噫無情 : 目次 ------------------------------------------------------------------------------- タイトル:噫無情 (Les Mis[e']rables, 1862) 著者:ヰ゛クトル、マリー、ユーゴー (Victor Hugo, 1802-1885) 譯者:黒岩涙香 (1862-1920) 底本:縮刷涙香集第二編縮刷『噫無情』 出版:扶桑堂 履歴:大正四年九月十五日印刷,大正四年九月十八日發行,大正七年七月十七日廿二版(實價金壱圓六拾錢) ------------------------------------------------------------------------------- 噫無情 ヰ゛クトル、ユーゴー 著 黒岩涙香 譯 ------------------------------------------------------------------------------- 前篇 目次 * 小引 * 一 一人の旅人《りよじん》 * 二 其家を窺《のぞ》き初めた * 三 高僧と前科者 * 四 銀の皿、銀の燭臺 * 五 神の心と云ふ者だ * 六 寢臺《ねだい》の上に起直り * 七 社會の罪 * 八 恍として見惚《みと》れた * 九 恐る可き分岐點 * 十 愚と云はふか、不幸と云はふか * 十一 甚《ひど》いなア、甚《ひど》いなア * 十二 華子 * 十三 小雪 * 十四 斑井《まだらゐ》の父老《ふらう》 * 十五 蛇兵太《じやびやうた》 * 十六 星部《ほしべ》父老《ふらう》 * 十七 死でも此御恩は * 十八 夫がなくて兒供が * 十九 責道具 * 二十 畜生道に落ちた * 二十一 警察署 * 二十二 市長と華子 * 二十三 運命の網 * 二十四 本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が * 二十五 不思議な次第 * 二十六 難場の中の難場 * 二十七 永久の火 * 二十八 天國の惡魔、地獄の天人 * 二十九 運命の手 * 三十 聞けば兒守歌である * 三十一 重懲役終身に * 三十二 合議室 * 三十三 傍聽席 一 * 三十四 傍聽席 二 * 三十五 傍聽席 三 * 三十六 傍聽席 四 * 三十七 傍聽席 五 * 三十八 市長の就縛 一 * 三十九 市長の就縛 二 * 四十 市長の就縛 三 * 四十一 入獄と逃亡 一 * 四十二 入獄と逃亡 二 * 四十三 むかし話 * 四十四 再度の捕縛、再度の入獄 * 四十五 獄中の苦役 * 四十六 老囚人の最後 * 四十七 X節《クリスマス》の夜 一 * 四十八 X節《クリスマス》の夜 二 * 四十九 X節《クリスマス》の夜 三 * 五十 X節《クリスマス》の夜 四 * 五十一 X節《クリスマス》の夜 五 * 五十二 X節《クリスマス》の夜 六 * 五十三 X節《クリスマス》の夜 七 * 五十四 客と亭主 一 * 五十五 客と亭主 二 * 五十六 客と亭主 三 * 五十七 抑《そ》も此老人は何者 * 五十八 隱れ家 一 * 五十九 隱れ家 二 * 六十 隱れ家 三 * 六十一 隱れ家 四 * 六十二 落人《おちうど》 一 * 六十三 落人《おちうど》 二 * 六十四 何物の屋敷 一 * 六十五 何物の屋敷 二 * 六十六 尼寺 一 * 六十七 尼院 二 * 六十八 尼院 三 * 六十九 尼院 四 * 七十 本田圓《ほんだまるし》 * 七十一 父と子 * 七十二 本田守安 一 * 七十三 本田守安 二 * 七十四 ABC《アーベーセー》の友 * 七十五 第一、第二の仕事 * 七十六 異樣な先客 * 七十七 青年の富 * 七十八 公園の邂逅《めぐりあひ》 ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 小引 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- ■「噫無情」と題し茲に譯出する小説は、ヰ゛クトル、マリー、ユーゴー先生の傑作『レ、ミゼラブル』なり ■著者ユーゴー先生は多くの人の知れる如く、 佛國の多恨多涙の文學者にして又慷慨なる政治家なり、 詩、小説、戯曲、論文等に世界的の傑作多し、 先生千八百二年に生れ八十四歳の壽を以て千八百八十五年(明治十八年)に死せり ■『レ、ミゼラブル』は先生が國王ル井、 ナポレオンの千八百五十年の非常政策の爲に國外に放逐せられ白耳義に流竄せる時に成りしと云へば、 即ち五十歳以上の時の作なり、最も成熟せし著作と云ふ可し (先生が初めて文學者として世に著はれしは其十四歳の時に在り) ■「ミゼラブル」ちは、英國にては視るに忍びざる不幸の状態を指すの語なり、 佛語にては多く『身の置所も無き人』と云ふ意味に用ゐらる、 即ち社會より窘害せられて喪家の犬の如くなる状態に恰當する者の如し、 我國の文學者が一般に『哀史』と云ふは孰れの意に取りたるやを知らずと雖も 先生が之を作りたる頃の境遇より察すれば前の意よりも後の意に用ひたる者なるが如くに察せらる ■余先頃、ヂュマのモント、クリストーを巌窟王と題せしに或人は巌窟王の音が原音に似たりとて甚だ嘆稱せられたり、 余は爾まで深く考へたるに非ざりしを、勿怪の幸ひと云ふ可し、 今『レ、ミゼラブル』を『噫無情』と題し、又音の似通ひたりと云ふ人あり、 然れども之も爾うまで考へしには非ず、唯だ社會の無上より、 一個人が如何に苦めらるゝやを知らしめんとするが原著者の意なりと信じたれば、 他に適切なる文字の得難さに斯くは命名したるなり ■原書はユーゴー先生の生存中に幾版をも重ねたれば先生親から幾度も訂せし者と見ゆ、 英譯にも數種あり、余の有せる分のみにても四種に及ぶ、 猶ほ耳に聞きて未だ手にせざる分も無きに非ず、是等を比較するに、 或者は高僧ミリールの傳を初に置き、 或る者はヂャン、ワ゛ルヂャンを初めに置きたるが如き最も著るしき相違なり、 思ふにミリールは先生が理想とせし人なる可ければ卷首に之を掲ぐるが當然なる可きも、 晩年に及び讀者に與ふる感覺の如何に從ひて次章に移したるならんか、 余は(新聞紙に掲ぐるには)後者の順序が面白かるべきを信じ、 其れに從ふ事としたり ■譯述の體裁は余が今まで譯したる諸書と同く、 余が原書を讀て余の自ら感じ得たるが儘を、余の意に從ひて述べ行く者なれば、 飜譯と云はんよりも人に聞きたる話をば我が知れる話として人に話すが如き者なり、 若し此を讀みて原書に引合せ、以て原書を解讀する力を得んと欲する人あらば失望す可し、 斯かる人に對しては、余は切に社友山縣五十雄君の英文研究録を推薦す (内外出版會社の出版にて一册定價二十錢、 英米の有名なる作者の詩歌及び短詩を親切に飜譯し註釋したる者なり) ■若し原書を句毎に譯述すれば五百回にも達す可し、 少くとも三百回より以下なる能はず、 然れども余は成る可く一般の讀者が初めの部分を記憶に存し得る程度を限りとし百五十回乃至二百回以内に譯し終らんことを期す ■ユゴー先生が此書に如何の意を寓したるやは余不肖にして能く知らざるなり、 之を學[※;1文字不明。兄?]諸氏に質すに、 社會組織の不完全にして一個人が心ならざる境遇に擠陷さるゝを慨したるなりと云ふ人多し、 多分は然るなる可し、先生の自ら附記したる小序左の如し △法律と習慣とを名として、社會の呵責が此文明の眞中に人工の地獄を作り、 人の天賦の宿命をば人爲の不運を以て妨ぐることの有る限りは △現世の三大問題、即ち勞働世界の組織不完全なるに因する男子の墮落、 饑渇に因する女子の滅倫、養育の不足の爲の兒童の衰殘、 を救ふの方法未だ解釋せられざる限りは △心の饑渇の爲に衰死する者社會の或部分に存する限りは △以上を約言して廣き見解に從ひ、世界が貧苦と無學とを作り出す限りは 則ち此種の書は必要無きこと能ばざる也 蓋しル井、ナポレオンが非常政策を發する前、佛國には社會主義の勃興あり、 暗に政府及び朝廷を驚かしめたり、先生は是れより先き、 文勲を以て貴族に列せられたるも深かく社會黨の運動に同情を寄せ、 王黨を脱して共和黨に入り大に畫策する所ありたれば、 社會下層の無智と貧困とを制度習慣の罪と爲し、 其の如何に凄慘なるやを示さんと欲したる者ならんか、 先生が流竄の禍を買ひたるも畢竟は斯る政治上の意見の爲なり、 若し我が日本に『レ、ミゼラブル』の一書を飜譯する必要ありとせば、 必ずや人力を以て社會に地獄を作り、男子は勞働の爲に健康を損し、 女子は饑渇の爲に徳操を失し、到る處に無智と貧苦との災害を存する今の時にこそ在るなれ、 唯だ余がユーゴー其人に非ざるを悲しむ可しとす 譯 者 識 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 一 一人の旅人《りよじん》 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 縮刷 噫無情《ジーミゼラブル》(前篇) 佛國 ユーゴー先生 著 日本 黒岩涙香 譯 彿国《ふらんす》の東南端プロボンと云ふ一州にダイン(Digne)と稱する小都會がある 別に名高い土地では無いが、千八百十五年三月一日、 彼の怪雄 拿翁《なぽれおん》がエルバの孤島を脱出《ぬけだ》してカン(Canes)の港に上陸し、 巴里《ぱりー》の都を指して上つたとき、二日目に一泊した所である、 彼れが檄文を印刷したのも茲《こゝ》、 彼れの忠臣ベルトラン將軍が彼より先に幾度《いくたび》か忍び來て國情を偵察したのも茲《こゝ》である 此外に此小都會の多少人に知られて居るのは徳望限り無き高僧 彌里耳《みりいる》先生が過る十年來土地の教會を管して居る一事である *    *    *    *    *    *    * 今は其れより七ヶ月の後、同じ年の十月の初《はじめ》、或日の夕方、 重い足を引摺つて漸く此地に歩み着た一人の旅人は、 日に焦た黒い顏を、古びた破帽子に半ば隱し、 確には分らぬが年頃四十六七と察せらる、 靴も着物も其 筒袴《づぼん》もボロ/\に破れて居るは云ふに及ばず、 埃《ほこ》りに塗《まみ》れた其の風體の怪さに、 見る人は憐れみよりも恐れを催し、路を避ける程で有つたが、 彼れは全く疲れ果て居ると見え、町の入口で、 汗を拭き/\井戸の水を汲上げて呑み、又一二丁行きて町中の井戸で水を呑んだ、 抑《そもそ》も彼れは何所《どこ》から來た、何所へ行く、何者である、 來たのは多分、七ヶ月前に拿翁《なぽれおん》の來た南海の道からで有らう、 行くのは市廳《しちやう》の方である、頓《やが》て彼れは市廳に着た、 爾《さう》して最《も》う役人の退《ひ》けて了ッた其の中に歩み入つたが、 當直の人にでも逢たのか凡《およ》そ半時間ほどにして又出て來た、 是れで分ッた、彼れは何所かの牢で苦役を務め、 出獄して他の土地へ行く刑餘の人である、途々神妙に役所へ立寄り、 黄色い鑑札に認《みとめ》を印《しるし》て貰はねば再び牢屋へ引戻さるゝのだ、 法律の上から『油斷のならぬ人間』と認められて居る奴である 市廳を出てから、彼れは又町を徘徊《さまよ》ふた 時々人の家を窺《のぞ》き込む樣にするは、最早や空腹に堪へ兼ねて、 食と宿りとを求め度いのであらう、其うちに土地で名高いコルバスと云ふ旅店の前に行た、 入口から直《すぐ》に見通した料理場に、燃揚るほど炭の火が起ッて、 其上に掛けた平鍋には兎の丸焼や雉の揚出が轉がッて脂のたぎる音が旨さうに聞え、 得ならぬ匂が腸《はらわた》まで染透るほどに薫ッて居る、 勿論彼れは此前を通り切れぬ、油揚に釣れる狐の状《さま》で踉々《よろ/\》と中に入ッた、 中には主人《あるじ》自ら忙しく料理の庖丁を操《とつ》て居たが、客の來た物音と知り、 顏も揚げずに『好く入ッしやい、御用向はと』[誤:御用向は』と]問ふた、 疲れた空腹の、埃《ほこり》だらけの旅人は答へた『夕餉と寢床《ねどこ》とを』 主人『其れはお易い御用です』と云ひつゝ初めて顏を上げ、客の風體を見て案外に感じたが、 忽ち澁々の聲と變ッて『エー、お拂ひさへ戴けば』と云足した、 客は財布を出し掛けて、[『]金は持つて居るよ』主人『其れなら宜しい』 と無愛想よりも稍《や》や當惑けである 客はがッかりと安心した體《てい》で、 背《せな》に負つて居た行李《かうり》と懷中《ふところ》の財布と手に持た杖とを傍《かたへ》に置いた、 其間に主人《あるじ》は帳場に在つた新聞紙の白い欄外を裂取て、 鉛筆で走り書に何か書認《かきしたゝ》め、 目配《めくばせ》を以て傍《そば》に居た小僧を呼び、 二言三言其の耳に囁て今の紙切を手渡すと、 小僧は心得た風で戸外《おもて》の方《かた》へ走り去た 十月の初《はじめ》だから夜に入ると聊《いさゝ》か寒い、 殊に茲《こゝ》はアルプス山の西の裳野《すその》に當り、 四時絶間無き頂邊《てうへん》の雪から冷切た風が吹下すので、外の土地とは違ふ、 先刻まで汗を絞て居た旅人も早や火の氣が戀しく成たと見え、 火鉢の方に手を延べて、少しも主人《あるじ》の仕た事に氣が附かず、 唯だ空腹に攻られて『何うか食ふ物だけは急いで貰ひ度い』 主人『少々お待ち下さい、唯今』と云ふ所へ小僧は又急いで歸り、 返辭と見える紙切を主人に渡した、主人は之を讀んで眉を顰《ひそ》め、 暫し思案に餘る體《てい》で、其紙切と客の横姿《よこすがた》とを彼是れ見較べる樣にして居たが、 爾《さう》とも知らぬ客の方は、空腹の上に猶《ま》だ氣に掛る事でも有るのか、 少しも心の引立たぬ景状《ありさま》で、首《かうべ》を垂れて考へ込んで居る、 遂に主人は決心が着たと見え、突々《つか/\》と客の傍《そば》に寄り 『何《ど》うも貴方《あなた》をお泊め申す譯に行きません』 全く打て變たと云ふ者だ、客は半分顏を揚げ『エ、何だと、騙《かた》られるとでも思ふのか、 では先拂に仕やう、金は持て居ると斷ッたのに』 主人『イヽエ、室《へや》の空た所が有りませんゆゑ』 客は未だ失望せぬ、最《い》と靜《しづか》に『室《へや》が無ければ馬屋で好い』 主人『馬屋は馬が一ぱいです』客『では何の樣な隅ッこでも構はぬ、 藁さへ有れば敷て寢るから、先《ま》ア兎も角も食事を濟ませてからの相談にしやう』 主人『食事もお生憎樣です』客は初めて驚ろいた『其樣な事は無い、 私しは日の出ぬ前から歩き通して、腹が空て死にさうだ、十二里も歩いて來たのだ、 代は拂ふから食はせて貰はねば』主人『喰る物が無いのです』 客は聲を立てゝ笑ッた、全く當の外れた笑ひである、 爾《さう》して料理場に向き『喰る物が無いとな、彼の澤山あるのは何だ』 主人『あれは總てお誂へです』客『誰の』主人『先客の』 客『先客は何人ある』主人『ハイ、アノ、十??二??人』 客『十二人、フム、二十人だッて食ひ切れぬ』 云ひつゝ客は坐り直して更《あらた》めて腰を据ゑ 『茲《こゝ》は宿屋だらう、此方《こつち》は腹の空た旅人だから、食事をするのだ』 主人《あるじ》は店口で高聲などするを好まぬ、客の耳に口を寄せ 『今の中に立去て下さい』全くの拒絶である、放逐である、 客は振向て何事かを言返さんとしたが、主人が其の暇を與へぬ、 猶も其耳に細語《さゝや》いて『無言《だまつ》てお去り成さい、 貴方《あなた》の名も知て居ます、云ひませうか、貴方《あなた》は戎《ぢやん》、瓦戎《ばるぢやん》』 戎《ぢやん》、瓦戎《ばるぢやん》と云ふ奇妙な名に、 客はギクリと驚いた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二 其家を窺《のぞ》き初めた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 宿屋の主人《あるじ》は、猶も彼の紙切を客の目の前に差附けて言葉を繼《つ》ぎ 『戎《ぢやん》、瓦戎《ばるぢやん》が何者かと云ふ事も分て居る、 茲で聲を立てゝ云ひませうか、サア云はぬ中に立去り成さい、 私しは一目見た時に怪いと思たから直《すぐ》に小僧を警察へ走らせたら、 此通りの返事です、讀めるなら自分で讀で見るが好い』 旅客は纔《わづか》に眼《まなこ》を揚げて其紙切を見た、 主人は最後の一言を下した『私しはお客樣に丁寧だから…… サアお去り成りさい[誤?:成りなさい]』最《も》う去らぬ譯に行かぬ、 客は首《かうべ》を垂れたまゝ荷物を取上げて悄々《すご/\》と立去た、 眞に喪家の犬よりも哀れむ可しである 立去て彼れは人の家の軒下を潛《くゞ》る樣にし何處と目指す頼りも無く歩んだ、 首《かうべ》は依然と垂れて背後《うしろ》をも向かぬ、 若し向たなら今の宿屋の門口《かどぐち》に主人を初め多勢の人が立ち自分の背影《うしろかげ》に指さして喋々《てふ/\》と噂して居る状《さま》をも見、 從ッて戎《ぢやん》、瓦戎《ばるぢやん》と云ふ危險な男が此土地に入込だと云ふ噂が半時間と經ぬ中に此狹い町中に廣がる事に氣に附く所であッた 彼れは少しも是等の状《さま》を見ぬ、彼れの樣な難儀の重荷を背負て居る者は振向きなどせぬ、 振向かずとも自分の後へ不仕合《ふしあはせ》のみ附て來ることを知過るほど知て居るのだ 唯だ絶望の餘りに彼れは幾時《いくとき》か夢中の状《さま》で歩だが、 忽ち空腹の苦さが冴返《さへかへ》つたので氣が附た、 何處かで食と宿とを得ねば成らぬ、何《ど》うせ宿屋らしい宿屋では泊て呉れぬのだから、 今度は何の樣な所でも好いと、首《かうべ》を擧げて見廻る目先に、 ヂャフヲー街と記した安宿の看板が見えた、アヽ助かるのは茲《こゝ》である、 直《すぐ》に彼れは歩み寄たが、 中には矢張り旨さうな食物《くひもの》の匂がして幾人かの客が飲且食ひつゝ談話に興じて居る、 入口は町の方へ開いて居るのに彼れは氣が退《ひ》けて其所《そこ》から得入らず、 横手の潛《くゞ》りを開くと、喜んで迎へた主人《あるじ》『サア/\、 丁度 最《も》一人お客が傍《そば》へ來てお煖《あた》り成さい』 全く助かッた想がして旅客は又も荷物を卸した 動搖《どよ》めいて居た客の一同は何の樣な仲間が殖たかと此方《こなた》を見たが、 其中の一人は丁度先刻、彼のコルバスの宿屋へ馬を預け、此旅客の斷られる所を見、 又其の悄々《すご/\》と立去る背影《うしろかげ》をも眺めて色々の噂を吐た一人である、 彼れは今しも打寛《うちくつろ》がんとして居る新客の姿を篤《とく》と透して見て、 此家の主人《あるじ》を手招き其耳に囁き告げた 『此奴《こやつ》だよ、此奴だよ、戎《ぢやん》、瓦戎《ばるぢやん》と云ふ監視者は、 何でも非常に危險な惡人だと云ふのだから』 斯う語て居る中に新客は少しの安心が浮み掛て居る、 頬の角張た邊《あた》りから眉骨の高い所、決心も有り元氣もある、 一寸見れば打挫けて活智《いくぢ》無くも見えるけれど隨分嚴しい相《さう》も有ッて殊に深い眼《まなこ》が、 蹙《しか》んだ眉の底に光て居る状《さま》は、 草叢《くさむら》の暗《やみ》の奥から火の光の見《みえ》る樣で何と無く物凄いけれど、 彼は自分の事を囁かれて居るとも思はぬか頓《やが》て又 俯向《うつむい》た 今の囁きを聞終ッた主人《あるじ》は直《すぐ》に新客の許《もと》へ來て、 無遠慮に其肩へ手を掛け『茲《こゝ》に居ては可《いけ》なません、 立去て貰ひませう』客は最《も》ふ抵抗する氣力も無い、 殆ど饑《うえ》に死掛けて居る樣な者だ、 低い聞[誤?:聲]《こえ》で『エ、知て居るの』主人『知て居ます』 客『彼方《あつち》の宿屋でも斷られた』主人『だから此方《こつち》の宿屋でも斷るのだ』 客『では何所《どこ》へ行けと云ふのだ』主人『何所《どこ》へでも勝手に』 憐れ此客は又荷物を取上げて、力無く外に出た、 外には先刻の宿屋の邊からゾロ/\゛と後に附て來た兒供が待て居て、 彼れの去る背後《うしろ》から、泥坊猫をでも追ふ樣に石を投げた、 彼れは初て振向て、持て居る杖を振上げた、兒供は群鳥の樣に散ッた 彼れは此土地の監獄の前に出た、最う茲《こゝ》より外に彼の宿とす可き所は無い、 其まゝ門の戸に垂れて居る案内の鎖に手を掛けて鈴を鳴した、 番人が窓の戸を開けた、彼れは破帽子を脱で一禮し 『お番人樣、何うか戸を開いて私しを牢の中へ、今夜だけお留め下さい』 窮状も茲に至ては極度である、直に答への聲が聞えた 『茲は宿屋では無いワイ、捕縛せられて來い、爾うすれば留めて遣る』 聲と共に窓は閉ぢた 此上は何處へ行く、行く所は無いけれど行かねば成らぬ、 彼れは但有《とあ》る細道に入つた、茲には多くの庭の廣い屋敷が有て、 中には低い生垣に圍まれて、飛越れば入ることの出來さうな庭も有る、 彼れは此家彼家と見廻る中に、一軒、窓から燈光《あかり》の差して居るが有た、 彼れは先刻安宿を窺《のぞ》いた樣に、 身體《しんたい》を傾けて、其の家を窺《のぞ》き初めた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三 高僧と前科者 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 窺《のぞ》いて見ると、確に幸福な家庭らしい、 主人と見ゆる四十恰好の莞爾《にこやか》な男が膝に兒を抱き、 前面には妻と見ゆる若い女が之も兒を抱て乳を呑して居る、 此の[※;一?]同の機嫌の好い状《さま》を見ると、定めし愛想の有る家庭らしい、 茲ならばと旅人は近寄て戸を叩いた、 二度叩いて三度目に主人《あるじ》が窓まで立て來て『何方《どなた》』と問ふた、 旅人『御免下さい、行暮れて難儀する旅の者ですが、 何うかお情けに一夜の宿を、庭の隅でも何所《どこ》でも宜しいのですから』 主人『大通りへ行けばコルバスと云ふ宿屋が有るのに』 旅人『ハイ其所へ行たけれど斷られまして』 主人『ではシャフヲー街に安宿が有る』 旅人『イエ、其安宿でも斷られて來たのです』 此返事に主人《あるじ》は何か心附た樣に、急に旅人の風體を見直した、 勿論怪しげな身姿《みなり》だから驚いて 『ヤ、ヤ、此人が先刻聞た彼の人だよ』と叫んだ、 扨《さて》は油斷の成らぬ前科者と云ふ噂が早くも此靜な家に迄傳つて居るのだ、 主人《あるじ》の叫びに妻も合點が行たと見え遽《あは》てゝ子供を確《しか》と抱〆め 『早く追拂て下さいよ』と恐しげな聲を立てた、 『去れ、去れ、野猫奴』と主人《あるじ》は言ひ捨てた 旅人『では後生ですから水を一ぱいお飲せ下さい』 主人《あるじ》は床の間に在る獵銃を見返りつゝ 『水より弾丸を振舞て遣らう』とて戸を閉ぢた、 何處へ頼つても同じ事である 泊て呉れる家は到底《とても》無い、又も旅人は茲を立去たが、 寒さと空腹と交《かは》る/\゛身を攻る、 攻ては一方だけでも逃れ度いと、猶も見廻して少し行くと或家の庭に、 低い借小屋の樣な者が有る、多分は土方《どかた》か何かゞ道具でも入れて置く爲に作て有るのだらう、 此中で一夜を明せば風と霜の寒さ丈は凌《しのが》れると、 直《たゞち》に生垣を飛越て中に入た、小屋の入口は意外に小い、 けれど彼れは潜り込だが、背《せな》の袋が邪魔に成るから、 向き直して卸さうとすると、入口の外で[口|曹]《うな》る樣な聲が聞えた、 顏を上ると巨《でか》い番犬の頭が我が頭の邊に乘し掛けて居る、 アヽ此小屋は犬小屋なんだ、グズ/\すれば何の樣な目に遭はうも知れぬ、 直に彼は杖を正面《せいがん》に構へて犬を防ぎ眞に這々《はふ/\》の體《てい》で逃出した 愈《いよい》よ最う行く所が無い、アヽ犬でさへ小屋が有るのに 『己《おれ》は犬にも劣るのだ』と呟いたが此上は野か山で木蔭を頼む一方だ、 又も蹌踉《よろめ》いて足を引摺り、今度は町の外へ出た、 此時、日は既に暮果てゝ空も薄曇り、唯だ月の出やうとする山の端《は》のみ幾等か明いかと思はれる、 眞に夜半《よなか》より却て心細く物凄い時刻である、 町を外れて少し行くと横手に丘が有り丘には樹も茂て居る如く暗く見える、 彼れは其の方を望だが身震ひした、眞逆《まさか》に暗闇を恐しと思ふ樣な境涯では無からうけれど、 景色が總て恐しく感ぜられる場合が有る、斯うなると人のみで無く天然までも情《つれ》ないのだ 彼れは最う氣力が無い、又引返して町に戻ッた、 爾して又も彷徨《さまよ》ひ歩むうち、 教會堂の前に出た、此樣な身に取ては神も佛も有ッた者か、 教會堂などゝ斯樣な者の立て居るさへ忌はしい、彼は拳《こぶし》を固め、 其の屋根の方を睨み、叩き附ける樣な身眞似をした、 實に無理も無い仕打である、其れから又歩まうとしたけれど足が利かぬ、 少し離れた空地の樣な所に、腰を掛けごろの石が有ッた、彼れは其上に腰を卸した、 胴から上を横にした、全く疲れ盡した状《さま》である 丁度此の所へ、教會堂から一人の老婦人が出て來た、 暗い所に彼れの横はッて居る姿を見留め、怪んで傍《そば》に寄り 『オヤ、此人は先《ま》ア、何をして居るの』と問ふた、 彼れ『見られる通りです、寢るのです』 婦人は流石に教會から出るほど有ッて憐みの心が深いと見え 『エ、石の床に』彼れは自分の身を嘲けッて 『ハイ十九年の間、冷い木の床に寢て來ました、今夜は石の床に有附きました』 何と云ふ無慘な言葉だらう、婦人『では兵隊で有たの』 彼れは其口に隨《つい》て『ヘイ兵隊でした』 婦人『宿屋を尋れば好いのに』彼れは最う、宿屋で追拂はれた白状はせぬ、 單に『錢《ぜに》が有りません』婦人は財布を探り『オヤ、何うしたら好《よか》らう、 唯《たつ》た四錢しか持て居無いが』彼れ『四錢でも好い、下さい』とて受取た、 世間が最う、皆我に情《つれ》ないと思へば此樣な心にも成るのだ、 婦人『だつて是れ許《ばか》りでは何うする事も出來ぬ、 定めしお腹も空て居やう、寒くも有らう、何所《どこ》か一夜の宿を惠んで呉れる家が有さうなもの』 彼れ『有りません』婦人『乞ふて見たの』彼れ『ハイ泊て呉れやうと思ふ家は一軒殘らず、 爾じて皆斷られて了ひました』 婦人は暫し思案の體《てい》で四邊《あたり》を見廻し、頓《やが》て思ひ浮んだ樣に、 此の空地の隅に當る屋根の低い家を見遣て『那《あ》の家へも願ッて見たの』 彼れ『那《あ》の家ですか、イヽエ未だ』婦人『では願ッてお見な』 『では願ッてお見な』との此短い一語が、後から思ふと眞に不思議な因縁を爲した、 彼れは其の言葉に従ッて、指された家の戸を叩いた、 中から直に『お入り成さい』との心好き返辭が聞えた 此家は抑《そ》も誰の家、 篤行《とくかう》双《なら》び無しと稱せらるゝ彌里耳《みりいる》僧正の邸《やしき》である、 アヽ高僧と此の前科者、何の樣な對照だらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四 銀の皿、銀の燭臺 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 僧正とは僧侶の中で極高い身分である、當時此國の官制では陸軍大將の直《すぐ》次に位する格式と爲て居た 今旅人が戸を開けて入つた此家の主人が其の僧正なんだ、十年前に此地の寺領を管《あづか》つて以來、 彌里耳《みりいる》先生と云ふ名が殆ど慈善の神の樣に思はれて居る 齡《よはひ》は七十五歳、家族とては其身より十歳ほど年下なる妹子[誤?:妹御]《いもとご》と老女一人である、 初て此土地へ赴任して來た時、直《すぐ》に貧民病院を見廻り、 其の建物の狹く穢《むさ》くろしいのを見て、廣い立派な自分の官宅と取替た、 何も三人の家族に廣い住居《すまゐ》は要ぬから其れよりは多勢の貧い病人に裕《ゆと》りを與へるが好いとの意見に出たのだ、 此一事でも大方其の人柄は察せられる、年々政府から得る俸給が一萬五千法《ふらん》 (一 法《ふらん》は今の相場にて凡《およ》そ日本の四十錢) 其内一萬四千 法《ふらん》までを年々悉く慈善事業に寄附し其身は單に一千 法《ふらん》と妹御《いもとご》の身に附た所得五百 法《ふらん》とで、 極めて質素に暮して居る、是では餘り甚《ひど》いからとの老女の苦情で、 別に地方政廳から馬車代として年三千 法《ふらん》を受る事に運んだが、 此三千 法《ふらん》も直《すぐ》に他の慈善事業へ一切寄附することに取極めた 是からと云ふ者は土地の人が徳に感じ、總て惠み金の類《たぐひ》は此僧正の手に托する事になッた、 之が爲め、年々僧正の手を經る金額は實に夥《おびたゞ》しい高《だか》である、 けれど授ける豐な人よりは何うしても受る貧い人の方が多いから、一錢でも僧正の爲にはならぬ、 のみならず時々分與へるに不足して自分の乏しい家計を割減《さきへら》す事がある 凡《およ》そ人の艱難病氣と有らば何の樣な危きを冒しても之を救ふ、 此點では慈善家たるのみで無く勇者である、けれど世間一般の宗教家の樣に決して嚴しい意見は持たぬ、 本來由緒ある家に生れ華美《はで》と贅澤の中に育た人で、 唯だ革命の亂の爲に家を失ひ、亂を他國(伊國《いたりや》)へ避けて居るうちに最愛の妻に死なれて、 其れが爲め痛く世を墓なみ、發心して宗教に歸したとの事である、 だから若い時には普通の俗人と同じ樣な行をしたであらう、 多少は過ちも有たであらう、其れは自分で常に云ふのだ、 從つて人に説く意見も柔かで、無理が無い、先づ斯うだ 『何でも人と云ふ者は肉體と云ふ重い荷物を脊負て居るのだ、 此荷物が常に慾心や過の元と爲るから、油斷無く之を見張て居ねば成らぬ、 出來る丈は之を抑へ附け、之に勝つ樣にして、萬々止を得ぬに至て之に從へ、 從へば罪と爲るのだ、けれど全く止むを得ぬ場合ならば恕《じよ》せられやう、 轉《ころん》で膝を突くのは仕方が無いから直《すぐ》に其の突膝で神に縋《すが》り、 膝より上に墮落せぬ樣にせよ、完全と云ふ事は神より外に無いのだから人は望でも及ばぬ事、 人は唯だ正直にせねばならぬ、過ちも、罪を犯しても其でも正直を忘れるな、 一生懸命に罪を少くする樣に勉めるのが人の道だ、 全く罪の無いのは神ばかりだ、罪とは肉體に籠て居る引力の樣な者だ』 と能く人情を咀分《かみわ》けた穩かな意見である、人の服するも無理は無い *    *    *    *    *    *    * 此夜僧正は夕方の散歩から歸り、室《へや》に閉籠て書ものをして居た、所へ、 夜食の用意が出來たと見え、老女が來て戸棚から銀製の汁皿を出して行た、 汁皿が銀製とは此の平民主義平等主義の僧正に不似合だけれど之は先祖から傳はッて居る大事の寶物《はうもつ》で、 僧正には此の銀の皿で汁《そつぷ》を啜《す》ふのが唯だ一つの贅澤である、 皿の數は都合六枚の一組で、其外に銀の燭臺が二本ある、 之も親類から遺身《かたみ》として受けたので、 毎《いつ》も煖爐《すとーぶ》の上の棚に一對揃ふて置てある、客の有る時には用ふるのだ 能く規則の行屆いた家だから、皿が出れば直《すぐ》に食事だ、 僧正は爾《さう》と知ッて、書ものを罷《や》めて勝手へ行くと、 茲が食堂をも玄關をも兼て居る、戸を開けば直《すぐ》に往來だ、 不都合な建て方では有るけれど貧民病院を其まゝ住居《すまゐ》に用ひて居るのだから仕方が無い此時老女は、 僧正の妹御《いもとご》に向ひ頻りに、宵に買物に出たとて町で聞て來た恐しい旅人の話をして居る 『何でも十九年も長い間懲役に居た奴だと云ますから屹度《きつと》今夜、 何所《どこ》へか泥坊に入りますよ、 町中では最う皆な恐がつて戸を閉《とぢ》て居ます、此お家でも何うか入口の掛金と戸棚の錠前を拵へねば、 銀の皿を盗まれては大變です』僧正は聞きつゝ卓子《ていぶる》に向つて坐した、 丁度此時である、外から旅人が戸を叩いたのは。直《すぐ》に僧正の口から『お入り成さい』との返辭が出た、 之は誰彼の差別は無い、何の樣な場合でも音なふ者さへ有れば必ず同じ返辭をする、 僧正の家には秘密も無い、都合も無い、難儀する人は救ひ、乞ふ人には與へ、 自分の住居《すまゐ》を自分の家とは思はず、財産にでも勞力にでも、 全く自分と云ふ事を忘れて居るのが、誰にも眞似の出來ぬ所である、 是であればこそ徳行なんだ 返辭に應じて入口の戸は開かれた、開いた人は殆ど決死の心とも云ふ可きだ、 茲ではれねば救はれる所は無い、彼れは突《つ》と入ッた、 背《せな》には嚢《ふくろ》が有り手には杖を持て居る、 風體の尋常《たゞ》ならぬは云ふに及ばず、野卑な、大膽な、疲勞した、 爾《さう》して亂暴らしい顏が燈光《ともしび》の前に突出た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五 神の心と云ふ者だ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 全く此旅人は、其筋から銘を打たれて居る通り『油斷の爲らぬ奴』である、 眞に恐る可き人間である 燈光《ともしび》の前に立た其顏の凄さ、其姿の恐ろしさ、 老女も僧正の妹御《いもとご》も我知らず逃やうとする如く立上ッた、 若し日頃から僧正の感化を受けて居なんだなら、必ず兩女とも叫び聲を發したゞらう、 唯だ泰然と靜なのは僧正である、驚きも騒ぎもせぬ、 僧正の此靜さに妹御は直ぐ席に復して僧正の顏を眺め、 老女は立たまゝ棒の樣に成て居る 頓《やが》て僧正は來客に向ひ、穩かに其の顏を見て、問はんとした、 客は問はるゝを待たぬ、遽《あは》てた樣な聲の、高い調子で『御覽下さい、 私しの名は戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ひます、懲役人です、 十九年の間ツーロンの獄で懲役を勤め四日前に牢から出されてポタリエと云ふ土地へ遣られる途です 今日は朝から十二リーグ(約十七里)歩み、 疲れ果て此土地へ着たけれど飯食ふ所も寢る所も有りません、 行く先々で皆斷られ、仕方無しに此家の外の石の上に寢て居たら、 教會から出た婦人が此家の戸を叩いて見よと教へて呉れました、 其れだから叩きました、泊て呉ますか泊ませんか、 此家は宿屋ですか、何す[誤:何]ですか錢は斯う見えても持て居るのですよ、 十九年の間牢の中で溜つた工錢が百零九 法《ふらん》と十五錢、 四日の旅で廿錢使つた丈です、宿賃は拂ひますが泊て呉れるのですか、 呉れぬのですか』 此返辭を何より先に聞度いのだ、又も失望するが厭だから彼れは第一着に自分の履歴を晒け出した、 僧正は人を斷た事が無い、返辭せずとも分つて居る、 直《すぐ》に老女に向ひ例の通り靜に『サア皿を出してお呉れ』と云た、 此者の爲に早や膳立を命ずるのだ、彼れに取ては實に意外だ、 何にも問返さず、早や膳立とは何かの間違ひでは有るまいか、 彼れは突々《つか/\》と又 一入《ひとしほ》燈光《ともしび》の傍《そば》に進んで忽然と踏止り 『お待ち成さい、お待ち成さい、今私しの云た事が分りましたか、 私しは懲役人ですよ、罪人ですよ、牢から出された許《ばか》りですよ、 此通り是れ黄色い鑑札を持て居ます、讀で御覽なさい、 極めて危險な奴だと書附て有るのです』とて其鑑札を僧正の前に差附たが 『イヤ貴方《あなた》が讀ねば私しが正直に讀で聞せて上げませう、 之でも牢の中の學校で十九年の間に讀書は覺えたのです、 ハヽヽ四十六と云ふ年に成て自分の兇状を讀む事が出來るのだ』と物凄く自ら嘲《あざけ》ッて 『ソレネ放免囚、戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と記して有ります、 盗《たう》を犯して五年、在鑑中に破牢を企てし事四回、 其罪の爲に刑期を延さるゝこと十四年、合せて十九年入獄したり、 此者は最も危險なり、目を離す可からずと書て有る、全く此通りです、 泊て呉れますか、最う腹が空て、疲れて、何か食ねば居られません、 寢るのは馬屋の隅でも好いから、何うかねえ、一夜だけ』 僧正は又老女に向ひ、『新しい白布を掛けて寢床《ねどこ》の用意をも仕てお呉れ』 僧正の言附には、一言も無く老女は從ふのだ、唯々《ゐゝ》として次の室に去た、 僧正は初めて戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に向ひ『サア貴君、此へ据《すわつ》てお煖《あた》り成さい、 丁度私し共も是から食事を初める所ですから御一緒に致しませう』 何と云ふ丁寧な言葉だらう、而も故《わざ》とで無く自然である、 戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は初めて泊て呉れる事と合點は行た、 けれど貴君、[※;ハ?]ヽ貴君などゝ云はれるのは今まで覺えの無い事だ、 泊《とまり》を得たのは無論嬉しくも安心にも感ずるだらうが、 其れよりは此待遇が怪しい、合點が行かぬ、殆ど恐ろしい、 全く僧正の盛徳に打たれたのだ、彼れは暫しがほど口も利けぬ、 何やら云はふとしたけれど吃て語を爲さぬ、殆ど狂人の言葉かとも思はれる 稍《やゝ》あつて彼れは切れ/\゛に『エ、泊て呉れる、エ、本統、 エ、何と仰有《おつしや》ッた、私しをエ追拂ひもせずに、前科者を、 貴君などゝ貴方《あなた》は、誰でも此の野猫めなどゝ云ひますのに、 有難い、有難い、何だか本統に泊て呉れる樣に見えるぞ、 白い布で寢床《ねどこ》の用意などゝ、オヽ十九年の間、 寢床と云ふ者は知なんだ、有難い、貴方《あなた》は善人だ、茲は宿屋ですか、 宿屋の、貴方《あなた》は御亭主ですか、立派な御亭主だなア、 オヽ善人、善人全く宿屋の御亭主ですか』僧正『私しは茲に住む僧侶です』 戎『オヽお棒樣、其れでは宿賃などは取ないんだ、 成るほど着物を見れば分て居る、茲の教會の牧師さんでせう』僧正『爾《さう》です』 戎《ぢやん》は半信半疑、夢心地で有たけれど、初て合點が行た樣に背《せな》の嚢《ふくろ》を卸し 『アヽ善人だなア、牢屋へも時々牧師と云ふのが來たけれど何だか分らぬ事ばかり云て居たが、 エお坊さん、牧師さん、牧師がズッと出世して登り詰ると僧正と云ふのに成りますよ』 聞て居た妹御は思はず笑《ゑみ》を催ほした、恐ろしさが稍《や》や薄らいだ、 戎《ぢやん》は語を繼ぎ、『僧正と云ふのは十九年の間にたッた一度しか牢屋へは來ませなんだ、 立派ですゼ、帽子なども金ぴかで、サ,何だッて陸軍大將の次に附くのだと云ひますもの、 貴方《あなた》の樣な、譯の分ッた方は僧正に成たッて可いや、牧師では勿體ない』 と云ひつゝ篤《とく》と僧正の質素な姿を見直して『アヽ貴方《あなた》は貧しい、 未だ牧師にも成て居ぬワ、宿賃を拂ひませうか』僧正『其には及びません』 答ふる聲には憐みが滿て居る 其中に老女は銀の皿を出して來た、戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は席に着た、 僧正は老女に向ひ『何だか燈光《ともしび》が暗い樣だ』とは銀の燭臺を持て來いとの心だらう、 老女が爾う心得て去らうとすると『皿も之では足りないだらう』と言ひ足した、 六枚も殘らず出せとの謎である 此樣に盛徳限り無き高僧でも、兒供の樣な心が有る、 尤も兒供の樣な心だから自然に其徳が高くなるので有らうけれど、 皿と燭臺を客に見せるのを日頃から一方《ひとかた》ならず歡ばしく感ずる容子である、 此外には道樂に類した事が一つも無い、瓦戎《ばるぢやん》は既に、 『貴君』と呼ばれて異樣に心が鎔《とろけ》て居る上に斯樣な扱ひを受け、 嬉さと怪さが何時《いつ》終るか果が分らぬ『牧師さん??先《ま》ア追々牧師に出世成さるのだから、 今から牧師さんと云て置《おか》ふねえ、牧師さん、 貴方《あなた》は世間の人の樣に、私しも追拂ひもせず、 此通り銀の皿や銀の燭臺を出してお客扱ひにして下さッて私しも最う、 何にも貴方《あなた》には隱しませんよ』とて身上をでも語り相である、 僧正は遮る樣に『ナニ、何にも私しへ話すには及びません、 此家は私しの家では無く、私しが此家の主人《あるじ》では無いのですから』 戎『エ、エ』僧正『此家は誰でも艱難する人の家です、 行暮れて惱む人が此家の主人《あるじ》です』 此言葉が若し心の底に浸込まねば人で無い、イヤ鬼ですらも無い、 戎は『本統にねえ』と殆ど呆れた躰《てい》である、 僧正『貴方《あなた》の名前も聞ぬうちにから分ッて居ます』 戎『エ、聞かぬうちから』僧正『ハイ吾々の同胞兄弟と云ふのです』 アヽ此者を同胞兄弟、眞に僧正の心は、人の心で無く神の心と云ふ者だ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六 寢臺《ねだい》の上に起直り [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『兄弟』とまでに云はれて、其親切を感ぜずに居られやうか、 戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は腸《はらわた》の底までも難有《ありがた》さが浸渡ッた樣に、 首《かうべ》を垂れて呟いた『己《おれ》は最う、食《く》は無くッても可いや、 寢無くッても可いや、餘《あんま》り信切にされるから、 空腹《ひもじ》いのも忘れて了ッた』眞に感極まッたと云ふ者だら、とは云へ、 頓《やが》て食事の用意が出來ると、彼れは餓えた獸の如くに貪り食ッた、 けれど獻立は極めて質素だ、彼れは氣に附た樣に『あゝ牧師さん、 貴方《あなた》よりは馬方の方が、餘ぽど旨い物を食て居ます』 僧正は穩かに『其れは馬方の方が私しより骨の折る仕事を仕て居るからです』 僧正の言葉は總て神々しい 食事の間に僧正は幾度《いくたび》か憐みの眼《まなこ》を以て彼れの顏を見、竟《つい》に問ふた 『隨分貴方《あなた》は苦い想をしたでせうね』戎は嘲《あざけ》る樣に答へた 『ヘン苦い想ひ、爾です、赤い着物で、獸の樣に首輪が嵌ッて、 脚には鐵の鎖で重い大砲の丸《たま》を結び附けられ、 何にもせぬのに鞭が降り、一言云へば密室監禁です、病氣で寢らとて鎖の離れる隙《ひま》は無く、 全く犬に劣ります、爾して長い十九年を勤めた揚句が此黄色の鑑札で、年は四十六に成りました、 此鑑札の有る間は、何所《どこ》へ行たとて人間の樣には思て呉れません……』 苦い/\言葉である、僧正『けれど貴方《あなた》が世を恨み人を憎む心を以て其境遇を出て來たならば、 猶ほ惡人では無いのです、眞に憐む可き人と云ふ者です、 若し更に不平を抱かず人を恨みず[誤?:恨まず]、却て慈悲の心を以て出て來たなら、 貴方《あなた》は何人も及ばぬ程の善人です』 此言葉が何の樣な感じを起させたかは分らぬ、 猶ほ此後で樣々の話をしたけれど僧正は彼れに其身の墮落を耻ぢさせる樣な事は一切云はず、 唯だ眞の兄弟を扱ふ樣に、打解けて最《い》と親しく扱ッたのは此上も無い情である 頓《やが》て一同と共に食事も濟だ、老女は早速に食卓《ていぶる》の上を片附け初めた、 取分けて銀の皿を先に仕舞たのは仲々の用心である、 僧正は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に向ひ『サア最うお寢《やす》み成さい』とて、 銀の燭臺の一個を與へ、殘る一個は自分が持つて丁寧に彼れの寢室《ねま》に送り屆けた 寢室《ねま》と云ふのは、此家の間取が宣く無い爲め僧正の居間を通らねば行かれぬのだ、 戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は送られつゝも、深く考へ込む體《てい》であッたが、 寢室《ねま》に入てから何と思ッたのか、 今まで僧正の徳に感じて綿の如く柔かで有ッたに引替へ忽ちに打て變つた樣な擧動を示した 幸ひに僧正を彼れと唯だ二人差向ひである、 若しも此とき僧正の妹御か老女か居合せたなら必ず恐れ戰《おのゝ》く所だッたあう、 彼れ瓦戎《ばるぢやん》は垂れた首《かうべ》を忽然として擧げ、 僧正に向ひて立ち、兩の手を横柄に胸に組て、嚇す樣に僧正を睨み附けた、 或は飛掛る積でゝも有るのだらうかと思はれた 何故《なにゆゑ》彼れの容子は斯う變たのだらう、問ふ迄も無い、 十九年も牢に居て荒びに荒びた心が、今漸く僧正の信切で治つて居たけれど、 一時の力は本來の性に勝たず、暫し抑へた反動に其の性が跳返る樣に湧て起り、 自分でも制する事が出來ぬのだらう、全く我を忘れた樣な者である、 爾して嗄れ聲を立て『貴方《あなた》は自分の寢る直《すぐ》に隣の室《ま》へ私しを寢かせて好いのですか』 自分の聲の恐しい響きに、彼れは又心附たか、忽ち破顏して呵々《かゝ》と笑ッた、 笑ひ聲の物凄さは得も云はれぬ けれど僧正の態度は少しも變らぬ、戎は又云ふた『貴方《あなた》は篤《とく》と考へての事ですか、 私しが人を殺さぬと誰が云ひました』殆ど汝を殺すかも知れぬぞと云樣にも聞える、 僧正は答へた『其れは神の知る事です』と、爾して戎を宥《なだ》める樣に口の中で祈り、 猶ほ片手を彼れの額の邊まで擧げ、神の惠の、彼れが身に加はる樣に撫で鎭めて、 靜かに茲を去ッた 斯て僧正は自分の居間に入り、又暫し神前に[しめすへん|壽;u79B1]《いのり》を捧げて庭に出た、 爾して森嚴な庭の景色に、天地の示せる深き秘密を考へつゝ逍遥した 之に引替へ瓦戎《ばるぢやん》は、僧正の去た後に、 柔かな寢臺《ねだい》の面《おもて》を見廻した末、枕許《まくらもと》に置た燭臺の火をば、 牢の中で慣れて居る通りに鼻息を以て吹消し、其まゝ寢臺《ねだい》の[※※;上に?]身を横へ、 眠りに就た、間も無く僧正も室《へや》へ歸り十二時に至つて之も寢た 一眠りの後、戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は目を覺して、やをら寢臺《ねだい》の上に起直り、 四邊《あたり》の容子に耳を澄したが[※;[門/貝;u95B4]《けき》?]として何の物音も無い、 一家全く寢鎭ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七 社會の罪 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の目を醒したのは夜中の二時であつた、彼は寺の時計の音を聞た 纔《わづか》に四時間 許《ばか》りしか寢なんだけれど、 少しの間にグッスリ眠《ね》る癖が牢の中で附て居ると見える、 最う晝間の疲れも無くなつて居る、再び眠らうとしても眠られぬ、 彼れには餘り寢床が柔か過るのだ、 十九年の間板の間に寢た者には却て寢心の快《よ》く無い所がある、 彼れは默然として考へた、無論此家の主人の信切から食物の旨かつた事まで思ひ出したが、 其れよりも猶明かに彼れの心に遺つて居るのは六枚の銀の皿である、 老女が匆々《さう/\》に之れを仕舞つた樣をも見た、其の仕舞つた處をも知て居る、 六枚を殘らずならば捨賣《すてうり》にしても二百 法《ふらん》以上の物は有る、 牢の中で十九年稼ぎ溜た工賃よりも一夜の間に二倍の稼が出來るのだ、[※※;彼れ?]は此の樣な事を考へ、 胸の中で計算した、初は眞逆《まさか》に實行しやうとは思はなんだが、 考へるに從ひ益々慾が募た、けれど彼れは自分の慾心に抵抗した、 容易には決し得なんだ、考へて考へ、竟《つひ》に一時間を過した、 三時の鐘が又聞へた、其の音が彼れの耳に『働くのは今だ』と云ふ樣に聞えた 彼れは靴のまゝ寢て居たが靴を脱いで自分の衣嚢《かくし》に入れた、 荷物の革嚢から鑿《のみ》の樣な物を取出した、 是れは僧正の室《へや》と自分の室《へや》との、 間の戸を開るに用ふる積なんだらう、爾して嚢《ふくろ》は背《せな》に負ひ、 全く立去る用意を定めて寢臺《ねだい》を降りた、 先づ忍び足で窓の所ろに行き庭の容子を見ると、薄月の明りに、 塀の何の邊が最も乘り越て逃げ去るに都合が好いかとの見當も分る、 彼れは再び考へたけれど、最う斯なつては『働く』と云ふより外に思案は出ぬ、 ソッと僧正の室《へや》の戸の所に進み、耳を澄した、 彼方に何の物音も無い、確に主人《あるじ》は眠ッて居る、 彼れは先づ戸を推して見た、定《さだめ》し鑿《のみ》を用ひねば開かぬ程の錠でも卸りて居るかと思たら、 意外にも締《しまり》が無い、戸は推すに従ッて音もせずに開いた、 彼れの身は直《すぐ》に僧正の居間に入た *    *    *    *    *    *    * 抑《そもそ》も此の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は何者であるか、 彼れは此國の都巴里府より遠くも有らぬブライと云ふ山里の木樵《きこり》の息子で幼い時に父母を失ひ、 近村へ縁附て居る自分の姉の家へ引取られて育てられた、 所が姉の夫と云ふが又死で、姉は七人の子供を殘されて寡婦《ごけ》と爲た、 子供は上が八歳で、末が當[誤?:十]歳の乳呑であつた、此時、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は廿五歳、姉の家は貧しいのだから、 自分が稼いで姉と七人の子を養はねば成らぬ事に成た、 隨分彼れは働いた、日傭《ひよう》にも出れば道普請にも雇はれ、 木挽《こびき》もすれば獵にも出ると云樣な状《さま》で、 本統に夜の目も寢ぬ程に稼だけれど、 悲しい哉《かな》資本の無い者には生活を許さぬのが文明と云ふ此恐しい制度である、 日一日に彼れ及び姉の一家に貧苦は迫ッた 世の常の男ならば、最早や多少は村の娘達にも彼れ是れ云はれ、 苦い間にて又笑ッたり樂んだりする事の有る年頃だのに、 彼れには其樣な折が無い、暇が無い、女の愛が何かと云ふ事は彼れも未だ知らぬ所である、 其代りに彼れは七人の子を愛せねば成らぬ、實の所能く其子等を愛した、 隨分姉が叱る場合などに、影に日向に、庇ひもし氣も附けもした、 彼れは陰氣な無口な質《たち》では有るけれど、多少は深い愛の心を、 持て生れた者と見える 次の年の冬、甚く雪が降り、日傭に雇うて呉れる人も無く、 其外の手間仕事も全く絶えて、彼れは一家九人と共に餓ゑ且、 凍えねば成らぬ樣な景状《ありさま》には落入た、眞に其日稼ぎの人に、 惡い天氣や不景気の續くほど殘酷な者は無い、全く天道が人を殺すのだ、 或る夜の事、其村に在る何某《なにがし》と云ふ麪屋《ぱんや》の主人《あるじ》が、 晝間賣殘ッた麪《ぱん》の片《きれ》などを片附て居ると、 外から窓の硝子を叩き破ッた者がある、 主人が驚いて振向くと其の破ッた間から人の片手が出て、 臺の上に在る一個の麪《ぱん》を取るより早く逃去ッた 直《すぐ》に主人は飛で出て、追掛けて捕押《とりおさ》へたが、 泥坊は早や麪《ぱん》を投捨て、何にも持て居ぬけれど、 片手に硝子で切つた瘡《きず》が有ッて、血が流れて居る、 勿論辯解の道は無い、直《すぐ》に警察へ引渡された、 是が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》である、 彼は七人の子の餓に泣くを見かね聞かね、 終に一片《ひとひら》の麪《ぱん》を盗む氣に成たのだ、 彼れが盗だのだらうか、將《は》た社會が彼れに盗ませたのだらうか、若し彼れにして、 麪屋《ぱんや》の主人《あるじ》に打明けて麪《ぱん》一個《ひとつ》下さいと云たならば必ず呉れる所だッたのだらう、 けれど彼れの氣質は其れが出來ぬ、爾う打明ける質《しつ》で無く又爾う口が輕くなかッた 其が爲に到頭正式の裁判に附せられた、詮議の結果、 彼れの家に一挺の獵銃が有ッた、獵銃は有るけれど鑑札が無い、 鑑札が無ければ盗獵者である、盗獵する位の奴ならば外にも盗罪の有るはずだと認められた、 全體鑑札を持たぬ獵師は世に幾等も有るけれど、 盗獵と爲ると甚く上《かみ》の方から憎まれる、其れに貴族の獵場や山林を荒らすとの懸念のためである、 彼れは樣々に辯解したけれど通らぬ、盗んだ麪《ぱん》も直《すぐ》に投捨たけれど、 戸締りの有る家へ亂入して盗を働らいたと云ふ箇條に當られた、 未遂では無い、既に遂げた上に投捨てたのだ、遂に懲役五年の刑に處せられた 爾して縷繩《こしなは》で巴里《ぱりー》に引かれ、 他の多くの罪人と共に珠數繋《じゆずつなぎ》に成つて、 馬車の載せられ二十七日の長い道中を經てツーロンの獄に送られた、 其あとで姉の一家は何う爲ただらう、其れは能く分らぬけれど、 外に何うも成り樣が無い、通例斯る境涯の人達が成る樣に、 一家離散して、乞食にもなれば養育院にも入り、 尋ねる跡方も無くなつたのだらう、不幸な人を無慈悲に亡ぼすのが社會の仕組であるのだから、 尤も母の方は末の乳呑を抱き、巴里《ぱりー》に上つて下等な製本屋へ雇はれ、 乞食同樣の景状《ありさま》に成つて居るのを見受けた人も有るとの事が、 風の便りで獄中の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に聞えたけれど、 其れ切りの事で後は分らぬ、此後にも又と此話の上へは現はれぬ 今でも巴里《ぱりー》の牢番を勤めた人で、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が初めて都へ引れて來た時の状《さま》を覺えて居る者が有る、 其れは戎《ぢやん》の容子が他の囚人と違て居たから特に目に着たのだらう、 其人の直話《ぢきわ》に依ると、五六十人珠數の樣になり、 監獄の庭へ並んで腰を掛けさせられた中程に、 髪の毛の長く延びた男が、身を悶へて泣て居た『アヽ己《おれ》は獵師だ、 親の代から山の物を採て正直に食て居るのだ、 此樣な、重い仕置に遭ふ樣な、惡人では無い』と云ひ、 頓《やが》て泣き止むと手を差し延べ、 宛《あたか》も背丈の揃ッて居る七人の子供の頭を撫でる樣に段々と其手を低くし、 口の中で何やら呟いて居たので、扨《さて》は子供に未[糸|柬;uFA57]が殘つて居るのかと、 牢番の慣れた眼《まなこ》には察せられたとの事である されば戎《ぢやん》は入獄の後も、罪に合はせて自分の罰が重過るとの念が絶えず、 服役の苦さに付け次第に人を憎み社會を恨む心とは成り、 折さへ有れば牢を出やうと企てた、其れが爲に段々刑期が永くなつた、 初めは四年目に逃出して二日目に捕へられ、三年の刑期を増されて八年と爲り、 其翌年又逃たが今度は捕《つかま》る時に役人に抵抗したとの罪まで加ッて五年を増され十有三年と爲り、 次は十年目に又逃げ掛けて又三年を増された、都合で十六年とは成ッた、 十三年目に又 隙《すき》が有ッたので最後の逃亡を企てたが、 其結果は又三年を附加へられ十九年の刑期と爲るに終ッた、 誠に愚な次第では有るが、憤慨が重ッて、 終には利害など考へる事の出來ぬ樣な場合の有る捻《ねじ》けた頑《かたくな》な心に成て了たのだ、 境遇が人を損ふのだ 兎も角も、餓に迫る子供の爲めに、一片《ひときれ》の麪《ぱん》を盗み損ッた罪が本で、 十九年の刑に服した [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 八 恍として見惚《みと》れた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 二十七歳から四十六まで、全く人間の盛りである、此の盛りを牢の中で過すとは、 其れも大した罪の有る事か、麪《ぱん》一片《ひときれ》を盗み損じた罰だとは、 眞に無慘の極である、爾して漸くに牢を出れば、家も無い、食も無い、 滿十九年の汗脂で稼ぎ溜た金が百 法《ふらん》の餘は有ても、 世間の人が相手にして呉れず犬猫よりも劣て居る 此樣な人に、正しく心を持てと云ふは無理だ、 彼れ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は牢の中で既に心が捻けもし曇りもして、 深く物の道理などを考へる事が出來なく成ッた、 偶《たま》には考へもするけれど唯だ恨めしさが先に立ち、 人間らしい思案は出ぬ、或時は自分で自分の境涯を夢の樣にも思ひ、 亂暴でもすれば夢が破れて自由の身に成られるかと疑ふ事さへ有る、 兎も角も自由が得たい、早く牢の外に出度いと、其れ許《ばか》りを思ふから、 逃られる折さへ有れば直《すぐ》に逃る、 逃て逃果《にげおほ》せられるや否や、 又捕まれば前より刑期を延されはせぬや否や、 などの事は考へて居られ無い、丁度檻の中に入られた獸の樣な者だ、 檻の戸を隙間さへ有れば直《すぐ》に逃る 全く彼の心は獸の樣に、唯だ其時の衝動に從ふのだ、 思案でも無い慾でも無い、單に逃げ度いから逃げ、 奪ひ度いから奪ふ、深い考慮はして居られぬ、 詰り十有九年の殘酷な境涯が人を獸にして了ッた 本來彼は力が強い、四人前の力は確かに有る、 取分て背《せな》に物を負ふ力などは度々《たび/\》官吏や同囚の者を驚かせた、 其上に又身の輕いことが驚く可き程である、牢の中には逃亡の學問が有て、 少し刑期の長い囚人は、間がな隙《すき》がな之を勉強して居る、 彼れは監獄の學校に入り讀書を勉強する外には、常に此の逃亡術を研究した、 讀書の方は知識を得て世間の憎さを知り出獄の後に世間へ仇《あだ》を復《かへ》するに必要で、 逃亡の方は早く其 仇《あだ》を復《かへ》す時を得るのに必要だと、 此樣に思ふて居る、彼れは牢の中で他の囚人の登り得ぬ壁などに易々と上り、 又塀を越え垣を飛ぶなどは最も得意だ、 人が梯子を掛けても恐れる樣な高い煉瓦造りでも、 彼れは其の隅の角に成て居る所を手足で挾み、巧に這登ッて二階へでも三階へでも、 必要に依ては屋根へでも上つて行く、是れが却て彼れの身の仇《あだ》と爲り、 四 度《たび》も逃亡を企てゝ五年の刑期を十九年に引延される本とも爲り、 又鑑札の表に危險極まる囚人として特に警察への注意を書入られる元とも成ッたのだ 斯くて十九年の刑期が漸く濟んで今度放免せられた時、 『汝の身は今日より自由である』と言渡された言葉が、 夢か現《うつゝ》か分らぬ樣に彼れの耳には響いた、 其れから在獄中の工錢を受取るに及び、 彼れの腹の中で計算して二百 法《ふらん》の餘に爲て居る事と思ッて居た、 所が纔《わづか》に百 法《ふらん》の餘しか無い、是は多分休の日の分や、 種々の費用を差引れた結果で有らうけれど、彼れは爾は思はぬ、 確に役人に半分だけ盗まれた者と信じた、是に就けても世の中に憎さが増した 其れから牢を出て此地へまで來ると土木の工事が有たから、 彼れは其れに雇はれた、只だ一日だけれど兼ての大力ゆゑ四五人分も働いた、 爾して共に働いて居た人足に聞て見ると一日一人の賃錢《ちんぎん》が卅錢以上だと云ふ事である、 牢の中の賃錢《ちんぎん》に比ると餘ほど割が好いので、 彼れ心に喜んで居たが、其の所へ通り掛た警官が彼れの風體を怪み、 姓名を取調べた、彼れは正直に答へて黄色い鑑札を示したが、 警官は人足頭《にんそくがしら》に何事をか呟いて立去つた、 彼れは其翌日解傭せられた、爾して一日分の賃錢を請求すると、 たつた十五錢しか渡されぬ、此樣な筈では無いと爭つたが 『貴樣には其れで澤山だ』とて相手にせぬ、 茲でも彼れは又自分の賃錢を盗まれた樣に感じた 世間は盗みで立て居るのだ、監獄の官吏も盗み、 土木の人足頭も盗む、此の盗まれた丈は世間から盗み復《かへ》すが當然だ、 誰も皆盗みをするのに、自分獨り盗みするのが何で惡いと、 彼れは其の曇た心の中で此樣に考へた、 其れだから親切の限り無く深い僧正の家に寢ても亦銀の皿を盗まうと云ふ氣に成つた 尤も樣々の故障が、心に起らぬでは無かッた、第一は僧正の正直な親切な容子である、 十九年絶て起た事の無い氣の毒と云ふ念が起た、 斯う親切にして呉れる人へ恩を仇で返しては『濟まぬ』との針で突く樣な感じもした、 何故彼の人の言葉が監獄吏の言葉の樣に横柄で無いのだらう、 何故アノ顏が人足頭の樣な憎々しい顏で無いのだらうと、 其れを聊《いさゝ》か殘念にも思ふた、けれど自分で思ひ消した、 人の顏附や言葉附を氣にして盗坊《どろばう》が出來る者かと、 爾して第二には又も捕はれて再び牢へ引戻されはせぬだらうかと氣遣ッた、 此の故障は前の故障よりも烈《きつ》かッたけれど、 ナニ監獄の官吏だッて盗む、人足の頭だつて盗む、 との一念が又此故障を掻消した、 其が爲に遂に僧正の室《へや》に忍入たのは何と云ふ不幸な奴だらう 僧正の室《へや》は暗い、彼 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は盗坊《どろばう》には慣て居ぬ、 其實之が眞の初てとも云ふ可きである、彼の皮嚢から取出した鑿《のみ》の樣な道具とても、 盗坊《どろばう》の用意では無い、牢の中で石の細工をするに用ひたのを其のまゝに持て來たのだ、 其れは扨置《さてお》き戸が開いて先づ嬉しやと一歩《ひとあし》進む足許《あしもと》に小い臺が有ッた、 其れが彼の足に掛つて倒れ、靜な室《へや》に異樣の物音を爲した、 ピク/\して居る彼れの耳には殆ど警鐘を打たれた樣に感じ、 身動きも爲し得で其まゝ蹙《すく》んだ、最う確に捕はれるのだとの心が一時に湧起り、 目の前には十九年の長い苦役が歴々《あり/\》と見える樣に感じた アヽ最う駄目だ、再び牢屋へ引戻されるのだ 後悔など云ふ善念の最う凋《しな》び盡して居る彼れだけれど此ときのみは、 強い強い後悔の念が出た、何故盗む氣に成たのだらう、 何故此 室《へや》へ忍び込だゝらう、何故再び捕へられる恐しさを最と能く考へて見なんだらうと、 けれど之は少しの間だッた、暫し蹙《すく》んで居る中に、 誰も目を醒ました容子は無い、室の中は再び靜に成ッた、 イヤ此身には猶だ盗運が附て居るのだ 彼れは又忍び足で進んで、爾して僧正の枕許に立ッた、 僧正は確に熟睡して居る、其の寢息の平な事は宛《あたか》も小兒の樣である、 僧正の寢臺《ねだい》は窓の下だ、 彼れは窓から指す薄明りに、ソッと僧正の顏を眺めた、此とき天にも意あるが如く、 空を包んだ村雲が忽ち破れ、冴渡る秋の夜の月が僧正の顏を照した、 同じ人間でありながらも監獄吏や人足頭などの顏と、 何と云ふ相違だらふ、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は此樣な顏を見た事が無い、 唯だ恍として見惚《みと》れて了ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 九 恐る可き分岐點 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 心に何の罪も無い人の安々と眠れる顏ほど清い美しい者は無い、之に對すれば、 對する人の心まで自然と清淨に成て來る 戎《ぢやん》、瓦戎《ばるぢやん》は僧正の寢顔に見惚《みと》れた、 眞に何と云ふ穩かな容貌だらう、雪の樣な白髪が廣い額を隱し、 童顏とも云ふ可き豐な頬の邊にまで掛ッて居て、顏一面に喜びが滿ちて居る、 何の樣な夢を見て居るか知れぬけれど、殆ど人間の顏とは思はれぬ、神の顏である、 多分は善を積み徳を重て、多年研き立てた良心の光りが、天國の光りと相映じて、 一種の神々しい色を現すのだらう、而し僧正の天國は天に在るのでは無く心の中に在るのだから、 内の光りで透通ッて居る樣にも見える、是れが此世の活神《いきがみ》と云ふものだ、 戎《ぢやん》は今 活神《いきがみ》の前に立て、其の威光と其の慈悲とに心の底まで浸されて居る樣な者なんだ 彼れは我知らず帽子を脱だ、彼れの額には脂汗が浮て居る、實に大變な違である、 一方《ひとかた》ならぬ恩を受けて其恩人に仇をしやうと云ふ罪の塊りと、 全く惡人を信任して、自分の弟の樣に持做《もてな》し少しの危險をも感ぜずに氣を安くして眠る人と、 全く地獄と極樂との別が只此の咫尺《しせき》の間に現れて居るのだ、 餘りの事に戎《ぢやん》は恐れを催した、何で此身に、 斯くまで深く氣を許して呉れるだらう、人間 業《わざ》で出來る事とは思はれぬ 寧《いつ》そ此寢た人の頭《かしら》を叩き割うか、 其れとも此人の手を戴き平伏《ひれふ》して謝罪《わび》やうか、 戎《ぢやん》の心は唯だ一髪に繋れて居る、今ならば何方《どちら》へ振向く事も出來る、 毫厘《がうりん》の差が千里の違を來すと云ふ恐る可き分岐點は茲では有るまいか、 窓から差す月の餘光《よくわう》に、煖爐《すとーぶ》の棚の上に在る十字の像が、 宛《あたか》も兩手を差延べて、一方の平穩を祝し、一方の罪を解宥《ときゆる》さんとする樣に見えて居る、 戎《ぢやん》は決然として又帽子を頭に置いた 再び僧正の顏に振向もせぬ、寢顏などに見惚《みと》るゝ自分の愚さに氣が附たのだらう、 其まゝ去ッて宵に見た戸棚の所に行き、其戸を開けた、 茲にも錠は卸りて居ぬ、爾して延上ッて銀の皿をば、 其の入れた籠ぐるみ取出しつ脇に挾み、急いで自分の室《へや》に歸つた 室《へや》には携へて來た杖を殘してある、之を取るや否や窓を開き、 輕く其の外に出て月の明りに皿を[檢,木@手へん][誤:檢]《あらた》め、 籠を捨てゝ皿だけを背《せな》の袋に入れ、宛《あたか》も荒れた虎の如き、 凄まじい勢で塀を乘越え、孰れとも無く逃失せた *    *    *    *    *    *    * 翌朝僧正は毎《いつ》もの如く庭に出て散歩した其の所へ遽《あはた》だしく來たのが老女である 『貴方《あなた》樣は銀の皿を入れた籠を御存じ有りませんか』僧正は靜に 『知つて居る、コレ茲に』とて昨夜 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の捨て行た籠を取上て示した、 老女『アレ籠では有りません、籠の中の銀の皿をですよ』 僧正『皿ならば知らぬ』と云ひ、少しも氣に留めぬ體《てい》で、 籠に敷かれて折れて居た草花を起し初めた、 老女は狂亂とも云はまじき程の状《さま》で直ぐに馳せて家に入たが、 無論 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の寢た室《へや》を見廻つたのだらう、 間も無く又馳せて來て『盗まれました、銀の皿を、 昨夜の人は早や立ち去つた後ですよ、銀の皿を盗んで行きました』 とて虚呂々々《きよろ/\》と四邊《あたり》を見廻し『充《ま》ア驚いた、 塀の彼所《あそこ》を乘越えて逃たのです、足痕《あしあと》も殘て居ます、 何と云ふ呆れた遣るでせう、貴方《あなた》樣の大恩を仇で返して』とて、 悔しげに言葉に力を入れた、僧正は又も靜に振向いて 『爾う云はずに先づ考へねば??第一 那《あ》の皿は此家の物だらうか、 今まで私しが惜んで居たのが惡かッた、那《あ》れは當然に貧しい人の物である、 昨夜の客は確に貧い人だらう』貧い人が持て行くのは當り前だとの意味が現はれて居る、 何たる宏量な心だらう、何十年來、僧正の徳に服して一言も批評らしき言葉を吐た事の無い老女だけれど、 餘り殘念だ『盗まれたとて私し共は構ひません、お妹御もお構ひは無いのでせう、 けれど貴方《あなた》樣が直にお困り成さるでは有りませんか、 今朝は何の器でお汁《つゆ》をお召上りに成りますか』 僧正『何か錫の皿でも有るだらう』老女『錫は臭ひます』 僧正『では鐵の皿』老女『鐵は味が附ます』僧正『では木の皿』 間も無く僧正は朝餐の卓子《ていぶる》に就た、妹御は何にも云はぬ、 老女は猶だ口の中で何事をか頻《しきり》に呟いて居る、 僧正は兩人《ふたり》に吊《むか》ひ戯むれた 『ハヽ此通り麪《ぱん》の片《きれ》を乳に浸して直に喫《たべ》れば木の皿さへも要らぬ、 今まで氣の附かぬ事であッた』と、老女は腰を卸さぬ、 立たまゝ卓子《ていぶる》の邊《ほと》りを前後に歩みつゝ、 熟々《つく/\゛》と嘆嗟《たんさ》した『ホンに先《ま》ア、 彼の樣な奴の宿を貸し、直に隣室へ寢せて遣て、 でも銀の皿だけで濟だのは未しもです、命まで取られなんだのが運が好いのでせう、 危い事危い事、思ひ出してもゾッとしますよ』 斯くて漸く食事の濟だとき、外から戸を叩く人が在ッた、 僧正は少しも躊躇せず、例の通りに『お入り成さい』と答へた 答へに應じて戸は開き、動搖々々《どや/\》と外から四人の人が入て來た、 其の三人が一人の男の首筋を押へ、殆ど捻伏る樣にして居る、 三人は即ち憲兵である、押へ附けられて居る、一人は誰でも無い戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だ、 彼れは早や捕へられたのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十 愚と云はふか、不幸と云はふか [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 何といふ間違た奴だらう、十九年の苦役が濟んで、今日が唯ッた五日目だのに、 早や捕へられる樣な事を仕出來した、 再び監獄へ引戻されるに極ッて居る、今度行けば又何の樣な事に成て、 何時《いつ》出られるか分らぬのだ、愚《ぐ》と云はふか不幸と云はふか、全く言はふ樣が無い 憲兵の中の長らしい一人が僧正の前に進み、先づ『閣下よ』と恭々《うや/\》しく呼掛けた、 閣下とは尋常の人を呼び言葉では無い、尊敬の極度とも云ふ可きだ、 捕へられて居る戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は此語を聞て驚きた、 殆ど呆れた樣に顏を上げて呟いた『閣下とは、閣下とは、其では只の牧師さんでは無いのだ』 憲兵は叱ッた『黙れ僧正閣下に向ッて』アヽ此人が僧正とは、 今が今まで牧師よりも猶ほ下の人と思て居た戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に取ては意外とも何とも譬へ樣が無い、 彼れは殆ど消え入る樣に畏縮した 僧正は直《たゞち》に立上つて戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の傍《そば》に行き 『イヤお前さんか、好い所へ歸て來成さつたよ』と却て嬉しげに聲を掛け、 更に『私しは燭臺をも一緒にお前さんへ遣たのに、 那《あ》れも皿と同じく純銀だから二百 法《ふらん》には成るのだよ、 何だつて燭臺を殘して皿ばかり持て行かれた』慈悲が溢れるとは此僧正の此心と此言葉である、 戎《ぢやん》は目を張開いて僧正の顏を見上げた、其の目附、其の容子は、 到底人間の言葉に寫す事は出來ぬ 憲兵は少し張合ひの拔けた體《てい》で『イヤ其れでは??閣下よ、 此者の申立《まをしたて》が事實でせうか、 拙官等は途中で此者に逢たのです、此者の走て行く容子が何うも怪く、 何だか盗をして逃去る者の如く見えましたから、捕へたのです、 爾したら銀の皿を持て居ましたので??』僧正は『分りました』とて笑《ゑみ》を浮めつ 『私しから貰ッたと云たでせう、其通りです、昨夜一夜の宿を貸して其品を與へたのです、 其の言立《いひたて》が怪いから、茲へ詮議に連れて來られたのでせうが、 お詮議に及びません』憲兵は顏の長《たけ》を引延して『ハア、左樣でしたか、 爾う云ふ事なら捕縛す可きで有りません直に放ッて遣らねば』 僧正『勿論放たねば可《いけ》ますまい』憲兵は押へ附けて居た戎《ぢやん》の首筋を放した、 戎《ぢやん》は逡巡《しりごみ》した 爾して云ふた『アヽ私しを、私しを許して下さるのですか、全くですか』 全く夢を見て居る樣な言葉附だ、憲兵『爾さ、罪を犯したで無いから、 勝手に立去て好いのだよ』僧正は又 戎《ぢやん》に向ひ 『アヽ立去るなら昨夜遣た燭臺を持て行くが好い』と云ひつゝ、 急ぎて次の室《ま》に行き、彼の二個一對を持て來て 『サア是もお前さんのだから』と云て差出して渡した、 瓦戎《ばるぢやん》は頭から足の先まで震ひつゝ受取ッた、 殆ど何を受取るのか自分でも知らぬ程だから、僧正は云ひ足した 『サア、機嫌宜うお行で、オヽ我友よ、今度歸て來る時は、 何も塀を越るには及ばぬよ、毎《いつ》でも入口の戸を推せば、 錠は卸して無いのだから、總て入口から出入なさい』全く親友を遇するのだ、 爾して又憲兵に向ひ『何うも御苦勞樣でした』憲兵は其意を領して立去ッた 瓦戎《ばるぢやん》は燭臺を持たまゝ其 首《かうべ》を垂れたまゝ、 身動きをも得さぬ、或は氣絶し相である、既に氣絶して居るのでは有るまいか、 僧正は床より降りて彼れの前に立ッた『お前さん決して忘れては可《いけ》ないよ、 此燭臺や銀の皿を資本《もとで》にして屹度《きつ》と善人に立返ると私しに約束した事を』 戎《ぢやん》は其樣な約束をした覺へが無い、自分で忘れたのか知らんと唯だ當惑の體《てい》である、 僧正は猶も言葉に力を込めて『コレ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》、コレ兄弟、 お前さんは最う惡に從ッては成らぬよ、善の人だよ私しが斯うしてお前さんの魂を買取るのだから、 ねえ兄弟、今から心を入れ替て、暗い考へや地獄に居る樣な思案を起して居ては可《い》けぬ、 明るい正直な人に成ッて能く神樣に縋《すが》らねば、好いかえ、分ッたかえ』 是が分らずに居られる者か 人事不肖とは此時の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の状《さま》だらう彼れは一言をも發せなんだが、 忽然として逃出した *    *    *    *    *    *    * 彼れは狂ふ獸の如くである、何處が道、何處が町とも知らぬ、 唯早く人家の無い所へ行き度い、早く早くと氣の迫《せ》く儘に、 曲角へ來ればキッと曲る、後戻をするのも知らぬ、 けれど終に野原に出た、爾して彷徨《さまよ》ふで又 彷徨《さまよ》ふた、 朝から一粒の食をも喫《たべ》ぬけれど自分の空腹をも知らぬ、 午前から午後に至た、心の中には樣々の感が湧た、或時は花の咲いた秋草の匂ひに、 幼い頃、野の遊だ罪の無い状《さま》をも思ひ出した、 廿年目に判《はじめ》て其樣な思が出たのだ、心の底に其れが微《かすか》に殘て居たのが不思議であつた、 或時は牢の中が却て無事だと思ひ、何故今朝引戻されなんだゝらうとも怪んだ、 けれど總て切れ/\゛である、 紊《みだ》れ/\た心の中に取留《とりとま》ッた考への纒《まとま》らう筈が無い、 或時は自分の身が、自分の身か、人の身か、其れも知らぬ、 疲れたのか疲れぬのか、竟《つひ》に路傍《みちばた》の叢村《くさむら》の陰に腰を卸した、 考へるでも無い、身動きもせずに唯だ眼《まなこ》を空に据ゑて幾時をか經た、 爾して日は次第に沈で、地面に在る小石の影まで長くなッた頃、 孰《いづ》れよりか可愛い子供の聲で、歌を謠《うた》ふて來るのが聞えた 多分は近村の子でゞもあらう、使にでも行た歸りか、手に散《ば》ら錢を持ち、 嬉しげに其れを投げ上げ、落て來るのを又受《まちう》けて、 手玉の樣に弄《もてあそ》んで戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の前まで來た、 瓦戎《ばるぢやん》の顏は、先ほどから夕立の空とでも云ふ樣に曇り、 陰氣に陰氣にと暗んで居たが彼の子供は茲まで來て其の手玉を取落して謠《うた》ッて居た歌は罷《や》んだ、 落ちたのは二 法《ふらん》の銀貨で、轉ッて瓦戎《ばるぢやん》の足許《あしもと》に來た、 瓦戎《ばるぢやん》は直《すぐ》に足を擧げて踏附け、 知らぬ顏で其銀貨を足の下へ隱した、エヽ彼れは又此樣な事をする [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十一 甚《ひど》いなア、甚《ひど》いなア [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 何だッて戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は、子供の落した銀貨を足の下へ敷たゞらう、 餘り愚な仕草では無いか 彌里耳《みりえる》僧正が何と云ッた、魂を入替て、善人に成るのだよと、 血の埀る樣な言葉で教へたでは無いか、戎《ぢやん》の耳には其言葉が猶だ響て居る、 彼れの心には僧正の限り無き慈悲の心が充ち滿ちて居る筈である、 其れだのに、早や此樣な罪を犯すとは何う云ふ譯だ 多分は彼れ、正氣では無いのだらう、心が狂て居るのだらう、 彼れ十九年の間、獄に居て、唯だ世の中の憎いことを許《ばか》り心に刻み、 復讐しやう、復讐しやう、とのみ思ひ詰めて出て來たのだから、 心が狂て居る際でも知らず/\に此樣な事をするのだ、 子供は忽ち立留ッて、銀貨を踏で居る戎《ぢやん》の足を見、 次に戎《ぢやん》の顏を見上げた、顏は極めて恐しい、 けれど子供は恐ろしとも思はぬ、唯だ戯れと思たのだらう、 思案もせずに戎《ぢやん》に近き『伯父さん其樣な事を仕ては可《いけ》ないよ』 戎《ぢやん》は無言だ、子供『其足を擧げてお呉れ、ヨウ伯父さん』 戎《ぢやん》は光る眼《まなこ》で、子供の顏を見た、 見た樣の凄さには子供も初て恐れを催ほしたらしい、 殆ど泣出す樣な聲で『大事な銀貨だからよう』 戎《ぢやん》は動きもせぬ、子供『では足を擧て斯して取るよ』 と云つゝ子供は俯向《うつむ》いて戎《ぢやん》の足に兩手を掛けた、 無理も無い、全く大事の銀貨だらう、子供としては一身代奪はれる樣な者である、 戎《ぢやん》の足は少しも動かぬ、子供は力盡きて今度は戎《ぢやん》の胸を推し 『ヨウ伯父さん、還してお呉れ、銀貨を無くしては大變だから、ヨウ、ヨウ』 と搖《ゆすぶ》ッた、戎《ぢやん》は澁る樣な聲を出し 『銀貨など知る者か』と叱つた、子供『だつて此足に踏で居るじや無いか、 お呉れと云ふのに』戎《ぢやん》は怒りを示して立上つた、 けれど踏だ足は動かさぬ、子供は劍幕に恐れて一足 退《の》いた、 其の眼《まなこ》には最う涙が浮んで居る『甚《ひど》いなア、甚《ひど》いなア、 子供の錢なんかを盗んで』と泣き聲で恨んだ、 之を平氣で聞く戎《ぢやん》は全く鬼である、 彼れは平氣で聞くのみで無い、大喝して『夏蠅《うるさ》い奴だ』と再び叱つた、 子供は泣て『金を返せ、金を返せ』戎《ぢやん》は出拔に杖を取り 『是れだぞ』と振かざした、全く叩き殺す勢ひである、 直《すぐ》に子供は、泣ながら一散に逃げた けれど暫く行て逃兼ねたと見え、 良《やゝ》久しく其泣聲が、淋しい原に、 蟲の音《ね》の樣に聞えて居た 戎《ぢやん》は立た儘である、銀貨を踏だ儘である幾時か其の儘で、 恐い顏して徒《た》だ空中を睨んで居た、 何時《いつ》まで彼れは此儘で居るのだらう、自分で自分の立て居る事を知て居るのか知らん、 其中に日は全く沈んで了ッた、戎《ぢやん》は身に受ける夜露の寒さにゾッと身震したが、 是れが彼れの身に氣附藥の樣に利た、熱を持て居る彼れの腦は冷めた、 彼れは『オヤ』と云て四邊《あたり》を見廻した 頓《やが》て立去らうとする如く、彼れは背後《うしろ》に在た袋を取ッて背負ひ直したが、 此時チラリと彼れの目に見えたは砂の中に光る銀貨である、 彼れは怪む樣に俯向《うつむい》て之を取上げたが、取上ると共に、 電光の如く彼れの腦髄に光が射した、彼れは何も彼も思ひだした、 今の子供の泣聲さへ猶だ耳に響て居る、エヽ、何だとて我が身は子供の銀貨を盗んだのだらう、 僧正の清い姿も眼に浮だ、唯だ一時にして生涯の悔恨に身を責らるゝは斯樣な時である、 彼れは直ちに、暗い大地の上に身を投た、地を掻むしッて悔んだ、 けれど悔しんでは居られぬ、直《すぐ》に立上ッた 『子供よう、子供よう』と叫んだ、延上ッて四邊《あたり》を見廻した、子供は居ぬ、 最う去てから時が立ッた 彼れは子供の去た方へ走ッた、半丁も走ッたけれど姿が無い、 又聲を立てゝ呼だ、呼では走り、走ッては呼び、廣い野原を、 月の出るまで走り廻ッた、月に透すと何だか彼方《かなた》に人影がある、 直《すぐ》に其傍へ行て見ると、旅の法師であらう、 瘠馬に乘て兀々《こつ/\》と夜路《よみち》をして來るのだ 『法師さんお願ひです』と戎《ぢやん》は馬の前に首《かうべ》を垂れ 『若し貴方《あなた》の通た道で、十一二の一人の子供は居ませんでしたか』 法師『愚僧は誰にも逢ひません』戎《ぢやん》は銀貨を差出して 『何うか之を貧民にお施し成さッて下さい』受取るのが法師の役である、 怪みながら受取ッた、戎《ぢやん》『若しや何處かで子供の泣聲を聞ませんでしたか』 法師『聞きません』戎《ぢやん》は又『何うか貧民に、之を』とて今度は銀貨二個を 出して渡し『アヽ、私しは盗賊です、盗賊です、何うか警察へ連て行て、 懲役に遣て下さい、此世には居られぬ惡人です』法師は驚いて瘠馬の腹を蹠[誤:蹴]《けつ》て之も逃げた 如何とも仕方が無い、再び戎《ぢやん》は聲を立て子供を呼びつゝ、 何所《どこ》までとも走ッたが、遂に路の三方に岐《わか》れて居る所へ來た、 何方《どつち》を見ても村らしい者は無い、彼れは大地に[手へん|堂;u645A]《だう》と座して、 膓《はらわた》の底から深い涙が迫《せ》ぐり上げた 『エヽ己《おれ》は、エヽ己《おれ》は』と聲を放ッて泣き、頽折《くづを》れて鰭伏《ひれふ》した、 彼れが泣くのは廿年來絶えて無い事だらう、 涙が彼れの痺《しび》れた腦髄を解きほごせば好い 何時間泣いたか知らぬが、全く存分に泣た、之れが彼れの魂の入れ替る時で有らう、 幼い頃から彼れの心は、善心を捻伏て其上へ自分で惡の壁を塗り、 世間が憎い人が憎いと、曲た心ばかり[糸|柬;uFA57]固めた、 無理に頑冥《かたくな》にしたのだから、最う善と云ふ心は芽を吹く力も無い樣に枯れて了ッたのが、 其の所へ彌里耳《みりえる》僧正の靈精が差込だ、 彼れの心は昨夜から革命の樣に揉めて居た、 今が革命軍の最も盛に揉み立てる時なんだらう、 彼れにして若し少しでも物事を比て見る丈の力が有れば、 僧正の心と自分の心とを比べても見るだらう、 自分が自分の目へ全く人鬼の樣にも見えるだらう、 彼れは天國の光に照して自分の惡相を、愛想の盡きる程に見入た 竟《つひ》に彼れは何うしたゞらう、其れは誰も知らぬ、 此夜の夜半《よなか》を過ぎ、世間の寢鎭つた三時頃にダインの町を通ッた郵便の飛脚が有る、 其者が丁度彼の彌里耳《みりえる》僧正の前を通過した時に、 其戸口に一人の男が地に伏して合掌し、神にでも祈る樣な身振で一心に家の中を拜んで居た *    *    *    *    *    *    * 此男が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》である事は、云ふ迄も無い、 彼れが再び話の表に現はれる時に何の樣に成て居るだらう、 抑《そもそ》も又 何所《どこ》へ現れて出るたらう[誤:だらう] [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十二 華子 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 女學生でさへ墮落する、冷《いは》んや女工に於てをやだ、 嘆かはしい次第では有るけれど若い男女の身に過ちや惡事の有るは、 孰《いづ》れの國、何《いづ》れの時にも、仕方の無い事と見まる[誤?:見える]、 とは云へ一つは社會の仕組も惡いのだ、可哀相に、 貧と云ふ奴が若い身空の者を驅て、墮落せざるを得ぬ樣な境涯に立たせるのだ、 イヤ沈ませるのだ 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が僧正の家の戸口に合掌して祈て居た時から早や二年の後である、 巴里《ぱりー》の懶惰《のらくら》學生四人が恐しい惡戯《いたづら》を遣かした、 遣た方は冗談だとか腕が好いとか云ふだらうが、 遣られた方では生涯を誤るのだ、殘刻とも云ふ可きである、 一々名前は擧げぬけれど、地方から遊學に來て居る奴等で、 四人とも銘々に情婦が有ッた、情婦と云ふのは孰《いづ》れ女工の果なんだらう、 針を持つより學生に仕送られるのが樂だから、其れは又年頃でも有り、 旨い學生の口前に欺《だま》されて女工でも無く處女《むすめ》でも無い一種の遊惰者《なまけもの》に成て了つた者と見える 或時四人と四人、八人が一群《ひとむれ》と爲つて町盡處《まちはづれ》の野原へ遊山に出た、 是れは學生の方で、驚かせる事が有るからと云て誘ひ、 女の方では何の樣に驚かされる事かと樂んで附て行たのだ、 勿論若い同志だから、傍《そば》から見れば馬鹿げても居るだらうが、 當人達は此上も無く面白う一日を暮し、爾して遊び草臥《くたびれ》て田舍の茶屋で夕飯を喫《たべ》たけれど、 驚かせると云た約束が何の樣な事柄なのか少しも『驚く』と云ふ樣な波瀾が無つたので女達は 『サア驚かせて下さい』『何の樣に驚かせて呉るのです』などと寄々《より/\》に迫つて居た、 スルト學生等は一人去り二人去て、悉く席を外した、 サア愈《いよい》よ驚かせて呉る事と女どもは目を見合せて窃《ひそか》に笑て居ると、 卅分經ても一時間經ても音沙汰が無い、少し怪んで不安心に思ふ所へ、 其家の給仕が一通の手紙を持て來た、 『キッと是ですよ』とて四人額を突合せて封を開いて見ると四人連名で此四人へ宛てたので、 中の文句は手切れ状である、我々四人は孰《いづ》れも國に兩親が有り最う學問も仕て居られぬから、 只今發足して故郷《ふるさと》へ歸るのだ、今までの事は互に夢を見たと斷念《あきら》めて呉れ、 茶屋の勘定は濟せて有ると云ふ意味を記して有る 是が驚かずに居られやうか、多分は嬉しく驚かされる事だと思たのに、 爾は無くて恨めしく驚かされたのだ、餘りの事で、 四人は眞事《まこと》とは思ひ得なんだ、けれど全くの眞實《まこと》であッ[※※;た、?] 直《すぐ》に外へ出て、問合せたり聞糺《きゝたゞ》したりして見ると、 四人とも、巴里《ぱりー》の方から來た馬車に乘り、 地方の方へ向け最う一時間も前に立去ッたとの事である 悔でも仕方が無い、笑談《ぜうだん》と見せて笑談《ぜうだん》で無かッた、 此後、幾日幾月經ても、イヤ幾年經ても、彼等學生は再び巴里《ぱりー》へ來なんだ、 彼等の或者は田舍の代言人とも成り、或者は村會議員とも成り、 或者は地主樣とも成て、先づ田舍紳士と云ふ資格で相變らず銘々の土地の空氣を腐らせつゝ、 面白可笑く生涯を送ッただらう 振捨られた女の方は、四人の中が三人まで單に平氣で有た、 ナアニ有《あり》うちの事なんだよと、殆ど氣にも留なんだは、 自分等が幾等でも學生の財布を吸取たのを手柄と心得て居るのだらう、 爾して直《すぐ》に後釜をでも捜したに違ひ無い、けれどもだ、 けれども四人の中に、唯だ一人本統に泣悲しんだ女がある、 其名を華子と云ひ、四人の中で年も若く爾して一番の美人で、 一番世間知らずで有た、年は其時が十七歳、 生れて此國の北海岸に在るモントリウルと云ふ小都會の貧家で、 幼い頃、兩親《ふたおや》に死なれ、父の顏をも母の顏をも覺えず、 其の土地で育ちはしたけれど女工と爲て巴里《ぱりー》へ來たのだが、 全く頼り無い身の上だけに、親切にして呉れる彼の學生を生涯の所天《をつと》ぞと思ひ、 欺《だま》されるとは知らずして欺《だま》されて居た、 其れ丈ならば猶だしもだけれど、捨られたとき實は其學生の胤《たね》を宿して居た 身重の身體《からだ》で最早や骨の折れる眞面目な仕事とては出來ず、 讀み書は唯だ自分の名前だけで其の以上は分らぬゆゑ、 人に頼んで三度まで手紙を認《したゝ》めて貰ひ、其學生の許《もと》へ送たけれど、 何の返事も無い、竟《つひ》に泣々 斷念《あきら》めたが、 間も無く美しい女の兒を産落した、 世に、初ての女の兒ほど母に取て可愛い者が有るだらうか、 其愛に引かされて、悲さをも辛さをも凌だけれど、凌がれぬのは暮し向である、 若し此に墮落して眞の醜業婦にでも成れば本來の綺[糸|彌]《きりやう》は好し隨分贅澤にも世が送れたゞらうけれど、 其の樣な氣質で無い、其兒が數へ年、三歳《みつつ》に成ッたとき、 是では末の見込が無いと熟々《つく?゛》思ひ込だので、 自分の生た田舍へ歸る氣になッた、故郷ならば猶だ知た人も有り、 工場へ雇はれて何うか立過しが附くだらう 併し故郷へは兒を連て行ては駄目だ、都と違つて、 堅い田舍の人が、私生兒など連れて歸れば唯だ此身の墮落を賤《いやし》むのみで、 誰が世話など仕て呉れる者か、歸る途中で何所《どこ》かへ預る事に仕やうと、 辛い思案では有るけれど、血を吐く樣な想ひで心を定め、先づ自分の着物の中で、 絹物は悉く兒の着物に仕立て直し、家財道具を賣拂ッて二百法《ふらん》の金を得て、 其中で溜た[誤:溜て]居る借金などを拂ひ、猶ほ多少の支度をもして、 殘る八十法《ふらん》を懷《ふところ》にし、重い革包《かばん》一個を携へ、 兒を脊《せな》に負ひ、田舍を指して巴里《ぱりー》を出た[、] 今まで貧いとは云ても身には綺羅《きら》を[※※;張り?]、日々化粧なども仕て居たが、 打て變ッて元の粗末な女工の姿に復《かへ》たのは、 斯かる女としては仲々の勇氣である、この時この華子の歳は廿二であッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十三 小雪 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 背《せな》には兒を負ひ、手には重い荷物を提《さ》げ、故郷を指して巴里《ぱりー》を出た華子は、 途々乘合の馬車にも乘り、歩みもし、又休みもしつゝ、 日暮に及びファーメールと云ふ小い町に着た 茲は此のち彼の拿翁《なぽれおん》が最後の敗軍に名を留め 殆ど世界中に知らるゝ事と爲つた汪多[土|婁]《ウオタールー》へ行く追分路《おひわけみち》である、 其 追分《おひわけ》の所に居酒屋の樣な小い宿屋で有て妙な看板が掛つて居る、 妙なとは極めて下手な畫《ゑ》で、一兵卒が、負傷した大將軍を脊負て落延る景状《ありさま》を見せ、 其の身邊《しんぺん》に無暗《みやみ》と煙を畫《ゑが》いて有る、 此煙は則ち戰場を利かせた積だらう、 聞けば此家の主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》と云ふ者が昔し軍曹を務めた事が有て、 嘘か誠か知らぬけれど、自分の常にする手柄話を自分の筆で看板へ畫《ゑが》いたと云ふ事だ、 之が爲に此宿屋は軍曹旅館と稱せられてゐる 華子は此家の前まで來掛ッた折しも、丁度華子の連て居る兒と同じ位の女の兒が、 其妹と思はれる更に小い兒と共に往來に遊んで居た、 如何にも其の状《さま》が可愛いので華子は立留ッて、 思はずも『オヤ好い兒だこと』と感嘆した、此聲を聞たのが、 直《すぐ》に其傍に立て居た母親である、自分の兒を賞《ほ》められて嬉しく思はぬ者は無い、 直《すぐ》に華子の傍に寄り『ハイ皆樣が爾う仰有《おつしやつ》て下さい升《ます》よ』 とて暗に自分で其母だと云ふ事を披露し、更に華子の背《せな》に眠つて居る兒の顏を窺《のぞ》き込み 『貴女《あなた》のお兒さんこと、ほんに可愛では有りませんか、 先《ま》ア私し共の店で、一休して乳でも呑せてお上げ成さい』とて世辭を返した、 併し之れは世辭と云ふのみで無い、華子の娘は母に能く似て、 誰の目にも全く美しいのだ、後々は何の樣な美人に成らうとの面影が二葉の中に宿ッて居る 頓《やが》て華子は誘《いざな》はるゝ儘に軍曹旅館の店先に腰を掛けた、 誘《いざな》ふたは此家の主人《あるじ》、元の軍曹と稱する手鳴田《てなるだ》の妻である、 女同士の眤《なぢ》むも早く、早や兩女《ふたり》は身の上などを問ひ合ひ語り合ふ程と爲たが、 華子は茲が我兒を預く可き天の指示《さしゝめ》す所であると思ふた、 茲を過しては又と此樣な所の有らう筈が無い、暫《しば》しの間に思案を定め、 言出す可き言葉の折を待て『何うでせう、 私しの小兒を預ッてお育て下さる事は出來ますまいか』と言ひ出した、 勿論妻は驚いたけれど可《いゝ》とも否とも答へぬ、 華子『預ッて下されば月々六法《ふらん》づゝ仕送りますが』 六法《ふらん》なら充分の手當である、妻は夫が聞て居やうとか奥の間に振向た、 夫は世に云ふ地獄耳で、我が店先に在る事を見逃し聞逃しなどする樣な男で無い、 直《すぐ》に聲を出して『六法《ふらん》では可《い》けぬ七法《ふらん》で無くば』 華子『では七法《ふらん》拂ひませう、私しは八十法《ふらん》持て居りますから』 主人《あるじ》の聲が又聞えた『爾して半年分の前金を費《もら》はねば』 妻は早速暗算して『六七四十二法《ふらん》です』と説明した、 華子が若し『[誤:『は不用]最《もつ》と世故《せこ》に長けた女なら、是だけの容子で、 此の夫婦が一通りの相手で無い事が分り、 大事の子を茲へ預けて成る者かと怖氣《おぞけ》を奮ッて立去る所で有ッただらうが、 爾までは見拔き得ぬ、終に六ヶ月の前金と、 自分で丹精を凝して拵《こしら》へた四季一通の小い着替まで荷物の中から出して此夫婦に與へ、 此夜は茲に一泊して、翌朝兒を殘して出發した。此兒の名は小雪(コセット)と云ふのであッた 是で華子は身體《からだ》も荷物も輕くなッた、併し小雪に分れるのが何れほど辛い思で有たかは、 華子が此町の盡《はづ》れまで行き、立去り兼ねて、泣て居たので分る *    *    *    *    *    *    * 此後は毎月の樣に華子から手紙が來た、小雪の容子を聞かせて呉れと、 其度に手鳴田《てなるだ》は、無事に成長する計《ばか》りだと答へて遣つた、 七ヶ月目には約束通り七法《ふらん》の金が來た、定めし華子は故郷で職業に有附た者と見える。 其後も引續いて月々金が來たけれど、手鳴田《てなるだ》の慾心は増長した、 間も無く小雪の衣類は賣拂て了ッた上に、 華子の許《もと》へ七法《ふらん》では足らぬから十二法《ふらん》づゝ送れと云つて遣ッた、 華子は之にも從ッた、其うちに彼は又 何所《どこ》から何を聞出したか、 何うも小雪は私生兒だらうと疑ひ初めた、其れならば十二法《ふらん》で口留に成る者で無いと、 今度は文句も横柄に、十五法《ふらん》づゝ送れと云て遣た、之にも華子は從つたけれど、 女の手で、月々十五法《ふらん》の仕送りは容易の事で無い、 年の經つに從つて金を送つて來る期限が段々に少しづゝ後れ、 果は滯ほる事さへ有るに至た 其れで小雪を何の樣に養つて居るかと云へば、實に甚《ひど》い、 近所へは母親の捨て行た子を慈悲で育て居る樣に言做し、 賄附《まかなひつき》で預つた子の樣にはせぬ、 其上に妻の方が更に甚《ひど》い、自分の産んだ娘二人を可愛がるに付けて小雪を憎む、 小雪が居ると娘の呼吸する空氣をまで吸減される樣に思ふ、 食はせる者も犬の食より少し優り、猫の食より遙に劣る、先づ犬と猫との間である、 華子から來る小雪の養育料は姉娘 疣子《いぼこ》(エポニン)と 姉娘[誤:妹娘] 痣子《あざこ》(アゼルマ)の養育費に成て了ふ、 疣子《いぼこ》痣子《あざこ》まで母に見習て小雪を窘《いぢめ》る 全く小雪は奴隷の樣に追使はれる、五歳や六歳の兒が、 爾う使はれると云ふは怪しくも聞えるだらうけれど怪くは無い、 艱難と云ふ者は何れほど幼い子の身の上にも降て來る、 現に此頃の裁判に、五歳から一人で糊口して居た孤兒の例が有ッた、 其者は盗坊《どろばう》で罰せされた、小雪の追使はれるのは拭掃除や、 小買物の使ひや、宿屋だけに皿小鉢の持運びや、其れは?用事が絶ぬ、 此樣な次第だから小雪の身體《からだ》は痩て凋《しな》び、 元は何の樣な美人に成らうと思はれたのが全く見る影も無い、 若しも三年目に母の華子が見に來たなら之が自分の子の小雪だとは受取る事が出來ぬだらう、 只だ其美しい太い眼《まなこ》だけが幾等か元の状《さま》を留めて居るかと思はれるけれども 顏總體が縮んで居るから不似合に太く見えて釣合を爲さぬ 近所の人は此子を綽名《あだな》して雲雀《ひばり》と呼だ、雲雀とは能く云た、 身體《からだ》などは殆ど小鳥ほどしか無い爾して物に驚き易くて、人を恐れて、 朝は町中の誰よりも先に起きて、水汲みに出たり、使に出たり、 多く青天《あをぞら》の下に居るのだ、 但し此の雲雀は囀《さへづ》ると云ふ事が無い [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十四 斑井《まだらゐ》の父老《ふらう》 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 小雪が此樣に瘠せ、凋《しな》び、追使はれ、窘《いぢ》められて居る年月の間、 母の華子は何の樣に暮して居るだらう、先づ其の歸て行た郷里の事から述べねば成らぬ *    *    *    *    *    *    * 華子の郷里モントリウルと云ふは、昔から英國産や獨逸産の珠玉の餝物《かざりもの》を模作《ぼさく》し、 婦人の、裝飾用として諸方へ積出す土地であるが、 近來原料の値《ね》が騰貴した爲め、自然商賣が衰へて、 土地總體に殆ど見る影も無い迄に疲弊して居た、所が、 千八百十五年(戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が僧正の家に宿《とま》つた年)の暮に何者とも知れぬ旅人が來て、 木の脂《やに》や護謨《ゴム》などを以て其品を製造する事を初めた、 誠に容易な改良では有るけれど、原料も安く、手間も少く、 其上に出來揚りが見事なので、一時に聲價《せいか》を高くして、 寂れた町が纔《わづか》の間に回復し土地總體に、 昔に幾倍する繁昌を來した、眞に工業的の革命が行はれたと云ふ者だ 其の一斑を記せば、其事の發明者は三年の間に自分を富ませ、 自分よりも更に多く土地を富せた、併し此人が何者かと云ふ事は誰も知らぬ、 何でも彼れが此土地へ入込だのは十二月の末の或夕方で有ッた、 其とき彼れは纔《わづか》に數百法《ふらん》の元手しか持て居なんだらしい、 荷物と云へば背《せな》に負た嚢《ふくろ》と、手に持た杖だけで有ッたが、 丁度其の夜に、町役所から火事が出た、彼れは其れと見るが否や馳せ附けて、 全く命掛で働いて、見た人の噂では彼れが火の中で焼死なんだのが不思議である、 命の惜い人には、迚《とて》も其の眞似は出來ぬ、 彼れは煙の中から二人の兒供を抱て出た、其兒供が丁度警察長官の子で有ッたので、 長官は甚く有難がり、其れが爲に彼れの持て居る旅行の鑑札をさへ檢《あらた》めなんだ、 檢《あらた》めては失禮に當ると云ふ程に感じたのだらう、 だから彼れの身分は誰にも分らぬ、名は其時から斑井《まだらゐ》の父老《ふらう》 (ファーザーマデライン)と呼ばれた 父老《ふらう》と云ふのは先づ多少の尊敬である、斑井《まだらゐ》とは自分の名乘る名なんだらう、 彼れの製品は殊に西班牙《すぺいん》の方面から莫大の注文が引切り無しに來る事に成り、 本場の英國《いぎりす》や獨逸の株を壓倒する程に見えた、 彼れは二年の後に男工、女工と二棟の大《おほい》なる工場を建てた、 五年目には銀行への預金が六十萬 法《ふらん》以上も溜ッた けれど彼れは自分で是だけ溜る迄には、 町一般へ直接間接に何れほど寄附したか分らぬ、慈善病院をも彼れの力で増築した、 彼れは二箇の學校をも建てゝ町へ寄附し、其教師をも自費で雇ふた、 常に彼れは云ふた、國家の中で、最高至上の職務と云ふのは、 國務大臣で無い、病院の看護婦と、學校の教師だと 彼れの年は五十左右《さいう》と見受けられた、 氣質は至て柔和で有る、顏を見ると爾う柔和では無く、 餘ほど艱難を經た者と見え、深い筋が額にも頬の邊にも刻まれて居る、 爾して極《ごく》の無口だ、けれど男女の區別を正す事だけは至て嚴しい、 工場を分けたなども男女の風儀を重ずる爲である、 從來餘り風儀の良くは無い土地で有ッたけれど、之が爲に餘ほど改まッた、 苦情も醜聲《しうせい》も貧《ひん》の泣聲も無くなッた、 細民《さいみん》と云はれて居たる者達が大抵は富んだ、從ッて正直にも成た、 彼れが人に云ふ言葉は唯だ『正直にせよ』と云ふより外に無い、 職工に向ても、女工に向ッても『お前は正直者に成らねば可《い》けぬよ』とのみ云た 其上に彼れは信神者だ、日曜日には必ず朝夕に誰より先に先に説教を聞きに行た 中以下の者は彼れを慕はぬは無かッたが上流の中には彼れの餘りに篤實な行ひを合點し得ぬ連中も有ッた、 其樣な人は、彼れが町の事に多分の寄附金などをするを見ては云ふた 『アヽ市會議員の候補を爭ふ下心だ、彼れ仲々の野心家だ』と、 併し彼れの徳望は市に溢れたと云ふ者だ、千八百十九年に地方廳から、 彼れの功績を中央政府へ上申した、彼れは國王から土地の市長に任命せられた、 けれど彼れは辭した、彼れを野心家と云た連中は見當が違ッた、 間も無く彼れの製品は勸業博覽會で最有功の審査を受け賞勲局から彼れの名譽ある勲章が下《さが》つた、 彼れは又辭した、愈《いよい》よ彼れの心の奥底が分らぬ、 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》、斑井《まだらゐ》父老《ふらう》、其名は殆《ほとん》ど神の樣だ、 諸所方々の宴會や祝宴などから彼れの元へ招待状が雨の樣に集ッた、 けれど彼れは悉《こと/\゛》く斷ッた、彼れを疑ふ者は又云ふた 『無教育の人間だから交際の仕方を知らぬのだ』と、 是だけは本統かも知ぬ、彼は一身の暮し方でも實に質素を極めて居た、 自分の使ふ職工と多く違はなんだ 愈《いよい》よ出て愈《いよい》よ現はれるのは彼れの徳だ、 終に市會が全會一致で彼れを市長に推選した、國王から再び其の任命が來た、 彼れは又も之を辭した、けれど今度は地方廳が、其の辭表を取次がぬ、 市中の重なる者は、或は自身で、或は總代を立てゝ、 毎日の樣に彼れの許《もと》へ、就職の勸告に來た、 其れでも彼れは聽かなんだが、或日彼れが細民《さいみん》の住む町を見廻ッて居ると、 一人の老婆が戸口に立て、腹立しげに彼れを罵《のゝし》ッた 『市長に成れば何の樣な功徳でも出來るのに、此人は功徳を積むのが嫌ひだと見える』 此言葉が最も彼れの心を動かしたらしい、彼れは終に就職した、 善を行ひ功徳を積むと云ふ考へで就職したのだ、 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》と呼ばれた身が終に斑井《まだらゐ》市長と尊《うやま》はるゝ事に成た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十五 蛇兵太《じやびやうた》 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 眞に斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の樣な善人は又と得難い 彼れは幾等 富《とみ》ても自分の暮し向を變ぜぬ贅澤と云ふ事が一つも無い、 少し身體《からだ》の暇な時には讀書する、其が爲だらう、 初め此土地へ來た頃から見ると、言葉も人柄もズッと上品に成た、 初は職人かと思はれたが今は立派な紳士である 彼れは銃を肩にして出來る事がある、けれど罪の無い生物《いきもの》を決して殺さぬ、 何うかして偶《たま》に射撃する時は、其狙ひの正しいと恐る可き程だ、 彼れは何時《いつ》でも許多《あまた》の金銀貨を衣嚢《かくし》に入れて家を出るが、 歸る時は全く空に成て居る、途中で貧民や兒供に與へるのだ、 時に依ると人の留守の家に入込で、棚の上へ金貨を置て立去る事も有る、 又彼れは若い時に田舍に住だ事が有ると見え農産物などに就て樣々の知識を持て居る、 折さへ有れば誰にでも教へて遺るが、其言葉に從ッて見ると必ず意外の好結果が得られる、 彼れは腕力も強いかして、可成の年だけれど途中で行惱んだ荷車などを推して遺る時には馬よりも強い、 曾ては町の中で荒狂ふ牡牛をば、角《つの》を持て押附《おさへつ》けた事も有る 何しろ彼れの評判は日に/\高い、或る貴婦人などは、 彼れが何の樣な寢室《ねま》に臥《ふせ》るだらうと怪み、 物好にも『拜見させて下さい』と言込んだ、 彼れは直《すぐ》に其婦人を二階に連れ行き寢間《ねま》の飾り附を見せた、 其婦人は案外な想ひをした、狹い室《へや》に、古い寢臺《ねだい》が一つ有るのみで、 四方の壁は古新聞紙で貼つて有る、此の上も無い質素な作りだ、 唯だ一つ不似合とも云ふ可きは、枕許《まくらもと》の棚に二個一對の銀の燭臺が立て居る、 刻印で見ると全くの純銀だ、其上に多少の古色も着て居る *    *    *    *    *    *    * 千八百二十二年、即ち彼れが市長に就職した翌年である、 有名なダインの高僧 彌里耳《みりいる》僧正が死だとて、 其の報知が田舍の新聞にまで載せられた、彼れは之を見て自分の服へ直《すぐ》に喪章を着けた、 餘ほど彼れは悲んだ容子である、之を見て、上流の人達は、 扨《さて》は此の市長は彌里耳《みりいる》僧正の親戚で有られたのが、 其れでは慈悲善根を積むのも無理は無いと、一方《ひとかた》ならず尊敬する事に成た、 或人は故々《わざ/\》彼れに問ふた『貴方《あなた》は彌里耳《みりいる》僧正のお從弟だと聞きますが』 彼れは答へた『イヽエ、何でも有りません』 其人『でも喪章をお着け成さるのは』彼れ『私しは若い頃、 彼の方の厩《うまや》に雇はれて居ました爲めです』 最う斑井《まだらゐ》市長を尊敬せぬ人は一人も無い 彼れの名は遠近に響き渡つた、土地の人は何事が有ても彼れの相談に來る、 又相談さへせば必ず滿足な結果を得るのだ、訴訟事でも裁判所へ持出さずに先づ彼れに仲裁を頼む、 彼れが仲裁すれば必ず公平に治めて了ふ、 其れだから十里二十里と雜《はな》れた土地から故々《わざ/\》彼れの容貌風采を拜みに來る人さへ有る、 彼れが外に出ると子供や又は特別に彼れの世話に成た者達が群を爲して其の後を隨《したが》ふて行く程とは成つた *    *    *    *    *    *    * 併し斯様《かやう》な中に一人、斑井《まだらゐ》市長を怪んで、 何うしても心の解けぬ人が有る、 其れは此土地の警察に巡査部長を奉職して居る蛇兵太《じやびやうた》(ジケベルト)と云ふ者である 蛇兵太《じやびやうた》は斑井《まだらゐ》父老《ふらう》が此土地へ入込で多少の位地を爲した後に此地へ轉任して來たのだから、 初の事は知らぬ、けれど自分が來て後は少しも斑井《まだらゐ》に目を離さぬ、 其のち斑井《まだらゐ》の身分が上れば上る丈《だ》け益々彼れは嚴重に目を附けて、 斑井《まだらゐ》が市長とまで成るに及んでは、 何うしても此市長の化の皮を剥いて呉れねばと決心した樣である 此者は本《もと》、巴里《ぱりー》の監獄の中で生れた、 母は愚民を欺いて世を渡る女占師で、父も懲役に入て居た、 是だけの成長《おひたち》で大抵其人柄は分るだらうが、 人情と云ふ者が毛ほども無い、何でも彼れに取ては法律の有る許りで、 人の善惡は唯だ法律に觸れると觸れぬとで分れるのだ、 少しでも法律に背いたと見れば、直《すぐ》に目を附ける、 直に證據を擧げる、直に密告する、直に捕縛する、 天然に捕吏《ほり》と云ふ恐しい職務に生れ附て居るとでも云ふのか知らん、 縱《よ》しや自分の父で有らうが母で有らうが、法律に違ッたと見れば容赦は無い、 其れだから他に何の取所も無いけれど※年も巡査を勤めて今は部長にまで登ッて居るのだ、 大抵の人は一目彼れの姿を有《み》れば震へ上て了ふ、 彼れは何時《いつ》でも其額を帽子の縁《ふち》に隱し、其の眼《まなこ》を濃い眉の下に隱し、 顋《あご》を襟の中へ突込で隱し、手先を袖口の中に隱し、 警棒を外套の下に隱してノソリ/\歩んで居る、 宛《まる》で羅紗《らしや》に包んだ箱が歩んで居る樣な状《さま》で、 少しも人間と認む可き所は現れて居らぬけれど、 スハ怪しい者が見えたと爲ると、手も足も目も口も、 一時に隱れ場から現はれて、飛掛ッて捕縛する、 全く人を捕へる機械の樣に出來て居るのだ 此機械は初めて斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の顏を見た時、 何だか見覺えの有る顏だと怪んだ、何でも暗い所を經て來た顏に違に無い、 爾無くば己《おれ》の眼《まなこ》に斯う見覺の殘る筈が無いと云ふのが彼れの論法だ、 幾日幾月彼れは怪んだか知らぬが、終に思ひ出したと見え、 『爾だ、最う逃さぬぞ』と呟いた、此後と云ふ者は折さへ有れば斑井《まだらゐ》に接近した、 何でも確《たしか》な證據を得ねばと、唯だ其れのみに肝膽《かんたん》を碎く容子で有ッた けれど彼れに對する斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の容子には少くも、 他の人に對するのと異ッた所が無い、同じ樣に信切で丁寧で、 同じ樣に平氣で、謙遜だ、身に暗い所の有る人とは少しも思ふ可き手掛が無いので、 彼も聊か倦飽《あぐん》で居たが、併し終に變ッた所が有ッた 多分 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》は蛇兵太《じやびやうた》が自分を怪む容子に氣が附かなんだゝらう、 けれど終に氣が附かねば成らぬ塲合が來たのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十六 星部《ほしべ》父老《ふらう》 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 何の樣な罪人でも一旦 蛇兵太《じやびやうた》に見込まれたら最う逃れぬ、 何うしても取押へるまで執念《しうね》く附き纒《まと》ふのが蛇兵太《じやびやうた》の蛇兵太《じやびやうた》たる所である、 縱《よ》しや罪人で無くとも彼れの疑はれたら災難だ、 何か缺點は見出される、此の樣な男に斑井《まだらゐ》父老《ふらう》が見込まれたとは實に不運だ 或時、雨の續た揚句で有た、一輌の賃馬車が泥の中で轉覆して、 年老いた馭者が其下に壓《し》かれた、此馭者は元、土地で公證人を勤め、 姓を星部《ほしべ》父老《ふらう》と呼ばれて多少の尊敬を受た人だが、 丁度 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》が初て此土地へ來た頃に零落して事務所を疊《たゝ》み、 其日暮しの憐れな身とは成た、何しろ取る年で、是と云ふ仕事も出來ぬから、 自分が盛な頃に乘た馬車を、其まゝ貸馬車とし、 昔し自分の爲に馭した腕で人の爲に馭する事とは爲ッた、 斯う自分が零落した頃から丁度 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》がメキメキと繁盛を初めたので、 此人のみは世間が總て斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の徳に服した中で獨り斑井《まだらゐ》父老《ふらう》を嫉《にく》んで居た、 嫉《にく》むと云ふ程で無くとも斑井《まだらゐ》の出世を快く思はなんだのだ、 其れは扨置《さてお》き、此通りの年である爲め、今は充分に馬を馭する事さへ出來ず、 雨後の惡路で手綱を取損じ、馬と車とを共に倒して自分が其下に成ッたのだ 直《すぐ》に通り合す人々が其所《そこ》へ集ッたけれど如何ともする事が出來ぬ、 重い車だ捏返《こねかへ》した深い泥に食入て次第々々に沈む許りだ、 沈むと共に老人の身體《からだ》は益す壓されて、今にも胴骨が折れるか碎けるは必定である、 彼れは唯だ悶《もが》き、唯だ苦み『痛い、痛い、早く助けて呉れ、 最う死ぬる、死ぬる許《ばかり》だ』と悲鳴を揚げて叫ぶ状《さま》は聞くに忍びず視るに忍びぬ、 彼の蛇兵太《じやびやうた》まで茲《こゝ》に來合せて居るけれど、 手を下し樣が無い 悲鳴の聲や、人々の騒ぐ聲を聞付けて、斑井《まだらゐ》父老《ふらう》も茲《こゝ》に來た、 彼れは直《すぐ》に馬車の周圍を見廻つて『誰でも槓桿《てこ》を持て來い』と叫んだ、 けれど持て來る者が無い、斑井《まだらゐ》は又見廻して『アヽ、 馬車の下に、猶だ少しの隙《すき》がある、誰でも那《あ》の下へ這て入り、 背《せな》で馬車を持上げれば星部《ほしべ》父老《ふらう》を助ける事が出來る、 サア誰か潛《もぐ》つて入る者は無いか、褒美は茲《こゝ》に五ルイある』 五ルイと云へば百法《ふらん》である、誰とて之を得度く無い者は無いが、 馬車の下へ潛《もぐつ》て入れ星部《ほしべ》父老《ふらう》と共々に壓潰《おしつぶ》されるは必然である、 諸人《もろびと》は唯だ顏を見合した、其中に老人の悲鳴は又聞えた、 今は絶入る程の苦痛である、斑井《まだらゐ》父老《ふらう》は宛《あたか》も自分の身の苦痛の如くに氣を揉みて 『其れでは十ルイ遺る』十ルイの聲にも猶ほ應ずる者が無い、 斑井《まだらゐ》は三たび[口|斗]《さけ》んだ 『星部《ほしべ》老人を助けた者には二十ルイだ』四百法《ふらん》の大金でも馬車の下に入る者が無い 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》『エヽ今の中で無ければ馬車が益《ますま》す沈むから、 這入る隙間《すきま》が無く成て了ふ、サア誰か、サア誰か、 先ほどから窃《ひそか》に斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の容子をのみ狙《にら》んで居た蛇兵太《じやびやうた》は、 父老《ふらう》の傍《そば》に寄り、穴の開くほどに其顏を眺めつゝ、 [『]馬車の下へ這入ッたとて星部《ほしべ》老人を助ける事は出來ません、 全く共々に壓潰《おしつぶ》されます、私の知て居る所では、 下から此馬車を持上るほど物を背負ふ力の有る人は此世の中にタッタ一人です』 タッタ一人と云ふ言葉に斑井《まだらゐ》父老《ふらう》は異樣に震ふた、 其中に馬車の下から悲鳴の聲が又聞えた、斑井《まだらゐ》は苦痛の顏で又馬車の下の隙間《すきま》を見た、 蛇兵太《じやびやうた》は語を續け『タッタ一人と云ふ其人は、先年懲役場に居たのです』 斑井《まだらゐ》は單に『爾ですか』と答へた、 蛇兵太《じやびやうた》は又も斑井《まだらゐ》の顏を見て 『ツーロンの監獄署に服役して居た奴です』 確に戎、瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の事を指して居る、 斑井《まだらゐ》は聊か顏の色を變じた、此とき悲鳴が又聞えた 『誰か星部《ほしべ》父老《ふらう》を助ける者は無いか』 と斑井《まだらゐ》は又も叫んだけれど誰も應ぜぬ、 其中に馬車と地との隙間《すきま》は愈《いよい》よ少くなッた、 蛇兵太《じやびやうた》は呟く聲が又聞えた 『ツーロンの那《あ》の囚人で無くては、迚《とて》も駄目だ』 斑井《まだらゐ》は絶望する如く蛇兵太《じやびやうた》の顏を見た、 彼れの眼《まなこ》は猶ほ我顏に注いである、 更に斑井《まだらゐ》は他の人々の顏を見廻して異樣に笑んだ、 此の笑《ゑみ》には殆《ほとん》ど身を捨る決心まで籠て居るのでは有るまいか、 彼れは直《すぐ》に帽子を脱いだ、爾して一同が何をするのか合點し得ぬ中に、 身を屈して馬車の下なる隙間《すきま》の所に入た 一同は其れと知て、驚いて絶叫した『斑井《まだらゐ》父老《ふらう》、斑井《まだらゐ》父老《ふらう》、 其樣な事を成さつては』と、今まで悲鳴を揚げて居た星部《ほしべ》父老《ふらう》も、 苦い息で『斑井《まだらゐ》父老《ふらう》、私しは死でも好いのです、 出て下さい、出て下さい』今出ずば全く命が無いのだ、 唯だ一人之を喜ぶのは蛇兵太《じやびやうた》である、 彼れは斑井《まだらゐ》父老《ふらう》が馬車の下で必死の力を出す時には、 顏に必ず昔しの相格《さうがふ》が一入《ひとしほ》明《あきら》かに現はれるだらうと信じて居る、 彼れの目は殆《ほとん》ど鷹の目の樣だ、馬車の下に入ッた斑井《まだらゐ》の顏に鋭く注いだ けれど斑井《まだらゐ》は頓着せぬ、唯だ人の命を助け度い一心だ、 彼れは全身の力を以て馬車を擢《もた》げた、けれど馬車は動かぬ、 彼れの顏は朱を注いだ樣である、彼れは再び全力を出した、 馬車は動かぬこと初めの通りだ、彼れは三度《みたび》めの死力を出した、 之で動かずば人間の力には及ばぬのだ、馬車は動いた、 泥に沒した其 轍《わだち》が一尺ほど拔けて出た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十七 死でも此御恩は [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 實に何と云ふ大力だらう、到底動くまいと思はれた重い馬車を、 背《せな》の力で起し上げた、通例の人なら背骨が碎けて了ふのだ 蛇兵太《じやびやうた》がツーロンの獄で見たと云ふ其囚人ほど強い人が、 茲《こゝ》にも一人有ッたのだ けれど之れが斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の最後の力で有ッた、 彼れは馬車を一尺ほど起したまゝ、其下で叫んだ『サア早く、早く』と、 之に壓《あつ》せられて居る星部《ほしべ》父老《ふらう》に早く這て出よと促すのだらう、 其聲は實に、有らん限りの術無《せつな》さを集めた樣に聞えた、 若し此まゝで唯だ一分間猶豫せば斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の力は盡き星部《ほしべ》老人と共に再び馬車の下に成ッて死の運命を共に仕たのだらう、 眞に危急とは此事である、併し見て居る人々が直《すぐ》に馳寄ッた、 最う是れだけ馬車が上ッたのだから後は一同の力で引起す事が出來ると想ふたのだ、 爾して幾十の手で其馬車を引起した、 全く斑井《まだらゐ》父老《ふらう》一人の熱誠が多勢の力を喚起《よびおこ》したと云ふ者だ 馬車の下から出た時の斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の顏は、 火の燃て居る樣で有た、滿面に汗が流れて着物は裂け、 身體《からだ》は泥まぶれで有る、此樣な事が他人に出來るだらうか、 自分の一身を打忘れて人の命を助けたのだ、我が敵を助けたのだ、 彼れは先づ蛇兵太《じやびやうた》の顏を見た、 蛇兵太《じやびやうた》の眼は猶も彼れに注いで居る、 彼れは次に一同の顏を見た、彼れは恐れる色も誇る色も無い、 唯だ星部《ほしべ》老人を助け得て安心した容子である、 直《すぐ》に星部《ほしべ》老人は彼れの膝に縋《すが》り 『お蔭樣で助かりました、貴方《あなた》は命の親です、神樣です』 とて感泣して恩を謝した、けれど星部《ほしべ》老人の膝の骨は碎けて居た 直《すぐ》に斑井《まだらゐ》父老《ふらう》は、人をして星部《ほしべ》老人を、 自分の建てた病院へ擔《かつ》ぎ込ませた、翌朝此老人が目を覺して見ると、 枕邊《まくらべ》に千法《ふらん》の金と一通の書附が有つた、 書附には『此金は貴殿の馬車と馬とを買取たる代金にて候』 と斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の筆蹟で記して居る、 アヽ何と云ふ行屆いた仕方だらう、 馬は死に馬車は碎けて何の役にも可《た》たぬのに、 斯うまで深い情《なさけ》を受けて、誰とて恩義を感ぜずには居られやう 幾日の後老人は病院を出たけれど、跛足《びつこ》と爲つて了つた、 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》は猶も心配し、 種々の通手《つて》を求めて、終に此老人を、 巴里《ぱりー》の或尼寺の庭番に住込ませて遺つた、 『死でも此御恩は忘れません』と、老人が繰返して謝したのは無理も無い 此の後、間も無くで有る、斑井《まだらゐ》父老《ふらう》が此市の市長に擧げられたのは、 全く積り積つた徳望が自から其身を押上げたと云ふものだ、 けれど獨り蛇兵太《じやびやうた》のみは驚いた、 彼れは宛《あたか》も番犬が狼を主人と戴かねば成らぬ場合に迫ッた樣な心持がしたのだらう、 之よりは成る丈け市長に接近する事を避けた、 職務の上で止むを得ず市長の前に出る時は非常に鄭重に口を利いた、 餘計な言葉など交するを恐れたのだ 市長と爲て後の斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の功績は一々記し切れぬ、 此のモントリウルの地を繁昌の上にも繁昌させた、其の一例を云へば、 是れまで此土地は、政府が租税を取立てるに尤も骨の折れる所で有ッたが、 數年の中に収税費が他の土地の三分の一で足る事に成ッた、 其頃の人は孰《いづ》れも善政の實例として此土地を引證した、 就中《なかんづ》く時の大藏大臣ヴ井リール氏の如きは口を極めて賞讚した *    *    *    *    *    *    * 丁度モントリウルが此通り繁昌して來た際で有ッた、彼の憐む可き華子が、 娘小雪を汪多[土|婁]《ウヲタルー》の宿屋に預け、 此の故郷《ふるさと》へ歸つて來たので、彼れは十二年目に歸て來たので、 別に頼る可き人とても無かッたが、斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の女工場が、 困る人なら誰をでも喜んで迎へ入れた、彼れは間も無く女工として此の工場で給金を得る事に成ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十八 夫がなくて兒供が [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 禍《わざは》ひを禍《わざは》ひを生み、不幸は不幸の種と爲る、 一旦墮落を初た者は、何の樣な深い谷底へまで落込むかも知れぬ 弱い相手と見れば、傷《いたは》つて遺らずに却て窘《いぢ》め附け、 躓《つまづ》く人を見れば、扶起《たせけおこ》しはせずに却て推仆《おしたふ》す 是が世の中と云ものだ、實に恐しい仕組では有る、其れだから、 餓た兒供を救ふ爲に麪《ぱん》一切《ひときれ》を盗まうとしたのが本《もと》で十九年の間懲役場に置かれた樣な人も出來るのだ 華子の如きも或は其類では有るまいか、本《もと》はと云へば、 貧《ひん》と云ふ不幸の爲に、辛《つら》い女工の境遇に立ち、 爾して旨い書生の口先に欺《だま》されたのが初めである、 其れが種と爲て私生兒を産んだ、次には巴里《ぱりー》に居られぬ事に成つた、 其子と分れねば成らぬ事にも成り、のみならず其子までも散々に窘《いぢ》められて、 四歳《よつゝ》や五歳《いつゝ》で荒い波風に揉まれねば成らぬ事に成た、 是れ丈で止《とま》られば未《まだ》しもだが、 一旦不幸に躓《つまづ》いたのだから此上に猶だ何れほど沈んで行くかも分らぬ、 社會が沈ませねば措《お》かぬのだ *    *    *    *    *    *    * 兎も角も華子は斑井《まだらゐ》市長の工場に入た、 再び女工と云ふ昔の境遇に歸た、 尤も未だ仕事に慣れぬ爲め充分の賃銀は得られぬけれど我子小雪に仕送て幾等かの餘りが有る 是れで先づ安心が得られた、何も本《もと》からの懶惰者《なまけもの》では無く、 唯だ境遇の爲に身を持崩して居たのだから、 斯うなると仕事の忙しいのが面白く感ぜられ、先づ後々の見込も略《ほ》ぼ附たと思つた、 其處で彼女は小いながら一家を借受け、月賦の約束で多少の小綺麗な造作をも施した 實は之が少し早過る、けれど巴里《ぱりー》で隋弱に暮した癖が、 只だ此事だけに殘て居るのだ、何うも雜作の粗末な家に住み度く無い、 爾して時々鏡に向つて自分の美しい姿を照し、長い髪を撫でゝ見たり、 可愛い口許で笑つて白い齒の輝くを眺めたるするのが唯だ一つの鬱晴《うさはら》しだ、 何だか自分に綺[糸|彌]《きりやう》が殘て居る間は猶だ寳《たから》が殘て居る樣にも感じて氣強い所が有る、 必ずしも見榮だの贅澤だのと云ふ譯でも無い 斯様《かやう》に仕て居て月々彼の手鳴田《てなるだ》の許《もと》へ、 手紙と娘小雪の養育料とを贈て遺る、勿論手紙は人に書て貰ふのだ、 何しろ是れで順當に行けば先づ苦勞も無く過される所であつたが、 世の中には順當と云ふ事が極めて少い、 何時《いつ》の程からか女工仲間で華子を疑ふ者が出來た、 毎月金と手紙とを何所《どこ》かへ出すのは何か仔細が有るに違ひ無いと云ふ樣な事から益す疑ひが廣くなり、 果は手紙を代筆する者を捕へて問糺《とひたゞ》しなどする人も出來、 終に兒供の有る事が分つた、夫が無くて兒供が有れば其兒供は私生兒だ、 私生兒の母を此の清い女工場へは置かれぬと云ふのが仲間うちの輿論とは成つた 若し慈悲深い工場主が知たなら、何とか穩かに處置する工風も有たゞらうが、 此工場は一人の老婦人が總て女工の出し入れなどを任されて居て、 雇ふにも解傭《かいよう》するんいも其の人の一存で決するのだ、 私生兒の母と云ふ事が其の老婦人の耳へは餘ほど恐しく聞えたと見え、 直《すぐ》に華子は其人の前へ呼出され審問せられ、爾して解傭《かいよう》せられた、 但し工場主が兼てから、人を解傭《かいよう》する場合には是れ/\と、 手當の仕方を定て有るのだから、其の定めに從つて五十法《ふらん》の手當を與へられた、 ヤット安心と思た地位が是れで又消て了つた 頼る人の無い華子の身に、解傭《かいよう》と云ふ事は大變な事件である、 造作主《ざうさくぬし》からは直《すぐ》に嚴談《げんだん》が來た 『若し月賦金の濟まぬうちに此土地を立去る樣な事でも有れば盗《たう》と見做して其筋へ訴へる』と、 家主からも略《ほ》ぼ同樣の嚴談《げんだん》が來た、家賃も多少は滯つて居るのだ、 併し造作主《ざうさくぬし》も家主も華子の綺[糸|彌]《きりやう》の美しいのを見込で居るから、 此土地に置きさへせば何とか返濟は附く者と信じて居る、 漸《やうや》く華子は五十法《ふらん》を双方へ振播いて一時の所を凌《しのい》だが、 後の見込が少しも無い、其れに丁度此時である、 小雪を預てある手鳴田《てなるだ》から養育料を七法《ふらん》から十二法《ふらん》に上げて呉れとの請求が來た、 何とかして此後の所得の道を附けねば成らぬ、 其れには奉公の外は無いと先づ町中を殆《ほとん》ど軒別に聞て歩たが、 何處でも雇ふて遺らうと云はぬ、見るに見兼て或人が勸めた、 工場主の斑井《まだらゐ》市長へ一應事情を打明けて雇繼《やとひつぎ》を願て見るが好からうと、 若し此勸めに從へば必ず工場主は其の日頃の慈悲心で、何うとでも取計らふて呉れたで有らう、 けれど華子は此勸めに從はなんだ、 自分の身に落度が有るから解傭《かいよう》せられるのが當然だと諦めた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 十九 責道具 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 女が職業を失へば賃仕事の外に道は無い 華子は賃仕事を初めた、兵隊の着る襯衣《シヤツ》を縫ふのだ、 毎日十七時間づゝ縫ふて凡《およ》そ二十四錢の賃が得られる、 其中で廿錢は娘小雪の養育料に送らねば成らぬ、 一日の暮しが只た四錢、稼ぐのは十七時間 是れで何うして身體《からだ》が續かう、兼て華子は、 巴里《ぱりー》以來の艱難に、何所《どこ》か内部を傷《いた》めたと見え、 折々咳が出て居たが、此頃に成て其の咳が益す出る、 醫者に見せれば必ず肺病の下地だと云ふのだらう、 併し日に四錢では養生が出來ぬ、のみならず食ふ事も能くは出來ぬ、 自然と小雪への養育料も後れ勝には成つた けれど意外に人間は艱難に堪へる者だ、食ふ物も減し、着る物も減し、 朝の六時から夜の十二時まで針を持ち通して幾月をか經たが、 娘小雪の預り主、彼の手鳴田《てなるだ》から小雪に綿の入た胴着を着せねば成らぬ故、 十法《ふらん》の金を送れと云て來た、此の金が何うして出來やう、 けれど自分の身が艱難に沈めば、沈むだけ益す兒の可愛さが増して來る、 實を云へば唯だ娘の可愛さのみに艱難を耐《こら》へて行く事が出來て居るので、 何としても此金を送らねば成らぬ 此華子は理髪師の店に行き、我が髪の毛を解いて見せた、 根からそッくり刈取れば十法《ふらん》に買受けると理髪師が値踏した、 直《すぐ》に其場で刈取らせて十法《ふらん》の金を受け取り、 之を以て胴着を買ひ直《すぐ》に手鳴田《てなるだ》へ送て遺ッた、 手鳴田《てなるだ》は見込が違ッた、金で來るだらうと思たのが品物で來たのだから、 大《おほい》に怒つて直《すぐ》に其の胴着を自分の娘 疣子《いぼこ》に着せた、 小雪は依然として寒さに震へて居る、併し華子は爾うとは知らぬ、 定めし小雪が暖かに成たゞらうと安心した 爾して其身は頭巾を被ッて暮したが、斯《かう》なると世の中を恨まずに居られぬ、 此樣な景状《ありさま》に落入るも畢竟 斑井《まだらゐ》市長が此身を解傭《かいよう》した爲だと、 何も知らぬ市長を憎む事に成た、此時までは自分の貧窮な姿に耻ぢ、 人に見られるをも厭《いと》ふたけれど、最う耻をも忘れた、 自分で段々と自分が耻知らずに成るのを感じて『何に構ふ者か』と呟き、 心の中に起る情け無さを揉み消した、爾して外へ出ても殊更反返る樣にして、 頭を高く上げて歩き、顏には常に、世間を嘲る樣な笑《ゑみ》を浮べて、 偶《たま》に斑井《まだらゐ》工場の邊《ほとり》などを通る時には故《わざ》と窓下で鼻謠《はなうた》などを謠ふた、 此樣にして世に不貞《ふて》くされなど稱せられる墮落女が出來揚るのだ 髪の毛を切てから半年と經ぬ中に手鳴田《てなるだ》から又難題を云て來た、 今度は小雪が疫病に罹たから、薬代として四十圓送れと云ふのだ、 早く薬の呑ませねば死るかも知れぬと書添てある、 一日四錢で暮さねば成らぬ身に此金が何うして出來やう、 華子は餘りの事に聊か氣でも觸れたのか、聲を放ッて笑ッた、 爾してフラ/\と町に出て、何所《どこ》と云ふ當《あて》も無く歩んで居たが、 弱い者を窘《いぢ》める社會の責道具は何所《どこ》までも備ッて居る、 町の或所に屋臺の樣な店を卸して 人の齒をを拔いたり創藥《きずぐすり》を賣たりする旅から旅の香具師《やし》が有ッて、 面白い口上を述べ往來の人を呼留めて居る、華子は外の人と共に其店先に立留り、 口上を聞て笑ッたが、忽ち其の口許に目を附けたのは香具師親方《やしのおやかた》である、 彼れは無躾に華子に向ひ『アヽ姉さんの齒は美しい、何うです、 前齒の揃た所を二本だけ私しに賣て呉れませんか、 丁度其樣なのを欲いと思て居た所だから、一枚に就き二十圓、 二本で四十圓に買ひますが』華子は恐ろしさに顏色を變へた、傍《そば》に居た一人の老婆が 『此兒は何と云ふ仕合せだらう、賣てお了ひよ』とて、 齒の無い歯齦《はぐき》を露出《むきだ》して羨やんだ 華子は忽ち逃げて歸た、けれど其恐ろしさに聊か正氣を回復した、 考へて見ると浮々《うか/\》して居れる場合で無い、 我兒が疫病で死掛て居るのだ、何とか工風をせねば成らぬと、 再び手紙を取出して、讀めぬ目で打眺め、更に隣家《となり》へ持て行て、 兼て賃仕事を分け合て居る親切な老婦人に讀直して貰ッた 老婦人は云ふた『何度讀直したとて、先刻《さつき》私しの讀で上げた通りだよ、 四十圓の金が無ければ小雪が死ぬると書て有るのさ』 華子は家に歸て夜に入るまで獨りで泣いた、爾して夜の十時頃である何か思案が極ッたのか、 強い酒を多量に呑で其の勢ひで家を出た、尋て行くのは晝間《ひる》見た彼の香具師《やし》の宿であッた 此翌朝、毎《いつ》もは早起の華子が起き出ぬので、 信切な隣家の老婦人が、病氣でゞも有るのかと怪んで華子の家に入て見た、 華子は寢床の中に坐ッて床の上を見詰めて居る 殆《ほとん》ど老婦人の來たのにも氣が附かぬ樣に見える、 老婦人は其顏を見て驚いた、昨夜分れた時までは、頭の毛こそ短けれ、 猶だ若い愛らしい美人の面影を留めて居たのに、 一夜の中に相合《さうがふ》が全く違ッて、老婆かと見誤れる樣に成つた 『先《ま》ア何うしたのだよ、華子さん』華子は一言も發せぬ、 唯だ床の上に指しをした、見れば其の所に二十圓の金貨が二つ光つて居る、 老婦人は又驚いた、此の金貨は、エヽ、本統の金貨では無いか』 華子は初めて答へた『ハイ小雪に遺るのですよ』聲までも老て居る、 のみならず唇が膨上《はれあが》つて其の兩側へ血が浸《にじ》み、 口の中には前齒の所に黒い穴が雇《あい》て居る 間もなく華子は四十圓を手鳴田《てなるだ》へ送た、 けれど其實小雪は疫病でも何でも無ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十 畜生道に落ちた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 髪は女の容色の第一である、貧《ひん》の爲に之を切て賣るとは能く/\の事だ、 更に生た前齒を拔て賣るとは何と云ふ無慘な次第だらう、齒が無ければ女で無い、怪物だ 此樣な場合にまで立到ッては、最う何の樣な事でもする、 何を惜み、何を憚《はゞか》るに及ばうぞ、華子は最う全くの自狂《やけ》とは成ッた、 自狂《やけ》と爲る外に仕方が無い、鏡などは二度と見る氣が仕ないから、 窓から外に叩き附けて碎いて了ッた、けれど是が爲に貧苦は愈《い》えぬ、 愈《い》えぬのみかは益《ますま》す重くなる許りだ、着物も有る丈は賣て了ッた、 家具も造作も追々に無くなッた、纔《わづか》に殘つた居る品物は、 借金の方にとて雜作屋が持て去ッた、後には寒いのに着て居る夜具も無い、 斯うなれば容貌などは何う成らうと構はぬ、着物は破れるに任せ、 顏や身體は汚れるに任せて、繕ひもせねば洗ひもせぬ、全く人であッて獸の境遇だ 見るもの聞くもの、總て腹の立つ種と爲る、人が憎い、世の中が憎い、 取分けて斑井《まだらゐ》市長を恨む心などは殆《ほとん》ど極度にまで募ッた、 此樣な状《さま》で、果《はて》は何う成り行だらう、其上に兼て惱んで居る怪げな咳が、 寒い想をするに附け益《ますま》す重く成る許りだ、 而かも此の甚い最中へ、又も手鳴田《てなるだ》から難題の手紙が來た 百圓の金を送れと云ふのだ、送らずば漸《やつ》と病氣の直り掛けて居る小雪を、 寒空へ叩き出すと書てある 手鳴田《てなるだ》へ送る可き養育料が、最う少からず滯ッて居るのだから此樣に云はれても仕方が無い、 と云て百圓の金が何して出來やう、生き齒まで拔て賣た後だもの、 『エヽ、最う此身を賣て了はう』と華子は叫んだ、身を賣れば人間で無くなるのだ、 畜生道へ落るのだ、自分の肉を切賣する樣な者だけれど、 最う華子の心は人よりも獸に近い、情も無い耻も無い、 有るのは唯だ娘の可愛さと人の憎さだ、竟《つひ》に其日の中に身を賣た、 愈《いよい》よ畜生道には落ちた 嗚呼文明の法律で、奴隷は廢止に成たと云ふけれど、社會には依然として奴隷が有る、 貧苦が奴隷を作るのだ、爾して社會が之を買取るのだ、 法律で許して有つた頃の奴隷賣買よりも殘酷だ *    *    *    *    *    *    * 翌年の一月、雪の降る寒い夕方の事である、道樂者の寄集まる風儀に惡い或る料理屋の前に、 厭《いや》らしいほど華美《はで》に見ゆる夜會服を着けた一人の女が、 行きつ戻りつ徘徊して居る、是れは夜會の爲で無く、客を引く爲である、 慣れた人の目には一見して其れと分る、顏には殆《ほとん》ど人間の色も無く、 人間を離れた樣な只物淋しい面影が有るけれど、 白く現れて居る襟首は多少の格好を存して居る、 此寒いのに何時《いつ》まで徘徊して居る事かと怪まれたが、 店の中の一人の客が居て、此女が窓の外を通る度に、 唾と共に煙草の煙を吹掛けなどして嘲ッて居る 『何と云ふ醜い顏』だとか『齒拔の婆』とか云ふ樣な聞苦しい言葉が幾度も無く其の客の口から出る、 けれど女は聞かぬ振である 客は土地の物持の息子でも有らう、 當時の道樂者の仲間に流行する荒い縞の服に大きな襟《から》を着けた所から、 總ての容子の横柄な所などは、孰《いづ》れ身代の威光を以て、 人を窘《いぢ》めなどして面白がる連中の一人である、 彼れは散々に女を罵《のゝし》つたけれど、少しも女の頓着せぬを見て、 是では足らぬと思ッたか頓《やが》て窓の外に出て、 兩手に雪を掬《すく》ひ取り、女の行く背後《うしろ》から、 其の首筋の所を目掛けて浴せ掛け、爾して喝采する樣に打笑ッた、 眞に惡戯《いたづら》にも程が有ると云ふ者だ 勿論襟の所を切開いて肌までも現はした服だから女は夥《した》たか雪を浴びた、 今まで平氣を粧《よそ》ふて居たが勘辨が盡きたと見え、 彼《かの》女は忽ち恐しい叫び聲を發し、狂ふ獸の樣に此方《こなた》に振り向き、 紳士の身に飛掛ッて紳士の顏を引攫《ひつつか》み引掻て、猶も悔しげに獅噛《しが》み附いた、 今まで散々に嘲られ辱しめられた状《さま》を思ふと、少しも之は無理で無い、 自他の區別も忘れる程に腹が立たのだらう、けれど紳士は驚いた、 醜業をする樣な女に、此の樣な待遇を受けるのは初めてゞある、 振放さうとしても女は死物狂ひの樣で仲々離れぬ、 組みつ解《ほぐ》れつ双方が一塊りと爲ッた周圍《まはり》は、 早や居合せた他の人々が取圍んだ、若し此儘に置たなら、 何の樣に果るかと疑はれたが、頓《やが》て群衆の中から、 警官の服を着けた恐ろしげな大男が出て女を捕へた、 其間に相手の若い紳士はコソ/\と身を引て人の中に姿を隱した 捕へられた女は華子である、捕へた警官の顏を見て彼女は忽ち恐しさに堪へぬ如く萎縮した、 萎縮するも道理や、 捕へた其人は虎よりも恐る可しとして市中の何人《なにびと》も戰慄する巡査部長の蛇兵太《じやびやうた》である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十一 警察署 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 直《すぐ》に華子は蛇兵太《じやびやうた》に引立られた、 悶《もが》いても仕方が無い、警察の力には勝たれぬ、 其まゝ警察署へ連れて行かれた 何《どう》なる事かと華子は震へ戰《おのゝ》いて居たが、 先づ暗い冷い甃石《しきいし》の床に引据られた、 茲《こゝ》は警察の審問所である、此頃の法律に依ると、 市中に起る喧嘩や爭ひなどは總て警察署で處分した、 即ち巡査部長が裁判官の樣な者である、 蛇兵太《じやびやうた》が人に恐れられるは無理も無い、 彼れは先づ部下の巡査を呼びて華子を床の上に引据させ、 其身は卓子《てーぶる》に向ッて筆を取り一種の書面を認《したゝ》め初めた、 此書面は監獄の長《ちやう》に宛てた者で、即ち華子を牢に入れる積なんだ、 間も無く認《したゝ》め終ッて巡査に向ひ 『此書面を以て其女を監獄へ連て行くのだ』と告げた、 監獄と聞て華子は跳上る樣に起き、何事をか云はふとした、 けれど蛇兵太《じやびやうた》が其の暇を與へぬ、 直《すぐ》に彼れは華子に言渡した、大抵の人が縮み込む樣な冷い嚴《おごそ》かな聲で 『汝は今より六ヶ月、入牢《じゆらう》するのだ』 此語を聞た華子の驚きは、見るも恐ろしい『エー、私しを六ヶ月の入牢《じゆらう》、 何の爲です、何の罪です』と叫んだが、直《すぐ》に泣聲と爲て床の上に伏し 『其れは甚い、其れは甚い、餘《あんま》りと云ふ者です、 何も私しは牢に入れられる樣な惡事を働いたのでは無いのです、 私しが牢に入れば、誰が小雪の養育料を拂ひます、 私しは毎日稼で娘小雪を養はねば成りません、 私しを牢に入れるは、親子二人を殺すのです、許して下さい、許して下さい、 部長樣、部長樣、成るほど私しが紳士に掴み掛ッたのは惡いかも知れませんけれど、 腹立の餘りに前後を忘れましたのです、何の咎《とが》も無い私しを、 向ふが散々に罵《のゝし》りまして、 其れを私しが知らぬ顏して耐《こら》へて居ると今度は出し拔に往來の雪を取て私しの襟首へ投掛けました、 幾等身分が違ふても、惡いのは向ふです、 私しは餘りの事で勘辨が盡たのです、 其れでも達て私しが惡いと仰有《おつしや》れば、 私しは那《あ》の方に謝罪《あやま》ります、 ハイ謝罪《あやま》りますから何うか牢に入れる事だけは許して下さい、 娘小雪が可哀相です、私しから養育料を送らぬ事に成れば、 預り主の手鳴田《てなるだ》と云ふ男は少しも慈悲などの無い奴ですから、 直《すぐ》に小雪を叩き出します、後生ですから部長さん、何うぞ、何うぞ』 と泣いて願ひ、爾して後は、怪しき咳に咽《む》せ入た 全く此事は、華子の惡いので無く、客が惡い、 殊に華子の事情や境遇を考へて見ると、石でも涙を注ぐだらうが、 唯だ蛇兵太《じやびやうた》のみは涙を注がぬ、 彼れは靜に卓子《ていぶる》より離れ『六ヶ月の入牢《じゆらう》と云ふ言葉が通じたのだな、 通じたならサア牢へ』華子は床に蹙《しが》み附いて 『お慈悲です、お慈悲です』と繰返した、蛇兵太《じやびやうた》『サア牢へ』 此 室《へや》の隅の暗い所に、先刻から立て居た一人がある、 此人は彼の騒ぎの有ッた料理屋の邊から華子と蛇兵太《じやびやうた》との後に隨《つい》て來て此の土間に入り先ほどから黙て容子を聞て居たのだ、 多分は群集の中に交つて居た人なんだらう、 爾して今や愈《いよい》よ華子が牢に引立てられるやうとするを見て、 耐《こら》へかねたと云ふ状《さま》で、突《つ》と隅の方から歩み出て、 『少しの間、待て下さい』と云ふた知らず是れ何者、 何を頼みに巡査部長のする事を遮るのだらう 蛇兵太《じやびやうた》は怪んで其人の顏を見た、 他《ほか》で無い市長 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》である、 蛇兵太《じやびやうた》は驚きもし怒りもした、 けれど自分より役目が上だから尊《うやま》はぬ譯には行かぬ、 彼れの目には誰《た》だ[誤?:唯だ]官等の高下が有るのみだ、 高級の人は貴い、故に禮をする、下等の者は賤《いやし》い、 故に叱り附ける、是れが彼れの標準なんだ、 彼れは剛《ぎこ》ちなく帽子を脱いで一禮しつゝ 『貴方《あなた》のお言葉では有りますけれど、斑井《まだらゐ》市長!』と、 待つに待れぬとの旨を述べやうとした 『斑井《まだらゐ》市長』との名を聞て、忽ち容子の變つたのは華子自身である、 華子に兼て此市長を誰よりも憎む可き人だと思ひ詰めて居る、 今 茲《こゝ》に現はれたのは更に此身へ重い仇《あだ》を爲す爲だらうとでも思つたのか、 積る恨みを輝く瞥《まなこ》に溢らせて立上り、巡査が制止する間も無き中に、 突々《つか/\》と市長の前に行き、其顏を滿面に見詰めて 『オヤ斑井《まだらゐ》市長さんと云ふのは貴方《あなた》ですか』 と[口|斗]《さけ》びて更に大聲に打笑つた、 其の笑ひには斯る女の外は眞似も出來ぬ樣な輕侮の響きを含ませて有る、 確に市長に向て、恨みを返す侮[誤?:積]《つも》りなんだ、 全く自狂《やけ》の極度に達して居るのだ、爾して 『ヘン市長さんには是れで澤山だ』と云ひつゝ斑井《まだらゐ》市長の顏に唾を吐き掛けた、 アヽ侮辱、侮辱、是ほどの無禮が又と有り得やうか 市長は靜に自分の顏を拭ふた、爾して最《い》と穩かに蛇兵太《じやびやうた》に云ふた 『此女を放免《ゆる》してお遣り成さい』本統に驚く可しとは市長の堪忍である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十二 市長と華子 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 蛇兵太《じやびやうた》の目から見ると、華子の樣な賤《いやし》い女か、 市長に向ッて直接に口を利くさへ不敬である、 況《ま》して市長の顏に唾を吐掛けるとは何と云ふ事だらう、 眞に世界が轉倒したのだらうかと怪だ其れさへ有るに、 市長が此の不敬を怒りもせず靜に顏の唾を拭ひ爾して 『此女を放免《ゆる》して遺れ』と云ふに至ッて蛇兵太《じやびやうた》は全く喪心した、 驚きの餘りに、最早や驚く力をさへ失ふた けれど華子とても殆《ほとん》ど其通りだ 『此女を許して遣れ』と云た言葉が眞逆《まさか》に市長の口から出たとは思はぬ、 定めし蛇兵太《じやびやうた》が云ふのだらうと思ッた、彼《かの》女は[口|斗]《さけ》んだ 『エ、エ、私しを許して下さる、オヽ爾う無くては成りません、 私しは惡い事を仕たのでは無いのですもの、 私しが牢に入れば娘小雪が死にますもの、オヽあり難い部長さん、 此お慈悲は忘れません、忘れません、ナニ私しは恩を忘れる樣な惡人では無いのです、 此樣に成り果てたのも此市長が惡いのです、 私しを工場から追出したのが元なんです、其れが爲に私しは、 今は借金ばかりの身と爲て、家主にも手鳴田《てなるだ》にも百圓以上の借が出來、 詮方無しに此樣な情ない身の上に成たのです』 斑井《まだらゐ》市長は靜に此言葉を聞て居たが、深い憫《あはれ》を催したと見え、 衣嚢《かくし》から財布を出して開いた、 けれど生憎に財布は空だ、彼は其まゝ華子の傍に寄り 『シテ借金と云ふは今何れほどに成て居る、』 華子は又腹立しげに狂ふた『誰が貴方《あなた》に借金の事などを言ひました、 大《おほい》にお世話ですよ』と云ひ、猶も辱しめ足らぬと見え巡査に向ひ 『巡査さん、巡査さん、貴方《あなた》は能く御覽成さッたでせう、 私しが此の市長の顏の唾を吐掛けて遺たのを、 アヽ好い氣味だ、是で私しは歸りますよ、 部長さんから放免《ゆる》して戴いたのですから』 とて其まゝ出口の所に行き、戸の引手に手を掛けた 此時までも部長 蛇兵太《じやびやうた》は、驚きの餘りに石像の如くに成り、 身動きも爲し得ぬ状《さま》で有たが忽ち聲を發した 『誰が此女を放免すると云ッた』華子は驚いて引手を放し又た背後《うしろ》に蹌踉《よろめ》いた、 斑井《まだらゐ》市長が穩かに『私しが放免すると云ひました』 蛇兵太《じやびやうた》『仰《おほせ》では有りますが、 放免する事は出來ません』斑井《まだらゐ》市長『イヤ私しは騒の所を通り合せ、 實地の有樣を能く見ました、少しも此女に惡い所は無い、 若しも拘留するなら、雪を浴せなどした紳士の方を拘留す可きです、 此女を放免成さい』憎しと思ふ市長の口から此公明な言葉の出るを聞き華子は呆氣に取られた、 蛇兵太《じやびやうた》『でも此女は、其上に市長閣下をも侮辱しました、 今と爲ては何うしても放免は出來ません』 斑井《まだらゐ》『イヤ市長を侮辱した件は貴方《あなた》に關係は無い事です、 私し一身の事柄ですから』蛇兵太《じやびやうた》『イヤ市長を侮辱すると云ふ事は治安の妨害です、 貴方《あなた》一身の事では無く法律上の事件です』 市長『私しは市長の職を以て言ます此女を放免なさい』 蛇兵太《じやびやうた》『私しは巡査部長の職を以て云ひます放免は出來ません』 斑井《まだらゐ》『貴方《あなた》は服從すれば好いのです』 蛇兵太《じやびやうた》『私しは職務に服從するのです、 職務上此女を六ヶ月の禁錮に處せねば成りません』 意外に激しい爭ひである、何う決着する事かと怪しまれた、 市長は益《ますま》す嚴《おごそ》かである『六ヶ月は扨置《さてお》き一日でも拘禁は出來ません』 蛇兵太《じやびやうた》『でも現に此女が??私しの職権として』 斑井《まだらゐ》『貴方《あなた》は中央警察の職務、此事件は地方警察の領分です、 職権を云へば私しが、此市長が扱ひます』蛇兵太《じやびやうた》『イヽエ市長』 斑井《まだらゐ》『イヽエ部長』蛇兵太《じやびやうた》『其れでも市長』 爭ふて果しが無い、斑井《まだらゐ》市長は日頃の穩厚に引替へて大喝一聲 『お黙り成され』蛇兵太《じやびやうた》『と仰有《おつしや》ッても』 斑井《まだらゐ》『此 室《へや》からお退き成され』何うして此人が斯うも嚴重な語を發し得たゞらう、 蛇兵太《じやびやうた》は威光に打たれ、頭《かうべ》を垂れて退いた、 けれど彼れの胸中は不平滿々である 華子は市長の一語一語に、總て意外な思を爲し、 何うなる事かた唯だ身を震はせて聞いて居たが、 漸《やうや》くに市長を恨だ自分の身の過ちを悟り、 此樣な信切な人は又と無い樣に思ひはじめた、其れだのに只た今、 自分が此人に無上の侮辱を加へた事を思ふと、 消も入り度い程であるが、其れを咎めぬ市長の徳は、 世に比《たぐひ》も無いほどに高く感ぜられる、 何うして此樣な人を見損ッて居たゞらうと、次第に後悔の念のみ深くなッた、 頓《やが》て市長は其の傍《そば》に來り 『オヽ華子さんとやら、貴方《あなた》が工場に居た事も、工場を出た事も、 更に私しは知なんだ、何んで其とき直《すぐ》に私しへ訴へて呉ません』 市長の言葉は自分と同等の人に對する如く丁寧である、 昔しダインの高僧 彌里耳《みりいる》僧正が罪深き戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ者に諭《さと》した状《さま》とても之には過ぎぬ、 華子は一言の返事も出ぬ、市長『ナニ、過去た事は仕方が無いとして、 最う何も心配には及びません、貴方《あなた》の借金は悉く私しが拂ひ、 爾して娘小雪とやらも引取て貴女《あなた》へ渡して上げませう、 貴女《あなた》は此土地に住むなり巴里《ぱりー》に住むなり、 自分の好きな所で暮すが宜《よろ》しい、但し最う今までの樣に賤《いやし》く身を持ては可《いけ》ません、 神の目には清い樣に、人にも敬はれる樣に行ひを改めねば??アヽ可愛相な身の上だ』 と眞の涙の出る樣な聲で、諭《さと》し終ッて嘆息した、 華子に取ては全く身に堪へぬほどの親切である、借金も返して呉れ、 娘小雪をも迎へて呉れ、其上に清く身を持つ事の出來る樣にして呉れるとは、 唯だ勿體ない思ひがして、其身の今までの汚らはしさと、 今救はれる有難さが、骨身に徹《こた》へる、彼《かの》女は咽び泣く聲の中より 『オヽ、オヽ』と[口|斗]《さけ》んだまゝ、 斑井《まだらゐ》市長の足許に氣絶して仆《たふ》れた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十三 運命の網 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 氣絶した華子を、早速に斑井《まだらゐ》市長は、自分の建てた病院へ送らせた、 爾して其身は、躬《みづ》から諸所を奔走して、其夜の中に、 華子の今までの身持から、艱難辛苦した次第などを聞糺《きゝたゞ》した 華子の容體は思たよりも重かッた、 何しろ無理ばかり續いて居る身躰《からだ》だから一旦 躓《つまづ》けば樣々の缺點が現れて來る、 其れに兼てから肺に故障の有る所へ、冷たい雪を浴せられたのだもの、無事に濟む筈が無い、詰る所ろ、 其れや此れや種々の原因が重ッたのだらう、夜半《よなか》から熱を發して、 翌日の晝前に、漸《やうや》く人心地には復《かへ》ッた、 其とき初て華子の口から出た言葉は、娘小雪の名であッた、 全く華子の心の中には娘の事より外に何にも無いのだ 市長 斑井《まだらゐ》が華子を傷《いた》はつた事は又 一方《ひとかた》ならぬ、 彼れは暇さへ有れば自分で見廻り、信切な言葉を以て慰めた上、 昨夜約束した通り愈《いよい》よ小雪を引取て遺ると云ひ、 手鳴田《てなるだ》へ拂ふ可き養育料の滯りなどを調べた、 爾無《さな》きだに華子は最う、深く市長の徳に感じて居るのだから、 眞實に有難く思ひ、且喜んで『小雪の顏さへ見れば、直に病氣は直ります』とまでに云つた 養育料の滯りは百圓餘りで有つた、斑井《まだらゐ》は之に向つて三百圓の金を送り、 直に小雪を連れて來て呉れと言送つたが、餘り金が多かつたのだ 手鳴田《てなるだ》は却て慾心を發した、彼れは妻に向つて云た 『エヽ屹度《きつと》華子に好い旦那が出來たんだぜ、 小雪を此方《こつち》へ留めて置けば猶だ此上にも搾れるだらう』と、 爾して彼れは五百圓の勘定書を送ッた、其の内譯の中には醫者や藥屋の受取なども入て居る、 之は自分の娘 疣子《いぼこ》と痣子《あざこ》とが病氣した時の書附なんだ、 其樣な者を取雜《とりま》ぜて旨く計算を作つたのだ、市長は之を見て、 三百円を送つた、是では百圓だけ餘るのだ、爾して『大急で小雪を連れ來れ』との催促を添へた けれど手鳴田《てなるだ》は小雪を連れて來ぬ、此後も度々《たび/\》催促を送つたけれど、 或は此寒いのに連て行けば途中で風を引かせる恐れが有るとか、 或は猶だ前便に調べ洩れた勘定が有るから其れを取調中だとか、 樣々の口實を書列《かきなら》べて返辭の手紙を寄越すのみだ、 其の中に早や四十日ほどを經たが、華子の病氣は益《ますま》す重くなる一方だ 其の重《おも》る病氣の中で、華子は常に小雪の事のみを云ひ、 斑井《まだらゐ》市長が見廻りさへすれば『小雪は何時《いつ》來るでせう』と問ふのだ、 市長は其度に『イヤ最う來ねば成らぬのだが、今日來ければ明日は來るでせう』 と自分の心に信じて居る儘を答へて居たが、小雪は終に來ぬ、 最う此上は直々に人を遺る外は無い『爾無《さな》くば私しが自分で行て來ます』と云ひ、 委任状を作つて華子に署名させた、其文句は『手鳴田《てなるだ》殿、 此手紙持參の人へ直に小雪を御渡し下され度く候、 小雪の身に附ての費用等は一切此人が拂ひ申す可く候、華子』と云ふので有つた、 是れさへ持て行けば幾等 手鳴田《てなるだ》でも逃れる道が無いだらう 此委任状を以て斑井《まだらゐ》市長が自ら出掛けて行く許りとは成つたが、 誠に運命の絲は目に見えぬ網の樣な者で、誰も知らぬ間に人を金縛にし、 思ふ通りに出來ぬ樣な仕宜《しぎ》に立到らせて了ふのだ、 斯る事の間に他の方面に容易ならぬ禍《わざは》ひが熟しつゝあつた、 其れは外で無い、彼の蛇兵太《じやびやうた》から起つたのだ 蛇兵太《じやびやうた》は斑井《まだらゐ》市長と爭つた其夜に、 長い手紙を認《したゝ》めて巴里《ぱりー》の政府へ送つた、 何かの密告状でゝも有らうか、或は市長に對する不平の餘り、 他の土地へ轉任でも請ふ爲に、辭表をでも出したのかと怪まれたが、 市長が明日 手鳴田《てなるだ》の許《もと》へ立たふと思ふ前日に彼れは市長の許《もと》へ尋ねて來た、 其の容子が毎《いつ》もの嚴《おごそ》かな彼れと違ひ、 痛く愁《うれ》ひをでも帶て居ると云ふ風で全く打萎れて居る、 市長は怪で問ふた『蛇兵太《じやびやうた》さん何の御用事です』 蛇兵太《じやびやうた》は力の無い聲で『お願ひが有りまして』 市長『ハテな、聲[誤?:聽]《き》きませう、お願ひとは』 蛇兵太《じやびやうた》『何うか私しを免職する樣に貴方《あなた》から中央政府へ御申達を願ひます』 實に不思議な言分である、市長は益《ますま》す怪んで 『エヽ免職、免職がせられ度いなら御自分で辭表を出すが好いでは有りませんか』 蛇兵太《じやびやうた》『私しは爾は思ひましたけれど、 自分からの辭職では濟みません、私しには大變な落度が有りますから、 免職せられるが當然です、私しは免職を言渡されるのが自分の義務だと思ひます、 其の落度とは何の樣な落度かは知らぬけれど流石に蛇兵太《じやびやうた》である、 彼れの一念は唯だ政府と云ひ職務と云ふ事で固つて居る丈に落度に對しても辭職だけでは濟まぬ者、 免職せられねば成らぬ者と、職務的に信じて居る、彼は職務の有る間、職務的な許りで無く、 職務を失ふにも矢張り職務的に失ふのだ、彼れは職務の化け物である、 併し其の落度とは何だらう、市長は問返した『御自分で落度とは何の樣な事柄です』 蛇兵太《じやびやうた》『ハイ先頃、那《あ》の華子と云ふ女の事に就き、 貴方《あなた》と權限を爭ひました時に、私しは餘《あんま》り腹が立ちましたから、 直に書面を以て貴方《あなた》を巴里《ぱりー》の中央政府へ告發しました』 市長は笑つた『ハヽヽ私しを告發、市長の身を以て警察に干渉したと云ふ告發ですか』 蛇兵太《じやびやうた》『イヽエ爾では有りません、 斑井《まだらゐ》市長は其實懲役から出て來た前科者で、 公けの職務を奉ずる公權の無い人だと告發したのです』 斑井《まだらゐ》市長は返事の言葉が咽喉《のど》に詰つた、 出し度くも聲が出ぬ、顏は殆《ほとん》ど鉛の樣な色に成つた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十四 本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『懲役から出て來た前科者として市長を告發しました』 と云ふ蛇兵太《じやびやうた》の此一語が斑井《まだらゐ》市長の耳に、 何の樣に響いたゞらう、眞に市長の顏色は見るも氣の毒な程で有つたけれど、 蛇兵太《じやびやうた》の方は自分の事に屈托して居て市長の顏を見ぬ、 自ら下を向て話して居る、是だけは市長に取つて先づ仕合とも云ふ可きだらう 蛇兵太《じやびやうた》は市長の返事を待たぬ、其まゝ言葉を繼ぎ 『私しは全く爾に違ひ無いと思つたのです、初て此土地へ來て初て貴方《あなた》を見た時に、 何だか見覺えの有る樣に思ひ、能く氣を附けて見ると、 第一 貴方《あなた》の歩み振が何だか足を引摺る樣に見えるのです、 是は牢の中に長く居て、足へ重い分銅を着けられて居た人の歩み振だと私しは此様に思ひました、 御存じの通り、重い懲役人の中で、危険な奴と認められた者は足へ分銅を着けられるのです、 分銅を着けられて長く居る間には、足の癖が違て異様な歩み方をする樣に成り、 人に依ると生涯其癖が拔けません、 貴方《あなた》の歩み振には何だか其樣に見える所が有りますので扨《さて》は長く懲役に居た事の有る大變な前科者だと思ひました、 爾う思て又考へると、確に私しが、昔ツウロンの監獄へ助手《すけ》に雇はれて居た頃、 [尸/婁;u5C62]々《しば/\》逃亡を企だてた罪人だと云ふのが有りました、 貴方《あなた》の顏が何だか其者に似て居る樣に見えるのです、 其れから益《ますま》す氣を附けて居ますうち、 那《あ》の星部《ほしべ》老人が馬車に壓《ひ》かれた事件が有りました、 其とき貴方《あなた》が馬車の下へ潜り入り、背中で其馬車をお持ち上げ成さつたので、 最う愈《いよい》よ違ひが無いと思ひ込みました、今申したツウロンの囚人と云ふのが、 何をさせても、四人力以上有て殊に物を背負ひ上げる力などは驚く可き程でした、 其罪人は姓名を戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ひましたが、 私しは那《あ》の時から貴方の事を心の中では斑井《まだらゐ》市長とは云はず、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云て居たのです、 其れだから先夜貴方と爭つた時、忌々しさに堪へず、 最う默つては居られぬと思ひ、直に貴方を告發したのです、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云て、中央政府へ密告したのです』 長い説明の間に滯《やうや》く斑井《まだらゐ》市長の顏色は、 爾ほどに目に立たぬまでに直つた、爾して聲も平《たひら》に出る事に成つた、 併し彼れは卓子《ていぶる》の上に在り合せた記録帳を開き、 筆を以て何やら取調べて書入れる樣な振をして居る、 之は心の騒ぐ状《さま》を見せまし[誤?:まじ]とて紛せるのでは有るまいか、 其れとも眞實に取調べる必要が有てだらうか、 彼れは極めて用心深い樣な調子《やうす》で徐《おもむ》ろに蛇兵太《じやびやうた》に問返した 『爾して中央政府では貴方へ何と云ふ返事を寄越しました』 蛇兵太《じやびやうた》『私しを氣でも違つたのだらうと云はれました』 扨《さて》は彼れの密告は採用せられなんだと見える、 其れだから彼れ、其身の落度と知て免職せらる可き場合だと思ふ事に成つたのだな 其れにしても彼れの疑ひは根本から解けたのか知らん、彼れは最う、 成るほど自分の疑つたのが全くの思違ひで有たと、思ひ直したのか知らん 彼れは又語を繼いだ『實は大變な失策でしたよ、 全く中央政府に居る上官の云ふ通り、私しは氣が違つて居たのですよ』 市長は曖昧に『先づ何にしても仕合せです』と答へた、 何が仕合せなんだらう、市長が前科者で無いと分つたのが仕合せか、 其れとも蛇兵太《じやびやうた》が辭職する樣に成たのが仕合せか、 直に蛇兵太《じやびやうた》は言葉の尾に附き『イヤ仕合せにも不仕合せにも、 全く私しの見込違ひで有たのだから強情を張る譯に行きません、 何うでせう私しの密告状の屆く前に、 本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が其の筋へ捕へられて居たのです』 本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が其筋へ捕まつた、あゝ其樣な事が有り得るだらうか、 斑井《まだらゐ》市長は先ほど初て密告の事を聞た時よりも又 一入《ひとしほ》驚いた、 手に持て居る筆が自から卓子《ていぶる》の上へ落て轉がつたけれど彼れは其れを取上げる力が無かつた、 顏は勿論勿論土氣色である、爾して唯だ『オーヤ』と呟いた、 蛇兵太《じやびやうた》『ハイ全く捕つたのです、兎に角 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は妙な惡人ですよ、 其筋の調べに依ると牢を出で間も無くダインの地方で何とか云ふ僧正の家へ入て窃盗し、 其の翌日又、其附近の野原の中で、十一二になる小供を捕へて追剥同樣の不埒を働いたと云ひます、 其の頃から今まで凡《およ》そ八年の間、何所《どこ》へ行たか少しも分らず、 何でも今度 捕《つか》まれば無論終身懲役ですから自分でも餘ほど用心したと見え、 何うでせうクロチェと云ふ片田舍へ隱れて居たのです、 其れが妙な事から捕まつて到頭舊惡が露見する事に成つたのです、 何しろ彼れは既に廿年ほどの刑を經て居るのですから、 最う何處の裁判所へ持て行つた所で終身刑の外に宣告の道は有ません、 今丁度アラス地方の裁判所へ連出されて居るのです』 市長の顏色は唯惡くなる許りだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十五 不思議な次第 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》がアラスの裁判所へ引出されて居るとは、 何と云ふ不思議な次第だらう、斑井《まだらゐ》市長は怪まぬ振で怪み、聞かぬ振で怪み、 聞かぬ振で聞いた 蛇兵太《じやびやうた》は語り續けた『其の事實を初から申ませう、 今申したクロチエの田舍に數年前から住んで居る馬十郎と云ふ獨身の老人が有るのです、 取るにも足らぬ貧しい者ゆゑ、誰も其身許などを問ひもせず、 只だ日傭《ひよう》などに雇ふて遺る位の景状《ありさま》で有りましたが、 數ヶ月前に此者が或家の果物《くだもの》を盗んで賣ッたのです、 直に露見して警察へ引立てられましたが、折から警察の留置所《とめおきじよ》が普請中で有りました故、 假りに未決檻へ入れました、所が其檻に居た一人の前科者が其馬十郎の顏を見て、 確に二十年前にツーロンの獄で見受けた戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に違ひ無いと云ふのです、 若し此言葉が事實ならば警察だけの處分では濟まず正式の裁判に附す可き筈と爲ります故、 直に諸方の心當りへ人を派遣し、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》を見知て居る者を二人まで呼出しました、 爾して馬十郎の顏を見せますと二人とも確に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だと云ふのです、 此二人も戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と同じ頃にツーロンの獄に居た奴ですが、 是で三人の證人が出來たのです、最早や三人の口が揃ふ上は其の以上に躊躇する所は無く、 直に警察から裁判所へ移しました、丁度其の時です、私しから、 貴方を戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だと云て密告したのは、 其れだから中央政府の上官達は一も二も無く私しを狂人だと云ひましたが、 私しは如何にも殘念に堪へず、多少の抗辯を試みましたけれど、 外に眞實の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が捕まつて居ると云はれて、 最う爭ふ言葉が無く、其れでは切《せ》めて念の爲に其の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》を見度いと思ひ、 アラスの警察長官に宛てゝ手紙を認《したゝ》め、 何うぞ此の蛇兵太《じやびやうた》をも證人の中へ加へる樣に取計つて呉れと頼で遺りました、 直に其頼みが旨く運び、私しはアラスの豫審官から呼出されて、 先日其の予審廷へ出、馬十郎と顏を合せたのです、 私しは馬十郎の顏を一目見て自分の失策を悟りました、 其時までも心の底では未だ貴方を戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だと思て居ましたが、 駄目ですよ、本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の顏は全く惡相です、 貴方の樣に紳士らしい所が少しも有りません、私しは最う我を折て正直に證言しました、 全く此の馬十郎と云ふ者が昔しの戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に相違ありませんと、 彼れには確に獄に居た頃の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の面影が其儘に殘て居ます 『是れで四人まで口が揃ッた故、幾等彼れが強情でも最う強情は通りません、 けれど彼れは流石に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》ですよ、言ふ事が實に旨い、 通例の男なら其れは必ず人違でせうとか、私しは戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》で有りませんとか、 種々の事を言立て係り官の心を動かさうと勉る所ですのに、 彼れは唯だ『私しは馬十郎だから馬十郎だと云ふのです』と答へるのみです、 爾して呆れた樣な顏をして時々に『驚いた』『本統に驚いた』などゝ云ます、 其 状《さま》が如何にも誠しやかです、何しろ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は十九年も牢に居て、 四度まで脱獄を企てる奴ですから通例の囚人とは違ます、 其の言ひ方の旨いので益《ますま》す私しは戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だと見て取りました、 兎に角、今は最も[誤?:最う]公判廷へ移されたのですから、 先刻も云た通り終身懲役に極つて居ますが、私しは最一度證人として今度の公判廷で證言をするのです』 斑井《まだらゐ》市長は此物語りの間、忙しい樣に簿書を繰返しつゝ、 其樣な無駄言は聞くも夏蠅《うるさ》いと云ふ容子で有ッたが、 猶も帳簿を見詰めたまゝ、氣の無い聲で『其の公判は何時《いつ》ですな』と問ふた 蛇兵太《じやびやうた》『公判は明日です、私しは今夜の馬車で出發するのです』 市長は前と同じ調子で『公判は長く掛りますか』 蛇兵太《じやびやうた》『證據が揃ッて居るのですから無論一日で濟みませう、 私しは自分の證言の濟み次第に歸て來る積りですが、多分宣告は、 遲くとも明夜でせう、明後日に延る事は先づ有りません』 市長は顏を簿書から離し、最う用は無いと云ふ風で蛇兵太《じやびやうた》の顏を見た、 けれど蛇兵太《じやびやうた》は立去らぬ、市長は更に促す樣に 『貴方は猶だ何か、私しへ御用が有りますか』 蛇兵太《じやびやうた》『ハイ最初に申上げました通り、 何うか私しの免職せられます樣に中央政府へ申達書を認《したゝ》めて戴き度いのです』 市長は起立した、爾して異樣に眞面目な聲で云ふた『蛇兵太《じやびやうた》さん、 貴方は官吏として極て方正な極めて正直な方です、 此の私しを戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と思ッて告發成さッたのは、 何にも自分で思ふ程の甚い落度では有りません、 辭職とか免職とか云はずに依然として留任なさい』 蛇兵太《じやびやうた》は極りの惡い樣な目をして市長を見 『イヽエ、何うも私しは氣が濟ません』 市長『でも其の告發と云ひ落度と云ふは唯だ私し一身に關した事ですから、 私しが落度で無いと云へば、落度では無いのです』 蛇兵太《じやびやうた》『イヽエ、私しは日頃から、 人に嚴しくする通りに自分の身にも嚴くせねば成らぬと信じて居ます』 感心な言分である、市長は又異樣に考へつゝ『では熟考して置きませう』 と云て丁寧に手を差延べた、けれど蛇兵太《じやびやうた》は之を握らぬ 『私しは最う市長と握手する資格が無いのです』 彼れが職務と云ふ資格を重ずる状《さま》は是で分かる、 彼れは頭《かうべ》を垂れ、恭々《うや/\》しく辭儀をして 『私しは後任者が定まる迄出勤しませう』と云遺し、 來た時と同じ樣に打萎れて茲《こゝ》を去ッた 彼れ若し市長の手を握ッたならば、殆んど死人の手の樣に冷いのに驚いたゞらう、 市長の身の中には、今は活《いき》たる人の心は無い、 彼れは耳を澄して蛇兵太《じやびやうた》の立去る足音を聞て居た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十六 難場の中の難場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 耳を澄して蛇兵太《じやびやうた》の立去る足音を聞て居た此の斑井《まだらゐ》市長が、 其實以前の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》であるは讀者の既に察して居る所だらう 彼れがダインの野原で子供の銀貨を盗んで以來、今の身分に成た迄の次第は略《ほ》ぼ分ッて居る通りである、 彼れは心を入れ替へた、全く墮落の谷底から自分の力で善人の峰の頂上に攀登《よぢのぼ》ッたのだ、 然《しか》り自分の力である、 とは云ふ者の限り無き彌里耳《みりいる》僧正の高徳が彼れを感化したことは云ふ迄も無い、 彼れの心には今でも彌里耳《みりいる》僧正の心が宿り、 彼れの目には僧正の面影が見え、彼れの耳には僧正の聲が殘ッて居る、 實に一個人の誠心《まごころ》が能く他の一個人を感化する力は、 何れほど強いやら許《はか》られぬ 彼れは唯だ彌里耳《みりいる》僧正を手本とし、僧正の樣に身を持ち度いと期して居るのだ 之が爲に彼れが今まで積だ艱難辛苦は何れほどで有るかも知れぬ、 其上に彼れは慈悲善根をも重ねた、爾して漸《やうや》く今の自分の地位を作り出したのに、 舊惡の報《むくひ》が猶ほ亡びぬのか、蛇兵太《じやびやうた》の樣な者が有ッて、 彼れの身に纒《まつ》はッて居る、のみならず、 他の人が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》を誤認せられて終身の刑に處せられ掛けて居るとは、 何と云ふ奇妙な廻《めぐ》り合せだらう、天は到底此の人に人間並の安樂と云ふ事を許さぬのだらうか 蛇兵太《じやびやうた》の立去ッた後に、彼れは唯だ默然として考へて居たが、 其中に毎《いつ》も病院へ行て華子の見舞に行く刻限とは成ッた、 彼れは異常に落着いて居る、先づ簿書などを片附けて徐《おもむ》ろに立上り病院を指して行た、 多分落着て居る譯では無いのだらう、餘《あんま》り心が騒ぐ爲め思案する力も無く、 唯だ日々の仕來《しきた》りに從ッて、爲《す》るとも爲しに此樣な事をするのだらう 自分が眞の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》であるのに、他人が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と認められて、 必然終身刑に處せられんとして居るのを默ッて見て居る事が出來るだらうか と云て其人を救ふ爲には、自分が今の地位を捨て、今までの事業を捨て、 其人と爲り替らねばならぬ、アヽ十九年の永い懲役に服し終ッて纔《わづか》に八年、 又も其の苦役に歸り生涯を獄の中に埋めねば成らぬだらうか、 如何に悔悟した善人とは云へ、如何に彌里耳《みりいる》僧正の感化を受けて居るとは云へ、 一身に取て此樣な大事件が、爾う容易に思案せられやうか、 一時間や二時間で、何で心を定めることが出來やうものぞ 心は未だ定まらぬけれど、彼れは先づ病院に行ッた、彼れの顏は暗く曇ては居るけれど、 人に心の底を悟られる彼れでは無い、多分は必死に自分を制して居るのだらう、 頓《やが》て彼れは華子の枕許に坐したが、 華子は彼れが傍《そば》に居る間は全く病苦をも忘れる状《さま》である、 其れも無理は無い、華子が彼れの徳に感じたのは、彼れが僧正の徳に感じたに比す可きである、 彼れも亦、華子の枕邊《まくらべ》に居る間は心が悠乎《ゆつたり》と解けて居る樣に見える、 毎《いつ》もは三十分ほど話して去るのだけれど此日は三十分 經ても去らぬ、 四十分、五十分、到頭一時間ほど留まッた、華子の深く喜ぶ樣子が其の衰へた顏に見えた 其間に彼れは醫者にも逢た、看護婦にも逢ッた、醫者は云ふた 『時々刻々に衰へます、最う永くが有りません』と、 之を聞いて彼れの顏は亦 一入《ひとしほ》曇たけども、 其れは少しの間で有つた、看護婦に對しては彼れ樣々の注意を與へたが、 其主意は總て信切に華子の心を慰めて遺れと云ので有た 華子への親切は娘小雪を連て來て、逢せて遺るが第一である、 華子は二度までも小雪の事を問ふた、二度とも市長は答た 『ナニ直に參りませう』と、彼れは自分で華子からの委任状をまで持て居るのだ、 全く直々出張して連れて來る積で有つた、 けれど今と爲ては其樣な事が出來るだらうか、一方には身に降掛つた大の事變が有る、 爾うして一方には此の小雪の事、實に難場の中の難場である けれど彼れは其色を見せずに去つた、來た時と同じ樣に靜に歩んで外に出たが、 道に兼て知る馬車屋が有る、彼れは之に立寄て、一日に五十哩《マイル》を行き、 翌日直に五十哩《マイル》を歸るほどの達者な馬車が有るかと問た、 重い荷物をさへ積まず一人乘の極輕い馬車を引せるならば其れ丈の道を請合ふ事の出來る馬が有ると馬車屋は答へた、 彼れは滿足した容子で『では其れを借りる事に仕やう、之れは二日間の賃金だ』 とて許多《あまた》の金を與へた、馬車屋『併し旦那、馭者が一人附けば其れだけ重く成りますが、 貴方は馭者無しに、御自分で馬車を繰《あやつ》る事がお出來ですか』と問ふた、 市長は『出來る』と答へ、更に『では明朝の四時半までに私しの家の前へ着けて置て下さい、 少しでも時間が遲れると困るから』と言渡した、四時半と云へば何人《なにびと》も起き出でぬ中である、 彼れは此馬車を用ひて何所《どこ》へ行く積りだらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十七 永久の火 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 全く難場の中の難場とは今の身の上で有る、 世の中に此樣な辛《つら》い事情が又と有り得やうか 獄中に送ッた十九年は夢として、其後の艱難辛苦、 眞に身を粉にする程に働いて唯だ人の爲をのみ許り、 漸《やうや》く今の身分に推上げられたのに、 又元の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に歸らねば成らぬ事に成ッた、 アラスの裁判所へ自首して出るのは明日の中である、明日の夜を過せば、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》で無い人が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》として終身の刑に處せられるのだ、 而も又一方には、汪多[土|婁]《うおたるー》の宿屋から少女小雪を引取て來て、 死にかけて居る其母華子に逢さねば成らぬ 何から何う運んで好いか、未だ思案も附かぬ、 けれど兎に角早い馬車が要る事だけは確だから、 一日に五十里行て次の日に五十里歸る駿足の馬と車を雇ふ事にはした、 爾して我家に歸つて來た 此樣な時には、何でも心と身體とが確で無くては成らぬからと、 先づ充分に夕飯を喫し、其の上で二階の居間に閉籠ッた、 茲で能く思案するのだ、先づ考へて見るのに、 到底自首せねば成らぬだらうか、イヤ必ずしも爾で無い、 此身を誠の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だと疑ふ者は廣い世界に蛇兵太《じやびやうた》の外には無い、 けれども彼れは既に疑ひが解け、其の非を悔ひて自分から免職して貰ひ度いとまでに願つて居る、 此まゝに抛《ほつ》て置けば彼れ此土地にさへ居らぬ事に成て了ふのだ、 或は是れが天の配劑では有るまいか、何も此身から爾う仕向た譯で無いのに、 自然に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の身代りが現はれて、 此身を疑ふ唯だ一人の證人は此通り消えて了ふ、全く此身に運が有るのだ、 天が此身を助けて居るのだ、此身は唯だ知らぬ顏で、 今までの通り日々の事務を取て居れば好い、爾すれば無事太平の斑井《まだらゐ》市長で生涯變る事は無い、 其れだのに、何を苦んで、此の天の恩に負《そむ》き、 再び戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ我身さへ身震のする樣な淺ましい昔に歸つて、 此身を終身刑と云ふ地獄の底に埋めやう、出來ぬ、出來ぬ、其れは出來ぬ とは云へ、今までの艱難辛苦は何の爲ぞ、唯だ罪に汚れた一身を洗ひ清め、 善人として我が心を救ひ度いのみである、汝、魂を入替よ、 生れ替ッた樣な人と爲れ、是れが肝に刻んだ彌里耳《みりいる》僧正の誡《いまし》めである、 今若し昔の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に歸らねば、生れ替ッた人とは云はれぬ、 善人で無い、依然たる惡人の魂である、魂を入替た所が何處に有らう、 眞成《しんせい》に我心を救ふには、我身を永久の地獄に落さねば成らぬ、 人の目から見れば之れは墮落、天の目から見れば之れが復活である、生れ替たのである、 身の極樂は心の地獄、此世の榮耀は永遠の墮落である、破滅である、 彌里耳《みりいる》僧正は此樣な榮耀の墮落を求めよとは誨《をし》へなんだ 『好し、最う心は極ッた、此身は義務に從はねば成らぬ、自首して彼れを救はねば成らぬ』 と市長は叫んだ、叫ぶ聲が、思はずも口に發して自分の耳に響いた 彼れは靜に立ッて卓子《ていぶる》に向ひ、整理す可き書類などを整理し初めた、 豐《ゆたか》ならぬ取引商人へ送る筈の請求書などは悉く焼捨た、 彼れの顏は異樣に美しく輝いて居る、眞に善心が内に滿ちて、 自《おのづ》から外に現れると云ふ者だらう、 是が昔の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だとは恐く誰も信じ得まい、 彼れは室《へや》の一方にある小抽斗《こひきだし》から財布を出し、 有り金をも計算した、銀行に宛てゝ差圖の樣な書類をも認《したゝ》めた、 最う爲す可き仕事は爲て了ッた 此とき夜の十二時の鐘が鳴ッた、彼れは唯だ夜の寒さを感ずる外に、 何の感じも無い、心が茫乎《うつとり》と鎭ッて自失したのだ、 彼れは夢中に歩む人の樣に煖爐の前に行き、燃殘る火に炭を加へ、 其前に身を置た、眠るかと見れば眠るで無い、餘り心を疲らせた反動が來たのだらう、 物を考へる力も無い、唯だ昏々として絶入る樣な状《さま》で有ッたが、 斯る中にも自分で自分の心の、次第に消えて行くを感じた、 是では成らぬと幾度か自ら勵して、遂に卒然として驚き立た 『ハテな、何事を考へて居たのか知らん、爾うだ自首して出るの決したのだ』と呟いた 之れと共に又樣々の事を考へ廻したが、強く心に浮んだのは華子の身の上である、 『アヽ可哀相に』嗚呼眞に可哀相である、可哀相との此一念が又今までの一切の思案を破て了ッた、 危い哉《かな》、危い哉《かな》、彼れは全く局面の一變した樣に感じた、 イヤ自首する前に猶だ考へて見ねば成らぬ、待てよ、待てよ、 自首して我が魂を清くすると云ふも、生れ替た人間に成ると云ふも、 矢張り我が一身の爲では有るまいか、自分と言ふ一身は其れで氣が濟むとしても、 他人の身の上は何うだらう、自分の外に他人の身をも考へねば成らぬ 畢竟此土地の繁昌するのも此の斑井《まだらゐ》が有ればこそだ、 此身が此土地に無く成れば、繁昌の中心が無くなるのだ、 土地の魂が消えるのだ、今までの我が工業で富だ人も、 再び貧い境涯に陷入るは無論の事、我身の去ると共に、 土地總體に貧苦と窮厄とが推寄せて來る、土地が再び墮落する、 アヽ唯だ自分の一身を清く仕たいが爲に斯うも人の難儀と爲るのを知らぬ顏で見過して成らう者か、 若しも自分が今茲で自首の心を飜へし、自分の身は永久に亡やうと墮落しやうと、 何うでも好いとして、今から十年の間、市長の職を勤め續けたなら何うで有らう、 千萬圓の財産は容易に出來る、其の千萬圓を以て慈善の道に費せば、 恩に浴する人は何れ程と云ふ數が知れぬ、土地は益《ますま》す繁昌する、 工場も増し仕事も殖え、幾千の家や家族が富榮えて幸福を得る事も出來る、 盗坊《どろぼう》も盗《たう》を止め、詐欺師も詐欺を廢し、 墮落に身を賣る女も無ければ身を持崩す少年も無く、風俗は厚くして人情も改まり、 社會の少からぬ部分が樂園の樣になり、其影響は四方にも後世にも廣がッて無窮である、 本統に世に對する功徳とは是である、何うして此の鴻大な世の功徳が自分一身の魂や心の爲に捨られやう、 此身は死して後、永久の火の中に投ぜられ、限り無き呵責を受けても好い、 此世を救はねば成らぬ 全く彼れの心は飜へッた、自首はせぬ、何所《どこ》までも斑井《まだらゐ》市長で推通さねば成らぬ、 現に天から此身の爲に身代りの人まで作り、斯うせよと示して居るのだ、 是をするには、最う自分が昔し戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》で有た事を心の底から忘れねば成らぬ、 是で初て男らしい領見が定ッたと、彼れは何だか嬉しい程に感じ、 又も立て小抽斗《こひきだし》の所に行き、 小い鍵を取出て壁の隅に有る秘密の推入《おしいれ》の戸を開た 此中には彼れが昔の紀念として、 彼の出獄の時に着て居た戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の着物と杖と帽子と革の袋とを納《しま》ッて有る、 之が有つては戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ事を思ひ出す種だから、 先づ之を焼捨ねば成らぬ、彼れは此品々を押入の中なる箱の底から取上げた、 取上げて能く見ると、流石に今昔《こんじやく》の感に堪へ兼てか、 我れ知らず身が震ふた、けれど彼れは最う怯《ひる》まぬ、見る其の目先に、 又何か轉がッて落た物が有る、是れは銀貨だ、彼れがダインの野原の中で、 足に踏附けて奪た子供の物なんだ、彼れは又身を震はせつゝ、今度は煖爐《すとーぶ》の火を眺めた、 此品々を焼捨るには充分の火が燃て居る、けれど何だか氣が後れる、 何うも焼く程の勇氣が出にくい、彼れは三度《みたび》室《へや》の中を見廻した、 室《へや》には彼れの此振舞を見張て居る物が有る、 其れは彌里耳《みりいる》僧正から與へられた彼の銀の燭臺で有る、 若し彼れをして到底其の昔を忘れ得ざらしむる者で有るとすれば、 其れは昔し着た着物や帽子などで無く、此の燭臺なんだ、 彼れ此の燭臺に照されて何うして今思ふて居る樣な事が出來やう 『アヽ先づ此燭臺を鑄潰《ゐつぶ》して只の地銀《ぢがね》の塊に仕て了はねば可《い》けぬ』 と彼れは呟き、今まで取上げて居た着物を放し、燭臺の許《もと》に歩み寄ッた、 爾して先づ其の一個を取り、其の尖《さき》の一端を以て、 煖爐《すとーぶ》の火を突き起した、思へ、彼れよ、 此燭臺を焼潰すは、其の良心をまで焼盡す者にはあらぬか [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十八 天國の惡魔、地獄の天人 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 單に少しの間である、十分と經ぬうちに銀の燭臺は鎔《とろ》けて固塊《かたまり》とは成つて了ふのだ、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の紀念は之で焼盡されて了ふとも、 心に存する記憶は揉潰す事が出來るだらうか、彼れ斑井《まだらゐ》市長は出來ると信じて居る、 縱《よ》し出來ぬとても出來させねば成らぬのだ 之れが危い頂點である、燭臺は彼れの手に在る、 火は煖爐《すとうぶ》に[火|(ノ/ツ/臼);u7196]々と燃て居る、 誰も火と燭臺との間を遮る者は無い、彼れは決心した、 最う吁呼《あはや》と叫ぶ暇も無い、此時忽ち彼れの耳に、 呼ぶ樣な聲が聞えた『戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》』 聲は何人が呼ぶのでも無い、唯だ自分の心の中から發するのだ、 彼れは此聲を聞て毛髪が逆立た、何者に呼ばるゝとも是ほど恐ろしくは感ぜぬ、 彼れは聞くまじとする力も出ぬ、聲は自から響き渡るのだ 『出來した、出來した戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》、燭臺を焼盡せ、 彼の僧正の事をも忘れよ、爾して汝の身代に立て居る馬十郎と云ふ老人を亡して了へ、 彼れは自分の身に何の罪が有るやをも知らず、唯だ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ汝の名の爲に捕へられ、 裁判の言渡しを受けて生涯を苦痛と恐れの底に埋めん、汝に取ては此上も無き幸ならずや、 斯くして汝自身は善人として世を渡れ、市長の位地を失ふ勿れ、 汝は譽をも得て榮もせん、身を富ませ人を富ませ、貧者を惠みて孤兒を救ひ、 世の恩人と尊《うやま》はれよ、汝は其れで正直なり、 幸ひも有らん、歡びも有らん、汝が其の歡びに醉ひ、其の幸ひに浮びて、 何不足無く榮え行く間に、牢の中には一人の罪も無い老人が、 汝の名を負ひ、汝の赤い衣服を着け、汝の鐡鎖《くさり》を腰に纒《まと》ひて絶望し悲鳴せん、 汝は之が快きか、定めし快きことならん嗚呼、汝よ、惡人よ』 市長の前額《ひたひ》には脂汗が玉を爲した、彼れは魘《おそ》はれた樣な眼《まなこ》で燭臺を眺め詰めた、 けれど心の中から叫び立つる聲は、彼れの耳に響いて止まぬ『嗚呼汝、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》よ、 世間の人は異口同音に汝の功徳を稱するならんも、唯獨り、 汝の外は何人にも聞えざる聲の有りて絶えず汝の耳に來り、 汝の罪を鳴すならん、能く聽け汝、此世に施す汝の功徳は、 如何ほど盛なりとても、天に達せずして地の落ちん、 然り久しからずして地に落ちん、唯だ汝の罪を鳴す其の一個の聲のみは天に登りて神の耳にまで響ならん、 汝此聲を如何にするや』一句は一句よりも高く聞える、 只初の中のみは自分の神經のする業《わざ》と思ッたが、果は室《へや》中に響く樣に思はれて、 彼れは我れ知らず戰慄し『其所《そこ》に居るのは誰だ』と聲を出して問ふた 我が聲さへも日頃の我が聲で無い、全く物凄い響きを帶びて居る、 けれど勿論 室《へや》の中に誰も居る譯では無い、 彼れは其れと氣が附いて又聲を發して今度は大膽な樣に打笑ッた、 自分で自分の恐しさを笑ひ消すのだ『何だ馬鹿々々しい、此 室《へや》に、 己《おれ》の外に誰が居るものか』イヤ誰も居ぬ譯では無い、 確に誰れか居るのである、併し其人たるや人間の目には見えぬ、 見えぬとても見える人よりは恐る可しだ、彼れを金縛りに縛るのだ、 彼れは燭臺を持直して元の通り棚の上に置いた、 爾して力無げに室《へや》の中を歩み初めた、 幽靈の歩むのが多分は此樣な状《さま》だらう、 足が地に着いて居るやら居ぬやら分らぬ 嗚呼、悲しい哉《かな》、彼れは再び不決定、無決心に立返ッた、 自首して出やうか、自首せずに、今の決心を推通さうか、 彼れの心は最初此 室《へや》に閉籠ッた時の通りに迷ひ且つ紊《みだ》れて居る、 一歩だも進んだ所が無い、彼れは唯だ煩悶し懊惱するのみである 斯くの如くにして午前の三時まで室《へや》の中を歩んだ、 けれど決心は來らずして唯だ神經の昏亂《こんらん》するのみである、 善人と爲るには地獄にも等しき牢の底に沈まねば成らぬ、 此世の天國を支へんには、心を罪に固めねば成らぬ、 地獄の底の天人か、天國に棲む惡魔か、初の中には我身に身代の出來たのが、 天の救ひの樣の思はれたのに、今は其の身代の有る爲めに此の身は地獄の底に落ちねば成らぬ、 何だとて其の樣な身代りなどが現はれたゞらう、是れが全くの運の盡と云ふ者か、 如何なれば運命は此の身のにも此の樣に辛く廻ッては來るのだらう、 其れも若い身空なら兎も角も、此年に成ッて再び暗い牢の底に、 刺《とげ》の莚《むしろ》、鞭《しもと》の雨、 到底堪へられる所で無い、今の地位、今の名譽は、 唯だ一人の何處の馬の骨とも分らぬ者の爲に、 惜氣無く投げ棄てやうとて作りはせぬ、何して是れが決せられやう、 其を決せねば成らぬ樣な境遇に立されるとは運命が無理だ、 非道だ、恨んでも恨み盡せぬ 彼れは終に疲れ果てた、歩み罷《や》んで椅子に[馮/几;u51F4]《もた》れた、 眠るとも無く眠り込んだ、夢に入てまでも樣々の恐しい事に攻めたてられた、 爾して夜の空氣の寒さにフト目を覺して見ると、 金《かね》をも鎔《とろか》すばかりに燃て居た煖爐《すとーぶ》の火は、 早や灰に蔽はれ、[臘,月@虫;u881F]燭《らふそく》も燃て纔《わづか》に殘ッて居る、 最う何時《なんどき》だらう、早や五時である、閉ぢることさへ忘れて有ッた窓の戸が、 暁風《げうふう》に煽られて居る、彼れは之を閉づる爲に窓に行た、 永い冬の夜の、五時とは云へど未だ空は明け放れて居ぬ、 天は曇ッて星の影さへ見えぬ、けれど此時、 戸表《おもて》の方《かた》に何やら異樣の物音がする樣に聞えた、 彼れは猶ほ半ば夢の心地で首《かうべ》を差延て下を見た 見ると何だか星の樣な光りが二點《ふたつ》、地の表に輝いて搖《うご》いて居る、 是れは昨日《きのふ》の夕方に彼れが必ず朝の四時半に我が門口《かどぐち》へ廻して置けと注文した其の馬車で、 光るのは馬車の硝燈《らんぷ》である、けれど彼れは其れと知らぬ、 全く其事を打忘れ居る、彼れは呟いた『アヽ天には星の光りが無くて、 却て地の上に其れが有るのだ』偶然の言葉とは云へ天國の惡魔、 地獄の天人と云ふ今の境遇に當るのでは有るまいか、 呟く中に蹄《ひづめ》の音が、愈《いよい》よ明《あきら》かに聞えた、 彼れは初て馬車の來たのを知ッた、併し未だ、自分が誂《あつら》へた事は思ひ出さぬ 『ハテな此暗いのに何者が馬車になど乘るのだらう』獨語する折しも下から誰か上ッて來て此 室《へや》の入口を叩いた 『旦那樣、旦那樣』音のふは兼て雇ふてある老女の聲で、 市長『何事だ』老女『馬車が參りました』市長『馬車が、何の爲に』 老女『昨日貴方がお命じ成《なさ》ッたと申まして』昨日此身が其樣な馬車などを、 イヤ命じた覺えは少しも無いと云はんとして忽ち腦の中に稻妻《いなづま》の差込んだ如く思ひ出した 恐しい現在の位地が、一時に悉く彼れの心に浮んで出た、 彼れは何と返辭す可きやを知らぬ、老女は返辭の無きを怪み 『何と申して遺りませう』相變らず返辭が無い、暫く待て『何かの間違ひでせうか』 市長『イヤ間違で無い、直に此方が降りて行くから待たして置け』 直に行くとて、未だ思案が定ッて居ぬ 此朝、此町へ入込んだ一番の郵便馬車が、町の入口で一輌の輕い小馬車と衝突した、 小馬車は何處か傷《いた》んだらしい、けれど其中に唯一人り外套に纒《くるま》ッて乘て居る其の主人は、 餘ほど急ぎの用事と見え、殆ど衝突には氣も附かぬ如く走らせ去ッた、 郵便馬車の馭者は驚いた『何だッて那《あ》の樣に急ぐだらう』 勿論此の小馬車の主人は斑井《まだらゐ》市長であッた、 彼れ何の樣な思案を以て、何所《どこ》を指して行たのだらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 二十九 運命の手 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 市長は何處へ行くだらう、小馬車は矢の如く飛で居る 彼れはアラスを指して行くのだ、アラスの裁判所には、 彼れの身代りに立た不幸の男が公判に附せられて居る、 今日中に宣告せられるのだ、宣告は無論終身刑なんだ 此者を救ふが爲か、救ふのは裁判所へ出て自分が誠に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だと自首せねばならぬ、 彼れは昨夜から惱み苦んだ結果、終に自首すると云ふ事に決心したのか知らん、 イヤ必ずしも決心したと云ふのでは無い、唯だ何と無しにアラスの裁判所まで行て見度いのだ、 行た上で裁判を傍聽し、我が身代りに立た馬十郎とやら云ふ老人の顏をも知り、 裁判の容子をも見ねば氣が濟まぬのだ、宛《あたか》も夏蟲の火の光に引かゝる如く、 我にもあらで身の危険へ引附けられるのだ 人の身の上には、全く思案に餘る樣な大難題が有る、彼の現在が即ち其れなんだ、 此世の天國に居て惡魔と爲らんか、牢と云ふ活ながらの地獄に落て天人と爲らんか、 幾等思案したとて思案は附かぬ、けれどアラスへも行かずに、 知らぬ顏で濟して居る事は爲し得ぬ、兎も角もアラスへ行き度い、 行けば行く道で何とか思案が附くだらう、或は傍聽して居る中に、 誰か善き智慧を授けて呉れるかも知れぬと、此樣な、頼には成らぬ事が彼れの頼みだ、 最う此樣な頼の外に、自分の分別とては少しも無い、 眞に傷々《いた/\》しいほど憫《あはれ》む可き有樣とは成て居る 朝の凡《およ》そ八時頃に彼れはヘスヂンと云ふ驛に着いた、 二時間餘りに七里ほど馳せたのだ、馬は流石に馬車屋が受合た丈け、 未だ汗もかゝぬ、けれど秣《まぐさ》でも與へねばと、但有《とあ》る宿屋の前に留り、 店先に居る馬丁を呼んだ、馬丁は差圖を聞き、烏麥を持て來て馬に與へつゝ、 フト怪む樣に俯向《うつむい》て車を見、眉を顰《ひそ》めて 『旦那は此車で遠くから來《い》らしつたか』と問掛けた、 市長『七里ほど馳せて來た』馬丁は『エ、エ』とて驚いた、 市長『何を其樣に驚くのだ』馬丁『車の輻《や》が二本折れて、心棒も曲つて居ます、 能く無事に來られました、最う一里とは行かれません』 扨《さて》は今朝郵便馬車と衝突したときに毀《こわ》れたのだ、 市長『オヤ其れは困つたなア、何所《どこ》かに馬車を直す者は無からうか』 馬丁『丁度隣が馬車屋です、其 主人《あるじ》を呼びませう』 とて直に主人を呼で來た、市長は之れに向ひ 『直に此の馬車を修繕する事が出來やうか』馬車屋は損所を檢《あら》ためて 『今日一日掛ければ出來ますよ』一日掛つてはアラスの裁判に間に合はぬ、 市長『其れでは困る最《もつ》と早く』馬車屋『一日より早くは出來ません』 市長『多勢の職人を掛ければ』馬車屋『幾人掛けてもです』 市長『では之に代る馬車は有るまいか』馬車屋『有た所で、 旦那の樣な亂暴な乘り手に貸すのは眞平です』市長『イヤ有れば、借るのでは無い、買取るのだ』 馬車屋『其れでも出來合は無いのです』市長は氣を燥《いら》つた、 彼れの問は、後から後からと矢を繼ぐ樣に口から出た、 『お前の家に無とも何所《どこ》かに出來合が有るだらう』馬車屋『有りません』 市長『形は何の樣なのでも好い』馬『有りません』 市『古いのでも好いが』馬『其れも有りません』市『誰か一個人の持て居るのでも譲て貰ひ度い』 馬『此土地には其樣な人も無いのです』市『代價は幾等でも出すのだから』 馬『何うも、無い者は致し方が無いのです』市『何の樣に捜しても』 馬『ハイ何の樣に捜したとて』市『では到底、今日の中に旅を續ける事は出來まいか』 馬『ハイ、何うしても一日 茲《こゝ》にお泊り成《なす》ッて此馬車を修復する外無いのです』 市『何としても』馬『ハイ何と致しましても』 市長は是だけ聞て心の重荷を卸した樣に感じた、馬車が損じて、 到底今日中にアラスへ着く事の出來ぬとは、是れが天より我身を遮る者では有るまいか、 此身は何としてもアラスへ着く積りだのに天が許さぬ、天が此馬車の輻《や》を折た、 天が此身を引留めるのだ、此身に自首を許さぬのだ、 今日一日を此土地に留まれば裁判は濟で了ひ、此身の身代りは身代ろと爲て了ッて、 此身は市長の儘で勤續する外は無いのだ、何も此身の所爲で無く天の所爲だ、 責任は天に在るのだ、市長は何だか天に謝し度い樣な氣に成て、 仕方が無いから一日を此地に留まり爾して馬車を直させると云ふ氣に成た、 彼れの身代りに立て居る不幸な男は、可哀相に全く天から見捨られたのだ 最う何としても仕方が無い、市長の自首は罷《や》み、裁判は確定する、 是は天の配劑と云ふ者なら、何だか人間の腑に落ち難い配劑の樣にも思はれる、 けれど市長の腑には落ちた 若し此事が人通りの無い野原でゞも在たなら、是きりで終ッたゞらうが、 茲《こゝ》は宿場だから、市長と馬車屋との問答の間に多勢の人が立た、 其中に居た一人の小僧が市長の熱心な容子を見、且は其の『代價は幾等でも拂ふから』と云た言葉を聞き、 何か思ひ附た事の有る態《てい》で立去ッたが、 頓《やが》て市長が天の配劑と見極めを附けて、やをら馬車から降らうとする所へ、 一人の老婆を連れて歸ッて來た、老婆は市長に向ひ 『只今此の小僧から聞きますれば、貴方は馬車をお求め成さると云ふ事ですが、 全くで御座いませうか』此の問を聞た許りで市長の前額《ひたひ》には汗が出た、 ヤッと自分を放ッて呉れた恐しい運命の手が、 又も後から己《おの》れを捕へに來たのでは無からうか、 彼れは答へた『馬車は買はふと思たけれど、 此土地には何處を捜しても賣る馬車が無いのだから止めました』 老婆『イヽエ私し共に、丁度お賣り申して好い不用の馬車が有りますよ』 愈《いよい》よ運命の手が再び市長の背《せな》に達《とゞ》いた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十 聞けば兒守歌である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 馬車の毀れたのが天の配劑ならば、代りの馬車の無いに極ッた處へ代りの馬車の現れたのも天の配劑だ、 市長は老女の言葉を聞き全く顏の色を無くした けれど老婆が馬車を持て居ることは事實である、馬車が有るならば行かねば成らぬ、 此土地に一日を暮す口實は無い 無論、馬車屋も、宿屋の者も、行かれてはお客を失ふのだから、 口を極めて老婆の馬車を非難した『那《あ》の樣な者は馬車では無い』とか 『全《まる》で毀れ掛けて居る』とか、思ひ附く丈の故障を並べた、 けれど輪が二個《ふたつ》揃ッて居て其上の人の乘る所が有て、 馬に引かせる樣に成て居るから、幾等古くても馬車は馬車だ、 市長は老婆の云ふが儘に價《あたひ》を拂ひ、買取て之れに乘り、 爾してアラスの裁判所を指して進んだ、 成るほど馬車と言ひ兼ぬる程の馬車だから其の途中で困難の多かッた事は記し切れぬ程で有るが、 其れでも日の暮頃にアラスから七里と言ふ所まで推寄せた 茲《こゝ》まで來ると流石の名馬も疲れ果てゝ此上の進行が覺束無く思はれる状《さま》とは成たので、 更に一頭の馬を雇ひ、其の馬丁を道案内にし、二頭引として走らせたが、 道普請の爲に、道で無い野原を迂回せねば成らぬ所なども有り、 夜の七時に至ッて未だアラスに着かぬ、市長は馬丁に問ふた 『アラスまで最う何里ある』と、馬丁は答へた『最う三里です八時には着きませう』 八時が九時まで掛つても進む外は無いのだから、又 益《ますま》す急がせたが、 併し市長は怪しんだ、八時に着て、裁判に間に合ふだらうかと、 孰《いづ》れ裁判は晝間から開かれるので、我が身代りに立て居る馬十郎とか云ふ老人の犯罪は、 單に果物《くだもの》を盗だ丈の事だと云ふのだから、 其の調べは纔《わづか》に二三時間で濟で了ふだらう。 事に依ると今頃既に濟んで居るかも知れぬ、爾すれば此樣に急ぐのも無益だ 無益でも急ねば成らぬ、我れは我が出來る丈の力を盡し、爾して間に合ぬのなら、 其れこそは神の御心で、神が何うしても馬十郎を我が身代りと爲して了ひ、此身を助けて下さるのだ、 運を神に任せて急がねば成らぬ、 彼れ馬十郎が果物を盗んだ罪は簡單でも戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ嫌疑は簡單で無い、 或は此の嫌疑の爲に、何の樣な裁判が長びかぬとも限らぬ、 夜の九時十時までも、開廷して居るやも知れぬ 彼れの心は、樣々に氣遣ふて、四方八方に馳せ廻ッた、けれど彼れは毛頭も、 故《わざ》と馬車を遲くすると云ふ氣は出さなんだ、全く急がれる丈は急がせた、 急がして果して裁判の間に合ふか何うだらう 間に合ふたならば何うなるだらう、間に合はなんだなら何うなるだらう、 之れは唯だ神のみ獨《ひとり》の知り給ふ所である *    *    *    *    *    *    * 市長が斯くも悶《もが》いて居る間に、 病の床《とこ》に俯《ふ》して居る華子の景状《ありさま》も亦憐れむ可きである、 市長が煩悶し懊惱して明かした夜に、華子は苦しげな咳のみして明かした、 翌朝はズット容體が惡い、受持の醫師は診察した後で、看護婦を次の間に呼んで命じた 『後ほど市長がお出に成つたら、直に私しを呼で下さい、市長に報告せずには置かれぬ容態です』と、 併し市長の來る筈は無い、市長は此時アラスの裁判所を指し、馬車を走らせて居るのだ 華子自身も唯だ市長の來るのが頼みらしい、 彼女は苦《くるし》い息の下より幾度《いくたび》も看護婦の問ふた、 『最う何時です』と、毎日午後の三時には市長が來る、 華子は只管《ひたすら》に三時を待つのだ、其うちに漸《やうや》く三時の鐘は鳴ッた、 華子は寝返る力も無かッたのに、此の鐘の音に寢臺《ねだい》の上に起直ッた、 爾して暫《しば》し病苦をさへ忘れたのか、衰へた顏に、折々に笑《ゑみ》が見える、 唯だ斯く誠ある人を待つ間のみが彼の女の天國である、けれど市長は來ぬ、 凡《およ》そ廿分ほど經て、起て居る力も盡きたか又其身を横へた、 爾して時の經《た》つに從ひ、悲げに咳をするのである 四時も過ぎた、五時も過ぎた、彼女は遂に斷念《あきら》めた樣に、 細い聲で呟いた『最う一日《けふ》限りだのに??明日は此世には居ないのに、 今日來て下さらぬとは、餘《あんま》りだワ』と、彼女の目は、 最う此世の光が見えることは少く、次第に冥府の光が見えて來たのか、 其中に咳も稍《や》や止み、虫の泣く樣な聲で何やらん謠ひ初めた、 聞けば兒守歌である、昔し娘小雪を抱いて謠たのであらう、 其後は今日が日まで歌を謠ふ樣な折は無かつた、最う心が恍惚として殆ど夢路に入て居る、 多分は小雪を抱て寢かし附ける夢でも見て居るのだらう、 夢とは云へど眠て居る譯では無い、其聲の優しい中に、 得も云へぬ悲みが有る、室《へや》の隅に聞て居る看護婦は思はず涙を催した、 聲は段々に細ッて行く 餘り市長が遲いので、看護婦は其の屋敷へ人を使はした、 頓《やが》て使ひの女が歸て來て室《へや》の隅で看護婦の細語《さゝや》いた、 市長は今朝早く馬車に乘り旅行して、行く先は能く分らぬが、 明日で無くては歸るまい、何も留守へは言置た事が無いと、此 細語《さゝやき》が聞えたのか、 眠た樣に見えて居た華子は忽ち聞き咎めた『市長さんが何う成ッたと云ふのです』 誠を聞かせて、明日で無くば歸らぬと云ては何れほど失望するだらう、 看護婦は當惑した、けれど看護婦と云ふ如き慈善の業に委ぬる身が、 眞逆《まさか》に病人へ嘘を聞せると云ふ樣な罪の深い事は出來ぬ、 直《たゞち》に寢臺《ねだい》の所へ行て、慰める樣に『市長さんは旅に出られたと云ふ事です』 華子は合點が行た樣に、且は嬉しさに堪へぬ樣に、又起直ッて 『オヽ、本統に親切な市長さんです、小雪を連《つれ》に行て下さッたのです、 是で私しは必《きつ》と病氣が直りますよ、オヽ、嬉しい、 小雪が來るなら私しは素直にお藥も戴きます。貴女《あなた》のお言葉をも守ります』と云ひ、 看護婦の氣遣たとは反對に、全く心も引立た如く、手を擧げて天を拜んだ 嗚呼、世に、子を思ふ親の心より誠たる者が有らうか、人は之が爲に病み、 之が爲に癒ゆ、親子の情は人間の命の綱である、華子の玉の緒は唯だ此の綱に繋がれるのだ、 若しも市長が小雪を連れずして歸て來る樣な事でも有れば何うだらう、 華子の命は其時に盡くるのでは無からうか [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十一 重懲役終身に [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 此夜、華子の許《もと》へ回診に來た醫師は、華子の容態の變ッて居るのに驚いた、 今朝《けふ》見た時は殆《ほとん》ど晩まで持つだらうかと氣遣はれる程で有たのに、 今は熱も下り呼吸の調子も揃ふて居る、其上に當人の心に何か嬉しい所の有るかの樣にも見える、 全く市長が我娘小雪を連て來て呉れる事と信じ、 其の喜びに全身が力を得たのだ、心の引立ッた爲に一時病を忘れたのだ、 但し何時《いつ》まで忘れて居る事が出來るだらう *    *    *    *    *    *    * 其れは扨置《さてお》き市長の馬車は遂にアラスの町に着た、丁度夜の八時で有ッた、 市長は或る宿屋の前で、馬車を卸《お》り、賃錢を拂うて、 馭者と第二つ[誤?:第二の]馬とを歸し、自分の初から雇ふて來た馬は、 自分で引て其宿屋の馬屋へ預けた、此時《そのとき》まで彼れは無言で有たが、 初て口を開き馬屋の番人に問ふた『何うだらう此馬は、 明朝直に又旅行の役に立つだらうか』と彼は、來て匆々《さう/\》に早歸る事を考へて居る、 番人は答へた『餘ほど疲れて居ますから二日は休ませねば成ますまい』と 市長は直に宿屋の店に行て又問ふた『郵便馬車の出る所は何所だらう』と、 此頃の郵便馬車は旅客の便乘を許したから、彼れは其れに乘る積なんだ、 頓《やが》て店の者に案内せられて郵便馬車の出發所へ行き 『明朝ファメールの方へ立つ一番の馬車は何時だ』と聞き、 午前の一時だとの返辭を得て、更に其馬車の便乘が出來るかと問ひ、 猶だ一人分だけ空席が殘て居ると聞き、ヤッと安心した如く、 『其れでは其の空席を約束する』とて即座に代價を拂て了ッた、 斯して置けば間違は無い、嗚呼何ぞ彼れの所行、逃支度に似たるの甚だしきや、 急ぎの用の爲に此地へ來て未だ一言、其の用事には及ばずして、 先づ歸る事を苦勞して居る、彼れは歸る事が出來る者と信じて居るだらうか、 自分の身代りの馬十郎を救へば自分の身は何うならうも知れぬ、 自首して出る人が、先づ歸りの用意とは聊か不審と云はねば成らぬ、 是で見ると彼れの心は未だ決して居る譯では無い、今日一日、 馬車の中で考へた筈だのに、昨夜一夜、我家で考へ明した時と同じく、 何の決定にも達せずして唯だ裁判所へ行て見る心か知らん、 眞に全く運を天に任すと云ふより外に彼れの量見は出來て居ない 彼れは是より徒《いた》づらに市中を徘徊した、多分裁判所を探してだらう、 探したとて、知らぬ土地で分る筈が無い、誰か人の問へば好いのに、 彼れは誰にも問はぬ、隨分問ふ可き人に逢ふのに、 嚴重に口を塞いで居るは、心が進まぬのだらうか、 此樣にして天運を待つのだらうか、けれど遂に問うた 其れは充分に四邊《あたり》を見廻した上で、提灯を提げて來た一人の老人に向ひ 『此地の裁判所は何處でせう』と、問はれた人は親切だ 『裁判所は今普請中で、假に市廳の樓上を充《あ》て[誤?:充《あて》て]あるのです、 市廳は丁度私しの行く方角ですから一緒にお出なさい』と答へた、 市長は此人の後に就き、無言で歩んだが、幾丁か行くと、 二階の窓に燈火《あかり》を指して居る大きな建物の前に出た、 其の人は告げた『アヽ貴方の仕合せです、未だ裁判が開けて居ます、 アレ二階の燈《あかり》を御覽なさい、那《あ》れが假の法廷です』と云ひ、 更に『貴方は證人ですか傍聽ですか』と問ふた、市長は口籠りつゝ 『ナニ辯護士に用事が有るのです』と、聞えぬほどの低い聲で答へた、 是で見ると彼れは自分が茲《こゝ》へ來た事を誰にも知られ度く無いと見える、 自首するならば直に世間中へ廣がるのに、今更ら何を氣兼するのだらう。 其人は又云ふた『アヽ辯護士の溜りならば眞中の階段を上ッて行けば好いのです』 彼れは言葉に從ッて内に入り眞中の階段を登ッたが、上の廊下で辯護士らしい服を着けた人に逢ッた、 直に問ふた、單に『未だ終りませんか』と、辯護士は何事と問返しもせずに『イヽエ終りました』 『終りました』の一言が市長の耳には何の樣に響いたゞらう、 彼れは思はずも『エ、エ』と叫んだ 早や裁判が終ッたのか、馬十郎は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の身代りとは成て了ッたのか、 辯護士は此叫び聲の鋭さに氣が附て『ヤ、貴方は被告の親戚か何かですか』 市長『イヽエ、誰にも關係は無いのです、シテ宣告も濟みましたか』 辯護士『無論です、何も宣告だけを延期する謂《いは》れが有りませんもの』 市長『矢ッ張り其れでは??重懲役に』辯護士『重懲役終身に』 廊下の燈光《あかり》が暗くて此時能く市長の顏の見えなんだのは幸ひである、 彼れは咽喉《のど》をでも〆められた樣な聲で、殆ど聞取り兼るほど低く 『愈《いよい》よ當人に違ひ無い……イヤ人違ひで無いと定まりまして』 辯護士は蒼蝿《うる》さげに『ナニ人違で有るの無いのと云ふ問題はから無いのです、 極明白な事件で、陪審員とても唯だ豫謀の有つたと云ふ點に不同意を唱《とな》へた丈です、 何しろ彼女が自分の兒を殺したのは確實ですから、故殺《こさつ》として終身です』 何だか話が齟齬して居る樣でも有る、市長『エ、彼の女、では女ですか』 辯護士『無論です、貧家の妻が自分の兒を殺したのです、 私しの辯護を托されたのは此事件丈ですが、貴方は別の件をお尋ねですか』 市長は曖昧に『イヽエ、 けれど終つたなら何故 那《あ》の室《へや》に猶だ燈明《あかり》が點《つ》いて居ますか』 辯護士『那《あ》れは其の次に今から二時間ほど前に開廷した別の件です』 市長『エ、別の件、別の件、何の樣な』辯護士『是も極簡單ですよ、 詰らぬ窃盗の類でせう、何でも前科者だと云ふ事で、何とか云ふ六かしい名の爺ですが、 其顏を見た丈で、有罪と分ッて居ます』此件だ、此件だ、此件が我が身代りたる馬十郎の公判に極て居る、 市長『傍聽が出來ませうか』辯護士『イヤ満員の樣ですから、 誰か出て來る人の有るを待て其人の代りに入る外は有ますまい』 市長『何のの戸口から入りますか』辯護士『彼許《あそこ》の最も廣い戸口から』と、 言捨て辯護士は去ッた、僅《わづか》の間の問答では有たけれど、 市長は辯護士の一語一語に火水の責苦を受ける樣に感じた、 爾して最後に、未だ馬十郎の公判が終らずにあることを合點し得て、 深い/\息を吐いた、けれど其の息が安心の爲に出たか當惑の爲に出たかは自分の心にも分らぬ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十二 合議室 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 急ぎ急いで來た甲斐が有ッた、先づ馬十郎の公判は間に合ッた 間に合たのが嬉しいのか悲しいのか、市長は自分で自分の心が分らぬ、 間に合たからとて直に傍聽席へ行かうともせぬ、 行たとて傍聽席は塞がッて居ると今しも辯護士が告げた、 誰か中から出て來る人を待ち其人の代りとして入込む許りだと是も辯護士の忠告であッた、 爾すれば益《ますま》す彼は早く、傍聽席の出入口に行き、 中から來る人を見逃さじとて見張て居ねば成らぬ筈だ けれど彼れは爾うはせぬ、猶だ廊下や辯護士溜りの邊を徘徊して、 徒《いたづ》らに人の噂などを聞て居る、勿論裁判所の事ばかりだ、 彼は其等の言葉を聞集めて兎も角も馬十郎なる者が、 果物を盗んだと云ふ本の嫌疑は證據の無い爲に晴れたけれど、 餘分に起ッた前科者と云ふ嫌疑の爲に殆ど遁れ難い場合に迫て居る事が分ッた、 既に證人の陳述や檢事の論告も一通りは濟で、是から辯護士の辯論に移ると云ふ所らしい 是だけ分れば最う此上の聞合せる箇條は無い、直に傍聽席へ這入らぬと云ふ譯に行かぬ、 彼れは詮方なく/\と云ふ樣で傍聽席の入口い進んだ、 茲《こゝ》には警吏が立て居る、彼れは問ふた『入る事は出來ませんか』 警吏『出來ません』市長『誰れか出て來る人は無いでせうか』 警吏『有りません、今休憩が濟で戸を閉ぢた所ですから、 最う裁判の終るまで此戸は開きません』市長『傍聽席に空席は無いのですか』 市長『ハイ一席も無いのです』扨《さて》は斯く傍聽席の満員と爲て居るのが、 天の助けでは有るまいかと又思ふた、 天の助けを頼む外に助かる可き道が無いのだから自然に心が其の方へ向くのである、 彼れは歎息して去らうとした、警吏は又云ふた『お待ち成さいよ、 裁判官の席の背後《うしろ》に、特別席が三個だけ空て居ます、 けれど是は公職を持た人の爲に、裁判官が殊更に取除けて有るのですから、 官吏で無い人は仕方が無いのです』扨《さて》は官吏ならば入られるのだ、 市長は官吏では有るまいか、市長の職は公職では有るまいか 警吏は此人が甚く屈托して居る状《さま》を見て 『官名を肩書にした名刺を裁判官に送れば多分入れて呉れませうけれど』 誰かの名刺でも貰ッて來いとの意味が分かる、 けれど市長は其意味を悟り得ぬのか、充分に聞取らぬ振で茲《こゝ》を去た、 爾して悄々《すご/\》と本來た廊下へ引返し、階段を下り初めた、 アヽ彼れは、非常な思ひで數十里の道を故々《わざ/\》來て、 今は傍聽席の塞がッて居るとしても、必ずしも入込む道の無いで無い事は警吏の言葉に分ッて居る、 彼れは一段下りては考へ、考へては又下り、終に階段の中程へ來た、 茲《こゝ》から降る道が左右二筋に分れて居る、彼れは右にも左にも降り得ぬ、 暫く欄干に[馮/几;u51F4]《もた》れて、前額《ひたひ》に手を當てたが、 前額《ひたひ》には脂が漲《みなぎ》ッて居る、彼れは靜に紙入を取出した、 其の中から名刺《なふだ》を出した、爾して其の表面《おもて》へ鉛筆で何やらん認《したゝ》めた、 何うしても彼れは立去り得ぬのだ、裁判官に名刺《なふだ》を送ッて、 特別席に入れて貰ふ氣に成たのだ 此 名刺《なふだ》を以て再び彼れは警吏の前に引返した、 警吏は彼れを待たせて置き、内に入て名刺を裁判官に取次だが、 裁判官は其の表面を見て聊か意外の思を爲した容子である、 ーモント、リウルーの市長 斑井《まだらゐ》、此名は數年來、 徳望の附牒として此土地へまで聞えて居て、誰とて尊敬せぬ者は無い、 裁判官は此人の來臨を得て、職務の上に光榮を加へた樣に感じた、 卓子《てーぶる》の影から其 名刺《なふだ》を同僚の手から手に廻し、 終に檢察官の手にまで傳はッた、孰《いづ》れも恭々《うや/\》しく點頭《うなづ》く樣に見えた、 頓《やが》て裁判官は自分の名刺《なふだ》を出し、 其表に『敬意を以て』と記入し警吏に渡した、警吏は之を持て來て市長に渡し、 謹んで『御案内致しませう』と請《しやう》じた、 市長の運命は是で定まッた、最う躊躇する餘地が無い 彼れは警吏に隨《したが》つて中に入た、警吏は彼れを横手の方へ導いて又廊下を過ぎ戸を開き、 餘り廣からぬ一室へ入れ『茲《こゝ》が裁判官の合議室です、 此 室《へや》の戸を開けば裁判官の背後《うしろ》へ出られます』 と言ひ一禮して立去ッた、市長は合議室の中に唯一人立ッた、 見廻せば室《へや》の眞中に卓子《てーぶる》が有て、其上に二個の燭臺を立て、 [臘,月@虫;u881F]燭《らふそく》の火が低く燃て居る、是れ此 室《へや》で、 幾多の人の運命が天秤に掛けられて決せられるのだ、 其の事務に能く似合ふ樣の室《へや》の中は莊重で且つ何と無く陰氣である、 彼れ自身も今は運命を天秤に掛られて居る者では有るまいか、 天秤の傾く所は死か活か、彼れ自らも知らぬけれど、之を思ふと、 急に總身が剛《こは》ばッて、彼れは進みも退きも得せぬ、 若し進んで戸を開けば、今彼れの身代は死活の境に彷徨《さまよ》ふて居る公判廷である、 彼れ若し耳を澄まして聞けば戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ彼れの名も聞えるだらう、 彼れの舊惡を數へ擧ぐる聲も、引續きて聞えるに違ひ無い、更に彼れの身代りに立て、 言開きの立たぬ爲め絶望に呻吟する馬十郎の聲が聞ゆる樣な事も有れば彼れの耳には何の樣に響くだらう 裁判の恐ろしさは、彼れが今も猶ほ忘れ得ぬ所である、 唯だ戸一枚を隔てゝ其恐ろしい裁判が進行して居るかと思ふと彼れは又氣が挫《くぢ》けた、 イヤ挫《くぢ》けたでは無い、餘りの恐しさに何も彼も打忘れた、 彼れは最う考へる事も出來ぬ、彼れは昨夜から二十四時間の餘り、 一片《ひときれ》の麪《ぱん》も喰べず、全く身體を榮養する道を絶て、 而かも心を旋風《つむじかぜ》の如くに掻亂して居る、 是れが人間の堪へられる事では無い、彼れは何の感じも無くなッた樣に、 室《へや》の一方に立たまゝ、只だ蹙《すく》んで居たが、良《やゝ》あッて、 目に着いたのは、公判廷へ入行く所に在る戸の引手である、 手擦れて光る眞鍮の其色が、異樣に眼《まなこ》を射て、 彼れの痺れ掛けた神經を攪擾《かきま》ぜた、彼れは漸《やうや》く我に復《かへ》る心地のすると共に、 先に立つのは恐れである、此の引手を一つ廻せば、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の裁判せられる所だと、 唯だ斯う思ふ一念の恐ろしさに、忽ち身を躍らせて、初に入て來た戸の方に振向き、 之を開いて元の廊下へ逃出した、彼れの此擧動は殆ど發狂の間際と云ふ者では無からうか [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十三 傍聽席 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 運命とは何であらう、目には見えぬけれど、目に見える繩の樣に、 人を金縛りに縛ッて了ふ、一旦之れに縛られたら、自分で自分の心に從ふ事が出來ぬ、 唯だ運命の爲すが儘に弄《もてあそ》ばれる許りだ、 今彼れ斑井《まだらゐ》市長の如きが即ち運命に縛られて居るのだ、 十重《とへ》にも二十重《はたへ》にも 彼れは合議室から公判廷に入る戸一枚を開く事が出來ぬ、 開かうとして却て逃去ッた、爾して又も廊下を、狂ふ獸の如くに馳回ッた、 此樣に逃たとて、逃果《にげおほ》せる事は出來ぬ、 矢張り運命に縛られて居る、馳せて、馳せて、殆ど根の盡きたのは稍《や》や半時も經た後である、 彼れは冷たい壁に[馮/几;u51F4]《もた》れて聞《こゑ》を出さずに叫んで、 悔しかッた、自分の身に降降る運命の餘り邪慳なるを恨んだ、 けれど其の邪慳に從ふ外の何の道も無い、彼れは身も心も全く頽《くづ》れた、 力が盡きて、悄《しよ》げ返ッて、今度は蹌踉《よろめ》きつゝ又も合議室の方へ引返した、 宛《あたか》も警官に抵抗して、力盡きて遂に捕へられた罪人が餘儀無く引立てられて行く樣な者である、 彼れは運命に抵抗したのだ、到頭力が盡きたのだ、 爾して厭々《いや/\》引立られて行くのだ、運命の手は、 人の心の中に入て技をするのだから、目には見えぬが力が強い、 本統に恐る可しだ 再び合議室に彼れは入た、今度は最う躊躇せぬ筈であるけれど、 彼の眞鍮の引手が目に光ると共に躊躇した、身震した、 此の引手に手を掛けるのが、即ち地獄の戸を開くのだと思ふと、 何うしても手が延びぬ、宛《あたか》も狼に睨まれた小羊が、 狼の目から眼《まなこ》を離し得ぬ如く、彼れは引手を見詰めたまゝで立た、 斯の如くにして又幾時を空く過す事やらと氣遣はれたが、 其中に恐れをも何事をも忘れた如く引手に手を掛た、 運命が彼れを驅るのだらう、恐らくは彼れは自分が引手を握ッた事をさへ知ぬだらう、 斯くて其戸を引開けて中に入た、中は廣い公判廷である、 最う茲《こゝ》に入る以上は悶《もが》いたとて仕方が無い、 實は悶《もが》く餘地も無いのだ 彼れは我が背後の戸を〆めて後、初めて我身が最後の修羅場に入たことに氣附いた、 彼れの身は機械の如しだ、心あッて動くでは無く、動く外は無い樣に推附けられて動くのだ、 彼れは立たまま傍聽席を眺めたが、滿目唯だ靄《もや》の籠めた樣に、 萬耳《まんじ》唯だ響に埋められた樣に、視ても見えぬ、聽ても聞えぬ、 渾々とし漠々として暗《やみ》の樣な景色が横はるのみだ、 立つ中に靄《もや》は次第に人の顏と爲り、響は個々の聲と爲ッた、 アヽ判事も居る、檢事も居る、辯護士も警吏も傍聽人も、 居るは居るけれど、單に總體が一團と爲て人間の最も無情な法律と云ふ者と、 天道の最も嚴格な裁判と云ふ者を、實物の上に描き出して居る、 是れほどの物凄い感動が又と有らうか、彼れは又機械的に腰を卸し、 見廻し、又見廻したが、此の總體の大感動が、場中の唯だ一點に集注して居る、 判事の下、横木の前に、左右から二個《ふたり》の憲兵に夾《はさ》まれて一人の男が立ッて居る、 満場の中心は是だ 此の男が彼の男である 市長は此の男を見はせぬ、此の男が直に市長の目に見えた、 市長の目は前以て此男の立つ所を知て居たかの樣に一直線に其の所を射て其の所に定ッた、 市長は他人を見る心地がせぬ、自分で自分が裁判官の前に引出されて居るを見る樣だ、 或《な》るほど[誤:成るほど]姿と容《かたち》とが自分と同じ事である、 但し今の自分は富貴の爲に立派である、彼れは窶《やつ》れて居る、 自分は若やいで居る、彼れは老て居る、自分は髪の毛も撫附けて居るけれど、 蓬々《ぼう/\》たる彼れの頭髪は自分が艱難した頃と何の相違も無い、 彼れの垢づきたる襤褸《ぼろ》の着物は、今より八年前、 其身が十有九年の獄中で深く心に刻み込だ人間に對する恨みと憎みとを以てダインの市《まち》に入込み、 宿屋の戸を叩いた時と殆ど同じ者である 斯う思ふと市長の身には、ゾッとする樣な厭《いま》はしい念が頭の上から足の爪先まで滿渡ッて、 アァ此身は再び此の男と同じ境遇に立返らねば成らぬだらうか 此の男は最早や六十歳以上にも見える、顏が粗末で、痴鈍で、 爾して痛く恐れを帶て居る、人間の堪得る境遇とは思はれぬ 裁判官は斑井《まだらゐ》市長の入て來たを知つて、恭々《うや/\》しく默禮した、 中に檢察官は一兩度ファメールへ出張して市長と言葉をも交へた事が有る、 恭々《うや/\》しさの中に、是れ見よがしの親さをも加味して默禮した、 市長の方は是等の歡迎が充分には心に移らず、何事も唯だ夢やら現《うつゝ》やら判り兼る樣に感じた 是れ夢か、是れ現《うつゝ》か、裁判官の状《さま》、書記の状《さま》、 傍聽人一同が物知り度げに被告の顏を差窺《さしのぞ》く状《さま》、 總て其身が昔し引出された法廷の景状《ありさま》の通りである、 アヽ夢で無い、自分の身が現實に此の景状《ありさま》に立返らねば成らぬのだ、 自分の罪を自首する爲に此裁判所へ出たのだから、 再び法廷に立つ外は無い、法廷に立つ其次は宣告されるのだ、 其次は牢に入るのだ、其次は、アヽ其次は、次第に心の移り行くに連れ、 殆ど全く忘れ掛けて居た二十七年前より以來の物事が面《まのあ》たり見る樣に目の前に浮び出た、 彼れは見まじとて目を閉ぢて、爾して本心の底の底から打叫んだ 『決して、決して』と 決してとは、決して再び此の景状《ありさま》には立返らぬと決心したのである、 何うして其の恐ろしい境涯へ、此年に成て立返る事が出來る者か、決して、決して、 其れは出來ぬ、自首と云ふ事は最う根こそげ取消した とは云へ彼れは物狂ほしい程に心が苦しい、 彼れの目の前には彼れの自身とも云ふ可き者が彼れの恐れる其境涯に立て居て、 其の境涯へ押陷《おしおと》される所である、其者は彼れの本名を以て、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と呼ばれて居る、自分の生涯の最暗黒な歴史が自分の影身に依り、 再び實演せらるゝとは、是れが運命の惡戯《いたづら》と云ふ者だらうか、 惡戯《いたづら》としては又餘りに無情である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十四 傍聽席 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 思出すさへ恐ろしい樣な慘澹たる自分の履歴を、 目の前に繰返して見せらるゝとは眞に運命の惡戯《わるふざ》けである、 自分の通りの戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が、昔し自分の立た通りに裁判官の前に立ち、 自分を論告した通りの檢察官が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の罪を數へて居る、 二十七年前の事が夢で今の此裁判が眞事《まこと》だらうか、 今が夢で昔のが眞事《まこと》だらうか、イヤ今のも昔のも眞事《まこと》である、 唯だ違ッて居る所は、昔し自分の裁判せられた時には、 判事長の背後《うしろ》に置物が無かッたのに、 今此の法廷には判事長の背後《うしろ》の棚に十字架が載て居る アヽ彼の時の裁判には神が照臨ましまさなんだ、罪の無い身を罪するとは、 世に神は無いものかと疑つたが、今の此の裁判には確に神が照臨して居たまふのだ、 人の心の底をまで見破ッて、明《あきらか》に罪の有る者と無い者とを分ち給ふに違ひ無い 市長は昔し戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が彌里耳《みりいる》僧正の寝室に忍び入たとき、 暖爐《すとーぶ》の棚の上に丁度此樣な十字架の載て居た事をさへ思ひ出した、 彼の十字架は、其の兩の手を差延べて、間違ッた領見を憐む樣に見えたが、 今此の十字架も、間違ッた領見の人に手を差延べて居るのでは有るまいか、 市長は自《おのづ》から頭《かうべ》が下ッた、前にも嚴《いか》めしい裁判の状《さま》を見、 背後《うしろ》には此十字架を控へて、彼れは再び頭《かうべ》を上げる事が出來ぬ、 殆ど何人にも我が顏を見られまじとする如く小くなッて人の底に沈んだ けれど裁判の恐ろしい景状《ありさま》が一々我が心に襲ひ入る事を防ぎ得ぬ、 彼れは辯護士の辯論をも首《かうべ》を垂れて聞た、之に對する檢察官の駁論をも聞た、 首《かうべ》を垂れ目を閉ぢて居る丈に、却て其等の進行の容子が彌《いや》が上にも物凄く感ぜられる、 時々は耐《こら》へかねて顏を上げもするけれど、 其度に我が身代に立て居る被告の見すぼらしい淺ましい容子も裁判官の嚴《いか》めしい顏も、 其の背後の十字架も、我が爲に特に其の著るしさを増す樣に思はれる 其中に裁判長の聲として、被告に『何か申立る事は無いか』と問ひ、 被告が何も答へぬ爲め、更に念を推して『第一に汝は果物を盗んだか否《いなや》、 第三[誤?:第二]に汝は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》であるか否《いなや》を答へよ』と言添へる聲も聞えた 被告は卒然と聲を發した、私しは鍛冶屋の職人です、 巴里《ぱりー》のバルーブと云ふ馬車屋の長い事、雇はれて居ましたが取る年で仕事の出來ぬ爲め放免せられ、 其後は流浪何樣の身の上です、日々の食ふ物が無い爲に、 途中に落て居た枝の儘の果物を拾ひましたけれど、 人の垣を越え塀を破り、庭や畑に忍び込んで、樹を荒したり盗をする樣な者では有りません、 人に雇はれて世を渡るのです、巴里《ぱりー》の馬車屋バールブ氏へ問合せて下されば、 私しが前科者で無い事は分りますのに、お役人の言ふには、 其の馬車屋は破産して主人バルーブ氏は行衛《ゆくゑ》が知れぬと云ふ事です、 其れでは最う私しの身の燈明《あかり》を立てゝ呉れる人は無いのです、 私しが自分で前科者で無いと云たとて無益です、檢察官のお言葉では、 其方はフエプロル地方に生れ、オーバルに居る姉の家に育ッたのだらうと仰せられます、 自分で誰の兒だか、何所《どこ》に育ッたか知りません、 私しの知らぬ身の上を檢察官は能く御存じです、私しを、 其方は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だと仰せられます、 或は私しには其樣な名が有るかも知れませんけれど、 誰に名を附けて貰ッた覺えも無く、自分で自分の戸籍を洗ッた事も無いのです、 小さい時は「此餓鬼」と人に呼ばれ、年取てからは「此の爺《ぢい》」と云はれます、 何れが本統の名だか分りませんけれど、自分では馬十郎だと思ッて居ますが、 若し何方《どつち》にか取極めねば成らぬのなら、何うかお上《かみ》で、 篤《とく》とお調《とりしら》べの上、何方《どつち》にでも、ヘイ、 宜《よろ》しい方へお定めを願ひます』 此樣な憐む可き者が又と有らうか、猶ほ其上に此者を、 自分の身代りとして、自分で思ふさへ毛髪の逆立つ樣な、 重懲役の牢の中へ推落《おしおと》して濟むだらうか、 市長は首《かうべ》を垂れたまゝ動きもせぬ、 誰も氣が附かぬけれど殆ど活て居るか死で居るか分らぬ程だ、 檢察官は此の異様なる陳述を聞き、 自分の研き立てた雄辯の結果も幾等か掻消される樣に感じたらしい、 直《たゞち》に立上ッて判事長に向ひ『裁判官閣下、被告は愚人の眞似をして、 何も彼も、怪げな言葉を以て言消さうとする状《さま》、實に驚く可きほど巧妙です、 斯く犯罪の上に恐る可き天才を以て居る所が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》たる所以だらうと思はれます、 彼れに非ずして誰か斯うまで明白な罪に對して猶ほ人心を惑さんと勉めませう、 本官は茲《こゝ》に再び彼の四人の證人を召出《めしだ》し、 更《あらた》めて被告の顏を見せしむる事を請求します』 再び四人の證人が呼出されるのだ、幾等幾十の證人よりも唯だ一人、 動かす可からざる大證人の此の場中に潜めることを誰れか知るべき [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十五 傍聽席 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 馬十郎は馬十郎だ、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》では無い、 けれど裁判の力と云ふ者は豪《えら》い者だ、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》で無い者を戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》にして了はふとして居るのだ、 檢事が呼出したいと云た四人の證人は即ち馬十郎を戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》にして了ふ道具の樣な者だ 判事長は同意したらしい『併し念の爲に申ますが證人四人のうち巡査部長 蛇兵太《じやびやうた》は先刻證言を濟ませて後、 公用が有るからと云て、屆出の上に既に退廷しました、 今は殘る三人しか呼出す事が出來ません、檢察官は立て『では三人を呼出して戴きませう、 ですが私しは、茲《こゝ》に陪審員諸君の記憶を新《あらた》にする爲め、 先刻 蛇兵太《じやびやうた》の陳述した證言を繰返します、 彼れは明白に言ひました、此の馬十郎と自稱する被告は、馬十郎と云ふ名では無く、 ツーロンの獄で五六回も脱走を企てた刑期十九年の囚人 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》です、 出獄の後に直《たゞち》に追剥と爲たのみならず、 ダインの高僧の家へも忍び入つた疑ひが有ります、 私しは此被告に於て其の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の顏を明《あきら》かに認めますと、 サア蛇兵太《じやびやうた》は此通りを申したのです、 此の證言が殘て居る以上は再び彼れを呼出さずとも遺憾は無いと存じます』 證人の一人が斯く迄に云たなら、今しも被告自身の言立てし事は何だか嘘の樣にも思はれる、 爾すれば、成るほど此被告が假忘《とぼ》けた樣な事を云ふは、 横着か知らん、外に言拔けの道が無い爲め那《あ》の樣な事を云ふのか知らんと、 早や聞く人一般の心に疑ひの曇が湧た、何でも人と云ふ者は新《あらた》に聞く方の言葉を餘計に信ずるのだ 之れに引続き、三人の中の一人なる武《ぶ》ラバットと云ふ者が呼入れられた、 是は馬十郎が留置《とめお》かれた未決監の押丁《あふてい》で其の昔し五年間も戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と同じ牢に居たと云ふのだ、 判事長は之に向ひ『證人 武《ぶ》ラバットよ汝は曾《かつ》て破廉耻の罪を犯した爲め、 今は法廷に於て正式に宣誓する資格が無い、けれど天は猶ほ、 憐む可き汝の心中に良心を殘して有るだらう、 汝は其良心に誓ひ、誠實に自分の信ずる所を申立てよ、汝は此被告を何物と認るのか』 嚴《おごそ》かな言葉である、之に應じて證言する人の言葉に、 勿論 僞《いつは》りの有る筈は無い、武《ぶ》ラバットは、 恭々《うや/\》しくして『ハイ私しは宣誓する資格の無いのを深く耻ぢ且悲みます、 けれど良心に誓ッて、決して僞《いつは》りは認めません、 誰よりも先に此被告を戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と看破たのは私しです、 彼れはツーロンの獄に居た頃より餘ほど年を取つて居ます、 且つは心も耄けて居る樣ですけれど、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》自身に相違無いのです、 彼れは獄に居る時から陰氣な欝《ふさ》ぎ込んだ氣質で有りました』 宣誓の出來ぬだけに却つて其の言葉が宣誓をした證人の言葉よりも人を感ぜしめた、 愈《いよい》よ被告は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に相違無い樣に見えて來た、 次ぎに呼入られたのは今もツーロンの獄に居る終身囚だ、 特に此事件の爲に呼出されたのだ、名を仙《せん》ニルドーと云ふのだ、 彼れも同じ樣に良心に誓ッた上、被告馬十郎の顏をば、 親しげに眺め『私しとは五年の間、同じ鎖に繋がれて居た戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》です、 切るに切られぬ間柄で有りましたもの何で忘れますものか』と云ひ、 更らに被告に向ッて『オイ兄弟、最う一度歸て來ねえ、 今度はお前も何うせ終身だらうから久し振で、同じ鎖りを引張り合て稼ぐのも乙だぜ』と言足した、 被告馬十郎は唯だ呆れた状《さま》で『驚いた』と呟いた 最後には、之もツーロンに居て今は或田舍で牧場《まきば》の番人を勤めて居る古《こ》シエベルと云ふ男だ。 同じ樣に誓はせられて同じ樣に被告の顏を見、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》です、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》です、背《せな》の力の恐ろしい強い奴ですよ』 と證言した、被告は、又も呆れた樣に『驚いたなア』と獨語した 武《ぶ》ラバット、仙《せん》ニルドー、古《こ》シヱベル、此三人の證言が揃ふて、 其上に是等の囚人又は前科者とは違ひ巡査部長と云ふ嚴《いか》めしい官名の有る蛇兵太《じやびやうた》の言葉さへ一致して居る、 傍聽席には三人の證言が終る度に、呟き聲が波に樣に傳はつた、 是れは最早や被告の辯解の道が絶たと思ッて人々が細語《さゝや》き合ふ聲なんだ、 全く被告は辯解の道が絶えた、是だけの言葉が揃ッて、 何で一人で言拔けられる者か、何れほど巧妙な辯解法を用ひたとて最う無益である 判事長は被告に向ッた『其方は三證人の申立を何と聞た、之に對して陳辯の辭が有るか』 被告は相變らず呆れた状《さま》で『私しは申します、ハイ唯だ驚きました』、 憐れや彼れの言葉は是だけである、驚いた丈けの一事で、 何で三證人の言葉が揉み消せやう 傍聽席には再び細語《さゝや》きの波が起り今度は陪審員の席にまで傳はつた、 陪審員が既に心を動かした上は最う馬十郎の運は盡きたのだ、決したのだ、 彼れは戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》として終身の刑に處せられたのだ、 誠の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》ば何うしたのだらう、 聲も無く形も見えぬ、此席には居ないのか、 憐れむ可き此 老人《としより》を身代りに立て、 逃去るとて自分の安全を喜んで居るだらうか、 此馬十郎が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》として刑に服する以上は彼れ誠の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は最う何所《どこ》までも無難である、 判事は徐《おもむろ》に憲兵に向ひ 『場中を靜におさせ成さい、是にて本官は本件の概要を總括します』と云ふた、 サア愈《いよい》よ公判が終るのだ、馬十郎の最後が來たのだ、 此の時である、此の危急な一髪の際である、 殆ど天から降る聲の樣に、何處からと無く凄まじい聲が滿場に響いた 何者、何事、何の處、滿場は唯だ驚いた、聲は確に判事の背後《うしろ》に在る特別席から發したのだ 『證人の武《ぶ》ラバットよ、仙《せん》ニルドーよ、古《こ》シエベルよ、 此の處を見よ、此の顏を見よ』列帛《れつはく》の叫び聲とは此の悲壯な聲を云ふのだらう、 裁判官も檢察官も、陪審員も、辯護士も電氣の掛つた樣に振ひ立つて、聲の來る、本を見た、 個は如何に其の處はモント、リウルの市長 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》が冬枯れた寒山《かんざん》の如くに峭立《しようりつ》して叫んで居るのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十六 傍聽席 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 人の心の根底には不思議な力が籠つて居る、其れは『善』である、 是れが則ち『魂』と云ふ者なんだらう 根底に『善』の力の無い人は本統の惡人だ、魂までも腐つて居るのだ、 斑井《まだらゐ》市長は何方《どつち》で有らう、彼れは曾《かつ》て 『魂を入替へよ』と聖僧に説き諭《さと》された、自分でも其氣に成つた、 眞に魂を入れ替た、昔の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》なら知らぬ事、 今の斑井《まだらゐ》市長なら、眞逆《まさか》に心の底の善の力に勝つ事は出來ぬ 彼れは廿四年間、種々《さま/\゛》に考へて居たけれど、 遂に愈《いよい》よ馬十郎が自分の身代に爲て了ふと云ふ最後の場合に至り、 最早や知らぬ顏で看過《みすご》すことが出來無くなつた、 心の底から自分より強い力が、卒然と湧て來て、 殆ど我れ知らずに立上り、我れ知らずに叫んで、我れ知らずに證人等の名を呼び 『茲《こゝ》を見よ、此顏を見よ』と云た、斯うなつては最う彼れは、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》で無い、斑井《まだらゐ》市長でも無い、 善の化身だ、善其者だ 何ぞ彼れの神々として物凄き、何ぞ彼れの姿の超然として人間に異れるや、 吁《あゝ》彼れの頭《かしら》は霜より白き白髪《しらが》のみと爲て居る、 今朝モントリイルを出發する時に多少の白髪《しらが》は交ても大體は黒い髪で有たのに、 心の中の苦みは、少しの間に彼れの毛の色を奪ッて了ッた、 能く昔から云ふ事だ、一夜の中に白髪《しらが》になると、 彼れは實に其の一例だ、顏は人間を離れて青く、頭《かしら》は鶴の毛の樣に白い、 爾して手には帽子を脱で持ち、首《かうべ》を前に突出して立て居る 滿場の人は只だ彼れの方に振向た、 けれど未だ此の神々しい此の物凄い此の白頭の一紳士が今の聲を發したのかと怪む人も有り、 又怪まぬ人とても何と無く此の人の大決心に打たれた状《さま》で、 一語の囁き聲をも發し得ぬ、眞に身を忘れる迄の大決心は人を唖の樣にする力が有る、 判事長とても、檢事とても、未だ何の事だか合點が行かず、 何とするやの分別も定まらぬ、空しく目と目を見合すのみだ 其間に、斑井《まだらゐ》市長は、徐《おもむ》ろに自分の席から離れ、 彼の三證人の控へて居る被告席の傍へ降りて行た、 誰も彼れも遮る者が無い、猛獣の前に枯草の自《おのづ》から開く如く道が開いた、 殆ど憲兵さへも呆氣に捕れて居る、彼れは裁判官の正面、陪審官の前、 被告と證人との傍に立ッて、證人三人に向ッて云た 『貴方がたは此の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の顏を忘れましたか』 三人は氣を呑れて居る、何とも云はずに唯だ首《かうべ》を動した、 無論見知らぬとの意味が其の動かし方に現れて居る、 其中の一人々古《こ》シエベルの如きは軍隊でする樣な最敬禮の姿をした、 市長は續て裁判官と陪審官とに向ひ『陪審員諸君よ。裁判官閣下よ、 此れなる被告を放免して、何うか私しをお縛り下さい、 貴方がたの求むるは此の被告では有りません、私です、私しが誠の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》です』 法廷の靜さは、呼吸する人さへ無いのかと疑はるゝほどである、 萬人一樣に此の斑井《まだらゐ》市長の、此の誠の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の、 崇宏な行ひに壓《あつ》せられたのだ、天然の景色にも崇宏な景色が有る、 繪畫にも崇宏がある、人は眞の崇宏に接しては、 物を云ふ事も出來ぬ、胸も迫ッて聲も出ぬ、唯だ感に打たれるのだ、 人間の行ひで眞に崇宏と云ふ可きは戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の此の行ひの如きだらう 漸《やうや》くにして判事長の顏色は先づ動き初めた、彼れは裁判と云ふ重い職責に對しても、 何とか云はぬ譯に行かぬ、彼れは戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の顏をつく/\゛見た、 彼れは瞋《いか》る可き筈である、爾して叱り附く可き筈である、 けれど彼れの顏には嗔《いか》りの色はなく、深い深い憫《あはれ》みの色が動いた、 彼れは更に同席判事の顏を見、次に檢事の顏を見、 最後に傍聽者一同に向つて、柔かに『若し傍聽席に醫師のお方は有りませんか』と問ふた、 アヽ彼れは、斑井《まだらゐ》市長が發狂したのだと認めて居る、 勿論彼れの地位として此の場合に斯う認るより外に認め方が無い、 直に檢事も立上つて『陪審員諸君、私しは計らぬ事故の爲め、 法廷が事務の進行を妨げられた事を悲みます、 然れども諸君は今 茲《こゝ》に現れた此方が斑井《まだらゐ》市長だと云ふ事を御存じでせう、 斑井《まだらゐ》市長を知らずとも市長の徳行名望は兼てお聞き及びの事でせう、 法廷を妨ぐる者には其れ/\゛の處分が有りますけれども、 此の不幸な紳士、自分で自《みづか》ら何事を爲しつゝ有るやを感じ得ずして、 斯かる過ちに陷る不幸な紳士を、私しは通常の場合と同一視するに忍びません、 判事長閣下と同じく私しも切に望みます若し傍聽席に醫師が居合せば、 然る可く此の不幸な紳士に手當して其の旅館へ送り屆けるまで力を假《か》して頂き度いのです、 全く檢事も、發狂と認むる外は無いと見える、けれど戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は此言葉をも遮ッた、 皆まで言はさずに彼れは云た、私しは深く方々の厚意を謝します、 けれど此の斑井《まだらゐ》市長、イヤ此の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は發狂して居るのでは有りません、 醫師のお手當に及びません、篤《とく》と私しの云ふ所をお聽き下さらば發狂で無いことが分ります』 彼れの聲は先程よりも落着て居る、けれど先程よりも力がある [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十七 傍聽席 五 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 檢事に向ッたまゝ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は語を繼いだ 『貴方がたは非常な過ちに陷らんとして居るのです、 早く之なる被告を放免なさい、私しは自分の義務として打明けねば成りません、 ツーロンに居た戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ不幸な囚人は私しです、 私しです、私し自身の外に此事實を知る者は有りませんけれど、 上《かみ》には天が見張て居ます、私しは自白するのが天への務めです、 何うか私しをお捕へ下さい、併し私しは申します、 力の及ぶ限りは善を行はんと勉めました、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の名を捨てゝ變名を用ひ、 財産を作つて市長にまで取立られ、何うかして善人の仲間に入ふと其れのみ苦心しましたけれど、 其れは到底出來ぬ事だッたと見えます、再び囚人の仲間へ歸らねば成らぬ事に成ました、 私しが何の樣な心で何をしたかは茲《こゝ》で申さずとも分る時には自《おのづ》から分りませうが、 全く私しはダインの高僧の家で盗賊をも働きました、 其の土地の原野で、弱い少年に對し追剥をも致しました、 誠に私しの樣な汚れた者は、天を恨む權利も無く世人《せじん》に忠告する資格も有りませんけれど、 一言 茲《こゝ》に云て置きます、不幸が人を害するのです 監獄が惡人を作るのです、監獄に入れらるる前は、私しは無教育な農夫でした、 監獄が私しを變化したのです、愚《おろか》な田舍者が殘忍な惡人と爲りました、 牢を出で後幸ひに深い信切と寛大な恩愛を受けました爲め、 人間らしい了見に立返る氣に成りましたが、 全く苛酷な取扱ひは人を惡にし慈悲は惡人を感化して善と爲します、 イヤ斯様《かやう》な事を申したとて何の事だかお分りには成りますまいが、 私しの家を捜索して下さらば今以て牢を出た時の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の衣服と、 彼の少年から奪つた其の銀貨とが有ります、是だけで私しを捕縛なさるに充分でせう、 エ、檢事閣下は首《かうべ》をお振り成さる、未だお信じに成りませんか、 其れは餘《あんま》り殘念です、何が何でも馬十郎とやら云ふ之なる被告を罰しては成りませぬ、 アヽ三人の證人まで誠の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》たる私しの顏を認め得ぬとは情け無い、 若し蛇兵太《じやびやうた》が居て呉れゝば、直に認めて呉れますのに』 とて眞に遺憾に堪へぬ如く法廷を見廻した、 其の言葉と其の擧動とに現れた其の擧動とに現れた熱心なる誠意と傷々《いた/\》しい樣な哀れさは唯だ想像が出來るのみだ、 言葉に傳へることは迚《とて》も出來ぬ 見廻したとて蛇兵太《じやびやうた》は居ぬ、 成るほど彼れが居たならば戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の此言葉を信じもするだらう、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は見廻して忽ち思ひ付た樣に三證人に打向ひ 『オヽ武《ぶ》ラバットよ、お前は忘れたのか、己《おれ》と一緒にツーロンの牢に居たとき、 一松格子に染分けた筒袴帛《づぼんつり》を懸けて自慢して居た事を』 武《ぶ》ラバットは驚いて戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の姿を頭から足まで見、 全く恐れに堪へぬ如く戰慄した、次に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は仙《せん》ニルドーに向ひ 『お前は腕に彫てある自分の名前を消す爲に炭の火を浴び、 其の焼け痕《あと》が肩の下に殘つて居るでは無いか』 仙《せん》ニルドーは唯だ呆れて『ハテな、其通りだ』 と呟いた、更に戎《ぢやん》は古《こ》シエベルに向ひ 『お前は皇帝 拿翁《なぽれおん》がカンに上陸した年月日を二の腕に彫附けて居たが今でも一八一五年三月一日の文字が讀めるだらう 確に其の傍に[やまいだれ/黒]子《ほくろ》も有つた、 ドレ左の手の袖口を捲《まく》つてお見せ』古《こ》シエベルは、何にも云はぬ、 小兒の如く柔順に袖口を捲《まく》り示した、 直に憲兵が燈《らんぷ》を持て來て其の腕を檢《あら》ためた、 明《あきら》かに今云た年月日の文字が讀めた、 此時 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は傍聴者に向ひ、 又裁判官に向ひ、又裁判官に向ひ、異樣に笑んだ、 其の笑《ゑみ》の悲しげな状《さま》は、見た人の今も猶ほ眼《まなこ》に殘る心地する所である、 勝誇た笑《ゑみ》で、爾して絶望する笑《ゑみ》であッた、 吁《あゝ》不幸なる戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》よ 彼れは其の笑《ゑみ》と共に云た『全く、御覽の通りです、 私しが本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》です、最う確かです』 茲《こゝ》に至ッては最早や全法廷に判事も無い檢事も無い憲兵も無い、 只だ此の一個の點に集中した眼《まなこ》と、握り詰めた汗と、 高く打つ動悸とのみである、 誰も彼れも自分の位地を忘れて、我れ知らずの熱心な見物人と爲つて了ッた、 全く暗い裁判の上に明煌々の電光《いなづま》が閃《ひら》めき射た樣な者である、 合點すまじとても合點せずには居られぬ、 名譽高く徳高き一世の慈善的事業家 斑井《まだらゐ》市長が前囚人の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》であッたのだ、 罪無き人が自分の身代りと爲て刑せられるのを、 知らぬ顏で視るに忍びず、我が舊惡を名乘る爲めに故々《わざ/\》茲《こゝ》へ出て來たのだ、 此樣な辛ひ悲しい行ひが又と有らうか、此樣な大《おほい》なる犠牲が人を感動せしめずに止む者では無い、 此の暫《しば》しの間の感動は全く人々をして呼吸を繼ぐ事をすら得ざらしめた 頓《やが》て戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が滿場の靜さを破ッた、 『最早や、此上私しは法廷の時間をお妨げ致しません、 未だ捕縛の命令が下りませんから立去ります、 始末して置かねば成らぬ事務も澤山に有りますから、 併し何時《なんどき》でも裁判所の御都合の宜しき時に捕縛して戴きませう、 私しの住所は幾度《いくたび》かお出に成ッた檢事閣下が御存じです』 是れだけの言葉を殘し出口を指して進んだ、誰れ一人、手を出して彼れを遮らとせぬ、 彼れの前には、先ほど其席から下ッて來た時と同じく自《おのづ》から道が開けた、 彼れが戸口まで近くと、誰が開いたか知らぬけれど自《おのづ》から戸が開いた、 大決心の進む處は、到る所無人の境の如きである、 彼れは戸を出んとして又た振向き『私しは謹んで法律の命令を待て居ます』 と云ひ更に傍聽人の方に向ひ『皆樣定めし憐れむ可き奴と思召ませう、 けれど今の私しは此事を隱さうと思案した時の私しに比し羨む可きほど幸福です』 實に爾であらう、爾う無くては叶はぬ、彼れは茲《こゝ》で殆ど大悟徹底した樣な者だ、 最う此後に何の樣な事をしたとて又何の樣な場合に落ちたとて迷ひ怖れる樣な事は無いだらう、 更に彼れは言足した『とは云へ、何方《どつち》かと云へば一切此樣な事柄の起らなんだのを私しは望みます』 全く之が心の儘である、隱しもせぬ飾りもせぬ、 彼は神の退く樣に退いて去ッた 一時間と經ぬうちに、何處か馬の骨、馬十郎は放免された、 彼れは其の自《みづか》ら云た通り『本統に驚いた』世間の人が悉く氣が違ッたのかと怪む樣な顏で彼れは引退がッた、 此の彼れの放免が則ち本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の捕縛さるゝ定めとは爲るのである [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十八 市長の就縛 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は裁判所を出て何所《どこ》へ行たゞらう、 夜の一時は此地を立つ郵便馬車へ、乘合の一席を買切て置たのだから、 無論其夜の中に自分の市へ歸たのだ 既にして夜は明けた、茲《こゝ》は華子の臥して居る病院の一室《ひとま》である、 華子は昨日《きのふ》斑井《まだらゐ》市長が、小雪を引取りに行て呉たのだと思ひ詰めて以來、 病氣の苦さをも忘れた樣に靜になつた、或時は夢現《ゆめうつゝ》の樣に兒守歌を謠ひ、 或時は正體も無く眠りなどし、醫者の気遣つた程の事も無く一夜を過した、 但し目の醒めて居る間は勿論、眠て居る中とても絶間無く咳が出て、 餘り末期の遠く無いことを此咳が知せて居るのでは無からうか 看護婦長を務めて居る信切なる老婦人は華子の目の醒め次第に飲す可き藥の用意に次の間で瓶を拭ひなどして居たが、 自分の背後《うしろ》に人の來た樣に感じたから首《かうべ》を上げて振向て見ると、 青い顏して斑井《まだらゐ》市長が立て居る『オヽ市長樣』と云ひ掛け、 又忽ち驚いて『貴方は先《ま》ア何う成されました、お頭《つむり》の毛が悉く白く成て居ます』 市長は此言葉が心に移らぬ容子である、老婦人は傍《かたは》らの抽出《ひきだし》から、 醫師の診斷に用ふる小い鏡を出し『之で御覽なさいまし』と云ひ、 頭の有樣を寫して見せた、市長は唯だ『成るほど』と云て、異樣に笑んだのみだ、 猶も心に移らぬ樣な状《さま》である、爾して頓《やが》て問ふた『華子は何うしました』 老婦人は直《すぐ》に昨日《きのふ》よりの事を話し『子を思ふ親の愛ほど力の強い者は有りませんよ、 貴方が小雪とやらを連て來て呉れる事をのみ思て、ズッと靜に成て居ます』 市長『私しを逢せて下さい』老婦人『貴方は其娘を連てお歸りに成りましたか』 市長『私しを華子にお逢せ下さい』引立たぬ聲だけれど妙に固い所がある、 老婦人は小雪を連て來たので無い事を察した『可愛相に華子は、 小雪を連て行て見せずば、直《すぐ》にも??何うなるか分りません、 其れに先刻から眠て居る容子ですから、目の醒るまでお待ち成さッては如何ですか』 市長『待て居る時が有りません』とて早く入口の戸に手を掛けた 市長は最う自分の背後《うしろ》に、事に由ると捕吏《とりて》が迫ッて居る事を知つて居る、 斯る際にも猶ほ華子を見廻るとは、何と云ふ優しい心だらう、 併し老婦人は爾まで見拔く筈が無い、唯だ公務の爲に自分の乏しい譯だらうと思ひつゝ 『華子に逢て、小雪の事を何と仰有《おつしや》ります、 直《すぐ》に華子は問ひますが』成るほど何と答へれば好いだらう、 之には少し飽倦《あぐ》んだけれど『サア何とか、其時に返辭が出るでせう』 と云たまゝ中に入た、市長が病人の事に付き此の老婦人の言葉を推切たのは此時が初めてゞある 中に入て見ると果して華子は眠て居る、市長は拔足《ぬきあし》で枕邊《まくらべ》に寄たが、 蟲の樣な細い寢息にも一種の聞くに忍びぬ苦しい響きの有るは肺と云ふ此の病氣の持前で有る、 如何にも最う末期の遠く無いことが分ッて居る、市長の眼《まなこ》には見る中に露が光ッた、 爾して深い嘆息《ためいき》の聲も口に洩れた、アヽ何と云ふ傷《いた》はしい寢顏だらう、 健康《すこやか》でさへ有れば、未だ花の盛とも云はる可き美の絶頂を過ぎもせぬ年頃だのに、 頭の毛は短く、齒は拔けて、頬の肉は抉り取た樣に落ち、 唇にも色が無い、全く社會の邪慳と云ふ事が歴々《あり/\》と刻み附けられて居るのだ、 強て昔しの面影を求むれば、眠ッた目を保護する樣に蔽ふて居る長い緑の睫毛《まつげ》のみである、 此の睫毛《まつげ》の底に、清い泉の樣に安んじ居る眼《まなこ》には何れほどの悲みが籠るか、 何れほどの愛を湛へて居るか、知る人も無い、今は怪み問ふ人さへも無い、 唯だ其の深い愛、深い恨み、深い悲しみを汲み取るのは此の斑井《まだらゐ》市長一人では有るまいか、 華子が千歳《せんざい》の知己が、若し有らば、唯だ此の市長では有るまいか 恍《くわう》として市長は、哀れな此顏に見入た、市長の心は今、 華子の心の中に住で居るだらうか、將《は》た自分の心の中に棲で居るだらうか、自分も無い、華子も無い、 唯だ一種名状す可からざる悲愴の靄《もや》が兩人の間を閉籠めて冥茫《めいばう》として居るのみだ、 人間の意氣は單に斯の如き際に相合《あひがつ》し相通ずるのだ 気の所爲《せゐ》か知らぬけれど、華子の顏には次第に安心の光が現はれ、 紅《くれなゐ》の色さへ幾分か復した樣にも思はれる、 若し此儘で永眠したなら、其身にい取て此上も無い安樂な往生では有るまいか、 恩人の手から可愛い娘を渡された夢の儘で天國に入る事が出來はせぬだらうか、 けれど華子は目を醒した、目を醒して市長の顏を見た、嬉しげに且安心した樣である、 爾して其の唇から出た最初の言葉は『オヤ小雪は』と最《い》と輕く問ふのであつた、 無論恩人が連て來て呉れて居る事と、確《かた》く信じて毛ほども疑ふ念は無いのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 三十九 市長の就縛 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『おや小雪は』との一言は、疑ふて問ふのでは無い、信じて問ふのだ、 故々《わざ/\》市長が小雪を連て來る爲の旅行したのだもの連て來て居ぬ筈は無い、 確に連て來たのだから最う茲《こゝ》へ現れる筈だが、と華子は有難く思ふて促がすのだ 疑ふて問はれるよりも、信じて問はれるが辛《つら》い、市長は返す言葉も出ぬ、 華子は嬉しさに堪へぬ如く、淋しい顏に滿面の笑《ゑみ》を浮め 『本統に貴方は御親切です、昨夜私しは貴方の事ばかり夢に見ました、 貴方の行く先々が目に見える樣な気がしました、貴方の昨夜成さッた事は此上も無い功徳です、 神がお褒めに成りますよ、確に貴方の上へ毫光《ごくわう》が咲いて居りました、 ハイ私しは此目で見ましたよ』妙に言葉が、昨夜アラスの裁判所で自首した一條を指すが如くにも聞える、 是れは無論偶然である、華子は猶も嬉しさに夢中の状《さま》で言葉を續け 『早く小雪を茲《こゝ》へ呼入れて下さいな、何故私しに抱せては下されません』 最う七歳の子だから懷《ふところ》へ入れる事は出來ぬけれど母の心は矢張り自分が分れた時の通りの樣な気がして居る、 斑井《まだらゐ》市長は愈《いよい》よ返辭に困つて居たが、 丁度 此所《こゝ》へ醫師が廻て來た 醫師は一目で樣子を見て取り、直《すぐ》に市長の當惑を救ふた『イヤ華子さん貴女《あなた》の容體が、 ズッと落着かねば小雪を茲《こゝ》へ連れて來る事は出來ません』 華子『では小雪は最う茲《こゝ》へ來て居るのですか』醫師『ハイ』 華子『來て居るなら、唯だ一目で好いのです、何で唯だ一目見せるのさへ惡いのです』 醫師『ソレ其通り貴女《あなた》は気が立て居るのですから、 茲《こゝ》で小雪の顏を見れば又心が騒ぎ出し、容易に熱が退《ひ》かぬ事に成ります、 何しろ熱が減ぜぬ事には、決して小雪に逢せる事は出來ません、 ハイ私しが許しません、其れだから貴女《あなた》は、何でも心を落着けて、 何事をも思はずに、御自分で先づ熱を下げねば成らぬのです』 華子は二言三言爭ふたけれど頑として動かぬ醫師の言葉に終に我を折り 『では心を落着けます、貴方の云ふ通りに能く養生して熱も退《ひ》く樣に致しますから、 何うぞ小雪を見せて下さい』 醫師『ハイ私しは見て是なら大丈夫と思ふ時さへ來れば直《すぐ》に小雪を抱かせて上げます』 と尤もらしく難場を切拔け、更に一應の診察をして、看護婦長に然る可く差圖を殘して立去つた 後に華子は市長に向ひ、小雪の事を樣々に問ひ廻した『小雪は何の樣な着物を被《き》て居ました』 『何の樣に養はれて居ましたか』など、其れから其れと殆ど止め度も無い程に見えたが、 此とき病院の庭を過る何所《どこ》かの兒供の、歌を唱《うた》ふ聲が聞えた、 華子は懷かしげに『オヽあれは小雪の聲です 私しの耳には確かに聞き覺えが有りますよ』 市長『貴女は其の樣に聲を出しては可《い》けません、 益《ますま》す咳が募《つの》りますから』全たくの所、 華子は自分の一語一語に咳き入る程の有樣である、當人よりも聞く身が辛《つら》い けれど華子は猶を聲を止めぬ、咳きては語り、語りては又咳入り、 或時は此まゝ絶入りはせぬかと気遣はるゝ程であつたが、 其の間市長は絶えず何事をか考へ込み、華子の顏を見るよりも、 眼《まなこ》を垂れて床を眺むる場合が多かつた、 眞に彼れは降り積もる身の難儀を考へて見ると、何から何う處分して好いか分らぬだらう、 上部《うはべ》には何事をも現さぬ樣に勉めては居ても自《おのづ》から心の沈み込むのは無理も無い 眞に彼れが心の底は千々に紊《みだ》れて居るのだらう、彼れは且聽き且思ひて、 華子の言葉に一々は返辭も爲し得ぬ状《さま》とは爲たが、此時忽ち、 何の爲だか知れぬけれど、華子が恐ろしさに堪へぬ如く絶叫した、 病み果てた身體に何うして是ほどの聲が殘ッて居たゞらう、 のみならず華子の身は、今まで寢返りさへ爲し得ぬ程で有ッたのに、 叫ぶと共に半ば起上ッて『アレ、アレ』と戸口の方に指さした、 何を此樣に驚き恐れるだらう、市長は靜に『華子さん何事です』 華子は猶も戸口を眺めるのみだ、戸口は市長の背後《うしろ》に當ッて居る、 市長は怪みつゝ徐《おもむ》ろに背後《うしろ》に振向たが、驚きの本《もと》は分ッた 巡査部長の蛇兵太《じやびやうた》が、戸を開いて入ッて來て、 今や市長の背後《うしろ》に立ち、市長の姿を睨んで居る 何の爲ぞと問ふ迄も無い、市長は知り過るほどに能く知て居る、 我身を捕縛する爲に來たのだ、其れを華子は何かの仔細で自分を引立にでも來た事を思ひ、 其れが爲に驚き恐れるのだ、けれど華子のみで無く、此時の蛇兵太《じやびやうた》の顏、 蛇兵太《じやびやうた》の姿を見る者は誰とても驚き恐れずには居られぬ、 覺悟して居る市長さへも戰慄した [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十 市長の就縛 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 華子は蛇兵太《じやびやうた》の姿を見て、全く自分を引立に來たのだと信じた、 驚き恐れたは當然である、彼女は叫んだ『市長さん、市長さん、何うか私しを助けて下さい』 全く市長の助けを請ふ外は無い、市長は靜に傷《いた》はつて 『ナニ其樣に恐るゝ事は有りません、蛇兵太《じやびやうた》の來たのは貴女の爲では無いのです』 斯く云ふ市長の爲なんだ、市長は更に蛇兵太《じやびやうた》に向ひ 『貴方の御用向は能く分つて居ます』蛇兵太《じやびやうた》は大喝一聲『神妙に』 との叱咤を以て之に答へた、其言葉は雷の如く室《へや》中を震はせた、 眞に蛇兵太《じやびやうた》は其頑冥な心を以て、今は此市長を終天の敵の樣に思つて居る、 過去た五年間彼れは此市長を疑つて何れほど苦心したかも知れぬ、 其の末に自分の疑ひが過ちだと信じて直接に市長に對して罪を謝した、 抑《そもそ》も罪を謝すると云ふ事が此 蛇兵太《じやびやうた》に取ては千古の遺恨にも比す可きである、 單に其職務上に少しの落度や怠慢が有てさへ自ら己れの身を許さぬ程の嚴重な男だから、 市長を疑ッた其 過《あやまち》の爲の辭職する決心をまで起したのである、 其れが今に至て過ちで無かッたと分り、其身が捕縛に向ふ役廻りとは爲たので、 彼れは千歳の一遇とも云ふ可き程に思ひ、 今までの恨《うらみ》を悉く之で晴す氣に成て居る、 彼れは室《へや》の眞中に大山の如く衝立《つきた》ち、 市長の顏を睨み詰めて貧乏搖《びんばふゆるぎ》もせぬ、爾うして再び叫んだ 『サア早く立て來い』 勿論市長に向ひ吐く可き言葉で無いから益《ますま》す華子は自分の事と思ひ 『市長さん、市長さん』とて泣聲を揚げたが、 其中に蛇兵太《じやびやうた》は市長の首筋を捕て容赦も無く引立てた、 市長は抵抗もせず、引立てられて力無く首《かうべ》を垂れた、 蛇兵太《じやびやうた》は心地好げに嘲《あざわ》らつて 『何だ市長さんだと、市長など云ふ者は茲《こゝ》には居ぬ』 最う無論市長では無い、單に一個の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だ、 前科者だ、譯者も之かれは再び彼れを戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》とのみ記さねば成らぬ 漸《やうや》くにして戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は、願ふ樣な聲で 『コレ蛇兵太《じやびやうた》』と云ひ掛けた、蛇『蛇兵太《じやびやうた》では無い、 巡査部長さまと云はねば』戎《ぢやん》は収《あへ》て言葉などを爭はぬ 『部長樣、貴方へ内密のお願ひが有ります故??』 蛇『何だ内密、イヤ内密などは許されぬ、聲高く申述べよ』 戎《ぢやん》『貴方の外は誰の耳にも入れられぬ事柄ですから何うか内密に』 と最《い》と低い聲で云て居る、蛇『内談などは聞く耳持たぬ』 戎《ぢやん》は詮方なく又た聲を潜め『何うか三日の御猶豫を、 實は此の憫《あは》れむ可き華子の娘を引き取つて來て遺り度いのですから、 念の爲め貴方が同道して下さッても構ひません、費用は私くしが支辨しまして』 殆ど囁やく樣に請ふた、蛇兵太《じやびやうた》は大聲に 『馬鹿め、其樣な願が聞れる者か、三日の猶豫を得て逃亡する積りだらう、 此女の娘を引取りに行くなどゝ口實は旨いけれど其手は食はぬ』 華子は此言葉を聞いて身を震はせた 『エ、エ、私しの娘を引取る爲めに三日の猶豫、 其れでは未だ小雪は茲《こゝ》へ來て居るのでは無いのですか、 小雪は、小雪は、今 何所《どこ》に居るのです、小雪を連て來て下さい、 サア市長さん、斑井《まだらゐ》樣』蛇兵太《じやびやうた》は怒る如く床踏鳴し 『フム惡人の片割が居やがるワ、默れ惡婆、本統に世が逆様《さかさま》だ、 前科者が市長に成り、淫賣婦が貴婦人の樣な看病を受けて居るとは』 とて言葉と共に更に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の首筋を引緊《ひきし》める振廻し 『市長さんだの斑井《まだらゐ》樣など云ふ者は茲《こゝ》に居ぬ、 此奴《こやつ》は盗賊だ、追剥だ、前科者の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だ、 其れだから此通り此方が捕へるのだ』、華子は骨ばかりと見ゆる手で身を支へ、 起きて其の頭《かうべ》を差伸べ、 恐れと驚きと懷しさを眼《まなこ》に浮べて戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の顏を窺《のぞ》いたが、 之が此女の身に、纔《わづか》に殘て居た命と力とを絞り盡したと見える、 戎《ぢやん》の顏を見詰めたまゝ打倒れ、 倒るゝ機《はづ》みに寢臺《ねだい》の角で、前額をも打た、 けれど打つ前に最う事切と爲て居たのだ、 哀れ華子は斯の如き景状《ありさま》の中に、斯く如くにして此世を去た 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は斯と見て、我が首筋に在る蛇兵太《じやびやうた》の手を捉へた、 頑丈な蛇兵太《じやびやうた》でも戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の力に逢ては小兒よりも弱く見える、 瓦戎《ぢばるぢやん》は其手を解き放して『貴方は此女を殺しました』 蛇兵太《じやびやうた》は益《ますま》す怒り『何だ、無禮な、 サア下に居る巡査を呼ばうか、其れとも尋常に此の手錠に掛るか』 手錠をでも用ひねば戎《ぢやん》の如き大力な罪人は一人の力に合ぬ、 戎《ぢやん》は無言の室の隅に行き其所《そこ》に在る古い鐵製の寢臺《ねだい》より一本の棒を拔取た、 流石の蛇兵太《じやびやうた》も此の見幕には恐れを催し、 戸口の所へまで三歩ほど退いた、戎《ぢやん》は鐵の棒を持たまゝで 『暫《しば》しの間、邪魔せずに其所《そこ》に控へてお在《いで》なさいよ 爾も無いとお身體の爲に成りませんよ』云ふ言葉は靜だけれど、千斤《せんきん》の力がある、 蛇兵太《じやびやうた》は若し手下の巡査を呼ぶ爲に下へ行けば其間に戎《ぢやん》に逃られる恐れもあるから詮方無く其言葉に從ッた、 戎《ぢやん》が何れほど逃亡の名人かと云ふ事は彼れは熟《よ》く知る所である、 斯くて戎《ぢやん》は華子の死骸の傍に行た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十一 入獄と逃亡 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 華子の死骸の横はつて居る寢臺《ねだい》の方へ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は近いた、 けれど彼れは依然として鐵の棒を持た儘である、 若し蛇兵太《じやびやうた》が邪魔でもすれば叩き殺すとの見幕が、 其の落着た陰氣な顏に現れて居る、流石の蛇兵太《じやびやうた》も如何ともすることが出來ぬ、 唯だ戸口の邊に立て彼の爲す所を見張て居るのみである 彼れは鐵の棒を杖について、無言で華子の死顏を眺めた、 此時の彼れの感慨は何の樣だらう、云ふに云はれぬ憫《あはれ》みの色が滿面に現れて、 唯だ默然、唯だ暗然として、暫《しば》しが間、身動きさへもせなんだ、 頓《やが》て彼れは氣を取直した樣に、華子の枕許に膝を折り、 死骸の首《かうべ》を抱上る樣にして、其の耳へ口を當て、 細い聲で何事をか囁き告げた、果して何事を囁いたのだらう、 囁く方は今牢へ引立られる人、囁かれる方は既に此世を去た身である、 兩人《ふたり》の間に何の樣な默契が有らうとも口から耳に其の情が通ずるだらうか、 若し華子が此の囁きを聞たとすれば冥府《あのよ》から聞取たのだ、 此の世の人は誰も其の聲、其の言葉を聞き得なんだ、 けれど聞えぬとに拘はらず、囁く方は是で氣が濟むのだ、 愚痴か迷ひか知らぬけれど此愚痴、此迷ひが人生の最も崇宏な力である、 趣味である信仰である、兎に角に、 此樣を親く見て居た看護婦長が後で幾度《いくたび》も人に語た所に依れば、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が囁くと共に華子の死顏に一種の神々しい笑《ゑみ》が浮んだと云ふ事である、 此の看護婦長は尼さんである、深い宗教の信仰に生涯を捧げて居る人だから嘘は吐《つ》かぬ、 何の樣な事が有たとて、無い事を有るとは云はぬ、 或は全く戎《ぢやん》の親切な言葉が華子の靈に通じたかも知れぬ、 華子と戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の樣な意氣の相合し同情の相結れて居る間柄には、 死後と雖《いへど》も靈犀《れいさい》一脈通ずる所が有るかも知れぬ 斯くて戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が自分の顏を退《ひい》た時には全く華子の顏が、 其の前とは違た樣に美しく成て居た、 是は戎《ぢやん》が其の開いた眼《まなこ》を撫で卸して閉ぢて遺り、 前額《ひたひ》に掛た短い髪の毛を撫で上げて遺り、 爾して傾いた枕をも直して遺りなど仕た爲でも有らう、 全く華子は天國に登た人の樣に顏が輝いて居る、 思ふに人の死ぬると云ふ事は更に明い所へ出ると云ふ事かも知れぬ、 戎《ぢやん》は更に華子の冷い手を取て之を戴いた、戴いた後で、 懷しい人に分れる樣に其手を接吻した、是で戎《ぢやん》の勤《つとめ》は濟んだ、 此樣な人に斯うまで信切にせらるれば、華子に若し靈あらば深く感ぜずには居られぬだらう 斯くして戎《ぢやん》は靜に立つた、爾して此方なる蛇兵太《じやびやうた》に向ひ 『サア命令に從ひませう』と云ッた *    *    *    *    *    *    * 直《すぐ》に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は此市の監獄に投ぜられた追て中央の監獄に移されるのである、 無論市中の驚きは一方《ひとかた》ならぬ程であッた、 市長の捕縛、市長の捕縛と、口から口に傳はッたが、彼れは前科者で有ッた、 僞名を以て此市民を欺いて居た、本名は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふのだと、 樣々に語り合ふ噂が、彼れの今までの功勞を掻消して了ッた、 今まで甚く彼の功徳や善根に服して居た人までも、爾だらうよ、 身分不相應に得た金で無ければ、彼《あ》あまで人に施す事は出來ぬ筈です』 などと言ひ合た、人情の反覆、手掌《てのひら》を反《かへ》すが如しとは此樣な事を云ふのだらう けれど斯る中にも彼に忠實な者は有た、其の一人は彼れの家に雇はれて居る老女である、 老女は主人の入牢を聞き、驚きも呆れも泣きもしたけれど、 一旦の驚きが収ッて、唯だ主思ひの一點で、晝《ひる》も陰膳を据ゑ、 夜に入ても、毎《いつ》も主人が常の通り歸て來たとした所で小言一つ謂はれる點の無い樣にし、 其身は孤燈の影に針仕事をして居た、斯うまで忠實に勤務するは全く主人の薫陶に出た事だらう、 早や夜の八時とは成ッた、不斷ならば最う、遲くても門の大戸が開いて主人の足音の聞える頃であるのに、 其音のせぬのが、最《い》と物足ぬ樣に思はれ殆ど心細さに堪へぬ、 良《やゝ》あッて室の一方に在る時計を見ると、 時計の下に懸けて有る主人の居室の鍵をば、 外の戸を開いて手を差延べて取らうとして居る者が有る 門の大戸が開かぬのに、何者が何うして這入て來たのだらうと、 老女は痛く驚いて殆ど叫び聲が口まで出たけれど、叫びはせなんだ、 鍵を探る其の手首、其の袖口、確に見覺えがある、 我が主人である『オヤ旦那樣ですか』と壓伏《おしふせ》た樣な低い聲で云へば 『婆や、靜におし』と云て、音もさせずに戸を開いて中に入たは、全く主人である、 昨日《きのふ》までの斑井《まだらゐ》市長、今の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》である、 彼れは先刻牢に入たばかりだのに、何うして茲《こゝ》へ現れたのだらう、 其の得意の術を以て牢を脱して來たのである [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十二 入獄と逃亡 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 老女は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の顏を見て『旦那樣は今朝から??』 と云ひ掛けたが其の後の語は餘り失禮に當ると思つて控へたのか口から出なんだ、 戎《ぢやん》は自《みづか》ら其語を補足し 『オヽ私しは今朝から牢の中に居たのだよ、今夜牢の窓の鐵の棒を取脱《とりはづ》し、 其所《そこ》から忍び出て屋根を飛降り、爾して此通り歸て來たのさ』 全く彼れは、昔しツーロンで四回まで逃亡を企てた其の得意の手段を以て牢を破ッて出て來たのだけれど、 彼れは落着て居る、其の言葉の靜さが、 直《すぐ》に背後《うしろ》から捕吏《ほり》に追跡せられて居る人とは見えぬ、 彼れ餘ほどの決心を持て居るに違ひ無い 彼れは更に老女に云ふた『直《すぐ》に尼さんを呼で來てお呉れ、 多分尼さんは、今朝亡なッた女の死骸の傍に尚だ祈て居られるだらう』 尼さんとは彼の看護婦長だ、死骸とは華子を指すのだ、 老女は畏《かしこ》んで無言で去つた、後に戎《ぢやん》は鍵と手燭とを取り、 火を點《とも》して二階なる自分の室《へや》に登ッた、 先づ燭臺に火を移し、爾して窓から町を眺めた、 町には多分追手の役人が掛廻て居る事だらう、 最う戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の脱牢と云ふことが彼の蛇兵太《じやびやうた》の耳にも入たに違ひ無い、 戎《ぢやん》は更に、燈光《あかり》の外に洩れぬ樣に窓の戸を締め、 其身は手燭を持た儘で奥の間に入た、茲《こゝ》は一昨夜、 彼れが自首の決心を起す前に徹夜して煩悶した所である、 彼れが昔しツーロンの獄を出てダインの高僧の家に入た時に着た着物も野原で子供から奪ッた銀貨も茲《こゝ》に在るのだ、 彼れは紙を展《の》べ筆を取て 『此品々は私し戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が昔し身に着けし者にして銀貨はダインの野にて子供より奪ひたる其の銀貨に御坐候』 と書いた、斯うして置けば今 茲《こゝ》へ捕吏《とりて》が來て、 沒収して行て其れ/\゛法律通りに處分して呉れるのだ 書き終ッた所へ足音がして下から誰か上ッて來た、別人で無い 今しも老女が迎へに行た尼御《あまご》である、此人は憂世の人の情を捨てより既に何十年、 讀經と苦業とに心を[糸|柬;uFA57]り、身を神に捧げて慈善の業に從事し、 今は人にして人の弱點を脱し唯だ神の道のみを守る身の上では有るけれど、 憐む可き戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の今の境遇を察しては、 枯木《こぼく》の如き心にも無限の悲しさ哀さが湧出たと見え、 顏も青く眼も重い、爾して震ふ聲で『最一度、彼の女に逢てお上げ成されますか』 と問ふた、彼の女とは無論華子の死骸なんだ、戎《ぢやん》は手早く次の書類を認《したゝ》め掛けて居たが、 立上ッた『イヽエ、彼の室《へや》へ行けば又捕縛せられる許りです、 死骸の傍で騒動するのは罪ですから最う行ません』と云ひ更に、 今書た書類を指出し『私しの居無くなッた後で之を教會の主にお渡し下さい』 一種の書置の樣な者だらう、尼御《あまご》は無言で受取た、 戎《ぢやん》『何うか貴女が、一應讀でお置き下さい』尼御《あまご》は最《い》と從順に、 開いて讀んだ、其文は『此の家屋及び附屬する財物《ざいもつ》一切、 恭々《うや/\》しく教會へ寄附致し候間、私しの裁判の費用と、 今朝死去せし華子と云ふ女の葬式料を支拂ひ、 其の殘りは悉く貧民へ御施し下され度く候』とある、 纔《わづか》に讀終る時しも、下の室《へや》から尋常《たゞ》ならぬ人の聲と物の音が聞えた、 戎《ぢやん》は手燭を持たまゝ、何事かと階段の傍まで行た、 尼御《あまご》も其後に從ッた 聞けば是れ捕手が來たので、聲の立つのは老女が其れを遮ッて爭ふのである 『イヽエ此二階には、イヽエ其樣な人は茲《こゝ》へ來ませんよ』 捕吏《ほり》『來て居るか居ぬかを、尋ねるのでは無い、 法律上の御用を以て此二階を檢《あらた》めると云ふのだ、 居るか居ぬかは檢《あらた》めれば分る事だ』 嚴《いかめ》しく言切る聲は紛ひ[誤?:紛れ]も無い蛇兵太《じやびやうた》である 全く其通りである、居るか居ぬかは檢《あらた》めれば分るのだ、 階段の一個《ひとつ》しか無い二階だから、 下から捕吏《ほり》が上ッて來れば戎《ぢやん》は袋の中に入た樣な者だけれど、 彼れは慌てもせず、先づ持て居る手燭を吹消し、暖爐の棚の上に置き、 尼御《あまご》に向ひて『不幸の者の爲にお祈り下さい』と云へば、 尼御《あまご》は其意に從ッて、燭臺の前に俯向《うつむ》き祈りを初めた、 戎《ぢやん》自《みづ》からは袋の奥にも均しき奥の室《へや》の暗《やみ》に入ッた、 入るが早いか靴音高く上て來たのは蛇兵太《じやびやうた》である、 彼れは燭臺の前に祈れる神妙な尼御《あまご》の姿を見、 一方《ひとかた》ならず意外の感を爲した、 定めし手の終へぬ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が必死と爲て抵抗する覺悟だらうと思たのに、 唯だ優しい一老尼が、最《い》とも最《い》と平和の姿で餘念も無く祈て居るので全く張合が弛んだ樣な者だ 本來此の蛇兵太《じやびやうた》は法律を敬ふ樣に神を敬ひ、 神と法律とには少しでも不敬を加へては成らぬ者と信じて居る、 其外には情も容赦も何も無い、彼れは神の前に拜跪して居る尼御《あまご》を見て、 其の祈を妨げるさへ恐れ多い樣に思ひ、其まゝ無言で立去らうかとも身構へたが、 其れでは法律に對する義務が濟まぬ、殊に彼れは日頃から此 尼御《あまご》の道徳堅固な事を知り、 取分て嘘を吐《つ》かぬ其の操守に感服して居る、 此 尼御《あまご》の祈る熱誠の影に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の樣な惡人が潜んで居やうとは彼れの信じ得ぬ所であるけれど、 彼れは遂に問ふた『尼御《あまご》よ、 法律の爲に止むを得ずお妨げを致しますが此 室《へや》に貴女はお一人ですか、全くのお一人で』 尼御《あまご》は少しも躊躇せぬ『ハイ一人です』 成ほど一人に違ひ無い、蛇兵太《じやびやうた》は當惑氣に室中を見廻して、 次の間の暗《やみ》にも目を注ぎ『實は今夜脱牢した者が有ますので私し共は捜索して居るのです、 若しや貴女は其者をお見受けには成ませんでしたか、 其者は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》ですが』尼御《あまご》は『イヽエ』 殆ど神聖な言葉を吐く如くに、續けて二度まで事實にあらぬ言葉を吐いた、 吁《あゝ》此 尼御《あまご》は、世捨人と爲て何十年、此の二言の僞《いつは》りほど深い歸依の言葉が有るだらうか、 此言葉こそは却て天國にも、尼御《あまご》の功徳として永く記録せらるゝだらう、 餘り確な言葉だから流石の蛇兵太《じやびやうた》も、其上を問はずに退いた、 暖爐《すとうぶ》の上には今吹消した許りの手燭が猶だ煙を吐いて居るのに彼れは其れをさへ怪み得なんだ 此夜の眞夜中に、此土地から巴里《ぱりー》へ行く街道を、 風呂敷包を持た職工風の男が、暗《やみ》を潜ッて急ぎ去ッた、 此男は即ち戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》である、 職工風の衣服は定めし自分の建てた工場の中に在たのだらう、 風呂敷包は兼て銀行に預て有ッた七十萬の大金であることが後で合點せられた、 此翌日華子の死骸は教會の引受で共同墓地へ質素に葬られた、 斯の如くにして華子の生涯は終ッたが、其の恩人 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は未だ終らぬ、 娘小雪も未だ終らぬ、是からが又新らしい幕である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十三 むかし話 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 茲《こゝ》で一回の昔話をして置かねばならぬ、 時は千八百十五年六月の十八日、歴史を讀む人は知て居やう、 此日は千古の怪傑 拿翁《なぽれおん》が最後の大敗北を遂げた水[土|婁]《ウヲタルー》の激戰の日である、 本篇の最初に記した戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の初ての出獄よりも猶ほ三月ほど前である 戰爭の終ッた水[土|婁]《ウヲタルー》の野に早や日は暮て、夏の夜の月が屍《かばね》の山、 血の池を照して居る、晝間 打連《うちしき》ッた銃砲の煙が猶ほ消えも終らず幾里四方を罩籠《たてこめ》て居る中に、 所々英獨聯合軍の戍兵《じゆへい》の焚く篝火《かゞりび》も見え、 或所には未だ燃て居る家なども有る、眞に物凄い光景とは是である、 昔の人は古戰場をば人間 凄涼《せいりやう》の極みとは言做《いひな》してあるが、 古戰場よりも、死骸の未だ片附かぬ新戰場の方が何れほど無慘に見ゆるかも知れぬ 此の無慘な光景の中をば、人目を忍び忍んで這て歩て居る人が有るとは又不思議では無いか、 彼れは何をして居るのか、此所《こゝ》の死骸、彼所《かしこ》の死骸をと檢《あらた》め、 時々は番兵や憲兵の通る足音に耳を澄して、或は自分の身を横へ、 死骸の眞似をして足音の通り過るを待ち、 或は匐匍《よつばひ》になッて行手を透し見るなど其れは/\用心綿密である、 果して何の爲だらう、若し敵情を探る爲ならば餘ほど豪膽な軍事探偵である、 若し亦其他の使命の爲ならば天晴《あつぱれ》の勇士と云はねば成らぬ、 所が爾うで無い、其樣な褒む可く感ず可きで無い、彼れは泥坊だ、 死骸の身に着て居る金品を盗むのだ、或國には火事場泥坊と云ふ横着な商賣も有る相だが、 其又上を越す戰場泥坊とは、何と驚いた職業では無いか、 何の樣な人間のする事か、孰《いづ》れ兵士の古手か何かで有らうが其顏を見て遺り度い 彼れは今しも俯伏《うつぶ》して、但有《とあ》る死骸の指から金の指環を拔き取て、 兼て用意して居る脇下の袋の中に納めた、爾して匐匍《よつばひ》の儘で行く手を眺め、 一歩前に出やうとすると、背後《うしろ》から着物の端を捕へて引く者が有る樣に感じた、 流石の戰場泥坊も之にはゾッとしたけれど、直《すぐ》に氣を鎭《しづ》め、 靜に背後《うしろ》を顧視ると、 今しも指環を拔き取た其の手が自分の裳《すそ》の方に纒《まつ》はッて居る、 彼れは呟た『何だ憲兵かと思ッて肝を冷したら幽靈だ、幽靈に捕られるは先《まづ》氣易い』 此樣な際にも此樣な横着な言葉を吐くとは、成るほど此の氣で無ければ此商賣は出來ぬ筈だ、 彼れは振拂ッて去らうとしたが、思ひ直した樣に『待てよ、 金の指環を篏《はめ》て居るからは士官以上だぞ、猶だ稼ぎが有るかも知れぬ』 と呟き更に振返て、其の死骸を、他の死骸の下から引出した、 勿論血だらけの顏だから月の光りにも能くは分らぬが肩に金の綬《ふさ》が掛ッて居る所は確に佐官だ、 彼れは其の胸を探つて金時計に探り當てた、喜んで之れを自分の袋へ轉居させた、 次には死骸の衣嚢《かくし》を探ッた、茲《こゝ》には輕く無い財布が有ッた、 之れをも同じく轉居させ『アヽ思つたより有福だッたぞ』 と云ひ再び這て去らんとすると、死骸の口に聲が有ッた『有難う』 と謝する言葉が明《あきら》かに聞取られた、 アヽ此人は死切ては居ないのだ、自分の盗まれるのを、 半死半生の中を介抱を受けるのだと思ひ、謝する言葉を吐て居る、 泥坊は返辭も出なんだが、士官は更らに蟲の息で『軍《いくさ》は何方《どつち》が勝ちました』 泥坊『英国方が勝ちました』士官は『エヽ殘念』と云つたが併し目は開かぬ、 全く其れ丈けの氣力も無いのだ、爾して更に『オヽ私の胸に金時計が有ります、 衣嚢《かくし》の中に財布が有ります、其れを貴方に上げますから何うぞ取出して下さい』 眞逆《まさか》に『最う頂きました』とは答へぬ、唯だ柔順に『ハイ』と答へ、 言葉の儘に胸を衣嚢《かくし》の中とを探り『最う有りませんよ』 士官『では盗まれたのだ、私しを蘇生《いきかへ》らせて呉れたお禮に貴方へ差上げやうと思ひましたのに』 果して此士官が眞に蘇生《いきかへ》り果《おほ》せるや否《いな》やは未だ分らぬ、 折しも遠くの方から番兵の近《ちかづ》く樣な足響《あしおと》が聞えたので泥坊は立たうとした、 士官『アヽ命の親、何うかお名前を聞せて下さい』泥坊は當惑げだけれど小聲で 『貴方と同じく佛国《ふらんす》方です、最う番兵が來ますから話ては居られません、 最う番兵が來ますから話ては居られません、先づ貴方の命だけは助けて上げましたから、 後は御自分で、逃げられる丈けお逃げなさい』身動きさへも出來ぬ者に逃よとは無理である、 士官『貴方の階級は』泥坊『軍曹です』士官『お名前は』 泥坊『手鳴田《てなるだ》と申します』アヽ是れが手鳴田《てなるだ》軍曹か、 後に華子の娘小雪を預ッた軍曹旅舘の主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》は即ち此の戰場泥坊である、 唯だ此の一事で彼れが何の樣な人間かと云ふ事は分ッて居る、 士官『難有《ありがた》い、手鳴田《てなるだ》軍曹、此お名は最う忘れません、 私しの名も云て置きませう少佐 本田圓《ほんだまるし》と云ふのです』 手鳴田《てなるだ》軍曹『茲《こゝ》で若し目附れば私しは敵の手で射殺されますから、 是れで御免を蒙ります』と云ひ、獲物に膨《ふく》れた袋を脇挾み、 何所《いづこ》とも無く逃て了ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十四 再度の捕縛、再度の入獄 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 右の昔話に在る手鳴田《てなるだ》軍曹は既に此篇に現れて居るが、 手鳴田《てなるだ》の手に掛ッた少佐 本田圓《ほんだまるし》と云ふは何の樣な人だらう、 多分は之れも後に至れば分る事にも成らうから讀者は氣長く待たねば成らぬ 斯くて話は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の事に歸る *    *    *    *    *    *    * 銀行に預けた大金を引出して、巴里《ぱりー》を指して逃去た戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は、 僅《わづか》に四日を經て、巴里《ぱりー》で又捕まッた、 彼れは巴里《ぱりー》からモント、ファメールへ行かうとして馬車に乘る所を捕吏《ほり》に見附けられたのだ、 多分は小雪の許《もと》へ行く積で有ッたのだらう 斯くて裁判所へ引出されたが、裁判所では無論に、 彼れの大金を持て居ることが分ッて居るから、特に氣を注《つ》けて捜索したけれど、 彼れの視には唯だ僅《わづか》の小遣錢が有るのみで、 銀行から引出した分は何所《どこ》へ何う隱したか分らなんだ、其まゝ彼れは宣告せられた、 其罪は八年前に凶器を以て追剥を働いたと云ふのが重なる箇條で、猶ほ檢事の言立てに依ると、 此の頃此の國の南方に出沒して居る最も危険な盗賊の團隊に加入して居るに違ひ無いとの事で有つた、 其の上に十九年も獄に居た前科者と云ふ事で、刑は極端の重い所へ持て行かれ死刑には處せられた 被告 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は一言の言ひ開きもせず、辯護もせず、 死刑に處せられて上告もせなんだ、けれど死刑は總て國王に上申して後に執行するのだ、 其の上申の時、國王から特別のお沙汰が有ッて、 一等を減じ終身刑にす可きだとの命《めい》が下ッた、 察するに裁判所では罪の外に何事をも斟酌せなんだけれど、 國王が此の男が一地方の市長で有つた事を覺えて居られた爲だらう、 又其地方に一方《ひとかた》ならぬ繁昌を來して其れが爲め[尸/婁;u5C62]々《しば/\》内務大藏の兩大臣から行政官の手本だと上奏した事などを覺て居られた爲だらう、 是だけは國王の徳澤《とくたく》である、減じた罰は唯だ一等とは言ふ者の死刑と終身刑とは非常な違ひだ、 終身刑ならば其の長く牢に居る間に何の樣な事が有ッて此世に出られぬとも限らぬ 斯くて彼れは再びツーロンに送られ、其の昔し苦役した獄で再び苦役に服する事と爲ッた *    *    *    *    *    *    * 暫《しば》しが間、世の疑問と爲ッたのは戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の大金だ、 何しろ五十萬以上ある事は確だから、不景気の世の中では誰も垂涎せずには居られぬ、 何うしたゞらう、何處へ隱して有るだらうと、誰れも彼れも訝《いぶか》ッたけれど分らけ[誤?:分る]筈が無い、 けれど唯だ參考と爲る事柄を記して見れば 彼れはモントリイル市の獄を脱出《ぬけだ》し、蛇兵太《じやびやうた》の追跡を免かれて、 危き間に銀行の金を引出し、其夜の中に巴里《ぱりー》を指して逃げらのだッたが、 逃る道で彼の華子の娘小雪の養はれて居るファメールに立寄たことは事實らしい、 尤も小雪の許《もと》へも誰の所へも立寄りはせなんだけれど、 其の筋の報告ではファメール附近で一夜か二夜も徘徊して居た形跡が有る、 爾すれば其の邊を隱しただらうと、 兎に角も隱した者とすれば彼れは再び其金を取出して使用する機會の有ることを信じて居るの違ひ無い、 身は終身刑で服役して居るけれど生涯を牢に終る積りでも無いと見える 且又ファメールの貧しい勞働者の一人が妙な事を見た、 其者は曾《かつ》て牢にも居た男で、出獄後、職業が無いが爲めに、 安い給金で道普請の番人に雇はれ、山と村との間を徘徊して居るのだが、 或る朝、山の叢《くさむら》の中に、鋤《すき》と鶴嘴《つるはし》との光ッて居るを見た、 多分は誰かゞ何かの目的を以て隱して居るのだらうとは思たが深く氣には留めずに居た所ろ、 其夜の眞夜中過に、長さ一尺も有らうかと思はれる箱を持た職人が其の山へ忍び入る樣を見受けた、 其時には爾うも思はなんだが、十分間ほど經てふと氣が附た、 若しや今朝の鋤《すき》と鶴嘴《つるはし》とは此職人が隱して置たのでは無からうか、 爾うすると此職人は此山へ何か隱す積に違ひ無い、ハテ何を隱すのだらう、 今しも持て行た箱に極て居る、箱は何だ、棺だらうか、イヤ棺としては小さ過る、 縱《よ》しや生れ立ての小兒を葬るとしてもモチット大な箱で無くば成らぬ、 爾すれば寳《たから》だ、金銀であるか紙幣であるか、 何しても金目の物に違ひ無いと、斯う思ッて彼れは直《すぐ》に其の後を追掛けて山に入たが、 鋤《すき》も鶴嘴《つるはし》も其人の影も無い、 一時間ほども山中を捜して終に目的を達せずに歸つた、 が其れから又二時間ほどすると右の職人風の男が山から出て來るを見た、 今度は鋤《すき》と鶴嘴《つるはし》とを肩にして居るけれど最前の箱を持て居ぬ、 確に何所《どこ》へか埋めたに違無い、斯う思て彼れは其男の姿を透し見たけれど、 夜の暗さに能くは分らず、唯だ頑丈らしい身體附に見へたから、 若し鋤《すき》で擲《なぐ》るり殺されては詰らぬと、 暫《しば》しがほど躊躇したが其間に職人風の男は暗《やみ》に隱れて居なくなッた 彼の番人は翌日から誰にも云はずに獨りで山の中を、 間がな隙《すき》がな捜して見た、けれど物を埋めたらしい場所は遂に見當り得なんだ、 餘り其の捜し方が熱心なので、 何事をでも嗅で知る此土地の軍曹旅館の主人 手鳴田《てなるだ》などは其番人を呼寄せて問試むるほどで有つたが、 餘り雲を捉《つか》む樣な事柄なので何時《いつ》とは無く噂も消えた、 けれど或は此事が何か戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の大金に關係した事柄では無からうか、 深く疑へば箱を埋た職人風の男が戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》自身では無かつたゞらうか、 自然と解ける時が來る迄は誰にも解けぬ問題である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十五 獄中の苦役 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 何所《どこ》へ大金を隱したかは、分る時の來るまでは分らぬ者として置いて、 扨《さて》も戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は再びツウロンの獄へ、 今度は終身囚として入れられ、終身囚たる記《しるし》に、 其の眞白な白髪《しらが》頭へ青い帽子を冠せられ、 赤い着る物の襟には、九千四百三十號と云ふ番號札を縫附けられた、 時は千八百二十三年の八月であつた 序《ついで》に茲《こゝ》で云て置くが、此の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の捕縛と共に、 爾しも繁昌したモントリウルの市は全く繁昌を失ッた、 丁度 亞歴山《あれきさんどる》の死と共に其王國が瓦解した樣な者だ、 王の下に附て居る大將達が銘々權威を爭ふた樣に、 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》の使て居た職長どもが、 銘々に利益を爭ひ、競爭をして、高大な製造所も少しの間に閉場する事に成ッた、 戎《ぢやん》が斑井《まだらゐ》父老《ふらう》と云ひ斑井《まだらゐ》市長とまで云はれて居た頃は、 製造の目的が唯だ良い品物を作るに在たけれど、 戎《ぢやん》が去て後は其の目的が利益を得ると云ふ方へ傾いた、 其れだから段々と品が惡くなッた、評判が落ちた、買人《かひて》が減た、 注文が杜絶《とだ》えた、最う繁昌する筈が無い、 憐れ一時の榮華を極めたモントリウル市は元の通り海岸の淋しい驛場とは爲つて、 大藏大臣が租税を取立るのに他の驛と同じ樣に骨の折れるに立至ッた、 是れで偉人の有る無しが何れほど社會の幸不幸に關するかと云ふ事が分る *    *    *    *    *    *    * 戎《ぢやん》がツーロンの獄に戻ッてより三月《みつき》の後即ち千八百二十三年の十月の末に、 地中艦隊の軍艦オリオン號が修膳の爲にツーロンの港に入たが、 軍艦を見ると云ふ事は此土地の人々が最も好む所で、 毎日波止場の邊へ人の黒山を築た、紳士貴婦人までも出掛て行た、 或日の晝頃、大帆柱の頂邊《てつぺん》へ上ッて働いて居る老水兵が、 猿も木から落ちると云ふ通り、激しい風に吹飛ばされ、 其の頂邊《てつぺん》から落ちて漸《やうや》くに帆柱の綱に握《つか》まつて空中に身を支へた、 身を支へたとは云ふ者の、 繩一筋の端を捉へて空中へブラ下ッて居るのだから何時《いつ》まで支へて居られる者では無い、 手の力が疲れて來れば、直《すぐ》に逆卷く波の中へ落ちて、 身體が碎けて卷込む波の中へ落ちて、身體が碎けて卷込まれるのだ、 彼れは何うか其の繩を手繰り帆桁の上まで攀登らうとするけれど、 風が吹捲《ふきまく》ッて綱が右左りに、分銅の樣に搖り動き、 身體が或る時は海の上に行き、或は時は甲板の上に來りなどして、 少しも定まらぬ程だから攀上ることが出來ぬ、其うちに段々と力が盡き、 必死に悶《もが》く苦さが、下から見る人の胸へ犇々《ひし/\》と感ぜられた アレよ/\と叫ぶ聲が海岸《きしべ》の群衆からも起り、 附近の船からも起つた『何うか助けて遺る工風は無いか』 『誰か助けて遺る人は無いか』との聲が人々の口から出たけれど何うにも助け樣が無い、 斯うなると當人の辛さは勿論だけれど、見て居る人も實に辛《つら》い、 代れる者なら代つて遺り度いとの同情が誰の胸にも湧て出る、 けれど其實見殺しにする外は無いとは、餘り情け無い次第である 其中に當人の力が次第に盡きて行く事が能く分る、 若し助けるなら此の咄嗟の間である、 此儘で今五分と經れば縱《よ》しや助ける工夫が有つたにしても最う遲いのだ、 實に危機一髪とは茲《こゝ》である、此の一髪の危機に當り、 誰やら一人、猿の如く身輕に、帆柱に上つた者がある、 アヽ勇士、彼の空中の人を助けに行くのだ、 助けんとして却て其身も共に死ぬるのかも知れぬ、 迚《とて》も一人の力で助けられる筈が無い、 けれど彼れは其樣な事には頓着せぬ容子である、 人一人を見殺しにするよりも自分と共に死るのが未だ忍び易いと思て居るのだらう、 彼は危險を危險とも感ぜぬ、眞に勇士の本性である 海陸兩側の人々から『危い、危い』との聲が殆ど泣き聲の樣に湧起つた、 此の聲に送られて上つて行く彼れ勇士は抑《そもそ》も何者である、 身には赤い服を着け、頭《かしら》に青い帽子を冠つて居る、 アヽ彼れは懲役人である、而かも終身囚である、 此樣な者が軍艦の中に何うして居た、彼れは同囚の幾人と共に腰に、 鐵鎖を着けたまゝ、朝の程から此軍艦へ、人足同樣に手傳ひに雇はれて來て居たのだ、 ツーロンの囚人は毎《いつ》も港へ雇はれるのである、 彼れは多くの人々と同じく、空中に懸れる人の苦む状《さま》を視るに忍びず、 艦長が、誰か助けて遺る者は無いかと、呟くを聞いて直《すぐ》に『私しが助けます』と斷言した、 爾して艦長の點首《うなづ》くを見るが否《いな》や、 彼れは工事用の手斧を取るより早く、自分の腰の鎖を叩き切ッた、 其の力の強い事は宛《まる》で腐れ繩をでも切る樣に見えたけれど此時は誰も氣が附かなんだ、 實際其樣な事などに氣を附けて居る場合で無かッた、 けれど後では心附て噂し合ッたと云ふ事だ 彼れは上り上ッて帆桁の所へ行き、其上へ立て先づ四邊《あたり》を見廻したは、 善戰の老將が戰場に立て先づ遠近高低を見る樣な者でも有らうか、 此とき又吹て來る一陣の風が彼れの終身囚たる印とする青い帽子を吹飛した、 下から現れたのは眞白な白髪《しらが》頭である、見る人は皆驚いた 『アレ老人だよ、若者では無いのだよ』と [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十六 老囚人の最後 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 白髪《しらが》頭の老囚人は帆桁の上に立て四邊《あたり》を見廻はし、 頓《やが》て帆桁の一端まで歩んで行つた、實に危い業《わざ》である、 觀る人々には輕業《かるわざ》の樣に感ぜられた 吁《あゝ》、彼れは人を九死の中より助けん爲に自《みづか》ら同じ九死の位地に陷るのでは無からうか、 助を求めて居る其人と共々に助けを呼ぶ事に成るのでは無からうか 斯る間にも綱の先に垂れて居る水兵は一刻一刻に力が盡きて行く、 最う此の老囚人が何の樣な事をしたとて、間に合ふか合はぬか分らぬ、 けれど老囚人は少しも躊躇せぬ、彼れは帆の揚げ卸しに用ひる綱を取つて帆桁の先に結び着けた、 爾うして其の綱の一端を下に垂らし、自分が其の綱を傳ふて下り初めた、 暫くの間に彼れ自身も空中にブラ下る分銅の樣な位置とは爲つた、 全く一人の危險を救ふが爲に、同じ二人の危險を作り出した樣な者だ、 觀る人々は或は『危い、危い』と連呼し、 或は『大事を取らねば可《い》けぬぞ』などゝ勵まし誡《いまし》めもし、 鳴りも止まぬ程の状《さま》で有ッたが、頓《やが》て全く聲を鎭《しづ》めた、 實に餘りの心配に呼吸《いき》さへ固くなッて了ッたのだ、 老囚人は風に吹き捲《まく》られて鞦韆《ぶらんこ》の如く空中に搖曳《えうえい》すること數秒時で有ッたが、 漸《やうや》くにして不幸な水兵の握《つか》まれる綱を捕へ得、 最う既に疲れ果て居る水兵の胴の邊をば自分の縋《すが》ッて居る綱の一端を以て結び留めた 彼れは技は神の樣である、片手は自分の身を支へる爲に自分の綱を握り、 片手を持て他の人の胴を結ぶとは、空中に於て殆ど出來ることで無い、 其の間、觀る人々は、爾なきだに吹しきッて居る木枯《こがらし》に自分の一呼吸《ひといき》を添へるをさへ恐るゝ如く、 一言をも一句をも發せぬ、唯滿腔の心配を自分々々の眼《まなこ》に集めて老囚人のする事を見詰めて居るのだ、 是だけの深い切《せつな》い同情が又と有らうか、唯だ此の同情のみの爲にも、 天は此の老囚人をば、過ちの無き樣に守護す可き筈で有る 纔《わづか》に一二分の間だけれど、觀る人々は其の辛《つら》い心配の胸に、 年の樣に長く感じた、漸《やうや》くにして老囚人は確《しか》と水兵の胴を繋ぎ、 最早や水兵が手を放したとて落ちはすまじきを認め、今度は二本の綱を手繰て帆桁まで上り歸ッた、 其身の輕さは人間の樣では無い、斯て彼れは徐々に綱を手繰り、 水兵を引上げ初めた、彼れは腕力に於ても人間の樣で無い、 殆ど怪力である、少しづゝ又少しづゝ、靜に又靜に、 重げにもせず水兵を引上げて終に自分の手に抱き取た 此時の、觀る人々の觀[誤:歡]びは殆ど譬へ樣が無い、 風の音、波の音を壓《あつ》して海陸一時に歡呼の聲が聞えた、 聲の過半は『其の囚人を特赦せよ』とか『放免せよ』[と]か云ふので有ッた、 眞に特赦する價値が有ると云て好い 帆桁の上まで上ると、最う水兵は大陸に上ッた樣な者だ 熱心に老囚人の手を握ッて謝した上、自分の職掌の場所へ歸たが、 後に老囚人は獨り帆桁の上を傳ひ元の所へ歸らうとした 彼れは今までこそ氣が張り詰めて、何の危險をも感ぜずに居たけれど、 救ふ可き人を救ひ終り、最う我が務が濟だと思ふと俄《には》かに心が弛んだのか、 或は餘り危險な仕事をした爲め眼でも眩《くら》めくことに成ッたか、 帆桁の上で搖々《ゆる/\》と蹌踉《よろめ》いた 『アヽ危い』との聲が、我れ知らず觀る人の口を發し、 彼れ自身も『苦《あつ》』と叫んだ、是れが人々の彼れを見た終りである、 彼れも亦人々を見た終だらう、彼れの足は踏辷《ふみすべ》ッた、 彼れの身は帆桁の上から幾十 尋《ひろ》の海に落ちた、 吁《あゝ》、彼れは人を助けて自分が其の身代りに爲たのだ、 人を助ける力は有ても自分を助ける力は無かッた 直《すぐ》に四艘の端艀《ぼーと》が彼れの爲に卸された、 若し彼れを助け得ずば、人に對して言譯の無い落度だと、 船長も水兵等一同も思ふて居る、端艀《ぼーと》は逆卷く波を冐して縱横無盡に海を探ッたけれど、 浮上つて來ぬ、他の船舶も斯くと見て端艀《ぼーと》を卸し、 及ぶ可きだけの捜索に力を添へたけれど、無益である、 斯くて夜に入るまでも捜索を續けたけれど終に老囚人の死骸を得なんだ 此邊の海底は、深い海草が繁ッて居る、蜑《あま》さへも之に搦《からま》ッて死する事が有る、 死で死骸の上らぬ事は稀では無い、多分彼の老囚人は海草に搦《からまれたのだ、 天の網に罹ッて居るのが更に海草の網に罹たのだ 此翌日則ち千八百二十三年十一月十七日此土地の新聞に左《さ》の記事が出た、 『昨日オリオン號にて、人を救ふて却て自《みづか》ら水死した義侠なる老囚人は遂に死骸だも浮び上がらず、 彼れは當地の獄に第九千四百三十號として服役せし者にして名を戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ云々《うんぬん》』 全く彼れは、讀者の察したゞらう通り戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》であつた、 斯の如くにして、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は全く死人の數に入ッた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十七 X節《クリスマス》の夜 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は全く死人の數に入て以來、音沙汰が無い、 勿論音沙汰が有る筈が無い、多分は藻屑と爲て海底に眠ッて居るのだらう 彼れが海に落ちた年の暮である、一年に一度のX節《クリスマス》の夜とは爲ッた、 X節《クリスマス》が何の樣に祝はれ全國到る處が何の樣に賑ふかは殊更記す迄も無い、 常に彼れの氣に掛ッて居た少女小雪の預けられて居るモントファメールの如き田舍の驛馬さへ、 見せ物や夜店が出て、相當に繁昌し、不斷は多く客の無い軍曹旅館も四五組の客を得た 抑《そもそ》も此のモントファメールと云ふ市《まち》は山の山腹とも云ふ可き所に在て、 常に飲料水《のみみづ》が乏しい、町を離れて二十町も行き、 崖の下に在る泉を汲んで來るのだ、晝間は水を賣りに來る者が有つて軍曹旅館なども、 其れを買て使ふけれども夜に入れば水賣が來ぬ、 桶が空になれば馬桶《ばけつ》を提《さ》げて暗《やみ》の中を二十町も汲みに行かねば成らぬ 此の水汲が當年 僅《わづ》か八歳の少女小雪の役目であるとは、 殆ど嘘の樣だけれど嘘で無い 讀者の既に知る通り、小雪は軍曹旅館の主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》夫婦に全く下婢として使はれて居る、 取分けて母親華子からの仕送りの絶へて以來は使ひ方が一入《ひとしほ》劇しく、 轉《いと》ど痩せ細つた身が全く凋《しな》びた樣になり、 頬も落ち眼《まなこ》も凹み、美しかつた母の面影に似も附かぬ醜い容貌とはなつて居る、 此樣な少女が、肥え太つた逞しい主婦に追廻されて居るのだから近所の人が、 象に小鼠の使はれる樣な者だなどゝ噂するも無理は無い、此夜も小雪は、 臺所に在る卓子《てーぶる》の下へ、身を縮めて蹐《しや》がみ込み、 一方から洩れて來る燈光《あかり》に透かして靴下を編で居る、 此靴下は主婦《あるじ》の娘 疣子《いぼこ》痣子《あざこ》が穿《は》く物で此の卓子《てーぶる》の下が小雪の居所である、 卓子《てーぶる》の下ならば主婦《あるじ》の邪魔に成らぬ、叱られて鞭《むちうた》るゝ時、 幾等か鞭を避けることも出來る 其樣な事から自然と茲《こゝ》が小雪の居間とは成て居るが、 外の者は身體が支《つか》へて此樣な所へ這入て居ることは出來ぬ、 是れで小雪の身が何れほど小さいかも分り、 日頃何の樣に扱はれて居るかも推量せられる、全く小鼠の境遇である、 犬猫ほどの待遇は決して受けて居ぬのだ 靴下を編みつゝも小雪は時々に何事をか考へ込む容子である、八歳の少女が、 心に屈托を持て居るとは、餘り不思議な樣だけれど、 年は八歳でも艱難に老て居るのだ、其の考へるは何事だらう、水桶に水の少いのが心配なんだ、 毎《いつ》も夜に入て汲に遺られるが辛《つら》いから成る可く晝間から水の切れぬ樣に用心はして置くけれど、 今日は餘計に客が有て水を使た、何うか今夜中、足りて呉れゝば好い、 此上に若し水を要する事が有ては大變だよ、 獨り氣遣つて斷間《たえま》無く主婦《あるじ》の擧動や店先の容子に目を配るは小い心に何れほど重荷だらう 主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》は帳場に居て、 客を相手に頻《しき》りに昔し水[土|婁]《ウヲタルー》の戰爭に出た手柄話しを仕て、 『私しが少佐本田圓《ほんだまるし》を助た時の危險などは確に勲章の價値《ねうち》が有ります』 などと云つて居る、實に嘘ばかりだ、死骸を剥ぐ樣な『戰場 盗棒《どろばう》』に何で勲章が下る者か、 彼れの妻は此の話を小耳に聞きつゝ竈《かまど》に向ひ蒸煮《しちう》を拵らえて居たが、 餘り料理が上手で無いと見え鍋を焦附かせ『オヤ水を差さねば』 と云て盃《こつぷ》を取ッて水桶の所へ行き蛇口を捻《ひね》ッた、 是を見て居た少女小雪は卓子《てーぶる》の下で戰慄した、最う助かる道が無い 愈《いよい》よ水汲に行かねば成らぬ時が來た樣だ、 けれど蛇口から僅《わづか》ばかり水が垂れ、 女主人《をんなあるじ》の持て居る盃《こつぷ》が八分目ほど滿ちた、 女主人は『オヤ水が切れた』と呟いたが、汲で來いとは云はぬ、 多分は云ふ暇が無いのだらう、直《すぐ》に鍋の所へ引返して水を差し鍋の中を掻まぜた、 此とき厩《うまや》の方から、客の一人が來て『何うだらう、 今夜の暗さは、市《まち》は夜店の明《あかり》が有ッて爾ほどにも思はぬが、 裏へ出ると眞の暗《やみ》だ、馬も恐がッて歩き得ぬ』と云つた 小雪は之を聞て又身震した、此上に若し一人でも客が有れば何うしても水汲に行くのは逃れぬ、 馬さへも恐がる暗《やみ》に、木の中に細道を潜り、 崖の下まで行くことが出來る者か、今の客は又云ふた 『内儀《おかみ》さん、内儀《おかみ》さん、未だ己《おれ》の馬に水が遺て無いのだぜ』 愈《いよい》よ小雪の運は盡きた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十八 X節《クリスマス》の夜 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『未だ己《おれ》の馬に水が遺て無いのだぜ』此一語が小雪の耳には殆ど死刑の宣告の樣に響いた、 最う何うしても水汲みに行くのは逃がれぬ 女主人《をんなあるじ》は何氣なく答へた『其樣な事は有りません、 宵に水を遺た筈です』客は言葉に力を籠めて『イヤ遺て無いよ、遺て無いよ』 小雪は穴を出る鼠の樣に、恐々《こは/\゛》卓子《ていぶる》の下から這出て 『先程水を呑せましたよ、私しが馬桶《ばけつ》に一ぱい提げて行て、 爾して私しと馬とお話しを仕ましたわ』是は嘘である、 境遇の辛さ苦しさが八歳の少女に此樣な嘘を云はせるのだ、 客は嘲り笑ッて『何だ此の少女《こをんな》は、 鼠の樣な小い身體で象の樣な巨《でか》い嘘を吐《つ》いてさ、 何アに水を呑だか呑ませぬかは馬の呼吸《いき》で己《おれ》には分る』 最う何と云ひ拔ける道も無いけれど、小雪は猶ほ言脱《いひぬ》けやうと勉めた、 聞くも痛々しいほど憐れな聲で『澤山に水を呑ませたのに』 客は面倒と云ふ風で『何でも好いから、直《すぐ》に水を遺て呉れ』 小雪は小くなつて又 卓子《てーぶる》の下のズッと奥の方へ引込で了つた 此とき女主人《をんなあるじ》は蒸煮《しちう》鍋から離れて 『お客樣が水を遺れと仰有《おつしや》れば何度でも遺るが好い』 と云ひつゝ四邊《あたり》を見廻して『オヤ、那《あ》の餓鬼は今 茲《こゝ》に居たと思へば又 隱れて了つた、 コレ小雪、小雪、オヽ那《あ》の樣な奥へまで引込で、 コレ出て來ぬか』小雪は詮方無く又出て來た、 女主人『サア直《すぐ》に厩《うまや》へ行つて、馬に水を遺て來い』 下女に云ふよりも猶ほ邪慳な言ひ樣である、小雪は泣かぬ許りの聲で 『水は有りませんもの』女主人『無ければ崖下へ行て汲で來るのさ』 汲で來るのさと、言ふのは造作無いけれど、暗闇を廿町も、小雪の足では一時間掛る、 重い桶を下げ寒い夜風に吹かれて、アヽ是れが八歳の少女に出來る事だらうか、 小雪が恐れ戰《おのゝ》くも尤もだ 『サア茲《こゝ》に馬桶《ばけつ》が有る』と主人《あるじ》は土間の隅から大な亞鉛《とたん》の提《さ》げ桶を投出す樣に小雪の前に置いた、 小雪の身體よりも桶の方が大きい、小雪は悄々《しほ/\》として、 桶の蔓《つる》に手を掛けた 『爾して歸りには麪《ぱん》を一斤買て來るのだよ』と女主人《をんなあるじ》は言足した、 十五錢の銀貨一個を投與へた、小雪は腰の邊《あたり》に在る衣嚢《かくし》の中へ之を入れて、 猶も出兼る容子に見ゆるを、女主人《をんなあるじ》は容赦も無く店先の戸を引明け 『サア早くだよ』と怒鳴た、小雪は宛《あたか》も其の聲に吹飛される樣に、 提《さ》げ桶と共に轉がつて外に出たが、外には夜店の燈明《あかり》が所々に燻《くすぶ》ッた光を放ち、 暗《やみ》の中に各々領分を占めて居る 夜店のうち、直《すぐ》に軍曹旅館の筋向に在るは子供の玩具《おもちや》を賣る店で、 最も人の目に附く所へ、看板同樣に大きな人形を立てゝある、身長《みたけ》が二尺も有ッて、 縮緬《ちりめん》の美しい着物を被《き》、肩に艶やかな髪の毛の懸ッた愛らしさは、 通り掛る女の兒の足を引留め、立去り得ざらしむる程の力が有る、 小雪が主人の娘 疣子《いぼこ》痣子《あざこ》の兩人も晝間から幾度《いくたび》と無く此の店先に立て此の人形に見惚《みと》れるけれど、 何しろ容易ならぬ直段[誤:値段]だから母に強求《ねだ》るほどの勇氣も出ぬ、 強求《ねだ》れば直《すぐ》に叱られるのが見えて居るのだ 小雪は苦痛の中ながらも流石は女の兒だ 此の人形を見ると共に、桶を持たまゝ足を止め、殆ど何も彼も打忘れた樣に見惚《みと》れた、 此子の目には此の玩具《おもちや》店の美しさが宮殿の樣にも見え、 人形の姿が皇女とも天女とも見えるだらう、 一目若しも此樣な美しい着物を被《き》たら何うだらう、 何時《いつ》までも此人形を眺めて居る事が出來たなら何の樣に嬉しからう、 小雪は知らず/\゛口を開き、細語《さゝや》く樣な聲を洩して、 何か人形に話し掛けて居たが、此時忽ち背後《うしろ》から大喝一聲に 『未だグズ/\゛して居るのか』と叱つたのは女主人《をんなあるじ》の聲である 桶を提げたまゝ小雪は逃げた、逃て暗《やみ》の中に入た、 此の軍曹旅館は殆ど町の盡《はづ》れる邊《あたり》に在るので、 直《すぐ》に小雪の身は水汲みに行く細道へ差掛つたが、 勿論 茲《こゝ》には夜店も無く燈明《あかり》も無い、 全く先程の客の云た通り馬さへも恐れて歩み得ぬ樣な暗さで有る、 其の中を只だ獨りで、深く/\歩で行く小雪の恐しさは何れほどだらう、 其上に夜の寒いに少《ちひさ》い手が膨物《はれもの》の樣に凍え、 多分は覺えをも失つたゞらうと察せられる、幾度《いくたび》小雪は足を留めたかも知れぬ、 足を留めて逃返らうとしたけれど其の度に女主人《をんなあるじ》の叱り聲が耳に響く樣に思ひ、 辿り又辿ッて終に崖下の泉の所に着た、幾度も來慣れて居る道とは云へ、 真暗の中で、道を踏み迷はなんだのが不思議である 爾して先づ、漸《やうや》く水を汲み上げた、けれど小雪は知らなんだ、 汲む爲に俯向《うつむ》いた時に、衣嚢《かくし》の中から、 麪麭《ぱん》を買ふ爲の彼の十五錢銀貨が水中に落ちた、 今は全く其の銀貨を渡された事さへ忘れて居るのだ、 ホッと息して水の滿ちた桶を足許に据ゑ、更に立上らうとしたが最う力が盡きた、 重い桶は少しも上がらぬ、 漸《しばら》く桶に凭《もた》れる樣にして休んで居ると目の前の闇の中に何か立て居る樣にも感ぜられる、 疑心暗鬼と云ふ者だらう、誰とても暗闇に獨り居れば、 何だか怪い者が身邊《しんぺん》を徘徊する樣に思はれて益《ますま》す恐しさの募《つの》る者だ、 小雪は確に化物が居るのだと思た、最う猶豫する力は無い、 桶を提げて逃げた 恐れは力を生ずるのだ、何うか斯うか桶は小雪の手に隨《したが》ッて上ッた、 けれど四五間行く間に、水が溢れ、爾なきだに薄着に震へて居る小雪の腰から下を浸した、 けれど寒いとも云はぬ、云ふ暇さへも心に無いのだ、 蹌踉《よろめ》いては歩み、行きては休み、又幾間をか歩んだが、 水は次第に減るけれど、重さは益《ますま》す加はる樣に思はれ、 果は只の一歩も歩み得ぬ事に成た、人間の悲慘の極とは此事である、 曾《かつ》て神の何たるを思ふた事も無い小い口から知らず/\神の御名《みな》が洩れて 『神さま、神さま、助けて、助けて』吁《あゝ》、 是より上の切なる祈[しめすへん|壽;u79B1]《きたう》が世に有らうか、 若し人を助くる神あれば今此の小雪を助けねば成らぬ、 不思議にも神は有ッた、願ひの聲の終ると共に、桶は輕々と提《さ》げられた、 確に何物か桶の手に手を掛けて居る、小雪は共に提《さ》げて居る、 其の頑丈の手が小雪の手に觸れた、アヽ神で無く人である、 誰か闇の中で分らぬけれど男である、小雪の背後《うしろ》に立添ふて手を延ばし水桶を輕々と提げて居るのだ、 小雪は恐れ戰《おのゝ》く筈で有るのに少しも恐れぬ、 恐ろしい樣な氣がせぬ、若しや亡き母華子が草場の影から見張て居て、 恐れるに及ばぬ事を知せるのでは無からうか、其れとも蟲が知らせると云ふ者だらうか、 小雪の胸には何と無く頼もしい樣な心が滿ちた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 四十九 X節《クリスマス》の夜 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 小雪の持てる水汲桶に手を添へたは何者だらう、 小雪が水を汲んだ後で何だか暗闇の中に化者《ばけもの》の佇立《たゝず》んで居る如く感じた其化物だらうか、 其れとも小雪が只た今『神樣』とて助けを呼んだ其の神樣だらうか、 勿論小雪自らも知らぬ、知らぬけれど、唯だ頼もしい、唯だ有難い、 兎も角も助けられたのだ *    *    *    *    *    *    * 此の同じ日の晝頃の事であつた、巴里《ぱりー》のホビタル街と知られた極淋しい巷《ちまた》に、 宿りをでも求むるかと思はれる風で烏鷺《うろ》ついて居た一人の男が有つた、 頭の毛の眞白な所を見ると六十以上かとも思はれたが、踏む足の確かな所から骨組みの堅固で、 身の行《こな》し方の最《い》と敏捷な所を見ると、 見掛けより十歳以上も若からうかと思はれた、併し孰《いづ》れにしても壯年の人では無い、 確に老人は老人だ、老人ながら人に優れた體格を持て居るのだらう、 左の手には手巾《ハンケチ》に結んだ小い包を提げ、 右には有合《ありあひ》の木の枝を折取て作ッた樣な粗末な太い杖《すてつき》を握ッて居る、 大抵の犬は之を見て吠えずに逃る、爾して此人の衣服《みなり》は先づ貧民である、 けれど貧民ならば餘ほど潔癖の貧民だらう、襤褸《ぼろ》に等しき其の着物も垢じみては居ぬ、 洗濯の上にも洗濯した樣な者で、帽子とても擦切れるほど古いのだけれど能く刷子《ぶらし》が行き屆いて居る、 賤《いや》しい衣服《みなり》では有るけれど、穢《きたな》いのでは無い、 頓《やが》て此人は、街《まち》の隅に隱れた樣な人目に附かぬ貸二階を借りた、 是で先づ身を置く所が出來たと、聊《いさゝ》か安心した風で再び町へ出たが、 其實此人の身には何故だか安心と云ふことが無かッた、絶えず不安心が着き纒《まと》ふて居た 此の頃は丁度國王の路易《るい》十八世が毎日の樣にロイと云ふ所へ幸《みゆき》する時で有ッて、 二時頃には必ず馬車で此町を通ッた、 此邊を往來《ゆきゝ》する人は國王の馬車の音を聲《き》いて少しも怪まなんだ、 恰《あたか》も此人が二度目に町へ出た所であつた、此人の背後《うしろ》から馬車が追掛ける樣に轟いて來た、 此人は、多く此邊に來慣れた者では無いと見える、 云はゞ警察の馬車の音に驚く逃亡人の樣に、顏色を變へて背後《うしろ》に向き、 其の馬車を見るが否《いな》や、身を避けて横町の物蔭に隱れた、 けれど有《あま》り旨くは隱れ果《おほ》せなんだ、此日國王の馬車に陪乘して居たのは警務長官ハーブル侯爵である、 侯爵の鋭眼《えいがん》は早くも身を避けた此人の背影《うしろすがた》を認め、 國王に細語《さゝや》いた『陛下よ、怪しげな者が見えます』と云ひ、 直《すぐ》に馬車の戸を開いて、路を警備して居る警吏の一人を呼び、 今横町に曲ッた男を追跡して、其結果を報告せよ』と命じ、爾して馬車は再び進んだ 命ぜられた警吏は無論追跡した、 町から町へ經廻つて決して彼れの背影《うしろすがた》から目を離さぬ樣にしたけれど、 彼れも滿更の素人でないと見え、自分の追跡せられて居る事に氣が附き、 日の暮ごろに及んで、到頭警吏を振捨て了つた、警吏は甚く殘念だつたけれど、 見失つた後では如何とも仕方が無い、好し、今度若し廻り合たら、 何うしても報告の出來る丈けに突き留めねばと呟いて立去つた 其の後で彼れは又廻り廻つて、田舍行の乘合馬車の出る所へ行き、ラグニーまでの切符を買て之に乘た、 ラグニーとは此話に[尸/婁;u5C62]《しばし》ば出るモントファメールと同じ街道で更に其の先に在る驛なんだ、 馭者は彼れの貧乏らしい姿を見て聊《いさゝ》か眉を顰《ひそ》めたけれど、 別に着物が垢じみて居るでも無く、 乘合客を厭《いや》がらせるやうな惡臭を放つ譯でも無いから切符を賣たが、 頓《やが》て馬車は出發し、行き行きてモントファメールの手前まで行つた、 此時夜は既に九時に近かッた、彼れは茲《こゝ》で下車した、 下車すると同時に其の姿が無くなつた、馭者は自分の怪む心を制し得なんだ、 彼れは他の客に語ッた『今の老人は何者でせう、 貧乏人の風をして居て、其實あらい贅澤です、 此《こゝ》まで來るのにラグニー迄の切符を買ました、只だ錢を損して居ます』 或は再び乘るだらうかとも思ッたが終に乘らなんだ、 のみならず老人が何處へ行たか暗《やみ》の中だから誰も見た者が無い けれど老人は消て了つた譯でも無い、暗《やみ》を潜つてモントファメールの山の方へ辿り行た、 此山は先頃 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が大金を隱したのでは無からうかと疑はれた其山である、 老人は暗《くら》やみながら路を心得て居ると見え誰に向つても問ひもせぬ、 問はぬのみか若し行く手に人の足音らしい者が聞えると直《すぐ》に道の脇の溝の中へ蹐《しやが》み、 自分の姿を認められぬ樣にして其の足音を遺り過した、 仲々深い用心を持て居る、斯くの如くにして彼れが終に山に行たのは、 小雪が水を汲んだより一時間も前である、山の中で何をしたかは、 此老人の誰かと云ふ事を察して居る人の大抵は察した所だらう、 彼れは一時間以上も山の中で仕事をして、又 徐々《しづ/\》と崖下に降りて來た、 降りて來て小雪に逢ひ、其の水汲桶の重さに惱んで居る状《さま》を見た、 素《もと》より小雪と云ふ事は知らぬ、只だ憐む可き少女だとのみ思つた、 彼れはなか/\に憫《あはれ》みの心の深い質《たち》と見える、 小雪とも誰とも知らずに自分の手を貸し、其の桶を提げて遺つた、 イヤ容易には提げて遺らなんだけれど小雪が神の助を呼ぶに至つて、 聞くに聞きかね、殆ど我れ知らずに手を下したのだ、 是が何者の引合せと云のでは無からうか、 人間の世の中には到底人間の力を以て知る事の出來ぬ運命が澤山ある、 其運命が奇妙不思議に人間を繰《あやつ》るのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十 X節《クリスマス》の夜 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 小雪は、水桶を提げて呉れた其人の顏を見やうとした、けれど暗《やみ》の中で能くは見えぬ、 其人も小雪の顏を窺《のぞ》き込む樣にして『イヤ此桶は仲々重い、 此の老父《をぢ》さんが持て行て遺らう』と云ふた、 顏は見えねど自ら老父《をぢ》さんと云ふからには可也の老人に違ひ無い 聲も若い人の樣には聞えぬ、小雪は今まで何人をも『老父《をぢ》さん』などゝ親げに呼だ事は無い、 けれど此時ばかりは有難さに思はず爾う呼んだ『老父《をぢ》さん、老父《をぢ》さん』 老人『オヽお前は幾歳《いくつ》だへ』小雪『八歳《やつつ》です』 老人『八歳《やつつ》で此樣な桶を持て』小雪『ハイ水を汲みに來たのです』 話は疊《たゝ》み掛ける樣に、後から後からと續いて出る、 老人『オヽ水を汲みに、此山の中へ、シテ何處から』小雪『廿丁ほど先からです』 老人は少し考へて『廿丁も暗《やみ》の中を、餘ほど無慈悲な母親だと見える』 小雪『私しには阿母《おつか》さんは無いのです』 老人『ナニ阿母《おつか》さんが無い』 小雪『ハイ皆んな阿母《おつか》さんが有るのに私しには無いのですよ』 と云ひ、老人が語を繼がぬうちに『多分初から無いのでせう、 見た事が有りませんもの、爾です聞た事も有りません』 老人は益《ますま》す深く心を動した容子で、頓《やが》て水桶を下に置き 『能く似た身の上も有る者だ』と呟いて、左の手を小雪の頭に、右の手を小雪の顋《あご》に掛け、 小雪の顏を引起して透し見つゝ『シテお前の名は何と云ふ』 此樣にせられても小雪は更に恐れを感ぜぬ『ハイ私しの名は小雪』 『エ、エ、エ、小雪』と老人は叫んだ、眞に跳返るほどに驚いたらしい、 彼れは暫《しばら》くにして又桶を取上げて歩みつゝ『オイ小雪、小雪、小雪と云ふのだな、 家《うち》は何所《どこ》』と何げ無く問ふた、小雪『家《うち》はモントファメール』 老人『誰が此樣な水を汲ませる』小雪『手鳴田《てなるだ》の内儀《おかみ》さんが』 老人『オヽ手鳴田《てなるだ》の内儀《おかみ》さんが、シテ其家は』 小雪『宿屋』老人『丁度好い、宿屋なら私も泊て貰はう』 小雪は道を案内する如く先に立て歩んだ 歩みつゝも時々に背後《うしろ》を向き、暗《やみ》の中にも 『老父《をぢ》さん』の顏を見上るは宛《あたか》も主人の前に歩む飼犬の樣である、 深い安心と親みが自《おのづ》から現れるのだ、老人『お前の外は下女は無いの』 小雪『有りません、疣子《いぼこ》痣子《あざこ》と云ふ二人の娘が有るばかり』 老人『其の娘は何をして居る』小雪『人形や玩具《おもちや》を澤山持て遊んで居るの 私しには一個《ひとつ》も人形が無いの、小さい鉛の小刀が有る許りなによ、 短い之れほどの』とて自分の指を出して示した、 老人『小刀を玩具《おもちや》にするとは危いが』 小雪『鉛だもの切れないワ、蠅の首や何んかは切るけれど』 幼《いとけ》ない物語りが深く/\老人の心に浸み込む容子だ 斯くて二人はモントファメールの町に入つた、 小雪は先刻 女主人《をんなあるじ》から麪《ぱん》を買て來いと命ぜられた其の麪屋《ぱんや》の前をも過ぎたけれど、 胴忘れに忘れて麪《ぱん》の事は思ひ出さぬ、其うちに軍曹旅館 手鳴田《てなるだ》の家の近くへ來た小雪は踏み留ッて 『最う其桶を私しが持て行きませう』老人『何で』小雪『自分で持たねば内儀《おかみ》さんに叱られます』 老人は桶を小雪の手に持たせて、直《すぐ》に旅館の前に達した、 小雪は戸を叩かうとしたけれど、其れよりも前に先づ、 夜店の大な人形に、欲し相な目を注いだ、欲がッたとて、屆かぬ望みでは有るけれど小供心に、 目を注がずには居られぬのだ 戸を叩くが否《いな》や、内から待て居た樣に引開けたは内儀である 『此子は先《ま》ア、何と云ふ遲い事だ、又途中で道艸《みちぐさ》を喰て居たのだらう、 最うお客樣が、水は、水はと三度も俵促[誤:催促]なさッたのに』 小雪は此に返辭はせず『内儀《おかみ》さんお客樣です』と彼の老人を指し示した、 お客樣と云へば小言の鉾先が反れるのだ、幼いながらも苦められてのみ居る丈に是れだけの防禦法は知て居る、 果して内儀は飛附く樣に『エヽお客樣、お客樣、サア此方《こちら》へ』と云ひ、 戸の外へ顏を出して其姿を眺めたが、貧民かとも思はれる程の身形《みなり》で、 飛附くほどのお客樣では無い、直《すぐ》に言葉の調子を冷淡にして 『オヤ貴方はお泊りなの』夜更けての客だから、問はずともお泊りに極て居る、 老人は『ハイ泊めて貰ひませう』と云て内に入た、内儀は更に其姿を見直したが、 愈《いよい》よ好ましい客で無いから、帳塲の方を見返て亭主の顏色に相談すると、 之も苦々しげに顰《しか》んで、斷れとの意が浮かんでゐる、 内儀は直《すぐ》に『アヽお泊りならば生憎ですよ、寢間《ねま》が皆塞ッて居ますから』 殆ど昔し戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》がダインの宿屋で斷られた時の樣な状《さま》である、 老人『ナニ寢間《ねま》に及びません 馬屋でも屋根裏でも宜しい、泊り賃は寢間《ねま》を借りたと同樣に拂ふから』 亭主『では四十錢申受けます』老人『宜しい』と事も無げに答へたが、 亭主の傍に居た先客は驚いた『何だ寢間《ねま》代が四十錢、 先日まで廿錢で有たのを何時《いつ》引上げた、四十錢では、 己《おれ》は町 盡《はづ》れの宿へ宿替せねば』 亭主は値上をしたのでは無いのです、下等の客だけ高く取るのです、 爾せぬと次第に低い客種が増して好いお客が厭《いや》がる樣に成りますから』 隨分亂暴な言ひ分であるけれど、 低い客種と云はれた彼の老人は聞かぬ振で卓子《てーぶる》の所へ腰を掛けた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十一 X節《クリスマス》の夜 五 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 食卓に向ッて老人が腰を卸すと、直《すぐ》に小雪は酒一瓶を持て行て其前に置いた、 之は小雪の兼て言附ッて居る役目である、 何でも客に酒を飲ませて勘定を嵩《かさ》ませるのが此宿屋の憲法なんだ 爾して小雪自らは例の通り一方の卓子《ていぶる》の下へ潜り込み、 疣子《いぼこ》痣子《あざこ》の爲に靴下を編み初めた、 けれど彼の老人は其の酒を飲まうとせぬ、何だか陰氣に考へ込んで小雪の有状《ありさま》を眺めて居る 酒は呑まぬ客と有つては、内儀の機嫌が益《ますま》す惡い、 無分別に酒を呑み、財布の底を叩《はた》くのが此宿屋には上々の客なので、 唯眞面目に泊ッて立つ客は縦《よ》し宿《とま》り賃を二倍拂たとて知れた者だ 客は小雪の有樣に、心を動かさゞるを得ぬ、着物と云へば冬夏推通しの襤褸《ぼろ》一枚、 夏は何れ程か熱苦しい事だらう 冬は凍え死なぬのが不思議である、顏とても、 若し肥てでも居れば或は美しく見えるかも知らぬけれど、 痩せて頬骨の出た今の儘では先づ醜婦だ、色は青くて目ばかりが大きく光り、 總體の上に少しも釣合が取れて居ぬ、全く艱苦に凋《しな》びた者だらう、 此《こゝ》まゝで置けば遠からぬ中に、醜婦たることさへ得ずに骸骨と爲て了ひ相だ、 客は我れ知らず嘆息を發したが、此とき内儀は忽ち思ひ出した樣に、 小雪の居る卓子《てーぶる》の下を窺《のぞ》き『小雪、小雪、先刻言附けた麪《ぱん》は何うした』 と荒く問た、小雪は胴忘れに忘れて居たのを、愕然と思ひ出した、 けれど忘れて居ましたとは答へ得ぬ、口籠る樣な聲で『麪屋《ぱんや》が寢て居ました』 と嘘を答へた、内儀『寢て居れば戸を叩くが好いでは無いか』 小雪『叩いたけれど起て呉れませんでした』アヽ八歳の兒をば、 嘘を吐《つ》かねば成らぬ樣な境涯に立せるとは是ほどの深い罪惡が他に有らうか、 此罪惡は誰が作る、社會が作るのだ、内儀『好し、好し、全く麪屋《ぱんや》が寢て有たのか、 寢て居なんだのかは明日に爲れば分る事だ、サア先刻の銀貨をお返し、 麪《ぱん》代として渡した十五錢の銀貨をサ』 小雪『ハイ』と云て衣嚢《かくし》の中を探ッたが、探ると同時に青い其の顏色が灰色と爲ッた 銀貨は水汲む時に落したのだから衣嚢《かくし》の中に在る筈が無い、 此ときの小雪の狼狽した状《さま》は何とも譬へられぬ、 小い手で幾度《いくた》び其の衣嚢《かくし》を裏返したかも分らぬ、 探しては又探し、果は眼《まなこ》一ぱいに涙を浮べた、 内儀は其れと見て『サア十五錢の銀貨を何うしたよ、 落したなどゝ云て盗まふとて爾は行かぬ、お出しよ、サア出さぬか』と口ぎたなく責めた、 此 状《さま》を見て居た彼の老人客は密《ひそか》に自分の財布を取出し頻《しき》りに中を探して居たが、 遂に一個の銀貨を取出し『内儀《おかみ》さん之では無いか、 今其兒が衣嚢《かくし》を引返すた時に轉ッて來たのだらう、 コレ茲《こゝ》に光ッて居る』と云ひ、宛《あたか》も床から拾ひ上げる樣に俯向《うつむい》て取上げつ、 内儀の前に差出した、生憎に此銀貨は廿錢である、 小雪の預ッた十五錢銀貨よりは直打[誤:値打]《ねうち》が多いけれど、 内儀は手を出して受取た、爾して變な顏をしたけれど、銀貨が成長したとでも思つたのか 『アヽ是れかも知れません』と云て受納め『本統に此兒は茫《ぼん》やりだよ』 と捨言葉を以て機嫌を直した 斯る所へ、外から疣子《いぼこ》痣子《あざこ》が歸て來た、 之は夜店を見て行て居たのだらう、爾して兩女《ふたり》は人形其他の玩具《おもちや》を出し、 小雪の居る所から少し離れた所で遊び初めた、 抑《そもそ》も小雪と此 兩女《ふたり》と三人の年齡を合せた所で二十歳には滿たぬのだけれど 此三人の間に既に社會と云ふ現象が現れて居る、 富める者か心驕《こゝろおごつ》て貧い者を擯斥《ひんせき》する状《さま》と、 貧い者が羨みの心を以て富める者の爲す所を眞似したげに望み見る状《さま》とが、 實際の社會に現はれるよりも能く著《あらは》れて居る、 小雪は暫《しば》しが間樂しげな疣子《いぼこ》痣子《あざこ》の有樣に目を取られ、 手に持つ針が留守に爲ッた、スルと内儀の鋭い眼《まなこ》が之をさへ、見て取て 『小雪、小雪、何だッて其樣に懶《なま》けるのだ、早く其の靴下を編み上げぬと、之だよ』と云て、 一方の柱に掛ッて居る采配を取つて振上げた、 毎《いつ》も毎《いつ》も小言と共に無慈悲な鞭《しもと》の下る事は小雪の身體に所々紫色の痕《あと》の附いて居るので分ッて居る、 小雪は『御免下さい』と云ても鞭《しもと》の屆かぬ卓子《てーぶる》の下の奥の方へ小く爲り、 同時に編物針を取り上げた、老人客は此の時、何に氣なく内儀に向ひ、 [『]今夜はX節《クリスマス》だから那《あ》の兒を遊ばせてお遺り成さいな』と云つた、 實は見るに見かねての言葉であらう、若し通例の客が斯かることを所望せば、 内儀は無論應ずるのだけれど、襤褸《ぼろ》の樣な着物を被《き》、 骨の現れた樣な帽子を冠て居る客が、 明ら樣に『所望』を述べるとは怪《け》しからぬと内儀は心の底に持て居る 『那《あ》の兒だつて食ひますもの、稼がねば何を喰ひます』と答へた、誠に嚴重な論法である、 骨と皮ばかりに成て居る那《あ》の兒が果して食て居るや否《いなや》は疑問であるけれど、 打消す譯には行かぬ、客は柔かに『成るほど、靴下を編むのが何れ税[誤:程]《ほど》の稼ぎに成りますか』 と問返した、内儀『爾ですねえ編上るのに五日掛るか七日掛るか分りませんが、 編上げたなら、靴下ですから一足三十錢ぐらゐの直打[誤?:値打]《ねうち》は有りませう』 客『では那《あ》の兒の今編で居る靴下を私しに賣て下さい五圓に買ひませう』 三十錢の靴下を五圓とは、氣違の相塲である、けれど賣る方に取ては惡くは無い、 帳塲なる主人《あるじ》の傍に居た一客は驚いて『オヽ靴下一足が金貨に賣れるのだ旨い商法だなア』 内儀は自分が冷やかされとでも思たか大きな目をして老人客の顏を見詰る許りで返事が無い、 主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》は口を出す可き塲合と見て取り 『折角の思召《おぼしめし》だから五圓で賣りませう、 私し共は何事でもお客樣のお望みと有れば斷る事の出來ぬ性分ですから』 兎に角も五圓の金貨と有れば見逃す事の出來ぬ性分で有るとは分て居る、 妻は簡單に『即金ですよ』と言足した、老人客は直《たゞち》に五圓の錢を出して卓子《てーぶる》の上に置き、 其上で小雪の居る所に向ひ『サア其の仕事は私しが買たから最う爲《す》るに及ばぬ 遊ぶが好い、サ安心してお遊びよ』と言渡した、 昔からX節《クリスマス》の晩には寳物を澤山に持た優しい神樣が現れるとの言傳であるが、 確に小雪の前には其の神樣が現はれたのだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十二 X節《クリスマス》の夜 六 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 唯だ『働け、働け』とのみ鞭《しもと》を以て酷使はれて居た小雪の樣な者が、 不意に『遊ぶが好い』との許可《ゆるし》を得るは、餘りの事で夢の樣にも思ふだらう、 小雪は驚いて目を開き、老人と内儀の顏を見上げたが、頓《やが》て恐々の聲で 『遊でも好いのですか』と内儀に問た、内儀は小雪の手仕事が五圓に成たのは嬉いけれど、 此樣な者を樂々と遊ばせるのは忌々しい、と云て拒む譯には行かぬから、 腹の立つ樣な聲で『勝手におし』と云つた云ひ方は邪慳でも勝手にせよと云ふからは許可《ゆるし》である、 遊んでも構はぬのだ、此の許可《ゆるし》ほど小雪の身に有難いことは無い、 小雪は口で『有難う』と内儀に向ッて云たけれど心は深く老人の恩を感じた 内儀は不興氣に亭主の傍に行き、囁き問ふた『此の見すぼらしい老人は何者でせう』 亭主は、知て居る樣に『大金滿家と云ふ者は、故《わざ》と貧民の風などして旅行する事の有る者だよ』 と答へた、兎も角も此老人は尋常者《たゞもの》では無いと亭主は睨んで居るらしい 斯る間に小雪は編物の箱を片附け、其まゝ卓子《てーぶる》の下を天地として遊び初めた、 遊ぶとても別に遊ぶ方法は無い、後にも先にも只た一個《ひとつ》の玩具《おもちや》たる鉛の小刀を取出したのだ、 爾して一方を見ると此家の疣子《いぼこ》痣子《あざこ》が人形を持て遊んで居る、 凡そ小供の身に、若し必要缺く可らざる者が有るとすれば、其れは人形だ、人形ほど大事な、 人形ほど欲い羨ましいものは無い、人形を持たぬ女の子は、 子を持たぬ細君ほど不幸である、可愛相に小雪は小刀を出したけれど少しも面白く無いと見え其小刀を人形に見立てゝ、 之れに着物を被《き》せ初めた、着物と云ふのは古い手拭なんだ 是等の有樣を尻目に掛けて内儀は老人の傍に引返した、 何と無く此老人を憎い樣には思ふけれど若し亭主の云ふ通り姿を窶《やつ》した大金滿家でゝも有るならば能く待遇《もてな》さねば成らぬのだからズッと言葉を丁寧にして、 『本統に子供と云ふ者は世話の焼ける者ですよ』と用も無い雜話を持出し 『先《ま》ア貴方のお慈悲が有ればこそ此樣に遊ばせては遺りますけれど、 御覽の通り着物一枚持ちませんから、用を言附けて幾等か稼がせて遺るより外は無いのですよ』 老人は怪む用に『ヘエ、云はば私し共が、唯だ慈善の爲に拾ひ上げて遺たも同樣です、 身内の人へ手紙を遺ても、最う六ヶ月から一文も送て來ぬのです』 老人は自ら心を引立てやうとするけれど引立たぬ、 多分は小雪の過去から未來を考へて哀れさに堪へられぬのだらう、 唯だ『爾ですか』と嘆息の如くに答へたのみだ、内儀『母親が有ることは有りますけれど、 無いのも同樣です、見捨てたまゝ音沙汰が有りませんもの』 眞事《まこと》と嘘言《そらごと》とを取雜《とりまぜ》て語つて居る一方では、 疣子《いぼこ》と痣子《あざこ》とが最う人形にも飽きたと見え、 其れを背後《うしろ》の方に投出し、今度は小猫を捕へて來て、 之を人に見立て、赤い布片《きれ》や青い布片《きれ》で其の頭と尾を縛り、 悶《もが》くのを見て餘念も無く面白がッて居る、斯くと見た小雪の方は、 疣子《いぼこ》痣子《あざこ》の背後《うしろ》に在る人形に目を留めて倩々《つく/\゛》と眺めて居たが、 終に羨ましさに堪へ得なく成たと見え、徐々《そろ/\》と卓子《てーぶる》の下を這出て、 人形に近づき、懷かし相に抱き上げた、爾して自分の頬を其の人形の頬に推當てたは、 宛《あたか》も愛兒を抱しめた慈母の樣である、 日頃から何れほど此人形を慕ふて居たかも察せられ殆ど可憐《いぢらし》いほどに見えたが、 此とき忽ち雷の聲の樣に一聲の大喝が小雪の頭上に降下ッた『コレ小雪』 此聲は内儀が小雪の不埒を見附けて、叱り飛ばす聲である 小雪の樣な者が我が娘疣子《いぼこ》痣子《あざこ》の大事の人形に手を着けるのは、 殆ど此家の朝憲《てうけん》を紊亂《びんらん》する樣な者である、不敬である、 内儀は我を忘れて馳せ寄て怒鳴たのだ、此の聲に小雪の驚いた状《さま》は名状が出來ぬ、 全く床下へ漏てゞも了ひ度い樣に小く成ッて平伏《ひれふ》しつ、 唯だ『御免、御免』と泣いた、斯る小雪の一擧一動は、 勿論先ほどから彼の老人の目には洩れぬ、直《すぐ》に老人は立上ッて、 物をも云はず戸外《おもて》へ出たが、少しの間に、 夜店の玩具《おもちや》屋の看板と爲て居た彼の大きな人形を抱いて歸て來た、 抑《そもそ》も此人形は晝間から、此の町中の評判と爲て居たので、 子供と云ふ子供が誰れ一人羨まぬは無いけれど、 三十圓と云ふ豪《えら》い定價に誰も父母《ちゝはゝ》に強求《ねだ》り得なんだ品である、 此品を老人が買て來たとは、果して姿を窶《やつ》した大金滿家に違ひ無い 穢《むさ》くろしい軍曹旅館の店の中に此人形が輝き渡る樣に見えた、 今しも小雪を鞭打たうとして居た内儀も、呆れて振上げた鞭を卸した、 平伏《ひれふ》して居た小雪も驚いて顏を上げた、 疣子《いぼこ》痣子《あざこ》も猫が自分達の手を離れて逃出すを知らなんだ、 内儀は咄嗟の間にも思ふた、定めし此人形は我が娘へ呉れるのだと、 爾して娘の古い人形を小雪に遺れと云ふのだらうと、所が爾で無い、 直《すぐ》に老人は小雪の前に其の人形を投出し『サア之はお前に遺る、 お前に遺るから最う人樣の人形へ手を着けるのでは無いよ』 此言葉を聞た内儀の顏は烈火の如しだ、 併し如何とも仕方が無い怒る譯にも遮る譯にも行かぬ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十三 X節《クリスマス》の夜 七 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 三十圓もする人形を、斯る老人が買て來て小雪の樣な者に與へるとは何事だ、 眞に内儀は驚きも怒りもした、暫《しば》しの間は聲も出なんだ 抑《そ》も此老人は何者だらう、身姿《みなり》を見れば貧民だが、 爲《す》る事は大金滿家だ、アヽ爾だ大金滿家と貧民とを兼た身分だと内儀は思ッた、 兩方を兼た身分ならば、取りも直さず盗坊《どろばう》なんだ、 何所《どこ》かで大な稼ぎをして茲《こゝ》へ來たのだ けれど亭主の方は仲々内儀の樣な盲目《めくら》では無い、 兎に角も近來に無い福の神だと見て、直《すぐ》に立て來て妻の耳に囁いた 『何でも彼でも、御無理御尤もと從ッて居ねば成らぬよ』 内儀は此戒めに服した、直《すぐ》に小雪に向ひ 『サアお客樣が遺ると仰有《おつしや》るのだから、戴いてお禮をお言ひ』 口には斯う優う云ッても、心では最う、明日 直《すぐ》に小雪を叩き出すと云ふ積に成て居る、 厄介者の身分として主人の娘よりも立派な人形などを持つと云ふ事が有る者か、 以ての外だ、怪《け》しからぬ譯だ、之を其儘に許しては主婦人と云ふ役が勤まらぬのだ 人形を受取て小雪の喜んだことは云ふ迄も無い、自分の身は襤褸《ぼろ》を纒《まと》ひ、 爾して錦《にしき》を着た人形を弄《もてあそ》ぶとは、 不釣合の限《かぎり》では有るけれど、其樣な事には頓着せぬ、 卓子《てーぶる》の下へ連て入り、抱たり寢かしたり、 果は勿體ない樣に椅子の上に置き其身は其前に坐して倩々《つく/\゛》と眺め上げて拜みなどした、 是れで疣子《いぼこ》と痣子《あざこ》の方が却て羨ましさに堪へぬ如く小雪の方を偸《ぬす》み視る事に成た、 貧富一 夕《せき》にして地を替るとは之も活社會の景状《ありさま》が此三人の間に現れて居るのだ 斯くて夜の更くるに連れ、客も追々に退き、疣子《いぼこ》痣子《あざこ》も寢《い》ね、 小雪も寢ることを許された、獨り彼の老人のみは寢る容子が無い、 宵に腰を掛けた通り、卓子《てーぶる》の前に腰を掛け、 首《かうべ》を垂れて頬杖をつき、默然と控へて居る、 坐眠るのかと見れば爾うで無い、唯だ深く深く考へ込で居るのだ、 何事かは知らぬけれど此老人の身に成れば、身に餘るほどの思案や心配が有るのだらう、 兎も角も此の福の神が寢ぬ中は主人《あるじ》夫婦も寢る譯に行かぬ、 二人額を突合す樣にして帳場に坐り、唯だ福の神が何とか言葉を發するだらうかと、 其れのみを待つ中に二時を打た、最う内儀の方は耐《こら》へ得なく成り、 恐る/\福の神樣に近いて『未だお寢《やす》みには成りませんか』と問ふた、 老人は初めて氣の附た樣に『オヽ寢ませう』と云たが、更に又思ひ出して 『私しの寢る馬厩《うまや》は何所《どこ》です』と問た 『此方《こちら》です』と亭主が答へ、直《すぐ》に案内した、仲々馬厩《うまや》では無い、 此家で第一等の寢室だ、下座敷の最も奥まッた所に在る、 老人は以外の思で見まはした『アヽ是が馬厩《うまや》』 亭主『ハイ此 室《へや》は一年に一度か三年に二度、特別のお客樣にのみ使ふのです』 成るほど爾うで有らう、田舍の宿屋に似氣なく一切の設備が揃ふて居る 亭主は給使の爲す可き丈の事を自分で爲し『何うか御緩《ごゆつく》りお寢《やす》み下さい』 と恭々《うや/\》しく述べて帳場に歸た、内儀は眠い目を擦り擦り 『明日は小雪を叩き出して了ひますよ』と云た、 亭主は『爾う早まるには及ばぬ事だ』と、何か獨りで呑込で居る樣に答へた 一家の悉く寢鎭つた後、老人は手燭を取て寢間《ねま》を出で、 足も靜に臺所の方へ忍んで行き、暫《しばら》く立て耳を澄した、 何所《どこ》の邊からか小供の寢息が聞えて來る、 其れを頼りに又進むと、古い大きな暖爐《すとうぶ》に、 火は絶て居るけれど其の前に疣子《いぼこ》痣子《あざこ》と二歳許りの男の子が、 團子の樣に成て眠て居る、此の男の兒は昨年 手鳴田《てなるだ》夫人の産落したので、 疣子《いぼこ》痣子《あざこ》の弟である、爾うして其の暖爐《すとうぶ》の下には小い靴を脱ぎ揃へてある、 何故と問ふ迄も無い、昔からの言傳に、X節《クリスマス》の夜に靴を暖爐《すとうぶ》の前に脱揃へて置けば、 眠て居る間に優しいお化《ばけ》が現れて其中へ寳物《たからもの》を落して行くと云ふのだ、 兒供が其れを樂みに、嬉しく眠ると翌朝果して靴の中に銀貨などが入て居る、 是は母親などが密《ひそか》に入れて遺るのである、 老人は先づ靴の中を窺《のぞ》いたが、既に優しいお化が來た後だと見え靴の中に銀貨が光て居る、 何だか先刻自分が、小雪の落したのだと云て手鳴田《てなるだ》夫人に渡した其の銀貨らしい 再び老人は耳を澄し、又他の寢息を辿て行た、是は別の室《へや》であるけれど、 小雪が彼の人形を抱き〆めて眠て居る、四邊《あたり》を見廻すと、 靴と名を附け兼ねる樣な破れた履物《はきもの》がある、 之を見て老人は涙を垂れた、小雪の樣な辛《つら》い境涯に居る者さへ、 眞實に何者かゞ寳《たから》を落して呉れる者と信じ、此樣な事を仕て置くのだ、 仕て置くは好いけれど、小雪の爲に寳《たから》を落して行く樣な優しいお化《ばけ》が何所《どこ》に在らう、 明日の朝起きて靴を檢《あらた》め、中に何にも無いのを見て、 何の樣にか失望するだらう、其の失望を恐れもせず、深く信任して斯る事をする其の清淨な勇氣は、 神々しいとも云ふ可きである、斯る兒供の心を深く失望させるほど世に罪の深い業《わざ》は無い 此樣な失望が重り/\して、次第に其の心を捻けさせ、世に容れられぬ樣な根性に仕て了ふのだ、 老人は財布を探り、廿圓の金貨を取り出し、之を其の履物《はきもの》の中へ落し込んで去つた 小雪は明日の朝何の樣に目が覺るやら 夜は遂に明けた、他の客は未だ寢て居る六時頃、彼の老人は、 宵に持て來た其身の荷物、大な杖《すてつき》と一個の風呂敷包を提げて寢間《ねま》から出て來た、 早や立んとする状《さま》である、内儀は帳場から立て出て 『オヤ最うお立ですか、お早いのに』老人『ハイ立ちます、勘定書を示して下さい』 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十四 客と亭主 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『勘定書を示して下さい』アヽ此客は、唯だ勘定を拂た丈で、何事をもせずに立去る積だらうか、 小雪に何か用事は無いのだらうか 勘定書は出來て居る、今朝早く手鳴田《てなるだ》夫婦が、額を合せ智慧を絞ッて作ッたのだ、 其大略を記して見れば『△一金三圓、夕飯料△一金十圓、御室代△一金五圓、燈火《ともしび》代 △一金四圓、炭代△一金一圓、御給使代△合計金二十三圓』とある、 此樣な高い宿賃が世に有らうか、全く暴利と云ふ者だけれど、主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》は、 鋭い眼《まなこ》で此老人が尋常者《たゞもの》で無い事を察し、 必ず是れ丈の勘定をも拂ふだらうと見拔いて居る、但し妻の方は多少驚いたけれど、 日頃夫の眼力を尊敬して居る丈に同意した、夫は云ふた 『何しろ千五百圓からの借金を追て商賣をして居るのだから、 取れる客からは取らねば成らぬ』妻は答へる樣に云ふた、 『成る丈け家の費用を詰めますよ、小雪を叩き出して了ひます』 小雪を叩き出して了ふのは必ずしも家の費用を詰める爲では無い、 自分の娘さへ持て居ぬ樣な立派な人形を小雪の持て居るのが癪《しやく》に障《さはつ》て、 到底 那《あ》の樣な者は家に置かれぬと決心して居るのだ 其れは扨置《さてお》き、客が『勘定書を示せ』と云ふが否《いな》や、 直《たゞち》に内儀は勘定書を出した、 けれど貧民同樣の此の羊羹色の着物を被《き》た老人が二十三圓と云ふ巨《でか》い勘定を拂ひ得るだらうか、 拂ひ得るにしても素直に拂ふだらうかと、聊《いさゝ》か心配な氣がするから、 訝《いぶ》かり/\其の顏を眺め上げた、客は無頓着である、 受取つた勘定書は能くも見ずに『内儀《かみ》さん、此頃の景氣は何うですね[』]、 斯う問はれると、泣言を並べるには慣て居る『エ、景氣、景氣とは貴方、 此頃の樣な不景気は有りはしません、 折々でも貴方の樣な氣前の好いお客樣が來て下されば兎も角ですが家内は多し、 其上の小雪の樣な者まで』客は忘れた樣な風で『エ、小雪、小雪とは』 内儀『昨夜貴方樣が傷《いた》はッて下さッた那《あ》の厄介者です、小娘です 那《あ》の樣な者まで食倒しますもの、耐《たま》りは仕ません、 其れに租税や附加税とやらも年々に高くなりまして』客は少し考へる樣にして 『那《あ》の小娘を手離して了ッたら何うです』内儀『エ、手離すとは』 老人『私しに呉れるのさ、其れほど邪魔なら、私しが貰ッて進ぜませう』 何氣なく云ふけれど、是れが此の老人の、此家に泊た唯だ一つの目的では有るまいか、 全權大使が國際の大問題の口を切る用心も之には過ぎぬ、 老人の胸は人知れず動悸が打て居る、内儀は飛び附く樣に 『本統に貰て下されますか』客『貰ひませう』内儀『何時《いつ》引取て下されます』 老人『今 直《すぐ》に引取て連て行きます』内儀『本統に有難い事ねえ、 其れでは小雪を上げましたよ』老人『ハイ小雪を貰ひました』 全く約束は出來て了ッた、案ずるより産むが易い 老人は初めて、前の勘定書を聞いた、廿三圓と云ふ貪り方には一方《ひとかた》ならず驚いたけれど何にも云はぬ、 五圓金貨を五個取出て卓子《てーぶる》の上に置て 『是でお釣は要りません、サア小雪を呼で下さい』内儀は轉々《ころ/\》として 『小雪、小雪、サア茲《こゝ》へお出で』と呼立てた、聲に應じて出て來たのは、 憐む可き小雪では無く、主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》である、 彼れは柄に無く優しい聲で『イヤ小雪の事に就いては少し私しからお話しが有りますから』 と云ひ、妻に向ッては『退け』と云ふ如き目配せした 妻は『だッて、貴方、此のお客樣が貰ッて遺ると仰有《おつしや》るのに、 イヤ最う上て了ひましたのに』亭主は再び妻を睨んだ、 其の目の中に尋常《たゞ》ならぬ光が籠て居るので、再びとは爭ひう兼ね、 妻は次の間に退いた、後で手鳴田《てなるだ》は老人を請じて椅子に寄らせ、 其身も向ひに坐し、尤もらしい細い聲で『私しは那《あ》の少女が可愛くて成らぬです』 客『少女とは』主人『小雪です、何しろ今まで我が兒の樣にして育てたのですから、 呉れと仰有《おつしや》ッても實は手離すに忍びません』と云ひ、 窃《ひそか》に客の顏色を見て『ナニ其れも事と次第に依ては差上げ無い者でも有りませんが、 何にしても可愛い娘も同樣なアノ小雪を、通り一遍の、 見ず知らずの方に與《あげ》ると云ふ譯には行かぬのです、 與《あ》げた上でも、無事であらうか、何の樣に育て居るかと時々は見にも行き度いと思ひますから、 お名前をも伺ッた上で無くては、ハイ失禮では有りますが、 貴方の旅行券の端をでも一寸見せて戴く位の事は致しませねば』 旅行券を見せて呉れとは、當り前の事の樣で、實は何たる皮肉の言葉だらう、 けれど客は驚きもせず斷乎として答へた 『コレ御主人、巴里から僅《わづ》か五里か六里の地方へ出て來るのに、 旅行券まで用意して來る人が何處に在る、私しが小雪を貰ふと云ふのは、 全く貰ふ丈けの事、貰ふに止《とゞ》まるのだ、私しの名前も住居《すまゐ》も聞かせる事は出來ぬ、 今貰へば二度と再びお前さんに尋ねて來られては成らぬ、 是れ限《ぎ》り音信不通と云ふ約束で貰ふのだ、何も長い短いを云ふ事は無い、 否《いや》なら否《いや》と斷り成さい、否《いや》ですか應ですか、 音信不通で小雪を呉れますか、呉れませんか、サア返事は唯《たつ》た一言で宜しい』 何と云ふ明白な言ひ方だらう、手鳴田《てなるだ》は殆ど、自分より上は手の相手かと怪んだ、 此樣な相手に向ッて、何も面倒な餘計な掛け引は入らぬ、 彼れは單刀直入に『私しは千五百圓の金が要ります、其れを呉れゝば小雪を差上げませう』と、 大きく吹いた客は無言で、穢《きたな》い革財布の中から直《すぐ》に五百圓の銀行券三枚を取出し、 卓子《てーぶる》の上に置て、自分の手を又其上に置き 『サア小雪を茲《こゝ》へ連て來て、引替にお渡しなさい』 縦《よ》しや何の樣な大金滿家にしても、斯う手早い決斷の出來る者では無い、 流石の手鳴田《てなるだ》も飽氣《あつけ》に取られぬ譯に行かぬ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十五 客と亭主 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 幾等此老人が、姿を窶《やつ》した金滿家にもせよ、 千五百圓の呼聲には驚くだらうと手鳴田《てなるだ》は期して居た、 所が驚く氣振も無く聲に應じし千五百圓差出したので、 却て手鳴田《てなるだ》の方が驚いた、彼れは唯だ、 命令の樣な老人の言葉に應じ『ハイ小雪を呼びます、呼びます』 と答ふるのみである 斯る間に小雪は何をして居るだらう 小雪は毎《いつ》もの如く今朝早く起きた、起きて直《すぐ》に昨夜脱ぎ揃へて置た靴の中を窺《のぞ》いて見た、 驚くまい事か中には見た事も無い大きな新しい金貨が光ッて居る、 是れが廿圓に通用する事とは知らず、 知た所で廿圓が何れ程の直打[誤?:値打]《ねうち》かと云ふ事を知らぬけれど、 唯だ嬉しい、唯だ有難い、殆ど金貨の色に目が眩み其の光りに心まで醉ふた樣な状《さま》である、 慌《あわ》てゝ取り上げて、宛《あたか》も盗んだ品物をでも隱すかの如く衣嚢《かくし》に納めた、 吁《あゝ》此金貨、何處から來たのだらう、小雪は眞逆《まさか》にお化の仕業《しわざ》とは思はぬ、 昨夜人形を買て呉れた信切な老人の恩に違ひ無いと小い心に承知した 人の信切が何の樣な者かと云ふ事は、小雪は知らぬ、他人の信切は扨置《さてお》いて、 母の慈愛と云ふ事をさへ知らぬのだ、此家へ預けられたのが五年前で、 其身の三歳の時であつた、母の顏が何の樣で有たやら少しも覺えて居ぬ、 考へたとて思ひ出さぬ、唯だ思ひ出すのは、自分の身が、覺えて此かた常に凍たて餓えて、 叱られて泣てのみ居た事である、今と云ふ今に至ッて、 初めて、何《どう》やら親切と云ふ事が分ッた、 能くは分らぬけれど嬉しいと云ふ心持の味も分ッた けれど喜んでなどは居られぬ、 直《すぐ》に身を引緊《ひきし》めて例《いつも》の通り拭掃際[誤:掃除]に取掛ッた、 取掛らねば何の樣に叱られるかも知らぬのだが、 併し衣嚢《かくし》の中に在る金貨が氣になり、長く仕事をして居る事は出來ぬ、 時々に手を罷《や》めて、衣嚢《かくし》を開き、俯向《うつむ》いて金貨の光りを窺《のぞ》き込む、 丁度金貨に話をする樣に見える 三十分と經ぬうちに何度金貨と話したかも知れぬ、凡そ六七回目の時であらう、 話して居る所を手鳴田《てなるだ》内儀に見附られた、無論怒鳴り附けられることゝ思ひ、 あたふたと箒を取直したが意外にも内儀は叱らぬ 『店に用事が有るのだから直《すぐ》にお出で』と言渡された、 不思議な事も有る者だ、内儀が怒鳴らずに用事だけ言附けるとは、却て薄氣味の惡いほどだ 勿論内儀は夫の命令で小雪を呼びに來たのだ、 小雪が店へ行た時は最う老人と主人《あるじ》との間に話の出來た時であッた、 老人は小雪の顏を見るよりも、昨夜から自分の持て居た風呂敷包を開いた、 中から出たのは丁度七八歳の小娘が被《き》る樣な着物である、 帶から靴までも揃ッて居る、是れを見れば此の老人が、 故々《わざ/\》小雪を引取る爲めに、用意をして出掛けて來た事は確だけれど、 主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》は宛《あたか》も小雪が廿圓の金貨に醉ふた樣に千五百圓の金に醉ふて居る際だから、 金を話をするのが忙しくて能くは心も附ぬのだ 老人は自分の娘か孫にでも云ふ樣な口調で小雪に向ひ 『サア、此の着物を遺るから直《すぐ》に着替てお出で』 小雪は夢の心地で奥に行き着物を着替て又出て來た 是より二十分と經ぬ中に、モント、ファメールの町を、 羊羹色の服を着け、太い杖《すてつき》を持た老人が、 新しい着物を被《き》た痩凋《やせしな》びた小娘の手を引き、 小娘は自分の身體ほどもある立派な人形を抱いて、 双方ともの嬉し相な顏で、巴里の方へ行く姿を見受けた人が幾人か有ッた、 此二人が町を放れた頃に及び、軍曹旅館では主人《あるじ》手鳴田《てなるだ》が其妻を呼び、 誇り顏に五百圓の紙幣三枚を取出して指示した、妻は驚くかと思ひの外、 嘲る樣な顏色で『オヤ只ッた是れッぽち』と問ふた、 主人《あるじ》の顏は異樣に曇た『是れッぽち、先《ま》ア能く見ろ三枚とも五百圓札だぜ』 妻は又笑ッた『五百圓札は知て居るよ、 那《あ》の老人が小雪に被《き》せる着物まで持て來て居た事をお前は何とお見なさッた』 手鳴田《てなるだ》は初て合點の行た樣に飛立て 『オヽ爾だッ!もッと取れる、もッと取れる、此まゝ逃して成る者か、 サア、早く己《おれ》の帽子を取つて呉れ』と云ひ、 妻の差出す帽子を取て我が頭に置くか否《いな》や一目散に驅け出して老人と小雪との後を追ふた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十六 客と亭主 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 小雪の手を引いて老人は、最う何所《どこ》まで行たゞらう、 何所《どこ》まででも構はぬ何でも追附かねばと、手鳴田《てなるだ》は只管《ひたす》ら急いだ 彼れは両個《ふたり》の行た方角を知らぬ、初は反對の方へ指して追掛けたが途中で人から聞き、 又引返して他の方へ追た、之が爲め餘ほど時刻が後れたけれど、 彼れは失望せぬ、高の知れた老人の足で、而も小娘の手を引て居るのだもの追附れぬ事が有る者か 到頭彼れは追附た、町を放れて、二里ほども行き山路に掛つて、 是から林に分け入らうと云ふ處で、樹の根に腰を卸して老人が小雪と共に休んで居た、 彼れは正直らしい面持を以て老人の前に行たが、直《すぐ》に自分の衣嚢《かくし》から、 先刻老人より受取た彼の五百圓札三枚を取出して 『サア是は先刻のお金ですがお返し申しませう』とて差出した、何の意味だか老人は知る筈が無い、 『エ、エ、何と云はれる』とて、怪んで手鳴田《てなるだ》の顏を見上げた、 手鳴田《てなるだ》『此の兒を貴方に遺る事は出來ぬのです、 ですからお金を返して此兒を連れて歸るのです』 直接に金を増して呉れと云はぬ所が、上手なんだ、 彼れの心の中でも最う此の老人の底に知れぬ金滿家だと思て居る、 思ふも道理や、昨夜我家へ泊ッてから、廿錢銀貨一個を初めとして、 次は人形の爲め三十圓、次に宿泊料に廿三圓、最後にはは千五百圓と、 通例の人ならば目を剥く樣な金額を平氣で出した、其の出す樣が、 二十錢の時も千五百圓の時も全く同じ事で、少しも金高《きんだか》の多い少いと云ふ區別を知らぬ程に見える、 此の容子ならば假令《たと》へ一萬五千圓と云ても同じく平氣で出すに違ひ無いと充分に見込で居る、 其れに又此老人が小雪の爲に着物まで調へて、持て來て居た所を見れば、 小雪を受取るのみの爲に我家へ遺て來た事も明白で、 決して一時の憫《あはれ》みとか一時の信切とか云ふ出來心で無いと極て居る、 其れだけの談判の纒まるまで爾うと云はず、 扨《さ》て談判が纒ッても自分の名を明さなんだ處などを考へ合すと何か秘密の有る事に違ひ無い、 秘密、秘密、金滿家の秘密は金の蔓《つる》だ、 手鳴田《てなるだ》自身の今までの實驗に由ると、 胸に秘密の蓄へて居る金滿家は、水を含んだ海綿の樣な者で、 此ほど搾るに容易な者は無い、彼れは此老人を海綿だと心得て居る 老人は怪さに堪へぬ句調で『エ、小雪??連れて??歸るとな』 手鳴田《てなるだ》『ハイ、篤《とく》と考へて見たのですが、 此兒は人樣に遺る譯に行きません、母親から預ッた者ですから、 遣りなどして其の母親へ申譯が立たぬのです、母親自身に引取に來るか、 爾無くば母の委任状を以て來た人の外へは決して渡す事の出來ぬ子です』 老人は唯だ『成ほど』と答へた儘で、多言を費やさぬ、後は無言で、 彼の皮の財布を取出した、先刻千五百圓を出す爲に取り出した時と同じ樣な取出し方である、 手鳴田《てなるだ》は〆たと思ひ、嬉しさが總身に渡る樣に感じた、 愈《いよい》よ海綿が水を吐くのだ、銀行券と云ふ勿體ない樣な水を 『サア、是れを遺れば言分は無いだらう』とて老人は財布の中から紙幣、確か紙幣、 と見える一枚を取出して手鳴田《てなるだ》に示した、紙幣ならば一萬圓だらうか、 餘ほど巾が廣い樣に見える、手鳴田《てなるだ》は手先を震はせる樣にして受取て見ると、 是れは何うぢや、小雪の母華子の作つた委任状である、 此の書面持參の人へ小雪を引渡して呉れとの事を記して、明かに手鳴田《てなるだ》に當て、 猶ほ費用の滯りは此人が拂ふからと書て有る、 抑《そもそ》も華子が何の樣な場合に此委任状を作ッて誰に渡したかは讀者の猶ほ記憶して居る筈である、 老人は云ふた『是れで云ふ事は無いでせう』手鳴田《てなるだ》は唯だ呻めいた 『ウーム』と許りで返辭は出來ぬ、老人『遠慮には及ばぬ、 サア此書附けをお納め成さい、是さへ貴方が持て居れば、小雪を渡したと云ふ立派な證據、 立派な受取、二度と此兒の母から催促される氣遣ひは有りません』 手鳴田《てなるだ》は委任状を卷いて納めた、爾うして又云ふた 『贋《にせ》手紙かも知れぬけれど今は仕方が有りません、 けれど此表にも有る通り費用の滯りは拂ふと有りますから、 其れを拂ッて戴きませう、隨分 豪《えら》く滯《たま》ッて居ますよ』 轉んでも只は起きぬ、老人は商人が算盤珠《そろばんだま》を弾《はじ》く時の樣な語調で 『成るほど、費用と云ふのは、一ヶ月が十五圓の極《きめ》で、 今年の一月此兒の母が貴方から受けた書附に百二十圓、何や彼や合せて百二十圓と爲て居ました、 翌二月に送た勘定書では其れが嵩んで五百圓と爲りました、 此五百圓へ對して母から三百圓入れて、三月の初に又三百圓送りました、 是れで百圓だけ來越《きこし》に成たのです、其後九ヶ月の分が百三十五圓だから、 三十五圓だけ貴方へ拂はねば成らぬ其の三十五圓に對して今朝私しから千五百圓貴方へ渡しました』 自分の知て居るよりも明白に、斯う知て居られては、 何と言ひ作る事も出來ぬ、全く手鳴田《てなるだ》は罠に罹ッた豺狼《おほかみ》の樣な者である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十七 抑《そ》も此老人は何者 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 手鳴田《てなるだ》は一言も言葉が無い、全く罠に罹つた狼の樣な者だ、 爾して彼れは狼の悶《もが》く如く自分の身を振立てた けれど彼れは終に云ふた、最う遠慮も何も無い、云はゞ死物狂ひの樣な者だ 『三千圓お出しなさい、サア爾無くば名前も知らぬ貴方に小雪を渡す事は出來ません、 小雪を連れて返ります』小雪は老人の背後《うしろ》に小くなつて居る、 老人は靜に立つた、宛《あたか》も手鳴田《てなるだ》の今の言葉が耳に入らぬ風である 『サア小雪、行かうよ』とて左の手に小雪を引き右の手に杖《すてつき》を執た、 手鳴田《てなるだ》は其の杖《すてつき》を尻目に見た、 容易ならぬ大さである、爾して此の場所の淋しさをも考へた、強て老人を引留める勇氣は出ぬ 彼れは立たまゝ、歩み去る老人の背姿《うしろすがた》を見た、 其の肩幅の廣さ、腕の節の太さ、老人では有るけれど何れほど力が有るか分らぬ、 暫《しばら》くにして彼れの眼《まなこ》は自分の腕の上に落ちた、 爾し人に劣る身體では無いけれど老人の腕に比べると鐵の棒と木の枝と程の違《ちがひ》が有る樣に見える、 彼れは呟いた『エヽ己《おれ》は何たる馬鹿だらう、 此樣な時に鐡砲を持たずに來たとは』成るほど鐡砲をさへ持て來たなら阿容《おめ/\》引けば[誤?:引けは]取らぬだらうに』 けれど何に、此まゝ見逃して成る者か、見え隱れに何所《どこ》までも尾《つい》て行き、 其の住居《すまゐ》まで見屆けて遺らう』彼れは決心して跡を追うた 老人は小雪の手を引た儘で、深く何事をか考へる樣に首《かうべ》を垂て最《い》と靜に歩んだが、 背後《うしろ》に人の氣の有るを察したのか時々に立留つて振返り、 終に手鳴田《てなるだ》の尾《つ》いて來るのを認めた、 けれど無言で、小雪を引寄せる樣にして、樹の最も茂つた小徑へ入つた、 手鳴田《てなるだ》は餘り離れて居ては見失ふ恐れが有るから、 止を得ず歩《あし》を早め、餘ほど間近くまで行くと老人は又振向き、 手鳴田《てなるだ》が隱れる暇の無い中に其の顏をジッと眺めた、 何と思たか知らぬけれど老人の眼《まなこ》には聊《いさゝ》か不安心の光が見えた、 けれど思ひ直した風で肩を峙《そばだ》て又も知らぬ顏で歩んだ、 執念くも[誤?:執念深くも]手鳴田《てなるだ》は又 尾《つい》て行た 林は最も深くして晝さへも物凄い樣な所まで行くと老人は三度目に振返つた、 今度は不安心な色も無く、斷乎とした決心を起した風で手鳴田《てなるだ》の方へ向て立留つた、 此の人通りの絶えた所で、手鳴田《てなるだ》を引捕へて目に物見せる思案の程が充分に其容子に、 現れて居る、手鳴田《てなるだ》は震ひ上つて、再び呟いた 『エヽ鐡砲さへ持て來たなら、鐡砲さへ持て來たなら』悔んでも今は及ばぬ、 最う斷念する外は無い、躊躇して捕へられては大變だから、直《すぐ》に引返して、 もと來た家路を指して去た、何れほど彼れは殘念で有ただらう 併し之が爲に、老人は面倒を受けなんだ、爾して小雪の歩み得る丈け徐々と歩み、 又時々は休みなどして日の暮頃に無事に巴里へ着た、抑《そもそ》も此の老人は何者だらう 問ふ迄も無く戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》だ、 元のモントリウルの市長 斑井《まだらゐ》父老《ふらう》と云はれた其人だ、 彼れはツーロン港で軍艦オリヲン號の帆柱の頂邊《てつぺん》から海に落ち、 充分に捜索せられたけれど死骸が分らず、終に海底の深い藻に搦《から》まつて死だ者だらうと見做されたが、 爾う見做されるのが彼れの海へ落ちる時の決心で有つた、 彼れは水中で息の繼《つゞ》くだけ潜り泳いで、 數限り無い船と船との底を拔け、時々は顏だけ出して空氣を吸ひ、 終に浮漂の代りに使はれて居る朽ちた空舟《からふね》の中へ這入て、 夜の更るまで隱れて居た、其れから忍び出て姿を變へた、 素《もと》よりツーロンの附近には脱牢者に古着などを賣渡す事を渡世にして居る怪い商人が昔から有るのだ、 警察では知らぬけれど、永く牢に居る囚人は皆知て居る、其の樣な商人を尋ねて身仕度をし、 更に忍び忍んで巴里《ぱりー》に入り最も人の目に附かぬホピタル街の或一部へ隱れ家を借り入れて置いて、 其れで小雪を迎へに行たのだ 小雪を引取るのは彼れ自ら其身の義務だと信じて居る、 のみならず既に老《をひ》の境に接して、身を置くに處も無く、 誰れ一人同情を寄せて呉れる者の無い彼れに取つては、 唯だ一人我が兒とも我が孫とも云ふ事の出來る樣な此の小雪が懷しいのだ、 危險な想《おもひ》で脱牢を企てたのも唯だ小雪の有ればこそだ、 小雪を引取て育て上げ、一人前の女として世に立つ樣に仕て遣り度いのが、 彼れの今と爲ての唯だ一つの望みである、此望みが彼れに取ては自分の心よりも強い、 思ひ切るにも思ひ切られぬ、若し此望みさへ無くば彼れは甘んじて牢の中で老い且つ死だであらう 斯う成ては望みも實に神聖である、慾氣も無く邪念も無い、 唯だ小雪を育て上げ度い、小雪の爲には我が命も我が身の危險も無いのだ、 定めし彼れは、無事に小雪の手を引て巴里《ぱりー》に入て、 多年の本望が達した樣に、心に無限の喜びを感じたゞらう、 けれど牢から逃れ出た彼れの樣な身を以て此の後無事に小雪を育て上げる事が出來るだらうか、 若しも彼れが未だ死なずして姿を變へて此世に潜んで居ると分れば、 直《すぐ》に捕手が彼れの身を追て來るのだ、彼れ一人ならば又何うとも逃る手段が無いでは無からう、 纔《わづ》か八歳の少女を連れて、若し其樣な場合になれば何う逃れることが出來る、 小雪と云ふ活た荷物が彼れの身の首軛《くびかせ》では有るまいか、 小雪に對する彼れの神聖な信切が、小雪の身にも彼れの身にも仇《あだ》と爲るでは有るまいか、 其の樣な事は、彼れ今は考へる暇も無い 巴里《ぱりー》へ着くと小雪は最う、歩み得ぬ程に疲れた、 先づ乘合馬車へは乘せたけれど、馬車は借て有る家の門口《かどぐち》までは着かぬ、 又着けられもせぬ、彼れは馬車から眠ッた小雪を負ふて降りた、 彼れの背《せな》には眠ッた小雪と目を開けた人形と両個《ふたり》が負《おぶ》さッて居る、 此の異樣な姿で、彼れは借りて有る隱れ家へ、夜に入て後に着た、 是から先の彼れと小雪の運命は唯だ神が知るばかりだ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十八 隱れ家 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が借入れた隱れ家は、先づ世を忍ぶに屈強の場所らしく見える 町盡《まちはづ》れの土地であッて、町と云ふ名は附いて居ても茲《こゝ》まで來ると都の繁華は跡を絶ち、 四邊《あた》り總體の景状《ありさま》が、晝間は墓場よりも淋しく見え、 夜に入ては深山よりも恐ろしい、 隨分猛獣 毒戎《どくぢやん》[誤?:毒蛇]に比す可き非人漢《ならずもの》の類が出沒せぬでも無い、 茲《こゝ》ならば警察の目も恐くは屆かぬだらう、爾して戎《ぢやん》の借りた家と云ふは古い邸《やしき》と邸《やしき》との間に介《はさま》り、 毀れ掛けた二階造りで、入口は矮《いぶせ》き小屋の樣に見ゆるけれど中は廣い、 戎《ぢやん》は此家の二階の二仕切を借りたのだ、他に誰も相客は無く、 唯だ家番として腰の曲ッた老婆が一人居るのみだ、 但し此の老婆が戎《ぢやん》の爲に、火を起したり、燈《あかり》を點じたり、 拭掃除をしたり、賄《まかなひ》の世話をまで引受けて呉れるので、 別に雇人を置く必要さへも無い、戎《ぢやん》は此家へ、 株式で失敗した商人だと觸れ込み、孫と二人で靜に暮す積だと言聞けてある、 孫とは勿論小雪を指すのだ *    *    *    *    *    *    * 眠た小雪と、目を開いた人形とを背《せな》に負ひ戎《ぢやん》は夜に入て後、 此家へ着いたが、直《すぐ》に小雪を、兼て用意して置た寢臺《ねだい》の上に横たへた、 餘ほど疲れて居ると見え其のまゝ小雪は前後も知らずに眠ッたが、 漸《やうや》くに目を覺したのは翌朝の、窓へ朝日の差して後である、 小雪は戸外《おもて》を通る荷車の音に驚かされ、慌《あわ》てた樣に首《かうべ》を上げ、 寢ぼけた聲で『内儀《おかみ》さん、起ますよ』と謝《わぶ》る樣に云ふは、 軍曹旅館で毎朝叱られて起された癖が第二の天性と爲て居るのだ、 爾して言葉と共に見廻して、嬉しげに頬笑んで居る戎《ぢやん》の顏を見 『オヤ』と云ひ更に枕許なる人形に目を注いで『矢張り本統だッた』と云ッた、 其の安心の状《さま》、喜ぶ状《さま》、殆ど傷々《いた/\》しい程であッた けれど直《すぐ》に寢臺《ねだい》を下り『拭掃除を致しませう』と云て、 箒を探す樣に見廻し、其樣な事を爲《す》るに及ばぬと戎《ぢやん》から云はれて、 朝の掃除さへ言付けずに自分を置て呉れる所が有るのかと、未だ怪んで、 更に合點の行かぬ樣に見えたが、 併し戎《ぢやん》が且 傷《いた》はり且説き聞かせる信切の言葉は間も無く小雪の耳に入て、 深く深く其の心の底にまで浸込だ、此時の小雪の寛《くつろ》ぎ方は天國に入た人も斯やと思はれた *    *    *    *    *    *    * 嗚呼、戎《ぢやん》は五十五歳、小雪は八歳、其の間に四十歳餘りの違ひが有る、 此の違ひは越すに越されぬ天然の界《さかい》では有るけれど、 何所《どこ》かに運命の絲が繋ッて居ると見え、 互に引着けられる樣な親みの情が我れ知らずに湧て出た 今まで小雪は人の信切と云ふ者を知らず父には生れぬ先に捨てられ母には三歳《みつつ》の時に別れ、 其の顏を覺えぬのみか母の有た事をさへ知らぬ、爾來 仇《あだ》の如き邪慳な人の手に育てられ、 物言へば叱られ、無言《だまつ》て居れば打擲《ちやうちやく》せられ、 出れば邪魔にせられ、出なくば引き出されると云ふ境涯で有ッた、 人に眤《なじ》むより外は何事をも知らぬ年頃で眤《なじ》む可き人は無く、 人の愛を嬉しがる外は餘念も無い兒供だのに愛して呉れる人も無く、 其れが爲に、萎《いぢ》け/\て、心の伸る所が無かッた、 けれど萎《いぢ》けるのが何で人の天性で有らうぞ、 日影の草が不知不識《しらず/\》に日光の有る方へ蔓《つる》を延す樣に、 愛に[饑%<|曷;u9932]《かつ》えた其の心が不知不識《しらず/\》に人の信切を求めて居た、 其の所へ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の信切が投じたのだから、 萠出やうとする芽生に春雨の落ちた樣な者だ、何が無しに心が戎《ぢやん》の身に[夕/寅;u5924]《まつは》り着いた、 唯世間の子が、自分の父を思ふ樣に戎《ぢやん》を思ふた、 戎《ぢやん》は此子に自分の事を父と呼ばせた『阿父《おとつ》さん』『阿父《おとつ》さん』 唯だ此の一語の中に小雪の一切の心が籠て居る、 其の『阿父《おとつ》さん』が何と云ふ名であるやら、其れさへ知らぬ、問ひもせぬ 省みて戎《ぢやん》の方を見れば、是れ亦如何の身の上ぞや、 彼れ年は五十五歳、曾《かつ》て愛と云ふ美くしい心を味はふたことが無い、 社會は彼れの五十五年の生涯を驅て、愛の外に追詰めた、彼れや絶て人の情人と爲た事が無い、 所天《をつと》と爲た事が無い、父と爲た事が無い、 云はゞ人間の不具者である、生れながらの捻け者では無いけれど、 境遇に捻じ曲げられ、世を憎み人を憎む極度まで達した時しも、 忽ち恩愛限り無き高僧の徳の光に射られ、所謂る『魂を入れ替へた』のだ、 魂を入れ替て以來の彼れは何の樣な人で有ッた、本統に心血を注いで社會を愛し、 社會に數へ盡せぬ程の恩澤をを施した、けれど、社會は彼れを許さなんだ、 再び彼れを牢に入れた、牢も牢、終身の刑と云ふので、 再び此世へ顏を出す事さへ出來ぬ身として了ッた、 彼れが逃亡したのが無理か、吁《あゝ》彼れは必ずしも逃亡したのでは無い、 最う自分の命が要らぬ事と爲たから、自分の命と取替る積りで、 自分を捨て人を救ふた結果が逃亡と爲たのだ、此世へ出られる事に成たのだ、 夫《そ》れも何れほどの辛《つら》い思ひぞ、 幾時間も水の底を潜り、無限の暗《やみ》を潜てゞある、 世に出たと云ふのも名ばかり、隱れに隱れて居る日にも何時《いつ》又捕はるかも知れぬのだ 若しも小雪が無つたならば、彼れは二度目の牢に入たとき再び捻けて了ふ所で有つたかも知れぬ、 高僧の盛徳は猶だ覺えては居るけれど、餘り境涯が辛《つら》いから、 儘よと云ふ念の起る時も無いでは無かッた、けれど牢を出てモントファメールの闇の谷で、 小雪の持た水桶に手を添へたとき、限り無い不憫の心が起きて、 爾して小雪の名を聞き、續いて其の頭を撫で其の手を握り、 又其の境遇を見るに及びて、不憫は同情と爲り、同情は愛と爲り、 愛は又善心と爲て異樣に心の底まで搖いだ、五十幾年の長き、 彼れが心の底に涸れて堅くなッて居た愛が、之が爲に融き解《ほぐ》された、 丁度ダインの高僧が彼れに徳を『教』へた如く、 小雪は彼れに『愛』を教へた、天は彼れの爲に老僧を送り又少女を送ッたので、 運命の手が彼れを玩弄《おもちや》にして居るのだらうか、 其れとも未だ彼れを捨てぬのだらうか、天意の秘密は人間の知る所で無い [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 五十九 隱れ家 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『愛』、愛と云ふ心ほど美しい者が世に有らうか、初て之を味はふ人は醉て仙境に入る想がする 女が初めての我兒を抱き、綿よりも柔かな可愛い頬を我が頬に當てた時、 恍惚として夢幻の境に入るほど嬉しくは有るまいか、是れが其の『愛』であるのだ 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は此樣な愛を感じた、此の翌《あく》る朝も、 小雪の寢臺《ねだい》の傍に行き、小さい其の寢顏を熟々《つく/\゛》と打眺めた、 眺むるに從ッて彼れの心の底には、母の心の底に起る樣な、術《せつ》ないほどの望みが起り、 自分の魂までも唯だ此寢顏に引附けられる如く感じた、 彼れは不知不識《しらず/\》に小雪の手を取り上げて其の甲に自分の唇を當てた、 吁《あゝ》彼れが接吻すると云ふ事は五十餘年來唯だ二度目である 一度は今より九ヶ月前の此兒の母の手を取上げて接吻した、其れは死骸の手であッた、 冷たかッた、今は温かな眠ッた手であるけれど、 彼れは九ヶ月前の事をも思ひ出し、何やらん恭敬《うやまひ》の心も起り、 胸の裏が板の樣になッた、彼れは直《すぐ》に手を放して黙[しめすへん|壽;u79B1]した、 心には唯だ嬉しさが滿々て居る、神に謝せずには居られぬのだ 併し此の時が、後にも先にも彼れの生涯に一番嬉しい時では無からうか、 此の嬉しさが何時《いつ》まで續くだらう、此時以來、彼れは小雪の父であり母である、 友達である保護者である、小雪が人形を以て遊ぶのを彼れは餘念も無く眺めた、 遊び飽きた頃は少しづゝ讀書をも教へた、彼れは小雪を其母の樣な不幸な女に爲《し》たく無い 一人前の女として相當の地位、相當の尊敬を得る迄には育て上げたい、 素《もと》より讀み書は必要である、日を經るに從ッて小雪は思たよりも氣の晴れやかな女に成ッた、 其の陰氣に萎《いぢ》けて居たのは決して小雪の天性では無かッた、 戎《ぢやん》に向ッて話もする、戎《ぢやん》の膝に上りもする、 通例の小娘が其父や其母に爲《す》る丈の事を、悉く爲る樣《こと》になッた、 此樣にせられると戎《ぢやん》は心の底から身が搖《ゆる》く樣な氣がする、 時々は嬉しくて涙が出る 爾して戎《ぢやん》は、折々の[誤?:折々に]手を引て小雪を外に連れて出た、 出るのは必ず夕方である、晝間の明るい時には出ぬ、 時に依ると自分獨りで出る事も有ッた、衣服《みなり》は相變らず羊羹色の古びた外被《うはぎ》で、 人に乞食としか思はれぬ程であッた、けれど彼れは路傍《みちばた》に乞兒《こじき》を見る度に、 素通りすることが出來なんだ、四邊《あたり》に見る人の、絶るを見澄し、 幾等かの金を遺た、時々は銀貨をさへも與へた、此樣な奇行は、 幾ら隱しても人の評判と成らずには止まぬ、乞食の衣服《みなり》で乞食を救ふとは不思議な老人だとて、 誰れ云ふとも無く『乞食を救ふ乞食』と彼れを綽名《あだな》した、 此樣な評判が若し廣がッては、世を忍ぶ彼れの爲に良く無い事はあるまいか 其れが爲とても無からうけれど、 家番の老婆も何時とは無しに彼れの出入《しゆつにふ》に氣を附けることに爲ッた、 或る時此の老婆は、彼れが獨りで二階の空室《あきま》へ入るを認め、 拔足《ぬきあし》して戸の外に寄り中を窺《のぞ》いた、怪む可し、 彼れは一挺の鋏《はさみ》を持ち、古い胴着の裏の縫絲を切つて居る、 爾して傍《かたはら》には針と絲とを置て在る、男の身で針仕事とはと、 猶も窺《のぞ》いて居るうち彼れは、綻《ほころ》ばせた胴着の裏から黄色い紙を取出した、 能く見ると其紙は此婆が生れて二三度しか見た事の無い千圓の紙幣である、婆は驚いて下に降ッた 翌日 戎《ぢやん》は婆に向ひ『昨日株式から半年分の配當を得たのだ』と云て千圓札を出し、 兩替を爲て呉れと頼んだ、婆は其の言葉に從ッたけれど恐しげに身震ひした、 爾して此の後幾日を經て、戎《ぢやん》と小雪との留守を窺《うかゞ》ひ、婆は彼の空室《あきま》へ忍び込んだが、 見ると壁に前日の胴着が懸ッて居る、其の裏を檢《あらた》めると綻《ほころ》ばせた破れ口は元の通りに縫ふて在る、 婆は其の胴着の衣嚢《かくし》を探ッた、中に在る品は更に驚く可しである、 鑿《のみ》や錐など、總て盗坊《どろばう》の用ひ相な道具の外に、 急に姿を變る爲に用ふる懷中鬚《くわいちうひげ》が入て居る、 婆は更に胴着の裏表から手を當てゝ、其の心《しん》を撫でゝ見た、是れは何うだ、 中には未だ千圓札と思はれる厚い紙が幾枚か入て居て、手に應《こた》へる、 婆は全く顏色を變へた *    *    *    *    *    *    * 又幾日の後、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は小雪を殘して夕方の散歩に出、 彼れが常に行く寺に行た、寺の入口に、常に一人の乞食が居る、年は七十以上で、 昔し寺男を勤めたと云ふ事だが、毎《いつ》も戎《ぢやん》は此乞食に錢を遺る、 此の時も財布から小錢を出し其の前に差出したが、乞食は眠る樣に垂れて居た首《かうべ》を異樣に上げて、 下からジッと戎《ぢやん》の顏を見上げた、今しも火を燈《とぼ》した許りの、 寺の門の常夜燈が乞食の顏の半面を照したのを見て、戎《ぢやん》は立つ足の力をも失ふほどに驚いた、 吁《あゝ》此の乞食の顏、乞食の顏、毎《いつ》も見る正直氣な顏では無く、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の目には忘れるにも忘れられぬ恐ろしい見覺の附いた顏である、 此顏は抑《そもそ》も何者 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十 隱れ家 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 下からジッと戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の顏を見上げた乞食の顏は確に見覺えが有る、 只者で無い、只の乞食で無い 若し戎《ぢやん》が通例の男ならば、驚きに餘りに必らず。[誤:必らず、]キャッと叫んで 全く度胸を失ふ所だッたらう、 けれど彼れは爾無きだに薄き氷の上を蹈《あゆ》む如き自分の境涯の恐しさに寸刻の油斷も無く心を緊《し》めて居る男である、 唯だ『危險』と云ふ一念が、彼の咽喉《のど》を塞いで了つた、 彼は一言をも發せぬ、身動きをもせぬ、 胸は大波の打つ如く騒いで居ても皮相《うはべ》だけは意と靜に乞食の姿を見卸した 乞食は早は[誤?:早や]首《かうべ》を垂れ、受取つた錢を推戴いて居る、 其の顏は再び見えぬ、けれど其の冠つて居る帽子も毎《いつ》もの帽子、 服も毎《いつ》もの襤褸《ぼろ》、爾して背《せなか》の恰好も毎《いつ》もの乞食である、 戎《ぢやん》は自《みづか》ら疑ふた、扨《さて》は此者の顏が、 我目に恐しく見えたのは我目の迷ひで有たゞらう乎《か》と、 併し戎《ぢやん》は再び此乞食に顏を上げさせ、迷ひか眞事《まこと》かを確める勇氣は無い、 成る可く何氣無き形を粧ひ、蹌踉《よろ》めく足で蹌《よろ》めかぬ樣に歩んで我宿へ歸て來た、 歸た後も乞食の眼《まなこ》が目に着て居る、何う考へても乞食で無い、 巡査部長 蛇兵太《じやびやうた》の眼《まなこ》であつた 吁《あゝ》蛇兵太《じやびやうた》、彼れが猶ほ我身に着き纒《まと》ふて居るだらうか、 戎《ぢやん》は夜一夜中 蛇兵太《じやびやうた》の顏に魘《うな》され、 殆ど眠り得なんだ、或る時は後悔した、斯うも那《あ》の顏が氣に掛る程ならば、 何故其時に最一度顏を上げさせて能く見定めなんだだらうと、 けれど今は取返しが附かぬ 翌日再び寺の門前へ行た、今度こそは篤《とく》と乞食の顏を見定める積りである、 見定めて若し蛇兵太《じやびやうた》で有つた時には、此の上も無い危險だけれど、 爾ればとて見定めずに居る事は到底出來ぬ、 彼れだらうか彼れで無からうかと心配して長く/\氣を揉むは殆ど身を削られるよりも辛《つら》い、 却て確に蛇兵太《じやびやうた》と分ッて捕へられた方が結句安樂かも知れぬと思ふ程の苦みである 頓《やが》て寺の門に至ると彼の乞食が依然として控へて居る、 今度は昨日《きのふ》の樣に首《かうべ》をも垂れては居ぬ、 何う見ても蛇兵太《じやびやうた》らしい所は少しも無い、何故に此の憐む可き顏が、 獰惡《どうあく》な蛇兵太《じやびやうた》の顏に見えたのだらう、 行故[誤?:何故]《なにゆゑ》でも無い此の乞食の代りに、 蛇兵太《じやびやうた》が此通りの身姿《みなり》をして此の場所に据《すわ》ッて居たのだと、 斯う思へば合點は行くけれど戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は眞逆《まさか》に爾うと迄は思はぬ、 全く自分の氣の迷ひ、心の迷ひで有たのだと思ひ詰めた、其れにしても此ほどの見違を爲すのは、 年を取た爲め我が視力の衰へた所も有るのか知らんと、聊《いさゝ》か心細い感じもした 是より四五日を經た夜の八時過に、戎《ぢやん》は室《へや》の中で小雪に本を教へて居たが、 忽ち耳に留ッたのは此家の入口の戸の開いた音である、家番の老婆は、油を儉約する爲に、 毎《いつ》もの通り既に寢た筈であるのに何者が入て來るのだらう、 確に錠を開く音まで聞えたからは鍵を持て居る人に違ひ無い、 戎《ぢやん》は異樣に身の危險を感じ、更に耳を澄して待つと暫《しばら》くして重い靴で、 階段を意と靜に上ッて來る音が聞える、何うも老婆では無い、男の樣だ、 男の居ぬ家に男の足音とは愈《いよい》よ怪しい 戎《ぢやん》は直《すぐ》に小雪を寢間《ねま》に入れて寢かした、 小雪は戎《ぢやん》の言葉には少しも負《そむ》かず、一言の怪む如き語をさへ吐かずに、 寂然《ひつそり》として寢て了ッた、後に戎《ぢやん》は、室《へや》の明りを吹消して、 今まで自分の坐して居た椅子に坐した、此椅子は戸口の方へ背《せな》を向けて居る、 爾して能く聞くと以然の足音は、最う消て了ッたけれど既に此の二階へ上ッて來た事は必然である、 のみならず自分の迷ひかは知らねど何うやら此 室《へや》の外へ來て、 立て容子を聽て居るらしい、何が無しに戎《ぢやん》の心に其の樣な氣がするのだ、 戎《ぢやん》は彼の乞食の事をも思ひ出した、蛇兵太《じやびやうた》の顏さへ目に見える樣な想ひが浮んだ、 彼れは全く息を殺して、若しも自分が今、戸の方に振向いて見るならば、 果して外に何者かゞ、内の容子を窺《うかゞ》ッて居るか否《いなや》か分るかも知れぬ、 けれど戎《ぢやん》は振向き得ぬ、妙に其の身が剛《かた》くなッた、蹙《すく》んで了ッた樣に感じた けれど、蹙《すく》んでのみ居ては果しが無い、思ひ切て振向いて見やうかと思ふ折しも、 暗い我が正面の壁の面《おもて》に一點、宛《あたか》も人の目の樣に光る者が現れた、 アヽ是は目では無い、戸の外で、忍びの燈火《ともしび》を點《てら》したのだ、 燈火《ともしび》の影が戸の鍵穴から洩れて向ひに壁に映るのだ、最う振向く必要が無い、 振向く勇氣も無い、確に先刻の足音が、 忍び寄て此 室《へや》の外に立ち此の室《へや》を窺《うかゞ》ふて居るのだ、 戎《ぢやん》は唯だ壁に落た一點の光りを見詰むるのみだ 蛇に見込まれた蛙が、 蛇の目の光から己《おの》が眼《まなこ》を離し得ぬと同じ樣に戎《ぢやん》は壁の光りから自分の眼《まなこ》を離し得ぬ、 全く怖しさに引附けられるのだ、光りは搖《ゆら/\》と動いて居る、 動くは蛇が動くのだ、戸の外に蛇が居るのだ、蛇兵太《じやびやうた》が立て居るのだ、 茲《こゝ》に至つて戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》たる者は何うしたら良いだらう、 逃げやうか、何うして逃げられる者か、唯だ捕《つか》まる一方である、 去ればとて捕《つか》まつて小雪と引離されて自分獨り又牢へ、其れは出來ぬ、 戎《ぢやん》の額には暗《やみ》の中ながら玉の汗が浮た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十一 隱れ家 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 若し戸の外の人が、本統に蛇兵太《じやびやうた》で、戸を推開けて入ッて來たなら、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は否《いや》も應《おう》も無く捕《つか》まるので萬に一つも逃る路は無いのだ、 戎《ぢやん》は其れを思ふて身が蹙《すく》んだ、其れを思ふて汗を浮べた けれど其うちに、壁に點した蛇の目の樣な光は消えた、 外の人は又 拔足《ぬきあし》で去て了ッた、戎《ぢやん》はホッと息を吐《つ》いた 夜の明けるまで戎《ぢやん》は眠り得なんだ、今の人が本統に蛇兵太《じやびやうた》で有ッたゞらうか、 無かッたゞらうか、眞逆《まさか》に蛇兵太《じやびやうた》と思へぬ所も有る、 幾等彼れが老猾《ろうくわつ》な巡査部長だとて、死だと極た此身の、 生返ッて此世に居る事を爾う早く知る筈は無い、と云て、 彼の寺の前の乞食の事を思ふと、彼で無いとも言切れぬ所が有る、 戎《ぢやん》は半信半疑に迷ふた 夜の明けて後、家番の老婆に問はうかとも思ふたけれど、此方《こつち》から問ふのは何だか疑ひを招く樣だ、 或は此の老婆が警察と通じて居ぬとも限らぬから、 知らぬ顏で此方《こつち》は此方《こつち》だけの覺悟をするが良いと此樣に思ひ直した所へ、 老婆が丁度、室《へや》の掃除に來た、其れでも戎《ぢやん》は默ッて居たが、 却て老婆の方から問ふた、昨夜貴方は此二階へ人の來た音をお聞きでしたか』 戎《ぢやん》は惚《とぼ》けた樣に『イヤ別に其樣にも思はぬが??アヽ爾だ、爾うだ、 何だか足音が聞えたよ??那《あ》れは誰だエ』那《あ》れは誰だエ、 全《まる》で心に留て居ぬ風である、老婆『新しいお客樣ですよ、 此二階の一室《ひとま》を貸したのですが、未だ廊下などの案内に慣ぬ者ですから、 此邊へ戸迷ふて來るかも知れません』戸迷ふて來るとは何んたる旨い辯護だらう、 忍びの燈火《ともしび》を以て、靴を脱いで、拔足《ぬきあし》で戸迷ふて來る人が何所《どこ》に在らう、 戎《ぢやん》『名は何と云ふ』婆『未だ能くは覺えません、次郎とか太郎とか何でも其樣な名前でしたが』 戎《ぢやん》『シテ職業は』少し問ひ過るかも知れぬけれど問はずには居られぬ、 老婆は容子有げに戎《ぢやん》の顏を見て『職業無しに、配當金で食て居る方でせう、 貴方と同じ樣に』と云た、益《ますま》す異樣の言葉である、 何うも此老婆が虚心平氣では無さ相だ 疑心暗鬼かも知れぬけれど??。 幾時の後である、戎《ぢやん》は廊下に人の足音のするを聞いた、 丁度昨夜階段を登ッて來たのと同じ足音の樣に思はれる、 直《すぐ》に戸の所に行き内から、鍵穴に目を當てゝ窺《のぞい》たが、 チラリと見たのは其の足音の本人が二階を下らうとする所である、 而かも背影《うしろかげ》で能くは分らぬ、けれど尋常一樣の背影《うしろかげ》では無い、 肩の容子から背《せな》の恰好、一種特別な所が有る、決して紳士では無い、 警察官だ、警察官も只のでは無い、其の一種特別な所が彼の蛇兵太《じやびやうた》に一種特別なんだ、 爾うして丁度彼れの持ち相な頑丈な杖《すてつき》をさへ持て居る 愈《いよい》よ彼れだと未だ認め切らぬうちに其姿は階段を下ッて了ッた、 直《すぐ》に窓を開いて戸外《おもて》を見れば、彼れか彼れで無いかを見定める事は出來るけれど、 若し彼れで有たなら大變だ、此方《こちら》が窓から出す顏を、 彼方《あつち》に下から見上げられては何の樣な事に成らうも知れぬ、 戎《ぢやん》は其れが恐ろしいから窓を開かぬ、 何にしても最う此家に長居の出來ぬは分ッて居るから直《すぐ》に戎《ぢやん》は落て行く用意を初めた 此日の暮れた頃、彼れは下に降り戸口に出で右左を見渡した、町は往來も極稀で、 別に疑はしい人も見えぬ、見えぬとて或ひは物影にでも隱れて見張ッて居る人が有るかも知れぬけれど爾うまでは詮索が屆かぬ、 何でも逃るなら今だと思ひ、直《すぐ》に二階へ馳せ上り、 小雪の手を取ッて『サアお出で』 虎の口を逃れて狼の顋《あご》に入るとは能く有る例《ためし》だが、 戎《ぢやん》は此所《こゝ》を逃れて何の樣な所へ行くだらう [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十二 落人《おちうど》 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 冬の夜の月、隈《くま》なく冴て、斜に巴里《ぱりー》の城下を照し、 町の半面は明く半面は影と爲て居る、此の影の中を潜り、絶えず明き半面を見張りつゝ無言で歩む一人は、 此れ警吏 蛇兵太《じやびやうた》に捕はれまじとて、逃げて行く戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》である、 憐む可し彼れは獵人《かりうど》に追詰られた鹿の樣に、 只管《ひたす》ら踪跡《そうせき》を暗まさうと枝路から枝路へと分けて入るのだ、 彼れの右手《めて》には少女小雪が手を引かれて居る 小雪は異樣な生活にのみ慣れた身ゆゑ、 一言をも發せず唯だ戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の行くが儘に從ふのだ、 何でも戎《ぢやん》の傍にさへ居れば安心だと小い心で諦めて居るらしい、 併し戎《ぢやん》自からとても何處へ行くと云ふ當は無い、 唯だ神の加護を祈り、宛《あたか》も小雪が戎《ぢやん》に信頼する如く神に信頼し、 神が何處へか手を引て呉れるだらうと念ずるのみだ 夜は既に十一時と爲り、月は益《ますま》す高く上りて、町に落る軒端《のきば》の影が段々と短くなる、 其れ丈けづゝ、忍ぶ身を隱して呉れる暗《やみ》の領分が狭くなるのだ、 戎《ぢやん》は回《めぐ》り回《めぐ》りてポンチス街の警察の前に出た、 急ぎて行き過ぎやうとしたけれど、小雪の足が最う餘ほど疲れたので、 抱上げて暫《しばら》く行き、振返ッて警察の門前を見ると、 背の高き三人の警吏の姿が、月に照され黒く鮮かに見えて居る、 何うやら自分の後を追ふ者の樣に思はれる 直《すぐ》に次の町へ曲ッたが、茲《こゝ》は廣小路と爲て居る故、 先づ一方の軒《のき》の下に身を潜め、是からの行手を案じて居ると、三分と經ぬうちに、 今の警吏に又一人加はり、四人の姿が現れて來た 最う疑ふ所は無い 確に自分を追跡して居るのだ、頓《やが》て四人の姿は廣小路の眞中に來りて立ち、 四方を見廻して評議を初めた、多分 曲者《くせもの》が何方《どつち》へ逃たかと見定めて居るのだらう、 其中の三人は戎《ぢやん》の居る所より反對の方角を指さす容子だけれど、 一人が戎《ぢやん》の居る方へ指さし、三人と爭ふて居る、 戎《ぢやん》は月影に其の人の顏を見た、個は如何に、彼の蛇兵太《じやびやうた》である 四人が評議に時を移す間にと、戎《ぢやん》は慌《あは》てゝ軒下を潜り、 走り走ッて植物園と知らるる廣い一構《ひとかまへ》の前に出た、 茲《こゝ》で又振返て見ると誰も追ふて來る容子は無い、 多分三人の指さして居た方へ向ッたゞらう、今の間に河向ふへ落延やうとオステリチの橋へ掛ッたが、 此頃は橋でも税と取て居た、通行人一人に付き一錢である、 戎《ぢやん》は一錢を投出して渡りに掛ると番兵が見咎めて、 歩く事の出來る小女を抱て居るでは無いか、抱たとて橋錢は拂はねば』と云た、 惡い所で番兵の注目を引た者だ、けれど仕方が無い、又一錢を投げて茲《こゝ》を渡り、 更に歩みを早めやうとしたが抱れて居る小雪は泣き出し相な聲で 『阿父《おとつ》さん足が冷たい、歩ませてお呉れ』と云た、 歩ませては早く行く事が出來ぬ、けれど卸して歩ませた、 爾して幾町をか行た末、又振向くと今渡ッた橋の所まで一直線に見えて居る、 爾して橋の上には四人の警吏の姿がある、扨《さ》て旨く逃げ得たと思ッたのが間違ひで有たのかと、 戎《ぢやん》は限り無く失望して又も枝路から枝路へと分け入た、 けれど何所《どこ》まで行ても背後《うしろ》から靴の音が尾《つ》いて來る のみならず月の明《あかり》が時々に蛇兵太《じやびやうた》の姿を示すのだ、 最う到底助からぬと幾度《いくたび》か恐怖の念に襲はれた、 けれど小女小雪の有る限りは何所《どこ》までも逃げねば成らぬと、 猶も進んで幾丁をか行くと、町は高い石の塀に突き當ッて盡きた、 此邊は人通りも極稀れで寺院などの有る所である、 他に取る可き道は無い、石塀の下を右に行くか左に行くかである、 右に行けば必ず人通りの多い所へ出ることが大體の地理の上から察せられる、 其れでは又も死地に入るから、左りへ取ッて、再び小雪を抱上げつゝ、足の續く限り落延びたが、 彼れは此時までも蛇兵太《じやびやうた》の手廻しが何れほど能く行屆いて居るかと云ふ事に氣が附なんだ 逃れ/\て次の曲り角へ間近く行くと、月の明りに二人の巡査の立て居る姿が見えた、 アヽ人を捕ふるに妙を得た蛇兵太《じやびやうた》が既に此の所へ手下を廻して有るのだ、 進めば此手下の廣げて居る手の中へ落ちねば成らぬ、 引返して後に戻れば蛇兵太《じやびやうた》の一隊に捕はれるのだ、 袋の中とは此事である、天に上るか、地に入るか外に逃れる道は無い [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十三 落人《おちうど》 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は絶望して天を仰いだ、 天より外に助けの來る所は無い、右も警吏、左も警吏、 前は高さ二丈もある石の塀、背《うしろ》は三階建の家である 家の窓を推破ッて逃て入るか、高い塀を飛び越すか、 家は月の照る側である、窓の所に行けば必らず町の一方に居る警吏の目に見附けられる、 塀は翅《つばさ》無き身の飛越す便りが無い、何うしても最う捕《つか》まる一方である、 彼れの目には、早や牢屋の景色が浮んだ、今度捕るれば三度目の入獄なんだ、 其れは厭《いと》はぬとした所で、小雪を何うする、小雪は到底通例の人間に育つことは出來ぬ、 彼れは全く百計盡きた、彼れは小雪を、塀の下の暗い暗い隅に立たせた、 爾して其身は塀に添ふて狂ひ廻ッた、若し塀の何所《どこ》かに少しでも破れた所は無いだらうか、 潜り入る穴でも無からうか 頓《やが》て町の一方の端へ、六七人の兵卒が現はれた、 其眞先に立て居る脊の高い姿は、見違へる樣も無い蛇兵太《じやびやうた》である、 兵の持て居る銃の劍先が、冬の月に燦《きら》めく光りさへ能く見える、 何と云ふ物凄さだらう、一歩又一歩に此の一隊が近寄て來る、 彼等は物影には悉く立寄て檢《あらた》め、路次と云ふ路次は殘らず入つて見屆るのである、 隨《したが》つて其の歩みは爾う早くは無い、 戎《ぢやん》は光る劍先を見詰めた儘で考へた、 彼等が茲《こゝ》へ來る迄に何れほどの時間が掛るだらうと、 長く見積ても先づ廿分の間だらう、其の廿分が自分の壽命である 最う塀を攀登る外は無い、通例の人には迚《とて》も攀登る事は出來ぬけれど、 戎《ぢやん》には或は登ることが出來るかも知れぬ、 とは云へ小雪を何うするのだ、足場も手掛も無い絶壁を、 自分一人さへ覺束なさの限りであるのに、小雪を連て登られる筈は無い、 若し繩でも有るならば、アヽ爾うだ繩な何所《どこ》かに無いだらうか、 彼れは忙しく八方を見廻した、 若しも此時の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が王國を持て居たなら、 一條《すぢ》の繩を得ん爲には王國を捨てるのも厭《いと》はぬだらう イヤ繩は無いでも無い、此頃の巴里《ぱりー》の町は未だ瓦斯《ガス》が無い、 道の或る距離毎に硝燈《らんぷ》を吊り、月夜の時は之を點《とぼ》さずに、 暗《やみ》の夜だけ點《とぼ》す事と爲て居て、其の硝燈《らんぷ》を上げ下げするに繩を用ひ、 繩は不斷、硝燈《らんぷ》柱の下に鐵の箱へ入れ、箱には錠を卸して其の鍵を町内の番人が預ッて居たのだ、 繩は此繩より外に手に入る見込が無い、鐵の箱に納《しま》ッて有る物を、 取り出す事が出來るや否《いなや》も覺束ないけれど、 其樣な事を危ぶんでは居られぬ、戎《ぢやん》は思ひ附くと同時に驅け出して硝燈《らんぷ》柱の下に行つた 丁度、戎《ぢやん》の身は二個《ふたつ》の背嚢を背負て居る樣な者だ、 一方には慈悲限り無い聖人の心が入つて居る、是は高僧ミリエルの賜物《たまもの》だ、 一方には塀を乘越すとか錠前を破るとか云ふ如き盗兒の術が入つて居る、 是は長年牢の中に居た賜物《たまもの》なんだ、今の樣な境遇と爲ては兩方の嚢《ふくろ》の物を用ふる外は無い、 彼れは先づ小刀を以て鐵箱の錠を開いた、爾して繩を取り出した、 直《すぐ》に彼れは其れを以て小雪の居る所へ走歸《はせかへ》つた 先ほどからの彼れの擧動に、小雪が若し通例の兒供ならば、必ず驚き恐れて泣き叫ぶ所だらう、 けれど小雪は泣き聲さへも容易には立て得ぬほど萎縮《いぢ》けて育て來た身の上で有る、 恐る恐るに戎《ぢやん》の袖口に手を掛け、泣き出すばかりの聲で 『阿父《おとつ》さん、私しは恐く成つたよ、彼所《あすこ》へ來るのは誰ですか』 誰でも無い蛇兵太《じやびやうた》の一隊だ、戎《ぢやん》は聲を潜めて 『オヽ、靜におし、靜におし、手鳴田《てなるだ》の内儀《おかみ》さんだよ』 軍曹旅館の内儀《おかみ》の名が、小雪には何よりも恐ろしい、 小雪は寂《ひつ》たり靜になつた、戎《ぢやん》『爾うだ、爾うだ、 靜にさへして居れば、ナニ、何うにかなるよ、若し泣き聲でもすれば、 直《すぐ》に内儀《おかみ》さんが聞付けて來て和女《そなた》を捕へるから』と云ひ、 其まゝ自分の襟飾を取脱《とりはづ》し、之を伸して更に輪と爲し、小雪の脇の下を縛り、 其の中ほどに今取て來た繩の一端を結び、他の一端を口に[口|齒;u5699]《か》み持ち、 高さ二丈の塀を登り初めた、梯子も踏臺も無いけれど、 少し許りの高低《たかひく》が彼れに取ては手掛りである、 彼れが全身の怪力は手の先と足の先とに集つて居る、 下から小雪は恐しげに目を見張りて彼れの攀登《よぢのぼ》る容子を見上げて居た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十四 何物の屋敷 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 小雪が見上げて居る間は戎《ぢやん》は攀ぢて又攀ぢ、何うやう斯やら塀の絶頂に上ッた 塀の内には何の樣な運命が此二人を待て居るのだらう、塀の外は、 蛇兵太《じやびやうた》の引連れる一隊の捕吏《とりて》が一歩一歩に近くのみだ 『小雪、小雪』と戎《ぢやん》は塀の上から囁いた『サア此繩を兩手で確《しつか》と持て、 爾うだ、爾して、顏を外の方へ向けるのだよ、 小雪は命ぜられる儘に繩に縋《すが》ッた、直《すぐ》に其身は空中に吊上げられた、 縋《すが》る手の力は弱くとも、脇下から縛られて居るのだから落ちはせぬ、 先づ無事に塀の上に達した 戎《ぢやん》は小雪を抱いて塀の内側を見卸したが茲《こゝ》は外側よりも地は低く、 塀の頂邊《てつぺん》が一丈に餘る高さと爲て居るから到底飛降りる事は出來ぬ、 けれど幸に塀に添ふて高い木が茂て居る、戎《ぢやん》は直《すぐ》に塀から樹の枝に移ッた 眞に際疾《きわど》い所であッた、 二人の身體が樹の葉の茂みへ隱れると殆ど同時に蛇兵太《じやびやうた》が塀の外に來た、 彼れが部下を叱る聲が雷の樣に聞える『ナニ此町の出口出口に番卒を立せて有るのだから、 外へ出る筈は無い、必ず路次の中へ潜んで居るのだらう、サア捜せ、捜せ、 路次は皆行き止りだから嚢《ふくろ》の中も同じ事だ』 戎《ぢやん》は此聲を聞きつゝ樹の枝を傳ひ、遂に大地へ辷り下ッた 抑《そ》も此の塀の内な何者の屋敷だらう、荒れ果てた樣な廣い地面に幾棟か古い大きな家が立て居る、 けれど四邊《あたり》が寂《ひつ》そりと靜まッて人の住む所とは思はれぬ、 聞えるは唯だ塀の外の捕手の足音だ、時々は劍が塀に觸れる樣な音もする、 大勢がソレ右ソレ左りと叫ぶ樣な聲もする、勿論聞き分る事は出來ぬけれど、 其の聲の中で最も高いのは蛇兵太《じやびやうた》のである、 戎《ぢやん》は未だ活た心地はせぬ、小雪を背に負ひ塀の下の樹の影を徘徊したが、 少し離れた所に物置かと思はれる建物が有る、 先づ其中にでも入らねば小雪が定めし寒からうと、頓《やが》て其の所へ行て見ると、 壁さへも無い吹拂ひの荒れた小屋である 茲《こゝ》まで來ると塀の外の物音は最早や聞えぬ、此の先を何うするかとの思案は少しも定まらぬけれど、 先づ小雪を背《せな》から卸して大地の上に立たせた、折も折、時も時、とは此事だらう、 恐ろしい蛇兵太《じやびやうた》の聲の代りに何處からか知らぬけれども戎《ぢやん》と小雪とをして、 思はずも頭《かうべ》を垂れて地上に平伏《ひれふ》さしむる樣な聲が聞えた、 雲の間からでも洩れて來るのだらうか、譬へ樣も無いほど優しい聲で、 天帝の徳を頌する讃美歌である、幾人か幾十人のか、節を揃へて合唱して居る、 縦《よ》しや天津乙女《あまつおとめ》の歌とても斯うまで美しくは聞えぬだらう、 確に年若き女達が唱《うた》ふのである、遠磯に打つ波の樣に空中に響いて、 縹渺《へう/\》の餘韵《よいん》が、疲れ果てた戎《ぢやん》の胸へ融けて入る樣に感ぜられた 眞に天樂月中《てんがくげつちう》に聞ゆとは是である、 戎《ぢやん》は暫《しば》しがほど平伏《ひれふ》したまゝ恍惚として、 身邊《しんぺん》一切の事を忘れて了ッた、唯だ此の短かい幾時の間が戎《ぢやん》に取つての救ひである、 彼れは心の底から、神と交通する樣な嬉しさが湧出でゝ、身に危さなどは思はなんだ、 其中に歌は雲の中に入て消て了ッた、戎《ぢやん》は靜に首《かうべ》を上げて四邊《あたり》を見廻した、 全く目の覺めた心地である、今の歌が夢で有つたか眞事《まこと》であッたか、 其れとも疲れた我が神經の業《わざ》であッたか、自ら判斷することが出來ぬ、 唯だ覺ゆるは汗の冷たく乾いた身に、寒く夜風の吹て居るのみである、 見れば小雪は早や地の上に眠ッて居る、オヽ定めし寒からうと直《すぐ》に自分の外被《うはぎ》を脱ぎ、 小雪の身を掩ふて、爾して其身は身震した 何が何でも此樣な所には居られぬ、切《せ》めて風の來ぬ樣な隱れ場所は有るまいかと、 彼れは立て捜しに出た、何しろ廣い屋敷で、小屋とか物置とか云ふ可き古い建物が幾等も有り相に見ゆるので、 其所《そこ》此所《こゝ》を見廻る中に、重なる建て物の背後《うしろ》に出た、 見ると一方の窓から薄明りが洩れて居る、扨《さて》は茲《こゝ》には誰れか居るのだ、 何の樣な人か知らんと、彼れは忍び寄て中を窺《のぞ》いた、 中には奥の方に薄暗く硝燈《らんぷ》が附て居るけれども其の光りが弱いので能くは見えぬが、 見て居るうちに茫《ぼん》やりと床の上に異樣な姿が見えた、 彼れは其れを見詰めて暫《しば》し眼《まなこ》を離し得ぬほどに驚いた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十五 何物の屋敷 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 驚いたのみで無い、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は戰慄した、殆ど恐しさに身を支へ得ぬ程となッた 彼れが見た床の上の姿は何の姿だらう、確に死骸である、燈火《ともしび》の暗いのと窓の硝子の曇て居る爲め、 良くは見えぬけれど、女の死骸で、床の上へ俯伏《うつぶ》して居る、 アヽ此家は何と云ふ合點の行かぬ所だらう、先には月中に天樂を聞き、 茲《こゝ》が天國とでも云ふ所だらうかと迄に怪んだが、今は面《まの》あたりに地獄の状《さま》を見るのだ 常ならば戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は斯うまで、驚かなんだも知れぬけれど、 今は心が紊《みだ》れて居る、少しも落着て考へる餘地が無い、 彼れは見る中に恐しさに堪へ無くなり、窓を離れて逃げ出した、 けれど彼れの怪さに堪へぬ事柄は猶ほ是だけには止らなんだ 逃げ走ッて彼れは元の小屋に歸た、茲《こゝ》には猶だ小雪が、 冷い石の床に頭を着けて、眠た儘である、何と云ふ淋しい屋敷だらう、 誰も棲で居ぬのか知らん、棲で居るのは今見た死骸のみか知らん、 切《せめ》て人の居る氣合《けあひ》でも有れば好いのにと、 心の中に愁《かこ》ちつゝ考へて居ると、又一つの不思議が現はれた 是も何處からか知らぬけれど、微《かすか》に鈴が鳴る樣な音が聞えた、 聞えては止み、止みては又聞える状《さま》が、初《はじめ》には蟲の鳴く聲かとも怪まれたが爾で無い確に鈴だ、 戎《ぢやん》は首《かうべ》を擧げて其 音《ね》の來る方を見ると、 荒地の一方に、誰やら月の光に照されて立て居る、イヤ起て居るのでは無い、 立たり俯向《うつむ》いたりして居るので、 其人の動く度に鈴が鳴る、多分は其人が、鈴を身に着けて居るの有らう、 何をして居るか更に分らぬ、けれど此上も無く不安心に感じた 唯ッた今、切《せめ》て人の氣合《けあひ》でも有れば好いと思た身が、 人を見れば又其人が恐ろしい、併し恐しいのは道理である、 猶だ此屋敷の外には蛇兵太《じやびやうた》の一隊が居るに違ひ無い、 縦《よ》しや立去たとした所で幾人か見張番を殘して有るは必定だから、 若し此人が戎《ぢやん》の姿を見、驚いて聲でも立てれば直《すぐ》に捕はる事とも成るのだ 斯う思ふと、此まゝ居るのが危さに堪へぬから戎《ぢやん》はソッと小雪を抱上げた、 抱上げても目を覺さぬ、爾して成るたけ目に觸れぬ陰の方へ身を移したが、 鈴は相變らず鳴て居る、人は相變らず立たり俯向《うつむ》いたりして居る、 何の爲か更に合點が行かぬから、猶ほ能く見ると、其人の居る所は野菜など作ッた畑の樣だ、 多分其人は苗が霜に傷《いた》められるのを豫防する爲に、 畔《くろ》へ土をでも掛けて居るのだらうと、是までは想像が屆いたけれど、 鈴の音が分らぬ何故に腰に鈴を下げて居るのだらう 併し、兎も角も畑男の類とすれば爾う恐れるには及ばぬと稍《や》や心を安くしたが、 心配の弛むと共に忽ち氣の附たは、今まで握て居た小雪の手の冷さである、 殆ど氷に觸る樣な想がするので『小雪、小雪』と低い聲で呼んだ、 けれど返辭が無い、更に其肩に手を當て搖り動かした、けれど目を覺し相にも見えぬ 『オヤ、死んだのでは無からうか』との痛い痛い疑ひが針の如く戎《ぢやん》の心を刺した 戎《ぢやん》は驚いて立上ッた、頭から足の先まで震《ふるひ》が止らぬ、爾うだ、 兼て聞て居る、餘り寒さの強い所で、風に吹かれて眠る時は、眠た儘で死で了ふ事が度々あると、 確に小雪が其れで有る、凍えて呼吸《いき》を引取らうとして居るのだ、 戎《ぢやん》は又 俯向《うつむ》いて小雪の手を握ッた、 其の脉《みやく》が殆ど絶え掛けて居る、何が何でも此儘には置かれぬ、 目を覺させねば成らぬ、暖めて遺らねば成らぬ、風の吹かぬ所へ連行き、 寢床の中へ寢かさねば成らぬ、とは云へ何うして其樣な事が出來やう、 戎《ぢやん》は只だ當惑の餘りに、何も彼も打忘れ、一散に鈴の鳴る人の方へ馳せ附けた 馳せ附けて其れが爲に捕はれる事にも成れば何とする、 彼れは其樣な事を顧みる暇が無い、直《すぐ》に畑男の前に立て、 其の打驚く状《さま》を目にも留めず『サア百圓、百圓』と叫んだ、 男は何事かと顏を上げて戎《ぢやん》の顏を見た、 戎《ぢやん》『サア百圓遺る、今夜唯だ一夜だけ寢床を世話して呉れゝば』 此樣な事を云はれても合點の行く筈が無い、男は又 倩々《つく/\゛》と戎《ぢやん》の顏を見た、 戎《ぢやん》の顏には月の光が殆ど滿面に落ちて、 其の慌《あわ》てた心配氣な色を照して居る、男は暫《しば》し見詰めて忽ち打驚いた 『ヤ、ヤ、貴方、貴方、市長さん、斑井《まだらゐ》市長さん』 戎《ぢやん》は一歩《ひとあし》退いた、此の異樣な所で、此の異樣な人に、 斑井《まだらゐ》市長さんと呼ばるゝほど意外な事が又と有らうか、 幾等不思議な事ばかり打續く屋敷でも、是ればかりは餘《あんま》りである、 戎《ぢやん》は聲さへも出ず空しく其男の姿を見た、男は老人である、 田舍者である、身體の傾いた跛者《びつこ》である、 腰に鈴が下ッて居るけれど、見覺の有る人で無い『お前は何者、 茲《こゝ》は誰の屋敷』と戎《ぢやん》は問ふた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十六 尼寺 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 『お前は何者、茲《こゝ》は誰の屋敷』驚いて戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は問返すも尤もだ、 此樣な不思議が又有らうか、逃込だ此屋敷で畑男から『斑井《まだらゐ》市長さん』と呼ばるゝとは。 戎《ぢやん》は熱心に男の顏を見た、月の光に透して殆ど窺《のぞ》き込む樣にして、 男は聊《いさゝ》か笑ふ樣に『市長さん、私しをお忘れとは甚いですよ、 貴方は私しの命の親では有りませんか、私しが猶だ活て居るのは貴方のお陰では有りませんか』 戎《ぢやん》は漸《やうや》く思ひ出した、 アヽ此男は星部《ほしべ》父老《ふらう》と呼ばれた不幸な翁《おきな》である、 曾《かつ》てモントリウルで馬車の下に壓《し》かれたのを、 戎《ぢやん》が自から命を賭《と》して馬車の下に入り助けて遺たのだ、 其うち絶えて打忘れて居たのは、 今に自分が天地の間に身を置く所も無い樣な仕誼《しぎ》と爲つて圖《はか》らずも此の男の前に立つとは世に謂ふ陰徳陽報と云ふ者では有るまいか、 戎《ぢやん》は叫んだ『オヽ思ひ出した、思ひ出した、星部《ほしべ》父老《ふらう》、 シタがお前は何をして居る』父老『若い苗に霜避《しもよけ》を仕て居ますのさ、 此寒さでは暁方《あけがた》の霜が甚からうと思ひまして』 何氣無く答へ掛けたが又も初《はじめ》の怪む色に立返りて 『エ、市長さん、ですが貴方は何うして茲《こゝ》へお出なさッた』 成るほど怪まるれば答へねば成らぬ、と云て何と答へやう、 四邊《あたり》の容子とても未だ能くは分らぬのに、 爾うだ答へるよりも問ふが先だ、戎《ぢやん》は反對《あべこべ》に問人《とひて》と爲ッて 『其れよりもお前は腰に何故鈴を着けて居る』 父老『是れは私しが今何處を歩んで居ると云ふ事が皆なに分る爲です』 皆なとは誰、是れだけでは少しも分らぬ、戎《ぢやん》『私にはサッパリ合點が行かぬが』 父老『ナニ貴方、茲《こゝ》には婦人ばかりですから、男を險呑な者として有るのです、 私しが近けば鈴の音を聞て皆が逃るのです』 戎《ぢやん》『エ、何で女ばかり、全體 茲《こゝ》は何の屋敷』 父老『貴方は能く御存じですのに』戎《ぢやん》『イヤ知らないよ、少しも』 父老『アレ貴方が世話をして、私しを茲《こゝ》へ住込ませて下さッたでは有りませんか』 戎《ぢやん》『ハテな』父老『茲《こゝ》はビクバスの尼院《あまでら》ですよ』 成るほど爾うだ彼れを尼寺へ庭男として住込せて遺たのだ、 其れも人の通手《つて》を頼だので有たから全く忘れて居た けれど、今其の尼寺へ自分が逃込んだと云ふのは餘《あんま》り不思議である、 恐くは今、廣い巴里《ぱりー》で戎《ぢやん》を隱《かくま》ッて呉れる家は唯の一軒も無いだらう、 隱《かく》まッて呉れぬのみか戎《ぢやん》が逃込んで一刻でも無事に立て居られる家は決して無い、 若し有るとすれば其れは唯だ此の尼寺のみだ、戎《ぢやん》は心の底に深い深い感謝の念が起た、 神が若し我が手を引て呉れるので無くば、 何うして百萬軒も有る家の中で唯だ此の一家へ逃げ込むと云ふ事が出來る者か、 偶然に似て偶然で無い、茲《こゝ》が即ち天與の隱れ家、何が何でも此屋敷に蹈留まる算段をせねば成らぬ、 茲《こゝ》を出たなら最う身を置く所は無い 此樣に戎《ぢやん》が考へる間も、星部《ほしべ》父老は彼れの身を倩々《つく/\゛》と眺めて居る 『ですが貴方は、何うして茲《こゝ》へお出で成さッた、貴方は神樣の樣な善人ですけれど、 其れでも男は男です、男子禁制の尼寺へ』戎《ぢやん》『男子禁制でもお前が居るでは無いか』 父老ハイ私しは居ますけれど、男と云へば全く私し一人ですよ、其れだから鈴を附られるのです、 他に男は一人でも入れません』戎《ぢやん》『入れなくとも私しは當分 茲《こゝ》に留置て貰はねば無らぬ』 異樣に力の籠た言葉である、星部父老は稍《や》や驚いた、 戎《ぢやん》は進で、嚴《おごそ》かに『星部父老、先には私がお前を助て遺た、 今は私の方が、お前の助を請はねば成らぬ』父老は少しも躊躇せぬ、 彼れは却て有難げに『私しが貴方を助ける、其樣な御用に立つなら本望です、 貴方の御恩を忘れる暇は無く、何うか少しでも返し度いものと其れのみ氣に掛て居るのです、 ですが何の樣に貴方を助けます、何うすれば好のです、お聞かせ下さい』 戎《ぢやん》『では云はふ、お前は室《へや》を持て居るのか』 父老『室《へや》と云て此屋敷の隅に在る樹の陰の荒《あば》ら屋ですが獨り住居《すまゐ》には勿體無い、 總體で三間有ります』戎《ぢやん》『宜しい、ではお前に二つの願ひが有る、 第一は誰にも知さぬ樣に私を其 室《へや》に隱して置て貰ひ度い』 父老『承知です、第二に』戎《ぢやん》『第二に私の事を少しも問はぬ樣に仕て貰ひ度い』 第二の方が却て第一より六かしいかも知れぬ、父老は聊《いさゝ》か顏を長くした、 けれど心好く承知して『貴方の事ですから、お問申さずとも、 惡い事を成さらう筈は無く、總《すべ》て神の御心に叶ッた事に相違無いのです、 何にも問はずにお言葉に從ひませう』全くの忠僕である、 戎《ぢやん》『好し、約束は是だけにして、では行て兒供を連て來やう』 兒供と聞ては驚かぬを得ぬ『エ、エ、兒供、兒供がお有り成さるのですか』 問ひはしても達《たつ》て返事を得やうとはせぬ、 後は無言で戎《ぢやん》の後に隨《したが》ひ、小雪の寢て居る小屋の方へ行た 半時間と經ぬうち、小雪は此の父老の住む小屋の中に連て行かれ、 焚火の前で温められる事にはなつた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十七 尼院 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 誠に、身の置所無き戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に取て尼院《あまでら》ほど隱れるに好い場所は無い、 尼院《あまでら》にて幼女を教育する寄宿寮もある、丁度小雪の教育を托するに適當だ、 此の寄宿寮に入る幼女は總《すべ》て後々尼と成る候補者だから、 何でも入寮を願ひ出る幼女が有れば院長は喜ぶのだ、 と云て戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》と云ふ男一匹が一緒に居ることは矢張り院長が喜ぶだからか[誤:だらうか]、 イヤ飛でも無い、其れは禁制だ 昨夜 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は先づ小雪を寢かせて後、 更るまで星部父老と相談した、父老の小屋に宿ッて居るは好いけれど、 尼院《あまでら》の人に顏を見られる事は到底出來ぬ、 小屋の前の空地へは時々幼女の群が運動に出て來るので若し鞠《まり》でも飛込めば、 大勢が此小屋へ這入て來て家捜しをする、其時には隱れる場所が無い、 直《すぐ》に見現はされて星部父老と諸共《もろとも》に追出されるは必定だ、 父老は考へ/\云ふた『けれど貴方は、好い時に入らした、 此寺の前の院長は幾年前から老病で昨今は危篤と爲り、 今夜から尼さん達が四十時間の御祈[しめすへん|壽;u79B1]を初めました、 其れだから明日明後日は誰も庭などへ出て來ません、何でも其の間に工夫を極めて了ひませねば』 戎《ぢやん》は之を聞て合點が行た、先刻此庭へ天降ッた時に、 讃美の歌を聽たのは其祈[しめすへん|壽;u79B1]の初まる所で有ッたのだ、 其れから薄暗い室《へや》の窓を窺《のぞ》いた時、 石の床に臥した女の死骸が有ッたのは、死骸では無い 活た尼さんが悔謝の苦業をして居られたのだ、 斯うは合點の行た所で扨《さ》て身の振方には其合點が何の益《やく》にも立たぬ、 戎《ぢやん》は途方に呉れた聲で『では此まゝ隱れて居る譯には行ぬ、 お前と同樣に庭男にでも雇て貰はねば』 雇て貰ふとて男子禁制の此場所へ爾う雇て貰ふ事が出來るだらうか、 父老『先《ま》ア私しの弟とでも言立てゝお雇ひを願ッて見ませう、 私しも取る年ゆゑ、最う骨が折れて勤り兼るから手助が欲しいとでも言立てれば、 萬に一つ聞屆けられるかも知れませんが、 其れにしても一旦は貴方が茲《こゝ》を出て、爾して外から雇はれて來ねば成りません』 成るほど爾うだ、雇はれると云ふには何うしても外から來ねば成らぬ、 戎《ぢやん》は殆ど顏色を土の如くにした、 一旦 茲《こゝ》を出ると云ふ事が何うして出來やう、もと來た塀を乘越えやうか、 外に蛇兵太《じやびやうた》が嚴重な見張り番を殘して有るは必定だ、 塀を越えれば直《すぐ》に其者の擴げて居る手の中へ落るのだ、 門から出れば此 院《てら》の番人が裏門にも立て居て、一人一人檢めた上で無ければ出さぬ、 或は此の尼院《あまでら》へ入つたのが却て袋の中へ落ちた樣な者か知らん 當時の尼院《あまでら》の容子を聞知て居る人は、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の一方《ひとかた》ならぬ當惑を察するだらう 尼院《あまでら》は全く治外法権の有樣で、世間とは習慣も儀式も違ひ、 取分け[※;て?]人の出入が嚴重で、 何の樣な事が有ても忍んで出るの忍で入るのと云ふことは出來ぬ仕組に成て居た、 其れだから警察でも尼院《あまでら》へのみは何の詮索をも及ぼさなんだのだ、 又其れだから戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》も[手|當;u64CB]《はた》と途方に呉れたのだ 何の思案も浮ばずに此夜は果てた、思案の浮ぶ筈が無いのだ、 戎《ぢやん》は只管《ひたす》らに神の冥護を祈て明した、 爾して翌朝に爲ると本堂で毎《つね》と異《かは》ッた鐘が鳴た、 星部父老は之を聞て『アヽ到頭、前の院長から呼出された、是は怪むに足らぬ、 死人の有た時に、其筋から送られる棺を動かしたり、 其蓋に釘を打たり、埋葬の手傳ひを爲《し》たりするのが此父老の役目で有る、 無論其れ等の用事だらうと、父老は心得て院長の前に出ると、毎《いつ》もとは少し違ッた、 院長は人の居ぬ室《へや》へ父老を連て行き聲を潜め云ふには、前院長の遺言で、 其死骸をば其筋の棺へは入れず、數年來、御自身の病臥して居た寢棺《ねぐわん》へ其まゝ蓋をして葬むる譯に成ッた』 との事である、尼さんと云ふ者は病氣になると寢棺の樣な箱を作り其の中へ寢て居るのが式である、 死ぬれば其の箱から本統の棺へ移すのだが、樣々の信仰や迷信を持て居るので、 常人には合點の行かぬ樣な遺言をする事が多い、爾うして其の遺言は、 神聖な者と視て誰も負《そむ》かぬ、況《ま》して前院長とも云ふ高貴な尼君だから、 今の院長が精密に其旨を奉ずるのは尤もだ 星部父老は心の中で、 何うか弟の雇入れを願ふ樣な好い途端は有るまいかと其れのみを思ふて聞て居ると院長の尼君は言葉を繼ぎ 『爾して葬るのも墓地では無い、此本堂の祭壇の爲《し》たへとの御所望ゆゑ、 床を剥して其通りにせねば成らぬ』と云ふ、 猶ほ是等の事は人の耳には入れられぬ故、汝《そなた》一人にて計《はから》へとの事である、 父老は茲《こゝ》ぞと思ひ、自身の不具な事を言立て、年老いて力も足らねば床を剥したり、 其下の石を動かしたりする爲め誰か相手をと所望し、幸ひ自分に弟が有るからと云ひ、 猶ほ其弟には幼い娘が有て日頃から寄宿寮に入れ度いと望んで居る故、 之をも共に呼び迎へればと、日頃は爾う廻らぬ口で殆ど一生懸命に説いた、 尼君は一切父老の嘆願に耳を傾けぬ容子で、汝《そなた》の力で餘る所は、 尼の中で手傳《てだすけ》をする者が有る』とて言葉を結んだ 『其れにしても其筋から來る棺は何う成されます、當り前に葬式を出さねば直《すぐ》に其筋へ分りませう 此 節《せつ》は衛生など云ふ事も八ヶましく、幾等尼君の死骸でも床下へ埋めたと有ッては』 と父老は全くの正直で故障を云ふた、尼君は心配氣に『サア其事が思案に餘ッて居る、 何うか汝《そなた》の智慧で、中へ重い物でも入れ、儀式の通りに送り出してお呉れ』 父老『心得ました土をでも包んで入れませう』 父老[誤:尼君]『オヽ人は土から作られたもの、爾して土に歸るのが常なれば土を包むとは好い思案、 何うか好きに計《はか》らふてよ』とて、 初て秋眉を開き、座を立ちながら父老を顧み『汝《そなた》の忠義に面じ、 弟とやらを汝《そなた》の下役に雇ふて遣はさう程に、葬式の濟んだ後に、 娘をも共々に連れて來るが好い』との一言を殘された 胸の重荷を一方《ひとかた》は卸した樣に父老は感じた、 併し『弟』と連れて來るには先づ一旦連れて出ねば成らぬ、 娘の方は小いから自分が買物に行く振で籠《つゞら》を背負ひ、 其の中へ入れて連て出、爾うして知る人の家へ預けて置き、 然る可き時に迎へて來ることも出來るけれど『弟』の方は爾は行かぬ、 籠《つゞら》へ這入り切らぬ上、跛足《びつこ》の自分が負ふ事は出來ぬ、 唯だ此事に屈托しつゝも小屋に歸つて戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に、 尼君の言葉を話した、戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は靜に聞て、 忽ち手を拍《う》ち『アヽ漸《やつ》と外へ出る工夫が出來た、 土の代りに私を其の棺に入れて貰はう』 餘り豪膽な所望だから、父老は暫《しば》し、眞事《まこと》とは思ひかねた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十八 尼院 三 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 活ながら棺の中へ入れられて、死人の状《さま》で此 尼院《あまでら》を忍び出るとは、 此上も無い危險な業《わざ》だ、棺の中で絶息すれば其れまでだ けれど戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は覺えが有る、 今まで幾度《いくたび》の逃亡に隨分人間の潜む事の出來ぬ所へ潜んだことも有る、 他《ほか》の人なら死ぬるに極ッた樣な所を、死なずに漕拔けた事も有る、 其れに又今の場合は、棺の中に潜むより外に仕方が無い 此決心を聞た星部父老は、信じ得ぬ程に驚いたが、遂に戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》に説伏せられた、 爾うして能く積て見ると、必ずしも出來ぬ事では無い、棺は死骸室と云ふ所へ置て有る、 其所《そこ》へ這入るのは醫師と星部父老とのみだ、 出棺は明日の午後三時頃で、棺に蓋をするのは其の一時間ほど前だから、 其れまで戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》を其の傍に在る道具室へ忍ばせて置き、 蓋する間際に棺の中へ入らしむれば好い、蓋は成る可く弛《ゆる》やかに釘を打ち、 其上に錐で幾個所か小穴を穿《あ》けて置けば呼吸《いき》の出來ぬ事も有るまい、 無論棺の外へは白い布を被せるのだから、穴が有ても分りはせぬ 爾して愈《いよい》よ墓場まで持て行けば此方《こつち》の者だ、 墓場に居る穴掘人は、兼て星部父老と懇意な酒好な親爺だから、 棺を穴に卸して未だ土を掛けぬうちに一杯馳走をすると云へば、 直《すぐ》に連れられて近所の居酒屋へ行くだらう、居酒屋で泥醉させ、 眠らせて置いて星部父老一人が穴の所へ引返し、棺を開いて人を取出し、 空棺だけを埋めて去れば好いのだ 斯う話しが極つたから、此夜の中に星部父老は、先づ小雪を籠《つゞら》に入れ、 買物に行く振で、自ら脊に負ふて裏門から出で、懇意な家へ預て置いて歸て來た、 勿論小雪には戎《ぢやん》から然る可く言含めて有るのだから泣きも驚きもせぬ、 此次に戎《ぢやん》を道具室に忍ばせ、明日の午後二時頃までの食物をも與へて置いた 此外に此夜星部父老のする仕事は、本堂の祭壇の下へ、死だ尼君を埋める一條で有ッたが、 是れも夜の明ける迄に首尾能く濟ませた *    *    *    *    *    *    * 翌日《あくるひ》の午後三時頃、定めの通り棺は此の尼院《あまでら》から擔《かつ》ぎ出された、 無論中には活た戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が忍んで居るのだ、 此棺に從ッて星部父老は墓地に行た、何にしても一方《ひとかた》ならぬ心配の仕事だから、 先づ墓穴の所へ行て見ると、當にして居た酒好の翁《おきな》は見えず、 色の青白い痩形の若い男が鋤《すき》と鶴嘴《つるはし》を用意して立て居る、 父老は我が計畫か根本から破れた樣に感じたが、念の爲と思ひ、 其の男に向ひ『私しは尼院《あまでら》から來た埋葬人だが、 兼て此墓場を受持て居る埋葬人は居ませんか』若い男『僕が其の埋葬人さ』 父老『エ、今までの老人は』男『アノ酒好の翁《おう》か、彼れは先日死で了ッた』 父老は全く驚いた『アノ彼の埋葬人が死んだ』 男『何も其樣に驚く事は無い、人の爲に穴を掘る人でも、 遂には自分の埋められる順番が來るのさ、其れで僕が其の後任に採用せられた』 穴掘人には不似合な言葉附である、父老『お前さんが後任か』 男『爾うよ、那翁《なぽれおん》の後へは路易《るい》王が位に即《つ》くぢや無いか、 酒好の翁《おう》へは餅好の僕が上げられたのだ』 父老は殆ど腹立しき程に感じ『お前さんは全體、何者だ』 男『オヽ僕かへ、僕は文學者だよ、文學者だけれど此頃は書肆《しよし》の眼識が低くなッて、 僕などの高尚な傑作は原稿が賣れぬから、 内職に穴掘人を志願したのさ』父老『内職に』男『爾うさ、是でも未だ文學者と云ふ本業は捨てはせぬ、 朝の中は宿に居て、近所の女中達が兵卒に送る宣戰の布告を代筆して遺り、 夕方になると鋤《すき》と鶴嘴《つるはし》を肩にして墓地へ來るのさ』 文學者が、本業には下婢の爲に艶書を代筆し、 内職には墓の穴を掘りに來るとは何と云ふ世の状《さま》だらう、 併し父老は其樣な感慨に穴《は》せる餘地は無い『何しろ私は尼院《あまでら》に居て、 埋葬の爲には度々 茲《こゝ》へ來るのだからお前さんと懇意を結んで置かねば成らぬ、 お近附の爲に、其所《そこ》らで一杯呑で來ませう、勘定は私しが奢《おご》りますから』 男『イヤ僕は酒は嫌ひだ、ナニ酒などを用ひずとも懇意には成れるよ』 父老は殆ど返す言葉が無い『ナニお前さん、其所《そこ》の酒屋へ行けば下戸の口に合ふ甘い酒が有りますから』 男『イヤ其れにしても仕事が先ぢや、任務を終ッて歸り道なら、隨分御馳走にもなるけれど』 最う此上に説く道は無い、父老は何とか好い工夫はと只管《ひたす》ら頭を惱ませて居る間に、 早や棺は此の所へ舁《かつ》ぎ込まれた、容赦も無く穴掘文學者が繩を掛け、 穴の中へ其の棺を吊り下した、如何とも仕方が無い、 次に祭官は、穴の上から棺を見下して祈[しめすへん|壽;u79B1]を捧げ、 式の通りに神水を之に注ぎ、滯り無く其の職務を濟ませて引取ッた、 全く父老は千々に心を碎いたけれど、文學者を遮る工夫は無い、 彼れは名句を吐く積りで『早く布團を着せて遺らねば、定めし寒くて眠られまい』 と云ひつゝ早や鋤《すき》を取上げて棺の上にバラバラと土を落した [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 六十九 尼院 四 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 埋めて了へば、棺の中へ空氣が通はぬ事になる、中の人は絶息するに極ッて居る、 事に依ると最う絶息して居るかも知れぬ、爾うして掘返す中には時間が絶つ、 全く死で了ふかも知れぬ 穴掘文學者の一鋤《すき》一鋤《すき》に、星部父老の心配は何れ程で有たかも知れぬ、 彼れは全く自分の手で恩人の命を、少しづゝ奪て居る樣に感じた、 何うかして文學者の手を止めねば成らぬ、何うかして、何うかしてと、 彼れは心の中で悶《もだ》え苦んだけれど仕方が無い、一鋤《すき》、又一鋤《すき》と、 土は戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》の棺の上に雨の樣に落る 星部父老は絶望した、最う恩人の命を取留る綱は切れた、 絶望の餘りに彼れは只だ虚呂々々《きよろ/\》眼《まなこ》ばかりを動せた 動く眼《まなこ》にチラリと留ッたのは、 穴掘文學者の腰の邊《あたり》の衣嚢《かくし》から何か白い一物の端が食出して居る、 此の一物が父老に取ては天の氣呵《きか》だ、此一物が父老の眼《まなこ》に留ると共に、 一種の智慧が電光《いなづま》の如くに彼れの心に差込だ、 彼れは最《い》と靜に、何氣無く、背後《うしろ》からソッと手を出し此の一物を拔き取て、 穴掘文士の少しも氣の附かぬ間に自分の懷《ふところ》へ隱して了ッた、 爾して頓《やが》て文士に云ふた『お前さんは此の墓地に出入する門鑑を持て居るかへ、 門の鑑札をサ』文士は問の意味を呑込み得ぬ態《てい》で有ッたが再び同じ樣に問返されて初て氣が附き、 鋤《すき》を持た手を止めて『アヽ僕は此業を初た時、門鑑を貰ッて、今日も持て來て居るよ』 と云ひつゝ腰の衣嚢《かくし》を探ッたが、既に拔取られた後だから有る筈が無い 『オヤ家へ置て來たのか知らん』父老は茲《こゝ》ぞと思ひ 『其れは大變だ、此門を出る時に其を門番に示さねば規則に觸れる』 文士『規則に觸れる事は能く知て居るが、ハテな此方《こつち》の衣嚢《かくし》か知らん』 父老『此頃は新墓を發《あば》いて、死骸の着物を剥取て行く樣な恐ろしい盗人《ぬすびと》が有るので、 夜中鑑札無しで此墓場に居る者は罰金だよ、十五圓の罰金を取られるよ』 十五圓の聲に文士は色を變へ、一切の衣嚢《かくし》を裏返す迄にして檢《あらた》め 『大變だ、大變だ僕は全く忘れて來た、家を出る時、確に持て來たと思ッたけれど』 父老は信切氣に『忘れて來たのなら、早く歸て取て來るが好い、 猶だ門を閉ぢる刻限までは二十分ほど間があるから』 文士『爾うだ、爾うだ、僕の家はポジラ街八十七番地で、茲《こゝ》から隨分遠いけれど、 一散に走て行て來やう、アヽ氣を附けて呉れて有難かッた、 十五圓の罰金では身代限をしたとて追ツかぬワ』と云ひ、 眞實有難さうに父老に謝して一散に走り去た 是より三十分と經ぬうちに、二人の老人が、 一人は鋤《すき》を肩にし一人は鶴嘴《つるはし》を擔《かつ》いで此墓の門を出た、 兩人ともに鑑札一枚 宛《づゝ》を門番に示した、 即ち此兩人が父老と戎《ぢやん》であることは云ふに及ばぬ 父老が棺の蓋を開いた時、戎《ぢやん》は早や氣絶して居たけれど、 父老の少しばかりの手當で直《すぐ》に蘇生し、此通り連立て墓門を出たのだ、 爾うして父老が先に立ちポジラ街八十七番と云ふを尋ねて行き、 彼の文士の住居《すまゐ》へ行て見ると文士は文具や原稿などを取散して、 一枚の紙をも二枚に剥ぐ樣にして鑑札を捜して居る、 父老は目の前へ鑑札を投出し『お前さんのだらう、墓地に落て居たから拾ッて來て上げた、 鋤《すき》と鶴嘴《つるはし》も、サア茲《こゝ》へ置きますよ』と云ひ、 文士が頓首して述べやうとする禮の言葉を耳にも入れずして去て了つた 又も是より幾時間の後、此の兩人《ふたり》は、 一人の少女を引連れて尼院《あまでら》の門へ着いた、 少女は即ち小雪である、前晩に星部父老が籠《かご》に入れて背負て出て、 懇意な家へ預けて置いたのを、尋ねて行て連て來たのだ、連て來て院《てら》の門へ近く頃、 戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》は蛇兵太《じやびやうた》の殘して有る見張番の目を避ける爲め餘ほど用心したが、 其の甲斐が有つて、見咎められもせず無事に尼院《あまでら》へ入る事が出來た、 此翌日から尼院《あまでら》の中に、腰に鈴を着けた寺男が二人り出來た、 唯だ不思議な事には、若い達者な方が毎《いつ》も内に居て、 外出の走り使ひは年老た跛足《びつこ》の方が常に引受ける一事であつた、 けれど誰も此不思議には氣が附かなんだ、 爾うして尼院《あまでら》の寄宿寮には幼年の女生が一人殖えた、 是れは即ち小雪であるのだ 小雪は休日の日毎に星部父老の小屋へ來て『阿父《おとつ》さん』の顏を見るのを此上も無い樂みとした 『阿父《おとつ》さん』も此の尼院《あまでら》の中、此の小屋の中で、 殆ど今までに無い程の安樂を得た、茲《こゝ》ならば蛇兵太《じやびやうた》も捕吏《ほり》も探偵も來ぬ 眞の安心の場所である、彼れは全く救はれたのだ、彼れは時々、 自分の身の上を考へ廻し、確に神が此身を保護して呉れて居るのだとの感じの湧出ることを禁じ得なんだ 前に一身の置き所が無くなつた時には、高僧に救はれて其れが魂を入替る空前の動機と爲り、 今度又、此世に身の置き所の無くなつた際に當り、 尼院《あまでら》へ救はれるとは、偶然に似て決して靜かに此の尼院《あまでら》で年又年を送つて居た 其中に小雪も段々と成長した、ホンの幼女で有つた者が、漸《やうや》く娘とは爲つた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十 本田圓《ほんだまるし》 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 最《い》と靜な尼靜[誤:尼院]《あまでら》の中で小雪は段々と成長した、何の樣に成長したゞらう 殆ど憂世の浪風《なみかぜ》をも知らぬ状《さま》で成長したけれど、 『憂世』と云ふ不思議な世界は、小雪の爲に樣々の運命を蓄へて居た、 其運命の善か惡かは、神々より外に知る者はない 滿身の愛を小雪に注ぎ、 そして小雪から又滿身の愛を注がれて居る樣に見えて居る戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》とても、 此の尼院《あまでら》が末では無かッた、未だ浮世の業が盡きずに居た 併し其れ等は、此の話の餘ほど後の方に至らねば分らぬ *    *    *    *    *    *    * 巴里《ぱりー》の都より、馬車ならば一日までは掛らずに行れるベルノンと云ふ田舍に、 花などを培《つく》ッて最《い》と貧く暮す老軍人が有ッた、 姓は本田、名は圓《まるし》、讀者は何所《どこ》から此姓名を聞た事は無いだらうか 拿翁《なぽれおん》の傳記を讀む人は少佐 本田圓《ほんだまるし》の名を忘れる事は出來ぬ、 彼れがエルバ島へ流罪に成たとき、ベルトラン將軍と共に彼れに隨つて行た一人は本田圓《ほんだまるし》である、 彼れが島を破て歸たとき共に歸て、彼れの爲に許多《あまた》の危險を冒したのも本田圓《ほんだまるし》である 本田圓の戰功は殆ど筆紙に盡されぬ、之が爲に本田は拿翁《なぽれおん》から勲章を受けて居る、 中にも名高い戰功は、拿翁《なぽれおん》の最後の一戰たる水[土|婁]《ウヲタルー》で、 リウンブルヒの大隊旗を奪ひ取て拿翁《なぽれおん》の傍に馳せ歸た、 其の時本田は身體に幾ヶ所の傷を負ひ、殊に顏には、 眉間《みけん》に深い劍創を得て全く血に塗《まみ》れて居た、 其の姿を見、拿翁《なぽれおん》は狂喜して『男爵、男爵』と打叫んだ、 即座に貴族に取り立てゝ男爵に叙したのだ、殆ど前後に類の無い榮轉である、 本田は答へた『私しの未亡人が仕合せです』自分の身が仕合とは云はぬ、 自分の身は此のまゝ死ぬのだから後に殘る妻の爲に謝するのだ、 天晴れ勇士の覺悟とは云ふ可きである 此の役《えき》で、本田の助ッたのは不思議である、 誰も定めし死だ事だらうと思て居た、けれど何う云ふ廻り合せの爲か、 助ッて再び此世の人とは爲ッた(此話の第四十六回に記せる戰場 盗坊《どろばう》の條を參看す可し) 其のち、拿翁《なぽれおん》は最後の島流しに遭ひ、路易《るい》王が再び位に即《つ》いた、 國中には猶だ拿翁《なぽれおん》に望を屬し國王や貴族を憎む者が有つたので、 此の本田圓は甚く其筋から目を附けられた、 若しや拿翁《なぽれおん》の血筋の者を盛立てゝ朝廷を覆へす樣な陰謀に組しはせぬかと 其れが爲に、非職軍人として半俸給を與へ置た、半俸給では迚《とて》も都に住む事は出來ぬ、 其れで田舍へ引込だのだ、引込む前に妻に死れた、妻は一人の男の子を殘した、 此男の兒が是より此話の達者《たてもの》とは成るのだ、 けれど最少し父の事柄を記して置かう 何しろ拿翁《なぽれおん》の無二の忠臣だから、縦《よ》し陰謀は企てぬにしても、 其身は依然として、拿翁《なぽれおん》に授ッた少佐の肩書を持て、其上に男爵と稱して居る、 のみならず外へ出る時などは勲章の略綬を胸に附けて居る、是は實に不都合だ、 拿翁《なぽれおん》に功勞の有つたのは今の朝廷へ對しては不忠だから朝廷で其の勲章をも爵位をも認ることは出來ぬ、 其れが爲に其筋の係官が或時本田に向ひ、拿翁《なぽれおん》時代の勲章は最う佩用しては所《な》らぬと達した、 本田は其人の顏を穴の開くほど眺め『私しは此國の言葉なら大抵分る積ですが貴方の言葉は何の意味だか少しも分りません』 と答へた、其後陸軍省から、多分其事に附ての説諭だらう二度まで手紙が來た、 けれど其の封表に『男爵』と云ふ肩書が附て居ぬので、是は拙者へ宛た者とは認めぬと云ふ見識で、 封も切らずに突返した 實に痩せても枯れても古武士の風骨を存して居ると云ふ可きだ、 其の後又、其筋の係り官に逢た時、自分から進んで問ふた、其の言葉が面白い 『拙者に皇帝 拿翁《なぽれおん》より受けた勲章を身に附けて成らぬとの事で有りますが、 皇帝の爲めに忠勤を盡した第一の記しは勲章よりも此の眉間《みけん》の創痕です、 外出するとき勲章を着て居てならぬならば、此の眉間《みけん》の傷をも着けて居ては成らぬのですか』 と云ふので有ッた 兎も角も彼れの眉間《みけん》の傷は勲章よりも立派で有ッた、一目で、 幾戰場を經た大勇士と云ふ事が分ッた、誰でも軍人は此の傷の立派さを羨む程で有ッた、 先づ本田圓とは此樣な人だ、今は年も取り、貧もして、 小い田舍家に艸花を捻ッて、辛《やうや》く世に送り、 出入する人とては此土地の寺院を預る眞鍋と云ふ老人のみである、 息子は都の人に遺て親子の縁も絶えた樣に成て居る [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十一 父と子 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 昔の武士の風骨を其儘に備へて居る此樣な老勇士でも、 心の底には非常に優しい所がある 優しい所が有ればこそ草花などを愛して居るのだ けれど草花だけでは未だ思ひが晴れぬ、時々は耐《こら》へかねて窃《ひそか》に巴里《ぱりー》へ出掛けて行く事が有る、 二月に一度、或は三月に二度ぐらゐ、其れは何の爲め、我が子の顏を見る爲なんだ 抑《そもそ》も此人は拿翁《なぽれおん》の盛な頃、王黨の貴族桐野家の令嬢と思ひ思はれ、 多少の故障も有たけれど、終に縁談が調ふて夫婦と爲り、一子を儲けた、 爾して名を守安《もりやす》と附けた 所が不幸にして、夫人は間も無く此世を去り、武骨な少佐が男の手で守安を育てる事とは爲たが、 妻の里なる桐野家の老主人が見るに見兼ると云ふ事で守安を引取た 併し唯の引取方では無い、其頃、世は路易《るい》王の御代と爲て、 其下に仕へる桐野家の如き貴族が、拿翁《なぽれおん》の殘黨などゝ親密にすると有ては朝廷の思召《おぼしめし》に觸るゝゆゑ、 決して父親が尋ねて來ぬ樣にとの條件で有ッた、若し此の條件を守りさへせば守安を相續人同樣に育て、 末は身代の幾部分を分與へるとの約束まで出來たのだ 世の中に恐しいと云ふ事の無い大勇士でも子の愛には引かされる、 少々無理な約束では有るけれど、是れが守安の後々の爲めだと思ひ我慢して從ふた、 此の後と云ふ者は父も子も殆ど可哀さうな樣である、父は其の屋敷へ出入が成らぬのだから、 子の顏を見る事は勿論出來ぬ、軍人の氣象として一旦の約束は何うしても破らぬ 子の方は一方ならず大事に育てられて居る、けれど桐野家の老主人が、 頑固な我儘な人だから、益《ますま》す子と父との間を遠けやうとする、 父からは月々手紙が來るけれど決して其れを守安には見せぬ、 爾して一年に一度、正月の元日に、自分で守安に口授《くじゆ》して父に宛てた手紙を書せる、 其の文句は、子が父に送る樣な意味では無い、極めて餘所々々《よそ/\》しい唯の挨拶だけである、 此の外に音信は通ぜぬ 疎《うと》ければ疎《うと》いだけ益《ますま》す子を思ふが父の情である、 幾等軍人の我慢でも此の情に勝つことは出來ぬから、少佐は時々忍んで巴里《ぱりー》へ行く、 爾うして日曜日に守安が桐野の家族に連れられて行く教會堂へ先に行て待て居る、 其れも極めて内證である、若し桐野家の人に認められては成らぬから、 教會堂の庭の横手に在る樹の影に隱れ、守安が説教を聽く姿を横から窺《のぞ》いたり後《うしろ》から見たりして、 僅《わづ》かに懷しさを癒して返る 守安の方では爾とは知らぬ、一年に一度送る手紙で、 自分に父の有ることだけは知て居るけれど、實に冷淡な、 少しも子を愛せぬ父だと思て居る、爾して物心の附くに從ひ、 父を愛する心を移して桐野家の老主人を愛するのだ、 此の老主人と云ふは當時名高い長壽の人で既に九十歳に及んで居るけれど、 三十二本の齒が一本も缺けて居ぬ、其上に外へ妾《めかけ》をも圍ふて有る、 其れに又守安を愛するのも一通りならぬ、畢竟するに守安を孫として、 自分が守安から愛せられ度い、其れだから守安と父との間を益《ますま》す疎《うと》くする樣に勉めるのだ 終に守安は滿十七歳とは爲た、法律の學校をも、優等の成績を以て卒業した、 或時守安が外から歸て來ると老主人は何處からか來た一通の手紙を、 今讀み終ッたと云ふ樣に手に以て居て『守安、明朝一番の馬車で直《すぐ》にベルノンへ行け』 と云はれた、守安『何の爲です』老人『お前の父が病氣だから、見舞の爲に』 兼て守安は此の老人から父の事を極めて惡し樣に聞て居る『朝敵』だの『國賊』だの、 時に依ると近く可からざる危險の人の樣に云はれたことも有る、 其れが爲に、父の許《もと》へ行く事を半分は嬉しく半分は恐しく感じた、 けれど少しの躊躇もせず、翌朝一番出の馬車に乘り、ベルノンへ行た、 父の家と聞く家は、家で無い小家である、唯だ日當りの好い庭に少し許りの花壇があるのみだ 直《すぐ》に家の中へ入て見ると、僧侶らしい一人と、 醫者らしい一人とが死骸の枕許に悄然と控へて居る、死骸が即ち父である本田圓である、 流石に守安は目に涙が浮んで居る、直《すぐ》に僧侶らしい一人は守安を迎へ 『貴方のお出が半時間遲かつた、此方の樣に子を愛する父が又と世間に有りませうか』と云ひ、 更に父の死際の状《さま》を説明《ときあか》した、其の言葉で見ると、 死際までも『守安、守安』と云ひ、熱病で殆ど人事不省で有たけれど、 突然 寢臺《ねだい》の上に跳起き『オヽ守安が、好く來た』と叫んだまゝで息が絶えたとの事である、 何うも平生聞いて居た非道な父と、 今此人から聞く慈愛の深い父と容子が違て居る樣に思はれるけれど、 目の前の死骸の顏を見ては、今聞く事柄が嘘だと思はれぬ、眞に威儀も有り情も有る 勇士の相合《さうがふ》が自から現れて居る樣に思はれる 斯くて葬式を濟せるまで守安は此地に逗留した、父の後には何にも殘らぬ、 財産皆無、借金も亦皆無、殘るは唯だ一通の簡單な遺言状である、 無論自分へ宛てゝある、其の文は 我が子よ、皇帝(拿翁《なぽれおん》)は水[土|婁]《ウヲタル》の戰場にて余を男爵に叙し給へり、 今の國王の朝廷は此の爵位を無視すと雖も是れ余が余の血を以て得たる所の者なり、 我が子よ此爵位を汝自らのものとせよ、余は汝が、父の子たるに恥ぢざるを信ずるなり 何と云ふ健《けな》げな書き方だらう、充分に気風が見えて居る、爾して其の裏に 同じ水[土|婁]《ウヲタルー》の戰場にて、余の一命を救ひたる軍曹あり、 名を手鳴田《てなるだ》と云ふ、 後に聞糺《きゝたゞ》せし所に依れば此人はモントファメールにて旅館を營み居たる由《よし》、 我が子よ、汝、此人に逢はゞ、汝が能ふだけの力を以て此人に善を爲せ、以て父の受けたる命の恩を返せ と書てある、嚴重な命令である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十二 本田守安 一 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 事長くとも茲《こゝ》幾回の間、守安の事を説かねば成らぬ 『汝、父の子たるに耻る勿れ』との遺言状の文句は異樣に守安の心に浸込んだ、 誠の父が魂を籠めた文字だもの浸込《しみこまな》いで何としやう、 眞に膓《はらわた》へ刻み附けられた樣に感じた 斯くて守安は、其の遺言状を肌身に着けて都へは歸たが、 聞た父と見た父と餘ほどの違が有る樣に思はるゝ故、 決しかぬる所も有り、誰かに能く聞き度いと思ふて居るうち、 圖《はか》らずも其の疑ひの晴るゝ事柄に出逢ッた、其れは他《ほか》でも無い 毎《いつ》も行く教會堂に眞部老人と云ふ小使がある、 或時守安が樹蔭の臺に腰掛けて息《やす》んで居ると、 丁寧な言葉で『何うか其の臺を空けて下さい』と云ひ、 心得て立上る守安に向ひ詫《わび》る樣に 『實は此臺は私しに取て、神聖な想がするのです』 とて其仔細を語り出した、守安は何氣なく聞いて居たが、 聞くに從ひ自分の身に一方《ひとかた》ならぬ關係の有る事の樣に感じたので我を忘れて打聞く程に成ッた、 老人『イヤ數年前の事ですよ、時々に此の教會へ、人目に觸れぬ樣に、 此の樹蔭の臺に腰を掛け、會堂の中の聽衆を窺《のぞ》き込む貧乏らしい士官が有りました、 私しは怪んで能く其の容子に氣を附けて居ると聽衆の中に、 貴族の御隱居に手を引かれて來る一人の少年が有たのです、 士官は其の少年の顏を見る爲に來るのでした、其れは其れは、 其の熱心と云ふ者は一方《ひとかた》で無く、少年の一擧一動に、 全く氣を奪はれた樣で、涙を浮べる事さへも有りました、 益《ますま》す私しは合點が行かず、縦《よし》や少年の父としても斯うまで熱心には成れる者では無い、 其れに父ならば誰 憚《はゞか》らず少年の傍へ行きさうな者だのにト、 此樣に思ふて居ましたが、其うち私しは、自分の兄がベルノンと云ふ所の教會に奉職して居ますので、 其れを尋ねて行きました所ろ、其の土地で今の士官を見受ました、 ハテな此樣な遠い所から故々《わざ/\》少年の顏を偸視《ぬすみゝ》る爲に出張するのかと思ひ、 兄に逢て早速聞て見ますと、 其の士官はツイ近所に侘住居《わびずまゐ》して草花などを培《つくつ》て居る拿翁《なぽれおん》黨の落武者だとか云ひましたよ、 其れから兄と共に其 侘住居《わびずまゐ》を尋ねて行き、 逢て親しく話を聞きましたが、全くは少年の實の父でした、 父では有りましたけれど其子を王黨の貴族へ養子に遺り、 黨派の違ひの爲に其の家へ出入りが出來ぬのだが、何分にも子が懷かしく、 餘所《よそ》ながらにも其姿を見度いので、 旅費の都合の附く度に都へ尋ねて行くのだと云ひました、 眞に私しも兄も其の優しい心に貰ひ泣を致しました、 其れからと云ふ者は、兄は其士官と懇意にして、先頃其の士官の死だ時も、 死水を取たと云ふ事です、私しの方は此の臺を神聖な者と思ひ、 成る可く人に、腰を掛けさせぬ樣にして有ります』 聞き終ッて守安は密《ひそか》に目を拭ふた、爾して問ふた 『若し其の士官は少佐本田圓と云ふ人では有りませんか』 老人『其れを貴方が何うして御存じです』老人『私しが其の子です』 是より守安と眞部老人とは莫逆《ばくぎやく》の友の樣に懇意になつた 其れよりも守安は今まで長く父の事を惡し樣に思ふた自分の過ちが如何にも濟まぬ事の樣に氣が咎め、 又一方には自分へ、父を惡し樣に思はせた養祖父の心が恨めしく成つた 今まで父を知らなんだ埋合せに、是から父の事を能く調べて見ねば成らぬと思ひ、 拿翁《なぽれおん》の戰爭に關する書籍などを殆ど魂限りに調べたが、 調べると實に我が父は勇士である、武士の手本である 何しろ感情の最も盛な十七八の年頃だから、守安は父の人物に深く感ずると共に、 父の思想も我が思想と爲り、全く生れ替ッた樣に成た、 幾度《いくたび》彼れは父の遺言書を取出して讀だかも知れぬ、 讀むに從ひ、父の次に又一人、神聖な程に思はるゝ一人が出來た、其れは誰れ 曰く手鳴田《てなるだ》軍曹 何でも我父を助けた人だから、一廉《ひとかど》の勇士には違ひ無い、 捜し出して其の恩を返さねば成らぬ、父の遺言は、倍も二倍も實行せねば成らぬと、 此樣な心が胸に滿ち/\、早速に名刺を印刷させ、肩書へ『男爵』と記入した 『男爵本田守安』是れが自分の身分である、我が父が血を以て得た爵位である、 別に此の名札を何處へも差出す宛はないけれど持て居る丈でも氣持が好い、 爾して次には必死に軍曹 手鳴田《てなるだ》の行方を調べ初めた、 けれど是れは容易に分らぬ 此頃彼れは又、時々一夜を家へ歸らずに明す事が有ッた、 多情なる養祖父は、定めし女の爲でゞも有はせぬかと思ひ、 或る時、人をして其後を尾《つ》けさせた所ろ、 夜半に出る馬車に乘りベルノンへ行て父の墓へ參つて歸るのだと分つた、 王黨の家の養子が拿翁《なぽれおん》黨の者の墓へ故々《わざ/\》夜を掛けて詣でに行くとは實に怪《け》しからぬ、 殊に此頃は少年の間に革命の思想が兆《きざ》し、今の王朝を覆へさんとする者さへ有る、 無論 拿翁《なぽれおん》黨の殘黨などは其の主謀者の一派である 實に頑固な我儘な養祖父の怒りは一方《ひとかた》で無かつた、 或時守安の留守に其の居間の箪笥などを調べて見た、革命的文書が澤山ある、 『父の子たるに耻る勿れ』との遺言状も出た、其の中には現朝廷が無視する『男爵』の肩書を用ひよとの差圖も有る 『男爵本田守安』と印刷した名刺《なふだ》も出た、 烈火の如く養祖父の怒つて居る所へ守安は歸て來た、 老祖父は大喝一聲に其の不埒を叱た、守安は少しも恐れぬ、 却て意氣軒昂の有樣で『拿翁《なぽれおん》黨萬歳』と高呼《かうこ》した、 彼れの心中に何れほどの火が燃て居るかは是で分る、 此の結果は云ふ迄も無い『勘當』であつた。 彼れは一錢の生活費を得る由《よし》も無く勘當せられた、 天地の間に全く裸蟲とは爲た [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十三 本田守安 二 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 何うかすると世間には自分の子をさほど可愛く思はぬ父が有る、 けれど孫を可愛がらぬ祖父《ぢいさん》は決して無い、 孫は子よりも可愛いと經験の有る人が皆云ふのだ 桐野家の老主人は守安の祖父《ぢいさん》である、守安は其の孫である、 養子養孫とは云ふ者の實は娘に出來た子なんだもの全く血を分けた孫と云ふ者だ、 假令《たと》へ勘當したとは云へ、可愛くなうて何うとしやう 守安の出た後で此の祖父《ぢい》さんは云た『エヽ不埒な奴だ、憎い奴だ、 乃己《おれ》の手で育てたのに、拿翁黨《なぽれおんたう》に心を寄せるなどゝ、 拿翁黨《なぽれおんたう》は革命黨では無いか、朝廷の敵では無いか、 即ち共和黨ではないか、那《あ》の樣な奴は、 饑《うゑ》て路傍《みちばた》に野倒死《のたれじに》でもするが好いワ、 イヤ待てよ野倒死《のたれじに》しては此家の耻辱だ、 當人は憎いけれど此家の名前には代られぬ、勘當はしても野倒死《のたれじに》せぬ丈の食料は贈て遺らねば、 さうだ一年に五十圓か百圓、アヽ百圓で澤山だ、 其代り幾等頭を下げて詫びて來たとて此の勘當は未來永劫許さぬぞ』 斯くて家内中に命令し『決して此家で守安の噂を仕ては成らぬ』と言渡した けれど幾月をか經ると、祖父《ぢいさん》は家内中誰れ一人、 我が前で守安の噂せぬのが物足らぬ心地のする樣に成ッた、 頭を下げて詫て來るだらうと思ッたのは詫ても來ぬ 『彼奴《きやつ》は、何處に何の樣な事を仕て居るのか』 と時々は憎々しげに呟くは、其の便りが聞き度いのだ、 果は又云ふた『本統に呆れた奴だ、詫に來やうともせぬ、 此樣な不心得な奴を、何うして勘當を許すものか』 誰も許して呉れとは云はぬに、自分一人で『許さぬ、許さぬ』と氣張て居るは心の底に 『許し度い、許し度い』との氣が、其實充ち充ちて居るのだ 併し音沙汰が無い、此間守安は何をして居るのだらう、 一年百圓と定めた野倒死《のたれじに》の豫防費さへ送り屆ける事が出來ぬ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十四 ABC《アーベーセー》の友 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 此の頃、此國には『ABC《アーベーセー》』の友[誤?:『ABC《アーベーセー》の友』]と云ふ青年學生の團體が有た、 ABCとは此國の語で『不幸な人』(Abais[e`])と云ふ言《ことば》と、 音が似寄て居るので、詰り『逆境に居る人に同情を寄する團隊』と云ふ意味を利かしたのだらう、 一種の社會改革を理想とすの革命運動の胞子《たまご》で、 或る居酒屋の奥座敷を其本部として居た、守安は先づ之に引き入れられた [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十五 第一、第二の仕事 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- けれど自分の身には、外に爲す可き事が有る、第一職業を捜して、 食ふだけの道を開かねば成らぬ、第二には兼て尋ねて居る手鳴田《てなるだ》軍曹の行方をも尋續けねば成らぬ、 是れは既に、父の遺言書に記して有るモントファメールへ行き 『旅館』と云ふのを尋ねたけれど、疾《とく》の昔に閉店し、 多くの借金取が其の主人の行方を尋て居るけれど更に手掛りが無いとの事だけが分ッて居る、 第一も第二も隨分困難な仕事である 初の程は、持て居る時計を賣り、着て居る外套を脱ぎなどして凌を着けたが、 少しの間に賣る物も脱ぐ物も無くなッたので、成る丈け安い宿を捜して、 遂に町はづれのホビタル街の果に在るゴルボー館と云ふに下宿した [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十六 異樣な先客 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 此の下宿には既に讀者が知て居る、 曾《かつ》て戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が手鳴田《てなるだ》軍曹の許《もと》から少女小雪を引取て此の巴里《ぱりー》へ連れて來て隱れて居た其の宿である、 此宿から彼れは蛇兵太《じやびやうた》に追はれ小雪と共に逃げて/\遂に尼院《あまでら》に入たので有ッた、 最う數年を經て居るから、其頃とは多少容子も違ひ、 番人も代り、家の位も下ッて安宿同樣の格と爲て居る、 丁度守安が下宿した時、異樣な先客が隣りの一室を占めて居た、 其れは五十恰好の夫婦と稍《や》や年頃の娘二人、都合四人の一家族で、 外に男の子が一人、之れは娘の弟だとやら云ふ事だけれど、外へ乞食に出、 多くは軒下などに寢ると見え、一月に一度歸て來る事も有り來ぬ事も有る、 尤も偶《たま》に歸ても母が邪慳で直《すぐ》に追出す程にするので、 母の心よりも大通りの敷石の方が柔かで温かいと云ひ直《すぐ》に外へ寢に行くのだ、 此樣な家族は何所《どこ》の安宿にも珍しい譯では無いが、 主人《あるじ》の容子が何だか薄氣味惡い、彼れは初めて來たとき入口の番人に向ひ 『若し誰れかゞ、此の家に伊國《いたりや》人は居ぬかと云て尋ねて來たら其れは私しだよ、 又 波蘭《ぽーらんど》人はと云つて尋ねて來ても私しだよ、 西班《すぺいん》人はと云つて來ても私しだから、總《すべ》て私しへ取次でお呉れ』と云た、 一人の身が伊國《いたりや》人で有て波蘭《ぽーらんど》人で有て西班牙《すぺいん》人であるとは餘り不思議では無いか 何うせ正直《まつすぐ》に世を渡る人では無い、 爾うして言葉と容體とは全く此國の人である [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十七 青年の富 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- けれど守安は此樣な事を知らぬ、 我が隣の室《へや》に何の樣な家族が居るか其れさへも氣に留めずに下宿したが、 是れからの彼れの貧苦は實に、何うして凌ぐことが出來たかと怪まれる程であッた、 寒い夜に、火も無い、燈火《ともしび》も無い、夜具も無い、 爾して三日も食はずに、震へて寢て居る事も有ッた、 外へ出て人に見られる着物も無いから、出るのは毎《いつ》も夜で有た、 此の際に何うして聞附けたか養家桐野の伯母御から金貨で百圓送て來た事が有ッた、 けれど彼れは『人の情は受けませぬ』と書添て送り返した、 何うして其樣な強情を張ることが出來たのか不思議な程であるが、 茲《こゝ》が彼れの天性の強い所なんだらう、其れに一つは青年の意氣と云ふ者だ、 アヽ青年、青年と云ふほど世に幸福な者が又と有らうか、 彼れは決して貧《ひん》を知らぬ、衣食は貧でも心に於て富で居る、 其れだから縦《よ》しや一國の皇帝でも、年を取れば、 路傍《みちばた》に居る青年が羨ましい、青年は年齡に富で居る、 未來に富である、此後の變化に富である、青年の向ふ所には艱難無しだ、 他人は兎も角、此の本田守安のみは此の樣な軒昂たる意氣で艱苦を忍び、 夜に成ると『ABCの友』の一人の取次で或る書林から寫字の仕事を引受けて來て僅《わづか》の筆料を命の繋《つな》として居る [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30 噫無情 : 七十八 公園の邂逅《めぐりあひ》 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 初の中は其の仕事も、有る時より無い時が多かッたけれど、 後には大分な編纂物の一部分を引受け、何うやら斯やら月々極つて収入が有る事になッた、 斯うなると先づ立脚地が出來た樣な者だから、有爲の青年は茲《こゝ》で分る、 其の足場を力に又一踏み踏張るのだ、彼れは兼て卒業して居る法律の知識を更に研き辯護士の試驗に及第した、 此時彼れは慇懃な而も冷淡な文句で、桐野の老人に其旨を通知した、 老人は又叫んだ『不埒な奴だ、食ふに困らぬ貴族の子が辯護士に成るなどとは』と、 併し守安は辯護士を開業せず相變らず筆の収入に頼ッて居た 彼れが斯うなッて後の日課の一つは午後に公園を散歩する事で有ッた、 貧乏は貧乏でも先づ晝間散歩の出來る丈の着物も、光る靴も出來た、 散歩する度に彼れの目に留ッたは公園の片隅の木陰に、 毎《いつ》も腰掛けて休んで居る六十頃の老人と十四五かと思はれる少女との一組である、 老人は眞白な白髪頭で、少女は眞黒な服を着けて居る、 常に老人が少女の手を引て來ては又引て返る 彼れは自分の文學の趣味から此一組に綽名《あだな》を附し白黒組と稱し、 少女を黒姫《くろひめ》、老人を白翁《はくおう》と心の中で呼んだ ??舊前篇 終?? [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa@物語倶楽部 更新日:2004/12/30