リヤ王:目次
坪内逍遙(1859-1935)譯のシェークスピヤ(1564-1616)作「リヤ王」です。
底本:昭和九年十月廿五日印刷、昭和九年十一月五日發行の中央公論社、新修シェークスピヤ全集第三十卷。
リヤ王
シェークスピヤ 作
坪内逍遙 譯
更新日: 2003/02/16
リヤ王:登場人物
登場人物
- ブリテンの王、リーヤ。
- フランスの王。
- バーガンディーの公爵。
- コーンヲールの公爵。
- オルバニーの公爵。
- ケントの伯爵。
- グロースターの伯爵。
- グロースターの男、エドガー。
- グロースターの庶子、エドマンド。
- 阿呆。(阿呆役、即ち弄臣。)
- 廷臣、キュラン。(コーンヲール公の侍士)
- グロースターの配下の民、老人。
- 侍醫。
- ゴナリルの家令、オズワルド。
- エドマンドに使はるゝ一武將。
- コーディーリャに侍する一紳士。
- 傳令。
- コーンヲールの家來數人。
- リーヤの女、ゴナリル。
- リーヤの女、リーガン。
- リーヤの女、コーディーリャ。
-
其他、リーヤに附隨せる武士ら、武將ら、使者ら、兵士ら、侍者ら。
場所
ブリテン。
(書中及び本文中にては、邦語との調和、其他の都合上、例の如く、必ずしも正音に拘泥せず。)
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第一幕 第一場
第一幕
第一場 リヤ王宮殿。
-
此日、王リヤが王位を退くと同時に、其所領を三分して、其三王女に分配する筈なので、
老齡のグロースターは其庶子エドマンドを從へて、
鯁直を以て聞えてゐるケントの伯爵と共に出て來て、
王の臨場を待ってゐる。
- ケント
- 王はコーンヲールどのよりもオルバニー公爵を一段御贔屓かと存じてをったに。
- グロー
- 始終そのやうにも見えてをりましたが、王國御配分の今日となっては、
何らを最も御尊重やら分りませぬ。雙方の御配當が如何にも精細に平等で、 擇ぶことの出來ませんほどでござりから。
- ケント
- (エドマンドを見て)あれは御子息でござるか?
- グロー
- 養育致したは手前に相違ござらんが、あれは自分のぢゃと申すたびに、
毎々赧い顏をいたし、今ではもう慣れて鐵面皮になりました。
- ケント
- お言葉が肚に入りかねます。
- グロー
- ところが、此者のお袋の肚に入りましたので、それが大きうなり、
寢床に臥す夫はまだ迎へも致さんうちに、搖籃に臥せる小さひのが出來ました。
え、不品行をお察しなされたかな?
- ケント
- 不品行も強ち咎めるには及びますまい、如是立派なのが出來て見れば。
- グロー
- なれども手前には、正腹の、さればとて一段かはゆいと申す譯でもない倅がござる、
此者よりは一年ほど年長の。此奴は出て來いとも言はんうちに、
不作法にも飛び出した奴ではござるが、お袋は標致よしで、
生ませるまでには大分面白いこともござったことゆゑ、子でないとは申されませんわい。…… エドマンド、此お方を存じてをるか?
- エドマ
- いゝえ、存じません。
- グロー
- ケント伯爵どのぢゃ。わしの尊敬するお方ぢゃ。お見知り申しておけ。
- エドマ
- 何分よろしう。
- ケント
- おひ〜お知交になって、是非御別懇に致すであらう。
- エドマ
- 御知遇に背かぬやうに勤めまするでございませう。
- グロー
- 彼れは九年外國へ參ってをりましたが、また直ぐに遣はす積りで。……
セネット調の喇叭が聞える。
王のお渡りぢゃ。
喇叭につれて、一人寶冠を捧げ持ちて先きに立つ、つゞいてブリテンの國王のリヤ、
次女の婿コーンヲール公爵、長女の婿オルバニー公爵、長女ゴナリル、次女リーガン、
三女コーディーリャ及び從臣大勢出る。王は七十以上の高齡で、身、神共に衰へて、
もう耄けかゝってゐるのであるが、傲岸な、わがまゝな氣質は其壯年の時のまゝである。
- リヤ
- グロースターよ、フランス王とバーガンディーの公爵とを接待しておくりゃれ。
- グロー
- かしこまりました。
グロースターはエドマンドを伴って入る。
- リヤ
- 此間に其方逹のまだ存ぜぬ内密の旨意を申し聞かさう。……地圖を持て。……
まづ、我が王國をば三に分けた。予も高齡と相成ったによって、すべて面倒な政治上の用向は、
悉く若い壯健な者共に委ねて、身輕になり、靜かに死の近づくのを俟たうといふ決心ぢゃ。
……我が愛子コーンヲール、……また、子たるの愛に於ては少しも劣ることのないオルバニー公爵、
予は、今日只今、化粧料として副へ遣はすべき女共の所領を公表しようと存ずる。
然るは、今にして永く未來の爭根を絶たんがためぢゃ。フランス王とバーガンディーの公爵とは、
末姫コーディーリャの愛に對する競爭者となって、其戀を遂げうために、久しう此宮中に逗留せられた。
其返辭もまた今日の筈ぢゃ。……女どもよ、今や、予は、支配をも、所領をも、
國事に關する心勞をも、悉く脱ぎ棄てゝしまはうと存ずるによって、聞かしてくれ、
其方逹のうちで、誰れが最も深くわしを愛してをるかを。
眞に孝行の徳ある者に最大の恩惠を輿へようと思ふから。……長女ゴナリルから申せ。
- ゴナリ
- 父上、わらはゝ口で申し得らるゝより以上にあなたをば愛しまする、目よりも、空間よりも、
自由よりも、貴き又は稀なる、ありとある價あるもの以上に、命よりも以上に、
威嚴や健康や美や名譽の添った生命以上に貴下をば愛しまする。子の嘗て獻げ、
父の嘗て受けた限りの愛を以て。……息をも乏しからしめ、
語をも不能ならしめまする程の愛を以て。恰どそれほどの、 ありとあらゆる愛以上にあなたを愛しまする。
- コーデ
- (傍白)コーディーリャは何とせうぞ?……心で愛して默ってゐよう。
- リヤ
- (地圖を指し)此綫より此綫まで、鬱蓊たる森林と豐饒なる平野、魚に富める河々と裾廣き牧場とを有する、
此境域一圓の領主とそなたをばするぞよ。これは、そなたとオルバニーとの子々孫々にまで、永久の財産ぢゃ。
……さて、予が最愛の二女リーガン、コーンヲールの奧方は何といはるゝな?
- リガ
- わたくしの心持も姉上と全く同じなのでございます、姉上同樣におぼしめしていたゞいて當然と存じてをります。
姉上はわたくしが思ってをる通りをおっしゃったのでございますの、只、少ゥしおっしゃり足りませんばかり。
わたくしは、最も大切な感覺の、ありとあらゆる歡樂をも仇敵と斥け、
只一へに殿下を愛敬し奉るのを幸福と思ふてをりまする。
- コーデ
- (傍白)ぢゃ、此コーディーリャは(何といはう)!……いや〜、何もいふまい、
迚も此心は舌ではいはれるやうなものぢゃァないから。
- リヤ
- これがそなた及びそなたの子孫の世襲の財産ぢゃ、我が美なる王國の此豐かな三分の一は。
廣さに於ても、價格に於ても、其樂しさに於ても、ゴナリルに遣はしたのに少しも劣らん。
……さて、可愛いやつ、最ち終ひに呼びはするが、いッかなおろそかに思ふてはゐぬコーディーリャよ、
フランスの葡萄も、バーガンディーの乳も、おのしをば夢中になって戀ひ慕ふてをる。
こりゃ、姉たちのよりも一段ゆたかな三分の一を貰ふために、おのしはどのやうなことを言ふぞ?申せ。
- コーデ
- (そっけなく)何もいふことはございません。
- リヤ
- なんにも?
- コーデ
- はい、なんにも。
- リヤ
- (目に角を立てゝ)何もないところからは何も生れん。改めて申せ。
- コーデ
- わたくしは、不仕合せなことには、心にある事を口に出すことが出來ません。
わたしは義務相應にあなたを愛しまする、それより多くもなく、少くもなく。
- リヤ
- どうしたのぢゃ、コーディーリャ?いひかたを繕はんと身の爲になるまいぞよ。
- コーデ
- 父上さま、あなたは私を生んで、育てゝ、かはゆがって下さいましたから、
そのお禮に正當な子たる者の義務だけは盡しまする。命令を守りまする、愛しもし、敬ひもしまする。
……何故に姉上がたは夫をお迎へなされましたか、眞實あなたばかりを愛しなされるなら?
恐らく、わたしは、もし婚禮すれば、貞實に事へねばならぬ夫の爲に、
愛をも心づかひをも勤めをも半分は傾けねばなるまいと存じまする。父上ばかりを愛さうと思ふたら、
わたくしは決して姉上がたのやうに結婚はいたしますまい。
- リヤ
- (愕き呆れて)それは本心でいふのか?
- コーデ
- はい、本心でございます。
- リヤ
- 幼少でありながら、それほどまでに柔情の無い?
- コーデ
- 幼少であっても、申すことは眞實でございます。
- リヤ
- (赫となって)勝手にせい。なりゃ、其眞實を持參金にしをるがよい。太陽の聖い光りをも、
ヘケートの神祕をも、夜の闇をも、人間が生死の因たるあらゆる天體の作用をも誓ひにかけて、
予はこゝに、父たる心づかひをも、近親たることをも、血族たることをも抛げ棄て、
今日より永久に汝をば勘當する。殘忍野蠻の、
おのが食慾を饜かす爲に實の子をも喰ふといふ彼のシゝヤ人を友逹ともして、
憐れみいたはったはうがましぢゃわい、昨日までは女であった汝をばいたはり憐れむよりは。
- ケント
- あゝ、もし、我が君には……
- リヤ
- 默れ、ケント!……龍と怒りとの間に立つな。……最ち彼女をかはゆう思ふて、
彼女が深切な介抱をば末の頼みともしてをったに。……退れ、目通り叶はん!
……天の神々も照覽あれ、あいつめは子では無い、女で無いぞ!……フランス王を呼べ。 ……えゝ、起たんか?バーガンディーを呼べ。
一侍臣急ぎ奧へ入る。
コーンヲールとオルバニーとは、女等二人の所領と共に第三の分をも分配せい。
彼奴は、正直と自稱しをる其高慢を料に結婚しをれ。
お前たち兩人に、我權力をも、最上の位をも、王座に附帶するあらゆる名譽、實力をも讓り輿へる。
わしは、月々、百人の武士を附人に控へおき、それをお前たちが扶持することにして、
一月代りにお前たちの邸で世話になるであらう。わしは只王といふ名義、稱號だけを貰ふておく。
國家の收入、統治の實權等一切は、婿どの、悉くお前たちのものぢゃ、其證據として、 只今珥ァで此王冠を分ち遣はす。
王冠を二人に渡さうとする。ケント見かねて王の前にひざまづいて
- ケント
- リヤ王殿下、常に我が王と崇め、我が父とも愛し、我が主君と奉じ、神に祈り奉る度毎に我が大保護者と……
- リヤ
- 弓は既引絞ったわ、箭先を避けい。
- ケント
- いゝや、其箭の鋭尖で胸を貫かれてもかまひません。(憤然として起ち上って)
リヤ王が御本心を失はせられた上は、ケントは禮儀を棄てまするぞ。
王は劍に手を掛ける。
何をなさる?國君が阿諛に屈する時には、忠臣も能う口を開かんと思し召すか?
至尊に愚昧な振舞ひがあれば、直諫は恥を知る者の義務でござる。……王權は元の通りお手許に留めおかせられい、
そして御再慮あって、決してかやうなおそろしい輕忽な振舞ひをなされますな。
末姫君は決して御不幸ではござらん、若し此判斷にして相違ひたさば、手前の一命を召されませ。
外に反響する音の低いは、内に誠情が充實してゐるので、心の空虚でない證據でござる。
- リヤ
- 默れ、ケント、命が惜しくば。
- ケント
- いや、此命はお身代りの御用にもと今日まで貯へました。お爲故にならば惜しみません。
- リヤ
- えゝ、目通り叶はん。退れ。
- ケント
- いゝや、退りません。從前通り手前をば目安になされて、是非黒白のお見分をなされませ。
- リヤ
- やァ、アポローも照覽あれ……
- ケント
- やァ、アポローも照覽あれ、御誓言は無益でござる。
- リヤ
- おゝ、おのれ!無禮者め!
王再び劍を拔きかける。オルバニーとコーンヲールとでそれを止める。
- オルバ、コーン
- まァ〜!
- ケント
- 良醫を殺して惡い病に報酬をおやりなされ。お宣言のお取消しをなさらんに於ては、
聲が此喉から出る限り、あくまでも間違った御所業ぢゃと申しまするぞ。
- リヤ
- 默れ、不忠者!忠義を存ずるなら、先づよく聽け!汝敢て……
予はかりそめにも敢てせざるに……君臣の盟約を破壞せんと欲するのっみか、甚しき傲慢不遜の態度を以て、
予が宣言の實行を妨げんと致しをったる事、王たる者の性として、身分として、決して忍ぶ能はざる所ぢゃ、
予が其權を執り行ふ只今に及んで、其應報を受けい。五日だけは許し遣はす、世の不便、
災厄を避くる準備の爲に。しかしながら第六日には、必ず此國に背を向けをらう。
若し第七日となって尚ほ國内にうろつきをらば、見附け次第死刑にする。立去れ!
ヂュピターも照覽あれ、此宣告は一たび出でては復らんぞよ。
- ケント
- (愀然として)おさらばでござる。王がかやうな振舞ひをなされるからは、此國には自由は無い、
此處に留まるのは追放も同然ぢゃ。……(コーディーリャに對ひ)神々も貴女をば愛憐んで、
お護りなさるゝであらう、思ふこと正しく、其言ふこと更に最も正しい娘御!……
(ゴナリルとリーガンに對ひ)孝行らしい口吻から善い結果の生ずるやう、實行によって大言の始末をなされ。
……(皆々に向ひ)おゝ、かた〜゛これで暇乞ひをいたします。 住み慣れん國に合せて爲慣れた生活を續けませうわい。
ケントしを〜として入る。
喇叭の聲盛んに起る。グロースター伯が先きに立ち、フランス王とバーガンディーの公爵とを案内して出る。
從者大勢ついて出る。
- グロー
- フランス王とバーガンディー公とが渡らせられてござります。
- リヤ
- (冷靜を裝って)バーガンディーどの、先づ貴下に尋ねまする、
貴下はそれなる王と末女を爭ひめされたが、貴下が、
若しそれだけを得る能はざれば此縁邊は止めるとある最低額の化粧料は幾何でござるの?
- バーガ
- 大王殿下、手前は豫てお約束のあった以上を要求致しません。また、あれ以下をお遣はしではございますまい。
- リヤ
- バーガンディーどの、彼れめをかはゆう存じてをった時分にはさうもござったのぢゃが、
今は値が下りました。それ、そこに居りまする。若しあの見すぼらしい體内に存在する者が、いや、
其全體が、吾等の勘氣を蒙ったがために、聊かの財産も添ひませんが、それでもお氣に適ふたら、
それに居りまする、お伴れなされ。
- バーガ
- 失禮ながら、さういふ御條件では、推選いたしかねます。
- リヤ
- なりゃ、お棄てなされ。神かけて、只今申したのが彼れが財産の全部でござる。……(フランス王に)
大王よ、吾等は貴下の御懇請を重んじまするによって、吾等が憎う思ふ者をお娶りなされいとは申しかねる。
ぢゃによって、現在の親すらも子といふことを恥づるやうな女よりも一段立派な者へ愛情をお向けなさるがよい。
- フラン
- さて〜、竒怪なこと!つい先刻までは貴下の御祕藏であり、貴下が御称讚の主題でもあり、
御老體の藥膏でもあり、最善でもあり、最愛でもあった姫が、
忽ちのうちに八重九重の恩惠を剥ぎ去られねばならんほどの大不埒を犯されたとは。定めし、
前々御吹聽あった愛情が健全である限りは、姫の罪は竒怪至極と申すほどの甚しいものでございませうな。
併し姫にさやうなことがらうとは、奇蹟でもなくば、吾等の理性の能う信じませんことでござる。
- コーデ
- (王の前にひざまづきて)殿下にお願ひ申し上げまする、もしも……妾は、
心にもない事を滑かに言ふことが拙うございますゆゑ、……妾は心に思ふたことは、
言ふよりも先きに行はうと存じますゆゑ、……どうぞお願ひ申しあげまする、妾が御寵愛を失ふたのは、
決して不品行でも、汚はしい振舞ひでも、不貞操でも、不名譽の所業でもなく、
諛ふ目附や辯舌を有たぬゆゑに御勘氣を受けたのぢゃとおっしゃって下されませ、
それらを缺いでゐるために御寵愛を失ふたけれど、自身では、それが無いのが徳の有るのぢゃと信じて、
寧そ喜んでをりまする。
- リヤ
- (いよ〜怒って)親に怒りを起さすやうな汝、生れをらなんだがましぢゃわい。
コーディーリャは泣き顏になりながらも、詫びようとはしない。
- フラン
- 只それのみで?爲やうと思ふ事をも兎角いはずしておく語少なの持前?……
バーガンディーどの、姫に對する其許の意見は?愛も眞の愛ではない、
愛のみを主とせんせ他の條件を交ふるやうでは。姫をお迎へなさるか?其身そのまゝが化粧料といふ事ぢゃが。
- バーガ
- リヤ王殿下、前にお申し出しあったゞけをお添へ下されい、
手前即座にコーディーリャどのを迎へてバーガンディー公爵夫人といたしまする。
- リヤ
- 何も遣はしません。誓ふた上は、決定してござる。
- バーガ
- (コーディーリャに)お氣の毒ながら、父御をお失ひなされたゆゑに、夫をも失ひめされた。
- コーデ
- (傍白)バーガンディーどの、御機嫌よろしう!……財産を目的の愛情であるからは、
(迎へようといはれたとて、お前の)妻にならうとは思ひませぬ。
- フラン
- (コーディーリャに)コーディーリャどの、貧しうて却って最も富み、棄てられて却って最もいみじく、
憎まれて却って最もいとほしいコーディーリャどの、あなたとあなたの徳操とを吾等が拾ひまする。
棄てられたものを拾ふに故障はあるまい。(と手を執って)あゝ、あゝ!彼等はこれほどに冷かに取扱ひをるのに、
不思議にも我が愛情は烈火のやうに熱して燃ゆる。……殿下よ、
化粧料もない貴下の令孃を偶然に拾ひまして、吾等が妻、我が國民の妃、
我がフランス國の王妃といたしまする。水くさいバーガンディー公爵が幾人あらうと、
此燎Jの知れぬ淑女を我が手から買ひ取ることは出來まい。……コーディーリャどの、
人々に暇乞ひをなされ、むごい人逹ではあるが。此處を失ふて、 貴女は此處よりも更に善い處を得られたのぢゃ。
- リヤ
- 其許に進ぜまする。御自分のになされ、吾等はそのやうな女は有たん。 又と其燒ハを見まいわい。……
王は席を蹶って起つ。
ぢゃによって、立去りをらう、父の恩愛もなしに、祝福もなしに。……さァ〜、バーガンディーどの。
喇叭。フランス王と、ゴナリルとリーガンとコーディーリャとだけ殘りて、皆々入る。
- フラン
- 姉上たちに暇乞ひをなされ。
- コーデ
- 父上御鍾愛のあなたがたへ、涙に浸る目でコーディーリャがお別れ申しまする。
あなたがたのお氣質はよう知ってゐますけれど、妹の身としては、
世間で謂ふあなたがたの缺點を口にするに忍びません。父上に孝行をなされて下され。
口に出しておっしゃったあなたががたのお心に父上をお頼み申しまする。……けれども、
御勘氣を受けてゐなければ、もっと善いところへ頼んでゆきたい。……さやうなら、おふたりとも。
- リガン
- わたしたちへの務めぶりのお指揮には及びません。
- ゴナリ
- 御自分の殿御の機嫌を損ねないやうになさい、運命のお餘り程に思ふて、お前さんを拾ふてくれた殿御です。
父上に從順を怠ったお前さんです、自身が缺乏した其不徳相當の缺乏が身に報いますのよ。
- コーデ
- 八重に包んだ虚僞が今に露見する時が來ませう。惡いことは如何掩ひ隱してゐても、
遂には恥辱を受けねばなりません。……さやうなら!
- フラン
- さァ〜、コーディーリャどの。
フランス王はコーディーリャを促して入る。
- ゴナリ
- いもうと、二人の身に密接に關係したことで、いろ〜話したいことがあります。
父上は今夜にも最早いらっしゃりさうだよ。
- リガン
- きッとさうです、あなたのとこへ。來月は私どもへ。
- ゴナリ
- 知っての通り、齡のせゐでおそろしく氣まぐれにおなりなされたわね。
その證據を見たのは一度や二度ぢゃない。いつでもコーディーリャは一番のお氣に入りであったのに、
あの通り、譯の分らん理由で勘當ぢておしまひなさるんだものを。
- リガン
- 老耄のせゐです。それでも御自身には殆ど氣が附いてゐませんの。
- ゴナリ
- 若い健全な頃でさへも一徹短慮な人であったのが、齡を取りますったんだから、
永い間性癖となった弱點にかてゝ加へた老耄で、怒りぽくもなって、 始末におへない我儘をなさると思はねばなりません。
- リガン
- わたしたちとても、彼のケントと同じに、いつ、どんな氣まぐれな目に逢ふか知れませんよ。
- ゴナリ
- フランス王が出立するので、挨拶や何かで、奧ではまだ手間が取れませう。……どうぞお前さん、
わたしと合體してやって下さい。もし父上があゝいふ氣立で威をお揮ひなさるやうであると、
權力を渡して貰ったからッて、有害無益ですよ。
- リガン
- 尚ほ善く御相談いたしませう。
- ゴナリ
- どうにかせにゃなりませんよ、今のうちに。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第一幕 第二場
第一幕
第二場 グロースター伯の居城
-
グロースター伯の庶子のエドマンドが一通の書状を持って出る。
彼れは私生兒であったので、過去九年間は外國で日蔭者になってゐた。 最近、父の許へ引取られて來たものゝ、妙に根性がひねくれて、
あらゆる人間を敵視し、とりわけ、其義兄エドガーを嫉んで、奸計を以て除かうとしてゐる。
父に對しても情愛はない。
- エドマ
- 大自然よ、汝は俺の神さまだ。おれはお前の定めた規則だけを奉ずる積りだ。
何の必要があって馬鹿々々しい習慣なんぞに役せられて、 俗間のわづらはしい禮法の爲に相續權を亡する奴があるものか?
……兄貴より僅々十二ケ月か十四ケ月おくれて生れたといふだけの理由で。
何故劣腹
だ?何が劣るんだ?……四肢五體に何の缺點も無く、 心も高尚、姿や形も本妻腹同樣正しく生れついてゐるぢゃないか?
何で彼奴らはおれたちに劣腹なぞといふ烙印を捺しゃァがるんだ?劣腹?劣腹だ?
何が劣る?……面
白くもない、陳腐な、饜き果てた床の中で、
半分眠ながら拔作種を製造するのに比べりゃァ、人目を竊み、好きこのんで製へた子のはうが、
種が遙かに豐富でもあり強烈でもあるべき筈だ。……だから、本妻腹のエドガーどの、
わたしがお前さんの領地は貰ふよ。お父さんの情愛は本腹も劣腹も區別はない。
本妻腹!佳い言葉だなァ!はて、本腹さん、此手紙が役にたって、おれの策が成就すりゃァ、
劣腹のエドマンドが本腹どのを乘越しますよ。長びるぞ、出世するぞ。 神さま、どうか劣腹の肩を持って下さい。
かねて用意しておいた僞筆の手紙を讀んでゐるやうに見せかけて、
父グロースターの來るのを待ってゐる。其途端、グロースターが非常に驚きあわてゝゐる體で、一方から出る。
- グロー
- ケントもかうして追放となってしまった!フランス王は腹を立って出立せられた!
それから王は今夜からお出まし!權力を引渡してしまはるゝ!あてがひ扶持を受くる身とならるゝ!
それが總て咄嗟の間に定ってしまうた!エドマンド、どうしたのぢゃ!何事が起った?
- エドマ
- (わざと慌てゝ手紙をかくして)へい、あの、何も。
- グロー
- なんで其樣に一心になって其手紙をかくすのぢゃ?
- エドマ
- 何も存じません、變った事は。
- グロー
- 讀んでゐた手紙は何ぢゃ?
- エドマ
- 何でも無いのでございます。
- グロー
- 何でも無い?すれば、何で恐ろしげに大急ぎで、衣嚢の中へ隱したのぢゃ?
何でもないことなら隱す必要は無い筈ぢゃ。見せい。さァ、何でもないものなら、眼鏡をかけるにも及ぶまい。
- エドマ
- どうぞ御免なすって。あれは兄上からのお手紙でございます。まだ讀み通してはをりませんけれど、
讀んだゝけでは、御覽に入れては具合がわるいと思ひますから。
- グロー
- 見せなさい、その手紙を。
- エドマ
- (半獨語のやうに)見せなければお氣にさはらうし、見せればお氣にさはらうし……中に書いてありますことは、
讀んだゝけでは、よくない事ですから。
- グロー
- 見せろ、見せろ。
- エドマ
- (手紙を渡しながら)多分、これは……兄上の爲に辯解しておきます……私の根性を試さうために、
お書きなすったのでございませう。
- グロー
- (讀む。)
老人を尊敬する習慣あるが爲に、吾々青年は其最も良き時代を不愉快の裡に空しく經過し、
財産あるも之を享樂し得べき時には使用する能はずして、徒らに老境に及ぶなり。
予は、老人をして專横をほしいまゝにせしむるは、要するに、吾々青年の愚なる奴隸根性に因ることゝ存じ候。
彼等が吾々を支配するは權力あるが爲にはあらず、支配することを許しおくが故に候。
此事につきては、尚ほ語るべき事あれば、御入來あれ。若し父をして予が起すまでは熟睡せしむるやう物するを得ば、
其財産の一半は永久に其許の有とし、且つ深く其許を愛すべく候。
兄エドガーより。
ふうむ!陰謀ぢゃな?「予が起すまでは熟睡せしむるやう物するを得ば、
其財産の一半は永久に其許の有とし」!……わが子のエドガーが!
かういふことを書きをったか?こんな奸計をする心や頭を有ってをらうとは!
……こりゃ何時手に入った?誰れが持って來た?
- エドマ
- 持って來たのぢゃありません。巧い具合に私の部屋の窓から投げ込んであったのでございます。
- グロー
- 此字は兄のか?
- エドマ
- 善いことが書いてありゃ、兄上のですと斷言しませうけれども、さうでないのですから、 兄上のぢゃないと思ひたいのです。
- グロー
- いゝや、彼れのぢゃ。
- エドマ
- 手は兄上のですけれども、よもや兄上は爰に書いてあるやうな事をお思ひなすってぢゃありますまい。
- グロー
- 何か此事に關して、兄が探りを入れたことは無かったか?
- エドマ
- 一度もございませんです。が、折々斯んな事をおっしゃいました、
男の子が丁年になったら、老衰した父親は財政其他一切の事を其子に任して、自分は後見される身分になるのが當然だと。
- グロー
- おゝ、おのれ、惡漢めが!其持論が此手紙に!怖ろしい惡漢めが!
不倫な、不幸な、にッくい畜生!畜生にも劣った奴!……さァ、彼奴を搜して來い。
引ッ捕へてくれう。おそろしい惡漢めが!何處にをる彼奴は?
- エドマ
- よくは存じません。もッと慥かな證據がお手に入って、兄上の御料簡がお解りになるまでは、
お腹をお立ちなさらぬがよろしうございます。若し誤解遊ばして手荒いことをなさいますと、
あなたの御不名譽でもあり、兄上の御孝心を形無しになさることになりませう。 私は一命を賭けて保證します、
兄上は全くあなたに對する私の情愛を試さうために此手紙をお書きなされたのに相違ございません、
怖ろしいお計画なぞは決してありゃしません。
- グロー
- さう思ふかお前は?
- エドマ
- 御意次第で、私は、兄上と私とが此事を話してゐるところへ、御案内いたしませうから、
御自身でお聽きなすって、實否をお定めなさいませ。今夜すぐにも御案内いたしませう。
- グロー
- (獨白のやうに)かういふ人非人で有り得よう筈がない。……
- エドマ
- 勿論、ありませんよ。
- グロー
- 此通り悉く慈うしてやる父に對して。あゝ、あゝ!……エドマンド、彼奴をば搜し出して、
どうか、本心を探ってくれ。其手段は自分の才覺で工夫せい。身分や財産に代へても、 確かな事が知りたい。
- エドマ
- 早速兄上を搜します。臨機應變に取計ひまして、結果をお知らせ申します。
- グロー
- (獨語のやうに)此頃うちの日蝕や月蝕は不祥事の知らせなのぢゃ。
理學者どもは、あゝの、かうのと理窟を捏ねをるが、 自然界は彼の結果でやッぱり種々の災害を受ける。
愛は冷却する、友誼は破れる、兄弟は仲たがひをする。都會には暴動、地方には騷擾、宮中には謀叛人、
親子の間の絆は切れる。我家の惡漢の如きが其預言の中に入る、父に叛く倅ぢゃ。
王は性の自然に背いた振舞ひをなさるゝ、取りも直さず子に背く父ぢゃ。あゝ、世は澆季となった。
陰謀や輕薄や不眞實や、其他さま〜゛の亂脈が墓に入るまで人の心を掻き亂す。……
エドマンドよ、惡黨めを搜して來い。決しておのしの不爲にはならん。ぬかるまいぞ。……
氣高い、忠實なケントは追放!其罪はといふと、正直一圖といふこと!竒怪千萬ぢゃ。
グロースター入る。
- エドマ
- 大べらぼうな話だ、運が惡くなると。……それは大抵自業自得であるのに、 ……其不仕合せの原因を太陽や月や星の所爲にする、
人間は天體の壓迫で據ろなく惡者にもなり、
阿呆にもなるかのやうに思って。惡黨となるも、盜賊となるも、謀叛人となるも、
同じく天體の爭ひがたい感化、大酒飮も虚言家も間男もみんな止むを得ない星の勢力、
其他、人間が犯す惡といふ惡は、何れも何かしら神のさせることゝ見做す。
邪淫家の好い遁辭だ、その淫亂根性を星の所爲にするのは!
俺の親父は大龍星の尾の下で阿母と慇懃して、
さうして俺が大熊星の下とやらで生れたげな。それが爲に俺は氣が荒くて色を好む。
へん、よしんば蒼空で第一等の潔白な星が、下借腹の眞最中に、どう燦ついてゐようとも、
俺は正に此通りにお育ち遊ばしたに相違ないわい。や、エドガーが……
エドガーが出る。
ちょうど好いところへ、古い劇の見あらはしのやうにやって來た。
おれのきッかけは空愁歎の體とござい、ベドラムのトムよろしくといふ溜息を吐いて。
……(父グロースターの口眞似をして)おゝ、此間中の日蝕や月蝕、
あれが皆かういふ仲たがひの前兆であったか!……ファー、ソーラ、ミー。
- エドガ
- どうしたのだ、弟エドマンド!何をさう一心に考へ込んでゐるのだ?
- エドマ
- 兄さん、わたしは此間讀んだ預言の書のことを考へてゐるのです、
日蝕や月蝕の後には如何いふことが起るかといふ。
- エドガ
- お前はさういふことを勉強してゐるのかい?
- エドマ
- 預言に書いてあることが、ほんたうに陸續起ってゐまうs、不幸にも。
例へば、子と親との仲たがひだの、死亡や、飢饉や、久しい友誼の破壞だの、
國内の分裂、王や貴族に對する惡口雜言、故無き嫌疑、信友の追放、軍隊内の騷擾、 夫婦間の破裂、其他いろ〜の事が起ってゐます。
- エドガ
- いつからお前は天文學者になったんだい?
- エドマ
- ねえ、もし!(戲言どころぢゃありませんよ!)何時お父さんにお逢ひでした、最近?
- エドガ
- つい、昨晩さ。
- エドマ
- お話をなすったの?
- エドガ
- あゝ、二時間ほど。
- エドマ
- 仲よくお別れなすったのですか?口吻か顏色かに御立腹の樣子は見えやしませなんだか?
- エドガ
- いゝえ、ちっとも。
- エドマ
- 何かで御機嫌をお損ねなさりゃしませんでしたか?ねえ、もし、お願ひですから、
お怒りの火の手が衰へるまで、暫くの間、お父さんに逢はないやうにしてゐて下さい。今はひどく怒っておいでゝす、
あなたの身に害を加へでもなさらなけりゃお心が和ぎさうもありませんよ。
- エドガ
- 何か讒言をしをった奴があるんだらう。
- エドマ
- 私もさう思ひます。お願ひですから、お父さんの御立腹の薄らぐまで、ぢッと辛抱してゐて下さい。
それから私の宿まで來て下さい、お父さんのおっしゃることの聞かれる處まで御案内しませうから。
どうぞ、さァ。これが宿の鍵です。外出なさるなら、武噐を忘れちゃいけませんよ。
- エドガ
- 武噐を?
- エドマ
- 兄さん、わるいことはいひません。武噐を身に附けて外出なさい。 正直、あなたに害を加へようとしてゐる者があるんですから。
現に見たこと、聞いたことをお話したのですけれど、 迚も其怖ろしさの微かな影ほどもお傳へすることが出來んのです。
さ、どうぞ、早く爰を。
- エドガ
- ぢきに知らせてくれるかい?
- エドマ
- はい、きッとお勤めします。
エドガー入る。
(せゝら笑って)乘せられ易い親父と正直一圖の兄貴、惡い事を假にも能ィしない性質だから、
人がしようとも思はない、其馬鹿正直が此方の附目だ。
爲事の目鼻は附いた。血統で領分持ちになれなけりゃ智慧でならァ。 何だッて結構だ、好い工合に物になりゃァ。
エドマンド入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第一幕 第三場
第一幕
第三場 オルバニーの公爵館
-
ゴナリルと其家扶オズワルドが出る。王リヤは王位を婿二夫婦に讓って、自分は二百人の侍士を從へて、
最初に先づ長女ゴナリルの邸に同棲することにし、毎日のやうに出獵し、
贅澤と我儘の限りを盡すので、不孝者のゴナリルは忽ち其本性を現はして、冷遇しはじめる。
- ゴナリ
- ぢゃ、阿呆をしかったのが不埒だといって、吾邸の侍士を御打擲なすったの?
- オズワ
- はい、さやうでございます。
- ゴナリ
- 毎日毎晩わたしをば困らせてばッかり。始終何かしら怖ろしい惡いことをなさるので、
邸中が引ッ繰返るやうな騷ぎです。もう忍耐しますまい。 お附きの侍士どもは亂暴になるし、
御自身はまた些細な事を原に口ぎたなくおっしゃるし。獵からお歸りになっても、
わたしァ御挨拶しますまい。病氣だとお言ひ。お前も、今までとは違ひ、 ずっと無奉公にしむけたがいゝよ。其責任はわたしが負ひますから。
奧にて角笛の聲が聞える。
- オズワ
- お歸館でございます。喇叭が聞えまする。
- ゴナリ
- 面倒がって故とうッ棄っておくといふ樣子をしておいで、お前も、他の者も。
如何したのかと(不審がって)彼れ此れおっしゃるやうにしたいの。
お氣に染まなけりゃ、妹の處へいらっしゃるがいゝのさ、彼女の心も、
壓制させちゃおかないといふ點だけは、わたしと一致してゐます。役に立たずの老爺!
一旦讓っておきながら、いつまでも權力を振廻さうとするんだもの! ほんとに耄けると赤兒に復るんだから、
機嫌ばかり取ってると、増長して、しやうがない、時々叱りつけなくッちゃ不可ません。 今言ひつけたことを忘れまいよ。
- オズワ
- かしこまりました。
- ゴナリ
- お附きの侍士共に對しても、お前がた一同、冷淡な顏をしてゐるがいゝ。
如何なことが出來しようと、かまひません。同僚へさう指圖なさい。
わたしはそれを機にしようかと思ひます、是非、言ってのけるために。
妹へ直ぐに手紙をやって、わたしと同じ手段を取らせませう。食事の準備をしておゝき。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第一幕 第四場
第一幕
第四場 同じ處の廣間。
-
追放されたケントが下人に變裝して出る。彼れは斯うして蔭ながら、王リヤを擁護しようとするのである。
- ケント
- 持前でない聲色を使って、顏や形同樣に、言葉遣ひまでも變へッちまふことが出來るものなら、
かう變裝をして忠義をしようといふ目的を遂げることが出來るのだが。……さァ、
追放されたケントよ、若し構はれてゐるこの國で、(首尾よく)奉公することが出來りゃ、
汝が大事に思ふ御主人がさぞ調法がられることであらう。
奧にて角笛。リヤが大勢の武士や侍者を從へて出る。
- リヤ
- ちょッとも待てんぞ。直ぐに食事の準備をせいといへ。
侍者一人急いで入る。王はケントに目を著ける。
や!汝は何者ぢゃ?
- ケント
- へい、男で。
- リヤ
- 何を職業にする?何を予に求める?
- ケント
- 元値も掛値もありゃしませんや。信用して下さりますりゃァ實貞に御奉公いたします。
正直者は大好きです。聰明で口數の少ない人となら善く交際ひます。天道を畏れます。
よんどころなけりゃ喧嘩もします。魚は決して食ひません。
- リヤ
- 何者ぢゃ汝は?
- ケント
- めっぽふ正直な野郎ですが、王樣と同じに貧乏でございまさ。
- リヤ
- 王が王として貧乏なやうに、汝が臣下として貧乏なりゃ、成程、大分貧乏でもあらうな。
何を要めるんぢゃ?
- ケント
- 御奉公を。
- リヤ
- だれに奉公がしたい?
- ケント
- あんたに。
- リヤ
- 予を存じてをるか?
- ケント
- いゝえ、存じちゃゐません。が、あんたは、旦那と呼んで見たいお顏附の方でございます。
- リヤ
- といふのは?
- ケント
- い威嚴があります。
- リヤ
- どんな勤務が出來る?
- ケント
- 先づ、正しい祕密事ならきッと守ります、馬にも騎ります、走ります、七面倒な口上なら、
述べるうちに滅茶にしますが、只の御口上を、無潤色になら、傳へます。
竝の人間のすることは爲てのけます。第一の長所は勤勉なことでございます。
- リヤ
- 幾齡になる?
- ケント
- 唄が巧いからッて其女に惚れるほど若くもございませんが、 如何なことがあったって女に現を拔かすほど耄けてもをりません。
もう四十八年だけ背負ひ込みました。
- リヤ
- 從いて來い、使ふて與すであらう。食事後にも、尚ほ予の氣に入ってをるやうなりゃ、
傍においてやる。……(奧に向ひて)食事ぢゃ、やい、食事ぢゃ!……小奴は何處にをる?
阿呆めは?……其方參って阿呆めを爰へ呼んで來い。……
侍者の一人が入る。
此時、オズワルドが、王の前へ、わざと知らぬ振をして、鼻唄をうたひながら、横切って去らうとする。
こりゃ、やい、我女は何處にをる?
- オズワ
- えゝ、失禮でございますが……
とオズワルド空ぶいて入る。
- リヤ
- 何と言うた、彼奴?あの馬鹿者を呼び戻せ。
侍者の他の一人入る。
やァ〜、阿呆めは何處にをる?世界中が熟睡ってしまうたか?
侍者の一人戻り來る。
どうぢゃ?あの犬めは何處にをる?
- 侍者
- 姫君は御不例の由に申しまする。
- リヤ
- なんで彼奴めは戻らなんだか、予が呼んだ時に?
- 侍者
- へい、露骨に申しをります、厭ぢゃったと。
- リヤ
- 厭ぢゃった!
- 侍者
- 御前、仔細は存じませんが、てまへ考へまするに、
殿下に對するお待遇が從前のやうに御懇ろでないやうに存ぜられまする。總體に冷淡に相成りましたのが、
公爵夫婦にも御家來衆の擧動にも、見えてをりまする。
- リヤ
- や!何と申す?
- 侍者
- 御前、平に御高免を願ひまする、萬一、存じ違へでござりましたなら。
君辱められたまふと存じながら、默してはをられませんゆゑに、申し上げましたので。
- リヤ
- 予が心附いてゐたことを想ひ起させたに過ぎんわい。予も近來微かに其冷遇に心附いてをった。
なれども予はそれを以て彼等に不深切な下心あるが爲とは思はんで、寧ろ予の穿鑿過ぎた邪推であらうとばかり思ふてをった。
なほ善う檢べて見よう。それはさうと、阿呆めは何處にをる?此二日ばかりは彼奴の顏を見なんだ。
- 侍者
- 末姫さまがフランスへ御出立になりまして以來、阿呆は滅切元氣がなうなりました。
- リヤ
- もう其事はいふな、よう知ってをるわい。……其方參って我女に申せ、予が話したい事があると。……
侍者の一人が入る。又、他の一人に對ひて
其方は阿呆めを呼んで來い。……
此時、オズワルドが又出る。
おゝ、汝、いや、お前さん、こゝへ來て貰ひませう。……予は誰れでござるの?
- オズワ
- 御奧樣のお父樣で。
- リヤ
- 御奧樣のお父樣?御殿樣の奴隸めが!おのれ、取るにも足らん犬め!奴隸ッ!畜生ッ!
- オズワ
- さやうな者ぢゃございません、憚りながら。
- リヤ
- おのれ、予を睨み返しをったな?
王怒ってオズワルドを一つ打つ。オズワルドきッと其手ををさへて
- オズワ
- ぶたれちゃ居りませんぞ。
と手向かはうとする。途端に、ケントが横合から躍り入りて
- ケント
- 顛覆されもせんだらうな、此 蹴鞠野郎め!
とオズワルドを蹴飛す。
- リヤ
- かなじけない。忠義を盡しをる。かはゆがってやるぞ。
- ケント
- さァ起きて去ッちまへ!上下の差別を教へてやらァ。去ッちまへ、去ッちまへ!
唐變木の尺がもう一度取りたけりゃァ、愚圖ついてゐろ。去ったはうがよからうぜ!さァ〜。 聰明なら?……
オズワルドを奧へ突遣り
さう!
オズワルドへこたれて入る。
- リヤ
- さて、忠義な奴、かたじけない。汝の給料の手附ぢゃぞ。
王、ケントに貨幣を輿へる。
阿呆役出る。忠實な犬のやうに王に付隨してゐる弄臣、無禮な放言をも公許されてゐる役柄なので、
戲譃に事寄せて王を諫めたり、不幸の王女を罵ったりする。
- 阿呆
- おれも其奴を傭ってやらァ。……さ、おれの鷄冠帽を與れてやらう。
かぶってゐる帽子を脱いでケントにさしつける。
- リヤ
- (阿呆に)どうぢゃ、かはゆい奴!どうした?
- 阿呆
- (ケントに)おい〜、お前、此瑕P冠帽をかぶったはうがいゝぜ。
- ケント
- 阿呆さん、どういふ理由で?
- 阿呆
- どういふ理由?人氣の落ちた人の肩なんか持つからよ。
いゝえさ、風向き次第に白い齒を見せることが出來んやうぢゃァ、直に風を引くよ。
そら、此瑕P冠帽を取んなよ。はァて、此人は女兒を二人逐ひ出しッちまって、
三番目の女兒に心にも無い祝福を與れたんだ。
如是人に附着いてると、鷄冠帽をかぶらんけりゃならんや。……
(リヤに)や、どうだい、小父たん?おらァ鷄冠帽が二つと女兒が二人欲しいや!
- リヤ
- 何故ぢゃ?
- 阿呆
- 財産は悉皆女兒に與れても、おれの帽子だけは殘いとかァ。
それはおれのだ。他のを女兒さんにお貰ひ。
- リヤ
- 氣を附けろ。笞ぢゃぞよ。
- 阿呆
- あゝ、「眞實」は犬と同じだ、小舎の中へ逐ひ込まれなくちゃならん、牝犬御前さまが、
爐の傍で臭いにほひをお發しなさる時分に、笞でぴしゃり〜打たれてなくちゃならん。
- リヤ
- えィ、氣持のわるいことを言ひをる!
- 阿呆
- あい、お前に文句を教へてやらう。
- リヤ
- うん。
- 阿呆
- 聽いてゐな、小父たん。
(節をつけて)見せびらかすより多くを貯へ、
知ってるよりかも少く言うて、
有ってるよりかも少く貸して、
歩くよりかも餘計に騎って、
信ずるよりかも餘計に學び、
見込んだよりかも少く賭けて、
酒と女を封じ込め、
家内ばっかり居るならば、
利得は覿面、二つの十で、 二十よりも餘計が、儲かる〜。
- ケント
- たわいのないことを、何にもならんわい。
- 阿呆
- 何にもならん?ぢゃァ只で傭った辯護士の陳述といふ格だ。何も與れないんだもの。……
何にもならんものは何かにならんかい、小父たん?
- リヤ
- はて、ならんなう。無からは何者も生ぜん道理ぢゃ。
- 阿呆
- (ケントに)頼むから、お前、あの人にさういっとくれよ、 あの人の地代が幾何になッちまったかといふことを。
阿呆のいふことには眞實にしないから。
- リヤ
- 阿呆の癖に苦口ををきゝをる!
- 阿呆
- おい、お前知っているかい、苦い阿呆と甘い阿呆の區別を?
- リヤ
- 知らん。教へてくれ。
- 阿呆
-
(節をつけて)田地を與れいとお前に教へた其殿さんを
おいらの傍へ伴れておぢゃ。
お前が假に其人ぢゃ。
甘い阿呆と苦いのと
たちまち爰へ出て來ます。
一人は此處に斑の衣、
一人は其處にをりまする。
歌ひ了ると同時にリヤに指をさす。
- リヤ
- やい、おのしは俺を阿呆と呼んだな?
- 阿呆
- でも、お前は、他の名は悉皆他に與ッちまったんだもの、 有って生れたのは悉皆。
- ケント
- こりゃ全然の阿呆ぢゃございませんわい。
- 阿呆
- その通り。殿樣逹や偉い人逹が、おいら一人に、阿呆を任しといてくれないや。
おれが專賣權を有ってゐたって、衆人が株を分けてくれろと言はァ。
奧樣たちも同じくだ、阿呆をおれ一手で捌かせてくれないや、引ッ奪ってゆかァ。
小父たん、鷄卵を一つおくんな、すると、冠を二箇やらァ。
- リヤ
- どんな冠を?
- 阿呆
- はて、鷄卵を中央で切って蛋黄を食ッちまふと、そら、
冠が二箇出來らァ。お前は、冠を二つに割って、二箇ながら與れッちまってさ、
泥田の中を驢馬を脊負してほッつきあるいてゐたらう。
金の冠を與れッちまった時分にゃ、其きんか頭の中にゃ根っから智慧がなかったんだね。
おい、おれの言ふことを阿呆らしいと眞先に氣の附いた奴ァ、ぶんなぐってくれ。
(節をつけて)今歳ゃ阿呆の外れ年だよ、
聰明な手合が阿呆になって、
智慧の使ひやうも御存じない程、
手ぶりも、そぶりも馬鹿らしい。
- リヤ
- やい、おのしは何時からさう澤山に唄を歌ふやうになった?
- 阿呆
- 小父たん、おれはお前が女兒ッ子らを阿母さんにしたんで、それで唄が好きになッちまった。
何故なら、お前は躾棒を女兒たちに渡して、お袴を脱いぢまったらう、其時によ……
(節をつけて)其時、彼等は嬉し泣き、
おれは悲しうて唄ふたうた。
こんな王さまが阿呆を相手に
いない〜をさっしゃるかと思ふて。
頼むから、小父たん、教師を傭ッとくれよ、
譃を吐くことを教へる教師を。俺は譃を吐くことが習ひたい。
- リヤ
- 譃を吐くと、笞ぢゃぞよ。
- 阿呆
- 驚いたなァ、お前とあの女兒たちとは何て親類だらう!
彼の人たちは眞實の事を言ふからッて撲るし、お前は譃を吐くと撲ると言ふし、
どうかすると、默ってるからッて撲られる。おれはもう阿呆を止めッちまひたい。でも、小父たん、
おれァお前になるのは厭だ。お前は智慧の兩端を削ッちまって、 中央を空洞にしッちまった。……
あそこへ削り片の一片が來た。
ゴナリルがわざと不興氣にむづかしい顏をして出る。
- リヤ
- 如何したのぢゃ、我女?何故額に八の字をこしらへてをるのぢゃ?
近頃は兎角むづかしい顏ばかりしてゐるやうに思ふ。
- 阿呆
- 女兒がむづかしい顏をしてゐようとも關はなかった時分は、可愛い人だったがなァ、
今ぢゃ數字なしの零だよ。俺のはうがましだ。 俺は阿呆だけれど、お前は何でもないんだ。
ゴナリルが阿呆を睨みつける。
へい〜、默ります〜。何もおっしゃらないでも解ります、お顏で。 むぐ〜、むぐ〜。
(節をつけて)硬麺麭も軟麺麭も有たないからは、
なんぼあぢきなうても
食はずにゃをられぬ。
(リヤへ指をさして)あれは空になった豆莢だ。
- ゴナリ
- あなた、無禮の許してある此阿呆ばかりぢゃありません、他の、不作法千萬な、
お附きの侍士衆が、始終のやうに罵りあふ、口論をする、
それは〜、迚も忍耐の出來ませんやうな甚しい亂暴を働きます。
あなた、豫て此事は篤とお知らせ申した上で、きッと取締るやうにしたいと存じてをりましたが、
あなたがつい近頃おっしゃったことやなすった事から考へますと、どうやらあなたが御承知の上で、
後見をして、教唆していらっしゃるのぢゃァないかと心配になって參りました。萬一にも、
さういふやうでありますと、非難をまぬかれない御過失だらうと存じます、又、取締らずにおく譯にはまいりません、
で、彌々家國の爲に取締りを致す場合になりますと、自然御機嫌を損ねるやうなことにも立到りませうが、
必要上止むを得ませんことゆゑ、それは子たるものゝ恥辱ではなく、
却って賢明な處置ぢゃと人も稱しませうかと存じます。
- 阿呆
- そりゃ其筈だよ、小父たん……
(節をつけて)垣根雀が閑古鳥をば
長う育てた其返禮に、
おのが首ッ玉喰ひ切られてしィまうた。
そこで燭がふっと消えて、あとは眞ッ暗の昏暗ぢゃ。
- リヤ
- (極めて皮肉に)お前さんは予の女兒か?
- ゴナリ
- もし、あなた。……あなたは御賢明でいらっしゃるんですから、其御賢明を利用あそばして、
近來折々お見受け申すやうな、御本性に似合しうないお振舞ひは、 どうかお止め遊ばすやうに致したうございます。
- 阿呆
- 驢馬だって知ってらァ、車が何時馬を牽くかといふことは。
おうい、ヂャックや、おらァおのしにおッ惚れたゞよ。
- リヤ
- こゝにをる者の中で、だれか俺を知ってをるか?これはリヤではない。 斯う歩いてをるのはリヤか?斯う言うてをるのがリヤか?
彼れの目は何處にある?智力が弱り、分別が昏睡したのぢゃらう。……
や!現か?いや、さうではない。俺は誰れぢゃ?だれか、知らしてくれ。……
- 阿呆
- リヤの影法師だい。
- リヤ
- ……それが知りたい。何故といへ、此、君主たる種々の目標や智識や理性で判斷をすれば、
譃のやうぢゃが、(と極皮肉に)嘗て俺に女兒が有ったやうに思はれるからである。
- 阿呆
- そのお前を、女さんたちが、孝行なお父さんにしようとしてらァ。
- リヤ
- (いよ〜皮肉に)貴婦人さん、お前さんのお名前は?
- ゴナリ
- (極めて冷かに、侮蔑の調子で)さういふ故意らしい怪訝顏が、
あなたが近頃頻って遊ばす皮肉な惡戲と同じ脈なのでございます。 わたくしどもの趣意の在る所をよゥく會得していたゞきませう。
あなたは御高齡でいらせられますから、御賢明でなうてはならない筈です。
あなたは此處に百人の武士と侍士とをお伴れなされてゞございます、不秩序な、放逸な、
不作法千萬な人逹、わたくし共の邸内が、あの人逹の惡風に染って、まるで亂暴狼藉な旅館も同じこと、
酒と色との爲に、此莊嚴な館が料理屋か女郎屋のやうになります。恥辱を存じます以上は、
直ぐ樣矯治せねばなりません。さういふ次第でありますから、主人方の請願を……もし其請願をお聽きなさらなければ、
請願ひたさんで斷然取上げることになりますから……すなほにお聽きなさいまして、
少々お附きをお減しになるがよろしからうと存じます。さうして、殘ります者は、 何れも御老年のあなたに相當した、おのが身分柄をも、
あなたの境遇をも心得てをるものばかりに致したうございます。
- リヤ
- (赫となって)おゝ、おのれ〜!予が乘馬に鞍を置け!家來共を呼び輯めい!
……道知らず妾腹めが!おのれが厄介にはならんわい。おれにはまだ一人女があるわい。
- ゴナリ
- あなたは邸の者を打擲なさる、あの大勢の亂暴者は、目上の者を家來同樣に扱はうとする……
公爵オルバニーが出る。
- リヤ
- あゝ〜、後悔先きに立たずぢゃ、……(オルバニーに)おゝ、こなた御座ったか?これはこなたの意志でござるか?
返答が聽きたい。……乘馬の支度をせい。……あゝ、汝、
「背恩」といふ石心の大惡魔め、汝が實の子の心に宿りをった時は、
彼の海の妖怪よりも遙かに怖ろしう見ゆるわい!
- オルバ
- まァ〜、お忍耐へ下さい。
王、ゴナリルを睨みて
- リヤ
- にッくき鳶め譃を吐け。俺の家來は、何れも選拔の者共ばかりで、
臣下たる者の本分をよう心得、最も油斷なく武士の面目を支持する徒輩ぢゃ。
……おゝ、小さい〜過失が、どうしてコーディーリャの場合には醜惡に見えたぞい!
拷問機械か何ぞのやうに、其小さい過失めが予が本具の性情を正當の位置から捻ぢ曲げ、
予の心から悉く慈愛を拔き去り、苦い、酷い心ばかりを附加へをった。 おゝ、リーヤ、リーヤ、リーヤ!
自ら其顏を撲ちのめして
此門を撲て、馬鹿な根性を誘き入れて、大切な分別を逸しをった此門を!…… (奧に向ひて)さァ〜、家來ども!
- オルバ
- (王の傍へ進みて)手前は全く存ぜんことでございます、どうして御立腹になったことやら、それすらも心得ません。
- リヤ
- さやうでもござらう。
と俄かに跪いて、天を仰いで、怒り猛りつゝ詛う。
聽けよ、造化の御神、聽こしめせ!若し此れなる女めをして予を産ましめたまはん御神慮にさふらはゞ、
其御意を止めさせられて、此奴が胎内には石婦の性を植ゑ附け、生殖の機關を涸渇せしめ、
此奴が墮落せる肉體よりは、ゆめ〜母親の名譽となるべき嬰兒を生ぜしめたまふ勿れ!
是非とも子を産まねばならんうならば、憎しみよりこそ子種を作らしめたまへ、其子生ひたっては邪ま非道に振舞ひ、
母親を苦しめ惱しますやう!それが爲に、まだ若き我女めが、額には醜き皺を印し、
落す涙には其頬に溝を穿たしめたまへ、母親の心づかひをも、深切をも、悉く嘲弄に歸せしめたまへ、
恩を知らぬ子を有つ親の苦しみは、蝮蛇の牙に咬まるゝにもますことを、 此奴めに思ひ知らす爲に!……あッちへ、あッちへ!
跳び出すやうにして、猛り立って、王が入る。
- オルバ
- こりゃ、まァ、實際、如何したといふのです?
- ゴナリ
- 氣にしてお訊問ねなさるにゃ及びませんのよ、老耄の所爲ですの。 氣任せにしといたはうがようござんす。
リヤ再び出る。無斷で侍士を半減されたのを初めて知って、憤激し、こらへかねて立戻って來たのである。
- リヤ
- えッ?俺の附きの者五十人を只一擧に(解職しをった)?まだ二週間にしかならんのに!
- オルバ
- どうなされたのでございます?
- リヤ
- その理由をいはう。……
と言ひかけて、覺えず落涙したが、やっと耐へて
(ゴナリルに)おのれ〜!おのれのやうな奴めが、男子たる俺をば、此樣に泣かする力を有ちをるかと思ふと、
恥かしいわい、おのれの所爲で、 此熱い涙が、耐へようと思ふても、耐へきれなくなるかと思ふと、恥かしいわい。
あらゆる惡い病ひに罹りをれ、おのれ!父の呪詛に貫かれて、目といはず、
鼻といはず、おのれの感覺の有る限り、療治の叶はんやうな重傷を負へやい!
えゝ、馬鹿眼め、二度と如是ことで泣きをると、ゑぐり取って抛棄り出し、
無益に流しをる水と一しょに粘土をこねる役に立てるぞ。えィ、それ程までに?
よろしい。俺はまだ外に女兒があるわい、彼女はきッと深切に慰めてくれる、
汝の此振舞ひを聞いたなら、爪で以て其狼顏を引ッ剥いでくれるに相違ない。
今に見ろ、永久に俺が打ッ棄ったとばかり思ふてをる其格式を取って見せるわ。 おのれ、今に見をれ。
リヤは又跳び出すやうにして入る、ケントも、其他の侍者らも從いて入る。
- ゴナリ
- あれですもの、あなた。
- オルバ
- ゴナリルどの、わたしは深くあなたをば愛してゐますが、あながちあなたのみ左袒して……
- ゴナリ
- まァさ、あなた。……(奧にむかひて)こらよ、オズワルド、こらよ!……
(阿呆に對ひて)其方は阿呆といふよりも惡漢です。主人に從いてゆけ。
- 阿呆
- リヤの小父たん、リヤの小父たん、待ッとくれよ。阿呆を伴れてッとくれよ。
(節をつけて)狐を人が捕ったなら、……
それから、あんなお女をも……
縊め殺すのが定なれど、
おのれの帽子ぢゃ繩さへ買へぬ、
それで阿呆は尾いて行く。
阿呆入る。
- ゴナリ
- 好い庭訓を得ましたのよ、あの人。……武士を百人も!事がありゃ直ぐ役に立つやうに、
武士を百人も附けておくといふのは、ほんに用心のいゝ、聰明な爲方です。
はい、聰明な爲方ですよ。たわいもない邪推や空想や噂や苦情の起るたびに、
氣に入らんことのあるたびに、あれらを老耄の後押に使はせて、
わたしどもに對する生殺與奪の權を握らせておくといふのは。……(奧にむかひて)オズワルドは居ませんか?
- オルバ
- それはちっと案じ過しでせう。
- ゴナリ
- 信じ過ぎるよりは安全です。害を受けやしないかと思って、心配ばかりしてゐるよりは、
心配になる害を取除いたはうがよいと思ひます。父の肚は解ってゐます。
父の言はれたことは書面で妹へ知らせました。若しわたしの忠告に關らず、 彼女が父と其百人のお附きとを歡迎するやうなら……
オズワルド出る。
どうしました、オズワルド!え、妹への書面は認めましたか?
- オズワ
- 認めましてございます。
- ゴナリ
- 侶廻りを伴れて、早馬に乘って、よく、妹に、わたしの心配してゐる廉々をね、
一層明確にするためにお前さんの意見をも加へて、よく言ひ傳へて下さい。早く往って、早く戻って來て下さい。
オズワルド入る。
(オルバニーに)いゝえ〜、あなた、あなたの其甘ったるい優しいなされかたを必ずしも惡いとは申しませんが、
併し失禮ながら、兎角それが爲に弊が生じますから、 世間では襃めるよりも寧ろ分別の足らん方のやうに申してゐます。
- オルバ
- 貴女の先見がどの位ゐ當ってゐるか、わたしには預言が出來ない。
良うしようと力めて、却って惡くすることがありますから。
- ゴナリ
- いゝえ、そんならば……
- オルバ
- よろしい〜。成行を見ませう。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第一幕 第五場
第一幕
第五場 同じ處の前庭。
-
リヤとケントと阿呆と出る。
- リヤ
- (ケントに)其方は、此書面を持って、予に先き立ち、グロースターまで參れ。
此書中のことを問ふたならば、答へいぢゃが、其餘は其方が存じてをる何等の事をも女兒には知らすまいぞ。
勉強して急いで參らんと、予のはうが先きへ往くぞ。
- ケント
- 御書面をお渡し申しますまでは、休むこッちゃァございません。
ケント入る。
- 阿呆
- もしか人間の腦髓が踵ンとこにあったら、皸が裂りゃァせんかい?
- リヤ
- 裂れるかも知れん。
- 阿呆
- ぢゃァ、御安心なさましだ、お前だけは緩靴を穿く必要が無いから。
- リヤ
- はゝゝゝゝゝ!
- 阿呆
- 今に見な、お前のもう一人の女兒は、きッと親身らしくしてくれるよ。
何故なら、彼女と彼女とは橙(苦林檎)が九年母(林檎)に似てるやうに似てるけれど、
併しおれにゃ解ってることは解ってらァ。
- リヤ
- 如何いふことが解ッとるんぢゃ?
- 阿呆
- 彼女と彼女とは同じ味だよ、橙(苦林檎)が橙(苦林檎)に似てるやうに。
お前は知るまい、なぜ人の鼻は顏の中央にあるか?
- リヤ
- 知らんなう。
- 阿呆
- はッて、鼻の兩側を善う見張って、鼻で嗅ぎ出せないことは、目で以て見附ける爲だ。
末女コーディーリャの事を想起して、おのが輕擧を悔む體で
- リヤ
- (煩悶の思入れ)濟まんことをしたわい彼女には。……
- 阿呆
- 蠣は如何して貝を造るか、知ってるかいお前。
- リヤ
- うんにゃ、知らん。
- 阿呆
- おれも知らん。併しなぜ蝸牛が家を有ってるかは知ってらァ。
- リヤ
- なぜぢゃ?
- 阿呆
- はッて、己が頭をしまっとく爲だ。
女兒どもに與っちまって角の容場をなくするためぢゃァないや。
- リヤ
- (煩悶して)親の情を棄てゝしまはう。これほどにしてやった父をば! ……馬の支度はどうした?
- 阿呆
- 驢馬が何疋も其支度にいってるよ。七つ星の數は、七つしか無いといふ其理由が面白いや。
- リヤ
- 八つとは無いからであらうが。
- 阿呆
- その通り。お前は立派に阿呆になれらァ。
- リヤ
- (又煩悶して)是非とも取返して!おそろしい恩知らずめ!
- 阿呆
- 小父たん、お前がおれの阿呆だったら、おら撲るよ、餘り早く齡を取ったから。
- リヤ
- どうして?
- 阿呆
- 聰明にもならんうちに、齡を取るやるがあるもんかい!
- リヤ
- (又煩悶して)おゝ、天よ、氣ちがひにならせて下さるな、氣ちがひに!
正氣にしておいて下され。氣ちがひにはなりたくない、氣ちがひには!
一紳士出る。
どうぢゃ!馬の支度は出來たか?
- 紳士
- 出來ましてございます。
- リヤ
- さァ、來い。
- 阿呆
- (觀衆に對って)今は娘で、おれの引込むのを見て笑ってゐる女子も、
さう〜は處女ぢゃゐまいて、物がちょんぎられてしまはぬ以上は。
王を先きに一同入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第二幕 第一場
第二幕
第一場 グロースター伯の居城。
-
エドマンドとコーンヲールの家臣キュランとが左右より出て逢ふ。
場所は城内の或建物の前。此建物の内に長子エドガーが隱れてゐるのである。
- エドマ
- キュランさん、御機嫌よろしう。
- キュラ
- あんたにも。今お父さんにお目にかゝって、
今夜コーンヲールさまと奧方のリーガンさまとがお成りなされることをお知らせして來ました。
- エドマ
- 如何したといふのでせう?
- キュラ
- いや、わたしも知りません。世間の噂はお聞きなすったでせう、といふのは窃々話の事です。
まだほんの耳語程度なんですからね。
- エドマ
- いゝえ、ねッから(知りません)。どんな事なんで?
- キュラ
- 軍が始まるらしいといふ噂をお聞きなさらなかったかい、 コーンヲールさまとオルバニーさまとの間に?
- エドマ
- いゝえ、ちッとも。
- キュラ
- ぢゃ、今にお聞きなさるでせう。ごきげんよう。
キュラン入る。
- エドマ
- 今夜こゝへ公爵が來る?そいつァうまいや!いよ〜うまいや! それもきッと此方の爲事の材料になるに相違ない。
兄貴を捕へる爲に、親父はもう、捕手の者を伏せた。 ところで、是非やってのけんけりゃならん煩瑣い爲事が一つある。
どうか、手取早く、運よく參りますやうにだ!
建物の前に歩みよって
兄さん、一寸。降りていらっしゃい!兄さん〜!
エドガー出る。
お父さんが見張ってゐます!さ、兄さん、早くお逃げなさい! あなたが此處にゐるといふことが知れたんです!幸ひ、夜だから、都合がよい。
……若しか貴下はコーンヲール公のことを何か惡く言やァしなかったんですか?
こゝへ、今來ますよ、急に此夜中に、リーガンさんも一しょに。
もしか彼人の肩を持って、オルバニー公のことを何とか言やァしなかったんですか、 考へて御覽なさい。
- エドガ
- 決して、一言も言はない。
- エドマ
- お父さんが來たやうです。御免なさいよ。謀計で、 貴下と切合ふ眞似をしなけりゃならない。
お拔きなさい。一生懸命になって防禦する眞似をなさい。
……(と二人とも劍を拔いて、斬り合ふ眞似をしながら、大聲で)さ、降參してお父さんの前へお出なさい!
……おいおい、早く火光を〜!……(小聲にて)兄さん、早くお逃げなさい! ……(大聲で)把火々々!……
エドガー足早に入る。
(小聲で)さよなら。……幾らか血が出てゐた方が手強く戰ったやうに見えるだらう。 (袖をまくりあげて時分で腕に劍を附けながら)
情婦への心中立にこれ以上の事をする醉漢が幾らもある。
……(大聲で)お父さん〜!こら、まて、こら!……だれか來てくれ、だれか!
グロースターが把火を持った僕數人と共に急いで出る。
- グロー
- エドマンドか?奴は何處にゐる?
- エドマ
- つい今まで爰に立ってゐたんです、昏暗の中に、拔劍を持って、
さうして月に對ッて、願はくば我が爲にとか、何とか、怖ろしい呪文を唱へてゐたんです。
- グロー
- いやさ、何處にゐると聞くんだ?
- エドマ
- ねえ、こんなに血が出るんです。
- グロー
- いや、奴は何處にゐる、エドマンド?
- エドマ
- 此方へ逃げたんですよ、迚も、その、駄目だと悟ったもんだから……
- グロー
- それ、おッかけろ!蹤を追へ、蹤を。……
僕共急いで入る。
- エドマ
- 迚もわたしに貴下を殺させようとしたッても駄目だと悟ったからです。
親殺しの大罪を犯した者は、神さまが雷を落してお罰しなされる、 父に對する子たる者の義務は重大なもんだとわたしが言ひまして、つまり、
如何しても兄さんの非道な企に合體しないもんですから、私が油斷してる處へ、
凄じい勢ひで以て突いてかゝって、わたしの二の腕を突刺したんです。
けれども私が奮然として正義の爲に大膽に戰はうとしたのを見なすった爲か、
或ひは大きな聲をしたので怖れてだか、急に逃げッちまひました。
- グロー
- 存分遠く逃げろ。此國にをる限り、引ッ捕へずにおかうか!見附け次第打果してくれる。
おれの大事の御主君公爵どのが、今夜ここへ成らせられる、其御威勢を借りて、
あの非道な卑怯者を搜し出して刑場へ伴れ來る者には謝儀を與らす、
かくまふ者は死刑に處するといふ布令を出さう。
- エドマ
- わたしがいろ〜と諫言をして、惡心を止めさせようとしましても、
兄さんは惡口雜言を吐いて、改心なさりさうにも見えませんから、 わたしが、それでは告發すると言ひますと、兄さんは「こゝな無財産の妾腹め!
おれが汝を陷れようと思やァ、どれほど汝に徳があらうと、
信用があらうと、世間が信ずると思ふか?いゝや、おれが否認しようとさへ思やァ
……無論、さうするんだが……さうとも、たとひ汝がおれの自筆を持出したからって、
おれはそれを悉く汝の誘惑、思ひ附き、わるだくみに由ることにしッちまふ。
おれが死ねァ汝に取っては夥しい利益になるから、
汝がそれを望むだらうと世間が想像してゐないと思ふのは、世間を大馬鹿にした話だ」 と、さういふんです。
- グロー
- おゝ、世にも珍しい、おッそろしい惡漢めが!あの手紙を、覺えが無いといふか? 彼奴はおれの子ぢゃァ無い。
タケット調の喇叭(行進曲)が聞える。
ありゃ公爵の喇叭ぢゃ!何故ござらっしゃったのか知らん。……あらゆる港を閉ぢさせてしまはうから、
彼奴め逃れッこは無い。是非公爵にお許可を受けう。
且つ又、彼奴の肖像画を遠近に送って、全國の者に注意をさせう。
おのしは兄とは全く腹ちがひの孝行者ぢゃ、家督を相續するやうに計らふてくれる。
此時、コーンヲール公爵、同夫人リーガン、及び侍者ら大勢ついて出る。
- コーン
- どうなすったな!只今こゝへ參ると同時に、竒怪な風説を傳聞ったが……
- リガン
- もしそれが事實であるなら、其科人には何樣な嚴罰を課しても尚ほ足らない程です。
え、どうなすったの?
- グロー
- おゝ、奧方、此胸が張り裂けるやうでござります、此胸が!
- リガン
- や!では、父上の名附兒が貴下を殺さうとしたのですか?
あの父上が名附親におなりなされた、あの兒が?エドガーが?
- グロー
- おゝ、奧方、奧方、お恥かしうござりますわい!
- リガン
- もしやエドガーは、父上にお仕へしてゐる彼の亂暴な武士共と交際をしてはゐませなんだか?
- グロー
- そりゃ存じてをりませんが……あんまりな惡行でござる、あんまりな。
- エドマ
- (リーガンに)はい、お交際をしてをりました。
- リガン
- そんなら不思議は無い、不良になったのも。(コーンヲールに)彼奴らが教唆したんです、
あの老人を殺して其財産をわが有にしようと思って。つい今、姉上からのお使ひで、
彼等武士共の事を詳細にお知らせがありました。
若し彼等が寄寓するため、私たちの館へ參るやうなら、それを避けて、わざとゐないことにしたがよい、 といふお心添がございました。
- コーン
- わしとても居らんはうがよいのだ。……エドマンド、お前は父御に對して、 立派に孝子らしう振舞ふたさうだの。
- エドマ
- 當然な務めを致しましたに過ぎません。
- グロー
- 兄の奸計を知らせくれまして、それから彼れを捕へうとて働きまするうちに、 御覽の如き手傷をば受けました。
- コーン
- 追手を出しましたか?
- グロー
- 出しましてござります。
- コーン
- 捕らへさへすれば二度と害をする虞れはあるまい。 わしが力を如何やうにも利用して志望をお遂げなさい。
……エドマンド、お前の孝順の振舞ひは如何にも感心の至りだから、只今すぐに、
わしの家臣に召抱へる。かういふ忠誠な人物は必要だ。
- エドマ
- 忠義だけはお盡し申しまする、他の事はともかくも。
- グロー
- 彼れの爲に、お禮を申し上げまする。
- コーン
- 時に、まだ御存じあるまい、何故吾々が參ったかを……
- リガン
- 突然に暗の夜を辿って。グロースターどの、實は重大な理由があって、
是非とも貴下の御助言が承はりたいのです。父からも、姉からも其仲たがひの事情を申し越されたのですが、
それは邸を離れて返辭をしたはうが適當であるやうに考へましたの、
それ〜゛の使ひの者には爰で返書を渡す筈になってゐます。グロースターどの、
御心中は察しますが、暫く忍んで、わたしどもの爲にさしせまって入用な忠告を述べて下さい。
- グロー
- 心得ましてござります。……ようこそ渡らせられました。
喇叭。皆々入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第二幕 第二場
第二幕
第二場 グロースター伯居城の前。
-
ケントと、今使者となってやって來たオズワルドとが左右から出る。薄昏い夜明方なので、
ケントをコーンヲール家の者と思ってオズワルドが呼びかける。
- オズワ
- お早う。お前は此邸の人かい?
- ケント
- うん。
- オズワ
- 馬は何處においたらいゝか?
- ケント
- 沼ン中が好いよ。
- オズワ
- どうか、をしへてくんなよ、深切心があるなら。
- ケント
- 深切心なんざ無い。
- オズワ
- ぢゃ、汝にゃァ關はん(さういふ不埒なことをいふなら)。
- ケント
- へん、關はんとも言へまいぞ、リプスベリーの獸類欄へ抛り込まれる段となりゃ。
- オズワ
- なんでそんな無禮を申すか?知合でもない汝が。
- ケント
- 野郎、おれは汝を知ってるぞ。
- オズワ
- おれを何だと思ってゐる?
- ケント
- はて、惡黨よ、ろくでなしよ、人の食ひあましを有難がって食ふ、卑劣な、高慢な、薄っぺらな、けちな、
三枚著物の、年給たった百ポンドの、毛絲靴下の、ぢゝむさ野郎め!肝玉の小ぽけな、
何かといふと政府頼みの、下賤な、自惚鏡と睨めくらをする、虚飾家、おせっかい、
親讓りの財産といッちゃァ櫃一箇しかない奴隸、 體のいゝ慶菴をしかねぬ野郎、
惡漢と乞食と臆病者と誘拐者と小牝犬の惣領息子とを混成にしたやうな野郎、
もし斯う竝べた名を只の一字だって然うでないと吐しゃァがると、大聲あげて吠えるまで、
撲って〜撲ちのめしてくれたい野郎だ。
- オズワ
- てもまァ、何といふ怪しからん奴だ汝は!知りもせず知られもせん者に對って、 そんな惡體を吐きをるとは?
- ケント
- おれを知らん?何といふ鐵面皮奴だ汝は!
王さまの前で足をすくって、汝をおれが撲りつけたは、まだやっと二日前だ。
さァ、拔け、惡黨!夜中ぢゃァあるが幸ひ月が照ってゐる。 汝を材料にしておれが名月汁をこさへてくれる。
さ、卑劣な、下賤な、氣取屋め、拔きゃァがれ。
ケントは劍を拔く。
- オズワ
- えィ、退れ!汝にゃ用は無い。
- ケント
- 拔け、惡黨!汝は名聞殿の肩を持って、王樣のお爲にならん書面なぞを持參し、
曲事を働く奴だ。拔け、惡黨、拔かんと、其脛に切形を附けてくれるぞ! 拔け、惡黨。さァ、突いて來い。
- オズワ
- 助けてくれ!人殺しだ!助けてくれ!
と逃げにかゝるのを遮って
- ケント
- さ、打って來い、奴隸め!待て、惡黨、待て。虚飾奴め、打て!
ケント劍の背でオズワルドをさん〜゛に打擲する。
- オズワ
- 助けてくれ!人殺し!人殺し!
エドマンドが細刄劍を提げて出る。
- エドマ
- どうしたんだ!何事が起ったのだ?
と二人を引分ける。
- ケント
- (怒って)お若いの、お望みなら敵手にならう。さァ、喧嘩の爲方ををしへてやる。 さァ、突いて來な。
此時、コーンヲール、リーガン、グロースターを先きに、從僕ら大勢ついて出る。
- グロー
- 武噐を持って?刄物を?どうしたのぢゃ?
- コーン
- しづまれ、命が惜しいならな!立騷ぐと死刑に處するぞ!どうしたのだ?
- リガン
- 姉上の使ひの者と父上の使者ではないか?
- コーン
- なぜ爭鬪に及んだのだ?申せ。
- オズワ
- 息が斷れて物が言へません。
- ケント
- 不思議はないや、おッそろしく勇を揮ったんだからなァ。やい、憶病者、
造化も汝を造へた記憶は無いといふだらう。 裁縫師の手で出來た野郎だ汝は。
- コーン
- 竒怪なことを申す奴だ。裁縫師が人間を造るか?
- ケント
- へい、造ります。石工や繪工なら、二時間も職を習やァ、
まさか是れ程拙い人形は製へませんや。
- リガン
- なぜ爭鬪をしたんぢゃ?
- オズワ
- 此亂暴な老年が、……こやつは先だって胡麻鹽鬚髯に免じまして、
一命を助けつかはしました奴でございますが……
- ケント
- やい、Z野郎!無くても差支へのない餘計文字野郎!……殿さま、お許可さへ出りゃァ、
俺が此赤土野郎を石灰になるまで、蹈みのめして、それで雪隱の壁を塗ってくれます。
……胡麻鹽鬚髯にめんじた?此鷦鷯め!
- コーン
- 默れ!……おのれ、無禮千萬な奴、尊敬といふことを存じをらんか?
- ケント
- 存じてゐます。でも腹の立つ時ァ別です。
- コーン
- なぜ腹を立ったのだ!
- ケント
- こんな、面目玉に附けかたも知らないやうな奴が、劍を附けてゐやァがるのが癪にさはりました。 斯うにや〜笑ってゐる野郎が、兎角、
釋きほぐすことの出來んほどに善く結ばれてゐる貴い絆をも鼠のやうに咬み切ります。
主人の胸であばれる氣儘我儘を御無理御尤もと撫で附けます。燃え立つ火には油をかけ、
冷い心には雪をかぶせ、否と言ったり、然と言ったり、主人の風の手の變るにつれて、
翡翆のやうに嘴の方向を變へます。何も知らんで、犬のやうに、 只もう主人の尻に尾いてあるく奴です。
オズワルドてれかくしに笑ふ。
其癲癇顏止してくれ!おれの言ふ事を聽いて、うぬ、笑やァがるな?
おれが幇間でゝもあるかのやうに。雁め、汝にセーラムの原で出逢やァ、がァ〜いはせて、
キャメロットへ逐ひこくってくれように。
- コーン
- やァ、うぬは、氣でも狂ったか?
- グロー
- どうして爭論に及んだのぢゃ?それを言へ。
- ケント
- およそ反の合はないッて、此奴と手前とほどなのはありゃしません。
- コーン
- 此男をなぜ惡黨と呼ぶんだ?
- ケント
- あの面附が氣に入りません。
- コーン
- さういや、予の顏色とても、(グロースターを見返りつゝ)あの仁のとても、又、奧のとても、
汝の氣に入らんかも知れん。
- ケント
- 正直に言ッちまふのが手前の性分です(から、言ひますが)、斯う竝んでゐる肩の上に、
今載ッかってゐるどの面よりも、もう少しァ見ッともいゝのを(今までに)見てゐますよ。
- コーン
- 此奴は、無遠慮なのを襃められたところから、故と無禮不作法にもてなして、
強ひて性質でもない言動を粧ふやつと思はれる。
手前は阿諛ふことは出來ません、迚も……正直に、何の飾りもなく……
有りの儘の事を言はざるを得んなぞと!世人がそれを容れゝば、よし。咎めれば、 正直一圖だからと言ひぬける。往々にして此類の惡黨がある。
小心翼々として役目を務める世間にありふれた諂諛者共より、正直を賣物にする斯ういふ奴が、
えて一段と腹黒で、油斷がならんものだ。
- ケント
- (わざと馬鹿丁寧に)お殿さまへ、えゝ、眞實、誓言にかけまして、恐れながら、みゆるしを蒙りまして、
輝き渡る日の神の御額に渦卷き立つ赫々たる猛火にひとしき……
- コーン
- 何を申す?
- ケント
- あなたがお嫌ひなさるから、手前の口吻を變へて見たので。 手前は決して諂諛者ぢゃございません。
無遠慮で貴下を騙したとかいふ奴は、 そりゃァ明々白々の惡黨なんでございませう。
手前は貴下の御機嫌が治るからと頼まれても、さういふ惡黨にゃァなりたくありません。
- コーン
- (オズワルドに)彼れに對して如何な不都合をしたのだ?
- オズワ
- 何もいたしゃしません。王樣が、此間、何か誤解遊ばしまして、私を御打擲になりました時分に、
此男が、王と御一しょになって、御立腹の後押をいたして、
私の足を背後からすくひました、で私がつい倒れますと、
侮辱いたしたり、雜言を吐いたりいたして勇者がりますので、えらさうに見えますると、
王が御稱讚になりました、故と負けてをりますものを攻撃したい過ぎませんのですが。それから、
其偉い手柄に味をしめて、今日またこゝで拔いたのでございます。
- ケント
- 憶病者の大ほらふき、こいつらに比べりゃァエーヂャックスなんぞァ徒の末社だ。
- コーン
- 足枷臺を持って來い!……おのれ、頑固な老惡黨め、老莊士め、きッと教へてくれる。
- ケント
- 習ふにゃァ齡を取り過ぎてゐます。足枷臺を取寄せるのァお止しなさい。私は王さまの直參で、
お使ひで此方へ參ったのです。お使者を足枷臺に掛けちゃァ、王さまの御身分に對して、
餘り不作法なお待遇で、失禮過ぎませうぜ。
- コーン
- 足枷臺を取って來い!正午までは、決して身動きさせるな。
- リガン
- 正午まで!夜までになさい!夜の明けるまでに。
- ケント
- もし、奧さん、私が父御さまの飼犬であったって、さういふ風にお扱ひなすっちゃ濟みますまいぜ。
- リガン
- 飼犬でなくって、お抱への惡黨だから、さうするんぢゃ。
- コーン
- 此奴は姉上が申し越された徒輩の同類なんだ。……さァ〜、足枷臺を持って來い!
從者が足枷臺を持って出る。とコーンヲールが指圖してケントを足枷臺に上らせようとするのを、
グロースターが見かねてとゞめる。
- グロー
- まゝ、おとゞまり下されませう。此者の不埒は重大でござります、が、それに對しては、
御主人の王さまが屹と御譴責あそばされることゝ存じまする。 あなた樣の思し立たれましたお處刑は、
小盜其他違警罪などにて罰せらるゝ最もあさましい下賤な徒輩に相當した下等な御懲罰でござります。
王のお使者を斯樣にお扱ひになっては、王が定めし、御自身を輕しめられたやうに思し召されて、 御氣色にさへられませう。
- コーン
- 其熕モは予が負ふ。
- リガン
- 王よりも姉上がお怒りなさらう、御用で參った御家來が、侮辱を受けたり、攻撃されたりしたとお聞きになったら。
……其奴の脚を填めい。
從者らが立ちかゝりてケントを足枷臺に掛ける。
さァ、あなた、あちらへ。
グロースターとケントの他は皆入る。
- グロー
- (ケントに)氣の毒ぢゃなう。いひ出しては後へは退かぬと世間も知る公爵どのゝ御意ぢゃから、是非に及ばん。
今に何とか調停しませう。
- ケント
- どうか放擲ッといて下さい。眠ないで、みっちり歩いたから、暫く眠ます。
目が覺めたら口笛でも吹いてゐませう。善人の運は踵から延びるといひます。おやすみなさいまし!
- グロー
- (傍白)公爵のなされかたは善うない。きッと御氣色にさはらう。
グロースター入る。
- ケント
- リヤ王どの、貴下は諺をば身に思ひ知らっしゃらねばなりませんぞ。
天惠を失って日向ぼッこり!……(懷中から書状を取出しつゝ、東の空を見やって)早く來てくれ、
此下界への合圖火、汝の氣持の好い光りで此密書が讀みたい!
災禍極らざれば竒蹟あらずだ。こりゃ慥かにコーディーリャどのからの通信だ。
俺が名をも姿をも昏まして斯うしてゐるといふことを都合よく傳へ聞かれたところから、時機を俟って、
此竒怪な状態から國を救ひ、弊を除かうと望んでをられるのだ。
……疲れた上に眠足らんので重たくなった眼よ、ちょうど好い、此見ッともない宿を見るな。
……運の神よ、おやすみなさい。もう一度白い齒を見せて、車の輪を廻して下さい!
ケントは足枷臺に掛かったまゝで眠る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第二幕 第三場
第二幕
第三場
荒れた岡の一部。(前と同じ城内としてあるテキストもある。)
-
父の勘氣を蒙ったエドガーが出る。他國へ放浪しようとしても、警戒が嚴しいので、
餘儀なく躊躇してゐる體である。
- エドガ
- 布令が出て手が廻ってゐるといふことを聞いたが、幸ひに樹の洞にかくれて追手をばまぬかれた。
どの港も閉され、どこ一箇所非常な警戒で以て俺を捕へようとしてゐない處はない。 のがれられるだけは命を助かるために、
貧窮が嘗て人間をして獸も同樣の墮落の極に到らしめた其時の姿も 是程ではと思ふやうな最もあさましい姿をも取らうと思ふ。
顏は汚いもので塗りたて、腰には古ゲットを卷き、頭髮はもぢゃ〜にもつれさせ、
赤裸々で以て風雨雷電にも身を曝さう。さういふ先例は、此國のベドラムの乞食共だ、
彼奴等は、わめき聲をあげて、麻痺れて無感覺になってゐる素肌の腕へ、針だの、
木串だの、釘だの、迷迭香の刺だのを突きたて、怖ろしげな樣子を見せて、
呪ったり祷ったりして、下賤の農家から、あはれな小ぽけな村から、羊小舎から、磨粉屋から、
無理やりに布施を貰ふ。なさけないタリーゴッド!なさけないトム(なぞと呼んであるく)! が、まだしもあれは人だ。此エドガーは人でなしだ。
エドガー入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第二幕 第四場
第二幕
第四場 同じ處。
-
リヤが阿呆役と一紳士とを從へてグロースターの居城内の中庭へ現はれる。
そこにはケントが足枷を掛けられたまゝ眠ってゐる。
- リヤ
- さう急に邸を出た上に、使ひの者を返してよこさぬといふは不思議ぢゃ。
- 紳士
- わたくしが傳聞りました所によりますれば、
つい前夜までは他所へお出張の思ひ立ちは無かったらしうございます。
ケント目を覺して、足枷に掛かったまゝで、王と挨拶する。
- ケント
- 王さま、ごきげんよう!
- リヤ
- やッ?……汝はそんな辱めを受けてゐながら、娯樂とでも思ふてをるか?
- ケント
- どういたしまして。
- 阿呆
- はゝゝゝゝ!えらい脚絆を穿いてゐらァ。馬は頭で縛り、犬や熊は首ッ玉で縛り、猿は腰で縛り、
人間は脚で縛る。とかく脚が働き過ぎると、あゝした木の股引を穿かされる。
- リヤ
- 汝の役柄をも辧へをらんで、そんな待遇をしたのは誰れぢゃ?
- ケント
- お二方でございます、お婿さまとお令孃で。
- リヤ
- いゝや、そんな筈は無い。
- ケント
- いゝえ、さうなんでございますよ。
- リヤ
- うんにゃ、さうぢゃない。
- ケント
- いゝえ、さうなんで。
- リヤ
- うんにゃ〜、そんなことはせん。
- ケント
- いゝえ、しました。
- リヤ
- ヂューピターも照覽あれ、せん!
- ケント
- ヂューピターも照覽あれ、しました!
- リヤ
- 彼等はそんなことは決して能うせん。能うしもせねば、しようとも思はん。
承知でかやうな暴戻を働くは、人殺しよりも惡いことぢゃ。どういふ譯で、如何なる罪があって、
予の使者たる其方に對し、かやうな待遇を蒙らすに至ったか、すみやかに説明せい。
- ケント
- 殿さま、私がお邸へ參りまして、あなた樣の御書面をお二方にお渡し申しました途端に、
膝を突いて御挨拶をしてまだ起ち上りもしませんうちに、汗で湯氣の立ってゐる馬で以て、
一人の使者が息を切ってやって參って、其主人のゴナリルさまの口上を喘ぎ〜述べまして、
間に私が居るにも關はず、書面を差出しますと、お二人がそれを直ぐに讀んで、
そこで俄かに御家來衆を呼び輯めて、忽ちお馬にめされました。
私には、後から來い、いづれ其中に返辭を遣はすとおっしゃいまして、冷淡なお待遇、
それから此處で私の邪魔をしをりました其使ひの者に出逢ひましたが、其奴は、
つい此間あなた樣に對し無禮を働いた彼の野郎なんでしたから、分別よりは癇癪の方が先きに立って、
つい引ッこぬきました。すると、彼奴、大きな臆病聲を出しゃァがって邸中の者を呼び立てましたのです。
お婿さまも、令孃さまも、私の所行は此位ゐ恥ィかゝせて相當だといふお見立でございます。
- 阿呆
- 冬はまだ去ッちまはないなァ、雁がそッちへ飛ぶやうぢゃァ。
(節をつけて)親父琥A褸著りゃ子は皆な盲目、
親父が財布持ちゃ子は皆な孝行。
運の女神は名うての賣女だ、
錢の無いのにゃ目もくれぬ。
だけれど、お前は、女兒さんのお庇で、
年中かンねン(艱難)にゃ不自由しないや。
- リヤ
- (煩悶して)おゝ、癪が、此胸先きへ!ヒステリカ・パッショー(癪)め、下れ、汝、
沸き上る心の惱み、汝の居處は下ぢゃわい!……我女は何處にゐる?
- ケント
- グロースターさまと御一しょに此お邸に。
- リヤ
- 從いて來るな。こゝに待って居れ。
リヤ入る。
- 紳士
- 今承はった事の外には何も不都合をせなかったのですか?
- ケント
- 何もしません。……王さまは、如何して斯うお侶少なでお渡りになりました?
- 阿呆
- そんな事を問ねた罪で足枷に掛けられりゃァ當然なんだがなァ。
- ケント
- 阿呆どん、何故?
- 阿呆
- 蟻の許へ往って教はって來な。冬は働かんものだよ。鼻を案内者にしなけりゃァ、
盲人でない以上、目をば案内者にするね。鼻がありゃ二十人が二十人まで、臭くなりかゝってるものは嗅ぎ附けらァな。
大きな車の輪が山から轉げ落ちる時分にゃ、つかまってゐないこッた。手を離さないと、
首の骨が折れッちまはァ。だがね、登る時にゃつかまってゝ、引ッ張り上げて貰ふことさ。
おい、聰明な人が一段善いことを教へたら、今俺が教へたことは返してくれ。
こりゃ惡黨にだけ守って貰ひたいや、阿呆が教へたんだからなァ。
(節をつけて)慾を目的のお家來衆は、
表面ばかりのお侶でござる、
雨が降りだしゃお先きへ御免、
後におぬしは濡鼠。
おれは殘ります、阿呆は後に、
早う逃げるは聰明者。
逃げりゃ阿呆も惡黨なれど、
阿呆は惡黨ぢゃござんない。
- ケント
- 阿呆どん、お前何處でそれを教はった?
- 阿呆
- 阿呆め、足枷臺なんぞぢゃ教はらないぞ!
リヤ又出る。グロースター從いて出る。
- リヤ
- おれに面會を辭る?二人とも病氣ぢゃ?何ぢゃ、疲勞してゐる?
終夜旅行ひたしましたから?全くの口實ぢゃ、叛き悖らうとする徴候ぢゃ。 もッと良い返答を聞いて參れ。
- グロー
- 御前、御存じの如く、公爵は、あゝいふ一徹な、火のやうなお性質でござりますから、
お言ひ出しなされたことは、いッかなお退きになりません。
- リヤ
- おのれ!何を馬鹿な!ちゝ畜生!何ぢゃ、火のやうな!性質が何とした!
やい、グロースター、こりゃやい、グロースター、俺がコーンヲール公爵夫婦に面談したいのぢゃ。
- グロー
- 御前、その通りに言上仕りましたのでござります。
- リヤ
- 言上仕った、彼奴らにに?やい、其方は予を存じてをるか?
- グロー
- 無論、存じてをりまする。
- リヤ
- 國王がコーンヲールに會談せんとするのぢゃ。慈父が其女と會談せんとするのぢゃ、
奉公を命ずるのぢゃ。其方は此儀を二人の者に言上仕ったか?
ちゝ畜生?何ぢゃ?一徹ぢゃ?火のやうな?其火のやうな熱い公爵とやらに申して來い、王が…… いや、先づ待て。……全く不快なのかも知れん。
健康な時には能う務められる職分も病氣の爲には怠るものぢゃ。
肉體に壓迫を蒙るといふと、肉と共に心も患まざるを得ないやうになる。……
まゝ、耐へよう。いはゞ、病人の發作同樣の事であるのを、おのれの我儘な心は、 それを健康な者の所爲のやうに見ようとする。……
ふと又ケントに目をつける。
おのれ〜!何煢ネあって彼れをかやうな目に逢はせをった?これで見ると、
公爵夫婦の此處へ來たのは謀計に相違ない。……予の家來を渡せ。
公爵夫婦に申せ、俺が面會したいといふと、只今直ぐに。出て參って拜承はれ、
參らんければ、此方、寢所口へ參って、太鼓で睡眠を叩き破るぞと申せ。
- グロー
- どうかしてお仲の和ぐやういたしたいものでござる。
と言ひ〜グロースター入る。
- リヤ
- おゝ、此熕S、此さしこんで來る心!下れ!
- 阿呆
- たんと心をお叱りよ、小父たん、魚饅頭を製へるとて、
生きた鰻を饂飩粉の中へ入れた下婢どんのやうに。熱いから飛び出さうとすると、
下婢どん、鰻の頭を菜箸で叩いてよ、「引ッ込みな、不作法な奴だよ、引ッ退みな!」ッて。
氣の毒だらうッて、枯草にバター附けて馬に與れたのは、其下婢どんの阿兄だッさ。
グロースターが案内して、コーンヲール、リーガン、及び從者ら出る。
- リヤ
- (やっと機嫌を直して)お早うござるの。
- コーン
- 御機嫌よろしう!
コーンヲールが何事か從者にさゝやく。と從者一二人が立ちかゝりて、ケントを足枷臺から下す。
- リガン
- (王に)お目にかゝってお嬉しう存じます。
- リヤ
- リーガンよ、さうもあらう。さうなうてはならん筈ぢゃ。もしも嬉しう思ふてくれんやうであれば、
墓の中のそなたの母を不品行を働いた女と見做して離縁せうと思ふてゐた。……
此中ケントの放免されたのに目を附け
おゝ、免されたか?その事は又別の時に。……(リーガンの手を取って)リーガンや、
姉は不可い奴ぢゃ。おゝ、リーガン、姉めは角鷹のやうに殘忍な、不孝な、
鋭い爪で、これ、此處を貫きをった!胸が一ぱいになって言はれん。リーガンよ、
迚もそなたは眞實にはすまい、姉めが、それは〜、酷いとも、何とも…… おゝ、リーガン!
王はリーガンの胸に顏をあてゝ泣く。
- リガン
- (冷かに)まァ、あなた、お靜かになさいまし。わたしは、
姉上の眞價が貴下によくお解りになってゐないのだらうと存じます、 姉上が義務をお盡しなさらんといふよりは。
- リヤ
- えッ、それはまた如何して?
- リガン
- わたくしには、姉上が聊かたりとも義務を怠りなさるやうなことがあらうとは思はれません。
もしも、或ひは、あなたの御近侍衆の亂暴を御譴責なすったかも知れませんが、それは多分、
姉上の越度にはならんやうな立派な目的にもとづいた正當な理由があることだらうと存じます。
- リヤ
- あの姉の不孝者めが!
- リガン
- おゝ、あなたはお齡を取っていらっしゃる、もう御壽命も行き止りになってゐるのです。
あなたの事をあなた御自身よりも善う辧へてゐる人逹に、さういふ人に何事も任して、
貴下はおとなしうしていらっしゃるのがよいのです。ですから、どうぞ、
姉上のお邸へお歸りなさいまし、さうして、わたしが惡かったとおっしゃい。
- リヤ
- 彼女に詫びろといふのか?見い、これが家長たる者に似あふか?
とリヤは膝まづいて、極皮肉な口吻で、ゴナリルに謝罪する擬態をする。
「我女よ。わしは齡を取ってゐます、老人は無用のもんぢゃ、斯う膝を突いてお願ひする、
どうぞ著物を下さい、寢床を、食物を。」
- リガン
- 父上、お止しなさい。見ッともなうごいます。姉上のところへお歸りなさいまし。
- リヤ
- (起き上って)決して歸らん。姉めは俺の附きの者を半數に減らしをった上に、俺を睨みつけて、
蝮のやうな殘忍な毒舌を以て、これ、此胸を貫きをった。……天上に貯へおかれた有りとある懲罰よ、
恩を知らぬ彼奴の素頭に墮ちかゝれ!汝、人を害ふ毒風よ、
彼奴の若い骨々に浸み入って、不具者にしてくれい彼の不孝者を!
- コーン
- 馬鹿なことを、もし〜、馬鹿なことを!
- リヤ
- 汝、迅速なる電光よ、眼を眩す汝の猛火を、
あの人を侮蔑みをる眼の中へ射込んでくれい!強烈なる日光の吸ひ上ぐる沼の毒氣よ、降り下って、
美しいを自慢の彼奴の面をめちゃ〜にしてしまうてくれい!
- リガン
- おゝ、怖ろしい!その通りに私にもおっしゃるでせう、お腹が立てば。
- リヤ
- いゝや、リーガン、そなたは決して俺に呪はれるやうなことはない。
そなたは柔和しい性質ぢゃによって、酷い、荒々しいことはせん。
姉の目は猛うて火のやうぢゃが、そなたのは柔しい。
おれの娯樂をば吝んで、附きの者を減したり、がみ〜と口返答をしたり、
約束の隱居料を切り縮めたり、つまり、おれの入って來んやうに閂を横たへるやうなことは、
そなたの持前には無いことぢゃ。そなたは子たる者の本分をよう知ってゐやる、自然と守らねばならぬ義務を、
親に對する禮儀を、恩に報ゆるの道を知ってゐやる。 そなたは此王國の半分を予がそなたがに遣ったことを忘れやせん。
- リガン
- 父上さま、肝腎の御用の方を拜承はりませn。
- リヤ
- 予の家來を足枷臺に掛けたのは誰れぢゃ?
此時、奧にてタケットが聞える。
- コーン
- あの喇叭は何ぢゃ?
- リガン
- あれはきッと姉上です。直に行くといふ書面でしたが、果して見えたのです。
オズワルド出る。
御主人が見えましたか?
- リヤ
- (オズワルドを睨んで)何時變るともはかられん女主人の恩寵を力に、
虎の威を我が物燒eに見せびらかしあるく狐奴め!……退りをらう!
- コーン
- 如何なさらうといふのです?
- リヤ
- 俺の家來を足枷臺に掛けたのは誰れぢゃ?……リーガンよ、よもやそなたは知らんことであらう。 ……や、誰れぢゃ來たのは?
ゴナリルが出る。王それを見て
おゝ、天にまします神々、もし神々にして老人を憎みたまはずば、神明若し孝行を嘉したまはゞ、
これをば餘所事とばし思し召さるな。御使ひ神をお下しあって、何卒お身方下されい!
……(ゴナリルを睨んで)やい、おのれ、此鬚を見ても恥ぢをらんか?
此時、リーガンは姉を迎へて握手する。王はそれを見て
おゝ、リーガン、そなた、其奴の手を取るのか?
- ゴナリ
- 手を取っては何故惡いのですか?わたくしが如何いふ不埒を致しました?
無分別や老耄が不埒と名附けることが、必しも總て不埒ぢゃァございません。
- リヤ
- おゝ、此胸!善う裂けんでゐる!まだ持ちこたへてをるか汝は?
……(コーンヲールに)如何して予の家來が足枷臺に掛けられたのぢゃ?
- コーン
- (傲然と)私が掛けさせました。此男は、もっと優待の度を減らしてもよい程の亂暴を働きましたので。
- リヤ
- お前さんが!え、お前さんが?
- リガン
- 父上、あなたは弱いんですから、弱さうにしていらっしゃい。もし、お戻りになって、
此月の末まで姉上と御一しょにお住ひになって、お附きを半數になさいましたなら、それから私共へいらっしゃいまし。
只今は邸を離れてをりますし、あなたをお款待申さうと存じましても、
それに必要な準備が何一つ出來ませんのです。
- リヤ
- 姉の邸に戻れ?さうして五十人だけ減らせ?いゝや、戻らん、
戻る位ならば、誓って、俺は、屋根の下には居らん、雨風の憎しみと鬪って、狼や梟を友逹にして、
絶體絶命の身を斫るやうな苦しみを味うた方がましぢゃわい!
彼奴の處へ戻れ!彼奴の處へ戻る位ゐなら、あの血の氣の多いフランス王、
末女を化粧料も無しで伴れて去ったあのフランス王の椅子の前に膝を突いて、
青侍か何ぞのやうに、見すぼらしい露命を維ぐための捨扶持を乞ふた方がましぢゃわい。
彼奴の處へ戻れ?なぜ寧そ俺に勸告めん、(オズワルドを指さし)
此煢コ郎めの奴隸になれ、馬になれと何故勸めん!
- ゴナリ
- そりゃあなたの御隨意です。
- リヤ
- (ゴナリルに)我女、どうぞ俺を狂人にさせてくれるな。おのしには最早厄介は掛けん。
さやうなら。もう二度とは逢ふまい、又と顏を見ることはすまい。……と言うても、おのしは、
切っても切れん俺の肉ぢゃ、値ぢゃ、實女ぢゃ、いや、肉といふよりも肉の中の惡い病ひ、
惡い奴ぢゃけれど、俺の有であると言はねばならん。おのしは、
俺の腐った血の生み出した腫物ぢゃ、惡い瘡ぢゃ、腫れ廣る癰疽ぢゃわい。
けれども俺はおのしを呪ふまい。おのしが恥辱を蒙らうと、蒙るまいと、それは天に打任して、
俺はそれを祈りはせん。雷におのしを撃ち殺せともいはん、 天で裁判をなさるヂョーヴ神におのしの惡事を告訴もせん。
改心の出來る時が來たら、改心せい、其うちとッくりと考へて、善人になれ。俺は耐へてくれる。
リーガンの許にゐればよいから、俺と百人のものとが。
- リガン
- さうお望み通りにゃなりませんわ。わたくしはまだお出にならうと預期してをりませんでしたし、
お迎へ申しますに適當な準備とても致してをりませんから。お聽き遊ばせな、あなた、
姉上の御意見を。そりゃあなたが我儘には相違ない、けれども思慮分別のある方であって見れば、
あなたの御老年といふ事を思って、忍耐して……尤も、 これは申さいでも姉上のよう御存じの事でございますけれど。
- リヤ
- そんあことを言うて、お前は當然ぢゃと思ふか?
- リガン
- はい、當然ですとも。え、五十人のお附きですって?結構ぢゃありませんの?
何の必要あって其以上が要ります?はい、又は五十人だけも何の爲に?
そんなに大勢お抱へになっておくと、費用も危險も募らうぢゃありませんか?
一つ邸に、二種の命令の下に大勢の者がゐて、如何して和親が保たれます?
それは困難なことで、殆ど不可能です。
- ゴナリ
- あなた、なぜ妹なり、私なりが家來と呼んでをります者をお使ひなすっては不可ませんのです?
- リガン
- なぜ不可ませんの、わなた?もし彼等に不行屆きがございませうなら、
わたくし共が屹と取締りまする。もし私共へお入りになりますやうなら……
どうやら入らっしゃりさうで危い……どうか二十五名だけに願ひます。 それ以上は御免を蒙ります。
- リヤ
- そちたちには、何もかも遣はしたのに……
- リガン
- ちょうど好い時に下さいましたの。
- リヤ
- のみならず、そなた逹を俺の後見とし、一切の權力を委任した其代りに、
百人だけは傍仕へへの武士を必ず附けておくといふ約束でったのに。
何、二十五人以上を伴れて來てはならん?リーガン、そなた然う言うたか、實際?
- リガン
- はい、もう一度申します。わたくしはそれ以上はお斷り申します。
- リヤ
- (驚き呆れて)猛惡な顏附も見よくなる、上手の猛惡な奴が出ると。
最上の猛惡でないだけが幾らかの取得ぢゃ。……(ゴナリルに)其方の許へ往かう。
そなたの五十人は二十五の倍ぢゃ。……すればそなたの愛は彼れのゝ倍ぢゃ。
- ゴナリ
- まァ、お聽きなさいまし。何の必要があります二十五人のお附きなんか? 十人だって、いゝえ、五人だって?もし御用があれば、
邸には其倍程の者がゐてお世話するぢゃありませんか?
- リガン
- 何の必要があります一人だって?
- リヤ
- えゝ、必要を論じるな。見るかげもない乞食さへも、其貧窮の極に在って、尚ほ何か餘計なものを持ってゐる。
自然が必要とする以上を人間に許し與へん時には、人の生と獸類と擇ぶ所が無いわい。
其方は貴婦人ぢゃ、もし只暖かくさへしてゐれば、それで貴婦人の服裝が足るものなら、
自然は決して其方が今著てゐるやうな、そんあ綺羅びやかなものを必要とはせんわい。
それは暖を取る用には立たん。併し、まこと必要といふは……おゝ、天の神々よ、
吾等に忍耐を賜りませ、吾等に必要な忍耐を!これ、御覽ぜよ、神々、 齡も積り悲しみも積って、見るも哀れな此あさましい老人をば。
これなる女兒共を父に叛かしめられまするは、尊神がたの御意でござるか?
よしさうであるにせい、いつまでも此奴らの爲すがまゝになってゐるほどに、 それほどに手前をば玩弄になされて下さるな。
男らしい怒りを起させて下され、女の武噐の涙なんぞに此男子の生面を汚させて下されますな!……
王男泣きに泣く。
うんにゃ、おのれ、不幸不倫の賊婦め、今に爲返しをしてくれる、怖ろしいことをしてくれる
……全世界が……どんな事かまだ解らんが、世界中を怖れ戰かすやうな事をしてくれる。
おのれらは俺が泣くだらうと思ひをらうが、いゝや、俺は泣かぬわい。
泣きたうてならぬけれども、おのれ、泣く位ゐならば、此心臟をば千萬片に引裂ってくれうわい!……
阿呆の肩にもたれかゝって
おゝ、阿呆よ、俺ァ狂人になりさうぢゃ!
とグロースター、ケント、阿呆らが王を介抱して入る。遠雷が聞える。すさまじい風の聲が聞える。
- コーン
- 奧へ往かう。あらしになりさうだ。
- リガン
- 此邸は狹いから、老翁と家來とでは迚も入りきりゃァしない。
- ゴナリ
- みんな御自分がわるいのさ。求めて安樂をお棄てなさるんだから、自業自得で、辛い目も見なさらんけりゃならん。
- リガン
- 父上だけなら歡迎しますけれど、お附きは一人だって困りますもの。
- ゴナリ
- わたしもさう思ってゐます。……グロースターどのは何處へ往きました?
- コーン
- 老翁に尾いていったが……あ、戻って來た。
グロースター出る。
- グロー
- 王は大へんなお腹立ちでございます。
- コーン
- どこへいらっしゃらうといふんだね?
- グロー
- 馬を〜とおっしゃいますが、どちらへおこしやら、わかりません。
- コーン
- うッちゃっておくがいゝ。好きこのんでなさるこった。
- ゴナリ
- あなた、強ひて止めないがようございます。
夜になりかける。電光、雷鳴。風が激しくなる。
- グロー
- あゝ!夜にはなる、烈しい風が怖ろしう吹き荒れる。
こゝいら數哩の間は殆ど叢さへもない。
- リガン
- おゝ、頑固な我儘な人には自業自得の苦痛が、きッと良い教師になります。
門口を閉めておしまひ。父上には亂暴な武士共が附いてゐるから、
どんな好い加減のことをお耳に入れて、何をお教唆め申すか、知れたものでない。 思慮があれば、是非警誡せねばなりません。
- コーン
- (グロースターに)門口の締りをなさい。ひどい晩だ。 いかにも、リーガンのおいひの通りだ。あらしを避けよう。あッちへ。
皆々入る。風雨、雷電。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第三幕 第一場
第三幕
第一場 荒野。
-
雷電、風雨。闇夜。ケントと一紳士とが左右より出る。
- ケント
- 誰れだ、此ひどいあらしに?
- 紳士
- 此天氣同樣、心が亂脈になってゐる者です。
- ケント
- あんたですか?王はどこにおいでゝです?
- 紳士
- 荒れ狂ふ雨や風と鬪っておいでゝす。風に對って、地球を海ン中へ吹き込んでしまへだの、
でなきゃ、天地を一變させるか、滅亡させるために、卷き返る海を大陸まで吹き上げッちまへだのとおっしゃって、
あの白い頭髮をば掻き毟ったり何かなさると、怒りたける烈風が暗雲のそれを攫って、
玩弄にします。つまり、王は人體の小天地で、 激しく相鬪ってゐる大天地の雨風をばないがしろにしようとしていらせられるのです。
乳の盡きた熊さへも潛み、獅子や飢ゑた狼さへも出歩き得ない如是晩に、帽子もめさんで、
走りまはって、まるで棄鉢になっておいでなさるのです。
- ケント
- だれかお傍にゐますか?
- 紳士
- 阿呆がゐるばかりです。やつは例の通り洒落のめして、それで以て斷腸のお苦しみを打消さうと力めてゐます。
- ケント
- 私は貴下を善く知ってをますから、見込んで、一大事を御委託申したい。
上手に隱してゐなさるから、表面にはまだ見えないが、
オルバニーどのとコーンヲールどのとは怖ろしく仲がわるい。又、二人とも、
其忠義めかす家臣の中にゃァ、内々フランス王の間者となって、
見たことや聞いたことを細大となく彼方へ通信してゐる者があります、……
運星のお庇で高い位に在る人たちにゃァ、兎角さういふ臣下が附いて廻るものです。……
そこで、兩公爵の口論の事から、陰謀の事から、老王に對する虐待乃至それらの根本と見做すべきあらゆる祕密までが、
とうに通信されtwゐるさうです。いや、とにかく、フランス王が此内訌に乘じて攻め寄せるといふことは、事實です。
吾々の油斷を機として、既に主立った港々に上陸し、今にも軍旗を飜さうとしてゐるのです。
そこで、あんたへのお頼みはです。もし私を信じて、急いでドーヴァーまで行って、
王が何樣な不倫な取扱ひにお逢ひなされ、お氣が狂ふほどのお悲しみといふことを正しく報道して下されたなら、
必ず厚く其燎ァ力を感謝されるお人にお逢ひなさるでありませう。私は氏も育ちも紳士です、
傳聞り及んだことがあって、あんたに此役目をお頼みします。
- 紳士
- 尚ほ篤とうけたまはりました上で。
- ケント
- いや、それは無用です。自分は表面に見えるよりも以上の者だといふ證據に、此財布を、
これを披いて、中の金子をお使ひなさい。
もしコーディーリャさまにお逢ひなされたら……必ずお逢ひなさるでせうから……此指輪を御覽に入れて下さい、
すれば、私が何者かといふことは其際、お話なさるでありませう。……
あらし烈しくなる。
えィ、此あらしは!王をお搜し申して來よう。
- 紳士
- お手を。(手を振合ふ)何か外に申し殘されたい事は?
- ケント
- ほんの一言、併し今まで申したよりも大切な事。といふのは、王をお見附け申したなら……
あんたは其方へ、わたしは此方へ往かう……眞先に見附けた者が大きな聲で呼ぶことにしませう。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第三幕 第二場
第三幕
第二場 荒野の他の一部。
-
尚ほ雷電、風雨。狂憤したリヤが怒號しつゝ出る。阿呆が只一人從いてゐる。
- リヤ
- 吹けい、風よ、汝が頬を破れ!(風の音。)荒れ廻れ!(風の音。)吹きをれやい!(大雨。)
汝、瀧津瀬よ、龍卷よ、吹け水を、風見車を溺らし、(電光。)尖り塔の頂を水浸しにしてしまふまでも!
汝、思想の如く疾く走る硫黄の火よ、 槲を突裂く雷火の前驅の電光よ、
わが白頭を燒き焦がせ!(雷鳴る。)おゝ、汝、天地を震動する霹靂よ、此圓い、
厚い地球を眞平に打碎いてくれい!あらゆる造化の鑄型を碎け、 恩知らずを造るありとあらゆる物の種子を打潰してくれい!
あらします〜烈しくなる。阿呆は寒いので、ぶる〜顫へながら
- 阿呆
- おゝ、小父たん、乾いてる邸の中の聖水のはうが、 此煬ヒ外の雨水よりはましだよ。小父たん、お歸りよ。
女兒さんにお祝福をしてお貰ひよ。 聰明者も、阿呆も、斯ういふ晩にゃァ悲慘だ。
- リヤ
- 思ふ存分に吹け!(又電光。)吐け火を!(又大雨。)噴け水を!
雨も風も雷も電光も俺の女兒ではない。
汝等が如何に俺を苦しめをっても不孝不仁ぢゃとはいはぬわい。 汝等には王國を遣りもせねば、子と呼んだこともない。
汝等は俺に仕へる義務はないんぢゃ。勝手に怖ろしいことをしをれ。
俺は汝等の奴隸も同然の、見すぼらしい、弱い、見さげられた、
衰へ果てた老人ぢゃわい。さうはいふものゝ、汝等は、天の使はしめとしては、卑屈ぢゃ、
あの邪曲な二人の女兒共に合體して、此齡を取った白髮頭へ天の軍を向けるとは。 おゝ、おゝ!卑劣ぢゃわい!
あらし尚ほ激しく荒れる。
- 阿呆
- 頭を容れるだけの家の有る人は、立派な兜を有ってゐるのだ。
(節をつけて)頭の容處もまだ無いうちに、
股巾著を造らうとすれば
頭もお的も半風子だらけ。
乞食の婚禮は皆それぢゃ。
心と指とをつい取違へ、
足の指をば石のやうにすれば、
肉刺が痛うて眠られんで、
夜がな夜ッぴて泣き明かす。
何故ッて、鏡の前で變妙來な面をしない美人なんて在るもんぢゃないからなァ。
- リヤ
- いや〜、堪忍の模範とならう。何もいふまい……何も。
尚ほ雷雨。
ケント出る。
- ケント
- 誰れだ?
- 阿呆
- 寶冠と股巾著、といふのは、聰明者と阿呆のこッた。
- ケント
- やれ、まァ、こゝにお在なさいましたか?夜を好む動物でも如是晩は好みません。
此荒れに恐れて、暗をうろつく奴輩さへ、洞穴から出掛けません。
物心おぼえましてから、こんな激しい電光、こんな怖ろしい雷鳴、こんな酷い雨や風は、
曾ぞ聞いたこともございません。人間の體ぢゃ、迚もこんな苦しみや恐れにゃ堪へられません。
はげしい雷電。
- リヤ
- わが頭上に斯くも怖ろしい荒び廻る神々をして、其目ざす敵を見出さしめよ。恐れよ、汝、
幸ひに今日までは法網をまぬかれたれども、人の知らぬ大罪を犯したことのある惡漢よ、慄ひ戰け。
隱れよ、汝、人殺しの記憶のある奴。汝、僞誓の罪ある奴。汝、邪淫を犯しながら、
表に貞操を粧ふ奴。身の寸裂れるほどに戰慄せい、汝、うま〜と人目を昏ます、
謀って人を陷れをった惡魔め、戰慄せい。ありとあらゆる隱匿よ、
汝の包み藏してをることを打開いて、此怖ろしい招喚に對して慈悲を願へ、慈悲を。
俺は、罪を犯したといふよりは、罪を犯されてをるものぢゃわい。
- ケント
- やれ、まァ、お帽子もめさないで?御前さま、すぐ彼處に石小屋がございます。
此あらしをお凌ぎなさるだけのことは彼處でも出來ませう。そこで暫く休んでいらせられませ。
其間に、わたくしが、あの酷薄な、石小屋とは言へ、石よりも酷薄な……
つい只今も、あなたの事を尋ねましたら、てんで入らせませなんだ……あの酷薄な家へ參って、
無理にも深切を盡させますから。
- リヤ
- 氣が狂ひさいになった。……(阿呆に)こりゃ、小僧。どうした、小僧?寒いか?おれも寒いわい。
……(ケントに)その藁床といふのは何處にある?……困窮といふものは不思議な法力を有ってゐて、
どのやうな穢らしいものをも貴いものになし得る。……さァ、その石小屋とやらへ。……やい、阿呆よ、
俺ァ何だかおのしが憫然でならんわい。
よろ〜と倒れかゝるので、ケントと阿呆が介抱する。
- 阿呆
-
(節をつけて)小ちゃい〜智慧しか無い身は、
めでたからうが、雨風吹こが、
運に機嫌を任さにゃならぬ、
雨が毎日降らうとも、雨が。
- リヤ
- 其通りぢゃ。……さァ〜、其小屋とやらへ案内せい。
リヤがケントに案内されて一方へ入る。
- 阿呆
- 淫亂な女だって貞女になりさうな結構な晩だ。(觀客に對って)引ッ退む前に、預言を仕りませう。
僧侶が行爲よりも言葉を先きにするやうになれば、
釀酒屋が水で麹を茶々にするやうになれば、
貴族たちが裁縫師を教へるやうになれば、 賤婦の旦那は無事、邪宗信者ばかりが燒かれるやうになれば、
訴訟の判決は悉皆正しいといふやうになれば、
借金する侍もなく、貧乏な武士もないやうになれば、
惡口といふものが舌に上らなくなれば、
巾著切が雑沓へ來なくなれば、
高利貸が野原で金を算へるやうになれば、
伎夫や淫賣が教會堂を建てるやうになれば、……
はて、然る時には、此熨蜑pの王領が大騷動と相成りませう。
其時こそは、誰れが存へてゐて、それを見るか知らんが、
不思議千萬の時節と相成ります、……
(物體ぶって)歩くには必ず脚を使ひます。
此預言はマーリンどんがする筈です。私は彼男よりも前代の者ですからね。
矛盾を極めた駄洒落ゐ竝べながら、惡身をしてふざけつゝ阿呆入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第三幕 第三場
第三幕
第三場 グロースター居城内の一室。
-
グロースターと共にエドマンドが出る。
- グロー
- あゝ、あゝ、エドマンド、わしは斯ういふ不孝な所行は好かん。
王をおいたはり申したさに、許可を乞はうとしたところ、公爵夫婦は、壓制にも、
我が邸を專領して、若し王の爲に辯解したり、歎願したり、
乃至熹@何樣にでも助けいたはらうとしたならば、永久に勘氣を命ずるぞといふ宣告ぢゃ。
- エドマ
- 何て亂暴な、無法な!
- グロー
- さァ〜。何もいふまい。……兩公爵が不和となられた上に、
まだそれよりも惡い事が起りかゝってゐる。俺は今夜一通の書面を受取ったが、
それを口外するのは危險ぢゃ。その書面は、俺の居間に、錠をおろしてしうまうておいた。
王が受けられた此侮辱は、今に、みッちり返報される時が來よう、
もう既に一部の軍勢が上陸したんぢゃ。俺は王のお身方をせねばならん。
これから王をお搜し申して、内々でお助け申さう。そなたは公爵と話をしてゐてくれい、
俺の擧動を勘づかれんために。もし何處へ往ったと問はれたら、氣分が惡うて寢たと言へ。
これが爲に一命を失ふとも……さう申し渡されてゐのぢゃが……久しい御君主の王は、
是非ともお助け申さねばならん。エドマンドよ、いろんな竒怪な事が起りかかってゐるわい。 よいか?ぬかるまいぞよ。
グロースター入る。
- エドマ
- 禁制の忠義三昧を、今に公爵が勘附くに相違ない、又、其手紙のことも。
こいつァ好い勳功になるらしいわい。親父の失するその一切の財産が、
俺の有になる。老年が倒れると、青年が頭を持ち上げる。
エドマンド入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第三幕 第四場
第三幕
第四場 荒野。石小屋の前。
-
尚ほ雷雨。ケントがリヤを案内して出る。阿呆も從いて出る。
- ケント
- こゝでございます。御前さま、お入りなされませ。野原の夜のあらしにゃ、迚も人間の身體は堪へられません。
- リヤ
- うッちゃっとけ。
- ケント
- 御前さま、こゝへお入りなされませ。
- リヤ
- おのれ、おれの心を裂かうとしをるか?
- ケント
- 寧そ私の心が引裂きたうございます。……まァ〜、お入りなされませ。
- リヤ
- おのしは、此大あらしに肌膚を襲はれる位ゐの事を偉いことのやうに思ひをるか?
おのしには然うもあらうが、大きな苦痛に取ッ附かれてをる場合には、
小さい苦痛なぞは感じないわい。荒熊を怖がるは人情ぢゃが、行手に鳴り渡る海があれば、
熊の口に立ち對ふのが習ひぢゃ。心が安樂な時には身體が孱弱いが、
胸に大あらしが荒れてをる時分には、感じるは心の苦悶ばかりぢゃ、
外には何の感じもないわい。……子として親の恩を思はんとは!口へ食物を運ぶ手をば、
其口が噛み切るやうなものぢゃ。……が、屹と今に罰してくれう。いゝや、もう泣きゃせんわい。
雨がはげしく降って來る。
こんな晩に閉め出すとは!降れ〜。なに、これしきに。……このやうな晩に?おゝ、リーガン、ゴナリル!
汝等の齡を取った、慈愛ぶかい父を、惜氣もなく、有ッたけを與れてやったものを……
おゝ、そんな風に考へると氣が狂ふ。さう思ふのは止めう。もう〜そんなことは思ふまい!
- ケント
- 御前さま、ま、こゝへお入りなされませ。
- リヤ
- どうぞ、まァ、おのし入って休んでくれ。此あらしが無からうものなら、もっと〜胸苦しからうに、
此あらしが紛らかしてくれる。……が、俺も入らう。……(阿呆に)入れ、小僧。先きへ入れ。……
あゝ、住む家も無い貧乏人ども……(阿呆に)いゝや、おのし入れ。俺は祈祷をして、それから眠よう。……
阿呆が先きに石小屋の中へ入る。あらしは尚ほつゞく。
あゝ、世上の著る物もない憫れな貧乏人ども、今、何處にゐるにせい、こんな酷い暴風雨に遭ふて、
頭を容れるだけの家もなく、飢ゑて脇腹は骨立ち、著る物は寸裂れ開いて、肌膚も露はな
……如何して汝等はかういふ氣候を凌ぐぞ?おゝ、今日が日まで其點に心が附かなんだわい!
……驕奢に耽ける徒輩よ、悟りをれ。世の不幸な者共に同感し得るために、
雨風に身を曝し、おのれの有り餘るものを貧乏人共へ撒き與へて、天道の是なることを世人に知らせい。
- エドガ
- (石小屋の中で、しゃがれた聲で)一尋半だい、一尋半だい!あはれなトムでござい!
阿呆があわてゝ小屋から逃げて出る。いかにも物おぢをしたといふ體である。
- 阿呆
- 小父たん〜、入っちゃ不可い、化物がゐる、化物が。助けてくれ、助けてくれ!
ぶる〜ふるへてゐる阿呆をケントが庇って
- ケント
- こッちへ來な。(小屋に對って)誰れだ、そこにゐるのは?
- ケント
- やい、其藁の中で唸ってゐる汝は何だ?出て來い!
尚ほ雷雨。狂人に假粧してゐるエドガーが、腰だけに古ゲットを卷き、殆ど裸體で、
棒を持って出る。
- エドガ
- あッちへ去け!あゝ、惡魔めが尾いて來をる!風が吹きます茨の中を。ふむ!
寢床へ入って暖たまれ。
- リヤ
- (エドガーをつく〜゛眺めて)何もかも女兒共へ遣ッちまったか汝は? それでそんなになったか?
- エドガ
- 誰れが何をくれるぞい憫れなトムに?トムをば惡魔めが、
火の中や焔の中や渡や渦卷や澤や沼ン中を引ッ張り廻しゃァがって、
枕の下へ庖刀を容れといたり、床几に首縊繩を載せといたり、
鬻の中へ殺鼠藥を入れたり、高慢な心を起させて、
四インチしかない橋の上を鳶色のよた〜馬で渡らせたり、それ、惡黨が來たといって、 自分の影法師と走りッくらをさせたりしやァがる。……
あらしつゞく。
こなたの五つの智慧をお守り下されませい!トムは寒うござります。おゝ、どで、どで、どで。
神さま、お守りなされませい、こなたには旋風が當らんやう、星にも魔物にも祟られんやうに!
あはれなトムに施物を遣って下さい、惡魔めが窘めまする。そら、今おれが取捉へてくれる。
そら、其所だ。そら、また、そら。
棒を持ってあちこちを叩き廻る。尚ほ風雨。
- リヤ
- え、女兒共の所爲で、かういふ窮境に陷ったか?
汝は何も殘しておくことが出來なんだか?何もかも與れてしまうたか?
- 阿呆
- さうぢゃないよ、ケットだけ保存いたわな、あれが無かったら傍の者が赧い顏をせにゃならんわ。
- リヤ
- 人間の不埒を罰するために、此空中に漂ふありとあらゆる疫毒よ、
汝の女兒共の素頭の上に降りかゝれ!
- ケント
- 彼れには女兒はございません。
- リヤ
- 默れ、虚言者!不孝な女兒でもなければ、 人間がこんなあさましい有樣になる筈がないわい。
此前からエドガーは荊棘などで以てわれとわが腕や股を刺すことある。
(ベドラムといふ狂人を收容しておく處から出る物貰ひは、 常にさういふ爲草をして世人に憫れみを求めたのであった。)
リヤはつく〜゛その振舞ひを見てゐて
あんな風におのが肉體を酷く扱ふのは、子に棄てられた父親の定習なのか?
正當な懲罰ぢゃわい!塘鵝娘を生んだのは、此肉ぢゃによって。
- エドガ
- ピリコクがピリコク山に棲止った。 アロー、アロー、ロー、ロー!
- 阿呆
- どいつも、こいつも、如是寒い晩にゃ、阿呆か狂人になッちまはァ。
- エドガ
- 惡魔の御用心々々!親逹の言ふことを善う聽かっしゃい、約束を正直に守らっしゃい、誓言をすまいぞ、
主のある女を犯すまいぞ、常綺羅道樂をすまいぞよ。トムは寒うござります。
- リヤ
- おのしは元は何ぢゃ?
- エドガ
- お侍よ。へん、ゐばり返ってゐたもんだ。先づ、前髮は縮れさせる、帽子にゃ手袋を附ける、
奧樣の御内意次第、折々暗いこともする。誓言は口から出任せ、それを又、天道さまの前で、
おほッぴらに破ってのける。寢る前にゃァ女を引ッ掛けることを考へ、起きりゃァそれを實行する。
酒は大好き、博奕は好物、女と來ちゃァトルコ陣人そこのけ、輕薄で、早耳で、殘忍で、
懶惰なことァ豕、狡猾なことァ狐狼のやうに大喰ひ、狂ひ出すと犬、
手荒いことァ獅子。なァ、靴音や絹ずれに現を拔かして、女ッ子に甘く見られなさんな。
賣淫屋へは足を、腰卷へは手を、證文へは筆を入れないやうにして、
屹と惡魔を追ッ拂ひな。風が吹きます荊棘の中を!
絶えず吹きます寒風が。スワム、マム、ノンニー、と言やァがらァ。
小僧やい、ドーフィンやい。セッサ!歩かせろい。
あらしが尚ほつゞく。
- リヤ
- 墓へ入ったはうがましぢゃ汝は、其裸體を如是激しい雨風に曝すよりは。
あゝ、人間は斯くの如きものに外ならんか?ようあの男を見い。汝は、蟲にも絹も借りず、
獸に皮も借りず、羊に毛も借りず、猫に麝香をも借りてをらん。 やッ?こゝに外面を飾っり拵へてゐるものが三人居るわ。
汝は有りのまゝぢゃ。著飾らん人間は、汝のやうな見すぼらしい、赤裸々の、
二本足の動物たるに過ぎんのぢゃ!とッちまへ〜、此借物を!さァ〜、此釦をはづしてくれ。
王が被服を引裂くやうにして脱ぎ棄てようとするを阿呆が止めて
- 阿呆
- 小父たん、まァ、お止しよ。今夜は泳ぐには不可い晩だよ。
……廣い野原へ小ぽけな火ぢゃァ多淫老爺の心臟と來てゐる、火花が些少、
外は身體中冷え切ってゐらァ。(一方を指して)御覽よ、あそこへ火が歩いて來た。
遠方にグロースターの携へて來る把火が見える。
- エドガ
- ありゃフリバチヂベットだ。宵の鐘が鳴ると歩き出して、一番鷄が啼くと去ってしまふ。
底翳にするも、斜視にするも、兎脣にするも彼奴だ。
白小麥を黴させるのも蚯蚓を殺すのも彼奴だ。
(節をつけて)ウィゾールドのお上人さまが、
三度お山でお出逢ひなさる、
夢魔と九頭の其使はしめ、
待てと一聲、
以後煬P誡めて、
去ろ、魔法使ひ、去ろ、やんれ!
- ケント
- (王に)もし、どうなされました?
グロースター把火を持ちて出る。
- リヤ
- 誰れぢゃ彼れは?
- ケント
- どなたです?お前がたの名前は?
グロースターが把火をさしかざすので、顏を見られてはならぬと、
エドガーは急に横を向いたり、俯向いたりして
- エドガ
- あはれなトムでござい、トムは雨蛙や蝦蟆や蝌斗や壁虎を食ふ、
蠑螈をも食ふ。惡魔めが荒れると、トムは狂人のやうになって、生菜の代りに牛糞を食って、
老鼠や死んだ犬を嚥下にする、溜り水の青藻を飮む、
十軒屋から十軒屋へ追ひたてられ、足枷を掛けられる、酷い目に逢はされる、牢へ入れられる。
背中にゃ三枚、シャツは六枚、馬にも騎れば劍もさげ……
(節をつけて)されども七年このかたは、
鼷鼠や小鼠が
トムの檀那のお食料。
おれにゃ憑物が附いてるぞ、用心しろ。叱々、スモルキンめ!叱々、どう惡魔め!
- グロー
- はれ、やれ、こんな輩共の外に、お侶はないのでござりますか?
- エドガ
- 黒闇の王さんはお歴々だよ。モドーとおっしゃるんだ、マヒューともいはァ。
- グロー
- 御前、血を分けた者までが、近時はあさましい振舞ひを致します、 生んだ親さへも憎う思ひまする程に。
- エドガ
- (顏をそむけて)トムは寒うござります。
- グロー
- 私と一しょにあちらへ入らせられませい。忠義を存じますれば、
お令孃のがたの酷い御命令に順うてはをられません。門を閉ぢて、
あなたさまを此夜の大あらしに曝け出しておけといふ嚴命でござりますが、私はそれに關はず、
あなたをお搜し申して、火や飮食物の在る處へ、御案内しようとて參りました。
- リヤ
- いや、先づ、此哲學者と一問答しよう。……(エドガーに)雷鳴の原因は何ぢゃ?
- ケント
- 御前さま、あの方のおっしゃる通りになさいまし、家の在るところへいらっしゃいまし。
- リヤ
- 予は此博學なシーブス人と一言まじへたい。……(エドガーに)お前さんは如何いふことを專門になさる?
- エドガ
- 惡魔の先を越して、南京蟲を殺すんで。
- リヤ
- お前さんに、内々で、一言たづねたいことがある。
- ケント
- (グロースターに)もう一度お勸め申してごらんなさいまし。お氣が狂ひかけたやうでございます。
- グロー
- 狂ふが無理ない。
あらし尚ほ續く。
現在の女兒たちが殺さうとする。あゝ、あのケント伯爵!きッと斯うなるとあの仁がいうた、
氣の毒な追放の身となったケントが!……(ケントに)王はお氣が狂うたとお前はいふが、
予みづからも殆ど氣が狂うてゐる。予に一人の倅がある、
今は勘當してしまうたが、其奴が予を殺さうとしをった、つい先だって、つい此間。
予は其奴を、世の親々には例の無いほど、可愛がってゐたのぢゃ。
實の事をいふと、其悲嘆の爲に予の心は亂れた。
あらし尚ほ續く。
何といふ晩ぢゃこれは!……(リヤに近づいて)恐れながら……
- リヤ
- おゝ、失禮ぢゃが……(エドガーに)大先生、貴下にお話がある。
- エドガー
- (顏をそむけて)トムは寒うござります。
- グロー
- (エドガーに)やい、汝は其處の石小屋の中へ入れ。暖かにしてゐろ。
- リヤ
- さァ〜、みんな入らう。
と石小屋の中へ入らうとするをケントが止める。
- ケント
- もし〜、こッちへいらっしゃいまし。
- リヤ
- いや、彼れと一しょなら。……俺はあの先生と一しょにゐたい。
- ケント
- (グロースターに)お氣に逆はんがようございます。彼奴をお伴れなさいまし。
- グロー
- (王に)其奴をお伴れなされませ。
- ケント
- (エドガーに)やい、來い、一しょに來いよ。
- リヤ
- さァ〜、アセンズの先生。
- グロー
- (皆々に)默って、默って!叱!
- エドガー
-
(節をつけて)暗黒城にぞ著きにける。
轟きわたる其聲は
モゝンがー!モゝンがー!
ブリトン人の血の香がするぞよ。
グロースターが把火を揮り輝らして先きに立つ。と皆々從ひて入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第三幕 第五場
第三幕
第五場 グロースターの居城。
-
コーンヲールとエドマンドと出る。エドマンドは其父を裏切って、密書をもコーンヲールに渡さうとするのである。
- コーン
- 此燗@を離れる前に、此返報を致してくれう。
- エドマ
- (悲しさうに)子の道に背いて忠義を盡しましたのですから、どんなにわるく言はれるかと、 幾らか心配になります。
- コーン
- 今となって解った、お前の兄貴があの老人を殺さうとしたのは、必しも惡心ゆゑとばかりはいはれん、多分、
相當な理由があって、老人の方に何か恕しがたい惡いことがあったからであらう。
- エドマ
- (半獨白のやうに)何て意地のわるい運命だらう、正しい事をしながら悔んでゐなけりゃならんといふのは!
(書面をコーンヲールに渡して)これが父の噂しました密書でございます、これによりますと、
父はかね〜゛フランス王に内通してをったらしう見えます。……おゝ、天よ、こんな謀叛もなく、
自分で其告訴人となるやうなこともなかったのならなァ!
- コーン
- 夫人の許へ來て下さい。
- エドマ
- 其書中の事が事實でありますりゃ、容易ならんことが身の上に差迫ってをるのでございます。
- コーン
- 其實否は兎も角もだ。襃美には、お前をグロースター伯爵に敍します。
親父の居所を突止めて來なさい、すぐ捕縛の出來るやうに。
- エドマ
- (傍白)王をいたはってゐる所を見附けでもすりゃ、一段と嫌疑が固くなる道理だ。
……(コーンヲールに)あくまでも忠義の道を守りまする、忠と孝の鬪ひが何樣に苦しうございませうとも。
- コーン
- わしはまたお前を信じて、子に於ける父以上の愛を與へるであらう。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第三幕 第六場
第三幕
第六場 城から程遠からぬ農家の一室。
-
ケントとグロースターが出る。王、阿呆、エドガーもついて出る。グロースターの案内で、
ともかくも屋蓋のある小屋の中へ入ることを得たのである。
- グロー
- あの荒野原よりはましぢゃ。有りがたく思ふたがよいて。
何とかしてお安樂にならせらるゝやうに工夫しませう。すぐ戻って來ますわい。
- ケント
- お智慧の力のありッたけがお癇癪に負けてしまひました。……どうも御苦勞さまでございます!
グロースター急いで入る。
- エドガ
- (地に耳を押附けて何者をか聽く振をして)フラテレットが俺を呼んで、ニーローが、今、
地獄の湖水で釣をしてゐると言ってら。……(阿呆に)おい、耳無しさん、 祷んな、惡魔に取ッ附かれんやうに。
- 阿呆
- (リヤに)教へとくれ、ねえ、小父たん、狂人は都武士かい?田舎侍かい?
- リヤ
- 王ぢゃ、王ぢゃ!
- 阿呆
- いんにゃ、田舎侍だい。其息子が都武士だよ。
さうだらうぢゃないか、自分を後廻しにして息子を都武士にするのは狂人だからなァ。
- リヤ
- (憤激して)千萬の惡鬼羅刹に、眞赤に燒けた鐡串を持たせて、彼奴らの喉笛目がけて……
- エドガ
- あゝ、惡鬼羅刹が來て、俺の背中を噛む。
- 阿呆
- 狼を仁慈いと思ったり、馬を強健だと思ったり、
小童の戀や賣女の誓言を眞實にする奴は狂人だ。
- リヤ
- さうしてくれる。すぐさま召喚してくれう。……
此時、リヤは左右を見廻し、ふとそこに二脚の古床几のあるのを見て、幻覺で、
それをゴナリルとリーガンが裁判廷へ呼び出されてゐるのだち思ひ込む。
- リヤ
- (エドガーに)さァ、其許は此處にお坐んなさい、最も博學なる裁判官どの。……
(阿呆に)賢明なる其許は此處にお坐んなさい。……さァ、おのれ、牝狐めら!
- エドガ
- あれ〜、あそこに惡魔めが突立って睨んでゐる!奧さん、お前さん目が無いかい、裁判所ぢゃァ?
- 阿呆
-
(節をつけて)おぢゃれ、ベッシや、河を越しておぢゃれ。……
船が洩ります、ぢゃによって、妾ゃ往かれぬと、
いふにいはれぬ胸のうち。
- エドガ
- 惡魔めが鶯のやうな聲をして哀れなトムに附き纒ひまする。ホップダンスはトムの下ッ腹で、
白い生の鯡を與ろッてわめきまする。吠えるない、黒惡魔め、 汝に與る食物は無いや。
- ケント
- (王に)どうなさいました?
そんなに呆れて立っていらっしゃいますな。ちッとお横になって、蒲團の上でお休みになりませんか?
- リヤ
- いや、まづ、吟味せう。……證人ゐ呼びいれい。……(エドガーに)禮服御著用の裁判官どのには、
お席に著かせられい。……(阿呆に)さて、其許、御同僚には、其傍の床几に。
……(ケントに)其方は委員ぢゃな、其方も其處に。
- ケント
- 公平に扱ひ遣はす。
(節をつけて)眠てか、起きてか?牧羊者どのよ。
ぬしの羊が麥畑荒らす。
ちッちゃい口から一吹きお吹きゃれ、
羊に害なんかありゃすまい。
ニャァウー!その猫は灰色でござい。
- リヤ
- 先づ、あの女めを糾問せい。あれはゴナリルぢゃ。名譽ある方々の面前に於て、誓言の仕りまする、
彼奴めは、現在の父王を足蹴にかけました。
- 阿呆
- 奧さん、こゝへいらっしゃい。お前さんはゴナリルさんですか?
- リヤ
- 否といふ筈はない。
- 阿呆
- ですかい、御免なちゃい。俺はまたお前さんを疉床几かと思った。
- リヤ
- こゝにもう一人をりまする。その捻くれた面附が、如何いふ根性の奴かを宣言してをりまする。
……や、留めてくれ、それ、其女を!警護の者は居らんか、武噐を、劍を!
此法廷には賄賂が行はれる、賄賂が!やい、不正不義の裁判官、何故あの女を逃しをった?
- エドガ
- 五つのお智慧をお守りなされて!
- ケント
- あゝ、お氣の毒な!……(リヤに)御忍耐を如何なされました、平生決してなくせんというて、
御自慢なされた其忍耐を如何なされましたぞ?
- エドガ
- (傍白)お氣の毒で、涙がこぼれて、もう迚も僞裝しきれなくなった。
- リヤ
- 小犬どもまでが、どいうつも、こいつも、ツレーも、ブランチも、すヰート・ハートも、
悉皆俺に吠ぇ附きゃァがる。
リヤは夥しい犬共に取卷かれたといふ幻覺を起し、怖じ恐れて、
あちこちと逃げ廻る。エドガーはさすがに見かねて
- エドガ
- 此トムが引受けて追ッ拂ってくれる。……こら、あッちへ去せろ、畜生ッ!
(節をつけて)黒でも、白でも、汝等が口で、
咬んだりゃ牙に毒がある。
唐犬、獵犬、雜種犬、
牝でも、牡でも、リム、スパニエル、
ぶッきら尻尾も、捲いたのも、
トムが鳴かさいでおくものか!
そら見ろ、斯うして放り出しゃ、
犬めは半戸を飛んで逃げた。
エドガーは郡犬を逐ふ擬態をして、藁の帽子を向こうへ投げる。
どででででで。セッサ!さァ〜、祭へ往かう、市へ、買出し場へ。…… あゝ、トムよ、お前の面桶はもう空虚だよ。
- リヤ
- では、リーガンめの解剖を願ひませう。彼奴の心には抑如何なるものが生育いたすか、
それが取調べていたゞきたい。あゝいふ酷薄な心が釀し出す原因が、何か特に有るものでござるか?
……(エドガーに)其方を予が百人熾錘mの一人に召抱へる。
たゞ其熾梵ァが氣に入らん。其方は、これはパーシャ式ぢゃとでもいふであらうが、更へて貰ひたい。
- ケント
- 御前さま、お横になって、ま、暫くお休みなさいまし。
- リヤ
- 靜かにせい、靜かに。暖簾を引け。さう、さう、なう、朝の間に夕食をすまさう。
- 阿呆
- そんなら、俺ァ晝の間に寢よう。
リヤ横になる。
此時、グロースターが急いで戻って來る。
- グロー
- (ケントに)こゝへ〜。……王は何處においでなさる?
- ケント
- こゝにいらせられます。が、そッとしておゝきなされませ。お正氣を失っておいでなさいます。
- グロー
- お前さん、どうか王を抱き起してあげて下さい。お命を取らうといふ計画があることを漏れ聞いた。
舁床を準備して參ったによって、それへお臥し申して、
急いでドーバーまで落ち延びて下さい、あちらへ往けば、歡迎も、保護も得られる。
早う我が君をば抱き起して下さい。もう半時間ぐづついてゐると、王の命も、おぬしの命も、
お助け申さうとする者一同の命も無い。早う抱き起して、抱き起して、予に從ひてござれ、
路用其他を渡す場所へ案内するから。
- ケント
- (眠ってゐるリヤを見て)疲れ果てた時には眠られる。此一睡であなたの荒びた神經が幾らか和げられるでもあらう。
かういふ便宜がなかったら、到底、療治が屆かんも知れん。……(阿呆に)さァ〜、
手を貸して御主君を抱き上げてくれ。お前も後に殘してはゆかれん。
- グロー
- さァ〜、あッちへ〜。
ケントとグロースターと二人がかりでリヤ王を抱き上げ、介抱して入る。阿呆もつゞいて入る。
エドガーが只一人殘って
- エドガ
- 目上の人逹が、こちとら同樣の難儀をするのを見ると、身の不幸を、
強ち怨めしいとも思はん。たッた一人で難儀をするのが最ち辛い、
安樂や愉快を後に殘して。が、悲嘆にも伴があり、難儀にも侶がありゃァ、
大概の苦痛が忘れられる。俺の苦痛は今日は輕くなっって堪へいゝ、
俺の苦しみを王もまた苦しんでゐなさると思やァ。王は子の爲、俺は親の爲に!……
トムよ、さ、彼方へ!此騷動の成行を見てゐて、讒言が正しい證據の爲に破られて、
汝が故通りの身分になれる時が來たら、名宣って出ろ。……
どうか、今夜は、此上何事が起らうとも、王がお恙なうおのがれなされるやうに!……かくれろ〜。
エドガーも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第三幕 第七場
第三幕
第七場 グロースターの居城。
-
コーンヲール、リーガン、ゴナリル、エドマンド及び從者ら大勢出る。
- コーン
- (ゴナリルに)急いで早馬でお歸りあって、オルバニーどのへ此書面をお見せなすって下さい。
フランスの軍勢はもう既に上陸したのです。……(從者に)謀叛人のグロースターを搜し出して參れ。
從者のうち一二人入る。
- リガン
- すぐに絞り首になさい。
- ゴナリ
- 目をゑぐり取ったがよい。
- コーン
- 處分は吾等にお任せなさい。エドマンド、お前さんは姉上に御同伴なさい。謀叛人たるお前の父に對して、
只今嚴罰を下さんとするのを、子として見てゐるのは穩かでない。オルバニー公の許へ參ったら、
大火急に手配りをささるやう勸めて下さい。われらも同時に手配りを致さうから。早飛脚を以て、
迅速に事情を傳へ合ふことにしよう。……(ゴナリルに)姉上、ごきげんよろしう。 ……機嫌よう、グロースターどの。……
オズワルド出る。
どうだ?王は何處においでなさる?
- オズワ
- グロースターどのがお伴れ出しなされました。お附きの武士たち三十五六人、
必死と王のお行方を搜してをりましたが、大木戸の邊で、王にお目にかゝりまして、
グロースターどのゝ御家來衆二三名と共に、王のお侶をしまして、
ドーワ゛ーの方へ落ちて行きました。ドーワ゛ーには武裝した身方が大勢あると申し觸らしてをります。
- コーン
- お内方に馬を參らすがいゝ。
- ゴナリ
- (コーンヲールに)さやうなら、御機嫌よろしう!妹、ごきげんよう!
- コーン
- エドマンド、きげんよう!……
ゴナリル、エドマンド及びオズワルド入る。
(從者に)謀叛人のグロースターを搜して來い。窃盜同樣に縛りあげて、予の面前へ伴れて參れ。……
從者一兩人入る。
正式の裁判をせんで、死刑に處するのは不當だが、腹の立つ場合には、權力の濫用も是非に及ばん。……
グロースターが二三人の者に引ッ立てられて出る。
や、だれだ?叛賊めか?
- リガン
- 恩知らずの狐老爺め!彼奴ですよ。
- コーン
- 縛り上げろ、其煬ヘ乾びた腕を。
從者ら立ちかゝる。
- グロー
- 如何なされまする手前を?お二人とも善うお考へ下さい、貴下がたはお客人でござりますぞ。
非道なことをなされますな。
- コーン
- えィ、ふんじばれといふに。
大勢が立ちかゝってグロースターを縛る。
- リガン
- きつく、もっときつく。……おゝ、さもしい、穢い謀叛人めが!
- グロー
- ても、もぎだうな奧方!謀叛した覺えなぞはござらん。
- コーン
- その椅子へ縛りつけろ。……奴隸め、今に見をれ!……
大勢にてグロースターを椅子へ縛りつける。とリーガンが立ちよってグロースターの鬚の一部を握んで引拔く。
- グロー
- 神々にも御照覽下され、此鬚を毟り取るとは、餘りといへば、無法な、無慚な!
- リガン
- こんな眞白な鬚をしてゐながら、謀叛をしをるとは!
- グロー
- 非議非道の奧方、こなたが、此頤から毟り取った其鬚が、一筋一筋生き返ってこなたをば呪はうぞよ。
こなた逹は客、わしは主人ぢゃ、其主人の生面を、
強盜同樣の暴力を以て、此樣に辱しめるとは無法千萬!……如何しようとなさるのぢゃ?
- コーン
- さ、言へ、汝が最近フランス王から受取った書面といふのは、如何いふ書面だ?
- リガン
- 眞直に白状せい、證據はもうあがってゐる。
- コーン
- 最近上陸した謀叛人共と汝の間に、如何いふ陰謀が成立ってるのか?
- リガン
- 狂人王を誰れの手へ渡した?申せッ。
- グロー
- 謎のやうな書面をば受取りました。けれども、それは、何方へ心を寄するともない者からでござります。
敵方からぢゃござりません。
- コーン
- たくんだな。
- リガン
- そら〜゛しう。
- コーン
- 王を何處へやった?
- グロー
- ドーワ゛ーへ。
- リガン
- 何の爲にドーワ゛ーへ?豫てさやうなこと致すに於ては……
- コーン
- 何の爲にドーワ゛ーへ?……先づ、其返答をさせるがいゝ。
- グロー
- (決心の思入れで、獨白的に)杭に縛りつけられたからは、犬責めにも遭はねばならん。
- リガン
- 何の爲にドーワ゛ーへ遣った?
- グロー
- されば、お前が、其殘忍な爪で、あのお氣の毒な老王の御兩眼をゑぐり取るのを見るに忍びんからぢゃ。
又、あの猛惡なお前の姉めが、野豬のやうな牙で以て、 神油を塗った王のお身體を貫きをるのを見るに忍びんからぢゃ。
黒闇地獄の暗のやうな小夜中に、
王が其素肌にお受けなされたあのやうな暴雨に遭ふては、大海だっても空に逆卷き、
星の火を消したであらうに、お氣の毒や、王は寧そ手傳ふて雨をお降らしなされた。
よし狼でも、あんな手ひどい晩には、若し門口で唸ってゐたら、
「門番よ、入れてやれ、平生の惡い事を差許して」と言はっしゃらねばならん所ぢゃ。
併し、今に見ようわい、かういふ不埒な子供らに、天罰の下るのを見ようわい。
- コーン
- 何の見させるものか!……やい、其椅子をしっかり持ってろ!……
從者ら立ちかゝってグロースターを椅子に縛りたるまゝ押附へてゐる。
コーンヲールは立ちよって
おのれ、其眼を踏みにじってくれう。
グロースターの一眼をゑぐり取り、地に抛って足で踏みにじる。
- グロー
- 齡を取るまで生きてゐたいと思ふ者は助けてくれい!……おゝ、殘忍な!おゝ、神々!
- リガン
- かた〜だけでは見っともない。そッちの目も。
- コーン
- おのれ、天罰の下るを見るなぞと吐しをれば……
コーンヲール再びグロースターに立ちかゝる。從者の一人(甲)が見かねて横合から躍り入って支へる。
- 從の甲
- まゝ、お止まりなされませ!私は幼少から御奉公いたしましたが、只今おとゞめ申しますのが、 此上も無い忠義と存じまする。
- リガン
- 何をする、畜生ッ!
と從者の一に立ちかゝって撲つ。
- 從の甲
- (リーガンを睨んで)お前さんに鬚があったら、其分にゃ濟されないのだが。……
コーンヲールが劍を拔きかける。
何をなさるのです?
- コーン
- うぬ、奴隸の癖に?
コーンヲールが劍を拔いて突きかゝるのを引ッぱづして
- 從の甲
- さういふ氣なら、さァ、お敵手になりませう。腹を立ちゃ容赦はございませんぞ。
と甲も拔き合せて、鬪ふ。皆々驚き騷ぐ。其中にコーンヲールは手を負ふ。
リーガン氣を揉む。
- リガン
- 其劍を、こッちへ。……
他の從者(乙)の劍を引ッ奪って
農奴め、これでも、見事?
從者の甲を其背後から突く。
- 從の甲
- おゝ、やられた!……
從者の甲倒れながら、グロースターに
もし殘ってる目で御覽なさいまし、あなたの當の仇敵に、手傷を負はせてやりました。……おゝ!
從者の甲息絶える。
- コーン
- 汝、もう何も見ることの出來んやうに。……
グロースターの躍りかゝって、又、其一眼をゑぐり取り、地に抛って踏みにじる。
うぬ、穢はしい煮凝汁め!さァ、何處か光るところがあるか?
- グロー
- 眞闇で、眞闇で、何一つ心の慰むものも見えん!我が子のエドマンドは何處にをるぞ?
エドマンドよ、有る限りの孝子の情を奮ひ起して、此怖ろしい惡行の復讐をしてくれいやい!
- リガン
- だまれ、二心の惡黨め!汝が呼び立てる其エドマンドは汝を嫌ひ憎んでゐる。
汝の二心を吾々へ訴へ出たのはエドマンドなのだ。
彼れは汝を憫然に思ふやうな惡人ぢゃないわい。
- グロー
- おゝ、おろかであったわい!ぢゃァ、エドガーは讒言に遭ふたのぢゃな。神々さま、ゆるして下され、
彼奴を幸福にしてやって下されませ!
- リガン
- 大木戸の外へ此奴を突き出し、ドーワ゛ーへ往きたくば、鼻で嗅ぎ嗅ぎ行けいと言へ。……
一從者がグロースターを引ッ立てゝ入る。此時コーンヲールは手疵の痛みに惱む。
(コーンヲールに)どうなさいました?まァ、其顏の色は?
- コーン
- 手を負った。さ、從ひてお出なさい。……(從者らに)盲目めを叩き出してしまへ。
……其奴は塵埃溜へ放り込め。……リーガンどの、おそろしく血が出る。
惡い時に創を受けた。腕を借して下さい。
リーガンに介抱されてコーンヲール入る。
- 從の乙
- 俺ァ如何な非道な事だッてする氣にならァ、あんな人が平氣で榮えるやうなら。
- 從の丙
- あの女が長生きして、人竝みに往生するやうなら、女は悉皆化物になッちまはァ。
- 從の乙
- グロースターさまのお後を尾ッてって、何處へ往かっしゃらうと、手引にベドラムでも頼んであげよう。
ベドラムめは、ぶらつくが持前の狂人だから、どんな案内でもするだらう。
- 從の丙
- さうさっせい。俺は麻と鷄卵の蛋白とを取って來て、
あの血だらけの顏を如何かしよう。さァ、神さま、あの方を助けてあげて下さい!
左右に別れて入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第四幕 第一場
第四幕
第一場 荒野
-
やはりベドラムの狂人乞食に假裝したまゝでエドガーが出る。
- エドガ
- 斯うして、輕蔑まれてるのを知ってゐるのはまだましだ、
始終口先きで欺されて、さげすまれてゐるよりは。運命に見棄てられて、一等惡い、沈みき切った境遇にゐるてィのは、
早晩浮き上る望みこそあれ、何も恐ろしいことはない。およそ情けないのは、
此上もない善い境遇からの變轉だ。悲哀極れば悦來る。
して見りゃァ、此そっけない、空な風めも、今の我が身にゃ良い友逹だ。汝に吹き飛されて、
こんな最惡の境遇に墮ちたものゝ、何一つ汝の世話にならんのだから、氣樂だ。……や、だれか來た!
グロースターが、一老人に手を引かれて、出る。
お父さんぢゃないか、見すぼらしい姿で、手を引かれて?……おゝ、人生よ、人生よ、人生よ!
思ひがけない轉變に遭ふて世を厭ふ心を起せばこそだが、でなきゃ、誰れも甘んじちゃァ老衰すまいわい。
- 老人
- おゝ、お殿さま、手前は御先代さま以來、八年間、御配下に住んでをりましたのです。
- グロー
- 去ってくれ、あッちへ去ってくれ、どうか歸ってくれ。助けてくれても、
わしの爲には何もならん。汝の難儀になるわ。
- 老人
- でも、お行手がお分りになりますまい。
- グロー
- 行手とてもない。それゆゑ目は要らん。目の見えた時分には折々蹉躓いた。
生中有れば油斷の種ぢゃ、無いはうが得ぢゃ。……おゝ、憫然なエドガー、
欺かれた父が怒りの餌食となったエドガーよ、息のうちにもう一度そなたの身に觸れることが出來たなら、
亡うした眼を取戻したともいはうに!
- 老人
- (エドガーに)おい〜!だれぢゃ、そこにゐるのは?
- エドガ
- (傍白)おゝ、神よ!「今が一等惡い境遇だ」なんぞとは容易に言へるもんぢゃァない。 前よりも境遇が惡くなった。
- 老人
- ありゃ狂人乞食のトムめぢゃ。
- エドガ
- (傍白)もっと惡い目に遭ふかも知れない。「こりゃ一等惡い境遇だ」と口で言ひ得る間は、 まだ〜一等わるいのぢゃァない。
- 老人
- (エドガーに)やい、おのしは何處へ往く?
- グロー
- 乞食か?
- 老人
- 乞食で狂人なのでござります。
- グロー
- 幾らか正氣でなうては乞食は出來ん筈ぢゃ。此間の暴風雨の晩に、ちょうどそんな奴に逢ふた。
それを見て予は、人間をば蟲螻ぢゃと思ふた。其時倅の事が念頭に浮んだ。
なれども、其折には、心がまだ釋けてをらなんだれど、其後いろ〜と聞き及んだ。
あゝ、あの虻や蜻蛉を惡戲少年が扱ふやうに、吾々人間をば神さまが扱はっしゃる。
神はお慰み半分に人間をお殺しなさる。
- エドガ
- (傍白)如何して如是事になったのだらう?あゝ、辛や〜、悲しい最中に阿呆の眞似をせねばならんとは!
自分にも氣の毒、他人にも氣の毒だ。……旦那さん、ごきげんよう!
- グロー
- 裸體の奴か?
- 老人
- さやうでござります。。
- グロー
- なりゃ、おのしはもう歸ってくれ。若し尚ほわしの爲に一里か二里ドーワ゛ー街道を後追ふて來てくれる深切があるなら、
其裸蟲に、何か著る物をば持って來て遣ってくれ、わしは此奴を手引に頼まうと思ふから。
- 老人
- あゝ、貴下さま、此奴は狂人でござります。
- グロー
- それが惡世の然らしむる所ぢゃ、狂人が盲者の手を引く。吩咐けた通りにせい。
それが否ならば勝手にするがよい。とにかく、歸ってくれ。
- 老人
- 手元にござりまする最ち良い著る物を持って來てやりませう。 手前の身は如何なりませうと關ひませぬ。
老人入る。
- グロー
- やい、裸體の男。
- エドガ
- トムは寒うござります。……(傍白)もう假裝し切れなくなった。
- グロー
- これ、こゝへ來い。
- エドガ
- (傍白)でも假裝さんければならん。……(グロースターに)貴下のお目から、あゝ、血が出ます。
- グロー
- おのしはドーワ゛ーへ往く路を知ってをるか?
- エドガ
- 階段も、大木戸も、馬道も、人道も、みんな知っとります。
惡魔がおどかしゃァがったんで、トムの智慧は悉皆なくなッちまった。
用心さっしゃい、お歴々の息子さん、惡魔にとッつかれんやうに! あはれなトムには、惡魔が五頭まで一しょに取ッ附きをりました。
淫亂はオービヂカット、その次ぎは唖の魔王ホッビヂダンス、盜賊根性はマフー、
人殺しはモードー、變妙來な面附をする癖はフリッバーヂビット。
其奴が其後腰元衆や女中衆に取ッ附きました。 だから、旦那、御用心なさいまし!
- グロー
- こりゃ此財布を取れ、天の處罰を受けた爲に、あらゆる他の苦痛を怨む心もなうなった奴。
俺の不幸がおのしの幸福になるわい。あゝ、神々よ、常に斯樣にお扱ひ下されい!
世の富有な、暖衣飽食の徒輩……天の定法を侮り、
其身に感ぜぬゆゑに貧困の困苦を見ようともせざる徒輩をして、
速かに天の力を感ぜしめたまへ。さすれば、分配によって過剩のを滅して、
各人こと〜゛く物足ることにならう。……(エドガーに)ドーワ゛ーを存じてをるか?
- エドガ
- 知っとります。
- グロー
- 彼處に絶壁がある、
岩で取限られた海の中央へ高く聳え覗き込むやうになってゐる絶壁がある。
つい、あの縁際まで案内してくれ、 すれば、予の身邊にある有價の物をおのしに與して、
今の不幸を救ふて遣る。あそこから先きは、案内は要らん。
- エドガ
- 手を借さっしゃい。トムが案内するから。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第四幕 第二場
第四幕
第二場 オルバニー公爵低の前。
-
ゴナリルと今は既にグロースター伯となってゐるエドマンドが出る。
同時に、一方からオズワルドが出て、二人に行き逢ふ。
- ゴナリ
- (エドマンドに)ようお出なされた。ま、どうしたんだらう、内の聖人さんが出迎へもしない。
……(オズワルドに)殿は何處に?
- オズワ
- お奧にいらせられますが、あんなにお變りなされた方はありますまいと存じます。
敵軍が上陸した事を申しましたら、にやりとお笑ひになりました。
貴下樣御歸館の事を申しあげましたら、御返辭は「えゝ、無益な!」
それから、グロースターどのゝ二心の事、御子息の忠義なお働きの事をお傳へしましたら、
私を、「馬鹿ッ」とお叱りになりまして、「汝は悉く物を取違へてゐる」
とおほせられました。お嫌ひらしいことがお氣に入りまして、お氣に入りさうなことがお氣に障るやうでございます。
- ゴナリ
- (エドマンドに)では最早、いらっしゃらないがよろしい。こりゃ、畢竟、
事を大膽には能う爲ない夫の臆病根性からすることです。侮辱を受けたッても、
決鬪せにゃならんやうになると思ふと、わざと知らない介をしてゐる人です。
……(聲をひそめて)途々申し合せた事は、何れ實現されるやうになりませう。
……エドマンド殿、貴下はコーンヲールどのゝ許へお歸りなさい、
急いで兵士を招集させて、其指揮をなさい。わたしは、此處で、夫と武噐の交換をして、
あの人には紡絲竿を持たせませう。(オズワルドを見返って) 此腹心の家來を二人の間の通信者にします。程なく……
若し貴下が大膽に御自分の利益をお圖りなさる勇氣さへありゃ……
或夫人から今に或命令をお受けなさることでせう。……(窃かに指輪を渡して)これを附けていらっしゃい。
ね、何もいはないで。……頭をお傾げなさい。……(接吻して)此熕レ吻が物を言やァ、
あんたの勇氣は百倍するでせう。よう考へてね。さやうなら。
- エドマ
- (膝まづいたまゝで)御爲には一命をも獻じまする。
- ゴナリ
- いとしい〜グロースターどの!……
エドマンド入る。
おゝ、同じ男でも、ま、何て違ひだらう!女が奉侍きたいと思ふのは、お前よ。
今は、幇間に予の肉體を横取りされてしまってゐる。
- オズワ
- 奧さま、殿さまがお見えになりました。
といひ〜オズワルド急いで入る。
とオルバニーが出る。
- ゴナリ
- 口笛くらゐは吹いて下すったっていゝわたしでせう。
- オルバ
- (嚴格に)おゝ、ゴナリル!あんたは、其顏へ風めが亂暴に吹きつける埃にすらも劣った人です。
わたしはあんたの氣立が懸念に堪へない。其燒{源をさへも蔑如にするやうな氣立は、
何處まで増長するか圖り知られない。子枝である身を強ひて親幹から引裂き、
大切な養ひの液を我れから絶つやうな女は、やがて枯れ萎れて、惡魔に利用されるに相違ない。
- ゴナリ
- お止しなさい、そんな馬鹿らしいお説法は。
- オルバ
- 非道人には賢明なことや正しい事が非道に見える。汚れた輩は只汚れたものゝみを賞翫する。
……お前さんは何といふ事をしました!子の振舞ひではなく、虎、狼の振舞ひです。お父さんを……
首鎖で引廻される荒熊と雖も敬ひ懷いて其顏を舐めるでもあらうあの情深い老翁を
……野蠻にも、非道にも、狂人にしてしまふとは!それをさせとくとは、コーンヲールどのもどうしたものだ?
王に大恩を受け、王のお庇で、王族となってゐる身でありながら!若しも天の神が、かくても、
大不埒を罰するために、目に見える精靈をお下しにならんやうなら、人間は大海に於ける妖怪同樣、
只もう力づくで相搏噬することゝなるであらう。
- ゴナリ
- 憶病者!人に撲たれるために頬をくッつけ、人に辱められるために頭をくッつけてゐる人。
お前さんは恥辱と名譽とを見分けるだけの目を有ってゐない人です。
お前さんは、惡人がまだ惡事を實行せないうちに罰せられるのを見て憫然がるのは、
馬鹿ばかりだてことを御ぞんじないんです。……軍太鼓は何處にあります?
フランス王が油斷しきってゐる此國へ攻め入って、軍旗を飜し、羽を附けた兜を輝かして、
お前さんの位を奪はうとしてゐるのに、お前さんは、只ぢッと坐ってゝ、「あゝ、
なぜ彼れはさやうな不法を働くか!」とわめいてゐるのですか、説法好きの阿呆さん!
- オルバ
- おのが面を見い、女夜叉めが!本體のまゝの夜叉より女の相をしてゐる夜叉のはうが怖ろしい。
- ゴナリ
- おゝ、此大阿呆が!
- オルバ
- 幸ひにも人間に化けて、今日までは本體を掩ひ來った汝だ、恥を思ふなら、
顏色に妖怪の本體を現はしをるな。若し此手をして予が怒りの命ずるまゝにしてよいものなら、
汝の肉や骨を八裂にもすべき筈だが、たとひ本體は夜叉にもせよ、鬼にもせよ、
女の相をしてゐるから助けておくのだ。
- ゴナリ
- おや〜!大そう強いことね。……
此時、リーガンの使者が出る。
- オルバ
- 何事だ?
- 使者
- おゝ、御前さま、コーンヲールさまがお亡くなりなされました、
グロースターどのゝ目をゑぐり取らうとなされました際に、御家來の爲に。
- オルバ
- え、グロースターの目を?
- 使者
- 幼少より御養育になりました御家來の一人が、見るに見かねましたものと見えまして、抵抗いたし、
殿に劍を向けました。で殿はお怒りになって、その仁に飛びかゝり、其場で御成敗になりましたが、
御自身にも重傷を負ふて、其後、御落命なされました。
- オルバ
- あゝ、これで、天に裁判官のおはしますことが分った。下界の罪惡をたちまちにお罰しなされる。
……それはさうと、氣の毒なはグロースター!では彼れは一眼を失ったか?
- 使者
- いゝえ、兩眼ともにでござります。……(ゴナリルに)奧方樣、此御書面は早速の御返辭を要しまする。
お妹御さまからでございます。
- ゴナリ
- (傍白)一方からいふと、好い都合だ、けれども、妹が寡婦となって、
あのグロースターが始終一しょ……折角築きあげた空想の城郭を萬一破壞されてしまふやうなら、
もう樂しみの無い此熕カ。が、見やうによっては、苦い報知ぢゃない。……(使者に) 讀んだ上で返辭しませう。
ゴナリル入る。
- オルバ
- 彼等がグロースターの目をゑぐり取った時、エドマンドは何處にゐた?
- 使者
- 奧方のお侶をしてお館へ參られました。
- オルバ
- こゝにはをらん。
- 使者
- はい、をられません。歸って行かれるのに逢ひました。
- オルバ
- 彼れは其非道の所行を存じてをるのか?
- 使者
- 存じてをられます。父御を告發したのは彼人なのでございます。
遠慮なく父御を罰させようために、故ッと席を避けられたのです。
- オルバ
- (獨白のやうに)グロースターよ、予が生きてゐる以上は、 お前が王に對して盡してくれられた其忠勤の禮もいはうし、
目を失ふた其怨みをも必ず返して進ぜませうぞ。…… (使者に)こりゃ、こゝへ。尚ほ他に存じてをることがあるなら、話してくれ。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第四幕 第三場
第四幕
第三場 ドーワ゛ーに近きフランスの陣營。
-
リヤ王とフランス王を陣營附近まで伴って來たケントが、嘗て一書を託した一紳士に逢って、
拂軍の模樣を聞くのである。
- ケント
- フランス王には、何故さう早急に歸國なされたか、君は其理由をごぞんじですか?
- 紳士
- 御本國に爲殘しておかせられた或重大な事件が、御出陣後に、更に一段重大に相成りましたので、
若し打棄てゝおかれますると、お國の御安危にも關ります。で、止むを得ず、 お立歸りになったのでございます。
- ケント
- 誰れを總督として、お後に殘しおかれましたな?
- 紳士
- フランス軍帥のラ・フォーどのをお殘しです。
- ケント
- 彼の書面を御覽なされた時、王妃には、御愁歎の御模樣でございましたか?
- 紳士
- はい、いかにも。妃は書状をお手に取らせられ、私の前で讀ませられましたが、折々お涙が、
あのお美しい頬を傳って、はら〜と落ちました。妃は、 女王が謀叛人をお取押へなされるかのやうに悲痛を制されましたが、
それをまた謀叛人の悲痛めが屡々覆さうといたしました。
- ケント
- おゝ、では御感動なされましたな。
- 紳士
- でも、取亂しはなされませなんだ。忍耐と悲歎とが相鬪ひました、どッちが勝ったか、
お妃が最も立派にお見えなさらうかと思ってゐますかのやうに。
照降雨といふのを御存じでせうが、お妃の笑を含んで涙をお落しなさる美しさは、
それの一段熨N麗なのとも見えました。あの丹花のお唇に漂うた微笑は、
目に如何いふお客が參ってゐるかを存ぜぬ體、そして其客がお目からぽた〜と落ちる美しさは、
眞珠がダイヤモンドから落ちるやう。早い話が、泣顏ほど可愛らしい美しいものは無いでありませう、
若し誰れが泣いても、あんな風に似あひますれば。
- ケント
- 何かお口づから、お訊問はありませんでしたか?
- 紳士
- さァ、實際、一兩度、「お父さま」と、譬へば、それがお胸に迫っておっしゃらずにはゐられないといふ風に、
喘ぐやうにおっしゃいました。それから、お泣きになって、「お姉えさんがた!女の恥辱です!
お姉えさんがた!……」
- ケント
- なに、お父さま!お姉えさんがたと!
- 紳士
- 「えッ、大あらしの最中に!眞夜中に!慈悲は此世に無いものぢゃとは思はにゃならぬ!」
さうおっしゃって、あの天人のやうなお目から、貴重な露を落して、泣き聲をば鎭めておしまひなされ、
やがて、只一人でお歎きなされようとてか、奧へお入りなされました。
- ケント
- (獨白的に)あゝ、人間の根性を支配する者は、天上の星に相違ない。でなくば、同じ夫妻の腹から、
斯うまで性質の異った子が生れよう筈がない。……其後お話をなすったことはないのですか?
- 紳士
- ございません。
- ケント
- お逢ひなすったのは、フランス王の歸國前の事ですか?
- 紳士
- いゝや、後です。
- ケント
- 時に、御亂心遊ばされたリヤ王殿下には、目下此市中にいらせられる。お心の調子の好い時分には、
吾々共の申すことを幾分か御諒解遊ばすらしいが、コーディーリャさまと御面會のことは、 どうお勸め申して見ても、御承諾がない。
- 紳士
- 何故でございませう。
- ケント
- 非常に恥ぢ入っておいでなさるからです。下さるべき筈の恩惠を剥ぎ取っておしまひなされた上に、
コーディーリャさまを外國へ逐ひやり、 大切な御權利を悉くあの犬のやうな女兒御たちにお遣りなされた御自身の無慈悲や失策が、
蝮蛇の如くにお心を刺すので、恥ぢ入って、お逢ひなされぬのです。
- 紳士
- やれ〜、お氣の毒なお方さま!
- ケント
- オルバニーやコーンヲールの兵の事は、お聞きになりませんでしたか?
- 紳士
- 既に出陣したやうに傳聞りました。
- ケント
- では、これから、君を王の御許へ案内しませうから、どうかお傍にゐて下さい。
重要な理由があって、今暫くは本名を包んでおきますが、自分の素性が明白になった時に、
決して知交になったことを後悔なさるやうなことはありません。 どうか一しょに來て下さい。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第四幕 第四場
第四幕
第四場 同處。天幕内。
-
妃コーディーリャが太鼓手、旗手、兵士らを隨へて出る。
侍醫も隨ふ。亂心した老爺を陣營の附近で見掛けたといふ者があると聞いて、
妃は、直感的に、それを父王であらうと推して、其實否を質し、本陣へ迎へようとするのである。
- コーデ
- あゝ、それは、きッと父上であらう。つい今がたも、暴風の海のやうに亂心して、
唄を歌っておいで遊ばすのに逢ふたとの事です。 お頭には野原や麥畠に生えてゐる穢くるしい雜草や毒草で製へた冠を冠って。
……百人組を派遣して、生ひのびてゐる畠の隅々を搜索させ、早うこゝへお伴れ申せ。
士官入る。
(こゝの原文には、種々の雜草や毒草の名を列記してある。多分、實演の際、 さういふたぐひの草を花環風の物にして、--
オフィリヤの場合にての如く -- リヤ王役者がかぶって出たのであらう。本文にそれを一々譯出すると、却って趣味を害するから、
省いたが、原文を讀む人の爲に、爰に註しておく。 fumiterは延胡索の類、ミヤマケマン屬の草。
furrow-weedsは犁いた地面に生える雜草、名はない。
burdocksは牛蒡の類。hemlockはドクゼリとか、ドクニンジンとかいふもの。
nettlesはイラグサ。darnelはドクムギとでも譯すべき雜草。 cuckoo-flowersはハナタネツケバナとかいふもの。
sustaining cornとあるのは榮養となる穀物即ち麥の事。)
人間の智慧の力で、狂うたお心が如何位ゐまでは治るものであらうか?
父上をお救ひ申す者には、わたしの有ってゐるものは何品でも遣はしますすぞ。
- 侍醫
- 御療治の法はございまする。陛下には人體の保姆と稱しまする御安眠が、御不足であらせられます。
それを催させ申す種々の藥草がございます。其力を借りますれば、きッと御安眠遊ばします。
- コーデ
- (獨白的に)ありとあらゆる貴い祕法、地中に籠って未だ知られない藥種、靈草、
わしの涙に濡うて生ひ出てくれい!善良なる御方の御腦を癒しまゐらする助けとなれ!……
早う王をお搜し申せ。早うせぬと、何のお辧別もない御狂氣から、 お亡くなりになるやうな事があるかも知れない。
使者出る。
- 使者
- 申し上げます。ブリテンの軍勢が攻め寄せてまゐりまする。
- コーデ
- 承知してゐる。接戰の準備は整ふてゐる。……(獨白的に)おゝ、お父さま、
今度の出陣は全くあなたのお爲なのでございます、さうなればフランス王が、
泣いて頼むわたしの心を不便がって、聽き納れてくれました。 巧名を目的の慢心なんぞで軍をするのぢゃありません。
いゝえ、あなたを、お年をめしたあなたをば、元の通り、王位にお即け申したいと思ふばッかり。
早うお消息を聞いて、お目にかゝりたいなァ!
コーディーリャ其他一同入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第四幕 第五場
第四幕
第五場 グロースターの居城。
-
リーガンとオズワルドが出る。オズワルドはゴナリルからエドマンドへ送る書状を持參したのである。
- リガン
- 兄上の御軍勢は出陣しましたか?
- オズワ
- 御出陣になりました。
- リガン
- 御自身で?
- オズワ
- やッとお勸め申しまして。お姉上さまのはうが武人でいらせられます。
- リガン
- エドマンドさんとオルバニーさんとで、何か御會談はなさらなかったかい?
- オズワ
- なさいませんでございました。
- リガン
- エドマンドさんへの姉上の御書状といふのは、何の用だらうねえ?
- オズワ
- 一向にぞんじません。
- リガン
- エドマンドさんは、大切な用事があって、急に出立なすったのよ。
グロースターを、目をくりぬきながら、生しておくのは大きな脱落であった、
行く先々で我々の敵をこさへるに相違ない。多分、エドマンドさんは、慘めな、
目の見えぬ父を憫れんで、寧そ一思ひに終らせようと思ふて、出掛けられたのであらう。
二つには、敵軍の強弱をも斥候しようとて。
- オズワ
- ではお後を追ふて、此書状をお渡し申さねばなりません。
- リガン
- わたしどもゝ明日は出陣します。それまでお待ちなさい、途中が危險ですから。
- オズワ
- さうしてはをられません。奧方の御嚴命でございますから。
- リガン
- 何でエドマンドどのへ書状をお送りなさるのだらう?あんたが口上で傳へてもよさゝうなものぢゃないか?
多分、何か……わたしにゃ解らないけれど。(聲をひそめて)あんたを無二の人とも思ひますが……
わたしに其書状を開封させて下さいな。
- オズワ
- 奧さま、どうも、それは、その……
- リガン
- あんたのとこの奧さんは、お所天を愛してはおいでなさらない。
先日、こゝへ見えた時分に、エドマンドさんに對して妙な目附をしたり、
口程に物を言ふ表情をなされたり。あんたは姉さんの腹心も同樣ですから……
- オズワ
- あの、私が?
- リガン
- よう知ってゐていふのです。腹心ですよ、お前さんは。だから、惡いことは言ひません、
此手紙を持ってって下さい。わたしの殿さんは亡くなりましたから、 エドマンドさんと話しあっておいたことがありますの。あの人は、
あんたのとこの奧さんとよりもわたしと結婚したはうが都合がいゝの。と言や、其他の事は解りませう。
で、エドマンドさんにお逢ひだったら、これを渡して下さい。
さうしてあんたのとこの奧さんに此事を話して、ようお分別なさいましとおいひ。
さやうなら。……若しか彼の盲の謀叛人の在所がわかって、其首を取ってくれば、 誰でも御恩賞が貰へますよ。
- オズワ
- どうか、見附けだしたいものでございます!さうなりゃ、
私がどちらがたかといふことを必定お見せ申します。
- リガン
- 御きげんよう?
オズワルド入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第四幕 第六場
第四幕
第六場 ドーワ゛ーに近き平野。
-
グロースターと農夫の服裝をしたエドガーが出る。グロースターは自殺の決心をしてゐるのである。
- グロー
- 岡の頂上へはまだ著かんかの?
- エドガ
- 今登りなさるところです。ほら、此通り、骨が折れまさ。
- グロー
- 平地のやうぢゃが。
- エドガ
- おッそろしい險阻なんでさ。ほらね、浪の音が聞えますよ。
- グロー
- 何も聞えやせんが。
- エドガ
- ぢゃァ貴下は、目のお苦痛で以て、
他の感覺までも如何かしてしまひなすったんでございませう。
- グロー
- さうかも知れん。どうやら、おのしの聲が變って、言ふことも、言葉づかひも、前よりようなったやうぢゃ。
- エドガ
- 大間違ひでさ。著る物が變ったばかしでございまさ。
- グロー
- いや、どうも言葉づかひがようなった。
- エドガ
- さァ〜。こゝです。肅としてござらっしゃいよ。…… あゝ、此下をはうを瞰すろ、怖ろしくッて目が眩みまさ!
中央ごろを飛んでゐる竝の烏や赤脚鳥が、
全然以て甲蟲位ゐにしか見えない。あゝ、崖の中途に、
濱芹を取ってゐる男が埀下ってゐる。危い商賣だなァ!當人の頭よりゃァ大きくは見えない。
濱邊を歩いてゐる漁夫は、鼷鼠位ゐに見える。
あそこの、あの大きな錨を下してゐる船は艀位ゐに小さくなって、艀は浮標ぐらゐ、
いや、目に見えない位ゐに小さい。荒浪がやくざな無數の小石にぶッかってゐるが、
其音が餘り高くも聞えない。あゝ、最早見まい、頭がぐら〜して、目が眩んで、
眞逆樣におッこちるかも知れないから。
- グロー
- おのしの立ってゐるところへおれを立たせてくれ。
- エドガ
- 手をお借しなさい。そら、すぐ一寸ばかり前が崖の端です。 世界中が貰へればからッて、こゝぢゃァ飛び上らりゃしない。
- グロー
- 手をはなせ。……こりゃ、こゝに別の財布がある。此中にある寶石は、貧乏人が貰へば、立派な代物ぢゃ。
神のお惠みで、これを資に榮えをれ!……ずッと彼方へ往ってくれ。 わしに暇乞ひをして往く足音を聞かせてくれ。
- エドガ
- ぢゃァ、旦那、ごきげんよろしう。
- グロー
- きげんよう。
- エドガ
- (傍白)半狂亂になってゐなさるのを、かうして玩弄にするのも、それが治したいばッかりだ。
- グロー
- (膝まづきて)おゝ、天の神々!此生を只今棄てまする、尊神がたのお前で、怨まず、
悲しまず、此辛い重荷を振り落しまする。此上、此重荷を荷ひをりましても、尚ほ幸ひに、
逆ひがたい尊神方の御意に對し、お怨言がましいことを申さないにも致せ、
あさましい燃燼同樣の此體躯が長う燃えつゞいてゐようともぞんじません。
若しエドガーが生きてをりますれば、何卒彼れに幸ひをお與へ下され!…… やい、おのし、さやうなら。
- エドガ
- (遠く離れたらしくもてなして)もうまゐりました。さやうなら。
グロースター絶壁から飛んだ積りにて前へ倒れる。そのまま突ッ伏してゐる。
エドガーは不安の思入れ。
(傍白)だが、命を奪られたい〜と思ってゐる時分にゃァ、
神經の作用で死んぢまふやうなことが無いともいへない。來なすった積りの處へ、實際、來てゐなすったなら、
今頃は全く氣絶してゐなすったでもあらう。生きてゐなさるのか、死んでおしまひになったのか?
……(そばへ寄って、作り聲をして)もし〜、お前さん!こゝなお人!これさ、あんた!
物を言はっしゃい、物を!……(傍白)斯うして眞實に死んでしまひなさるかも知れない。
いや、お氣がついた。……あんたは如何いふお人だ?
- グロー
- あッちへ往け、わしを死なせてくれ。
- エドガ
- 蜘蛛の絲か、鳥の羽か、空氣かなんぞなら知らんこと、あんな高いとこから、墮落ちりゃァ、
卵のやうに摧けッちまふ筈だのに、あんた、息をてゐなさる、身體も重たいし、
血もでないし、物もいはっしゃるし、何のこともない。十本の帆柱を繼ぎ合したとて、
あんたが眞直に落ちて來なすったゞけの高さは出來ない。あんたの助かったのは不思議だ。 もう一度物をいはっしゃい。
- グロー
- 一體、わしは落ちたのか、落ちなんだのか?
- エドガ
- 落ちさっしゃたとも、あの白壁のやうな斷崖の頂上から!
高ァく見上げて見さっしゃい。すゝどい聲して啼く雲雀が、遠くッて見えもせなけりゃ、 聞えもせない。つい、見て見さっしゃい。
- グロー
- あゝ、見る目はないのぢゃ。……あゝ、不幸なものは、
死んで其熾s幸を絶つだけの利益さへも得られんのか?虐君の目を拔いて、自殺をして、
其高慢の鼻をあかすことが出來れば、不幸の中にもまだしも慰藉があるのぢゃけれど。
- エドガ
- 手をお貸しなさい。さ、起きたり。さう。どうだね?脚が立つかね?や、起てた。
- グロー
- よう起てる、よう起てる。
- エドガ
- こりゃァ不思議なこッた。あの斷崖の頂上で、 最前あんたに別れていったのァ、ありゃ何者だね?
- グロー
- 憫然さうな不運の乞食ぢゃ。
- エドガ
- こゝで立って見てゐると、どうやら彼奴の目は二つの滿月のやうに見えた。
鼻が千もあって、角がねぢれて、荒れた海のやうに波を打ってゐた。
ありゃ惡魔に相違ない。お父さん、あんたは幸福な人だ、こりゃ、何だ、
人間の爲得ないことをしてのけさっしゃる何事も見透しの神さまが、あんたを助けさっしゃったんだよ。
- グロー
- やッと今正氣に復った。これからは、苦患其者がわしに向って、
「もうよい、死ね」と呼び立てるまでは、忍びませう。お前さんが話の其者を、
わしは人間ぢゃと思ふてゐた。さういへば、折々惡魔が惡魔がといひをった。 あいつがわしをこゝへ伴れて來たのぢゃ。
- エドガ
- 氣を落着けて、心安く思ってござれ。……や、誰れだ?
リヤが種々の雜草の花を以て竒怪な風に身を飾って出る。
正氣なら、あんな風には着飾りはすまい。
- リヤ
- (幻影を相手にして)うんにゃ、貨幣を鑄造へたからというて、
俺を如何することも出來んわい。俺は國王ぢゃぞ?
- エドガ
- おゝ、此腹が裂けさうだ!
- リヤ
- (幻影を相手に)其點に於ては、自然は人工以上である。……そら其方の手附ぢゃ。
……あいつの弓を使ひやうは鳥威しのやうぢゃ。……三尺のを引け。……
(急に聲をひそめて)あれ〜、鼠ぢゃ。叱々!炙った乾酪の此一片なら大丈夫。
……(俄かに大きな聲にて)そら、手袋を投げたぞ。巨人が來ようとも、
敵手にならうわい。……褐色の矛を持って來い。……おゝ、よう飛んだな、鳥めが!
的に、的に!……ひゅう!……(ふとエドガーに目をつけて)合言葉を言へ。
- エドガ
- 甘いマーヂョラム。
(マーヂョラムは花薄荷と譯する草。)
- リヤ
- 通れ。
- グロー
- あの聲には記憶がある。
- リヤ
- (グロースターに目をつけて)や!ゴナリルぢゃな。……白い髭を生しをって!……
俺にみんなが、犬のやうに諛ひをって、貴下さまは、まだ黒いのが生えませんうちから、
お髭に白い毛が生えましたなぞと言ひをった。俺のいふことゝいへば、何でもかでも口眞似をして、
「はい、さやうでござります」の「いゝえ、さやうぢゃござりません」のいひをった。
その「はい」や「いゝえ」も、大まやかしの信仰三昧であったんぢゃ。雨でびしょ濡れになって、
風で齒ががた〜とふるへた時、俺は雷に鎭りをれと言うた。けれども鎭らなんだ。
で俺ァ悟った。嗅ぎ附けてくれた。へッ、あいつらの言ふことは決してあてにゃならん。
あいつらは俺を萬能ぢゃとおひをった。譃ぢゃ、俺も瘧をふるはん譯にゃいかん。
- グロー
- あの聲はよう記えてをる。王ぢゃないか?
- リヤ
- さうぢゃ、悉く王ぢゃ。俺が睨むと、見い、臣下どもは皆ふるへをのゝくわい。……
そやつの一命は赦し遣はす。……汝の訴訟は何ぢゃ?姦通?……
死刑には及ばんわい。姦通に死刑といふことはない。いや〜、鷦鷯もする、
小さな金ぴかりの蠅も、予の面前で行ふてをるわい。……熾んに行らせたがよい。 現にグロースターの妾腹は、
正當な閨房のうちで生せた予が女兒どもよりも其父に對して孝行であったわい。
行れ、好色徒等、めちゃ〜に行れ! 兵士が足らんからなう。見い、あの作り笑ひをしてをる夫人を。
襟飾の間から、妾ゃ雪よりも清淨ぢゃといはんばかりの貞女めかした顏を出して、
淫事なぞは聞くも穢はしいと氣取ってゐるが、……淫慾にかけては、
臭猫や飽滿食った馬もそこのけぢゃ。胴から下は半人半馬ぢゃ。
上のはうは女でも、只帶際までを神にいたゞいて、其以下は悉く惡魔に貰ふたのぢゃ。
そこらは地獄ぢゃ。眞昏闇の硫黄坑に火が炎々と燃えあがって、惡臭や腐爛や……
おゝ、穢な、おゝ、穢な!ペッ、ペッ!……麝香を一オンスばかり持って來てくらい。
おい、藥劑商、心持を治してくれ。さァ〜、代を遣る。
- グロー
- あゝ、もし、お手に接吻いたしませう?
- リヤ
- まゝ、待ってくれ、ちょッと拭ふ。死人の臭がするから。
- グロー
- (膝まづいて、王の手に接吻して)おゝ、これぞ即ち崩れてゆく大自然の面影ぢゃ!
此大世界も、竟に斯うして無に歸してしまふのであらう。…… 私を御存じでござりますか?
- リヤ
- 其目附を善う記えてをる。や、色目を使ひをったな?いや〜、おのれ、
どのやうに惡戲をしをっても、キューピッドめ、俺は女なんぞには惚れんぞ。……
こりゃ此決鬪状を讀め。ま、其文章に注意せい。
- グロー
- 一字々々が日輪であったとても、私には見えませぬわい。
- エドガ
- (傍白)これを人傳手に聞いたのなら、迚も信じ得ないであらうが、
現在事實なのだから、心臟が破れさうだ。
- リヤ
- 讀め。
- グロー
- えッ、此脱殼の目で以て?
- リヤ
- おほう!果してさやうか?頭に目がなうて、財布には金がない?すれば、其方の眼病は頗る重いんぢゃが、
財布は輕いな。でも、世の成行きだけは見えるらしいなう?
- グロー
- そりゃ感じてをりまする。
- リヤ
- や、そちは氣が狂うてをるのか?世の成行き位ゐは、目がなうても、見える筈ぢゃに。耳で見い、耳で。
あそこにをる裁判官が、あの馬鹿な盜賊をばやかましう叱ってをる。聞け、耳で。
さ、とっかへべいだぞよ。てんがらどんがら。さ、どッちが裁判官ぢゃ、どッちが盜賊ぢゃ?
……やい、おのしは、農家の飼犬が乞食に吠えかゝったのを見つらうの?
- グロー
- はい、見ました。
- リヤ
- その乞食が怖がって逃げをッつらうな?それが官權の大きな影法師なんぢゃ。
犬でも、職權で吠えれば人が順ふ。……やい、おのれ、獄卒め、その殘忍な手を止めい!
なんで其賣女を打擲するんぢゃ?うぬが背中にこそ笞をあてをれ。淫を賣ったからッて、此女を打擲しをるが、
内々には自身其女を買ひたいと思ふてをらうが、汝!……高利貸が詐欺師を刑に處する。
襤褸を著てをると、大きな惡徳が破れ目から見えるが、大禮服や毛皮の長上被を著てをると、
何もかも隱れる。罪惡に被らすに金甲を以てせい、法律の鋭い鑓尖を能う傷つけいで折っれてしまふ。
それを襤褸で包むと、小人島の藁しべでも貫く。誰れにも罪はない、誰れ一人罪人ではない。
予が保證するわい。安心せい、予は告發人の口を緘まする權力を有する者ぢゃ。……
(グロースターに)硝子の眼玉でも手に入れたがよい、さうして下等な策士のやうに、見えもせん癖に、
何もかも見透いてゐるやうにもてなしたがよい。……さ、さ、さ、さ。長靴を除ってくれ。 もっときつく、もっときつく。さう。
- エドガ
- (傍白)條理と不條理とが混淆になってゐる!狂氣の中にも理性が働く。 (狂人語の中にも道理がある。)
エドガーも。グロースターもこらへかねて泣く。
- リヤ
- おれを氣の毒に思ふて泣いてくれるんなら、此目を遣らう。……俺は汝をよう存じてをる。
汝はグロースターぢゃ。是非には及ばん、忍耐せい。
人間は皆瑯jきながら世界へ出て來たんぢゃ。な、さうぢゃらう、はじめて空氣を嗅ぐ時分に、
吾々は皆な號く、おぎゃァおぎゃァと。さ、汝に説法をして聞かせる。聽いてゐい。
- グロー
- あゝ〜、情けないことぢゃ!
- リヤ
- 吾々は生れると號く、なんでこんな阿呆ばかりの大舞臺へ出て來たかと思ふて。……
や、こりゃ良い山形ぢゃ。氈で以て騎兵の馬の沓を包む、そいるは巧い謀計ぢゃわい。
實驗して見よう。……さうして窃と、婿共の寢込みへ押寄せたが最後、それ、やッつけろ、 やッつけろ〜〜!
一紳士がコーディーリャの侍士大勢と共に出る。王を呼び迎へるために來たのである。
- 紳士
- おゝ、あそこにいらせられる。……(リヤに)あゝ、もし、姫君さまからの……(と王を取り圍む。)
- リヤ
- や、助けてくれ。助けてくれんか、誰れも?捕虜になってしまうたか?
俺は運命の玩弄に生れたのか!……大切に取扱ふてくれ、賞金は遣はさうから。
下科醫者を呼んでくれい。頭を眞二つに切られてしまうた。
- 紳士
- 何事でもお望み通りにいたしまする。
- リヤ
- だれも救ひに來ちゃくれんのか?俺一人ッきりか?(涙を流しつゝ)こりゃもう人を涙だらけにしてしまふわい、
人の目を水瓶の代りにして、秋の花畠の塵埃おさへに使ふやうにもならうわい。 さうぢゃ、塵埃おさへに。
- 紳士
- あゝ、もし……
- リヤ
- 俺は立派に死んでくれる、飾り立てた花婿のやうに。……何ぢゃ!愉快にしようわい。
こりゃ〜、俺は王ぢゃぞよ。君がたは知っとるかそれを?
- 紳士
- はい、王さまでいらせられます。何なりと御用を仰せ附けられませ。
- リヤ
- あゝ、それで助かった。……さァ、取れ、競走で取れ。さ、さ、さ、さ。
王が走って入るので、侍士ら負ふて入る。
- 紳士
- (獨白)極下賤のものだってあの有樣ぢゃァ氣の毒千萬!それだのに、國王の御身分、
はてさて言語道斷!幸ひ貴下さまにゃ善い女兒おありなさるので、
其御孝心で、他の二人の不孝者が女性に與へた惡名も雪がれるといふもの。
此中エドガーが前へ進む。
- エドガ
- 今日は。
- 紳士
- や、今日は。何ぞ用かね?
- エドガ
- 戰爭が始まりかゝってゐるやうな事をお聞きぢゃございませんか?
- 紳士
- そりゃもう定り切った話だ。耳のある者は、とうに承知してゐる事だ。
- エドガ
- 先方の兵は那邊まで來てをりますか、どうかお聞かせ下さいまし。
- 紳士
- もう近邊まで來てゐる、しかも早足で。今に本軍がやって來るだらう。
- エドガ
- あるがたうございました。只それだけです。
- 紳士
- お妃は仔細あって此處にお滯留だが、兵は進發する筈だ。
- エドガ
- ありがたうございました。
紳士入る。
愁に沈んでゐたグロースターが此時膝まづいて神に祈る。
- グロー
- お慈悲ぶかい天の神々、此息をお引取り下されませ、又ぞろ惡い魂めにそゝのかされて、
御意を待たいで死なうとするやうなことがあっては相なりませんによって!
- エドガ
- お父さん、ようおっしゃった。
- グロー
- 時に、お前さん、お前さんは、一體、どういふ人ぢゃな?
- エドガ
- 見るかげもない男でございますが、運命の打撃に馴らされ、艱難辛苦を經驗して、其味を知ってますので、
他人の不幸をも思ひやりますのです。手をお貸しなさい、 どこかの宿へ伴れてってあげませう。
- グロー
- かたじけなうござる。天の御恩澤、いやが上にも、いやが上にも!
オズワルドが出る。
- オズワ
- 懸賞のお尋ね者!こいつァ幸運だ!もと〜お前の其盲目頭は、 俺を立身させるために造られたのだらう。……
劍を拔いてグロースターに對って
やい不幸な、老ぼれの謀叛人め、手ッとり早く、簡單に觀念しろ。 汝の命を取る劍はもう鞘を離れた。
- グロー
- さ、さ、其深切な手に十分力を籠めてやって下さい。
オズワルドはすぐ進んで斬らうとする。とエドガーが躍り入ってグロースターを庇ふ。
オズワルドが怒って
- オズワ
- 無禮な土農夫め、お尋ね者の謀叛人を、何で庇ひ立てしをるのだ?
退るをらんと、不幸のまきぞへを食はにゃァならんぞ。其手を離せ。
- エドガ
- 離さねえ、それッきりのこんぢゃァ離さねえ。
- オズワ
- 離せ、奴隸、離さんと、命が無いぞ!
- エドガ
- 旦那、お前さま勝手に其方さ往って、下の者通らせたがよかっぺい。
大言で吹ッ飛ばされて人がおッ死ぬべいもんなら、おれ、はァ、二週間も前に方附いてをたゞんべい。
どっこい、寄らせねえ、此燔V翁の傍へは。どかっしゃい。どかっしゃらねえと、おれ、
お前さまの其林檎頭のはうが堅かんべいか、此棒が堅かんべいか、試して見るだ、 おれ、手ッ取り早いことが好きだからね。
- オズワ
- うぬ、塵埃野郎め!
- エドガ
- それだら、おれ、お前さまの前齒ぶちぬいてくれべい。さァ。 如何樣に突きこくったって關はねえだ。
エドガーは棒を、オズワルドは劍を以て挌闘る。とゞ、オズワルドは棒でなぐり倒される。
- オズワ
- 畜生、やりゃァがったな。……(財布を取出して)やい、此財布を持ってけ。 若し榮えようと思ふなら、おれの死骸を葬ってくれい。
さうして俺の身邊にある書状をグロースター伯エドマンドさんへ渡してくれ。
イギリス方へ往って尋ねると分る。……おゝ、こゝで死なうとは思はなかった。こゝで死なうとは……
オズワルド息絶える。
- エドガ
- 俺は汝をよく知ってゐる。惡人から言やァ、理想的に女主人の惡事を助けて、忠勤を勵んだ奴だ。
- グロー
- え、死んだか?
- エドガ
- お父さん、ま、さうして安心しておいでなさい。……懷中を査べて見よう。
其手紙とかゞ此方の役に立つかも知れない。死にゃがった。 他の下手人の手にかゝらせなかったのが殘念なばかりだ。かうッと。
(死人の懷から書状を取出して)封蝋どん、ゆるしてくんな。禮儀作法よ、非難するな。
敵の心を知る爲にゃァ心臟だって切裂くんだ。手紙くらゐは當り前だ。
(讀む。)互ひの誓約を忘れたまふまじく候。彼人を押方附けたまふべき機會は屡々あるべし。
御許の決心さへ確かならば、時も場所も裕かに供せられ候はん。
彼人勝利を得て歸り候ふやうなれば、何一つ成されたることもなく、妾は囚人にして、
彼人の寢床は獄なり。其嫌はしき温みより妾を救ひて、
入り代り、それを其勞の報酬としたまへ。
御許の……妻と名宣らんとする……
妾婢ゴナリルより。
おゝ、無分別な、限界の知られない女の慾心!あの君子人の夫を殺して、
人もあらうに、俺の弟と取換へやうといふ奸計だ!
(オズワルドの死骸を見かへって)こゝに、此砂のなかに、埋めておいてやらう、
殘忍な姦婦姦夫の飛脚を務めた穢はしい奴。さうして時機を見計って、 此破廉恥な密書を見せて、殺されかけてゐる公爵を驚かさう。
汝の用向や死んだことを彼人に話すことが出來て、好都合だ。
- グロー
- 王はお氣が狂うた。俺のあさましい感覺は、どうして斯う根強う持ちこたへてゐて、
大きな苦しみや悲しみを一々細かに感ずるぞい?寧そ氣が狂ひたい。すれば、
此心が悲しみから引分けられ、神經が狂うてしまへば、不幸も忘れられてしまふであらうに。
奧にて陣太鼓の音。
- エドガ
- 手をお貸しなさい。遠くで陣太鼓の音がするやうです。さァ、お父さん、
どこか親切な知人の許へ、お前さんをあづけませう。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第四幕 第七場
第四幕
第七場 フランス陣營中の天幕。
-
臥床の上にリヤが眠ってゐる。靜かな音樂。一紳士及び他の者共が侍してをる。
コーディーリャ、ケント、及び侍醫が出る。
- コーデ
- おゝ、ケントどの、いつまで生き、どのくらゐ力めたなら、 貴下の此度の忠節に報いられますことやら?
わたしの壽命や力量では迚も足るまいと思ひまする。
- ケント
- お認めにあづかりますれば、それが十分のお報酬でございます。
お知らせ申しました事は、總て増しも縮めも致さぬ穩當な有りのまゝの事實でございます。
- コーデ
- ま、其服をお改めなさい。それは不幸の記念です、どうぞ早う脱ぎ棄てゝ下さい。
- ケント
- 今暫くの間御免蒙りませう、只今本名を知られましては、豫ての計画の妨げとなりますから。
私が適當と考へまする時機の參るまでは、御存じなき體におもてなしのほどを、 御恩惠として願ひまする。
- コーデ
- では、其樣なされたがよい。……王の御樣子は如何なぢゃ?
- 侍醫
- 靜かにお眠っていらせられます。
- コーデ
- おゝ、大慈大悲の神々、 虐待の爲に怖ろしう殘害はれました身體や精神を何卒お治し下されませい!
おゝ、幼兒に變った父の、調子外れの感覺を、どうぞ卷き戻して下されませ!
- 侍醫
- いかゞ致しませう?お起し申しませうか?もう久しう御寢なりました。
- コーデ
- 汝の智識で心任せにはからうたがよい。……お更衣は濟みましたか?
- 紳士
- 濟みましてございます。御熟睡中に新しい衣服をお被せ申しました。
- 侍醫
- お起し申します際に、お立合を願ひますうる。 必ずお沈靜遊ばしていらっしゃいませう。
- コーデ
- よろしい。
- 侍醫
- どうぞお近く。……(奧にむかひて)音樂をもっと高く!
- コーデ
- (リヤの臥床に近寄って、眠顏を眺めて)おゝ、お父さま、私の脣に貴下を本復させまする藥力が籠って、
暴虐な姉逹二人が御老體に蒙らせました大傷害を、何卒此接吻でお治らせ申しますやう!
- ケント
- あゝ、御孝心の深い姫君!
- コーデ
- たとひ貴下がお父さんでなかったにせい、此白い髮やお鬚を見たなら、
お氣の毒と思はねばならない筈ぢゃに。此お顏をば、荒れ狂ふ雨風にお曝しなされたか?
あの怖ろしい石火矢を降らす雷に?あの迅速な、鋭い、すさまじい電光に?
夜の目もお合せなさらいで、命知らずの者のやうに?此薄手なお兜ばかりで? 敵の家の飼犬でも、わたしを咬みをった犬ぢゃとても、
あのやうな晩ならば爐火にあたらせてやったであらうに、それぢゃのに、お父さま、よう、
まァ、貴下は辛抱して、乞食や非人と一しょに、黴臭い藁にくるまって、
むさくるしい小屋でお休み遊ばしたなァ!あゝ、あゝ!お正氣と一しょにお命がなくならなんだのが不思議ぢゃ。
……お目が覺めたやうぢゃ。申し上げて見い。
- 侍醫
- 御前さま、あなたがおっしゃりましたはうがよろしうございます。
- コーデ
- 御前、お氣分は、いかゞでございます?
此時、リヤはじめて目を開く。
- リヤ
- 墓からわしを伴れ出すには餘りぢゃわい。……貴女は天人ぢゃな。
わしは、火の車に縛られ、涙を落すといふと、それが悉皆溶けた鉛のやうになって、 身を焦さんけりゃならんおぢゃ。
- コーデ
- 私をごぞんじでございますか?
- リヤ
- お前さんは精靈ぢゃ。いつ死なしゃった?
これにてコーディーリャは絶望の思入れをして
- コーデ
- まだ〜、中々!
と歎息するのを侍醫が慰めて
- 侍醫
- まだようお目が覺めんのでございます。暫くお心任せにしておゝき遊ばしませ。
此間、リヤは四方を見廻してゐたが
- リヤ
- 俺は今まで何處にゐたか?此處は何處ぢゃ?や、日光が射す?
俺は怖ろしう玩弄にされてゐるのぢゃ。他人がこんな目に遭ふのを見たら、
氣の毒で〜堪らんであらうに。何したのか分らん。これが自分の手であるとは俺ァ能ういはん。
かうッと。……此針で刺すと……痛い。……俺は今、どうしてをるんぢゃ、たしかなことが知りたい、 たしかなことが!
- コーデ
- おゝ、わたくしを御覽なされませ。さ、こゝへ手をかざして、祝福して下されませ。……
とコーディーリャが膝まづくと、王も共にひざまづかうとする。それをとめて
いゝえ、そんあことをなされては不可ません。
- リヤ
- どうぞ、弄って下さるな。わしは馬鹿ァな、たはけた老人でござる。八十以上の、一時間でも、
それよりは多くもなければ、少なくもない。そして、正直にいふと、わしァどうやら氣が狂れてをるやうぢゃ。
お前さんも、此人も、わしァ知ってをるやうに思ふけれど、どうも曖昧ぢゃ。なぜならば、第一、
こゝは何處ぢゃか、わしは全然知らん。又、有ったけの智慧で考へても、
此被服を記えてをらんし、昨夜何處で泊ったかも記えてをらん。
笑ふて下さるな、わしァ眞實に、此お方は、わしの兒のコーディーリャのやうに思ふ。
- コーデ
- そのコーディーリャでございます。そのコーディーリャでございます。
コーディーリャは臥床にすがって泣く。
- リヤ
- 涙を流してぢゃな?おゝ、涙ぢゃ。どうぞ泣いて下さるな。お前さんが毒を飮めといへば、
わしァそれを飮みまする。お前さんはわしを愛してはをらん筈ぢゃ。何故なれば、姉のやつらは、たしか、
わしを酷い目に遭はせをったやうに思ふ。お前はわしを憎む理由があるが、あいつらには無いのぢゃ。
- コーデ
- 何の憎む理由がありませう、何の憎む理由がありませう。
- リヤ
- 俺はフランスへ來てをるのか?
- ケント
- 御本國にいらせられるのでございます。
- リヤ
- えィ、だますな。
コーディーリャが絶望して又歎息するのを
- 侍醫
- (慰めて)まァ〜、お心強う思し召しませ。はげしい御亂心は、御覽の通り、お鎭りなされてゞございます。
急に、何もかも御諒解遊ばすやうに強ひ申しますのは危險でございます。
奧へ入らせらるゝやうお勸め遊ばされまして、も少しお鎭りになりますまでは、何も仰せられぬが宜しうございます。
- コーデ
- あちらへ入らせられませんか?
- リヤ
- 堪忍してくれんければならんぞよ。どうぞ忘れてくれい、恕してくれい。 わしァ齡を取った馬鹿ァなもんぢゃによって。
ケントと紳士の外は皆入る。
- 紳士
- コーンヲールの公爵が殺されたといふのは事實ですか?
- ケント
- たしかな事です。
- 紳士
- ぢゃ、誰れが其部下の兵をひきゐてゐます。
- ケント
- 噂では、グロースターの庶腹の倅が。
- 紳士
- 世間ぢゃ、勘當された本妻腹のエドガーは、ケントの伯と共に、ヂャーマニーにゐるとか言ひますが。
- ケント
- 世評はあてになりませんて。……時に、油斷しちゃをられませんぞ、敵軍はずん〜近寄って來ます。
- 紳士
- 殘酷な結果になりさうです。ごきげんやう。
紳士入る。
- ケント
- 今日の一戰で、よかれ、あしかれ、とにかく段落が著くであらう。
ケントも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第五幕 第一場
第五幕
第一場 ドーワ゛ーに近きブリテン軍の陣營。
-
鼓手、旗手をひきゐてエドマンド、リーガン、士官ら、兵士ら出る。
- エドマ
- (士官に)公爵の許へ往って、承知ってまゐれ、先般の御案通りであるか、
又は其後何等かの理由で方針を變へられたかどうかを。自分自身でしたことを非難して、
始終變へてばかりをられる。確定したところを承知って參れ。
命を受けて一士官入る。
- リガン
- 姉上の家來は、何か(途中で)間違ひが生じたのに相違ない。
- エドマ
- さうかも知れません。
- リガン
- (うちとけて)エドマンドさん、 貴下はわたしが貴下に對して好意を有ってることはごぞんじでせう。
おっしゃいよ……眞實の事を……事實そのまゝでなくては不可ませんよ。……
貴下はわたしの姉を愛していらっしゃるの?
- エドマ
- さ、姉上として、愛してゐます。
- リガン
- 兄上でなくっては入られない處へお入りなすったことはなくって?
- エドマ
- とんでもない事をおっしゃる。
- リガン
- わたしは心配でなりません、貴下は殆ど夫婦と呼んでよいほどに、
姉と同心一體ぢゃァないかと思って。
- エドマ
- 決してそんなことはありません。
- リガン
- わたしは決してそんな眞似を姉にさせてはおきません。貴下、姉とは親しんで下さいますな。
- エドマ
- 大丈夫です。……(奧を見て)お姉上とおつれあひの公爵!
鼓手、旗手をひきゐてオルバニー、ゴナリル、及び兵士ら出る。
- ゴナリ
- (二人の樣子を目早く見て、傍白)妹めに、あの人との仲を邪魔されるくらゐなら、 今度の軍に負けたはうがよい。
- オルバ
- リーガンどの、めでたうお目にかゝりまする。……(エドマンドに)うけたまはれば、
王は我が苛政に憤激せる不平黨に擁せられて、其女コーディーリャ方へ赴かれたとの事だ。
正義と信ずるに至らんうちは、勇斷を致しかねるのが吾等の性質ですが、此度の事は、
フランス王が、王を助くるのを本意とはせずして、敢て我が國を侵掠しようと企てるのであるから、
棄て置かれません。王及び其黨與に至っては、正當な且つ重大な理由があって干戈を動かされたのであるから、
これに刄向かふことは……
- エドマ
- (冷笑して)いや、實に公明正大なお考へです。
- リガン
- そんな事ァ如何でもいゝぢゃありませんか?
- ゴナリ
- 只協力して敵を防げばいゝのですよ。内部の、個人に關することは當面の問題ぢゃありません。
- オルバ
- では、老功の者を輯めて、會戰の手續きを定めませう。
- エドマ
- すぐさま御陣所へ參りませう。
- リガン
- 姉上、いらっしゃいませんか?
- ゴナリ
- いゝえ。
- リガン
- いらっしゃったはうが都合がようございますから、どうぞ一しょにいらっしゃって。
- ゴナリ
- (傍白)おほう、其謎は解ってますよ。……參りますよ。
一同が入らうとする時、假裝したエドガーが出る。最もおくれて入らうとするオルバニーに對って
- エドガ
- かやうな賤しい者にもお目を賜はりまするならば、一言申し上げたいことがございます。
オルバニーは、立止まって、先きに立ってゐる人々に
- オルバ
- ぢき追ひ附きますよ。……
皆々入る。オルバニーとエドガーだけが殘る。
申せ。
- エドガ
- 御開戰以前に、此書面を御覽下さい。若し御勝利でございましたら、
喇叭を以て此書を持參しました私をお呼び出し下されたい。
見るかげもない私でございますが、書中に誓ひおきましたる事程は、
見事に劍を以て證明して御覽に入れまする。萬一にも御敗軍となりますれば、此世に關する御能事は終り、
隨って陰謀も止みまする。御幸運に渡らせられまするやう!
- オルバ
- 此書を讀み了るまで待ってをれ。
- エドガ
- それは相叶ひません。其時刻となりましたら、傳令使に命じてお呼び立て下されませ、 すれば再びお目にかゝりまする。
- オルバ
- では、きげんやう。書面は讀みおくであらう。
エドガー入る。
エドマンドが出る。
- エドマ
- 敵は迫りましたぞ。備へをお立てなされ。勤勉な斥候の此報告で、敵軍の兵力其他確實な事が分ります。
(書面を渡す。)お急ぎを願ひます。
- オルバ
- 勇んで出陣しませう。
とオルバニー入る。
- エドマ
- (皮肉な笑ひを浮べて)姉にも妹にも夫婦約束をしておいたので、互ひに危み疑ってゐる、
一度さゝれた者が蝮をあやぶむやうに。どッちを取ったものか?兩方ながらか?
かた〜か?どちらも止すか?兩方を生しておきゃ、どちらも此方の有にゃならん。
未亡人のはうを取りゃァ姉のゴナリルが憤激して狂人のやうになる。かと言って、
所天が生きてゐて見れば、此方の手もまづしと。まづ、ともかくも、
戰爭中はあの男の助けを利用することにして、戰ひが濟んだら、夫を邪魔物にしてゐるあの女に工夫させて、
手早く押方附けることにしよう。あの男は、リヤやコーディーリャに慈悲を施さうとしてゐるが、……
戰爭が濟んで、あいつらが捕虜となった曉にゃァ……赦免なんぞさせるこッちゃない。
おれの今の境遇は厲行が肝腎だ、ぐづ〜考へてゐべきぢゃァない。
エドマンド入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第五幕 第二場
第五幕
第二場 兩軍の間の平野。
-
奧で警鐘鼓を亂打する。鼓手、旗手をひきゐてリヤ、コーディーリャ、兵士らが出て、 舞臺を渡って入る。
エドガーとグロースターが出る。
- エドガ
- お父さん、こゝの此木の蔭を深切な宿にして、正しいはうが勝つやうにと祷って
ござらっしゃい。今に吉い左右を持って戻って來ます。
- グロー
- 御機嫌よう往ってござれ!
エドガー入る。
奧で警鐘鼓を亂打する。エドガー又出る。
- エドガ
- お老爺さん、逃げた〜。手をお貸しなさい。あッちへ〜!
リヤ王がお負けなされて、王もおむすめ御も捕虜におなんなすった。手をお貸しなさい。さァ〜。
- グロー
- 予ァ動かん。此儘立腐れに死なれさうなものぢゃ。
- エドガ
- え、また不良い料簡を起しなされますか?人間は死ぬも生れるも自分勝手にはならん筈です。
何事も覺悟が第一。さァ、おいでなさい。
- グロー
- なるほど、それも道理ぢゃ。
二人とも入る。
更新日: 2003/02/16
リヤ王:第五幕 第三場
第五幕
第三場 ドーワ゛ーに近きブリテン軍の陣營。
-
凱旋の體にて、鼓手、旗手をひきゐてエドマンドが出る。
あとに續いて、リヤとコーディーリャが捕虜となって出る。
部將、兵士ら大勢。
- エドマ
- 役人共は捕虜を引ッ立てろ。彼等を處分すべき上官の意嚮の知られるまでは、よく番をしろ。
- コーデ
- 志望正しうして最惡の運命に遭遇うたはわたしたちが最初ではない。
かさね〜゛不幸なお父さま、あなたの事を思ふので、我も意地も挫けます、わたしばかりなら、
輕薄な運命の苦い顏をも、見事に睨み返してやるのですが。お姉えさんたちに逢はうとは思し召しませんか?
- リヤ
- 否々々々々。さァ〜、牢へ往かう、牢へ。二人ッきりで籠の中の鳥のやうに歌を唄はう。
そなたが祝福してくれとわしに頼む時には、わしが膝を突いて、恕してくれとそなたに頼まう。
さうして日を送って、祈祷をしたり、歌を唄ふたり、昔話をしたり、あの金燦爛の蝶々めを笑ふたり、
憫然な奴輩が來て宮中の噂をするのを聞いては、其相手になって、
誰れは勝つの、誰れは負けるの、誰れは盛えるの、誰れは衰へるのと、神さまの斥候でゝあるやうに、
世の成行の祕密をも預言せう。さうして四方壁の牢屋の中で長生をして、
月の光りで滿干する頭領連の黨派爭ひや其衰滅の跡をも見よう。
- エドマ
- 彼等を引ッ立てろ。
- リヤ
- コーディーリャよ、此樣な犧牲に對しては、神樣自身で薫物を投入れて下されう。
え、俺ァおのしを捉へてをるか?二人を引分けうとする奴は、天火でも持って來ねばなるまい、
狐を獵り出すやうに。涙を拭きゃれ、涙を。あんな奴輩に泣かされるもんかい。
こちとらが泣く前に、あいつらは肉も皮膚も黴毒で腐りをらう。
あいつらの飢死しをるのを必定先きへ見ようわい。さァ、來やれ。
リヤとコーディーリャは引ッ立てられて入る。
- エドマ
- 部將、こゝへ來い。こら。此書面を持って、彼等の後を追って牢へ往け。
お前の爲に、一歩昇進の道を開いておいた。此書中に命じてある通りに實行すりゃ、出世が出來るぞ、立派に。
人間は時勢に從はなくちゃァいかん。女々しいのは武士にゃァ似合はん。
此重大な用向は是非の議論を容さんから、奉ずりゃ可し、奉じないなら、立身の途は別に求めろ。
- 部將
- 謹んで奉じます。
- エドマ
- 早くしろ。しおほせたら、幸福を得たと思ふがいゝ。いゝか?直ぐだぞ。書中通りに取計らへ。
- 部將
- 荷車を牽いたり飼葉を喰ったりは出來ませんが、人間のする爲事ならば致します。
部將入る。
喇叭。オルバニー、ゴナリル、リーガン、一部將及び兵士ら出る。
- オルバ
- (エドマンドに)勇敢な血統をお示しなされた今日の働き、運命の神に愛されて、
當の敵リヤ王父子を捕虜となされたはお手柄でした。此上は、あの人々の身分と吾々の安寧とを雙方平等に考へ合されて、
御處分なさるやう望みまする。
- エドマ
- 自分は、あのみじめな老王は、當分然るべき處に幽閉して、きッと守らせておくのが當然だらうと考へました。
高齡のゆゑに、一種の魔力がありまするのに、王號がある。かた〜゛、愚民の心を引附け、
吾々が募集し命令してをる者の鎗尖を吾々へさしむけさする虞れがあります。
妃をも王と共に送りました。理由は同一です。明日なり、其後なり、裁判廷をお開きになりゃ、すぐに呼び出します。
今は誰れも、彼れも、血と汗に塗れてゐます。友を失ってゐない者は一人もありません。
正義の戰爭でも、害を蒙ることの甚しい者には、少くも其當座は呪はれるのが定りです。
コーディーリャ父子のことは他日に讓りませう。
- オルバ
- (儼然なって、口吻を改めて)失禮だが、自分は君を、今度の戰役では、配下だと考へてゐる、
同僚とは見做してをりませんぞ。
- リガン
- (急に横合から)それは自分の待遇次第に因ることです。
先づ自分の意志をお問合せあってこそ當然と存じます、それほど斷言なさいます前に。
エドマンドどのは私共の部下の兵を統率ゐたしをられます上に、
自分から全權を委託されてをられます。それほど自分と密接な關係を有ってをられます以上、
あんたと同列なのです。
- ゴナリ
- (目に角立てゝ、これも横合から)あんまりお逆上でない。お前さんのお庇を蒙らんでも、
エドマンドどのは其位ゐの資格はあります、御自分自身の徳で。
- リガン
- いゝえ、わたしの附與した權利で、最上位とも同輩になるのです。
- ゴナリ
- あんたの御所天になったっても、それ以上にゃァなれないのね。
- リガン
- 嘲弄の積りが預言になることもありますよ。
- ゴナリ
- おい〜!そんな預言をさせる目は斜視ですよ。
- リガン
- (傲然として)貴下、今は氣持がわるいから言ひませんけれど、でなきゃ存分申すことがあるんです。
……(エドマンドに對って)將軍、わたし、貴下に、部下の兵も、捕虜も、世襲權も悉くお渡し爲ます。
世間の人々を證人にして、こゝに私は貴下を殿御と定め、主君と崇めまする。
- ゴナリ
- 見事、つれそへる積りかい?
- オルバ
- (ゴナリルに)それを止めることは貴女の御好意では出來ませんよ。
- エドマ
- (オルバニーに)貴下にだって出來まい。
- オルバ
- 默れ!……止めて見せる。
- リガン
- (エドマンドに)陣太鼓を鳴らさせて、貴下の權利を確定なさい。
- オルバ
- 待て、暫く。……其仔細は……(エドマンドに對って)エドマンド、大叛逆の罪で捕縛するぞ。
其方と共に(ゴナリルに指さして)此煖燻W爛の蛇をも。……(リーガンに對って)
妹御よ、折角のお求めだが、貴女のお求めは、妻の權利の故に異議を申し立てます、
妻は此卿と婚約を結んでゐますから、夫たる自分が貴女の結婚宣言に反對します。
再縁がお望みなら、手前へお申し込みなさい。妻は約束濟です。
- ゴナリ
- (輕蔑の口吻で)ま、お茶番!
- オルバ
- グロースター、汝は幸ひに武裝してゐる。喇叭を吹かせい。決鬪して、汝の種々の、
惡むべき、明白な叛罪を證明する者が出て參る筈だ、が、若し參らんやうなら、
さ、予が約束する。(と手袋を地に抛って)予は聖餐を味ふに先き立ち、汝は、
今予が宣告した通りの惡人であることを、劍を以て汝の心臟に證明しよう。
この以前からリーガンは腹痛に苦しみ思入れ、こなし。此時、痛みが甚しくなったる體。
- リガン
- くるしや!おゝ、くるしや!
先刻からリーガンの樣子を尻目にかけてゐたゴナリル
- ゴナリ
- (傍白)さうなくッちゃァ妙藥もあてにならない。
此途端、エドマンドも手袋を地上に抛って
- エドマ
- さ、これが自分の約束だ。俺を叛逆人なんぞと呼ぶ奴ァ何者だか知らんが、大虚言者だ。
喇叭を吹いて呼び出せ。出て來りゃ、そいつでも、どいつでも、敵手にして、 きッと黒白を分けて見せる。
- オルバ
- おい〜!傳令使!おい〜!
- オルバ
- 自分一個の力を頼むがいゝ。汝の部下は、何れも予の名義で徴募した兵なのだから、
予が名義で暇を遣はしてしまった。
リーガン苦痛に堪へかねる體。
- リーガン
- おゝ、くるしや〜!
- オルバ
- 急病と見える。……予の天幕へ伴れてゆけ。……
リーガン大勢に介抱されて入る。
傳令使が出る。
傳令使、こゝへ來い。……(部將に)喇叭を吹かせい。……(傳令使に)これを讀みあげい。
- 部將
- 喇叭手、吹けッ!
喇叭を吹く。
- 傳令
-
(讀む。)此軍隊中にて、血統若しくは身分高き者にして、
グロースターの假の伯爵エドモンドに對して其甚しき叛逆人たることを申し貫かんとする者は、
喇叭の第三響を合圖に出頭すべし。エドマンドどのは勇敢に自衞せらる。
- エドマ
- 吹けッ!
第一の喇叭鳴り渡る。
- 傳令
- もう一囘。
第二の喇叭鳴り渡る。
- 傳令
- もう一囘。
第三の喇叭鳴り渡る。
奧で、それに答ふる喇叭が鳴り渡る。
とエドガーが喇叭手を先きに立てゝ、甲冑に身を堅めて出る。
兜の眉廂が深くおろしてあるので顏が見えない。
- オルバ
- (傳令に)喇叭の呼び出しに應じた主意をたずねい。
- 傳令
- お手前は何者ですか?姓名は?身分は?何の故に只今の呼び出しに應じめされたのです?
- エドガ
- 手前は、腹黒き者の爲に咬み取られ、螟蛉くはれ、今では姓も名も無き身となってをります。
けれども、(本來を申せば)こゝで戰はうと望んで參りました其燗G手と同格の者でございます。
- オルバ
- 其相手とは?
- エドガ
- グロースターの伯爵エドマンドと呼んだなら、返答される仁は何處にをられる?
- エドマ
- すなはち、こゝに。彼れに用とは何だ?
- エドガ
- 先づ劍をお拔きなさい、若し手前のいふことが、氣に障ったら、劍で正邪を決するために。
手前の劍はこゝにある。(劍を拔いて高く捧げて)御覽ならい、これは武士としての手前の名譽の、
誓約の、又職掌の特權であります。自分は主張する……汝が如何に力強く、位高く、齡若く、
又、戰ひに勝って好運旭日の如くなりとも、また如何程に勇敢なりとも、それらに關らず……
汝を、神に對し、父、兄に對して不信不義、 こゝにいらせられる公爵どのの對しては奸計をもくとんだ叛逆人、
頭の頂から足の爪先きの塵、埃に至るまでも蝦蟆のやうに斑に、
穢なく、けがらはしい叛逆人だと主張する。それに對して、かりにも否といふなら、
此劍と此燔rと此勇氣とを以て汝の心臟の最底に、
きッと大虚言者だといふ證據を刻み附けてくれる。
- エドマ
- 道理をいやァ、先づ、其方の姓名を名宣らせるのが當然だが、外面が立派で勇ましいし、
只今申したことにも賤しからぬ育ちの證據が見えるから、武士道の規則ぢゃァ立派に拒絶してもいゝのだが、
わざとそれを擯斥して、敵手になってやる。やい、叛逆云々の罪名は、
悉く汝の頭へ抛げ戻すぞ。汝こそ惡魔も忌み憎む程の虚言、雜言を申す奴だ!
かう罵っても尚ほ我が言葉が汝の心臟に徹しないなら、此劍で以て、貫いて、
とこしなへに汝が胸底に留めてくれる。……喇叭を吹け!
警鐘鼓を打鳴らす。二人鬪ふ。とゞエドマンドが手を負って倒れる。
- オルバ
- 助けい!助けい!
- ゴナリ
- グロースターさん、こりゃ謀計です。武士道の法からいふと、
名の知れない敵と決鬪をなさるにゃ及ばなかったのです。あんたは負けたのぢゃァない、 騙されたのです、あざむかれたのです。
- オルバ
- お默りなさい。お默りなさらんと、此書面で默らせますぞ。(懷中から前の場にて受取った密書を取出す。)……
エドガーが倒れたエドマンドを又斬らうとする。オルバニーがそれをとめて
お待ちなさい。……(ゴナリルに)言語道斷の大惡人!さ、おのが罪惡を讀め。……
と密書をゴナリルへさいつける。それをゴナリルが引ッ奪って裂かうとする。
いや裂くまい。おぼえがあると見えるな。
- ゴナリ
- おぼえがあったら如何です?法律はわたしの手に在る、お前の手にゃァ無い。 だれがわたしを糾問し得ます?
ゴナリル席を蹶立てゝ入る。
- オルバ
- ても、さても、呆れ果てた!おゝ!(エドガーに)お前は此書面を知ってゐるか?
- エドガ
- 知ってることをばお問ねなさるな。
- オルバ
- 後を追って往け。半狂亂になってゐる。取抑へい。
- エドマ
- 譴責された條々は悉皆犯したに相違ない。のみならず、まだ外にも犯した罪があるが、
いづれ其中に分るだらう。それも、俺も、最早過ぎ去ッちまった。……それはさうと、
運よく俺を打取った汝は何者だ?身分のある者なら、罪を赦してやる。
- エドガ
- 互ひに好意を交換しよう。エドマンド、俺は血統においては、お前に勝るとも劣らん者だ。
もし勝るとすりゃ、お前の罪が一段重くなる。(と兜を脱いで、面を現はしつゝ) エドガーだ、お前の父の本妻腹の。あゝ、神は公平だ、
愉快な淫逸の果に自業自得の苦痛をおさせなさる。 お前を暗い處で生ませた事が父上の目に應報した。
- エドマ
- 成程、さうだ。その通りだ。因果車が一巡りして、俺が此有樣だ。
此時、オルバニーは進んでエドガーの手を取って
- オルバ
- 高貴な素姓とは、最初から其擧動に見えてゐた。斯う抱擁して好意を表はすべきである。
わしは君にも、君の御親父にも、常に好意を懷いてゐた。若しそれが僞りであったら、 悲哀來って此熕Sを裂け。
- エドガ
- その御厚志はよッく存じをります。
- オルバ
- 今まで何處に身をかくしてをられた?どうして御親父の不幸が解りました?
- エドガ
- 始終介抱しをりまして。簡短かにお話しませう。さうして話し了ったら、おゝ、
直ぐにも此心臟が裂けッちまへばいゝ!……行く先き先きに附き纒ふ殘酷な追手を避ける爲に
……あゝ、命は惜しいものです……ふと思ひついて、犬も輕蔑むやうな襤褸を著て、
狂人に身をやつし、其燻pで、父が寶石をなくした指輪のやうな無慚な眼をして參るのに廻りあひ、
手引となり、その爲に乞食もすれば、父が自殺をしようとするのをも救けました。其間、曾ぞ……
おゝ、今思へば、ぬかりでした!……先刻甲冑を著ました時まで、半時ほど前までは、
名宣り合ひもしませなんだが、勝つだらうとは存じながら、大丈夫とも預期しかねて、
父に祝福を乞ふと同時に、共に歩いてゐた間の一さいを語りました。すると、惱み疲れてゐた父の心は、
あゝ、激しい悲しみと激しい喜びの突然の衝突を支へかねて、莞爾笑ったまゝ、 破裂してしまひました。
- エドマ
- 今の話が、わたしの心を感動させた。好い結果が生じさうだ。其後を話して下さい、まだ何かありさうだから。
- オルバ
- まだ外に其以上の不幸な話があるにもせよ、それは先づさしひかへておいて下さい。
今の話で、わしの心は殆ど摧けさうだ。
- エドガ
- 悲哀を嫌ふ人逹には、只今の話が段落とも思へませうが、 多過ぎる悲哀を彌が上にも大きくし、
極端の上に更に又頂點を附け加へる今一つの悲しい事があるのです。……
私が聲をあげて泣いてゐますと、そこへ來た一人の男が私のあさましい姿を見て、
初めは恐れて避けようとしましたが、私と知ると、手をひろげて此頸を抱き、
天をも突裂きさうな聲で泣きわめき、父の死骸に身を投げかけての物語。
リヤ王と當人の身の上に關する前代未聞の悲慘な話。其話をするうちに、其男もまた、
餘りの悲歎に逆上せて、あはや魂の緒が切れさうになりました。其途端に、二度までも聞えた喇叭、
で、據ろなく、其男を、氣を失って倒れたまゝで、そこに殘して參りました。
- オルバ
- 其男は誰れでした?
- エドガ
- ケントどのです、御追放となったケントどのです。姿をやつして、
つれなかったリヤ王に附き隨ひ、奴隸でもせぬやうな御奉公をせられたのでありました。
此時、一紳士が血の著いた短劍を持って出る。
- 紳士
- 大變でございます!大變でございます!
- エドガ
- えッ、大變とは?
- オルバ
- 早くいへ!
- エドガ
- どうしたのです其血だらけの短劍は?
- 紳士
- 温か〜と血烟が立ってをります!
今お胸から拔き取ったばかりでございます。……おゝ、お亡くなりなされました!
- オルバ
- え、だれが?早くいへ!
- 紳士
- 奧方が、奧方さまが!奧がたがお妹御を毒害なされました。 と御自身お懺悔にございます。
- エドマ
- 雙方とも夫婦約束をしておいた。かうなりゃ三人一しょに結婚だ。
- エドマ
- (向うを見て)や、ケントどのが!
- オルバ
- 生死にかまはず、死骸をこゝへ持って參れ。……
紳士入る。
天の此審判に對して、吾々一同怖れをのゝくちは雖も、 彼等を憫れまうといふ心は起らん。……
ケントがよろめきつゝ出る。
おゝ、これが彼の仁か?……時が時だから御免なさい。禮儀を略しますぞ。
- ケント
- 王であり主君である御方に、永のお暇乞ひを申したさに參りました。 こゝにはおいでなさいませんか?
- オルバ
- 大切な事を忘れてゐた!やい、エドマンド、王は何處にをられる? それから、コーディーリャは何處に?
此時、侍者らがゴナリルとリーガンの死骸を持って出る。
ケント、あれを御覽なさい!
- ケント
- はれやれ!こりゃァまァ、どうしたのです?
- エドマ
- でもエドマンドは可愛がられてゐたのだ。彼女はおれの爲に彼女を毒害した、 さうして自殺したのだ。
- オルバ
- その通り。……死骸の面をかくせ。
- エドマ
- 只一言いひ殘す息が欲しい。おれの本性ぢゃァないけれど、少々善事を行って死なう。
……(オルバニーに)早く使ひを、城内へ早く!リヤとコーディーリャを殺せといふ命令書を遣っておいた。
早く使ひを、時後れにならんうちに!
- オルバ
- それ!走って〜!
- エドガ
- だれの許へ參るのです?……だれに吩咐けたのだ?何か取消す證左をくれ。
- エドマ
- よう附かれた。此劍を持ってって、部將へ。
- オルバ
- 急いで、命懸けで!
これにて、エドガーがエドマンドから劍を受けとって、走って入る。
- エドマ
- あんたの奧さんと俺が命令けたんだ。コーディーリャを牢の中で絞め殺して、
絶望のあまりに自殺したらしく見せる筈であった。
- オルバ
- おゝ、神々、何卒無事でありますやう!……彼れを暫くあちらへ。
侍者らがエドマンドを擔いで入る。
此時、リヤが半狂亂の體で死んだコーディーリャを兩手で掻き抱きつゝ、よろめき出る。
エドガー、部將、其他がついて出る。リヤは死骸を地上へおろすと、その傍に跪いて
- リヤ
- 吠えをれやい〜〜!おゝ、おのれ、石の塊め!おれに汝らの舌があり目があるなら、
天の穹窿が摧けッちまふほどにも睨んでくれうに、わめいくれうに!
とう〜死んでしまうた!死んでるか、生きてるかゞ分らいでか?土のやうになってしまうてをる!
鏡を借せ、鏡を。息が少しでも此鏡を翳らすか、汚すかすりゃ、はて、きッとまだ生きとるんぢゃ!
- ケント
- これが約束の此世の終局か?
- エドガ
- または彼の怖ろしい其日の面影か?
- オルバ
- 落ちよ、一切を滅却せよ。
此間にリヤは鳥の羽をコーディーリャの死骸の脣頭にかざして、息の有る無しを檢しようとする事あり。
- リヤ
- 此羽がいごく!生きてをる!若し生きてゐてくれゝば、おれの今までの艱難辛苦も悉く償はれる。
- ケント
- (王の前に跪いて)おゝ、御主君!
- リヤ
- えィ、あっちへ〜!
- エドガ
- もし、ケントどのでございますぞ、あなたの大忠臣の。
- リヤ
- えィ、おのれ〜!人殺しめ、謀叛人めら、おのれ!もう少しで救けることが出來たものを!
あゝ、もう駄目になってしまうた!……コーディーリャよ、コーディーリャよ!
待ってくれ、ま、少し!や!何ぢゃ、何というた?……彼女の聲は柔和で、やさしうて、
低うて!女には其上もないこと。……そなたを絞め殺しをった奴隸めは、おれが直ぐに殺したぞよ。
- 部將
- 全くでございます。王が奴隸をお殺しなすったのです。
- リヤ
- え、殺したらうが?……おれも、昔は、 鋭利な偃月劍を揮って奴等を子兎のやうに跳ね廻らすることが出來た。
もう齡を取って、こんな苦勞の爲に、駄目になってしまうた。
……(ケントを見て)其方はだれぢゃ?目がよう見えん。今に分らうと思ふが。
- ケント
- 若しも運命の神が愛しもし惡みもしたと高言する二人(の人間)があるなら、
それをお互ひに見あうてゐるのでございませう。
- リヤ
- どうも目が見えん。……其方はケントぢゃないか?
- ケント
- はい、その、御家來のケントでございます。御家來のケイヤスめは何處にをりますか?
- リヤ
- あいつは好い奴ぢゃ,實に好い奴ぢゃ。撲りをる、しかも直ぐに撲りをるわい。
彼奴は死んでしまうた。
- ケント
- いや、死には致しません。私がそのケイヤスでございます。……
- リヤ
- (不審さうに)今に考へて見よう。
- ケント
- 御零落のはじめから、御艱難の其間、始終お供をしてをりまして……
- リヤ
- よう來てくれたな。
- ケント
- いや、誰れ一人、ようは來ませぬわい。何一つ樂しいことの無い、暗い、おそろしい此光景。
姉姫たちは御自滅なされました、御絶望の餘りお亡くなりなされました。
- リヤ
- いかさま、さうだらうて。
- オルバ
- 辧別なしに物を言ってをられる。今、名宣り合はうとしても駄目です。
- エドガ
- 全く無用でございます。
部將が出る。
- 部將
- エドマンドどのはなくなられました。
- オルバ
- 此際には、それは些事だ、(皆々に對って)貴族たち、身方の人逹、予の存じ寄りを承知せられたい。
此大不幸に對しては、能ふ限りの慰藉を試みることにいたさう。又、此老殿下が存生せられる限り、
予は此國の全權を殿下にお引渡し申さうと思ふ。……また……
エドガーとケントに對って
あんたゝちは、本來の諸權利に外に、今度の偉大な功勞によって、 當然收得せらるべき種々の領地や爵位をお受けなさるやうに。
尚ほ身方の人々は、何れも其功に相當した賞與を、敵は又それ〜゛其應報を味ふことであらう。
此うち、リヤ王の容態が一變する。ふとそれを見て
おゝ、あれを、あれを!
- リヤ
- 阿呆めは絞め殺されてしまうた!もう〜〜〜〜死んでしまうた!
犬や馬や鼠でも命は有ってをるに、何で和女は全然命がなうなってしまうたぞ?
もう和女は歸って來ん、もう決して歸って來ん、決して〜〜〜!……
どうぞ此釦を外してくれ。ありがたう。これを御覽か?あれ、あれの顏を……あれ……あの脣を ……あれを……あれを!……
王息絶える。
- エドガ
- おゝ、氣絶なさる。……御前さま〜!
- ケント
- 心よ、裂けよ、裂けてくれい!
- エドガ
- もし〜、お顏をおあげなされませ。
エドガーが王を抱き起さうとする。
- ケント
- 亡き魂をお苦しめ申さんがよい。去させ申したがよい!
此酷薄な浮世の拷問臺に、此上長くお掛け申しておかうとする者をばお怨みなさらう。
- エドガ
- 全くおなくなりなされました。
- ケント
- 今まで待ちこたへてゐたのが不思議です、いはゞ、命を盜んでいらせられたのです。
- オルバ
- 死骸をあちらへ運べ。……さしあたってのすべき事は一同での哀悼です。……
(ケントとエドガーに)わしの親友とも思ふあんたゝち兩人は、此國の政治にたづさはって、
此重傷を負ふた國を扶けて下さい。
- ケント
- 私は、すぐ出立せねばならん長旅を控へてをります。主君がお召なされますから、否とは申されません。
- エドガ
- 不幸な時勢の壓迫には據ろなく從はねばなりません、當座の感じは言はうとも、
當然のことは言はれません。あゝ、一等齡を取ったお人が一等難儀をなされた。齡の若い我々は、
決してこれほどの難儀もすまいし、又、これほどの長生もすまい。
皆々入る。葬儀行進曲。
リヤ王(完)
更新日: 2003/02/16