噫無情 : 目次 ------------------------------------------------------------------------------- タイトル:噫無情 (Les Mis[e']rables, 1862) 著者:ヰ゛クトル、マリー、ユーゴー (Victor Hugo, 1802-1885) 譯者:黒岩涙香 (1862-1920) 底本:縮刷涙香集第二編縮刷『噫無情』 出版:扶桑堂 履歴:大正四年九月十五日印刷,大正四年九月十八日發行,大正七年七月十七日廿二版(實價金壱圓六拾錢) ------------------------------------------------------------------------------- 噫無情 ヰ゛クトル、ユーゴー 著 黒岩涙香 譯 ------------------------------------------------------------------------------- 後篇 目次 * 七十九 白翁《はくおう》と黒姫《くろひめ》 * 八十 白翁と黒姫 二 * 八十一 白翁と黒姫 三 * 八十二 白翁と黒姫 四 * 八十三 神聖な役目 * 八十四 四國兼帶の人 一 * 八十五 四國兼帶の人 二 * 八十六 四國兼帶の人 三 * 八十七 四國兼帶の人 四 * 八十八 四國兼帶の人 五 * 八十九 四國兼帶の人 六 * 九十 四國兼帶の人 七 * 九十一 四國兼帶の人 八 * 九十二 四國兼帶の人 九 * 九十三 陷穽《おとしあな》 一 * 九十四 陷穽《おとしあな》 二 * 九十五 陷穽《おとしあな》 三 * 九十六 陷穽《おとしあな》 四 * 九十七 陷穽《おとしあな》 五 * 九十八 陷穽《おとしあな》 六 * 九十九 陷穽《おとしあな》 七 * 百 陷穽《おとしあな》 八 * 百一 陷穽《おとしあな》 九 * 百二 町の子 * 百三 十七八の娘 * 百四 私しと一緒 * 百五 愛 一 * 百六 愛 二 * 百七 愛 三 * 百八 庭の人影 一 * 百九 庭の人影 二 * 百十 庭の人影 三 * 百十一 愛の天國 * 百十二 無慘 * 百十三 千八百三十二年 * 百十四 容子ありげ * 百十五 疣子と手鳴田 * 百十六 家は空《から》である * 百十七 死場所が出來た * 百十八 一揆軍 一 * 百十九 一揆軍 二 * 百二十 軍中雜記 一 * 百二十一 軍中雜記 二 * 百二十二 軍中雜記 三 * 百二十三 軍中雜記 四 * 百二十四 軍中雜記 五 * 百二十五 軍中雜記 六 * 百二十六 軍中雜記 七 * 百二十七 軍中雜記 八 * 百二十八 軍中雜記 九 * 百二十八 軍中雜記 九 * 百二十九 蛇兵太の最後 * 百三十 守安の最後 * 百三十一 エンジラの最後 * 百三十二 堡壘の最後 * 百三十三 哀れ戎瓦戎 一 * 百三十四 哀れ戎瓦戎 二 * 百三十五 哀れ戎瓦戎 三 * 百三十六 哀れ戎瓦戎 四 * 百三十七 哀れ戎瓦戎 五 * 百三十八 哀れ戎瓦戎 六 * 百三十九 哀れ戎瓦戎 七 * 百四十 哀れ戎瓦戎 八 * 百四十一 哀れ戎瓦戎 九 * 百四十二 哀れ戎瓦戎 十 * 百四十三 哀れ戎瓦戎 十一 * 百四十四 哀れ戎瓦戎 十二 * 百四十五 哀れ戎瓦戎 十三 * 百四十六 哀れ戎瓦戎 十四 * 百四十七 哀れ戎瓦戎 十五 * 百四十八 最後 一 * 百四十九 最後 二 * 百五十 最後 三 * 百五十一 最後 四 * 百五十二 大團圓 ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十九 白翁《はくおう》と黒姫《くろひめ》 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 縮刷 噫無情《ジーミゼラブル》(後篇) 白翁《はくおう》と黒姫《くろひめ》、親子だらうか、祖父と孫とであらうか、 守安は深く其樣な事までは想像せなんだ、唯だ翁《おう》の頭髪の白さと少女の着物の黒さとが、 異樣に對映して目に着いた迄の事だッた 全體守安は、人の事などに餘り心を惱ます氣質では無い、殊に女の事には極めて冷淡で、 年は早や廿歳《はたち》に成らうとする所だけれど、冷淡と云ふよりは寧《むし》ろ自分から避ける程にして居るのだ、 今までの境遇が境遇で、殆ど人並の衣服さへ着けて居ぬのだから、 途中で婦人に出逢ても、顏を見られるが辛い樣な心地がして、 成る丈け知らぬ振、知られぬ振で早く通り過る樣に勉めたけれど、 又、婦人の方では妙に守安の姿を見る、年頃の女などは途中で守安に逢ふて、 振向て故々《わざ/\》見直す程で有ッた、全く守安の容貌が其樣に、 人に振返て見直される樣に出來て居たのだ、 生れ附き多くの人に優れて居たのだ、けれど彼れ自らは爾は思はぬ、 其の振向て見るのを、何だか自分の見すぼらしい衣服《みなり》の爲で有る樣に思ひ、 自分の耻を晒す樣にも感じて、厭《いや》に女と云ふ者は人を愚弄したり、 人の零落《おちぶ》れた状《さま》を喜ぶ者だと、此の樣に見做して居た 其れだから自分の隣室に居る伊、波、西、佛、四國兼帶 の客の娘などにも、 時々出入りの折に入口や階段などで行き逢ふ事が有るけれど、 能くは其顏をも見たことが無い けれど何う云ふ譯だか黒姫の姿のみは目に留ッた、 多分に向ふが此方《こつち》を見ぬから此方《こつち》で氣を許して向ふを見ることに成たのだらう、 全く黒姫は他の女の樣に故々《わざ/\》守安の顏を見ぬ、 又見る年頃でも無い、常に白翁《はくおう》と何事をか話して居る、 隨分打解けて能く話す容子だ、時々は笑ひなどもする、 又 白翁の方も唯此の黒姫にのみ心を取られて居て、 黒姫が喜べば喜び黒姫が笑へば笑ふ、深い同情を注いで居ると云ふ者で、 親子とても是れほど親密には行かぬのが多い、 若し年の違ひを無い者とすれば、殆ど情人と云ても好い程に見えて居る 併し黒姫は美人で無い、美人では決して無い、と守安は思た、 全體十四五の兒供が地味な眞黒な服を着けるからして餘り似合しい者で無い、 尼寺の寄宿寮からでも出て來たなら兎も角だが、 爾無くば世間一般の風儀にも負《そむ》いて居る、 其れに着物の被《き》こなしが少しも被《き》こなしと爲て居ぬ、 單に着物に纒《くる》なッて居ると云ふのみだ、顏も第一色が能く無い、 第二には肉の附く可き所に肉が附いて居ぬので輪廓が宜く無い、 總體に凋《しな》びた樣な所が見える、 若し強て好い所を捜し出せば、其の目だらう其の眼《まなこ》だらう、 聊《いさゝ》か大きく開いて妙に涼しい所が有て睫毛《まつげ》なども美人の資格に叶ふほど長い、 けれど此の眼《まなこ》が凋《しな》びた樣な顏と釣合が取れて居ぬので、 最ッと劣て居る方が却ッて能く似合ふだらうと思はれる 斯る細かな有樣を、故々《わざ/\》看て取た譯では無いが、 守安の散歩する極ッた路が、此の黒姫と白翁との前を通ることに成て居る、 一度行けば四五遍は其の所を往きつ戻りつするのだらう、 何時の間にか自然に看て取たのだ、向ふも或は何時の間にか自然に守安の姿を見て取たのかしらん、 イヤ爾うらしく無い、日に幾遍も通るのだから見受けることは見受けたゞらうが氣には留て居ないだらう、 守安の方では甚く氣に留たと云ふでは無い、 何方《どつち》かと云へば娘よりも白翁の方が守安の氣には留た、 翁《おう》の方は何だか一種の性格を備へて、云はゞ勇氣も情も有る人らしい、 娘の方は何方《どつち》かと云へば目障りだ、見苦しいと云ふ可き程にも感ずる 是より凡そ六ヶ月の間、守安は此の公園に行かなんだ、 別に深い仔細が有てゞは無く、仕事の都合などで遠ざかッたのだ、 したが半年の後に、又も公園へ行き自分の散歩場へ歩み入た、 勿論白黒組の事なども忘れて居たのだ、所が直《すぐ》に目に留ッた、 以然に居たと同じ所の腰掛けの上に白黒の一對が並んで居る、 見るとも無く見れば、白翁は以然の儘の白翁だ、 確に同じ其人だ、けれど黒姫の方は、ハテな、全く人が違たのか知らん、 以前の凋《しな》びた顏では無い、立派な姫君だ、 顏のみか姿總體が風情に富だ輪廓とは爲た、誰が見ても『女』一人前だ、 前に凋《しなび》たのゝ姉でゞも有るのか知らん、併し猶だ兒供の所は有る、 小供の婀娜《あど》けない所に女の出來揚た樣な美しさが加はッて丁度其の平均を得た所なんだ、 髪の艶、顏の色、首筋から肩の容子、古《いにし》への名畫にも斯くまで揃ッたのは無い、 ラフエールの聖母、ゴーヂョンの天津乙女《あまつおとめ》、此女の雛形に取たのでは有るまいか、 美しい上に更に得難いのだ、何と無う今樣である巴里《ぱりー》的である、 けれど能く見ると矢張り以前の黒姫なんだ別の人では無い、 歳が今が眞の見頃の十五だらう、花なら、蕾の開き掛けた所である、 何うして唯だ半年ばかりの間に斯うも見違へる樣に育たのだらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十 白翁と黒姫 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 醜いほどに思た一少女が、唯だ半年の間に何うして斯うも見違へるほど美しく成たのだらう、 是は育たのだ成長したのだ、イヤ成長したのみでは無い、理想化したと云ふ者だ 少しも怪むには及ばぬ、萬物には總《すべ》て理想化する時が有る、 彌生《やよひ》の花は唯だ一夜で咲くでは無いか半月前は葉も無く莟《つぼみ》も無く、 枯木の樣に見えて居て、蝶も來ぬ、鳥も來ぬ、其れが春風と云ふ天然の惠みを受ければ、 爛漫の姿に咲き出で、滿都《まんと》の士女を惱殺するでは無いか、 其の爛漫の姿を見て、誰れか數日以前の枯木の樣に見えた枝と同じ者だと思ふ者か、 黒姫は未だ爛漫の姿では無い、是から其の姿になる莟《つぼみ》なんだ、 莟《つぼみ》と花との間なんだ、けれど最う爛漫の理想が見えて居る、 何處と無く春光が充ち滿ちて輝き渡る樣に見受けられる 守安も毎《いつ》もの如く其前を通ッた、姫の白翁と話する聲を聞た、 聲も確に理想化して一種の音樂の樣である、 姫の方は守安を見たか見ぬか其れは分らぬ、多分は見なんだで有らう、 守安が見た時は姫は目の下に向て居た、 爾した長い緑の睫《まつげ》が眼《まなこ》の中の秘密を隱して居た、 暫《しばら》くして守安は又引返して其前を通ッた、今度は姫も守安を見た、 けれど別に不思議は無い、誰だとて公園に入れば自分の前を通る人の目を注ぐことは有るのだ、 注いでも殊更に覺て居るか覺えて居ぬかは、其れは別問題である 此方《こなた》とでも殊更に其の前を通る譯では無い、兼て自分の散歩場と極て有て、 毎《いつ》も其所《そこ》を通るのだから毎《いつ》もの通りに今も行きつ戻りつするのだ、 けれど少しも毎《いつ》もと違た所が無いでは無かッた、 毎《いつ》もは散歩して此の白黒組より先に歸るけれど、 此日は歸らなんだ、白黒組から餘り遠く無い邊へ腰を掛て、 白黒組の歸る後まで歸らずに居た 爾うして宿に歸て後も公園の景状《ありさま》などが何だか心の底に殘り、 公園を散歩するのに餘り衣服《きもの》を構はないでは人の目障では有るまいかなどゝ云ふ樣な事までも考へた、 敢て黒姫の爲に考へるでは無い、翌日は少し思案した上で、唯だ一枚の餘所行を着けて行た、 最う餘所行の着物が有る丈の身分には爲て居る、是からは毎日之を着けて出たが、 或る日の事で有ッた、丁度守安が黒姫の前を通る時、 黒姫は眼《まなこ》を上げた、上げた其の眼が守安の眼と合《がつ》した、 唯だ少しの間では有たけれど、守安に取ては生涯で有ッた 若し人の身に天然の神秘が籠て居る者とすれば其の神秘は唯だ眼《まなこ》のみから洩れるでは有るまいか、 眼《まなこ》は力である運命である、自分で何の樣に力を込めたとて其れで其の神秘が人に見えると云ふ者では無い、 自分では洩《もら》すまいと思ても洩れる時が有のだ、洩れる場合が有るのだ、 其の場合は生涯に唯だ一度である、一度洩れゝば後は神秘でも何でも無い、 唯の眼《まなこ》だ、併し其の洩れる唯だ一度の其場合に當ては、 魔の棲む淵も其の深さを比べるに足らぬ、宛《あたか》も眞に暗夜に稻妻の光る樣な者であッた、 唯だ一瞬の間だけれど限り無き宇宙の秘[誤?:神秘]が、 倏忽《たちまち》に其の端倪《たんげい》を示すのだ、唯だ入口を示すのだ、 再び之を見やうと思ても見る由《よし》が無い、 神秘の戸は端倪《たんげい》を示すのみで、直《すぐ》に閉づる、 眞に電光の一閃だ、詩人や美術家の氣呵《いんすぴれーしよん》と云ふは是れでは有るまいか、 此の氣呵《きか》に接して之を能く描《うつ》した者が、 能く天地を動かすのだ、鬼神をも泣かせるのだ、 大詩人、大美術家として不朽に感化を殘すのだ 此の電光の唯だ一閃は、清い清い心にのみある、殊に女に在る、 女の生涯に唯だ一度あるのだ、若し眞成《しんせい》に此の電光に打たれた男子は、 茲《こゝ》が生涯の危機である、或は戀の奴隷と爲て苦艱の底、 汚辱の底に沈むも是れ、或は生れ替ッた人と爲ッて、 精神的に理想化するも是れ、殆ど人間の力で無い、人間以上なんだ、 運命なんだ、是れを唯だ人爲の事の樣に思ひ、 勉れば出來ると心得て既に神秘の去た氣呵《きか》の無い眼《まなこ》を以て、 人を射やうとする者が男子にも在る女子にもある、 政治家にも貴婦人にも在る、之は唯だ媚《こび》を賣る、 愛を賣ると云ふ者だ、鬼面人を嚇《くわく》すと云ふ者だ、 勉むれば勉むる丈け理想化せずに俗化するのだ、 醜いのだ、疑ふ者は滔々たる世間を見よ 眞に守安と黒姫との眼《まなこ》が、合して一と爲た 寸秒時が此の電光で有つた、守安は其の所を通り過ても、 自分の身が地を歩んで居るか天を歩んで居るかを知なんだ、 再び引返して黒姫の前を通つたけれど黒姫の顏を見ることが出來なんだ、 總身が震へて居た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十一 白翁と黒姫 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 守安が生涯は、唯だ此の寸秒時の間に極て了た樣な者である、 但し善運か惡運か、其れは分からぬ、分らぬけれど確に其身は運命の絲に縛られた、 最う黒姫の傍を離れる事は出來ぬ、離れても黒姫の姿が心の底に歴々《あり/\》と宿ッて居る、 夏蟲が燈火《ともしび》を慕ふ樣に、唯だ其の傍へ引附けられるのだ、 唯だ其の姿が光明なんだ、黒姫の傍より外は世界が暗黒の樣に感ぜらる けれど彼れ、爾う傍までは立寄り得ぬ、 今までは虚心平氣で黒姫の前を行きつ戻りつしたけれど今は其れが出來ぬ、 唯だ心が後れるのだ、此後は公園へ行ても、成る可く腰を掛け、 本などを開いて讀む振をして實は黒姫を眺めて居た、 本の文字など幾等見たとて眼《まなこ》には入らぬけれど、 文字を見て居る間も黒姫の一擧一動が悉く我が心に映る樣な氣がするのだ 黒姫の方は何うで有らう、守安が感ずる樣に守安を感ずるだらうか、 其れは分からぬけれど、確に感ずるだらうと守安は感じて居る、 何だか姫の白翁と話して居る樣が、故《わざ》と此方《こつち》へ顏の半面を見せて居る樣に見える、 ナニ見せて居るのでは無い、半面の見える樣な所を選んで守安の方が据《すは》ッて居るのだ、 けれど顏の半面だけは確に我れに任せて有る、我が眺むるのを許して有ると、 心無き事まで心有ての事の樣に合點して唯だ嬉しい 或る時、白翁が黒姫の手を引て守安の前を通ッたことも有ッた、 是れは、或は守安の容子を疑ひ試す積りで通ッたのでは有るまいか、 けれど守安は爾とまでは思はぬ何が無しに光明が我が傍へ近く樣に思ひ、 殆ど本を持つ手が震ふた、眼《まなこ》を上げる事も出來なんだ 前を通る時に姫が何の樣な顏をしたで有らう、何でも守安の顏をジッと見たに違ひ無い、 守安の顏が熱かッた、見たとすれば何で見たのだらう、 此方《こなた》が餘り遠慮して控へて居るのを恨んだのでは無からうか、 其の恨《うらみ》を眼《まなこ》へ浮べて此身に悟れと云ふたのでは無からうか、 姫が立去た後までも此樣な思ひが守安の心には消えなんだ 何うも白翁の容子が守安を疑ひ初めた樣にも見える、 此後は時々に場所を換へる事もある、爾すると守安も場所を替へる、 少くとも姫の顏の半面は見える範圍を離れるのだ、自分の身が疑はれて居るなどとは少しも思はぬ、 又或時に翁《おう》と姫との去た後に白い綺麗な半巾《はんけち》が落て居た、 確に姫が落したのだらうと守安は思ッた、其實 翁《おう》が落したのだ、 守安は熱心に之を拾ッた、其の隅の方にUの字とFの字を縫付けて有る、 姫の手で縫たのに違ひ無い、姫の姓名の頭字《かしらじ》だらう、 守安は此 半巾《はんけち》を自分の肌身から離さぬ樣にした、 是より翁《おう》の來るのが少し今までと違た、遲く來て早く歸る時も有る、 何うかすると姫を連れずに翁《おう》が唯だ一人來る時も有る、 其の樣な時には守安も失望して直《すぐ》に立去ッた、實に不心得と云ふ者だ、 此樣な事をして何うして疑はれずに居る者か 併し彼れの不心得は是だけに止まらなんだ、或る時、 思ひ餘ッて翁と姫との立去る後を尾《つ》けて行くとUFと云ふのが姫の姓名の頭字《かしらじ》だとは分ッて居るけれど、 猶其上を知り度いのだ、尾《つ》けて行くと靜なドロス街の、 新しげな下宿に入ッた、アヽ閑靜な如何にも黒姫の居さうな所だと、 彼れは思た、斯なると最う公園で見る丈では物足らぬ、 此後は毎夜の様に姫の後を見送ッて其の宿の邊まで行て暫《しばら》く徘徊した上で立去る事とは成ッたが、 果は是でも未だ物足らぬ、終に大膽に其入口の番人に向ッて問ふた、 『今 茲《こゝ》に歸て來た白髪の紳士は、下の座敷のお客ですか』、 番人は答へて『イヽエ、二階のお客です』アヽ思たよりは容易に聞出す事が出來さうだ、 守安は大膽に成ッて『二階の奥の座敷』番人『イヽエ此家は表座敷ばかりです[』]、 守安『何をして居る方ですか』番人『何にも成さらず、食ふに困らぬ丈の財産の有る方でせう、 大して贅澤では有りませんが、貧民などには隨分目を掛けてお遺りの樣です、慈善家です』 守安『姓名は何と云ふの』其れから其れと問ひ出すので番人は怪んだ『オヤ、貴方は探偵ですか』 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十二 白翁と黒姫 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『オヤ、貴方は探偵ですか』此一語に守安は落膽した、顏を赤めて立去つた けれど黒姫の身分が幾分か分つた丈は嬉しい、其父の白翁は紳士である、 慈善家である、約《つゞ》めて言へば黒姫は立派な人の娘なんだ 此翌日黒姫と白翁は例の公園へ來たけれど、長居せずに直ぐ立去つた、 守安は毎《いつ》もの通り又其宿まで尾《つ》けて行たが、入口で白翁は黒姫を先に立せ、 其身だけ後に殘て守安の居る方へ振向た、守安は隱れるのも場所が無い、 爾してジッと守安の顏を見た上で家へ入つた 是れ限《き》り何う云ふ譯か翁《おう》も姫も公園へ來ぬ事になつた、 守安は氣が氣で無いから毎夜其の宿の前に行き、 二階の窓に燈光《あかり》の洩れるを眺めつゝ夜の更けるまで徘徊した、 戀人は斯うした者と見える、那《あ》の窓の中に黒姫が居るかと思へば、 唯だ燈光《あかり》を見る丈でも嬉しさが心の中に充ち滿つる樣に感ぜられる 一週間、毎晩行た、眞逆《まさか》に晝間は徘徊して居る譯にも行かぬ、 七日目の夜は何うしたか窓に燈光《あかり》が見えぬ、 今に見えるか、今に見えるかと思ひ、夜の一時まで待つたけれど終に見えなんだ、 若し世界に太陽が無くなつても、守安は是れほど心配せぬだらう、 唯だ氣に掛つて其の夜は殆んど眠り得なんだ、 八日目の夜も又行つたが又窓は眞暗だ、 愈《いよい》よ世界は日の照らぬ事に爲つた、其の翌日は最う耐《こら》へ兼ねて、 晝のうち出掛けて行き、先きの戸口の番人に聞いた、 『表二階の紳士は何うか爲《し》ましたか』番人『一昨日轉居致されました』 守安『エ、エ、何處へ』番人『轉居先を言置きませんから、少しも分りません』 と云ひつゝ守安の顏に氣が付き『アヽ、貴方は愈《いよい》よ探偵ですね』 守安は狂人の如くに爲ッて茲《こゝ》を去ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十三 神聖な役目 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 世の中に最う何の樂みも無い、彼れは尋ねる丈け尋ねたけれど、 雲を捉《つか》む樣な者で尋ね當られる筈は無い、 或時以來で確に白翁と思ふ人を見受けたけれど、 其人は職人の風をして居た、慈善家と云はれる人が職人の風をする筈は無いから、 別人かとも思たけれど、 イヤ爾うでは無いと直に其の後を尾《つ》けやうとしたけれど最う何所《どこ》へ行たか分らなんだ、 妙に此事が守安の氣に掛ッた、若しや彼の人が、 何か難儀な場合に成て黒姫までも共々に困て居るでは無からうかなどゝ、 併し餘り取留まらぬ心配だから、イヤ全く人違ひで有たゞらうと思ひ直して止んだ 其中に冬も夏も立ッた、彼れはABCの倶樂部へも、止むを得ぬ時の外は行かぬ、 此世に唯だ一人の懇意とする眞部老人の許《もと》をも餘り尋ねぬ、其れよりも彼れには神聖な役目がある、 其れは父の遺言に在た手鳴田《てなるだ》軍曹と云ふのを探し出す一條である、 是れのみは絶えず氣に掛ッて居るけれど其れも爲さぬ、 殆ど彼れの魂は、黒姫の姿と共に拔て了ッたのだ、 何所《どこ》かへ消えて無くなッたのだ、凡そ一年ほどの間に、 彼れの爲した仕事とも云ふ可きは只た一個《ひとつ》だ、其れは秋の頃で有ッた、 兼て隣の室《へや》に居る彼の伊、波、西、佛四ヶ國兼帶の下宿人が二ヶ月も宿錢を拂はぬ爲め此宿から追出されるとの事を家番から聞き、 餘り氣の毒に思ひ、自分の財布に二十餘圓あッた金を殘らず家番へ渡し、 何うか之れを、誰からとも云はずに四國兼帶の人へ遺て呉れと惠んだのである、 先づ是等が聊《いさゝ》か常と違ッた事柄で、其の外は毎《いつ》も/\同じである、 唯だ鬱《ふさ》いで居る、時々に筆を取て、潤筆料を得て命を繋ぐと云ふのみである、 嗚呼黒姫は何所《どこ》へ行ッた、口に洩れる言葉とても唯だ此の一語である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十四 四國兼帶の人 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 又年を一つ越え、寒い翌年の二月とは爲ッた、或夜彼れは、 書き物を書肆《しよし》へ屆けて歸る道で、 霧の籠めた行く手の街頭の爲《し》たに、二人の少女と見える姿を朧氣《おぼろげ》に認めた、 守安[誤:妹娘]『ねえ姉さん、私しはヤッと逃げて來たよ、最う少で捕《つか》まる所さ』 守安[誤:姉娘]『私しだッて捕吏《ほり》に取圍まれ、一生懸命に逃げ拔けたの』 と云ふのが両個《ふたり》の話聲であッた、妙に此聲が守安の耳に響いた、 扨《さて》は姉妹の乞食でゝも有らうか、若い女の身で捕吏《ほり》に取圍まれるとは可哀相な境涯と見えるなどゝ、 何だか憐さを催したは、自分の心は打鬱《うちふさ》いでのみ居る爲でゝも有らうか、 其の中に両個《ふたり》の姿は霧の中に隱れたが、頓《やが》て其の所まで行くと靴先に掛つた物が有る、 取上げて見ると汚れた手巾《はんけち》に包んだ者で、何だか手紙らしく見える、 若しや今の姉妹が落したのでは無からうかと思ひ、見廻したけれど姿は見えぬ、 追附かれやうかと又足を早めたけれど追附きもせぬ、 止むを得ず持た儘で宿に歸り、若しや落し主の住居でも分らうかと、 其の中を開けて見ると、惡い煙草の臭氣がプンと鼻に來る、 中は四通の手紙である、状袋《じやうぶくろ》には入て居るが封は未だ糊を附て無い、 取出して檢《あら》ためる四通とも見ず知らずの紳士貴婦人に宛てた無心状で、 確かに一人の手で認《したゝ》めた者だけれど、一々名前を違へて有る、 一通には國境を追はれた西班《すぺいん》の勤王黨の老士官で此國へ來て旅費が盡き進退 谷《きわま》るから幾等でも惠で呉れと有り又一通には零落した某國の美術家だと書て詰り一人が四通りの名を以て居るのだ、 若し守安が世故《せこ》に長《た》けた男ならば、 是を見て若しや隣の室《へや》に居る四國兼帶の下宿人では無からうかと思ひもする所だらうが、 彼れは唯だ合點が行かぬと思つたのみだ、けれど最後の一通は聊《いさゝ》か彼れの心に一種の聨想を引起させた、 其れは『日々ジック寺の庭に來らるゝ慈善なる紳士よ』と宛てあるので、 何事に就けても直《すぐ》に黒姫を思ふ彼れに取ては慈善紳士の一語で白翁を思出し、 日々寺の庭に來ると云ふので、日々公園に行た事が妙に心に浮んだ、 是れが戀人の妄想と云ふ者では有るけれど、 此樣な事實や此樣な妄想が絲と爲て又何んな運命を編みつゝあるやは分ッた者では無い [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十五 四國兼帶の人 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 此手紙に宛てある慈善紳士が眞逆《まさか》に白翁では無いだらう、 白翁である筈は無いのだ、けれど守安は此手紙で白翁の事を思ひ出した、 イヤ白翁の事よりも黒姫の事を思ひ出した、爾して二度までも此一通だけを讀み直した 其の文句に由ると、此慈善紳士と云ふは寺へ日々參詣に來る人で、 其の度に寺の邊《ほとり》に居る乞食などへ幾分の惠みを與へて行く事が分る、 爾して此手紙の差出人が其人への願ひの旨意《しい》は『請《ど》うか私し共の居る下宿屋へ御立寄の上、 私共夫婦及び娘二人が如何ほど難儀して居るやを御覽下され度し』と云ふので、 其上に樣々の泣言を書き列《つら》ね『永い間、妻が病氣』だの 『眷族四人が今日で全《まる》二日、食物を得ぬ』だの、 誰が見ても不憫を催さずには居られぬ樣に作て有る、 爾して最後に『私し共は僞《いつは》りを以て人の慈善を乞ふ者には之れ無く、 一應御立寄の上、實情を御覽下さるれば此言葉の眞實なるは一目にて御分りの事と存じ候、 此手紙持參の者は私しの長女にて、既に年頃とも相成候えども、 御覽の通り乞食よりも見苦しき襤褸《ぼろ》を纒へる儀に御座候 何とぞ此者と御同道の程願ひ上げ奉り候』と記し、 署名は『昔しは俳優とも云はれ、今は不幸の底に沈める濱田』と有る 或人に向つては勤王黨の落武者、或人へは美術家、 或人へは俳優などゝ何れが本統か分らぬけれど、 一身を四人に使ひ別る所を見ると天性の俳優かも知れぬ、 併し此樣な境遇に居る人は隨分今の世に少くは無いで有らう、 守安は讀終ッて多少の哀れ催したけれど別に如何とも仕方が無い、 差出人は四通に四色の名が有るのみで宿所が無い、 夜が明ければ拾ひ者として警察へでも屆けやうかと此樣に思案して元の通り封に納め煙草臭い手巾《はんけち》に包んで寢て了ッた 翌朝の七時頃、起出て未だ間も無いに、外の廊下から入口の戸を叩く者が有る、 定めし家番の老女だらうと思ひ『お入り』と内から應《こた》へた、 直《すぐ》に戸を開いて閾に立ッた一人が有る、見れば老女でも無い、年頃十六七とも見える娘で、 イヤ娘と云へば娘だが其の身姿《みなり》の穢《きたな》い事は全くの乞食としか思はれぬ、 昨夜の手紙に有ッた俳優濱田の娘とても是より見苦しくは無いだらう、 顏も下品で、人を人とも思はぬ風な見えて居る、少し意外の思をして守安は其顏を眺めた けれど娘は突々《つか/\》と入ッて來て『私しの阿父《おとつ》さんが之を貴方へ』とて差出したは一通の手紙である、 『何うか直《すぐ》にお讀み下さい』と言足した、守安は受取たけれど直《すぐ》には讀まぬ、 先づ娘の顏を見たが、何だか初めて見る顏では無い樣だ、 守安『貴女は、何所《どこ》かで見受けたかと思ひますが』 娘は身姿《みなり》相應の下品な言葉で『アレ、那《あ》んな事を仰有《おつしや》る、 度々《たび/\》廊下や入口でお目に掛るでは有りませんか、 貴方は知らずとも私しの方では能く知て居りますよ、先達ても貴方はオストリツの橋を渡て、 眞部と云ふ老人の家へ行たでせう、私しは見て居ましたよ、 毎《いつ》でも貴方は私しなどを見ね振をして、サッサと行て了ふでは有りませんか、 私しの樣な髪の毛の赤い女はお嫌ひですねえ、エ、お嫌ひでせう、貴方は』 乞食の兒でも年頃になれば男に戀ひもする、日陰の草でも春が來れば花を着けずには居ぬ、 娘は守安の猶も合點の行かぬ顏を見て 『私しは此 室《へや》の薄い紙の壁を一つ隔た室《へや》に居るのですよ、隣の室《へや》の長女です』 と[口|斗]《さけ》んだ、扨《さて》は兼て聞く四國兼帶の人の娘か……。 ヤッと合點して、渡された手紙の封を切ッた、其の文句は『隣室なる惠深き青年の君よ、 六ヶ月前、君が名を匿《かく》して家賃の滯りをお拂ひ下されし恩は生涯忘れ申さず候 然るに我等は再び君に請はざるを得ず、多くとは申さず、我等家族四人、 全四日の間、一片の麪《ぱん》さへも得ず、 哀れ四人を助けると思ひ幾等でも麪《ぱん》の代《しろ》を御貸し下され度く候』と有る、 讀終ると共に守安は悟た、確に昨夜拾た四通の手紙が此手紙と同じ人の手から出たのだ、 筆蹟も同である、用紙も封筒も、爾して手紙に附て居る煙草の臭気までも彼れと此れとの相違が無い、 扨《さて》は隣室の四國兼帶と聞く人は手紙を以て貴顯《きけん》貴婦人の愛を乞ふ狡猾な乞食なんだ、 此娘が其使なんだ、昨夜霧の籠た街燈の下《もと》で捕吏《ほり》に捕《つか》まる所をヤッと逃たなどゝ語り合て居た両個《ふたり》が此女と其妹とで有たのだ、 其れにしても隣室の主人が我には、何と署名して有るか知らんと、 最後の署名を見れば『病める妻の夫、饑《う》えたる二人の娘の父、長鳥』と記して有る、 是で見ると昨夕《ゆうべ》の四樣な名の外に猶だ名が有る、さすれば五國兼帶だ、 若も此長鳥と云ふ姓が僞名ならば六國兼帶の人かも知れぬ 守安が呆れて居る間に、娘は無遠慮に机の上の本を披《ひら》いた、本は守安の父、 故 本田圓《ほんだまるし》の戰功を記るした戰史である、 娘は『私だッて本を讀ますよ、痣子《あざこ》と共に學校へ行て教育を受ましたもの』 と云つゝ聲を揚て讀初めたは、丁度 水[土|婁]《ウヲタルー》の激戰の所である、 娘は驚いた樣に『ア、水[土|婁]《ウヲタルー》、水[土|婁]《ウヲタルー》』と[口|斗]《さけ》び、 [『]私しは知て居ます水[土|婁]《ウヲタルー》は私しの阿父《おとつ》さんが戰爭した所です、 阿父《おとつ》さんは豪《えら》い人ですよ、人の命を助けた事も有るのです、 其頃は今の樣な乞食では無く、軍曹でした』若し守安が此言葉に氣を附けたなら、 水[土|婁]《ウヲタルー》の軍曹と云ひ、人の命を助けたなど云ふ語句で、 父の遺言書を思ひ出し、我が父の大恩人と有ッた手鳴田《てなるだ》軍曹の事を思ひ出さねば成らぬ、 けれど今は守安の心に毎《いつ》でも『黒姫』が滿ちて居て、 手鳴田《てなるだ》軍曹の入る餘地が無い、イヤ實は其の餘地は有るのだ、 今とても手鳴田《てなるだ》軍曹を探し出さねば成らぬとの一念が心の底に潜んで居るけれど、 今の此の言葉を能くは聞かなんだのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十六 四國兼帶の人 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 文字を讀む丈の教育を受けた娘が、 此樣な悲境に陷るとは能く/\の事であると守安は聊《いさゝ》か心が動いた 娘は猶も自分の教育を誇る積りか、本を措《お》いて更に筆を取上げ、 [『]讀むばかりで無く、書く事だッて知て居ますよ』と云ひ机上に有合す白紙の表は樂書した、 其文句を見ると矢張り境遇は境遇だけだ『捕吏《ほり》が來た、早くお逃げ』と書て有る、 多分は昨夜霧の中で妹と語て居た事が猶だ心に殘て居るのだらう、 樂書にまでツイ此樣な文句が出るとは愈《いよい》よ以て憐れな次第だと、 守安は此樣に思ひつゝ、昨夜拾ッた彼の手紙を、包んだ儘で取出し 『嬢さん、貴方に返す物が有りますよ』とて渡した、 嬢さんとは少し不似寄《ふにあひ》であるけれど、守安は是より外に此娘を呼ぶ言葉を知らぬ、 娘は受取ッて、多少は顏でも赤めるかと思たら爾で無く、全くの平氣だ 『アヽ貴方が拾ひましたか、不思議な縁ですねえ、 是が有れば阿父《おとつ》さんが餘計に手紙を書く事だけ助かるのだ』 と云ひつつ包を開き、中から一通を選出《よりだ》した、 其れは特に守安の氣の留ッた彼の慈善紳士へ宛てたのである、娘『爾うだ、爾うだ、 丁度今ならば慈善紳士が娘と一緒に朝の説教を聞きに來る刻限だから是を持て居て渡て遺らう』 と獨語《ひとりごと》の樣に言ひ、更に守安に向ひ 『私共は一昨々日《さきをととひ》から一片《ひときれ》の麪《ぱん》さへ喫《た》べぬのですもの、 グズ/\して居ては歩けぬ樣に成て了ひます』と言譯した、 守安は其間に財布を探ッて見たが、五法《ふらん》の銀貨が一枚と外に少しの小錢が有る許りだ、 直《すぐ》に其の銀貨を取り『嬢さん、是れは少しですが、阿父《おとつ》さんへ今の御手紙の返辭です』 とて渡した、銀貨の光を見た時の娘の顏は、何とも云はれぬ、 全く電氣が掛ッた樣である『オヤ、銀貨、銀貨、本統に五法《ふらん》の、 嬉しいなア、嬉しいなア』と[口|斗]《さけ》んで跳ね躍ッた、 此容子では未だ容易に、歩ける樣に成て了ひさうには見えぬ、 併し兎も角も斯くまでに喜ぶとは、何れほど久しく銀貨に遠のいて居たかも察せられる 本統に小躍りしつゝ娘は立去たが、頓《やが》て守安は朝の食事を濟ませた後で、 能く考へて見ると、何だか、隣の室の四國イヤ五六ヶ國兼帶の人の事が氣に掛る、 自分も貧乏では有るけれど、今では二日も三日も食はずに居ると云ふ程の事は無い、 二年前には其樣な事も有たけれど、有た丈に猶更ら人の苦みが察せられるのだ 彼れは極めて眞面目な質《たち》である、全く眞面目に考へた、 紙の壁一重を隔てた隣同士で有りながら、今まで少しも其の容子を知ずに居たのは人情に背くでは有るまいか、 尤も六ヶ月前に二十圓惠んで遺た事が有るとは云へ、其れは店立《たなだて》を食ふ場合と聞たのだから誰でもする當然の信切と云ふに過ぬ、 守安とも云はれる者が、イヤ誰も特別に守安と云ひはせぬけれど、 ABCの仲間に入り弱者の友を以て自ら居る者が、 六ヶ月前に僅《わづか》の金を與へたからと云て今の難儀を知らぬ顏で過すと云ふ道は無い、 兎も角も實際の景状《ありさま》が何の樣であるか、 其れは先づ見屆く可きだと、斯う思ふが否《いな》や、 彼れは椅子を壁の所に寄せ其の上に伸上ッて、 紙壁の破れから隣の室《へや》を窺《うかゞ》ひ見た 實に倔強の物見櫓《ものみやぐら》である、餘り骨が折れずに隣の室《へや》の中が歴々《あり/\》と分る 吁《あゝ》、貧乏と云ふのは是れほど甚い事では無い、 自分も貧乏は仕たけれども、今は猶ほ仕て居るけれど、 斯う見る影も無く穢《きたな》くは成らぬ、今來た娘は、或は手紙を以て慈善紳士を尋てゞも行たのか姿が見えぬ、 後に殘るは其母と妹娘らしいこれは昨夜霧の中で見受た一人だらう、 脾《ひ》もじくて立上る力も無いと云ふ樣に寢臺《ねだい》の下に蹐《しやが》んで居る、 爾して室《へや》の一方の隅に、女の寢卷の、古い/\、 綿の出たのを着て机に寄つて手紙を認《したゝ》めて居るのが主人だ、 髯《ひげ》茫々と延びて、年は五十から六十までだらう、 人相は至て宜しく無い、何やらん口に呟きつゝ考へては書き、 書ては又考へるのは、確に新工夫の無心状で、何うしても讀む人の目に涙を浮ばせねば成らぬと云ふ決心で掛ッて居るらしい 『エヽ、金持と云ふ者は癪《しやく》に障るほど無神經だ』と、 彼れは呟いて筆を置き、口に加へて居る煙草を一吸、吸ッた、 食ふ物は無くとも煙草だけは止められぬと見える、 手紙に厭《いや》な臭いの浸込で居たのも是で分る、 爾して彼れが再び筆を取上げる所へ、入口の戸を荒く開いて、 外から躍る樣に入て來たのは先ほどの娘である『阿父《おとつ》さん、阿父《おとつ》さん、 到頭 毎《いつ》も云ふ慈善紳士を捕へましたよ』 捕へたとは何と云ふ言葉だらう、父は驚いて起ち 『何だ慈善紳士、慈善紳士とは那《あ》のヂャック寺へ毎日來ると云ふ年取た??』 娘『爾です、今朝丁度、朝のお勤《つとめ》を聞きに來る頃だと思ひ、 手紙を持つて行きましたら、娘と共に寺から出やうとする所で、 直《すぐ》に私しは那《あ》の手紙を渡しました』 父『渡したら直《すぐ》に讀んだか』娘『ハイ讀みました、 本統に慈善紳士ですよ、讀むと悲しい樣な顏をして、扨《さ》て/\氣の毒な事だ、 では直《すぐ》に行て見やうと云ひました』父は聊《いさゝ》か慌てた状《さま》で 『占めた、愈《いよい》よ來て呉れるな、サア、サア、早く室《へや》の内を飾り立てねば、 成る丈け貧乏らしく見える樣に、贅澤な品は皆隱して了ッて』 と云た所で何の贅澤の品が有らう、此上の貧乏らしくは飾り樣が無い、 けれど父は[口|斗]《さけ》んだ『サア暖爐《すとーぶ》の火を消せ、火を消せ』 成るほど火さへも贅澤の一つである [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十七 四國兼帶の人 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 勿論 暖爐《すとーぶ》にも『贅澤』と云ふ程の火は燃えて居ぬ、 けれど彼れは鍋の湯を浴せて之を消した、爾して猶も忙がしげに室内を見廻はした 娘は云ふた『阿父《おとつ》さん爾う慌てるには及びません、 直に來るのでは無いのだから』父は目を剥出した『何だ直には來ぬ、 では逃げられたのでは無いか』自分が日頃、逃る樣な事ばかり考へて居るから人を疑ふのも深い、 娘『ナニ、ネ、私しに番地を聞たから詳しく答へますと、何だか此家を知て居るのか、 オヤ那《あ》の家と呟きましたが、直に考へ直した風で、ナニ構はぬ、と云ひ、 其れから外へ出て馬車に乘り、私しに向ッて買物をして行くから先へ歸て居ろと云ひました、 今頃は買物をして居るのですよ、茲へ持て來て呉れる爲に』父は少し不機嫌だ、 『何だ買物、金持と云ふ者は其れだから困る此方《こつち》が空腹だと云へば食物を呉れる、 寒いと云へば着物を呉れる、其れでは全《まる》で乞食扱ひにすると云ふ者だ、 己《おれ》などは乞食では無い、着物や食物は人から貰はぬ、金が欲しい、金が欲しい、 買物などせずに代價で呉れゝば好いぢや無いか』妙な見識を有ッた者だ、 妻は嘲笑《あざわら》ッた『食物とお金と兩方を呉れ無いとは限らぬのに』 食物と云ふ一語が妹娘の胃の腑へ聞えた蹐《しやが》んで居た寢臺《ねだい》の蔭から立上ッて、 お腹は私しが一番空て居るのだよ、今 喫《た》べるのが一昨日《をとゝひ》の朝飯だもの』 姉も負けては居ぬ『ナニ、私しは一昨々日《さきをとゝひ》の夕飯だよ、若し食物が來たら、 私しが先づ一昨々日《さきをとゝひ》の夕飯を濟ませて、 其後でお前と一緒に一昨日《をとゝひ》の朝飯を喫《たべ》るが順です』 空腹が樣々の理屈を作り出すのだ、父は今立上ッた妹娘に向ひ 『其様な事を云はずに、ソレ其所《そこ》の窓の硝子を叩き碎け、 窓が破れて居ぬのは贅澤過る』妹娘は一昨日《をとゝひ》の朝飯に有附く見込が出來たので勇氣が出た、 飛上ッて拳《こぶし》で以て硝子一枚を叩き割ッた、 何と云ふ亂暴な躾だらう、尤も拳《こぶし》より外に、 窓を割る贅澤な機械が無いのだから仕方が無い、 其の代り拳《こぶし》は創《きず》を受けて血が流れた、 流石に母は『可哀相に怪我したでは有りませんか』父は機嫌が直り 『上等だ、上等だ、此怪我で益《ますま》す憐れッぽく見えて來る』 と云ひつゝ自分の着物を裂て最《い》と仰山に繃帶を施して遺ッた 此樣を此方《こつち》から窺《のぞ》いて居る守安は、是が人間の活ながらの地獄の景色だらうと思ふた、 空腹の爲めには子の怪我をまで喜ばねば成らぬ、 人間が茲に至ッては最う何の樣な事でもする、人の肉をでも食ひ兼ねぬ、 實に常識で、想像も出來ぬ樣な恐ろしい犯罪の、世に絶えぬのも之が爲だ、 此の親子が犯罪をせぬのが不思議である、イヤ今まで何の樣な罪を犯して來て居るかも分らぬ 頓《やが》て、今破つた窓の穴から、外の霧が流れ入り、風も吹込んだ、 妹娘は恨めしげに『阿父《おとつ》さん寒いよ、寒いよ』 父『お前より己の方が最つと寒い』寒さを比べて見る譯には行かぬのに、 最《もつ》と寒いと何うして分るだらう、妻は又 嘲笑《あざわら》つた 『阿父《おとつ》さんは、何を仕たとて人には負けぬ大層な活智《いくぢ》の有る方だからねえ、 貧乏 競《くらべ》をしたとて世界中の人に勝て居るでは無いか』 何と云ふ皮肉だらう、斯う成ては夫婦の間に愛などと云ふ者の有らう筈は無い、 有るは唯恨ばかりだ 併し父は頓着せず、先づ慈善紳士を迎へる用意は無いか否《いな》やと又 室《へや》中を見廻した、 最う此上に貧乏らしく見せる事は絶對的に不能である、 宛《あたか》も戰爭に着手する前に陣立を檢閲する老將軍の状《さま》が有る、 彼れは先に消した暖爐《すとーぶ》の所へ行き濡れて居る炭を灰の底へ隱した、 誠に注意周密である、爾して其の傍に在る大きな鐵の火箸を取つて 『此の火箸が大き過る、併し人の家に塀の在る鐵の棒を脱して來たのだから仕方が無い』 眞逆《まさか》に火箸一本が慈善家を追逃しもせぬだらう、 彼れは云ひ終つて窓の穴を見て身震ひした 『えらく寒い、最う慈善紳士が來さうな者だ』妻は例の調子で 『窓などを破らせて、若し來なんだら何うする積だらう』 此の一語には夫も愕然と驚いた、若し來なんだなら本統に何うすれば善いだらう、 彼れは姉娘に向ひ『疣子《いぼこ》、疣子《いぼこ》、眞逆《まさか》に嘘は云ふまいな、 若し來なんだなら承知しないぞ』來ぬとても娘の罪では有るまいに、 隨分無理な言分だ、娘『來ますよ、嘘を吐《つ》く紳士とは顏附が違ひますもの、 きつと來ますよ』父『來るなら早く來るが好い、だから金持は嫌ひだと云ふのだ、 人が饑凍えて此通り震へて居るのに悠々と買物を仕て居るなどと、 若し己《おれ》が風でも引けば何うするのだ、少しばかりの金を貰つたとて引合ふ者か』 八當りとは是である 言葉が終るか終らぬに廊下の方で足音がした『ソレ來た』とて直に妻を寢臺《ねだい》に上らせ病人の樣に臥させて、 其身は机の前に坐した、此の時、室《へや》の入口の戸が開いて、 一人の老紳士が娘と共に歩み入つた 吁《あゝ》、夢では無からうかと、窺《のぞ》いて居る守安は目を擦つた、 彼れが椅子から轉げ落ちなんだのは唯だ不思議と云ふ外は無い、 歩み入つた紳士は白翁、連れられた娘は黒姫である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十八 四國兼帶の人 五 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 今まで守安が黒姫の行く方《へ》を尋ねたは何れほどだらう、 到底分らぬと絶望して居たのに、其れが隣の室《へや》へ導かれて來たとは、 意外とも有難いとも言葉に盡きぬ、見れば昨年見た時とは又 一入《ひとしほ》美しさが増して、 身體中から毫光《ごくわう》が射して居る樣に見える、 何だか暈《まぶ》しい樣な氣がして守安の目は眩んだ、爾して旨には波が打ッた 黒姫の手を引て居る白翁は片手に持つ包を先づ床に置き室主《あるじ》なる四國兼帶の人に向つて 『貴方がアノー』と云たが名前を忘れたと見え少し淀んだ、 室主《あるじ》は直に床の上に身を投げて『オヽ慈善紳士、慈善淑女、 此の穢《きたな》い所へ能く御出で下されました、大恩人、命の親』と叫び、 更に立上つて、一寸《ちよいと》少聲《こごゑ》で自分の娘に 『アノ手紙に記した己《おれ》の名は濱田と有たかなア』と問ひ再び白翁に向ひ 『ハイ私しが手紙を差上ました濱田です御覽の通り零落した俳優です』 と自分を紹介《ひきあは》した、餘り澤山名が有るから、此紳士へ、 何の名を用ひたのか確《しか》と覺えて居ぬのだ 白翁は包みを指さしつゝ『如何にもお手紙よりも甚い景状《ありさま》です、 是れはホンの寒さ凌ぎに毛布《けつと》と一二枚の古着です』 四國兼帶の人は何うしても品物の外に現金を貰はねば成らぬ決心だと見え 『全くお話しには成りません、此寒いのに炭も無く、窓の硝子が割て居ても硝子屋を呼ぶ事が出來ません、 有る可き者が無いばかりに』と云ひ、更に寢て居る妻の方を見て 『妻も那《あ》の通り長の病氣で、ナニお醫者に掛ければ直りませうが、 賣藥さへも呑せる事が出來ませず、有る可き者が無いばかりに』 彼れは全く泣て居る、有る可き自[誤?:物]《もの》が無い代りに有る可からざる僞《いつ》はりの涙が有るのだ、 餘ほど白翁は感動した樣である、白翁よりも黒姫は又一と入《しほ》だ、 彼れは茲ぞと見て『有る可き者の無いほど辛《つら》いことは有りません、 世間からは見捨られます、是と云ふのも餘り私しが正直過る爲だと常々妻は申しますが、 正直過ると天道までもお見捨て成さるのでせうか、 娘は那《あ》の通り工場の機械に手を切られて、今まで得た僅《わづか》ばかりの日給も取れませず、 人樣には情《なさけ》を乞ふ事は、耻かしくて成りませぬけれど、 有る可き者が無ければ其れも致方《いたしかた》が有りません、 慈善紳士、慈善淑女、私し共親子の者は、此家に居てさへ此通りの有樣ですのに、 最う此家に居る事さへ出來ません、此寒いのに、此家を叩き出される事に成て居るのです』 白翁『其れは又何う云ふ譯で』四國兼帶の人『何う云ふ譯とて家賃も半年から溜り、 先日既に家主から店立《たなだて》を言渡されました、此頃では毎日々々矢の催促です、 昨日の事に今夜の八時まで待て呉れとヤッと言延して置ましたが、 今夜は最う言譯の仕様も無いのです、と云て病人などを連れ、 此寒空に軒下で寢る事は出來ませず、首でも縊《くゝ》ッて死に度い樣な境遇です』 眞に彼れは俳優である、言葉に最《い》と悲しげな抑揚が有て、 白翁よりも痛く/\黒姫の心の底を掻き亂した、姫は宛《あたか》も 『何うか救ふてお遺り成さい』と云ふ如くに白翁の手を握り緊《し》めた、 翁《おう》は『イヤ聞けば聞くほど氣の毒な境遇だ、何れほど有れば店立《たなだて》が弛《ゆ》りますか』 四國兼帶の人『溜て居るのは六十圓ですが、三十圓も有りますれば一時だけは』 翁《おう》は財布を探ッたが『イヤ生憎、買物の爲め持合せが無くなッた、 殘ッて居るは唯だ是だけです』とて五圓の銀貨を投與へ『其れまでは先づ此銀貨で炭でも買て暖くするが好い』 室主《あるじ》は床に頭を擦り附けて『餘り勿體なくて御禮の言葉が有りません』 とて彼の銀貨を拾ひつゝ、下から白翁の顏を見上げたが、 其の眼《まなこ》に一種の異樣な光が現はれた、 彼れは確に白翁をば今初て逢ふ人では無いと思たらしい、 爾して更に黒姫の顏をも見た、彼れの眼《まなこ》は益《ますま》す光つた 彼れ暫《しば》しほど、自分の打驚く顏色を悟られまいと思ふ如く又 首《かうべ》を垂れたが、 斯くて再び見上げた時は、確に彼れの心に一類《しゆ》の思案が定まつたらしい、 唯だ嬉しさが見ゆるのみで何の異様な色をも示さなんだ 彼れは猶ほ低頭して、宛《あたか》も念を推す樣に 『イエ最う六十圓で無くとも、三十圓で無くとも、幾等でも宜しう御座います、 晩の六時に貴方がお出下さつて、一言でも家主へ何とか仰有《おつしや》つて下されば、 其れ丈で又幾日か猶豫して呉れませう、私し共はお金も難有《ありがた》いのですが、 お言葉だけでも澤山です』有る可き者が無いばかりにと繰返して居た先程の口調とは少し違ふ、 何でも彼れは今夜最一度此人に來て貰はねば成らぬと決心したらしい [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八十九 四國兼帶の人 六 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 此の四國兼帶の人が果して白翁を知て居るのだらうか 兎も角も白翁は再び晩の六時に來ると約束した、爾して分れを告げて去るに臨み、 自分の長い外套を脱ぎ、[『]兎も角も寒さ凌ぎに之を』と云て四國兼帶の人に與へつ、 黒姫の手を引て立去ッた四國兼帶の人は、禮を云ひ/\送ッて出た 此方《こなた》から窺《のぞ》いて居た守安は、黒姫の去ると共に、 世が暗《やみ》と爲た樣に感じた、今分れては再び何處で逢はれると云ふ當は無い、 何でも後を尾《つ》けて行き、其の住居《すまゐ》を見屆けねばと、 去年の失敗に懲りもせず直に室《へや》を出て二階を降り、 戸口まで行て見ると、翁《おう》と姫とは待せて有た馬車に乘り立去る所である、 眞逆《まさか》に馬車の後を徒歩で何所《どこ》までも追ふ譯には行かぬ、 其れに雪が降り初めて町の大地が早や白く成ッて居る、 けれど恐れぬ、其まゝ駈け出して町の角まで行くと幸ひに通り合す空の馬車に逢た、 直に呼留めて『那《あ》の馬車の後を見え隱れに附て行て呉れ』と云ふと、 馭者は守安の身姿《みなり》を見て『一時間一圓です』守安『宜しい』 馭者『前金を戴きませう』守安は衣嚢《かくし》を探ッたが先刻五圓あッたのを隣の室《へや》の娘に投與へたから、 有るは端下の錢のみである『賃錢は歸て來た上で遺るよ』 馭者は嘲笑《あざわら》つて『厭《いや》な事だ』の一言を殘して去て了ッた、 悔くは思て見ても爭ひも出來ぬ猶も其足で必死に走て追ふたけれど、 間も無く翁《おう》と姫との馬車を見失た 最う仕方が無い、喘《あへ》ぎ/\悄々《すご/\》歸て來ると宿の横手の路次の中で、 彼の四國兼帶の人が、白翁に貰た外套を身に纒ひ、 雪に降られつゝ一人の破露戸《ごろつき》風の最《い》と人相の惡い男と密々《ひそ/\》語り合て居るけれど何事の相談かと別に怪む程の心も無く、 見流して内に入り室に歸て、獨り情け無く思案して居ると隣の室の娘が入ッて來た 此の娘に五圓遺つたばかりに黒姫の後を追ふことが出來なんだと思へば今更の如く腹立しい 『貴女は何の用事です』と咎める樣に問ふた 娘『別に用事でも有りませんが貴方は大層お鬱《ふさ》ぎだ事ねえ、 何か私くしに出來る事でも有ればお話し成さいな』言葉は存在《ぞんざい》であるけれど、 心の中は守安を慰め度い信切で來たのである、 或は信切よりも以上の心が有るかも知れぬ、此樣な言葉が若し黒姫の口から出たなら何うだらう、 其まゝ有難さに打れて氣絶するかも知れぬ、けれど相手が違ふだけに、此の、 信切以上とも見え、言葉が唯だ腹立しい『何も貴方に話す事は有りません』 娘は恨めしげに守安の顏を見て『其の樣に言はなくても好いワ、 貴方の心の中を探らうと云ふでは無し、信切に云ふのだワ、 斯う見えても幾等か貴方の役に立ちますよ、用事を言ひ附けて使つて御覽なさい、 言ひ附つた通りに仕ますワ、毎《いつ》も父の爲めに慈善な紳士や貴婦人を見附けて來るのも皆な私しですの』 此の言葉に守安は思ひ附いた、此の女に黒姫の住居《すまゐ》を探らすれば好い 『では頼む事が有りますよ』と彼れは云た、娘は嬉しげに『ソレ其樣にお友達の樣な言葉を掛けて下さい、 何れほど私しは嬉しいか知れませんよ』守安『嬉しいの、嬉しく無いのと、 其樣な事は云はずに、私しに或人の住居《すまゐ》を探し出して呉れませんか』 娘『何でも無い事、誰の住居《すまゐ》です』守安『今貴女の室《へや》へ來た老人と娘が有りませう』 娘は少し不興氣に『イヤ那《あ》の別嬪の住居《すまゐ》をですが、 貴達《あなた》は那《あ》の方を知て居ますか』守安『ナニ女の住居《すまゐ》では無く白髪《しらが》の爺さんの住居《すまゐ》を』 娘は『爺さんの住居《すまゐ》が分れば別嬪の住居《すまゐ》が分るでは有りませんか』 守安『探して呉れますか、呉れませんか』娘『白髪《しらが》頭だの娘だのと、 アヽ貴方は私しの室《へや》を窺《のぞ》いて居ましね』 守安は顏を赤くした、娘『ナニ窺《のぞ》くのはお互ひよねえ、 探して上げませう、探して上げませう、那《あ》の別嬪の住居《すまゐ》を』 守安『何うか爺さんの住居《すまゐ》を探して下さい、爾して分たら』 娘『ハイ分つたら直に貴方へ知らせますよ、那《あ》の別嬪の住居《すまゐ》をねえ』 と揶揄《からか》ふ樣に人[誤?:云]て立去つた 暫《しばら》くすると隣の室《へや》から、彼の四國兼帶の人の聲が聞えた 『ナニ己は確に那《あ》の白髪頭を知て居るよ』守安は耐《こら》へ切れずして再び椅子に登り隣の室を窺《のぞ》いた、 隣の室主《あるじ》が白翁を知て居ると云ふのだらうか、 爾すれば自然に黒姫の身分などを聞くことが出來やうかも知れぬ 室の有樣は、先程と聊《いさゝ》か違ひ、暗爐[誤:暖爐]《すとーぶ》にも火が燃えて、 食事をした跡も見える、室主《あるじ》は室の中央《なかば》に立ち妻に向ひ、 決して己の目に見損じは無い、爾だ最う八年前だけれど同じ顏だ、 同じ白髪頭だ、其の時から己れは、何うしても合點が行かなんだ、 今度逢たら、今度逢たらと思つて居たが八年目に到頭回り逢た』 と云ひつゝ傍に娘の居るを顧を[誤:顧み]『お前 等《たち》は午後の五時まで外へ出て遊んで來い、 五時前に歸ると承知しないよ、五時に成つて歸らぬと承知しないよ』 嚴重に命令で追出すのは、何か白翁に對して默《もく》ろむのでは無からうか、 娘二人は唯々《ゐゝ》として出で去ッた、 妻『お前の眼力は豪《えら》いねえ、けれど私しには分らぬよ』 室主『分らぬ事が有る者か、お前はアの娘の顏を見たか、娘の』 妻『那《あ》の姫樣のお顏、見たよ、見たけれど』 室主『見たけれど思ひ出さなんだのか、無理も無い、餘り變り樣が甚いから、 己だッて終の頃に成てヤッと氣が附たもの、驚いたよ、實に驚いたよ、 けれど喜べ最う貧乏をするに及ばぬぞ、晩方までに殘らず手配の附く樣に運んで置たから、 今夜六時に那《あ》の白髪頭茲へ來て見ろ、アヽ、アヽ、ヤッと金の蔓《つる》を捕まへた、 場合に依ては仕方が無い荒療治よ』事柄は分らぬけれど、 兎に角、聞捨難い不穏であると守安は此の樣に感じた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十 四國兼帶の人 七 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『荒療治』など[と]は言《ことば》だけでも不穏である、 能くは其意味が分らぬにもせよ、白翁と黒姫の身に係る事たるは明白だ 暫《しばら》くして妻は問ふた『ではお前、本統に姫樣を知て居るの、 何うして、エ、お聞かせな』吁《あゝ》、黒姫の事の分る時が來たのだと、 守安は總身の精神を耳に集めた、四國兼帶の人は、少し氣を揉ませう樣に 『お前の氣の附かぬのを、易々と云て聞かせるは勿體ないなア、 何しろ何千圓何萬圓に成るかも知れぬ種だからなア』 妻『では私しも姫樣を知て居るの』室主『知て居無くてサ、 己《おれ》よりはお前の方が能く知て居る筈だ』と云ひつゝ妻の耳に口を寄せた 何だつて細語《さゝや》くだらう、誰も聞ては居ぬのだから、 通例の聲で云たつて好さ相な者だと此方《こなた》の守安は腹立しい程に感じた、 けれど壁に耳と云ふ事は、大抵の惡人が心得て居る、 現に守安自身の耳が壁に附て居るのでは無いか、 頓《やが》て室主《あるじ》が細語《さゝや》き終ると、 妻は發狂も仕兼まじき程の容子で『エ、エ、エ、エ』と驚き叫んだ、 室主『爾だよ、確に那《あ》の兒だよ』那《あ》の兒、那《あ》の兒、 那《あ》の兒とは何の兒だらう、妻は室《へや》中の埃《ごみ》を吹飛す程に嘆息して 『爾うかねえ』室主『爾さ、確かだよ、能く先《ま》ア那《あ》の樣な美人に成たなア』 一時の驚きが聊《いさゝ》か鎭《しづま》ると共に妻は漸《やうや》く腹立して色を浮べて立ち 『エ、悔しい、お前餘り悔しいぢや無いか、那《あ》の兒が那《あ》の樣に成長して絹の着物を着て、 ザッと積たとて身姿《みなり》に二百圓は掛つて居るよ、黒い見榮のせぬ服だけれど、 大抵の身代では眞似も出來ぬ、お前何うかしてお呉れ、 内の疣子《いぼこ》痣子《あざこ》は靴さへも買へぬのに那《あ》の兒が那《あ》の樣に立派に成たとは、 私しは悔しくて、最う家も寢られないわ、今度茲に來れば、叩き殺しても遣り度い樣だ』 全く叩き殺しも仕さうな劍幕である、室主は却て満足の體《てい》で、 『爾うだ爾うだ、お前が其れ位ゐに思ふなら事が仕易い、ナニ那《あ》の兒に罪は無いさ、 けれど那《あ》の白髪頭め、餘り人を馬鹿に仕あがる、 八年目の今日と云ふ日に此 室《へや》へ來る樣に成ると云ふのは、 未だ己《おれ》の運が強いのだよ、何でも金の中に轉ッて居るに違ひ無から、 今夜六時に來て見るが好い、己は最う其れ其れ同類を集める樣に用意を調へて來るのだから、 少くとも一人頭に千と云ふ金を取らねば、己《おれ》も最う取る年だ、 早くたんまりとした仕事をして自分も樂をしお前にも娘等にも貧乏と云ふ事を忘れさせて遣り度いワ, 今夜の六時なら丁度好い、隣の室の若いのは先刻《さつき》出て行た樣だから、 外で夕飯を喫《た》べ夜の十一時迄は歸らぬだらう、 下の婆も其刻限には洗濯屋へ行き、歸れば直に大鼾《おほいびき》で寢るのだから、 何から何までお誂へ向きに出來て居る運が向て來るとは此樣な者だよ、 併し己《おれ》は最一度、外に出て來ねば成らぬ、 外に出る事が出來るのも白髪頭が此外套を置て行て呉れたお蔭だ、 彼奴《きやつ》め自分で自分の穴を掘た』人間だか獸だか分らぬ樣な顏して笑ひ、 間も無く外へ出て行ッた 何が何でも白翁と黒姫の身に、一方《ひとかた》ならぬ大事が湧つゝ有るのだ、 守安は騒ぐ胸を鎭《しづ》めも得ずに思案した、此樣な恐しい秘密を此身が聞込む樣に成るのも、 天が此身へ黒姫を助ける役目を授けたのか知らん、今夜黒姫は來ぬだらうけれど、 兎に角白翁だけは事に依ると命までも取られる事に成らうも知れぬ、 と云て何うすれば助ける事が出來るだらう、白翁に知らせて遺るには住居《すまゐ》が分らず、 今は早や午後の一時で五時まで六時間の中に尋ね出される筈は無い、アヽ警察の助けを請ふ一方だ 彼れは直に警察へ行た、爾して辯護士と云ふ名札を出して署長に面會を求めた、 署長は居ぬからとて代理が出た其の人物を見ると、 殆ど四國兼帶の人にも劣らぬほど恐しい相合《さうがふ》だ、 けれど荒仕事に當るには丁度倔強の人らしい、守安は喜んで、 自分の知る一部始終を語り『何うか然る可くお手廻しを』と切に乞ふた、 警官は聞終ッて『オヤ那《あ》の家か、爾すると隅の方の廣い座敷だな』 守安『貴方は能く御存じと見えますね』警官『爾うと見える、何しろ丁度幸ひだ、 那《あ》の邊には質《たち》の惡い破露戸《ごろつき》や罪人の揚りが徘徊して、 何うか折が有れば重立つ者を一網に召取度いと思て居た、 けれど娘二人に門口の張番を爲せると有ては容易に中へ入込めぬナ、 此れは少し困たなア、外の手配は何うでも附くが』と云て暫《しば》し考へ 『アヽ貴方が辯護士なら手傳て戴き度い、何うか貴方は今 仰有《おつしや》ッた壁の穴から、 油斷なく見張て居て下さい、私しが一挺の拳銃《ピストル》を貸して上げますから愈《いよい》よ事が熟した所で、 一發合圖をして下されば、直に私し共が踏込みます』守安は少しも危險と感ぜぬ、 却て白翁を救ふのに自分も多少の力を加へるのが嬉しい 『心得ました、喜んで勤めませう』警察『けれど慌てゝは決して可《い》けませんよ 餘《あんま》り早く合圖をすると少しも犯罪の證據が揃はぬ中に踏込む樣な事に成ります、 爾う成ては却て私し共の落度に成るから、愈《いよい》よ茲が最後だ、 最う一刻も油斷が出來ぬと云ふ時に成て初めて合圖をする樣に』守安『心得ました』 警官『イヤ辯護士ならば何の樣なのが有功の證據と云ふ事は私しの云ふ迄も無くお分りでせう』 守安『分ッて居ます、充分彼等が證跡を作る迄は、決して合圖を仕ませんから其代りお手配は落度なく』 警察官『宜しい』 守安は漸《やうや》く安心して合圖用の拳銃《ピストル》一挺を受取て立上ッた、 警官は念の爲と云ふ風で『イヤ、若し六時までに何か危險が有ると見たなら直に此署へ來て私しをお尋ね下さい、 巡査監督官の蛇兵太《じやびやうた》と聞けば私しですから』 蛇兵太《じやびやうた》、蛇兵太、名前からして強さうだと守安は感じた、 ナニ強さうな許りでは無い [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十一 四國兼帶の人 八 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 蛇兵太《じやびやうた》とか云ふ警官から、合圖の爲の拳銃《ピストル》を受取ッて、 守安が我が宿に歸ッたのは早や午後の五時過である 彼れは隣室の人に成る可く悟られぬ樣にと思ひ、極めて靜に二階へ上り、 自分の室《へや》へ入ッたが、何うしたのか隣の室の靜な事は殆ど誰も居ぬかと怪まれる ナニ居ぬのでは無い、先刻外出した室主が未だ歸らぬ許りで、妻も兒も皆居るのだ、 居るけれど、今に其の室で何か容易ならぬ事の初ると云ふ事が、今朝からの容子で察せられるので、 自ら心が沈み、口數もきかぬ事に成るのだ、幾等惡人の妻でも子でも女は女だけである、 今の中にと守安は、密《ひそか》に雪に塗《まみ》れた靴を脱ぐやら外套の始末をするやら、 愈《いよい》よ大事の任務に取掛る用意を初めた 眞に大事の任務である、彼れが旨く勤めると否とは、事に由ると人の一命に拘るかも知れぬ、 人も人、黒姫の父なんだ、仕損じて爲る者か 其中に廊下から聞える足音と共に隣の室主《あるじ》四國兼帶の人が歸つた容子だ、 何と云ふ名で有ッたかと、今朝受取た手紙の署名を考へて見ると、 アヽ思ひ出した、長鳥と云た、色々の名を用ひて居ても多分は長鳥が本名だらう、 何も此身へ向ッて嘘の名を用ふる必要は無いからなどと考る間に、 隣の室は室主の歸ると同時に、少し騒々しくなつた 『阿父《おとつ》さんの云た通り五時よりも早く無く遲くも無く歸て來たよ、私しは』 と云ふのは姉娘で、『阿父《おとつ》さん私しもよ』と續けたのが妹娘だ 『此の雪に寒かッたゞらうねえ、火を起して有るからお暖りな』と云ふは無論妻、 少し夫に活智《いくぢ》が有りさうに見えて來たから機嫌を取る氣にも成つたと見える 『爾うか、言附けた時間通りに歸て來た褒美には、 今少しすると最《もつ》と辛《つら》い役を言附けて遺るから驚くな』 とは長鳥が娘達に向ッて云ふのだ、姉娘『何んな用だか知れぬけれど、外へ出るのは御免だ』 妹娘『露國《ろしや》革の靴でも買て呉れるなら好いけれど、 雪の上を跣足《はだし》も何樣だもの』長鳥『云ふな、云ふな、明日の晩は二人ともお姫樣だ、 芝居へも連て行て遺る』姉娘『オヤ其れほど儲かる事が有るの』 妹娘『其れなら格別だけれど、ねえ姉さん』 『サ、最も[誤:最う]五時半だ、隣の室には誰も居ぬだらら[誤:だらう]な』とは長鳥の聲、 妻『先ッき出て歸りや仕ないよ、最う夕飯の時刻だからお前の云た通り今夜の十一時まで、大丈夫よ』 長鳥『でも念の爲だ、見屆けて來い、娘』『此の使ひには私しが行くよ』 とて姉が妹を推退けて立ッたらしい、姉は守安の室へ來るのが嬉しいのだ、 守安は見られては大變と、慌てゝ寢臺《ねだい》の下へ隱れた ヤッと隱れ終ッた所へ姉娘が、手に蝋燭を以て入ッて來た、別に室の中を見もせずに、 一直線に小い鏡の掛ッて居る柱の許《もと》へ行た、此鏡が蝋燭を持て來た所以なんだ 爾して背伸して自分の顏を照し、鼻歌を謠ひつゝ手の掌《ひら》で頭の毛を撫でた、 寢臺《ねだい》の下の守安は餘り安心で無い、若し呼吸でも聞附けられては大變だ 自分の美くしさに滿足したか、ナニ滿足の出來る美しさでは無いけれど、 ニッと笑んで見て、今度は窓の所へ行き、戸を開けて外を眺め、不斷の疎《そゝ》ッかしい樣な口調で 『何と云ふ雪だらう、靴の無い者には此れほど厭《いや》な者は無い』 と呟やき再び鏡の所へ來て齒の白さや横顔などを眺め初めた、 早く立去つて呉れゝば好いと、守安が忌々しく思ッて居る中に、 教會堂の方から五時半を打つ時計の音が聞こえた 『何をして居るのだ、見屆けたなら早く歸るが好い』と父が壁を隔てゝ怒鳴ッた 『ナニ詳しく見屆けて居るのだよ、寢臺《ねだい》の下や何か全然《すつか》り見なければ可《い》けぬから』 と平氣で答へ、實は自分の顏より外に何者をも見ずに立去た 父は直に二人へ言附けて居る『好いか此役目が旨く行けば、 明日はお姫樣だぞ、露國《ろしや》革の靴も買て遺るよ、 二人とも外へ出て右左に分れ、姉は此町の東の角、妹は西の角へ行て見張るのだ、 此方《こつち》から好しと云ふ知らせの行くまで』姉娘『何時までゝも』 妹娘『見張て何うするの』父『馬鹿な奴だ、見張ると云へば毎《いつ》もの通りさ、 巡査か探偵らしい奴が此方《こつち》へ來ると思へば直に馳せ附けて知らせるのさ』 兩女とも『明日は靴、明日は靴』と云ひつゝ立去ッた 後で長鳥は妻に向ひ『お前にも用事が有る、今に白髪頭が來るからな、 直にお前は下へ降りて入口に居る馬車を歸すのだよ、必ず馬車で來に違ひないから』 妻『何うして歸すの』長鳥『馬鹿な奴だ、旦那が少しお手間が取れるから、 歸して呉れと仰有《おつしや》ッたと云ひ、馭者に賃錢を拂へば好いのさ、少し餘分に』 妻は笑ッた『餘分にとて何のお錢《あし》で』長鳥『云ふな、云ふな、 己《おれ》だッて大仕事が目の前へ降て來れば融通が聞くワ、 今日は手傳に來る奴等から少しづゝ借集めて隨分買物を仕たけれど、 猶だ殘て居る、ソレ之を』と云ふは金を取出して渡したものだらう、 妻『分ッたよ、けれど相棒は最う』長鳥『其樣な事に失念《ぬかり》は無い、 丁度の時に皆此室へ紛れ込む事に成て居る』扨《さて》は大勢で掛る仕事と見える、 成るほど『荒療治』に違ひ無い [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十二 四國兼帶の人 九 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 最う六時も近くなッた、守安は思ふた『任務に就く時が來た』と、 彼れは直《たゞち》に立ッて壁に寄り、例の穴から窺《のぞ》いて見た 室《へや》の中は多少今朝見た時と變て居るが、其變り方よりも甚く物凄く感ぜらるは、 世に云ふ殺氣が滿ちて居ると云ふのでは有るまいか、 何所が何う物凄いと口に云ふ事は出來ぬけれど、何と無く身の震ふ樣な氣持が襲ふて來る、 全く室中に魔が指して居るのだ 卓子《てーぶる》の上に蝋燭が燃えて居る、けれど其れよりも明るいのは暖爐《すとーぶ》である、 入れた炭が今起り盛ッた所で、發射する赤い光りが一直線に室主《あるじ》と其妻との顏を射て、 殆ど鬼相を照し出したとも云ふ可きだ、 室主《あるじ》の眼《まなこ》が其の燃る火に注いで居るのは何故《なにゆゑ》だらうと、 殊更に氣を注《つ》けて見るろ暖爐《すとーぶ》の中に長い鐵の、 鑿《のみ》とも鏝《こて》とも分らぬ樣を[誤:樣な]者を差込み其れを烈火の樣に焼てある、 何の爲だらう、或は之を以て白翁を威《おど》す積りでは無いか知らん、 何にしても由々しき次第だ 猶だ室の隅に、何の道具だか古い鐵器を積である、執[誤:孰]《いづ》れも凶器に代用する事の出來る品らしい、 其の傍《かたはら》には卷た繩が有る、是は何の爲だか分らぬ 室主《あるじ》は云ふた『椅子が足り無い、二個ばかり欲しいけれど』 妻『では私しが持て來るよ』何處から持て來るのだらうと怪む間も無く妻は立ッた、 嗚呼守安の室へ取りに來るのだ、人の物を我が物の樣に心得て居る、 若し見附けられてはと、慌てゝ守安は又 寢臺《ねだい》の下に入ッた、 長鳥『では蝋燭を持て行け』妻『ナニ兩手で一個づゝ持て來るから蝋燭などは邪魔だワ』 聲と共に遺て來て、丁度自分の物置からでも出して行く樣に最《い》と平氣で二脚の椅子を持て行ッた、 此容子では今まで度々此樣な事を仕て居たと見える 直に守安は又任務に就いた、今の椅子の一脚を白翁に充行《あてが》ふ積りか、 長鳥は然る可く位置を計ッて卓子《てーぶる》の前に置き一脚を自分の横に置いた、 爾して『サア最う來る時分だから下の入口へ行てお前は待て居ろ、 來たら蝋燭を持て、供をして此二階へ送り上げ、 直に引返して先刻《さつき》云た通り馬車を返すのだ』と妻に云へば 『分ッて居るよ』と答へて妻は蝋燭を持て去ッた 最う此の廣い二階に、長鳥と守安と唯だ二人である、 先刻《さつき》逢た蛇兵太《じやびやうた》とか云ふ警官は、何所へか來て居るのか知らん、 多分は配下と共に路次か何所かへ潜んで居るのだらうが爾うすれば眞逆《まさか》に白翁の身に大した間違も無くて濟むだらうなどゝ無理に心配を推鎭《をしゝづめ》るのも無理は無い、 其の中に長鳥は室中を見廻して彼の卷て有る繩の所へ行て檢《あらた》める樣に取上げた、 見ると立派な泥坊用の繩梯子である、端には金の鈎《かぎ》が附て、 塀へでも窓へでも引懸けて垂す樣に出來て居る、彼れは直に之を窓の許《もと》へ置いた 次に彼れは卓子《てーぶる》の抽斗《ひきだし》を拔き中から光る物を取出した、 之は鋭利な肉切庖丁である、守安はゾッとした、 爾うして其の庖丁の刄《は》を手の掌《ひら》で擦ッて見るのは刄《は》の附き具合を試みる者と見える、 守安も我れ知らず衣兜《かくし》を探り、蛇兵太《じやびやうた》より預ッた短銃《ピストル》を取出したが、 生憎に物に觸れて微《かすか》に音がした、長鳥は耳が早い、 直に顏を上げて『オヤ』と云ひ『誰か居るのか』と叫んだ、 暫《しば》しがほど彼れは聞耳立てた末『何んだ古い羽目板が跳たのだ、 此んな事に肝を冷すは暫《しばら》く荒療治に遠のいて居る爲《せゐ》だ』 と嘲笑《あざわら》ふは何と云ふ惡人だらう、 若し蛇兵太《じやびやうた》からの懇々の誡《いまし》めが無かッたなら守安は最う此の所で合圖の短銃《ピストル》を發《うつ》たかも知れぬ 愈《いよい》よ六時とは成ッた、寺の鐘が響いた、長鳥は其鐘の音の一個《ひとつ》々々に、 贊成を表する如く點首《うなづ》いて數を讀んだ、 爾うして彼の肉切庖丁を卓子《てーぶる》の中に納め、立て耳を澄しつゝ室の中を歩み初めたが、 間も無く下から足音が聞えて來た、アヽ來た、確かに來た、 足音は近づいて、頓《やが》て外から戸が開いた、 長鳥の妻が顏を出し『此寒いのに、お出下されましたよ』と云ふは其の後に白翁が立て居るのだ、 言ひ終ッて身を引た、長鳥は身を斜にして『サア何うかお入り下さい』と請じた、 白翁はどの樣な接待準備が出來て居ると知る筈は無い、眞に慈善の外は何事も知らぬ 尊敬す可き老紳士である、靜の室の中に入ッた、 罠に入る不幸な鳥が此樣な状《さま》では有るまいか [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十三 陷穽《おとしあな》 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 室《へや》に入ても白翁は敢て室中を見廻しもせぬ、見廻す樣な疑ひの心が無いのだ、 直に二十圓の金貨四個を取出し卓子《てーぶる》の上に置た 『濱田さん、是は先刻の家賃です、殘りは必要な事柄に使ふとして、 緩々《ゆる/\》と後の事などを伺ひませうか』云ひつゝ翁は椅子に腰を卸した、 全く後々までの相談を聞て身の立つ樣に計らッて遺る積である、 此樣な慈善家が又と有らうか、此所へ妻が歸つて來た、 妻は翁を此室へ送り込み、直に引返して下へ降り言附けられた通り馬車を歸して來たのだ、 妻と共に一人 迂散《うさん》な男が此室へ紛れ込み、隅の方へ立ッた 室主《あるじ》長鳥、又の名濱田は、深く禮を述べ 『何うも貴方の御信切は骨身に徹《こた》へます』と云ひつゝ妻に金貨を見せる樣に身を引て 『好いのか』と囁き問ふた、妻も小聲で『好いよ、馬車は歸したよ』 白翁は初めて迂散《うさん》な男の居るに氣が附き其顏に目を注いだ、 何者だか知らぬけれど顏一面を黒く塗り、古い職工の仕事着を被《き》て、 腕は裸で胸の上に組で居る、直に長鳥は辯解する樣に、此れは隣室《となり》の住人ですよ、 隅[誤:偶]《たま》に此室に火が有るから暖《あた》りに來たのです、 近所の黒鉛製造所へ雇はれて居る者だから顏なども炭だらけです、 ナニお構ひに及びません[』] 成るほど其樣な事か知らん、白翁は初て室中を見廻して 『先刻、怪我をして居られた妹娘とやらは何うしました』 長鳥『何うも那《あ》の傷が益《ますま》す痛みまして、 堪へられぬと申ますから姉娘に連れさせて唯今お醫者の所へ遺りました』 と云ひつゝ彼れは戸口を見たが、又ドヤ/\と三人の男が入ッて來た 孰《いづ》れも前のと同じく顏を煤色《すゝいろ》に塗て居る、 長鳥は此等に向ひ『オヽ工場から今返ッたのか、何れも是れも黒い顏して、 サア偶《たま》に火が燃て居るから、暖《あた》れ、暖《あた》れ、貧乏人はお互だ』と云ッた 此方《こなた》から此樣を見て居る守安は、思ッたよりも大仕掛の荒療治だと見て取た、 勿論此の宿には自分と長鳥との外に下宿者は無い、 今來た四人を近所の製造所へ通ふ職人の樣に云ふは勿論 僞《いつは》りて唯だ白翁を油斷させる爲である、 四人とも警官 蛇兵太《じやびやうた》の云ふた破落漢《ごろつき》の種類に違ひ無い、 最う少しも油斷は出來ぬと、守安は又も短銃《ピストル》を探つて見た 何時《なんどき》でも此の短銃《ピストル》で、蛇兵太《じやびやうた》へ合圖が出來るとは云ふ者の、 猶ほ不安心に堪へぬ、若し危急な場合に迫れば、 合圖をして蛇兵太《じやびやうた》の登つて來白翁るまでが[誤:來るまで白翁が]無事に居られるだらうか、 爾う思ふと自分の責任が益《ますま》す重い 又も白翁は室の中を見『オヽ病氣で有た細君も直られたと見えますな』 確かに彼れの心には最う疑ひが差して居る、とは云へ今更如何ともする事の出來やう筈は無い、 四人の男は火には暖《あた》らずして、一人が戸口を守り殘る三人が三方に分れて立ッた、 長鳥は今の言葉に答へ『ハイ家内ですか、那《あ》れは病氣と云ひましても、 根が雄牛の樣な頑丈な身體ですから』如何にも雄牛の樣な女だけれど、 斯う云はれては氣持が良くは無い、忽ち腹立しい聲で 『何うせ私は雄牛だらうよ、爾う云ふお前は何だらう、エ、長鳥さん』と叫んだ、 白翁は怪む樣に『オヤ濱田さんかと思ッたら、長鳥と云ふ名も有るのですか』 長鳥『ナニ是れは舞臺へ出て居た頃の藝名です、本名は矢張り濱田です』と云ひ、 更に其れと無く妻の機嫌を取て置かねば成らぬと思たか 『ナニ子、家内も今でこそ窶《やつ》れては居ますが、私しが舞臺へ出て居ます頃は、 那《あ》れでも名高い女でした、其れに先《ま》ア飛だ心榮《こゝろばえ》の優しい質《たち》で、 私しの爲と云へば少々の病は推して色々と働いて呉れますのさ』 愈《いよい》よ白翁は容子を悟ッたらしい、 最う切上げる時と思ッたか頓《やが》て椅子から立ち掛かッた 慌《あわ》てる樣に長鳥は推留め『貴方に是非とも買て戴き度い品が有ります』 白翁『エ私しに』長鳥『ハイ、實は先祖代々傳つて居る大切の繪畫です、 是だけは手放すまいと今まで持て居ましたけれど背に腹は替られませず、 と云て素性の分らぬ人の手に渡すのも厭《いや》ですから、何うか貴方に、 ハイ是非とも貴方にと思ふのです、先づ一應御覽の上で、直[誤:値]《ね》を附けて戴きませう』 否《いや》と云たとて最う戸口には番人同樣に荒くれ男が立塞ッて居るのだから、立去られぬ 直に長鳥は室の隅から古い畫布の樣な一物を取り出した、 云はゞ何所《どこ》かの看板をでも剥して來たと云ふ樣に所々が裂て居て、 其上に何の値打も無い全くの看板繪だ、圖[※;柄?]は戰場の煙の中から一人の軍曹が、 將官らしい負傷者を肩に掛て這出て來る所なんだ、 繪には成て居ぬと云ても好い、彼れは之を白翁の前に置き 『何うか良く見た上で、直[誤:値]《ね》を附けて戴きませう』 と云ひつゝ白翁の顏を見上ぐるは、翁が此繪を見て何の樣な顏をするのかと、 誰[誤:唯]だ其れを見屆ける心の樣だ、翁は繪を見たけれども何事をも顏には現はさぬ、 唯だ『此樣な繪を私しに買て呉れとて??』長鳥は少し横着な口調と爲り 『貴方は紙入を持て來たのでせう、銀行の手形帳を持て居ませう、 お買ひ成さい此畫を、高い事は云ひません二萬圓です』 何と云ふ言分だらう、彼れは斯く言ながらも又戸口を見た、 未だ誰か來るのか知らん 翁《おう》は自分の身の危險を悟ッた、立て幾足か退いて、壁を背《せな》にし、 容易ならぬ顏色で室中を見廻した、此時二人の逞しい破露戸《ごろつき》が此室へ入ッて來た、 是を見て長鳥は最う好しと思ッたか忽ち、人を刧《ゆす》る兇漢の状《さま》を現はし 『貴方は此の畫を見覺えが無いと云ひますか』白翁『思ひ出しません』 長鳥『では此顏を御覽なさい、此の私しの顏を、此顏には見覺えが有るでせう、 よも忘れは成さるまい』と怒鳴りつゝ、自分の顏を白翁の前に差附けた 吁《あゝ》今までの事は全くの陷《おと》し穽《あな》で有ッた、 首尾能く白翁を陷《おとしい》れて了ッたのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十四 陷穽《おとしあな》 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 果して白翁が、四國兼帶の人長鳥の顏を知て居るだらうか、 『此顏に見覺えが有りませう』と云ふ長鳥の言葉は、 確かに見覺えが無くては成らぬと見込で居るらしい けれど長鳥は、白翁の未だ答へぬ間に、自ら室の中を見廻した、 是から愈《いよい》よ荒療治を初るのだから萬に一つも準備に手落が有ッては成らぬと念の爲に見廻すのだ サア愈《いよい》よ蛇兵太《じやびやうた》に合圖する時が來たと、 此方から窺《のぞ》いて居る守安は思つた、爾して驚破《すは》と云へば直に引金を引く許りに、 確《しか》と右の手に拳銃《ピストル》を握り、 高く上に掀《さ》し揚げた、愈《いよい》よ大變な事とは成つた、何の樣に成り行くだらう 長鳥は室中を見廻して、準備の行屆て居るに安心したのか、更に、 今來た二人に向ひ『門八は何うした、門八はお前等と一緒で無いのか』と問ふた、 門八とは何者か知らぬけれど長鳥が斯う特別に重きを措《お》いて其名を三度まで繰返すを見ると餘ほど必要の人物に違ひ無い、 多分は此 破落戸《ごろつき》共の頭《かしら》に立つ男なんだらう、 事に由ると荒療治の序開きを擔任して居る奴かも知れぬ、 問はれた男は答へた『來たよ、一緒に來たよ、來たけれどネ、町の角にお前の娘が立て居たから、 立留ッて話をして居た』長鳥『娘とは何方《どつち》』男『姉の方よ、 彼奴《あいつ》は、厭《いや》にお前の姉娘を見ると目尻を下げやがる、 荒ッぽい氣質に似合はぬぢや無いか』長鳥『其樣な事は何うでも好い、 其れよりは、馬車は好いのか』男『オヽ雇ッて來て此入口に立して有るよ』 云ふ所へ又一人來た、是が門八と云ふのだらう、顏は紙の假面《めん》を被ッて居る爲め分らぬけ[れど]、 肩幅の廣さを見ても手剛い相手とは分ッて居る 是れで室《へや》の中が十人とは爲ッた、何と云ふ物凄い状《さま》だらう、 唯《たつ》た一人の白翁に九人の荒くれ男が掛るのだ、 イヤ其中の一人は長鳥の妻だから、無論男では無いけれど、 夫さへも雄牛の樣だと評する程だから事に由ると男二人分に向ふかも知れぬ、 最う銘々が鐵の棒や、棍棒の樣な物を持て、 號令さへ掛れば直に叩き伏ると云ふ樣に用意して居る、 中には出刃庖丁を持つて居る奴も有る 此間に立ッて白翁は何うして居る、通例の人ならば最う面色は土の如しで、 立つ足さへ定まらぬ筈で有るのに、抑《そもそ》も彼れは何者だらう、 驚く可し、驚く可し、此九人に抵抗する樣な態度を取て居る、 彼れは長鳥が話しをして居る間に又一歩り、自分の後《うしろ》へ敵を廻らせぬ用心だらう、 壁に添ふて立つて居る、爾して卓子《てーぶる》を一方の小楯に取つた状《さま》は、 千軍萬馬の間を踏破つた人に見せても羨まれる程だ、何と言ふ落着《おちつき》さだらう、 顏は猶だ今までの通り慈善紳士で有る、唯だ悲しげな笑《ゑみ》だけが無くなつた許りだ、 其代りに凛とした勇氣が、何所《どこ》とも無く現れて、 侵し難く見えて居る、とは云へ其身には寸鐵をも帶びて居ぬのだ、 幾等勇氣が有つたとて運命は分つて居る 併し守安は此の健氣《けなげ》な状《さま》を見て、 密《ひそ》かに肩身が廣い樣に感じた、流石は黒姫の父である、 是ならば後々に、守安の妻の父だと世間へ披露しても恥かしく無い、 アヽ黒姫は好い父を持て呉れたと、際疾《きわど》い中にも此樣な心が胸に浮んだ、 實に人間の健氣《けなげ》な振舞は、何の樣な場合でも見る人を興奮させる力が有る 再び長鳥は翁に向ッて云ふた『此顏に見覺えが有りませう』翁は長鳥の顏を見た、 靜に答へた『否《いな》』唯だ落着いた一語である、長鳥は少し此の落着きに驚いたが、 直に蝋燭を取り、其の燈光《ひかり》を自分の顏に差附けたまゝ、又翁の前に進み、 是でもかと云ふ樣に言葉に力を込め『能く御覽なさい、私しは濱田と云ふのでは有りませんよ、 長鳥と云ふのも嘘ですよ、本統は手鳴田《てなるだ》です、手鳴田《てなるだ》軍曹です、 モントファーメールの、宿屋の主人《あるじ》です、能くお聞きなさい、 手鳴田《てなるだ》ですよ、是でも貴方は見覺えが無いと云ひますか[』]、 白翁の顏には、或は血色が走つたかも知れぬ、けれど少しも爾うは見せなんだ、 爾して前の通りの口調で『少しも』と答へた 翁よりも誰よりも、手鳴田《てなるだ》の名に驚いたのは此方《こなた》の守安である、 暗がりだけれど、若し見る人が有つたなら、 彼れの顏の忽ち幽靈にでも魘《おそ》はれた樣に青ざめるを見たゞらう、 イヤ幽靈どころでは無い、彼れは落雷に打たれた樣な者だ、壁から其の身體が獨り離れて、 蹌踉《よろめ》いて床の上に折崩れた、彼れの心には絶ず父の遺言状の終りの文句が燃えて居る 『汝、此人に逢はゞ、汝が能ふだけの力を以て此人に善を爲せ、以て父の受けたる命を返せ』 白翁の命を脅《おび》やかして居る惡人が『此人』なんだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十五 陷穽《おとしあな》 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 此の惡人が手鳴田《てなるだ》とは、意外の上の意外である、 我が父の命を助けた大恩人、父が故々《わざ/\》遺言状に書入れて 『命の恩を返せ』と迄に我れに命じた其人が此の惡人とは、 信じ度くしても信じられぬ程である 今が今まで、父を助けて呉れる程の人だから定めし敬慕に足る一種の英雄だらうと信じて居た、 尤もモントファーメールを尋ねた時に失敗の爲め家を疊て行方も知れぬと聞たゆえ、 定めし何處かで貧乏はして居るだらうと思ふて居た、縦《よ》し貧乏はした所で、 此樣《こん》な這樣《こん》な惡事も惡事、大惡事を働く樣な人だらうとは思はなんだ、 多分は我が父が貧乏の中でも毅然として武人の風骨を支へた樣に、何來《どこ》かの果で傲然と鬪ひ、 世間の人と衝突しつゝも魂だけは持耐《もちこた》へて居るだらうと信じて居た、 云はゞ自分の理想の一人で有つたのだ、其の理想が此の體《てい》たらくとは、 何と云ふ事だらう、餘りの事に守安は殆ど心が轉倒して、 折崩れたまゝ立上る事も出來ぬ、能くは思案する事も出來ぬ、全く心が攪《か》き亂れた 彼れの手に在つた合圖の爲の拳銃《ピストル》も、力の拔けた手先から、 靜に落ちて床の上に横はつた、嗚呼彼れが此樣に驚くのは止むを得ぬ、 けれど是れが爲に合圖を怠つて濟むだらうか、恐らくは今が白翁の命にも關する場合だ、 爲す可き合圖を爲さぬ爲め人一人殺すかも知れぬ と云て此の合圖が出來る合圖だらうか、彼れは未だ其所《そこ》まで考へ得ぬ、 考へ得ぬけれど若し考へ得る事に成たなら、彼れは何うするだらう、 合圖をすれば我が戀人の父を助け得る代りに、父の大恩人を亡すのだ、 『命の恩を返せ』とある其の手鳴田《てなるだ》に、恰も其の命の恩人を返す事の出來る又と無い場合に逢て、 却て其の人の命を亡す樣な事をするのだ、是れが出來る事だらうか、 と云て看す看す黒姫の父を亡すことも出來る事では無い、 彼れ驚きの餘りに、此樣な事まで考へ得ぬのが猶しもの幸ひかも知れぬ、 イヤ其實全く考へ得ぬ譯では無い、彼れの驚き方の甚いのは實は此樣な板挾みの場合だから猶更なんだ、 考へずとも其の重荷が彼れの心を壓挫《おしひじ》いて居るのだ、 其重さの爲に彼れは立上る事も出來ぬのだ けれど隣の室では掛構ひ無く荒療治の歩《ほ》を進めて居る、 手鳴田《てなるだ》は自分の顔を照して居る蝋燭を傍《かたは》らに置いて 『エ、少しも思ひ出さぬ、アー知らぬ振をすれば濟むかと思つて、 爾うは可《い》けませんよ、思ひ出さぬとならば思ひ出させて上げませう、 今から八年前のX節《クリスマス》の夜に、 貴方は恰《まる》で乞食の樣な風をしてモントファーメールの軍曹旅館へ泊り込みました、 其時の主人《あるじ》が私しです、爾して旨く私し共の目を眩《くらま》し、 那《あ》の娘を誘拐《かどわか》したでは有りませんか、 那《あ》の娘と云へば分ッて居ませう華子の娘です、 私し共夫婦が小雲雀《こひばり》と云ふ名を附けて大事に育てゝ居た那《あ》の娘をさ、 其れも好いが金持の風をしては私し共に無心を云はれると思ひ、 乞食の樣な風とは、餘《あんま》り人を馬鹿にした仕打です、 其れで私し共がヤッと承知すれば貴方は風呂敷の中から用意の着物を取出して小雲雀《こひばり》に着せたでは有りませんか、 誘拐《かどわか》しの目的で無くば、何で那《あ》の樣な小供の着物を持て來ました、 其の後で私しが、誘拐《かどわか》しと氣が附いて追掛けたら貴方は何としました、 大きな杖《すてつき》を振廻して私しを追拂ッたでは有りませんか、 那《あ》の時から私しは思つて居ました今度若し廻り逢へば此の讎《かたき》を打たねば成らぬと、 所が天道は正直です、正直な者を助けます、今夜貴方が、此家へ遣て來て、 此樣な事に成るとは天の爲る事ですよ、此れでも未だ此顔を思ひ出さぬと云ひますか、 サア何うです、サア、何とか返事を聞きませう』白翁は靜に『多分人違ひか何かでせう、 其れは私しでは有りません』 手鳴田『エ、人違ひ、最一度私しの顔を篤《とく》と見て、其上で物をお言ひ成さい、 貴方は手鳴田を何者だと思ひますか、誰だと思ひます』白翁は手鳴田の顔を靜に見て、 異樣に丁寧な言葉を以て『左樣盗賊だと思ひます』と答へた、 何たる皮肉な言葉だらう、皮肉よりも寧《むし》ろ大膽である、 手鳴田の妻は赫《くわつ》と怒り『エエ、悔しい、内の人を盗賊だなどゝ』 現在盗賊の妻で有て、夫の盗賊の所業を手傳て居ても、夫が盗賊と云はれるのは腹が立つと見える、 殆ど攫み掛るほどの劍幕で、白翁を目掛けて走《は》せ寄ッた、手鳴田は之を制して 『オヽ盗賊でせう、金持の云ふ事は極つて居ます、 正直な貧乏人を見れば直に盗賊だの巾著切《きんちやくきり》だのと、 コレ、盗賊が三日も四日も家内中飯も喰はずに、慈善家の助けを乞ひますか、 貴方は金持でせう、金持だから此寒さにも毛皮の中に纒《くるま》ッて、 室《へや》の中にて暖爐《すとーぶ》を焚き、爾うして寒暖計を見て、 少し温か過るから窓を開いて冷い空氣を入れろなどゝ贅澤を云ふのでせう、 私し共は自分の身體が寒暖計です、 身體の中の血が凍るから扨《さ》ては寒さが零點以下に降ッたと知るのです、 其れを却つて盗賊だなどゝ、盗賊をする樣な男か、履歴を聞かせて上げませう、 有名な水[土|婁]《ウヲタルー》の戰爭で將軍 本田圓《ほんだまるし》を救ふたのが此の手鳴田軍曹です、 今貴方に賣らうと云つた那《あ》の繪《ゑ》は其の時の手柄を畫《かい》た者で、 命よりも貴いですけれど、不正直な事をする心が無いのだから其れをさへ手放さうと云ふのです、 世が世ならば金鵄《きんし》勲章も下らねば成らぬ身分です、 何も盗賊をしやうとは云はぬ、命より大切な品物を賣らうと云ふのだ、 買ひますか、買ませぬか、買はねばお氣の毒ながら昔の讎《かたき》だ、 貴方の命を戴かねば成りません』 勿論是等の聲は此方《こなた》の室《へや》の守安に能く聞える、 彼れ唯だ心が攪《か》き紊《みだ》れて居て一々は聞取れぬとは云へ、 將軍 本田圓《ほんだまるし》を救ふたとの一言は、 自分の心に拘はらず耳の底に浸み込んだ、最う少しも疑ふ所は無い、 父を助けたのが全く此の四國兼帶の人なんだ、 何うしても合圖をする事は出來ぬ、父の遺言には負《そむ》かれぬ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十六 陷穽《おとしあな》 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 守安の樣な辛《つら》い場合が又と有らうか、人を助ける義務を以て居て、 其れを見殺しにせねば成らぬ 唯だ一發の合圖さへせば直に警官が遣て來るのだ、 來れば手鳴田《てなるだ》等が捕はるのだから白翁は助かるに極ッて居る、 イヤ蛇兵太《じやびやうた》が來て、果して白翁が助かるだらうか其は疑問だ、 けれど助かる可き筈なんだ 之を助ければ手鳴田《てなるだ》は牢に入れられる、多分は多くの舊惡も有り相だから、 事に由れば死刑とまでに成るかも知れぬ、アヽ出來ぬ、出來ぬ、 手鳴田《てなるだ》を此樣な目に遭せる事は決して出來ぬ、 唯だ父の遺言を守らぬのみで無い全く反對の事をするのだ、 自分の命を捨てゝも助けねば成らぬ人を、却て甚い目に合せるのだ、 幾等辛くても其れは出來ぬ、とは云へ黒姫の父を見殺しに、 之れも人間として出來る事で無い、終に守安は何う決する 其れは扨置《さておい》て手鳴田《てなるだ》は、 凄まじい顔をして室《へや》の中を歩みつゝ白翁の何とか返事するを待て居る、 彼れの眼《まなこ》は時々暖爐《すとーぶ》に注ぐのだ、 暖爐《すとーぶ》の中には鐵の大鑿《おほのみ》が、 火花の散るほどに焼けて居る、場合に依れば之れで白翁を責る積なんだ、 白翁も室中を見廻した、九人の敵が銘々に手頃の凶器を持て居る状《さま》を見た上に、 此の熱鐵をも見た、如何に勇者でも泰然とはして居られぬ、 靜であッた彼れの顔も何と無く騒ぎ初めた、 其の騒ぐのを自ら推鎭やうとする丈に猶更ら苦心だらう、彼れの口からは一言の返事も出ぬ、 手鳴田《てなるだ》は又彼れの前に立ッた、爾うして腹立しさに堪へぬ聲で 『サア、金の問題ですよ、金で濟む事ですよ、息の根の通ふ中に返辭を爲さい、 息が通はなく成ては返事し度くも無益です、返事が無ければ、 先づ身動きの出來ぬ樣に、縛てからの事に仕やうか』 室の一方には、縛る爲の繩なども用意が出來て居る、彼れは其れを取る爲にか、 背後《うしろ》を向て室の彼方《かなた》へ行かうとした 唯だ僅《わづか》ばかりの暇である、白翁は此暇を利用して自分の身を助けやうとした、 全く此の纔《わづか》の時と取逃しては、又と身を助ける場合は來ぬ、 彼れは驚く可き早さと驚く可き力とを以て、卓子《ていぶる》を投飛ばし椅子を蹴倒し、 直ちに窓の戸に飜附《とびつい》た、其の業《わざ》の見事さには室中の惡黨《あくたう》共も、 アット驚いて、度を失ふ程で有ッた、見る間に翁は窓を開き、 戸の外に身體を半分突出した、アヽ彼れは高い二階の窓から、 路次へ飛降りる積なんだ、けれど彼れの片足が未だ窓の枠に掛らぬ間に、 之へ六人の男が取縋《とりすが》ッて居た、之には敵《かな》ふ筈が無い、 終に六人の力の爲に窓から室の中へ引戻された、 七人目は手鳴田《てなるだ》の妻で、雄牛の樣な力を以て兩手で白翁の頭の毛を握ッた、 其れでも白翁は起上ッたが、其後の彼の働きは眞に目醒しい者で有ッた 凶器を持た九人の相手に、空拳の唯た一人である、けれど翁は、 誰の凶器も未だ自分の身に屆かぬうちに固い拳《こぶし》で一人を叩き飛ばし、 返す手で二人を打倒した、併し其の甲斐は無かつた、多分彼れは殺される覺悟だらう、 死ぬ迄戰ふ外は無いと決心したのだらう 若しも此時、手鳴田《てなるだ》の號令が無かッたなら翁の頭は門八と云ふ男の鐵の棒の下に二つに碎ける所であッた、 手鳴田《てなるだ》の聲が室中に響いた『傷を附けな、傷を附けな、、 未だ其奴《そいつ》に傷を附ける場合で無い』 此樣な物音を聞て、猶だ守安は耐《こら》へて居るだらうか、 餘り耐《こら》へる力が有り過ぎるでは無いか、 イヤ彼れは耐《こら》へて居る譯では無い、[『]何うか父上、お許し下さい』と叫び、 床の上の拳銃《ピストル》の所へ手を延ばした、 けれど『傷を附けな』と云ふ手鳴田《てなるだ》の號令が聞えた爲め、 又た考へた、何とか父の遺言と白翁の身體と兩方を全《まつた》うする工夫が無からうかと 勿論其樣な都合の好い工夫は夜の明けるまで考へたとて有る筈は無い、 けれど工夫の出ぬうちに止むを得ず考へるのだ 終に九人が一人に勝た、或者は背後《うしろ》へ廻つて白翁を抱きすくめた、 或者は足を取つた、間も無く白翁は九人の下に組敷かれて其の腕を背後《うしろ》に捻廻された、 斯う成つては抵抗するだけ損である彼れは最う尋常に多勢のするが儘に從つて、 犇々《ひし/\》と括《くゝ》られて卓子《ていぶる》の足へ縛り附けられた、 一同は先づ顔を合した、甲『何と云ふ強い爺だ』乙『イヤ強い許りか、只者ぢや無いぜ、 何うだ窓へ掻登つた時の早さは』 此の時に及び守安は再び立上つて壁の穴に眼《まなこ》を着けた、 窺《のぞ》いて居れば白翁の危さの一歩々々迫るに連れ、 自分の辛さを増す許りだけれど、窺《のぞ》かぬ譯には行かぬ、 今までは唯だ驚きに餘りに立上る氣力も無い程で有たけれど、 聊《いさゝ》か心が鎭《しづま》つて、兎も角も窺《のぞ》いて居ねば、 思案も工夫も浮ばぬと思つたのだ 大將の地位に立つ手鳴田《てなるだ》は、眼《まなこ》で一同を鎭《しづま》らせた上、 白翁の前に立た、宛《あたか》も罪人を取調べる裁判官の状《さま》である、 何しろ相手を身動きの出來ぬ事にしたのだから、最う態度もズッと落附て居る、 彼は異樣に丁寧な口調で『貴方は窓から飛出さうなど、お年寄の身で餘《あんま》り亂暴ですよ、 腰の骨でも碎けば何うなさる、ナニ最う那《あ》の樣な事を成さッては可《い》けません、 私し共が貴方を無事に歸さぬと云ふのでは無い、全く私し共は圓滿に話を纒め、 双方が笑つて分れる事にし度いのです、貴方は最う、 吾々の談判に應ぜぬ譯には行きますまい、隱したとて可《い》けませんよ、 貴方の身の上は略《ほ》ぼ分りましたよ、貴方は此樣に甚い目に逢ひながら、 聲も立てず、通例の人なら、我れ知らずに「人殺し」とか「助けて呉れ」とか大な聲を出す所ですのに、 貴方は其れを成さらぬ、何故でせう、聲を立てれば表沙汰になり、 警官も來れば裁判所へ出る事にも成る、貴方は確に其れが恐しい、 何か舊惡が有ッて警官を恐れ裁判を恐れる暗い身なんだ、 私し共の請求に從ふのが當然でせう、斯う見拔かれた上は仕方がない、 尋常に談判にお應じ成さい』成るほど白翁は聲を立てなんだ、 手鳴田《てなるだ》等が警察官を恐る可き筈であると同樣に、 翁も警察官を恐れる身分に違ひ無い、 少しの間に此樣な事をまで見て取る程の相手だから到底翁は無事に此所を立去る譯には行かぬ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十七 陷穽《おとしあな》 五 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 眞に白翁が警察を恐れる身分とせば、彼れは到底逃れる工夫は無い、 手鳴田《てなるだ》の手で運が盡きるか、 警察の手で運が盡きるか、何方《どつち》にしても同じ事だ 手鳴田《てなるだ》は語を繼だ『私し共は貴方を破産させやうとは云はぬ、 貴方の身代が何れほどだか知らぬけれど根こそげ取るは氣の毒だから、 二十萬法《ふらん》で我慢しませう、二十萬法《ふらん》出せば無事に娘の傍へ歸して上げます、 否《いや》だ應《おう》だと云つたとて無益ですよ、 貴方は聲を立てる事の出來ぬ身分でせう、其れでは誰も助けに來る者は有りません、 縦《よ》し又聲を立てた所で、此室からは戸外へ聞えぬから同じ事です、 尤も私し共も長く貴方と推問答は仕て居られぬ、早く返事を聞きませう、 サア二十萬法《ふらん》です、貴方に取ては僅《わづか》です、お出し成さい、お出し成さい』 白翁は返事をせぬ、直に手鳴田《てなるだ》は門八に向ひ『檢査しろ』と命じた、 門八は立て來て、白翁の衣服の衣兜《かくし》へ悉く手を入れて其中を探つたが一個の手巾《はんけち》と六圓の金が有た許りだ、 名札一枚も出ぬ、手鳴田《てなるだ》は金を手巾《はんけち》を受取て自分の衣兜《かくし》に入れ 『何が紙入さへ持て居ぬ、銀行の通帳でも有るかと思つたのに、 併しナニ、同じ事だ、斯うしませう』と云て又も白翁に向つた 『私しの言ふ通りに手紙をお書き成さい、私しの方では、 或は此樣な事かも知れぬと思ひ、其れ/\゛手筈を定めて有りますから貴方が手紙さへ書けば事が濟むのです』 云ひつゝ手鳴田《てなるだ》は、自分が無心状を書くに用ひた紙墨筆を持て來て、 白翁の前に差附け『サアお書きなさい、お書きなさい』と促がした、 白翁は何と言ふ豪膽だらう、呵々《かゝ》と笑つた『兩の腕を縛られて居る者が、 何うして手紙を書くのです』手鳴田《てなるだ》『成るほど私しが惡かつた、 門八、右の手を解て遣れ、右の手だけだよ』 直に右の手だけ解放された、手鳴田《てなるだ》は紙を廣げ、 筆に墨を含ませて翁に持たせ『サア「娘よ」と書き出すのです』 白翁は『娘よ』と一語に聊《いさゝ》か驚き、手鳴田《てなるだ》の顔を見た、 けれど書くより外は無い、默つて書いた、手鳴田《てなるだ》『直に來れ、急ぎの用事ある、 此手紙持參の人と倶《とも》に馬車に乘らは可なり、余は切に待てり、安心して來れ』 イヤ安心して來れなどゝ特別に書き入れると、何だか不安心の事でも有るかの樣に聞える、 其の一語だけは書くに及びません』流石に嘘ばかり書き慣れて居る、 用意が綿密だ、翁は口授された通りに書た、手鳴田《てなるだ》『貴方の姓名は何と云ひます』 白翁『ウルビン、ファブル』手鳴田《てなるだ》は今しも翁の衣嚢《かくし》から取出した手巾《はんけち》を出し其の隅を檢《あらた》めた、 隅にはUFと頭文字を縫てある『成る程其れに違ひ無い、ではUFと署名なさい』 翁は署名した 守安の心配は一方《ひとかた》ならぬ、扨《さて》は此の所に黒姫を連れて來るのか知らん、 姫の顔を見られるは嬉しいけれど、此 状《さま》を見せては何れほど心配させるも知れぬ、 其れのみか姫の身にも危險が及ばぬとは限らぬ、若し其の樣な事が有ては、 イヤ其れでは此の守安の一分が立たぬ、仕方が無い、 父の遺言には負《そむ》いても姫が來たなら直に蛇兵太《じやびやうた》へ合圖をせねばと、 又も床から拳銃《ピストル》を取上て來た 其うちに手鳴田《てなるだ》は手紙を状袋に入れ『サア宛名をも書きなさい』 白翁『誰の名を』手鳴田《てなるだ》『極つて居ます、那《あ》の娘《こ》の名です』 白翁『エ、那《あ》の娘《こ》』手鳴田《てなるだ》『爾です、小雲雀《こひばり》に宛てるのです』 小雲雀《こひばり》と計《ばか》りで本統の名を云はぬのが、 流石に惡人の用意である、仲間の者に一々秘密を知られては後々の不都合だ 『サア貴方の所番地は』白翁『ドミニク街十七番地』 手鳴田《てなるだ》『成るほど毎日行くヂャック寺の傍ですね、 では其番地を書き、ウルビン、ファブル留守宅にてファブル嬢と宛てれば好いのです』 白翁は其通りに上封《うはがき》を書いた、手鳴田《てなるだ》は之を受取り、 直に妻を呼び『好いか先刻言付けた通りにするのだよ、 少しでも仕損じては大變だから』妻は全權大使に任命された樣な面持で 『仕損じなど有る者かね、お前よりは私しの方が餘ッぽど氣が附くワ』と云ひ、 荒男の中の三人を引連れて出で去ッた 手紙一通を屆けるのに何の爲に荒男を三人も連れて行くのだらうと、 壁の此方《こなた》で守安は怪んだ、手鳴田《てなるだ》は凡そ二十分間が程も默ッて居た末、 終に説明する樣に翁に向ひ『念の爲め能く申して置きますが、 茲へ小雲雀《こひばり》を連れて來るのでは無いのですよ、 今の手紙で欺いて連出して馬車に乘せ、誰も知らぬ所へ隱すのですよ』 『エ、エ』と聞いて白翁は云はなんだが、守安の方が驚いた、 荒くれ男三人と牡牛の樣な女一人で、黒姫を連れ出して、 何の樣な所へ推籠るだらう、最う何うあッても蛇兵太《じやびやうた》を呼び、 ドミニク街へ走らせて、姫の連れ出されぬ中に喰止めさせねば成らぬ、 とは云へ、最う既に手遲れと成たか知らん、手鳴田《てなるだ》『今に私しの家内が歸ッて來て、 何事も旨く行たと云へば、貴方の手を解放《ときはな》して無事に貴方を歸して上げます、 貴方は明日廿萬法《ふらん》の金を持て私しの所へ來れば、金と引替に小雲雀《こひばり》を渡して上げます、 若し其の金を持て來ぬうちに私しが警官にでも捕はれば、 直に今の三人の荒男が小雲雀《こひばり》を絞殺《しめころ》す事に成て居ますから、 小雲雀《こひばり》を殺し度いなら警察へ私しを訴へるが好いのです』 全く黒姫を人質に取ッて置くのだ、守安は絶望した、 警察官に知らせては、黒姫が殺される事になるのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十八 陷穽《おとしあな》 六 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 黒姫を人質に取て置て、爾して白翁に金を出させるとは、 世に云ふ咽《のど》を握ッて背《せな》を打つ樣な慘酷な仕方である、 萬に一つも仕損じの有る筈は無い 恐らく白翁は廿萬法《ふらん》と云はれても出さずには居られまい、 命を出せと云はれても否《いや》とは云へぬ 最う黒姫は人質に取られたに違ひ無い、今頃は馬車に乘せられ、 手鳴田《てなるだ》の妻と三人の荒くれ男とに護衛せられて、 何處か盗坊《どろばう》の巣窟とも云ふ樣な恐しい場所へ、 連て行かれる道なんだらう、今夜一夜は何う有ても其恐しい場所に留置れるに極ッて居る 此樣に思ふと守安は氣が氣で無い、若し自分に廿萬法《ふらん》の金が有るなら、 壁の隙間《すきま》から投込で遣るのにと、思ふた所で無益である、 先刻 僅《わづか》な馬車賃の無い爲に黒姫の後を追ひ得なんだ程の始末だもの、 縦《よ》しや其の半分で黒姫を助ける事が出來るとしても、仕方が無いのだ、 金と云ふ話に成ては、多少に拘らず力に終へぬ、と云て警官に合圖する事も最う到底出來ぬ、 合圖すれば黒姫が殺されるのだ 白翁も辛《つら》からうが、翁よりも守安の方が腹の中の煮返る樣な思ひである、 眞に四苦八苦とは是れだらう、凡そ幾時の間、苦んだか知れぬ、 ナニ爾ほど長い時間では無いけれど長い樣に思はれた、其の中に廊下の方で足音が聞えた、 手鳴田《てなるだ》は其の邪慳な顔の滿足の笑を浮め、 白翁に向ッて『サア愈《いよい》よ貴方を解き放して歸して上げる時が來ました、 宜しいか、二十萬法《ふらん》と小雲雀《こひばり》とを引替ですよ、 其れも餘り長くては可《い》けませんから期限を極めて置きませう、左樣さ、 大負に負けて明日の晝の十二時までと、ねえ、 半日の猶豫が有れば二十萬法《ふらん》の金を銀行から引出して來るの充分でせう、 若し十二時を過ぎたなら、お金を持て來たとて駄目ですよ、 肝腎の小雲雀《こひばり》は此世には居ない事に成るのですから』 言聞せて白翁の無言《だま》て居る顔を見詰るうちに、 入口の戸を開いて此室へ躍り入ッたは手鳴田《てなるだ》の妻である 何事も旨く行た嬉しさに躍るのかと思へば爾で無い、 腹立しさに床も拔けよとばかり踏鳴すのだ、背後《うしろ》には彼の荒くれ男等も就て居る 『エ、エ、此樣な悔しい事は無い』と怒鳴る聲が室中に響いた、 確に雄牛の鳴く聲よりも以上の聲である『何うしたのだ何うしたのだ』 と手鳴田《てなるだ》は立ッた、妻『エエ悔しい、此の白髪頭に欺《だま》された、 今の番地は嘘の番地ですよ、ドミニク街十七番地にウルビン、ファブルなどと云ふ住人は無いのです、 誰に聞たとて其樣な名の人を知らぬと云ひます全くの嘘の番地と嘘の名とを書たのです』 扨《さて》は黒姫は此奴《こやつ》等の手に未だ入らぬのかと守安は聊《いさゝ》か安心したけれど、 是れで白翁の命の盡くる者と思はねば成らぬ 此の報告には手鳴田《てなるだ》も驚いた、『何だ嘘の番地』と彼れも[口|斗]《さけ》んだ、 彼れは餘りの腹立しさに、爲す所を知らぬのだ、齒を噛み鳴しつゝ室中を見廻すと、 何とか白翁を懲《こら》す工夫は爲いのかと、捜すので有らう、 頓《やが》て彼れの目は、彼の暖爐《すとーぶ》の中に、 火花の散るほど先ほどから熱して居る大鑿《おほのみ》に注ぎ、 突々《つか/\》と歩み寄ッて、其の柄に手を掛けたは、 白翁の顔か何所かと焼き爛《たゞ》らせ、場合に依ては焼殺しもせん所存だらう、 併し彼れは『イヤ待て、一應詮議した上で無ければ』と呟き、 其まゝ白翁の前なる卓子《ていぶる》の端に寄り『嘘の番地を書くなどゝ、 貴方は何處までも我々を欺き果《おほ》せる事が出來ると思ふのですか、 何の爲に嘘の番地を書きました』白翁は凛と響く樣な確かな聲で 『時を得る爲です』云ひつゝ其身を一振り、振ると見えたが、 何うしたのか彼れを縛ッて有ッた繩は切れて居る、 白翁は獅子の如く威光を以て優《ゆた》かに立上ッた、 けれど猶だ其の片足だけは繩が切れずに卓子《ていぶる》へ繋がれ居る、 繩は仲々人間の力で切る事の出來ぬ堅い麻縄で有るのに彼は何うして之を切たのだらう、 斷《きつ》て何うする積だらう、勿論再び鬪ッた所で九人の相手に叶ふ筈は無い、 同じ事を繰返すに終るのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九十九 陷穽《おとしあな》 七 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 何うして白翁は麻縄を斷《きつ》たのだらう、 幾等力が有たとて力だけで斷《き》ることの出來る樣な繩では無い、 之を切たのは殆ど神の業《わざ》とも稱す可きだ、一同の悪漢等、 只驚いて暫《しば》し顔を見合すのみで有つた 繩を斷《き》るのは、特別に其の術が有るのだ、是れは多年牢屋の中に居て、 囚人の學問を卒業した人で無くては知らぬ、白翁が繩を切たは、 其の術を心得て居たに違ひ無い、其の次第は後で分つた、 此後ち警察で取調べたとき、此家の番人が警察署へ一の參考品を差出した、 其れは此室に落て居たと云ふので、一個の二錢銅貨である、銅貨の中へ、 繩でも木でも或は鐵をでも切る鋭い刄物を隱すのが、囚人の術なんだ 見た所は一枚の銅貨だけれど、實は二枚を合せた者だ、 一枚は其の裏を摺り減し、一枚は其の表を摺り減し、 二枚ともに半枚の薄さと爲して之を合せて丁度一枚の銅貨が出來る、 其の合せ目は、上の一枚を雄旋《をねぢ》とし下の一枚を雌旋《めねぢ》として、 容易に開ぬ樣に堅密に旋合《ねぢあは》せて有る、 凡そ世に是れほど精巧な細工は少い、けれど長く牢に居る囚人の中には此細工を覺える者が隨分ある、 爾して上の一枚と下の一枚との間を抉《えぐ》り、空虚《うつろ》と爲して其の所へ時計の發條《ぜんまい》を入れて有る、 云はゞ銅貨の錫を藥品《くすりいれ》の樣に作り其の中へ凶器を隱すのだ、 時計の發條《ぜんまい》が凶器なんだ、昔しから囚人の中には、 針一本あれば歐羅巴《ようろつぱ》の何の樣な獄をでも破ると斷言した程の者も有る、 時計の發條《ぜんまい》は鍛へ拔た鐵《かね》だから、 之に刄《は》を附ければ、刄物にも鋸《のこぎり》にも鑢《やすり》にも代用が出來る、 場合に依りては人を殺すことも出來ぬとは限らぬ、 老巧な囚人に取ては凶器の上の凶器なんだ作つた凶器入なんだ、 多分白翁が此れを持て居て、先刻手紙を認《したゝ》める爲め、 右の片手を解放《ときはな》された時、何所からか取出して、 今まで密《ひそ》かに繩を切て居たのだ、手鳴田《てなるだ》の内儀が出てから卅分ほども時を經たから、 其の中に旨く切り果《おほ》せた者と見える、 但し足の綱だけは、切るには俯向《うつむか》ねば成らぬ、 俯向《うつむ》けば露見する、其れだから切り得なんだゝらう 繩を切て何うする積りだ、勿論逃る事は出來ぬ、九人を相手に鬪ふと云ふ事も出來ぬ、 見る中に白翁は股を廣げて、片手を延ばし、彼の暖爐《すとうぶ》の中に在つた火花を散るほど熱して居る大鑿《おほのみ》を取り出した、 之を高く自分の頭の上に差上げ、仁王の樣に立つて、手鳴田《てなるだ》に云ふた 『貴方は何の樣に私しを責めたとて、目的を達することは出來ません、 手紙を書けの、金を出せの、娘の居所を知せろのと、 其樣な言葉に私しを從はせようと思ふのが間違ひです、 如何なる責苦にも私しは抵抗します、其の證據をお目に掛けませう、是れ此通りです』 云ふ言葉は死を決した人の聲で有つた、靜では有るけれど、侵し難き勇氣が籠て、 凄いとも恐ろしいとも譬へ樣が無い、 此方《こつち》から窺《のぞ》いて居る守安は神經が剛《こは》ばる樣に感じた 證據とは何の樣な證據だらうと、怪む間さえも有らせず、白翁は左の手の袖口を、 肩の邊まで捲《まく》り上げ、力瘤《ちからこぶ》のある腕を現して、 其の上へ熱鐵を推當てた、アヽ何と云ふ剛膽の振舞だらう、 腕の肉は宛《あたか》も生肉の焼ける樣にバチ/\と音がして、脂を散らせ、 異様な臭気が室の中に廣がッた、餘りの事に守安は目眩《めまひ》のする樣に思ひ、 顔に兩の掌《て》を當てた 昔し片腕に火を翳《かざ》し顔の色を變なんだと云ふ羅馬の英雄の所業とても此の白翁のする事に優りはせぬだらう、 翁は神色自若である、イヤ自若たる中に、其身の搖ぐほどの苦痛は見えて居るけれど、 彼れは其れを現わさぬ、彼れの顔は、熱鐵の深く/\腕に浸み込むと共に、 赤く照り輝いた、眞に彼れの魂が彼れの顔に寫るのだらう、 殆ど神々しい所が有る、彼れは又靜に『何の樣にでも私しを苦めて御覽なさい、 爾すれば合點が行きませう、成るほど此の爺《おやぢ》は殺して了ふより外は無いと、 爾です殺しても口は利きませんから、其積りで私しを處分成さるが宜しい』 と云ひつゝ、徐《おもむ》ろに熱鐵を取はづして窓の外に投げた、 熱鐵は地上の雪の上に落ち、寒《かん》と熱との鬪ふ音が聞えた 全く白翁は此まゝ殺される積である、自分の命に代て黒姫を保護するのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百 陷穽《おとしあな》 八 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 白翁が腕に熱鐵《ねつてつ》を當てゝ居る間は、流石の悪黨等も戰慄して居た、 如何に彼等とても、人間に自分の腕を焼捨るほどの豪膽な振舞が有らうとは思はなんだ、 誰とて此の所業を見て、恐れ戰《おのゝ》かずに居られる者で無い、 全く室の中が、肉の焼ける臭気で滿ち、肉の焼ける煙で鎖《とざ》された樣に成ッた けれど白翁が其の熱鐵《ねつてつ》を投捨てた以上は、白翁の手に武器は無い、 白翁は素手である、素手で處分を待て居る『何の樣にでも私しを處分なさい』 と云ふが翁の精神なんだ、最う全く殺される覺悟で居る 悪黨等も殺す外は無いと見た、手鳴田《てなるだ》が先づ號令した 『取押《とりおさ》へろ、取押《とりおさ》へろ、相手は素手では無いか、 何を手前等は恐れるのだ』然り、相手は素手である、最う何も恐れる所は無い、 けれど恐れぬ譯に行かぬ、何故だらう、何を彼等は恐れるだらう、 吁《あゝ》、白翁の膽力を恐れるのだ、其の豪膽が彼等の氣を呑だのだ 人間の心と云ふ者は、斯うした者だ、眞に誠心が中に滿つれば、鬼神をも感動せしめる、 猛獣をも威服する、全く敵するに敵せられぬ威力が備はるのだ、 手鳴田《てなるだ》は再び叫んだ『此 爺《おやぢ》を逃したら何うする、 殺す外は無いでは無いか』此語に勵《はげ》まされて悪黨等は皆立ッた、 白翁を取圍んだ、手鳴田《てなるだ》は又勵ました『何でえ、 猶だ片足を卓子《てーぶる》へ縛ッて有るでは無いか、 暴れる事などは出來は仕ない』悪黨の中の最も命知らずな奴が兩人、 双方から白翁の肩を取押《とりおさ》へた、白翁は抵抗せぬ、 捕はれたまゝで腰を卸した『其れ見ろ、最う斷念して居るでは無いか、 殺すのは己《おれ》が殺して遣る』と手鳴田《てなるだ》は云ひ、 妻の顔を見返ッた、妻は亭主よりも殘刻である、通例女の方が此樣な場合には男よりも殘刻だ、 殊に先刻から白翁に對し骨髓に徹する程の恨を抱いて居るのだから 『爾です早くお殺し成さい、殺さねば始末の卒《お》へぬ』 と云ひつゝ卓子《てーぶる》の抽出《ひきだし》から、 刀《かたな》を取出して手鳴田《てなるだ》に渡した 茲に至ッて若し守安が、警官に合圖せねば、守安は人間で無い、 幾等我が父の神聖な遺言にもせよ、又如何なる手鳴田《てなるだ》が父の命の親にもせよ、 又合圖の爲に必然 手鳴田《てなるだ》が警官に捕はれて死刑に處せらるゝに極つて居るにせよ、 現在目の前に、善人が惡人に殺さるゝを見て、其れを見過すと云ふ事が何で人の情だらう、 何で耐《こら》へて居る事が出來るだらう、けれど守安は猶ほ躊躇した、 躊躇と云ふよりも寧《むし》ろ絶望した、何とか工夫は有るまいかと、 此際に及んでさへ猶ほ室中を見廻した 眞に天意が人道に干渉するとは此樣な時だらう、此とき、此室の机の上へ、 明るく月影は差した、晝間から雪を降らして居た空の雲が切れたのだ、 其の切れ目から洩る月が、窓を透して机の上に落ちたのだ、 守安の目に着いたは、晝間に手鳴田《てなるだ》の娘が來て樂書をして其の紙である、 紙の表には『捕吏《ほり》が來た、逃ろ、逃ろ』と書て有る、 彼の娘の境遇として當然の語では有るけれど實に天意が豫《あらか》じめ彼の娘を驅り、 今夜の此の時、此の所に用ひしむる爲め、斯る文句を認《したゝ》めさせたのかとも疑はれる、 實に不思議と云ふ可きである 直に守安は其の紙の文句を破り取り、壁の泥の塊りを取ッて之に包み、 隣りの室へ投込だ、此時 手鳴田《てなるだ》は、早や妻から人切庖丁を受取り、 最後の恐に打勝て將《まさ》に白翁の頭を切割ふとする寸秒の時であッた、 白翁は殺さるゝに決して、首《かうべ》を垂れたまゝ、見上げもせぬ、 或は焼いた腕に痛みに、自から顰《しか》む顔を、見せまじとて俯向《うつむい》て居るのかも知れぬ、 何うせ死ぬなら男らしく殺されやうと云ふのが總《すべ》て勇士の覺悟である 投込んだ紙は室の眞中に落ちて『オヤ何か落ちたよ』と云ッたは妻である 『何所から落たのだらう』と一人の悪黨が怪しめば『窓の外から誰かゞ投込だに極ッて居るワ、 其のほかに來る所は無いのだもの』と又一人が推理した、 其中に妻は拾ひ上げた『何れ見せろ、見せろ』と手鳴田《てなるだ》は、振り上げて居た刀《かたな》を卸して受け取ッて、 披《ひら》き讀んだ『大變、大變、疣子《いぼこ》が書たのだ、 疣子《いぼこ》の合圖だ、捕吏《ほり》が來た逃げろ/\と書いてある』 捕吏《ほり》と云ふ一語ほど惡人の耳に恐ろしく聞える者は無い、 宛《まる》で一同の身に電氣が掛ッた樣な者で、上を下へと混雜が初まッた、 殊に合圖の文句が、最《い》と迫を知らせる樣に書て有るのだから無理も無い、 甲『何ッ方《ち》に逃げやう』乙『窓から此の合圖が來たから窓の方へは未だ捕吏《ほり》が廻らぬのだ』 手鳴田《てなるだ》『爾だ、窓の下には疣子《いぼこ》が立て居る、此樣な時の用意に、 繩梯子まで調へて置いた己《おれ》の先見《せんけん》は豪《えら》い者だらう』 何れほど際疾《きわど》い場合でも、自慢する種さへ有れば自慢せずには能《よ》う居ぬと見える 『ソレ、繩梯子、繩梯子』とて一人が差出すを直に手鳴田《てなるだ》は窓に掛けて外に垂らし 『サア妻、來い』と妻と共に、窓から拔け出でやうとした 『爾は行かぬ』と三人の惡人が手鳴田《てなるだ》の足を引いて引戻したは、 丁度先刻白翁の逃げやうとするのを引戻したと同じ有樣である、 惡人『爾うは行かぬよ、難船すれば船長は後で逃げるのだ、サア吾々から先へ』 手鳴田《てなるだ》『己《おれ》は船長では無い、大將だ、戰爭では大將が先づ退くに極ッて居る』 惡人『旨く云ふぜ、其れなら籤《くじ》に仕やう籤《くじ》に』『籤《くじ》が好い、籤《くじ》が好い』 と四五人の口が揃ふて手鳴田《てなるだ》はは捕へられた身體を振り放さうと悶《もが》きつゝ 『馬鹿を云へ、此場合に籤《くじ》などを拵《こさ》へて居られるかい、 籤《くじ》ならば紙入へ番號を書き、其れを帽子の中へ入れて銘々に探らねば成らぬぢや無いか、 慌てゝ怒鳴る聲の未だ終らぬうちに、外から此室の戸を開き 『籤《くじ》ならば僕の帽子を貸して遣らう』と云ひつゝ入ッて來て一同の前に立た人が有る、 是は誰れ、外では無い、此者どもが兼て其顔其姿を見知て居て、 怖じ畏れて居る捕吏《ほり》の頭《かしら》、巡査監督の蛇兵太《じやびやうた》である、 ヲヤ又オヤ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百一 陷穽《おとしあな》 九 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 蛇兵太《じやびやうた》の姿を見て、室の中の誰れ一人、驚かぬは無い、 唯だ白翁のみは是れで自分の助かるのを喜ぶ可きであるのに、 翁も惡人等と同樣に驚く心が其顔に現はれた 併し蛇兵太《じやびやうた》は、未だ守安から合圖もせぬのに何うして茲へ來たのだらう、 實は餘《あん》まり合圖が遲いから待兼ねて遣て來たのだ、彼れは宵の程から、 塀の間や、庇の陰などに手下を伏せ、自分も人目に着かぬ所へ忍んで居て、 此家へ惡人等の出入する状《さま》や、馬車の行きつ戻りつする事などを見た、 勿論 斯様《かやう》な事には慣れた眼《まなこ》だから、 大抵は中の容子を察し、最早や合圖の有る頃と幾度《いくたび》も思ッたけれど、 其の合圖が無いので、先づ外を見廻ッて、町の角を見張て居る一人の娘を捕へた、 之れえは手鳴田《てなるだ》の妹娘である、姉娘の方は、 何所へか行て其場所に居無かッたので捕へ得なんだ 其れから又 暫《しばら》く容子を見て、最早や合圖が無くとも捨置き難いと思ひ、 先刻守安に預ッた鍵で以て、入口の戸を開いて登ッて來たのだ、 實に危機一髪と云ふ所へ着いた 彼れの姿を見て、室中の悪漢等は混雜の上に混雜を重ねた、勿論第一に彼れに抵抗しやうとした、 警官を叩き殺して置いて逃失せるのは惡人等に有がちの事なんだ、 かれど其手に乘る樣な蛇兵太《じやびやうた》では無い、 彼れは先づ雷の樣な聲で叫んだ『抵抗すれば罪が重いぞ、 #[原文:叩んだ] 汝等に三倍する手下が己《おれ》の背後《うしろ》には附て居るから』 孰《いづ》れも惡事の苦勞人だから手下の數の多いのを見て、 直に鎭《しづま》りはしたけれど、手鳴田《てなるだ》と其妻とは容易に鎭《しづま》らなんだ、 今捕はれては首謀の廉《かど》で重い重い刑に處せられると云ふ恐れが有るから、 亭主は短銃《ピストル》を持て、妻は何かの重しの爲に此室に在ッた大きな石を振上げて、 共に最後まで戰ふ勇氣を示したけれど全く蟷螂《たうろう》の斧であッた、 少しの間に二人とも取押《とりおさ》へられて了ッた 悪漢どもは初めから顔に墨を塗たり、假面《めん》を被ッたりして居たけれど、 蛇兵太《じやびやうた》の眼力には敵し得なんだ、 蛇兵太《じやびやうた》は宛《あたか》も開いた本を讀む樣に一々彼等の名を呼んで、 次に卓子《てーぶる》に繋がれて居る白翁を顧みた、白翁は首《かうべ》を垂れて居る、 誰にも其顔は見えぬ、蛇兵太《じやびやうた》は手下に向ひ 『早く彼の紳士の繩を解いて上げぬか』と促がした、直に手下が白翁の足の繩を解いて遣ッた 此場で蛇兵太《じやびやうた》は、直に現場の報告書を作らねば成らぬ、 其れが彼れの職務である、別に詳細を認《したゝ》める事は出來ぬけれど大凡《おほよそ》を書記すのだ、 彼れは手帳を取出し忙しく書き初めたが、頓《やが》て書終ッて 『サア、被害の紳士、定めし御迷惑で有たでせう、最う此通り悪漢一同を捕縛したから大丈夫です、 此者等が貴方に何の樣な暴行を加へたか詳しく伺ひませう』と云ひつゝ白翁の方を向いた 個はそも如何に、白翁の姿は消えて了つた、此室の何處にも見えぬ、 寢臺《ねだい》の下にも、卓子《てーぶる》の下にも、 ハテ何所へ行たのだらう、手下の警官等も惡人を捕へる方に氣を取れて被害者の方へは目を附けなんだ、 被害者が消えて了ふなど云ふ例《ためし》は餘り無い事だから無理も無い 全く白翁は何うしたのだらう、彼れは自分の足の繩が解かれると童子等に、窓に行き、 今しも手鳴田《てなるだ》の掛けた繩梯子を傳ひ、立去て了つたのだ、 蛇兵太《じやびやうた》は怪んで『戸口から立去る筈は無いが』と呟き、 直に窓の所へ顔を出した、窓には猶だ繩梯子が搖《ゆら/\》と動いて居る、 唯《た》ッた今去た事が之で分る、蛇兵太《じやびやうた》は氣が附いた 『エヽ殘念、貴様等の樣な馬鹿な惡人より、逃げた被害者の方が大切な獲物で有ッたかも知れん』と云ッた 彼れは逃去た此の被害者が誰であるかと云ふ事は未だ知らぬ、 若し彼れが幾年も附け狙ッて居る戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》で有たと知たなら、 彼は今でも其後を追掛ける程にするだらう 此の被害者が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》である事は、今更斷る迄も無く讀者の推《すゐ》して居る所である、 白翁は即ち戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》で、黒姫は小雪なんだ、 世の中と云ふ者は、偶然であるか神の業《わざ》であるか知らぬけれど、 妙に絲が搦《から》まッて居る者である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二 町の子 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 斯の如くに白翁は逃れ、斯の如くに手鳴田《てなるだ》等一同の惡人は捕はれた 此翌日の晩である、寒い雪解の風に吹かれ、薄い襤褸《ぼろ/\》の着物を被《き》て、 乞食の兒と思はれる十一二の小僧が、此の家の戸を叩いた、 家番の老女は昨夜の騒ぎに恐れ、少しばかり戸を開いて見ると、 小僧『阿父《ちやん》は居るかえ』と問ふた アヽ此小僧は手鳴田《てなるだ》の息子である、阿父《ちやん》とは手鳴田《てなるだ》の事を云ふのだ、 老女『お前の親父は夜前《やぜん》捕まッて牢へ入れられた』小僧は悲む容子も無く 『阿父《ちやん》が牢へ、面白いなア、阿母《おつかあ》は』 老女『阿母《おつかあ》も一緒に捕はれた、女だけに別の牢へ今頃は入れられて居るだらう』 小僧『阿母《おつかあ》もか、驚いたなア、其れでも姉《ねえや》だけ殘ッて居るんだな』 老女『娘二人も捕ッたよ、早《も》う此家には誰も居ぬ、お前が戸を叩く用事は無いのだ』 邪慳に言渡されて、小僧『オヤ、オヤ』と云つたのみだ、 別に未[糸|柬;uFA57]の容子も無く、唯だ寒風《さむかぜ》に向ッて、 聲を限りに乞食仲間の歌を唱《うた》ひつゝ、身を震はして走り去ッた、 多分は何所かの橋の下へでも行たのだらう 讀者は記憶して居る筈である、手鳴田《てなるだ》に疣子《いぼこ》痣子《あざこ》の下に男の子の有た事を、 けれど其子は邪慳な母の懷《ふところ》よりも町の甃石《しきいし》が温いと云ひ、 家に寄附くことは稀で、多くは町で寢起した、何を拾ッて食て居るか、 饑《うゑ》もせぬ、饑《うゑ》ても大人の樣に嘆きはせぬ、 走り廻るのと歌を唱《うた》ふのが其身の仕事で、 凍えても歌ひ、饑ても走るのだ、丁度林には林特別の鳥が居る樣に、 巴里《ぱりー》の町には巴里《ぱりー》の町に特別な子供が居る、 此の小僧が其の一人なんだ、之を『町の子』と稱す可きだらう、 此の小僧の名は三郎と云ふのだ、能く活て居るのが不思議では有るけれど、 當人は屈托を知らぬ、林の鳥の樣に唯だ面白く暮して居る 實に憐む可き限りである、けれど子供ほど呑氣な面白い者は無い、 唯だ物心を覺るに至ッて初めて不平が出て來るのだ、 初て眞の艱難を感ずる事になるのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三 十七八の娘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 其れは扨置《さてお》き、彼の守安は手鳴田《てなるだ》等の引立られて行た後に、 暫《しば》しが程は何の思案も出ぬほどに心が騒ぎ、自分の室《へや》に自分の身が落着ぬ樣に感じたから、 其まゝ外に出、兼て親密にする彼の『友のABC[誤?:ABCの友]』の会員 近平《ちかひら》某《ぼう》と云ふ者の宿に行き一夜を明した 若し元の宿に居ては、此のち警察署や裁判所の證人として呼出され、 自然に父の遺言に負《そむ》いて手鳴田《てなるだ》の不利益となる樣な事も言立てねば成らぬから、 彼等の裁判の落着するまで成る可く警察などへ自分の居所を知らさぬが好からうと思ひ、 翌朝直に少しの金を才覺し、元の宿に行て拂ひを濟ませ、 僅《わづか》ばかりの荷物を引取ッて來て、近平某と同宿する事にした 斯う身體が落着くと昨夜の事が益《ますま》す心に浮んで來る、 自分は確に手鳴田《てなるだ》を助けねば成らぬ義務が有るのに、 此まゝ知らぬ顏で居て濟むだらうか、イヤ決して濟まぬ、 若し父の靈が彼の世から自分の此 状《さま》を見れば、 親の遺言を能く守らぬ不埒な奴と此身を責るの違ひない、 併し今と爲ては仕方が無いから、切《せ》めては牢の中の手鳴田《てなるだ》へ、 月々小使でも差入て遣らうと、斯う思て此後は、 苦い中から毎月五圓づゝを、缺さずに差入れた、但し嚴重に自分の名を隱したから、 定めて手鳴田《てなるだ》は牢の中で、何處の阿呆が此樣な事をするかと怪んだゞらう けれど是よりは猶ほ氣に掛るは白翁と黒姫の事である、 惡人どもに取圍まれた時の白翁の勇氣と擧動とは實に感心の外は無いが、 唯だ其の最後に、警官の姿を見て、窓から逃去たのは何の爲だらう、 餘ほど警察を恐れねば成らぬ樣な身の上か知らん、 爾うとすれば黒姫の身の上も或は安心の出來ぬ樣な場合が多いでは有るまいか、 何にしても黒姫の居る所を探し出さねば成らぬ 今までとても守安が黒姫の爲に思煩らふたは、一方《ひとかた》ならぬ状《さま》で有たが、 是よりは又 一入《ひとしほ》を加へた、彼れは全く痩衰へ、 同宿の近平からも怪まれる程になッた、けれど何の目當《めあて》も無い尋ね者だから、 事に依れば生涯を空しく黒姫の跡を尋ねるに費さねば成らぬかも知れぬ、 彼れは全く其れを厭《いと》はぬ、心の底で其れほどの覺悟で居る 彼れは毎日家を出て、町中を尋ねて歩く、曾《かつ》て黒姫に逢つた公園にも行く、 黒姫の元の住居《すまゐ》の邊をも徘徊する、 凡そ若い戀人が戀人を尋ぬるに盡す丈けの愚かな手段を盡し盡した、 爾して彼れの其間に立ち寄る家とては、唯だ眞部老人の許《もと》のみである、 此の老人は昔し我が父が餘所《よそ》ながら此の身の姿を垣間見んとて故々《わざ/\》巴里《ぱり》の教會堂の庭へ忍で來た頃に、 其教會堂に居て父の姿を見、其のち父の事を此身に知らせて呉れた人である、 此人既に八十一歳の高齡では有るけれど守安の如き少年と懇意の續いて居るのは双方ともに貧乏な爲である、 貧乏と貧乏とは話が合ふ、併し八十を臺にした人の貧乏は二十を臺にした人の貧乏より辛《つら》いだらう、 其の辛さが氣の毒だから守安は、助ける事も出來ぬけれど立寄て、 未だ老人が首を縊《くゝ》らずに居るのを見屆けて安心する程の次第だ 或時彼は老人から聞た『昨夜、茲へ來て貴方の今の住居《すまゐ》を聞た人が有りましたよ』と、 餘り不思議だ、猶だ世の中に此の守安の事を氣に掛て居る人が有るか知《しら》ん、 守安『何の樣な人でした』老人『夕方で老眼には能くも見えませんが、 十七八の女かと思はれました』守安『エ、姿は能く見えずとも聲は聞えたでせう』 老人『聲は却て男かと思はれる樣に濁つた聲でした』少しも分らぬ、 聲の濁ッた女とは、イヤ縦《よ》し聲の爽《さはや》かな女とても守安を尋ねる筈は無い、 老人『私しは知らぬと答へました』 此又翌日である、守安は當も無く町を徘徊した末に、但有《とあ》る廣小路の樹の影に息《いこ》ふて居た、 忽ち背後《うしろ》から、濁ッた聲が聞えた『アヽ、到頭見附かッた、守安さん、守安さん』 驚いて振向くと、十七八の娘である、娘とは名ばかりで、實は見る陰も無い乞食だ、 守安は目に角を立てたが、能く見れば手鳴田《てなるだ》の娘、確か疣子《いぼこ》と云たのだ、 多分は町に寢、風に吹かれ、咽喉《のど》を破た者だらう男の樣な聲である、 疣子《いぼこ》『其樣な剛《こは》い顏をするに及びませんよ、 貴方は私しに、捜し物を頼だ事を忘れましたか』守安『エ、私しが捜し物を、貴女《あなた》に』 疣子《いぼこ》『頼だでは有りませんか、是れが分れば、私しの云ふ通りのお禮をするとて』 守安『アヽ』疣子《いぼこ》『ソレ白髪頭の慈善紳士に連れられて居た美人の所番地をさ』 守安は神の聲にでも接した樣に感じた『エ、其の所番地が分りましたか』 疣子《いぼこ》『分つたから知らせて上げるのです、私しは信切でせう』 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四 私しと一緒 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 本統に黒姫の居る所が分つたゞらうか、分つたと聞た守安の喜びは、譬ふるに物も無い 今まで彼れは、唯だ黒姫を思ふが爲のみに活て居た樣な者で有る、彼れの命に、 黒姫を思はぬ時間とては無かつた、彼れは自分が思ふのみで無く、 黒姫の方も自分を思ふて居ると信じて居る、公園地で見交した眼と眼とが、 唯だ自分の心底に徹したのみで無く、確に黒姫の心底にも徹した、 唯だ寸秒の間で有つたとは云へ、黒姫の心の奥の奥までも自分の心に見えた樣に、 自分の心の奥の奥まで黒姫に見えたに違ひ無い、互の心が同じ時に、 同じ樣に開かねば、是ほど深い感動の何時までも殘つて居る筈は無い、 殘つて居る上に、一日一日に力が強くなつて來るのだ 彼れは、目を閉ぢても黒姫の顏が見える、本を開けば文字の表に黒姫の姿が有る、 筆を取れば黒姫に對する自分の思ひを書かずには居られぬ、彼れの手帳は、 自分の心の痛みから湧て出た文句で滿ち/\て居る 斯る有樣だから、疣子《いぼこ》の言葉に度を失ふほど喜んだも無理は無い 『全くですか、全くですか』と彼れは忙しく念を推した、疣子《いぼこ》の方は、 守安の斯る熱心が餘り嬉しくは無い『餘《あん》まり貴方が喜ぶと教へて上げませんよ』と云ふた、 實を云へば是が疣子《いぼこ》の眞情である、何でも守安に教へると決心して居る譯では無い、 成る可くは秘めて置いて、容子に由ては教へやうかと唯だ是れくらゐに思ふて居たのだ、 けれど不意に守安を見た嬉しさだか驚きだかの餘りに、思はず云ふて了ッたのだ 『何所ですか、何うか知せて下さい、何の樣なお禮でも仕ますから』と守安は疊み掛けた、 最う掛引などする裕《ゆと》りが心に無いのだ、疣子《いぼこ》『所番地と云ッて、 私しは番地まで覺えては居ませんが、私しと一緒に來れば此家だと教へて上げます、 美人も白髪頭の爺さんも居ますから』守安『行ませう、一緒に行きませう』 『オヤ、其れほど嬉いのですか』と、殆ど恨めしげに呟いて疣子は先に立ッた、 守安はフト思ふた、若し此娘が父や父の仲間等に黒姫の住家《すみか》を教へる樣な事は有ては大變だと、 直に疣子の肩に手を當て、嚴《おごそ》かに『疣子さん』 疣子は振向て嬉しげである『私しを疣子さんと呼んで下さる、毎《いつ》も其樣だと好いけれど』 守安『疣子さん、私しに知せて呉れるは好いが、決して外の人に知せては可《いけ》ませんよ、 何うか誰にも知さぬと約束して下さい』疣子『オヤ,大層な御用心ですねえ』 守安『餘計な事は云はずと約束なさい』疣子『其れには及びませんよ、誰も貴方ほど熱心に??』 守安『イエ及びます、約束して貰はねば成りませ、取分けて貴方の阿父《おとつ》さんなどには知らさぬと』 疣子『父は牢に居ますもの、知らせ度くても』守安『其れでも好いから約束なさい』 疣子『濕濃《しつこ》い事ねえ、約束すれば何うして呉れます』 守安『貴女《あなた》の望む通りに何の樣なお禮でも』 疣子『では約束しますよ、父にも誰にも云ひはしません』 疣子が何の樣に此約束を守たかは後に分る、 守安は直に財布を探り一個しか無い五法《ふらん》の金貨を出して疣子に與へた、 疣子は今の境涯では命にも比す可き金額では有るけれど、投捨る樣に推返して 『此樣な者を、貴方から貰ひ度くは有りませんよ』と言切ッた 此樣に守安が尋ねて居る間に、小雪と戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は何處に何の樣な事をして居るのか [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百五 愛 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 小雪と戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は、何處に何の樣な事をして居るやら 戎《ぢやん》が尼寺の庭男と爲り、小雪が尼寺の寄宿寮に入た迄は既に記した 其の後、庭男の一人、彼の星部父老が病死した、戎《ぢやん》は其れを機《しほ》にして尼寺を出た 何故《なにゆゑ》と云へば實は小雪の爲を思ふてゞ有た、尼寺に居れば安樂は安樂である、 再び蛇兵太《じやびやうた》や法律やに窘《いじ》められる恐れは無い、 けれど小雪を尼にすると云ふ事が何うも戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の腑に落ちなんだ 尼と云へば身を以て神に捧げる神聖な職業だから、其の頃の風俗で云へば賞《ほ》む可きで有る、 小雪を尼にするのは出世させる樣な者だ、少くとも生涯を安樂に送らせて遣るのだ、 けれど戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は、其れは出來なんだ、 人情の弱點が有ッたのだ、若し尼寺を出れば再び何の樣な目に逢ふ事と爲るも知れぬ、 けれど構はぬ、兎も角も小雪を尼とする事は出來ぬ 若しも小雪が物心の附く年頃と爲り、 其身が尼とせられた事を悔る樣にも成らば其時は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》を恨むかも知れぬ、 何故《なにゆゑ》に一通り世間を見せて呉れなんだゞらう、 何故《なにゆゑ》に世間並の女の子の樣に、世間へ出して此身を育てゝ呉れなんだゞらうと、 戎《ぢやん》は其れは辛いのだ、小雪に恨まれはせぬかとの心配が何よりも強いのだ、 戎《ぢやん》は小雪を愛するのだ *    *    *    *    *    *    * ブルメーと云ふ町に廣い庭を控へて靜な家が有る、之は昔し、 紳士が外妾《かこひもの》を持つことの流行た頃、或る顯官《けんくわん》が美人を圍ッて置く爲めに建てたので通例の家とは違ふ、 秘密に出入することに便利な樣に出來て居る、表の町から裏の町まで突拔けて、 出入口が双方に在る、目には立たぬが中は廣い、其後、住み荒して今は庭木なども根こぎにして賣拂ひ、 廣い庭も切り賣りして殆ど昔の面影は無いけれど、其れでも住《すま》ふに差支へは無い、 唯だ淋しいのみである、戎は尼寺を出て茲を借りた、名は星部勇助と稱して居る、 彼れの手巾《はんけち》にFの字とUの字の附て居たのも之が爲なんだ けれど彼れは世を忍ぶ身だから、此外に猶も別に宿を二ヶ所定めた、二ヶ所ともに餘ほど掛け離れて居る、 都合三ヶ所、一月ほどづゝ住み分ける事にして居るが併し此のブルメー街が先づ彼れの本宅だ、 彼れと小雪は最も多く茲に居る 人と人と、淋しい所に淋しく暮して居れば、自然と其間に愛を生ずる、 況《ま》して小雪と戎との間は初から親子にも優る程の關係だから親密の益《ますま》す加はるは當然だ、 小雪は猶だ小供も同樣だから、唯だ無邪氣なばかりで、別に斯うと取分けて云ふ程の心持も無いのだらうけれど、 戎の方は唯だ日に増して小雪の可愛さが深くなる 彼れは最う六十に手が屆いた、けれど身體も心も若い、 頭こそ此世に又と無い程の大艱難の爲に全くの白髪と爲ッて居れど、 氣持には小供の樣な所も有る、又聖人の樣な所も有る、 彼れは決して貧乏人の難儀を見過す事は出來ぬ、 外へ出るには必ず貧民に惠む爲の小銀貨を別に用意して行く、 自分の爲と云ふ考へが一個《ひとつ》も無い、神の爲め人の爲め社會の爲と云ふのが一切の考へだ、 彼れは眞正の善人に成て了ッた、自分では未だ善人に成り足りぬと思ひ、 何うか此上にも善人に成り度いと心掛けて居る、其れだのに社會は未だ彼れを許さぬ、 嗚呼何と云ふ邪慳な世の中だらう、彼れの心には未だ一點の安心が無い、 何時捕はれて、再び暗い牢の中へ引戻されるかも知らぬ、 彼れは其れも用意して居る、今でも實は、殆ど牢の中に居る積りで、 貧民の外は喰はぬ樣な黒い粗末な麪《ぱん》を喰べて水を呑んで居る、 けれど小雪が怪しんで『阿父《おとう》さん何で其樣な麪《ぱん》を喰べるの、 貴方が其れなら私しも其れを喰べます』と云ふが爲め、 止むを得ず小雪の前では白い麪《ぱん》を喰べる 此の樣な悟つた人でも、唯だ悟り切れぬが小雪の有る爲である、 彼れの身は小雪の愛に溺れて居る、彼れは小雪と共にさへ居れば何の樣な苦痛でも嬉しく感ずる、 彼れは過去つた我が生涯を顧みて、少しも嬉しかつたと云ふ事は無いが、 今だけは嬉しいのだ、自分の踵《きびす》には恐しい警察が附て居ても、 自分の前に小雪が居れば其れが極樂だ、彼れは全く思ふた、 到頭今までの艱難が報られる時が來た、天が此身に小雪を與へたのは、 最う此身を救ふて下さるのだ、此身は小雪に救はれるのだ 抑《そもそ》も此樣な愛は、何と云ふ愛だらう、親子の愛だらうか、 イヤ親子の愛よりも更に深い、戎と小雪とは親子で無い、 血筋を云へば他人も他人、全くの由縁《ゆかり》無しだ、 其れでは戀人の愛だらうか、戎は此年に至るまで女の愛と云ふ者を知らぬ、 けれど木石では無い、天然に愛の芽生を授けられて居る譯では無い、 唯だ其の愛が芽を吹く時が來なんだのだ、時を得ぬ爲め潜んで居たのだ、 枯れて了ひはせなんだのだ、此樣の境遇だもの、 今に至ッて其の芽が自づから伸びて來るとも怪むには足らぬ、 併し彼れの愛は其の芽の伸びて來た者だらうか、其れは誰も知らぬ、 彼れ自身も知らぬ、知らぬけれど、彼れが小雪を愛するのは殆ど嫉妬を以て愛するかと思はれる程に深い、 唯だ嫉妬す可き種が無いのだ、種が無いから唯だ圓滿に、唯だ深く愛するのみだ 圓滿が何時までも圓滿に續くだらうか、斯くは愛せらるゝ中に小雪は徐々《そろ/\》と人と爲つた、 花ならば雨露《うろ》の惠みに徐々《しづ/\》と莟《つぼみ》を持ち、 一夜の中に開くと云ふ迄の用意が出來たのだ、實に小雪の開いたのは唯だ一夜の間で有つた、 人が驚いたのみで無い、小雪自からも驚いた、或る朝、小雪は鏡を見た、 今まで自分の顏が美しいとは思はなんだ、醜いとか美しいとか云ふ事は少しも其心に無かつたけれど、 境涯が境涯だから醜い事と思つて居た、けれど鏡に寫つた其の顏が、 何だか見違へる樣に美しく見えた、美しさは自分の愛する人形の顏で知て居る、 小雪は思はず叫んだ『オヤ、オヤ』と、今までは此樣に鏡の中で我顏を眺めたことが無かつた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百六 愛 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 何うして我顏が此樣に美しくなッたゞらう、小雪は鏡に對して怪んだ 怪むばかりで此時は、別に嬉しいとは思はなんだ、思はぬのでは無い、 嬉しい心の芽生が腹の底に萌掛けて居るけれど未だ自分に分らなんだのだ、 是れまでは鏡を見る事とては稀で有ッた、殆ど一月に一度か二度、 其れも見る積で見るのでは無く、唯だ偶然に、鏡の前に立つが爲に、 顏の映るのを認めたのだ 頓《やが》て此日は暮れ、寢る刻限に及んで、何だか鏡の中を窺《のぞ》いて見たい樣な氣がした、 是れ丈けが早や心に嬉しさの兆《きざ》して居る證據だらう、 けれど見ずに寢《い》ねた、明日《あした》の朝の樂みに取て置かうと云ふ樣に感じた、 誠に罪の無い樂みである 翌朝は、忘れずに鏡を向ふた、ハテ何うしたのだらう、昨日の朝見た時ほどは、 我が顏が美しく無い 美と云ふ者は不思議な者だ、取分けて顏の美は最も不思議だ、心の持方で、 現れる時が有る、現はれぬ時が有る、其れに樂んで待設けて居た心で見るから、 美しくても美しいとの感じが少いのだ、小雪は聊《いさゝ》か失望した 昨日《きのふ》美しいと思ふた時に、別に喜びはせなんだ樣だ、 けれど今朝美しく無いと思ふて失望を感ずるのは、 其れだけ昨日嬉しかッたが爲であるのだ けれど失望と云ても纔《わづか》である、最う再び鏡を見ぬと決心する程では無い、 却ッて益《ますま》す鏡を見たい心地がする、此のちは毎朝見た、 見る度に美しさが優ッて來る、或時は人形を懷いて自分の顏と見比べて見た、 少しも自分の顏が劣りはせぬ 人の目には何と見えぬだらう、何故美しいと云ふて呉れる人が無いのだらうと、 此樣に怪む心さへ起る程とは成ッたが、併し其の怪みは長く無かッた、 外に出ると振向て見る人さへ有る、『美しい娘だなア』と呟く聲の聞えた、 イヤ聞える樣な氣のした事も有る、其れに又或日の事、 我家の庭に逍遙そて居ると彼方の葎《むぐら》の蔭で、 家の老女が小雪の父に語ッて居る聲が聞えた 『旦那樣、貴方はお氣が附きませんか、此頃、嬢樣の美しくお成り成ッた事は何でせう、 朝など臺所へ出てお出でに成りますと、宛《まる》で見違へる樣に思ふ事も有りますよ』 ??アヽ、見える、見える、人の目にも美しく見えるのだ、 鏡が此身を欺くのでは無い、全く此身が美しくなッたのだ?? 是れが若し嬉しく無くば小雪は女では無いのだ、 自分の顏の美しいと云ふ事など女に取て嬉しい事が有るだらうか、 イヤ女のみで無い、男でも嬉しいのだ、況《ま》して若い身だもの、 縦《よ》しんば四十づら提《さ》げた男さへコスメチックに浮身をやつすのが有るでは無いか 殆ど小雪は、老女の言葉に、雀躍《こをどり》もしたい程に嬉しかッた、 けれど父 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は爾うで無かッた、彼れは老女に言はれる迄も無く、 夙《とう》に、夙《とう》に、小雪のメッキリ美しく爲たのを氣附いて居た、 夕方は朝よりも美しく、今朝《けふ》は昨日《きのふ》よりも美しく、 一日々々に一刻々々に、其の美の育つのが、彼れの目には暈《まぶ》しい程に感ぜられたのだ、 けれど彼れは誰にも云はなんだ、云ふ可き相手が無かつたのだ、 相手が有ッても云ふのが恐しかつた 彼れは女の美が何かと云ふ事を、此年に成ッても未だ知らぬ、 女の美に何れほどの力が有るかと云ふ事は殊に知らぬ、 知らぬけれど今は其の美を感じ、其の美の力を感じ、 自ら爭ふ事が出來ぬ樣に覺えた、アヽ美は禍《わざはひ》である 何故《なにゆゑ》か知らぬけれど戎は、小雪の美を禍《わざはひ》の樣に恐れ、 竊《ひそか》に心を惱して居た、今老女の言葉を聞て、殆ど顏の色を變へた 幾等恐れたとて天然に逆ふことは出來ぬ、戎の恐れに引替へて小雪は身の持方までも全く變つた、 今までは木綿の布子でも、新しくさへ有れば晴着だと思て居た、 今は爾うでは無い、絹物を着《つ》け度い 同じ庭の中を散歩するにも、自分で女皇の散歩をする樣な氣がして、 萬物が其身を仰ぎ見るかと疑ふた、自然に趣きの有る態度が備つて來る 帽子も羽毛を飾つたのが欲しい、靴も踵《きびす》の小いのが欲しい、 素《もと》より戎は、小雪の望みと云へば何一つ拒むことが出來ぬ、 心の底には深い苦痛を感じながらも、請はるゝが儘に買て與へた、 少の間に小雪は化粧の術をも知つた、流行が何かと云ふ事も知つた、 着物の被《き》こなしをも知つた、道を歩めば誰とて振向て見ぬ事は出來ぬほどに爲つた 是れが戎の爲には苦痛の種なんだ、人の振向て見る樣に成つたのが辛いのだ、 人の注意を引くが爲に、自分の前進が自然と露見する事に至りはせぬかと氣遣ふのみでは無い、 其の外に辛い/\所が有る、茲が即ち誠の親と、假の親との違ふ所である、 誠の親ならば、我が娘が育てば育つだけ嬉しい、假の親は爾うと極らぬ 勿論戎が小雪を愛することは誠の親よりも深い、深いだけに猶ほ更ら辛いのだ、 小雪の育つは嬉しくても、其の美しさを見れば、人に小雪を奪はれる時が近づくのだとの感じが、 蟲の知らせる如く胸に浮ぶ、其の度に戎は心の底に得も云へぬ、 痛を覺えるのだ、幾年月の艱難辛苦で、我が老後を安かにせんが爲め育てた小雪が、 我が身に取りて一刻も無くては叶はぬほどの親みを加へた今と爲り、 他の人に奪はるゝか、是れこそは神が我身に與へた最後の慰謝だと思て居たのに、 其れが若し、人の物とも成り、此身よりも更に親む可き人が出來て、 其人に奪ひ去らるゝ事にも成らば、初から何の慰謝をも與へられなんだよりも辛い、 老《おい》の身に回復の手段も無い打撃である、其身は絶望の谷底に投込まれて、 浮ぶ時とては來ぬのだ 戎が此樣に心配を初めた頃である、レキゼンブルの公園で小雪と守安とが眼と眼とを見交すに至つたのは…… [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百七 愛 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 守安に逢ふた頃の小雪の心は、實を云へば同情に饑《う》えて居た 此上無く戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に愛せられ、 何不足無き身の上とは云へ、人は毎《いつ》も同じ年頃の人が戀しい、 若い者は若い者に交り度い 何故《なにゆゑ》と問へば自分でも證明《ときあか》す事は出來ぬが、 只だ何と無く物足らぬ、浮いた心では無いけれど、同じ年頃の人を見れば、 自然に自分の心が開き、目に見えぬ絲で引寄せられる樣に、又引寄せ度い樣に感ずるのだ 小雪の守安を見たのは斯樣な時で有ッた、小雪の容貌が育たのみで無く心も此の樣に育ッたのだ、 今までは父と思ふて居る戎の傍にさへ居れば、他の誰の顏をも見たいとも思はなんだ、 今は爾で無い、誰かの顏を見たい、誰か同じ年頃の人に逢ひ、打解けて語り度い、 斯うなるのが天性である、天性の此樣に傾き掛けて居る所へ、守安の姿が投じたのだ、 丁度露を待て居る花の莟《つぼみ》に春雨の注いだ樣な者だ、 開かずに居られる筈は無い、守安の心が動た樣に小雪の心も動いた、 小雪の姿を見ねば守安の心が打欝《うちふさ》ぐ樣に、 小雪の心も守安の姿が見えねば打欝《うちふさ》ぐ事になッた、 爾して一たび眼と眼を見交して後は、丁度守安自ら小雪の心を斯だらうと察する事の出來る樣に、 小雪も守安の心を讀む事が出來る如く感じた、詰る所、心と心とが全く往通《ゆきかよ》ひ、 照し合ふ事に成つたのだ 戎の方は爾うと迄は思ひ得ぬ、けれど何だか書生風の男が小雪に附纒ふに心附た、 爾無きだに小雪の日増に美しく成り行くを恐ろしい事の樣に思ひ一方《ひとかた》ならず心配して居た際だから、 若しや此の男が後々小雪の心を奪ふ事に成りはせぬかと疑ふた、 既に奪はれて居るとまで知らぬのが彼れの切《せめ》てもの幸ひだ、 イヤ却つて不幸かも知れぬ、其れから氣を附けて見ると、 其男が單に小雪を見る爲にのみ公園へ來る事も分り、 猶ほ小雪の後を尾《つ》けて宿の邊へまで來て徘徊して居る事も分ッた 此時は戎が、第二の住居とする下宿屋に居る頃であッた、 其れから何の樣に其の宿を引拂ひ守安を失望させたかは讀者の知る所である *    *    *    *    *    *    * 戎と小雪との間は、此後も此前も上部《うはべ》には大して變ッた所は無い、 相變らず親密な親子であるけれど内心は爾うは行かぬ、小雪の心には父よりも心を引かるゝ人が出來た、 唯だ隱して居るに止るのだ、戎の心には一種の疑ひが兆《きざ》した、是れも只だ隱して居る けれど隱すだけ益《ますま》す辛い、小雪は何と無う陰氣になッた、 戎が機嫌を取れば今までの通りに笑ひはするけれど、其の笑ひの何所かに誠の嬉しさで無い所が有る、 小雪が笑へば戎は喜ぶ、全く心底から喜ぶのだ、唯だ其の喜びが長く續かぬ、 今まで彼れは餘り打欝《うちふさ》ぐなどゝ云ふ事は無かッたのに、 今は其れが有る、時々は自分で自分の心を慰め兼る容子で、 獨り散歩に出て夜の更《ふけ》るまで歸らぬ事も有る、 彼の斯る心中は誰も察する者が無い、打明ける相手も無い 唯だ小雪の手を引て外へ出るのは、朝の間だけだ、 ヂャック寺の朝の説法を聞きに行き、其の途《みち》で貧民に金を遣るのだ、 是れだけは彼れが何の樣な事が有ても止め得ぬ所である、 此樣にして居る中に彼の手鳴田《てなるだ》の『陷穴《おとしあな》』の一條が起ッた、 戎は全く九死の中に一生を得、蛇兵太《じやびやうた》にも捕まらずに逃歸る事が出來た 其の翌日から彼れは、腕の焼傷《やけど》の爲に病人の状《さま》と爲り臥床《ふしど》に就いた、 何うして焼傷《やけど》したかは小雪にも語らぬ、 彼れの全快までには凡そ三十日ほど掛ッたが、其の間小雪が戎を介抱したことは、 餘ほどの孝女で無ければ眞似も出來ぬ程であッた、 藥から食事から繃帶までも自分で引受け、時々は歌をも唱《うた》ひ、 樂をも奏して戎を慰めた戎は自ら呟いた 『アヽ傷の御蔭で此樣な嬉しい日を送る事が出來る、手鳴田は恩人だ』 眞に病臥の三十日の間が彼れに取ては今までに無い天國であッた、 彼れは飽くまで小雪の顏を眺め、小雪の信切を受け、 小雪の優しい言葉を聞いた、けれど此傷が癒《なほ》れば何うしやうとの、 心配が折々は心に浮んだ、彼れは小雪の此の信切を受けて居る間に死に度い、 小雪の介抱の中に死ぬることが出來れば過去た幾十年の辛苦も充分の果報を得たと云ふ者だ 併し天が此の果報を彼れに許さなんだ、 彼れの生得健全な體格は纔《わづか》に三十日にして彼れを無病の人とした、 のみならず彼れの知らぬ所に、彼れの最も心を傷める事柄が熟しつゝあつた、 彼れは到底不幸の人だ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百八 庭の人影 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎は間の無く病氣が癒《なほ》ッた、身體だけは元の通りに成ッた、 併し心の病氣は何うだらう、是れは誰れも知ることが出來ぬ 或る時彼れが外出して、歸て來ぬ夜の事で有ッた、小雪は居間に籠り、 獨り思ひに沈んで居ると、庭に面した窓の下で、人の歩む樣な音が聞えた、 暫《しばら》く耳を澄すと、何だか忍び足に歩んで居る樣に思はれるので、 簾《すだれ》の隙間《すきま》から庭の面《おもて》を窺《のぞ》いて見た、 庭には月の光りは落ち、樹や草叢《くさむら》などが所々に影を爲して居るけれど、 人の居る容子は無い、更に窓を開け放して眺めたけれど、何物も目を遮ぎらぬ 扨《さて》は足音と思たのは風の音でゝも有たのかと此夜は其のまゝ忘れて了ッた、 翌夜は獨り庭に出て月に歩し、毎《いつ》も自分の場所と極めて居る樹陰に行き、 腰掛臺に息《いこ》ふて居ると、又も昨夜の樣な足音が、何所からと無く聞えた、 イヤ聞えたと云ふよりも、聞える樣な氣がしたのだ 草木の茂ッて居る所には樣々の物音が有る、枯枝が落ちても、葉が飛んでも、 或は微風が渡ッても、足音の樣に聞えぬとは限らぬ、小雪は爾う思ッて自分の心を鎭《しづ》めたけれど、 何うも怪さが消えぬから立ッて家に入る積りで其の所を去り、 樹の茂ッた所から、月の照る芝草の上に來た、自分の影が自分の前に落ちたのは別に怪くも無いが、 自分の影と並ぶ樣に、最一つ人の影が芝生の上に横はッて居る 是には驚かぬことは出來ぬ、本來小雪は臆病の質《たち》では無い、 昔し軍曹旅館に養はれた頃、山の井の水を、夜半に汲みに遣られた事なども有るのだから、 縦《よ》しや其頃の事は最う大方忘れ盡したにしても、 世間の同じ年頃の女達よりは何方《どつち》かと云へば氣の確かな方である、 けれど今、自分の影に添ふて最一つの人の影の有るには、驚いて殆ど身震した 誰から自分の背後《うしろ》に立て居るのか知らん、振向けば容易に分る事である、 けれど其の振向くが容易の事では無い、小雪の身は殆ど立ち蹙《すく》んだ 若し小雪にして、氣を落ち附けて篤《とく》と其影を見たなら、 或は誰かの姿と似て居るとまで見て取る事が出來たかも知れぬ、 其の影は男である、背の高い方である、紳士の冠る様な帽子を冠ッて居る、 けれど小雪は悉く斯る有樣を見て取り得なんだ、目には確に寫ッたけれど、 爾う一々心に留めて批評する猶豫は無かッた、暫《しばら》く蹙《すく》んだ末、 逃る樣に驅け出した、併し少し逃げて稍《や》や勇氣が回復した、 父が歸らぬ留守の間だから、若し怪い人でも入込で居れば、捕へて取糺《とりたゞ》さねば成らぬ 斯う思ッて老女を呼び、共々に今の芝生の邊《ほとり》に行き檢《あらた》めたけれど、 今見た人影は消て了ッた、猶も女二人の力に及ぶだけは、木の影、 葎《むぐら》の邊《ほとり》などを詮議したけれど、是かと思ふ跡をさへ見認《みと》め得なんだ、 老女は云ッた『嬢樣、貴女《あなた》は御自分のお氣の所爲《せゐ》ですよ、 貴女《あなた》ほどの年頃には、誰でも乾して有る着物が幽靈に見えたり、 樹の影が人に見えたりするのです』小雪は『爾だらうかねえ』と答へたけれど、 何うも自分が自分の心に欺かれたと思ひ得なんだ、 氣の迷ひにしては餘り其の影が鮮明《あきら》かに見え過ぎた 『けれど、ねえ婆や、能く戸締りなどに氣を附けてお呉れ、 此家の庭のブルメー街の方の木戸が古くて、其れに垣なども低いから、 私しは阿父《おとう》さまが留守の時などは心配で成らないワ』 婆や『アア其樣に心配なさるから、其れで猶更ら御自分の心に欺かれるのですよ、 御安心なさい、私しが居ます間は、戸締りなどに失念《ぬかり》が有りませんから』 と云ふて止んだ けれど小雪は翌日、此事を戎に話した、戎は容易ならぬ顏をした [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百九 庭の人影 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 假にも一家の主人《あるじ》たる以上は、自分の留守の夜に、 庭へ忍び入る人影が有るとすれば、驚かずには居られぬ 戎が小雪から『庭の人影』の話を聞き、樣々の疑ひを浮べた、 彼れの身は何から何まで疑はねば成らぬ境涯とは爲て居る、 警察の探偵では無からうかとの懸念も有る、 手鳴田の殘徒では無いかと疑ふ事も出來る、其れのみで無い、 彼れは曾《かつ》てレキセンブルの公園から小雪の後を尾《つ》けて來た書生風の男の事をまでも思ひ出した、 全體云へば那《あ》の事などは最早や忘れて了ふ可き頃で有るのに、 戎は妙に忘れぬ、時々に彼の事を思ひ出す 是より戎は、誰にも知らさずに、夜な/\獨り庭を歩いた 或夜小雪は、自分の室《へや》の窓下で、曾《かつ》て聞たと同じ樣な足音を聞た、 恐々《こわ/\゛》ながらではあるけれど、ソッと窓の戸を開けて見ると暗い所に人影が有る、 慌てゝ戸を閉ぢやうとすると、其人が聲を發した『ナニ恐い事は無い、私しだよ』 小雪『アヽ阿父《おとう》さんですか』全く戎瓦戎であッた 數日の後、夜は既に一時と云ふ頃、戎は庭に立て小雪を呼んだ、小雪は寢て居たけれど、 何事かと思ひ、起出て庭に行た、戎は嬉しげに笑ひつゝ 『和女《そなた》を驚かした庭の人影の正體が分つたよ』 と云ひ、庭の面《おもて》に寫ッて居る異樣な物影を指さし示した、 或る程[誤:成る程]帽子を冠ッた人の影に能く似て居る、 實は屋根に聳える煙突の影なんだ『アヽ私しは此影に驚かされたのでせうか』 と小雪は且つ笑ひ且 訝《いぶ》かッた 全く戎は安心した、此後は最う氣に留めぬ事に成たけれども先の夜、 小雪を驚かしたのが果して此影で有たゞらうか、 先の夜と今夜とは月の居所が違ふ、先の夜の影は二度目に見直したとき、 消て了ッて居た、煙突の影ならば、小雪に見直されぬのを耻しがッて隱れて了ふ筈は無い、 けれど小雪は深くは屈托せぬ年頃だから、扨《さて》は是れで有たのかと思ッた、 婆やの云ふた通り氣の迷ひの爲に、人で無い者を人だと思つたのかも知れぬ けれど又幾日をか經て、又異樣な事が有ッた、此夜も戎瓦戎は留守であッた 何所へ行くか知らぬけれど、戎は前から獨りで夜歩きをする事が多い、 時に由ると一夜も二夜も歸らぬことも無いでは無い、多分は彼れ、 世を忍ぶ身の上で、晝間は通行し得ぬ樣な場所も有るから夜に成て用事を達しに行くことも有らう、 貧民を惠む彼れの癖として、餘り人の噂と爲らぬ樣に、 顏見知られぬ刻限に貧民の家を尋ねる事なども有るだらう、 警察の容子をも薄々は探らねば成らぬ、又、遠くの所へ隱してある自分の資本をも取出しに行かねば成らぬ、 一夜二夜歸らぬのは其樣な場合に違ひ無い、兎に角、 慣れた事だから小雪も婆やも敢て怪みはせぬ 其れは扨置《さてお》き、庭の一方の隅に、毎《いつ》も小雪の腰掛ける臺がある、 此夜も其の臺に行き、暫《しば》し息《いこ》ふた上、 又立て十五分間ほど庭を散歩し、再び其の臺に歸ッたが、臺の下の丁度小雪の足の踏む邊に、 一個の石が轉げて居る、小雪は顏色の變るほどに驚いた、 誰が此石を持て來たのだらう、今までは確に無かッた、只十分ばかりの間に、 石が獨りで來る筈は無いから、誰かゞ持て來たのだ、 扨《さて》は猶だ此庭に人影が徘徊するのか知らん 逃げる樣に馳せて小雪は茲を去た、或は婆やが、 柄に無く惡戯《いたづら》して此身を驚かすのか知らんとも思ひ、 其 室《へや》を窺《のぞ》いて見ると婆やは居眠りをして居る、 庭に出た容子は無い『婆やは今夜庭へは出なんらの』婆やは、 居眠りなどは仕て居ませんと云ふ樣に顏を揚げて『乾物は日の暮れぬ中に取込みました、 夜露に濕《ぬら》す樣な事は致しません』 翌朝になり、猶ほ怪しさの念が消えぬので昨夜の腰掛の所へ行て見た、 氣の迷ひでは無い、石は依然として其所《そこ》に在るけれど、 昨夜の樣に恐しくは感ぜぬ、夜見て恐れの本と爲る者は、 晝間見れば大抵は笑ひの種だ、昨夜 何故《なにゆゑ》に是れが恐しかッたのだらうと却て合點の行かぬが多い、 併し何人が石を茲へ持て來たかは猶だ不審である、其れに何の目的に出でたのか、 小雪は其の石を、邪魔にならぬ方へ推遣らうと、兩手を當てゝ轉がした、 是は不思議、石の下から一通の書た者が出た、最う疑ふ所は無い、 誰れかゞ此身に讀ませる爲に、石を此身の邪魔と爲る所へ置き其の下へ手紙を伏せたのだ 取り上げやうか、取り上げまいかと暫《しば》しがほど躊躇した末、 取上げた、何の念慮のある譯では無い、唯だ好奇心に驅られたのだ、 取上げて見ると、封は有るが糊は附けてない、宛名も無い、 署名も無い、注意して綴合せた幾枚の紙へ、細かい美しい筆の蹟《あと》で、 何事をか認《したゝ》めたものである [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十 庭の人影 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 心と心とは、物を隔て處を隔ても相通ずる事が有る、天然の無線電信とも云ふ可きだ、 小雪は石の下から拾ひ上げた手紙を、未だ能くは讀まぬうち、誰の仕た事であるかと悟ッた、 曾《かつ》てレキセンブルの公園で逢た彼の年の若い紳士で無くては誰が此樣な事をする 氣の附くと共に小雪は全身が震ふた、嬉しさの波が心の底から打寄せた、 何と云ふ美しい文字であらう、爾うして其の文句は、イヤ文句は能くは分らぬけれど、 唯だ優しい嬉しい事のみが列《つら》ねて有る、通例の手紙では無い、 手紙の樣に人に宛て書た物では無い、唯だ自分の思ふ事を、 自分で讀む爲に書た者の樣では有るが、何か無しに一字一句が唯だ小雪の心に浸み通る樣に感ぜられる、 多分は切な、切な、誠心《まごころ》が溢れて文字と爲た者だらう、 或は愛と云ふ事をも説いて有る、或は死と云ふ事をも説てある、 相思ふて相見ぬ辛さなど云ふ事も、身を焼かれる樣に書てある 此れは是れ、全く小雪の感じた通り守安の書た者なんだ、彼れは幾日幾月、 唯だ戀の奴隷と爲り、小雪に逢はずして存《ながら》へるよりは、 小雪を思ひつゝ死だが好いと迄に思ッて居た、其れほどの心を、 紙の上に注いだのだもの、深い感動を與へずに濟むものか、 他人は兎も角、同じ思ひの小雪に取ては自分の言ひ得ぬ自分の思ひを、 其まゝ文字にしたのかと怪むまでに感ぜられた 傍《はた》に若し見る人は居ぬかなど云ふ樣な、 氣の咎める心は少しも小雪の胸に起らなんだ、 小雪は唯だ其の手紙に見惚《みと》れた、讀み入た、勿論、 幸ひにして誰も見る人は無かッた、若しも戎瓦戎が傍に居て、 此 状《さま》を見、小雪の心が、意中の人の手紙に對して恍惚として居る事と知たなら何うだらう、 彼れは幾年幾十年の自分の苦心が、終に苦心の儘に終り、何の報をも得ずに、 イヤ六十年の艱難辛苦を一時に纒めて其身の上に繰返すよりも猶ほ辛い不幸に果てるのを何う耐《た》へるだらう、 恐らくは絶望して、全く神の惠も聖僧《ひじり》の徳も無い黒暗《くらやみ》の世と知て、 元の亂暴な心にも歸り兼ねぬ程とは成るだらう 暫《しばら》くして小雪は自分の室に歸た、室《へや》に歸ても猶ほ取出して、 讀直し、讀直しゝた、爾して日の暮頃に及ぶと、毎《いつ》もより美くしく身支度した、 何の爲の身支度か自ら知らぬ、唯だ自分の心の中に、自分の心よりも強い心が有つて此樣な事をさせるのだ、 自分でするのでは無い、爾して點燈《ひとも》し頃と爲ると此夜も戎は外出した、 其の後で小雪は迷ふ樣に庭を出て、行くとは無いに彼の腰掛けの所に行き、 身を卸すとも無しに其上へ身を卸した 暫《しばら》くすると何だか、其の身の邊《ほと》りに人の立て居る樣な氣合《けはひ》がする、 靜に振向て見ると果して人が立て居る、不斷ならば人の姿が恐しい筈だのに今夜は恐しく無い、 立ち上ッて其の方に振向た、向ふも恐しく感ぜぬと見え、立たまゝだ、 逃やうとする容子も無い、兩人《ふたり》ともに蒼茫《さうばう》たる暮色の中に包まれて、 能くは見る事が出來ぬけれど、見なければ分らぬと云ふほどは離れて居ぬ、 アヽ是れ曾《かつ》て公園で見た彼の若い紳士である、青白い顏の色が、 殆ど幽靈かと思はれる程に見えた 恐れはせぬけれど、身が蹙《すく》んだ、足に立つ力が無くなッた、 小雪は背後《うしろ》に蹌踉《よろめ》いた、丁度 背《せな》の所に立木が有ッた、 若し之が無ッたなら必ず背後《うしろ》へ倒れたゞらう、之に身を支へて立ち、 猶も青白い顏を眺めた 此時の小雪の状《さま》は、先づ半ば氣絶して居る樣な者だ、 何を眺めて居るのか自ら知らぬ、其の中に相手は聲を發した、 小雪が曾《かつ》て聞た事の無い優しい聲だ、けれど低い、 低いのは四邊《あたり》を憚《はゞ》かるので有らう、 殆ど風に戰《そよ》ぐ若葉の音より高くは無い『許して下さい、 何故《なにゆゑ》とも知らずに私しは此庭へ入るのです、 ナニ恐れるに及びません、私しの顏を御存じでせう、 昨年 貴女《あなた》と公園で逢ひまして』と言掛けて小雪の返辭如何と待つ如くに顏を見た、 小雪は無言だ、若紳士は更に『毎夜私しは來るのです、來るけれど、 成るたけ貴女《あなた》に、イヤ貴女《あなた》にも誰にも姿を見られぬ樣にして居ました、 貴女《あなた》の窓下に徘徊《たゝず》んで、貴女《あなた》の歌や音樂を聞き、 夜が更けて歸るのです、惡い事かも知れませんが、斯うせねば私しは死ぬのです、 此庭へ來る外には此世に何の樂みも無いのです、構はぬでせう、許して下さるのでせう』 愛求する樣な聲で返辭を求めた、小雪は唇を動かした、 けれども語を爲さぬ、纔《わづか》に『あれ先《ま》ア』との聲が聞えたのみで、 氣絶した、氣絶した樣に倒れた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十一 愛の天國 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 氣絶した樣に倒れる小雪を、守安は驚いて抱き留めた、 小雪の身體は守安の兩手の間に落ちた 小雪は勿論夢中である、守安とても自分の何をして居るやら覺えぬ程であッた、 覺えずに小雪を臺の上へ横へ、覺えずに介抱をしたが人は如何に繊弱《かよわ》くても、 嬉しさの爲に死ぬる者では無い、悲しみ死ぬる事は有ても喜び死る事は無い、 小雪は死にはせなんだ、イヤ氣絶さへもしては居なんだ、唯だ一時氣が遠くなッたのだ、 介抱せられて直に我に返ッたが、其の返ッた時は守安と固く手と手を握り合せて居た アヽ此二人は、天が斯うなれとて特別に繋ぎ合せて作ッた者では有るまいか、 爾も無くば斯うまで打解る筈が無い、二人ともに他人《ひと》と双《なら》んで居る樣な氣がして、 何《ど》ッ方《ち》が自分の身で有るかを知らぬ、暫《しば》しが間は世間をも人間をも時間をも、 總《すべ》て打忘れて唯だ語り合ふた、何事を語ッたか人も知らぬ、 自分の知らぬ、唯だ其の一語一語に双方の嬉しさが往き通ふのみである、 愛の天國とは此樣な場合を指すのだらう、幾時の後に小雪は初て問ふた 『貴方のお名は』??『守安、したが貴女《あなた》は』??『小雪』 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十二 無慘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 毎晩、此後は、此庭で二人が逢ふた、何をするのでも無い唯だ手を取り合ふて密々《ひそ/\》と語るのだ、 其間には守安も自分の身の上を語り、小雪も自分の知て居る丈を語ッた、 最う何うしても二人は離れる事は出來ぬ、別々には活て居る事も六かしからう、 活て居る氣も無いだらう 一ヶ月??二ヶ月、一夜だも缺さずに守安は小雪の家の庭に忍び入た、 雨が降ても構はなんだ、偶《たま》には戎瓦戎が家に居て小雪の出られぬ事も有た、 其樣な事が却ッて二人の相思ふ心を強くした 斯樣にして戎瓦戎の掌《て》の中の珠は、全く守安の物と成て了ッた、 誠に無慘である、知らねばこそ濟で居るが、若し知たなら何うであらう けれど此樣な思ひ遣りは、若い二人の心に少しも浮ばぬ、 自分達以外の天地に何の樣な事が有らうとも、二人の世界へは其の風が吹て來ぬのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十三 千八百三十二年 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- とは云へ、世間は決して、波風の無い時節では無かッた、 此時は丁度 千八百三十二年の初めで、此國に革命が起らうとして居たのだ、 守安の属して居る彼の『ABCの友』なども、折さへ有れば一揆軍を起して、 政府轉覆、國王放逐の旗揚を仕やうと、會員 孰《いづ》れも血眼に爲て居た、 守安は其等は知らぬでは無いけれど其の方へは見向もせなんだ のみならず、今一つ守安に、多少の關係の無いと云へぬは、 彼の先頃から捕はれて居た手鳴田の一組がラホースの獄を破ッて逃出した一事である、 彼等は同類が多い爲め、外から助けて遣た者も有ッて、 或る風雨の夜に乘じて脱牢を企てた、爾して旨く逃げ果せた、 此頃の新聞紙は筆を揃へて書立てゝ居るけれど、 守安は其事をも能くは知らぬ、イヤ新聞の上で知ては居るけれど氣に留めぬのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十四 容子ありげ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 或夜守安は小雪の許《もと》へ行かうとて家を出ると、途中で嗄《しやが》れた聲に呼留められた 『守安さん、守安さん』微《かす》かに聞えたので振向て見ると、 乞食の樣な若い女が立て居る、之は手鳴田の娘、彼の疣子である 全體云へば、守安は深く此娘に謝さねば成らぬ、小雪の居所を教へて呉れたのが此娘で、 其のお影で此頃の嬉しい境涯に入る事が出來たのだ、 けれど唯だ小雪の事にのみ氣を取られ其の恩も大方は忘れて、 只だ引留められるのが癪《しやく》に障る、何か無しに一刻も早く小雪の家の庭に入り度いのだ 『何んで私しを呼び留めたのです疣子さん』と殆ど咎める樣に問ふた、 疣子は恨めしげに『其様に言は無くても好いワ』守安『用事なら聞きませう、 私しは急いで居ますから』疣子『アレ、人が親切に教へて上やうと思へば』 守安『何をです、何事をです』疣子は日頃の無遠慮に似ず少し口籠り 『貴方は那《あ》の背《うしろ》??那《あ》の家へ』 と云は小雪の許《もと》へ行か否《いなや》を問ひ度げである 守安『云なら早く云て下さい』此の餘所々々《よそ/\》しい仕向に疣子は聊《いさゝ》かスネたのか 『ナニ云はずとも濟むのです、守安さん左樣なら』と云て暗《やみ》の中へ身を隱した、 容子有りげな此振舞が、不斷なら尋常《たゞごと》で無いと多少氣に掛る筈だのに、 唯だ邪魔者の去たのを喜び、急いでブルメー街の方に行た ブルメー街の暗い所に、丁度守安の通ッたとき二人の男が密々《ひそ/\》と話して居た、 若し守安が心の平《たひら》かな時ならば其言葉が耳に入たゞらうけれど、 彼れは人の居る事にさへ氣が附かなんだ、甲『何だアノ家が白髪頭の』 乙『爾うよ美しい娘と婆やと唯だ三人だが、白髪頭は夜歸らぬ事も有る、 明夜にも襲ひ込まう、何にしても此の不景気で、 斯う仕事が無くては折角牢を脱出《ぬけだ》しても饑《うゑ》の爲に死で了ふワ』 斯う云ふは手鳴田の聲に能く似て居た、之を聞かずに通り過ぎた守安は不幸である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十五 疣子と手鳴田 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 暗《やみ》の中に細語《さゝやい》て居たのは全く手鳴田で有つた、 彼れは同類の惡人等と共に、戎瓦戎の家に襲ひ入る事を打合せて居たのだ 多分は彼れの娘疣子が守安を引留たのも此事を知らせるが爲で有たのだらう、 爾と知らずに守安が過去たのは殘念である 此翌夜守安は、又も小雪の許《もと》へ行く道で疣子の姿を認めた、 今度は疣子から未だ聲を掛けぬうちに守安の方で身を飜《かは》せ、 横町に避けて入た、爾して振向もせずにブルメー街を指して行た けれど疣子は之が爲に怯《ひる》まなんだ、矢張り守安の後に附き、 見え隱れに追ふて行つた、勿論守安は小雪が家の裏門に達し、 ソッと閂木《かんぬき》を脱《はづ》して其中へ忍び入つた、 疣子の方は斯くと見屆け、頓《やが》て其の裏門に寄添ふて一々 閂木《かんぬき》を檢《あらた》めて見たが、 中に一本、弛《ゆる》く拔き差しの出來るのが有る、 アヽ守安の脱《はづ》したのは之なんだ 其の閂木《かんぬき》に手を掛けたまゝ疣子は恨めしげに呟いた 『エヽ、本統に憎らしいよ、人の深切も知らないで??寧《いつ》そ此儘に放て置て遣らうか知らん??けれど』 とて暫《しば》し考へた末、何う思案が決したのか其まゝ身を退《ひ》いた、 其の姿は何方《どつち》へ行たか暗《やみ》の中に隱れて了つた 是より幾時の後である、覆面した五六人の兇漢が、暗《やみ》の中に、 聲を殺して語らひながら此裏門に近いた、無論手鳴田の連中なんだ、 晝さへも淋しい處だから全く人通りが絶て居る、其中の一人が先づ門に接近して耳を澄し 『何だ、馬鹿に家の中が靜だなア』と云へば、次の一人『靜[※;だ?]から丁度仕事に好いでは無いか』 前の一人『けれど門を開くに餘り音などをさせては拙《まづ》いからさ』 別の一人『さア其の閂木《かんぬき》を檢《あらた》めて見ろ、 何しろ古い門だから、何處かに弛んだ所が有るに違ひ無い』 聲に應じて『どれ己《おれ》が其れを檢《あらた》めて遣らう』 とて又別の一人が進み出た 此者は上の方から順々に閂木《かんぬき》へ手を掛けて、 一々に搖り動かしつゝ頓《やが》て彼の弛んで居る一本を檢《あらた》め掛けたが、 此とき横合の暗がりから、不意に又一本の手が出て、此者の手を無手《むづ》と握つた、 此者は驚いて、我れ知らず聲を發し『誰だ、誰だ』と問ふた 『誰でも無い、私しだよ、此庭には恐しい犬が居るから這入ても無益だよ』 と答へるは嗄《しやが》れた聲である 握られた一人は、握た一人の顏を差窺《さしのぞ》いた、 外の者どもゝ、若し敵ならば叩き伏せんと云ふ樣に身構へした、 けれど思た程の手剛い相手では無く、顏の青白い女である 『何だ、女の小の癖に??全體お前は何者だ』女『お前の娘だよ阿父《おとつ》さん』 男『何だ疣子か、大層聲が變つたなア』 疣子『最う肺病で死掛けて居るのだもの』答ふるは全く疣子である、 アヽ疣子は守安の身を思ふ爲に、繊弱《かよわ》い身で自分の父を初め五六人の悪黨を遮らうとして居るのだ 父手鳴田は[口|斗]《さけ》んだ『肺病で死に掛けて居る女が何だとて此樣な親不孝をするのだ』 成るほど親を遮るのは親不孝と云ふ事も出來る 『私しの云ふ事に間違の無いのは今までの事で分つて居るぢや無いか、 お歸りよ阿父《おとつ》さん、お歸りよ』父は嘲笑《あざわら》つた 『歸れと云たとて歸る樣な家は有りは仕ない』疣子『でも此家は、 獲物の有る樣な金持では無いのだよ私しが能く知つて居る』 傍の一人『獲物が有るか無いかは、中へ這入て、家の者を縛り上げ、 天上から穴倉の底まで捜せば分るのだ』疣子『其様な事をする間には犬が咆えて捕吏《ほり》が來るから、 お前等は捕《つか》まるよ、思ひ切て早くお逃げ』 又一人『嘘ばかり云て居る、此家に犬は居ない、己《おれ》が晝間に見屆けてある』 疣子『犬と云ふのは私しだよ、私しが番を仕て居るのだ、一人でも此門の中へ這入て御覽、 直に私しが聲を立てゝ捕吏《ほり》を十人でも廿人でも呼んで來て見せるから』 一人『構ふ者か、這入れ、這入れ、此女は己《おれ》が茲で捕へて居て、 聲を立てれば細首を引拔いて遣る』と云ひつゝ早く疣子の肩に手を掛けた奴が有る、 [『]其れが好い』、『其れが好い』と幾人か贊成した、其中の一人は、 驚く可し疣子の父の手鳴田である 疣子は悶《もが》いて『アヽ其れが好からうとも、但し這入た後で後悔おしで無い』と、 太《いた》く度胸の据《すは》ッて居る樣に言切た、一同は此言葉を耳にも入れず、 再び閂木《かんぬき》に手を掛けたが、中に一人、毎《いつ》も疣子には甘い門八と云ふ者が居て 『待ちなよ、待ちなよ、何も仕事は今夜に限らぬ、此家に限らぬ、 隨分疣ちやんは思ひ切た事をするから、先《ま》ア一同が再び食ひ込まぬ用心をする方が好くは無いか』 有力な門八の言葉だから、一同は聊《いさゝ》か怯《ひる》んだ、 中に最も臆病な一人『昨夜《ゆふべ》己《おれ》は橋の下に寢て、何だか厭《いや》な夢を見た、 夢見の惡い時には、荒療治を見合すが好い』惡人と云ふ者は妙に迷信の深い者だ、 同類の中で二人まで逡巡《しりごみ》する者が出來ては、到底評議が纒まらぬ 『エヽ、仕樣が無いなアと手鳴田が呟けば『本統にサ』と又一人が和した 猶も疣子は言切た『何ね、私しには構はぬから、這入るならお這入りよ、 私しは私しだ、細首を拔かれたとて、爲る丈けの事はするからサアお這入り、 サア細首を拔てお呉れ』此の大膽が功を奏した、 一同は又も首《かうべ》を集めて密々《ひそ/\》と評議したが、 此樣な事は一旦の氣を失ッては出來る者で無い、 終に出損なッた幽靈の樣に、其の姿が暗《やみ》から暗《やみ》へ消て了ッた 爾とも知らずに庭の中では、守安と小雪とが最《い》と重大な相談に夜を更かして居た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十六 家は空《から》である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 若しも疣子が此樣に惡人を遮らなんなら、 庭の中に居る守安と小雪とは、何の樣に騒がされたかも知れぬ 守安は少しも、疣子から何の樣な恩を受けたかを知らぬ、 無事泰平に小雪と共に愛の天國に遊んで居る けれど此夜は愛の天國が、毎《いつ》もほど平和で無かッた、今まで二人は、 此の樂しい密會が何時までも續く樣に思ひ、少しも後々の事などは考へなんだ、 此夜小雪は守安に向ひ、最《い》と心配氣に『大變な事に成りましたよ』と訴へた 『エヽ大變とは、何の樣な事ですか』と守安は慌てゝ問ふた、 小雪『阿父《おとつ》さんが、私しを連れて近々外國へ引越すと云ふのです』 成るほど大變である、二人に取ては國家 社稷《しやしよく》が亡ぶるとも、 二人の中を引分けられるほど重大な事では無い、 守安『エヽ外國へ』小雪『ハイ英國へ』守安は眞赤に成た、 夜だから其色は能くも見えぬけれど我身と小雪との間を割く者が有ると思へば殆ど腹立しく感ぜられる 『シテ貴女《あなた》は、其の英國行に同意したのですか』 同意するもせぬも、有る者か、娘の身として父の言葉に不同意を云ふ筋は無い、 小雪『だッて、阿父《おとつ》さんの言葉ですもの』 小雪[誤:守安]『でも私しを此國を捨てゞすか』毎《いつ》もの柔《やさ》しい守安の語氣とは思はれぬ、 小雪『ですから、何うすれば好からうと貴方に相談するのです』、 守安[は]言切た『貴女《あなた》と分れる事に成れば私しは一日も活ては居ません』 勿論 嚇《おど》かしでは無い眞實《ほんとう》の決心である、 小雪『吁《あゝ》何うすれば好いのでせう』 サア何うすれば好いのだらう、茲に至て守安も思案に窮した 通例ならば手を引合て驅落する一方である、 けれど驅落すれば小雪の身を永久に汚すにも當るのだ、 驅落して夫婦になれば野合の夫婦である、小雪も其身も再び世間に顏向の成る身分とは爲らぬ、 二人とも、汚辱の底に沈むのだ、其身は兎も角も小雪を爾る汚辱の底に沈ませて、 生涯浮ぶ瀬も無い事になるのは到底守安の耐《こら》へ得る所で無い 二人は泣きつ嘆《かこ》ちつして夜の更くるまで相談した、 門前に惡人等と疣子との推問答の有る事などは勿論知らなんだ、 併し幾等相談を重ねたとて、外に工風の有る筈は無い、 唯だ守安と小雪とが至急に正式に結婚し、夫と云ふ守安の權理《けんり》を以て小雪を引留める一方だ、 短く云へば父から小雪を奪ひ取るのだ、是れに漸《やうや》く相談が極た 正式の結婚とは、云ふに易くて行ふに難い、第一に年が二十五歳に滿たぬ男子は、 父又は後見人の承諾なしに結婚する事は出來ぬ、守安の年齡は滿廿一歳の餘で、 未だ廿一歳にさへ滿たぬ、自分の勝手に婚禮する資格は無い、 去ればとて戸籍上の父と爲て居る彼の桐野家の老主人の承諾を受けんには既に五年も前に勘當せられ、 音信が絶えて居るのだ けれど、其の承諾を得る外に道は無い、守安は辛い思ひで終に思ひ定めた、 幾等老人が頑固でも、能く詫入た上、事情を打明けて切に頼めば許して呉れぬ事も有るまい、 此身と小雪との活死《いきじに》に拘る事だから、何の樣にも言葉を卑《ひく》くして、 哀訴嘆願して見やうと 強情な守安が斯く迄の心を起すとは能く能くの事である、 爾して彼れは小雪に告げた『婚禮の用意には何うしても二日掛ります、 明晩は其爲に、茲へ來る事が出來ませんから、明後日《あさつて》の夜、 九時には必ず吉左右《きちさう》を持て來ます』 彼れは二日あれば桐野老人の承諾が得られると思ッて居る 翌日の日暮に及び彼れは、高い桐野家の敷居を跨《また》いだ、 勿論可愛い孫だから老人は上部《うはべ》に怒ッて内心は喜んで居間に通したけれども此老人、 年は既に九十の上を越し、益《ますま》す貴族 堅質《かたぎ》の頑固が募《つの》ッて居る、 守安から婚禮の事を聞くに及び『相手の身分は??エ何爵だ』 守安『爵などは有りません、單に正直な紳士の娘です』老人の顏は曇ッた 『フム爵位は無いが、身代は??定めし爵位の無いのを慣[誤?:償]《つぐな》ふて餘るほどの金持だらうな』 守安『私しと同じ程の貧乏です』老人は狂人にでも逢た樣に怒り、唯だ一聲、高く 『守安』と叫び更に『其方が襯衣《シヤツ》の着替も無く、 先方が穿替《はきかへ》の足袋も無くて、婚禮して何所に寢る、橋の下か』 守安は火として『其れは餘まりな仰有《おつしや》り方です阿父《おとつ》さん』 『阿父《おとつ》さん』と、親身の言葉に呼ばるゝが老《をひ》の身には何よりも嬉しい、 老人は忽ち心が解けた樣に『許せ、許せ、己《おれ》の言葉の荒いのは、 兼ての癖だから、許して呉れ守安、オヽ好い工風が有る、ナニ己《おれ》もな、 若い時には滿更其樣な實驗が無いでも無い、教へて遣らう、先が其樣な貧乏なら、 婚禮に及ばぬ、半年なり一年なり、窃《ひそ》かに其の女を弄《もてあ》そび、 爾うして厭《いや》に成たとき手切を遣れば好い、手切の金もサア己《おれ》が出して遣る』 とて早や用箪笥の方を見顧ッた、守安は全く烈火の如しだ、 『貴方は五年前に私しの父男爵 本田圓《ほんだまるし》の名を侮辱しました、 今は又、私しの妻を侮辱なさる、此上貴方から聞く事は有りません』 と言切て立去たは早や夜の更けた後で有ッた 眞に百計の盡きたとは守安の此時の事である、 彼れは最う此世に何の望みも無い樣に感じ夜一夜を、 當途《あてど》も無く市街を徘徊して明かした 此の翌日は即ち千八百三十二年六月の五日である、 巴里《ぱりー》に有命の革命の市街戰が起つた初日で守安の友人は孰《いづ》れも之に加はり、 中には手動者と爲たので有つた 守安一人は、頭に政治の事も革命の事も、元は滿々て居たけれど今は其の影をも留めぬ、 全く小雪の姿のみか腦膸を塞いで、他の一切の事柄も腦の外へ驅逐した樣な者だ 夜の九時に及んで、彼れは約束の通り小雪の許《もと》を尋ねて行つた、 けれど其の家は早や空《から》で有つた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十七 死場所が出來た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 全く戎瓦戎の家は空である、守安の驚きは察するの餘り有りだ 何うしたゞらう、戎瓦戎は、小雪が一昨夜《をとゝひのよ》守安に話した通り、 既に小雪を引連れて、英國へ向け出發したのだらうか、其れにしては聊か早や過ぎる イヤ出發したのでは無い、出發の準備に、先づ轉居したのだ、何故《なにゆゑ》、何故! アヽ彼れは轉居せねば成らぬ譯が澤山にある、第一は、 過日彼れ新聞紙の上で、手鳴田一類が牢を破ッて出た事を讀んだ、 何と無く彼れは不安を感じた、のみならず彼れは夕方の散歩の途中で、 手鳴田の姿を見受けた、自分は直に身を反《かは》して、 幸ひ彼れに見認《みとめ》られはせなんだけれど、 何と無く我身に禍《わざは》ひする大敵が現はれた樣に感じた、 勿論今居るブルメー街の家は手鳴田に知られては居ぬけれど、 ヂャック寺の附近だと云ふ事を知られて居る、 何時《なんどき》尋ね當られて復讐を受けるかも知れぬのだから、 少し離れた所へ身を隱さねば成らぬ 第二に、此頃は民間一般に政府を恨む聲が高く、 其所《そこ》にも此所《こゝ》にも一揆を起す準備や革命の企《くはだて》が有ッて、 政府の探偵が非常に嚴しい、何事に就けても探偵の嚴しいのは、 戎の樣な世を忍ぶ身には不安心である、探偵の傍杖《そばづえ》を食て、 自分の身の素性を警察に知られる樣な事に爲ては大變だ、之が爲に彼れは、 到底此國には居られぬと思ひ、一時英國へ避けて餘温《ほとぼり》を拔く外は無いと決心し、 既に小雪にも英國《いぎりす》行の旨を傳たのだ 併し是だけで無い、第三に、彼れは或朝自分の庭の中を散歩して一枚の名札を拾つた、 表には本田守安と記し鉛筆で宿所を書入れて有る、 是れが何よりも深く彼れを驚かした、 誰も入込む事の無い此庭に名刺《なふだ》が落て居るとは何う云ふ譯だ、 入込む人の無いと思ふのは何かの間違ひで、 誰れか人知れず入込むに違ひ無い、イヤ誰かとて誰でも無い、 此の名札の主《ぬし》の本田守安と云ふ者が入込むのだらう、 抑《そもそ》も此者は何者か、何の爲に入込むのか、 其の仔細は更に分らぬと云ふ者の、滿更分らぬ譯でも無い、 曾《かつ》て小雪が夜々此の庭へ忍び込む人の有る樣に疑つたが、 其の疑ひが事實で有つたのでは有るまいか、其の時には庭を檢《あらた》め、 烟突《えんとつ》の影を見て、單に小雪が此影を人の影と見違へたのだらうと、 戎自らが説明して事濟《ことずみ》と爲たけれど、今から思うと何うも事濟《ことずみ》とは爲て居なんだ、 烟突《えんとつ》の影と思つたのが其實爾うで、無かつたかも知れぬ、 此樣に考へて見ると其れから其れと過去つた事を思ひ出し、 曾《かつ》て公園から小雪の後を尾《つ》けて來た若紳士の事までも思ひ出した、 若し彼の若紳士が此の本田守安と云ふでは有るまいか、 彼れが今以て小雪に何等かの通信を試みるのでは有るまいか、 アヽ何うも爾らしい 斯う思ひ初めると、戎の胸は掻亂される樣に痛みを覺えた、 手鳴田の復讐よりも、警察の探偵よりも、此の一事が最も氣に係かる、 其れは何故だらう、何故では無い、戎の身に取ては、 小雪の身が自分の身よりも大事なのだ、他人に小雪の心を奪はれるのは、 自分の身代を奪はれるより、イヤ自分の一命を奪はれるより、辛い 戎は小雪が毎夜守安と手を取合て腰を卸す其の腰掛の前を通り、 門の垣根の傍まで行たが、餘り心が動いて最う歩む事が出來ぬ、 其所《そこ》に在る石の上に腰を据え、首《かうべ》を垂れて獨り倩々《つく/\゛》と考へて居ると、 自分の足許へ、チラリと人影が落ちた、ハッと思ふ間に其の人蔭は戎の背後《うしろ》の方へ隱れ去たが、 其れと同時に戎の目の前は一片の紙切が落ちた、 戎は取上げて見ると、鉛筆で、女の子でも書たかと云ふ樣な文字で 『早くお引越し成さい』と書てある、戎は之を天の警戒《いましめ》の樣に感じ、 直に跳起きて垣の外を見ると、色の青白い姿の小い職工風の汚い若者が後をも見ずに立去る所である、 此の若者は抑《そもそ》も何者、戎は知らぬけれど、實は若者で無い女である、 昨夜此の垣の外で、手鳴田等の一類を遮り留めた彼の疣子である、 疣子が職工風の服を着けて居るのは誰かゝら貰ッたのでも有らう、 彼は聊か憐む可しだ、唯だ守安を思ふのみの爲に、蔭に成て守安を守護し此家を守護して居る、 此家に何か危險が有ると知ッて、紙切を以て戎に警戒を與へたのだ 戎は此日の中に此家を引拂ッた、兼ねてアミー街へ、別の家を借りてあるのだから、 直に其れへ引移ッた、其所《そこ》で用意をして、續て英國へ立つ積りである *    *    *    *    *    *    * 爾とも知らずに守安が茲へ來たのは、此の翌夜だ彼れは小雪が毎《いつ》も居る筈の、 腰掛の所に居ぬのを見て、限り無く失望し、幾時か氣を永くして待た上、 小雪の室《へや》の窓下に行き、中の容子を耳を澄したが、 寂然《ひつそり》として聲も無い、戸の隙間《すきま》から、 洩れる燈火《あかり》の影さへ見えぬ、尋常事《たゞごと》では無いと知て、 果は大きな聲を立てゝ小雪の名を呼んだ、勿論返事は無い、遂に悟ッた、 既に茲を引拂ッて、小雪は英國へ立たのだと、彼れは全く絶望した、 爾なきだに、實は桐野家の老主人より侮辱に等しき言葉を聞き、 最う小雪と夫婦になる道さへも絶えた事とて既に全く絶望して、 云はゞ死物狂ひの考へを以て茲へ來たのだから、 早く小雪の去たと知て絶望は二重になり、最う自殺する外は無いと決した、 自殺して此世の苦みから逃れるのだ 守安の氣質では、決して自殺が六つかしくは無い、 殊に此日は、朝から既に、町の所ろ/\で一揆が起り、 官兵と衝突して市街戰を初め、居たので、守安が茲へ來る前から、 鐡砲の音や、喊呼《かんこ》の聲が雷《らい》の樣に響くのを、 幾度《いくたび》も耳に挿んだ、唯だ戀の奴隷と爲て居る爲め、 其の方へ氣が移らなんだが、是から行て其の一揆の群に投じ、 戰死すれば好いのだ、軍人中の軍人と云はれた本田 圓《まるし》の息子だから、 父の憎んだ今の政府と戰ッて命を捨てれば本望だと、 咄嗟の間に思ひ定めて、彼れは又庭の外に出た、彼れの眼は暗の中に光ッて居る、 其の血走た状《さま》さへ察せられる程である、彼れが一足歩むと、 背後《うしろ》から嗄《しやが》れた聲が聞えた『守安さん』 確に疣子の聲である、續いて聞えた『貴方のお友達、ABCの人達は、 サン、デニスの町へ塞《とりで》を作り、討死の覺悟で貴方を待て居ますよ』 守安は振向たけれど疣子の姿は見えぬ、守安は暗がりで獨語した 『好し死場所が出來た立派に死で見せる』 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十八 一揆軍 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戀の絶望は、死に終るのが多い、活きて此世に苦むよりは、死んで何事をも忘れた方が安樂だと云ふ氣になる、 今、守安の境遇が全く其れなんだ 此樣に死を決した場合に、丁度戰爭が初ッて居て、討死する事が出來るとは、 實に物怪《もつけ》の幸ひである、守安は喜んで、 天が此樣な機會を我に與へたのだと信じた、彼れは『死ぬるのだ』と呟いて、 アン、デニスの堡塞《とりで》を指して行た *    *    *    *    *    *    * 茲に聊か此戰爭の起つた次第を述て置かう、抑も國と云ふ者には、 大《おほい》に進歩せねば成らぬ時が有る、此時の佛国が丁度其れだ、 數十年來打續いた革命の内亂から、引續いて拿翁《なぽれおん》の軍《いくさ》と爲つた後の事で、 人民は疲れに疲れ、最早や平和を以て民度を進めるより外は無いと云ふ思想が一般の心に滿ち盈《み》ちた、 殊に敵国とする獨逸や英國の状《さま》を見ても、佛国は大《おほい》に文明の政治を行ひ、 活[さんずい|發;u9F51]に内治を改良して、國家の面目を一新せねば成らぬ、 所が此時の政治が全く無能で有つた 上《かみ》には優柔不斷な杜王《こくわう》が居て、老朽の内閣が之を助け、 行政も紊《みだ》れ、財政も衰へ、國の自慢とする陸軍も腐敗した、 其の上に、對外戰爭の餘弊として、國中一般に恐しい不景氣が來て、金融の道も止つた 世に不景氣と云ふほど恐しい事は無い、是れが來れば、 少しも政治の事を知らぬ愚民まで政治を怨む事になるのだ 況《ま》して聊か心ある人は、深く國家前途の爲に憂ひ、 何うしても此樣な無能の政府を戴いて居られぬと云ふ氣に成つた、 其れが爲に、不平黨の倶樂部が到る處に興つた、 或は社會問題の研究を名とする者も有る、或は智識の名の下に、 青年學生を團結し、或は慈善の看板を以て、老成の人が集合の道を開くなど、 云はゞ巴里《ぱりー》の全市が全く不平者の密會所と爲た樣な者であつた けれど政府は少しも之を省みぬ、イヤ省みて徒《いたづ》らに探偵を放つけれど、 政治の根本を改革して、人民に安堵の思ひを爲さしむるなど云ふ念は毛ほども無かつた、 其れが爲めに不景氣は益《ますま》す不景氣、不平は益す不平と爲り、 一般人の奮慨が、日に/\募つて果は何處の居酒家へ行ても、 不平を聞き不平を云ふ爲に集る者が多い、眞に革命の氣が社會の最下層まで浸入たのだ 宛《あたか》も此時の景状《けいじやう》は社會が噴火山の頂上に載られた樣な者だ、 何時に破裂するかも知れぬ、誰とて外へ出るに、何等の武器を隱し持て居ぬのは無い、 何時でも政府を叩き毀《こは》す積である、時々は居酒屋の樣な、 人の集つて居る場所から、他の又人の集つて居る場所の間を奔走して、 重立つらしい人の耳へ何事をか細語《さゝや》いて去る人が有る、 何だか秘密の打合せか又は旗擧《はたあげ》の合圖らしく見える、 其の度に居合す人は、顏と顏とを見合せて銘々自分の腰や懷《ふところ》に在る凶器を、 念を推す樣に撫でゝ見る、全く是れが物騒の極點と云ふ者だ 之を又譬へて見れば、巴里《ぱりー》の全市が、丸込《たまごめ》をした大砲の樣な者だ、 唯だ一點の口火を差す人さへ有れば、直ちに爆然として放發するのだ、 けれど此の危險な勢ひが迫り迫ッて、終に口火は差さずとも自然に爆發する迄に熟した、 人の奮慨する心の熱が、自から火を發したと云ても可からう 時は是れ千八百三十二年六月の五日である、有名なラマルク將軍が死で、 其の葬式が出た、誰れに云ふと無く、誰誘ふと無く、此日が政府を叩き毀《こは》す發端だと云ふ事が、 人の心に滿ちた、今まで此樣な多勢の人が出揃ふた事は無い、 將軍の葬式を見ると云ふのが口實で、 誰も彼れも皆其の道筋へ集まッた、爾して誰も彼れも皆思ふて居る、 革命の端緒《いとぐち》は何處の町から起るだらうと思ひ且つ待て居る、 若し斯樣な氣の立た群集の中で、巡査の帶劍の端が輕く群集の中の一人の袖に觸れても、 其れが一揆軍の發端になるのだ 人民の勢ひが此通りだから、幾等無能の政府でも氣の附かぬ事は無い、 イヤ無能の政府だけ却て此樣な事には能く氣が附て能く用心する、 此の日 儀仗《ぎぢやう》とか護衛とか云ふ名を以て市中に散布せられた兵の數が二萬人、 町 盡《はづ》れの要所々々へ配ッた兵が三滿人、併せて五萬の兵である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百十九 一揆軍 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 若し空飛ぶ鳥の眼《まなこ》を以て、此時の巴里の町を眞上から見降したなた、 群衆の状《さま》が宛《あたか》も彗星《はうきぼし》の如く見えただらう、 ラマルク將軍の柩が彗星《はうきぼし》の頭《かしら》と爲り、 幾千幾萬の人が尾の樣に之に從ひ、長く巴里の町々へ搖曳《たなび》いて居た 中には異様な服裝をした群も有る、何處の町から加はッたか知らぬけれど、 是等は無論一揆の中も最も突飛な輩《はい》の樣に、誰からみ認められ、 若し事が發するならば必ず此 輩《はい》から發するだらうと思はれた、 果然、事は發した、勿論此 輩《はい》からである 斯る奴輩《やから》が、行列の進行中に鬨《とき》の聲を揚げたのは幾回か數が分らぬ、 彼等は行列中の何處にでも少しの動搖が有ると直に叫んだ『共和政治萬歳』と、 實に亂暴の極である、立憲帝政の歴乎《れつき》として立て居る其の膝元に於て斯る聲を發するとは、 けれど群衆は之に和した、彼等が一たび叫ぶ毎に其の聲は全市中を震撼するかと疑はれた、 全く革命の氣が滿ち/\て、人と云ふ人を驅て悉く此の聲を發せしむるのだ、 無事に治る筈が無い 行列がオステリツの橋まで行くと、列中の最も目ぼしき一人ラフェット將軍が、 柩に別れを告げて引返さうとした、此の將軍に何《どれ》ほどの人望が有ッたかは云ふに及ばぬ、 史を讀む者の皆知る所である、群衆の中に一隊は、將軍が引返すと見て、 直に其の後に從ふて引返した、斯樣な場合に引返せば、後から來る一隊に突當るのは無論である、 而も後から來る其の一隊は政府の龍騎兵で有た、之と一揆の群とが衝突した、 嗚呼群衆は唯だ此の衝突を待て居たのだ、是れで革命の端緒は開けた 前の方に在る柩は無事に進んだけれど、後の方は忽ち修羅の巷《ちまた》と爲た、 衝突と同時に群衆の中から三發の銃聲が聞えた、一發は龍騎兵の頭《かしら》に立つ士官を射落した、 一發は横に反れて、店屋の窓を貫き、其所に居た老婆を倒した、一發は騎兵の肩の飾を打ち飛した、 何者が發したかは分る筈が無い、誰も彼も皆武器を隱して居るのだから 直に騎兵が是等の者を蹴散しに掛ッた、叫喚の聲、鬨《とき》の聲、叱咤の聲、 蹄《ひづめ》の音、黒烟の中に起ッて旋風《つむじかぜ》の如く人を卷いた、 斯うなると茲一ヶ所では無い、到る所が同じ叫喚の巷《ちまた》と爲り、 幾ヶ所の旋風《つむじかぜ》が捲起たかも知れぬ、けれど是は少しの間で有ッた、 群衆の方にも何れほど加勢が有るか知れぬけれど、騎兵の方は後から後から援兵が現はれる、 何の規律も號令も無い群衆が、此まゝ通つて居られる筈は無い 群衆の目的は、茲で戰ふに在るのでは無い、戰いの端緒を開きさへすれば好いのである、 彼れ等は目的を達したと見た、直に彼等は逃げ初めた、四方に、八方に、 追掛ける人の目を眩《くら》ませた、捕はれた者は幾等も無い けれど斯く八方に散た者等が、町々に號令を傳へた『蹶起《けつき》せよ、蹶起《けつき》せよ』 [『]武器を取れ、武器を取れ』との言葉が、其れから其れと響渡り、 巴里全市の人々が全く戈《ほこ》取ッて仆《たふ》れる時が來たと思ふた、 爾なきだに宛《あたか》も彈《たま》を込た大砲の唯だ導火一點を待つ如き危急に推寄せて居る人心だから、 響の聲に應ずる如く此號令に應じて立た、誰が號令するでも無い、 總《すべ》ての人が總《すべ》ての人に號令するのだ、 斯なッては殆ど鎭撫《ちんぶ》の道が無い、纔《わづか》に此日の暮るまで七八時間の中の、 要所々々へ廿七箇の砲壘[誤?:堡壘]《はうるい》が出來た 誰が之を築いたか、誰でも無い、最寄り最寄りの人だ、 落合ふが否や直に其の所へ、當り次第の爲[誤?:物]《もの》を積上げたのだ、 何でも敵を遮る用意が無くば迚《とて》も政府の兵隊に敵する事が出來ぬとの考へが誰の心にも有る、 イヤ幾等如何樣の用意をしたとて、長く政府の兵に敵する事は出來まいけれど、 勝敗は此徒の眼中に無い、敗ければ命を捨る迄だ、 死だ方が今の樣な無能政府、惡政府、墮落政府の下《もと》に苦むよりも好い、 其れにしても戰へる丈は戰ふと云ふのが一切の人が決心である 凡そ日頃自分の地位に不滿を抱き、又た不景氣に苦み、 生活に不如意を告げ或は政府に對する不平を抱く者は、 短銃《ピストル》なる出刄庖丁なりを以て皆最寄り/\の堡壘《はうるい》に詰め掛けた、 堡壘《はうるい》が無ければ自分で堡壘《はうるい》を作ッて人を待た、 獨り此の有樣を知らずに居るのは彼の守安のみで有ると云ふも過言で無い、 彼れの樣な失意の地に居て、彼れの樣に安閑として居る者は、外に無ッただらう 八十歳を越えた眞部老人さへも加はッた十一二歳の彼の『町の子』三郎と云ふ小僧さへも加はッた、 女の身で疣子さへも後れなんだ、皆其れ/\゛に自分々々の目的が有る爲とは云へ、 實に形勢が察せられる、妖氛《えうふん》が天地に滿たとも云ふ可き状《さま》である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十 軍中雜記 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- ▲其一 首領と醉漢 半日の間に、市中の要所々々に出來揚ッた廿七堡壘《はうるい》の中の一つは、 彼の守安の屬する『ABCの友』の青年等が建たので有た、 場所はサン、デニスの附近シヨーレリ街の大酒屋《だいしゆてん》コリンス亭の前である 此青年等は、茲に官兵を引受けて、討死する積りなんだ、 命の有らん限り革命の爲に戰ふ積りなんだ、身の程知らずと云はゞ云へ、 其の勇氣は愛す可しだ、今の學生には此の氣概が無い 此の朝、一揆と官兵との衝突の有るや否や、第一に茲に馳せ附けたは、 女にもして見ま欲しき紅顔の優《や》さ男で有ッた、此の男、 年は廿歳の上を僅《わづ》か越えたのみであるけれど 『ABCの友』の首領なんだ、心は何れほど猛烈の氣象を備へて居るかは、 何人も量り知ることが出來ぬと敬服する所である、名はエンジラと云ふのだ エンジラの馳せ附けた時、既に一人の醉漢が此の酒店に居た、 此の酒店は兼て青年の集會所と爲て居るのだから怪むには足らぬ、 エンジラは醉漢を睨んで『又酒びたりか、吾黨の戰死する時が來たぞ』 此の醉漢は黨中最も無能な一人である、 何の爲に斯る青年革命黨に加はッて居るかと云へば唯だ首領エンジラの勇しく且美しい姿と心とに引れたのだ、 此者の名をグランタと云ふ、酒に心醉すると同樣に首領エンジラに心醉して居る、 彼れは眼《まなこ》を据ゑ、酒臭い呼吸《いき》を吐き 『何だ戰死する時が來た、面白い、面白い、首領の死ぬる時には、吾輩だッて死で見せる』 云ひつゝ立上らうとしたが、早腰が拔けて居る、首領『アヽ汝は我黨の面汚しだ、 サア立て來て手傳でもしろ、此の町へ堡壘《はうるい》を築かねば成らぬ』 醉漢『首領のお言葉でも其れは無理だ、昨夜より飲續けて、腰の立たぬ者に手傳へとは、 イヤ最う一瓶傾けて一眠りした上で無くては、給使、給使、酒を持て來い、酒だ、酒だ』 其うちにコンバハと云ふ副首領を初め樣々の人が馳加はり、銘々に力を盡して、 或は荷車、或は卓子《ていぶる》、或は空樽などを持出して、 高大な堡壘《はうるい》を町の眞中に築き上げた、粗末では有るけれど、 攻寄せる官兵に取ては一方《ひとかた》ならぬ邪魔である、 斯くは人々の働く間も醉漢グランタは唯酒を呑む許りで、 何人に叱られるも頓着せず『ナニ己《おれ》だッて、死ぬる時は死で見せる、 其れ迄は先づ寢かせて呉れ、折角心地好く醉て、一眠りしようと思くば、 手傳へ、手傳へと、斯う眠くては何も出來ぬ、先《ま》ア寢かして貰はふ、 己《おれ》だッて、死ぬる時にはナー』幾度か管を卷つゝ其儘酒臺の下にゴロリと横に成つた、 實に革命の健兒の中にも其樣な者が有るとは、世は樣々と云ふ可きだ ▲其二 三郎と蛇兵太《じやびやうた》 日の暮に及ぶまで砲聲は所々に聞ゆるけれど、未だ此 堡壘《はうるい》へ迄は官兵の手が廻ッて來ぬ、 其の間にと首領エンジラは、四方の町の角々へ哨兵を配り、 爾して壘の中に居る幾多の人々に或は篝《かがり》の用意をさせ、 或は火藥の包を作らせ、或は武器を集めに遣るなど、 其れ/\の用意を言附けて居る、彼れは眞に申分の無い首領である 凡そ此の時までに此の壘へ來り投じた者は幾人と云ふ數か知らぬ、 其の中に一人、十一二歳と見える小僧が居る、此れは彼の手鳴田の息子で 『町の子』と稱せらるゝ三郎なんだ、彼れの樣々の走り使ひに甲斐々々しく立廻りて大人よりも役に立つ爲め、 少からず人々の贔屓を得た、唯だ彼れは、敵と戰ふ可き鐡砲は持たぬので、 自ら遺憾に堪へぬと見え、人の持てる鐡砲を羨ましげに眺めては、時々に首領エンジラに向ひ 『伯父さん、此の小僧にも鐡砲をお呉れ、小僧は幾等でも働くから其の褒美に、ねえ伯父さん』 エンジラは笑ッて『未だ大人にさへ銃器が行渡ッて居ぬ、先づ大人の方に餘たら汝に遣る』 小僧は情け無い顏をして『では何處からか捜して來るは、捜して來たら小僧にお呉れよ』 と云ふ暫《しばら》く姿を隱したが、頓《やが》て彼れは生意氣なほど重々しい顏[を]して首領の傍に來り、 聲を低くして『伯父さん、此の中に政府の探偵が居ても好いのですか』 敵の探偵の入込んで居るほど危險な事は無い、エンジラは眼《まなこ》を光らせ 『何だ、探偵』三郎『小僧は嘘なんか云は無いや、アレ彼處《あそこ》に居る背の高い人を調て御覽よ』 と云ひ、隅の方に銃を肩にし神妙に控へて居る一人に指さしつゝ 『茲に居る人は誰だッて彼の人の顏を知らないや、知て居るのは小僧ばかりだ』と言足した エンジラは直に倔強の男四人を呼び、之に耳打し、引連れて、 今小僧に指さゝれた神妙な人の傍に行き『貴方は何方《どなた》です』、と問ふた、 神妙な男は驚いて首領の顏を見た、けれど返事が直に出來ぬ、此の素振が全く明白だ、 エンジラ『其筋の探偵でせう』神妙な人は點首《うなづ》く樣に 『アヽ素人の目で爾う見たのは感心だ』何たる横着な言葉だらう、 エンジラは浴せ掛ける樣に、『其筋の探偵でせう』神妙な男『イヤ、政府から特派された吏員《りいん》です』 言葉は違ッても其の實は同じ事だ、エンジラ『名は何と』 神妙な男『巡査監督 蛇兵太《じやびやうた》』名乘るか否や、四人の男が彼れを捕へ、 直に身體を捜索した、果して一枚の鑑札が出た『巡査監督 蛇兵太《じやびやうた》年五十二歳』 と有る、次に其筋の呼令書《めいれいしよ》が出た『汝はシヨーレン街のコリンス亭に入込み、 何者の集るかを報告す可し』最う疑ふ所は無い、敵の間諜ならば無論に銃殺するのだ 『銃殺、銃殺』と幾人か同音に呟いた、エンジラは『無論です』と答へた 三郎は斯くと見て雀躍《こをどり》した『面白いなア小僧鼠が大な猫を捕まへた、 能く取ッた、能く取ッた、伯父さん、 此の大猫を射殺せば此奴《こやつ》の持て居る鐡砲は此の小僧鼠が貰ひますよ』 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十一 軍中雜記 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- ▲其三 蛇兵太《じやびやうた》就縛 蛇兵太《じやびやうた》を高手少手に縛《いまし》めて首領エンジラは酒店の裏の方へ引立て行き、 彼れを確《しつか》と柱に繋で宣告した『此 堡壘《はうるい》の敗れる十分前に貴方を射殺します』 蛇兵太《じやびやうた》は度胸を据て居る『何故《なにゆゑ》に、今直に射殺して呉れませんか』 エンジラ『彈丸《たま》が大切です、一發と云へども最後の場合まで蓄へねば成りません』 流石に首領の心掛と云ふ可きだ、 蛇兵太《じやびやうた》『では刀《かたな》で斬殺《きりころ》して戴きませう』 エンジラ『イヤ吾々は裁判官です、刺客《せきかく》では有りません』 斯う云て更に、小僧三郎に向ひ『汝は身體が小さく人目に立たぬから、 外へ出で町の容子を見屆けて來い』首領から直接に命を受くるは名譽である、 彼れは傍《かたへ》に横はる蛇兵太《じやびやうた》の銃を顧み 『此のお使ひが濟だら、鐡砲は小僧に下さいよ』と念を推して、勇み立て出去ッた ▲其四 推寄す官兵 夜は十時に及び堡壘《はうるい》の内外《うちそと》が寂然《ひつそり》と靜まッた頃、 町の彼方で、軍歌を唱《うた》ふ小供の聲が聞えた、 篝火《かゞりび》の傍に立て居た主領は居並ぶ一同に向ひ 『アヽ小僧が我々に合圖をするのだ、遂に官兵が推寄せた』、 一同は愈《いよい》よ戰ふ時が來たと見て、今更の如く銘々に其身體を引緊《ひきし》めた、 其の所へ飛込む樣に小僧は來て『サン、デニスまで官兵の大軍が推寄せました、 約束の鐡砲を下さい小僧も戰ひます』此知らせを聞くが否や、孰《いづ》れも銃を用意して、 思ひ/\の場所を占めた、エンジラ『決して彈丸《たま》を粗末にせぬ樣、 充分に敵を眼前まで引寄せねば發射しては可《い》けません』 云ふ所へ早や彼方より、多勢の推寄る聲が聞えた 敵は此の堡壘《はうるい》を、暗闇の中に認め、町の向ふの角まで來て射撃を初た、 幾千の兵だらう、眞に彈丸が雨の如くに飛で來て、壘の中の人達も少からず射仆《ゐたふ》された、 けれどエンジラの命令が嚴重だから、此方《こなた》よりは未だ一發をも答へぬ、 成る丈け無難な處へと、思ひ/\に身を潜めて敵の更に近くを待て居る ▲其五 八十の老人難に殉ず 其うちに雨の如き敵の丸《たま》が、堡壘《はうるい》の頂邊《ちやうへん》に立てある大旗の旗竿を射折た、 旗は竿と共にエンジラの足許に落ちた、誠に不吉な事柄である、 エンジラは其旗を取上げて一同を顧みた『誰か此旗を、堡壘《はうるい》の上へ立直しに行く者は無いか』 彼れの聲は壘内に響いた、けれど誰も應ずる者は無い、 若し應じて堡壘《はうるい》の上に登れば直に射殺されるに極ッて居る、 幾等死を恐れぬと云ふ勇士でも、必然の死を目掛けて進むことは出來ぬ、 エンジラは少し腹立しげな調子で再び叫んだ『サア誰か、サア此旗を立直さねば吾黨の耻辱である』 一同は鎭《しづま》り返ッた、我れこそと進み出る者が一人も無い、 エンジラの眼《まなこ》は篝《かがり》の火に燦《きら》めいて物凄く光ッた、 彼れは三たび叫ばんとする折しも、靜に彼れの手から其の旗を引取た者が有る、 誰かと見れば、肩に掛かる頭髪は、胸に垂れる髯と共に白く、 一見して餘ほどの老體と知らるゝ翁《おきな》である、 此の翁《おきな》は是れ書を讀むのと植木に手入する外に、 用事も無く暮して居た彼の眞部《まなべ》老人である、 八十を越えた此翁を革命軍中の人と爲らしむるとは、 政治が世の中を何れほど苦しめて居るかゞ察せられる 翁は大旗を持たまゝ無言で堡壘《はうるい》を上り初めた、一段又一段、踏む足も確かである、 一同は之を見上げて、深く尊敬の念を生じた『脱帽せよ、脱帽せよ』との聲が幾人かの口より出た、 聲と共に一同は帽子を脱ぎ、無言の中に敬意を表したが、 其中に翁は頂邊《ちやうへん》に達し、確《しか》と旗竿を推立てゝ自ら之に縋り、 暗に透して雲の如く集まッて居る敵を見降した、實に壯烈の光景である、 下に燃る篝《かがり》の火は、風に吹かるゝ翁の長き白き頭髪を照し、 人をして是れ天より降りし神の姿なるかと疑はしめた、翁は響き渡る聲で三呼《こ》した 『共和政治萬歳、革命黨萬歳、同胞??平等??然らずば死』と、 其の聲の絶えぬうち敵の丸《たま》は翁の一身に集まッた、翁は仆《たふ》れた、 血塗れの死體と爲て壘の中なる一同の足許に落ちた、 エンジラは直に死體を抱上げて其の額に接吻し、且血に染みた翁の服を指し示して 『此の勇氣こそは、八十の老人が吾々廿歳の青年に與へる教訓です、 此血に色を爾來吾黨の旗色と定《さだめ》ませう』 ▲其六 守安來る 敵は引續いて堡壘《はうるい》に肉薄した、 眞部《まなべ》翁の今の行ひに氣の立た青年等は壘の外に躍り出でゝ敵を仆《たふ》し又敵に仆《たふ》された 躍り出た中には彼の守安の同宿者 近平《ちかへい》も有た、小僧三郎も有た、 三郎は自分の力に餘るほどの蛇兵太《じやびやうた》の銃を持ち、 自分を目掛けて飛掛らうとする一兵を狙ふて射たが、悲しや此銃には彈藥を籠めて無いかッた、 近平《ちかへい》の方も敵幾人を仆《たふ》したけれど、 終に敵の筒先に立た、斯う成ては全くの混戰である、最う小僧も近平《ちかへい》も、 敵の狙ひ定めた一發で射殺されるのみの場合と爲た、 此時誰か横手から、先づ小僧を狙ふて居る一人を射仆《いたふ》した次に近平《ちかへい》の敵を射仆《いたふ》した者が有る、 二人ともに、無い命を救はれたのだ、誰かと見れば守安である 彼れは一挺の拳銃を以て居る、是れも實は蛇兵太《じやびやうた》の物である、 曾《かつ》て白翁と手鳴田との事件の時、合圖の爲にとて蛇兵太《じやびやうた》より渡されたのを、 今其まゝ持て來たが、幸ひに此方は實彈を籠直す丈の手數を思[誤?:怠]《おこた》ら無かッたのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十二 軍中雜記 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- ▲其七 堡壘《はうるい》將《まさ》に落ちんとす 一揆軍は能く戰ふた、堅くエンジラの命を守り、敵を眼前へ引附けねば彈丸《たま》を放たぬ樣にしたから、 隨分倒されもしたけれど彈丸《たま》の割合に多く敵を倒した けれど無益である、敵の數は味方の數に十倍して居る、 味方は段々に追詰められ、詮方なく酒店《さかみせ》の窓の外から敵を狙撃すると云ふ有樣とは爲た、 敵は次第に堡壘《はうるい》の中に入り、殆ど堡壘《はうるい》の全體を占領した、 此時に目覺しかッたのは、敵を一撃に追散した守安の働きである ▲其八 守安の非常手段 守安は既に小僧三郎を助け、近平《ちかへい》を助け、一廉《ひとかど》の手柄を現したが、 彼れの拳銃《ピストル》に籠ッて居る丈の丸《たま》は間も無く盡きた、 彼れは初から命を棄る覺悟で居るから、堡壘《はうるい》の最早や陷らんとするを見て、 花々しく死ぬる積りと爲り、直《たゞち》に酒店に引返し、店の隅に火藥を盛た樽の有るを見、 其まゝ之を擔《かつ》ぎ上げて敵の中へ躍り出た 此の一樽の火藥が破裂すれば敵も味方も微塵と爲り、 死骸も殘さず死で了ふのだ、此の凄じい劍幕に、見る者は皆 逡巡《しりごみ》した、 彼れは樽を篝火《かゞりび》の傍に据ゑ、自ら燃差《もえさし》の薪《まき》を頭上に高く振上げ、 樽の上に立上ッて『サア敵も味方も己《おれ》と一緒に死ぬるのだ』と大聲に[口|斗]《さ》けんだ、 威しでは無い眞の決心である、此の危險極る状《さま》を見て、 政府の雇兵等が何うして恐れずに居る者か、彼等は人波を打て崩れ去ッた 壘の中に敵は一人も居ぬ事に成た、敵は皆、初に居た町の角まで退いて、 其方《そこ》から遠く此壘に對した、容易に再び進まうとはせぬ、 此 状《さま》を見て主領のエンジラは、手を取て盛りやを樽から卸し 『アヽ我黨には何うして斯も勇士が揃ッたゞらう、先刻の眞部《まなべ》老人と云ひ君と云ひ敬服の外は無い、 今から君を我黨の首領に仰がねば成らぬ、流石に君は本田大佐の子息である』 全く盛りやは父の勇敢な氣質を受て居る、今までは自分でも知なんだが、 斯うして戰場に立つと、自分の心の底に、何やら自分の氣を引立る樣な強い力が動いて居る、 盛りやはエンジラに謝し『吾輩を首領などゝ其樣な事が有る者か、 併しお互に死ぬるまで戰ふより外は無いのさ』アヽ死ぬる迄、死ぬる迄、 其の死ぬと云ふ強敵が斯う云ふ間にも守安の身邊《しんぺん》に附纒ふて居た ▲其九 身代に立つは何者 誰も知ぬけれど敵兵の中に一人、逃後れて堡壘《はうるい》の間に隱れて居た奴が有る、 此者は守安が火藥の樽から降たのを見すまし、密《ひそか》に銃を取上げて充分に守安を狙ふた、 卑怯な狙撃では有るけれど政府方には珍しい勇士と云ふ者だ、 爾して彼れは萬に一つも射損じの無きを確めて射撃した 發射の其の瞬間に、又誰だか横合から手を延べて其の筒口に飛附た者が有る、 確に守安を助けんとの爲で有らう、其の爲に守安は助かッた、 けれど其者は守安の身代りに丸《たま》を受たに違ひ無い 此 銃聲《つゝおと》に驚いて、居合す人々『ヤ、ヤ、那《あ》の樣な所に狙撃兵が居た』 と叫び、其所《そこ》へ馳せ附けたが、射た奴は直に逃げた、 遮ッて守安の身代に成ッた者も轉々と地に落る血の痕《あと》を留めて何所へか去ッた、 けれど能くは事の有樣を見なんだ人が多いから、 果して誰れが遮斷《さへぎつ》たのかと、深くは詮議をせずに止んだ ▲其十 血に染みた少女 後に守安とエンジラは、再び敵の推寄るに備へる爲め種々の工夫を廻らせ、 且は怪我人介抱の爲め、酒店の中へ手當所を設け、看護人をも選び定めた、 爾して守安の方は、外の容子を檢《あらた》める爲め、再び町に出て行つた 正面の備は、堡壘《はうるい》が有るから、先づ行屆いて居ると云ても好いが、 側面は何うだらうと、守安は附近の路次の樣な所へ入り、彼れ是れと見廻ッた上、 獨り薄暗い街燈の下を歸ッて來ると、何所からか最《い》と實《じつ》ない微《かす》かな聲で 『オヽ守安さん』と呼ぶのが聞えた、振返つたけれど何者も見えぬ、 或は自分の耳に欺《だま》されたかと、又立去らうとすると又呼んだ 『守安さん、茲ですよ』聲は横手の軒下から來る樣だ、其の方へ向て見ると何者か倒れて居る、 扨《さて》は怪我人かと、傍に寄りて俛向《うつむ》くと 『守安さん、姿が變て居るから私しが分りませんか、疣子ですよ』 成るほど疣子である、職工の服を着けて居る、守安『何うして貴女が此樣な所に』 疣子『ハイ死掛けて居るのです』見れば着物にも血が浸みて居る、 守安は不憫に思ひ『手當所へ連て行て上げませう』とて其手を取ッた、 疣子は泣く樣な聲で『痛い、痛い、其所《そこ》は放して下さい』 守安『アヽ手の先を怪我しましたか』疣子『ハイ手の掌《ひら》を鐡砲の丸《たま》で』 守安『オヽ手の掌《ひら》を、其れは最も痛い所だと云ひますが、何うして先《ま》ア』 疣子『先刻、壘《とりで》の間から貴方を狙ッて居る奴が有りましたから其の銃《つゝ》の先へ飛附きまして』 守安は薄々と知て居る、扨《さて》は此身の身代りに此疣子が立たのか [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十三 軍中雜記 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 今發射すると云ふ鐡砲の筒口に手を當てゝ自ら自分の身を傷つけるとは、 何と云ふ愚かな業《わざ》だらう けれど其の胸中を察すれば實に憐む可きである、 疣子の心には唯だ守安を助け度いと云ふ一念の外には何にも無いのだ、 守安の命を取留める爲に自分の命を捨てやうとしたのだ 守安の心中には小雪より外の女を容れる丈の餘地は無いけれど、疣子の此 状《さま》を見、 此の言葉を聞ては深く感じた『アヽ貴女は飛だ事をしましたねえ』 とは云へ守安自身とても、其の同じ飛だ事をする爲に茲へ來て居るでは無いか、 小雪を思ふて其の愛の遂られぬ爲め、死ぬる氣になつて此の軍《いくさ》に加ッて居るでは無いか、 疣子は辛い呼吸で云ふた『イヤ之が本望です』守安『併し人は手の掌《ひら》を射貫れた丈では死はしません、 何うかして手當所へ連て行て上げませう』全く何うかして助けねば成らぬ、 昔し戰場で我父を助けた其の恩人の娘である、疣子『イイエ何うしても私しは助かりません、 丸《たま》は手の掌《ひら》から入つたけれど背中へ廻つて來て拔けましたから』 成るほど爾でも無ければ是ほどの容體にはならぬ、守安は唯ウロウロした 疣子は言葉を繼いだ『私しは射られてからやつと茲まで來ましたが、 最う動く事が出來なくなりました、是で貴方の顏を見ずに死ぬかと思ふと悲しくて?? 其れに痛みも段々重くなり、私しは自分の袖を食裂いてやつと我慢して居たのです、 貴方がお出で下さつたは、天が未だ私しを捨ぬのでせう、 守安さん外にお願ひは有りませんから、何うぞ茲へ据つて、 貴方の膝を假《か》して下さい守安は大地に坐して疣子の頭を膝に載せた 『アヽ是で傷《いた》みも忘れました、お醫者樣も何も要りません、守安さん、 私しは罰が當つたのです、貴方が夜々《よな/\》ブルメー街の那《あ》の庭へ忍び込むのが私しは腹が立て、 時々惡い了見を起しました、今夜は貴方が失望してお死に成さる氣をお起し成さッたと見ましたから、 其れで貴方へ此の壘《とりで》を教へて上げたのです、此 壘《とりで》へ來れば最う活てお歸り成さる事は無いと、 ハイ私しは貴方の寧《いつ》そ死ぬるのを祈りました、 貴方が死ねば私しも氣が樂になるのです、其れでも人が貴方に鐡砲を向けて居るのを見ると、 耐《こら》へて居る事が出來なくなり思はず知らず其の筒口へ取縋りました』 是だけ云ふて息が絶えたかと思はれたが又聲を出し『貴方も何うせ死ぬのでせう、 皆なが死ぬのでせう、オヽ嬉しい、私しは喜んで死にますよ』と言掛けたが、 自身の動く爲に又も痛みが冴返たか『オヽ痛、痛』と息に詰る樣に云ふて再び袖口を[口|齒;u5699]《か》み裂いた、 切《せめ》ては此の痛み丈も弛めて遣る工夫はと守安は空しく四邊《あたり》を見廻したが、 此とき壘《とりで》の邊《ほとり》から、小供の聲で例の軍歌が聞えた疣子は耳を立て 『アレ私しの弟ですよ、何うか弟に見られぬ樣に死に度い』 守安『エ、弟とは』疣子『三郎と云ふ小僧です、此 壘《とりで》へ來て走り使ひをして居るのです』 驚いて守安は身を動かした、疣子『少しの間です、何うか行かずにお待ち下さい、 私しは死ぬ前に白状が有りますから』人の臨終の白状は神聖である、誰とて尊敬せぬ譯に行かぬ、 守安は容《かたち》を正した、疣子『昨日です實は那《あ》の方が、 お引越し成さる時、私しへお手紙をお預け成されました』 那《あ》の方とは小雪だらう、疣子『其手紙を私しは、 貴方へは渡さぬ積りで居ましたが、其樣な罪な事は出來ません、 今私しの衣嚢《かくし》の中に在りますから、何うぞ取出して下さい』 と云ひつゝ、力の無い手で守安の手を持添へて自分の衣嚢《かくし》を探らせた、 成るほど中に手紙の樣な者が有る、守安は其れを取出して自分の肌に納めた、 讀み度いけれど眞逆《まさか》に此の死際の人の前で讀む譯には行かぬ、 疣子は再び息が絶えた、併し三たび又口を開き、今度はヤッと聞取れる程の聲で 『私しに約束して下さい』守安『エ、何と』疣子『約束を、約束を』 守安『ハイ約束します』疣子『私しの死んだ後で、何うぞ私しの顏にキスして下さい』 之れが疣子の最後の言葉である、承知する守安の返辭が聞えたか、聞えぬか、 ニッと笑まうとして、笑む力も無く事切れとは成ッた 此樣な不幸に終る戀が世の中に少くは無いとは雖《いへど》も、 誰だとて之を聞て、可哀相と思はずに居られる者では無い、守安は何と無く胸が迫ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十四 軍中雜記 五 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 父母の因果が子に報ゆとは、今死だ此の疣子などが一例である 別に賞《ほ》める程の女でも無からうけれど、父母の境遇が境遇だから、 此樣な事に成り果てたのだ、若し相當の家庭に育ッて居たなら、 何も人の軒下で此樣に死ぬる仕誼《しぎ》とは成らなんだで有らうに けれど疣子は自分の戀慕ふ人の膝を枕にして死んだ、 死んだ其の顏には微《かすか》に笑《えみ》が浮んで居た、 先づ心だけは滿足な往生を遂げたのである、定めし彼は長《とこし》へに守安の膝を枕にした夢を見て、 喜んで居ることだらう 守安は其死顏を見て二度三度嘆息した、彼れは大變な約束を持て居る、 此の死顏に接吻せねば成らぬ、是をするには小雪に對して不實に當るのでは有るまいか、 けれど彼れは疣子の額に接吻した、詩人が云ふのに、 死際の望を果して呉れゝば死骸でも能く其れを感ずると云ふ事だ、 疣子の死骸は果して此の接吻を感じたで有らうか、何だか知らぬが、 其の顏の笑《えみ》が一入《ひとしほ》深くなッた樣に見えた、 守安は目を塞いで立上ッた 彼れの心には、今、氣に掛ッて成らぬ一物が有る、 其れは疣子の衣嚢《かくし》から受取ッた手紙である、 多分小雪が寄越したのに違ひ無い、早く讀み度い、 けれど眞逆《まさか》に疣子の死骸の傍で讀む譯には行かぬ、 茲で讀むは罪の事の樣に感ぜられる 其れに疣子の死骸をも此まゝに捨て置く譯に行かぬ、 彼れは思案しつゝ壘《とりで》に歸り、人に命じて片附けしめた、 爾して物影に行き彼の手紙を開いた、果して小雪の手紙である、 昨日《きのふ》ブルメー街から引越すに當り、取敢へず此事を知らせやうとて書たのだ、 其の文言は 『ベレリー街乎《か》十六番地 近平《ちかひら》氏方にて本田守安樣 戀しき君よ、悲しや父は直《たゞち》に移轉《ひつこ》すこととなり申候、 取敢ずアミー街七番地に落着き申す可く、其の所にて用意を調へ、 一週間の中に英國へ渡る由《よし》を只今申聞けられ候     七月四日              小雪 と有る、一週間の中に婚禮の手續を運んで呉れとの意が、文字にこそ無けれ、 文字に裏に潜んで居る樣に守安は感じて、幾度も手紙の面《おもて》に接吻した 何うして此手紙を疣子が預つて居たかと云へば、多分疣子は半ば嫉妬の心から、 絶えず小雪の家の邊《あたり》を徘徊して居たのだから、小雪は爾とも知らず、 通例の貧民の子の樣に思ひ之を托したので有らう 守安は幾度も讀み直して考へた、けれど是が爲に自分と小雪との間に關所が無くなつて了ふ譯でも無い、 何うしても小雪と婚禮する道は無いのだから自分は矢張り死ぬ外は無い、 彼れは却て益《ますま》す自分の死を早める心になり、頓《やが》て手帳を取り出して、 紙を引割き『余は本田守安なり、余に死骸は貴族桐野家へ運び行き、余の祖父に引渡さる可し』 との遺言を認《したゝ》め、死だ時に直に檢屍者の手に渡る樣に、 腰の衣嚢《かくし》に之を納めた、爾して次には又、小雪への手紙を書た 小雪嬢よ、余の祖父が到底承諾せざる故、余は御身と婚禮する道を失へり、 余は御身の前にて吐たる言葉を守り、是より茲に死するなり、 去れば嬢よ、余の魂は御身の傍に行き絶えず御身の爲に幸ひを祈る可し 斯う書いて扨《さて》誰に持せて遣らうかと考へたが、アヽ爾だ、 小僧三郎に托すれば好い、彼れは疣子の弟である、手鳴田の息子である、 手紙を持たせて此の壘《とりで》から去らしむれば彼れの命を助けるにも當るのだ、 一擧兩得と云ふ者だ 直に守安は小僧を尋ねて、其の使ひを言附けた、小僧は少し考へて 『貴方は私しの命の親です、恩人の言葉には背かれませんが、 其れでも今去ては國家の爲に戰死する事が出來ません』 小僧は飽く迄も革命家の口吻を學んで居る、守安『今夜、此手紙を持て出て、 明朝宛名の所へ屆けるのだよ、今夜は先刻敵が退却したから、推寄せる事は無い』、 小僧『では明朝持て行きませう、此 堡壘《はうるい》に不慮の變の有つたとき、 小僧一人と雖《いへど》もです』守安『イヤ今夜は推寄せはせぬとは云へ、 段々に敵の配置が嚴重になる、明朝では脱け出る事が出來ぬかも知れぬ』 小僧は考一考して『爾だ吾々の主領エンジラが、先刻貴方を今からは我黨の大將だと云ひました、 大將の命令に負《そむ》く者が有ては軍規が紊《みだ》れる、小僧は直に行きませう』 言葉の終ると同時に飛んで去たは、何と云ふ甲斐々々しい奴だらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十五 軍中雜記 六 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 疣子、守安、小雪、孰《いづ》れも辛い境遇である、其中で、 死で了つた疣子一人が、既に世の苦みを逃がれたゞけ、 活て苦んで居る他の二人より猶だ幸ひかも知れぬ けれど同じ活きて苦んで居る人の中には此二人よりも、 猶ほ辛い地位に立て居る人が有る、其れは戎瓦戎だ 小雪も守安も、苦むとは云へ、愛を得て苦んで居る、戎瓦戎は愛を失つて苦んで居る、 其れに彼れは毎《いつ》も/\身の置處が無いほど危險な境遇に立て居るのだ 戎が小雪を愛するは昨今の事で無い、小雪の母を救ふた時分から因縁が續いて居るのだ、 爾して小雪を育て上げた艱難辛苦は、親身の親とても出來る事では無い、 此樣にして唯だ小雪の爲に苦み小雪の爲に活て居る間に、 愛が益《ますま》す深くなつたのが無理か、彼れは小雪の外に何の慰謝も此世に無い境遇とは成つた、 此の境遇に至つて急[誤?:忽]《たちま》ち小雪の心を他へ奪はれたのだ 彼れは未だ眞に奪はれたとは知らぬ、唯だ庭に怪い名札が落ちて居たので、 若しや奪はれたのでは無いかと疑つた、此疑ひが彼れの身を攻めて居る 此の疑ひの爲に彼れは引越した、けれど未だ此疑ひが解けぬ、 顏にこそ出さぬけれど心の内は燃て居るのだ、所が燃て居る火を更に煽り立てる樣な椿事に又出逢た 小雪の室《へや》に鏡が掛つて居る、彼れは何かの機《はづみ》に、 斜に其の鏡を窺《のぞ》いたが、鏡の面《おもて》に、何處から射すか知らぬけれど、 文字が寫つて居る、其文字は小雪の筆蹟で『戀しき君よ』との句である、 戀しき君、アヽ是れが一通の文句であらうか、彼れは何處から此文字が寫つて來るのかと室中を見廻すと、 小雪の机の上に吸取紙が有る、其の表面に、左文字で『戀しき君よ』云々《しか/\゛》の句が殘て居る、 之は何の爲め、云ふ迄も無い、 手紙を書て早く其の墨を乾かせる爲の吸取紙で押したから紙の表へ其の文字が左に殘て居るのだ 吸取紙を取上げて戎は猶ほ細かに檢《あらた》めたが能くは分らぬけれど、 相思ふ人が有て其れに書を送つたと云ふ事は爭はれぬ、相手は誰だらう、 云ふ迄も無く名札を落て有た守安と云ふ男に違ひ無い、 公園で幾度も見受けた彼の書生なんだ、是れを思ふと何年來、 自分で揉み消して居た心の底の怒りの一念が、自分で制する事の出來ぬ程に湧き起つた 人は一種の獸である、何の樣な善人でも心の底には、獸と同じ樣な盲情が潜んで居る、 唯だ自分で勉め/\て其の盲情を押へ附けるから終に、 枯れ盡して本統に善人とは成て了ふのだ、戎の如きは其の昔は盲情の強い男で有た、 或る場合には人間よりは寧《むし》ろ獸に近かつたと云ても好い、 其れが聖僧は[誤:聖僧の]感化で全く生れ替つた樣に成り、 自分で勉め/\て到頭盲情を押附て了つた、是で最う全く、 善人に成り得たと自分でも思つて居た、イヤ思た計《ばかり》で無く、 確に善人と爲て居るのだ、善人も善人、世に殆ど類の無い善人だ けれど心の底の孰《いづ》れ伴に未だ盲情の根が潜んで居た、 此の根は到底絶える者では無い、絶えた樣に見えても、幾等か殘つて居る、 誰にでも殘て居る、既に殘て居て見れば、時に應じて萠え出ぬとは限らぬ、 火藥は何れほど古びて居ても火に逢へば爆裂する、一旦爆裂した上は最う何れほど燃え廣がるかも分らぬ、 戎が心の底に殘つて居た唯だ一點の盲情と云ふ火藥が、今は火の中に投《くば》つたのだ 猛然として戎が心の底に、烈しい痛みが起きた、彼れは胸を抑へて殆ど悲鳴の聲を發した、 彼れは自分の善心が痛く衝き動されるのを感じたのだ、 彼れが身は既に/\善心と同化して居る、少しでも心中に惡と云ふ心が動けば、 痛みを感ぜずには居られぬのだ、彼れは此まゝ居ては惡心に食はれて了ふと感じた、 人が虎から逃げる樣に彼れは惡心から逃げた、けれど充分に逃げ果せなんだ 彼れは走つて外に出た、爾して家の前に在た小い臺の上に腰を卸し、 獨り首《かうべ》を垂れて呻吟《うめ》き初めた、此時の辛さは他人に想像する事が出來ぬ、 彼れは唯だ胸を撫でて居る、果は茫乎《うつとり》として自分で自分を知らぬ樣な状《さま》とは成つた、 此とき彼れの居る所から幾間か離れた所で、不意に消魂《けたゝ》ましい物音がした、 彼れは驚いて首《かうべ》を上げた、見ると一人の小僧が、 街燈《つじらんぷ》に石を投げて其の硝子を碎き落したのだ、 小僧は物識顏に吼《ほざ》いて居る『吾々革命黨が旗を揚げて居るのに、 市民が現政府の街燈《つじらんぷ》に照されて居るとは怪《け》しからん、 昔から革命の時には一番掛に街燈《つじらんぷ》を毀《こは》した者だ』 戎は乞食の小僧が、食ふに困つての惡戯《いたづら》だらうと思つた、 彼れは何の樣な場合でも涙が有る、 直に衣嚢《かくし》から五法《ふらん》の銀貨一枚を取出して小僧の前に差出た、 小僧は此樣な大きな銀貨を初めて見た、殆ど我れ知らずの樣に受取つて、 戎の住居《すまゐ》の窓から差す燈火《あかり》を熟々《つく/\゛》と眺めたが忽《たちま》ち氣が附き 『イヤ吾黨は賄賂は受けぬ』とて返さうとした、戎『お前には阿母《おつかあ》が有るだらう』 小僧『有るとも』戎『では阿母《おつかあ》に旨い物でも買て喰させるが好い』 小僧『幾度賄賂を呉れたとて、町の硝燈《らんぷ》を毀《こは》さずには居られ無い、 此樣な時に腹癒《はらいせ》せねば』戎『硝燈《らんぷ》は幾等でも毀《こは》すが好い』 小僧『オヽ伯父さんは話せるなア、其れでは貰つて置かう』と云て直に去り掛けたが 『オヽ嬉しさに用事を忘れては大變だ、伯父さんお前は此町の七番地を知て居るかえ』 七番地は戎の家だ、戎は忽《たちま》ち氣が附た『己《おれ》は先ほどから手紙を待て居るのだが、 お前が其の使では無いのか』暗の鐡砲が當つた、小僧『だつて伯父さんは令嬢では無いぢや無いか』 戎は益《ますま》す見當が附た『ナニ小雪嬢に代つて己《おれ》が待て居るのだよ』 小僧は手紙を取出して眺め『オヽ小雪嬢、小雪嬢、では伯父さんは此手紙が、 シヨベリーの堡壘《とりで》から來たと云ふ事を知て居るのだね』 戎は少し考へんとしたが直に『知て居るとも』小僧『堡壘《とりで》の誰から』 戎『本田守安からさ』小僧は安心して手紙を戎に渡した、爾して立去つた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十六 軍中雜記 七 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎瓦戎は守安の手紙を小僧の手から受取た、此の受取り方が果して正直な仕方だらうか、 戎の日頃の心掛に對して自ら耻しくは無からうか 彼れは日頃の心掛など云ふ事を全く忘れて居た、 自分のする事が正直で有るか無いかなどの掛念は毛頭も心に浮ばなんだ、 イヤ縦《よ》しや浮んだとした所で、自分で自分の身を、 如何ともすることが出來なんだ 是れほど彼れは小雪を愛して居るのだ、愛の爲に嫉妬が出て嫉妬の爲に目が眩み、 是非も善惡も考へて居られぬ場合と爲り、唯何でも彼でもと云ふ樣に、 分別も思慮も無く、殆ど夢中で手紙を横取して了つた 受取て彼れは自分の室《へや》に入り硝燈《らんぷ》の下《もと》に開き讀だ、 何も彼も合點が行た、全く小雪は守安と云ふ者と夫婦の約束までして居るのだ、 此樣な意外なことが有らうか、戎は腹の中が煮返る樣な思ひで顏も紫色と爲た、 アヽ戎よ、汝が曾《かつ》て受けた聖僧ミリイルの大感化は最早や汝の身に消て了つたのか、 餘り情け無いでは無いか、汝が今までの月又月、年又年に、辛苦し艱難し、 自分で自分の身を詰めて唯だ正直に、唯だ慈悲深くとのみ勉めたのは、 此樣な場合にも、將《は》た何の樣な場合にも、人間の道を踏外さじと期する一念の爲では無いか、 六十年の今に及んで年又年の難行苦行を水の泡には爲して了ふのか、 小雪と云ふ一少女の愛の爲に、イヤ愛に似たる痴情の爲に、アヽ戎よ汝は痴情である、 汝自ら、今は自分の心中を考へ見る遑《いとま》なくとも、 痴情より外では無い、自分で痴情と云ふ事を悟らぬだけ汝は既に墮落して居る 戎は手紙を攫み破らうとした、けれど又讀み直した、事柄は益《ますま》す明白だ、 守安と云ふ少年が、小雪と婚禮したいけれど父の承諾を得ぬ爲に婚禮が出來ぬのだ、 此の心は割合に正直である、爾うして其の絶望の爲に軍《いくさ》に加はッて命を捨に掛て居るのだ、 手紙は即ち其の暇乞である 誠に戎に取ては是ほど都合の好い事は無い、 此手紙を握り溢[誤:潰]《つぶ》せば其れで何事も圓滿に治まるのだ、 一旦軍中に投じた守安が活て逃れ出る筈は無く、 多分今夜の未明けぬうちにも冥府《あのよ》の人と爲るだらう、 戎は小雪を連れた儘で外國へ行けば好い、 其れで無くとも彼れは外國へ行く積りで居るのだ、 小雪にも其事は言聞けて既に其れ/\゛の用意さへ多少は運んで有る、 アヽ戎が此手紙を横取した爲め、何も彼も自分の爲に都合好く纒ッて了ふ事には成ッた 爾うさ、都合好く纒ッて了ふけれど、其代り戎の直打ち[誤:値打ち]其れ切りで無くなるのだ、 聖人にも成た程に思はれた戎が、唯の俗人になッて了ひ、 若し神の目から見れば昔の戎と何の違ひも無い事になるのだ、 彼れは此事を知て居るのか 心の中は分らぬけれど、彼れは暫《しば》し手紙を見詰めた上で、 飜然と悟た樣に跳ね上ッた『エヽ』と彼れは悔し相に呟いて起ち、 暫《しば》し室《へや》の中を見廻したが、直に一方の箪笥を開き、 其中から取出したのは護市兵の制服である 彼れは兼て護市兵の服を持て居る、市民として之を持たねば市民で無い、 彼れは公權の無い身分で、市民とは云はれぬけれど、彼れは市民の樣にして居る、 市民のする丈の事は行ふて居る、其れに姿を替へる爲から云ふても斯る制服の必要が有ッて、 其れ故兼て用意して置いた、彼れは直に之を着けた 何の爲だらう、此服さへ着けて居れば今夜の樣な物騒な晩でも、 警官や官兵に咎められずに町を何處へでも行く事が出來るのだ、 彼れは直に家を出た、彼れは何處へ、何をする爲めに、行く積りだらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十七 軍中雜記 八 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- ▲其十一 人心の美しさ 護市兵の服を着けて戎は何の爲め何處を指して行たゞらう、 彼れの姿は靜な町の暗の中に隱れて了ッた、此時は夜の十二時を過ぎて居る 此時、彼の青年革命黨の堡壘《はうるい》では、首領エンジラの差圖に依り、 明朝官兵の再び推寄せる迄にとて、 堡壘《はうるい》の修築を初めたが武器の不充分な一同に取ては堡壘《はうるい》が命の綱だから、 皆熱心に働いて、前に倍するほど堅固な高大な物を作り上げた 首領は之を見廻ッた上、仲間の數を調べて見ると、宵に多勢居た烏合の者は逃去つて、 兼ての同志の中、四十七人しか殘ッて居ぬ、幾等 堡壘《はうるい》が堅固だとて此人數で、 數の知れぬ敵兵を何時まで防ぐ事が出來る者ぞ、彼れは一同に向ひ、 嚴《おごそ》かに自分の決心を陳べた『諸君、官兵が再び推寄れば、 何うで一同が討死です(無論、無論の聲が聞えた) 唯だ此の堡壘《はうるい》は、少しでも官兵に、 革命の健兒が活智《いくぢ》無くは死なぬとの事を思ひ知らせる丈の事です(無論) 爾すれば、何うせ討死するのに、何も多勢の人は要らぬことです、 私くしは一人でも討死します、若し諸君の中に、 少しの人數で此壘を守るのが恐ろしいと云ふ方は手を擧げて戴きませう』 誰も手を揚げる者が無い、首領『然らば諸君、現在に人數を猶ほ減せる必要が有ります、 茲に居る諸君の中には必ず妻子を養ふ義務の有る人が有りませう、 其の樣な人は無益に討死しては成りませんから、今の中に茲を去る事にし、 此の堡壘《はうるい》は、獨身の者のみで守りませう』 流石に首領の言葉である、けれど誰一人『私しは妻子が有ります』と云ふ者が無い、 實に人間の氣が揃ふと云ふ者は恐ろしい、如何に青年革命黨とは云へ、 中には婚禮したばかりの人も有るだらう、又自分が死ねば妻子父母が明日より路頭に迷ふと云ふ人も有るだらう、 一人が叫んだ、『誰も歸らうと云はぬから致し方が有りません、一同が殘りませう』 全く誰も討死を望んで居るのだ 斯くと聞いて守安は進み出た『全く首領の云ふ通りです、一家を養ふ義務の有る人が、 其の義務を捨てゝ戰死するは罪惡です、吾々は共和主義で有りますから、 諸君の中で、立ち去る人を選擧なさい、妻子の有る者は討死の資格が無いのですか』 直に一同は五人の者を選び出した、此五人は討死しては成らぬ人である けれど五人の一人は云ふた『茲から歸れば、歸る道で官兵に捕はれます』 殘る四人も各々云ふた『途中で死ぬよりは茲で討死を』首領は、 無言で退いて直に幾枚の護市兵の制服を持て來て五人の前に投げた 『私しは斯樣な場合を察し、宵に戰死《うちじに》した敵味方の死骸の中から、 制服を集めて置きました、是を羽織て行けば、誰も革命黨の者とは思はず、 官兵だと思て、咎めずに通します、サア』と、促す樣に云ひ、 五人に分て與へんとしたが、生憎に制服は四枚しか無い、 五人の一人は嬉しげに叫んで『私しが殘らせて戴きます』 他の四人も各々云ふた『イエ私しが』『イエ私しが』 何と云ふ立派な覺悟だらう、無事に妻子の傍へ歸り行く道が有るのに皆先を爭ふて討死を願ふとは、 アヽ斯うまで士氣が振て居て、其れで官兵に亡されるとは、 多勢に無勢の爲であるとは云へ、未だ天運が熟せぬのであらうか、 併し能く思へば、斯の樣に固ッた男子の魂が何で無慘々々と殺されて了ふ者か、 此者等は討死するも其の魂は感化として後に傳はり、 終に政府を亡さねば止ぬだらう、眞に魂の籠た理想は、 一人の死ぬる毎に相續する人が出來、一代は一代よりも強くなッて終に何者も抵抗する事が出來なくなる、 是が本統の靈魂不滅と云ふ者だ、自分は死でも、 他の人の心に入り七たびも八たびも生替ッて到頭目的に達するのだ、 現に其の證據は、此の青年等が死だ後で、間も無く革命の目的を達する時が來たので分る 五人で爭ふて遂に決せぬ『其れでは五人の中の誰が殘るか、 其の一人を本田さんに指名して戴きませう』とて守安に頼む者が有ッた 守安自身は、全く死ぬる氣で居るから、最う人情も何も無い 『宜しい私しが指名しませう』とて、彼れは五人の前に立たが、 五人は皆彼れの顏を見つゝ『何うぞ私しを』『私しを』とて銘々に點頭《てんとう》して殆ど媚《こび》を呈する樣に笑んだ、 斯うせられて何の一人を指名することが出來る者か守安は悔しげに叫んだ 『エ、エ、僕は此様に心の弱い男で無い積で有たが、此指名は僕には出來ぬ』 首領の眼《まなこ》には涙が浮んだ、斯うまで人の心に美しい所が有るとは知らなんだ、 他の一同も互に涙を隱した、實は如何とも仕樣の無い場合である 忽《たちま》ち一同の頭《かしら》の上に聲が有ッた『指名に及びません、 五人を皆お歸しなさい』聲と共に護市兵の制服一枚、天から降て來た、 是で五人とも助け歸されることの出來る事とは成ッた、爾るにしても此の制服は何うして天から降た、 一同は顏を見上げた、見れば見知らぬ一人の老人が、自分の着て居る護市兵の制服を脱いで、 人を助ける爲に投げたのである、首領は此人の顏を知らぬ、 彼は守安に聞た『貴方は知て居りますか』守安は老人の顏を見た、誰、誰 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十八 軍中雜記 九 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 其十二 戎瓦戎壘に入る 此老人は無論戎瓦戎だ、無論守安は知て居る、白翁として、小雪の父として 主領に向ひ守安は直に答へた『ハイ知て居ます』守安の一言は誰の紹介よりも力がある、 主領エンジラは喜んで『吾黨の老勇士』と戎を呼んだ、 先刻の眞部老人の勇しい死樣が猶だ主領の目の前に殘て居るから猶更老人を敬ふ心が出たのだらう 其れにしても戎は何の爲に茲へ來た、守安と同じく、絶望の爲に死ぬる積だらうか、 外に目的が有るのだらうか、追々に分ッて來る、併し戎は守安の顏を見ぬ、 イヤ見ぬ振である、直に今選ばれた五人を扶け起し、 殆ど自分の子をもで[誤?:子をでも]扱ふ樣に、其れ/\制服を着せて遣て、 急がせて立去らせた、此行屆いた振舞は一同の好意を得たらしい 其十三 小僧の最後と守安の感慨 間も無く夜は明け初めた、町の二十七箇所に在た堡壘《はうるい》が段々に落た爲め、 茲へ集る官兵が追々に殖え、五時過から攻撃が初まつた、此方《こつち》は只た四十二人、 其れに戎が一人加はつて居る、 少數とは云へ仲々に能く戰かッたが敵は大砲をさへ引て來て堡壘の一角は打毀《うちこは》された 是が最う全く最後だと、一同は血眼で、崩れた堡壘を睨んだが、 大砲に響が鎭《しづま》ると共に、 其の崩れた一角の上に身を現し『心得た、心得た』と敵へ返事する樣に叫んだ一人が有る、 煙と塵とに包まれて其姿は能くも見えぬけれど、聲は確に小僧三郎である、 彼は堡壘の外から這上ッて來たのだ 守安は驚いた、折角彼れを助ける積で、手紙を持たせて外へ出したのに又歸つて來た 『コレ小僧』と守安は呼卸して『汝は手紙を屆けたか』 小僧『令嬢はお寢《やす》み中ゆゑ玄關番に渡しました、程なくお目醒で御覽なさるでせう』 扨《さて》は直々《ぢき/\》に小雪の手へは入らなんだのかと守安は聊か不滿足の感も有る、 又思ふと小雪の父が此壘へ來たのも何か其邊の爲では無からうかとの疑ひも起る 『小僧、汝は那《あ》の老人を知て居るか』とて戎瓦戎を指示したが、 小僧は夜中で有た爲め其顏を覺えて居ぬ『イヽエ知りません』 爾すれば翁が茲で來たのは手紙を見た爲めで無く、唯だ革命を贊成する爲だらうと聊か安心の想をして 『其れにしても汝は、何だッて此壘へ歸て來た』 小僧『吾黨の危急存亡を見るに忍びずです』 守安『コレ生意氣な事を云ふな、最う吾黨は彈丸《たま》さへ盡きたのだから、 汝の樣な者は邪魔に成る、早く何處へでも行て了へ』 小僧『爾聞ては益《ますま》す小僧の働き時です、彈丸《たま》は私しが調達します』 と云ひつゝ彼れは壘の一方の隙《すき》を潜り、彈丸雨中の所へ出て、 敵の死骸の携帶して居る彈《たま》を取り、其の外被《うはぎ》を剥取て之を包み、 急しく壘内へ運び入れ、又出でて又取入れ、殆ど飛鳥の如くに立廻るは何と云ふ甲斐々々しい奴だらう、 けれど彼れは、終に壘の外で敵の丸《たま》に中《あた》つて仆《たふ》れた 仆《たふ》れて直に起上ッたけれど立つ事は出來ぬ、 腹の邊から血が迸しッて居る、彼れは大地に坐したまゝ 『共和黨萬歳』と叫んだ、斯くと見て直に守安は飛で出たが最う間に合はなんだ、 二度目に來る彈《たま》が彼れの眉間《みけん》を射て彼れを仆《たふ》した、 アヽ斯の如くにして大膽な町の子は此世を去ッた、守安は其の死骸を抱上げ 『オヽ三郎、許して呉れ、汝の父の手鳴田は、此守安の父を、 硝煙彈雨の中から抱き出して助けて呉れたと云ふに、 此守安は手鳴田の息子を死した、僅《わづか》に其の死骸を抱き去るのだ』と云ふ、 小脇に挾んで悠然に壘に入ッた、敵は此姿を目掛けて、丸《たま》を注ぎ掛ける程に發射したけれど、 死を決した人には彈丸《たま》が當らぬ 其十四 老勇士の手柄 愈《いよい》よ一同の最後とは成ッた、壘の落るは最う少しの間だ、 主領エンジラは活殘る人々を點檢し『最う家の中へ入り最後の抵抗を試みる外は無い、 サア一同、町の甃石《しきいし》を剥し、此の酒店の戸口へ塀を積むのだ』 直に一同は其命に從ッたが、何人も動かし得ぬ程の大石を手玉に取る如く、 引起し五人前も十人前も働いたは老勇士戎瓦戎の怪力だ、 此時、早既に向側の屋根の上に、上ッて來る敵兵の頭が三人見えて、 屋根から見卸して射撃する積なんだ、 エンジラは之を睨み『エヽ癪《しやく》に障る官兵どもだ』と切齒《せつし》した、 此語を聞くより老勇士は急がしく四邊《あたり》を見廻したが、 他の人々が石を運ぶ爲に、銃を片側に立掛けてある、 彼れは其内の一挺を取るより早く屋根を目掛け、發射し、 先に立つ官兵の制帽を射飛し、次の銃を取つて、 次の官兵の制帽を射飛し、第三の銃を取て三番目の官兵の制帽を射飛した、 此狙ひが若し一寸低かッたなら三人とも一樣に眉間《みけん》を射貫れる所だッた、 けれど敵は三人とも肝を冷して引退《ひきしりぞ》き、 猶ほ其後に續く幾十人も皆屋根から轉げ落ちた、主領は感嘆して裂けだ『拔群の功、拔群の功』と 其十五 戎瓦戎と蛇兵太 少しの間に家の前は堅固な石垣が出來た、エンジラは戎を招き先づ家の中に入ッた、 此樣な勇士を自分の傍から離し度く無いのである、 家の中は既に眷族悉く逃去ッて、殘るものは隅の方に、 高手小手に縛られた彼の巡査部長 蛇兵太のみである、 エンジラは之に向ひ『最う此壘が落ちますから愈《いよい》よ貴方を射殺して上げる時が來ました』 蛇兵太は泰然として『有難う御座います』云ひつゝ戎と顏を合せた、 双方ともに驚いた、只だ其色を面《おもて》に示さぬのだ、 戎はエンジラに向ひ『主領、私しに若し手柄が有るなら何うか其の褒美として、 此者を射殺す役を私しへお命じ下さい』主領『宜しい』 蛇兵太は齒を[口|齒;u5699]《かみ》しめて口の中で 『アヽ此奴《こやつ》が己《おれ》を射殺し度がるは當然だ』全く當然である、 今まで窘《いじめ》られた事を思ふと切《せめ》てもの腹癒《はらいせ》だ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百二十九 蛇兵太の最後 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 蛇兵太は全く戎瓦戎の手に落ちた、之から射殺されるのだ 眞逆《まさ》か家の中では銃殺が出來ぬので、戎は繩の端を取て蛇兵太を引立て家の外へ出た、 外は最う死骸など散亂れて、全く堡壘の落つ間際と爲て居る 『堡壘の落る十分間前に貴方を射殺して上げます』と云た首領の言葉は茲に履行せらるゝのだ 戎は堡壘の方を見た、茲には守安が五六の同士を勵して死物狂に戰ッて居る、 何うした機《はづ》みか守安も此方《こなた》を振向き、 戎と蛇兵太との姿を見た、此時の守安の顏は血塗《ちまみ》れである、 最う輕からぬ手傷を受けて居るらしい、戎は此樣を見て、 顏色を少し變へ少し躊躇したけれど直に守安の方へ背《せな》を向けた 何所へ連て行て殺さうか、最《もう》此壘は四方八方殆ど蟻の出る道も無い迄に圍まれて居るから、 遠くへ行く事は出來ぬ、戎は四邊を見廻したが、向ふの方に路次が有る、 屈強と其所《そこ》に入ッた 路次の中には取片附けた死骸が重り、憐む可き疣子の顏も見えて居る、 其れに目を留めし蛇兵太は『アヽ此子も死だのか』と呟いた 直に戎は彼れを引据ゑ、銃を取ッて彼れの目の前で丸込《たまごめ》して 『コレ蛇兵太、此顏を知て居るか、己《おれ》は戎瓦戎だ』などゝ必ずしも言聞せる必要は無い、 蛇兵太は最後の覺悟を定めた態《てい》で『サア讐《かたき》を打たれませう』と促がした、 けれど戎は銃を置き、更に大刀《ないふ》を取り出して、 其の刄《は》を開いた、アヽ彼れは銃殺に滿足せぬ、切り刻んで腹を癒《い》せる積と見える、 流石の蛇兵太も之には慄《ぞつ》として 『ウム銃を以て人を殺すは、兵士のする事です、 牢破りや盗坊《どろばう》が人を殺すには成る程 刀《ないふ》の方が似合はしいでせう』 無口の蛇兵太が斯まで云ふは能く/\の事である 咄嗟に戎は蛇兵太の背後《うしろ》の廻り、忙しく刀《ないふ》を使ひ初めたが、 高手小手の繩を悉く切り解き『サア是れで貴方は自由です、 何處へでも早くお去り成さい』蛇兵太は立上ッた、けれど餘りの驚きに一語も發し得ず、 口を噤《つぐ》んだまゝ大地を見詰めた、 彼れは生涯に是れほど驚いたことは無い、彼れは深く心が騒いで、 暫《しば》しは自ら推鎭《しづおし》め得ぬ容子である、戎は云た 『最う此壘は逃出る隙《すき》は有りませんけれど貴方は政府の人ですから幾等官兵に咎められても平氣です、 サアお去り成さい、私しは迚《とて》も立去ることは出來ず、 多分は半時間と經ぬうちに此邊で死ぬるでせう、 併し若し私しが活て歸ることが出來ればアミー街七番地の私しの家で、 星部と云ふ名で住で居ますから、毎《いつ》でも捕縛にお出成さい』 吁《あゝ》戎は本統の所番地を教へて居る、彼れは再び自分の家へ歸る氣は無いのか知らん、 其れにしても此の蛇兵太を茲で殺さずに放すとは、餘り愚な仕方である けれど能く思へば不思議は無い、戎の人を殺す事をせぬ、 先刻屋根の上の敵兵を狙撃した時なども、三人をば三人とも其の制帽を射飛した、 彼れの狙ひは驚く可きほど確である、けれど彼れは敵の身體を傷けなんだ、 引續いて今が今まで一方ならず働いたけれど、人を殺すと云ふ事を決してせぬ 其れなら彼れ、何が爲に此壘へ來たのだらう、其れ迄は分らぬけれど、 彼れは人を助けことすれ、傷けるは日頃から忍び得ぬ所だ 漸《やうや》くにして蛇兵太に言葉を發することが出來て 『能く此後を用心なさい』是れが蛇兵太の蛇兵太たる所だらう 『此度《こんど》は汝を捕へるぞ』との語氣が自から現れて居る樣だ、 戎『サアお去り成さい』蛇兵太は去らうとて、思ひ出した樣に振向き 『貴方の住所《すまゐ》はアミー街だと云ひましたね』 戎『ハイ七番地です』放す方も放される方も全く尋常の人では無い 蛇兵太は胸のボタンを掛け直し、着物の皺を伸しなどした末、 悠々と立去ッた、戎は靜に其の後で銃を取上げ、空に向ッて之を發射し、 爾して壘の方に歸り、今しも家の中から出て來た首領に向ひ、 單に『事濟《ことすみ》と爲りました』と報告した、成るほど事濟《ことすみ》に違ひ無い、 イヤ果して是れが本統の事濟《ことすみ》だらうか 其れは扨置《さてお》き、守安は自分の身の危急の場合であるけれど、 散らりと見た蛇兵太の事が氣に掛ッた、彼れは曾《かつ》て蛇兵太から拳銃《ピストル》を借り受け、 其れを還《かへ》しもせずに今まで彼れを避ける樣にして居たのだから、 此樣な際でも聊か濟まぬ思ひが有る、エンジラの姿を見るが否や問ふた 『今のは政府の探偵では有りませんか』エンジラ『爾です、射殺しに連て行たのです』 守安『其の名は』エンジラ『蛇兵太』此問答の所へ丁度戎瓦戎が事濟《ことすみ》の旨を報じて來たのだ、 扨《さて》は早や射殺して了ッたのかと、守安は全身の血が冷くなる樣に感じ、 我知らず身震ひした 是れが自分の死時の來た知らせでは無からうか [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十 守安の最後 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 守安が蛇兵太の既に射殺されたと聞て身震した時が、此 堡壘の亡びの兆《きざし》であつた、 大浪の如く推寄せる官兵は、 後から又後からと重なりて殆ど人を以て町を埋め堡壘を越えて其中に亂入した、 打ち合、叩き合、捻ぢ合、取組み合、殺し合、全く目も當られぬ樣で、 人と人とが犬と犬との如く[口|齒;u5699]《か》み合ッた、哀れ、 死を決して居た守安も遂に其の目的を達した 彼れは何れほど手傷を負て居たかも知れぬ、顏は額も顋《あご》も煩[誤:頬]《ほゝ》も、 虎斑《とらぶち》の樣に血が流れ、身體は縱横に赤い八重襷《やへだすき》を掛けた樣に血に塗《まみ》れ、 其れでも猶ほ手當り次第に人を打仆《うちたふ》して居た、 實に彼れは本田大佐の息子たるに恥ぢぬ、何うして斯く迄の勇氣が人間の身體に備つて居たのか、 傷くだけ強くなり、疲るれば疲るゝほど勇み立つ様に見えた、 全く勇士の魂が血統で傳つて居るのだらう、けれど一人の力が何時まで續く者では無い、 終に彼れは、最後の傷の爲めに仆《たふ》れた 彼れは仆《たふ》れる時、氣が遠くなつた、けれど夢の樣に、 薄々と感覺があつた、アヽ己《おれ》は今死ぬのだと思つた、 殆ど嬉い樣に笑んだ、是れで此世の苦痛が終つたのだ、 彼れは仆《たふ》れても後の口の中で祈つた、何うか小雪の身が此後幸を得る樣にと、 アヽ彼れの心には小雪の事より外は何にも無い、小雪が彼れの命なんだ 女も是れくらゐに人に思はるれば、眞に果報と云はねば成らぬ 祈る言葉の未だ續いて居る中に、誰やら彼れの身に手を掛けた者が有る、 彼れを捕虜《とりこ》にする如く地から攫み上げた、 彼れは目を開いて其人の顏を見る力も無い、 唯だ思ふた、エヽ殘念だ、己《おれ》は死に切れずして敵の捕虜《とりこ》に成たのだと、 若し生返れば更《あらた》めて射殺されるのかと、 何うか此儘に死に度いと斯う思つた儘で後の事は何にも知らぬ、 彼れ將《は》た誰の捕虜《とりこ》と爲たのだらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十一 エンジラの最後 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 此とき守安にも劣らぬほど鬪ふて居たのは首領エンジラだ エンジラは最う如何ともする事の出來ぬ場合と成り、 四邊《あたり》を見廻したが、一人の味方も目に留まらぬ、 今まで見えて居た守安さへも見えぬ、扨《さて》は殺されたか捕はれたのだらう、 愈《いよい》よ己《おれ》も最後が來たと、退いて酒店の戸口に立つた 店の中には彼より先に逃込だ者が幾人か有る、此者等は、 兼て剥取つた町の敷石を擔《かつ》ぎ上げて二階から官兵の群がる頭上に投降すなど目覺しく働きつゝも、 雨の樣に注ぐ彈丸に一人死に二人死に、段々と減て居る、 エンジラが斯く店先に立た時は生殘ッて居る者が有るか無いか分らぬ程だッた 先づ人を逃がして、一番後で逃延る船長の如く、彼れは戰場を見廻した、 其れと見た官兵の、彼れを戸口へ推詰める積で幾人も詰め寄するを、 彼れは振廻す鐵の棒で横擲《よこなぐ》りに擲《なぐ》り仆《たふ》した、 彼れの鐡砲は最う鐵の棒に代用せられる外は用を爲さぬ、 爾して敵の聊か怯《ひる》む間に、手早く戸の中に入た、 二度目に官兵が、波の如く彼れを襲ふた時は、 早や店の戸が締ッて居た、直に官兵は力を揃へて戸を叩き破り初めた 中に入たエンジラの手際は飛鳥の如くである、彼れは手早く戸を開いて手早く戸を締め、 直に戸を閂木《かんぬき》を指した、戸の中には、 猶だ裏表の町から剥取て來た敷石が塀の如く積重つて居る、 彼れは獨り[口|斗]《さけ》んだ『何うせ死るのだが、手易《たやす》くは死で成らぬ』 此場合に至つても猶ほ絶望せぬは非凡の気骨だ 戸を叩き割る凄まじい音を聞きつゝ、 彼れは床板を取脱《とりはづ》し其身は卓子《てーぶる》を楯に取て立つた、 戸は直に毀《こは》れたが、得たりとて先を爭ふて襲ひ入る官兵の人波は深い床の下へ雪崩の如くに轉げ落ちた、 落た人で床下を埋まつた、埋まつた上に立て這出やうとする頭を彼れは床板で叩き割り又叩き割た、 けれど滾々《こん/\》と盡きずに流れ入る人波には長く抵抗する事は出來ず、 間も無く大勢に取圍まれ、二階へ上る道さへも塞がれて、 唯だ、前に卓子《てーぶる》、背後《うしろ》には壁、 手には持つ床板さへも無くなつた、最う何の武器も無い、 彼れは光る眼《まなこ》で、群る官兵を睨み附けた 是れが彼れの最後の防禦である、斯うなると多勢の人波も却て逡巡《しりご》みする樣に見えた、 指揮官らしい一人は流石に事に慣れて居る『射殺せ、射殺せ』命令と共に、 前より右より左より十餘の銃口《つゝぐち》がエンジラの身に集ッた、 指揮官は又叫んだ『待て』 斯うなれば急ぐ事は無い『打て』の一聲でエンジラの身は微塵と爲て了ふのだ、 指揮官は靜にエンジラに向ひ『貴方は首領ですか』エンジラ『爾です』 指揮官『アヽ年も行かぬに惜い者だ、此場合と爲て許すことは出來ませんから、 切《せめ》て目隱しを施して上げませう』と情深い言葉を吐いた、 眞にエンジラの美しき顏を見れば、誰とて是だけの情は起る、 双方は武器を以て戰ッて居る間こそは、誰を射殺すにも何の容赦とて無けれ、 誰[誤:唯]だ一人、寸許《すんきよ》の武器も無く銃先《つゝさき》に立つて見ては流石に忍びぬ所が有るから、 切《せめ》ては惡怯《わるび》れる醜態も丈を除いて遣らうと、 目を隱して遣る心にも成るのだ、エンジラは何と云ふ豪膽だらう 『イエ其れに及びません』言切ッて瞬《またた》きもせず靜かに多くの銃口《つゝくち》を眺めて居る [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十二 堡壘の最後 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 今まで大浪の打返す如く騒々しかッた四邊が、 此樣に一時に靜り返ッた、誰れ一人足踏む音をさせる者も無い、 眞に物凄いと云ふは此時の光景だらう、 此光景の中へ忽《たちま》ちエンジラの前の卓子《てーぶる》の前の卓子《てーぶる》の下から這て出た男が有る、 此奴《こやつ》は昨日泥醉して首領の言葉をも聞かずに寢込んだグランタと云ふ者である、 彼れは天地も覆《くつが》へる許りの騒ぎの中に二十四時間眠り通したが、 此の突然の靜さに目を覺すた、宛《あたか》も汽車の中に眠る客が、 車の走る騒しさに目覺めずに車の留まると同時に目を覺す樣な者である 彼れは目を到[誤?:刮]《こす》ッて四邊《あたり》を見、 忽ち驚いて頓狂な聲で『共和政治萬歳』と叫んだが、 更に首領エンジラの容子を見て一切の事情を呑込んだ 『首領よ、約束の通り一緒に死にませう』 エンジラは可笑さを催ほしたがニッと笑んだ、 直に此方《こかた》の指揮官から『打て』との命令が發した、 一時に發する十餘の銃聲と共にグランタは空中に跳上ッて落て死にエンジラは笑顏のまゝで壁に粘着して死んだ、 一は滑稽、一は見事な死様である、間も無くエンジラは首《かうべ》のガックリ垂れると共に斃れた、 是で頑強なシヨヴリの壘は落ちた 併し猶だ一人、何うなたッか[誤:なッたか]と、 讀者に行方を怪しまれる人が有るだらう、其れは『哀れ戎瓦戎』と題する次の章で説く [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十三 哀れ戎瓦戎 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 守安の仆《たふ》れたとき、誰だか來りて彼れを捕へたことは既に讀者の知る通りである、 其とき守安は未だ死切らずに居て夢の樣に思ふた『アヽ己《おれ》は敵に捕はれた、 之で生返れば更に銃殺せられるのだ、何うか此まゝで死ねば好い』と 彼れは其の望みの通り死で了ッたのだらう、自分でも何事をも知らなんだ 全く彼れは捕虜と爲ッた、けれど敵の捕虜では無かッた、彼れを捕へたのは敵兵で無く、 戎瓦戎だ、彼れは戎瓦戎の捕虜と爲ッたのだ 嗚呼、戎瓦戎は何の目的で此の堡壘へ來たのだらう、 彼れは戰ふけれど、人を殺すと云ふ事は決してせぬ、 彼れは幼い頃から射撃の名人であッた、貴族の所有する山林に忍び入て、密獵などして居た爲に、 少しの罪をも最《い》と重く沒せられるに至ッた次第は此書の初に説いた通りだ、 若し彼れの精密な狙ひを以て敵を射殺す氣になれば幾十人の命を奪ひ得たかも知れぬ、 けれど彼れは其れをせぬ、萬々止むを得ずして屋根の敵兵三人を射たときなども、 三人の帽子を一樣に射飛ばして逃げしめたに留まる、 彼れは人を助ける外に目的は無い、彼れは全くの慈善家だ、 善人の中の善人だ、此の堡壘へも人を助ける爲に來た、 殺す爲に來たので無い 茲へ來てから彼れが何れほどの事をしたかは、誰も知らぬ、 銘々皆戰ひの方にのみ氣を取られて、戎のする事柄に振向いて見る暇が無かッた、 けれど戎は誰にも出來ぬ事柄を、誰よりも餘計に勤めて居た、 彼れは仆《たふ》れる人の有る度に、直に其の死骸の所に行き、 之を抱き上げて人の邪魔に成らぬ樣な所へ運んで行き、 死骸は死骸で積み重ね、猶だ命の有るのは其の創《きず》に繃帶を施したり、 痛む所を撫でゝ遣たり、今の世の野戰病院のする仕事を自分一人で遣て居たのだ、 此の堡壘の落ちて後に、官兵等が殊の外驚いたのは、 死傷者の手當の能く行屆いて居た一事で、今の世までも軍談家の話の種と爲て居る 斯く忙しくは働きながらも、彼れの一眼は絶えず守安に注いで居た、 彼れは誰を助けるよりも守安を助けに來たのだ 彼れの身として守安を助けるとは、人情として出來る所だらうか、 神の外には決して出來ぬ事柄だと云ても好い、守安は何者だ、彼れの敵である、 敵も敵、彼れが掌《て》の下の珠《たま》と育て、自分の命よりも貴しとして居る小雪の心を奪つた敵なんだ、 彼れは之が爲に泣きもした恨みもした怒りもした、 嫉妬の念を燃しもした嫉妬の念に夢中と爲り、守安から小雪への手紙を横取する迄にも至ッた、 けれど彼れの心には清い/\神の樣な魂が住で居た、 彼れは其手紙を揉潰し、其まゝ守安を討死させ、小雪を連れて其身は豫定の通り英國に行き、 何の邪魔者も無い世界で、小雪を自分の者として、安樂に老先を送らう、 と云ふ如き心は毛ほども起らなんだ、若し通例の人の情から云へば、 此の心を起すのが當り前なんだ、殊に彼れと小雪との今までの成り來りを能く思へば、 彼れが斯る心を起したとて、誰が彼れを惡人と云ふ者か、神樣とても咎めはしまい、 一切の事情が斯る心を起せ、起せ、と彼に説勸《ときすゝ》める樣に出來て居るのだものを けれど彼れは此心を起さぬ、守安の手紙を、家に入りて再讀すると共に悟ッた、 殆ど身體の搖ぐほどに且悟ッて且感じた、此の手紙で見れば、 小雪と守安との間には婚禮の約束まで出來て居るのだ、知らぬ間は兎も角も、 既に其れと知た以上は、小雪を我が娘の樣に育て上げた此身として何うして知らぬ顏で居られやう、 何だ何でも守安を助けねば成らぬ、助けて小雪と夫婦にして遣らねば成らぬ 辛い思ひでは有るけれど、若し此まゝに守安を死なせては、小雪の生涯の幸福を死せるのだ、 此身が眞に小雪を愛する上は、小雪の心を此身の心とせねば成らぬ、 小雪が守安の死を悲しむだけ此身も守安の死を悲しみ、 爾して縦《よ》しや救ふことの出來ぬ迄も救ふに力を盡して見ねば成らぬ、 自分の身は彈丸に當ッて死するとても、厭《いと》ふて居る場合では無い 此の心が神の心とも云ふ可きだらう、人間には有り得る心で無い、 彼れは少しの間に此の心が決した、直に其れ/\゛の用意をして戰場に馳せ附けた けれど能く思へ戎、餘り輕はづみと云ふ者では無いか、戰場で若し丸《たま》が中《あた》り、 自分の身が守安と共に死で了へば何うする、小雪は此世に唯だ一人の孤兒と爲るでは無いか、 誰が小雪の後々の幸福を計ッて遣るか、實は彼れ自らも此樣な事を思はぬでは無い、 けれど仕損じの有ることを口實として、 當然の務めから逡巡《しりごみ》するのは眞の義人で無く眞の善人では無い、彼れは堅く信じて居る、 自分の身に少しも蟠《わだか》まる私心が無くして唯だ善心の一心に凝固まッて猛進すれば必ず神が守護して下さる、 彈丸の中《あた》るのは心に黒い所が有るからの事である、 白い中に黒い所を點ずるのは無形的と云ふ者だ、若し丸《たま》が當るなら、 心の黒い所が取り切れぬ爲である 何と云ふ確信だらう、けれど彼れは縦《よ》し自分が死だとて、成るたけ小雪の困らぬ樣に、 出來る丈の手當をして家を出た、 自分の心に若し黒い所が有るならば射殺されるのが當然であると彼れは殆ど安心して居るのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十四 哀れ戎瓦戎 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 常に一眼を守安に注いで居た戎瓦戎は、守安が仆れたかと見るか否や直に馳せ行て抱き上げた、 何うか此まゝ何處へか連て行て介抱することは出來まいかと急がしく四邊《あたり》を見廻した 若し、切《せめ》て五分間も早かッたなら或は逃路《にげみち》が有たかも知れぬ、 今は蟻の這出る隙間《すきま》も無い、又若し、此れが通例の死骸ならば、 家の中へ運び入れることは出來やう、けれど之は死骸で無い、 事に依ると猶だ息が殘て居やうも知れぬ、何所か無難な所へ連て行て靜に手當して見ねば成らぬ、 此れを家の中へ連れ入れば必然に敵の手に落るのだ、 家は最う咄嗟の間に敵兵に蹂躙せられるに極て居る、 アヽ、何が何でも敵兵の圍みの外へ逃て出ねば成らぬ、其外には一法無しだ 戎は思案も定まらずに裏町の方へ逃た、纔《わづか》に茲一角の間だけ敵兵が途切て居る、 けれど其れは單に一角だ、右の角へも左の角へも出る事は出來ぬ、 出れば直に捕はれるのだ、殊に此の途切も今一分間か二分間に過ぎぬ、 表から家を攻めて居る敵兵が、裏口からも攻に來るは必定だ、 氣の所爲《せゐ》か知らぬけれど戎の耳には早や敵の士官が『裏口へ廻れ、裏口へ廻れ』 と叫ぶ聲が聞える樣な氣がする、眞に必死だ 何とかして逃ねば成らぬ、其れも今直で無くては成らぬ、戎は前後を見廻した、 前は六階の高い家で、家を隔てた彼方からは雲霞の如く群ッて居る敵の騒ぐ聲が、 波に樣に聞えて居る、彼れは今より八年前、警吏蛇兵太に追詰められて丁度此樣な場合に立た、 此時は小雪を連て居た、今は死骸も同樣の大の男を抱へて居る、 其の時は逃れることが難かッた、今は難いを通り過ぎて全く出來ぬ場合と爲て居る、 其時は繩を捜して尼寺の塀に掛けた、今は繩も無い、其れに目の前に尼寺の樣な無難な所と事が違ふ、 最う萬に一つも逃れる所が無い、空を飛ぶ鳥ならば兎も角、 地を潛《もぐ》る土龍《もぐら》ならば兎も角、人間には絶望だ アヽ此身の運が茲で盡たのかと戎は齒を[口|齒;u5699]《か》んで悔んだ、 最う何うにも仕方が無い、彼れは涙さへも出ぬ乾いた眼《まなこ》で、 眞に悔しさに堪へぬ如く唯だ大地を睨み詰めたが、 地の一方は薄々と異様な一物がはれた、現れたのでは無い、 元から在たのだけれど現れた如くに彼れの眼《まなこ》に映じて來た、 此邊の町も表町と同じく革命黨の剥取た甃石《しきいし》が散亂《ちらば》ッて居る、 其の一個の下に當り頑丈な鐵の格子が有[誤?:見]《み》えて居る、 此の格子は何だ、地下に通ずる下水の樋《とひ》の掃除口である、 格子の大きさは纔《わづか》に二尺四方も有らうか、 彼れは佶《きつ》と之に目を据ゑた 通例の人に取ては、此掃除口が何の思ひ附にも成らぬ、併し彼れは之を見ると共に、 昔し心に浸込んだ脱牢の巧な工夫が胸の底に動いた、 彼れは直に其の所に馳寄り、鐵の格子に手を掛けて引起したが、 重い石も重い格子も彼れの怪力には敵せぬ、間も無く掃除口の蓋が開た 茲に至ると彼れは殆ど狂人の状《さま》である、自分で何をして居ると考へる事もせぬ、 若し考へてすることなら是ほどの力は出ぬ、 何事をも打忘れ全く夢中の有樣で只管《ひたすら》に悶《もが》くから、 人間に無い樣な力も出るのだ、彼れは肱《ひじ》を張り足を延べ、 身を半分だけ其の穴に入れ、穴の四壁を突張て身を支へ、 死骸の樣な守安を肩に載せて地の下へ沈んだ、沈むと同時に、 石の乘た鐵の格子は元の如くに地に伏さッた 嗚呼、戎は下水の樋《とひ》の中に沈んだのである、 是で逃れることが出來やうと思ふて居るだらうか、 何うかすると市中で追詰められた兇漢などが下水の樋《とひ》へ潜り込むことは有る、 けれど下水は逃路《にげみち》の樣に出來て居ぬ、逃果《にげおほ》せることは出來ぬ 其れに巴里の警察は、下水をば惡人を陷《おとし》いるゝ網の樣に心得て居る、 捕物の有る場合には下水に氣を注《つ》け、曲者《くせもの》の姿が紛失すれば其邊の鐵の蓋を引明けて、 下に蹙《すく》んで居る姿を認めて釣り上るのだ、何でも下水の中に落れば、 其處に蹙《すく》んで居るより外仕方の無い樣に出來て居る、 戎は其事を知て居るか知て居ぬか、併し彼れの場合は、 知る知らぬに拘らず下水に潛《もぐ》る外は無かッたのだ、 唯だ此樣な場合に落ちた彼れの身を哀れむ可しだ、 而も自分の爲では無く、唯だ人を助ける爲めに、 唯だ善の爲めに、誠に此の社會に於ては善を爲す方が動《やゝ》もすれば惡を爲すよりも危險である のみならず、下水の樋《とひ》は、巴里の町筋が入亂れて居る樣に、 地の下に於て入亂れて居る、巴里の町は晝間、聞き/\歩んでも道を迷ふことが多い、 況《ま》して地の下の下水の樋《とひ》に入り、四邊を見る明りも無い、 道を問ふ便《よす》がも無い、中には此中へ隱れて其まゝ出る事の出來ぬ爲めに死で了ふも有る、 大掃除の時に何うかすると其樣な死骸が見附かる、 戎は最う死骸と爲ての外は此世に出られぬ者と思はねばならぬ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十五 哀れ戎瓦戎 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 之が地獄で無くては何であらう、深く地の底に埋つた暗い暗い下水の穴、 音も聞えぬ色も見えぬ、唯だ惡臭の鼻を撲《うつ》のみである けれど戎は其の惡臭にすら氣が附かなんだ、唯だ自分の身が地の底に潜り得たのを感じたのだ、 外の事は少しも分らぬ、胸に浮んで來さへもせぬ、アヽ助かつたと彼れは呟いた、 成るほど助つたに違ひは無い、 今が今まで百雷の轟く樣に響いて居た人の聲も銃《つゝ》の音も唯だ遠い震動に樣に聞ゆのみで聞分ることは出來ぬ、 茲は全く人間の世界の外だ、唯だ疑はしいのは活て再び人間に出られるだらうかとの一事である 彼れは兩側の壁を探つて見て、穴の狹いのを知り、 頭の動《やゝ》もすれば支《つか》へるので天上の低いを感じた、 踏む足に答への無いのは下が泥だからである、 爾して足の濡れる樣に感ずるは泥の上に水が流れて居るのだ 唯だ彼れは蹐《しや》がんで居る、守安の死骸は彼れの肩に乘つた儘である 何しろ天地を覆《くつが》へる如き騒ぎの中から一時に此の一物だも動く者なき暗黒の底に落ちたのだから、 餘りの變化に彼れは茫《ばう》として、何事を考へることも出來ぬ、 けれど暫くするうち彼れの眼《まなこ》は暗さに慣れた 幾等慣れても少しの光線も無い所では物を見ることは出來ぬが、 幸ひ今自分の潜つた鐵の格子から少しの光線が洩れて來る、 彼れは茫乎《ぼんやり》と穴の中を見ることが出來た、 けれど目に遮る物は無い、何う見ても逃端さへも無い地獄の底だ 眼《まなこ》の少し明かになると共に、心も聊か動き初めた、 アヽ何處へか逃げねば成らぬ、此儘に居られぬのだ、 若し何者かゞ鐵の格子に目と留めて引開くれば、 此身の命は其れ迄だ、直に捕へられて了ふ、斯ふ思ふと頭の上から落て來る少の明りさへ恐れの種だ、 何處へ逃げやう、何方《どつち》へ行けば好い 何處とて、選ぶ事の出來る場合なら好いけれど、道は唯だ一方だ、 此の下水の樋《とひ》を潜る外は無い 巴里の町數は、八百八町や其處等では無い、其の頃の地圖に依ると二千二百ヶ町あッた、 下水の道も其の町の通りに數が多く、其の町の通りに入亂れて居る、 町の長さは總計で百四十哩《マイル》、下水の長さも百四十哩《マイル》、 此の長い此の亂れた道を、暗《やみ》の中で何うして辿り、 何うして無難な所へ出られる、若し出口が有るとしても出口の在る所には人目も有る、 何處まで行たとて無益《むだ》と云ふ者、然り無益《むだ》でも逃げねば成らぬ 此樣な場合になると戎瓦戎の身には何れほどの勇氣が有るか分らぬ、 彼れは決然として守安の死骸を擔《かつ》ぎ直し、 身を屈めた儘で下水道の中をソロ/\と歩み初めて、 歩んで纔《わづか》に五歩《いつあし》ほど行くと道が曲ッて居る、 此の曲りが全く光線の盡る所で、 宛《あたか》も暗黒を以て垣を作ッた樣に、一種の境が出來て居る、 此の境に入るのは、何だか黒壁へ突入る樣な心がして、 流石に決心した身も、胴震ひがした 眞の暗黒の中に入るのは、人間に出來る業《わざ》では無い、 人間は光線に作られて光線に棲む樣に出來て居る、 暗黒は唯だ恐ろしいのみで無く、何の樣な危險が潜んで居るかも知れぬ、 けれど戎は此の危險を冒さねば成らぬ、暫しがほどに躊躇したけれど、 終に泥よりも濃く壁より厚い暗黒の中に衝《つ》いて入ッた、 若しも足を踏外す様な穴が有つては成らぬ、躓《つま》づく樣な石塊《いしころ》が有つては成らぬ、 一足毎に探り探りて、空氣さへ通はぬと思ふ所を、 死骸の重荷を擔《かつ》いだまゝ屈んだ儘進み又進むは戎ならばこそ出來るのだ 進みながらも彼れは思つた、何でも道の傾いて居る方へ行けば好い、 溷《どぶ》の水でも低い方へ流れるから、傾いた所が下だ、 下へ下へと行くうちには大溷《おほどぶ》へ出られるに違ひ無い、 爾すれば身體を伸ることが出來るのだ 如何に力の強い男だとて屈んだまゝで何時まで堪《こら》へられる者では無い [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十六 哀れ戎瓦戎 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 此時の戎瓦戎の辛さは、唯だ察することが出來るのみだ、筆や口には盡されぬ 彼れは身を伸ることさへも出來ぬ狹い溷《どぶ》の中を潜つて居るのだ、 身には守安と云ふ重荷を脊負て居る、四邊《あたり》は眞暗で、 何方《どつち》へ行つて好いか分らぬ 何うして彼れが、此 状《さま》で幾時間も辛抱出來たのかは不思議である、 彼れならばこそ出來たのだ、彼れは唯だ耐《こら》へて唯だ歩いた、 彼れの足は地の低い方へ向て居る、低い方は溷《どぶ》の下《しも》だ、 下へ/\と行くと大溷《おほどぶ》へ出られるに違ひない、 其時には身を伸すことが出來るのだ、唯だ此だけが彼れの見込である、 身を伸した上で何處へ何う行て助かると云ふ事は毛程も當が無い けれど彼れは歩んだ、彼れの見込は過たなんだ、溷《どぶ》は下手へ行くに連れ、 外の溷《どぶ》と合して幾等か廣くなる、其の果《はて》が漸く直室して歩める丈の所へ來た 先づ有難いと彼れは其の身を引伸した、茲で若し引伸さずば彼れは腰の骨が折れたかも知れぬ、 折れぬ迄も守安を背負た儘で我慢することは到底出來ぬ所であつた、 彼れは一先づ安心した、身體が伸びてさへ居れば猶だ幾等かは我慢出來る、 我慢の續いて居る間へ何處へでも出ねば成らぬ と云て何處へ出ることが出來る者ぞ、地の下幾丈の穴の道で縱横無盡の迷路とは成つて居るだもの、 幾ら行たとて同じ穴だ、出口の有る所では無い、其れに彼れは、身體の伸ると共に自分の空腹に氣が附た、 昨日の夕飯以來、既に十五時間以上、麪《ぱん》一きれも喫《た》べずに日頃の倍も二倍も働いて居た、 其れを思ひ出すと急に身體の力が拔けた、其れと共に又 一入《ひとしほ》、 辛く感ぜられるは、穴の中の空氣の不足だ、何處からか多少の空氣は入て來るの違ひ無いけれど、 幾度も窒息する樣に感ずる場合が有た、今までは爾ほどにも思はなんだが、 自分の呼吸《いき》の切て來るの從ひ、益《ますま》す空氣の缺乏が痛く分る 空腹と空氣の缺乏とに、彼れは目の眩ふ樣に感じつゝも、 猶ほ只管《ひたすら》に進んだ、幸ひにして、空氣は折々新になる所が有る、 多分は何處かの掃除口から洩れて來るのだらう、 けれど光線の洩れて來る所は無い、手探りと足探りとで眞暗の中を、 幾ら進むと云たとて、走る樣には行かぬ、一歩又一歩、 自分の心では幾時間、幾十時間、或は一日以上も歩んだかと疑ふほどに感ずる頃、 下の溷泥《どぶどろ》が次第に深くなつて來た、アヽ彼は本統の下水道の危險な所に出會《でつくは》したのだ 溷《どぶ》の中には所々に深い泥の溜りが有る、之は水排《みづは》けの惡い爲に、 自然に地盤が頽《くづ》れて、陷《おと》し穴の樣になるのだ、 溷《どぶ》を掃除する人足でさへ、何うかすると其樣な泥溜《どぶだま》りに落ち、 共に働いて居る多勢の人に引上げて貰ふのだ、若し一人で落込めば到底身を拔くことは出來ぬ、 けれど戎は此樣な所の有るを知らぬ、泥の段々深くなるに氣が附いても、 今更ら引返すことは出來ぬから、足を泥から引拔ては前に投げ、悶《もが》いて進んだ、 彼れは思ふた、斯う水の深くして泥の多く溜るのは最う此 溷《どぶ》が何處かの河か、 堀かへ[誤?:堀から]流れ出る間際が近いに違ひ無い、 苦しくとも茲をさへ通り鼓せば、廣い水の所へ出られるだらう、 空氣も有り光線も有り、人間社會へ出て行かれる路の有らうも知れぬ、 彼れは此心に勵されて、深く/\泥に沈んだ初は水の深さ二尺ほどで、泥は其底に、 ツイ七八寸で有つたが、水は何時の間にか三尺と爲り、 四尺と爲り、果《はて》は腋まで達するに至つた、 斯うなると早や泥は一尺の上も有る 進むに從ひ、水の深さよりも泥の深さが増して來る、 一方の足を拔き上げやうとすれば、他方の足が力の爲に深く沈む、 漸くに一足拔けば、次の一足は更に拔き難い、 斯樣にして足と共に、身が段々に沈み、 水は上へ/\と澄[誤:登]《のぼ》つて來る、何處まで行けば此の難儀が無くなるだらう、 彼れは知ら[な]んだ、遂に其泥に底の無い所の有ることを 底に有る中に、悶《もが》きながらも足を拔くことが出來るのだ、 底が若し無くなれば、悶《もが》けば悶《もが》くだけ沈み込むのだ、 彼れは此の恐る可き運命の中に溺れて居る [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十七 哀れ戎瓦戎 五 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 世には恐しい事も數々あるけれど、底無の沼に踏込んだほど恐しいことは餘りない、 悶《もが》けば悶《もが》くだけ、其身が沈むのだ 佛國のノルマンデーの海邊には底無沼が澤山にある、何うかすると旅人などが之に陷る、 荷物を積だまゝ馬や車などの落ることも有る、落ちたが最後、 もう助からぬのだ、右の足を拔かうとすれば右が沈む、 一寸、一寸に沈み行きて終に身體全體が泥の底に呑込まれて了ふ、 今、戎瓦戎が丁度此の底無し沼は、沼では無い砂ッ原だ、何故かと云へば、 風が海邊の砂を吹て行て沼の上一面を蔽ふのだ、 其れだから本統の砂地と底無し沼との區別が分らぬ、 砂地の積りで安心して歩いて居ると、次第に下が柔になり、 足が重くなッて來る、けれど其の變化が自然だから、歩んで居る人は氣が附けぬ、 愈《いよい》よ氣が附く頃には最う退《の》ッ引ならぬのだ 少しづゝ地盤が柔かになッて、終には足を四五寸も踏込む所がある、 サア大變だ、オヤ底無し沼に踏込だのか知らんと、 驚いて背後《うしろ》へ引返さうとしても無益だ、 泥が片足を捕へて居る、其の有樣は鳥黐《とりもち》に捕はれた鳥の樣な者だ、 沼の泥は鳥黐《とりもち》よりも粘り、鳥黐《とりもち》よりも力がある 爾して泥は底に行くだけ柔かだ、砂を被ッた上皮を一枚踏み破れば、 下は踏答へが無い、重さの有る者なら内でも沈む、 之が若し水ならば泳ぐことが出來る、泥は人の泳ぐを許さぬ 何うかして身を拔かねば成らぬと人は悶《もが》く、餘り深く沈まぬうち逃れ出ねば、 益《ますま》す沈んで益《ますま》す逃れ難くなるのだからと、 誰れも必死の力を盡すが、力は何の甲斐も無い、 強い人も弱い人も悶《もが》く人も悶《もが》かぬ人も一樣に沈んで行く、 少しづゝ又少しづゝ是れほど氣味の惡い死樣は無い 五六寸の泥が膝まで來る腰まで來る、斯うなると最早や自分の身は重さを減ずる外は無いと、 持て居る護身の拳銃《ピストル》を抛棄《なげすて》る、 衣嚢《かくし》に入て居る品物を投棄てる、宛《あたか》も難破船が、 積荷を海へ投棄る樣な者である、けれど悲しい哉《かな》何の功も無い、 腰までの泥が臍まで來る乳まで來る、最う絶望して、聲を限りに人を呼ぶ、 呼だとて來る人が無い、何の樣な慈善家が此聲を聞付けたとて、 是ばかりは見殺しにする外は無い、助けに行けば共々に死ぬるのだ 乳の上、腋下まで没するに至つては最う絶望して神を呼ぶ、呼んでも答へぬ、 憤激して罵詈惡口を神に加へる、其中に肩も沈み顋《あご》も沈み、 一生懸命に仰向いて顏だけを出さうとても無益《むだ》である、 泥は間も無く顏を埋めて、唯だ髪の毛だけが、 水田の表に苗の尖《さき》が出て居る樣に出て居るけれど頓《やが》て其れさへ見えなくなる 此邊に住む村人どもは、何うかすると沼の上に帽子の浮て居ることを見る、 人は沈んで帽子だけ助かるのだ、其の度に彼等は『又誰れか沈んだと見える、 可哀相に』とて念佛一遍を唱《とな》へて去るが、帽子の下幾十丈に沈んだ其持主の耳には達する筈が無い、 此樣にして死だ人の亡魂は何うして慰められるだらう (譯者曰く余が曾《かつ》て譯したる『小説梅花郎』にも底無沼に死する一紳士の事を詳しく記したり) 是より辛い死樣は到底世に有り得ぬとは云へ、若し有るならば、其れは戎瓦戎の死今の有樣だ、 彼れは天の色をさへ見るに由《よし》なき暗渠《あんきよ》の中に於て底無沼に沈むのだ、 最う泥は腰まで來て、水は顋《あご》に達して居る、 其れでも彼れは荷物を捨てぬ、捨てたくても捨てられぬのだ、 助ける積りで茲まで擔《かつ》いで來た守安の死骸だから、 嗚呼戎の此の偉大なる精神は誰あッて知る者ぞ、彼れは自分の敵《かたき》を此樣に大切にして居る、 敵《かたき》と共に情死《しんじう》するのだ、 汝の敵《かたき》を愛せよとは殆ど人間に出來る事で無いのに、 其の言葉を戎の樣に守る者が何所に有らう、彼れは罵りもせぬ騒ぎもせぬ、 運命と諦めて唯だ必死に守安の死骸を差し上げて居る 其うちに彼れは益《ますま》す沈んだ、顏だけが水面に仰向て居る、 此時の彼れの顏を若し見ることが出來たなら、 唯だ木刻《きぼり》の假面《めん》が水の上に浮て居る樣にしか見えなんだゞらう 併し茲で戎を殺すのは餘り甚い、戎は神の無い世とは思はぬ、 彼れの心は猶だ神に縋《すが》るつて居る、 全く死に切る時までは何とか助からうと努力せねば成らぬ、 彼は殆ど動かぬ足を以て猶泥の中を探つて居る 微《かす》かだけれど彼れは爪先に何か堅い者が觸れた樣に感じた、 是れが神の救ひで無くば何が神の救ひだらう、 これを若し取り逃しては到底助かる道は無いと彼れは有らん限りの力を以て其の一物に足の指を掛け、 氣永く氣永く、之を踏まうとした、若し彼れの怪力を以てせずば此の眞似は出來なんだかも知れぬ けれど彼れは、此の一物を踏む前よりも、踏み得て後が辛かつた、 踏む前は自然の力に從つて沈んで居た、 踏み得て後は自然の力に反抗して自分の身を引出さうと勉るのだ、 何れほどの力、何れほどの苦みであつたかは、記すことが出來ぬ、 唯だ讀む人銘々に察するが好い、兎に角も彼れは遂に、遂に、 自分の身を助け得た、堅い一物を踏へて立つと、此一物が堅い地盤の端であッた、 少しづゝ身を脱て前に進み漸く底無沼を通り得た、彼れは地盤の上に進んで、 最う力が盡きた、守安の死骸と共に暗渠《あんきよ》の壁に身を凭《も》たせ、 暫し何事をも考へ得ぬ状《さま》であッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十八 哀れ戎瓦戎 六 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎瓦戎が底無沼で死なんだは實に不思議である、 彼れ泥塗《どろまみ》れになッて助ッた、けれど彼れの力は全く盡きた 幾時か茫乎《うつとり》して暗渠《あんきよ》の壁に凭《もた》れたが、 頓《やが》て遽然《きよぜん》として心附いた、 斯うしては居られぬ場合だ、彼れは直ちに守安の身を檢《あらた》めた、死だらうか、 猶だ生きて居るだらうか、死人と殆ど區別は無いが、 有難い纔《わづか》に息が通ッて居る、猶更ら早く、 介抱の出來る所へ連れて出ねば成らぬ 彼れは又進んだ、何處まで進めば助かるか全くの暗《やみ》の中だから更に見當が附かぬ、 けれど進んだ、けれど彼れは疲れて居る、 幾度《いくたび》暗渠《あんきよ》の壁に凭《もた》れて休んだかも知れぬ、 或時は殆ど絶望した、到底出る所までは達せられぬか知らんと 最う何うにも斯にも身が動かぬに至ッたこと行く手に微《かす》かな明が見えた、 此の明りが丁度、底無沼の中で足に障ッた地盤の樣な者だ、 是れが無ければ崩折れて了ッたのだ、唯だ此の明りに勵されて彼れは疲れをも忘れた樣に成ッた 其れに又、底無沼を經て以來は、溷《どぶ》の底が幾分か綺麗である、 汚い水や足に搦む芥《ごみ》などが無い、彼れは少しの間に明の差す所へ達した、 茲は全く出口である、圓い石門が建て居る 彼れは石門の許《もと》に行たが、頑丈な鐵の格子戸を鎖《とざ》してある、 此戸を開くことが出來るか知らん、彼れは格子に手を掛けて搖ぶッたがビクともせぬ、 堅く錠が卸りて居るのだ、推すも無益、叩くも其の甲斐が無い、 此時の後[誤:彼]《か》れの絶望は何に譬へることが出來やう、 辛い思ひで茲まで來たのに、人間の世に出ることは出來ぬ、 今一歩と云ふ所で運が盡きた 再び引返す外は無いが、其れは到底出來ぬことだ、 再び底無沼を渡る力は其身に殘ッて居ぬ 縦《よ》しや渡ッた所で、何所に安全な出口が有らう、 總《すべ》ての出口が此通りに違ひ無い、 今まで地の底の下水の樋《とひ》へ逃込んだ惡人が大抵出ることが出來ずして死骸と爲たのは總《すべ》て戎の樣な境涯で有たのだらう 『アヽ己《お》れ一人では無い』と戎は呟いて見たけれど斷念《あきら》められぬ、 而も格子の外には、餘り遠くも無く石段が見えて居る、 是を上れば外は定めし未だ日も暮れ切らぬだらう、 其れに何處かゝら水音も聞える樣だ、多分は下水の注ぐ河の邊《あたり》だらう、 爾すれば巴里の中でも極淋しい町盡《まちはづ》れだから、 若し此石門を出ることさへ出來たなら爾までの難儀も無く助かるのだ 彼れは情なきの餘りに大地に坐り、石門の戸を見詰めた、 最う何とも思案が浮ばぬ、此の時、忽ちに背後《うしろ》から戎の肩を推す者が有ッた 『コレ獲物は山分だぞ』との聲が煙草の臭気と共に聞えた 戎は何事かと振向た、一人の風體の惡い男が立て居る、 此樣な下水の樋《とひ》の中に我より外に人が有らうとは殆ど思ひ寄らなんだ、 多分は人間の世の棲むことが出來ずして、隱れて居る惡人だらう、 戎は呆れて其顏を見たが又呆れた、此人は手鳴田なんだ 此樣な所で此樣な奴と又決鬪せねば成らぬのか知らん、 兎に角も我が顏を見認《みと》められては都合が惡いと直に戎は向直して坐り、 自分の顏を影にした『コレ儲《まうけ》は山分と極て居るぢや無いか』 と又も手鳴田は催促の樣に云ふた、戎『何だと』手鳴田『白はッくれても駄目だ、 此の下水の中を、死骸を擔《かつ》いで逃る奴に正直な人間が有る者か、 貴樣は外國の紳士か何かを下水の中へ攫つて來て殺したゞらう、 既に其筋で下水の大掃除を初て居るから、直に死骸を見出されては險呑だと、 河へ投込む積で茲まで持て來たのだ、云はずとも己《おれ》には分て居る、 けれど底無沼を能く越したなア、其樣な手際は己《おれ》より餘つぽど上は手だが、 其れでも此の鐵の戸を開く者と思たのは見當違ひだ、サア山分にするかせぬか、 するならば此戸の合鍵は己《おれ》が持て居るから開いて遣るぞ』 好まぬ相手では有るけれど、合鍵を持て居ると聞て戎は、心に感謝の念が湧た、 之こそ神が手鳴田の如き惡人を使つて我を助けさせるのでは無からうか、 手鳴田『ソレ繩までも借して遣るぞ』戎は初て口を開き『繩を何にする』 手鳴田『死骸を河へ投込のに、石を結び附けねば直に浮上つて足が附くでは無いか、 惡人に似合はぬ悟りに惡い奴じやなア、石は此のそとへ出れば、 溷《どぶ》修繕の用意に積であるから手頃なのが幾等も有る、サア早く山分を寄越さぬか』 戎は衣嚢《かくし》の中に手を入れたが、一ぱいに泥が滿ちて居る、 手鳴田は面倒に思たか、俯向《うつむ》いて自ら手を下し戎の衣嚢《かくし》を探ッた 戎の衣嚢《かくし》には泥塗《どろまぶ》れの金銀貨が幾等かあッた、 更に手鳴田は死骸と認た守安の衣嚢《かくし》を探ッた、探りつゝも彼れは、 殆ど手品師の如き早業《はやわざ》で、守安の外套の端を少しばかり裂き取た、 之を他日 強談《ゆすり》か何かの種に使ふ積りだらう、 何事にても自分の方の證據を消して人の證據を保存するのが[『]惡人學のいろは』である 探り集めた金が彼れ是れ三十法《ふらん》ばかり有つた『たつた是ッぱかりか、 貴樣は大層安く人を殺したなア』と批評したが、但し山分と云ふ約束は忘れたと見え、 其の金を殘らず自分の懷中に捻込み、直に自慢相に『此の合鍵の旨く出來て居るに感心しろ』 と云ひ、易々と戸を開いた、 戸は錆て居るけれど此頃 [尸/婁;u5C62]《しばし》ば油を差すと見え音もせずに開た、 戎は滿腔の感謝を神に捧げて、守安を擔《かつ》ぎ直して、無事に石門の外に出た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百三十九 哀れ戎瓦戎 七 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎は漸く石門の外に出た、此とき日は既に暮れ方である、 彼れは下水の樋《とひ》の中で凡そ四時間ほど苦んだのだ 是から何所へ守安の死骸を持て行かう、彼れは死骸の衣嚢《かくし》を探つた、 死骸では無い微《かすか》に心臟が動いて居る、 爾して衣嚢《かくし》の中から取出した手帳を檢《あらた》めると 『余の死骸は貴族桐野家へ送り、余の祖父に引渡されよ』 とのことを書て有る、是れで先づ思案は極た けれど連れて行く途中さへ心配だ、何の樣な變が有らうも知れぬ、 何とか手當する道は無からうかと思ひつゝ石門の外の石段を上つた、 彼れは初て人間の世に出られた、見ると此所《こゝ》は、 思た通り川の傍である、切《せめ》ては守安の顏に塗《まみ》る血だけも洗ひ落さねば人に怪まれ、 警官に咎められるかも知れぬ、警官の咎めと云ふことが戎に取ては何よりも恐しいのだ、 彼れは河の土堤《どて》を下り、水際に身を屈め、 手拭を水に濡して守安の顏を撫でた 斯る事をする間も、彼れは何だか不安の念に襲はれて居る、何だか我が背後《うしろ》に、 立て我がすることを眺めて居る人のある樣に感ずる、彼れは振向て背後《うしろ》を見た、 果してゞある、背の高い嚴《いか》めしい一人が立て居る 少しの間に二度までも、同じ樣に背後《うしろ》から見咎められるとは、 不思議では無いけれど偶然とも思ひ得ぬ、前に石門の内で見咎めたのは手鳴田であッた、 彼れは却つて幸ひを我れに與へた、今茲で見咎めたのは何者だらう、 是れは蛇兵太である、戎は自分の眼《まなこ》の間違かと思ふほどに驚いたが、 全くの蛇兵太である 蛇兵太は堡壘に入て手柄を爲し得なんだから更に別の功を立てゝ償《つぐな》ふ積りで、 早や此の處へ出張したのだ、彼れは手鳴田の一類が此邊に出沒することを嗅ぎ附けて居る 彼れは鋭いけれど落着た聲で『汝は何者』と咎めた 戎は最う何も彼も覺悟した、覺悟せぬ譯に行かぬ、 茲で蛇兵太に見附けられたのは百年目である 今まで幾年の艱難辛苦は、唯だ蛇兵太に捕へられまいとの爲であッた、 之が爲に尼寺の塀をも越した、之が爲に手鳴田の二階の窓から逃もした、 けれど今は逃れぬ、逃れぬ道の無い樣に出會《でくは》した、 遺憾ながら仕方が無い、再び終身懲役の、元の牢に引戻される丈だ、 此後の餘命を牢の中に送るのだ、アヽ戎瓦戎と云ふ此の身は、牢に入り牢に老い、 牢に死ぬることに前以て命數が定ッて居るのか、餘り情け無い譯だ 自分の身は斷念《あきら》めるとしても小雪は何うなる、 小雪の爲めに斷念《あきら》められぬ けれど斷念《あきら》めずに居る丈の餘地は無い、彼れは答へた『私しは戎瓦戎です』 蛇兵太は戎の肩をば兩の手で捕へ、其の顏を戎の顏に迫り附けて篤《とく》と見た、 此の時の蛇兵太の顏は全く恐ろしい相恰《さうがふ》である、 戎は悶《もが》きもせぬ、けれど何だか恨しげな餘音を帶びた語調で 『堡壘の中で貴方に住所を告げたのは、嘘の番地で有りません、 全く捕縛せられる覺悟です、斯うなれば既に捕縛せられたと同樣ですから、 神妙に引立られます、が唯だ一つお願ひが御座います』 唯だ一とは何の願ひだらう 蛇兵太も毎《いつ》もの蛇兵太とは違ふ、 彼れは一寸だも法を曲ると云ふことは無く、 鷹の小鳥を追ふ樣な勢ひで、何も彼も攫み潰して進むと云ふ質《たち》だのに、 今は心に決し兼ねる所の有る樣に、深い深い思案を顏色に現はして居る、 彼れは問ふた『汝は何をして居るのだ、其の死骸は何者だ』 戎『ハイ私しのお願ひは此者の爲です、此者を父母の家まで送り屆けて遣り度いと思ひます[、] 其の後では何の樣な御處分にも服しますが、何うか是だけの御猶豫を』 相手の願ひに對しては『其れは成らぬ』と云ふ外は答へたことの無い男だのに、 今は許すとも許さぬとも云はずに、先づ手巾《はんけち》を取出して、 戎と同じく守安の顏を拭ひ『之れは堡壘に居た奴だ、確か守安とか云て』 戎『今は御覽の通り怪我人です』蛇兵太『死骸だらう』 戎『未だ死切れては居ぬのです』蛇兵太『では堡壘から茲まで汝《おまへ》が連れて來たのだな』 連て來たと云へば成るほど連て來たのには相違が無い、 けれど何と云ふ辛い連て來たかで有ッたゞあらう、 誰とても先づ何うして茲まで切り拔けて來られたかと其の點を怪まねば成らぬ、 けれど蛇兵太は其の不審さへ起らぬほど胸の中が樣々の思に滿ちて居る [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十 哀れ戎瓦戎 八 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 蛇兵太が異樣に心を動かすのも無理は無い、彼れは戎瓦戎に命を貰つて居る 戎は蛇兵太の容子を怪みまどする暇は無い、直に守安の手帳を取出し 『此者の住居《すまゐ》も分つて居ます』とて差出した、 蛇兵太は無言で受取り黄昏《たそがれ》の薄明りに透して見た、 常の人なら最早や暗くて讀むことは出來ぬけれど、 彼れの眼《まなこ》は長年の職務の爲に殆ど猫の目の樣な力を得て居る 『アヽ貴族桐野家へ屆けるのか』と呟き、直に其口で『御者、御者』と叫んだ、 彼れは今夜捕者が有らうも知れぬと辻馬車を雇つて待せて有たと見える、 直に御者は馬車と共に堤《どて》の上に現はれた、 蛇兵太は先づ守安を抱て之に載せ、次に戎を乘せて最後に其身が乘た、 此間 總《すべ》て無言である 無言の儘で頓《やが》て桐野家に着いた、猶だ宵だけれど早や締ッて居る門を叩き、 内より戸を開く番人に向ひ『當家の御子息を送り屆けます』と蛇兵太は云ふた 『エ御子息』と番人は怪んだが、直に戎の抱て降した怪我人の顏を見て 『ヤヽ守安樣ですか』と、驚いて内に入り、其旨を取次に告げ、 取次は執事に告げ、執事は老女に告げ、老女は奥向に告げ、 奥向は旦那に告げ、家内中の混雜とは爲ッた、其中に戎は守安を先づ取次室まで抱て行き、 家の人々に引渡した 混雜が一通り鎭《しづ》まれば定めし色々の尋ねを受くるだらうと、 戎は少し躊躇して居たが、忽ち自分の肩に重く人の手の掛るを感じた、 是は蛇兵太の手に外ならぬ、彼れは、最う用事が濟だから尋常に引立られよ』 と口には云はぬが擧動に示すのだ、戎は無言で首《かうべ》を垂れ、 無言で蛇兵太に隨《したが》つて外に出た、 アヽ愈《いよい》よ終身懲役の獄へ連れられる時が來たのだ、彼の心の中は何の樣だらう 彼れは蛇兵太と共に再び馬車に乘た、けれど、 幾等 斷念《あきら》めた身でも斷念《あきら》め切れぬ事が有る、 其れは小雪の事だ、自分が此まま牢に入れば小雪は廣い世界に唯の一人と爲り、 何の樣に世を送ることが出來るだらう、昨夜家を出るときに、 或は戰場の丸《たま》に仆《たふ》れ、再び歸ることの出來ぬ身と爲るも知れぬと、思はぬでは無かつた、 其れが爲に匆々《さう/\》の間ながら食ふに困らぬだけの手當をして來たけれど其の手當が何にならう、 切《せめ》ては守安の居る所をだけも知らせて置けば又力を得ることの有らうも知れぬ、 是だけの事は何うしても爲して置かねばと思ひ、彼れは涙の出る樣な聲で 『警官よ、誠に相濟みませんが、止むを得ぬ用意が有りますから、 何うか途中で此馬車を私しの宅の前に寄せ、只だ三分間、 私しを家に入らせて下されませ、其上は心置き無く命令を奉じます』 如何に蛇兵太だとて命の親に是だけの許しを拒むことが出來やうか、 併し彼れは猶も無言だ、異樣に顏を顰《しか》めて考へた末、 單に一言、御者に向ひ『アミー街七番地』と告げた、彼れは戎の家を覺えて居る 斯くてアミー街に着く迄の間、 物思はしげな戎の容子に劣らぬほど物思はしげに蛇兵太の容子も見えて居たが、 間も無く其町の入口に達すると、町が狭くて殊に道普請が初ッて居る爲に馬車は止ッた、 蛇兵太は先づ降りて御者に向ひ『茲で好い、賃錢は幾等遣らう』と問ひ、 御者が『新らしい褥《しとね》が血に汚れましたからお高いかも知れませんが』 と斷ッて切出す直[誤:値]《ね》を苦情も無しに拂ひ渡した 續いて降た戎は聊か怪んだ、茲で馬車を歸へすとは何の爲だらう、 扨《さて》は監獄まで徒歩で自を連て行く積りか知らんと、 併し怪んで居る場合で無い、直に彼れは我が家の方に進むと『七番地は此家だ』 と蛇兵太は云ひ、戎に代ッて戸を叩いた、戸は直ちに開いた 『此の門口《かどぐち》に待て居るから』とのみ蛇兵太は云ふた 『早く用事を濟せて、命令に應ぜよ』との意味が籠ッて居る樣にも思はれた、 戎は一禮して内に入ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十一 哀れ戎瓦戎 九 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎は家に入り、直に二階へ上ッた、階段の上に在る表の窓が開て居たから、 彼れは其窓から外を眺めた、之は何うした事だらう、外に立て居る筈の蛇兵太の姿が見えぬ 蛇兵太は何處へ行た、何故《なにゆゑ》に居なくなッた、他無し蛇兵太は立て居るに堪なくなッたのだ 彼れの心中が何れほど騒いで居たかは誰も知らぬが、其實彼れ、 自分の生涯に今度ほどの異樣な場合を知らぬ、彼れは戎瓦戎と云ふ法律の大罪人から自分の命を貰ッて居る、 是れが第一に彼れの耐へ得ぬ情け無い事情である、 大罪人に恩を受ければ自分の身が其人よりも降るのだ、 爾ればとて其恩を返した所で、自分は大罪人と同樣と云ふ地位にしか立てぬ、 彼れは法律を神聖な者と思ひ、其れが爲に法律執行の一部に任ずる自分の身をも神聖と思ふて居る、 大罪人に一旦恩を受けた者が神聖と云はれやうか、神聖な職務が勤まらうか 拿翁《なぽれおん》には二樣の身振しか無かつたと云ふが、 蛇兵太には其中の唯だ一つしか無かつた、二樣の身振とは決然と心が定つて腕を組んで居るのが一つ、 思案の決する迄の間、背《せな》へ手を廻して徘徊するが一つ、 詰り決心と未決心の身振なんだ、蛇兵太には未決心の身振と云ふは無つた、 毎《いつ》でも法律を法律の通り行ふと云ふに決して居た、 所が今ばかりは爾で無い、既に戎の爲に幾等か法律を弛めて居る、 彼れは此事が氣に掛つて堪へられぬのだ 全體何故に戎が此身に向つて慈悲を現はしたのだらう、 罪人が警察官に慈悲を現はしたので彼れは魂消《たまげ》た、 更に警察たる自分が罪人に慈悲を現したに至ッて彼れは化石するほどに驚いた 何う考へても彼れは自分が法律を破ッたと云ふ念が失せぬ、 是ばかりは情け無い、法律の捕へて居る戎瓦戎をば、 縦《よ》しや少しの間でも自分が法律から盗み出して桐野家へ立寄らせ又戎自身の家へ立寄らせたのだ、 最う自分の腹の中に神聖な法律の魂は住で居らぬ、魂が無ければ死ぬる外は無い 彼れは頑固である一克である、其の頑固一克が、今まで人を責めた通りに今は自分を責めて居る、 彼れは死ぬ外に此責苦より逃れる道は無いと信じた、 自分は最う法律の執行者で無い、警察官で無い、人間でさへも無い、 彼れは首《かうべ》を垂れて、迷ふた亡靈の如くに茲を去り、 暗《やみ》の河の流れに臨んだ、暫く水音に聽入てたが、 世に云ふ死神に誘はれた者だらう、其まゝ河の中に落ち、重い身體が沈んで了つた 此樣にして警官蛇兵太は自殺した、永く戎瓦戎を苦しめて居た狩犬の如き男は此世に亡くなつて了つた、 他日死骸と爲て河下に浮上つたけれど誰も自殺の原因を知り得なんだ、 過つて落ちたのだらうと云ふに歸した、斯うなつては聊か哀れである *    *    *    *    *    *    * 之に引替へ、蛇兵太に死骸を認められた守安の方は蘇生《いきかへ》つた、 但し幾日の後である、彼は孫可愛がりの桐野老人の差圖の下《もと》に手厚く介抱せられ、 七八週日の間は熱の爲に死生の堺に往來し、 唯だ小雪の名をのみ囈語《たわごと》に口走つて居たが血氣の盛な爲だらう、 遂に傷も癒え、熱も下り、引續いて心も力も回復した、尤も彼れが病床に横はッて居る間、 毎日の樣に玄關まで來て氣遣はしげに容態を問ふて去る白髪の老人が有ッた、 云ふ迄も無く之は戎瓦戎だ 病の全く癒つたのは半年の後で有ッたが彼れを哀れむ餘りに、 遂に桐野老人が『妻を迎へて遣る』との許しを與へ『小雪とは何者だ』と問ふに至ッた、彼れは無論に、 自分の知て居る限りを答へた爲め間も無く桐野老人より星部老人へ案内状を送り令嬢もろ共屋敷へ招いた、 星部老人とは守安に知れて居る戎瓦戎の名前である、小雪は星部令嬢と云ふのだ 招かれて戎瓦戎は小雪を引連れ此屋敷に來た、屋敷の人達は、 過る頃より毎日玄關まで見舞に來た老人だとは見て取たが、 猶ほ其外に何だか見覺えの有る樣な人だと噂したけれど、 之が半年前に守安を此 邸《やしき》に屆けた泥塗《どろまみ》れの人であつたとは氣が附かなんだ 其の日の中に小雪と守安との間の縁談は老人と老人との間に公然約束せられた、 桐野老人は只管《ひたすら》に喜んだ、星部老人の心中は強い喜びの外に、 猶だ何か有つた、更に當人同士の喜びに至つては名畫にも寫すことが出來ぬ、 世には到底畫工に寫し得ぬ物が隨分ある、太陽の如きが其一例だ、 此當人同士の喜びの如きが又の一例だ 喜びの終つた後で、桐野老人は却て嘆息する樣に『アヽ是に就けても殘念なのは、 私しの今までの不心得だ、桐野家と云へば可也の身代で有たのを此の私しが蕩樂《だうらく》に遣つて了ひ、 屋敷の外に何の財産も無い事に成た、 今日《こんにち》此樣に贅澤に暮をして居られるのは唯私しの身に附いた終身年金の有る爲です、 私しも既に九十の坂を越して居るから幾等 今日《こんにち》は健康でも此上二十年以上は活き延びまい、 私しの目出度く成ると共に年金も盡き相續人は無一物となるのだから、 其後は星部小雪嬢イヤ其頃の本田男爵夫人も今の美しい手を内職で荒さねば成らぬ』 と星部老人に向ッて云ふた、星部老人は聞終るが否や『イヽエ星部令嬢は無一物で有りません、 七十萬金の資産が有ります』と云ひ、携へて居た辭書ほどの包を開き、 其の中より一枚千金の銀行券一百枚づつの束七個を取出して、 卓子《てーぶる》の上に置いた、七十萬の資産ある花嫁と聞て、 孰《いづ》れの親か伏拜まずに居られる者ぞ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十二 哀れ戎瓦戎 十 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 無一物と思つた花嫁に七十萬金の大資産が有るとは、世にも意外な事柄である、 此樣な意外なら幾等でも有て欲しい 何して小雪は此樣な大資産が附て居た、讀む人は少しも怪まぬ、 是れ戎瓦戎が昔し斑井《まだらゐ》市長として一市を監督し、 盛に工業を營んだ頃、稼ぎ集めた金である、彼は、 此の金と昔し聖僧ミリエルに與へられた銀の燭臺とを隱してあッた 彼れは市長の經験から、戸籍や民法の事は詳しいから、 小雪をば自分の外の星部父老の娘とし、爾して七十萬の大金は或人からの遺産だと云ふことにした、 其上に小雪の身には名譽高き尼院《あまでら》の長《をさ》から送られた證明書なども有ッて貴族の令夫人たるに耻かしからぬ光りが附いて、 戎の小雪の於けるは實に至れり盡せりだ、 併し斯樣な事をする間にも戎の心の奥に、何だか深い傷《いた》みの有ることは、 彼れに笑顏の無いのでも分ッて居る 小雪の方は今まで戎を父とのみ思て居たのに、 父は先年病死した最一人の星部父老だと聞き、 聊か異樣に思たけれど、異様な事のみ續く中に育ッた身だから深くは怪みもせず、 相變らず戎を父と呼んだ、其れに小雪の心中には、 唯だ嬉しさが滿々て、怪む念などの巾をする裕《ゆと》りが無い、 小雪は日々戎に連れられて、桐野家に行き、 時間を定めて守安と語るのが天國に入る思ひであッた 爾して守安の方は何うだ、嬉しさが小雪にも優る程だけれど、男は男だけに、 又心を配ることが色々ある、彼れは自分の岳父《しうと》とも云ふ可き星部老人の氣質や身分などを最《もつ》と能く知て居たい、 別に怪むのでは無いけれど、此樣な老人が曾《かつ》てシヨブリー街の堡壘へ入り、 命掛の場合を冒したのは何の爲で有ッたのだらう、 其れは自分の身を助け出して呉れる爲で有たけれど、爾は思ひ得ぬ、 七十萬の大金と人の孤兒《みなしご》とを預る責任の重い身で、 輕々しく戰場へ臨む筈は無い、而も敗軍と極て居る戰場だもの、 或は其實、アノ時の老人は此老人では無ッたゞらうか、 其れとも此身が其後の病氣の爲に、熱に浮されて其様な夢をでも見たのだらうか、 何と無く不審に堪へぬから、或とき老人に向ひ、シヨブリー街の事を話し掛けると、 老人は町の名さへも知らぬ風であッた、扨《さて》は全く此老人では無かッたのだと思ひ込で了ッた 猶も守安の氣に掛るは、彼の堡壘から自分を救出して呉たは誰かと云ふ事が一つ、 兼て父の命の恩を返さねば成らぬと思て居る手鳴田の居所を知り度と云ふか二ある、 人は自分の身に幸福が來ると、早く借金を返して置き度いと云ふ氣になる、 殊に獨身の間と違ひ、自分の負債は妻の身にまで掛る樣な者だから、 出來る事なら婚禮の前に此の二恩人を尋ね出し、恩を返して了ひ度いと此樣に思ひ、 内々人を頼んで探らせたが、當夜死骸の如き怪我人を桐野家に送り屆けたと云ふ馬車の御者だけが分ッた、 其御者の報告で考へて見ると、自分を助けて呉れた人は、 確に下水の樋《とひ》を潜ッて四時間以上も死骸同樣の此身を運んだ事が、 其人の泥塗《どろまみ》れに成て居た事情や其他で充分に察せられたので、 彼れは益《ますま》す其恩の重きを感じ、桐野老人と星部老人との居る前で其事を話した 『實に歴史上にも餘り類の無い慈善家では有りませんか、 私しは慈善家と云ふよりも寧《むし》ろ英雄と此人を稱します、 私しの方に心當は有りませんけれど眞逆《まさか》に見ず知らずの他人では無いのでせうが、 何にしても私しと云ふ怪我人を擔《かつい》で下水で樋《とひ》を潜て逃げ、 爾して其の手柄を私しへ知らさずに居るとは、驚嘆の外有りません、 彼時の事情から考へると、成るほど下水の樋《とひ》を潜る外に逃れる道は無かッたでせう、 私しは其人を見出して、自分の命を捧るまでは心に安んずることが出來ません』 と彼れの言葉に熱心が溢れて居る樣に聞えた、桐野老人は一方ならず感心し、 共々に褒め言葉を發したが星部老人の方は、知らぬ顏で聞流した守安は思ッた 『此老人は、思たよりも人情の薄い人である』と 併し是だけの事で、其の恩人が何者かと云ふ事は少しも分らず、 更に手鳴田の方に至ッては毫厘《がうりん》の手掛りをも得なんだ、 其中に月が經て愈《いよい》よ婚禮の場合とは爲ッた 婚禮には種々の式が有る、小雪の後見人たる星部父老と守安との間に契約書も作らねばならぬ、 其外に記名を要することが澤山ある、けれど、星部老人は間際になり、 右の手を怪我したと云ひ繃帶を施して筆執ることが出來なんだ、 是をも守安は異樣に感じた『此樣な場合だから、 少しは手先が痛んでも無理に記名ぐらゐは仕さうな者だ、 人情が薄いのか、我儘の強いのか、何にしても見掛に寄らぬ』と 婚禮の日は巴里の祭日に當ッた、 市中には異樣の服裝をして假面《めん》など被ッた人が山車《だし》と共に往來して居る、 其中を花嫁の馬車は通たが、假面《めん》を着けた一人が其の馬車を見、 花嫁と同乘して居る星部老人の顏に目を留めた、 直に此の假面《めん》の人は傍に居る小柄の假面《めん》の人に向ひ 『痣子《あざこ》、痣子《あざこ》』と細語《さゝや》いた、 痣子《あざこ》が何者かは既に記した、痣子《あざこ》『何だえ、父《ちやん》』 父『此馬車へ隨《つい》て行き、何處で何者と婚禮するかを見屆けて、 晩に父の隱れて居る穴まで知せて來い』痣子は心得て馬車の後を尾《つ》けた、 此の父《ちやん》と云ふのが即ち手鳴田であることは故々《わざ/\》斷るまでも無い [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十三 哀れ戎瓦戎 十一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 滯り無く婚禮は濟だ、新夫婦小雪守安の嬉しがりは云ふに及ばぬ、 誰一人喜ばぬ者は無い 新夫婦の居間から遠くに離れぬ幾室かを打貫て、立派な造作が施され、 贅澤品を取揃へてある、是は戎瓦戎の居間なんだ 何しろ新夫人の父同樣の人たるが上に、 七十萬の大金を無事に保管して正直に引渡して呉れた恩人だから桐野家では粗略にせぬ、 婚禮の濟むと共に此家へ引取り、新夫婦と同じ庭を眺め、同じ樣に主人顏して、 同じ樣に睦じく暮す筈に成て居る、實に戎瓦戎に取て、 何不足無き境遇と云はねばならぬ 戎は幾十年の艱難辛苦が茲に盡きて初めて圓滿な境遇に出られたと云ふ者だ、 いや未だ出られはせぬが、愈《いよい》よ出られる時になッたと云ふ者だ *    *    *    *    *    *    * 長々の此の物語りは愈《いよい》よ茲に終局した、 是れで目出度し/\とした方が好い、若し此後の事を話すは話す方も辛い、 聞く人も情無いと云ふかも知れぬ、けれど之だけでは佛が有て魂の無い樣な者だ、 辛くとも話さねば成らぬ、聞て貰はねば成らぬ、但し切《せめ》ては餘談の積にでもして置かうよ *    *    *    *    *    *    * 儀式が濟で一同無事に、寺院から桐野家へ引揚げた、 時は最う日の暮で是から愈《いよい》よ祝宴と云ふ意を以て盛餐が開かれるのだ、 但し多勢の珍客を招くでは無い、新夫婦が大達者《おほだてもの》で、 戎と桐野老人とが主席の客だ、外に此家筋と離れられぬ縁類や朋友筋が幾等かある、 愈《いよい》よ着席と云ふ時になると首席の客の一椅子が空《から》である、 花嫁の父君が居らぬ、何うした事と糺《たゞ》して見ると、 手先の怪我が痛むから失禮すると玄關の者に言置いて歸たと云ふ事だ 慶《よろこ》び事の場合に定めの客が一人缺けても餘り好い者では無い、 況《ま》して花嫁の父君だ、けれど手先の痛みは數日前から訴へて居たのだから、 今更ら怪む所は無いとて、其代り桐野老人が、 喜びも談話《はなし》も笑ひも二人分引受けて勤めるとて先づ盛餐も目出度く終ッた、 後はお定りの事だから記すに及ばぬ けれど戎瓦戎は何うしたのだらう、彼れは全く手先の怪我が痛むと稱しアミー街の家に歸たのだ、 彼れは新夫婦の、溢れる許りの嬉しがりを見るに得堪へぬ、 其外に色々の事情がある、考へて見ねば成らぬ事柄がある、 一口に云へば腹の中が亂麻の如く紊《みだ》れて居るのだ、 皮相《うはべ》の落着た状《さま》には似ぬ 彼れの家には最う番人と唯だ二人である彼れは番人に口をも利かず、 其まゝ二階へ登ッて燈《あかり》を點《とも》した、是れでは我慢して居たが、 是で自分の務めが終つたと思ふと一時に悲しさが込上げて長椅子に身を投げた、爾して泣た 室《へや》の一方には彼れが兼て、離さずに持廻ッて居る皮包《かばん》がある、 頓《やが》て彼れが涙を鎭《しづ》めて起直り、燈火《ともしび》の下に其の皮包《かばん》を開いた、 中に在るは少《ち[ひ]さ》い女の子の着物である、此れは是れ、 彼れが曾《かつ》て小雪を迎へにモントファーメールへ持て行た品なんだ、 云はば小雪の活《いき》ながらの片身なんだ 其時から今までの憂《うさ》や苦勞は果して誰の爲で有ッ、 アヽ小雪、小雪、誰に遣らうとて小雪を美しく育て上げた、 此樣に絶望して泣かんが爲では無かッた 今日の小雪と守安との嬉しさに輝くほどの有樣が、猶だ戎の目の前に在る、 アヽ是れで先づ小雪の身は定ッた、夫婦とも後々まで幸福であらう、 此幸福は誰が作ッた、總《すべ》て此身が作ッたのだ、 其れも一通りの作り方か、之が爲に我血を涸《から》し、 之が爲に命を絞ッたのだ、幸福の元手たる資産までも此身の力に成て居る、 爾して此身は、アヽ此身は世の中の唯の獨者《ひとりもの》と爲て了ッた 此後を何う暮さう、何を目當《めあて》、何を張合ひ、 殘るは唯だ一枚の此の片身の着物のみだ、彼れは恨めしげに其れを見詰めたが、 又懷かしげに其を取上げて、自分の顏を其れに埋めた、 彼れは又泣て居る、伏し俯向《うつむ》いて居る、 何の樣に彼れは顏を上げて來るだらう、時のみは空しく經つて彼れは顏を上げぬ、 死だのか、死だ樣だ、イヤ死はせぬ、良《やゝ》あッて蹶然《けつぜん》と跳起きた 『此樣にしては居られぬ』と彼れは叫び、頓《やが》て室《へや》中を見廻して、 彼の片身の衣を元に納め、其身は寢臺《ねだい》の上に臥した 臥したとて眠られる譯では無い、彼れの心には又一の疑問が出た、 彼れは仰向に唯だ天井を睨み詰て自分の心を苦めて居る 『明日からは何うしやう』新夫婦の請ふが儘に桐野家へ引移るは易い事、 其れが恐らく此身に取り一番無事な道なんだらう、けれど此身は何者、 那《あ》の樣な貴族の中に、隱居同樣の身と爲て、果して其れが無事だらうか 若しも、若しも、何かの事から此身の素性が分ッたなら何とする、 前科者、脱牢人、今も猶ほ終身刑の宣告に、 服し終らずに逃て居るのだ、蛇兵太は死でも警察は死なぬ、 若し露見して捕はれば新夫婦、取分けて新婦の方は何うなるだらう 此の不安心な境涯も、唯だ小雪を育てる義務の爲に出た事だ、 小雪さへ無かッたなら、寧《むし》ろ安樂に牢の中に餘命を送ッたのだ、 今は其樣な事は云ふも詮無し、差當り何うすれば好いのだらう 何が何でも桐野家に住むことは出來ぬ、と云て、他の所に住で居たとて、 露見の恐れは同じ事、其の時の新夫新婦の間に大いなる禍《わざは》ひの落るも同じ事だ、 其れを知りつゝ無言《だまつ》ては居られぬ、此身の唯一つ歩む可き道は、 切《せめ》て小雪の所天《をつと》守安に向ひ、 此身の素性を打明けて置くに在る、先づ其れを打明けて、 其後にこそ後の思案はあれ 彼れは夜明《よあけ》頃に至ッて、漸くに思案が定ッた、 曾《かつ》て裁判所へ自首して出た時よりも猶ほ辛い想ひだけれど仕方が無い、 終に彼れは此決心を以て守安の許へ行た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十四 哀れ戎瓦戎 十二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎は守安の家の閾を跨いだ時までも猶ほ心が搖いで居た、無理も無い、 自分の恐しい素性を打明けるのだから 是を打明ければ何の樣な事にならう、今まで受けた多少の尊敬も消えるのだ、 賤《いやし》まれ爪彈きせられる事と成らぬにも限らぬ、 實に彼れは、辛い辛い務を果さうとして居るのだ、 首切臺に登るのと何方《どつち》が辛い ズッと座敷に通ることは出來るけれど、殊更ら應接の間に入り、 取次を頼で守安に面會を求めた、何故の他人行儀と守安は幾分か怪んだが、 併し婚禮の翌朝だから彼れの心は唯だ嬉しさに滿ちて居る、 彼れは應接の間に來り、戎瓦戎の顏を見るよりも打叫んだ『阿父《おとつ》さん』と 今まで戎と守安との間に何だか隔てが有つた、 けれど今は『阿父《おとつ》さん』と云ふ言葉が自然に出る樣に成ッた 『昨夜貴方は、手先のお痛みとやらで、晩餐の席にお列《つらな》り成さらず、 物足りぬ心地が致しましたよ、けれど今日は此まゝ此家へ引越して下さるでせう 私しも是からは熱心に辯護士の事務を取り裁判所へも出ますから、 其の留守には何うか貴方が小雪を連れ、今までの通りの公園など散歩させてお遣り下さい』 是から上の打解けた言葉は無い、斯う云はれると戎は益《ますま》す口が開きにくゝなる、 併し今云はねば終に言損ずると思ひ、必死の勇氣を絞ッて 『イヤ其樣な事は出來ません、私しは其實、法律の罪人です、前科者です』 餘り飛び離れた言葉だから、一度だけでは守安の心に移らぬ 『エ、何と仰有《おつしや》りました』斯う問返されると又言ひにくい、 此時に至ッても戎は寧《いつ》そ言ずに、何とか言繕ろひ度い樣に心が動いた、 けれど明かに『私しは人樣と一樣に交られる身分では無いのです、 人の物を盗んだ爲め懲役に行き』守安『エヽ』戎『お驚き爲さるは御尤もです、 十九年間牢に居ました』守安『貴方がですか』戎『ハイ私しがです、 其れ丈では有りません、第二犯には終身懲役に處せられました、 正直に云へば今も服役して居る筈ですが、脱牢して今は此通り法律の目を潜て居ります、 私しの手を御覽なさい、今日まで怪我だと云ひましたけれど、 怪我も何にもして居ません此通り無難です、 私しは手續書に署名して姓名詐稱の罪を犯すことを避けたのです、 貴方と小雪との婚姻の無効になることを恐れました』 最《い》と確實に言切る言葉に、僞りなどは有り得ぬのだ 守安は餘ほど信じまいとして必死に自ら悶《もが》いた、 併し事實を信ぜぬことは出來ぬ、彼れの顏は赤くなり又青くなッた 彼れは止を得ず信じた、信じると同時に自分の身の破滅する時が來た樣に感じた、 昨夜婚禮した自分の妻の父、イヤ眞に父で無いにしても父同樣の身であッて、 同じ星部の一類が、終身刑の脱獄囚とは、何うして此身が破滅せずに居られやう、 彼れは深い陷《おと》し穴にでも落された樣に感じた、 婚禮の濟むまでは無言で居て、愈《いよい》よ婚禮の終ッた翌朝、 直に打明けて來る樣では此の後に何の樣な難題が潜んで居やうとも知れぬと彼れの心には有りと在らゆる恐ろしい想像が分秒時の間に取留めも無く湧て出た、 彼れは又叫んだ『一切の事を聞かせて下さい、サア一切を、一切の事を』 戎は靜に、而も熱心に『申ます、 私しは裁判所へ出てさへ宣誓する資格の無い人間ですけれど事實で無い事は申しません、 第一私しは貴方の妻小雪と何の血續《ちつゞき》でも無いのです、 是だけは御安心を願ひます、私しは縁も由《ゆ》かりも無いフエブロルの農夫です 木を樵《こ》るのを業として居ました、名は戎瓦戎と云ふのです』 戎瓦戎とは聞た事の無い名で無い、守安の耳には何だか惡人の符牒の樣に聞えた、 『私しの姓は星部では無いのです』守安『誰が其れを證します、證據は、證據は』 戎『私しが自分で證明するのです、少しもお疑ひ成さる所は有りません』 守安はヅッと戎瓦戎の顏を見た、何と云ふ靜かさだらう、悲しげに又正直らしく、 爾して泰然と構へて居る、僞りの出る態度で無い、 守安『貴方の言葉を信じます』確に彼れは信じた 戎は語を繼ぎ『私しは小雪の何でせう、何でも有りません、 今より僅《わづ》か十年前には、世に小雪と云ふ者の有るをさへ知らなんだのです、 全くの他人です、成るほど小雪を愛するのは事實です、私しには子も有りません、 孫も有りません、小い兒を見れば我が兒我が孫の樣にと思ふのです、 愛するに不思議は有りますまい、小雪は父も無く母も無く全くの孤兒でした、 私しが保護せねば保護する人が無かッたのです、 爾ればこそ親身の親子も及ばぬ程に睦じくして來ました、 けれど今日は最う小雪は本田男爵夫人、私しと別の道を歩むのです、 今日から私しも小雪に對して何の權利も無く、何事をして遣ることも出來ません、 其れならば七十萬の那《あ》の資金は、那《あ》れは委托です、 何うして私しが委托されたか、其れは云ふ必要が有りません、 既に委托金の引渡しは濟み、其上に此通りの本名身分をまで打明ければ、 是れで私しの肩は拔けました、最う責任も無いのです』 言葉だけは分ッて居るが理由は分らぬ、守安は三たび叫んだ 『けれど何故、貴方は其樣な事を打明けるのです、誰も貴方の秘密を知らず、 自分でさへ云はねば安全で濟みます者を』之も尤もな問である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十五 哀れ戎瓦戎 十三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『懲役』是れ何と云ふ恐しい言葉だらう、何れほど尊敬せられて居る人でも一旦、 懲役に行た事が有ると分ッては忽ち人間で無い樣に思はれて了ふ 況《ま》して戎瓦戎の樣に十九年も牢に居たと云ては誰が驚かずに居る者か、 更に終身の刑を受け、脱牢して法律の目を潜て居ると云ふに至ッては、 殆ど取り處が無い、守安が打驚くは尤もである、何故其樣な事を打明けるかと問返すは猶更道理だ 『何故、何故』と戎は守安の言葉を繰返し『ハイ私しは追詰られて居るのです、 密告されて居るのです』守安『其れは誰れに』戎『自分の良心にです警官に追詰められるは、 未だ逃路《にげみち》が有りますが、良心には逃る道が有りません、 自分で自分を逮捕して居るのです』と云ひつゝ自分の手で自分の襟を捕へ、 宛《あたか》も罪人を引立る樣にして『斯して捕へた手を振もぎることも出來ますが、 良心に捕はッては振解くことが出來ません、守安さん、守安さん、 無言《だまつ》て居れば私しは此家で岳父《しうと》と尊《うや》まれて、 何不足なく老先を送る事が出來やうかも知れません、爾して貴方や小雪や桐野老人と共々に、 或は散歩に行た公園で、或は見物に行た劇塲で、忽ち警察官に見現され、 脱獄の囚人戎瓦戎だとて捕はッたら、貴方がたの名譽は何うなりますか、 貴方がたは、甚い奴だと私しを恨まずに居られませうか、 其れを思ふと、自分の身分を隱して居る譯には行きません、打明けずには居られません』 此言葉に感心せずに居ることが誰に出來る、 守安は脱獄の囚人と云ふ言葉に懼《お》ぞけを震ふほどの惡感《あくかん》を抱いて居るけれど、 戎の此の心には敬服し、立つて來て手を差延た、 是れ握手せんとの心にして、好意未だ失せぬ知らせで有る、 けれど戎の其手を握らうとせぬが爲め守安は止むを得ず戎の手を取ッて握ッた、 戎の手は石の如く冷い、守安は云ふた『イヤ私しの父が、 多少其筋に勢力ある友人を持て居ますから貴方の爲に特別赦免の運動を頼みませう』 戎は執られた手を離し『イヽエ、其れに及びません、 其筋の帳簿には戎瓦戎は死だ者と成て居て、最う追窮はせぬのです、 其れに私しは其筋の赦す赦さぬより我が心の赦す赦さぬのを恐れるのです』 此樣な立派な言葉は戎瓦戎にして初て發する資格があるのだ 之に對して守安が何事をか云はうとするとき、忽ち横手の戸が開て、 笑に輝く小雪の顏が突出た『アレお二人で、又六かしい政治談とやらをして居ますね、 イヽエ聞きましたよ、良心だとか何だとか堅い言葉ばかり使ッて居ましたもの政治の事に極て居ますよ、 先《ま》ア其樣な事は止めて??』小雪は何れ程の迷惑と察し得る筈が無い 『何だか私しには御用が無い樣ですけれど這入りますよ、好いでせう阿父《おとつ》さん』 とて其まゝ室《へや》に這入た、守安にも戎にも此姿は吹入る春風の樣に感ぜられた、 けれど戎は一語をも發し得ぬ、小雪『アレ阿父《おとつ》さん、何故物を仰有《おつしや》らぬ、 サア接吻して下さいな』とて前額《ひたひ》を出して戎の傍に寄たが、 忽ち一歩 退《さが》り『オヽ阿父《おとつ》さん顏色のお惡い事、 猶だ手先の怪我が痛みますか』戎『怪我は直ッた』小雪『其れでは夜前眠れませんでしたか』 戎『能く眠ッた』小雪『では氣分がお惡いの』戎『イヽエ』 小雪『何處もお惡くないのなら私は叱りませんよ、サア接吻して下さい』 眞に親子にも優る程の至情が溢れて居る、戎は止む無く小雪の前額《ひたひ》に唇を當てた、 若し幽靈が接吻する者なら此時の戎の樣だらう、戎の顏は死人の如くである、 小雪『其れだけでは可《い》けませんよ、サアお笑みなさい』 戎は笑うとする樣に顏の筋を動さうと勉めた、泣くよりも辛いとは此事だらう、 小雪『私しも茲に居て好いでせう、ねえ貴方』と守安を顧みて椅子に凭《よ》らうとした、 守安『イヽエ、今少しで相談事が濟むのだから』と言にく相に云へば 『アレ大人の樣に顏をしてサ、阿父《おとつ》さんも何とも云て下さらぬ、 其樣に私しを虐待すると祖父《おぢい》さんに言附けますよ』と云て立た 小雪の去ると共に、室《へや》の中が俄《にはか》に暗くなッた樣に感ぜられた、 けれど小雪は直に室《へや》の外より又戸を開き 『覺えてお出で成さい、私しは立腹して居るのですよ』 と云ひ捨て今度は本統に去つた、暫くして守安は念の爲に戸を開き、 外に何者も居ぬのを見屆けて席に復《かへ》り、 悲さに堪へぬ樣に獨語した『アヽ可哀相に、小雪の此事を知らせたら、 何の樣に??』 此の聲に戎は身を刺された樣に飛立ち『オヽお待ち下さい、お待ち下さい、 其れ迄は私しも考が屆かなんだ、貴方に打明ける事は出來ても小雪に聞かせる事ばかりは、 アヽ懲役人、脱獄囚、と小雪が知たなら、私しは何としませう、 情け無い、情け無い』とて彼は兩手を顏に宛てゝ伏し俯向《うつむ》いた、 彼れは聲を呑で泣て居る、彼れは絶望の極に達した 『最う死ぬ外は有りません』との一語が終に歔欷《きよき》の聲と共に洩れた 守安は傷《いた》はッて『イヤ、其事は御安心なさい、決して小雪の耳には入ませんから』 云ふは幾分の信切である、併し斯うして段々時の經つに從ひ、 懲役人と云ひ脱獄囚と云ふ言葉が愈《いよい》よ深く守安の心に浸み込み、 今までの尊敬す可き白翁や星部老人と別人如くの[誤:の如く]見え來る、 人の心は斯した者だ、何うして此の恐る可き罪の人が、 今までの紳士の如く見えて居たのだらう、罪の人と云ふ其の罪の下《もと》に、 罪も無い人も及ばぬ程の清さを隱して居るけれど其れは見えぬ、 唯だ罪と云ひ獄と云ふ言葉が何も彼も蔽ふて居る、 守安は云ふた『此後の貴方の身の振方なども??』 戎は漸くに心を鎭《しづ》め『イエ、御心配なさらぬ樣に願ひます、 此上は唯《たつ》た一事伺へば濟むのです』 と云ひ殆ど聲を爲さぬ聲で『貴方が小雪の主人《あるじ》ゆゑ伺ひますが、 最う私しは小雪に逢ひに來ぬが好いでせうか』 守安は冷淡に『ハイ其れが宣《よい》でせう』と答た、 『では再び小雪の顏を見ません』と呟く樣に云ひ、立て戸口の方に去ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十六 哀れ戎瓦戎 十四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 小雪の逢ふことさへ出來ぬと爲ッて、戎は此世の樂みが何處に在る 彼れは『再び小雪の顏を見ません』と守安に云ひ、立て戸口まで出たけれど、餘りの辛さに去り得なんだ、 戸に手を掛けて暫し考へ蹌踉《よろめ》く樣に再び守安の前に歸ッた 『アヽ是ばかりは私しに出來ません、 若しも小雪と逢見ることを止められる程なら何も私しは此樣な白状はせず、 默ッて此國を去る所です、最う老先の長くも無い此身で、 我子の樣に育て上げた小雪に分れ、何處に、何人に、 慰められることが出來ませう、何うか此後とも小雪の幸福な有樣を見て居たいと思へばこそ、 辛い思ひで身の秘密をも打明けたのです、守安さん、守安さん、 何うか時々小雪に逢に來ることはお許し下さい、お許し下さる譯には行きますまいか』 是れが全く戎の眞情である、彼れは小雪を幸福にしたいのみの爲に、 何の樣な苦勞をした、自分の幸福をも殺《そ》いだ、命をも的《まと》にした、 下水の樋《とひ》を潜て守安を救ひもした、七十萬の大金を、自分の物と云はずに贈りもした、 總《すべ》て此樣な心盡しは人に知られず唯だ懲役人と云ひ脱獄囚と云ふ一語の爲に小雪の幸福な状《さま》をさへ見ることが出來ぬとは、 彼れの耐《こら》へ得る所で無い、彼れは殆ど我を忘れた状《さま》で、守安の前に立ッた 何で此 請《こひ》を拒むことが出來やう、けれど守安は猶も冷淡に 『ハイ何うか朝でも晩でもお出で下さい、貴方が不意に見えぬことに成れば小雪も怪みます』 と許した、戎の爲に許すで無く小雪の爲に許したのだ、けれど戎は滿足した、 小雪に逢ふことさへ出來れば誰の爲でも同じ事だ、 彼れは有難さに堪へぬ如く禮を述べて分れ去たが、此後は毎日小雪に逢ひに來た、 けれど何の樣な状《さま》で逢に來たのだらう 戎の去た後で、守安は深く深く考へた、果して戎瓦戎は何者だらう、 何の樣な事情で懲役に成つたのやら、イヤ盗の爲めと云つた、再犯の爲と云つた、 初犯の罰が十九年、何と云ふ重いのだらう、何しろ餘ほど質《たち》の惡い盗み方で有つたに違ひ無い、 再犯が終身刑、聞いてさへ恐ろしい、其れにしても小雪が、 子の如くに斯かる者に育てられて、其の汚れは染なんだらうか、 是は疑ふに及ばぬ、少しも汚れに染まぬとは能く分ッて居る、 良家の深窓に育つたとても小雪の樣に無垢に成長することは出來ぬ、 多分は是などが人間社會の奇蹟の一つだらう、 小雪の身に特別に神の加護が有たのだらうと、守安は此樣に思た、 其れに小雪が戎と何の血筋を引かず、十年前には戎自ら此世に小雪と云ふ者の有るをさへ知なんだと云ッた、 小雪の身には何うあッても戎の汚れが感染して居ぬ 斯う思ひ定めて漸くに安心はしたものゝ未だ合點の行かぬ所が澤山にある、 盗をもする程の人が正直に七十萬の委托金を引渡したのは何の爲だらう、 今では後悔して正直に成て居るのか知らん、爾うだ吾れに其の素性を打明けるなど、 意外に正直な所も有る 先《まづ》是だけは感心だが、又一方を考へると此感心の消て了ふ樣な所も有る、 今まではシヨブリーの堡壘に居た老人を、別の人かと思ふたが、 彼の警官蛇兵太を引立てゝ自ら銃殺した所を見ると或は蛇兵太に舊惡を知られて居る爲めでは無ッたゞらうか、 盗坊《どろばう》をする人間が戰爭に加はる筈は無い、 彼れ何うかして蛇兵太が那《あ》の堡壘に捕はれて居るのを探知し、 其を射殺したいの爲に堡壘へ來たのかも知れぬ、又其以前、 彼れが手鳴田の二階に捕はれ、多勢の惡人の相手とし、 手に餘るほど大膽に振舞たが如き、又蛇兵太の來るに會ひ二階の窓から繩梯子を傳ッて逃去たが如き、 成るほど盗坊《どろばう》ならば頭分《かしらぶん》の手際である、 是を思ふて守安はゾッとした 何にしても懲役に行く樣な人の爲《す》る事は正直な人間が考へても能く分らぬ、 モッと事實を取調べて見たいけれど其の手掛が無いと、此樣に思て止んだ 其れは扨置《さてお》き戎は翌日の日暮に小雪に逢に行た、 玄關番は云ふた『主人の申附です貴方がお出でになッたら、奥へお通り成さるか、 下の間でお宜しいか伺へとて』殆ど奥の間に通て呉れるなと云ふに均いのだ、 けれど戎は面持を損ぜずに『下の間で宜しい』と答へた、直に其の『下の間』と云ふへ案内されたが、 茲は曾《かつ》て戎が死骸同樣の守安を送り屆けて家人に引渡した室《へや》である、 少しの造作を施して、暖爐《すとーぶ》にも火を焚き、二脚の椅子を並べて有る所を見ると、 戎は茲へ通すとに極めて既に用意をして有るのだ、爾して 『奥へ通るか下の間で好いか』と聞せるは愈《いよい》よ仕向方が分ッて居る、 最う戎は此家へ來ても此 室《へや》より奥へ通されぬ事に成たのだ、 玄關から追拂はれるに比して餘り違た所は無い 戎は斯樣な事を考へぬでは無いけれど、其うちに小雪が茲へ、 嬉しげに飛で來たから直に心の雲は晴れた、戎は室《へや》の良否《よしあし》などには構はぬ、 唯小雪に逢はるれば好いのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十七 哀れ戎瓦戎 十五 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 入ッて來た小雪は、少し不満の容子で室《へや》を見廻し 『何だッて貴方は此樣な室《へや》で私しに逢はふと仰有《おつしや》るのです、 今守安は聞けば、奥へ通るより此 室《へや》が好いと云た相ですが』 成るほどと云た、此 室《へや》が好いと云たに相違無い、 けれど云はねば成らぬ樣に仕向けられたのだ、 最う此家の奥座敷などへ通られる身分で無いのだ、小雪は促す樣に 『サア阿父《おとつ》さん奥座敷へ行きませうよ』 戎『イヽヤ此 室《へや》の方が好い』小雪『好い事が有りますものか、 私しは逢ふのに家中の一番見苦しい室《へや》を選ぶとは、 貴方は何うか成ッたのですか』戎『許してお呉れ小雪、私しは此樣な癖だから』 癖と云ふ事で小雪の怪むのを消して了ッた 勿論小雪は喜んで樣々の話しを爲し戎も喜んで可也に長座して歸たが此後は殆ど毎日の樣に逢た、 逢て喜ばしい小雪の言葉を聞く外に、戎には此世の樂みが無いのだ、 イヤ此世の用事が無いのだ、其うちに追々と小雪も世帶慣れて來た樣だ、 取分けて戎の気附たのは小雪が一方ならぬ儉約に暮して居る有樣である 七十萬と云ふ世に爾うは類の無い大婚資を待[誤:持]《もつ》て嫁入た夫人が此儉約は何故だらうと戎は大に怪んだ、 婚禮後間も無く買入れる事に成て居た馬車も廢《やま》ッた、 芝居芝居と云て居た其の芝居へも行た容子が無い、 全體云へば常に桟敷の一桝ぐらゐは買切て置く可き身分なんだ、 其れに使て居る女中なども減せる丈け減せた、 合點が行かぬけれど戎は氣の附た樣な顏さへせなんだ 併し小雪が戎を懷かしがる樣だけは日に日に深さを増し、 少し刻限が遲くても『何故今日は遲かッたのです』と問ふほど故、 外の事は何も氣に留ある[誤:留める]に及ばぬと思て居たが、 其れでも氣に留めずに居られぬは、此家の仕向け方が次第に冷淡になッて來る、 尤も、初から厚く待遇《もてな》されはせぬけれど、或日 毎《いつ》もの室《へや》に入て見ると、 暖爐《すとーぶ》に火が焚て無い、焚く可き炭も置て無い、 是れ或は此家へ最う來るなとの謎では無からうか、 小雪は入て來て驚いた『此寒いのに暖爐《すとーぶ》が無いとは』 戎は答へた『イヽエ、昨日私しが小使に斷ッて置て逆上《のぼ》せるから暖爐《すとーぶ》は止して呉れ』と、 爾して其次に行た時には茶さへも出ぬ、是等は決して儉約の爲では無い、 戎は唯だ小雪の爲に心配した『若しや居にくい樣な事は無からうか』と、 辛い[誤:幸ひ]に此心配は無益であッた、 小雪は益《ますま》す守安の仲も能く舅《しうと》姑《しうとめ》にも愛せられ此家の主婦人らしく成て來る 併し或時、怪げに戎に問ふた 『ねえ阿父《おとつ》さん一年三千法《ふらん》の家計《くらし》とは隨分六かしい者でせうか』 戎『三千法《ふらん》なら先づ中人の暮し方だから贅澤さへせねば樂に暮して行かれるが、 併し何故其様な事を問ふ』小雪『此家の祖父《おぢい》さんから守安へ、 家計《くらし》の料として下さる手當が月々三千法《ふらん》なんです』 戎『其れは私しも知て居るよ、婚禮前よりの約束で、婚禮證書に書き入れて有るのだもの』 小雪『守安は、何うしても三千法《ふらん》で足りる樣に暮せと云ひます』 戎は益《ますま》す怪んだ『此樣な貴族として三千法《ふらん》で暮すとは其れは無理だ、 和女《あなた》の収入が一年に二萬七千法《ふらん》は有るのに』 小雪『其の収入へは手を附けぬ事にするのです』戎は忽ち顏色を變た 最も[誤?:最う]何も彼も分つた、守安は小雪の資産七十萬を不正の金と疑ッて居るのだ、 盗坊《どろばう》の盗み集めた金の樣に思ひ、其れで手を附けぬ事にするのだ、 抑《そもそ》も彼の金は戎が正直な働きで、血を絞つて得、 慈善を行ふて餘し得た者だのに、其れを其樣に疑はれるとは、 餘りと云へば情け無い、戎は此日、毎《いつ》もほどは話もせず、 早く切上げて歸たが家に歸ると最う病人だ、絶望に起上る氣力も無い 一日又二日と小雪は徒《いたづ》らに待たが父の姿が見えぬので嚴しく迎への手紙を送つた、 戎は本統の病氣だけれど、推して逢に行き又一月ほど通つたが、 仕向け方の冷淡は益《ますま》す加はる許りで、果は彼の室《へや》の一脚の椅子さへ無くなつた、 入て來た小雪が一方《ひとかた》ならず驚くを戎は又制して 『ナニ私しが片附けさせたのだよ』と云た、けれど自ら、 最う此家に來る心が無くなつた、全く挫《くぢ》けて了つたのだ 彼れは或宿に歸てより、唯だ『那《あ》れは不正の金では無い、 不正の金では無い』と口走るのみで有つ[た]が、床《とこ》に就いて起上る力が無い 家番の妻が、幾日も幾日も、戎の食事が皿の儘、手附ずに下るので、 怪んで戎を尋ね『貴方の食事が勸まぬなら、何なりとお口に敵《かな》ふ物を云て下さい』 と尋ねた、戎は唯だ『水を、水を』と答へた、 アヽ彼れは一種の熱病に罹《かゝ》ッた、無論に精神の痛みから出た病なんだ、 家番の妻は又問ふた『お醫者を迎へて來ませうか』戎『イヽエ、 何處も惡くは無いのだから其れには及ません』 後で彼れは起上つた、今まで幾人前の力を持た彼れの身が今は獨りで歩むにさへも足らぬ、 一歩這ては喘ぎ、二歩行ては息を繼ぎ、漸くに革包《かばん》の在る所まで行き、 其れを開いて取出したは彼の小雪の小い時の着物である、 彼れは己《おの》が顏に之を當てゝ泣き暫くにして又聖僧ミリエルの燭臺を取出した、 爾して眞晝では有るけれども之に[臘,月@虫;u881F]燭《らふそく》を立てゝ火を點《とも》した、 彼れは此の燭臺の火に照されて此世を去る積りである、 彼れには最う此燭臺の外に心の慰藉が一つも無いのだ、 小雪も人の物と爲た、朋友も無い、家も無い、金も無い、 壽命も無い、何うしも天は戎一人を此樣な目に合すだらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十八 最後 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 聖僧ミリエルに與へられた燭臺より外には、戎の身に友は無い、 此の燭臺に照されて死ぬのが、切《せめ》てもの慰藉である 彼れは更に、喘《あへ》ぎ/\職工の服を取出して着けた、 彼れの生涯は全く勞働であつた、彼れの身を救ふたも勞働、 慰藉の無い彼の心に多少の慰藉を與へたも勞働であつた、 彼れは勞働者として死ぬる積りと見える けれど彼れは尚だ死に切れぬ事が有る、彼れは叫んだ 『エヽ、殘念だ、殘念だ、那《あ》の金を不正の金だなどゝ、 何うか此の疑念《うたがひ》丈けは解いて置きたい』 爾うだ此疑ひだけは解いて死なねば、後々まで小雪の身が浮ぶことが出來ぬ、 彼れは頓《やが》て紙墨筆を取り出した 心ばかりは早る樣だけれが[誤?:けれど]手が動かぬ、最う手紙など書くほどの力は彼れの身に殘ッて居ぬ、 一字書いては休み、二字書いては消し、 將《まさ》に死んとして纔《わづか》に殘る氣力を以て彼れの認むるは何事だらう、 樹の脂《やに》を以て作る黒い飾り玉の製法である 彼れが彼の大金を作つたのも全く黒い飾り玉の製造に在たのだ、 今は書かずとも世間の飾り物師が、其の製法を知て居るけれど、 彼れは其れを書て更に自分がモントリイルで何の樣に働いたかと書き遺す積である 自分一人の爲ならば何も辯解などし度くい[誤?:度くは]無い、 盗坊《どろばう》と思はれて死なふが、不正と認められて果《はて》やうが、 自分の良心が知て居る上は、何も他人の思惑などには構はぬ、 けれど唯だ小雪の爲に冤《えん》を雪《すゝ》いで置かねば成らぬ 彼れは未だ、思ふ半分も四半分も書き得ぬうち力が盡きた、 最う手が働[誤?:動]《うご》かなくなッた、眼《まなこ》が靄《もや》に包れた、 全く命の盡くる時が來たのだ 吁《あゝ》、生存中に彼れが如く艱難した戎瓦戎は死ぬるにも斯くの如く、 煩悶するのだ、彼れの生涯には一點の安樂と云ふ者が無い 彼れは全く其身の今死ぬることを知た『アヽ小雪、小雪』と彼れは叫んだ、 最う此世で小雪を見る事が出來ぬ、己《おれ》は此樣にして死ぬのだ』 と又叫んだ、爾して床の上の倒れた 斯の如くにして戎は死ぬのに、小雪は何うして居る、守安は何うして居る、 兩人《ふたり》ともに、單に知らぬのだ、噫《あゝ》、噫《あゝ》無情 *    *    *    *    *    *    * 夕餐《ゆふげ》を終ッて守安が書齋に退かうとする折、 下僕《しもべ》が一通の手紙を持て來『此の差出人が應接の室《ま》に待て居ます』 と云て退いた、何氣なく守安は封を切ると、 曾《かつ》て嗅ぎ覺えの有る安煙草の惡臭が鼻を撲《う》た、 此匂ひは毎《いつ》でも守安をして彼の四國兼帶の人を思ひ出させるのだ、 四國兼帶の人は手鳴田である 多分は曾《かつ》て見た樣な無心状だらうと思ひ讀下すと果してだ、 署名は『不幸にして學士會員たり得ざる零落の學者 鳴田《なるだ》』とある、 手鳴田の手の字が脱けて居る、イヤ故《わざ》と脱してある、 爾して文句は『大切な秘密をお知らせ申す』とて、 口留金を強請《ゆす》る奴族《やつら》の常套《ありふれ》の手段なんだ 揉み捨て一顧をも與へぬ筈であるけれど唯だ相手が手鳴田と知る丈に彼れは直に自分の室《へや》に行き、 抽斗《ひきだし》の中から數多《あまた》の紙幣を取出して衣嚢《かくし》に入れ爾して應接の間へ出掛けて行た 今まで守安が、手鳴田に逢て父の受けた恩義を返したいとて、 何れほど彼れの行衛《ゆくゑ》を尋ねたかは、讀者の知る所である、 其の相手が向ふから尋ねて來るとは、父の遺言の旨を果す可き時が來たと云ふ者だらう 應接の間に入て見ると、待て居るのは手鳴田自身で無い、 けれど餘ほど零落した學者の果《はて》からとも思はるゝ樣な眞面目な扮打《いでたち》で其れに色の濃い目鏡を隱して居る、 此の目鏡が怪しいのだ、扨《さて》はと守安は見て取ッて『用事は何です』と愛想なく問ふた 目鏡の人は、迂《まは》り遠く米國《あめりか》の地理を説初め、バナネの附近に、 黄金の轉がッて居る處が有て、自分が妻と娘との三人で移住するに決したけれど旅費が無い、 其の旅費を惠んで呉れと云ふのが、其の要領だ、 爾して其の要求の理由と云ふは『ナニ是は私しの爲で無く却て貴方のお爲です、 エヘヽ私しの樣な、貴方の名譽に障ることを知て居る人間が此國に居ましては、 餘り貴方が枕を高くして眠ると云ふ事も出來ませんから、 少し許りの旅費で、米國《あめりか》の樣な遠い國へ追遣た方が御安心ですぜ』 と妙に嘲ひを帶びて云ふ所は、仲々零落《おちぶ》れた學者で無い、 本職のユスリ人だ、猶ほ彼れは語を繼で『其れも大した金では無し、 親子三人の旅費が、只ッた二萬法《ふらん》です、二萬法《ふらん》です』 二萬法《ふらん》を『タッた』だと云て居る 守安は簡單に『聞て居ます』と云た、耳を傾けて居るから事實を述べよとの催促である、 何だか冷淡過ぎて、ユスる方でも張合が薄い樣だ、 けれど零落《おちぶれ》學者は大《おほい》に言葉に勿體を附け 『名譽高き御當家の中に、警察から目指されて居る極めて惡い人間が紛れ込で居るのです』 とて守安の顏色を見た、守安は單に『其れから』と云た『其の者の本名は、 誰でも聞けば驚かずに居られません、盗坊《どろばう》社會で有名な戎瓦戎です』 守安『ハイ知て居ます』知て居ますと云はれるほど張合の無い者は無い、 學者『爾して其の奴は脱獄囚ですよ』守安『ハイ知て居ます』 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百四十九 最後 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 守安が誰[誤:唯]《た》だ『知て居ます』とのみ言做《いひな》して少しも驚く容子の無いには、 客の方が却て驚き暫し戸惑する状《さま》であッた 之を思ふと成るほど戎瓦戎が自分の素性を打明けたのは尤もで有た、 若し彼れが打明て無ッたならば、今頃我れは何れほど狼狽《うろた》へて居るかも知れぬと、 守安は忙《せは》しい間にも聊か戎の用心を合點し得た 客は黒い目鏡の内で、忌々しいと云ふ目附をした、 若し目鏡が無ッたなら直に守安は此の目附で、客が其實何者かと云ふ事を見て取たゞらう、 イヤ目鏡は有ても既に見て取て居る、客は云ふた『イヤ御存《ごぞんじ》かも知れませんが、 仲々私しの知て居る秘密は誰も知る筈が有りません、 餘ほど當家の名譽に關するのですから二萬法《ふらん》は安い者です』 守安は叱る樣な口調を帶び『誰も知らぬと貴方の云ふ其の秘密は私しは知つて居ますよ、 戎瓦戎が何者かと云ふ事をも、 私しをユスリに來る貴方が何者かと云ふ事をも總《すべ》て同じ樣に知て居ます』 客は却て薄氣味が惡い、けれど平氣で『私しの何者かと云ふ事は其れは御存《ごぞんじ》の筈です、 只今差上た書状に正直に書て置きましたもの、零落した學者鳴田と』 守安『鳴田では無いでせう、其の上に手の字が落ちて居るでせう貴方の姓は手鳴田です』 針鼠は、驚くと身體の針毛を逆立てる、甲蟲《かぶとむし》は驚くと死だ眞似をする、 皆な其れ其れの癖が有る、此の惡人は驚いて何をした、大勢に打笑ッた、 實に横着な癖である『アハヽヽヽ私しの姓を手鳴田、飛でも無い』 守安は大喝して『手鳴田であッて、或時は職人長鳥とも云ひ、 或時は俳優濱田とも云ひ、或は西班牙《すぺいん》の軍人だの、 伊國《いたりや》の愛國者だのと得手勝手な名を用ひて居るでは無か、 爾して今では零落した學者鳴田、爾う安々と人を欺く事は出來ません、 其の實は曾《かつ》てモントファーメルに軍曹旅館と云ふ怪い宿屋を營んで居た手鳴田では有りませんか』 彼れは横着な笑ひさへ出ぬほどに驚き、僅《わづか》に云ひ得た 『貴方は言掛りと云ふ者です』ユスリに來た奴が言掛りに遭ふとは奇談だ、 守安『確に貴方は手鳴田です、脱獄囚です、惡人です、サア是れが相當だ』 と云ひ、荒々しく手鳴田の顏に何物かを叩き附けた 叩き附けられて痛く無い、手鳴田は其の物を手に取て檢《あらた》めたが又驚いた 『ヤ,ヤ,是れは五百法《ふらん》の大札、恐れ入りました、 旦那の樣な方には隱したとて仕方が無い』と云ひ、 直に目鏡や假鬘《かつら》などを取外して本統の手鳴田の顏を出し 『緩々《ゆる/\》とお話し致しませう』と云た、 けれど五百法《ふらん》の紙幣を収めるには決して緩々《ゆる/\》とせなんだ、 一應 檢《あらた》めて『全く本物だ』と云たまゝ、 宛《あたか》も逃去る恐れの有る生物《いきもの》をでも扱ふ如く衣嚢《かくし》に入れ確《しか》と押《おさ》へ附けた 併し彼れの驚きは嬉しさの爲に消えぬ、何うして自分の身分が斯うまでも此の本田男爵に知られて居るのか、 其の見當が附かぬから、續て出す言葉に知らぬ、彼れは曾《かつ》て守安と同じ宿に居たけれど、 守安の名も知らねば顏も見た事が無い 守安は以後を矯戒《たしな》めて遣る樣に極めて嚴《おごそ》かに 『コレ手鳴田、汝の賣りに來た秘密は此方は悉く知て居る、 戎瓦戎は脱獄囚だと云ふのだらう』手鳴田『其上に盗賊で且つ人殺《ひとごろし》です[』] 守安は少し考へ『其れも分ッて居る、盗賊と云ふのは、 曾《かつ》て戎瓦戎が、モントリウルの市長 斑井《まだらゐ》の金錢を盗み、 全く斑井《まだらゐ》を亡ぼして了ッた事實を指すだらう人殺と云ふのは警官蛇兵太を射殺した事實だらう』 手鳴田は守安の知て居る事實が、初に思たよりも淺いのに氣が附たか、 少し勇氣を回復して『貴方の仰有《おつしや》ることは、何うも合點が行きません』 成るほど戎瓦戎に關する守安の知識が淺いにもしろ、 守安は其の後餘程戎瓦戎の事を取調べたに違ひ無い、 彼れは語を繼ぎ『合點が行かねば云て聞さう、 千八百二十二年に、モントリウルに斑井《まだらゐ》と云ふ名市長が有ッた、 此人は其前に何か其筋との間に面倒な關係が有たと云ふ事だが、 併し全く行ひを改めて世に珍しい善人と爲り、 其の町に工業を盛にし、市民に對して救世主の如く働いた爲め、 其筋から勲章を送られたけれど其れを辭し、 終に人望の歸した爲に再三市長に選擧せられ、辭退に辭退を重ねた上、 止むを得ず就職した、縦《よ》しや此人に何の樣な舊惡が有たにしろ、 實に尊敬す可き大人物、先づ今の世に聖人とも云ふ可きで有るのに、 或る惡人が其古傷を知て其筋へ密告し、爾して混雜を起して置て自ら斑井《まだらゐ》と詐稱して銀行へ行き、 斑井《まだらゐ》の預て有ッた七十餘萬の大金を引出して逃去ッた、 此の密告者、詐稱者、拐帶者《かいたいしや》が戎瓦戎である、 彼れは全く斑井《まだらゐ》市長を亡したのだ、彼れの盗罪は是である、 如何にも輕からぬ罪である、其れから殺人罪と云ふのはシヨブリー街の堡壘で警官を銃殺した、 是は此方が自ら其場に居合せて知て居る』 手鳴田は愈《いよい》よ勇氣を得た『貴方の仰有《おつしや》る事は、 事實の樣で皆間違て居るのです、第一に貴方が御自身で居合せたと云ふ其の蛇兵太銃殺が間違ひです、 況《ま》して傳聞の斑井《まだらゐ》事件などは更に甚しい間違ひです、 何も私しは貴方の間違を正誤する爲めに來たのでは有りませんけれど、 斯う打解けた上は、知て居るだけ申しませう』と先づ前置を置いた、 彼れは守安に二度までも『知ッて居ます』と蹴散されて、 自分の價値が下ッたから茲で回復する積りなのだ、 前置の後で勿體らしく云ふた『蛇兵太が堡壘で銃殺されなんだ事は堡壘の落ちた後で、 彼れは此の手鳴田を捕縛する爲め出張したので分ります、 彼れの死は自殺です、溺死です、其筋の檢視まで經たから能く分ッて居ます』 守安は少し迫《せ》き込み『其の證據は、證據は』手鳴田『證據の無い事は云ひません、 證據は追々にお目に掛けます、 次に戎瓦戎が斑井《まだらゐ》市長の預け金を盗んだと云ふに至ッては失禮ですが、 更に甚だしい、更に笑ふ可き間違ひです、何故と仰有《おつしや》るのでせう、 旦那、旦那、斑井《まだらゐ》市長が即ち戎瓦戎ですよ、 戎瓦戎が即ち斑井《まだらゐ》市長ですよ、別人では無く一人ですよ』 守安『エ、エ、何と』 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百五十 最後 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 斑井市長と戎瓦戎と同人だとは、全く守安の知らなんだ所である、 彼れは小雪を婚禮して以來、及ぶだけ戎の素性を探ッたけれど本統の事は分らず、 ラフ井ット銀行の會計を勤めた人から 『斑井《まだらゐ》市長の預け金七十萬餘圓を引出したのが其實戎瓦戎で有ッた』 と聞き全く戎が市長の金を盗んだと信じて居た 爾ればこそ小雪の資産七十萬金も其の盗んだ金だらうと思ひ、 之に手を附ける事を嫌ひ且は成る可く戎瓦戎を遠ざける樣にして居たのだ、 其れが今、戎と市長と同人であると分ッては驚かぬ譯に行かぬ 此の一事で守安の心には大革命が初まッた、根本から思惑が違ッて來る、 戎と云ふ曲者《くせもの》が段々と守安の目に大偉人と見え掛けて來た 守安は又叫んだ『戎が蛇兵太と銃殺せぬ、戎と斑井と同人だ、 其樣な事を證據が無くては信ぜられぬ、證據、證據』 手鳴田は證據を揃へて居る、彼れは今まで幾度《いくたび》も戎瓦戎をユスらうとして其度に失敗した爲め、 根こそげ其人の素性を洗ひ、證據を揃へて最後の勝利を得ん者とて樣々に取調べ、 其結果として戎瓦戎と云ふ本名から市長時代の事をまで調べ得た、 勿論モントファーメールにもモントリウルにも住だ事のある彼れに取ては餘り困難な取調べでは無かッたのだ、 其れに彼れは蛇兵太をも自分の敵の一人と思て居るから其の溺死に關する新聞紙の記事なども蓄へて持て居る 彼れは自分の脚下《あしもと》に置て有る革包《かばん》の中から新古の新聞三四枚を取出して守安の前に置た、 古いのには斑井市長が戎瓦戎と露見して裁判された宣告文が載て居る、 新しいのには、蛇兵太が堡壘を出てから其筋へ發した報告の端書の文と彼れの死體を檢査した檢視報告とが掲げて有る、 疑ふ所は更に無い 守安は見終ッて絶叫した『此樣な意外が又と有ら[う]か、 戎は蛇兵太を殺しはせぬ、戎は斑井市長と同人だ、彼れの金は不正の金で無い、 彼れは慈善家だ、彼れは悔改めた眞人間だ、君子だ、英雄だ』 殆ど夢中の状《さま》である、手鳴田は嘲笑《あざわら》ッて 『イヤ爾う感心するのは少しお待ちなさい、戎瓦戎は君子でも英雄でも有りません、 矢張り盗賊です人殺です、貴方の知らぬ事實が有るのです』 と力の有る沈着の容子を以て云ふた 怒る如き聲で守安は『汝は戎瓦戎の、市長たりし以前の詰ぬ犯罪を云のだらう、 以前に何の樣な落度が有ても、其れは最う悉く償はれて居る、悉く消えて居る』 手鳴田『イヽエ、以前では無い、極々新しくて、 此手鳴田より外に知る者が無いから、其れで値打が有るのです、 明白な證據をまでお目に掛けますから、愈《いよい》よ爾うだと分れば、 何うか親子三人の米國《あめりか》行の旅費だけ下さいよ』 と先づ定價を附して置いて『時は昨年の六月の六日、巴里の全市に一揆軍の騒いで居る際でした、 イヤ一揆軍が大抵敗けて了つた頃でした、場所はポンドゼナの邊の下水の樋《とひ》の中です』 是だけ聞いて守安は思はず知らず椅子を手鳴田の方に迫り寄せた、 彼れは自分の身が其の同じ時に其の同じ下水の樋《とひ》の中を何者にか運ばれて其の同じポンドゼナの邊に連來られたことが、 其夜蛇兵太に雇はれて居た御者の言葉で分つて居る、椅子の進むのも無理は無い 自分の言葉が餘ほどの感動を與へてと見て手鳴田は又も落着き 『其日の六時頃に、兼て其下水の樋《とひ》の中へ、世を逃れて潜んで居る一人の男が、 同じ樋《とひ》の中で人の足音を聞きました、不思議な事と能く見れば身體の頑丈な曲者《くせもの》が死骸を擔《かつ》いで遣て來るのです 何うして先ア來られた者か、其の少し先の方に、殆ど人間業では渡ることの出來ぬ程な、 深い泥沼が有るのです、曲者《くせもの》は其泥沼をも渡つた者と見え全身が泥塗《どろまみ》れです、 斯と見た私しは、イヤ兼て潜んで居る一人は怪しんだ、 彼奴《きやつ》何故に泥沼へ死骸を捨てなんだゞらうか、 アヽ分つた下水の樋《とひ》が修繕に近づいて居たから捨て置けば一週間と經ぬうちに見現はされる、 此奴《こやつ》は露見が恐ろしいから何んでも彼でも、セイン河へまで持つて沈める積りだな、 斯う思ふうちに曲者は下水道の出口へまで達しましたが出口には鐵の格子戸が有つて、 其の合鍵が兼て潜んで居る一人が持つて居ます、 曲者《くせもの》は其の一人に合鍵を貸せと頼みました、 其の一人は能く曲者の顏を見ると兼て大力と噂の有る奴、 争へば一人と一人だから何の樣な目に逢ふも知れぬと思ひ、 合鍵を出し鐵戸を開き、死骸を擔《かつ》いだまゝ曲者を出して遣りました、 直に曲者はセイン河の土堤《どて》へ上り水際へ卸りて行きましたから、 死骸に石を附けて河中へ投込んだは無論の事です、旦那何うです其の曲者が戎瓦戎ですよ、 潜んで居て合鍵を貸して遣たのが此の手鳴田ですよ、 何の爲に戎瓦戎は死骸を擔《かつい》で居たのでせう、 私しの見た所では確に若い物持の紳士でして、 彼れは其紳士を殺し大金を奪たに相違ないのです、 此頃聞けば彼れ七十萬からの大金を當家に奥方へ婚資として贈ッたと云ひますが、 彼れのする事は旨いでは有りませんか、老先の短い自分が持て居ては露見せずには居ませんから、 其れを當家に送り、自分は當家の岳父《しうと》と爲り、 當家へ引越して何不足なく尊敬せられる安全策を取て居るのです、 所が爾うは私しが承知しません、私しは其の合鍵を貸す時に彼奴《きやつ》の氣の附かぬ樣に、 ソッと其の死骸の外套を之だけ切取て置きました、コレ此の羅紗《らしや》の切《きれ》が、 汚く泥に塗《まみ》れて居ますけれど大變な證據です』 と云ひ前の革包《かばん》から二寸五分角ほどの羅紗《らしや》の切《きれ》を出して見せた 息をも繼ぎ得ぬほど熱心に聞て居た守安は、顏色を變へて返事もせず、 最《い》と慌《あわた》だしく此 室《へや》を立去たが、 直に泥塗《どろまみ》れの古い外套を持て來て、今手鳴田の出した羅紗《らしや》の切《きれ》を、 其の外套に合せて見た、外套にも二寸五分角ほどの切取ッた穴が有ッて、 其の穴と其の羅紗《らしや》の切《きれ》と、形《かたち》は勿論、 塗[誤:泥]《どろ》に汚れた斑文までも只《ひた》と合ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百五十一 最後 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 手鳴田の持て來た羅紗《らしや》の切《きれ》と、守安の持出した外套の切れた穴と、 此樣に合ふ上は、最う何も彼も分ッた 守安を助けたのは全く戎瓦戎であッた、彼れは堡壘から河の傍まで幾哩《マイル》の長き間を暗い下水道の中を通り、 泥の底無沼などを渡ッて死骸同樣の守安を擔《かつ》いで來たのだ、 是が人間に出來る業《わざ》だらうか 斯うと氣が附たとき守安の心中は鼎《かなへ》の沸く如くに騒いだ、 彼れは手鳴田を叱《しつ》した『之を見よ手鳴田、之に勝る證據が何處に在る、 戎瓦戎は人を殺したので無く助けたのだ汝の見た時、 戎の擔《かつ》いで居た人は死骸で無く此の守安で有ッた、 汝は彼れを惡人と誣《し》いる爲めに來て、却つて彼れの善人たることを證明したのだ』 打ち消すことの出來ぬ證據に手鳴田は[口|禺;u5581]《ぐう》の音《ね》も出ぬ、 守安は語を繼いで『此方は汝が長鳥と稱して妻子と共に下宿して居たとき、 長く隣の室《へや》に住で居たから(手鳴田は是だけ聞て『エ、エ』と叫んだ) 汝の惡事は皆知て居る、汝が戎瓦戎を引入れてユスらふとした時も此方は室《へや》に居た、 汝の罪惡を數へれば今汝が戎瓦戎の罪として言立てたよりも多い、 直に巡査を呼で來れば恐らく汝は、首の無い人だらう、けれど今は許して遣るから、 直に米國《あめりか》へ渡るが好い、汝は親子三人と云ふけれど汝の妻は既に死し汝に妹娘痣子が有る許りだ、 二人の旅費ならば是だけで澤山だ』と云ひ又一枚の大札を出して渡し 『汝が米國《あめりか》へ着た上、同地の銀行で受取る樣に、 余が爲替《かはせ》を組で置いて遣る、此の上二日と此の國に猶豫せば命が無いぞ』 手鳴田は夢を見る心地である、自分がユスリに來た其の種は悉く無功と爲り、 却て自分の罪惡を看破られたのに、猶ほ此樣な手當を受ける、 之に何と云ふ事だらう、彼れの生涯の經驗に此樣な理由は絶無である、 守安は唯だ一言《いちげん》『之は水[土|婁]《ウオタルー》の報だぞ』 手鳴田は合點が行た『アヽ水[土|婁]《ウオタルー》の士官を助けた、 アヽ貴方は本田??』守安『黙れ、明日の日の暮れる迄に船に乘れ』 守安は退いた、手鳴田は立去ッた、此後手鳴田は米國《あめりか》から守安に書を寄せて、 其身が水[土|婁]《ウオタルー》で本田大佐を何の樣にしたかを、白状の如く書て知せた、 彼れは實際は本田を助けもせぬのに、 助けた樣に見せ掛けて多くの利益を得たのは却て自分の手柄の樣に誇るのだらう、 守安は却て今迄の身分と父との思違ひを喜んだ、 自分の父が手鳴田の樣な者に恩を受けたかと思ふと何と無く氣色惡く感じたが 恩を受けたで無いと知れば生涯の重荷が全たく消えて了つた樣だ 爾して手鳴田は米國《あめりか》で奴隷商人と成つたと云ふ事だが、 其後は何うしたか、音も無く消て了ッた 其れは扨置《さてお》き、守安は、手鳴田を叱して應接間から退く時、 最う戎瓦戎に對する尊敬の念が、胸に潮の如く湧いて居た、 彼れは直に奥に行き、忙《せは》しい樣に小雪に向ひ 『サア是から直に、外へ出るのだ、一緒に、一緒に』 と云ひ置いて室《へや》に歸り、自分も身支度に取掛ッた 頓《やが》て小雪が支度をして來た時は、早や門まで馬車が來て居た、 爾して相携へて之に乘るや否や、守安は御者に傳へた 『アミー街七番地へ行くのだ、大急ぎ』小雪の顏は一時に笑に頽《くづ》れた 『オヤ阿父《おとつ》さんの所へですか嬉い事ねえ、實はネ、 先日來 阿父《おとつ》さんが見ませぬから、幾度《いくたび》も下女を聞きに遣りますけれど、 田舍へ行て未だ歸らぬと云ふのですよ、今日あたりは自分で行て見たいと思つて居ましたの』 守安は胸に溢るゝ新な念を小雪に知らさぬことは出來ぬ 『私しが堡壘から貴方へ上げた手紙を、貴方は受取なんだと云ひましたねえ』 小雪『先達ても爾うお問ひでしたけれど、私しは其の樣な手紙を受取つた事は有りません』 守安『最う何も彼も分りました、其の手紙を阿父《おとつ》さんが受取つたのです、 オヽ小雪、小雪』と忽ちに叫けんで『世に貴女の阿父《おとつ》さんの樣な大善人が又と有りませうか、 其の手紙を見た爲に直に私しを救ふ氣になり、危險を冐して堡壘へ來たのです、 今思ふと堡壘に居るうちに成さつた事は他人には眞似の出來ぬ働きでしたが、 私しの怪我して仆《たふ》れるが否や、直に抱起して、 十重廿重《とへはたへ》に圍で居る官兵の目を忍ぶ爲め、下水道へ潜り入り、 爾して地の下に眞ッ暗な穴の道を幾哩《まいる》を辿り、 命懸なる底無沼などを渡ッて、終に此世まで私しを連れて出ました』 と云ひ猶ほ樣々に自分の知り得た功徳を述べ立て 『若し今の世に聖人が有るなら、阿父《おとつ》さんこと其の人です』 と有らん限りの言葉を以て褒めた 斯る間にも戎瓦戎は、何の樣な容態だらう、果して猶だ活て居るだらうか、 守安も小雪も其邊の懸念は少しも待たぬ、健全な人とのみ思ふて居る、 其うちに馬車はアミー街に着いた 守安は激しい感動に襲はれて心が迫り、人に取次せなどする暇が無い、 躍り入て直に二階に上り、窓の戸を叩くと、中に『お入り成さい』 との返事が聞えた、直に戸を開て中に入た、小雪も續いて入た 若し今一時間、否三十分遲かッたならば、小雪も守安も大恩人の死目に逢ひ得なんだらう、 全く守安が小雪を連れ、茲へ來ることに成つた次第を考へて見ると神の引合せでは無ッたかと迄に思はれる、 戎は此とき自分の前に彼の小雪の幼い頃の服を置き、 一方には聖僧の片身の燭臺に火を燈《とも》し、悄然と坐して居た、 戸の開くと同時に『阿父《おとつ》さん』と懷かしく響く小雪の聲が、 何の樣に彼れの耳に聞えたか『オヽ、小雪、小雪、能く來て呉れた』 と云ひつゝ又守安の姿を認め『最う小雪などは呼捨には出來ませんか、 何うか許して下さいよ守安さん』と詫びた、實に彼れは、先に守安に打明けた丈の事なら、 守安の妻を小雪と呼切る資格は無い、守安は此語を聞き胸が迫ッて言葉が出ぬ、 纔《わづか》に云ふた『許し下さいとは私しの云ふ事です、 許して下さいと云ふぐら井《ゐ》では、貴方に對する私しの罪は消ません』 戎は此の言葉が耳には入らぬ、唯だ小雪に昔し一緒に居た時の通りに親しくせられゐ[誤:せられる]が嬉しいのだ、 彼れは垂死《すゐし》の顏に笑を浮べて、唯だ小雪が我が膝に寄り我が肩に縋り、 我が頭の白髪を弄《もてあそ》ぶに任せて居る、 此の樣を見ると何うして唯の一時でも此人を惡人の樣に疑ふことが出來たかと守安は自分の心が怪い樣に感ぜられる、 彼れは最一度謝罪せねばと、戎の前に平伏《ひれふ》すほどにして 『阿父《おとつ》さん、限り無き貴方の功徳、貴方の慈悲、貴方の御恩が、 肝に銘するほど能く分りました、貴方は堡壘から下水の樋《とひ》を通つて私しを救ふて下されました、 人の通ることの出來ぬ底無沼をもお渡りでした、然るに其樣な事は云はず、 私しが怪んで話しても知らぬ顏でお聞き成さつた、却て御自分の身の罪を數へ、 私しなどに渇仰《かつかう》することをお許し爲さらぬ、 汝を助けたは此身だと仰有《おつしや》つて下さいません、 何故一言、己《おれ》は蛇兵太を許したのだと仰有《おつしや》つて下さいません 何故 己《おれ》は斑井市長で有たのだと昔しの罪を許して下さらば、 サア直に馬車に乘り私しの屋敷へ行きませう』戎の顏には初て眞の滿足の笑が現れた、 彼れは弱い聲で云ふた『其のお志しは有難い、直にも同道したいのです、 けれど最う出來ません、私しは今死ぬるのです、 貴方がたが來て下さッたから聊か引立て此樣に話も出來ますが、 小雪と貴方の顏が見えねば最う死で居る所です、ナニ最う直です、最う直です』 全く直にも死に相な聲である、小雪も守安も一時に魂消《たまげ》た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 百五十二 大團圓 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 全く戎瓦戎は死ぬのである、何と小雪と守安が嘆いても引留ることは出來ぬ 彼れの顏には笑と共に死の影が浮んで居る、彼れは此世の仕事を仕盡したのだ、 育てた娘も縁附た、自分の素性も心盡しも守安に解せられた、 此上に何の心を置くことが有る 斯る所へ醫者が來た、守安が自分の死ぬよりも猶辛い程の心配を以て容態を聞た、 醫者は一通り診察した上、守安の耳に細語《さゝや》いた『最う可《い》けません』 人の死んとする時には、少しの間、常の状《さま》に還《かへ》る時がある、 燈火《ともしび》の消えんとして忽ち明くなる樣な者である、 戎は其時が來たのだらう、今まで椅子に凭《もた》れた儘の身が突《つ》と立ッた、 併し小雪の肩に縋つた、小雪は涙ながらに戎の杖と爲り、其の行かうとする方に從つて居ると、 戎は室《へや》の隅の棚に行き小い十字架を取り卸ろした 『アヽ茲に殉道者がある無實の罪で、無言で死なれた方がある』と云ふた、 眞に戎自らが殉道者である、我より先に我に優る殉道者が有たと思へば、 其れが此上も無い慰藉だらう、爾して彼れは座に還《かへ》つた、 最う彼のすることが何と無く神々しい、人間を離れて居る 彼れは守安に云ふた『守安さん小雪の資産は、正直に小雪の物です、 不正の金では有りませんよ』彼れの最も氣に掛るは是である、 守安は首《かうべ》を垂れた『悉く私しには分つて居ます、謝します、謝します』 と云ふより以上は何の語をも發し得なんだ 此とき此家の番人の妻が、醫者に隨《したが》つて上つて來て室《へや》の入口に立て居たが、 醫師から最後の命令を小聲で聞き、立去らうとして振返り 『僧侶さんを呼で來ませうか』と問ふた、人の死際を慰めるのは僧侶の役である、 戎は此言葉を聞いて云ふた『其れには及ばぬ、茲に僧正が居られるから』 アヽ僧正は何處に居る、誰の目にも見えぬけれど定めし戎の傍に居るに違ひない、 最う彼の聖僧ミリエルが戎を迎へて來て居るのだ、戎は眞に聖僧に手を引れて居る如くに安心して居る 彼れは靜に小雪と守安とを呼び『小供等よ』と云た、最う二人は彼れの小供である、 彼れは小供に遺言するのだ、けれど其聲は戎の口から出る樣には聞えぬ、 遠く隔ッた高い所から來る樣だ、最う戎と人間との間には人間の侵すことの出來ぬ隔《へだて》がある、 所謂《いはゆ》る聖と凡との隔《へだて》なんだ、戎は云ふた 『小雪、和女《そなた》に此の一對の燭臺を片身にする、是は昔し、 人から貰ッたのだが、銀製だ、私の爲には黄金作《こがねづくり》よりも、 金剛石《だいやもんど》を鏤《ちりば》めたよりも貴い、之を下さつた方は今、 天に居られて、私しの行ひに滿足せられたか何うだか、私しは是でも出來る丈け勉めたのだ』 全く彼れは彼れ一身の力で勉めたので無く、人間の力の限りを以て勉たのだ、 誰が此よりも以上を望むことが出來る者ぞ、戎は語を繼ぎ 『小供等よ、此の私しが貧乏人で有たことは忘れては成らぬ、 貧民の樣に葬つて貰ひ度い、貧民の行く墓地の隅へ、好いかえ、 石碑など立てゝは成らぬ、唯だ茲と云ふ記だけに石塊《いしくれ》を一個《ひとつ》置けば好い、 序《つひで》の節《せつ》に花でも手向けて呉れるなら滿足だ、 小雪、小雪、和女《そなた》の母の名は華子と云た、和女《そなた》が今幸ひであると同じほど不幸な分量を持て居られた、 和女《そなた》の身に幸ひの來たのも、其母が不幸に堪へた酬《むくひ》だらう、 誠に天の成さることは公平だ、苦しめば必ず幸ひが來る、和女《そなた》は華子と云ふ言葉を用ふる度に、 尊敬の心を以てせねば成らぬ、爾も無くば親に孝行と云はれぬ、サア二人とも茲へお出で』 兩人《ふたり》は先程から首《かうべ》を擧げることも得せぬ、 涙を雨ふらせて泣て居たが、其まゝズッと戎の傍に寄ッた、戎は二人の頭《かしら》に片手づゝ置き、 撫でながら、此世を去ッた、活て笑顏と云ふ事は無い身で有たけれど、 死顏は天の光りを受けて輝いて居る、此れが人間以上の大往生と云ふ者だ 斯の如くにして戎は亡き人の數に入ッた *    *    *    *    *    *    * 彼れの遺言の通り、目立たぬ所尾へ目立たぬ樣に葬られた、 ピヤ、ラチヱースの墓地の片隅に石塊《いしころ》がある、 人は知らぬが是れが戎瓦戎の墓だ、何者か其の石に鉛筆を以て左の句を書き附けた、 けれど間も無く雨風に拭はれて讀むことも見ることも出來なくなつた 彼れ眠る、 憂《う》き節《ふし》繁《しげ》く生きたれど彼れ死しぬ。 最《い》と愛《お》しの者を失ひて、 されど恨みず、安らけく、 日の往くあとに、夜の來るかごと。 縮刷 噫無情《ジーミゼラブル》(大尾) [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30