そツくりエロル樣で御座ります、あなた、今日は誠におめで度い事で御座ります。
といひましたが、セドリックは、何がおめで度いのかと、不審に思ひました。デ、メロン夫人の顏を不思議さうに見ますと、ちよツとの間、 眼に涙が浮んで居た樣でしたが、悲しさうでもなく、セドリックを見つめて、にツこりいたしました。
あの親猫は見事な小猫を二ツ、こゝに殘して參りましたから、 早速、お居間に差上げて置きませう。
といひました。それから、ハ氏は何か、低い聲で二言三言いひますと、メロン夫人が答へて、
あなた、書齋で御座いますよ。若樣をお獨りで、そこに差上げる筈で御座います。
それから、暫時、待合せる内に、矢張り揃の服を着た、
あなたが侯爵さまですか?僕はハヴィシャムさんが連れて來た、あなたの孫ですよ、 フォントルロイです。知つて入らツしやるでせう?
と云つて、侯爵さまでも握手をするのが禮儀で、適當なことに違ひないと思ひ、手を伸べながら、又大層なれ〜しく、
御機嫌は如何ですか、僕は今日あなたにお眼にかゝつて、大變嬉しいンです。
といひました。侯爵どのは、妙に眼を光らせながら、握手の禮をしました。
一寸初めには、少し呆れ氣味で、言葉も出ませんかツたが、被せかゝつた樣な眉毛の下から、
さうか、貴樣はおれに逢つて嬉しいと云ふのか?
エー、大變嬉しいンです。
セドリックの側に椅子が有りましたが、先づ之に腰をかけました。これは
僕はあなたがどんな人かと思つて、始終考へてましたよ。お船で寐臺 の上に寢てゐる時分、 あなたがひよツと僕のとうさんに似て入らツしやるか知らと、思つてましたよ。
フン、さうして、似て居る樣か?
と尋ねられて、
さうね、おとうさまがおなくなりなすツた時、僕は大變小さかツたから、 顏をよく覺えて居ないのかも知れませんが、何だか、似て入らツしやらない樣です。
それぢやあ、貴樣失望だらうな?
いゝえ、なに。そりやあ、誰だツて自分のおとうさんに似てゐる人は好きだけれど、 おとうさんの顏に似てないツて、お祖父さんの顏ならば、好きぢや有りませんか。 あなただツて自分の親類なら、誰だツて好きでせう?
侯爵どのは後に反り返つて、セドリックを見詰めて居られました。
自分の親類に親しむ
さうして、誰だツて自分のお祖父さんは、好きに定 まつてますわ、 あなたみた樣に深切なお祖父さんなら、尚ですわ。
老侯の眼は、又妙に光りまして、
ハヽア、さうか、おれは貴樣に深切なのか?
フォントルロイどのは、威勢づいて、
エー、さうですとも、ブリジェットだの、林檎屋だの、ヂックだのに、どうも誠に有難う。
何を申して居る?ブリジェットに、林檎賣に、ヂックだと?
エー、そら、あの人たちに遣れツて、あんなにお金を下すツた人のことです。 そら、僕が入れば遣れツて、ハヴィシャムさんにさうおいひなさつたでせう?
ハヽア、あの事か、さうか?貴樣の好きにつかへといつた金か。 全體あれで何を買つた?聞かせるが好い。
此時侯爵どのは、少しく、彼の秀でし眉を
アヽ、さうでしたね。あなたは、ヂックや林檎屋のお婆さんや、 ブリジェットのこと、知らなかツたんでしたね。あなたがこんなに遠方に入らツしたの、 僕、忘れてましたよ。三人とも、僕の親友なンです。それから、あのミチェルが熱病でね……
ミチェルとは又誰のことだ?
ミチェルといふのは、ブリジェットの亭主なンです。そして大變、困つてたンです。 人が病氣で、働けないで、十二人も子供があれば隨分大變でせう? ミチェルと云ふのは、いつでも極くかたい人なンです。さうして、 ブリジェットが僕の家に來ては、泣くンです。それからあのハヴィシャムさんが、僕の家に來た晩なんかにや、食べる物がなんにもなくなツて、 家賃が拂へないツて、臺處で泣いてたンです。それから、僕が逢ひに行つてからハヴィシャムさんが、呼びによこして、 あなたが僕にお金を下すツたのを、預かつて來て、云つたンです。それから、僕が臺處に急いで駈けてツて、ブリジェットに遣つたら、 もうみンな大變、よくなツちまつたンです。ブリジェットはあんまりびツくらして、初めはほんとにしないンですもの。 だから、僕があなたに有難いンです。
侯爵どのは、例の沈んだ調子で、
ハヽア、貴樣が好きに金を遣つたといふのは、さういふ鹽梅なのかな。 それから外に何をした?
彼の大犬のダガルは、セドリックが席に着きました時、其側に坐つてゐましたが、
それから、そら、ヂックね。あなた、きツとヂックが好きですよ、 どうも大變キチャウメンですもの。
侯爵どのは、流石、此俗語は初耳と見えて、
全體それは、どういふ譯なのだ?
フォントルロイ殿は、暫く思案してゐました。
自分にもキチャウメンの意味が
僕は、ヂックが、誰も欺 したり、自分より小さな子を打 ツたりしないで、 人の靴を磨く時は、出來る丈光る樣にするといふ譯かと思ふンです。ヂックは靴磨が職業なンです。
さうして、それが貴樣の知己か?
エー、僕の舊い友だちです。ホッブスをぢさん程、年をとつては居ないけれど、 隨分、大きいンです。船が出帆する前に、進物 をくれたンです。
此時、セドリックは手をポッケットの中に入れて、綺麗にたゝんだ赤い物を引出し、
鼻高々と、これを擴げました。それは、例の紫の馬の首や、馬の
これを呉れたンです。僕はいつまでも持つてるンです。ね、そら、頸 にも卷けますし、 ポッケットに入れて置いても好いでせう。僕が、ジェークにお金を遣つて、 ヂックに新しい刷毛 を買つて遣つてから、儲かつたお金で、直 と買つて呉れたんで、 ヂックの餞別なンです。ホッブスをぢさんに時計を遣る時、『是を見て僕を記念し給へ。』と書いたンですが、僕はこれを見れば、いつでも、 ヂックのことを思ひ出すンです。
なんだ?なぜ其先を申さぬのだ?
と、お祖父樣がお咎めになりました。
フォントルロイ殿は、椅子の上でもぢ〜して居りましたから、老侯は何か思ひ出して、間がわるくなつたかと、氣が付かれました。
僕はね、あなたがひよツと、其話、厭かと思つたンですよ。誰か、 あなたの親類か、なんかが、あの時に、ゐたかも知れませんからね。 僕は、あなたが英國の人だツたの、忘れツちまつたンですもの。
なに好い、ずん〜話すが好い、おれの附屬のものなどは、 それに關係はないから。だが、貴樣は、自分の英國人だといふことを忘れて居るな。
セドリックは口ばやに、
いゝえ、僕は、アメリカ人です。
老侯は、苦々しいといふお顏で、
貴樣は矢張り、英人だ、貴樣の父が、英人ではないか?
老侯はかういひながら、心の中に少し、をかしく感じられましたが、セドリックには少しも、をかしいどころでは有りませんかツた。
いかに自分の身に變化があらうとも、まさか、かういふことにまでならうとは、前もつて思ひ設けぬことでしたから、
僕はアメリカで生れたンでせう、アメリカで生れゝば、だれだツて、 アメリカ人にならなくツちや、いけないぢや有りませんか。(此時一層眞面目になつて、言葉丁寧に、) どうもあなたのおツしやることと反對しまして御免なさい。ですがね、ホッブスさんが、こんど戰 が有れば、 僕はアメリカ人で居なくツちや、いけないツて言ひましたもの。
此時、老侯は淋しさうな笑ひ樣をなさいました。短くツて、淋しい樣でしたが、矢張り、笑ひは笑ひでした。
さ樣か、アメリカ人になるのか?
と、たゞ云はれました。米國も米人も大嫌ひな侯爵殿でしたが、 此年若な愛國者が、かくまで、眞面目で、熱心なのを面白く思はれて、國を愛する米人ならば、 成人の後は、矢張り、國を愛する英人になるだらうと思はれたのでした。
フォントルロイどのも、少し遠慮氣味で、彼の革命の話に又深入りしない中に、
晩餐の時刻となりました。セドリックは席を離れ、お祖父さまのお側へ行つて、
お祖父さま、僕が少し手傳つて上げませうか?僕に凭 り掛つて入らツしやいな。先 にね、ホッブスさんが林檎の樽が轉つて、足を怪我した時、僕に凭 り掛つて歩きましたよ。
お側に居合せた、脊の高い給仕は、思はず、ほゝ笑んで、危くしくじる處でした。此者は、上等な華族
貴樣、出來るとおもふか?
まあ、出來るだらうと思ふンです、僕、きついンですもの、 もう、七歳なンですもの。あなた、片ツ方は、其杖をついて、片ツ方は僕にお凭 りかゝりなさいなね。あの、ヂックもさういつたンです、 僕はたツた七つにしちやあ、隨分骨があるツて。
此時セドリックは手を握り、肩の上まで持つていつて、ヂックが
よし!そんなら、やつて見い!
と云はれて、セドリックは先づお杖をお渡し申し、それから侯爵さまの席をお立ちになる、お手傳ひをし始めました。
平生は、給仕が此役を務めまして、御前のお
僕、靜かに歩きますからね、ずつと凭 り掛つて入らつしやいよ。
といひました。侯爵どのは、平生、此樣にして歩行し給ふ時は、お側でお手を取る者の方に御體を遠慮なく寄せかけて、
杖は
あなた……かまはず……僕に凭 り掛つて入らつしやいよ。 あの……あンまり……あンまり遠くでなきやあ、僕、大丈夫ですよ。
食堂までは、左程、長い間では有りませんかツたが、セドリックには、食卓の
あなた、立つていらツしやる時、大變足が痛いンですか? あの、湯に芥子 を交ぜた中に入れて見たことがありますか? 「アーニカ」ツていふ物は、大變好いツてね。
といひました。
どうも熱い晩ですね。あなたは足が痛くツて、 それであの火が入るンでせうが、僕にやあ、少し熱いンです。
セドリックは、侯爵さまの
貴樣は、隨分骨を折つたからだらう。
といふお言葉に對し、
なに、そんなに骨が折れやしませんかツたがね、 すこしあつくなつたンです。夏になれば、だれだツてあつくなりますわ。
といひながら、例のはでやかなハンケチで、頻りに、汗で
フォントルロイ殿は、いと丁寧に、
あなたは、始終冠 を被つて入らツしやらないンですか?
老侯は、例の澁さうな笑ひを見せて、
イヤ、おれには似合はないから、被つて居ないのだ。
あの、ホッブスさんが、いつでも被つて入らツしやるんだ、といひましてね、 又考へ直して、イヤさうぢやない、帽子を被る時には、脱ぐンだらうといひましたツけよ。
その通りだ、時々脱ぐんだ。
と老侯がおツしやると、お側に居つた給仕が、急に側を向いて、
口に手をあてながら、妙な
セドリックは先づ、食事を終りまして、椅子に
どうも立派な家 ですね、あなた、こんな家に居て、嬉しいでせう、僕、こんな立派な家、 見たことがないンです。だけど僕はまだ七歳 にしかならないンで、 たんと、方々見たことがないンですからね。
それで、おれが滿足に思ふだらうといふのか?
エー、誰だつて滿足ですわ。僕だツて、こんな家が有れば、大威張ですわ。 どうも何でも、かんでも綺麗なんだもの。あのお庭だの、木だのね、 どうも綺麗だツたこと、葉なンか、がさ〜音がして。
斯う云つて、一寸口を閉ぢ、又何か言ひたさうに、向うを見て居て、
たツた、二人切りにやあ、あンまり、大き過ぎますね?どうでせう?
二人の住居 にやあ、十分の様だが、大き過ぎるとおもふのか?
セドリックは少し、躊躇して、
僕はね、考へてたンです。二人でもあンまり仲の好くない人が、 一處に居るんだツたら、時々淋しいか知らんと考へたンです。
どうだ、おれは一處に住ふには好い相手だらうか?
エー、さうでせうよ。だツて、ホッブスをぢさんと僕は大變仲が好かツたんですもの。 僕は一番、好きな人の次にやあ、あの人と、大仲好しでしたもの。
侯爵さまは、急に眉を
一番好きな人とは、誰だ?
セドリックは低い、靜かな聲で、
僕のかあさんのこツてす。
さて、いつも
フォントルロイ、貴樣、何を考へてゐるのだ?
と
僕、かあさんのこと考へてたンです、僕……何だか變ですから、 ちツと、あツちこツち、歩いて見ませう。
といつて立ち上り、小さなポッケットに兩手を突込んで、あちらこちらと歩き始めました。セドリックは情を忍んで、
眼を
おまへ、好い犬だね、僕の友だちだね、僕の心持を知つてるね。
といひますと、侯爵が、
どんな心持がするンだ?
此子供が初めて家を離れて、頻りに淋しがるのを見て、侯爵は快く思召しませんかツたが、併し又それを辛抱し
こゝに來い!
セドリックは、直ぐとお側に行つて、例の
僕はね、一度もまだ餘處 へ泊りに行つたことがないンです。 初めて自分の家を出て、人のお城へ泊るなンていへば、誰だツて變でせう。だけど、かあさんはそんなに遠方に居るんぢやないンですからね。 かあさんが僕に、その事覺えておいでツて、さういつたンです。それから、もう僕は七つになつたンだから……あのそれから、 かあさんが下すツた寫眞を見て居られるから、好いンですよ。
といつて、ポッケットに手を入れて、藤色
これですよ、ね、此ばねを、かう推すと開きますよ。ほら、中に居ましららう!
セドリックは、ずつと椅子の側に來て、其箱を取出す時は、臂掛から、お祖父樣の腕に、いつも
ほら、居るでせう。
といつて、につこり笑つて、上を向きました。
侯爵は、眉を
貴樣は、お袋を大層、好きだと思つて居るのだらうな。
フォントルロイ殿は何氣なく、優しい調子で、
エー、さう思ツてるンです。さうして、僕本當に、好きなんだと思ふンです。 あのホッブスをぢさんも、ヂックも、ブリジェットも、メレも、ミチェルも、みンな僕の友だちですけど、あのかあさんは、まあ、 僕の大變な親友なンです。さうして、僕と二人は、いつでも、何でも話しあひツこするンです。僕のとうさんが、いつまでも、 よく世話をしろツていつて入らツしたんだから、僕は成人 になると、 働いて、かあさんのに、お金を儲けるンです。
侯爵は、
何をして、金を儲けるつもりだ?
セドリックは辷り下りて、元の
僕はね、ホッブスをぢさんと一處に、商賣をしやうかと思つてたンですがね、 どうかして、大統領になり度いとも思ふンです。
其代りに、貴樣を貴族院に遣らうわ。
といふ、お祖父樣の言葉を聞いて、
さうですね、どうしても、大統領になられないで、その、今の事が好い商賣なら、夫 でも好いですわ。萬屋 は時々不景氣でいけませんもの。
セドリックは、心に今の事を考へ比べて居たものか、それから、大層靜まつて、
少しの間火を見て居た樣でした。侯爵も何も仰しやらず、椅子に
半時間もすると、ハヴィシャム氏は、案内につれられて、座敷に通つて來ました。
大廣間は殊に物靜かで、侯爵はまだ椅子に
翌朝、フォントルロイ殿が眼を覺まされると、(前夜寢處に抱かれて連れられた時は、
眼が覺めなかツたので、)すぐ耳に這入つたのは、
ドウソンや、おまへ氣を付けて、其事は何とも、申すのではないよ。 おツかさまが、御一處でない譯は、一向に御存じないのだから。 そツくり其まゝ、お知らせ申してはならないのだからね。
すると、他の聲で、
あなた、御前の仰せならば、默つても居ませう。ですがね、わたくしの樣なお婢 で、 こんなことをあなたに申し上げて、どんなもんですか存じませんが、 あんなに綺麗で、お若くツて、連添ふ方に別れたお方を、今度は又血を別けたお子樣までも、 離しておしまひなさるツて、本當に、情ないなされ樣だツて、わたくしなンぞは可哀さうで仕方が御座いませんよ。 それにまあ、どうでせう、あの若樣のお美しいこと。どう見ても、 殿樣に生れついておいでなさるぢや有りませんか。ヂェームスどんや、タマスどんが、昨夜 、下に退 つて來て、まあ、二人、口を揃へて、 云ふンでございますよ。あの若樣の樣な若樣、生れてから、見たことがないツて。 おまけにねい、あなたの前でさう申しては、何ですが、時よりはほんたうにあンまりで、 わたくしどもでさへ、くやしくツて、がう腹でこゝが煮えかへる樣なことのある其お方と、 お食事を遊ばすのに、子守地藏見た樣な、さも、優しい人とで、 入らツしやる樣な、あどけない調子で、行儀も好く、お可愛らしかツたことツて申してね。 それから、あなた、ヂェームスどんとわたくしとを、お呼びになつて書齋から、 お二階までお連れ申して、參れツて仰しやるので、ヂェームスどんが、其まゝお抱き申すと、あの可愛らしいお顏が、ぽツと櫻色になつて、 ヂェームスどんの肩の處へ、おつむりを載せて、お髮 のきら〜と綺麗に下つてゐた處の、美麗 くツて、可愛くツて、何とも云へません樣でしたこと、あんなとこ、ほんたうに見度いとツて見られやしませんよ。さうしてね、 御前だツて、まんざら、お眼がなかつた樣でもないンですよ。でも、何だか頻りに見て入らツしツて、ヂェームスどんに、 『氣を附けて、眼を覺させぬ樣にしろ。』ツておツしやるンですもの。
此時、セドリックは寢反りをして、眼を開けて見ました。部屋の中には、
二人の婦人が居りました。さうして、花模樣のはでな白紗の窓掛や、
幕がそろへて有つて、
若樣、お早う存じます。昨夜は、よくお休みになりましたか?
セドリックは眼を
お早う、僕ね、こゝに居るの知りませんかツたよ。
といひました。取締は、
其筈で御座います、うたゝ寢を遊ばした處を、そツとお二階にお連れ申したので御座いますもの。 これが、只今から、若樣のお寢間 になるので、こゝに居りますのは、 ドウソンと申して、これから、若樣のお世話を致すので御座います。
セドリックは
あなた、御機嫌は如何?僕を世話しに來てくれて、誠に有難う。
といひますと、取締が、微笑みながら、
若樣、これから、御用の時は、ドウソンとお呼び遊ばしましよ。 ドウソンと呼ばれつけて居りますから。
といひますと、セドリックが、
あの、ミス(孃の意)ドウソンといふンですか、ミセス(夫人の意)ドウソンといふンですか?
と問ひますと、ドウソンは、メロン夫人の口を開くのを待たず、顏中一杯に笑ひを見せて、
まあ、ミスも、ミセスも入つたこツちやございませんよ、勿體ない。 さあ、お眼ざめならば、ドウソンが、お召替をおさせ申して、それから、 お居間で御膳をめし上ることに致しませうでは御座いませんか?
といひますと、セドリックが答へて、
有難う、だツて、僕はもう幾年か前に、自分で着物を着るのを習ひましたよ。 かあさんが教へてくれたンです。メレ一人でするンでせう、洗濯でも何でも。 だからそんなに世話やかせちや、いけねいンですもの。僕は湯にだツて、 一人で這入れますよ、隨分よく洗へるンです。あとで、隅の方さへ少しあたゝ めてくれゝば。
ドウソンと取締とは、
若樣、何でも御用を仰しやれば、ドウソンが致しますよ。
といひますと、ドウソンが慰める樣な、人の好ささうな聲で、
致しますとも〜、何でもいたします。若樣、お好きなら、お一人でお召替へ遊ばしまし。 ドウソンは、お側でお手傳ひをして宜しい時はいつでも致しますから。
どうも有りがたう、ボタンをかける時、ちツと六かしいですからね、 その時は誰かに頼まなくツちや。
セドリックは、ドウソンが大變深切な人だと思つて、
さうして、其ひいさまは、若樣の御親類續きで御座いますから、いつか、 お逢ひになるかも知れませんよ。
さうですかね、僕は女の子の友だちは持つたこと、有りませんけれど、 僕いつでも、女の子見るのが好きですよ。綺麗だことね。
さて、
僕、こんなに小さい子だのに、こんな大きなお城の中に住んでゐて、 大きな部屋を、さういくつも持つてゐるなンて、なんだか、大變ですね。
ドウソンは、慰めて、
なんのまあ、初めは少し變なお心持がなさるかも知れませんが、ぢツきに、 お慣れ遊ばしますよ。さうして、どんなに、宜しうございませう。こんなに、美しい處で御座いますもの。
セドリックは、細い溜息をついて、
それは、綺麗な處だけど、かあさんがこんなに、戀しくさへなければ、よツぽど好いわ。 だツて、僕、いつでも朝御膳を一處にたべたンですもの。さうして、 かあさんのお茶へ、乳だの、砂糖だの入れて上げたり、燒パンを上げたりしたンですもの、 そんなに仲よくしたンですもの。
ドウソンは、又慰めようとし、
アヽ、それに違ひ御座いますまいがね、それでも毎日、お眼にお掛り遊ばすのでせう。さうすれば其時どんなにか、 おツかさまにお話し遊ばすことも澤山出來、どんなにお樂しみでせう。それからまだ〜、お樂しみなことが有りますよ、今に少し、 方々お歩 ひ遊ばして御覽じろ。犬だの、お厩 の中に澤山繋いで有るお馬だの、 さう〜、それから其中に、若樣がきツと御覽になりたいのが、一匹をりますよ……
セドリックは、聲をたてて、
オヤ、さう……僕は馬が大好きです、僕、ヂムツて云ふのが大好きでした。 それはね、ホッブスさんの荷車についてた、馬でしたよ、剛情張らない時は、隨分綺麗な馬でしたよ。
さ樣で御座いますか、兎も角、あのお厩 の居るのを御覽遊ばせ。 それはさうと、まあどうしませう。まだ、お次の御座敷も御覽にならないぢや有りませんか。
セドリックは、
そこに何があるの?
御膳をお濟まし遊ばすと、御案内いたしますよ。
かう聞いて、自然、何が有るかと頻りに見たくなり、
もうおしまひ、さあ、いつて見度いもンですね。
ドウソンは
ドウソンが戸を開けますと、セドリックは閾に立つたまゝ、目を丸くしながら、びツくりして見廻して居りました。まだ口も開き得ず、
たゞ兩手をポッケットの中に入れて、額まで赤くなつて、覗いて居りました。
誰か子供の部屋の樣ですが、全體誰のお部屋なンです。
ドウソンは、
まあ中へお這入り遊ばして、ようく、御覽遊ばせ、若樣ので御座いますから。
エー、僕のだツて!本當に僕のですか!なぜ、僕のなンです? 誰がくれたンでせう?
聞いたことが餘りのことに、信じられない樣でも有つて、セドリックは嬉しさうな聲をたてながら、 中に飛び込みました。さうして、星の樣に光つた眼をして、
お祖父樣ですね、お祖父樣に極まつてますわね。
左樣で御座いますよ、御前で御座います。さうしてね、若樣がおとなしく遊ばして、何かにつけて、くよ〜遊ばさずに、 有る物をお樂しみ遊ばして、毎日お氣樂に遊ばせば、何でも慾しいとおツしやる物を下さいますと。
此朝は中々氣の揉める朝でした。
ドウソンは、そんな深切なお祖父樣、持つてる子があると思ひますか?
ドウソンは暫く、曖昧な顏付をして居りました。此女は、侯爵樣を左程、
徳の高い方とは思つて居りませんかツた。まだ自分は幾日も此お
イヤ、わしがこれまでお仕着せを頂戴した殿樣で、ひどく意地がわるくツて、 がむしやらで、癇癪持だといふ奴を、みンな竝 べたツても、 いツかな〜、こいつにかなふこツちやねえよ、どうして!
といひましたが、此タマスといふ人物は又、セドリックの來着に對して、
なんでも、勝手にさせて、部屋に手遊びでも一杯持つて來て置くが好からう。 何か、面白がりさうな物を、あづけて置けば、お袋の事などは造作もなく、忘れて仕舞ふに極まつて居るわ。遊ばせて、氣を紛らせさへすれば、 面倒なことはあるまい、子供はみンなそれだからな。
侯爵樣は、子供といふ者は皆、此通り
僕、待つてましたよ、あなたがお呼びなさるのを、もう先 から、 支度して居たんです。色々な物下すツて、誠に有難う、ほんたうに有りがたう。僕、朝ツから持つて遊んでましたよ。
アヽ、さうか、貴樣はあゝいふものが好きか?
好きですとも、どの位好きだか、云へない程好きですよ。
と、フォントルロイは嬉しさを滿面に現はして、
あの、あの中に、ベース、ボールに好く似たおもちやが有りますよ、 僕、ドウソンに教へようと思ひましたが、始めてだから、好く分らない樣でしたよ。 女の人だから、ベース、ボールなンかして、遊んだことがないンでせう。 ねい、それから、僕が教へて遣るのも、そんなに上手でなかつたかも知れませんよ、 だけど、あなたはよく知つて入らツしやるでせう?
おれも知らない樣だ、アメリカの遊びだらうな。クリケットに似て居るか?
僕は、クリケット、見たことは有りませんよ。だけど、ホッブスさんが、 ベース、ボールを見に幾度も連れてツて、くれたンです。どうも、面白いものですこと、みンな、どうも、一生懸命になつてね。 僕、行つてあのおもちやとつて來て、あなたに教へて上げませうか? あなた面白くツて、足の事、忘れるかも知れませんよ。今朝、 あなたの足大變いたいですか?
餘り有りがたくない程痛むな。
セドリックは心配さうに、
さうですか?それぢや忘れられないでせうね。そンなら、 あの遊びのことなンか話されたら、うるさいでせう。どうでせう、面白いでせうか、うるさいでせうか?
侯爵さまは、
行つて持つてこい!
侯爵樣にとつて、實にこれこそ珍しい慰みでした、遊びを教へようといふ子供を相手にするとは。
併し、其珍しいのが却つてなぐさみになつたのでした。彼の遊び道具の箱を腕に抱へながら、
セドリックが座敷に歸つて來た時は、老侯のお口の
僕、あの小さな卓子 をあなたの椅子の側へ引つぱツて來ても好いですか?
老侯は、
なに、呼鈴 を引いて、タマスを呼べ、どこへでも、持つて來るから。
僕、獨りで持ツて來られますよ。だツて、そんなに重くはない樣ですもの。
お祖父樣は、『よし』と答へて、セドリックが色々支度を整へるのを御覽じて入らツしやると、
セドリックが餘り熱心になつて居るので、顏のどこかに隱れてゐた、ほゝ笑が、
段々外に現はれて來ました。先づ、彼の小さき臺を前に引き出して、
老侯の椅子の側に置き、おもちやを箱の中から、とり出して、其上に
あなた。初めて見ると、中々面白いですよ。ねい、そら、 此黒いのがあなたの方で、此白いのが僕の方ですよ。木で出來てるけれど、人間の積りなンですよ……
と、それから何が外れで、何が勝だといふこと、この筋、あの筋が何々になる、
といふ
此時の來客といふのは、
一體、モドント教師は、其職務上、必要の事情で、ドリンコート城に推參する時ほど、
不愉快に感じることは、ありませんでした。城主は其都度、權柄に任せて、存分、
牧師を不愉快にさせて、お歸しなりました。此城主は、概して、教會とか、慈善といふことは、大のお嫌ひで、小作人どもが貧窮に陷るとか、
だツて、まあお聞きなさいよ、タマスどんがヂェーン(妹の名)に直 にさういひましたと。 この頃、御前の癇癪と怒鳴方とは恐れるツて。さうして、つい二日前のこツてすと。 どうでせう、まあ燒パンを載せて有つた皿を、突然 、タマスどんにぶツつけたンですとさ。だけど、朋輩は好し、 他のこツて填合 せがついてるから好い樣なもんの、 さもなければ、直ぐとお暇をとるんだツて、いつたさうですよ。
教師の耳にもこの話が這入つたといふのは、どこへ行つても、 侯爵さま許りは噂の種で、茶飮話には、きツとお名前が出ないことはなかツたからでした。
第二の理由といふのは、近頃新たに起つたことで、未だに
イヤ、親玉は今日は、餘計やかましい樣だぜ、こんだ來るツていふ孫どののこと考えてよ。 なに、あンまり見てくれの好い方ぢやあるめいツて、心配してゐるのさ。 だが、あたりめえだ、仕方があるもンか、矢ツぱり、自分がわりいンだもの。アメリカなンて、下司許り生れる國で、不自由に育つた者が、 なに好いものにならう、なあ?
そこで、モドント教師が竝木の間を歩みながら、考へられると、此いかゞな孫どのは、丁度其前夜、來着になつた都合でした。 して見ると、十が九まで、老侯の氣遣ひ通りであつたらうと推量して、さて譯もしらぬ小息子が、老侯を失望させたとすれば、十が十までも、 今頃は煮えかへるほど、猛り立つて居られて、運わるく、一番に出逢つた人が憤怒の矛先に當るので、其人は即ち多分、 自身であらうと思ひました。
此通り故、タマスが書齋の戸を開けるや否や、嬉しさうな子供の笑ひ聲が響き渡るのを聞いて尚さら驚いたことでした。 いきせきした可愛い、さえた聲で、
そら、二つ外れましたよ!ねい二つ外れでせう!
といつて居ました。
見れば、そこに侯爵さまの椅子もあり、足臺も有つて、
イヤ、モドントか、お早う、わしも、この通り、ちと新しい職掌を見付けたのだ。
といひながら、左の手をセドリックの肩に載せ、少しく前に進ませて、
アヽ、時に、これが今度のフォントルロイだ。フォントルロイ、 領内の牧師を務める、モドント氏だ。
と云はれる中に、
あなた、初めてお目に掛ります、何分よろしく。
といひますと、モドント氏は我知らず、ほゝ笑つゝ、セドリックの顏を眺めて、
手を握つたまゝ離し得ずに居りました。モドント氏は、見るとすぐ、
セドリックを愛する念が起りました。一體、誰でもセドリックを愛したといふのは、其美麗なのと、風采の潔いのとは言ふまでもなく、
其外に最も多く感じた譯は、此小息子の心の中に、湧き出る泉の樣な清素優愛が溢れて、妙に
手前こそ、フォントルロイ殿のお眼通りをいたして、誠に悦ばしう存じます。 大層長い旅をかけての御來着でしたが、一同、御安泰なのを承つて、悦ぶことで御座りませう。
エー、どうも、中々長いでしたよ。だけど、かあさんが一處でしたからね、 僕、淋しくなかツたんです。誰だツて、自分のかあさんと一處ならば、 淋しくはないですわね、さうしてどうも船が綺麗でしたこと。
侯爵は、
モドント、まあ、かけるが好い。
モドント氏は腰かけて、フォントルロイ殿を見、亦侯爵を見て、特に言葉に力を入れ、意味有りげに、
御前、誠におめで度う存じます。
といひましたが、侯爵は心の情を人に見られるを
イヤ、おやぢに似て居るわ、併し行状は似てくれねば好いがと思ふのだ。 それはさて置いて、今朝は何用だ?誰が困窮して居るといふ譯だ?
かう聞いて、モドント氏は、思つたより好都合と、悦びながらも、しばし口籠つて、
ヒッギンスの一條で御座ります。なに、エッヂ、ファームのヒッギンスで御座りますが、 昨年の秋は自身に病み、又候 、子供に熱病を患 はれ、 不運が引續いて、困難いたし居ります。極く締りの好い方とは申されませんが、不運の重なつた爲、萬 不手廻りになつて、只今の處、 何分家賃を納め兼ねて居ります處が、御差配のニューウィックが、早速納めぬとならば、立退 く樣に申し聞けましたさうで御座ります。 然るに、目今 、同人の妻も病氣で、立退 くと申せば、家族一同にとつて、容易ならぬ難澁故、何卒 、 暫くの御猶豫を手前より御前に歎願する樣に、依頼致しまして御座ります。暫時、御猶豫を願ひさせ致せば、 又どうにか都合の致し樣も有ると申して居りまする。
侯爵殿は、はや、お顏の色を變へて、
フン、みンな同樣な事を云ひ立てて居るな。
フォントルロイは、少し前に進んで、初めよりお祖父樣と客人との間に立つて居つて、一生懸命に耳を傾けて居りましたが、
ヒッギンスは正直な人物です。
御前は、
隨分厄介な店子 らしいな。 いつも、不手廻りに許りなる樣に、ニューウィックが申して居つた。
教師は又、
何樣、今の處、非常に難澁いたして居ります。殊に同人も妻子をひどく不憫に思ふ樣子で御座ります。 田地をお取り上げになると致せば、明日 よりも饑渇 に迫る場合で、況 して、熱病後衰弱いたし居る二人の子供に、 醫師の命じられた滋養物などは、思ひもよらぬことで御座りませう。
かう聞いて、フォントルロイは、今一足前に進みました。さうして突然、
ミチェルも、丁度、其通りなンでしたよ。
此時、侯爵どの、びツくりされました。
なんだ、貴樣が居たのだツけ。おれは慈善家がこゝに居るのをさツぱり忘れて居た。 其ミチェルといふのは誰のことだ?
と仰しやつた、老侯の凹んだ目に、是も一興といふ樣な一種特別な思はくが現はれました。フォントルロイは答へて、
ミチェルといふのは、ブリジェットの亭主で、熱病をわづらつた人なンです。 それで、家賃も拂へず、葡萄酒だの色ンな物が買へなかツたンです。 だから、お祖父さまが僕に、助けて遣るお金を下すツたンぢや有りませんか?
老侯は異樣な八の字を額におよせなさいましたが、一向こはらしい八の字では有りませんかツた。そして、 モドント氏に向つて、眼を放ち、
どうだらう、かういふのはどんな地主になるかな、 實はこれの欲しがる物はなんでも遣はす樣に、ハヴィシャムに申し付けて遣つたのだ。 すると、ねだつた物が乞食にやるといふ錢ださうだ、アッハッハ……
フォントルロイは、まじめで、
なに、乞食ぢやないンですよ。ミチェルは立派な煉瓦職人でしたよ。 それから、其他の人もみンな、かせいだンですもの。
侯爵は、これは、しくじつたといふ調子で、
其通りだツたな。みンな立派な瓦職人だの、靴磨きだの林檎屋だツたな。
さう仰しやつて、暫くフォントルロイを見詰めて居られましたが、ふと新しい考へが極く高尚な情から起つたとは、確言されませんが、
こつちへ來い!
と仰しやつたのを聞いて、フォントルロイは進んで間近く差寄り、 わるいおみ足丈には觸れない樣にして居りました。御前は改めて、
かういふ時に、貴樣なら、どうする?
この時、モドント氏は、心の中に妙な感覺を起しました。元來、極く考への深い方で、富めるも、貧しきも、正直で、
勤勉なるも、不正で、怠惰なるも、領内の小民を知り盡して居りましたから、
今彼の
どうだ、貴樣なら、かういふ時には、どうする?
といはれて、フォントルロイは又少し差寄り、極く仲の好い友だちにでも、 しさうに、片手を侯爵の膝の上にのせ、誠に心置きのない調子で、
僕は小さくツて、何も出來ないから、仕方がないけれど、大變な金持ならば、 逐ひ出さずに、貸しといて遣つて、それから、子供にいろンな物遣りますわ。 だけど、僕、まだ小さいから、しやうがないわ。
といつて、一寸、口を閉ぢると思ふと、急に、顏がさえ〜゛して、
だけど、お祖父さんなら何でも出來るですねい。
といひますと、御前は、其顏をぢツと見詰めて、
ムー、貴樣はさう思つてゐるのか?
と仰しやつて、少しも、御不機嫌の樣子は有りませんかツた。フォントルロイは、
僕ねえ、お祖父さんが、誰にでも、何でも好きなもの遣れるツて、 いふ積りなンですよ。ニューウィックツて、誰です?
侯爵樣は、答へて、
それは、差配人の名だ、小作人には厭がられる奴だ。
お祖父さん。今ニューウィックに手紙をお遣りなさるの? 僕、筆や墨、持つて來ませうか。さうすれば、此卓子 の上のおもちや、とツちまひますわ。
さういふ處を聞くと、人に厭がられる樣なニューウィックが、手ひどい事をするのを、侯爵が捨て置かれるとは、 一寸も考へなかツた樣子でした。侯爵はまだぢツと顏を見詰めながら、少し躊躇し、
貴樣は、手紙がかけるか?
エー、書けるけど、よくは出來ないンです。
それでは、卓子 の上の物を退 けて、おれの机から、 筆と墨と、紙を一枚と、持つて來い。
と命じられるのを聞いて、モドント氏は
さあ、お書きなさい。
といひますと、侯爵さまは、
なんだ、貴樣が書くンだ。
フォントルロイの額は急に桃色になり、驚いた樣な聲をたてて、
僕、書くンですか?僕が書いたんでも、間に合ふンですか? 僕字引がなくツて、誰にか聞かなければ、綴字が好く出來ないンですもの。
侯爵は、
間に合ふとも、ヒッギンスは綴字が惡いとて、苦情はいふまい。 全體、おれが慈善家なのではない、貴樣なのだから、まあ、筆に墨をつけろ。
フォントルロイは筆をとり、インキつぼに入れ、居住ひを直して、
なんと書くンです?
侯爵は、
當分、ヒッギンスを、其まゝ差置く可し。』と書いて、下にフォントルロイと記すが好い。
フォントルロイは、又筆を墨壺に入れて、尚居住ひを直して、書き始めました。
さて中々丹精な、
どうでせう?それで好いでせうか?
といひますと、侯爵は受けとつて、書付を見、お口の
好 し、ヒッギンスは大滿足に違ひない。
と仰しやつて、其まゝ、モドント氏にお渡しになりました。モドント氏は書いたものを見ると、宛名のニューウィック、
又ヒッギンス其他の綴字が變に間違つて居て、ミストルのMが小さい字で書いて有つた外に、
『差置く可し。』の上に『
あの、ホッブスをぢさんは始終、手紙のしまひへ、さう書き〜しましたよ。 それから、お祖父さんはさう仰しやらないけれど、『何卒 』ツて書く方が好いかと思つたンです、 『差置く』と書くのは、それで好いンですか?
侯爵は、
字引に有るのとは、ちツと、違ふ樣だな。
僕も、さうか知らと思つて心配したンですよ、僕聞けば好かツた。何でも六かしい字は、字引で見なくツちや。 さうすれば、大丈夫ですね、僕、も一度、書き直しませう。
といつて、こんどは、注意して、一々侯爵樣に
どうも綴字 ツて變なもんですね。考へて見て、かうかしらと思ふのと大變違ふンですもの。 僕、Please と書くのは、p-l-e-e-sと綴るのかと思つてたら、 さうぢやないンですものね。それからdear は、聞いて見ない中は、 d-e-r-eかと思へますわね。僕、時々厭になツちまふンです。
さて、モドント氏が
さあ、これから、かあさんの處へ行つても好いですか?かあさん、 僕の來るのを、待つてるだらうと思ふンですから。
といひますと、侯爵樣は、暫く、默つて入らツしやいました。そして、
其前に、貴樣が見度いだらうと思ふ物が厩 にあるが、 どうだ、呼鈴 を引かうか?
フォントルロイは、急にぽツと顏を赤くし、
お祖父さん、誠に有りがたう。だけど、僕、それは、明日 見た方が好いですよ。 かあさん、僕が來るか〜と思つて、待つてるンですもの。
さうか、それなら好い、馬車を云ひ付けよう。
と、仰しやつてから、又暫くして、無造作な調子で、
なに、小馬が居るンだ。
フォントルロイは長い息をつき、聲をたてて、
小馬!誰の小馬なんです?
貴樣のだ。
アレ、僕の?二階の色ンな物みた樣に、僕ンですか?
さうさ、貴樣、見度いか、見たければ、こゝへ引出させようか?
フォントルロイの
僕、小馬なンか持たうと思ひませんかツたよ!ちツとも、そんなこと、 思はなかツたンです。かあさん、どんなに、嬉しがるか知れませんよ。お祖父さん、僕になんでも下さるのね。
侯爵は、また、
貴様、見度いか?
フォントルロイは、又長い息をつき、
僕、見度いのなンて。僕、見度くツてしやうがないけれど、暇がないかも、 知れないンですもの。
貴樣、どうしても、お袋の處へ、今日行つて、逢はなければ、ならんと云ふのか? 貴樣、延ばす樣には行かないのか?
エー、だツて、かあさんも、けさツから、僕のことを考へてたンですし、僕も、 かあさんのこと、考へたンですもの。
ハヽア、さういふ譯か、そんならば、呼鈴 を鳴らせ。
さて、同車で竝木道の青葉の蔽ひかゝつた間を辿る中、老侯は沈默でしたが、フォントルロイは中々、さうでは有りませんかツた。 其小馬の話を頻りにして居ました。どんな色で、どの位大きいといふこと、 其名はなんといつて、何が一番好きといふこと、今いくつだといふこと、あしたの朝、何時に起きたら、見られるといふことなどを尋ねました。 話の合間々々には、『かあさん、どんなに嬉しがりますか。』と、頻りに云つて居ました。それから又、
かあさん、お祖父さんが、そんなに、僕に深切にして下さるの、 どんなに有りがたがりますか。僕小馬が大好きなの、かあさん、よく知つてるけれど、僕だツてかあさんだツて、僕が小馬持つだらうなんて、 ちツとも思はなかツたンですよ。あの、五丁目に小馬を持つてた、子が有つたンです。さうして、毎朝乘つては歩いてたンです。 それから、いつか、かあさんと僕、其人の家を通つて、居るか知らと思つて、見て見たンです。
といつて、あとは、蒲團によりかゝつて、頻りに老侯のお顏を見守つて、
暫く、だまつて居りました。
僕、お祖父さんの樣な人、どこにだツてないと思ふンです。だツて、 いつでも好いこと許りして入らツしやるんだもの。さうして、他の人の事許 し考へて入らツしやるんだもの。 かあさんが度々さういひましたよ、自分のこと、考へないで、人のこと、考へるのが一番、好いこツたツていひましたよ。 デ、お祖父さんが丁度そんな人だと、僕、思ひますよ。
御前は、大層結構らしい人物に
フォントルロイは賞嘆の眼……いかにも、ぱツちりした、涼しさうな、あどけない眼を離さずに、又いひました。
お祖父さんは、どうも人を幾人 も悦ばせたこと。 そらね、勘定して見ますよ。ミチェルとブリジェットと十人の子供とでせうね。 それから、林檎屋のおばあさんと、ヂックとホッブスさんと、ヒッギンスさんと、ヒッギンスのおかみさんと、モドントさんとですよ。だツて、 モドントさんは嬉しがツたに極つてますからね。それから、馬だのなんだの、いろンなことで、僕と、かあさんでせう。そら、僕、 今、指で勘定して見たら、お祖父さんの深切にした人、丁度、 二十七人をりますよ、大變ぢや有りませんか、丁度二十七人です。
ハヽア、それぢや、己 が皆 に深切にしたといふ譯なのか?
エー、さうですとも、お祖父さんが、みンなを悦ばせたンです。
かういつて、少し遠慮氣味に
あの、お祖父さん、知つてますか。人が、侯爵の事よく、知らないと、 時々間違つてますよ。ホッブスさんも、さうでしたよ。僕、手紙を遣つて、ようく話して遣らうと思ふンです。
ホッブスは侯爵の事を、どんなに考へてたんだ?
あのね、かういふ譯なンです。ホッブスさんは、侯爵なんか、一人も知らないで、 たゞ本で許り、讀んでたンでせう。さうしてかう思つてたンです。…… お祖父さん、氣に掛けちやいけませんよ。あの、暴虐な壓制家だと思つてたンです。 だから、自分のお店へなンか足踏みもさせないなンて、いつたンです。それだけど、お祖父さん知つてたら、丸で、考へ直すに決つてますよ。 だから、僕、あなたのこと話して遣るンです。
何ていつて、話すんだ。
フォントルロイは一心になり、
なんていふツて、僕、あなたの樣な、深切な人、見たことがないツて、 さうして、いつでも他の人の事許り考へて居て、悦ばせて許り入らツしやるツて、 話しますわ。それからあの、僕、大きくなつたら、丁度お祖父さんの樣に、なり度いツていひますわ。
御前はさえ〜゛した其顏を見詰めて、
なに、丁度おれの樣になり度いといふのか?
と仰しやつて、流石にかしげたお顏の
フォントルロイは恥かしさうに、
エー、丁度、あなたの樣になり度いンです。
と云つて、又後から、
さうなれゝばですよ。僕、そんなに好い人になれるか、 どうだか知れないけれど、まあ遣つて見るンです。
さて馬車は、木々の緑が影をなす合間々々に、
なに、もう來たのか?
エー、さあお祖父さんの杖をあげますよ。お下りなさる時、 僕にずツと凭 つかゝつて入らツしやいよ。
御前は雜駁に、
おれは、下りはしないのだ。
フォントルロイは、さも驚いたといふ顏で、
アレ、……かあさんに逢ひに來ないンですか?
老侯は冷淡に、
イヤ、御免を蒙るのだ、貴樣行つて、新しい小馬の見たさも、 逢ひたさには代へられないかツたといふが好からう。
かあさん、失望しますよ、きツと、お祖父さんに逢ひたがつて居ますもの。
なに、さうでもあるまい、歸りに又迎ひによるぞ。これ! タマス。ヂェッフリーズに、もう參れといへ!
仰せにタマスは、馬車の戸を閉ぢました。フォントルロイは、
まだ不審顏をして居りましたが、
此次の日曜に、モドント氏の説教を聞かうとて、
一寸、ヂェンスのおかみさん、タマスどんがさういひましたよ。可哀想に、あの子は、何にも知らないで、御前を見て、 にこ〜して、生れ落ちた時から、心安くした人かなんぞの樣に、御前にずん〜お話をしたので、御前の方が却つて後れが來て、 眉毛の下から、ぢツと、見詰めたまンまで、たゞ其話を聞いてお出ででしたと。
といつて、忙がしさうに又一人に向ひ、
それからね、お聞きなさいよ、ベーツのおかみさん。タマスどんが、 御前は心の底では、悦んで自慢して入らツした樣だツた。それも尤もだ。今時の子供の樣でこそないが、姿色 といひ、 行儀といひ、あんな子、見たことがないからツていひましたよ。
それから又、ヒッギンスの話も出たのでした。モドントさんが家に歸つて、食事の時に、家族の者に話して居た處を、小使が聞いて居て、
臺處で話すと、それから其噂が、野火ほど足速に四方へ廣がりました。それから、
そこで、百姓どもは、澁茶を呑みにより合ふ時も、買物に出掛ける時分にも、
話をする
アレ、〜、あれはきツと、おツかさまだらうよ。まあ若くツて、姿色 の好いこと!
かう聞いた者は、誰も彼も一時に、振り向いて、こちらに歩いて來る、
黒づくめの
エロル夫人は
ソラ!來たぞ!
といふ中に、はや、馬車は止つて、タマスは先づ馬車を下り、戸を開けると、
イヤ、カプテンを其まゝだ、カプテンに丸で生寫しだ!
といつて居ました。フォントルロイは、タマスが殿を助けて馬車からお下し申す
お祖父さん、僕にずツと凭 りかゝつて入らツしやいよ。 みンながお祖父さんを見て、どうも嬉しがツてることね、さうして、誰でもお祖父さんを知つてる樣だことね!
侯爵は、
フォントルロイ、貴樣帽子を脱がないか、貴樣に辭儀をして居るではないか!
なに、僕にですか。
と、フォントルロイ殿は急いで、帽子を脱ぎ、ぱツちりした眼で不審さうに群集した人々の方を眺めて、 いちどきに、みンなに禮をしようとして、あせつて居ました。
前に夫人に物をいつた、よく頭を下げる、
若樣に神樣の御祝福を祈り申し上げます、幾久しく、お榮え遊ばせ!
といひますと、フォントルロイは、
おばあさん、有難う!
と答へて、それから直ぐと禮拜堂に這入つてからも、兩側に人の
お祖父さん、そツと耳こすりしても好いですか?
何だ?
あの、此人たちは誰なンです?
あれか?あれは貴樣の御先祖で、幾百年も昔の人なんだ。
フォントルロイどのは、今度は、勿體なささうに眺めて、
さうですか?それぢや、僕の綴字は、此人たちに似たのかも知れませんねい。
それからは、禮拜式の書物を開きましたが、音樂が始まりますと、起立して、にこ〜しながら、母の方を眺めて居りました。
フォントルロイは、唱歌が大好きで、母と一處に、度々歌つたことが有つたのでしたから、
讚美の歌が一齊の時は、自分も人と同じ樣に歌うて居りましたが、其聲の清く、可愛く、高い處は、
アヽ、セデーや、セデーや、わたしはおまへの爲許りにでも、どうぞして發明になつて、 色々爲になることが云つて聞かせて遣り度いと思ふよ!だがね、おまへ、 心掛を好くし、正しい道を守り、いつも深切と眞實 とを盡しさへすれば、 それで好いので、さうさへすれば、一生、人の害になることは決してなく、多くの人を助けるといふ立派なことも出來るのだよ。 このかあさんの小さい子が生れた爲に、廣い世界の人が、いくらか善くなるかもしれないのだよ。それでね、セデーや、 もうそれに越したことはないのだよ。一人の人間が世に出て、其人の爲に、 世の中の人が少しでも、ほんの〜少し許りでも、善良 なつたといふのが、何よりかより結構なものだよ。
謹んで教を承つたフォントルロイが、お城に歸つてから、お祖父樣に其通りをいつてお聞かせ申し、其擧句に、かう云ひました。
それからね、かあさんが、さういつた時、僕、お祖父さんのこと考へたンですよ。 だから、僕、云つたンです、なんでも、お祖父さんが世の中へ入らツしたンで、 よつぽど人がよくなつたにちがひないツて。それから、僕も其眞似をする積りだツて。
御前は、少し安からぬといふ樣な
そこで、お袋が、なんと答へた。
それは結構なこツたから、なんでも、人の好い處を探し出して、 一生懸命で、それに傚 はなくツちやいけないツて、いひましたよ。
此時、老侯は、赤幕の埀れ間から、眼光を放ちながら、前の事柄を考へて入らツしたのかも知れません。
老侯は、多くの聽衆の頭を越えて、向うに、我子の嫁が獨り坐つて居つた方に眼を放つて、
勘當受けたまゝ歿した人の愛した、美しい
どうだ、ヒッギンス?
フォントルロイは、急に振り向いて、彼を見ました。さうして、
アヽ、此人がミストル、ヒッギンスですか?
侯爵は、冷淡な調子で、
さうだ、大方、新しい地主樣にお目通りに出て來たのだらう。
ヒッギンスは、日に燒けた顏を、赤らめつゝ、
御前、其通りで御ぜいます。ニューウィック樣のお言葉に、若樣が、 此下郎の事を、とりなして下さツしたといふことで御ぜいましたから、 御免の蒙つて、一度お禮を申したいと存じて、ヘイ……
思ひ掛けなく、自分の大難を救つて呉れた者が、この通り誠に幼い子で、運に拙い自分の子供と違つたこともなく、威張る處などは、 少しも見えず、あどけない顏をして、自分を見て居られる樣子に、少し驚いて、フォントルロイに向ひ、
若樣、誠に、お禮の申し樣も御ぜいません、誠に、有難う存じます、あの……
フォントルロイは、其言葉を遮り、
なに、僕は、たゞ手紙を書いた許りですよ。それを爲すツたのは、 お祖父さまです。だけれど、お祖父さまは、いつでもなんですものね、 誰にだツて、好いンだもの。細君はもう好くなりましたか?
ヒッギンスは、少し氣後れがした樣子でした。此人も亦、大殿が美徳を積んだ、慈善的の人物の如くに
あの、なに……若樣其通りで御ぜいます。媽 も心配がなくなつて、 大いに宜しくなりました。病よりも苦勞の方で、弱つて居たもンで……ヘイ。
それは、好かツたこと。僕のお祖父さまも、あなたの子供が、 腸チブスだツて、大變氣の毒がツて、僕も氣の毒でしたよ。 お祖父樣も、子供が有つたンですからね、僕はお祖父さまの子の又子ですよ、知つてませうね?
かう聞いて、ヒッギンスは、たまげて倒れさうになりました。併し、氣を利かせて、侯爵樣のお顏をなる丈、見ない樣にして居りました。
侯爵さまの親子の間がらの
ヒッギンス、此通り、貴樣だちは、おれの人物を誤つて居つたンだ、 フォントルロイ丈はおれを本當に見て居るのだから、おれに性質等に付いて、 確實な所が知りたくば、こゝへ來て尋問するが好いぞ。さあ、フォントルロイ、馬車に乘れ。
フォントルロイは、すぐと飛び込みました。そして、馬車は緑の
日を經るに隨つて、ドリンコート城主は、彼の澁さうな笑ひ顏をなさる折が幾度も有りました。
そして、孫息子と追々親しまれる程、其笑顏をなさるのが度々になるので、遂には其澁さうなのが殆んど失せた時も有りました。
フォントルロイ殿が現はれ出づる前には、老侯は
中々威勢の好い奴よ、ムー、子供だツて、あんなのを、乘せるなあ、わきやないわ。成人 だつて初めてななあ、鞍付なンかあんなもンよ。奴がかう云ふンだ、なあ、おれに、『ウィルキンスや、僕、これで眞直かえ、 あの、馬驅 ぢや、みンな眞直に、しやんと乘つてるからね。』ツて云ふのよ。 それから、おれが、『若樣、眞直ですよ。矢の樣に眞直に乘つて入らツしやる。』ツていつて遣つたら、 えらく嬉しがツてな、笑ひながら、『さうかい、若し眞直でなかツたら、 さういつておくれよ、ウィルキンス。』ていふのよ。
併し、鞍の上で眞直だといふことと、手綱を採られて、あちらこちらと歩かせられる許りでは、 もはや滿足の出來ない樣になつて、窓から眺めてゐるお祖父さんにかう云ひました。
お祖父さん、こんど一人で乘ツちや、いけませんか? さうして、も少し早く歩かせても好いですか? あの五町目の兒は、とツ〜〜〜と樂乘 をしたり、それから、又ほんたうに驅けさせたりしましたもの。
貴樣、もうさう出來ると思ふのか?
僕、やつて見度いンです。
御前は、ウィルキンスに、手眞似で、何かお云ひ付けなさると、ウィルキンスは心得て、 自分の馬を引出し、是に乘つて、フォントルロイの小馬の手綱を持ちました。老侯は、
さあ、樂乘 を一つ遣つて見い!
これから、暫くの間は、此小さい馬乘も一生懸命でした。
ず……ずゐ分……ゆ……ゆれることねい。そ……さうぢやないかえ? お……おまへは、ゆ……ゆれやしないかえ?
といひますと、ウィルキンスが、
若樣、なに、ぢツき慣れツちまひますよ。鐙 へ足をしツかり掛けて、 ちやんとしてゐて御覽なさい。
僕、始……始終、そ……さうやつてるンだよ。
フォントルロイは、ゆすぶられたり、上げられたり、落されたりしながら、餘り心地好ささうでもなく、もまれてゐました。
息は切れ、顏は赤くなりましたが、一生懸命に
一寸、待て、貴樣は帽子をどうした?
ウィルキンスは、自分の帽子に手をかけて、禮を表し、面白さうに、
先程落ちましたが、手前が拾ひ上げる暇もない程で、御座りました。
老侯は冷淡に、
餘りこはがる方ではない樣だな、どうだ?
御前、どういたしまして、そんなこたあ、ちツとも御存じない樣です。 手前も、これまで隨分若樣方に馬乘のお稽古を申したことが有りますが、 此若樣みた樣にきつくツて、一生懸命なあ初めてです。
侯爵は、フォントルロイに向ひ、
どうだ、くたびれたか?もう下り度いか?
若樣は快濶に、有のまゝを、
あの、中々思つたよりか、ゆすぶれるンです。さうして、 ちツとはくたびれるけど、まだ下り度くはないの。僕、早くおぼえたいンですもの。 僕、息の切れるのが直ると、あの帽子を拾ひに行つて來ますよ。
たとひ世に如才ないといふ如才ない人が、フォントルロイの擧動に拔目なく眼をつけて居られた老侯の氣に入る樣にと、
フォントルロイに入知慧をした處が、
そらあ、僕とう〜驅けさせて來たでせう。僕、あの、五町目の兒の樣に、甘 くはないけど、驅けさせたことはかけさせて、さうして、僕、おツこちやしなかツたもの。
此後、フォントルロイは、ウィルキンスと極く仲が好くなりまして、
まあ、なんちツたつて聞かねえのよ。『ぢやあ、わたくしが下りませう。』 ツていつたら、『大きな馬ぢや、あの兒が乘心が惡いだらう。』だとさ。それから仕方がねえもんだから、其兒が乘ツちまふとな、若との、 兩方の手をポッケットへ入れて、帽子を後の方へ滑らかして、 平氣で口笛を吹いたり、其兒に話しかけたりして、傍 を歩いて行くぢやないか。 それから、とう〜其兒の家まで來たあ。すると、お袋が何がおツぱじまつたかと思つて、出て來る。處で、どうだらう、若との、帽子を脱いでな、 『をばさん、をばさんの子が痛いつて云つたから、連れて歸つて來ましたよ。 あの棒許りぢや、歩き惡 いだらうから、僕のお祖父さまに頼んで、凭 り掛りの附いた兩杖を拵へさせて上げよう。』だとよ、 其調子だもの、其お袋だツて肝を消しツちまふぢやないか。 尤もだあな、だが、おらあ、もうちツとで、噴出しツちまふ處よ。
侯爵は此話を聞かれて、ウィルキンスが氣遣つたとは違つて、
少しも怒られず、却つて大笑ひに笑はれてフォントルロイを
お祖父さまが宜しくツて仰しやつて、そして、これをあの兒に遣つて下さいツて。 どうぞよくなれば好いツて、お祖父樣も僕も思つてるンですよ。
馬車に歸つてから、侯爵に向つて、
あの、お祖父さん、さうおツしやらなかつたけど、お忘れなさつたンだと思つて、宜しくツて、さういひましたよ。 それで好いですか、え?好いでせう?
侯爵は又お笑ひなさつて、それは惡かつたとは仰しやられませんかツた。實際、此
中にも自分の望などは殆ど口に出すか出さないに、もう叶へられました。
さうして上が上に與へられた賜物や、備へ置かれた樂しみが餘り
併し、遂に、セドリックが理想の頂天にお祖父樣を推し擧げたことは、初めての日曜にエロル夫人が、附添もなく歩いて家に歸られた、
侯爵は
それは、貴樣からお袋に行く進物 だ。田舍廻りは迚 も歩いては出來まい。 馬車は是非無ければなるまい。そして御者になつて居る奴が、 世話をすることにして置いた。よしか、貴樣からお袋に遣る進物 なのだぞ。
フォントルロイは、中々悦びを述べ盡すことも出來ませんかツた。
母の
かあさん!ほんとですよ、譃 だと思ツちや、いや。 これはね、かあさんのですよ、僕からかあさんに上げるんだツて、かあさんのだから、 どこへでも、乘つて歩けるンですよ!
フォントルロイは、餘りの嬉しさに、自分が何を云つてるか、夢中な程でした。
母は自分を
其翌日はフォントルロイ早速、ホッブス
だつて、綴字があンまりいけなさうですもの。お祖父さんが見て、 間違つてる處、言つて下されば、僕、も一度書き直しませう。
といひましたが、書いた文面は句讀もなく、のべつゞけで、綴字や用字などの
一筆啓上 僕お祖父さまのことお話し申し度候 侯爵でもあんな侯爵はないと存じ候 侯爵は壓制家だと申すも間ちがひに候 お祖父さまは少しも壓制家でなく候 をぢさまおつきあひなされば仲よくなると存候 きツとさうだと存候 お祖父さまの足にはしゆうふうせうといふものありて大變いたいものに御ざ候 併し大層辛棒づよい故僕毎日だん〜好きになり候 持論だれでも世の中の人に深切な侯爵ならば好きにならずに居られないと存候 をぢさんあつて話して御覽なされば好いにと存候 何でも僕聞くこと知つて居る樣で御座候 しかしまだベースボールは見たことないそうで御座候 お祖父さまは僕に小馬も車も下され母さまには綺零な馬車下され候 僕は部屋三ツとをぢさんが驚くほどたくさんおもちやあり候 お城も樹園もをぢさんが好きそうだと存候 お城は大變大きい故をぢさんなぞでもまい子になりさうで御座候 ウィルキンスが申候 ウィルキンスは僕の馬丁 で御座候 城の縁の下に牢があると申候 樹園の中は何でも綺令故をぢさん驚くだらうと存候 大きな木や鹿や兎や雉子なぞ澤山居り候 お祖父さまは大層金もちで御座候 併しをぢさんが侯爵といふものはどれでも高慢で威張つて居ると仰しやつたけれどお祖父さまは少しもさうでなく候 僕はお祖父さまと一處に歩くのが大好きで御座候 人々はみんなお祖父さまに丁寧で深切で御座候 みんな帽子をとつて禮をいたし候 女の人はおぢぎをして時々祝して神樣のお惠みを若樣の爲に祈りますと申候 僕今はモウ馬に乘ること上手になり候 併し始め樂乘 した時ゆすぶれ候 貧究の人家賃を拂ふこと出來ない時にお祖父さま逐ひ出さずに置いてやりなされ候 さうしてメロンさんが病氣の子供にぶどう酒や色々の物持つて行つてやりなされ候 僕はをぢさんに逢ひ度いと思候 さうして母樣もお城に一處に居られゝば好いと思候 併し大變こひしい時でなければいつも幸 で御座候 僕はお祖父さまが好きで御座候 だれでもさうで御座候 をぢさん手紙を下され度存候
舊友
…月…日 エロル、セドリック拜
愛するホッブス樣
二白 牢の中には誰も居らず候 お祖父さまは牢の中に人を入れて困 しめたことないそうで御座候 大層好い侯爵さまでをぢさんに似て居ると思候 お祖父樣は大變人望が御座候
侯爵は是を讀み果てて、
貴樣は大層お袋が戀しいか?
エー、僕、いつでも戀しいンです。
と答へて、フォントルロイは侯爵に近寄つて、顏を見ながら、お膝の上に手を載せました。そして、
お祖父さんは戀しくはないンですね。
といひますと、老侯は少し面倒なといふ調子で、
おれは知らないのだ。
僕、さうなの、知つてるンですよ。だから、僕、不思議でしやうがないンですよ。かあさん、 僕に何か聞きだてするンぢやないツていつたから……だから聞きやしないけれど、僕、時々考へずに居られないンですよ。ねい! それで不思議で〜仕方がなくなるンです。だから、僕、戀しくツてしやうがない時は、毎晩僕にツて、 かあさんが燈火 を點 けて置いて呉れる處を窓から見てるンです。 大變向うの方だけれど、かあさんが暗くなると、直ぐ窓ンとこへ、置いといて呉れるから、木の間から遠くの方で、 ぴか〜〜〜してるのが見えると、あの燈火 が、かういふんだなと思つてるンです。
御前は、
それが何と云つてるンだ?
あのね、『セデーや、お休みよ、神樣が今夜も、一晩中守つて居て下さるよ。』ツて一處に居た時、 仰しやつたとおンなじことです。夜になれば、毎晩さういつて、朝になれば、『今日も一日中神さまがお守り下さるよ。』ツて仰しやつたから、 僕はいつでも、始終大丈夫なンですよ、ねい、ね。
御前は冷淡に、
ウヽン、大丈夫に違ひなからう。
と仰しやつて、彼の秀でた眉をずツと下にさげ、
當時ドリンコート侯爵は曾て心の思うたことのない、さま〜゛な事を考へられましたが、其考へといふは、
僕、お祖父さんも一處に入らツしやるんだと好いけどねい。 僕、あツちへ行ツちまへば、お祖父さんは獨りで、此大きいお城に入らツしやるんだもの。僕、その事考へると、自分も淋しくなツちまひますよ。 だからお祖父さんも馬に乘れると好いことねい。
それから急に、御乘馬のスィーリムをば、殿がお召しに付いて、
支度くをするのだといふ
侯爵が早くも見出されたことは、嫁が中々怠惰な生活をしては居らないといふことでした。
到着の日から幾程も經ない中に、貧民どもがよく夫人に
あのね、お祖父さん、みんなが、かあさんを見さへすると、 『神さまの御祝福を祈り上げます。』ツていひますよ。さうして、子供なんかは、 みんな嬉しがりますよ。それから裁縫を、をそはりに家へ來る人も有るんですよ。 かあさんはね、大變お金持になつた樣な心持がするから、貧乏な人が助け度くツて、しようがないツて云ひましたよ。
侯爵どのは、世とりの母に當る人が、若々しくツて、
貴樣、この地面が一切、おれのだが、知つてるか?
さうですか?一人でそんなに持つてるツて、大變ですね。さうして、大變、綺麗だこと!
いつか、みンな貴樣のものになるンだが、知つてるか?
フォントルロイは、どうやら、毒氣が拔かれた樣子で、
アレ、僕のですか?いつ?
おれが死ねば、直ぐだ。
ぢや、僕、欲しかないです。だツてね、お祖父さんはいつまでも、 生きて入らツしやる方が好いもの。
侯爵は例の冷淡な調子で、
中々深切なことをいふな。だがな、兎に角、貴樣のになる時が來るわ…… 貴樣はいつかしら、ドリンコート城主になるのだ。
フォントルロイ殿は
貴樣、何を考へて居るのだ?
僕は、僕が大變小さな子だと思つて、それからかあさんのいつたこと、考へてたンです。
何といつたンだ。
あの、かあさんがね、さういつたンです。大變金持になるのは、 さう容易 しいことぢやなからうツて。自分が始終、いろンなものが澤山あれば、 外の人はそんなに運が好くないツていふ事、時々忘れるだらうツて。 だから、お金のある人はいつでも氣を付けて、人のこと考へなくツちや、いけないツて、僕はお祖父さんが大變、人に深切だツて話してたら、 それは結構なこツたといひましたよ。でも、侯爵なンていふものは、大變な權力があるんだから、自分の樂しみのこと許りかまつて、 領分に住 つて居る人のこと考へなければ、其人たちが困つて、自分が助けられることでも、知らずにしまふだらうツて。 だけれど、人が大變大勢居るし、隨分六かしいこツたらうと思つてるンです。 僕、今あそこいらに澤山ある家見て、僕が侯爵になつたら、あの人たちのこと、知れる樣によく尋ねなくツちやいけないツて考へてたンです。 お祖父さんは、どうして、みンなのこと知れたンです?
侯爵が小作人どもを知つて御座るといつても、誰々が年貢を滯りなく納め、誰々が納めぬといふこと丈に止まつて、
納めぬ者は早速に引立つるといふ都合になつて居りましたから、
此問には容易に答へられませんかツた。それ故、『ニューウィックが
侯爵は歸り途にも沈默でした。生涯に誰をも心を盡して愛したことのないのが、今はさまでに此小息子に執着するとはと、自分ながら、
不思議に思はれる樣でした。最初は先づ、セドリックの
心の中に、『おれもよく〜年をとつて、子供がへりしてしまつたので、 他に考へることがなくなつたから、畢竟かうもなるのだらう。』と思うて見て、 又まんざら、さうでもないと考へ直されましたが、も一層、心に立入つて考へて見ましたらば、 其子供の性質の中で、一番に氣に適つて、我知らず、引きつけられる樣な心持のするのは、 自分には嘗て持つたことのない徳、即ち取繕ひなく、優しい眞心のある處と、 人を信じ愛して、決して其惡しきを思はぬ處とだといふことが、分りましたでせう。
これから丁度一週間ほど後の事でしたらう。セドリックは、ある日、母を訪問して歸つて來て、困つて思ひ沈んだといふ顏付をして、
書齋に這入つて來ました。初めて此城に到着した時、腰をかけた、彼の
あの、ニューウィックは、みンなのこと好く知つてるンですか?
侯爵さまは、
さうだ、それがあれの職掌なのだ、何か怠つて居ることがあるのか?
此小息子が管轄の小民どものことに注意して、
フォントルロイは、大きく眼を見張り、恐ろしくてたまらぬといふ顏付で、
あのね、村の向うツの外れに大變な處があるンですと。かあさん見て來ましたと。家なンか、どうもくツついてて、 丸で倒れさうで、息がつかれない樣ですと。それから人がみンな貧乏で〜、大變ですと。熱病なンか度々あつて、さうして子供が死ぬンですと。 それから人がそんなに貧乏で、苦しんでると、段々惡い人になるンですと。ミチェルだのブリジェットだのよりか、まだわるいンですと。 さうして屋根から雨がどツどツと漏るンですと。かあさんがそこに居る貧乏なおばあさん、見舞に行つたンです。 僕、行つてたら、自分が歸つて來て、着物をみンな着替へるまで、側に來させないンですもの。それから、その話して居た時、 かあさん、ぼろ〜泪 流してるンですもの。
フォントルロイは今此話をしながら、自分も
僕ね、おぢいさん知つて入らツしやらないンだから、 行つて話して上げるツて言つて來たンです。
と言ひながら、飛び下りて、侯爵さまの椅子に
おぢいさん、みンなよく出來るのね。あのヒッギンスのこと、 よくして下すツた樣にね。いつでも誰でものことみンな好くしておやりなさるンだもの。だから、僕、かあさんにさう言つたンです。 ニューウィックがきツとおぢいさんに話すの忘れたんだらうツて言つて來たンです。
侯爵さまは自分の膝の上に載つた手を御覽じました。ニューウィックは實際其話を申し上げるのを忘れた譯では有りませんかツた。
今フォントルロイの話の村外れに、俗にアールス、コートといふ處の、如何にも廢頽して居る有樣の事を申し陳ずる爲に、一度ならず、
足を運びましたのでした。それ故、傾いて、見る影もない長屋のことも、
打捨てある
何だ?貴樣は、おれに人の見て雛形にする樣な貸家を建てさせうと云ふのか?
と言ひながら、今迄になく、子供の手の上に自分の手を載せて、おもちやにして居られました。
フォントルロイは、大層熱心に、
今の家はみンな倒してしまはなくツちやね、かあさんもさう言ひましたよ。 アヽ、おぢいさん、明日 、二人で行つてみンな崩させてしまひませう、ねい? みンなおぢいさんが行けば、どんなに悦びますか! だツて、おぢいさんが助けに入らツしたんだと思ひますもの!
と言ひながら、話に身が入つた故か、眼が丸で星の樣に輝きました。侯爵は椅子を離れて、子供の肩の上に手を載せ、 ムフヽヽッと一聲笑ひながら、
さあ二人で外に行つて廊下を散歩しよう、そこですツかり、話をつけるとしよう。
それから、天氣の好い時は連れ立つて、いつもこゝで散歩する例に隨つて、廣い石造の廊下をあちらこちらと、往來する中に、 二三囘もお笑ひなさいましたけれど、何か氣に適はなくもないお考へをなさつてゐる樣子でした。 そして、矢張り小さな相手の肩の上に手を載せて入らツしやいました。
廣野の方から見ては、如何にも
侯爵さまは、セデーの氣隨 な望までも、叶へてお遣りなさらぬことは御座りませんものを、 其お與へなさる自由を他人の爲に用ゐたとて、何の障 りが御座りませうか。この事は是非、 手前がひとつ心配いたして見ませう。
優しい
然るに、思つた通り、好結果の有つたことは、人々が
例の淡泊な調子で、
なに、實はフォントルロイの建議で、是非にと主張するのだ。 始終は爲 に好 しいといつてな。店子 どもにも、 フォントルロイの發議 だと、いつて聞かせるが好からう。
と言ひながら、
田舍の人も、町の人も、借屋改築の噂を早くも傳へ知りまして、
初めはそれを事實と信ぜぬものが多くありました。併し、一揃ひの職人が來着して、
どうも、みンながお祖父さま好きだことね。お祖父さまをみると、あんなに嬉しがツてゐるの御覽なさいよ。こんだ、 僕もあんなに好きになつて呉れると好いけどねい、一人なしみンなに好きがられてて大變好いでせうね。
といつて、左程に珍重され、愛せられる人の孫だと思へば、大威張りだと考へました。
貸家を建て始めました時分には、フォントルロイはお祖父樣と一處に見に行き〜しまして、
フォントルロイは大層熱心でした。自分の小馬を下りて、職人と
僕はかういふことが聞いて知つて居り度いンですよ、 だツて人はいつどんなになるか知れないつてね。
フォントルロが行つてしまひますと、職人たちの仲間で噂をしては、
妙なあどけない言葉を笑ひ〜しました。此人たちも、フォントルロイが好きで、
手をポッケットの中に入れ、帽子をちゞれ
あんななあ、めつたにねえなあ、それにはき〜物をいつて、心持が好いわ、いけねえ奴等(貴族を指す)の種だたあ、 思へねえやうだなあ。
といひ〜しましたが、それから又家に歸つて、其話を女房どもにして聞かせる。女房どもは亦他の女たちに、話をして聞かせるので、 フォントルロイの若君がどうして、かうしての話を、何かしら聞いて、知つてゐない者はない位になりました。 さうして、追々には、『侯爵どののわる』が、とう〜可愛がるものが出來たといふこと、頑固陰險な老人の心情を動かし、 暖めるものが、漸くに見付かツたといふことを、誰も知らぬもののない樣にまりました。
併し其心は、どの位暖まつたかといふと、此老人が生涯に初めて信用されて見て、
其子供に心の
この子ならば、何をさせても出來る、出來ないことといふはあるまい。
といつて居られました。併し、セドリックに對する自分の情愛のことなどに付いては、
口に出して何とも人に仰しやつたことは有りませんかツた。何かの拍子で、人にセドリックのことをいふことが有れば、
ある時、セドリックが彼の
お祖父さん、僕が來た初めての晩、二人仲が好くなきやあツていつたの、 覺えて入らツしやるの?お祖父さんと僕ほど仲の好い人は、どこへ行つたツて有りやしませんわね。
さうさ、隨分仲の好い方だらうな、一寸、ここへ來い。
フォントルロイは掻きたくる樣に側に寄りました。すると侯爵樣が、
貴樣、まだ何か不足があるか、ないもおで、欲しいものが?
此時、子供は彼の
あの、たツた、ひとつ有るンです。
それは又何だ?
フォントルロイは又
何だ〜。
フォントルロイは、漸くに、
あの、かあさんです。
老侯は少しくたゆたつて、
だが、貴樣、毎日の樣にお袋に逢ふぢやないか。それでもまだ足りないのか。
でも、先 には、いつでもかあさん見てゐましたもの、夜寐 る時『お休み』いひに行けば、キッスしてくれたし、朝起きて見れば、いつでも、そこに居たし、それから、とツとかずに何でも、 話しツこ出來たンですもの。
此時兩方沈默で眼と眼とを見合せ、侯爵の方では、
貴樣、そんなら、お袋を忘れたことは一切(言葉に力を入れ、)ないのか?
エー、決してないンです。さうして、かあさんも、僕、決して忘れないンです。 だツて僕、お祖父さんと一處に居なくなつたツて、矢ツ張り忘れやしないぢや有りませんか、ねい? 僕はなほ、お祖父さんのこと考へますわ。
老侯は、猶暫く、ぢツと考へて、
イヤ、こりやあ、さうだらう、さうに違ひあるまいな。
全體フォントルロイが、母を慕ふことに付いては、多少羨ましく思はれて居られる處、かう聞いて、一層其感じが強くなつた樣でした。
これは
然るに、幾程もたゝぬ中に、まだ〜忍び難い、心痛の事件が起りまして、
暫くは、嫁が憎いといふことさへ忘れる程でした。さて其事の起りといふは、
又至つて不思議な事で、實にこれらが青天の
アールス、コートが落成する前、ある夜、ドリンコート城に大宴會が有りました。
かういふ會合は、此城にも近年稀な位のでした。其數日前には又、サア、ロリデールが、夫人とも〜゛此城に來遊されましたが、此夫人といふは、
老侯の一粒の妹で、此時の來遊は、
この通り、兄妹の間が
大方、他の子供と同然、怪 しからぬ人間にされてしまふのでせうよ。それとも、お袋が立派な人物で、 正當な教育が出來る丈の確乎 した處が有れば好う御座いますが。
然るに、其母をば子供と引別けるのだと聞いた時は、又も言葉もない程に殘念に思ひました。そして、かういつて歎きました。
どうも怪 しからん、一寸、あなた考へて御覽遊ばせ。 そんな年の行かない子供を、お袋の手を離して、私の兄みた樣な人間の相手に致すツて、 まあ飛んでもない事ぢや御座いませんか?それこそ、子供をみじめに扱ふか、さもなければ、途方もない持餘し者にする迄に、 吾儘放題をさせますよ。手紙でも遣つて忠告して詮が有ればですが……
さうするとサア、ロリデールが、
なに、おまへにそんなことが益 に立つものか? エー、どうも無益でせうよ。ドリンコート侯は、 それが益 に立つ樣な人物ならば結構ですが、併し、どう考へても、無法な處置ですよ。
小フォントルロイの噂をした者は、貧民や、百姓たち許りでなく、まだ外にも傳へ聞いたものが有りました。其評判する者が多く、又其
ある時、アッシャウ、ホールのサア、タマス、アッシと云ふ貴族が、 エールボロを通り掛つて、ふと侯爵が孫息子とも〜゛馬に乘つて居らるゝに出逢ひ、 乘物を止めて、挨拶をして御血色の打つて變つて好くなつたこと、 酒氣症の平癒したことを悦びに申しました。あとで此人が其時の話を人に語つて、
イヤ、其時、御老人も餘程天狗になつて御座つた。併し、さうあらう筈ですよ、 孫どのがあの姿色 と品格とぢやあ。僕などもあゝいふのは、とンと見た覺えは御座らんからね。骨柄の立派なこと、 そして小馬に跨つた鹽梅は、丸で騎馬武者かなんぞの威勢でさね。
この通り故、ロリデール夫人も追々に其子供の話を聞き込みました。其話の中には、彼のヒッギンスのことや、跛の息子のこと、
アールス、コートのこと、其外に尚さま〜゛有りました。それ故、どうかして、其子供を一度見度いと思つて居た處へ、突然、城主から、
良人とも〜゛ドリンコートに御來遊あれといふ書状を得て、
誠に夢の樣ですこと、あの小息子がとンと魔法でも遣つたかの樣に、 物事を變へたといふ話でしたが、これを見ると本當かと思ふ樣ですね。 私の兄は子供に夢中で、少しの中も見ずに居られない程だと、人が申しますよ。さうして、餘程の自慢ださうですから、矢ツ張り、 私どもにも見て貰ひ度いのでせうよ。
といつて、早速招待に應ずる旨を申し送りました。
さて夫と共にドリンコート城に逹しました時は、はや夕日が西に入る頃でしたから、直ぐに用意の間に通り、
兄に逢はぬ中に、
オヤ、モリノーさん、あれがお話の子ですか?
イヤ、カンスタンシャか、その通りだ、これ、フォントルロイ、 貴樣の大伯母のロリデール夫人だぞ。
すると、フォントルロイが、
さう、大伯母さん、御機嫌はいかゞ?
[と]いひますと、ロリデール夫人は、其肩に手を載せ、
わたしは、おまへのカンスタンシャをばだよ。おまへのおとうさまは、 わたしの祕藏だツたが、おまへは亦大層よう似ておいでだよ。
僕、とうさんに似てるツて、いはれるの大好きですよ。 だツて、みンなとうさんが好きだツた樣ですもの。かあさんとおンなじこツてすよ、 みンなに好かれて丸でかあさんの通りですね……カンスタンシャをばさん。(と少し口籠つて)
ロリデール夫人は大悦びでした。又も一度下を向いて、キッスをしまして、その時からは、兩人が誠に親しくなりました。 あとで兄に向つて、人知れず、かういひました。
まあ、モリノーさん、こちらで註文したツて、これに越したことはありませんね。
侯爵は、いつもの浮かぬ調子で、
おまへのいふ通りだ、中々見處のある奴で、大分おれとは仲よしだ。 おれを此上もない氣の好い、慈善家だと思つて居るのさ。それはさうと、カンスタンシャ、おれが言はずとも、きツと知れることだから、 先に白状して置くが、實はおれも、あれにかけては、いくらか、子供返りのした老耄 になりさうなンだ。
ロリデール夫人は例の率直な調子で、
それで、あのお袋はあなたをなんと思つて居ります。
侯爵は少しく眉を
まだそんなことは、尋ねて見たことはなしだ。
さうですか、先づ遠慮のない處を初めツから申し上げて置きますがね、 わたくしは、どうもあなたの御處置に不同意ですよ。デ、わたくしは早速エロル夫人を訪問する積りですから、 若しあなた御異存があるなら、おツしやつて頂戴したう御座いますよ。どうも評判を聞きますと、子供の人となりも全くあの婦人の教育ひとつで、 あの通りだと思はれる樣ですし、御領内の人民逹も神樣か何かの樣に尊敬してゐるといふ噂が、 ロリデール、パークに居てさへ聞えますもの。
侯爵は
なに、之を崇拜してるのだ。併しエロル夫人も一寸美人で、其容色 を子供に遺傳した丈は、忝 なく思つて居るのだ。 おまへいつて逢ふなら、差支の有る筈もない。たゞコート、ロッヂに引込んで居つて呉れて、 おれが對面することさへ、御免を蒙れば、それで構ひはないのだ。
と仰しやつて、また少し眉を
併しね、先 ほどはあの婦人を憎んで居ない樣ですよ。 わたくしにそれ丈は分つて居ります。そしてね、あの人も多少變つて居りますよ。 そして、不思議な樣でも、あのあどけない、人懷 こい小息子のお蔭で、どうかかうか、人間らしくされて行く樣だと思ひますよ。 まあ、あの子が亦虚言 の樣に懷 いて居るのですよ、坐つてる椅子のそばだの、膝だのに凭 れ掛つたりしましてさ。 兄の子供たちなぞは、虎のそばに寄り添ふ心持でなければ、あんなことは、出來ませんでしたらうよ。
其翌日は早速、エロル夫人を訪問に行きました。歸つてから、兄にかういひました。
モリノーさん、まああの夫人の樣な樣子の好いのに、私は逢つたことが御座いませんよ。 聲といつたら、銀の鈴の樣にさえ〜゛してをて、そして、 あの子をあれまでにしたのは、あの婦人の功名ですよ、よツぽどお禮を仰しやらなくちや。 あなたが仰しやる樣に、姿色 の好い處を讓つた位なことぢや有りませんよ。 そして、あなた、勸めてこゝへ入れて、何かの取締をしてお貰ひなさらないのは、 大間違ひですよ。私はロリデールへ呼取らうかと思ひますわ。
あの兒を離れて、どこへ行くものか。
そんならば、あの子も一處に連れて行かなくツちやなりますまいよ。
とロリデール夫人が、笑ひながら言ひましたが、併しフォントルロイは、中々自分に預けられることもないことは、十分承知してゐて、
その外、今度宴會を催されたのも、自分の孫なり、
ビーヴィスや、モーリス(侯爵の子息)は、いかにも外聞のわるい子供でしたからね、 誰も知らぬ者は無いのでしたもの。可愛がるどころではなく、 親ながら憎くなつた樣子でした。それに今度は又、大威張りに威張れるといふのですから。
と夫に申しました。此宴會に招待を受けた人の中で、フォントルロイ殿を見たく思ひ、 此宴會に出席するだらうか、如何だらうかと思ひつゝ、來ない人はない位でした、侯爵は此時に、
行儀はよし、人の邪魔になることなどはあるまい。子供といふは全體馬鹿でなければ、 うるさいものだ。おれのなどは兩方だツた、併しあれ丈は人に物を言はれゝば、 返答もし、さもなければ、默つて居るから好い、人の氣障 りには必ずならん奴だ。
と仰しやいました。
併し、フォントルロイは、久しく口を開かずに居られませんかツた。みンなが何かしら言葉を掛けては、話をさせたがりました。
婦人たちは可愛がツて、頻りに色々なことを問ひかけ、紳士たちも話しかけたり、冗談を言つたりすることは、
大西洋を渡つた時分と同じ鹽梅でした。フォントルロイは自分が返事する度に、人々が笑ふ樣なのを不思議に思ひましたが、又考へて見れば、
自分の眞面目な時に、人が面白がることは度々あるので、格別氣に掛けはしませんかツた。そして其晩は始めから終りまで、
誠に愉快なことだと思つて居ました。いとゞ壯麗を盡した廣間が、此晩は數知れぬ
フォントルロイの若樣、一寸こちらへ入らツしやいましな。そして、 あなたがそんなに、ぢツと私を見て入らして、何を考へて入らツしやるか伺ひませう。
若樣は一向臆面なく、
僕、あなたがどうも綺麗な人だなと、考へたンです。
といふのを聞いて、紳士たちは一同
イヤ、フォントルロイ、今の中、言ひ度い事を澤山いふが好い。 今に、成人すると、それ丈の事をいふ勇氣がなくなるから。
フォントルロイは、ます〜無邪氣に、
だツて、誰だツてさう言はずに居られないでせう。あなたなンかに言はずに居られますか? あなた(力を入れ)あの方、綺麗だと思ひませんか?
すると、其紳士が、
僕たちはね、思ふことを言ふのも禁じられてるのだ。
と云ふと、外の者はいよ〜高笑ひに笑ひました。然るに、ヴィヴィアン、ヘルベルトといふ其美人は手を出して、 セドリックを自分の方に引寄せました。そして、なほ〜綺麗に見えました。
フォントルロイ樣は、何でも思しめすことを自由に仰しやつて下さいまし。 そして、あなたのお言葉は、何事もお心のまゝと存じますから、誠に有難く頂戴致しますよ。
といつて、頬にキッスをしました。フォントルロイは感歎に餘るといふ、無邪氣の眼で、令孃を見詰め、
僕はね、かあさんを除 ければ、あなたの樣な綺麗な人見たことがないと思ふンです。 だけどまあ、かあさんほど綺麗な人有りやしませんからね。僕、かあさんは世界中で、一番の美人と思つてるンです。
それはさうに違ひ御座いますまいよ。
とヴィヴィアン孃がいつて、又笑つて、頬にキッスをしました。
彼の令孃は其夜宴會の終り頃迄、フォントルロイを側に引きつけて置きましたから、
兩人を中心にしたる
今夜はね、宴會だツたから、ポッケットの中へ入れたンですよ。 ヂックが宴會なンかへ持つて出れば、嬉しがるだらうと思つたンです。
そして火の附いた樣な色の、大きな形のある其品は、いかにも無風流にをかしくとも、 あまり眞面目で、懷かしさうに、かういひましたから、聞いてゐる人たちは笑ふことも出來ませんかツた。
ヂックは僕の朋友なンでせう、だから僕、これが好きなンです。
といひました。此通り始終話しかけられましたが、侯爵の仰しやつた通り、
誰の邪魔にもなりませんかツた。人の話をする中は、靜かに聞いてゐることが出來ましたから、
うるさいと思ふ人は有りませんかツた。時々お祖父さまの椅子に近く行つて、
立つてゐたり、間近に有る足臺に腰を掛けたりして、頻りに其顏を打守つたり、其お口から出る言葉を聞き惚れてゐるかの樣に、
一言々々熱心に耳を立ててゐるのを見る人の中に、意味有りげにほゝ笑む人がいくらも有りました。
一度などはお祖父樣の椅子の臂掛に
ハヴィシャム氏は午後に來着の筈でしたが、不思議なことに、此夜は少し遲刻しました。此人物がドリンコート城に出入りを始めて以來、 かういふことは曾て無かつたことでした。餘り遲いので、客たちは待たず食卓に就かうとして居りました所に漸く來着しました。 先づ侯爵に會釋しようとして、近づきました時、侯爵は其顏を打守つて驚かれた樣子でした。 といふは、氏は平常の沈着と打つて變つて、何かやきもきしたものか、さもなくば心が騷立つて居るかの樣で、艷氣のない、 俊邁な其老顏は、實に青ざめてをりました。そして低い聲で侯爵にかういひました。
思はず、遲刻いたしました、非常な事件が起りまして。
物に動じるなどといふは、此嚴格老成な代言人に、至つて
實は、其夜の中に是非老侯のお耳に入れねばならぬと決した、不思議な凶報の外、何事でも忘れて居つたのでした。其報告といふは、
實に稀有の大事で、萬事の體面を變ずることと、承知して居つたのでしたが、
壯麗な廣間や、
實に山海の珍味を盡して、長々と引延びた宴會に、
さて、會食も終り、紳士婦人は食堂を離れて客室に移りましたが、其折にフォントルロイは、 近頃ロンドンの交際社會で大評判の美人ヴィヴィアン、ヘルベルト孃と共に腰かけて居る處でした。 兩人は何か畫本の樣なものを見て居た樣子で、フォントルロイは令孃に、これを見せて呉れた禮を言つて居た處に戸が開きました。
僕に深切にして下すツて有りがたう。僕はね、まだ宴會なンかに行つて見たことがないンです。 だから僕大變面白かツたンです。
餘り面白かツた爲か、紳士たちが又々ヘルベルト孃の周圍に集つて、話をし始めたのを聞いて居て、笑ひながらいふことを聞きとつて、
意味を解さうとしてゐる中に、
フォントルロイの若樣、御ゆツくりお休み遊ばせ、御機嫌よう。
自分が此時眼を開けようとして、口のうちで、もが〜、
お休みなさい……僕……あなたに、あ……あつて嬉しいンです。あなたは大變……綺麗……
といつたのも、朝になつては知りませんかツた。たゞ此時紳士たちが又何か大笑ひをして、自分では、
何事か知らと思つたのを、
さて、客人が一人殘らず立去つた後で、ハ氏は火の側を離れ、
長椅子に近寄つて、そこに
突然、後に老侯の粗暴な聲で、
イヤ、ハヴィシャム、何事だ?何か新しく起つたのだな。 容易ならぬ非常の事件と申したのは、何事か。いつて聞かせるが好い。
ハ氏はまだ
御前、凶報で御座ります、非常な凶報で、手前も誠に申し上げにくう御座ります。
侯爵は、最前からハ氏のたゞならぬ樣子振りを見て、安からぬ思ひをして居られたのでしたが、此お方は、心に安からぬことが有れば、 必ず不機嫌なのでした。此時も、心中のいらだちを聲に現はして、
ハヴィシャム、なぜ又其子供を左樣に眺めて居るのだ? 全體最前から眼を離さず見て居るのは……これ、ハヴィシャム、 蛇が小鳥を見込んだ樣に、子供を眺めてゐる理由を申さぬのか? 第一、其凶報がフォントルロイと何の關係があるのだ?
御前、ごく手短かに申し上げませう。此凶報と申したのは、 一切フォントルロイ殿の關係で御座ります。其一條を假に眞 と致しますれば、彼處 に御寢 遊ばすのは、フォントルロイ殿ではなく、カプテン、エロルの御子息と申す丈に止まりますので。 實のフォントルロイ殿は、御嫡子ビーヴィス君の御子息で、 現在、ロンドンなる下宿屋に投宿されて居る御方で御座ります。
侯爵は此時兩手に青筋が太々と見える迄に椅子の臂掛を握り締められ、額にも同樣の物が
貴樣は何を申す?亂心でも致したか?さもなくば、だれの詐欺に乘つたのだ?
先づ僞 と致しましても、誠に實際に類した話で御座ります。 イヤ、いかにも苦々しいことで、實は今朝一人の婦人が拙宅を訪 ひまして、 六年以前に御嫡子、ビーヴィス君が結婚遊ばされた人と申し立て、結婚證明状を持參いたしまして御座ります。其人の申立に、 婚姻の一年程後、御兩人の間に何か口論 が有つた末、とう〜若干 の金子 を頂戴して、 お別れ申すことになりましたのださうで御座ります。處が、五歳許りの男子 を連れて居るので御座ります。其人と申すは、 ごく下等の米國人で、先づ無學な方で、昨今までも、其子供が申し受けらる可き特權の事も存じ寄らなかツた次第で御座ります。 然るに代言人と語り合ひまして、我が子が正 しくフォントルロイ殿で、 追つて、ドリンコート城主たる可き者と承知した由 で、そこで、 手もなく、その權利を主張いたすので御座ります。
此時、黄繻子の上なるちゞれ頭が一寸動きまして、
老侯の立派な澁いお顏は、見るも氣味わるい樣になり、それで、極く冷たく、毒氣のある嘲笑が見えて居りました。
イヤ、卑劣破廉恥極まる其所業が、ビーヴィスに有りさうなことでなければ、 一言半句も今の話を眞 とは信ぜぬが、ビーヴィスには、さも有りさうなことだ。あれは不名譽極まる奴で有つた。 イヤおれの嫡子ビーヴィスほど荏弱 で、不正直で、 卑劣なことの好きな人非人はないわ。其女も無學で賤しい者と申すか。
申すも憚りでは御座りますが、無教育なことは御自身の姓名を記すさへ漸くで、 それで、憚る處なく金錢を見込んで、此申立をするので御座ります。 金錢の外に目指す事も無い樣で御座ります。容貌丈は下品ながら美麗では御座りますが……
嗜好の六かしい老成代言人は、此時口を
老侯の額の青筋は、紫の打紐の如くに太々と現はれ、憤怒極まつて、冷たき汗の滴りさへ見えて居りました。 今、ハンケチを取出して、それを拭ひ、其冷笑はます〜毒氣を帶びて、
然るにおれは、も一人の女を憚つて居たのだ。あれ……あの子供のお袋を、 おれはあれさへ嫁と認めなんだのだ。姓名を記す位は差支へのない方を憎んだが、これが其應報でも有らう。
かういつて、突然椅子から跳ね上り、室内をあちら、こちらと歩き始め、猛烈極まる言葉が其お口から湧き出づるかの樣に發しました。
憤怒と、
イヤ,さもあらう、あいつら(子供たちのこと)は生れた其初めから、 おれの外聞であつたのだ。おれも、あいつらは大嫌ひで、あいつらもおれを憎んだのだ。其中ビーヴィスは一層わるい奴で有つた。 併し此事はまだ全く信用を置かぬから、こちらも十分探索し通してやらう。だが、考へて見ればビーヴィスには有りさうなことだなあ、 どうもその位のことは有つたことだらう。
かういつて又憤激し、頻りに其婦人のこと、又證據物のことなどに付いて委細に尋問し、
室内をあちらこちらと歩みながら憤激の情を抑へようとしても、顏色は青くなつたり、紫色になつたりしました。
終に一部始終を聞き終つて、そして、ごく心配になる
終りに長椅子の側に歸り、立ちながら、低いよろめいた樣な、かす〜した聲で、
たとひ人が豫 めおれに子供を寵愛なさることが有らうなどと申したとて、 容易に信じる處ではなかつたが、おれは全體子供は大嫌ひで、中にも自分のは厭に思つたが、おれは此子丈は誠に可愛く思ふのだ。 あれも亦よう懷 いて居るのだ。(といつて苦々しいといふほゝ笑を口元に見せ、) おれは、人望はないのだ。初めから人望はないのだが、此子丈はおれが好きだ。おれを怖がりもせず、いつもおれを信じて居るのだ。 それで此子は、おれよりも立派な城主になつて、 家名の譽 を揚げることになるであらうと、承知してゐるのだ。
此時腰を屈めて、可愛い寐顏を見詰め、彼のふさ〜とした眉を恐ろしく
それ(といつて、少し調子を變へ、)フォントルロイを寐間 に連れて參れ。
ホッブス
セドリックの出立後二三週間も、この通りにして居て、何も新しい考へは起りませンでした。元來遲鈍な
そこで、ある日のこと、ヂックが
旦那、一つやりませうか。
といひますと、其ずんぐりした人が、ぽく〜近よつて來て、足臺に片足載せました。
アヽ遣つておくれ。
といつて、ヂックがすかさず仕事を始めると、其ずんぐりが、ヂックを見ては看板を見、看板を見ては、
ヂックを見まして、
おめえ、あれはどうしたんだ。
あれですか、あれはね、ともだちに貰つたンです。小さい息子に、みンな揃へて貰つたンです。 あんな子なんてあるもんか、今イギリスに居るンです。華族になりに行つたンでさあ。
此時ホッブス
何か、それ、あの……フォ……ムー……フォ……フォントルロイ殿ツて言つて、 あとで、ドリンコート侯爵になるのぢやねえか?
ヂックはかう聞いて、
なんでい、旦那も知つてるンか?
ホ氏は熱くなつて來て、額を撫でながら、
おれなンか、あれが生れるときから知つてるんだ。 終生の朋友 なんだ、あれとおれは。
この話をするにどうやら、心がどきつく樣でしたが、ホ氏はポッケットから、彼の立派な金時計を出し、 之を開いて、ヂックに、かぶせ蓋の中を見せました。
なあ、そら、『これを見て、僕を記憶し給へ。』とあるだらう。それが、あれからおれへ呉れた置形見なンだ。 『僕を忘れちや厭ですよ。』なンていつたツけが、なに、おれは何ひとつ呉れねえツて、 あとは影も形も見ることがねえツて、忘れるどころぢやねえンだ。 (といつて頭 を振り、)誰だツてあんな奴忘れられねえわ。
すると、ヂックが、
旦那、わたしもあんな好い奴見たことがねいンです。せいから、 よツぽど硬骨 のある奴です。おらあ、あんな、小 ちえい子に、あんなに硬骨 ののあるのを見たことがねえんです。 わたしも大變と好きで、兩方から仲が好かつたンです。あの小せいのとおらと、初めツからだツたンです。一度ね、 馬車の下から鞠 を取つて遣つたンです。それをいつまでか、忘れねえンでね、お袋だの、守 だのと、こけい來ちや、どなるンだ、 『イヤー、ヂックかえ。』ツて、丸で成人 の樣にさ。膝からいくらもなくツて、女の着るもん着てゐた時分さ。 ていげい威勢の好い奴で、何かが甘 くいかねえ時分にや、何か言葉でもかけられると、氣色が直る樣でね。
それよ、それに違ひねえンだ。あんなの、侯爵にするなンて、勿體ねえ話よ。 萬屋か、乾物屋でもさせて見ねえ、どんな立派なもんになつたか知れねえわ。とんでもねえ立派な者によ。
といひながら、遺憾千萬といふ調子で又
兩人が話し合つて見れば見るほど。話が盡きない樣で、
おめえは、侯爵だの、城だのといふこと何か知つてるか? おれはもツと委 しいことが、知りたいと思ふンだ。
なんい『一錢小説』ツていふ新聞に、そんな話が出て來て、わしらの仲間で、買つて讀んでる人がありますぜ。 中々おもしろいでさあ。
フン、さうか、おめえ來る時、持つて來ねい。おれが代を拂ふから、 侯爵のことが書いてあるンなら、どれでもみンな持つて來るが好いぜ、侯爵のが無けりやあ、伯爵でも、子爵でも好いや。だが、 あれは伯爵だの子爵だのツていつたことはねえ樣だツけよ。いつか兩人 で冠 の話をしたツけが、あいにく、 又おれが一度も見たことがねえもんだから、こけいらにやあ、丸でねいもんの樣だね。
大店なンかにあ、ありさうなもんですがね。だが、わたしらあ、 見たつて知れねいだらうと思ふね。
ホ氏は自身にも、どうも見て、それと見分けがつくまいとは、
明言しませんかツたが、たゞ樣子有りげに又も
たんと、人が買はねいンだらう。
といつて、其話はそれ切りになりました。
これが縁となつて、此二人は
おめえ、勝手に食ふが好いよ。
と愛想しました。それから、例の小説新聞を讀み、あとは英國の華族の話をするのに、ホ氏は頻りに煙草を吹かし、
頭を振りました。格別、深い
それ、あそこにあるのが、あれの蹴つた跡だわ、まがひもねいあれの靴の跡なんだ。 わしはぼんやりいつまでも眺めて居ることがあるンだ。なる程、世の中の浮沈とはいふが、そこへ坐つて、箱の中から菓子パンを出して食ひ、 又樽の中から林檎を出して食つて、心 を外へ投げた者が、今となれば、華族で、お城住ひだなンてな、して見ると、 あれも華族樣の足の跡だぜ。追つては侯爵さまの蹴跡になるんだ。 色々獨り考へてな、『たまげたあこつた。』ツて言つてるのよ。
この通り繰返し〜昔を語りつゞけて居て、ヂックが尋ねて來るのが何よりの慰みらしいのでした。
ヂックを宿に歸す前に、後の小さな室で共に食事をするに付けて、店から菓子パンや鑵詰物を運びまして、ヂックにも馳走をしました。
終りにホ氏は生姜の沸騰水を二瓶持つて來て、
さあ、これであれを祝はう。それでどうかしてあれが行つた爲に、 侯爵だのお伯爵だのといふ奴たちを、すツかり改良すれば好いなあ。
其夜は先づそれ切りで
もし、侯爵の事の書いてある本が欲しいンだ。
といふと番頭が不審さうに、
なんです?
なに、侯爵の事が書いてある本が欲しいンだ。
番頭は妙な顏をして、
お氣のどくさまですが、さういふ物はおあいにくです。
すると、ホ氏が、心配さうに、
さうか、そんなら伯爵でも、子爵でも好いわ。
どうも、さういふ本は存じませんな。
ホ氏はこゝに至つて、餘程心痛いたしました。先づ下を見、又上を見て、
それぢや、女の侯爵のこツても好いが、それもないのか?
番頭は可笑しさをこらへて、
どうもおあいにくですな。
おいらあ、たまげツちまツた。
と此時ホ氏が言つて、どし〜店を出ようとした時、番頭が一寸と呼びとめて、 華族が重立つた人物になつてる小説で、間に合ふか、と尋ねました。ホ氏は推ツ通し侯爵の事が書いてあるのが無いとならば、 それでも間に合せるといひましたに付いて、エーンスウォスといふ人の書いた、 『ロンドン府の牢獄』といふ小説を一册賣りまして、ホ氏は先づこれを持ち歸りました。
そこで、ヂックが來ました時、それを讀み始めました。これは珍しく、ごく面白い本で、
それぢや、あれも危えぢやねえか。險難々々 、女なンどが位に坐つても、 そんな指圖をするんぢや、今どんなことになつてるか知れやしないぜ。大丈夫どこぢやねえわ。そこに書いてある女の樣なのが、 怒り出した日にやあ、誰だツて危くねえ者はねいぞ。
ヂックも多少心配らしい顏をしながら、
だがね、今切り廻しをしてるなあ、この女ぢやないンですぜ。ほれ、 今のはヴィクトレとかいふンで、此本にある奴あ、メレちいひましたらうが。
ホ氏はまた額を頻りに
さうだツけな、さう〜。拷問だの、焚殺 だのツていふことは、 新聞にもねい樣だな……それでも、そんな、へんてこれんな奴らと一所になつてれば、 なんだか、あれも險難 の樣だな。なんと聞きねい、七月四日祭 せい、守らねい樣な奴ださうだぜ。
此後、數日間、ホ氏は心中誠に安からぬ思ひをして居りました。そして、フォントルロイから來た手紙を、幾度か自分にも讀み、 又ヂックにも讀み聞かせ、同時にヂックに來たのを讀むまでは、容易に心が落着きませんかツた。
併し兩人とも貰つた手紙を、何より珍重し、二人して繰返し〜之を讀み、一字々々が樂しみの樣でした。そして自分たちの送る返事も、 幾日もかゝつて書きまして、貰つた手紙ほど幾度も讀み直しました。
ヂックが返事を書くのは中々容易なことでは有りませんかツた。自分が讀書を覺えたのは、自分の兄と同居してゐて、
夜學に通つて數月間に習うた丈でしたが、
それから、旦那、家兄 は嫁なンか貰やしなけや、よかツたんよ。 なんだか、女にのろけて、馬鹿見た樣になつてね、それで、とう〜嫁に貰ツちまつて、 裏屋で世帶を持ツちまつたンです。其女ツていふのは、またしやうがない奴で、 丸で暴れ猫みた樣なんでね、機嫌の惡い時なンぞにや、何でもびり〜引ツさいてね、さうして、いつだツて、おこつて居ない時はねいンでさあ。 丁度又自分の通りな赤ンばうが有りましたツけよ……夜晝鵝鳴 りツ通してね、 それで、わたしに守 をさせてね、鵝鳴 るたあ、わたしに何でもとつて、放りつけるんでさあ。一度なンか皿あぶツつけると、 丁度赤ンばうに當ツちまつて……腮 へ疵 拵へちまつたンです。 醫者が、なんでも死ぬまで癒るまいつて、言ひましたツけよ、イヤアーとんだお袋だツたんでさあ。家兄 とわたしと其小坊主と三人して、イヤ大騒ぎをやらかしましたツけよ。 全體、其女は家兄 が早く金 をこしれいねいツて、怒るンだ。それだもんだから、牧畜をやるだツて、相手を拵へて。西國 の方へ出てツちまつたンです。すると一週間もたたねいに、 ある晩、わたしが新聞賣つて歸つて來る、見ると戸に錠が下して有つて、 内は空ツぽになつてる、隣のおばあが、おミナは行ツちまツたツていふンです。逃亡したンです。誰だツけか、子供のある奧樣に附いて、 海を渡つて遠國へ行ツちまつたンだツて言ひましたツけ。それからツていふものは音信不通さ。家兄 にだツて、 一向音沙汰なしなんでさあ。わたしなら、心配なンかしてやりもしねいが、流石家兄 も、たんとしねい樣だツたンです。だが、 初めは丸で首ツ丈で、夢中になつてたツけ。だが着物でも着せないツて、怒つて居ねい時なンかは、餘ツぽど綺麗な女でしたツけ。 眼ツてば、眞黒で、でツかくツて、頭髮 ツてば、矢ツ張り、 眞ツ黒で、膝ンとこまでもあるんだ。なんでも、編めば男の腕ぐれい太くなつてね、 それを頭中ぐる〜捲いてたツけ。眼なンてば、なんかの珠玉 の樣にてか〜してたツけ。 なんでも、半分はイタリヤ種 だなンて、いふ人が有りましたツけ…… お袋とか爺 とかがあつちの方から來たンで、それで妙な處が有るんだなンてね。 どうも、そんなもんか知れないと今ぢや思つてるンです。
時々此女と自分の兄のこととの話をホ氏にしましたが、兄が西國へ行つてからも、一二度は手紙も來た樣に言ひました。
ベンも中々好い運に有りつかず、此處、
家兄 もあの女にすツかり、骨を拔かれツちまつた樣なもンで、 時々わたしも可哀さうになつて來たンです。
此時二人は、相變らず、戸口に坐つて居て、ホ氏は
全體、嫁なンぞ貰はなければ好いンだい、女なんぞ。 わしなンぞは、あんなものはどこは好いンだか、さつぱり分らねいな。
さて箱を開けて、マッチ一本出さうとするはずみに、足を止めて、帳場を見ると、
ヤア、手紙が來てるの、ちツとも、知らないでゐた。わしが氣がつかん時に配逹が置いてツたらうか。それとも、 新聞が今まで載ツかツて居たンだらう。
さて手にとつて
イヤ、あれから來たンだ、ちげひねえンだ。
そこで、すツかり煙管のことは忘れて、
こんだは何の便りだかな?
といつて、開いて讀んだ手紙は此通りでした。
大急ぎで一筆 したゝめ候 それは大變珍しいことができてをぢさん聞きなされば驚きなさるとおもふからに候。先 からのことはみンなまちがひで僕華族ではなく侯爵にならずとも好いのに候 僕の伯父さまでビーヴィスといふ人の嫁になつた婦人が子ども一人持つて居り候 そして其兒がフォントルロイ殿で御座候 英國では侯爵のそうりやうのむすこがいつでも侯爵になるので御座候 みンな死ねばで御座候 とうさまやぢいさまが死ねばで御座候 僕のおぢいさまは死なないけれどをぢさまは死んだので御座候 それ故をぢさまの兒がフォントルロイ殿で僕はさうでなく候 それは僕のとうさまは末のむすこであつたからで候 僕の名はニューヨークに居つた時と同じでエロル、セドリックと申すのにて候 そしてなんでもみンな其兒の物になるのに候 初めは僕の車や小馬もやらなければならないのかと思ひ候 併しおぢいさまは遣らずとも好いと仰しやり候 僕のおぢいさまは大變こまつてお出なさり候 そして其婦人が好きでない様だと思ひ候 併し僕が侯爵になられないから僕と僕のかあさんが厭だらうと思つて入らツしやるのかも知れず候 僕は初め思つたよりか今侯爵になるたく候 此お城は大變綺麗で僕みンなが大變好きだからで候 そして大層金があれば色々のことができるからで候 併し僕はもう金持ではなく候 なぜといへばとうさまが末の息子ならば誰でも金持ではなく候 僕母さまを世話できるやうに働く積りで御座候 僕ウィルキンスに馬丁 の仕事のこと尋ね候 僕馬丁 か御者になるかも知れず候。 あの婦人は子供をつれてお城へ參りおぢいさまとハヴィシャムさまとが逢つて話なさり候 あの婦人は怒つたのだらうと存じ候 大きな聲で話をいたし候 僕のおぢいさんも怒りなされ候 僕おぢいさまの怒つたの始めて見たのに御座候 みンながあんなに怒らなければ好いと存じ候 僕はをぢさまとヂックにすぐ話さうと思ひ候 其譯はあなた逹が聞き度いだらうと思つたからに候 この手紙はこれ切りでやめ申候
舊 友
エロル、セドリック
(フォントルロイ殿ではなし)
愛する
ホッブス樣
ホッブス
フーン、おらあ呆れけいツた!
と鐡砲を放す樣に言ひました。餘り動じ樣がひどいので、歎息の聲まで平生とは違つて居ました。ヂックは側から、
そんなら總 破裂なんですね。
イヤ、大破裂だ、だが、わしはあの子が米國人だといふので、 權利を奪はうツていふンで、何でも英國の貴族めらが仕組んだこツたらうと思ふンだ。 あの革命以來わしらの國に對して怨みがあつてたまらん處だから、 今あの子に意趣がへしをするんだらうぜ。わしがなんでもあれが險難 だツていつたが、 それ見さツせい。ひよツとしたら、政府がみンなかゝつて、 法律の上であの子のと定 つた物を取らうといふのかも知れねいぜ。
ホ氏は大層心痛の
なんでも、あの子につくものを、うばはうとしてゐるにちがひねえ。 金のある人がちツと世話やいてくれゝば好いになあ。
そして、其夜はヂックを遲くなるまで引きとめて置き、歸る時には角まで送つて行きました。
そして歸る途には例の空家の前に立ちどまり、非常に心配しい〜煙草をふかして、『かし家』の札を
ドリンコート城で彼の宴會が有つて幾日も經ぬに、英國中凡そ新聞紙を讀む人で、
此お城に新たに起つた、小説めいた話を、知らぬ者は有りませんかツた。
實に此一條を其まゝ
彼の婦人の言葉に、
イヤハヤ、飛んでもないことになりさうですよ、 さうしてそんなことは大きな聲ぢや言へませんがね、あんな可愛らしい人を意地わるく、 子供まで取り上げてしまつた罰 ですよ。でも、おまへさん、其子が又可愛くつて〜、祕藏で〜自慢で〜しやうがないもんだから、 こんどのこツて、丸で狂氣の樣ですと、それにねい、おまへさん、こんどのは先 の若樣のお袋さんとは大違ひで、 お品も何もない女ですと。何だか、シャアツクで、眼玉の黒い變なンですと。だもンですから、制服を着て務める位の身分の者が、 あんなもんに遣はれるのは外聞がわるいツてね。それでお邸 に這入るツていふのなら、 おれは直ぐと退 くなンていつてましたよ。それに、こんどの子ツていふのは先 のと較べれば、月と鼈 といはうか、 まあ迚 も比較 べ樣もない樣なンですと。そこで、おしまひにはどんな騷動がおツぱじまるか、何時 方 がつくこツたか分りませんよ。わたしツてばね、ヂェーンが來て、其話をする時なンか、肝が潰れて、 さはつても倒れさうでしたよ。
城中でも上から下まで騷ぎでない處はない位でした。侯爵とハ氏とが協議して居られた書齋にも、タマスやパン燒や、
他の
おらあ、あんなに造作もなく馴れツちまツて、あんなに威勢の好いのに馬術 、をせいたこたあねえんだ。 あゝいふンなら後から供をしてツても、心持が好いや。
といひました。併し此大騷動の眞最中に、ごく靜にして、一向狼狽もせぬ人が有りました。其人といふは、 最早フォントルロイ殿でもなんでもない樣に思はれて來たフォントルロイ殿で、初めに事情を明細に説き聞かされた時は、少しく心配にも、 亦當惑の樣でも有りましたが、併しこれとても、出世の大望が外れた爲では決して有りませんかツた。
侯爵が彼の一條で話し聞かせられてゐる間は、膝を抱へ
僕、なんだか變な心持がしますよ。なんだか……變です。
といひました。侯爵は沈默に子供を見て居られました。御自身のお心持も變でしたが、實際生涯に、
かういふ變な心地がした
あの人たちがかあさんの家だの、あの……馬車だの、とつてツてしまふでせうか?
なに、そんなこと、(と侯爵さまが聲高に、)何もとつて行くことは出來んのだ。
セドリックは先づ一安心といふ調子で、
アヽ、さう?とつてけないンですか?
さういつて、お祖父樣のお顏を仰向いて見詰め、少し掛念する事がある樣子で、大きな眼を
あのあつちの子ね。お祖父さま、あの……子がこんどツから……お祖父さまの ……あのお祖父樣の子にならなくツちやならないンでせう……あの今までの僕みた樣に。
なに、そんなことがあらう!
と仰しやつた侯爵のお聲が餘り
あれ、さうでもないの!(と不審さうに、)さうならないンですか。 僕、さうかと思つたンですよ。
といつて、急に腰かけを離れ、
僕、侯爵にならなくツても、矢ツ張り、お祖父さまの子なンですか?先 の通りにお祖父さまの子?
といつた顏が
どうもこの時の老侯が、頭から足の先まで、セドリックを御覽なさり樣といへば、實に非常でした。彼のふツさりした眉の寄せ鹽梅といひ、
其下の
おれの子かなンて、おれの息のある中は貴樣はいつまでもおれの子だ。 それに貴樣の樣に、おれの子だと思つたのは、他に誰もない氣がするンだ。
と仰しやつた聲いろが、非常に震つた樣で、ちぎれ〜の樣で、
お祖父さま、ほんたうにそんな心持がするンですか?ぢや、僕、侯爵だの何だのツて、 そんなこと、どうでも好いですよ。僕、侯爵になンかならなくツても好いです。 僕ね、かう思つたンです、あの侯爵になる子の方がお祖父さまの子にもなるのかと思つたンです。 ねい?さうすれば、僕さうぢやないンだなツて思つたンです。だから、僕、變だツたンです、ねい?
侯爵はお手を其肩の上に載せて、自分の方にずツと引きよせ、太い息をつきながら、
おれの力の及ぶ丈は、何も彼も抑へて、取らせはせん。おれはまだ信ぜん。 あいつらが貴樣の物に、手をつけることが出來ようとは信ぜん。どうしても、 貴樣には此位が備つてゐるのだ。それで矢ツ張り、貴樣のになるかも知れん。 だがな、何事が有らうと、おれの力にいきさへすれば、何もかも貴樣に遣るぞ、一切遣るぞ。
かう仰しやるお聲とお顏とに非常な決心が現はれてゐまして、丸で子供に物を言つて居られるとは、思へない樣でした。
我と我が心に
今が今まで、どれ程までに、子供を寵愛し、どの位自慢で有つたか、御自分でも御承知がなかつたかの樣で、其屈強な處も、
美質のある處も、
ハ氏に面會した數日後に、フォントルロイ夫人と言ひ立てた婦人が、お城にと推參して、彼の子供を引連れて居りました。
併し早速に追ひ返されました。取次に出た給仕が、侯爵さまは面會お斷りで、出入の代言人に、委細取計はせるで有らうと申し傳へました。
わしは華族方のお邸 で、制服勤を長らくしたお蔭には、此婦人が、 どの位に品のある者か、知れないでたまるもンか。それで、 あの女が貴婦人だといふなら、わしの女を見る眼は腐つて居るツていふもンだ。
といつて、一層自慢らしく、
憚りながら、あのロッヂに居る方は、そりや、アメリカ生れだらうが、さうでなからうが、 あれこそ、本當の品のある方よ。片眼しか開いてないだツて、その位はこちとらにやあ知れらあ。 それだから、あそこへ初めて行つた時、ヘレンにさういつたンだ。
其
此婦人といふは正 しく、下等社會の人間で御座ります。 何事にも、教育とか、躾とかいふものは、皆無の樣子で御座りますから、われ〜どもと相對して、同等の交際をする術 さへ知らず、 自分も途方にくれる鹽梅が見えてをります。お城に推參しても、餘程毒氣を拔かれたものと見えますて。イヤ恐ろしい權幕で腹をたてても、 餘ほど毒氣を拔かれて居るのです。侯爵は面會はお斷りになりましたが、手前がお勸め申して、投宿して居る宿にお連れ申したのです。 先づ侯爵がお入りになるのを見ると、肝を消しましてな、眞青になつたと思ふと、俄 に猛 り立ちまして、 息もつかず威 して見たり、請求をしたり、イヤハヤ、大騷動で御座りました。
此時の實況を申さば、侯爵が先づ
貴樣はおれの長男の女房ださうだ、まツこと、貴樣のいふ通りで、 證據が慥 ならば、是も非もなく、法律上、貴樣の方が勝利だ。萬一さうとすれば、貴樣の生んだ子がフォントルロイに違ひはないが、 事實は土ン底まで確める覺悟で居るから、さう思ふが好いぞ。貴樣の申立が其通りとなれば、正當丈の事はして遣はさうが、それにしても、 おれの息のある中は、貴樣も、貴樣の生んだ子も一切眼に觸れて貰ふまい。 おれが眼を瞑 つてからは、貴樣ふぜいに、あの城を手もなく蹂躙されるのだが、それは據 ないのだ。全體おれの長男なら、 丁度貴樣たちの樣な者に關 ふ奴だと、斷念 めて居るのだ。
と仰しやり殘して、其まゝ立つて、つか〜と來られた時と同じ調子に又立去られました。
これより數日後に、小座敷で書物をして居たエロル夫人に、下女が來客を報じました。下女は取次をして、
何かどぎまぎした樣子で、眼を丸くして居りました。そしてまだ年若で、ものなれぬ處から、奧樣の爲に非常に氣遣つて居る
奧樣、まあ……あの侯爵さまで御座いますよ。
エロル夫人が客間に這入りました時、丈高く、凛然とした老人が虎の革の敷物の上に立つて居られました。 其立派な老顏には、どことなく澁味があり、横顏は鷲の顏を見るの趣きが有り、長く延ばした八字髭は眞白で、容貌は一口に頑固といふ方でした。 先づ言葉をかけて、
エロルの妻 であらうな?
左樣で御座ります。
おれはドリンコートだ。
と言はれて、自分の顏を何氣なく、見上げた顏に、我知らず一寸眼を止めると、數月以來、一日に幾度となく、自分と見かはす、げんきな、
愛くるしい、幼い眼に生寫しなので、妙な心持になり、
あの子供は、よくも貴樣に似て居るな。
御意で御座ります。左樣に申すものも澤山御座りますが、 矢張り父に似て居る樣にも考へまして、樂しみに致しますので。
ロリデール夫人が、嘗ていつた通り、エロル夫人の聲は
さうだ、おれの……子にも……似て居る。
と仰しやつて、手持なさに、彼の八字髭を遺恨でも有りさうに、頻りに引張りながら、
貴樣、おれが今日こゝへ來た譯を知つてるか?
あの、ハヴィシャムさまにお目に掛りましたら、今度 云々 の言立 をする人が御座りますさうで……
それで、力の及ぶ限り攻撃する積りだ。それでは法律上差支の無い限り、 保護する心だから、その事を言ひに來たのだ。子供の權利は……
夫人は優しい聲で押しとゞめ、
たとひ法律がゆるしましても、正義にかけて所有權のないものならば、 決しておとらせ下さりません樣に願ひます。
イヤ、法律上で子供のものになりさへすれば結構だが、 それさへ出來さうもないのだ。彼の無法千萬の女親子が……
夫人は再びしとやかに、老侯の言葉を遮り、
併し御前樣、其婦人にいたしても、手前がセドリックに對すると、同じ情愛を持つて居ることで御座りませう。それで、 其婦人が正 しくお世とりで有らせられた方の夫人とならば、 其お子がフォントルロイ殿で、手前のは左樣でないことは極く明白で御座ります。
かういふ樣子の素直で、一向怖氣のない處は、よくもセドリックに
貴樣は全體子供がドリンコート侯にならぬ方が、勝手と申すのだらう。
此時夫人は、花やかな其顏を赤らめ、
どういたしまして、ドリンコート侯爵と申せば、大した格式で御座ります。 併し手前は、子供が何はさて置き、第一に父に傚 ひまして、萬事に雄々しく、 正義を守る樣致し度いので御座ります。
老侯はかう聞いて、少し嫌味に、
ハヽア、祖父 とは、なる可く正反對に有らせ度いといふのだらうな。
憚りながら御祖父樣にはお知己 で御座りませんので、 何とも申し上げられません。併し子供は誠によく信…… (言ひさして、暫し口を鉗 み、靜かに老侯のお顏を打守り、) セドリックが御前樣にお懷 き申して居ることは、ようく承知致して居ります。
侯爵は極く味氣なく、
どうさらう、貴樣を城に迎へない譯を知らせても、矢張りおれに懷 いたらうかな?
どうもさうは參りませんでしたらう。それ故、手前が是非知らせ度くないと存じたので。
御前は唐突に、
だが、それを言はない位の女は、たんとないな。
と仰しやつて、益々八字髭を引張りながら、座敷をあちらこちらと濶歩し、
さうだ。あれはおれを好きな樣だし、おれもあれを愛してるのだ。 おれは全體、誰も好いた覺えがないのだが、あれ丈はどうも可愛いのだ。初めから、氣に入つてしまつたのだ。おれも年をとつて、生活 が懶 くなつて居た處だツたが、あれが來て、長生の仕甲斐が出來たといふものだ。それで、人にも自慢して、 おれのない跡は、あれが家の首領になるのを滿足に思つて居たのだ。
といつて、夫人の坐つて居た前に來て、突立ち、雜駁にかういはれました。
おれは不愉快極まるのだ。
御樣子を窺へば、なる程、さこそと思はれる樣でした。平生我慢なたちも、手と聲との震へをとゞめることが出來ない位でした。
一寸其時には、
おれは非常に不愉快な所爲 で、貴樣の處に來る氣にもなつたのだ。 一體おれは貴樣を憎い奴と思つてゐたのだ。それから又貴樣のことを、あつかんだことも有つたのが、今度不名譽極まる事件が起つて見ると、 萬事の體面が變つて來た。おれの長男の女房と名乘る、あの嘔吐 い女を見てから、 貴樣と顏を合せれば、却つて氣色が直るかと思つて來たのだ。おれもよツぽど頑固 な老 ぼれで、 貴樣に對しては、濟まぬこともあらう。ところで貴樣はあの子に似てゐるが、 あの子の爲におれも生きてゐる樣なものだから、今度の事件で不愉快極まる處から、 あの子に似て居る貴樣にも逢ひ、あの子を思ふ處が貴樣もおれも同一 だから、 それで、畢竟、こゝに來る氣になつたのだ。貴樣も子供に免じて、おれをひどく惡く思つて呉れるな。
かういはれた聲は左程優しくはなく、いづれかといへば粗暴な樣でしたが、 兎に角餘り落膽されて居る樣子振りに、エロル夫人は氣の毒さが心に溢れ、立つて安樂椅子を少し前に進め、極く優しく、可愛らしく、 同感の情を籠めた調子で、
まあ、兎に角、おくつろぎ遊ばしましな。此頃御苦勞の多いので、餘ほど御疲勞 遊ばしてです。 存分お厭 ひ遊ばしませんでは。
率直に自分の言つたことを反對されるが珍しければ、優しく飾りげなく物をいはれたり、
眞心から介抱せられるのも、亦老侯にとつて珍しいのでした。又しても、セドリックによく似た處よと思ひつゝ、
言はれるまゝに座に着かれました。かく落膽し、かく不愉快を感じられたことは、老侯にとつて、屈強な
何事が有らうとも、子供の爲には適當の用意はして置くぞ。 今も未來にもおれが必ず、不自由はさせぬ。
というて、立ちかけて、座敷を見廻し、
どうだ?此家は氣に入つたか?
誠に結構で御座ります。
中々小ざツぱりした座敷だな。又時々に來て、話しても差支ないかな?
御意に叶ひましたら、いつ何時 でもお入り遊ばしませ。
そこで、馬車に乘つて、お立ち歸りになりましたが、タマスやヘレンなどは、今度のなり行の異樣なのに、
フォントルロイ殿一條で、ドリンコート城に騷動が起ると共に、
英國新聞は探訪の屆く丈詳細に書き立てて、間もなく米國新聞にも傳説致しました。
此一件は中々輕く
なあ、さうぢやねえか、おいらみた樣に侯爵でねいツて、 そんな大した物をみざ〜人に、せしめられてたまるものかなあ。
併し實際何と言つても、自分たちが助太刀の仕樣もなさに、たゞ二人して
ホッブス旦那のとこへもわしところへもおめえの手紙がとゞいた。おめえも運のまはり合せがわりくなつて氣の毒だ。 なんでもしツかりふンばつてゐねい。人にいゝかげんのことされちやいけねい。よツぽどふんどしい堅く〆めてゐねいと、 どろばう根性のものにいゝやうにされるぞ。かういふのもおめえがこつちに居るじぶん恩になつたことを忘れねいからだ。 だから外にしかたがなけりやこつちへ來てわしといつしよにやるがいゝ。 この頃は大分繁昌してる、それでおれがおめえの世話して困らねいやうにしてやるわ。 どんなやらうが來たツてわしが居れば大丈夫だ。こんどはこれ丈にして置かう。
ホ氏の手紙で、ヂックが讀んだのはかういふのでした。
御書状拜見容易ならぬ一條で御座候と奉存候。何でも拵へごとで仕組んだ奴は其儘にしては置けないと奉存候。 二ヶ條の申進 じ奉候 私もきツと此事一つ調べ申し奉候事貴殿内々にして置いて被下候。 其内私代言人と相談いたし候て盡力いたし奉り候。そこで甘 く行かず侯爵のやつらにまけ候はゞ貴殿成長被成候上萬屋 の株半分差上奉る可候。私貴殿を引取り世話奉り申す可候也。再拜頓首
サイラス、ホッブス拜
それでホ氏が、
あれが侯爵にならねいつて、かうして置きや、二人で差支のねい樣に世話が出來るわな。
すると、ヂックが、
さうとも。わしはどこまでも加勢する氣なンです。あんな好いた樣な子はなかつたから。
其翌朝ヂックの
それ、新聞を遣らう。おまへの朝飯を食ひに行く時分見るが好いぜ。英國の城の圖も、侯爵華族の嫁樣の畫像もあるぞ。 これ一人で、中々えらい騷動を起したンだが、頭髮 なんどの澤山ある立派な女だわ。 おまへも貴族華族も、いくらか知つて居ないといけないよ。 先づ畏 くも、ドリンコート侯爵さまとフォントルロイ令夫人にお近づきするが好い。 (と言つてヂックの樣子振りに氣がつき、)イヤー、これはしたりどうしたんだ?
其
これはしたり、ヂック、どうしたのだ?なんでそんなに膽 を潰してるンだ?
ヂックは、容易ならぬ一大事が
この女なら、おらあ、旦那知つてるより、好く知つてるんだ。
彼の紳士は笑ひ出しました。
ヂック、おまへどこで出逢つたんだ?エー、ニューポートへ避暑に出かけた時か、 それとも、パリへ見物に行つた時でも有つたか?
さういはれても、ヂックは笑ふことさへ忘れた樣でした。そこで一寸もさし置けぬ大事が起つて、
當分家業も打捨てるのかと思はれる樣子で、
まあ、どうでも好いが、知つてることは知つてるンだ。今朝は、仕事も何もおしまひだ。
と捨言葉をして、そして五分も經ぬ中に、彼のホ氏の角店指して一走りに行きました。 帳場の向うに坐つて居つたホ氏も相變らず、手には新聞紙を持つて駈込むヂックを見てびツくりしました。 餘り急いで走つた故、ヂックは息をきつて居りました。それで新聞を帳場の机の上に投げました切り、暫く口もきけぬ程でした。
ホッブス
ヤアー、何を持つて來たんだ。
まあ、見ねい、此畫の女を見ねい、これが華族なんかでたまるもんかよう。 (とさも見下げたといふ聲で、)華族のかみさんなンかであるもンか、是がおミナでなけりやあ、おらあ旦那に食はれツちまツたツて構はねい。 おミナよ、おミナに定 つてらあ。どこに居たつて、知れらあ。 ベン兄 だツてすぐ分らあ、譃 なら聞いて見ねい。
ホ氏は、腰を拔かした樣でした。
だから、わしが言はねいこツちやねい、仕組んだ狂言に違いねいツてだ。 あれがアメリカ生れだツていふンで、はめたにちげいねいンだ。
ヂックは、呆れ聲で、
なに、てツきり此女さ、此女が拵へた狂言と、おらあ思ふンだ。 だツて、いつでも惡戲 許りして居やがツたもの。でね、此畫 を見ると直ぐと心に浮んだことがあるンだ。 そらね、こなひだ讀んだ新聞に、其女の連れて來た子のことね、そら、腮 ンとこに疵 の跡があるツて、書いて有つたらう。 なあ、それとこれと一處にして見ねい、其疵ツていふなあ、こいつの拵へたのよ。だから、そいつの連れて來た兒ツていふなあ、 華族處か、あれが華族ならおれも華族だ。そりや、ベン兄 の兒よ、 そら、おれに皿あ投げつけた時あてた兒よ。
ヂックは全體鋭敏な兒で、大きい都でもまれ〜して、尚一層鋭敏になつたのでした。いつでも目端を利かせ、
いつも頓智を廻して居ましたが、此時發見した一大事に付いて、氣を
ホ氏は此一條につけて、新たに起つた自分の大責任に壓倒されて、殆ど夢中の
ねい、あの新聞をわしに呉れた人ねい、あれは代言人だが、 こゝでどうしたもンか、一つ尋ねて見ようぢやねいか。代言人なンかなら、知つてるに定 つてるだらう。
かう聞いて、ホ氏はヂックの思ひつき、ヂックの如才ないことに、大感服に感服しました。
さうよ、さうだツけ。かういふ事にや、なんでも代言人が入用 ンだ。
そこで、店を手代りに頼んで、外套も大急ぎに引ツ掛け、ヂックと下町へ出かけ、
彼のハリソンといふ代言人に、小説めいた話を持つて行きました處が、
彼の紳士も
おまへさん。一時間いくらといふのでもかまはねいから、よく調べて貰ひていンだ。わしが一切呑み込んでるから。 ブランク町の角の萬屋 ホッブスといふンだ、宜しうがすか。
すると、ハリソン氏が、
左樣さ、これが思ひ通りにいけば、大したことになります。 フォントルロイ殿は固 より、僕にとつても非常な運定めになります。それで、兎に角事實の探索にとり掛つて、差支は有りません。 新聞で見ると引連れて來た兒の事に、少し曖昧が有つた樣子です。其女が其年齡 の話になつて、前後揃はぬことを言つたとかで、 既に疑惑を起してるンです。そこで、第一ヂックの兄と、ドリンコート家の抱への代言人とに手紙を出しませう。
そこで、其日の晩方までに、二通の大事な書面が投凾になりました。一通はニューヨークの港から
其夜は店を閉めると、ホッブス
時としては、ごく
此事體が案外早く方づいたといふものは、
手前が婦人に面會いたして三囘に及びます頃、餘程心に疑を生じて參りました。 第一見る處で其子供の年齡が申立よりは、多い樣に見受けられました。其中に、出生の月日を尋ねられたはずみに、一寸、 口を滑らせたことが有りました。尤もすぐ其場はつくろひましたが、此二通の書中にある趣きが、手前の心の疑惑によくも符合いたします。 そこで、ごく望のある方法と申すは、ごく祕密に此チプトン兄弟を電報で呼びよせ、 突然引合せるといふので御座ります。彼の婦人も斯くは仕組んでも、 至極不器用な方で御座りますから、手前の考へでは、すぐ其場でぎツくり度を失ふはずみに、後尾 を現はすは、必定と存じるので。
と申しましたが、其計畫が思ひ通りの結果を奏しました。
其女には一向何も知らさず、疑を起ささぬ爲に、ハ氏は其申立を取調中と
然るに或る好天氣の朝、事の成つた上には、どうかうと、宿屋の座敷で結構極まる目算をしてゐる最中、 ハ氏の來訪を告げる者が有りました。通る處を見ると、後にぞろ〜續いて這入る人が三人有りました。 第一に機敏らしい小息子、第二に、丈の高い壯年、第三には例の侯爵さまでした。
此時其女は思はず跳上つて、萬事これまでといふ樣な大聲を立てました。不意の事とて、そ知らぬ顏にとぼけることも出來ませんかツた。
今眼のまへに見えた中で、二人の事などは、久しく思ひ出す
イヤー、おミナさんか?
といひました。ベンといふ丈の高い壯年は、暫く沈默して顏を見て居りました。
ハ氏は二人の顏を
どうです、お二人とも、同人を知つて御座るのか?
といひますとベンが、
知つて居ますとも、わしも、此女を知つて居れば、此女もわしに見覺えが有るンです。
といつて、一向平氣で女に後を向け、顏を見るも厭といふ調子で、窓際に立つて
旦那、どこへ出ても、この女が慥 にそれといふ證據は、 きツと立てますし、まだ外に證據人がお入用なら、幾人でも出しませう。 尤も此女の爺 といふは、賤しい家業こそしても實直 な人間です、 此お袋といふのは、矢ツ張り、これによく似てゐる奴でしたが、これは歿 くなつて、爺 丈は生きてゐるンです。 いや現在の親が此女にかけちや、外聞をわるがツてる位なンです。其爺 を引出せば、此女が何者だか、 わしのかゝあになつたことがあるかないかが、直ぐと分りまさあ。
といつて、急に口惜しさうに、
これ、あの子供はどこへやつた?もうおれが連れてツてしまふから、 あれも貴樣と親子の縁は切るし、おれももう貴樣に用はないぞ。
といつて居る中に、隔ての
此兒もたしかです、出る處へ出て、云ひ立てても好うがす。さあ、 トムや、おれは貴樣の爺 で、今日は貴樣を連れに來たのだが、貴樣の帽子はどこだ?
其子供は帽子の置いてある椅子を指し、自分が
又御用が有つたら御承知の處へお便 を願ひます。
といつて、女を振返つても見ず、其子供の手を引いて行つてしまひました。女は一層烈しく狂ひ廻つて居りましたが、
侯爵は眼鏡を鷲の
これ、御婦人、怪 しからぬ始末ではないか? 暗い處に入れられるが厭なら、少し謹むが好からう。
いつた調子が、中々馬鹿に出來ぬ處が有つたので、この場合になつては、身を
もう、これで面倒は御座りますまい。
と申しましたが、其言葉の通り、其夜直ぐと宿屋を出立し、ロンドン行の汽車にのり込み、影を
侯爵が此立合を濟まして、馬車に乘られると、タマスに、
コート、ロッヂに參れ。
と
コート、ロッヂと仰しやるぜ。とツぴやうしもないことになつて來さうだな、 どうも奇妙だな。
馬車がコート、ロッヂに止まりました時には、セドリックは母と共に客間に居りました。
侯爵は案内もなく、通られましたが、近來の苦勞で、曲りさうな腰も延びて、丈も先頃よりは一二寸高く見え、
フォントルロイはどこだ?
と言はれました。エロル夫人は顏を赤めて、前に進み、
あの、矢張り、フォントルロイで御座りますか、本當で御座りますか?
といひますと、侯爵が手を出して、しツかり握手なさいました。そして、
矢張りさうだ。
と仰しやつて、片手をセドリックの肩に載せ、例の唐突な
フォントルロイ、貴樣、おツかさんが城に引移つて呉れるか尋ねてみい。
と仰しやると、フォントルロイは母の
かあさん、これから僕たちと一處に居て呉れるンですよ。いつまでか一處に居るンですよ。
此時侯爵はエロル夫人の顏を御覽じ、エロル夫人は侯爵の顏を
手前が參る方が、きツと御都合が宜しいのですか?
と問ひますと、侯爵が又雜駁に、
さうとも、實は初めツから、其方が好かツたのだが、 ついそれと知らなかツたのだ。どうぞ都合して來て貰ひ度いものだ。
それでベンは早速子供を引連れて、カリフォルニヤ州なる牧場に歸りましたが、
さて
丁度、七月四日の祝日の樣にするンですよ。僕の誕生日が七月四日だとねい、好かツたけれど、さうすれば、 兩方一處に守れたツけもの。
最初はホ氏と侯爵との間の交際は、極めて
第一、入口の門と石の獅子、竝木道などが大にホ氏を歡ばする程になりましたが、
現に城郭、花苑、
これは博物館といふ樣なものかな?
と問ひました。フォントルロイは
いゝえ、博物館ぢやないでせう。僕のお祖父さまは、 みンな僕の祖先の畫像だツて仰しやるンです。
すると、ホ氏が、
なんだ、そ、そ、せんとは何のこツた?
といつて、非常に不審がりましたが、フォントルロイ殿は、漸くの事で自分の知つて居る丈の譯を説き聞かせました。
それでメロン夫人を呼び寄せて、誰が其の畫像をいつ〜書いたといふこと、又畫に描いた其人物が、
これらあ、みンな侯爵とか、なんとかいふ樣なもンださうだ。 あれもいつかかういふのになつて、みンな自分の物にするンださうだ。
内々は侯爵や、其生活向の事に付いて、曾て思うた程厭でなくなり、城郭のこと、祖先其他の事を段々
おれなンども侯爵になつたツて、たんとわるくなかツた。
といひましたが、これは實に此人にしては、非常に寛大な申分でした。
フォントルロイ殿の
さて當日となつて木の下や天幕の中、又芝生の上などに群集した人の數々は、
フォントルロイ殿のお可愛いこと?此度 は結構なことでしたと、 私は大層嬉しう御座いますよ。
そして此あとで、一處に庭を廻り歩いて、フォントルロイが何くれと指して見せるに任せました。
それでホッブス
ミス、ヘルベルト[、]これはね、僕の舊 い〜朋友 のホッブスさんです。 それからこれが、も一人の舊 い友だちで、ヂックといふンです。僕が、あなたが大變綺麗な人だから、誕生日に來れば、 見られるツて、いつて置いたンですよ。
孃は二人に一々握手し、立止つて例のしとやかな調子に言葉をかけ、米國のこと、船旅のこと、英國へ來てからのことなどを尋ねました。 其間フォントルロイは側に立つて居て、ホ氏にもヂックにも孃が氣に入つた樣だと思ひ、 讚嘆の眼を離さず守つて居て、頬は嬉しさに眞赤になつて居りました。ヂックがあとで極くまじめで
ありや、よツぽど綺麗な人だなあ、花の樣だなあ、丸で……まあ花だ、ちげいねいンだ。
誰もかも、此令孃の通る跡を見、又フォントルロイ殿のあとを見ました。
そして天氣は
それは生涯、富と
畢竟、甚だ分り易い事柄でした。斯ういふ心の深切な優しな人の側に成長して、
いつも人のことを深切に考へ、
ドリンコート侯爵が此日フォントルロイの、群集の中をあちらこちらと歩み、
見知りの者に言葉をかけたり、人に挨拶されゝば、手早く辭儀をしたり、ヂックやホ氏を饗應したり、母やヘルベルト孃の側に立つて、
其話を聞いて居る處を御覽じて、
此人々は、侯爵の
お可愛らしい若樣に天慶 を祈りませう。
といひました。小フォントルロイはます〜興に入りました。にこ〜ながら立つて居て、嬉しさに髮の
かあさん、みンなが僕好きだからですかね?さう、かあさん? 僕、嬉しくツて。
といひました。すると侯爵が子供の肩に手を載せて、
フォントルロイ、貴樣は一同の深切に對して、禮をいつたら好からう。
フォントルロイは先づお祖父さまのお顏を見、それからお袋の顏を見ました。それで少しく臆せる氣味に、
かあさん、しなくツちや、いけませんかね。
といひますと、母は只にツこりして、側のヘルベルト孃も同じ樣ににツこりしました。
それで二人が
僕、みンなに有りがたしツていひ度いンです。僕は今日の誕生日が大變面白かツたから、 みンなも面白かツたら、好いと思ふンです。それから……僕、侯爵になるの嬉しいンです。 僕初めは侯爵になるの、嬉しいなンて思はなかツたけど、もう嬉しくなつたンです。僕はこゝも大好きです、 どうも綺麗だと思つてますの……夫 から…… 僕侯爵に成つたら、一生懸命で、僕のお祖父さんの樣に好い人になる積りです。
さうして一同の拍手喝采が鳴り止まぬ中に、先づ役濟といふ調子で、一寸溜息をつきながら又一足
こゝで此
どうして〜、あつちへ落ちつくことなんどはまツぴらだ。わしはこれでもあれの側に居て、一寸後見 をして居る積りなんだ。若い働きのあるものには結構な國だらうが、 矢ツ張り、惡い處もあるな。全體、祖先なンといふことさへないし、侯爵といふものはなほのことだ。
と云ひました。