世界怪談名作集:目次


タイトル:世界怪談名作集
譯者:岡本綺堂 (1872-1939)
底本:世界大衆文學全集 第卅五卷
出版:改造社
履歴:昭和四年八月一日印刷,昭和四年八月三日發行

世界怪談名作集

岡本綺堂 譯

目次


更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:序


外國にも怪談は非常に多い。古今の作家、大抵は怪談を書いてゐる。 その中から最も優れたるものを選むといふのは(すこぶ)る困難な仕事であるので、 こゝでは()已に定評のある名家の作品のみを紹介することにした。 從つて、その多數がクラシックに傾いたのは、まことに已むを得ない結果であると思つて貰ひたい。

怪談と言つても、いはゆる幽靈物語(ゴースト・ストーリー)ばかりでは單調に陷る嫌ひがあるので、 たとひ幽靈は出現しないでも、その事實の怪竒なるものは採録することにした。 例へば、ホーソーンの作には「ドクトル・ハリスの幽靈」があるにも拘らず、 こゝには「ラッパッチーニの娘」を採録した類である。ストックトンの「幽靈の移傳」のやうな、 ユーモラスの物を加へたのも、やはり單調を救ふの意に外ならない。

アンドレーフの作のごときは頗る藝術味の豐なもので、大衆向きには何うあらうかと少しく躊躇したのであるが、 普通の怪談とは其選を異にし、死から一旦甦つたラザルスといふ男を象徴にして、 「死」に對する人間の恐怖を力強く描いたもので、 かう言ふ物も一つぐらゐは讀んで貰ひたいといふ心から掲載することにしたのである。

アラン・ポーの作品 -- 殊に彼の「黒猫」のごときは、當然こゝに編入すべきであつたが、 この全集には別にポーの傑作集が出てゐるので、遺憾ながら省くことにして、 その代りに、ポーの二代目ともいふべきビヤースの「妖怪(ダムドシング)」を掲載した。 人にあらず、獸にあらず、形も無く、影もなく、我國のいはゆる「鎌いたち」に似て非なる一種の妖物が、 異常の力を以て人間を粉碎する怪竒の物語は、實に戰慄に値すると言つてよからう。

支那も怪談の本場であるから、いはゆる「志怪」の書なるものは實に枚擧に(いとま)あらず、 これも其選擇に頗る窮したのであるが、紙數の都合で「牡丹燈記」を選むことにした。 これは「剪燈新話(せんとうしんわ)」中の一節で、誰も知つてゐる「牡丹燈籠」の怪談の原作である。

こゝに編入されたものは、外國の怪談十六種、支那の怪談一種、その原著者はいづれも古今著名の人々のみで、 一々あらためて紹介するまでもあるまいと思はれるので、單にその時代と出生地のみを記録するに留めて置いた。

昭和四年初夏

譯者

更新日: 2003/02/11

世界怪談名作集:原著者小傳


原著者小傳

リツトン
-- 正しく言へば、Edward George Earle Lytton Bulwer-Lytton [注:Edward George Earle Bulwer-Lyttonの誤り] -- 千八百三年五月二十五日、英國ロンドンに生まる。 小説家、戲曲家、政治家。普通にリツトン卿といふ。千八百七十三年一月十八日、トルクヱーに逝く。
プーシキン
-- Alexander [注: ではAleksandr] S[ergeyevich] Pushkin -- 千七百九十九年五月二十六日、露國モスクワに生まる。 詩人、小説家、戲曲家[、]歴史家。 千八百三十七年一月二十七日、決鬪に重傷を負ひて二日の後に死す。而もその短生涯における著作甚だ多く、 露國文壇の最高位を占む。
ビヤース
[-- ]Ambrose Bierce -- 千八百四十二年、米國オハイオ州に生まる。 雜誌記者、小説家。千九百一四年以來ゆくへ不明となりて、その消息を知らず。
ゴーチヱ
-- Theophile Gautier -- 千八百十一年八月三十一日彿國ダルブに生まる。 詩人、小説家。千八百七十二年十月二十三日逝く。十九世紀の中葉における彿國名家の一人なり。
デイツケンス
-- Charles Dickens -- 千八百十二年二月七日、英國ポートシーに生まる。十九世紀における英國第一の小説家。 晩年ステープルハーストに於る鐵道事故のために負傷し、爾來著るしく健康を害し、 それより五年後の千八百七十年六月九日逝く。死ぬるの日までペンを措かざりしと傳へらる。
デフオー
-- Daniel Defoe -- 千六百五十九年 [注: では1660年, では1660年頃]、英國ロンドンに生まる。肉屋の子であるとも言ひ、 牛殺しの子であるとも言ふ。英國著名の作家、その作「ロビンソン漂流記」は最も世に知らる。 千七百三十一年四月廿六日逝く。
ホーソーン
-- Nathaniel Hawthorne -- 千八百四年七月四日米國マサチユセツト州に生まる。 著名の小説家。千八百六十四年五月十九日逝く。
ドイル
[-- ]Anrthur Conan Doyle -- 千八百五十九年五月廿二日、蘇格蘭のエヂンボルグに生まる。 シヤアロツク・ホームスを以て有名の作家たるは周知の事實なり。現存。[注:1930年沒]
ホフマン
-- Ernst Theodor Amadeus Hoffmann -- 千七百十六年 [注:1776年の誤り] 一月二十四日、獨逸のコニグスベルグに生まる。 少時は肖像画を描きつゝ法律を學びたると傳へらるゝも、後年は小説の大家として知らる。 千八百二十二年六月二十五日逝く。
フランス
-- Anatole France -- 千八百四十四年四月十六日彿國パリーに生まる。 上代の歴史又は過去の傳説を材料として、これに新思潮を寓するを以て知らる。 歐洲大戰の際には祖國のために義勇兵を出願せることあり。千九百二十四年逝く。
キツプリング
-- Rudyard Kipling -- 英國著名の詩人、小説家。 千八百六十五年十二月三十日、印度のボンベイに生まる。英國にて教育を受けたるも、 千八百八十二年より八十九年まで印度にありたるを以て、題材を印度に取りたるもの少からず。 本集に編入せる「幻の人力車」もその當時の作なり。千八百八十九年の末に東洋諸國を漫遊し、 日本へも來りしことあり。現存。[注:1936年沒]
クラウフォオード
-- Francis Marion Crawford -- 米國の小説家。 父のトーマス・クラウフオードは彫刻家にして羅馬に永住し、 彼は千八百五十四年八月二日、タスカニーに生まる。 後に印度に住みたることもあり。その小説は筋立の巧みなるを以て知らる。 千九百九年四月九日逝く。
アンドレーフ
-- Leonid Nicholaievitch [注: ではNikolayevich] Andreyev -- 千八百七十年 [注:1871年の誤り] 露國ヲーレルに生まる。 少年時代より憂鬱症に罹り三囘も自殺を企てたることありと云ふ。 近代ロシアに於る著名の戲曲家、小説家。千九百十九年逝く。
モウパツサン
-- Guy DE [注:小文字deの誤り] Maupassant -- 千八百五十年八月五日、ノルマンデーに生まる。 彿國著名の小説家にして、多量の短篇小説を出したるを以て、わが國の讀者にも好くその名を知らる。 千八百九十二年突然に發狂し、翌年七月六日を以て精神病院に逝く。
マクドナルド
-- George MacDonald -- 蘇格蘭の詩人、小説家。千八百二十四年十二月十日、アバーデンシヤーに生まる。 作家以外に説教家としても知らる。千九百五年九月十八日逝く。
ストツクトン
-- Francis Richard Stockton [注:筆名はFrank R. Stockton] -- 米國の小説家。 千八百三十四年四月五日、フィイラデルフイアに生まる。 最初は彫刻家、後に小説家となり、多數の童話と滑稽小説を著せり。 千九百二年四月十九日逝く。
瞿宗吉
-- 姓は瞿、名は佑、字は宗吉。支那の錢塘に生まる。 明の太祖の洪武年間に、召されて臨安の教諭となり、後に周王府の長吏となる。 才學を以て世に知られ、著書頗る多し。生年沒年明かならず。

更新日: 2003/02/11

世界怪談名作集:貸家


貸家

リットン(Edward George Earle Bulwer-Lytton, 1803-1873) 作

岡本綺堂(1872-1939) 譯


目次


わたしの友逹 -- 著述家で哲學者である男が、ある日、冗談と眞面目と半分まじりな調子で、わたしに話した。

「われ〜は最近思ひも付かないことに出逢つたよ。ロンドンのまん中に化物屋敷を見付けたぜ。」

「ほんたうか。何が出る……。幽靈か。」

「さあ、たしかな返事は出來ないが、僕の知つてゐるのは先づこれだけのことだ。 六週間以前に、家内と僕とが二人連れで、家具附きのアパートメントをさがしに出て、ある閑靜な町をとほると、 窓に家具附貸間といふ札が貼つてある家を見つけたのだ。場所もわれ〜に適當であると思つたので、 這入つてみると部屋も氣に入つた。そこで先づ一週間の約束で借りる約束をしたのだが……。 三日目に立退いてしまつた。誰がどう言つたつて、家内はもうその家にゐるのは(いや)だと言ふ。 それも無理はないのだ。」

「君は何か見たのか。」

「別に種々(いろ〜)の不思議を見たり聞いたりした譯でも無いのだが、家具のない或部屋の前を通ると、 なんとも説明することの出來ない一種の凄氣(せいき)に打たれるのだ。 但しその部屋で何も見えたのでは無し聞えたのでも無いが……。 そこで、僕は四日目の朝、その家の番をしてゐる女を呼んで、あの部屋は何分われ〜に適當しないから、 約束の一週間の終るまでこゝにゐることは出來ないと言ひ聞かせると、女は平氣でかう言ふのだ。 -- 私は其譯を知つてゐます。それでもあなた方はほかの人逹よりも長く居た方です。 二晩辛抱する人さへ少いくらゐで、三晩泊つてゐたのは彼方(あなた)が初めてゞす。 それも恐らくあの連中があなた方に好意を持つてゐたせゐでせう。 -- なんだか可怪(をかし)い返事だから、僕は笑ひながら『あの連中とは何だ』と訊いてみると、 女はまたかう言ふのだ。 -- なんだか知らないが、こゝの家に執着(とりつ)いてゐる者です。 わたしは遠い昔からあの連中を識つてゐます。その頃わたしは奉公人では無しに、こゝの家に住んでゐたことがあるのです。 あの連中はいづれ私を殺すだらうと思つてゐますが、そんなことは構ひません。わたしはこの通りの年寄ですから、 どの道やがて死ぬ體です。死ねばあの連中と一緒になつて、矢はりこの家に住んでゐることが出來るのです。 -- いや、どうも驚いたね。女はそんなことを實に恐ろしいほど平氣で話してゐるのだ、 僕は薄氣味が惡くなつて、もう何も話す元氣が無くなつたので、早々に立去つてしまつた。 勿論約束通りに一週間分の間代を拂つて來たが、そのくらゐの事で逃げ出せれば(やす)いものさ。」

「不思議だね。」と、わたしは言つた。「さう聞くと、僕は是非その化物屋敷に寢てみたいよ。 君が不名譽の退却をしたといふ其家のありかを後生だから教へてくれないか。」

友逹はそのありかを教へてくれた。彼に別れた後、わたしは眞直に彼の化物屋敷だと言ふ家へたづねて行くと、 その家はオックスフォード・ストリートの北側で、陰氣ではあるが家竝(やなみ)の惡くない拔道にあつたが、 家はまつたく閉め切つて、窓に貸間の札もみえない。戸を叩いても返事がない。 仕方無しに引返さうとすると、隣の空地にビールの配逹が白い金屬の(くわん)をあつめてゐて、 私の方を見かへりながら聲をかけた。

「あなたはそこの家で誰かをお尋ねなさるんですか。」

「むゝ。貸家があると言ふことを聞いたので……。」

「貸家ですか。そこはJさんが雇ひ婆さんに一週間に一磅(ポンド)づつ遣つて、 窓の開け()てをさせてゐたんですがね。もういけませんよ。」

「いけない。何故だね。」

「その家は何かに祟られてゐるんですよ。雇ひ婆さんは眼を大きく明いたまゝで、寢床のなかに死んでゐたんです。 世間の評判ぢやあ、化物に絞め殺されたんだと言ひますが……。」

「ふむう。そのJさんといふのは、この家の持主かね。」

「さうです。」

「どこに住んでゐるね。」

「G町です。」と、配逹はその番地を教へてくれた。

わたしは彼に幾らかの心附けをやつて、それから教へられた所へたづねて行くと、 主人のJ氏は都合よく在宅であつた。J氏はもう初老を過ぎた人で、理智に富んでゐるらしい風貌と、 人好きのするやうな態度を具へてゐた。

正直に自分の姓名と職業を明かした上で、わたしは彼の貸間の家に何かの祟があるらしく思はれると言ふことを話した。 さうして、私は是非その家を探險してみたいから、一晩でも好いから()うぞ貸してくれまいか。 それを承知してくれゝば、お望み通りの金を拂ふと言つた。J氏はそれに對して、非常に丁寧に答へた。

「宜しうございます。あなたの御用の濟むまでお貸し申しませう。家賃などはどうでも構ひません。 あの婆さんは宿無しの貧乏人で養育院にゐたのを、わたしが引取つて來たのです。 あの婆さんは子供の時にわたしの家族の或者と知合ひであつたと言ひますし、 又その以前は都合が好くつて、わたしの叔父からあの家を借りて住んでゐたこともあると言ふので、 それらの關係からわたしが引取つて番人に雇つて置いたのですが、可哀さうに三週間前に死んでしまひました。 あの婆さんは高等の教育もあり、氣性もしつかりした女で、 わたしが今まで連れて來た番人のうちで無事にあの家に踏み留まつてゐたのは、あの女ばかりでした。 それが今度死んで、しかも突然に死んだものですから、檢視が來るなどといふ騷ぎになつて、 近所でも色々の(いや)な噂を立てます。したがつて、その代りの番人を見つけるのも困難ですし、 勿論借手もあるまいと思ひますから、今後一年間はその人が總ての税金さへ納めて呉れゝば好いといふ約束で、 無代で誰にでも貸さうと考へてゐるのです。」

「一體いつ頃からそんな評判が立つやうになつたのです。」

「それは(たしか)に申されませんが、もうよほど以前からのことです。 唯今お話し申した婆さんが借りてゐた時、即ち三十年前から四十年前の間ださうですが、 已にそお頃から怪しい事があつたと言ひます。わたしが覺えてからでも、あの家に三日と續けて住んでゐた人はありません。 その怪談は色々ですから、一々にそのお話をすることは出來ませんし、又そのお話をしてあなたに何かの豫感をあたへるよりも、 あなた自身があの家へ入り込んで直接に御判斷なさる方が宜しからうと思ひます。(ただ)、 なにかしら見えるかも知れない、聞えるかも知れないといふお覺悟で、あなたが御隨意に警戒をなされば宜しいのです。」

「あなたはあの家に一夜を明かさうと言ふやうな好竒心をお持ちになつたことはありませんか。」

「一夜を明かしたことはありませんが、眞晝間に三時間ほど、()つた一人であの家のなかにゐたことがあります。 わたしの好竒心は滿足されませんでしたが、その好竒心も消滅して、再び經驗を(あらた)にする氣も出なくなりました。 と申したら、なぜ十分に探究しないかと仰しやるかも知れませんが、それには譯があるのです。 そこで、あなたもこの一件に非常に興味を持ち、又あなたの神經が非常に強いと言ふのであれば格別、 さもなければあの家で一夜を明かすと言ふことは、まあお考へになつた方が宜しくはないかと思ひます。」

「いや、わたしは非常の興味を持つてゐるのです。」と、私は言つた。 「臆病者は兎も角も、わたしの神經はいかなる危險にも馴れてゐます。化物屋敷でも驚きません。」

J氏は深くも言はないで、用箪笥から鍵を()り出して私に渡してくれた。 その腹藏のない態度にわたしは衷心から感謝し、又わたしの希望に對して紳士的の許可をあたへてくれた事をも感謝して、 わたしは自分の望むものを手に居れることになつた。さうなると氣が急くので、 わたしは一先づ我家へ戻るや否や、日ごろ自分が信用してゐるFといふ雇人を呼んだ。彼は年も若いし、 快濶で、物を恐れ無れぬ性質で、わたしの知つてゐる中では最も迷信的の偏見などを持つてゐない人間であつた。

「おい、おまへも覺えてゐるだらう。」と、わたしは言つた。 「獨逸にゐるときに、古い城のなかへ首の無い化物がが出るといふので、 その幽靈を見付けに行つたところが、何事もないので失望したことがある。ところが、 今度はお望み通り、ロンドンの市中で確に化物の出る家のあることを聞いたのだ。 おれは今度そこへ泊りに行く積りだ。おれの聞いたところに()ると、 そこの家には確に何かゞ見えるか聞えるかするのだ。その何かゞ(すこぶ)る恐ろしい物らしい。 そこで、おまへが一緒に行つてくれゝば、何事が起つても非常に氣丈夫だと思ふのだが、どうだらう。」

「よろしい、旦那。わたくしをお連れください。」と、彼は齒をむき出して愉快さうに笑つた。

「では、こゝにその家の鍵がある。これがその所在地だ。これを持つて直ぐに行つて、 おまへの好いと思ふ部屋へおれの寢床を用意して置いてくれ。 それから幾週間も空家になつてゐたのだから、ストーヴの火をよく起してくれ。 寢床へも空氣を入れるやうにしてくれ。勿論、そこに蝋燭や焚物(たきもの)があるか()うだか見てくれ。 おれの短銃と匕首(あひくち)を持つて行つてくれ。おれの武噐はそれで澤山だ。 おまへも同じやうに武裝して行け。たとひ一ダースの幽靈が出て來たからと言つて、 それと勝負をすることが出來ないやうでは、英國人の面汚しだぞ。」

併し私は非常に差迫つた仕事をかゝへてゐるので、その日の殘りの時間は(もつぱ)らその仕事に費されなければならなかつた。 私は自分の名譽を賭けたる今夜の冐險について、餘り多く考へる暇を持たないほどに忙がしく働いた。 わたしは甚だ遲くなつてから、唯ひとりで夕飯を食つた。食ふあひだに何か讀むのが私の習慣であるので、 わたしはマコーレーの論文の一册を取出した。さうして、今夜はこの書物をたづさへて行かうと思つた。 マコーレーの作は、その文章も健全であり、その主題も實生活に觸れてゐるので、今夜のやうな場合には、 迷信的空想に對する一種の解毒劑の役を勤めるであらうと考へたからである。

 

午後九時半頃に彼の書物をポケットへ押込んで、わたしは化物屋敷の方へぶら〜と歩いて行つた。 わたしはほかに一匹の犬を連れてゐた。それは敏捷で、大膽で、勇猛なるブルテリア種の犬で、 鼠を探すために薄氣味の惡い路の隅や、暗い小逕などを夜歩きするのが大好きであつた。 彼は幽靈狩などには最も適當の犬であつた。

時は夏であつたが、身にしむやうに冷々(ひや〜)する夜で、空はやゝ暗く雲つてゐた。 それでも月は出てゐるのである。たとひその光が弱く雲つてゐても、やはり月には相違ないのであるから、 夜半を過ぎて雲が散れば、明るくなるであらうと思はれた。

彼の家にゆき着いて戸を叩くと、わたしの雇人は愉快らしい微笑を含んで主人を迎へた。

「支度は萬事出來てゐます。(すこぶ)る上等です。」

それを聞いて、わたしは寧ろ失望した。

「何か注意すべきやうな事を、見も聞きもしなかつたか。」

「なんだか變な音を聞きましたよ。」

「どんな事だ、どんな事だ。」

「わたくしの後をぱた〜通るやうな跫音(あしおと)を聞きました。それから、 わたくしの耳のそばで何か囁くやうな聲が一度か二度……。そのほかには何事もありませんでした。」

「怖くなかつたか。」

()つとも……。」

かう言ふ彼の大膽な顏をみて、 何事が起つても彼はわたしを見捨てゝ逃げるやうな男ではないと言ふことがいよ〜確められた。

わたし逹は廣間へ通つた。往來に向つた窓は閉まつてゐる。私の注意は今や彼の犬の方へ向けられたのである。 犬も最初(はじめ)のうちは非常に威勢よく駈け廻つてゐたが、やがて(ドア)の方へ逡巡(しりご)みして、 しきりに外へ出ようとして引つ掻いたり、泣くやうな聲をして唸つたりしてゐるので、 私はしづかにその頭をたゝいたりして勇氣を附けてやると、犬もやう〜落付いたらしく、 私とFのあとに附いて來たが、いつもは見識らない場所へ來ると眞先に立つて駈け出すにも拘らず、 今夜はわたしの靴の踵に擦り付いて來るのであつた。

私たちは先づ地下室や臺所を見まはつた。さうして、穴藏に二三本の葡萄酒の罎が轉がつてゐるのを見つけた。 その罎には蜘蛛の巣が一面にかゝつてゐて、多年その儘にしてあつたことが明かに察せられると同時に、 こゝに棲む幽靈が酒好きでないことも確に判つたが、そのほかには別に私たちの興味を惹くやうな物も發見されなかつた。 外には薄暗い小さな裏庭があつて、高い塀に圍まれてゐる。この庭の敷石はひどくしめつてゐるので、 その濕氣と塵埃(ほこり)と煤煙との爲に、わたし逹が歩くたびに薄い足跡が殘つた。

わたしは今や初めて、この不思議なる借家に於いて第一の不思議を見たのである。 わたしは恰も自分の前に一つの足跡を見つけたので、急に立ちどまつてFに指さして注意した。 一つの足跡が又忽ち二つになつたのを、わたし逹二人は同時に見た。二人は慌てゝ其場所を檢査すると、 わたしの方へ向つて來たその足跡は(すこぶ)る小さく、それは子供の足であつた。 その印象は(すこぶ)る薄いもので、その形を明かに判斷するのは困難であつたが、 それが跣足(はだし)の跡であると言ふことは私逹にも認められた。

この現象はわたし逹が向うの塀にゆき着いたときに消えてしまつて、歸る時にはそれを繰返すやうなこともなかつた。 階段を昇つて一階へ出ると、そこには食堂と小さい控室がある。又そのうしろには更に小さな部屋がある。 この第三の部屋は下男の居間であつたらしい。それから座敷へ通ると、ここは新しくて綺麗であつた。 そこへ這入つて、わたしは肘かけ椅子に()ると、Fは蝋燭立をテーブルの上に置いた。 わたしに(ドア)を閉めろと言ひ付けられて、彼が振向いて行つたときに、 私の正面にある一脚の椅子が急速に而も何の音もせずに壁の方から動き出して、わたしの方から一ヤードほどの所へ來て、 俄に向きを變へて止まつた。

「はゝあ、これはテーブル廻しよりも面白いな。」と、わたしが半分笑ひながら言つた。 さうして、私が本當に笑ひ出したときに、わたしの犬はその頭をあとに退いて吠えた。

Fは(ドア)を閉めて戻つて來たが、椅子の一件には氣が附かないらしく、吠える犬をしきりに鎭めてゐた。 わたしはいつまでも彼の椅子を見つめてゐると、そこに青白い靄のやうなものが現れた。 その輪廓は人間の形のやうであるが、私は自分の眼を疑ふほどに極めて朦朧たるものであつた。 犬はもうおとなしくなつてゐた。

「その椅子を片附けてくれ。向うの壁の方へ戻して置いてくれ。」と、わたしは言つた。

Fはその通りにしたが、急に振向いて言つた。

「あなたですか。そんな事をしたのは……。」

「私が……。何をしたと言ふのだ。」

「でも、何かゞわたくしを()ちました。肩のところを強く()ちました。丁度こゝの所を……。」

「わたしではない。併しおれ逹の前には魔術師共がゐるからな。その手妻はまだ見付けださないが、 彼奴(あいつ)等がおれたちを(おど)す前に、こつちが彼奴(あいつ)等を取つ捉まへて遣るぞ。」

併し、わたし逹はこの座敷に長居することは出來なかつた。實際どの室も濕つぽくて寒いので、 わたしは二階の火のある所へ行きたくなつたのである。私逹は警戒のために座敷の(ドア)に錠をおろして出た。 今まで見まはつた下の部屋もみな()うして來たのであつた。Fがわたしのために擇んで置いてくれた寢室は、 二階中では最も好い部屋で、往來に向つて二つの窓を持つてゐる大きい一室であつた。 規則正しい四脚の寢臺が火に向つて据ゑられて、ストーヴの火は美しく(さかん)に燃えてゐた。 その寢臺と窓とのあひだの壁の左寄りに(ドア)があつて、そこからFの居間になつてゐる部屋へ通ずるやうになつてゐた。 次にソファー・ベッドの附いてゐる小さい部屋があつて、そこは階段の昇り場に何の交通もなく、 わたしの寢室に通ずる唯一つの(ドア)があるだけであつた。寢室の火のそばには食噐戸棚が壁とおなじ平面に立つてゐて、 それには錠をおろさずに、鈍い鳶色の紙を以て掩はれてゐた。試みにその戸棚をあらためたが、 そこには女の着物をかける掛釘があるばかりで、ほかには何物もなかつた。更に壁を叩いてみたが、 それは確に固形體で、外は建物の壁になつてゐた。

これで先づ家中の見分を終つて、わたしは暫く火に暖まりながらシガアを(くゆ)らした。 この時まで私のそばに附いてゐたFは、更にわたしの探査を十分ならしめる爲に出て行くと、 昇り口の部屋の(ドア)が堅く閉まつてゐた。

「旦那。」と、彼は驚いたやうに言つた。「わたしはこの(ドア)に錠をおろした覺えは無いのです。 この(ドア)は内から錠を卸すことは出來ないやうになつてゐるのですから……。」

その言葉のまだ終らないうちに、その(ドア)は誰も手を觸れないにも拘らず、また自然に(しづ)かに開いたので、 わたし逹はしばらく默つて眼を見あはせた。化物ではない、何か人間の働きがこゝで發見されるであらうと言ふ考へが、 同時に二人の胸に浮んだので、わたしは先づその部屋へ駈け込むと、Fも續いた。

そこは家具もない、何の裝飾も無い、小さい部屋で少しばかりの空箱と籠のたぐひが片隅に轉がつてゐるばかりであつた。 小さい窓の鎧戸は閉ぢられて、火を焚くところも無く、わたし逹が今這入つて來た入口の外には(ドア)も無かつた。 床には敷物もなく、その床も非常に古く(むしば)まれて、そこにも此處にも手入うぃした繼ぎ木の跡が白くみえた。 而もsこに生きてゐるらしい物はなんにも見えないばかりか、生きてゐる物の隱れてゐるやうな場所も見出されなかつた。

わたし逹が突つ立つて、そこらを見まはしてゐるうちに、一旦開いた(ドア)はまたしづかに閉まつた。 二人はこゝに閉ぢ籠められてしまつたのである。

私はこゝに初めて一種の言ひ知れない恐怖の兆して來るのを覺えたが、Fはさうではなかつた。

「われ〜を罠に掛けようなどとは駄目なことです。こんな薄つぺらな(ドア)などは、 わたしの足で一度蹴れば直ぐに毀れます。」

「おまへの手で明くかどうだか、先づ試してみろ。」と、わたしも勇氣を振ひ起して言つた。 「その間におあれは鎧戸をあけて、外に何かあるか見とゞけるから……。」

わたしは鎧戸の貫の木を外すと、窓は前に言つた裏庭に向つてゐるが、 そこには張出しも何も無いので、切つ立てになつてゐる壁を降りる便宜(よすが)もなく、 庭の敷石の上へ落ちるまでの間に足がかりとするやうな物は見當らなかつた。

Fはしばらく(ドア)を明けようと試みてゐたが、それが何うにもならないので、私の方へ振向いて、 もう此上は暴力を用ひても好いかと聞いた。彼が迷信的の恐怖に打克つて、かういふ非常の場合にも沈着で快濶である事は、 實に天晴れとも言ふべきで、わたしは種々の意味に於いて好い味方を連れて來たことを祝さなければならなかつた。 そこで、わたしは喜んで彼の申出でを許可したが、いかに彼が勇者であつても其力は弱いものと見えて、 どんなに蹴つても(ドア)びくともしなかつた。彼はしまひには息が切れて、 蹴ることを諦めたので、わたしが立代つて向つたが、やはり何の效もなかつた。 それを止めると、再び一種の恐怖がわたしの胸に兆して來たが、今度はそれが以前よりもぞつとするやうな、 根強いものであつた。そのとき私はさゝくれ立つた床の裂目から何だか竒怪な物凄いやうな煙が立ち昇つて來て、 人間には有害でありさうな毒氣が次第に充滿するのを見たかと思ふと、 (ドア)はさながら我が意志を以て働くやうに又もや(しづ)かに明いたので、 監禁を赦された二人は早々に階段のあがり場へ逃げ出した。

一つの大きい青ざめた光 -- 人間の形ぐらゐの大きさであるが、形も無くて唯ふは〜してゐるのである。 それが私たちの方へ動いて來て、あがり場から屋根裏の部屋へつゞいてゐる階段を昇つてゆくので、 私はその光を追つて行つた。Fもつゞいた。光は階段の右にある小さい部屋に這入つたが、 その入口の(ドア)は明いてゐたので、私もすぐ跡から這入ると、その光はうづ卷いて、 小さい玉になつて、非常に明るく、恰も生けるが如くに輝いて、 部屋の隅にある寢臺の上に止まつてゐたが、やがて顫へるやうに消えてしまつたので、 私逹はすぐにその寢臺をあらためると、それは奉公人などの住む屋根裏の部屋には珍しくない半天蓋の寢臺であつた。

寢臺のそばに立つてゐる抽斗戸棚の上には絹の古いハンカチーフがあつて、 その(ほころ)びを縫ひかけの針が殘つてゐた。ハンカチーフは塵埃(ほこり)だらけになつてゐたが、 それは恐らく先日こゝで死んだといふ婆さんの物で、婆さんはこゝを自分の寢床にしてゐたのであらう。 わたしは多大の好竒心を以て抽斗を一々あけてみると、そのなかには女の着物の切つ端と二通の手紙があつて、 手紙には色の褪めた細い黄いリボンをまき付けて結んであつた。わたしは勝手にその手紙を取りあげて自分の物にしたが、 ほかには何も注意を惹くやうな物は發見されなかつた。彼の光は再び現れなかつたが、 二人が引返してこゝを出るときに、丁度わたし逹の前にあたつて、 床をぱた〜と踏んでゆくやうな跫音(あしおと)がきこえた。 わたし逹はそれから都合四間の部屋を通りぬけて見たが、彼の跫音(あしおと)はいつも二人の先に立つて行く。 而もその形はなんにも見えないで、唯その跫音(あしおと)が聞えるばかりであつた。

わたしは彼の二通の手紙を手に持つてゐたが、恰も階段を降りようとする時に、 何者かゞ私の(ひじ)を捉へたのを明かに感じた。さうして、わたしの手から手紙を取らうとするらしいのを輕く感じたが、 私はしつかりと掴んで放さなかつたので、それは其儘になつてしまつた。

二人は私のために設けられてゐる以前の寢室に戻つたが、 こゝで自分の犬がわたし逹のあとに附いて來なかつたことに氣が()いた。 犬は火のそばに摺付いて顫へてゐるのであつた。私はすぐに彼の手紙をよみ始めると、 Fはわたしが命令した通りの武噐を入れて來た小さい箱をあけて、短銃と匕首(あひくち)を取出して、 わたしの寢臺の頭の方に近いテーブルの上に置いた。さうして、彼の犬を(いたは)るやうに撫でてゐたが、 犬は一向その相手にならないやうであつた。

手紙は短いもので、その日附によると、恰も三十五年前のものであつた。 それは明かに情人がその情婦に送つたものか、あるひは夫が若い妻に宛てたものと見られた。 文章の調子ばかりでなく、以前の旅行のことなどが書いてあるのを參酌(しんしやく)してみると、 この手紙の書き手は船乘であつて、その文字の綴り方をみると、 彼はあまり教育のある人物とは思はれなかつたが、しかも言葉その物には力が籠つてゐて、 (あら)つぽい強烈な愛情が滿ちてゐた。併しそのうちの其處此處に何等かの暗い不可解の點があつて、 それは愛情の問題でなく、ある犯罪の祕密を暗示してゐるやうに思はれた。 即ちその一節にこんなことが書いてあつたのを、私は記憶してゐた。

-- 總てのことが發覺して、總ての人がわれ〜を罵り憎んでも、たがひの心は變らない筈だ --

-- 決して他人をおまへと同じ部屋に寢かしてはならないぞ。夜なかにお前がどんな寢言を言はないとも限らない --

-- どんな事があつても我々の破滅にはならない。死ぬ時が來れば格別、それまでは何にも恐れることは無い --

それらの文句の下に、それよりも上手な女文字で「その通りに」と書き入れてあつた。さうして、最後の日附の手紙の終りには、 やはり同じ女文字で「六月四日、海に死す。その同じ日に -- 」と書き入れてあつた。 私は二通の手紙を下に置いて、それらの内容について考へ始めた。

さう言ふことを考へるのは神經を不安定にするものだとは思ひながら、私は今夜これから如何なる不思議に出逢はうとも、 それに對抗するだけの決心は十分に固めてゐた。わたしは起ちあがつて彼の手紙をテーブルの上に置いて、 まだ(さかん)に輝いてゐる火をかき起して、それに向つてマコーレーの論文集を開いて、 十一時半頃まで讀んだ。それから着物の儘で寢臺へ上つて、Fにも自分の部屋へ退(さが)つてもよいと言ひ聞かせた。 但し今夜は起きてゐろさうして私の部屋との間の(ドア)をあけて置けと命じた。

それから私は一人になつて、寢臺の枕もとのテーブルに二本の蝋燭を點した。 二つの武噐のそばに懷中時計を置いて、再びマコーレーを讀み始めると、 わたしの前の火は明るく燃えて、犬は爐の前の敷物の上に眠つてゐるらしく寢轉んでゐた。 二十分ほど過ぎた頃に、隙洩(すも)る風が不意に吹き込んで來たやうに、 ひどく冷たい空氣がわたしの頬を撫でたので、もしあがり場に通じてゐる右手の(ドア)が明いてゐるのでは無いかと見返ると、 (ドア)ちやんと閉まつてゐた。更に左手をみかへると、 蝋燭の火は風に吹かれたやうに搖れてゐた。それと同時に、テーブルの上にある時計が(しづ)かに、(しづ)かに、 眼にみえない手に掴み去られるやうに消え失せてしまつた。

わたしは片手に短銃、かた手に匕首(あひくち)を持つて跳び起きた。時計と同じやうに、 この二つの武噐をも奪はれてはならないと思つたからである。かう用心して床の上を見まはしたが、 どこにも時計は見えなかつた。この時、枕もとで(しづ)かに、而も大きく叩く音が三つ聞えた。

「旦那。あなたですか。」と、次の部屋でFが呼びかけた。

「いや、おれでは無い。お前も用心しろ。」

犬は今起きあがつて、體を立てゝ坐つた。その耳を左右に早く動かしながら、不思議な眼をして私を見つめてゐるのが、 わたしの注意をひいた。犬はたがて(しづ)かに身を起したが、なほ眞直に立つたままで、 總身の毛を逆立たせながら、やはり暴々(あら〜)しい眼をして私をぢつと見つめてゐた。 而も私は犬の方などを詳しく檢査してゐる暇はなかつた。Fが忽ちに自分の部屋から轉げ出して來たのである。

人間の顏にあらはれた恐怖の色といふものを、私はこのときに見た。 もし往來で突然出逢つたならば、恐らく自分の雇人とは認められないであらうと思はれるほどに、 Fの相合(さうがふ)はまつたく變つてゐた。彼はわたしの傍を足早に通り過ぎながら、 あるか無いかの低い聲で言つた。

「早くお逃げなさい、お逃げなさい。わたしのあとから附いて來ます。」

彼はあがり場の(ドア)を押明けて、みやみに外へ駈け出すので、わたしは待て待てと呼び戻しながら續いて出ると、 Fはわたしを見返りもせずに、階段を跳ね降りて、手摺に取付いて、一度に幾足もばた〜させながら、 あわてゝ逃げ去つた。わたしは立ちどまつて耳を澄ましてゐると、 表の入口の(ドア)が明いたかと思ふと又閉まる音がきこえた。 頼みのFは逃げてしまつて、私はひとりでこの化物屋敷に取殘されたのである。

 

こゝに踏み止まらうか、Fのあとを追つて出ようかと、わたしも鳥渡(ちよつと)考へたが、 わたしの自尊心と好竒心とが卑怯に逃げるなと命じたので、わたしは再び部屋へ引返して、 寢臺の方へ警戒しながら近づいた。何分にも不意撃(ふいうち)を食つたので、Fが一體なにを恐れたのか、 私にはよく判らなかつたのである。若しやそこに隱戸でもあるかと思つて、わたしが再び壁を調べてみたが、 勿論そんな形跡も無いばかりか、鈍い褐色の紙には繼目さへも見出されなかつた。 してみると、Fを脅かしたものは、それが何物であらうとも、私の寢臺を通つて侵入したのであらうか。 わたしは内部の部屋の(ドア)に錠をおろして、何か來るかと待ち構へながら、爐のまへに立つてゐた。

このとき私は壁の隅に犬の滑り込んでゐるのを見た。犬は無理にそこから逃げ路を見付けようとするやうに、 體を壁に押付けてゐるので、わたしは近寄つて呼んだ。哀れなる動物はひどい恐怖に襲はれてゐるらしく、 齒をむき出して、顎から涎を埀らして、わたしが迂闊に觸つたらば直ぐに咬み付きさうな樣子で、 主人のわたしをも知らないやうに見えた。動物園で大蛇に呑まれやうとする兎の顫へて竦んだ樣子を見たことのある人には、 誰でも想像が出來るに相違ない、わたしの犬の姿は恰もそれと同樣であつた。 色々に(なだ)めても(すか)しても無駄であるばかりか、 恐水病にでも罹つてゐるやうなこの犬に咬み付かれて、なにかの毒にでも感じてはならないと思つたので、 わたしは彼を打捨てゝ、爐のそばのテーブルの上に武噐を置いて、椅子に腰をおろして再びマコーレーを讀み始めた。

やがて讀んでゐる書物のページと燈火(あかり)とのあひだへ何か邪魔に這入つて來たものがあるらしく、 紙の上が薄暗くなつたので、わたしは仰いで見まはすと、それは何とも説明し難いものであつた。 それは甚だ朦朧たる黒い影で、 明かに人間の形であるとも言へないがそれに似た物を探せば矢はり人間の形か影かと言ふの外はないのであつた。 それが周圍の空氣や燈火(あかり)から離れて立つてゐるのを見ると、その面積は(すこぶ)る大きいもので、 頭は天井に(とゞ)いてゐた。それをぢつと睨んでゐると、わたしは身にしみるやうな寒さを感じたのである。 その寒さといふものが又格別で、(たと)ひ氷山がわたしの前にあつても斯うではあるまい。 氷山の寒さの方がもつと物理的であらうと思はれた。 而もそれが恐怖のための寒さでないことは私にも判つてゐた。

わたしはその竒怪な物を睨みつゞけてゐると、自分にも確には言へないが、 二つの眼が高いところから私を見おろしてゐるやうに思はれた。 ある一瞬間にはそれが判然(はつきり)と見えるやうで、次の瞬間には又消えてしまふのであるが、 兎もかくも青いやうな、青白いやうな二つの光が暗い中から屡々あらはれて、半信半疑のわたしを照らしてゐた。 わたしは口を利かうと思つても、聲が出ない。唯、これが怖いか、いや怖くはないと考へるだけであつた。 努めて起ち上らうとしても、支へ難き力に壓縮(おしすく)められてゐるやうで起つことが出來ない。 わたしは私の意志に叛抗し、人間の力を壓倒するこの大いなる力を認めないわけには行かなかつた。 物理的に言へば、海上で暴風雨に出逢つたとか、或は大火災に出逢つたとか言ふたぐひである。精神的に言へば、 何か怖ろしい野獸と鬪つてゐるか、或は大洋中で(ふか)に出逢つたとでも言ふべきである。 即ちわたしの意志に叛抗する他の意志があつて、その強い程度に於いては風雨(あらし)の如く、火のごとく、 その實力に於いては彼の(ふか)の如きものであつた。

かういふ感想がだん〜にたかまると、なんとも言へない恐怖が湧いて來た。 それでも私は自尊心 -- 勇氣では無くとも -- をたもつてゐて、それは外部から自然に襲つて來る怖ろしさであつて、 私自身が怖れてゐるのではないと、心の中で言つてゐた。わたしに直接危害を加へないものを恐れる筈はない。 わたしの理性は妖怪などを承認しないのである。今見るものは一種の幻影に過ぎないと思つてゐた。

一生懸命の力を振ひ起して、わたしは遂に自分の手を伸ばすことが出來た。さうして、 テーブルの上の武噐を()らうとする時、突然わたしの肩と腕とに不思議の攻撃を受けて、 わたしの手はぐたりとなつてしまつた。そればかりでなく、蝋燭の火が消えたと言ふのでもないが、 その光は次第に衰へて來た。爐の光も同樣で、焚物(たきもの)のひかりは吸ひ取られるやうに薄れて來て、 部屋の中はまつたく暗くなつた。この暗いなかで、彼の「黒い物」に威力を(ふる)はれては堪らない。 わたしの恐怖は絶頂に逹して、もう斯うなつたら氣を失ふか、呶鳴(どな)るかの外はなかつた。 わたしは怒鳴つた。一種の悲鳴に近いものではあつたが、兎も角も(どな)鳴つた。

「恐れはしないぞ。おれの魂は恐れないぞ。」と、こんなことを(どな)つたやうに記憶してゐる。

それと同時に私は起ちあがつた。眞暗のなかを窓の方へ突進して、カアテンを引きめくつて、 鎧戸を跳ね明けた。先づ第一に外部の光線を入れようと思つたのである。外には月が高く明るく懸つてゐるのを見て、 わたしは今までの恐怖を忘れたやうに嬉しく感じた。空には月がある。眠つた街にはガス燈の光がある。 わたしは部屋の方を振返つてみると、月の影はそこへも()し込んで、 その光は甚だ青白く、且つ一部分ではあつたが、兎も角もそこらが明るくなつてゐた。 彼の黒い物は何であつたか知らないが、形はもう消えてしまつて、 正面の壁にその幽靈かとも見えるやうな薄い影をとゞめてゐるのみであつた。

わたしは今、テーブルの上に眼を配ると、テーブル -- それにはクロスもカヴァーもない、 マホガニーの木で作られた圓い古いテーブルであつた。 -- の下から一本の手が(ひじ)のあたりまでぬうと出て來た。 その手はわたし逹のやうに血や肉の多くない、痩せた、皺だらけの、小さい手で、おそらく老人、 殊に女の手であるらしく思はれたが、そろり〜と伸びて來て、 テーブルの上にある二通の手紙に近づいたかと見るうちに、 その手も手紙も共に消えうせた。

このとき先刻聽いたと同じやうな、物を撃つ音が三度響いた。その音がしづかに止むと、 この一室が振動するやうに感じられて、床の上のそこから此處からも、 光の泡のやうな火花と火の玉があらはれた。それは緑や黄や、火の如く紅いのや、空の如く薄青いのや、 種々の色をなしてゐるのであつた。椅子は誰が動かすとも無しに壁際を離れて、寢臺の正面に直されたかと思ふと、 女の形がそこにあらはれた。それは死人のやうに物凄いものではあつたが、 生きてゐる者の形であるらしく明かに認められた。

それは悲しみを含んだ若い美人の顏であつた。身には雲のやうに白いローブ(長い(ゆる)やかな着物)を(まと)つて、 喉から肩のあたりは露出(あらは)になつてゐた。女は肩に埀れかゝる長い黄色い髮を梳きはじめたが私の方へは眼もくれずに、 耳を傾けるやうな、注意するやうな、待つやうな態度で、(ドア)の方を見つめてゐると、 うしろの壁に殘つてゐる「黒い物」の影は又次第に濃くなつて、 その頭にある二つの眼のやうなものが女の姿を窺つてゐるらしくも思はれた。

(ドア)は閉まつてゐるのであるが、恰もそこから這入つて來たやうに、他の形があらはれた。 それも女とおなじくはつきりしてゐて、同じく物凄く見えるやうな、若い男の顏であつた。 男は前世紀か又はそれに似たやうな服を着てゐたが、その襞の附いた襟や、レースや、 帶留の細工を凝らした舊式の美しい服裝が、それを着てゐる死人のやうな男と不思議な對象をなして、 いかにも竒怪に、寧ろ怖ろしいやうにも見られた。

男の形が女に近づくと、壁の黒い影も動き出して來て、この三つが忽ち暗いなかに包まれて了つたが、 やがて青白い光が再び照らされると、 男と女の二つの幽靈は彼等のあひだに突つ立つてゐる大きい黒い影に掴まれてゐるやうに見えた。 女の胸には血のあとが滲んでゐた。男は劍を杖にして、これもその胸のあたりから血が滴つてゐた。 黒い影は彼等を呑んで、いづれも皆そのまゝに消えてしまふと、 以前の火の玉が又あらはれて、走つたり轉がつたりしてゐる中に、だん〜にそれが濃くなつつて、 更に激しく入亂れて動いた。

爐の右手にある化粧室の(ドア)が明いて、その口から更に老婆の形があらはれた。 老婆はその手に二通の手紙を持つてゐた。又そのうしろに跫音(あしおと)が聞えるやうであつた。 老婆は耳を傾けるやうに振返つたが、やがて彼の手紙を開いて讀みはじめると、その肩越しに青ざめた顏がみえた。 それは水中に長く沈んでゐた男の顏で、膨れて、白ちやけて、その濡れしほれた髮には海藻がからみ付いてゐた。 そのほかにも、老婆の足もとには死骸のやうな物が一つ横はつてゐて、 その死骸のそばには又一人の子供がうづくまつてゐた。子供は慘めな(きたな)い姿で、 その頬には饑餓の色が漂ひ、その眼には恐怖の色が浮んでゐた。

老婆は手紙を讀んでゐるうちに、顏の皺が次第に消えて、若い女の顏になつた。 嶮しい眼をした殘忍の相ではあるが、兎にかくも若い顏になつたのである。すると、 又こゝへ彼の黒い影が掩つて來て前のごとくに彼等を暗い中へ包み去つた。

今は彼の黒い影のほかには、この室内には何にも怪しいものは無いので、わたしは眼を据ゑて、 ぢつとそれを見つめてゐると、その影の頭にある二つの眼は、 毒々しい蠎蛇(うはばみ)の眼のやうに大きく飛び出して來た。火の玉は不規則に混亂して、 或は舞ひあがり、或は舞ひ下り、その光は窓から流れ込む淡い月の光になじりながら狂ひ騷いでゐた。 そのうちに鷄卵(たまご)の殼から出るやうに、火の玉の一つ一つから驚くべき物が爆發して、空中に充滿した。 それは血の無い醜惡な幼蟲のたぐひで、わたしには到底何とも説明の仕樣がない。一滴の水を檢微鏡で覗くと、 無數の透明な、柔軟な、敏捷な物が互ひに追ひまはし、互ひに喰ひ合つてゐるのが見える。 今こゝにあらはれた物も先づそんな種類で、肉眼では殆んど見分け難いものであると思つて貰ひたい。 その形に何の均一があるわけでも無く、その行動に何の規律がある譯でもなく、居所も定めずに飛びまはつて、 私のまはりをくる〜と舞ひはじめた。その集團はだん〜に濃密になつて、 その廻転はだん〜に急激になつて、わたしの頭の上にも群つて來た。 何かの用心に突き出してゐる私の右手の上にも這ひあがつて來た。 時々何か觸るやうに感じたが、それは彼等の仕業(しわざ)でなく、眼にみえない手が私に觸るのであつた。 又あるときには冷い柔かい手がわたしの喉を撫でるやうに感じたこともあつた。

こゝで恐れを懷いて降參すると、わたしの體に危險があると思つたので、 私は彼等に對抗するといふ一點にわたしの心力を集中して、彼の蠎蛇(うはばみ)のやうな眼 -- それはだん〜にはつきりと見えて來た -- から私の眼を背けた。 わたしの周圍にはもう何物もゐないのであるがこゝに猶一つの「意志」がある。 それは力強く、創造的で、且つ活動力に富むところの「惡」の意志であつて、その力は能く私を壓伏し得るのであつた。

部屋の中なかの青白い空氣は今や近火でもあるやうに紅くなつて、 彼の幼蟲の群は火のなかに棲む物のやうにきら〜と光つて來た。 月のひかりは顫へて動いた。物を撃つやうな音が又もや三度きこえたかと思ふち、 すべての物が彼の黒い影に呑まれて、 更に又大いなる暗黒(くらやみ)のうちに隱れてしまつたがやがてその暗黒(くらやみ)が退くと共に、 黒い影もまつたく消え失せて、今まで光を奪はれてゐたテーブルの上の蝋燭の火は再び(しづ)かに明るくなつた。 爐の火も再び燃えはじめた。この室内は再び元の平穩の姿に立復(たちかへ)つた。

二つの(ドア)は猶閉まつたまゝで、Fの部屋に通ずる(ドア)にも錠をおろしてあつた。 壁の隅には彼の犬が追ひ込まれて、痙攣したやうに横はつてゐるので、わたしは試みに呼んでみたが、 犬はなんの答へもなかつた。更に近寄つてよく觀ると、眼の珠は飛び出して、口からは舌を吐いて、 顎からは泡を噴いて、犬はもう死んでゐるのであつた。わたしは彼を抱きあげて火のそばへ連れて來たが、 哀れなる愛犬の死に就いて、強い悲哀と強い自責とを感ぜずにはゐられなかつた。 わたしが彼を死地へ連れ込んだのである。最初は恐怖のために死んだのであらうと想像してゐたが、 その頸の骨が實際に碎かれてゐるのを發見して、わたしは又驚いた。それが暗中に()されたとすれば、 それは私のやうな人間の手に因つて()されなければなるまい。して見ると、 最初から終りまでこの室内に人間が働いてゐたのであらうか。それに就いて何か疑はしい形跡があるであらうか。 私はこの以上に何事をも詳しく語ることが出來ないのであるから、宜しく讀者の推斷に任せるのほかは無い。

もう一つ驚くべきは、先刻不思議に紛失した私の懷中時計がテーブルの上に戻つてゐた。 但し恰もそれが紛失した時刻のところで、時計の針は止まつてゐるのである。その後、 上手な時計屋へ持つて行つて幾度も修繕して貰つたが、 いつも數時間の後には針の廻転が妙に不規則になつて結局は止まつて仕舞ふことになるので、 その時計はたうとう廢物になつた。

その後はもう變つたことは無かつた。わたしは夜のあけるまで待つてゐたが、何事もなかつた。 日が出て、世間が晝になつて、わたしがこの家を立去るまで、もう何事もなかつたのである。 いよ〜こゝを立去る前に、わたしとFとが監禁された部屋 -- 窓の無い部屋へ再び這入つてみた。 竒異なる事件の機械的作用 -- 若しこんな言葉があるならば -- を作り出したこの部屋へ今や白晝に踏み込んで、 ゆうべの怖ろしさを再び思ひだすと、わたしは一刻もこゝに立つてゐるに堪へられないので、 早々に、階段を降りかゝると、又もやわたしの先に立つてゆく跫音(あしおと)がきこえた。 さうして、表の入口の(ドア)をあけた時に、うしろで(かす)かな笑ひ聲が聞えたやうにも思はれた。

わたしは自分の家に歸つた。ゆうべ逃亡した雇人は定めて顏を見せるだらうと思ひの外、 Fはどこへ行つてしまつたか、一向にその消息が判らないのであつた。三日の後にリヴァープールからの手紙が來た。

先夜は御覽の通りの始末で、なんとも申譯がございません。 わたしが本當に恢復するにはこれから一年以上もかゝるだらうと存じますから、 もちろん今後の御奉公は出來ません。わたくしはこれからメルボルンにゐる義兄弟のところへ尋ねて行く積りで、 その船は明日出帆いたします。長い航海をつゞけてゐる中には、わたしも氣がしつかりして來るであらうと存じます。 なにしろ唯今のところでは恐怖と戰慄があるばかりで、 怖ろしい物が常に自分のうしろに附纒(つきまと)つてゐるやうに思はれてなりません。 それから甚だ恐れ入りますが、わたしの衣類や荷物の類は、ウォルウォースにゐる私の母のところへお屆けを願ひます。 母の住所はジョンが知つて居ります。 --

手紙の終りには猶色々の辨解が附加へてあつて、やゝ辻褄の合はない點もあるが、 筆者は(すこぶ)る注意して書いたらしく諒々(くど〜)(なら)べ立てゝあつた。 本人は(かね)て濠洲へ行きたい希望があつたので、それをゆうべの事件に結び付けて、 こんな拵へ事をしたのではないかとも疑はれるが、私はそれに就いて何にも言はない。 寧ろ世間には信ずべからざる事を信ずる人が澤山あつて、彼のその一人であらうと思つた。 いづれにしても、この事件に對する私の信念と推理は動かないのである。

夕方になつて、わたしは貸馬車を雇つて再び彼の化物屋敷へ行つた。そこに置いて來たわたしの物と、 死んだ犬の亡骸(なきがら)とを引取る爲であつたが、今度は別になんの邪魔もなかつた。 唯その階段を昇り降りするときに、例の跫音(あしおと)を聞いた以外には、 わたしの注意に値するやうな出來事もなかつた。

そこを出て、更に家主のJ氏をたづねると、彼は恰も在宅であつた。わたしは鍵を返した上で、 わたしの好竒心は十分に滿足したことを話した。さうして、ゆうべの出來事を口早に話しかけると、 J氏はそれを遮つて、所詮誰にも解決の付かないやうな怪談について自分は最早興味を持たないと丁寧に斷つた。 併し彼の二通の手紙の事と、又それが不思議に消え失せたことだけは報告して置かなければならないと思つたので、 わたしはJ氏に向つて、彼の手紙は彼の家で死んだ老婆に宛てたものであると考へられるか、 又彼の老婆が過去の經歴のうちには手紙にあらはれてゐるやうな暗い祕密を藏してゐると思はれる節があるかと質問すると、 J氏は驚いたやうに見えた。彼はしばらく考へた後に、かう答へた。

(さき)にお話し申した通り、あの婆さんがわたしの方の知合ひであるといふ以外、 その若いときの經驗などに就いては餘りよく知らないのです。併しあなたのお話を伺つて、 おぼろげな追憶を呼び起すやうにもなりましたから、 私は更に聞き合せてその結果を後報告しませう。それにしても、 こゝに一人の犯罪者又は犯罪の犧牲者があつて、 その靈魂が犯罪の行はれた場所へ再び立戻つて來るといふ世間一般の迷信を承認するとしても、 あの婆さんの死ぬ前からあの家に不思議の物が見えたり、不思議な音が聞えたりしたのは何ういふわけでせうか。 -- あなたは笑つてゐられるが、それには何ういふ御意見がありますか。」

「若し我々がこの祕密の底深くまで進んで行つたら、生きてゐる人間の働いてゐることを發見するだらうと思はれます。」

「え、なんと仰しやる。では、あなたは總てのことが詐欺だと言はれるのですか。 どうしてそんなことが判りました。」

「いや、詐欺といふのとは違ひます。例へば、わたしが突然に深い睡眠状態に陷つて -- それはあなたが搖り起す事の出來ないやうな深い睡眠状態に陷つたとして、 その時わたしは自分が眼ざめた後に訴へることの出來ないほど正確に、あなたの問に答へる事が出來ます。 即ちあなたのポケットには幾らの金を持つてゐるとか、あなたは何を考へてゐるとか -- さう言ふ類の事は詐欺と言ふべきではなく、むしろ無理に強られた一種の超自然的の作用ともいふべきものです。 わたしは自分の知らない間に、遠方から或は或人間に催眠術を施されて、 その交感關係に支配されてゐたのだと思ふのです。」

「假りに催眠術師が生きた人間に對してさういふ感應を與へ得るとしても生きてゐないもの -- 即ち椅子や(ドア)のやうな物に對して、それを動かしたり、明けたり閉めたりすることが出來るでせうか。

「實際はさうで無くて、さういふ風に思はせるのかも知れません。普通に催眠術と稱せられるものでは、 勿論そんなことは出來ませんが、催眠術師のうちにも、一種の血統があるか、 あるひはその術の特に優れた者か、 それらの中には昔で言ふ魔術に似たやうな不思議の力を持つてゐる者がないとは限りません。 その力が果して生なき物にまで働き得るかどうかは知りませんが、 若しそんなことがあつたとしても敢て不自然とは言はれまいかと思はれます。勿論それはこの世の中に甚だ少いことで、 其人は特殊の體質を持つて生まれ、又特殊の實驗を積んで、その術の最高極度に到逹したものと見なければなりません。 その力が死んだ者の上に -- 詳しく言へば、死んだ者にもまだ殘つてゐる或る思想とか或る記憶とかいふものゝ上に働くのです。 さうして、正しくは靈魂と言ふべきものではなく、 最も地上に近い一種の靈氣が我々の感覺にあらはれて來るやうになるのです。 併し私はそれを以て眞の超自然的の力とは認めません。それを説明するために、 パラセルサス(瑞西(スヰツツル)の醫師、博物學者、十六世紀初年の人)の著作「文學上の竒觀」の一節を申上げませう。

こゝに一つの花があつて、人がそれを燒けば枯れて燒け失せる。その花の元素が何であらうとも、 どこかへ消散してしまつて、それを見受けることも出來ず、再び集めることも出來ない。 併し科學的に研究すれば、その花の燒けた灰や(ごみ)の中からは、 生きてゐた時と同樣のスペクトル(分光)を發見することが出來るのである。 人間も同じことで、靈魂は花の本體または元素のごとくに離れ去つてもそれにはスペクトルが殘つてゐる。 普通の人はそれを靈魂と信じてゐるけれども、それを(まこと)の靈魂と混同してはならない。 それは死人の幻影とも言ふべきものである。それであるから、古來の怪談に傳へられるところのものには、 まことの靈魂が宿つてゐるのではなく、よく分離したる智識のみだと思へばよい。 これらの幽靈とも言ふべきものは、多少の目的があつて出現することもあり、 又は何の目的も無くして現れることもある。彼等は稀に口を利くこともあるが、別に何の思想を發表するわけでも無い、 從つて、たとひその幻影がいかに驚くべきものであつても、哲學の本分としては、 超自然的の不思議な物でも何んでも無いとして拒否すべきである。 彼等は人間の死際にその頭腦から他へ運ばれたところの思想に過ぎない -- 先づこんな議論であらうとして、 ゆうべの出來事を考へると、テーブルが自然にあるき出したのも、怪物のやうな形があらはれたのも -- たとひそれが我々の血を凍らせるほどの怖ろしい出來事であつたとしても、そこには或る種の仲介者があつて、 恰も電氣の線のごとくに、他の頭腦からわたしの頭腦へ流通させたものであると信じられるのです。

人間は體質によつて自然に化學的に出來てゐる者がある、さうして人間は化學的の驚異を現ずる事が出來ます。 又、液體的(普通に電氣といふ)の人間は發電の不思議を見せることも出來るのです。 そこで、ゆうべ私が見たり聞いたりした總ての事は、人間 -- 私とおなじやうに生きてゐる人間が、 遠方から何かの仕事をしてゐるのであつて、本人自身も知らない程に好い效果を生じたのであらうと思はれます。 要するに、その人間が或る死人の頭腦を利用してゐるのであつて、頭腦それ自身は單に夢を見てゐるに過ぎないのです。 併しその力は非常に強大なもので、その物質的の力はわたしの犬を殺した程です。 わたしも恐怖のために屈伏したらば、犬とおなじやうに殺されたでせう。」

「あなたの犬を殺しましたか。それは怖ろしいことです。」と、J氏は言つた。 「なるほど()う言へばあの家に動物は棲んでゐません。猫一匹も見えません。鼠も見たことはありません。」

強烈なる獸性の創造力がそれらの動物を殺すほどの影響をあたへるのですが、 人間は他の動物よりも更に強い抵抗力を持つてゐるのです。 先づはそれはそれとして、あなたは私の理論を御諒解になりましたか。」

「先づ大抵は……。失禮ながらお蔭さまで、多少の手がかりを得ました。 我々が子供部屋にゐる時から浸み込んでゐる幽靈や化物に對する概念を唯そのまゝに受入れるよりも、 寧ろあなたの御説に從ふべきでせう。併し議論は議論として、わたしの貸家に惡い事のあるのは何うにもなりません。 そこで一體あの家をどうしたら好いでせうか。」

「かうしたら何うです。わたしの泊つた寢室の(ドア)と直角になつてゐる、家具の無い小さい部屋が怪しいやうに思はれます。 あの部屋があの家に祟りを()す一種の感動力の出發點か又は置所だと認められますから、 私は是非あなたにお勸め申して、彼處(あすこ)の壁を取除け、彼處(あすこ)の床を外したいのです。 さうでなければ、あの部屋を皆燻證(とりこは)して了ふのです。 あの部屋は建物の總體から離れて、小さい裏庭の上に作られてゐるのですから、あれを動かした所で、 建物の他の部分には何にも差支へはありますまい。」

「そこで、わたしがその通りにしましたならば……。」

「先づ電信線を切り外すのです。それを遣つて御覽なさい。若しその作業の指揮をわたしに任せて下さるなら、 わたしがその工事費の半額を支拂ひます。」

「いや、それは私がみな負擔(ふたん)します。その餘のことは、書面で申上げませう。」

それから十日ほどの後に、わたしはJ氏からの手紙をうけ取つた。

その報告によると、彼はわたしが歸つたあとで彼の家へ見廻りに行つた。 さうして。彼の二通の手紙が再び元の抽斗に戻つてゐるのを發見したので、 彼もわたしと同じやうな疑ひを以て讀んだ。それから又、 わたしが推測した通りに彼の手紙の受取人であるらしい老婆の身の上を念入りに調べはじめると、 手紙の日附の一年前、即ち今から三十六年前に彼女は親族の意志にさからつて結婚した。 男は亞米利加生れの、(すこぶ)る怪しい人物で、世間からは海賊であると認められてゐた。 彼女は信用の厚い商人の娘で、結婚するまでは乳母に育てられてゐたほどの身分であつた。 又、彼女には男やもめの兄弟があつて、それは恐らく金持であつたらしく、 その當時六歳ぐらゐの子供を持つてゐたのである。彼女が結婚してから一ヶ月の後、 その兄弟の死骸がテームス河の倫敦橋に近いところで發見されて、 死骸の咽喉部には暴力を加へられたらしい形跡が見えたが、特に檢視を求めるといふほどの有力の證據にもならず、 結局は溺死といふことで終つた。

亞米利加人とその妻は死んだ兄弟の遺言状によつて、その一人の孤兒の後見人となつた。 さうしてその子供が死んだ爲に、妻がその財産を相續した。 但しその子供はわづかに六ヶ月の後に死んだのでおそらく後見人夫婦のために冷遇と虐待を受けたせゐであらうと想像された。 近所の者は夜中に子供の泣き叫ぶ聲を聞いたことがあると證明した。又その屍躰うぃ檢査した醫師は、 榮養缺乏の爲に死亡したのだと言ひ、しかもその全身には生々しい紫斑の痕が殘つてゐたと言つた。 何でも或る冬の夜に、子供はそこを逃げ去らうとして、裏庭まで這ひ出して、塀を登らうとして、疲れて倒れて、 あくる朝になつて石の上に死んでゐるのを發見されたものであるらしい。しかし、そこに虐待の證據は幾らか認められても、 その子供を殺したといふ證據は何にも認められないのである。彼の叔母とその夫はその殘酷の行爲に對して、 子供が非常に強情であるのを矯正するが爲であつたと辨解した。 さうして、彼は半氣ちがひのやうな片意地者であつたと説明した。いづれにしても、 この孤兒の死によつて、叔母は自分の兄弟の財産を相續したのであつた。

結婚の第一年が過ぎないうちに、彼の亞米利加人は俄に英國を立去つて、それぎり再び歸つて來なかつた。 彼はそれから二年の後、大西洋で難破した船に乘合せてゐたのである。 かうして未亡人とはなつたが、彼女は豐に暮らしてゐた。 而も種々(いろ〜)の災厄が彼女の上に落ちかゝつて來て、 預金の銀行は倒れる、投資の事業は失敗するといふ始末で、たうとう無産者となつてしまつた。 それから種々(いろ〜)の勤めに出たが、又だん〜に零落して、貸家の監督から更に下女奉公にまで出るやうになつた。 彼女の性質を別に惡いと言ふ者もないのであるが、どこへ行つてもその奉公が長く續かなかつた。 彼女は沈着で、正直で、殊にその行儀が好いのを認められてゐながら、どうも彼女を推薦する者がなかつた。 さうして、遂に養育院に落ち込んだのを、J氏が引取つて來て貸家の番人に雇ひ入れたのである。 その貸家は彼女が結婚生活の第一年に、一家の主婦として借受けた家であつた。

J氏はそのあとへ斯ういふことを附加へて來た。

わたしが打毀(うちこわ)せと勸めた彼の部屋に、J氏は唯ひとりで、一時間を過したが、 別に何にも見えるでもなく、聞えるでも無いにも拘らず、彼は非常の恐怖を感じたので、 斷然わたしの注意にしたがつて、その壁をめくり、床を剥がすことに決心して、 已にその職人とも約束して置いたから、わたしの指定の日に工事に着手するといふのであつた。

 

そこで時間をとりきめて、わたしは彼の化物屋敷に行つた。わたし逹は窓のないがらんどうの部屋に這入つて。 建物の幅木を取除け、それから床板をめくると、埀木の下に屑を以て掩はれた刎上(はねあ)げの戸が發見された。 その隱鈴(かくしベル)は人間が樂に這入られる位の大きさで、鐡の締金と鋲とで嚴重に釘付けにされてゐた。 それらを外して、下の部屋へ降りてみると、その構造には別に怪しい所もなく、 そこには窓も烟出しもあつたが、それらは煉瓦で塗り固められて已に多年を經たものであることが明かに見られた。 蝋燭の火をたよりに其處らを檢査すると、おなじ型の家具 -- 三脚の椅子、一脚の(かしは)の木の長椅子、 一脚のテーブル、それらは殆んど八十年前の形式の物であつた。壁にむかつて抽斗附きの箱があつて、 その箱から八十年前または百年前に、相當の地位を占めてゐた紳士が着用したのであらうと思はれる、 男の衣服の附屬品の半ば腐朽してゐるのを發見した。 -- 高價な鋼鐵のボタンや帶留めや、 それらは宮中服の附屬品であるらしく、他に立派な宮中用らしい帶劍とチョッキ、 そのチヨッキは金の編絲で華麗に飾られてゐたらしいが、今はもう黒くなつて濕つてゐた。 それから五ギニアの金と少しばかりの銀貨と、象牙の入場劵(これは恐らく遠い昔の宴會か何かの時の物であらう) などが現れたが、わたし逹の主要なる發見は壁に取付けてある鐡の弗箱のやうなもので、 その錠をあけるのはなか〜困難であつた。

この弗箱には三つの棚と二つの抽斗があつて、棚の上には密封した硝子罎が澤山に(なら)んゐた。 その罎には無色の揮發性の物を貯へてあつて、それは何だか判らない。そのうちに燐とアムモニアの幾分を含んでゐるが、 別に有毒性の物ではなかつたと言ひ得るだけのことである。そこに又、(すこぶ)るめづらしい硝子の管と、 結晶石の大きい凝塊(かたまり)と、小さな點のある鐡の綱と、琥珀と、非常に有力な天然磁石とが發見された。

一つの抽斗からは、金縁の肖像画があらはれた。密畫に描かれたもので、恐らく多年こゝにあつたと思はれるにも拘らず、 その色彩は眼に立つほどの新しさを保つてゐた。肖像はやゝ中年にすゝんだ、四十七八歳ぐらゐの男であつた。

その男は特徴のある顏 -- 甚だ強い印象をあたへる顏で、それを諒々(くど〜)と説明するよりも、 ある大きい蠎蛇(うはばみ)が人間に化けた時、即ちその外見は人間にして蠎蛇(うはばみ)にタイプであると言つたならば、 諸君にも大かた想像が付くであらう。前頭の廣さと平つたさ、怖ろしい口の力をかうしてゐるやうな細さと優しさ、 翆玉のごとくに青く輝いてゐる長く大きい物凄い眼 -- 更にまた、自己の大なる力を信ずるやうな、 一種の無慈悲な落着方 --

わたしはその裏を(あらた)めてみようと思つて、機械的にその肖像画を裏がへすと、 そこにはペンタクル(五芒星形)が彫刻してあつた。ペンタクルの中央には階子(はしご)の形があつて、 その三段目には千七百六十五年と記されてゐた。更に精密に檢査してゐるうちに、私は彈機(ばね)を發見した。 その彈機(ばね)を押すと、額のうしろは蓋のやうに開いた。その蓋の裏には「マリアナが汝に命ず。 生くる時も死せつ時も -- に忠實なれ」と彫刻してあつた。誰に忠實なれといふのか、その人の名はこゝに記さないが、 それは私にも心當りが無いではなかつた。私は子供の時に老人から聞かされたことがある。 かれは人の眼を(くら)ます僞學者で、自分の家のなかで自分の妻とその戀仇とを殺して逃走した爲に、 約一年間も倫敦市中を騷がしたのであつた。併しわたしはそれをJ氏に語るのを(いと)うて、 そのまゝ額の裏を閉ぢてしまつた。

弗箱のうちの第一の抽斗をあけるのは、別にむづかしくも無かつたが、第二の抽斗をあけるには非常に困つた。 錠をおろしてあるうのでは無いが、どうしても明かないので、 結局その隙間へ(のみ)の刄を插し込んでやう〜に()じ明けると、 抽斗のなかには甚だ簡單な化學機械が順序正しく列んでゐた。 小さな薄い書物 -- 寧ろ書板(タブレツト)といふべき物の上に、硝子の皿を置いてあつて、 その皿には清らかな液體が滿たされてゐた。液體の上には磁石のやうな物が浮んでゐて、 その磁石の針は急速に廻転するのであつた。併し普通の磁石が示す方向とは違つて、 天文學者が惑星を指示するものと餘り異つてゐない七つの竒妙な文字が記されてゐた。 抽斗は木で(しき)られてゐて、それが榛の木の類であることを後に知つたが、 その抽斗の中から一種特別な、而も強烈でもなく、又不愉快でもないやうな匂ひが發して來た。 その匂ひの原因はなんであるか知らないが、兎に角にそれが人間の神經に感じるもので、J氏と私ばかりでなく、 この部屋に居あはせた二人の職人も指の先から髮の毛の根までがうづくやうに感じたのであつた。

書板(タブレツト)の詮議を急ぐので、わたしはその皿を取除けると、磁石の針は非常に急速力を以て廻転をはじめて、 私は思はずその皿を床の上に取落してしまふほどに、全身に一種の衝撃(シヨツク)を感じた。 皿が(こは)れると、液體も流れ出して、磁石は部屋の隅に轉がつた。 -- と思ふと、その瞬間に、 恰も巨人の手を以て搖ぶるやうに、四方の壁があちらこちらへ搖れ出した。

職人逹はおどろいて、初めにこの部屋へ降りて來たところの階子(はしご)へ逃げ上つたが、 それぎりで何事も起らないのを見て、安心して再び降りて來た。

やがて私が書板(タブレツト)を開くと、それは銀の止め金の附いた普通のなめし皮に卷かれてゐて、 そのなかには唯一枚の厚い皮紙を入れてあつた。皮には二重(ふたへ)五芒星形(ペンタクル)が書いてあつて、 そのなかに昔の僧侶が書いたらしいラテン語が記してあつた。それを飜譯すると、かうである。

-- この壁に近づく者は、有情と非情と、生けると死せるとを問はず、この針が動くが如くにわが意志は働く。 この家に呪ひあれ。こゝに住む者は不安なれ --

その外には何にもなかつた。J氏はその書板(タブレツト)と呪文を燒き捨て、更にその祕密の部屋とその上の寢室とを併せて、 土臺下から總て切り取つてしまつた。そこでJ氏も勇氣が出て、彼自身が彼の家に一ヶ月ほども平氣で住んだ。

さうなると、こんな閑靜な、居心地の好い家は倫敦中にも滅多にないと言ふので、 彼は相當に儲けて貸すことになつたが、借家人は決して苦情を言はなかつた。

-- 終 --


更新日: 2003/02/11

世界怪談名作集:スペードの女王


スペードの女王

プーシキン 著

岡本綺堂 譯


目次


近衞騎兵のナルモブの部屋で骨牌(かるた)の會があつた。長い冬の夜はいつか過ぎて、 一同が食夜(ツッペ)の食卓に着いた時はもう朝の五時であつた。 勝負に勝つた組はうまさうに食べ、負けた連中は氣が無ささうに喰ひ荒された皿を見つめてゐた。 併し、シャンパン酒が出ると、兎に角だん〜に活氣づいて來て、勝つた者も負けた者もみな喋り出した。

「で、君はどうだつたのだい。スーリン。」と、主人公のナルモブが訊いた。

「やあ、相變らず取られたのさ。僕はどうも運が惡いと諦めてゐるよ。 なにしろ遣つてゐる事がミランドール(一種の骨牌戲(かるたあそび))だし、 いつも冷靜にしてゐるから、手違ひの仕樣がないのだが、 それでゐて、始終負けてゐるのだからね。」

「だつて君は、一度も赤札に賭けようとしなかつたぢやないか。 僕は君の強情にはおどろいてしまつたよ。」

「併し君はヘルマンをどう思ふ。」と、客の一人が若い工兵士官を指させながら言つた。」 この先生は生れてから曾て一枚の骨牌札(かるたふだ)も手にしたこともなければ、 一度も賭をしたこともないのに、朝の五時まで斯うしてこゝに腰をかけて、 我々の勝負を眺めてゐるのだからな。」

「人の勝負を見てゐるのが僕には大いに愉快なのだ。」と、ヘルマンは言つた。 「だが、僕は自分の生活に不必要な金を犧牲にすることが出來るやうな身分ではないからな。」

「ヘルマンは獨逸人である。それだから彼は經濟家である。—— それでちやんと判つてゐるぢやあないか。」と、トムスキイが批評を下した。 「併しこゝに僕の不可解な人物が一人ある。僕の祖母、 アンナ・フドトヴナ伯爵夫人だがね。」

「どうしてだ。」と、他の客逹が尋ねた。

「どうして僕の祖母がプント(賭骨牌(かけかるた)の一種)をしないかが僕には判らないのだ。」と、 トムスキイは言ひ續けた。

「どうしてと言つて……。八十にもなつたお婆さんがプントをしないのを、 何も不思議がることはないぢやないか。」と、ナルモブが言つた。

「君はなぜ不可解だか、その理由を知るまい。」

「無論、知らないね。」

「よし。では聽きたまへ。今から五十年ほど前に、僕の祖母は巴里へ行つたことがあるのだ。 ところが、祖母は非常に評判となつて、 巴里の人間はあの『ムスコビートのヴィーナス』のやうな祖母の流眄(ながしめ)の光榮に浴しようと言ふので、 爭つて、そのあとを附廻したさうだ。祖母の話によると、 なんでもリチェリューとかいふ男が祖母を口説きにかゝつたが、祖母に手嚴しく跳ね付けられたので、 彼はそれを悲觀して、ピストルで頭を撃ち拔いて自殺してしまつたさうだ。 その頃の貴婦人間にはファロー(賭骨牌(かけかるた))をして遊ぶのが流行つてゐた。 ところが、宮廷に骨牌(かるた)會があつた時、祖母はオルレアン公のためにさん〜゛負かされて、 莫大の金を取られてしまつた。そこで、祖母は家へ歸ると、 顏の美人粧(パッチ)と袴の箍骨(フープス)を取りながら、祖父にその金額をうち明けて、 オルレアン公に仕拂ふやうに命じたのだと言ふのが、死んだ僕の祖父といふのは、僕も知つてゐたが、 まるで祖母の家令のやうで、火のごとくに彼女を恐れてゐたのだ。その祖父が、 祖母から負けた賭金を聞いたときには、殆ど氣が遠くなつたと言ふのだらう、 なんでも餘程の金高らしいかつたのだね。で、流石の祖父も、 半年のあひだに祖母が賭でつかつた金が五十萬 (フラン)にも逹してゐることを數へ立てゝ、 自分のモスクワやサラトヴの領地が巴里にあるわけではないから、 とてもそんな巨額な負債は拂へないと斷然拒絶したのだ。すると、 僕の祖母は祖父の耳のあたりを平手で一つ喰はせた上に、 自分が怒つてゐると言ふことを示すために默つて獨りで寢てしまつた。

さてその(あく)る日になつて、 祖母はゆうべの夫への懲罰(こらし)めがうまく利いてくれゝば好いがと心に祈りながら、 祖父を呼び寄せて口説いたが、祖父はやはり頑として()かなかつた。 祖母は自分には負債に負債がある事、しかし貴族と馭者とは違ふのであるから、 負債はどこまでも支拂はなければならない事を言ひ聞かせれば、 おそらく説教出來るものと思つたので、結婚以來初めて祖父に言ひ譯をしたり、 説明を試みたりしたのだが、結局それは無效に終つて、 祖父は依然として聞き容れなかつた。そこでこの問題は夫婦間だけでは解決が付かなくなつて來て、 祖母はどうしていゝか、途方に暮れてしまつたのだ。

これより前に、祖母は一人の非常に有名な男と知合になつてゐた。諸君は已に、 幾多の奇怪なる物語を傳へられる、サン・ヂェルマン伯のことを聞いて知つてゐるだらう。 彼はみづから宿無しの猶太(ユダヤ)人と言ひ、または不老長生藥の發見者といひ、 その他 種々(いろ〜)のことを言ひ()らしてゐたので、 ある者は彼を詐僞師(いかさまし)と輕蔑してゐたが、カサノバの記録によると、 かれは間諜(スパイ)であつたさうだ。いや、そんな事はどうであらうと、 彼は非常なる魅力も所有者であると共に、社交界になくてはならぬ人物であつた。 現に今日(こんにち)でも、彼の事といへば僕の祖母は大いに同情して、 もし誰かがその惡口でも言はうならば烈火のごとくに怒り出すのだ。 祖母は右のサン・ヂェルマン伯が巨額の金でも自由になることを知つてゐたので、 先づ彼に縋り付かうと決心して、自分の家へ來てくれるやうに手紙を出すと、 この奇怪なる老人はすぐに尋ねて來て、憂ひに沈んでゐる祖母に對面したのだ。 そこで、祖母は自分の夫の殘酷無情を大いに憤激しながら彼に訴へて、 たゞ一つの道はあなたの友誼と同情を頼むのほかは無いといふ結論に到着すると、 サン・ヂェルマン伯は『よろしい。あなたが御入用の金額をお立替へ申しませう。 併しそれを私に御返却なさらない間は、あなたも御安心が出來ますまいし、 私としても貴女に新しい御心配をかけるのは好ましくありません。ところで、 こゝに一つ、私がその金額のお立替へをせずに、あなたの御心配を取除く方法があります。 それは貴女がもう一度賭をなすつて、御入用だけの金額をお勝ちになることです。」と言つたさうだ。 『でも、伯爵樣。實は、私にはもうすこしも持合せも無いのです。」と祖母が答へると、 いや、金などは()つとも要らないのです。」と、今度はサン・ヂェルマン伯がそれを打消して答へた。 『まあ、私の言ふことをお聞きなさい』と、それから彼は、 我々がお互ひによくやるやうな一つの祕策を祖母に授けたのだ。」

若い將校連はだん〜に興味を感じて來て、熱心に耳を傾けてゐた。 トムスキイはパイプを(くは)へると、うまさうに一服吸つてから又その先を語りつゞけた。

「その晩、 祖母は女王の遊び(骨牌戲(かるたあそび)の一種)をするためにヴルサイユの宮殿へ行つた。 オルレアン公が親元をしてゐたので、祖母はいかにも尤もらしく、 まだ負債を返濟してゐないことを手輕に言譯してから、公爵と勝負をはじめた。 祖母は三枚の骨牌(かるた)札を選んで順々にそれを賭けて行つて、 たうとうソニカ(一番手取り早く勝負をきまる骨牌戲(かるたあそび))で三枚とも勝つたので、 祖母は前に負けただけの金額を全部回收してしまつたのだ。」

「實に僥倖(しあはせ)だな。」と、一人の客が言つた。

「作り話さ。」と、ヘルマンが批評を下した。

「多分 骨牌(かるた)に印で附けて置いたのではないか。」と、三番目に誰かが言つた。

トムスキイは斷乎たる口吻(くちぶり)で答へた。

「僕はさうは考へないね。」

「なんだ。」と、ナルモブが言つた。 「君は三枚ともまぐれ當りに勝つ方法を知つてゐる祖母(おばあ)さんが生きてゐるのに、 彼女からその祕密を引き出し得なかつたのか。」

「無論、僕もいろ〜に拔目なく遣つては見たのだがね。」と、トムスキイは答へた。 「何しろ、祖母には四人の息子があつて、そのうちに一人が僕の父だが、 四人とも骨牌(かるた)では玄人(くろうと)の方であつたし、 その貧密を明かしてくれゝば叔父や父ばかりでなく、僕にだつて滿更ら惡い事ではないのだが、 祖母はどうしてもその祕密を明かさうとはしなかつたのだ。だが、 この話は叔父も彼の名譽にかけて、實際の話だと斷言してゐたよ。 それに、死んだシャプリッツキイね。——數百萬の資産を蕩盡して、 尾羽打ち枯らして死んだ。——あの先生が曾て若いときに三十萬ルーブルばかり負けた事があつたのだ。 よくは覺えてゐないが、多分相手はゾリッヒであつたと思ふがね。 そこで先生、すつかり悲觀して仕舞つてゐたところを、 いつも若い者の出鱈目な生活に對しては嚴格であつた僕の祖母がひどく同情して、 生涯に二度と骨牌(かるた)をしないと言ふ誓言をさせた上で、 三枚の切札の祕密を彼に授けて、順々に賭けるやうに教へたのだ。 そこで、シャプリッツキイは前に負けた敵のところへ出かけて行つて、 新手の賭をやつた。初めの札で彼は五萬ルーブルを賭けて、 ソニカで勝つてしまつたが、その次の札で彼は十萬ルーブルを賭けると又勝つた。 かうして最後まで同じ手を打つて、たいとう彼が前に負けた金額よりも遙かに多く勝つてしまつたのだ……。」

「もうそろ〜寢ようではないか。六時十五分過ぎだぜ。」

實際已に夜が明け始めてゐたので、若い連中はぐつとコップの酒を飮み乾して、 思ひ〜に歸つて行つた。

三人の侍女はA老伯爵夫人を彼女の衣裳部屋の姿見の前に坐らせてから、 その周圍(まはり)に附き添つてゐた。第一の侍女は小さな臙脂(べに)の器物を、 第二の侍女は髮針(ヘヤピン)の小箱を、第三の侍女は光つた赤いリボンの附いた高い帽子をさゝげてゐた。 その伯爵夫人は美といふものに對して最早少しの自惚(うぬぼれ)もなかつたが、 今もなほ彼女の若かりし時代の習慣をそのまゝに、二十年前の流行を固守した衣裳を身につけると、 五千年前と同じやうに、長い時間を費して念入りの化粧をした。 窓際では、彼女の附添役の一人の若い婦人が刺繍臺の前に腰をかけてゐた。

「お早うございます、祖母(おばあ)さま。」と、一人の青年士官がこの部屋へ這入つて來た。

今日は(ボンジュール)リース孃(マドマゼール・リーズ)祖母(おばあ)さま、鳥渡(ちよつと)お頼み申したい事があるのですが……。」

「どんな事です。ポール。」

「外でもないのですが、祖母(おばあ)さまに僕の友逹を御紹介した上で、 この金曜日の舞踏會にその人を招待したいのですが……。」

「舞踏會にお呼び申して、その席上でそのお方に私を紹介したらいゝでせう。 それはさうと、昨日(きのふ)お前はBさんのお家においでゝしたか。」

「えゝ、非常に愉快で、明け方の五時頃まで踊り拔いてしまひました。 さう、さう、イエレツカヤさんが實に美しかつたですよ。」

「さうですかねえ。あの人はそんなに美しいのかねえ。 あの人の祖母(おばあ)さまのダリヤ・ペトロヴナ公爵夫人のやうに美しいのかい。 さう言へば、公爵夫人も隨分お年を召された事だらうね。」

「なにを仰しやつてゐるのです、祖母(おばあ)さま。」と、 トムスキイはなんの氣もなしに大きい聲で言つた。

「あの方はもう七年前に亡くなられたではありませんか。」

若い婦人は(にはか)に顏をあげて、この若い士官に合圖をしたので、 彼は老伯爵夫人には彼女の友逹の死を絶對に知らせてゐないことに氣が付いて、 慌てゝ口をつぐんで仕舞つた。併しこの老伯爵夫人はさうした祕密を全然知らなかつたので、 若い士官がうつかり饒舌(しやべ)つたことに耳を立てた。

「亡くなられた……。」と夫人は言つた。「私はちつとも知らなかつた。 私逹は一緒に女官に任命されて、一緒に皇后樣の御前に伺候したのに……。」

それからこの伯爵夫人は彼女の孫息子に向つて自分の逸話を殆ど百回目で話して聞かせた。

「さあ、ポール。」と、其物語が濟んだ時に夫人は言つた。「私を起しておくれ。 それからリザンカ、わたしの齅煙草(かぎたばこ)の箱はどこにあります。」

かう言つてから、伯爵夫人はお化粧を濟ませる爲に、三人の侍女を連れて屏風のうしろへ行つた。 トムスキイは若い夫人[誤:婦人]と後に殘つた。

「あなたが伯爵夫人にお引合せなさりたいと言ふお方は、どなたです。」と、 リザヴッタ・イヴァノヴナは小聲で訊いた。

「ナルモブだよ。知つてゐるだらう。」

「いゝえ。その方は軍人……。それとも官吏……。」

「軍人さ。」

「工兵隊の方……。」

「いや、騎馬隊だよ。どう言ふわけで工兵隊かなどゝ聞くのだ。」

若い婦人は微笑んだだけで默つてゐた。

「ポール」と、屏風の後から伯爵夫人が呼びかけた。 「わたしに何か新しい小説を屆けさせて下さいな。併し、今時の樣式(スタイル)のは御免ですよ。」

「と仰しやると、祖母(おばあ)さま……。」

「主人公が父や母の首を絞めたり、溺死者が出て來たりしないやうな小説にして下さい。 わたしは水死した人逹のことを見たり聞いたりするのが恐ろしくつてね。」

今日(こんにち)では、もうそんな小説はありませんよ。どうです。 露西亞の小説はお好きでせうか。」

「ロシアの小説などがありますか。では、一册屆けさせて下さい。ポール。きつとですよ。」

「えゝ。では、左樣なら。僕は急ぎますから……。左樣なら、リザヴッタ・イヴァノヴナ。 えゝお前はどうしてナルモブが工兵隊だらうなどゝ考へたのだ。」

かう言ひ捨てゝ、トムスキイは祖母の部屋を出て行つた。

リザヴッタ・イヴァノヴナは取殘されて一人になると、刺繍の仕事を(わき)へ押遣つて、 窓から外を眺め始めた。それから二三秒も過ぎると、向う側の角の家のところへ一人の青年士官があらはれた。 彼女は兩の頬をさつと赤くして、再び仕事を取上げて、 自分の頭を刺繍臺の上に屈めると、伯爵夫人が盛裝して出て來た。

「馬車を命じておくれ、リザヴッタ。」と、夫人は言つた。 [「]私逹はドライヴして來ませう。」

リザヴッタは刺繍の臺から顏をあげて、仕事を片附け始めた。

「どうしたと言ふのです。お前は聾かい。」と老夫人は叫んだ。 「すぐに出られるやうに、馬車を支度させておくれ。」

「唯今すぐに申付けます。」と、若い婦人は次の間へ急いで行つた。

一人の召使が這入つて來て、ポール・アレクサンドロヴィッチ公からのお使だと言つて、 二三册の書物を伯爵夫人に渡した。

「どうも有難うと公爵にお傳へ申しておくれ。」と夫人は言つた。 「リザヴッタ……。リザヴッタ……。どこに行つたのだねえ。」

「唯今、着物を着換へてをります。」

「そんなに急がなくてもいゝよ。お前、こゝへ掛けて、初めの一册をあけて、 大きい聲をして私に讀んでお聞かせなさい。」

若い婦人は書物を取りあげて二三行讀み始めた。

「もつと大きな聲で……。」と夫人は言つた。「どうしたと言ふのです、 リザヴッタ……。お前は聲を無くしておしまひかえ。 まあ、お待ちなさい。——あの足置臺をわたしにお貸しなさい。——さうして、 もつと近くへお出で。——さあ、お始めなさい。」

リザヴッタはまた二ページほど讀んだ。

「その本をお伏せなさい」と夫人は言つた。「なんと言ふくだらない本だらう。 有難うございますと言つてポール公に返しておしまひなさい。——さう、さう、馬車はどうしました。」

「もう支度が出來てをります。」と、リザヴッタは(まち)の方を覗きながら答へた。

「どうしたと言ふのです、まだ着物も着換へないで……。 いつでも私はお前のために待たされなければならないのですよ。 本當に()れつたい事だね、リザヴッタ。」

リザヴッタは自分の部屋へ急いでゆくと、 それから二秒と經たないうちに夫人は力一ぱいに(ベル)を鳴らし始めた。 三人の侍女が一方の戸口から、又一人の從者がもう一方の戸口から慌てゝ飛び込んで來た。

「どうしたと言ふのですね。わたしが(ベル)を鳴らしてゐるのが聞えないのですか。」 と夫人は呶鳴(どな)つた。

「リザヴッタ・イヴァノヴナに、私が待つてゐるとお言ひなさい。」

リザヴッタは帽子と外套を着て戻つて來た。

「やつと來たのかい。併しどうしてそんなに念入りにお化粧をしたのです。 誰かに見せようとでもお思ひなのかい。お天氣はどうです。風が少し出て來たやうですね。」

「いゝえ、奧樣。靜かなお天氣でございます。」と、從者は答へた。

「お前は出鱈目ばかりお言ひだからね。窓を開けてごらんなさい。 それ、御覽。風が吹いて、大變寒いぢやないか。馬具を解いておしまひなさい。 リザヴッタ、もう出るのは止めにしませう。 ——そんなにお(つく)りをするには及ばなかつたね。」

「わたしの一生はなんと言ふのだらう。」と、リザヴッタは心の中で思つた。



實際、リザヴッタ・イヴァノヴナは非常に不幸な女であつた。 ダンテは「未熟なるもののパンは苦く、彼の階梯(かいてい)は急なり」と言つてゐる。 しかもこの老貴婦人の憐れな話相手(リザヴッタ)が、 居候と同じやうな辛い思ひをしてゐる事を知つてゐる者は一人もなかつた。 A伯爵夫人は決して腹の惡い婦人ではなかつたが、 この世の中からちやほやされて來た婦人のやうに氣紛れで、 過去の事ばかりを考へて現在のことを少しも考へようとしない年寄らしく、 いかにも強慾で、我儘であつた。彼女はあらゆる流行社會に頭を突つ込んでゐたので、 舞踏會にも屡々行つた。さうして、彼女は時代おくれの衣裳やお化粧をして、 舞踏會になくてはならない不格好な飾物のやうに、隅の方に席を占めてゐた。 舞踏室へ這入つて來た客は、(あたか)も一定の儀式でゞもあるやうに彼女に近づいて、 みな丁寧に挨拶するが、(さて)それが濟むと、もう誰も彼女の方へは見向きもしなかつた。 彼女はまた自分の(やしき)で宴會を催す場合にも、非常に嚴格な禮儀を固守してゐた。 そのくせ、彼女はもう人々の顏などの見分けは付かなかつた。

夫人の澤山の召使逹は主人の次の間や自分逹の部屋にゐる間にだん〜肥つて、 年を取つてゆく代りに、自分逹の仕たい三昧のことをして、 その上お互ひに公然と老公爵夫人から盜みをすることを競爭してゐた。 そのなかで不幸なるリザヴッタ・イヴァノヴナは家政の犧牲者であつた。 彼女は茶を()れると、砂糖を使ひ過ぎたと言つて叱られ、小説を讀んで聞かせると、 こんなくだらないものをと言つて、作者の罪が自分の上に降りかゝつて來る。 夫人の散歩のお供をして行けば、やれ天氣がどうの、補道[誤?:舖道]がどうのと言つて、 八當りの小言を喰ふ。給料は郵便貯金に預けられてしまつて、 自分の手に這入るといふことは殆どない。他の人逹のやうな着物を買ひたいと思つても、 それも出來ない。特に彼女は社交界に於いては實に慘めな役廻りを演じてゐた。 誰も彼も彼女を知つてはゐるが、誰一人として彼女に注目する者はなかつた。

舞踏會に出ても、彼女はたゞ誰かに相手がない時だけ引張り出されて踊るぐらゐなもので、 貴婦人連も自分逹の衣裳の着崩れを直すために舞踏室から彼女を引張り出す時でゝもなければ、 彼女の腕に手をかけるやうなことはなかつた。從つて、彼女はよく自己を知り、 自己の地位をも判然と自覺してゐたので、何とかして自分を救つてくれるやうな男を搜してゐたのであるが、 そは〜と日を送つてゐる青年逹は殆ど彼女を問題にしなかつた。 而もリザヴッタ・イヴァノヴナは世間の青年逹が追ひ廻してゐる、 (つら)の皮の厚い、心の冷たい、年頃の娘逹よりは百層倍も可愛らしかつた。 彼女は燦爛(さんらん)として輝いてゐるが而も退屈な應接間からそつと忍び出て、 小さな慘めな自分の部屋へ泣きにゆく事も屡々あつた。 その部屋には一つの衝立(ついたて)と箪笥と姿見と、それからペンキ塗りの寢臺があつて、 脂蝋燭(あぶららふそく)が銅製の燭臺の上に寂しく(とも)つてゐた。

ある朝——それはこの物語の初めに述べた彼の士官逹の骨牌(かるた)會から二日ほど後で、 これから丁度始まらうとしてゐる事件の一週間前の事であつた—— リザヴッタ・イヴァノヴナは窓の近くで、刺繍臺の前に腰をかけてゐながら、 ふと(まち)の方を眺めると、 彼女は若い工兵隊の士官が自分のゐる窓をぢつと見上げてゐるのに氣が付いたが、 顏を俯向(うつむ)けて又すぐに仕事をはじめた。それから五分ばかりの後、 彼女は再び(まち)の方を見下すと、その青年士官は依然として同じ場所に立つてゐた。 しかし往來の士官に色眼などを使つたことのない彼女は、それぎり(まち)の方をも見ないで、 二時間ばかりは首を下げたまゝで、刺繍をつゞけてゐた。

そのうちに食事の知らせがあつたので、彼女は立つて刺繍の道具を片付けるときに、 何の氣なしに又もや(まち)の方をながめると、青年士官はまだそこに立つてゐた。 それは彼女に取つて全く意外であつた。食後、彼女は氣懸りになるので又もやその窓へ行つて見たが、 もうその士官の姿は見えなかつた。——その後、彼女は、 その青年士官のことを別に氣にも留めてゐなかつた。

それから二日を過ぎて、(あたか)も伯爵夫人と馬車に乘らうとした時、 彼女は再びその士官を見た。彼は毛皮の襟で顏を半分隱して、 入口のすぐ前に立つてゐたが、その黒い兩眼は帽子の下で輝いてゐた。 リザヴッタは何とも判らずにはつとして馬車に乘つてもまだ身内が顫へてゐた。

散歩から歸ると、彼女は急いで例の窓際へ行つてみると、青年士官はいつもの場所に立つて、 いつもの通りに彼女を見上げてゐた。彼女は思はず身を引いたが、 次第に好奇心に驅られて、彼女の心は曾て感じたことのない或る感動に騷がされた。

この時以來、彼の青年士官が一定の時間に、窓の下にあらはれないと言ふ日は一日もなかつた。 彼と彼女のあひだには無言のうちに或る親みを感じて來た。いつもの場所で刺繍をしながら、 彼女は彼の近づいて來るのをおのづから感じるやうになつた。 さうして顏を上げながら、彼女は一日ごとに彼を長く見つめるやうになつた。 青年士官は彼女に歡迎されるやうになつたのである。彼女は青春の鋭い眼で、 自分逹の眼と眼が合ふ度に、男の青白い頬が(にはか)に紅らむのを見て取つた。 それから一週間目ぐらゐになると、彼女は男に微笑を送るやうになつた。

トムスキイが彼の祖母の伯爵夫人に友逹の一人を紹介してもいゝかと訊いた時、 この若い娘のこゝろは烈しく轟いた。併しナルモブが、工兵士官でないと聞いて、 彼女は前後の考へもなしに、自分の心の祕密を氣輕なトムスキイに洩らしてしまつたことを後悔した。

ヘルマンは露西亞に歸化した獨逸人の子で、父の僅な財産を相續してゐた。 かれは獨立自尊の必要を固く心に沁み込まれてゐるので、 父の遺産の收入には手も觸れないで、自分自身の給料で自活してゐた。 したがつて彼に、贅澤などは絶對に許されなかつたが、彼は控へ目勝で、 而も野心家であつたので、その友人逹のうちには(まれ)には極端な節約家の彼に散在させて、 一夕の歡を盡すやうな事もあつた。彼は強い感情家であると共に、 非常な空想家であつたが、堅忍不拔な性質が彼を若い人間にはあり勝ちな墮落に陷らせなかつた。 それであるから、(はら)では賭事をやりたいと思つても、 彼は決して一枚の骨牌(かるた)をも手にしなかつた。彼に言はせれば、 自分の身分では必要のない金を勝つために、必要な金を無くすことは出來ないと考へてゐたのである。 而も彼は骨牌(かるた)のテーブルに連なつて、夜通しそこに腰をかけて、 勝負の代るごとに自分の事のやうに心配しながら見てゐるのであつた。

三枚の物語は、彼の空想に多大な刺激をあたへたので、彼は一晩そのことばかりをかんがへてゐた。

「若しも……。」と次の朝、彼はセント・ペテルスブルグの街を歩きながら考へた。 「若しも老伯爵夫人が彼女の祕密を僕に洩らしてくれたら……。 若しも彼女が三枚の必勝の切札を僕に教へてくれたら……。 僕は自分の將來を試さずには置かないのだが……。 僕は先づ老伯爵夫人に紹介されて、彼女に可愛がられなければ—— 彼女の戀人にならなければならない……。併しそれはなか〜手間がかゝるぞ。 なにしろ相手は八十七歳だから……。ひよつとすると一週間の中に、 いや二日も經たないうちに死んでしまふかも知れない。 三枚の骨牌(かるた)の祕密も彼女と共に、この世から永遠に消えてしまふのだ。 一體あの話は本當かしら……。いや、そんな馬鹿らしい事はあるものか。 經濟、節制、努力、これが僕の三枚の必勝の切札だ。 この切札で僕は自分の財産を三倍にすることが出來るのだ。 ——いや七倍にも殖して、安心と獨立を得るのだ。」

こんな冥想に耽つてゐたので、 彼はセント・ペテルスブルグの目貫の街の一つにある古い建物の前に來るまで、 どこをどう歩いてゐたのか氣が付かなかつた。街は、 燦然(さんぜん)と輝いてゐるその建物の玄關の前へ、 次から次へとひき出される馬車の行列のために通行止めになつてゐた。 その瞬間に、妙齡の婦人のすらりとした小さい足が馬車から鋪道へ踏み出されたかと思ふと、 次の瞬間には騎兵士官の重さうな深靴や、外交界の人々の絹の靴下や靴があらはれた。 毛皮や羅紗(らしや)の外套が玄關番の大男の前をつゞいて通つた。

ヘルマンは立停まつた。

「どなたのお(やしき)です。」と、彼は角の所で番人にたづねた。

「A伯爵夫人のお(やしき)です。」と、番人は答へた。

ヘルマンは飛び上るほどに吃驚(びつくり)した。 三枚の切札の不思議な物語が再び彼の空想にあらはれて來た。 彼はこの(やしき)の前を往きつ戻りつしながら、 その女主人公と彼女の奇怪なる祕密について考へた。 彼は遲くなつて自分の質素な下宿へ歸つたが、長いあひだ眠ることが出來なかつた。 やう〜少しく眠りかけると、骨牌(かるた)や賭博臺や、 小切手の束や、金貨の山の夢ばかり見た。彼は順々に骨牌(かるた)札に賭けると、 果てしもなく勝つてゆくので、その金貨を掻きあつめ、 紙幣をポケットに捻ぢ込んだ。而も翌朝遲く眼を覺ました時、 彼は空想の富を失つたのに膽落(がつかり)しながら街へ出ると、 いつの間にか伯爵夫人の邸の前へ來た。 ある未知の力がそこへ彼を引き寄せたとも言へるのである。 彼は立停まつて窓を見上げると、一つの窓から房々とした黒い髮の頭が見えた。 その頭はおそらく書物か刺繍臺の上に俯向(うつむ)いてゐたのであらう。と思ふ間に、 その頭は(もた)げられ、生々とした顏と黒い二つの眼が、ヘルマンの眼に這入つた。

彼の運命はこの瞬間に決められてしまつた。

リザヴッタ・イヴァノヴナは彼女の帽子と外套をぬぐか脱がないうちに、 伯爵夫人は彼女を呼んで、再び馬車の支度をするやうに命じたので、 馬車は玄關の前に惹き出された。さうして、夫人と彼女とは各々その席に着かうとした。 二人の馭者が夫人を(たす)けて馬車へ入れようとする時、 リザヴッタは彼の工兵士官が馬車の後にぴつたりと身を寄せて立つてゐるのを見た。 ——彼は彼女の手を掴んだ。あつと驚いて、 リザヴッタはどぎまぎしてゐると、 次の瞬間にはもうその姿は消えて、たゞ彼女の指のあひだに手紙が殘されてあつたのに氣が付いたので、 彼女は急いでそれを手袋のなかに隱してしまつた。

ドライヴしてゐても、彼女にはもう何も見えなかつた。聞えなかつた。 馬車で散歩に出たときには「今會つた方はどなただ。」とか、 「この橋の名は何といふのだ。」とか、「「あの掲示板には何と書いてある。」とか、 絶えず訊くのが夫人の習慣になつてゐたが、何しろ場合が場合であるので、 今日に限つてリザヴッタは兎角に辻褄の合はないやうな返事ばかりするので、 夫人はしまひに怒り出した。「お前、どうかしてゐますね。」と夫人は呶鳴(どな)つた。 「お前氣は確かえ。どうしたのです。私の言ふことが聞えないのですか。 それとも判らないとでもお言ひなのですか。お蔭さまで、私はまだ正氣でゐるし、 呂律もちやんと廻つてゐるのですよ。」

リザヴッタには夫人の言葉がよく聞えなかつた。 邸へ歸ると、彼女は自分の部屋へかけ込んで、手袋から彼の手紙を引き出すと、 手紙は密封してなかつた。讀んで見ると、 それは獨逸の小説の一字一句を譯してそのまゝ引用した優しい敬虔な戀の告白であつた。 而もリザヴッタは獨逸語に就いては何にも知らなかつたので、 非常に嬉しくなつてしまつた。

それにも拘らず、この手紙は彼女に大いなる不安を感じさせて來た。 實際、彼女は生まれてから若い男と人目を忍ぶやうなことをした經驗は一度もなかつたので、 彼の大膽には驚かされもした。そこで、彼女は不謹愼な行爲をして自分を責めると共に、 この先どうしていゝか判らなくなつて來た。兎に角、もう窓際に坐るのをやめて、 彼に對して無關心な態度を取り、自分とこの上親しくしようとする男の慾望を斷たせるのが好いか。 或はその手紙を彼に返すか、又は冷淡なきつぱりした態度では彼に拒絶の返事を書くべきであるか。 彼女はまつたく決斷に迷つたが、それに就いて相談するやうな女の友逹も、 忠告をあたへてくれるやうな人もなかつた。リザヴッタは遂に彼に返事を書くことに決めた。

彼女は自分の小さな机の前に腰をかけると、ペンと紙を取つて、その文句を考へはじめた。 さうして、書いては破り、書いては破りしたが、結局彼女が書いた文句はあまりに男の心を(そゝ)り過ぎるか、 あるひは素氣(すげ)なくあり過ぎるかで、どうも思つたやうに書けなかつた。 それでもやう〜のことで、自分にも滿足出來るやうな二三行の短い手紙を書くことが出來た。

「あなたのお手紙が高尚であるのと、 あなたが輕率な行爲を以てわたくしをお辱しめなさりたくないと仰しやる事を、 わたくしは嬉しく存じます。併しわたくし逹の交際は他の方法で始めなければなりません。 わたくしは一先づ貴方のお手紙をお返し申しますが、 どうぞ不躾な仕業(しわざ)とお怨み下さりませぬやう、 幾重にもお願ひ申します。」——彼女はかう書いた。

翌日、ヘルマンの姿があらはれるや否や、 刺繍の道具の前に坐つてゐたリザヴッタは應接間へ行つて、 通風の窓をあけて、青年士官が感づいて拾ひあげるに相違ないと思ひながら、 街の方へその手紙を投げた。

ヘルマンは飛んで行つて、その手紙を拾ひ上げて、近所の菓子屋の店へ行つた。 密封した封筒を破つてみると、内には自分の手紙とリザヴッタの返事が這入つてゐた。 彼はこんなことだらうと豫期してゐたので、家へ歸ると、更にその計畫に就いて深く考へた。

それから三日の後、一人の晴やかな眼をした娘が小間物屋から來たと言つて、 リザヴッタに一通の手紙をとゞけに來た。 リザヴッタは何かの勘定の請求書でゝもあるのかと、 非常に不安な心持で開封すると、忽ちヘルマンの手跡に氣が付いた。

「間違へてゐるのではありませんか。」と彼女は言つた。 「この手紙は私へ來たものではありません。」

「いえ、あなたへでございます。」と、娘は拔目のなささうな微笑を浮べながら答へた。 「どうぞお讀みなすつて下さい。」

リザヴッタはその手紙をちらりと見ると、 ヘルマンは會見を申込んで來たのであつた。

「まあ、そんな事……。」と、彼女はその厚かましい要求と、 氣違ひのやうな態度にいよ〜驚かされた。「この手紙は私へのではありません。」

さう言ふと、彼女はそれを引裂いてしまつた。

「では、あなたへの手紙でないなら、なぜ引裂いてお了ひになつたのでございます。」と娘は言つた。 「わたしは頼まれたお方にそのお手紙をお返し申さなければなりません。」

「もうこれから二度と再び手紙などを私のところへ持つて來ないが好うござんす。 それから、あなたに使を頼んだ方に恥しいとお思ひなさいと言つて下さい。」と、 リザヴッタはその娘から遣込められて、慌てながら言つた。

併しヘルマンはそんなことで斷念するやうな男ではなかつた。 毎日彼は手を替へ品をかへて、種々(いろ〜)の手紙をリザヴッタに送つた。 それからの手紙はもう獨逸語の飜譯ではなかつた。ヘルマンは感情の湧くがまゝに手紙を書き、 彼自身の言葉で話しかけた。そこには彼の剛直な慾望を(おさ)へがたき空想の亂れとが溢れてゐた。 リザヴッタはもうそれらの手紙を彼にかへさうとは思はなくなつたばかりか、 だん〜にその手紙の文句に醉はされて、たうとう返事を書きはじめた。 さうして、彼女の返事は少しづつ長く且つ愛情が籠つて行つて、 遂には窓から次のやうな手紙を彼になげ與へるやうにもなつた。

「今夕は大使館邸で舞踏會がある筈でございます。伯爵夫人はそれにお出でなさるでせう。 さうして、私逹は多分二時までそこに居りませう。今夜こそは二人ぎりでお會ひの出來る機會でございます。 伯爵夫人がお出ましになると、多分他の召使はみな外出してしまつて、 お邸には瑞西(スヰッツル)人のほかには誰もヰなくなると思ひます。 その瑞西(スヰッツル)人はきまつて自分の部屋へ下つて寢てしまひます。 それですから、十一時半頃にお出でください。階段は眞直に(あが)つていらつしやい。 若し控への間で誰かにお逢ひでしたらば、伯爵夫人がいらつしやるかとお尋ねなさい。 きつといらつしやらないと言はれませうから、その時は仕方ございませんから一旦お出なすつて下さい。 十中の八九までは誰にもお逢ひなさらないと存じます。——召使逹がお邸にをりましても、 みな一つ部屋に集まつてゐると思ひます。——次の間をお出になつたらば、左へお曲りなすつて、 伯爵夫人の寢室まで眞直においで下さると、寢室の衝立(ついたて)のうしろに二つの(ドア)がございます。 その右の(ドア)の奧は、伯爵夫人が嘗てお這入りになつた事のない私室になつてをりますが、 左の(ドア)をお明けになると廊下がありまして、更に螺旋形の階段をお(あが)りになると、 わたくしの部屋になつてをります。」

ヘルマンは指定された時刻の來る間、虎のやうに體を顫はせてゐた。夜の十時頃、 かれは已に伯爵夫人邸の前へ行つてゐた。天氣はひどく惡かつた。風は非常に激しく吹いて、 雨まじりの雪は大きい花片(はなびら)を飛ばしてゐた。街燈は暗く、街は鎭まりかへつてゐた。 憐れな老馬に惹かせてゆく橇の人が、こんな夜に迷つてゐる通行人を怪しむやうに見返りながら通つた。 ヘルマンは外套で深く包まれてゐたので、風も雪も身に沁みなかつた。

やつとの事で、伯爵夫人の馬車は玄關先きへ惹き出された。黒い毛皮の外套に包まれた。 腰の曲つた老夫人を、二人の馭者が抱へるやうにして連れ出すと、すぐにその後から、 温かさうな外套をきて、頭に新しい花の環を頂いたリザヴッタが附添つて出て來た。 馬車の(ドア)が閉まつて、車は柔かい雪の上を靜に馳せ去ると、 門番は玄關の(ドア)を閉めて、窓は暗くなつた。ヘルマンは人のゐない邸の近くを往きつ戻りつしてゐたが、 たうとう街燈の下に立停つて時計を見ると、十一時を二十分過ぎてゐた。 丁度十一時半になつた時に、ヘルマンは邸の階段を(あが)つて照り輝いてゐる廊下を通ると、 そこに番人は見えなかつた。彼は急いで階段をあがつて控室の(ドア)をあけると、 一人の侍者がランプの(そば)で、古風な椅子に腰をかけながら眠つてゐたので、 ヘルマンは跫音(あしおと)を忍ばせながらその(そば)を通り過ぎた。 應接間も食堂も眞暗であつたが、控室のランプの光が(かす)かながらもそこまで洩れてゐた。

ヘルマンは伯爵夫人の寢室まで來た。古い偶像で一ぱいになつてゐる神龕(ずし)には、 金色のランプが(とも)つてゐた。 色の褪せたふつくらした椅子と柔かさうなクッションを置いた長椅子が、 陰氣ではあるが如何にも調和よく、部屋の中に二つ(なら)んでゐて、 壁には支那の絹が懸つてゐた。一方の壁には、巴里でルブラン夫人の描いた二つの肖像畫の額がかゝつてゐたが、 一枚はどつしりとした赭顏(あからがほ)の四十ぐらゐの男で、 派手な緑色の禮服の胸に勳章を一つ下げてゐた。他の一枚は美しい妙齡の婦人で、鉤鼻で、額の髮を卷いて、 髮粉をつけた髮には薔薇の花が()してあつた。隅々には磁器製の男の牧人と女の牧人や、 有名なレフロイの工場製の食堂用時計や、紙匣(はりぬきばこ)や、 球轉(ルーレット)(一種の賭博(ばくち))の道具をはじめとして、モンゴルフィヱールの輕氣球や、 メスメルの磁石が世間を騷がせた前世紀の終りに流行つた、 婦人の娯樂用の玩具(おもちや)が澤山に(なら)べてあつた。 右の方には私室(キャビネット)(ドア)の[誤?:私室への扉]、左の方には廊下へ出る(ドア)があつた。 そこで、彼は左の方の(ドア)をあけると、果して彼女の部屋へ逹してゐる小さい螺旋形の階段が見えた。 ……而も彼は引返して眞暗な私室(キャビネット)へ這入つて行つた。

時はしづかに過ぎた。邸内は(せき)として鎭まり返つてゐた。應接間の時計が十二時を打つと、 その音が部屋から部屋へと反響して、やがてまた(しん)となつてしまつた。 ヘルマンは火の無いストーブに()りながら立つてゐた。 危險ではあるが、避け難き計畫を決心した人のやうに、その心臟は規則正しく動悸を打つて、 彼は落着き拂つてゐた。

午前一時が鳴つた。それから二時を打つた頃、彼は馬車の轍の音を遠く聞いたので、 我にもあらで興奮を覺えた。やがて馬車はだん〜に近づいて停まつた。馬車の踏段をおろす音がきこえた。 邸の中が(にはか)にざわめいて、召使逹が上を下へと走り廻りながら呼びかはす聲が入亂れて聞えたが、 そのうちに總ての部屋には明りが(とも)された。三人の古風な寢室係の女中が寢室へ這入つて來ると、 間もなく伯爵夫人があらはれて、死んだ者のやうにヴォルテール時代の臂掛椅子に腰を落した。 ヘルマンは隙間から覗いてゐると、リザヴッタ・イヴァノヴナが彼のすぐ(そば)を通つた。 彼女が螺旋形の階段を急いで昇つてゆく跫音(あしおと)を聞いた刹那、 彼の心臟は良心の苛責と言つたやうなものゝためにちくりと刺されるやうな氣もしたが、 そんな感動はすぐ消えて、彼の心臟はもとのやうに規則正しく動悸を打つてゐた。

伯爵夫人は姿見の前で着物をぬぎ始めた。それから、薔薇の花で飾つた帽子を取つて、 髮粉を塗つた假鬘(かつら)きちんと刈つてある白髮(しらが)から外すと、 髮針(ヘヤー・ピン)が彼女の周圍の床にばら〜と散つた。 銀絲(ぎんし)で縫をしてある(きいろ)い繻子の着物は彼女の()れてゐる足許(あしもと)へ落ちた。

ヘルマンは彼女のお化粧の好ましからぬ祕密を殘らず見とゞけた。 夫人はやう〜に夜の帽子をかぶつて、寢衣(ねまき)を着たが、 かうした服裝(みなり)の方が年相應によく似合ふので、 彼女はそんなに(いや)らしくも、醜くもなくなつた。

普通のすべての年寄のやうに、夫人は眠られないので困つてゐた。 着物を着替へてから、彼女は窓際のヴォルテール時代の臂掛椅子に腰をかけると、召使を下らせた。 蝋燭を消してしまつたので、寢室にはたゞ一つのランプだけが(とも)つてゐた。 夫人は眞黄と見えるやうな顏をして、締りのない脣をもぐ〜させながら、 體をあちらこちらへ搖ぶつてゐた。彼女のどんよりした眼は心の空虚(うつろ)をあらはし、 また彼女が體を搖ぶつてゐるのは自己の意志で動かしてゐるのではなく、 神經作用の結果であることを誰でも考へるであらう。

突然この死人のやうな顏になんとも言ひやうのない表情があらはれて、脣の顫へも止まり、 眼も活氣づいて來た。夫人の前に一人の見知らぬ男が突つ立つてゐたからであつた。

吃驚(びつく)りなさらないで下さい。どうぞ、お驚きなさらないで下さい。」と、 彼は低いながらも(しつか)りした聲で言つた。 「わたくしは貴女に危害を加へる意志は少しもございません。 たゞ貴女にお願ひがあつて參りました。」

夫人は彼の言葉が全く聞えないかのやうに、默つて彼を見詰めてゐた。 ヘルマンはこの女は聾だと思つて、その耳の方へ體をかゞめて、もう一度繰返して言つたが、 老夫人はやはり默つてゐた。

「貴女は、わたくしの一生の幸福を保證して下さることがお出來になるのです。」と、 ヘルマンは言ひ續けた。「而もあなたには一錢の御損害をお掛け申さないのです。 わたくしはあなたが勝負に勝つ切札を御指定なさることがお出來になると言ふことを、 聞いて知つて居るのです。」

かう言つて、ヘルマンは言葉を切つた。夫人が(やうや)く自分の希望を諒解して、 それに答へる言葉を考へてゐるやうに見えたからであつた。

「それは冗談です。」と、彼女は答へた。「ほんの冗談に言つたまでのことです。」

「いえ冗談ではありません。」と、ヘルマンは言ひ返した。 「シャプリッツキイを覺えてゐらつしやるでせう。 貴女はあの人に三枚の骨牌(かるた)の祕密をお教へになつて、 勝負にお勝たせになりましたではありませんか。」

夫人は明かに不安になつて來た。彼女の顏には烈しい心の動搖があらはれたが、 またすぐに消えてしまつた。

「あなたは三枚の必勝 骨牌(かるた)を御指定なされないのですね。」と、 ヘルマンはまた言つた。

夫人は依然として默つてゐたので、ヘルマンは更に言葉を續けた。

「あなたは、誰にその祕密をお傳へなさるおつもりですか。 あなたのお孫さんにですか。あの人逹は別にあなたに祕密を授けて貰はなくとも、 有り餘るほどのお金持です。それだけに、あの人逹は金の價値を知りません。 あなたの祕密は金使ひの荒い人には、なんの益する所もありません。 父の遺産を保管する事の出來ないやうな人間は、たとひ惡魔を手先に使つたにしても、 結局は憐れな死方をしなければならないのでせう。 わたくしはそんな人間ではございません。わたくしは金の値と言ふものを好く知つてをります。 あなたもわたくしには三枚の切札の祕密をお拒みにはならないでせう。 さあ、如何ですか。」

彼は一息ついて、顫へながらに相手の返事を待つてゐたが、夫人は依然として沈默を守つてゐるので、 ヘルマンはその前へ跪いた。

「あなたのお心が、(いやし)くも戀愛の感情を經驗してゐられるならば……。」と、彼は言つた。 「さうして、若しもその法悦をいまだに覺えてゐられるならば……。 かりにも貴女がお産みになつたお子さんの初めての聲に微笑まれた事がおありでしたらば…… (いやし)くも人間としてのある感情が、あなたの胸の中にお湧きになつた事がおありでしたらば…… わたくしは妻として、戀人として、母としての愛情にお縋り申してお願ひ申します。 どうぞ私のこの嘆願を斥けないで下さい。どうぞ貴女の祕密をわたくしにお洩らし下さい。 あなたにはもう何のお入用もないではありませんか。たとひどんな恐ろしい罪を受けやうとも、 永遠の神の救ひを失はうとも、惡魔とどんな取引をしようとも、 わたくしは決して(いと)ひません。……考へて下さい。——あなたはお年を召してをられます。 そんなに長くはこの世においでになられないお體です—— わたくしはあなたの罪を自分の魂に引受ける覺悟でをります。 どうぞあなたの祕密をわたくしにお傳へ下さい。一人の男の幸福が、 あなたのお手に握られてゐると言ふことを思ひ出して下さい。いゝえ、わたくし一人ではありません、 わたくしの子孫までが貴女を祝福し、あなたを聖者として尊敬するでせう……。」

夫人は一言も答へなかつた。ヘルマンは立上つた。

老耄(おいぼ)れの鬼婆め。」と彼は齒ぎしりしながら叫んだ。 「よし。嫌應なしに返事をさせてやらう。」

彼はポケットからピストルを()り出した。

それを見ると、夫人は再びその顏に烈しい感動をあらはして、 射殺されまいとするかのやうに(かしら)を振り、 手を上げたかと思ふと、うしろへ反り返つたまゝに氣を失なつた。

「さあ、もうこんな子供じみたくだらないことは止めませう。」と、 ヘルマンは彼女の手を取りながら言つた。「もうお願ひ申すのもこれが最後です。 どうぞわたくしにあなたの三枚の切札の名を教へて下さい。それとも、お嫌ですか。」

夫人は返事をしなかつた。ヘルマンは彼女が死んだのを知つた。

リザヴッタ・イヴァノヴナは夜會服を着たまゝで、 自分の部屋に坐つて、深い物思ひに沈んでゐた。邸へ歸ると、 彼女は嫌々ながら自分の用をうけたまはりに來た部屋附の召使に向つて、 着物はわたし一人で脱ぐからと言つて、早々にそこを立去らせてしまつた。 さうして、ヘルマンが來てゐることを期待しながら、 又一面には來てゐてくれないやうにと望みながら、胸を躍らせて自分の部屋へ昇つて行つた。 一目見ると、彼女は彼がゐないことを悟つた。さうして、 彼が約束を守らないやうにさせてくれた自分の運命に感謝した。 彼女は着物も着かへずに腰をかけたまゝで、 ちよつとの間に自分をこんなにも深入りさせてしまつた今までの經過を考へた。

彼女が窓から初めて青年士官を見た時から三週間を過ぎなかつた。 ——それにもかゝはらず、彼女は已に彼と文通し、男に夜の會見を許すやうになつた。 彼女は男の手紙の終りに書いてあつたので、初めてその名を知つたぐらゐで、 まだその男と言葉を交したこともなければ、男の聲も——今夜まではその噂さへも聞いたことはなかつた。 ところが不思議なことには、今夜の舞踏會の席上で、 ポーリン・N公爵の令孃がいつになく自分と踊らなかつたので、 すつかり氣を惡くしてしまつたトムスキイが、 お前ばかりが女ではないぞと言つた復讐的の態度で、リザヴッタに相手を申込んで、 初めかあしまひまで彼女とマヅルカを踊りつゞけた。その間、 彼は絶えずリザヴッタが工兵士官ばかりを贔屓にしてゐることを揶揄(からか)つた擧句、 彼女が想像してゐる以上に、自分は深く立入つて萬事を知つてゐると(まこと)しやかに言つた。 實際彼女は自分の祕密を彼に知られてしまつたのかと幾度(いくたび)か疑つたほどに、 彼の冗談のあるものは巧く(あた)つた。

「どなたからそんなことをお聞きになりました。」と、微笑みねがら彼女は訊いた。

「君の親しい人の友逹からさ。」とトムスキイは答へた。「ある非常に有名な人からさ。」

「では、その有名な方といふのは……。」

「その人の名はヘルマンと言ふのだ。」

リザヴッタは默つてゐた。彼女の手足はまつたく感覺が無くなつた。

「そのヘルマンといふ男はね。」と、トムスキイは言葉を續けた。 「ローマンチックの人物でね。一寸横顏がナポレオンに似てゐて、魂はメフィストフェレスだね。 まあ、僕の信じてゐるところだけでも、彼の良心には三つの罪惡がある……。 おい、どうした。ひどく青い顏をしてゐるぢやないか。」

「私、少し頭痛がしますので……そこで、 そのヘルマンとか仰しやる方はどんなことをなさいましたの。お話をして下さいませんか。」

「ヘルマンはね、自分のあるお友逹に非常な不平を抱いてゐるのだ。彼はいつも、 自分がそのお友逹の地位であつたら、もつと違つたことをすると言つてゐるが…… 僕はどうもヘルマン自身が君にお思召[誤?:君に思召]があると思ふのだ。 少くとも、彼はその友逹が君のことを話す時には、眼の色を變へて耳を傾けてゐるからね。」

「では、どこでその方はわたくしを御覽なすつたのでせう。」

「たぶん、教會だらう。それとも觀兵式かな。——さあ、 どこで見初(みそ)めたかは神樣よりほかには知るまいな。 ひよつとしたら君の部屋で、君が眠つてゐる間かも知れないぞ。 とにかく、あの男と來たら……。」

丁度その時に、三人の婦人が彼のところへ近づいて來て、 「お忘れになつて、それとも、覺えてゐらつしつた……。」と佛蘭西語で問ひ掛けたので、 この會話はリザヴッタをさん〜゛()らしたまゝで、 それなりになつてしまつた。

トムスキイが選んだ婦人はポーリン公爵令孃その人であつた。 公爵令孃は幾度(いくたび)もトムスキイと踊つてゐるうちに、彼とすつかり仲直りをして、 踊が濟んだ後に彼は公爵令孃を彼女の椅子に連れて行つた。 さうして自分の席へ戻ると、彼はもうヘルマンのことも、 リザヴッタのこともまつたく忘れてゐた。 リザヴッタは中止された會話を再び續けたく思つたが、 マズルカもやがて終つて、そのうちに老伯爵夫人は歸ることになつた。

トムスキイの言葉は舞踏中によくあるならひの輕い無駄話に過ぎなかつたが、 この若い夢想家のリザヴッタの心に深く沁み込んだ。 トムスキイに依つて描かれた半身像は、彼女自身の心のうちに描いてゐたものと一致してゐたのみならず、 この色々の出鱈目の話のお蔭で、彼女の崇拜者の顏に才能があらはれてゐることを知ると同時に、 彼女の空想を恍惚(うつとり)とさせるやうな特長が更に加はつて來たのであつた。 彼女は今、露出(むきだ)した腕を組み、花の髮飾りを附けたまゝの頭を素肌の胸のあたりに埀れて坐つてゐた。

突然に(ドア)があいて、ヘルマンが現れたので、彼女ははつとした。

「どこにおいでなさいました。」と、彼女はおど〜しながら聲を忍ばせて訊いた。

「老伯爵夫人の寢室に……。」と、ヘルマンは答へた。 「わたしは今、伯爵夫人のところから來たばかりです。夫人は死んでゐます。」

「え、なんですつて……。」

「それですから、わたしは伯爵夫人の死の原因となるのを恐れてゐるのです。」と、 ヘルマンは附け足した。

リザヴッタは彼をながめてゐた。さうして、 トムスキイの言葉が彼女の心の中でかう反響してゐるのに氣が付いた。 「この男は少くとも良心に三つの罪惡を持つてゐるぞ!」

ヘルマンは彼女のそばの窓に腰をかけて、一部始終を物語つた。

リザヴッタは恐ろしさに顫へながら彼の話に耳をかたむけてゐた。 今までの感傷的な手紙、熱烈な愛情、大膽な執拗な愛慾の要求——それ等のものは總て愛ではなかつた。 金——彼の魂が憧憬(あこが)れてゐたのは金であつた。貧しい彼女には彼の愛慾を滿足させ、 愛する男を幸福にすることは出來なかつた。この憐れな娘は、 盜人(ぬすびと)であり且つは彼女の老いたる恩人の殺害者である男の盲目的玩具にほかならなかつたのではないか。 彼女は後悔の(もだ)えに苦い涙をながした。ヘルマンは沈默のうちに彼女を見つめてゐると、 彼の心もまた烈しい感動に打たれて來た。而もこの憐れなる娘の涙も、 悲哀のために一層美しく見えて來た彼女の魅力も、 彼の(ひやゝ)かなる心情を動かすことは出來なかつた。 彼は老伯爵夫人の死についても別に良心の呵責などを感じなかつた。 たゞ彼を悲しませたのは、一攫千金を夢みてゐた大切な祕密を失つて、 取返しの附かないことをしたと言ふ後悔だけであつた。

「あなたは人非人(ひとでなし)です。」と、リザヴッタは遂に叫んだ。

「私だつて夫人の死を望んではゐなかつた。」と、ヘルマンは答へた。 「私のピストルには裝填(たまごめ)をしてゐなかつたのですからね。」

二人は默つてしまつた。



夜は明けかゝつた。リザヴッタが蝋燭の火を消すと、 青白い光が部屋へさし込んで來た。彼女は泣き()らした眼を拭くと、 ヘルマンの方へ向いた。彼は腕組みをしながら、 額に殘忍な八の字をよせて、窓の際に腰をかけてゐた。かうしてゐると、 まつたく彼はナポレオンに生き寫しであつた。リザヴッタもそれを深く感じた。

「どうして貴方をお邸からお出し申したらいゝでせう。」と、彼女はやう〜に口を開いた。 「わたくしは貴方は祕密の階段から降し申さうと思つたのですが、 それには何うしても伯爵夫人の寢室を通らなければならないので、わたくしには恐ろしくつて……。」

「どうすればその祕密の階段へ行けるか、教へて下さい。——私は一人で行きます。」

リザヴッタは立ち上つて、抽斗(ひきだし)から鍵を取出してヘルマンにわたして、 階段へゆく道を教へた。ヘルマンは彼女の冷たい、力のない手を握り締めると、 その俯向(うつむ)いてゐる額に接吻して、部屋を出て行つた。

彼は螺旋形の階段を降りて、再び伯爵夫人の寢室へ這入つた。 死んでゐる老夫人は化石したやうに坐つてゐて、 その顏には底知れない靜けさがあらはれてゐた。 ヘルマンは彼女の前に立停まつて、(あたか)もこの恐ろしい事實を確めようとするかのやうに、 長い間ぢつと彼女を見つめてゐたが、 やがて彼は掛毛氈(タペストリイ)の後にある(ドア)を明けて小さい部屋に這入ると、 強い感動に胸を躍らせながら眞暗な階段を降りかゝつた。

「多分。」と彼は考へた。「六十年前にも今時分、縫ひ取りをした上着(うはぎ)を着て、 皇帝の(ロアゾー・ロアイアール)に髮を結つた彼女の若い戀人が、 三角帽で胸を押へ付けながら、伯爵夫人の寢室から忍び出て、 この祕密の階段を降りて行つたことだらう。 もうその戀人は()うの昔に墓のなかに朽ち果てゝしまつてゐるのに、 あの老夫人は今日になつてやう〜息を引取つたのだ。」

その階段を降り切ると、(ドア)があつた。ヘルマンは例の鍵でそこをあけて、 廻廊を通つて街へ出た。

この不吉な夜から三日後の午前九時に、ヘルマンは——の尼寺に赴いた。 そこで老伯爵夫人の告別式が擧行されたのである。何等後悔の情は起さなかつたが、 「お前がこの老夫人の下手人だぞ。」といふ良心の聲を、 彼はどうしても抑へ付けることが出來なかつた。 彼は宗教に對して信仰などを懷いてゐなかつたのであるが、今や非常に迷信的になつて來て、 死んだ伯爵夫人が自分の生涯に不吉な影響を蒙らせるかも知れないと信じられたので、 彼女の寛恕(おゆるし)を願ふためにその葬式に列席しようと決心したのであつた。

教會には人が一ぱいであつた。經る間はやう〜に人垣を分けて行つた。 柩は天鵝絨(ビロード)の天蓋の下の立派な葬龕(ずし)に安置してあつた。 その中に故伯爵夫人はレースの帽子に純白の繻子の服を着せられ、 胸に合掌して眠つてゐた。葬龕(ずし)の周圍には彼女の人逹が立つてゐた。 召使逹が立つてゐた。召使等は肩に紋章入りのリボンを附けた黒の下衣(カフタン)を着て、 手に蝋燭を持つてゐた。一族——息子逹や、孫逹や、 それから曾孫(ひこ)逹——はみな深い哀しみに沈んでゐた。

誰も泣いてゐるものはなかつた。涙と言ふものは一つの愛情である。しかるに、 伯爵夫人はあまりに年を取り過ぎてゐたので、彼女の死に心を打たれるものもなく、 一族の人逹も()うから彼女を死んだ者扱ひにしてゐたのである。 あの有名な僧侶が葬式の説教をはじめた。彼は單純でしかも哀憐の情を起させるやうな言葉で、 長いあひだ基督教信者としての死を靜かに念じてゐた彼女の平和な永眠を述べた。 「遂に死の女神は、信仰深き心を以て、 彼の世の夫に一身を捧げてゐた彼女をお迎へなされました。」と、彼は言つた。

法會は深い沈默のうちに終つた。一族の人々は死骸に永別を告げるために進んでゆくと、 その後から大勢の會葬者もつゞいて、 多年自分逹の不眞面目な娯樂の關係者であつた彼女に最後の敬意を表した。 彼等のうしろには伯爵夫人の邸の者共が續いた。 その最後に伯爵夫人と同年輩ぐらゐの老婆が行つた。彼女は二人の女に手を取られて、 もう老耄(おいぼ)れて地にひざまづくだけの力もないので、 たゞ二三滴の涙を流しながら女主人の冷い手に接吻した。

ヘルマンの柩のある所へ行かうと思つた。彼は冷たい石の上にひざまづいて、 暫くその儘にしてゐたが、やがて伯爵夫人の死顏と同じやうに眞青になつて立上がると、 葬龕(ずし)の階段を昇つて死骸の上に身を屈めた……。その途端に、 死んでゐる夫人が彼を嘲けるやうにぢろりと睨むと共に、 一つの眼で何か目配せをしたやうに見えた。ヘルマンは思はず後退りする(はづみ)に、 足を踏みはづして地に倒れた。二三人が飛んで來て、彼を引起してくれたが、それと同時に、 失神したリザヴッタ・イヴァノヴナも教會の玄關へ運ばれて行つた。

この出來事がすこしのあひだ、陰鬱な葬儀の壯嚴を亂した。 一般會葬者のあひだからも低い呟き聲が起つて來た。背丈(せい)の高い、痩せた男で、 亡き人の親戚であるといふ侍從職が(そば)に立つてゐる英國人の耳許(みゝもと)で 「あの青年士官は伯爵の私生兒ですよ。」と囁くと、その英國人はどうでもいゝと言つた調子で、 「へえ!」と答へてゐた。

その日のヘルマンは終日不思議に興奮してゐた。場末の料理屋へ行つて、 常になく彼はしたゝかに酒をあふつて、内心の動搖をぬぐひ去らうとしたが、 酒はたゞいたづらに彼の空想を刺戟するばかりであつた。家へかへると、 かれは着物を着たまゝで、寢床(ベット)の上に身を投げ出して、 深い眠に落ちてしまつた。



彼が眼をさました時は、もう夜になつてゐたので、月のひかりが部屋のなかへ()し込んでゐた。 時計をみると三時を十五分過ぎてゐた。もうそうしても寢られないので、 彼は寢床(ベット)に腰をかけて、老伯爵夫人の葬式のことを考へ出した。

(あたか)もその時、何者かゞ往來からその部屋の窓を見てゐたが、また直ぐに通り過ぎた。 ヘルマンは別に氣にも止めずにゐると、それからまた二三分の後、 控への間の(ドア)のあく音が聞えた。ヘルマンはその傳令下士がいつものやうに、 夜遊びをして醉つ拂つて歸つて來たものと思つたが、どうも聞き慣れない跫音(あしおと)で、 誰かスリッパーを穿いて床の上をそつと歩いてゐるやうであつた。 (ドア)が明いた。——と思ふと、眞白な着物を着た女が部屋に這入つて來た。 ヘルマンは自分の老いたる乳母と感違ひをして、 どうして眞夜中に來たのであらうと驚いてゐると、 その白い着物の女は部屋を横切つて、彼の前に突つ立つた。 ——ヘルマンはそれが伯爵夫人であることに氣が付いた。

「私は不本意ながらあなたの所へ來ました。」と、彼女はしつかりした聲で言つた。 「わたしは貴方の懇願を容れてやれと言ひ付かつたのです。 三、七、一の順に續けて賭けたなら、あなたは勝負に勝つでせう。 併し二十四時間に()つた一回より勝負をしないと言ふことと、 生涯に二度と骨牌(かるた)の賭をし[ない]といふ條件を守らなければなりません。 それから、あなたがわたしの附添人のリザヴッタ・イヴァノヴナと結婚して下されば、 私はあなたに殺されたことを赦しませう。」

かう言つて、彼女は靜かに後を向くと、足を引き摺るやうに(ドア)の方へ行つて、 忽ちに消えてしまつた。ヘルマンは表の(ドア)開閉(あけたて)する音を耳にしたかと思ふと、 やがて又、何者かゞ窓から覗いてゐるのを見た。

ヘルマンは暫らく我に(かへ)ることが出來なかつたが、やつとのことで立上つて次の間へ行つてみると、 傳令下士は床の上に横はつて眠つてゐたので、さん〜゛手古摺つた擧句にやうやく眼をさまさせて、 表の(ドア)の鍵をかけさせた。彼は自分の部屋に戻つて、蝋燭を()けて、 自分が幻影を見た事を細かに書き留めて置いた。

精神界に於いて二つの固定した想念(アイデア)が共存すると言ふことは、 物質界に於いて二つの物體が同時に同じ場所に存在する事と同じやうに不可能である。 「三、七、一」の祕傳は、直ぐにヘルマンの心から死んだ伯爵夫人の思ひ出を追い除けてしまつて、 彼の頭のなかを間斷なく駈け廻つては彼の口によつて繰返されてゐた。 もし若い娘でも見れば、彼は「よう、なんて美しいんでせう。まるでハートの三そつくりだ。」と言ふであらう。 又、若し誰かゞ「今何時でせうか。」と訊いたとしたら、 彼は「七時五分過ぎ。」と答へるであらう。 それから、又、丈夫さうな人逹に出逢つた時には彼はすぐに一の字を思ひ出した。 「三、七、一」の字は寢てゐても彼の腦裏に出沒して、 あらゆる形となつて現れた。彼の目の前には三の切札が爛漫たる花となつて咲き亂れ、 七の切り札はゴシック式の半身像となり、 一の切札は大きい蜘蛛となつて現れた。さうして、たゞ一つの考へ—— こんなにも高價で(あがな)つた以上、 この祕密を最も有效に使用しようと言ふ事ばかりが彼の心を一ぱいに埋めてゐた。 彼は賜暇(しか)を利用して外遊して、巴里に澤山ある公營の賭博場へ行つて運試しをやらうと考へた。 ところが、そんな面倒な事をするまでもなく、彼に取つて好い機會が到來した。

モスクワには有名なシカリンスキイが元締をしてゐる富豪連の賭博の會があつた。 このシカリンスキイはその全生涯を賭博臺の前に送りながら何百萬の富を築き上げたといふ人間で、 自分が勝てば手形で受取り、負ければ現金で即座に支拂つてゐた。 彼は長いあひだの經驗によつて仲間からも信頼せられ、彼の開放しの家と彼の腕利きの料理人と、 それから彼が人を外らさぬ態度とによつて、一般の人々から尊敬の的になつてゐた。 その彼がセント・ペテルスブルグにやつて來たので、この首府の若い人々は舞踏や、 女を口説きおとすことなどはそつち退けにして、ファロー(指定の骨牌(かるた)一組のうちから出て來る順序を當てる一種の賭骨牌(かけかるた))に耽溺せんがために、みなその部屋に集まつて來た。

彼等は、慇懃な召使の大勢立つてゐる立派な部屋を通つて行つた。 賭博場は人で一ぱいであつた。將軍や顧問官はウイスト(四人でする一種の賭骨牌)を試みてゐた。 若い人々は天鵝絨(ビロード)張りの長椅子にだらしなく()りながら氷菓子(アイス)を喰べたり、 煙草を(くゆ)らしたりしてゐた。應接間では、 賭をする一組の連中が取り卷いてゐる長いテーブルの上席にシカリンスキイが坐つて元締めをしてゐた。 彼は非常に上品な風采の五十がらみの男で、頭髮は銀のやうに白く、 そのむつくりと肥つた血色のいゝ顏には善良の性が現れ、 その眼は間斷なく微笑に(またゝ)いてゐた。ナルモブは彼にヘルマンを引き合せた。 シカリンスキイは十年の知己の如くにヘルマンの手を握つて、 どうぞ御遠慮なくと言つてから骨牌(かるた)を配りはじめた。

その勝負は暫く時間を費した。卓子(テーブル)の上には三十枚以上の切札が置いてあつた。 シカリンスキイは骨牌(かるた)を一枚づつ投げては少しく間を置いて、 賭博者に持札を揃へたり、負けた金の覺え書きなどをする時間を與へ、 一方には賭博者の要求に對して一々慇懃に耳を傾け、更に賭博に沈默を守りながら、 賭博者の誰かゞ何かの拍子に手で曲げてしまつた骨牌(かるた)の角を延ばしたりしてゐた。 やがて、その勝負は終つた。シカリンスキイは骨牌(かるた)を切つて、 再び配る準備をした。

「どうぞ私にも一枚下さいませんか。」と、 ヘルマンは勝負をしてゐる一人の男らしい紳士の後から手を差延べて言つた。

カリンスキイは微笑を浮べると、承知しましたといふ合圖に靜かに(かしら)を下げた。 ナルモブは笑ひながら、ヘルマンが長いあひだ守つてゐた—— 骨牌(かるた)を手にしないと言ふ誓を破つたことを祝つて、 彼のために幸先(さいさ)きのいゝやうに望んだ。

「張つた。」と、ヘルマンは自分の切札の裏に白墨(チョーク)で何か印を書きながら言つた。

「おいくらですか。」と、元締が眼を細めてたづねた。 「失禮ですが、わたくしにはよく見えませんので……。」

「四萬七千 (ルーブル)。」と、ヘルマンは答へた。

それを聞くと、部屋中の人々は一齊に振向いて、ヘルマンを見つめた。

這奴(こいつ)、どうかしてゐるぞ。」と、ナルモブは思つた。

「ちよつと申上げて置きたいと存じますが……。」と、シカリンスキイが、 例の微笑を浮べながら言つた。「あなたのお賭けなさる金額は多過ぎは致しませんでせうか。 今までにこゝでは、一度に二百七十五 (ルーブル)よりお張りになつた方はございませんが……。」

「さうですか。」と、ヘルマンは答へた。「では、あなたはわたしの切札をお受けなさるのですか、 それともお受けなさらないのですか。」

カリンスキイは同意のしるしに(かしら)を下げた。

「唯わたしはかう言ふことだけを申上げたいと思ふのですが……。」と、彼は言つた。 「無論、わたくしは自分のお友逹の方々を十分信用してはをりますが、 これは現金で賭けて戴きたいのでございます。 わたくし自身の立場から申しますと、實際あなたのお言葉だけで結構なのでございますが、 賭事の規定から申しましても、又、計算の便宜上から申しましても、 お賭けになる金額をあなたの札の上に置いて戴きたいものでございます。」

ヘルマンはポケットから小切手を出して、シカリンスキイに渡した。 彼はそれをざつと調べてからヘルマンの切札の上に置いた。

それから彼は骨牌(かるた)を配りはじめた。右に九の札が出て、左には三の札が出た。

「僕が勝つた。」とヘルマンは自分の切札を見せながら言つた。

驚愕の呟きが賭博者逹の間から起つた。シカリンスキイは眉を(ひそ)めたが、 すぐに又その顏に微笑が浮んで來た。

「どうか精算させて戴きたいと存じますが……。」と、彼はヘルマンに言つた。

「どちらでも……。」と、ヘルマンは答へた。

カリンスキイはポケットから澤山の小切手を引き出して即座に支拂ふと、 ヘルマンは自分の勝つた金を取上げて、卓子(テーブル)を退いた。 ナルモブがまだ茫然としてゐる間に、彼はレモネードを一杯飮んで、家へ歸つてしまつた。

翌日の晩、ヘルマンは再びシカリンスキイの家へ出懸けた。 主人公は(あたか)も切札を配つてゐたところであつたので、 ヘルマンは卓子(テーブル)の方へ進んで行くと、 勝負をしてゐた人逹は(たゞち)に彼のために場所をあけた。 シカリンスキイは丁寧に挨拶した。

ヘルマンは次の勝負まで待つてゐて、一枚の切札を取ると、 その上にゆうべ勝つた金と、自分の持つてゐた四萬七千 (ルーブル)とを一緒に賭けた。

カリンスキイは骨牌(かるた)を配りはじめた。 右に七の切札が出た。

ヘルマンは七の切札を見せた。

一齊に感嘆の聲が湧きあがつた。シカリンスキイは明かに不愉快な顏をしたが、 九萬四千 (ルーブル)の金額をかぞへて、ヘルマンの手に渡した。 ヘルマンは出來るだけ冷靜な態度で、その金をポケットに入れると、すぐに家に歸つた。

次の日の晩も亦、ヘルマンは賭博臺にあらはれた。人々も彼に來るのを期待してゐたところであつた。 將軍や顧問官も實に非凡なヘルマンの賭を見ようと言ふので、 自分逹のウイストの賭を止めてしまつた。青年士官等は長椅子を離れ、 召使逹までがこの部屋へ這入つて來て、みなヘルマンの周圍(まはり)に押合つてゐた。 勝負をしてゐた他の連中も賭を止めて、どうなる事かと(もど)かしさうに見物してゐた。 ヘルマンはテーブルの前に立つて、相變らず微笑んではゐたが、 青い顏をしてゐるシカリンスキイと、 一騎打の勝負をする準備をした。新しい骨牌(かるた)の封が切られた。 シカリンスキイは札を切つた。 ヘルマンは一枚の切札を取ると、小切手の束でそれを掩つた。 二人はさながら決鬪のやうな氣息込みであつた。深い沈默が四方を壓した。

カリンスキイの骨牌(かるた)を配り始める手は顫へてゐた。 右に女王が出た。左の一の札が出た。

「一が勝つた。」と、ヘルマンは自分の札を見せながら叫んだ。

「あなたの女王が負けでございます。」と、シカリンスキイは慇懃に言つた。

ヘルマンははつとした。一の札だと思つてゐたのが、 いつの間にかスペードの女王になつてゐるのではないか。 彼は自分の眼を信じることも、どうしてこんな間違ひをしたかを理解することも出來なかつた。

途端に、そのスペードの女王が皮肉な冷笑を浮べながら、自分の方に眼配せしてゐるやうに見えた。 その顏が彼女に生寫しであるのにぎよつとした。

「老伯爵夫人だ。」と、彼は恐ろしさの餘りに思はず叫んだ。

カリンスキイは自分の勝つた金を掻き集めた。 暫くの間、ヘルマンは身動き一つしなかつたが、やがて彼がテーブルを離れると、 部屋中が騷然と沸き返つた。

「實に見事な勝負だつた。」と、賭博者逹は稱讚した。 シカリンスキイは新しく骨牌(かるた)を切つて、 いつものやうに勝負を始めた。



ヘルマンは發狂した。さうして、今でもなほオブコフ病院の十七號病室に監禁されてゐる。 彼は他の間には返事をしないが、 絶えず非常な早口で「三、七、一!」「三、七、一!」と囁いてゐるのであつた。

リザヴッタ・イヴァノヴナは老伯爵夫人の執事の息子で前途有望の青年と結婚した。 その男はどこかの縣廳に奉職して、可なりの收入を得てゐるが、 リザヴッタは矢張り貧しい女であることに甘んじてゐる。

トムスキイは大尉級に昇進して、ポーリン公爵の令孃の夫となつた。

——終——

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:妖物


妖物

ビヤース 著

岡本綺堂 譯


目次


粗木(あらき)のテーブルの片隅に置かれてある脂蝋燭(あぶららふそく)の光を頼りに、 一人の男が書物に何か書いてあるのを讀んでゐた。それは甚く摺り切れた古い計算帳で、 その男は燈火(あかり)によく照らして視るために、時々にそのページを蝋燭の側へ近寄せるので、 火を遮る書物の影が部屋の半分を朧ろにして、そこにゐつ幾人かの顏や形を暗くした。 書物を讀んでゐる男のほかに、そこには八人の男がゐるのである。

その中に七人は動かず、物言はず、粗削りの丸太の壁にむかつて腰をかけてゐたが、 部屋が狹いので、どの人もテーブルから遠く離れてゐなかつた。 彼等が手を伸ばせば八人目の男のからだに觸れることが出來るのである。 その男といふのは、顏を仰向けて、半身を敷布(シート)に掩はれて、 兩腕をからだの傍に伸ばして、テーブルの上に横はつてゐた。彼は死んでゐるのである。

書物にむかつてゐる男は聲を出して讀んでゐるのではなかつた。 ほかの者も口を利かなかつた。總ての人が來るべき何事かを待つてゐる樣子で、 死んだ人ばかりが待つことも無しに眠つてゐるのである。外は眞の闇で、 窓の代りに明けてある壁の穴から荒野の夜の聞き慣れない響きが傳はつて來た。 遠くきこえる狼の何とも言へないやうに長い尾をひいて吠える聲、 木立のなかで休みなしに鳴く蟲の靜かに浪打つやうな咽び聲、 晝の鳥とはまつたく違つてゐる夜鳥(ナイトバールド)の怪しい叫び聲、 盲滅法界(めくらめつぱうかい)に飛んでくる大きい甲蟲(よろひむし)の唸り聲、 殊にこれらの小さい蟲の合奏曲(コーラス)が突然止んで半分しか聞えない時には、 なにかの祕密を覺らせるやうにも思はれた。

(しか)しこゝに集まつてゐる人々はそんなことを氣に留める者もなかつた。 こゝの一團が實際的の必要を認めないことに興味を有してゐないのは、 ()つた一つの暗い蝋燭に照らされてゐる、彼等の粗野なる顏附をみても明かであつた。 かれらは皆この近所の人々、即ち農夫や樵夫(きこり)であつた。

書物を讀んでゐる人だけは少し違つてゐた。人は彼を指して、 世間を廣く渡つて來た人であると言つてゐるが、それにも拘らず、 その風俗は周圍の人々と同じ仲間であることを證明してゐた。 彼の上衣(うはぎ)はサンフランシスコで通用しさうもない型で、 履物(はきもの)も町で作られた物ではなく、自分のそばの床に置いてある帽子 -- この中で帽子を被つてゐないのは彼一人である -- は、 若しも單にそれを人間の裝飾品と考へたらば大間違ひになりさうな代物であつた。 彼の容貌は職權を有する人に適當するやうに、自然に馴らされたのか、 或は強ひて(よそほ)つてゐるのか知らないが、一方に嚴正を示すと共に、 寧ろ人好きのするやうな風であつた。なぜと言ふに、彼は檢屍官である。 彼が今讀んでゐる書物を取上げたのもその職權に因るもので、 書物はこの事件を取調べてゐるうちに死人の小屋の中から發見されたのであつた。 審問は今この小屋で開かれてゐる。

檢屍官はその書物を讀み終つて、それを自分のポケットに入れた。 その時に入口の戸が押明けられて、一人の青年が這入つて來た。 彼は明かにこゝらの山家(やまが)に生まれた者ではなく、 こゝらに育つた者でもなく、町に住んでゐる人々と同じやうな服裝をしてゐた。 しかも遠路(とほみち)を歩いて來たやうに、その着物は埃だらけになつてゐた。 實際、彼は審問に應ずる爲に、馬を飛ばして急いで來たのであつた。

それを見て、檢屍官は會釋したが、ほかの者は誰も挨拶しなかつた。

「あなたの見えるのを待つてゐました。」と、檢屍官は言つた。 「今夜のうちにこの事件を片附けてしまはなければなりません。」

青年は微笑みながら答へた。

「お待たせ申して相濟みません。私は外へ出てゐました。 -- あなたの喚問を避けるためではなく、 その話をするために多分呼び返されるだらうと思はれる事件を原稿に書いて、 わたしの新聞社へ郵送するために出かけたのです。」

檢屍官は微笑した。

「あなたが自分の新聞社へ送つたといふ記事は、おそらくこれから宣誓の上でわれ〜に話して頂くこととは違ひませう。」

「それは御隨意に。」と、相手はやゝ熱したやうに、その顏を紅くして言つた。 「わたしは復寫紙を用ひて、新聞社へ送つた記事の寫しを持つて來ました。 しかしそれが信用できないやうな事件であるので、普通の新聞記事のやうには書いてありません、 寧ろ小説體に書いてあるのですが、宣誓の上でそれをわたしの證言の一部と認めて頂いて宜しいのです。」

「しかしあなたは信用出來ないと言ふではありませんか。」

「いや、それはあなたに係り合ひのないことで、私が本當だと言つて宣誓すれば好いのでせう。」

檢屍官はその眼を床の上に落して、しばらく默つてゐると、 小屋の中にゐる他の人々は小聲で何か話し始めたが、やはりその眼は死骸の上を離れなかつた。 檢屍官はやがて眼をあげて宣告した。

「それでは再び審問を開きます。」

人々は脱帽した。證人は宣誓した。

「あなたの名は……。」と、檢屍官は訊いた。

「ウヰリアム・ハーカー。」

「年齡は……。」

「二十七歳。」

「あなたは死人のヒュウ・モルガンを識つてゐますか。」

「はい。」

「モルガンの死んだ時、あなたも一緒にゐましたか。」

「その傍にゐました。」

「あなたの見てゐる前でどんなことがありましたか。それをお訊ね申したいのです。」

「わたくしは銃獵や魚釣をするために、こゝへモルガンを尋ねて來たのです。 尤もそればかりでなく、わたくしは彼に就いてその寂しい山村生活を研究しようと思つたのです。 彼は小説の人物としては好いモデルのやうに見えました。わたくしは時々に物語(ストーリー)を書くのです。」

「わたしも時々讀みますよ。」

「それは有難うございます。」

「いや、一般の物語(ストーリー)を讀むといふので……。あなたのではありません。」

陪審官のある者は笑ひ出した。陰慘なる背景に對して、滑稽(ユーモア)は非常に明るい氣分をつくるものである。 戰鬪中の軍人はよく笑ひ、死人の部屋における一つの冗談はよく驚愕(おどろき)に打勝つことがある。

「この人の死の状況を話してください。」と、檢屍官は言つた。 「あなたの隨意に、筆記帳でも控へ帳でもお使ひなすつて宜しい。」

證人はその意を諒して、胸のポケットから原稿を()り出した。 彼はそれを蝋燭の火に近寄せて、自分がこれから讀まうとするところを見出すまで、 その幾枚を繰つてゐた。

-- 我等がこの家を出でたる時、日はいまだ昇らざりき、我等は(うづら)(あさ)らんが爲に、 手に〜散彈銃をたづさへて、唯一頭の犬を()けり。

最も好き場所は畔を越えたるところに在り、とモルガンは指さして教へたれば、 我等は低き(かしは)の林をゆき過ぎて、草むらに沿うて行きぬ。 路の片側にはやゝ(たいら)かなる土地ありて、野生の燕麥(からすむぎ)を以て深く掩はれたり。 我等が林を出でゝ、モルガンは五六ヤードも前進せる時、やゝ前方に當れる右側のすこしく隔たりたるところに、 獸の(たぐひ)が籔を突き進むが如きを聞けり、その響きは突然に起りて、 草木(そうもく)の烈しく動搖するを見たり。

「我々は鹿を狩り出しぬ。かくと知らば施條銃(ライフル)を持ち來るべかりしに……。」と、我は言ひぬ。

モルガンは歩みを(とゞ)めて、動搖する林を注意深く(うかゞ)ひゐたり。 彼は何事をも語らざりき。(しか)もその銃の打金をあげて、何物かを狙ふが如くに身構へり。 焦眉の急が(にはか)に迫れる時にも、彼は甚だ冷靜なるを以て知られたるに、 今や少しく興奮せる(てい)を見て、我は驚けり。

「や、や。」と、われは言ひぬ。「(うづら)撃つ銃をもて鹿を撃つべくもあらず。 君はそれをこゝろみんとするか。」

彼は猶答へざりき。(しか)も我が方へ少しく振向きたる時、 われはその顏色の(はげ)しきに甚だしく(おびや)かされたり。 かくて我は、容易ならざる仕事が我々の目前に横はれることを覺りぬ。 おそらく灰色熊を狩り出したるにあらずやと、我は先づ推量して、 モルガンのほとりに進み寄り、おなじく我が銃の打金をあげたり。

籔のうちは今や鎭まりて、物の響きも止みたれど、モルガンは前のごとくに其處を(うかゞ)ひゐるなり。

「何事にや。何事にや。」と、われは問ひぬ。

妖物(ダモドシング)?」と、彼は見返りもせずに答へぬ。 その聲は怪しくうら(しやが)れて、彼は明かに戰慄(をのゝ)けり。

彼は更に言はんとする時、 近きあたりの燕麥(からすむぎ)が何とも言ひ分け難き不思議のありさまにて狂ひ騷ぐを見たり。 それは風の通路にあたりて動搖するが如く、麥は押曲げらるゝのみならず、 押倒され、押挫(おしくじ)がれて、ふたゝび起きも得ざりき。 しかも、その風のごとき運動は徐々に我が方へも延長し來れるなり。

この見馴れざる不可解の現象ほど。我に奇異の感を懷かしめたることは(かつ)て無かりき。 しかも我は猶、それに對して恐怖の念を起すに至らざりき。 我はかくの如くに記憶す。 -- たとへば、開かれたる窓より何心なしに表をながめたる時、 目前にある小さき立木を遠方にある大木の林の一本と見誤ることあり。 それは遠方の大木と同樣の大きさに見ゆれど、(しか)もその(かさ)に於いても、 その局部に於いても、後者とは全く一致せざる筈なり。要するに、 大氣中に於ける遠近錯覺に過ぎざるなれど、一時は人を驚かし、 人を恐れしむることあり。われ〜は最も見馴れたる自然の法則の、最も普通なる運用を信頼し、 そのあひだに何等かの疑ふべきものあるを見れば、直ちにそれを以て我々の安全を(おびや)かすか、 或は不思議なる災厄の豫報と認むるを常とす。されば、今や草叢(くさむら)が理由なくして動搖し、 その動搖の一線が迷ふことなく(おもむ)ろに進行し來るをみれば、 たとひ恐怖を感ぜざるまでも、(たしか)に不安を感ぜざるを得ざるなり。

我が同伴者は實際に恐怖を感じたるが如く、あはやと見る間に、彼は突然その銃を肩のあたりに押し當てゝ、 ざわめく穀物にむかつて二發を射撃したり。その彈煙(たまけむり)の消えやらぬうちに、 我は野獸の吼ゆるがごとき獰猛なる叫び聲を高く聞けり。 モルガンはその銃を地上に投げ捨てゝ、跳り上つて現場より走り退()きぬ。 それと同時に、我は或物の衝突によつて地上に激しく投げ倒されたり。 煙に遮られて(たしか)に見えざりしが、 柔かく(しか)も重き物體が大いなる力を以て我に衝突したりしと覺ゆ。

我は再び起きあがりて、わが手より取落したる銃を拾い上げんとする前に、 モルガンが今や最期かとも思はるゝ苦痛の叫びをあぐるを聞けり。更に又、 その叫び聲にまじりて、鬪へる犬の唸るがごとき皺枯れたる凄まじき聲をも聞けり。 異常の恐怖に襲はれて、我は慌てゝ跳ね起きつモルガンの走り行きたる方角を打見やれば、 あゝ、二度とは見まじき怖ろしの有樣なりしよ。三十ヤードとは隔てざる處に、 わが友は片膝を突いてありき。その(かしら)は甚だしき角度にまで仰反(のけぞ)りて、 その長き髮はかき亂され、その全身は右へ左へ、前へ後へ、激しく搖られつゝあるなり。 その右の腕は高く擧げられたれど、我が眼にはその手先は無きやうに見えたり。 左の腕は全く見えざりき。我が記憶によれば、このとき我はその身體の一部を認めたるのみにて、 他の部分はさながら(ぼか)されたるやうに見えしと言ふのほか無かりき。 やがてその位置の移動によりて、總ての姿は再び我が眼に入れり。

かく言へばとて、それらは僅かに數秒間の出來事に過ぎず、 そのあひだにもモルガンは自己(おのれ)よりも優れたる重量と力量とに壓倒されんとする、 決死の力者のごとき姿勢を保ちつゝありき。しかも彼のほかには何物をも認めず、 彼の姿もまた折々には定かならざることありき。彼の叫びと呪ひの聲は絶えず聞えたれど、 その聲は人とも獸とも分かぬ一種の兇暴獰惡の唸り聲に壓せられんとしつゝあるなり。

我は暫らく何の思案も無かりしが、やがて我が銃をなげ捨てゝ、 わが友の應援に()せ向ひぬ。我はたゞ漠然と、彼はおそらく逆上せるか、 あるひは痙攣を發せるならんと想像せるなり。しかもわが走り着く前に、 彼は倒れて動かずなりぬ。總ての物音は鎭まりぬ。 しかもこれらの出來事なくとも、我を恐れしむる事ありき。

我は今や再び彼の不可解の運動を見たり。野生の燕麥(からすむぎ)は風なきに亂れ騷ぎて、 眼に見えざる動搖の一線は俯伏しに倒れてゐる人を越えて、踏み荒らされたる現場より森のはづれへ、 しずかに眞直にすすみゆくなり。それが森へとゆき着くを見おくり果てゝ、 更に我が同伴者に眼を移せば -- 彼は已に死せり。

檢屍官は我が席を離れて、死人のそばに立つた。彼は敷布(シート)の縁を()つて引きあげると、 死人の全身はあらはれた。死體はすべて赤裸で、蝋燭のひかりの下に粘土色に黄色く見えた。 而も明かに打撲傷による出血と認めらるゝ青黒い大きな汚點(しみ)が幾ヶ所もの殘つてゐた。 胸とその周圍は棍棒で毆打されたやうに見られた。ほかに怖ろしい引掻き(きず)もあつて、 絲の如く又は切屑のごとくに裂かれてゐた。

檢屍官は更にテーブル端へ廻つて、死體の頤から頭の上にかゝつてゐる絹のハンカチーフを取外すと、 咽喉がどうなつてゐるかと言ふことが露れた。陪審官のある者は好奇心に驅られて、 それをよく見定めやうとして起ちかゝつたものもあつたが、 彼等は忽ちに顏を背けてしまつた。證人のハーカーは窓をあけに行つて。 (わづら)はしげに惱みながら窓臺に倚りかゝつてゐた。 死人の頸にハンカチーフを置いて、檢屍官は部屋の隅へ行つた。 彼はそこに積んである着物の斷片(きれはし)を一々に取上げて檢査すると、 それはずた〜に引裂かれて、乾いた血のために固くなつてゐた。 陪審官はそれに興味を持たないらしく、近寄つて綿密に檢査しようともしなかつた。 彼等は先刻已にそれを見てゐるからである。彼等に取つて新しいのは、 ハーカーの證言だけであつた。

「皆さん。」と、檢屍官は言つた。「わたくしの考へるところでは、最早ほかに證據はあるまいと思はれます。 あなた方の職責は已に證明した通りであるから、この上に質問するやうなことがなければ、 外へ出てこの評決をお考へください。」

陪審長が起ちあがつた。粗末な服を着た、六十ぐらゐの、髯の生えた脊丈(せい)の高い男であつた。

「檢屍官どのに一言おたづね申したいと思ひます。」と、彼は言つた。 「その證人は近頃どこの精神病院から拔け出して來たのですか。」

「ハーカー君。」と、檢屍官は重々しく而もおだやかに言つた。 「あなたは近頃どこの精神病院を拔け出して來たのですか。」

ハーカーは烈火の如くになつたが、而し何にも言はなかつた。 勿論、本氣で訊く積りでもないので七人の陪審官はそのまゝに列をなして、 小屋の外へ出て行つてしまつた。檢屍官とハーカーと、死人とが後に殘された。

「あなたは私を侮辱するのですか。」と、ハーカーは言つた。「私はもう勝手に歸ります。」

「よろしい。」

ハーカーは行かうとして、戸の掛金に手をかけながら又立ちどまつた。 彼が職業上の習慣は自己の威嚴を保つといふ心持よりも強かつたのである。 彼は振返つて言つた。

「あなたが持つてゐる書物は、モルガンの日記だと思ひます。 あなたはそれに多大の興味を有してゐられるやうで、 私が證言を陳述してゐる間にも讀んでゐられました。 わたしにも鳥渡(ちよつと)見せて頂けないでせうか。 おそらく世間の人々もそれを知りたいと思ふでせうから……。」

ハーカーが出て行つた後へ、陪審官等は再び這入つて來て、テーブルのまはりに立つた。 そのテーブルの上には彼の掩はれたる死體が、敷布(シート)の下に行儀よく置かれてあつた。 陪審長は胸のポケットから鉛筆と紙片(かみきれ)()り出して、 念入りに次の評決文を書くと、他の人々もみな念を入れて署名した。

-- われ〜陪審官はこの死體[を]マウンテン・ライオン(豹の一種)の手に因つて殺されたるものと認む。 但しわれ〜のある者は、死者が癲癇あるひは痙攣のごとき疾病を有するものと思考し、 一同も同感なり。

ヒュウ・モルガンが殘した最後の日記は確に興味ある記録で、 恐らく科學的暗示を與へるものであらう。その死體檢案の場合に、 日記は證據物として提示されなかつた。檢屍官は多分そんなものを見せる事は、 陪審官の頭を混亂させるに過ぎないと考へたらしい。 日記の第一項の日付は判然せず、その紙の上部は引裂かれてゐたが、 殘つた分には次のやうなことが記されてゐる。

……犬はいつでも中心の方へ頭をみけて、半圓形に駈けまはる。さうして、 再び靜に立つて激しく吠える。しまひには出來るだけ早く籔の方へ駈けてゆく。 最初(はじめ)この犬め、氣が違つたのかと思つた、家へ歸つて來ると、 おれの罰を恐れてゐる以外には別に變つた樣子も見せない。 犬は鼻で見ることが出來るのだらうか。物んお匂ひが腦の中樞に感じて、 その匂ひを發酸する物の形を想像することが出來るのだらうか。

九月二日 -- ゆうべ星を見てゐると、その星がおれの(うち)の東にあたる(あぜ)の境の上に出てゐる時、 左から右へとつゞいて消えて行つた。その消えたのはほんの一刹那で、 また同時に消える數が僅少(わづか)だつたが、(あぜ)の全體の長さに沿うて一列二列の間は(ぼか)されてゐた。 おれと星との間を何者かゞ通つたのらしいと思つたが、かれの眼には何にも見えない。 又その物の輪廓を限ることの出來ないほどに、星のひかりも曇つてはゐないのだ。 あゝ、こんなことは(いや)だ……。

(日記の紙が三枚剥ぎ取られてゐるので、それから數週間の記事は失はれてゐる)

九月二十七日 -- あいつが再びこゝへ出て來た。おれは毎日あいつが出現することの證據を握つてゐるのだ。 おれは昨夜(ゆうべ)もおなじく上掩ひを着て、鹿撃彈を二重籠めにした鐵砲を持つて、 夜のあけるまで見張つてゐたのだが、朝になつて見ると新しい足跡が前の通りに殘つてゐるではないか。 (しか)しおれは誓つて眠らなかつたのだ。確に一晩中眠らない筈だ。

どうも怖ろしいことだ。どうにも防ぎやうの無いことだ。こんな奇怪な經驗が本當ならば、 おれは氣違ひになるだらう。萬一それが空想ならば、おれはもう氣違ひになつてゐるのだ。

十月三日 -- おれは立去らない。あいつにおれを追ひ出すことが出來るものか。 さうだ、さうだ。こゝはおれの(うち)だ、こゝはおれの土地だ。 神さまは卑怯者をお憎みなさる筈だ。

十月五日 -- おれはもう我慢が出來ない。おれはハーカーをこゝへ呼んで、 幾週間を一緒に過して貰ふことにした。ハーカーは氣のおちついた男だ。 あの男がおれを氣違ひだと思ふか何うだか、その樣子をみてゐれば大抵判斷が出來る筈だ。

十月七日 -- おれは祕密を解決した。それはゆうべ判つたのだ -- 一種の示顯を蒙つたやうに突然に判つたのだ。 なんといふ單純なことだ -- なんといふ怖ろしい單純だ!

世の中にはおれ逹に聞えない物音がある。音階の兩端には、 人間の耳といふ不完全な機械の鼓膜には震動を感じられないやうな音符がある。 その音はあまりに高いか、またはあまりに低いかであるのだ。 おれは木の頂上に(つぐみ)の群が一ぱいに止まつてゐるのを見てゐると -- 一本の木ではない、澤山の木に止まつてゐるのだ -- さうして、 みな聲を張りあげて歌つてゐるのだ。すると、不意に -- 一瞬間に -- 全く同じ一刹那に -- その鳥の群はみな空中へ舞ひあがつて飛び去つてしまつた。 それはなぜだらう。どの木も重なつて邪魔になつて、鳥にはおたがひ同士が見えない筈だ。 又、どこにもその指揮者 -- みんなから見えるやうな指揮者の棲んでゐる場所がないのだ。 してみれば、そこには何か普通のがちや〜言ふ以上に、もつと高い、もつと鋭い、 通知か指揮の合圖がなければならない。唯おれの耳に聞えないだけのことだ。

おれは又、それと同じやうに澤山の鳥が一度に飛び去る例を知つてゐる。 (つぐみ)の仲間ばかりでなく、例へば(うづら)のやうな鳥が籔のなかに廣く分れてゐる時、 更に遠い岡の向う側にまで分れてゐる時、 なんの物音も聞えないにも拘らず、忽ち一度に飛び去ることがあるのだ。

船乘逹は又こんなことを知つてゐる。鯨の群が大洋の表面に浮んだり沈んだりしてゐる時、 その間に凸形の陸地を有して數 (マイル)を隔てゝゐるにも拘らず、 ある時には同じ刹那に泳ぎ出して、一瞬間にすべてその影を見失ふことがある。 信號が鳴らされた -- 檣柱(マスト)の上にゐる水夫や、甲板(デツキ)にゐるその仲間の耳にはあまりに低いが、 それでも寺院の石がオルガンの低い音響に震へるやうに、船のなかではその顫動(せんどう)を感じるのだ。

音響とおなじことで、物の色もやはり然うだ。 化學者には太陽のひかりの各端に化學線(アクテニツクレー)といふものゝ存在を見出すことが出來る。 その線は種々の色をあらはすもので、光線の成分にしたがつて完全な色を見せるのださうだが、 われ〜にはそれを區別することが出來ない。人間の眼は耳とおなじやうに、 不完全な機械で、その眼の(とゞ)く程度は唯わづかに染色性の一部に限られてゐるのだ。 おれは氣が違つてゐるのではない。そこには俺逹の眼には見えない種々の色があるのだ。

そこで、確に(うそ)で無い。あの妖物(ダムドシング)はそんな(たぐひ)の色であつた!

——終——

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:クラリモンド


クラリモンド

ゴウチエ(Theophile Gauitier, 1811-1872) 作

岡本綺堂(1872-1939) 譯


目次


わたしが曾て戀をしたことがあるかとお訊ねになるのですか。あります。 わたしの話はよほど變つてゐて、しかも怖ろしい話です。わたしは六十六歳になりますが、 いまだにその記憶の灰をかき亂したくないのです。

わたしは極く若い少年の頃から、僧侶の務を自分の天職のやうに思つてゐましたので、 すべて私の勉強はその方面のことに向けてゐました。二十四の頃までのわたしの生活は、 長い初學者としての生活でした。神學の課程を卒へますと、つゞいて種々の雜務に從事しましたが、 牧師長の人逹はわたしがまあだ若いにも拘らず、わたしを認めてくれまして、 最後に聖職につくことを許してくれました。 さうしてその僧職の授與式は復活祭の週間のうちに行はれることに決まりました。

わたしはその頃まで、世間に出たことがありませんでした。わたしの世界は、學校の壁と、 神學校の關係の社會に限られてゐました。それで、わたしは世間でいふ女といふものに、 極めて漠然とした考へしか持つてゐませんでしたし、 又そんな問題について考へたりすることは決してありませんでしたので全く無邪氣のまゝに生活してゐたのでした。 私は一年にたつた二度、わたしの年老いた虚弱な母に逢ひに行くばかりで、私と外の世間との關り合ひといふものは、 全くこれだけのことしか無かつたのであります。

わたしはこの生活に何の不足もありませんでした。わたしは自分が二度と替へられない終身の職に就いたことに對しては、 何の躊躇も感じてゐませんでした。私はたゞ心の喜びと、胸の躍りを感じてゐました。 どんな婚約をした戀人でも、私ほどの夢中の喜びをもつて、ゆるやかな時刻の過ぎるのを算へたことはありますまい。 私は寢るときには、聖餐祭でわたしが説教する時のことを夢みながら床につくのです。 私はこの世に、僧侶になるといふほどの喜びは、他に何もないものだと信じてゐました。 詩人になれても、帝王になれても、私はそれを斷りたいほどで、私の野心はもうこの僧侶以上に何も思つてゐませんでした。

たうとうわたしにとつて大事の日が參りました。私はまるで自分の肩に羽でも生えてゐるやうに、浮々した心持で、 寺院の方へ輕く歩んでゐました。まるで自分を天使(エンジエル)のやうに思ふ位でした。 さうして、大勢の友逹のうちには暗いやうな物思はしげな顏をしてゐる者があるのを、不思議に思ふ位でありました。 私は祈祷にその一夜を過して、全く法悦の状態にあつたのです。慈愛深い僧正は永遠にゐます父--神の如くに見え、 寺院の圓天井のあなたに天國を見てゐたのであります。

この儀式を詳しく御存じでせうが、先づ淨祓式(ベネヂクシヨン)が行はれ、それから、兩種の拜受聖餐式(コムムニオン)、 それから掌に洗禮者の油を塗る傳油式(ふゆしき)、それが濟んでから、 僧正と聲をそろへて勤める神聖なる獻身の式が終るのであります。

あゝ、併しヨブ(舊約ヨブ記の主人公)が、「眼をもて誓約せざるものは愚かなる人間なり。」と言つたのは、 よく眞理を説いてゐます。私がその時まで埀れてゐた(かしら)を偶然にあげると、 私の眼の前にまるで觸れば觸られるぐらゐに近く思はれて、實際は自分のところからかなりに離れた聖壇の手摺の端に、 非常に美しい若い女が目ざむばかりの高貴の服裝をしてゐるのを見ました。

それはわたしの眼には、世界が變つたやうに思はれました。わたしはまるで盲の眼が再び明いたやうに感じたのです。 つい今の瞬間までは榮光に輝いてゐた僧正の姿は忽ちに消え去つて、黄金の燭臺に燃えてゐた蝋燭は曉の星のやうに薄らいで、 一面の暗闇が寺内に擴がつたやうに思はれました。かの愛らしい女はその暗闇を背景にして、 天使の出現のやうに際立つて浮き出してゐたのです。彼女は輝いてゐました。實際、輝やいて見えるといふだけでなく、 光を放つてゐました。

わたしは他の事に氣を奪られてはならないと思つて、二度と眼をあくまいと決心して眼瞼を伏せました。 何故といつて、私の煩悶はだん〜に嵩じて來て、自分は今何をしてゐるか判らないくらゐになつたからでした。 それにも拘らず、次の瞬間には又もや眼をあげて、睫の間から彼女を見ました。すると、 誰しも太陽を見つめる時、紫色の半陰翳が輪を描くやうに、彼女はすべてが虹色にかがやいてゐました。

あゝ、何といふ美しさであらう。偉大な畫家は、理想の美を天界に求めて、地上に聖女の眞像を描きますが、 今わたしの眼前にある自然のほんたうの美しさ近い描寫はまだ見出されません。いかな詩句と雖も、 畫像の繪具面(パレツト)といへども、彼女の美を寫してはゐませんでした。 彼女はやゝ背丈(せい)の高い、女神のやうな形と態度とを有してゐました。柔かい金色(こんじき)な髮をまん中で二つに分け、 それが金の波を打つ二つの河になつて兩方の顳顬(こめかみ)に流れてゐるところは、 王冠をいたゞいた女王のやうに見えました。額は透き通つた青みのある白さで、二つのアーチ形をした眉毛の上に延び、 おのづからなる快濶な輝きを持つ海緑色の眼を巧みに際立たしてゐるのでした。唯不思議に見えたのは、 その眉が殆ど黒いことでした。それにしても、何といふ眼でせう。 たゞ一度のまたゝきでも一人の男の運命を決めることの出來る眼です。 今までわたしが人間の眼に見たことのない、清く澄んだ、熱情のある、潤んだ光を持つ、生々した眼でありました。

二つの眼は矢のやうに光を放ちました。それがわたしの心臟に透るのを判然(はつきり)と見たのです。 わたしはその輝いてゐる眼の火が天國より來たものか、あるひは地獄から來たものかを知りませんが、 何れかから來てゐるに相違ありません。彼女は天使(エンジエル)惡魔(デモン)かでありました。 恐らく兩方であつたらうと思ひます。たしかに彼女は普通の女から--即ちイブの腹から生れたのではありませでした。 光澤(つや)のある眞珠の齒は、愛らしい微笑の時に光りました。彼女が少しでも口脣を動かす時は、 小さなゑくぼが輝く薔薇色の頬に現はれました。優しい整つた鼻は、高貴の生まれであることを物語つてゐました。

半分ほど露に出した滑らかな光澤(つや)のある二つの肩には、 瑪瑙と大きい眞珠の首飾りがすぢの色と同じ美しさで光つてゐて、 それが胸の方に埀れてゐました。時々に彼女が溢るゝばかりの笑ひを帶びて、 驚いた蛇か孔雀のやうに(かしら)を上げると、 それらの寶石をつゝんだ銀格子のやうな高貴な襞襟がそれにつれて搖れるのでした。 彼女は赤い(オレンヂ)色の天鵝絨(ビロード)の寛やかな着物をつけてゐました。 貂の皮で、縁を取つた廣い袖からは、光も透通るほどの、曙の女神の指のやうな、まつたく理想的に透明な、 限りなく優しい貴族風の手を出してゐました。

これらの細かいことは、そのとき私が非常に煩悶してゐたのにも拘らず、何一つ逃さずに、 あたかも昨日のことのやうに明白に思ひ出します。顎のところと口脣の隅にあつた極めて僅かな影、 額の上の天鵝絨(ビロード)のやうな生毛、頬にうつる睫毛の顫へた影、すべてのものが、 驚くほどに判然(はつきり)と語ることが出來るのです。

それを見つめてゐると、わたしは自分の中に今まで閉ぢられてゐた門が開くのを感じました。 長い間遮ぎられてゐた口が開いて、すべてのものが明らかになり、今まで知らなかつた内部のものが見えるやうになつたのです。 人生そのものが私に對して新竒な局面を開きました。わたしは新しい別の世界が、 一切が變つてゐるところに生まれて來たと思つたのです。 恐ろしい苦惱が赤く灼けた鋏をもつて、わたしの心臟を苦しめ始めました。 絶間なく續いてゐる時刻が唯一秒の間かと思はれると、また一世紀のやうに長くも思はれます。 そのうちに儀式は進んでゆく。私はその時、山でも根こそぎにするほどの強い意志の力を出して、 わたしは僧侶などになりたくないと叫び出さうとしましたが、どうしてもそれが言へないのです。 わたしは自分の舌が上顎に釘づけにでもなつたくらゐで、 いやだと言ふの字も言ふことが出來なかつたのです。 それは丁度夢に魘はれた人が命がけのことのために何とか一聲叫ばうとあせつても、それが出來ないのと同じことで、 私は現在目ざめてゐながらも叫ぶことが出來なかつたのです。

彼女はわたしが殉道に身を投じてゆく破目になるのを知つて、 如何にもわたしに勇氣づけるやうに力強い頼み甲斐のある顏を見せました。 その眼は詩のやうに、眼の動きは歌のやうに思はれたのです。彼女はその眼で私に言ひました。

「もしあなたがわたしのものになつて下さるなら、神が天國にゐますよりも、 もつと幸福にしてあげます。天使(エンジエル)逹があなたに嫉妬を感じるほどにしてあげます。 あなた自身を包まうとしてゐる、あの經帷子を引つ剥がしておしまひなさい。わたしは美しいのです。 わたしは若いのです、わたしには命があるのです。私のところへ來て下さい。お互ひに愛します。 エホバの神は何をあなたに上げるでせう。何にもくれますまい。 わたし逹の生命(いのち)は唯一度の接吻の間に夢のやうに過ぎてしまひます。 あの聖餐盃(チヤリース)を投げ出しておしまひなさい。さうして、自由におなりなさい。 わたしはあなたを遠い島へお連れ申します。あなたは、銀の屋根の建物の下で、大きい黄金の寢臺の上で、 わたしの懷ろで寢られます。わたしはあなたを愛して居ります。わたしはあなたを神樣より奪つてしまひたいのです。 これまでどれだけの尊い人逹が愛の血を注いだか知れませんが、 誰も神樣の傍にも近寄つた者はないのではございませんか。」

これらの言葉が、無限の優しい旋律(リズム)を以てわたしの耳に流れ込みました。 彼女の顏は全く歌のやうで、その眼で物を言つてゐます。さうして、 それが本當の口脣から漏れ出るやうに私の胸の奧にひびくのでした。 わたしはもう神樣に向つて、僧侶となることを斷りたい心持が胸一杯でしたが、 それでもどういふものかわたしの舌は儀式の形式通りに言つてしまふのです。 美しい人は更に又、私の胸を刺し通すやうな絶望の顏や、歎願するやうな顏を見せるのです。 それは「悲しみの聖母」のそれよりも、もつと強い刄で貫くやうな顏つきでありました。

その中にすべての儀式はとゞこほりなく終つて、わたしは一個の僧侶になつたのであります。

この時ほど、彼女の顏に深い苦悶の色が描かれたのを見たことはありませんでした。 婚約した愛人の死を目のまたり見てゐる少女も、死んだ子を悲しんで空の乳母車をのぞき込んでゐる母も、 天界の樂園を追はれてその門に立つイブも、吝嗇な男が自分の寶と置き換へられた石をながめてゐる時でも 詩人が魂をこめ唯一つの原稿か何かのために火に焚かうとしてゐる時でも、 この時に於ける彼女ほどには、諦め切れないやうな絶望の顏を見せないであらうと思はれました。 彼女の愛らしい顏にすつかり血の色が失せて、大理石よりも白くなりました。 美しい二つの腕は急に筋肉の緩んだやうに軆の兩方に力なく埀れてしまひました。柔順な足も今は自由にならなくなつて、 彼女は何か力と頼むべき柱をさがしてゐました。

わたしはと言へば、これも死人のやうな青白い色をして、寺院の(ドア)の方へよろめいて行きましたが、 あのクリストの磔刑んも像よりも更に血の汗を浴びて、まるで首を絞められてゐる人のやうに感じました。 圓天井はわたしの肩の上へ平押しに落ちかゝつて來て、 わたしの頭だけでこの圓天井のすべての重みを支へてゐるやいでありました。

丁度わたしが寺院の閾をまたがうとする時でした。突然に一つの手がわたしの手を握つたのです。 それは女の手です。わたしはこれまでに女の手などに觸れたことはありませんでしたが、 その時わたしに感じたのは蛇の肌にさはつたやうな冷たい感じで、その時の感じは未だに掌の上に、 熱鐡の烙印(やきいん)を押したやうに殘つてゐます。それは彼女の手であつたのです。「不幸な方ね。 ほんたうに不幸な方……。どうしたと言ふことです。」 と、彼女は低い聲を強めて言つてすぐに人込みの中に消えて行つてしまひました。

老年の僧正がわたしのそばを通りかゝりました。彼は何かわたしを冷笑するやうな嶮しい眼を向けて行きました。 わたしはよほど取亂した顏つきをしてゐたらしく、顏を赤くしたり、 青くしたりして眩しい光が眼の前にきらめくやうに感じました。 そのうちに、一人の友逹がわたしに同情して、わたしの腕を取つて連れ出してくれました。 わたしはも誰かに扶けられないでは、學寮に歸ることが出來ないくらゐでした。町の角で、 わたしの若い友逹が何かよその方へ氣をとられて振向いてゐる刹那に、 風變はりの服裝をした黒人の召仕(ページ)がわたしに近づいて來て、 歩きながらに金色の縁の小さい手帖をそつと渡して、それをかくせといふ合圖をして行きました。 わたしはそれを袖のなかに入れて、わたしの居間で唯ひとりになるまで隱して置きました。

獨りになつてから、その手帖の止めを外すと、中には二枚の紙が這入つてゐて、 「コンシニ宮殿へ……クラリモンド。」と、僅かに書いてありました。

わたしはその當時、世間の事は何にも知りませんでした。名高いクラリモンドの事なども知つてゐません。 コンシニ宮殿が何處にあるかさへも全く見當がつきませんでした。わたしは種々に想像をたくましくして見ましたが、 實のところ、もう一度逢ふことが出來れば、彼女が高貴な女であらうと、又は娼婦のたぐひであらうと、 私はそんなことを氣をかけてはゐないのでした。

わたしの戀はわづか一時の間に生まれたのですが、もう打消すことの出來ないほどに根が深くなつて行きました。 私はもう全く取亂してしまつて、彼女が觸れたわたしの手に接吻したり、 幾時間もの間に繰返して彼女の名を呼んだりしました。 わたしは彼女の姿を目のあたりに判然(はつきり)と認めたいがために、眼を閉ぢてみたりしました。

わたしは寺院の門のところで、私の耳に囁いた彼女の言葉を繰返しました。 「不幸な方ね。不幸な方どうしたと言ふことです。」-- わたしはさうしてゐる中に、 到頭自分の地位の恐ろしさが判るやうになりました。暗い忌はしい束縛 -- その生活の中に、 自分が這入つて行つたといふことが判るやうになりました。 僧侶の生活 -- それは純潔にして身を愼んでゐること、戀をしてはならないこと、男女の性や老若の區別をしてはならないこと、 すべて美しいものから眼をそむけること、人間の眼を拔き取ること、一生のあひだ寺院や僧房の冷たい日影に身を屈めてゐること、 死人の家以外を訪問してはならないこと、見知らない死骸の傍に番をしてゐること、いつも喪服に等しい法衣を自分ひとりで着て、 最後にはその喪服がその人自身の棺の掩ひになると言ふことであります。

もう一度クラリモンドに逢ふには、どうしたら好いかと思ひました。町には誰も知つてゐる人がないので、 學寮を出る口實實がなかつたのです。私はもうこんな所に一時もぢつとしてはゐられないと思ひました。 其處にゐたところが、たゞ私はこれから職に就く新しい任命を待つてゐるばかりです。 窓をあけようと思つて、貫の木に手をかけましたが、それは地面から非常に高い所にありますので、 別に梯子を見つけない限りは、この方法で逃げ出すことは無駄であることがわかりました。 その上に、どうしても夜ででもなければ、そこから降りられさうもないのです。それから又、 あの迷宮のやうに複雜な街の樣子もわかり兼ねるのでありました。これらの困難は、 他人に取つては差程むづかしいとは思はれないのでせうが、わたしに取つては非常に困難の仕事であつたのです。 それといふのは、わたしはつい前の日に、生まれて初めての戀に落ちたばかりの學徒で、經驗もなければ金も持たない、 衣服も持たない、憐れな身の上であつたからです。

わたしは盲に等しい自分に向つて、ひとり言を言ひました。

「あゝ、若し自分が僧侶でなかつたなら、毎日でもあの女に逢ふことも出來る。さうしてあの女の戀人となり、 あの女の夫になつてゐられるのだが。……。こんな陰氣な經帷子の代りに、 絹や天鵝絨(ビロード)の著物を身に纒つて、金の鎖や劒をつけて、 ほかの若い騎士逹のやうに美しい羽毛をつけてゐられるのに……。 髮もこんな不樣な剃髮(トンシユア)などにしてゐないで、 襟まで埀れてゐる髮を波のやうにちゞらせて立派に伸びた頤鬚までもたくはへて、優雅な風采でゐられるのに……。」

而も彼の聖壇の前における一時間、その時の僅かな明皙な言葉が、永久にわたしをこの世の人の數から引き離してしまつて、 わたしは自分の手で自分の墓の石蓋を閉ぢ、自分の手で自分の牢獄の門を閉ぢたのでありました。

わたしはまた窓へ行つて見ると、空は麗らか青く晴れて、總ての樹木はみな春の裝ひをして、 自然は皮肉な歡樂の行進をつゞけてゐます。そこには多くの人々が往來して、姿の好い若い紳士や、美しい淑女逹が二人連れで、 森や花園の方へそゞろ歩きをしてゐます。元氣の好い青年が面白さうに醉つて歌つてゐます。 すべてが快濶、生命、躍動の一幅の繪畫で、わたしの悲哀と孤獨と比べると、實にひどい對象をなしてゐるのです。 門の階段の所には、若い母が、自分の子供と遊んでゐます。 母はまだ乳の雫の殘つてゐる可愛らしい薔薇色の口に接吻をしたり、子供を喜ばせるために色々あやしてつみたり、 母だけしか知らないやうな種々樣々な尊い子供らしい仕科をしてゐます。 その子供の父は腕を組んでにこやかに微笑みながら、少し離れた所に立つてその可愛らしい仲間をながめて居ます。 私はもうこんな樂しい景色を見るに堪へられなくなつて、手暴く窓をしめ切つて、急いで床の中に飛び込んでしまひました。 私のこゝろは烈しい嫉妬と嫌惡で一杯になつて、十日も飢ゑてゐる虎のやうに、わが指を囓み、更に寢床の白布を囓みました。

かうしてわたしはいつまで寢臺にゐたのか、自分でも覺えませんでしたが、床のなかで發作的に苦しみ悶えてゐる間に、 突然この部屋のまん中に僧院長のセラピオン氏が眞直に突つ立つて、注意深くわたしを見つめてゐるのに氣がつきました。

わたしは非常に恥かしくなつて、おのづと胸の方へ首を埀れて、兩手で顏を掩ひかくしたのです。 セラピオン氏は暫く無言で立つてゐましたが、やがて私に言ひました。

「ロムアルド君。何か非常に變つたことがあなたの身の上に起つてゐるやうですな。あなたの樣子はどうも理解出來ない。 あなたはいつも沈着で、敬虔な温順な人物であるのに、どうしてそんなに、野獸などのやうに怒り狂つてゐるのです。 氣をおつけなさい。惡魔の聲に耳を傾けてはならない。恐れてはならない。勇氣を失つてはなりませんぞ。 そんな誘惑に出逢つた場合には、何よりも確固たる信念と注意とに頼らなくてはいけません。 さあ、しつかりして好くお考へなさい。さうすれば惡魔の靈は屹度あなたから退散してしまひます。」

僧院長セラピオン氏の言葉で、わたしは我にかへつて、幾分か心が落ちついて來ました。彼は更に言ひました。

「貴方はCといふ所の僧職に就くことになつたので、それを知らせに來たのです。 そこの僧侶が死んだので、貴方が其處へ就職するやうに僧正から命ぜられました。 明日すぐに出發出來るやうに用意して貰ひたいのです。」

彼女に再び逢ふことなしに、明日ここを離れて行き、今まで二人のあひだを隔てる幾多の障りある上に、 更に二人の仲を割くべき關所を置くことになつたら、竒蹟でもない限りは彼女に逢ふことは永遠に出來なくなるのです。 手紙を書いてやることは所詮出來ないことです。誰にたのんでその手紙を渡して好いか、 それさへもわからない。僧職にある身が誰にこんな事を打明けていゝか、誰を信じて好いか。 それが私にはまつたく堪へられないほどの苦勞でありました。

翌朝、セラピオン氏はわたしを連れに來たのです。旅行用の貧しい手鞄などを乘せてゐる二匹の騾馬が門前に待つてゐました。 セラピオン氏は一方の騾馬に乘り、わたしは型のごとくに他の騾馬に乘りました。

町の路々を通る時、わたしは若しやクラリモンドに逢ひはしないかと、家々の窓や露臺に氣をつけて見ました。 朝が早かつたので、街もまだ殆ど起きてはゐませんでした。 私は自分の通りかゝつた邸宅といふ邸宅の窓の鎧戸やカーテンを見透すやうに眼を配りました。

セラピオン氏はわたしの態度を別に疑ひもせず、たゞわたしがそれらの邸宅の建築を珍しがつてゐるのだと思つて、 わたしがなほ十分に見ることが出來るやうに、わざと自分の馬の歩みを緩やかにしてくれました。 わたし逹は遂に町の門を過ぎて、前方にある丘をのぼり初めました。その丘の頂上にのぼりつめた時、 私はクラリモンドの住む町に最後の一瞥を送るために見返りました。

町の上には、大きな雲の影が掩ひ擴がつてをりました。その雲の青い色と赤い屋根との二つの異なつた色が一つの色に溶け合つて、 新しく立ち昇る巷の煙が白い泡のやうに光りながら、あちらこちらに漂つてゐます。たゞ眼に見えるものは一つの大きい建物で、 周圍の建物を凌いで高く聳えながら、水蒸氣に包まれて淡く霞んでゐましたが、 その塔は高く清らかな日光を浴びて美しく輝いてゐました。 それは三哩以上も離れてゐるのに、氣のせいかかなり近くに見えるのでした。殊にその建物は、塔といひ、歩廊といひ、 窓の枠飾りといひ、燕の尾の形をした風見に至るまで、すべて著るしい特長を示してゐました。

「あの日に照りかゞやいてゐる建物は、何でございます。」

わたしはセラピオン氏に尋ねました。彼は手をかざして眼の上を掩ひながら、わたしの指さす方を見て答へました。

「あれはコンシニ公が、娼婦のクラリモンドに輿へられた昔の宮殿です。あすこでは恐ろしいことが行はれてゐるのです。」

その瞬間でした。それはわたしの幻想であつたか、それとも事實であつたか判りませんが、 かの建物の敷石の上に、白い人の影のやうなものが滑つてゆくのを見たやうな氣がしたのです。 ほんの一時、光るやうに通り過ぎて、間もなく消えたのですが、それは確かにクラリモンドであつたのです。

あゝ、實にその時、遠く離れた嶮しい道の頂上 -- もう二度とこゝからは降りて來ないであらうと思はれた所から、 落ちつかない興奮した心持で彼女の住む宮殿の方へ眼をやりながら、雲のせゐかその邸宅が間近く見えて、 わたしはそこの王として住むやうに差招いてゐるかとも思ふ。 -- その時のわたしの心持を彼女は知つてゐたでせうか。

彼女は知つてゐたに違ひないと思ふのです。それはわたしと彼女のこゝろは、僅かの隙もないほどに深く結ばれてゐて、 その清い彼女の愛が -- 寢卷のまゝではありましたが -- まだ朝露の冷い中をあの敷石の高いところに彼女を立たせたに相違ないのです。

雲の影は宮殿を掩ひました。一切の景色は家の屋根と破風との海のやうに見えて、 その中に一つの山のやうな起伏がはつきりと現れてゐました。セラピオン氏は騾馬を進めました。 わたしも同じくらいの足どりで馬を進めて行くと、そのうちに道の急な曲り角があつて、到頭Sの町は、 もうそこへ歸ることの出來ない運命と共に、永遠にわたしの眼からは見えなくなつてしまひました。

田舎の薄暗い野原ばかりを過ぎて、三日間の倦き疲れた旅行の後、わたしが預かることになつてゐる、 牡鷄の飾りのついてゐる寺院の尖塔が樹々の間から見えました。それから、 茅葺の家と小さい庭のある曲がりくねつた道を通つた後、あまり立派でもない寺院の玄關の前に着いたのです。

入口には幾らかの彫刻が施してあるが、粗彫の砂岩石の柱が二三本と、 又その柱と同じ石の控壁を有つてゐる瓦葺きの屋根があるばかり、 唯それだけのことでした。左の方には墓所があつて、雜草が一杯に生ひしげり、眞中あたりに鐡の十字架が建つてゐます。 右の方に僧房が立つてゐて、恰も寺院の蔭になつてゐるのです。それがまた極端に單純素朴なもので、 圍ひのうちに這入つてみると、二三羽の鷄がそこらに散らばつてゐる穀物を啄ばんでゐます。 鳥は僧侶の陰氣な習慣になれてゐると見えて、わたし逹が出て來ても別に逃げて行かうともしません。 何處かで嗄れたやうな啼聲がきこえたかと思ふと、老いさらばへた一匹の犬が近づいて來るのでした。

それは前の住僧の犬で、爛れた眼、灰色の毛、これ以上の年を取つた犬はあるまいと思はれるほどの衰へを見せてゐました。 わたしは犬を輕くたゝいて遣りますと、何か滿足らしい樣子で、すぐにわたしの傍を通つて行つて仕舞ひました。 そのうちに前の住僧の時代からこゝの留守番であつたといふ甚い婆さんが出て來ました。 老婆は後の小さい客間へわたし逹を案内して、今後もやはり自分を置いて貰へるかといふことを尋ねるのです。 彼女も、犬も鷄も、前の住職が殘したものは何でも皆そのまゝに世話をしてやると答へますと、彼女は非常に喜びました。 セラピオン僧院長はこれだけの小さい世帶を保つて行くために、彼女の望むだけの金をすぐに出してやつたのであります。

さて、それから(まる)一年の間、わたしは自分の職務について、十分に行き屆いた忠實な勤めを致しました。 祈祷と精進は勿論、病める者は我身の痩るやうな思ひをしても救濟し、 その他の施しなどに就いてもわたし自身の生計(くらし)に困る程までに盡力しました。 而もわたしは自分のうちに、大きい充たされないものがありました。神の惠みは、わたしには輿へられないやうに思はれました。 この神聖な布教の職にあるものに湧き出づる筈の幸福といふものが、一向に判らなくなりました。 わたしの心は遠い外に行つてゐたのです。クラリモンドの言葉が今もわたしの口脣に繰返されてゐたのでした。

あゝ、皆さん。このことをよく考へてみて下さい。わたしがたゞの一度、眼をあげて一人の女を見て、 その後何年かの間、最も慘めな苦惱を續けて、わたしの一生の幸福が永遠に破壞されたことを考へて見てください。 併しわたしはこの敗北状態について、また靈的には勝利のごとく見えながら、 更におそろしい破滅に陷つたことに就いて、諒々(くど〜)と申上げますまい。 それから直ぐに事實のお話に移りたいと思ひます。

或る晩のことでした。わたしの僧房の(ドア)(ベル)が長く烈しく鳴りだしたのです。 老婆が立つて(ドア)をあけると、一つの男の影が立つてゐました。 その男の顏色は全く(あかがね)色をして居りまして、身には高價な外國の衣服をつけ、 帶には短劒を佩びてゐるのが、老婆のバーバラの提燈で見えました。 老婆も一度は驚いて怖れましたが、男は彼女を押鎭めて、 わたしの神聖な仕事についてお願ひに來たのであるからわたしにあはせて貰ひたいと言ふのです。

わたしが二階から降りようとした時に、老婆は彼を案内して來ました。 この男はわたしに向つて、非常に高貴な彼の女主人が重病にかゝつてゐて、 臨終の際に僧侶に逢ひたがつてゐることを話したので、わたしは直ぐに一緒に行くからと答へて、 臨終塗油式に必要な聖具をたづさへて、大急ぎで二階を降りて行きました。

夜の暗さと區別(わかち)がないほどに黒い二頭の馬が門外に待つてゐました。 馬は焦つてあがいてゐて、鼻から大きい息をすると、白い煙のやうな水蒸氣が胸のあたりを掩つてゐました。 男は鐙を把つて、私を先づ馬の上にのせてくれましたが、 彼は鞍の上に手をかけたかと思ふと忽ち他の馬に乘り移つて、膝で馬の兩腹を押して手綱をゆるめました。

馬は勇んで、矢のやうに走り出しました。わたしの馬は彼の男が手綱を持つてゐてくれましたので 彼の馬と押竝んで駈けました。 全くわたし逹の駈け通る兩側の黒い樹々は混亂した軍勢のやうにざわめきます。 眞暗な森を駈け拔ける時などは、一種の迷信的の恐怖のために、總身に寒さを覺えました。 又ある時は馬の鐡蹄が石を蹴つて、そこらに撒き散らす火花の光が恰も火の(みち)を作つたかと疑はれました。 誰でも夜なかのこの時刻に、わたし逹ふたりがこんなに疾驅するのを見たならば、 惡魔に騎つた二つの妖怪と間違へたに相違ありますまい。 時々に我々の行く手には怪しい火がちら〜と飛びめぐり、 遠い森には夜の鳥が人を脅かすやうに叫び、又をり〜は燐光のやうな野猫の眼の輝くのを見ました。

馬は鬣を段々にかき亂して、脇腹には汗を滴らせ、鼻息もひどく暴々しくなつて來ます。 それでも馬の走りが緩やかになつたりすると、案内者は一種竒怪な叫び聲をあげて、 又もや馬を烈しく跳らせるのでした。

旋風のやうな疾走が漸く終ると、多くの黒い人の群がおびたゞしい燈に照らされながら、 忽ちわたし逹の前に立ち現はれて來ました。わたし逹は大きい木の吊り橋を音を立てゝ渡つたかと思ふと、 二つの巨大な塔のあひだに黒い大きい口を開いてゐる、圓屋根風の掩ひのある門のうちに乘り入れました。 わたし逹が這入ると、城の中は急にどよめきました。松明をかゝげた家來共が各方面から出て來まして、 その松明の火はあちらこちらに高く低く搖れてゐます。わたしの眼はたゞこの廣大な建物に戸惑ひしてゐるばかりであります。 幾多の圓柱、拱廊、階段の交錯、その莊嚴なる豪奢、その幻想的なる壯麗、すべてお伽噺にでもありさうな造りでした。

そのうちに黒人の召仕(ページ)、いつかクラリモンドからの手紙をわたしに渡した召仕(ページ)が眼に入りました。 彼はわたしを馬から降さうとして近寄ると、頸に金の鎖をかけた黒い天鵝絨(ビロード)の衣服をつけた家老らしい男が、 象牙の杖をついて私に挨拶するために出て來ました。見ると、涙が眼から頬を流れて、 彼の白い髯を濕らせてゐます。彼は行儀好く(かしら)を掉りながら、悲しさうに叫びました。

「遲すぎました。あなた樣。遲過ぎめしてございます。あなたが遲うございましたので、 あなたに靈魂のお救ひを願ふことは出來ませんでした。せめてはあのお氣の毒な御遺骸にお通夜を願ひます。」

彼の老人はわたしの腕を取つて、死骸の置いてある室へ案内しました。わたしは彼より烈しく泣きました。 死人といふのは餘人でなく、わたしがこれほどに深く、又烈しく戀してゐたクラリモンドであつたからです。

寢臺の下に祈祷臺が設けられてありました。銅製の燭臺に輝いてゐる青白い火は焔は、 あるか無きかの薄い光を暗い室内に投げて、その光はあちらこちらに家具や蛇腹の壁などを見せてゐました。

机の上にある彫刻した壺の中には、褪せた白薔薇がたゞ一枚の葉を殘してゐるだけで、 花も葉もすべて香のある涙のやうに花瓶の下に散つてゐます。毀れた黒い面や扇、 それから種々の變つた假裝服が腕椅子の上に置いたまゝになつてゐるのを見ると、 死が何の知らせも無しに、突然にこの豪奢な住宅に入込んで來たことを思はせました。

わたしは寢臺の上に眼をあげる勇氣もなく、ひざまづいて亡き人の冥福を熱心に祈り始めました。 神が彼女の靈と私とのあひだに墳墓を置いて、この後わたしの祈祷の時に、 死によつて永遠に聖められた彼女の名を自由に呼ぶことの出來るやうにして下されたことについて、 わたしはあつく感謝しました。

併しわたしのこの熱情はだん〜に弱くなつて來て、いつの間にか空想に墜ちてゐました。 この部屋には、すこしも死人の部屋とは思はれないところがあつたのです。 わたしはこれまでに死人の通夜に屡々出向きまして、 その時にはいつも氣が滅入るやうな匂ひに慣れてゐたものですが、 この室では -- 實はわたしは女の媚めかしい香りといふものを知らないのですが -- 何となく生温かい、東洋風な、だらけたやうな香りが柔かく漂つてゐるのです。 それにあの青白い燈の光は、勿論歡樂のために點けられてゐたのでせうが、 死骸の傍らに置かれる通夜の黄い蝋燭の代りをなしてゐるだけに、 そこには黄昏と思はせるやうな光を投げかけてゐるのです。

クラリモンドが死んで、永遠にわたしから離れる間際になつて、 わたしが再び彼女に逢ふことが出來たといふ不思議な運命について、私は考へました。 さうして、苦しくて愛惜の溜息をつきました。すると、誰かわたしのうしろの方で、 同じやうに溜息をついてゐるのを感じたのです。驚いて振返つて見ましたが、誰も居ません。 自分の溜息の聲がさう思はせたるやうに反響したのでした。 わたしは見まいとして、その時までは心を押へてゐたのですが、たうとう死の床の上に眼を落して仕舞ひました。 縁に大きい花模樣があつて、金絲銀絲の總を埀れてゐる眞紅(まつか)な緞子の窓掛をかゝげてわたしは美しい死人を窺ふと、 彼女は手を胸の上に組み合せて、十分に身體(からだ)を延ばして寢てゐました。

彼女はきら〜光る白い麻布で掩はれてゐましたが、それが壁掛の濃い紫色とまことに好い對象をなして、 その白麻は彼女の優美な身體(からだ)の形を些つとも隱さずに見せてゐる竒麗な地質の物でありました。 彼女の身體(からだ)のゆるやかな線は白鳥の首のやうで、實に死といへどもその美を奪ふことは出來ないのでした。 彼女の寢てゐる姿は、巧みなる彫刻家が女王の墓の上に置くために彫りあげた雪花石の像のやうでもあり、 又は靜かに降る雪に隈なく掩はれながら睡つてゐる少女のやうでもありました。

わたしはもう祈祷をさゝげに來た人としての謹愼の態度を持續けて居られなくなりました。 床の間にある薔薇は半ば萎んでゐるのですが、その強烈な匂ひはわたしの頭に沁み透つて醉つたやうな心持になつたので、 何分ぢつとしてゐられなくなつて、室内をあちらこちらと歩きはじめました。 さうして、行き歸りに棺臺の前に立ち止まつて、 その屍衣を透して見える美しい死骸のことを考へてゐるうちに途方もない空想が私の頭のなかに浮かんで來ました。 -- 彼女はほんたうに死んだのではないかもしれない。或は自分をこの城内に連れ出して、 戀を打明ける目的のために、わざと死んだ振りをしてゐるのではないかとも思ひました。 又ある時は、あの白い掩ひの下で彼女が足を動かして、波打つた長い敷布(シーツ)の襞を幽かに崩したやうにさへ思はれました。

わたしは自分自身に訊いたのです。「これはほんたうにクラリモンドであらうか。 これが彼女だといふ證據は何處にある。あの黒ん坊の召仕(ページ)は、 あの時ほかの婦人の使ひで通つたのではなかつたか。實際、自分は獨り極めて、 こんな氣狂じみた苦みをしてゐるのではあるまいか。」

それでも、わたしの胸は烈しい動悸を以て答へるのです。「いや、これはやつぱり彼女だ。彼女に相違ない。」

わたしは再び寢臺に近づいて、疑問の死骸に注意深い眼を注ぎました。 あゝ、斯うなつたら正直に申さなければなりますまい。彼女の實に好く整つた身體(からだ)の形、 それは死の影によつて更に淨められ、更に神聖になつてゐたとは言へ、 世に在りし時よりも更に肉感的になつて、誰が見てもたゞ睡つてゐるとしか思はれないのでした。 わたしはもう、葬式のためにこゝへ來たことを忘れてしまつて、恰も花婿が花嫁の室に入つて來て、 花嫁は羞かしさのために顏をかくし、 更に自分全體を包み隱してくれる(ベール)をさがしてゐると言ふやうな場面を想像しました。

わたしは悲歎に暮れてゐたとは言へ、猶一つの希望にかられて、悲しさと嬉しさとに顫へながら、 彼女の上に身を屈めて、掩ひの端をそつと掴んで、 彼女に眼を醒させないやうに呼吸(いき)をつめてその掩ひを剥がしました。 わたしの烈しい動悸を感じ、顬顳(こめかみ)に血の上るのを覺え、 重い大理石の板を擡げた時のやうに、額に汗の流れるのを知りました。

そこに横たはつてゐるのは、正しくクラリモンドでした。 わたしが前にわたしの僧職授與式の日に寺院で見た時と少しも違はない、 愛すべき彼女でありました。死によつて、彼女は更に最後の魅力を示してゐました。 青白い彼女の頬、やゝ光澤(つや)の褪せた肉色の口脣、下に埀れた長い睫毛、 白い皮膚に際立つて見えるふさ〜した黒い髮、それは靜かな純潔と、精神の苦難とを示して、 何とも言へない蠱惑の一面を現はしてゐます。彼女は丈長い解けた髮に小さい青白い花をさして、 それを光りある枕の代りとし、豐な捲毛は更に露はなる肩を包んでゐます。 彼女の美しい二つの手は天使(エンジエル)の手よりも透き通つて、 敬虔な休息と靜肅な祈祷の姿を示してゐましたが、その手にはまだ眞珠の腕環がそのまゝに殘つてゐて、 象牙のやうな滑らかな肌や、その美しい形の丸みは、死の後までも一種の妖艷を止めてゐました。

わたしはそれから言葉に盡せない長い思索に耽りましたが、彼女の姿を見守つてゐれば居るほど、 どうしても彼女はこの美しい身體(からだ)を永久に捨てたとは思へないのでした。 見つめてゐると、それは氣のせいか、それともランプの光のせいか判りませんが、 血の氣のない顏の色に血がめぐり始めたやうに思はれました。 わたしはそつと輕く彼女の腕に手をあてますと、冷くは感じましたが、 いつか寺院の門でわたしの手に觸れた時ほどには冷くないやうな氣がしました。 わたしは再び元の位置にかへつて、彼女の上に身をかゝゞめましたが、わたしの熱い涙は彼女の頬をぬらしました。

あゝ、何といふ絶望と無力の悲しさでありませう。何とも言ひやうのない苦しみを續けながら、 わたしはいつまで彼女を見つめてゐたことでせう。わたしは自分の全生涯の生命をあつめて彼女にあたへたい。 わたしの全身に燃えてゐる火焔(ほのほ)を彼女の冷い亡骸に注ぎ入れたいと、 無駄な願ひを起したりしました。

夜は更けて行きました。いよ〜彼女と永遠の別れがちかづいたと思つた時、わたしはたゞひとりの戀人であつた彼女に、 最後の悲しい心を籠めた、唯つた一度の接吻をしないではゐられませんでした……

おゝ、竒蹟です。熱烈に押しつけたわたしの口脣に、わたしの息とまぢつて、 微かな息がクラリモンドの口から感じられたのです。彼女の眼があいて來ました。 それは以前のやうな光を持つてゐました。それから深い溜息をついて、二つの腕をのばして、 何とも言はれない喜びの顏色をみせながらわたしの頸を抱いたのです。

「あゝ、あなたはロムアルド樣……」

彼女は豎琴のやうな()の消えるやうな優しい聲で、ゆるやかに囁きました。

「何處かお惡かつたのですか。わたしは長い間お待ち申してゐたのですが、 あなたが來て下さらないので死にました。でも、もう今は結婚のお約束をしました。 わたしはあなたに逢ふことも出來ます。お訪ね申すことも出來ます。さやうなら、ロムアルド樣、さやうなら。 私はあなたを愛してゐます。わたしが申上げたかつたのは唯これだけです。 わたしは今あなたが接吻をして下すつた身體(からだ)を生かして、あなたにお戻し申します。 わたし逹はすぐに又お逢ひ申すことが出來ませう。」

彼女の(かしら)は後に倒れましたが、その腕はまだわたしを引き止めるかのやうに卷きついてゐました。 突然の烈しい旋風が窓のあたりに起つて、部屋のなかへ吹き込んで來ました。

白薔薇に殘つてゐた唯一枚の葉は些つとの間、枝の先で蝶のやうに顫へてゐましたが、 やがてその葉は枝から離れて、クラリモンドの靈を乘せて、窓から飛んで行つて仕舞ひました。 ランプの燈は消えました。私はおぼえず死骸の胸の上に俯伏しました。

わたしが我に返つた時、わたしは僧房の小さひ部屋に寢てゐました。前の住僧の時から飼つてある彼の犬が、 掛蒲團の外に埀れてゐるわたしの手を舐めてゐました。後になつて知つたのですが、 わたしはその儘で三日も寢續けてゐたので、その間に少しの呼吸もせず、 生きてゐる樣子は()つとも無かつたさうです。老婆のバルバラの話によると、 わたしが僧房を出發した晩にたづてけ來た彼の銅色の男が、翌日無言でわたしを擔いで來て、 すぐに歸つて行つたと言ふことです。併しわたしがクラリモンドを再び見た彼の城のことについて、 この近所では誰もその話を知つてゐる者はありませんでした。

ある朝、セラピオン僧院長はわたしの部屋へたづねて來ました。 彼はわたしの健康のことを僞善的な優しい聲で訊きながら、頻りに獅子(ライオン)のやうな大きな黄い眼を据ゑて、 測量船のやうにわたしのこゝろのうちへ探りを入れてゐましたが、突然に澄んだはつきりした聲で話しました。 それはわたしの耳には最後の審判の日の喇叭のやうに響いたのです。

「かの有名な娼婦のクラリモンドが、二三日前に八日八夜もつゞいた酒宴の果てに死にました。 それは魔界ともいふべき大饗宴で、ベルシャザクやクレオパトラの饗宴をその儘の亂行が再びそこに繰返されたのです。 あゝ、我々は何といふ時世に生まれ合はせたのでせう。 言葉は何を言つてゐるのか判らないやうな黒ん坊の奴隸が客の給仕をしましたが、 どうしてもわたしはこの世の惡魔としか見えませんでした。 そのうちの或人々の着てゐる晴衣(はれぎ)などは、帝王の晴衣(はれぎ)にも間に合ひさうな立派なものでした。 彼のクラリモンドについては、種々の不思議な話が傳へあつれてゐますが、 その愛人はみな怖ろしい悲慘な終りを遂げてゐるやうです。世間ではあの女のことを發塚息(グール)だとか、 女の吸血鬼(ヴアンパイアー)だとか言つてゐるやうですが、 わたしはやはり惡魔であると思つてゐます。」

セラピオン氏はこゝで話をやめて、その話がわたしにどういふ效果をあたへたかと言ふことを、 以前よりも一層深く注意し始めました。わたしはクラリモンドの名を聞いて、驚かずにはゐられませんでした。 それは彼女が死んだといふ知らせの上に、更にわたしを苦しめたのは、 その事件が(さき)の夜にわたしが見た光景と寸分違はない偶然の暗合であります。 わたしはその煩悶や恐怖を出來るだけ平氣に粧はうとしましたが、どうしても顏には現はれずにはゐませんでした。 セラピオン氏は不安らしい嶮しい眼をしてわたしを見つめてゐましたが、又かう言ひました。

「わたしはあなたに警告しますが、あなたは今や奈落の縁に足をのせて立つてゐるのです。 惡魔の爪は長い。さうして、彼等の墓はほんたうの墓ではない場合があります。 クラリモンドの墓石は三重に蓋をして置かなければなりません。何故といふに、 もし世間の話が本當であるとすれば、彼女が死んだのは今度が初めてでは無いのです。 ロムアルド君、どうかあなたの上に神樣のお守りがあるやうに祈りまんす。」

かう言つて僧院長は靜かに戸口の方へ出て行きました。間もなく彼はSの町へ歸りましたが、 わたしはそれを見送りもしませんでした。

わたしはその後健康を恢復して、型の如くに職務を始めました。クラリモンドの記憶と、 セラピオン氏の言葉とは絶えずわたしの心に殘つてゐたのですが、 セラピオン氏の言つた不吉な豫言が眞實として現れるやうな、特別な事件も別に知らなかつたのでした。 そこでわたしはセラピオン氏やわたしの恐怖には矢張誇張があつたのだと思ふやうになりました。 所が或夜、不思議な夢を見たのです。

わたしはその夜まだ本當に寢入らない時、寢室のカーテンの明く音を聞きました。 わたしはその環がカーテンの横棒の上を烈しく滑つたのに氣がついて、急いで肘で起き上がると、 わたしの前に一人の女が眞直に立つてゐるのを見たのです。彼女はその手に、 墓場でよく見る小さいランプを持つてゐましたが、その指は薔薇色に透き通つてゐて、 指先から腕にかけて段々に暗くほの白く見えてゐるのです。 彼女の身にかけてゐるものは、唯一つ、死の床に横たつてゐる時に掩はれてゐた白い麻布でありました。 彼女はそんな貧しい風をしてゐるのが恥かしさうに、胸のあたりを掩はうとしましたが、 優しい手には充分にそれが出來ませんでした。ランプの青白い燈に照らされて、 彼女の身體(からだ)の色も身に纒つてゐるものも總て一つの眞白な色に見えてゐましたが、 一つの色に包まれてゐるだけに、彼女の身體(からだ)のすべての輪廓はよく現れて、 生きてゐる人といふよりは、浴みしてゐる昔の美女の大理石像を思はせました。 死生を問はず、彫像であらうと、生きた女であらうと、彼女の美には變りはありませんが、 唯多少その緑の眼に光がないのと、嘗ては深紅の色をなしてゐた口が、 頬の色と同じやうに弱い薔薇色をしてゐるだけの相違でありました。 彼女はその髮に小さい青い花をさしてゐましたが、殆どその葉を振ひ落して花も枯れ萎んでゐました。 併しそれは少しも彼女の優しさを妨げず、こんな冐險を敢てして、不思議な身裝(みなり)でこの部屋に這入つて來ても、 ()つともわたしを恐れさせないほどの美しい魅力を具へてゐるのでした。

彼女はランプを机の上に置いて、わたしの寢臺の下に坐つてわたしの方へ(かしら)を下げました。 さうして、他の女からはまだ一度も聞いたことの無いやうな愛らしい柔らかな、 しかし時には銀のやうな冴えた聲で言ひました。

「ロムアルドさま。わたしは長い間あなたをお待ち申して居りました。 あなたの方では、わたしがあなたをお忘れ申してゐたとでも思つていらつしやるに相違ないと思ひます。 それでもわたしは、遠い、大變に遠い、誰も二度とは歸つて來られないやうな處から參つたのです。 そこには太陽もなければ、月もないのです。そこには唯空間と影とがあるばかりで、 通路(とほりみち)もなく、地面もなく、羽で飛ぶ空氣もない處です。 それでもわたしは來たのでございます。愛は死よりも強いもので、 しまひには死をも征服しなければならないものですから……。あゝ、こゝまで參るのにどんあに悲しい顏や、 怖しいものに出逢つたか知れません。わたしの靈魂が、唯意志の力だけで此地上に歸つて來て、 わたしの元の身體(からだ)を探し求めて、其中に歸るまでにはどんなに難儀したでせう。 わたしは自分の上に掩ひ被さつてゐる重い石の蓋を引上げるには、恐しい程の努力を要しました。 わたしの掌を見て下さい。こんあに傷だらけになつて了つたのです。この上に接吻をして下さい。 これが癒りますやうに……。」

彼女は冷い手を交る〜゛にわたしの口へあてたのです。わたしは全く幾度も接吻しました。 彼女はその間に、何とも言はれない愛情をもつてわたしを見てゐました。

恥かしい事ですが、わたしはセラピオン氏の忠告も、又わたしの神聖なる職業に任ぜられてゐる事も、 全く忘れてゐました。わたしは彼女が最初の來襲に對して何の拒絶も無しに服從し、 その誘惑を拒ける爲に僅かの努力さへもしませんでした。クラリモンドの皮膚の冷さが沁み透つて、 わたしの全身はぞつとするやうに顫へました。憐れな事には、 わたしはその後にも種々の事を見てゐるにも拘らず未だに彼女を惡魔だと信じることが出來ません。 少なく[と]も彼女は惡魔らしい樣子を持つてゐないばかり[で]なく、 惡魔がそれほど巧妙にその爪や角を隱す事が出來る筈が無いと思つてゐたからです。 彼女は後の方に身を引くと、いかにも倦さうな魅惑を見せながら長椅子の端に腰を下しました。 彼女はそれから段々にわたしの髮の中へ小さい手を差入れて、髮の毛を曲らしたりして、 新しい型がわたしの顏に似合ふかどうかを試みたりしました。 わたしはこの罪深い歡樂に醉つて彼女のなすが儘に委せてゐましたが、 その間も彼女は何かと優しい子供らしい無駄話などをしてゐたのです。 何より不思議なのは、こんな普通でない事をしてゐて、わたし自身が少しも驚かなかつた事です。 それは恰も夢をみてゐる時、非常に幻想的な事柄が起つても、それは當り前の事として別に不思議に思はないやうなもので、 今の總ての場合もわたし自身には全く自然な事のやうに思はれたのです。

「ロムアルド樣。わたしはあなたをお見かけ申した前から愛してゐました。さうして、 あなたを搜してゐたのです。あなたはわたしの夢に描いてゐた方です。お寺の中で、 而もあの運命的な瀬戸際にあなたを初めてお[見]掛け申したのです。 わたしはその時すぐに『あの方だ。』と自分に言ひました。 わたしは今までに持つてゐた總ての愛、あなたの爲に持つ未來の總ての愛、 それは僧正の運命も變へ、帝王もわたしの足下に跪かせる程の愛を籠めてあなたを見つめたのです。 それをあなたは、わたしには來て下さらないで、神樣をお選びになつたのです……。あゝ、わたしは神樣が嫉しい。 あなたはわたしよりも神樣を愛していらつしやるのです。考へると詰りません。わたしは不幸な女です。 わたしはあなたの心をわたし一人のものにする事が出來ないのです。 あなたは一度の接吻でわたしをこの世に甦らせて下さいました。 この死んだクラリモンドを……。そのクラリモンドは今あなたの爲に墓の戸を打ち開いて來たのです。 わたしはあなたに生の喜びを捧げたい、あなたを幸福にしてあげたいと思つて來たのです。」

それらの熱情的の愛の言葉は、あたしの感情や理性を眩惑させました。わたしは彼女を慰める爲に、 平氣で彼女にむかつて「神を愛する程に愛する」などと、恐るべき不敬な事を言つて了ひました。

彼女の眼は再び燃えはじめて、緑玉のやうに光りました。

「本當でございますか。神樣を愛するほどにわたしを愛して下さるの。」と、 彼女は美しい手をわたしに卷きつけながら叫びました。「そんなら、わたしと來て下さるでせう。 わたしの行きたい所へ來て下さるでせう。もう忌な陰氣な商賣はやめておしまひなさい。 あなたを騎士のうちで一番偉い、みんなの羨望の的なるやうな人にしてあげます。 あなたはわたしの戀人です -- それなら男の誇りになる筈です。あゝ、わたしの人……。 わたし逹はなんとも言へないほどに幸福です。これから美しい黄金生活を倶にしませう。 わたし逹はいつ出發しませうか。」

「明日、明日……。」と、私は夢中になつて叫びました。

「明日……。では、さうしませう。その間にわたしはお化粧する暇があります。 このまゝではあまりにお粗末で、旅行するにも困ります。わたしはすぐにこれから行つて、 わたしが死んだと思つて大變に悲しんでゐるお友逹に知らせてやります。お金も、着物も、馬車も、 何も彼も用意して、今夜とおなじ時間にまゐります。さよなら。」

彼女は輕くわたしの額に接吻しました。それから彼女の持つランプが行つて了ふと、 カーテンは元の通りに閉ぢられて、四邊(あたり)は眞暗になりました。 わたしは熟睡して、翌朝まで何も覺えませんでした。

わたしはいつもより遲く起きましたが、この不思議な出來事が思ひ出されて、 わたしは終日(いちにち)惱みました。わたしは結局、 昨夜(ゆうべ)の出來事は自分の熱心なる想像から湧き出した空想に過ぎないと思つたのです。 それにも拘らず、その時の感激があまりに生々しいので、昨夜(ゆうべ)のことが何うも空事ではないやうにも思はれ、 今度又何か起つて來るのではないかと言ふ豫感を除くことが出來ないのであります。

わたしはすぐに深い眠りに落ちました。すると、又彼の夢が續きました。 カーテンが再び開くと、クラリモンドが以前とは違つて、屍衣に包まれて青白い色をしてゐたり、 頬に死の紫色を現はしてゐたりすることなく、華やかな陽氣な快濶な顏色をして這入つて來ました。 彼女は金色の縁を取つて絹の下袴の見えるほどに括つてある緑色の天鵝絨(ビロード)の旅行服を着てゐました。 金色の髮は廣い黒色の氈帽(フエルトぼう)の下に深々とした房をみせ、 その帽子の上には白い羽が物好きのやうに色々の形に取付けてありました。 彼女は片手に金の鞭をつけた小さい馬の鞭を持つてゐましたが、その笛で輕くわたしを叩いて言ひました。

「まあ、お寢坊さんね。これがあなたの御用意なのですか。もう起きて、 着物をきていらつしやると思つてゐましたのに……。早く起きて頂戴よ。もう時間がありませんわ。」

わたしはすぐ寢臺から飛び上りました。

「さあ、御自分で着物をお着なさい。行きませうよ。」と、彼女は自分が持つて來た小さい荷物を見せながら言ひました。 「ぐづ〜してゐるから馬が焦れて、戸をばり〜と噛みはじめましたわ。もう今までに三十哩も遠く行けましたのに……。」

わたしは急いで服を着けにかゝりますと、彼女は一つ一つに服を渡して、わたしの不噐用な手つきを見ては笑ひこけたり、 わたしが間違ふと、その着方を教へてくれたりしました。彼女は更にわたしの髮を急いでとゝのへてくれて、 懷中からその縁に金銀線の細工がしてある、ヴェニス風の小さい水晶の鏡を出して、芝居氣たつぷりに、 「お氣に召しましたですか。あなたの腰元にして下さりませ。」などと訊いたりしました。

わたしはもう以前と同じ人間でなく、自分でもないくらゐに變り果てました。 立派に出來上つた石像と唯の石ころほどに變つてしまひました。 わたしは全く美男子になり濟まして、なんだか(くすぐ)つたいやうな心持になりました。 上品な服裝、贅澤に縁を取つた胸着はまるでわたしを違つた人間にしてしまひ、 縞柄のついた二三ヤードの布で拵へただけのものが、こんなにも人の姿を變へるものかと驚きました。 衣服が變ると、わたしの皮膚の色まで變つて、わづか十分といふ間に相當の伊逹者のやうになつたのです。

わたしはこの新しい服を着馴らすために室内を歩き廻りました。クラリモンドは母のやうな喜びを以てわたしをながめて、 自分の仕事に滿足したやうに見えました。

「さあ、このくらゐにして出かけませうよ。遠い所へ行かなければなりませんから…… さもないと時間通りに行き着きませんわ。」

彼女はわたしの手を取つて出ました。すべての(ドア)は、彼女の手が觸ると開きました。 わたし逹は犬の傍をも眼を醒させないで通りぬけたのです。門の所にマーゲリトンが待つてゐました。 (さき)にわたしを迎ひに來た色の淺黒い男です。彼は三頭の馬の手綱を取つてゐましたが、 馬はいづれも(さき)に城中へ行つた時と同じ黒馬で、一頭はわたし、一頭は彼、 他の一頭はクラリモンドが乘るためでした。 それらの馬は西風によつて牝馬から生まれた西班牙の麝香猫にちがひないと思ふくらゐに、 風のやうに早く走りました。出發の時に恰度昇つたばかりの月は我々のゆく手を照らして、 戰車の片輪が車を離れた時のやうに大空を轉がつて行きました。我々の右にはクラリモンドが飛ぶやうに馬を走らせ、 わたし逹は後れまいとして息が切れるほどに努力してゐるのを見ました。 間もなく我々は平坦な野原に出ましたが、その立木の深い所に、四頭の大きい馬をつけた一臺の馬車が我々を待つてゐました。

わたし逹はその馬車に乘ると、馭者は馬を勵まして狂奔させるのでした。わたしは一方の腕をクラリモンドの胸に廻しましたが、 彼女もまた一方の腕をわたしに廻して、その頭をわたしの肩に(もた)せかけました。 わたしは彼女の半ば露な胸が輕くわたしの腕を壓付けてゐるのを感じました。 わたしはこんな熱烈な幸福を覺えたことはありませんでした。わたしは一切のことを忘れました。 母の胎内にゐた時のことを忘れたやうに、自分が僧侶の身であつたことを忘れて、 全く惡魔に魅[入?]られるほどの恍惚たる心持になつたのでした。

その夜からわたしの性質は何だか半分半分になつたやうで、 わたしの内にお互ひに知らない同士の二人の人間がゐるやうに思はれました。 ある時は、自分は僧侶で紳士になつてゐる夢を見てゐるやうにも思はれ、又ある時は、 自分は紳士で僧侶になつてゐるやうな氣もしたのです。 わたしはもはや現實と夢との境を判別することが出來ず、何處からが事實で、どこで夢が終つたのか判らなくなつて、 高貴な若い貴族や放蕩者は僧侶を罵り、僧侶は若い貴族の放埒な生活を忌み嫌ひました。 かういふ譯で、わたしはこの二つの異なつた生活を認めてゐながら、飽までも強烈にそれを持續してゐました。 ただ自分に判らない不合理なことは、一つの同じ人間の意識が性格の相反した二つの人間のうちに存在してゐることでありました。 わたしは小さいCの村の僧侶であるか、又はクラリモンドの肩書づきの愛人ロムアルド君であるか、 この變則がどうしても判りませんでした。

それはどうでも好いとして、兎に角にわたしはヴェニスで暮らしてゐました。少くともわたしはさう信じてゐました。 わたしのこの幻想的な旅行は、どれだけが現實の世界で、どれだけが幻影であるか、 確にはわかり兼ねますが、わたし逹二人はカナレリ河岸の大邸宅に住んでゐました。 邸内は壁畫や彫像を以て滿たされ、大家の名作の中にはティチアン(十五世紀より十六世紀に亙るヴェニスの畫家) の二つの作品もクラリモンドの室に掛けてありました。そこには全く王宮と等しき所でありました。 二人共に各々ゴンドラを備へてゐて、家風の定服を着た船頭が附いて居り、更に音樂室もあり、 特別にお抱への詩人もありました。クラリモンドはいつも豪奢な生活をして自然にクレオパトラの風があり、 わたしは又、公爵の子息を小姓にして、恰も十二使徒の中の一族であり、 或はこの靜かな共和國(ヴェニス)の四人の布教師の家族であるかの如くに尊敬され、 ヴェニスの總督といへども道を避けるくらゐでありました。實に惡魔(サタン)がこの世に下つて以來、 わたしほど傲慢無禮の動物はありますまい。わたしは更にリヤドへ行つて賭博を試みましたが、 そこは全く阿修羅の巷とも言ふべきものでした。わたしは汎る階級 -- 零落した舊家の子弟、劇場の女逹、 狡猾な惡漢、幇間(たいこもち)、威張り散らす亂暴者の類を招いて遊びました。

こんな放蕩生活をしてゐるにも拘らず、わたしはクラリモンドに對しては忠實であり、 また熱烈に彼女を愛してゐました。クラリモンドも大いに滿足して愛の(かは)ることはありませんでした。 クラリモンドを持つてゐることは、二十人の女、否、總ての女を持つてゐるやうなものでした。 彼女は實に感じ易い性質と種々の變つた風貌と、新しい生々とした魅力とを總て身に備へて、 彼の變色蜥蜴(カメレオン)の如き女でありました。 人が若し他の女の美に醉ふて淫蕩の心を起した場合には、彼女は直ちにその美女の性格や魅力や容姿を完全に身にまとつて、 その人と同じ淫蕩の念を起させる女でありました。

彼女はわたしの愛を百倍にして返してくれたのです。この地の若い貴公子や十法官からも華々しい結婚の申込みがありましたが、 それはみな失敗に終りました。フォスカリ家(ヴェニスの總督たりしフォスカリ・フランセソの一家) の人からも申込みがありましたが、彼女はそれをも拒絶しました。金は十分に持つてゐるので、 彼女は愛の外には何物をも望んでゐませんでした。たゞこの愛 -- 青春の愛、純眞の愛、それは自分のこゝろから燃え出した愛、 さうしてそれが最初であり又最後であるところの熱情のほかには、何にも望んでゐなかつたのです。 わたしは全く幸福であると言へたかも知れません。しかし唯一つの苦しみは、 毎夜呪はしい夢魔に(おそ)はれることで、貧しい村の僧侶として終日自分の亂行を懺悔し、 また滅罪の苦行をしてゐる有樣を夢みるのでした。

いつも彼女と一緒にゐる爲に安心して、わたしはクラリモンドの變つた樣子について別に考へもしませんでしたが、 僧院長セラピオンが彼女について語つた言葉は時々にわたしの記憶を喚び起して、 不安な心持を去ると言ふわけには行きませんでした。

どうかすると、クラリモンドの健康が以前のやうに好くないことがありました。 彼女の皮膚は日に日に蒼ざめて、呼ばれて來た醫者逹はみな譯のわからない藥をくれましたが、 どれも無效で二度と呼ばれた者はありませんでした。彼女の色の青さは眼に見えるほどに彌増して、 からだは段々に冷く、(さき)の夜彼の見知らぬ城の中にあつた時のやうに、白く死んで行くのでした。 わたしはその枯れ死んでゆく姿を見て、言ふに言はれない苦悶を感じました。 彼女はわたしの苦しみに感動して、死なゝければならない人間の感ずるやうな運命的な微笑を美しく又悲しさうに浮べてゐました。

ある朝のことでした。わたしは彼女の寢臺の傍の小さい食卓で朝食をすませた後、 わづかの間も離れてはならないと彼女の傍に腰をかけてゐました。 その時に果物の皮をむいてゐると、誤つて自分の指に深く切り込んだのです。 小さい紫色の血がすぐに迸り出て、幾らかクラリモンドにもかゝつたかと思ふと、 その顏色は急に變つて、今までの彼女に嘗て見たことのない野蠻な殘忍な喜びの表情を帶びて來ました。 彼女は動物のやうな身輕さ -- 恰も猿か猫のやうに輕く飛び降りて、私の傷口に飛びついて、 如何にも嬉しさうな樣子でその血を吸ひ始めたのです。

彼女の小さい口一杯に -- 恰も酒好きの人間がクセルスかシラキューズを味はつてゐるやうに、 ゆつくりと注意深く飮むのでした。その瞳はだん〜に半ば閉ぢられて、 緑色の眼の圓い瞳孔(ひとみ)が楕圓形にかはつて來ました。 彼女は時々にわたしの手に接吻する爲に、血を吸ふことを止めましたが、 更に赤い血の滲み出るのを待つて、傷に口脣を持つて行くのでした。血がもう出ないのを知ると、 彼女の眼は水々しく輝いて、五月の夜明けよりも薔薇色になつて立ち上りました。 顏の色も生々として、手にも温かい潤味(うるみ)が出て、今までよりも更に美しく、 全く健康體のやうになつてゐるのです。

「わたしは死なゝいわ。死なゝいわ。」と、彼女は半氣狂いひのやうになつて、私の頸にかじりついて叫びました。

「わたしはまだ長い間あなたを愛することが出來るわ。わたしの生命(いのち)はあなたのものです。 わたしの身體(からだ)は總てあなたから貰つたのです。あなたの尊い、高價な、 この世界にある何の靈藥よりも優れて高價な血の幾滴が、わたしの生命(いのち)を元の通りにして呉れたのですわ。」

この光景は永くわたしを脅かして、クラリモンドについては不思議な疑問を起させました。 その夜、わたしが寢床に這入ると、睡眠はわたしを誘ひ出して、むかしの僧房に連れ戻しました。 わたしは僧院長のセラピオンが今までよりも一層嚴肅な不安らしい顏をしてゐるのを見ました。 彼はわたしをぢつと見つめてゐましたが悲しさうに叫びました。

「あなたは魂を失ふばかりではない、今はその身をも失はうとしてゐる。墮落した若い人は、 實に恐ろしいことになつてゐる。」

その言葉の調子は私を強く動かしました。しかしその時の印象がまざ〜としてゐたにも拘らず、 それもすぐに私から消えて行つて、他のさま〜゛な考へも皆わたしの心から去つてしまひました。

到頭ある晩のことでした。わたしが鏡を見てゐると、その鏡に彼女の姿が映つてゐることを覺らずに、 クラリモンドはいつも二人の食卓の後で使ふことにしてゐる藥味を入れた葡萄酒の盃の中に、 何かの粉を入れてゐるのです。それが鏡に映つたのでわたしは盃を手にとつて、 口のところに持つてゆく眞似をして、そばにある噐物の上に置きました。 彼女がうしろを向いたときに、私はその盃のものを卓子(テーブル)の下にそつと零して、 それから自分の部屋に歸つて寢床についたのですが、今夜は決して睡るまい、 さうしてこの總ての不思議なことに就いて何かの發見をしようと決心しました。

間もなくクラリモンドは夜の服を着て這入つて來ましたが、服をぬぐとわたしの寢臺に這ひ上つて來て、 私のそばに横になりました。彼女はわたしが寢てゐることを確かめると、やがてわたしの腕をまくりました。 さうして、髮から黄金のピンを拔き取ると、低い聲で言ひました。

「一滴……ほんの一滴よ。この針さきへ紅玉(ルビー)ほど……貴方がまだ愛して下さるなら、 わたしは死んではならないわ。……あゝ、悲しい戀……。あなたの美しい、 紫色の輝いた血をわたしは飮まなければならない。お寢みなさい、わたしの貴い寶……。 お寢みなさい、わたしの神樣、わたしの坊ちやん……。私はあなたに惡いことをするのではないのよ。 わたしは永久に失くならないやうに、あなたの生命(いのち)を吸はなければならないのよ。 わたしはあなたを大變に愛してゐたので、他の戀人の血を吸ふ事に決めてゐたの。 併し貴方を知つてからは、他の人逹は(いや)になつたわ。……あゝ、竒麗な腕……。 何といふ圓い、何といふ白い腕でせう。どうしたらこんなに竒麗な青い血管が刺せるでせう。」

彼女は獨り言を言ひながら潛々(さめ〜゛)と泣くのです。わたしはその涙がわたしの腕を濡らすのを覺え、 彼女がその手で獅囓みつくのを感じました。そのうちに彼女はたうとう決心して、ピンでわたしの腕を輕く刺して、 そこから滲み出る血を吸ひはじめました。二三滴しか飮まないのに、彼女はもうわたしが眼を醒すのを怖れて、 傷口をこすつて膏藥を貼つて、注意深くわたしの腕に小さい繃帶を卷きつけたので、その痛みはすぐに去りました。

もう疑ふ餘地はなくなりました。僧院長の言葉は間違つてはゐませんでした。 この明らかな事實を知つたにも拘らず、わたしはまだクラリモンドを愛せずにはゐられませんでした。 わたしはみづから進んで、彼女の不思議な健康を保持させるために、欲しがるだけの生血輿へました。 彼女を恐れてもゐませんでした。彼女も自分を吸血鬼(ヴアンパイアー)と思つてくれるなと歎願するやうでした。 わたしは今でも見聞したところに因つて、更にそれを疑ひませんでした。 一滴づつの血をそれほどに惜しくも思ひませんでした。わたしは寧ろ自分から腕の血管を開いて、 「さあ、飮むが好い。わたしの愛がわたしの血と一緒にお前の血に滲み込んでゆけば何よりだ。」と言つたのです。 それでもわたしは、彼女に麻醉するほど飮ませたり、又はピンを刺させたりすることは、 常に注意して避けてゐたので、二人は全く調和した生活を保つてゐたのです。

それでも僧侶として、わたしの良心の苛責は今まで以上にわたしを苦しめ始めました。 わたしはいかなる方法で自分の肉體を抑制し、淨化することが出來るかについて、全く途方に暮れたのです。 彼の多くの幻覺が無意識の間に起つたにもせよ、又直接にわたしがそれを行つはなかつたにもせよ、 それが夢であるにせよ、事實であるにせよ、かくの如き淫蕩に汚れたる心と汚れたる手を以て、 クリストの身に觸れることは出來ませんでした。

わたしはこの不快な幻覺に誘はれない手段として、睡眠に陷らないことに努めました。 わたしは指で自分の眼瞼(まぶた)をおさへ、壁に眞直に倚りかゝつて何時間も立ち續け、 出來る限り睡氣と鬪ひました。しかし睡氣は相變らずわたしの眼を襲つて來て我慢がつかず、 絶望的な不快のうちに兩腕はおのづと下されて、睡りの波は再びわたしを不誠實の岸へ運んで行くのでした。

セラピオン氏は最も烈しく訓告をあたへて、わたしの柔弱と、熱意の不足をきびしく責めました。 遂に或る日、わたしが例よりも更に惱んでゐる時に、彼は言ひました。

「あなたがこの絶えざる苦惱から逃れ得る唯一つの道は、非常手段によらなければなりません。 大いなる病苦は大いなる療治を要する。わたしはクラリモンドが埋められてゐる場所を知つてゐる。 わたし逹は彼女の(なきがら)を發掘して見る必要がある。 さうしてあなたの愛人がどんな憐れな姿をしてゐるかを御覽なさい。 さすれば、あの蟲觸(むしば)んだ不淨の死體 -- 土になるばかりになつてゐる死體のために、 あなたの魂をうしなふやうなことはありますまい。かならずあなたを元へ引戻すに相違ないと思ひます。」

わたしとしても、たちひ一時は滿足したとは言へ、二重の生活にはもう倦きました。 自分は空想の犧牲になつてゐる紳士であるか、又は僧侶であるかと言ふことをはつきりと確めたいと思ひました。 わたしは自分のうちにあるこの二人に對して、どちらかを殺して他を生かすか、或は兩方ともに殺すか、 とても現在の恐ろしい状態には長く堪へられないと固く決心したのであります。

セラピオン氏は鶴嘴と梃と、提燈とを用意して來ました。さうして夜なかに、わたし逹は -- 墓道を進みました。 その附近や墓場の勝手を僧院長はよく心得てゐました。澤山の墓の碑名を仄暗い提燈に照らし見た末に、 二人は長い雜草にかくされて、苔が蒸して、寄生植物の生えてゐる石板のあるところに行き着きました。 碑銘の前文を判讀するとかうありました。

こゝにクラリモンド埋めらる
在りし日に
最も美しき女として聞えありし。
「ここに相違ない。」と、セラピオン氏は呟きながら提燈を地面におろしました。 彼は梃を石板の端から下へ押入れて、それを(もた)げ始めました。石があげられると、更に鶴嘴で掘りました。 夜よりも暗い沈默のうちに、私は彼のなすがまゝに眺めてゐると、彼は暗い仕事の上に身を屈めて、 汗を流して掘つてゐます。彼は死に瀕した人のやうに、絶え〜゛の呼吸をはずませてゐます。 實に怪しい物すごい光景で、若し人にこれを見せたならば、確に神に仕ふる僧侶とは思はれず、 何か(けが)れたる惡漢(わるもの)か、經帷子の盜人と、思ひ違へられたであらうと察しられました。

熱心なるセラピオン氏の嚴峻と亂暴とは、使徒とか天使とか言ふよりも、寧ろ一種の惡魔の風がありました。 その鷲のやうな顏を始めとして、すべて嚴酷なる相貌が燈のひかりに一層強められて、 この場合における不愉快なる想像力をいよ〜高めました。わたしの額には氷のやうな汗が大きい滴となつて流れ、 髮の毛は怖ろしさに逆立ちました。苛酷なるセラピオンは實に惡むべき涜神の行爲を働いてゐるやうに感じられ、 我々の上に重く渦卷いてゐる黒雲のうちから雷火が閃き來つて、彼を灰にしてしまへと、わたしは心ひそかに祈りました。

サイプレスの梢に巣をくむ梟は燈の光におどろいて飛び立ち、 灰色の(つばさ)を提燈のガラスに打ち當てながら悲しく叫びます。 野狐も闇のなかに遠く啼いてゐます。そのほかにも數知れない不氣味な音がこの沈默(しゞま)のうちに響いて來ました。 最後にセラピオン氏の鶴嘴が棺を撃つと、棺は激しい音を立てました。彼はそれをねぢ廻して、蓋を引退けました。 さて彼のクラリモンドは -- と見ると、彼女は大理石像のやうな青白い姿で、兩手を組みあはせ、 頭から足へかけて白い屍衣一枚をかけてあるだけでした。彼女の色もない口の片端に、 小さな眞紅な一滴が露のやうに光つてゐました。セラピオン氏はそれを見ると、大いに怒りを發しました。

「おゝ惡魔がこゝにゐる。汚れた娼婦!血と黄金(こがね)を吸ふ奴!」

それからか彼は死骸と棺の上に聖水をふりかけて、その上に聖水の刷毛を以て十字を切りました。 哀れなるクラリモンド -- 彼女は聖水の飛沫(しぶき)が振りかゝるや否や、美しい五體は土となつて、 唯の灰と半分燒け殘つた骨と、殆ど形も無いやうな塊になつてしまひました。

冷靜なるセラピオン氏は悼ましい死灰を指さして叫びました。

「ロムアルド卿、あなたの夫人を御覽なさい。かうなつても貴方はまだこの美人と共に、 リドの河畔やフュジナを散歩しますか。」

わたしは兩手で顏を掩つて大いなる破滅の感に打たれました。わたしは自分の僧房に歸りました。 クラリモンドの愛人として身分の高いロムアルド卿は、 長いあひだ不思議な道連れであつた僧侶の身から離れてしまつたのです。 而も唯一度、それは前の墓ほり事件の翌晩でしたが、わたしはクラリモンドの姿を見ました。 彼女は初めて寺院の入口でわたしに言つたと同じことを言ひました。

「不幸な方、本當に不幸な方……。どうして貴方はあんな馬鹿な坊さんの言ふことを肯きなすつたのです。 貴方は不幸ではありませんか。わたしの慘めな墓を侮辱されたり、(うつろ)な物をさらけ出されたりするやうな惡いことを、 わたしは貴方に仕向けたでせうか。あなたとわたしとの間の靈魂や肉體の交通はもう永遠に破壞されてしまひました。 左樣なら[。]あなたは屹度わたしのことを後悔なさるでせう。」

彼女は煙のやうに消えて二度とその姿を見せませんでした。

あゝ、彼女の言葉は眞實となりました。わたしは彼女のことを幾たび歎いたかわかりません。 未だに彼女のことを後悔してゐます。わたしの心はその後落ちついて來ましたが、 神樣の愛も彼女の愛に換へるほどに大きくはありませんでした。

皆さん。これはわたしの若い時の話です。決して女を見るものではありません。 戸外(そと)を歩く時は、いつでも地の上に眼をしつかりと据ゑて歩かなければなりません。 どんなに清く注意深く自分を保つてゐても、 一瞬間の過失(あやまち)が永遠に取りかへしの附かないことになつてしまふものです。

-- 終 --


更新日: 2003/02/11

世界怪談名作集:信號手


信號手

デイツケンズ(Charles Dickens, 1812-1870) 作

岡本綺堂(1872-1939) 譯

「おうい。下にゐる人!」

私が斯う呼んだ聲を聞いた時、信號手は短い棒に卷いた旗を持つたまゝで、 (あたか)も信號所の小屋の前に立つてゐた。この土地の勝手を知つてゐれば、 この聲のきこえた方角を聞き誤りさうにも思へないのであるが、 彼は自分の頭の直ぐ上の(けは)しい斷崖の上に立つてゐる私を見あげもせずに、 あたりを見まはして更に線路の上を見おろしてゐた。

その振向いた樣子が、どういふ譯であるか知らないが少しく變つてゐた。 實をいふと、私は高いところから烈しい夕日に向つて、手をかざしながら彼を見てゐたので、 深い溝に影を落してゐる信號手の姿はよく判らなかつたのであるが、 兎も角も彼の振向いた樣子は確に可怪(をかし)く思はれたのである。

「おうい、下にゐる人!」

彼は線路の方角から振向いて、再び四邊(あたり)をみまはして、 初めて頭の上の高いところにゐる私のすがたを見た。

「どこか降りる所はありませんかね。君のところへ行つて話したいのだが……。」

彼は返事もせずにたゞ見上げてゐるのである。私も執拗(しつこ)く二度とは聞きもせずに見下してゐると、 (あたか)もその時である。最初は漠然たる大地と空氣の動搖が、 やがて激しい震動に變つて來た。私は思はず引倒されさうになつて、慌てゝ後退りをすると、 急速力の列車が(あたか)も私の高さに蒸汽を噴いて、遠い景色のなかへ消えて行つた。

再び見下すと、彼の信號手は列車通過の際に揚げてヲた信號旗を再び卷いてゐるのが見えた。 私は重ねて訊いてみると、彼は暫く私をぢつと見つめてゐたが、 やがて卷いてしまつた旗をかざして、私の立つてゐる所から二三百ヤードの遠い方角を指し示した。

「ありがたう。」

私はさう言つて、示された方角に向つて周圍を見廻すと、そこには高低のはげしい小徑があつたので、 先づそこを降りて行つた。斷崖はかなりに高いので、やゝもすれば眞逆樣に落ちさうである。 その上に濕り勝ちの岩石ばかりで、踏みしめるたびに水が滲み出して滑りさうになる。 そんなわけで、私は彼の教へてくれた道を辿るのが全く(いや)になつてしまつた。

私はこの難儀な小徑を降りて、低い所に來た時には、信號手はいま列車が通過したばかりの軌道(レール)の間に立ちどまつて、 私が出てくるのを待つてゐるらしかつた。

信號手は腕を組むやうな格好をして、左の手で顎を支へ、その(ひぢ)を右の手の上に休めてゐたが、 その態度は何か期待してゐるやうな、また深く注意してゐるやうな風に見えたので、 私も怪訝(けげん)に思つて鳥渡(ちよつと)立ちどまつた。

私は再び下つて、やうやく線路とおなじ低さの場所まで辿り着いて、はじめて彼に近づいた。 見ると、彼は薄黒い髭を生やして、睫毛(まつげ)の深い陰鬱な青白い顏の男であつた。 その上に、こゝは私が前に見たよりも荒涼陰慘といふべき場所で、 兩側には峨々たる濕つぽい岩石ばかりが有らゆる景色を遮つて、わづかに大空を仰ぎ觀るのみである。 一方に見えるのは、大いなる牢獄としか思はれない曲りくねつた岩道の延長があるのみで、 他の一方は暗い赤い燈のあるところでかぎられた。 そこには暗黒なトンネルの一層暗い入口がある。その重苦しいやうな、疊み石は、 なんとなく疏野(そや)で、しかも人を壓するやうな、堪へられない感じがする上に、 日光は殆どこゝへ()し込まず、土臭い有毒らしい匂ひがそこらに漂つて、 どこからとも無しに吹いて來る冷い風が身に沁み渡つた。私はこの世にゐるやうな氣がしなくなつた。

彼が身動きをする前に、私は其の體に觸れるほどの近いたが、 彼はやはり私を見つめてゐる眼を離さない、わづかにあとじさりをして、 挨拶の手を擧げたばかりであつた。前にもいふ通りこゝは全く寂しい場所で、 それが向うから見たときにも私の注意を惹いたのである。 恐らく尋ねて來る人は稀であるらしく、また稀に來る人を餘り歡迎もしないらしく見えた。

私から觀ると、彼は私が長いあひだ何處かの狹い限られた所に閉ぢ籠められてゐて、 それが初めて自由の身となつて、鐵道事業と言つたやうな重大なる仕事に對して、 新に眼ざめたる興味を感じて來た人間であると思つてゐるらしい。 私もさういふ積りで彼に話しかけらのであるが、實際はそんなことゝは大違ひになつて、 寧ろ彼と會話を開かない方が仕合せであつたどころか、 更に何か私を脅かすやうなものがあつた。

彼はトンネルの入口の赤い燈の方を不思議さうに見つめて、 何か見失つたかのやうに周圍をみまはしてゐたが、やがて私の方へ向き直つた。 彼の燈は彼が仕事の一部であるらしく思はれた。

「あなたは御存じありませんか」と、彼は低い聲で言つた。

その動かない二つの眼と、その幽暗(いうあん)な顏つきを見た時の、 彼は人間ではなく或は幽靈ではないかと言ふ怪しい考へが私の胸に浮んで來たので、 私はその後絶えず彼のこゝろに感受性を持つか何うかを注意するやうになつた。

私は一足熨(さが)つた。さうして、彼が(ひそか)にわたしを恐れてゐるらしい眼色(めいろ)を探り出した。 これで彼を怪む考へも自づと消えたのである。

「君はなんだか私を怖さうに眺めてゐますね。」と、私は強ひて微笑みながら言つた。

「どうもあなたを以前に見たことがあるやうですが……。」と、彼は答へた。

「何處で……。」

彼は(さき)に見つめてゐた赤い燈を指さした。

「あすこで……。」と、私は訊いた。

彼は非情に注意深く私を打守りながら、音もないほどの低い聲で「はい。」と答へた。

「冗談ぢやあない。私がどうしてあんなところに行つてゐるものですか。 假りに行くことがあるとしても、今は決してあすこには居なかつたのです。 そんな筈はありませんよ。」

「私もさう思ひます。はい、確においでにはならないと思ひますが……。」

彼の態度は私と同じやうに判然(はつきり)してゐた。彼は私の問ひに對しても正確に答へ、 よく考へてものを言つてゐるのである。彼はこゝでどのくらゐの仕事をしてゐるかと言へば、 彼は大いに責任のある仕事をしてゐると言はなければならない。先づ第一に、 正確であること、注意深くあることが、何よりも必要であり、また實務的の仕事といふ點から觀ても、 彼に及ぶものはないのである。信號を變へるのも、燈火(あかり)を照らすのも、 轉轍(てんてつ)のハンドルをまはすのも、みな彼自身の頭腦の働きに因らなければならない。 こんあことをして、彼はこゝに長い寂しい時間を送つてゐるやうに見えるが、 彼としては自分の生活の習慣が自然にさういふ形式を作つて、 いつの間にかそれに慣れてしまつたと言ふのほかはあるまい。 こんな谷のやうなところで、彼は自分の言葉を習つたのである。單にものを見ただけで、 それぞ疏雜(そざつ)ながらも言葉に移したのであるから、 習つたと言へば言へないことも無いかも知れない。そのほかに分數や少數を習ひ、 代數も少しは習つたが、その文字などは子供が書いたやうな(まづ)いものである。

いかに職務であるとは言へ、こんな谷間の濕つぽい所にいつまでも殘つてゐなければならないのか。 さうして、この高い石壁のあひだから日光を仰ぎに出ることは出來ないものか。 それは時間と事情とが許さないのである。ある場合には、 線路の上にゐるよりも他の場所にゐることも無いではなかつたが、 夜と晝との中で或時間だけは矢はり働かなければならないのである。 天氣の好い日に、ある機會をみて少しく高いところへ登らうとて企てることもあるが、 いつも電氣鈴(でんきべる)に呼ばれて、幾倍の心配を以てそれに耳を傾けなければならないことになる。 そんなわけで、彼が救はれる時間は私の想像以上に少いのであつた。

彼は私を自分の小屋へ誘つて行つた。そこには火もあり、 机の上には何か記入しなければならない職務上の帳簿や指針盤の附いてゐる電信機や、 それから彼が(さき)に話した小さい電氣鈴(でんきべる)があつた。 私の觀るところによれば、彼は相當の教育を受けた人であるらしい。 少くとも彼の地位以上の教育を受けた人物であると思はれるが、 彼は多數のなかに偶々(たま〜)すこしく悧口な者がゐても、 そんな人間は必要でないと言つた。さういふことは工場の中にも、警察官の中にも、 軍人の中にも屡々聞くことで、どこの鐵道局の中にも多少は免れないことであると、彼は又言つた。

彼は若い頃、學生として自然哲學を勉強して、その講議にも出席してゐるが、 中途から亂暴を始めて、世に出る機會をうしなつて、次第に零落して、 遂に再び頭をあげることが出來なくなつた。但し彼はそれに就いて不滿があるでもなかつた。 すべてが自業自得で、これから方向を轉換するには時已に遲しと言ふわけであつた。

掻い摘んで言へばこれだけのことを、彼はその深い眼で私を火とを見くらべながら(しづか)に話した。 彼は會話の間に時々に貴下(サア)といふ敬語を用ひた。 殊に自分の青年時代を語る時に多く用ひてゐたのは、私が想像してゐた通り、 彼が相當の教育を受けた男であることを思はせたのである。

かうして話してゐる間にも、彼は屡々小さい電鈴(ベル)の鳴るのに妨げられた。 彼は通信を讀んだり、返信を送つたりしてゐた。又ある時は(ドア)の外へ出て、 列車が通過の際に信號旗を示し、或は機關手に向つて何か口で通報してゐた。 彼が職務を執る時は非常に正確で注意深く、たとひ談話の最中でもはつきりと區切りをつけ、 その目前の仕事を終るまでは決して口を利かないといふ風であつた。

一口に言へば、彼はかういふ仕事をする人としては、その資格に於いて十分に安心の出來る人物であるが、 唯不思議に感じられたのは或場合に -- それは彼が私と話してゐる最中であつたが、 彼は二度も會話を中止して、鳴りもしないベルの方に向き直つて、顏の色を變へてゐた事であつた。 彼はその時、戸外の濕つた空氣を防ぐために閉ぢてある(ドア)をあけて、 トンネルの入口に近い彼の赤い燈を眺めてゐた。この二つの出來事の後、 彼は何とも説明し難い顏附をして、火のほとりに戻つて來たが、 その間も別に變つたことも無いらしかつた。

彼に別れて起ち上るときに、私は言つた。

「君は頗る滿足のやうに見受けられますね。」

「さうだと信じてはゐますが……。」と、彼は今までに無いやうな低い聲で附け加へた。 [「]しかし私は困つてゐるのです。實際、困つてゐるのです。」

「何で……。何を困つてゐるのです。」

「それがなか〜説明できないのです。それが實に……實にお話しの仕樣のないので……。 又お出でになつた時にでもお話し申しませう。」

「私も又來ても好いのですが……。いつ頃が好いのです。」

「私は朝早くこゝを立ち去ります。さうして、あしたの晩の十時には又こゝにゐます。」

「では、十一時頃に來ませう。」

「どうぞ……。」と、彼は私と一緒に外へ出た。さうして、極めて低い聲で言つた。 「路のわかるまで私の白い燈火(あかり)を見せませう。路がわかつても、 聲を出さないで下さい。上へ着いた時にも呼ばないで下さい。」

その樣子がいよ〜私を薄氣味惡く思はせたが、私は別になんにも言はずに、 唯はい〜と答へて置いた。

「明日の晩お出での時にも呼ばないで下さい。それから少しお訊ね申しますが、 どうしてあなたは今夜お出での時に『おうい、下にゐる人!』と、お呼びになつたのです。」

「え。私がそんなやうなことを言つたかな。」

「そんなやうなことぢやありません。あの聲は私がよく聞くのです。」

「私がさう言つたとしたら、それは君が下の方にゐたからですよ。」

「ほかに理由は無いのですな。」

「他に理由があるものですか。」

「何か、超自然的の力があなたに然う言はせたやうにお思ひにはなりませんか。」

「いゝえ。」

彼は「左樣なら」といふ代りに、持つてゐる白い燈火(あかり)をかゝげた。 私は後から列車が追ひかけて來るやうな不安な心持で、 下り列車の線路の(わき)を通つて自分の路を見つけた。 その路は(さき)に下つて來た時よりも容易に登ることが出來たので、 差したる冐險も無しに私の宿へ歸つた。



約束の時間を正確に守つて、私は次の夜、再び彼の高低のひどい坂路に足を向けた。 遠い所では、時計が十一時を打つてゐた。彼は白い燈火(あかり)を掲げながら、 例の低い場所に立つて私を待つてゐた。私は彼の傍へ寄つた時に訊いた。

「私は呼ばなかつたが……。もう話しても好いのですか。」

「宜しいですとも……。今晩は……。」と、彼はその手をさし出した。

「今晩は……。」と、私も手をさし示して挨拶した。それから二人はいつもの小屋へ這入つて(ドア)を閉めて、 火のほとりに腰をおろした。

椅子に着くや否や、彼はからだを前に屈めて、囁くやうな低い聲で言つた。

「私が困つてゐると言ふことに就いて、あなたが重ねてお出でにならうとは思つてゐませんでした。 實は昨晩は、あなたを他の者だと思つてゐたのですが……。それが私を困らせるのです。」

「それは思ひ違ひですよ。」

「勿論、あなたではない。その或者が私を困らせるので……。」

「それは誰です。」

「知りません。」

「私に似てゐるのですか。」

「判りません。私はまだその顏を見たことは無いのです、左の腕に顏をあてゝ、右の手を振つて…… 激しく振つて……。こんな風に……。」

私は彼の動作を見つめてゐると、それは激しい感情を苛立(いらだ)たせてゐるやうな腕の働き方で彼は 「どうぞ退()いてくれ。」と叫ぶやうに言つた。さうして、又話し出した。

「月の明るい或晩のことでした。私がこゝに腰をかけてゐると『おうい。下にゐる人!』と呼ぶ聲を聞いたのです。 私はすぐに起つて、その(ドア)の口から見ると、 トンネルの入口の赤い燈のそばに立つて今お目にかけたやうに手を振つてゐる者がある。 その聲は叫ぶやうな唸るやうな聲で『見ろ、見ろ。』といふ。 つゞいて又『おうい!下にゐる人!見ろ!見ろ!」といふ。 私は自分のランプを赤いに直してその者の呼ぶ方角へ駈けて行つて 『どうかしましたか、何か出來(しゆつらい)しましたか。一體どこです。』と訊ねると、 その者はトンネルの暗黒(くらやみ)のすぐ前に立つてゐるのです。 私は更に近寄つてゐると、不思議なことには、その者は袖を自分の眼の前にあてゝゐる。 私は眞直に進んで行つて、その袖を引き退けて遣らうと手をのばすと、 もうその形は見えなくなつてしまつたのです。」

「トンネルの中へでも這入つたかな。」と、私は言つた。

「さうではありません。私はトンネルの中へ五百ヤードも駈け込んで、私の頭の上にランプをさしあげると、 前に見えた其者の影がまた同じ距離に見えるのです。さうして、 トンネルの壁を濕らしてゐる雫が上からぽた〜と落ちてゐます。 私は職務といふ觀念があるので、初めよりも更に早い速度でそこを駈け出して、 自分の赤ランプでトンネルの入口の赤い燈のまはりを見まはした後、 その赤い燈の鐡梯子を傳つて、頂上の展望臺に登りました。 それからまた降りて來て、そこまで駈けて戻りましたが、どうも氣になるので、 上り線と下り線とに電信を打つて『警戒の報知が來た。何か事故が起つたのか。』 と問ひ合せると、どちらからも同じ返事が來て『故障無し』……。

この話を聞かされて、なにだか脊骨(せぼね)ぞつとするやうな心持になつたが、 私はそれを堪へながら、そんなあやしい人影などはなにか視覺のあやまりである。 あらぬものの影を見たりするのは神經作用からおこるもので、 病人などにはしば〜その例を見ることがあるとはなして聞かせた。 また、そんな人々のうちにはさういふ苦惱を自覺し、それを自分で實驗してゐる人さへあると言ふことをもはなした。

「その叫び聲といふのも……。」と、私は言つた。「まあ、 すこしのあひだ聽いてゐて御覽なさい。こんな不自然な谷間のやうな場所では、 我々が小さい聲で話してゐる時に、電信線が風に唸るのを聞くと、 まるで豎琴を亂暴に鳴らしてゐるやうに響きますからね。」

彼はそれに逆らはなかつた。二人は暫く耳をかたむけてゐると、 風と電線との音が實際怪しく聞えるのであつた。彼も幾年の間、 こゝに長い冬の夜を過して、唯ひとりで寂しくそれを聽いてゐたのである。 而も彼は、自分の話はまだそれでは無いと言つた。

私は途中で口を入れたのを謝して、更にそのあとを聽かうとすると、 彼は私の腕に手をかけながら又(しづか)に話し出した。

「その影があらはれてから六時間の後に、この線路の上に怖ろしい事件が起つたのです。 さうして、十時間の後には、死人と重傷者がトンネルの中から運ばれて、丁度その影のあらはれた場所へ來たのです。」

わたしは不氣味な戰慄を感じたが、努めてそれを押堪へた。 この出來事は流石に(うそ)であるとは言へない。 まつたく驚くべき暗合で、彼のこゝろに強い印象を殘したのも無理はない。 而も斯くの如き驚くべき暗合がつゝいて起るといふのは、 必ずしも疑ふべきことではなく、かういふ場合も往々に有り得るといふことを勘定のうちに入れて置かなければならない。 勿論、世間多數の常識論者は兎かく人生の上に生ずる暗合を信じないものではあるが --

彼の話はまだそれだけでは無いといふのである。私はその談話を妨げたことを再び詫びた。

「これは一年前のことですが……。」と、彼は私の腕に手をかけて、 空虚(うつろ)な眼で自分の肩を見下しながら言つた。 「それから六七ヶ月を過ぎて、私はもう以前の驚きや怖ろしさを忘れた時分でした。 ある朝 -- 夜の明けかゝる頃に、私が(ドア)の口に立つて、赤い燈の方を何心なく眺めると、 又彼の怪しい物が見えたのです。」

こゝまで話すと、彼は句を切つて、私をぢつと見つめた。

「それが何とか呼びましたか。」

「いえ、默つてゐました。」

「手を振りませんでしたか。」

「振りません。燈火(あかり)の柱に()りかゝつて、こんな風に兩手を顏に當てゝゐるのです。」

私は重ねて彼の仕科(しぐさ)を見たが、それは私が曾て墓場で見た石像の姿をそのまゝであつた。

「そこへ行つて見ましたか。」

「いえ、私は内へ這入つて、腰をおろして、自分の氣を落付けようと思ひました。 それがために私は幾らか弱つてしまつたからです。それから再び外へ出てみると、 もう日光が()してゐて、幽靈はどこへか消え失せてしまひました。」

「それから何事も起りませんでしたか。」

彼は指の先で私の腕を二三度押した。その都度に、彼は怖ろしさうに首肯(うなづ)いたのである。

「その日に、列車がトンネルから出て來た時、私の立つてゐる側の列車の窓で、 人の頭や手がごつちやに出て、何かしきりに、振つてゐるやうに見えたので、 私は早速に機關手にむかつて、停止(ストツプ)の信號をしました。 機關手は運轉を停めてブレーキをかけましたが、列車は五百ヤードほども行き過ぎたのです。 私はすぐに駈けてゆくと、その間に怖ろしい叫び聲を聞きました。 美しい若い女が列車の貸切室のなかで突然に死んだのです。 その女はこの小屋へ運び込まれて、丁度あなたと私とが向ひ合つてゐる、こゝの處へ寢かしました。」

彼がさう言つて指さした場所を見下した時、わたしは思はず自分の椅子をうしろへ押遣つた。

「ほんたうです。まつたくです。私が今お話をした通りです。」

私は何とも言へなくなつた。私の口は乾き切つてしまつた。 外ではこの物語に誘はれて、風や電線が長い悲しい唸り聲を立てゝゐた。

「まあ、聽いてください。」と、彼はつゞけた。 「さうして私がどんなにこまつてゐるか、お察しください。 その幽靈が一週間前にまた出て來ました。それからつゞいて、氣まぐれのやうに時々に現はれるのです。」

「あの燈のところに……。」

「あの危險信號燈のところにです。」

「どうしてゐるやうに見えますか。」

彼は激しい恐怖と戰慄を増したやうな風情で『どうか退()いてくれ!』と言ふらしい仕科(しぐさ)をして見せた。 さうして、更に話しつゞけた。

「私はもうそれが爲に平和も安息も得られないのです。あの幽靈はなんだか苦しさうな風をして、 何分間もつゞけて私を呼ぶのです。 -- 『下にゐる人!見ろ、見ろ。』 -- さうして、私を差招くのです。さうして、私の小さい電鈴(ベル)を鳴らすのです。」

私はそれを引取つて言つた。

「では、私がゆうべ來てゐたときに、その電鈴(ベル)が鳴つたのですか。 君はそれがために戸のところへ出て行つたのですか。」

「さうです。二度も鳴つたのです。」

「どうも可怪(をかし)いな。」と、私は言つた。「その想像は間違つてゐるやうですね。 あの時私の眼はベルの方を見てゐて、私の耳はベルの方へ向いてゐたのだから、 私のからだに異状がない限りは、あの時にベルは一度も鳴らないと思ひますよ。 あの時以外にも鳴りませんでした。尤も君が停車場と通信をしてゐた時は別だが……。」

彼は(かしら)を振つた。

「私は今までベルを聞き誤つたことは一度もありません。 私は幽靈が鳴らすベルと、人間が鳴らすベルとを混同したことはありません。 幽靈の鳴らすベルは、何とも言へない一種異樣な響きで、 そのベルは人の眼にみえるやうに動くのでは無いのです。 それがあなたの耳には聞えなかつたのかも知れませんが、私には聞えたのです。」

「では、あの時に外を見たらば、怪しい物がゐたやうでしたか。」

「あすこにゐました。」

「二度ながら……。」

「二度ながら……。」と、彼は判然(はつきり)と言ひ切つた。

「では、これから一緒に出て行つて見ようぢやありませんか。」

彼は下脣を噛みしめて、あまり行きたくはない樣子であつたが、 それでも故障無しに起ちあがつた。私は(ドア)をあけて階段に立つと、彼は入口に立つた。 そこには危險信號燈が見える。暗いトンネルの入口が見える。 ()れた岩の高い斷崖がみえる。その上には幾つかの星が(かゞや)いてゐた。

「見えますか。」と、私は彼の顏に特別の注意を拂ひながら訊いた。

彼の眼は大きく -- それは恐らく其處を見渡した時の私の眼ほどでは無かつたかも知れないが -- 緊張したやうに輝いてゐた。

「いえ、居ません。」

「私にも見えない。」

二人は再びうちへ這入つて、(ドア)を閉めて椅子にかゝつた。 私はいまこの機會をいかに好く利用しようかと言ふことを考へてゐたのである。 たとひ何か彼を呼ぶものがあるとしても、ほとんど眞面目に論議するにも足らぬやうな事實を楯に取つて、 彼がそれを當然のことのやうに主張する場合には、なんと言つてそれを説き導いて好からうか。 さうなると、私は甚だ困難な立場にあると思つたからである。

「これで、私がどんなに困つてゐるかと言ふことが、 あなたにも好くお判りになつたらうと思ひますが、一體何であの幽靈が出るのでせうか。」

私は彼に對して、自分はまだ十分に理解したとは言ひ兼ねると答へると、 彼はその眼を爐の火に落して、時々に私の方へみかへりながら、沈み勝に言つた。

「なにの知らせでせうか。どんな變事がおこるのでせうか。その變事がどこにおこるのでせうか。 線路の上の何處かに危險がひそんでゐて、おこるべき(わざはひ)がおこるのでせう。 いままでのことを考へると、今度は三度目です。しかしこれはたしかに私を殘酷に苦めると言ふものです。 どうしたら好いでせうか。」

彼はハンカチーフを()り出して、その熱い額から滴る汗を拭いた。 さうして、更に手掌(てのひら)を拭きながら言つた。

「私が上下線の一方かまたは兩方へ危險信號を發するとしても、さてその理由を言ふことが出來ないのです。 私はいよ〜こまるばかりで、ろくなことにはなりません。みんなは私が氣でもくるつたと思ふでせう。 先づこんなことになります。 -- 私が『危險、警戒ヲ要ス。』といふ信號をすると、 『如何ナル危險ナリヤ、場所は何處ナリヤ。』といふ返事が來ます。 それにたいして私が『ソレハ不明、是非トモ警戒ヲ要ス』とこたへるとしたら、何うなるでせう。 結局私は免職になるのほかはありますまい。」

彼の惱みは見るに堪らないほどであつた。こんな不可解の責任のためにその生活をもくつがへすと言ふことは、 實直な人間に取つて精神的苦痛に相違なかつた。彼は黒い髮をうしろへ押遣つて、 極度の苦惱を顳顬(こめかみ)をくすりながら言ひ續けた。

「その怪しい影が初めて危險信號燈の下に立つた時に、 どこに事件が起るかといふことを何故私に教へてくれないのでせう。 それがどうしても起るのなら -- 。さうしてまた、それが避けられるものならば、 どうしたらそれを避けられるかと言ふことを何故私に話してくれないのでせう。 二度目に來た時には顏を隱してゐましたが、なぜその代りに『女が死ぬ、外へ出すな』と言はないのでせう。 前の二度の場合は、その豫報が事實となつて現れることを示して、 私に三度目の用意をしとと言ふにとゞまるならば、 なぜもつと判然(はつきり)と私に説明してくれないのでせう。 悲しい哉、私はこの寂寥(せきれう)たるステーションにある一個の哀れなる信號手に過ぎないのです。 彼はなぜ私以上に信用もあり實力もある人のところへ行かないのでせうか。」

このありさまを見た時に、私はこの氣の毒な男のために、 また二つには公衆の安全のために、自分としてはこの場合、 つとめて彼の心を取り鎭めるやうに仕向けなければならないと思つた。 そこで私は、それが事實であるか無いかといふやうな問題を別にして、 誰でもその義務をまつたうするほどの人は、せい〜゛その仕事を好くしなければならないと言ふことを説きすゝめると、 彼は怪しい影の出現について依然その疑ひを解かないまでも、 自己の職責をまつたうするといふことに就いて一種の慰藉を感じたらしく、 この努力は彼が信じてゐる怪談を理窟で説明してやるよりも遙に好結果を奏したのであつた。

彼は落付いて來た。夜の更けるに從つて、彼は自分の持場に偶然起るべき事故に對して、 一層の注意を拂ふやうになつた。私は午前二時頃に彼に別れて歸つた。 朝まで一緒に留まつてゐようと言つたのであるが、彼はそれには及ばないと斷つたのである。

私は坂路を登る時に、幾度か彼の赤い燈をふり返つて見た。 その燈はどうも心持が好くなかつた。若しあの下に私の寢床があつたとしたら、 私は恐らく眠られないであらう。全く然うである。私はまた、鐵道事故と死んだ女との二つの事件に續いても、 好い心持がしない。どちらも全くさうである。而もそれらの事よりも最も私の氣にかゝるのは、 この打明け話を聽いた私の立場として、これをどうしたら好いかと言ふことであつた。

彼の信號手は相當に教育のある、注意深い、丹念な確かな人間であるには相違ないが、 あゝいふ心持でゐた日には、それがいつまで續くやら判らない。 彼の位地は低いけれども、最も重要な仕事を受持つてゐるのである。 私もまた彼が飽くまでも彼の事件の探究を續けると言ふ場合に、 いつまでも一緒になつて自分の暇を潰してはゐられないのである。

私は彼が所屬の會社の上役に書面をおくつて、彼から聽いた顛末を通告しようかと思つたが、 彼に何等の相談もしないで仲介の位地に立つことは、なんだか彼を裏切るやうな感じが強かつたので、 私は最後に決心して、この方面で知名の熟練の醫師のところへ彼を同伴して一應その醫師の意見を聽くことにした。 彼の話によると、信號手の交代時間は次の日の夜に廻つて來るので、 彼は日出後一二時間で歸つてしまつて、日沒後から再び職務に就くことになつてゐると言ふので、 私も一先づ歸ることにした。



次の夜は心持が好い晩で、私は遊びながらにはやく出た。 例の斷崖の頂上に近い畑路を横ぎる頃には、夕日がまだ全く沈んでゐなかつたので、 もう一時間ばかり散歩しようと私は思つた。半時間行つて、半時間戻れば、 信號手の小屋へ行くには丁度好い刻限になるのであつた。

そこで、この(そゞ)ろ歩きを續ける前に、私は崖の(ふち)へ行つて、 先夜初めて信號手を見た地點から何ごころなく見下すと、私は何とも言ひやうが無いやうに慄然(ぞつ)とした。 トンネルの入口に近いところで、ひとりの男が左の袖を眼にあてながら、 熱狂的にその右の手を振つてゐるのである。

私は[注:私をの誤り?]壓迫したその言ひ知れない恐怖は、一瞬間にして消え失せた。 次の瞬間には、その男が本當の人間であることが判つたのである。 それから少し離れたところには、幾らかの人が群つてゐて、 彼の男はその群にむかつて何かの手眞似をしてゐるのであつた。 危險信號燈にはまだ燈が這入つてゐなかつた。私は此時初めて見たのであるが、 信號燈の柱の向うに小さい低い小屋があつた。それは木材と脂布(あぶらぬの)とで作られて、 やつと寢臺を入れるくらゐの大きさであつた。

何か變事が出來(しゆつらい)したのではないか。私が信號手ひとりを其處に殘して歸つたがために、 何を[注:何かの誤り?]致命的の災厄が起つたのではあるまいか。 誰も彼の()ることを見てゐる者もなく、又それを注意する者もなかつたがために、 何かの變事が出來(しゆつらい)したのではあるまいか。 -- かういふ自責の念に驅られながら、 私は出來るだけ急いで坂路を降りて行つた。

「何事が起つたのです。」と、私はそこらにゐる人逹に訊いた。

「信號手が今朝殺されたのです。」

「この信號所の人ですか。」

「さうです。」

「では、私の知つてゐる人ではないかしら。」

「御存じならば、お判りになりませう。」と、一人の男が他に代つて、丁寧に脱帽して答へた。 さうして、脂布(あぶらぬの)の端をあげて、「まだ顏は()つとも變つてゐません。」

「おゝ。どうしたのです。どうしてこんな事になつたのです。」

小屋が再び閉められると、私は人々を(かは)る〜゛に見まはしながら訊いた。

「機關車に轢かれたのです。英國中でもこの男ほど自分の仕事をよく知つてゐる者はなかつたのですが、 或は外線のことに就いて幾らか暗いところがあつたと見えます。時は眞晝間で、 この男は信號燈をおろして、手にランプをさげてゐたのです。 機關車がトンネルから出て來た時に、この男は機關車の方へ背中を向けてゐたものですから、 忽ちに轢かれてしまひました。あの男が機關手で、今その時の話をしてゐるところです。 おい、トム。この方に話してあげるが好い。」

疏末(そまつ)な黒い服を着てゐる男が、(さき)に立つてゐたトンネルの入口に戻つて來て話した。

「トンネルの曲線(カーブ)まで來た時に、 その(はづ)れの方にあの男の立つてゐる姿が遠眼鏡(とほめがね)をのぞくやうに見えたのですが、 もう速力と停める暇がありません。又、あの男もよく氣が()いてゐることだらうと思つてゐたのです。 ところが、あの男は汽笛をまるで聞かないらしいので、私は汽笛をやめて、 精一ぱいの大きい聲で呼びましたが、もうその時にはあの男を轢き倒してゐるのです。」

「何と言つて呼んだのです。」

「下にゐる人!見ろ、見ろ。どうぞ退()いてくれ。 -- と、言ひました。」

私はぎよつとした。

「實にどうも(いや)でしたよ。私はつゞけて呼びました。 もう見てゐるのが堪らないので、私は自分の片腕を眼にあてゝ、 片手を最後まで振つてゐたのですが、やつぱり駄目でした。」

この物語の不思議な事情を詳細に説明するのは扨措(さてお)いて、 終りに臨んで私が指摘したいのは、不幸なる信號手が自分をおびやかすものとして私に話して聞かせた言葉ばかりでなく、 私自身が「下にゐる人!」と彼を呼んだ言葉や、彼が眞似てみせた手振や、 それらが總て彼の機關手の警告の言葉と動作とに暗合してゐると言ふことである。

-- 終 --

更新日:2003/10/08

世界怪談名作集:ヴヰール夫人の亡靈


ヴヰール夫人の亡靈

デフオー 著

岡本綺堂 譯

この物語は事實であると共に、理性に富んだ人逹にも成程と思はれるやうな出來事が伴つてゐる。 この物語はケント州のメイドストーン治安判事を勤めてゐる非常に聰明な一紳士から、 こゝに書かれてある通りに、ロンドンにゐる彼の一友人のところへ知らせてよこしたもので、 しかもカンタベリーで、この物語に現はれて來るバーグレーヴ夫人の二三件先きに住んでゐる上記の判事の親戚で、 冷靜な理解力のある一夫人も亦この事實を確證してゐる。 從つて、治安判事は自分の親戚の夫人も確に亡靈の存在を認めてゐるものと信じ、 又彼の友逹にも極力この物語の全部は本當の事實だと斷言してゐる。 さうして、その亡靈を見たと言ふバーグレーヴ夫人自身の口から、 この物語を聞いたまゝを治安判事に傳へたその婦人は、正直で、善良で、 敬虔な一個の女性としてのバーグレーヴ夫人が、 この事實談を一つの荒唐無稽な物語に粉飾するやうな婦人でないことを信じてゐるのである。

私がこの事實談をこゝに引用したのは、この世の私逹の人生には更にまた一つの生活があつて、 そこに平等なる神は私逹が生きてゐる間の行爲に從つて、 それに審判をなされるのであるから、私逹は自分で現世で爲して來たところの過去を反省しなければならない。 又、私逹の現世の生活は短くて、いつ死ぬか判らないが、もし不信仰の罰を免れて、 信仰の酬いとして來世における永遠の生命を把握しようとするならば、 今後速かに悔い改めて神に歸依し、努めて惡をなさず、 善は行はうと心掛けなければならない。幸ひに神が私逹に目をかてけ[誤:かけて]下され、 神の御前(みまへ)で樂しく暮せるやうな來世のために、 現世に於いて信仰の生活を導いて下さるならば、 直ちに神を求めなければならにと言ふことをお互ひに考へんがためである。



この物語はかうした種類の出來事のうちでも非常に珍らしく、實際を言ふと、 私が今まで書物の上で讀んだり、人から聞いたりしたことなどは、 この事實談ほどに私のこゝろを惹かなかつた。從つてこれは好奇心に富んだ、 眞面目な穿鑿家を滿足させるに十分であると思ふ。バーグレーヴ夫人は現在生きてゐる人で、 死んだヴール夫人の亡靈が彼女のところに現はれたのであつた。 バーグレーヴ夫人は私の親しい友逹で、私が知つてから最近の十五六年の間、 彼女は世間の評判のよい夫人であつたこと、又私が初めて近附きになつた時でも、 彼女は若い時そのまゝの純潔な性格の所有者であつたことを確言し得る。 それにもかゝはらず、この物語以來、彼女はヴール夫人の弟の友逹等から誹謗されてゐる。 その人逹はこの物語を氣違ひ沙汰だと思つて、極力彼女の名聲を(くじ)かうとするとともに、 一方には狼狽してその物語を一笑に附してしまはうと努めてゐる。 しかもかうした誹謗を蒙つてゐる上に、更に不行跡な夫からは虐待されてゐるのも拘らず、 快活な性格の彼女は少しも失望の色をみせず、又かういふ境遇の婦人にしば〜見るやうな、 始終何かぶつ〜言つてゐるやうな鬱性に陷つたと言ふことも曾て聞かず、 夫の蠻的行爲の眞最中でも常に快快活であつたと言ふことは、 私をはじめ他の多數の名望ある人々も證人に立つてゐるのである。

さて貴方にヴール夫人は三十歳ぐらゐの中年増の割に、 娘のやうな温和な婦人であつたが、數年前に人と談話をしてゐるうちに突然發病して、 それから痙攣的の發作に苦しめられるやうになつたと言ふことを知つて置いて貰はなければならない。 彼女はドーバーに家を持つてゐる()つた一人の弟の厄介になつてゐた。 彼女は非常に信心の厚い婦人であた。その弟は見たところ實に落着いた男であつたが、 今では彼はこの物語を極力打ち消してゐる。 ヴール夫人とバーグレーヴ夫人とは子供の時からの親友であつた。 子供時分のヴール夫人は貧しかつた。彼女の父親はその日の生活に追はれて、 子供の面倒まで見てゐられなかつた。その當時のバーグレーヴ夫人もまた同じやうに不親切な父親を持つてゐたが、 ヴール夫人のやうに衣食には事を缺かなかつたのである。 ヴール夫人はよくバーグレーヴ夫人に向つて「あなたは一番いゝお友逹で、 さうして世界にたつた一人しかないお友逹だから、 どんな事があつても永久に私はあなたとの友情を失ひません。」と言つてゐた。 彼女等は屡々おたがひの不運を歎き合ひ、ドレリンコートの(十七世紀における佛蘭西の神學者) の「死」に關する著書や、そのい[誤:その]書物を一緒に讀み、さうして又、二人の基督教徒の友逹のやうに、 彼女等は自分逹の悲みを慰め合つてゐた。

その後、彼女はヴールといふ男と結婚した。 ヴールの友逹は彼を周旋してドーバーの税關に勤めるやうにしたので、 ヴール夫人とバーグレーヴ夫人との交通は自然だん〜゛に疎遠になつた。 と言つて、別に二人の間が氣まづくなつたと言ふ譯ではなかつたが、 兎にかくにその心持がおひ〜に離れて行つて、遂にバーグレーヴ夫人は二年半も彼女に逢はなかつた。 尤もバーグレーヴ夫人はその間の十二ヶ月以上もドーバーにはゐなかつた。 また最近の半年のうちで殆ど二ヶ月間カンタベリーにある自分の實家に住んでゐたのであつた。



この實家で、一七〇五年九月八日の午前に、バーグレーヴ夫人は一人で坐りながら、 自分の不運な生涯を考へてゐた。さうして、 自分のかうした逆境もみな持つて生まれた運命であると諦めなければならないと、 自分で自分に言ひ聞かせてゐた。さうして彼女はかう言つた。 「私はもう前から覺悟をしてゐるのであるから、運命に任せて落付いてゐさへすれば好いのだ。 さうして、その不幸も終るべき時には終るのであらうから、自分はそれで滿足してゐれば好いのだ。」

そこで、彼女は自分の針仕事を取上げたが、暫くは仕事を始めようともしなかつた。 すると、(ドア)を叩く音がしたので、出て見ると、 乘馬服を着けたヴール夫人がそこに立つてゐた。 丁度その時に、時計は正午の十二時を打つてゐた。

「あら、貴女(あなた)……。」と、バーグレーヴ夫人は言つた。 「隨分長くお目にかゝらなかつたので、貴女にお逢ひすることが出來やうとは、 本當に思ひも寄りませんでした。」

それからバーグレーヴ夫人は彼女に逢へたことの喜びを述べて、挨拶の接吻を申込むと、 ヴール夫人も承諾したやうで、殆どお互ひに脣と脣とが觸れ合ふまでになつたが、 手で眼を擦りながら「私は病氣ですから。」と言つて接吻を拒んだ。彼女は旅行中であつたが、 何よりもバーグレーヴ夫人に逢ひたくて堪らなかつたので尋ねて來たと言つた。 そこでバーグレーヴ夫人は「まあ、貴女はどうして獨旅なぞにお出になつたのです。 貴女には優しい弟さんがお有りではありませんか。」と言つた。すると、 「おゝ!」とヴール夫人は答へて、 「私は弟に内證で家を飛び出して來ました。 私は旅へ立つ前に是非あなたに一度お目にかゝりたかつたからです。」と言つた。

バーグレーヴ夫人は彼女と一緒に家へ這入つて、一階の部屋へ案内した。 ヴール夫人は今までバーグレーヴ夫人が掛けてゐた安樂椅子に腰をおろして、 「ねえ、貴女。私は再び昔の友情をつゞけて戴きたいと思ひます。 それで今までの御無沙汰のお詫びながらに伺つたのです。 ねえ、(ゆる)して下さいな。やつぱり貴女は私の一番好きなお友逹なのですから。」と口を開いた。

「あら、そんなことを氣になさらなくつても好いではありませんか。 私はなんとも思つてはゐませんから、すぐに忘れてしまひます。」と、バーグレーヴ夫人は答へた。

「貴女は私をどう思つていらつしやつて……。」と、ヴール夫人は言つた。

[「]別にどうと言つて……。世間の人と同じやうに、 あなたも幸福に暮らしていらつしやるので、私逹のことを忘れてゐるのだらうと思つてゐました。」と、 バーグレーヴ夫人は言つた。

それからヴール夫人はバーグレーヴ夫人に色々の昔話をはじめて、 その當時の友情や、逆境當時の毎日毎日取りかはしてゐた會話の數々や、 たがひに讀合つた書物、特に面白かつた「死」に關するドレリンコートの著書 (彼女はかうした主題の書物では、これが一番いゝものであると言つてゐた。) のことなどを思ひ出させた。それから又、彼女はドクトル・シャアロック(英國著名の宗教家)のことや、 英譯された「死」に關する和蘭(オランダ)の著書などについて語つた。 「併しドレリンコートほど死と未來と言ふことを明確に書いた人はありません。」と言つて、 彼女はバーグレーヴ夫人に何かドレリンコートの著書を持つてゐないかと訊いた。 持つてゐるとバーグレーヴ夫人が答へると、それでは持つて來てくれと彼女は言つた。

バーグレーヴ夫人はすぐに二階からそれを持つて來ると、彼女は「ねえ、バーグレーヴさん。 若しも私逹の信仰の眼が肉眼のやうに開いてゐたら、 私逹を守つてゐて下さる澤山の天使(エンジェル)が見えるでせうに……。 この書物でドレリンコートも言つてゐるやうに、天國といふものはこの世にもあるのです。 それですから、貴女も自分の不運を不運と思はずに、全能の神樣が特に貴女に目をお掛け下すつてゐるのですから、 不運が自分の役目だけを濟ませてしまへば、きつと貴女から去つてしまふものと信じてゐらつしやい。 さうして、どうぞ私の言葉をも信じて下さい。 貴女の今までの苦勞なぞはこれから先きの幸福の一秒間で永遠に酬はれます。 神樣がこんな不運な境遇に貴女の一生を終らせるなどといふことは、私にはどうしても信じられません。 もう今までの不運も貴女から去つてしまふか、さもなければ貴女の方でそれを去らせてしまふであらうと、 私は確信してゐるのです。」と、かう言ひながら彼女はだん〜に熱して來て、 (てのひら)で自分の膝を叩いた。その時の彼女の態度は純眞で、殆ど神のやうに尊くみえたので、 バーグレーヴ夫人は屡々涙を流したほどに深く感動した。

それからヴール夫人はドクトル・ケンリックの「禁慾生活」 の終りに書いてある初期の基督信者の生活の話をして、彼等の生活を學ぶことを勸めた。 彼等基督信者の會話は現代人の會話と全然違つてゐたこと、即ち現代人の會話は實に浮薄で無意味で、 古代の彼等とは全然懸け離れてゐる。彼等の言葉は教訓的であり、信仰的であつたが、 現代人にはさうしたところは少しもない。私逹は彼等のして來たやうにしなければならない。 又、彼等の間には心からの友情があつたが、現代人には果してそれがあるかと言ふやうなことを説いた。

「本當に今の世の中では、心からの友逹を求めるのはむづかしい事ですね。」と、 バーグレーヴ夫人も言つた。

「ノーリスさんが圓滿なる友情と題する詩の美しい寫本を持つてゐられましたが、 本當に立派なものだと思ひました。貴女はあの本を御覽になりましたか。」

「いゝえ。しかし私は自分で寫したのを持つてゐます。」

「お持ちですか。」と、ヴール夫人は言つた。「では、持つていらつしやいな。」

バーグレーヴ夫人は再び二階から持つて來て、それを讀んでくれとヴール夫人に差出したが、 彼女はそれを拒んで、餘り俯向(うつむ)いてゐたので頭痛がして來たから、 貴女に讀んで貰ひたいと言ふので、バーグレーヴ夫人が讀んだ。 かうしてこの二人がその詩に歌はれる友情をたゝへてゐた時、ヴール夫人は 「ねえ、バーグレーヴさん。私は貴女をいつまでもいつまでも愛します。」と言つた。 その詩のうちには極樂といふ言葉を二度も使つてあつた。 「あゝ。詩人逹は天國に色々の名を附けてゐますのね。」と、ヴール夫人は言つた。 さうして、彼女は時々に眼を(こす)りながら、バーグレーヴ夫人に、 「貴女は私が持病の發作の爲に、どんなに酷く體を(こは)してゐるかを御存知ないでせう。」と言つた。

「いゝえ。私にはやつぱり以前の貴女のやうに見えます。」と、バーグレーヴ夫人は答へた。

總てそれらの會話はバーグレーヴ夫人も(とて)もその通りに思ひ出して言ひ現はすことが出來ない程、 非常に鮮かな言葉でヴール夫人の亡靈によつて進行したのであつた。 (一時間と四十五分を費した長い會話を全部おぼえてゐられる筈もなく、 又その長い會話の大部分はヴール夫人の語つてゐるのである。) ヴール夫人は更にバーグレーヴ夫人にむかつて、 自分の弟のところへ手紙を出して、自分の指輪は誰々に贈つてくれ、 二個所の廣い土地は彼女の從兄弟のウァットソンに與へてくれ、 金貨の財布は彼女の私室(キャビネット)にあると言ふことを書き送つてくれと言つた。

話がだん〜に怪しくなつて來たので、 バーグレーヴ夫人はヴール夫人が例の發作に襲はれてゐるのであらうと思つた。 ひよつとして椅子から床へ倒れ落ちては大變だと考へたので、 彼女の膝の前にある椅子に腰をかけた。かうして、前の方を防いでゐれば、 安樂椅子の兩側からは落ちる氣遣ひはないと思つたからであつた。 それから彼女はヴール夫人はこれは練絹(ねりぎぬ)で、 新調したものであると話した。而もかうした間にも、ヴール夫人は手紙のことを繰返して、 バーグレーヴ夫人に自分の要求を拒まないでくれと懇願するのみならず、 機會があつたら今日の二人の會話を自分の弟に話してやつて呉れとも言つた。 「ヴールさん、私にはあまり差出がましくて、承諾していゝか惡いか判りません。 それに、私逹の會話は若い殿方の感情をどんなに害するでせう。」と、 バーグレーヴ夫人は澁るやうに言つて、「なぜ貴女自身で仰しやらないのです。 私はその方がずつと好いと思ひます。」と附足した。

「いゝえ。」と、ヴール夫人は答へた。 「今の貴女には差出がましいやうにお思ひになるでせうが、あとで貴女にも判る時があります。」

そこで、バーグレーヴ夫人は彼女の懇願を容れるために、ペンと紙とを取りに行かうとすると、 ヴール夫人、「今でなくても宜しいのです。私が歸つた後で書いてください。 きつと書いて下さい。」と言つた。別れる時には彼女はなほ念を押したので、 バーグレーヴ夫人は彼女に固く約束したのであつた。

彼女はバーグレーヴ夫人の娘のことを尋ねたので、娘は留守であると言つた。 「しかし若し逢つてやつて下さるならば、呼んで來ませう。」と答へると、 「さうして下さい。」と言ふので、バーグレーヴ夫人は彼女を殘して置いて、 隣りの家へ娘を探しに行つた。歸つて來てみると、 ヴール夫人は玄關の(ドア)の外に立つてゐた。 けふは土曜日で(いち)の開ける日であつたので、 彼女はその家畜市の方をながめて、もう歸らうとしてゐるのであつた。

バーグレーヴ夫人は彼女に向つて、なぜそんなに急ぐのかと訊ねると、 彼女は多分月曜日までは旅行に出られないかも知れないが、 兎も角も歸らなければならないと答へた。さうして旅行する前にもう一度、 從兄弟のウァットソンの家でバーグレーヴ夫人に逢ひたいと言つた。 それから彼女はもうお(いとま)をしますと別れを告げて歩き出したが、 町の角を曲つてその姿は見えなくなつた。それは(あたか)も午後の一時四十五分過ぎであつた。



九月七日の正午十二時に、ヴール夫人は持病の發作のために死んだ。 その死ぬ四時間以上は殆ど意識がなかつた。臨床塗油式(サクラメント)はその間に行はれた。

ール夫人が現れた次の日の日曜日に、 バーグレーヴ夫人は寒氣(さむけ)がして非常に氣分が惡かつた上に、喉が痛んで、 その日は終日外出することが出來なかつた。しかし、月曜の朝、 彼女は船長のウァットソンの家へ女中をやつて、ヴール夫人が居るかどうかを尋ねさせると、 そこの家の人逹はその問合せに驚かされて、彼女は來てゐない、 また來る筈にもなつてゐないといふ返事を(よこ)した。 その返事を聞いても、バーグレーヴ夫人は信じなかつた。彼女はその女中に向つて、 多分お前が名前を言ひ違へたのか、何かの間違ひをしたのであらうと言つた。

それから氣分の惡いのを押して、彼女は頭巾をかぶつて、自分と一面識のない船長ウァットソンの家へ行つて、 ヴール夫人がゐるかどうかをまた尋ねた。そこの人逹は彼女の再度の問ひ合せにいよ〜驚いて、 ヴール夫人はこの町には來てゐない。若し來てゐれば、 きつと自分逹の家へ來なければならにと答へると、 それでも私は土曜日に二時間ほどヴール夫人と一緒に居りましたのですが……。」 と彼女は言つた。いや、そんな筈はない。若しさうだとすれば、 第一自分逹がヴール夫人に逢つてゐなければならないと、 互に押問答をしてゐる間に、船長のウァットソンが這入つて來て、大かた彼女が死んだので、 お知らせがあつたのだらうと言つた。その言葉がバーグレーヴ夫人には妙に氣がかりになつたので、 早速にヴール夫人一家の面倒を見てやつてゐた人のところへ手紙で聞き合せて、 初めて彼女が死んだことを知つた。

そこで、バーグレーヴ夫人はウァットソンの家族の人逹に今までの一部始終から、 彼女の着てゐた着物や縞柄や、しかもその着物は練絹(ねりきぬ)であると言つたことまでを打明けて話した。 すると、ウァットソン夫人は「あなたがヴール夫人さんを御覽になつたと仰有(おつしや)るのは本當です。 あの人の着物が練絹(ねりきぬ)だと言ふことを知つてゐる者は、 あの人と私だけですから。」と叫んだ。ウァットソン夫人はバーグレーヴ夫人が彼女の着物について言つたことは、 何から何まで本當であると首肯して、わたしが手傳つてあの着物を縫つて上げたのです。」と言つた。 さうして、ウァットソン夫人は町中にそのことを言ひ弘めながら、 バーグレーヴ夫人がヴール夫人の亡靈を見たのは事實であると、證明したので、 その夫のウァットソンの紹介によつて、二人の紳士がバーグレーヴ夫人の家へ訪れて來て、 彼女自身に口から亡靈の話を聞いて行つた。

この話が忽ち擴まると、あらゆる國の紳士、學者、分別のある人、無神論者などと言ふ、人々が、 彼女の門前に(いち)をなすやうに押掛けて來たので、 しまひには邪魔をされないやうに防禦するのが彼女の仕事になつてしまつた。 と言ふのは、彼等は大てい幽靈の存在といふことに非常に興味を持つてゐた上に、 バーグレーヴ夫人が全然憂鬱症になど罹つてゐないのを目撃し、 また彼女がいつも愉快さうな顏をしてゐるので、すべての人逹から好意を向けられ且つ尊敬されてゐるのを見聞して、 大勢の見物人は彼女自身の口からその話を聞くことが出來れば、 大なる記念にもなると思ふやうになつたからであつた。

私は前に、ヴール夫人がバーグレーヴ夫人に向つて、 自分の妹のその夫がロンドンから自分に逢ひに來てゐると言つてゐたことを、 貴方に話して置かなければならなかつた。その時にも、バーグレーヴ夫人が 「なぜ今が今、そんなに色々のことを整理しなければならないのですか。」と訊くと、 「でも、さうしなければならないのですもの。」とヴール夫人は答へた。 果して彼女の妹夫婦は彼女に逢ひに來て、丁度彼女が息を引き取らうといふ時に、 ドーバーの町へ着いたのであつた。話は又前に戻るが、 バーグレーヴ夫人はヴール夫人お茶を飮むかと訊くと、 彼女は「飮んでも好いのですが、 あの氣違ひさへ(バーグレーヴ夫人の夫をいふ)が貴女の道具を(こは)してしまつたでせうね。」と言つた。 そこで、バーグレーヴ夫人は「私はまだお茶を飮むぐらゐの道具はあります。」と答へたが、 彼女はやはりそれを辭退して、「お茶などはどうでも好いではありませんか。 打つちやつて置いてください。」と言つたので、そのまゝになつてしまつた。

私がバーグレーヴ夫人と數時間向ひ合つて坐つてゐる間、 彼女はヴール夫人の言つたうちで今までに思ひ出せなかつた言葉はないかと、 一生懸命に考へてゐた結果、たゞ一つ重要なことを思ひ出した。 それはブレトン老人がヴール夫人に毎年十 (ポンド)づゝを供與してゐてくれたと言ふ祕密で、 彼女自身もヴール夫人に言はれるまでは全然知らなかつた。

バーグレーヴ夫人はこの物語に手加減を加へるやうなことは絶對にしなかつたが、 彼女からこの物語を聞くと、亡靈の實在性を疑つてゐる人間や、 少なくとも幽靈などと馬鹿にしてゐる連中も迷つてしまつた。 ヴール夫人が彼女の家へ訪ねて來た時、 隣りの家の召仕(めしつかひ)はバーグレーヴ夫人が誰かと話してゐるのを庭越しに聞いてゐた。 さうして、彼女はヴール夫人と別れると、 すぐに一軒置いて隣りの家へ行つて、昔の友逹と夢中になつて話してゐたと言つて、 その會話の内容までを詳しく語つて聞かせた。それから不思議なことには、 この事件が起る前に、バーグレーヴ夫人は死に關するドレリンコートの著書を丁度に買つて置いた。 それから又、かう言ふことに注目しなければならない。 即ちバーグレーヴ夫人神は身共に[誤:夫人は神身共に]非常に疲れてゐるにも拘らず、 それを我慢してこの亡靈の話を一々皆に語つて聽かせても、 決して一錢も受取らうとはしないばかりか、 彼女の娘にも人から何一つ貰はせないやうにしてゐたので、 この物語をしたところで彼女には何の利益もある筈はないのである。

而も亡靈の弟のヴール氏は、極力この事件を隱蔽しようとした。 一度バーグレーヴ夫人に親しく逢つてみたいと言つてゐたが、 彼は彼の姉のヴール夫人が死んだ後、 船長のウァットソンの家までは行つてゐながら、遂にバーグレーヴ夫人を訪れなかつた。 彼の友逹等はバーグレーヴ夫人のことを(うそ)つきだと言ひ、 彼女は前からブレトン氏が毎年十 (ポンド)づゝ送つて來ることを知つてゐたのだと言つてゐるが、 私の知つてゐる名望家の間では、 却つてそんな風に言ひ觸らしてゐる御本尊の方が大(うそ)つきだといふ評判が立つてゐる。 ヴール氏は流石に紳士であるだけに、 彼女は嘘を言つてゐるとは言はないが、バーグレーヴ夫人は惡い夫のために氣違ひにされたのだと言つてゐる。 しかし彼女が唯一度でも彼に逢ひさへすれば、彼の口實を何よりも有效に論駁するであらう。

ール氏は姉が臨終の間際に何か遺言することはないかと訊ねると、 ヴール夫人は無いと言つたさうである。 成程ヴール夫人の亡靈の遺言は極めて詰らないことで、 それ等を處理するために別に裁判を仰ぐといふほどの事件でもなささうである。 それから考へて見ると、彼女がそんな遺言めいたことを言つたのは、 要するにバーグレーヴ夫人をして自分が亡靈となつて現れたといふ事實を明白に説明させるためと、 彼女が見聞した事實談を世間の人逹に疑はせないためと、もう一つには理性の勝つた、 分別のある人逹の間にバーグレーヴ夫人の評判を惡くさせまいための心遣ひであつたやうに思はれるのである。

それから又、ヴール氏は金貨の財布もあつたことを承認してゐるが、 併しそれは夫人の私室(キャビネット)にはなくて、櫛箱の中にあつたと言つてゐる。 それはどうも信じ難い氣がする。なぜなれば、 ウァットソン夫人の説明によるとヴール夫人は自分の私室(キャビネット)の鍵については非常に用心深い人であつたから、 恐らくその鍵を誰にも預けはしないであらうと言ふのである。もし然うであるとすれば、 彼女は確に自分の私室(キャビネット)から金貨を他へ移すやうなことはしなかつたであらう。

ール夫人がその手で幾度(いくたび)か兩方の眼を(こす)つたことと、 自分の病氣の發作が顏容(かほかたち)を變へはしないかと訊ねたことは、 わざとバーグレーヴ夫人に自分の發作のことを思ひ出させるためと、 彼女が弟のところへ指環や金貨の分配方を書いて送るやうに頼んだことを臨終の人の要求のやうに思はせずに、 發作の結果だと思はせるためであつたやうに考へられる。それであるから、 バーグレーヴ夫人も確にヴール夫人の持病が起つて來たものと思ひ違ひをしたのである。 同時にバーグレーヴ夫人を驚かせまいとしたことは、いかに彼女を愛し、 彼女に對して注意を拂つてゐたかと言ふ實例の一つであらう。 その心遣ひはヴール夫人の亡靈の態度に始終一貫して現れてゐて、 特に白晝彼女のところに現れたことや、挨拶の接吻を拒んだころや、 獨りになつた時や、更に又その別れる時の態度、 即ち彼女に挨拶の接吻をまた繰返させまいとしたことなどが皆それであつた。

さて、何故にヴール氏がこの物語を氣違ひ沙汰であると考へて、 極力その事實を隱蔽しようとしてゐるのか、私には想像が付かない。 世間ではヴール夫人を善良の亡靈と認め、 彼女の會話は實に神の如きものであつたと信じてゐるのではないか。 彼女の二つの大いなる使命は、逆境にあるバーグレーヴ夫人を慰藉すると共に、 信仰の話で彼女を力附けようとした事と、疎遠になつてゐた詫びを言ひに來た事とであつた。 また假りに、何か複雜の事情とか利益問題とかいふ事を拔きにして、 バーグレーヴ夫人がヴール夫人の死を早く知つて、 金曜の晝から土曜の晝までにこんな筋書を作りあげたものと想像して御覽なさい。 そんな眞似をするやうな彼女であつたらば、もつと機智があつて、 もつと生活が(ゆたか)で、 しかも他人が認めてゐるよりももつと陰險な女でなければならない筈である。

私は幾度(いくたび)かバーグレーヴ夫人に向つて、確に亡靈の上着に觸れたかどうかを(たゞ)してみたが、 いつも彼女は謙遜して、「若しも私の感覺に間違ひがないならば、 私は確にその上着に觸れたと思ひます。」と答へるのであつた。 それから又、亡靈がその手で膝を叩いた時に、確にその音を聞いたかと訊ねると、 彼女は聞いたかどうかはつきりとは記憶してゐないが、 その亡靈の肉體は自分と全く同じものであつたと言つた。

「それですから、私の見たのはあの人ではなくて、あの人の亡靈であつたと言はれゝば、 今私と話してゐるあなたも、私には亡靈かと思はれます。 あの時の私には怖ろしいなどといふ感じは()つとも致しませんで、 どこまでもお友逹の積りで家へ入れて、お友逹の積りで別れたのでございます。」 と彼女は言つた。又、彼女は「私は別にこの話を他人に信じて貰はうと思つて、 一錢の金も使つた覺えもございませんし、又、この話で自分が利益を得ようとも思つてゐません。 寧ろ自分では、長い間餘計な面倒が殖えただけだと思つてゐます。 不圖(ふと)したことでこの話が世間へ知れるやうにならなかつたらこんなに擴まらずに濟みましたのに……。」 と言つてゐた。

併し今では、彼女もこの物語を利用して、出來るだけ世の人々のためになるやうに盡さうと、 ひそかに考へて來たと言つてゐる。さゐして[誤:さうして]、それ以來、彼女はその考へを實行した。 彼女の話によると、ある時は三十 (マイル)も離れた所からこの物語を聞きに來た紳士もあり、 また或時は一時に部屋一ぱいに集まつて來た人々に向つてこの物語を聞かせたこともあつたさうである。 兎に角に、ある特殊な紳士逹はバーグレーヴ夫人の口から皆直接にこの物語を聞いたのであつた。



このことは私を非常に感動させたと共に、私はこの正確なる根底のある事實について大いに滿足を感じてゐる。 さうして、私逹人間といふものは、確實な見解を持つことが出來ないくせに、 何故に事實を論爭し合つてゐるのか、私には不思議でならない。 唯バーグレーヴ夫人の證明と誠實とだけは、いかなる場合にも疑ふことの出來ないものであらう。

——終——

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:ラツパツチーニの娘


ラツパツチーニの娘 (Rappaccini's Daughter, 1844) -- アウペパンの作品から --

ホーソーン(Nathaniel Hawthorne, 1804-1864) 作

岡本綺堂(1872-1939) 譯


目次


遠い以前のことである。ヂョヴァンニ・グァスコンティという一人の青年が、 パドゥアの大學で學問の研究をつゞけようとして、伊太利のずつと南部の地方から遙々と出て來た。

財嚢の甚だ乏しいヂョヴァンニは、ある古い屋敷の上の方の陰氣な部屋に下宿を取ることにした。 これは或るパドゥアの貴族の邸宅でゝもあつたらしく、 その入り口の上には今はすつかり古ぼけてしまつた或る一家の紋章が表はれてゐるのが見られた。 自國伊太利の有名な偉大な詩を知つてゐた旅の青年は、この屋敷の家族の祖先の一人、 恐らくその所有者たる人は、ダンテの筆によつて、 彼のインフェルノの煉獄の永劫呵責の相伴者として描き出されたものであることを、 想ひおこされるのであつた。これらの囘想や聯想が、 はじめて故郷を去つた若者には極めてあり勝ちの斷腸の思ひと結び付いて、 ヂョヴァンニは思はず溜め息をついた。さうして、物さびしい粗末な部屋の中をあちらこちらと見廻した。

「おや、あなた!」と、リザベッタ老婦人は、この青年の人柄のひどく立派なのに打たれて、 この部屋を住み(ごゝろ)のよいやうに見せようと努めながら聲をかけた。 「お若い方の胸から溜息などが出るとは、これはどうしたことでございませう。 あなたはこの古い屋敷を陰氣だとでも思つていらつしやるのですか。 では、どうぞその窓から首を出して御覽ください。ナポリと同じやうにきら〜した日の光りが拜まれますよ。」

ヂョヴァンニは、老婦人の言ふがまゝに只機械的に窓から首を突き出して見たが、 パドゥアの日光が南伊太利の日光のやうに陽氣だとは思はれなかつた。 とは言へ、日光は窓の下の庭を照らして、さま〜゛の植物に惠みある光りを浴せてゐた。 その植物はまた一方(ひとかた)ならぬ注意を以て育てられたものゝやうに見えた。

「この庭は、お(うち)のものですか。」と、ヂョヴァンニは訊いた。

「ほんたうに、貴方。あんな植物なぞはどうか出來ないで、 それよりももつとよい野菜でも出來ましたらば……。」と、老いたるリザベッタ婦人は答へた。 「いゝえ、さうではございません。あの庭はヂャコモ・ラッパッチー[注:ラッパッチーニの誤り]さまが、 御自身の手で作つておいでになります。あの先生は名高いお醫者さんで、 きつと遠いナポリの方までもお名前が響いてゐることゝ思ひます。 先生はあの植物を大層強い魅力を持つた藥に蒸溜なさるとかいふ噂で、 折々に先生が働いていらつしやるのが見えます。又どうかすると、 お孃樣までが庭に生えてゐる珍しい花を集めてゐるのが見えますよ。」

老婦人は、この部屋の樣子について、もう何も彼も言ひ盡してしまつたので、青年の幸福を祈りながら出て行つた。

ヂョヴァンニはなんの所在もないので、窓の下の庭園をいつまでも見下してゐた。 その庭の樣子で、このパドゥアの植物園は、伊太利はおろか、 世界の何處(いづこ)よりも早く作られたものゝ一つであると判斷した。 若しさうでないとすると、尤もこれは餘り當にはならないが、曾て富豪の一族の娯樂場か何かであつたかも知れない。 庭園の中央には稀に見るほどの巧みな彫刻を施した大理石の噴水の跡がある。 それも今は目茶苦茶に(くづ)れてしまつて、その殘骸は殆ど原形を止めぬ程になつてゐるが、 その水だけは今も相變らず噴き出して、日光にきら〜と輝いてゐた。 その水のさら〜と流れ落ちる小さい響きは、上にゐる青年の部屋の窓までも聞えてくる。 この噴水が永遠不滅の靈魂であつて、 その周圍の有爲轉變にはいさゝかも氣をとめずに絶えず歌つてゐるものゝやうに思はれるのであつた。 即ち、ある時代には大理石を以て泉を造り、又ある時はそれを(こぼ)つて地上に投げ出してしまふやうな、 有爲轉變の姿も知らぬやうに -- 。

水の落ちてゆく(プール)の周圍に、種々(いろ〜)な植物が生ひ繁つてゐるのを見ると、 大きい木の葉や、美しい花の營養には、十分なる水分の供給が大切であるやうに思はれた。 池の中央にある大理石の花瓶の中に、特に際立つて眼に付く一本の灌木があつた。 その木には無數の紫の花が咲いて、花はみな寶石のやうな光澤と華麗とを具へてゐた。 かういふ花が一團となつて目ざましい壯觀を現出し、たとひ日光がこゝに至らずとも、 十分に庭を明るく照らすに足るかのやうであつた。

土のある處には、總て草木が植ゑられてある。それらはその豐麗なることに於いて彼の灌木にやゝ劣つてゐるとしても、 なほ一方(ひとかた)ならざる丹精の跡があり〜と見られた。又それらの草木は皆それ〜゛に特徴を有してゐて、 それがその培養者たる科學者にはよく知られてゐるらしく、あるものは多くの古風な彫刻を施した壼のうちに置かれ、 又あるものは普通の植木鉢のうちに植ゑられてゐた。 それらのあるものは蛇のやうに地上を這ひまはり或は心のまゝに高く這ひあがつてゐた。 又あるものはバータムナスの像のまはりを花環のやうに取り卷いて、 (きれ)のやうに埀れ下つた枝はその像をすつかり掩つてゐた。 それ等はまこと立派に配列されてゐて、彫刻家にとつてはこの上もない好い研究材料であらうと思はれた。

ヂョヴァンニが窓の側に立つてゐると、木の葉の茂みのうしろから物の摺れるやうな音がきこえたので、 彼は誰か庭のうちで働いてゐるのに氣が付いた。間もなくその姿が現はれたが、 それは普通の勞働者ではなく、黒の學者服を身に(まと)つた、脊丈(せいい)の高い、 痩せた、土氣色をした、弱々しさうに見える男であつた。彼は中年を過ぎてゐて、 髮は半白でやはり半[注:半白の誤りか?]の薄い髯を生やしてゐたが、 その顏には智識と教養のあとが著るしく目立つてゐた。但しその青春時代にも、 温かな人情味などは決して表はさなかつたであらうと思はれるやうな人物であつた。

何物も及ばぬほどの熱心をもつて、この科學者的の庭造(にはつくり)師は、順々にすべての灌木を試驗して行つた。 彼はそれらの植物のうちに潛んでゐる性質を(しら)べ、その創造的原素の觀察を行ひ、 何故にこの葉はかういふ形をしてゐるか、彼の葉はあゝいふ形をしてゐるか、 又そのためにそれらの花が互ひに色彩や香氣を異にしてゐるのであると言ふやうなことを發見しようとしてゐるらしい。 而も彼自身は、植物に就いてこれ程の深い造詣があるにも拘はらず、 彼とその植物との間には、少しの親しみも無いらしく、寧ろ反對に、彼は植物に觸れることも、 その匂ひを吸ふことも、全く避けるやうに注意を拂つてゐた。 それがヂョヴァンニに甚だ不快な印象を與へたのであつた。

科學者的庭造師の態度は、たとへば猛獸とか、毒蛇とか、惡魔とかいふものゝやうな、 少しでも氣を許したらば恐ろしい災害を與へるやうな、有害な影響を及ぼすもののうちを歩いてゐる人のようであつた。 庭造りといふやうなものは、人間の勞働のうちでも最も單純な無邪氣なものであり、 また人類のまだ純潔であつた時代の祖先等の勞働と喜悦(よろこび)とであつたのであるから、 今この庭を造る人のいかにも不安らしい樣子を見てゐると、青年は何とはなしに一種の怪しい恐怖をおぼえた。 それでも、この庭園を現世のエデンの園であるといふのであらうか。その害毒を知りながら自ら培養してゐるこの人は、 果してアダムであらうか。

この疑ふべき庭造師は灌木の枯葉を除き、生ひ繁れる葉の手入れをするのに、 厚い手袋をはめて兩手を保護してゐた。彼の裝身具は、單に手袋ばかりではなかつた。 庭を歩いて、大理石の噴水のほとりに紫の色を埀れてゐる彼の目ざましい灌木の傍に來ると、 彼は一種のマスクでその口や鼻を掩つた。この木のあらゆる美しさは唯その恐ろしい害毒を隱してゐるかのやうに -- 。 それでもなほ危險であるのを知つてか、彼は後退(あとじさり)してマスクを外し、聲をあげて呼んだ。 尤もその聲は弱々しく、身の内部(うち)に何か病氣をつて[注:病氣を持つての誤り?]ゐる人のやうであつた。

「ベアトリーチェ、ベアトリーチェ!」

「はい、お父さん。何御用……。」と、向うの家の窓から聲量の豐な若やいだ聲が聞えた。 その聲は熱帶地方の日沒のごとくに豐かで、ヂョヴァンニは何とは知らず、 紫とか眞紅の色とか、又は非常に愉快な或る香氣をもふと心に思ひ浮べた。

「お父さん、お庭ですか。」

「おゝ、さうだよ、ベアトリーチェ。」と、父は答へた。「お前、ちよつと手をかしてくれ。」

彫刻の模樣のついてゐる入り口から、この庭園のうちへ最も美しい花にも決して劣らない豐かな風趣を具へた、 太陽のやうに美しい一人の娘の姿があらはれた。その手には眼も醒めるばかりの、 もうこれ以上の強い色彩はとても見るに堪へないと思はれるやうな、非常に濃厚な色彩の花を持つてゐた。 彼女は生命の力と健康の力と精力とが充滿してゐるやうに見えた。 これらの特質はその多量を彼女の處女地帶の内に制限せられ、壓縮せられ、なほ且つ強く引緊(ひきし)められてゐるのである。

併し庭を見おろしてゐるうちに、ヂョヴァンニの考えは確かに一種の病的になつたであらう。 この美しい未知の人が彼にあたえた印象は、更に一つの花が咲き出したかのやうであつた。 さうして、この人間の花はそれらの植物の花と姉妹(きやうだい)で、同じやうに美しく、 更にそれよりも遙かに美しく、而もなほ手袋をはめてのみ觸れ得べく、 またマスクなしには近づくべからざる花のやうであつた。 ベアトリーチェが庭の小徑に降りて來た時、彼女はその父が極めて用意周到に避けて來た幾つかの植物の匂ひを平氣で吸ひ、 又平氣でそれに手も觸れてゐるのが見えた。

「さあ、ベアトリーチェ。」と、父は言つた。「御覽、私逹の一番大切な寶のために、 爲なければならない仕事が澤山ある。私は弱つてゐるから、 あまり無闇(むやみ)にそれに近づくと、命を失う(おそ)れがある。 それで、この木はお前ひとりに任せなければならないと思ふが……。」

「そんなら、私は喜んで引受けます。」と、再び美しい聲で叫びながら、 彼女は彼の目ざましい灌木にむかつて腰を屈め、それを抱くやうに兩腕をひろげた。 「えゝ、さうですよ。ねえ、私の立派な妹さん。あなたを育てゝゆくのは、 このベアトリーチェの役目なのです。それですから、あなたの接吻(キツス)と -- それから(わたし)の命のその芳ばしい呼吸(いき)とを、私に下さらなければならないのですよ。」

その言葉にあらわれたやうな優しさを、その態度の上にもあらはして、 彼女はその植物に必要と思はれるだけの十分の注意を以て忙しく働きはじめた。

ヂョヴァンニは高い窓にも(もた)れかゝりながら、自分の眼をこすつた。 娘がその愛する花の世話をしてゐるのか、又は花の姉妹がたがひに愛情を示し合つてゐるのか、 まつたく判らなかつた。而もこの光景は直に終つた。 ドクトル・ラッパッチーニがその庭造りの仕事を終つたのか、あるひはその慧眼がヂョヴァンニのあることを見て取つたのか。 その何れかは知れないが、父は娘の手をとつて庭を立ち去つてしまつた。

夜は已に近づいてゐた。息詰まるやうな臭氣が庭の植物から發散して、 明けてある窓から忍び込むやうであつた。ヂョヴァンニは窓を閉めて寢床に這入つて、 美しい花と娘のことを夢想した。花と娘とは別々のものであつて、而も同じものである。 さうして、その兩者には何か不思議な危險が含まれてゐた。

併し朝の光りは、太陽が沒してゐる間に、又は夜の影のあひだに、 或は曇り勝ちな月光のうちに生じたところの、どんな間違つた想像をも、あるひは判斷さへも、 全く改めるものである。眠りから醒めて、ヂョンヴァンニ[注:ヂョヴァンニの誤り]が眞先の仕事は、 窓をあけて彼の庭園をよく見ることであつた。それは昨夜の夢によつて、 大いに神祕的に感じられて來たのであつた。早い朝日のひかりは花や葉に置く露を(きら)めかし、 それらの稀に見る花にも皆それ〜゛に輝かしい美しさを與へながら、 あらゆるものを何の不思議もない普通日常の事として見せてゐる。 その光の中にあつて、この庭も現實の明かな事實として現はれた時、 ヂョヴァンニは驚いて又いさゝか恥ぢた。この殺風景な都會のまん中で、 こんな美しい贅澤な植物を自由に見おろすことの出來る特權を得たのを、青年は喜んだのである。 彼はこの花を通じて自然に接することが出來ると、心ひそかに思つた。

見るからに病弱の、考へ疲れたやうな、ドクトル・ヂャコモ・ラッパッチーニも、 又その美しい娘も、今はそこには見えなかつたので、ヂョヴァンニは自分がこの二人に對して感じた不思議を、 どの程度まで彼等の人格に負はすべきものか、又どの程度までを自分自身の竒蹟的想像に負はすべきものかを、 容易に決定することが出來なかつた。併し彼はこの事件全體について、最も合理的の見解を下さうと考へた。

その日、彼はピエトロ・バグリオーニ氏を訪問した。氏は大學の醫科教授で、有名な醫者であつた。 ヂョヴァンニはこの教授に宛てた紹介状を貰つてゐたのである。 教授は相當の年配で殆ど陽氣といつても好いやうな、一見快濶の性行を有してゐた。 彼はヂョヴァンニに食事を馳走し、殊にタスカン酒の一二罎をかたむけて、少しく醉が廻つてくると、 彼は自由な樂しい會話でヂョヴァンニを愉快にさせた。ヂョヴァンニは雙方が同じ科學者であり、 同じ都市の住民である以上、かならず互ひに親交がある筈だと思つて、 よい(をり)を見てドクトル・ラッパッチーニの名を言ひ出すと、 教授は彼が想像してゐたほどには、こゝろよく答へなかつた。

「神聖なるべき仁術の教授が……。」と、ピエトロ・バグリオーニ教授は、ヂョヴァンニの問に答へた。 「ラッパッチーニの如き非常に優れた醫者の、適當相當と思はれる賞讚に對して、 それを(けな)すやうな事を言ふのは惡いことであらう。併し一方に於いて、ヂョヴァンニ君。 君は舊友の子息である。君のやうな有望の青年が、この後あるひは君の生死を掌握するかも知れないやうな人間を尊敬するやうな、 誤つた考へを抱くのを默許(もくきよ)しても好いか惡いかといふ僕は自己の良心に對して、 少しばかりそれに答へなければならない。實際わが尊敬すべきドクトル・ラッパッチーニは、 唯一つの例外はあるが、おそらくこのパドゥアばかりでなく、 伊太利全國に於ける如何なる有能の士にも劣らぬ立派な學者であらう。 併し醫者としてのその人格には、大いなる故障があるのだ。」

「どんな故障ですか。」と、青年は訊いた。

「醫者のことをそんなに穿鑿するのは、君は心身いづれかに病氣があるのではないかな。」と、教授は笑ひながら言つた。 「だが、ラッパッチーニに關しては -- 僕は、彼をよく知つてゐるので、實際だと言ひ得るが -- 彼は人類などといふことよりも全然科學の事ばかりを心にかけてゐると言はれてゐる。 彼に(おもむ)く患者は、彼には新しい實驗の材料として興味があるのみだ。 彼の偉大な蘊蓄に、罌粟(けし)粒ぐらゐの智識を加ふるためにも、彼は人間の生命 -- 就中(なかんづく)、彼自身の生命、あるひはそのほか彼にとつて最も親しい者の生命でも、 犧牲に供するのを常としてゐるのだ。」

「私の考へでは、彼は實際畏(おそ)るべき人だと思ひます。」と、 心の中にラッパッチーニの冷靜な一向(ひとむき)な智的態度を思ひ出しながら、ヂョヴァンニは言つた。 「併し崇拜すべき教授であり、又まことに崇高な精神ではありませんか。 それほどに科學に對して、精神的な愛好を傾け得る人が他にどれほどあるでせうか。」

「少くとも、ラッパッチーニの執つた見解よりは、治療術といふもつと健全な見解を執るのでなかつたら……。 あゝ、神よ禁じ給へ。」と、教授はやゝ急き立つて答へた。「あらゆる醫學的效力は、 我々が植物毒劑と呼ぶものゝ内に含蓄されてゐるといふのが、彼の理論である。 彼は自分の手づから植物を培養して、自然に生ずるよりは遙に有害な種々の恐ろしい新毒藥を作つたとさへ言はれてゐる。 それらのものは彼が直接に手を下さずとも、永遠にこの世に(わざはひ)するものである。 醫者たる者がかくのごとき危險物を用ひて、豫想外よりも[注:豫想よりも/豫想外に]害毒の少い事[の]あるのは、 否定し得ないことである。時々に彼の治療が驚くべき偉效を奏し、あるひは奏したやうに見えたのは、 我々も認めて遣らなければなるまい。しかしヂョヴァンニ君。打明けて言へば、 もし彼が -- 正に自分が行なつたと思はれる失敗に對して、嚴格に責任を負ふならば、 彼は僅かの成功の例に對しても、殆ど信用を受くるに足らないのである。 まして、その成功とても恐らく偶然の結果に過ぎなかつたのであらう。」

若しこの青年が、バグリオーニとラッパッチーニの間に專門的の爭ひが長く續いてゐて、 その爭ひは一般にラッパッチーニの方が有利と考へられてゐたことを知つてゐたならば、 バグリオーニの意見を大いに斟酌したであらう。若し又、讀者諸君がみづから判斷を下してみたいならば、 パドゥア大學の醫科に藏されてゐる兩科學者の論文を見るがよい。

ラッパッチーニの極端な科學研究熱に關して語られたところを、よく考へてみた後に、ヂョヴァンニは答へた。

「よく判りませんが、先生。あの人はどれほど醫術を愛してゐるか、私には判りませんが、 確にあの人に取つてもつと愛するものがある筈です。あの人には、ひとりの娘があります。」

「はゝあ。」と、教授は笑ひながら叫んだ。「それで初めて君の祕密がわかつた。 君はその娘のことを聞いたのだね。あの娘に就いてはパドゥアの若い者はみな大騷ぎをしてゐるのだが、 運好くその顏を見たといふ者は、まだほんの幾人も無い[。]ベアトリーチェ孃については、 私はあまりよく知らない。ラッパッチーニが自分の學問を彼女に十分に教へ込んだといふことと、 彼女は若くて美しいといふ噂だが、已に教授の椅子に着くべき資格があるといふことと、唯それだけを聞いてゐる。 恐らく彼女の父は、將來わたしの椅子を彼女のものにしようと決めてゐるのだらう。 他にまだ詰まらない噂は二三あるが、言ふ價値もなく、聞く價値も無いことだ。 では、ヂョヴァンニ君。赤葡萄酒の盃を乾し給へ。」

ヂョヴァンニは飮んだ(ワイン)にやゝ熱くなつて、自分の下宿へもどつた。 (ワイン)のために、彼の頭はラッパッチーニと美しいベアトリーチェに就いて、 いろ〜の空想を逞しうした。歸る途中で偶然に花屋のまへを通つたので、彼は新しい花束を一つ買つて來た。

彼は自分の部屋に上つて、窓の側に腰をおろしたが、自分の影が窓の壁の高さを超えないやうにした。 それで、彼は殆ど發見される危險もなしに庭を見下すことが出來た。 眼の下に人の影はなかつたが、彼の不思議な植物は日光に(ぬく)まりながら、 時々に恰も同情と親しみとを表はすかのやうに、靜かに首肯(うなづ)き合つてゐた。 庭園の中央の(くづ)れた噴水のほとりには、それを覆ふやうに群がる紫色の花をつけて、 目ざましい灌木が生えてゐた。花は空中に輝き、それが池水(プール)の底に映じて再びきら〜と照り返すと、 池の水はその強い反射で、色のついた光を帶びて溢れ出るやうにも見えた。

最初(はじめ)は前に言つたやうに、庭には人影がなかつた。しかし間もなく -- この場合、 ヂョヴァンニが半ば望み、半ば恐れた如く -- 人の姿が古風の模樣のある入り口の下にあらはれた。 さうして、植物の列をなしてゐる間を歩み來ながら、甘い香を食べて生きてゐたといふ古い物語のうちの人物のやうに、 植物のいろ〜の香氣は[注:香氣をの誤りか?]彼女は吸つてゐた。 再びベアトリーチェをみるに及んで、青年が一層驚いたのは、彼女がその記憶よりも遙かに美しいことであつた。 彼女は太陽の光のうちに輝き、又ヂョヴァンニが(ひそ)かに思つてゐた通り、 庭の小徑の影の多いところを明るく照らすほどに、その人は光り輝いてゐるのであつた。

彼女の顏は前の時よりも、一層はつきりと現はれた。さうして彼は天眞爛漫な柔和な娘の表情に、 いたく心を打たれた。こんな性質を彼女が所有してゐやうとは、彼の考へ及ばないところであつたので、 彼女が一體どんな(たち)の人であらうかと、彼は新たに想像してみるやうになつた。 彼は忘れもせずに、この美しい娘と、噴水の下に寶石のやうな綺麗な花を咲かせてゐる灌木と、 この兩者の類似點を再び觀察し、想像するのであつた。 -- この類似は、彼女の衣服の飾附けと、 その色合の選擇とに因つて、ベアトリーチェが(いや)が上にも空想的氣分を高めたからであつた。

灌木に近づくと、彼女は恰も熱烈な愛情を有してゐるかのやうに、その兩腕を大きく開いて、 その枝をひき寄せて、いかにも親しさうに抱へた。その親しさは、彼女の顏をその葉の中に隱し、 きらめく縮れ毛は皆その花に混つて埋められてしまふ程であつた。

「妾の姉妹(マイ・シスター)!あなたの息をわたしに下さい。」と、ベアトリーチェは叫んだ。 「わたしはもう、普通の空氣が(いや)になつたのですから。 -- さうしてあなたのこのお花を下さいな。 わたしはきつと大事に枝を折つて、わたしの(ハート)の側にちやんと附けて置きます。」

かう言つて、ラッパッチーニの美しい娘は灌木の最も美しい花の一輪をとつて、 自分の胸に附けようとした。併しこの時、あるひは(ワイン)のためにヂョヴァンニの意識が混亂してゐたのかも知れないが、 若しさうでないとすれば、實に不思議なことが起つた。 小さい(オレンジ)色の蜥蜴かカメレオンのやうな動物が小徑を這つて偶然にベアトリーチェの足もとへ近寄つて來たのである。 ヂョヴァンニが見てゐる所は遠く離れてゐて、そんなに小さなものは到底見えなかつたであらうと思はれるが、 併し彼の眼には、花の切口から一二滴の液體が蜥蜴の頭に落ちたと見えたのである。 すると、その動物は忽ち荒々しく體をゆがめて、日光の(もと)に動かなくなつてしまつた。 ベアトリーチェはこの驚くべき現象をみて、悲しさうではあつたが格別に驚きもせず、しづかに十字を切つた。 それから彼女は躊躇もせずに、その恐ろしい花を取つて自分の胸につけると、 花はまた忽ちに(くれなゐ)となつて、殆ど寶石も同樣にきら〜と輝いて、 この世の何物も與へられないやうな獨特の魅力を、その衣服や容貌に與へるのであつた。 ヂョヴァンニは吃驚して、窓のかげから差出してゐた首を急に引込めて、慄へながら獨り言を言つた。

「俺は眼が覺めてゐるのだらうか。意識を持つてゐるのだらうか。一體、あれは何だらう。 美しいと言つて好いのか、それとも大變に怖ろしいと言ふのか。」

ベアトリーチェは何の氣も付かないやうに、庭をさまよひ歩きながらヂョヴァンニの窓の下へ近づいて來たので、 彼女に刺戟された痛烈の好竒心を滿足させるためには、彼はそこから首を突き出さなければならなかつた。 恰もその時に庭の垣根を越えて、一匹の美しい蟲が飛んで來た。 恐らく市中を迷ひ暮らしてラッパッチーニの庭の灌木の強い香氣に遠くから誘惑されるまでは、 どこにも新鮮な花を見出すことが出來なかつたのであらう。

この輝く蟲は花には降りずに、ベアトリーチェに心を惹かれてか、 やはり空中をさまよつて彼女の頭のまはりを飛び廻つてゐた。 これはどうしてもヂョヴァンニの見誤りに相違なかつたのであるが、兎も角も彼はかう想像したのである。 ベアトリーチェが子供らしい樂しみを以て蟲をながめてゐると、その昆虫はだん〜に弱つて來て、 その足下(あしもと)に落ちた。さうして、その光つてゐる羽を震はしてゐるかと見るうちに、 たうとう死んでしまつた。それがどういふ譯であるのか、彼には判らなかつたが、 恐らく彼女の息に觸れたがためであらう。ベアトリーチェは再び十字を切つて、蟲の死骸の上にかゞんで深い溜息をついた。

ヂョヴァンニはいよ〜驚いて、思はず身動きをすると、それに氣がついて彼女は窓を見あげた。 彼女は青年の美しい頭 -- 伊太利式よりは寧ろギリシャ型で、美しく整つた容貌と、 かゞやく金髮の捲毛とを持つてゐた -- その頭が中空にさまよつてゐたかの蟲のやうに、 彼女を一心に見詰めてゐるのを知つた。ヂョヴァンニは今まで手に持つてゐた花束を殆ど無意識に投げ下した。

「お孃さん。」と、彼は言つた。「こゝに清い健全な花があります。 どうぞヂョヴァンニ・グァスコンティのために、その花をおつけ下さい。」

「有難うございます。」と、恰も一種の音樂のあふれ出るやうな豐かな聲をして半分は子供らしく、 半分は女らしい、嬉しさうな表情でベアトリーチェは答へた。 「あなたの贈物を頂戴いたします。そのお禮に、この美しい紫の花を差上げたいのですが、 わたしが投げてもあなたのところまでは屆きません。グァスコンティ樣、 お禮を申上げるだけで、どうぞおゆるし下さい。」

彼女は地上から花束を取り上げた。未知の人の挨拶に答へるなど、 娘らしい愼しみを忘れたのを内心恥づるかのやうに、彼女は庭を過ぎて足早に家の中へ這入つてしまつた。 それは僅かに數秒間のことであつたが、彼女の姿が入口の下に見えなくならうとしてゐる時、 彼の美しい花束が已に彼女の手のうちで(しを)れかゝつてゐるやうに見えた。 しかし、それは愚かな想像で、それほど離れたところにあつて、 新鮮な花の(しぼ)んでゆくことなどが何うして認められるであらう。

このことがあつて後、しばらくの間、青年はラッパッチーニの庭園に面してゐる窓口に行くことを避けた。 若しその庭を見たらば、何か(いや)な醜怪な事件が、重ねて彼の眼に映るであらうと思つたやうであつた。 彼はベアトリーチェと知合になつたがために、何か解し難いやうな或る力の影響をうけてゐることを、 自分ながら幾分か氣が付いた。若し彼の心に本當の危險を感じてゐるならば、 最も賢明なる策はこのパドゥアを一度離れることであらう。 第二の良策は、日中に見たところのベアトリーチェの親しげな樣子に出來るだけ慣れてしまつて、 彼女を極めて普通の女性と思ふやうになることであらう。殊に彼女を避けてゐる間、 ヂョヴァンニへは[注:ヂョヴァンニはの誤り]この異常なる女性に斷然接近してはならない。 彼女と親しい交際が出來うにでもなつたらば、絶えず想像を逞しうしてゐる彼の氣紛れが、 いつか眞實性を帶びて來る(おそ)れがあるからである。

ヂョヴァンニは、深い心を持たずして -- 今それを測つてみたのではないが -- 敏速な想像力と、 南部地方の熱烈な氣性とを持つてゐた。この性質はいつでも熱病の如くに(たか)まるのである。 ベアトリーチェが恐るべき特質 -- 彼が目撃したところによれば、その恐ろしい呼吸とか、 美しい有毒の花に似てゐるとか言ふこと -- それらの特質を持つてゐると否とに拘はらず、 彼女は少くとも、非常に猛烈な不可解の毒藥をその體のうちに沁み込ませてしまつたのである。 彼女の濃艷(のうえん)は彼の心を狂はせるが、それは愛ではない。 彼は又、彼女の肉體に漲るやうに見える如く、彼女の精神にも同じ有毒の原素が沁み込んでゐると想像してゐるが、 それは恐怖でもない。それは愛と恐怖との二つが生んだもので、しかもその二つの性質を具へてゐるものである。 即ち愛のごとくに燃え、恐怖の如くに顫へるところのものである。

ヂョヴァンニは何を恐るべきかを知らず、又それにも増して何を望むべきかをも知らなかつた。 而も希望と恐怖とは絶えずその胸のうちで爭つてゐた。(かは)る〜゛に、他の感情を征服するかと思へば、 又起つて戰ひを新たにするのである。暗いと明るいとを問はず、 いづれにしても單純なる感情は幸福である。赫々(かう〜)たる地獄の火焔(ほのほ)を噴くものは、 二つの感情の物凄い(もつ)れである。

時々に彼はパドゥアの街や郊外を無暗(むやみ)に歩きまはつて、熱病のやうな精神を鎭めようと努めた。 その歩みは頭の動悸と歩調を合せたので、さながら競爭でもしてゐるやうに段々に速くなつて行くのであつた。 ある日、彼は途中で或人に(さへぎ)られた。ひとりの人品卑しからぬ男が彼を認めて引返し、 息を切りながら彼に追ひついて、その腕を取つたのである。

「ヂョヴァンニ君。おい、君。ちよつと待ち給へ。君は、僕を忘れたのか。僕が君のやうに若返つたとでも言ふのなら、 忘れられても仕方がないが……。」と、その人は呼びかけた。

それはバグリオーニ教授であつた。この教授は悧口な人物で、 餘りに深く他人の祕室を見透し過ぎるやうに思はれたので、彼は初對面以來、この人をそれとなく避けてゐたのである。 彼は自己の内心の世界から外部の世界をぢつと眺めて、 自己の妄想から眼覺めようと努めながら、夢みる人のやうに言つた。

「はい、私はヂョヴァンニ・グァスコンティです。そうして貴方は、ピエトロ・バグリオーニ教授。 では、さやうなら。」

「いや、まだ、まだ、ヂョヴァンニ・グァスコンティ君。」と、 教授は微笑と共に青年の樣子を熱心に見つめながら言つた。 「何うしたことだ。僕は君のお父さんとは仲好く育つたのに、その息子はこのパドゥウア[注:パドゥアの誤り]の街で僕に逢つても、 知らぬ振りをして行き過ぎても好いのかね。ヂョヴァンニ君。別れる前に一言話したいから、まあ、待ちたまえ。」

「では、早く……。先生、どうぞお早く……。」と、ヂョヴァンニは、非常にもどかしさうに言つた。 「先生、私が急いでゐるのがお見えになりませんか。」

彼がかう言つてゐるところへ、黒い着物を着た男が、健康の(すぐ)れぬ人のやうに前屈みになつて、 弱々しい形で辿つて來た。その顏は全體に甚だ病的で土色を帶びてゐたが、 鋭い積極的な理智の閃きが漲つてゐて、見る者はその單なる肉體的の虚張[注:虚勞の誤り?]を忘れて、 たゞ驚くべき精力を認めたであらう。彼は通りがかりに、 バグリオーニと遠くの方から冷やかな挨拶を取交したが、 彼はこの青年の内面に何か注意に値すべきものあらば、何物でも身透さずには置かぬと言つたやうな鋭い眼を以て、 ヂョヴァンニの上に(きつ)と注がれた。それにも拘はらず、その容貌には獨特の落着があつて、 この青年に對しても人間的ではなく、單に思索的興味を感じてゐるやうに見られた。

「あれが、ドクトル・ラッパッチーニだ。」と、彼が行つてしまつた時に教授はさゝやいた。 「彼は君の顏を知つてゐるのかね。」

「私は知つてゐるといふ譯ではありません。」と、ヂョヴァンニはその名を聞いて驚きながら答へた。

「彼の方では確に君を知つてゐるよ。彼は君を見たことがあるに違ひない。」と、 バグリオーニは急き込んで言つた。「何かの目的で、あの男は君を研究してゐる。 僕はあの樣子で判つたのだ。彼が或る實驗のために、ある花の匂ひで殺した鳥や鼠や蝶などに臨む時、 彼の顏に冷たく現はれるものと全く同じ感じだ。その容貌は自然その物の如くに深味を有つてゐるが、 自然の持つ愛の暖か味はない。ヂョヴァンニ君。君は(きつ)とラッパッチーニの實驗の一材料であるのだ。」

「先生。あなたは僕を馬鹿になさるのですか。そんな不運な實驗だなどと……。」と、ヂョヴァンニは怒氣を含んで叫んだ。

「まあ、君、待ち給へ。」と、執拗な教授は繰りかへして言つた。 「それはね、ヂョヴァンニ君。ラッパッチーニが君に學術的興味を感じたのだよ。 君は恐ろしい魔手に捉はれてゐるのだ。さうして、ベアトリーチェは -- 彼女はこの祕密に就いてどういふ役割を勤めるのかな。」

併しヂョヴァンニはバグリオーニ教授の執拗に堪へ切れないで、逃げ出して、 教授がその腕を再び捉へようとした時には、もう其處にはゐなかつた。 教授は青年のうしろ姿を瞬きもせずに見つめて、頭を振りながら獨り言を言つた。

「こんな筈ではないが……。あの青年は、俺の舊友の息子だから、おれは醫術によつて保護し得る限りは、 如何なる危害をも彼に加へさせない積りだ。それに又、おれに言はせると、 ラッパッチーニがあの青年を俺の手から奪つて、彼の憎むべき實驗の材料にするなどとは、 餘りにひどい仕方だ。彼の娘も監視すべきだ。最も博學なるラッパッチーニよ。 俺は多分お前を夢にも思はないようなところへ追ひ遣つてしまふであらう。」

ヂョヴァンニは廻り道をして、遂にいつの間にか自分の宿の入口に來てゐた。 彼が入口の閾をまたいだ時に、老婦人のリザベッタに出逢つた。 彼女はわざと作り笑ひをして、彼の注意を惹かうと思つたが、 彼の沸き立つた感情はすぐに冷靜になつて、やがて茫然と消えてしまつたので、 その目的は逹せられなかつた。彼は、微笑を湛へた皺だらけの顏の方へ眞正面に眼を向けてはゐたが、 その顏を見てゐるやうには思は[れ]なかつた。そこで、老婦人は彼の外套を掴んだ。

「もし、あなた、貴方」と、彼女は囁いた。 その顏にはまだ一面に微笑を湛へてゐたので、彼女の顏は幾世紀を經て薄汚くなつた怪異な木彫のやうに見えた。 「まあお聽きなさい。庭へ這入るのには、祕密の入口があるのでございますよ。」

「何だつて……。」と、ヂョヴァンニは無生物が、生命を吹き込まれて飛び上がるやうに、 急に振返つて叫んだ。「ラッパッチーニの庭へ這入る祕密の入口……。」

「しつ、しつ。そんなに大きな聲をお出しになつてはいけません。」と、 リザベッタはその手で、彼の口を蔽ひながら言つた。「左樣でございます。 あの偉い博士樣のお庭に這入る祕密の入口でございます。そのお庭では、 立派な灌木の林がすつかり見られます。 パドゥウア[注:パドゥアの誤り]の若いかたたちは、みんなその花の中に入れて貰はうと思つて、お金を下さるのでございます。」

ヂョヴァンニは金貨一個を彼女の手に握らせた。

「その道を教えて呉れ給へ。」と、彼は言つた。

たぶんバグリオーニとの會話の結果であらうが、このリザベッタ婦人の橋渡しは、 ラッパッチーニが彼を捲き込まうとしてゐると教授が想像してゐるらしい陰謀 -- それが如何なる性質のものであつても -- と、何か關連してゐるのではないかといふ疑ひが、 彼の心を(かす)めた。しかしかうした疑ひは、ヂョヴァンニの心を一旦かき亂したものゝ、 彼を抑制するには不十分であつた。ベアトリーチェに接近することが出來るといふことを知つた刹那、 さうすることが彼の生活には絶對に必要なことのやうに思はれた。 彼女が天使であらうと、惡魔であらうと、そんなことはもう問題ではなかつた。 彼は絶對に彼女の掌中にあつた。さうして、彼は永久に小さくなり行く圈内に追ひ込まれて、 遂には、彼が豫想さへもしなかつた結果を招くやうな法則に、從はなければならなかつた。

而も不思議なことには、彼は(には)かにある疑ひを起した。 自分のこの強い興味は、幻想ではあるまいか。かういふ不安定の位置にまで突進しても差支へないと思はれるほどに、 それが深い確實な性質のものであらうか。それは單なる青年の頭腦の妄想で、 彼の心とはほんの僅かな關係があるに過ぎないか、又は全然無關係なのではあるまいか。 彼は疑つて、躊躇して(あと)りを戻しかけたが、再び思ひ切つて進んで行つた。 皺だらけの案内人は幾多の判りにくい小徑を通らせて、遂に或るドアを開くと、 木の葉がちら〜と風にゆらいで、日光が葉がくれにちら〜と輝いてゐるのが見えた。 ヂョヴァンニは更に進んで、隱れた入口の上を蔽つてゐる灌木の蔓が絡みつくのを押退(おしの)けて、 ラッパッチーニ博士の庭の廣場にある自分の窓の下に立つた。

我々は屡々經驗することであるが、不可能と思ふやうなことが起つたり、 今まで夢のやうに思つてゐたことが實際に現はれたりすると、 歡樂又は苦痛を豫想して殆ど、夢中になるやうな場合でも、却つて落着きが出て、 冷かなるまでに大膽になり得るものである。運命はかくの如く我々に逆ふことを喜ぶ。 かういふ場合には、情熱が時を得顏にのさばり出て、 それが丁度いゝ工合に事件と調和する時には、いつまでもその事件の蔭に(とゞこほ)つてゐるものである。

今のヂョヴァンニは、恰もさういふ状態に置かれてあつた。 彼の脈搏は毎日熱い血潮で波打つてゐた。彼はベアトリーチェに逢つて、 彼女を美しく照らす東洋的な日光を浴びながら、この庭で彼女と向ひ合つて立ち、 彼女の顏を飽までも眺めることに依つて、彼女の生活の謎になつてゐる祕密を掴まうと、 出來さうもないことを考へてゐた。而も今や彼の胸には、不思議な、時ならぬ平靜が湧いてゐた。 彼はベアトリーチェか又はその父がそこらにゐるかと思つて、 庭のあたりを見廻したが、まつたく自分獨りであるのを知ると、更に植物の批評的觀察をはじめた。

或る植物 -- 否、すべての植物の姿態が彼には不滿であつた。 その絢爛なることも餘りに強烈で、情熱的で、殆ど不自然と思はれるほどであつた。 たとへば、獨りで森の中をさまよつてゐる人が、恰もその茂みの中からこの世の者とも思はれぬ顏が現はれて、 ぢろりと睨まれた時のやうに、その不氣味な姿に驚かされない灌木は殆どなかつた。 又、あるものは種々の科に屬する植物を混合して作り出したかと思はれるやうな、 人工的の形状で、感じ易い本能を刺戟した。それは最早神の創造したものではなく、 單に人間がその美を下手に摸倣して墮落した考へに依つて作りあげたものに過ぎなかつた。 これらは恐らく一二の實驗の結果、個々の植物を混合して、この庭の全植物と異つた、 不思議な性質を具へたものに作り上げることに於いて成功したのであらう。 ヂョヴァンニは唯二三の植物を集めてみたが、それは彼が有毒植物といふことを(かね)て熟知してゐる種類のものであつた。

こんな考察に耽つてゐる時、彼はふと衣ずれの音を聞いた。 ふりかへつて見ると、それはベアトリーチェが、彫刻した入口の下から現れ出たのであつた。

ヂョヴァンニはこの際いかなる態度をとるべきものか。庭園に闖入した申し譯をすべきものかどうか。 又みづから望んだことではなくても、少くともラッパッチーニとその娘には無斷でこゝへ立入つたことを自認すべきものかどうか。 そんなことは別に考へてゐなかつたので、その瞬間少しく慌てたが、ベアトリーチェの態度を見るにつけて彼の心はやゝ落着いた。 尤も誰の案内でこゝに入ることを許されたかといふことになれば、猶そこに一種の不安がないでもなかつた。 彼女は小徑を輕く歩んで來て、(こは)れた噴水のほとりで彼に出逢つて、 流石に驚いたやうな顏をしてゐたが、又その顏は親切な愉快な表情に輝いてゐた。

「あなたは花の鑑識家でございますね。」とベアトリーチェは彼が窓から投げてやつた花束を指して微笑みながら言つた。 「それですから、父の集めた珍しい花に誘惑されて、もつと近寄つて見たいとお思ひになるのも不思議はありません。 若し父が此處に居りましたら、自然や[注:青空文庫版では「自然や」が拔けている]斯ういふ灌木の性質や習慣などについて、 色々な不思議な面白いことをお話し申上げることが出來ませうに……。 父はさういふ研究に一生涯を費しました。さうして、この庭が父の世界なのでございます。」

「あなたもさうでせう。」と、ヂョヴァンニは言つた。「世間の評判によると、 あなたも澤山の花や好い匂ひについて、隨分御造詣が深いさうではありませんか。 如何です、わたしの先生になつて下さいませんか。さうすると、 わたしはラッパッチーニ先生の教へを受けるよりも、もつと熱心な學生になるものですが……。」

「そんな好加減な噂があるのでせうか。」と、ベアトリーチェは音樂的な愉快な笑ひ方をして訊いた。 「わたくしが父に似て植物學に通じてゐるなどと、世間では言つて居りますか。 まあ、冗談でせう。わたくしはこの花の中に育ちましたけれど、色と匂ひの外には何にも存じませんのです。 その貧弱な智識さへも時々に失くなつてしまふやうに思ふことがあります。 こゝには澤山たの花があつて、餘りにけば〜しいので、 それを見るとわたくしは何だか忌々(いま〜)しくなつて來ます。 しかし貴方、かうした學術に關するわたくしの話は、どうぞ信用して下さらないように……。 貴方の御自分の眼で御覽になることの外は、わたくしの言ふことなどは何にも御信用なさらないで下さい。」

「わたしは自分の眼で見たものを總て信じなければならないのですか。」と、 ヂョヴァンニは以前の光景を思ひ出して逡巡(しりごみ)しながら、聲を尖らして訊いた。 「いゝえ、あなたはわたくしに求めなさ過ぎます。どうぞ、あなたの脣から漏れること以外は信じるなと言つて下さい。」

ベアトリーチェは彼の言ふことを理解したやうに見えた。彼女の頬は眞紅(まつか)になつた。 しかも彼女はヂョヴァンニの顏をぢつと眺めて、 彼が不安らしい疑惑の眼を以て見てゐるのに對して、さながら女王のやうな傲慢を以て見返した。

「では、さう申しませう。貴方がわたくしのことをどうお考へになつてゐたとしても、それは忘れて下さい。 たとひ外部の感覺は本當であつても、その本質に於いて相違してゐるところがあるかもし知れません。 けれども、ベアトリーチェ・ラッパッチーニの脣から出る言葉は、 心の奧底から出る眞實の言葉ですから、貴方はそれを信じて下すつても宜しいのです。」

彼女の容貌には熱誠が輝いてゐた。その熱誠は眞實そのものゝ光のやうにヂョヴァンニの意識の上にも輝いた。 併し彼女がそれを語つてゐる間、その周圍の空氣のうちには、消え易くはあるが豐かな好い匂ひが漂つてゐたので、 この青年は何とも知れぬ反感から、努めてその空氣を吸はないやうにしてゐた。

その匂ひは花の香りであらう。而も彼女の言葉をさながら胸の奧にたくわへてあつたかのやうに、 かくも不思議の豐富にしたのは、ベアトリーチェの呼吸であらうか[。] 一種の臆病心は影のやうにヂョヴァンニの胸から飛び去つてしまつた。 彼は美しい娘の眼を通して、水晶のやうに透きとほつたその魂を見たやうに思つて、 もはや何の疑惑も恐怖も感じなかつた。

ベアトリーチェの態度にあらはれてゐた情熱の色は消えて、彼女は快濶になつた。 さうして、孤島の少女が文明國から來た航海者と談話を交へて感ずるやうな純な歡びが、 この青年との會合によつて彼女に新しく湧き出したやうに思はれた。

明かに彼女の生涯の經驗は、その庭園内に限られてゐた。 彼女は日光や夏の雲のやうな、單純な事物について話した。 又、都會のことや、ヂョヴァンニの遠い家や、その友人、母親、姉妹(きやうだい)などに就いて尋ねた。 その質問はまつたく浮世離れのした、流行などと言ふことゝは全く掛け離れたものであつたので、 ヂョヴァンニは赤ん坊に話して聞かせるやうな調子で答へた。

彼女は今や初めて日光を仰いだ新しい小川が、その胸に映る天地の反映に驚異を感じてゐるやうな態度で、 彼の前にその心を打明けた。また、深い水源(みなもと)からは色々の考へが湧き出して、 恰も金剛石(ダイヤモンド)紅玉(ルビー)がその泉の泡の中からでも光り輝くやうに、 寶石の光を持つた空想が湧き出した。 青年の心にはをり〜に懷疑の念が閃いた。彼は兄妹(きやうだい)のやうに話を交へて、 彼女を人間らしく、乙女らしく思はせようとするやうな或る者と、相竝んで歩いてゐるのではないかと思つた。 その人間には怖ろしい性質の現はれるのを彼は實際に目撃してゐるのであつて、 その恐怖の色を理想化してゐるのではないかと思つた。而もかうした考へはほんの一時的のもので、 彼女の非常に眞實なる性格の力は、容易に彼を親しませるやうになつたのである。

かういふ自由な交際をして、彼等は庭中をさまよひ歩いた。 竝木の間を幾度(いくたび)も廻り歩いた後に、(こは)れた噴水のほとりに來ると、 その傍には目ざましい灌木があつて、美しい花が今を盛りと咲き誇つてゐた。 その灌木からはベアトリーチェの呼吸から出るのと同じやうな一種の匂ひが散つてゐたが、 それは比較にならない程に一層強烈なものであつた。彼女の眼がこの灌木に落ちた時、 ヂョヴァンニは彼女の心臟が急に激しい鼓動を始めたらしく、苦しさうにその胸を片手で押へるのを見た。

「わたしは今までに初めてお前のことを忘れてゐたわ。」と、彼女は灌木に囁きかけた。

「わたしが大膽にあなたの足もとへ投げた花束の代りに、 あなたはこの生きた寶の一つをやらうと約束なすつたのを覺えてゐます。 今日お目にかゝつた記念に、今それを取らせて下さい。」と、ヂョヴァンニは言つた。

彼は灌木の方へ一歩進んで手を延すと、ベアトリーチェは彼の心臟を刄で貫くやうな鋭い叫び聲をあげて駈け寄つて來た。 彼女は男の手を掴んで、かよわい身體に全力をこめて引き戻したのである。 ヂョヴァンニは彼女に觸られると、全身の纖維が突き刺されるやうに感じた。

「それに觸れてはいけません。あなたの命がありません。それは恐ろしいものです。」と、彼女は苦惱の聲を張りあげて叫んだ。

さう言つたかと思ふと、彼女は顏を掩ひながら男のそばを離れて、彫刻のある入口の下に逃げ込んでしまつた。 ヂョヴァンニはその後姿を見送ると、そこには、ラッパッチーニ博士の痩せ衰へた姿と蒼ざめた魂とがあつた。 どのくらゐの時間かは判らないが、彼は入口の蔭にあつてこの光景を眺めてゐたのであつた。

ヂョヴァンニは自分の部屋に唯ひとりとなるや否や、初めて彼女を見た時以來、 遂に消え失せない有りたけの魅力と、それに今では又、 女性らしい優しい温情に包まれたベアトリーチェの姿が、 彼の情熱的な瞑想のうちに蘇つてきた。彼女は人間的であつた。 彼女はすべての優しさと、女らしい性質とを賦與されてゐた。 彼女は最も崇拜に値する女性であつた。彼女は確に高尚な勇壯な愛を持つことが出來た。 彼がこれまで彼女の身體及び人格の著しい特徴と考へてゐた種々の特性は、 今や忘れられてしまつたのか。或は巧妙なる情熱的詭辯によつて魔術の金冠のうちに移されてしまつたのか。 彼はベアトリーチェをます〜賞讚すべきものとし、ます〜比類なきものとした。 これまで醜く見えてゐた總てのものが、今はこと〜゛く美しく見えた。若し又かゝる變化があり得ないとしても、 醜いものは(ひそ)かに忍び出て、 晝間は完全に意識することの出來ないやうな薄暗い場所に群がる漠然とした考へのうちに影をひそめてしまつた。 かうして、ヂョヴァンニはその一夜を過ごしたのである。彼はラッパッチーニの庭を夢みて、 曉がその庭に眠つてゐる花をよび醒ますまでは、安らかに眠ることができなかつた。

時が來ると日は昇つて、青年の眼瞼(まぶた)にその光を投げた。彼は苦しさうに眼をさました。 全く醒めた時、彼は右の手に火傷をしたやうな、ちく〜した痛みを感じた。 それは彼が寶石のやうな花を一つ取らうとした刹那に、ベアトリーチェに握られたその手であつた。 手の裏には、四本の指の(あと)のやうな紫の痕があつて、拳の上には細い拇指の痕らしいものもあつた。

愛は如何に強きことよ。 -- たとひそれが想像の中にのみ榮えて、 心の奧底までは搖り動かさないやうな、表部(うはべ)ばかりの贋ひ物であつたとしても -- 薄い霞のやうに消えてゆく最後の瞬間までも、如何に強くその信念を持續することよ。 ヂョヴァンニは自分の手にハンカチーフを卷いて、どんな(わざはひ)が起つて來るかと憂ひたが、 ベアトリーチェのことを思ふと、彼はすぐにその痛みを忘れてしまつたのである。

第一の會合の後、第二の會合は實に運命ともいふべき避けがたいものであつた。 それが第三囘、第四囘と度重なるにつれて、 庭園におけるベアトリーチェとの會合は最早ヂョヴァンニの日常生活に於ける偶然の出來事ではなくなつて、 その生活の全部であつた。彼が獨りで居る時は、嬉しい逢瀬の豫想と囘想とに耽つてゐた。 ラッパッチーニの娘も矢張りそれと同じことであつた。彼女は青年の姿のあらはれるのを待ちかねて、 その傍へ飛んで行つた。彼女は彼が赤ん坊時代からの親しい友逹で、今でもさうであるかのやうに、 なんの遠慮もなしに大膽に振舞つた。若し何かの場合で、稀に約束の時間までに彼が來ないときは、 彼女は窓の下に立つて、室内にゐる彼の心に反響するやうな甘い調子で呼びかけた。

「ヂョヴァンニ……。ヂョヴァンニ……。何をぐず〜してゐるの。降りていらつしやいよ。」

それを聞くと、彼は急いで飛び出して、毒のあるエデンの花園に降りて來るのであつた。

これ程の親しい間柄であるにも拘らず、ベアトリーチェの態度には、猶打ち解け難い點があつた。 彼女はいつも行儀の好い態度を取つてゐるので、それを破らうといふ考へが男の想像のうちには起きない程であつた。 すべての外面上の事柄から觀察すると、彼等は確に相愛の仲であつた。彼等は路傍(みちばた)で囁くには、 餘りに神聖であるかのやうに、互ひの祕密を心から心へと眼で運んだ。 彼等のこゝろが永く祕められてゐた火焔(ほのほ)の舌のやうに、言葉となつてあらはれ出る時には、 情熱の燃ゆるがまゝに戀を語ることさへもあつた。それでも接吻や握手や、 又は戀愛が要求し神聖視するところの輕い抱擁さへも試みたことはなかつた。 彼は彼女の輝いたちゞれ毛の一筋にも手を觸れたことはなかつた。 彼の前で彼女の着物は微風に動かされることさへもなかつた。 それほどに彼等の間には、肉體的の牆壁が著るしかつた。

まれに男がこの限界を超えるやうな誘惑を受けるやうに思はれた時には、 ベアトリーチェは非常に悲しさうな、又非常に嚴格な態度になつて、 身を顫はせて遠く離れるやうな樣子を見せた。さうして彼を近づけない爲に、 なんにも口を利かない程であつた。こんな時には、彼は心の底から湧き出て來て、 ぢつと彼の顏を眺めてゐる、不氣味な恐ろしい疑惑の念に驚かされるので、 その戀愛は朝の(もや)のやうに薄れて行つて、その疑惑のみが跡に殘つた。 而も瞬間の暗い影の後に、ベアトリーチェの顏が再び輝いた時には、 彼がそれ程の恐怖を以て眺めた不思議な人物とはすつかり變わつてゐた。 彼が知つてゐる限りでは、彼女は確に美しい初心(うぶ)な處女であつた。

ヂョヴァンニが(さき)にバグリオーニ教授に逢つてからは、かなりに時日(じじつ)が過ぎた。 ある朝、彼は思ひがけなく、この教授の訪問を受けて不快に思つた。彼はこの數週間、 教授のことなどを思ひ出しても見なかつたのみならず、(いつ)そいつまでも忘れてゐたかつた。 彼は長く打續く刺戟に疲れてはゐたが、自分の現在の感激状態に心から同情して呉れる人でなければ逢ひたくなかつた。 併しこんな同情は、バグリオーニ教授に期待することは出來なかつた。教授は暫らくの間、 市中のことや大學のことなどについて噂話をした後に、他の話題に移つて行つた。

「僕は、この頃、ある古典的(クラシツク)な著者のものを讀んでゐるが、 その中で非常に興味のある物語を見付けたのだ。」と、彼は言つた。 「君も或は思ひ出すかも知れないが、それはある印度の皇子(くわうし)の話だ。 彼はアレキサンダー大帝に一人の美女を贈つた。彼女は曉のやうに愛らしく、夕暮れのやうに美しかつたが、 非常に他人と異つてゐるのは、その息がペルシャの薔薇の花園よりもなほ芳はしい、 一種の馥郁(ふくいく)たる香氣を帶びてゐることであつた。 アレキサンダーは、若い征服者によくあり勝ちなことであるが、 この美しい異國の女をひと目見ると忽ちに戀に落ちてしまつた。 而も偶然その場に居合せた或る賢い醫者が彼女に關する恐ろしい祕密を見破つたのだ。」

「それはどういふことだつたのですか。」と、ヂョヴァンニは教授の眼を避けるやうに、伏目落ちに訊いた。

バグリオーニは言葉を強めて語りつゞけた。

「この美しい女は、生れ落ちると[き?]から毒藥で育てられて來たのだ。そこで、 彼女の本質には毒が浸み込んで、その身體は最も甚しい有毒物となつた。 つまり、毒藥が彼女の生命の要素になつてしまつたのだ。 その毒素の匂ひを彼女は空中に吹き出すのであるから、彼女の愛は毒藥であつた -- 彼女の抱擁は死であつた。まあかう言ふことだが、何と君、實に不思議な驚くべき物語ではないか。」

「子供だましのやうな話ではありませんか。」と、 ヂョヴァンニは苛々(いら〜)したやうに椅子から立上つて言つた。 「尊敬すべき貴方が、もつと眞面目な研究もありませうに、 そんな馬鹿馬鹿しい物語をお望みになる暇があるとは、驚きましたね。」

「時に君、この部屋には何か不思議な匂ひがするね。」と、教授は不安さうに四邊(あたり)を見まはしながら言つた。 「君の手套(てぶくろ)の匂ひかね。(かす)かながらも好い匂ひだ。 併し決して心持のいゝ匂ひではないね。こんな匂ひに長く浸つてゐると、 僕などは氣分が惡くなる。花の匂ひのやうでもあるが、この部屋には花はないね。」

教授の話を聽きながら、ヂョヴァンニは蒼くなつて答へた。

「いゝえ、そんな匂ひなどはしません。それは貴方の心の迷ひです。匂ひといふものは、 感覺的なものと精神的なものとを一緒にした一種の要素ですから、時々かういふ風に我々は欺され易いのです。 ある匂ひの事を思ひ出すと、全くそこにないものでも實際あるやうに思ひ誤り易いものですからね。」

バグリオーニは言つた。

「さうだ。併し僕の想像は確實だから、そんな惡戲をすることは滅多にない。 若し僕が何かの匂ひを思ひ浮べるとしても、僕の指にしみ込んでゐる賣藥の惡い匂ひだらうよ。 噂によると畏友ラッパッチーニは、アラビヤの藥よりも更に好い匂ひを以て、藥に味をつけるさうだ。 美しい博學のベアトリーチェも、(きつ)と父と同樣に、乙女の息のやうな好い匂ひのする藥を、 患者に與へることだらう。それをのむ者こそ災難だ。」

ヂョヴァンニの顏には、色々な感情の爭ひをかくすことが出來なかつた。 教授が、清く優しいラッパッチーニの娘を指して言つた言葉の調子が、彼の心に(いや)な感じをあたへた。 而も自分とは全然反對の見方をしてゐる教授の暗示が、 恰も百千の鬼が齒をむき出して彼を笑つてゐるやうな、暗い疑惑を誘ひ出したのである。 彼は努めてその疑を抑へながら、ほんたうに戀人を信ずるの心を以て、バグリオーニに答へた。

「教授。あなたは父の友人でした。それですから、多分その息子にも友情を以て接しようといふお積りなのでせう。 わたしは貴方に對して心から敬服してゐるのです。併し我々には口にしてはならない話題があるといふことを、 どうか考へて頂きたいのです。あなたはベアトリーチェを御存じではありません。 それがために間違つた御推測をなすつては困ります。彼女の性格に對して、 輕慮な失禮な言葉をお用ひになるのは、彼女を冐涜するといふものです。」

「ヂョヴァンニ。憐れむべきヂョヴァンニ。」と、教授は冷靜な憐愍の表情を浮べながら答へた。 「僕はこの可憐な娘のことに就いて、君よりも、ずつとよく知つてゐる。 これから君に向つて、毒殺者ラッパッチーニと、その有毒の娘とに關する事實を話して聞かせよう。 さうだ、有毒者ではあるが、彼女は美しいには美しいね。まあ聽き給へ。たとひ君が腹を立つて、 僕の白髮を亂暴にかきむしつても、僕は決して默らない。その印度の女に關する昔の物語は、 ラッパッチーニの深い恐ろしい學術によつて、美しいベアトリーチェの身體に眞實となつて現はれたのだ。」

ヂョヴァンニは呻き聲を立てゝ彼の顏を掩ふと、バグリオーニは續けて言つた。

「彼女の父はこの學術に對して、狂的といふほどに熱心の餘り、わが子をその犧牲とするに躊躇しなかつたのだ。 公平に言へば、彼は蒸溜噐を以て彼自身の心を蒸發してしまつたかと思はれるほど、 學術には忠實な人間であるのだ。そこで、君の運命はどうなるかといふ問題であるが -- 疑ひもなく、 君は或る新らしい實驗の材料として選ばれたのだ。恐らくその結果は死であらう。 いや、もつと恐ろしい運命かも知れない。ラッパッチーニは自分の眼前に、 學術上の興味を惹くものがあれば、如何なるものでも(ちつ)とも躊躇しないのだ。」

「それは夢だ。たしかに夢だ。」と、ヂョヴァンニは小さい聲で呟いた。

教授は續けて言つた。

「けれども、君、樂觀し給へ。まだ今の中ならば助かるのだ。 多分われ〜は彼女が父の狂熱によつて失はれてゐる普通の性質を、悲慘なる娘のために取り戻してやれると思ふのだ。 この小さな銀の花瓶を見給へ。これは有名なベンヴェニュート・チェリーニの手に成つたもので、 伊太利で最も美しい婦人に愛の贈物としても恥かしくないものだ。殊にこの中に這入つてゐるのは又とない尊いもので、 この解毒劑を一滴でも飮めば、どんな劇藥でも無害になるのだ。ラッパッチーニの毒藥に對しても、 十分の效力あることは疑ひない。この尊い藥を入れた花瓶を、君のベアトリーチェに贈り給へ。 さうして、確實の希望を以てその結果を待ちたまえ。」

バグリオーニは精巧な細工を施した小さい銀の花瓶を、テーブルの上に置いて出て行つた。 彼は自分の言つたことが青年の心の上に好い效果をあたへることを望んだ。

「まだ今のうちならば、ラッパッチーニを遮ることが出來るだらう。」と、彼は階段を降りながら、 獨りで北叟笑(ほくそゑ)んだ。「彼について本當のことを白状すれば、 彼は驚くべき男だ -- 實に不思議な男だ。併しその實行の方法を見ると、つまらない藪醫者だ。 古來の醫者の良い法則を尊ぶ我々には我慢のならないことだ。」

ヂョヴァンニがベアトリーチェと交際してゐる間、前にも言つたやうに、 彼は時々に彼女の性格について暗い疑ひの影がさした。それでも彼は何處までも彼女を純な自然な、 最も愛情に富んだ、僞りのない女性であると思つてゐたので、 今彼のバグリオーニ教授の主張するが如きものの姿は、彼自身の本來の考へとは一致せず、 甚だ不思議な、信じ難いものゝやうに思はれた。

實際この美しい娘を初めて見た時には、忌はしい思ひ出があつた。彼女が振る[注:(ふれ)るの誤り?]と忽ちに(しを)れた花束のことや、 彼女の息の匂ひのほかには何等明らかな媒介物もなしに、日光のかゞやく空氣の中で死んで行つた昆蟲のことや、 それらは今でも全く忘れることは出來なかつたが、かういふ出來事は彼女の性格の清らかな光のうちに溶け込んで、 最早、事實としての效力を失ひ、いかない[注:いかなるの誤り?]感情が事實を證明しようとしても、 却つてそれを誤れる妄想と認めるやうになつてゐた。

世の中には我々が眼で見、指で觸れるものよりも、更に眞實で、更に實際的なものがある。 さういふ都合の好い論據の下に、ヂョヴァンニはベアトリーチェを信頼した。 それは彼の深い莫大な信念からといふよりも、 寧ろ彼女の高潔なる特性による必然的の力に由來してゐるのであつたが、 今や彼の精神はこれまで情熱に心醉して登りつめてゐた高所に踏みとゞまることを許さなくなつた。 彼はひざまづいて世俗的な疑惑の前に降伏し、それがためにベアトリーチェに對する純潔な心象を汚した。 彼女を見限つたといふのではないが、彼は信じられなくなつたのである。 彼は一度それを試みれば、總てに於いて彼を滿足させるやうな、ある斷乎たる試驗を始めようと決心した[。] それは、或る怪異な魂無くしては殆ど存在するとは思はれないやうな恐ろしい特性が、 果して彼女の體質のうちに潛んでゐるかどうかと言ふことを試驗することであつた。 遠方から眺めてゐるのならば、蜥蜴(とかげ)や、昆蟲や、花について、彼の眼は彼を欺いたかも知れない。 而も若しベアトリーチェが僅か二三歩を離れたところに、新らしい生々とした花を手にして現れたのを見たとすれば、 最早その上に疑ひを容れる餘地はなくなるであらう。かう考へたので、彼は急いで花屋へ行つて、 まだ朝露のかゞやいてゐる花束を一つ買つた。

今は彼が毎日ベアトリーチェに逢ふ定刻であつた。庭に降りてゆく前に、 彼は自分の姿を鏡に映して見ることを忘れなかつた。 -- それは美しい青年にあり勝な虚榮心からでもあり、 且つは情熱の燃ゆる瞬間に現はれる一種の淺薄な感情と、虚僞な性格との表象とも言ふべきであつた。 彼は鏡をぢつと眺めた。彼の容貌にこんなにも豐な美しさは、 今までに決して見られなかつた。その眼にも今までこんな快濶の光はなかつた。 その頬にも今までこんな旺盛な生命の色が燃えてゐなかつた。

「少くとも彼女の毒は、まだおれの身體には流れ込んでゐないのだ。 俺は花ではないのだから、彼女に握られても死ぬやうなことはないのだ。」と、彼は思つた。

彼はさつきから手に持つてゐた花束に眼を注いだ。さうして、その露にぬれた花がもう萎れかゝつてゐるのを見た時、 なんとも言はれない恐怖の戰慄が彼の全身をめぐつた。その花は、つい昨日までは生々として美しい姿を見せてゐたのである。 ヂョヴァンニは色を失つて、大理石のやうに白くなつた。かれは鏡の前に突つ立つて、 何か怖ろしいものゝ姿でも見るやうに、彼自身の影をながめた。 彼は部屋中に漲つてゐるやうに思はれる匂ひについて、バグリオーニ教授の言つたことを思ひ出した。 自分の呼吸には、毒氣が含まれてゐるに違ひない。彼は身を慄はした。 -- 自分の身體を見て顫へた。

やがて我にかへつて、彼は物珍らしさうに一匹の蜘蛛を眺め始めた。 蜘蛛はその部屋の古風な蛇腹から行きつ戻りつして、巧みに絲を織りまぜながら、 忙がしさうに巣を作つてゐた。それは古い天井からいつもぶらりと下がるほどに強い活溌な蜘蛛であつた。

ヂョヴァンニはその昆蟲に近寄つて、深い長い息を吹きかけると、蜘蛛は急にその仕事を止めた。 その巣は、この小さい職人の身體に起つてゐる戰慄のために顫へた。ヂョヴァンニは更に一層深く、 一層長い息を吹きかけた。彼は心から湧いて來る毒々しい感情に滿たされた。 彼は惡意でそんなことをしてゐるのか、單に自棄(やけ)でそんなことをしてゐるのか、 自分にも判らなかつた。蜘蛛はその脚を苦しさうに痙攣させた後、窓の先に死んでぶら下つた。

「呪はれたか。おまえの息一つでこの昆蟲が死ぬ程に、お前は有毒になつたのか。」と、ヂョヴァンニは小聲で自分に言つた。

その瞬間に、庭の方から豐な優しい聲が聞えて來た。

「ヂョヴァンニ……。ヂョヴァンニ……。もう約束の時間が過ぎてゐるではありませんか。 何をぐづ〜してゐるのです。早く降りていらつしやい。」

ヂョヴァンニは再び呟いた。

「さうだ。おれの息で殺されない生物はあの女だけだ。いつそ殺すことが出來ればいゝのに……。」

彼は駈け降りて、直ぐにベアトリーチェの輝かしい優しい眼の前に立つた。 彼は憤怒と失望に熱狂して、一睨みで彼女を萎縮させてやらうと思ひつめてゐたのであるが、 さて彼女の實際の姿に接すると、すぐに振切つてしまふには餘りに強い魅力があつた。 彼は屡々彼を宗教的冷靜に導いたところの彼女の美妙な慈悲深い力を思ひ出した。 純粹な清い泉がその底から透明の姿を、彼の心眼に明らかに映し出した時、 彼女の胸から神聖な熱情の迸り出たことを思ひ出した。彼はすべてのこの醜い祕密は、 世俗的の錯覺に過ぎないことを考へた。いかなる惡霧が彼女の周圍に立ちこめてゐるやうに思はれても、 實際のベアトリーチェは神聖な天使(エンジエル)であることを考へた。 彼は勿論それほどまでに信じ切ることは出來なかつたが、それでも彼女の姿は彼に對して全然その魅力を失ふことはなかつた。

ヂョヴァンニの憤怒はやゝ鎭まつたが、不機嫌な冷淡な態度は掩はれなかつた。 ベアトリーチェは敏速な靈感で彼と自分との間には越えることの出來ない暗い溝が横はつてゐることを早くも覺つた。 二人は悲しさうに默つて、一緒に歩いた。大理石の噴水のほとりまで來ると、 その中央には寶玉のやうな花を着けた灌木が生えてゐた。ヂョヴァンニは恰も食慾をそゝられるやうに、 一生懸命にその花の匂ひを吸つて喜んで、自分ながらそれに氣がついて驚いた。

「ベアトリーチェ。この灌木はどこから持つて來たのですか。」と、彼は突然に訊いた。

「父が初めて作りました。」と、彼女は簡單に答へた。

「初めて作つた -- 。作り出したのですか……。」と、ヂョヴァンニは繰り返して言つた。 「ベアトリーチェ。それは一體どういふことですか。」

ベアトリーチェは答へた。

「父は恐ろしいほどに自然の祕密に通じた人でした。わたしが初めてこの世界に生まれ出たと同じ時間に、 この木が土の中から芽を出して來たのです。わたしはたゞ世間竝の子供ですが、 この木は父の學問、父の智識の子供です。その木にお近づきになつてはいけません。」

ヂョヴァンニがその灌木にだん〜近づいて行くのを見て、彼女ははら〜するやうに言ひつづけた。

「その木は、あなたが殆ど夢にも考へてゐないやうな、性質を持つてゐます。 わたしはその木と一緒に育つて、その呼吸で養はれて來たのです。 その木とわたしとは、姉妹(きやうだい)であつたのです。 わたしは人間を愛すると同じやうに、その木を愛して來ました。 -- まあ、貴方は、 それをお疑ひになりませんでしたか。 -- そこには恐ろしい運命があつたのです。」

この時、ヂョヴァンニは、彼女を見て、非常に暗い澁面を作つたので、ベアトリーチェは吐息をついて顫へたが、 男の優しい心を信じてゐるので、彼女は更に氣を取り直した。さうして、 たとひ一瞬間でも彼を疑つたことを恥かしく思つた。

「そこには恐ろしい運命があつたのです」と彼女は又言つた。 「父が、恐ろしいほどに學問を愛した結果、人間のあらゆる運命からわたくしを引き離してしまつたのです。 それでも神樣はたうとう貴方をよこして下さいました。わたしの大事の大事のヂョヴァンニ……。 憐れなベアトリーチェは、それまでどんなに寂しかつたでせう。」

「それが苦しい運命だつたのですか。」と、ヂョヴァンニは彼女を凝視(みつ)めながら訊いた。

「ほんの近頃になつて、どんなに苦しい運命であるかを知りました。 えゝ、今までわたくしの心は感覺を失つてゐましたので、別になんとも思はなかつたのです。」

「畜生!」と、彼は毒々しい侮蔑と憤怒とに燃えながら叫んだ。 「お前は、自分の孤獨に堪へ兼ねて、僕も同じやうに總ての温かい人生から引き離して、 口でも言へないやうな怖ろしい世界に引込まうとしたのだな。」

「ヂョヴァンニ……。」

ベアトリーチェはその大きい輝いた眼を男の顏に向けて言つた。 彼の言葉の力は相手の心に逹するまでに到らないで、彼女はたゞ(かみなり)にでも撃たれたやうに感じたばかりであつた。

ヂョヴァンニは、もう我を忘れて、怒りに任せて罵つた。

「さうだ、さうだ。毒婦!お前が、それをしたのだ。お前はおれを呪ひ倒したのだ。 おれの血管を毒藥で滿たしたのも、お前の仕業(しわざ)だ。お前はおれを自分と同じやうな、 憎むべき厭ふべき死人同然な醜い人間にしてしまつたのだ。世にも不思議な、 いまはしい怪物にしてしまつたのだ。さあ、幸ひに我々の呼吸が他のものに對すると同じやうに、 我々の命にも關はるものならば、限りない憎惡の接吻を一度こゝろみて、たがひに死んで仕舞はうではないか。」

「何がわたしの身にふりかゝつて來たといふのでせう、(セント)マリヤ! どうぞわたくし[注:以下「わたし」で整合すべき]を憐れとおぼしめしてください。 -- この哀れな失戀の子を……。」

ベアトリーチェはその心から湧き出る低い呻き聲で言つた。

「お前は……。お前は祈つてゐるのだね。」と、ヂョヴァンニはまだ同じやうな惡魔的の侮蔑を以て叫んだ。 「お前の脣から出て來るその祈祷(いのり)は、空氣を「死」で汚して了ふのだ。 さうだ、さうだ、一緒に祈らう。一緒に教會へ行つて、入口の聖水に指を浸さう。 おれ逹の後から來た者は、皆その毒のために死んでしまふだらう。空中に十字を切る眞似をしよう。 さうすると、神聖なシンボルの眞似をして、外部に呪詛を撒き散らすことになるだらうよ。」

「ヂョヴァンニ……。」

ベアトリーチェは、靜かに言つた。彼女は悲しみの餘りに怒ることさへも出來なかつたのである。

「貴方はなぜそんな恐ろしい言葉のうちに、わたくしと一緒に自分自身までも引き入れようとなさるのです。 なるほど、わたくしは貴方の仰つしやる通りの恐ろしい人間です。 しかし貴方は何でもないではありませんか。この花園から出て、貴方と同じやうな人間に立交はるのを見て、 外の人逹が身ぶるひする、(わたし)のやうな者は問題になさいますな。 憐れなベアトリーチェのやうな怪物(モンスター)が、嘗ては地の上に這つてゐたといふことを、どうぞ忘れてしまつて下さい。」

「お前は、なんにも知らない振りをしようとするのか。」と、ヂョヴァンニは眉をひそめながら彼女を見た。

「これを見ろ。この力は紛れもないラッパッチーニの娘から得たのだぞ。」

そこには夏蟲の一群が、命にかゝはる花園の花の香にひきつけられて、食物を求めながら、 空中を飛び廻つて、ヂョヴァンニの頭のまはりに集まつた。暫くの間幾株の灌木の林に惹き付けられてゐたのと同じ力によつて、 彼の方へ惹きつけられてゐることが、明かであつた。彼は彼等の間へ息を吹きかけた。さうして、 少くとも二十匹の昆蟲が、地上に倒れて死んだ時に、彼はベアトリーチェを見かへつて、苦々しげに微笑んだ。

ベアトリーチェは叫んだ。

「判りました、判りました。それは父の恐しい學問です。いゝえ、いゝえ、ヂョヴァンニ……。 それはわたしではなかつたのです。決して、わたしではありません。わたしはあなたを愛する餘り、 ほんの()つとの間、あなたと一緒に居たいと思つただけです。さうして、唯あなたのお姿を、 わたしの心に殘してお別れ申さうと思つてゐたのです。ヂョヴァンニ……。 どうぞわたしを信じてください。たとひわたしのからだは、毒藥で養はれてゐても、 心は神樣に作られたもので、日々の糧として愛を熱望してゐたのです。 けれども、わたしの父は -- 父は、學問に對する同情、その恐ろしい同情で、 わたし逹を結びつけてしまつたのです。えゝもう、どうぞわたしを蹴飛ばして下さい、 踏みにじつて下さい、殺してください。貴方にそんなことを言はれては、 死ぬことくらゐはなんでもありません。けれども……けれども、 そんなことをしたのはわたしではなかつたのです。幸福な世界のために、わたしがそんなことをするものですか。」

ヂョヴァンニはその憤怒を脣から爆發するがまゝに任せて置いたので、 今はもう疲れて鎭まつてゐた。彼の心のうちには、 ベアトリーチェと彼自身との間の密接な且つ特殊な關係について悲しい柔かい感情が湧いて來た。 言はゞ、彼等は全く孤獨の状態に置かれたやうなもので、人間が澤山集まれば集まるほど益々孤獨となるであろう。 若しさうならば、彼等の周圍の人間の沙漠は、この孤立の二人を更に一層密接に結合すべきではなからうか。 自分が普通の性質に立復(たちかへ)つて、ベアトリーチェの手を引いて導くだけの望みがまだ殘つてはゐないだらうかと、 ヂョヴァンニは考へるやうになつた。しかもベアトリーチェの深刻なる戀が、 ヂョヴァンニの激しい惡口に因つてこれほどに悲しく(そこな)はれた後に、この世の結合、 この世の幸福があり得るやうに考へるのは、なんといふ強い、また我儘な卑い心であらう。 いや、こんな望みは、所詮考へられないことである。彼女は戀に破れたる心を抱いて、 現世の境を苦しく越えなければならない。彼女はその心の痛手を樂園の泉に浸し、 又は不滅の光に照らさせて、その悲しみを忘れなければならないのである。

併し、ヂョヴァンニはそれに氣が()かなかつた。

「愛するベアトリーチェ……。」

彼女がいつものやうに近づくことを恐れたにも拘らず、彼は今や異常なる衝動を以て、彼女に近づいた。

「わたしが最愛のベアトリーチェ。我々の運命はまだそんなに絶望的なものではありません。 御覽なさい。これは偉い醫者から證明された妙藥です。その效能の顯著なことは、 實に神のやうだといふことです。これはあなたの恐ろしいお父さんが、 あなたとわたしの身の上にこの(わざはひ)(もたら)したものとは全く反對の要素から出來てゐるのです。 それは神聖な草から蒸溜して取つたものです。どうです、一緒にこの藥をぐつ()んで、 おたがひに(わざはひ)を淨めようではありませんか。」

「それを(わたし)に下さい。」

ベアトリーチェは男が胸から取り出した小さい銀の花瓶を受け取らうとして、手を伸ばしながら言つた。 それから、特に力を入れて附け加へた。

(わたし)()みませう。けれども、あなたはその結果を待つて下さい。」

彼女はバグリオーニの解毒劑をその脣にあてると、その瞬間にラッパッチーニの姿が入口から現はれて、 大理石の噴水の方へそろ〜と歩いて來た。近づくに從つて、 この蒼ざめた科學者はいかにも勝誇つたやうな態度で、美しい青年と處女とを眺めてゐるやうに思はれた。 それは恰も一つの繪畫又は一群の彫像を仕上げるために、全生涯を捧げた藝術家が遂に成功して、 大いに滿足したといふやうな姿であつた。

彼は鳥渡(ちよつと)立停まつて、屈んだ身體を(わざ)ぐつと伸ばした。 彼はその子供等のために、幸福を祈つてゐる父親のやうな態度で、彼等の上に兩手をひろげたが、 それは彼等の生命の流れに毒藥を注いだその手であつた。ヂョヴァンニは顫へた。 ベアトリーチェは神經的に身をふるはした。彼女は片手で胸を押へた。

ラッパッチーニは言つた。

「ベアトリーチェ。お前はもうこの世の中に獨りぽつちでゐなくとも好いのだ。 お前の妹分のその灌木から貴い寶の花を一つ取つて、おまえの花婿の胸につけるやうに言つて遣れ。 それはもう彼にも有害にはならないのだ。わたしの學問の力と、おまえ逹二人への同情とによつて、 わたしの誇と勝利の娘であるお前と同じやうに、あの男の身體の組織を變へて、 今では他の男とは違つたものにしてしまつたのだ。それであるから、他の總ての者には恐れられても、 お互ひ同志は安全だ。これから仲よくして世界中を通るがいゝ。」

「お父樣。なぜ貴方はこんな悲慘な運命をわたくし逹にお與へになつたのですか。」

ベアトリーチェは弱々しい聲で言つた。 -- 彼女は靜かに話したが、その手はまだその胸を押へてゐた。

「悲慘だと……。」と、父は叫んだ。「一體お前はどういふ積りなのだ。馬鹿な娘だな。 お前は自分に反對すれば、いかなる力も敵を利することが出來ないような、 天賦の能力を與へられたのを、悲慘だと思ふのか。最も力の強い者をも、一息で打破ることが出來るのを、悲慘だといふのか。 お前は美しいと同樣に、怖ろしいものであることを悲慘だといふのか。それならば、 お前はすべての惡事を曝露されても、何うすることも出來えないやうな、 弱い女の境遇の方が、寧ろ()しだと思ふのか。」

娘は地上にひざまずいて、小聲で言つた。

「わたくしは恐れられるよりも、愛されたうございました。併し今となつては、 そんなことはもう何うでもようございます。お父樣。わたくしはもう……。 貴方がわたしの身體に織り込まうとなすつた(わざはひ)が夢のやうに、 -- この毒のある花の匂ひのやうに -- 失くなつてしまふところへ參ります。 エデンの園の花のなかには、わたくしの呼吸に毒を沁みさせるやうな花はないでせう。 では、さやうなら、ヂョヴァンニ……。あなたの憎しみの言葉は、 鉛のやうにわたしの心のうちに殘つてゐます。それもわたしが天國へ昇つてしまへば、 みんな忘れられるでせう。おゝあなたの體質には、わたしの體質の中にあつたよりも、 もつと澤山の毒が最初から含まれてゐたのではありますまいか。」

彼女の現世の姿はラッパッチーニの優れた手腕によつて、 非常に合理的に作られてゐたので、毒藥が彼女の生命であつたと同じやうに、 效能の著るしい解毒劑は彼女に取つて「死」であつた。 かうして、人間の發明と、それに逆ふ性質の犧牲となり、かくの如く誤用された智識の努力に伴ふ運命の犧牲となつて、 哀れなるベアトリーチェは、父とヂョヴァンニの足下に(たふ)れた。

恰もその時、ピエトロ・バグリオーニ教授は窓から覗いて、 勝利と恐怖とを混じたやうな調子で叫んだ。彼は雷に撃たれたやうに驚いてゐる科學者に向つて、 大きい聲で呼びかけたのである。

「ラッパッチーニ……。ラッパッチーニ……。これが君の實驗の終局か。」

-- 終 --

青空文庫で公開されている「ラッパチーニの娘」のテキストを元に、以下の底本に合せて字句を修正し、 底本の誤りには注を付けました。
底本:世界怪談名作集(世界大衆文學全集第卅五卷,改造社,昭和四年八月一日印刷,昭和四年八月三日發行)

元テキストのクレジット:

底本:「世界怪談名作集・上」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年8月4日初版發行
入力:清十郎
校正:もりみつじゆんじ
ファイル作成:もりみつじゆんじ
2001年10月8日公開
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの圖書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボ ランティアの皆さんです。


更新日: 2003/02/25

世界怪談名作集:北極星號の船長


北極星號の船長——醫學生ジョン・マリスターレー・の奇異なる日記よりの拔萃——

ドイル 著

岡本綺堂 譯


目次


十一月十一日、北緯八十一度四十分、東經二度。依然、 我々は壯大な氷原の眞只中に停船す。我々の北方に擴がつてゐる一氷原に、 我等は氷錨(アイス・アンカー)を下してゐるのであるが、この氷原たるや、 實にわが英國の一郡にも相當するほどのものである。 左右一面に氷の(おも)が地平の遙か彼方(かなた)まで果てしなく(ひろ)がつてゐる。 今朝、運轉士は南方に氷塊の徴候のあることを報じた。若しこれが我々の歸還を妨害するに十分なる厚さを形勢するならば、 我々はまつたく危險の地位にあるといふべきで、聞くところに()れば、 糧食は既にやゝ不足を來してゐるといふのである。時 (あた)かも季節(シーズン)の終りで、 長い夜が再び現はれ初めて來た。今朝、前檣下桁(フォーア・ヤード)の眞上に(またゝ)く星を見た。 これは五月の初め以來最初のことである。 船員中には著しく不滿の色が(みなぎ)つてゐる。 彼等の多くは(にしん)の漁獵期に間に合ふやうに歸國したいと、 (しき)りに望んでゐるのである。この漁獵期には、 スコットランドの海岸地方では、勞働賃金が高率を(とな)へるを例とする。 併し彼等はその不滿をたゞ不機嫌な容貌と、恐ろしい見幕とで表はすばかりである。 その日の午後になつて、 彼等船員は代理人を出して船長に苦情を申立てようとしてゐるといふことを二等運轉士から聞いたが、 船長がそれを受け容れるかどうかは甚だ疑はしい。彼は非常に獰猛な性質であり、 又彼の權限を犯すやうなことに對しては、すこぶる敏感を有つてゐるからである。 夕食の(をは)つた後で、わたしはこの問題について船長に何か少し言つてみようと思つてゐる。 從來彼は他の船員に對して憤つてゐるやうな時でも、私にだけは何時も寛大な態度を取つてゐた。 スピッスバーゲンの北西風隅にあるアムステルダム島は、我が右舷の方に當つて見える ——島は火山岩の凹凸線をなし、氷河を現出してゐる白い地層線と交叉してゐるのである。 一直線にしても優に九百 (マイル)はあると考へると、實に不思議な心持がする。 凡そ船長たるものは、その船をかゝる境遇に瀕せしめたる場合にあつては、 自ら大なる責任を負ふべきである。いかなる捕鯨船も未だ曾てこの時期にあつて、 かゝる緯度の(ところ)に停まつた(ところ)に留まつたことはなかつた。

午後九時、私はたうとうクレーグ船長に打明けた。その結果は到底滿足には行かなかつたが、 船長は私の言はんとしたことを、非常に靜かに、且つ熱心に聽いてくれた。 私が語り終ると、彼はわたしが屡々目撃した彼の鐡のやうな決斷の色を顏に浮べて、 數分間は狹い船室をあちらこちらと足早に歩きまはつた。最初わたしは彼をほんたうに怒らせたかと思つたが、 彼は怒りを抑へて再び腰をおろして、殆ど追從に近い樣子で私の腕を()つた。 その狂暴な黒い目は著るしく私を驚かしたが、その眼の中にはまた深いやさしさも籠つてゐた。 「おい、ドクトル。」と彼は言ひ出した。「(わし)は實際、いつも君を連れて來るのが氣の毒でならない。 ダンディ埠頭(クエイ)にはもう恐らく歸れぬだらうなあ。今度といふ今度は、 いよ〜一か八かだ。我々の北の方には鯨がゐたのだ。 (わし)檣頭(マスト・ヘッド)から汐を噴いてゐる鯨の奴等をちやんと見たのだから、 君がいかに(かぶり)を横に()つても、そりやあ駄目だ。」

私は別にそれを疑ふ樣子を少しも見せなかつた積りであつたが、 彼は突然に怒りが勃發したかのやうに、かう叫んだ。

「わしも男だ。二十二秒間に二十二頭の鯨!しかも鬚の十 (フイート)以上もある大きな奴をな! (捕鯨者仲間では鯨を體の長さで計らず、その鬚の長さで計るのである。) さて、ドクトル。君はわしとわしの運命とのあひだに多寡(たか)が氷ぐらゐの邪魔物があるからと言つて、 わしがこの國を去られると思ふかね。若し明日(あした)にも北風が吹かうものなら、 我々は獲物を滿載して結氷前に歸るのだ。が、南風が吹いたら——さうさ、 船員はみんな命を賭けねばならならんと思ふよ。尤もそんなことは、 わしには大したことでもないのだ。何故といへば、わしにとつてはこの世界よりも、 あの世の方が餘計に縁がありさうなのだからね。だが、正直のところ君にはお氣の毒だ。 わしはこの前われ〜と一緒に來たアンガス・タイト老人を連れて來ればよかつた。 (あれ)なら(たと)ひ死んでも惜まれはしないからな。 ところで君は——君は何時か結婚したと言つたつけねえ。」

「さうです。」と、わたしは時計の鎖に附いてゐる小盒(ロケツト)のバネをぱくりとあけて、 フロラの小さい寫眞を差出して見せた。

「畜生!」と、彼は椅子から飛び上つて、憤怒の餘りに顎鬚を逆立てゝ叫んだ。 「(わし)にとつて、君の幸福が何んだ。わしの目の前で、 君が戀々としてゐるやうなそんな寫眞の女に、(わし)が何んの係り合があるものか。」

彼は怒りの餘りに、今にもわたしを()ち倒しはしまいかとさへ思つた。 而も彼はもう一度罵つた後に船長室の(ドア)を荒々しく突きあけて甲板(デツキ)へ飛び出してしまつた。 取り殘された私は、彼の途方もない亂暴にいさゝか驚かされた。 彼がわたしに對して禮儀を守らず、また親切でなかつたのは、 この時が全く初めてのことであつた。私はこの文を書きながらも船長が非常に興奮して、 頭の上を彼方此方(あちらこちら)と歩きまはつてゐるのを聞くことが出來る。

わたしはこの船長の人物描寫をしてみたいと思ふが、私自身の心のうちの觀念が精々よく考へて見ても、 已に曖昧模糊たるものであるから、そんなことを書かうなどいふのは烏滸(おこ)がましき(わざ)だと思ふ。 私はこれまで何遍も、船長の人物を説明すべき(かぎ)を握つたかと思つたが、 いつも彼は更に新奇なる性格をあらはして私の結論をくつがへし、わたしを失望させるだけであつた。 恐らく私以外には、誰しもこんな文句に眼を留めようとする者はないであらう。 而もわたしは一つの心理學的研究として、このニコラス・クレーグ船長の記録を書き殘す積りである。

凡そ人の外部に表はれたところは、幾分かその内の精神を示すものである。 船長は丈高く、均勢の好く取れた體格で、色のあさ黒い美丈夫である。さうして、 不思議に手足を痙攣的に動かす癖がある。これは神經質の(せゐ)か、 あるひは單に彼のあり餘る精力の結果からかも知れぬ。 口許や顏全體の樣子はいかにも男らしく決斷的であるが、 その眼は紛ふべくもなしにその顏の特徴をなしてゐる。 二つの眼は漆黒の(はしばみ)のやうで、鋭い輝きを放つてゐるのは、 大膽を示すものだと私は時々に思ふのであるが、 それに恐怖の情の著るしく含まれたやうな何か別種のものが、 奇妙に混つてゐるのであつた。大抵の場合には大膽の色がいつも優勢を占めてゐるが、 彼が瞑想に耽つてゐるやうな場合は勿論、時々に恐怖の色が深く擴がつて、 遂にはその容貌全體に新しき性格を生ずるに至るのである。 彼は全く安眠することが出來ない。さうして、夜中にも彼が何か呶鳴(どな)つてゐるのをよく聞くことがある。 しかし船長室はわたしの船室から少し離れてゐるので、 彼の言ふことははつきりとは判らなかつた。

先づこれが彼の性格の一面で、また最も(いや)な點である。 彼がこれを觀察したしも[誤?:したのも]畢竟は現在のごとく、 彼とわたしとが日々極めて密接の間柄にあつたからに外ならない。 もしそんな密接な關係が私もなかつたならば、彼は實に愉快な僚友であり、博識で面白く、 これまで海上生活をした者としては、まことに立派なる海員の一人である。 わたしは彼の四月のはじめに、解氷のなかで大風(ゲール)に襲はれた時、 船を操つた彼の手腕を容易に忘れ得ないであらう。電光の閃きと風の唸りとの眞最中に、 ブリッヂを前後に歩き廻つてゐた其夜の彼のやうな、あんな快活な、 寧ろ愉快さうに嬉々としてゐたところの彼を、わたしは曾て見たことがない。 彼は屡々わたしに告げて、死を想像することは寧ろ愉快なことだ、 尤もこれは若い者逹に語るのは餘り(かう)ばしくないことであるが——と言つてゐる。 彼は髮も髭も既に幾分を胡麻鹽となつてゐるが、實際はまだ三十を幾つも出てゐる筈はない。 思ふにこれは、何か或る大きな悲しみが彼を襲つて、その全生涯を枯らしてしまつたのに相違ない。 恐らく私も亦、もし萬一わがフロラを失ふやうなことでもあつたら、 全くこれと同じ状態に陷ることであらう。私は、 これが彼女の身の上に關することでなかつたなら、明日(あした)に風が北から吹かうが、 南から吹かうが、そんなことは()つとも構はないと思ふ。 それ、船長が明窓(あかりまど)を降りて來るのが聞えるぞ。 それから自分の部屋に這入つて錠をかけたな。これは(まさ)しく、 彼の心がまだ解けない證據なのだ。それでは、どれ、ペピス爺さんがいつも口癖に言ふやうに、 寢るとしようかな。蝋燭ももう燃え倒れようとしてゐる。 それに給仕(スチワード)も寢てしまつたから、もう一本蝋燭にありつく望みもないからな——。

九月十二日、靜穩なる好天氣。船は依然おなじ位置に在り。すべて風は南西より吹く。 但し極めて微弱なり。船長は機嫌を直して、朝食の前に私にむかつて昨日(きのふ)の失禮を詫びた。 しかし彼は今なほ少しく放心の(てい)である。その眼には彼の粗暴の色が殘つてゐる。 これはスコットランドでは「(デス)」を意味するものである。 ——少くもわが機關長は私に向つてさう語つた。機關長はわが船員中のケルト人のあひだには、 前兆を豫言する人として相當の聲價を有してゐるのである。

冷靜な、實際的なこの人種に對して、迷信がかくの如き勢力を有してゐたのは、 實に不思議である。若しわたしが自らそれを觀たのでなかつたらば、 その迷信が非常に擴がつてゐることを到底信じ得なかつたであらう。 今度の航海で迷信はまつたく流行してしまつた。しまひには私も亦、 土曜日に許されるグロッグ酒と適量の鎭靜藥とを併せ用ひようかと、 心が傾いて來るのを覺えて來た。迷信の先づ最初の徴候はかうであつた——。

シェットランドを去つて間もなく舵輪(ホヰール)にゐた水夫逹が、 何物かゞ船を追ひかけて、しかも追ひ付くことが出來ないかのやうに、 船の後に哀れな叫びと金切聲をあげてゐるのを聞いたと屡々繰返して話したのが(そもそ)も始まりであつた。 この話はその航海が終るまで續いた。さうして、海豹漁獵(シール・フィッシング)開始期の暗い夜など、 水夫等に輪番(りんばん)をさせるには非常に骨が折れたのであつた。 疑ひもなく、水夫等の聞いたのは、舵鎖(ラダー・チェイン)(きし)る音か、 あるひは通りすがりの海鳥の鳴き聲であつたらう。わたしはその音を聞くために、 幾度(いくたび)か寢床から連れて行かれたが、何等不自然なものを聞き分けることは出來なかつた。 しかし水夫等は馬鹿馬鹿しいほどにそれを信じてゐて、到底議論の餘地がないのであつた。 わたしは嘗てこのことを船長に話したところ、彼もまた非常に眞面目にこの問題を取つたには、 わたしもすくなからず驚かされた。さうして、彼は實際わたしの言つたことについて、 著るしく心を掻き亂されたやうであつた。 わたしは、彼が少くともかゝる妄想に對しては超然としてゐるべきだらうと、 當然考へてゐたからである。

迷信といふ問題に就いて、かくの如く論究した結果、 わたしは二等運轉士のメースン氏が昨夜幽靈を見たといふこと—— 否、少くとも彼自身は見たと言つてゐる事實を知つた。 何ヶ月もの間、言ひ古るした、熊とか鯨とかいふ、 いつも變らぬ極り文句の後で、なにか新しい會話の種があるのは、 全く氣分を新たにするものである。メースンは、この船は何かに取憑かれてゐるのだから、 もし何處か他へ行くところさへあれば、一日もこの船などに(とゞ)まつてはゐないのだが、と言つてゐる。 實際、あの(やつこ)さん、ほんたうに怖氣(おぢけ)が付いてゐるのである。 そこで、私は今朝あいつを落着かせるために、クロラルと臭素加里を少々服()ませてやつた。 わたしが彼にむかつて、一昨日(をとゝひ)の晩、君は特別の望遠鏡を持つてゐたのだなと冷やかしてやると、 (やつこ)さんはすつかり憤慨してゐたやうであつた。 そこで、わたしは彼を(なだ)めるつもりで、出來るだけ眞面目な顏をして、 彼の話すところを聽いてやらなければならなかつた。 彼はその話を眞向(まつかう)から事實として、得々として物語つたのであつた。

彼の曰く——「僕は夜半直の四點時鐘頃(當直時間は四時間 (づつ)にして、 ベルは三十分毎に一つ(づつ)増加して打つのである。 因つてこれは四點なれば(あたか)も中時間である)船橋(ブリッヂ)にゐた。 夜は(まさ)に眞の闇であつた。空には月の缺けでもあつたらしいが、 雲がこれを吹きかすめて、遙かの船からはつきりと見ることが出來なかつた。 (あたか)もその時、魚銛發射手(もりなげ)のムレアドが船首から船尾へやつて來て、 右舷船首に當つて奇妙な聲がすると報告した。僕は前甲板へ行つて、彼と二人で耳を揃へてその聲をきくと、 ある時は泣き叫ぶ子供のやうに、又ある時は心 (いた)める小娘のやうにも聞える。 僕はこの地方に十七年も來てゐたが、いまだ嘗て海豹(あざらし)が老幼に拘はらず、 そんな鳴聲をするのを聞いた(ためし)はない。 我々が船首にたゝづんでゐると、月の光りが雲間を洩れて來て、二人は先刻(さつき)泣き聲を聞いた方向に、 なにか白いものが氷原を横切つて動いてゐるのを見た。 それはすぐに見えなくなつたが、再び左舷にあらはれて、氷上に投げた影のやうに、 はつきりとそれを認めることが出來た。僕はひとりの水夫に命じて、 船尾へ鐡砲を取りに遣つた。さうして、僕はムレアドと一緒に浮氷へ降りて行つた。 おそらくそれは熊の奴だらうと思つたのである。我々が氷の上に降りた時に、 僕はムレアドを見失つてしまつたが、それでも聲のする方へすゝんで行つた。 おそらく一 (マイル)以上も、僕はその聲を追つて行つたであらう。 さうして、氷丘(ひようきう)のまはりを走つて、 いかにも僕を待つてゐるかのやうに立つてゐる。その頂きへ眞直ぐに登つ[て]、 その上から見おろしたが、彼の白い形をしたものはなんであつたか一向にわからない。 兎に角に、熊ではなかつた。それは丈が高く、白い、眞直なものであつた。 若しそれが男でも、女でもなかつたとしたらば、 きつと何かもつと惡いものに違ひないことを保證する。 僕は怖くなつて、一生懸命に船の方へ走つて來て、 船に乘り込んで(やうや)ほつとした次第である。 僕は乘船中、自己の義務を果すべき條款(でうくわん)に署名した以上、 この船に(とゞ)まつてはゐるが、日沒後はもう二度と氷の上へは決して行かないぞ。」

これが即ち彼の物語で、わたしは出來る限り彼の言葉をそのまゝに記述したのである。 彼は極力否定してゐるが、私の想像するところでは、彼の見たのは若い熊が後脚で立つてゐた、 その姿に相違あるまい。そんな恰好は、熊ぎ[誤:熊が]何か物に驚いたりした時に、いつもよくやることである。 覺束ない光りの中で、それが人間の形に見えたのであらう。 まして既に神經を多少惱ましてゐる人に於いてをやである。 兎に角、それが何であらうとも、こんなことが起つたとのといふことは一種の不幸で、 それが多數の船員等に非常に不快な、面白からぬ結果を(もた)らしたからである。 彼等は以前よりも一層むづかしい顏をし、不滿の色がいよ〜露骨になつて來た。 (にしん)獵に行かれないのと、彼等はいはゆる物に憑かれた船の留められてゐるのと、 この二重の苦情が彼等を驅つて無鐡砲の行爲をなさしめるかも知れない。 船員中の最年長者であり、また最も着實な、あの魚銛發射手(もりなげ)でさへも、 みんなの騷ぎに加はつてゐるのである。

この迷信騷ぎの馬鹿らしい發生を除いては、物事は寧ろ愉快に見えてゐるのである。 我々の南方に出來てゐた浮氷は一部溶け去つて、 海潮はグリーンランドとスピッツバーゲンの間を走る灣流の一支流に我等の船は在るのだと、 私を信ぜしめるほどに暖かになつて來た。船の周圍には、 澤山の小海蝦(こえび)と共に、無數の小さな海月(くらげ)うみうしなどが集まつて來てゐるので、 鯨のみえるといふ見込みはもう十分である。果してその通り、夕食の頃に汐を吹いてゐるのを一頭見かけたが、 あんな位地にあつては、船でその跡を追ひかけることは不可能であつた。



九月十三日。ブリッヂの上で、一等運轉士ミルン氏と興味ある會話を試みた。 わが船長は水夫等には大いなる謎である。私のもさうであつたが、 船主にさへも然うであるらしい。ミルン氏の言ふには、航海が終つて、 給金濟の手切れになると、クレーグ船長はどこかへ行つてしまつて、 そのまゝ姿を見せない。再び季節(シーズン)が近づくと、 彼はふらり[と]會社の事務所へ靜かに這入つて來て、 自分の必要があるかどうかを訊ねるのである。 それまでは決してその姿を見ることは出來ない。彼はダンディーには朋輩(ともがら)を持たず、 誰一人としてその生立ちを知つてゐる者もない。船長としての彼の地位は、 まつたく海員としての彼の手腕と、その勇氣や沈着などに對する名聲とに因つてゐるのである。 さうして、その名聲も彼が個々の指揮權を托される前に、 已に運轉士としての技倆によつて獲得したのであつた。 彼はスコットランド人ではなく、その蘇國風の名は假名であるといふのが、 (みんな)の一致した意見のやうである。ミルン氏はまたかう考へてゐる—— 船長といふ職は彼はみづから選み得る中で最も危險な職業であるといふ理由に因つて、 單に捕鯨に身を委ねて來たのであつて、彼はあらゆる方法で死を求めてゐるのであると。 ミルン氏は又それに就いて數個の例を擧げてゐる。そのうちの一つは、 もしそれが果して事實とすれば、寧ろ不思議千萬である。 ある時、船長は獵の季節(シーズン)が來ても、例の事務所に姿を見せなかつたので、 これに代る者を物色せねばならないことになつた。それは(あたか)も最近の露土戰爭の始まつてゐる時であつた。 ところが、その翌年の春、船長が再びその事務所へ戻つて來た時には、 彼の横頸(よこくび)には皺だらけの傷が出來てゐた。 彼はいつもこれを襟卷で隱さうと努めてゐた。彼は戰爭へ從事してゐたのであらうといふ、 ミルンの推測が果して眞實なりや否やといふことは、私にも斷言出來ないが、いづれにもせよ、 これは確かに不思議なる暗號と言はなければならなかつた。

風は東寄りの方向に吹きまはしてはゐるが、依然ほんの微風である。 思ふに、氷は昨日(きのふ)よりも密なるべし。見渡すかぎり白皚々(はくがい〜)(まれ)に見る氷の裂け目か、氷丘(ひようきう)の黒い影のほかには、 一點の遮るものなき一大氷原である。遙か南方に碧い海の狹い通路がみえる。 それが我々の逃れ出ることの出來る唯一の道であるが、 それさへ日毎に結氷しつつあるのである。船長はみづから重大な責任を感じてゐる。 聞けば、馬鈴薯のタンクはもう終りとなり、ビスケットさへ不足を告げてゐるさうである。 しかし船長は相變らず無感覺な顏をして、望遠鏡で地平線を見渡しながら、 一日の大部分を(マスト)の上の見張所のに暮らしてゐる。 彼の態度は非常に變り易く、彼はわたしと一緒になるのを自ら避けてゐるらしい。 と言つて、何も先夜示したやうな亂暴を再びした譯ではない。

午後七時三十分。熟慮の結果、やうやく得たる私の意見は、 我々は狂人に支配されてゐるといふことである。これ以外のものでは、 クレーグ船長の非常な斑氣(むらぎ)を説明することは不可能である。 わたしがこの航海日誌を附けて來たのにまことに幸ひである。 我々が彼をどんな種類の監禁の(もと)に置くにしても——この手段は最後のものしとて[誤:ものとして]、 私は承認するのみであるが——我々の行爲を正當なるものと證據立てゝる[誤?:立てる]場合には、 この日誌がどれほどの役に立つことになるかも知れないからである。 全く不思議なことであはあるが、精神錯亂を暗示したのは船長自身であつて、 その怪しい行爲の原因が單なる特異の風變りとは認められないのであつた。

彼は約一時間ばかり前に、ブリッヂの上に立つてゐた。さうして、 私が後甲板をあちらこちらと歩いてゐる間、絶えず例の望遠鏡でぢつと立つて眺めてゐた。 船員の多くは下で茶を()んでゐた。といふのは、 近ごろ見張りが規則正しく續けられなくなつて來たからである。 歩くに疲れて、わたしは舷檣(げんしやう)()りかゝりながら周圍にひろがつてゐる大氷原に、 今しも沈まうとしてゐる太陽の投げる澄明な光りを、 心から感歎して眺めてゐると、その夢幻の状態から、 わたしは間近かに聞える嗄れ聲のために突然われに(かへ)つた。 それと同時に、船長があたりをきよろ〜見は廻し[誤:見廻し]ながら降りて來て、 わたしのすぐ側に立つてゐるのを見出した。彼は恐れと驚きと、 何か喜びの近づいて來るらしい感情とが相爭つて[ゐ]るやうな表情で、 氷の上を見まもつてゐた。寒いにも拘らず、大きい汗の雫がその額に流れてゐて、 彼が恐ろしく興奮してゐることが明かに判つた。その手足は癲癇の發作を今にも起さうとしてゐる人のやうに、 ぴり〜と引き吊つて來た。その口のあたりの相貌は醜く歪んで、固くなつてゐた。 「見給へ!」と、彼はわたしの手首を捉へて、喘ぎながら言つた。 しかし眼は依然として遠い氷の上に注ぎ、 頭は幻影の野を横切つて動く何物かを追ふかのやうに(おもむ)ろに地平のあたりに向つて動いてゐた。 [「]見給へ!それ、すこに人が!氷丘(ひようきう)の間に!今、あつちの後から出て來る! 君、あの女が見えるだらう。——いや當然見えなければならん! おゝ、未だあすこに!わしから逃げて行く。きつと逃げてゐるのだ—— あゝ、行つてしまつた!」

彼はこの最後の一句を、鬱結せる苦痛の呟きを以て發したのである。 これは恐らく永久にわたしの記憶から消え去ることはないであらう。 彼は繩梯子に取りすがつて、舷檣(げんしやう)の頂きに登らうと努めた。 それは(あたか)も去りゆくものゝ最後の一瞥を得んと望むかのやうに——。 しかし彼の力は足らず、集會室(ホール)天窓(あかりまど)によろめき退(しさ)つて來て、 そこに彼は喘ぎ疲れて()りかゝつてしまつた。 その顏色は蒼白となつたので、私はきつと彼が意識を失ふものと思つて、 時を移さずに彼を伴つて天窓(あかりまど)を降りて、 船室のソファの上にその體を横へさせた。 それから私はその脣にブランデイを注ぎ込んだ。幸ひにそれが卓效(たくかう)を奏して、 蒼白な彼の顏には再び血の氣があらはれ、顫へる手足をやうやく落着かせるやうになつた。 彼は(からだ)を突いて肘を起して、あたりを見まはしてゐたが、 われ〜二人ぎりであるのを見て、やつと安心したやうに、 此方(こつち)へ來て自分の(そば)へ坐れと、わたしを手招きした。

「君は見たね。」と、この人の性質とはまつたく似合はないやうな、 低い畏れたやうな調子で、彼は訊いた。

「いゝえ、何も見ませんでした。」

彼の頭は、再びクッションの上に沈んだ。

「いや、いや、望遠鏡を持つてはゐなかつたらうか。」と、彼は呟いた。 「そんな筈がない。(わし)は彼女をみたのは望遠鏡だ。 それから愛の眼——あの愛の眼を見せたのだ。ねえ、ドクトル[、] 給仕(スチワード)内部(なか)へ入れないで呉れたまへ。 彼奴(あいつ)(わし)が氣が狂つたと思ふだらうから。 その戸に鍵をかけて呉れたまへ。ねえ、君!」

私は立つて、彼のいふ通りにした。

彼は瞑想に呑み込まれたかのやうに、暫らくの間ぢつと横になつてゐたが、 やがてまた肘を突いて起き上つて、ブランデイをもつと呉れと言つた。

「君は、思つてはゐないのだね、僕が氣が狂つてゐるとは……」

私がブランデイの壜を裏戸棚にしまつてゐると、彼がかう訊いた。

「さあ、男同士だ。きつぱりと言つて呉れ。君はわしが氣が狂つてゐると思ふかね。」

「船長は、何か心に屈托があるのではありませんか。それが船長を興奮させたり、 また非常に苦勞させたりしてゐるのでせう。」と、私は答へた。

「その通りだ。君。」と、ブランデイの效目(きゝめ)で眼を輝かしながら、 船長は叫んだ。「全く澤山の屈托があるのさ。——澤山ある。 それでも(わし)はまだ經緯度を計ることは出來る、六分儀も對數表も正確に扱ふことが出來る。 君は法廷で(わし)を氣違ひだと證明することは到底出來まいね。」と、 彼が椅子に()りかゝつて、さも冷靜らしく自分の正氣なることを論じてゐるのを聞いてゐると、 わたしは妙な心持になつて來た。

「恐らくそんな證明は出來ないでせう。」と私は言つた。「しかし私は、 なるべく早く歸國なすつて、暫らく靜かな生活を送られた方がよろしからうと思ひます。」

「え、國へ歸れ……。」と、彼はその顏に嘲笑の色を浮べて言つた。 「國へ歸るといふのは(わし)のためで、靜かな生活を送るといふのは君自身のためではないかね、君。 フロラ——可愛いフロラと一緒に暮すさね。ところで、君、惡夢は發狂の徴候かね。」

「そんなこともあります。」

「何かその外に徴候はないかね。一番最初の徴候は何かね。」

「頭痛、耳鳴り、眩暈、幻想——まあ、そんなものです。」

「あゝ、何だつて……。」と突然彼は遮つた。「どんなのを幻想(デルージョン)といふのだね。」

「そこに無いものを見るのが幻想(デルージョン)です。」

「だつて、あの女はあすこにゐたのだよ。」と、彼は呻くやうに言つた。 「あの女はちやんと其處にゐたよ。」

彼は立ち上つて(ドア)をあけ、のろ〜不確(ふたしか)な足取りで、 船長室へ歩いて行つた。

わたしは疑ひもなく、船長は明朝までその部屋に(とゞ)まることゝ思つた。 彼がみづから見たと思つた物がどんなものであるとしても、 彼の身體は非常な衝動(ショック)を受けたやうである。 船長は日毎にだん〜可怪(をかし)くなつて來る。私は彼自身が暗示したことが本當のことであり、 又その理性が冒されてゐるのを恐れた。彼は自己の行爲に關して、 何か良心の呵責を受けてゐるのであると、わたしは思はない。 こんな考へは、高級船員などの間ではあり觸れた考へ方であり、 また普通船員の中にあつても矢はり同樣であると信じられる。 しかし私は、この考へ方を主張するに足るべき何物をも見たことがない。 彼には、罪を犯した人のやうな樣子は少しも見えない。 かれは苛酷な運命の取り扱ひを受けて、 罪人といふよりは寧ろ殉教者と認むべき人のやうな樣子が多く見られるのであつた。

今夜の風は南に向つて吹き廻つてゐる。(ねが)はくば、我々が唯一の安全航路であるところの、 あの狹い道路が遮斷されないやうに——。大北極の氷群、 即ち捕鯨者のいはゆる「關所(バリア)」の端に(くらゐ)してはゐるが、 どんな風でも北さへ吹けば、我々の周圍の氷を粉碎して、我々を助けてくれることになる。 南の風は解けかゝつた氷をみな我々の背後(うしろ)へ吹きよせて、 二つの氷山の間へ我々を挾むのである。どうぞ助かるやうにと、私は重ねて言ふ。



九月十四日。日曜日にして、安息日。わたしの氣遣つてゐたことがいよ〜實際となつて現れた。

唯一の逃げ道であるべき碧い細長い海水の通路が、南の方から消えて來た。 怪しげな氷丘(ひようきう)と、奇妙な頂端を持つて動かない一大氷原が、 吾人(ごじん)の周圍に連なるのみである。恐ろしいその曠原(くわうげん)を蔽ふものは、 死の如き沈默である。今や一つの(さゞなみ)もなく、 海の(かもめ)の鳴く聲も聞えず、帆を張つた影もなく、 たゞ全宇宙に(みなぎ)る深い深い沈默があるばかりである。 その沈默のうちに、水夫等の不平の聲と、白く輝く甲板の上に彼等の靴の(きし)む音とが、 いかにも不調和で不釣合に響くのである。たゞ訪づれたものは一匹の北極狐(アークチック・フォックス)のみで、 これも陸上では極めて有りふれたものであるが、氷群の上には()れである。 併しその狐も船に近づかず、遠くから探るやうな樣子をした後に、 氷を越えて速かに逃げ去つてしまつた。これは不思議な行動といふべきで、 北極の狐は一般に人間を全く知らず、また穿鑿好きの性質であるので、 容易に捕へられるほど非常に慣れ近づくものであるからである。 信ぜられないことのやうであるが、この際こんな些細な事件でさへも、 船員等には惡影響を及ぼしたのであつた。

「あの清淨な動物は怪物を知つてゐる。さうだ。我々を見てではなく、 あの魔物を見たからなのだ。」といふのが、主だつた魚銛發射手(もりなげ)の一人の註釋であつた。 さうして、その他の者も皆それに同意を示したので、 こんな他愛もない迷信に反對しようとするものさへも、全く無益のことであつた。 彼等はこの船の上に呪ひがあると信じ、さうして確にさうであると決定してしまつたのである。

船長は午後の約三十分、後甲板へ出て來る以外は、終日自分の部屋に閉ぢ籠つてゐた。 私は彼は後甲板で、昨日(きのふ)彼の幻影が現はれた場所をぢつつと見入つてゐるのを見たので、 又どうかするのではないかと十分覺悟してゐたが、別に何事も起らなかつた。 私はその側近くに立つてゐたが、彼は曾て私を見を[誤:見た]樣子もなかつた。

機關長がいつもの如くに祈[しめすへん壽禱(きたう)をした。捕鯨船のうちで、 英蘭(イングランド)教會の祈[しめすへん壽禱(きたう)書が常に用ひられるのは可笑しなことである。 しかも高級船員のうちにも、普通船員の中にも、決して英蘭(イングランド)教會の者はゐないのである。 我々は天主教徒(ローマン・カトリックス)長老教會派(プレスビテーリアンス)のもので、 天主教徒(ローマン・カトリックス)が多數を占めてゐる。そこで、 どちらの信徒にも異なる宗派の儀式が用ひられてゐるのであるから、 いづれも自分たちの儀式が好いなどと苦情を言ふことも出來ない。 さうしてその遣り方が氣に入つたものであれば、彼等は熱心に傾聽するのである。

かゞやく日沒の光りが、大氷原を血の(うみ)のやうに彩つた。 私はこんな美しい、又こんな氣味の惡い光景を見たことがない。 風は吹きまはしてゐる。北風が二十四時間吹くならば、なほ萬事好都合に運ぶであらう。

九月十五日。けふはフロラの誕生日なり。愛する乙女の君よ。 君の所謂(いはゆる)ボーイなる私が、頭の狂つた船長の(もと)に、 わづか數週間の食物しかなくて、氷の中に閉ぢこめられてゐるのが、 君には寧ろ見えない方が好いのである。うたがひもなく、 彼女はシェットランドから我々の消息が報道されてゐるかどうかと、 毎朝スコッツマン紙上の船舶欄を、眼を皿にして見てゐることであらう。 私は船員逹に手本を示すために、元氣よく、平靜を(よそほ)つてゐなければならない。 而も神ぞ知ろし召す。——わたしの心は、屡々甚だ重苦しい状態に在ることを——。

けふの温度は華氏十九度、微風あり。而も不利なる方向より吹く。 船長は非常に機嫌が好い。彼はまた何か他の前兆か幻影を見たと想像してゐるらしい。 昨夜は夜通し苦しんだらしく、今朝は早くわたしの室へ來て、 わたしの寢棚に()りかゝりながら、あれは妄想であつたよ。 君、なんでもないのだよ。」と囁いた。

朝食後、彼は食物がまだどれほどあるか調べて來るやうに、わたしに命じたので、 早速二等運轉士とともに行つたところ、食物は豫期したよりも遙かに少かつた。 船の前部に、ビスケットの半分ばかり這入つたタンクが一つと、 鹽漬の肉が三樽、それから極めて僅かの珈琲の()と、砂糖とがある。 また、後船艙と戸棚の中とに、鮭の鑵詰、スープ、羊肉の旨煮、その他の御馳走がある。 しかしそれとても五十人の船員が食つたらば、(またゝ)くひまに無くなつてしまふことであらう。 なほ貯藏室に粉二樽と、それから數の知れないほどに煙草が澤山ある。 それら全體を引つくるめたところで、各自の食量を半減して、 約十八日乃至二十日間ぐらゐを支へ得るだけのものがある——恐らく、 それ以上は到底困難であらう。

我々兩人がこの事情を報告すると、船長は全員をあつめて、 後甲板の上から一場の訓示を試みた。私はこの時ほどの立派な彼といふものを今まで見たことがない。 丈高く引きしまつた體軀(からだ)、 色やゝ淺黒く齑剌(はつらつ)たる顏。 彼は(まさ)に支配者として生まれて來たもののやうであつた。 彼は冷靜な海員らしい態度で、諄々(じゆん〜)として現状を説いた。 その態度は、一方に危險を洞察しながら、 他方に有りとあらゆる脱出の機會を狙つてゐることを示すものであつた。

「諸君。」と、彼は言つた。「諸君はうたがひもなく、 この苦境に諸君を陷れたものは、この(わし)であると思つてゐられるであらう。 さうして、恐らく諸君の中にはそれを苦々しく思つてゐる者もあるであらう。 併し多年の間、この季節(シーズン)にこゝへ來る船の中で、どの船であらうとも、 我が北極星號の如く多くの鯨油の金を(もた)らしたものはなく、 諸君も皆その多額の配分にあづかつて來たことを、心に刻んでおいて貰はなければならない。 意氣地無し水夫共は娘つ子たちに會ひたがつて村へ歸つてゆくのに、 諸君らは安んじてその妻を後に殘して置いて來たのである。そこで、 若し諸君が金儲けが出來たために(わし)に感謝しなければならぬといふのならば、 この冒險に加はつて來たことに對しても、當然、(わし)に感謝していゝ筈で、 つまりはこれはお互樣と言ふものである。大膽な冒險を試みて成功したのであるから、 今また一つの冒險を企てゝ失敗してゐるからと言つて、それを兎や角いふにはあたらない。 たとひ最も惡い場合を想像してみても、我々は氷を横切つて陸に近づくことも出來る。 海豹(あざらし)の貯藏のなかに()てゐれば、春までは十分生きて行かれる。 併しそんな惡いことは滅多に起るものではない。三週間と經たないうちに、 諸君は再びスコットランドの海岸を見るであらう。それにしても現在に於いては、 いやとも各自の食量を半減して貰はなければならない。同じやうに分配して、 誰も餘計にとるやうなことがあつてはならない。諸君は心を強く持つて貰ひたい。 さうして、以前に多くの危險を凌いで來たやうに、 この後なほ一層の努力を以てそれを防がなければならないのだ。」

彼のこの言葉は、船員等に對して驚くべき效果をあたへた。今までの彼の不人氣は、 これに因つてすつかり忘れられてしまつた。 迷信家の魚銛發射(もりうち)の老人が先づ萬歳を三唱すると、 船員一同は心からこれに合唱したのであつた。



九月十六日。風は夜の間に北に吹き變つて、氷は解けさうな徴候を示した。 食糧を大いに制限されたにも拘らず、船員等はみな機嫌をよくしてゐる。 もし危險區域脱出の機會が見えたらば、少しの猶豫もないやうにと、 機關室には蒸汽が保たれて、出發の用意が整つてゐる。

船長はまだ例の「死」の相から離れないが、元氣は旺溢(わういつ)してゐる。 かう突然に愉快さうになつたので、私は(さき)に彼が陰氣であつた時よりも更に面喰つた。 わたしには到底これを諒解することが出來ない。私はこの日誌に初めの方にそれを擧げたと思ふが、 船長の奇癖のうちに、彼は決して他人を自分の部屋へ入れないことがある。 現に今もなほそれを實行してゐるのであるが、彼は自身で寢床を始末し、 他の船員等にもこれを實行させてゐる。ところが、驚いたことには、 今日その部屋の鍵をわたしに渡して、その船室へ降りて行つて、 彼が正午の太陽の高度を測つてゐる間、 船長の時計で時間(タイム)を取るやうに私に命令したのであつた。

部屋は洗面臺の數册の書籍とを備へた飾り氣のない小さい室である。 壁にかけられた若干の繪のほかには、殆ど何の裝飾もない。 それらの多くは油繪まがひの安つぽい石版畫であるが、 (たゞ)一つわたしの注意をひいたのは若い婦人の顏の水彩畫であつた。 それは明かに肖像畫であつて、船乘りなどが特に心を惹かれるやうな、 想像的 (タイプ)の美人ではなかつた。どんな畫家でも、 こんな性格と弱さとが妙に混淆したところのものを、その内面から描き出すことは、 なか〜難しいことであつたらう。 睫毛(まつげ)の埀れた不活齑(ふかつぱつ)さうな物憂い眼と、 さうして思案にも心配にも容易に動かされないやうな、廣い平らな顏とは、 綺麗に切れて浮き出した顎や、(きつ)と引締つた下脣と、強い對照をなしてゐた。 肖像畫の一方の下隅に、「エム・ビー、年十九」と書かれてゐた。 僅か十九年の短い生涯に、彼女の顏に刻まれたやうな強い意志の力を現はし得るとは、 その時わたしには殆んど信じられなかつた。彼女は定めて非凡な婦人であつたに相違なく、 その容貌はわたしに非常な魅力をあたへた。私は單にちらりと見ただけであつたが、 若しわたしが製圖家であるならば、 この日記に彼女の容貌のあらゆる點を描き出すことが(きつ)と出來るであらう。

彼女はわが船長の生涯に於いて、いかなる役割りを演じたのであらうか。 船長はこの繪をその寢床の端にかけて置くので、彼の眼は絶えずこの畫の上に注がれてゐる筈である。 若し船長がもつと無遠慮であつたらば、何かこのことに關して觀察することも出來たのであらうが、 彼は無口で控へ目の性質であつたので、奧深く觀察が出來なかつたのである。 彼の室内の他のものに就いては、何等記録に値するやうなものはなかつた。 ——即ち船長服、携帶用の床几(しやうぎ)、小形の望遠鏡、煙草の(くわん)、 幾つかのパイプ及び水煙管(みづぎせる)——(ちなみ)に、 この水煙管(みづぎせる)は船長が戰爭に參加したといふミルン氏の物語に少しく色を附けるが、 その聨想は寧ろ當らないらしい。

午後十一時二十分。船長は長いあひだ雜談に花を咲かせた後、 たつた今寢床に就いた。彼が氣の向いてゐるときは、 實に惚れ〜゛するやうな好い相手である。非常に博識で、 而も獨斷的に見ゆることなしに、強く自己の意見を表示する力を持つてゐる。 それを思ふと、わたしは自分の頭のよく働かないのが(いや)になる。

彼は靈魂の性質について話した。さうして、アリストートルやプラトーンの説をよく消化して、 問題のうちに點出した。彼は輪廻を學び、 ピタゴラス(紀元前のギリシャの哲學者)の説を信ずるものゝやうである。 それ等を論じてゐるうちに、我々は降神術の問題に觸れた。 私はスレードの詐欺に對して、ふざけた引喩をしたところ、 彼は有罪と無罪とを混同しないやうにと、甚だ熱心にわたしに向つて警告した。 さうして、基督教と邪教とを等しく心に刻するのは正しい議論である。 なぜなれば、基督教を(いつ)はり裝つたユダは惡漢(わるもの)であつたと彼は論じた。 それから間もなく、彼はお(やす)みと言つて、自分の部屋へ退いて行つた。

風は新たになり、確に北から吹いてゐる。夜は英國の夜のごとくに暗い。 明日は、この氷の桎梏(かせ)から逃れ得ることを祈る。



九月十七日、再び妖怪(おばけ)騷ぎ。ありがたいことに、わたしは至極大膽である。 意氣地のない水夫等の迷信と、熱心なる自信を以て彼等が語る報告とは、 彼等の平生に慣れてゐない者を戰慄させるであらう。

妖怪(おばけ)事件については、多くの説がある。併しそれらを要約すれば、 何か怪しいものが船の周圍を終夜飛びあるくといふのである。 ピーターヘッドのサイディ・ムドナルドもそれを見たといひ、 シェットランドの脊高のつぽうのピーター・ウヰリアムソンもそれを見たといひ、 ミルン氏も亦ブリッヂで確に見たといふ。これで都合三人の證人があるので、 二等運轉士が見た時よりは、船員の主張が一層有力になつて來た。

朝食の後、私はミルン氏に話して、かういふ馬鹿馬鹿しいことには超然としてゐなければならず、 又他の船員等によい手本を示さなければならないと言つてやつた。 ところが、彼は例に依つて何かを豫言するやうに、風雨に(さら)されたその頭を()つて、 特殊の注意を拂ひながら答へたのは、かうであつた——。

「恐らく然うであるかも知れず、さうでないかも知れないよ、ドクトル。」と彼は言つた。 「僕はそれを幽靈と呼びはしなかつた。これに就いては色々の言ひ分もあるが、 僕は海妖怪(うみおばけ)や、この種のものに就いて、 自分の信條を本當らしく言ひ拵へるやうなことはしない積りだ。 僕はむやみに怖がるのではない。併し明るい日中に兎や角言はず、若し君がゆうべ僕と一緒にゐて、 あの怖ろしい形をした、白い無氣味なものが、あつちへ行つたり、 こつちへ來たりして、丁度母親を失つた仔羊のやうに、闇のなかを泣き叫ぶのを見たら、 恐らく君だつてぞつとしたらうと思ふ。さうすれば、君も、 馬鹿馬鹿しい話だなどと、さう簡單に片付けてしまはないだらうよ。」

私は彼を説きつける望みはないと思つて、この次にもし又幽靈があらはれたらば、 私を呼び上げてくれるやうに特に頼んで置くの外はなかつた。 ——この頼みを、彼は「そのやうな機會は決して來ないやうに」 との願ひをあらはす祈[しめすへん壽禱(いのり)(ことば)を以て、 兎も角も承知だけはすることになつた。

私が望んだごとく、我々の背後の氷面が破れて、細い水の(しま)が現はれて來た。 それが遠く全體に亙つて擴がつてゐる。今日(こんにち)我々が在るところの緯度は北緯八十度五十二分で、 これは即ち氷群に南からの強い潮流がまじつてゐることを示すのである。 風が都合よく吹きつゞくならば、結氷と同じ速させまた解氷するであらう。 現在の我々は、煙草をふかして機會を待ち望むの他に何事も手につかない。 私は急激に運命論者にならんとしつゝある。風や氷のやうな、 兎かく不確實な要素のものばかりを取扱つてゐると、人間もしまひには然うならざるを得ない。 マホメットの最初の從者等の心を運命に從はしめたものは、恐らくアラビア砂漠の風か砂であつたらう。

このやうな妖怪(おばけ)騷ぎが、船長に對して非常に惡い影響を與へてしまつた。 わたしは彼の敏感な心を刺戟するのを恐れて、この馬鹿馬鹿しい話を隱さうと努めてゐたが、 不幸にして彼は船員の一人がこの話を仄めかしてゐるのを洩れ聞いて、 どうしてもそれを聞かうと言ひ出した。さうして、私が豫期した通り、 それが爲に船長の一旦鎭まつてゐた心がまた大いに狂ひ出した。 これが昨夜、最も批判的聰明と最も冷靜なる判斷とを以て、哲學を論じたその同一人とは、 到底信ぜられなかつた。彼は後甲板を檻のなかの虎のやうにあちらこちらと歩き廻つてゐる。 時々に立ち停まつて、恍惚(うつとり)とした樣子で手を突き出しながら、 何か堪へられないやうに氷の上を見入つてゐるのである。

彼は絶えず呟いてゐる。さうして一度「ほんの()つとの間、愛して—— ほんの()つとの間!」と叫んだ。あゝ可哀さうに、立派な海員にして教養ある紳士が、 こんな境遇に落ちてゆくのを見るのは悲しいことである。 また眞の危險も唯生活の一刺戟に過ぎぬとしてゐるやうな船長の心を、 あの空想と妄想とが威嚇するかと思ふと、更に悲しくなるのである。 發狂せる船長と、幽靈に怯えてゐる運轉士との間に、 曾て私のやうな地位に立つた者があるだらうか。わたしは時々思ふのであるが、 恐らくあの二等運轉士を除いては、私がこの船中で唯一人の正氣の人間ではあるまいか。 しかし彼の機關手も一種の冥想家で、彼を獨りで置く限り、又その道具を掻き亂さない限り、 彼は紅海の惡魔に關するほかは何も注意しないのである。

氷は依然として速かに開いてゐる。明朝出發することが出來さうな見込みは十分である。 國へ歸つて、これまでにあつた不思議な出來事を話したらば、 みんなはきつと私が作り話をしてゐると思ふであらう。

午後二時。私は實にぞつとしてしまつた。今は幾分落着いては來たが、 これとても強いブランデイを一杯引つかけたお蔭である、 以下この日記が證明するやうに、私は未だ全く自己を取戻してはゐないのである。 私は非常に不思議な經驗を味はつた。さうして、私にはどうしても合理的だとは思はれないやうな事物を、 彼等は確に見たといふので、私は船中の者をみな狂人ときめてしまつたが、 今となつてはそれが果して正しいかどうか、甚だ疑はしくなつて來たのである。 あゝ、こんなつまらないことに神經を奪はれてしまふとは、 私も何といふ大馬鹿者であらう。これは總ての馬鹿騷ぎの後から起つたことであるが、 こゝに書き加へる價値の[誤:價値が]あると思ふ。いつも馬鹿にしてゐたことも、 今自らこれを經驗するに及んで、最早マンスン氏も、例の運轉士の話も、 いづれもこれを疑ふことが出來なくなつたからである。

畢竟これとて大したことではない——たゞ一つの音だけであつたに過ぎない。 私はこの日記を讀まれる人が、いつかこの(くだり)を讀むとしても、 わたしに感情と共鳴し、或はその時わたしに及ぼしたやうな結果を實感せられるであらうとは思はない。

さて夕食が終つて、私は(しん)に就く前に、しづかに煙草をふかさうと思つて、 甲板へ登つて行つた。夜は甚だ暗く——その暗さは、船尾端艇(クォーターボート)の下に立つてゐてさへも、 ブリッヂの上にゐる運轉士の姿が見えないほどであつた。前にも言つた通り、 非常な沈默がこの氷の海に充ち滿ちてゐるのである。この世界の他の部分では、 たとひ如何に不毛の地であらうとも、(かす)かながらも大氣の振動といふものがある。 ——遠くの人の集まつてゐる處からも、或は木の葉から、或は鳥の翼から、 又は地を蔽ふ草の(かす)かなざわめきの音さへも、 何か(かす)かに響きがあるものである。 人間は積極的に音響を知覺こそしないが、若し音といふものが全然無くなつてしまふと、 實に物足りなくて寂しいものである。測り知れざる眞の靜けさが、あらゆる現實の無氣味さをもつて、 我々の上に押迫つてゐるのは、こゝ北極の海に於いてのみで、 僅かな呟きの聲をも捉へんとして緊張し、 船中に鳥渡(ちよつと)起つた小さい物音にまでも熱心に注意する、 われと我が鼓膜に氣が付くのである。

こんな心持で、わたしは舷檣(げんしやう)にひとり()りかゝつてゐると、 殆ど私のすぐ下の氷から、夜の靜寂の空氣を破つて、鋭い尖つた叫び聲が響いて來た。 最初は(あたか)も樂劇の首歌妓(プリマドンナ)も及ばぬやうな佳い音調でそれがだん〜に調子を上げて、 遂にその頂點は苦痛の長い號泣と變つてしまつた。 これは死者の最後の絶叫であつたかも知れない。この物凄い絶叫は、 今もなほ私の耳に響いてゐる。悲哀——いふに言はれぬ悲哀がその中に表はされてゐるかのやうで、 また非常な熱望と、それを貫いて時々に狂喜の亂調とが伴つてゐた。 それは私のすぐ(そば)から叫び出したのであるが、 わたしが暗闇のうちをぢつと見詰めた時には、 何も見分けることは出來なかつた。私はやゝ暫らく待つてゐたが、再びその音を聞くことがなかつたので、 そのまゝに降りて來た。實にわたしはわが全生涯中に曾て覺えない戰慄を感じながら——。

明り取りのあるところを降りて來ると、見張番交代に上つて來るミルン氏に逢つた。

「さてドクトル。」と彼は言つた。「おそらくそれは馬鹿な話だらうよ。 君はあの金切聲を聞かなかつたかね。多分それは迷信だらうよ。君は今どうお考へだね。」

私はこの正直な男に詫を言ひ、さうして私もまた彼と同じやうに惑つてゐることを認めなければならなかつた。 恐らく明日はわたしの考へも違つて來るであらう。而も今の私は自分の考へをすべて書き記す勇氣は殆どない。 他日これらの(いや)な聨想を一切振り落した(あかつき)に再びこれを讀んで、 わたしは(きつ)と自分の臆病を笑ふらだう。



九月十八日。わたしは猶、彼の奇妙な聲に惱まされつゝ、落着かない不安の一夜を過した。 船長も安眠したやうには見えない。その顏は蒼白で、眼は血走つてゐた。

私は昨夜の冒險を彼に話さなかつた。いや、今後とても決して話すまい。 彼はもう落着といふものが少しもなく、全く興奮してゐる。 そは〜と立つたり居たりして、少しの間もぢつとしてゐることが出來ないらしい。

今朝はわたしの豫期のごとく、鮮やかな通路が郡氷のうちに現はれたので、 やうやくに氷錨(アイス・アンカー)を解いて、西南西の方向に約十二 (マイル)ほど進むことが出來たが、 又もや一大浮氷に妨げられて、そこに餘儀なく停船することゝなつた。 この氷山は、我々が後に殘して來たいづれもに劣らない巨大なものである。 これが全く我々の進路を妨害したために、われ〜は再び投錨して、氷の解けるのを待つの外には、 どうすることも出來なかつたのである。 尤も風が吹きつゞけさへゐれば、恐らく二十四時間以内に氷は解けるであらう。 鼻のふくれた海豹(あざらし)數頭が水中に泳いでゐるのが見えたので、 その一頭を射止めると、十一 (フイート)以上の實に素晴らしい奴であつた。 彼等は獰猛な喧嘩好きの動物で、優に熊以上の力があると言はれてゐるが、 幸ひにその動作は鈍く不器用なので、氷の上で彼等を襲つても殆ど危險といふものがない。

船長はこれが苦勞の仕納めだとは全然思つてゐないやうであつた。 他の船員等はみな奇跡的脱出をなし得たと考へて、もはや廣い大海へ出るのは確實であると思つてゐるのに、 何故に船長は事態を悲觀的にのみ見てゐるのか、 わたしには到底測り知られないことである。

「ドクトル。察するに、君はもう大丈夫だと思つてゐるね。」と、夕食の後、 一緒にゐる時に船長は言つた。

「さう有りたいものです。」と、私は答へた。

「だが餘り樂觀してはならない。——尤も確なことは確だが……。 われ〜は皆、間もなく自分自分の本當の愛人のところへ行かれるのだよ。 ねえ、君、さうではないかね。併しあまり樂觀してはならない。——樂觀し過ぎてはならないね。」

彼は考へ深さうに、その足を前後に(ゆす)りながら、暫く默つてゐた。

「おい君。」と、彼はつゞけた。「こゝは危險な場所だよ。一番好い時でも、 いつどんな變化があるか分らない危險な場所だ。(わし)はこんなところで、 全く突然に人が遣られるのを知つてゐる。ちよつとした失策の踏み外しが、 時々さういふ結果を惹き起すのだ。——僅か一つの失策で氷の裂け目に陷落して、 後には緑の泡が人の沈んだところを示すばかりだ。まつたく不思議だね。」 彼は神經質のやうな笑ひ方をしながら、なほも語り續けた。 「隨分長い間、毎年 (わし)はこの國へ來たものだが、 まだ一度も遺言状を作らうなどと考へたことはない。—— もつとも特に後に遺すやうなものが何も無いからでもあるが……。 併し人間が危險に曝されてゐる場合には、宜しく萬事を處理し、 また用意して置くべきだと思ふが、どうだね。」

「さうです。」と、私は一體彼が何を思つてゐるのかと怪しみながら答へた。

「誰にしたところが、それが皆決めてあると思へば安心するものだ。」と、彼は言つた、 「そこで、何か(わし)の身の上に起つたら、どうか(わし)に代つて君が諸事を處理してくれ給へ。 (わし)船室(キャビン)には大したものもないが、まあそんな詰まらないものでも賣拂つてしまつて、 その代金は鯨油の代金が船員のあひだに分配されるやうに、平等に彼等に分配してやつてくれ給へ。 時計は、この航海のほんの記念として、君が取つて置いてくれ。 勿論、これは唯あらかじめ用心して置くといふに過ぎないが、 (わし)はこれをいつか君に話さう話さうと思つて、機會を待つてゐたのだ。 もし何かの必要のある場合には、(わし)は君の厄介になるだらうと思ふがね。」

「まつたくさうです。」と、私は答へた。「船長さんがかういふ手段をとられるからには、 わたしもまた……。」

「君は……君は……。」と、彼は遮つた。「君は大丈夫だ。一體、君に何の關係があらうか。 (わし)は短氣なことを言つたわけではない。やうやく一人前になつたばかりの若い人が、 「死」などといふことに就いて考へてゐるのを、聞いてゐるのは(いや)だ。 さあ、船室(キャビン)のなかの下らない話はもう止めにして、 甲板へ行つて新鮮の氣を吸はうではないか。(わし)もさうして元氣をつけよう。」

この會話について考へれば考へるほど、私はます〜(いや)な心持になつて來た。 あらゆる危險を逃れ得られさうな時に、なぜ遺言などをする必要があるのであらう。 彼の氣まぐれには、きつと何かの方法があるに相違ない。 彼は自殺を考へてゐるのであらうか。私はある時、 彼が自己破壞の(いや)はしい罪であることを、非常に敬虔な態度で語つたのを記憶してゐる。 併し今の私は、彼から眼を離すまい。その私室へ闖入することは出來ないにしても、 少くとも彼が甲板にある限りは、私もかならず甲板に(とゞ)まつてゐることにしようと思つた。

ミルン氏はわたしの恐怖を嘲笑して、それは單に「船長のちよつとした癖」に過ぎないと言つてゐる。 彼は甚だ事態を樂觀して[ゐ]るのである。その言ふところによれば、 明後日までには我々は(とざ)された氷から脱出することが出來る。 それから二日にしてジャン・メーエンを過ぎ、 また一週間ばかりにしてシェットランドが見られるであらうと——。 どうか、彼が樂觀し過ぎてゐなければ好いがと思ふ。 尤も彼の意見は、船長の悲觀的な考へとは違つて、おそらく公平な判斷であらう。 彼は種々の古い經驗に富んだ海員であつて、 何でも物事をよく熟慮した上でなくては、容易に口をきかないといふ人であるから——。

長い間、(まさ)に來らんと爲てゐた不幸の大團圓が、遂に來てしまつた。 私はそれをどう書いて好いか殆どわからない。船長は行つてしまつた。 或は彼は再び生きて歸るかも知れない。併し恐らく——恐らくそれは絶望であらう。

今は九月十九日の午前七時である。わたしは何か彼の足跡にでも逢着することもあるまいかと、 水夫の一隊を伴つて、終夜前方の氷山を歩きまはつたが、それは徒勞に終つた。 わたしは彼の行方不明について、こゝに少しく書いてみよう。 若し他日これを讀む人があつたならば、これは臆測や傳聞によつて書いたものではなく、 正氣の、しかも教育のあるわたしが、 自分の眼前に現に發生したことを正確に記述してゐるものであることを必ず承知して貰ひたい。 私の推量は——それは單に私自身の推量であるに相違ないが、その事實に對しては私は飽までも責任を持つのである。

前述の會話の後、船長はまつたく元氣であつた。しかし屡々その姿勢を變へたり、 彼の癖の舞踏病的な方法でその手足を動かしたりして、神經質さうに苛々してゐるやうに見えた。 彼は十五分間に七度も甲板へ上つて行つた。さうして、二三歩も大股に急ぎ足で甲板を歩いたかと思ふと、 また直ぐに降りて來る。わたしはその都度に附いて行つた。 彼の顏の上に、なんとなく不安な影が漂つてゐるのが見えたからである。 彼は私のこの懸念を悟つたらしく、私を安心させようとして殊更に快活を(よそほ)ひ、 ほんの詰まらない冗談にも、わざとから〜と笑つたりして見せた。

夜食の後、彼は再び船尾の高甲板へ登つた。夜は暗く、 圓材にあたる風のひう〜といふ陰氣な音を除いては、全く靜寂であつた。 密雲が北西の方から押寄せて來て、その雲の投げた粗い觸角が、月の(おもて)を横ぎつて流れてゐた。 月はこの雲間を透して時々に照るのである。 船長は足早に往つたり來たりすてゐたが、私がまだ附いて來てゐるのを見て、 彼はわたしの(そば)へ來て、下へ行つたら好いだらうと言ふことを謎かけるやうに言ふのであつた。 ——それは言ふまでもなく、甲板に(とゞ)まつてゐようとする私の決心をます〜強めるものであつた。

この後、彼は私の存在を忘れたやうに、默つて船尾の手摺に()りかゝつて、一部分は暗く、 一部分は月のひかりに朧ろに輝いてゐる大氷原のあなたを、 目瞬(まじろ)ぎもせずに見詰めてゐたのである。わたしは彼の動作によつて、 彼が幾たびか懷中時計をながめてゐるのを見た。彼は一度、 何か短い文句をつぶやいたが、唯その中の「もういゝよ。」といふ一語しか聽き取れなかつた。 闇に浮ぶ船長の大きい朦朧とした姿をながめ、 更に彼が(あたか)媾曳(あひび)きの約束を守る人がぼんやりと物を考へてゐるやうな姿で立つてゐるのを見た時、 わたしは全身にさつと無氣味な寒さを感じたことを白状する。 併し誰との逢引きであらう。私が一つの事實と他の事實とを(つな)ぎあはせた時、 ある朧ろげな觀念は浮んで來たけれども、その結論はやはり纒まらないのであつた。

彼が突然に熱狂したやうな樣子を示したので、わたしは當然彼が何かを見たと思つた。 私はそつとその背後に忍び寄ると、 彼は船と一直線上を速かに飛んでゐる霧の圈のやうなものを熱心に見つめてゐた。 それは形のない朦朧たる一種の星雲體のもので、それに月の光がさした時、 ある時は大きく、ある時は小さく見えるのである。月はこの時、 (あたか)もアネモネの(おほ)ひのやうに、 極めて薄い雲の天蓋を以て、その光を小暗くしてゐた。

「あゝやつて來るよ。あの娘が……。あゝ、遣つて來るよ。」と、 測り知られぬ優しさと、憐みの籠つた聲で、船長は叫んだ。 それは(あたか)も長いあひだ待ち設けてゐた愛情を以て、 可愛い者を慰めて遣るやうに——。さうして又、愛を與へるのは、 受けるのと同じく愉快であると言つたやうに——。

その次のことはまつたく瞬間的に突發したのであつて、私には何とも手の下しやうがなかつた。 彼は舷檣(げんしやう)天邊(てつぺん)に向つて飛んだ。それから再び飛ぶと、 彼は已に氷の上にあつて、彼の蒼白い朦朧たる物の足もとに立つたのである。 彼はそれを抱くやうに、兩手を()と差出した。 さうして、兩方の腕をひろげて、何か色めいた言葉を口にしながら、闇の中へ眞驀地(まつしぐら)に走り去つた。 わたしは硬くなつて突つ立つたまゝで、その聲が遠く消えてしまふまで、 闇に吸はれてゆく彼の姿を、大きい眼で見送つてゐた。 わたしは再び彼の姿を見ようとは思はなかつた。ところが、その瞬間に月は雲の間から皎々と輝き出でゝ、 大氷原の上を照らしたので、わたしは氷原を横切つて非常の速力で走つてゆく彼の黒影(こくえい)を、 遙かに遠いあなたに認めた。これが彼に對する我々の最後の一瞥であつた。 ——恐らく永久にさうであらう。

間もなく追跡隊が組織されて、私もそれに加はつたが、みんなの氣が張つてゐないので、 何も見出すことも出來なかつた。數時間以内には、更にもう一度、 搜索が試みられる筈である。私はこれらのことを書きながら、自分は夢でも見てゐるのか、 或は何か怖ろしい夢魔にでも(おそ)はれてゐるやうな心持がしてならない。



午後七時三十分。第二回の船長搜索から、疲れ切つてたゞいま歸つて來た。 搜索は不成功である。この氷山は途方もなく廣いので、 われ〜はその上をすくなくとも二十 (マイル)は歩いたが、 行けども行けども果てしがありさうにも思はれなかつた。寒氣は近ごろ非常に嚴しいので、 氷の上に降り積む雪が御影石(みかげいし)のやうにかたくなつてゐる。 こんなことさへなければ、船長の足跡ぐらゐは直ぐに見付けられたであらう。

船員等は(ともづな)を解いて、氷山を迂回して南方に向つて船を進めようと(しき)りに(あせ)つてゐる。 氷も夜の間は開けて、海水は地平線上に見えてゐるからである。 彼等は「クレーグ船長は(きつ)と死んでゐる。それであるから、 われ〜に脱出の機會があるにも拘はらず、こゝにぐづ〜してゐるのは、 くだらなくみんなの生命(いのち)(しち)するものである。」と論じてゐる。 ミルン氏とわたしとが大いに盡力して、やう〜明日の晩まで待つやうに一同を説き伏せたが、 それ以上は如何なる事情があつても、出發を延期しないと約束させられてしまつた。 そこで、われ〜は數時間の睡眠を取つた上で、最後の搜索に出發するやうに提議したのであつた。



九月二十日、夜。わたしは今朝、氷山の南部を探索に出發し、ミルン氏は北の方へ出發した。 十 (マイル)乃至十二 (マイル)の間、およそ生きてゐるものゝ影といふものは全く見られず、 たゞ一羽の鳥がわれ〜の頭の上を高く飛んで行つたばかりである。 その飛び方によりて、私はそれを鷹だと思つた。氷原の南端は狹い岬のやうに、 その尖端が細まつて海中に突出してゐる。この岬の麓へ來た時に、 一行は足を停めてしまつた。併し私はいかなる機會をも等閑(おろそか)にしなかつたといふ滿足を得たかつたので、 岬の行き止まりまで探して見るやうにと、みんなに頼んだ。

百ヤードほど行くか行かぬに、ピーターヘッドのムドナルドが、 我々の前方に何か見えると叫んで走り出した。我々も亦ちらりとそれを見て走り出した。 最初はそれが白い氷に對して、ぼんやりと黒く見えただけであつたが、 近づくにつれてそれは人の形をなして來た。さうしてしまひには、 我々が搜してゐるその人の形となつて現はれたのである。 彼は氷の土手に俯向きに倒れてゐた。多くの小さな氷柱(つらゝ)や、雪の小片が、 倒れてゐる彼の上に吹きつけて、黒い水平着の上にきらと光つてゐた。

我々が近づいてゆくと、(にはか)に一陣の旋風がさつと吹いて來て、 紛々たる雪片を空中に卷き上げたが、その一部は落ちて來て、また再び風に乘つて、 海の方へ速かに飛んで行つてしまつた。わたしの眼にはそれが單に吹雪としか見えなかつたが、 同行者の多くの者の眼には、それが婦人の形をして立上り、 (しかばね)の上に屈んでこれに接吻し、 それから氷山を横ぎつて急いで飛び去つたやうに見えたと言ふのであつた。 私は何事によらず、それがどんなに奇妙に思はれても、 他人(ひと)の意見を決して嘲笑しないやうにこれまで仕馴れて來た。 確に、ニコラス・クレーグ船長は(いた)ましい死を遂げたのではなかつたものと思ふ。 彼の青く押付けたやうな顏には、輝かしい微笑を含んでゐる。 さうして、死にあなたに横はる暗い世界へ彼を招いた不思議の訪問者を捉へるかのやうに、 彼はなほ兩手を突き出してゐるのである。

我々は彼を船旗に包み、足もとに三十二 (ポンド)彈を置いて、 その日の午後に彼を葬つた。わたしが弔辭を讀んだ時、荒くれた水夫等はみな子供のやうに泣いた。 それといふのも、そこにゐる多くの者は彼の親切な心に感じてゐたのである。 さうして、今こそその愛情を示すことが出來たのである。 彼の生きてゐる時には例の不思議な癖で、彼は寧ろかういふ愛情を不快に感じて、 いつも拒絶して來たのであつた。

船長の(しかばね)は、鈍い寂しい飛沫をあげて、船の格子を離れて行つた。 私は青い水面を凝視してゐると、その(しかばね)は低く低く、 遂に永久に暗黒の(ゆら)めく白い小さい斑點となつて、 それさへもやがて見えなくなつてしまつた。祕密や、悲哀や、神祕や、 (あらゆ)るものを彼の胸に深く祕めて、復活の日まで彼はそこに横はつてゐるのであらう。 その復活の日には、海はその死者を放ち、わがニコラス・クレーグは笑をたゝへ、 彼の硬ばつた腕を突き出して挨拶しながら、氷の間から現れて來るであらう。 彼の運命がこの世に於けるよりは、あの世に於いて一層幸福ならんことを、 私は切に祈るものである。

私はもうこの日記を止めにしよう。我々の歸路は平穩無事であり、 大氷原もやがては單に過去の思ひ出となるであらう。少し經てば、 私はこの事件によつて受けた衝動(ショック)に打克つことが出來よう。 この航海日誌をつけ始めた時、私はそれを終りまで書かなければならないとは考へてゐなかつた。 私は人のゐない船室(キャビン)でこれを書いてゐる。 今もなほ時々にびくりとしたり、 又は頭の上の甲板に死んだ人の神經的な早い跫音(あしおと)を聞くやうに思つたりして——。

私は今晩、かねて私の義務であつたので、 公正證書のために彼の動産表を作らうと思つて、 船長室へ這入つてみると、すべての物は以前に這入つた時と少しも變つてゐなかつた。 たゞ彼の婦人の寫眞だけが——これは船長の寢床の端にかけられてゐたと言つたが—— 小刀(ナイフ)のやうなものでその枠から切取られて、ゆくへ知れずになつてゐた。 これを不思議な證跡の連鎖となるべき最後のものとして、 私は「北極星號」のこの航海日誌の筆を()く。

(附記)——父のジョン・マリスター・レー醫師の註。 ——わたしは自分の(せがれ)の航海日誌に書かれてゐる、 北極星號の船長の死に關する不思議な出來事を通讀した。 すべての事が(まさ)に記述のごとくに起つたといふことは、 私の十分に信ずるところであり、又實際、最も正確なことである。 といふのは、彼は眞實を語ることには、最も愼重な注意を拂ふものであることを知つてゐる。 且つ又、この物語は一見非常に曖昧模糊としてゐるところから、 私は長い間その出版に反對してゐたのであるが、二三日前、 この問題について獨立的な確實の證據を握つたので、 それによつて新らしい光明が與へられることゝなつた。 わたしは英國醫學協會の會合に出席するために、 エジンバラへ行つたことがある。そこでドクトルP氏に出逢つた。 氏は古い大學の同窓生で、今はデボンシャーのサルタッシに開業してゐるのである。 (せがれ)のこの經驗談をわたしが物語ると、 彼はその人をよく知つてゐると言つた。更に少なからず驚いたことには、 私に彼の船長の人相書をあたへた。それは船長がやゝ若く描いてゐる外は、 この日誌に記されたところと全く符合してゐるのである。 彼の説明によれば、その船長はコーニッシ海岸に住んでゐる非常に美しい若い婦人と許嫁の仲であつた。 ところが、彼が航海の留守中にその婦人は奇怪なる恐怖が原因をなして死んでしまつたとか言ふのであつた。
——終——

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:廢宅


廢宅

ホフマン 著

岡本綺堂 譯

諸君は已に、私が去年の夏の大部分をX市に過したことを御承知であらう——と、テオドルは話した。

そこで出逢つた大勢(おほぜい)の舊友や、自由な快濶な生活や、種々な藝術的 (なら)びに學問上の興味 ——かうした總てのことが一緒になつて、この都會に私の腰をおちつかせてしまつたが、 まつたく今までにあんなに愉快なことはなかつた。わたしは一人で(まち)を散歩して、 或は飾窓の繪や、塀のビラを眺め、或は(ひそか)に往來の人びとの運勢を占つたりして、 私の若い時からの嗜好を滿足させてゐた。

このX市には、町の門に逹する廣い竝木通があつて、美しい建築物が軒をならべてゐた。 言はばこの竝木通りは富と流行の集合地である。宮殿のやうな高樓の階下は、 贅澤品を賣付けようと(あせ)つてゐる商店で、その上のアパートメントには富裕な人たちが住んでゐた。 一流のホテルや外國の使節などの邸宅もみなこの竝木通りにあつた。 かう言へば、諸君はかうした町が近代的生活と悦樂との焦點になつてゐることを容易に想像するであらう。

私は度々この竝木通りを散歩してゐるうちに、ある日、 他の建築物に比べて實に異樣な感じのする一軒の家を不圖(ふと)見つけた。 諸君、二つの立派な大建築に挾まれて、幅廣の四つの窓しかない低い二階家を心に描いて御覽んなさい。 その二階は隣の階下の天井より僅に少し高い位で、然も荒るゝが儘に荒れ果てた屋根や、 硝子の代りに紙を貼つた窓や、色も何も失つてゐる塀や、 それらが何年もこゝに手入れをしないと言ふことを物語つてゐた。 これが富と文化の中心地の眞中に立つてゐるのであるから、實に驚くではないか。よく見ると、 二階の窓に堅く(ドア)を閉め切つてカアテンを卸してあるばかりか、 往來から階下の窓を覗かれないやうに塀を作つてあるらしい。 隅の方に附いてゐる門が入口であらうが、掛金や錠前らしいものもなければ、 呼鈴(ベル)さへも無い。これは空家(あきや)に相違ないと私は思つた。 一日の中、何時(なんどき)そこを通つても、家内に人間が住んでゐるらしい樣子は更に見えなかつた。

私が屡々不思議な世界を見たと言つて、自分の透視眼を誇つてゐる事は、 どなたもよく御承知であらう。さうして、諸君はそんな世界を常織[誤:常識]から觀て、 或は否定し、或は一笑に附せらるるであらう。私自身も後になつて考へると、 それが一向不思議でもなんでもないことを發見するやうな實例が屡々あつた事を、 白状しなければならない。そこで今度も最初のうちは、 私も[誤?:私を]おどろかすやうなこの異樣な廢宅(はいたく)も、 又いつもの例ではないかと考へたのである。併しこの話の要點を聞けば、 諸君も成程と首肯(うなづ)かれるに相違ない。先づこれからの話をお聽きください。

ある日、當世風の人逹がこの竝木通りを散歩する時刻に、 私は例によつてこの廢宅の前に立つて、ぢつと考へ込んでゐると、 私の(そば)へ來て私を見つめてゐる人のあることを突然に感じた。 その人はP伯爵であつた。伯爵私しに[誤:伯爵は私に]向つて、この空家は隣の立派な菓子屋の工場である。 階下の窓の塀はたゞ(かまど)のためにこしらへたもので、 二階の窓の厚いカーテンは商賣物の菓子に日光が當らないやうに卸してあるまでのことで、 別になんの祕密があるわけでは無いと教へてくれた。それを聞かされて、 私はバケツの冷い水をだしぬけに打つ掛けられたやうに感じた。 併しそれが菓子屋の工場であるといふ伯爵の話を何分にも信用することが出來なかつた。 それは(あたか)もお伽噺(とぎばなし)を聞いた子供が、 本當にあつたことだと信じてゐながらも、 不圖(ふと)した氣まぐれにそれを(うそ)だと思つてみるやうな心持であつた。 併し私は自分が馬鹿であるという事に氣が()いた。 彼の家は依然として其外形になんの變化もなく、 種々の空想は自然に私の頭の中から消えてしまつた。ところが、 ある日偶然の出來事から再び私の空想が働き出すやうになつたのである。

私はいつもの通りにこの竝木通りを散歩しながら、かの廢宅の前まで來ると、 無意識に二階のカアテンの下りてゐる窓をみあげた。その時、 菓子屋の方に接近してゐる最後の窓のカアテンが動き出して、片手が、 と思ふ間に一本の腕がその(ひだ)の間から現れた。 私は早速にポケットからオペラグラスを()り出して見ると、 實に肉附きの好い美しい女の手で、その小指には大きいダイヤモンドが異樣にかがやき、 その白い(ふく)よかな腕には寶石を(ちりば)めた腕環(うでわ)(かゞや)いてゐた。 その手は妙な形をしたひよろ長い硝子 (びん)を窓の張出しに置いて、 再びカアテンのうしろへ消えてしまつた。

それを見て、わたしは石のやうに冷くなつて立停まつたが、 やがて極度の愉快と恐怖とが入りまじつたやうな感動が電流の温か味を以て、 からだ中を流れ渡つた。わたしはこの不思議な窓を見あげてゐるうちに、 おのづと心の奧から希望の溜息が溢れ出して來たのである。而も再び我に(かへ)つてみると、 わたしの周圍(まはり)には物珍しさうな顏をして彼の窓をみあげてゐる見物人が一杯に突つ立つてゐるではないか。 私は腹が立つたので、誰にも覺られないやうに、その人垣をぬけてしまつた。 すると、今度は常識といふ平凡きはまる惡魔めがわたしの耳の(そば)で、 お前が今見たのは日曜日の晴着(はれぎ)を着た金持の菓子屋のおかみさんが、 薔薇(ばら)香水か何かをこしらへるために使つた空壜を窓の張出しに置いただけのことだと囁きはじめた。 考へてみると、或はさうかも知れない。而もその途端に、非常な名案が浮んだのでわたしは(みち)を引返して、 鏡のやうに磨き立てた菓子屋の店へ這入つた。先づチョコレートを一杯註文して、 それを悠々(ゆう〜)と飮みながら、わたしは菓子屋の職人に言つた。

「君は隣にうまい建物を持つてゐるぢやあないか。」

相手はわたしの言葉の意味が判らないと見えて、 帳場に寄りかゝりながら怪訝(けげん)らしい微笑を浮べて私を見てゐるのであるので[誤:私を見てゐるので]、 私はあの空家を工場にしてゐるのは悧口(りこう)な遣方だと、私の意見をくり返して言つた。

「御冗談でせう、旦那。一體隣りの家がわたし逹の店の物だなんて、 誰からお聞きになつたんです。」と、職人は口を切つた。 わたしが探索の計画は不幸にして失敗したのである。併しこの男の言葉から察すると、 あの空家には何かの(いわ)くがあるらしいやうな氣もするのであつた。 諸君はわたしがこの男から、かの廢宅について左のやうな話を聞き出して、 どんなに愉快を感じたかを想像することが出來るであらう。

「わたしもよくは知りませんが、何でもあの家はZ伯爵の持物だと言ふことだけは確です。 伯爵の令孃は當時御領地の方に住んでゐて、もう何年もこゝへお見えになりません。 人の話を聞くと、あの家もまだ當今のやうな立派な建物が出來ない昔には、 なか〜洒落たお邸で、この竝木通りの名物だつたさうでしたが、 今ぢやあもう何年となく空家同樣に打つちやらかしてあるんです。 それでもあすこには、人に逢ふのが嫌ひだといふ偏屈な執事の(じい)さんと、 馬鹿に不景氣な犬がゐましてね。犬の奴め、時々に裏の庭で月に()え付いてゐますよ。 世間ぢやあ幽靈が出るなんて言つてゐますが、實のところ、 この店を持つてゐるわたしの兄貴とわたしとが、まだ人の寢鎭まつてゐる頃から起きて、 菓子の(こしら)へにかゝつてゐると、 塀の向う側で變な音のするのを毎日聞くことがありますが、 それがごろ〜と言ふやうに響くかと思ふと、 又何か掻きむしるやうな音がして、なんとも言へない(いや)な心持がしますよ。 ついこの間なぞも、變な聲でなんだか得體(えたい)のわからない唄を歌つてゐました。 それが確に婆さんの聲らしいんですけれど、そのまた調子が途方もなく甲高(かんだか)で、 わたしも隨分いろ〜の國の歌ひ手の唄を聽いたことがありますが、 今まであんなに調子の高い聲は聽いたことがありません。自然に身の毛がよだつて來て、 とてもあんな氣ちがひ染みた化物のやうな聲をいつまで聽いてはゐられなかつたので、 よく判然(はつきり)とはわかりませんが、どうもそれが佛蘭西語の唄のやうに思はれました。 それから又、往來のとぎれた眞夜中に、この世のものとは思はれないやうな深い溜息や、 さうかと思ふとまた氣ちがひのやうな笑ひ聲がきこえて來ることもあるんです。 何なら、旦那。わたしの家の奧の部屋の壁に耳を當てゝ御覽なさい。きつと隣の家の音が聞えますよ。」

かう言つて、彼はわたしを奧の部屋へ案内して、窓から隣を指さした。

「こゝの塀から出てゐる煙突が見えませう。あの煙突から時々猛烈に煙を()き出すので、 どうも火の用心が惡いと言つて、(うち)の兄貴がよくあの執事と喧嘩をすることがあるんです。 それが又、冬ばかりぢやあない、てんで火の氣なんぞの要らないやうな眞夏でさへもなんですからね。 あの老爺(ぢゞい)は食事の支度をするんだと言つてゐるんです。 あんな獸物(けだもの)が何を食ふんだか知りませんけれど、 煙突から煙がひどく出るときには、いつでも家中に變な匂ひがするんですよ。」

丁度その時に店の硝子戸が明いたので、菓子屋の職人は急いで店の方へ出て行つて、 今這入つて來た客に挨拶しながら、ちらりと私の方を見かへつて眼顏で合圖したので、 私はすぐにその客が例の不思議な(やしき)の執事であることを直覺した。 鷲鼻で、口を一文字に結んで、猫のやうな眼をして、薄氣味の惡い微笑を浮べて、 木乃伊(みいら)のやうな顏色をしてゐる、痩形の小男を想像して御覽なさい。 更に、彼はその髮に古風な高い(かもじ)を入れて、 その先をうしろへ埀らした上に、こて〜と髮粉を附け、 ブラシはよく掛けてあるがもう餘程の年數物らしい褐色の上衣(うはぎ)をきて、 灰色の長い靴下に、バックルの附いた爪先の平たい靴をはいてゐる。 彼は痩せてゐるにも拘らず、(すこぶ)る頑丈な骨組をして、手は大きく、 指は長く且つ節高(ふしだか)で、しつかりした足取りで帳場の方へ進んで行つたが、 やがて何處となく間のぬけたやうな笑ひを見せながら 「砂糖漬のオレンヂを二つと、巴旦杏(はたんきやう)を二つと、 砂糖の附いた栗を二つ」と鼻聲で言ふ、この小男の老人の姿をこゝろに描いて御覽なさい。

菓子屋の職人はわたしに微笑を送りながら、老人の客に話しかけた。

「どうもあなたはお加減が宜しくないやうですね。これもお年のせゐとでも言ふんでせうな。 どうもこの年といふ奴は我々のからだから力を吸ひ取るんでね。」

老人はその顏色を變らせなかつたが、その聲を張りあげた。

「年のせゐだと……。年のせゐだと……。力がなくなる……。弱くなる……。おゝ……。」

彼はその關節が碎けるかと思ふばかりに兩手を打ち鳴らすと、店全體がびり〜と震へて、 棚の硝子器や帳場はがた〜と搖れた。それと同時に、物すごい叫び聲がきこえたので、 老人は自分のあとから附いて來て足許(あしもと)に寢ころんでゐる黒犬に近寄つた。

「畜生!地獄の犬め。」

例の哀れな調子で(うな)るやうに呶鳴(どな)りながら、 栗一つを袋から出して犬に投げて遣ると、かれは人間のやうな悲しさうな聲を出したが、 急におとなしく坐つて、栗鼠(りす)のやうにその栗をかじり始めた。 やがて犬が小さな御馳走を平らげてしまふと、老人もまた自分の買物を濟ませた。

「左樣なら。」と、老人はあまりの痛さに相手が思はずあつと言つたほどに、 菓子屋の職人の手を強く握りしめた。 「弱い年寄はお前さんが好い夢をみるやうに祈つてゐるよ、お隣の大將。」

老人は犬を連れて出て行つた。彼は私に氣が()かないらしかつた。 わたしは呆れたやうに唯 茫然(ぼうぜん)と見送つてゐると、職人はまた話し出した。

「どうです、御覽の通りです。月に二三度こゝへ來るたびに、いつも極つてあんな風なんです。 あの(ぢい)さんについて幾ら探してみても、以前はS伯爵の從者で、 今はあの(やしき)の留守番をして、何年もの長い間、 主人一家の來るのを待つてゐるのだといふことだけしか判らないんです。」

時は(あたか)も町の贅澤な人たちが一種の流行でこの綺麗な菓子屋へあつまつて來る刻限になつて來たので、 入口の(ドア)は休み無しに明いて、店の中ががや〜し始めたので、 わたしはもうこれ以上に訊ねるわけには行かなくなつた。



わたしは(さき)にP伯爵があの廢宅について話したことが全然 (うそ)であることを知つた。 あの人嫌ひの老執事は不本意ながらも他の人間と一緒に住んでゐて、 その古い壁のうしろには何かの祕密が隱されてゐると言ふことを知つた。 それにしても、彼の窓際の美しい女の腕と、氣味の惡い不思議な唄の聲の主とを何う結び付けたものであらうか。 あの腕が年を取つた女の(しわ)だらけの身體(からだ)の一部であら[う]筈がない。 併し菓子屋の職人の話では、唄の聲は若い血氣盛りの女性の喉から出るものでも無いらしい。 わたしはそれを贔屓眼(ひいきめ)に見て、 これはきつと音樂の素養によつて若い女がわざと年寄らしい聲を作つたものか、 或は菓子屋の職人が恐怖の餘りに、そんなふうに聞き誤つたのではないかと、判斷を下してみた。

併し彼の煙突の煙のことや、異樣な匂ひや、妙な形の硝子壜のことが心に浮んだ時、 宿命的な魔法の呪縛(じゆばく)にかゝつてゐる美しい一人の女の姿が、 生けるが如くにわたしの幻影となつて現れて來た。さうして、 彼の執事は伯爵家とはまつたく無關係の魔法使ひで、 あの廢宅のうちに何か魔法の(かまど)を作つてゐるのではないかとも思はれて來た。 わたしの斯うした空想はだん〜に(たくま)しくなつて、 その晩の夢に彼のダイヤモンドの(きらめ)く手と、腕環のかゞやく腕とを、 あり〜と見るやうになつた。薄い灰色の(もや)の中から哀願していゐるやうな青い眼をした、 可憐な娘の顏が見えたかと思ふと、やがてその優しい姿があらはれた。 さうして、わたしが(もや)だと思つたのは、幻の女の手に握られてゐる硝子壜のうちから、 輪を作つて湧き出してゐる美しい煙であつた。

「あゝ、わたしの夢に現れて來た美しいお孃さん。」と、わたしは張裂けるばかりに叫んだ。 「あなたは何處にゐるのです。何があなたを呪縛してゐるのです。 それをわたしに教へてください。いや、私はみな知つてゐます。 あなたを監禁してゐるのは、腹黒い魔法使ひです。八分の五の調子で惡魔の唄を歌つたあとで、 褐色の着物に假髮(かつら)を附けて、菓子屋の店をうろ付きあるいて、 自分たちの食ひものを素早く掻きあつめ、栗を以て惡魔の弟子の犬めを飼つてゐる、 あの意地惡な魔法使ひに(とら)はれて、あなたは不運な奴隸(どれい)となつてゐるのです。 美しい、愛らしい幻の貴女(あなた)よ、わたしは何も彼も知つてゐます。 あのダイヤモンドはあなたの情火の反映です。而もあの腕に()めてゐる腕環こそは、 あなたを縛る魔法の(くさり)です。その腕環を信じてはいけません。 もう少し我慢なさい。(きつ)と自由の身になれます。 どうぞあなたの薔薇の(つぼみ)のやうな口をあいて、あなたの居所を教へてください。」

この時、節くれ立つた手がわたしの肩越しにあらはれて、 忽ち硝子壜を叩きつけたので、壜は空中で微塵に碎けて散亂し、 弱い悲しさうな呻き聲と共に、可憐の幻影は忽ち闇のうちに消え失せた。



夜が明けて、わたしは夢から醒めると、急いで竝木通りへ行つて、 いつものやうにそれとなく例の廢宅を(うかが)つてゐると、 菓子屋に接した二階の窓にぴかりと何か光つたものがあつた。 近寄つてみると鎧戸(よろいど)が開いて、 細目にあけたカアテンの隙間(すきま)からダイヤモンドの光がわたしの眼を射た。

「や、占めたぞ。」

夢のうちで見た彼の娘が、(ふく)よかな腕に頭を(もた)せかけながら、 (しとや)かに哀願するやうに私の方を見てゐるではないか。 併しこの激しい往來中に突つ立つてゐると、又この間のやうに人目に立つ(おそ)れがあるので、 わたしは先づ家の眞正面にある歩道のベンチに腰をかけて、 しづかに不思議な窓を見守ると、彼女は確に夢の女であるが、わたしの方を見てゐると思つたのは間違ひで、 彼女はどこを見るとも無しにぼんやりと下をみおろしてゐるのであつた。 その(まな)ざしは如何にも冷かで、もし時々に手や腕を動かさなかつたらば、 わたしはよく()けてゐる()を見てゐるのでは無いかと思ふくらゐであつた。

私はこの窓の神祕的な女性に魂を奪はれてしまつて、 私のそばへ押賣りに來た伊太利人の物賣の聲などは耳に入らないほどに興奮してゐた。 その伊太利人はたうとう私の腕を叩いたので、私ははつと我に(かへ)つたが、 あまりに忌々(いま〜)しかつたので、おれに構ふな、あつちへ行けと言つて遣つたが、 まだ口明けだからと執拗(しつこ)く言ふので、早く追ひ拂はうと思つてポケットの金を出しにかゝると、 彼は言つた。

「旦那。こんなに素敵な物があるんです。」

彼は箱の抽斗(ひきだし)から小さな圓い懷中鏡を()り出して、 わたしの鼻のさきへ突き付けたので、なんの氣も無しに見かへると、 その鏡の中には廢宅の窓も、彼のまぼろしの女の姿も、あり〜と映つてゐるではないか。

私はすぐにその鏡を買つた。さうして、鏡の中の彼女の姿を見れば見るほど、 だん〜に不思議な感動に打たれて來た。ぢつと(ひとみ)を凝らして鏡のなかを見つめてゐると、 さながら嗜眠病(しみんびやう)がわたしの視力を狂はせて仕舞つたやうにも思はれて來た。 幻の女はたうとうその美しい眼をわたしの上に注いだ。その柔かい眼の光がわたしの心臟に沁み透つて來た。

「あなたは可愛らしい鏡をお持ちですな。」

かういふ聲に夢から醒めて、わたしは鏡から眼を離すと、 わたしの兩側には微笑をうかべながら私を眺めてゐる人逹があるので、 私も(すこぶ)る面喰つてしまつた。彼の人逹はわたしと同じベンチに腰をかけて、 おそらく私が妙な顏をして鏡をながめてゐるのを面白がつて見物してゐたのであらう。

「あなたは可愛らしい鏡をお持ちですな。」

私が(さき)に答へなかつたので、その人は再びおなじ言葉を繰返した。 しかもその人の目附はその言葉よりも更に雄辯に、 どうしてお前はそんな氣違ひ染みた目附をしてその鏡に見惚(みと)れてゐるかと、 わたしに問ひかけてゐるのであつた。その男はもう初老以上の年輩の紳士で、 その聲音(こわね)や目附がいかにも温和な感じをあたへたので、 わたしは彼に對して自分の祕密を隱してはゐられなくなつた。 わたしは彼の窓際の女を鏡に映してゐたことを打明けた上で、 あなたもその美しい女の顏を見なかつたかと訊いた。

「こゝから……。あの古い(やしき)の二階の窓に……。」

その老紳士は驚いたやうな顏をして、鸚鵡(あうむ)がへしに問ひ返した。

「えゝ、さうです。」と、私は大きい聲を出した。

老紳士は笑ひながら答へた。

「や、どうも、それは不思議な妄想ですな。いや、 かうなると私の老眼を神樣に感謝せざるを得ませんな。 なるほど私もあの窓に可愛らしい女の顏を見ましたがね。 しかし、私の眼には非常に上手な油繪の肖像畫としか見えませんでしたがね。」

わたしは急いで振返つて、窓の方をながめると、そこには何者もゐないばかりか、鎧戸も閉まつてゐた。

老紳士は言葉をつゞけた。

「惜しいことでしたよ。もう()つと早ければ好うござんしたに……。 丁度いま、あの(たしき)に唯つた一人で住んでゐる老執事が、 窓の張出しに油繪を立てかけて、その塵埃(ほこり)を拂つて、鎧戸を閉めたところでした。」

「では、本當に油繪だつたのですか。」と、私はどぎまぎしながら訊き返した。

「御安心なさい。」と、老紳士は言つた。「わたしの眼はまだ確ですよ。 あなたは鏡に映つた物ばかり見詰めてゐられたから、豫計に眼が變になつてしまつたのです。 私もあなたぐらゐの時代には、よく美人畫を思ひ出しただけで、 大いに空想を描くことが出來たものでした。」

「しかし、手や足が動きました。」と、わたしは叫んだ。

「そりや動きました。確に動きましたよ。」

老紳士はわたしの肩を輕く叩いて、()ちあがりながら丁寧にお辭儀をした。

「本物のやうに見せかける鏡には氣をつけた方が好うござんすよ。」

かう言つて、彼は行つてしまつた。

あの老爺(おやぢ)め、俺を馬鹿な空想家扱ひにしやあがつたなと、 かう氣がついた時の私の心持は、おそらく諸君にも判るであらう。 わたしは腹立ちまぎれに我家へ飛んで歸つて、 もう二度とあの廢宅のことは考へまいと心に誓つた。 しかし彼の鏡はそのまゝにして、いつもネクタイを結ぶときに使ふ鏡臺の上に(はふ)り出して置いた。

ある日、わたしがその鏡臺を使はうとして、なんの氣も無しに彼の鏡に眼を留めると、 それが曇つてゐるやうに見えたので、手に取つて息を吹きかけて()かうとする時、 私の心臟は一時に止まり、わたしの細胞といふ細胞が嬉しいやうな、 怖ろしいやうな感激におのゝき出した。私がその鏡に息を吹きかけた時、 むらさきの靄の中から彼の幻の女がわたしに笑ひかけてゐるではないか。 諸君はわたしを懲性(こりしやう)のない夢想家だと笑ふかも知れないが、 兎も角もその靄が消えると共に、彼女の顏も玲瓏(れいろう)たる鏡のなかへ消え失せてしまつたのである。



それから幾日の間の私の心持を今更くどく説明して、諸君を退屈させることもあるまい。 唯その間に私は幾度(いくたび)か彼の鏡に息をかけてみたが、 幻の女の顏が現れる時と現れない時とがあつたことだけを斷つて置きたい。

彼女を呼び起すことの出來ない時には、私はいつも彼の廢宅の前へ飛んで行つて、 その窓を眺め暮らしてゐたが、もう其處らには人らしいものも見當らなかつた。 私はもう友逹も仕事もまつたく振捨てゝ、 朝から晩まで氣違ひのやうになつて幻の女のことを思ひつめてゐた。 こんなくだらないことは止めやうと思ひながらも、それがどうも止められないのであつた。

ある日、いつもより激しくこの幻影に襲はれた私は、彼の鏡をポケットに入れると、 精神病の大家のK博士の(もと)へ急いで行つた。わたしは一切の話を包まず打明けて、 この怖ろしい運命から救つてくれと哀願すると、 靜に私の話を聽いてゐた博士の眼にも一種の驚愕(おどろき)の色が閃いた。

「いや、さう御心配のことはないでせう。まあ私の考へでは()きに(なお)ると思ひますよ。 あなたは自分から魔法にかゝつてゐると思ひ込んで、それと戰はうとしてゐるが爲に、 却つて妄念が起るのです。先づあなたのその鏡を私のところへ置いて行つて、 專心にお仕事に沒頭なさるやうにお努めなさい。さうして、 忘れても竝木通りへは足を向けないやうにして、 一日の仕事をしてから長い散歩をしてはお友逹の一座と樂しくお過しなさい。 食事は十分に()つて、營養の(ゆたか)な葡萄酒をお飮みなさい。 これから私は、その廢宅の窓や鏡に現れる女の顏の執念深い幻影と戰つて、 あなたを心身共に丈夫にしてあげる積りですから、あなたも私の味方をする氣になつて、 わたしの言ふ通りを守つて下さい。」と博士は言つた。

澁々(しぶ〜)ながらに鏡を手放した私の態度を、博士はぢつと見てゐたらしかつた。 それから博士はその鏡に自分の息を吹きかけて、それを私の眼の前へ持つて來た。

「何か見えますか。」

「いゝえ、なんにも。」と、私はありのまゝを答へた。

「では、今度はあなた自身がこの鏡に息をかけてごらんなさい。」と、博士はわたしの手に鏡をわたした。

私は博士の言ふ通りにすると、女の顏が鏡のなかにあり〜と現れて來た。

「あつ。女の顏が……。」といふ私の叫び聲に、博士は鏡のなかを見て言つた。

「私にはなんにも見えませんね。併し實を言ふと、 鏡を見た時に私もなんとなくぶる〜寒氣(さむけ)がしました。 尤もすぐになんでもなくなりましたが……。では、もう一度やつて見て下さい。」

私はもう一度その鏡に息を吹きかけると、その途端に博士はわたしの(くび)のうしろへ手をやつた。 女の顏は再び現れた。わたしの肩越しに鏡に見入つてゐた博士はさつと顏色を變へて、 私の手からその鏡を奪ふやうに引つ取つて、細心にそれを(あらた)めてゐたが、 やがてそれを机の抽斗(ひきだし)に入れて錠をかけてしまつた。 それから暫く考へた後に、彼はわたしの所へ戻つて來た。

「では、早速にわたしの指圖通りにして下さい。實のところ、 どうもまだあなたの幻影の根本が呑み込めないのですが、まあ、 なるたけ早くあなたにそれを知らせることが出來るやうにしたいと思つてゐます。」と、博士は言つた。

博士の命令とぼり[誤:命令どほり]に生活するのは、私に取つて困難なことではあつたが、 それでも無理に實行すると、忽ちに規則正しい仕事と榮養物の效果が現れて來た。 それでもまだ晝間も——靜かな眞夜中には特にさうであつたが——怖ろしい幻影に襲はれることもあり、 愉快な友逹の一座にゐて、酒を飮んだり、歌を唄つたりしてゐる時ですらも、 ()(たゞ)れた匕首(あひくち)がわたしの心臟に突き透るやうに感じる時もあつた。 さういふ場合には、わたしの理性の力などは何の役にも立たないので、 よんどころなく其場を引退(ひきさが)つて、 その昏睡状態から醒めるまでは再び友逹の前へ出られないやうなこともあつた。

ある時、かういふ發作(ほつさ)が非常に猛烈に起つて、 彼の幻影に對する不可抗力的の憧憬がわたしを狂はせるやうになつたので、 私は往來へ飛び出して不思議な家の方へ走つてゆくと、遠方から見た時には、 固く閉ぢられた鎧戸の隙間から光が洩れてゐるらしく思はれたが、さて近寄つて見ると、 そこらは總て眞暗であつた。わたしはいよ〜取逆上(とりのぼ)せて入口の扉に駈け寄ると、 その扉はわたしの押さないうちに後へ倒れた。重い息苦しい空氣の漂つてゐる玄關の、 うす暗い燈のなかに突つ立つて、わたしは異常の怖ろしさと苛立(いらだ)たしさに胸を轟せてゐると、 忽ちに長い鋭い一聲が家のなかで響いた。それは女の(のど)から出たらしい。 それと同時に、わたしは封建時代の金色(こんじき)の椅子や日本の骨董品に飾り立てられて、 (まば)ゆいばかりに照り輝いてゐる大廣間に立つてゐることを發見した。 わたしの周圍(まはり)には強い(かお)りが紫の(もや)となつて漂つてゐた。

「さあ、さあ、花聟(はなむこ)樣。丁度、結婚の時刻でござります。」

女の聲がした時に、私は定めて盛裝した若い清楚な貴婦人が紫の靄の中から現れて來るものと思つた。

「ようこそ、花聟さま。」と、再び金切り聲が響いたと思ふ刹那(せつな)、 その聲の主は腕を差出しながら私の方へ走つて來た。 寄る年波と狂氣とで(みにく)くなつた黄色い顏がぢつと私を見入つてゐるのである。 私は怖ろしさの餘りに後退りをしようとしたが、蛇のやうに炯々(けい〜)とした鋭い彼女の眼は、 もうすつかり私を呪縛してしまつたので、この怖ろしい老女から眼を()らすことも、 身を退()くことも出來なくなつた。 彼女は一歩一歩と近付いて來る。その怖ろしい顏は假面であつて、 その下にこそ幻の女の美しい顏が(ひそ)んでゐるのではないかと言ふ考へが、 稻妻(いなづま)のやうに私の頭に閃いた。その時である。彼女の手が私の體に觸れるか觸れないうちに、 彼女は大きい唸り聲を立てゝ私の足許(あしもと)ばたりと倒れた。

「はゝゝゝ。惡性者(あくしやうもの)めがおまえの美しさにちよつかいを出してゐるな。 さあ、寢てしまへ、寢てしまへ。さもないと(むち)だぞ。手ひどい奴をお見舞い申すぞ。」

かう言ふ聲に、私は急に振返ると、彼の老執事が寢卷のまゝで頭の上に鞭を振り廻してゐるではないか。 老執事はわたしの足許(あしもと)に唸つてゐる彼女をあはや打ちのめさうとしたので、 私は慌てゝその腕を掴むと、老執事は振拂つた。

「惡性者め、若しわしが助けに來なければ、 あの老耄(おいぼ)れの惡魔めに喰ひ殺されてゐただらうに……。 さあ、すぐにこゝを出て行つて貰はう。」と、彼は呶鳴(どな)つた。

私は廣間から飛んで出たが、何しろ眞暗であるので、どこが出口であるか見當(けんとう)が付かない。 そのうちに私の後ではひゆう〜と言ふ鞭の音がきこえて、女の叫び聲が響いて來た。 堪らなくなつて、私は大きい聲を出して救ひを求めようとした時、 足許(あしもと)の床がぐら〜と搖れたかと思ふと、 階段を四五段も轉げ落ちて、(いや)と言ふほどに(ドア)へ叩き付けられながら、 小さい部屋の中へ俯伏(うつぶ)せに倒れてしまつた。 そこには今慌てゝ飛び出したらしい(から)の寢床や、 椅子の背に掛けてある褐色の上衣(うはぎ)があるので、 私はすぐにこゝが老執事の寢室であることを覺つた。 すると、荒々しく階段を驅け降りて來た老執事は、 いきなり私の足許(あしもと)平伏(ひれふ)して言つた。

「あなたが何人樣(どなたさま)にもしろ、 またどんなことをしてあの下司女(げすおんな)の惡魔めがあなたをこの邸内(やしきうち)へ誘ひ込んだにもしろ。[誤:誘ひ込んだにもしろ、] どうぞこゝで起つた出來事を誰にも仰有らないで下さい。 わたくしの地位に關ることでございます。あの氣違ひの夫人は懲しめのために、 寢床にしつかりと縛りつけて置きました。もうすや〜と睡つてをります。 今晩は暖かい七月の晩で、月はございませんが、星は一面にかゞやいて居ります。 では、お休みなさい。」

彼はわたしに哀願した後、ランプを取つて部屋を出て、 私を門の外へ押出して錠を下してしまつた。わたしは氣違ひのやうになつて我家へ急いで歸つたが、 それから四五日は頭がすつかり變になつて、 この恐ろしい出來事を全く考へることが出來なかつた。 唯あんなに長い間わたしを苦しめてゐた魔法から解放されたといふことだけは自分にも感じられた。 從つて彼の鏡に現れた女の顏に對する私の憧憬の熱も冷め、 彼の廢宅に於ける怖ろしかつた光景の記憶も、 單に何かの拍子に瘋癲(ふうてん)病院を訪問したぐらゐの追憶になつてしまつた。

彼の老執事がこの世の中から全く隱されてゐる高貴な狂夫人の暴君的な監視人であることはもう疑ふ餘地もなかつた。 それにしてもあの鏡は何であらう。今までの種々の魔法は何であらう。 まあ、これから私が話すことを聽いてください。



それからまた四五日の後、わたしはP伯爵の夜會にゆくと、伯爵は私を片隅に引張つて來て、 「あなたはあの廢宅の祕密が洩れ出したのを御存じですか。」と、微笑を浮べながら話しかけた。

私はこれに非常に興味を感じて、伯爵がその後を續けるのを待つてゐると、 惜しいことに丁度食堂が開かれたので、伯爵もそのまゝ默つてしまつた。 私も伯爵の言葉を夢中になつて考へながら、 ほとんど機械的に相手の若い娘さんに腕をかして、社交的な行列の中に加はつた。 さうして、私逹[誤?:私]は定められた席へその娘さんを導いてから、 はじめてその娘さんの顏をみると、いや、驚いた、 彼の幻の女がわたしの眼の前に突つ立つてゐるではないか。 私は心の底まで(ふる)へ上がつたが、彼の幻影に惱まされてゐた當時のやうに、 氣違ひ染みた憧憬は少しも起こつて來なかつた。 それでも相手の娘さんが吃驚(びつく)りしたやうに私の顏をぢつつと眺めてゐるのを見ると、 私の眼にはやはり恐懼(きやうく)の色が現れてゐたに相違なかつた。 私はやつとのことで氣を鎭めると、てれ隱しに、 あなたには以前どこかでお目にかゝつたやうな氣がしますがと言ふと、 意外にも、生まれてから初めて昨日(きのふ)このX市に來たばかりですと、 相手にあつさりと片付けられてしまつたので、私の頭は餘計に混亂して、 婦人に不作法ではあつたが、そのまゝに默つてゐた。而も彼女の優しい眼で見られると、 わたしは再び勇氣が出て、この新しい相手の娘さんの心の動きを觀察してみたいやうな氣にもなつて來た。 確かにこの娘さんは、可愛らしいところはあるが、何か心に屈託(くつたく)がありさうにも見えた。 お互ひの話がだん〜はずんで來た時分に、わたしは大膽に辛辣(しんらつ)な言葉を時々に用ひると、 いつも微笑してゐたが、 その蔭には(あたか)も傷口に(さは)られられた時のやうな苦惱が(ひそ)んでゐるやうであつた。

「お孃さん、今夜は馬鹿に御元氣がないやうですが、今朝お着きでしたか。」と、 私の(そば)に坐つてゐた士官がその娘さんに聲をかけた。 その言葉がまだ終わらないうちに、彼の隣にゐる男が士官の腕を掴んで何かその耳に囁いた。 すると、また食卓の反對の側では、ひとりの婦人が興奮して顏を眞赤にしながら、 ゆうべ觀て來た歌劇の話を大きな聲で語り始めた。 かうした愉快さうな環境が彼女の淋しい心にどう響いたのか、 その娘さんの眼には涙がこみ上げて來た。

「私、馬鹿ですわね。」と、彼女はわたしの方を向いて言つた。それから暫くして彼女は頭痛がすると言ひ出した。

「なあに、ちよつとした神經性の頭痛でせう。この甘美な、 詩人の飮料(シャンパン酒)の泡のなかでぶく〜言つてゐる快活な魂ほど、 よく利く藥はありませんよ。」と、私は心安立(こゝろやすだ)てにかう言ひながら、 彼女のグラスにシャンパンを一杯に()いでやると、 彼女は一寸それに脣を付けて、わたしのほうに感謝の眼を向けた。 彼女の氣分は引立つて來たらしく、このまゝで行つたら何も彼も愉快に濟んだかも知れなかつたのであるが、 私のシャンパン・グラスが不圖(ふと)したはずみで彼女のグラスと觸れた刹那、 彼女のグラスから異樣な甲高(かんだか)い音が發したので、彼女もわたしも急に顏色を變へた。 それは彼の廢宅の氣違ひ女の聲の響きと全く同樣であつたからであつた。

コーヒーが出てから、私はうまく機會を作つてP伯爵の(そば)へ行くと、 伯爵は私のこの行動を早くも覺つてゐた。

「あなたは隣りの婦人がS伯爵家のヱドヴィナ孃であることを知つてゐますか。 それから、長い間不治の精神病に苦しみながらあの廢宅に住んでゐるのが、 あの娘さんの伯母であるといふことを知つてゐますか。あの娘さんは、 今朝母親と一緒に不幸な伯母に逢ひに來たのです。 あの狂夫人の暴れ狂ふのを鎭めることの出來るものは、 彼の老執事のほかは無かつたのですが、その唯ひとりの人間が(にはか)に重病に罹つたと言ふわけです。 なんでもあの娘さんの母親はK博士に伺つて、あの家の祕密を打明けたさうですよ。」

K博士——その名は既に諸君も御承知の筈である。そこで言ふまでもなく、 私は少しも早くその謎を解くために博士の宅を訪問して、私の安心が出來るやうに、 詳しく彼の狂女の話をしてくれと頼んだ。以下は、祕密を守ると言ふ約束で、 博士がわたしに話してくれた物語である。



アンヂェリカ——Z伯爵令孃はすでに三十の坂を越えてゐたが、 まだなか〜に美しかつたので、 彼女よりもずつと年下のS伯爵[注:原文では以下S伯爵がヱドヴィナ伯爵となっている]は熱心に自分の戀を打明けた。 さうして、二人はその運試しに父のZ伯の(やしき)へ行くことになつた。 ところが、S伯爵はその邸へ這入つてアンヂェリカの妹を一目見ると、 姉の容色が急に()せて來たやうに思はれて、 彼女に對する熱烈な戀は夢のやうに()めてしまひ、 さらに妹のガブリヱルとの結婚を父の伯爵に申込んだのである。 伯爵は妹娘もS伯爵を憎く思つてゐないのを知つて、すぐに二人の結婚を許した。 姉のアンヂェリカは男の裏切りを非常に(うら)んだが、 表面は如何にも彼を輕蔑したやうに、「なあに、 伯爵はわたしの鼻についた玩具(おもちや)であつたと言ふことを御存じないんだわ。」と言つてゐた。 而もガブリヱルとS伯爵の婚約式が濟んでからは、 アンヂェリカは一家の團欒(だんらん)の席に顏をみせないことも少なくなかつた。 それのみならず、彼女は食堂にも出ないで、殆んど一日を森の中の獨り歩きに暮らしてゐた。

こゝに一つの異樣な事件がこの城に於ける單調な生活を破つた。 ある日、村の百姓のうちから選拔されたZ伯爵家の獵人(かりうど)等が、 最近に隣の領地で殺人や窃盜を以て告訴されたジプシーの一團を捕縛して、 男逹は鎖に繋ぎ、女子供は馬車に乘せて城の中庭へ引つ立てゝ來た。 女のジプシーの群の中では、頭から足の先まで眞赤な肩掛を着た一人のひよろ長い、 痩せこけた、物凄い顏の老婆がすぐに目に付いた。その老婆は馬車の中に立つて、 いかにも横柄(おうへい)な聲で自分を馬車から降ろせと命令するやうに言ひ放つと、 その態度に恐れをなして、伯爵の家來逹はすぐにその老婆を降してやつた。

伯爵は中庭へ降りて來て、この囚人團を城の地下室の牢獄へ繋ぐやうに命じた。 その途端に、髮を亂し、恐怖の色をその顏にみ(みなぎ)らしたアンヂェリカが(やしき)の内から走り出て、 父の足許(あしもと)(ひざまづ)いた。

「あの人逹を(ゆる)してやつて下さい、お父さま。あの人逹を赦してやつて下さい。 若しお父さまがあの人逹の血一滴でもお流しになれば、わたしはこのナイフでわたくしの胸を突き透します。」

ナイフを打振りながら鋭い聲でかう叫ぶと、そのまゝ氣を失つてしまつた。

「さうですとも、さうですとも、お美しいお孃さま。 私はあなたが私逹をお助けくださることをよく存じてをります。」

かう金切聲で叫んだ後、ジプシーの老婆は何か口の中で言ひながら、アンヂェリカの體に()し懸つて、 胸が惡くなるやうな接吻を彼女の顏と言はず胸と言はず浴びせかけた。 それから肩掛けの衣嚢(ポケット)から小さい金魚が銀の液體のなかで泳いでゐるやうに見える硝子の小壜を取り出して、 アンヂェリカの胸のところへ持つてゆくと、忽ちに彼女は意識を回復した。 彼女は眼を老婆の上に注ぐと、矢庭にと身を起して老婆を抱きかゝへ、 疾風(しつぷう)のごとくに城内へ連れ去つてしまつたので、 Z伯爵をはじめ、途中から出て來た妹のガブリヱルも、その戀人のS伯爵も、 あまりの驚異に身の毛をよだてた。Z伯爵は兎も角もその囚人逹の(くさり)を外させて、 みな別々の牢獄へ入れさせた。

翌朝、伯爵は村人を召集して、その面前でジプシーらには罪のないことを宣告した上、 自分の領地の通過劵を渡してやつたが、その解放されたジプシーの一團の中には、 彼の眞赤な肩掛けを着た老婆の姿は見えなかつた。きつと金鎖を(くび)に卷いて、 スペイン風の帽子に赤い羽を附けてゐるジプシーの親方が、 前の夜ひそかに伯爵の部屋を訪問して、伯爵に頼み込んだのであらうと、 村人等はさゝやき合つてゐた。實際ジプシー等が去つてから、彼等は殺人でも窃盜でもないことが判つた。

ガブリヱルの結婚式の日はいよ〜近づいて來た。ある日、中庭へ數臺の荷馬車を()き込んで、 それに家財道具や衣裳類を山のやうに積んであるのを見て、ガブリヱルは吃驚(びつく)りした。 次の日、Z伯爵は種々の事情から、 アンヂェリカがX市の別邸に自分ひとりで暮したいと言ふ申出(まをしい)でを許したと言ふことを、 ガブリヱルに言つて聞かせた。伯爵はその別邸を姉娘にあたへ、家族の者は勿論、 父の伯爵でさへ彼女の許可なくしてはその別邸へ出入りをしないと言ふことを、彼女に誓つた。 それからまた伯爵は、彼女の(せつ)なる願ひによつて、 自分の家僕を彼女の家事取締りのために附けてやることをも承諾した。

結婚式は無事に濟んだ。S伯爵と花嫁のガブリヱルは自分たちの(やしき)で水入らずの幸福な生活を榮んだ。 ところが、不思議なことには、何か祕密な悲しみが生命を(むしば)んで、 快樂と精力とを奪ひ去つて行くかのやうに、S伯爵の健康は日ごとに衰へて來た。 新妻のガブリヱルは夫の心配の原因をどうかして探り知らうとして、 あらゆる手段を盡くしてみたが、それはみな徒勞であつた。そのうちにS伯爵は、 このまゝでは自然に喰ひ入つて來る(のろ)ひのために取り殺されてしまふのを恐れて、 醫者の指圖するがまゝに斷然その邸を後にして、ピザへ出發した。 その折彼の新妻は身重であつたので、夫と一緒に旅立つことが出來なかつた。

「以上はS伯爵夫人が私に打明けた物語であるが、 それは餘りに狂氣染みてゐるのでよほど鋭い觀察力を以てしなければ、 話の聯絡を掴むことが出來ないくらゐであつた。[」]と、博士は註を入れて、又話した。

ガブリヱル夫人は、夫の不在中に女の子を生んだが、間もなくその赤ん坊は邸内から何者にか(さら)はれて、 八方手を盡してたづねたが、遂にその行方が知れなかつた。 母親の夫人の悲歎(ひたん)(はた)の見る目も憐れなくらゐであつたところへ、 ()てゝ加へて父のZ伯爵から、 ピザにゐる筈のS伯爵がX市のアンヂェリカの邸で煩悶(はんもん)に煩悶をかさねて瀕死の状態にあると言ふ手紙に接して、 夫人は殆んど狂氣せんばかりになつた。

夫人は産褥(さんじよく)から離れるのを待つて、父の城へ()せ付けた。 ある晩、彼女は生別れの夫や子供の安否を案じ侘びて、どうしても眠られないでゐると、 氣のせゐか寢室の(ドア)の外で(かすか)に赤兒の泣くやうな聲が聞えるので、 燈を點して(ドア)をあけて見ると、思はず彼女はぎよつとしたのである。 (ドア)の外には眞赤な肩掛けのジプシーの老婆が()ひつくばひながら、 「死」を嵌め込んだやうな眼でぢつと彼女を見詰めてゐるばかりか、 その腕には夫人を呼びさまさせた聲の主の、小さい子供を抱へてゐた。 あつ!私の娘だ——夫人はジプシーの老婆の腕から奪ひ取つた我子を、 嬉しさに高鳴りする我が胸へしつかりと抱きしめた。

夫人の叫び聲におどろかされて、家人が起きて來た時には、 ジプシーの老婆はもう冷たくなつてゐて、いくら介抱しても息を吹き返さなかつた。

Z老伯爵はこの孫にかゝはる不可思議な事件の謎が少しでも解けはしまいかと、 急いでX市のアンヂェリカの(やしき)へ行つた。今では彼女の氣違ひ沙汰に驚いて、 女中はみな逃げてしまつて彼の執事だけがたゞ一人殘つてゐた。 老伯爵が這入つた時には、彼女は平靜であり、意識も明瞭であつたが、 孫の物語が始まると、彼女は急に手を打つて大聲で笑ひながら叫んだ。

「まあ、あの小娘は生きてゐまして……。あなた、 あの小娘を埋めてくださいましたでせうね、きつと……。」

老伯爵はぞつとして、自分の娘はいよ〜本物の氣違ひであることを知ると、 執事の止めるのも聞かずに、彼女を連れて領地へ歸らうとした。 ところが、彼女をこの家から連れ出さうとする事を鳥渡(ちよつと)仄めかしただけで、 アンヂェリカは(にはか)に暴れ出して、彼女自身の命どころか、 父親の命までが危いほどの騷ぎを演じた。

再び正氣にかへると、彼女は涙ながらに、この家で一生を送らせてくれと父親に哀願した。 老伯爵はアンヂェリカの告白したことはみな狂氣の言はせる出鱈目だとは思つたが、 それでも娘の極度の惱みに心を動かされて、その申出(まをしい)でを許してやつた。 その告白なるものは、S伯爵は自分の腕に歸つて來て、 ジプシーの老婆が父の(やしき)へ連れて行つた子供は、 S伯爵と自分との仲に出來た子供だと言ふのであつた。X市には、 Z伯爵が哀れな姉娘を城へ連れて歸つたといふ噂が立つたが、 その實、アンヂェリカは依然として例の執事の監視のもとに、彼の廢宅に隱されてゐたのであつた。

Z伯爵は間もなく世を去つたので、ガブリヱル夫人は父の亡き後の家庭を整理するためにX市に戻つて來た。 もちろん、彼女が姉のアンヂェリカに逢へば、かならず何かの騷動が起るに決つてゐるので、 ガブリヱル夫人は不幸な姉に逢はなかつた。 而もその夫人は不幸な姉を老執事の手から引き離さなければならない事に氣が付いたと言つてゐたが、 その理由は私にも打明けなかつた。唯種々の事から歸納的に想像して、 かの老執事が女主人公の暴れ出すのを折檻(せつかん)して取鎭めると共に、 彼女が(きん)を造り得ると言ふ妄信に釣り込まれて、 彼女の物凄い試驗の助手を勤めてゐた事だけは判つて來た。

「さて、かうした不思議な事件の心理的關係をあなたにお話し申す必要はあるまいと思ひます。 併し彼の精神病の婦人の回復が死の鍵である最後の役目を勤めたのは、 明かにあなたであると思ひます。それからあなたに告白しなければならないのは、 實は私があなたの(くび)の後に手を當てゝ、 あなたの催眠状態の母體になつてゐた時、わたしは私自身の眼にもあの鏡の中に女の顏を見て、 はつとしましたよ。併し御安心なさい。 あの鏡に映つたのは幻の女ではなく、 ヱドヴィナ伯爵夫人の顏であつたと言ふ事がやつと判りましたよ。」



博士の話はこれで終わつた。博士はわたしの精神に安心をあたへるためにも、 この事件に就いてこれ以上には解釋の仕樣がないと言つたので、 その言葉をこゝに繰返して置きたい。

私もまた今となつて、アンヂェリカとヱドヴィナと、彼の老執事と私自身との關係 ——それは惡魔の仕業(しわざ)のやうにも思へるが——その關係を、 この上に諸君と議論する必要はないやうに思はれる。 私はこの事件の直後、(ぬぐ)ひ去らうとしても拭ひ去ることの出來ない憂鬱症のために、 ()はれるやうにしてこのX市を立去つた。 それでも猶一二ヶ月は氣味の惡い感じがどうしても去らなかつたが、突然それを忘れてしまつて、 なんとも言へない愉快な心持が幾月ぶりかで私の心に歸つて來たと言ふことだけを最後に附け加へて置きたいのである。

わたしの心にさうした氣分の轉換が起こつた刹那に、X市では彼の氣違ひの婦人が息を引取つた。

——終——

青空文庫で公開されている「廢宅」のテキストを元に、底本に合せて字句を修正し、底本の誤りには注を付けました。

元テキストのクレジット:

底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版發行
   2002(平成14)年6月20日新裝版初版發行
入力:門田裕志
校正:hongming
2003年11月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの圖書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボランティアの皆さんです。

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:聖餐祭


聖餐祭

フランス 著

岡本綺堂 譯

これは、あの夏の涼しい晩に、ホワイト・ホースの樹に下に我々が腰をおろしてゐる時、 ヌウヴィユ・ダーモンにある聖ユーラリ教會の堂守が、好い機嫌で、 死人の健康を祝するために古い葡萄酒を飮みながら話したのである。 彼はその日の朝、白銀(しろがね)の涙を柩蔽(ひつぎおほ)ひに散らしながら、 十分の敬意を表して、その死人を墓所へ運んだのであつた。



死んだのは私の可哀さうな親父ですが……。(堂守が話し出したのである) 一生、墓堀りを遣つてゐたのです。親父は氣にいゝ人間で、そんな仕事をするやうになつたのも、 (つま)りは方々の墓所に働いてゐる人逹と同じやうに、それが氣樂は仕事であつたからです。 墓堀りなどをする者には「死」などゝいふことは()つとも怖しく無いのです。 彼等はそんな事を決して考へてゐないのです。例へば、私にした所で、 夜になつて墓場へ入り込んでゆく位のことは、まるでこのホワイト・ホースの樹のところにゐる位のもので、 少しも氣味の惡い事はないのです。どうかすると、幽靈に出逢ふこともありますが、 出逢つたところで何でもありませんよ。私の親父も自分の仕事については、 私と同じ考へで、墓場で働く位の事は何でもなかつたのだと思ひます。 私は死人の癖や、性質はよく知つてゐます。全く坊さん逹の知らない事までも知つてゐます。 私が見ただけの事をすつかりお話しすれば、 あなたは吃驚(びつくり)なさると思ひますが、話は少ない方が悧口だと言ひますからね。 私の親父がそれでして、いつもいゝ機嫌で絲を紡ぎながら、 自分の知つてゐる話の二十の中の一つか[誤?:一つしか]話さない人でした。 この流儀で、親父は度々同じ話をして聞かせましたが……。さうです、 私の知つてるだけでもカロリイヌ・フォンテーヌの話を少くも百度位は話しました。

カトリーヌ・フォンテーヌは、親爺が子供の時によく見かけた事を思ひ出してゐましたが、 いゝ年の婆さんであつたさうです。(いまだ)に其地方に、其婆さんを知つてゐる老人が三人もゐるさうですが、 かなり其婆さんは知れ渡つてゐる人で、ひどく貧乏であつた割合に、 又ひどく評判のいゝ人であつたやうです。婆さんはその頃、ノンネ街道の角の—— 未だにあるさうですが、——小さい塔のやうな家に住んでゐまして、 それは半分ほども(こは)れた古屋敷で、ウルスラン尼院の庭に向つてゐる所にありました。 その塔の上には、今でもまだ昔の人の形をした彫刻の跡と、 半分消えたやうになつてゐる銘がありまして、 先にお亡なりになりました(セント)ユーラリ教會の牧師レバスール樣は、 それが『愛は死よりも強し。』といふ羅甸(ラテン)語だと仰しやいました。 尤もこの言葉は、「聖なる愛は死よりも強し。」といふ意味ださうです。

カトリーヌ・フォンテーヌは、この小さな一間に獨りで住んで、レースを作つてゐたのです。 御存知でせうが、この(へん)で出來るレースは世界中で一番良いことになつてゐるのです。 この婆さんにはお友逹や親戚はなんにもなかつたと言ひますが、 十八の時にドーモン・クレーリーといふ若い騎士を愛してゐて、 人知れずその青年と婚約をしてゐたさうです。尤もこれは作り話で、 カトリーヌ・フォンテーヌの日頃の行ひが普通の賃仕事をしてゐる女逹とは違つて上品であつたのと、 白髮(しらが)頭になつても何處かに昔の美しさが殘つてゐたせいゐだと言つて、 土地では本當にしてゐませんのです。婆さんの顏色(がんしよく)は、 どちらかと言へば沈んでゐて、指には金細工屋に作らせた、 二つの手が握りあつてゐる形をした指環をはめてゐました。 昔はこゝらの村では婚約の儀式にそんな指環を取交すのが習慣(ならはし)になつてゐましたが、 まあそんな風な指環であつたのでせう。

婆さんは聖者のやうな生活をしてゐました。一日のうちの大部分を教會で過して、 どんな日でも毎朝かならず(セント)ユーラリの六時の聖餐祭の手傳ひに出かけてゐたのです。

ある十二月の夜のことでした。カトリイヌの婆さんは獨りで小さい自分の部屋に寢てゐますと、 (ベル)の音に眼を醒されたのです。疑ひもなく第一の聖餐祭の(ベル)ですから、 敬虔な婆さんはすぐに支度をして階下(した)へ降りて、町の方へ出て行きました。 夜ま眞暗で、人家の壁も見えず、暗い空からは何ひとつの光りも見えないのです。 さうして四邊(あたり)の靜かなことは、犬の遠吠え一つ聞えず、 何の生物(いきもの)の音もせず、まるで人氣(ひとけ)がないやうに感じられたさうですが、 それでも婆さんが歩いてゐると、路に轉がつてゐる石の一つ一つ判然(はつきり)と見えて、 眼をつぶつたまゝでも教會へゆく道は立派にわかつたと言ひます。 そこでノンスの道とバアロスの道の角まで、譯も無しに辿つて來ると、 そこには、重々しい(はり)系統木(けいとうぼく) (クリストの系圖を裝飾的に現したもの)の彫つてある木造の家が建つてゐました。

こゝまで來ると、カトリイヌは教會の(ドア)が明いてゐて、 澤山の大きい蝋が洩れてゐるのを見たのです。歩いて教會の門を通ると、 自分はもう教會のうちに一杯になつてゐる會衆の中に這入つてゐまして。 禮拜者の人逹は見えなかつたのですが、 そこに集まつてゐるのはいづれも天鵝絨(ビロード)紋織(もんおり)の衣服を着て、 羽根毛のついてゐる帽子をかぶつて、 昔し風の佩劍(はいけん)をつけてゐる人々ばかりであるのに驚かされました。 そこには握りが黄金で出來てゐる長い杖をついてゐる紳士もゐます。 レースの帽子をコロネット型の櫛で留めてゐる婦人逹もゐます。 (セント)ルイス風をした騎士逹は婦人逹に手を差し延べてゐると、 相手の婦人逹は隈取りをした顏を扇にかくしてゐて、 たゞ白粉(おしろい)のついてゐる額と、眼の(ふち)に眼張りをしてゐるのだけが見えるのでした。 それらの人々は少しの音もさせずに自分逹の席につきましたが、 その動いてゐる時、鋪石(しきいし)の上に靴の音もなければ(きぬ)ずれの音もないのです。 低い所には、鳶色のジャケツに木綿(デイミン)の袖をつけて、青い靴下をはいてゐる若い藝術家逹の群が、 顏を薄くあからめて伏目勝ちな娘逹の腰に腕をまいて親しさうに押合つてゐます。 又、聖水(ホリーウォーター)の近くには、眞紅の(ペティコート)をはいて、 レースのついてゐる胸衣(むなぎ)をつけた農家の女逹が、 家畜にやうに動かずに地面に腰を下してゐます。さうかと思ふと、 若い者がその女逹の後に立つて大きな眼をして見廻しながら、 指先でくる〜と帽子を廻したりしてゐます。これらの悲しさうな顏つきの人逹は、 何か同じ思ひの爲に、動かずにこゝに集まつてゐるやうで、ある時は(たの)しさうに、 又ある時は悲しさうにみえるのでした。

カトリイヌはいつもの席についてゐると、祭司は二人の役僧を從へて、 聖餐の壇に上るのを見ました。どの僧もみな婆さんの識らない人ばかりでしたが、 やがて聖餐祭は始まりました。實に靜かな聖餐祭で、人々の口脣(くちびる)の動きは見えても、 その聲は聞えないのです。(ベル)の音も聞えません。 カトリイヌは自分のまはりにゐる不思議な人々の注目を受けてゐることを感じながら、 僅かに顏を振向けやうとする時、そつと隣を(ぬす)み見ると、 その人は婆さんが嘗て愛してゐて、四十五年前にもう死んでゐる筈の騎士ドウモン・クレーリーであつたのです。 カトリイヌはその人であることを、左の耳の上にある小さい(あざ)と、 長い睫毛(まつげ)が兩方の頬にまで長い影をうつしてゐるのとで確めたのです。 彼は黄金色(きんいろ)のレースの附いてゐる緋色の獵衣(かりぎぬ)を着てゐましたが、 その服裝こそは(セント)レオナルドの森で、 初めて彼がカトリイヌに逢つて、彼女の飮み水を貰つて、そつと接吻(キツス)をした時の姿であつたのです。 彼は今だに若々しく、立派な風貌を(そな)へてゐて、彼が微笑を浮べると、 今も美しい齒竝(はなみ)が露はれるのでした。カトリイヌは低い聲で彼に話しかけました。

「過ぎし日の私のお友逹——さうして、私が女としてのすべての愛を捧げたあなたに、 神樣の御加護がりますやう……。神樣は、あなたのお心に從つた私の罪を遂に後悔させようとなされませうが、 私はこんなに白い髮になつて、一生の終りに近づきましても、 あなたを愛したことは未だに後悔いたして居りません。そこで伺ひますが、 この聖餐祭に集まつてゐられる、あの昔風の服裝(なり)をしてゐる方々はどなたでございます。」

騎士ドーモン・クレーリーは呼吸(いき)をするよりも(かす)かな而も透き通つた聲で答へました。

「あの男や女は、私逹が犯したやうな罪——動物的戀愛の罪の爲に、 神樣を悲しませた人逹です。煉獄の境から來た靈魂逹です。併しその爲に、 神樣から追放されてゐるのではありません。あの人逹の罪は私逹と同じやうに、 無分別がさせた罪であるからです。あの人逹は、地上にゐた時に愛してゐた人逹から離されてゐる間に、 この人逹の愛の苦しみは、天界にゐる天使逹から見ると、憐れに見える程の不幸であるのです。 この人逹は、天界の最も高き所にゐます神の許しによつて、 一年の中夜の一時間だけは、この人逹の教區に屬する教會で、愛人と愛人とが逢ふ事が出來るのです。 こゝで、この人逹が、影の聖餐祭に集まつて、手と手を握り合ふ事を許されてゐます。 私もこゝで、まだ死んでゐない貴方に逢ふ事を許されたのは、 これも神樣の與へて下された一つの愉樂(ゆらく)なのです。」

そこで、カトウリイヌ[誤:カトリイヌ]・フォンテーヌは次のやうに答へました。

「もし私が、いつか森の中であなたに飮み水をさしあげた時のやうに美しくなれますなら、 私は喜んで死にたいと思ひます。」

二人は低い聲でこんな話をしてゐる間に、 酷く年を取つた僧が大きな銅盤を禮拜者の前に差出しながら喜捨の金を集めに來ました。 禮拜者逹は交る〜゛に其中へ、遠い以前から通用しない貨幣を置きました。 六ポンドのエクー古銀貨、英國のフロリン銀貨、ダカット銀貨、 ジャコビュスの金貨、ローズノーブルの銀貨などが音もなしに盤の中へ落ちました。 その盤は遂に騎士の前に置かれたので、彼はルイス金貨を落しましたが、 今までの金貨や銀貨と同じやうに、これも音を立てませんでした。

それから彼の老僧はカトリイヌ・フォンテーヌの前に立停つたので、 カトリーヌは懷中を探りましたが、一フォージングの銅貨も持合せてゐませんでした。 併し何も入れないでその儘通して了ひたくなかつたので、騎士が死ぬ前に彼女に與へた指環を指から拔取つて、 その銅盤へ投入れると、金の指環が盤の上に落ちると同時に重々しい(ベル)が鳴り響きました。 この(ベル)の反響の中に、騎士を初め、僧員が[誤:僧員や]司祭者や役僧や、 婦人や、そこに集まつてゐる總ての人逹は皆消えて了つたのです。 ()のついてゐた蝋燭も流れては消え、 唯彼のカトリイヌ・フォンテーヌの婆さんだけが(やみ)の中に取殘されました。



堂守はこゝで話を終ると、葡萄酒を一息にぐつと飮み乾して、 暫らく默つてゐたが、やがて又次のやうに話し始めた。

「私は親父が何度も繰返して話して聽かせたのを、そのまゝお話し申したのですが、 これは本當にあつた話だと思ひます。それといふのは、この話は總てその昔に私が見知つてゐる ——今は此世にゐない人逹の樣子や特別な風習に符合してゐるからです。 わたしは子供の時から、死人の事に隨分かゝり合ひましたが、 死人はみな自分の愛してゐる人のところで立歸るものです。

吝嗇な人間が生前に隱して置いた財物(ざいもつ)の附近に、 夜中徘徊するといふのも矢はりこのわけです。この人逹は自分の黄金に對して嚴重な見張りをしてゐるのです。 死人として、()なくともいゝ事をして自分で自分を苦しめ、 却つて自分の不利益になつて仕舞ふのです。

幽靈の姿になつて地の中に埋めた金などを掘つてゐるのは珍しい事ではありません。 それと同じやうに先へ死んで了つた夫が、 後に生き殘つて他人と結婚した妻を(なやま)しに來たりする事があります。 私は生きてゐた時よりも死んでから、一層自分の妻を監視してゐる大勢の人の名前までも知つてゐます。

こんなことは不可(いけ)ないことです。正しい意味からいへば、 死人が嫉妬を懷くなどは謂はれのないことです。 私自身が見たことについてお話をすることも出來ますが、 男が未亡人と結婚しても同じやうなことになるのです。 しかし、今お話をしたカトリイヌの一件は、次のやうに傳へられてゐます。

その不思議なことのあつた翌朝、カトリイヌ・フォンテーヌは、 自分の部屋で死んでゐました。さうして、(セント)ユーラリ教區の役僧が集金の時に使つた銅盤の中に、 二つの手の握り合つた形をした黄金(きん)の指環が這入つてゐたのを發見したのです。 いや、私は冗談などを言ふ男ではありません。さあ、もつと葡萄酒を飮まうではありませんか。」

——終——

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:幻の人力車


幻の人力車 (The Phantom 'Rickshaw)

キツプリング(Rudyard Kipling, 1865-1936) 作

岡本綺堂(1872-1939) 譯


目次


惡夢よ、私の安息を亂さないでくれ。
闇の力よ、私を惱まさないでくれ。

印度といふ國が英國よりも優越してゐる二三の點のうちで、非常に顏が廣くなると言ふこともその一つである。 (いやし)くも男子である以上、印度のある地方に五年間公務に就いてゐれば、 直接又は間接に二三百人の印度人の文官と、十二の中隊や聯隊全部の人逹と、 種々の在野人士の千五百人ぐらゐには知られるし、 更に十年間の内には彼の顏は二倍以上の人逹に知られ、二十年頃になると印度帝國内の英國人の殆んど全部を知るか、 あるひは少なくとも彼等について何等かを知るやうになり、 さうしてどこへ行つてもホテル代を拂はずに旅行が出來るやうになるであらう。

款待を受けることを當然と心得てゐる世界漫遊者も、わたしの記憶してゐるだけでは、 大分遠慮勝になつて來てはゐるが、それでも今日なほ、諸君が智的階級に屬してゐて、 禮儀を知らない無頼の徒でないかぎりは、すべての家庭は諸君のために門戸をひらいて、 非常に親切に面倒を見てくれるのである。

今から約十五年ほど前に、カルマザのリッケットといふ男がクマーオンのポルダー家に滯在したことがあつたが、 ほんの二晩ばかり厄介になる積りでゐたところ、僂麻質斯(リウマチス)性の熱が原因(もと)で六週間もポルダー邸を混亂させ、 ポルダーの仕事を中止させ、ポルダーの寢室で殆んど死ぬほどに苦しんだ。 ポルダーはまるでリッケットの奴隸にでもなつたやうに盡力してやつた上に、 今以て毎年リッケットの子供逹に贈物や玩具(おもちや)の箱を送つてゐる。 そんなことは何處でもみな同樣である。諸君に對してお前は能なしの驢馬だといふ考へを、 別に諸君に隱さうともしないやうな開放しの男や、諸君の性格を傷けたり、 諸君の妻君の娯樂を思ひ違ひするやうな女は、却つて諸君が病氣に罹つたり又は非常な心配事に出逢つたりする場合には、 骨身を惜しまずに盡してくれるものである。

ドクトル・ヘザーレッグは普通の開業醫であるが、内職に自分の(うち)に病室を設けてゐた。 彼の友人逹は其設備を評して、もうどうせ(なほ)らない患者のための馬小屋だと言つてゐたが、 然し實際暴風雨(あらし)逢つて難破せんとしてゐる船に取つては適當な避難所であつた。 印度の氣候は屡々暑くなる上に、煉瓦づくりの家の數が少ないので、唯一の特典として時間外に働くことを許可されてゐるが、 それでも有難くないことには、とき〜゛氣候に犯されて、捻れた文章のやうに頭が變になつて仆れる人逹が有る。

ヘザーレッグは今まで印度へ來てゐたうちでは一番上手な醫者ではあるが、彼が患者への指圖といへば、 「氣を鎭めて横になつてゐなさい。」「ゆつくりお歩きなさい。」「頭を冷しなさい。」の三つにきまつてゐる。 彼に言はせれば、多くの人間はこの世の中の生存に必要以上の仕事をするから死ぬのださうである。 彼は三年ほど以前に自分が治療したパンセイといふ患者も、過激な仕事のために生命を失つたのだと主張してゐる。 無論、彼は醫者としてさう言う風に斷定し得る權利を持つてゐるので、パンセイの頭に龜裂(ひゞ)が入つて、 そこから暗黒世界がほんの僅かばかり沁み込んだために、彼を死に至らしめたのだと言ふ私の説を一笑に附してゐる。

「パンセイは故國を長くはなれてゐたのが原因で死んだのだ。」と、彼は言つてゐる。 「彼がケイス・ウェッシントン夫人に對して惡人のやうな振舞をしようがしまいが、そんなことはどちらでも構はない。 たゞ私が注意すべき所は、カタブンデイ植民地の事業がすつかり彼を疲らせて了つた事と、 彼が女から來た色仕掛けの下らない手紙の事をくよ〜したり、嬉しがつたりしたと言ふことである。 彼はちやんとマンネリング孃と婚約が整つてゐたのに、彼女はそれを破談にしてしまつた。 そこで、彼は惡寒を感じて熱病にかゝると共に、幽靈が出るなどと詰まらない囈語(うはごと)を言ふやうになつた。 要するに、過勞が彼の病氣の原因ともなり、死因ともなつたので、可哀さうなものさ。 政府に傳逹してやり給へ。 -- 一人で二人半の仕事をした男だと言ふことを……。」

私にはヘザーレッグのこの解釋は信じられない。私はいつもヘザーレッグが往診に呼ばれて外出する時には、 よくパンセイの傍に坐つてゐてやつたが、或時わたしはもう少しで叫び聲を立てようとした事があつた。 それから彼は、低いけれども(いや)に落着いた聲で、自分の寢床の下をいつでも男や女や子供や惡魔の行列が通ると言つて、 私をぞつとさせた。彼の言葉は熱に浮かされた病人獨特の、氣味の惡いほどの雄辯であつた。 彼が正氣に立ちかへつた時、わたしは彼の煩悶の原因となる事柄の一部始終を書きつらねて置けば、 彼のこゝろを輕くするからと言つて聞かせた。實際、小さな子供が惡い言葉を一つ新しく教はると、 (ドア)にそれを惡戲(いたづら)書きをするまでは滿足が出來ないものである。 これもまた一種の文學である。

執筆中に彼は非情に激昂してゐた。さうして、彼の執つた人氣取りの雜誌張りの文體が、 餘計彼の感情を(そゝ)つた。それから二ヶ月後には、仕事をしても差支へないとまで醫者に言はれ、 また人手の少ない委員會の面倒な仕事を手傳つてくらるやうに切に懇望されつたにも拘らず、 臨終に際して自分は惡魔に(おそ)はれてゐると言ふことを明言しながら、自ら求めて死んでしまつた。 わたしは彼が死ぬまでその原稿を密封して置いた。以下は彼の事件の草稿で、一八八五年の日附になつてゐた。

私の醫者はわたしに休養轉地の必要があると言つてゐる。ところが、 私には間もなくこの二つながらを實行することが出來るであらう。 -- 但しわたしの休養とは、英國の傳令兵の聲や午砲の音のよつて破られないところの永遠の安息であり、 わたしの轉地と言ふのは、どの歸航船も私を運んで行くことの出來ないほどに遠い彼の世へである。 暫くわたしは今ゐるところに滯在して、醫師にあからさまに反對して、 自分の祕密を打明けることに決心した。諸君はおのづと私の病氣の性質を精確に理解すると共に、 曾て女からこの不幸な世の中に生み付けられた男のうちで、 私のやうに苦しんで來た者があるか何うかゞ又おのづから判るであらう。

死刑囚が絞首臺にのぼる前に懺悔をしなければならないやうに、私もこれから懺悔話をするのであるが、 兎に角、この物語が永久に人々から信じられるとは全然思はない。二ヶ月前には私も、 これと同じ物語を大膽にも私に話したその男を、氣ちがひか醉ひどれのやうに侮蔑した。 さうして、二ヶ月前には私は印度でも一番の仕合せ者であつた。それが今日では、 ペシャワーから海岸に至るまでの間に、私よりも不幸な人間は又とあらうか。 この物語を知つてゐるものは私の醫者とわたしの二人である。而もわたしの醫者は、 わたしの頭や消化力や視力が病に冐されてゐるために、時々に固執性の幻想が起つて來るのであると解釋してゐる。 幻想、全くだ!私は自分が醫者を馬鹿呼ばはりしてゐるが、それでもなほ判で押したやうに彼は綺麗に赤い頬鬚に手入れをして、 絶えず微笑をうかべながら、穩和な職業的態度で私を見廻つて來るので、 しまひには私も俺は恩知らずの、(たち)の惡い病人だと()ぢるやうになつた。 併しこれから私が話すことが幻想であるかどうか、諸君に判斷して戴きたい。

三年前に長い賜暇(しか)期日が終つたので、グレーヴセントからボンベイへ歸る船中で、 ボンベイ地方の士官の妻のアグネス・ケイス・ウェッシントンといふ女と一緒になつたのが、 そも〜私の運命 -- わたしの大きな不運であつた。一體、彼女はどんな風の女である事を知るのは、 諸君に取つてもかなり必要なことであるが、それには航海の終り頃から彼女とわたしとが、 互ひに熱烈な不倫の戀に陷ちたと言ふことを知れば、滿足が行かれるだらう。 こんなことは自分に多少なりとも虚榮心がある間は白状の出來る事ではないのであるが、 今の私にはそんなものは()つともない。さて、かうした戀愛の場合には、 一人があたへ、他の一人が受け容れると言ふのが常である。ところが、我々の前兆の惡い馴れ初めの第一日から、 私はアグネスといふ女は非常な情熱家で、男勝(をとこまさ)りで -- まあ強ひて言ふなら -- 私よりも純な感情を持つてゐるのを知つた。從つて當時、 彼女が我々の戀愛をどう思つてゐたか知らないが、その後、それは二人に取つて實に苦い、 味のないものになつてしまつた。

その年の春にボンベイに着くと、わたしたちは別れ〜になつた。それから二三ヶ月はまつたく逢はなかつたが、 わたしの賜暇(しか)と彼女の愛とがまたもや二人をシムラに()しらせた。 そこでその季節(シーズン)を二人で暮らしたが、 その年の終る頃にはわたしのこの下らない戀愛の火焔(ほのほ)は燃えつくして、 悼はしい終りを告げて了つた。わたしはそれについて別に辯明しようとも思はない。 ウェッシントン夫人もわたしのことを諦めて、斷念しようとしてゐた。 一八八二年の八月に、彼女はわたし自身の口から、もう彼女の顏を見るのも、彼女と交際するのも、 彼女の聲を聞くのさへも飽きがきてしまつたと言ふのを聞かされた。百人のうち九十九人の女は、 わたしが彼等に飽きたた、彼等もまたわたしに飽きるであらうし、百人のうち七十五人までは他の男と無遠慮に、 盛んにいちやついて、わたしに復讐するであらう。 が、ウェッシントン夫人はまさに百人目の女であつた。いかにわたしが嫌厭(けんえん)を明言しても、 又は二度と顏を合はせないやうに、如何に手ひどい殘忍な目に逢はせても、彼女には何等の效果がなかつた。

「ねえ、ジヤック。」と、彼女はまるで永遠に繰返しでもするやうに、馬鹿みたやうな聲を立てるのであつた。 「きつとこれは思ひ違ひです。 -- 全く思ひ違ひです。私逹はまたいつか仲の好いお友逹になるでせう。 どうぞ私を忘れないで下さい。私のジヤック……。」

私は犯罪者であつた。さうして、私はそれを自分でも知つてゐたので、身から出た錆だと思つて自分の不幸を默つて忍從し、 又明らかに無鐵砲に厭つてもゐた。 -- それは丁度、一人の男が蜘蛛を半殺しにすると、 どうしても踏み潰してしまひたくなる衝動と同じことであつた。私はかうした嫌厭(けんえん)の情を胸に抱きながら、 その季節(シーズン)は終つた。

あくる年わたしは再びシムラで逢つた。 -- 彼女は單調な顏をして、臆病さうに仲直りをしようとしたが、 私はもう見るのも(いや)だつた。それでも幾たびか私は彼女と二人ぎりで逢はざるを得なかつたが、 そんな時の彼女の言葉はいつでも全く同じであつた。相も變らず例の「思ひ違ひをしてゐる。」 一點張りの無理な愁歎をして、結局は、「友逹になりませう。」と、未だに執拗に望んでゐた。 私が注意して觀察したら、彼女はこの希望だけで生きてゐることに氣が付いたかも知れなかつた。 彼女は月を經るにつれて血色が惡く、だん〜に痩せて行つた。少くとも諸君と私とは、 かう言つた振舞は餘計に斷念させると言ふ點に於いて同感であらうと思ふ。實際、 彼女の()る事はさし出がましく、兒戲に等しく、女らしくもなかつた。 私は、彼女を大いに責めてもいゝと思つてゐる。それにも拘らず、時々熱に浮かされたやうな、 眠られない闇の夜などには、自分はだん〜彼女に好意を持つて來たのではないかと言ふやうなことを思ひ始めた。 併しそれも確かに一つの「幻想」である。私はもう彼女を愛するkとおが出來ないのに、 愛するやうな風を續けてゐることは出來なかつた。そんなことが出來るであらうか。 第一、そんなことは私逹お互ひに取つて正しい事ではなかつた。

去年また私逹は逢つた。 -- 前の年と同じ時期である。さうして、前年とおなじやうに彼女は飽き〜するやうな歎願を繰返し、 私もまた例のごとくに(すげ)ない返事をした。さうして、古い關係を恢復しようとする彼女の努力がいかに間違つてゐるか、 又いかに徒勞であるかを彼女に考へさせようとした。季節(シーズン)が終ると、私たちは別れた。 -- 言ひ換へれば、彼女はもうとても私と逢ふことは出來ないと悟つた。と言ふのは、 私が他に心を奪はれる事が出來(しゆつたい)してゐたからである。わたしは今、 自分の病室で靜かにあの當時のことを囘想してゐると、一八八四年のあの季節(シーズン)の事どもが異樣に明暗入り亂れて、 渾沌たる惡夢のやうに見えて來る。 -- 可愛いキッテイ・マンネリングの御機嫌取り、私の希望、疑惑、 恐怖、キッテイと二人での遠乘、身を(をのの)かせながらの戀の告白、彼女の返事、 それから時々に黒と白の法被(はつぴ)を着た苦力(クーリー)の人力車に乘つて靜かに通つて行ゆく白い顏の幻影、 ウェッシントン老人の手袋をはめた手、それから極めて稀ではあつたが、 夫人とわたしと二人ぎりで逢つた時の彼女の歎願の(もど)かしい單調 -- わたしはキッテイ・マンネリングを愛してゐた。 實に心から彼女を愛してゐた。さうして、私が彼女を愛すれば愛するほど、 アグネスに對する嫌厭(けんえん)の念はいよ〜増して行つた。 八月にキッテイと私とは婚約を結んだ。その次の日に、私はジャッコの後で呪ふべき饒舌家の苦力(クーリー)等に逢つた時、 ちよつとした一時的の憐憫の情に驅られて、ウェッシントン夫人にすべての事を打明けるのを止めてしまつたが、 彼女はわたしの婚約のことを已に知つてゐた。

「ねえ、あなたは婚約をなすつたさうですね。ジヤック。」と言つてから、 彼女は息も()かずに、「何も彼も思ひ違ひです。まつたく思ひ違ひです。 いつか私逹はまた元のやうに仲好しのお友逹になるでせう。ねえ、ジヤック。」と言つた。

私の返事は男子すらも畏縮させたに違ひなかつた。それは鞭の一打ちのやうに、 私の眼前にある瀕死の女のこゝろを傷めた。

「どうぞ私を忘れないで下さい。ね、ジヤック。わたしは貴方を怒らせる積りではなかつたのです。 併し本當に怒らせてしまつたのね。本當に……。」

さう言つたかと思ふと、ウェッシントン夫人はまつたく倒れてしまつた。私は彼女を心靜かに家に歸らせるために、 そのまゝ顏をそむけて立去つたが、すぐに自分は言ひ知れぬ下品な卑劣漢であつたことを感じた。 私はあとを振り返ると、彼女が人力車を引返さしてゐるのを見た。

その時の情景と周圍のありさまは私の記憶に燒付けられてしまつた。雨に洗ひ淨められた大空 (恰も雨期の終る頃であつたので)濡れて黒ずんだ松、ぬかるみの道、火藥で削り取つたどす黒い崖、 かう言つたものが一つの陰鬱な背景を形づくつて、 その前に苦力(クーリー)等の黒と白の法被(はつぴ)(きいろ)鏡板(かゞみいた)の附いたウェッシントン夫人の人力車と、 その内で頂埀(うなだ)れる彼女の金髮とがくつきりと浮き出してゐた。 彼女は左手にハンカチーフを持つて人力車の蒲團に(もた)れながら失神したやうになつてゐた。 わたしは自分の馬をサンジョリオ貯水池のほとりの拔道へ向けると、文字通りに馬を飛ばした。 「ジャック!」と彼女が(かすか)に一聲叫んだのを耳にしたやうな氣がしたが、或は單なる錯覺かも知れなかつた。 私は馬を止めてそれを確めようとはしなかつた。それから十分の後、私はキッテイが馬に乘つて來るのに出逢つたので、 二人で長いあひだ馬を走らせて、さん〜゛樂しんでゐるうちに、 ウェッシントン夫人との會合の事などはすつかり忘れてしまつた。

一週間の後にウェッシントン夫人は死んだ。

夫人が死んだので、彼女が存在してゐると言ふ一種の重荷がわたしの一生から取除かれた。 私は非常な幸福感に胸を躍らせながらプレンスウァードへ行つて、そこで三ヶ月をくつてゐるうちに、 ウェッシントン夫人の事などは全然忘れ去つた。たゞ時々に彼女の古い手紙を發見して、 私逹の過去の關係が自分の頭に浮んで來るのが不愉快であつた。 正月の中にわたしは種々の場所に入れて置いた私逹の手紙の殘りを探し出して、こと〜゛く燒き捨てた。 その年、即ち一八八五年の四月の初めには私はシムラにゐた。 -- 殆んど人のゐないシムラで、 もう一度キッテイと深い戀を語り、又そゞろ歩きなどをした。 わたし逹は六月の終りに結婚することに決つてゐた。從つて、當時印度における一番の果報者であると自ら公言してゐる際、 しかも私のやうにキッテイを愛してゐる場合、あまり多くの口が利けなかつたと言ふことは、諸君にも納得出來るであらう。

それから十四日間と言ふものは、毎日毎日空に過した。それから、 私逹のやうな事情にある人間が誰でも懷くやうな感情に驅られて、私はキッテイのところへ手紙を出して、 婚約の指環といふものは許婚の娘としてその品格を保つでんき有形的のであるから、その指環の寸法を取るために、 すぐにハミルトンの店まで來るやうに言つて遣つた。實をいふと、婚約の指環などといふことは極めて詰まらない事であるので、 私はこの時まで忘れてゐたのである。そこで、一八八五年の四月十五日に私逹はハミルトンの店へ行つた。

この點をどうか頭に置いて貰ひたのだが -- たとひ醫者がどんなに反對な事を言はうとも -- その當時のわたしは全くの健康状態であつて、均衡を失はない理性と絶對に冷靜な心とを持つてゐた。 キッテイと私とは一緒にハミルトンの店へ這入つて、店員がにや〜笑つてゐるのも構はず、 自分でキッテイの指の太さを計つてしまつた。指環はサファイヤにダイヤが二個這入つてゐた。 私逹はそれからコムバーメア橋とペリテイの店へゆく坂道を馬に乘つて降りて行つた。

粗い泥板岩(シエール)の上を用心深く進んでゆく私の馬のそばで、キッテイが笑つたり、 お喋りをしたりしてゐる折柄(をりから) -- 丁度、 平原のうちに彼のシムラが圖書閲覽室やペリテイの店の露臺に圍まれながら見えて來た折柄(をりから) -- 私はずつと遠くの方で誰かが私の洗禮名(クリスチヤンネーム)を呼んでゐるのに氣がついた。 曾て聞いたことのある聲だなと直感したが、さて何時どこで聞いたのか、 すぐには頭に浮んで來なかつた。ほんの僅かの間、その聲は今まで來た小路とコムバーメア橋との間の道一ぱいに響き渡つたので、 七八人の者がこんな亂暴な眞似をしてゐるのだと思つたが、 結局それは私の名を呼んでゐるのではなくて何か歌を唄つてゐるに相違ないと考へた。

そのとき、(たちま)ちにペリテイの店の向う側を黒と白の法被(はつぴ)を着た四人の苦力(クーリー)が、 (きいろ)鏡板(かゞみいた)の安つぽい出來合ひ物の人力車を挽いて來るのに氣がついた。 さうして懊惱と嫌惡の念を以て、わたしは去年の季節(シーズン)のことや、ウェッシントン夫人のことを思ひ出した。 それにしても彼女はもう死んで了つて、用は濟んでゐる筈である。なにも黒と白の法被(はつぴ)を着た苦力(クーリー)を連れて、 白晝の幸福を妨げに來なくてもいゝ譯ではないか。それで私は、先づあの苦力(クーリー)等の雇主が誰であらうと、 その人の訴へて、彼女の苦力(クーリー)の着てゐた法被(はつぴ)を取替へるやうに懇願してみようと思つた。 あるひは又、わたし自身が彼の苦力(クーリー)を雇ひ入れて、若し必要ならば彼等の法被(はつぴ)を買ひ取らうと思つた。 兎に角に、この苦力(クーリー)等の風采がどんなに好ましからぬ記憶の流れを換起したかは、 とても言葉に言ひ盡せないのである。

「キッテイ。」と私は叫んだ。あすこに死んだウェッシントン夫人の苦力(クーリー)がやつて來ましたよ。 一體、今の雇主は誰なんでせうね。」

キッテイは前の季節(シーズン)にウェッシントン夫人と鳥渡(ちよつと)逢つたことがあつて、 青ざめてゐる彼女に就いては常に好竒心を持つてゐた。

「なんですつて……。何處に……。」とキッテイは訊いた。 「わたしにはどこにもそんな苦力(クーリー)は見えませんわ。」

彼女がかう言つた刹那、その馬は荷を積んだ驢馬(ろば)を避けようとした機勢(はずみ)に、 丁度こつちへ進行して來た人力車と眞向ひになつた。私はあつと聲をかける間もない中に、 こゝに驚くべきは、彼女とその馬とが苦力(クーリー)の車とを突きぬけて通つたことである。 苦力(クーリー)もその車もその形はみえながら、恰も稀薄なる空氣に過ぎないやうであつた。

「どうしたと言ふんです。」とキッテイは叫んだ。「何を詰らないことを呶鳴(どな)つてゐるんです。 わたしは婚約をしたからと言つて、別に人間が變つたわけでも無いんですよ。驢馬と露臺との間にこんなに場所があつたのね。 貴方はわたしが馬に乘れないとお思ひなんでせう。では、見ていらつしやい。」

強情なキッテイはその優美な小さな頭を空中に飛び上らせながら、音樂堂の方向へ馬を駈けさせた[。] あとで彼女自身も言つてゐたが、馬を駈けさせながらも、私が後から附いて來るものだとばかり思つてゐたさうであつた。 ところがどうしたと言ふのであらう。私は附いて行かなかつた。私はまるで氣違ひか醉拂ひのやうになつてゐたのか、 或はシムラに惡魔が現はれたのか、わたしは自分の馬の手綱を引き締めて、ぐるりと向きを變へると、 例の人力車もやはり向きを變へて、コムバーメア橋の左側の欄干に近いところで私のすぐ前に立ち塞がつた。

「ジヤック。私の愛するジヤック!」(その時の言葉は確にかうであつた。 それ等の言葉はわたしの耳のそばで呶鳴(どな)り立てられたやうに、わたしの頭に鳴り響いた。) 「何か思ひ違ひをしてゐるのです。まつたくさうです。どうぞ私を堪忍して下さい、ジヤック。 さうして又お友逹になりませう。」

人力車の幌がうしろへ落ちると、 私は夜になると怖がるくせに毎日考へてゐた死そのものゝやうにその内にはケイス・ウェッシントン夫人がハンカチーフを片手に持つて、 金髮の(かしら)を胸のところまで埀れて坐つてゐた。

どのくらゐの間、わたしは身動きもしないでぢつと見詰めてゐたか、 自分にもわからなかつたが、仕舞に馬丁が私の馬の手綱をつかんで、病氣ではないかと訊いたので、 やう〜我にかへつたのである。私は馬から轉げ落ちんばかりに、殆んど失神したやうになつてピリテイの店へ飛び込んで、 シェリイ・ブランデイを一杯飮んだ。店の内には二組か三組の客がカフェーの卓子(テーブル)を圍んで、 その日の出來事を論じてゐた。この場合、彼等の愚にも付かない話の方が、私には宗教の慰藉などよりも大いなる慰藉になるので、 一も二もなくその會話の渦中に投じて、喋つたり、笑つたり、鏡のなかへ死骸のやうに青く歪んで映つた人の顏にふざけだしたので、 三四人の男は呆れてわたしの態度をながめてゐたが、結局、餘りにブランデイを飮み過ぎたせいゐだらうと思つたらしく、 好い加減にあしらつて私を除け者にしようとしたが、私は動かなかつた。なぜと言つて、その時の私は、 日が暮れて怖くなつたので夕飯の仲間へ飛び込んで來る子供のやうに、自分の仲間が欲しかつたからであつた。 それから私は十分間ぐらゐも雜談してゐたに相違なかつたが、その時の私にはその十分間ほどが實に限りもなく長いやうに思はれた。 そのうちに、外でわたしを呼んでゐるキッテイの聲がはつきりと聞えたかと思ふと、 つづいて彼女が店の中へ這入つて來て、わたしが婚約者としての義務を甚だ怠つてゐると言ふことを婉曲に詰問しようとした。 私の目の前には何か得體の知れないものがあつて、彼女を遮つてしまつた。

「まあ、ジヤック。」と、キッテイは呶鳴(どな)つた。「何をしてゐたんです。どうしたんです。 貴方は御病氣ですか。」

かうなると、(うそ)を教へられたやうなもので、けふの日光がわたしには少し強過ぎたと答へたが、 あひにく今は四月の雲つた日の午後五時近くであつた上に、けふは殆んど日光を見なかつたことに氣が付いたので、 なんとかそれを胡麻化さうとしたが、キッテイは眞赤になつて外へ出て行つてしまつたので、 私はほかの連中の微笑に送られながら、悲觀の(てい)で彼女のあとに附いて出た。 私はなんと言つたか忘れてしまつたが、どうも氣分が惡いからと言ふやうなことで一言二言言ひ譯をした後、 獨りでもつと乘り廻ると言ふキッテイを殘して、自分だけは(しづか)に馬をあゆませてホテルに歸つた。

自分の部屋に腰をおろして私は冷靜にこの出來事を考へようとした。こゝに私といふ人間がある。 それはテオバルド・ジヤック・パンセイといふ男で、 一八八五年度の教養あるベンガル州の文官で自分では心身共に健全だと思つてゐる。 その私が、しかも婚約者の(かたはら)で、八ヶ月前に死んで葬られた一婦人の幻影に惱まされたと言ふのは、 實に私としては考へ得べからざる事實であつた。キッテイと私とがハミルトンの店を出た時には、 わたしはウェッシントン夫人のこと以外に何事も考へてゐなかつた。ペリテイの店に向う側には見渡すかぎり塀があるばかりで、 極めて平々凡々な場所であつた。おまけに白晝で、道には往來の人が一ぱいであつた。 而もそこには常識と自然律とに全然反對に墓から出て來た一つの顏が現はれたのであつた。

キッテイの亞刺比亞馬がその人力車を突きぬけて行つてしまつたので、誰かウェッシントン夫人に生寫しの婦人が、 その人力車と、黒と白の法被(はつぴ)を着た苦力(クーリー)を雇つたのであつて呉れゝば好いがと思つた最初の希望は外れた。 わたしは幾たびか色々に考へを立直してみたが、結局それは徒勞と絶望に終つた。 あの聲はどうしても妖怪變化の聲とは考へられなかつた。最初、私はすべてをキッテイに打明けた上で、 その場で彼女に結婚するやうに哀願して、彼女の抱擁によつて人力車の幻影を防がうと考へた。 「畢竟」と私は自分に反駁した。「人力車の幻影などは、人間に怪談的錯覺性があることを説明するに過ぎない。 男や女の幽靈を見るといふことは有り得るかも知れないが、人力車や苦力(クーリー)の幽靈を見るなどといふ、 そんな馬鹿馬鹿しいことがあつて堪るものか。まあ、丘に住む人間の幽靈とでも言ふのだらう。」

次の朝、わたしは昨日午後における自分の常規を逸した行爲を寛恕してくれるやうにとキッテイのところへ謝罪の手紙を送つた。 而もわたしの女神はまだ怒つてゐたので、私が自身に出頭して謝罪しなければならない破目になつた。 私はゆうべ徹夜で、自分の失策について考へてゐたので、 消化不良から來た急性の心悸亢進のために飛んだ失禮をしましたと(まこと)しやかに辨解したので、 キッテイの御機嫌も直つて、その日の午後に二人はまた馬の(くつわ)をならべて外出したが、 私は最初の(うそ)はやはり二人の心になんとなく溝を作つてしまつた。

彼女はしきりにジャッコの周圍(まはり)を馬で廻りたいと言つたが、私は昨夜以來まだぼんやりしてゐる頭で、 それに弱く反對して、オブザーバトリイの丘か、ジュトーか、ボイルローグング街道を行かうと言ひ出すと、 それが又キッテイの怒りに觸れてしまつたので、私はこの以上の誤解を招いては大變だと思つて、 その言ふがまゝにショタ・シムラの方角へ向つた。私たちは道の大部分を歩いて、 それから尼寺の下の一哩ばかりは馬を緩く走らせて、サンジョウレー貯水池のほとりの平坦な一筋道に出るのが習慣になつてゐた。 やゝもすれば(たち)の惡い私たちの馬はかけ出さうとするので、坂道の上に近づくと、 わたしの心臟の動悸はいよ〜激しくなつて來た。この午後から私の心はウェッシントン夫人の事で常に一ぱいになつてゐたので、 ジャッコの道の到る所が、その昔ウェッシントン夫人と二人で歩いたり、話したりして通つたことを私に思ひ出させた。 思ひ出は路ばたの石ころにも滿ちてゐる。雨に水量を増した早瀬も不倫の物語を笑ふやうに流れてゐる。 風もわたしの耳のそばで私たちの不義を大きく囃し立てゝゐた。

平地の中央で、男の人逹が婦人の一哩競爭に應援してゐる聲が、なんとなく恐ろしい事件が待ち構へてゐるやうに感じさせた。 人力車は一臺も見えなかつた。 -- と思ふ途端に、 八ヶ月と二週間以前に見たものと全く同一の黒と白の法被(はつぴ)を着た四人の苦力(クーリー)と、 (きいろ)鏡板(かゞみいた)の人力車と、金髮の女の頭が現はれた。その一瞬間、 私はキッテイもわたしと同じ物を見たに相違ないと思つた。 -- なぜならば、 私たちは不思議につも總ての事に共鳴してゐたからである。併し彼女の次の言葉で私はほつとした。

「誰もゐないわね。さあ、ジヤック。貯水場の建物のところまで二人で競爭しませう。」

彼女の小賢しい亞刺比亞馬は飛鳥のごとくに駈け出したので、わたしの騎兵用軍馬もすぐに後から續いた。 さうして、この順序で私逹は馬を崖の上に駈け登らせた。すると、五十ヤードばかりの眼前に、例の人力車が現はれた。 はつと思つて私は手綱を引いて、馬をすこしく後退(あとずさ)りさせると、人力車は道の眞中に立ち塞がつた。 而も今度もまたキッテイの馬はその人力車を突きぬけて行つてしまつたので、私の馬もそのあとに續いた。

「ジヤック、ジヤック、貴方……。どうぞ私を堪忍して下さいよ。」と言ふ聲がわたしの耳へ咽び泣くやうに響いたかと思ふと、 すぐにまた、「みんな思ひ違ひです。まつたく思ひ違ひです。」と言ふ聲がきこえた。

私はまるで物に憑かれた人間のやうに、馬に拍車を當てた。さうして、貯水場の建物の方へ顏を向けると、 黒と白の法被(はつぴ)が -- 執念深く -- 灰色の丘のそばに私を待つてゐた。私が今聽いたばかりのある言葉が、 風と共に人を嘲けるやうに響いて來た。キッテイは私がそれから急に默つてしまつたのを見て、 頻りに揶揄(からか)つてゐた。

それまでの私は口から出任せに喋つてゐたが、その後は自分の命を失はないやうにするために、 わたしは喋ることが出來なくなつたのである。私はサンジョウリーから歸つて、 それからお寺へ運ばれるまで、なるべく口を閉ぢてしまふやうになつた。

その晩、私はマンネリング家で食事する約束をしたが、ぐづ〜してゐるとホテルへ歸つて着物を着かへる時間がないので、 エリイシウムの丘への道を馬上で急いでゐると、闇のうちに二人の男が話し合つてゆくのを耳にした。

「まつたく不思議な事もあるものだな。」と一人が言つた。

「どうしてあの車の走つた跡がみんな無くなつてしまつたのだらう。君も知つてゐる通り、 うちの女房は馬鹿馬鹿しい程にあの女が好きだつたのだ。(僕にはどこが好いのか判らなかつたがね。) それだもんだから、どうしてもあの女の古い人力車と苦力(クーリー)とを手に入れたいと強請(せび)るのでね。 僕は一種の病的趣味だと言つてゐるのだが、まあ奧方の言ふ通りにしたと言ふ譯さ。 ところが、ウェッシントン夫人に雇はれてゐたその人力車の持主が僕に話したところに()ると、 四人の苦力(クーリー)は兄弟であつたが、ハードウアへ行く路でコレラに罹つて死んでしまひ、 その人力車は持主が自分で(こは)してしまつたと言ふのだが、君はそれを信じるかね。 だから、その持主に言はせると、死んだ夫人の人力車は()つとも使はないうちに(こは)したので、 大分に損をしたと言ふのだが、どうも少し變ではないか。ねえ、君。 あの可哀さうな、可愛らしいウェッシントン夫人が自分自身の運命以外に、他の人間の運命をぶち(こは)すなどとは、 まつたく考へられないことではないか。」

私はこの男の最後の言葉を大きい聲で笑つたが、その笑ひ聲に自分でぞつとした。 それでは矢はり人力車の幽靈や、幽靈が幽靈を雇ひ入れるなどといふ事があるのであらうか。 ウェッシントン夫人は苦力(クーリー)等に幾らの賃金を拂ふのであらうか。 彼等煖齬(クーリー)は何時間働くのであらうか。さうして、彼等煖齬(クーリー)はどこへ行つたのであらうか。

すると、私のこの最後の疑問に對する明白なる答へとして、まだ黄昏だと言ふのに、 又もや例の幽靈がわたいの行手を塞いでゐるのを見た。亡者は足が早く、 一般の苦力(クーリー)さへも知らないやうな近路をして走り廻る。 私はもう一度大きい聲を立てゝ笑つたが、なんだか氣違ひになりさうな氣がしたので慌てゝその笑ひ聲を抑へた。 いや、私は人力車の鼻の先で馬を止めると、慇懃にウェッシントン夫人にむかつて、 「今晩は。」と言つて了つたところを見ると、已にある程度までは氣が違つてゐたのかも知れない。 彼女の返事は、私がよく知り過ぎてゐる程に聞き慣れた例の言葉であつた。 わたしは彼女の例の言葉をすつかり聞いててから、もうその言葉は前から幾たびか聞いてゐるから、 もつと何か他のことを話してくれゝばどんなに嬉しいだらうと答へた。 あの夕方はいつもよりも餘ほど根強い魔物のこころに喰ひ入つたに相違ない。 私は眼前のその幽靈と相對して、五分間ばかりもその日の平凡な出來事を話してゐたやうに、 微かに記憶してゐる。

「氣違ひだ。可哀さうに……。それとも醉つてゐるのかも知れない。 マックス、その人を(うち)まで送り屆けてやれ。」

それは確かにウェッシントン夫人の聲ではなかつた。私がひとりで喋つてゐるのを立ち聽きしてゐた先刻の二人の男が、 私を介抱しようともどつて來た。かれらは非常に親切で、思ひやりがあつた。 彼等の言葉から察すると、私がひどく醉つてゐるのだと思つてゐるらしかつた。 私はあわてゝ彼等に禮を言つて、馬を走らせてホテルに歸つて、大急ぎで衣服を改めて、 マンネリングの家へ行つた時は、約束の時間よりも五分遲れてゐた。 私は闇夜であつたからと言ふのを口實にして辨解したが、キッテイに戀人らしくない遲刻を反駁されながら、 兎にも角にも食卓に着いた。

食卓では已に會話の花が咲いてゐたので、わたしは彼女の御機嫌を取戻さうとして氣の利いた小話をしてゐた時、 食卓の端の方で赤い短いを生やした男が、 こゝへ來る途中で見知らない一人の氣ちがひに出逢つたことを尾鰭をつけて話してゐるのに氣が付いた。 その話から押して、それは三十分前の出來事を繰返してゐるのであることが判つた。 その物語の最中に、その男は商賣人の話家がするやうに、 喝采を求めるために一座をずらりと見廻した拍子に、彼とわたしの眼とがぴつたり出合ふと、 そのまゝ口をつづんで仕舞つた。一瞬間、恐ろしい沈默が續いた。 その赤鬚の男は「その後は忘れた。」と言ふやうな意味のことを口のうちで呟いてゐた。 それがために、彼は過去六煖G(シーズン)のあひだに築き上げた上手な話手としての名譽を臺無しにしてしまつた。 私は心の底から彼を祝福してから、料理の魚を食ひはじめた。

食卓は隨分長い間かゝつて終つた。わたしは全く殘り惜いやうな心持でキッテイに別れを告げた。 -- 多分また戸の外には幽靈が私の出て來るのを待つてゐるのだらうと思ひながら。 -- 例の赤鬚の男(シムラのヘザーレッグ先生として私に紹介された。)が途中まで御一緒に參りませうと言ひ出したので、 私も喜んでその申出を受けた。

わたしの豫感は誤らなかつた。幽靈はもう樹蔭の路に待受けてゐた。しかも、 私逹の行手を惡魔的に冷笑してゐるやうに、前燈(ヘッドランプ)に燈まで點けてゐたではないか。 赤鬚の男は食事中も絶えず私の先刻の心理状態を考へてゐたと言ふやうな態度で、 (たちま)ちに燈の見えた地點まで進んで來た。

「ねえ、パンセイ君。エリイシウムの道で何か變つた事でもあつたのですかね -- 。」

この質問があまりに唐突であつたので、私は考へる暇もなしに返事が口から出てしまつた。

「あれです。」と言つて、わたしは燈の方を指さした。

「私の知るところによれば、化物などと言ふものは先づ醉拂ひの譫語(たはごと)か、 それとも錯覺ですな。ところで今夜、あなたは酒を飮んでゐられない。 わたしは食事中、醉拂ひの譫言でないことを觀察しましたよ。 それ貴方の指さしてゐる所には何にもないではありませんか。それだのに、 貴方はまるで物怖ぢた小馬のやうに汗を流して顫へてゐるのを見ると、どうも錯覺らしいですな。 ところで、私はあなたの錯覺について何も彼も知りたいものですが、どうでせう、 一緒にわたしの家までお出でになりませんか。ブレッシングトンの坂下ですが……。」

非常に有難いことには、例の人力車が私逹を待構へてはゐたけれども、二十ヤード程も先にゐてくれた。 -- さうして又、この距離は私逹が歩かうが、又は緩く駈けさせやうが、いつでも正しく保たれてゐた。 そこでその夜、長いあひだ馬に乘りながら、私は今諸君に書き殘してゐるとほゞ同じやうなことを彼にも話した。

「成程、あなたは私が今まで皆んなに話してゐた得意の話のうちの一つを臺無しにしておしまひなすつた。」 と彼は言つた。「併しまあ、貴方が經驗して來られたことに免じて勘辨してあげませう。 その代りに、わたしの家へ來て下すつて、私の言ふ通りに爲さらなければいけませんよ。 さうして、私が貴方をすつかり直して上げたら、もうこれに懲りて、 一生婦人を遠ざけて不消化な食物を()らないやうになさるのですな。」

人力車は執念深くまだ前の方にゐた。さうして、私の赤鬚の友逹は、幽靈のゐる場所を精密にわたしから聞いて、 非常に興味を感じたらしかつた。

「錯覺……。ねえ、パンセイ君。 -- それは要するに眼と腦髓と、 それから胃袋、特に胃袋から來るのですよ。あなたは非常に想像力の發逹した頭腦を持つてゐる割に、 胃袋があまりに小さすぎるのです。それで、非常に不健康な眼、つまり視覺上の錯覺を生じるのですよ。 貴方の胃を丈夫になさい。さうすれば、自然に精神も安まります。 それには彿蘭西の治療法によつて肝臟の丸藥がよろしい。あなたは今日から私に治療を一任させて戴きたい。 何しろ貴方は詰まらない一つの現象のために、あまりに奪はれ過ぎてゐますからな。」

丁度その時、私逹はブレッシングトンの坂下の木蔭を進んで行つた。 人力車は泥板(シエール)の崖の上に差し出てゐる一本の小松の下にぴたりと止まつた。 我を忘れて私もまた馬を止めたので、ヘザーレッグは俄に呶鳴(どな)つた。

「さあ、胃と腦と眼から來る錯覺患者のためにも、こんな山の麓でいつまでも冷い夜の空氣に當てゝ置いて好いか惡いか、 考へても……。おや、あれはなんだ。」

私たちの行手に耳を(つんざ)くやうな爆音がしたかと思ふと、一寸先も見えないほどの砂煙がぱつと立つた。 轟く音、枝の裂ける音、さうして光が十ヤードばかり -- 松や籔や、ありとあらゆる物が -- 坂の下へ崩れ落ちて來て、われ〜の道を塞ぐ¥いでしまつた。根こそぎにされた樹木は暫くの間、 泥醉して苦しんでゐる巨人のやうにふら〜してゐたが、やがて(らい)のやうあn響きと共に、 他の樹のあひだに落ちて横はつた。私逹ふたりの馬はその恐ろしさに、恰も化石したやうに立竦(たちすく)んだ。 土や石の落ちる物音が鎭まるや否や、わたしの連れは呟いた。

「ねえ、若し僕逹がもう少し前へ進んでゐたならば、今頃は生埋めになつてゐたでせう。 まだ神樣に見捨てられなかつたのですな。さあ、パンセイ君。家へ行つて、一つ神樣に感謝しようではありませんか。 それに、どうも馬鹿に喉が渇いてね。」私逹は引返して教會橋を渡つて、眞夜中の少し過ぎた頃に、 ドクトル・ヘザーレッグの家に着いた。

それから殆んどすぐに、彼はわたしの治療に取りかゝつて、一週間と言ふものは私から離れなかつた。 そのあひだ幾たびか私はシムラの親切な名醫と近附きになつた自分の幸運に感謝したのであつた。 日増しに私のこゝろは輕く、落付いて來た。さうして又、だん〜にヘザーレッグはいはゆる胃と頭腦と眼から來ると言ふ 「妖怪的幻影」の學説に共鳴して行つた。私は落馬して鳥渡(ちよつと)した挫傷をしたゝめに四五日は外出することも出來ないが、 あなたが私に逢へないのを寂しく思ふ前には全快するであらうと言ふやうな手紙を書いて、 キッテイに送つて置いた。

ヘザーレッグ先生の治療は甚だ簡單であつた。肝臟の丸藥、朝夕の冷水浴と猛烈な體操、 それが彼の治療法であつた。 -- 尤もこの朝夕の冷水浴と體操は散歩の代りで、彼は愼重な態度で私にむかつて、 「挫傷した人間が一日に一二哩も歩いてゐるところを婚約の婦人に見られたら、吃驚しますからな。」と言つてゐた。

一週間の終りに、瞳孔や脈膊を調べたり、攝食や歩行のことを嚴格に注意された上で、ヘザーレッグは私を引取つた時のやうに、 無造作に退院させてくれた。別れに臨んで、彼はかう祝福してくれた。 「ねえ、私はあなたの神經を直したと言ふことを斷言しますが、併しそれよりも、 貴方の疾病と直したと言つた方が本當ですよ。さあ、出來るだけ早く手荷物をまとめて、 キッテイ孃の愛を得に飛んでいらつしやい。」

私は彼の親切に對してお禮を言はうとしたが、彼は私を遮つた。

「貴方が好きだから、私が治療して上げたなどとは思はないで下さい。わたしの推察する所によると、 貴方はまつたく無頼漢のやうな行爲をして來なすつた。が、同時にあなたは一風變つた無頼漢である如く、 一風變つた非凡な人です。さあ、もうお歸りになつてもよろしい。さうして、 眼と頭と胃から來る錯覺がまた起るかどうか。見てゐて御覽なさい。もし錯覺が起つたら、 その度ごとに十萬ルピーを貴方に差上げませう。」

三十分の後には、私はマンネリング家の應接間でキッテイと對座してゐた。 -- 現在の幸福觀と、 もう二度と再び幽靈などに襲はれないで濟むといふ安心に醉ひながら。 -- 私はこの新しい確信に自ら興奮してしまつて、すぐに馬に乘つてジャッコを一廻りしないかと申出たのであつた。

四月三十日の午後、私はその時ほど血氣と單なる動物的精力とを身内に溢るゝやうに感じたことは曾てなかつた。 キッテイはわたしの樣子が變つて快濶になつたのを喜んで、率直な態度で明らさまに私に讚辭を浴びせかけた。 私逹は一緒にマンネリング家を出ると、談笑しながら前日のやうに、ショタ・シムラの道に沿つて馬をゆるやかに進めて行つた。

私はサンジョリイ貯水場に行つて、自分はもう幽靈に襲はれないといふ自信を確めるために馬を急がせた。 わたし逹の馬はよく走つたにも拘らず、私の(はや)る心には遲くて遲くて堪らなかつた。 キッテイは私の亂暴なのに吃驚してゐた。「どうしたの、ジヤック。」と、さうとう彼女は叫んだ。 「まるで駄々つ兒のやうね。どうしようと言ふんです。」

丁度わたし逹が尼寺の下へ來た時、私の馬が路から(をど)り出ようとしたのを、 そのまゝに一鞭あてゝ、路を突つ切つて一目散に走らせた。

「なんでもありませんよ。」と私は答へた。「唯これだけの事です。あなただつて一週間も家に居たまゝで何んにもしなかつたら、 私のやうにこんなに亂暴になりますよ。」

上々の機嫌で囁き、歌ひ、
生きてゐる身を樂しまん。
造化の神よ、現世の神よ、
五官を統る神樣よ。

まだ私が歌ひ終らないうちに、私逹は尼寺の上の角をまはつて、更に三四ヤード行くと、サンジュリイが眼の前に見えた。 平坦な道のまん中に黒と白の法被(はつぴ)と、 ウェッシントン夫人の乘つてゐる(きいろ)鏡板(かゞみいた)の人力車が立塞がつてゐるではないか。 私は思はず手綱を引いて、眼を(こす)つてぢつと見詰めて、 確に幽靈に相違ないと思つたが、それから先は覺えない。たゞ道の上に顏を伏せて倒れてゐる自分の傍に、 キッテイが涙を流しながら跪いてゐるのに氣が付いただけであつた。

「もう行つてしまひましたか。」と私は喘いだ。キッテイはます〜泣くばかりであつた。

「行つてしまつたとは……。何がです……。ジヤック、一體どうしたの。 何か思ひ違ひをしてゐるんぢやないの。ジヤック、全く思ひ違ひよ。」

彼女の最後の言葉を耳にすると、私はぎよつとして立上つた。 -- 氣が狂つて -- 暫くのあひだ囈語(うはごと)のやうに喋り出した。

「さうです、何かの思ひ違ひです。」と、私は繰返した。「全く思ひ違ひです。さあ、幽靈を見に行きませう。」

私はキッテイの腰を抱へるやうにして、幽靈の立つてゐる所まで彼女を引張つて行つて、 どうか幽靈に話し掛けさせてくれと哀願した。それから、自分逹二人は婚約の間柄であるから、 死んでも地獄でも二人のあひだの絆を斷切ることは出來ないぞと幽靈に話したことだけは、 自分でも明瞭に記憶してゐるし、自分よりも更にキッテイの方がよく知つてゐる。 私は夢中になつて、人力車の中の恐ろしい人物にむかつて、自分の言つた事はみな事實であるから、 今後自分を殺すやうな苦惱(くるしみ)(ゆる)してくれと、くり返して訴へた。 今になつて思へば、それは幽靈に話しかけてゐたと言ふよりも、 ウェッシントン夫人と自分との古い關係をキッテイに打明けたやうなものであつたかも知れない。 眞白な顏をして眼を光らせながら、その話にキッテイが一心に耳を傾けてゐたのを私は見た。

「どうもありがたう、パンセイさん。」とキッテイは言つた。「もう澤山です。わたしの馬を連れておいで。」

東洋人らしい落付いた馬丁が、勝手に走つて行つた馬を連れ戻して來ると、キッテイは鞍に飛び乘つた。 私は彼女をしつかりと押へて、私の言ふことをよく聞いて、わたしを(ゆる)して貰ひたいと切願すると、 彼女はわたしの口から眼へかけて鞭で打つた。さうして、一言二言の別れに言葉を殘したまゝで行つてしまつた。 その別れの言葉 -- 私は今以て書くに忍びない。わたしは色々に判斷した結果、 彼女は何も彼も知つてしまつたと言ふことが一番正しい解釋であると思つた。私は人力車の方へよろめきながら行つた。 わたしの顏にはキッテイの鞭の跡が生々しく紫色になつて血が流れてゐた。 私は自尊心も何もなくなつてしまつた。丁度その時、多分キッテイと私とのあとを遠くから附いて來たのであらう、 ヘザーレッグが馬を飛ばして來た。

「先生。」と私は自分の顏を指さしながら言つた。「こゝにマンネリング孃からの破談通知の印があります。 -- 十萬ルピーはすぐに戴けるのでせうね。」

ヘザーレッグ先生の顏を見ると、かうした卑しむべき不幸の場合にも拘らず、わたしは冗談を言ふ餘裕が出て來た。

「わたしは醫者としての名譽に賭けても……。」と彼が言ひのけたので、「冗談ですよ。」とわたしはいつた。 「それよりも、私は一生の幸福を失つてしまつたのですから、私を家へ連れて行つて下さい。」

私がこんなことを話してゐる間に、例の人力車は消えてしまつた。それから私はまつたく意識を失つて、 唯ジャッコの峰が膨れあがつて雲の峰のやうに渦を卷いて、わたしの上に落ちて來たやうな氣がしてゐた。

それから一週間の後(即ち、五月七日に)私はヘザーレッグの部屋に、 まるで小さい子供のやうに弱つて横はつてゐるのに氣が付いた。 ヘザーレッグは机の上の書類越しに私をぢつと見守つてゐた。 かれの最初の言葉は別に私に力を附けてくれるやうなものでもなかつた。 私自身もあまりに疲れ過ぎてゐたので、少しも感動しなかつた。

「キッテイさんから返して來た貴方の手紙がこゝにあります。流石に若い人だけに、 貴方も大分文通をしたものですね。それからこゝに指環らしい包みがあります。 それにマンネリングのお父さんからの丁寧な手紙が附けてありましたが、 それは私の名宛であつたので讀んでから燒いてしまひました。 お父さんは貴方に滿足してゐないやうでしたよ。」

「で、キッテイは……。」と私は微かな聲で訊いた。

「いや、その手紙は彼女のお父さんの名にはなつてゐましたが、寧ろ彼女の言つてゐる言葉でしたよ。 その手紙によると、あなたは彼女と戀に陷ちた時に、 不倫の思ひ出の何も彼も打明けてしまはなければならなかつたと言ふのです。 それから又、貴方がウェッシントン夫人に仕向けたやうなことを、婦人に對して行ふ男は、 男子全體の名譽を汚した謝罪のために、宜しく自殺すべきであると言ふのですよ。 彼女は若いくせに、感情に激し易い勇婦ですからね。ジャッコへゆく途中で騷ぎが起つた時、 あなたが囈語(うはごと)に惱んだだけでも十分であるのに、彼女はあなたと再び言葉を交すくらゐならば、 いつそ死んでしまふと言ふのですよ。」

わたしは唸り聲を發すると共に、反對の側へ寢返りを打つてしまつた。

「さて、貴方はもう物を選擇する力を囘收してゐますね。好うござんすか。この婚約は破られるべき性質のものであり、 又この上にマンネリング家の人々もあなたを苛酷な目に逢はせようとは思つてゐません。 ところで、一體この婚約は單なる囈語(うはごと)のために破られたのでせうか、 それとも癲癇性發作のたんでせうか。お氣の毒ですが、あなたが自分には遺傳性癲癇があると申出てくれなければ、 私には他に適當な診斷が附かないのですがね。私は特に遺傳性癲癇といふ言葉を申しますよ。 さうして貴方の場合はその發作だと思ひますがね。シムラの人々は婦人一哩競爭の時のあの光景をみな知つてゐますよ。 さあ私は五分間の猶豫をあたへますから、癲癇の血統があるか無いか考へてみて下さい。」

そこで、この五分間 -- 今でも私はこの世ながらの地獄のどん底を探り廻つてゐたやうな氣がする。 同時に疑惑と不幸と絶望との常闇(とこやみ)の迷路をつまづき歩いてゐる自分のすがたを私は見守つてゐた。 さうして私も亦、ヘザーレッグが椅子に腰をかけながら知りたがつてゐるやうに、 自分はどつちを選擇するだらうかといふ好竒心を以て自分をながめてゐたが、 結局わたしは自分自身が極めて微な聲で返事をしたのを聞いた。

「この地方の人間は馬鹿馬鹿しく道徳觀念が強い。それだから彼等に發作を與へよ、ヘザーレッグ、 それから俺の愛をあたへてくれ。さて、俺はもう少し寢なくつちやならない。」

それから二つの自己がまた一つになると、過ぎ去つた日の事どもをだん〜に辿りながら、 寢床(ベツド)の上で(のた)うち廻つてゐる、たゞの私(半分發狂し、惡魔に憑かれた私)になつた。

「しかし俺はシムラにゐるのだ。」と、私は繰返して自分に言つた。 「ジヤック・パンセイといふ俺は今シムラにゐる。しかもこゝには幽靈はゐないではないか。 あの女がこゝにゐる風をしてゐるのは不合理の事だ。何故にウェッシントン夫人は俺を獨りにして置くことが出來なかつたのか。 おれは別にあの女に對して何の危害を加へたこともないのだ。その點に於いてはあの女も俺も同じことではないか。 たゞ俺はあの女を殺す目的で、あの女の手に歸つて行かなかつただけのことだ。 なぜ俺は獨りでゐられないのか。 -- 獨りで、幸福に……。」

私が初めて目をさました時は、恰も正午であつたが、私が再び眠りかゝつた時分には太陽が西に傾いてゐた。 それから犯罪者が牢獄の棚の上で苦しみながら眠るやうに眠つたが、あまりに疲れ切つてゐたので、 却つて起きてゐる時分よりも餘計に苦痛を感じた。

翌日もわたしは寢床(ベツド)を離れることが出來なかつた。その朝、ヘザーレッグは私にむかつて、 マンネリング氏からの返事が來たことや、彼(ヘザーレッグ)の友情的斡旋のお蔭で、 わたしの苦惱の物語りはシムラの隅々まで擴がつて、誰もみな私の立場に同情してゐてくれる事などを話してくれた。

「さうして、この同情は寧ろあなたが當然受くべきものであつた。」と、彼は愉快さうに結論を下した。 「それに、あなたが人世の苦い體驗をかなりに經て來られたことは神樣が知つて居られますからな。 なに心配する事はありませんよ。私たちが貴方をまた直して上げますよ。 あなたは鳥渡(ちよつと)した錯覺を自分で惡い方に考へてゐるのですよ。」

私はもう直つたやうな氣がした。「貴方はいつも親切にして下さいますね、先生。」と私は言つた。 「併し、もうこの上あなたに御心配をかける必要はないと思ひます。」

かうは言つたものゝ、わたしの心の中では、ヘザーレッグの治療などで、 私のこゝろの重荷を輕くすることが出來るものかと思つてゐた。

かう考へて來ると、また私の心には、理不盡な幽靈に對して何となく叛抗の出來ないやうな、 頼りない、さびしい感じが起つて來た。この世の中には、自分のした事に對する罸として死の運命を宣告された私よりも、 もつと不幸な人間が少しはゐるであらうから、さういふ人逹と一緒ならばまだ氣が強いが、 たつた一人でこんなに殘酷な運命の下にゐるのは餘りに無慈悲だと思つた。結局、 あの人力車と私だけが虚無の世界に於ける單一の存在物で、マンネリングやヘザーレッグや、 その他わたしが知つてゐる總ての人間こそみんな幽靈であつて、 空虚な影(幻)の人力車以外の大きな灰色の地獄それ自身(この世の人間ども) が私を苦しめてゐるのだといふやうな考へに變つて行つた。 かうして苛々しながら七日の間、 いろ〜の事を考へながら輾轉反側(てんてんはんそく)してゐるうちに却つて私の肉體は日増しに丈夫になつて行つて、 寢室の鏡に映してみても平常と變りがなく、再び元の人間らしくなつた。 さうして實に不思議なことには、わたしの顏には過去の苦悶爭鬪の跡が消えてしまつた。 成程、顏色は青かつたが、不斷のやうに無表情な、平凡な顏になつた。實際を言ふと、 私はある永久の變化 -- 私の生命をだん〜に蠶食して行くところの發作から來る肉體的變化を豫期してゐたが、 全然そんな變化は見えなかつた。

五月十五日の午前十一時に私はヘザーレッグの家を立去つて、獨身者の本能から直ぐに倶樂部へ行つた。 そこではヘザーレッグが言つたやうに、誰も彼もわたしの話を知つてゐて、 妙に取つて付けたやうに氣味の惡いほど親切で、鄭重にしてくれるのに氣が付いたので、 壽命のあらん限りは自分の仲間の中にゐようと(はら)をきめた。 しかしその仲間の一人になり切つてしまふことは出來なかつた。 從つて私には、倶樂部の下の蔭で何の苦もなささうに笑つてゐられる苦力(クーリー)等が憎らしいほどに羨ましかつた。 私は倶樂部で晝飯を食つて、四時頃にぶらりと外へ出ると、 キッテイに逢へはしないかといふ漠然とした希望をいだきながら木蔭の路へ降りて行つた。 音樂堂の近くで、黒と白の法被(はつぴ)がわたしの傍に來るなと思ふ間もなく、 ウェッシントン夫人のいつもの歎願の聲が耳のそばに聞えた。實は外へ出た時から已に豫期してゐたので、 寧ろその出現が遲いのに驚いたくらゐであつた。それから幻の人力車と私とはショタ・シムラの道に沿つて、 摺れ摺れに肩を(なら)べながら默つて歩いて行つた。物品陳列館の近所で、 キッテイが一人の男と馬を(なら)べながら私たちを追ひ越した。 彼女はまるで路傍(みちばた)の犬でも見るやうな眼で、私を見かへつて行つた。 恰度夕方ではあり、雨さへ降つてゐたので、私が判らなかつたといふかも知れないが、 彼女は人を追ひ越してゆくに挨拶さへもしなかつた。

斯うしてキッテイとその連れの男と、私とわたしの無形の愛の光とは、 二組となつてジャッコの周圍を徐行した。道は雨水で川のやうになつてゐる。 松からは(とひ)のやうに下の岩へ雨滴(あまだれ)を落してゐる。 空氣は強い吹き降りの雨に滿ちてゐる。「おれは賜暇(しか)を得てシムラに來てゐるジヤック・パンセイだ。 -- シムラに來てゐるのだ。來る日も、來る日も、平凡なシムラ -- 。だが、俺はこゝを忘れてはならないぞ -- 忘れてはならないぞ。」と、わたしは二三度、殆んど大きい聲を立てんばかりに獨り言を言つてゐた。 それから倶樂部で耳にした今日の出來事の二三、たとへば何某(なにがし)が所有の馬の値は幾らであつたと言ふやうな事 -- 私のよく知つてゐる印度居住の英國人の實生活に關係ある事どもを追想してみようとした。 また私は自分の氣が違つてゐないといふことをしつかりと頭に入れようと思つて出來るだけ早く掛算の表をさへ繰返してみた。 その結果はわたしは非常に滿足を(もた)らした。そのために暫くの間は、 ウェッシントン夫人の言葉に耳を傾けるのを中止しなければならなかつた。

もう一度、私は疲れた足を引き摺りながら尼寺の坂道を登つて、平坦な道へ出た。 そこからキッテイと例の男とは馬を(ゆる)やかに走らせたので、 私はウェッシントン夫人と二人ぎりになつた。

「アグネス。」と私は言つた。「幌をうしろへ落したらどうです。さうして、 かうやつて始終人力車に乘つて私に附き(まと)ふのは、一體どういふ譯だか話して下さい。」

幌は音もなく落ちて、わたしは死んで埋められた夫人と顏を突き合せた。 彼女はわたしが生前に見た着物を着て、右の手にいつもの小さいハンカチーフを持ち、 左の手にやはりいつもの名刺入れを持つてゐた。(ある婦人が八ヶ月前に名刺入れを持つて死んだことがあつた。) さあ、かうなつて來ると、わたしは現在と過去との區別が附きかねたので、 また少くとも自分は氣が狂つてゐないといふことをたしかめるために、 路ばたの石の欄干の上に兩手を置いて、掛算の表を繰返さなければならなかつた。

「アグネス。」とわたしは繰返した。「どうか私にその譯を話して下さい。」

ウェッシントン夫人は前屈みになると、いつもの癖で、妙に早く首を傾けてから口を開いた。

若しもまだ、私の物語はあまりに氣違ひじみて諸君には信じらつれないと言ふ程でないと言ふのであつたら、 私は今諸君に感謝しなければならない。誰も -- 私はキッテイのために自分の行爲の或種の辯明としてこれを書いてゐるのであるが、 そのキッテイでさへも -- 私を信じてくれないであらうといふ事を知つてゐるけれども、 兎に角にわたしは自分の物を進めて行かう。ウェッシントン夫人は話し出した。 さうして、私は彼女と一緒にサンジョリイの道から印度總督邸の下の曲角まで、 まるで生きてゐる婦人の人力車と肩をならべて歩いてゐるやうにして、 夢中に話しながら來てしまつた。すると、急に再度の發作が襲つて來たので、 テニスンの詩に現はれて來る王子のやうに、わたしは幽靈界をさまよつてゐるやうな氣になつた。

總督邸では園遊會を催してゐたので、私たち二人は歸途につく招待客の群集に卷き込まれてしまつた。 わたしには彼等招待客がみな本物の幽靈に見えて來た。 -- 而もウェッシントン夫人の人力車を遣り過させる爲に、 彼等は道を開いたではないか。この考へてもぞつとするやうな會見中に、 私逹が話も合つたことは、私としては話すことは出來ないし、又敢て話したくもない。 ヘザーレッグはこれについて、たゞ鳥渡(ちよつと)笑つてから、 私が胃と腦と眼とから來る幻想に執着してるのだと批評してゐた。 あの人力車の幻影は物凄いと共に、非常に愛すべき(それは鳥渡(ちよつと)解釋しにくいが) 一つの存在であつた。曾ては私自身が殘酷な目に逢はせた上に、捨殺しにしてしまつたウェッシントン夫人を、 私はこの世に生きてゐる間にもう一度口説きたくなつて來たが、それは出來ない事であらうか。

歸りがけに私はキッテイにまた逢つた。 -- 彼女もまた幽靈の仲間の一人であつた。

若しもこの順序で、次の四日間の出來事をすべて記述しなければならないとしたなら、私のこの物語はいつまで行つても終るまい。 諸君も()きて來るであらう。併し兎に角に、朝といはず、夕といはず、 わたしと人力車の幽靈とはいつも一緒にシムラをさまよひ歩いた。私のゆく所には、 黒と白の法被(はつぴ)が附き(まと)ひ、ホテルの往復にも私の道連れとなり、 劇場へ行けば客を呼んでゐる苦力(クーリー)の群のあひだに彼等が(まじ)つてゐるのである。 夜更けまで骨牌(かるた)をした後に、倶樂部の露臺(バルコニー)へ出ると、 彼等はそこにもゐる。誕生日の舞踏會に招かれてゆけば、彼等は根氣よく私の出て來るのを待つてゐるばかりでなく、 私が誰かを訪問にゆく時には白晝にも現れた。さうしてたゞその人力車には影がないといふ以外は、 總ての點に於いて木と鐡で出來てゐる一般の人力車と()つとも變りがなかつた。 一度ならず私は、ある乘馬の下手な友逹が、その人力車を馬で踏み越へてゆくのを呼止めようとして、 はつと氣が付いて口をつぐんだ事があつた。又、私は木蔭の路をウェッシントン夫人と話しながら歩いてゐたので、 往來の人逹は呆氣に取られてゐたことも度々あつた。

わたしが床を離れて外出が出來るやうになつた一週間に、ヘザーレッグの發作説が發狂説に變つてゐるのを知つた。 いづれにもせよ、私は自分の生活樣式を變へなかつた。私は人を訪問した。馬に乘つた。 以前と同じやうな心持で食事をした私は今まで曾て感知したことのなかつた幻に社會と言ふものに對して渇望してゐたので、 實生活の間にそれを漁ると同時に、わたしの幽靈の伴侶(つれ)に長いあひだ逢へないでゐるといふことに、 漠然とした不幸を感じた。五月十五日より今日に至るまでの、 かうした私の變幻自在の心持を書くといふことは殆んど不可能であらう。

人力車の出現は、わたしの心を恐怖と、盲目的畏敬と、漠然たる喜悦と、 それから極度の絶望とで(かは)る〜゛に埋めた。 私はシムラを去るに忍びなかつた。而も私はシムラにゐれば、自分が結局殺されると言ふことを百も承知してゐた。 その上に、一日一日と少しづつ弱つて死んでゆくのが私の運命であることも知つてゐた。 たゞ私は、出來るだけ靜かに懺悔をしたいと言ふのが、たゞ一つ望みであつた。 それから私は人力車の幽靈を求めると共に、キッテイがわたしの後繼者 -- もつと嚴密にいへば、わたしの後繼者等 -- と蝶々喃々(てふ〜なん〜)と語らつてゐる復讐的な姿を、 愉快な心持で一目見たいと思つて探し求めた。愉快な心持と言つたのは、わたしが彼女の生活から放れてしまつてゐるからである。 晝の間私はウェッシントン夫人と喜んで歩きまはつて、夜になると私は神にむかつて、 ウェッシントン夫人と同じやうな世界に歸らせてくれるやうに哀願した。さうして、これらの種々の感情の上に、 この世の中の有象無象が一つの憐れな魂を墓に追ひやるために、こんなにもと騷いでゐるのかと言ふ、 ぼんやりした弱い驚きの感じが横はつてゐる。

八月二十七日 -- ヘザーレッグは實に根氣よく私を看病してゐた。さうして、 昨日わたしに向つて、病氣燻忠(しか)願ひを送らなければならないと言つた。そんなものは、 幻の仲間を遁れるための願書ではないか。五人の幽靈と幻の人力車を去るために英國へ歸らせてくれと、 政府の慈悲を懇願しろと言ふのか。ヘザーレッグの提議はわたしを殆どヒステリカルに笑はせてしまつた。 私は靜かにこのシムラで死を待つてゐることを彼に告げた。實際もう私の餘命は幾許(いくばく)もないのである。 どうか私が到底言葉で言ひ現はせない程、この世の中に再生するのを恐れてゐるといふ事と、 わたしは自分が死ぬときの態度に就いて、數限りなく考へては煩悶してゐると言ふことを信じて戴きたい。

私は英國の紳士が死ぬ時のやうに、寢床(ベツド)の上に端然として死ぬであらうか。 或は又、最後にもう一度木蔭の路を歩いてゐるうちに、私の靈魂がわたしから放れて、あの幽靈の傍で永遠に歸るのであらうか。 さうしてあの世へ行つて、わたしが遠い昔に失つてしまつた純潔さを取戻すか。 あるひは又、ウェッシントン夫人に出逢つて、忌々(いや〜)ながら彼女の傍で永遠に暮すのであらうか。 時と言ふものが終るまで、私たちの生活の舞臺の上を我々二人が徘徊するのであらうか。

私の臨終の日が近づくに從つて、墓のあなたから來る幽靈に對して、 生ける肉體の感ずる心中の恐怖はだん〜に力強くなつて來る。 諸君の生命の半分を終らないうちに、死の谷底へ急轉直下するのは恐ろしいことである。 更に何千倍も恐ろしいのは、諸君のまん中にあつて、さうした死を待つてゐることである。 何となれば、私には總ての恐怖をみな想像できるからである。少なくとも私の幻想の點に就いてだけでも、 わたしを憐れんで戴きたい。 -- 私は諸君が今までに私の書いたことを少しも信じないであらう事を知つてゐるから。 -- 今や一人の男が暗黒の力のために死に(なんな)んとしてゐる。あゝ、その男は私である。

公平に又ウェッシントン夫人をも憐れんで戴きたい。彼女は實際永遠に男の爲に殺されたのである。 さうして、彼女を殺したものは私である。わたしの罰の分前は今や自分自身の上にかゝつてゐる。

-- 終 --


更新日: 2003/02/21

世界怪談名作集:上床


上床

クラウフオルド 著

岡本綺堂 譯


目次


誰かが葉卷(シガー)を註文した時分には、もう長いあひだ私逹は話し合つてゐたので、 おたがひに()きかゝつてゐた。煙草の烟は厚い窓掛に喰ひ入つて、 重くなつた頭にはアルコールが廻つてゐた。 もし誰かが睡氣(ねむけ)をさまさせるやうな事をしない限りは、自然の結果として、 來客の我々は急いで自分逹の部屋へ歸つて、おそらく寢てしまつたに相違なかつた。

誰もがあつと言はせるやうな事を言はないのは、 誰もあつと言はせるやうな話の種を持つてゐないと言ふことになる。 そのうちに一座のジョンスが最近ヨークシェヤーに於ける銃獵の冒險談をはじめると、 今度はボストンのトンプソン氏が、人間の勞働供給の原則を細目にわたつて説明し始めた。 それによると、アッチソンやトペカやサンタ・フェ方面に敷設された鐡道が、 その未開の地方を開拓して州の勢力を延長したばかりでなく、 又その工事を會社に引渡す以前から、 その地方の人々に家畜類を輸送して飢餓を未前[誤?:未然]に防いだばかりでなく、 長年のあひだ切符を買つた乘客に對して、 前述の鐡道會社が何等の危險なしに人命を運搬し得るものと妄信させたのも、 一にこの人間の勞働の責任と用心深き供給に因るものであると言ふのであつた。 すると、今度はトムボラ氏が、 彼の祖國の伊太利統一は(あたか)も偉大なるヨーロッパの造兵廠の精巧なる手によつて設計されて組み立てられた最新式の魚形水雷のやうなものであつて、その統一が完成された(あかつき)には、 それが弱い人間の手によつて、當然爆發すべき無形の地、 即ち混沌たる政界の荒野に投げられなければならないと言ふことを我々に説得させようとしてゐたが、 そんな論説はもう私逹にはどうでも好かつた。

この上に詳しくこの會合の光景を描寫する必要はあるまい。 要するに、わたし逹の會話なるものは(いたづ)らに大聲 叱呼(しつこ)してゐるが、 プロメティウス(古代ギリシャの神話中の人物)であつたらば耳も()さずに自分の岩に(あな)を明けてゐるであらうし、タンタラス(同じく神話中の人)であつたら氣が遠くなつてしまふであらうし、 またイキシイオン(ギリシヤ傳説中の人)であつたら我々の話などを聽くくらゐならばオルレンドルフ氏のお説教でも聞いてゐる方が()しだと思はざるを得ないくらゐに、實に退屈至極のものであつた。 それにも拘らず、わたし逹は數時間もテーブルの前に腰をおろして、 疲れ切つたのを我慢して貧乏搖ぎ一つする者もなかつた。

誰かが葉卷(シガー)を註文したので、わたし逹はその人の方を見かへつた。 その人はブリスバーンと言つて常に人々の注目の的となつてゐるほどに優れた才能を持つてゐる三十五六の男盛りであつた。 彼の風采は、割合に脊丈(せい)が高いと言ふぐらゐのことで、 別に普通の人間の眼にはどこと言つて變つた所は見えなかつた。 その背丈(せい)も六フィートより少し高いぐらゐで、肩幅がかなり廣いぐらゐで、 大して強さうにも見えなかつたが、注意してみると確かに筋肉逞しく、 その小さな頭は頑丈な骨組みに(くび)によつて支へられ、 その男性的な手は胡桃割を持たずとも胡桃を割ることが出來さうであり、 横から見ると誰でもその袖幅が馬鹿に廣く出來てゐるのや、 竝外れて胸の厚いのに氣が付かざるを得ないのであつた。 所謂、彼はちよつと見ただけでは別に強さうでなくして、 その實は見掛けよりも遙かに強いといふ種類の男であつた。 その顏立については餘り言ふ必要もないが、兎にかく前にも言つたやうに、 彼の頭は小さくて、髮は薄く、青い眼をして、 大きな鼻の下にちよぴりと口髭を生やした純然たるユダヤ系の風貌であつた。 どの人もブリスバーンを知つてゐるので、彼が葉卷(シガー)を取寄せた時には、 みな彼の方を見た。

「不思議な事もあればあるものさ。」と、ブリスバーンは口を開いた。

どの人もみな話を止めてしまつた。彼の聲はそんなに大きくはなかつたが、 お座なりの會話を見拔いて、鋭利なナイフでそれを斷ち切るやうな、獨特の音聲であつた。 一座は耳を傾けた。ブリスバーンは自分が一座の注目の的となつてゐるのを心得てゐながら、 平然と葉卷(シガー)(くゆ)らせて言ひつゞけた。

「まつたく不思議な話といふのは、幽靈の話なんだがね。 一體人間といふ奴は、誰か幽靈を見た者があるかどうかと、 いつでも聞きたがるものだが、僕はその幽靈を見たね。」

「馬鹿な。」

「君がかい。」

「まさか本氣ぢやあるまいね、ブリスバーン君。」

「苟も知識階級の男子として、そんな馬鹿な。」

かう言つたやうな言葉が同時にブリスバーンの話に浴びせかけられた。 なんだ詰まらないと言つたやうな顏をして、一座の面々はみな葉卷(シガー)を取寄せると、 司厨夫(バットラー)のスタッブスがどこからとなしに現れて、 アルコールなしのシャンパンの壜を持つて來たので、だれかゝつた一座が救はれた。 ブリスバーンは物語をはじめた。

僕は長いあひだ船に乘つてゐるので、頻繁に大西洋を航海する時、 僕は變な好みを持つやうになつた。尤も大抵の人間には各自(めい〜)の好みと言ふものはある。 たとへて言へば、僕は曾て、自分の好みの特殊の自動車が來るまで、 ブロード・ウェイの酒場(バア)で四十五分も待つてゐた一人の男を見たことがあつた。 まあ、僕に言はせると、酒場(バア)の主人などといふ者はさうした人間の選り好みの癖のお蔭で、 三分の一は生活が立つて行けるのであらう。で、僕にも大西洋を航海しなければならない時には、 或る極まつた汽船を期待する癖がある。それは確かに偏寄(かたよ)つた癖かも知れないが、 兎に角、僕には、たつた一遍、一生涯忘れられない程の愉快な航海があつた。

僕は今でもよくそれを覺えてゐる。それは七月のある暑い朝であつた。 檢疫所から來る一艘の汽船を待つてゐる間、税關吏逹はふら〜と波止場を歩いてゐたが、 その姿は特に(もや)ぼんやりしてゐていかにも思慮のありさうに見えた。 僕には荷物が殆んど無かつた、と言ふよりは、全く無かつたので、 乘船客や運搬人や眞鍮ボタンの青い上衣を着た客引たちの人波に混つて、 その船の着くのを待つてゐた。汽船が着くと、例の客引逹は逸早(いちはや)(きのこ)のやうにデッキに現れて、 一人一人の客に世話を燒いてゐた。僕はある興味を以て、 かうした人々の自發的行動を屡々注意して見てゐたのであつた。 やがて水先案内が「出帆!」と叫ぶと、運搬夫や、例の眞鍮ボタンに青い上衣の連中は、 まるでダビイ・ジョンスが事實上監督してゐる格納庫へ引渡されてしまつたやうに、 (わづ)かの間にデッキや舷門から姿を消したが、いざ出帆の間際になると、綺麗に鬚を剃つて、 青い上衣を着て、祝儀(チップ)を貰ふのに齷齪(あくせく)してゐる客引逹は再びそこへ現れた。 僕も急いで乘船した。

カムチャッカと言ふのは僕の好きな船の一つであつた。 僕が敢て「あつた」と言ふ言葉を使ふのはもう今ではその船を大して好まないのみならず、 實は二度と再びその船で航海したいなどといふ愛着はさら〜無いからである。 まあ、默つて聞いておいでなさい。そのカムチャッカといふ船は船尾は馬鹿に綺麗だが、 船首の方はなるたけ船を水に浸させまいと言ふ所から恐ろしく切り立つてゐて、 下の寢臺は大部分が二段(ダブル)になつてゐた。その他にもこの船にはなか〜優れてゐる點は澤山あるが、 もう僕はその船で二度と航海しようとは思はない。話か少し脇道へ()れたが、 兎に角、そのカムチャッカ號に乘船して、僕はその給仕(スチワード)に敬意を表した。 その赤い鼻と眞赤な頬鬚がどつちとも氣に入つたのである。

「下の寢臺の百五號だ。」と、大西洋を航海することは、 下町のデルモニコ酒場(バア)でウイスキーやカクテルの話をするくらゐにしか考へてゐない人間逹特有の事務的の口調で、 僕は言つた。給仕(スチワード)は僕の旅行鞄と外套と、それから毛布を受取つた。 僕はそのときの彼の顏の表情を忘れろと言つても恐らく忘れられないであらう。 無論、かれは顏色を變へたのではない。奇蹟ですら自然の常軌を變へることは出來ないと、 著名な神學者連も保證してゐるのであるから、 僕も彼が顏色を眞青にしたのではないと言ふのに敢て躊躇しないが、 しかしその表情から見て、彼が危く涙を流しさうにしたのか、 噴嚔(くさめ)をしそこなつたのか、それとも僕の旅行鞄を取落さうとしたのか、 なにしろはつとしたことだけは事實であつた。 その旅行鞄には僕の古い友逹のスニッギンソン・バン・ピッキンスから餞別に貰つた上等のシェリー酒が二壜這入つてゐたので、 僕もいさゝか(ひや)りとしたが、給仕(スチワード)は涙も流さず、 噴嚔(くさめ)もせず、旅行鞄を取落さなかつた。

「では、ど……。」と、かう低い聲で言つて、彼は僕を案内して、 地獄(船の下部)へ導いて行つた時この給仕(スチワード)は少し醉つてゐるなと心の中で思つたが、 僕は別になんにも言はずに、その後から附いて行つた。 百五號の寢臺は左舷のずつと後の方にあつたが、 この寢臺については別に取立てゝ言ふ程の事もなかつた。 カムチャッカ號の上部にある寢臺の大部分は皆さうであつたが、 此下の寢臺も二段(ダブル)になつてゐた。寢臺はたつぷりしてゐて、 北亞米利加インディアンの心に奢侈の念を起させるやうなあり來りの洗面裝置があり、 齒ブラシよりも大型の雨傘が樂々かゝりさうな、役にも立ゝない褐色の木の棚が吊つてあつた。 餘分な掛蒲團の上には、近代の大諧謔家が冷蕎麥菓子と比較したがるやうな毛布が一緒に(たゝ)んであつた。 但し手拭掛けがないのには全く閉口した。硝子壜には透明な水が一杯に這入つてゐたが、 やゝ褐色を帶びてゐて、そんなに不快なほどに臭くはないが、 やゝもすれば船暈(ふなゑひ)を感じさせる機械の油の匂ひを聨想させるやな(かす)かな臭味が鼻を打つた。 僕の寢臺には陰氣な色のカアテンが半分閉まつてゐて、 (もや)(いぶ)しをかけられたやうな七月の日光は、 その侘しい小さな部屋へ淡い光を投げかけてゐた。實際その寢臺はどうか蟲が好かなかつた。

給仕(スチワード)は僕の手提げ鞄を下に置くと、いかにも逃げ出したいやうな顏をして、 僕を見た。おそらく他の乘客逹のところへ行つて、祝儀(チップ)にありつかうと言ふのであらう。 そこで、僕もかうした職務の人逹を手懷(てなづ)けて置く方が便利であると思つて、 すぐさま彼に小錢をやつた。

「どうぞ行き屆きませんところは、御遠慮なく仰しやつて下さい。」と、 彼はその小錢をポケットに入れながら言つた。 而もその聲の中には僕を吃驚(びつくり)させるやうな可怪(をかし)な響きがあつた。 多分僕がやつた祝儀(チップ)が足りなかつたので、不滿足であつたのであらうが、 僕としては、はつきりと心の不平をあらはして貰つた方が、 默つてゐられるよりも、()しだと思つた。 但しそれが祝儀(チップ)の不平でないことが後に判つたので、僕は彼を見損なつた譯であつた。

その日一日は別に變つた事はなかつた。カムチャッカ號は定刻に出帆した。 海路は靜穩、天氣は蒸暑かつたが、 船が動いてゐてので[誤?:ゐたので](さわや)かな風がそよ〜と吹いてゐた。 總ての乘客は船へ乘込んだ第一日がいかに樂しいものであるかを知つてゐるので、 甲板(デッキ)(しづ)かに歩いたり、お互ひにぢろ〜見交したり、 又は同船してゐることを知らずにゐた知人に偶然出逢つたりしてゐた。 最初の二回ほど食堂へ出て見ないうちは、この船の食事が良いか惡いか、 或は普通か、見當が付かない。船が炎の(ファイアー・アイランド)を出ないうちは、 天候もまだ判らない。最初は食卓も一杯であつたが、そのうちに人が減つて來た。 青い顏をした人逹が自分の席から飛び立つてあわたゞしく入口の方へ出て行つてしまふので、 船に馴れた連中はすつかりいゝ心持になつて、 うんと腹帶(はらおび)をゆるめて獻立表を初めからしまひまで平げるのである。

大西洋を一度や二度航海するのとは違つて、我々のやうに度重なると、 航海などは別に珍らしくないことになる。鯨や氷山は常に興味の對照物であるが、 所詮鯨は鯨であり、(たま)に目と鼻のさきへ氷山を見ると言ふまでの事である。 たゞ大洋の汽船で航海してゐるあひだに一番樂しい瞬間といへば、 先づ甲板(デッキ)を運動した擧句に最後の一廻りをしてゐる時と、 最後の一服を(くゆ)らしてゐる時と、それから適度に體を疲れさせて、 子供のやうな澄んだ心持で自由に自分の部屋へ這入るときに感じである。

船に乘つた最初の晩、僕は特に(ものう)かつたので、不斷よりは、 ずつと早く寢ようと思つて、百五號室へ這入ると、 自分の外にも一人の旅客があるらしいので、少しく意外に思つた。 僕が置いたのとは反對側の隅に、僕のと全く同じ旅行鞄が置いてあつて、 上段の寢臺——上床(アッパーバース)——にはステッキや蝙蝠傘と一緒に、 毛布がきちん(たゝ)んであつた。 僕はたつた一人でゐたかつたので(いささ)か失望したが、 一體僕の同室の人間は何者だらうといふ好奇心から、 彼が這入つて來たらその顏を見てやらうと待つてゐた。

僕が寢床へ潛り込んでから、やゝ暫くしてその男は這入つて來た。 彼は、僕の見ることの出來た範圍では、非常に背丈(せい)の高い、 恐ろしく痩せた、さうして甚く青い顏をした男で、 茶色の髮や頬髯を生やして、灰色の眼はどんよりと曇つてゐた。 僕は、どうも怪しい風體の人間だなと思つた。諸君は、ウォール・ストリートあたりを、 別に何をしてゐると言ふ事もなしにぶら〜してゐる種類の人間をきつと見たに相違ない。 又はキャフュー・アングレへ屡々あらはれて、たつた一人でシャンパンを飮んでゐたり、 それから競爭場などで別に見物するでも無しにぶら〜してゐるやうな男—— 彼はさうした種類の人間であつた。彼はやゝお洒落で、而もどことなく風變りなところがあつた。 かう言つた風の人間は大抵どの航路の汽船にも二三人はゐるものである。 そこで、僕は彼と近付きになりたくないものだと思つたので、 彼と顏を合さないやうにする爲に、彼の日常の習慣を研究して置かうと考へながら眠つてしまつた。 その以來、若し彼が早く起きれば、僕は彼よりも遲く起き、 若し彼がいつまでも寢なければ、僕はかれよりも先へ寢床へ潛り込んでしまふやうにしてゐた。 無論、僕は彼が如何なる人物であるかを知らうとはしなかつた。 若し一度かう言ふ種類の男の素性を知つたが最後、 その男は絶えず我々の頭のなかへ現れて來るものである。 併し百五室における第一夜以來、二度とその氣の毒な男の顏を見なかつたので、 僕は彼について面倒な穿鑿をせずに濟んだ。

(いびき)をかいて眠つてゐた僕は、突然に大きい物音で目をさまされた。 その物音を調べようとして、同室の男の上の寢臺から一足飛びに飛び降りた。 僕は彼が不器用な手附きで(ドア)の掛金や(くわん)の木を探つてゐるなと思つてゐるうちに、 忽ちその(ドア)ばたりと開くと、 廊下を全速力で走つてゆく彼の跫音(あしおと)がきこえた。 (ドア)は開いたまゝになつてゐた。船はすこし搖れて來たので、 僕は彼がつまづいて倒れる音が聞えて來るだらうと耳を澄ましてゐたが、 彼は一生懸命に走りつゞけてゞもゐるやうに何處へか走つて行つてしまつた。 船が搖れる毎にばたんばたん(ドア)が煽られるのが、 氣になつて堪らなかつた。僕は寢臺から出て、(ドア)を閉めて、 闇のなかを手搜(てさぐ)りで寢臺へ歸ると、再び熟睡してしまつて、 何時間寢てゐたのかは自分にもわからなかつた。

眼をさました時は、まだ眞暗であつた。僕は變に不愉快な寒氣(さむけ)がしたので、 これは空氣が(しめ)つてゐるせゐであらうと思つた。 諸君は海水で濕氣(しつけ)てゐる船室(キャビン)の一種特別な匂ひを知つてゐるであらう。 僕は出來るだけ蒲團をかけて、明日あの男に大苦情を言つてやる時のうまい言葉をあれやこれやと考へながら、 又うと〜と眠つてしまつた。そのうちに、 僕の頭の上の寢臺で同室の男が寢返りを打つてゐる音がきこえた。 多分彼は僕が眠つてゐる間に歸つて來たのであらう。 やがて彼がむゝうと一聲唸つたやうな氣がしたので、 (さて)船暈(ふなゑひ)だなと僕は思つた。 若しさうであれば、下にゐる者は堪らない。そんなことを考へながらも、 僕は又うと〜と夜明けまで眠つた。

船は昨夜よりも餘ほど搖れる來た。さうして、舷窓(まど)から這入つて來る薄暗い光は、 船の搖れ方によつて、その窓硝子が海の方へ向いたり、空の方へ向いたりする度毎に色が變つてゐた。 七月と言ふのに、馬鹿に寒かつたので、僕は上の寢臺の男に聞えよがしに惡口を言つてから、 起き上つて窓を閉めた。それからまた寢床へ歸るときに、 僕は上の寢臺に一瞥をくれると、そのカアテンはぴつたりと閉まつてゐて、 同室の男も僕と同樣に寒さを感じてゐたらしかつた。すると、 今まで感じなかつた僕はよほど熟睡してゐたのだなと思つた。昨夜(ゆうべ)僕を惱ましたやうな、 變な濕氣(しつけ)の匂ひはしてゐなかつたが船室(キャビン)の中はやはり不愉快であつた。 同室の男はまだ眠つてゐるので、 丁度彼と顏を合さずに濟ませるには好い機會であつたと思つてすぐに着物を着かへて、 甲板(デッキ)へ出ると、空は曇つて温かく、海の上からは油のやうな匂ひが漂つて來た。 僕が甲板(デッキ)へ出たのは七時であつた。いや、或はもう少し遲かつたかも知れない。 そこで朝の空氣をひとりで吸つてゐた船醫(ドクトル)に出會つた。 東部アイルランド生まれの彼は、黒い髮と眼を持つた、若い大膽さうな偉丈夫(ゐぢやうぶ)で、 そのくせ妙に人を惹き付けるやうな暢氣な、健康さうな顏をしてゐた。

「やあ、いゝお天氣ですな。」と、僕は口を切つた。

「やあ。いゝお天氣でもあり、いゝお天氣でもなし、なんだか私には朝のやうな氣がしませんな。」 船醫(ドクトル)は待つてゐたと言ふやうな顏をして、僕を見ながら言つた。

「なる程、さう言へばあんまり好いお天氣でもありませんな。」と、僕も相槌を打つた。

「かう言ふのを、わたしは黴臭い天氣と言つてゐますがね。」と、船醫(ドクトル)は得意さうに言つた。

「時に、ゆうべは馬鹿に寒かつたやうでしたね。尤も、あんまり寒いので方々を見まはしたら、 船窓(まど)が明いてゐました。寢床(ベット)へ這入る時には、 ちつとも氣が付かなかつたのですが、お蔭で部屋が濕氣(しけ)てしまひました。」と、僕は言つた。

濕氣(しけ)てゐましたか。あなたの部屋は何號です。」

「百五號です。」

すると、僕の方が寧ろ驚かされた程に、船醫(ドクトル)はびつくりして僕を見つめた。

「どうしたんですか。」と、僕はおだやかに訊いた。

「いや、なんでもありません。たゞ最近三回ほどの航海のあひだに、 あの部屋ではみなさんから苦情が出たもんですから……。」と、船醫(ドクトル)は答へた。

「わたしも苦情を言ひますね。どうもあの部屋は空氣の流通が不完全ですよ。 あんな所へ入れるなんて、まつたく酷過ぎますな。」

「實際です。私にはあの部屋には何かあるやうに思はれますがね……。 いや、お客樣を怖がらせるのは私の職務ではなかつた。」

「いや、あなたは私を怖がらせるなどと御心配なさらなくても好うござんすよ。 なに、少しぐらゐの濕氣(しつけ)は我慢しますよ。若し風邪でも引いたら、 あなたの御厄介になりますから。」

かう言ひながら、僕は船醫(ドクトル)葉卷(シガー)をすゝめた。 彼はそれを手にすると、よほどの愛煙家とみえて、 何處の葉卷(シガー)かを鑑定するやうに眺めてゐた。

濕氣(しつけ)などは問題ぢやありません。兎に角、 あなたのお體に別條ないと言ふことは確かですからな。同室の方がおありですか。」

「えゝ。一人ゐるのです。その先生と來たら、 夜なかに戸締りを外して、(ドア)を明け放して置くといふ厄介者なのですからね。」

船醫(ドクトル)は再び僕の顏をしげ〜と見てゐたが、 やがて葉卷(シガー)を口に(くは)へた。その顏はなんとなく物思ひに沈んでゐるらしく見えた。

「で、その人は歸つて來ましたか?」

「わたしは眠つてゐましたが、眼をさました時に、先生が寢返りを打つ音を聞きました。 それから私は寒くなつたので、舷窓(まど)を閉めてからまた寢てしまひましたが、 今朝見ますと、その舷窓(まど)は明いてゐるぢやありませんか……」

船醫(ドクトル)は靜かに言つた。

「まあ、お聽きなさい。私はもうこの船の評判なぞは構つてゐられません。 これから私のする事をあなたにお話し申して置きませう。 あなたはどう言ふお方か()つとも知りませんが、 私は相當に廣い部屋をこゝの上に持つてをりますから、 あなたは私と一緒にそこで寢起きをなさい。」

かうした彼の申出でには、僕は少からず驚かされた。 どうして船醫(ドクトル)が急に僕の體のことを思つて呉れるやうになつたのか、 何分想像が付かなかつた。何にしても、この船について彼が話した時の態度はどうも變であつた。

「いろ〜と御親切に有難うございますが、もう船室も空氣を入れ替へて、 濕氣(しつけ)も何もなくなつて呉ると思ひます。 併しあなたはなぜこの船の事なんか構はないと言はれるのですか。」と、私は訊いた。

「無論、わたし逹は醫者といふ職業の上から言つても、迷信家でないことは、 あなたも御承知下さるでせう。が、海と言ふものは人間を迷信家にしてしまふものです。 私はあなたにまで迷信を懷かせたくはありませんし、 又恐怖心を起させたくもありませんが、 若しもあなたが私の忠告をお()れ下さるなら、兎に角わたしの部屋へお出なさい。」

船醫(ドクトル)はまた次のやうに言葉を附け加へた。

「あなたが、あの百五號 船室(キャビン)でお休みになつてゐると言ふことを聞いた以上、 やがてあなたが海へ落ち込むのを見なければならないでせうから……。 尤もこれはあなたばかりではありません。」

「それはどうも……。一體どうした譯ですか。」僕は訊き返すと、船醫(ドクトル)は沈みがちに答へた。

「最近、三航海のあひだに、 あの船室(キャビン)で寢た人逹はみな海のなかへ落ち込んでしまつたと言ふ事實があるのです。」

僕は告白するが、人間の智識と言ふものおど恐ろしく不愉快なものはない。 僕はこのなまじひな智識があつたために、かれが僕を揶揄(からか)つてゐるのかどうかを見極めようと思つて、 ぢつとその顏を穴の明くほど見てゐたが、船醫(ドクトル)はいかにも眞面目な顏をしてゐるので、 僕は彼がその申出でを心から感謝すると共に、自分はその特別な部屋に寢たものは誰でも海へ陷るといふ因縁の、 除外例の一人になつて見る積りであると言ふことを船醫(ドクトル)に語ると、 彼は餘り反對もしなかつたが、その顏色は前よりも更に沈んでゐた。さうして、今度逢ふまでにもう一度、 彼も申出でをよく考へた方がよからうと言ふことを、暗々裡に仄めかして言つた。 それから暫くして、僕は船醫(ドクトル)と一緒に朝飯を食ひにゆくと、 食卓にはあまり船客が來てゐなかつたので、 僕は我々と一緒に食事をしてゐる一二名の高級船員が妙に沈んだ顏をしてゐるのに氣が付いた。 朝飯が濟んでから、僕は書物を取りに自分の部屋へゆくと、 上の寢臺のカアテンはまだすつかり閉まつてゐて、 なんの音もきこえない。同室の男はまだ寢てゐるらしかつた。

僕は部屋を出たときに、僕をさがしてゐる給仕(スチュワード)に出逢つた。 彼は船長が僕に逢ひたいと言ふことを囁くと、まるである事件から遁れたがつてゐるかのやうに、 そゝくさと廊下を駈けて行つてしまつた。 僕は船長室へゆくと、船長は待受けてゐた。

「やあ、どうも御足勞をおかけ申して濟みませんでした。 あなたにちとお願ひ致したい事がございますもので……。」と、船長は口を切つた。

僕は自分に出來る事ならば、なんなりとも遠慮なく仰しやつて下さいと答へた。

「實は、あなたの同室の船客が行方不明になつてしまひました。 その方はゆうべ宵のうちに船室(キャビン)に這入られたことまでは判つてゐるのですが、 あなたはその方の態度について、何か不審な點をお氣付きになりませんでしたか。」

たつた三十分前に、船醫(ドクトル)が言つた恐ろしい事件が實際問題となつて僕の耳に這入つた時、 僕は思はずよろけさうになつた。

「あなたが仰しやるのは、わたしと同室の男が海へ落ち込んだといふ意味ではないのですか。」

僕は訊き返すと、船長は答へた。

「どうもさうらしいので、私も心配してをるのですが……。」

「實に不思議な事もあればあるものですな。」

「なぜですか。」と、今度は船長が訊き返した。

「では、いよ〜あの男で四人目ですな。」

かう言つてから、僕は船長の最初の質問の答へとして、船醫(ドクトル)から聞いたとは言はずに、 百五號 船室(キャビン)に關して聞いた通りの物語を明細に報告すると、 船長は僕が何も彼も知つてゐるのに吃驚(びつくり)してゐるらしかつた。 それから、僕は昨夜(ゆうべ)起つた一部始終を彼にすつかり話して聞かせた。

「あなたが今仰しやつた事と、今までの三人のうち二人の投身者と同じ船室にゐた人がわたしに話された事と、 殆ど一致してゐます。」と、船長は言つた。「前の投身者逹も寢床(ベット)から跳り出すと、 すぐに廊下を走つて行きました。三人のうち二人が海中に落ち込むのを見張りの水夫が見つけましたので、 わたし逹は船を停めて救助艇を下しましたが、どうしても發見されませんでした。 若しほんたうに投身したとしても、ゆうべは誰もそれを見た者も聽いた者もなかつたのです。 あの船室(キャビン)を受持の給仕(スチワード)は迷信の強い男だものですから、 どうも何か惡いことが起りさうな氣がしたと言ふので、 今朝あなたの同室の客をそつと見にゆくと、寢臺は空になつて、 そこには其人の着物が、いかにもそこへ殘して置いたと言つた風に散らかつてゐたのです。 此船中であなたの同室の人を知つてゐるのはあの給仕(スチワード)だけなので、 彼は隈なく船中を搜しましたが、どうしてもその行くへがわからないのです。 で、いかがでせう。この出來事を他の船客逹に洩らさないやうにお願ひしたいのですが……。 私はこの船に惡い名を附けさせたくないばかりでなく、 この投身者の噂ほど船客の頭を(おど)ろかすものはありませんからな。 さうしてあなたには高級船員の部屋のうちのどれか一つに移つて戴きたいのですが……。 無論わたしの部屋でも結構です。いかゞです、これならば滿更惡い條件ではないと思ひますが……。」

「非常に結構です。」と、僕は言つた。「いかにも承知致しました。 が、私はあの部屋が獨占できるやうになつたのですから、 寧ろそこにぢつとしてゐたいと思ふのです。 若し給仕(スチワード)があの不幸な男の荷物を出してしまつてくれゝば、 わたしは喜んで今の部屋に殘つてゐます。勿論、この事件については何事も洩しませんし、 又、自分はあの同室の男の二の舞はしないと言ふことを、あなたにお約束出來る積りでゐます。」

船長は僕のこの向う見ずな考へを諫止しようと努めたが、 僕は高級船員の居候を斷つて、彼の一室を獨占することにした。 それは馬鹿げた事であつたかどうかは知らないが、若もその時に船長の忠告を容れたならば、 僕は平々凡々の航海をして、おそらく斯うして諸君に話すやうな奇怪な經驗は得られなかつたであらう。 今まで百五號船室に寢た人間のあひだに起つた再三の投身事件の不快な一致點は船長等の頭に殘つてゐるだらうが、 もうそんな一致點などは未來永劫無くして見せるぞと、僕は腹の中で決心した。

いづれにしても、その事件はまだ解決しなかつた。 僕は斷乎として、今までのそんな怪談に心を亂されまいと決心しながら、 船長とこの問題について猶いろ〜の議論を鬪はした。 僕は、どうもあの部屋には何か惡い事があるらしいと言つた。 その證據には、ゆうべは舷窓(まど)が明け放しになつてゐた。 僕の同室の男は乘船して來た時から病人じみてはゐたけれども、 彼が寢床(ベッド)へ這入つてからは更に氣違ひのやうになつてゐた。 とは言ふものゝ、あの男は船中のどこかに隱れてゐて、いまに發見されるかも知れないが、 兎に角、あの部屋の空氣を入れ替へて、 舷窓(まど)を注意してしつかり閉めて置く必要があるから、若しも私にもう御用がなければ、 部屋の通風や舷窓(まど)の締りがちやんと出來てゐるか何うかを見とゞけて來たいと、 僕は船長に言つた。

「無論、あなたがさうしたいとお思ひなら、現在の所にお止まりなさるのはあなたの權利ですけれども……。 私としては、あなたにあの部屋を出て戴いて、すつかり錠を下して、 保管して置かせて貰ひたいのです。」と、船長は幾らかむつとしたやうに言つた。

僕は飽くまでも素志を曲げなかつた。さうして、 僕の同室の男の失踪に關しては全然沈默を守るといふ約束をして、 船長の部屋を辭した。僕は同室の男の知人はこの船中にゐなかつたので、 彼が行方不明になつたからと言つて、歎く者は一人もなかつた。 夕方になつて、僕は再び船醫(ドクトル)に逢つた。 船醫(ドクトル)は僕に決心を(ひるがへ)したかどうかを聞いたので、 僕はひるがへさないと答へた。

「でも、あなたもやがて……。」と言ひながら、船醫(ドクトル)は顏を暗くした。

その晩、僕等はトランプをして、遲くなつてから寢ようとした。今だから告白するが、 實を言ふと自分の部屋へ這入つた時はなんとなく(いや)な感動に胸を躍らせたのである。 僕はいくら考へまいとしても、今頃はもう溺死して、 二三 (マイル)もあとの方で長い波のうねりに搖られてゐる。 あの背丈(せい)の高い男のことが考へ出されてならなかつた。寢卷に着替へようとすると、 眼の前に判然(はつきり)と彼の顏が浮き上がつて來たので、 僕はもう彼が實際にゐないと言ふことを自分の心に納得させるために、 上の寢臺のカーテンをあけ放して見ようかとさへ思つたくらゐであつた。 なんとなく氣味が惡かつたので、僕も入口の(ドア)(くわん)の木を外してしまつた。 而も舷窓(まど)が不意に音を立てゝ明いたので、僕は思はずぎよつとしたが、 それは直ぐにまた閉まつた。 あれだけ舷窓(まど)しつかりと閉めるやうに言ひ付けて置いたのにと思ふと、 僕は腹が立つて來て、急いで部屋着を引つかけて、 受持の給仕(スチュワード)のロバートを見付けると暴々(あら〜)しく百五號室の戸口まで曳きずつて來て、 明いてゐる舷窓(まど)の方へ突き飛ばしてやつた。

「毎晩のやうに舷窓(まど)を明け放しにして置くなんて、なんといふ間拔けな眞似をするのだ。 横着野郎め。こゝを明け放しにして置くのは、船中の規定に反すると言ふことを、 貴樣は知らないのか。若し船が傾いて水が流れ込んでみろ。 十人かゝつても舷窓(まど)を閉める事が出來なくなるぐらゐの事は知つてゐるだらう。 船に危險をあたへた事を船長に報告してやるぞ。惡者め。」

僕は極度に興奮してしまつた。ロバートは眞青になつて顫へてゐたが、 やがて重い眞鍮の金具を()つて舷窓(まど)の丸い硝子戸を閉めかけた。

「なぜ、貴樣はおれに返事をしないのだ。」と、僕はまた呶鳴(どな)り付けた。

「どうぞ御勘辨なすつて下さい。お客樣。」と、ロバートは吃りながら言つたで。「すが、[誤:言つた。「ですが] この舷窓(まど)を一晩中しめて置くことの出來るものは、 この船に一人もゐないのです。まあ、あなたが自分で遣つて御覽なさい。 わたくしはもう恐ろしくつて、この船に一刻も乘つてはゐられません。 お客樣、わたくしが貴方でしたら、早速この部屋を引き拂つて、 船醫(ドクトル)の部屋へ行つて寢るとか、なんとか致しますがね。 さあ、あなたが仰しやつた通りに閉めてあるか無いか、よく御覽なすつた上で、 一寸でも動くかどうか手で動かして見てください。」

僕は舷窓(まど)の戸を動かしてみたが、なるほど固く閉まつてゐた。

「いかゞです。」と、ロバートは勝ち誇つたやうに言葉をつゞけた。 「手前の一等 給仕(スチワード)の折紙に賭けて、 きつと半時間經たないうちにこの戸が又明いて、また閉まることを保證しますよ。 恐ろしいことには、自然(ひとりで)に閉まるんですからね。」

僕は大きい螺旋(ねぢ)や鍵止めを調べてみた。

「よし。若しも一晩中にこの戸があいたら、おれはお前に一 (ポンド)の金貨をやらう。 もう大丈夫だ。あつちへ行つても好い。」

「一 (ポンド)の金貨ですつて……。それはどうも……。今からお禮を申上げて置きます。 では、お休みなさい。快い休息と樂しい夢を御覽なさるやうに、お客樣。」

ロバートは、いかにもその部屋を去るのが嬉しさうな風をして、足早に出て行つた。 無論、彼は愚にもつかない話をして僕を怖がらせて置いて、 自分の怠慢を胡麻かさうとしたのだと、僕と思つてゐた。 ところがその結果は、彼に一 (ポンド)の金貨をせしめられた上に、 極めて不愉快な一夜を送ることになつたのである。

僕は寢床へ這入つて、自分の毛布で體を包んでから、ものゝ五分も經たないうちにロバートが來て、 入口の(そば)の丸い鏡板のうしろに絶間なく輝いてゐたランプを消して行つた。 僕は眠りに入らうとして、闇のなかに靜かに横はつてゐたが、 とても眠られさうもない事に氣が付いた。しかし彼は呶鳴(どな)りつけたので、 ある程度まで氣が清々したせゐか、 一緒の部屋にゐたあの溺死者のことを考へたときに感じたやうな不愉快な氣分はすつかり忘れてしまつた。 それにも拘らず、僕はもう眠氣が去つたので、暫くは床のなかで眼をあけながら、 時々に舷窓(まど)の方をながめてゐた。その舷窓(まど)は僕の寢てゐる所から見あげると、 (あたか)も闇のなかに吊るしてある弱い光のスープ皿のやうに見えた。

それから一時間ばかりはそこに横はつてゐたやうに思ふが、 折角うと〜と眠りかけたところへ、冷たい風がさつと吹き込むと同時に、 僕の顏の上に海水の飛沫(しぶき)がかゝつたので、はつと眼をさまして飛び起きると、 船の動搖のために足を(すく)はれて、丁度 舷窓(まど)の下にある長椅子の上に激しく叩き付けられた。 併し僕はすぐに氣を取直して膝で起つた。その時、舷窓(まど)の戸が又一ぱいに明いて、 また閉まつたではないか。

これらの事實はもう疑ふ餘地がない。僕が起き上がつた時には確かに眼をあけてゐたのである。 又たつとひ僕が夢現(ゆめうつゝ)であつたとしても、 こんなに(いや)といふほど叩き付けられて眼を醒まさないと言ふ法はない。 その上、僕は肘と膝とによほどの怪我をしてゐるのであるから、 僕自身がその事實を疑ふと假定しても、これ等の傷が明くる朝になつて十分に事實を證明すべきであつた。 あんなにちやんと閉めて置いた筈の舷窓(まど)が自然に開閉する—— それはあまりにも不可解であるので、初めてそれに氣が付いた時には、 恐ろしいと言ふよりも寧ろたゞ吃驚(びつくり)してしまつたのを、 僕は今でもあり〜と記憶してゐる。そこで、僕は直ぐにその硝子戸を閉めて、 あらん限りの力を絞つてその鍵をかけた。

部屋は眞暗であつた。僕はロバートが僕の見てゐる前でその戸を閉めた時に、 また半時間のうちに必ず明くと言つた言葉を想ひ起したので、 その舷窓(まど)がどうして明いたのかを調べてみようと決心した。 眞鍮の金具類は非常に頑丈に出來てゐるものであるから、 ちつとの事では動く筈がないので、 螺旋(ねぢ)が動搖したぐらゐのことで締金(しめがね)が外れたとは僕にはどうも信じられなかつた。 僕は舷窓(まど)の厚い硝子戸から、 舷窓(まど)の下で泡立つてゐる白と灰色の海のうねりをつぢと[誤:ぢつと]覗いてゐた。 なんでも十五分間ぐらゐもそこにさうして立つてゐたであらう。

突然うしろの寢臺の一つで、判然(はつきり)と何物か動いてゐる音がしたので、 僕ははつとして後を振返つた。無論に暗闇のことで何一つ見えなかつたのであるが、 僕は非常に微かな唸り聲を聞き付けたので、 飛びかゝつて上の寢臺のカアテンをあけるが早いか、 そこに誰か居るかどうかと手を突つ込んでみた。すると、確かに手應(てごた)へがあつた。

今でも僕は、あの兩手を突つ込んだときの感じは、 まるで(しめ)つた穴藏へ手を突つ込んだやうに(ひや)りとしたのを覺えてゐる。 カアテンの後から、恐ろしく澱んだ海水の匂ひのする風が又さつと吹いて來た。 その途端に、僕は何か男の腕のやうな、すべ〜とした、 濡れて氷のやうに冷たい物を掴んだかと思ふと、その怪物は僕の方へ猛烈な勢ひで飛びかゝつて來た。 ねば〜した、重い、濡れた泥の塊のやうな怪物は、超人のごとき力を有してゐたので、 僕は部屋を横切つてたぢ〜となると、突然に入口の(ドア)さつと開いて、 その怪物は廊下へ飛び出した。

僕は恐怖心などを起す餘裕もなく、すぐに氣を取直して同じく部屋を飛び出して、 無我夢中に彼を追撃したが、とても追ひ付くことは出來なかつた。十ヤードも先きに、 確かに薄黒い影がぼんやり()(とも)つてゐる廊下に動いてゐるのを目撃したが、 その早さは(あたか)闇夜(あんや)に馬車のランプの光を受けた駿馬の影のやうであつた。 その影は消えて、僕のからだは廊下の明窓(あかりまど)手欄(てすり)に支へられてゐるのに氣がついた時、 初めて僕はぞつとして髮が逆立つと同時に、冷汗が顏に流れるのを感じた。 と言つて、僕は少しもそれを恥辱とは思はない。誰でも極度の恐怖に打たれゝば、 冷汗や髮の逆立つぐらゐは當然ではないか。

それでも猶、僕は自分の感覺を疑つたので、努めて心を落着かせて、 これは下らないことだとも思つた。藥味附きのパンを食つたのが腹に溜つてゐたので、 惡い夢を見たのだらうと思ひながら、自分の部屋へ引返したが、體が痛むので、歩くのが容易でなかつた。 部屋中はゆうべ僕が目をさました時と同じやうに澱んだ海水の匂ひで息が詰まりさうであつた。 僕は勇氣を鼓して内へ這入ると、手探りで旅行鞄のなかから蝋燭の箱を取り出した。さうして、 消燈された後に讀書したいと思ふときの用意に持つてゐる、 汽車用の手燭に火をつけると、舷窓(まど)がまた明いてゐるので、 僕は嘗て經驗したこともない、また二度と經驗したくもない、うづくやうな、 なんとも言へない恐怖に襲はれた。僕は手燭を持つて、 多分海水でびしよ濡れになつてゐるだらうと思ひながら、上の寢臺を調べた。

併し僕は失望した。實のところ、何も彼も(いや)な夢であつた昨夜の事件以來、 ロバートは寢床(ベット)を整へる勇氣はあるまいと想像してゐたのであつたが、 案に相違して寢床(ベット)きちんと整頓してあるばかりか、 非常に潮臭くはあつたが、夜具はまるで骨のやうに乾いてゐた。 僕は出來るだけ一ぱいにカアテンを引いて、細心の注意を拂つて隈なくその中をあらためると、 寢床(ベット)はまつたく乾いてゐた。しかも舷窓(まど)はまた明いてゐるのでは[誤?:ゐるでは]ないか。 僕はなんと言ふことなしに恐怖の觀念に驅られながら舷窓(まど)を閉めて、鍵をかけて、 その上に僕の頑丈なステッキを眞鍮の(くわん)の中へ通して、 丈夫な金物が曲るほどにうんと捻ぢた。 それからその手燭の(かぎ)を、自分の寢臺の頭のところに埀れてゐる赤い天鵝絨(ビロード)へ引つかけて置いて、 氣を鎭めるために寢床(ベット)の上に坐つた。僕は一晩中かうして坐つてゐたが、 氣を落着けるどころの騷ぎではなかつた。しかし舷窓(まど)は流石にもう開かなかつた。 僕もまた神業(かみわざ)でない限りは、もう二度と開く氣遣ひはないと信じてゐた。

やう〜に夜が明けたので、僕はゆうべ起つた出來事を考へながら、ゆつくりと着物を着かへた。 非常によい天氣であつたので、僕は甲板へ出て、いゝ心持で清らかな朝の日光に浸りながら、 僕の部屋の腐つたやうな匂ひとはまるで違つた、薫りの高い青海原の微風(そよかぜ)を胸一ぱいに吸つた。 僕は知らず識らずのうちに船尾の船醫(ドクトル)の部屋の方へ向つてゆくと、 船醫(ドクトル)は已に船尾の甲板に立つて、 パイプをくはへながら前の日とまつたく同じやうに朝の空氣を吸つてゐた。

「お早う。」と、彼は逸早(いちはや)くかう言ふと、明らかに好奇心を以て僕の顏を見守つてゐた。

「先生、まつたくあなたの仰しやつた通り、確かにあの部屋には何かが憑いてゐますよ。」と、僕は言つた。

「どうです、決心をお變へになつたでせう。」と、 船醫(ドクトル)は寧ろ勝ち誇つたやうな顏をして僕に答へた。

昨夜(ゆうべ)はひどい目にお逢ひでしたらう。一つ興奮飮料をさし上げませうか、 素敵な奴を持つてゐますから。」

「いや、結構です。然し先づあなたに、 昨夜(ゆうべ)起つたことをお話す申したいと思ふのですが……。」と、僕は大きい聲で言つた。

それから僕は出來るだけ詳しく昨夜(ゆうべ)の出來事の報告をはじめた。 無論、僕はこの年になるまであんな恐ろしい思ひを經驗はなかつたと言ふことも附け加へるのを忘れなかつた。 特に僕は舷窓(まど)に起つた現象を詳細に話した。實際、 假に他の事は一つの幻影であつたとしても、この舷窓(まど)に起つた現象だけは誰が何と言つても、 僕は明らかに證據立てることの出來る奇怪の事實であつた。現に僕は二度までも舷窓(まど)の戸を閉め、 しかも二度目には自分のステッキで螺旋(ねぢ)鍵を固く捻ぢて、 眞鍮の金具を曲げてしまつたと言ふ點だけでも、 僕は大いにこの不可思議を主張し得る積りであつた。

「あなたは、私が好んであなたのお話を疑ふとお思ひのやうですね。」と、 船醫(ドクトル)は僕があまりに舷窓(まど)のことを詳しく話すので微笑みながら言つた。 「私はちつとも疑ひませんよ。あなたの携帶品を持つていらつしやい。 二人で私の部屋を半分づつ使ひませう。」

「それよりもどうです。私の船室(キャビン)にお出でなすつて、二人で一晩過してみませんか。 さうして、この事件を根底まで探るのに、お力添へが願へませんでせうか。」

「そんな根底まで探らうなどとこゝろみると、あべこべに根底へ沈んでしまひますよ。」と、 何う()るは答へた。

「と言ふと……。」

「海の底です。わたしはこの船を下りようかと思つてゐるのです。 實際、あんまり愉快ではありませんからな。」

「では、あなたはこの根底を探らうとする私に御援助下さらないのですか?」

「どうも私は御免ですな。」と、船醫(ドクトル)は口早に言つた。 「わたしは自分を冷靜にしてゐなければならない立場にあるもので、 化物や怪物を(なぶ)り廻してはゐられませんよ。」

「あなたは化物の仕業(しわざ)だと本當に信じてゐられるのですか。」と、 僕はやゝ輕蔑的な口吻(くちぶり)で聞き(たゞ)した。かうは言つたものゝ、 昨夜(ゆうべ)自分の心に起つたあの超自然的な恐怖觀念を僕は不圖(ふと)思ひ出したのである。 船醫(ドクトル)は急に僕の方へ向き直つた。

「あなたはこれ等の出來事を化物の仕業(しわざ)でないといふ、 確かな説明がお出來になりますか。」と、彼は反駁して來た。 「無論、お出來にはなりますまい。よろしい。 それだからあなたは確かな説明を得ようと言ふのだと仰しやるのでせう。 併しあなたは得られますまい。その理由は簡單です。 化物の仕業(しわざ)といふ以外には説明の仕樣がないからです。」

「あなたは科學者ではありませんか。 そのあなたが私にこの出來事の解釋がお出來にならんと言ふのですか。」と、 今度は僕が一矢を酬いた。

「いや、出來ます。」と、船醫(ドクトル)は言葉に力を入れて言つた。 「しかし他の解釋が出來るくらゐならば、私だつて何も化物の仕業(しわざ)だなとどは言ひません。」

僕はもう一晩でもあの百五號の船室(キャビン)に一人でゐるのは嫌であつたが、 それでもどうかしてこの心にかゝる事件の解決を付けようと決心した。 おそらく世界中のどこを搜しても、あんな心持の惡い二晩を過した後、 なほ()つた一人であの部屋に寢ようと言ふ人が澤山ある筈はない。 而も僕は自分と一緒に寢ずの番をしようと言ふ相棒を得られずとも、 ひとりでそれを斷行しようと意を決したのである。 船醫(ドクトル)は明らかにかう言ふ實驗には興味がなささうであつた。 彼は自分は醫者であるから、船中で起つた如何なる事件にでも、 常に冷靜でなければならないと言つてゐた。彼は何事に依らず、 判斷に迷ふと言ふことが出來ないのである。恐らくこの事件についても、 彼の判斷は正しいかも知れないが、彼が何事にも冷靜でなければならないと言ふ職務上の警戒は、 その性癖から生じたのではなかと、僕には思はれた。それから、 僕が誰か他に力を()してくれる人はあるまいかと訊ねると、 船醫(ドクトル)はこの船の中に僕の探究に參加しようと言ふ人間は一人もないと答へたので、 二言三言(ふたことみこと)話した後に彼と別れた。

それから少し後に、僕は船長に逢つた。話をした上で、 若し自分と一緒にあの部屋で寢ずの番をする勇者がなかつたならば、 自分ひとりで決行する積りであるから、 一夜中そこに()()けて置くことを許可して貰ひたいと申込むと、 「まあ、お待ちなさい。」と、船長は言つた。

「私の考へを、あなたのお話し申しませう。實は私もあなたと一緒に寢ずの番をして、 どう言ふことが起るかを調べてみようと思ふのです。 私はきつと我々のあひだに何事かを發見するだらうと確信してゐます。 ひよつとすると、この船中にこつそり(ひそ)んでゐて、 船客を(おど)しておいて何かの物品を盜まうとする奴がないとも限りません。 從つて、あの寢臺の構造のうちに、怪しい機關(からくり)が仕掛けてあるかも知れませんからね。」

船長が僕と一緒に寢ずの番をするといふ申出でがなかつたらば、 彼のいふ盜人(ぬすびと)一件などは無論一笑に附して仕舞つたのであるが、 何しろ船長の申出でが非常に嬉しかつたので、それでは船の大工を連れて行つて、 部屋を調べさせませうと、僕は自分から言ひ出した。そこで、 船長は直に大工を呼び寄せ、僕の部屋を隈なく調べるやうに命じて、 僕等も共に百五號の船室(キャビン)へ行つた。僕等は上の寢臺の夜具をみんな引張り出して、 どこかに取外しの出來るやうになつてゐる板か、或は明け立ての出來るやうな鏡板でもありはしまいかと、 寢臺は勿論、家具類や床板を叩いてみたり、下の寢臺の金具を外したりして、 もの[誤?:もう]部屋の中に調べない所はないといふまでに調査したが、結局なんの異状もないので、 又元の通りに直して置いた。僕等がその跡始末をして仕舞つた所へ、 ロバートが戸口へ來て窺つた。

「いかゞですか、何か見付かりましたか。」と、彼は強ひてにや〜と笑ひながら言つた。

「ロバート、舷窓(まど)の一件ではお前の方が勝つたよ。」と、 僕は彼に約束の金貨をあたへた。大工は默つて、手際よく僕の指圖通りに働いてゐたが、 仕事が終ると斯う言つた。

「わつしはたゞの詰らねえ人間でござんすが、惡いことは申しませんから、 貴方の荷物をすつかり外へお出しになつて、 この船室(キャビン)の戸へ四 (インチ)釘を五六本たゝつ込んで、 釘付けにしておしまひなさる方がよろしうござんすぜ。さうすれば、 もうこの船室(キャビン)から惡い噂も立たなくなつてしまひます。 わつしの知つてゐるだけでも、四度の航海のうちに、 この部屋から四人も行方知れずになつてゐますからね。 この部屋はお止めになつた方がようござんすよ。」

「いや、おれはもう一晩こゝにゐるよ。」と、僕は答へた。

「惡いことは言ひませんから、およしなさい。お止めなすつた方がようござんすよ。 碌なことはありませんぜ。」と、大工は何度も繰返して言ひながら、道具を袋にしまつて、 船室(キャビン)を出て行つた。

しかし僕は船長の助力を得たことを思ふと、大いに元氣が出て來たので、 勿論この奇怪なる仕事を中止するなどとは、思ひも寄らないことであつた。 僕はゆうべのやうに藥味附きの燒パンや火負(グロック)を飮むのを止め、 常連のトランプの勝負にも加はらずに、只管(ひたすら)に精神を鎭めることに努めた。 それは船長の眼に自分といふものを立派に見せようと言ふ自負心があつたからである。

僕逹の船長は、難艱辛苦のうちに叩き上げて得た勇氣と、膽力と、沈着とによつて、 人々の信用の的となつてゐる。粘り強い、磊落(らいらく)な船員の標本の一人であつた。 彼は愚にも付かない話に乘るやうな男ではなかつた。したがつて、 彼が自ら進んで僕の探究に參加したといふだけの事實でも、 船長が僕の船室(キャビン)には普通の理論では解釋の出來ない、 と言つて單に在來(ありきた)りの迷信と一笑に附してしまふ事の出來ない、 容易ならぬ變化(へんげ)が憑いてゐるに違ひないと思つてゐる證據になつた。 さうして彼は、ある程度までは自分の名聲と共に致命傷を負はされなければならないのを恐れる利己心と、 船長として船客が海へ落ち込むのを放任して置くわけには行かないと言ふ義務的觀念とから、 僕の探究に參加したのであつた。

その晩の十時頃に、僕は最後の葉卷(シガー)(くゆ)らしてゐるとことへ船長が來て、 甲板(デッキ)の暑い暗闇のなかで他の船客がぶらついてゐる場所から僕を引張り出した。

「ブリスバーンさん。これは容易ならぬ問題だけに、我々は失望しても、 苦しい思ひをしてもいゝだけの覺悟をして置かなければなりませんぞ。 あなたも御承知の通り、私はこの事件を笑殺してしまふことは出來ないのです。 そこで萬一の場合のための書類にあなたの名署(サイン)を願ひたいのです。 それから、若し今晩何事も起らなかつたらば明晩、明晩が駄目であつたらば明後日の晩と言ふ風に、 毎晩つゞけて實行してしませう。あなたは支度はいゝのですか。」と、船長は言つた。

僕等は下へ降りて、部屋へ這入つた。僕等が降りてゆく途中、ロバートは廊下に立つて、 例の齒を露出(むきだ)してにや〜笑ひながら、 きつと何か恐ろしいことが起るのに馬鹿な人逹だなと言つたやうな顏をして、 僕等の方をながめてゐた。船長は入口の(ドア)を閉めて、(くわん)の木をかけた。

「あなたの手提鞄だげ[誤:手提鞄だけ]を(ドア)のところに置かうではありませんか。」と、彼は言ひ出した。 「さうして、あなたか私かゞ其上に腰をかけて頑張つてゐれば、 どんなものだつて這入ることは出來ますまい。 舷窓(まど)の鍵はお掛けになりましたね。」

舷窓(まど)の戸は僕が今朝閉めたまゝになつてゐた。實際、 僕がステッキでしたやうに梃子(てこ)でも使はなければ、 誰でも舷窓(まど)の戸をあけることは出來ないのであつた。 僕は寢臺の中がよく見えるやうに上のカアテンを絞つて置いた。 それから船長の注意にしたがつて、讀書に使ふ手燭を上の寢臺のなかに置いたので、 白い敷布ははつきりと照らし出されてゐた。 船長は自分が(ドア)の前に坐つたからにはもう大丈夫ですと言ひながら、鞄の上に陣取つた。

船長は更に部屋のなかを綿密に調べてくれと言つた。綿密にと言つたところで、 もう調べ盡した後であるので、たゞ僕の寢臺の下や、 舷窓際(まどぎは)の長椅子の下を覗いてみるぐらゐの仕事はすぐに濟んでしまつた。

「これで妖怪 變化(へんげ)ならば知らず、とても人間業では忍び込むことも、 舷窓(まど)をあける事も出來るものではありませによ。」と、僕は言つた。

「さうでせう。」と、船長はおちつき拂つて首肯(うなづ)いた。 「これで若しも變つた事があつたらば、それこそ幻影か、 さもなければ何か超自然的な怪物の仕業(しわざ)ですよ。」

僕は下の寢臺の端に腰をかけた。

「最初事件が起こつたのは……。」と、船長は(ドア)()りながら、 脚を組んで話し出した。「左樣。五月でした。この上床(アッパーバース)に寢てゐた船客は精神病者でした。 ——いや、それ程でないにしても、兎にかく少し變だつたと言ふ折紙附きの人間で、 友人間には知らせずに、こつそりと乘船したのでした。 その男は夜中にこの部屋を飛び出すと、見張りの船員が抑へようと思ふ間に海へ落ち込んでしまつたのです。 我々は船を停めて救助艇(ボート)をおろしましたが、 その晩はまるで風雨(あらし)の起る前のやうに靜かな晩でし[た]のに、 どうしてもその男の姿は見付かりませんでした。無論、 その男の投身は發狂の結果だといふことは後に判つたのでした。」

「さう言ふ事はよくありますね。」と、僕はなんの氣なしに言つた。

「いや、そんな事はありません。」と、船長はきつぱりと言つた。 「わたしは他の船にさう言ふ事があつたのを聞いたことはありますが、 まだ私の船では一遍もありませんでした。左樣、わたしは五月だつたと申しましたね。 その歸りの航海で、どんなことが起つたか、あなたには想像が付きますか。」

かう僕に問ひ掛けたが、船長は急に話を中止した。

僕は多分返事をしなかつたと思ふ。と言ふのが、 舷窓(まど)の鍵の金具がだん〜に動いて來たやうな氣がしたので、 ぢつとその方へ眼を注いでゐたからであつた。 僕は自分の頭にその金具の位置の標準を定めて置いて、眼を放たずに見つめてゐると、 船長もわたしの眼の方向を見た。

「動いてゐる。」と、彼はそれを信じるやうに叫んだが、すぐに又、 「いや、動いてはゐない。」と、打ち消した。

「若し螺旋(ねぢ)(ゆる)んで行くのならば、明日(あした)の晝中に明いてしまふでせうが……。 私は今朝力一ぱいに捻ぢ込んで置いたのが、 今夜もそのまゝになつてゐるのを見て置いたのです。」と、僕は言つた。

「船長は又言つた[誤:「は不要]。

「ところが、不思議なことには二度目に行方不明になつた船客は、 この舷窓(まど)から投身したといふ臆説が我々の間に立つてゐるのです。恐ろしい晩でしたよ。 しかも眞夜中頃だといふのに、風雨(あらし)は起つてゐました。すると、 舷窓(まど)の一つが明いて、海水が突入してゐるといふ急報に接して、 わたしは下腹部へ飛んで降りて見ると、もう何も彼も浸水してゐる上に、 船の動搖の度毎に海水は瀧のやうに流れ込んで來るので、窓全體の締釘が(ゆら)ぎ出して、 たうとうぐら〜になつてしまひました。我々は舷窓(まど)の戸を閉めようとしましたが、 なにしろ水の勢ひが猛烈なのでどうする事も出來ませんでした。 その時以來、この部屋は時々に潮臭い匂ひがしますがね。そこで、 どうも二度目の船客はこの舷窓(まど)から投身したのではないかと、 我々は想像してゐるのですが、(さて)どう言ふ風にしてこの小さい窓から投身したかは、 神樣より外には知つてゐる者はないのです。あのロバートがよく私に言つてゐることですが、 それからと言ふものは幾ら彼がこの舷窓(まど)を嚴重に閉めても、やはり自然に明くさうです。 おや、確かに今……。私はあの潮臭い匂ひがします。あなたには感じませんか。」

船長は自分の鼻を疑ふやうに、(しき)りに空氣を()ぎながら、僕にきいた。

「確かに私にも感じます。」

僕はかう答へながら、 船室(キャビン)一ぱいに昨夜(ゆうべ)と同じく彼の腐つたやうな海水の匂ひがだん〜に強く漂つて來るのにぞつとした。

「さあ、こんな匂ひがして來たからは、確かにこの部屋が濕氣(しけ)てゐるに違ひありません。」 と、僕は言葉をつゞけた。「今[朝]わたしが大工と一緒に部屋を調べたときには、 何も彼もみな乾燥してゐましたが……。どうも尋常事(たゞごと)ではありませんね。おや!」

突然に上の寢臺のなかに置いてあつた手燭が消えた。 それでも幸ひに入口の(ドア)(そば)にあつた丸い鏡板附きのランプはまだ十分に輝いてゐた。 船は大きく搖れて、上の寢臺はあつと一聲叫びながら飛び上がつた。 丁度その時、僕は手燭をおろして調べようと思つて上の寢臺の方へ向いたところであつたが、 本能的に船長の叫び聲のする方を振返つて、あわてゝそこへ飛んでゆくと、 船長は全身の力を籠めて、舷窓(まど)の戸を兩手で抑へてゐたが、ともすると押返されさうであつたので、 僕は愛用の例の(かし)のステッキを取つて鍵のなかへ突き通し、 あらん限りの力を注いで舷窓(まど)の戸の明くのを防いだ。 而もこの頑丈なステッキは折れて、僕は長椅子の上に倒れた。さうして、 再び起き上がつた時には、もう舷窓(まど)の戸は明いて、 跳ね飛ばされた船長は入口の(ドア)を背にしながら、眞青な顏をそて突つ立つてゐた。

「あの寢臺に何かゐる。」と、船長は異樣な聲で叫びながら、眼を皿のやうに見開いた。 「わたしが何者だか見る間、この戸口を守つてゐて下さい。奴を逃がしてはならない。」

僕は船長の命令を()かずに、下の寢臺に飛び乘つて、 上の寢臺に横はつてゐる得體の知れない怪物を掴んだ。

それは何とも言ひやうのない程の恐ろしい化物のやうなもので、 僕に掴まれながら動いてゐるところは、引き伸ばされた人間の肉體のやうでもあつた。 而もその動く力は人間の十倍もあるので、僕は全力を注いで掴んでゐると、 その粘々(ねば〜)した、泥のやうな、異樣な怪物は、 その死人のやうな白い眼でぢつと僕を睨んでゐるらしく、 その體からは腐つた海水のやうな惡臭を發し、濡れて垢光りのした髮は渦を卷いて、 死人のやうなその顏の上に(もつ)れかゝつてゐた。僕はこの死人のやうな怪物と格鬪したが、 怪物は自分の體を打付けて僕をぐい〜と押してゆくので、 僕は腕がもう折れさうになつたところへ、 生ける(しかばね)の如きその怪物は死人のやうな腕を僕の頭に卷きつけて伸しかゝつて來たので、 たうとう僕は叫び聲を立てゝどつと倒れると共に、 怪物をつかんでゐる手を放してしまつた。

僕が倒れると、その怪物は僕を跳り越えて、船長へ打つかつて行つたらしかつた。 僕がさつき(ドア)の前に突立つてゐた船長を見た時には、 彼の顏は眞青で一文字に口を結んでゐた。 それから彼はこの生ける(しかばね)の頭に手ひどい打撃を與へたらしかつたが、 結局彼もまた恐ろしさの餘りに口も利けなくなつたやうな唸り聲を立てゝ、 同じく前へのめつて倒れた。

一瞬間、怪物はそこに突つ立つてゐたが、やがて船長の疲勞し切つた體を飛び越えて、 再びこちらへ向つて來さうであつたので、僕は驚駭(きやうがい)の餘りに聲を立てやうとしたが、 どうしても聲が出なかつた。すると、突然に怪物の姿は消え失せた。 僕は殆ど失神したやうになつてゐたので、確かなことは言はれないし、 又、諸君の想像以上に小さいあの窓口のことを考へると、 どうしてそんな事が出來たのか今もなほ疑問であるが、 どうも彼の怪物はあの舷窓(まど)から飛び出したやうに思はれた。 それから僕は長いあひだ床の上に倒れてゐた。船長も同じやうに僕のそばに倒れてゐた。 そのうちに僕は幾分か意識を回復して來ると、直ぐに左の手首の骨が折れてゐるのを知つた。

僕はどうにか斯うにか立ち上つて、右の手で船長を搖り起すと、 船長は唸りながら體を動かしてゐたが、やう〜に我にかへつた。 彼は怪我をしてゐなかつたが、まつたくぼうとしてしまつたやうであつた。



さて、諸君はもつとこの先を聞きたいかね。お生憎と、これで僕の話はおしまひだ。 大工は彼の意見通りに百五號の(ドア)へ四 (インチ)釘を五六本打ち込んでしまつたが、 若し諸君がカムチャッカ號で航海するやうな事があつたらば、 あの部屋の寢臺を申込んでみたまへ。きつと諸君はあの寢臺は已に約束濟ですと斷られることだらう。 さうだ、あの寢臺は生ける(しかばね)の約束濟になつてゐるのだ。

僕はその航海中、船醫(ドクトル)船室(キャビン)に居候をすることになつた。 彼は僕の折れた腕を治療してくれながら、以後は化物や怪物を(なぶ)り廻さないやうに忠告してくれた。 船長はすつかり默つてしまつた。カムチャッカ號は依然として大西洋の航行をつゞけてゐるが、 彼の船長は再びその船に乘込まなかつた。無論僕に於いておやだ。 實際、あんなに心持の惡い、恐ろしかつた經驗などは、もう眞平御免だ。 僕がどうして化物を見たかといふ話も——あれが化物だとすれば—— これでおしまひだ。なにしろ恐ろしかつたよ。

——終——

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:ラザルス


ラザルス(Lazarus)

アンドレーフ(Leonid Nikolaevich Andreyev, 1871-1919) 作

岡本綺堂(1872-1939) 譯


目次


三日三晩の間、謎のやうな死の手に身を委ねてゐたラザルスが、墓から這ひ出して自分の(うち)へ歸つて來た時には、 みんなも暫くは彼を幽靈だと思つた。この死から甦つたと言ふことが、 やがてラザルスと言ふ名前を恐ろしいものにしてしまつたのである。

この男が本當に再生した事がわかつた時、非常に喜んで彼を取卷いた連中は、引切り無しに接吻してもまだ足りないので、 それ食事だ、飮み物だ、それ着物だと、何から何までの世話をやいて、自分逹の燃えるやうな喜びを滿足させた。 そのお祭騷ぎのうちに彼は花聟(はなむこ)樣のやうに立派に着飾らせられ、 みんなの間に祭り上げられて食事を始めると、一同は感極まつて泣き出した。 それから主人公逹は近所の人々を呼び集めて、この竒蹟的な死から甦つた彼を見せて、 もう一度それらの人々とその喜びを(とも)にした。近所の町や近在からも見識らぬ人逹がたづねて來て、 この竒蹟を禮讚して行つた。ラザルスの姉妹(きやうだい)のマリーとマルタの家は、蜜蜂の巣箱のやうに賑やかになつた。

さう言ふ人逹に取つては、ラザルスの顏や態度に新しく現れた變化は、 みな重病と最近に體驗した種々の感動の跡だと思はれていた。ところが、 死に依るところの肉體の破壞作用が單に竒蹟的に停止されたと言ふだけのことで、 その作用の跡は今も明白に殘つてゐて、その顏や體はまるで薄い硝子越しに見た未完成のスケッチのやうに醜くなつていた。 その顳顬(こめかみ)の上や、兩眼の下や、兩頬の窪みには、濃い紫の死人色(しびといろ)があらわれてゐた。 又その色は彼の長い指にも、爪際にもあつた。その紫色の斑點は、墓の中でだん〜に濃い紅色になり、 やがて黒くなつて崩れ出す筈のものであつた。墓のなかで脹れあがつた脣の皮はところ〜゛に薄い赤い龜裂(ひゞ)が出來て、 透明な雲母のやうにぎら〜してゐた。おまけに、 生まれつき頑丈な體は墓の中から出て來ても依然として怪物のやうな恰好をしてゐた上に、 (いや)ぶく〜と水ぶくれがして、その體の中には腐つた水が一ぱいに詰まつてゐるやうに感じられた。 墓衣(はかぎ)ばかりでなく、彼の體にまでも滲み込んでゐた死人(しびと)のやうな強い匂ひはすぐに消えてしまひ、 (とて)も一生涯治りさうもなかつた脣の龜裂(ひゞ)も幸ひに塞がつたが、 例の顏や手のむらさきの斑點はます〜酷くなつて來た。而も、埋葬前に彼を棺桶のなかで見たことのある人逹には、 それも別に氣にならなかつた。

かう言ふやうな肉體の變化と共に、ラザルスの性格にも變化が起つて來たのであるが、 そこまではまだ誰も氣が付かなかつた。墓に埋められる前までのラザルスは快濶で、 磊落(らいらく)で、いつも大きい聲を出して笑つたり、洒落を言つたりするのが好きであつた。 したがつて彼は、神樣からもその惡意や暗い所の微塵もないからりとした性質を愛でられてゐた。 ところが、墓から出て來た彼は、生まれ變つたやうに陰氣で無口な人になつてしまつて、 決して自分から冗談などを言はなくなつたばかりではなく、相手が輕口を叩いてもにこりともせず、 自分が(たま)に口を聞いても、その言葉は極めて平凡普通であつた。 よんどころない必要に迫られて、心の奧底から無理に引き出すやうな言葉は、 喜怒哀樂とか飢渇とかの本能だけしか現すことの出來ない動物の聲のやうであつた。 無論、かうした言葉は誰でも一生のうちに口にする事もあらうが、人間がそれを口にしたところで、 何が心を喜ばせるのか、苦しませるのか、相手に理解させることは出來ないものである。

顏や性格の變化に人々が注目し始めたのは後の事で、 かれが燦爛(さんらん)たる黄金や貝類が光つてゐる花聟(はなむこ)の盛裝を身につけて、 友逹や親戚の人逹に取り圍まれながら饗宴の席に着いてゐた時には、まだ誰もそんなことに氣が付かなかつた。 歡喜の聲の波は、或は(さゞなみ)のごとくに、或は怒濤のごとくに彼を取り卷き、 墓の冷氣で冷やかになつてゐる彼の顏の上には温かい愛の眼が注がれ、 一人の友逹はその熱情を籠めた掌で彼のむらさき色の大きな手を撫でゝゐた。

やがて(つ゛み)や笛や、六絃琴や、豎琴で音樂が始まると、 マリーとマルタの(うち)はまるで蜂や、蟋蟀(ばつた)や、小鳥の鳴き聲で掩はれてしまつたやうに賑やかになつた。

客の一人が不圖(ふと)した粗相でラザルスの顏のベールを外した途端に、あつと聲を立てゝ、 今まで彼に感じていた敬虔な魅力から醒めると、事實がすべての赤裸々な醜さのうちに曝露された。 その客はまだ本當に我にかへらないうちに、もうその脣には微笑が浮んで來た。

「向うで起こつた事を、なぜあなたは私逹にお話しなさらないのです。」

この質問に一座の人々は吃驚(びつく)りして、(にはか)かに(しん)となつた。 彼等はラザルスが三日のあひだ墓の中で死んでゐたと言ふこと以外に、 別に彼の心身に變つたことなぞはないと思つてゐたので、ラザルスの顏を見詰めたまゝ、 どうなることかと心配しながらも彼の返事を待つてゐた。ラザルスはぢつと默つてゐた。

「あなたは私逹には話したくないのですね。あの世と言ふところは恐ろしいでせうね。」

かう言つてしまつてから、その客は初めて自分にかへつた。若しさうでなく、 かふ言ふ前に我にかへつてゐたら、その客は堪へ切れない恐怖に息が止まりさうになつた瞬間に、 こんな質問を發する筈はなかつたであらう。不安の念と待遠しさを感じながら、 一同はラザルスの言葉を待つてゐたが、彼は依然として俯向いたまゝで、深い冷たい沈默を續けてゐた。 さうして、一同は今更ながらラザルスの顏の不氣味な紫色の斑點や、見苦しい水脹れに注目した。 ラザルスは食卓と言ふことを忘れてしまつたやうに、その上に彼の紫の璢璃(びいどろ)色の(こぶし)を乘せてゐた。

一同は、待ち構へてゐる彼の返事がそこからでも出て來るやうに、ぢつとラザルスの拳に見入つてゐた。 音樂師逹はそのまゝ音樂を續けてはゐたが、一座の靜寂は彼等の心にまでも喰ひ入つて來て、 掻き散らされた燒木杭(やけぼくくひ)に水をかけたやうに、 いつとはなしに愉快な音色はその靜寂のうちに消えてしまつた。 笛や羯鼓(かつこ)や豎琴の音も絶えて、七絃琴は絲が切れたやうに顫へてきこえた。一座たゞ沈默あるのみであつた。

「あなたは言ひたくないのですか。」

その客は自分のお喋舌(しやべり)を抑へ切れずに、また同じ言葉を繰り返して言つたが、 ラザルスの沈默は依然として續いてゐた。不氣味な紫の璢璃(るり)色の拳も依然として動かなかつた。 やがて彼は(かすか)に動き出したので、一同は救はれたやうにほつとした。 彼は眼をあげて、疲勞と恐怖とに滿ちたどんよりとした眼でぢつと部屋中を見廻しながら、 一同を見た。 -- 死から甦つたラザルスが --

以上は、彼が墓から出て來てから三日目のことであつた。尤もそれまでにも、 絶えず人を害するやうな彼の眼の力を感じた人逹も澤山あつたが、而もまだ彼の眼の力によつて永遠に打碎かれた人や、 或はその眼のうちに「死」と同じやうに「生」に對する神祕的の叛抗力を見出した者はなく、 彼の黒い瞳の奧底にぢつと動かずに横はつてゐる恐怖の原因を説明することも出來なかつた。 さうしてこの三日の間、ラザルスはいかにも穩かな、質朴な顏をして、 何事も隱さうなどと言ふ考へは毛頭なかつたやうであつたが、その代りに又、 何ひとつ言はうといふやうな意思もなかつた。彼はまるで人間界とは沒交渉な他の生物かと思はれるほどに冷やかな顏をしてゐた。

多くの迂闊な人逹は往來で彼に近づいても氣が付かなかつた。さうして、眼も(くら)むやうな立派な着物をきて、 觸れるばかりにのそり〜と自分の傍を通つて行く冷やかな頑丈な男は一體誰であらうかと、 思はずぞつとした。無論、ラザルスが見てゐる時でも、太陽はかゞやき、 噴水は(しづか)な音を立てゝ湧き出で、頭の上の大空は青々と晴れ渡つてゐるのであるが、 かう言ふ呪はれた顏形(かほかたち)の彼に取つては噴水の囁きも耳には入らず、 頭の上の青空も目には見えなかつた。ある時は慟哭し、 また或時には我とわが髮を引きむしつて氣違ひのやうに救ひを求めたりしてゐたが、 結局は靜かに、冷然として死なうといふ考へが彼の胸に起つて來た。 そこで彼はそれから先きの幾年を諸人の見る前に鬱々と暮して恰も樹木が石だらけの乾枯びた土のなかで靜かに枯死(こし)するやうに、 生色(せいしよく)なく、生氣なく、次第に自分の體を衰弱させて行つた。彼を注視してゐる者のうちには、 今度こそは本當に死ぬのではないかと氣も狂はんばかりに泣くものもあつたが、また一方には平氣でゐる人もあつた。

話はまた前に戻つて、彼の客はまだ執拗(しつこ)く繰り返した。

「そんなにあなたは、あの世で見て來たことを私逹に話したくないのですか。」

併しもうその客の聲には熱がなく、ラザルスの眼に現れてゐた恐ろしいほどの灰色の疲れは彼の顏全體を埃のやうに掩つてゐたので、 一同はぼんやりとした驚愕を感じながら、この二人を互ひ違ひに見詰めてゐるうちに、 彼等は()もなんのためにこゝへ集まつて來て、美しい食卓に着いてゐるのか判らなくなつて來た。 この問答はそのまゝ沙汰止みになつて、お客逹はもう歸宅する時刻だとは思ひながら、 筋肉にこびりついた(ものう)い疲勞にがつかりして、 暫くそこに腰を下したまゝであつたが、それでもやがて闇の野に飛ぶ鬼火のやうに一人一人に散つて行つた。

音樂師は金を貰つたので再び樂噐を手に取ると、悲喜交も〜゛至るといふべき音樂が始まつた。 音樂師等は俗謠を試みたのであるが、耳を傾けてゐたお客たちはみななんとなく恐ろしい氣がした。 而も彼等はなぜ音樂師に絃の調子を上げさせたり、頬をはち切れさうにして笛を吹かせたりして、 無暗に賑やかな音樂を奏させなければならないのか、なぜさうさせたはうが好いのか、自分逹にもわからなかつた。

「なんといふ下らない音樂だ。」と、ある者が口を開いたので、音樂師逹はむつとして歸つて了つた。 それに續いてお客逹も次々に歸つて行つた。その頃はもう夜になつてゐた。

靜かな闇に出て、初めてほつと息をつくと、忽ち彼等の眼の前に盛裝した墓衣を着て、 死人のやうな紫色の顏をして曾て見たこともないほどに恐怖の沈滯してゐるやうな冷やかな眼をしたラザルスの姿が、 物凄い光のなかに朦朧として浮き上つて來た。彼等は化石したやうになつて、たがひに遠く離れて佇立(たゝず)んでゐると、 闇は彼等を押包んだ。その闇のなかにも三日のあひだ謎のやうに死んでゐた彼の神祕的な幻影はます〜明らかに輝き出した。 三日間といへば、その間には太陽が三度出て又沈み、子供等は遊び戲れ、 小川は(こいし)の上をちよろ〜と流れ、旅人は街道に砂埃を立てゝ往來してゐたのに、 ラザルスは死んでゐたのであつた。そのラザルスが今や再び彼等のあひだに生きてゐて、 彼等に觸れ、彼等を見てゐるではないか。しかも彼の黒い瞳の奧からは、黒硝子を通して見るやうに、 未知の彼の世が輝いてゐるのであつた。

今では友逹も親戚もみなラザルスから離れてしまつたので、誰一人として彼の面倒を見てやる者もなく、 彼の家はこの聖都を取圍んでゐる曠原のやうに荒れ果てゝ來た。 彼の寢床は敷かれたまゝで、消えた火を點ける者とても無くなつてしまつた。 彼の姉妹(きやうだい)マリーもマルタも彼を見捨てゝ去つたからである。

マルタは自分のゐない曉には、兄を養ひ、兄を潤む者も無いことを思ふと、 兄を捨てゝ去るに忍びなかつたので、その後も長い間、兄のために或は泣き、或は祈つてゐたのであるが、 ある夜、烈しい風がこの荒野(あれの)を吹き卷くつて、 屋根の上に掩ひかゝつてゐるサイプレスの木がひら〜と鳴つてゐる時、 彼女は音せぬやうに着物を着がへて、ひそかに我が家をぬけ出してしまつた。 ラザルスは突風のために入口の(ドア)が音を立てゝ開いたのに氣が付いたが、 立上つて出て見ようともせず、自分を棄てゝ行つた妹を搜さうともしなかつた。 サイプレスの木は夜もすがら彼の頭の上でひう〜と唸り、(ドア)は冷たい闇の中で悲しげに煽つてゐた。

ラザルスは癩病患者のやうに人々から忌み嫌はれたばかりではなく、 實際癩病患者が自分たちの歩いてゐることを人々に警告するために頸に(ベル)を附けてゐるやうに、 彼の頸にも(ベル)を附けさせやうと提議されたが、夜などに突然その(ベル)の音が、 自分逹の窓の下にでも聞えたとしたら、どんなに恐ろしいことであらうと、 顏を眞青にして言ひ出した者があつたので、その案は先づお止めになつた。

自分の體を等閑(なおざり)にし始めてから、ラザルスは殆んど餓死せんばかりになつていたが、 近所の者は漠然たる一種の恐怖のために彼に食物を運んでやらなかつたので、 子供逹が代つて彼のところへ食物を運んでやつてゐた。子供等はラザルスを怖がりもしなければ、 又往々にして憐れな人逹に仕向けるやうな惡いたづらをして揶揄(からか)ひもしなかつた。 彼等はまつたくラザルスには無關心であり、彼もまた彼等に冷淡であつたので、 別に彼等の黒い卷髮を撫でてやらうともしなければ、無邪氣な輝かしい彼等の眼を覗かうともしなかつた。 時と荒廢とに任せてゐた彼の住居は崩れかけて來たので、飢ゑたる山羊(やぎ)どもは彷徨(さまよ)ひ出て、 近所の牧場へ行つてしまつた。さうして、音樂師が來た彼の樂しい日以來、 彼は新しい物も古い物も見境なく着つゞけてゐたので、 花聟(はなむこ)の衣裳は磨り切れて艷々(つや〜)しい色も()せ、 荒野の惡い野良犬や尖つた(いばら)にその柔かな布地(きれぢ)は引裂かれてしまつた。

晝の間、太陽が情容赦もなく總ての生物を燒き殺すので、 (さそり)が石の下に潛り込んで氣違ひのやうになつて物を()したがつてゐる時にでも、 ラザルスは太陽の光を浴びたまゝ坐つて動かず、灌木のやうな異樣な髯の生えてゐる紫色の顏を仰向けて、 熱湯のやうな日光の流れに身を浸してゐた。

世間の人がまだ彼に言葉をかけてゐた頃、彼は一度こんな風に訊ねられた事があつた。

「ラザルス君、氣の毒だな。そんなことをしてお天道(てんたう)樣と睨みつくらをしてゐると、こゝろもちが好いかね。」

彼は答へた。「むゝ、さうだ。」

ラザルスに言葉をかけた人逹の心では、あの三日間の死の常闇(とこやみ)が餘りにも深刻であつたので、 この地上の熱や光では(とて)も温めることも出來ず、また彼の眼に沁み込んだ、 その常闇を拂ひ退()けることが出來ないのだと思つて、やれ、やれと溜息をつきながら行つてしまふのであつた。

爛々たる太陽が沈みかけると、ラザルスは荒野の方へ出かけて、 まるで一生懸命になつて太陽に逹しようとでもしてゐるやうに、夕日に向つて一直線に歩いて行つた。 彼は常に太陽にむかつて眞直に歩いてゆくのである。そこで、夜になつて荒野で何をするのであらうと、 その後からそつと附いて來た人逹の心には、大きな落陽の眞赤な夕映を背景にした、 大男の黒い影法師がこびり附いて來る上に暗い夜がだん〜に恐怖と共に迫つて來るので、 恐ろしさの餘りに初めの意氣組などはどこへやらで這々(はう〜)(てい)で逃げ歸つてしまつた。 したがつて、彼が荒野で何をしてゐたか判らなかつたが、 彼等はその黒や赤の幻影を死ぬまで頭の中に燒付けられて、 恰も眼に(とげ)をさゝれた獸が足の先きで夢中に鼻面を(こす)るやうに、 馬鹿馬鹿しいほど夢中になつて眼を(こす)つてみても、 ラザルスの怖ろしい幻影はどうしても拭ひ去ることが出來なかつた。

併し遙かに遠いところに住んでゐて、噂を聞くだけで本人を見たことのない人逹は、 怖い物見たさの向う見ずの好竒心に驅られて、日光を浴びて坐つてゐるラザルスの所へわざ〜尋ねて來て話しかけるのもあつた。 さう言ふ時には、ラザルスの顏はいくらか柔和になつて、割合に物凄くなくなつて來るのである。 かうした第一印象を受けた人には、この聖都の人々はなんと言ふ馬鹿ばかり揃つてゐるのであらうと輕蔑するが、 さて少しばかり話をして家路につくと、すぐに聖都の人逹は彼等を見付けて斯ういふのである。

「見ろよ。あすこへ行く連中は、ラザルスにお眼を止められたくらゐだから、 おれ逹よりも上手(うわて)の馬鹿者に違ひないぜ。」

彼等は氣の毒さうに首を振りながら、腕をあげて、歸る人々に挨拶した。

ラザルスの家へは大膽不敵の勇士が物凄い武噐を持つたり、苦勞を知らない青年逹が笑つたり歌を唄つたりして來た。 笏杖(しやくじやう)を持つた僧侶や、金をじやら付かせてゐる忙がしさうな商人逹も來た。 而もみな歸る時にはまるで違つた人のやうになつてゐた。それ等の人逹の心には一樣に恐ろしい影が飛びかゝつて來て、 見馴れた古い世界に一つの新しい現象をあたへた。

なほラザルスと話してみたいと思つてゐた人たちは、かう言つて自己の感想を説明してゐた。

「すべて手に觸れ、眼に見える物體は漸次に空虚な、輕い、透明なものに化するもので、 謂はゞ夜の闇に光る影のやうなものである。この全宇宙を支持する偉大なる暗黒は、 太陽や、月や、星によつて驅逐さるゝことなく、一つの永遠の墓衣のやうに地球を包み、 一人の母のごとくに地球を抱き締めてゐるのである。

その暗黒がすべての物體、鐵や石の中までも沁み込むと、すべての物體の分子は互ひの聯絡が弛んで來て、 遂には離れ離れになる。さうして又、その暗黒が更に分子の奧底へ沁み込むと、 今度は原子が分離して行く。なんとなれば、この宇宙を取卷いてゐるところの偉大なる空間は、 眼に見える物によつて滿されるものでもなく、また太陽や、月や、星に依つても滿されるものでもない。 それは何物にも束縛されずに、あらゆるところに沁み込んで、物體から分子を、分子から原子を分裂させて行くのである。

この空間に於いては、空虚なる樹木は倒れはしまいかと言ふ杞憂(きゆう)のために、 空虚なる根を張つてゐる。寺院も、宮殿も、馬も實在してゐるが、みな空虚である。 人間もこの空間の中に絶えず動いてゐるが、彼等もまた輕く、空虚なること影の如くである。

なんとなれば、時は虚無であつて、すべての物體には始めと同時に終りが接してゐるのである。 建設は猶行はれてゐるけれども、それと同時に建設者はそれを槌で打碎いて行き、 次から次へと廢嘘となつて、再び元の空虚となる。今なほ人間は生まれて來るが、 それと同時に絶えず葬式の蝋燭は人間の頭上にかゞやき、虚無に還元して、 その人間と葬式の蝋燭の代りに空間が存在する。

空間と暗黒によつて掩ひ包まれてゐる人間は、永遠の恐怖に面して、絶望に顫へお(おのの)いてゐるのである。」

而しラザルスと言葉を交すことを好まない人逹は、更に種々(いろ〜)のことを言つた。 さうして、みな無言のうちに死んでゐるのであつた。

この時代に、羅馬にアウレリウスと言ふ名高い彫刻家がゐた。かれは粘土や大理石や青銅に、 神や人間の像を彫刻し、人々はそれ等の彫刻を不滅の美として(たた)へてゐた。 しかし彼自身はそれに滿足することが出來ず、世には更に美しい何物かが存在してゐるのであるが、 自分はそれを大理石や青銅へ再現することが出來ないのであると主張してゐた。

「わたしは未だ曾て月の薄い光を捉へることも出來ず、又は日の光を思ふがまゝに捉へ得なかつた。 私の大理石には魂がなく、わたしの美しい青銅には生命がなかつた。」と、彼は口癖のやうに言つてゐた。 さうして、月の晩にはサイプレスの黒い影を踏みながら、彼は自分の白い肉衣を月光に閃かして見てゐたので、 道で出逢つた彼の親しい人逹は心安立てに笑ひながら言つた。

「アウレリウスさん。月の光を集めてゐなさいますね。なぜ籠を持つてこなかつたのです。」

彼も笑ひながら自分の兩眼を指さして答へた。

「それ、こゝに籠がありますよ。この中へ月光と日光とを入れて置くのです。」

實際彼のいふ通り、それ等の光は彼の眼のうちで輝いてゐた。 しかし古い貴族出の彼は良い妻や子とともに、物質上にはなに不自由なく暮らしてゐたが、 どうしてもその月光や日光を大理石の上に再現させることが出來ないので、 自分の刻んだ作品に絶望を感じながら、怏々(あう〜)として樂まざる日を送つてゐた。

ラザルスの噂がこの彫刻家の耳に這入つた時、彼は妻や友逹と相談した上で、 死から竒蹟的に甦つた彼に逢ふためにユダヤヘの長い旅についた。 アウレリウスは近頃どことなく疲れ切つてゐるので、 この旅行が自分の(にぶ)りかゝつた神經を鋭くしてくれゝば好いがと思つたくらゐであつたから、 ラザルスに付いてのどんな噂にも、彼は驚かなかつた。元來、 彼自身も死と言ふことについては度々熟考し(あなが)ちそれを好む者ではなかつたが、 さりとて生を愛着するの餘りに、人の物笑ひになるやうな死態(しにざま)をする人逹を侮蔑してゐた。

この世に於いて、人生は美し。
あの世に於いて、死は謎なり。

彼はかう思つてゐたのである。人間に取つて、人生を樂むと、 總ての生きとし生けるものゝ美に法悦するほど好いことはない。 そこで、彼は自分の獨自の人生觀の眞理をラザルスに説得して、 その肉體が再生したやうに、その魂をも甦らせることに自信ある希望を持つてゐた。 この希望はあながち至難の事ではなさゝうであつた。 すなはちこの解釋し難い異樣な噂は、ラザルスについて本當のことを物語つてゐるのではなく、 たゞ漠然とある恐怖に對する警告をなしてゐるに過ぎなかつたからであつた。

ラザルスは恰も荒野(あれの)に沈みかゝつてゐる太陽を追はうとして、 石の上から立ち上つた時、一人の立派な羅馬人がひとりの武裝した奴隸に護られながら彼に近づいて來て、 朗かな聲で呼びかけた。

「ラザルスよ。」

美しい着物や寶石を身に附けたラザルスは、その莊嚴な夕日を浴びた深刻な顏をあげた。 眞つ赤な夕日の光が羅馬人の素顏や頭をも銅の人像のやうに照り輝かしてゐるのに、 ラザルスも氣が付いた。すると、彼は素直に再び元の場所に(かへ)つて、その弱々しい兩眼を伏せた。

「なる程、お前さんは醜い。可哀さうなラザルスさん。さうして又、お前さんは物凄いですね。 死と言ふものは、お前さんが不圖(ふと)した(をり)に彼の手に落ちた日だけ其手を休めてはゐませんでした。 併しお前さんは實に頑丈ですね。一體あの偉大なるシーザーが言つたやうに、 肥つた人間には惡意などのあるものではありません。それであるから、 なぜ人々がお前さんをそんなに恐れてゐるのか、私には判らないのです。 どうでせう、今夜わたしをお前さんの家へ泊めて呉れませんか。 もう日が暮れて、私には泊る處がないのですが……。」と、その羅馬人は金色の鎖をいじりながら靜かに言つた。

今までに誰一人として、ラザルスを宿の主人(あるじ)と頼まうとした者はなかつた。

「わたしには寢床がありません。」と、ラザルスは言つた。

「私はこれでも武士の端くれであつたから、坐つてゐても眠られます。 ただ私逹は火さへあれば結構です。」と、羅馬人は答へた。

「わたしの(うち)には火もありません。」

「それでは、暗闇の中で、友逹のやうに語り明かしませう。酒の一壜ぐらゐはお持ちでせうから。」

「私には酒もありません。」

羅馬人は笑つた。

「なる程、やつと私にも判りました。なぜお前さんがそんなに暗い顏をして自分の再生を厭ふかと言ふことが……。 酒がないからでせう。では、まあ仕方がないから、酒なしで語り明かさうではありませんか。 話と言ふものはファレルニアンの葡萄酒よりも、よほど人を醉はせると言ひますから。」

合圖をして、奴隸を遠ざけて、彼はラザルスと二人ぎりになつた。 そこで再びこの羅馬の彫刻家は談話を始めたのであつたが、 太陽が沈んで行くにつれて、彼の言葉にも生氣を失つて來たらしく、だんだんに力なく、 空虚になつて、疲勞と絶望の酒糟(さけかす)に醉つたやうに四度露(しどろ)もどろになつて、 言葉と言葉との間に大空間と大暗黒とを暗示したやうな黒い割け目を生じた。

「さあ、わたしはお前さんのお客であるから、お前さんはお客に親切にしてくれるでせうね。 客を款待すると言ふことは、たとひ三日間あの世に行つてゐた人逹でも當然の義務ですよ。 噂によると、三日も墓の中で死んでゐたさうですね。墓の中は冷たいに相違ない。 そこでその以來、火も酒もなしで暮すなどといふ惡い習慣が附いたのですね。 私としては大いに火を愛しますね -- なにしろ急に暗くなつて來ましたからな。 お前さんの眉毛と額の線はなか〜面白い線ですね。 まるで地震で埋沒した不思議な宮殿の廢嘘のやうですね。 併しなぜお前さんはそんな醜い竒妙な着物を着てゐるのです。 さう〜、私はこの國の花聟(はなむこ)逹を見た事があります。 その人逹はそんな着物を着てゐましたが、別に恐ろしいとも、滑稽とも思ひませんでしたが……。 ところで、お前さんは花聟(はなむこ)さんですか。」と、羅馬の彫刻家は言つた。

太陽は既に消えて、怪物のやうな黒い影が東の方から走つて來た。 その影は、恰も巨人の素足が砂の上を走り出したやうでもあつた。寒い風の波は背中へまでも吹き込んで來た。

「この暗がりの中だと、さつきよりももつと頑丈な男のやうに、 お前さんは大きく見えますね。お前さんは暗闇を食べて生きてゐるのですか、ラザルスさん。 私はほんの小さな火でも得られるなら、もうどんな小さな火でもいゝと思ひますが……。 私はなんとなく寒さを感じて來たのですが、お前さんは毎晩、 こんな野蠻な寒い思ひをなさるのですか。若しもこんなに暗くなかつたら、 お前さんが私を眺めてゐると言ふことが判るのですが……。 さう、どうも私を見てゐるやうな氣がしますがね。 なぜ私を見つめてゐるのです。併しお前さんは笑つてゐますね。」

夜が來て、深い闇が空氣を埋めた。

「明日になつて太陽がまた昇つたら、どんなに好いでせうな。 私は、まあ友逹などの言ふところに依りますと、お前さんも知つてゐる筈の、名の賣れた彫刻家です。 わたしは創作をします。さうです、まだ實行にまでは行きませんが、私には太陽が要るのです。 さうして、その日光を得られゝば、私には冷たい大理石に生命をあたへ、 響きある青銅を輝く温い火で溶すことが出來るのです。 -- やあお前さんの手がわたしに觸れましたね。」

「お出でなさい。あなたは私のお客です。」と、ラザルスは言つた。

二人は歸路についた。さうして、長い夜は地球を掩ひ包んだ。

朝になつて、もう太陽が高く昇つてゐるのに、主人のアウレリウスが歸つて來ないので、 奴隸は主人を搜しに行つた。彼は主人とラザルスをそれからそれへと尋ねあるいて、 最後に()くが如くに(まばゆ)い日光を正面に受けながら、 二人が默つて坐つたまゝで、上の方を眺めてゐるのを發見した。奴隸は泣き出して叫んだ。

「旦那さま、あなたはどうなすつてしまつたのです、旦那さま。」

その日に、アウレリウスは羅馬へ歸るべく出發した。道中も彼は深い考へに沈み、 ほとんど物も言はずに往來の人とか、船とか、すべての事物から、 何物をか頭のなかに烙付(やきつ)けやうとでもするやうに、一々に注目して行つた。 沖へ出ると、風が起つて來たが、彼は相變らず甲板の上に殘つて、どつと押寄せては沈んでゆく海を熱心に眺めてゐた。

家に歸り着くと、彼の友逹等はアウレリウスの樣子が變つてゐるのに驚いた。 しかし彼はその友逹等を鎭めながら意味ありげに言つた。

「わたしは遂にそれを發見したよ。」

彼は埃だらけの旅裝束のまゝで、すぐに仕事に沒頭した。 大理石はアウレリウスの冴えた槌の音をそのまゝに反響した。 彼は長い間、誰をも仕事場へ入れずに、一心不亂に仕事に努めてゐたが、 或朝彼はいよ〜仕事が出來上がつたから、友逹の批評家等を呼び集めるやうにと家人に言ひ付けた。 彼は眞紅(まつか)亞麻織(あまおり)に黄金を輝かせた莊嚴な衣服にあらためて、彼等を迎へた。

「これがわたしの作品だ。」と、彼は深い物思ひに耽りながら言つた。

それを見守つてゐた批評家等の顏は深い悲痛な影に掩はれて來た。 その作品は、どことなく異樣な今までに見慣れてゐた線は一つもなく、 而も何か新らしい、變つた觀念の暗示をあたへてゐた。 細い曲つた一本の小枝、と言ふよりは寧ろ小枝に似たある不格好な細長い物體の上に、 一人の -- まるで形式を無視した、醜い盲人が斜めに身を支へてゐる。 その人物たるや、全く歪んだ、なにかの塊を引き延ばしたとも、 或はたがひに離れようとして(いたづ)らに力なく藻掻いてゐる粗野な斷片の集まりとも見えた。 唯どう考へても偶然としか思へないのは、この粗野な斷片の一つの(もと)に、 一羽の蝶が眞に迫つて彫つてあつて、その透き通るやうな翼を持つた快濶な愛らしさ、 鋭敏さ、美しさは、將に飛躍せんとする抑へ難き本能に顫へてゐるやうであつた。

「この見事な蝶はなんのためなんだね、アウレリウス。」と、誰かが躊躇しながら言つた。

「おれは知らない。」と、アウレリウスは答へた。

結局、アウレリウスから本心を聞かされないので、彼を一番愛してゐた友逹の一人が斷乎として言つた。

「これは醜惡だよ、君。壞してしまはなければいかん。槌を貸したまへ。」

その友逹は槌で二撃(ふたうち)、この怪竒なる盲人を微塵に碎いてしまつて、 生きてゐるやうな蝶だけをそのまゝに殘して置いた。

以來、アウレリウスは創作を絶つて、大理石にも、青銅にも、 また永遠の美の宿つてゐた彼の靈妙なる作品にも、全く見向きもしなくなつた。 彼の友逹等は彼に以前のやうな仕事に對する熱情を喚起させようと言ふので、 彼を連れ出して、他の巨匠の作品を見せたりしたが、 依然として無關心なるアウレリウスは微笑みながら口を(つぐ)んで、 美に就いての彼等のお談議に耳を傾けてから、いつも疲れた氣のなさゝうな聲で答へた。

「だが、それはみな(うそ)だ。」

太陽のかゞやいてゐる日には、彼は自分の壯大な見事な庭園へ出て、 日影のない場所を見つけて、太陽のはうへ顏を向けた。 赤や白の蝶が舞ひめぐつて、酒機嫌の酒森の(サテイール)の歪んだ脣からは、 水が虹を立てながら大理石の池へ落ちてゐた。 しかしアウレリウスは身動(みじろ)ぎもせずにすわつてゐた。 -- ずつと遠い、 石ばかりの荒野(あれの)の入口で、熾烈の太陽に直射されながらすわつてゐたあのラザルスのやうに -- 。

神聖なる羅馬大帝アウガスタス自身がラザルスを召されることになつた。 皇帝の使臣逹は、婚禮の儀式へ臨むやうな莊嚴な花聟(はなむこ)の衣裳をラザルスに着せた。 さうして、彼は自分の一生涯おそらく知らないであらうと思はれる花嫁の(むこ)としてこの衣裳を着てゐた。 それは恰も古い腐つた棺桶に金鍍金(きんめつき)をして、新しい灰色の(ふさ)で飾られたやうなものであつた。 華やかな服裝をした皇帝の使臣逹は、ラザルスの後から結婚式の行列のやうに騎馬で續くと、 その先頭では高らかに喇叭を吹き鳴らして、皇帝の使臣のために道を開くやうに人々に告げ知らせた。 しかしラザルスの行く手には誰も立つ者はなかつた。彼の生地では、この竒蹟的に甦つた彼の増惡すべき名前を呪つてゐたので、 人々は恐ろしい彼が通ると言ふことを知つて、みな散り〜゛に逃げ出した。 眞鍮の金屬性の音は、いたずらに靜かな大空に響いて、荒野のあなたに(こだま)してゐた。ラザルスは海路を行つた。

彼の乘船は非常に豪奢に裝飾されてゐたにも拘らず、 曾て地中海の璢璃色の波に映つた船のうちでは最も(いた)ましい船であつた。 他の客も大勢乘合せてゐたが、寂寞として墓のごとく、 傲然とそり返つてゐる船首を叩く波の音は絶望に(むせ)び泣いてゐるやうであつた。 ラザルスは他の人々から離れて、太陽にその顏を向けながら、(さゞなみ)の眩きを靜かに傾聽してゐた。 水夫や使臣逹は遙か向うで、ぼんやりとした影のやうに一團をなしてゐた。 若しも(らい)が鳴り出して、赤い帆に暴風が吹き付けたらば、 船はきつと(くつがへ)つてしまつたかも知れない程に、船上の人間逹は、 生のために戰ふ意志もなく、たゞ全くぽかんとしてゐた。 そのうちに、やう〜のことで二三人の水夫が船舷(ふなべり)へ出て來て、 海の(ほら)に閃く水神の淡紅色の肩か、楯を持つた醉ひどれの人馬が波を蹴立て、 船と競走するのかを見るやうな氣で、透き通る紺碧の海を熱心に見つめた。 而も深い海は依然として荒野(あれの)の如く、唖のごとくに靜まり返つてゐた。

ラザルスはまつたく無頓着に、永遠の都の羅馬に上陸した。人間の富や、 莊嚴無比の宮殿を持つ羅馬は恰も巨人によつて建設されたやうなものであつたが、 ラザルスに取つてはその(まば)ゆさも、美しさも、洗煉された人生の音樂も、 結局荒野(あれの)の風の(こだま)か、沙漠の流砂の響きとしか聞えなかつた。 戰車は走り、永劫の都の建設者や協力者の群は傲然として(ちまた)を行き、 歌は唄はれ、噴水や女は玉のごとくに笑ひ、醉へる哲學者が大道に演説すれば、 素面(すめん)の男は微笑をうかべて聽き、馬の蹄は石の鋪道を蹴立てゝ走つてゐる。 それらの中を一人の頑丈な、陰鬱な大男が沈默と絶望の冷かな足取りで歩きながらかうした人々の心に不快と、 忿怒と、何とは無しに惱ましげな倦怠とを播いて行つた。羅馬に於いてすらなほ悲痛な顏をしてゐるこのラザルスを見た市民は、 驚異の感に打たれて眉を(ひそ)めた。二日の後に羅馬全市は、彼が竒蹟的に甦つたラザルスであることを知るや、 恐れて彼を遠けるやうになつた。

その中には又、自分逹の膽力を試してみようと言ふ、勇氣のある人逹もあらはれて來た。 さう言ふ時には、ラザルスはいつも素直に無禮な彼等の招きに應じた。 皇帝アウガスタスは國事に追はれて、彼を召すのがだん〜に延びてゐたので、 ラザルスは七日のあひだ、他の人々のところへ招かれて行つた。

ラザルスが一人の享樂主義者の(やしき)へ招かれた時、主人公は大いに笑ひながら彼を迎へた。

「さあ、一杯やれ、ラザルス君。お前が酒を飮むところを御覽になつたら、 皇帝も笑はずにはゐられまいて。」と、主人は大きい聲で言つた。

半裸體の醉ひどれの女逹はどつと笑つて、ラザルスの紫色の手に薔薇の花辨(はなびら)を振りかけた。 而もこの享樂主義者がラザルスの眼をながめた時、彼の歡樂は永劫に終りをつげてしまつた。 彼は一滴の酒も口にしないのに、その餘生を全く醉ひどれのやうに送つた。 さうして、酒が(もたら)すところの樂しい妄想の代りに、彼は恐ろしい惡夢に絶えず(おそ)はれ、 晝夜を分たずその惡夢の毒氣を吸ひながら、かの狂暴殘忍な羅馬の先人逹よりも更に物凄い死を遂げた。

ラザルスは又、ある青年と彼の愛人のところへ呼ばれて行つた。彼等はたがひに戀の美酒に醉つてゐたので、 その青年はいかにも得意さうに、戀人を固く抱擁しながら、穩かに同情するやうな口吻(くちぶり)で言つた。

「僕逹を見たまへ、ラザルス君。さうして、僕逹が悦びを一緒に喜んでくれたまへ。この世の中に戀より力強いものがあらうか。」

ラザルスは默つて二人を見た。その以來、この二人の戀人同士は互ひに愛し合つてゐながらも、 彼等の心はおのづから樂まず、さながら荒れ果てた墓地に根をおろしてゐるサイプレスの木が、 蓼寂(れうじやく)たる夕暮にその頂きを(いたづ)らに天へ(とゞ)かせようとしてゐるかのやうに、 その後半生を陰鬱のうちに送ることゝなつた。不思議な人生の力に驅られて互ひに抱擁し合つても、 その接吻(キツス)には苦い涙があり、その逸樂には苦痛がまじるので、 この若い二人は、自分逹はたしかに人生に從順なる奴隸であり、 沈默と虚無の忍耐強い召使ひであると思ふやうになつた。常に和合するかと思へば、 また夫婦喧嘩をして、彼等は火花の如くに輝き、火花のごとくに常闇(とこやみ)の世界へと消えて行つた。

ラザルスは更に又、ある高慢なる賢人の(やしき)へ招かれた。

「わたしはお前が(あら)はすやうな恐怖ならば、みな知つてゐる。 お前はこのわたしを恐れさせるやうな事が出來るかな。」と、その賢人は言つた。

而もその賢人は恐怖の智識と言ふものは恐怖そのものではなく、 死の幻影は死そのものではない事をすぐに知つた。また賢さと愚さとは無限の前には同一である事、 何となればそれらの區別はたゞ人間が勝手に決めたのであつて、無限には賢さも愚さも無いことを識つた。 したがつて、有智と無智、眞理と虚説、高貴と卑賤との間の犯すべからざる境界線は消え失せて、 たゞ無形の思想が空間に漂つてゐるばかりとなつてしまつた。 そこで、その賢人は白髮(しらが)の頭を掴んで、狂氣のやうに叫んだ。

「わたしには判らない。私には考へる力がない。」

斯うして、この竒蹟的に甦つた男を、一目見ただけで、 人生の意義と悦樂とは總て一朝にして滅びてしまふのである。そこで、 この男を皇帝に謁見させることは危險であるから、いつそ彼を亡き者にして(ひそ)かに埋めて、 皇帝にはその行方不明になつたと申上げた方がよからうと言ふ意見が提出された。 それがために首斬刀は已に()がれ、市民の安寧維持を委ねられた青年逹が首斬人を用意した時、 恰も皇帝から明日ラザルスを召すといふ命令が出たので、この殘忍な計画は破壞された。

そこで、ラザルスを亡き者にすることが出來ないまでも、 せめては彼の顏から受ける恐ろしい印象を和らげる事ぐらゐは出來るであらうと言ふ意見で、 腕のある画家や、理髮師や、藝術家等を招いで徹夜の大急ぎでラザルスの髯を刈つて卷くやら、 繪具でその顏や手の死人(しびと)色の斑點を塗り隱すやら、種々の細工が施された。 今までの顏に深い溝を刻んでゐた苦惱の皺は人々に嫌惡の情を起させるといふので、 それもみな塗り潰されて、そのあとは温良な笑ひと快濶さとを巧妙な彩筆を以て描くことにした。

ラザルスは例の無關心で、大勢の爲すがまゝに任せてゐたので、 忽ちにして如何にも好く似合つた頑丈な、孫の大勢ありさうな好々爺(かう〜や)に變つてしまつた。 ついこの間まで絲を(つむ)ぎながら浮べてゐた微笑が、今もその口のほとりに殘つてゐるばかりか、 その眼のどこかには年寄獨特の穩かさが隱れてゐるやうに見えた。 而も彼等は婚禮の衣裳までも着換へさせようとはしなかつた。 又、この世の人間と未知のあの世とを見詰めてゐる、二つの陰鬱な物凄い、 鏡のやうな彼の兩眼までも取換へることは出來なかつたのである。

ラザルスは宮殿の崇高なるにも心を動かされなかつた。 彼に取つては荒野(あれの)に近い崩れ家も、善美を盡した石造の宮殿もまつたく同樣であつたので、 相變らず無關心に進み入つた。彼の足の下では、堅い大理石の床も荒野(あれの)の砂に等しく、 彼の眼には華美な宮廷服を身に(まと)つた傲慢な人々も、 すべて空虚な空氣に過ぎなかつた。ラザルスが傍を通ると、誰もその顏を正視する者もなかつたが、 その重い足音が全く聞えなくなると、 彼等は宮殿の奧深くへだん〜に消えてゆく()前跼(まへかゞ)みの老偉丈夫の後姿を穿索するやうに見送つた。 死そのもののやうな彼が過ぎ去つてしまへば、もうこの以上に恐ろしいものはなかつた。 今までは死せる者のみが死を知り、生ける者のみが人生を知つてゐて、 兩者のあひだには何の聯絡もないものと考へられてゐたのであるが、こゝに生きながらに死を知つてゐる、 謎のやうな恐るべき人物が現れて來たと言ふことは、人々に取つて實に呪ふべき新智識であつた。

「彼は我々の神聖なるアウガスタス大帝の命を取るであらう。」と、彼等は心のうちで思つた。 さうして、奧殿深く進んでゆくラザルスの後姿に呪ひの聲を浴せかけた。

皇帝はあらかじめラザルスの人物を知つてゐたので、そのやうに謁見の準備を整へて置いた。 而も皇帝は勇敢な人物で、自己の優越なる力を意識してゐたので、 死から竒蹟的に甦つた男と生死を爭ふ場合に、臣下の助勢などを求めるのを(いさぎよし)としなかつた。 皇帝はラザルスと二人ぎりで會見した。

「お前の眼をわしの上に向けるな、ラザルス。」と、皇帝は先づ命令した。 「お前の顏はメドュサの顏のやうで、お前に見詰められた者は誰でも石に化すと聞いてゐたので、 わしは石になる前に、先づお前に逢ひ、お前と話してみたいのだ。」

彼は内心恐れてゐないでもなかつたが、いかにも皇帝らしい口吻(くちぶり)でかう言ひ足した。 それからラザルスに近寄つて、熱心に彼の顏や竒妙な禮服などを調べてみた。 彼は鋭い眼力を持つてゐたにも拘らず、ラザルスの變裝に騙されてしまつた。

「ほう、お前は別に物凄いやうな顏をしてゐないではないか。好いお爺さんだ。 若しも恐怖と言ふものがこんなに愉快な、むしろ尊敬すべき風采を具へてゐるならば、 我々に取つては却つて惡い事だとも言へる。さて、話さうではないか。」

アウガスタスは座に着くと、言葉よりも眼を以てラザルスに問ひながら問答を始めた。

「なぜお前はこゝへ這入つて來た時に、わしに挨拶をしなかつたのだ。」

「私はその必要がないと思ひましたからです。」と、ラザルスは平氣で答へた。

「お前はクリスト教徒か。」

「いゝえ。」

アウガスタスは左こそと言つたやうに首肯(うなづ)いた。

「よし、よし。わしもクリスト教徒は嫌ひだ。 彼等は人生の樹に實がまだ一ぱいに()らないうちにその樹を(ゆす)つて、 四方八方に撒き散らしてゐる。ところで、お前はどう言ふ人間であるのだ。」

ラザルスは眼に見えるほどの努力をして、やう〜に答へた。

「わたしは死んだのです。」

「それはわしも聞き及んでゐる。しかし現在のお前は如何なる人物であるのか。」

ラザルスは默つてゐたが、遂にうるささうな冷淡な調子で、「私は死んだのです。」と、繰り返し言つた。

皇帝は最初から思つてゐたことを言葉にあらわして、はつきりと力強く言つた。

「まあ聞け、外國のお客さん。わしの領土は現世の領土であり、 わしの人民は生きた人間ばかりで死んだ人間なぞは一人もゐない。 從つて、お前はわしの領土では餘計な者だ。わしはお前が如何なる者であり、 又この羅馬をいかに考へてゐるかを知らない。併しお前が(うそ)を言つてゐるのならば、 わしはお前のその(うそ)を憎む。又、若し本當のことを語つてゐるのならば、 わしはお前のその眞實をも憎む。わしの胸には(せい)の鼓動を感じ、わしの腕には力を感じ、 わしの誇りとする思想は鷲のごとくに空間を看破する。わしの領土のどんな遠い所でも、 わしの作つた法律の庇護の下に、人民は生き、働きさうして享樂してゐる。 お前には死と戰つてゐる彼等の叫聲が聞こえないのか。」

アウガスタスは恰も祈祷でもするやうに兩腕を差出して、更に(おごそ)かに叫んだ。

「幸ひあれ。おゝ、神聖にして且つ偉大なる人生よ。」

ラザルスは沈默を續けてゐると、皇帝はます〜高潮して來る嚴肅の感に堪へないやうに、なほも言葉を續けた。

「死の牙から辛うじて救はれた、哀れなる人間よ。羅馬人はお前がこゝに留まることを欲しない。 お前は人生に疲勞と嫌惡とを吹き込むものだ。お前は田畑の蛆蟲(うじむし)のやうに、 歡喜に滿ちた穗を訝しさうに見詰めながら、絶望と苦惱の(よだれ)を埀らしてゐるのだ。 お前の眞理は恰も夜の刺客の手に握られてゐる錆びた(つるぎ)のやうなもので、 お前はその剱のために刺客の罪名の下に死刑に處せらるべきである。 併しその前におまえの眼をわしに覗かせてくれ。恐らくお前の眼を怖れるのは臆病者ばかりで、 勇者の胸には却つて爭鬪と勝利に對する渇仰(かつがう)を呼び起させるであらう。 その時にはお前は恩賞に與つて、死刑は許されるであらう。さあ、わしを見ろ。ラザルス。」

アウガスタスも最初は、友逹が自分を見てゐるのかと思つた程に、ラザルスの眼は實に柔かで、 温良で、魂を(とろ)かすやうにも感じられたのである。 その眼には恐怖など宿つてゐないのみならず、却つてそこに現れてゐる快い安息と博愛とが、 皇帝には温和な主婦のごとく、慈愛深い妹のごとく母のごとくにさへ感じられた。 而もその眼の力はだん〜に強く迫つて來て、嫌がる接吻を貪り求めるやうなその眼は皇帝の息を塞ぎ、 その柔かな肉體の表面には鐵の骨が露はれ、その無慈悲な環が刻一刻と締め付けて來て、 眼にみえない鈍い冷たい牙が皇帝の胸に觸れると、ぬる〜と心臟に喰ひ入つて行つた。

「あゝ、苦しい。併しわしを見詰めてゐろ、ラザルス。見詰めてゐろ。」と、神聖なるアウガスタスは青ざめながら言つた。

ラザルスのその眼は、恰も永遠に開かずの重い(ドア)が徐々に(ひら)いて來て、 その隙間から少しつゝ永劫の恐怖を吐き出してゐるやうでもあつた。 二つの影のやうに、果てしもない空間と底知れぬ暗黒とが現れて、 太陽を消し、足許から大地を奪つて、頭の上からは天空を消してしまつた。 これほどに冷え切つて、心を痛くさせるものが又とあるであらうか。

「もつと見ろ。もつと見ろ、ラザルス。」と、皇帝はよろめきながら命じた。

時が靜かに止まつて、すべてのものが恐ろしくも終りに近づいて來た。 皇帝の座は眞逆さまになつたと思ふ間もなく崩れ落ちて、 アウガスタスの姿は玉座と共に消え失せた。 -- 音もなく羅馬は破壞されて、 その跡には新しい都が建設され、それもまた空間に呑み込まれてしまつた。 幻の巨人のやうに、都市も、國家も、國々もみな倒れて、空虚なる闇のうちに消えると、 無限の黒い胃嚢(いなう)が平氣でそれ等を呑み込んでしまつた。

「止めてくれ。」と、皇帝は命令した。

彼の聲には已に感情を失つた響きがあり、その兩手も力なく埀れ、 突撃的なる暗黒と向う見ずに戰つてゐるうちに、その赫々(かく〜)たる兩眼は何物も見えなくなつたのである。

「ラザルス。お前はわしの命を奪つた。」と、皇帝は氣力のない聲で言つた。

この失望の言葉が彼自身を救つた。皇帝は自分が庇護しなければならない人民のことを思ひ浮べると、 氣力を失ひかけた心臟に鋭い痛みをおぼえて、それがためにやゝ意識を取戻した。

「人民等も死を宣告されてゐる。」と、彼は朧げに考へた。無限の暗黒の恐ろしい影 -- それを思ふと恐怖がます〜彼に押掛つて來た。

「沸き立つてゐる生血を持ち、悲哀と共に偉大なる歡喜を知る心を持つ、 破れ易い船のやうな人民 -- 」と皇帝は心のうちで叫んだ時、心細さが彼の胸を貫いた。

かくの如く、生と死との兩極の間にあつて反省し、動搖してゐるうちに、 皇帝は次第に生命を恢復して來ると、苦痛と歡喜との人生のうちに、 空虚なる暗黒と無限の恐怖を防ぐだけの力のある楯のあることに氣が付いた。

「ラザルス。お前はわしを殺さなかつたな。併しわしはお前を殺してやらう。去れ。」と、皇帝は斷乎として言つた。

その夕方、神聖なる皇帝アウガスタスは、いつもになく愉快に食事を取つた。 而も時々に手を突つ張つたまゝで、火の如くに輝いてゐる眼がどんより(くも)つて來た。 それは彼の足許に恐怖の波の動くのを感じたからであつた。打ち負かされたが而も破滅することなく、 永遠に時の來るのを待つてゐる「恐怖」は、皇帝の一生を通じて一つの黒い影 -- 即ち死のごとくに彼のそばに立つてゐて、 晝間は人生の喜怒哀樂に打ち負かされて姿を見せなかつたが、夜になると常に現れた。

次の日、絞首役人は熱鐡でラザルスの兩眼を(えぐ)り取つて、彼を故國へ追ひ歸した。 神聖なる皇帝アウガスタスも流石にラザルスを死刑に處することは出來なかつたのである。

ラザルスは故郷の荒野(あれの)に歸ると、荒野(あれの)は快い風の肌觸りと、 輝く太陽の熱とを以て彼を迎へた。彼は昔のまゝに石の上に坐ると、 その粗野な髭むじやな顏を仰向けた。二つの眼の代りに、 二つの黒い穴はぼんやりとした恐怖の表情を示して空を見つめてゐた。 遙かあなたの聖都は休みなしに騷然と(どよめ)いてゐたが、 彼の周圍は荒涼として、唖のごとくに靜まり返つてゐた。 竒蹟的に死から甦つた彼の住居(すまひ)に誰も近づく者とてはなく、 遠い以前から近所の人逹は自分の家を捨てゝ立ち去つてしまつた。

熱鐡によつて(まなこ)から追ひ出されたので、彼の呪はれたる死の智識は頭蓋骨の奧底に潛んで、 そこを隱れ家とした。さうして、恰もその隱れ家から飛び出して來るやうに、 呪はれたる死の智識は無數の無形の(まなこ)を人間に投げかけた。 誰一人として敢てラザルスを正視するものはなかつた。

夕日が一層大きく紅くなつて、西の地平線へだん〜に沈みかけると、 盲目のラザルスはその後を追つてゆく途中、頑丈ではあつたが又いかにも弱々しさうに、 いつも石につまずいて倒れた。眞紅(まつか)な夕日に映ずる彼の黒い體と、 眞直に開いた彼の兩手とは、さながら巨大なる十字架のやうに見えた。

ある日、いつものやうに夕日を追つて行つたまゝで、ラザルスは遂に歸つて來なかつた。 かうして謎のやうに死から竒蹟的に甦つた彼が再生の生涯も終りを告げたのであつた。

-- 終 --

青空文庫で公開されている「ラザルス」のテキストを元に作成しました。

元テキストのクレジット:

底本:澁澤龍彦文學館12卷最後の箱 1991年10月25日初版第一刷發行 筑摩書房
入力:和井府 清十郎
※本作品中には、不適切な表現が見られますが、作品の時代とオリジナルの價値とを考慮して底本のままです。


更新日: 2003/02/11

世界怪談名作集:幽靈


幽靈

モウパツサン 著

岡本綺堂 譯

私たちは最近の訴訟事件から談話に枝が咲いて、差押へといふことに就いて話し合つてゐた。 それはルウ・ド・グレネルの古い別莊で、親しい人逹が一夕(いつせき)を語り明した末のことで、 來客は交る〜゛に種々(いろ〜)の話をして聞かせた。 どの人の話もみな實録だといふのである。

そのうちに、ド・ラ・トウル・サミュールの老侯爵が()ちあがつて、 煖爐(だんろ)の枠によりかゝつた。侯爵は當年八十二歳の老人である。 かれは少し(ふる)へるやうな聲で、次の話を語り出した。



わたしも()のあたりに不思議なものを見たことがあります。 それは私が一生涯の惡夢であつたほどに不思議な事件で、 今から振返ると五十六年前の遠い昔のことですが、 いまだにその怖ろしい夢に毎月 (おそ)はれてゐるのです。 その事のあつた日から、私は恐怖といふことを深く刻みつけられてしまつたのです。 まつたく其十分間は恐怖の(えさ)になつて、 その怖ろしさが絶えず私の心に殘つてゐるのです。不意に物音がきこえると、 私は心から竦然(ぞつ)とします。夕方の薄暗いときに何か怪しい物をみると、 私は逃げ出したくなります。私は夜を恐れてゐます。

いや、私もこの年になるまでは、こんなことを口外しませんでしたが、 今はもう一切をお話し申しても宜しいのです。 八十二歳の老人が空想的の危險を恐れることはあつても、 實際的の危險に再び遭遇することはありませんでした。奧さん逹もお聽きください。 その事件は私が決して話すことが出來ないほどに、わたしの心を顛倒させ、 深い不可思議な不安を胸一杯に詰め込んでしまつたのです。 私は我々の悲哀や、我々の恥かしい祕密や、我々わの人生の弱點や、 どうも他人にむかつて正直に告白することの出來ないものを、今まで心の奧底に祕めて置きました。

私はこれから何の修飾も加へずに、不思議の事件を唯ありのまゝに申上げませう。 その眞相はわたし自身にも何とも説明の仕樣がない。 先づその短時間のあひだ私が發狂したとでも言ふよりほかはありますまい。 併し私が發狂したのではないと言ふ證據があります。 いや、それらの想像はあなた方の自由に任せて、わたしは正直にその事實をお話し申すことにしませう。

それは千八百二十七年の七月、わたしが自分の聯隊を(ひき)ゐて、 ルアンに宿營してゐる當時のことでした。ある日、 わたしが波止場の近所をぶら付いてゐると、何だか見覺えのあるやうな一人の男に出逢つたので、 少しく歩みを緩めて立ち停まりかけると、相手もわたしの樣子を見て、 ぢつと眺めてゐましたが、やがて飛び付くやうに私の腕に取縋りました。

よく見ると、それはわたしの若いときに非常な仲好しであつた友逹で、 わずか五年ほど逢はないうちに五十年も年を取つたやうに()けて見えました。 その髮はもう白くなつて、歩くのさへも大儀さうでした。 餘りの變り方に私も驚いてゐると、相手もそれを察したらしく、 まず自分の身の上話を始めました。聞いてみると、一大事件が彼に打撃を與へたのでした。 彼は或日若い娘と戀に落ちて、氣違ひのやうに逆上(のぼせ)あがつて、 殆ど夢中で其女と結婚して、それから一年程の間は無茶苦茶に嬉しく樂しく暮してゐたのですが、 女は心臟病で突然に死んで了ひました。勿論、餘りに仲が好過ぎた結果です。

彼は妻の葬式の日に、わが住む土地を立退(たちの)いて、 このルアンへ來て假住居(かりずまひ)をしてゐるのですが、 その淋しさと悲しさは言ふまでもありません。深い嘆きが身に食ひ入つて、 彼は屡々自殺を企てた程でした。その話をした後に、彼はかう言ひました。

「ここで再び君に出逢つたのは丁度幸ひだ。是非頼みたいことがある。 わたしの別莊へ行つて或書類を取つて來てくれたまへ。それは至急に入用なのだからね。 その書類はわたしの部屋——いや、我々の部屋の机の抽斗(ひきだし)に這入つてゐるのだが、 何分(なにぶん)にも祕密の使だから辯護士や雇人を出してやるわけに行かないのだ。 私は部屋を出るときに嚴重に錠をおろして來たから、その鍵を君に渡して置く。 机のひきだしの鍵も一緒に渡すから、持つて行つてくれたまへ。 それから君が行つたら案内するやうに、留守番の園丁にも一筆かいて遣る。 萬事は明日の朝飯を一緒に食ひながら相談することにしよう。」

別にむづかしい役目でもないので、わたしは引受けました。 こゝからその別莊といふ家までは二十五マイルに過ぎないのですから、 私に取つては丁度好い遠足で、馬で行けば一時間ぐらゐで到着することが出來るのでした。

()くる朝の十時頃に、二人は一緒に朝飯を食ひました。 併し彼は格別の話もせず、わづかに二十語ほど洩らした後に、 もう歸ると言ひ出したのです。唯わたしが頼まれてゆく彼の部屋には、 彼の幸福が打碎かれて殘つてゐて、私がそこへ尋ねてゆくと言ふことを考へるだけでも、 彼は自分の胸のうちに一種祕密の爭鬪が起つてゐるかのやうに、 ひどく不安であるらしく見えましたが、 それでも結局わたしに頼むことを正直に打明けました。 それは甚だ簡單な仕事で、きのふも鳥渡(ちよつと)話した通り、 机の右の抽斗(ひきだし)に入れてある手紙の二包みと書類とを取出して來てくれろと言ふだけのことでした。 さうして、彼は最後にこの一句を附加へました。

「その書類を見て呉れるなとは言はないよ。」

甚だ失禮な言葉に、わたしは感情を害しました。 人の重要書類を誰がむやみに見るものかと、やゝ激しい語氣で極めつけると、 彼も當惑したやうに口籠りました。

「まあ堪忍(かんにん)してくれ給へ。私はひどくぼんやりしてゐるのだから。」と、 斯う言つて、彼は涙ぐんでゐました。



その日の午後一時頃に、わたしはこの使を果たすために出發しました。 今日は眩しいほどに晴れた日で、わたしは雲雀(ひばり)の歌を聽きながら、 乘馬靴に調子を取つて戞々(かつ〜)と當る帶劍の音を聽きながら、 牧場を乘りぬけて行きました。そのうちに森のなかに入り込んだので、 わたしは馬を降りて歩きはじめると、木の枝が柔かに私の顏を撫でるのです。 わたしは時々に木の葉の一枚をむしり取つて、齒のあひだで()んだりしました。 この場合、なんとも説明のできない愉快を感じたのです。

教へられた家に近づいた時に、私は留守番の園丁に渡す筈の手紙を取り出すと、 それには封がしてあるので、私は驚きました。これでは困る。 いつそこのまゝに引返さうかと、(すこぶ)る不快を感じましたが、 又考へると彼もあの通りぼんやりしてゐるのであるから、 つい迂濶(うか)と封をしてしまつたのかも知れない。 まあ惡く取らない方が好いと思ひ直したのです。そこでよく見ると、 この別莊風の建物は最近二十年ぐらゐは空家(あきや)になつてゐたらしく、 門は大きくひらいたまゝで腐つてゐて、草は路を埋めるやうに生ひ茂つてゐました。

わたしが雨戸を蹴る音を聞きつけて、ひとりの老人が(くゞ)り戸をあけて出て來ましたが、 彼はこゝに立つてゐる私の姿を見て非常に驚いた樣子でした。 私は馬から降りて、彼の手紙を差出すと、老人はそれを一度讀み、また讀み返して、 疑ふやうな眼をしながら私に()きました。

「そこで、あなたは何ういふ御用(ごよう)でございますか。」

「お前の主人の手紙に書いてある筈だ。わたしはこゝの(うち)へ這入らせて貰はなければならない。」

彼はます〜顛倒した樣子で、又言ひました。

「左樣でございますか。 では、あなたがお這入りになるのですか。[誤?:なるのですか、]旦那樣のお部屋へ……。」

わたしは()れつたくなりました。

「えゝ、お前は何でそんなことを詮議するのだ。」

彼は言ひ澁りながら、「いゝえ、貴方。唯、その……。 あの部屋は不幸のあつた後に開けたことが無いので……。どうぞ五分間お待ちください。 わたくしが鳥渡(ちよつと)行つて、どうなつたか見てまゐりますから。」

わたしは怒つて、彼を遮りました。

「冗談をいふな。お前はどうしてその部屋へ行かれるとおもふのだ。部屋の鍵はおれが持つてゐるのだぞ。」

彼ももう詮方(せんかた)が盡きたらしく、[「]では、貴方。御案内を致しませう。」

階子(はしご)のある所を教へて呉れゝば好い。おれが一人で仕事をするのだ。」

「でも、まあ、貴方……。」

わたしの癇癪(かんしやく)は破裂しました。 「もう默つてゐろ。さも無いと、お前の爲にならないぞ。」

私は彼を押退けて、家のなかへつか〜と進んでゆくと、 最初は臺所、次は彼の老人夫婦が住んでゐる小さい部屋、それを通りぬけて大きい廣間へ出ました。 そこから階段を昇つてゆくと、私は友逹に教へられた部屋の(ドア)を認めました。 鍵を持つてゐるので、雜作(ぞうさ)も無しに(ドア)をあけて、 私はその部屋の内へ這入ることが出來ました。

部屋の内は眞暗で、最初は何んにも見えない程でした。私は斯ういふ古い空間(あきま)附物(つきもの)の、 土臭いやうな、腐つたやうな匂ひに()せながら、しばらく立停つてゐる中に、 わたしの眼はだん〜に暗いところに馴れて來て、 亂雜になつてゐる大きい部屋のなかに寢臺の据ゑてあるのがはつきりと見えるやうになりました。 寢臺にシーツは無く、三つの敷蒲團と二つの枕が列べてあるばかりで、 その一つには今まで誰かゞそこに寢てゐたやうに、 頭や(ひじ)(あと)があり〜と深く殘つてゐました。

椅子はみな取散らされて、恐らく戸棚であらうと思はれる(ドア)も少し明けかけた儘になつてゐました。 私は先づ窓際へ行つて、明りを入れるために戸をあけたが、 外の鎧戸(よろいど)蝶番(てふつがひ)が錆びてゐるので、 それを外すことが出來ない。劍でこじ明けようとしたが、どうも巧く行きませんでした。 こんな事をしてゐるうちに、私の眼はいよ〜暗いところに馴れて來たので、 窓を明けることはもう思ひ切つて、わたしは机の方へ進み寄りました。さうして、 肱かけ椅子に腰をおろして抽斗(ひきだし)をあけると、 そのなかには何か一杯に詰まつてゐましたが、 わたしは三包みの書類と手紙を取出せばいゝので、 それは直ぐに判るやうに教へられてゐるのですから、早速それを探し始めました。

私はその表書きを讀み分けようとして、暗いなかに眼を働かせてゐる時、 自分の後の方で輕くかさりといふ音を聽きました。 聽いたといふよりも、寧ろ感じたと言ふのでせう。 併しそれは隙間(すきま)を洩る風がカアテンを搖つたのだらうぐらゐに思つて、 わたしは別に氣にも止めなかつた。ですが、その中に又かさりと言ふ、 それが今度はよほど判然(はつきり)と響いて、 わたしの肌になんだか竦然(ぞつ)とするやうな不愉快な感じをあたへましたが、 そんな些細(ささい)なことに一々びく〜して振向いてゐるのも馬鹿らしいので、 そのまゝにして探し物をつゞけてゐました。丁度第二の紙包みを發見して、 更に第三の包みを見付けた時、私の肩に近いあたりで悲しさうな大きい溜息がきこえたので、 私もびつくりして二ヤードほども慌てゝ飛び退いて、劍の(つか)に手をかけながら振返りました。 劍を持つてゐなかつたら、私は臆病者になつて逃げ出したに相違ありません。

ひとりの(せい)の高い女が白い着物をきて、 今まで私が腰をかけてゐた椅子のうしろに立つて、丁度わたしと向ひ合つてゐるのです。 私は殆ど引つくり返りさうになりました。 その時の物凄(ものすご)さは恐く誰にも判りますまい。若しあなた方がそれを見たらば、 魂は消え、息は止まり、總身(そうみ)は海綿のやうに骨無しになつて、 からだの奧までぐづ〜(くず)れてしまふことでせう。

わたしは幽靈などを信じる者ではありません。 それでも死んだ者の何んとも言へない怖ろしさの前には降參してしまひました。 わたしは實に困りました。暫時(しばし)は途方に暮れました。 その後、一生の間にあの時ほど困つたことはありません。

女がそのまゝ何時までも默つてゐたならば、私は氣が遠くなつてしまつたでせう。 而も女は口を()きました。私の神經を(ふる)わせるやうな優しい哀れな聲で話しかけました。 この時、わたしは自分の氣を取鎭めたとは言はれません。 實は半分夢中でしたが、それでも私には一種の誇があり、軍人としての自尊心もあるので、 どうやら斯うやら形を整へることが出來たのです。わたしは自分自身に對して、 又彼の女に對して——それが人間であらうとも、化物であらうとも—— 威儀を正しうすることになりました。相手が初めて現れた時には何も考へる餘裕はなかつたのですが、 こゝに至つて先づこれだけの事が出來るやうになつたのです。併し内心はまだ怖れてゐるのでした。

「あなた、御迷惑なお願ひがあるのでございますが……。」

わたしは返事をしようと思つても言葉が出ないで、唯曖昧な聲が(のど)から出るばかりでした。

()いて下さいますか。」と、女はつゞけて言つた。 [「]あなたは私を救つて下さることが出來るのです。 わたしは實に苦んでゐるのです、絶えず苦んでゐるのです。あゝ苦しい。」

さう言つて、女は(しづ)かに椅子に坐つて、わたしの顏を見ました。

()いて下さいますか。」

私はまだ判然(はつきり)と口が利けないので、默つて()くと[誤?:首肯(うなづ)くと]、 女は龜の甲でこしらへた櫛をわたしに渡して、小聲で言ひました。

「わたしの髮を()いて下さい。どうぞ私の髮を梳いてください。 さうすれば、わたしを(なお)すことが出來るでせう。 わたしの頭を見てください。どんなに私は苦しいでせう。わたしの髮を見て下さい。 どんなに髮が損じてゐるでせう。」

女の亂れた髮は甚だ長く、甚だは黒く、彼女が腰をかけてゐる椅子を越えて、 殆ど床に觸れるほどに長く埀れてゐるやうに見えました。

わたしは何故それをしたか。私はなぜ(ふる)へながらその櫛をうけ取つて、 まるで蛇を掴んだやうに冷く感じられる女の髮に自分の手を觸れたか。 それは自分にも判らないのですが、そのときの冷いやうな感じはいつまでも私の指に殘つてゐて、 今でもそれを思ひ出すと顫へるやうです。

何うして好いか知りませんが、わたしは氷のやうな髮を梳いて遣りました。 (たば)ねたり解いたりして、馬の鬣毛(たてがみ)のやうに一つの組絲として(たば)ねて遣ると、 女はその頭を埀れて溜息をついて、左も嬉しさうに見えましたが、やがて突然に言ひました。

「ありがたうございました。」

わたしの手から櫛を引つたくつて、 半分明いてゐるやうに思はれた(ドア)から逃げるやうに立去つてしまひました。 唯ひとり取殘されて、わたしは惡夢から醒めたやうに數秒間はぼんやりとしてゐましたが、 やがて意識を回復すると、再び窓際へ駈けて行つて、滅茶苦茶に鎧戸を叩き(こは)しました。

外の光が流れ込んで來たので、わたしは先づ女の出て行つた扉口(ドアくち)へ駈けよると、 (ドア)には錠が卸りてゐて、明けることの出來ないやうになつてゐるのです。 もう斯うなると、逃げるより外はありません。 わたしは抽斗をあけたまゝの机から三包みの手紙を早々に引つ掴んで、 その部屋をかけ拔けて、階子段を一度に四段ぐらゐも飛び下りて、表へ逃げ出しました。 さて何うして好いか判りませんでしたが、幸ひそこに私の馬が繋いであるのを見つけたので、 すぐにそれへ飛び乘つて全速力で走らせました。

ルアンへ到逹するまで一休みもしないで、わたしの家の前へ乘り付けました。 そこにゐる下士(かし)に手綱を投げるやうに渡して、私は自分の部屋へ飛び込んで、 入口の錠をおろして、(さて)落付いて考へてみました。

そこで自分は幻覺に囚はれたのでは無いかと言ふことを一時間も考へました。 確にわたしは一種の神經的衝動から頭腦(あたま)に混亂を生じて、 かうした超自然的の奇蹟を現出したのであらうと思ひました。 兎も角もそれが私の幻覺であると言ふことに先づ決めてしまつて、 私は()つて窓の際へ行きました。そのとき不圖(ふと)見ると、 わたしの下衣(したぎ)のボタンに女の長い髮の毛が一杯に絡み付いてゐるではありませんか。 わたしは顫へる指先で、一つ一つにその毛を摘み取つて、窓の外へ投げ捨てました。

わたしは下士(かし)を呼びました。わたしは餘りに心も亂れてゐる、 からだも餘りに疲れてゐるので、今日すぐに友逹のところへ尋ねて行くことは出來ないばかりか、 友逹に逢つて何と話して好いかをも考へなければならなかつたからです。

使に遣つた下士(かし)は、友逹の返事を受取つて來ました。 友逹は彼の書類をたしかに受取つたと言ひました。彼はわたしのことを聞いたので、 下士(かし)は私の()くないと言ふことを話して、 多分日射病か何かに(かゝ)つたのであらうと言うと、彼は惱ましげに見えたさうです。



わたしは事實を打明けることに決めて、翌日の早朝に友逹をたづねて行くと、 彼はきのふの(ゆう)に外出したまゝで歸つて來ないと言ふのです。 その日に又出直して行きましたが、彼はやはり戻らないのです。 それから一週間待つてゐましたが、彼は遂に戻らない、での[誤:戻らないので、]私は警察に注意しました。 警察でも方々を搜索して呉れましたが、彼が往復の踪跡(そうせき)を發見することが出來ませんでした。

彼の空家も嚴重に搜索されましたが、結局何の疑ふべき手がゝりも發見されませんでした。 そこに女が隱されてゐたやうな形跡もありませんでした。 取調べはみな不成功に終つて、この以上に搜索の歩を進めやうが無くなつてしまひました。

その後五十六年の間、わたしはそれに就いて何にも知ることが出來ません。 私は遂に事實の眞相を發見し得ないのです。

——終——

青空文庫で公開されている「廢宅」のテキストを元に、底本に合せて字句を修正し、底本の誤りには注を付けました。

元テキストのクレジット:

底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版發行
入力:もりみつじゆんじ
校正:多羅尾伴内
2003年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの圖書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボランティアの皆さんです。

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:鏡中の美女


鏡中の美女 (Phantastes, A Faerie Romance for Men and Women, 13章)

マクドナルド (George MacDonald, 1824-1905) 作

岡本綺堂(1872-1939) 譯


目次


コスモ・フォン・ウェルスタールはプラーグの大學生であつた。

彼は貴族の一門であるにも拘らず、貧乏であつた。さうして、貧乏より生ずるところの獨立を自ら誇つてゐた。 誰でも貧乏から逃れることが出來なければ、寧ろそれを誇りとするより外はないのである。 彼は學生仲間に可愛がられてゐながら、(さて)これといふ友逹もなく、學生仲間のうちでまだ一人も、 古い町の最も高い家の頂上にある彼の下宿の戸口へ這入つた者はないのであつた。

彼の謙遜的の態度が仲間内には評判が好かつたのであるが、それは實のところ彼の隱遁的の思想から出てゐるのであつた。 夜になると、彼は誰からも妨げられること無しに、自分の好きな學問や空想に耽るのである。 それらの學問のうちには、學校の過程に必要な學科のほかに、アルベルタス、マグナス(十三世紀の科學者、 神學者、哲學者)や、コルネリウス、アグリッパ(十五世紀より十六世紀に亙る哲學者で、 錬金術や魔法を説いた人)の著作をはじめとして、その他にも餘り(ひろ)く讀まれてゐない書物や、 神祕的のむづかしい書物などがしまひ込まれてあつた。而もそれらの研究は單に彼の好竒心にとゞまつて、 それを實地に應用してみようなどと言ふ氣はなかつたのである。

その下宿は大きい低い天井の部屋で、家具らしい物は殆んど無かつた。木製の椅子が一對、 夜も晝も寢ころんで空想に耽る寢臺が一脚、それから大きい黒い(かしは)の書棚が一個、 そのほかには部屋中に家具と呼ばれさうな物は甚だ少いのであつた。その代りに、 部屋の隅々には得體の知れない噐具が種々(いろ〜)積まれてあつて、一方の隅には骸骨が立つてゐた。 その骸骨は半ばうしろの壁に()りかゝり、(なかば)は紐でその頸を支へてゐて、 片手の指をその傍に立てゝある古い劍の柄頭(つかがしら)の上に置いてゐるのであつた。 ほかにも種々(いろ〜)の武噐が床の上に散らかつてゐる。壁はまつたく裝飾なく、 羽をひろげた大きい乾からびた蝙蝠(かうもり)や、豪豬(やまあらし)の皮や剥製の海毛蟲(シーマウス)や、 それらが何だか判らないやうな形になつて懸つてゐる。但し彼はこんな不思議な妄想に耽つてゐるかと思へば、 又一方にはそれと全く遠く懸離れたことをも考へてゐるのであつた。

彼の心は決して恍惚たる感情を以て滿たされてゐるのではなく、恰も戸外の曉方(あけがた)のやうに、 匂ひを漂はす微風ともなり、又あるときは大木を吹き(たわ)ませる暴風ともなるのであつた。 彼は薔薇色の眼鏡を透して總ての物を見た。かれが窓の下の町を通る處女をみおろした時、 その處女はすべて小説中の人物ならざるはなく、彼女の影が遠く街路樹のうちに消え去るまで、 それを考へつゞけてゐるのである。彼が町をあるく時、恰も小説を讀んでゐるやうな心持で、 そこに起る種々の出來事を興味ある場面として受入れるのである。さうして、女の美しい聲が耳に入るごとに、 彼はエンゼルの翼が自分のたましひを撫でゝ行くやうにも感ずるのである。實際、かれは無言の詩人で、 寧ろ本當の詩人よりも遙に空想的で且つ危險である。即ちその心に湧くところの泉が外部へ流れ出る口を見出すことが出來ないで、 ます〜水嵩(みずかさ)厭増(いやま)して、後には漲り溢れて、その心の内部をそこなふことにもなるからである。

彼はいつも固い寢臺に横はつて、何かの物語か詩を讀むのである。後にはその書物を取落して、空想に耽る。 さうなると、夢か(うつゝ)か區別が付かない。向うの壁がはつきりとわかつて來て、 あさ日の光に明るくなつた時、かれもまた初めて起き上がるのである。さうして、 元氣旺盛な若い者のあらゆる官能がこゝに眼ざめて活きて來て、 日の暮れるまで自由に讀書又は遊戲を續けるのである。晝の大きい 瀑布に沈んでゐた夜の世界がこゝに現れて來ると、彼のこゝろには星が(きらめ)いて、 暗い幻影が再び浮んで來るのである。而もそんな事を長く續かせるのはむづかしい。 遲かれ早かれ何物かがその美しい世界へ踏み込んで來て、 迷へる魔術師を跪拜(きはい)せしめなければならないのである。

ある日の午後の黄昏に近い頃であつた。彼は例のごとく夢みるやうな心持で、 この町の目貫の大通りをあるいてゐると、學生仲間のひとりが肩を叩いて聲をかけた。 さうして、自分は古い鎧をみつけて、それを手に入れたいと思ふから、裏通りまで一緒に來てくれないかと言つた。

コスモは古代及び現代の武噐については非常に詳しく斯道(しだう)の權威者とみとめられてゐた。 殊に武噐に使ひ方にかけては、學生仲間にも竝ぶ者がなかつた。 そのなかでも或種の物の使ひ方に馴れてゐるので、他のすべての物にまで彼が權威を持つやうにもなつたのである。 コスモは喜んで彼と一緒に行つた。

二人は狹い小路に入り込んで、埃だらけな小さい家にゆき着いた。低いアーチ型の(ドア)を這入ると、 そこには世間によく見受ける種々の黴臭い、埃だらけの古道具が(なら)べてあつた。 學生はコスモの鑑定に滿足して、すぐその鎧を買ふことに決めた。

そこを出るときに、コスモは壁にかけてある埃だらけの楕圓形の古い鏡に眼をつけた。 鏡の周圍には竒異なる彫刻があつて、店の主人がそれを運んだ時、輝いてゐる燈に映じても左のみに(ひか)らなかつた。 コスモはその彫刻に心を惹かれたらしかつたが、それ以上に注意する樣子もなく、 彼は友逹と共にこゝを立去つたのである。二人は元の大通りへ出て、こゝで反對の方角に別れた。

獨りになると、コスモか彼の竒異なる古い鏡のことを思ひ出した。もつとよく見たいといふ念が強くなつて、 彼は再びその店の方へ足を向けた。彼が(ドア)を叩くと、主人は待つてゐたやうに(ドア)をあけた。 主人は痩せた小柄な老人で、鉤鼻の、眼の光つた男で、 そこらに何か落し物はないかと休みなしに其眼をきよろ付かせてゐるやうな人物であつた。 コスモは他の品をひやかすやうな風をして、最後に彼の鏡の前へ行つて、それを下して見せてくれと言つた。

「旦那。御自分で取つて下さい。わたくしには手が屆きませんから。」と老人は言つた。

コスモは注意してその鏡をおろして見ると、彫刻は構圖も技法も共に優れてゐて、 實に精巧でもあり、又高價な物でもあるらしく思はれた。まだ其上に、 その彫刻にはコスモがまだ知らない幾多の技巧が施されてゐて、それが何かの意味ありげにも見えた。 それが彼の趣味と性格の一面に合致してゐるので、彼は更にこの古い鏡に對して一段の興味を増した。 かうなると、どうしてもこれを手に入れて、自分の暇をみて其縁の彫刻を研究したくなつたのである。

併し彼はこの鏡を普通の日用にするやうな顏をして、これは隨分古いから長く使用に堪へないだらうと言ひながら、 その(おもて)の塵を少しばかり拭ひてみると、かれは非常に驚かされたのである。 鏡の(おもて)(まば)ゆいほどに輝いてゐて、年を經たが爲めに傷んでゐる所もなく、 すべての部分が製作者から新しく受取つたと同樣に、清らかに整つてゐるのである。 彼は先づ主人に向つて其價を訊いた。

老人は貧しいコスモが(とて)も手を出せないやうな高値を吹いたので、 彼は默つてその鏡を元のところに置いた。「お高うございませうか。」と、老人は言つた。

「どうしてそんなに高いのか、理窟が判らないな。」と、コスモは答へた。 「わたしの考へとは餘程の距離があるよ。」

老人は燈をあげて、コスモの顏を見た。

「旦那は人好きのする方だ。」

コスモはこんなお世辭に答へることの出來ない男である。彼はこのとき初めて老人の顏を目近に見たのであるが、 それが男だか女だか判らないやうな、一種の(いや)な感じを受けた。

「あなたのお名前は……」と老人は話し續けた。

「コスモ・フォン・ウォルスタール。」

「あゝ、さうでしたか。成程、さう言へばお父さんに()ておいでなさる。若旦那、 わたくしはあなたのお父さんをよく存じて居りますよ。實をいふと、このわたくしの家の中にも、 あなたのお父さんの紋章や符號の附いた古い品が幾つもあります。さうでしたか。 いや、わたくしはあなたが氣に入つた。それでは()うです。言ひ値の四分の一で差上げる事に致しませう。 但し一つの條件附で……。」

それでもコスモに取つては重大の負擔(ふたん)であつたが、その位ならば都合が出來る。 殊に途方もない高値を吹かれて、(とて)も手が(とゞ)かないと思つた後であるから、 一層それが欲しくなつた。

「その條件といふのは……。」

「若しあなたがそれを手放したくなつたらば、初めにわたしが申上げただけの金をわたしに下さるやうに……。」

「よろしい。」と、コスモは微笑しながら附加へた。「それはまつたく穩當な條件だ。」

「では、どうぞお間違ひのないやうに……。」と、賣主は念を押した。

「名譽にかけて、屹度間違ひはないよ。」と、買手は言つた。

これで賣買(うりかひ)は成立つたのである。

コスモが鏡を手に()ると、老人は、「お宅までわたくしがお屆け申しませう。」と言つた。

「いや、いや、私が持つて行くよ。」と、コスモは言つた。

彼は自分の住居(すまひ)を他人に見せることを(ひど)く嫌つてゐた。 殊にこんな奴、だん〜に嫌惡の情の加はつて來るこんな人間に、自分の住居(すまひ)を見られるのは(いや)であつた。

「では御隨意に……。」と、老爺(ぢゞい)は言つた。

彼はコスモのために燈を見せて、店から送り出してしまふと、ひとりで呟いた。

「あの鏡を賣るのも六度目(むたびめ)だ。もう今度あたりでおしまひにして貰ひたいな。 あの女ももう大抵滿足するだらうに……。」

コスモは自分の獲物を注意して持歸つた。その途中も誰かそれを見付けはしないか、 誰か後から尾けて來はしないかといふ懸念で、絶えず不安を感じてゐた。 彼は幾たびか自分の周圍(まはり)を見まはしたが、別に彼のうたがひを惹くやうなことも無かつた。 假に彼のあとを尾ける者があるとしても、いかに巧妙なる間者(スパイ)でもその正體を曝露するであらうと思はれるほどに、 町は非常に混雜して、町の燈は非常に明るかつた。

コスモは(つゝが)なく下宿に歸り着いて、買つて來た鏡を壁にかけた。 彼は體力の強い男であつたが、それでも歸つて來たときには、鏡の重さから逃れて、 初めて救はれたやうに感じた。彼は先づパイプに火をつけて、寢臺に體をなげ出して、 すぐに又いつもの幻想に抱かれてしまつた。

次の日、かれは常よりも早く家へ歸つて、長い部屋の片端にある爐の上の壁に彼の鏡をかけた。 それから丁寧に鏡の(おもて)の塵を拭き去ると、鏡は日光に輝やく泉のやうに清くみえて、 覆ひをかけた下からも(ひか)つてゐた。而も彼の興味はやはり鏡の縁の彫刻にあつた。 それを出來るだけ綺麗にブラッシュをかけて、その彫刻の種々の部分について製作者の意圖が那邊(なへん)にあつたかを見出す爲に、 精密の研究を始めたが、それは不成功に終つた。後には退屈になつて失望のうちに止めてしまつた。 さうして、鏡に映る部屋の中を暫くぼんやりと眺めてゐたが、やがて半ば叫ぶやうな聲で言つた。

「この鏡はふしぎな鏡だな。この鏡に映る影と、人間の想像との間に何か不思議な關係がある。 この部屋と、鏡に映つてゐる部屋と、同じものでありながら而も大分違つてゐる。 これは僕が現在住まつてゐる部屋の有樣とは違つて、僕が小説のなかで讀んだ部屋のやうに見える。 すべてありのまゝとは違つてゐる。一切のものは事實の境を脱して藝術の境地に變つてゐる。 普通ならば、たゞ粗末な赤裸々の物が、僕にはすべて興味あるものに見える。 丁度舞臺の上に一人の登場人物が出て來ただけで、もうこの退屈で堪へられない人生から逃れて愉快になるやうなものである。 藝術といふものは、疲れ切つた日常の感覺から逃れ、不安な日常の生活から離れて自然に歸り、 又われ〜の住む世界から懸け離れた想像に訴へて自然を或程度まで有るがまゝに生かして、 恰も毎日なんの野心もなく、何の恐れをも持たずに生活してゐる子供の眼に、 その周圍(まはり)をめぐる驚異の世界を示して、それに對してなんの疑ひをも懷かしめないやうにするが如きものではあるまいか。 今あの鏡のうちに映る骸骨をみると、怖ろしい姿に見える。その骸骨はこの忙がしい世界を隔てゝ、 さらに遠い世界をながめる望樓のやうに、見えない物をも見るかの如く寂然として立つてゐる。 またその骨や、その關節は、僕自身の拳のやうに生けるがごとくに見える。 -- 更に又、 鏡のうちに映る戰鬪用の斧を見ろ。それは恰も甲冑をつけ何者かゞその斧を手に持つて、 力強い腕で相手の(かぶと)を打ち割り、頭蓋骨や腦を打ち碎き、 他の迷へる幽靈と共に未知の世界を侵掠してゐるやうにも見える。 若し出來るものならば、僕はあの鏡のうちの部屋に住みたい。」

こんな囈語(うはごと)めいたことを言ひながら、鏡のうちを見つめて起ち上るや、 彼は異常の驚きに打たれた。鏡に映つてゐる部屋の(ドア)をあけて、音もなく、聲もなく、 全身に白い物を(まと)つてゐる婦人の美しい姿があらはれたのである。 婦人は憂はしげな、消ゆるが如き足取りで、彼に背中をみせながら、 (しづか)に部屋の外れの寢臺に行き、侘びしげにそこへ腰をおろして、 惱ましげな悲しげな表情をその美しい眼に浮べながら、無言の愛情を籠めた顏をコスモの方へ振り向けた。

コスモは暫く身動きもせずに、避けるに避けられぬ其眼を彼女の上に注いだ。動けば動かれるとは思ひながら、 さて振返つて、鏡の中ならぬ本當の部屋に向つて、正目(まさめ)に彼女を見るほどの勇氣も出なかつた。 而も最後に、思はずふつと寢臺の方へ見かへると、そこには何の影もなかつた。 驚きと怖れとが一つになつて、彼は再び鏡に向ふと、鏡のうちには依然として美女の姿が見えるのである。 彼女は今や眼を閉ぢて、その睫毛(まつげ)のあひだからは熱い涙をながしつゝ、 その胸に深い溜息をつくばかりで、死せるが如くに靜であつた。

コスモは自分の心持を自分で何とも言ひ現すことが出來ない位であつた。 彼はもう自覺を失つて、再び元へは(かへ)らない人になつてしまつた。 彼はもう鏡の傍に立つてゐられなくなつた。それでも、貴女に對して失禮だとは心苦しく思ひながら、 また彼女が眼をあいて自分と眼を見合はせはしないかと恐れながら、猶いつまでもぢつと彼女を見つめてゐた。 やがて彼はすこしく氣が樂になつた。彼女は(しづか)眼瞼(まぶた)を開いたが、 その眼には涙が宿つてゐなかつた。さうして、暫くぼんやりしてゐたが、 やがて又、あたりの物を見ようとするかのやうに、部屋のうちを見まはしてゐたが、 その眼はコスモの方へ向けなれなかつた。

鏡に映つてゐる部屋のうちに、彼女の眼を惹いた物は無いらしかつた。さうして、 最後に彼を見るとしても、彼は鏡に向つてゐるのであるから、當然その背中しか見えないわけである。 鏡のうちに現はれてゐる二人の姿 -- それは現在の部屋に於いて彼が後向きにならない限り、 彼と彼女とが顏を見あはせることは出來ないのである。しかも彼がうしろを向けば、 現在の部屋には彼女の姿は見出せないのである。さうなると、鏡のうちの彼女からは、 彼が空を見てゐるやうに眺められて、眼と眼がぴつたりと出合はないために、 却つて相互の心を強く接近させるかとも思はれた。

彼女はだん〜に骸骨の上に眼を落した。さうして、それを見ると俄に顫へて眼を閉ぢたやうに思はれた。 彼女は再び眼を開かなかつたが、その顏にはいつまでも嫌惡の色が殘つてゐた。 コスモはこの(いや)な物をすぐに取除けやうかと思つたが、それがために自分の存在を彼女に知らせたらば、 或は彼女に不安を與へはしないかといふ懸念があつたので、彼はそのまゝにして立ちながら彼女をながめてゐると、 彼女の眼瞼(まぶた)は寶玉を(をさ)めた貴い箱のやうにその眼をつゝんでゐた。 そのうちに、彼女の困惑の表情は次第に顏の上から消えて行つて、わづかに悲しみの表情を殘してゐるばかりになつた。 その姿は動かないらしく、唯その呼吸をする毎に規則正しい體の動きを見るばかりになつた。 コスモは彼女の眠つたことを知つた。

彼は今や何の遠慮もなしに彼女を見つめることが出來た。かれは質素な白い長い着物を着てゐる彼女の寢姿を見た。 その白い着物が以下にも好くその顏に値して、好い調和をなしてゐた。(しな)やかな其足、 おなじやうに優しい手、それらは彼女が總ての美をあらはして、その寢姿は彼女の完全な肢體の寛ぎを見せてゐた。

コスモは飽きるほどそれを見つめてゐた。後にはこの新しく發見した神殿のほとりに座を占めて、 さながら病床に侍座(じざ)する人のやうに、機械的に書物を手に()つた。 書物をみても、心はそのページの上に集中しないのである。 彼は今までの經驗に全然反對してゐる目前の出來事に(いた)く驚かされてゐるばかりで、 その驚きは斷定的、思索的、自覺的などと言ふこと無しに、單なる受動的のものであつた。 併しさういふ中にもコスモの空想は彼一流の夢を送つて、一種の陶醉に入つてゐた。

彼は自分でも判らないほど長く腰をかけてゐたが、やがて驚いて起ち上つて總身を顫はせながら再び鏡をながめると、 鏡のうちに女はもう居なかつた。鏡は唯この部屋をあるがまゝに映すのみで、ほかには何物もみえなかつた。 それは中央の寶石を取去られた金ののごとく、又は夜の空に(かゞや)く星の消えたるが如くであつた。 彼女はその姿と共に、鏡のうちに映つてゐた一切のめづらかなる物を持去つて、 鏡の外にある物と何の異ることもなくなつてしまつた。それを見て彼は一旦失望したが、 彼女は屹度再び歸つて來るに相違ない、多分あしたの夜も同じ時刻に歸つて來るといふ希望をいだいて自ら慰めてゐた。 さうして、もし彼女が重ねて來たならば、 彼の骸骨をみせて(いや)な心持を起させないやうにするばかりでなく總て彼女に不愉快をあたへさうな物は、 鏡に映らない部屋の隅にこと〜゛く移して、出來るだけこの部屋のうちを取片附けた。

コスモはその夜は眠られなかつた。

彼は戸外の夜風に吹かれ、夜の空を仰いで心を慰めるために外出した。外から歸つて、心は幾らか落付いたが、 寢床に横になる氣にはなれなかつた。その寢臺にはまだ彼女が横はつてゐるやうに思はれて、 自分がそこに寢轉ぶのは何だか神聖を涜すやうに感じられてならなかつた。併しだん〜に疲勞をおぼえて、 着物を着かへもせずにそのまゝ寢臺に横はつて、次の日の晝頃まで寢てしまつたのであつた。

翌日の夕方、彼は息づまるほどに胸の動悸を感じながら、(ひそか)に希望を抱いて鏡の前に立つたのである。 見ると又もや鏡に映る影は黄昏の光りをあつめた紫色の霞を透して光つてゐた。すべてのものは、 彼と同じやうに、天來の喜びが現はれて來て、この貧しい地上に光明を與へるのを待つてゐるやうであつた。 近くの寺院から(ゆふべ)の鐘が響いて來て六時の時刻を示すと、再び青白い美女は現はれて來て、 寢臺の上に腰を掛けたのであつた。

コスモはそれを見ると、嬉しさのあまりに夢中になつた。彼女が再び出て來たのである。 彼女はあたりを見廻して、骸骨がゐないのを見ると、かすかに滿足の面持を見せた。 その憂はしい顏色はまだ殘つてゐたが、昨夜(ゆうべ)ほどではない。彼女は更に周圍のものに氣をつけて、 部屋のそこや此處にある變つた噐具などを物めづらしさうに見てゐたが、それにもやがて()いたらしく、 睡氣に誘はれたやうに寢入つてしまつた。

今度こそは彼女の姿を見失ふまいとコスモは決心して、その寢姿に眼を離さなかつた。 彼女の深い(ねむ)りを見つめてゐると、その(ねむ)りが心を(とろ)かすやうに、 彼女からコスモに移つて來るやうに思はれた。 而も彼女が起き上つて、眼を閉ぢたまゝで、夢遊病者のやうな足どりで部屋から歩み去つた時には、 コスモは夢かささめたやうに驚いた。

コスモはもう(たと)へやうのない嬉しさであつた。大抵の人間は祕密な寳をかくし持つてゐるものである。 吝嗇(りんしよく)の人間は金を(かく)してゐう。骨董家は指環を、學生は珍書を、 詩人は氣に入つた住居(すまひ)を、戀人は祕密の抽斗(ひきだし)を、みなそれ〜゛に持つてゐる。 コスモは愛すべき女の映る鏡を持つてゐるのである。コスモは骸骨が無くなつた後、 彼女が周圍に置いてあるものに興味を持ち始めたのを知つて、人生に對する新しい對象物を考へた。 彼は鏡に映つてゐる無一物ののこの一室を、どの婦人が見ても輕蔑しないやうに作り變へようと思つた。 さうするには部屋を裝飾して、家具を備へればいゝのである。たとひ貧しいとは言へ、 彼はこの考へを果たし得る手腕を持つてゐた。これまでは財産がな爲に身分相應の面目を保つことが出來ないのを()ぢて、 その財産を作る爲に努めて細々と暮らして來てゐたのであるが、 一方彼は大學における劍術の逹人であつたので、劍術その他の練習の教授を申出て、 自分の思惑を果たすほどの報酬を要求したのであつた。その申出には學生逹も驚いた。 しかし又熱心にこれを迎へる連中も多かつたので、結局は熱心なプラーグの若い貴族逹の仲間ばかりでなく、 金持の學生や、近在の人逹にもそれを教授することになつた。それがために彼は間もなく澤山の金を得たのである。

彼は先づ噐具類や風變りの置物を、部屋の押入に中にしまひ込んだ。それから彼の寢臺その他の必要品を煖爐の兩側に置いて、 そこと他とを仕切るために、印度の織物で二つの(スクリーン)を張つた。 それから自分の寢臺のあつた隅の方に、彼女のために優美な新しい寢臺を備へた。 そんな風に、贅澤な品物が日ごとに殖えて、後には立派な婦人室が出來たのであつた。

毎夜、同じ時刻に、女はこの部屋に這入つて來た。彼女が初めてこの新しい寢臺を見た時、 半ば微笑を浮べて驚いたらしかつた。それでも其顏色は又だん〜に悲しみの色になり、 眼には涙を宿して、後には寢臺の上に身え投げ出し、(シルク)椅子褥(クツシヨン)に身を隱すやうに俯伏(うつぶ)した。

彼女は部屋の中のものが増したり、變つたりするたびにそれに氣がついて、それを喜んでゐた。 それでもやはり絶えず何か思ひ惱んでゐるのであつたが、ある夜遂に次のやうなことが起つた。 いつものやうに彼女が寢臺に腰を下すと、コスモがいま壁に飾つたばかりの繪畫に彼女は目をつけたのである。 コスモに取つて嬉しかつたのは、彼女は立上つて繪畫の方に進みよつて、注意深くそれを眺め、 如何にも嬉しさうな顏色を表はしたことであつた。而もそれが又悲しい、涙ぐんだやうな表情に變つて、 寢臺の枕に俯伏(うつぶ)してしまつたかと思ふと、又その顏色も段々に鎭まつて、 思ひ惱んでゐる樣子も消えて行つた。更に平靜な、希望ある表情が浮んで來たのであつた。

この間に、コスモはどうであつたかといふに、彼の性情から誰しも考へ得らるゝやうに戀の心を起したのであつた。 戀、それは充分に熟して來た戀である。而も悲しいことには、彼は影に戀してゐるのである。 近づくことも、言葉を傳へることも出來ない。彼女の美しい脣から言葉をきくことも出來ない。 たゞ蜜蜂が蜜壺を見るがごとくに、彼は眼で彼女を求めてゐるばかりである。 彼は絶えず獨りで歌つてゐた。

われは死なむ 處女(をとめ)の愛に --

コスモは愛慕の情を胸に破らるゝばかりであつたが、さすがに死ぬことは出來なかつた。 彼女の爲に心盡しをすればする程、彼女への戀は彌増してゆくばかりであつた。 たとひ彼女がコスモに近づくことがないにしても、 見知らぬ人間が彼女の爲に生命を捧ぐるまでに戀ひ焦れてゐるといふことを、 彼女が喜んでくれればそれで好いと望んでゐた。コスモは自分と彼女とが今かうして離れてゐるが、 いつかは彼女が自分を見て何かの合圖をしてくれるものと思つて、ひそかに自分を慰めてゐた。 何故と言へば、「すべての戀する人の心は相手に通ずるものである。」又、「實際、 どれだけの愛人たちが、この鏡の中と同じやうに、たゞ見るばかりでそれ以上近づき得られないでゐるか。 知つてゐるやうで、また知つてゐないやうで、相手の心に觸れる暇もなく、 たゞこの宇宙のやうな漠然とした心持だけで何年もの間を彷徨(さまよ)ひあるいてゐるか。」 又、「自分が若し彼女と語ることが出來さへすれば、彼女が自分の言ふことを聽いてさへくれゝば、 それだけで自分は滿足する。」 -- コスモはさう思つたりした。

ある時に、彼は壁に繪をかいて、自分の思ひを傳へようかと思つたが、いざ遣つて見ると、 繪の上手な割には手がふるへて描けなかつた。彼はそれもやめてしまつたのであつた。

生けるものは死し、死するものもまた生く。

ある夜のことであつた。コスモは自分の寳である彼女を見つめてゐると、 彼女はコスモの熱情ある眼が自分に注がれてゐることを知つたらしい自覺の顏色を仄かに現はしたのを見たのであつた。 彼女もしまひに、首から頬、額にかけて赤く染めたので、コスモはもう傍に寄りつきたい心持で夢中になつてゐた。 その夜、彼女は金剛石(ダイヤモンド)の輝いてゐる夜會服を着てゐた。それは格別彼女の美しさを増してはゐなかつたが、 又別な美しさを見せてゐた。彼女の美しさは無限であつて、かうした違つた新しい身裝(みなり)になると、 更に別な愛らしさを示してゐた。すべて自分の心は、自然の美しさを見せるために限りなく樣々な形をあらはし、 この世に出て來る總ての美しき人々は、同じ心臟の鼓動を持つてゐても、二人とは同じ顏の持主はゐないのである。 個人については猶更のこと、身の廻りのものを限りなく變へて、あらゆる美しさを見せなければならないのである。

金剛石(ダイヤモンド)は彼女の髮の中から、暗い夜の雨雲の間から星が光るやうに、 半ばその光りをかくしながら光つてゐた。彼女の腕環は、彼女が雪にやうな白い手でほてつた顏をかくす度に、 虹のやうなさま〜゛な色を輝かしてゐた。而も彼女の美しさに比べれば、こられの裝飾は何ものでもなかつた。

「一度でもいゝから、若し彼女の片足にでも接吻(キツス)することが出來たら、 僕は滿足するのだが……。」

コスモはさう思つた。あゝ、しかし、その熱情も(むく)はれないのである。 彼女が美しい魔鏡の世界からこの世に出て來る二つの道があるのであるが、彼はそれを知らないのであつた。 忽ち或る悲しみが外から湧いて來た。初めはたゞの歎きであつたが、後にはそれが惱みを起して、 彼の心に深く喰ひ入つた。

「彼女は何處かに愛人がある。あの愛人の言葉を思ひ出して彼女は顏を染めたに相違ない。 彼女は僕の所から離れると、夜晝いつでも別の世界に生きてゐる。僕の姿は彼女にはわからない。 それでゐながら、彼女はどうしてこゝへ來て、 僕のやうな強い男が彼女をこれ以上に見あげることが出來ないくらゐに戀心を起させるのだらう。」

コスモは再び彼女の方を見ると、彼女は百合(リリー)のやうな青白い顏色をして、 悲しみの色が休みなき寳石の光りを妨げてゐるやうに見えてゐた。その眼には又もや靜かな涙が滲んでゐた。 さうして、その夜の彼女はいつもより早く部屋を立去つたので、コスモは獨り取り殘されて、 胸の中が急に空虚になり、全世界はその地殼を破られたやうに思はれた。次の夜 (彼女がこの部屋に來初めてから最初の事である。)彼女は來なかつた。

コスモはもう破滅の状態にあつた。彼女との戀について、自分の敵があるといふ考へが浮んでからは、 一瞬時も心を落ちつけて居ることは出來なかつた。今までより彌増して、 彼は彼女に目のあたり逢ひたく思つた。彼は自分に言ひ聞かせた。若し、自分の戀が失敗であるならばそれで好い。 その時はもうこのプラーグの町を去るだけである。さうして、何かの仕事に絶えず働いて、 一切の苦を忘れたい。それがすべて悲しみを受けた者の行くべき道である。

さう思ひながらも、彼は次の夜も言ひがたい焦躁の胸を抱いて、彼女の來るのを待つてゐた。 しかし彼女は來なかつた。

今はコスモも煩ふ人となつた。その戀に破れた顏色をみて、仲間の學生逹が揶揄(からか)ふので、 彼は遂に教授に出ることを止めて、契約もまた破れてしまつた。彼はもう何も要らないと思つた。 偉大なる太陽の輝いてゐる空も -- 心のない、たゞ燃えてゐる砂漠であつた。 町を歩いてゐる男も女も、たゞ操り人形を見るやうで、なんの興味もなかつた。 彼に取つてすべてのものは、たゞ寫眞の磨硝子(すりガラス)にうつる絶えざる現象の變化としか見えなかつた。 たゞ彼女のみがコスモの宇宙であり、その生命であり、人間としての幸福であつた。

六日も續いて彼女は出て來なかつた。コスモは()うに決心して、その決心を實行する筈であつたが、 彼はたゞ熱情に捕へられて頭を惱み苦しめてゐたのである。彼は理論的に考へた。 彼女の姿が鏡の中に映るといふのは、鏡に何かの魔力が結び付けられてゐるに相違ない。 そこで彼は、今まで斯ういふ怪竒なことに關して研究したものに就いて、あらためて考へ直すことに決心した。 彼は獨りで言つた。

「もし惡魔が彼女を鏡の中に現出させることが出來るならば、自分が知つてゐる惡魔の話のやうに、 鏡のうちに彼女を映したばかりでなく、更に生きた姿のまゝを直接に自分の前に現出させて見せさうなものだ。 若しも彼女が自分の前に現出して、僕が彼女に對して何か惡いことをしたとしても、 それは愛がなせう(わざ)だ。僕は彼女の口から、ほんたうの事さへ聞けばいゝのだ。」

コスモは彼女はこの地上の女に違ひはない、 地上の女が何かの理由でその影をこの魔鏡の中に映してゐるに相違ないと信じてゐた。

彼は祕密の抽斗(ひきだし)をあけて、その中から魔術の書物を取出し、ランプをつけて、 夜半(よなか)から朝の三時まで三日も續けて讀み通して、それをノートに書きつけた。 それから彼は書物をしまひ込んで、次の晩には魔法に必要な材料を買ふために町へ出かけたが、 彼の求めてゐるものを得るには容易ではなかつた。何故といへば、此種の惚れ藥を作つたり、 神降しめいた事をするに就いて、必要なる合藥(あひぐすり)が書物にも完全に記されてゐない。 又その分量も、自分の痛切なる要求を滿すに留めて置くといふ限度がなかなかむづかしいからであつた。 それでも遂に彼は自分で望む總てのものを求める事が出來た。彼女が鏡の中に出て來なくなつてから七日目の夕方に、 彼は無法な、暴君的な力を()りるべき準備を整へたのである。

彼は先づ部屋の中央にあるものを取除けてしまつた。それから身を曲げて自分の立つてゐる周圍に丸い赤い線を引いた。 さうして、四隅に不思議な記號(しるし)をつけ、七と九に關する數字をつけて、 その輪の()の部分にも少しの相違もないやうに、注意深く(しら)べてから立ち上つた。

彼が立つと、教會の鐘は七時を打つた。それと同時に、彼女は恰も初めて現はれて來た時のやうに、 氣の進まないやうな緩い歩調で、出て來たのであつた。コスモは顫へた。さうして、 鏡から離れて振返つて見ると、彼女は疲れたやうな青ざめた顏をして、何か病氣か、 心配でもありさうな風情である。コスモは倒れさうになつて、(とて)も前へは進めなかつた。 それでもぢつと彼女の顏と姿を見つめてゐると、すべての喜びや悲しみを離れて、 胸が唯一杯になつて、彼女と語りたい、自分の言ふことを彼女が聞いてくれるか、一言でいゝから返事を聽きたい。 彼はもう堪らなくなつて、かねて準備した仕事にあわてゝ取りかゝつたのである。

線を引いた場所から注意深く歩いて、線の中央に小さい火鉢を置き、そのなかの炭に火をつけて、 それが燃えてゐる間、彼は窓をあけて火鉢の傍に腰をおろしたのであつた。それは蒸暑い夕方で、 絶えず雷鳴がとどろいて、大空が重苦しいやうに下界の空氣を壓付(おしつ)けてゐる日であつた。 何となく紫色をし[た]空氣が漂つてゐて、町の煙霧(えんむ)もそれを吹き消すことが出來ないやうな、 遠い郊外の匂ひが窓から吹いて來た。間もなく炭が(さかん)に起つて來ると、コスモはその上に、 香その他の材料を混合したものを撒いた。それから描いた線のなかに歩み寄つて、 火鉢の所から振向いて鏡の中の女の頭を見つめながら、強い魔法の呪文をふるへる聲で繰返した。

それがあまりに長く續かない中に、彼女は顏を青くしたが、波が打返すやうに今度は顏をあからめて、 手をもつて顏をかくした。彼は魔法を更に強く續けた。彼女は立つて、室内を不安さうにあちらこちら歩きながら、 何か腰を下すものが欲しいやうに身廻してゐた。到頭、彼女は彼を突然に見つけたやうであつた。 彼女は眼を大きく一杯にひらいて彼を見つめてゐたが、なんだか氣が進まないやうな風に身を引いて、 鏡の近くに寄つて行つた。コスモの眼が彼女に一種に魅力を與へたやうであつた。 コスモは今までこんなに間近く彼女を見たことはなかつた。眼と眼とが合ふ程までに近づいたが、 それでも彼女の表情はわからなかつた。その表情は優しい哀願を籠めてゐるものであつたが、 それ以上の、言葉に盡せない何物かがあつた。彼の胸の思ひが咽喉(のど)のところまで込み上げて來たが、 何分にもまだ魔法を續けてゐて、その歡喜も焦躁も表に現はすわけには行かなかつた。

彼女の顏に見入つてゐると、コスモは今までにない魅惑を感じた。 突然に彼女は映つてゐる部屋の中から(ドア)の外へ歩いて行つたかと思ふと、 次の瞬間に彼女は、コスモの部屋に(鏡の中ではない。)まことの姿になつて這つて來た。

彼は一切に注意を忘れて、それから飛び上つて彼女の前に跪づいた。今こそ彼が熱情の夢に描いてゐた彼女が、 生きた姿で雷鳴の黄昏に、魔術の火の輝きの中に唯ひとり、彼の傍に立つてゐるのである。

「どうしてあなたは、この雨にふつてゐる町を通つて、私のやうな哀れな女を連れて來たのです。」 と彼女は顫へる聲で言つた。

「あなたを戀してゐるからです。私はあなたを鏡の中から呼び出しただけです。」

「あゝ、あの鏡!」と、彼女は鏡を見上げて身を顫はせた。「あゝ、わたしはあの鏡のある間は一種の奴隸に過ぎないのです。 私がこゝに參つたのは、あなたの魔術の力だとお思ひになつてはいけません。 あなたが私にあひたがつていらつしやることが私の心を打つたのです。それが私をこゝへ來させたのです。」

「では、あなたは私を愛して下さるのですか。」

コスモは死のやうに靜かに、しかし感情に激して好くはわからないやうな聲で言つた。

「それはわかりません。私がこの魔法の鏡の爲に苦んでゐる間は何とも申されません。 それでもあなたの胸に抱かれて、死ぬまで泣くことが出來たら、どんなに嬉しいか知れません。 あなたが私を愛してゐて下さることは知つて居ります。いえ、それもわからないのですけど……。それでも……。」

跪づいてゐたコスモは立ち上つた。

「わたしはあなたを愛してゐます。どうしてだか、前から愛してゐます。そのほかには何にも考へて居りません。」

彼は彼女の手を握ると、彼女は手を引いた。

「いけません。わたしはあなたの手の中にあるのです。それですからいけません……。」

今度は彼女がコスモの前に跪づいて泣き出した。

「もしあなたが私を愛して下さるならば、わたしを自由の身にして下さい。あなたからも自由にして下さい。 この鏡を(こは)して下さい。」

「さうしてからも、あなたに逢ふことが出來ますか。」

「それは言へません。あなたをお(だま)し申しませんけれど……。 もう二度とお目にかゝらないかも知れません。」

鋭い驚きがコスモの胸に起つた。いま彼女は彼の手中にある。彼女はコスモを嫌つてもゐない。 さうして、逢ひたと時はいつでも逢へるのであるが、鏡を(こは)すといふことは、 彼の眞實の生活を破壞することにもなり、彼の宇宙から唯一つの光明を追放することにもなるのである。 愛の樂園を見ることの出來るこの一つの窓を失つてしまへば、全世界は彼に取つて牢獄に過ぎない。 愛に對して不純のやうではあるが、彼はその實行を躊躇したのであつた。

「あゝ、あの人は私を愛して下さらない。私は感じてゐるのに、あの人は愛して下さらない。 私はもう自由になれなくとも好いから、あの人を愛します。」

「もう待つては居られない。」

コスモはかう叫んで、大きい劍の立つてゐる部屋の隅へ飛んで行つた。

もう暗くなつてゐた。部屋の中には燃えさしの火が輝いてゐた。彼は劍の鞘を手に持つて鏡の前に立つたのである。 彼が劍の柄頭(つかがしら)で鏡に一撃をあたへると、刀身は鞘から半分ほど拔け出して、 柄頭(つかがしら)は鏡の上の壁を打つた。この時、怖ろしい雷鳴が部屋の中に發して、 コスモは二度と鏡を打つことが出來ずに、無意識のまゝで爐のほとりに倒れてしまつた。

コスモが意識を取返した時には、女も鏡も失せてゐた。彼はそれ以來頭痛を覺えて、數週間のあひだは寢臺に横はつてゐた。

彼は理性を恢復すると、鏡の行方について考へ始めた。彼女については、今までの通りに歸つてくれることを望んでゐたが、 彼女の運命は鏡の中に含まれてゐて、鏡と運命を倶にしてゐるのである。 彼はそれについて更に焦躁を感じた。彼としては、彼女が鏡を持去つたとは思はれなかつた。 それが壁にしつかりと取付けてなかつたとは言へ、それを持運ぶべく彼女には餘り重いのである。 彼は又その時の雷鳴について考へた。彼を打ち倒したものは、雷電(いかづち)ではない、何か他の物であるあのやうに斷定した。 何か彼に復讐を企てた惡魔が、自己の安全を圖るために、神變(しんぺん)不思議の魔力を以て爲したのではあるまいか。 それとも又、何か他の方法で彼の鏡が前の持主のところへ戻つたのではあるまいか。 さうして恐るべきことは、又もや他の男に彼女を渡すのではあるまいか。 その男は、コスモ以上の魔法の力を所有してゐて、 あの時に躊躇して鏡を碎き得なかつた彼の利己的な不決斷を呪ふやうな種々の事故を作りはしないであらうか。 實際、それらの事を考へて、我が愛する者の爲に、又自分に自由を求めた女の爲に、さま〜゛に心を碎くのは、 鏡の持主たるコスモとしては或程度までは當然のことである。かうして、コスモの絶えざる觀察の上に浮んで來る總てのものは、 惱める戀人のこゝろを狂はすに十分であつた。

彼は自分の體の恢復を待つてゐられずに、到頭外出するやうになつた。 彼は先づ彼の古道具屋の老人のところへ他のものを求めに來たやうな顏をして出かけたのである。 鏡のことについて好く知つてゐる老爺(おやぢ)の奴めが嘲笑的な顏をしてゐるのが、 コスモには覺られた。而もコスモは其處にある家具や噐物のうちに鏡を見出すことは勿論、 又その鏡がどうなつてゐるかを知ることも出來なかつた。

老人はその鏡が盜まれたといふことを聞いて、極度に驚いた。而もその驚きは(いつは)りで、 内心は平氣であるらしいことをコスモは認めた。彼は悲しみを胸一杯にいだきながら、 それを出來るだけ押隱して、そこらを色々に搜してみたが、遂に無效に終つたのであつた。

彼は他人に對して別に何事もきくかうとはしなかつたが、それでも搜索の端緒(いとぐち)になるやうな暗示があらば、 どんなことでも聞き逃すまいと、常に聽耳(きゝみゝ)を立てゝゐた。外出の節は、 萬一運好く彼の鏡に一目でも出逢ふ時があつたらば、その時すぐに打割る爲にいつも身には短い重い鐡鎚(かなづち)をつけてゐた。 彼にとつては、彼女に出逢ふことは最早第二の問題であつた。たゞ彼女の自由さへ得ることが出來ればそれで好いと思つてゐた。 彼は青ざめた幽靈のやうに(やつ)れ果てゝ自分の失策の爲に彼女がどんなに苦しみ惱んでゐるかと心を(いた)め盡して、 所々方々をさまよひ歩いてゐた。

ある晩、町で最も宏壯なる別邸の一として知らるゝ家の集會に、コスモもまじつてゐた。 彼は貧しいながらも、何か自分の搜索を早める端緒(いとぐち)を見出しはしまいかと思つて、 すべての招待に應じて其機會を失はないやうに努めてゐたのであつた。 この席上でも彼は何か探り出すことはないかと、 洩れ聞える諸人(しよじん)の談話を一々聞き逃さないやうにうろつき廻つてゐた。 さうして、會場の片隅で靜に話してゐる婦人の群に近づくと、ひとりの婦人は他の婦人にこんなことを話してゐるのが聞えた。

「貴女はあのホーヘンワイス家のお姫樣が、不思議な御病氣でいらつしやるのを御ぞんじでございますか?」

「はい、あの方はもう一年あまりもお惡いのでございます。あんなお美しいお方が、そんな怖いお患ひをなすつていらつしやるのは、 お氣の毒でございますね。ついこの二三週間のあひだは大層宜しかつたやうでしたが、又この二三日以來お惡いさうで、 以前よりも確に酷くおなりなすつたと言ひますが、よほどわからない(いは)れがあるのでございませうね。」

「何か御病氣に(いは)れがおありになるのでございますか?」

「わたしもよくは伺つて居りませんけれど、こんな話でございます。一年半ほど前にお姫樣が、 お屋敷で何か大事な御用を仰せつかつてゐる老女をお叱りになつたことがあるのださうでございます。 さうすると、その老女は何か辻褄の合はない(おど)し文句を殘して、そのまゝ居なくなつてしまひました。 それから間もなく御病氣が起つたのださうで……。さうして、可怪(をか)しいことには、 お姫樣の化粧室に置いてあつて、いつもお使ひになる古代の鏡が同時に()くなつてゐたのださうでございます。」

それから婦人逹の話は小さい囁きになつたので、コスモは頻りにそれを聞きたいと思つても、 もうそれ以上を知ることは出來なかつた。この場合、コスモは彼の婦人逹の好竒心のなかに飛び込んで、 一緒に話したら好かつたかも知れなかつたが、彼は驚きのあまりにそれをなし得なかつたのである。 ホーヘンワイス家の姫に名はコスモもかねて知つてゐたが、まだその人を見たことはなかつた。 姫が鏡の中から拔け出した彼女でない限り、コスモは見たことのない婦人であつて、 かの怖ろしい夜に自分の前に跪づいた人であるかどうかを、彼は疑はざるを得なかつた。 彼は何分にも體が弱つてゐるので、今聞いたことの爲に甚く心を勞して、もうそこに落付いてはゐられなくなつた。 彼は表へ出て、自分の下宿に辿りついた。

姫に近づき得るなどといふことは夢にも思へないことながら、 その住居(すまひ)がわかつたことは少なくも彼に取つては喜びである。 彼には大いなる喜びであつた。彼は思ひもよらずこれだけのことを知つたやうに、 これからも又どんな思ひがけないことが近い中に起つて來るであらうかと待ち望んでゐたのであつた。

「君は最近にスタインワルドに逢つたかい。」

「いや暫く逢はないね。彼奴(あいつ)は劍鬪で僕の好い相手なんだが……。 あれが古道具屋から出て來た時に會つたぎりのやうに思ふよ。それ、君と一緒に甲冑(かぶと)を見に行つたことがあるだらう。 あの店だよ。それは丸三週間前だ。」

この話でコスモはヒントを得たのであつた。フォン・スタインワルドと言へば、向う見ずの烈しい性情の所有者で、 大學でもみんなが怖れてゐる男である。(さて)はあの男が鏡を持つてゐるに違ひないと思つたが、 コスモに取つては苦手であつた。この場合、亂暴な急激手段はいづれにしても成功しさうにもない。 コスモが望んでゐるのは、唯彼の鏡を打割る機會さへ捉へ得ればいゝのである。 それには時を待つよりほかはない。彼は心のうちに種々の手段方法を(めぐ)らして見たが、 どれも纒まらなかつた。

到頭その機會が來た。ある夕方、スタインワルドの家の前をとほると、 幾つかの窓にめづらしく(にぎや)か燈がついてゐるのを見た。 暫く氣をつけて見てゐると、何かの集まりの爲に、だん〜に人が入込んでゆくので、 コスモは急いで下宿に歸つて、出來るだけ贅澤な服裝(なり)をして、 自分も他の客に(まじ)つて其家の中へ無事に入込むことを考へた。それには、 コスモはその風采から言つても申分はないのであつた。

この町の別な處にある高樓(たかどの)の靜かな一室に、生きてゐるとは思はれない、大理石のやうな姿をした女が横はつてゐた。 口を硬く閉ぢ、眼瞼(まぶた)をたゝんでゐて、その顏には美しい死が彼女を凍らせてゐるかと思はれた。 その手は胸の上に置かれてゐるが、呼吸(いき)もないやうである。

この死人の傍には二三の人が控へてゐて、人間の聲がまだ生き殘つてゐるものを破るのを恐るゝ如くに、 小さく囁いてゐた。死人の靈魂は人間のすべての感覺が(とゞ)き得ない高い所にあるのもかゝはらず、 女の傍には二人の婦人が、悲しみを(をさ)へるやうな極めて靜かな聲で話してゐた。

「この方はもう一時間以上もかうしてゐられます。」

「もうお長いことはないかと存じます。」

「この數週間のあひだにどうして斯うもお痩せになつたのでございませう。この方が何かお話し下すつて、 何を苦しんでゐらつしやるのか仰しやつて下されば宜しいのですが、 お目ざめになつてゐましても、何うしても仰しやらないのでございます。」

「昏睡状態になつて、何もおつしやりませんでしたか?」

「何もお聞き申さないのでございます。それでもこのお方が時々お歩きになつて、 ある時などは一時間のあひだもお見えにならなくなつた事があつて、 お屋敷中の人逹が吃驚なすつたさうでございます。その時、このお方は雨にお濡れになつて、 お疲れと恐れに爲に死んだやうになつていらしつたさうで……。 その時でさへも何んなことが起つたのか、何にも仰しやらなかつたさうでございます。」

この時、傍についてゐる人逹は、動かない死人の女の口から聞えるか聞えないかの弱い聲をきいて吃驚した。 續いて何か頻りに譯のわからないやうな言葉が出たかと思ふと、そのうちに「コスモ」といふ言葉が彼女の口から出た。 それから暫くの間、又そのまゝ眠つてゐたが、突然大きい叫び聲を立てゝ、寢臺の上に飛び上つて、 兩手を強く握りしめて頭の上にあげ、その眼を大きく輝かして、 墓場から拔け出して來た幽靈のやうに狂氣の叫び聲をあげた。

「私はもう自由です。わたしは自由です。あなたにお禮を言ひます!」

彼女は寢臺の上に身を投げ出して泣いた。それから又立ち上つたかと思ふと、烈しく部屋の中をちらこちら歩きまはつて、 何か嬉しいやうな呆れてゐる樣子であつたが、たがて呆氣にとられてゐる附添ひの者を見返つて言つた。

「早く、リザ。私の外套と頭巾とを持つて來ておくれ。」

彼女は又低い聲で言つた。

「早くしておくれ。あの方のところへ行かなければならないから。行くなら一緒においでなさい。」

間もなく二人は町へ出て、モルドーに架けられた橋に向つて急いだ。月は中空(なかぞら)に冴えて、 町には人の通りもなかつた。姫はすぐに侍女の先へ駈け拔けて、侍女が橋の(たもと)まで來た時に、 彼女はもう橋の中程まで渡つてゐた。

「あなたは自由におなりになりましたか。鏡は(こは)しました。自由におなりでしたか。」

姫が急いで行く時、彼女の傍でかういふ聲が聞えたのであつた。姫は振向いて見ると、橋の隅の欄干に()りかゝつて、 立派な服裝(なり)をしてゐながら、白い顏をして顫へてゐるコスモが立つてゐた。

「おゝ、コスモ。私は自由になりました。私はいつまでもあなたのものです。 私はあなたの所へ行く途中だつたのです。」

「私もあなたのところへ行く途中でした。死がこれだけのことをさせたのです。私はこれ以上どうにも出來なかつたのです。 私は報はれたのでせうか。私は少しでも貴女を愛することが出來るでせうか。……ほんたうに……。」

「あなたが私を愛していらつしやることは、わたしにもよく判りました。それにしても、 どうして「死」などと言ふことを仰しやるのです。」

その答へは聞かれなかつた。コスモは手で横腹を強く(おさ)へてゐたが、姫はそれをよく見ると、 押へてゐる彼の指のあひだからおびたゞしい血が迸出(ほとばし)つてゐた。 彼女は(いた)ましさと悲しさが胸一杯になつて、兩手で彼を抱いた。

侍女(こしもと)のリザが駈けつけて來た時、姫は青白い死人の前に跪づいてゐた。 その死人の顏は妖魔の如き月光の下に微笑を[浮]べて --

-- 終 --


更新日: 2003/02/11

世界怪談名作集:幽靈の移轉


幽靈の移轉

ストツクトン 著

岡本綺堂 譯

ジョン・ヒンクマン氏の田園住宅は、種々の理由から僕に取つては甚だ愉快な場所で、 やゝ無遠慮ではあるが、まことに居心地の好い接待振りの寓居であつた。 庭には綺麗に刈り込んだ芝原と、塔のやうに突つ立つた(かしは)(にれ)の木があつて、 ほかにも所々に木立が茂つてゐた。家から遠くないところに小さい流れがあつて、 そこには皮附きの粗末な橋が架けてあつた。 こゝらには花もあれば果物(くだもの)もあり、愉快な人逹も住んでゐて、 將棋、珠突き、騎馬、散歩、魚釣りなどの遊戲機關も具はつてゐた。 それらは勿論、大いに人を惹くの力はあつたが、單にそれだけの事ではそこに長居をする氣にはなれない。 僕は鱒の捕れる時節に招待されたのであるが、先づ初夏の時節を好しとして訪問したのである。 草は乾いて、日光は()のみ暑からず、そよ〜と風が吹く。 その時、我がマデライン孃と共に、枝の茂つた(にれ)の下蔭をそゞろに歩み、 木立のあひだを(しづ)かに縫うて行くのであつた。

僕は我がマデライン孃と言つたが、實のところ、彼女はまだ僕の物では無いのである。 彼女はその身を僕に捧げたと言ふわけでもなく、僕の方からもまだ何とも言ひ出したのではなかつたが、 自分が今後この世に生きながらへて行くには、どうしても彼女を我物にしなければならないと考へてゐるので、 自分の腹の中だけでは彼女を我がマデラインと呼んでゐたのであつた。 自分の考へえてゐることを早く彼女に告白してしまへば、 こんな獨り極めなどをしてゐる必要は無いのであるが、 (さて)それが非常にむづかしい事件であつた。

それは總ての戀する人が恐れるやうに、およそ戀愛の成るか成らぬかの間に又樂しい時代があるのであるから、 (にはか)にそれを突破して終末に近づき、 わが愛情の目的物との交通又は結合を手早く片附けてしまふのを恐れる許りでなく、 僕は主人のジョン・ヒンクマン氏を大いに恐れてゐるが爲であつた。 彼の紳士は僕の良い友逹ではあるが、彼に對してお前の姪をくれと言ひ出すのは、 僕以上の大膽な男でなければ出來ないことであつた。 彼女は主としてこの家内一切の事を切廻してゐる上に、 ヒンクマン氏が屡々語るところに()れば、 氏は彼女を晩年の杖柱とも頼んでゐるのであつた。 この問題について、マデライン孃が承諾をあたへて斷然それを切出すだけの勇氣を生じたでもあらうが、 前にも言ふ通りの次第で、僕は一度も彼女にそれを打明けたことは無く、 唯それに就いて、晝も夜も——殊に夜は絶えず思ひ明かしてゐるだけの事であつた。

ある夜、僕は自分の寢室にあてられた廣々しい一室の、 大きいベッドの上に身を横へながら、まだ眠りもやらずにゐると、 この室内の一部へ映し込んで來た新しい月のぼんやりした光によつて、 主人のヒンクマン氏が(ドア)に近い大きい椅子に沿うて立つてゐるのを見た。

僕は非常に驚いたのである。それには二つの理由がある。 第一、主人はいまだ曾て僕の部屋へ來たことは無いのである。 第二、彼は今朝外出して、幾日間は歸宅しない筈である。それがために、 僕は今夜マデライン孃と相携へて、月を見ながら廊下に久しく出てゐることが出來たのであつた。 今こゝにあらはれた人の姿は、いつもの着物を着てゐるヒンクマン氏の相違なかつたが、 唯その姿のなんとなく朦朧たるところが確に幽靈であることを思はせた。

善良なる老人は途中で殺されたのであらうか。さうして、 彼の魂魄がその事實を僕に告げんとして歸つたのであらうか。 更に又、彼の愛する——の保護を僕に頼みに來たのであらうか。 かう考へると、僕の胸は(にはか)に跳つた。

その瞬間に、彼の幽靈のやうな物は話しかけた。

「あなたはヒンクマン氏が今夜歸るかどうだか御承知ですか。」

彼は心配さうな樣子である。この場合、うはべに落付きを見せなければならないと思ひながら、 僕は答へた。

「歸りますまい。」

「やれ、ありがたい。」と、彼は自分の立つてゐたところの椅子に()りながら言つた。 「こゝの家に二年半も住んでゐる間、あの人は一晩も家を明けたことは無かつたのです。 これで私がどんなに助かるか、あなたには(とて)も想像が附きますまいよ。」

かう言ひながら、彼は足をのばして背中を椅子へ寄せかけた。 その姿形(すがたかたち)は以前よりも濃くなつて、 着物の色もはつきりと浮んで來て、 心配さうであつた彼の容貌も救はれたやうに滿足の色をみせた。 「二年半……。」と、僕は叫んだ。「君の言ふことは判らないな。」

「わたしがこゝへ來てから、確にそれほどの長さになるのです。」と、幽靈は言つた。 「なにしろ私のは普通の場合と違ふのですからな。それに就いて少しお斷りをする前に、 もう一度おたづね申して置きたいのはヒンクマン氏のことですが、 あの人は今夜たしかに歸りませんか?」

「僕に言ふことに何でも(うそ)は無い。」と、僕は答へた。 「ヒンクマン氏は今日、二百マイルも遠いブリストルへ行つたのだ。」

「では、續けてお話をしませう。」と、幽靈は言つた。 「わたしは自分の話を聽いてくれる人を見つけたのが何より嬉しいのです。 併しヒンクマン氏がこゝへ這入つて來て、わたしを取つ捉まへると言ふことになると、 わたしは驚いて途方に暮れてしまふのです。」

そんな話を聞かされて、僕はひどく面喰つてしまつた。

「總てが非常に可笑な話だな。一體、君はヒンクマン氏の幽靈かね。」

これは大膽な質問であつたが、僕のこゝろの中には恐怖などを懷くやうな餘地が無いほどに、 他の感情が一ぱいに滿ちてゐたのであつた。

「さうです。わたしはヒンクマン氏の幽靈です。」と、相手は答へた。 「併し私いんはその權利がないのです。そこで、わたしは常に不安をいだき、 又あの人を恐れてゐるのです。それは全く前例の無いやうな不思議な話で……。 今から二年半前に、ジョン・ヒンクマンといふ人は、大病に罹つてこの部屋に寢てゐたのですが、 一時は氣が遠くなつて、もう本當に死んだのだらうと思はれたのです。 その報告があまり輕率であつた爲に、彼は已に死んだものと認められて、 わたしがその幽靈になることに決められたのです。 (さて)いよ〜その幽靈となつた時、彼の老人は息を吹きかへして、 それからだん〜に回復して、不思議に元の身體になつたと判つたので、 その時のわたしの驚きと怖れはどんなであつたか。まあ、察してください。 さうなると、私の立場は非常に入り組んだ困難なものになりました。 再び元の無形體に立復(たちかへ)る力も無く、 さりとて生きてゐる人の幽靈になり濟ます權利もないと言ふわけです。 わたしの友逹は、まあそのまゝに我慢してゐろ、ヒンクマン氏も老人のことであるから長いことはあるまい。 彼は今度死ねば、おまへの地位を確保することが出來るのだから、 それまで待つてゐろと忠告してくれたのですが……。」と、 彼はだん〜に元氣づいて話しつゞけた。「どうです。 あの爺さん今までよりも更に逹者になつてしまつて。 私のこの困難な状態がいつまで續くことやら見當が付かなくなりました。 わたしは彼と出逢はないやうに、一日逃げ廻つてゐるのですが、 さりとてこゝの家を立去るわけには行かず、 又あの老人がどこへでも私のあとを附けて來るやうに思はれるので、實に困ります。 まつたく私はあの老人に祟られてゐるのですな。」

「なるほど、それは奇妙な状態に立至つたものだな。」と、僕は言つた。 「併し君はなぜヒンクマン氏を恐れるのかね。 あの人が君に危害を加へると言ふこともあるまいが……。」

「勿論、危害を加へると言ふわけではありません。」と、幽靈は言つた。 「併しあの人の實在すると言ふことが、わたしに取つては衝動(シヨツク)でもあり、 恐怖(テロル)でもあるのです。あなたが若しわたしの場合であつたらば何う感じられますか。 まあ想像して御覽なさい。」

僕は所詮そんな事の想像できる筈はなく、唯身震ひする許りであつた。 幽靈は又言ひ續けた。

「もし私が(たち)の惡い幽靈であつたらば、 ヒンクマン氏より他の人の幽靈になつた方が更に愉快であると思ふでせう。 あの老人は怒りつぽい人で(すこぶ)る巧妙な罵詈雜言をならべ立てる—— あんな人はこれまで滅多に出逢つたことがありません。 そこで、彼がわたしを見つけて、わたしがなぜこゝにゐるか、 また幾年こゝにゐるかと言ふことを發見したら——いや、 屹度(きつと)發見するに相違ありません——そこにどんな事件が出來(しゆつらい)するか、 わたしにも殆ど見當が付かないくらゐです。わたしは彼の怒つたのを見たことがあります。 なるほど其人逹に對して危害を加へはしませんでしたが、 その風雨(あらし)の凄まじいことは大變で、相手のものはみな彼の前に縮みあがつてしまひました。」

それが總て事實であることは、僕も承知してゐた。ヒンクマン氏にこの癖がなければ、 僕も彼の姪について進んで交渉することが出來るのであつた。 かう思ふと、僕はこの不幸なる幽靈に向つて、本當の同情を持つやうにもなつて來た。

「君は氣の毒だ。君の立場はまつたく困難だ。ひとりの人間が二人になつたと言ふ話を僕も思ひ出した。 さうして、彼が自分と同じ人間を見つけた時には、定めて非常に憤激するだらうと言ふことも想像されるよ。」

「いや、それとこれとはまるで違ひます。」と、幽靈は言つた。 「ひとりの人間が二人になつて地上に住む——獨逸でいふドッペルゲンゲルのたぐひは、 ()つとも違はない人間が二人あるのですから、 勿論 種々(いろ〜)の面倒を生じるでせうが、わたしの場合は又それと全然相違してゐるのです。 私はヒンクマン氏とこゝに同棲するのでなく、彼に代るべくこゝに控へてゐるのですから、 彼がそれを知つた以上、どんなに怒るか知れますまい。あなたはさう思ひませんか。」

僕はすぐに首肯(うなづ)いた。

「それですから今日はあの人が出て行つたので、わたしも暫時樂々としてゐられると言ふわけです。」 と、幽靈は語りつゞけた。「さうして、あなたと斯うして話すことの出來る機會を得たのを喜んでゐるのです。 わたしはたび〜この部屋に來て、あなたの寢てゐるところを見ましたが、 うつかり話しかけることが出來なかつたのです。あなたが私と口を利いて、 若しそれがヒンクマン氏に聞えると、どうしてあなたが獨り言を言つてゐるのかとおもつて、 この部屋へうかゞひに來る(おそ)れがありますから……。」

「併し君の言ふことは人に聞えないのかね。」と、僕は訊いた。

「聞えません。」と、相手は言つた。「誰から私の姿を見ることがあつても、 誰もわたしの聲を聞くことは出來ません。わたしの聲は、 わたしが話しかけてゐる人だけに聞えるので、ほかの人には聞えません。」

「それにしても、君はどうして僕のところへ話しに來たのかね。」と、僕は又訊いた。

「わたしも時々には人と話してみたいのです。殊にあなたのやうに、自分の胸一ぱいに苦勞があつて、 我々のやうな者がお見舞ひ申しても驚く餘地がないやうな人と話して見たかつたのです。 あなたも私に厚意を持つて下さるやうに、特におねがひ申して置きます。 なにしろヒンクマン氏に長生きをされると、わたしの位地ももう支へ切れなくなりますから、 現在大いに願つてゐるのは何處かへ移轉することです。それに就いて、 あなたもお力を貸して下さるだらうと思つてゐるのです。」

「移轉……。」と、僕は思はず大きい聲を出した。「それはどう言ふわけだね。」

「それはかうです。」と、相手は言つた。 「わたしはこれからら誰の[誤:これから誰かの]幽靈になるに行くのです。 さうして、ほんたうに死んでしまつた人の幽靈になりたいのです。」

「そんなことは譯はあるまい。」と、わたしは言つた。 「そんな機會は屡々あるだらうに……。」

「どうして、どうして……。」と、私の相手は口早に言つた。 「あなたは我々仲間にも競合(せりあ)ひのあることを御存じないのですな。 どこかに一つ明きが出來て、私がそこへ出かけようとしても、 その幽靈には俺がなるといふ申込みが澤山あつて困るのです。」

「さう言ふことになつてゐるとは知らなかつた。」と、 僕もそれに對して大いに興味を感じて來た。

「さうすると、そこには規則正しい組織があるとか、或は先口から順々に行くと言ふ譯だね。 まあ、早く言へば、理髮店へ行つた客が順々に頭を刈つて貰ふといふやうな理窟で……。」

「いや、どうして、それが然うは行かないので……。 我々の仲間には果しも無く待たされてゐる者があります。 若しこゝに好い幽靈の株があるといへば、いつでも大變な競爭が起る。 又、詰まらない株であると、誰も振向いても見ない。さういふわけですから、 相當の明株があると知つたら、大急ぎでそこへ乘込んで、 わたしが現在の窮境を逃れる工夫をしなければなりません。 それにはあなたが加勢して下さることが出來ると思ひます。 若し何時(なんどき)どこに幽靈の明株が出來るといふ見込みがあつたら、 まだ一般に知れ渡らないうちに、前以て私に知らせて下さい。 あなたが鳥渡(ちよと)報告して下されば、わたしはすぐに移轉の準備に取りかゝつてゐます。」

「それはどういふ意味だね。」と、僕は怒鳴つた。「すると、 君は僕に自殺でもしろと言ふのか。さもなければ、君のために人殺しでもしろと言ふのかね。」

「いや、いや、そんな譯ではありません。」と、彼は陽氣に笑つた。 「そこらには確に多大の興味を以て注意されるべき戀人同士があります。 さういふ人逹が何かのことで意氣銷沈したといふ場合には、 まことにお誂へ向きの幽靈の株が出來るのです。と言つても、 何もあなたに關はることではりません。唯わたしが斯うしてお話をしたのは貴方ひとりですから、 若し私の役に立つやうな事があつたらば、早速お知らせを願ひたいと言ふだけのことです。 その代りに、わたしの方でもあなたの戀愛事件に就いては、喜んで御助力をする積りです。」

「君は僕の戀愛事件を知つてゐるらしいね。」と、僕は言つた。

「オー、イエス。」と、彼は少しく口をあいて言つた。 「私はこゝにゐるのですからね。それを知らないわけには行きませんよ。」

マデライン孃と僕との關係を幽靈に見張つてゐられて、二人が立木のあひだなどを愉快に散歩してゐる時にも、 彼に附いてゐられるのかと思ふと、それは氣味の好くないことであつた。 とは言へ、彼は幽靈としては(すこぶ)る例外に屬すべきもので、 彼等の仲間に對して普通に我々が懷くやうな反感を持つことも出來なかつた。

「もう行かなければなりません。」と、幽靈は立ち上りながら言つた。 「明晩もどこかでお目にかゝりませう。さうして、あなたがわたしに加勢する、 わたしがあなたに加勢する——この約束を忘れないで下さい。」

この會見について何事かをマデライン孃に話したものか何うかと、 僕も一旦は迷つたが、又すぐに思ひ直して、この問題については沈默を守らなければならないと覺つた。 若しこの家の中に幽靈がゐるなどといふことを知つたらば、彼女はおそらく即刻にこゝを立去つてしまふであらう。 このことに就いては何にも言はないで、僕も擧動を愼んでゐれば、 彼女に疑はれる氣遣ひは確に無い。僕はヒンクマン氏が初めに言つたよりも、 一日でも好いから遲く歸つて來るやうにと念じてゐた。さうすれば、 僕はおちついて我々が將來の目的についてマデライン孃に相談することが出來ると思つてゐたのであるが、 今やそんな話をする機會がほんたうに與へられたとしても、それをどう利用して好いか、 僕にはその準備が整つてゐないのであつた。若し何か言ひ出して、 彼女にそれを拒絶されたらば、僕は一體どうなるであらうか。

いづれにしても、僕が彼女に一切を打明けようとするならば、 今がその時節であると思はれた。マデライン孃も僕の内心に浮んでゐる情緒を大抵は察してゐるべき筈であつて、 彼女自身も何とかそれを解決してしまひたいと望んでゐるのも無理ならぬことであらう。 而も僕は暗黒(くらやみ)のなかを無鐡砲に歩き出すやうには感じてゐなかつた。 若し僕が汝を我にあたへよと申出すことを、彼女も内々待受けてゐるならば、 彼女は(あらか)じめそれを承諾しさうな氣色(けしき)を示すべき筈である。 若し又、そんな雅量を見せさうもないと認めたらば、僕はなんにも言はないで、 一切をそのまゝに保留して置く方が寧ろ()しであらうと思つた。



その晩、僕はマデライン孃と共に、月の明るい廊下に腰をかけてゐた。 それは午後十時に近い頃で僕はいつでも夜食後には自分の感情の告白をなすべき準備行動を試みてゐたのである。 僕は積極的にそれを實行しようとは思はない。適當のところで徐々に到逹して、 いよ〜前途に光明を認めたいといふ時、こゝに初めて眞情を吐露しようと考へてゐたのである。

彼女も自分の位地を諒解してゐるらしく見えた。少くとも僕から見れば、 僕もそろ〜打明けても好いところまで近いて來て、彼女もそれを望んでゐるらしく想像された。 なにしろ今は僕が一生涯における重大の危機で、一旦それを口へ出したが最後、 永久に幸福であるか、或は永久に悲慘であるかが決定するのである。而も僕が默つてゐれば、 彼女は容易にさういふ機會をあたへてくれないであらうと信じられる種々(いろ〜)の理由があつた。

かうして、マデライン孃と一緒に腰をかけて、少しばかり話などをしてゐながら、 僕はこの重大事件に就いて甚だ思ひ惱んでゐる時、ふと見あげると、 我々より十二尺とは(はな)れてゐない處に、彼の幽靈の姿が見えた。

幽靈は廊下の欄干(てすり)に腰をおろして片足をあげ、 柱に背中を寄せかけて片足をぶらりと埀れてゐた。 僕はマデライン孃と向ひ合つてゐるので、彼は彼女の背後(うしろ)、 僕の殆ど前に現れてゐるのであつた。僕はそれを見て、 ひどく驚いたやうな樣子を示したに相違なかつたが、 幸に彼女は庭の景色をながめてゐたので氣が()かないらしかつた。

幽靈は今夜どこかで僕に逢はうと言つたが、 まさかにマデライン孃と一緒にゐるところへ出て來ようとは思はなかつたのである。 若しも彼女が自分の叔父の幽靈を見付けたとしたら、 僕はなんと言つて其事情を説明して好いか判らない。 僕は別に聲は立てなかつたが、その困惑の樣子を幽靈も明かに認めたのである。

「御心配なさることはありません。」と、彼は言つた。「私がこゝにゐても、 御婦人に見付けられることはありません。又、わたしが直接に御婦人に話しかければ[誤?:かけなければ]、 何もきこえる筈はありません。勿論、話しかけたりする氣遣ひもありません。」

それを聞いて、僕も安心したやうな顏をしたらうと思はれた。幽靈はつゞけて言つた。

「それですからお困りになることはありません。併し、私の見るとこでは、 あなたの遣口(やりくち)はどうも巧くないやうですね。私ならば、 もう猶豫無しに言ひ出してしまひますがね。こんな好い機會は二度とありませんぜ。 躊躇してゐてはいけませんよ。私の鑑定では、相手の婦人もよろこんであなたの言ふ事に耳を傾けますよ。 婦人の方でも不斷から然うあれかしと待ち構へてゐるのですからね。 (あるじ)のヒンクマン氏は今夜ぎりで當分どこへも出かけさうもありませんぜ。 確にこの夏は出かけませんよ。勿論、私があなたの立場にあれば、 ヒンクマン氏がどこにゐやうとも、最初からその人も姪にラヴしたり何ぞはしませんがね。 マデライン孃にそんなことを申込んだ奴があると知れたら、 あの人は大立腹で、それは、それは、大變なことになりませうよ。」

それは僕も同感であつた。

「まつたくそれを思ふと、實に遣り切れない。彼のことを考へると……。」と、 僕は思はず大きい聲を出した。

「え、誰のことを考へると……。」と、マデライン孃は急に向き直つて訊いた。

いや、どうも飛んだことになつた。幽靈の長話はマデライン孃の注意を惹かなかつたが、 僕は我々を[誤?:我を]忘れて大きい聲を出したので、それははつきりと彼女に聞えてしまつたのである。 それに對して何とか早く説明しなければならないが、 勿論その人が彼女の大事な叔父さんであるとは言はれないので僕は急に思ひ付きの名を言つた。

「え、ヴラー君のことですよ。」

思ひつきとは言つても、これは極めて正當の陳述であつた。ヴラー君といふのは一個の紳士で、 彼もマデライン孃に對して大いに注目してゐるらしいので、 僕はそれを考へるたびに、彼に對して忍ぶ能はざる不快を感じてゐたのであつた。

「貴方、ヴラーさんの事をそんな風に言つては惡うござんすわ。」と、彼女は言つた。 「あの方は若いに似合はず、非常に好く教育されて、物がよく判つて、平生の態度も快活な人ですわ。 あの方はこの秋、立法官に選擧されたと言つていらつしやるのですが、 私も適任者だと思つてゐますのよ。あの方ならば屹度(きつと)好うござんすわ。 言ふべきことがあれば、どういふ時にどう言ふかと言ふことを、 あの方はちやんと御存じですもの。」

彼女は別に腹を立つたといふ樣子も見せずに、極めて、穩かに、 極めて自然にそれを話した。若しマデライン孃が僕に厚意を有するならば、 僕が競爭者に對して不折合の態度を示したからと言つて、それに就いて惡感を懷かない筈である。 彼女の言葉全體を案ずれば、僕にも大抵判るだけのヒントを得た。 若しヴラー君が僕の現在に地位にあれば、 すぐに自分の思ふことを言ひ出すに相違あるまいと思つた。

「成程あの人に對してそんな考へを持つのは惡いかも知れませんが……。」と、僕は言つた。 [「]併しどうも僕には我慢が出來ないのですよ。」

彼女は僕を咎めようともせず、其後はいよ〜落付いてゐるやうに見えた。 併し僕は甚だ苦んだ。僕は自分の心のうちに絶えずヴラー君の事を考へてゐないと言ふことを、 こゝで承認したくなかつたからである。

「そんな風に大きい聲で言はない方が好いでせう。」と、幽靈は言つた。 [「]それで無いと、あなた自身が困るやうなことになりますよ。 私はあなたの爲に諸事好都合に運ぶことを望んでゐるのです。 さうすれば、あなたも進んで私を助けて下さるやうになるでせう。 殊に私があなたの御助力を致すやうな機會を作れば……。」

彼が僕を助けてくれるのは、此際こゝを早く立去つてくれるに越したことは無いと、 僕は彼に話して聞かせたかつたのである。若い女と戀をしようと言ふのに、 (そば)欄干(てすり)には幽靈がゐる—— しかもその幽靈は僕の最も恐れてゐる叔父の幽靈であることを考へると、 場所も場所、時も時、僕は顫へ上らざるを得ないのである。 こゝで事件を進行させようとするのは、たとひ不可能と言はないまでも、 (すこぶ)る困難であると言はなければならない。 而も僕は自分のこゝろを相手の幽靈に覺らせる(とゞ)まつて、 それを口へ出して言ふわけには行かないのである。

幽靈はつゞけて言つた。

「あなたは多分わたしの利益になるやうなことをお聞込みにならないだらうと察してゐます。 私もさうだと(あやぶ)んでゐたのです。 併し何かお話して下さるやうなことがあるならば、あなたが一人になるまで待つてゐても宜しいのです。 私は今夜あなたの部屋へおたづね申しても宜しい。さもなければ、 この婦人が立去るまでこゝに待つてゐても宜しいのですが……。」

「こゝに待つてゐるには及ばない。」と、僕は言つた。 「お前になんにも言ふやうな事はないのだ。」

マデライン孃はおどろいて飛び上つた。その顏は赧くなつて、その眼は燃えるやうに輝いた。

「こゝに待つてゐる……。」と、彼女は叫んだ。[「]私が何を待つてゐると思つていらつしやる。 わたしになんにも言ふことは無い……。まつたく然うでせう。 わたしにお話しなさるやうな事はなんにも無い筈ですもの。」

「マデラインさん。」と、僕は彼女の方へ進み寄りながら呶鳴(どな)つた。 「まあ、わたしの言ふことを聽いてください。」

而も[誤?:而し]彼女はもう行つてしまつたのである。斯うなると、僕に取つては世界の破滅である。 僕は幽靈の方へ暴々(あら〜)しく振向いた。

「こん畜生!貴樣は一切を打ち毀してしまつたのだ。 貴樣はおれの一生を暗黒(くらやみ)にしてしまつたのだ[。]貴樣がなければ……。」

こゝまで言つて、僕の聲は弱つてしまつた。僕はもう言ふことが出來なくなつたのである。

「あなたは私をお責めなさるが、私が惡いのではありませんよ。」と、幽靈は言つた。 [「]私はあなたを勵まして、あなたを助けてあげようと思つてゐたのです。 ところを[誤?:ところが]、あなた自身が馬鹿な事をして、こんな失策を招いてしまつたのです。 併し失望することはありません。こんな失策は又どうにでも申譯が出來ます。 まあ、氣を強くお待ちなさい、左樣なら。」

彼は石鹸(しやぼん)の泡が溶けるが如くに、欄干(てすり)から消え失せてしまつた。

僕が思はず口走つたことを説明するのは、不可能であつた。 その晩はおそくまで起きてゐて、繰返し繰返してその事を考へ明した後、 僕は事實の眞相をマデライン孃に打明けないことに決心した。 彼女の叔父の幽靈がこゝの家に取憑いてゐることを彼女に知らせるよりも、 自分が一生ひとりで苦んでゐる方がましであると、僕は考へた。 ヒンクマン氏は留守である。そこへ彼の幽靈が出たといふことになれば、 彼女は叔父が死なないとは信じられまい。彼女も驚いて死ぬであらう。 僕の胸にはいかなる手疵(てきず)を蒙つても好いから、 このことは決して彼女に打明けまいと思つた。

次の日は餘り涼しくもなく、あまり暖かくもなく、好い日和であつた。 そよ吹く風も柔かで、自然は微笑むやうにもみえた。 而も今日はマデライン孃と一緒に散歩するでもなく、馬に乘るでもなかつた。 彼女は一日働いてゐるらしく、僕は鳥渡(ちよつと)その姿を見ただけであつた。 食事のときに我々は顏を合せたが、彼女は(しと)やかであつた。 而も靜かで、控へ目勝であつた。僕はゆうべ彼女に對して甚だ亂暴であつたが、 僕の言葉の意味はよく判つてゐないので、彼女はそれを確めようとしてゐるに相違なかつた。 それは彼女として無理もないことで、ゆうべの僕の顏色だけでは、 言葉に意味は判るまい。僕は伏目になつて(しほ)れ返つて、 ほんの少しばかり口を利いただけであつたが、 僕の窮厄の暗黒なる地平線を横斷する光明の一線は、彼女が努めて平靜を粧ひながら、 おのづから樂しまざる氣色(けしき)に露れてゐることであつた。

月の明るい廊下もその夜は空明きであつた。 併も僕は家のまはりをうろ付いて歩いてゐるうちに、 マデライン孃がひとりで圖書室にゐるのを見つけた。 彼女は書物を讀んでゐたので、僕はそこへ這入つて行つて、 (そば)に椅子に腰をおろした。僕はたとひ十分で無くとも、 或程度までは昨夜(ゆうべ)の行動について辯明を試みて置かなければなるまいと思つた。 そこで、昨夜(ゆうべ)僕が用ひて言葉に對して、僕が辯解 (すこぶ)る努めてゐるのを、 彼女は靜に聽き澄ましてゐた。

「あなたがどんな積りで仰しやつても、私はなんとも思つてゐやあしませんわ。」と、彼女は言つた。 「けれども、貴方もあんまり亂暴ですわ。」

僕はその亂暴の意志を熱心に否認した。さうして、僕が彼女に對して亂暴を働く筈がないと言ふことを、 彼女も確に諒解したであらうと思はれるほどの優しい温かい言葉で話した。 僕はそれに就いて懇々と説明して、そこに或邪魔がなければ、 彼女が萬事を諒解し得るやうに、僕がもつと明白に話すことが出來るのであると言ふことを、 彼女が信用してくれるやうに懇願した。

彼女は暫く默つてゐたが、やがて以前よりも優しく思はれるやうに言つた。

「兎に角、その邪魔といふのは私の叔父に關係したことですか。」

「さうです。」と、僕はすこし躊躇したのちに答へた。 「それはある程度まであの人に關係してゐるのです。」

彼女はそれに對して何にも返事をしなかつた。さうして、自分の書物にむかつてゐたが、 それを讀んでゐるのでは無いらしかつた。その顏色から察し[誤?:察す]ると、 彼女は僕に對してやゝ打解けて來たらしい[。]彼女も僕が考へるとおなじやうに自分の叔父を見てゐて、 それが僕の話の邪魔になつたとすれば——全く邪魔になるやうな種々(いろ〜)の事情があるのである ——僕は(すこぶ)る困難な立場にあるもので、それがために言葉が多少粗暴になるのも、 擧動が多少調子外れになるのも、まあ(じよ)すべきであると考へたであらう。 僕も亦、僕の一部的説明の熱情が相當の效果を(もたら)したのを知つて、 こゝで猶豫なしに我が思ふことを打明けた方が、自分のために好都合であらうと考へた。 たとひ彼女が僕の申込みを受入れようが受入れまいが、 彼女と僕との友情關係が前日よりも惡化しようとは思はれない。僕が自分の戀を語つたならば、 彼女は昨夜(ゆうべ)の僕が馬鹿々々しく呶鳴(どな)つたことなどを忘れて呉れさうである。 その顏色が大いに僕の勇氣を振ひ起させた。

僕は自分の椅子を少しく彼女に近寄せた。その時、 彼女のうしろの入口から幽靈がこの部屋へ突入して來た。 勿論、(ドア)が明いたわけでもなく、何の物音をさせた譯でもないが、 僕はそれを突入といふの外はなかつた。彼は非常に氣が(たかぶ)つてゐて、 その頭の上に兩腕をふりまはしてゐた。それを見た一刹那、僕はうんざりした。 出しや張り者の幽靈めがまた入り込んで來たので、總ての希望も空に歸した[。] 彼奴(あいつ)がこゝにゐる間は、僕は何も言ふことは出來ないのである。

「御存じですか。」と、幽靈は呶鳴(どな)つた。 [「]ジョン・ヒンクマン氏があすこの岡を登つて來るのを……。 もう十五分間の後にはこゝへ歸つて來ますじ。あなたが色女をこしらへる爲に何か遣つてゐるから、 大急ぎでお遣りなさい。併し私はそんなことを言ひに來たのではありません。 わたしは素敵滅法界の報道を(もたら)して來たのです。 私もたうとう移轉することになりましたよ。今から四十分ほどにもならない前に、 露西亞のある貴族が虚無黨に殺されたのですが、 誰もまだ彼の死について幽靈の株のことを考へてゐないのです。 わたしの友逹が、そこへ私を嵌め込んでくれたので、いよ〜移轉することが出來たのです。 あの大禁物のヒンクマン氏が岡を登つて來る前に、わたしはもう立去ります。 その瞬間から私は大嫌ひの(まが)ひ者をお[誤?:者を]廢止にして、 新しい位地を占めることになるのです。さあ、お(いとま)申します。 たうとう或人間の本當の幽靈になることが出來て、私はどんなに嬉しいか、 あなたには(とて)も想像が附きますまいよ。」

「オー!」と、僕は起ちあがつて、甚だ不格好に兩腕をひろげながら叫んだ。 「私はあなたが私の物でありしことを天に祈ります!」

「私は今、あなたの物です。」

マデライン孃は眼に一ぱいの涙を(たゝ)へて、わたしを仰ぎながら言つた。

——終——

更新日:2004/03/22

世界怪談名作集:牡丹燈記


牡丹燈記

瞿宗吉(く・そうきつ)

岡本綺堂(1872-1939) 譯

元の末には天下大いに亂れて、一時は群雄割據の時代を現出したが、 そのうちで方谷孫(はうこくそん)といふのは浙東(せきとう)の地方を占領してゐた。 彼は毎年正月十五日から五日にあひだは、明州府(めいしうふ)の城内に元霄(げんせう)(とう)をかけ連ねて、 諸人に見物を許すことにしてゐたので、その宵々の賑ひは一通りでなかつた。

元の至正(しせい)二十年の正月である。鎭明領(ちんめいりやう)の下に住んでゐる喬正(けうせい)といふ男は、 年がまだ若いのに先頃その妻を(うしな)つて、男やもめの心さびしく、 この元霄(げんせう)の夜にも燈籠見物に出る氣もなく、 わが家の(かど)にたゝずんで空しく往來の人々を見送つてばかりであつた。 十五日の夜を三熏X(かう)過ぎて、人影もやうやく稀になつた頃、 髮を兩輪に結んだ召使風の少女が雙頭の牡丹燈をかゝげて先に立ち、ひとりの女を案内して來た。 女は年のころ十七八で、翆袖紅裙(すいしうこうくん)(きぬ)を着て、いかにも柔婉(しなやか)な姿で、 西をさして(しづ)かに過ぎ去つた。

喬生は月のひかりで(うかゞ)ふと、女はまことに國色ともいふべき美人であるので、 神魂飄蕩(しんこんへうたう)我にもあらず浮かれ出して、そのあとを追つてゆくと、 女もやがてそれを覺つたらしく、振返つて微笑んだ。

「別にお約束をしたわけでも無いのに、こゝでお目にかゝるとは、何かの御縁でございませうね。」

それを(しほ)に、喬生は走り寄つて丁寧に敬禮した。

「わたしの住居(すまひ)はすぐ其處です。鳥渡(ちよつと)お立寄り下さいますまいか。」

女は別に拒む色もなく、少女を呼び返して、喬生の家へ戻つて來た。初對面ながら甚だ打解けて、 女は自分の身の上を明かした。

「わたしの姓は()(あざな)麗卿(れいけい)、名を叔芳(しゆくはう)と申しまして、 曾て奉化州(はうくわしう)(はん)を勤めて居りました者の娘でございますが、 父は先年この世を去りまして、家も次第に衰へ、ほかに兄弟もなく、親戚(みより)も少いので、 この金蓮(きんれん)と唯ふたりで月湖(げつこ)の西に假住居(かりずまひ)をいたして居ります。」

今夜は宿(とま)つてゆけと勸めると、女はそれをも拒まないで、遂にその一夜を喬生の家に明かすことになつた。 それらの事は(くは)しく言ふまでもない、原文には「甚だ觀愛を極む」と書いてある。 夜のあける頃、女は一旦別れて立去つたが、日が暮れると再び來た。 金蓮といふ少女がいつも牡丹燈をかゝげて案内して來るのであつた。

かう言ふ事が半月程も續くうちに、喬生の隣に住む老翁が少しく疑ひを起して、 壁に小さい穴をあけて(そつ)と覗いてゐると、紅や白粉(おしろい)を塗つた一つの髑髏が喬生と竝んで、 ともしびの下に睦まじさうに囁いてゐた。それを見て大いに驚いて、老翁は翌朝すぐに喬生を詮議すると、 最初は堅く祕して言はなかつたが、老翁に(おど)されて流石に薄氣味惡くなつたと見えて、 彼は一切の祕密を殘らず白状した。

「それでは念のために調べて見なさい。」と、老翁は注意した。 あの女逹が月湖の西に住んでゐると言ふならば、そこへ行つてみれば正體が判るだらう。」

なるほど然うだと思つて、喬生は早速月湖の西にたづねて行つて、長い(どて)の上、 高い橋のあたりを隈なく探し歩いたが、それらしい住家(すみか)も見當らなかつた。 土地の者にも訊き、往來の人にも尋ねたが、誰も知らないといふのである。 そのうちに日も暮れかゝつて來たので、そこにある湖心寺(こしんじ)といふ古寺に這入つて暫く休むことにして、 東の廊下をあるき、更に西の廊下をさまよつてゐると、 その西廊のはづれに薄暗い室があつて、そこに一つの旅棺が置いてあつた。 -- 旅棺といふのは、旅先で死んだ人を棺に(をさ)めたまゝで、どこかの寺中にあづけて置いて、 ある時期を待つて故郷へ持ち歸つて、初めて本葬を營むのである。したがつて、 この旅棺について古來燻增X(いろ〜)の怪談が傳へられてゐる。

喬生は何ごゝろなくその旅棺を見ると、その上に白い紙が貼つてあつて、 「故奉化府州判女(もとのはうくわふはんのじよ)麗卿之柩(れいけいのひつぎ)」と(しる)し、 その柩の前に見おぼえのある雙頭の牡丹燈をかけ、又その燈下には人形の侍女(こしもと)が立つてゐて、 人形の背中に金蓮の二字が書いてあつた。これを見ると、彼は(にはか)ぞつとして、 あわてゝそこを逃げ出して、あとをも見ずに我家へ歸つたが、今夜も(また)來るかと思ふと、 とても落着いてはゐられないので、その夜は隣の老翁の家へ泊めて貰つて、顫へながらに一夜をあかした。

「たゞ怖れてゐても仕樣がない。」と、老翁は又教へた。 「玄妙觀(げんめうかん)魏法師(ぎほふし)(もと)の開府の王眞人(わうしんじん)の弟子でお(まじな)ひでは當今(たうこん)第一と稱せられてゐるから、 お前も早く行つて頼むがよからう。」

その明くる朝、喬生はすぐに玄妙觀へたづねてゆくと、法師はその顏を一目みて驚いた。

「おまへの顏には妖氣が滿ちてゐる。一體こゝへ何しに來たのだ。」

喬生はその座下(ざか)に拜して、彼の牡丹燈の一條を訴へると、法師は二枚の(あか)い符をくれて、 その一枚は(かど)に貼れ、他の一枚は寢臺(ねだい)に貼れ。 さうして、今後ふたゝび湖心寺のあたりへ近寄るなと言ひ聞かせた。

家へ歸つて、その通りに朱符を貼つて置くと、果してその後は牡丹燈のかげも見えなくなつた。 それから一月あまりの後、喬生は袞繍橋(こんしうけう)のほとりに住む友逹の家をたづねて、 そこで酒を飮んで歸る途中、醉つた紛れに魏法師の戒めを忘れて、湖心寺の前を通りかゝると、 寺の門前には少女の金蓮が立つてゐた。

「お孃さまが久しく待つておいでになります。あなたも隨分薄情な方でごじますね。」

否應言はさずに彼を寺中へ引き入れて、西廊の薄暗い一室に連れ込むと、 そこには麗卿が待受けてゐて、これも男の無情を責めた。

「あなたとわたくしとは(もと)からの知合ひといふのではなく、途中で不圖(ふと)ゆき逢つたばかりですが、 あなたの厚い(なさけ)に感じて、わたくしの身をも心をも許して、毎晩かゝさずに通ひつめ、 出來るかぎりの眞實を(つく)して居りましたのに、あなたは怪しい僞道士の言ふことを眞に受けて、 (にはか)にわたくしを疑つて、これぎりに縁を切らうとなさるとは、餘りに薄情な爲され方で、 わたくしは深くあなたを恨んでをります。かうして再びお目にかゝつたららは、 あなたをこのまゝ歸すことはなりません。」

女は男の手を握つて、柩の前へゆくかと思ふと、柩の蓋はおのづと開いて、 二人のすがたは忽ちに隱された。蓋は元の通りに閉ぢられて、喬生は柩のなかで死んでしまつたのである。

隣の老翁は喬生の歸らないのを怪しんで、遠近(をちこち)をたづね廻つた末に、 もしやと思つて湖心寺へ來てみると、見おぼえのある喬生の着物の裾が彼の柩の外に少しく露れてゐるので、 いよ〜驚いてその次第を寺僧に訴へ、早速に彼の柩をあけて(あらた)めると、 喬生は女の亡骸(なきがら)と折重なつてゐて、女の顏はさながら生けるが如くに見えた。 僧は嘆息して言つた。

「これは奉化州判の符といふ人の娘です。十七歳のときに死んだので、假にその遺骸をこの寺にあづけたまゝで、 一家は北の方へ赴きましたが、その後何の消息(たより)もありません。 それが十二年後の今日に至つて、こんな不思議を見せようとは、まことに思ひも寄らないことでした。」

なにしろ其儘にしては置かれないといふので、男と女の死骸を藏めたまゝで、 その柩を寺の西門の外に埋めると、その後に又一つの怪異を生じた。

(くも)つた日や暗い夜に、彼の喬生と麗卿とが手をひかれ、 一人の少女が牡丹燈をかゝげて先に立つてゆくのを屡々見ることがあつて、 それに出會つたものは重い病氣にかゝつて、惡寒(さむけ)がする、熱が出るといふ始末。 彼等の墓にむかつて法事を營み、肉と酒とを備へて祭れば(よし)、 さもなければ命を失ふことにもなるので、土地の人々は大いに(おそ)れ、 爭つて彼の玄妙觀へかけつけて、何とかそれを(はら)ひ鎭めてくれるやうに歎願すると、魏法師は言つた。

「わたしの(まじな)ひは未然に防ぐにとゞまる。もし斯うなつては、 わたしの力の及ぶ限りではない。聞くところによると、 四明山(しめいざん)の頂上に鐡冠(てつかん)道人といふ人があつて、 鬼神を鎭める法術を能くするといふからそれを尋ねて頼んでみるが好からうと思ふ。」

そこで、大勢は誘ひあはせて四明山に登ることになつた。藤葛(ふぢかづら)()ぢ、 (たに)を越へて、やうやく絶頂まで辿りつくと、果してそこに一つの草庵があつて、 道人は机に()り、童子は鶴に戲れてゐた。大勢は庵の前に拜して、その願意を申述べると、 道人は(かしら)()つて、わたしは山林の隱士(いんし)で、今をも知れない老人である。 そんな怪異を鎭めるやうな竒術を知らう筈がない。おまへ方は何かの聞き違へで、 わたしを買ひ被つてゐるのであらうと、堅く斷つた。いや、聞き違へでない、 玄妙觀の魏法師の指圖であると答へると、道人は(さて)はと首肯(うなづ)いた。

「わたしは六十年も山を下つたことが無いのに、あいつが飛んだおしやべりをしたので、 又浮き世へ引出されるのか。」

彼は童子を連れて下山して來た。老人に似合はぬ足の輕さで、 直ちに湖心寺の正門外にゆき着いてそこに方丈(はうぢやう)の壇をむすび、 何かの符を書いてそれを燒くと、忽ちに符の使五六人、いづれも身の()け一丈餘にして、 黄巾(くわうきん)をいたゞき、金甲(きんかふ)を着け、(ほり)のある(ほこ)をたづさへ、 壇の下に突つ立つて師の命を待つてゐると、道人はおごそかに言ひ渡した。

「此頃こゝらに妖邪の(たゝり)があるのを、お前逹も知らぬ筈はあるまい。早くこゝへ驅り出して來い。」

彼等はうけたまはつて立去つたが、やがて喬生と麗卿と金蓮の三人に手枷(てかせ)首枷(くびかせ)をかけて引立てゝ來た。 彼等は更に道人の指圖にしたがつて、鞭や(しもと)でさん〜゛に打ちつゞけたので、 三人は總身に血をながして苦み叫んだ。その苛責が終つた後に、 道人は三人に筆と紙とをあたへて服罪の口供をかゝせ更に大きいフデを執つて自らその判決を書いた。 その文章は頗る長いものであるが、要するに彼等三人は世を惑はし、民を()ひ、條に(たが)ひ、 法を犯した罪によつて、彼の牡丹燈を燒き捨てゝ、かれらを九泉の獄屋へ送るといふのであつた。

急々如律令(きふ〜じよりつれい)、もう寸刻の容赦もない。 この判決をうけた三人は、今さら嘆き悲しみながら、進まぬ足を追ひ立てられて、泣く〜地獄へ送られて行つた。 それに見送つて、道人はすぐに山へ歸つた。

あくる日、大勢がその禮を述べるために再び登山するとたゞ草庵が殘つてゐるばかりで、 道人の姿はもう見えなかつた。更に玄妙觀をたづねて、道人のゆくへを問ひ(たゞ)さうとすると、 魏法師はいつの間には唖になつて、口を利くことが出來なくなつてゐた。


更新日: 2003/02/11