最初に、「ジエィン・エア」の意圖と特長を簡敍しよう。
「ジエィン・エア」は、十九世紀の半ば(一八四七)に出版せられて、英吉利の讀書界に、 清新な亢奮と、溌剌とした興味を植ゑつけた名篇である。
傳記に依れば、或る時、作者は、妹もエミリー(詩人作家)とアン(作家)に向つて、かく云つたといふ --
-- 一體小説の女主人公は、既定の事實として一列一體に美人に描くのは間違つたことだ、人道上から見ても、 間違つたことだ。
-- でも、女主人公は、美人でなければ、讀者の興味を牽かない。
と妹逹が答へた。
-- そんな筈はない。わたしが、實地に、證明して見せてあげよう。
さう云つて書いたのが、この「ジエィン・エア」だといふ。
既に、出發點から、常軌を脱してゐる。
次に作者は、當時の英文壇に於ける第一流の批評家リュイスに與へた書翰の中で、 この作品に對して作者のとつた態度を、かく説明してゐる --
-- わたしは、自然と眞實とを、私の唯一の道しるべとして、その跡を辿つた。
わたしは、空想を抑制し、
この作者の態度が、作品に將來した結果は如何?
作品の一節に、こんな意味の文句がある --
-- 女性は、淑やかにあるべきものと、一般に考へられてゐる。しかし、女性も、男性と同樣に「感じる」のである。 女性も、男性と等しいだけの、才能と努力の活動世界を持たねばならぬ。 女性を、たゞ、プディングを作つたり、靴下を編んだり、ピアノを彈いたりする世界にのも閉ぢ込めておかうとするのは、 男性の偏見である。
また、こんな言葉もある
-- わたしは、獨立の意志を持つた、自由な個人です。
それから、また --
-- もし、わたしが
以上の數例のほか、作中、ロウトン [ローウッドの誤りだろう] の慈善學校の僞善を、 深い洞察を以て、活寫してゆくあたり、所謂曝露小説の到底企及し得ぬ鋭さが見られる。
-- あなたは、獨創的だ。あなたは、大膽だ。あなたの精神は活溌で、あなたの眸は、洞察する。
さうロチスターが、ジエィンに云ふ。
その言葉は、そのまゝ、作者に振り向けらるべきだ。
果然、「ジエィン・エア」は、赤裸々な、舊套を脱した、奔放な、熱列な、眞新しい言葉で綴られた物語として、 讀書界に、センセイションの旋風を捲き起した。
-- 女性の尊嚴を、かくまで高く揚示した物語は、未だ英吉利の文壇には存在しない。
とある評家は云つた。
-- この作者は、淑女らしくない言葉で、淑女らしくない物語を綴つた。 これは良家の子女に讀ませてはならない本である。
と或る人は非難した。
また、ある評家は
-- 現實、深酷な、有意義な、現實 -- それが、この物語の特長だ。この物語は、讀者の鼓動を高め、心臟をとゞろかせる。
さう評した。
兎に角、甲是乙非、囂々たる輿論の渦の中に、「ジエィン・エア」は、記録的な賣上を示した。
今日の
しかし、それは、殆んど問題外として、この「ジエィン・エア」に盛られたイプセン的な精神と熱意、 及び、それを表現する嵐のやうな筆觸は、たしかに、尚、現代の讀者の胸に、何物かを與へると信じる。
ブロンティの作品は、この作のほかに三つ -- 中に就いて、「シヤァリ」は、 手工業時代が機械工業時代に入らうとするその革命的雰圍氣を背景にしたスケールの大きな、 野心的な長大篇で、部分部分に、素晴らしい描寫があるが、未完成の謗りは免れない。 「プロフェッサー」は處女作 -- 平板である。「ヴィレット」は、一番圓熟してゐるが、 「ジエィン・エア」ほどの清新味と熱意が失せてゐる。
つまり、あらゆる點から見て、この「ジエィン・エア」は、作者の代表作、
作者が、いかに常人と異つた生ひ立ちを持つたか -- 作者が、いかに、 家政婦的日常煩雜事のあひ間に、「ジエィン・エア」を完成して、これを匿名で發表して、 世を騷がせたか -- 作者が、いかに淋しい、烈しいラヴ・レターを書いたか -- さうして、 いかに晩い、短い、結婚生活を持つて、死んだか -- 人、女、藝術家としての作者の一生は、 かの「クランフォード」の作者ギャスケル夫人の有名な「ブロンティ傳」に、いつさいを盡してゐる。
こゝには、たゞ年譜式に、彼女の一生の重要事項を列記して、讀者の參考に供するにとゞめることゝする --
父はパトリック・ブロンティ、愛蘭土の貧家の出、立志傳的苦學を續けて劍橋大學を卒業して牧師となる。 母は、マリヤ・ブランヱル、コオンウオルの商家の女、一八一一年、父が牧師補時代、ヨオクシヤーのハーツヘッドで結婚。
一八一三年、長姉マリヤ生る。
一八一四年、次姉エリザベス生る。
一八一六年、著者シャーロット誕生、當時一家は、ソオントンに住す。
一八一七年、長男パトリック・ブランヱル生る。
一八一八年、妹エミリー生る。
一八一九年、末の妹アン生る。
一八二十年、一家、ヨオクシヤー北方の寒村ハワースの牧師館に移る。 風吹き荒む高原の沼地、滿目荒寥たる風物、母は、年々の出産の結果、心身衰へて、多く病床に在り、 父は、峻嚴孤獨の讀書人、長姉マリヤが、年齡漸く八歳にして、父に怯え、母を案じながら、 弟妹五人の世話をしてゐたと云ふ。
一八二一年、母、癌を病んで歿す、時に三十九歳。母の姉、老孃ブランヱル來つて、爾後二十年間、家政を看る。
可憐な子等は、長姉マリヤを中心にして、稚な眼で新聞を見、まはらぬ舌で、毎日の
譯者は、先年、古い倫敦の月刊「ストランド
一八二四年、長姉マリヤ、次姉エリザベス、著者及び妹エミリー、相繼いで、カウアン・ブリッヂの慈善女學校 (-- 牧師の娘のみに入學を許す學費の低廉な學校)へ入學。
學校は、本篇中のローウッド學院のモデルで、濕地不健康地に在つて、設備食事ともに粗惡、 生徒に病者續出、社會問題をひき起す。
一八二五年正月、長姉マリヤと次姉エリザベス、この學校の犧牲となり、肺患を病み、姉妹四人皆、ハワースへ戻る。
同年五月、マリヤ長逝、おなじく七月、エリザベス長逝。
爾後、著者は、長姉として、弟妹逹の面倒を看る。
一八三一年、著者、ロウ・ヘッド女學校に學び、卒業後、そこに教鞭をとる。 いくばくもなくして、病を得て歸る。その後七年間、次姉エミリーは、家に留り、著者と末の妹アンは、 諸方に家庭教師を勤めて、彼女等の唯一人の男兄弟パトリック・ブランヱルの爲に學資を稼いだ。 パトリックは、美術家志望で、倫敦に出て、遊惰無頼の道を辿つてゐた。
一八四二年、著者は、私塾經營の計畫を立て、その準備として、更に學力を養ふ爲に、 妹エミリーを連れて、ブラッセルのヘガー氏の學校に入學、彿蘭西語と獨逸語を勉強した。 學費その他は、前記の伯母、亡母の姉、老孃ブランヱルに借りた。
居ること半歳、伯母の訃報に接して歸り、エミリーは、そのまゝ家に留まり、著者のみ再び、 ブラッセルへ赴き、英語の教鞭をとりながら、勉強をつゞく。
校長ヘガー氏へ、祕めたる片戀 -- その切々たる情は、著者が、爾後數年間、春風秋雨、 をり〜に、ハワースの牧師館から送つた手紙の紙面に溢れてゐる。 その手紙は、皆、ヘガー夫人の手に握り潰されたと云ふ。むろん、一通の返書も、 著者の手へは逹しなかつたと云ふ。フロイド流に云へば、この片戀の悶々の情が、發して、 この「ジエィン・エア」の熱烈な戀愛描寫となつたものであらう。
弟パトリック、惡化墮落、著者傷心憂苦。
一八四四年、ヘガー氏の學校を辭して歸り、妹逹と、私塾の計畫を實現したが、入學希望者皆無。
一八四六年、志を轉じ、妹逹と共に詩作に熱中。その收穫を收めて、著者はカーラ・ベル、 エミリーは、エリス・ベル、アンは、アクトン・ベルの各匿名に隱れて、一册の詩集を自費出版す。 三部だけ賣れた。
詩の天分は、エミリーが最も優れてゐた。彼女は、死後認められて、英詩壇に、一地歩を占めるに至つた。
詩集出版の失敗のあと、著者は、妹逹と、更に志を轉じて、創作に專念した。
ブラッセル時代をモデルにした著者の處女作「プロフェッサー」はこの時に脱稿。 然し、徒に、出版書肆の冷遇に逢ひ、活字には、ならなかつた。
一八四七年、やはり匿名で、「ジエィン・エア」脱稿出版。一躍、洛陽の紙價を高む。
このころ、弟パトリック・ブランヱル、家にあつて酒亂。著者はそれを憂へて、往々食事をとらぬことあり、 父は、その爲に狂氣に瀕し、ピストルを亂射したり、椅子の背で鋸を挽いたりなどす。
一八四八年、八月、パトリック・ブランヱル肺患に倒る。妹エミリーも、おなじ十二月に、 おなじ病ひで長逝。末の妹アン、亦肺を病んで病床に横はる。
一八四九年、アンを連れてスキャーボロに轉地。五月、アン病歿。
この悲慘を極めし中にあつて、大作「シヤァリ」執筆出版。
同年より、一八五一年まで、年一囘づゝ倫敦に出て、文人に逢ひ、多少戀愛を散ず。
但し、生來の獨居癖 -- 人に逢ふ日は、朝から頭痛がしたと云ふ彼女であつた。 一躍文壇の女王にはなつたが、身邊に華々しさは無かつた。
一八五三年、第四作「ヴィレット」出版。
彼女のあの片戀の淋しさは、篇中、女主人公が、戀人に手紙を待ち侘びる焦心の描寫に、深酷に表現されてゐる。
一八五四年、十餘年來、ハワースの牧師補を勤めて來たアーサー・ニコルズと結婚。
ニコルズは、その十餘年來、彼女に戀をして來たと云ふ。
一八五五年、産後を病んで寒村ハワースの土となる。
一八五六年、良人の手に依り、遺稿として、處女作「プロフェッサー」出版。
一八六一年、老父パトリック歿。
以上。
その日は、とても散歩なぞ出來さうもなかつた。實際、私たちは、朝のうち一時間、葉の落ちた灌木の林の中をぶら〜歩いたが、
晝食後(リード夫人は、客のない時は、はやく晝食を濟ませた)は、冷たい冬の風が、陰鬱な雲と、
身にしみるやうな雨を
私は、それが嬉しかつた。私は、長い散歩、殊に寒い午後の散歩は、まつたく好かなかつた。
手足の指を寒さで痛めたり、
いま云つたイライザやジョンやヂョウジアァナは、もう客間で、お母さんのリード夫人の
「ベシーは、私がどうしたつて、云ふのよ?」と私は訊いた。
「ジエィン、私は屁理窟を云つたり、何んでもつべこべ訊きたがる子は、嫌ひです。 それに、子供のくせに、そんな風に大人にさからふなんて、全く許されないことです。 どこかに腰をお掛け。そして氣持ちのいゝ口を利けるやうになるまで、默つていらつしやい。」
小さな
右の方は、深紅の
私は、その書物 -- ビュヰックの英國島禽史 -- に目を戻した。殆んど本文には注意しなかつたけれど、
處々に、私のやうな子供にも、白紙同樣には見過せない、興味を
絶海のシュール群島、その淋しい裸島を繞 つて、
北海は、渦まきつゝ、荒れ狂ふ。
荒れ勝ちのベブリディズの島々へ
大西洋の怒濤は、注ぎ込む。
ラップランドや、スピッツバァゲンや、ノーヴァ・ゼムブラや、アイス・ランドや、
グリーン・ランドの荒れ果てた海岸に就いて述べてあるところをも、見逃せなかつた -- 『北極帶の、宏大な一帶、荒涼たる地方 --
霜と雪の貯藏地、そこには、幾世紀もの冬の堆積たる、
堅い氷原が、極地を
文字に刻んだ墓石のある、ひそまりかへつた寂しい教會の墓地や教會の門、二本の樹、 壞れた壁に圍まれた狹い平地、夕ぐれ時を示す、昇りはじめた新月につきまとうた感情を、私は、 云ひ現はすことが出來ない。
風が凪いで油のやうに動かない海面に浮ぶ二艘の船を私は、海の幽靈だと思つた。
惡魔が、泥棒の荷物を彼の背中に釘づけにしてゐる繪は、大急ぎで頁を繰つた。 それは怖いものだつた。
黒い角を生やした鬼が、超然と岩の上に坐つて、絞首臺の
ひとつ、ひとつの繪が物語をしてゐた。私の幼稚な理解力と、不十分な感情では判らないながらも、
そこには、ぐん〜興味を吸ひ寄せる異樣な力が潛んでゐた。ちやうど冬の夕べ、
ベシーが機嫌のいゝ時に、とき〜゛聽かして呉れる
ビュヰックを膝の上に置いて、私は、すつかりいゝ氣持ちになつてゐた。
「やァい、馬鹿野郎。」と、ジョン・リードが、大聲で叫んで、ちよつと息をついた。
さうして、部屋が、見たところ
「あいつ、何處にゐるんだ!リジイ!ジョウジイ!(妹たちを呼んで)ジオアンがゐないぜ。 ジオアンは、雨が降つてゐるのに、出ていつたつて、お母さまにお云ひ -- 畜生!」
私は、窓掛を閉めておいてよかつたと思つた。この隱れ場所を、ジョン・リードがどうか見つけなければいゝがと、
一生懸命に願つてゐた。事實また、ジョン・リードが、自分で探し出すことは出來ないだらう、ジョンは、
目も利かないし、頭の働きもあまりよくなかつたから。しかし、イライザは、
「ジエィンは、きつと、臺にゐるのよ、ジヤック。」
と云つた。
あのジヤックに腕づくで引張り出されることを思ふと、ぞつとして、私は自分から、 直ぐさま飛び出した。
「何か御用?」と、怖々訊いた。
「リード樣、御用でございますかつて、云へ。」
それが、答へだつた。
「こちらへ來い。」とさう云つて、彼は、肘掛椅子に腰掛けて、もつと近寄つて目の前に立てと云ふ身振りをした。
ジョン・リードは、十四歳の小學生であつた。私より四つ年上で、 -- 私は僅か十歳だつた。
年の割合に、體が大きく、肥つちよで、うす黒い、不健康な皮膚をして、伸び擴がつた顏に、
ぼうつとした目鼻をつけ、不活溌な手足の先が膨れてゐた。
ジョンは、母にも妹にも、あまり愛情を持つてゐなかつた。私には、反感を持つてゐた。
一週間に二三度どころか一日に一度も二度も、寧ろ續けざまに、ジョンは、私を、
いつものやうに、私はジョンの云ふ通りに、椅子の前へいつた。ジョンは、三分ほどもかゝつて、
舌のつけ根を害しない程度で、出來るだけ舌を出して見せた。私は、いまに毆られると思つた。
「さつき、圖々しく、お母さまに、あんな返答をした罰だ。窓掛の
ジョン・リードの罵倒には、慣れつこになつてゐたので、私は、返答なぞしようとは思はなかつた。 私の心配なのは、辱められた後に、きつとやつてくる打擲に、どうして耐へるかと云ふことだつた。
「窓掛の
「御本を讀んでたの。」
「その本を、見せろ。」
で、私は、窓のところへいつて、取つて來た。
「僕らの本を持ち出したりするなんて、君のすることぢやないよ。お母さまは、君を居候だと云つたよ。
君にはちつともお金が無いんだ。君の
私は、初めはどう云ふつもりか、ちつとも氣がつかないで、その通りにした。しかし、ジョンが、
「意地惡!ひどい人!まるで人殺しだわ、奴隸監督だわ、あなたは、羅馬の皇帝のやうな人だわ。」
私は、ゴウルド・スミスの『羅馬史』を讀んだことがあるので、ネロやキャリギュラなどに對して獨特の意見を抱いてゐた。 さうして、ひそかに、ジョンになぞらへてゐたが、こんなに口に出して、斷言するつもりはなかつた。
「なに?お前は、僕に向つて、そんなことを云ふのか。イライザ、ヂョウジアァナ、君たちも聞いたか? お母さんに云ひつけてやらうか?それより先づ -- 」
私は、ジョンがいきなり飛びついて來て、私の肩と髮を掴んだのを感じた。
ジョンは、必死になつてゐる私と掴みあつた。ジョンは、正に暴君であり、人殺しであると云ふことを、
ほんたうに知つた。頭から血が、一滴、二滴、首筋を傳はつて流れるのを覺えた。
鋭い、突き刺すやうな疼痛があつた。この知覺は、しばらく恐怖を通り越した。私は狂人のやうになつて、
彼に
「おや、まあ、ジョンさまに飛びかゝるなんて、何んて氣狂ひ沙汰でせう。」
「こんな怒りん坊は、誰だつて、見たことがありません。」
リード夫人が、それにつけ足して云つた --
「赤い部屋へ連れていつて、錠を下しておしまひ。」
四つの手が、直ぐに私に差し向けられ、私は、二階へ運ばれた。
私は、極力叛抗した。そんな叛抗は、私としては、初めてだつたが、同時に、 ベシーやアボットさんの私に對する惡感を一層強めた。實際、私は、ほんのちよつと氣が變になつてゐた、 と云ふより寧ろ、彿蘭西人がよく口にするやうに自分を失つてをつた。私は、一瞬の叛抗が、 私をこんな妙な罰に處したのを知つた。
叛抗する奴隸と何等異ることなく、私も、
「アボットさん、腕を押へて頂戴、まるで氣狂ひ猫みたいよ。」
「まあ、まあ、どうしたんでせうね。」と、御夫人附きの女中が叫んだ。
「エアさん、何んて呆れたことをするのでせう、お坊つちやまを
「御主人ですつて!どうして私の御主人なの、私は召使ひなの?」
「いゝえ、あなたは、召使ひ以下ですよ。その證據に、自分で食べてゆかれるやうなことを、 何ひとつ、してゐないぢやありませんか。そこへ坐つて、あなたの亂暴だつたことを考へて御覽なさい。」
私は、リード夫人の指圖した部屋の中へ連れ込まれて、腰掛の上へ投げ出されてゐた。 私は、妄動的に、バネのやうに撥ね起きやうとしたが、二組の手がすぐ取り押へた。
「靜かにしてゐないと、縛りつけますよ。アボットさん、あなたの靴下止めを貸して頂戴? 私のは、すぐにこの子がちぎりさうよ。」
アボットは、がつちりした脚から、入用の紐を外さうとして、
「それ、外さないで頂戴、もう暴れないわよ。」と、私は叫んだ。
それを、ほんたうに證明するために、私は、私の手で、自分の押へつけられた場處にしがみついて見せた。
「きつと、動いてはいけませんよ。」
とベシーが云つた。さうして、私が、ほんたうに鎭まつたのを確めると、押へてゐた手を緩めた。
それから、二人は、立ち上つて、手を
「こんなことは、前にはしなかつたんですけれど。」と、とう〜ベシーが、御夫人附きの女中に向つて、口を切つた。
「だけど、いつだつて、この子は、こんな人だつたのよ。」と云ふのが、その返辭だつた。 「私は、よく奧さまに、私の考へを申上げますけれど、奧さまも贊成して下さいますわ。 この子は、陰險なのよ、こんな年頃の子供で、こんな猫被りは、私、知りませんわ。」
ベシーは、答へなかつた。が、やがて、私に呼びかけて、かう云つた --
「あなたはね、お孃さん、リード夫人のお世話になつてゐると云ふことを、 よく呑みこまなければいけませんよ。あの方が、あなたを養つてゐらつしやるのですから、 もしあの方におつぽり出されてしまつたら、あなたは、救貧院へでも行くより、仕樣がないでせう。」
こんな言葉に對して、私は、何も答へることがなかつた。それは、決して耳新しい言葉ではない。
私が生れて一番最初の想ひ出が、この種の内容を含んでゐた。
アボットが口を入れた --
「それから、あなたは、お孃さまや若旦那さまと同じ身分だと思つてはいけませんよ。 奧さまは、まつたく親切づくしで、あなたをお子さま同樣に育てゝらつしやるのよ。 お孃さま方は、やがて大金持におなりになりますが、あなたは、一文無しなんですよ。 卑下して、あの方たちのお氣に入るやうにするのが、當り前ですわ。」
「私たちの云ふのは、あなたの爲を思つてゐるからよ。」と、そんなに激しくない聲で、
ベシーがつけ加へた、「あなたは、お役に立つ、氣持ちのよい子になるように、
心がけてゐなければいけませんわ。それでこそ、あなたは、この家に住めるのですけれど、
怒つたり、亂暴したりするのでは、奧さまに、いまにきつと、
「それに、神さまの罰が當りますわ。あなたが腹を立てゝゐる最中に、 神さまが命を奪つておしまひになるかも知れないぢやないの。そしたら、地獄のほかの、 何處へ行くと思つて?ベシー、いらつしやい。この子を一人にして置きませう。私は、 何を遣ると云はれても、この子のやうな性質は、眞平ですわ。エアさん、ひとりになつたら、お祈りなさいよ。 悔い改めないと、煙突から惡魔が忍び込んで、連れてつてしまふかも知れませんよ。」
彼女等は、出ていつて、
赤い部屋は、四角な部屋で、その中で人が寢るやうなことは、稀にしかなかつた。
寧ろ、どうかしてゲィツヘッド
部屋は、殆んど火を焚かなかつたから、冷え〜゛として、臺所や子供部屋から離れてゐる爲めに、
物音ひとつしなかつた。殆んど開かずの部屋と知られてゐたので、嚴肅でもあつた。
この部屋に入るものとては、たゞ女中が、土曜日ごとにやつて來て、一週間の靜かな埃を、
鏡や家具から拭き取るだけだ。リード夫人自身も、極く
リード氏が亡くなつてから九年になる。彼はこの室で息を引き取つた。こゝに、彼は安置され、 こゝから、彼の棺は葬儀屋の手によつて運び出された。その日から、陰凄な聖別の感じがこの部屋を封じて、 人々の足を絶つてしまつた。
ベシーと酷いアボットが、私を釘づけにしていつた腰掛は、大理石の煖爐に近い、低い
迷信が、その時、私の心を襲つてゐた。だがまだその時は、全くそれに打ち負かされてはゐなかつた。
血は、まだ熱かつた。謀叛する奴隸のやうな氣持ちが、私を尚も力強く
すべての、ジョン・リードの理不盡な虐待振りや、彼の妹の
「無理だ!無理だ!」
寂しいその日の午後、私の魂は、どんなにおどろいたことか!頭はかき亂れ、心は叛抗に燃え立ち、 しかも、どんなに、五里霧中な、心の鬪ひが、戰ひつゞけられたことか! ひつきりなしに起る内心の疑ひに對して、私は、答へることが出來ない。 何故こんなに苦しめられねばならいか?その後何年經つか、わざと云はない -- 今になつて、私は、その譯が、はつきり判つて來た。
私は、ゲィツヘッド
もしも私が、多血質で、利發で、無頓着で、強要的で、
晝間の光が、赤い部屋に薄れていつた。もう四時が過ぎた。雲の多い午後が、陰暗な夕空明りへ傾いてゆく。
階段の窓を叩く雨の音が、まだ聽え、邸の
妙な考へが、私の心に
これは、理窟から云へば、
「どこかお惡いの?エアさん。」ベシーが訊いた。
「何んて恐ろしい物音を立てるんでせうね!ぞうつとしたわ!」とアボットが叫んだ。
「出して頂戴。子供部屋へ連れてつて頂戴。」私は叫んだ。
「何の用で!あなた怪我をしたの!何を見たの!」
再びベシーが訊いた。
「光が見えたのよ。幽靈が來ると思つたのよ。」
私は、ベシーの手を掴んだが、彼女は別に振り放さうともしなかつた。
「この人はね、わざと、わめいたのよ。」アボットが、憎々しげに云ひ放つた。 「何て聲でせう。ひどく苦しいのなら、堪忍して出して上げるけれど、この人は、 たゞ私たちを呼び寄せようと思つたのよ。私は、ちやんと、この人の狡い計略を知つてるわ。」
「どうしたと云ふのです。」と横柄な別の聲が訊いた。さうして、リード夫人が、 帽子のレイス飾を廣く飜しながら、激しく衣擦れの音を立てゝ、廊下傳ひにやつて來た。
「アボット、ベシー、私が來るまでジエィン・エアは、赤い部屋に一人で入れて置けつて云ひつけなかつて?」
「ジエィンさんが、迚も大きな聲で騷ぎましたの、奧さま。」
ベシーが言ひ譯をした。
「あつちへお遣り。」返辭はこれだけであつた。「ベシーの手をお放し。
こんなやり方では出して貰へないことがよく解つたゞらうね。私は小細工は大嫌ひだよ。
殊に子供がするなんて。計略は
「伯母さま、お願ひですから、許して下さい。もう辛抱出來ません、もつと外の罰を受けさして下さい、 私、死んでしまひさうです……もしも……」
「お默り。この亂暴な
實際彼女の氣に障つたらしかつた。 彼女は、私を毒々しい激情と下劣な精神と危險な僞瞞との混成物と見なしてゐた。
ベシーもアボットも引下り、リード夫人は私の、いまの氣狂のやうな苦悶と、 荒々しい泣き聲に我慢が出來なくなつて、それ以上口を利かずに、ふいと私を突き戻して閉め込んだ。 さつさといつてしまふのが聽えた。さうして、彼女がいつてしまふと、 私は氣絶したらしい。無意識状態が、この場面の幕を閉ぢた。
次に私の覺えてゐるのは、恐ろしい夢魔に襲はれたやうな感じで目が覺めて、目の前に凄まじい紅い炎が、 太い黒い棒と交叉してゐるのを見たことだつた。
私はまた誰かゞ空虚な音を立てゝ、また恰も一陣の雨風に抑へられたやうな聲で、 話してゐるのを聽いた。昂奮と、不安と、他の何よりも優る恐怖の感情が、 私の精神機能を混亂させた。やがて、私は、誰かゞ私をいぢつてゐるのに氣がついた。 私を抱へ起しながら坐る姿勢にして支へてゐるのだ。それが、これまで起されたり、 抱き上げられたりしたことがないほど優しいのだ。私は、頭を枕か腕かにもたせて、樂になつた。
五分も經つと、混亂の雲が消えた。自分が自分の寢室にあることや、あの紅い焔が子供部屋の煖爐の火であることが判つた。
夜であつた。蝋燭が
部屋の中にゲィツヘッドのものでもなく、リード夫人に關係のない一人の見知らぬ人がゐるのを知つた時、 私は云ひやうもない安堵と、快い、もう大丈夫の自信とを感じた。ベシーから目を轉じて (ベシーは傍に居合せても、例へばアボットなんかに居られるよりずつと厭ぢやなかつたが) その紳士の顏を探り見た。その人は私の知つてゐる人だつた。召使ひが病氣になると、 リード夫人に招かれる藥劑師のロイドさんであつた。リード夫人は、自分や子供たちの病氣の時は醫師を招いたのだが。
「私がわかりますか。」彼が訊ねた。
私は、彼の名前を言つた。同時に私の手を差し伸べた。彼はその手を執つて微笑みながら、
「今にだん〜よくなりますよ。」と云つた。それから、彼は、私を横にして、
今夜はそつと寢させておくように、よく氣をつけなければいけないと、ベシーに命じた。
それから尚二三の指圖をして、また明日見ふからと云つて歸つていつたが、私は悲しかつた。
彼が枕もとの椅子にゐる間は、十分に
「お孃さん、ねむれさう?」ベシーがどうやら物柔かな調子で訊いた。
「寢てみるわ。」二の句が荒々しいだらうと思つたので、漸くこれだけ答へた。
「何か飮みたい?それとも、何か食べられて?」
「結構よ、ベシー。」
「ぢや、私もうやすみます。十二時過ぎですから。何か欲しくなつたら、夜中でも私を呼んでもいゝわ。」
これは、何と云ふ素晴しい親切さだらう!私は大膽になつて、質問した。
「ベシー、わたしどうかして?病氣なの?」
「赤い部屋で泣いたので、
ベシーは近くの女中部屋へいつた。彼女が言つてゐるのを聞いた --
「サラーさん、子供部屋へ來て、私と一緒に寢てよ。今夜はどうしても、あの可哀想な子と二人つきりでゐられないわ。 あの子は死ぬかも知れない。あの子が、あの發作を起したのは全く變よ、何か見たのぢやないかと思ふけれど、 奧さんも酷過ぎたわ。」
サラーはベシーと戻つて來た。彼等は二人とも床へ入つた。寢入るまで、半時間も囁き合つてゐた。 彼等の話の斷片を聞き取つた。全くはつきりと、その話の眼目を推量出來た。
「全身白裝束をした何物かゞ、彼女の側を通つて、消えちまつたの。」 -- 「彼の後に大きな黒犬。」 -- 「部屋の扉を三つ音高に敲く。」 -- 「教會のお墓のちやうど眞上に一筋の光が……。」 など〜。
とう〜、二人とも寢ついた。煖爐も蝋燭も消えた。私には氣味惡く、寢つかれないで、その長い夜の時間が、過ぎた。 耳も、目も、心もすべて一樣に恐怖の爲めに張り切つた。それは子供だけが感じ得るやうな恐怖だ。
この赤い部屋の出來事があつた後、私はひどい、永びく病氣に罹らなかつた。たゞそれは、
私の神經に衝動を與へた。その反響を今日まで私は感じてゐる。さう、リード夫人よ、
あなたのおかげで、私は、身震ひするやうな精神的受難の恐ろしい苦痛を嘗めた。しかし、あなたは、
自分のなすつたことがわからなかつたのだから、許して上げねばならない。
私の心の緒を斷ち切りながら、あなたは、私の惡い根性を
翌日の晝には、私は、起きて、着物を着て、ショールにくるまつて、子供部屋の
ベシーは、臺所へいつて、美しく彩色された陶噐の皿に果物入パイを運んで來た。
皿の、晝顏や薔薇の蕾に巣くつた極樂鳥の模樣はいつも私に熱狂的な感嘆を呼び起したものである。
そして私はそれを手に執つてもつとよく調べさせて貰ひたいとしば〜歎願を重ねたが、
これまではそんな恩典には價しないと見做されて拒絶されて來たものであつた。
その貴重な皿がいま私の膝の上に置かれ、それに載せたおいしさうな小さな丸いお饅頭を食べるやうに親切にすゝめられた。
空しい好意!かねてから願つてゐたのに、延々んいなつて叶はないでゐた、外ののぞみと同じく、
あまりに來やうが遲かつた。私はその果物入のパイを食べることは出來なかつた。
鳥の羽、花の色彩も妙に色褪せてゐるやうに感じた。私はお皿もお菓子も押しのけた。
ベシーは本はいらないかと訊ねた。本と云ふ言葉はちよつと私の心を引き立たした。
私は書齋から『ガリヴァ旅行記』を持つて來てくれるやうに頼んだ。 私は、この本をこれまで喜びをもつて繰返し〜耽讀したものである。
私は、これを實際にあつた物語だと考へてゐた。さうして、その中にお伽噺に發見するよりも、
もつと深い一脈の興味を發見した。何故なら、妖精なんてヂキタリスの花や葉の間や
この時までにベシーは部屋の掃除と取かたづけを濟ましをつた。そして手を洗つてから、 絹や繻子やきれいな小切れの一ぱい詰つた抽斗を開けてヂョウジアァナの人形の新しい帽子を作りはじめた。 作りながら唄を歌つた。唄は、
むかし、むかし
乞食旅に出たときは、
この唄は、前にも再々聽いて、いつも生々した喜びをもつたものである。
ベシーはいゝ喉をしてゐたから -- 少なくとも私はさう思つた。
しかし今の私には彼女の聲は相變らずいいけれど、その
私の足は痛み、私の手脚は疲れてゐる
道は遠く、山路は險しい。
やがて黄昏が月無く、凄く、
哀れな孤兒の行手にかぶさるだらう。
何故に、みんなは、わたしを來さしたの、こんな遠い、こんな淋しい處へ、
沼地が擴がり、灰色の岩が積み重つてゐる處へ?
世間は無情で、優しい天使さまだけが、
哀れな孤兒の歩みを見そなはす。さあれ、遠く、靜かに、夜風吹き、
雲は無く、澄んだ星、優しく燿く。
神さまは、その御惠みをもつて、
保護と慰安と希望を、哀れな孤兒に示し給ひつゝある。壞れた橋を渡つて落ちやうとも
狐火に迷はされて、沼地に踏み入らうとも、
父なる神は希望と祝福もて
哀れな孤兒をみ胸に引き取り給ふ。われを勵ます
思想 あり、
宿もよるべも無き身にも、
天は我家、安息は我を見捨てず
神は哀れな孤兒の友となり給ふ。
「ジエィンさん、泣くんぢやありません。」唄ひ終るとベシーが云つた。 しかし、彼女は火に向つて「燃えるな!」と云つた方がよからう、 どうして私のさいなまれてゐる病的な受難を彼女が測り知り得ようか。朝の中にロイド氏がまた來た。
「おや、もう起きたの!」と彼は、子供部屋に入るなり、云つた。 「お孃さんはどうですか?」
大變いゝんだと、ベシーが答へた。
「それぢやあ、もつと元氣に見える筈だが。ジエィンさん、こちらへいらつしやい。 あなたの名はジエィンさんでしたつけ。」
「さう、ジエィン・エアです。」
「泣いてゐましたね。ジエィン・エアさん。何故だか云へますか、どこか痛みますか。」
「いゝえ。」
「あゝさう、奧さんたちと馬車に乘つて出かけられなかつたから、泣いてゐたんですわ。」 とベシーが口を插んだ。
「そんな拗ねたことを云ふ年ぢやあるまい。」
私もさう思つた。私の自尊心は、間違つた非難で傷つけられたので即座に答へた。 「今まででも、そんなことで泣きなんかしませんわ。私は馬車で出かけるのは嫌ひです、 私は、私が可哀さうで泣いてるの。」
「厭アよ、ジエィンさん。」ベシーが云つた。
人のいゝ藥劑師は、ちよつとまごついたやうに見えた。私は、彼の前に立つてゐた。
彼は目をぢつと私に見据ゑた。彼の目は小さくて、灰色だつた。 そしえ、決して光つてはゐなかつたが、その時は鋭かつたやうに思つた。彼は、
むつつりしてゐるが、
しばらく、私のことを考へて、云つた --
「昨日はどうして病氣になりました?」
「倒れたの。」とベシーがまた口を插んだ。
「倒れたつて!おや、まるで赤ちやんのやうだね!そんな年になつても、歩けないんですか、 もう八つか九つになるんでせう。」
「私はぶつ倒されたの。」と云ふのが、私の
彼がその凾をチヨッキのポケットにしまつた時に、けたゝましい
彼は、それが何であるか知つてゐたので、「女中さん、あなたですよ、行つてらつしやい。 あなたが戻つて來るまで、ジエィンさんに云つてきかせておきませう。」
ベシーは居るたかつたたうだが、仕方なく、いつてしまつた。 ゲィツヘッド
「倒れて、病氣になつたんぢあないつて、ぢあ、どうしたんです?」 ベシーが去るとロイド氏は追窮した。
「暗くなつてしまつても、私は、幽靈の出る部屋に閉ぢ籠められてゐたの。」
私は、ロイド氏が微笑して、同時に眉をしかめるのを見た。 「幽靈?矢張り赤ちやんだね。幽靈がこはいんですか。」
「リード伯父さんの幽靈のことを云つてゐるのよ。あの部屋で亡くなつて、そこにお棺が安置してあつたの。 ベシーだつて、誰だつて、行かずに濟むなら、夜中にはその部屋へ行かないでせうよ。 それに酷いわ、蝋燭も無しにひとりぼつちで閉ぢこめて置くなんて、酷いわ -- まつたく酷いんで、 決して、忘れないわ。」
「馬鹿々々しい!それがあなたをみじめにしたわけですか。晝間なのに、今でも怖いのですか。」
「いゝえ、でももうぢき、また夜になるでせう。それに私は他の事で不幸なの、ほんとに不幸なの。」
「他の事つて何ですか、私にすこし話してみませんか。」
この質問に、私はどんなに心ゆくまで答へたかつたことか!しかし、一つの答へをまとめることが、 どんなに難しかつたことだらう!子供は、感じることが出來ても、その感情を理解することが出來ない。 考へて、多少理解し得たとしても、子供等は、その順序の結果を言葉で云ひ表はす方法を知らないのだ。 しかし、私の悲しみを人に語つて、それを晴らす最初の、唯一の機會を失ふことを恐れたので、 私はしばらくためらつた後、貧弱だが、出來るだけほんたうの答へをまとめやうと努めた。
「一つのことの爲めなの。私には父も母も姉妹もないんですもの。」
「あなたには親切さうな伯母さまと從兄妹たちがありますよ。」
私は、ふたゝび、ちよつと考へた。それから、ぎこちなく云つた。
「しかし、その時ジョン・リードが私をなぐり倒したの。そして、伯母さまは、 私を赤い部屋へ閉ぢこめたのよ。」
ロイドさんは、またかぎ煙草の凾を取り出した。
「ゲィツヘッド
「私の家ではありませんもの。私は、こゝにゐる權利が召使ひよりもないのだつて、アボットが云ひましたわ。」
「こんな立派な家を出たいなんて、そんな馬鹿ぢやないでせうね。」
「ほかに行く所さへあれば、喜んで出て行きます。だけど、大人になるまでは出られないんです。」
「さうかも知れない。いや、わかりませんね。リード夫人の他に親類はないのですか。」
「ないと思ふわ。」
「お父さんの方のお身内もないのですか。」
「知らないの。一度伯母さまに訊いたのですが、エアと云ふ貧乏な、身分の低い親戚があるかも知れないけれど、 何も知らないと云つてゐましたわ。」
「もし、あつたら、あなたは、そこへ行きたいですか。」
私は考へた。大人には貧乏が怖しく見える。子供には、尚更のことだ。 子供は、勤勉な、働く、尊敬すべき貧乏に就いてあまり知らない。貧乏と云へば、ぼろの着物、 乏しい食物、火の氣のない煖爐、野鄙な暴擧、下劣な不品行を聯想する。 貧乏は、私にとつては墮落と同じ意味であつた。
「いやよ、貧乏人といつしよにゐたくはないわ。」と私は答へた。
「あなたを可愛がつても。」
私は頭を振つた。私には貧乏人がどうして人に親切が出來るのか判らなかつた。彼等のやうな口を利き、 彼等のやうな容子を眞似、無教育に育てられるのを考へると -- ゲィツヘッドの村の小屋の戸口で、 着物の洗濯をしたり、子供をあやしたりしてゐるのをよく見かける、あの貧乏な女みたいに育つのを考へると-- いや身分を犧牲にしてまでも自由を得ようとするほどの勇氣はなかつた。
「あなたの御親戚はそんなに貧乏なのですか。勞働者なのですか。」
「知らないの。リード伯母さまは親類があるとしたら乞食の仲間だらうと云つてゐますのよ。 私は物乞ひなんかしたくないわ。」
「學校へ行きたいですか。」
私は、また考へた。私は學校がどんなものだか殆んど知らなかつたが、そこでは若いお孃さんたちが足枷をはめ、 背中に板をつけさせられ非常に上品で几帳面でなければならないところだと、 ベシーが時々話したものである。ジョン・リードは、學校が嫌ひで、先生を罵倒したが、 ジョンが學校を好かうと好くまいと私は構はない。ベシーの學校の訓練に就いての話 (ゲィツヘッドに來る前に彼女のゐた家の令孃から見聞きしたのだが)は、なんだか恐ろしかつたけれど、 學校にゐる令孃たちの學ぶ才藝に就いてのベシーの詳しい話は、それに劣らず私を惹きつけると、私は思つた。 彼女は、令孃たちの描いた花や風景の美しい繪を誇つた。その歌ふ唄や、その奏でる曲や、 その編み上げられた紙入れや、飜譯出來る彿蘭西語の本を誇つた。私がその話を聞いてゐるうちに、 私の心は、つひに負けん氣を起した。その上に、學校は、完全な變化であらう。それは、一つの長い旅で、 ゲィツヘッドから完全に離れること、新らしい生活へ這入ることを意味してゐた。
「ほんたうに學校へ行きたいんです。」と私は、私の瞑想した擧句、聽き取れるやうに云つた結論であつた。
「ふゝん、どうなるかね。」と、ロイド氏は、立上りながら云つた。 「この子は轉地させる必要がある。神經が衰弱してるわい。」と附け加へて、獨りごとを云つた。
その時ベシーが戻つて來た。と同時に、馬車が砂利道をきしませて歸つて來る音が聽こえた。
「あれが奧さんですか、
ベシーは、
その時始めて、アボットがベシーに告げてゐたことから、私の父が貧乏な一牧師だつたこと、 私の母は不釣合だと云ふ友逹の意見に背いて、私の父と結婚したこと、 祖父のリードは大いにその不從順を怒つて彼女に一文も與へずに追ひ出したこと。 二人の結婚後一年の後、父が、牧師補の職を持つてゐた大工業都市の貧民窟を訪問してゐる間に、 その當時流行してゐたチブスに罹つたこと、母は父から傳染して、二人とも一月のうちに相繼いで死んだことを知つた。
この話を聞いた時、ベシーは溜息をついて云つた。
「ジエィンも可哀さうぢやありませんか、アボットさん。」
「さうよ、あの子が可愛らしい、いゝ子だつたら、誰だつて、獨りぼつちの身の上に同情するわ、 だけど、あんないやな奴では、ほんたうに心配してあげられないわ。」
「まつたく、大してはね。」とベシーも同意した。
「とにかくヂョウジアァナさんのやうに可愛ければ、同じやうな
「えゝ、私はヂョウジアァナさんはほんとに好きだよ。」
アボットが熱くなつて叫んだ。「可愛いゝお孃さん!長い捲毛、青い眼、顏の色艷のいゝこと、 まるで描いたやうだわ。ベシーさん。あたしは、夕飯にはウェルス・ラビットを食べたいわね。」
「さう、私もよ……熱い玉ねぎつきでね、さあ、行きませうよ。」彼等は去つた。
更新日: 2003/03/14
私は、ロイド氏との話や、前に述べたベシーとアボットとの會話から推して、よくなりたいと望む動機たるに十分の希望を得た。 變化が近づくやうに見えた -- 私は默つてそれを待ちこがれてゐた。けれどもそれは暇どつた。 何日も何週間も過ぎた。私は、私の平常の健康を囘復したのに、私の考へてゐたそのことには、 何らの新らしい暗示もなされなかつた。リード夫人は時々嚴めしい眼つきで私をさぐり見たが、 めつたに話しかけはしなかつた。私の、病氣以來、彼女は、その子供たちと私との間に、 前にもましてもつとはつきりした隔てをつけてしまつた。私がたつた獨りで眠る小部屋を私にあてがひ、 食事も獨りぼつちでするやうにと云ひわたし、また私の從姉妹たちが、いつも客間で過してゐる時に、 一日中私は子供部屋で過すようにと命じた。しかし、私を學校へやることについては、何のけはひも見せなかつた。 けれど、それでも私は、彼女が、長く私と一つ屋根切れの下にゐるのに堪へないのを、本能的にたしかに知つた。 私の方へ向けられる時、彼女の一瞥は、いまは以前にもまして壓へ切れない、根強い憎惡を表はしてゐたから。
イライザとヂョウジアァナとは、明かに命令どほり、出來るだけ私には話をしなかつた。
ジョンは私に會ふ度に、頬を舌でふくらました。そして一遍は私を懲らさうとした。
けれど、かつて私の惡徳を惹き起したことのある烈しい怒と必死の叛抗と同じあの感情に動かされて、
私が咄嗟に向きなほつた。すると、ジョンは止めた方が得だと考へて、呪ひを云ひ、
私が彼の鼻を打ち碎いたと斷言して、私から走つていつた。私は、實際、
拳が加へ得る限りのはげしい打撃を彼の鼻に狙つた。そのことか或は私の顏付が、彼を
「あの子のことを、私にお話しぢやないよ、ジョン。あの子のそばへ行かないように云つておいたぢやないか。
あの
手すりに
「あんな子たちは、私とお仲間になれないのよ。」
リード夫人はむしろ肥つた女だつたが、この思ひがけない大膽な宣言を聞くと、彼女は素早く階段を駈け上つて、 旋風のやうに、私を子供部屋につれこんだ。そして寢臺の縁に叩きつけて、激しい調子で、 今日中そこから立てるなら立つてみよ、一言でも物が云へるなら云つて見ろときめつけた。
「リード伯父さまが何と仰しやるでせう、もし生きてらしたら。」殆んど自發的に云つた私の望みだつた。 殆んど、自發的であつた。まるで私の舌は私の意志の同意を待たず喋べつたかのやうだつたから。 何事かゞ私の口から出た。しかも私はそれを抑へることが出來なかつたのだ。
「何だと!」リード夫人は絶え入りさうに云つた。いつも冷やかな落着いた灰色の眼が、 怯えたやうに混亂した。私の腕から手を引いて、私が子供なのか、それとも惡魔なのか、 實際見當がつかないといふ風に私を見つめた。私はもう逃れつこはなかつた。
「リード伯父さまは天國にゐらつしやる。そしてあなたがすることや考へてゐることはみんんあお分りになるんです。 私の父さんだつて、母さんだつて分るんです。あなたが一日中私を閉ぢ込めたことも、 あなたが私を死ねばいゝと思つてることもみんな知つてらつしやるんです。」
リード夫人は、間もなく氣をとり直した。彼女ははげしく私をゆすぶつて、兩耳を毆り、
一言も云はず行つてしまつた。それから一時間もの間、ベシーがなが〜と説教をした。
彼女は、屋根の下で育てられた子供の中で、私が一番
私は、彼女の云ふことを半ば信じた。私は、實際、私の胸の中にたゞ惡い感情のみが波立つてゐるのを感じたから。
十一月と十二月と、一月の半ばも過ぎた。クリスマスとお正月がゲィツヘッド邸でも、
いつものやうに樂しい喜びで祝はれた。贈物が交換され、晩餐會や夜會が催された。
勿論私は總ての樂しみからのけものにされてゐた。私に分け與へられた娯樂は、 たゞイライザとヂョウジアァナの毎日の裝ひを見てゐることゝ、
彼女等が薄いモスリンを着、赤い帶をしめ、髮を美しく縮らせて、
一月十五日、朝の九時頃だつた。ベシーは朝御飯に行つてゐた。從姉妹たちも、まだ母親の處に呼ばれてゐなかつた。
イライザは、帽子を被り、温かい
高い腰掛に坐つて、ヂョウジアァナは鏡に向つて、髮を結つてゐた。
屋根裏の抽斗の中で彼女が前にさがしておいた造花と色の褪せた羽根を捲き毛に編み込まうといふのだ。
私は、ベシーが戻つて來るまでにきちんとして置くようにと、 ベシーから嚴しい
この窓からは、門番の家と車道とが見えた。窓硝子の銀白色の曇りを、ちやうど外が眺められるほどに溶かした時、
門が開け放たれて、馬車がそこを辷り込むのが見えた。私は、それが、車道をのぼつて來るのを、ぼんやり眺めてゐた。
色々の馬車が、よくゲィツヘッドにやつて來たけれど、まだ一度も、
私が興味を感じたお客さんを連れて來たことはなかつた。馬車が家の前に止まつて、
「ジエィンさん、前掛をおとりなさい。そこで何をしてらしたの。今朝お顏と手を洗ひましたか。」 私は返辭をする前にもう一度窓框を引つぱつた。是非小鳥がパンを食べられるやうにしてやりたかつたから。 窓は開いた。私はパン屑を撒いてやつた。石の閾の上にも櫻の枝の上にも落ちた。 それから窓を閉ぢて私は返辭をした。
「いゝえ、ベシー、今やつとお掃除がすんだところなの。」
「厄介な、不注意な子だこと! そして、何をしてゐるの?すつかり眞赧になるまでおいたをしようとしてゐたやうぢやないの? 窓を開けて、何をするつもりだつたの?」
私は、返辭をしないで濟んだ。何故なら、べしーは、とてもあわてゝゐて、云ひ譯を聞いてゐる暇もなさゝうだつた。
彼女は、私を洗面臺に引つぱつていつて、石鹸と水と硬いタオルをとつて、無慈悲に、
だけど幸ひにも簡單に、顏と手を摩擦した。
さうでなかつたら、私は、誰が呼んでゐるのか、リード夫人がそこにゐるのかどうかを訊いたに違ひなかつたが、
ベシーは、既にいつてしまつて、私の上には、子供部屋の
私は、人氣のない廊下に立つてゐた。私の前には、朝食堂の
私は、兩手で、一二秒は云ふことをきかなかつた、かたい
リード夫人は、爐邊のいつもの席に坐つてゐた。私に、彼女は、もつと近くに來るようにと、合圖した。 私が近づくと、リード夫人は、その、石のやうな、未知の客に、次のやうな言葉で、私を紹介した。
「これが、あなたにお願ひした子供でございます。」
その人 -- 男であつた -- は、靜かに、私が立つてゐる方へ頭を向けて、毛の濃い眉毛の下に、
きらめいてゐる灰色の疑ひぶかさうな眼で、じろりと私をさぐり見た。 さうして、嚴かに、
「柄が小さいが、幾つですか?」
「十歳です。」
「そんなに?」といふ疑はしさうな返辭であつた。そこで、彼は、數分間、 私をじろ〜眺めた。やがて私に話しかけた。
「お孃さん、あなたの名は?」
「ジエィン・エアです。」
かう云ひながら、私は、その男を見上げた。彼は非常に背の高い人に見えた。 だが、その時は、私はずゐぶん小さかつたのだが。目鼻の大きな、そしてそれらと、 體格のすべての線は荒々しく、しかつめらしかつた。
「ふん、ジエィン・エア、で、あなたはいゝ子かね。」
肯定して返辭することは出來なかつた。私の周邊の人たちは、みんな反對の意見を持つてゐた。 私は默つてゐた。リード夫人は、私に代はつて、意味あり氣に頭を振つて見せた。 そして、直ぐ附け加へた。「ブロクルハーストさま、そのことは、申せば申すほど、わるくなりますの。」
「さうとはまつたく遺憾ですな、少しこの子と話し合つてみなければなりますまい。」
で、彼は直立の姿勢だつたのを、少し屈めながら、リード夫人と差向ひの
私は敷物の上を横切つた。彼は私を自分の眞正面に立たせた。かうして、私の顏と彼の顏が殆んど同じ高さになつた時に、
何んと云ふ顏で、それはあつたらう!何んと偉大な鼻!何んと云ふ口!何んて
「地獄へ行きます。」私は即座に正式の答へをした。
「地獄つて何んです。私に説明出來るか。」
「火が一面に燃えてゐる
「それで、あなたは、その火の
「いゝえ。」
「さうされない爲めには、あなたはどうしなければなりませんか?」
私は一寸ためらつた。答へが口に出た時に、それは、不都合なものであつた。 「體を丈夫にして死なゝいようにしなければなりません。」
「どうしてあなたは丈夫でばかりゐられる?あなたより小さな子供でも毎日死んで行くよ。 私は、ほんの一二日前に、たつた五つの子供のお葬式をした -- おとなしいいゝ子だつた。 今はもうその魂は天國にある。あなたがこの世から召されたとしても、その子と同じやうなことは、 あなたには云はれないだらう。」
彼の
「その溜息は、あなたの心からのもので、あなたの恩人のお心にそはなかつたことを、 あなたが悔悟してゐるのであれば結構だ。」
「恩人!恩人!」と、私はお
「朝晩、お祈りしますか。」私の訊問者はなほ續けた。
「えゝ。」
「聖書は讀みますか。」
「時々。」
「喜んで讀みますか。好きですか。」
「好きなのは默示録、ダニエルの本、創生記、サムエル、出埃及記の一部、列王記傳、ヨブ、ヨナです。」
「で、詩篇は?好きでせうね?」
「いゝえ。」
「え、嫌ひ?ほう、驚いた!私はあなたよりも年下の男の子があるが、その子は詩篇の中六つも暗誦してゐる。 生姜パンを上げようか、それでも詩篇を覺えた方がいゝかと、訊くと、きつと『詩篇! 天使のいたふ詩篇、』と彼は云ふ。『私は地上の小さな天使になりたいんです。』 だからその時には、子供らしい敬虔の念にむきいて、お菓子を二つ與へるんですよ。」
「詩篇は面白くありません。」と、私は云つた。
「それは、あなたがよくない心を持つてゐる證據だ。神さまにその心を變へていたゞくように、 お祈りしなければなりません。 -- 新らしい清らかな心を戴くように、その石の心を捨てゝ、 肉の心を下さるように。」
どう云ふ風にしえ、私の魂を入れ替へられるのか、その方法に就いて、私は質問をしようとしたが、 この時、リード夫人が横合から嘴を入れて、私に坐るようにと云つて、自分一人で話をすゝめた。
「ブロクルハーストさま。三週間前、差上げた手紙で、この子はとても私の望むやうな性質を持つてないとお知らせしました。 あなた、この子をローウッド學校にお入れ下さいませんか。校長先生始め先生方に嚴格な監視をしていたゞき、 就中、この子の一番惡い癖、嘘をつくことを防いでいたゞけますなら、私は嬉しいんですが。 ジエィン、私は、これを、お前がブロクルハーストさまを騙さないように、お前の聞いてるところで云ふのだよ。」
私がリード夫人を恐れるのも無理ではなかつた。嫌ふのも無理ではなかつた。
殘酷に私を傷けるのが彼女の性質だつたから。彼女の前で、私は幸福だつたことはない。
どれ程私が注意深く云ふことを聞いても、どれ程一生懸命彼女の氣に入らうと努めても、
私の努力はなほ上に述べたやうな言葉ではねつけられ應酬された。 かうして見知らぬ人の前で云はれた非難は、私の胸に突刺さるゝやうだつた。
私は、彼女が私をこれから入れようとしてゐる新らしい生活から、 私の希望を既にもぎとらうとしてゐるのを
「本當に、何にもない。」と、私は、すゝり泣かうとするのを抑へつけようと
「人を騙すことは子供にとつて、悲しむべき缺點です。」とブロクルハースト氏は云つた。 「それは嘘をつくのと同じだ。嘘つきはみな硫黄と業火に燃える湖に落ちなければなりません。 兎に角リード夫人、この子を監督致させませう。テムプル先生にも他の教師にも云つて置きませう。」
「この子の行末に
「奧さん、あなたのお考へは至極結構です。」とブロクルハースト氏が答へた。
「謙讓はキリスト教徒の美徳です。それは特にローウッドの生徒に
「さう云ふやり方は、まつたく私、贊成ですわ。」
と、あのリード夫人が答へた。「英國中を私探しましたけど、
これ以上ジエィン・エアみたいな子に
「堅實は、キリスト教徒の第一の義務です、奧さん。 そして、それがローウッド學校に關聯するあらゆる制度に見受けられるところのものです。 簡衣粗食、見得ばらぬ設備、不屈な活溌な習慣 -- これらが、私の學校及び生徒たちによつて、 毎日守られてゐることです。」
「まつたくで御座います、先生。それで、私もこの子をローウッドの生徒としてお受けとり下さるようお任せいたします。 そして、この子の境遇と行末とに應じて訓練されますように。」
「奧さん、承知いたしました、よりぬきの樹ばかりの植樹園にこの子を置いてあげます。 やがてこの子もこの選ばれた高價な特權に對して感謝を現す時機が來るに相違ございません。」
「では、ブロクルハーストさま、なるべく早くこの子をお送りしませう、 この煩はしい責任を私の肩からおとり下さるように、お任せしたくつて仕樣がないのですから。」
「いや奧さん、まつたくです、まつたくです。ぢや失禮申上げませう。私は一二週うちに、 ブロクルハースト學校に歸りませう。それより早くは友逹の副監督が歸さないでせうからな。 しかしテムプル先生に新入生が一人あると通告して置きますから、さうすれば、 この子をいつでも引受けてくれるでせう。ではさやうなら。」
「だよなら、ブロクルハーストさま。奧さまにもお孃さまにも、 それからオウガスタさんにも、テオドラさんにも、ブルウトン・ブロクルハーストさまにもよろしくね。」
「かしこまりました、奧さん。ぢやお孃さん、こゝに『子供の導き』と云ふ本があります。 お祈りをして、よくお讀みなさい。特に嘘とごまかしで固まつたマルサ・ジイと云ふ強情な子供が、 どうして急に死ぬかつてことが書いてあるところをお讀みなさい。」
この言葉と共にブロクルハースト氏は、私の手に表紙を綴ぢ付けた薄いパンフレットを呉れた。
そして
リード夫人と私が取り殘された。默つて數分間が過ぎた。彼女は縫物をしてゐた。
私はそれを見てゐた。リード夫人はその頃三十六七だつたらう。彼女の骨骼の屈強な、肩の張つた、
手足の丈夫な、背の高くない、ぶく〜してゐないが肥り
子供だけが時として、母の權威を馬鹿にして、笑ひ飛ばして了つた。 夫人はいゝ服裝をして、それを引き立てるやうな風采と態度を持つてゐた。
彼女の肘掛椅子から數
リード夫人は仕事から目を上げた。私を見つめて、同時に忙しい縫ひ物の手を休めた。
「出ておくれ。子供部屋へお歸り。」それが彼女の命令であつた。 私の顏付か態度か何かゞ、氣に障つたらしく、こらへてゐたが、ひどくいら〜とした調子で云つた。
私は立ち上つて、戸口へ行つた。私はまたふたゝび元の場處へ戻つた。部屋を横切つて、 窓際へ歩いていつた。それから彼女の身邊へ近づいた。
私にはどうしても云ひたいことがある、私はひどく踏みにじられた、 私ははねかえさなければあんらない。でも、どんな方法で? 私の敵に復讐を投げつける爲めに、私は、どんな力を持つてゐるか? 私は元氣を振ひ立たして、この鈍い言葉で云ひ切つた。「私は人を騙しなんかしませんよ。 そんなことが出來るなら、私はあなたが大好きだと云つたでせう。 だけど、私はあなたを好かないと云ひます。ジョン・リードを除けば、 世界中で誰よりもあなたが一番嫌ひです。嘘つきの話を書いたこの本は、 あなたの子のヂョウジアァナにおやりになるがいゝわ、嘘を云ふのは、あの子で、 私ぢやありませんから。」
リード夫人の手はまだ動かずに休んでゐた。
彼女の氷のやうな眼は、まだ凍りついたやうに私の眼を見つめてゐた。
「云ひたいことはそれでおしまいかい。」普通の人が聞いたら、とても子供に使ふ言葉とは思へない、 まるで大人を相手にしてゐるやうな調子で、彼女は訊いた。
その眼は、その聲は、私のあらゆる反感を湧き立たせた。 頭から足まで搖れ、抑へ切れない興奮に震へて、私は續けた。 「私はあなたが私の親戚でなくつてよかつたと思ひます。私は生きてる間、 決して再びあなたを伯母さんとは呼びません。一人立ちをしたら、決してあなたなんかに會ひに來るものですか。 人が、私があなたをどれだけ好いてゐたか、またあなたがどんなに私を取扱つたかを聞いたら、 私はあなたのことを思つたゞけでも胸がわるくなると云つてやります。 そして、あなたがお話しにならないやうな殘酷な目に遭はせたことを云つてやります。」
「どうしてそんな
「どうしてかつて?リード夫人、どうしてかつて?それがほんたうのことだからです。 あなたは私が感情を持たないものだと思ひ、愛も親切の切れつぱしもなしに暮せるものだと思つてゐらつしやる。 だけど私はそれでは生きて行けません。あなたは憐れみを知らない、あなたがどんなに私を押し込んだか、 どんなに無法に亂暴に私を赤いお部屋に押し込んで錠を下したか、私は死ぬ日まで忘れませんわ。 私は悲しみに息を詰らせながら、苦しんではゐたけれども、泣いてはゐたけれど、伯母さま助けて下さい、 助けて下さいつてお願ひしたぢやありませんか。 それにあなたはあなたの息子が私を理由もなく打倒したと云ふので私に罰を與へたぢやありませんか、 私は誰でもこの事を聞く人に本當の事を聞かせてやります。世間ではあなたを善良な婦人だと思ふでせう。 だけどあなたは本當は意地の惡い無情な人です。あなたこそ人を騙してゐらつしやるのです。」
この返答の終らぬ中に、私の心は今まで曾つて持たなかつた自由と勝利の念にふくれ上り、 初めて、喜びに躍つた。見えない束縛が破れて、思ひがけない自由の世界へ飛び出したやうな氣がした。 と云ふのは、リード夫人は驚愕したように仕事を膝からずり落し、兩手を額へあてゝ、 體を前後にゆすぶりながら、泣き出しさうに顏をしかめたのだ。
「ジエィン、お前は間違へてゐるよ。一體どうしたの、どうしてさうぶる〜震へてゐるの。水でも飮むかい。」
「いゝえ、飮みません、リード夫人。」
「まだ何かお話があつて?ジエィン、私はお前の友逹になつて上げたいのだよ。」
「あなたに申上げることはありません。あなたは、ブロクルハーストさんに、
私が
「ジエィン、お前、はつきり事が解つてゐないのですよ。子供の惡いところは直して貰はなければいけません。」
「嘘なんて、私の缺點ではありません。」私は腹立ち紛れの甲高い聲で叫んだ。
「だけどお前は怒りつぽいよ、それはお前も一言もなからう。子供部屋へお歸り -- いゝ子だから -- そして、そこでしばらくお休み。」
「私はあなたのいゝ子ぢやありません。私は寢ることなんか出來ません。直ぐに學校へやつて下さい。 私はこんな所に居るのはいやです。」
「さうだ、直ぐに學校へやらなければ。」と、リード夫人は低い聲で呟やいた。 そして仕事を拾ひ上げると、あわたゞしく部屋を出ていつた。
私は、一人取殘された。戰場の勝者として。それは私の今まで戰つた中で一番激しい戰だつた。 そして始めて獲た勝利であつた。私はブロクルハーストさんの立つてゐた敷物の上に、 しばらくつゝ立つて征服者の孤獨の感を樂しんでゐた。最初自づと微笑が浮び、 昂然と氣勢が上つた。しかし、この猛々しい喜びも、速まつてゐた脈搏が鎭まると同じ速さで鎭まつていつた。 子供と云ふものは、私がしたやうにその年長者と爭ひ、 また私がしたやうにはげしい感情をやけに働かせる時には、きつと後になつて、 悔恨の苦しみと反動の肌寒さを經驗するものである。生物のやうにうごめき、きらめき、 なめつくす野火に燒かれるヒースの山が、リード夫人を呪ひ脅迫した私の心の状態に、 びつたり適合するに違ひない。炎の消えた後の黒くこげた同じ山が、そのまゝ、 後の私の氣持ちを表してゐた。半時間沈默反省したとき、私の行爲が氣狂ひじみてゐたこと、 そして自分からいやがる境遇と他からいやがられる境遇の慘めなことを、 わかつた時の氣持ちを表してゐたらう。
私は何か香氣あるものをはじめて味つた。飮むと温くて、新鮮な香り高い酒のやうだつた。 そして後味は酸つぱく、腐敗して毒を呑まされたやうな氣持ちだつた。 リード夫人の許へかけつけて、許しを乞ひたい氣持ちで一杯だつた、しかし、 半ばは經驗と半ばは本能から、その事は却つて二重の叱責を以て、彼女に私を排撃させ、 そしてその爲めに私の生れつきの凡ゆる亂暴な衝動を興奮さすだけであると云ふことを知つてゐた。
出來ることなら毒々しい口を利くより、もつといゝ才を働かしたかつた。また陰慘な憤怒よりも、
もつと人間らしい感情の糧が、發見したかつたらうに。私は本を -- アラビア物語を -- とり上げた、
腰かけて、それに沒頭しようとした。その題目は、私には何の事かてんで解らなかつた。
私自身の思ひは私と私がいつも魅せられるページとの間をさまよつてゐた。
私は、朝食堂の硝子の
私は、たちまち、透きとほるやうな聲をきゝつけた。
「ジエィンさん、どこ?ごはんにいらつしやい。」
私にはベシーの聲だといふことがよく解つてゐたが、動かなかつた。彼女は、輕やかな歩調で、 小路をこちらへ歩いて來た。
「強情ぱりな
ベシーが來たので、私の今まで考へ續けてゐた氣持が一時に輕くなつた。
しかし彼女の機嫌はいつものやうに惡かつた。實は、私はリード夫人とぶつゝかつて、しかも勝つた後なので、
「ね、叱らないでよ。」と云つた。
この行爲は常よりももつと自然に、こだはらずになされたので、彼女を少し喜ばせた。
「變な子ね、ジエィンさんは。」と彼女は私を見下しながら云つた。 「小さな淋しくうろついてる子供。ね、學校へ行くのでしよ。」
私は
「ベシーをおいてけぼりにして、悲しくないの?」
「ベシーが私のことを何とか思つてくれるかしら、叱つてばかしゐたのに。」
「あなたが風變りなおど〜した内氣な子だからよ、もう少し大膽にならなくちや。」
「まあ、もつとなぐられる爲めに?」
「まさか。だけど、あなたは、たしかにいぢめられ過ぎてるわよ。おつかさんも先週會ひに來た時、 自分の子をあんな目に遭はせたくないと云つてゐたわ。さう、いゝしらせがあるわ。家へお這入んなさい。」
「そんなものがあるとは思へないわ。」
「この子は何を云ふの、悲しさうな顏をして見上げて。あのね、奧さまtお孃さま方とジョン・リードさまは、
お茶の御招待で行かうとしてゐますから、私とあなたとお茶をいたゞきませう。
コックに頼んで、あなたに菓子を燒いて貰ふわ。そしてあなたの箪笥を調べるのを手傳つて頂戴。
直ぐにあなたの荷作りをしなくちやならないのよ。奧さんはもう一日か二日の中に送り出すつもりよ。
あなたの持つて行きたい玩具を
「私が居る間は、もう叱らないつて約束する?」
「えゝ、叱らない。だけど、いゝ子にならなくつちや駄目よ。そして私をこはがつちや。 少々物の云ひ方がひどくつても逃げちや駄目よ。それは本當に腹が立つんだから。」
「もうこはくないと思ふわ、ベシー、あんたに慣れたから。だけどまた別の人逹がこはくなるだらう。」
「こはがつちや嫌はれますよ。」
「さう、ベシー、お前みたいに?」
「私はあなたを嫌つてゐませんわ。他の誰よりも好いてゐるつもりですわ。」
「ちつともそんな風はみせてくれないのに。」
「かしこい子。あなたは話し方がまるで變つて來たのね。 どうしてさう思ひ切つたことが惜まず云へるやうになつたの。」
「どうしてつて、もう直ぐあなたにも別れる -- 、それに -- 」 私とリード夫人との間に起つた事について何か話をしようかと思つたけれど、 考へ直したらそのことについて默つてゐる方がいゝらしかつた。
「それぢや、私と別れるのが嬉しいの。」
「うゝん、ちつとも、ちつともよ、ベシー。今になつてみればむしろ悲しいわ。」
「まあ、今になればつて、むしろ悲しい方だつて。私の大事な小さいお孃さんは冷たいことを云ふわね。 私が今接吻して頂戴と云つたら、きつといやだと云ふわね、むしろいやだつて。」
「喜んで接吻するわ。頭をかゞめてよ。」
ベシーはかゞんだ。私たちはお互に抱きあつた。私はすつかり愉快になつて、ベシーの後から家へ入つた。 その午後は平穩無事に暮れて行つた。夜はベシーが彼女の知つてゐる中で最も面白い話をいくつか聞かせ、 もつとも美妙なる歌を選んで歌つてくれた。私のやうなものにも人生には太陽のきらめきがあつた。
一月十九日の朝、五時を打つか打たぬに、ベシーは手燭を私の部屋に持つて來た。
私は、もう起きて、殆んど着物を着てしまつたところだつた。私は、彼女が此處へ這入つて來る半時間前に起床して、
顏を洗ひ、
「這入つて奧さまにお別れの挨拶をなさらない?」
「しないわ、ベシー。伯母さまは、昨夜あんたがお夕飯に下りていつた時に、 私の寢床に來て、私が朝、伯母さまや從兄妹たちを騷がせるには及ばないと云つたんですもの。 そして伯母さまは自分がいつも私の一番いゝ味方だつたことを、忘れないように、そしてね、 伯母さまのことを話し有難く思ふようにと、仰しやいましたわ。」
「何んて云つて?お孃さん。」
「何にも云はなかつたの、私は顏に敷布をかぶせて、壁の方を向いてゐたわ。」
「それは、いけなくつてよ。ジエィンさん。」
「あたりまへよ、ベシー、あんたの奧さんは私の味方ぢやなかつたんですもの、 私の敵だつたんですもの。」
「まあ、ジエィンさん、そんなことを云ふもんぢやありません。」
「左樣なら、ゲィツヘッド!」私たちが廊下を通つて玄關へ出ていつた時、私は叫んだ。
月は沈んで、大へん暗かつた。ベシーは提燈を持つてゐた。その光りが漏れた階段と、
近頃の雪解けでびしよぬれになつて砂利道とを照してゐた。冬の朝は、ひどく寒かつた。
私が馬車道へ急いで下りてゆく時に、齒がガタ〜と鳴つた。 門番の小屋には
「お孃さんは獨りでいらつしやるの?」と門番のお
「えゝ。」
「
「五十哩。」
「まあ、遠いこと!リード奧さまは、そんな遠くまでひとりで行かして、氣がかりではないんでせうかしら?」
馬車は停つた。四頭の馬と、客を乘せた
車掌と馭者とが、大聲で、急ぐようにせき立てた。私のトランクは、積み上げられた。 接吻をして縋りついてゐたベシーの首から、私は引き放された。
「よく面倒を見て下さいよ。」と、車掌が
「えゝ、えゝ。」といふのが答へであつた。
その旅のことは、ほとんどまつつたく、記憶してゐない。その日が不思議に長いやうに思つたことゝ、
數百哩以上の
午後になつて、鬱陶しく、やゝ霧がかゝつて來た。暗くなるに從つて、私はゲィツヘッドから、
隨分遠く離れつゝあることを感じはじめた。町を通過することはなくなつた。
土地が變つたのだ。大きな灰色の丘陵が、地平線に沿ふて盛り上つてゐた。
夕闇が深くなる頃、樹木で暗い谷間を下つた。夜が風景を蔽ひ隱してから永い間、
樹々の間を突進する
その風音にあやされて、私は、つひに、
「ジエィン・エアと云ふ、小さい娘さんは、ゐませんか?」と彼女が訊ねた。
「はい。」と、私は答へた。さうして、降された。私のトランクは、とり下されて、馬車は、 直ぐ動いていつた。
私は、長く坐つてゐたので、硬ばつてゐた。さうして、馬車の騷音と動搖で、混亂してゐた。
私は元氣を出して、自分の周圍を見た。雨と風と暗闇とが、大氣に
私は、立つて、かじけた手の指を、火の上に
最初の人は、黒い髮と、黒い眼と、蒼白い廣い額とを持つた、背の高い婦人であつた。 彼女の體は、半ば
「こんな小さい子を獨り旅させるなんて。」と蝋燭を
「この子は、直ぐ
「少し疲れました。」
「そして、ひもじいでせう、きつと。寢る前に何か御飯を食べさせておやりなさい。
ミラアさん。御兩親を離れて、學校へ來たのは、
私は、彼女に兩親が無いと云ふことを述べた。彼女は兩親が亡くなつてから何年になるかと訊いた。
それから、
私が今別れた、その婦人は、二十九歳ぐらゐだつたらう。私と一緒に去つた婦人は、
二つ三つ若いやうに見えた。最初の婦人は、聲を顏付と容子で、私に印象を與へた。
ミラア先生は、ずつと平凡だつた。苦勞のため
ミラア先生は戸口の近くの腰掛に坐るやうの合圖をしてから、その長い部屋の上席の方へ歩んで行つて、 大きな聲で叫んだ --
「級長、教科書を集めて片附けなさい。」
四人の背の高い女の子が各自の
「級長、夕食のお盆を持つておいでなさい。」
背の高い女の子は出て行つて、めい〜、私には何だかわからないが何人前もの食事を載せた、
そしてそれ〜゛のお盆のまん中に、水差と湯呑が載つてゐるのを持つて直ぐに戻つて來た。
食物はぐるりにそれ〜゛渡された。水を飮みたい者は、湯呑がみんなに共通であつたから一口づつ飮んだ。
私は喉が渇いてゐたから水は飮んだけれども、昂奮と疲勞とで食べる氣がしなかつたので、
食物には、手を觸れなかつた。だがやがて、それは小さく割つた薄い
食事が濟み、ミラア先生がお
その夜は直ぐと經つてしまつた。私は甚しく疲れてゐたので夢さへ見なかつた。ほんの一度目が醒めて、
烈しい音を立てゝ俄か雨が
「組に分れなさい!」
大變な騷々しさが數分間つゞゐた。その間ぢう、ミラア先生は、「靜かに!」や「きちんと!」を繰返して叫んだ。
靜かになつた時私は全生徒が四つの
遠くの
授業が始まつた。その日の
食堂は大きな、天井の低い薄暗い室であつた。二個の長い食卓には、 何かしら温い物の入つてゐる鉢から煙が出てゐた。ところが、面喰らつたことには、 食慾を起させるどころか、大變な臭氣を發してゐた。この食物の香りが、 これを吸ふべく運命づけられてゐる、子供らの鼻に入つたとき、 明かに凡ての生徒には不滿の色が現はれた。列の先頭の上級生の大きい生徒は低い聲で云つた --
「胸が惡くなる!お
「靜かに!」といふ聲がした。ミラア先生ではなく、上席の先生の一人で背の低い髮の毛の黒い人で、
きちんとした服裝をしてゐたが、氣むづかしい顏付で、一つの食卓の上座に坐つてゐた。
別にこの先生よりずつと肉付のよい婦人が他の食卓の上座を占めてゐた。
私は前の晩にはじめて會つたひとを探したけれど、見當らなかつた。
彼女は姿を現はさなかつたのであつた。ミラア先生は私の坐つた食卓の下座に就いた。 そして一人の見慣れない、外國人らしい年をとつた婦人
-- あとで彿蘭西語の先生だとわかつた -- は別の食卓のおなじやうな下座についた。長い食前の祈りがあり、讚美歌が
お腹が減つてもう氣が遠くなつた私は、味なんぞ考へないで、 私の分を一匙二匙貪り食べたが空腹のせつない苦痛が和らいで見ると、 實に不味い食物を手に持つてゐることがはつきりして來た。 焦げたお鬻は腐つた馬鈴薯とおなじ位ひどいものだつた。 餓死しさうな人でもそれを食べればすぐにむか〜してしまふだらう。 みんなの匙ものろ〜と動いた。どの子を見ても、自分の食物を口に入れて、努めて呑み込んでゐたが、 その努力は間もなく斷念されるのが多かつた。朝食は終つたが誰も朝食を濟ましたものはなかつた。 この食べなかつたものに感謝の祈りが捧げられまた第二の讚美歌が歌はれてから、 私たちは食堂を出て教室へと行つた。 私は出てゆく最後の生徒の一人だつた。食卓を通り過ぎる時、一人の先生がお鬻の鉢を手にとつて味はつてゐるのを見た。 その先生は他の先生の方を見た。先生の顏にはみんな不快な色が浮んだ。中で、頑丈な身體つきの先生が呟いた --
「ひどい御馳走だ!こんなものを出すなんて!」
授業が始まる前に十五分あつたが、その間中教室は大騷ぎだつた。この時間は大聲で、
そしてずつと自由に話してもよいことになつてゐるらしかつた。それで生徒らは (自分逹のこの特權を使用した)。 [原文のまま]
みんなの會話は朝食のことでもちきりだつた。 一人殘らず
教室の時計が九時を打つた。ミラア先生は自分の仲間を離れて、教室のまん中に立ちながら叫んだ --
「靜かに!着席!」
規律が守られた。五分の後に、今までゴタ〜になつてゐた群が整然となり、
バベルの塔のお喋り(喧騷)が止んで比較的靜肅になつた。上席の先生が、
その時を違へずキチンとそれ〜゛の受持に就いた。けれども、依然として、みんなは待つてゐるやうだつた。
教室の兩側にある腰掛にそつて、八十名の生徒は身動きもせず姿勢よく坐つてゐた。
妙な集りに見えた。一人殘らず額から無造作に髮の毛をすき上げてゐて、
捲毛らしく縮らしてゐるものは見當らなかつた。喉もとまできちんとつまつた狹い襟のついた褐色の着物を着て、
上着の前の方にお針袋に使ふことになつてゐる麻布の小さい袋(スコットランド人の財布のやうな型のもの)を結びつけてゐた。
また一人殘らず羊毛製の長靴下と、眞鍮のびぢやう止になつてゐる田舎出來の靴を履いて居た。
こんな着物を身につけてゐる生徒の内約二十名以上は、十分生長した女の子であつた。
と言ふよりもむしろ若い婦人であつた。この人たちには、この着物は似合はなかつたし、
大變綺麗な娘にさへ妙な風采を與へた。私はその娘たちをずつと見てゐた。 また時々先生の方を吟味してゐたが --
誰もまつたく私には氣に入らなかつた。 何故なら頑丈な先生は少し下卑てゐたし、黒い毛の先生はガラ〜で
何が起つたのか。私は命令なんか聞かなかつた。私は當惑した。私が氣をとりなほし、 級の生徒が再び着席しない内に、しかし今や全生徒の眼が一點に向けられた時に、私の眼も、 みんなの眼の方向のあとをつけて、前夜、私を應接してくれた例の人に止まつた。 この婦人は長い教室の爐の側の末席の方に立つて -- 兩側に煖爐があつたから -- 默つてまじめな顏をして、二列の生徒を見渡してゐた。ミラア先生は近寄つて行つて、 この婦人になにかたづねて、その返辭を得てから、自分の位置に戻つて、大きな聲で言つた。
「上級生の級長、地球儀を持つて來なさい。」
命令が行はれてゐる間に、相談をうけた婦人は靜かに教室の上席の方へ歩いて行つた。 私は生來餘程尊敬噐官を持つてゐるやうに想へる。
何故なら私の眼が畏敬の念を持つて彼女の歩みの跡をつけたその時の氣持を未だ持ちつゞけてゐるからである。
今一面に擴がつて居る太陽の光りで見ると、彼女は背が高く、色白の、恰好のよい樣子をしてゐた。
虹彩の内に優しい光りをたゝへてゐる茶色の目と、それを圍んでゐる長いまつ毛が描いたやうに揃つてゐることが、
彼女の大きな額の白さを殊更きは立たせてゐた。兩方の
そのローウッドの監督(この婦人は監督あつたが [原文のまま] )
は一つの
授業が終つたので、既に騷々しくなりかけてゐたのであつたが、彼女の聲で靜まつた。彼女は續けて云つた。
「あなた方は今朝朝食が食べられなかつたのでせう。お腹が空いてゐるに相違ありません。 それでチイズ附のパンを晝食に皆さんに御馳走するように私は云つておきました。」
先生たちは一種の驚きを以て彼女を見た。
「これは私の責任ですることなのです。」と彼女は先生たちに説明するやうな
チーズ附のパンが早速運び込まれて、分配せられた。これは間もなく全生徒を大層よろこばせ、
彼等に大層元氣を與へた。その時「校庭へ!」といふ命令が與へられた。
どの生徒も染めたキャラコの紐のついた、粗末な
『ローウッド
『斯くの如く汝等の光りを人の前にかゞやかせ、これ汝等が善き行爲を見て、
天にゐます汝等の父を
「あなたが讀んでゐらつしやる御本は面白いの?」
私は、もうその時、數日後それを貸してもらふつもりであつた。
「私は好きです。」と彼女は、チラと一瞥して答へた。
「どんなことが書いてあつて?」と私は續けて言つた。私がこのやうに見知らぬ人に、
どうして斯う厚かましく話しかけるやうになれたか、自分にもよく分らなかつた。 -- この行動は私の性質と習慣に反してゐた。 --
がしかしこの少女のしてゐることには、 何だか共鳴出來るやうな氣がした。と云ふのは、とりとめ無い、子供らしい讀者にしても、
私はそれが好きだつたから。私には
「あなた、御覽になつてもいゝわよ。」と、娘は私に本を渡しながら云つた。
私はその本を讀んで見た。一度目を通すと何んだか内容は
「あの入口の上にある石に書いてあるのは何のことだか教へて下さらない?
ローウッド
「あなたが住みにいらしたこの家のことです。」
「では
「半分慈善學校なのです。あなたも私もその他私たちはみんな慈善學校の子供なのよ。 あなたは孤兒なんだと思ひます。お父さんかお母さんが亡いのでせう。」
「二人とも私の物心つかないうちに亡くなつてしまつたのよ。」
「さうですか。此處にゐる者はみんな親が片一方か、でなければ兩方ないかなのですよ。 それで、こゝのことを親なし子を教育する學校と云はれてゐるのです。」
「私たちはお金を支拂はないの?
「一人に一年十五
「ぢや何故私たちのことを慈善學校の生徒なんて云ふんでせう。」
「何故つて十五
「
「この近くや、倫敦の色々な惠み深い婦人や紳士方が。」
「ネイオミ・ブロクルハーストつて誰?」
「あの額に書かれてゐるやうに、この新らしい校舎を建てた方よ。その方の令息が、 此處の萬事を管理して指揮していらつしやるの。」
「なぜ?」
「その方がこの學校の會計係で管理者なんですもの。」
「それではこの家はチイズ附のパンを食べるやうに仰しやつた、時計をつけた、 あの背の高い
「テムプル先生のですつて?いえ、いれ、さうぢやないの。さうならいゝけれど。 あの方は御自分のなさることには何でも、ブロクルハーストさんに對して責任を持たなければならないの。 ブロクルハーストさんは私たちの食物や着物をすつかりお買ひになるのよ。」
「その方は此處に住んでいらつしやるの?」
「いゝえ -- 二哩離れた大きなお
「いゝ方?」
「牧師さんだから良いことをいろ〜となさると云はれてゐるわ。」
「あの背の高い人はテムプル先生ですつて?」
「えゝ。」
「ぢや、他の先生は何んといふ名前なの?
「赤い頬をした方はスミス先生。裁縫を教へて下さるの。そして
「あなた、どの先生もお好き?」
「えゝ、大好きよ。」
「小さい髮の毛の黒い先生もお好きなの?それからマダム・ピエ -- 私、あなたみたいにその人の名を云ふこと出來ないわ。」
「スキャチャード先生は短氣なのよ。 -- 怒らせないように氣をお附けなさい。 マダム・ピエロは惡い方ぢやないのよ。」
「だけど、テムプル先生が一番好い方なんでせうね。」
「テムプル先生はとても好い方で頭もいゝの。先生は他の先生より優れてゐらつしやるわ。 だつて他の先生よりもずつといろ〜なことを知つてゐらつしやるんですもの。」
「あなたは、もう永いこと、こゝにゐらつしやるの。」
「二年。」
「あなたもみなし子なの?」
「お母さんが亡くなつたの。」
「こゝに來て、あなた、お仕合せ?」
「あなたは少しいろんなことを聞き過ぎるわ。私もこれで十分お答へしたことよ。 もう私は御本が讀みたいの。」
しかし、その瞬間に、
午後にたつた一つ注意すべき出來事があつた。それは、ヴェランダでお話した少女がスキャチャード先生に叱られて、
不面目にも歴史のクラスから追ひ出されて、大きな教室の眞中に立つやうに連れて行かれたことであつた。
この罰は非常に不名譽に思はれた。特に、こんな大きな少女に對しては -- 彼女は十三歳か、または、 それ以上に見えた --
。私は、彼女が困惑と羞恥で色を失ふだらうと豫期してゐたが、
驚いたことには、泣きもしなければ、顏を赧らめもしなかつた。
午後五時が過るとすぐ、私たちは、
次の日も、前の日と同じやうに始まつた。起きて、薄明りで着物を着た。しかし、今朝は、
私たちは顏を洗ふ儀式なしで濟まさなければならなかつた -- 水差の水が凍つてゐた。
前の晩から天候が變つて、夜どほし寢室の窓の隙間から、ヒュー〜音をたてゝ吹き込んでゐた、
刺すやうな東北の風が、私たちを
祈祷と聖書朗讀の長い一時間半が濟まないうちに、私は、寒さで、死にさうな思ひをした。 やつと朝食の時間が來た。今朝は焦げてゐなかつた。食べるには食べられたが、量が少なかつた。 私の分はなんてぽつちりしか見えないんだらう!この二倍もあればいゝのに。
その日、私は、第四級の生徒の中に加へられ、正規の學課や仕事が定められた。
今迄はローウッドに於ける
「バーンズ(これが彼女の姓らしかつた。此處の少女たちはみんな男の子のやうに姓で呼ばれてゐた)、 バーンズ、あんたは片一方の足を曲げて立つてゐますね、眞つ直ぐキチンと爪先を開くんです。」 「バーンズ、とても不快に頭を突き出してますね、引込めなさい。」 「バーンズ、頭を上げてゐらつしやい。先生の前でそんな態度は許せません。」など。
一章を二囘反復すると、本を閉ぢて、生徒たちは試驗された。その課目は、チャァルズ一世の治世の一部を含んでゐた。
大抵の生徒が答へられないやうな
バーンズは答へなかつた。彼女の沈默は、私には不思議だつた。
「なぜ水が凍つてゐたから、爪のお掃除も顏を洗ふことも出來なかつたと云はないんだらう。」と思つた。
その時、スミス先生が一
「強情な子だこと!」スキャチャード先生は叫んだ。「どんなことをしたつて、 あんたのだらしのない癖は直りやしない。鞭を片づけなさい。」
バーンズは云はれるまゝにした。彼女が書物部屋から出て來た時、私はじつと彼女を見た。
彼女はちやうどハンカチをポケットにしまはうとしてゐた。 そして涙の
夕方の遊び時間が、ローウッドの一日の最も樂しい時だと私は思つた。
五時に
スキャチャード先生が彼女の生徒のバーンズを鞭でぶつた日の夕方、私は、お友逹なしで、
けれど淋しいとも思はないで、いつものやうに腰掛や
多分、もしか私が温かい家庭と、やさしい兩親の側を離れたばかりだつたら、
これこそ何よりも強く別離を悲しむ時間なのだらう。そして、あの風が私の心を悲しませ、
この暗がりの混沌が私の平和を
腰掛を飛び越へたり、
「まだ『ラシラス』なの?」彼女の
「えゝ」彼女は云つた。「丁度讀み終るところなの。」
それから五分あまりのうちに、彼女は本を閉ぢた。私はうれしくなつた。
「さて、多分話をしてもらへるだらう。」と私は思つた。彼女に寄り添つて、私は床に坐つた。
「バーンズの外のあなたのお名前、何んて云ふの?」
「ヘレン。」
「遠いところから、此處へいらしつて?」
「私はね、ちやうどスコットランドの國境の、遠い北の處から來たの。」
「歸りたくはない?」
「歸りたいわ。だけど誰だつて
「ねえ、あなたはローウッドを離れてしまひたいのぢやないの?」
「いゝえ!なぜなの?私は教育を受ける爲めにローウッドに寄越されたのよ。だから、 目的をやりとげないうちに離れてしまへば、何にもならないでせう。」
「でも、あの先生ね、スキャチャード先生はとてもあなたにひどいんでせう?」
「ひどい?そんなことないわ!あの人は嚴しいのよ。私の缺點を憎んでゐらつしやるの。」
「だから、もしか私があなたと代つてゐたら、私もあの先生を憎んでやるわ。叛抗してやるわ。 もしかあんな鞭で私をぶたうものなら、私、あの人の手から引つたくつて、目の前でへし折つてしまうわ。」
「多分あなただつて、そんなこと出來ないわ。だけど、そんなことをあなたがしたら、 ブロクルハースト先生は、あなたを退學させてしまふでせうよ。そんなことににでもなつたら、 あなたの御親類の方なんぞ、とても心配なさるわ。早まつたことをして、あなたに關係のある人に迷惑をかけるより、 自分だけしか感じない痛みをじつと我慢した方がずつといゝわ。それに聖書にだつて、 惡に善をもつて酬いよつて教へてあるでせう。」
「だつて、鞭でぶたれて、人のいつぱいゐる室のまん中に立たせられるなんて、恥かしいと思ふわ、 それに、あなたはもうそんなに大きいのに。私なんてあなたよりずつと小さいけれど、とても我慢できないわ。」
「でもね、あなたがそれを免れられないのなら、その場合、我慢することがあなたの義務なのよ。 我慢しなければならないことがあなたの運命なのに、それを我慢出來ないなんて云ふのは、 弱い馬鹿氣たことだわ。」
私は、不思議な氣持ちで、彼女の云ふことを聞いた。私はこの忍耐の教義を理解することが出來なかつた。 まして彼女が自分を懲らしめる者に對して示した忍從には、理解することも同情することも出來なかつた。 そお癖、私には、ヘレン・バーンズが何か私の眼には見えない光でものを見てゐるやうに感じられた。 彼女の方が正しくて、私が間違つてゐるのぢやないかといふ氣がした。 だが私はそのことを深く考へたくなかつた。フエリクスみたいに、私ももつと都合のいゝ時まで、 そんなことは延ばしてしまつた。
「ねえヘレン、あなたには缺點があるつて云つたでせう、どんなもの? 私にはあなたがとてもよく見えるのだけれど。」
「ぢや、外見で判斷しないやうに私から學ぶんだわ。私はスキャチャード先生が云つた通りにだらしがないの。 物をきちんと置くことも滅多にないし、きちんとすることも滅多にないの。不注意で、 規則のことを忘れてしまつて、學課を勉強しなければならない時に本を讀んでしまつたりするの。 方法つてものが立たないのよ。だから、時々、私もあなたのやうに、組織的な配列に從ふことに、 我慢出來ないつて云ひ出すのよ。これがまつたくスキャチャード先生の氣に障るこのなの。 あの人は、生れつき綺麗好きで、几帳面で、嚴格なんですもの。」
「そして氣むづかしやで意地わるで。」私は附け加へた。だけどヘレン・バーンズは私の追加を認めなかつたやうだ。 彼女はやつぱり默つてゐた。
「テムプル先生もスキャチャード先生のやうにあなたに嚴しいの?」
テムプル先生の名を云つた時、彼女のまじめな顏にやさしい微笑が浮かセ。
「テムプル先生はほんたうにやさしいのよ。あの方には、どんな者にも、
この學校中で一番惡い生徒にさへも、嚴しくすることが苦しいのよ。先生は、私の
「變ね。」私は云つた。「注意深くしてゐることなんて、何んでもないぢやないの。」
「あなたは無論さうなのよ。私、今朝クラスに出てゐるあなたを見てゐて、
あなたがとても注意深い人だつてことがわかつた。ミラア先生が學課をやつてあなたに質問してゐる時、
あなたは決して氣を散らしたりしてゐないの。ところが私となると始終どつかへ氣が散つてゐるのよ。
スキャチャード先生の仰しやることをよく聞いて、何でも熱心に覺え込まなきやならに時でも、
時々先生のお聲さへうつかり聞き流してしまふの、夢のやうなものに落ち込んでしまふの。
時々、私はノオサムバランドにゐるんだと思ふのよ、そして、
「でも、今日は、隨分よくお答へをしたぢやないの。」
「ほんの偶然なの、私たちの讀んでゐたところが、私には興味があつたの。今日はディープデンの夢を見る代りに、
正しい事をしようと望んでゐるものが、どうして、チヤァルズ一世が時々したやうに、
あんなに不正な無分別な行動をとられるのかしらと思つてゐたのよ。
チヤァルズ一世があんなに圓滿な眞心のある人でありながら、王室の特權以上のものが見えなかつたといふのは、
まつたく可哀さうな氣がするわ。もし彼に先見の明があつて、 いわゆる時代の精神つてものがどう傾いてゐるかゞ見とほせたらねえ。
でも私はチヤァルズが好きなの -- 尊敬するの -- 氣の毒になるの、可哀さうな暗殺された王樣!
さうよ、彼の敵が一等惡いわ。
ヘレンはもう
「ではね、テムプル先生が教へてゐらつしやる時でも、あなたは氣が散るの?」
「いゝえ、ほんとに滅多にないわ。何故つて、テムプル先生は、私の思ひ出よりもずつと新しいことを、 大抵云つて下さるんですもの。あの方の言葉は、私には妙に氣に入るのよ。 そしてあの方が教へて下さる智識は、いつもちやうど私が欲しいと思つてゐるものなの。」
「さう、ぢあテンプル先生と一緒だとあなたはいゝのね?」
「えゝ、受身の形でね。私、努力なんかしないのよ。愛情に導かれてついて行くだけ。 こんな善行には、何の功績もありはしないわ。」
「大ありよ。あなたは、あなたにとつて良い人には良くするんですもの。 私いつもさうしたいと思つてゐたのよ。もしか殘酷な惡い人逹にいつも親切に云ふまゝになつてゐたら、 惡い人逹は自分のしたいことばかしするわ。そんな人たちは決して恐れを感じないでせう、だから、 決して改めないで、たゞ益々惡くなる一方だわ。私たちが何の理由もないのに打たれた時は、 うんとひどく打ち返してやつていゝんだわ。 私たちをぶつた人が二度と同じことをしないやうに教へてやる爲めには、私、さうしていゝと信じるわ。」
「あなたがもつと大きくなれば、あなたの考へ方も變るだらうと思ふわ。 今はまだ、あなたは小さな何も教はつてゐない子供なんですもの。」
「だけど、私かう思ふのよ、ヘレン、私がどんなに氣に入るやうにしても、あくまで私を憎む人を、
私は憎まないではゐられないわ。私を不當に懲らしめる人に、叛抗しないではゐられないわ。
それは、私を可愛がつてくれたり、私が當然受けるべきだと思ふ罰をくれる人を、
私が愛さなきやならないと同じやうに
「異教徒や野蠻な人種は、そんな教へを、今も持つてゐるでせう。だけど、基督教徒や文明國の人たちは、 そんなものを斥けるのよ。」
「どうして。私、わからないわ。」
「憎しみに何よりも強くうち勝つものは暴力ではないの -- 危害をほんたうに確かに癒すものは復讐ではないのよ。」
「では何?」
「新約聖書を讀んで、基督の仰しやつたことや、なすつたことおをよく考へて御覽なさい。 基督のお言葉をあなたの規則に、行ひをあなたのお手本にするのよ。」
「基督は何て仰しやつたの?」
「
「ぢや、私はリード夫人を愛さなきやならないの、そんなこと、とても出來ないわ。 あの人の息子のジョンの爲めにお祈りをするの、そんなこと無理だわ。」
今度は、ヘレン・バーンズが私に説明を求めたので、私は私のやり方でもつて、 自分の受難と鬱憤の物語を早速はじめた。昂奮して來ると、私は毒々しげに殘酷になるので、 遠慮せず、緩和せず、思つた通りを話してしまつた。
ヘレンは辛抱強くおしまひまで聞いてくれた。私は彼女が何か云ふかと待つてゐたが、彼女は何も云はなかつた。
「ねえ、リード夫人は、殘酷な、いけない人ぢやなくて?」私は待ちきれなくなつて訊いた。
「確かにあなたに對して不親切だつたわね。だつて、その方も、スキャチャード先生が私が嫌ひなやうに、
あなたの性質が嫌ひなのよ。ね、さうでせう。だけどま、なんてあなたは小さな事まで、
その人が云つたり、したりしたことをすつかり覺えてゐるんでせう。 その人のひどい行ひがあなたの心によく〜特別な深い印象を與へたのねえ!
私の心にはどんな虐待だつて、そんなに燒きつけられはしないのよ。もしかその人の
いつもうなだれてゐるヘレンの頭は、彼女がこの言葉を云ひ終つたとき、前よりも少し低く下つた。
彼女の顏色で私は、彼女がもうこれ以上私と話したくないことが、
いやむしろ自分の心と話さうとしてゐるのがわかつた。だが、彼女は瞑想する多くの時間を許されはしなかつた。
級長の、大きいがさつな
「ヘレン・バーンズ、あんた、行つて
ヘレンは、彼女の默想が消えてしまふと、そつと溜息をついた。 そして立ち上つて、返辭もせず、ためらひもせず、級長の命令に從つた。
ローウッドの最初の學期は、一世紀のやうに思はれた。それも決して幸福な時代ではなく、
新らしい規則や馴れない學課に自分を慣らすといふ厄介な困難と鬪はねばならなかつた。
それらの點で
一月、二月と、三月の始めの間は、深い雪と、雪解けの後の、殆んど歩くことも出來ぬ道路とは、
私たちが、教會へ行く以外は、庭の垣の向うへ出ることさへはゞんだ。
が、この限られた區域の内で、毎日一時間は
さうした冬の季節には、日曜日は慘めな日であつた。私たちは、二哩の道を、私たちの保護者が司祭するブロクルブリッヂ教會へ、
歩いて行かなければならなかつた。私たちは、出かける時にも冷えてゐたが、教會へ行き着くと、
一層冷たくなつてゐた。朝の禮拜の間、私たちは殆んど感覺を失ふのであつた。
晝食に歸るには餘りに遠過ぎたので、普段の食事に定められてゐるのと同じほどの、
午後の禮拜が終ると、私たちは吹き曝しの
私はテムプル先生が、うな埀れてゐる私たちの列に附き添つて、身輕に元氣よく歩いてゐたのを思ひ出すことが出來る。
凍つくやうな風が吹き上げる縞羅紗の外套を、
私たちが歸りついた時に、あか〜と燃える火の光と熱とを、私たちはどんなに思ひ焦れたことだらう!
しかし、少くとも幼ない生徒には、この望みは充たされなかつた。教室の煖爐は、どれも、素早く、
大きな少女たが二列に取り卷き、そして、その
お茶の時間には、小さな
日曜日の夜は、教會問答と馬太傳第五、六、七章を暗誦することと、抑へ切れない
私はまだブロクルハースト氏の訪問のことを云はなかつたが、事實、私が此處へ着いてから一月の間は、
殆んど
或日の午後(その時は、私がローウッドに來て三週間目になるが)、 私は石板を手にしてむづかしい割算の答を出すのに困つてゐたが、茫然と窓を眺めた私の眼に、 ちやうどそこを通り過ぎる人が見えた。殆んど直感的に、私はその骨つぽい輪廓を識別した。 二分の後に、全生徒が、先生たちも一緒に、起立した時には、 私はもう誰のお出を皆がお迎へしたかを確かめるために見上げる必要はなかつた。 長い足が大胯に教室をよぎつたと思ふと直ぐ、起立してゐたテムプル先生の側に突立つたのは、 ゲィツヘッドの爐邊の敷物の上から、氣味惡く私を睨みつけたあの黒い柱のやうな人であつた。 私は、その時、この建築材料のやうな人を横目で見た。さうだ、それはフロック型の外套をボタンで留め合せて、 以前よりも一層のつぽで、痩せて、骨ばつてゐるやうに見えるブロクルハースト氏であつた。
私は、この出現によつて、
「ロートンで買つた絲ですな、テムプル先生、あれは多分役に立ちませう。
キャラコの肌着にはちやうど適當な品です。針も絲に合つたのを
「先生のお指圖通りに、氣をつけますようにいたします。」とテムプル先生は云つた。
「それから、」と彼は續けた。「洗濯女の話では、生徒の中に一週間に二本、 洗つた襟を使ふのが居るさうだが、それでは多過ぎる、規則では一周に一本と限つてある筈だが。」
「その事では、私が事情をお話申し上げたいと思ひます。前の木曜でございましたが、
アグニスとカスリン・ジョンストンが、ロートンで四五人の友併ちのお茶に
ブロクルハースト氏は
「成程、まあ一度は宜しい、宜しいが、どうかその事情といふ奴を、あまり度々、顏を出させぬよう願ひます。
それから外のことですが、驚いたことには、
「そのお話ならば、先生、私の責任でございます。」とテムプル先生は答へた。 「あの日は朝食が大そう不出來で、子供等はとても食べられない程でございました。 それで、私は皆がお晝食まで斷食するのを見てゐられなかつたものですから。」
「いや、マダム、少しお待ち下さい。御存じだと思ひますが、この子供たちを育てるに就いての私の方針は、
贅澤と放縱に馴れさせようと云ふのではない、彼等を不屈にし、忍耐に富ませ、
克己力を養はせるにあるのです。假に今のやうな食事の出來損なひだの、 料理のこしらへかたがよすぎるだの、惡すぎるだのと云ふ類ひの、
取るに足りない食慾の不滿を生じる場合があつたとしてもですな、
その消滅した慰安より以上のもので埋め合せて、その偶然の出來事を中和させるなどゝ云ふことがあつてはならない。
さういふやり方は、肉體を増長させ、また本校の趣旨を斥けるものです。であるから、その場合には、
そのやうな一時的な缺乏にも耐へ得るといふ證據を見せるやうに彼等を激勵する、
といふやうな方法で、事件を生徒たちに精神的薫陶を與へる材料にしてしまはなければ駄目です。
さうした機會を外さず、貴重な一言を與へるのは、最も當を得たものと思ひます。
賢明な教師は、原始基督教徒の樣々な困苦艱難や、殉教者の苦難や、十字架を負ひて我に從へと弟子たちを導き給ふ、
我等の尊き主御自身の御教訓や、その他、『人はパンのみにて生くる者に非ず、 唯神の凡の
ブロクルハースト氏は再び口をつぐんだ。多分感に迫つて口が利けなくなつたのかも知れなかつた。
テムプル先生は、最初に彼に話しかけられた時は伏し眼になつてゐたが、今は眞直に前を
一方ブロクルハースト氏は、手を後に組んで、爐邊に立ち、轟然と全生徒を見渡してゐた。 突然、彼は、瞳を何かに打たれたか、 眩ませられたかのやうにパチとまばたいて振向きざま今迄よりもずつとせきこんだ調子で云つた --
「テムプル先生、テムプル先生、な、なんです、その毛を縮らした子は?その赤毛の -- 縮らした、 全部縮らしたやつ -- 」そして彼は、ステッキを伸して、その恐るべき目的物を指示したが、 その手はぶる〜震へた。
「あれはジュリア・セヴァンでございます。」と、極めて靜かな聲で、テムプル先生は答へた。
「ジュリア・セヴァン、ふむ!では何故、あの子は、あの子でなくても誰でも、捲毛なんぞがあるのあです? 何故、この福音的な學院の中で、すべての校規校則を無視して -- 頭に捲毛の束をくつゝけて、 公然と世間にならふ必要があるのです?」
「ジュリアの髮は生れつき縮れて居ります。」とテムプル先生は、一層靜かな聲で云つた。
「生れつき!ふん、しかし我々は自然に任せてはならん。 私はこの娘逹に特に神の惠を受けてゐるものになつて貰ひ度いと思つてゐる。
ではそのふさ〜してゐるのはどういふ譯ですか?髮は飾りけなくつゝましく固く結ひなさいと、
あれ程繰返し〜云つてあるのだ。テムプル先生、その子の髮はすつかり
テムプル先生は、思はず浮かんだ唇の微笑を拭ひ去るやうにハンカチを口に當てたが、しかし號令はかけた。
何を命じられたか合點が行くと、最上級生はおとなしく從つた。私は、少し腰掛のうしろに
彼は生きたメタルたちの裏がはをものの五分もジロジロと
テムプル先生は、反對の容子を見せた。
「マダム、」と彼は言葉を續けた、「私は、この世ならぬ王國に君臨し給ふ主に、仕へまつる者です。
この娘たちの肉體的な慾望を抑制することが、私の使命だ。編んだ髮や贅澤な着物を捨てゝ、
羞恥と誠實を身に付けるようにと云ひきかせることが私の使命だ。ところが、此處にゐるお孃さん方は、
編下げにした長い髮を持つておいでになる、虚榮心で固められた人間がやりさうなことである。
で、繰返して申上げるが、
この時、ブロクルハースト氏は妨げられた。また三人のお客樣、貴婦人たちが教室に現はれたのだ。
この人たちはもう少し早く來て、ブロクルハースト氏の服裝に關するお講義を聞くべきであつた。
みんな
この貴婦人たちは、ブロクルハースト氏の夫人及び令孃として、テムプル先生に恭しく迎へられ、 室の上席の名譽席に請じられた。多分彼女等は尊敬すべきその肉親と共に馬車で訪れ、 彼が取締りと事務を處理したり、洗濯婦に質問したり、監督者に説教したりしてゐる間中、 二階の部屋々々を鵜の目鷹の目でアラ探しをしてゐたらしい。さて彼等は、 今度は寄宿舎の監督と下着類の責任を持つてゐるスミス先生に對つて、 いろ〜と注意をしたり、小言を云つたりしてゐたが、もう私には彼等が何を云つてゐるか聞く暇がなかつた。
今迄、ブロクルハースト氏とテムプル先生との會話を拾ひ集めてゐた間は、
同時に自分自身の安全を護る爲めに私は警戒を怠らなかつた。見つけられさへしなければ、
巧く行くだらうと思つたので。かうもくろんだので、私は、腰掛にずつと深く腰をかけ、
さも計算に忙しいふりをし、顏を隱すやうな恰好に石板を抱へ込んでゐた。だから、
私の石板が謀叛氣を出してうつかり手から滑り脱けなかつたら、そして無遠慮な音を立てゝ碎けて、
いきなり皆の眼を私の方へ向けさせなかつたら、多分私は見付けられずに濟んだかも知れないのだけれど。
もう駄目だと悟つた私は、二つに割れた石板の
「不注意な娘だな!」ブロクルハースト氏は云ふより早く、「あれは新入生だな、違ひない。」 そして私が息を吸ひ込む間もなく「あの娘のことでは一言注意しなけりれやならん。」 それから大きな聲で -- なんて私には、大きな聲だつたらう! 「その石板を壞した子を前に出しなさい!」
自分から進んで動くことは、私には出來なかつた -- 身體は痺れてしまつてゐた。だが、兩側にゐた二人の大きな娘が、 私を引立てゝ恐しい裁判官の方に押しやつたので、テムプル先生は、やさしく私を彼の足下に導いた。 私の耳には、彼女の囁く慰めの言葉が響いた。
「怖がらないでねジエィン、過まちだと分かつてますからね。罰したりはしません。」
親切な響きは、短劍のやうに、私の胸には應へた。
「次の瞬間が來る。するとテムプル先生は、私のことを僞善者だと
「その腰掛を持つて來なさい。」ブロクルハースト氏は、ちやうど級長が立ち上つたばかりの高い腰掛を指して云つた。 それは運ばれた。
「その子を、その上に立たせなさい。」
さうして、私はその上に載せられた -- 誰に載せられたのか私にはわからなかつた。
小さなことまで注意するやうな場合ではなかつたから。私は、たゞ、 みんなが私をブロクルハースト氏の鼻の高さに引揚げたことゝ、
私から一
ブロクルハースト氏は咳拂ひをした。
「
勿論、彼等は見てゐた。私の熱い額には、彼等の眼が火取りレンズのやうに燒きつくのが感じられた。
「御覽の通り、この子は、まだ若い、姿、形も普通の子供である。神樣は、御寛大にも、
我々すべてに與へ給ふたと同樣の形をこの子供にも與へられた。 特に異常な性質を持つてゐるといふ印になる畸形な點があるわけでもない。
まつたく、この子供が、既に惡魔の
話がちよつととぎれた -- その間に、いよ〜運命は決した、もう今となつては、避けることの出來ない試煉を、 完全に耐へ忍ばなくてはならぬと悟つた私は、麻痺した神經をしつかりさせようとしはじめた。
「親愛なる子供たちよ、」黒大理石のやうな牧師は、悲しみを籠めた聲音で云つた。 「これは悲しむべき憂鬱な機會である、といふのは、
私の義務として恐らくは神の小羊の
さて、そこに十分間の休憇があつた -- その間、この時にはもうすつかり氣を落ちつけてゐた私は、
ブロクルハースト氏の婦人たちが各自
ブロクルハースト氏は、またはじめた。
「これは、この娘の恩人、敬虔な慈悲深い貴婦人から聞かされた事實である。その婦人は、
この子を孤兒の境界から引きとり、我が子同樣に育てられたのである。然るにその親切と寛容に報ゆるに、
この不幸な娘はかくも忌はしく恐しき忘恩を以てしたので、遂に彼女の立派な恩人が、
己が子供らの純潔を、この娘の忌むべき例によつて、汚されることを憂ふるの餘り、 止むなく彼女をひき離すに到つたほどであつた。
で、その婦人は、
この素晴しい結論と共に、ブロクルハースト氏はフロック型の外套の一番上のボタンを合せ、 立ち上つた家族へ何か小聲で云ひ、テムプル先生に會釋して、さうして、 この偉い人々は、物々しい容子で、室を練り出した。わが裁判官は入口でふり返つて、云つた --
「もう三十分、そのまゝ腰掛の上に立たして置きなさい。今日中は、誰も彼女に口を利いてはなりませんぞ。」
それから、私は、高く登つたまゝ、そこにゐた。 曾てはこの室の眞中に自分の足で立たせられる恥辱さへ堪へ得ないと云ひ放つた私が、
今は汚名の臺上に衆目を集めて曝されてゐた。私の感情がどんなだつたか、とても言葉にも表はせない。
しかし、ちやうどありとあらゆる感情が一時に湧き立つて、息を止め咽喉を締めつけてゐた時に、
一人の少女が來て、私の側を通つたのである。通り過ぎようとして、彼女は眼を上げた。
おゝ何といふ不思議な光がその眼を燃えたゝせたことか!なんと素晴しい感動をその光は私に與へたことだらう!
そしてその新らしい感情が如何に私を勵ましたか!それは
半時間經たぬうちに、五時が鳴つた。學校は退けて、みんなはお茶に食堂の方へ行つてしまつたので、
私は思ひ切つて降りた。眞暗だつた。私は、隅の方へ引込んで、床の上に坐つた。
これまで私の心を支へてくれた魔力が解けはじめて、反動が起ると直ぐ、襲つて來た悲しみに激しく
「さあ、少しお食べなさい。」と彼女は云つた。けれど、今の場合では、
一滴の飮物でも一片のパンでも咽喉をつまらせるやうな氣持がしたので、
私は兩方とも押しやつてしまつた。ヘレンは、多分びつくりして、私を見たのだらう。
私は、隨分苦心したけれど、自分の取亂した氣持を鎭めることは出來なかつた。
私は聲を出して泣きつゞけた。彼女は寄り添つて床の上に坐り、兩腕で膝を抱いて、
その上に頭を置いた。そんな風にして、彼女はまるで無言の
「みんな?ジエィン、なあに、あの時、あなたがあんなことを云はれたのを聞いてゐたのは、 たつた八十人ぢやないの。世の中には何千萬つて人がゐるわ。」
「だつて、何千萬の人に何の
「ジエィン、あなたは間違つてゐてよ。多分、學校中で一人だつて、あなたを輕蔑したり、嫌つたりする人はないわ。 きつと多くの人が、あなたを隨分可哀さうだと思つてるわよ。」
「ブロクルハーストさんがあんなことを云つたのに、どうして、みんなが私を可哀さうだなんて思へる?」
「ブロクルハーストさんは神樣でもなければ、立派な尊敬されるやうな人でもないわ。
あの人は、こゝではちつとも好かれてないのよ。好かれるやうなことは、一度もしなかつたんですもの。
あの人が、もしあなたを特別なお氣に入りのやうにするのだつたら、あなたの周りには、
影にも日向にも敵が出來たかも知れない。でもさうぢやないから、みんな、
出來ればあなたに同情したいのよ。先生も生徒も、一日か二日は冷淡にあなたを眺めるかも知れないけれど、
心の中には親切な氣持ちが隱してあるのよ。だから、あなたが我慢してよくしてゐれば、その氣持ちが、
暫くの間
「何?ヘレンさん、」私は手を彼女の兩手に置いて云つた。彼女は、それを温めようと、 私の指をやさしく
「もし世界中の人が、あなたを憎んだとしても、そしてあなたを惡者だと信じたとしても、 あなたの良心が、あなたの正しいのを證明し、あなたを罪から解くならば、あなたはお友逹なしではないわ。」
「えゝ、私も、自分を正しいとは思はなければならないといふことは知つてゐてよ。
でもそれだけでは十分でないの。他の人たちが私を可愛がつてくれないのなら、生きてるより死んだ方がましだわ --
獨りぽつちで憎まれてるなんてことは出來ないわ、ヘレンさん。あのねえ、私、
あなたかテムプル先生か、それとも誰か、私が心から愛する人の眞實の愛を得る爲めになら、
自分の腕の骨さへ喜んで折らせるわ。でなきや、牡牛に私を突かせてもいゝし、
跳ね馬の
「しッ!ジエィンさん。あなたは、人間の愛のことを考へ過ぎてゐるわ。あんまり一途で、あんまり烈しいわ。
あなたの身體を創つて、それに
私は默つてゐた。ヘレンは私を落ちつかせた。けれども彼女の與へた靜けさの中には、
云ひあらはすことの出來ない悲しみが混つてゐた。彼女の話を聞いてゐるうちに、
私は悲しみで胸が一杯だつた。けれども、それがどこから來たのか、私には云へなかつた。
そして、話が終つて、彼女が少しせはしく
私は、頭をヘレンの肩に置いて、腕を彼女の腰にまはした。彼女は私を引き寄せた。 そして私たちは默つて身動きせずにゐた。かうして坐つてゐると、間もなく、また別の人が入つて來た。 重々しい雲が、一陣の風に吹き拂はれて、月をあらはした。 そして月の光が傍らの窓から流れて、私たちと、近づいてくる人の姿とを一杯に照らしたので、 直ぐにそれがテムプル先生だといふことがわかつた。
「あなたを探しに來たのよ、ジエィン・エア。」彼女は云つた。「ヘレン・バーンズもゐるのね、 一緒に來なさい。」
私たちは行つた。監督さんのあとについてその室に行くまでには、こみ入つた通路を縫ふて、 一つの階段を昇らなければならなかつた。部屋には、火がよく燃え、心地よげに見えた。 テムプル先生は、ヘレン・バーンズに、煖爐の傍の低い肱掛椅子にかけるようにと云つて、 彼女は別のに坐り、私を側に呼んだ。
「もうすんだの?」彼女は私の顏を見下しながら訊ねた。 「悲しいことはみんな泣き盡してしまひましたか。」
「とても駄目なやうな氣がしますの。」
「なぜなの?」
「でも、私は、間違つて罪に陷されたんですもの。先生、あなたも、他の人たちも、みんな、 今は私を惡者だと思つてゐらつしやるわ。」
「私たちは、あなたがどんな子だか、あなたの所作通りに考へませう。そのまゝで、 いゝ子のやうにやつてゐらつしやい、さうすれば私は滿足するのよ。」
「私に出來るかしら?テムプル先生。」
「出來ますとも。」と彼女は、私を腕で抱きながら云つた。
「ではね、ブロクルハーストさんがあなたの恩人だと云つてゐらつしやる女の方は
「リード夫人、私の伯父さまの奧さんなの。伯父さまが亡くなられて、その人が世話をすることになつたの。」
「では、その方は、御自分のお考へで、あなたをお世話なすつたのではないの?」
「えゝ、あの人、さうしなければならにのが、面白くなかつたんですわ、伯父さまは、 お亡くなりになる前に、いつまでも私を手許に置くことを、あの人に約束させたんですつて。」
「さう、ではね、ジエィン、あなたも知つてゐるでせう?でなかつたら、これだけ教へてあげませう。 罪人が告訴された時には、いつでも自分の辯護の爲めに口を利いてもよいことになつてゐます。 あなたは間違つて嫌疑を受けてゐます。あなたの出來るだけ、私に辯護をして御覽なさい。 あなたの記憶が本當だといふことは何でも仰しやい。たゞ、一つでも、つけ加へたり、誇張したりしないようにね。」
私は、心の底で、最も控へ目に、最も正確にしようと決心した。そして、
云ふべきことを秩序立てるためにちよつと思案して、自分の慘めな子供時代の話をすつかり彼女に話した。
その悲慘な物語を、だん〜つゞけて行くうちに、昂奮のために疲れて、 私の言葉は
私は話し終つた。テムプル先生は、しばらくの間、默つて私を
「ロイドさんのことなら、私も少しは知つてますから、手紙を出してみませう。 もしあの人の返事があなたの話と一致すれば、あなたは青天白日です。私にはね、ジエィン、 あなたはもう青天白日ですよ。」
彼女は、私に接吻して、そして私を側に引き寄せたまゝ、ヘレンに話しかけた。
(そこに、私は滿足して立つてゐた、何故つて、彼女の顏や、着物や、一つ二つの飾りや、白い額や、
ふさ〜した艷々しい捲毛や、輝かしい
「今夜はどう、ヘレン?今日、咳はひどかつて?」
「そんなでもなかつたやうですの。」
「それから胸の痛みは?」
「少しよくなりました。」
テムプル先生は、立ち上つて、彼女の手をとつて脈をみた。それから彼女は自分の席に戻つた。 席に着くとき、彼女の低い溜息が聞えた。彼女は、少しの間、物思はしげだつた。 が、やがて身を起しながら、快濶に云つた --
「だけど、あなた方は、今夜、私のお客さまだつたのね。ぢあ、お客さまらしくおもてなしをしなくつちや。」
彼女は、
「バアバラ、」彼女は、
やがてお盆が運ばれた。私の眼には、火の側の小さな丸い
「バアバラ、バタ付きのパンをもすこし貰へないの?三人には、足りないわ。」
バアバラは、出て行つたが、すぐ歸つて來た。
「先生、ハァデンさんは、いつもだけ差上げたと、申しますが。」
ハァデンさんは、(讀者の御注意を願ひ度いが)家政婦でブロクルハースト氏そのまゝの心意氣、 そのまゝの鯨骨と鐡との構成分子で出來てゐた。
「では、よろしい!」とテムプル先生は答へた。「私たちはこれで間に合せて置かねばならないでせう、バアバラ。」
そして、その
ヘレンと私を
「これは、あなた方の持つて歸るおもやげに、切つて上げようと思つてゐたけれど。」
と彼女は云つた。「でも
私たちは、その夜、神樣の召し上り物ともいふやうな御馳走をいたゞいた。 そして、そのもてなしの中でも、とりわけ嬉しかつたのは、たつぷりある御馳走で、 死にさうな食慾を充してゐる私たちを、じつと見てゐる女主人の滿足氣な微笑みだつた。
お茶も濟み、お盆が引かれると、彼女は、また、私たちを火の側に呼びよせた。私たちは、 彼女の兩側に坐り、話は、今度は彼女とヘレンの間に續けられた。それを聞くことを許されたのは、 まつたく特典と云つてよかつた。
テムプル先生は、いつも彼女の容子に何か靜かな朗らかなものを、態度にどことない威嚴を、
言葉には品よく穩やかなものを持つてゐた。さうした彼女の氣分には、熱烈な言葉や昂奮した語調の方へ
氣持ちを爽かにする食物、輝かしい火、好きな先生との對面と、その先生の親切、
いや、多分そんなことよりも、ヘレン自身の特別な頭にある何ものかゞ、ヘレンに力を振ひ起たせたのだ。
その力は、目醒め、燃えた。そしてまづ、今までは蒼ざめた血の氣のないものとしか見えなかつた、
彼女の頬の鮮やかな紅となつて輝き、次には彼女の眼の
二人は、私が今迄に聞いたこともないやうなことを -- 昔の民族や時代のこと、遠い國のこと、
自然界の既に發見された、或は推測された祕密等を語り合つた。彼等はいろ〜な本に就いても話した。
なんて澤山の本を讀んだのだらう!なんて智識の蘊蓄を持つてることだらう!
それに彼等は彿蘭西の有名な人の名前や彿蘭西の著作者などに就いても、大層よく知つてゐるやうだつた。
だが、テムプル先生が、ヘレンに、父親に教はつたラテン語を忘れぬように
ヘレンを、彼女は、私よりもすこし長く抱いてゐた。彼女は、ヘレンの方をもつと未練らしくはなした。 彼女の眼が入口の方まで見送つたのは、ヘレンであつた。彼女が二度目に悲しい溜息を吐いたのは、 ヘレンのためだつた。ヘレンのために、彼女は頬の涙を拭つたのであつた。
寢室に近づくと、スキャチャード先生の聲が聞えた。彼女は机の
次の朝、スキャチャード先生は、臺紙の一片に目立つた字體で「無精者」といふ言葉を書きつけて、
お
上述の出來事から一週間程後、ロイドさんに手紙を出したテムプル先生は、彼の返事を受け取つた。
彼の云つた言葉は、私の辯解を裏づけたやうだつた。テムプル先生は、全校の生徒を集めて、
ジエィン・エアに對して云ひ立てられた
このやうに、悲しい
その夜、床に這入つてから、私は、熱い燒馬鈴薯や、白いパンと新しい牛乳やを、
バアミサイドの晩餐のやうに頭の中で
ソロモンは、うまいことを云つてゐる --
『愛の籠れる草の食事は、憎惡の混じれる肥えたる牡牛のそれに
今はもう、私はよろづ不自由なローウッドとゲイツヘッドと、 そこでの毎日の贅澤な生活とに取換へようとは思はなくなつてしまつた。
しかし、ローウッドの不自由、といふよりも寧ろ
私はまた、庭の高い忍返しのある塀の向うには、地平線より外に遮るものもない、
大きな悦びや
四月は五月へと進んだ。それは輝いた落ちついた五月であつた。來る日も來る日も、青い空と、明るい陽光と、
やさしい西風や南風に溢れた
私は、住居が森や丘に懷かれ、流れに沿つてゐると云つたが、そこは住むのにたのしい場所ではないだらうか。 確かに、十分愉しい、併し健康によいか否かは別問題として。
ローウッドにある森の低地は、深い霧と、その霧から發生する流行病の搖籃であつた。 それが、すべてのものを蘇らす春に蘇つて、この孤兒院に匍ひ込み、ぎつしり詰つてゐる教室と寄宿舎にチブスを吹きこんだ。 さうしてまだ五月にならない内に、學校を病院に變へてしまつたのである。
こんな風に病氣がローウッドの居住者となり、死が頻繁な訪問者となつてゐる間に、
ローウッドの塀の中に暗影と怖れがひそんでゐる間に、部屋や廊下に病院の匂ひが流れ、
藥品や香料が死の惡臭を消さうと空しい努力をしてゐる間に戸外の生々とした丘や、
美しい森林地には、あの晴れやかな五月が曇りなく輝いてゐた。學校の花園もまた、花でかゞやかしく飾られた。
しかし、私や他の丈夫でゐる子供はみんな、かうした眺めや季節の美しさを十分に愉しんだ。
私たちは、まるでジプシイのやうに朝から晩まで森の中をさまよひ歩いた。
したい事をし行きたい處へ行つた。私たちの生活も、前よりはよくなつてゐた。
ブロクルハースト氏一族は、もう一切ローウッドに來なかつた。家政は檢査されなかつたし、
傳染病に
私の大好きな場處は、小川のちやうど中程に白々と乾いて現はれるゐる、滑らかな大きな石の上で、
其處へは水の中を
では、そのころ、ヘレン・バーンズは何處にゐたのだらう!なぜ私は、かうした愉しい自由な毎日を、
彼女と一緒に過さなかつたのか?私は彼女を忘れてしまつたのか、それとも私は、
彼女との純な交りに飽きて來るやうな、つまらない子だつたのか?
確かに、そのメァリー・アン・ウィルスンは、私の最初のお友逹よりも劣つてゐた。 メァリーは單に面白い話をしてくれたり、
私が耽らうとするきび〜した辛辣なお
ほんたうに、讀者よ、私はこれを感じもし、知つてもゐたのだ。さうして
私は、彼女が大層暖かな晴れた午後などに下りて來て、テムプル先生に附き添はれてお庭に出るやうな事が、
一二度あつたといふ
六月の初めのとある夕べ、私は、メァリー・アンと一緒に大變おそくまで森の中にゐたことがあつた。
いつものやうに、私たちは、他の子供たちの群を離れて、遠く迄あちこちと歩いた --
少し遠く迄だつたので、道に迷つてうぃまひ、たつた一軒ぽつつりと建つてゐた小舍で、
その森で樫の實を食べる半野生の豚を飼つてゐる夫婦に、道を訊かなければならないようなことになつた。
で、私たちが歸つて來た頃にはもう月が昇つてゐた。お醫者樣のだといふ見覺えのある小馬が一匹、
庭の小門の傍にゐた。今時分、ベイツさんが呼ばれるといふのは、 多分誰かゞ
「いま病氣で寢てゐて、そしてもう生命が危いなんて、どんなに悲しいことだらう! この世界は愉しい -- こゝから呼ばれて、どうしても誰も知らぬ所に行かねばならないなんて、 どんなに寂しいだらう?」
そしてそれから、私の心は今迄に天國と地獄に關して聞かされて居たことを理解しようと、 初めて熱心に考へ出した。さうして初めて途方にくれ、困惑した。初めて身邊をあちこちぐる〜と見まはして、 周圍はたゞ測り知られぬ深い淵だと思つた。感じるのは立つたところの一點 -- 現在ばかり、 その外はみな形のない雲とうつろな深みであつた。ぐら〜する、そしてあのはてしのない混沌の眞中へ、 まつさかさまに落ちる、さう思つたとき、心は震へ上つた。
この新らしい考へに沈み込んでゐる時、玄關の
「ヘレン・バーンズはどんななの?」
「心細いのよ。」といふ答へであつた。
「ベイツさんが
「え。」
「そして何て仰しやつて?」
「先生はね、こゝにゐるのも、もう長くはあるまいつて仰しやつたわ。」
この言葉が昨日私の耳に這入つたのなら、 私は彼女がノオサムバーランドの彼女の家に移されようとしてゐるのだといふ意味にだけとつたゞらう。 それが彼女の死にかけてゐることを意味してゐるなどと疑ふよしもなかつたらう。 だが今は、私はすぐに知つた。私の頭には、ヘレン・バーンズはもう死期が近づいたので、 もしもそんな國があるならば、あの精靈逹の國へ連れ去られようとしてゐるのだといふことがはつきり理解された。 身震ひするやうな恐怖に續いて、激しい哀しみの戰慄が全身を走つた。そして、一つの願ひが生れた -- 私は、ヘレンに會はなければならない。そこで、私は彼女の寢かされてゐる室を訪ねた。
「テムプル先生のお室ですわ。」と、看護婦は云つた。
「私、行つて話をしてもいゝ?」
「いゝえ!駄目よ。それにあなたも、もう家に入る時間ですよ。夜露の降りる時に外にゐると、 チブスにかゝりますよ。」
看護婦は表玄關の
それから二時間程後、多分十一時近くなのだらう、それ迄眠れなかつた私は、寄宿舍中がまつたくしんと靜まつたので、
もうお友逹はみんな深い安らかな眠りに包まれてしまつたのだと思つて、こつそり起き上つて、
寢間着の上に
階段を降り、階下の校舍の一部を横切り、それから二つの
テムプル先生の寢臺に近く、そのまつ白なカァテンに半ば覆はれて、小さな子供用の寢臺があつた。
その掛布團の下には小さな人の型の輪廓が見えるけれど、顏はカァテンの蔭にかくされてゐた。
先程私が庭で話をした看護婦が、安樂椅子に腰を掛けて眠つて居り、
「ヘレン!」と私はそつと囁いた。「起きてゐて?」
彼女は身じろぎして、自分でカァテンを
「ま、あなたなの、ジエィン?」と彼女はその持前の靜かな聲音で訊ねた。
「おゝ!」と私は思つた。「この人は死にかけてゐない、みんなは勘違ひしてゐるんだ。 もしさうなら、こんなに靜かに話したり、眺めたり出來る筈がないもの。」
私は、
「何故此處へ來たの、ジエィン?もう十一時過ぎよ、ちよつと前に、打つてゐるのが聞えたから。」
「あなたをお見舞に來たのよ、ヘレン。あなたがひどく惡いつて聞いて、 あなたに逢つて話をしないうちは、寢られないの。」
「ぢや、私にさよならを云ひに來てくれたのね。ちやうど間に合つたんだわ、多分ね。」
「あなた、何處かへ行くの、ヘレン?お家へ歸るの?」
「えゝ。私の永遠の家へ -- 私の最後の家へ。」
「厭よ、厭よ、ヘレン!」私は胸が一杯になり、何も云へなくなつた。 私は泣くまいと懸命になつてゐる間に、ヘレンには咳の發作が起つた。しかし、 その爲めに看護婦の眼を醒すやうなことはなかつた。發作が止むと暫くの間、 彼女は疲れ果てゝ横になつてゐたが、それから小聲で云つた -- 「ジエィン、あなたの足はむきだしなのね、此處で横になつて、私のお布團でお包みなさい。」
私はその通りにした。彼女は私に腕をまはし、私は彼女の側に巣食ふやうにすり寄つた。 長い沈默の後に、彼女は、矢張り囁くやうな聲で、また話し初めた --
「私は本當に幸福なのよ、ジエィン。ですから、私が死んだことを聞いても、あなたは、 しつかりして悲しまないで頂戴。悲しいことは何もありはしないの。私たちはみんな、 何時か死なゝければならないのだし、私を連れて行く病氣はひどく苦しくない、 穩かな漸進的なものなの。私の氣持も安らかよ。私には、私のことをひどく惜しんでくれるやうな人は誰もないの、 父さんはゐらつしやるのだけれど、この間結婚なすつたのだし、私がゐなくなつて、 お困りになることもないでせう。若くて死ぬお蔭で、私は澤山の苦しみを免かれると思ふの。 私には、この世の中で偉くなれるやうな素質もないし、才能もないし、 生きてゐてもきつと過ちを續けるばかりだと思ふわ。」
「だけど、何處へ行くの、ヘレン?あなたには見える?知つてるの?」
「信じるのよ。私は信仰を持つてゐるの。私は神樣のお側へ行くのよ。」
「神樣つて何處にゐらつしやるの?どういふお方なの?」
「私やあなたの造り主で、その方は、御自分のお創りになつたものは決してお滅しにならないの。
私は、すつかり、その方のお力にお任せしてゐるのよ、そして何もかも、その方のお慈しみに頼つてゐるわけなのよ。
私はねえ、私を神樣に還し、神樣を私に
「ではヘレン、あなたは、天國のやうな處が在つて、私たちが死ねば魂がそこへ行けると思ふの?」
「未來の國は、確かに在ると思ふの。私は、神樣は善しと信じて、何の心配もなしに、 私の中の滅びないものを神樣にお任せすることが出來るのよ。神樣は、私のお父樣でお友逹なの、 私は神樣を愛してゐるの、神樣もきつと私を愛して下さると思ふのよ。」
「では、ヘレン、私も死ねば、またあなたに逢へて?」
「あなたも、その同じ幸福の國に來られますとも。同じ偉大な、宇宙のお父樣の手に受け入れられて。 ほんたうにさうよ、ジエィン。」
もう一度、私は質問した、が、今度はたゞ心の中で「何處にそんな國があるの?實際にあるの?」 さうして、私は、もつとしつかりと、ヘレンを抱き締めた。ヘレンは今迄よりも一層いとしく思はれ、 とても彼女を離すことは出來ないと思つた。私は、顏を彼女の襟もとに隱して、横になつてゐた。 間もなく、彼女は限りなく優しい調子で云つた --
「まあ、いゝ氣持ちだこと! --
「あなたの側にゐるわ、大好きなヘレン。大丈夫、誰も連れには來はしないわ。」
「暖かい、あんた?」
「えゝ。」
「ぢや、おやすみ、ジエィン。」
「おやすみ、ヘレン。」
彼女は私に、私は彼女に接吻した。そして、私たちは、二人とも、直ぐ安らかに眠つた。
私が眼を醒すと朝であつた。異常な動搖に氣が付いて見上げると、私は誰かの腕の中に居た。
それは看護婦が私を抱いて、廊下傳ひに寄宿舍の方へ連れて歸るところだつた。
私は
ヘレンの墓は、ブロクルブリッヂ教會の墓地にある。彼女の死後十五年間は、たゞ草の生茂つた土饅頭であつたが、 今は、彼女の名と『われ再び生きむ。』の一句を刻んだ灰色の大理石の石碑が、その場處を印してゐる。
今迄私は私の
あのチブスは、ローウッドで傳染の使命を果すと、次第に衰へて行つた。
しかしそのうちに病氣の害毒と犧牲者の數とが學校に世間の注意を惹くやうな結果を
その土地の裕福な情深い人々が五六人で、もつといゝ場所にもつと設備のいゝ建物を建てる爲めに澤山の寄附を約束したのである。
新しい規則が作られ、食物や被服の改善が始められ、學校の基金は委員の處理に委された。
ブロクルハースト氏はその富と家族的關係との爲めに見落されないで矢張り會計係になつてゐたが、
しかし彼はより寛大な同情心のある人々に助けられながら自分の
この八年間、私の生活は、變化に乏しいものではあつたが、
かうした
彼女が行つてしまつた日以來、私は以前の私ではなくなつた。私にとつて、
ある程度までローウッドは
しかし運命は、ネイズミス牧師の姿となつて、私とテムプル先生の間に割込んだ。結婚式後間もなく、 旅行服を着て驛馬車の中へ乘り込む彼女を私は見た。丘を登つて、そのお丘の彼方へ消えてゆく馬車を私は見守つてゐた。 それから、自分の部屋に引込んで、今日のお祝ひの爲めの半休日を、大方寂しくひとりぽつちで、送つたのであつた。
そのあひだ、私は殆んど部屋の中を歩き廻つてゐた。私は、自分がたゞなくしたものを悲しみ、
どうしてそれを償ふべきかと考へてゐるのだと想つてゐた。けれども、私の默想が終つて、私が目を上げて、
午後が過ぎ去り、すつかり夕方になつてゐるのを見た時、また別の發見が、私の心にほの〜゛と白み初めた。
すなわち、その間に、私は變化の道程にあつたのだ。私の心がテムプル先生に借りてゐたすべてのものを捨てゝ --
といふよりも、私が彼女の傍で呼吸してゐた靜かな雰圍氣を彼女が持つて行つてしまつて --
さうして今、私は生れつきの自分の中に殘されて、もとの落着かない氣持ちを感じ始めてゐたのだ。
それは支柱が取り去られたといふよりも、まるで原動力がなくなつてしまつたやうなものだつた。
靜穩を支配する力が私を去つたといふよりも、靜穩なるべき理由がもはやなくなつてしまつたのであつた。
私の世界は、幾年かの間ローウッドにあつて、私の經驗は、その規則や組織によるものだつた。
今、私は、現實の世界は、廣く、さうして、希望と不安に充ちて居り、
心を
私は、窓へ行つて、開けて外を見た。建物の兩翼があり庭があり、ローウッドの森の裾があつた、
起伏した地平線もあつた。私の眼はさま〜゛なものを越へて、一番遠いまつ青な連峯の上に止まつた。
私が登りたいと
この時、夕食時間の
瞑想の中斷された鎖は、就寢時間までつなぐことは出來なかつた。その時間になつてもまだ、
私と同じ部屋にゐる一人の教師が、つまらない話を、長たらしく、くど〜と話しかけて、
再び考へてみたくて仕方のない事柄を考へさせては呉れなかつた。私は、彼女が默つて眠つて了ふようにと、
どんなに願つたことだらう。私が窓の傍に立つてゐた時に、 最後に心に浮かんで來たあの
とう〜グライスさんは、鼾をかいた。彼女はウエィルス生れの大きな婦人で、
これまでは彼女の例の鼾がうるさいものとしか思ひやうがなかつたのだけれど、
今夜の私は、最初の太い響きを滿足をもつて
「新らしい奉仕!その言葉には何かゞ含まれてゐる。」と私は
私は、さうした能力を呼び醒すつもりで、床の上に起き上つた。寒い夜だつた。 私はショールで肩を包み、それからまた、あらん限りの努力で考へを續けた。
「私は何を望むのか?新しい境遇の下に、新しい家の中の、新しい顏にかこまれた、新しい地位を。 これ以上のものを望んでもだめだと思へばこそ、これを望むのだ。みんなどういふ風にして、 新しい地位を探すのかしら?多分お友逹に頼むのだらう。私にはお友逹がない。 お友逹がなく、自分で食つて、自分で自分を助けてゆかねばならない人が、たんとあるのだ。 では、その人たちはどうするのだらう?」
私には解らなかつた、何も答へられなかつた。そこで私は、私の
親切な
「どういふ風に?廣告のことは、私は何にも知らない。」
今度は、忽ちすら〜と答へが來た。「廣告文とその代金を××州報知の主筆に宛てた封筒に入れて、 機會のあり次第、ロートンのポストに入れるのだ。返事はロートンの局留にして、 J・E宛でなくてはいけない、手紙を出して一週間ほど經つたら、行つて何か來てるかどうか訊いて見ればいゝ。 そしてそれによつて行動するのだ。」
この方法を私は二度も三度も頭の中で繰り返した。それは心の中で消化されてしまつた。 私はそれをはつきりした實際的な形で會得した。私は滿足して眠入つた。
翌朝早く目を醒すと、私は廣告を書いて起床の
「教授に經驗ある若き婦人[」](私は二年先生をして來たではないか) 「十四歳以下の子供を有する家庭に就職せんことを望む。」(私は自分がやつと十八だつたので、 それ以上私の年に近い子供の指導を引受けることは出來ないだらうと思つた)。 「彼女は正則英國教育の普通科目と共に彿蘭西語、畫、音樂をも教へ得る資格を有す」 (讀者よ、今思ふと貧弱な簡單なこの才能の目録が、その頃は可成多方面にわたるものだつた)。 「××州郵便局、J・E宛」
この書きものは、終日、机の
次の週が、何だか長く思はれた。しかし、地上の總てのものと同じやうに、それにも遂に終りが來た。
そしてもう一度、心地よい秋のある暮方、私はロートンへの路を歩いてゐた。途中は小川の
この時の私の表向きの用事は、靴を
「J・E宛の手紙が來てませんか。」私は訊いた。
彼女は、眼鏡越しに私を覗いて、それから
「一通きりですか?」と私は訊ねた。
「もうありませんよ。」と彼女は云つた。で、私はそれをポケットにしまつて、すぐ歸途についた。 開封する暇がなかつたのだ。私は八時までに歸らなくてはならない規則で、もう七時半を過ぎてゐたのだ。
歸ると樣々の仕事が私を待つてゐた。勉強時間中は子供たちと一緒にゐなくてはならなかつたし、それから、
今日はお祈を
「先週の木曜日、××州報知に廣告なされしJ・E樣が記載の才能を所有なされ候はゞ、
また、その方が人格及び資格に關して十分なる證明書をお示し下され候はゞ、 たゞ一人の子供のみなる家庭に於てその方に地位を提供すべく候
-- 十歳未滿の小さき娘に候。 俸給は年三十
私は、長い間、書面を調べた。筆蹟は、
「だけど、」と私は云つた。「ソーンフィールドは、きつと街からは可成りあるだらう。」
この時、蝋が落ちて、芯が消えた。
次の日は、新らしい一歩を踏み出さなければならなかつた。私の計画は、もう胸にしまつて置けないのだ。
その成功をつかむためには、實行に移さなくてはならない。お晝休みに學監を探して、
私は現在の二倍の俸給で、新らしい地位を得る
かういふ次第で、私はこの保證書を一月ばかりのちに受取つた。そして、その寫しをフェアファックス夫人に送り、 彼女が滿足したといふこと、それから私が彼女の家で家庭教師の役目を引受けるまでの準備期間を二週間と決めたといふ返事を受け取つた。
私は直ちに準備に忙しかつた。二週間は瞬く間にたつてしまつた。私は、たいして大きな衣裳箪笥は持たなかつた。
けれども、それで十分間に合つた。最後の日はトランク -- それは八年前にゲィツヘッドかた持つて來たものだ --
を
箱は、紐をかけられ、名札が打ちつけられた。半時間たつと、それをロートンへ運ばせる爲めに運送屋が呼びに遣られた。
そこへ私は次の朝早く出かけて乘合馬車に出會ふことになつてゐた。
私は黒い毛織の旅行服に
「先生、」と控室で、私に出逢つた召使ひが云つた。そのとき、私は迷つた靈魂のやうに、うろ〜、
歩き廻つてゐた。「
「運送屋だ、きつと」とさう思つて、訊き返しもせずに、階下へ走つて行つた。
私は、
「あの方だわ、ちがひないわ! -- どこでだつて、私はお見しれすることはないんですもの。」 と叫んで、その人は、行手を遮つて、私の手をとつた。
私は見た。晴着を着た、女中のやうな
「さあ、誰でせう?」と彼女は、私が半ば思ひ出しかけてゐる聲音と微笑で訊いた。 「まさか、すつかりお忘れになつたのぢやないでせうね、ジエィンさん?」
次の瞬間には、私は夢中になつて彼女を抱いて接吻してゐた。
「ベシー!ベシー!ベシー!」それより外には何も云へなかつた。すると、彼女も、
笑つたり泣いたりした。私たちは客間に這入つた。火の傍には、
三歳位の小さい男の子が格子縞羅紗の
「あれは私のちびですの。」ベシーは直ぐに云つた。
「ぢあ、あなたは結婚したのね、ベシー?」
「えゝ、もう五年にもなりますよ、馭者のロバァト・レヴンのところへね。 あのボビィの外にもう一人小さい女の子があるのですよ、その子はジエィンとつけてやりました。」
「では、あなたは、ゲィツヘッドにゐないの?」
「私共は、門番の爺さんが殘していつた、あの小さな小屋に住んでゐますの。」
「さう、そしてみんなはどうしてゐて?あの人たちのことをすつかり話して頂戴な、ベシー。 だけど、まあおかけなさいな。それからボビィちやんも私のお膝に來ない、え?」 けれどもボビィは、母親の方に滑り込んでしまつた。
「あんまり大きくなつてゐらつしやいませんねえジエィンさん。あんまり丈夫さうにもねえ。」 レヴン夫人は續けて云つた。「きつと學校で、あんまりよくしてくれなかつたのでせう。 リードのお孃さんは、頭と肩位、あなたより高うござんすよ。それからヂョウジアァナお孃さんは、 あなたの二倍位幅がありますよ。」
「ヂョウジアァナは綺麗でせうねベシー。」
「えゝ隨分。去年の冬お母樣と御一緒に倫敦にいらつしやいましたがね、
あつちで誰も彼もの評判におなりになつて、ある若い貴族の方に想はれなすつたのですつて。 でもその方の御親類がその御結婚には反對でねえ。で
-- どうでせう -- その方とヂョウジアァナお孃さんとは駈落しておしまひになつたのですよ。
ですがお二人は見付かつて駄目になつちまひました。お二人を見付け出したのはリードお孃さんなんですよ。
「まあ、ぢあ、ジョン・リードはどうなの?」
「あゝ、あの方もお母樣が望んでゐらしつたやうにはゆきませんの。大學へいらしつたんですが -- 落第つて云ふんですか、なんでもそんなことでね。で、叔父樣が辯護士になるやうに法律をやれつて仰しやつたのですけれど、 あんな放蕩息子でせう、叔父樣は大して力を入れないでせうと思ひますわ。」
「どんな
「隨分お脊が高いのですよ。立派な若者だつて云ふ人もありますけど、あの厚い唇ではねえ。」
「ぢあ、リード夫人は?」
「奧さまはお見かけしたところ、お丈夫さうで、上べは申分のないやうに見えますが、お心の中は、 さうお樂でもございますまい。ジョンさんのなさることが、お氣に入らないのです -- とてもお金づかひが荒いんですの。」
「リード夫人があなたをこゝへよこしたの?ベシー?」
「いゝえ、どういたしまして。私はもう、長いことあなたにお目にかゝりたくつてね、そこへちやうど、
あなたからお便りがあつて、今度
「あんたが、私にがつかりしなければいゝんだけれど。ねえ、ベシー。」 かう、私は笑ひ乍ら云つた。ベシーの眼差が尊敬を表はしてはゐたが、賞讚を示す容子の毫も無いのが、 私にはわかつたので。
「いゝえ、ジエィンさん、さうでもありません。あなたは、それはお上品で、貴婦人らしくお見えですよ。 せんからさういふ風におなりだらうと思つてゐましたの。お小さいときは、 お綺麗ぢあアありませんでしたけど。」
私はベシーの率直な答へに微笑んだ。私はその通りだつたとは思つたが、しかし白状すれば、 私はその意味に對して全然無頓着ではゐられなかつた。十八といふ年頃には誰でも人によろこばれたものだ、 だから、その望みを助けてくれさうもない容貌を自分が持つてゐるのだと思ふと、さつぱり嬉しくはないのだ。
「でもあなたは、きつと御發明でゐらつしやるでせう。」と慰めるやうに、ベシーは云つた。 「何がお出來になります?ピアノは?」
「少しだけ。」
その室にはピアノがあつた。ベシーは傍へ行つて、蓋を開けて、それから私に、こゝへ來て一曲聞かせてくれと云つた。 私は一つ二つワルツを彈いた。彼女は感心した。
「リードのお孃さまたちはとてもこれほど彈けやしない!」と彼女は
「あの爐棚の上のは、私が描いたの。」それは水彩の山水で、
私の爲めに親切に委員の人たちが
「まあ、これは綺麗ですこと、ジエィンさん!この足下にも及ばないリードお孃さん方はさておき、 リードお孃さんの先生がお描きになるのにも負けないくらゐ立派な畫ですわ。 それから彿蘭西語はなすつたのですか?」
「えゝ、ベシー、讀むことも話すことも兩方出來るのよ。」
「ぢあ、モスリンやカンワ゛スの刺繍は?」
「出來てよ。」
「まあ、あなたは、もう立派な貴婦人ですわ!ジエィンさん。あなたは、きつと、 さうおなりになると思つてゐました。御親類が、あなたを大事になさらうとなさるまいと、 あなたはちやんとやつてゆけますねえ。せんからお訊ねしようと思つてゐましたが、 お父樣の御親類のエア家の方から、何かお聞きになつたことはありませんか。」
「いゝえ一度も。」
「さうですか。奧さまはいつもその方々は貧乏で身分も大層低いやうに云つてゐらつしやいましたつけね、
それは貧乏でゐらしつたかも知れませんが、お家柄はリード家ときつとおんなじ位立派だと思ひますよ。
何日でしたか、もう七年も前に、エアといふ方があなたに會ひ度いとゲィツヘッドにいらしたことがありましたよ。
奧さまがあなたは五十哩も離れた學校にゐらつしやるからと仰しやるとひどく
「外國つて何處にいらつしやる所だつたの、ベシー?」
「何千哩も離れた島で、葡萄酒の出來る處だとかつて -- 料理番が教へてくれましたつけ -- 」
「マデイラ?」と、私は提言した。
「えゝ、さう〜、その通りでした。」
「それで、その方は行つておしまひになつたのね?」
「えゝ、お
「きつとそこいらでせうね。でなけれや、大方その番頭か支配人かでせう。」
ベシーと私とは、一時間ばかりも昔の頃の事を語り合つてゐたが、やがて彼女は私に別れなければならなかつた。
私は次の朝ロートンで馬車を待つ間また暫く彼女に會つた。
私たちは
小説の新らしい章は、戲曲の新らしい場面のやうなものである。だから、この度、私が幕を上げると、
讀者逹よ、あなた方は、ミルコオトの「ジョオヂ旅館」の一室を御覽になつてゐるつもりでゐていたゞきたい。
いかにも宿屋の部屋らしく、壁には、大きな模樣の壁紙を張つてあり、宿屋らしい敷物、家具、
讀者よ。私は心地よく寛いでゐるやうに見えても、心の中は一向靜かではなかつた。
馬車が、此處へ止まつた時、私は、誰か迎へに來てゐることだと思つた。
私の名を呼ぶのが聞えるか、それとも馬車か何かゞ、私をソーンフィールドに運ぶ爲めに待つてゐるのが見えるかと、
宿の下足番が足場のいゝやうに置いてくれた木の踏臺を下りた時、私は、氣づかはしく
あらゆる關係の綱を絶たれ、目ざす港へは行きつけるかどうかわからず、
樣々の障碍の爲めに以前のところへ歸つてゆくことも出來ず、世の中にたつた一人だと感じることは、
未經驗な若いものにとつて、まつたく變な氣持である。冐險の魅力がその氣持を愉快なものにし、
誇りの輝きがそれを温める。けれども、同時に恐ろしさの動悸がそれをかき
「この近くに、ソーンフィールドつて處がありますか?」と私は、呼ばれてやつて來た給仕に向つて訊いた。
「ソーンフィールドでございますか。さあ、私は存じませんが、帳場で訊いて參りませう。」 彼は消えたが、直ぐまた現れた -- 「あなたはエアさまと仰有いますか、お孃さま?」
「えゝ。」
「
私は、飛び上つて、マフと雨傘を取ると宿屋の廊下へ急いだ。一人の男が開け放した戸の傍に立つてゐて、
「これはあなたのお荷物ですな?」と、その男は、私を見て、廊下にある私のトランクを指しながら、 幾分ぶつきら棒に云つた。
「えゝ。」
彼は、その馬車にそれを引き上げた。それから、私も乘つた。彼が私を閉め込んでしまはないうちに、 私は、ソーンフィールドまでどの位あるかと訊ねてみた。
「六哩位のものでせう。」
「あちらに着くまでに、どれ位かゝりますかしら?」
「一時間半ほどです。」
彼は車の
「多分、」と私は思つた。「召使ひや馬車の質素なことから判斷すると、
フェアファックス夫人はさう
私は、窓蔽ひを下して外を見た。ミルコオトは私たちの
路はひどく、夜は霧深かつた。馭者は、休みなく馬を驅つた。さうして一時間半が、 私には殆んど二時間位にのびたやうな氣がした。やつと彼はその席から振り返つて云つた。 「もうソーンフィールドは大して遠くねえです。」
また私は外を覗いた。私たちは教會の傍を通つてゐた。その低い幅の廣い塔が、空に向つてゐるのを見た。
そして鐘が十五分を打つてゐた。丘の下にもまた、村落か小村を思はせる
「どうぞこちらへ。」とその
居心地のいゝ小さな部屋、勢よく燃える爐邊には、圓い
「
「フェアファックス夫人でゐらつしやいますか?」私は云つた。
「はい、さうでございます。どうぞお掛けなすつて。」
彼女は、私を自分の椅子の方に連れていつて、やがて私のショールを取つたり、 帽子の紐を解いたりしはじめた。私はそんなに面倒を見てくれないようにと願つた。
「おやまあ、何の面倒なことがございませう。きつとあなたのお手は寒いので凍えてゐらつしやるにきまつてをりますもの。
リアや、熱いニィガスを少し
そして彼女は、ポケットから、如何にも主婦にふさはしい鍵の束を取出して、女中に渡した。
「さあ、もつと、火の傍へお寄りなさいます。」と彼女は言葉をつゞけた。 「あなた、お荷物を持つていらしつたでせうねえ?」
「えゝ、持つて參りました。」
「では、あなたのお部屋へ運ばせるやうにいたしませう。」と云つて、彼女はそゝくさと出て行つた。
「あの方は私をまるでお客樣のやうに取扱つてヰらつしやる。」と私は考へた。 「こんな待遇は、ちつとも豫期してゐなかつた。私は、たゞ冷淡と窮屈だけを豫想してゐた。 ここのは、今迄聞いてゐた家庭教師のもてなし方とは違ふ。だが、私はあんまり早く喜び過ぎてはいけない。」
彼女は、歸つて來た。彼女は、手づから編物の道具や一二册の本を
「フェアファックス孃さんには、今晩お目にかゝれますのでございませうか?」 彼女のすゝめるものを食べてから、私は訊いた。
「え、何と仰しやつたのでございます?私は、少し耳が遠うございましてね。」 耳を私の口の方へ寄せながら、この親切な婦人は答へた。
私は、もつとはきり、質問を繰り返した。
「フェアファックス孃さんですつて?あゝ、ヴァレンスのことを仰しやつてゐらつしやるんですね! ヴァレンスと申しますのが、これから先の、あなたの生徒さんのお名前でございますよ。」
「さやうでございますか。ぢや、その方は、あなたのお孃さまではゐらつしやらないのですか?」
「えゝ -- 私には子供はないのでございます。」
どういふ關係が、ヴァレンス孃と彼女の間にあるかと訊いて、私ははじめの質問をやり通すところだつたかも知れないが、
あまり樣々の問ひを出すことは失禮だと思ひ返した。それに
「私はほんたうに嬉しいのでございますよ。」彼女は、私と向き合つて腰かけると、猫を膝の上に抱き上げて、
言葉をつゞけた。「あなたがいらつして下すつて、ほんとに嬉しいのでございますよ。
これからはお
彼女の話を聽きながら、私の心は、もう既にこの尊敬すべき婦人に對して、親しみの情を持つてゐた。
私は、椅子を少し彼女に近く寄せて、彼女が豫期した程のいゝお
「ですが、今晩はおそくまで、あなたをお起し申しはいたしませんよ。」と彼女は云つた。
「もう十二時を打つ時分でございませう。それにあなたは一日中旅をなすつたのですもの、
さぞお疲れになりましたらう。よくおみ足が暖まりましたら、お寢間へ御案内いたしませう。
私の隣りの室を用意いたさせましたの。ほんの小さな部屋でございますけれど、
表の方の大きな部屋よりも、ずつとお氣に召すでせうと存じましてね。あちらの方には、
立派な道具などがあるには違ひないのでございますが、ひどく陰氣でガランとしてをりまして、
私なぞとても一人で
私は、彼女の思ひやりのある選擇を謝した。そして、實際、長旅の疲れを感じてゐたので、
もう引き退つてもいゝ旨を云つた。彼女は、蝋燭をとり、私はその後に從つて、室を出た。
先づ彼女は、廣間の戸締りを見にいつた。そして錠から鍵をとつて、二階へ上つていつた。
階段も手摺も、樫の木で、階段に沿ふた窓は、高くて格子になつてゐた。その窓も、
寢室の
フェアファックス夫人は、優しいおやすみなさいを云つてくれた。そして私は
太陽の光が、ローウッドの裸の床板や、汚れた壁土などゝは比べものにならない、 壁紙を張つた壁や絨毯を敷いた床を見せて、明るい空色の更紗木綿の窓掛の間に射し込んだとき、 寢室は美しい小さな部屋に見えた。それを見ると私の心は躍つた。
環境は、若い心に大きな影響を與へるものだ。人生の、ひとつの、より輝かしい時期が、私にはじまつたと思つた --
花や歡びと共に、
私は、起きて、注意ぶかく身じまひをした。質素にするやうに餘儀なくされてはゐたが --
何故なら、ひどく質素に作つてない着物は、一つも持つてゐなかつたから -- でも、私は、
もと〜綺麗にしようと氣をつかふ
長い敷物を敷きつめた廊下を横切つて、私は滑らかな樫の階段を下りた。そして廣間に出た。
そこで、私は、ちよつとの間、足を停めた。私は、壁にかゝつた幾つかの畫や、
(私の記憶してゐる一つは、
私はなほも、靜かな眺望を、新鮮な空氣を樂しみ、
「おや、もうお出まし?」と彼女は云つた。「あなたは早起きでゐらつしやいますのね。」 私が彼女の傍へ行くと、愛想のいゝ接吻と握手で迎へられた。
「ソーンフィールドはいかゞでゐらつしやいますか。」と彼女は訊いた。私は大變氣に入つたと話した。
「えゝ、」と彼女は云つた。「いゝ處でございますよ。ですが、ロチスターさんがその氣になつて、
「ロチスターさん!」と私は叫んだ。「
「ソーンフィールドの持主です。」と彼女は靜かに答へた。 「その方をロチスターと申上げますことを御存じではございませんでしたか。」
無論私は知らなかつた -- 曾て、聞いたことさへなかつた。しかし、この老婦人は、
彼の存在は世人周知のことで誰でも
「私は、ソーンフィールドはあなたのものでお在りになると思つてをりましたの。」と私は續けて云つた。
「私のですつて?おやまあ、あなたは何を仰しやいます。私のですつて?私はたゞの家政婦 --
「では、あの小さいお孃さま -- 私のお教へする方は?」
「あの方は、ロチスターさんの後見爲手ゐらつしやる方でございます。そして、
あのお孃さんのために家庭教師を一人探すようにと、私にお頼みになつたのでございます。
ロチスターさんは、きつと、××州の中でお育てになりたいと思召すのでせう。
おゝ、あそこへいらつしやいましたよ。ボンヌと御一緒に。
この發見に就いて私が考へてゐるうちに、小さな少女が附添に從はれて芝生をこつちへ走つて來た。 私は、最初は私に氣づかないでゐたらしい私の生徒に、目をとめた。彼女は、まつたくの子供で、 おほかた、七つか八つ位だらう、蒼白い、華奢な、顏立のほつそりとした身體つきで、 ありあまる程の髮がくる〜と捲毛になつて腰のあたりまで埀れてゐた。
「お早う存じます。アデラさま。」と、フェアファックス夫人は云つた。 「あなたをお教へして、今に賢い方にして下さる方のお側へいらして、お話なさいましな。」 彼女は近よつて來た。
「'C'est le ma gouverante?'(この方あたしの先生なの?)」と彼女は私を指して、
「あの
「仕合にも、私は、彿蘭西の婦人に彿蘭西語を教はる便宜があつたし、
いつも出來るだけ度々マダム・ピエロと會話するやうにしてゐたので、 それにこの七年間といふものは、毎日一生懸命に、彿蘭西語の方を暗記した
-- 自分のアクセントに苦心して、先生の發音に出來るだけ似せて云ふことに苦心した。
彿蘭西語では、ある程度までは、すらすらと正確に云へる自信があつたから、アデェルお孃さんと話しても、
それほど當惑するやうなことは、なささうだつた。彼女は、私が自分の家庭教師だと聞いて、
側へ來て私と握手した。で、私は朝食に彼女を連れてゆきながら、彼女の話す言葉で少しばかりものを云ひかけてみた。
彼女はその大きな明るい茶色の眼でものゝ十分も私を
「あゝ!」と彼女は、彿蘭西語で叫んだ。「あなた、ロウチスターさんとおんなじ位にお上手に、
あたしの國の言葉をお話しになるのね。あたし、あの方にお話が出來るやうにあなたにも出來るのね、
それからソフィイもね。ソフィイは喜びますわ。こゝにゐる人逹は誰もソフィイの云ふ事がわからないの。
フェアファックス夫人はすつかり英語でしよ。ソフィイはねえ、あたしの
「エア -- ジエィン・エアよ。」
「エイル?おや、あたし云へないわ。でね、あたしたちのお船は朝、まだすつかり夜が明けてしまはない内に大きな街に --
まつ黒な家があつて、烟だらけな、とても大きな街に着いたのよ。あたしのゐた綺麗な氣持ちのいゝ町とは、
まるつきり違ひますの。それからロチスターさんは、あたしを抱いて板の上を通つて、
「あんなに早くお話しになるのがお解りになりますか。」とフェアファックス夫人が訊いた。
私は、マダム・ピエロの流暢に話すのに慣れてゐたので、彼女の云ふことは、よく解つた。
善良な婦人は、つゞけて云つた。「あなた、この方の御兩親のことを一つ二つお訊きになつて御覽遊ばせ。 お二人を覺えてゐらつしやいますかしら。」
「アデェル」と私は訊ねた。「あなたがお話しになつた、その綺麗な氣持ちのいゝ町にゐらした時は、
「ずつと前には、あたし母樣とゐましたの。でも母さまは
彼女はもう朝食を終へてゐたので、私は彼女の藝能の見本を見せることを許してやつた。 彼女は自分の椅子から下りて、私の膝の上に坐つた。小さな手をおとなしく前に重ねて、捲毛を後に搖りやつて、 眼を天井の方にあげ、何か歌劇の中の歌を唄ひはじめた。それは棄てられた女の歌だつた。 その女が戀人の不實を嘆いた後で、今度は自尊心の助けを求め、 最も輝やかな寶石ときらびやかな衣裳で自分を飾るやうに侍女に云ひつける、 そして、その晩、舞踏會でその不實な男に會ひ、こともなげな彼女の態度で男に棄てられても自分は一向平氣だといふことを、 彼に見せてやらうと決心するといふのだ。
その主題は、幼ひ唄ひ手の爲めに選ばれたものとしては、まつたく變な氣がした。
だが、多分その演技の目的は子供の唇に歌はれる戀と嫉妬との
アデェルは、その小唄を大層調子よく、また年相應にあどけなく歌つた。これが濟むと彼女は私の膝から跳び下りて云つた。 「今度は先生何か詩を暗誦して上げるわ。」
氣取つた恰好をして、彼女はラ・フォンテエヌのお伽噺の"La Ligue des Rats"(鼠の同盟)をはじめた。 その次ぎには、句讀點や語勢、聲の抑揚や場合に應じた身振などに注意して、短い詩を朗讀した。 彼女の年頃にしては、まつたく並々ならぬ出來だつた。それは彼女が非常に注意深い訓練をうけたことを示してゐた。
「その詩をお教へになつたのはお母樣ですの?」と私は訊いた。
「えゝ。そして母樣は、いつもこんな風に仰しやつたのよ、 "Qu' avez vous donc? lui dit un de ces rats; parlez!"(『では、あなたはどうしたいのか? と鼠の一匹が彼に云つた。お話しなさい。』)あたしに、質問の時に聲をあげるのを思ひ出させようとして -- こんな風に -- あたしに手を上げさせるの。ぢや今度はダンスをして見せて上げませうか?」
「いゝえもう結構。ですけど、お母さまがあなたの仰しやつた
「フレデリック夫人と旦那樣と一緒に。その方があたしの世話をして下さいましたの。
でもあたしとは親類でもなんでもないんですの。あたしね、あの方は貧乏なんだと思ふのよ。
だつて母樣みたいな立派なお家ぢやないんですもの。あたし、あそこには長いことはゐなかつたの。
ロチスターさんが、あたしに英吉利に行つて一緒にゐないかつてお訊きになつて、あたしもさうしますつて云つたのよ。
何故つてあたし、ロチスターさんは、フレデリック夫人より前から知つてるんですもの。
それにいつもあたしに親切にして下すつて綺麗な着物や
朝食の後、アデェルと私とは、書齋へ引退つた。それは、ロチェスターさんが教室として使ふように命じた室らしかつた。
大抵の本は硝子戸の中に
私の生徒は、勉強をするのが嫌ひだつたが、大變しなほなことがわかつた。
彼女は、何によらず、規則正しい仕事をするのになれてゐなかつたのだ。 私は、最初、餘り彼女を束縛するのは、まづいと思つた。そこで、私は、
主としてこちらからいろ〜と話をしてやり、それから彼女に少しばかり覺えさせて、
お
紙挾と鉛筆を取りに二階に行きかけると、フェアファックス夫人が私に呼びかけた。
「朝の御勉強は、もうお濟みになつたのでございますね。」と彼女は云つた。彼女は、
とある部屋にゐて、そこの
「まあ、立派なお部屋ですこと!」と私は見まはして叫んだ。 私はこの半分も立派なものを見たことがなかつたから。
「えゝ、これが食堂ですの。少し風と陽うぃ入れようと思つて、ちやうど窓を開けたところでした。 滅多に使ひませんお部屋は、何も彼もひどくしめきりでしてね。あちらの客間なぞまるで地下室のやうでございますのよ。」
彼女は、窓に相當する廣い
「こんなお部屋をどういふ風にお手入れなさるんですの、フェアファックス夫人?」と私は云つた。 「埃もないし、ヅックの椅子蔽ひもありません。空氣がひいやりしてゐさへしなければ、 毎日お住ひになつてゐらつしやると思へますわ。」
「それはね、エアさん、ロチェスターさんが、こゝにお出になるのは
「ロチスターさんは、几帳面な氣むづかしい方でゐらつさいますの?」
「とりわけさうと申すほどでもありませんが、あの方は紳士らしい好みやくせを持つてゐらつしやいます。 それで、萬事御自分のさういふ御氣性にぴつたりするやうにして置くのをお望みなのでございます。」
「あなたは、その方がお好きですの?人に好かれてゐらつしやる方ですの?」
「えゝ、えゝ、こゝでは、ロチスター家はいつも尊敬されておゐでになります。この近くの土地は、 大抵みなあなたのお目の屆くかぎり、大昔からずつとロチィスター家のものでございますからね。」
「さう、だけど、土地のことなどは別として、あなたは、あの方がお好きですの? ロチスターさん御自身が好かれてゐらつしやるのでせうか?」
「私はもう、あの方を好きだと申上げるより外には何もございません。そして私は小作人たちからも、 正しい、寛大な地主だと思はれてゐらつしやると信じてゐます。尤もその人たちと一緒におゐでになつたことは、 あんまり、おありになりませんがね。」
「でも、何も特色を持つてはゐらつしやいませんの?一口で云へば、どんな御性格の方なのでせう?」
「御性質は點の打ちどころもありませんわ!寧ろ、風變りでゐらつしやるかも知れませんね。 隨分旅行を遊ばして、世の中をいろ〜と御覽になつたのでございますよ。 私はほんたうにお賢い方と申上げていゝと思つてをります。尤も私はさうお話しいたした事もございませんけれど。」
「どんな風に、風變りでゐらつしやいますの?」
「私にはわかりません -- それを申上げるのは難かしうございます -- 決して目につく程の事ではございませんけれど、 あの方が、あなたに物を仰しやればお解りになりますよ。あなたはあの方が、御冗談だか、 眞面目でゐらつしやるのか、また喜んでゐらつしやるのおだか、その反對だか、 いつだつてはつきりとはお解りになりませんよ。兎に角、あなたには、すつかりお解りになれないと存じますわ -- 少くとも私には駄目でございますねえ。ですが、こんなことは、何も大したことぢやございません、 あの方は本當にいゝ御主人でゐらつしやいますわ。」
これが、フェアファックス夫人から聞いた彼女と私の雇ひ主に就いての全部だつた。
ある性格を描寫したり、人や物の特徴を觀察し説明する場合、まつたく無定見のやうに思はれる人々がある。
この善良な婦人は、明かにこの組に屬してゐるのだ。私の質問は、彼女を當惑させたゞけで、
話をさそひ出すことは出來なかつた。彼女の眼には、ロチスターさんは、ロチスターさんであつた。 紳士で、地主 --
それだけなのだ。彼女はそれ以上に、訊ね探りもしない。そして彼の正體に就いての、
もつとはつきりした意見を掴みたがつてゐる私の望みを、明かに
食堂を出ると、彼女は私に邸の他の部分を見せようと申出た。私は何處もみなよく配置され、
立派なものだつたので、到る所で感嘆しながら、二階や階下を彼女の
召使ひの人たちは、こちらの部屋で休みますの?」と私は訊いた。
「いゝえ、あれ逹は、裏の方の、もつと小さな部屋の一並びにをります。
誰も、今迄こゝに休んだことはないのでございます。若しもソーンフィールド
「さうでせうね。では、あなたは、幽靈を御覽になつたことはおありになりまして?」
「いゝえ、聞いた事もございませんわ。」とフェアファックス夫人は、微笑みながら答へた。
「誰かの傳説のやうなものはありませんの -- 云ひ傳へとか怪談とか?」
「さあ、ないと存じますわ。ですが、ロチィスター家は、昔からおとなしいと云ふよりは、
烈しい
「さうですわね -- 『人生の激しい激昂の後、彼等はよく眠つてゐる』」と私は呟いた。 「あら、何處へいらつしやいますの、フェアファックス夫人?」彼女は何處かへ行かうとしてゐたから。
「
大變狹い階段を屋根裏へ上つて、そこから梯子を傳つて
フェアファックス夫人は
「フェアファックス夫人!」彼女が今大きな階段を下りて來るのが聞えたので、私は叫んだ。 「あの大きな笑ひ聲をお聞きになりまして?誰ですの?」
「召使ひの誰かでせう、きつと。」と彼女は答へた。「大方グレィス・プウルでせう。」
「あなたもお聞きになりまして?」と私は再び訊いた。
「え、はつきりと。
笑聲は低い、明瞭な調子で繰返されて變な呟きに終つた。
「グレイス!」とフェアファックス夫人は呼んだ。
まつたく私は、グレイスなどといふ人間が返辭をしようとは思つてもゐなかつた。
それほど、その笑ひ聲は、今迄聞いたどれよりも悲劇的で竒異なものだつた。そしてそれが眞晝間で、
その竒妙な高笑ひに似つかはしい不氣味な有樣もない -- 怖さを増すやうな場面でも時機でもない、
といふのでなかつたなら、私は迷信的に怖くなつたに違ひなかつた。しかしこの出來事は、
私の直ぐ傍の
「騷々し過ぎます、グレイス。」とフェアファックス夫人は云つた。
「
「
話はかういふ風にアデェルの事に轉じて、階下の明るい氣持のいゝ處に行くまで續いた。 アデェルは、廣間で私たちを迎へようと走つて來乍ら叫んだ -- 「みなさんお食事ですよ!」 そして、「あたし、すつかりおなかが空いたわ!」
フェアファックス夫人の室には、食事の用意が出來て、私共を待つてゐた。
ソーンフィールド
誰か私を咎めるであらうか?疑ひもなく多數の人々が。私は不平家と呼ばれるであらう。
しかし、私は、どうすることも出來なかつた。じつとして居られないものが私の性質の中に在つた。
それが、時々、私をいらだたしめて、苦しめたのであつた。そんな時、私の唯一の救ひは、
そこの沈默と靜けさの中に、誰につも妨げられずに、三階の廊下を行つたり來たりして、
自分の心の眼に、その前に浮ぶありとある輝やかしい幻想を
人間は平穩無事の中に滿足してゐるべきだ、と云ふのは無駄だ。人間には活動がなくてはならない。
もしなかつたら、自分で作るだらう。幾百萬の人々は私よりももつと靜止した生涯に運命づけられてゐる、
また幾百萬の人々は彼等の運命に默つて叛抗してゐる。政治的叛逆の外にどんなに多くの叛逆が、
地上に住んでゐるた多數の人間の中に、沸き返つてゐるかを誰も知らない。
女は一般に極めて温和だと思はれてゐるが、女も男が感じると同樣に感じ、彼女等の兄弟が要すると同じく、
彼女等もその才能を働かし、力を發揮させる場所を要するのである。彼女等もまた男が苦しむとまつたく同じに、
餘り嚴し過ぎる束縛の爲めに、餘りに絶對的な沈滯の爲めに苦しめられてゐるのである。
女たちは、プディングを
かうして獨りでゐる時に、私はグレィス・プウルの笑ひ聲 -- 初めて聞いた時ぞつとした、
あれと同じ高笑ひをしばしば聞いた。私はまた、彼女の笑ひ聲よりも、もつと竒妙な、
調子はづれの呟きを聞いた。彼女がまつたく何も云はぬ日もあつた。しかしまた、
彼女のたてる物音を數へきれないやうな日もあつた。私は、時々彼女を見た。
彼女は水鉢かお皿か或はお盆を手にして自分の部屋から出て來ると臺所に降りて行つて、
直ぐに歸つて來るのが常だつた。大抵は(
この家の他の人々 -- 即ちジョンとその妻、家婢のリア、彿蘭西人の
十月、十一月、十二月と過ぎ去つた。一月の或る午後、フェアファックス夫人は、アデェルが風邪なので、
お休みにして欲しいと頼みに來た。それにアデェルは、
私自身の子供時代にも時たまのお休み日がどんなに貴いものだつたかといふことを思ひ出させるやうな熱心さで、
その願ひを繰り返すので、その點に就いて自分が言ひなりになつてやるのがいゝと思つて、
私はそれを許した。非常に寒くはあつたが、その日は晴れて穩やかな日和だつた。
長い朝の間ずつと書齋に坐つたきりじつとしてゐるのに私は飽きた。
ちやうどフェアファックス夫人が手紙を書いて、ポストに入れるばかりの所なので、私は帽子を被り、
外套を着て、ヘイまで出しにゆくことを進んで引受けた。二哩の
この小徑が丘を上つて、ずつとヘイに向つてゐた。中腹まで來たので、私は野原の方へ下る段々に腰を下した。
外套を身體にひきしめて、手をマフの中に入れてゐたので、寒さは感じなかつたが、寒さは、
土手道に張りつめた氷を見ても知られるように凍りつくほどだつた。
そこは今は凍りついてゐるが幾日か前の急な雪解の爲めに小川が溢れた所なのだ。
私の坐つてゐる所からはソーンフィールドが見下された。灰色の
見上げる丘の上には上りかけた月が浮かんでゐた。まだ雲のやうに
そのとき、遠く、しかもはつきりした荒々しい響きがその美しい流の音や囁きを壞してしまつた --
パカ〜と音高く響く金の音が、柔かな
その喧しい響は土手道からだつた。馬が來るのだ。曲りくねつた小徑は、まだ馬を隱してゐたが、
近づいて來た。私はちやうど段々を離れようとしてゐた。しかし路が狹いので、それが行き過ぎるまでと思つて坐つてゐた。
その頃は私もまだ若かつたから!いろ〜な明るいまた暗い空想が、私の心に宿つてゐた。
子供部屋で聞いたお伽噺の記憶も他のくだらないものゝ中に交つてゐた。そしてそれを再び心に思ひ起したときには、
成熟しかけた若さといふものが、それに幼い頃與へ得たもの以上の生々しさと本當らしさを附加へた。
で、この馬が近づいて來るのを、そして
馬は、間近に迫つてゐたが、まだ見えなかつた。その時、蹄の音の他に、生垣の下に騷々しい物音がしたかと思ふと、
棒の幹の直ぐ下を逞しい犬がすつと走りぬけた。その白と黒の毛色が、
木々の中に際立つて鮮やかに見えた。これこそベシーの
「お怪我をなすつたのですか。」
彼は何かぶる〜罵つてゐたらしいが、私にはわからなかつた。がとにかく咒文のやうなものを
「私、お手傳ひいたしませうか。」とまた私は訊いてみた。
「端の方に寄つてゐらつしやらなくてはいけません。」と先づ膝を立て、次には足で立ち上りながら、彼は答へた。
私はその通りにした。その時、忽ち犬の吠える聲と一緒に、苦しげな喘ぎや蹄の音が騷がしく相次いで起り、
そのお蔭で實に數
私は役に立ちたい、でなくも少くともおせつかいをしたい氣になつてゐたと思ふ。 だから、私は、また彼に近づいて行つた。
「もしか、お怪我をなすつたので、人手がお入用でしたら、私、行つて、ソーンフィールド莊からでもヘイからでも、 誰かを呼んで參りませうか。」
「いや有難う、どうにかなりませう。骨が折れたのぢやないんだから -- なに、一寸
晝間の明るみがまだいくらか殘つてゐて、それに月も淡い輝きを増して來た。 それで私ははつきりと彼を見ることが出來た。彼の身體は、
毛皮襟の
私がものを云ひかけたとき、假にこの見知らぬ人が、私に微笑みかけて、機嫌よかつたとしたゞけでも --
私が手傳はうと申出たのを、快濶にお禮を云つて斷つたのだつたら、私は自分の途を行つてしまつて、
重ねて訊ねようとする使命も感じもしなかつたのだらう。けれど、この旅人の眉を
「私、こんなに
私がかう云つた時、彼は私を
「あなたはお宅へお歸りにならなくてはいけないでせう、」と彼は云つた。
「この御近所なら。
「直ぐこの下の方から。私、月夜には、
「直ぐこの下に住んでゐるつて -- ぢあ、あの鋸壁のある家のことですか?」と、彼は指した。 ソーンフィールド莊の上には、月が灰白色の光を投げて、西の空と對照をなして、 今は一塊の影のやうに見える森から建物をしろ〜゛と鮮やかに浮き上らせてゐた。
「えゝ。」
「誰の家です?」
「ロチスターさんのですの。」
「あなたはロチスターさんを知つてゐますか?」
「いゝえ、まだお目にかゝつたことはありません。」
「すると、家にゐないのですか?」
「えゝ。」
「何處にゐるか、御存じですか?」
「存じません。」
「あなたはあそこの女中ぢやありませんね、無論。あなたは -- 」 彼は言葉を切つて、私の
「家庭教師でございますの。」
「あゝ家庭教師!」と繰返して云つて、「さうだ、すつかり忘れてゐた!家庭教師!」 そしてまた私の服裝をじろ〜見た。二分間ばかりのうちに彼は段々から立上つた。歩き出さうとして、 彼の顏は痛みをあらはした。
「人を呼んで來ていたゞくことは出來ませんが、宜しかつたらあなたに少し手傳つて戴きませう。」と彼は云つた。
「どうぞ。」
「杖になるやうな蝙蝠傘をお持ちぢやないですね?」
「えゝ。」
「ぢあ、馬の手綱をとつて、私のところまで連れて來て下さい。怖くはないでせう?」
私は一人きりだつたら馬に觸るのは怖い筈なのだが、彼に言はれるとその通りにする氣になつた。 私はマフを段々の上に置いて脊の高い馬の方へと上つて行つた。手綱を取らうと苦心するのだが、 疳の強い動物で頭の近くへも寄せつけない。私は幾度か骨折つたが駄目だつた。 それに私はその踏みならしてゐる前脚が無性に恐ろしかつた。旅人は暫く待つて凝と見てゐたが、 とう〜笑ひ出してしまつた。
「さうだ、」と彼は云つた。「山をマホメットの處へ持つて來ることは出來ないが、 マホメットを山の方へ行かせることはあなたにも出來るんだ。あなたにこゝに來て戴かなくちやなりますまい。」
私は行つた。「失禮ですが、」と彼は續けて云つた。「仕方がありません。あなたに役に立つて戴く外はなくなりました。」 彼はがつしりした片手を私の肩にかけて、いくらかの重みで私にもたれかゝり、馬まで跛を引いた。 だが一度手綱を取ると、彼は、すぐにそれを操つて、鞍に飛び乘つた -- その努力をしてゐるとき、 彼はひどく顏を顰めた、挫傷がねぢれたのだ。
「今度は、」と堅く噛んでゐた下唇を弛ませて彼は云つた。「ちよいと私の鞭を取つて下さい。 生垣の下にあります。」
私は、探して、見付けて來た。
「有り難う。では早くその手紙をヘイまで持つてゐらつしやい。そしで出來るだけ早く歸つてゐらつしやい。」
拍車のついた踵が一度觸れると、馬は、最初驚いて竿立ちになつたが、やがて行つてしまつた。 犬はその後を追つた。三つのものはみんな姿を消してしまつた。
荒野の中の灌木 のごとく
荒々しき風に捲かれて去りぬ。
私はマフを取上げて、歩みを續けた。思ひかけない出來事が起り、そしてもう行き過ぎた。
それはある意味で重大でもなく物語的でもなく興味を感じる程でもない出來事だつたには違ひない。
けれどもそれは、私の單調な生活のたつた一時間を變化で
私は、またソーンフィールドに這入つてゆくのが、いとはしかつた。
その閾を
私は門のところに
廣間は暗くはなかつた。高く
私はフェアファックス夫人の部屋へ急いだ。こゝにも火はあつたが、蝋燭もなければ夫人もゐなかつた。
その代りにたゞ獨り敷物の上に眞直に坐つて、儼然と燃える火をみつめてゐる犬、
ちやうど、あの小徑で見た、ガイトラッシュと同じやうな逞しい黒白の、毛の長い犬がゐる。
あまりそつくりなので私は前に進んで「パイロット」と云つてみた。
すると起き上つて私の方にやつて來て私を
「これはどうした犬ですの?」
「旦那さまがお連れになりましたの。」
「
「旦那さま -- あのロチスターさんですわ。
「あゝさう。で、フェアファックス夫人は御一緒?」
「え、アデェルさまも御一緒ですの。皆さま御食堂にゐらつしやいます。それから、
ジョンは外科のお醫者さまへ參りました。旦那さまがお怪我をなすつたもので。
馬が轉んで
「馬はヘイ・レインで轉んだの?」
「え、丘を下りようとして、氷の上で滑つたのでございます。」
「あゝ、蝋燭を持つて來て下さらない、レア?」
レアは蝋燭を持つて來てくれた。後からフェアファックス夫人も來て、今の話を繰り返し、 外科醫のカーターさんが來て、今ロチスター氏の所にゐると云ひ足した。それから、 彼女はお茶の指圖をする爲めに急いで行つてしまひ、私は着更へをしに二階へ上つた。
ロチスター氏は、外科醫の命によつて、その晩は早く床に入つた容子であつたが、
翌朝になつても
アデェルと私は、その時書齋を立退かなければならなかつた。そこは訪問者の爲めの應接間に毎日使はれてゐたから。
二階の室に火が焚かれてゐたので、私はそこへ書物を運んで、以後そこを勉強部屋にするよう整頓した。
朝の時間がたつてゆくうちに、私はソーンフィールド莊が變化してゐることを認めた。
もう教會のやうな靜けさはなく、一時間ごとか二時間ごとに、
その日アデェルを教へるのは容易なことではなかつた。彼女は勉強に身を入れることが出來なかつた。
彼女は
「”Et cela doit signifier,”」と彼女は云つた。「”qu'il y aura le dedans un
cadeau pour moi, et peut-etre pour vous aussi, mademoiselle.
Monsieur a parle de vous: il m'a demande le nom de ma gouvernante,
et si elle n'etait pas une petite personne, assez mince et un peu
pale. J'ai dit qu'oui: car c'est vrai, n'est-ce pas,mademoiselle?”
(ですからね、あの中には、あたしに下さる
私も私の生徒も、いつものやうに、フェアファックス夫人の居間で食事をした。
お晝過ぎからは暴れ模樣で、雪も降り出した。私たちはずつと勉強部屋で過した。暗くなつて、
私はアデェルに本とお稽古をしまつて階下に行つてもいゝと云つた。
割合に階下が靜かになつたことや、入口の
明るい
「ロチスター氏が、今晩、あなたもあなたの生徒さんも、お客間で御一緒に、 お茶を召し上つて下さらないかと云はれます。」と彼女は云つた。「あの方は一日中暇なしでゐらしたものですから、 今まであならにお目にかゝることもお出來にならなかつたのです。」
「お茶の時間は何時でせう?」と私は訊いた。
「六時ですの、
「着物を着換へなくてはいけませんの?」
「え、さうなすつた方がようござんす。ロチスターさんがゐらつしやるときには、 私も夕方にはいつも着換へますのですよ。」
この禮儀の追加は少しもの〜しい氣がしたが、とにかく私は自分の部屋に行つてフェアファックス夫人に手傳はれながら、 黒い毛織の服を黒の絹のに更へた -- 銀鼠のをのけると、私の持つてゐるものでは最上のそして、 たつた一つ餘分に私が持つてゐる晴着なのだ。銀鼠の方は、みじまひについての私のローウッド仕込の考へでは、 第一の場合でなくては立派すぎて着られないと思ふのであつた。
「襟止
ロチスター氏は、フェアファックス夫人と私とが這入つて來たことに氣がついた筈だ。 けれども私たちが近づいても頭をあげようともしないのをみると、 彼は私たちに眼を向ける氣持になつてゐないらしかつた。
「エア孃をお連れしましたが。」とフェアファックス夫人はいつものやうに物靜かに云つた。 彼は會釋した、しかしその眼は犬と子供の方から離さないまゝであつた。
「エア孃にお掛けになるやうに。」と彼は云つた。その強ひてしたやうなぎごちないお辭儀にも、 着短かなそれでゐて固苦しい言葉の調子にも、何かその上にかう云つてゐるやうに思はれるものがあつた。 「エア孃がゐようとゐまいと、それが俺にとつてどうなんだ。今俺は彼女に物を云ひかけるやうな氣持ぢやない。」
私は氣やすくなつて腰かけた。到れりつくせりの挨拶をうけたなら、私は多分困つたことだらう。
私はその挨拶に應じるやうな、
彼のやり方は、石像と異ならなかつた -- つまり彼は物も云はなければ、身動きもしなかつたのだ。
フェアファックス夫人は誰かゞ愛想よくしなければいけないと思つたらしく話しはじめた。 いつものやうに優しく --
またいつものやうにどちらかと云へば平凡に --
彼が終日たづさはつてゐた仕事の
「マダム、お茶が欲しいんだが。」彼女の得た答は、この一言であつた。彼女は慌てゝ
「あなた、ロチスターさんのを差上げて下さいませんか。」とフェアファックス夫人が私に云つた。
「アデェルは、きつと
私は命じられたやうにした。彼が私の手から茶碗を受け取つた時、アデェルは私の爲めにねだるのに都合のいゝ時だと思つたか、 聲を上げた
-- 「”N'est-ce pas, monsieur, qu'il y a un cadeau pour Mademoiselle
Eyre dans votre petit
coffre?”(小父樣、あの小箱にエア先生に上げる
「誰が
「私よく存じません。私にはそんな經驗が殆んどございませんでしたから。 一般には嬉しいものと考へられてゐるやうでございますが。」
「一般には考へられてゐるつて?だが、あなたはどう思ひます。」
「
「エア孃、あなたはアデェルのやうに、無邪氣ぢやありませんね。あの子は私を見るや否や、 やかましく贈物をねだつたが、あなたのは、遠まはしに探りを入れてみるのだから。」
「でも、私はアデェルのやうに御襃美をいたゞいていゝといふ確信がございませんもの。
あのお子は昔からのお知合といふ主張をなすつていゝのですし、それから今迄の習慣として權利を持つてゐらつしやいます。
あなたがいつも
「まあ、さう謙遜しすぎるもんぢやありません。私はアデェルを
「あの、今こそ私の
「ふむ。」とロチスターは云つて、默つてお茶を取り上げた。
「火の傍へお出なさい。」お盆が下げられて、フェアファックス夫人が編物の道具を持つて片隅へ落ちついたときに、
主人は云つた。ちやうどその時は、アデェルが私の手をとつて部屋をあちこち連れて歩いて、
美しい本だの壁にとりつけた
「あなたはこの家に來て、三ヶ月になるのですね?」
「はい。」
「それでと、あなたが來たのは -- 」
「××州のローウッド學校からでございます。」
「あゝ、慈善事業のですか。それにどれ位ゐ居ました?」
「八年でございます。」
「八年!あなたは粘り強い方なんですね。そんな所にその半時もゐれば、 どんな身體でも疲れてしまふと私は思つてゐたのだが。確かにあなたはまるで彼の世の人間のやうな顏をしてゐますよ。 何處からそんな顏を貰つて來たのかと不思議に思つてゐたのです。 昨晩ヘイ・レインであなたに逢つたときも、變にお伽噺が心に浮かんで、 あなたが私の馬をばかしたのかどうか訊ねてみようかと半分思つた程でした。 今だつてまだ解らないのですがね。で、御兩親は?」
「どちらもございません。」
「もと〜なかつたのでせう。覺えてゐますか?」
「いゝえ。」
「さうだらうと思つた。すると、あなたは、あの段々に腰かけて、仲間を待つてゐたのですね。」
「誰を?」
「緑いろの着物を着た人たちをさ。その連中にお誂へむきの月夜でしたからね。 あなた方が土手道にあの忌々しい水を廣げたあなた方の遊び場を、私は壞しましたか?」
私は頭を振つた。「緑いろの着物を着た人たちは、みんなもう百年も前に英國からゐなくなつてゐます。」
私は彼と同じやうに出來るだけ眞面目くさつて云つた。「ヘイ・レインやあのあたりの野原には、
今はもう彼等の跡かたもありません。夏、秋、冬の月夜にも、今はもう
フェアファックス夫人は、編物を落して、眼を
「では。」とロチスター氏は續けた。「兩親がないにしても親類はあるでせう。伯父さんだの、伯母さんだのは?」
「いゝえ、一人も、見たことがございません。」
「では家は?」
「ございません。」
「御兄弟姉妹は何處にゐるのです?」
「兄弟も姉妹もございません。」
「誰が此處へ推薦してくれたのです?」
「私、廣告をいたしました。そしてフェアファックス夫人が私の廣告に御返事を下すつたのでございます。」
「さうですの。」と、今やつと私たちが何を話してゐるかゞ分つたこの善良な婦人は云つた。 「私は毎日、神樣のお導きでこの方をお選みしたことを感謝してゐるのでございますよ。 エアさんは、私にとつても、ほんとに有難いお友逹ですし、アデェルにとつても、親切な行屆いた先生でゐらつしやるのでございますよ。」
「この人の人物證明なんぞしないでもよろしい。」と、ロチスター氏は言葉を返した。 「讃辭は、私には何にもならない。私は自分で判斷します。この人は、手始めに私の馬を轉ばしたんです。」
「まあ?」フェアファックス夫人は云つた。
「私はこの傷のお禮を云はなくつちやならない。」
未亡人は途方に暮れてゐる容子であつた。
「エアさん、あなたは街に住んだことがありますか。」
「いゝえ。」
「人中へ出たことがありますか。」
「いゝえ、ちつとも。たゞローウッドの生徒や先生たちと、それから、 今はソーンフィールドにゐる人たちだけでございます。」
「本は、澤山讀みましたか。」
「今迄に私の手に入りましたやうな本だけで、大した數でもなく、さう高い程度のものでもございませんでした。」
「あなたは、尼僧の生活を生活して來たんですな。確かにあなたは、宗教的な樣式によく慣らされてゐる。 ローウッドを支配してゐるとかいふブロクルハーストつてのは牧師ですね?」
「え、左樣でございます。」
「そしてあなた方娘さんたちは、恐らく、その人を尊敬してゐたのでせう。 尼僧のいつぱいゐる修道院で、長老を尊敬するやうにね。」
「いえ、いえ。」
「ひどく冷淡だな!違ふつて!ほう、尼僧が長老を尊敬しないと云ふんですか! それはどうも不敬に當りさうですね。」
「私はブロクルハーストさんが嫌ひでございました。さう思ふのは私獨りではございませんの。 あの人は酷い人で、それに尊大ぶつてゐて要らない干渉ばかしするのでございます。 私たちの髮を切つてしまつたり、儉約の爲めに、使へもしない縫針や絲をよこしたりいたしました。」
「それは大層間違つた儉約でしたね。」と、今再び、話の意味が解つたフェアファックス夫人が口を出した。
「で、それがあの男が癪に障らすことの絶頂だつたんですか。」
「委員がまだ置かれない前、あの人一人きりで監督してゐました頃には、 私たちをひぼしにいたしました。それから一週間に一度は長いお説教をして、 夜にはまた自分の書いた本の中から頓死だの裁きだのに就いて讀んで聞かせたりして、 私たちを退屈な目に合はせましたの、それで、私たちは、眠られなくなるほど怯えさせられました。」
「ローウッドへ行つたのは幾つの時です?」
「十歳くらゐで。」
「そして、そこに八年ゐた、すると今は十八ですか。」
私は頷いた。
「算術は、有益なものですね。そのお蔭がなくては、 あなたの年を當てることはなか〜出來なかつたに違ひないですからね。 それがあなたのやうに顏の道具と顏の相がくひちがつてゐる場合には、容易には斷定出來ない點なのです。 それから、ローウッドで、何を教はりました?ピアノがやれますか。」
「少しばかり。」
「無論さうでせう、それは確かな返辭だ。書齋へ行つて -- よろしかつたらといふ意味ですが --
(私の命令口調を勘辨して下さい。私はいつも「これをしろ」と云ふとそれが出來てしまふので、
新らしいお近づきの方に對しても從來の癖を變へられないのです) -- では、書齋へお行きなさい、
蝋燭を持つて。
私は、指圖に從つて、出て行つた。
「もう結構!」とすぐに彼は呼んだ。「成程少しばかり彈きますね。 英國の女學生並みに。まあ少しは、ましかも知れないが、上手ぢやない。」
私はピアノを閉ぢて歸つた。ロチスター氏は續けて云つた --
「アデェルが今朝あなたのだといふ
「いゝえ、まつたく!」
「あゝ氣を惡くしましたね。よろしい、内容が獨創のものだと保證する氣なら、あなたの紙挾みを取つていらつしやい。 だが危つかしいのなら、斷言なさらない方がいゝ。つぎはぎ細工は私にもわかるから。」
「では、私、何にも申上げません。ですから、どうぞ、御自分で判斷なすつて下さいまし。」
私は書齋から紙挾みを持つて來た。
「
「たかつちやいけない。」ロチスター氏は云つた。「見てしまつてから、持つて行くのはいゝが、 顏をこつちに押しつけないでくれ。」
彼は、
「それは、あつちの
「はい。」
「ぢあ、何時これを仕上げるだけの時間があつたのです?これには相當時間が必要なら、 いくらか空想もなくつちやならないでせう。」
「ローウッドでの最後の二度の休暇中に、他に仕事がなかつた時いたしました。」
「手本は何處から手に入れたのです?」
「私の頭からでございます。」
「あなたの肩の上にあるその頭ですか。」
「えゝ。」
「その中にはまだかういふので、別な材料がありますか。」
「多分あると思つてをります。私 -- もつといゝのがあればと思ふのでございますけれど。」
彼は繪を前に擴げて、再びそれを代る〜゛眺めた。
彼はそれに氣を取られてゐる間に、讀者よ、私はその繪がどんなものだつたかお話しよう。
そして先づ第一に、私はどれも決して驚く程のものではなかつたといふことを前置きしなくてはならない。
尤もその主題はほんとにいき〜と私の頭に浮んでゐたものだ。私がそれを表現しようとする前に、
心の眼で見たときは、それ等のものは素晴らしかつた。しかし私の手は私の思想を
その繪はみな水彩であつた。第一のは滿々たる海上に捲き起つてゐる低い鉛色の雲が描かれてあつた。
遠景は唯暗澹としてゐる。前景もまた同樣である -- 否、寧ろ、一番手前の大波と云はう、
其處には陸地はないのだから。閃光が半ば沈みかけた
第二の繪は、前景にはたゞ恰も微風に吹かれたやうに傾いた草や、木の葉のある薄暗い丘の頂だけが出してある。
彼方の上の方にはたそがれのやうな濃い、藍色の空が擴がり、空の中に昇つて行く一人の女の半身が、
私に合せられる限りの仄暗くやはらかな色で描き出されてゐる。朧げなその額には星の環をまき、
その下にの顏は霧の覆ひの彼方に見るやうである。眼は暗く烈しく輝き、髮は、嵐か電光に引き裂かれた光のない雲のやうに、
暗く流れてゐる。頸すぢには月光のやうな蒼白い光の反映があり、同じ
第三のは極地の冬空に突き立つた氷山の尖塔を現はしてゐた。
北光の集まりが地平線に沿つて槍を並べたやうに密集してほの暗く屹立してゐる。 これを遠景に投げやり、前景には人の顏 --
大きな顏が氷山の方に傾いてそれの上に
このあをじろい新月は、『王冠の
「この繪を描いてゐたときは、幸福でしたか。」やがて、ロチスター氏が云つた。
「すつかり沒頭しました -- えゝ、幸福でした。この繪を描くことは、一言で云へば、 私の知つてゐる限りの大きな樂しみのひとつでございました。」
「それぢあ、大したこともありませんね。あなたの話によれば、あなたの樂しみつてものは、 殆んどなかつたのだから。しかし、きつとあなたはこの不思議な色を合はせたり彩つたりしてゐる間は、 一種の藝術家の夢の國に住んでゐたのですね。毎日長い間やつたのですか。」
「お休みでございましたから、他に何もすることはございませんでした。ですから、朝からお晝まで描いて、 またお晝から夕方までいたしました。眞夏で、日が長くつて、やりたいに委せてやるのに都合がようございました。」
「で、あなた自身、その熱心な制作の結果に滿足出來ましたか、どうです。」
「とても滿足どころではございませんの。自分の頭で考へることゝ手ですることゝの隔りがあまりひどくつて、 隨分悲しうございました。何時でも私は自分では到底現はせないやうなものを想像してゐたのでございます。」
「さうでもない、あなたは自分の思想の影は掴まへてゐますからね。だが多分それ以上ぢやないでせう。 自分の思想を十分に具體化するには、まだあなたは畫家としての技巧と智識が足りない。 そかしその畫は女學生としては變つてますね。思想の方から云へば妖怪じみてゐる。 その宵の明星の眼はあなたが夢にでも見たのに違ひない。だが、どうしてかうはつきり見えるやうに出來たものかな。 それでゐて少しも光り輝いてはゐない。と云ふのは上にかいてある空の天體がその眼の光を押さへてゐるから。 それからこの眼の嚴かな深みにはどういふ意味があるんですか。それに誰があなたに風を描くことを教へたんです。 こゝの空にも丘の上にも強い風が吹いてゐる。何處であなたはラトモス山を見たんだらう。 これはラトモスなのだ。さあ、その繪をあつちへやつて下さい。」
私が殆んど紙挾の紐を結ばないうちに、彼は自分の時計を見ると素つ氣なく云つた --
「九時だ、どうするんです、エアさん、こんなに何時までもアデェルを起しておいて。
アデェルは室を出る前に彼にキスをしに行つた。彼はその愛撫を我慢してゐた。 併し彼は犬のパイロットよりも無愛想な樣子であつた。
「では皆さんお休みなさい。」と彼は、 私たちと一緒にゐるのに飽々して追ひ出してしまひたいのだと云ふやうに入口の方に手を動かして云つた。 フェアファックス夫人は編物をたたみ私は紙挾を取上げた。私たちは彼にお辭儀をすると、 冷淡な會釋を返され、そのまゝ引退つた。
「あなたはロチスターさんがさう
「えゝ、さうぢやなかつたのですか。」
「私、隨分變つていらつしやると思ひますの。あの方は隨分むら氣でぶつきらぼうですわ。」
「本當にね。初めての方にはきつとさうお見えになるのでせうねえ。 でも私はもうあの方の遊ばすことにはよく慣れてますのでさうは思ひませんよ。 それに若しあの方がもともと風變りでいらつしやるのでしたら、大目に見て差上げなくてはね。」
「何故ですの。」
「幾らかお生れつきのせゐもありますんですよ。 -- 私たちは誰だつて天性はどうすることも出來ませんからねえ。 それともう一つは確かにあの方を苦しませて、お氣持を偏屈にさせる心配がおありになるせゐですよ。」
「何の御心配ですの。」
「一つにはお家のごた〜などもね。」
「でもあの方は御家族はおありにならないのでせう。」
「今はね。ですがおありになつたのですよ -- でなくも御親戚の方位はね[。] あの方は何年前かにお兄さまをお亡くしになつたのですよ。」
「あの方のお兄さまを。」
「えゝ。今のロチスター氏は財産をお受けになつてから、さう長くはおなりになりません。まだ九年位のものでせうよ。」
「九年ならかなりの時ですわ。あの方は、そんなにお兄さまがお好きでしたの、今もまだ、 おなくしになつたのが諦められなくていらつしやるほど。」
「いえ、ね、 -- さうぢやありますまい。二人の間には何か誤解があつたのだと思ひますよ。 ロウランド・ロチスターさんは、エドワアド・ロチスターさんに對し、正しいふるまひをなさらなかつたのです。 そしてお父さまがあの方のことを毛嫌ひなさるやうにお仕向けになつたのです。 お父さまはお金を大事になすつて家族の領地をみんな一つにして置かうといふ氣でいらしたのです。 財産を分配なすつて減らしておしまひになるのがお嫌でしたのね。その癖、家名の勢力を保つ爲めには、 エドワアド・ロチスターさんもお金がなくてはならないといふことを心配なすつていらしたのですよ。 それであの方が一人前のお年におなりになると直ぐ、 餘り公平とは云はれない手段をお取りになつて隨分ひどいことをなさいましてね。 つまりあの方の財産をつくる爲めにお父さまのロチスターとロウランド・ロチスターさんがぐるになつて、 あの方を苦しめるやうな地位にあの方をお置きになつたのですよ。それがどういふ地位でしたかはつきりしたことは、 私はよく存じませんでしたけれども。そこで、あの方の心がその苦しさをお忍びになることが出來なかつたのです。 あの方はさう寛大ではおありにならなかつたものですから、お家の方とは縁を切つておしまひになつて、 今まで長い間まあ云はゞ放浪の生活をなすつてゐらしたのです。 お兄さまがあの方をこの領地の持主にするといふ遺言もなしにお亡くなりなつてからこの方、 あの方は二週間と續いてソーンフィールドにお止まりになつたことはありませんの。 そして、ほんたうに、確かにあの方はこの昔ながらの所を嫌つていらつしやいますよ。」
「何故お嫌ひになるのでせう。」
「さあ大方陰氣だとお思ひになるのでせうねえ。」
その答へは曖昧だつた -- 私は何かもつとはつきりさせたい氣がした。だが、フェアファックス夫人には、
出來ないのか、それとも強ひてしたくないのか、 ロチスター氏の苦しみの原因や性質に就いてはこの上明かな説明をしてはくれなかつた。
かういふことは、彼女だけの祕密であること、また彼女の知つてゐることといつても、
主に推測にすぎないことなどを誓ふのであつた。彼女が私にこの話を
その後數日の間、私は殆んどロチスター氏に會はなかつた。朝のうちは彼は事務の方で可なり忙がしさうであつたし、
午後はミルコオトから、また近くから紳士たちが呼ばれて、時には彼と晩餐を共にする爲めに泊ることもあつた。
馬に乘ることが許されるまでに彼の挫傷が
こんな間中は、アデェルでさへも彼の傍に呼ばれなかつた。 そして私が彼に近づくのも廣間だの階段だのまたは廊下だので時々出逢ふ位に限られてゐた。 そんな時彼は、私のゐるのを認めて、よそ〜しい會釋か冷淡な一瞥をくれたきりで、 傲然として冷やかに私の傍を行き過ぎてしまふこともあつたし、また紳士らしい愛想のよさで、 會釋したり微笑したりすることもあつた。彼の機嫌の變化は、私の胸を痛めはしなかつた。 何故ならその變化について私はどうしやうもないことがわかつてゐたから。 機嫌のよしあしは、私とは全然關係のない原因にかゝつてゐたのだ。
ある日晩餐の客があつたとき、彼は私の紙挾をとりによこした。たしかに、その内容を人々に見せる爲めであつた。
紳士たちは、フェアファックス夫人が私に
”Ma boite! ma boite!”(あたしの箱だわ!あたしの箱だわ!)と彼女はその方へ駈け寄りながら叫んだ。
「さうだよ。とう〜お前の『箱』が來たのだ。隅の方へ持つて行きなさい。
アデェルは殆んどその警告も耳に入らない容子だつた。彼女は、もうとつくにその大事なものを持つて、
とある長椅子の方へ引込んで、蓋を留めてある紐をとくのに
「”Oh ciel! Que c'est beau!”(ま!なんて綺麗なんでせう!)」そして吸ひ込まれるやうに、 うつとりと見入つてゐた。
「エアさんはそこにゐますか。」と
「さあ、さあ、こつちへいらつしやい。こゝにお掛けなさい。」彼は、傍に彼の椅子を引寄せた。
「私は
彼は、
「今晩は、マダム。お慈悲の意味であなたを呼んだんですよ。アデェルにね、
まつたくアデェルは、フェアファックス夫人を見るや否や、 彼女を長椅子に呼びよせてたちまち膝一ぱいに彼女の『箱』の磁噐だの象牙だの、 蝋などの中味をひろげ、同時に彼女の覺えた怪しげな英語で説明したり喜んだりするのだつた。
「さあ、これでいゝ御主人のお役目を果たした。」と、ロチスター氏は言葉をついだ。
「お客樣方は
私は命ぜられた通りにした。しかし、寧ろ少しは蔭の方にゐた方がずつといゝと思つた。 けれども、ロチスター氏は直截な云ひ方ではつきり命じたので、すぐに云はれた通りにするのは、 當然のことに思はれた。
今云つたやうに、私たちは食堂にゐた。 晩餐の爲めに點された
ロチスター氏は、ダマスク織の
彼は二分間ばかり火を見つめてゐた。そして私は、その間、彼を見つめてゐた。その時、
突然に振り向いた彼は、私の眼が彼の顏をじつと
「私を檢査してるのですね、エアさん。」と彼は云つた。「綺麗だと思ふんですか。」
もし私が落着いて考へてからだつたら、何か世間並に曖昧に、丁寧に、この問に答へただらう。 しかしどうしたのか、その答へは、私の口から知らぬ間に滑り出てゐた -- 「いゝえ。」
「あゝ、確かにあなたは少し
「私、あんまり露骨でございました。御免遊ばせ。私、顏のことで訊ねられたとき、 すぐさまお答へするのは優しいことではないと御返辭する筈でございましたの。 人によつて好き〜゛がるとか、美はちつとも重大なものではないとか、 そんなやうなことを何か申し上げて。」
「そんなことを答へてはいけませんよ。美はちつとも重大ぢやない、たしかに。だから、
今
「ロチスターさま、御免遊ばせ。初めのお答を取消しにいたします。 私はつきりした即答をするつもりではございませんでした。たゞもううつかりしてゐたのでございます。」
「成程、私もさう思ふ。だが、あなたは、その責任を持たなければいけませんよ。批評して下さい。どうです。 私の額はあなたの氣に入りませんか?」
彼は額の上に水平にかぶさつた眞黒に波うつた髮をかき上げて、智能の噐官の十分つまつた量を見せた。 しかし慈悲のこゝろを示す柔和な相の現はれるべき場所に優しい仁愛の印はきれ〜゛であつた。
「さあ、先生、私は馬鹿者でせうかね。」
「まあ、そんなことございませんわ!あの、もし、 お返しにあなたが博愛主義者でゐらつしやるかどうかをうかゞふとしましたら、 多分、私を不作法だとお思ひになりますでせうね。」
「そらまた!私の頭を撫でる振りをして、また小刀で突くのだ。それがつまり、
年寄や子供と一緒にゐるのが嫌だと云つた理由なんですよ(小さな聲で云はなくちや)。
いゝえ、お孃さん、私は普通ひふ博愛主義者ではありません。但し良心はあります。」
そして彼はその能力を示すと云はれてゐる突起を指さした。そしてそれは幸運にも、
彼の頭の上の部分に實に特徴のある廣さを與へて、非常に目立つてゐた。
「そして、その上に、一度はある種の幼稚な優しい心を持つてゐたのです。
私もあなた位の年頃にはまつたく多感な男で、未熟なものや、撫育されないものや、
不仕合なものには心を惹かれました。併し運命がその後私を虐待したのです。
あいつは
「何の望みでございますの?」
「
「たしかに葡萄酒を召し上り過ぎたのだ。」と私は思つた。そして、彼の竒妙な問にどんな答をしていゝかわからなかつた。 彼に逆戻りの可能性があるかないか、どうして私に云ふことが出來るだらう。
「ひどく困つてますね、エアさん。私が立派でないと同じ位にあなたも綺麗ぢやないが、 しかし困つたやうな容子は君によく似合ひますよ。それにその方が都合がいゝのだ。 何故つて、あなたはその穿鑿ずきな眼が私の顏を離れて、敷物の花模樣の方ばかりを見てゐるから。 だからもつと困つてゐらつしやい。ねえお孃さん、今晩は、私は人と一緒にゐたい、 話がしてゐたい氣持なんですよ。」
かう云ふと、彼は椅子から起ち上つて、大理石の爐棚に腕を
「今晩は、人と一緒にゐて話がしてゐたいのですよ。」彼は繰り返して云つた。
「だから、あなたを呼んだのです。火もシャンデリアも私の相手には十分ぢやないし、
パイロットもさうぢやない。あいつらは話が出來ませんからね。アデェルは少しはいゝ、
しかしまだ〜落第だし、フェアファックス夫人も同じくだし。あなたこそ、もしその氣になりさへすれば、
きつと私の氣に入ることが出來るのです。あなたは私が呼んだあの最初の晩、私を困らせたでせう。
あれ以來私は殆んどあなたを忘れてゐた。他の考へが私の頭の中からあなたのことを
話す代りに私は微笑んだ。そしてそれは滿足した微笑みでもなければ、從順なものでもなかつた。
「お話しなさい。」と彼は催促した。
「何をお話しいたしますの?」
「何でも好きなことを。話題の選擇も、その取扱方も兩方共すつかりあなたに任せます。」
そこで、私は坐つたまゝ、何も云はなかつた。「もし彼が單に話しの爲めや見せびらかす爲めに話すと、 私のことを思つてゐるのだつたら、彼は見當違ひの人間に話しかけてゐることがわかるだらう。」と私は思つた。
「君は唖ですね、エアさん。」
私はまだ默つてゐた。彼は頭を少し私の方へよせて、私の眼の中まで突きとほりさうな素早い一瞥を與へた。
「意地つ張るのですか。」と、彼は云つた。「困つたんですか。あゝ道理で。私は、馬鹿々々しい、
まつたく失禮千萬なやり方でお願ひしたのですね。エアさん御免なさい。實際、
これつきり二度とは云ひませんが、私はあなたを目下の者として取扱はうとは思つてゐはしません --
といふのは」(と彼は訂正しながら)「私はたゞ、年から云へば二十も違つてゐたり、
經驗から云へば一世紀も
彼は、殆んど、あやまるやうな説明を口にした。私は、彼の謙虚な言葉に無頓着ではゐられなかつたし、 またさう思はれたくなかつた。
「私、よろこんで、あなたを喜ばせいたしますわ。若し出來ましたら -- 本當に嬉しうございます。 でも、私には話題を考へ出すことは出來ませんの、あなたがどんなものに興味を持つてゐらつしやるか、 どうして私、存じてゐますでせう。私にお訊ねになつて下さいまし。さうすれば一生懸命にお答へいたしますから。」
「では先づ第一に、今話したやうな理由で私が今の地位にゐて、少々專横で唐突で、 多分時にはやかましく云つたりするやうな權利を持つてもいゝと贊成してくれますか -- つまり、私があなたのお父さん位の年だといふことや、あなたが一つの家に一つの家族と穩やかに過してゐる間に、 私は樣々の國の樣々の人と數々の經驗を經て戰つて來て、地球の上を半分位も歩き廻つて來たといふことに。」
「御自由になさいまし。」
「それぢや答へになつてゐない。却つていら〜させる位だ、だつて、ひどく曖昧ですよ。 はつきりお答へなさい。」
「私、あなたがたゞ私よりもお年が上だからといふだけの、 でなければ私よりも少し餘計に世の中を御覽になつたといふだけの理由で、 私に命令なさる權利がおありにならうとは思ひません。私より優れてゐるとあなたが主張なさることの出來る根據は、 あなたが時や經驗を役にお立てになつたところにあると思ひます。」
「ふん、てきぱきした返辭だ。しかし、それは私の場合には一向に合はないことが分つてるからそれではいけませんよ。 何故つて、私はその二つの有利なものを、敢て惡用したとは云はないが、無頓着な使ひ方をしましたからね。 では優越を問題外にしても、まだ、命令の口調で氣を惡くしたり怒つたりしないで、 時々私の命令を受けてもいゝと云へますか。どうです?」
私は微笑んだ。私はロチスター氏こそ風變りだと、心で思つた --
彼は私が命令を奉じて年三十
「その微笑はなか〜よろしい。」と素早く、かすめてゆく表情を見てとつて、彼は云つた。 「だが話しの方もして下さい。」
「私、考へてをりましたの、給料を貰つてゐる部下が、命令を受けて、 氣を惡くしたり怒つたりしやしないかなどゝ心配する御主人は滅多にございませんわ。」
「給料を貰つてゐる部下!何!あなたは、私の部下ですつて!さうですか、あゝ、さう〜、
お給金のことを忘れてゐた!成程、ではお金の方の立場から、ちよつと
「いゝえ、その立場からでなく、あなたが忘れてゐらしたそして雇人がその下にゐて、 氣持がいゝかどうかと心配してゐらしたその立場からでしたら、私、心から贊成いたします。」
「では、樣々の世間的な形式だの御挨拶だのをなしで濟まして許して下さいますか、 その省略が無體から起るのだと考へずに。」
「私、決して略式と無禮とを間違へやうとは思ひません。前者は私も却つて好きでございます。 後者は自由の身に生れたものなら、たとへお給金の爲めだつて、從ひはいたしません。」
「ふん、自由の身に生れた大抵の者が、給金の爲めなら何にだつて從ひますよ。
だからあなたも自分を守つて、あなたのまるつきり知らない一般的なことを、生意氣に云ふのはお止しなさい。
それはともかく、少し怪しげだがあなたの返辭に對して、言葉の内容と同樣にその云ひつぷりに對して、
心ではあなたと握手しますよ。率直で誠實な云ひ方だ。そんなのは滅多に見られるもんぢやない --
いや、それどころか、反對に氣取つたり、冷淡だつたり、こつちの云ふ意味をまぬけな、
がさ〜した氣持ちでとり違へる位がおきまりの報酬さ。未熟な女學生の家庭教師三千人のうちの三人だつて、
あなたが今したやうな答へをするものはないだらう。しかし私はあなたにお追從を云つてゐるのぢやありませんよ。
大概の人たちと異なつた鑄型にはめられて作られたとすれば、それはあなたの徳だやない。
自然が
「そして、あなたもさうかも知れません。」と私は思つた。その思ひが私の心をかすめた時、 私の眼は彼のと出逢つた。彼はその一瞥を讀みとつたらしく、その意味を想像した通りに話されでもしたやうに答へた。
「さうです、さうです、その通りです。」と彼は云つた。「私にも缺點は澤山ある。それは知つてゐます。
それを辨解しようとは斷じて思ひません。神かけて私は他人の缺點に嚴しすぎる必要はない。私にも、
胸に手を置いて考へてみるべき過去の生活や、いろんな行爲や、墮落に染つた生活がある。
それらは、私が他人にむかつて與へる冷笑や非難を、自分自身に
「あなたが十八でゐらした頃の思ひ出はどんなでございますか。」
「何も
「どうしておわかりになりますの -- どうしてそんなにもすつかりお當てになれるんでございますか?」
「私にはよくわかつてゐます。だから私は、まるで日記にでも私の思想を書いてゐるやうに、
すら〜續けて話すのです。あなたは、きつと、私が環境を克服すべきだつたのだと云ふでせう。 さうすべきだつたのです --
さうすべきだつたのです。しかし、見られる通り私はさうぢやなかつた。
運命が私を不公平に扱つた時、私には冷靜にしてゐるやうな智慧がなかつたのです。
私は
「悔い改めは、その救ひだと申しますわ。」
「悔い改めぢやない、改革がその救ひでせう。で、私は改革することが出來る -- 私にはまだその力がある -- もし --
だがそんなことを考へたつて何になるんだ、
「それでは、もつとその上、墮落なさるでせう。」
「多分。だが、もしも甘い新鮮な快樂を手に入れることが出來たら、どうして、私が墮落するでせう? 私は蜜蜂が野原で集める野蜜のやうに、それを甘い新鮮なまゝに手に入れるのだ。」
「それは刺すでせう -- 苦い味がするでせう。」
「どうして、分るのです? -- 一度も味はつたこともないのに。どうしてそんなに眞面目な --
どうしてそんなに嚴肅な顏をしてゐるのです。 あなたはこの
「私、たゞあなたが仰しやつたお言葉を御注意したまでゝございます。あなたは、 罪は悔恨をもたらすと仰しやいました。また悔恨は人生の毒だと仰しやいました。」
「誰も過ちのことなぞを云つてやしません。私は自分の頭の中を往來した考へが過ちだつたとは、殆ど思つてはゐない。 私はそれは誘惑といふよりはむしろ靈感だつたと信じてゐる。それは本當に親切で、本當に柔かで -- と云ふことを私は知つてゐる。ほら、また、その考へがやつて來た!それは決して惡魔ではない、私は斷言する。 それとも、もしさうだとしても、それは光の天使の衣を被つてゐるのだ。 それが私の心の中に入つて來たいと云ふ時には、私はそんな美しいお客は迎へなくちやならない。」
「お信じになつてはいけません。それは本當の天使ではございませんわ。」
「またそんなことを云ふ、どうして分るのです。どんな直感によつて、大膽にも、 墮落した地獄の最高天使と永遠の玉座からの使者 -- 導くものと迷はすものとの區別を見分ける顏をするのですか。」
「私はあなたのお顏色で判じました。あなたが、その考へがまたかへつて來たと仰しやつた時、 あなたのお顏色が曇りました。私、もしあなたがそれに耳をおかしになつたら、 それはきつともつとあなたを慘めにするやうに思はれます。」
「いや決して -- それは、世界中で一番惠み深い使命を帶びてゐます。その他の點では、
あなたは私の良心の番人ぢやないから、心配することはありません。さあ、お這入りなさよ、美しい
これを彼はまるで彼の眼より他の眼には見えない幻でも話すやうに云つた。 そして半ばひろげてゐた腕を胸の上に組み合せて、その抱擁の中にその目に見えぬ幻を抱き締めるやうに見えた。
「さて、」と彼は再び私に向つて言葉をつゞけた。「私はその巡禮を
「本當のことを申しますと、私にはまるであなたのことが分りません。私、もうお話を續けることが出來ません。 私、心の底から申してゐたのですから。たゞ一つだけ、私に分ります。 あなたは御自分がなりたいと思ふ程善良ではないと仰しやいました。そして御自分の不完全さを悲しむと仰しやいました -- 一ことだけは分ります。あなたは、汚れた記憶を持つてゐることは、絶えざる害毒だと仰しやいました。 私にはかう思はれます。もしあなたが一生懸命にやつて御覽になるなら、 やがて御自分で滿足なさるやうなものになることがお出來になると。 そして、もし今日からあなたが決心してあなたの考へや行ひを正さうとお始めになれば、二三年のうちに、 あなたは新らしい汚れのない記憶をたくさん貯へることがお出來になつて、 それをあなたは喜んで振り返つて御覽になれるでせう。」
「その考へも、正しい -- その言葉も正しい、エアさん、私は、今一生懸命に地獄の鋪道を造つてゐるのです。」 (諺に曰く、地獄の鋪道は實行を伴はぬ志で出來てゐる。)
「え、なんでございます?」
「
「いままでよりはよい?」
「さうです? --
「そんな、正當と認めさせるのに新らしい法令が要るやうでは、それは正當な筈がございませんわ。」
「大丈夫ですよ、エアさん、絶對的に新らしい法令を要求しても。前例のない事情の組み合せは、 前例のない法則を要求するんです。」
「それは危險な主義ぢやございませんか。だつて、濫用される
「名言家だ!それはさうです。だが、私は荒神(羅馬のレアとペネイトの神)にかけてそれを濫用しないと誓ひますよ。」
「あなたは、人間で、誤りに陷りやすいものでゐらつしやいます。」
「さうです。あなたゞつてその通りだ -- それでどうしたといふのです?」
「人間で、誤り易いものは、神で、完全なものゝみに安心して委せて置くべき力を、僭主してはならないのです。」
「どんな力?」
「異常な、認められぬ行爲をも『正しくあらしめよ』といふ力でございます。」
「『正しくあらしめよ』 -- その言葉だ。あなたの云つた通りだ。」
「ではその行動が正當でありますやうに。」と私は立ち上りながら云つた。 私にはまるで分らない話を續けることは無用だと思つた。それに私の話相手の性格を洞察することは不可能である -- 少くとも現在では出來ないことである -- ことを感じ、また何も知らないといふことが分ると、 それに伴つてくる不確實さと漠然たる不安な氣持ちを感じたのであつた。
「どこへ行くのです?」
「アデェルを寢かしに。寢る時間が過ぎてをりますから。」
「あなたは、私がスフィンクスのやうなことを云ふので、怖くなつたんですね。」
「あなたの言葉は謎のやうでございます。でつも、私、當惑してはをりますけれども、 決して怖がつてはをりません。」
「怖がつてゐますよ -- あなたの自尊心が
「その意味でございましたら、私はたしかに氣づかつてをります。 私、詰らないことをお話したいとは思つてをりませんので。」
「もし話したのだつたら、とても嚴肅な、おとなしい容子でやるんで、
私はその意味を取り違へたことでせうね。あなたは笑つたことはないんですか、エアさん。 返辭をしなくともようござんすよ --
あなたは殆んど笑ひませんね。 だがあなたはほんとに明るく笑へるのですよ。私が生れつき不道徳でなかつたと同じに、
確かにあなたも生れつき嚴しかつたのではありません。 ローウッドの束縛がまだいくらかあなたにまつはつてゐるのです。
表情を抑へ、聲をひそめ、手足を束縛して、そして男の人や兄弟や -- または、 お父さんや主人や、その他何だつていゝが --
その前に出て、あまり快濶に笑つたり、 あまり自由に話したり、または、あまりにすばしこく動作したりすることを恐れてゐるのです。
だが、そのうちに、あなたも、私に對しては、すなほになることが出來るだらうと思ひますよ、
私が、あなたに對しては、世間的になれないと同じやうにね。さうすれば、
あなたの顏つきも
「もう九時を打ちました。」
「大丈夫 -- 一寸待つてゐらつしやい。アデェルはまだ
「”Il faut que je l'essaie!”(あたし着てみなくつちや!)」彼女は叫んだ。 「”et
el'instant meme!”(いますぐによ!)」そしてあの子は部屋から駈け出して行つた。
「今ソフィイのところで着物を着せて貰つてます。もうすぐまた這入つてくるでせう。 そして何を見るか私には分つてゐる --
いつも舞臺に出てくるときのセリィヌ・ワ゛ァレンの
やがて、アデェルの小さな跫音が廣間をよぎつて來るのが聞えた。彼女の後見者が豫告したやうに、彼女は、
着物を變へて、這入つて來た。薔薇色繻子の、非常に短かい、スカアトには出來るだけたつぷりと襞がとつてある服が、
今まで着てゐた茶色の
「”Est-ce que ma robe va bien?”(あたしの着物、よく似合つて?)」と、前進しながら、彼女は叫んだ。 「”et messouliers? et mes bas? Tenez, je crois que je vais danser!” (この短靴は?この靴下は?さあ、あたし、踊るわよ!)」
「小父さま、あたしあなたの御親切に對して千遍もお禮を申します。」そして立上つて、 「お母さまはこんな風になすつたでしよ、ねえ、違つて小父さま?」
「そのとほり!」といふ返辭だつた。「さうして、『”comme cela”(こんな風)』にしておまへのおつ母さんは、
俺の英吉利ヅボンのポケットから英吉利金貨を吸ひ寄せたのさ。私だつて世間知らずだつたのです、エアさん --
えゝ、まつたくの世間知らずだつたのです。今、あなたを
ロチスター氏は、後になつて、それを説明して呉れた。或日の午後のことであつたが、 彼は
その時に、彼は、アデェルがある彿蘭西の歌劇踊り
「そして、エアさん、その
こゝで、葉卷を取り出して火を點ける間の沈默があとに續いた。それを唇に
「その頃はボン〜も好きでしたよ、エアさん。それで私はチョコレェトのキャンディをくちや〜噛んだり
(どうも失禮なことを)煙草をふかしたり代る〜゛やり乍ら、一方華やかな通りを近くの劇場へと驅る馬車の群を眺めてゐると、
その時、美しい二頭の英吉利産の馬をつけた華奢な箱馬車がやつて來ました。
輝やかしい夜の街にはつきり照し出されたのを見ると、その箱馬車は私がセリイヌにやつたものだと分りました。
彼女が歸つたのです。無論私の胸は
「あなたはまだ嫉妬を感じたことはないでせうね。エアさん?むろんない、實際、訊く必要はないのだ。
あなたはまだ戀を知らないのだから。戀も嫉妬もあなたはこれから味ふのだ。あなたの魂は、
靜かに睡つてゐて、その眼を醒ますやうな激動はまだ與へられない。あなたは、
凡ゆる人生があなたの青春を此處まで運んで來たやうな靜かな揚げ潮に乘つて過ぎてゆくものと思ふでせうね。
眼を閉ぢ耳を覆つたまゝ漂つてゆけば、潮流の底に、ほど近く
「私は今日のやうな日が好きだ。あの鋼鐡色の空や、この霜に蔽はれた世界の靜けさと冷やかさが好きなのです。
ソーンフィールドも好きです、その古風さ閑寂さ、古い、鴉の木や
彼は齒噛みして沈默した。彼は歩みを止めて固い地面を長靴で蹴りつけた。 あの忌はしい想念が彼を掴んで、一足も前に進めない程、彼をしつかりと引留めてゐるやうに見えた。
彼がそんな調子で默つてしまつた時、私たちは並木路を上りつゝあつた。館は私たちの前にあつた。
その鋸壁を見上げながら、彼は、その時限りで後にも前にも見られなかつたほどの烈しい目付を投げつけた。 苦惱、恥辱、忿怒 --
焦躁、憎惡、嫌忌 -- それらが瞬間、 彼の漆黒の眉の下に大きく見開かれた瞳の中でぞつとするほどひしめき合つた。
どれが勝ちを占めるか、その爭ひは激しかつたが、或る冷酷な、皮肉な、依怙地な、
斷乎とした感情が現はれて、彼を征服してしまつた。それは彼の昂奮を鎭め、顏色を落ちつけた。 彼はまたつゞけて云つた --
「今默つてゐた間にね、エアさん、私は運命と談判してゐたんですよ。 そいつは、そこのあの
「『好いてやらう。』と私は云つた。『きつと好きになつて見せよう。』で、私は(彼は不機嫌らしく云ひそへた)
私の云つたことを守つて見せる。幸福を妨げ、善への道を阻むものは打ち壞してやります --
さう、善ですよ。私はこれ迄よりもいゝ人間になりたいんです。現在よりもね --
ヨブの大鯨が手槍だの投槍だの
このときアデェルが
この少しも折に合はない質問は、多分はねつけられるだらうと覺悟してゐたのに、反對に、
「あゝ、セリイヌを忘れてゐた!よろしい、また始めませう。
で、今云つたやうに一人の騎士に附き添はれて這入つて來た私の戀人の姿が目に映ると、
しつ〜といふ蛇聲が聞えて忽ち緑色の嫉妬の蛇が、
月の光を浴びた
「私は
「二人は話をはじめましたが、それを聞いてすつかり氣が樂になりました。
云ふことが輕佻で功利的で、眞心がなくて、馬鹿氣切つてゐて、聞いてゐるものを怒らすよりは、
寧ろ退屈させようとかゝつてゐるんぢやないかと思はれる位なんです。私の名刺が一枚、
この時またアデェルが駈けて來た。
「小父さま、今ジョンがね、あなたの代理人が來て、お目にかゝりたがつてますつて云ひましたわ。」
「ぢあ、話を端折るとしなくつちや。で、その窓を開けると私はづか〜這入つて行つたのです。
先づセリイヌを私の手から自由にしてやり、ホテルを引拂ふやうに命じ、
さし當つての急場凌ぎに財布を差出して、金切聲にも、ヒステリイにも、歎願にも、抗議にも、
痙攣にも一切とり合ひませんでした。そして子爵とはブロニュの森で會合することを取り決めたのです。
次の朝私は彼と決鬪をする喜びを持つた。私は、舌病に罹つた
「いゝえ。アデェルはお母さまとあなたと、どちらの過失に對しても何の責任もございませんわ。 私はあの方を可愛く思つてをります。それにあの方が或る意味では、御兩親のない方だと伺つて -- お母さまには捨てられ、あなたからは見離されて -- 私は今迄よりももつと可愛がつて差上げようと思ひます。 どうしたつて、私、まるでお友逹のやうに私に頼つて來る獨りぽつちの小さなみなし兒を、 家庭教師を厄介者のやうに厭がるお金持の家の我儘娘なんぞに見かへることは出來ませんわ。」
「成程、あなたの見地は其處にあるんですね。處で、もう家に歸らなくつちや。あなたもですよ。 暗くなつて來た。」
だが、私は暫くアデェルやパイロットと一緒に外にゐた --
彼女と駈けつこをしたり、
私がロチスター氏の話をしつかりと批判したのは、夜、自分の部屋に引きとつてからであつた。
彼が云つたやうに、話しそのものゝ持つ意味には、恐らく何らの異常なものもないのであつた --
或る彿人の踊り子に對する富有な英人の戀、そして女の心變り、と云へば、確かに交際社會では日常の些事に過ぎないだらう --
しかし、彼が現在の滿ち足りた氣持ちと、この舊い建物と、それをめぐるものゝ中に新らしく甦つた悦びを話してゐたときに、
突然彼を掴んだ感情の激發には、明かに異常な何かゞあつた。私はこの出來事を深く心に
實際、私は、比較的口數をきかなかつた。さうして、彼の話を聞いて味はうた。お喋りは、彼の生れつきであつた --
彼は、世間知らずの心に、世の中の樣々な情景や生活を示すことを好んだ(と云つても、
墮落した光景や惡徳のある生活ではなくして、その規模の大きさが興味を惹き、
目新らしい珍らしさが特徴になつてゐる樣々な生活であつた)。だから、私は、
彼が提供する新らしい觀念をうけ入れることや、彼が描き出して見せる新らしい繪を心に描いたり、
それからひろげて見せてくれる知らない地域を、彼に從つて考へて見たりすることに鋭い喜びを持つのであつた。
一度だつて彼の口から出るよくない隱喩や諷刺に
彼の氣易い態度は、私を辛い束縛から自由にした。當を得た、本當に親切な友人らしい氣さくさで -- 彼は、私を扱ひ、私をひきよせた。時々私は何だか彼が主人としふよりも自分の身内のやうな氣がするのであつた。 とは云つても、まだ相變らずの專制君主ぶりは時々出るのだが、私は氣にかけなかつた。 それは彼の癖なのだと云ふことが分つてゐたから。日々の生活に加はつた、この新らしい興味で、 もう肉親を慕つて悲しむこともなくなつた程、ほんたうに幸福な、滿足した氣持ちを持つやうになつた。 新月のやうに、細くかよわかつた私の運命は次第に大きくなつて來るやうに思はれた。私の生活の空白はすつかり充たされた。 身體もよくなつて、ずつと肉がつき、氣力も増した。
では、ロチスター氏は今、私の眼に醜いものだつたか?讀者よ、さうではなかつた。
感謝とすべて快く温かい聯想の數々は、彼の顏を何よりも私の見てゐたいものにしてしまつた。
彼がそこにゐるといふことは、あか〜と輝く火よりも部屋を樂しくした。それでも私は、
彼の缺點を忘れはしなかつた。實際出來なかつたのだ。彼は屡々缺點を私に見せたので。
彼は傲慢で、皮肉で、何に限らず卑俗なのを全然假借しなかつた。私に對して甚しく親切なのも、
私以外の澤山の人に對する不當な嚴しさで差引されてしまふと私はこつそり考へてゐた。 それにまた彼の氣難かしさは --
辯護のしやうもない位であつた。私が時々彼に讀んで聞かせる爲めに呼ばれて行つて見ると、
一度ならず彼は腕組をした上に首を埀れて、たつた一人で書齋に坐つてゐた、
そして彼が頭を上げた時には、氣難かしい、殆んど惡意のある
私は蝋燭を消して
「何故駄目なのだらう?」私は自問した。「何があの方をこの家から遠ざけるのだらう?またすぐ、 あの方は行つておしまひになるのかしら?フェアファックス夫人は一度に二週間以上は滅多にお泊りにならないと云つてゐたのに、 今度は、もういらしつて八週間になるのだ。もしか、行つておしまひになるとしたら、 その變化がどんなに悲しいだらう。もう春も夏も秋も、多分あの方はいらつしやるまい。あゝ、日の光も、 美しく晴れた日も、どんなにつまらなく思はれるだらう!」
考へつゞけてその後は眠つたのか眠らないのか分らないが、兎に角私は變な呟きを聞いてはつと眼をみひらいた。
竒異な陰氣なその呟きは私の直ぐ眞上に聞えたやうだ。私は
私はまた眠らうとした。けれども私の心臟は不安らしくどき〜しはじめて、
心の靜けさはすつかり破られてしまつた。と、ずつと下の
瞬間に私は思ひ出した。パイロットではないだらうか、
それは惡魔のやうな笑ひ聲だつた -- 低く、壓へつけられた、そして太いその聲は、
ちやうど私の部屋の扉の鍵穴のところで聞えたやうだつた。私の
何かゞ咽を鳴らして、低い呻き聲をたてた。暫くすると廊下を三階の階段の方へ歸つてゆく跫音がした、
その階段には近頃それを塞ぐ
「グレイス・プウルだつたのかしら、惡魔にとつつかれたのだらうか。」と私は考へた。あゝ、
もうとてもこの上一人つきりではゐられない。フェアファックスのところに行かなくては。
私は大急ぎで
何かゞきい〜鳴つた。一枚の
「お起き遊ばせ!お起き遊ばせ!」私は叫んだ -- そして搖ぶつた、が彼は唯呟く¥いて寢返りをしたきりであつた。
煙が彼の知覺を鈍らしたのだ。もう一秒もかうしてはゐられない、火は敷布にも移つて來た。
私は水差と洗面噐の方へ駈け寄つた。幸ひにも一つは廣く一つは深くつて兩方共一ぱい水が這入つてゐた。
私はやつとそれを持ち上げて
燃殼のぷす〜いふ音や、水を空けた時にはずみで
「洪水ですか。」彼は叫んだ。
「いゝえ、さうぢやありません。」と私は答へた。「火事がございました。さ、お起きになつて、どうぞ。 もう火は消えました。私、蝋燭を持つて參りませう。」
「
「蝋燭を持つて參りますわ。そして後生ですからお起きになつて下さいまし。
誰かゞ何か企らんだのです。何事だかまた誰の
「さあ、起きました。だがまだ蝋燭を持つてきちやいけない、何か乾いた着物を着るまで二分間待つて下さい -- 何か乾いたものがあるなら、ですがね -- よし、此處に寢間着がある。ぢや行つて下さい。」
私は、走つて、まだ廊下にあつたあの蝋燭を持つて來た。彼は、それを私の手から取つて、
高く提げて
「こりやなんだ?誰がやつたんだ?」と彼は訊いた。
私はその夜の出來事を掻いつまんで彼に話した。廊下に聞えた竒怪な笑ひ聲のこと、 三階に上つて行つた
彼は甚だ眞面目に耳を傾けてゐた。話が進むにつれて、彼の顏は單なる驚愕以上に懸念を表はした。 私が話し終へても、彼は直ぐに口を開かうとはしなかつた。
「私、フェアファックス夫人を呼んで參りませせうか。」と私は訊ねた。
「フェアファックス夫人?冗談ぢやない。一體なんだつてあの人を呼ぶんです?あの人に何が出起ますか。 邪魔をせず寢かしてお置きなさい。」
「ではレアを連れて參りませう、それからジョンとお
「いや結構。いゝから靜かにしてゐらつしやい。ショールをしてゐますね?まだ十分に温かでなけりや、
あの私の外套を着てもいゝ。あれにくるまつてその
彼は行つた。私は
彼は蒼ざめてひどく憂鬱な容子で部屋に歸つて來た。「すつかり突きとめて來ましたよ。」 彼は洗面臺の上に、蝋燭を置きながら云つた。「想像通りだつた。」
「どうなんでございますか。」
彼は返辭をしなかつた、たゞ床に眼を落して兩腕を組んで立つてゐるばかりだ。 四五分間經つて彼は寧ろ變てこな調子で訊いた --
「實は忘れてしまつたんだが、 あなたがあなたの部屋の
「いゝえ、なんにも。たゞ、床の上に蝋燭があつたきりでした。」
「だが變な笑ひ聲は聞いたんですね?前にもそんな笑ひ聲を聞きはしなかつた?確か聞いた筈だと思ふが -- あんな風なのをね。」
「え、聞きました。こちらのお針をしてゐるグレイス・プウルつて云ふ人 -- あの人がさういつた笑ひ方をいたしますの。變な人でございます。」
「さう、さうです。グレイス・プウル -- あなたの推量通りですよ。あの女は變つてる -- 非常にね。
ところで、これは一つよく考へて見ませう。それはそれとして、 今夜の出來事の詳細を知つてゐる者が私以外にあなたきりだつたのは幸ひだつた。
あなたはお
「では、おやすみ遊ばせ。」行かうとして私は云つた。
彼は
「おや!もう私をおいてきぼりにしようと云ふんですか。それもそんなやり方で?」
「あなたが行つてもよいと仰しやつたのでございますわ。」
「だがお別れもせず、一言か二言お禮や挨拶の言葉も云はせずぢやいけない、
つまりそんなぶつきら棒な冷淡なやり方ぢやいけませんよ。ねえ、あなたは私の
彼は手を差し出した。私も自分の手を彼に與へた。最初は片手、それから兩手で彼は私の手を握り締めた。
「あなたは私の
私はじつと
「では、もう一度、おやすみ遊ばせ。こんな場合には、負債だの、恩惠だの、重荷だの、義務だの、 そんなものは何にもございません。」
「私には分つてゐた、」と彼はまたつゞけて云ふのだつた。 「何時か、何かの方法であなたが私に盡してくれるといふことがね --
初めてあなたに會つたときにあなたの眼を見てさう思つたんです。 其處に浮かんだ表情と微笑みが私の -- (彼はまた口を
彼の聲には不思議な熱が籠つた、その
「私、本當に、ちやうどよく眼が醒めて嬉しうございました。」さうして私は行かうとした。
「なんだ!あなたは行きたいんですか。」
「私、寒いんですもの。」
「寒い?さうだ -- おまけに水溜りに立つてゐるんだ!では、ジエィン、もうよろしい、あちらへいらつしやい。」 でもまだ彼は私の手を離さなかつた、それに振り切つて行くことも私には出來ないのだ。私はふと一策を案じた。
「あの、フェアファックス夫人が動いてゐるやうでございますわ。」
「あゝ、ぢやあお行きなさい。」彼は指を
私はまだ自分の
この眠られぬ夜の翌日、私はロチスター氏に會ふことを願ひもし恐れもした。 私はふたゝび彼の聲を聞きたいと思つた。けれども彼の眼に會ふのは恐ろしかつた。 朝早いうちに、私は、彼が、いま來るか、いま來るかと待ちうけてゐた。 彼は勉強室に屡々這入る例はなかつたが、折々ちよつとの間這入ることはあつた。 で、私は、その日はきつと彼が來るといふやうな氣がしてゐたのであつた。
しかし朝はいつもと同じやうに過ぎて行つた。アデェルの勉強の靜かな進行を妨げるやうなことは何も起らなかつた。
たゞ朝食のすぐ後、ロチスター氏の寢室のあたりに、フェアファックス夫人の聲や、レアのや、 料理人 --
といふのはジョンのお
やがてそんな談笑につゞいて、ブラッシュをかけたり、片附けたりする物音がした。
そして、食事の爲めに階下へ行かうとしてその部屋の傍を通るとき、開け放した
彼女は、何時もの通り、茶色の毛織の
「彼女を少し
「お早う、グレイス。」と私は云つた。「こゝで何か起つたの?さつき、召使ひ逹がみんな、 話しあつてゐるのを聞いたやうに思ふけれど。」
「旦那さまが昨夜お床の中で本を讀んでゐらしたのですが蝋燭をつけたまゝ眠つておしまひになつて、
「變だこと!」と私は低い聲で云つた。そしてじつと彼女を見つめながら云つた -- 「ロチスターさんは誰もお起しにはならなかつたの?誰もあの方のお起きになつたのをきかなかつたんでせうか?」
彼女はまた眼を上げて私を見た。そして今度はその表情に何かしら意識したものがあつた。 彼女は用心深く私を檢査してゐるらしかつた。やがて彼女は答へた --
「召使ひ逹はずつと離れたところにやすみます。ねえ、
「ですがあなたはお若いんです、先生、お寢坊ではゐらつしやらない筈です。 おほかた、なにか物音をおきゝになりましたでせうね。」
「きゝました。」まだ窓硝子を磨いてゐるレアの、私の云ふのが聞えないやうに聲を落して云つた。
「初めはパイロットかと思つてゐました。でもパイロットが笑ふ筈はない。
私は確かに笑ひ聲をきいたのですよ。それも
彼女は新しく入用なだけの絲をとると、丁寧に蝋を引いて、しつかりした手つきで針に通し、 さて、落着き拂つて云つた。
「そんな危險に臨んでゐるときに、旦那さまがお笑ひになりさうもないことゝ存じますが。 が、先生、あなたはきつと夢を見てゐらしたんでせう。」
「夢ぢやありませんよ。」私は少しかつとして云つた。彼女の圖々しい冷淡さが、
私をいら〜させたのである。また彼女は私を見た。しかも同じやうな
「あなたは旦那さまにその笑ひ聲をお聞きになつたことをお話しなさいましたか。」と彼女は訊ねた。
「今朝はまだお話する折がありません。」
「あなたは
彼女は細かい質問をして、私から不如不識の内に何か消息を引き出さうとするらしかつた。 若し私が彼女の罪を知つてゐるか或は疑つてゐると氣がついたら、 彼女は私にあのひどいわるいいたづらをしかけるかも知れない、 と云ふ考が浮かんだ。用心をする方が得策だと思つた。
「反對です。」と私は云つた。「私は部屋の扉に
「ではいつもは、毎晩おやすみになる前に
「畜生!何か
「さうなすつた方が、よろしうございます。」といふのが彼女の返答であつた。
「このあたりは私の存じてゐます限り、靜かなもので、このお
私は自分の眼に映つた彼女の不思議な落ちつきやうと、とても底の知れない猫つかぶりに、
呆れ返つて、ぼんやり突つ立つてゐた。そのとき
「プウル夫人、」とグレイスに向つて聲をかけた。「下の人たちのお食事がもうすぐ出來ますが、 下りていらつしやいませんか。」
「いえ、よござんす。黒麥酒を一杯とプディングを少し、お盆にのせといて下さい。 さうすれば私が上へ持つて行きますから。」
「何かお肉をもつてゐらつしやらないの?」
「ほんの
「ではデザットのセイゴオは。」
「今は結構。お茶にならないうちに下りて行きませう。自分で
食事の間中私はフェアファックス夫人の話す火事の顛末が、殆んど耳に入らなかつた。
それ程私はグレイス・プウルの謎めいた性質について頭を惱ましてゐた。
その上なほ、ソーンフィールドに於ける彼女の地位の問題について考へ、また、 何故今朝彼女が拘引されなかつたか、でなければ少くとも、
何故主人から暇を出されなかつたのかと不審でならなかつたのだ。
昨晩彼は彼女の犯罪を確信してゐると殆んど斷言した位だ。それに、どんな祕密の原因があつて、
彼は告發出來ないでゐるのだらう?何故私にも祕密にしろと云つたのだらう?
不思議なことである。大膽な執念深い、傲然とした一個の紳士が、何だか、
自分の雇人の中でも一番賤しいものに左右せられてゐるやうに思はれるのだ。
彼女が彼の
若しもグレイスが若くて美しいのだつたら、用心や、心配よりもやさしい氣持が、ロチスター氏に影響して、
彼女を庇ふやうにするのだと、私は思つたかも知れない。 しかし彼女はあまり目をかけられてゐるやうでもなく、
私は何も彼もよく覺えてゐた。言葉も、
「”Qu' avez-vous, mademoiselle?”(どうしたの先生?)」と彼女は云つた。 「”Vos doigts tremblentcomme la feuille, et vos joues sont rouges: mais, rouges comme descerises!”(指が木の葉みたいに震へてるわ、それに頬ぺたが眞赤でほんとよ、 櫻んぼみたいに眞赤よ)」
「私は暑いの、アデェル。うつむいてゐたので。」彼女は寫生をつゞけ、私は考へつゞけた。
私はグレイス・プウルに關して抱いてゐるいとはしい思ひを自分の心から早く逐ひ拂はうとした。 その考は私の胸を惡くした。私は自分を彼女と比較してみた。そして私共の差異を見出してゐた。 ベシー・レヴンは私のことを立派な淑女だと云つた。彼女は信實を語つたのだ -- 私は淑女である。そして現在ではベシーと會つたときよりもずつと立派な容子になつてゐる。 私はずつと顏色もよく、元氣も付き、快濶になつてゐる。輝かしい希望や心にひゞくやうな樂しみがあるからだ。
「夕方になつたのね。」と窓の方を見て私は云つた。「今日は家の中にロチスターさんの聲も跫音もまるで聞えなかつた。 でもきつと夜にならないうちにお目にかゝれる。朝のうちは逢ふのが怖かつたけれど、今はお目に懸りたい。 期待が餘り長く惑はしたので我慢出來なくなつてゐたから。」
やつとのことで、階段に跫音が響いた。レアが現はれた。しかし、
それはたゞフェアファックス夫人の部屋にお茶の用意が出來てゐると知らせたゞけであつた。
少くとも
私が傍へ行くと、この善良な婦人は、「あなた、お茶があがりたいでせう。」と云つた。
「お夕飯のとき、ほんのぽつちりしか召上りませんでしたもの。
今日はあなたどこかお加減でも
「まあ、何ともありませんの。とても元氣なんですもの。」
「では澤山召上つてその證據を見せて下さらなくては。私がこの段を編んでしまふ間に、 あなたはその急須にお注ぎになつて下さらない。」仕事を濟ましたので、 彼女は今まで上げた儘にしてあつたブラインドを下しに立上つた。 屹度今は暗闇が全くあやめも分らぬ程に濃くなつてゐるけれど出來るだけ晝間の光を利用しようとしてゐたのだらう。
「いゝ晩ですこと。」と硝子越しに見ながら、彼女は云つた。 「星は光つてゐないやうですけれど。ロチスターさんは、どうやらいゝ旅行をなさいましたでせうよ。」
「旅行ですつて -- ロチスターさんはどこへかいらつしやいましたの? お出掛けになつたことはちつとも存じませんでしたが。」
「まあ、あの方は朝の食事を召上るとすぐ、御出發になつたのですよ。リイズへいらつしやいましたの。
イィシュトンさんのお
「今晩お歸りになりますの?」
「いゝえ -- 明日もだめでせう。結構一週間か、それとももつと滯在なさりさうだと思ひますよ。
さういふ立派な、モダンな方たちがお集りになると、優雅な、華やかなものにとりまかれてはゐらつしやるし、
お喜ばせしたり、お
「リイズには女の方逹もいらつしやるのですか。」
イィシュトン夫人と三人のお孃さま -- ほんとにお
「その方を御覽になつたと仰しやいますのね、フェアファックス夫人。どんなでゐらつしやいましたの。」
「えゝ、えゝ。お見かけしましたとも。食堂の入口はすつかり開け放してありました。そしてクリスマスですから、 召使ひたちも幾人かの御婦人方が歌つたり彈いたりなさるのを聞きに廣間に入つてゆくのを許されてゐました。 ロチスターさんが入つて來いと云はれたので、私も靜かな片隅に腰かけて、皆さまを眺めてゐましたの。 私はあれより立派な有樣は見たことがありませんよ。御婦人方は立派な衣裳をつけてゐらして、 大抵の方は -- 少くとも大抵のお若い方たちは -- 御立派に見えるのでした。 けれどもイングラム孃は確かに女王さまでしたよ。」
「それで、どんな風でゐらつしやいまして。」
「お脊はすらりとして、お美しい胸、なだらかな肩にすつきりしたお品のよい頸すぢで、
お顏は淺黒くてオリイヴ色に澄んでゐて、顏立もお品よく、眼はどちらかといへばロチスターさんに似て --
大きくて黒く、それに身につけてゐらつしやる寶石のやうに
「隨分皆さまからもてはやされてゐらしたのでせうね、勿論。」
「えゝ、さうでございますとも。そしてたゞ御噐量の方ばかりではなく、お
「ロチスターさんが?私、あの方がお歌ひになれるとは氣がつきませんでした。」
「まあ、あの方はいゝ
「そしてイングラム孃は -- どんなお聲でしたの。」
「大層豐かな力のあるお聲ですの。それは氣持ちよくお歌ひになりましてね。あの方のを聞くのはまつたく樂しみでした。 それから、その後でお彈きにもなりました。私には音樂などわかりませんけれど、 ロチスターさんはおわかりです。そしてあの方の演奏はなか〜いゝと云つてゐらつしやるのを伺ひました。」
「それで、その御綺麗な、多藝な方はまだおかたづきになつてはいらつしやいませんの?」
「まだらしうございますよ。私の思ひますに、その方もお妹さまもあまり大した財産をお持ちではないらしいのです。
老イングラム卿の領地は主に
「でも、どうしてお金持の貴族か紳士かゞその方を好きにならないのでせう -- 例へば、 ロチスターさんのやうな方が。あの方はお金持でゐらつしやいますね。」
「えゝ、さうですとも。でもねえ、お
「そんなことなんぞ?もつと〜不釣合な後結婚は
「ほんたうにね。でも、ロチスターさんがそんなお考へをお持ちになるなんて、 私にはちよつと考へられませんねえ。ですが何も召上りませんね。お茶になつてから、 あなたは殆んど何も召上らないぢやありませんか。」
「いえ、ひどく喉がかわいてゐて、お茶の方が結構なんですの。もう一杯いたゞかして下さいまし。」
私はまた、ロチスター氏と美しいブランシュとの結婚が事實あるかも知れないといふことを考へはじめてゐた。 しかし、アデェルが這入つて來て、話は他の方に變つた。
ふたゝび獨りになると、私は自分の得た消息を繰り返し考へて見た。
自分の心の
即ちジエィン・エアより以上の大馬鹿者はかつてこの世にゐた例がない。
またこれより以上の、夢を追ふ馬鹿者が、口當りのいゝ嘘を滿喫し、 毒をまるで甘露かなんぞのやうに
「お前は」と私は云つた。「ロチスター氏のお氣に入りなのか。お前にはあの方を喜ばせする力があるのか。
お前はあの方にとつて何等かの場合に重要なのか。行け!お前の愚かさには胸が惡くなる。
そしてお前は時たまの贔屓の
「だから、ジエィン・エアよ、お前の宣告をよく聞いて置け。明日、鏡を前に据ゑて、
チョオクでお前の肖像を、忠實に、どんな
「その後で滑らかな象牙紙を取れ -- お前は、一枚、圖画箱の中に
「この後ロチスター氏がお前のことをよく思つてゐると思ふやうな時があつたら、
いつでもこの二つの畫を取り出して比べて見よ。ロチスター氏は、若し得ようと欲すれば、
あの立派な貴婦人の愛を
「さうしよう。」と私は決心した。そして、この決心を固めると、私は心が鎭まつて、眠つてしまつた。
私は自分の言葉を守つた。
間もなく、私は、自分の感情、無理にも受けさせたその有益な訓練を、しておいてよかつたとよろこぶ理由が出來た。 で、有難いことに、つゞいて起つた出來事にも、落着いた平靜な氣持で對することが出來たのだ。 もしも、こつちに覺悟が出來てゐないときに、さうした事件が、起つて來たのだとしたら、 私はきつと心の平靜を、表面だけでも、じつと持ちこたへてゐることは、出來なかつただらうと思ふ。
一週間過ぎた。しかし、ロチスター氏の便りはなかつた。十日經つたが、まだ彼は歸つて來なかつた。 もしも彼がリイズから眞直に倫敦へ行き、そこからまた大陸へ行つて、一年ぐらゐもソーンフィールドに顏を見せないにしろ、 驚きはしないとフェアファックス夫人は云ふのであつた。彼は、まつたくだしぬけに、 思ひもかけないやうな遣り方で、ソーンフィールドを去つたのも、一度や二度ではなかつたのだ。 このことを聞くと、私は、何とも云へない心の寒さを感じはじめてゐた。實際、私は、 病氣にでもなつてしまひさうな失望の氣持ちを、經驗した。しかし、心をとりなほし、 自分の守るべきことを思ひ浮べて、直ぐに私は、心を鎭めた。 その咄嗟の失錯をどういふ風にして繕つたか -- ロチスター氏の動靜が、 私にとつて重大な關係を持つ理由のある事柄であると、假にも思ふその思ひ違ひを、 どういふ風にして拂ひのけたかといふことは、不思議に思はれた。私は、決して、 目下の者の持つ卑屈な考で、自分自身を卑めることはしなかつた。その反對に、私は、かう云つたのである --
「お前は、彼の被後見人を教へて、彼から俸給を貰ふこと、お前が自分の
私は、落着いて、自分の日課を續けてゐた。しかし、折々、私がソーンフィールドを立去らなくてはならない理由に對して、 漠然とした考へが私の頭をかすめ過ぎて、何時の間にか私は廣告文を考へ、 新らしい地位のことに思ひをめぐらしてゐるのであつた。私は、この考へを捨てなくてはならないとは、 思はなかつた。出來れば、この考へは、芽を出し、實を結ぶかも知れないものであつた。
ロチスター氏は、二週間以上も家をあけてゐたが、ちやうどその時、郵便で一通の手紙が、 フェアファックス夫人の許に屆いた。
「旦那さまからなのですよ。」と名宛を見て、彼女は云つた。「これで、お歸りになるかならないかゞ、 きつと判るでせう。」
さうして、彼女が封を切つて、中を讀んでゐる間、私は珈琲を飮みつゞけてゐた
(私共は朝食をとつてゐたのである)。珈琲は熱かつた。それで、私は、ふいに、
顏に上つて來た火のやうな熱さをそのせゐにしてしまつた。何故私の手は
「さう、あんまりことが無さ過ぎると、私も時々思ひますが、 でも今度は大分忙がしくなるかも知れませんよ -- 少くとも、しばらくの間はねえ。」と、 フェアファックス夫人は、まだ眼鏡の前にその手紙を持つたまゝで云つた。
詳しいことを訊ねる前に、私は、ちやうどゆるみかけてゐたアデェルの前掛の紐を結び直してやつた。 それから、また、もひとつ甘パンをとつてやり、耳附きの茶碗に、も一杯、牛乳を注いでやつてから、平靜らしく云つた --
「ロチスターさんは、直ぐにはお歸りになりさうぢやありませんの?」
「いえ、なるのです -- 三日のうちにつて、云つてゐらつしやいますわ。
すると次の木曜日になりますわね。そして、お獨りではないのですよ。リイズの、あの、
御立派な方たちをお幾人お連れになるか存じませんが。一等いゝ寢臺全部を用意して、
お書齋もお客間も、ちやんと取片づけて、綺麗にするようにとのお指圖です。
それから、私は、ミルコオトのジョオジ旅館や、その他出來るだけ方々から、もつと大勢臺所に人手を集めなくてはなりません。
それに、御婦人方はお供の女中を、殿方は從者をお連れになるでせう。だから、
家中一ぱいになつてしまふことでせう。」さうして、フェアファックス夫人は、
朝食を
その三日間は、彼女が前に云つてゐた通りに、まつたく忙がしかつた。、それまで、私は、
ソーンフィールドの部屋は、どれもこれも美しく清潔で、よく整頓されてゐると思つてゐた。
しかし、どうも私は間違つてゐたらしい。三人の女が手傳ひにやつて來た。さうして、ペンキを、
ごしごし掻いたり、
お客さま方は、木曜日の夕方、六時の晩餐に間に合ふように到着する筈であつた。それまでの間ずつと、
私は妄想に耽るときなぞなかつた。さうして、確かに、私は、アデェルを別として、
他の人々と同じくらゐにはいそ〜と立働いて、快濶だつたと思ふ。とは云へ、時々その快濶さは消えて
何よりも不思議でならないのは、私を除けては、この家にゐる誰一人として、
彼女のやることに氣を留めたり、
「あの人はいゝお給金をもらつてるんだらうねえ?」
「さうなの。」とリアが云つた。「私もあれ位欲しいものだと思ふわ。不平を云ふんぢやないのさ --
ソーンフィールドでは、けちなことはなさらないからね。だけど、あたしのなんぞ、
プウルさんの貰つてる高の五分の一にもならないんだもの。あの人は貯金してるのよ。
勘定日毎には、いつもミルコオトの銀行に行くんだよ。こゝを
「きつと腕利きだらうね?」と日傭女は云つた。
「そりやもう、自分のしなくちやならないことは、ちやんと心得てるさ -- 誰もかなやしないわ。」 とリアは、意味あり氣に答へた。「第一あの人の代りをするには、誰でもつて譯にはゆかないんだよ -- あれだけのお給金をそつくりやるからつて、代り手はあるまいよ。」
「さうだともね!」といふのが答へだつた。「だけど、不思議だねえ、どうして旦那さまは -- 」
日傭女は續けようとしてゐた。しかし、そこで、リアは振向いて私を認めた。すると直ぐに彼女は相手を突つついた。
「あの人は知らないの?」とその女が、小聲に云ふのが聞えた。
リアは首を振つた。それで勿論話は途切れてしまつたのだ。それから推して得たものは、 かういふやうなものになつた -- 即ち、ソーンフィールドには何か祕密があるといふことゝ、 その祕密を聞かされて、その仲間入りすることから私は故意に除外されてゐるといふことであつた。
木曜日になつた。する事は、すつかり、前の晩にしてしまつてあつた。絨毯は敷かれ、
午後になつた。フェアファックス夫人は、彼女の一番いゝ黒繻子の
暖かい風もない春の日であつた -- 三月の終り、四月の初め頃、夏の前觸れとして、 輝かしく地上にやつて來る、そんな日であつた。それが、今はもう暮れかけてゐた。 しかし、その夕暮は暖かくさへあつたので、私は、勉強室で、窓を開け放したまゝ仕事をしてゐた。
「
「いらつしやるところです。」と云ふのが答だつた。「皆さま、十分も經たないうちに、 此處にお着きになりませう。」
アデェルは窓際へ飛んで行つた。私もその後からいつて、窓掛の蔭になつて人に見られずに、 見ることが出來るようにと注意して一方の側に立つた。
ジョンの云つた十分間はなか〜長いやうに思はれた。しかし、とう〜車輪の音が聞えて來た。
四人馬に乘つて、駈けてゐた。その後に、二臺の幌をはねた馬車が續いてゐた。
ひら〜と飜る
「イングラムさん!」とフェアファックス夫人は叫んで、自分の階下の受持ちへと急いで去つた。
騎馬の列は、車道のカーブに沿ふて、忽ち
樂しさうなざわめきが、今玄關の廣間から聽こえて來た。
紳士たちの太い聲音と貴婦人たちの銀のやうな
「”Elles changent de toilettes.”(着物を換へていらつしやるんだわ)」
と注意深く耳を澄してあらゆる
「”Chez maman,”(お母ちやんの家では、)」と彼女は云つた。 「”quand il y avait du monde, je le suivais partout, au salon et e leurs chambres; souvent je regardais les femmes de chambre coiffer et habiller les dames, et c'[e']tait si amusant: comme cela on apprend.”(社交會があつた時、あたし、何處へでも隨ひてつたわ、お客間だつて、 お居間だつて。あたし、小間使ひが奧さまに髮を結つてあげたり、着物を着せてあげるのを、 度々見たわ。そりやあ、面白いのよ。あんな風にして、覺えるのね。)」
「お腹、空かない。アデェル」
「”Mais oui, mademoiselle: voil[a`] cinq ou six heures que nous n'avons pas mange.”(えゝ先生、御飯をいたゞいてから五、六時間になるんですもの。)」
「さう、ぢあ、皆さまがお部屋にゐらつしやる間に、私、
注意してそつと自分の隱れ家を出た私は、眞直に臺所につゞいてゐる裏梯子の方に出た。
臺所中は火と騷ぎで一ぱいだつた。スウプと魚とはもう出すばかりになつてゐて、
料理番は
やがてその室は、一人づゝその美しい客を吐き出した。みんなは、その暗がりにもきら〜と輝く裝ひをして、 快濶に輕々として出て來た。一寸の間、彼等は、廊下の向うの端に塊つて美しいつゝましやかな晴々とした調子で話してゐたが、 やがて、まるで輝かしい霧が丘を傳つて下りて行くかのやおうに、音もなく階段を下りて行つた。 彼等の容子は、全體として、今まで嘗て見たこともないやうな名門のみやびと云ふやうな印象を私に與へた。
私は、アデェルが勉強室の
「いえ、とても、そんな事はないわ。ロチスターさんは、他の事でお忙しいのですからね。 今夜はあの方たちのことを考へるのは、おやめなさい。きつと明日はお目にかゝれるでせう。 さあ、お夕飯ですよ。」
彼女は本當に空腹だつたので、鷄肉や果物入りのパイ等がしばらくの間、彼女の氣持ちを轉じてくれた。
私がこんな食料を集めて來たのは好都合だつた。さもなければ、 彼女と私とそれに私たちの食事を分けてやつたソフィイもいれて、
まるで夕食にありつけなかつたゞらう -- 階下に人たちは誰も餘り忙がしくて、私たちの方まで氣がまはらなかつたのだから。
九時過になるまでもデザァトは出されなかつた。そして十時には、 まだ
私は彼女が飽きる迄お話しをして聞かせた。それから今度は氣持ちを變へる爲めに廊下に連れ出した。
廣間のともし火が點つてゐたので、手摺の上から見下したり、召使逹が往つたり來たりするのを眺めたりすることは、
彼女を喜ばせた。夜がすつかり更けた頃、ピアノを運ばせてある客間から樂の音が聞えて來た。
アデェルと私は、階段の一番上の段に腰掛けて耳を澄した。やがて一人の聲が樂噐の豐かな音に混つて聞えて來た。
唄つてゐるのは婦人で、その聲音は非常に美しかつた。その
柱時計が十一時を打つた。私は頭を私の肩に凭せかけてゐるアデェルを見た。
彼女の眼は、今にも閉ぢさうになつてゐた。で、私は腕に抱き上げて、
翌日も前日と同じく晴れてゐた。お客さま方の望みによつて、近くの何處かへ遊びに行くことになつた。 彼等は、朝早く、或る者は馬に乘り、他の人々は馬車で出發した。出發も歸館も私は眺めてゐた。 前と同じくイングラム孃は、唯一人の、馬に乘つた婦人であつた。 そして前と同じくロチスター氏は彼女と並んで馬を走らせてゐるのであつた。 二人は他の人々とは少し離れてゐた。私は、一緒に窓際に立つてゐた。 フェアファックス夫人にこの容子を指し示した。
「あなたは、あの方たちが結婚しようとお考へになりさうもないと仰しやいましたが、」と私は云つた。 「でも、ロチスターさんは確かに、他のどの方よりもあの方がお好きなやうですわね。」
「えゝ、さうですわ。あの方を讚めてゐらつしやることは確かです。」
「そして、あの方ね。」と私は附け加へた。「御覽なさいまし、まあ、あんなに頭をあの方の方にかしげて、 まるで内緒ばなしでもしてゐらつしやるやうぢやありませんか。お顏が見たいこと。 私まだちつともお見かけ申しませんの。」
「今晩は御覽になれますよ。」とフェアファックス夫人は答へた。 「私ふとロチスターさんにアデェルがどんなにか御婦人方に紹介していたゞきたがつてゐらつしやるか申上げましたらね、 かう仰しやいました、『あゝ、あの子を晩餐の後、客間に寄越して下さい。それからエアさんに、 あの子と一緒に來るやうに云つて下さい。』つて。」
「えゝ、それはたゞお義理で仰しやつたのですわ。きつと、私、別に行かなくてもよろしいのですよ。」と私は答へた。
「えゝ、私も、あなたが大勢の場所には慣れてゐらつしやらないといふことを、申上げましたの。 あんな華やかな方々 -- まるで御存知ない方々の前に出ていらつしやるのはお好きではないだらうと思つたものですから。 するといつものせつかちな調子で仰しやるんですの。『くだらん事だ。若しあの人がぐづ〜云ふなら、 私の特別の所望だからと云つて下さい。それでも嫌だと云ふなら、どうしても云ふことを聞かなけりや、 私が引張つて行くと云つて下さい。』とね。」
「そんな手數はお掛けいたしませんわ。」と私は答へた。「致し方がなければ私、參ります。 でも私、ちつとも行きたくはないのですけれど。あなたはいらつしやいますの、フェアファックスさん?」
「いゝえ、私は御免蒙りました。あの方はそれをお許して下さいました。 一番厄介な、正式に這入つてゆく面倒を避ける方法をお教へしませう。 皆さまが食卓からお立ちにならない前に、誰もをらつしやらない、お客間に這入つて行かなくてはなりません。 そして何處でもようござんす、目立たない片端に席をおとんなさい。ゐたくなければ、 殿方が這入つていらしてから、長くゐる必要はありません。 たゞロチスターさんにあなたが其處にゐるといふことをお知らせして、 そつと出ておいでなさい -- 誰も氣附きはしませんから。」
「あの方逹は長いこと逗留なさるとお思ひになつて?」
「多分、二三週間で、それ以上になることはありません。復活祭の議會のお休みが濟みますと、
先頃ミルコオトの議員にお選ばれになつたジョオジ・リン卿は
アデェルを連れて、客間に行くべき時が近づいて來るのを、私は
都合のいゝことには、客間へは、皆が晩餐の席に着いてゐる客間を通らなくても、他に入口があつた。
部屋は
非常に嚴肅な印象をまだ受けてゐるらしいアデェルは、私の指した足臺の上に、言葉もなく掛けた。
私は、窓際の腰掛の方へ引込んで、傍の
「何んです、アデェル?」
「”Est-ce que je ne puis pas prendrie une seule de ces fleurs magnifiques, mademoiselle? Seulement pour completer ma toilette.” (あたし、この綺麗なお花を一つだけとつちやいけない、先生?あたしのおべゞを立派にする爲めに。)」
「あなたはあんまり『
やがて、起ち上るらしい靜かな物音が聽こえて來た。
人は八人しかゐなかつた。しかしそろ〜と入つて來た時には、何だか、もつとずつと人數が多いやうな氣がした。 その中の幾人かは非常に脊が高く、大抵の人は白い裝ひをしてゐた。さうして、みんな盛裝して、 裾を長くひき、襞やレエスの飾やらで幅廣になつて、霧が月を立派にするやうにそれが彼等を立派にしてゐた。 私は起ち上つて、彼等にお辭儀をした。一人か二人の人が頭を下げたばかりで、他の人たちは、 たゞ私に目をくれたのみであつた。
彼等は室に散らばつた。彼等の動作の輕快さと陽氣さが白い羽毛の鳥の群を思ひ出させた。
或る者は
先づ、イィシュトン夫人と彼女の二人の令孃たちがゐる。彼女は確かに美人だつたらしく、 今もまだ容色が衰へてゐなかつた。その令孃の、大きな方のエミイは、どちらかと云ふと小柄な方で、 あどけなく、顏付も擧止も子供つぽく、姿には趣があつた。彼女の白いモスリンの着物と青い飾帶とは、 よく似合つてゐた。もひとりのルヰザは、姿態はより脊高く優美で大へん綺麗な彿蘭西言葉の”minois chiffone” (人形美人)といふ種類の顏立であつた。姉妹二人とも、百合のやうに美しかつた。
レイディ・リンは四十位の、大柄な、肥つた人で、
デント大佐夫人はそれほど華美ではなかつたが、ずつと貴婦人らしいと私は思つた。
彼女は
しかし、一番目立つ三人は -- たぶん、人々の中で、最も
ブランシュとメァリーは、同じ位の脊丈で -- ポプラの樹のやうに眞直で高かつた。
メァリーは彼女の
身體の範圍では、彼女は要點々々で私の畫にもフェアファックス夫人の描寫にも似てゐた。 品いゝ胸、なだらかな肩、優美な頸、黒い眼と黒い捲毛も、すつかりそのまゝであつた -- しかし、彼女の顏は?彼女の顏は、母のにそつくりであつた。たゞ若くて皺がよつてゐないといふだけで、 同じやうな狹い額、同じやうな造作の大きい顏立、同じやうな傲慢さであつた。但し、それは、そんな、 陰氣な傲慢さではなかつた。彼女は始終笑つてゐた。その笑はあてこすつたやうな笑で、 彼女の弓形をした高慢な唇にたえず漂つてゐる表情もまた同じであつた。
天才はいつも自分を意識してゐると云ふ。イングラムが天才であるかどうか私には分らないが、 彼女は自分を意識してゐた --
まつたく目に付く程、意識してゐた。 彼女は
メァリーは、ブランシュよりも穩かな、無邪氣な容貌であつた。顏付ももつと優しく、肌もずつと美しかつた
(イングラム孃は西班牙人のやうに淺黒かつた) -- しかしメァリーには、
さて、私はイングラム孃の事を、ロチスター氏が好んで選びさうな人だと思つたゞらうか? 私には云へなかつた -- 私には女性美に對する彼の趣味は分らなかつたのだ。 若し彼が威嚴あるものが好きだつたら、彼女は威嚴の立派な典型であつた。 大抵の紳士は彼女を稱讚するであらうと私は思つた。 そして彼が彼女を稱讚してゐるといふその確證を既に私は握つたやうに思つてゐる。 最後の疑惑の影をとりのけるにはたゞ彼等が共にゐる處を見ればいゝのだ。
讀者よ、アデェルがずつと今迄私の足許の足臺に
「”Bon jour, mesdames.”(皆さま、こんにちは)」
するとイングラム孃は馬鹿にしたやうな容子で彼女を見下して云つた。 「おやまあ何て小つぽけなお人形でせう。」
リン夫人は注意した、「そのお子さんが、ロチスターさんの後見をしてゐらつしやる方だと存じますよ -- あの方が話してゐらした彿蘭西の小さなお孃さんよ。」
デント夫人は親切に彼女の手を取つて接吻してやつた。 エミーとルヰザ・イィシュトンとは一齊に叫んだ --
「何んて可愛らしい子でせう!」
それから二人は彼女を安樂椅子の方へ呼びよせた。其處で、彼女は二人の間に坐らされて、
彿蘭西語とあやしげな英語とを代る〜゛
とう〜珈琲が運ばれ紳士たちが招ばれた。私は蔭の方に坐つた --
若しこの輝かしく
だがロチスター氏は、何處にゐるのか?
彼は最後に入つて來た。私は、アーチの方を見てはゐなかつたが、彼の入つて來るのが見えた。
私は、自分の心を、編針の上に、
彼の注意がその人たちの方に集注し、彼に氣付かれないで
「美は視る人の眼の
私は彼とお客たちを比較してみた。リン家の人たちの意氣の容子のよさ、 イングラム卿の穩かな上品さも何んであらう --
デント大佐の軍人らしい立派さゝへ彼の生れながらの活氣と眞の力に比べては何んであらう。
彼等の外貌に對し彼等の表情に對し、私は些しも心を動かすことはない。
しかも大抵の人は彼等の事を人を惹きつけるやうで、立派で、堂々としてゐると云ひ、
ロチスター氏の事は一言の下に人相のきつい陰鬱な容子をした人だと云ふだらうと想像することが出來た。
私は彼等が微笑を浮かべ、また笑ふのを見た -- それは無意味なものであつた。
私はロチスター氏の微笑みを見た。彼の嚴しい相好は
珈琲が出された。貴婦人たちは紳士たちが入つて來てから、雲雀のやうに快濶になつて、
話は
ロチスター氏は、イィシュトン姉妹の傍を立去ると、彼女が
「ロチスターさん、私、あなたは子供はお好きでないと思つてゐましたのに?」
「えゝ、ちつとも。」
「では、どうしてあんな小さなお人形の世話をなさるやうなことにおなり遊ばしたの?」 (アデェルの方を指ざし乍ら)「どこでお拾ひになつたの?」
「
「學校へお遣り遊ばさなくてはなりませんのね。」
「とても出來ませんよ。學校は隨分費用がかゝりますからねえ。」
「まあ、あなたはあの子に家庭教師をつけてゐらつしやるやうぢやございませんか。たつた今、 あの子の傍にゐましたつけ -- 行つてしまつたのか知ら?あゝ、さうぢやなかつた! 未だあそこに、あの窓掛の蔭にゐますわ。無論、あなたは、あれに俸給をお出しになるのでございませう。 それぢあ、學校にお入れになると同じ位、費用がかゝるぢやございませんか -- それだけではございませんわ。だつて、その上に、どちらも養つておやりにならなくてはなりませんもの。」
私のことが引合に出されて、それでロチスター氏が私の方を見はしまいかと、私は怖れた -- それとも望んだと云ふべきであらうか?我知らず、私は、まほも奧の方へと身を縮めた。 しかし、彼は、まつたく眼を向けなかつた。
「そのことは一向に考へませんでした。」と彼は、眞直に前の方を見ながら、何氣なく云つた。
「えゝ、あなた方殿方とおふものは、決して經濟だの常識だのに就いてお考へになることなんぞないのですわ。
家庭教師といふ論題では母さまにおきゝにならなければいけませんわ。あの頃少くも、メアリーと私とは、
「何かおはなしでしたか、私の
この男爵未亡人の特別な所有物と云はれた令孃は、説明しながら彼女の問ひを繰り返した。
「お前、家庭教師のことなんぞお言ひでない。その言葉は私を苛々させますから。 あれたちの無能力と無定見に、私は殉教者の苦しみを致しましたよ。 今はあれたちとすかkり縁が切れてゐることを、私、神さまに、感謝します!」
デント夫人は、この信心深い貴婦人の方に身を屈めて、その耳に何事か囁いた。 云はれた答へから推して、それはその呪はれた人種の一人が此處にゐるといふことを注意したのだと私は想像した。
「なほいけませんわ!」夫人は云つた。「それが彼女の爲めになればいゝと思ひますわ!」 それから調子を下げて、しかしまだ十分私に聞える程の聲で、「私、氣を付けて見ましたのに。 私には人相が判るんでございますのよ。それで、あの女には、あの階級の缺點がすつかり、 あらはれてゐると、私、思ひますの。」
「それはどんなものです、奧さま?」とロチスター氏が、聲高に云つた。
「
「しかしさうすると、私の好竒心は食べたさを通り越してしまひます。たつた今、 食物を欲しがつてゐるのですがね。」
「ブランシュにお訊きなさいまし。あれの方が、私よりもあなたのお近くですから。」
「あら、私の方に押しつけては嫌でございますわ、母さま! あゝいふ人たちのことを一口で申しますとね --
みんな、しやうのない者でございますわ。 私が
「あゝあゝ、知つてゐるとも。」と、イングラム卿はまだるい云ひ方をした。
「そして、あのけちな唐變木の婆さん、何かつてばかう怒鳴つてたつけ 『まあ、このイタヅラコメ、コドモメ!』つてね --
それから樸たちはまた、
自分は何も知らない癖して樸たちみたいな悧巧な者に物を教へようとするのは僭越だつて
「さう〜。それからテドオ、私、あなたに手をかして、あなたの先生の、色の生白いタヴァイニング氏の事を告げ口
(それともいぢめたと云つてもいゝわ)したことがありましたつけ -- ほら、何時も、私たちが、
憂鬱な人と呼んでゐた、あの人さ。あの人とウィルスン孃とが、兩方お互に勝手に好きになつて --
少くとも、テドオと私とはさう思つてゐましたわね。
私たちは『美しい熱情』の
「ほんとにさうだよ。そして私の思惑通りでした。あの場合にはね。 女の家庭教師の男の家庭教師との
「まあ、お願ひ、母さま!一々數へたてるのはお止し遊ばせ!au reste(おまけに、)
私たちみんなその事は存じて居りますわ。子供の無邪氣に對する惡例の危險、
「孃や、いつもの通り今もお前は正しいのですよ。」
「ではこの上何んにも云ふ必要はございませんわね。別のお話を致しませう。」
エミー・イィシュトンは聽いてゐなかつたのか、それとこの言葉に耳を傾けなかつたのか、
優しいあどけない口調で口を挾んだ。「ルヰザも私も矢張り家庭教師を
「えゝ、決してね。私たちは何んでも好きなことが出來ましたわ -- 机の中だの針箱だのを引掻き廻したり、
「なんですか、もう、」とイングラム孃はあてつけるやうに唇をそらして云つた。
「全家庭教師の言行録の拔萃が出來てしまひますわ。そんなものを
「奧さま、他のすべての場合と同樣に、この點でもあなたを支持します。」
「では、それを提出する義務は私にございます。エドワルドさま、今夜歌ひますか。」
「ビアンカ夫人、御指名とあらば、直ちに。」
「では、あなた、私は、あなたがあなたの肺臟や他の發聲噐官を磨くやうに望むぞよ。 王の御機嫌にかなふように。」
「いとも聖なるメァリーの君の御所望とあらば、リツィオにならぬものがありませうか。」
「リツィオなんかつまらない!」と彼女は叫ぶと、捲毛の頭を
「皆さん、お聽きになりましたか!一體あなた方の中では誰が一等ボスウェルに似てゐます?」 とロチスター氏が叫んだ。
「その優先權は先づあなたにありませうな。」とデント大佐は答へた。
「いや、まつたく有難くお禮申上げます。」といふのが答だつた。
イングラム孃は、誇らしげな樣子で、ピアノの前に掛けると、その純白の衣裳を女王のやうに擴げて、 華やかな前奏曲を彈きはじめた --
同時に話しながら。彼女は今夜得意の絶頂にある樣子であつた。
彼女の言葉も容子も
「まあ、私、この頃の若い方など大嫌ひですわ!」と彼女は樂噐を急調に彈き鳴らしながら叫んだ。
「父さまの莊園の門を越へては一足だつて踏み込めない、母さまのお許しと後見なしには其處までさへも來られない、
憐れな弱蟲さん!自分の綺麗な顏だの、白い手だの、小さな足だのゝ手入に魂を奪はれてゐる人たち、
殿方に綺麗なお顏なんぞがお入用なのではあるまいし!可愛らしさを、 女にばかしやつて置けないとでも仰しやるのでせうか --
女に當然付屬してゐる親讓りのものをねえ。 私
「私、もし結婚いたしましたら何時でも、」と誰一人遮るものゝない沈默の後に、彼女は言葉を續けた。
「自分の
「何事でも服從します。」といふのが答だつた。
「では、此處に海賊の歌がございます。私、海賊が大へん氣に入つてゐるのを御存じでせう。 だから『コン・スピリトォ(活溌に)』でお歌ひ遊ばせ。」
「イングラム孃の御口づからの御命令ならば、水を割つた乳の杯にも酒の
「ではお氣をお付け遊ばせよ。若しも私の氣に入らないやうなことを遊ばしたら、 どういふ風になさるべきかをお教へして、あなたに恥をおかゝせいたしますよ。」
「それでは、まづく唄ふと御襃美を下さるといふことになりますね。 ぢあ、私は
「”Gardez-vous en bien! [”](御用心遊ばせ)あなたが、わざとお間違へになるやうなら、 私だつてそれ相當の罰を考へて置きましてよ。」
「イングラム孃は寛仁でゐらつしやらなくてはなりませんよ。 我々人間の堪へ得られぬやうな懲罰をお加へになるやうなことをちやんと御自分の力の中にお持ちですからね。」
「ほゝ、まあ、説明なすつて下さいまし!」と婦人は命令した。
「失禮、奧さま。説明の必要はございませんよ。あなた御自身の御心が御存じの筈でございませう、
ちよいと眉をお
「お歌ひ遊ばせ!」と云つて、彼女は、再びピアノに向つて、元氣のよい彈き方で伴奏をはじめた。
「今が脱けだすのにいゝ時だ。」と私は思つた。しかし今歌ひ出された曲の音調が私を捉へた。
フェアファックス夫人は、ロチスター氏はいゝ聲を持つてゐると云つた。 それは本當だつた --
何とも云へず快い、力のある
「
「別に、相變らずでございます。」
「どうしてあの部屋で私のところへ來て言葉をかけなかつたのです?」
私はさう云ふ彼にその問ひを返さうかと思つた。しかし私はそんな遠慮のないことは出來なかつた。 そしてかう答へた --
「お差支へのやうでございましたから、お妨げしたくないと存じまして。」
「留守の間中、どうしてゐました?」
「これと云つて特別には。いつものやうにアデェルを教へてをりました。」
「そして、前よりも大分蒼ざめてゐますね --
「何んでもございません。」
「あなたが私を溺らし損ねたあの晩、風邪を引きましたか[。]」
「いゝえ、
「客間にかへつてゐらつしやい。今引込むのは、餘り早過ぎますよ。」
「私、疲れましたの。」
彼はちつとの間、私をじつと見た。
「そして、少しばかり
「何んにも -- 何んでもありません。私、
「いや確かにさうだ。あまりひどく
當時のソーンフィールド莊は毎日愉しくも亦忙がしいものであつた。
私がこの屋根の下に過した靜かな、單調な、淋しい、はじめの三ヶ月に比べると、
何んといふ變り方だらう!陰氣な感じはすつかり今この家から
臺所も、食事方の食堂室も、召使ひたちの廣間も、表廣間も、等しく活氣づいてゐた。
そして客間は、爽かな春の日の青空と
餘興の變更が提議された最初の夜、私はみんな何をするつもりなのだらうかと思つてゐた。
彼等は、「謎芝居」と云ふものゝ事を話してゐたが、無經驗な私には、その言葉を理解出來なかつた。
召使ひたちが喚び込まれて、食堂の
ちやうどその時、ロチスター氏は婦人たちを再び彼の周圍に喚び集めて、 その中の幾人かを彼の組に選り出してゐるところであつた。 「イングラム孃は無論、私の組です。」と彼は云つた。その後で、彼はイィシュトン家の二令孃とデント夫人とを名指した。 彼は私の方を見た。ちやうど私は彼の傍に居合せた。デント夫人の腕環がとれかゝつてゐたのを締め直して上げてゐたのだ。
「おやりになりますか。」と彼は訊ねた。私は頭を振つた。彼は強ひはしなかつたが、 それを例の調子で押しつけられやしないかと寧ろ私は恐れてゐたのであつた。 彼は私をいつもの席に靜かにかへして呉れた。
さて、彼と彼の助力者たちは、
「駄目ですよ。」と彼女の云ふのが聞えた。「あんまり
やがて
「
再び幕が上る迄には可なりの間があつた。二幕目のは先のよりもずつと念を入れて用意した場面を見せてゐた。
前に説明した通り客間は食堂よりも二段高くなつてゐたが、
部屋の内に一二
この水盤の傍に絨毯を敷いて坐つてゐるのは、肩掛を纒ひ、頭には
彼女は、水盤に近づいて、その上に身を屈め、恰も彼女の水瓶を滿すやうな所作をした。
そしてそれを再び頭の上に載せた。泉の縁にゐる人物が彼女に言葉を掛ける容子をした --
何か願ふやうである。「彼女は急ぎ
分れた組は再び額を
三幕目には客間の一部分丈けが開いてゐて、他は何か黒つぽい、粗目の掛布がかけてある屏風で隱されてあつた。
大理石の水盤は持ち去られて、其處には雜木板の
この汚らしい場面の眞中に一人の男が坐つてゐる。握りしめた雙の拳を膝の上に置き視線を地上に落してゐた。
汚れた顏、亂れた服裝(彼の
刑務所(ブライド・ウエル!)とデント大佐が叫んだ。それで謎は解けたのである。
この役者逹は、普通の服裝に着換へるのに大分手間をとつて、再び食堂に這入つて來た。 ロチスター氏は、イングラム孃の手をとつて、連れて這入つて來た。彼女は、彼の演技を襃めてゐた。
「御存じ?」と彼女は云つた。「あの三つの人物の中では、私は最後のあなたが好きなのでございますよ。
あゝあなたがもう五六年も前に生れてゐらしたのだつたら、さぞ立派な紳士
「煤はもうすつかり、顏から落ちてゐますか。」と顏を彼女の方に向けながら彼は訊ねた。
「まあ、えゝ、すつかり。いよ〜殘念ですわねえ。あの墨のくまどり程あなたのお顏にお似合になるものつて、 御座いませんことよ。」
「ぢや、あなたは道の英雄がお好きなのですね?」
「英吉利の道の英雄は、伊太利の山賊に次いで、いゝと思ひますの。伊太利のは、 リワ゛ントの海賊に負けるだけですわ。」
「成る程。しかし私が何であらうと、あなたはもう私の奧さまですからね。 私たちは、此處にゐる人々の面前で、一時間前に結婚したのですよ。」 彼女は忍び笑ひをして、赧くなつた。
「さあ、デント、」とロチスター氏は言葉をついだ。「今度はあなた方の晩ですよ。」そして、
も一つの組が引込むと、彼と彼の組は空になつた椅子に座を占めた。
イングラム孃は彼女の指揮者の右手に腰掛け、他の人逹は彼と彼女の兩側の椅子を充たした。
今はもう私は役者を見守らなかつた。私はもう興味を以て幕の上るのを待ちはしなかつた。
私の注意は觀客の方に惹きつけられてゐたのだ。前にはアーチの方をのみ見つめてゐた私の眼は、
今は抵抗し難い力で椅子の半圓の方に惹きよせられるのであつた。 デント大佐と彼の組とがどんな謎を演じたか、最早私は憶えてゐない。
しかも幕の終る毎にその協議を私は見てをつた。私はロチスター氏がイングラム孃を顧みイングラム孃が彼の方を向くのを見た。
私は彼女が、その漆黒の捲毛が殆んど彼の肩にふせらうになり、彼の頬に觸りさうになるまで、
頭を彼の方に傾けてゐるのを見た。私は彼等が互に取交す囁きを聞いた。
私は彼等の見交す
私は既に、讀者よ、自分がロチスター氏を愛するやうになつたと云つた。私は、もう、
彼を愛してゐなかつた以前に戻れないのだ。たゞ彼が私に氣を留めなくなつたと知つたからと云つて --
私が彼の前で幾時間か過しても、彼がたゞの一度も、 私の方へ眼を向けないからと云つて --
彼の注意がすつかりあの立派な貴婦人に占められたからと云つて --
行きずりに衣裳の端が、私に觸るのを蔑み嫌ひ、もし彼女の黒い、傲慢な眼が偶然に私の上にとまるやうなことがあつたら、
まるで見るに値しない程賤しいものだと云ふ風に急いで
このやうな事情で、戀心が冷めたり消えたりするものではなかつた。絶望を生むことが多いにしても。
また、讀者よ、嫉妬を釀すことも多いと、あなた方はお思ひになるだらう --
もし私のやうな立場の女がイングラム孃のやうな立場の人を嫉妬するといふことが認められるならば。 しかし私は嫉妬はしなかつた --
あつても極々稀であつた。私が受けた苦痛は、そんな言葉で、
表はすことの出來ないものであつた。イングラム孃は
私は、彼女の地位、縁故等が彼に合つてゐる故を以て、家柄や、
恐らくは政略的な理由の爲めに彼が彼女と結婚しようとしてゐるのだと思つた。
私は、彼が彼女を愛してゐないことを、また彼からその寶物を得るには、彼女の資格は
もし彼女が直ぐに彼を征服し得て彼が彼女の足下に伏し眞實を以て彼女に心を捧げてゐたならば、
私は顏を蔽うて壁を向き、(比喩的に)彼等に對して死んでしまつてゐたゞらう。
もしイングラム孃が善良な、高尚な女の人で、力、熱、深切、心といふものを持つてゐるのだつたら、 私は二匹の虎 --
嫉妬と絶望とを相手に死物狂の爭鬪をしたことであらう。 やがて私の心は引き裂かれ滅ぼされて、彼女を崇拜し -- 彼女の卓越を知り、
靜かに餘生を送つたであらう。そして、彼女の絶對的であればある程私の崇拜は深まり、 私の靜穩はほんたうに靜かになつたことであらう。
しかし實際に於てはロチスター氏を魅惑しようとするイングラム孃の努力を觀察sることは、
失敗したことに自分では氣がつかないその失敗を繰り返してゐるのを見るのは --
彼女の誇りと自己滿足とが彼女の魅惑しようとしてゐるものを次第に遠くへ反撥してゐるのに、
放つた矢が悉く的に
何故ならば、彼女が失敗した時、私にはどうすれば彼女が成功することが出來たかといふ事が解つてゐたからである。
續けさまにロチスター氏の胸から
「あんなにあの方の近くにゐる特典を與へられてゐるのに、 どうして彼女にはもつとあの方を感動させることが出來ないのだらう?」
と私は自分自身に訊いてみた。「確かに彼女は眞實にあの方を好きになる事は出來ないのだ。
でなければ本當の愛情であの方を好いてゐるのではないのだ。 もし好きなのだつたら、あんなに始終微笑を浮かべて見せなくも、
あんなに樣々な愛嬌をつくつたりしなくともいゝのだ。私には、 彼女がたゞ靜かにあの方の傍に掛け、言葉すくなに眼も控へ目にしてゐる方が、
もつとあの方の心に近づくことが出來たかも知れないやうに思はれる。
私はあの方の顏に、彼女が今陽氣に話し掛けてゐるのに彼の顏を頑固にした表情とはまるで異つた表情を見たことがある。
しかしその時にはその表情は自然に出て來たものであつた。
それは手管や企んだ操縱でもつて引き出されたのではなかつた。そして人はそれをたゞその儘に受けいれゝばいゝのだ --
彼の問ふ事に
私は、まだ損得や姻戚關係の爲めに結婚しようとするロチスター氏の計畫に、
非難がましいことを何も云はなかつた。それが彼の意嚮なのだと初めて知つた時、私は驚いた。
私は彼が妻を選ぶのにそんなあり來りの動機に動かされるやうな人ではないと思つてゐた。
しかしその社會の人々の地位、教養、その他を觀れば觀る程、
確かに子供の時代から彼等に浸み込んでゐる思想や主義などに
しかし、これと同じやうに、他の點でも、私は自分の
私が、たゞ自分の
或る日、その彼の
もう夕日が迫つて、柱時計は、はや晩餐の着換の時間を知らせてゐた。その時、 客間の窓の腰掛に私と並んで膝をついてゐた幼いアデェルが不意に聲を上げた。 --
「”Voile, Monsieur Rochester, qui revient!”(ロチスターさんがお歸りになつたわ!)」
私は振り向いた。イングラム孃は、彼女の長椅子から、突進して來た。 他の人逹も、何かしてゐるのを止めて、顏を上げた。ちやうどその時、車輪の音と、 馬の蹄の地を蹴る音とが、砂利の上から聞えて來た。驛傳馬車が近づいて來るのであつた。
「あんなもので、お歸りになるなんて、」とイングラム孃は云つた。
「あの方はMesrour(黒馬)に乘つてゐらしたんですのに。さうぢやなかつたかしら、 お出掛けになる時には -- それにパイロットも一緒だつたのに。馬や犬はどうなすつたんでせう。」
かう云ひながら、彼女の脊の高い身體と幅廣の
「何て憎らしいんでせう!」とイングラム孃は叫んだ。「この
何か話すらしい聲が、廣間に聞えてゐたが、やがて新來の客が這入つて來た。 彼は、其處にゐる最年長者と見て、イングラム夫人に頭を下げた。
「どうも生憎の時に參つたやうでございますね。」と彼は云つた。 「私の友逹のロチスターが家にゐません時で。しかし私は隨分長旅をして來ましたし、 昔馴染といふのをよい事にして、此處で歸つて來る迄待たしていたゞきませう。」
彼の態度は慇懃であつた。彼の話の調子は、何かしら變つて響いた --
はつきりと外國訛りではないが、と云つて純粹に英國のでもないのであつた。 年頃はロチスター氏と
着換の
私はいつもの自分の席に坐つて、
彼はロチスター氏のことを古くからの友人だと云つて話してゐた。妙な友逹同志だつたに相違ない --
まつたく古い箴言にある「兩極端は一致す。」といふ
二三人の紳士たちが、彼の傍に掛けてゐて、時々部屋の
「そして、まあ何て穩やかな顏をしてゐらつしやるのでせう。」とルヰザは叫んだ -- 「ほんとになだらかで -- 私の大嫌ひな顰めた縱皺なんぞ一つもありませんわ。 それにあの靜かな眼と微笑。」
すると、まつたくほつとしたのであるが、レンリ・リン氏が、 ヘイ共有地への延期になつた遠足のことで、何か決めると云つて、彼等を部屋の反對の側に喚んだ。
そこでやつと火の傍の人々の方に注意を集注することが出來るやうになつた。 そしてすぐにその新來の人はメイスンさんと云ふ人だといふことを知つた。それからまた、 彼が英國に着いたばかりだといふことや、彼が何處か熱い國から來たといふことも分つた。 彼の顏が蒼白いのも、あんなに爐に近く坐つてゐるのも、家の中で外套を着てゐるのも確かにそんな理由からなのだ。 やがてジャマイカ、キングストン、スパニッシュ、タウン等の言葉が聞え、彼の住所として西印度諸島の名があげられた。 そして程なく、彼が其處で初めてロチスター氏を知り、知り合になつたのだといふことを聽いた時、 私は少なからず驚いた。彼は友人がその地方の灼けつくやうな暑さや、暴風や、雨期などを嫌つてゐることを話した。 ロチスター氏が旅行家であつたことは、私も知つてゐた -- フェアファックス夫人がさう云つてゐたから。 しかし彼の足跡は歐洲大陸に限られてゐたのだと思つてゐた。 今まで私はその他の國に行つたことについてのほのめかしをちらとも聞いたことはなかつたのである。
こんな事を私は思ひ耽つてゐた矢先、或る出來事、思ひ設けないやうな事件が私の思ひの絲を斷ち切つてしまつた。
メイソン氏は、誰かゞ扉を開ける度に震へてゐたが、もう燃え盡した、
しかしまだ燃屑の山は
「かう云つてやれ。若しひとりで出て行かなけりや
「いや -- お待ちなさい!」とデント大佐が遮つた。「追拂はないでおき給へ。イィシュトン。
これは利用出來るかもしれない。御婦人方に相談したがいゝだらう。」 そして彼は聲を張り上げてまた云つた。「皆さん、
あなた方はジプシイの
「まあ大佐、」とイングラム夫人は叫んだ。「よもやそんな賤しい欺僞師を私たちにおすゝめなぞなさるのではござおますまいね。 逐拂つておしまひ、いますぐ!」
「はい、でも、私にはとても逐ほやれませんので。」と從僕は云つた。 「他の召使ひも駄目なのでございます。
只今はフェアファックス夫人がお會ひになつて出て行くようにと云つてゐらつしやいますけれど、
「どうしようと云ふの?」とイィシュトン夫人が訊ねた。
「『皆さま方の運命を占つて差上げる』と申すのでございます。そして、しなければならない、 どうしてもするのだと言ひ張つて居ります。」
「どんな女なの?」イィシュトンの姉妹が、口を揃へて、訊いた。
「ぞつとするやうな醜い
「ぢあ、それは本當の魔法使の婆さんだ。」とフレドリック・リンが叫んだ。「喚びませうよ、勿論。」
「えゝ、きつと、」と彼の弟も贊成した。「こんな面白い機會を逃しては、どんなに殘念なことだか分りませんよ。」
「まあ、お前たちは、何てことを考へるのですか。」とリン夫人は叫んだ。 「そんな不合理なことをするのを默つて見てゐられません。」とイングラム未亡人が調子を合せた。
「さうね、母さま、でも母さまは……さうね、いゝことよ。」とピアノの腰掛にかけたまゝ此方を向き乍ら、 ブランシュの横柄な聲が聞えた。今までに彼女は其處に默つて掛けてゐて確かに樣々の樂譜を見てゐたのだ。
「私自分の運命のことを訊いてみたいのですわ。だから、サム、そのお婆さんに來るやうに云つておくれ。」
「お前、ブランシュ!まあ考へて -- 」
「解つてゐましてよ -- 仰しやりさうなことはみんな考へてみましてよ。で、私、 自分の思ひ通りにしなくてはなりませんわ -- 直ぐだよ、サム。」
「さう -- さう -- さうですとも」と貴婦人も紳士も、若い人たちはみんな聲を上げた。
「來さして頂戴。とても面白い
從僕は矢張り躊躇してゐた。「隨分、ぶしつけな人間らしいのでございますが。」と彼は云つた。
「お行き!」とイングラム孃は呶鳴つた。それで
忽ちにしてみんな興奮してしまつた。サムが歸つて來た時には、 揶揄だの冗談だのが次から次へと飛び出して大騷ぎになつてゐた。
「今は來ないでせう。」と彼は云つた。「『俗衆』(と申すのです)の前に出るのは、 自分の務めではないと申しまして。たゞ一人だけ、部屋に案内してやらなければならないさうで、 それから觀てもらひたい人が一人々々行かなくてはならないのださうでございます。」
「もうおわかりだらう、女王さまのやうなブランシュや、」とイングラム夫人は云ひ始めた。 「その女は家にぢり〜侵入しようといふのですよ。云ふことをおきゝなさい、 天使のやうな孃や -- そして -- 」
「お書齋に案内しておやり、勿論。」とこの『天使のやうなお孃さま』はさへぎつた。 「俗衆の前で占つてもらふのは私のすべきことでもありませんわ。私は自分一人ですつかり聞きます。 お書齋には火があつて?」
「はい、お孃さま -- ですが隨分
「
再びサムは姿を消した。そして、不可思議や活氣や期待が、また高潮に逹した。
「婆さんが、お待ちしてをります。」と再び姿を現はして從僕が云つた。 「どなたが第一にいらつしやるか伺ひたいと申しておりますが。」
「御婦人方が誰もいらつしやらない前に、私がちよいと行つて見といた方が、いゝと思ひますね。」 とデント大佐が云つた。
「さう云つてくれ、サム。男の方がいらつしやるからつて。」
サムは行つてまた歸つて來た。
「旦那さま、男子の方は嫌だ、と申します。わざ〜お出で下さる必要はございませんさうで、また、」 と彼はやつとの思ひで忍び笑ひを抑へて附け加へた。「御婦人方もお若くつて、 御獨身の方の他はいけないと申すのでございます。」
「こいつは驚いた、選り好みをしやがる。」とヘンリイ・リンは叫んだ。
イングラム孃は重々しく立上つた。「私が一番に參ります。」と彼女は、
仲間の先鋒となつて、城の崩潰口をのぼつて行く決死隊の先導者に
「まあお前、まあ大事な孃や、お待ち -- 考へ直して。」といふのが彼女の母親の叫び聲だつた。
しかし彼女は落着き拂つて何も云はずに彼女の前を通りすぎ、デント大佐の開けておいた
打つて變つた沈默が續いた。イングラム夫人は、手をもみ絞るやうなle cas(事件)だと思つた。 メァリー孃は自分にはとても思ひ切つて出來さうもないと云つた。イィシュトンのエミーとルヰザとは、 聲をひそめて忍び笑ひをしてゐながら、いくらか怖れてゐる樣子であつた。
時間の經つのが非常に遲かつた。書齋の
彼女は笑ひ出すだらうか?冗談にしてしまふであらうか?みんなの眼は、熱心な好竒の
「どう、ブランシュ?」とイングラム卿が云つた。
「何か云ひまして、お姉さま?」とメァリーが訊ねた。
「どうお思ひになりまして。どんな氣持がなさいましたの。本當の占者でして?」とイィシュトン姉妹が訊ねた。
「まあ、まあ、皆さま。」とイングラム孃は答へた。「そんなに攻め立てないで下さいまし。
ほんとにあなた方の驚きだの輕信だのゝ噐官は直ぐに騷ぎたがりますのね。 あなた方と云つたら、皆さまのその一大事のやうな御樣子では --
私の母さまも一緒ですわ --
これでもつてすつかりこのお宅にあの惡魔と親類筋の正眞正銘の巫女がゐるのだと思ひ込んでゐらつしやる御樣子ねえ。
私ジプシイのごろつきに會つて參りましたわ。あの女はあり來りの型通りの手相を覺えてきて、
そんな人逹の云ひさうなことを私に云ひました。私の物好きもこれで滿足いたしました。
私もうイィシュトン氏がお嚇しになつた通りに、明日の朝、 あの鬼婆に
イングラム孃は本をとり上げると椅子に
その間にも、メァリー・イングラムとイィシュトン家のエミリーとルヰザとは、一人ではとても行く勇氣がないと云つてゐた。
それでゐて、皆んな行きたかつたのだ。そこで、サムの全權大使を仲介として、談判が開始された。さうして、
さん〜゛歩いたので、今云つたサムの
彼等のときにはイングラム孃のときのやうに靜かではなかつた。 ヒステリカルな忍び笑ひだの小さな叫び聲だのが書齋から聞えて來た。
そして二十分ばかり經つとどや〜と
「確かに、あれはすこし怪しいわ。」と彼等は一人殘らず叫んだ。 「こんなことを云ふんですの。私逹のことはみんな知つてますのよ。」そして彼等は息も絶え〜゛に、 男の人たちが急いで持つて來た椅子にくづをれてしまつた。
その上に詳しいことを問はれて、
彼等は彼等がまだほんの子供の時分に云つたり
すると男の人逹は、その最後に云つた二つの點をもつとはつきりさしてくれと一生懸命になつて横槍を入れた。
しかし、彼等はそのしつこい問の返辭の代りにたゞ赧くなつて、叫び聲をあげ、身
この騷ぎの最中に、また私の眼にも耳にも自分の前の光景にすつかりとられてゐるとき、
私はすぐ
「失禮ですが、あのジプシイが申しますには、お部屋にはまだお目にかゝらない御獨身の方が一人ゐらつしやるといふので。 そしてすつかり見るまではどうしても動かないと申すんで、それはあなたに相違ないと思つたのでございます。 他にはそのやうな方はゐらつしやらないものでございますから。何と申しませうか。」
「あゝ、私、是非參ります。」と私は答へた。そして自分の可成りに刺戟された好竒心を滿足させる、
思ひがけない好機會を喜んだ。私は誰の眼にもつかぬやうに部屋をすべり出た --
皆んなは今歸つて來たばかりの聲を慄はしてゐる三人の周圍に一團になつてゐたので --
そして私は靜かに私の背後に
「何でしたら、」とサムが云つた。「廣間にお待ちしてをりませう。 そして若し怖いとお思ひになつたら、一寸お呼びになりや、直ぐに這入つて行つてあげますから。」
「いゝえ、サム、臺所へ歸つてゐて下さいな。私ちつとも怖くはありませんから。」 私は怖くはなかつた。却つてひどく興味をしゝられ、興奮してゐた。
私が這入つて行つたときには、書齋はしんと靜まり返つてゐる樣子であつた。そして女占者 -- 若し彼女が女占者なら --
は、爐邊の安樂椅子に非常に居心地よささうに掛けてゐた。 彼女は赤い
私は敷物の上に立つて手を温めた。客間の火から離れて坐つてゐたので、大分冷たくなつてゐたのである。
もう私は
「えゝと、それでお前さんも自分の運命を聽きたいのかな?」と彼女は、 その目付と同じやうにはつきりと、その顏と同じやうにきつい聲で云つた。
「そんなことはどうでもようござんすよ、お婆さん。あなたのお好きなやうになさい。 たゞ云つておきますがね、私は一向に信じてはゐませんよ。」
「ふん、厚かましいお前さんの云ひさうなことだ。さうだらうと思つてゐた。
お前さんが閾を跨いだときに、それは、もう
「へえ、早耳なのですね。」
「さうだよ。それに眼もはやいし、頭もすばしつこいし。」
「皆んなあなたの商賣には入用でせう。」
「さうだよ。特別にあんたのやうなお
「私、寒くはありません。」
「顏色も蒼くならんやうぢや?」
「私、病氣ではありません。」
「何故、私に
「私は
しなびた老婆は彼女の帽子と紐の下で、あ、は、は、と笑つた。それから、短かい、
黒い煙管を取出して、火を點けると、ふかしはじめた。しばらく、
この
「あんたは寒い。あんたは病氣だ。あんたは愚かだ。」
「證明して下さい。」と私は答へた。
「簡單に云つてあげる。あんたは寒い。何故ならあんたは孤獨だから。 誰とも近づきがないから折角あんたの持つて生れた火を打つて出すものがない。 あんたは病氣だ。何故なら男の人に與へる最高の感情、最も高く、最も優しいものがあんたから遠く隔つてゐるから。 あんたは愚かだ。何故なら苦しい思をしてゐながらあんたはその最高の感情を近くに招かうともしなければ、 こちらから、あんたを待つてゐる所でそれに會はうと一歩踏み出さうともしないから。」
彼女は、再び、短い黒い煙管を口へ持つて行つて、また新らしく盛んに
「そんなことは、皆んな、大きなお
「大方、誰にでも云ふかも知れない。だが、殆んど、誰にでも眞實だと云へませうかね。」
「私みたいな境遇にはね。」
「さうだよ。その通り、あんたみたいな境遇にはね。 だがその他にあんたとちやうど同じやうな地位にある人を探して貰ひますかな?」
「幾人でも探して上げるのは
「一人も探せまいよ。若しあんたが氣を附けば、あんたは特別な地位にゐるんぢや。 幸福のすぐ傍に、さうよ、手の屆く處に。材料はすつかり揃つてゐる。 たゞそれを結び合せる動きが足りないだけだよ。運命の神樣が、いくらかばら〜に離しておかれたのぢや。 一度近づけて御覽じろ、末は吉だよ。」
「私には謎はわかりません。私、判じ物なんぞあてることはまるで出來ませんから。」
「若しもつとはつきり云つて欲しいとお望みなら、掌を見せなさい。」
「さうとも。」
私は彼女に一
「これはあんまり良すぎる。」と彼女は云つた。「こんな手には何んにも云ふことが出來ない。 殆んど筋なしだ。それに、掌には何があるかな?運命は此處に書いてない。」
「それは當つてゐますよ。」と私は云つた。
「此處ではない。」と彼女は續けて云つた。「顏にある。 -- 額の上にも、眼の邊にも、 眼の中にも、口の線にもある。膝をついて、頭を擧げて御覽。」
「あゝ。それで大分本當らしくなつて來ました。」と彼女の云ふ通りにしながら、私は云つた。 「今にも私は少しはあなたを信ずるやうになるでせうよ。」
私は彼女から半
「あんたは一體どんなこゝろで今夜私の處に來なすつたかな?」と暫く私を見つめてから彼女は云つた。 「立派な人逹がまるで幻燈の中の人物のやうにあんたの前を飛び過ぎて行くあそこの部屋に坐つてゐる間中、 あんたの心にはどんな思ひが忙がしく往來してゐたのぢやらう。あんたとあの人逹の間に一向心が通ひ合ふことがないのは、 丁度、あの人逹が生きた人間でなく、たゞの人影でゞもあるやうぢや。」
「私はよく退屈になるし、ときに眠くなることもあります。でも悲しくはなりません。」
「では、未來の囁きであなたを引立て、喜ばすやうな何か祕密な希望を持つてゐなさるのか?」
「いゝえ違ひますよ。私が一等望んでゐるのは自分の俸給の中から十分なお金を貯めて、 何時か自分の借りた小さな家の學校を設立したいといふこと。」
「魂が生きて行くには、惡い食物だ。で、あんたは、あの窓臺に腰掛けて、 (私があんたの習慣を知つてるのが分るだらう) -- 」
「召使たちから聞いたのでせう。」
「あゝ、なか〜拔目のないお方だ。さう、まあ聞いたかも知れん。實を云ふと、 私はあの中に一人知り合ひがある -- プウル夫人と -- 」
その名を聞いたとき、とび上る程驚いた。
「さうか、さうなのか?」と私は思つた。「ぢあ、結局これには魔法があるのだ!」
「驚きなさることはない。」と不思議な人物は、言葉を續けた。 「プウル夫人は安全な人だよ -- 祕密を漏らさんし、落ちついてゐるよ。 あの人は信用されても大丈夫だ。しかし今云つたやうに、あの窓臺に腰掛けてゐるとき、 あんたは未來の學校の他には何も考へないかね? あんたは自分の前の安樂椅子や椅子に掛けてゐる人逹の中で誰かに現在興味を持つてはゐないかな? あんたがじつと見つめてゐる顏が一つありはしないかな? 少くとも好竒心をもつて誰かの振舞ひに氣を附けてはゐないかな?」
「私は、皆んなの顏だつて、皆んなの姿だつて、眺めてゐるのは好きです。」
「だがな、皆の中から一人だけ -- それとも二人かもしれんな、選り出したことはないかね?」
「よくしますよ。二人の人の身振だの顏付だのが意味ありげに見えるときにはね。 それらを見てゐるのは面白いのですから。」
「どんな話を聞くのがお好きかな?」
「えゝ、別に大した好き嫌ひがある譯ではありません。みんな、大抵同じ話題 -- 求婚を話してゐますし。それから、同じ結果 -- 結婚に終るのですわ。」
「そして、あんたはそのつまらない話題がお好きか?」
「ちつとも、氣にしてゐませんわ。私には何でもないことですもの。」
「あんたには何でもないつて?若くて、生命と健康に滿ちた、美しくて人を惹きつける、 地位と財産といふ賜物を與へられてゐる貴婦人が一人の紳士の前に掛けて微笑んでゐる、 その紳士をあんたは -- 」
「私が、何?」
「あんたは知つてゐる -- そして、大方憎からず思ふてゐる。」
「私は此處にゐらつしやる男の方たちは知りません。 私は殆んどあの中の誰とも一言だつて言葉を交したことはありません。 それからその方たちを好く思ふといふことでは幾人かは立派な、堂々とした、中年の方だと思ひ、 他の方たちは若くて伊逹で、綺麗で、元氣があるとは思つてゐます。 でもあの方たちは、好きな人逹の笑顏を受けようと自由勝手なんです。 そんなことが、私にとつて大事件だなどゝ、私は考へようともしないのですから。」
「あんたは此處にゐる男の人たちを知らないかな? その中の誰とも一言も交したことはないかな?この家の
「あの方は、家にはゐらつしやらないのです。」
「意味深長な言葉だ!實にうまい云ひ拔けだ!あの人は今朝ミルコオトへ行つて、 今晩か明日か此處へ歸つて來るだろ。そんなことがあの人をこの世から消してしまふかな?」
「いゝえ、ですがあなたの始めた話にロチスターさんが何の關係があるのか、 私には殆んどわかりませんわ。」
「私は男の人逹の前で微笑んでゐる婦人逹のことを話してゐた。 そしてこの頃ではロチスターさんの眼は、あふれるほどふんだんに微笑みを送られてゐるので、 水を入れすぎた二つのコップみたいにあふれてゐるんだよ。 あんたはそれに氣づいたことはないのか?」
「ロチスターさんはお客さま方と一緒にゐて、娯しむ權利がおありです。」
「權利がどうと、わたしは訊いてはをらん。だが、こんなことに氣が附いたことはないかとお云ひかな、 結婚について、こゝで話される總ての物語の中で、 ロチスターさんは最も陽氣で最も長つゞきのするお話を惠まれてゐることを?」
「聽き手の熱心さは話し手の舌を滑らかにするものです。」 と私はジプシイにと云ふよりは寧ろ自分に向つて云つた。 その不思議な話、聲、擧動などはこのときまでに私を何か夢のやうなものゝ中に包んでしまつてゐたのであつた。 思ひもかけない言葉が次から次へと彼女の口から出て來て、とう〜、 私は惑はしの網の中に捲き込まれ、どんな見えない精が幾週間も私の心の傍にゐて、 その働きに注目し、あらゆる心の動きを書き留めてゐたのであらうと怪しく思ふのであつた。
「聽き手の熱心さ!」と彼女は繰り返した。「さう、ロチスターさんは、 話をする役目をひどく喜んでゐる、人の心をとろかすやうな唇に耳を傾けて、そのときまで、 坐つてゐられた。そしてロチスターさんは、さうされるのが大層好きらしく、 またその惠まれた娯しみを感謝してる樣子だつた。これは見られたかな?」
「感謝ですつて!私はあの方の顏に感謝を探り出したことなんぞ思ひ出せません。」
「探り出した!といふからには分解したのぢやな。それで何を探り出しなすつた、 若し感謝でないのなら?」
私は何も云はなかつた。
「あんたは愛を見た -- 違ふかな? -- そして先のことを豫想して、あの人は結婚すると思ひ、 あの人の花嫁は幸福だと思つたのだらう?」
「ふん、少々違ひますよ。あなたの魔法の術も時々間違ふのですね。」
「一體全體、ぢあ何を見たのかな?」
「御心配なく。私は聞きに來たので、告白しに來たのではありません。 ロチスターさんが結婚なさるのは分つてゐるのですか?」
「さうだよ。あの美しいイングラム孃とね。」
「近いうちに?」
「形勢から察すると、さういふ結果になるわけだね。それに確かに、あんたは、
大膽不敵にもそれを疑ふらしいが、その大膽さを、あんたは、改め直さなくてはならないよ。
二人は大層幸福な御夫婦になるだらう。あの方は、あんな美しい、品のある、機智に富んだ、
才藝のある婦人は、愛する筈ぢや。そして、多分、あの女も、あの
「ですが、お婆さん、私はロチスターさんの運命を觀て貰ひに來たのではありませんよ。 私は、自分のを聞きに來たのですよ。なのに、そのことはまだ何にも云つてくれないぢやありませんか。」
「あんたの運命はまだどつちとも云へん。あんたの顏を見ると、一つの筋が他のと相反してゐるのです。 運命の神はあんたに幾らかの幸福を分けてくれてある。私にはよう分る。 それは私が今晩此處へ來ないうちから分つてゐた。運命の神はわざ〜あんたの爲めにそれをとつておいたのだよ。 さうだといふことも私は知つてゐる。手を延ばしてそれを取上げるのは、あんた次第だ。 しかし、あんたがさうするかどうかゞ、私の見て上げるところぢやよ。 も一度敷物の上に跪きなされ。」
「長いことしないで下さい。火が燒けつきさうですから。」
私は跪いた。彼女は私の方に屈まないで、椅子に
「焔が眼の中に搖めいて、眼は露のやうに光つてゐる。柔らかに、思ひに滿ちてゐて、
私の言葉に微笑んでゐる。感じ易く、その澄んだ眼球を通つて、次から次へと印象が這入つて行く。
微笑が消えたときには悲しいのだ。
「口の方はと云ふと、時々笑つて愉しさうである。頭の考へることは皆んな話さうとするけれども、
恐らく心情の經驗に就いては大抵默つてゐるだらう。動き易く柔かくて、
決して孤獨の中に永久に沈默してゐるやうに
「額の外には、幸運な未來へ導くのに邪魔になるものは見えない。そしてその額はかう云つてゐる --
『若し自尊心と環境とが私にさうするやうに要求するのなら、私はたゞ一人でゐることが出來る。
私は幸福を買ふ爲めに自分の魂を賣る必要はない。私には生れながらに持つてきた内心の寶がある。
若し外から來る樂しみが阻まれ、または私の出し得ない
「よくも云つたもの哉、額よ。お前の言葉は尊敬されるだらう。私は自分の計畫を立てた -- 正しい計畫だと私は思ふ --
そして私はそれに臨むに良心の要求、理性の意志に從つてした。
何處に私はゐるのか?醒めてゐるのか、眠つてゐるのか?私は夢を見てゐたのであらうか?
まだ夢を見てゐるのであらうか?老婆の聲は變つてゐた。彼女のアクセント、彼女の身振、
そして何も彼も、まるで鏡の
「えゝ、ジエィン、私が分る?」と聞きなれた聲が訊ねた。
「お願ひですから、その赤い
「だけど紐が結ぼれて -- 手を貸して。」
「切つておしまひなさいまし。」
「さあ、やつと -- 『脱げ、汝借り物よ!』だ。」 さうしてロチスター氏は變裝を脱ぎ棄てゝしまつた。
「まあ一體、何て妙なことをお考へになつたのでございます!」
「でも巧く遣りおほせたでせう、えゝ?さう思はない?」
「あの方たちの方は巧くなすつたに相違ございません。」
「だが、あなたにはさうぢやないと云ふの?」
「だつて、私にはジプシイのやうにはなさらなかつたのですもの。」
「何のやうにしました?私自身のやうに?」
「いゝえ、何か説明出來ないやうなものでした。簡單に云ひますと、私を誘ひ出す -- それとも引張り込まうとしてゐらつしやるのだと、私思つてゐましたの。 私にくだらないことを話させようとして、御自分でもくだらないことを話してゐらつしやいましたもの。 あんなことは公平なことではございませんわ。」
「
「も一度そのことをよく考へてみるまで何とも申されませんわ。反省してみて、
若し私が大變に不合理なことを云つてないことが分つたら、お
「あゝ、あなたは大變に正確だつたし -- 大變注意深くて、大變敏感でしたよ。」
私は想ひ出してみた。そして全體としてはさうだつたと思つた。それは愉快なことであつた。
が、實際私はこの會見の殆んど當初から要心してゐたのだつた。 何だか怪しいと疑つてゐたのだ。
私はジプシイや
「だが、」と彼は云つた。「何を瞑想してゐるのです?その眞面目腐つた微笑は何といふ意味です?」
「驚きと自慶でございます。もう退つてもいゝと仰しやつたと存じますが。」
「いや、も少しゐて、あつちの客間の人逹はどうしてゐるか話して下さい。」
「きつとジプシイのことを
「お掛けなさい! -- 皆んなが私のことを何と云つたか、聞かせて下さい。」
「私あんまり長くゐない方がよろしいです。もう十一時近くになる筈でございますもの。 あゝ、御存知でゐらつしやいますか、ロチスターさん、今朝お出掛けになりました後で、 どなたかゞお着きになりましたことを?」
「お客 -- いゝえ、誰だらう?私は誰もあてがないが。もう歸つたのですか?」
「いゝえ、その方は前からのお知り合ひで、お歸りになる迄此處で勝手に待つてゐてもいゝのだと云つてゐらつしやいました。」
「そんなことを云つたのか!名前は云ひましたか?」
「お名前はメイスンで、西印度から -- ジャマイカのスパニッシュ・タウンからいらしたのだと存じます。」
ロチスター氏は私の傍に立つてゐて、ちようど椅子に連れて行かうとするかのやうに私の手をとつてゐたが、 私がさう話すと彼は痙攣したやうに私の手首を掴んだ。唇の微笑は凍りついたやうになつた。 明かに痙攣が彼の息を止めてしまつたのだ。
「メイスン! -- 西印度!」と、物を云ふ自動人形が、同じ一つの言葉を云ふと思はれるやうな調子で、 彼は云つた。「メイスン! -- 西印度!」と彼は繰り返した。そして彼は三度同じ言葉を繰り返して、 口を利く合間々々に、段々と、灰の色よりも蒼ざめて來た。彼は自分が何をしてゐるか、 殆んど知らないやうだつた。
「ジエィン、駄目になつた。私は駄目になつてしまつた。ジエィン。」と彼はよろめいた。
「あゝ、私にもたれてゐらつしやいまし。」
「ジエィン、あなたは前にも一度、私に肩を貸してくれた。今また貸して下さい。」
「えゝ、えゝ、私の腕も。」
彼は腰掛けた。そして私を傍に坐らせた。私の手を兩手でとつて彼は
「私の小さな友逹!」と彼は云つた。「あなたと唯二人きりで靜かな離れ島にゐられたなら、
困難も危險も
「私でお役に立ちませうか? -- お盡しするのなら
「ジエィン、若し助けが要るのだつたら、あなたの手に求めます。約束しておきます。」
「有難うございます。どうしたらいゝか、仰しやつて下さい。 私、少くともやつてみるだけはみます。」
「ぢあ、ジエィン、食堂から葡萄酒を杯一杯持つて來て下さい -- 皆んなそこで夕食を食べてゐるでせう -- それからメイスンが皆んなと一緒にゐるかどうか、何をしてゐるか見て來て下さい。」
私は行つた。ロチスター氏が云つたやうに、お客は皆んな食堂で夕食をとつてゐた。 彼等はしかし食卓には着いてゐなかつた --
夕食は食噐棚の上に並べてあつた。
そして各々が好きなものを取つて、皆此處彼處に塊つて、手に食噐だの
ロチスター氏のひどい蒼白い色は消えてゐて、再びもとのやうにしつかりと嚴しく見えた。 彼は杯を私の手から取つた。
「あなたの健康の爲めに、私に奉仕してくれる妖精よ!」と彼は云つた。中味を
「笑つたり、
「皆んな眞面目な、不思議さうな樣子ではありませんか、何か不思議なことを聞いたやうに。」
「いゝえ、ちつとも。皆さま笑つたり騷いだりしてゐらつしやいます。」
「で、メイスンは?」
「あの方も、矢つ張り、笑つてゐらつしやいました。」
「若しこの人逹が皆んな一緒になつてやつて來て、私に唾を吐きかけたとしたなら、 あなたはどうします、ジエィン?」
「皆んな部屋から逐ひ出してしまひます、若し出來たら。」
彼は
「そんなことはないでせうと思ひます。私、御一緒に殘つてゐた方がずつと嬉しいのですから。」
「私を慰める爲めに?」
「えゝ、私に出來る限りはお慰めする爲めに。」
「で、若し私について來るといふので、皆んながあなたを呪つて、社會から逐ひ拂つたら?」
「私、多分、そんな呪なんぞ、何んにも存じませんでせう。 でも若しさうなつても、私、そんなことを氣に留めはいたしません。」
「ぢあ、あなたは私の爲めに世間の非難を顧みないでゐられますか。」
「私、どんなお友逹でも私がついて行く價値のあるあなたのやうな方の爲めなら出來ます。 きつと、私、出來ます。」
「ぢあ、部屋に引返して、そつとメイスンのところへ行つて、ロチスターさんが歸つて來て、 お目に掛り度いから、と耳打して下さい。此處に案内して、そしたら行つてようござんす。」
「はい。」
私は彼の命じたことをした。私が眞直に皆んなの中を通り拔けたとき、人々は皆んな驚いて私を見てゐた。 私はメイスン氏を探して使ひの趣を述べ、彼を部屋から連れ出した。 彼を書齋へ案内してから、私は二階へ上つて行つた。
「こちらへ、メイスン。こゝが君の部屋だ。」
彼は快濶に話してゐた。その明るい調子が私の心を落ち着けた。私は直ぐに眠つてしまつた。
私は
おや、まあ!何と云ふ叫び聲だらう!
夜 -- その靜寂、その靜止 -- は、ソーンフィールド莊の端から端まで鳴り渡つた恐ろしい、鋭い、 金切るやうな物音で二つに裂けてしまつた。
私の脈搏は止つた。心臟は鼓動を止めた。差し伸べた私の腕は痺れてしまつた。
叫び聲は消えて、二度とは聞えなかつた。まつたくどんなものでも、あんな恐ろしい叫び聲を、
直ぐに繰り返すことは出來まい。アンデスの山の上にゐる廣い翼の
その叫び聲は三階から出た。頭の上を掠めて過ぎたから。そして頭の上、さう、ちやうど私の寢室の眞上に部屋に、
今私はもがき爭ふやうな音 -- その物音から察すると死物狂のものらしかつた -- を聽いた。
そして半ば息の
「助けて!助けて!助けて!」早口に三度。
「誰も來ないのか?」と聲が叫んだ。それから、よろめいたり足踏みしたりする物音が、荒々しく續いてゐる中に、 私は板を通してはつきりと聽き分けた --
「ロチスター、ロチスター、お願ひだ、來てくれ!」
「何處かの部屋の
恐怖で手足が顫へてゐたけれど、有り合せの服を着て、私は部屋から出た。眠つてゐた人々はすつかり目を覺まされた。
叫び聲だの、恐ろしさうな囁き聲だのが、あちこちの部屋に響き、次から次へと
「一體全體、ロチスターは何處にゐるのだ?」とデント大佐が叫んだ。「
「此處です、此處です。」と大きな聲が返辭をした。「落ち着いて下さい、皆さん。今行きますから。」
そして廊下の突當りの
「どんな怖いことが起りましたの?」と彼女は云つた。「仰しやつて頂戴! どんな惡い事でもすぐお聞きしなければなりませんわ。」
「だが、私を引き倒したり、窒息させないで下さい。」と彼は答へた。今やイィシュトンの姉妹が彼の周りに取りすがり、
廣い、白の
「萬事いゝんです! -- いゝんですよ!」と彼は叫んだ。「『空騷ぎ』のおさらへに過ぎません。あなた方、 離れてゐて下さい。でないと腹を立てゝどうするか分りませんよ。」
そして、また、彼は物騷に見えた。彼の黒い眼はきら〜と光つてゐた。努めて氣を鎭めて、彼は附け加へた --
「女中が一人
かういふ風にして、
しかし、床に入る爲めではなかつた。反對に氣を配りながら服を着て身支度をした。 叫び聲の後に私が聽いた物音と口走つた言葉とは多分、私だけにしか聞えなかつたらしい。 何故ならそれは私の上の部屋から出たものであつたから。そして、 それ等はあんなに家中を恐怖させたのは女中の夢ではないこと、 ロチスター氏の云つた説明は、お客を鎭める爲めに拵へた思ひつきに過ぎないことを、私は確信した。 で、私は緊急の時の用意に着換へをしたのである。着てしまふと、私は長い間、 窓によつて靜まりかへつた地上や月の光で白くなつてゐる野を見渡しながら、 何か分らぬものを待つてゐた。私には、あの怪しい叫び聲、爭鬪、呼聲に續いて何か事件が起るに違ひないと思はれたのだ。
否、靜寂はかへつた。人々の囁き聲やざわめきは段々と靜まつて、
一時間ばかりの内にソーンフィールド
「御用ですか。」と私は訊いた。
「起きてゐますか。」と私の待つてゐた聲 -- 即ち私の
「えゝ。」
「着物を着て?」
「えゝ。」
「ぢや、出て來て下さい、そつと。」
私は云はれる儘になつた。ロチスター氏がともし火を手にして廊下に立つてゐた。
「あなたが入用なんです。」と彼は云つた。「こつちへ來て下さい落着いて、音を立てないやうに。」
私の上靴は薄くて、敷物を敷いた床の上を私は丁度猫のやうにそつと歩くことが出來た。 彼は廊下を行き盡して階段を上り、暗い低い運命を定める三階の廊下で足を止めた。
「あなたのお部屋に、海綿がありますか。」と彼は囁き聲で訊いた。
「えゝ。」
「鹽は --
「ございます。」
「引返して、兩方共持つて來て下さい。」
私は引返して、洗面臺の上に海綿を、
「あなたは血を見ても氣持が惡くはならないでせうね?」
「ならないでせうと思ひます。まだ一度も試してみたことはありませんけれど。」
彼に答へてゐる時、私は戰慄を感じた。しかし
「さあ、手をお貸しなさい。」と彼が云つた。「氣絶したりしてはいけないから。」
私は指を彼の手の中に置いた。「温くてしつかりしてゐる。」さう云つて彼は鍵を廻して
先に、フェアファックス夫人が家中を見せてくれた日に見た記憶のある部屋であつた。
そこには、掛布が掛つてゐた。しかし今はその掛布は一所に環でくゝり上げてあつて、
先には蔽はれてゐた
「此處へ、ジエィン。」と彼が云つた。で、私は大きな
「蝋燭を持つて下さい。」とロチスター氏が云つた。で私は受け取つた。彼は洗面臺から、水を一ぱい持つて來た。 「持つてゝ下さい。」と彼が云つた。私はその通りにした。彼は海綿を取ると、 それを浸してその死人のやうな顏をしめし、私の香ひ瓶をとつて鼻孔に持つて行つた。 メイスン氏は間もなく眼を開けて呻いた。ロチスター氏は、 腕や肩の繃帶のしてあるその怪我人のシヤツを開いて後から後から滴り落ちる血を拭ひ去つた。
「もう難しいか?」とメイスン氏が呟いた。
「馬鹿な!なんの -- ほんの擦り傷だよ。そんなにしよげないで、しつかりしろ。 今僕が行つて外科醫を連れてくるよ。朝方迄には君は外へ移してもらへるだらう、と思ふよ。 ジエィン、」と彼はつゞけた。
「はい。」
「あなたをこの部屋にこの人と一緒に一時間、若しかすると二時間位も殘して置かなくてはなりませんがね。 また血が出て來たら私がしてゐるやうに拭ひて下さい。若し氣が遠くなりさうだつたら、 あの臺の上にあるコップの水を唇に、その鹽を鼻に持つて行つて下さい。 どんな口實があつても、あなたはこの人に話さないやうに -- それから -- リチヤァド、 若しこの人に話しかけでもすると、君の生命に關はるのだよ。口を開いたり -- 騷ぎ立てたりしたら -- その結果は知らないぞ。」
再びこの哀れな男は呻いた。彼は思ひ切つて動くことも出來ないやうに見えた。死に對する、
それとも何かその他のものに對する恐怖が殆んど彼を痺らせてゐるやうだつた。 ロチスター氏はもう血に染みてしまつた海綿を私に渡した。
そして私は彼がしたやうにそれを使ひつゞけた。彼は一瞬私を見てゐたが「忘れないで! --
話をしてはいけないつてことを。」と云ひながら、部屋を出て行つた。鍵が鍵穴の中で
その時私は三階の怪しい部屋に一つに閉ぢ込められてゐるのであつた。私の周圍には夜氣が迫り、
私の眼と手の傍には蒼ざめた、血に染んだ人の姿がある、人殺しの女とは辛じて一枚の
しかし私は自分の役目をしてゐなくてはいけない。この蒼ざめた顏 -- この物云ふことを禁じられた青い動かぬ唇 --
或る時は閉ぢ、或る時は開き、また部屋の中を
移り動く朦朧とした暗、明滅する燈影が、此處に
こんなことの最中にも、私は見張りもせねばならぬし、聽耳もたてゝゐなくてはならなかつた。
あの横手にある檻にゐる野獸か、それとも惡魔の動くのを耳をすましてゐなくてはならなかつた。
しかし、ロチスター氏が來て以來、それはまるで咒文に縛られたやうであつた。その
それから自分自身の思ひが私を惱した。この人里離れた邸内に人間の形をして住んでをり、
そしてこゝの主人によつてもそれを逐ひ拂ふことも鎭めることも出來ないのはどんな犯罪であらうか --
それに、この、私が今屈みかゝつてゐる男 -- この平凡な目立たぬ客 --
一體どうしてこの男がこの恐ろしいことの網に捲き込まれたのであらう。 そしてまた何故あの
あゝ、私は彼が「ジエィン、私は駄目になつた -- 私は駄目になつてしまつた、ジエィン。」 とかすれた聲で囁いたときの彼の顏、彼の蒼ざめた色を忘れることが出來なかつた。 彼が私の肩の上に支へてゐたその腕がどんなに顫へてゐたかを忘れることが出來なかつた。 而もフェアファックス・ロチスターの氣丈な精神を屈せしめ、その力強い身體を顫へさせることが出來るのは、 輕い些細な事件ではないのだ。
「
蝋燭は遂に燃え盡して、消えてしまつた。それが消えたとき、私は仄白い光が幾すぢか窓掛を縁どつてゐるのを認めた。
曉がその時近づいたのである。程なく、私はパイロットが中庭のひつそりした犬小舍の外に遙か下の方で吠えるのを聞いた。
希望は甦つた。それは理由がないでもなかつた。それから五分の内に鍵の
ロチスター氏が這入つて來た。そして一緒に、彼が雇つてきた外科醫がゐた。
「では、カァター、敏捷にやつてくれ給へ。」と彼は後者に云つた。 「傷の手當をして繃帶を捲いて怪我人を
「ですが、動かしていゝのですか?」
「それは大丈夫。何も大したことぢやない。あれは氣が弱いのだから元氣をつけてやらなくちやならない。 さあ、はじめて下さい。」
ロチスター氏は厚い窓掛を引いて
「えゝ君、どんな工合だ?」と彼は訊ねた。
「
「ちつともだよ! -- 元氣を出して!二週間めの今日になつても、それより惡くなりつこはない。 ほんのぽつちり血を流した。それだけのことだよ。カァター、危險はないつてことを保證してやつてくれ給へ。」
「お請合しますとも。」と今繃帶を解いたカァターは云つた。 「たゞも少し早くこゝに私が着くことが出來るとよかつたのですが。 こんなにひどく血を流すことはなかつたでせう -- だが、これはどうしたのでせう? 肩の肉がまるで切られたやうに引裂かれてゐる。この傷はナイフで出來たのではありませんね。 こゝに齒の跡がある。」
「
「君は讓歩するんぢやなかつたのだ。直ぐに
「しかしあんな場合に、どうすることが出來ただらう?」とメイスンが答へた。「あゝ、恐ろしいことだつた。」
と身震ひして彼は附け加へた。「それに私は思ひがけなかつた。 初めの中は
「警告したぢやないか。」といふのが彼の友逹の答だつた。
「私は云つたのだ -- 君が彼女の傍に行くときには氣を附けろつて。それに、君は明日まで待つて、 私を連れて行つてもよかつたのだ。今夜、而もたゞ獨りで會はうなどゝするのは愚の骨頂だよ。」
「何かためになつてやれるかと思つたのだ。」
「思つたのだつて!思つたのだつて!成程、君の云ふのを聞いてると
「今直ぐです。肩は今ちやうど繃帶したところです。この腕の他の傷を調べなくてはいけません。 此處にもその方の齒の跡があるやうですね。」
「
私はロチスター氏が身顫ひするのを見た。明白に、嫌惡、恐怖、憎惡の表はれた表情が、
殆んど
「さあ、默つて、リチヤァド、
「それが忘れられゝばいゝがと思ふが。」といふのが、答へであつた。
「この國を出れば、忘れられるさ。君がスパニッシュ・タウンに歸り着いたら、
「今夜のことを忘れることは不可能だ。」
「不可能ぢやない。しつかりしろ。君はこの二時間ばかり
私は行つて、彼の教へた物入れを探し、云はれた品物を見つけて、それを持つて引返した。
「では、」と彼は云つた。「私が着物を着せてやる間、
私は命ぜられた通りに退いた。
「階下に下りて行つたとき、誰かゞ起きた樣子だつた?、ジエィン?」 間もなくロチスター氏がかう訊ねた。
「いゝえ、どこもしんとして居りました。」
「我々は巧く君を送り出さう、デイック。さうした方が君の爲めにも、彼處にゐる可哀さうな人間にもいゝだらう。 私は長いこと人目に附かないやうに骨折つて來た。それで今さら露顯といふこともあらせたくないから。 さあ、カァター、チヨッキを着る手傳をしてやつてくれ給へ。君はあの毛皮の外套をどこに置いて來たのだ? この酷く寒い氣候ぢや、あれなしでは君は一哩だつて行けないよ。君の部屋だつて? -- ジエィン、 メイスン君の部屋に駈けて行つて -- 私の隣のだ -- そこにある外套を持つて來て下さい。」
再び私は駈けて行つて、毛皮の裏と縁のついた大きな外套を持つて歸つて來た。
「今度はまた他の用事をして貰ひますよ。」と
私は、其處に飛んで行つて、云はれた容噐を持つて飛んで歸つて來た。
「宜しい!そこで、ドクトル、勝手ですが獨斷で一服のませますよ。この興奮劑は、私が羅馬で、 ある伊太利の籔醫者 --
あなたなんぞは一蹴するでせうが -- から貰つたものですよ、カァター。
彼は小さなコップを差し出した。私は洗面臺の上の水瓶から、それを半分滿した。
「それで宜しい。では藥瓶の口を濕して下さい。」
私はその通りにした。彼は深紅の液體を十二滴量つて、メイスンにすゝめた。
「飮みなさい、リチヤァド。一時間かそこいらで君に不足してゐる元氣をつけるだらう。」
「しかし、害になりはしないだらうか? --
「飮みたまへ!飮みたまへ!飮みたまへ!」
メイスン氏は從つた。反對するのは、明かに無用なことだつたのだから。彼は今はもう衣服を着けてゐた。 まだ蒼ざめて見えたが、しかし最早血にまみれても汚れてもゐなかつた。 ロチスター氏は、彼がその液體を飮んでから三分間坐らせておいたが、やがて彼の腕を取つた。
「さあ、もうきつと立てると思ふよ。」と彼は云つた -- 「やつて御覽。」
怪我人は立ち上つた。
「カァター、そつちの肩を支へてやつて下さい。元氣を出して、リチヤァド。歩き出して -- さうだ!」
「いゝやうだ。」とメイスン氏が云つた。
「確かにさうだらう。では、ジエィン、我々の前に立つてこつそり裏階段の方へ行つて下さい。 側廊下の
この時はもう五時半になつてゐた。そして太陽はまさに昇らうとするところだつた。
しかし臺所はまだ暗く、しんとしてゐた。側廊下の
人々は近づいた。ロチスター氏と外科醫に支へられてゐるメイスンは可なり樂に歩いてゐるらしい。 彼等は馬車の中に彼を助け乘せ、カァターがそれにつゞいた。
「氣を附けてやつて下さい。」とロチスター氏は後者に云つた。 「そしてすつかり快くなるまで君の家に留めておいて下さい。一兩日中にはどんな工合だか見に馬で行きますから。 リチヤァド、どんな工合だ?」
「新しい空氣で力が附いたよ、フェアファックス。」
「彼の側の窓を開けておいて下さい、カァター。風は無いから。さやうなら、デイック。」
「フェアファックス。」
「えゝ、何だい?」
「
「出來るだけのことはしてるよ。今迄もして來たし、この後もする積りだ。」といふのが返辭だつた。
彼は馬車の
「とはいふものゝ、これでけりがついて欲しいものだ。」と、
重い庭の門を閉ぢて
それが濟むと彼は重い足どりで、放心したやうな風に、果樹園を區切つてゐる塀についた入口の方へ歩き出した。
彼はもう私には用濟みだらうと思つて私は家の方へ歸りかけた。 これども私は今一度「ジエィン!」と彼が呼ぶのを聞いた。
彼は
「しばらくの間、少しは清々しいところへいらつしやい。」と彼は云つた。「あの家はまるで牢獄だ。 そんな感じがしませんか?」
「私には立派なお
「無經驗といふ霞があなたの眼を蔽うてゐる。」と彼は答へた。 「而もあなたはそれを魔法にかゝつた仲介物を通して見てゐるのです。
あなたには
彼は、一方には
「ジエィン、花をあげませうか?」
彼は
「有難うございます。」
「こんな日の出が好きですか、ジエィン?日がだん〜暖かになるにつれて、 きつと消えてなくなつてしまふに違ひない高いところの、うすい雲の浮んだあの空 -- こんな靜かな、かぐはしい有樣は?」
「ほんとに好きでございます。」
「あなたは不思議な晩を過しましたね、ジエィン?」
「えゝ。」
「その爲めにあなたは顏色が惡い -- 私があなたをメイスンのところに獨りぽつちで置いて行つたときには怖い氣がしましたか?」
「私、誰かゞあの奧の部屋から出て來さうで、怖うございました。」
「しかし、私はあの入口を閉しておいたのです -- 鍵は私のポケットに持つてゐました。 若し私が小羊を -- 私のいとしい小羊を -- 狼の穴のすぐ傍に護りもなしに置いておいたら、 私は輕率な羊飼だつたに違ひない。で、ああんたは安全でしたね?」
「グレイス・プウルは、まだ此處にゐますの?」
「あゝ、さうですよ!
「でも、あの人がゐる間はあなたの生命はほとんど安全ではないやうに思はれます。」
「心配しないで下さい。私は自分で注意しますから。」
「昨夜氣遣つてゐらした危險は、もう過ぎてしまひましたの?」
「メイスンが英吉利から立去るまではさうと斷定出來ませんし、さうなつてもまた駄目です。ジエィン、 私にとつては生きるといふことは今にも裂けて火を噴き出すかも知れない噴火口の地殼の上に立つてゐるやうなものですよ。」
「でも、メイスンは
「さうですとも!メイスンは私に叛抗もしないだらうし、知つてゝ私を傷つけるやうなことはしないでせう -- だが、その積りはなくとも、ふとしたはずみに、洩らした不用意な言葉が、 忽ちにして私の生命でなくとも、永久に私の幸福を奪つてしまふかも知れないのです。」
「氣を附けるようにと、あの人にお話しになつたら。あなたが恐れてゐらつしやるものをお知らせになつたら。 危險を避ける方法をお教へになつたら。」
彼は嘲るやうに笑ひ出して、つと私の手をとつたが、また急いで離した。
「それが出來るのだつたら、お馬鹿さん、何處に危險なんぞあるのです? そんなものは忽ちのうちに滅亡してしまふのだ。メイスンを知つて以來、 私はたゞあれをしろと云へばよかつた。さうすればそのことは出來上つたのです。 しかし、今度の場合は命令することが出來ないのです。リチヤァド、 私を傷つけないやうに氣を附けてくれとは云へないのです。何故なら、 私はどうしても、私に害を加へ得るといふことを、あの男に知らせてはならないのですから。 あなたは、今困つた樣子ですね。もつと〜わからなくしますよ。 あなたは私の友逹でしたね、さうぢやない?」
「正しいことならどんなことでもお役に立つて、お聞きしたうございます。」
「確かに、さうらしい。あなたが私の手傳をしたり、私を喜ばせてくれたり --
私の爲めに働いてくれたり、私と一緒にゐたりするときには、 あなたの足どりにも眼にも顏にも本當の滿足が見える。
但し、それはあなたの所謂『正しいことなら何でも』の場合だ。 何故なら、若しあなたがよくないと思ふやうなことを私が命じたなら、
もう輕い足どりで駈けてくれることも、手綺麗な敏活さも、
「もしあなたが私に心配なさらないやうに、メイスンさんに對してもさうでしたら、 あなたはほんとに安全でゐらつしやるんぢやございませんか。」
「あゝさうあつて欲しいものですね、ジエィン!此處に
その
「お掛けなさい。」と彼は云つた。「腰掛には結構二人掛けられますよ。 あなたは私の横に掛けるのを遠慮しはしないでせう、ねえ。 これはよくないことですかね、ジエィン?」
私は答への代りに掛けた。斷るのは賢いことではないと思つたから。
「さて、私の友逹、太陽が露を吸つてゐる中に -- この古い庭の花が皆眼を覺まして花を開き、 鳥たちがソーンフィールドから子供逹の朝飯を取つて來、早起きした蜜蜂が手始めの一働きに出る間に -- ある事件を話してあげますが、あなた自身のことだと思つて聞かなくてはなりませんよ。 だが、その前に先づ私の方を御覽なさい。そしてあなたが樂な氣持ちでゐることや、 私があなたを引留めてるのが惡いことだとか、 あなたがこゝに留つてゐるのがいけないことだとか氣にかけてゐないと云つて下さい。
「いゝえ。私は滿足してをります。」
「どれぢあ、ジエィン、想像力のたすけをおかりなさいよ -- あなたはもう育ちのいゝ訓練のとゞいた娘ではなく、
幼年時代から氣儘に育つた氣の荒い男の子だとします。 あなたは或る遠い異國にゐるのだと想像して下さい。
其處であなたは大變な過失を犯すのです。どんな質のものか、 またどんな動機からかはまあいゝとして、その結果はあなたに一生涯つきまとひ、
あなたの生存をすつかり毒してしまひます。氣を附けて下さい、私は犯罪と云ふのではない、
やつた者に法律の制裁を受けさせるやうな血を流すとか、
その他そんな罪になる行爲のことを云つてるのではない、私の云つたのは
彼は返辭を待つて口をつぐんだ。私は何と云ふべきであらう?
あゝ
再びロチスター氏は問ひを出した。
「さまよひ歩いた、罪深い、しかし今は安息を求め悔いてゐる人間、
その心の平和と生命の再生を
私は答へた。「さすらひ人が安住し、罪ある人が改心するのには、 人間の力をあてにしてはならないのでございます。
男も女も死にます。哲學者でも智慧の足りぬ事がございます。
クリスト信者でも善の缺ける事があります。もしあなたの御存じの
「しかしその手段 -- その手段です!創業をなさる神はその手段を定めてをられる。私は私自身 -- 譬へ話なんぞは止しませう -- 世俗的な、放蕩な、落着くことのない人間でした。 で、私は信じてゐるのですが、自分の救ひの手段を、その -- 」
彼は口をつぐんだ。鳥は囀り續け、樹の葉は輕く搖れてゐた。
私は彼等がこの中絶したお告げを聞かうとその歌聲や囁きを止めないのを
「小さなお友逹、」と彼はまつたく變つた調子で云つた -- 同時に彼の顏もすつかりその優しさと嚴肅さをなくしてきつく皮肉な樣子に變つて來た -- 「あなたは私がイングラム孃に好い感情を持つてゐるのに氣が附いたでせう。 もし私があの人と結婚したら、あの人は氣が強く、私を再生させてくれるとは思ひませんか?」
彼は突然に立上つて路の向うの端まで歩いて行つた。そして歸つて來た時には、彼は何か歌を口づさんでゐた。
「ジエィン、ジエィン、」と彼は私の前に立ち止りながら云つた。 「あなたは寢ずの番のせゐでひどく蒼ざめてゐますよ。あなたを寢かさなかつた私に怒つてやしませんか?」
「あなたに怒るのでございますつて?いゝえ。」
「その言葉が間違ひでない證據に、握手して下さい。何て冷たい指だ!
昨夜私があの怪しい部屋の入口で觸つた時にはもつと温かだつたのに。
ジエィン、また
「お役に立つときには何時でも。」
「例をあげれば、私が結婚する前の晩!きつと眠れないに違ひないと思ひますからね。 私の話相手になつて一緒に起きてゐると約束してくれますか? あなたには私は自分の愛する者のことを話すことが出來る。 何故ならば今はあなたはその人を見てゐるし、知つてもゐるから。」
「さうでございます。」
「あんな人は滅多にありませんねえ、ジエィン?」
「左樣でございます。」
「きりゝとした女の人 --
私が一方の路を行くと、彼は他方の路を行つた。そして中庭の方で快濶に云ふのが聞えた --
「メイスンは今朝諸君を出しぬいて出立しましたよ。日の出前でした。私は見送りに四時に起きたのです。」
豫感は不思議なものだ!そして、因縁もさうだ。前兆もさうだ。さうして、この三つの結合は、人間が、
まだそれを解く鍵を見出してゐない神祕なものを造る。私は、生れてから決して、豫感を
私がまだ六歳の少女だつた頃、或る晩ベシー・レヴンがマルサ・アボットに、いま、小さな子供の夢を見たと話した。 そして子供の夢を見ると、屹度自身かまたは自分の親族に何か心配するやうなことの起る確かな前兆などと云つてゐるのを聞いた。 その言葉はそれを裏付けるやうな事情が直ぐに起らなかつたなら、私の記憶から消え去つてゐたかも知れない。 その次の日、ベシーは彼女の小さい妹の死の床に臨む爲めに、家に呼び返されたのであつた。
この頃私は頻りにこの話しとこの出來事を思ひ出した。 何故なら先週中は殆んど一晩も赤ン坊の夢を見ないで眠つた夜はなかつたのだ。
それが、或るときは私の腕に抱いてなだめてゐたり、あるときは膝にのせてあやしたり、
またるときは芝生の上で
私はこの一つの觀念の反復 -- この不思議な一つの幻影の繰り返し現はれるのが、厭であつた。
そして床に就くときが近づいて、またその幻の出る時間の迫るにつれ、私はだん〜神經質になつた。
あの月の夜に叫び聲を聞いて起されたときには、私はちやうどこの子供の幽靈と一緒にゐたのであつた。 そしてその翌日の午後、
私は誰かゞフェアファックス夫人の部屋で私を待つてゐると云ふ使ひをうけて階下に
「多分もうお忘れでせうと存じますが、」と、私が這入ると立上りながら、彼は云つた。 「私はレヴンと申します。八年か九年以上前にあなたがゲィツヘッドにゐらした頃、 リード夫人の馭者をしてをりました。そして、今も、まだ、あそこにをりますのですが。」
「あゝ、ロバァト!今日は。よく憶えてゐますよ。あなたはヂョウジアァナさんの栗毛の仔馬に時々私を乘せて下さつたのね。 そして、ベシーはどうしてゐて?あなたはベシーと結婚なさつたのね?」
「はい、お孃さん。ありがたうございます。家内は大變親切でございます。
「それで、お家の方々は皆さま御逹者ですの、ロバァト?」
「殘念ながら、皆さまのことではあまりいゝお知らせが出來ないのでございます。 あの方々は今非常に惡くおなりなので -- 大變なことにおなりなのでございます。」
「どなたかお亡くなりになつたんぢやないでせうね。」と私は彼の黒い服を見て云つた。
彼もまた帽子に卷いた
「ジョンさんが、一週間前の昨日、お亡くなりになりましたのです、倫敦の御自分のお部屋で。」
「ジョンさん?」
「はい。」
「で、お母樣はまあどうして堪へてゐらつしやるでせう?」
「いえ、それがあなた、エアさん、ありふれた不幸ではないのでございますよ。 あの方の生活は非常に荒んでゐたのでございます。この三年來あの方は妙な途に這入り込んでしまはれたので、 恐しい死に方をなさつたのです。」
「私も、ベシーから、あの方があまりいゝことをしてはゐらつしやらないとは聞いてゐました。」
「いゝことどころか、あれ以上惡いことはなされやしませんよ。
あの方は極惡人の男や女に交つて、健康も財産も臺無しにしてしまはれたのです。
借金も拵へるし、牢にもお這入りになりました。二度ばかりはお母さまが救ひ出してお上げになつたのですが、
しかし自由になるが早いか直ぐに以前の仲間や癖に逆戻りなさるのです。
あの方は頭のしつかりしてない方で、一緒の仲間だつた惡者共は聞いたこともない位あの方を大馬鹿者にしたのでございます。
三週間ばかり前、あの方はゲィツヘッドへ歸つてゐらして、奧さまに財産全部を讓つて欲しいと仰しやつたのです。
奧さまは
私は沈默してゐた。恐ろしい
「奧さまは御自分でも暫く身體を壞してゐらしたのです。 大變お肥りになつてゐらしたのですが、それで御丈夫ではないのです。
それにお金の損失や貧乏の不安などがすつかりあの方をがつかりさせてしまひました。
ジョンさんの亡くなられたことと、そのときの樣子の
「えゝ、ロバァト、支度しませう。どうしても私が行かなくてはならないやうですから。」
「私もさう思ひます、お孃さま。ベシーはあなたはきつとお斷りにはならないと申してをりました。 ですが、お發ちになる前にお暇をお貰ひにならなくてはと存じますが?」
「えゝさう。今願つて來ませう。」そして彼を召使逹の部屋に連れて行つて、ジョンの妻の手に委ね、 ジョン自身にも紹介しておいて、私はロチスター氏を探しに行つた。
彼は、階下の部屋には何處にもゐなかつた。中庭にも
「あの人間があなたに何か御用なんでせう?」と彼女はロチスター氏に訊ねた。
そしてロチスター氏はその「人間」とは誰かと振り返つて見た。彼は何事かと云ふやうに眉をひそめて -- 彼の妙な、曖昧な表情の一つである
--
「なに、ジエィン!」と彼は閉ざした書齋の
「若しよろしうございましたら、一週間か二週間、お暇をおたゞきたいのでございますが。」
「何の爲めに? -- 何處へ行く爲めに?」
「私を呼びに寄越しました病氣の女の人に會ふ爲めでございます。」
「どうした病人です? -- 何處に住んでるのです?」
「△△州のゲィツヘッドにをります。」
「△△州?それぢや百哩も離れてゐる。そんな遠方からわざ〜呼びに寄越す人つて誰です?」
「リードと申します -- リード夫人と。」
「ゲィツヘッドのリード?ゲィツヘッドのリードと云ふ人がゐたつけ、地方長官の。」
「その人の未亡人なんでございます。」
「で、その人に何の用があるの?どうして知つてゐます?」
「リードさんは私の伯父でございましたの -- 母の兄なのでございます。」
「へえ、さうだつたんか!あなたは、今迄一度もそんなことを話さなかつた、親類なんぞ無いつて、
「私を親類と認めてくれるやうな人は、一人もなかつたんですの。リードさんは亡くなりました。 そして伯母さんは私を捨てゝしまつたのです。」
「何故?」
「私が貧乏で、厄介者で、それに私が嫌ひだつたからですわ。」
「しかし、リードは子供逹を遺してゐたのでせう? -- あなたには從兄姉がある筈でせう。 ジョオジ・リン卿が昨日ゲィツヘッドのリード家の一人に就いて話してゐましたが、 その人は倫敦でも札つきの無頼漢の一人だつたと云つてゐましたよ。 それからイングラムは同じ土地のヂョウジアァナ・リードつて人のことを話してゐましたが、 一年か二年前倫敦では美しいので大評判だつたさうですね。」
「ジョン・リードも亡くなりましたの。身を持ちくづして、家族の者まで大方駄目にしてしまつて、
それに自殺したと云はれてをりますの。その
「それであなたが彼女に何の役に立つのです?くだらないことだ、ジエィン!私だつたら、そんな、
多分着く前に死んでゐるかも知れないお婆さんに會ひに百哩の
「えゝ、でも、それはずつと以前のことで、あの人の事情もまるで違つてゐたときのことなのでございますから。 私は今あの人の願ひを聞き捨てにしては氣が安まりません。」
「幾日位泊るのです?」
「なるべく、少うし。」
「一週間きりと約束なさい。」
「お約束はしない方が宜うございますわ。私、それを破らなくてはならなくなるかも知れませんから。」
「どんなことがあつても歸つて來るでせうね -- どんな口實があつても、 あちらに一緒に暮すなどゝいふことに誘はれはしないでせうね?」
「えゝ、決して!若し何も彼もをさまりましたらきつと歸つて參ります。」
「それで誰がついて行きます?百哩も獨りぽつちで旅をしはしないでせうね。」
「えゝ、馭者を寄越しましたの。」
「信用の出來る人ですか?」
「えゝ、その男は、あの家に十年間も住んでゐるのでございます。」
ロチスター氏は思案した。「何時行く積りです?」
「明朝早く。」
「さう、ぢあ、お金を持つて行かなくては。お金なしでは旅行も出來ない。それにあなたはあんまり持つてゐない筈だ、 まだお給金をあげてなかつたから -- 一體、いくら持つてゐるの、ジエィン?」と彼は微笑みながら訊ねた。
私はお金入れを取り出した。ずゐぶん貧弱だつた。「五志ですの。」
彼はお金入れを取ると、その中味を掌の上に擴げて、そのぽつちりしかないのが嬉しいかのやうにくす〜と笑つた。
やがて彼は自分の紙入れを取り出した。「これを。」と彼は一枚の紙幣を私に私しながら云つた。
それは五十
「お
私はそれより以上いたゞくのは負債になるからと斷つた。彼は初めの中は不興氣な顏をしてゐたが、 やがて何か思ひ付いたかのやうに云つた --
「さうだ!さうだ!今すつかりあなたに上げない方がいゝ。五十
「えゝ、でもさうすると、今度はあなたが私に借りてらつしやることになりますけど。」
「ぢあ、それを貰ひに歸つていらつしやい。私はあなたの四十
「ロチスターさん、私この機會にも一つ事務的なことを申上げたうございます。」
「事務的なこと?聞きたいものですね。」
「近々に御結婚なさるといふことはもうお話し下さつたやうなものでございますね。」
「さうですよ。それがどうしたのです?」
「さうなりますと、アデェルは學校へ行かなくてはなりますまい。きつとその必要をお認めになると思ひます。」
「あの子を私の花嫁さまの邪魔にならないやうに除けてしまふことですか。 さもなければあんまりきつく踏みつけられるかも知れませんね。その提議にも一理がある。 確かにさうですよ。あなたが云ふ通りアデェルは學校へ行かなくてはならん。 そしてあなたは勿論わき目もふらず -- おさらばか?」
「私、さうなりたくはございません。でも、何處かに別の地位を見附けなくてはなりませんわ。」
「勿論!」と彼は聲を鼻にかけて、異樣に滑稽に顏を歪めて叫んだ。そして暫く私を眺めてゐた。
「そしてリード老夫人かお子さんの令孃かに口を探して下さいと、あなたは懇願されるのでせうね?」
「いゝえ、私とあそこの人逹とはこちらの便宜で頼んで差支へないやうな、 そんな間柄の親類ぢやないのでございます。私は廣告します。」
「
「私も入用なんでございますわ。」と私はお金入れを持つた手を背後にやりながら答へた。 「どんなことがあつてもこのお金は手離せませんわ。」
「けちんぼうだな!」と彼は云つた、「お金が欲しいといふ願ひを
「五
「ぢやお金を見せるだけ。」
「いゝえ、いけませんわ。信用がならないのですもの。」
「ジエィン!」
「え?」
「一つだけ約束して下さい。」
「何でもお約束いたします、私に出來さうだと思ふことでしたら。」
「廣告しないこと、そしてこの仕事の口は私に委せるといふことを。 間に合ふやうに私が見附けて上げますから。」
「ぢあ、私も、奧さまがいらつしやる前に、私もアデェルも二人共お家から無事に出して下さいますなら、 喜んでお約束いたしませう。」
「宜しい!宜しい!きつとですよ。ぢあ、明日發つのですね?」
「えゝ、朝早く。」
「晩餐の後で、客間に下りて來ますか?」
「いゝえ、旅行の支度をしなくてはなりませんから。」
「ぢあ、しばらくの間の左樣ならを云はなくちやなりませんね?」
「左樣でございます。」
「では、人は別れの禮をどういふ風にするのでせうねえ、ジエィン。教へて下さい、私はよく知らないから。」
「左樣ならとかなんとか、好きなやうに申します。」
「では、さう仰しやい。」
「左樣なら、ロチスターさん、當分の間。」
「私は何と云ふの?」
「同じにですわ、お宜しかつたら。」
「左樣なら、エアさん、當分の間。それだけ?」
「えゝ。」
「何だかけちくさくて、素氣なくつて、よそ〜しいやうな氣がしますね。 私は何かもう少しその挨拶に附け加へたいな。握手をしたら、例へて云へばね。だが駄目だ -- それだつて私には十分ぢやない。ぢあ、たゞ左樣ならと云ふだけでいゝんですか。、あなたは、ジエィン?」
「それで十分でございますわ。一言でも心からのものなら幾言も云つたと同じ位に好意は傳へられますもの。」
「如何にもその通り。しかしそれぢあ、餘りに素氣なくて冷たい -- 『左樣なら』ぢや。」
「何時までかうして、
晩餐の
ゲィツヘッドの門番の家に着いたのは、五月一日の午後五時頃だつた。
私は
「まあ、よく! -- きつと、いらつしやると思つてゐました!」 と私が這入つて行くとレヴン夫人は叫んだ。
「えゝ、ベシー。」と接吻をしてから私は云つた。「もう間に合はないなんてことはないと思ふけれど。 リード夫人はどんな御樣子? -- まだ大丈夫、でせうね。」
「えゝ、大丈夫ですよ。そして今迄よりずつと意識がはつきりして、 心も落着いてゐらつしやいますの。お醫者さまはまだ一週間か二週間位は持つだらうと仰しやるのです。 でも結局、恢復なさるだらうとは、とても思つてはゐらつしやらないのです。」
「この頃、私のことを仰しやつて?」
「ほんの今朝方あなたのことを話して、あなたがいらつしやればいゝがと云つてゐらしたところですの。
でも今は丁度十分前に、私がお
そこへロバァトが這入つて來た。ベシーは眠つてゐる兒を搖籠に寢かして彼を迎へに出て行つた。
それから彼女は無理に私の帽子を
彼女が忙しく立働いてゐるのを -- 一番よい珈琲茶碗を載せたお茶盆を取り出したり、
パンをきつてバタをつけたり、お茶のお菓子を燒いたり、またその合間々々には小さいロバァトやジエィンを、
丁度昔何時も私にしてゐたやうにちよい〜輕く叩いたり押したりしてゐるのを見てゐると昔のことが思ひ出されるのであつた。
ベシーは輕やかな足どりと、いゝ
お茶の用意が出來て、
私は
彼女は、私がソーンフィールド
そんな話しの内に一時間は忽ち過ぎてしまつた。ベシーは私の帽子やその他のものをちやんと元のやうにしてくれると、
私はベシーに伴はれてお邸の方へと番小屋を出た。今私が登つて行く
「朝食のお部屋に先づいらつしやい。」とベシーは廣間を先に立つて行きながら云つた。 「お孃さま方はそちらにゐらつしやいませうから。」
すぐに私はその部屋に這入つた。樣々の家具は私が初めてブロクルハースト氏に紹介されたあの朝とまつたく同じだつた。
彼が立つてゐたあの敷物もまだ
二人の若い婦人が私の前に現はれた。一人は非常に背が高く、殆んどイングラム孃位に高く --
それに非常に痩せて蒼白く、嚴しい顏付をしてゐた。彼女の樣子には何か禁慾的な風があつた。
それがまた飾氣のないスカァトと、黒い毛織の服や、糊つけの
もう一人の方もまた確かにヂョウジアァナであつた。しかし私の覺えてゐるやうな --
十一歳のたをやかな
姉妹の兩方共、母親の面影があつた -- 一ところだけ。痩せて蒼い姉娘の方は母親の
二人は私が這入つて行くと、私を迎へて立上つた。そして二人共私に「エアさん、」といふ名を呼んだ。
イライザの挨拶は簡單な素氣のない聲で、笑ひ顏もせずに、述べられた。
そして彼女は再び腰掛けると爐の火を見つめたまゝ私のことは忘れたやうに見えた。
ヂョウジアァナは「御機嫌如何?」と云つて、二言三言私の旅行のことや、天氣その他のお
しかし内緒にしろ大つぴらにしろ、今や輕蔑は、私の上に左右してゐた力を持たなくなつてゐた。 私は二人の從姉妹に間に坐つて、一方からは全然無視され、 一方からは半ば嘲るやうな眼で見られても自分の氣持ちは一向に平氣なのが不思議な氣がした -- イライザが私を口惜しがらせることもなく、ヂョウジアァナが私を狼狽させることもなかつたのである。
つまり、私は他に考へることがあつたのだ。過去數ヶ月の間、私の内には、 彼等が私の心に起させ得るどんな感情よりも強いものが動いてゐたのである -- 彼等の力が與へ得るどんなものよりも、もつと〜鋭い痛切な苦しみや喜びである -- だから彼女等の樣子は私には善くも惡くも何の關係もないものだつた。
「リード夫人はどんな御樣子ですの?」と、私は落着いて、ヂョウジアァナを見ながら訊ねた。 それが彼女にはまるで思ひもよらない失禮なことだつたかのやうに、彼女は、 このうちつけな言葉に對して、つんと威張るべきだと思つたらしい。
「リード夫人?あゝ、母さまのことを云つてらつしやるの!
「若し、」と私は云つた。「あなたがちよいと二階へいらして私が來たことをお知らせして下さると嬉しいのですが。」
ヂョウジアァナは、殆んど跳び上らんばかりだつた。そして青い眼を烈しく大きく[目|爭{[]](は)}つた。 「特別に私に會ひたいと思つてゐらつしやるのを私知つてをります。」と、私は附け加へた。 「それに私に會ひたいと仰しやる思召通りにするのを必要以上に延ばしたくはございませんから。」
「母さまは、夜、妨げられるのはお嫌ひです。」とイライザが云つた。
私は、すぐに立上つて、すゝめられはしなかつたが、靜かに帽子と手袋をとつて、 ちよつとベシーのところ -- 多分臺所にゐるだらう --
へ行つて、リード夫人が今晩私に會ふ氣か否かを確かめて來ると云つた。
出掛けてベシーを探し出して用事を話し、私はどん〜その上の處置をしてしまつた。
今では私は何時でも尊大にかまへられると、畏縮してしまふのが癖だつた。今日のやうな待遇でも受けやうものなら、
一年前にはもう翌朝直ぐにも、ゲィツヘッドを去る決心をしたに相違ない。
今ではそんなことをするのは、馬鹿げた考へだといふことがすぐ私に分つた。
私は伯母を見ひに百哩の旅をして來た。そして彼女が
「奧さまはお目覺めです。」と彼女は云つた。「あなたがいらしたことを申し上げときました。 あなたがお分りになるかどうか行つてみませう。」
私は以前あんなに幾度も折檻や懲戒の爲めに呼びつけられてよく知つてゐるあの部屋に案内してもらふ必要はなかつた。
私はベシーの前に立つて急ぐと、そつと
私はリード夫人の顏はよく覺えてゐた。そして私は熱心にあの見なれた面影を探した。 時がたつと復讐のねがひも消え失せ、忿怒と嫌惡にはやる心も默してしまふことは有難いことである。 私は苦痛と憎惡の裡にこの女の許を立ち去つた。そして今は彼女の大きな憎しみに對する一種の同情と、 受けた傷は何も許して忘れようとする -- 和解して仲好く手を握り合はうとする強い願ひをもつて、 今彼女の所に歸つて來たのである。
よく知つてゐる顏は、昔と同じやうに嚴しく慘酷にそこにあつた --
どんなものも和げることの出來ないあの特有の眼と、いくらか上り氣味の我儘らしい壓へつけるやうな眉であつた。
幾度それが
「ジエィン・エアなのかい?」と云つた。
「えゝさうですの、リード伯母さま。如何ですか、伯母樣?」
私は彼女を二度と伯母とは呼ぶまいと嘗て誓つた。だが今となつてその誓ひを忘れて、 破ることが罪だとは思はなかつた。私の指は、敷布の外に出てゐる彼女の手をしつかりと握つてゐた。 若し彼女が私のを優しく握り返したなら、その瞬間にも、私は僞りならぬ喜びを感じたことだらう。 しかし感じの鈍い人間はなか〜急には心が和げられず、持つて生れた反感はさうすぐにはなくならなかつた。 リード夫人は手を引込めた。そして私から顏をそむけるやうにして暖い晩だと云つた。 再び彼女は氷のやうに冷やかに私を見た。私はすぐに私に對する彼女の意見 -- 私に對する彼女の感情 -- は、變つてもゐないし、變へ得ないものだといふことを直ぐに感じた。 私は彼女の石のやうな眼 -- 優しさに對して鈍感で、涙に溶けぬ -- を見て、 彼女は最後まで私を惡く思はうと決心してゐることを知つた。 何故なら私を善いものと信ずることは彼女に少しも寛大な悦びを與へないで、たゞ屈辱の感を與へるのみだつたからだ。
私は苦痛を感じた。それから忿怒を感じた。そしてその次には彼女に打ち勝たう -- 彼女の性質がどうあらうとも、意地が強からうとも、こつちが上手に出ようといふ決心を抱いた。 ちやうど子供の頃のやうに涙が湧いて來た。その涙に私は源へ歸れと命令した。 寢臺の枕もとへ椅子を持つて來て、私は腰掛けて枕の上に身を屈めた。
「私を呼びにお寄越しになりましたのね。」と私は云つた。「それで私まゐりました。 そしてどんな御經過か分ります迄ゐさせていたゞく積りでをりますの。」
「あゝ、勿論!娘逹には會つたんだらうね?」
「えゝ。」
「ぢや、私が考へてる事柄をお前と話せる迄お前に此處にゐて欲しいと私が云つてたと
そのさ迷ふ目付や變り果てた言葉つきは、あの頑丈な身體が、どんなにやつれ衰へたかを語つてゐた。
落着かぬやうで寢返りをしながら、彼女は被せかけてある
「立つとくれ!」と彼女は云つた。「蒲團をきつく押へて私を困らせないでおくれ -- お前、ジエィン・エアかい?」
「私、ジエィン・エアですよ。」
「私はあの子には誰も信じられない位に困らされた。あんな負擔が私の手に遺されるなんて --
そしてあの諒解出來ない性質と不意にかつとなる氣質とあの
「不思議なお望みですね、リード伯母さま、どうしてそんなにお憎みになるのですの?」
「私はあの子の母が何時も嫌ひだつたのさ。何故かと云へば、
彼女はだん〜興奮して來てゐた。「私もうあつちへ行つたはうがいゝやうですね。」 と私は寢臺の向う側に立つてゐるベシーに云つた。
「それの方がいゝかも知れませんね、お孃さん。ですが、夜になつて來ると、 よくかういふ風にお話しになるんですの -- 朝方はかなり靜まられますが。」
私は立ち上つた。「お待ち!」とリード夫人は叫んだ。 「まだ話したい事があるのだよ。
そこで、ベシーは、彼女に鎭靜劑を一杯飮ませようとした。そして、やつとのことで成功した。 やがて、直ぐにリード夫人は、前より落着いて來て、うと〜となつた。それで私は出て行つた。
再び私が彼女と話をするときもなく十日以上の日が經つてしまつた。彼女は熱に浮されてゐるか、 さもなければ昏睡状態が續いて、お醫者は何に依らず彼女を苦しめて興奮させるやなものを禁じた。 その間にも私は出來得る限りヂョウジアァナとイライザによくして行つた。 二人共まつたく初めの内は冷淡だつた。イライザは半日は縫物、讀書、 でなければ書きものに坐つたまゝ私にも妹にも殆んど口を利かなかつた。 ヂョウジアァナは一時間毎に彼女のカナリアに他愛もないことを喋つてゐて、私を振り向きもしなかつた。 しかし私はすることや樂しみがなくて手持無沙汰に見えないやうにしようと決心してゐた。 私の持つて來てゐた畫の道具が仕事と樂しみの兩方の役に立つてくれた。
鉛筆入と幾枚かの紙を用意して、私はいつも彼等から離れて窓際に席を占め、
熱心に想像畫を描いた。二つの岩間にちらりと見える海、昇りかけた陽とその圓い形を横ぎつて行く舟、
一かたまりになつた蘆と
ある朝、私は、一つの顏を描きはじめた。どんな種類の顏になるか、私は、
氣にも留めなかつたし、知らなかつた。柔かい黒の鉛筆をとつて、
先を太くして、そして仕事にかゝつた。やがて、私は、紙の上に廣い大きな額と角ばつた顏の下半分の輪廓を描いた。
その形が氣に入つて、私の指はそれに目鼻を附けようとどん〜進んだ。 濃い眞直な眉はその額の下に描かれなくてはならない。
それから次には當然鼻すぢの通つた鼻孔の張つたはつきちした鼻が來る。
その次には
「よし、しかし、まだ實物の通りとは行かない。」私は出來上りを眺めてさう思つた。 「もつと力強さと鋭氣がなくては。」そして私は、眼の輝きが、もつと、 はつきりきらめくやうに陰を濃くした -- 上手に一筆二筆でうまく出來上つた。 もう私の眼の前には、お友逹の顏がある。あの若い女の人逹が私に背を向けようとそれが何だらう。 私は、それを見て、今にも物を云ひさうな程生き寫しの顏に向つて微笑んだ。 私は、それに心を奪はれ、滿足してゐた。
「それは
イライザはまだ口を利かなかつた。明らかに彼女には話をする暇がなかつたのである。
彼女のやうに忙がしさうな樣子をした人間を私は見た事がなかつた。しかし、
何をしてゐるかを云ふことは、いや、寧ろ彼女がせつせとやつてゐることの結果がどうなるのかを見るのは、
困難なことだつた。彼女は朝早く起きるやうに目醒時計を持つてゐた。
朝食前に彼女が何うしてゐるのか知らなかつたが、食後、彼女は時間を規則正しい部分に割り當てゝゐた。
日は三度彼女は小型の本を勉強した。それをよく見ると通俗祈祷書、英國々教の禮拜式の次第を記した本であつた。
ある時私はその本の何が
ある晩いつもよりは打解けた氣持のときにジョンの行爲と一家破産に瀕したことは彼女にとつて深い苦惱であつたと彼女は話した。
しかし今は心を落着けて決心してゐると云つた。自分の財産は貯蓄してあるから、母が亡くなつたら --
恢復することも長持ちすることもまつたくあり得ないことだから、と彼女は平氣で云つた。 --
長い間
「無論行きはしません。」ヂョウジアァナと彼女とはまつたく共通な點がない。決してない。
いくら報酬をもらつても、ヂョウジアァナと附合ふ負擔は彼女は負はないだらう。
ヂョウジアァナは自分の
ヂョウジアァナは、思つてゐることを私に打明けないときには大抵
「ヂョウジアァナ、あなたのやうに世間の場所ふさぎになる仕樣のない動物つたら決してありはしないわ。
あなたのやうな役た立たずは生れて來る權利なんぞありはしない。 理性のある人間が當然しなくてはならないやうに、自分の爲めに、自分の内に、
自分と共に生きて行く代りに、あなたは自分の弱さを誰か他人の力に捲き付けようとばかりしてゐる。
男でも女でも、そんな肥つちよの、弱蟲の、自惚の強い役に立たずを背負ひ込まうつて人が見附からないと、
あなたは虐待されたとか無視されたとか慘めだとかつて喚き立てるのでせう。
それからまたあなたにとつて人生といふものは
彼女は口をつぐんだ。
「そんな長談義を、わざ〜して下さらなくてもよかつたのに。」とヂョウジアァナは答へた。
「あなたが世界中で一等勝手な、無情な人間だつてことは、誰だつて知つてゐます。
そして私だつてあなたが私を意地惡く憎んでることは知つてゝよ。
あなたがエドヰン・ヴィア卿のことで先づ私に企んだたくらみがいゝ
眞實な寛大な感情はある人々には輕んじられてゐる。しかしこゝにゐる二人の人間は、 それを缺いてゐる爲めに、一人はこの上もなく辛辣な性質となり、 一人は情ない程味も素氣もない性質となつてしまつた。判斷力のない感情はまつたく水つぽい藥である。 しかしまた感情に和らげられぬ判斷力は、人間がのみ込むには、あまりに、苦くひからびた一片の食物である。
雨の降る風まじりの午後のことであつた。ヂョウジアァナは小説を讀み乍ら安樂椅子の上に眠り込んで了ひ、 イライザは新しい教會の祭日の禮拜に出掛けて、ゐなかつた -- 宗教の事では、彼女は大變な禮式固持者だつたから。 どんなお天氣でも彼女の信心のお勸めだと云ふものをきちんと果すのを妨げた事は無かつた。 晴れても降つても毎日曜三度、それに平日でも祈祷會のある度に禮拜に行くのであつた。
私は殆んど打つちやらかしのやうに横になつてゐる、 今にも死にさうな病人がどんなになつてゐるかを見に二階へ行かうと思つた。
召使逹も思ひ出したやうに時々氣を附ける位で、 雇ひ込んだ看護婦も一向に監督されないので暇さへあれば部屋を出てゐるのであつた。
ベシーは忠實だつた。しかし自分の家族のことも、氣を附けなくてはならないので、
ほんの時々しか
この大きな神祕について考へてゐるうちに私はヘレン・バーンズのことを思つて彼女の言葉 -- 彼女の信仰 --
肉體を離れた魂は平等だといふ彼女の説などを思ひ起した。なほも私は心の中であのよく憶えてゐる調子に耳を澄まし --
なほも私は彼女が穩かな死の床に横はつて、 天の父の
「私ですの、リード伯母さま。」
「誰 -- 私とは?」といふのが返事であつた。
「お前は誰?」と
「番小屋にをりましてよ、伯母さま。」
「伯母さま、」と彼女は繰り返した。「私を伯母と呼ぶのは誰だらう。 お前はギブスン家の人ではない。だけど私はお前を知つてゐる -- その顏、その眼、額はよく知つてゐる。 お前は丁度 -- さうだ、お前はジエィン・エアに似てゐる!」
私は何も云はなかつた。同一の人だと云つて、ひどく驚かせてはと思つたからである。
「だが、」と彼女は云つた。「間違ひかも知れない。私の氣の迷ひだ。
私はジエィン・エアに會ひたいと思つた。そしてありもしない似通つた點を想像してゐる。
それに八年もの間にあの子は隨分變つてゐる筈だし。」そこで私は靜かに私が彼女の推定した、また、
さうであるやうにと望んだ人間であることを納得させた。そして私が分つて、彼女の意識もすつかりはきりしたのを見て、
私はベシーがソーンフィールドから、私を連れて來る爲めに彼女の
「私は
私だけだと云つてきかせた。
「さうかい、私は今は後悔してゐるのだけれど二度までお前に惡いことをしてゐたのだよ。
一つはお前を自分の子供同樣に育てると
彼女は位置を變へようとしたが駄目だつた。彼女の顏が變つて來た。彼女は何か内心の感動を經驗してゐるらしかつた -- 多分末期の苦痛のさきがけであらう。
「さうだ、私は打ち勝たなくてはならない。私の前には永遠がある。話してしまつた方がいゝ。 -- 私の衣裳箱のところへ行つて、開けて、其處にある手紙を出しておくれ。」
私は彼女の云ふ通りにした。「その手紙をお讀み。」と彼女は云つた。
それは短いもので、次のやうに云つてあつた --
『奧さま -- 失禮乍ら小生の姪、ジェイン・エアの住所とその近況をお報らせ下されまじく候や。 近々書面にてマデイラなる小生が許に來るやう申したき意志に御座候。小生事僥倖にも相應の資産獲得いたし候も、 妻もなく、子もなければ、小生生存中は養女となし、死後は遺す可き物は何者によらず讓り渡し度く存じ居り候。 小生は、云々
日附は三年前になつてゐた。
「どうして私このことを聞かなかつたのでせう。」と私は訊ねた。
「お前が仕合せな身分になるのに手を貸してやるのが堪らない程、
私の心の底からお前が嫌ひだつたからなんだよ。お前が私に對する振舞ひを私は忘れることが出來なかつた。 ジエィン --
いつぞや私に刄向かつて來たときの、あの狂氣じみた怒り方を。
世界中で一番惡い人間だと私を嫌つたあの口調を。私のことを考へると氣持が惡くなると云つた、
私が淺ましい程酷くお前に當ると云ひ張つたときのお前のあの
「リード伯母さん、」と私は彼女の求める水を出し乍ら云つた。 「もうこんなことは何もお考へにならないで、忘れてしまつて下さいまし。
私の
彼女は私の云ふことには耳をかさなかつたが、水を飮んで息をつくと、次のやうに話を續けた --
「私はあのことを忘れることが出來ないと云つた。そしてその返報をした。
お前が叔父さんに養はれて安樂な身の上になるのは私には我慢の出來ないことだつたから。
私は向うに書いてやつた。失望させてお氣の毒だけどジエィン・エアは亡くなつた、 ローウッドでチブスに罹つて亡くなつたと云つたのだよ。
さあ、どうとも好きなやうにしておくれ。手紙をやつて私の云つたことに反對おし --
今直ぐにも私の
「そんなことはもう考へない氣になつて下さつたら、ね、伯母さま、 そして好意をもつて堪忍して私のことを考へて下さることがお出來になつたなら。 -- 」
「お前はほんとに性惡だ。」と彼女は云つた。「そして今日迄私にはどうしてもわからない人間だ。 どうして九年の間どんな目に遇つても我慢して一言も云はないでゐて、 十年目にありつたけの鬱憤を晴らすことが出來るか、私にはどうしてもわからない。」
「私はあなたがお考へになるやうに性惡ではないのです。私は激し易いのですけれど、 執念深くはありません。小さかつた頃、幾度も〜、
あなたさへ受け入れて下さつたら喜んで私はあなたが好きになつたに相違ありません。
そして今は、あなたと打解けたいと心から願つてゐます。
私は頬を彼女の唇に近よせたけれど、彼女はそれに觸らうともしなかつた。
彼女は私が寢床に
「それでは私をお愛しにならうとお憎みにならうとお好きなやうになさいまし。」 とう〜私はさう云つた。「私はすつかり心からあなたをお許しゝてをります。 今は神さまのお許しをお願ひになつてお落ち着きなさいますやうに。」
可哀相な受難の女!今は習慣になつた考へを變へようと努力することは彼女には遲すぎたのだ。 生きてゐるとき、彼女は私を憎みつゞけた。死に面しても、彼女は未だ私を憎まなくてはならない。
そのとき看護婦がベシーを後に這入つて來た。 それでも私は何か親和の徴候が見えないかと願ひ乍ら半時間ばかりも留つてゐた。
しかし彼女は何も示さなかつた。彼女は深い昏睡に落ちたまゝ、 再び意識を囘復することもなく、その夜の十二時に息を引取つてしまつた。
私は彼女の死目に會はなかつた。娘逹も孰れもゐなかつた。二人は翌朝私の許に何も彼も終つたことを告げに來た。
そのときにはもう彼女は入棺されてゐた。イライザと私は、彼女に會ひに行つたが、
大きな聲で泣き出したヂョウジアァナは到底行けないと云つた。 サラア・リードの嘗ては立派で元氣だつた體が、硬くなつて動かず横はつてゐた。
イライザは、平然として母親を眺めてゐた。
「あんな體質なら十分年をとるまで生きてゐる筈だつたのに、苦勞が生命を縮めたのですね。」
そしてちよつとの間痙攣が彼女の口元を引きつらせた。それが過ぎ去ると彼女は
ロチスター氏は一週間の暇しか許してくれなかつたけれど、私がゲィツヘッドを立去らぬうちに早一ヶ月は過ぎてしまつた。
お
とう〜私はヂョウジアァナを送り出した。しかし今度はイライザの番で、彼女はもう一週間ゐてくれと頼んだ。
彼女の時間も注意もすつかり計畫の方にとられてゐると彼女は云つた。
彼女はある未知の目的地に發たうとしてゐるのだつた。そして終日自分の部屋に這入つたまゝ
ある朝彼女は私に用はなくなつたと云つた。「そして、」と彼女は附け加へた。
「大變役に立つて下さるし、行屆いた管理をして下さつて有難う。
あなたのやうな方と御一緒に暮らすのとヂョウジアァナとゐるのとでは大分違ひますわ。
あなたは世の中にあつても御自分の本分をお果しになつて、 誰の厄介にもおなりにならない方です。明日、」と彼女は言葉をつゞけた。
「私は大陸へ出發します。そして、リスルの近くにある修道院 -- あなた方が尼寺とお呼びになる --
に住居を定めます。其處で當座の間はロオマン・カトリックの
私はこの決心をきいて驚いたとも云はなければまたそれを思ひ止まるやうにと勸めもしなかつた。 「その仕事は、あなたにまつたくよく合つてゐるでせう、」と私は思つた。 「それであなたが幸福になれますやうに!」
別れるときに彼女は云つた。「左樣なら、從妹のジエィン・エア、御機嫌よう。 あなたは譯の分つた方ね。」
そこで私は答へた。「あなたも譯の分らない方ぢやありませんわ。從姉のイライザ。 でも多分あなたの持つてらつしやる分別は來年あたりは彿蘭西の尼寺の中にそのまゝ閉ぢ籠められてゐるのでせうね。 だけどそれは私のことではありませんから、あなたにはお似合でせう。 私は大して氣にもかけもしません。」
「その通りですよ。」と彼女は云つた。そして、この言葉で私共は別れて
長いにしろ短いにしろ、留守にしてゐた家へ歸つて來るとき、人はどんな氣がするか、私は知らなかつた。
そんな感動は私には嘗て經驗のないことであつた。子供の頃長い
私の旅は退屈 -- 大變に退屈らしく思はれた。一日に五十哩、一夜を宿屋に明して、 次の日はまた五十哩である。初めての十二時間は、私はリード夫人の死際のことを考へてゐた。 醜くなつて變色した顏が見え、變に變つた聲が聞えた。葬式の日、お棺、柩車、小作人や召使逹の黒い行列 -- 親類の者は、殆んどゐなかつた -- 口を開けて待つ地下の墓所、しんとした教會、 嚴肅な葬禮などのことが心に浮んで來た。すると今度はイライザとヂョウジアァナのことが思はれた。 一人は舞踏室で人目を惹き、一人は尼寺の中に住んでゐる。私は二人の人物や性格の別々な特徴に心を留めて分析してみた。 夕方大きな××街に着くと、こんな思ひは散り〜゛になつてしまつた。 夜はまつたく別な方に思ひが移つて、旅の枕に休み、追憶を去り前途を想つたのだ。
私はソーンフィールドへ歸つて行かうとしてゐた。しかしそこにどれ位の間ゐるのであらう。
長いことではない、といふことは確かであつた。私が留守をあけてゐた間にフェアファックス夫人から便りがあつた。
疑問は續いた。「何處に行つたらいゝだらう。」私は一晩中イングラム孃の夢を見た。
私は歸りのはつきりした日取は、フェアファックス夫人に知らせてゐなかつた。 車も馬車もミルコオトまで私を迎へに來て欲しくなかつたからである。 その道程を一人で靜かに歩いて行きたいと思つて、馬車を馬丁の手に委ねてから六月のある夕方六時頃、 私は極く目立たぬやうにジョージ旅館を忍び出た。そしてソーンフィールドへの舊道 -- 大抵畑の間を通つてゐて、今は殆んど人の通らぬ道路を行つた。
輝かしいとか華やかとか云ふやうな夏の夕方ではなかつたけれど、美しく穩やかであつた。
私は目の前の道が短くなつて來るのが嬉しかつた -- あまりに嬉しくて、
とう〜一度立止つて一體何故こんなに嬉しいのかと自分に訊いた。 そして私は自分の家へ歸つて行くのでもなく、永久の休息所へでもなく、
また懷しい友が私を求めて私の着くのを待つてゐる場所へでもないといふことを思ひ出した。
「きつとフェアファックス夫人は穩やかにお前を迎へて微笑んでくれるだらう。」と自分に云つた。
「そして幼いアデェルは、お前を見ると手を
だが青春程強情なものがあらうか。無經驗ほど盲目なものがあらうか。これが、向うが私を見ようと見まいと、 ロチスター氏を再び見ることを得るのは大變な歡びだと肯定したのであつた。 そして附け加へて云ふ。「お急ぎ!お急ぎ!出來る間あの方と一緒におゐで。もう幾日か、多くて數週間位、 さうすればお前は永久にあの方から引き離される!」そして私は新しく生れた苦悶 -- ひたすら求めて得られず培ふことも出來ない醜いものと鬪つた。そして急ぎつゞけた。
ソーンフィールドの牧場でも人々は
如何にも、彼は幽靈ではない。それなのにあらゆる神經が弛んでしまつた。暫しが程私は茫然としてゐた。
何といふことだらう。彼を見てこんな風に顫へようとは、 彼の前に立つて聲も動く力もなくなつてしまはうとは思はぬことであつた。
動けたら直ぐにも引返さう。本當に馬鹿なことをして恥をかく必要はない。
私は家へ行く別の道を知つてゐる。だが、
「やあ!」と彼は叫んで、本と鉛筆をしまつた。「歸つて來ましたね!こゝへいらつしやい、さあ、どうか。」
私は行くのだらう。だが、自分の動作に氣が附かず、ただもう落着いて見えるやうにと心配して、 中にも腹の立つ程私の意志に反して騷ぎ、
私が隱さうと思つてゐるものを表に出さうと
「これがジエィン・エアだらうか?ミルコオトから來るところの、而も歩いて?さうだ -- いかにもあなたのやるさうなことだ。馬車を寄越せと頼んで、當り前の人間のやうに街や往來を車で來ようとはせずに、 まるで夢か影のやうに夕暮時分に、自分の家の近くに忍び込んで來るのだ。 一體全體先月中何うしてゐたのです?」
「亡くなつた伯母のところにゐましたの。」
「ジエィンらしい答だ!天使らよ、われを護り給へ、だ。 この人はあの世から來たのだ -- 死人の國から。
そしてこんな
彼は踏段を離れなかつた。そして私はそのまゝ彼を行き過ぎさせたくなかつた。 私は直ぐに彼が倫敦に行かなかつたのかと訊ねた。
「行きましたとも。多分直ぐにあなたには分るでせうよ。」
「フェアファックス夫人が、お便りの中で知らせて下さいました。」
「私が何しに行つたか書いてありましたか。」
「ございましたとも!何しにいらしたか、誰だつて存じてをりますわ。」
「あなたはあの馬車を見なくちやなりませんよ、ジエィン。 そしてそれがロチスターにぴつたり似合ふと思はないかどうか、
私に話してくれなくちやなりませんよ。 それからあの紫のクッションに背を
「それは魔法の力も及びませんでせう。」そして私は心の中で附け足した。
「美しい眼が何より大事な魅力です。その點であなたは本當に美しくてゐらつしやいます。
それとも寧ろあなたの
ロチスター氏は折々、私には理解出來ない鋭敏さで、私の口に出さぬ思ひを讀んでしまつた。 このときも、彼は私の口にした素氣ない返答には心を留めないで、彼特有のある微笑を浮べて私を見た。 而もそれは滅多にしか表はさないものであつた。何でもない心意を表はすには、それはよ過ぎると彼は思つてゐるやうに見えた。 それは本當の感情の光であつた -- 彼は今、それを私の上にそゝいだのである。
「お通り、ジャネット。」と彼は踏段を跨ぐやうに場所をあけ乍ら云つた。 「家へ歸つて、その疲れた可愛い旅の足を友逹に家にお休めなさい。」
私の爲すべきことはたゞ默つて彼の云ふ通りにすることであつた。この上話す必要はなかつた。 私は言葉なく踏段を過ぎて、落着いて彼の傍を立去る積りだつた。衝動がかたく私を掴んだ -- ある力が私を振り返らせた。思はず私は云つた -- それとも私の中にある何ものかゞ私の代りに云つた。
「有難うございます、ロチスターさん、こんなに親切にして下さつて。 またあなたのところに歸つて來るのが不思議に嬉しうございます。 そして、何處でもあなたのゐらつしやる處は私の家で -- 私の唯一の家でございます。」
私は彼が追ひつかうとしたところで追ひつけなかつただらうと思はれる位早く歩いて行つた。
幼いアデェルは私を見ると半分狂氣にやうになつて喜んだ。
フェアファックス夫人は
その夕方は私は自分の眼を未來に向けることをきつぱりと止した。
耳も近々の別離と迫つてくる悲嘆とを絶えず私に告げる聲に向つて閉ぢてしまつた。
お茶が濟んで、フェアファックス夫人は編物を取り上げ、私は彼女の傍の低い腰掛につき、
アデェルは絨毯に膝をついて私の傍近く
私がソーンフィールド莊へ歸つて來てから、何れともつかぬ靜けさのまゝ二週間が過ぎた。 主人の結婚に就いては何事も云はれず、そんなことの爲めの仕度も行はれてゐる樣子ではなかつた。 殆んど毎日のやうに、私はフェアファックス夫人に、若しや何か決つたことを、まだきかないかと訊ねたが、 彼女の答はいつも否といふのであつた。一度彼女は面と向つてロチスター氏に何時花嫁をお伴れになるお積りかと質問を出した。 しかし彼は答への代りに冗談と妙な目付をしたばかりで、彼女はそれを何と解していゝやら分らなかつたと云つた。
時に私を驚かせた一事があつた。それは、行きかへりの旅行もなく、イングラム
輝やかしい眞夏が、英吉利中に照り渡つた。その頃、毎日續いた晴れ渡つた空や、輝やかしい陽は、
殆んど滅多に、この浪に圍まれた英吉利に惠まれたことのないものであつた。
まるで伊太利の陽が、晴々とした渡り鳥の群か何かのやうに、南から一塊になつてやつて來て、
アルビオンの崖の上に憇つて、羽を休めてヰるやうであつた。乾草はすつかり取り入れられて、
ソーンフィールドの周圍の耕地は、緑色をなして輝き、道路は、白つぽくやけてゐた。
樹々は暗くなる程繁り、
丁度二十四時間の中、一番氣持のいゝ時間であつた --
晝間の熱い火力は衰へた。」そして喘ぐ野にも燒けつく山頂にも露が涼しく降りた。 太陽が靜かに沈んで行つた處には -- 晴朗な雲 --
莊嚴な紫色が、 一所赤い寶石と爐の火の光とに輝かされて丘の上に高く廣く、穩やかに、なほも穩やかに半天を蔽うて棚引いてゐた。
東の方はまた東の方で、美しい
暫くの間、私は
だがさうではなかつた -- 夕暮は私と同じく彼にも氣持がよかつた。 そしてこの昔風の園も同じやうに捨て難いものであつた。
彼はすぐりの枝を持ち上げて梅の實のやうに大きくなつてゐる實を見たり、
塀から熟した
「今だ、あの方は私に背を向けてゐらつしやる。」と私は思つた。 「それにあちらに氣をとられてゐらつしやる。きつと、そつと歩いたら知れないで行つて了へるだらう。」
「ジエィン、來て
私は音を立てはしなかつた。彼は背中に眼なんぞ附いてはゐない -- 彼の影が感ずるなんてことが出來ようか?初めは、はつと驚いたが、彼の傍に近づいた。
「この翼を御覽、」と彼が云つた。「これはどつちかと云ふと西印度の蟲を思ひ出させる。 英吉利ぢやあこんな大きな綺麗な蛾はあんまり見ませんよ。そら!飛んで行く。」
蛾は飛び去つた。私も極り惡げに退かうとした。しかしロチスター氏は私の後を追つた。 そして私共が小門まで來ると彼は云つた --
「引返すんですよ。こんないゝ晩に家の中に坐つてゐるなんて馬鹿ですよ。 また誰だつてきつとこんなに日沒と月の出とが一緒になつてるときに、床に這入らうなんて思ふやうな人はないね。」
私の舌が、或るときはてきぱきと返答をするのに、口實を拵へるときには情けないやうに駄目になるときが屡々ある、
これは私の缺點の一つである。 而もこの過ちはいつでも私が苦しい困惑から逃れ出る爲めに機敏な言葉とか
尤もらしい口實とかゞ特別に必要なと云ふやうな迫つた場合に起るのである。
私はこんな時分にロチスター氏とたゞ二人暗い果樹園を歩くのは好ましくなかつた。
しかし彼のところを去ると云ひ張るやうな理由も見附からなかつた。
ためらひ勝ちな足取りで、心は忙がしくその場を
「ジエィン、」と私共が月桂樹の並木道に這入つて、低い垣と七葉樹の方へ
「えゝ。」
「あなたはいくらかはこの家に惹きつけられてゐる筈ですね -- 自然の美に對する眼もあり、 可成りたつぷり物に愛着を持てる性質のあなたは。」
「惹きつけられてをりますの、まつたく。」
「それからどういふ風にだか知らないけれど、あの馬鹿な子供のアデェルにもあなたは何かと心を向けてゝ下さるやうですね。 それにあの單純なフェアファックス小母さんにさへも。」
「えゝ、
「で、あの人逹に別れるのが悲しい?」
「えゝ。」
「可哀相に!」と彼は云つて、溜息をつき言葉をきつた。 「それがこの世の中のことのなりゆきですよ。」と彼はやがて續けた。 「心地のいゝ休み場所に落着くや否や、もう休息のときは了つたから起きて進めと呼び聲がするのです。」
「私行かなくてはなりませんでせうか。」と私は訊ねた。 「ソーンフィールドを出て行かなくてはならないでせうか。」
「ならないと思ひますね、ジエィン。お氣の毒だけれど、ジエィン、 本當にさうしなくてはならないと思ひますね。」
これは打撃だつた。しかし私はそれに打ちのめされたまゝではゐなかつた。
「ようございます。行けといふ御命令が下つたら用意いたしませう。」
「今下るのですよ -- 今晩申し渡さなくてはならないのです。」
「ではやつぱり御結婚なさるのでございますか。」
「た、し、か、に -- 間違ひなく。いつもの鋭さでもつて眞直ぐに云ひ當てましたね。」
「近々でございますか。」
「もう直ぐにね、私の -- ではない、エアさん、あなたは思ひ出すでせう、ジエィン、始めて私が、
それとも噂でゞしたか、あなたにはつきりと仄めかしましたね。
私のこの古びた獨身者の頸を神聖なる
「えゝ、私は直ぐにも廣告いたします。その間、多分私は -- 」私はかう云はうと思つてゐた、 「多分私は身を委ねるやうな家を他に見附けるまで此處にとめていたゞくでせう。」 しかし私はもう長い言葉を云ふに堪へないやうに感じて言葉を途切らせた。 私の聲がもうまつたく思ふやうに出なくなつたからである。
「一ヶ月ばかりのうちに私は花婿になる積りです。」と、ロチスター氏は續けた。 「そしてその間に私があなたの仕事も落着場所も探してあげませう。」
「有難うございます。殘念ですけれど私には -- 」
「あゝ、あやまることは要りませんよ、雇人があなたがしたやうに立派な務めを果した場合には、 都合よく出來るやうな一寸した援助をしてくれと雇主に要求してもいゝと私は思ひますね。 實際のところ、私は、もう私の未來の義母をとほして似つかはしい場所をきゝましたよ。 それは愛蘭土のコンノオトにあるダイオニシウス・オゴオル・オヴ・ビタアナット・ロッヂ夫人のお孃さま逹五人の教育を引受けるのです。 あなたは愛蘭土は好きだらうと思ひますがね。彼處の人間は非常に人情のある人逹だと云ひますよ。」
「遠方でございますわね!」
「構はないでせう -- あなたのやうな心の娘さんは航海とか遠いことなどとやかく云やしないでせう。」
「航海ではございません。その遠いことなのです。そしてやがて海が隔てのかき -- 」
「何から、ジエィン?」
「英吉利から、ソーンフィールドから、 -- そして -- 」
「そして?」
「あなたからです。」
殆んど我知らずかう云ふと、意のまゝにならぬ涙が湧き出た。しかし私は聲を立てゝ泣きはしなかつた。
泣くまいと誓つたのである。オゴオル夫人とビタアナット・ロッヂの思ひが冷たく私の心を打つた。
そして行くべき定められた海と
「それは遠うございます。」と私はも一度云つた。
「さうですね、確かに。そしてあなたが愛蘭土のコンノオトのビタアナット・ロッヂに行つてしまつたら、 もう二度とあなたに會はないでせうね、ジエィン -- それはまつたく確かなことです。 私は決して愛蘭土へは渡つて行かない。あの國に對して大して夢想することはありませんからね。 私共はいゝ友逹でしたね、ジエィン、さうぢやなかつた?」
「えゝ。」
「そして友逹同志が別れる夕方には、殘つてゐる暫しの間を互に親しく過したいものです。さあ、 星があちらの空に輝きはじめる間、半時間かそこら航海のことやお別れのことを一緒に話しませう。 おいでなさい。私逹はもう決してこゝに一緒に掛けるやうなことはないでせうけれど、 今晩は平和に腰掛けませう。」彼は私を掛けさせて自分も掛けた。
「愛蘭土までは遠い、ジャネット、そして私の友をそんな退屈な旅に送るのは悲しい。 しかししれ以上のことが出來ないとしたら、どうすればいゝのでせう?あなたは何か私に近いものゝやうに考へますか、 ジエィン?」
今度は何も答へをすることが出來なかつた。私の胸は一ぱいだつた。
「何故かと云ふと、」と彼は云つた。「私は時々あなたに關して竒妙な感じを抱くのです -- 特に、
今のやうにあなたが私の傍にゐるときに。何だか自分の左の肋骨の舌の何處かに絃があつて、
しつかりと、解けないやうにあなたのその小さな體の同じ場所にある絃に結び付けられてゐるやうなのです。
そして若しあの荒れ狂ふ海峽と、二百哩もある陸地が、私逹の間に茫漠と擴がつたなら、
そのつながりの絲は
「そんなことはありませうか。あなたは御存知でゐらつしやいます -- 」その先は云へなかつた。
「ジエィン、森の中で
聞き乍ら、私は身を顫はしてむせび泣いた。もうこの上堪へられないものを抑制することが出來なかつたのである。 私は負けてしまつた。そして頭から足まで鋭い悲嘆にふるへた。 口を利けばたゞもう生れて來なければよかつた、ソーンフィールドに來なければよかつたといふ、 焦れた望みを云ふばかりだつた。
「此處を出て行くのが悲しいからなの?」
私の
「私はソーンフィールドに別れるのが悲しいのです。私はソーンフィールドを愛します。 -- 私は愛します。其處にゐて滿ち足りた樂しい日を送つたからなのです。少くとも暫しの間。 私は踏みつけられませんでした。私は活氣を奪はれませんでした。 私は下等な人逹の考へに埋もれず、輝やいた、勢のある、高尚なものとの交通をいつも、 除外されないでのぞくことが出來ました。私は私の尊敬するものと私のよろこぶものと、 -- 見識のある、力強い、廣い心と近々と話しました。私はあなたを知りました、ロチスターさま。 そしてどうしてもあなたから永久に引き離されなくてはならないと思ふ事が恐れと苦しみで私を惱まします。 お別れしなくてはならない事は分つてをります。しかしそれは死なゝくてはならないと思ふやうなものでございます。」
「どこにその必要があるのです?」と彼は不意に訊ねた。
「どこにですつて?あなたが私の前にお置きになつたのではございませんか。」
「どんな形で?」
「イングラム孃の形で -- 氣高い、美しい人 -- あなたの花嫁さまです。」
「私の花嫁だつて?どんな花嫁?私は花嫁なんぞ持つてやしない。」
「でもお持ちになるでせう。」
「さう、 -- その積りです! -- その積りですよ!」彼は齒を喰ひしばつた。
「では私行かなくてはなりません。 -- あなた御自身がさう仰しやいました。」
「いけない。あなたはこゝにゐなくてはならない。私は誓ふ -- その誓ひを守ります。」
「私は行かなくてはならないと申します!」と私は何か激情のやうなものに興奮して云ひ返した。
「あなたは、私があなたにとつて何の役にも立たなくなつても留つてゐられるとお思ひになりますか。 私が自動人形だとお思ひになりますか?
-- 感情のない機械だと?そして私のパンの
「ありのまゝに!」とロチスター氏は繰り返した -- 「だから、」と彼は私を腕に引きよせ、 彼の唇を私の唇につけながら云ひ足した。「だから、ジエィン!」
「えゝ、だから、」と私は答へた。「でもさうではない。あなたは結婚なさつた方でなくも、 なさつたも同然な方です。そしてあなたに劣つた人 -- あなたが同情を持つてゐない人 -- あなたが心から愛してはゐらつしやらない人と結婚なさるのです。 私はあなたがその人を蔑むのを見もしきゝもしたのです。私はそんな結婚を輕蔑します。 だから私はあなたより上です -- 行かせて下さい!」
「どこに、ジエィン。愛蘭土に?」
「えゝ -- 愛蘭土へ。私は思つてゐることを申しました。もう何處へでも行けます。」
「ジエィン、落着きなさい。そんなにまるで絶望して羽搏きをする狂氣の鳥のやうにもがいてはいけない。」
「私、鳥ではありません。網にかけられもしません。私は自由意志をもつた自由な人間です。 それが今あなたを去らうとしてゐるのです。」
私は一もがきして自由になつた。そして私は眞直に彼の前に突立つた。
「ではあなたの意志一つであなたの運命も決ります。」と彼は云つた。 「私の手も、心も、所有物全部の分前もあなたに捧げます。」
「あなたはおどけてゐらつしやる。私はそれを嘲笑ふだけです。」
「私は、あたたに私と共に生涯を過すやうにと願ふのです -- 第二の私となり、この世で最上の道づれとなるやうに。」
「その運命ならばもうあなたはお擇びになつたのです。それに從つてゐらつしやらなくてはいけません。」
「ジエィン、一寸の間落着いて下さい -- あなたは興奮しすぎてゐる。私も落着きますから。」
風が一吹さつと月桂樹の並木道を拂つて、七葉樹の枝の間に顫へた。遠く -- 遠く -- 無限の彼方へ --
さまよひ消えて行つた。今はたゞ
「私の傍へいらつしやい、ジエィン、お互ひに譯を話して理解し合ひませう。」
「私はもう二度とあなたのお傍へは參りません。私はもう引き離されて元にかへることは出來ません。」
「けれどもジエィン、私はあなたを私の妻として呼ぶのですよ。 私が結婚しようと思つてゐるのはあなたばかりです。」
私は默つてゐた。彼は私をなぶつてゐると思つた。
「おいでなさい、ジエィン、 -- こゝにおいでなさい。」
「我々の間にはあなたの花嫁さまがゐらつしやいますわ。」
彼は立上つて一跨ぎで私の傍に來た。
「私の花嫁はこゝにゐるのです。」と再び私を引きよせながら彼は云つた。 「私と同等なもの、私と似てゐるものがこゝにゐるからです。 ジエィン、私と結婚してくれますか?」
未だ私は返事をしなかつた。そしてなほも彼の腕から逃れようともがいた。 まだ私は疑つてゐたのである。
「私を疑ふの、ジエィン?」
「心底から。」
「私を信じないの?」
「ちよつとも。」
「あなたの眼に私は嘘つきに見えますか?」と彼は熱した語氣で訊ねた。
「小さな疑ひ屋さん、あなたに得心させますよ。私が何んな愛をイングラム孃に抱いてゐるのです? 何もありはしない --
それはあなたも知つてゐる。あの人がどんな愛を私に持つてゐるのです? 何もありはしない -- 私が證據だてた通りに。
私は噂を立てゝ私の財産があの人の想像してる三分の一もないといふことをあの人の耳に入れて、
その後で私は結果を見に行つたのです。彼女からもあの人のお母さまからも受けたのは冷淡なもてなしばかりでした。
私は、イングラム孃と結婚しようと -- 思ひもしないし -- 出來もしないのです。 あなたを -- 不思議な --
殆んどこの世のものとは思へない! -- 私は自分の身體のやうに愛します。 あなたに --
貧しい、名もない、小さな、目立たぬそのあなたに -- 私は
「何ですつて、私に?」と私は彼の熱心さに -- 特に彼の粗野な容子に -- 彼の眞實さを信じ始めながら、叫んだ。
「世界中にあなたより他には -- 若しあなたが私の友なら -- 友もない私に、
あなたが下さるより外には
「あなたにです、ジエィン。私はあなたを私のものにしなくてはならない -- すつかり私のものに。 私のものになつてくれますか?はいと云つて下さい。今直ぐに。」
「ロチスターさま、あなたのお顏を見せて下さい。月の光の方を向いて下さい。」
「何故?」
「あなたの顏色を讀みたいのです -- 向いて下さい!」
「さあ!皺くちやになつて書きなぐつた頁みたいに、讀み易くないでせうよ。お讀みなさい。 たゞ急いで。苦しいから。」
彼の顏はひどく動搖そて、非常に熱してゐた。そして顏は苦しげに動き、 眼には常ならぬ輝きがあつた。
「あゝ、ジエィン、あなたは私を苦しめる!」と彼は叫んだ。 「その探るやうな、而も信ずべき寛大な眼であなたは私を苦しめる!」
「どうしてそんなことがありませう?あなたが眞實で、 あなたの仰しやることが本當でしたら私のあなたへの氣持はたゞ感謝と熱心ばかりです、 -- それが苦しめる筈はありません。」
「感謝!」と彼は叫んだ。そして狂ほしく云ひ添へた -- 「ジエィン、承知して下さい、直ぐに。 呼んで下さい、エドワアド -- 私の名を呼んで -- エドワアド、私はあなたと結婚しますと。」
「あなたは眞面目でゐらつしやいますか?本當に私を愛してゐらつしやるのですか? 本氣で私に妻になつて欲しいと思つてゐらつしやるのですか?」
「さうです。そして若しあなたを滿足させるやうな誓ひが要るなら、私は誓ひます。」
「では、私はあなたのところへ參ります。」
「エドワアド、と -- 私の妻!」
「愛するエドワアド!」
「私の傍へ -- 私の傍へ今はすつかり。」と彼は低い力強い調子で彼の頬を私の頬につけて私の耳に云つた。 「私を幸福にして下さい -- 私はあなたをさうします。」
「神よお許し下さい!」とやがて彼は附け加へた。「人は私に干渉しないやうに。 私はこの人を得た。そして守つて行くのだ。」
「誰も干渉する人はをりません、私には妨げるやうな親類はありません。」
「無い -- それは何よりのことです。」と彼は云つた。若し私がこんなにを愛してゐないのだつたら、
有頂天になつた彼の傍に坐つて、彼の語調や樣子を、野蠻だと思つたかもしれない。 しかし別離の夢魔から呼び起され --
契りの樂園に呼び込まれ -- 私は、
たゞ飮めとなみ〜注がれた祝福のみに、心を奪はれてゐた。繰り返し〜彼は「うれしい、ジエィン?」と云つた。
そして、繰り返し〜私は「えゝ、」と答へた。その後で、彼はつぶやいた。 「償ひになるのだ --
償ひになるのだ。私はこの人が友もなく、寒さうに、
慰めもないでゐるのを見たではないか。私はこの胸の人を守り、抱き、慰めないといふことがあらうか。
私の中には、愛がないだらうか。私の決心には眞實がないだらうか。
神さまの裁きの座ではそれが償つてくれるのだ。私に
だが一體どうした晩だらう。月はまだ沈まないのに私共はすつかり闇の中だつた。 私はこんな近くにゐても殆んど私の主人の顏が見えなかつた。それに何が七葉樹の木を苦しめるのだらう? 樹は身をもがいて唸つてゐるのであつた。同時に風が月桂樹の並木道に轟々と吹き起つて私共の頭上を拂つて行つた。
「這入らなくては、」とロチスター氏は云つた。「お天氣が變つた。朝までゞもあなたと一緒に掛けてゐられたのだけど、 ジエィン。」
「そして私もあなたと一緒にをられたんですのに。」と私は思つた。多分さう私は云ふところだつた。 しかし青ざめたピカ〜光る火花が、私が眺めてゐた雲の中からほとばしりると、メリ〜、 ガラ〜といふ音と直ぐ傍で鳴り渡る轟きが聞えた。 そして私はたゞもうくら〜となつた眼をロチスター氏の肩に押しかくすことしか考へられなかつた。
たゝきつけるやうに雨が降つて來た。彼は私を急がせて歩道を上り、庭をぬけて家へ這入つた。
しかし閾を跨がないうちに私共はずぶ濡れになつてしまつた。彼が廣間で私の肩掛をとり、
ゆるんだ髮から水を振り落してゐるところへ、フェアファックス夫人が自分の部屋から出て來た。
最初私は彼女に氣が附かなかつた。またロチスター氏も同樣だつた。
繰り返し〜彼は私に
私はたゞ彼女に微笑みかけたばかりで階段に走つた。
「説明はまたのときでいゝだらう。」と私は思つた。けれども未だ居間に着いたときには、
彼女が見たものを假にも誤解しはしないかと思つて心苦しく感じた。 しかし直ぐに喜びはあらゆる他の感情を消してしまつた。
そして風がどんなに吹き荒んでも、雷が間近にゴロ〜鳴り渡つても、
稻妻が強くつゞけざまに光つても、二時間つゞいた嵐の間中
朝、私が、まだ床から出ないうちに幼いアデェルが駈け込んで來て、 果樹園の下手にある大きな七葉樹が昨夜の雷にうたれて、 半ば裂けてとんでしまつたことを話してくれた。
起きて着物を着乍ら、私は、過ぎしことを考へて、夢ではなかつたかと思つた。私は、 もう一度ロチスター氏に會つて、彼が愛と誓ひの言葉を繰り返すまでは、それが本當か信じられないのであつた。
髮を結ひ乍ら鏡の中の自分の顏を見た私は、もうそれが美しくないとは思はなかつた。
顏には希望があり、色には
廣間に駈け下りて、輝かしい六月の朝が昨夜の嵐の直ぐ後につゞいてゐるのを見ても、
開け放した硝子戸を通して新鮮なかぐはしい微風を呼吸しても、私は驚かなかつた。
私がこんなに幸福なときには自然も喜ばしい筈である。乞食の女とその子供 -- 二人とも蒼ざめて
フェアファックス夫人が悲しげな顏をして、窓から覗いて重々しく、 「エアさん、朝のお食事にいらつしやいませんか。」と云つたのが私を驚かした。 食事の間中、彼女は默つてゐて冷たかつた。しかし私はそのときには彼女の迷ひを解くことが出來なかつた。 私は主人が説明するのを待たなくてはならないのだつた。そして彼女も同樣である。 私は食べるものを食べると、やがて二階へ急いだ。書齋から出ようとするアデェルに出逢つた。
「何處へいらつしやるの?お勉強の時間ですよ。」
「ロチスターさんが子供部屋へ行けつて仰しやるの。」
「何處にゐらつしやるの?」
「其處よ。」と彼女が出て來た部屋を指した。中に這入ると彼が立つてゐた。
「こつちへ來てお早うと云つて下さい。」と彼は云つた。 私は喜ばしげに近づいた。もう今は冷淡な言葉ではなく、または握手でさへなく、 受けたのは抱擁と接吻であつた。それが自然に見えた。彼にこんなに愛され、こんなに愛情を受けるのは樂しかつた。
「ジエィン、あなたは花のやうで、愛嬌があつて綺麗だ、」と彼は云つた --
「本當に今朝は綺麗だ。これが私の青白い小さい
「ジエィン・エアですわ。」
「もうすぐに、ジエィン・ロチスターとなるべき。」と彼は云ひ添へた。 「四週間の内にね、ジャネット。それより一日も延びはしない。分りましたか?」
私はきいてはゐたが、はつきり頭に入つて來なかつた。私はくら〜となつた。 その告知が私に傳へた感じは喜びと呼ばれるものよりは、何かもつと強烈なもの -- 何か苛責するやうな、氣の遠くなるやうなものであつた。それは殆んど恐怖のやうだつたと、私は思ふ。
「赤くなつて、そして今度は青くなつて、ジエィン、どうしたのです?」
「新しい名を仰しやつたからですの -- ジエィン・ロチスターつて。ほんとに變な氣がします。」
「さうです、ミシス・ロチスターです。」と、彼は云つた。 「ロチスター若夫人 -- フェアファックス・ロチスターの花嫁。」
「そんなことはあり得ません。ありさうに思へません。人間はこの世では完全な幸福を樂しむことは決してありません。
私が他の人逹と
「それが私には可能なんですよ、そして實現してみせます。今日から始めるのです。 今朝、私は倫敦の銀行に手紙を出して、預けてある或る寶石 -- ソーンフィールドの婦人の相續動産を送つて呉れるやうにと云つてやりました。 一兩日の中には、あなたの手に入るやうにと思つてゐます。何故なら、 若し結婚するのなら貴族の令孃にもふさはしいやうにあらゆる特權、 あらゆる慇懃があなたのものになるやうにしてあげたいからですよ。」
「まあ! -- 寶石のことなど心配なさらないで下さい!そんなことを聞くのは私いやですから。 ジエィン・エアに寶石は不自然に變てこに聞えます。私は寧ろそんなものは無い方がいゝのです。」
「私が自分であなたの頸に
「いえ、いえ!もつと別のことを考へて下さい。もつと違つたことを話して下さい。 もつと違つた話し方で。私が美しい人かなんぞのやうに仰しやらないで下さい。 私はあなたの目立たない、クェイカア教徒のやうな家庭教師でございます。」
「私の眼にはあなたは美しい人です。私の心の望みどほりの美しい人です -- きやしやで俗離れがして。」
「その意味は貧弱で取る價値も無いといふのでございませう。 あなたは夢を描いてゐらつしやるのです -- でなかれば嘲つてゐらつしやるのです。お願ひですから、 皮肉にならないで下さい。」
「私は世間にも、あなたの美しいことを知らせてやりますよ。」と彼は續けた。 だが、私は彼の口にする調子に本當に不安になつた。彼が自分自身を欺いてゐるか、 または私を欺かうとしてゐるやうに感じたのである。「私は私のジエィンに繻子とレースを着せて、 髮には薔薇を插してやりますよ、それから私の一番好きな頭には素晴らしい薄絹を被せるのです。」
「そしたら、あなたには、私が、分らなくなりますわ。もう、私はあなたのジエィン・エアぢやなくつて、 道化の着物を着たお猿か -- 借物の羽根をつけた、樫鳥になつてしまひます。 ロチスターさま、私が女官のやうな服を着ると、あなたには、舞臺の衣裳で飾られたやうに見えるでせう。 私は、あなたのことを、美しいなどゝは申しません。どんなにかあなたのことをお愛し申してゐるので、 あなたに、お世辭など云へませんわ。私にはお世辭は、お止めになつて下さい。」
しかし彼は私がどうぞ止してと頼むのに耳もかさず、思つてゐることをどん〜續けて云ふのであつた。 「今日早速あなたを馬車に乘せてミルコオトへ行きませう。そしてあなたは何か自分の着物を選ばなくてはなりませんよ。 私逹は四週間以内に結婚するのだと云ひましたね。式はあの下の方にある教會で靜かに擧げませう。 それから直ぐにあなたを街へ送ります。そこに暫く滯在した後、私は大事な人を連れて太陽に近い土地へ行きます。 彿蘭西の葡萄園に、伊太利の平原に。それから、昔の話や近代の歴史の中で名高いものは何でも見せてあげます。 また都會の生活も味はせてあげませう。また他の人逹と比較することによつて自分の價値を知らせてもあげませう。」
「私が旅行しますの? -- そしてあなたと御一緒に?」
「あなたは巴里にも、羅馬にも、ナポリにも -- フロレンスにも、ヴェニスにも、ヴィエンナにも滯在するのです。 私が流浪した土地には悉くあなたも行くのです。 私の馬蹄の印されたところには何處にもあなたの輕やかな足跡が同じやうに印されるのです。 十年前私は半ば狂氣のやうに嫌惡と憎惡と怒りを抱いてヨーロッパを駈けめぐつたのです。 今度は私の慰め手であるほんとの天使に癒され淨められて、再びそこを訪ねるのです。」
かう彼が云つたとき、私は笑ひ出してしまつた。「私天使ではありませんわ。」と私は云ひ張つた。 「また死ぬまでなりもしません。私は私ですわ。ロチスターさま、 あなたはそんな天上のものを私に期待なさつても確めてもいけません -- ちつとも豫期しはしないのですが、私があなたからそんなことが得られないと同じやうに、 あなたも私から得ることはございませんもの。」
「あなたは私に何を豫期するのです?」
「ほんの暫くの間あなたは今のやうでゐらつしやるでせう -- それこそほんの一寸の間、
やがてあなたは冷淡におなりになる。それから氣が變り易くおなりになる。
その次には氣難かしくなつて私はあなたをお喜ばせしようと骨を折らなくてはならなくなるでせう。
でもいゝ工合に私に慣れて下さつたら、多分また私がお氣に召すやうになるでせう --
お愛しになるとは申しません、お氣に召すのです。多分あなたの愛は六ヶ月間か、 もつと短い間しか燃え立たないでせう。
私ある人々の書いた本の中で
「お氣に召さぬ!そしてまたあなたが好きになる!私は何度でもあなたが好きになるでせうよ。 私はあなたのことをたゞ好きだと云ふばかりでなく、愛してゐるといふことをあなたに云はせる積りですよ -- 眞實をもつて、熱をもつて、心から。」
「でも移り氣ではゐらつしやらないの?」
「私は
「そんな性格の人に逢つたことがおありになりまして?そんな方を愛したことがおありですの?」
「今私はそんな人を愛してゐるのです。」
「いえ、私の前に -- 本當に、若し私があなたの難かしい標準に幾らかでも逹してゐるのでしたら?」
「あなた程の人には逢つたことはないのです。ジエィン、あなたは私を喜ばせ、私を支配するのです。 -- あなたは服從してゐるやうに見える。そして私はそのあなたの傳へる從順な氣持が好きなんです。 その柔らかい絹の絲束を指に捲きつけてゐると、其處から顫へるやうな感じが腕を傳つて私の心に來るのです。 私は力に左右される -- 征服される。そしてその力は得も云はれず快く、 私の受けた征服は自分の得るどんな勝利にもまして魅力があるのです。 何故笑ふの、ジエィン?一體その説明出來ない、不思議な顏付の變りやうはどうしたつて云ふのです?」
「ね、私考へてゐたんですの、(こんなことの考へてゝ御免なさい、でも我知らずなのです。) 私、ハァキュリイズやサムソンが彼等の好きだつた美女と一緒にゐるのを考へてゐましたの -- 」
「何だつて、この小さな
「駄目!今のおはなしはあんまり賢くはありませんでしたわ -- あの人逹があまり賢く振舞はなかつたと同じに。でも、
あの人逹も結婚したらきつと
「今、何か欲しいものを云つて下さいよ、ジャネット -- 一寸したものでも。 おねだりをして下さい -- 」
「本當に私いたします。もうちやんとお願ひすることはありますの。」
「云つて御覽!だがそんな顏をして見上げて笑つてゐると、その何かも知らないで、 私は承知したと約束してしまふ。それぢやあ馬鹿にされたことになつてしまふ。」
「いゝえ、ちつとも。私たゞこれだけをお願ひするのです、あの寶石を取り寄せないで下さい、
それから薔薇の花環を頭に捲かないで下さいといふことだけ。
それよりも其處に持つてゐらつしやる無地のハンケチの周りに
「『純金に
「え、ではどうぞお願ひですから、私の好竒心を滿足させて下さいまし。それは一つの事柄に甚く刺戟されてゐるのです。」
彼ははつとした樣子だつた。「何?何?」と急がはしく云つた。
「好竒心とは危險な願ひだ。あらゆる願ひを叶へてあげると誓つておかなくてよかつた -- 」
「だつてこんなことに應ずるのに、危險なんぞある筈はございませんわ。」
「云つて御覽、ジエィン。だが私は、 たゞ祕密をきゝ出すなんてことよりは私の領地の半分が欲しいと云つてくれた方が有難いのだが。」
「ねえ、アハシュアラスの王さま!あなたの領地を半分も私には何になるでせう。 あなたはいゝ投資の土地を探してる猶太人だと私のことをお思ひですか。 私そんなものより寧ろあなたのありつたけの信頼を得たいと思ひます。心まで私に打ち開いて下さるのでしたら、 私を信用しないなんてことはおありにならないでせう?」
「あなたはありつたけの信頼を、充分得ますよ、ジエィン。しかし、神かけて、 役にも立たぬ重荷は求めないで下さい。毒を欲しがらないで -- 私のところで、 イヴその儘の女にならないで下さい -- 」
「何故いけませんの?たつた今あなたは征服されるのがどんあにか好ましく、 無理に説得されるのがどんなに嬉しいことだと話してゐらしたでせう。 私あなたが自認なすつたのを利用した方がいゝとお思ひになりません? 早速着手して、なだめたりねだつたり、 -- 必要とあらば泣聲を出したりすねたりしてもようございますわ -- たゞ私の力の力試しの爲めに。」
「そんな力試しをやるならやつて御覽なさい。侵掠したり増長して御覽、それで萬事終れりだ。」
「さうですか?あなたは忽ちにして降參なさいますわ。何て難かしいお顏をなさるのでせう! あなたの眉と云つたらまるで私の指位に太くひそんで、額はいつぞや私が大した詩の中でかう云つてあるのを見たことのある 『累々たる層雲がなせる中空の雷の宿り』みたいですわ。 それはきつとあなたが御機嫌を損ねてゐらつしやるお顏ね。」
「若しそれがあなたの機嫌を損じた顏だつたら、私は基督教徒としてそんな地精だの火精だのと連れ添ふ氣なんぞ棄てゝしまふ。 だが此奴め、何をお前はきかなくてはならないのだ。 -- 云つちまへ!」
「さあ、もうあなたは禮儀正しくはなくなりました。でも私は粗野な方が、 おべつかなんぞよりはよつぽど好きですわ。 私のお訊ねしなくてはならないことはこれなんです -- どうしてあなたはわざ〜骨を折つて、 あなたがイングラム孃と結婚なさるお積りだと私に信じさせるやうになさつたのですか?」
「それだけなの?有難い、それより惡いことでなくてよかつた。」そしてやつと彼はひそめた眉を開いて、 危險の過ぎたのを見て、ほつとしたかのやうに微笑み乍ら私を見下した。 「白状してあげませうね。」と彼は言葉をつゞけた。
「ジエィン、あなたを少しは怒らせるだらうけれど -- そしてあなたが怒つた時には、 どんなに恐しい火の精になり得るかも知つてゐるけれど。昨夜あなたが運命に叛抗し、 あなたの地位が私と同等だと云ひ切つたとき、冷い月の光を浴びてあなたは火のやうになつた。 ところでジャネット、あの申し出を私にさせたのはあなただつたのですよ。」
「勿論私ですわ。だけど、ね、若し何だつたら、大事なことを -- イングラム孃のことを。」
「うん、イングラム孃に求婚するふりをしたんですよ。何故かと云ふと、 私があなたに夢中になつてるやうにあなたにもさうさせたかつたからです。そこで、 私はその結果を促進させるには、嫉妬と同盟するのが私に出來る一番いゝ方法だと、考へたわけなのです。」
「素敵ですこと!だけどあなたは小さい -- 私の小指の先より大きくないわ。 そんな風にことをなさるのは本當に恥しい堪らない不名譽なことですわ。 あなたはイングラム孃の感情のことを何もお考へにならなかつたんですの?」
「あの人は感情は一つのこと -- 誇りに集中されてゐるのです。 それには謙遜が必要です。
「御心配なく、ロチスターさん -- そんなことをお知りになつたつてちつとも面白いことではありませんわ。 もう一度本當に仰しやつて頂戴。あなたがいゝ加減に飜弄なすつたことがイングラム孃を損ふことはないとお思ひになりまして? あの方は、捨てられ背かれたとお思ひにはならないでせうか。」
「大丈夫!それどころか、あの人の方が私を捨てたのだと云つたら。 私の家資分散の話はあの人の熱を一瞬のうちに冷ました、いや、消しちまつたと云つた方がいゝ位ですよ。」
「あなたは穿鑿好きな企らみのある方ですのね、ロチスターさま。 私、あなたの道義がある點で常規を逸してゐるのが心配です。」
「私の道義は訓練されてゐないのですよ、ジエィン。注意がとゞかないので、少々ねぢけて成長したのかも知れませんね。」
「もう一度、眞面目に。誰か他の人に私がこの間感じたやうな辛い苦痛を受けさせることなしで -- 私は惠まれた大きな幸ひを樂しんでもいゝでせうか?」
「いゝとも、私のいゝ子。私に對してあなたと同じ位な清らかな愛を持つてる人は世界中、
他にはありませんよ。私はその喜ばしい熱情を魂の中に
私は肩に置かれた手に唇を寄せた。私は強く彼を愛してゐた -- さうだと自分でも信じ難い程 -- 口にも云ひ盡くせぬ程。
「もつと何か望みをお云ひ。」とやがて彼は云つた。「ねだられて、上げるのが私は嬉しいのだ。」
今度も云ふことは出來てゐた。「フェアファックス夫人の方へもお心をお向けになつて下さいまし。 あの方は昨晩私が廣間であなたと御一緒にゐるのを見て吃驚りなすつたのです。 今度私があの方に會ふ前に、何か辨解しておいて下さいましね。 私、あんないゝ方に誤解されるのは辛いのですもの。」
「部屋へ行つて帽子を被つていらつしやい。」と彼は答へた。 「と云ふのは、今朝、私と一緒に、ミルコオトへ行くつてことですよ。 そして、あなたが外出の用意をしてる間に、私はあのお婆さんに得心が行くやうに云つときますからね。 ねえジャネット、あの人はあなたが世間と戀とを取かへて、 世間なぞ無くなつてもいゝと思つてゐると考へたのかしら?」
「きつとあの方は私が自分の身分も、あなたの身分も忘れてると思つてゐらしたでせう。」
「身分!身分! -- あなたの身分は私も胸の中に、そして今も、この後も、 あなたを侮辱する奴等の首根つこにあるのですよ。 -- 行つてらつしやい。」
私は直ぐに着換へた。そしてロチスター氏がフェアファックス夫人の部屋を出るのをきいて急いでそこへ下りて行つた。
老婦人は聖書の朝讀む部分 -- その日の日課を讀んでゐたのだつた。
聖書が前にひろげられたまゝ置いてあつて、眼鏡がその上にあつた。ロチスター氏の言ひ渡しによつて、
中絶された彼女のお勤めは今は忘れられてゐる樣子だつた。
向ひ側の白壁を見つめた彼女の眼は、異常な報らせにかき亂された穩やかな心の驚きを表はしてゐた。
私を見ると彼女は身を起した。彼女は強ひて微笑んで、二言三言お祝ひの言葉を口にした。
しかし微笑は消えて、言葉は終らぬ内に杜絶えて了つた。彼女は眼鏡を取上げ、聖書を閉ぢて、
椅子を
「私たゞもう吃驚してゐます、」と彼女は云ひはじめた。
「あなたに何と申し上げていゝやらわからないのです、エアさん。私はまさか夢を見てはゐなかつたのですねえ。
時々獨りで坐つてゐると、半分眠つて今迄起つたこともないものを見るのですけれど。 一度ならず、私がまどろんでゐると、
十五年前に亡くなつた私の
「私にもその通りのことを仰しやいましたの。」
「さうですかねえ!あなたはあの方を信じてゐらつしやりますか?あなたは承知なさいましたか?」
「えゝ。」
彼女は困惑したやうに、私を見つめた。
「どうしても考へ得られないことでしたよ。あの方は自負心の強い方で -- ロチスター家の人逹は皆さうでしたが -- 少くともあの方のお父さまはお金がお好きでした。 あの方も矢張りいつでも用心深い方だと云はれてをりました。あの方はあなたと結婚なさるお積りでせうか?」
「さう仰しやつたのです。」
彼女は私の全身を見渡した。だが、其處には謎を解く十分な魔力を發見しなかつたと云ふことを、
私は彼女の眼の
「まあ、そんなことが!」と彼女は續けた。「でも、あなたがさう仰しやるからには、 本當だといふことは疑ひありませんわねえ。何と申し上げたらよいでせう。私には云へませんわ -- 實際、私はわかりません。地位や財産の釣合ひといふことがそんな場合には屡々心しなくてはならないことなのです。 それにまたあなた方の御年齡は二十もちがつてゐらつしやるのですからね。 あの方は殆んどあなたのお父さまにもなれる位ですよ。」
「いゝえ、決して、フェアファックス夫人!」と私はいら〜して叫んだ。 「あの方はちつとも私のお父さまらしくはございません! 私共を一緒にして見た人は誰だつて假にもさうは想像いたしません。 ロチスターさまはまるで二十五位の方みたいにお若く見え、またお若いのです。」
「あの方があなたと結婚しようとなさるのは本當に愛してゐらつしやるからですか?」と彼女は訊ねた。
私は涙が眼に滲む程彼女の冷たさと疑ひ深さに傷つけられた。
「あなたを悲しませて、お氣の毒ですけれど、」と未亡人は言葉を續けた。 「けれどもあなたはまだお若くて、殿方にまつたくお近づきがないのですからね。御自分で用心なさるやうにと思ふのですよ。 昔の諺に『輝くものゝ總てが黄金にあらず』と云ふのがありますが、 今度の場合も何かあなたや私が期待してゐるとは異ふやうなものがありはしないかと心配するのです。」
「何故ですか -- 私は人間ではないのですか?ロチスターさまが私に眞實の愛情をお持ちになるのは不可能なことですか?」
「いゝえ、あなたは大變結構なんですよ、それに近來大變よくおなりです。そして、憚りなく云へば、 ロチスターさまはあなたがお氣に召していらつしやるのですよ。 あなたがあの方のお氣に入りだといふことは私はいつも氣が附いてゐました。時々あの方が目立つ程御贔屓なさるのを見て、 あなたの爲めに私は少し不安になることもあつて、あなたが御自分で用心なさるようにと思つたこともおありました。 けれど過ちがあるなんて、ほのめかしたくなかつたのでねえ。そんな考へがあなたを驚かしたり、 氣持惡くおさせ申すつてことは、私にも分つてゐましたし、それにあなたは思慮もおありだし、 大變愼み深くて、感じの早い方だから、大丈夫御自身で身を守つてゐらつしやるようにと望んでゐたのです。 昨夜家中探しても、あなたも旦那さまもゐらつしやらなかつたときには、 そして十二時になつてあの方と一緒にあなたが這入つていらしたときには、 どんなに私が心を痛めたかお話し出來ない位ですよ。」
「いえ、もうそのことは御心配なく、」と私はもどかしく遮つた。 「何も間違ひなんぞなかつたといふだけで十分です。」
「お終ひまで間違ひのないようにと思ひます。」と彼女は云つた。 「けれども、私の云ふことをよくお聞きになつて下さい。あなたは用心しるぎるつてことはないのですよ。 ロチスターさまを、隔てを置いて御覽なさい。あの方と同じにあなた自身にも疑ひをかけて御覽なさい。 あんな御身分の殿方といふものは、そこの家庭教師なんぞと結婚することはりませんからね。」
私は本當にじり〜してきた。いゝ工合にそこへアデェルが駈け込んで來た。
「連れてつて -- 私もミルコオトへ連れてつて!」と彼女は叫んだ。 「ロチスターさんはいけないつて -- 新しいお馬車にはあんなにたつぷり空きがあるのに。 私も連れてくやうにお願ひして、ね、先生。」
「してあげますよ、アデェル。」そして私はこの陰鬱な訓誡をする女の許を去るのを喜びながら、
彼女と一緒に急いで立去つた。馬車は用意してあつた。玄關へ廻してゐるところで、
私の主人は
「アデェルは一緒に行つてもいゝのでございませう、いけませんの?」
「いけないと云つたんですよ。子供なんぞ嫌やだ! -- あなただけ連れて行くのですよ。」
「連れてつてあげて下さいな、ロチスターさま、どうぞね。さうなすつた方がようございますわ。」
「いけないよ、
彼の樣子も聲も斷乎としてゐた。フェアファックス夫人の警告の冷たさ、彼女の疑ひの氣配が私に注がれてゐた。 何か實質の無い、不確かなものが、私の希望を絶つてしまつた。 私は彼に對する力の意識を半ばなくしてしまつた。それ以上彼に講義することもなく、 私は機械的に彼の云ふ通りにしようとした。しかし馬車に私を助けて乘せた彼は、 私の顏を見てしまつた。
「どうしたの?」と彼は訊ねた -- 「すつかり
「私、どんなにか、連れて行きたくて。」
「ぢやあ帽子を取りに行つておいで。。稻妻のやうに早く引返すのだよ。」と彼はアデェルに向つて叫んだ。
彼女はあらん限りの速度で、彼の云ふ通りにした。
「結局、一朝の邪魔位は大したことではない。」と彼は云つた。 「近いうちにあなたを -- あなたの思想、會話、伴侶を -- 一生の間要求する積りなんですからね。」
「アデェルは馬車に跳び込んで來ると、私の執成しに對する感謝の意をこめて私に接吻した。 が、直ぐに彼の向う側の隅に押込められてしまつた。すると彼女は私の坐つてゐる場所を覗き見するのであつた。 ひどく難かしい顏の人はあまりに窮屈過ぎて -- 今の氣難かしい機嫌の彼には彼女も流石に話しかけようともせず、 説明をきかうともしなかつた。
「私の方に來させて下さいまし。」と私は頼んだ。「きつとお邪魔になりませうから。 こちら側には隨分空きがありますの。」
彼は、まるで子犬か何ぞのやうに、彼女を抱へて渡した。 「私は今でも未だこの子を學校へやる積りですよ。」と彼は云つた。しかし今度は彼は笑つてゐた。
アデェルは彼の云ふのをきいて、”SansMademoiselle?”(エア先生なしに、) 學校に行かなくてはならないのかと尋ねた。
「さうだよ。」と彼は答へた。「絶對にサン・マドモアゼルで。何故かつて、 私が先生を月の世界に連れてつて、其處で火山の頂の間にある白い谷間の中に洞穴を見つけて、 先生は私と一緒に其處に住むのだよ。私と二人つきりで。」
「食べものが無いわ。餓ゑ死にしておしまひになつてよ。」と彼女が云つた。
「私がこの人の爲めには、朝夕
「温たまりたいと御思ひになつたら、火はどうなさるの?」
「火は月の山の中から燃え上るのさ。この人が寒いときには、私が山の頂へ連れてつて、 噴火口の縁におろしてあげるのさ。」
「お!何んて惡るいんだらう!(Oh, qu' elle y sera mal) なんて不愉快だらう!(peu comfortable!) -- ぢやあ、着物が古くなつてしまつたら、 どうして新しいのを拵へるの?」
「ロチスター氏は困つたやうなふりをした。「エヘン!」と彼は云つた。
「お前だつたらどうする、アデェル?何かいゝ工夫はないか、智慧を搾つて御覽。
白や淡紅色の雲は
「今のまゝの方がずつといゝわ。」とアデェルは暫く考へた後、云ひ切つた。 「それに月の中なんぞにあなたとたつた二人つきりで住んでゐるんぢや、退屈しておしまひになるわ。 あたしが先生だつたら、あたし決してあなたと御一緒に行くことは承知しないわ。」
「この人は承知したのだよ -- 約束しちまつたのだよ。」
「でもあなたは其處へ連れて行つてあげることはお出來にならないでせう。 だつて月に行く路なんぞないんですもの -- 空氣ばかりでせう。 そしてあなたもこの方も飛べないのですもの。」
「アデェル、あそこの畑を御覽。」もう私共はソーンフィールドの門を出て、
ミルコオトへの坦々とした路を輕く
「あそこの畑でねえ、アデェル、一寸二週間許り前のある夕方晩く歩いてゐたのだ --
お前が果樹園の草地で
「それはフェアリイで、妖精の國から來たのだと云ふのだ。そして、
その
『まあ、』とフェアリイが云ふには、『そんなことは譯はない!此處にどんな困難でもなくする護符がある。』つてね。 そして美しい金の指環を取り出したのだ。そして云ふには『それを私の左手の藥指におはめなさい。 すると私はあなたのもの。あなたは私のもの。そして二人は地上を去つて、彼處の私共の天國を作りませう。』つてね。 それはまた月を見て頷いたのだよ。その指環はね、アデェル、 私のズボンのかくしに金貨に化けて這入つてゐるけれど、 もう直ぐ、私はまた指環にしようと思つてゐるのだよ。」
「だけど、先生がそれでどうなさらなくちやならないの?あたしフェアリイなんぞどうでもいゝの。 あなたが月世界へ連れていらつしやりたいのは、先生だと仰しやつたでせう?」 --
「先生はフェアリイなのだよ。」と彼は神祕めいた口調で囁いた。そこで私は彼の冗談を氣にかけないやうに彼女に云つた。
彼女は彼女で、本當の彿蘭西人生來の懷疑心をすつかり表はして、ロチスター氏に、 「生得の
ミルコオトで過した時間は、私にとつてはいくらか煩はしいものであつた。
ロチスター氏は私を強ひて、ある絹織物の店へ連れて行つて、其處で、
彼を絹織物の店から、そして次には寶石商から彼を連れ出して、私はホツとした。
彼が私に買つて呉れゝばくれる程、私の頬は迷惑と墮落の感じで、燃えるやうになつた。
馬車にかへつて、熱つぽく、疲れて、後に
「そんな風に御覽になることは要りません。若しそんなになさるなら、私、死ぬまで、
あの昔のローウッドの
彼はくん〜笑つて手を擦つた。「あゝ、この人の樣子ときたら、云ふことときたら素敵だ!」と叫んだ。 「この人は變つてゐるのか?皮肉なのか?私は、この小さな英吉利の娘さん一人を、 大トルコ帝の後宮全部、羚羊の眼、極樂女神の姿にも、何にも換へようとは思はない!」
その東洋の比喩が、またもや私の心を刺した。「私、
「ぢやあ、ジャネット。私が肉何トン、黒眼何種と、大勢の
「そしたら私は傳道者になつて、奴隸にされた人々 -- 特にあなたの女部屋の人逹に、 自由を説きに出かける積りです。私は、其處に這入らせて貰つて、謀叛を起させます。 そして三ツ尾のバッショウ(トルコで貴顯を示す)であるけれど、 あなたは忽ち私共の手に陷つたことに氣がつくでせう。 併し暴君がかつて與へたこともない程最も寛大な契約書にあなたが署名なさる迄はともかく、 私あなたの縛りを斷つて差上げることを承知しませんわ。」
「思ふ存分にしても構ひませんよ、ジエィン。」
「ロチスターさま、あなたがそんな眼をして歎願なさるのだつたら、私、容赦しませんわ。 そんな眼付をなさる間は、私きつとあなたが強制されて、どんな契約書を承諾なさつたとしても、 それが解除になつた時にあなたが第一になさることは、 その條件を目茶々々になさることだと思ひますわ。」
「ぢやあ一體ジエィン、どうしようつて云ふの? まさかあなたは祭壇の前で擧げた式の上に祕密な結婚式をしろと私に強ひるのではないでせうね。 何か特別な條件を約束したいと思つてるのでせう -- どんなことなの?」
「私たゞ樂な氣持でゐたいだけなんですの、山のやうな義理に押しつぶされないで。 あなたCeline
「なに、たゞ何なの?」
「あなたのお心だけ。そしてその代りに、私のを差上げれば、その借りは帳消しになりませう。」
「なる程、だが冷淡な國民的厚顏と純粹な生得の誇(傲慢)に對してはあなたに匹敵するものはありませんね。 もうソーンフィールドの傍に來ましたよ。宜しかつたら今日は私と一緒に食事をしない?」 と彼は門を這入るときに訊ねた。
「いえ、結構でございます。」
「人がきいたら、『いえ、結構で、』なんぞと云ふ代りに何と云ふのでせうね。」
「私これまで御一緒に御食事したことはありませんし、 また今になつてしなくてはならないなんて云ふ理由もないと思ひますわ、たゞそのときになつたら -- 」
「どんなときになつたら?半分しか云はないのが好きな人ですね。」
「仕方がなくなつたときには。」
「私と食事を共にするのを怖がるつて、あなたは私がまるで喰人鬼か喰死鬼かなんぞのやうに食べるとでも想像するの?」
「そんなこと私考へてはをりませんわ。ですけれど私矢つ張りもう一ヶ月いつもの通りにしてゐたいんですの。」
「先生なんて云ふ奴隸状態は今直ぐ止めてしまふのです。」
「御免下さい。私どうしても止しません。それも私いつもの通りに續けます。
今までの
「煙草が
かう彼は馬車から私を降しながら云つた。私は彼がその後でアデェルを抱き上げてゐる間に家へ這入つて行つて、 二階に引込んでしまつた。
夜になると彼は
「私の聲が好きだつたの?」と彼は訊いた。
「とても。」私は感じ易い彼の虚榮心を甘やかしたくはなかつたけれど、 一度だけ便宜の上から機嫌をとり、勵ましさへしたのだつた。
「ぢやあ、ジエィン、あなたが伴奏を彈かなくちやいけませんよ。」
「ようございますわ。やつて見ませう。」
私はやつてみたが、直ぐに腰掛から拂ひ除けら、「不噐用な子」と云はれてしまつた。 不躾に片側に押しのけられて -- それが私には本當に望ましかつたのである -- 彼は私の場所を奪ふと、自分で伴奏しはじめた。彼は歌ふのと同じく彈くことも出來たのである。 私は急いで窓の引込んだ處で行つた、そして其處に掛けて、靜まり返つた木立や暮れかけた芝生を眺めてゐる間、 かぐはしい大氣に向つて快い調子で次のやうな歌がうたはれた。
火と燃ゆる胸のその奧に
抱きたる變らぬ戀は、
溢れたる潮を、逆卷きて
身内めぐらしぬ。
日毎あの女 來るは我が希望 、
あの女 去るは痛みなりき。
あの女 の足音 おそきとき
我が血凍りぬ。
我は愛し愛さるれば、
そは云ひやうなき幸なりと想ひて、
そが方に我は走りぬ、
盲目 の如く、熱き心もて。
さはれ我等が生命 を分けし隔ては
途なきまでに遠く遙かなりき。
また緑なす大海の浪の
泡立ちし流れのごと危かりし。
また荒野を、さては森を拔けし
盜人の徑 のごと安らふときなきを、
我等二人の心へだつる
勢、權、悲、憤あれば。
我は危ひきを冐し、妨ぐるものを蔑み、
前兆に逆ひぬ、
脅すもの、惱ますもの、戒むるもの、
なべてを我は勇しく越へ行きぬ。
光の如く速かに我が虹の橋は懸りぬ、
我は夢の裡 にある如く飛びつ、
雨と光の子なる
麗しき薔薇の花眼に見えたれば。
暗き苦難の雲の上に猶も明るく
かの優しき、聖なる歡びは輝く、
今は我怕 れず、逃ぐる術 なく恐ろしき
わざはひの如何に間近く迫るとも。
我は怕 れず、このよきときに、
我が打ち超へしなべてのもの、
恐しき復讐を叫びて
強く速く飛び來るとも、
たとへ傲れる憎惡我を打ち倒すとも、
「權力」の牆壁我に迫るとも、
または牙咬みならす「力」が凄まじき顏もて
永遠の敵なりと誓ふとも。
我がいとしき人は嫋 かなる手を
氣高き信もて我が手に置きて、
さて誓ひぬ、婚姻の聖き絆を
我等まとはむと。
我がいとしき人は接吻の捺印もて誓ひぬ、
我と共に生き -- 死なむと。
遂に我は我が云ひやうなき幸を得たり、
我は愛し、愛されたれば!
彼は立上つて私の方へ來た。彼の顏は燃え、強い鋭い眼は輝き、 顏中に和らぎと熱情があふれてゐたのを見た瞬間、私はひるんだ -- しかしその次にはもう氣力を囘復した。私は情に滿ちた場面や、愛の言葉などを、 避けたかつた。而も、その二つの危險に面してゐるのである。 防禦の武噐を用意しなくてはならない。私は心を勵まして、彼が私の傍へ來たとき、 無愛想に訊ねた。「一體あなたは、誰と結婚しようと思つてゐらしたのです?」
「大事なジエィンからそんな質問が出るのは變ですね。」
「何ですつて!私いかにも當然な、必然なことだと思ひましたわ。 だつて、あなたは未來の妻のことを一緒に死ぬのだと仰しやつたでせう。 そんな異教的な思想は一體何といふ意味なんですの? 私、御一緒に死なうなんぞといふ考へは毛頭ありませんことよ -- 本當なんですよ。」
「あゝ、無論望むことは、願ふことは一緒に生きることぢやありませんか!死ぬことぢやあない。」
「さうですとも。私だつてときが來たら、あなたと同じに結構死にますわ。 だけど私はそのときを待つべきで、寡婦殉死なんぞで後を追つたりはしませんわ。」
「そんな勝手なことを考へたのを許して、そのしるしに仲直りの接吻をする?」
「いゝえ、私、御免を蒙つた方がようございますわ。」
たうとう私は「強情な子」だと云はれてしまつた。その上、こんなことも。 「どんな女の人だつて、その人を讚美して歌つたあんな歌をきかされたら、骨の髓までとろけてしまふのだけど。」
私は自分が生れつき強情で -- まつたく石みたいで、彼も私がさうだといふことを屡々見せられるだらうと確言した。 そして、それどころか、今から先四週間が終らない内に私の性格の樣々な粗暴な點をお目に掛けようと思つてゐること、 彼がどんな大變な約束をしたか、まだ取消す餘裕のある間に、十分承知しなくてはならないのだと云ふことなどを話した。
「落着いて理智的に話さないの?」
「お宜しかつたら落着きませう。ですが理智的に話をすると云ふことなら、今私さうやつてる積りですわ。」
彼は怒つて、ヘンと云つて舌打ちした。「それでいゝ、」と私は思つた。 「何とでも怒るなり焦れるなりなさいまし。だつてあなたと御一緒にやつて行くにはこれが最上の方法なんだもの、本當に。 私は言葉に表はせない位あなたをお愛し申してをります。でも感情に溺れはしません。 またこの即答の針でもつてあなたをも危い瀬戸際から守つて差上げるのです。いえ、それ以上に、 そんな耳障りなことを云ふことで、 私共お互ひの本當の幸福にとつて最もためになる二人の間の隔てといふものを保つのです。」
だん〜と私は彼をかなり焦らせた末、とう〜彼が怒つて部屋のずつと向うの端に引込んでしまふと、 私は立上つて私らしい、いつものうや〜しい態度で、「お休み遊ばせ。」と云つて、 傍戸を拔けて出て行くのであつた。
かうして始めた仕組みを私は試みの間中續けた。そしてそれが最も成功したのであつた。
確かに彼はいくらか不機嫌でぷり〜してゐた。しかし全體から云へば彼は大變滿足してゐた。
そして彼の我儘を助長する一方、仔羊のやうな從順さ、
他の人逹のゐる處では私は以前の通りに愼しやかにおとなしくしてゐた。變つた仕打が必要でなかつたからである。
さういふ風に彼に楯ついたり、困らせたりするのは夜差向ひで話をするときだけだつた。
彼はずつと續けて、時計が七時を打つと
とは云へ結局私の仕事は
その求婚の月は、過ぎてしまつた。その最後の時間さへ、數へられた。 近づいたその日 --
婚禮の日は、延期されることはなかつた。さうして、その日の用意萬端は、整つてゐた。
少くも私はだけは、最早何もすることがなかつた。私の小さな居間の壁際には、
荷造りして、鍵をかけ、綱をかけられた
私を熱つぽくしたのは支度の
私は何とも云へない氣がゝりな思ひを胸に抱いてゐた。私には理解しがたい何事かゞ起つたのである。
その出來事を知つてゐるのも見たのも私より他には誰もない。それが起つたのは先夜のことだつた。
その晩、ロチスター氏は留守であつた。今も未だ歸つてもゐないのである。
彼は用事の爲めに三十哩ばかり離れたところに持つてゐる二つ三つの農場のある小さな所有地へ行つてゐた --
彼が考へてゐる英吉利出發の前に自分で決着をつけておかなくてはならぬ用事である。
私はかうして彼の歸りを待つてゐた。私の心の荷を下ろし私を混亂させてゐる謎の解決を彼に求めようと
私は風に吹きやられながら果樹園の
この空間を轟きつゝ流れて行く、量り知られぬ氣流の中に自分の心の苦しみを投げつけながら、 風に向つて駈けて行くのは何か知ら或る荒々しい歡びだつた。月桂樹の並木道を下りて行くとき、 私は七葉樹の殘骸を見た。それは黒く引裂かれて突立つて、眞中から裂けた幹は物凄く口を開いてゐた。 裂けた半分同志は互に離れきらずに、しつかりした地盤と強い根とがその裂け落ちるのを支へてゐた。 共同の生活力は滅びてしまつたけれども -- 最早樹液は通ふことが出來なかつた。 兩側の大きな枝は死んでゐる。そしてこの次の嵐はきつと一方か兩方共かを地上に倒してしまふだらう。 まだ一本の樹をなしてゐるとは云へるかも知れないけれど、しかし廢墟、まつたくの廢墟である。
「お前逹はよく互にしつかりと抱き合つてゐる。」と、 まるで巨大な木片が生命を持つてゐて私の云ふことが聞えるかのやうに私は云つた。
「お前たちはそんな風に
「隨分夜が更けたこと!」と私は云つた。「門のところまで駈けて行かう。時々、 月の光がさすから、結構道は分るだらう。もうあの方も歸つていらつしやる時分だ。 あの方にお會ひすれば不安な時がしばらくでもたすかるだらう。」
風は門を蔽うた大木に高く轟いてゐた。 しかし道路は
見てゐる間に子供らしい涙が眼を曇らせた -- 失望と待ちあぐんだ涙である。
恥しくなつて私はそれを拭つた。私はためらつてゐた。月はまつたく姿をかくし、
深い雲の
「歸つてゐらつしやるといゝのに!歸つてゐらつしやるといゝのに!」私は病的な前兆におびやかされ乍ら叫んだ。 私はお茶の前に彼が歸つて來るだらうと思つてゐた。だのにもう眞暗だ。 何が彼を引止めてゐるのだらう?間違ひでもあつたのか? 昨夜の出來事が再び私の心に甦つて來た。それを、何か不吉なことの前兆のやうに思つた。 私は自分の希望が實現するにはあまりに輝かしすぎるやうで恐しかつた。 それに私は近頃あまりに幸福を味ひすぎたので、私の幸運はもうその絶頂を過ぎて、 今は傾くかなくてはならないのではないかと想像もされるのであつた。
「いや、私はとても家へは歸れない。」と私は思つた。 「あの方がこんなひどいお天氣に外にゐらつしやるのに、火の傍に坐つてゐるなんて出來やしない。 心を張りつめてゐるよりは、身體を疲らした方がまだしもだ。出掛けてあの方をお迎へしよう。」
私は出掛けた。急いで歩いたけれど、遠くまでは行かなかつた。四分の一哩を數へないうちに、
蹄に音が聞えて來た。誰か騎者が、馬を急がせてやつて來る。犬が一疋その傍を駈けてゐる。
凶兆よ去れ!彼だ。メスルーに
「さあ!」手をさしのべて鞍から身を屈めながら彼は叫んだ。 「駄目、獨りぢや出來やしない。私の靴の爪先にお上り。兩手をかして。お乘り!」
私はその通りにした。喜びが私を輕快にした。私は彼の前に跳び上つた。 そして私を迎へる心をこめた接吻を受けた。思ひ上つた勝利感、それを私は出來るだけのみ込んだ。 彼は喜びを抑へて訊ねた。「だが何事かあつたの、ジャネット、こんな時間に私を迎へに出て? 何か惡いことでもあつたの?」
「いゝえ。だけど私あなたがもう二度と歸つていらつしやらないやうな氣がしたんですの。 私、家の中であなたをお待ちしてゐられなかつたんです。特にこの雨と風では。」
「雨と風、まつたくだ!成る程あなたは人魚のやうにびしよ濡れだ。 私の外套を卷きつけておきなさい。だがジエィン、あなたに熱があるやうだ -- 頬も手も燃えるやうに熱い。も一度訊くけれど、どうかしたの?」
「もう何んにも、私、怖くもなければ嫌な氣持でもありませんの。」
「ぢやあ兩方だつたの!」
「まあね。ですが追々とそのことに就いてすつかりお話ししませう。きつと、
あなたは私の苦しんだのをお
「明日が過ぎたら心あらお前をわらつてやらうが、それまでは
「あなたをお待ちしてゐました。でも威張つちや駄目。さあ、ソーンフィールドに着きましてよ。 もう降ろして下さいまし。」
彼は
「掛けてお相伴なさいよ、ジエィン。有難いことだ、もう一度のを除くと、 これがソーンフィールド莊出食べる最後の食事になるのですよ。」
私は彼の傍に掛けたけれど、食べられないと彼に云つた。
「それは、これから旅行をしようとしてゐるからなの、ジエィン? あなたの食慾をなくしたのは倫敦へ行くといふことを考へるからなの?」
「私今晩は先のことなどはつきり見えませんの。そしてどんなことを私の心が考へてゐるか殆んど分りませんの。 この世の中の何も彼もがみんな本當ぢやないやうな氣がして。」
「私を除いてはね。私は立派な人間ですよ、 -- 觸つて御覽。」
「あなたこそ何よりも幽靈のやうなのです。あなたはたゞ夢なんです。」
彼は笑ひ乍ら手をさしのべた。「これが夢?」と彼は私の眼近にそれを持つてき乍ら云つた。 彼はその長い強い腕と同じやうに、しつかりした、筋ばつた力のある手を持つてゐた。
「いゝえ、それに觸れたつて、やつぱり夢ですの。」私の顏の前からそれを下ろし乍ら私は云つた。 「お食事はおすみですの?」
「あゝ、ジエィン。」
私は
「もう眞夜中近くですのね。」と私は云つた。
「さうね。だがジエィン、覺えてゐるでせうね、私の婚禮の前の晩には私と一緒に起きてゐてくれると約束したのを。」
「いたしましたわね。で、少くとももう一時間か二時間位お約束を守りませう。私ちつともお床に這入り度くはないのですの。」
「そちらの支度はもうすつかりいゝの?」
「え、すつかり。」
「私の方も同樣だ。」と彼は答へた。「何も彼も片をつけてしまつた。私たちは明日、教會から歸つて後半時間以内に、 ソーンフィールドを發ちませう。」
「結構ですわ。」
「何といふ獨特の微笑を浮かべて、その『結構です』といふ言葉を云ふのだらう、ジエィン! 何て明るい色が兩頬に上つて來るのだらう!そしてまた、どうしてそんなにいつにもなく眼を輝かして! 元氣なの?」
「だと思ひます。」
「思ひますとは!どうしたの?お話し、どんな氣持なの?」
「出來ませんわ。私の氣持は言葉には現はせないのです。この今の時が永久に終らなければいゝと思ひます。 この次にはどんな運命に變つて行くか誰が知つてゐませう?」
「それは憂鬱病だよ、ジエィン。あんまり興奮しすぎたのか、でなけりや疲れすぎだ。」
「あなたは落着いた、幸福な氣持がなさつて?」
「落着く? -- いや。しかし幸福だ -- 心の底まで。」
私は彼の顏に幸福の
「あなたの祕密といふのを打明けなさい、ジエィン。」と彼は云つた。
「私に話してしまつて、あなたの心を壓迫する重荷からすつかり樂におなりなさい。 何が恐しいの! --
私がよい
「そんなこととはすつかりかけ離れたことですわ。」
「あなたはこれから這入らうとしてゐる新しい世界 -- あなたが這入らうとしてゐる新しい生活のことで氣遣つてゐるの?」
「いゝえ。」
「どうしたと云ふの、ジエィン。あなたのその悲しさうだ、思ひ切つた樣子と云ひ口調と云ひ、 私は困らせられ苦しめられる。説明が聞きたいのだよ。」
「では、ね、聞いて頂戴。あなたは昨晩お家にはゐらつしやいませんでしたわね?」
「さうだ -- その通りだ。
「いゝえ。」十二時が鳴つた。私は、小時計が銀の鐘聲を、柱時計が
「昨日は一日中私は
「この魔女奴、なか〜巧く私の心を讀み取つたな!」とロチスター氏は口を挾んだ。 「だが薄絹の中に縫取の他に何かあつたの?そんな悲しさうな顏をしてるとは、毒か、短劍でもあつたといふの?」
「いえ、いえ。その織物の精巧なことと立派なことの他には、たゞフェアファックス・ロチスターの誇があつたばかりですの。
それは何も私を驚かしはしませんでした。惡魔には私慣れてゐるのですもの。ところで、
暗くなると風が出て來ました。それが昨日の晩は今吹いてゐるやうな -- 騷がしく強い --
のではなくて、哀れつぽい哭くやうな音を立てゝ吹いてゐて、
氣味惡い位のことではなかつたのです。あなたがお家にゐらつしやればいゝと思ひました。
この部屋に這入つて來ると、
「で、そんな夢が今もあなたの心を
「お愛し申してをります -- をりますわ、心底。」
「いや、」と彼は一寸默した後に云つた。「妙なことだが、その言葉は痛く私の心に
「私、おはなしが濟んだらお好きな程焦らしたり怒らせたりして差上げます。 でも、お終ひまで聞いてね。」
「私は、ジエィン、もうすつかり話しが濟んだと思つてゐた。 あなたの憂鬱の
私は頭を振つた。「何!まだあるの?しかし大したことぢやないでせう。 私は輕信しないことを先に云つときますよ。さあ。」
彼の不安な樣子、何か氣遣ふやうないら〜した彼の擧動に私は驚いた。しかしつゞけた。
「私はまた違つた夢を見ましたの。ソーンフィールド莊が陰氣な廢墟になつて、
蝙蝠や梟の
「さあ、ジエィン、それだけ。」
「前置だけは。おはなしはまだなのです。眼を覺ますと、何か光が私の眼にまぶしくあたります。 私、思ひました --
あゝ、陽の光だと!でも間違ひでした。それは蝋燭の光だつたのです。
ソフィイが這入つて來たのだと私は思つてゐました。
「そのうちの誰かに相違ない。」と私の主人は遮つた。
「いえ、私、本氣でさうぢやないと申します。私の眼の前に立つてゐたあの姿は、 今迄ソーンフィールド莊の邸内では決して私、見かけたものではありません。 あの背丈や恰好は私には初めてなのです。」
「どんなか云つて御覽なさい、ジエィン。」
「丈の高い、大柄な、黒い毛を長く背中に埀らした女の人のやうでした。
どんな服を着てゐたか存じません。白くて襞も何もなしでしたけれど、
「その女の顏を見たの?」
「最初は見ませんでした。ですけど、やがてその人は、
私の
「どんなだつたのです?」
「恐しくて、蒼ざめて -- あゝ、あんな顏を私、見たことがありません!變色した顏 --
恐ろしい顏でした。ぎよろ〜するあの血走つた眼と、 あの恐ろしい黒ずんだ
「幽靈は大抵蒼ざめてうぃるけれど、ジエィン。」
「それは紫色でした。唇は腫れ上つて黒ずんでゐました。 額にはしわがよつて、黒い眉毛は血走つた眼の上に亂れてつり上つてゐるのです。 それが私には何を思ひ出させたか申しませうか?」
「仰しやい。」
「醜い獨逸のお化の吸血鬼なのです。」
「おゝ! -- それが何をしたの?」
「それは私の
「それから?」
「窓掛を引開けて外を見ました。多分夜明けが近づいたのを見たのでせう。
蝋燭をとると、入口の方へ退きましたの。ちやうど私の傍まで來るとその姿は立止つて、
ギラ〜した眼で私を睨むのです。蝋燭を私の顏にすれ〜につきつけると、
私の眼の前で消してしまひました。私はその物凄い顏が、私を
「氣がついたときには傍には誰がゐました。?」
「誰も。たゞ夜はとつくに明け放れてゐました。私は起きて、頭や顏を水で洗つて、一息に水を一ぱい呑みました。 衰へてはゐるけれど、病氣ではないと思つて、たゞあなたにだけこの幻をお話しようと決心したのです。 さあ、あの女の人は誰で何んだかを私に云つて下さいまし。」
「興奮し過ぎた頭のせゐです -- きつとさうだ。私はあなたを、 私の寶を守らなくてはならぬ。あなたみたいな神經の人は荒つぽい扱ひ方をするやうには出來てゐないのだ。」
「確かに、私の神經は間違つてはをりません。あのことは本當です。あの事件は本當にあつたのです。」
「そしてその前に見たあなたの夢、あれも矢つ張り本當だと云ふの?
ソーンフィールド莊は廢墟ですか?どうすることも出來ない障碍に私はあなたから切り離されてゐますか、
私はあなたから離れ去つてゐますか、涙もなしに --
「それは未だですけど。」
「しようとしてゐますか。ねえ、私共を分たないやうに結び合せるその日はもう始りかけてゐるのですよ。 そして一度二人が一緒になれば、もうこんな心の上の怖れなどは二度と起りはしません。 私が保證します。」
「心の上の怖れですつて!それ位のことだと信ずることが出來れば、と思ふのです。 今迄にもましてさう思ひます。あなたでさへあの恐しい訪問者の祕密を説明お出來にならないのですから。」
「そして私が出來ない以上、ジエィン、それは事實ぢやないに違ひ無い。」
「ですけれど、今朝起きて私も自分にさう云つて、明るい晝間の光の中で、
いつも見なれたものゝ氣持のいゝ姿を見て元氣と慰めを得ようと部屋を見廻すと、そこに -- 敷物の上に --
私の臆説が明らかに嘘だと分る物が見えたのです -- 上から下迄眞二つに裂けた
私はロチスター氏がぎよつとして身顫ひするのを感じた。彼は
彼はせはしく息をして、息もつまりさうに強く私を抱きしめた。しばらく默した後、彼は元氣よく言葉を續けた --
「ねえ、ジエィン、そのことをすつかり説明してあげよう。あれは半分は本當なんですよ。
女の人は、確かにあなたの部屋に這入つたんです。その女と云ふのは -- きつと --
グレイス・プウルに相違ない。あなたは自分でもあの女のことを不思議な人間だと云つてゐる。
あなたの知つてゐるすべてから、あなたが、さう云ふ理由があります。私に何をしたでせう?
メイスンに何を?夢現のうちにあなたはあれの這入つて來たことや
「私は考へてみた。そして實を云へばそれはたゞあり得ることだと思はれるだけだつた。 私は滿足してはゐなかつた。けれども彼を喜ばせる爲めにさう -- 本當にさう感じたやうに救はれたやうに見せようと努めた。 だから私は滿足したやうな微笑を浮べて答へた。そしてもう一時をとつくに過ぎてゐたので、 私は彼の傍を去らうとした。」
「ソフィイは子供部屋にアデェルと眠つてゐはしない?」と私が蝋燭を燈してゐると彼が訊ねた。
「えゝ。」
「そしてアデェルの寢床にはあなたが這入れる位の場所は十分あるでせう。 今晩はあの子と一緒でなくてはいけませんよ、ジエィン。 あんな出來事があなたを過敏にすることは確かですからね。 それにあなたは獨りで寢ない方がいゝと思ひますから。子供部屋の方へ行くと約束なさいね。」
「私もその方が嬉しうございます。」
「そして内側から
さうだつた。半天は澄んで雲もなかつた。 今は西に變つた風に追はれて流れる雲は長い銀色の柱状をなして東の空から長々と動き出してゐた。 月が穩やかに照る。
「ところで、」と穿鑿するやうに私の眼の裡を見つめてロチスター氏が云つた。 「私のジャネットは今どう?」
「夜は穩やか、そして私もさうですの。」
「そして今夜は別れや悲しみの夢は見ないで、幸福な愛と多幸な
しかしこの豫示は半分しか滿されなかつた。實際私は悲しい夢は見なかつた。
しかし同じく喜びの夢も見なかつた。まつたく眠らなかつた。幼いアデェルを腕に抱いて、 私は幼い者の眠 --
かくも靜かに、かくも苦しみなき、かくも無邪氣な -- を見守つて、來る日を待つてゐた。
私の生氣はすつかり目覺めて身體の裡に動いた。そして太陽が昇るや否や私も起きた。
私は思ひ出す、立去らうとするとアデェルが、私にからみ付いたのを、私は思ひ出す。
頸から彼女の小さな手をゆるめて接吻をし、不思議な感動で彼女に向つて泣き、
私の
七時になると、ソフィイが私の支度にやつて來た。彼女は實に長くかゝつてその仕事を終つた。
あんまり長いのでロチスター氏は、私の遲いのにいら〜したのだらう、
どうして來ないかと訊ねに寄越した。彼女は正に
「待つて!」と、彼女は、彿蘭西語で叫んだ。「御自分を鏡に映して御覽なさいよ。 一遍も鏡を見ないぢやありませんか。」
そこで私は入口のところで振り返つた。あまりにもいつもの自分とは似てないので、
殆んど他人の像のやうに思はれる、衣裳をつけて
「おそい人!」と彼は云つた。「もう待ち切れなくて怒つてしまつた。こんなにぐづ〜して!」
「彼は私を食堂に連れて行つて、あますところなく私を觀察して、さて云つた。
「百合花のやうに美しく、彼のいのちの誇であるばかりか、彼の眼の
「ジョンは馬車の用意をしてゐるのか?」
「は。」
「荷物は
「今下ろしてゐるところでございます。」
「お前は教會迄行つて來るのだ。ウッド(牧師)さんと書記がゐるか見て來てくれ。 歸つて私に返辭をするのだ。」
讀者の知つてゐるやうに、教會は門の直ぐ向うにあつた。從僕はすぐに歸つて來た。
「ウッドさんは法服所にをられて、白法服を着てゐらつしやいます。」
「そして馬車は?」
「馬に馬具をつけてをります。」
「教會へ行くには要らないが、歸つて來たら用意が出來てなくてはならない -- 箱も荷物もすつかり積み込んで、紐でくゝつて、馭者は馭者臺にゐるのだ。」
「かしこまりました。」
「ジエィン、用意はいゝか。」
私は立上つた。新郎の從者も、花嫁の附添女も、親族も、待つてゐて連るものもなかつた、 --
たゞロチスター氏と私だけだつたのだ。フェアファックス夫人は、私共が通り拔けるとき、
廊下に立つてゐた。私は彼女に話しかけたかつたけれど、手は鐡のやうな握り方で、掴まれてゐた --
私は從ひて行けないやうな大胯で急き立てられた。そして、ロチスター氏の顏を見れば、
一瞬の猶豫もどんな目的の爲めにも我慢出來ないと感ずるやうなものであつた。 他のどんな
その日は晴れてゐたのか曇つてゐたのかも知らない。車路を下りて行き乍ら、
私は空も見なければ地も見なかつた。私の心は眼と共にあつて、 その兩方共ロチスター氏の身體の中に這入り込んでゐたやうに思へた。
歩いて行き乍ら、彼が烈しく殘忍にきつと見つめてゐるらしい見えざるものそれを私は見たいと思つた。
彼がその力と拮抗し抵抗してゐるらしいその思ひを感じ度いと思つた。寺院の庭への入口で彼は止つた。
彼は私がすつかり息を切らしてゐるのを見た。「私は愛することにも殘酷なのだらうか?」
と彼は云つた。「一寸休まう。私のお
そして私は今あの灰色の古い、神の家が穩やかに私の前にそびえ、
その尖塔の周圍を一羽の
私共は靜かな質素な寺に這入つた。牧師は白い法衣を着て低い祭壇で待つてゐた。 書記はその傍にゐた。何も彼もしんとしてゐて、二つの人影ばかりが遠くの隅に動いてゐた。 私の推測は間違はなかつた。あの見知らぬ人たちは私共より先に這入り込んで今かうしてロチスター家の納棺所の傍に、 私共に背を向けて、手摺越しに古い、時代のついた大理石の墓標を眺め乍ら立つてゐるのだつた。 その墓標には跪いた天使が一人、 マアストン・ムウアに於て内亂のときに殺されたダメ・ド・ロチスターとその妻のエリザベスとの遺品を守つてゐるのであつた。
私共は聖餐欄干のところに座を占めた。注意深い跫音を後ろに聞いて、私は肩越しに見遣つた。見知らぬ人の一人 -- 確かに紳士である
-- が聖壇所の方へ進んで行つた。式は始つた。結婚の意嚮の
「すべての心の祕密の露はるゝ恐ろしき裁きの日に汝等が答ふる如く、
汝等の内いづれにても合法的に結婚によつて結ばるゝこと能はざる障碍を知るならば、
今告白することを、汝等二人に
彼は習慣通りに言葉を切つた。この宣告の後、沈默は一體何時になつたら答へによつて破られるだらう? 否、多分、百年經つともである。そして、書物から目を上げないで、一瞬息をつめてゐた牧師は續けようとした。 彼の手は既にロチスター氏の方に延べられ、彼の唇は「汝はこの婦人をめとりて妻となすか?」 といふ問ひを出さうとしたとき -- そのとき、明瞭な聲がすぐ傍で云つた --
「その結婚はなりません。私は、障碍のあることを言明します。」
牧師は顏を上げて發言者の方を見て無言のまゝだつた。書記も同樣だつた。ロチスター氏は、
足の下が地震で搖れたかのやうに、
力強い、しかし低い抑揚で彼がその言葉を口にしたとき、深い沈默がつゞいた。 やがてウッドが云つた --
「今主張されたことを調べて、それが眞實か間違ひかの證がなくては續けることは出來ません。」
「その式は全然駄目です。」と私共の背後の聲が附加へた。 「私はこの主張を證明する地位にあります。超へ難い障碍がこの結婚にはあります。」
ロチスター氏は聞いたが、しかし見向きもしなかつた。彼はたゞ私の手をとるより外には身動きもせず、 頑固にじつと立つてゐた。何といふ熱い、強い握力であつたらう! -- そしてこの瞬間、いかに彼の蒼ざめた、固い、廣い額は切り出された大理石のやうだつたらう! いかにその下に彼の眼は、猶も油斷なく、輝き、而も狂暴だつたらう!
ウッドは困り切つた樣子だつた。「その障碍といふのはどんな性質のものです?」と彼は訊ねた。 「多分それは除かれるでせう -- 説明出來ることでせう?」
「とても、」といふ答だつた。「私は超へ難いと云ひました。そして私は熟慮した上で云ふのです。」
發言者は進み出て欄干にもたれた。彼は、一言々々を明瞭に、穩やかに、確固たる調子で、 しかし大聲ではなく續けて云つた --
「それはたゞ前の結婚といふことに在るのです。ロチスター氏には今も生きてゐる夫人があります。」
雷にも顫へたことのない私の神經がこの低い聲で云はれた言葉に顫へた。 --
私の血は氷にも火にも感じたことのないやうな激しい暴力に感應した。しかし私は、
しつかkりしてゐて氣を失ひさうな危險はなかつた。私はロチスター氏を見上げた。
私は彼に私を見させた。彼の顏はまつたく色のない岩であつた。
彼の眼は火花でもあり、
「君は誰だ?」と彼は闖入者に訊ねた。
「私はブリッグズと云ふ者で、倫敦の××街の辯護士です。」
「そして私に妻を押ししけようとするのか。」
「私はあなたにあなたの夫人のゐられることを思ひ出させ度いのです。その方は、 あなたが認めなくても法律が認めた人なのです。」
「その女のことを聞かせてくれ -- 名前、兩親、居住の土地を。」
「宜しい。」ブリッグズ氏は、靜かに彼のポケットから一枚の紙片を取り出して、一種の事務的な、 鼻にかゝつた聲で讀み上げた --
「西暦××年、十月二十日(十五年前の日附である)、英國、××州、××地方のソーンフィールド莊、 及びファンディイン貴族領のエドワァド・フェアファックス・ロチスターは、 商人のジョオナス・メイスン及びアメリカ生れの黒人であるその妻アントワネッタとの娘、 我が妹バアサ・アントワネッタ・メイスンと、ジャマイカ・スパニッシュタウン××教會に於て結婚せることを承認し、 證することを得。結婚記録はその教會の記録の中に見出さるべし。その寫しは餘のところにあり。 リチヤァド・メイスン署名で。」
「それは -- 眞實の書類は -- 私の結婚したことを證するものかも知れないが、 その中に私の妻と記された女が、今も生きてゐるとは證されないだらう。」
「その人は、三ヶ月前までは生きてゐました。」と辯護士は答へた。
「どうして知つてゐる?」
「その事實の證人があります。その人の證言はあなたと
「その人間を連れて來い -- さもなければ失せてしまへ。」
「先づその人をお連れしませう -- その人はあそこにゐるのです。メイスンさん、どうぞお進みなさい。」
ロチスター氏はその名を聞いて齒をかんだ。 そしてまた弱い痙攣するやうな
「はつきり返答出來なけりや承知しないぞ。もう一度きく、君は何を云ふことがあるのだ?」
「あなた -- あなた、」と牧師は遮つた。「神聖な場所にゐらつしやることを忘れないで下さい。」 それからメイスンに向つて彼は優しく訊ねた。「あなたは御存知なんですか、 この方の奧さまが未だ生きてゐらつしやるかどうかを?」
「勇氣を出して、」と辯護士が促した -- 「お話しなさい。」
「
「ソーンフィールド莊にですか!」と牧師が聲を上げた。 「そんなことはありません!私はこの界隈に古くから住んでゐる者ですが、 ソーンフィールド莊にロチスター夫人といふ方がゐらつしやるのは聞いたことがありませんよ。」
私は苦い笑ひがロチスター氏の唇を歪めたのを見た。そして彼がかう呟くのを聞いた --
「いや、決してだ!誰もそれを -- またはそんな名の女のことをきかないやうに注意したのだもの。」 彼はじつと考へた -- 十分間位も自分に相談してゐた。遂に決心がついて、彼は云つた --
「もう澤山だ!銃から
ロチスター氏は臆する色もなく、思ひ切つて續けた。
「重婚とは嫌な言葉だ!しかし、私は重婚者にならうと思つたのだ。だが、運命が私の裏を掻いたと云ふか、 天が私を差し止めたと云ふか
-- 多分後の方だらう。今の私は惡魔にも等しいものだ。
そして牧師があすこで云はうとしてゐるやうに、確かに最も嚴めしい神の裁き、消しがたい業火、
死ぬことのない蟲けらの地獄に墮ちて行くのが當然なのだ。 皆さん、私の企らみは破れました! --
この辯護士とその依頼人の云ふことは眞實です。 私は結婚してゐる。そして結婚した女は生きてゐるのです!
ウッド。あなたはあの向うの家でロチスター夫人のことを聞いたことがないと云ふ。
だが恐らくあなたは、彼處に不思議な狂人が見張られ守られてゐることは幾度も耳を
なほもしつかり私を離さないで、彼は教會を出た。その後から三人の男が來る。
「それは馬車小屋に入れておけ、ジョン、」とロチスター氏は、冷やかに云つた。 「今日は要らないのだ。」
入口で、ハミシス・フェアファックス、アデェル、ソフィー、レア逹が、 會つてお祝ひをしようと、寄つて來た。
「あつちへ行け -- みんな!」と主人は叫んだ。「お祝ひなんぞは要らない! 誰が要るのだ?私ぢやあない! -- それは十五年遲すぎたのだ!」
彼は通り拔けると、なほも私の手を取り、なほも人々に彼に續くやうにとまねいて、
階段を上つて行つた。皆さうした。第一の階段を上り、廊下を過ぎ、三階に進んだ。 ロチスター氏の合鍵で開けられた低い、黒い
「君はこの室を知つてるだらう、メイスン、」と我々の案内者は云つた、 「
彼は
「お早う、プウル夫人!」とロチスター氏は云つた。 「如何で?それから病人の方は、今日は?」
「有難うございます、まあどうやら、といふところでございます。」 と煮え上つてゐる食物を、注意深く爐傍の棚の上におろし乍らグレイスは云つた。 「少し噛み付くのですが、暴れまはりはしませんので。」
恐しい叫び聲が、彼女の好意的な報告を裏切るやうに思はれた。
その着物を着た
「あゝ、旦那さま、あなたを見ます!」とグレイスは叫んだ。 「こゝにもうゐらつしやらない方が宜しうございます。」
「ほんの一寸だけ、グレイス -- ほんの一寸だけ許して呉れ。」
「では旦那さま、氣をお附けになつて! -- お願ひですから氣をお附けなすつて!」
狂人は吼え立てた。彼女はその振り亂した毛を顏から拂ひのけて、 恐しい樣子をして訪問者逹をにらみつけた。私はその紫色の顏、 -- むくんだ姿をよく覺えてゐた。プウル夫人が寄つて來た。
「邪魔しないで、」とロチスター氏は彼女を押しのけ乍ら云つた。 「多分今はナイフを持つてない樣子だ?それに私は自分で注意してゐるから。」
「何を持つてるか知れないのでございます。この方の力がどれ位だかは人間の想像外なのです。」
「これの傍を離れた方がいゝと思ひますが。」とメイスンが呟いた。
「勝手にするがいゝ!」といふのが彼の義兄の勸めだつた。
「氣を附けて!」とグレイスが叫んだ。三人の紳士は思はず後しざりした。 ロチスター氏は背後に私を押しかくした。狂人が跳びかゝつて、
猛然と彼の咽喉元を掴んで、彼の頬に噛みついた。彼等は爭つた。 彼女はその
「これが私の妻なのです。」と彼は云つた。「こんな風にするのが私の知つてゐるたゞ一つの夫婦の抱擁なのです -- こんな風にするのが私の暇なときを慰める愛撫なのです!そして私の望むのは、」 (手を私の肩に掛け乍ら)、「この若い人、惡魔のをどりを氣も確かに見ながら、 こんなに嚴かに落着いて地獄の淵に向つて立つてゐるこの人なのです。 あの殘忍なラグウ料理の後に、その代りとしてこの人を欲したのです。 ウッドとブリッグズ、この相違を見て下さい!この澄んだ眼とあの向う赤い眼球を較べて下さい -- この顏とあの假面と -- この姿とあの巨躯と。そして裁いて下さい、福音の僧と法の人とで、 そして憶えて下さい、あなた方が裁くその裁きによつて、あなた方が裁かれるのだといふことを。 行つて下さい。私はこれを閉ぢ籠めなくてはなりません。」
私共は皆立ち去つた。ロチスター氏は何かもつとグレイス・プウルに指圖する爲めに一寸後に殘つた。 辯護士は階段を下りながら私に話しかけた。
「奧さん、あなたは、」と彼は云つた。「何も咎められることは無くなりましたよ。 あなたの伯父さまはこれを聞いてお喜びになるでせう -- 若し、 まだ生きてゐられるのだつたら、實際 -- メイスンさんがマデイラに歸られたら。」
「私の伯父ですつて!伯父さんがどうしたのですか?あなたは御存知なのですか?」
「メイスン氏が御存じです。エア氏は幾年の間かあの方の店のフアンチヤルにある取引先なのです。 丁度あなたの伯父さまが、
熟考の上であなたがロチスター氏と結婚なさるといふことを知らせてお寄越しになつた手紙を受取られたときに、
ジャマイカへ歸る途中、保養の爲めにマデイラに滯在してゐられたメイスン氏が偶然一緒にゐられたのです。
エア氏はそのことを話された、と云ふのは、 こゝにおいでの私の依頼人がロチスター氏と云ふ名の方を知つてゐたからなのです。
御想像も出來ませうが、驚きもし、困惑なさつたメイスン氏は、事の實状を打明けておしまひになつたのです。
あなたの伯父さまは、お氣の毒ですが、今病床にあつて、御病氣の性質から云つても -- 衰弱なので --
また御年齡も御年齡なので、とても起たれるとは思へないのです。
で、あの方はあなたがお落ちになつた罠からあなたをお救ひ出しに御自分で英國へ急いで來られないので、
メイスン氏に頼んで一刻も早くこの虚僞結婚を遮る處置をとるやうにお寄越しになつたのです。
彼はメイスン氏に私の助力を求めました。私は萬事テキパキとやりました。
そして有難いことには間に合ひました。きつとあなたもさうお思ひになる筈ですね。
あなたがマデイラに到着なさらないうちに伯父さまが亡くなられるといふことが本當に確かなことでないのでしたら、
あなたにメイスン氏と一緒にお歸りになるやうにと申し上げるのですが。しかしそんな工合ですから、 エア氏からか、またはあの方に就いて、
この上のことをお聞きになる編んであなたは
「いや、いや -- 行つてしまはう。」と云ふのが心配さうな返答だつた。 そしてロチスター氏に別れを告げる爲めに待つこともしないで、 彼等は廣間の入口から出て行つてしまつた。牧師は彼の教區民に、訓誡か叱責か、 短い言葉を告げる爲めに留つた。それが濟むと、彼もまた立ち去つた。
今私がひいた私の部屋の半ば開いた入口に立つて、私は彼の出て行くのを聽いた。
人が歸り去つてしまふと、私は誰も妨げる者の無いやうに、閉ぢ籠つて
その朝は非常に靜かな朝であつた -- あの狂人との場面を除いてはなべて。
教會の出來事は騷々しいものではなかつた。怒りの爆發もなければ、聲高な口論も、
喧嘩も、叛抗または挑戰もなく、涙も、
私はいつもの通り -- 何の目立つた變化もなく、いつもの私として自分の部屋にゐるのだつた。
何も私を打ちもしなければ、
熱心で、望を抱いてゐた女であるジエィン・エアは -- 殆んど花嫁であつたが --
再び寒い、孤獨の女になつて了つた。その
私の眼は蔽はれ閉ぢられてあつた。渦卷く闇が私の周りを流れるやうに思はれ、 反省が黒い混亂した流れのやうに這入り込んで來た。身も世もなく、氣も弛んで、茫然と、 私は自分を大きな河の乾いた川床に横たへてゐるやうな氣がした。 私は遠い山の中から洪水が流れ出す音を聞き、激流がやつて來るのを感じた。 けれども起き上る意志もなく逃げる力もなかつた。死にたいと思ひつめ乍ら、 私はぐつたりと横になつてゐた。たゞ一つの思ひのみが、 なほ生ある如くに、私の裡に脈を打つてゐた -- 神の記憶である。 それが口に出さない祈りをもたらした。その言葉は、囁かれなくてはならないものゝやうに、 私の暗い心を上へ下へとさまよふのであつたが、それを口にする力が見出されなかつた。 --
「私から遠ざかり給ふな、苦難が身近に來てをります。そして誰も助けてくれる者はございません。」
それは身近に來てゐた。そしてそれを遮るようにと天に祈りを上げなかつたので --
午後のあるとき、私は頭を擧げて、そして
しかし、私の心の返辭 -- 「いますぐ、ソーンフィールドを出てお行き」 --
は餘りにきつぱりとして、あまりに恐ろしく、私は耳を
しかしそのとき、私の
「では、私を引き離して下さい。」と私は叫んだ。「他の者に私を助けさせて下さい。」
「いや、お前は自分で離れ去るのだ。誰もお前を助けてはいけない。お前は、
自分で自分の右の眼を
あまりに殘酷な裁きに惱まされる獨居 -- あまりに恐ろしい聲に滿ちた沈默に、恐怖に襲はれて、
私は、ふいに立ち上つた、眞直に立つと、私に頭はくら〜となつた。
興奮と空腹とで私は病氣だと思つた。食物も飮物も、その日は、私の唇を通らなかつた。
私は、朝食を喰べなかつた。そして、怪しい苦痛で、こんなに長い間、 此處に閉ぢ籠ば、下りて來いと呼びにも寄越さない --
幼いアデェルさへ、
「とう〜出て來ましたね、」と彼は云つた。「さう、私は、長いことあなたを待ち、 耳を澄ましてゐたのです。しかし何の物音も聽えず、啜り泣の聲もしなかつた。 この上五分間も、あの死のやうな沈默が續いたなら、私は盜人のやうに錠前をこぢ開けたに違ひない。 どうしてあなたは私を避けるのですか? -- 閉ぢ籠つて、たつた一人で悲しむのですか? 私は、寧ろあなたが恐ろしい勢でやつて來て、私を責めて下さつた方がよかつたのだ。 あなたは情熱的だ。私は、さう云つた風な場面を豫期してゐたのです。 私は、熱い涙の雨を待つてゐたのです。たゞそれが私の胸に注がれることを望んでゐたのに、 今は心ない床か、濡れたハンケチが、それを受けた。だが、私は間違つた。 あなたはまるで泣いてはゐない!蒼ざめた頬と光のない眼は見えるがしかし涙の痕はない。 それでは、多分、あなたの胸は血の涙を流してゐるのでせうね?
「さあ、ジエィン!一言の非難もしないの?何も辛くはないの -- 何も痛みはしないの?
何一つ心を掻き亂しもせず、
「ジエィン、私は、あなたをこんなに傷けようと思ひはしなかつた。
もし彼のパンを食べ、彼のコップから飮み、彼の
讀者よ、私はそのとき、その場で彼を許したのだ。彼の眼にはかくも深い悔いが、 彼の調子にはかくも眞實な憐みがあり、彼の振舞ひにはかくも男らしい力があつた。 なほその上、彼の容子、顏色、全體にかくも變らない愛があつた -- 私は何も彼も許した。 しかし言葉に出してゞはなく、外に表はしてゞはなく、たゞ私の心の底だけで。
「あなたは、私のことを惡魔だと思ふでせうね、ジエィン?」 やがて彼は愛はしげに訊ねた -- 意志からと云ふよりは、寧ろ氣弱の結果で、 私が沈默と無氣力を續けてゐるのを、疑つて。」
「えゝ。」
「では、さうと大きな聲で嚴しく云つて下さい -- 私を容赦しないで下さい。」
「私には出來ません。私は疲れて氣持が惡いのです。水を少し下さい。」
彼は、わなゝくやうな吐息をついて、私を腕に抱きかゝへて、階下へ連れて行つた。
はじめ、私は、彼がどの部屋へ連れて行くのか分らなかつた。ぼんやりした私の眼には、
何も彼も朦朧としてゐたのである。やがて、私は、力づけるやうな火の暖か味を感じた。
夏なのに、私は自分の部屋にゐて、氷のやうに冷え切つてゐたのだ。 彼は葡萄酒を私の唇に持つて來た。それを口にして、私は元氣づいた。
それから彼の出したものを食べて、程なく我に返つた。私は書齋にゐるのだつた -- 彼の椅子に掛けて --
彼は私に近々とゐた。「もし私が今、餘りに鋭い悲痛もなく、 生命を斷つことが出來るのだつたら、私は嬉しいだらう、」と私は思つた。
「さうすれば、私の心の
「どんな工合です、今は、ジエィン?」
「大分よくなりました。もうすぐよくなるでせう。」
「も一度、葡萄酒をお飮み、ジエィン。」
私は、彼の云ふまゝにした。それから、彼は、コップを
「何 -- どうしたの?」と彼は、せはしく叫んだ。「あゝ、わかつた!
あなたは、バァサ・メイスンの
「いづれにしても、私には身の置場所も無ければ、權利も無いのです。」
「何故です、ジエィン?あなたには澤山口を利かせないことにして、 あなたの代りに答へてあげよう -- 私がもう既に妻を持つてゐるからだ、とあなたは云ふのでせう。 當つたでせう?」
「えゝ。」
「もしさう思ふのだつたら、あなたは私に就いて妙な意見を持つてゐるに違ひない。あなたは、 私を企らみのある道樂者 --
あなたを企らんで張つた
「私は、あなたに、刄向ふやうな振舞ひをしようとは思つてをりません。」と私は云つた。 そして私の、今にも亂れさうな聲が、言葉を短く切るやうに教へた。
「その言葉に就いて、あなたの云ふやうな意味ではなく、 私の意味では、あなたは私を駄目にしてしまはうとしてゐるのです。
あなたは私のことを結婚した人間だと云つたも同然だ。 結婚した人間である故に、あなたは私を避け、私から離れ去るのだ。たつた今も、
私を
私は、明かな、確かな聲で答へた。「私の周りのものはすつかり變つてしまひました。 だから、私も變らなくてはなりません --
それは、疑ひありません。そして、感情の動搖を避け、 記憶や聯想との絶間ない戰ひを避ける爲めにはたゞ一つの
「あゝ、アデェルは學校へ行くのだ -- そのことはもう決めてある。また、あの厭はしいソーンフィールド莊 -- この呪はれた場所
-- エイカンの
「だがしかし、狂人の女が傍にゐるといふことをあなたに隱しておくことは、
子供を外套にくるんで毒の樹の近くにねかしておくやうなものだつた。 あの惡魔の周りは毒されてゐるのだ。始終さうだつたのです。
しかし私はもうソーンフィールド莊をたゝんでしまふ積りです。 玄關の戸を釘付けにして下の窓は板で圍つてしまひます。
プウル夫人には、あの恐ろしい惡婆とあなたが仰しやつた私の奧さまと一緒に此處に住むやうに年二百
私は彼を遮つた。「あなたは、あの不幸な方に同情がおありにならないのです。 あなたはあなお方のことを憎しみをもつて -- 執念深い反感をもつて、お話しになります。 それは殘酷です -- あの方が狂人におなりになつたのは仕方のないことなのです。」
「ジエィン、私の大事な(私はあなたをさう呼ぶ、さうなんだから)、 あなたは自分が何を云つてゐるのかわからないのだ。あなたはまた私を誤解してゐる。 私があの女を憎むのはあの女が狂人だかれあではない。若しあなたが氣が違つたとして、 あなたは私があなたを憎むだらうと思ひますか。」
「きつとさうだと思ひます。」
「それぢやあなたは間違つてゐる。そしてあなたは私のことは何も、 それから私に出來る種類の愛に就いては何もわかつてゐないのだ。
あなたの
「そしてアデェルを御一緒にお連れなさいまし。」と私は口を挾んだ。 「あの子はあなたの友逹になるでせうから。」
「何を云つてゐるの、ジエィン?アデェルは學校に遣る積りだと云つたでせう。
またあんな子供を相手にして何うしようと云ふの、而も私の子供ぢやない --
彿蘭西の踊り子の私生兒を。何だつてあの子のことであなたは私に
「あなたは引込んでおしまひになると云つてゐらつしやいました。 そして引込んでゐて、獨り居をなさることは退屈です -- あなたには退屈すぎます。」
「獨り居!獨り居!」と彼はいら〜して繰り返した。 「説明しなくてはならないらしい。あなたがどんな謎のやうな表情をするか私は知らない。 私の獨り居にはあなたも這入つてもらふのですよ。わかつた?」
私は首を振つた。彼はだん〜昂奮して來てゐるので、おづ〜と不同意だといふ身振をすることさへ何程かの勇氣が要つた。 彼は足早に室内を歩き廻つてゐたが、不意に根でも生えたやうに一所に立ち止つた。 彼は長らく嚴しく私を見詰めた。私は彼から眼をそらして、火の方を見詰めて、 靜かな、落着いた樣子を裝ひ保たうとつとめた。
「さあ、ジエィンの癖の故障が出たぞ!」
とう〜彼はさう云つた。彼の樣子から私が豫期してゐたよりは穩やかに彼は云つた。
「絹の絲車は今迄は工合よくまはつて來た。しかしやがて節だの、もつれだのが來るだらうとはいつも知つてゐた。
今のがそれだ。さあ、當惑と憤怒とはてしない面倒が始まつた!何とかして、私はサムソンの力を少しでもいゝから欲しい。
そしたらそのもつれを
彼は再び歩き出したが、また直ぐに立ち止つた。今度はちやうど私の前であつた。
「ジエィン!その譯を聞かしてあげようか?」彼は身を屈めて私の耳に口をつけた。
「その譯はね、若しあなたが嫌だと云つたら、私はどんな恐ろしいことをやり出すか分らないからなんです。」 彼の聲は
「お掛けになつてね。お好きなだけ何時までゞもお話しゝませう。 そして道理に合つたことでも合はないことでも、 あなたの仰しやらなくてはならないことはすつかり聞かせていたゞきませう。」
彼は腰掛けた。しかし彼は直ぐには話すことは出來なかつた。 私は暫くの間涙を出すまいとつとめてゐた。それを收めようと私は一生懸命を折つた。 何故なら彼が私の泣くのを見ることを好まないのを知つてゐたからである。 今は、しかし、いつまでゞも、思ふ存分流していゝと思つた。 若しその涙が彼を惱ましたなら、益々好都合なのだ。そこで私は思ひのまゝに、 心から聲をあげて泣いた。
やがて私は彼が熱心に私に向つて鎭まるやうにと願つてゐるのを聞いた。 私は彼がそんなにかつとなつてゐる間は駄目だと云つた。
「だつて私は怒つてやしない、ジエィン。たゞあなたのことをあんまり愛してたもので。
それなのにあなたはその小さな蒼ざめた顏を、あんな決然とした冷たい樣子をして
彼の穩やかになつた聲は、彼が和らいだことを告げてゐた。そこで私もそれに對して泣き止めた。 すると彼は私の肩に彼の頭をもたせかけやうとした。しかし私はそれを許さうとしなかつた。 それで、彼は私を彼の方に引き寄せようとした。 -- 否。
「ジエィン!ジエィン!」と彼は云つた。その痛ましい悲しみの聲音は、
私のすべての神經をまつたく動かした。「ではあなたは私を愛してはゐないの? あなたが尊重したのは私の地位と、私の妻の身分だつたのか?
今私があなたの
この言葉が私の心を傷つけた。しかしどうすることが、また云ふことが出來よう? 多分私は何もすべきでも云ふべきでもなかつたゞらう。 しかし私はこのやうに彼の感情を傷つけたことに對する後悔の念に甚しく責められた。 私は自分が傷つけた個所に鎭痛劑を塗らうとする思ひを抑へることが出來なかつた。
「私はあなたをお愛し申してをります、」と私は云つた。「今迄よりもつと。 けれども私はそんな感情を現はしても、溺れてもいけないのです。 そしてもうこれが申上げなくてはならない最後のときなのです。」
「最後のときだつて、ジエィン!何だつて!私と一緒に住んで、毎日私に會つて、しかも、
まだ私を愛してゐるのに、
「いえ、それはどうしても私には出來ません。ですからただ一つしか途はないのです。 でもそれを云つてはあなたはおお怒りになるでせう。」
「あゝ、お云ひ!私が怒つてもあなたには涙といふ手があるから。」
「ロチスターさま、私はあなたの傍を出て行かなくてはならないのです。」
「どれ位の間なの、ジエィン?一寸の間、髮をなでつけて -- いくらか亂れてゐるから -- そしてほてつてゐるから、あなたのその顏を冷す間 -- ?」
「私はアデェルともソーンフィールドとも別れなくてはならないのです。 私は一生あなたとお別れしなくてはならないのです。私はもう一度知らない人々や知らない土地で、 新しい生活を始めなくてはならないのです。」
「勿論。さうせねばならぬと私も云つた。あなたが私から離れ去らうとしたあの狂氣沙汰は看過してあげよう。 あなたは私の一部分にならなくてはならんと云ふのでせう。新しい生活に就いては、大丈夫ですよ。 あなたは私の妻にしてあげる。私は結婚してはゐないから。あなたをロチスター夫人にしてあげます -- 名實共に。 私は二人が生きてゐる限り、あなた一人を守ります。あなたは、南彿蘭西にある私の土地へいらつしやい -- 地中海の岸邊にある白塗の別莊に。そこであなたは幸福な、護られた、世にも罪知らぬ生活を送るのです。 決して私があなたを過失に誘ひ込まうとしてゐる -- あなたを私の情婦にしようとしてゐると恐れないで下さい。 何故首を振るの?ジエィン、きゝわけがなくてはいけない。さもなけりや本當に私はまた激昂しますよ。」
彼の聲も手も顫へてゐた。彼の大きな鼻孔は擴がつてゐた。彼の眼は燃えてゐた。 でも私は押して口を切つた。
「あなた、あなたの奧さまは生きてゐらつしやいます。そのことは今朝御自分で仰しやつた事實です。
若しあなたがお望みのやうにあなたと暮したなら、それでは私はあなたの
「ジエィン、私は温順な人間ぢやない -- あなたはそれを忘れてゐる。私はいつまでも我慢してゐられる人間ぢやない。 私は冷靜でもなければ落着いてもゐない。私を、そしてあなた自身を可哀想だと思つて、 指で私の脈搏にさはつて、どんなに脈を打つてゐるか聞いて頂戴。そして、 -- 氣をお附けなさい!」
彼は手首を
「私は莫迦だ!」と不意にロチスター氏は叫んだ。「私は結婚してゐない、 とばかり云ひ續けて、その譯を説明してゐない。あの女の性格のことも、 またはあの女との呪はしい結婚に伴ふ事情も、この人は知らないことを忘れてゐる。 おゝきつと私の知つてることを全部知つたなら、ジエィンだつて私の考へに贊成してくれるに違ひない! あなたの手を貸して下さい、ジャネット -- あなたが私の傍にゐることが分るやうに、 眼で見ると同じやうに、手でも觸れて見られるやうに -- そしたら、二言三言で本當の事情を分らせてあげます。 聞いてゐられますか?」
「え、お望みなら幾時間でも。」
「ほんの數分でいゝ。ジエィン、あなたは私がこの家の長男ではなく、嘗て、私に、 兄があつたといふことを聞くなり知るなりしてゐましたか?」
「いつぞやフェアファックス夫人がさう仰しやつたのを覺えてをります。」
「私の父が慾深い貪慾な人間だつた事もきゝましたか?」
「そんなことも薄々は存じてをります。」
「ぢあ、ジエィン、そこで、財産を一纒めにして、持つて行かうといふのが、父の決心だつたのです。
自分の領地を分けたり私に相當な分前をくれることが、我慢がならなかつた。
父の考へでは、すつかり、私の兄のロウランドに讓らなくてはならないと云ふのでした。
それかと云つて自分の息子の一人が貧乏人になる事も堪へられなかつたのです。
私は金持との結婚で、養はれねばならない。父は程なく一人の相手を探してくれました。
西印度の農園主で商人のメイスン氏が父の古い友逹でした。その男の財産は確實で宏大であると、信じてゐた。
彼を調査したんです。メイスン氏には、一人の息子と娘のあることを彼は發見しました。
そしてまた彼がその娘に三萬
「私は、私の花嫁の母親といふ人は見たことがなかつた。亡くなつてゐたのだと察してゐました。
新婚の旅が終ると、私は自分の間違ひを知りました。母親は氣が狂つてゐて精神病院に閉ぢ籠められてゐるのでした。 弟も一人あつて、それも
-- まつたく唖の白癡だつたのです。 あなたも會つたあの兄の方(あの家の者はみんな嫌ひなのに、あの男だけは私にも憎めない。
彼は弱々しい心にもいくらか愛情があつた、あの淺間しい妹に
「これは
「ジエィン、もう
「その間に私の兄は亡くなり、四年目の終りには父も亡くなつたのです。 今は私は十分に金持になつたのです -- しかし實は、厭はしい心の貧困だつたのです。 今まで見たこともない世にも愚鈍な、不純な、腐爛した人間が私に結び付けられ、法律により、 社會によつて私の半身と呼ばれてゐるのです。そしてどんな法律的な訴訟手續によつてもそれから逃れることは出來ない。 醫師逹はそのとき私の妻が發狂してゐることを發見したのです -- あの女の無節制が早くも精神錯亂の萠芽を育てゝしまつたのです。ジエィン、あなたは、私の話しが嫌ですか。 氣分が惡いやうだけれど -- この續きはまた別の日に延しませうか?」
「いゝえ、今話してしまつて下さい。私はあなたがお可哀さうです -- 心の底からお可哀さうに思ひます。」
「同情といふものは、ジエィン、受ける人によつては有害な、無體なもので、
人はそれを提供した人の口に投げ返しても差支へのないものです。
しかしその種の同情は無情な、利己的な心から發生したものです、また、悲しいことを聽いたときの身勝手な苦痛が、
その悲しみを堪へた人に對する無意識の輕蔑と入り混つた、その二つの
「さあ、その先を續けて下さい。あの方が狂氣だと分つたとき、あなたはどうなすつたのでございます?」
「ジエィン、私は絶望の淵に近づきました。私とその淵との間に在るのは、
たゞ、私の自尊心の殘り滓だけでした。世間の眼にはきつと私は、恐ろしい恥辱を蒙つてゐると見えたでせう。
しかし私は自分の眼を曇らせまいと決心して、最後まで、彼女の罪にまきこまれることを斥け終せました。
彼女から自分をもぎ離しました。だがそれでも世間は私の名と人間とを彼女に結び付けて考へました。
私はなおほ未だあの女に毎日會ひ、あの女の聲を聞き、あの女の息(あゝ堪らない!)が私の吸ふ空氣中に混つてゐたのです。
その上、私には自分が嘗てあの女の
「ある晩私はあの女の叫び聲に目を醒まされました -- 醫者が彼女の氣の狂つたことを告げて以來、
彼女は無論閉ぢ籠めてられてゐたのです。燃えるやうな西印度の夜でした、
あの地方で屡々暴風の前に來る種類のものです。床の中に眠れないので私は起き上つて窓を開けはなしました。 空氣はまるで硫黄のやうで --
どこにも氣分を爽やかにするものは見るからない。
蚊はブン〜這入つて來て部屋の中を陰氣にとび廻る。そこにゐて聞く海鳴りは地震のやうに鈍い轟きを立てゝゐる。
その上に黒雲が被さりかけてゐる。月が灼けた砲丸のやうに、大きく赤く、波の間に沈みかけて --
それが
「『この生活は地獄だ。これがその空氣だ。あれが底なし地獄の響だ! 若し出來るのだつたら私はそこから自分を救ひ出す權利があるのだ。 この致命的な状態の苦しみは、今私の魂を壓迫してゐるこの重い肉體と共に私から離れ去るだらう。 狂信者の云ふ未來の焦熱地獄などは私には怖くはない。 この現在の状態より以上に惡い未來はない -- これを脱して、神さまの處へ歸らせて下さい!』
「かう云つて私は跪づいて、裝填したピストルの革帶の這入つてゐる鞄の錠を開けました、 自殺する積りだつたのです。だがそんな心は一瞬間だけでした。 私は發狂してはゐなかつたんですから、自殺の意志と計畫を生んだ實に純粹な絶望の最高潮は、 瞬間の内に過ぎてしまつたのです。
「歐羅巴から來た爽やかな風が、海面をわたり、開け放した窓にさつと吹き込んで、暴風が起り、
俄かに雨がやつて來て、雷がなり、稻妻が閃いて、大氣は清澄になつた。そのとき私ははつきりと決心したのです。
しめつた自分の庭の
「歐羅巴から吹く爽やかな風は猶も清々しく洗はれた木の葉の間に囁いて、大西洋は豪壯に轟いてゐます。
長い間乾き切つて
「希望はかう云ふのです。『行つて今一度歐羅巴にお住み、其處ではお前がどんな不名譽な名を負つてゐるかも、
どんな汚らはしい重荷がお前に結び付いてゐるかも、分つてはゐないのだから。
お前は狂人を英吉利へ連れて行くがいゝ、彼女を、相當の看病と警戒をもつて、
ソーンフィールドに監禁するがいゝ。そしてどこでも好きな土地へ旅行して、氣に入つた縁を結ぶがいゝ。
かくもお前の名譽を臺なしにし、かくもお前の青春を凋ませたあの女は、お前の妻ではない、
またお前もあれの
「私は正確にこの提議に基いて行動しました。父と兄とは私の結婚を、知人には知らせてはゐませんでした。 彼等に結婚を知らせてやつた最初の手紙に -- もう既にその結果に堪らない嫌惡を感じ、 またあの一族の性格や體質からも、厭ふべき未來を知つたので -- 私はそれをかたく、 祕密にしておいてくれと附け加へたのです。しかも、忽ち、父の選んでくれた私の妻の破廉恥な行爲は、 父にとつてもあの女を嫁と呼ぶのを恥ぢるやうなものだつたのです。この結婚を發表する處か、 父も私と同じやうにそれを隱しておく方に、一生懸命になつてしまつたのでした。
「さて私はあの女を英吉利に連れて來ました。あんな怪物を船にのせて、私にとつては恐ろしい航海でした。
やつとソーンフィールドに連れて來て、あの三階の部屋に無事に入れたときにはほつとしました。
あの人知れぬ奧の部屋を今迄十年間野獸の洞穴 -- 鬼の窟のやうにして住んでゐるのです。
あれの附添を見つけるのに大分苦心しました。信用の置けるやうな忠實な人間を選ばなくてはならないからなんです。
何故なら、あの女が暴れ出すと私の祕密をどうしても洩らすのですから、その上、あの女は幾日か -- 時には何週間も --
正氣に返るときがあつて、その時に立てつゞけに私を罵るのですから。
やつと私はグリムスビイ・リトリイトからグレイス・プウルを雇ひました。あれと外科醫のカアタア
(メイスンが刺されて傷を受けたあの晩、彼の傷の手當をした)とが私の信用してゐる唯一の人間なのです。
フェアファックス夫人はきつと何か疑はしいと思つてゐるでせうが、正確な事實は知つてゐる筈がないのです。
グレイスは、全體としては、いゝ見張人です。たゞ、彼女の厄介な職業にあり勝ちな、
何ものも強制することの出來ぬ彼女自身の缺點にもよるでせうが、あの女の監視は、 一度ならず留守になり失敗したのです。
狂人は拔目がなく惡意があつて自分の見張りが時々氣を弛めるときに乘ずることを見逃しはしない --
一度は自分の兄を刺したナイフを
「そして一體、」と私は彼が口をつぐんだ間に訊ねた。「あの方を此處に落着かせてから、 あなたはどうなすつたのですか?何處へいらしたのです?」
「どうしたかつて、ジエィン?私は自分を、鬼火のやうな一所不住の人間にしてしまつたのです。 何處へ行つたかつて?私は三月からつ風の精のやうに、氣違ひのやうに、放浪を續けたのです。 私は大陸へ渡つて、あちらこちらと國々をまはつた。 私のはつきりした望みは私の愛し得るやうな善良な聰明な女の人を探し求めることだつたのです -- ソーンフィールドに殘してあるあの悍婦と正反對の人を。」
「でもあなたは結婚なさることは出來なかつたのでございませう。」
「私は自分に出來ると信じ、すべきだと信じてゐた。私はあなたを
「それで?」
「あなたが質問をするときは、ジエィン、いつでも私は微笑みたくなりますよ。熱心な鳥のやうに眼を
「私の云つたのは、次はどうなるのかといふ意味です。どうなすつたのか。その出來事の結末はどうなつたかちいふ。」
「成程!して今は何を知り度いのです?」
「あなたのお氣に召した人を誰かお見附けになつたかどうか、 その人に結婚をお申込みになつたかどうか、また、その人が何と云つたかを。」
「私の好きな相手を見つけたかどうか、その相手に結婚の申込をしたかどうかは話して上げられる。
しかし、その女の云つた言葉は、疑問です。十年といふ長い年月の間、私は一つの首都へ、 --
時にはセントペテルスブルグに、大抵は巴里に、たまには羅馬や、ナポリやフロレンスに移り住んで流れ歩いたのです。
澤山のお金と、舊家の名をかいた旅行劵を持つてゐたので、私は自分自身の交際社會を選ぶことが出來ました。
どの社會も私に向つて閉ぢられはしなかつたのです。私は英國の貴婦人や、彿蘭西人の伯爵夫人や、
伊太利の令夫人や、獨逸の伯爵夫人の間に自分の理想の女を探したのです。見つからなかつた。
時に、ふとした瞬間、私は自分の夢の實現を告げるやうな視線を捉へ、聲を聞き、
姿を見たと思つた。しかし直ぐに私は悟つてしまつたのです。あなたは私が心にしろ、
姿にしろ完全に欲してゐたとは想像してはいけません。私はたゞ自分に合つたもの --
西印度
「けれども私は獨りで生きては行けなかつた。そこで私は情婦と一緒にゐることをやつてみた。
最初に私が選んだのはあのセリイヌ・ヴァランでした。あの、男が思ひ出しては自分自身を爪彈きしたくなる、
行動の一つです。あなたはあの女がどんな人間か、またあの女との私の關係がどう終つたかをもう知つてゐますね。 あの女の次には二人 --
伊太利人のジァチンタと、獨逸人のクララです、
二人共非常に美しいと云はれてゐました。數週間の間の
「本當に、時々あなたのことを好きだと思つた程には、好ましくは思へません。そんな風に、初めの一人の女と住み、 次にはまた別の人と住んで暮すといふことがあなたには殆んど惡いことにはお見えにならなかつたのではございませんか? あなたはまるで何でもないことの成行のやうに、その事實を話してゐらつしやる。」
「私はさうでした。而も好んでしたことではなかつた。それは下等な生活法だ。 私は決してそれにかへり度いとは思はない。情婦を圍ふといふことは、奴隸を買ふに次ぐ惡いことだ。 奴隸も妾も屡々その性質が、劣等で、またいつでもその地位が劣等なものだ。 そして劣等なものと親しく住むことは墮落だ。今は私はセリイヌやジァチンタやクララと共に過した頃の思ひ出を憎んでゐる。」
私はその言葉の眞實であるのを感じた。そして、それから、私は一つの結論を引き出した。 即ちもし私が自分自身を、そして私の裡に沁み込まされた教訓の全部を、忘れる程にまでなつてゐて、 -- どんな口實の下にも -- どんな名義によつても -- どんな誘惑に遇つても -- この慘めな娘たちの後を追ふならば、 ロチスターは、彼が現在思ひ出しては侮蔑してゐる、その侮蔑を以て、他日私のことも思ひ出すであらう。 私はこの確信に就いて何も云ひはしなかつた。感じただけで十分であつた。 いつか試煉のときに、私の助けとなるやうに、私はそれを自分の胸に刻んでおいたのである。
「さあ、ジエィン、どうして『それで?』と云はないの?話は終つてはゐない。
あなたは難かしい顏をしてゐる。まだ私を許してはくれないのですね。だが、大事なことを云はせて下さい。 この正月そんな女たちの皆から逃れて
-- 無益な、孤獨な、放浪の生活の結果、荒んだ、苦々しい氣持で --
失望に
「あの凍るやうな冬の午後、私はソーンフィールド莊の見えるところに馬を進めてゐました。 堪らない場所!其處に私は何の平和も --
歡びも期待してはゐなかつたのです。 ヘイ・レインの廻り木戸の上に、私は靜かな小さな姿が一つぽつんと立つてゐるのを見た。
私はそれをまるで向う側にあつた刈り込んだ柳と同じに見過して了つた。 それが私にとつてどんなものになるかといふ豫感もなく、私の生活 --
善または惡に對しての私の精神 -- の裁決者が質素な
「ふとそのかぼそい肩を押へたとき、何か新しいもの -- 新鮮な活力と感覺 --
が私の身體にしのび込んだ。この小妖精が私の處に歸つて來ることを -- 向うの下の私の家につとめてゐるといふことを --
知つてよかつた。 さもなければそれが私の手からすりぬけて行つてしまふのを見て、
何とも云へぬ殘り惜しさを感じないではゐられなかつたゞらう。 私はあなたがその晩歸つて來たのを聞いた、ジエィン。
あなたは私があなたのことを思つたり、見守つたりしてゐたことには氣が附かなかつたかも知れないが。 次の日、私は --
自分は見えないやうにして -- 半時間も、あの廊下であなたがアデェルと遊んでゐる間中、
あなたを見てゐた。さう、あれは雪の降つた日で、
「あなたを私の前に呼びよせていゝ夕方の來るのを、私はぢり〜し乍ら待つてゐた。
あなたの性格は、私にとつては、珍らしい、新竒なものでした。私はもつと深く探り、
もつとよく知り度いと思つた。あなたははにかんだやうな、同時にしつかりしたやうな、
顏付と樣子をして部屋に這入つて來た。あなたは妙な
「私はまたあなたを注意しはじめた。すると話しをするときのあなたの
「あの頃のことをこの上もう云はないで下さい。」と私は遮つた。眼からはひそかな涙がはら〜とこぼれた。 彼の言葉は私には苦痛であつた。何故なら私には自分のしなくてはならぬこと -- それも今直ぐ -- が分つてゐた、 そしてすべてこれ等の思ひ出、彼の感情を洩らす話は私のすべきことを益々困難にするばかりであつたからである。
「いや、ジエィン、」と彼は答へた。「現在はこんあに確實で -- 未來はそんなに輝かしいのに、 過去を説く必要が何處にあらう?」
私はこの心の燃え上りさうな斷言を聞いて身顫ひした。
「さあ、これで分つたでせう -- ねえ?」と彼は續けた。「半分は口に云はれぬ悲慘の中に、
半分は陰慘な孤獨の裡に青年時代と壯年時代を過してしまつた後で、私は初めて自分の眞に愛することの出來るものを見出した --
あなたといふ人を見出したのだ。あなたは私の共鳴者 -- よりよい私自身 -- 私のよき天使だ。
私は強い愛着であなたに結びつけられてゐる。私はあなたのことを善良で、才能があつて、
愛らしいと思つてゐる。私の胸には烈しい、嚴肅な熱情が宿つてゐる。それはあなたの方に傾き、
あなたを私の中心へ、生命の泉へ引きよせ、私といふものゝ存在をあなたの周りにまとはせ、
淨らかな、力に滿ちた焔の中に輝きながら、あなたと私を一つに
「私があなたと結婚しようと決心したのはこのことが分つてゐたからです。 私にはもう妻があると云ふのは、何もならない嘲りです。
私にはたゞ
沈默。
「何故何も云はないの、ジエィン?」
私は恐しい苛責を受けてゐた。灼熱した鐡の手は私の急所を掴んでゐた。恐ろしい瞬間! 苦惱と暗と燃燒にみちた瞬間!生きとし生ける人間のうちで、私が愛された以上に愛され度いと望む事は不可能である。 しかも私は、こんなに愛してくれる彼を絶對に尊敬してゐるのだ。 しかも私はこの愛と偶像とを私は抛棄しなければならないのだ。私の切ない義務は寂しい一言に含まれてゐた。 -- 「去れ!」
「ジエィン、私があなたに望んでることはわかつたでせう?たゞこの約束を -- 『私はあなたのものです、ロチスターさま』」
「ロチスターさま、私はあなたのものではありません。」
再び長い沈默。
「ジエィン!」と彼は穩かに口を切つた。それが悲しみで私を打ち碎き、恐しい恐怖で私を石のやうに凍らせた -- 何故なら、この靜かな聲は起ち上らうとする獅子の喘ぎだつたから -- 「ジエィン、あなたはこの世で一方の途を行き、私には別の途を行かせようといふ積りなの?」
「さうです。」
「ジエィン、」(私の方に身を屈めて抱き乍ら)「今直ぐにといふの?」
「え。」
「それで今?」やさしく私の額に頬に
「さうです。」急いで、すつかり抱き締められた手からのがれて。
「おゝ、ジエィン!それは餘りだ!それは -- それはいけない!私を愛することは惡いことぢやない。」
「それではあなたに從ふことになります。」
狂暴な樣子が彼の眉をきつと上げ -- 彼の顏をよぎつた。彼は立上がつた。 しかし未だ彼は堪へてゐた。私は椅子の背に手をかけて身を支へた。私はぞつとして顫へた -- だが決心した。
「一寸だけ、ジエィン。あなたがゐなくなつてからの私の恐ろしい生活を一目見て下さい。 あらゆる幸福はあなたと一緒になくなつて了ふ。その時何が殘るのだらう? 妻だといふのは三階にゐる狂人なのだ。まだしも向うの墓地の死骸に引合せてくれた方がましな位だ。 私はどうすだらう、ジエィン?何處を向けば話相手や希望があるだらう?」
「私のする通りになすつて、神さまとあなた御自身にお頼りなさい。 天をお信じなさい。さうしたら、希望が再びまゐりませう。」
「ぢやあ、あなたは、きいてくれないのですか?」
「さうです。」
「ぢや、あなたは私に慘めな生涯を送つて呪はれたまゝ死ねと云ひ渡すのですか?」 彼の聲は高くなつた。
「罪のない生涯をお送りになつて、靜かに死にお就きになるようにと申し上げます。」
「それぢや、あなたは私から愛と潔白を奪ひ取つてしまふのですか。 私を、純愛から色情へ、仕事から不行跡へ、投げかへすのですか?」
「ロチスターさま。私は自分でこの運命を
「あなたはそんな言葉でもつて私に
それは眞實であつた。そして彼が話してゐる間に私の良心と理性そのものが私に對して裏切者となり、
彼を拒絶するちいふ
返辭は、しかし、打ち勝ち難いものだつた。「私は自分が大事だ。
孤獨になればなる程、友がなければない程、
私はその通りに、足場を踏み締めた。ロチスター氏は私の顏色を讀んで、私がさうしたことを見た。
彼の憤激は最高潮に逹した。次に何が來ようと、彼は暫くの間それに身を委せなくてはならない。
彼は、床をよぎつて私の腕を捉へ、私の胴を掴んだ。彼はその燃えるやうな眼で私を
「嘗て、」と彼は齒がみし乍ら云つた。「こんなにかよわくてしかもこんなに勝ちがたいものを、 かつて見たことがない。この人はこの手の中にまるで蘆位の存在だ!」 (そして彼は掴んだまゝの力で私を搖ぶつた。)「この指二本でこの人を折り曲げることも出來る。 だが折り曲げたところで、引き裂いたところで、壓し潰したところで、それが何にならう? あの眼を見るがいゝ。勇氣以上のもの -- 嚴しい勝利をもつて私に叛抗してそこから覗いてゐる決然とした、 烈しい、自由なものを見るがいゝ。その檻をどうしようとも私にはそれに -- その手馴れぬ、 美しいものに逹するおとが出來ない!壞したところで、その脆い牢を破つたところで、 私の亂暴は唯囚人を逃してやるばかりなのだ。 私はその家の征服者にはなるかも知れない。 だが住んでゐる人は私が自分をその肉體の所有者だと呼び得ぬうちに天へ逃れてしまふだらう。 そして私の欲するのは靈 -- 意志と精力を持つた、徳と清純さを持つた -- あなたなのだ。 その脆い肉體ばかりではない。心さへあれば、あなたは音なく飛んで來て私の心にまつはることも出來るのだ。 あなたの心に取りついて、香氣のやうに得ようとすれば避けて -- 私があなたの匂ひを吸ひ込まぬ内にあなたは消えてしまふだらう。おゝ、おいで、ジエィン、おいで!」
かう云ひ乍ら彼はしつかり抱き締めた手をゆるめて、たゞじつと私を見つめてゐた。
その顏付は狂氣じみた言葉よりも、遙かに叛抗し難いものだつた。だが、今ひるむのは白癡しかあるまい。
私は思ひきつて彼の激情の裏をかいた。私は彼の悲しみを避けなければならない。 私は
「行くのか、ジエィン?」
「參ります。」
「私を殘して?」
「え。」
「あなたはもう歸つて來ないのだらう?もう私の慰め手、私の救ひ手にはならないのか? 私の深い愛も、強い嘆きも、狂ほしい祈りもみんなあなたには響かないのか?」
何と云ふ云い得ぬ悲哀が彼の聲に含まれてゐたことか!「私は行きます。」と決然と繰返す事が如何に苦しかつたか。
「ジエィン!」
「ロチスターさま!」
「お行き、それでは -- いゝから。だが忘れないで、あなたは此處に私を苦しめたまゝ殘しておくのだといふことを、 自分の部屋にお行き、私の云つたことをすつかり思ひかへして御覽。そして、ジエィン、私の苦しみを一目御覽 -- 私のことを考へておくれ。」
彼は向うを向いて、長椅子に顏を押しつけた。「おゝジエィン!私の希望 -- 私の愛 -- 私の生命!」
彼の唇から苦しげに洩れた。そして低い、烈しい
私は既に入口に逹してゐた。けれども、讀者よ、私は引返した -- 立ち去るときと同じやうに決然として引返した。彼の傍に跪いて、私は彼の額に接吻した。彼の髮を手で撫でた。
「神さまが幸福を授けて下さいます、旦那さま!」と私は云つた。「神さまがあなたを害と惡から護つて下さいます。 あなたを導き、慰め -- あなたの今迄の私への親切に對して -- あいゝ報いを下さいます。」
「いとしいジエィンの愛が私には一番の報酬だ。」と彼は答へた。 「それがなくては、私の心は破れる。しかしジエィンは私を愛してくれるだらう。きつと -- 高潔に、寛仁に。」
血が彼の顏にさつと上つた。彼の眼から火が閃いた。眞直に突立つて、彼は腕を差しのべた。 けれども私は彼の抱擁を避けて、直ぐに部屋を出てしまつた。
「左樣なら!」これが彼の許を立ち去るときの私の心の叫びであつた。 絶望が加はつた。「左樣なら、永久に!」
その夜私はまるで眠らうとは思はなかつた。しかし
嘗つて雲間に出たことのないやうな月が現はれた。手が先づその黒い雲の襞を貫いて、 それを拂ひのけてしまつた。それから、月ではなく、白い人間の形が大空に輝き、 輝かしい額を地上に向けてゐた。それは長い間私をじつと見つめてゐた。 それは私の靈に話しかけた。その聲は量り知られぬ程遙かだつた。而も非常に近く、私の心に囁いた --
「娘よ、誘惑をお逃れなさい。」
「母よ、お言葉に從ひます。」
昏睡したやうな夢から醒めて後、さう私は答へたのであつた。まだ夜だつた。
しかし七月の夜は明け易い。眞夜中を過ぎると直ぐに夜明になる。
「果さなくてはならない仕事を始めるのに早すぎることはない。」と私は考へた。
私は起き上つた。着物は着てゐた。靴以外のものは何も脱いではゐなかつたのだ。
幾枚かの下着類、
「左樣なら、優しいフェアファックス夫人!」彼女の部屋の入口をそつと過ぎながら私は囁いた。
「左樣なら、可愛いアデェル!」子供部屋の方を見て、私は云つた。 アデェルを抱く爲めに部屋に這入らうと云ふ考へは、許されなかつた。
私はアデェルの
私はロチスター氏の寢室の前には、立ち止らずに行き過ぎて了ひたかつた。
しかし私の心はその閾にかゝると刻々とその鼓動を止め、足もまたどうしやうもなく止つてしまつた。
眠つてゐる樣子ではなかつた。中なる人は凝としてゐられぬやうに壁から壁へと歩き廻つてゐた。
私が
今眠ることも出來ないあのいとしい主人は、ぢり〜しながら夜の明けるのを待つてゐるのであつた。
朝になつたら、私を呼びに寄越すだらう。私は行つてしまはなくてはいけない。
あの方は私を探すだらう、空しく。あの方は棄てられたと思ふだらう。
あの方の愛が拒まれたと思ふだらう。あの方は苦しむだらう。きつと絶望的になるかも知れない。
このことも私は考へたのだつた。私の手は錠前の方に動いた。だがそれを引込めて、 私は
寂しく私は階下へ降りて行つた。自分のしなければならないことは分つてゐた。
私は、機械的にその通りをした。臺所で傍戸の鍵を探し出した。それと、 油の這入つた瓶と羽根も見つけて、鍵と錠前に油を引いた。
私は水を少しとパンとを
耕地の彼方一哩隔つた處に、ミルコオトとは反對の方へ向つた路が一筋あつた。
一度も通つたことはなかつたが、時々眺めては、何處へ通じてゐるのかと
とう〜陽の昇る迄私は耕地や、
そこに逹したとき、私は
讀者よ、あなた方は、そのときの私の氣持を決して感じられないやうに! あなた方の眼は私の眼から溢れたあのやうな烈しい、煮えかへる、心を絞るやうな涙を流さぬやうに! あなた方は決してあのとき、私が口にしたやうなあんな絶望的な死の苦しみの祈りを天に訴へないように! 決してあなたは、あなたの愛し切つてゐるものゝ爲めには、惡の手先となることを、私のやうに恐れないように!
二日は過ぎた。ある夏の夕べだつた。馭者は私をウヰトクロスと云ふ處の降した、
彼は私が拂つた賃金ではこれ以上乘せてくれなかつたのだ。そして私はこの他にたつた一
ウヰトクロスは、町でもなければ、村落でさへもない。
それはたゞ四つの道が出會つた辻に立つてゐる石の柱に過ぎなかつた。その柱は、
遠方からまや夜眼に、もつとはつきりさせる爲めだらう、白く塗られてあつた。
柱の頂點からは四つの腕が突き出てゐる、刻字で見ると、腕が指す一番近い町が十哩、
一番遠いのが二十哩以上も離れてゐる。私はそれらの示す町の有名な名前によつて、 自分が何處に降ろされたゞ分つた --
陰鬱な草原と山また山の北部内地の一州だと知つた。
背後にも左右にも大草原がある。脚下の深い谷のずつと向うには、山のうねりがある。
此處に住んでゐる人口は、僅かに違ひない。道を行く人影も見えない。道は、東に、西に、北に、南に走つてゐる --
白つぽく、廣く、物寂しく。草原を貫き、ヒースが道の兩側のすぐ際まで蓬々と生ひ繁つてゐる。
が、それでもふと通りすぎる旅の人があるかも知れない。しかし、私は誰にも見られたくないのだ、
行きずりの人逹は、明らかに目的もなく途方に暮れて、この道標の傍に佇んでゐる私を、
一體何をしてゐるのかと
私はヒースをかき分けて突き進んだ。そして褐色の草原に深く溝をつくつてゐる凹地について進んで行つた。
曲り角について廻ると、隱れた隅に苔蒸して黒ずんだ花崗岩を見出した。
私はその下に
此處でさへも氣が落着くまでには、しばらく過ぎた。私は、もしや野牛が忍び寄りはしないか、 或は狩人や密獵者に發見されはしないかといふ漠然とした恐怖を感じた。 一陣の風が荒野を吹き過ぎて行けば、野牛が突進して來たのではないかと上を見上げ、 千鳥の囀りが聞えると、人間ではないかと分り、夕べが夜となるにつれて擴がつて來た深い靜寂に鎭められて、 私は心が落着いた。しかもなほ私は考へられなかつた。唯耳を澄まし、見張り、不安を感じてゐた。 が、今私はやつと反省する力を囘復した。
私は何をしようとしてゐたのか?何處へ行かうとしてゐたのか?何にも出來ず、 何處へも行けないときには堪へられない質問だつた! --
私が人家に辿り着く前には、 私の重い顫へる足はこの上に、なほも長い道を歩かねばならないとき -- 宿らうとすれば、
その前に冷たい慈悲に哀願せねばならないとき、私の話に耳を
私はヒースに觸つて見た。それは乾いてゐるが、夏の陽の熱でむつとしてゐた。
私は空を眺めた。それは澄んでゐた。やさしい星は斷層をなした土手の眞上に瞬いてゐた。
夜露が降りた、慈愛の籠つた
岩の側はヒースが非常に深かつた。横になると私の足はそれに埋つて了つた。兩側にはヒースが高く茂つてゐるので、
夜氣が迫るには狹い場所のみが殘つてゐた。私はショオルを二重に疉んで、掛布團の代りに被せた。
低く土が盛り上つて苔蒸した處を枕にあてた。かうして
私の
かうして物思ひに苦しみ疲れて、私は上半身を起した。夜になつて星が出てゐた。 安らかな靜かな夜である。餘りに澄み切つてゐて恐怖も伴はない。 私たちは何處にでも神さまはゐらつしやることを知つてゐる。 けれども私たちは目前に神のお仕事が廣々と打擴げられた時に一番確かに神の實在を感ずるものだ。 そして私たちが彼の無限と全能と遍在とを最も明らかに讀み得るのは、 神の造り給ふた數知れぬ星が音なく軌道に辷りゆく雲なき夜の空である。 私はロチスター氏の爲めにお祈りしようと跪いた。
見上げて、私は涙で曇つた眼で、雄大な銀河を見た。それは何であるかを --
何といふ無數の世界が銀河の中にあつて柔らかな光の跡のやうに空に擴がつてゐるかを思ひ出しながら --
私は神の威光と力とを感じた。神の造られたものを救ふ神の力を私は疑はない。
大地は決して滅びないし、大地がいとほしむ人間の一人も滅びはしないと私は次第に信じて來た、
私は祈りを感謝にかへた。生命の源はまた、魂の救ひ主でもある。
ロチスター氏は無事であつた。彼は神のものであつた。彼は神に護られるであらう。
再び私は丘の
だが翌日、
けれども私は人間だ、そして人間の慾望を持つてゐた。私は、私の慾望を充してくれるものが一つもない、 かうした處にこの上愚圖々々は出來ない。私は立ち上つた、そして今迄ゐた寢床を見返つた。 前途に望みなく、私は唯この事だけを願つた -- その夜、私が眠つてゐる間に、 神さまが魂を返せと命じようとお思ひになればよかつたと。そしてこの疲れ果てた身體が、 今後運命と戰ふ事から死によつて解放されて、今は唯靜かに朽ちて行くのに任せ、 安らかにこの荒野の土と化して了ひたかつたと。けれども生命は、 その一切の要求と苦痛と責任と一緒に矢つ張り私のものだつた。負擔は、運ばなければならぬ、欲しければ働いて食べ、 苦しければ忍び、責任は果たさなければならぬ。私は出發した。
ウヰトクロスに引返すと、私は今高く
私はその音の方向に向つた。其處には、一時間前にその變化にも姿にも心を向けることを止めて了つてゐた丘の間に、
小さな村落と一つの尖塔があつた。右手に見える谷間は、牧場と穀物畑と森とで埋められ、
午後の二時頃、私は村に這入つた。その村の一本道の奧に、小さな店があつて、窓にはパン菓子があつた。
私は欲しくて堪らなかつた。その菓子を得れば私は恐らく、いくらか元氣を恢復することが出來るだらう、
さうでもしなければ、先へ歩くことさへ覺束ない。人中へ這入るなり、幾らかの力と元氣とを得たいと云ふ願望が、
私に歸つて來たのだ。かうした村の
私は遂に店へ這入つた。女が一人ゐた。彼女は私が相當の身なりをしてゐたので、
令孃とでも思つたものか慇懃にやつて來た。しかし私に何が買へるのだ。
私は恥かしさに襲はれた、私の舌は、自分が用意したやうな要求を云つてはくれまい。
私は中古になつた手袋や、揉みくちやのハンカチを彼女に差出す勇氣はとてもなかつた。
その上、私にはそれはぶしつけに感じられた。私は唯、疲れてゐるから一寸掛けさせて下さいと頼んだに過ぎなかつた。
お
「ありますよ、二軒や三軒は、尤も仕事さへありや、なんぼでもありまさ。」
私は考へた。今こそ私はその點まで追ひつめられた。窮乏に顏を突き合はせたのだ。 手段もなければ、友逹もお金もない人の境遇にゐるのだ。何かしなければならない、何を? 何處かで頼まなければならない。では何處へ?
「この近所に女中の入用な家でもないでせうか、その人は知らないでせうか?」
「さあ、どうだかね。」
「この村で一番重な商賣つて何でせうね。大概の人は何をしてるのでせう。」
「百姓も大勢ゐるがね、大抵はオリヴァさんの編針工場で働いてゐる、それから鑄物工場へもね。」
「オリヴァさんは女をお使ひにならないでせうかしら。」
「いゝえ、そりや男の仕事だよ。」
「ぢや女は何をしてゐるのでせう。」
「知らないね、私や、」これが答へだつた。「まあ、皆んなあれやこれや遣つてるよ。 貧乏な者は、精一ぱい働いて遣つて行かなきやならないんだから。」
彼女は私の質問が嫌になつたやうだ。また、まつたく私には、 彼女に
歩き〜、左右に立ち並ぶ家は一軒も殘らず注意しながら、私は通りを上つて行つた。
けれども何處にも這入れるやうな口實もなければ勸誘も見當りはしなかつた。
私はときには少しばかり村を外れたり、また引返したりしながら、一時間か、
或はそれ以上も村中を
「いゝえ、」彼女は云つた。「家では下女は使ひませんから。」
「何か私を使つて戴けるやうな處は、ございませんでせうか。」私は續けた。 「私は初めて參つた者で、此處には知合もございません。何か働きたいのですけれど -- どんなことだつて結構で御座いますけれど。」
けれども私の爲めに考へたり仕事を探したりするのは彼女の知つたことではなかつた。
その上、彼女の眼には私の人柄や身分や話が如何にも怪しく映じたに違ひなかつた。
彼女は頭を振つた。「お氣の毒ですが、今心當りが無いものですから。」白い扉は閉つた、
いとも上品にそして
私は家々の傍に近づき、離れ、引き返し、また
「さうです。」
「牧師さんはゐらつしやいませうか。」
「をりません。」
「直ぐお歸りになるでせうか?」
「いゝえ、お出掛けになつてゐるのです。」
「御遠方へ?」
「さう遠方ぢやありません -- まあ三哩ばかり。牧師さまのお父さまが急に亡くなられたので、 呼ばれておいでなすつたのです、今、マアシュ・エンドにゐらつしやいます。 二週間は結構御滯在の筈です。」
「どなたか奧さまでもゐらつしやいませうか?」
「いゝえどなたも。私だけです、私がお世話してゐるのです。」だが讀者よ、
今私は弱り切つて倒れさうになつてゐるのに、どうにもこの老女には救ひを求める氣になれなかつた。
私は乞へなかつた、そしてまたもや
もう一度、私はハンカチを取出した -- もう一度、私はあの小さな店の中のパン菓子を憶つた。 あゝパンのかけらでも!この堪へ難い空腹の苦痛を紛らす爲めに、たつた一口でも! 本能的に私は再び村を顧みた。さつきの店をまたみつけた。そして私は、這入つて行つた。 今度はあの女ばかしではなかつたけれど、私は勇を鼓して要求した。
「このハンカチの代りに、卷パンを一つ下さいませんか?」
露骨に疑惑を現はして、彼女は私を眺めた。「いやだよ、私等まだそんなことして賣つたことはないよ。」
殆んど絶望的になつた私は、お菓子を半分でもと哀願した、がそれも斷られて了つた。
「お前さんが、何處でそんなハンカチなんか手に入れたか分つたもんぢやないよ。」
「ぢや、この手袋でも。」
「何んだつて!こんなものを私が持つてどうするつてのだ。」
讀者よ、かうした
暗くなる少し前に、私は百姓の家の前を通つた。その開け放された
「パンを
屋根の下に寢ることは望めなかつた。前に話した森の中を探したのであつた。しかし私の夜は慘めで、
私の
「私にそれを呉れませんか。」と願つた。
彼女は驚いて、私を
「お遣りな。」内から聲が聞えた。「乞食なら遣んな。豚はそれを欲しがつてやしないよ。」
娘はかたまりついたお鬻の塊りを私の手の中へあけた、私は意地汚い鳥のやうに貪り食べた。
雨の日の
「もう駄目だ、」思はず私は獨りごちた、「とう迚も歩けさうもない。
今宵もまた放り出されるのか知ら、こんなに雨が降つてる中を冷たい濡れそぼちた地面に寢なければならないのか、
でも、その他にどうしよう、私を構つてくれる人なんか一人もありはしないのだもの。
けれどその野宿も今夜はどんなに怖ろしいことだらう、この空腹や、力なさ、寒さの感じでは、 そしてこの慘めな侘びしい氣持では --
一縷の望みもなくなつたこの空しさでは。 けれども明日の朝までには私はもう死んでゐるのだらう。それだのに何だつてかう、
私は安心して死ねないのだらう。何だつて價値のない生命にしがみつかうと藻掻くのだらう?
ロチスター氏がまだ
私のどんよりした眼は、薄暗い霧の景色の上をさまよつた。もうまつたく見えなくなつてゐる。 村の周圍を取卷いてゐた畑さへももう見えない。私は道の交叉した處や拔道などを通つて、 もう一度草原のあたりに足を引摺つた。そして今、殆んどヒースと選ぶ處のない位荒れ果てゝ了つた僅かばかりの畑が、 私と薄暗がりの丘とをへだてゝゐた。
私は考へた、「さうだ、どうせ死ぬのなら、こんな街や人通りの多い街道なんかより、向うに行つて死んだ方がいゝ。 そして鴉にでも、大鴉にでも -- この邊に大鴉がゐるものなら -- 私の骨から肉をつゝかした方がずつといゝ。あの救貧院の棺桶に押し籠められて、 貧民の墓の中で腐つて了ふのより、どれだけましか知れない。」
それから丘へ向つて私は歩いた。私は辿り着いた。そこに
私の眼はなほもこの陰鬱な大地の起伏の上を走り、やがて荒れ果てた風景の中に消え失せて行く草原の地平に沿つて流れて行つた。
そのときふと、彼方の遙かな沼や丘の間に微かな一點に一つの光がぱつと燃え上つた。
「鬼火だ。」初め私はかう思つた。そしてこの光は直ぐ消えるだらうと豫想した。
ところがそれははつきりと近よりもせず、遠のきもせず燃え續けてゐる。 「ぢや野天の焚火か知ら、今點けたばかりの。」私は
「何處かの家の
私は立つてゐるところに坐り込んだ。そして顏を地に着けた。暫くは身動きもせず、
私は横に倒れてゐた。夜の風は、丘を越へ、私を越へて吹き、やがて遠い彼方へ悲しい響を殘して消えて行つた。
降りしきる雨は、また新たに私の肌まで侵みとほつた。もしも私が凍りついて動かぬ氷にさへなつて了へば -- それは懷かしい死の無感覺である
-- 假令
光はまだそこにあつた。雨を通して、ぼんやりだが、絶えずそこに輝いてゐた。も一度私は歩いてみた。
疲れ切つた足をゆる〜と、その光の方に引き摺つた。私は廣い沼地を通つて、丘を斜めに越へて行つた。
夏の眞盛りの今でさへ、
沼を横ぎると、草原の中に
門を潛つて灌木の中を通つて行くと、家の
私はかうした色々なものを、たゞざつと眺めたゞけであつた -- それらの中には、
これと云つて取り立てゝ云ふ程のもおんは何にもなかつたからだ。
それよりももつと心を惹かれる一組が、煖爐の側近く、焔の薔薇色の平和と温かさの中に靜かに坐つてゐた。 二人の若い美しい女 --
何處から見ても令孃らしく見える -- が、一人は低い
かうしたもので占められた、この簡素な臺所は、何といふ不思議な場所であらう!彼等はどうした人々であらうか?
二人の女は
「ねえ、ダイアナ、」一心に讀み耽つてゐた一人が云つた。「フランツとダニエルお爺さんとが夜更けて一緒にゐたのよ、 そしてフランツが、怖くて眼を覺まして了つた夢の話をしてゐるのよ、いゝこと!」そして低い聲で彼女は何やら讀み出した、 だが私にはそれは唯の一語も分らなかつた、私のまるで知らない言葉なのだ -- 彿蘭西語でも拉丁語でもない、多分ギリシア語か獨逸語なんだらうけれど、私にはどつちだか分らなかつた。
「まつたく素晴らしいのね、氣に入つたわ。」讀み終ると彼女は云つた。妹が讀んでゐるのを顏を上げて聞いてゐた、
も一人の少女は、光を
二人は沈默に歸つた。
「どこかのお國では、そんな鹽梅に話してゐるのでございますかね?」老女は編む手を休めて、 仰ぎながら訊ねた。
「さうよ、ハナァ -- そこは
「まあ、左樣でございますか。ほんとのこと、私にやその人たちがどうしてお互い分るのか分らねえだよ。 そいでお孃さんたちは、そのお國へいらしても、お話がお分りかね?」
「それはねえ、多分少し位は話せるだらうよ。だけど、すつかりぢやないわ -- あたしたちはお前が考へてゐるやうに偉くはないのだもの、ハナァ。あたしたちは獨逸語は話せないの、 讀むことだつて、字引の助けが無いと、駄目なんだもの。」
「そいで、それはお孃さん方に、どんなお役に立つもんでございますかな?」
「私たちは何時か、獨逸語を教へようと思つてゐるの -- まあ少くとも初歩だけでもね、 すうすれば今よりも、もつとお金がとれるからね。」
「ほんとにまあ結構なこつてございますよ。だけど、もうお止しになさいませんか。 今夜はもう隨分御勉強でございましたよ。」
「さうね -- 兎に角私疲れたわ、メァリー、あなたはどう?」
「死ぬ程。先生なしで辭書ばかりぢや、語學をコツ〜やるつて辛い仕事ね。」
「まつたくよ。殊に獨逸語のやうなゴツ〜して分りにくくつて、そのくせ美しい偉大な言葉はね。 それはさうと、セント・ジョンは何時頃歸つて來るんでせう。」
「もうきつと間もなくよ。今ちやうど十時(彼女は帶の間から小形の金時計を取り出して見ながら) ひどく降つて來たこと。ハナァ、濟まないけど、居間の火を見て來て呉れない?」
老婆は立ち上つた、彼女が戸を開けると、其處から微かに廊下が見えた。 間もなく奧の部屋で彼女は火を掻き廻してゐるのが聞えて來た。程なく彼女は戻つて來た。
「あゝお孃さん、あちらのお部屋に參りますのは、ほんとに辛うございます。 空つぽの椅子がお部屋の隅に片付いてゐて、えらく寂しうなりましたので。」
彼女は前掛で眼を拭ひた、今迄沈んで見えた二人の少女はこのとき悲しげに見えた。
「けれどお父さまは今はもつといゝところにおゐでなさいますよ。」ハナァは言葉を續けた。 「もう一ぺん歸つて戴きたいなんて、お願ひしちやあなりません。それに、誰だつてもお父さまのやうに、 靜かに天國へ行けりや、不足はありません。」
「ぢやお前、お父さまはあたしたちのことは、何んにも仰しやらなかつたといふの?」 と一人の娘が聞き咎めた。
「お父さまにやもう時がなかつたんでございますよ、お孃さん。お前さん方のお父さまは、
ほんのちよいとの間に、おかくれになりましたから。前の日とおんなじで、
幾らかお加減はようなつたけど、大したことは何もございませんでしたよ。
そいでセント・ジョンさまがお前さま方のどつちかに使を出さうかつて、お訊きになるてえと、
お父さんはえらく笑つておしまひになりましたよ。
二人は大變似てゐるやうに思へたので、どこにこの老女(やはり召使だつたのだ)の云ふ違ひがあるのか分らなかつた。 二人とも美しい顏色をしてそしてきやしや造りである。 二人とも氣品と聰明に滿ちた顏をしてゐた。一人は、確かに他の一人よりも心持黒い髮をしてゐる。 そしてその髮の結ひ方はお互に異つてゐた。メァリーの明るい栗色の髮は、分けて綺麗に編まれてゐた。 ダイアナの少し黒味がゝつた髮は、大きくウェーヴされて、首筋を蔽つてゐる。時計は十時を打つた。
「きつとお夜食が上がりたくおなりでせう。セント・ジョンさんもお歸りになつたら召し上りませう。」 ハナァは云つた。
そして彼女は食事の支度を始めた。少女逹は立ち上つた。居間に戻らうとするらしかつた。この時まで、
私は一心になつて彼女逹から眼を放さなかつた。そして、彼女逹の樣子や會話が鋭く興味を
「お前さん、何御用ですかね?」彼女は手に持つてゐる蝋燭の光で、じろ〜と私を眺めながら、驚いた聲で訊ねた。
「私、お孃さんにお話し致したいのですが。」私は云つた。
「何か云ひたいなら私に云つた方がいゝよ、お前さんは一體何處から來たのだ?」
「私、遠くから來たものなんです。」
「今時分何か用でもあるのかね。」
「納屋でも何處でも、一夜の宿と一片のパンが戴きたいのです。」
疑ひ、私が
「お願ひです、お孃さまに會はせて下さい。」
「駄目だよ。お孃さまだつてお前さんに何もして上げることはないよ。
今時分
「でもこゝを逐ひ出された、何處に行きませう?私どうしていゝか分らない -- 」
「何だと!お前さんが何處へ行つて何をするか、お前さんにやちやあんと分つてゐるよ。 いゝかね、惡い事だけは止すがいゝよ、さあ、一ペニイあるよ。さあ行きなさい。 -- 」
「一ペニイぢや、私、生きて行けません、それに、私、もう歩く元氣がないのです、戸を閉めないで下さい -- あゝ、閉めないで、どうぞ!どうぞ!」
「閉めずにおけるものかね。雨が降り込むぢやないか -- 」
「お孃さまに云つて下さい -- 會はせて下さい -- 」
「ほんとにまあ、駄目だつてば、駄目だよ!お前はどうかしてゐるんだよ。
でなきやこんなに
「だつてこゝを行つて了へば、私、死にます。」
「死ぬもんかよ。お前さん、何か惡だくみを持つてるんぢやないかね。だから今時分人の家の方へやつて來たんだろ。 何かい、もしそこいらに仲間でもあるのなら -- 押込みか強盜かね -- 云つてお呉れよ、 この家には女ばかしぢやないんだつて、男もゐりやあ、犬も鐵砲もあるつてな。」 こゝでこの正直一方の、けれども強情つぱりに老婆はパタンと戸を閉めて内から錠を下して了つた。
是が頂點だつた。激しい苦痛 -- まつたくの絶望の苦痛 -- は私の心をずた〜に引裂いて了つた。
今はもう精も根も盡き果てた、一歩を歩む力さへない。私は雨に濡れた戸口の階段の上に崩れるやうに坐つて了つた。 私は呻いた --
兩手を絞ぼつた。 -- 私は激しい苦痛に泣いた。あゝ、この死の妖靈! おゝ、こんな恐怖の中に、近づきくるこの最後のとき!あゝ、この孤獨
-- 人界からの放逐!
「死を待つばかりだ。」私は云つた。「私は神を信じてゐる、唯靜かに神の意志を待つてゐよう。」
さうした言葉は、心の中で思つたばかりでなく、實際に口に出たのだつた。 そして私は一切の苦惱を胸に押し返して、外に出すまいと一心になつた -- 默つて、そして靜かに。 「人間は皆死なゝければなりません、」一つの聲が私の直ぐ間近に聞えた、「けれども、 もしあなたが餓死したなら、それが果されたわけなのですか。誰もみな、ぐづ〜患つて、 天壽を全うすることなく死ぬやうな運命に、定められてゐるとは、限らない。もしも、お前がこゝで、 缺乏の爲めに死ぬことがあれば、お前の運命が、定められてゐるやうには。」
「誰?何?あの聲は。」何ものからも、救ひの希望も全然斷たれて了つた今、私は思ひもよらぬ不意の聲に驚いて叫んだ。
傍近くに一つの人影があつた -- 何の姿だらうか、眞暗な夜と、 それに私の弱つた視力は何ものかはつきり見定めることが出來ない。
と、新來の人は、高く長く
「セント・ジョンさまでございますか?」ハナァが叫んだ。
「さうだ -- さうだよ。お開け、早く。」
「まあ〜、さぞ濡れてお寒いこつてございませう。本當にえらい晩だこと。さあ、お這入りなさいませ、
お孃さま方もひどく御心配でゐらつしやいます、それに近所に惡者がゐさうでございますから。 先程まで女の乞食が居りましたで --
きつとまだ
「お止め、ハナァ!私はあの女に用があるのだ。お前の務めはあの女を追ひ出したんで濟んだのだ。 今度は私の番で、家に入れてやるのだ。私はお前とあれが話してゐるのを傍で聞いてゐたよ -- 何か事情があるに違ひない、兎に角、一應聞いてみなけりや -- 君、お立ちなさい、そして家にい這入んなさい。」
やつとのことで私は彼の云ふ通りにした。やがて私はあの小竒麗な明るい臺所の中に立つてゐた。 --
「セント・ジョン、あの人誰なの?」私は誰かゞ問ふのを聞いた。
「誰だか知らない。僕はあの人が戸口にゐるのを見附けたのだ。」返辭である。
「眞蒼な顏をしてをります。」ハナァが云つた。
「まるで死人みたいに。」と誰かが應じた。「あの人倒れてしまふわ、掛けさしたて上げたら?」
本當に私の頭はくら〜してゐた。私は倒れかゝつた、けれども椅子がうけてくれた。でも、私は意識はあつた。 尤も今すぐにものは云へなかつたけれど。
「水を飮ませたら、元氣づくだらう。ハナァ、持つておいで。だけど、まるで骨と皮だ。 何て痩せて血の氣がないんだらう。」
「まるで幽靈みたいに。」
「病氣か知ら、それとも、唯お腹が空いてるだけでせうか?」
「空いてゐるらしいよ。ハナァ、それミルクなの?頂戴、それからパンも。」
ダイアナは(私の上から肩越しに屈んだ時、私と火との間にその長い捲毛が埀れたので私は彼女と知つた)
幾片かのパンを
「本當よ -- 食べて御覽なさいな。」メァリーも優しく繰り返した。そしてメァリーの手は、 雨に漬つた私の帽子をとつて、頭を持ち上げてくれた。私は與へられたものを食べた、 初めは弱々しく、けれども直ぐ夢中になつて食べた。
「一度に餘り澤山はいけないよ -- お止め。」彼女の兄は云つた、 「それ位で澤山だ。」そして彼はミルクとコップとを引込めた。
「も少し上げたら、セント・ジョン -- 御覽なさい、あの欲しさうな眼を。」
「今はもうこれよりいけないんだよ。口が利けるかどうか -- 名前を訊いて御覽。」
私は物が云へさうに思つたので答へた -- 「私、ジエィン・エリオットと申します。」 私は何時でも發見されるのを、心配してゐたので、假名を使はうと、以前から決心してゐたのであつた。
「で、何處に住んでゐるのですか、知合がありますか?」
私は默つてゐた。
「あなたが知つて死る人を、誰か呼びに遣りませうか。」
私は頭を振つた。
「何か御自分のことに就いて話せませんか?」
どいうふものか、私は一度でもこの家の閾を跨ぎ、この家の人々と顏を合せたからには、
この廣い世界では、もう決して追ひ出されたり
「わたくし、今夜は詳しいお話はとても出來ないのでございます。」
「しかし、それぢや、あなたをどうして上げたらいゝのです?」彼は云つた。
「なんにも、」と私は答へた。私の力は短い答へしか許さなかつた。ダイアナが言葉を續けた。
「ぢや、もうこれであなたにして上げることは何んにもないつて仰しやるの? そして私たちが、またあなたをあの草原と、雨の夜に追ひ出しちまつてもよろしいの?」
私は彼女を視た、私は彼女が力と善意とに充ちたすぐれた顏を持つてゐると思つた。 俄かに勇氣が湧いて來た。彼女の思ひ遣り深い凝視に笑み返しながら私は云つた。 「私はあなたに信頼いたします。私が主人を失つた野良犬であつたとしても、 あなたが今夜この爐の傍から追ひ出してお了ひにならないことはよく存じてをります。 ですから本當に私、何んにも心配いたしてはをりません。どうぞあなたのお好きなやうになすつて下さいまし。 ですが、この上お話しすることだけはお許し下さい -- 私、息が苦しいのでございます -- ものを云ふと、何だか痙攣しさうでございますから。」
三人はしげ〜と私を見た、そして三人とも默つてしまつた。
「ハナァ、」最後にセント・ジョンが云つた。「この人をこのまゝ其處に掛けさして置きなさい。
そして何も聞いちやいけないよ。十分も經つたら、
彼等は行つて了つた。すぐにどつちかの娘が引返して來た -- が誰だか私には分らなかつた。
私は暖かい爐の傍に坐つた。快い一種の昏睡が忍びやかに私を襲つて來た。
低い聲で彼女はハナァに何かの指圖をした。暫らくして私は老婆に助けられながら、漸く階段を上つて行つた。
びつしよりと濡れて雫の埀れさうな着物は脱がせられた。と、暖かい、乾いた
これに續く三日ばかりの間の夜晝の追憶は私の心に非常にぼんやりとしてゐる。
その間に感じたいろ〜な心持を思ひ出すことは出來ても、纒めた考へは殆んど想ひ起せず、
なした行動は全然想ひ出せない。私は自分が小さな部屋の狹い
「この人を入れて上げたこと、本當によかつたわねえ。」
「さうよ、もし一晩中外にゐたのだつたら、翌朝は屹度戸口の處で死んでゐたでせうねえ。 この人、どんな目に遭つて來たのでせう?」
「想像以上の苦しみ、と思ふわ -- 可哀相な、痩せこけて、血の氣のない放浪者だわね!」
「この人ね、話し振りを見てると教養のない人ぢや無いと思ふのよ。アクセントなんかそれは美しいんですもの、 それから脱ぎ捨てた着物だつて、泥まみれで濡れてゐたけどちつとも着古してなんかなくていゝものだつたわ。」
「顏だつて一種獨特よ。頬がこけてやつれてるけど、私は好きなの。 丈夫になつて元氣が出て來れば、きつと嫌味のない顏になると思ふわ。」
彼女たちの會話の間には、一度だつて親切に私を引取つたことを悔んだり、または私を怪しんだり、 嫌つたりするやうな言葉はなかつた。私は慰められた。
セント・ジョンさんは一度來たゞけだつた。彼は
「どつちかと云ふと餘り見ない顏だねえ。下品とか墮落だとかいふやうなところはちつともない。」
「それ處ぢやないわ、」とダイアナが云つた。「本當云ふとね、セント・ジョン、私この可哀相な人に寧ろ好意を持つてゐるのよ。 何時迄もよくして上げられたらねえ。」
「それはとてもむづかしさうだな。」と云ふのが答だつた。
「お前はこの人が友逹との間の誤解の爲め、多分一途に家を飛び出して了つた何處かの若い婦人だつて事は今に分るだらう。
僕逹はね、この人がもし強情つ張りでなかつたら、多分そのお友逹の處へ連れ歸すことが出來ると思ふ。
だが、この人の顏の意地の強さうな線から見ると、どうも餘り
「セント・ジョン、この人は病氣なのよ。」
「病氣だつて、病氣でなくたつて、
三日目には私は餘程よくなつた。四日目には話したり、身を動かしたり、
寢臺の側の椅子の上に私のものが一切、綺麗に乾かして置いてあつた。
黒絹の
其處は新らしいパンの芳香と豐かな火の暖氣で充ちてゐた。 ハナァがパンを燒いてゐた。誰でもよく知つてゐるやうに、偏見を、 教育で耕やされた培はれたことの無い心から追ひ出して了ふことは實際難かしいことだ。 偏見はさうした心の中で、ちやうど石の間に生えた雜草のやうに執拗に生長して行くのである。 ハナァも初めの内はまつたく冷淡で頑固なものだつたが、 おしまひには少し心が解け出して來たのであつた。 そして今私がきちんと立派に身じまひしてやつて來るのを認めると彼女は微笑さへ浮べたのであつた。
「おや、お前さん、起きて來たのですかい。」彼女は云つた、 「ぢや、もういゝんだね、お前さん、掛けたきや其處の爐石の上の椅子に掛けたつて構ひませんよ。」
彼女は搖椅子を指した。私それに掛けた。彼女は絶えず横目を使つて私を
「お前さん、此處へ來る前に乞食をした事があるのかね?」
一瞬間私は腹が立つた。けれども今腹を立てたつて何んにもならないし、 また實際、あの時この老婆にはまつたく乞食に見えたのだと思ひ返して、 私は穩やかに、しかしまた幾らかきつとなつて答へた --
「あなたは私を乞食だなどと思ふのは誤りです。あなたやお孃さまと同じやうに、 私は乞食ぢやありません。」
「やゝ暫くして彼女は口を開いた。「どうも腑に落ちない。だつてね、 お前さん、家もブラス(お金)もなさゝうぢやないの。」
「家が無くてもブラス(あなたはお金のつもりだらうが)が無くても、 あなたの云ふやうな意味での乞食にやなりません。」
「お前さん、學問をしたのかね?」やがて彼女は訊いた。
「えゝ、隨分。」
「それでも塾にゐたことは無いでせう。」
「私は八年間も塾にゐたのです。」
彼女は眼を一ぱいに
「私は自分で遣つて來たのです。そしてこれからも一人で暮して行く積りなのです。 それはさうと、このグウスベリはどうなさるの?」
私は彼女がその
「パイにするのですよ。」
「ぢやあね、それを私に頂戴、私がちぎりますから。」
「飛んでもない。私も何かしないといけないのよ。こつちへ貸して頂戴な。」
彼女は承諾した。その上彼女は私の着物の上に擴げるやうに、 綺麗なタヲルまで持つて來て呉れた。「私が着物を汚すといけないから。」と云つて。
「あなたは女中をしたことはありませんね、その手で直ぐ分る。」と彼女は云つた。 「仕立屋さんだつたでせう、多分。」
「いゝえ、當りませんね。でも、もう私が何だつたかなんていゝぢやありませんか -- この上私のことを心配しないで下さいな -- それより、私逹がゐるこの家の名前を教へて下さらない?」
「マアシュ・エンドとかムア・ハウスとか云つてゐますよ。」
「そしてこの家の御主人がセント・ジョンさまと仰しやるのですか?」
「いゝえ、あの方はこゝに住まつてはゐらつしやらないのです、 唯一寸の間來てゐらつしやるだけです。お家にゐらつしやるときには、 モオトンの御自分の教區にゐらつしやるのです。」
「二三哩向うのあの村に?」
「はあ。」
「そして何をして?」
「牧師さまですよ。」
ふと私は牧師を訊ねたとき、その牧師館での老女中の返辭を思ひ出した。
「では、この家にはジョンさまのお父さまがおゐでになつたのですね。」
「はあ、お年寄りのリヴァズさまが此處に住んでゐらつしやいました。
それから
「ぢや、あの方のお名前はセント・ジョン・リヴァズさまなのね。」
「はい。セント・ジョンと仰しやるのは、御洗禮のときのお名前ださうで。」
「そしてお妹さま方が、ダイアナさまにメァリーさまね。」
「えゝ。」
「お父さまはおかくれになつたのですか?」
「はい、それがあなた、三週間前に卒中でおかくれになりましてね。」
「お母さまはゐらつしやいませんの?」
「奧さまはもう餘程前にお亡くなりになりました。」
「あなたはもう長らくこちらのお宅にゐらつしやるんでせうね。」
「三十年にもなりますよ、あなた。あのお三人共に私がお育て申しました。」
「それであなたが本當に正直な忠實な女中さんだつてことがわかりますよ。 ねえ、あなたは私のことを乞食だなんてひどいことを仰しやつたけれど、 私はそのぐらゐはあなたのことを賞めてあげませう。」
彼女は驚いた
「そればかりぢやなかつたのね。」と私は幾らか嚴しい口調で續けた。 「あなたは野良犬だつて閉め出す氣にはなれないやうなひどい夜に、 私を外に逐ひ出さうとなすつたのよ。」
「仰しやる通りでございましたよ、ひどうございました。 ですが外に仕方もないぢやありませんか? 私は自分のことよりもお孃さま方のことを考へたんでございますよ。 お可哀相に!私より他にお世話をする者は誰もないんですからね。 私が油斷なくしてゐなくてはならないのです。」
私は暫くむつゝりと默り込んでゐた。
「どうぞ、もうあんまり嚴しくお考へにならないで下さいまし。」彼女はまた云つた。
「でも私は、矢つ張りあなたはよくないと思ふのよ。だつてねえ婆やさん --
それはあなたが私を泊めてくれなかつたり、
「もう〜決して考へることぢやございません。」彼女は云つた。 「セント・ジョンさまもさう仰しやつて下さいます。私が惡うございました -- ですけれど、もう今はまるであなたを前とは違つて考へてをりますよ。 あなたは本當にちやんとしたお方でございます。」
「もういゝのよ、許して上げませう。さあ、握手をして。」
彼女は粉だらけのがさ〜した手を私に差し出した。 前とは違つた温かい微笑がそのがさつな顏に浮んだ。 そしてその時から私たちはお友逹になつたのである。
ハナァは大層話好きだつた。私が
老リヴァズ氏はまつたく素朴な人で、しかし紳士であつたし、一番舊い家の出であつたと彼女は云つた。
マァシュ・エンドは唯一軒の家であつた頃からリヴァズ家の所有だつた。 「もう二百年も以前のことですよ -- それはもう、
あのモオトン・ヴェイルのオリヴァさまの大きなお
セント・ジョンさまは行く〜は大學を出て牧師になり、お孃さま逹は學校を出て家庭教師の口を探す筈である、
といふのは、數年前に父親はその信頼してゐた人が破産した爲めに、巨額の金を失つて、現在は、
彼等に財産を分つ程に豐かではなかつたので、彼等は
グウスベリ
「モオトンまで御散歩にゐらつしやいましたが、もう三十分もすると、お茶にお歸りになる筈ですよ。」
ちやうどハナァの云つた時刻までに彼等は歸つて來た。そして臺所の入口から這入つた。
セント・ジョン氏は私を見ると、ちよいと會釋したばかりで行つて了つたが、二人の婦人は足を止めた。
メァリーは私が快くなつて
「あなたは私のお許しが出るまで降りて來るのを待つてゐらした方がよかつたのよ。 まだ隨分蒼い顏をして -- そんなに痩せて、可哀相な子 -- 可哀相な人!」
ダイアナの聲は私の耳にちやうど鳩がクウ〜鳴くやうに響いた。
彼女に
「で、一體此處で何をしてゐらつしやるの?」彼女は續けた。「あなたのゐらつしやる處ではないわ。 そりやね、メァリーも私も、時々臺所に坐り込むんですけれど、それは家では自由にしたいから、 我儘がしたいからなんですの -- でも、あなたはお客さまでせう、だから居間にゐらつしやるものよ。」
「私、此處で結構でございますわ。」
「いゝえ駄目 -- ハナァと一緒にゐると大忙しだし、あなたを粉だらけにしてしまふわ。」
「それにこの火はあなたには熱過ぎるわ。」メァリーも言葉を插んだ。
「本當よ。」彼女の姉は附け加へた。「ね、いらつしやい。云ふことを聞かないといけないの。」 そして、まだ私の手を握つたまゝ私を立たせて、奧の部屋へ連れて行つた。
「此處に掛けてゐらして頂戴。」彼女は私を安樂椅子に坐らせながら云つた。 「私逹が帽子を脱いでお茶の支度をする迄ね。こんなことも私逹が小さな草原の家で行使する特權の一つなのよ、ひどく氣が向くか、 でなくもハナァがパンを燒いたりパイを捏ねたりお洗濯をしたりアイロンをかけたりしてゐる時に自分逹で御飯の支度をするつてこともね。」
彼女は
部屋はどちらかと云へば小さく飾付も簡素であつたが、小ぢんまりと、綺麗に片附いてゐるので、
感じがいゝのだつた。古風な椅子は皆ピカ〜光つてゐるし胡桃材の
セント・ジョンは -- 壁に掛てゐる煤けた繪姿のやうに坐つたまゝ、讀んでゐる本に眼を据ゑ、唖のやうに唇をつぐんでゐたので --
觀察するのには雜作もなかつた。もし彼が生きた人間でなくて一個の塑像であつたとしてもこれ以上の雜作なく觀察されはしまい。 彼は若かつた
-- 多分二十八から三十までの間だらうか -- 背が高くすらりとしてゐる。
その容貌は人の眼を惹きつける。それは希臘人の顏に似て輪廓が非常に正しい。まつたく
讀者よ、これは上品な人物描寫ではないだらうか。しかもその人物描寫の描いてゐる彼は品よくもの靜かな、優しい感じ易い人だと、
または
私は辭退しなかつた。私の食慾は呼び醒まされて鋭くなつてゐたので。
リヴァズ氏はやがて本を閉ぢて
「お腹が空いたでせう。」と彼は云つた。
「はい、さうでございます。」簡單に問はれゝば簡單に、打ちつけに云はれゝば露骨に答へること -- これが私の癖なのだ、いつもの本能的な癖なのであつた。
「この三日ばかり輕い熱で絶食を餘儀なくされたことが却つてよかつたのです。 最初から食慾の出るまゝに委せるのは危險だつたでせう。
もういゝけれど、しかしまだ
「私もう長らくは、皆さまの費用で食べることもないだらうと存じます。」 私はこんな云ひ廻しの惡い、不作法な答へをしてしまつた。
「いゝや、」冷淡に彼は云つた。「あなたがお友逹の處を知らせて下されば、 私たちから手紙を書いて上げます。さうすれば、あなたはお家へ歸れる譯でせう。」
「私、はつきりと申し上げねばなりませんが、それは出來ないのでございます。 まつたくの家も友逹もないのでございますから。」
三人の眼は私に注がれた。が、それは不信用からではない、彼等の眼には疑惑の色のないことを感じた。 たゞ彼等の好竒心が募つたのである。それは特に二人の婦人たちのことだと私は云ふ。 セント・ジョンの眼は字義通りいかにも澄明であつたが、比喩的に云へばその眞意を測り兼ねるものであつた。 彼はその眼を自分の心を探る爲めの噐械として、使用してゐるやうに見えた。 鋭さと隔意との結合は人を鼓舞するよりもかなり當惑させようとかゝつてゐた。
「では何ですか、」と彼は訊いた、「あなたはまつたくすべてのかゝり合ひから獨りぽつちだと云ふのですか?」
「さうでございます。寄邊と云ふやうな者は一人もありませんし、 英國中で何處かの家に入れて貰ふ權利は私には一つもございません。」
「あなたの年頃では、それはまつたく不思議な身柄だ!」
と、私は彼の視線が前の
「あなたは一度も結婚されたことはありませんね?
ダイアナは
「もうすぐ十九でございますの。でも、結婚してはをりません。決して。」
私は顏が眞赤に火照つて來るのを覺えた。痛ましい、心を掻き
そこで彼は詰問した。「最近は何處に住んでゐらしたのです?」
「そんなに
「私が住んでをりました處や、一緒にゐた人の名前は申上げられません。」と簡單に私は答へた。
「そりやね、さうお思ひならそのことは、セント・ジョンも誰にも、祕密になすつていゝ權利があなたにあると私思ひますわ。」 とダイアナも言葉を添へた。
「しかし僕があなたや、あなたの履歴に就いて何も知らないとなると、どうもあなたをお助けする譯には行かなくなるが、」
と彼は云つた。「しかもあなたは
「え、必要でもございますし、求めてをります。誰か本當の慈善家が、私に出來るやうな仕事を見つけさせて下すつて、 その報酬で、唯かつ〜食べるだけでもいゝ、暮して行ければと思つてゐるのでございます。」
「僕は自分が本當の慈善家かどうか知りませんかね、しかし僕はまつたく正直な目的で、
僕の力の許す限りはあなたをお
私はお茶を飮んでしまつてゐた。そのお蔭で大層氣分が清々して來た、ちやうど葡萄酒を飮んだ巨人のやうに。 その飮料は私の弱つた神經をピンと調子づけて、この詮索好きの若い判事に、はき〜返辭が出來るやうにしてくれたのであつた。
「リヴァズさん、」と私は、彼の方を向いて、彼の眼を迎へながら、少しも臆せず率直に云つた、 「あなたにもお妹さま方にも本當にお世話になりました -- 大偉人だけが人類の爲めに爲し得ることでございます。 あなた方は、その氣高い愛のお心で私を死からお救ひ下さいました。この御恩に對しては何とお禮申上げてよいか分らない程でございます。 それで、私も當然ある點までは私の祕密をお話しいたさねばなりません。 私は、あなた方がお救ひ下さつた放浪者の履歴を、私の心の平和を破らない限りに -- 精神的肉體的の私の安全とを害しない限りり -- 申上げたいと存じます。
「私は、
「ブロクルハーストさんのことは聞いてゐます、學校も見たことがあります。」
「それから一年ばかし經つて、私は家庭教師になる爲めにローウッドを出ました。そしていゝ位置につくことになりました。
私は幸福でございました。でもそれも、ちやうどこちらへ參ります四日前に、
「もうこの上話させちやいけないわ、セント・ジョン、」私が一寸息をついた時、ダイアナは云つた。
「とても未だ昂奮していゝ程になつてやしないわ。こつちに來て、
この變名を聞いて私は思はずはつとした。私は新しい名前を忘れてゐたのだ。 この樣子を、何物も見逃さないらしいリヴァズ氏は直ぐ看てとつた。
「あなたは、ジエィン・エリオットと云ひましたね?」彼は突込んだ。
「えゝ、さう申しました。今はさう呼んで戴いた方が都合がいゝと存じますから。 でも、それは私の本當の名前ではございませんの。ですから、さう呼んで戴くと變にひゝきますの。」
「本當の名前を云つて下さいませんか?」
「いゝえ、私、何よりも見附かるのが怖うございますの。ですから、
その
「本當よ、その通りですわ、」ダイアナは云つた、「ねえ兄さん、少し
セント・ジョンは、一寸口を
「あなたは、長らく私たちの厄介になつてはゐたくないでせう -- いや、出來るだけ早く妹たちの同情や、就中、僕のお情をなくしてしまひたいやうだ (僕は彼等との間の差異に十分氣が附いてゐる、が、それを怨んでやしない -- それは當り前なのだ) あなたは私たちから離れて、自分でやつて行きたいのですね?」
「さうでございます。そのことは先程も申上げました。どうして仕事をいたしませうか、
どうして仕事をさがしめせうか、仰しやつて下さいまし。それだけが今伺ひたいのでございます。
それから後は
「無論、此處にゐらしてようございますとも。」白い手を私の頭に添へながら、ダイアナは云つた。 「ようございますとも。」メァリーも持前らしい愛嬌の無い、しかし眞實味のある口調で繰り返した。
「御覽の通り、妹たちはあなたを止めて置くことに一種の樂しみを持つてゐます。」 セント・ジョン氏は云つた。「まるで冷たい風が窓から追ひ出して了ひはしないかと、 凍えかけた小鳥を引留めて可愛がると云つた樂しみなのだ。 私はあなたを自分で遣つて行けるやうにして上げたいといふことに就いては、もつと考へてゐるのです。 そしてそれが出來るように努力して見ませう。だがお聞きなさい、僕の範圍は狹いのです。 高が貧弱な田舎の教區の牧師に過ぎないのだから。だから、僕が助けると云つても、 最も微力なものに違ひないのです。もしもあなたが萬事控へ目な生活に嫌氣が差してゐるのなら、 僕が提供するやうなものより他の、もつと有力な援助を探した方がいゝでせう。」
「正しいことで、お出來になることだつたら、何でもなさりたいつて、もう
「愈々となれば、私、裁縫師にでも日傭女にでも、また他になければ女中や子守にだつてもなります。」 と私は答へた。
「宜しい、」セント・ジョン氏はまつたく冷靜に云つた。「さういふお心なら、 私の好きなときに、好きな方法でお助けすることを約束しませう。」
彼は再びお茶の前に讀んでゐた本を取り上げた。私は早々に引きとつた。 何故と云つて私は今の元氣ではこれ以上辛抱が出來ない程話しもしたし、坐つてもゐたのだから。
ムウア・ハウスの人逹を知つて來れば來る程、私は益々彼等が好きになつた。 數日經つ内に私は非常に健康を恢復したので、終日起きたり、ときには、出歩いたりすることが、出來た。 そしてダイアナやメァリーがする仕事には何でも加はることが出來たし、彼女逹に好きな話しもし、 してもいゝと許されゝば何時でも何處でゞも彼女逹の手傳ひが出來るやうになつた。 かうした接觸の中には、私が初めて味はふ一種の晴れやかな悦びがあつた -- 趣味と感情と主義の完全な一致が齎らす悦びがあつたのだ。
彼女逹が好んで讀むものは私も好きだつた、彼女逹が面白いことは私にも愉快だつた。
彼女逹が是認することは私も尊重したのであつた。彼等はその離れ家を愛した。
私もまた、低い屋根、格子窓、朽ちかけた壁、古い樅の並木路のある、灰色のさゝやかな古風な建物の中に --
これらはすべて山嵐の吹き
家の中でも同じやうに私たちはよく一致した。彼女等は私よりも多く學んでゐたし、また本も讀んでゐた。 けれど、私もまた熱心に、私よりも前に彼女等が踏んで來た智識の道を辿つて行つた。 私は貸してくれた本を耽讀した。
それから、夜、私が晝間讀んだところのものを彼等と議論することに、滿足した。 思想も一致し、意見も一致した。一言に云へば私たちは完全に一致するのであつた。
もしも私たち三人の間に、先輩とか指導者とか云つたものがあるとすれば、それはダイアナであつた。
肉體的にも彼女は私よりも遙かに優れて美貌であり強健であつた。
その溌剌とした精神には豐かな生命が確實に流れてゐたので、私は理解力を壓倒されて唯讚嘆するばかりであつた。
日が暮れると私は暫く話すことが出來た。だが、最初の元氣と能辯との勢が衰へると、 ダイアナの足許の臺に坐つて、頭を彼女の膝に凭せて、
ダイアナとメァリーが私一寸觸れたばかりの話題を徹底的に探究するのに聽き入るのであつた。
ダイアナは私に獨逸語を教へようと云つてくれた。私も彼女から教はるのは好きだつた。
女教師の役目を彼女は喜ばせもしまた
セント・ジョン氏について云へば、私と彼の妹たちに、そんなにも自然に、また早く起つた親しみも、 彼に擴がつて行かないのであつた。
さうした私共の間にまだとれない隔りがある
この歴訪の爲めには、どんな天候も、彼には問題でないらしかつた。降つても照つても、
午前の勉強の時間が濟めば、彼は帽子を被り、父の愛してゐた老ポインタ種のカルロを連れては、
愛か、あるひは義務の使命の爲めにか、出掛けて行くのであつた -- そのどちらの意味に使命を解したかは、
私は、殆んど知らない。折々、ひどい
「だがね、酷い風だとか雨だとか云つて、僕がこの易しい仕事を放つて置くとしたら、 僕が行かうとしてゐる將來に對して、そんな怠慢が何の準備になるだらう?」
ダイアナとメァリーはこの質問に對するいつもの答へは、嘆息であり、明かに悲しみに滿ちた瞑想の數分間であつた。
しかし、彼の不在勝ちだといふことの他に、彼との友情を妨げるものがもう一つあつた。彼は、控へ目な、
何かに心を奪はれてゐるやうな、何かを思ひ煩らつてさへゐるやうな性質の人なのであつた。
傳道に熱心で、生活にも行動にも少しも恥づべき點などはないのに、彼は眞摯なクリスチャンや、
實行的な博愛家の當然の報酬であるべき心の朗らかさや、内心の滿足を樂しむといふ風が見えなかつた。
夕方など、よく彼は窓際に坐り、机と紙を前に讀書も書きものも止めて了ひ、兩手を顎に支へて、
私には想像もつかない思索に耽つてゐるのであつた。けれども、その内心の動搖や昂奮は、
その眼がきら〜ち光つたり、落着きなく
そればかりではなく、彼の妹たちには悦びの寶庫である自然も、彼にはさうではないやうに私は思つてゐる。
彼はたつた一度、私の聞いたのはそれつきりなのだが、丘の荒々しい線が表はす魅力に打たれた強い感じと、
彼が我が家と呼んでゐる
彼とは沒交渉の儘、その心を知る機會が來る前に暫くのときが經つた。 私が初めて彼の眞情を掴んだのは、モオトンの教會で彼の説教を聞いたときであつた。 私はその説教を此處に敍述したいのだが、それは、とても私には出來ないことだ。 それどころか、その説教が、私に及ぼした影響さへ、忠實に表はすことは出來さうもない。
それは靜かに始まつた -- そして話し振りと聲の調子の點では、最後まで靜かだつた。
眞剱な而も強く抑制された内心の火は、明瞭な語調の内に迸り、激しい言葉を奔らせたがこれは抑へつけられた、
短縮された、抑制された力になつた。説教者の力により胸は戰き心は壓倒されたが、
柔らげられることはなかつた。始終其處には一種異樣な苦味が漂つてゐた。
人の心を優しく
兎角する内に一月は過ぎた。ダイアナとメァリーがムウア・ハウスを離れて、ある大きな繁華な南英國の町に、
家庭教師として、今迄とは、まつたく異つた環境や生活に這入つて行くときが迫つた。
そこで、二人は各々、富裕な
私が傍へ寄つて行くと、見上げながら -- 「何か僕に訊きたいことがあるのですね?」と彼は云つた。
「えゝ。もしか、私がお引き受け出來るやうな仕事のことを、何かお聞きになつたかどうか伺ひたいと思つて。」
「僕はあなたの爲めに三週間前に或る仕事を見つけて上げました、いや考へてゐたのです。
しかしあなたは此處にゐて役にも立つし幸福さうだつたから -- 妹たちは確かにあなたが好きになつてゐたし、
あなたとの交際が
「では、もう皆さまは後三日の内にいらつしやるのでございますね?」私は訊ねた。
「えゝ。そして
最初に出された話を續けて行くのだらうと思つて、私は暫く待つてゐた。 しかし彼はまつたく別のことを考へてゐるやうに見えた。彼の樣子は、私からも私の用事からも離れ去つてゐることを示してゐた。 私自分にとつて必然に密接で氣がゝりな問題を彼に呼び返さゞるを得なかつた。
「あなたが考へて下さつた仕事といふのは、どんなことでございますの、リヴァズさん? こんなに時が經つてしまつた爲めに、その仕事に就くことが、益々困難にならなければいゝがと思ひますが。」
「いや、そんなことはありません。その仕事はたゞ與へる方が僕で、受け取る方があなたといふのですから。」
再び彼は話をやめた。續ける事を躊躇するやうに見えた。私は
「さう急いで聽くことは要りません。」と彼は云つた。「打明けて云へば、
それはあなたにお勸めするに適當なとか都合がいゝとか云ふやうなものではないのです。
説明する前にはつきりと申上げますがね、もし僕があなたをお
セント・ジョンは、この言葉を
「そして僕自身が貧乏で微賤なものだから、あなたにも貧しい、微賤な仕事しか見つけて上げられないのです。
あなたは、品位を
「そして?」と再び彼が口を
彼は言葉を續ける前に私を見た。確かに彼は、私の目鼻や皺などが、紙に書かれた文字ででもあるかのやうに、
「きつとあなたは、僕が世話して上げる仕事を承知するでせう、」と彼は云つた。 「そして暫くの間はそれを續けるでせう。しかし僕が窮屈な、そして心を偏狹にさせる、 平々凡々な、引込んだ、英國の田舎牧師の職を永久に續けてはゐられないと同じに、 あなたも永久には續けないでせう。何故なら僕と同じやうに、あなたの性質中には、 その種類は異つても、安靜には有害な混りものがあるのです。」
「どうぞ説明して下さいまし。」またもや、彼が話を止めたので私は促した。
「宜しい。だがあなたには、その申出がいかにも貧弱で -- けちで -- 窮屈に聞えるでせう。
僕はもう父も亡くなり、自由な身ですから、長くモオトンに留つてはゐない積りです。
多分一年經たない内に出て行くことになるでせう。しかし留つてゐる間は出來得る限り其處の改善に努力する積りです。
二年前に僕が來たときには、モオトンには學校といふものはありませんでした。
だから貧乏人の子供たちはまつたく進歩など望めもしない状態でした。
僕は男の子の爲めに學校を設立しました。で、今度は女の子の爲めに第二の學校を開いてやりたいと思つてゐるのです。
その目的で僕は建物を一つ借りておきました。それには先生の家として二間ある小屋が附屬してゐます。
俸給は年三十
彼はこの問ひを少し急ぎ氣味に出した。彼はこの申出に對して怒つた、 或ひは少くとも輕蔑した拒絶を半ば期待してゐるらしかつた。
幾らかは推察してゐても、私の思想や感情の全部を知らなかつたので、 彼にはその運命が私にとつてどんな意味に思はれるかを知らなかつたのだ。
まつたくそれは賤しいものではあつた -- しかし同時にそれは庇護されたものだつた。
そして私は安全な隱れ場所を欲してゐたのだ。それはこつ〜と働くやうなものだつた --
しかし同時にそれは富裕な家の家庭教師の生活に較べて、獨立したものだつた。
そして他人に對する屈從の不安が私の魂に鐡のやうに喰ひ入つてゐた。 それは賤しくもなく -- 無價値でもない --
精神的に品位を
「お言葉有難うございます、リヴァズさん、喜んでお受け致します。」
「しかし、私の云ふことはお分りですか?」と彼は云つた。 「あの、小學校なんですよ。あなたの生徒は貧しい女の子だかり -- 小作人の子供たちか -- 上等の部で土地持の百姓の娘たちなんですよ。編物、裁縫、習字、算術なんぞがあなたの教へねばならぬ全部なんですよ。 あなたの才能は何の役に立てますか?あなたの心の大部分 -- 感情 -- 趣味はどうしますか?」
「必要になる迄とつて置きます。無くなりはしませんでせう。」
「ぢあ、あなたは、御自分の引受ける事がお分りですね?」
「分つてゐます。」
すると彼は微笑を浮かべた。そして、それは苦い、或ひは悲しげな微笑ではなく、 いかにも我意を得たと云つたやうな、深い滿足したやうなものであつた。
「それで、仕事は何時から始めますか?」
「私、明日、私の住む家へ行つて、よろしかつたら學校は次の週から始めたいと思ひます。」
「結構です。さうなすつたがいゝでせう。」
彼は立ち上つて部屋の中を歩いた。が、立ち上つたまゝ彼は再び私を
「何がお氣に召しませんか、リヴァズさん?」私は訊ねた。
「あなたはモオトンには長く留まつてはゐないだらう、とても、とても?」
「何故でございます?そんなことを仰しやるわけは何んでございますか?」
「私はあなたの眼の裡に讀みとります。それは、生涯單調な、變化のない生活を續けて行かれさうな眼付ではない。」
「私、野心は抱いてはをりませんわ。」
「野心を抱く」といふ言葉に彼は愕然とした。彼は繰り返した。「さうぢやない。 何んだつてあなたは、野心なんてことを考へたのです?誰が野心を抱いてゐるのです。 僕は自分がさうだとは知つてゐる、しかし、それがあなたにどうして分つたのです?」
「私、自分のことを申してゐるのです。」
「いや、若しあなたが野心を抱いてないとしたら、あなたは -- 」彼は口を
「何でございます?」
「感情が激しい、と云はうと思つたのです。しかし多分あなたは、その言葉を誤解して嫌な氣持になつたでせう。
僕の意味は、人間的な愛情や同情が、あなたを最も強く支配するといふことです。
きつとあなたは孤獨の裡に時を過してまつたく刺戟のない單調な仕事にあなたの勞働時間を捧げることに長く滿足してはゐられないと思ふのです。
ちやうど僕が、」と彼は力を入れて附け加へた。「沼地の中に埋もれ、山に閉ぢ籠められて --
神に授けられた自分の本性は違背せられ、天から與へられた自分の才能は麻痺され --
役立たずにされて、此處に住むことに滿足してゐられないと同じやうに。
僕がどんなに矛盾してゐるか、今にして、あなたはわかつたでせう。賤しい運命に滿足することを説教し、
彼は部屋を出て行つた。この短い時間に私は過去まる一箇月中よりもつと彼に就いて知ることが出來た。 とは云へまだ彼は私には謎だつた。
ダイアナとメァリーとは、兄や家に別れる日が近づくにつれて、益々悲しげに口數少なくなつて來た。 二人共平生の通りの樣子をしようと努めた。しかし彼等が戰はねばならぬ悲しみは完全に征服され、 または隱し覆はれるものではなかつた。ダイアナは、これは今迄逢つたどれとも異つた別離であらうと仄めかした。 多分セント・ジョンが關する限りは、これは長い年月の間の別れであらう -- 否、一生の別れになるかも知れなかつた。
「兄は長い間考へて來た決心の爲めに、總てを犧牲にするでせう、」と彼女は云つた。 「肉親に對する愛情や感情はまだそれよりも一層強いのですけれど。 セント・ジョンは落着いてゐるやうに見えるでせう、ジエィン。 けれどもあの人の生命の内には、熱病みたいな氣持が隱れてゐるのです。 あなたは兄を優しいと思ふでせう、でも何かのことでは、まるで死のやうに動かすことが出來ないのですよ。 それにいけないことには私の兩親がとても兄のあの嚴しい決心を思ひ留らせることを許しさうにないことなんです。 まつたく私は一寸だつてその事で兄を咎めることは出來ません。それは正しい、立派な基督教徒らしいことなのです。 それなのにそのことが私の心を悲しませます。」そして涙は彼女の美しい眼に湧き溢れた。 メァリーは仕事の上に低く頭を埀れてゐた。「私たちはもう父もありません、 やがて家も兄もなくなるでせう。」と彼女は呟いた。
その時、ある小さな出來事が續いて起つた。それは『不幸は單獨では來ない』といふ格言が眞理であることを證明する爲めに、 そして彼等の困難に對して、愈々やつて來る迄は安心がならない腹立たしい苦痛を加へる爲めに、 故意に運命が定めたものゝやうに思はれた。セント・ジョンが一通の手紙を讀みながら窓を通りすぎた。 彼は這入つて來た。
「ジョン伯父さんが亡くなつたよ。」と彼は云つた。
姉妹二人共にはつとした樣子だつた -- 驚愕したのでも
「亡くなつたんですつて?」とダイアナが繰り返した。
「さうだよ。」
彼女は探るやうな視線を兄の顏に注いだ。「それで?」彼女は低い聲で訊ねた。
「それでつて、ディ?」彼は大理石のやうに、顏色も動かさずに答へた。 「それでつて?なに -- それだけさ。讀んで御覽。」
彼は手紙を彼女の膝に投げた。彼女はそれに眼を通すとメァリーに渡した。 メァリーは默つて讀むと兄に返した。三人顏を見合せて、そして等しく微笑んだ -- まつたく暗い寂しい笑ひであつた。
「アーメン!私たちはまだ生きて行けるわ。」最後にダイアナが云つた。
「何れにしろ、今迄より貧しくなりはしないわね。」とメァリーが云つた。
「それはあつたかも知れないことについての想像を心に幾らか強く刻みつけるだけのことだ。」 リヴァズ氏は云つた。
「現在あることゝは幾らかはつきり矛盾し過ぎてゐる。」
「彼は手紙を疉んで机の中に
暫くの間誰も口を利かなかつた。やがてダイアナが私の方を向いた。
「ジエィン、あなたは私たちの妙な素振りを變に思ふでせうね、」と彼女は云つた。
「そして私逹のことを、伯父といふ程にも近い親類の亡くなつたのにも、 大して心を動かされない冷酷な人間だと思ふでせうね。けれど、
私たちはその人に會つたこともなければ知りもしないのです。 伯父は母の兄でした。ずつと昔父と伯父とが喧嘩したのです。
父が財産の殆んど全部を父を破産させて了つた投機にかけさせたのもあの伯父の差金だつたのです。
お互に水掛論をし合つて二人共怒つたまゝ別れてそれきり仲直りしなかつたのです。
伯父はその後ずつと有望な事業に手を出して、二萬
この説明が與へられると、その話題はやめられた。これだけの説明をすると、それに就いて、 この上の論及はリヴァズ氏によつても妹たちによつてもなされなかつた。
その次の日私はマアシュ・エンドを出發して、モオトンに向つた。翌々日ダイアナとメァリーは遠いB町に向けて出發した。 一週間の内にリヴァズ氏とハナァは牧師館に歸り、從つて古い屋敷は住む人もなくなつてしまつた。
私の家 -- 遂に一軒の家を見出したときの -- は一軒の小屋である。四脚の塗つた椅子と、
夕方であつた。私は小間使として働いてくれる、小さな
あの彼方にある見すぼらしい教室で過した今朝と午後の間中、私は大變に喜ばしく落着いて滿足だつたらうか?
自分自身を
同時に一つの問ひを自分に出してみよう -- 何れがよいか? -- 誘惑に負け、情熱に從ひ、苦しい努力も -- 苦悶もせず --
絹の罠に陷り、それを隱した花の上に眠り、 享樂の別莊の榮華の裡に南國に醒めて、今ロチスター氏の情婦となつて彿蘭西に住み、
持つてゐる時間の半分は、彼の愛の夢現の氣持でゐるのと -- 何故なら彼はきつと -- 勿論、
きつと暫くの間は、私を愛し切つてくれたであらうから。彼は私を愛したのだ --
誰もあんなに再び私を愛してはくれまい。私は最早美や青春や優雅に對して與へられたあの快い稱讚を聞くことはないだらう --
何故なら他の誰にも私がそんな魅力を持つてゐるとは見えないだらうから。
彼は私を好ましく思ひ、私を誇つてゐた。それは他の誰もしないことだらう --
だが、何處に私は
さうだ。今私は道義と法を固守し、狂熱した瞬間の狂氣染みた勸め蔑み打ち碎いた自分を正しいと感ずる。 神が私に正しい選擇を示し給ふたのだ。私は導き給ふた神意に感謝する!
夕べの沈思はこゝ迄たどりついたので、私は、立ち上り、入り口の處へ行つて、秋の入陽を、 そして學校と共に村から半哩離れてゐる私の家の前のひつそりした耕地を眺めた。 鳥はその最後の歌をうたつてゐた --
大氣は温和に、露かぐはし。
眺めながら私は自分を幸福だと思つた。そして程なく泣いてゐる自分に氣が附いて驚いた -- 何故に?
私の主人の傍から私を引き離した運命に對して最早會ふこともない彼に對して、 絶望的な悲嘆と致命的な憤怒に對して -- 私の脱出の結果
-- それがもしかしたら今頃は彼を正しい道から引摺り出して遠く最後の恢復の望みもない位外れた道に踏みこませてゐるのかも知れない。
この思ひが浮んだとき私は美しい夕暮の空から、寂しいモオトンの谷から、 顏をそむけた --
寂しいと私は云ふ、何故なら、私の眼の屆くモオトンの谷道をくねつてゐる邊りでは、 半ば
「いや、とゞまつてはゐられないのです。唯一寸妹たちがあなたに置いて行つた小さな包みを持つて來て上げたゞけです。 繪具箱だの、鉛筆だの、紙だのが這入つてゐるのだらうと思ひます。」
私はそれを受け取りに近づいた。それは嬉しい贈り物であつた。私が近づいた時、彼は嚴しい眼で、
私を
「第一日目の仕事が、思つたよりも難かしいと思ひましたか?」と彼は訊ねた。
「いえ、いえ!反對に、私は今に生徒たちといゝ工合に遣つて行けさうだと思つてをりますの。」
「しかし、こゝの設備が -- あなたの住家が -- 家具が -- あなたの期待を裏切つたのでせう? まつたくそれは貧弱です。しかし -- 」私は遮つた。
「この小屋は清潔で雨風を防いで呉れますし、家具も十分で便利でございます。 此處にある何も彼も、私を落膽させずに感謝させました。私、敷物や安樂椅子や銀の食噐がないからつて悲しがるやうな、 そんな愚か者でも快樂主義者でもありませんわ。それに五週間前には私何んにも持つてはゐませんでした -- 宿無しで、乞食で、放浪者だつたのです。今ではお友逹も家も仕事も持つてゐます。 私は神さまのお惠みに、友の慈悲に、運命の贈り物に驚くばかりです。私、愚癡なんぞこぼしませんわ。」
「しかし、獨り居は堪らないと思ふでせう?
あなたの
「私まだ、靜かな氣分を味ふ程の時間が殆んどない位ですから、
「結構です。僕はあなたが仰しやる通り滿足をお感じになればいゝがと思つてをります。
何れにしろ、あのロットの妻の未練がましい心配に身を委せるのは、
「それは、私もしようと思つてゐることなのです。」と私は答へた。
セント・ジョンは續けた --
「性癖の働きを制禦したり、天性の傾向を變へようとするのは困難な仕事です。
しかしそれが可能だといふことは僕自身の經驗で知つてゐる。 神は或程度まで我々に自分自身の運命を創る力を與へてゐます。
そして若し我々の精力が求めても得られぬ扶助を求めてゐると思はれるときにも --
我々の意志が我々の行けない途を無理にも行かうとするときにも --
我々は榮養不良の爲めに飢ゑることも、絶望して立ち盡すことも要らないのです。
我々は心の爲めに他の糧を探せばいゝのです、味ひたいと願つた禁制の食物と同じ位に腹ごたへのする -- そして多分もつと淨らかなものを。
そして大膽な足の爲めには運命の神が我々に對して
「一年前に僕は非常に慘めでした。何故かと云へば僕は自分が牧師職に就いたことを過誤だと思つたからです。 その變化のない務めが死ぬ程僕を倦ましたのです。僕はもつと活動的な世の中の生活を欲して -- 文學的生活のもつと目覺ましい勞苦を欲して -- 藝術家としての、著述家としての、 辯論家としての運命を欲して燃えてゐたのです。僧侶になる程なら、他のどんなことでもよかつたのです。 えゝ、政治家の心、軍人の心、名譽を熱中する人間の心、名聲を愛する人間、權力を切望する人間の心等が、 僕の牧師補の白い法衣の下に動悸を打つてゐたのです。僕は思ひました、この生活は實に慘めだ、 變へなくてはならない、でなければ僕は死ぬに相違ないと。暗黒と爭鬪の期間の後に光明が射し、 救ひが降りて來ました。束縛された私の生活は不意に解放されて果もない平原に迸り -- 能力は起つて一ぱいの力を出して翼を擴げ、限界の彼方に飛翔しろと天から呼ばれる聲を聞いたのです。 神は僕に使命をお授けになつたのです。それを遠くへ運び、よく傳へる爲めに、技倆と力、 勇氣と雄辯、軍人、政治家、辯論家の最上の資格はみんな必要とされたのです。 何故なら、よき宣教師にはこれ等すべてのものが集つてゐるのですから。
「宣教師にならうと僕は決心しました。その瞬間から僕の心の状態は變つて了ひました。
これを彼は彼特有の抑制した、しかし力強い聲で語つた。話し終ると、彼は私を見ずに、落日を眺めた。
私もまたそれを見てゐた。彼も私も原から小門へかけての坂徑の方に背を向けてゐた。
私共はその草の茂つた徑に何の
「今晩は、リヴァズさん。今晩は、老カロルや。あなたの犬の方が、あなたよりもお友逹を見附けるのが早いわ。 私が原つぱの下まで來たら、耳を動かして尾を振りましたわ。 それにあなたつたら未だ背中を向けてらつしやる。」
それは本當だつた。まるで雷電が頭上の雲を裂いたかのやうに、この歌ふやうな調子の初めを聞いて、
リヴァズ氏は驚愕したが、しかしまだその言葉の終る頃にも、話手が彼を驚かしたときと同じ態度で立つてゐた --
腕を門の上に休め、顏を西の方へ向けてゐた。やつと彼は加減した愼重さを以て振り向いた。
私にはまるで一人の
この地上の天使をセント・ジョン・リヴァズは、何と思つたであらう? 私は彼が振り向いて彼女を見るのを見て、自ら自分にその問ひを訊ねた。そして、矢つ張り自然に、 その問ひの答へを私は彼の容子に求めた。彼はもう既に美しい少女から眼を外らせて、 門の傍に生えてゐた小さな雛菊の叢を見てゐた。
「いゝ夕方ですね、しかしあなたが獨りで出歩くには遲過ぎますよ。」 と彼は花瓣を閉ぢた花の、白い頭を足で踏みつぶしながら云つた。
「まあ、あたしS町から歸つて來たばかしよ。」(彼女は二十哩ばかり離れた或る大きな街の名を云つた) 「今日午後なの。あなたが今日から學校をお始めになるつて、そして新しい先生がいらつしやるつてパパが云つたんですの。 ですからお茶が濟むとあたし帽子を被つて、その方にお目に懸りに谷を駈け上つて來たのですわ -- この方?」 と私を指した。
「さうです。」とセント・ジョン氏は云つた。
「あなた、モオトンは好きになれさうだと、お思ひになつて?」彼女は言葉つきにも態度にも、 明らさまな無邪氣な單純さを見せて私いに訊ねた。子供つぽいとしても、 それは氣持のいゝものだつた。
「さうなり度いと思つてをりますの。さうなる澤山の
「子供逹は想像なすつた通りに注意深うごじまして?」
「大變に。」
「家はお氣に召して?」
「えゝ、すつかり。」
「あたし、いゝ工合に飾りつけたでせうか?」
「大變結構でございますよ、本當に。」
「そして女中に、アリス・ウッドを選んだのはよかつたか知ら。」
「結構でございましたよ。
セント・ジョン氏の下唇がつき出て、一瞬間上唇が歪んだやうに思へた。 笑ひ聲を立てゝゐる娘が、彼にこのことを話して聞かせたとき、
彼の口は確かに可なりきつと結ばれてゐたやうに見え、 彼の顏の下部は異常に嚴酷に引き
彼が考へ込んで眞面目な顏をして立つてゐるとき、彼女は再び身を屈めてカルロを撫でた。
「カルロはあたしが好きなのよ。」と彼女は云つた。「これはお友逹に、嚴しくもなければ、 よそ〜しくもないわ。もしこれに口が利けたら默つてなんかゐないだらう。」
彼女が持つて生れた美しさで、その若い嚴格な犬の主人の前に身を屈めて、犬の頭を叩いてやつたとき、 その主人の顏に血の氣が上るのが見えた。私は彼の嚴肅な眼が突然の火で溶け、 否みがたい情緒でゆらめくのを見た。かうして閃き輝いて、彼は殆んど、 彼女が女として美しい位に男として美しく見えた。彼の胸は暴虐な壓縮に堪へられずに意志に逆つて擴がり、 自由を得る爲めに、力強い跳躍をするかのやうに、一度、喘いだ。 しかし彼は、氣丈な乘手が竿立ちになつた馬を制するやうに、それを抑へつけた、と私は思ふ。 彼に對して試みられた優しい攻撃に對して、彼は言葉に依つても動作によつても答へはしなかつた。
「パパはあなたがこの頃ちつともいらつしやらないつて仰しやつてよ。」 オリヴァ孃は仰向いて、言葉を續けた。あなたはヴエイル莊には久しく顏を見せない方ね。 パパは今晩獨りきりで、それに餘り加減がよくないのよ。 あたしと一緒に行つて見舞つて上げて下さらない?」
「オリヴァさんのお邪魔をするには、適當な時間ぢやありませんからね。」とセント・ジョンは答へた。
「適當な時間ぢやありませんつて!でも、あたしがいゝつて云ひますわ。 今はちやうどパパが一等お話相手を欲しがるときですわ --
お仕事が終つて、 何んにも仕事なんぞないときですもの。ねえ、リヴァズさん、いらつしやいよ、
どうしてあなたはそんなに引込思案で、そんなに陰氣なんでせう?」 彼女は彼の沈默が遺した間隙を、彼女自身の答へで
「あたし忘れてゐた!」と彼女は我と我身に驚いたやうに美しい捲毛の頭を振りながら叫んだ。
「あたしほんとに輕率で考へなしだわ。御免なさいね。
あなたがあたしのお喋りにお這入りになる氣がなさらない尤もな
「今夜は駄目、ロザマンドさん、今夜では駄目。」
セント・ジョン氏は、殆んどまるで機械人形のやうに口を利いた。このやうに斷ることは、 彼にとつて苦しい努力だと、知つてゐるのは彼だけだつた。
「いゝわ、そんなに頑固に仰しやるのなら。私、歸ります。もう長くはをられませんもの、 -- 露が降りはじめましたわ。ぢあ、さよなら!」
彼女は手を差出した。彼は唯それに觸れた許りだつた。「さよなら!」
反響のやうに低い空虚な聲で彼は繰り返した。彼女は身をかはした、が、直ぐにまた引返して來た。
「お加減はいゝんですの?」と彼女は訊ねた。その質問も尤もである。 彼の顏は彼女の
「まつたくいゝです。」彼は云ひ切つて會釋すると門を離れた。彼女は一つの道を、彼は別の道を行つた。
原を
この他人の苦惱と犧牲の樣が、私の心を自分の惱みを獨りで思ひ詰めてゐることから移した。 ダイアナは兄のことを、「死のやうに動かし難い」と云つてゐた。彼女は誇張したのではなかつたのだ。
私は、村の小學校の務めを、出來る限り忠實に、氣を入れてやり續けた。
最初はまつたく難かしい仕事だつた。暫らく經つうちに、私は、全力を盡して、
生徒と彼等の性質を理解することが出來た。全然教育されたことがなく、何を感じる力も持たないやうな彼等に對して、
私は、到底望みを持てないと思つた。それに、最初の一目では、どれも皆同じに鈍く見えたのだ。
しかしこれは、まもなく私の誤りと分つた。教育を受けた者の間にもあるやうに、
彼等の間にも差異があつて、それは私が彼等を知り、彼等が私を知るにつれて、速かに著しくなつた。
私に對する、また私の言葉や、主義や、方針に對する彼等の驚きが、一度に退いて了ふと、
私は、この遲鈍な、口を開けて
私は、この
ロザマンド・オリヴァは、約束を違へず、私を訪ねて呉れた。 彼女は、大抵毎朝日課の乘馬の序に、學校にやつて來た。
むろん、彼女は、自分の力を知つてゐたが、ほんたうに彼は、彼女からその力を隱さなかつた。
何故なら、彼は、隱すことが出來なかつたから。彼のクリスチャンとしての道心にも拘りなく、
彼女は近づいて話しかけると、そして華やかに勵ますやうに、優しさうにさへ、彼の顏に微笑んで見せると、
彼の手は顫へ、彼の瞳は燃えた。彼の唇は開かれなくとも、その悲しげな張りつめた面持は、
かう云つてゐた。「僕はあなたを愛します。あなたも僕を選んで下さるのを、僕は知つてゐます。
僕は絶望を怖れて口を
すると、彼女は失望した子供のやうに、頬を膨らませ、 その輝くやうな活々しさを憂愁の雲が和らげる、そして、彼女は、彼の手から素早く自分の手を引込めると、 しばらくの不機嫌さで、英雄らしく、同時に殉教者らしい彼の顏から背をむけるのが常であつた。 かうして、彼女が行つて了はうとするとき、セント・ジョンは、世界に換へても彼女の後を追ひかけて、 呼び返し、引き止めたいと思つたに違ひない。だが、それも、彼は天國へ行く爲めのひとつの機會に換へようとはしなかつた。 また、彼女の愛の樂園の爲めに、眞の永遠の樂園のひとつの望みを棄てようとは思はなかつたのだ。 その上、彼は、自分の性質の中に持つすべて -- 漂泊人、野心家、詩人、牧師 -- を、 ひとつの情熱の範圍に閉ぢ籠めることは出來なかつたのだ。 彼は、ヴエイル莊の客間と平和の爲めに、傳道戰の曠野を捨てることも出來なかつたし、 また、したくもなかつた。彼の控へ目に拘らず、私は、敢へて彼の祕密に一度進入して、多くを知つた。
オリヴァ孃は、度々、私の小さな家を訪ねてくれた。私は、彼女の包み隱しのない、
さつぱりした性質を殘らず知つた。彼女は、
彼女は、私には、
とある晩、いつもの子供らしい元氣さと、輕はずみな、けれども惡氣のない穿鑿好きで、
戸棚や
「こんな繪が私に描けたら?私が彿蘭西語や獨逸語を知つてたら? なんて、
「喜んで、」と私は答へた。そして彼女のやうな、そんなに完全な輝くやうなモデルによつて描くことを思つて、
畫家の歡喜の顫へを感じた。そのときの彼女は、紫紺色の絹の着物を着て、
兩腕と首を
彼女は、私のことを早速父親に報告したので、次の晩にはオリヴァ氏自ら彼女と連れ立つて來た -- オリヴァ氏は、背の高いがつしりした、半白の髮をもつた中年紳士で、その傍に、 彼の美しい令孃は、灰色の塔の傍の明るい花のやうに見えた。彼は、寡言な、 そして恐らくは倨傲な人柄のやうに見えたが、私には、非常に親切であつた。 ロザマンドの肖像画が、大層彼を喜ばして、是非それを仕上げて欲しいと云ふのであつた。 また次の日に、ヴエイル莊で晩を過すようにと云ひ張つた。
私は行つた。私は、持主の莫大な富を示してゐる宏壯華麗の邸宅を見つけた。 ロザマンドは、私がゐる間中、嬉しさと樂しさで一ぱいであつた。彼女の父親は、愛想よかつた。 お茶の後で私と話をはじめたとき、彼は、私がモオトン小學校でしたことを頻りに稱讚した。 彼の見聞するところによると、私はこの土地には過ぎてゐるので、 今にもつと適當な所へすぐに行つてしまふのを、たゞ心配してゐると云つた。
「ほんたうよ。」ロザマンドが叫んだ。「この方は、 立派な先生におなりになれるくらゐ、お偉いのよ、パパ。」
この國のどんな立派な家にゐるよりも、私のゐるところの方が、はるかにいゝだらうと思つた。 オリヴァ氏は、リヴァズ氏 -- リヴァズ家の -- のことに就いて、非常に尊敬して語つた。 彼の話によると、リヴァズ家は、この界隈での舊家であつた。その家の祖先は富裕だつた。 モオトン全體が、嘗てリヴァズ家に屬してゐた。現在でも、その當主は、 モオトン最高の家柄に縁を結ばうと思へば出來ないことではないのであつた。 あれ程立派な秀でた青年が、宣教師として立つ計畫をしたことを、彼は、同情を持つて話した -- それは、まつたく、貴重な人生を投げ捨てるのだ。それで、彼の父親は、 ロザマンドとセント・ジョンの結婚を妨碍しないやうに見えた。明らかに、オリヴァ氏は、 その若い牧師の血統や門閥や聖職は、無資産に對する十分の償ひと考へた。
十一月五日、お休みの日であつた。私の小さい女中は、私の家の掃除の手傳ひをしてから、
一
五、六頁の獨逸語の飜譯に、一時間とられた。それから、私は、
「お休みをどうしてゐらつしやるかと思つてやつて來ました。考へ込んでなんかゐないでせうね?
いや、それは結構です。繪を描いてゐれば、寂しい氣もなさらないでせう。
この通り、僕は、まだあなたを疑つてゐましたよ、あなたが、そんなに不思議に辛抱してゐらつしやることが。
僕は、あなたの夜のお慰みにと思つて、本を持つて來ました。」と彼は一册の新刊書 --
詩集を
私が熱心にマアミオンの(それはマアミオンであつた)美しい頁を、熱心に見てゐる間、 セント・ジョンは身を屈めて、私の繪を觀察した。彼の高い身體は、驚いて、直ぐに跳ね返つた。
彼は、何も云はなかつた。私は、彼を見上げた。彼は、私の眼を避けた。私は、 彼の思つてゐることをよく知つた。そして、明らかに彼の心を讀みとることが出來た。 その瞬間、彼よりも冷靜で、落着いてゐるやうに思つた。一時的に、彼に對して優越な立場にあつた。 そして、私は、出來るなら、何か役に立ちたいと云ふ氣持になつた。
「ありつたけの決斷力と克己心とで、この人はあまり自分を苦しめ過ぎる。 あらゆる感情や哀しみを閉ぢ籠めて -- 何も表はさず、何も云はず、何も分たず。 この綺麗なロザマンドのことを、少しでも話すことは、彼の爲めになるに違ひなからう。 彼はロザモンドと結婚してはいけないなんて思つてゐるのだから。私は彼に話させて見よう。」
私は先づ云つた、「お掛けなさい、リヴァズさん。」ところが、彼は、例の通り、
長居は出來ないと斷つた。「さうですか。」と、心の中で私は答へた --
「ではどうぞお好きなやうに。でもまだお歸りになつてはいけませんよ。孤獨は少くとも、
私にとつてのやうに、あなたにとつても惡いのです。あなたの祕密の隱れた泉を、發見出來ないかどうか、
同情の香油の一滴を
「この肖像は似てゐまして?」打ちつけに、私は訊いた。
「似てる!誰に似てるつて?僕は、よく拜見してゐませんでした。」
「御覽でしたわ、リヴァズさん。」
彼は、私のだしぬけの、妙な不作法に殆んど跳び上つた。
そして、驚いて見た。「まあ、未だ何でもありはしないのに。」私は口の中で呟いた。 「私は、そんなちよいとした頑固さに、負けはしませんよ。私は可成な處まで行けますよ。」 私は續けた。「あなたは、近くではつきりと御覽でしたわ。でも、もう一度御覽になつても、 私は構ひませんのよ。」そして私は立ち上つて、繪を彼の手に置いた。
「よく出來た繪、」彼は云つた。「大へん柔らかな、はつきりした色合で、大へん美しく、正しく、 お描きになつて。」
「えゝ、えゝ、その通り。ですがね、似てやしませんこと?それは、誰に似てるでせう?」
「いくらかの
「むろん。では間違ひなくお當てになつたその御襃美に、この繪の丁寧な、忠實な
彼は、その繪をじつと
「似てる!」彼は呟いた。「眼がよく出來てる。色も光線も表情も完全だ。微笑つてゐる!」
「その
彼は、いま、
「持つてゐたいのは確かです。それが分別があるか、賢いことか、どうかは別問題です。」
ロザマンドが、本當に彼を寧ろ好み、彼女の父親の方もこの結婚に反對しないらしいことを確かめてから、私は、 --
セント・ジョンほど、私の考へには、崇高さがないが -- 二人の結婚を薦めることに、
強く心を傾けてゐた。もしも、彼がオリヴァ氏の莫大な財産を所有するやうになれば、彼が、
熱帶の太陽の下にその天才を
「私に考へられる範圍では、直ぐに御本人をお取りになれば、もつと賢くて、分別あることでせう。」
このときまでに、彼は、坐つてゐた。繪を前の
「あの方は、きつとあなたを愛してゐらつしやいますわ。」 私は彼の椅子の背後に立つてさう云つた。「あの方のお父さまも、あなたを尊敬してゐらつしやいます。 それに可愛いお孃さまぢやありませんか -- どちらかと云へば輕はずみな方ですけれど、 それはあなたが、あの方とお二人分思慮深くてゐらつしやるとすればいゝでせう。 あの方と結婚なさるがいゝですわ。」
「本當にあの
「さうですとも。他の方よりはずつと好いてゐらつしやいます。 いつもあなたのことばかしお話になります。一等よく話題になるのも、 話してゐて嬉しさうに見えるのも、あなたのことなのですよ。」
「これは、非常に愉快だ。」と彼が云つた。「もう十五分間、お話を續けて下さい。」さうして、彼は、
實際その時間を計る爲めに
「でも、あなたが、頑強な反對をしようとしてゐらしたり、あなたのお心を拘束する新しい鎖を造つてゐらつしやるとすれば、 この上、お話しゝたつて、何になりませう。」と私は訊ねた。
「そんなひどいことは考へないで下さい。この通り、僕の心が崩折れて溶けようとしてゐるのが分りませんか。
僕の心には、人間の愛が新しく湧き出た泉のやうに迸つて、僕があれ程注意して勞作した畑といふ畑を、 甘い洪水で浸しつゝあるのです --
其處に僕は好意と自己否定の計畫の
私は、彼の云ふ儘にした。時計は、コチ〜と刻み續け彼は
「さて」と彼は云つた。「今の短い時間は、昏迷と妄想に捧げられた。僕は
私は驚いて彼を
「變ですね。」と彼は續けて云ふ、「僕はロザモンド・オリヴァをこれほど激しく -- 初戀のあらゆる熱情を傾け盡して愛してゐるのに、
しかもその對象はこの上なく美しい優しいうつとりするやうな女なんだが --
同時に彼女は僕の良い妻にはなれまいといふ、冷靜な確かな自覺を感じるんです。
彼女は、僕に
「まつたく變ですわ!」私は、叫ばざるを得なかつた。
「僕には、」と彼は續けた。「實際に、彼女の魅力に敏感である點もあれば、 また彼女の缺點を深く感じる點もある。その缺點といふのはかうです。 彼女は、僕の抱負に同情することは出來ない。僕の事業に協力することが出來ない。 あのロザマンドが受難者でせうか、勤勞者だらうか、女の使徒だらうか? ロザマンドが宣教師の妻になり得るだらうか?否!」
「でもあなたは宣教師におなりにならなくてもいゝぢやありませんか。 そんな計畫はお捨てになれるのでせう?」
「何、捨てる!僕の天職を?この大きな仕事を?天國の館の爲めに、地上に築かれた基礎を、
捨てるんですつて?人類を救ふといふ唯一つの光榮ある野心にあらゆる野心を沒入した人々の群に入らうといふ希望を、
智識を無智の領域にまで運はうといふ希望を、戰ひを平和に代へ、 束縛を自由に、迷信を宗教に、
地獄の恐怖を天國の希望に代へようといふ希望を、僕はそれをみな捨てなくてはならないんですか?
それは、僕の血管にある血よりも貴重なものです。僕は、この希望を
長い間沈默して -- 私は云つた -- 「ぢや、オリヴァさんは?あの方の失望や悲しみは、 何んともお思ひになりませんの?」
「オリヴァさんの周圍には、いつも求婚者や口前の好い男が大勢ゐるでせうから、
一月經たない内に僕の影なんぞはあの人の心から消えて了ひますよ。そして、
僕のことは忘れて、恐らく、僕よりも遙かにあの
「隨分冷淡なお話ですね。でも、煩悶なすつてゐらつしやるのでせう。段々、お痩せになるやうですわ。」
「そんなことはありませんよ。假りに幾分痩せたとすれば、僕の前途 -- 未だ確定しない前途に對する心配の爲めです --
僕の出發が、絶えず延ばされて行く爲めです。 つい今朝も、僕は長い間待つてゐた僕の後任者が、
もう三ヶ月しないとやつて來ないといふ
「オリヴァさんが教室にゐらつしやいますと、あなたは、顫へて熱くなつてゐらつしやいますのね。」
再び、驚愕の表情が彼の顏を横切つた。彼は女性が、 男性に
「あなたは珍らしい人だ。そして内氣でもありませんね。あなたは、 あなたの精神に或る雄々しさを備へてゐらつしやると同時に、
あなたの眼にある鋭さを備へてゐらつしやる。しかし失禮ですが、僕の感情をいくらか誤解してゐらつしやる。
あなたがお考へになるほど、深刻な力強いものではないんです。
私が正當に要求し得る以上に同情を寄せて下さる。僕がオリヴァさんの前で赧くなつたり、
顫へたりしても、僕は、僕を
私は疑はしげに微笑んだ。
「あなたは僕の祕密を強奪した、」と彼は續ける。「さうして、いま、だいたいあなたの手中のものになつた。 裸身の僕は、單に --
人類の罪を覆うてゐる、キリスト教の血に染んだ
「あなたは、唯の異教哲學者と御自分を説明なさるんですね。」と私は云つた。
「いや、僕とその異教哲學者との間には、この違ひがあります。
僕には、信仰がある、僕は、福音を信じる。あなたは、形容詞をお間違へになつた、 僕は異教哲學者ぢやなくて、キリスト教哲學者 --
基督教義の蹈襲者です。 キリストの弟子として、僕は、キリストの純粹な、惠み深い慈しみのある教義を採用する。
僕は、その教義を説く。僕は、それを弘めることを誓ふ。僕は、若いときに宗教にひき入れられたので、
宗教が僕の素質をこんな風に教化しました。 -- つまり、宗教は、自然的な愛情と云ふ小さな芽から、
博愛といふ大木を成長させました。人間の正義と云ふ、粗野な、すぢつぽい根から、
神の正義と云ふ正しい覺悟を育てました。權力を得ようといふ野心から、
かう云つて、彼は卓子の上の
「あの人は綺麗だ。」と呟く。「實際、この世の薔薇(ロザマンド)とはよく附けた。」
「で、こんなのをあなたに描いて差上げませうか?」
「”Cui bono?”(それが、何の役に立つでせう?)いや、それには及びません。」
彼は、私が繪を描くときに、ボール紙を汚さないやうに、 私の手置きにしなれてゐた一杯の薄紙をその繪に被せた。この白紙の上に、 ふと彼が認めたのは何んであつたか、私には分らない。 しかし、何かゞ、彼の眼を捉へた。彼は、ひつたくるやうにその紙を取り上げた。 彼はその端を眺めた。それから、何んとも知れぬ、竒妙な、まつたくわけの分らぬ一瞥を私に投げた。 それは、私の姿と顏と着物のいつさいの點を注意して見逃さない一瞥であつた。 と云ふのは、稻妻のやうに素早く、鋭く、その一瞥は、それらいつさいの點を横切つたのだ。 彼の唇は物を云ふやうに開いたが、彼は何んだか出かゝつた言葉を止めて了つた。
「どうかなさいましたの?」と私は訊いた。
「いや何でもありません。」と答へた。そして、その紙をもとへ戻しながら、 巧みにその端の方を細長く裂いて取つたのを私は見た。 それは彼の手袋の中に消えた。さうして、そゝくさと會釋して「さよなら」を云つて、彼は消えた。
「これは!」と私は、この地方の口吻で叫んだ。「地球儀の帽子だ(何のことやらさつぱり分らぬ)。」
私も私で、その紙を調べた。何もなくて私の鉛筆の色を試めした繪具の汚れが少しあるきりだつた。 私は、一二分、その祕密を考へた。だが、分らないので、また大したことでないと信じたので、 その儘、氣にかけず、やがて忘れて了つた。
セント・ジョン氏が歸つた頃、ちらほら雪が降りはじめた。渦卷く嵐が一晩中つゞいた。
翌日になると刺すやうな風が新たな、眼を眩ませるやうな降雪をもたらした。
暮方迄には、谷は埋り、人通りも殆んど難かしかつた。私は鎧戸を締め、 雪が吹き込まないやうに
陽は沈みぬ、ノラム城の絶壁に
廣く深きトウォードの美しき流れに
またいちつゞくチェヴィアトの山々に。
そゝり立つ塔、天守の砦
そを繞 る石壁らみな
黄金 なす光を浴びぬ。
物音が聞えた。風で戸がかたつくのだと、私は思つた。否、外の凍てつくやうな風 -- 吠え猛ける暗黒 --
の中から、
「何か大變なことでもありましたの?」私は訊ねた。「何か起りましたの?」
「いや。だが、何でもないことに、すぐ驚きますね。」と答へて、彼は、外套を脱いで、扉に掛けると、
這入つたときに亂した
「綺麗な床を汚しますよ。」と彼は云つた。「だが、まあ、今晩だけは勘辨して下さい。」
そこで、彼は火に近づいた。「どうも、此處まで來るのは、ほんたうに大變でしたよ。」
と焔に上に手を
「でも、どうしてゐらしつたのですか?」私は訊かないではゐられなかつた。
「お客さまに向つて、少し無愛想な御質問ですね。お訊ねとあればお答へしませう。
なに、たゞ少しばかり、あなたとお喋りがしたかつたのです。僕は物を云はない書物や、
空つぽな部屋に飽きました。それに、昨日から、僕は、話を半分聽いて、
その成行を聞きたくて仕方のない人の、いら〜した氣分を味ひました。」彼は腰を下した。
私は、昨日の彼の變な動作を思ひ出して、彼が氣が變になつたのではないかと、
本氣で心配になつて來た。だが、さうだとすれば、彼は餘りに冷靜な狂氣であつた。
私は、今見る彼が雪に濡れた髮を額から拂ひのけて、その蒼白な面を爐の火に照らすまゝにしたとき程、
彼の端麗な顏を大理石の彫像そのまゝだと思つたことはなかつた。
そこには、私にも氣づかれるほどのはつきりした煩勞や悲しみに
「ダイアナかメァリーかゞ、あなたと御一緒にお暮しになる方がよくはないのでせうか。 獨りぽつちでゐらつしやらなくてはならないなんて、本當にいけないと思ひますわ。 それにあなたは、御自分の健康といふことには、まるつきり向う見ずでお構ひにならないから。」
「そんなことはありませんよ。僕は、必要なときには、自分で面倒を見ます。 今は工合がいゝんですよ。何處かゞ惡いやうに見えますか?」
彼は、氣のないうつかりした無關心な樣子で、この言葉を口にした。 その樣子で見ると、私の心配は少くとも彼の考へではまつたく餘計なものだつた。私は默つた。
彼は、まだ上唇を靜かに指で撫でゝゐた。そして、その眼も、依然として夢みるやうに爐の火格子を見守つてゐた。
早く何か云はなければと氣を焦つて、私は、彼の後の
「いや、いや。」彼はぶつきらぼうに、幾らか腹立たしげに答へた。
「さうですか。」と私は云ひ返へした。「お話がお嫌なら、默つてゐらつしやいまし。 私も失禮して本を讀むことにしますから。」
で、私は蝋燭の芯を
「この頃ダイアナとメァリーからお便りがありまして?」
「一週間前にお目にかけたあれつきりです。」
「あなたの御準備に、何もお變りはないのでせう?思つてゐらしつたよりも早く、 英國をお發ちになる命令が來るやうなことはお有りになりませんの?」
「さあ、ないと思ひますね。そんな機會は僕に來るには好過ぎますから。」
これでは駄目と見て、私は、話題を變へた -- そして學校だの生徒だのゝことを話さうと考へた。
「メァリー・ガレットのお母さんが、ずつとよくなつたさうで、メァリーは、今朝學校に歸つて參りました。 それから、來週にはファウンドリ・クロオズから、新入生が四人來る筈ですの -- 雪がなかつたら、今日來たでせう。」
「ほゝう!」
「オリヴァさんが、二人分だけ、お引き受け下さるんですつて。」
「はゝあ。」
「それに、クリスマスには、學校中みんなに御馳走して下さるさうですの。」
「さうださうですね。」
「あなたのお考へでしたの?」
「いや、僕ぢやありません。」
「では
「お孃さんでせう。」
「あの方らしいこと、ほんとに優しい方ですものね。」
「えゝ。」
再び空虚な沈默。時計が八時を打つた。その音に、我に歸つて、 彼は、組合はせてゐた足を揃へ、眞直に坐りなほすと、私の方を向いた。
「ちよつと本を置いて、もう少し火の側へいらつしやい。」と彼は云つた。
「半時間前、僕はお話の續きを聞きたくてたまらないのだと云ひましたね。 所が考へて見ると僕が話し手になつて、あなたに聽手になつて戴く方が好都合だと思ふのです。 話す前に、この話があなたの耳には、多少陳腐に響くだらうといふことを申上げて置く方がいゝでせう。 しかし陳腐な物語も、新しい唇を通ると、幾分清新さを取返すことがよくありますね。 その他の點では、平凡にしろ、珍らしいにしろ、話は短いのです。
「廿年前のことですが、或る貧乏な牧師補が -- 今のところ名前はどうでもいゝのです --
或る富豪の令孃を戀しました。令孃も彼を愛して友人逹の忠告にも耳をかさず、彼と結婚しました。
その結果、結婚式が了ると直ぐ、彼女はその連中から絶交されてしまつたのです。
三年と經たぬうちに、この輕はずみな夫婦は二人共死に、靜かに並んで一つの墓に横はりました。
(私は二人の墓を見ましたが、すゝけた古い僧院のだゝつ廣い墓地の片隅に、
敷石になつてゐました。)後には、女の子が唯一人殘されました。で、その子は生れたその日に、 『
「リヴァズさん!」私は遮つた。
「分りますよ、あなたの氣持は。」彼は云つた。「だが、もう少し我慢して下さい。もう直ぐだから、 お終ひまで聞いて下さい。ロチスター氏の性格に就いては、僕は何も知りません。 が、一つだけ知つてゐる事實があります。彼が、この若い娘に結婚を申し込み、 しかもその娘は神聖な祭壇の前で、彼がもう妻をもつてをり、 しかもその妻は氣が狂つたまゝ今に生きながらへてゐるといふことを發見した、といふことです。 その後、彼が如何に行動したか、またどんな申し出をしたか、それは全然臆測するより仕方のない問題ですが、 あう事件が起つて、その家庭教師の行方を探索する必要が出來たときにはもう、 彼女は其處にはゐないと分つたのです -- 何時、何處へ、どうして行つてしまつたか誰も知りませんでした。 彼女は、夜の中にソーンフィールド莊を發つたのです。搜索は總て徒勞に終りました。 國中殘る隈なく探しても、一片の手掛りも得られなかつた。 しかし彼女を是非とも探し出さねばならないといふことは、非常に重大な、 緊急なことになつて來たので、全國の新聞に廣告されました。 私もブリッグスといふ辯護士から、今お話した一部始終を知らせた手紙が來たのです。 ねえ、不思議な話ぢやありませんか。」
「これを教へて下さい。そこまで御存知ならきつと話して戴けることなんです -- ロチスターさんのことです。あの人は何處にゐます?どうしてゐます?何をしてゐるのでせう? 變りはないのでせうか?」
「ロチスターさんのことは一切知りません。その手紙にも、今僕がお話した、不正な、 不法な企みの外には一言も云つてありませんでした。それよりもあなたには、 その家庭教師の名前と -- 彼女の住所を探し求めてゐる事件の性質を訊かねばなりません。」
「では、誰もソーンフィールド莊には行かなかつたのですか?誰もロチスターさんに會はないんですか?」
「恐らく會ひますまい。」
「だつて、あの方に誰か問ひ合せたのでせう?」
「勿論です。」
「ぢや、何と云つて來ましたの?その手紙は誰が持つてゐます?」
「ブリッグスさんの話では、手紙の返事はロチスターさんからではなくて、 婦人の手でアリス・フェアファックスと署名してあつたさうです。」
私はぞつとして、思ひ惑つた。では、私の一等
「どうもよくない人に違ひないと思ひますね。」とリヴァズ氏は云つた。
「あなたは、あの人を御存知ないのです -- あの人のことを何も仰しやつてはいけませんわ。」私は穩かに云つた。
「御尤もです。」と彼は靜かに答へた。「それに實は、今僕の頭はロチスターさんよりも外のことで一ぱいなんです。 僕は、自分の話に結末をつけなくてはならない。あなたがその家庭教師の名前をお訊きにならないとすれば、 僕は自分で云ふより仕方がない -- 待つて下さい -- 此處にあるのです -- いつも思ふのですが、 重要な個所が書類に綺麗に書きつけられてあるのを見るのは好いものです。」
「そして、あのポケット・ブックがまた丁寧に取り出され、開かれ、
「ブリッグスは僕にジエィン・エアのことを書いて來ました。廣告にはジエィン・エアと指名してあるのです。 僕はジエィン・エリオットならば知つてゐました。 -- 白状しますが、僕は疑つたのです。 所がほんの昨日の午後のことですが、疑問は氷解して確信になりました。どう、この名前をとつて、 假名を捨てますか?」
「えゝ -- えゝ -- ですけれど、ブリッグスさんは何處にゐらつしやるのですか。 その方ならば、あなたよりも、ロチスターさんのことをよく御存知ぢやないでせうか。」
「ブリッグスは倫敦にゐます。さあ、ロチスターさんのことを何か知つてゐるかしら。 あの人が知りたいのは、ロチスター氏のことではないんです。 それにあなたは枝葉の方ばかり氣にして大事な本文を忘れてゐるぢやありませんか。 あなたは何故ブリッグスがあなたを探してゐるか -- あなたに何の用があるのかといふことを氣にかけないのですね。」
「さう、ぢあ、何の用なのでせう?」
「單にあなたの伯父さんであるマデイラのエア氏が亡くなられたといふことゝ、 彼が財産全部をあなたの遺した、そしてあなたは現在金持だ、といふこと -- たゞそれつきりです -- 他には何にもありません。」
「私が!私がお金持?」
「さうです、あなたがです -- あなたが相續人なのです。」沈默が後に續いた。
「あなたは勿論あなたの人違ひでないことを證明しなければいけないのですが、 それは別に難かしい仕事ぢやない。」セント・ジョンは直ぐに語をついだ。 「そこであなたは直ぐさま財産を受け繼げます。財産は皆英國の公債に委任してあるのです。 遺言書と必要な書類はブリッグスが持つてゐます。」
此處に新しいカアドがめくられた!讀者よ、一瞬の間に貧窮から富貴に上げられるとは何と素晴らしいことであらう。 けれども、それが直ぐに腑に落ち、必然的に嬉しい氣持になれるかといふとさうではない。 そして、人生にはもつと他に遙かに心をときめかす、遙かに魂を奪ひ去られる機會がいくつもあるのだ。 これこそは、嚴とした現實社會の出來事であつて、それには空想的な何者もない。 その聯想は總て嚴としてをり、眞面目である。その表示も亦同樣に。 人は自分が財産を得たと聞いて飛び上り跳ねまはり快哉を叫びはしない。 人は責任を感じ仕事を考へ始める。確とした滿足感の上にある冗談氣のない深い心配が湧き上る -- そして人々は自分を制して、眞面目に眉をひそめて、その祝福に思ひをめぐらすのである。
それのみならず、遺産だの形見だのといふ言葉は、死、葬式などの言葉と並んで行く。 前から聞いてゐた私の伯父は -- 私のたゞ一人の親戚は、死んでしまつた。彼の存在を知つて以來、 私は何時かは彼に會ふといふ望を大事に守つて來た。だが今はそれも許されない。そして、 この金は私きりにもたらされた。私と大喜びの私の家族とにではなく、たつた獨りぽつちの私に。 確かにそれは素晴らしい恩典だ、そして獨りで立つて行くことは、輝やかな喜ばしいことだらう -- さうだ、私はそれを感じた -- その想ひは私の胸を膨らませた。
「やうやく、眉根を開きましたね。」リヴァズ氏が云つた。
「僕はメデュサがあなたを
「どれ位ですの?」
「いやほんのぽつちりです。お話しする程のこともありません -- 二萬
「二萬磅ですつて?」
此處にまた新らしく素晴らしいことがあつた -- 私は四五千磅だと思つてをたのである。
この
「いや、假にあなたが人殺しをしてそれが露見したとあなたに知らしても、 それ以上びつくりした顏付にはならないでせうよ。」
「あんまり大金ですから -- 何かの間違ひだとお思ひになりません?」
「たぶん、あなたは、數字をお讀み違へになつたのでせう -- 二千磅ですわ!」
「數字ではなく文字で書いてあるのです -- 二萬磅と。」
また私は、たつた一人で普通の食慾を持つて百人前の御馳走の
「こんなひどい夜でなければ、ハナァをお相手に寄越して上げるのですが。 あなたを一人つきりで置いて行くのはあんまり可哀相な氣がしますよ。 ですが、ハナァではとても僕のやうにこの雪を越へる力はないでせう -- 彼女の脛はそんなに長くはありませんからね。僕は、あなたの悲しみにあなたを、殘してさへ行くより仕方がない。 では、お休みなさい。」
彼は
「ちよつとお待ちになつて!」と私は叫んだ。
「何です?」
「私、何故ブリッグス氏が私のことをあなたに書いてお寄越しになつたか伺ひたいのです。 何故あの方はあなたを御存知なのだか、そして、どうしてこんな田舎にゐらつしやるあなたが、 私を見附けるのに力になるとお思ひになつたのかゞ。」
「そりやあ、僕は牧師ですよ。」と彼は云つた。「牧師といふ奴は、
「いゝえ、それでは私、安心出來ませんわ!」と私は叫んだ。確かに、何かゞそのせき込んだ説明を避けた答の内にあつた。 私の好竒心を鎭める代りに煽り立てるやうな何かゞ。
「まつたく不思議なことなんですもの。どうしてもそれについて、私、もつと知りたいのです。」
「また何時か。」
「いゝえ、今晩 -- 今晩!」そして彼が
「すつかり話して下さるまでは決してお歸しゝませんわ。」私は云つた。
「どうも今はお話しゝたくないんです。」
「話して下さい! -- 話さなきやいけません。」
「僕はダイアナかメァリーかゞお話しする方がいゝと思ふのですがね。」
勿論、これ等の反對は、私の熱心さを極點迄そゝり立てた。 しかも、すぐさま、それを滿足されなくてはならない、そこで、私は彼に云つた。
「しかし僕が
「ぢあ、私は
「それでは、」彼は追ひかけて、「僕は冷やかな男ですよ、どんな熱情にも動かされない。」
「ところが私は熱いんです、そして火は氷を溶かしてしまひますわ。 あの火はあなたの外套の雪をすつかり溶かしたぢやありませんか。 その證據に、床がビショ〜になつて、まるで踏みつけられた往來のやうですわ。 ねえ、リヴァズさん、砂を撒いたお勝手を汚した大罪と、不始末を許して欲しいとお思ひになるのなら、 私の知りたがつてゐることをお話しになつて下さい。」
「では、」と、彼は云つた。「あなたの熱心さに對してゞはないとしても、
あなたの忍耐に對して僕は降參しますよ。絶え間のない
「勿論です、それはもう、すつかり、決つてゐますわ。」
「僕があなたと同姓であることには、多分氣が附かなかつたでせう? -- 僕がセント・ジョン・エア・リヴァズだといふことは?」
「まあ、ちつとも。さう云へば私、あなたに時々拜借した御本に、Eつて頭文字があつたことを覺えてゐますわ。 でも、一度も何てお名前の頭文字か伺はなかつたのです。ぢや、しれでどうなんですの?きつと -- 」
私は止めてしまつた。私に襲ひかゝつた考へを -- 形を表はし、見る間に強い確實な可能性を具へて來た考へを、 懷かうとする自分を信じなかつた。まして、云ひ表はすことなど。 -- いろ〜な事情が結合し、 適合し、秩序的となり、これまで形を成さぬ多くの環の堆積と見えた鎖が、眞直に引き伸ばされて、 各々の環が完全になり聯絡が完成されたのだ。私は、セント・ジョンが次に言葉を出す前に、 事がどうなつてゐるかを直感で知つた。しかし同じ直感的な理解を讀者に期待することは出來ないから、 もう一度彼の説明を繰り返さねばならない。
「僕の母の名はエアでした。母は兄弟が二人あつて、一人は牧師で、ゲィツヘッドのジエィン・リード孃と結婚し、
もう一人のジョン・エア氏は既に死んでゐたマデイラのフアンシヤルにゐた商人です。
ブリッグス氏は、エア氏の代理人だつたので、この八月に伯父の死をわれ〜に知らせて呉れました。
そして、伯父がその遺産を牧師であつた弟の
「私に云はせて下さい!少しの間息をつかして下さい。考へさせて下さい。」私は休んだ -- 彼は帽子を手に、十分に落着いた樣子で私の前に立つてゐる。私は云つた --
「あなたのお母さまは私のお父さまの姉さまでしたのね。」
「さうです。」
「つまり、私の伯母さまでせう?」
彼はうなづいた。
「私のジョン伯父さまは、あなたのジョン伯父さまなんでせう?あなたとダイアナとメァリーは、 ジョン伯父さまの姉さまの子供で、私はジョン伯父さまの弟の子供ですわね。」
「否定出來ないことです。」
「では、あなた方は、三人とも、私の從兄姉でゐらつしやるのですね。 私たちお互の血の半分は、一つの源から流れて來てるのですね?」
「僕等は從兄妹同志です。さうです。」
私は彼を眺めて、兄さんを探し出したやうな氣持がした -- 誇つていゝ、愛していゝ兄を -- そして二人の姉を。
その人逹の心は、私が見知らぬ他人として近づいた時にも生來の愛情と尊敬で私を感動させてしまつた程であつた。
あの濡れた土に跪いて、ムア・ハウスの臺所の低い格子窓から、
私が好竒心と絶望の入り交つた辛い氣持でじつと
「あゝ、嬉しいわ -- 嬉しいわ!」私は叫んだ。
セント・ジョンは微笑んだ。「僕は、あなたが枝葉を追つて、大本を忘れると云ひませnでしたつけね?」 と彼は訊ねた。「財産を貰つたと云つたときにはあなたは、大眞面目で、そして今、何でもないつまらぬことに昂奮するんだ。」
「まあ、何んてことを仰しやるのでせう。それはあなたには詰まらないことかも知れませんわ。 あなたにはお妹さんがお有りになるんです。だから、從妹の一人なんぞ、 どうでもいゝとお思ひになるでせうけれど、私には今迄誰もなかつたのです。 それに今、三人 -- 若しあなたがその中にお這入りになりたくなければ二人、親類が、 大人の姿で私の世界に生れて來たのですもの。私はもう一度云ひますわ、私には嬉しくて堪りませんわ。」
私は部屋の中を足早やに歩いた。そしてまた立止つた。私が受け入れ、理解し、 思ひ定めることの出來ない程高遠な思案に半ば窒息して。
-- 如何にするか、爲し得るか、爲したいと望むか、また、爲すべきかといふ思案、しかも、
そこに迫つてゐる。私は白い壁を眺めた、それはのぼりつゝある星屑で深く見える空のやうに思はれた --
一つ〜の星は、志ざす方へ、また歡びへ、私を照した。私の生命を救つて呉れた人逹を、
今迄はたゞ空しく愛してゐたが、これからは都合よく計つて上げられるのだ。
あの人たちは
かうした考へが嵐のやうに私の魂を襲つてゐたときに、私が、どんな樣子をしてゐたか私は知らない。 しかし間もなく私は、リヴァズ氏が椅子を私の後に運んで靜かに私を坐らせようと試みてゐるのに氣が附いた。 彼は、また、私に落着いてくれるやうにと云つた。私は自分の意氣地のなさと亂れた樣子に對するその當てこすりに耳もかさず、 彼の手を拂ひ、また歩きはじめた。
「明日ダイアナとメァリーにお手紙を書いて下さい。」私は云つた。 「そして直ぐお歸りになるやうにと仰しやつて下さい。 ダイアナは一千磅あれば二人共お金持だと思へるといつか仰しやつたんですから、 五千磅でならきつと滿足して下さいます。」
「あなたに水を汲んで來て上げられるか、教へて下さい。」セント・ジョンが云ふ、 「本當に氣を鎭めなくつちやいけません。」
「何を仰しやるんでせう!一體その遺産がどんな影響をあなたに與へるとお思ひになりますの? それがあなたを英國に引き止めるでせうか。あなたをオリヴァ孃と無理に結婚さして、 俗人並に落着かせてしまふでせうか。」
「あなたは狂つてますよ。あなたの頭は亂れてしまつてる。僕が遠慮なしにこんな
「リヴァズさん!私は本當にぢれつたい。私は十分に理性があります。誤解してゐらつしやるのは、 それとも誤解したふりをしてゐらつしやるのは、あなたですわ。」
「もう少し詳しくあなたの考へを説明して下されば、多分僕にも、もつとよく理解されるかも知れません。」
「説明ですつて!何を説明するのですか。問題の二萬磅を私逹の伯父さまの一人の甥と三人の姪たちに同じやうに分配すれば、 一人が五千磅づゝになるといふことがわからないとは仰しやれませんよ。 私のして戴きたいことはお妹さん方にお手紙をお上げになつて、 あの方たちに出來た財産のことを仰しやつて下さることですわ。」
「あなたに、でせう。」
「私はたゞそれについての自分の意見を申上げたのです。私には他に考へられないんです。
私は
「このことは最初の衝動で爲されてゐるのです。だから、 あなたの言葉が確實なものとして顧みられる爲めには、 こんなことは數日考へなければいけません。」
「あゝ!私の眞心を疑はしくお思ひになるきりの事なら、私は安心しますわ。事の正當さはお認めになるのでせう?」
「確かな正しさを認めます。しかしそれは世の中のすべての習慣に逆ふものです。 その上、全財産はあなたの權利です。僕の伯父はそれを自ら額に汗して得たのです。 それを誰に讓らうかは彼の自由です。それであなたに讓つたのです。結局のところ、 正義はあなたにその所有を許してゐるのだから、 あなたは曇りのない良心に於て、絶對にあなたのものだと考へていゝのです。」
私は云つた。「私にとつては、良心の問題であると同時に感情の問題なんです。
私は私の感情の云ふまゝにしなければならないのです。私には、さうする機會はこれ迄、
殆んどなかつたのですもの。若しかあなたがさうやつて一年間に議論だの反對だので私をお困らせになつても、
私は一度ちらと見た世にも樂しい
「あなたが今さう考へるのは、」セント・ジョンは答へた。「所有するとは、 從つて富を享樂するとは、どういふことか知らないからです。二萬磅があなたに提供する重大な意味を知らないからです、 それが世の中であなたをどんな地位に置き、どんな前途を拓くかを知らないからです。 あなたはその金が -- 」
「では、あなたは、」と遮つて、私は叫んだ。「兄弟や姉妹の愛に對する私の願望を、 少しも思つては下さらないのです。私は今迄家といふものを持つたことがありません、 兄弟や姉妹を持つたこともありません。今度こそは、それを持ちたい、 持つことが出來ると思ふのです。あなた方は私を認めて受け入れて下さらないのですか?」
「僕はあなたの兄になつて上げます、ジエィン -- 妹逹はあなたの姉になるでせう -- だが、あなたの正當な權利を犧牲にすることを條件とせずに。」
「兄さんですつて?えゝ、さうです、千里も離れて暮す兄さん!姉さん逹ですつて?
えゝ、さうよ、見も知らぬ他人の中で苦勞してゐる姉さん逹!私は -- 自分が働いて儲けたのでも、 受ける權利があるのでもないお金を貪つて
-- お金持で、あなた方は文無し。 素晴らしい平と友愛、何といふ堅い結びつき、何といふ
「だが、ジエィン、あなたがもし、家族の係累や家庭的の幸福を欲しいと思ふのだつたら、 今、あなたが考へてゐるより外の方法で、實現させられるんです。 あなたは結婚すればいゝでせう。」
「またそんなことを仰しやつて!結婚ですつて!私結婚したくはありません、決してしませんわ。」
「それは少し云ひ過ぎるでせう。そんな極端な斷言が、その爲めにあなたが苦しんでゐる昂奮の證據なのだ。」
「云ひ過ぎぢやないんです。私には自分の氣持が分るんですもの。
それに結婚といふむきつけな考への私の氣持が、どんなに忌はしいかを知つてゐます。
誰も私を愛してはくれないでせうし、單に、金儲けといふ意味では、 私は顧みられないでせう。それに私は他人なんて --
自分とはまつたく縁のない、 同情もない他人なんて欲しくありません。私は、
「云つて上げてもいゝ。僕はいつも妹たちを愛してゐたのを知つてゐる、 そして私の彼等に對する愛情が何に基いてゐたかを知つてゐる -- 彼等の價値に對する尊敬と才能に對する嘆賞に基いてゐるのです。 あなたもまた定見と信念を持つてゐる。あなたの趣味や習慣はダイアナやメァリーのと似通つてゐる上に、 僕はあなたの側にゐるといつも愉快です。今迄にも度々あつたことですが、 僕はあなたとの會話の中に、これ迄いつも、有益な慰安を見つけました。 僕は、僕の三番目の一等年下の妹として、心安く自然にあなたを受け入れることが出來ると思ひますよ。」
「有難う。それで今夜は安心しましたわ。さあもうお歸りになつた方がようございますわ。 だつて、もう暫くおゐでになれば、また何か疑ひ深い遠慮で、新らしく、 私をいら〜おさせにならないとも限らないのですもの。」
「ぢや、學校の方はどうします?もう閉鎖した方がよくはないですか?」
「いゝえ。私、あなたの代りの方がいらつしやるまでは仕事を續けませう。」
彼は微笑んで
その後、私が願つた通りに遺産を處理することに、私がどれほど爭ひを續け議論を繰り返したを詳しく語る必要はない。
私の仕事は非常に困難なものであつた。しかし私は堅く決心してゐたので -- 私の從兄姉たちはとう〜、
私がたゞ財産を分けるといふことのみに、眞實變ることなく心を決めたのを合點したので --
また彼等自身の心にも、その計畫の公平を感じさせられたばかりでなく、若し私の位置にあれば、
彼等も明らかに私が望んだ通りのことをするに違ひないと、自然に氣附いたので --
彼等も遂に、事を仲裁々判の手に委ねようといふ所まで讓歩した。
裁判官に選ばれたのはオリヴァ氏と或る才幹ある法律家で、二人共に私の意見に同意し、
私は目的を逹したのである。
すべてのことがすつかり片附いたときには、クリスマスも近づいてゐた。
みんなのお休みの季節が近づいてゐた。私は愈々モオトンの學校を閉鎖した、 その別れが私には、普通でないだらうとと、注意しながら。幸運は、
その手を心と同じやうに不思議なほどに開くものだ。そして私たちが、それを澤山
リヴァズ氏が來た -- そのとき私は、今は六十人の娘逹からなつてゐるクラスが私の前を出て行くのを見送つて、
「どうです、骨折甲斐があつたと云ふ氣はしませんか。」彼等が行つて了ふと、リヴァズ氏は問ひかけた。 「自分の若い時分に、何でも眞實に善いことをしたといふ意識を持つのは愉快でせう?」
「無論ですわ。」
「それにあなたは、たつた二三ヶ月働いたばかりだ!第二の國民を作り上げる仕事に捧げる生活は、 生甲斐のありものぢやないか知ら。」
「えゝ。」と私は云つた。「ですけれど、私はいつまでもさうしてはをられませんわ。 他人の才能を磨いて上げると同じやうに、私自身の才能も使つてみたいんですもの。 今こそ、それらを、樂しまねばなりません。私の心も身體も、どちらも學校をお呼び戻しになつては嫌や。 學校のことはもう澤山、私はお休みのことを考へてゐるんです。」
彼は眞面目な顏をした。「今こそつて何です?一體何にさう急に熱心になり出したんです? 何をしようとと云ふんです?」
「働きますの、出來るだけ。それで第一にお願ひしなければなりませんわ、ハナァに暫くお暇を遣つて戴きたいんです。 そして、あなたは、誰か他の人をお雇ひになつて下さいな。」
「
「えゝ、私と一緒に、ムア・ハウスへ行つて貰ひませうと思つて。ダイアナとメァリーはもう一週間すれば歸つて來ます。 ですから、あの人逹をお迎へするのにいろ〜なことをすつかりして置きたいんです。」
「あ、さうですか。僕はまたあなたが何處か旅行に飛び出すのかと思つた。それは結構です。 ハナァはあなたの所へ上げませう。」
「では、明日までに支度をするやうに、ハナァに仰しやつて下さいまし。それからこれが教室の鍵。 私の家のは朝、お渡ししませう。」
彼は鍵を受け取つた。「大喜びで返しますね。何故さう浮々してゐるのだか僕にはよく分らない。
何故つて
「私の目的は先づ第一に綺麗にして了ふことでせうね、(その言葉の意味が完全にお分りになつて?)
ムア・ハウスの床から天井まで、すつかりお掃除をすること。その次には蜜蝋と油と布を澤山使つて前のやうに光る迄磨くこと。
三番目には椅子も
セント・ジョンは一寸笑ひを浮べた。彼はまだ滿足してゐなかつた。彼は云つた。
「今の所はそれで大變に結構です。しかし眞面目にですよ、最初の火花のやうな浮々した氣持が消えて了へば、 あなたは家庭的な仕事だの所帶染みた喜びなんぞより、少し高いところに眼をつける人だらうと僕は信じるのだが。」
「だつて、それが世の中で一等いゝことですわ!」遮つて私は云つた。
「いや、さうぢやない、ジエィン。この世は逹成の世界ではないのです。
そんな風に考へを
「それ處か、私は忙しくならうと云ふんですわ。」
「ジエィン、僕は、今は、あなたを許してあげる。僕は、あなたが新しい地位を樂しみ、
今頃になつてやつと見出されたこの親類關係の喜ばしさを味はふ爲めに、二ヶ月の猶豫を許して上げる。
が、しかし、それが過ぎたらあなたはムア・ハウスやモオトンから、また姉妹らしい
私は驚いて彼の顏を見た。「セント・ジョン。」と私は云つた。「私、 あなたが意地惡くさう仰しやるとしか思へませんわ。私は女王のやうに滿足してゐたいのに、 あなたは無理に私をおじらしになるんですもの。一體どうなさらうと仰しやるの?」
「神があなたに委し給ふた才能、それは何時かはきつとその嚴正な決算を要求し給ふに違ひない才能、
それを有益なものに向け變へようと云ふのです。ジエィン、僕はあなたを細密に、嚴重に見張らうと思ふ --
そのことを忠告して置きますよ。だからあなたが平凡な家庭的な喜びに夢中になつてゐる、
その不釣合な熱情を努めて抑へるやうになさい。さう粘りつよく、血縁に係つてゐてはいけません。
あなたの
「えゝ、さつぱりまるで希臘語をお話しになつてゞもゐらつしやるやうにね。 私は幸福になる爲めに相當な理由を持つてゐますわ。そして、幸福になる積りですわ。さやうなら!」
ムア・ハウスでは私は幸福なつた。そして私は、一生懸命に働いた。ハナァも働いた、
私が目茶苦茶に散らかされた家の中を、喜ばしさうに駈け廻り、塵を拂つたち、ブラッシュをかけたり、
掃除したり、料理したりして、樂しげに働くのを見て、ハナァは魅せられて了つた。そして實際、
途轍もなく忙しい一日二日の後に、私逹が自分で釀した混沌の中から段々と秩序を見附け出して來るのは樂しいことであつた。
室の模樣變へを私の好きなやうにするのに、從兄は私に絶對の
暗い色の綺麗な新しい敷物と窓掛、心して選んだ陶噐と青銅の古風な置物、眞新しい被覆、鏡、
化粧臺の
とう〜多事な木曜日はやつて來た。彼女逹の着くのは暗くなる頃の筈だつた。そしてもう、 暮れない内から二階にも階下にも明々と燈が點された。臺所は手落ちなく綺麗に整頓された。 ハナァも私も着物を着換へた、用意はまつたく出來上つてゐた。
セント・ジョンが第一にやつて來た。私はすつかり
この沈默は私をがつかりさせた。私は模樣變へをしたことが、 何か彼の大事に思つてゐた古い思ひ出を壞して了つたのか知らと考へたので、 さうぢやなかつたかと訊ねてみた。確かに些か悄氣た調子で。
「いや、
私は本棚の上の書物を彼に見せた。彼はそれを取り上げて、いつも坐り慣れた窓の張出しへ腰掛けて讀み出した。
扨て讀者よ、私はかうしたことが嫌でならなかつた。セント・ジョンは善良な人ではあつた。
けれども私は彼が自分は氣難かしやで冷たいと云つたときに、彼自身に就いて眞實のことを云つたのだとしか思はれなくなつて來た。
人情と人の世の歡樂は、彼の心を少しも惹かない -- 人世の穩やかな慰樂も何の魅力もないのである。
文字通りにきつと彼は唯渇仰する爲めにのみしか生活してゐないのであつた --
確かに、
「この居間は彼が顏を出す場所ぢやない。」と私は思ひ返した。「ヒマラヤの頂か、カフアの叢林地、 ペストに呪はれたギニの海岸の沼地の方が、彼にはもつとよく似合ひさうだ。 家庭生活の靜穩さんどは早く見捨てることだ。家庭生活は彼の要素ではない。 彼の才能は家庭では縮かんで了ふ -- 發展もしなければ利益を得ることもないだらう。 先驅者として優者として、彼が語り、彼が活動するのは、爭鬪と危險の舞臺の上だ。 -- 其處では勇氣が證される。精力が振はれる、そして不屈の精神が鍛へられる。 この煖爐の側では、元氣な子供が彼に優るのだ。彼が宣教師の途を選んだのは正しいことなのだ -- 私は今それがわかります。」
「皆さんがお着きになりましたよ!お着きになりましたよ!」ハナァは居間の
二人はウヰトクロスからの
私は二階へ上らうと燭臺へ燈をつけたが、ダイアナは先づ馭者にお禮をやるやうにと親切に云ひつけて、
それが濟むと二人は私に從ひて來た。彼女等は自分逹の部屋がすつかり模樣が變り、新しい窓掛、おろし立ての敷物、
手の込んだ彩色をほどこした瀬戸物の花瓶などで飾られてあるのを見て心から感謝の情を表はした。
そして私の飾附けがぴつたりと彼等の希望に適つたのを感じて、また私のしたことが、
二人の樂しい歸省に
その夜は樂しかつた。私の從姉逹は嬉しさで一ぱいになつて、セント・ジョンの無口を壓倒する程、
雄辯に話したり論じたりした。彼は、妹逹に會つて心から嬉しかつたが、
二人が
「ハナァ、何處の家なんだい?」
「それが殆んど四哩も向うの、ウヰトクロス・ブラウのずつと上なんでございますよ。 そして、ずつと沼地や荒野だらけの道です。」
「行くからと云つてくれ。」
「まあ旦那樣、お止しになつた方がようございますよ。こんな眞暗になつてから行ける道ぢやございません、 沼地には道も何もないんでございますからね。それにこんなお寒い晩に -- 旦那樣も今迄御存じない位の甚い風でございますよ。明朝行くと云つてお遣りになつた方が宜しいです。」
けれども、彼は、もう外套をつけて廊下へ出てゐた。そして一言の云ひ返しも呟きもせず、
出掛けて行つた。そのときは九時であつたが、彼が歸つて來たのはもう眞夜中だつた。
彼はすつかりお腹を
私は、次のまる一週間が、彼を我慢し切れなくしはしまいかと心配した。それはクリスマスの週間であつた。
私逹は別に何の仕事も計畫せず、樂しい家庭の團欒にその週を送つた。
荒野の空氣と、家庭の自由さと、幸運の黎明とは、ダイアナとメァリーの魂に、
ある不思議な生命を與へる靈藥を投じたやうであつた。二人は朝から晝まで、晝から夜まで、快濶だつた。
何時でも喋つてゐた。そして議論は機智と才能と獨創に富んでゐて私を魅了して了つたので、
私は他のことは何もしないで二人の話を聞いたり、その中に交つたり許りしてゐた。
セント・ジョンは私逹の快濶さを叱りはしなかつたが、何時も逃げ出してゐた。
彼は
或朝、朝飯のとき、ダイアナは暫く考へ込んでゐたが、ジョンに「あの計畫はまだ變らないか?」を訊ねた。
「變つてゐない、また變へることも出來ない。」これが返事だつた。そして、 その上彼は來年英國から發つことは確定してゐると告げた。
「ぢや、ロザマンド・オリヴァは?」とメァリーが仄めかした。 この言葉は我にもあらずメァリーの唇から滑り出たらしかつた。 何故なら、メァリーはかう云ふや否や口にした言葉を呼び返さうとする身振りをしたから。 セント・ジョンは本を手にしてゐた -- 食事のときに本を讀むのは彼の非社交的な癖であつた -- 彼は本を閉ぢて顏を上げた。
「ロザマンド・オリヴァは、」彼は云つた。「グランビィ氏と結婚しようとしてゐる。S町に住んでゐる、
良い親戚のある立派な人だ。フレデリック・グランビィ從男爵の孫でその
彼の妹逹はお互に顏を見合せた。そして私の顏も見た。私逹三人は、彼の顏に見入つた。 彼は鏡のやうに、落着いてゐた。
「そのお話は隨分急にお決りになつたのね。あの方逹は知り合つてから未ださう長くはない筈だわ。」 とダイアナが云つた。
「だが二ヶ月になるよ。十月にS町の舞踏會で會つたのだから。
しかしこの話には邪魔になるものは何にもないんだし、どの點から云つても、この縁談は
この話があつてから、私はジョンが獨りでゐるのを見た時、この事件が彼を惱ましてはゐないかと訊ねてみたい氣になつた。
けれども彼はそんなことに少しも同情などは要らないと云つた風に見えた。それで私は何時かの自分の行爲を思ひ出して、
同情を彼に寄せようとしたのを恥かしいとさへ思つた。その上私は彼に言葉をかけ慣れてゐなかつた。
彼の
かうした場合であつたが、突然彼が
「ねえ、ジエィン、戰は鬪はれた、そして勝利は贏ち得られたのですね。」
かう云はれて驚いた私は直ぐに返事が出來なかつた。暫く
「けれど、きつと、さうなんですの?勝ちはしたものゝ、 その勝利に餘りに甚い犧牲を拂はなくてなならなかつた征服者でゐらつしやるんぢやないでせうね。 このやうな勝利が、再びあれば、あなたは、身を滅ぼされてお了ひになりませんか。」
「さうぢやないやうです。又さうだつたとしても大した事ぢやない。僕は決してそんなものを相手にはしません。 兎に角爭鬪の結果は決定的なものです。今こそ僕の執るべき道が明らかになつた。 僕はそれを神に感謝してゐるのです。」
かう云ふと、彼はまた本を讀み始めて、沈默に歸つた。
私たちお互の樂しみ(ダイアナとメァリーと私との)の落着いた靜かなものになり、
私逹が平生通りの生活と規律正しい勉強に立返つたので、セント・ジョンも家にもつと落着くやうになつた。
時には幾時間も私逹と同じ部屋にゐることさへあつた。メァリーが繪を描き、ダイアナが計畫通り
(これは私を威嚇し
彼は、自分の坐りなれてゐる窓の凹みで、かうして勉強しながら、如何にも落着いて熱心に見えたが、
彼の碧い眼はその東洋語の竒異な文法からともすれば離れて、茫然とあたりを見廻し、
時々はお仲間の私逹の上を氣味が惡い程凝視してゐることが多かつた。
見咎められると直ぐに外すが、間もなくまた私逹の
「ジエィンは、お前逹が考へてゐるやうな弱蟲ぢやない。」と彼はよく云つた。 「嵐だの雨だの、ちつとばかしの雪なんぞ、僕等と同じやうに堪へ得るよ。 ジエィンの身體は丈夫だし耐久力もある -- 氣候の變化を耐へることでは、 もつと頑丈な身體の人間よりも、よく出來てゐるのだ。」
だから私が折々ぐつたり疲れて歸つたり、少からず雨風に惱まされて歸つたときでも、 不平の云ひやうもなかつた。ぶつ〜云つたりすれば、彼を怒らすことが分つてゐたから。 どんな場合でも困難に耐へることは彼を喜ばした。その反對は特に迷惑がられた。
けれども或日の午後、私は本當に風邪を引いてゐたので家に籠つてゐた。
彼の妹逹は私の代りにモオトンへ行つてゐた。私は坐つてシルレルを讀み、彼は例の晦澁な東洋の卷物を判讀してゐた。
譯讀を止して練習課題に變へた時、私は
「ジエィン、何をしてゐるのです?」
「獨逸語の勉強。」
「獨逸語なんて止めてヒンドスタンをやるといゝ。」
「眞面目で仰しやるんぢやないんでせう?」
「いや本當に眞面目に。是非さうして貰ひたいのです。そして私は何故だか申しませう。」
そこで彼は、彼自身今ヒンドスタンを勉強してゐるが、先に進むに從つて、前の方を忘れ勝だ。 で、要點を繰り返し繰り返し教へて、それを完全に暗記して了ふ爲めに、 生徒があれば本當に助かる、彼は私にしようか妹逹にしようかとこれ迄考へた。 けれども三人の内で私が一番この勉強に長く堪へるだらうと思つたから私に決めたのだ、と説明をつゞけた。 彼の云ふ通りになつて上げようかしら?彼が出發する迄には、多分三月位しかないのだから、 犧牲を拂ふのも長いことはあるまいと私は思つた。
セント・ジョンは、簡單に拒絶されるやうな人ではなかつた。
彼に印せられた印象は、すべて、苦痛にせよ歡喜にせよ、深く刻まれて永久的なものであつた。
私は承諾した。ダイアナとメァリーが歸つて來ると、 ダイアナは自分の生徒が兄の生徒になつて了つたと知つて
「知つてるよ。」
彼は實に辛抱強い、寛大な、それでゐて骨身を惜しまぬ教師だつた。
彼は私に非常に多くをなすやうに期待した。そして私が彼のお豫期をみたすと、
彼は彼で自分の逹眼を誇つてゐた。次第々々に彼は私に深い力を及ぼすやうになり、
私の心の自由迄も奪つて了つた。彼の賞讚と注意とは彼の無關心以上に私を牽制した。
私はもう彼が傍にゐると自由に笑つたり喋べつたりすることが出來なくなつた。
煩く
或る夜のこと、もう寢る時間であつた。彼の妹逹と私とは彼を取卷いてお休みの挨拶をした。
彼はいつもの通り妹逹に接吻して、それから矢張りいつもの通りに私に握手を與へた。すると、ちやうど、
「セント・ジョン!あなたいつもジエィンを三番目の妹だと云つてゐらつしやるぢやない、 それにちつともそんな風にはして上げないのね。ジエィンにも接吻して上げなくちや駄目だわ。」
ダイアナは私をジョンの方へ押しやつた。私はダイアナを隨分煽動的だと思つた。
そして不愉快に
私としては、もつとよく彼を喜ばしたい毎日思ふのであつたが、
さうすれば私は自分の性質を半分失はねばならないと毎日層一層と感じて來た。
私の才能の半ばを抑へつけ、私の趣味を元來の傾向から
けれども、そのとき私を束縛してゐたものは、唯彼の優勢ばかりではなかつた。
その頃、私が
讀者は、場面や身分の變化の爲めに私が、ロチスター氏を忘れてゐたとお思ひになるかも知れない。
が讀者よ、私は瞬時も忘れてはゐなかつた。彼の考は今も私と共にあつた。
何故なら、それは太陽が蒸發させて了へる水蒸氣でも、風が持つて行つて了へる砂で描かれた
彼がどうしてゐるのか知りたい、切な願ひは何處へでも私に附き纒つた。モオトンにゐたときは、 毎夕そのことを考へながら小さな家に歸るのだつた。今度ムア・ハウスへ來てからは毎晩私の寢室でそのことを思ひ耽つた。
遺言に關するブリッグス氏との必要な文信の中で、ロチスター氏の現住所か近況に就て何か御存知ではないかと訊ねてみたが、
セント・ジョンの推察の通りブリッグス氏は彼のことは何も知らなかつた。
それから私はフェアファックス夫人へ手紙を送つて、その
私はまた手紙を書いた。初めに出した手紙は途中で無くなつたかも知れないから。再度の努力に新しくされた希望が續いた。
最初のときと同じやうに、數週間はその希望は輝いてゐた。けれども同じやうに光薄れ色褪せて行つた。
一行も一言も私には屆かなかつた。若しやといふ
美しい春が私に周圍に輝いたが、私はそれを樂しむことは出來なかつた。夏が近づいた。
ダイアナは私を元氣づけようとした。私は何處か惡いやうに見える、一緒に海岸へ行かないかと云つてくれるのであつた。
これにセント・ジョンは反對した。彼は私が娯樂を欲しがつてはゐない、仕事を望んでゐるのだ、
私の現在の生活には餘りに
或日、私は、
セント・ジョンが、こつちに來てお讀みと聲をかけた。私は讀まうとしたけれど、
どうしても聲が出なかつた。言葉が
「ジエィン、あなたが落着くまで少し待ちませう。」そして私が急いで
「さあ、ジエィン、散歩にお出掛けなさい。僕と一緒に。」
「では、ダイアナとメァリーを呼びませう。」
「いや、今朝は一人しか
私は中庸といふことを知らない。私は生れてから、自分の性質と反對の、積極的な強い性格の人々との
微風が西から吹いてゐた。風はヒイスと燈心草の香で氣持よく丘を越へて吹いて來た。
空は曇りなく青かつた。先頃の春雨に、水量を増して山峽を下る小川は、澄明な見ずを漲らして、
太陽の金の輝きと大空の
「此處で休みませう。」一群の兵士のやうな岩の中の一つ孤立してゐる岩の側まで來た時に、 セント・ジョンが云つた。その岩々は山峽の小徑を護るやうに見え、小徑を越へて小河が一筋の瀧となつて落ちてゐた。 そこはほんの少し離れた所であつたが、山は芝生も花も脱ぎ捨てゝ、唯ヒイスを纏ひ岩の飾りをつけてゐるきりであつた -- 其處では野趣は野蠻に變じ、新鮮さを澁面に化してゐた -- 其處では山は孤獨の寂しい願と沈默に入る最後の隱家を護つてゐた。
私は腰を下ろした。セント・ジョンは私の側に立つた。私は峽道を見上げ谷間を見下ろした。
彼の
「私はかういふものを、また見るだらう。」聲高く彼は云つた。「サンジスの岸で眠るときに夢の裡で。 そして再びまたもつと先きになれば
-- 他の眠りが(死が)私を襲ふときに -- より暗い川の
不思議な愛の不思議な言葉!嚴肅な愛國者の祖國に對する熱情!彼は坐り込んだ。半時間の間私逹は口も利かなかつた。 彼は私に云ひかけず私も彼に物を云はなかつた。それが過ぎると彼は口を切つた --
「ジエィン、僕は六週間經てば出發しますよ、六月二十日に出帆する東印度貿易船に船室を取つたのです。」
「神さまが、あなたを護つて下さるでせ!あなたは神さまのお仕事をなさるんですから。」と私は答へた。
「さう、其處に僕の榮光と喜悦があります。僕は全能の主の
「みんなあなたのやうな力を持つてゐないのですわ。それに弱いものが強い人逹と並んで進みたいと願ふのは、 馬鹿なことですわ。」
「僕は弱者に對つて話してるんぢやない、またそんな奴等のことは考へてゐない。
僕は唯、この事業に
「そんな人逹は數も少いでせうし、また見附けるのも大變ですわね。」
「まつたくです。だが、見附けたときは、彼等をして立たしめて -- その
「でも、本當にその人逹に使命を受ける素養があれば、何よりも先に、 その人逹の心がさうと告げる筈ぢやないでせうか。」
私は、何か恐ろしい魔力が私の周りに燃え立つて、頭から蔽ひかゝつて來るやうな氣がした。 容赦なく咒文を結んで、釘づけにして了ふやうなある運命的な言葉を聞いて、私は身を顫はせた。
「では訊きますが、あなたの心は何と云つてゐます?」
「私の心は何も云ひません -- 何も云ひません -- 」驚いて、ぞつとして私は答へた。
「では僕が代りに云はなくちやならない。」深い嚴しい聲が續いて云ふ、 「ジエィン、僕と一緒に印度にいらつしやい。僕の助手として、僕の協働者としていらつしやい。」
谿谷と大空とがぐる〜廻つた。丘が盛り上つた!幻の使者、一人のマケドニア人が 「來たりて我等を助けよ!」とポオロに告げたやうに、私は天からの呼び聲を聞いたかと思つた。 しかし、私は使徒ではなかつた -- 私にはその使者を見ることは出來なかつた -- 彼の招きを受けることは出來なかつた。
「あゝ、セント・ジョン!堪忍して!」私は叫んだ。
私は自分の義務と信ずる所を行ふ外には、憐みも悔いも知らぬ男に對つて訴へた。彼は續けて云つた --
「神と自然はあなたを宣教師の妻たるべき人だと云ふ。個人的のことではない、 神と自然があなたに與へた天稟によつてゞす。あなたは戀愛の爲めに造られず、 勤勞の爲めに造られた人だ。宣教師の妻にあなたはならなければ -- いやならせて見せます。 あなたは僕のものになるのです。僕はあなたを要求する -- 僕の快樂の爲めではなく、 僕の天帝の使命の爲めにです。」
「私では駄目ですわ。私には天職なんてありはしないんですもの。」私は云つた。
彼はこんな最初の抗弁は、豫測してゐた。こんな言葉には
「謙讓はね、ジエィン、基督教の徳の根本のものです。あなたが任務に適つてゐないと云はれるのは正しいことだ。
しかし誰がそれに適ふと云へますか、 また嘗て事實天の聲を聞いた人の誰が一體そのお召しに適ひものだといふ自信を持ち得るでせう?
例へば僕などは
「宣教師の生活なんて私には分りませんわ、私、一度だつて宣教師の仕事を研究したことはないんですもの。」
「そりや僕だつて、僕はこの通りつまらない男だが、あなたの欲する位の助力は出來ます。
僕はあなたの仕事を毎時間毎時間決めることが出來ます、いつもあなたの傍に立つてゐて、
刻々あなたを助けることが出來る。初めの間は僕がさうやつて上げるが、
直ぐにあなたは(僕にはあなたの力が分つてゐるから)僕同樣に、強くそして
「ですけれど、私の力は -- それをやつて行く私の力は一體どこにあるのでせう? 私には感じられないわ。あなたのお話を伺つても、私に話しかけられたり、私の心にうごくものは何にもないんですもの。 燃える光も -- 活々した生命も -- 忠告の叫びも、鼓舞の聲も -- 何一つ私には感じられないんです。 あゝ、私の心はどんなにか、たつた今、身も縮む恐怖 -- 私には果たしきれないことを試みよと、 あなたに強ひられてゐる恐怖 -- それを深く藏する土牢だといふことを、私は、あなたに知らして上げたいのです。」
「あなたへの返事が一つある -- お聞きなさい。初めてお會ひしたときからずつと、
僕はあなたを見守つて來ました。十ヶ月といふもの僕はあなたを研究したのです。
その間、僕はあなたをいろ〜な試みで
私の鐡の
「よろしいとも。」と彼は答へて立ち上つた。そして細道を少し向うへ歩いて行つて、
ヒイスの
「ジョンが私にさせようと望んでゐる仕事を、私は出來るのだ。 厭でもそれは認めなくてはならない -- 」と私は考へに沈んだ。
「が、それも、私の
「では、彼の要求に應ずることも可能だ -- 但し一つの條件、恐しい條件があるのだ。
それは私に彼の妻たることを要求することだ、私に對して、向うの谷間へと流れる小川を足下に泡立たせてゐる、
あの恐ろしい巨人のやうな岩よりも、夫らしくはない彼が。 彼は軍人がよい武噐を
私は頂の方に眼をやつた。そこに彼は横になつてゐた、横たへられた柱のやうに靜かに。
顏は私の方を向いてゐた。
「若し自由な私の儘で行けるのでしたら、私、印度へ行くつもりです。」
「どんな意味ですか?あなたの返事には註釋が要る。」彼は云つた。「それでは、はつきりしてゐない。」
「あなたは今迄、私の義理の兄さまでしたし、私もあなたの義理の妹でした。 その儘で續けませう。あなとと私は結婚しない方がよろしい。」
彼は頭を振つた。「この場合義理の兄妹關係では駄目です。
あなたが僕の本當の妹だつたら問題は別です。僕はあなたを連れて行つて、妻君は求めないでせう。
だが、事實を事實とすれば、僕等の場合は結婚によつて淨められ固められない限り存在しない。
實際上の種々の
私は考へてみた。でも、依然として私の理性は、唯私逹が夫と妻として愛し合つてはゐない故に、 決して結婚すべきではないといふ事實しか私には考へられなかつた。だから私は云つた。 「セント・ジョン、」私は返辭した。「私はあなたを兄さまと思つてゐます -- あなたも私を妹と考へてらつさいます。そのまゝで續けませう。」
「出來ない -- それは出來ない、」彼は短く鋭い決意を示して云ひ切つた。 「それぢやいけない。あなたは僕と一緒に印度へ行くと云つた。覺えてゐらつしやい -- さうあなたは云つたんですよ。」
「條件附きで。」
「さう -- さうです。主要な點 -- つまり僕と一緒に
彼が語る間、私は身顫ひした。私は、胸の心髓に彼の威壓を感じた -- 手足を彼に掴まれたやうな氣持がした。
「私ぢやなく
「つまり僕の目的に
「ですから、私はその宣教師の爲めに、私に精力の限りを捧げますわ -- それが彼の欲するすべてゞす -- が、私自身を欲するのではないのです。それは核心に、 殼と外皮を添へることに過ぎないでせう。それらには、彼はなんの用もないのです。 その必要以外のものを、彼は取つて置くだけのことですわ。」
「いやいけない -- そんなことは許されない。神が
「あゝ、私は私の心を神樣に捧げますわ!」と私は云つた。 「あなたは私の心を、お要りにならないんです。」
讀者よ!私がかう云つた言葉の調子とその時の感情とには何處にか抑制せられた諷刺がなかつたとは斷言出來ない。
その時まで暗々裡に私はセント・ジョンを何處かわからない所のある人として怖れてゐた。
彼を疑ふ氣持が彼を怖れさせてゐた。何處までが聖人なのか、何處までが俗人なのかこのときまで私には分らなかつたのだ。
しかしこの應酬の中に、曝露されつゝあつた、彼の性格の解剖が、次から次へ私の眼の前を通り進んだ。
彼の弱點を私は知つた。ヒイスの丘の上に腰を下ろした美しく整つた姿を前にして、
私は今自分と同じやうに不完全な一人の男の足下に坐つてゐるのだと思ふのであつた。
顏覆
彼が私の先の言葉を聞いてからずつと默つてゐるので、私は眼を上げて彼の樣子を
「諷刺したのだらうか?しかもこの自分に對つて!」さう云ふものゝやうに。
「一體これは何の意味だ?」彼は間もなく云つた。「これは嚴肅な問題だといふことを忘れますまい。 それについて、輕率に考へたり喋つたりしては罪惡となるのです。 ジエィン、僕はあなたが神に捧げると云つたときには眞剱だつたのだ信じます。 それこそ僕の望む總てゞす。一度あなたの心を人間からそらして、あなたの造物主に結べば、 地上に於ける神の王國の發展は、あなたの重な喜びとなり努力となるでせう。 その目的へ向ふ爲めには、何でもすぐにしたいと待ち望むやうになるでせう。 僕逹の結婚による心身の結合によつて、お互ひの勤勞にどれ程刺戟を受けるか考へて欲しい。 それは人間の運命と意志とに、不變な一致の性質を與へる唯一の結びつきです。 あなたは、だから、すべての小さな氣紛れや、感情の上の些細な困難や躊躇や、 單に一個人の傾向の度合や種類や強さ、 優しさなどに對する危惧を乘り越へて直ぐにその結合に這入つて了ふでせう。」
「さうでせうかしら?」と私は言葉少なく云つた、 そして端麗なしかし峻嚴な靜けさの中に變な怖しいところのある彼の顏を眺めた。
秀でた、しかし暗い眉、輝かしく深くて、探るやうな光を持つ、しかし決して優しくはない眼、
背の高い押出のいゝ彼の姿。そして彼の妻としての私を想つてみた。
おゝ、どうしても嫌だ!彼の友逹として、仲間としてなら萬事いゝのである。
その資格でならば私は彼と一緒に大洋を横切り、東の太陽の下に、アジアの沙漠で、
事務所で彼と一緒に働き、彼の勇氣と獻身と精力に驚嘆し、從順に彼の專制に隨ひ、
彼の限りない野心に快く微笑みクリスチャンを俗人から區別し、前者を深く崇め、後者を意のまゝに許すだらう。
勿論かうした位置からばかり彼と接觸すて行くことは、少なからず私を苦しめるに違ひない。
しかし私の肉體は過重な
「セント・ジョン!」そこまで考へて來た私は叫んだ。
「何?」彼は冷やかに答へた。
「もう一度申します。私はあなたのお仕事の助手としてゝしたら喜んで御一緒に參ります。 けれども、妻としてならば厭です。私はあなたと結婚して、あなたと一つにはなれません。」
「僕と一つにならなければいけない。」彼は嚴しく答へた。 「でない限り契約は全然無效です。まだ三十歳にもならぬ男の僕が、 十九歳の少女を結婚する事なしに連れて、印度までもどうして行けますか? 何時も一緒に -- 或るときは二人つきりで、或るとこは野蠻な種族に交つて -- 生活する我々が結婚しないでどうしてゐられると思ひますか?」
「結構ですわ。」私は言葉少なに云つた。「どんな事情の下にゐようと、 私があなたの本當の妹になるか、それとも、あなたのやうな男の牧師になつたつもりでならば、 ちつとも構ひませんわ。」
「あなたが僕の本當の妹でないことは、誰の眼にも明らかです。 妹だと紹介することも僕は出來ない。假にやつてみるとしても、
二人にとつて不利な疑惑を強めることになるでせう。
次にそのほかの點でも、
「それで、いゝんです、」と、私はいくぶん蔑みを籠めて
「それは、僕の望むところだ、」と彼は
「私は愛についての、あなたのお考を蔑みます。」さう云はずにはゐられなかつた。 私は立ち上つて岩を背にして、彼の前に立つた。「私はあなたの仰しやるやうな贋物の感情を輕蔑します、 さうですとも、セント・ジョン、そんなことを仰しやるなら、あなたを輕蔑しますわ。」
彼は形よく刻まれた唇をきつと
「あなたから、そんな言葉を聞かうとは思ひがけないことです。 僕は侮辱を受けるやうなことは何もしなかつたし、口にもしなかつたと思ひます。」
私は彼の優しい口調に打たれた、その高貴な冷靜な顏色に威嚇された。
「御免なさい、セント・ジョン、失禮なことを申上げて。ですけれど、 あんなに不注意にいきなり申上げて了つたのはあなたの罪です。 あなたは、私逹が本質的に異つた考を持つてゐる題目をおとりになりました -- 私逹が決して議論し合つてはならない題目を。愛の名こそ私逹の間では不和の種なんです -- 若しそれを實現ささえるとしたら、私逹はどうすればいゝでせう?どう考へたらいゝのでせう? ねえ、私の親愛なセント・ジョン、あなたの結婚の計畫をおやめなさい --忘れてい了ひなさい。」
「いや、」彼は云つた。「それは長い間考へてゐた計畫です、また僕の大望を保證する唯一のものなんです。 しかしもう今はこの上あなたにすゝめますまい。明日僕はケムブリッヂへ出發します。 別れの挨拶をして置きたい友人が可成りあるので。 二週間程留守になるでせう -- その間に僕の申し出を考へて置いて下さい。 そして若しも拒絶なさるならば、あなたの拒絶するのは私にではなく、 神さまへだといふことを忘れないやうに。僕のとる手段を通して、 神は一つの高貴な生涯をあなたに開いておゐでになる。僕の妻としてのみ、 あなたはそこへ這入ることが出來ます。僕の妻になることを否んで御覽なさい。 するとあなたは永久に利己的な安逸と無價値な卑しい罠にあなたの身を閉ぢ籠めるのです。 その場合には、あなたは信仰を否定して、邪教徒よりもなほ惡い人々の數に這入らないやうに警戒なさい。」
彼は云ひ終つて私に背を向けると、もう一度 --
川を見ぬ 丘を眺めぬ……
しかし今度は彼の感情は心の中に閉ぢ籠められてゐた。 もう私はその聲を聞く資格がないのであつた。彼と並んで家へ歸りながら、
私は彼の鐡のやうな沈默の中に私に對する心持を
その夜、妹逹に接吻を與へた後、彼は私と握手することさへ忘れるのが至當であると考へたのか、 默々と部屋を去つた。私は -- 彼を愛してはゐなくとも、深い友情を持つてゐる私は -- 著しい省略に傷けられた。涙が湧く程ひどく傷けられた。
「あなたとセント・ジョンと喧嘩をしてゐらしつたのを見てよ、ジエィン。」とダイアナが云つた。 「原つぱを散歩しながら。いゝから追つかけいらつしやい。 今廊下の所であなたが來ないかしらと思つてぐづ〜してるところよ -- 仲直りしたいんでせう。」
こんな事情では私は大して威張れない、いつも私は威嚴を保つよりも快濶になりたかつたから。 で、私は彼の後を追つた -- 彼は階段の下に立つてゐた。
「お休みなさい、セント・ジョン。」と私は云つた。
「お休み、ジエィン。」靜かに彼は答へた。
「では握手して頂戴。」と私は云つた。
私の指に殘つた彼の
そして、さう答へて彼は行つて了つた。私は彼に打擲された方が遙かにましだと思つた。
さう云つてゐたにも拘はらず、次の日彼はケムブリッヂへ向けて發たなかつた。
彼はまる一週間出發を延ばした。そしてその間彼は、善良ではあるが、苛酷な、
良心的だけれど、執念深い男の人が、その人を怒らせた者に對してどんな嚴しい苛責を加へ得るかといふことを、
私に感じさせた。何等明らかな敵意の振舞ひも、非難の言葉もなしで、彼は最早私が、
彼の愛顧の圍ひの外に放り出されてゐるのだといふ罪の
若し思ふ存分さう出來たとしても、セント・ジョンは基督教徒らしくない復讐心を懷いてもゐなかつた -- また私の髮の毛一本も傷けようとしたのではなかつた。 天性から云つても主義から云つても、彼はそんな賤しい復讐の滿足を感ずるには餘りに高尚だつた。 彼は私が彼と彼の愛を輕蔑すると云つたことに對しては私を赦してくれた。 しかし彼はその言葉を忘れてはくれないのだつた。そして彼と私が生きてゐる限り、 彼はその言葉を決して忘れないだらう。彼が私の方を向くと、私は彼の眼付によつて、 私と彼との間の空間に、その言葉がいつも書かれてあるのを知つた。 例の言葉が私の聲の中に籠つてゐるやうに彼の耳に響いた。 その反響は、彼が私にする返答の一つ〜に籠つてゐるのであつた。
彼は私と話をすることを止めはしなかつた。彼は平常の通りに毎朝私を彼の机に來いと呼びよせさへしたのであつた。
そして、私は、彼が平生とまつたく變りなく振舞ひ、また語りながら、
嘗てはその言葉と態度に或る嚴肅な魅力を與へてゐた興味と是認の心を、あらゆる行爲、
あらゆる言葉からどんな技倆で引出し得るかを示すことに、彼の内なる
これ等のことが皆私にとつては苛責であつた。 -- 洗煉された、長く尾を曵いた苛責であつた。 それがいぶつた憤怒の火を燃しつゞけ、堪へられ程の悲痛な惱みを續けたので、 私はまつたく惱まされ打ち碎かれた。私は若し自分が彼の妻であつたなら、 陽の光も透らぬ深い泉のやうに澄んだこの善良な人が、私の血管から血一滴とらずとも、 また彼の水晶のやうな良心に、ほんの微かな罪の汚點をつけるだけで忽ち私を殺し得ると思つた。 特にこのことを感じたのは私が彼と打ち解けようとするときであつた。 私の打ち開いた心に對して何等の答へもないのであつた。 彼は疎遠になることに何等の苦惱も感じなかつた -- 和解に對する何等の熱望も感じなかつたのだ。そして、一度ならずはふり落ちる私の涙が、 私共二人の讀んでゐる本の紙を濡らしたけれど、彼の心は、本當に、 石か金で出來てゐるのではないかと思ふ程に、何の效果も彼に及ぼさないのであつた。 彼の妹逹に對しては、彼は、その間、前よりも幾らか優しかつた、 -- 宛も、單なる冷淡さではどれ位まつたく私が排斥され、呪はれてゐるかを十分に思ひ知らないことを恐れてゐるかのやうに、 彼は姉妹に優しく私に辛い對照的壓迫を附け添へたのであつた。 そして、これは、確かに、彼の惡意からではなく、彼の主義からであつたと思ふ。
彼が家を發つ前の晩のこと、夕暮時に、庭を散歩してゐる彼をふと見かけ、彼を見乍ら、
今は
「セント・ジョン、あなた未だ私のことを怒つてゐらつしやるので氣になります。仲直りしませう。」
「仲直りしたいものです。」と冷淡に答へた。その間も、私が近づいて來たときに眺めてゐた月の出を、 未だ、彼は見てゐるのであつた。
「いゝえ、セント・ジョン、私逹は先のやうに仲好しぢやありませんわ。御存知なのに。」
「さうですか?それは間違ひだ。僕の方ぢやあなたに好意こそ持つてをれ、 惡意はちつとも持つてうぃないのです。」
「私はあなたを信じます、セント・ジョン、何故つてあなたは人のことを惡く思ふことは出來ないんですもの。
でも、私はあなたの
「勿論、」と彼は云つた。「あなたの望は當然のことだ。 そして僕は、あなたを他人だなんぞと思つてやしない。」
冷やかな、熱のない調子で云はれたこの言葉は、屈辱を感じさせ、心を
「こんな風でお別れしなくてはならにのでせうか、セント・ジョン? そして印度へいらつしやるときにも、これまでよりも、もつと、 優しい言葉一つかけて下さらないまゝで、私を置いていらつしやるのですか?」
彼は、くるりと、月から私の方に向き直つた。
「僕が印度へ行くときには、ジエィン、あなたを置いて行くつて?何てことだ! あなたは印度へは行かないのか?」
「でも、私があなたと結婚しないぢや駄目だつて仰しやつたんですもの。」
「そして、あなたは僕と結婚しない積りなんですか?あなたのその決心を固守するの?」
讀者よ、あなたはこのやうな冷い人々が、どんなに恐ろしさをその氷のやうな質問の中に容れ得るか、 彼等の怒りの中には、どれ程の雪崩があるか、彼等の不興に遭つては凍つた海も打ち碎かれるといふことを、 私と同じくらゐに御存知ですか?
「いゝえ、セント・ジョン、私あなたと結婚はいたしません。私この決心は變へません。」
雪崩は搖れて少し前に辷つて來た。しかし未だ崩れ落ちては來なかつた。
「もう一度訊くけれど何故これを拒むの?」と彼は訊ねた。
「以前には」と私は答へた。「あなたは私を愛してはゐらつしやらなかつたからです。 けれども今では、あなたは殆んどもう私を憎んでゐらつしやるからだと申します。 若し私があなたと結婚しなければならないのだつたら、あなたは私を殺しておしまひになるでせう。 あなたは今私を殺しかけてゐらつしやるのです。」
彼の唇も頬も蒼ざめた、 -- まつたく蒼ざめてしまつた。
「僕があなたを殺すんだつて、あなたを殺しかけてゐるつて? そんな言葉を使ふべきではない -- 亂暴な、女らしくない、無稽な言葉だ。 それは不運な心の状態をあらはしてゐる。それは酷い非難を受けて然るべきだ。 それは言譯が立たないやうに見える。 七十七度まで人をゆるすことが人間の義務なのだと云つても。」
今は私はすべきことはしてしまつた。私の過去の罪科の跡を彼の心から擦り消さうと切に願つてゐたのに、
その堅い表面に、私は更に新しい、そしてもつとずつと深い
「さあ、これでもうあなたは本當に私をお憎みになるでせう、」と私は云つた。 「あなたのお心は和げようとするのは無駄です。私もう、あなたを永久の敵にしてしまつたことが分りました。」
この言葉が更に新しい間違ひを釀した -- それが眞實に觸れたが故に、より惡いものであつた。 彼の血の氣を失つた唇は瞬間的な痙攣に引きつゝた。私は自分が鋼鐵のやうな怒りを起させたことを知つた。 私の胸は裂けさうに苦しかつた。
「あなたは私の言葉をまつたく取り違へてゐらつしやる、」と私は彼の手を取り乍ら云つた。 「私あなたを悲しませたり、苦しめたりしようと思つてゐません -- 本當に思つてやしないのです。」
最も苦々しげに彼は笑ひを浮べた -- 最も決然と彼は私から手を引込めた。 「それぢやあなたは約束を取消して、全然印度へなぞ行かないのですね?」 と、彼は長い沈默の後に云つた。
「いえ、私參ります。あなたの助手としてなら。」と私は答へた。
長い〜沈默が續いた。この間に人間としての氣持と恩惠の二道で、彼の内部でどんな爭ひがあつたか、
私は知らない。たゞ不思議な光が彼の眼に閃き、怪しい
「僕は前にも、あなた位の年頃の獨身の女の人が、僕位の年頃の獨身者に從ひて、 外國へ出掛けて行き度いなどゝ云ふ事が、とても話にならないつて事は話したでせう。 あなたが二度とそんな計畫を口にしないやうにするやうな約束でもつて、 この事を話してあげたと思ふけれど。あなたがさうしてしまつたつて事は殘念だ -- あなたの爲めに。」
私は彼を遮つた。明白な叱責の如きものは如何なるものでも忽ち私を勇氣づけた。 「常識を忘れないで下さい、セント・ジョン。あなたは、非常識になりかけてゐらつしやる。 あなたは私の云つたことでお怒りになつた振りをしてらつしやる。 本當は怒つてはゐらつしやらないのです。何故つてそんな立派な心を持つてらつしやるからには、 あなたが私の云つた意味を誤解なさるなんて、そんなに鈍くも、 またそんなに變つた考へでもゐらつしやる筈がありませんわ。 も一度申しますけど、若しよろしかつたら私あなたの牧師補にはなります。 でもあなたの妻には決してなしません。」
再び彼は鉛色に蒼ざめた。しかし、先と同じく彼は怒りを完全に抑へた。 彼は力を入れて、しかし落着いて答へた。
「僕の妻ではない女の牧師補は、僕には
讀者も御存知のやうに、私は何も正式な約束もしなければ、または、 契約と云ふやうなものもしてゐたのではなかつた。それにこの言葉はこの場合すべてあまりに酷であり、 暴虐であつた。私は答へた --
「この場合は何も不名譽なことも、約束を破つたといふことも、踏み躙つたなんてこともありません。 私には印度まで行くなんて義務はちつともありません。特に他人と。 あなたとこそ私は思ひ切つて行かうとしてゐましたのに。何故つて、私は尊敬もし、信頼もし、 妹として、私はあなたを愛してゐるのですもの、 ですけど何時誰と一緒に行つても、あんな氣候では長く生きてゐないことは確かです。」
「あゝ、あなたは自分の身を心配してゐるのですね!」彼は口を歪めてさう云つた。
「さうですわ。神さまは私に捨てゝしまへと云つて
「何といふ意味です?」
「それを説明したつて何にもなりますまい、けれど、私長い間悲しい懸念をして來たことがあります。 その懸念が何等かの方法でもつて消えるまでは、私何處へも行けません。」
「あなたの心が何處に向いてゐるか、何に未練があるのか僕にはわかつてゐます。
あなたの抱いてゐる同情は、法に合つてもゐないし、
それは事實だつた。私は沈默によつてそれを白状した。
「あなたはロチスターさんを探さうとしてゐるのですか?」
「あの方がどうなつてゐるか、私は確かめなくてはなりません。」
「ぢやあ、私のすることはたゞ、」と彼は云つた。「僕の祈りの中にあなたのことを忘れぬことゝ、 あなたの爲めに、切に、あなたが本當に難破した人にならないやうにと、神さまに願ふことです。 僕はあなたの裡に、選ばれた人の一人を認めたと思つてゐました。 しかし神の見給ふところは人間のとは違ふのでせう。神の御意のまゝに!」
彼は門を開けて、それを出て、谷の方へ歩き出して、やがて見えなくなつてしまつた。
居間に歸つて行くと、ダイアナが窓際に立つて非常に考へ込んだ樣子をしてゐるのに會つた。 ダイアナは私よりは餘程背が高かつた。彼女は私の肩に手を置いて、身を屈めて私の顏をじつと見つめた。
「ジエィン」と彼女は云つた。「あなたこの頃始終心が亂れてゐるやうで、蒼ざめてゐるのね。
きつと何か事があるのでせう、あなたとセント・ジョンとの
彼女は口を
私は彼女の冷い手を自分の熱い額につけた。「いゝえ、ディイ、ちつともよ。」
「ぢやあ何故あんなにあなたばかりを見つめたり、 あんなに始終あなたをあの人と二人きりにしていつも〜あなたを傍に引きつけて置くのでせう? メァリーも、私も、あの人はあなたに結婚してもらひたいのだと決めてたんですよ。」
「さうですの -- あの方は私に妻になつてくれと仰しやつたんですの。」
ダイアナは手を
「それどころか、ダイアナ、あの方が私に申し込をなすつたたゞ一つのお考へは、 あの方の印度での仕事に適した働き仲間を得ようとなさるからなんです。」
「何ですつて?あなたを印度へ行かせる
「えゝ。」
「狂氣沙汰だわ!」と彼女は叫んだ。「あんな土地にあなたは三ヶ月も住みきれやしませんよ、分つてるわ。 行つちやいけません。承知しやしなかつたでせうね、ジエィン?」
「私結婚をお斷りしました -- 」
「それでその爲めにあの人の機嫌を損じたの?」と彼女は仄めかした。
「それは甚く。あの方はきつともう私を許しては下さらないでせう。 でもね、私あの方の妹としてならお供するつて申上げたんですけれど。」
「そんなことをするのは狂氣めいたくだらない事だわ、ジエィン。また、あなたの引き受けた仕事を考へても御覽なさい -- 絶え間のない疲勞の仕事だわ。あそこぢや健康な人だつて疲勞で倒れるつていふのに。 あなたは弱いんだもの、セント・ジョン -- あなたも御存知ね -- は不可能なことをあなたに強ひるのだわ。 -- あの人と一緒ぢやあ暑い間中休息なんて許されやしない、それに生憎とまたあなたが、 私氣が附いてゐるけれど、あの人の強ひたことは、何事によらず無理してゞも遣るらうとするんですもの。 あなたにあの人の申し込を斷る勇氣があつたのに私は驚くわ。 ではあなたはあの人を愛してやしないのね、ジエィン?」
「えゝ、
「でも、あの人は、立派な人ぢやないこと。」
「そして、私はこんなにみつともないのですわ、ねえ、ディイ。私逹は決して釣合つてはゐませんわ。」
「見つともないつて!あなたが?そんなことがあるものですか。 あなたはカルカッタで苦しい目をお見て生きてるにはあんまり善良過ぎるし美くし過ぎますよ。」 そしてまたもや彼女は、兄と共に出掛けるといふ考へをすつかり棄てゝすまふやうにと、 熱心に懇願するのであつた。」
「私どうしても行かなくりやなりません、」と私は云つた。 「何故つてほんの今さつき、私が牧師補としてあの方のお供をするといふ申し出を繰り返しましたら、 あの方は私の非禮をお怒りになつたんです。あの方は私が結婚しないでお供するつて申し上げたことを、 私が失禮なことでも仕出かしたやうに思つてらつしやるやうです、 まるで私が最初からあの方をお兄さまと思ひ度いと望んだことも、 またいつもさう思つてゐたこともないかのやうに。」
「あの人が、あなたを愛してないつてことが、どうしてわかるの、ジエィン?」
「そのことはあの方御自身の口からお訊きになつて頂戴。あの方は繰り返し〜説明なすつたのですの。 連れ添はうと思ふのはあの方自身ぢやない、あの方の職務なのだつて。 あの方は私は働く爲めの人間なんで、愛の爲めの人間ぢやいないと仰しやいました -- それはまつたく眞實です。でも、私の考へでは、若し私が愛のない人間でないなら、 結局結婚しりやうに創られた人間でもないと思ひますの。變ぢやありませんこと、ねえ、ディイ。 一生涯、相手を役に立つ道具だと思つてゐる人につながれてるつてことは?」
「堪らないわ -- 不自然だわ -- 問題外だわ!」
「それで、」と私は續けた。「今は私あの方にたゞ兄妹の愛しか持つてないのですけれど、 若し強ひられて妻となつたとしたら、私多分あの方に對して、のつぴきならぬ、妙な、 責められるやうな愛を持ち得るとは想像出來ます、何故つて、あの方はあんなに才能がお有りですし、 それにあの方の樣子や、態度や、お話には、或る英雄のやうな莊嚴さがありますから。 さういふことになると、私の運命はお話出來ない位に慘めになるでせう。 あの方は私に愛して欲しいとはお思ひにならないでせう。そして若し私がそんな感情を表はしななら、 あの方はそれが御自身に不要な餘計ものであることや、私には不似合な餘計ものだといふことを、 私に感じさせになるでせう。さうなることはわかつてをりますわ。」
「けれど、それでもセント・ジョンはいゝ人よ。」とダイアナは云つた。
「それはいゝ方ですし、偉大な方ですわ。ですけれど、あの方は御自分の大きな見解を追求なさるもので、 小さな人間の感情や要求は無情にも忘れてゐらつしやるのです。 ですから、小さな者にとつては、あの方の路にゐて踏み躙られないやうに避けてゐる方がいゝのです。 おや、いらしつた!私あつちへ參りますわ、ダイアナ。」彼が庭に這入るのを見て私は急いで二階へ上つて行つた。
しかし晩餐のときにもう一度彼と顏を合せなくてはならなかつた。
食事の間中彼はまつたく
祈祷の前にする夕の朗讀に、彼は默示録二十一章を選んだ。
何時聽いても彼の口から聖書の言葉が出てくるのに耳を傾けてゐるのはいゝ氣持であつた --
神の言葉を讀むとき程彼のよい聲が美しくまた張りのある聲になつたことはなかつた --
また彼の態度が品のいゝ質朴さの内にそんなに感銘を與へるやうになつたこともなかつた。
しかも、今夜彼がその家族の眞中に坐つたとき(五月の月は窓掛を引かぬ窓に射し込み、
次の言葉は、彼がそれを口にしたとき -- 特に、微かな、説明し難い程の聲音の交錯によつて、 彼がそれを讀み乍ら眼を私の方に向けたのを感じたとき、不思議に私の心を動かした。
「勝を得る者はこれ等の物を得てその
以來私はセント・ジョンがどのやうな運命を私の爲めに憂ひてゐるかを知つた。
切望するやうな熱烈さに混つて、落着いた、抑制された勝利が、その章の最後の輝かしい詩句を口にする彼の言葉に表はれた。
讀んだ人は自分の名が既に小羊の
その章に續いた祈祷の内に、彼の全精力は集中され -- 嚴しい彼のありつたけの熱心さは目覺めた。 深い熱烈さを以て神と共に戰ひ、勝利を期したのである。彼は心の弱き者の爲めに力を願ひ、 檻からさまよひ出た者に導きを、また現世と肉の誘惑が狹い路から誘つてゐる者の爲めに、 しまひぎはにさへ歸つて來ることを願つた。彼は燃木が火から救ひ出されると同じやうな恩惠を願ひ乞ひ求めた。
熱烈さといふものはどんなときにも深く嚴肅なものである。
最初その祈祷を聽いたときには私はそれを
祈祷が終ると、私共は彼に別れを告げた。彼は朝極く早く發たなくてはならないのであつた。 ダイアナとメァリーは彼に接吻をして部屋を出た -- 思ふに、彼からそつと云はれた言葉に從つてだらう。 私は手を差し出して、いゝ旅をなさるやうにと云つた。
「有難う、ジエィン。僕は云つた通り、二週間の内に歸つて來ます。その間は、だから、
未だ考へ直して見るやうにあなたに殘されてるのです。若し人間の誇りに耳を傾けてゐたのだつたら、
僕はもうこの上あなたとの結婚のことなんぞ云ひはしなかつtでせう。 しかし僕は務めに從つて、最初の目的を堅くやり通します --
萬事を神の
この最後の言葉を口にしたとき、彼は私の頭に手を置いた。彼は熱烈に、穩やかに話した。
彼の樣子は、まつたく、愛する女を見る戀人のそれではなく、さ迷へる羊を呼び返す牧者 --
或ひはより以上に、彼の引き受けた魂を見守る守護の天使の態度であつた。 すべての才能ある男子は、感情の人である、なしに拘らず、 --
熱狂者であると、野心家であると、 暴君であるとに拘らず -- 若し彼等が眞面目であるならば -- 彼等が征服し支配するとき、
崇高な刹那を持つものである。私はセント・ジョンに對して尊敬の念を起した、 --
非常に強い尊敬だつたので、その勢がかくも長い間私の避けてゐた點に、 眞直に私を投げやつたのである。私は彼との爭ひを止め --
彼の意志の急流のまに〜彼の生活の深淵に身を投げて、
そこに自分自身を失はうといふ心を起した。嘗て以前に、異つた風に、異つた人によつて惱まされたと殆んど同じ位に、
私は今彼に捉はれかけてゐた。いづれのときも私は愚か者であつた。 あのとき負けてしまへば
私は身動きもせず、私の聖師の手の下に立ちつくしてゐた。私の拒絶は忘れられ -- 恐怖は征服され -- 私の爭ひは麻痺してしまつた。「この不可能なこと、」 -- セント・ジョンと私の結婚である -- 急速度で「可能なこと」にならうとしてゐた。 信仰は呼び -- 天使は招き -- 神は命じ給ひ -- 生命は卷物の如くに捲き收められ -- 死の門は開いて彼方の永遠を示した。その樣は恰も、彼處の安全と幸福の爲めには、 此處にあるすべてのものは、一瞬の内に犧牲に供されてもよいと云ふかのやうに見えた。 薄暗がりの部屋は幻で一ぱいになつた。
「今決めることが出來ますか?」と傳道者は訊ねた。その問ひは優しい調子であつた。 彼は出來るだけ優しく私を引よせた。おゝ、その優しさ!それは威力に比べてどれ程大きな力があることか! 私にはセント・ジョンの怒りを拒絶することは出來た。だが、彼の優しさの下には私は蘆のやうに柔軟になつてしまつた。 けれどもその間にも、もしまた負けてしまつたら、いつか私は、 以前の叛逆のことを今に劣らず他日後悔させられるといふことを知つてゐた。 一時間の嚴肅な祈りによつては、彼の天性は變へられはしない。たゞ高められたばかりなのだ。
「確信さへあれば、決めることも出來ます。」と私は答へた。 「もしあなたと結婚することが神さまの御心だと確信出來れば、私あなたと結婚しますと、 今此處で誓ふことが出來ます -- 後どうならうとも。」
「私の祈りは報いられたのだ!」と、セント・ジョンは叫んだ。 彼は恰も私を求めるかのやうに私の頭にしつかりと手を置いた。
彼は殆んどまるで私を愛するかのやうに私を腕に抱いた(殆んど、と私は云ふ --
私は愛されるといふことが如何なることか知つてゐる故に、その差異が分つてゐる。
だが、彼のやうに私は今愛を問題外にして、私は
家中が靜まり返つてゐた。何故なら私はセント・ジョンと私自身の他はみんなそのとき眠りに就いてゐたのだと思ふから。 一つの蝋燭は消えかけてゐた。部屋は月の光で一ぱいだつた。 私の心臟は早く激しく鼓動して、その動悸が聞えた。不意にそれがとまつた。それを貫き、 忽ち頭から身體の端々まで傳つて私を動かした云ひ表はせぬ感情の爲めにである。 その感情は電撃のやうなものではなく、まつたく鋭い、不思議な、吃驚りさせるやうなものであつた。 それは恰も今迄はその極限の能力が麻痺して、今醒めよと呼び出され強ひられたかのやうに、 私の心に働きかけたのであつた。それは期待せるものを動かした。身體は顫へてゐる間も眼と耳とは待ち望んでゐた。
「何か聞えたのですか?何を見てゐるのです?」とセント・ジョンは訊ねた。 私は何も見はしなかつた。しかしある聲が何處かで叫ぶのを聞いた --
「ジエィン!ジエィン!ジエィン!」 -- それつ
「おゝ神さま!何でせうか?」私は喘いだ。
私は「何處ですか?」と云つたかも知れない。何故ならそれは部屋の内でも -- 家の内でも -- 庭でもなかつたらしかつたから。
それは空中から出て來たのでもなく -- 地の底から出たのでもなく -- 天から來たのでもなかつた。 私はそれを聞いた --
何處で、何處から、それを知ることは永遠に出來ない! しかも、それは人間の聲であつた -- 聞きなれた、愛する、忘れもしない聲 --
エドワァド・フェアファックス・ロチスター氏の聲であつた。そして、
その聲は苦痛と悲歎の内に狂ほしく、暗く、
「今參ります!」私は叫んだ。「待つてゝ下さい!おゝ、私は參ります!」 私は入口に駈けつけて通路を覗いた。暗い闇だつた。私は庭に走り出た。其處も空虚だつた。 「何處にいらつしやるのです?」私は叫んだ。
マァシュ・グレンの彼方の丘が微かに答へ返した -- 「何處にゐらつしやるのです?」
私は耳を澄した。風が樅の木の間に微かに音を立てた。あらゆるものは曠野の寂寞と深夜の
「迷信よ、去れ!」門の傍の黒
私は隨ひて來て、私を引き留めさうにする、セント・ジョンを押しのけた。
今度は主權を持つのは私の番であつた。私の力は活動をはじめ、力を得た。
私は彼に質問も注意もしてくれるなと云つた。私は彼に私から離れてゐてくれと云つた。
私は一人でゐなくてはならないし、ゐたいのだ。直ぐに彼はその通りにしてくれた。
命ずるの十分な力のあるところでは從順は、決してなくなりはしないものだ。
私は自分の寢室に這入つて、鍵をかけてしまつた。膝をついて、私流で祈つた --
セント・ジョンのとは
夜が明けた。
「昨夜あなたは餘りに突然に私の
「私の魂は、」と私は心の中で答へた。「喜んで正しいことをしようとしてゐる。
そしてこの肉體は、願はくば、神の
ちやうど六月一日であつた。しかし、その朝は、雲つて寒かつた -- 雨は繁く窓枠を打つてゐた。
玄關の
「從兄よ、もう暫く經つたら、恐らく私もその路を通つてあなた方の後を追ふでせう。」と私は思つた。 「私もウヰトクロスで馬車に乘ります。 私にも永久に英吉利を立ち去る前に會つて話をする人があるのです。」
まだ、朝食には、二時間あつた。私はその暇を、靜かに部屋の中を歩き廻り、
私の計畫に現在のやうな決意を與へたおとづれのことを考へ乍ら、過した。 私は自分の經驗した内的な感應を思ひ返してみた。何故なら、
何とも云はれぬ不思議さと共に私はそれを思ひ出すことが出來るのであつた。
私は自分の聽いたあの聲を思ひ起してみた。再び、私は、以前と同じく空しいこと乍ら、
それが何處から來たか問ふてみた。それは、私の内のもので -- 外界からのものではないやうに思はれた。
私は訊ねてみた、もしやそれは單なる神經から來た感銘 -- 妄想ではないかと。
私には悟ることも、信ずることも出來なかつた。それは、もつとずつと靈感に似たものであつた。 その不思議な感情の
「遠からず、」と心を決めたときに私は云つた、「私は、昨夜私を呼んだと思ふあの人に就いて何か知るだらう。
手紙は何の役にも立たなかつた -- 私が出掛けて行つたら、その
朝食のとき私は、ダイアナとメァリーに旅行をする
「獨りで、ジエィン?」と彼女等は訊いた。
「えゝ。どうも暫くの間、氣掛りでならなかつたお友逹の消息を見聞する爲めなんですの。」
きつとさう思つたことであらうが、彼女等は、私が彼女等以外には一人の友もないと信じてゐた、
と云つてもよかつた。實際、私は、屡々さう云つてゐたからである。
しかし彼女等はその眞實な、天性の
その上の支度をするのは
午後三時にムア・ハウスを出て、四時を少し過ぎたときには私はウヰトクロスの
三十六時間の旅だつた。私はウヰトクロスを火曜の午後出發した。
そして木曜日の朝早く馬車は
「ソーンフィールド莊は、此處からどれ位あります?」私は馬丁に訊ねた。
「あの耕地をよぎつて、丁度二哩ですよ。」
「旅は終つた。」と私は一人で思つた。私は馬車から降りて、要るまで保管して置くやうに、箱を一つ馬丁に頼んだ。
賃金を拂つて、馭者に心づけをやつて、歩き出した。きら〜した陽が、宿屋の看板に輝いてゐた。
そして私は、
「お前の主人は、英吉利海峽の彼方にゐるのかも知れない。そして若しあの人が、 お前の急いでゐるソーンフィールドにゐるとしても、傍には誰がゐるのだ? あの人の狂氣の妻。そしてお前はあの人に何もすることは出來ない。お前は、 あの人に思ひ切つて口を利くことも、あの人のゐる所を探すことも出來はしない。 お前は無駄な骨折をしてるのだ。この上行かない方がいゝ。」と訓誡者は強ひた。 「あの宿屋で、人々の話をお聞き。あの人たちは前の探してるあらゆることを傳へてくれることが出來るし、 お前の疑念を直ぐに解いてくれることも出來る。あの人の許に行つて、 ロチスターさんはおうちかとお訊き。」
この思ひつきは賢いものだつた。けれども、私はそれに從つて、行動することを、 おしきつて出來なかつた。私は、絶望で、私を打ち碎くやうな返事をそんなにも恐れてゐたのである。 疑ひを長びかすことは、希望をつなぐことである。私は、なほ今一度、あの館を、 その希望の星の光の下に見得るのだ。私の前には廻り木戸があつた -- 私がソーンフィールドから逃れたあの朝、私を追ひかけ、苦しめる執念深い狂亂に目も見えず、 耳も聞えず、氣も狂はんばかりに急ぎ過ぎたあの耕地があつた。どの路をとつたとも氣附かぬ内に、 私は、いつかその眞中にゐた。何と早く歩いて來たことか!或るときはどんなに駈けたことか! どんなにあの見慣れた森の最初の姿を見ようとこがれたことか! どんな感情で、知つてゐる樹々を、またその間に見える親しく見なれた草地や丘の眺めを歡び迎へたことか!
遂に森が見えて來た。
私は、果樹園の低い塀に沿つて行き -- その角を曲つた。丁度其處に、石の球を載せた二本の石柱で出來た、
草地へ開いた入口があるのだつた。一つの柱の背後から、私はそつと
頭上を舞つてゐる鴉は、多分私がかうして見渡すのを見守つたであらう。
彼等が何と思つてゐるだらうと私は怪しんだ。きつと、彼等は、私が最初は非常に注意深くびく〜してゐて、
やがて次第に非常に大膽に向う見ずになつたと考へたに相違ない。覗き見、それから長い凝視。
その次には隱れ場所から離れて、草地の中に
讀者よ、こゝに一つの例をお聽きなさい。
一人の戀人が、苔むした川岸に彼の愛する女が眠つてゐるのを見出す。彼は、彼女の目を醒させることなしに、
彼女の美しい顏を一目見たいと思ふ。彼は、音を立てないやうに思慮深く、靜かに草の上に忍びよる。 彼は立ち止る --
彼女が目を醒ましたと思つて。彼は
私はおづ〜とした喜びをもつて立派な
門柱の背後に身を縮める必要はない -- その奧に人の氣配を恐れて、
寢室の格子戸を見上げることも要らない!
そしえt,あたりは、死の
崩れ落ちた壁の周りを、荒廢した内部を拔けて
この問ひに對して何らかの答がなくてはならない。あの宿屋より他には、
何處にもそれを見出すことは出來なかつた。そして程なく、私はそこへ引返して行つた。
宿の亭主が自分で私の朝飯を部屋に持つて來てくれた。私は彼に
「あなたはソーンフィールド莊を知つておゐでゞすね、無論?」と私はやつと云ひ出した。
「左樣でございますよ、昔私は彼處にゐたこともございます。」
「さう?」私の時代にではない、と私は思つた。私は彼に見覺えがない。
「私は亡くなられたロチスターさまの從僕でございました。」と彼は附け加へた。
亡くなられた!私は避けようとしてゐた打撃を力一ぱいに受けたやうな氣がした。
「亡くなられたつて!」私は喘いだ。「お亡くなりになつたのですか?」
「今のエドワァドさまのお父さまのことでございます。」彼は説明した。私は再び息をついた。 血は再び元のやうに流れはじめた。この言葉でエドワァドさん -- 私のロチスターさま (神よ、あの方が何處にゐらつしやらうとも祝福を與へ給へ!) -- は少くとも生きてゐらつしやる -- は一口に云へば、「當代の御主人なのだ。」嬉しい言葉! その次に何が來ようとも -- どんなことが出て來ようとも -- 割合に落着いて聞いてをられさうであつた。あの方が墓場の中にゐらつしやらないからには、 地球の反對面にゐらつしやると分つたつても、忍んで聞いてゐられる、と私は思つた。
「ロチスターさんは、今ソーンフィールドに住んでゐらつしやるのですか?」 無論どんな返事が來るか知つてゐながら、なほ現在彼が何處にゐるかといふ直接な問ひを延し度く思つて、 私はさう訊ねた。
「いゝえ、あなた -- それどころか!彼處には誰も住んではをりませんですよ。
あなたは、この邊の方ぢやおありにならないやうでございますね、さもなければ、
昨年の秋に何が起つたか、お聞きになつたでせうに。ソーンフィールド莊は、
まつたくの廢墟になつてをります。丁度
「眞夜中に!」と私は呟いた。さうだ、それがソーンフィールドに於ける呪はれた時間なのだ。 「どうして起つたか、分つたのですか?」と私は訊ねた。
「みんなは、推量しました、あなた -- 推量したのでございますよ。實際、私はそれは、
もう疑ふ餘地がない程確かだと申します。あなたは、多分お氣づきにはならなかつたでせう。」
と彼は椅子を少し
「そのやうなことを聞いたことがありますよ。」
「その女は非常に嚴重に閉ぢ籠めてありましてね、人々は幾年間も、 そんな人がゐる事をまつたく知らなかつた位だつたのです。誰も見た人はないのでございますよ。 たゞ噂で、そんな人間があの莊にゐると知つてゐるだけでした。 その女が何と云ふ人間か何をする人間かは、なか〜推測出來ませんでした、 エドワァドさまがあの女を外國から連れて來られたと云ひ、或る者はその女はあの方の情婦だと信じてゐました。 ところが、二年前に妙なことが持ち上つたのです -- 實に妙なことが。」
私は今こゝで自分自身の物語を聽くことを恐れた。私は彼に主要なる事實を思ひ出させるやうにした。
「それでその女の人が?」
「その女の人がですね、あなた。」と彼は答へた。「ロチスターさまの奧さまだつてことが分つたのですよ!
その事が露れたのは、幸ひにも不思議な風にです。
「だけど火事は、」と私は云つた。
「そのことを申し上げるところです -- エドワァドさまが戀をなすつたのです。
召使逹はあの方程夢中になつて思ひ込んだ人は見た事が無いと申しますよ。
あの方は
「その話はまた別のときに話してもらひませう。」と私は云つた。
「今は私はある特別な譯があつて火事のことを
「お當てになりましたよ。あなた、火を
「え!あの方は英吉利をお去りにはならなかつたのですか?」
「英吉利をお去りになる?いゝえ、どういたしまして!あの方は家の敷居を跨ぐこともなさらなかつたのです。
ただ夜になると、まるで幽靈のやうに、庭や果樹園を正氣を失つたかのやうにお歩きになりました --
私は正氣を失つてゐらしたんだと思ひます。何故かと云へばあんな家庭教師のちびが思ふまゝにしない前の、
あの方程元氣な、大膽な、鋭い男の方はあなたゞつて見たことはお有りにならなかつたでせう。
あの方はまた、或る人々のやうにお酒とか、
「では、火事が出たときには、ロチスターさんは、お家にゐらしたのですね?」
「左樣です、左樣でございますよ、そしてあの方は、上も下もすつかり火になつてしまつたのに屋根部屋へ上つてゐらして、
召使たちをお起しになり、御自分でみんなを下ろしてお遣りになり、
氣の狂つた奧さまを部屋から助け出す爲めに、またもや引き返してゐらしたのです。
するとみんなはその女が屋根の上にゐると叫んだのです。其處には鋸壁の上に腕を振つてその女が立つてゐて、
一哩位も離れたところまで聞える程の叫び聲を出してゐました。私は、この眼で見もし聞きもしました。
大きな人で、長い黒い髮で、立つてるときに焔の方にそれがなびいてゐるのが見えました。
私も、それから、他の幾人かも見ましたが、ロチスターさまは天窓から屋根へお上りになつたのです。
あの方が『バアサ!』とお呼びになるのが聞えました。あの方の近寄るのが見えました。
すると、その女は大聲で
「死んで?」
「死んでゞす!えゝ、腦味噌や血や飛び散つたあの鋪石同樣生命はありませんでした。」
「何といふことでせう!」
「御尤もです。恐しいことでしたよ!」
彼は身顫ひした。
「そして、それから?」と私は促がした。
「左樣、その後で、お
「他の誰かの生命がなくなつたのですか?」
「いえ。しかし多分、さうなすつた方がよかつた位でせう。」
「どういふ意味です?」
「お氣の毒なエドワァドさま!」彼は叫んだ。「あんなことにおなりにならうとは殆んど思つても見ないことでした! 或る人は、あの方が最初の結婚を祕密にして、生きてる奧さまがお有りなのに、 また別の人と結婚しようとなすつた當然の裁きだと云つてをります。 しかし、私だけは、あの方はお氣の毒だと思ひます。」
「あの方は生きてゐらつしやると云ひましたね?」私は叫んだ。
「えゝ、えゝ、生きておゐでゞすよ。しかしお亡くなりになつた方がよかつたと大抵の人は申します。」
「何故?どうして?」私の血は再び冷たく流れはじめた。 「何處にゐらつしやるのです?」と私は訊ねた。「英吉利のうぃらつしやるのですか?」
「はい -- はい -- 英吉利にをられますよ。とても英吉利から外にはお出になれないと思ひます -- 今は動かれないのです。」
何といふ苦惱であらう!そしてこの男は、それを長引かせようと決心してゐるやうに思はれる。
「あの方は、まつたくの盲目です。」やつと彼は云つた。 「えゝ、まつたくの盲目です、エドワァドさまは。」
私はもつと惡いことを恐れてゐた -- 彼が狂人になりはしないかと恐れてゐた。 私は何がこの不幸の原因であるか訊ねようと力を集中した。
「みんなあの方の勇氣の爲めです。また或る人は同じやうにあの方の親切の爲めだと云ふかも知れません。
何故ならあの方はみんな殘らずあの方より先に出るまで、家をお出にならなかつたのです。 とう〜、ロチスター夫人が鋸壁から身を投げた後に、
あの方が大きな階段を下りていらつしやると、恐しい崩潰が來て -- 何も彼も燒け落ちてしまつたのです。
あの方は燒け跡から助け出されました、生きてしかし慘めに傷ついて。 一本の
「何處にゐらつしやるのです?今何處に住んでゐらつしやるのですか?」
「ファーンディーンでございますよ。御自分の農園のお
「誰と一緒に?」
「ジョン爺さんと、その
「何か乘り物があつて?」
「手前どもに二人乘り二輪馬車がございます。大變に立派な馬車でございます。」
「直ぐに用意させて下さい。そしてもしあなたのところの使ひの小僧が、 今日暗くならない内にファーンディーンまで私を乘せて行つてくれるなら、 あなたもその子にも、平生の倍額の賃金をお拂ひします。」
ファーンディーンの
この家に向つて或る夕方、灰色の空、寒い疾風、續け樣に降る細い刺すやうな雨の模樣を氣にしながら、
私はも少しで暗くならうといふ頃やつて來たのであつた。 約束通り二倍の賃金を拂つて、馬車と馭者を歸して了つて、最後の一哩を私は歩いた。
莊園の
私は自分が間違つた方角に行つて道を迷つたのかと思つた。森の中の暗さと同じに本當の
私は歩みつゞけた。やつと路が開けて、
「此處に一體人が住んでゐるのだらうか?」と私は訊ねた。
さうだ、誰か人間がゐるのだ、何故なら私は物音を聞いた -- あの狹い正面の入口が開いて、 誰か人影がその家から出ようとしてゐた。
私は足を、そして殆んど息をも止めて、じつと彼を見つめて立つた -- 私自身はかくれて。 そして、あゝ!彼には見えず、彼をよく見ようとしてゞある。それは思ひがけない遭遇であつた。 そしてまた歡びが苦痛に阻まれて抑止された會合であつた。私は叫ばうとする聲を抑へ、 急いで近づかうとする歩みを、抑制することは困難でなかつた。
彼の姿は以前の通りに頑丈で力強かつた。彼の身體つきは今もまだ眞直だつた、
毛髮もまだつや〜と黒く、顏も變らず衰へてもゐなかつた。一年の間の如何なる悲痛によつても、
彼の體力が壓服され、力に滿ちた若々しさが
だが、讀者よ、あなた方は私がその盲目な兇猛さをもつた彼を恐れたとお思ひになるか? -- 若しさうだとしたら、あなたは殆んど、私を理解してはゐないのだ。やがてあの石のやうな額に、 またその下に氣難かしげにきつと結ばれたあの唇に何としても接吻をしてあげるのだといふほのかな望みが私の悲しみに混つて來た。 だが、しかし今ではない。私はまだ彼に挨拶したくなかつた。
彼は踏段を下りて、
「腕におつかまりなさいませ。」と彼は云つた。「ひどい夕立が來るやうでございますが、 お這入りになつた方がおよろしくはございませんか?」
「放つといてくれ。」といふのが返事だつた。
ジョンは私に氣がつかないで引込んでしまつた。ロチスター氏はそのとき歩き廻らうとした、 だが空しく -- 何も彼もあまりに覺束なかつた。彼は手探りに家の方へ引返すと、 再び中に這入つて入口を閉めた。
で、私は近づいて扉を叩いた。ジョンの妻が扉を開けてくれた。 「メァリー、」と私は云つた。「お變りなくて?」
彼女はまるで幽靈でも見たやうに仰天した。私は彼女を押し鎭めた。
彼女の慌てた「こんな
「行つたら、」と私は云つた。「旦那樣にある人がお目に懸り度いと云つて下さいな、 だけど私の名は云はないでね。」
「さあ會つては下さらないと存じますよ、」と彼女は答へた。 「あの方は誰も彼もみんなお斷りになるのですから。」
彼女がかへつて來ると彼が何と云つたかを私は訊ねた。
「お名前と御用の向きを仰しやらなくてはいけませんさうで。」と彼女は答へた。 そしてコップに水を注ぎ、それを蝋燭と一緒にお盆の上に置いた。
「それがあの方のお呼びになつた御用?」と私は訊ねた。
「左樣ですの。あの方はいつでも暗くなると蝋燭を持つて寄越させになるのです。 お眼は見えませんけれど。」
「そのお盆を私に下さいな。私が持つて行きます。」
私はそれを彼女の手からとつた。彼女は居間の入口を教へてくれた。 お盆は私が持つと顫へて、水はコップからこぼれた。
心臟は強く
この居間は陰氣に見えた。打ちやらかしの一塊の火は爐格子の中に燃え落ちてゐた。
そしてその上に蔽ひかぶさるやうにもたれて、高い古めかしい爐棚に頭を支へたこの部屋の盲目の主の姿が見えた。
片側に横になつてゐた彼の老犬、パイロットは通路から動いて、 恰もうつかり踏みつけられるのを恐れるかのやうに丸まつてゐた。
私が入つて行くとパイロットはピンと耳を突立てた。そしてきやん〜くん〜鳴きながら跳び上つて私の方に跳びついて、
もう少しで、私の手から、お盆を突き落すところだつた。それを
「水をお寄越し、メァリー」と彼は云つた。
今は半分しきや入つてないコップを持つて、私は彼に近づいた。 パイロットは騷いで私について來た。
「何うしたんだい?」と彼は訊いた。
「靜かにおし、パイロット!」と私は再び云つた。彼は口まで持つて行きかけた水を途中で止めて、 耳を澄ましてゐるやうだつた。飮むと彼はコップを下に置いた。「お前、メァリーぢやないのか?」
「メァリーは臺所でございますよ。」と私は答へた。
彼は思はず手を差し伸した。しかし何處に私がゐるか見えないので私には屆かなかつた。 「誰です?誰です?」と彼はその見えぬ眼で、見ようとするかのやうに訊ねた -- 空しい、痛々しい努力!「返辭をしておくれ -- も一度口を利いておくれ!」 と彼は思ひ迫つたやうに、聲を高めて云つた。
「も少しお水を差上げませうか?私、コップに入つてた半分をこぼしてしまひましたの。」と私は云つた。
「誰です?何ですか?誰が話してるのです?」
「パイロットも知つてをります。それからジョンもメァリーも私が此處にゐるのを知つてをります。 私は今夜着いたばかしなのです。」と私は答へた。
「何としたことか!何といふ妄想が、私を襲つたのだらう?何といふ嬉しい狂氣になつたのだらう?」
「妄想でも -- 狂氣でもありません。妄想が湧くにはあなたのお氣はあまりにお強うございます。 狂氣になるのはあなたのお身體はあまりに健康です。」
「そしてその話し手は何處にゐるのか?たゞ聲ばかりだらうか?おゝ、私には見えない。 だが觸つて見なくちやならない。さもなければ、私の心臟は止つて、頭は破れてしまふ。 何であらうとも -- お前が誰であらうとも -- 手に觸れるものであつてくれ、 でなければ私は生きてはゐられない!」
彼は手探りした。私は、彼の探る手を捉へて、私の兩手の中に握り締めた。
「あの人のあの指だ!」と彼は叫んだ -- 「あの人の小さな細い指だ!もしさうなら、 もつとあの人のものがある筈だ。」
逞しい彼の手が私の握り締めを解いた。私の腕がつかまれた、肩も -- 頸も -- 腰も -- 私は絡まれ、 彼に抱き寄せられた。
「ジエィンなのか?これは何だらうか?これはあの人の身體だ -- これはあの人の背丈だ -- 」
「そしてこれがあの子の聲ですよ。」と私は云ひ添へた。「あの子はすつかりこゝに來ました。 心も一緒に。喜んで下さい!またこんなにあなたのお傍に來られて嬉しうございます。」
「ジエィン・エア! -- ジエィン・エア!」としか彼には云へなかつた。
「大事な旦那さま。」と私は答へた。「私はジエィン・エアでございます。 私はあなたを探し出しました -- あなたのところに歸つて來ました。」
「眞實に? -- 生きて?
「お觸りになつてらつしやるではありませんか、あなた -- あなたは抱いてゐらつしやいます、 しかもそんなにきつく!私は死骸のやうに冷たくもなければ、空氣のやうに空つぽでもありませんでしよ?」
「生きてゐる私の大事な人!本當にこれはあの人の手だ、あの人の身體だ。 しかし私はあんな慘めな目を見たのだ、今こんなに幸福になる筈がない。これは夢だ、 かうして今してるやうに、も一度あの人を私の胸に抱き締めたと夜中に見るあの夢と同じ夢なのだ。 かうして接吻し -- そしてあの人が私を愛してゐると思ひ、私を捨て去りはしないと信ずる、あれと同じ夢だ。」
「もう今日からは決してそんなことはありません。」
「決して、と夢は云ふのか?しかしいつも眼が醒めて見れば空しい愚弄なのだ。 そして私は寂しく、見捨てられて -- 私の生涯は暗く、孤獨で、希望もなく -- 魂は渇いてゐるのに飮むことを禁じられてをり -- 心は飢ゑてるのに飢ゑをみたすことも出來ない。 今私の腕の中に巣喰つてゐるいとしい優しい夢よ、お前も今までのお前の姉妹が逃げたと同じやうに飛び去るのだらう。 だが行く前に接吻しておくれ -- ジエィン。私を抱いておくれ。」
「こゝにも -- そしてこゝにも。」
私は、唇を、彼の嘗ては輝いたそして今は光のない眼に、押しつけた -- 彼の頭から髮を掻き上げて、 それにも唇をつけた。不意に彼は我と我身を奮ひ起たせようとする樣子だつた。 あらゆる現實の證據が彼を捉へたのである。
「あなたなのだ -- さう、ジエィン?ぢや、あなたは私の處に歸つて來てくれたのか?」
「さうですの。」
「そしてあなたは何處かの流れに死人となつて横はつてるやうなことはないのですね? そしてまた見知らぬ他人の中になじつた慘めな宿無しでもないのですね?」
「いゝえ、私今では獨立した女ですの。」
「獨立したつて!何ういふ意味です、ジエィン?」
「マデイラの私の伯父が亡くなつて、五千
「あゝ、これは實際のことだ -- これは現實だ!」と彼は叫んだ。 「こんなことを夢に見る筈はない。それに、柔らかくて同時に、
生き〜としてきび〜したあの人特有のあの聲だ。 それが私の
「とてもお金持ですのよ。もしあなたが私と一緒に住むことをお許しにならないとしても、 私、自分の家を直ぐお隣りに建てることも出來ますわ。そして夕方のお話相手が欲しいとお思ひになつたら、 私の居間にいらしてお掛けになつてようございますわ。」
「でもあなたはお金持だから、ジエィン、きつとあなたの世話をするお友逹があつて、 私のやうな盲目の不具者なんぞに身を捧げたりすることを許さないだらう?」
「私、獨立してゐて、しかも、お金持ですと申し上げたぢやありませんか。私は自由な身ですわ。」
「そして私と一緒にゐてくれるのか?」
「きつと -- あなたさへ反對なさらなければ。私あなたの隣人にも看護婦にも主婦にもなりますわ。 あなたは獨りぽつちでゐらつしやる。私、あなたのお相手になります -- 讀んであげたり、 あなたの眼になり手になる爲めに。そんな陰鬱なお顏をなさらないで下さいまし。 私が生きてゐる限りは、あなたを慘めに放つては置きませんわ。」
彼は答へなかつた。彼は眞剱で考へ込んだやうな樣子だた。彼は溜息を吐いた。
彼は恰も物を云はうとするかのやうに、半ば口を開いた。だが再びそれを閉ぢた。
ふと私は當惑を感じた。もしかしたら私はあまりに輕率に慣例といふものを無視しすぎたのかも知れない。
そしてセント・ジョンのやうに彼も私の輕率を無作法と感じたのだ。 實際私はこの申し出を、彼が私に妻になることを望み、また、
私に申し込むだらうといふ心からしたのだつた -- 口に出されぬからとて、不確實だとはいへぬ期待が直ぐに、
彼が私を彼のものとして求めるだらうといふことで私を元氣づけてゐたのであつた。
しかしその結果に對する
「いけない -- いけない -- ジエィン!行つちやいけない。それはいけない --
私はあなたに觸り、あなたの聲を聞き、あなたのこゝにゐる樂しさ、
あなたの爲めの快さを感じたのだ。この喜びを棄てることは出來ない。私には、 さういふ喜びは殆んど殘つてゐない --
私はあなたが入用なのだ。世間ぢや
「ですから、あなたの傍にをります -- 私、さう申し上げましたわ。」
「さう -- しかしあなたは私の傍にゐて一つの事を諒解するのです。 そして私はも一つのことを。あなたは多分私の手となり椅子となる決心をすることが出來るでせう -- 親切な優しい看護婦のやうに私にかしづいて(何故なら、あなたは愛のある心と寛大な魂を持つてゐて、 それがあなたの憐れむ人々の爲めに、身を投げ出させるのだから。) そしてそれがまたきつと私の爲めにも十分なことをしなければならないでせう。 多分もう今では私はあなたに對して父親のやうな氣持を抱かなくてはならないのでせうね? さうではない?さあ -- 云つて御覽。」
「あなたのお好きなやうにと思ひます。若しのれの方がいゝとお思ひになるなら、 私、あなたの看護婦になるだけで滿足いたします。」
「だが、あなたは、いつまでも私の看護婦ではゐられないだらう、ジャネット。 あなたは若い -- いつかは結婚しなければならない。」
「私、結婚しようなんて考へてはゐませんわ。」
「それは考へなくちやいけないよ、ジャネット。もし私が昔の私だつたら、 あなたに考へさせるやうにするだらうけれど -- だが -- 眼も見えぬ木偶の坊ぢやあ!」
彼は再び沈鬱になつてしまつた。ところが反對に私はだん〜快濶になつて新しい元氣を得て來た。 この最後の言葉が、どこにその困難が存してゐるかを私に見拔かした。 そして私にはそれは少しも困難なことではなかつたので、私は初めの自分の困惑からすつかり解き放された。 私は再び快濶に口をきゝはじめた。
「誰かゞ、あなたをも一度人間らしくして差上げるときですわ。」濃く長い伸び放題になつた頭髮を分けながら、私は云つた。 「何故つてあなたと云つたらまるで獅子か、さもなければそんな風なものに變形してらつしやるのですもの。 あなたはこの周りの畑地の中のネブカドネザァルにまがひさうですわ。 まつたくよ。あなたの頭髮と云つたらまるで鷲の羽根みたいですわ。 爪が鳥の爪のやうになつてらつしやるかどうかはまだよく見てゐませんけれどね。」
「こちらの腕には、手も爪もありはしない。」と彼は
「それを見るのは悲しいことですわ。そしてあなたのお眼を -- その額の火傷の痕を見るのは悲しいことですわ。 けれども何よりも惡いことは、それにも拘らず人があなたを萬事に愛し過ぎて、 大事にし過ぎるといふ危險があることです。」
「私の腕や、
「そんなことお思ひになつて?そんな風には仰しやらないで頂戴。さもないと私、 あなたの判斷力をけなすやうなことを何か云ひ出すかも知れませんもの。さあ、一寸の間離れさせて下さいまし、 もつとよく火をおこして、爐を綺麗にしますから。どつさり火が燃えてるときにはお分りになつて?」
「えゝ、右の眼には光が -- 赤い靄のやうに見えますよ。」
「そして蝋燭もお見えになるのね?」
「極く微かに -- みんな光つた雲のやうに。」
「私が見えまして?」
「いゝえ、
「お夕飯は何時?」
「夕飯は食べないことにしてゐます。」
「でも、今晩は少しお召し上りなさいね。私お腹が空きましたわ。きつとあなたもでせう。 たゞ忘れてらつしやるだけですわ。」
メァリーを呼んで、すぐに私は部屋をもつと明るく片附けた。
私は彼にも同じやうに心地のいゝ食事を調へた。私の心は浮き立つて、樂しく、氣も樂に食事の間中、
そしてその後も長い間彼に話しかけた。彼と共にゐると、何一つ惱しい自制も、
歡びや快濶さを抑制することもなかつた。何故なら彼と共にゐると私はまつたく安らかな氣持であつた。
私が彼に
夕食が濟むと、彼は私に向つて樣々の質問をした。どこにゐたのか、何をしてゐたのか、 どうして彼を探し出したのかに就いて。しかし -- 私はほんの部分的な返辭だけしかしなかつた -- その夜、詳細のことを話すにはもうあまりに夜が更けてゐた。 それに私は深い感動するやうなことに觸れることを -- 新らしい感動の泉を彼の胸の内に迸らせることを欲しなかつた。 今の私のたゞ一つの目的は、彼を快濶にさせることであつた。私が云つたやうに彼は明るくなりはじめた。 しかし、なほそれは發作的にであつた。もしも一瞬の沈默が話の間に這入ると、 彼は落着きを失つて、私に觸り、「ジエィン」と呼ぶのであつた。
「あなたも矢つ張り人間なのか、ジエィン?確かにさうなの?」
「間違ひなしにさうでございますよ、ロチスターさま。」
「しかし、どうして、あなたがこんな暗い寂しい夕方、 思ひがけなく私のこの寂しい
「それはメァリーの代りに、私がお盆を持つて這入つて來たからですわ。」
「それに今あなたと一緒にゐるこのときは魔法にかけられてゐるやうだ。 過ぎた幾月かの間どんな暗い、陰氣な、希望のない生活を私は引きずつて來たか -- なすこともなく、待つものもなく、空しい日を送り迎へ、火が消えても寒さを感ぜず、 食べることを忘れても空腹を感じなかつた。しして、絶間のない悲しみ、そして、 折々私のジエィンを今一度見たいと願ふ狂氣のやうな氣持、それを誰が知つてゐよう? 本當に、私はあの人に甦つて來るのを切望した、 この見えぬ眼が元のやうになるようにと願ふより以上に。 どうしてジエィンが私と一緒にゐて、私を愛してゐると云つてくれることがあり得よう。 この人は來たと同じに不意に行つてしまはないだらうか? 明日はもうゐなくなるかも知れない。」
彼自身の
親切な、どんなに、私によくしてくれたつて、それが結局何の役に立つだらう?
「大事な時にあなたはまたしても私を見捨てるだらう -- 何處へ行くのか、どういふ風にしてだか、私には分らないが、影のやうに通り過ぎて、 そしてその後は、探し出されぬやうに消えてしまふのだらう。」
「其處に櫛を持つてゐらつしやいまして?」
「どうするの、ジエィン?」
「一寸このくしや〜になつた黒い
「恐ろしいの、ジエィン?」
「とてもですわ。あなたはいつもさうでしたわ、ねえ。」
「ふむ!何處にゐてもその口の惡いのは直らなかつたのだね。」
「でも、私それは善い人たちとゐましたのよ -- あなたなんぞよりはずつといゝ -- 百倍もいゝ人たちと。あなたが今迄考へたこともないやうな思想や識見を持つた、 まつたくあなたよりも洗煉された高尚な人たちですわ。」
「一體全體、誰とゐたのだ?」
「そんなに(身體を)ねぢつちや、私あなたのお髮を頭から引き拔くぢやございませんか。 でもそしたら、あなたは私の正體を疑つてらつしやるのをお止めになるでせうね。」
「誰と今まで一緒にゐたのさ、ジエィン?」
「今夜はお聞きにならうつたつて駄目 -- 明日までお待ちにならなくちや。ねえ、 私のお話を半分きりにして置くといふのは、
それをお終ひまでする爲めに朝食の
「こいつしやうのない取換兒 --
「さあ、これで綺麗にちやんとなりました。では、これで御免下さいまし。 この三日間、私、旅行をしつゞけでしたの。きつと疲れてるだらうと思ひます。お休み遊ばせ。」
「一言だけ、ジエィン、あなたがゐた家は女の人ばかりだつたの?」
私は笑つて逃げ出した。そしてなほも笑ひながら二階に駈け上つた。「いゝ考へだわ!」と、 私は嬉しくなつて考へた。「しばらくの間あの方を焦らして、憂鬱を忘れさせてあげる方法が分つたわ。」
次の朝恐ろしく早く彼が起きて一つの部屋から次の部屋へと歩き廻る物音が聞えた。 メァリーが下りて來るや否やこんなことを訊ねてゐるのが聞えた。 「エアさんはお泊りかい?」それから、「どのお部屋にお連れしたんだい? 乾いた部屋かい?もうお目覺めかい?行つて何か御用がないか訊ねて御覽、 それから何時に降りていらつしやるかつて。」
朝食の用意が出來たと思ふや否や、すぐに私は降りて行つた。私はそつと忍んで部屋に入つて行つて、
彼が私の來たのに氣附かない内に彼を眺めた。本當に、 あの
「よく晴れたいゝ朝でございますよ、」と私は云つた。「雨はすつかり上つて、その後が氣持よく晴れてゐます。 早く散歩いたしませうね。」
私は輝きを醒ました。彼の容貌は明るくなつた。
「おゝ、本當にそこにゐるのですね、雲雀さん!こつちへおいで。 あなたは、逃げもせず -- 消えもしなかつたのか?一時間ばかり前、
あなたの同類があの森の遙か上の方で歌つてるのが聞えたが、 しかし旭日が光線を持たないと同じやうにその歌も、私には音樂ではなかつた。
地上のあらゆる
彼の、この信頼の言葉を聞いて、私の眼には涙が浮かんで來た。 それは恰もとまり木につながれた王者のやうな鷲が、雀に向つて、
その養ひ手になるようにと懇願することを餘儀されてゐるやうなものだつた。
しかし、私はめそ〜してはいけない。鹽つぱい滴を拂ひのけると、
その朝の大部分は戸外で過した。私は濡れて荒れ果てた森から明るい野へと彼を連れ出した。
私は彼に向つてどんなに萬物が輝かしく緑色をしてゐるか、どんなに花や
「慘酷な、慘酷な逃亡者!おゝ、ジエィン、あなたがソーンフィールドを脱け出したと知つたとき、 そしてどこにもあなたが見つからなくて、あなたの部屋をしらべてみると、 お金もそれと同じ役に立ち得る物も何も持つては行かなかつたことを確かめたとき、 私はどんな氣持がしたらう!私のあげた眞珠の頸は手もつかないで小凾に入つてゐた。 あなたの鞄は結婚の旅の用意をした時のまゝ紐をかけ錠を下して置いてあつた。 蓄へもなく、一錢もないまゝで、私の大事な人はどうなるかと私は訊ねた。 そしてどうしたのだらう?今聞かせておくれ。」
かう云はれて、私は去年中に私の經驗した物語をはじめた。あの放浪と饑餓の三日間の關することは私はずつと加減した。 何故なら總てのことを彼に話すことは不必要な苦痛を加へると思つたからである。 それは私の云つた僅かのことが彼の誠實な心を私が思つた以上に、深く苦しめたからである。
彼は、私が世に立つて行く手段も講じないで、あんな風に、彼の處から出て行くといふ法はないと云つた。
私は彼に私の意志を語つて置くべきだつたらう。私は彼を信ずべきだつたらう。
彼は私に彼の
「でも、私の苦痛がどんなものであらうとも、それは極く短いものでした。」と私は答へた。 そして私はムウア・ハウスでどんな待遇を受けたか、またどうして學校教師の職を得たか等に就いて語り續けた。 當然の順序として、財産の相續、血縁の發見などがそれに續いた。 勿論私の話の進行につれてセント・ジョン・リヴァズの名が屡々這入つた。話を終るとその名はすぐに取り上げられた。
「そのセント・ジョンといふのは、では、あなたの從兄なんだね?」
「えゝ。」
「その人のことをあなたは幾度も云つたけれど、あなたはその人を好きだつたの?」
「大變いゝ人なんですもの。好きにならずにはゐられませんでしたわ。」
「いゝ人!といふのは尊敬出來る品行方正な五十位の人といふ意味なの? それともどういふ意味なの?」
「あら、セント・ジョンは、まだたつた二十九ですわ。」
「彿蘭西人の所謂『まだ若いという
「あの人は飽きることが無い程活動的なのですの。偉大な高尚な行爲が、あの人の理想なのです。」
「しかしその人の頭は?多分どつちかと云ふと愚鈍な方なんだらう?云つてゐることは、當り前でも、 あなたはその云ひ草を聞くと、肩をすくめるやうなんだらう?」
「あの人は殆んど口を利きませんの。云ふことと云つたらいつも要領を得てゐますのよ。
隨分
「ぢや、才幹のある人なの?」
「本當にさうなんですの。」
「十分に教育のある人なの?」
「セント・ジョンは博くて深い學者ですわ。」
「態度はあなたの趣味には
「私、あの人の態度のことは云つたことはありませんわ。ですけど、私の趣味が大變低いのでなければ、 それは
「風采は -- 風采に就いてあなたがどんな説明をしたか忘れたけれど -- 白の
「セント・ジョンは、ちやんとした
(傍白)「畜生!」(私に對つて)「その人を好きだつた、ジエィン?」
「えゝ、ロチスターさん、好きでしたわ。だけど、そのことはさつきお訊きになりましたわ。」
無論、私はこの質問者の心を見て取つた。嫉妬が彼を捉へた、彼を刺したのである。
しかしその刺戟は健康によいものであつた。咬み
「多分、あなたは、もうこれ以上、私の膝に腰を掛けてゐたくないでせう、エアさん?」と云ふのが、 その次の幾らか豫期しない言葉であつた。
「どうしてゞすの、ロチスターさん?」
「たつた今、あなたが描いて見せた畫は、むしろ壓倒し過ぎるほどの對照を
「私そんなことを今迄考へたこともありませんでしたわ。だけどまつたくあなたときたら、 ワ゛ルカンと云つた方がよさゝうですわね。」
「いや、私を置き去りになすつても構ひませんですよ。だた行つておしまひになる前に、」 (そして彼は前よりもつときつく私を抱きしめた)「ほんの一つ二つの質問に應じて下さりや有難いのですが。」
「どんな質問ですの、ロチスターさん?」
そこで、この嚴しい訊問がつゞいた。
「セント・ジョンは、あなたが彼の從妹だと分る前に、あなたをモオトンの學校教師にしたのですね?」
「えゝ。」
「度々會つたのですか?時々は學校にも訪ねて來たのですね?」
「毎日でしたわ。」
「あなたの遣り方に贊成したのですね、ジエィン?それは噐用なものだつたと思ふ、 あなたは才能のある人だから。」
「それに贊成しましたわ -- えゝ。」
「あなたの裡に向うで豫期し得なかつたやうな樣々なものを發見したでせうね? あなたの才藝のあるものは普通ぢやあないから。」
「そんなことは、私には分りませんわ。」
「あなたは學校の近傍に小さな家を持つてたと云つたが、そこへあなたに會ひに來たことがるのですか?」
「時々ね。」
「日が暮れてからは?」
「一度か二度くらゐありましたわ。」
沈默。
「從兄妹だと分つてから後、どれ位の間その人やその妹逹と一緒に住んでゐたのです?」
「五ヶ月でした。」
「リヴァズは、その家族の女の人たちと
「えゝ。奧の居間があの人と私共の書齋でしたから。あの人は窓際に掛けてたし、 私共は
「その人はうんと勉強したのですか?」
「とても。」
「何を?」
「ヒンドスタン語を。」
「そしてその間、あなたは何をしてゐた?」
「私、はじめには、獨逸語を勉強しましたの。」
「その人が教へたのか?」
「あの人は獨逸語は出來ませんの。」
「ぢや何も教へなかつたの?」
「ヒンドスタン語を少し許り。」
「リヴァズが、あなたに、ヒンドスタン語を教へたんだつて?」
「えゝ、さう。」
「そしてその妹逹にも?」
「いゝえ。」
「あなたゞけに?」
「私だけにですわ。」
「教へてくれと云つたのか?」
「いゝえ。」
「彼があなたに教へてやらうと云つたのだね?」
「えゝ。」
また沈默。
「何故教へようとしたのです?ヒンドスタン語なんぞあなたに何の役に立つのです。」
「あの人は私を印度に連れて行かうと思つたのですわ。」
「あゝ!それでことがはつきりわかつた。あなたと結婚しようと思つたのだね?」
「結婚してくれつて云ひましたのよ。」
「それは嘘だ -- 私をいぢめる爲めの怪しからん思ひつきだ。」
「御免下さい、それは文字通り本當なのです。あの人は一度ならず私に申し込みましたの、しかも、 いつもあなたがなさつたやうに自分の思つてることを頑固に強ひて。」
「エアさん、繰り返して云ひますがね、私を置き去りにしていらして構ひませんよ、
幾度同じことを云ふのだらう?何だつてそんなに
「だつて此處が樂しいんですもの。」
「いや、ジエィン、あなたは此處にゐて樂しい筈はない、何故つてあなたの心は私の處にはないのだ。 それはこの從兄 -- セント・ジョンの處にあるのだ。あゝ、 今の今まで私は自分の可愛いジエィンはすつかり私のものだと思つてゐた! 私を捨てゝ行つたときにさへ、私を愛してゐたと信じてゐた。それがひどい辛さの中での僅かな喜びだつた。 長い間、私どもは別れてゐたけれど、別れ〜になつてゐることを思つて、熱い涙を名がしたけれど、 私があの人のことを歎いてゐる間に、あの人は他の人を愛してゐたとは思ひもしなかつた! だが悲しんだつてどうにもなりはしない。ジエィン、行つて下さい。行つてリヴァズと結婚なさい。」
「それぢや、私を振り落して下さい -- 押しのけて下さい。何故つて、私、 自分から進んであなたにお別れはしませんから。」
「ジエィン、私は何時でもあなたの聲の調子が好きだ。それは未だ希望を甦らせ、 いかにも眞實に聞える。それを聞くと私は一年昔にかへる。私はあなたが新らしい縁を結んでゐることを忘れてしまふ。 だが私は莫迦ではない -- お行き -- 」
「何處へ私は行かねばなりませんの?」
「あなたの途を -- あなたの選んだ
「それは、誰のことですの?」
「あなたは知つてゐる -- このセント・ジョン・リヴァズだ。」
「あの人は私の
私は思はず身顫ひして本能的に私の盲目の、しかしいとしい主人に
「何だつて、ジエィン!それは本當なのか?それが本當にあなたとリヴァズの間の事情なのか?」
「決して間違ひありません!おゝ、あなたは嫉妬なんぞなさることは要りませんわ! 私、あなたの悲しみをまぎらさうと思つて、ちよつと、からかはうと思つたゞけなんです、 だつて怒る方が悲しむよりはましだらうと思つたもんですから。 ですけど、若しあなたが私にあなたを愛させ度いとお思ひになるなら、 私がどんなにあなたをお愛ししてゐるかあなたの見ることがお出來になつたら、 あなたはきつと誇らしくお思ひになり、滿足なさいますでせう。 私の心はみんなあなたに差上げます -- あなたのものです。もし、 運命が私の心以外のみんなをあなたのお傍から永久に奪ひ去つてもそれだけはあなたのお傍に殘つてをります。」
再び、彼が私を接吻したときに、痛ましい思ひが彼の面を曇らせた。
「この見えぬ眼!この不具の腕!」と彼は悲しげに呟いた。
私は彼を慰める代りに抱きしめた。私には彼の思つてゐることがわかつてゐた。
そして彼の代りに口を利かうとしたけれど、云ひ得なかつた。暫し、彼が顏をそむけたとき、
私は
「私はソーンフィールドの果樹園の雷にうたれた栗のと同じだ。」と彼はやがて口を切つた。
「そして、そんな朽木が蕾の
「あなたは朽木ではありませんわ -- 雷に打たれた木ではありませんわ。
あなたは青々として力に滿ちてゐらつしやいます。草はあなたがお求めになつたつて、
ならくたつてあなたの根の邊りに生えます。何故つてあなたのその美しい木蔭が好きなんですから。
そして生えたらそれはあなたに
再び彼は微笑んだ。私は彼を慰め得たのであつた。
「あなたは友逹のことを云つてゐるの、ジエィン?」と彼は訊ねた。
「えゝ、お友逹のことを。」と私はためらひ勝ちに云つた。 何故なら私は自分が友逹以上のことを意味して云つてるけれど他のどんな言葉を使つたらいゝか分らなかつたから。 彼が私を助けてくれた。
「あゝ!ジエィン。しかし私は妻が欲しいのだ。」
「本當!」
「さうだ。驚いた。」
「無論ですわ。だつて今まで、そんなことはまるつきり仰しやらなかつたんですもの。」
「嫌な
「それは場合によりけり -- あなたのお好きなやうにですわ。」
「それをあなたが私の代りにしていゝのだ。ジエィン。私はあなたの決めたのに從ふから。」
「ではお選び下さい -- 最もよくあなたを愛する者を。」
「少くとも私の選ぶのは -- 私の最も愛する人だ。ジエィン、私と結婚してくれるか?」
「はい。」
「手を取つて連れ廻らなくてはならない、こんな憐れな盲目の男と?」
「はい。」
「あなたが世話を見てやらなくてはならない、二十も年上の跛足の男とでも?」
「はい。」
「心から、ジエィン?」
「本當に、心から。」
「おゝ可愛い人!神よこの人を祝福し
「ロチスターさん、 -- もし私が今迄のうちに善い行ひをしたことがあるなら、 --
もし誠心こめた過ちのない祈りを捧げたことがあるなら -- もし正しい望みを抱いたことがあるなら、
今こそ私は
「何故と云つて、あなたは喜んで犧牲になるのだから。」
「犧牲ですつて!私が何を犧牲にしてゐまして?飢ゑたるものには食物を。望むものには滿足を。 私の大事なものに腕を捲き -- 愛するものに唇をつけ -- 信頼するものの上に憇ふ特權を得る、 それが犧牲となることでせうか?もしさうなら、まつたく私は喜んで犧牲になりますわ。」
「そして私の弱さを我慢し、ジエィン、 -- 私の缺點を看過してなのだ。」
「そんなことは私には何でもありません。私は本當にあなたのお役に立つ今の方が、 あなたが與へ手であり保護者であるより以外の役を輕蔑してゐらしたあの誇らしい獨立の時代のあなたよりも好きなんですの。」
「今迄は手をかされることを憎んで來たけれど -- 以後は手を取られることをもう憎みはしないと思ふ。
私は自分の手を召使に取らせるのは嫌だ。だが、ジエィンの小さい指に握られてゐると思へば嬉しい。
私は召使共の
「もう、細かな〜ところまで。」
「こんな工合なら何も待つてることは要らない。直ぐにも結婚しなくちやあね。」
彼は熱心な樣子になつて話した。彼の昔からの
「この上ぐづ〜しないで私共は同體にならなくては、ね、ジエィン。許可證をもらふだけだ -- それから結婚しよう。」
「ロチスターさん、今氣がついたのですが、もうとつくに陽は
「それはあなたの帶に挾んでお置き、ジエィン、そして以後も持つてゝ下さい。 私はもうそれは要らないのだから。」
「もう殆んど午後の四時近くですわ。お腹がお空きになりませんこと?」
「今日から三日目が我々の結婚式の日ですよ、ジエィン、立派な衣裳や寶石の心配はもう何もしないことにしよう -- 爪の先程の價値もないやうなものはみんなね。」
「陽が照つて雨の雫はすつかり乾いてしまひましたわ。風もなくなつたし、隨分暑くなつたこと。」
「ねえ、ジエィン、
あなたは私があのあなたに上げた小さな眞珠の頸飾を今でもこの
「私たちは、森を拔けて歸りませうね。一番涼しい路ですから。」
彼は私の云ふことには耳もかさず自分の考へを追つた。
「ジエィン!きつとあなたは私のことを信仰の無い奴だと思つてゐるだらうね。 しかし私の心は今は情け深い地上の神への感謝で一杯なのだ。 神は、我々人間のやうな見方ではなく、もつとずつと明らかに御覽になり、人間のやうな裁き方ではなく、 もつとずつと賢明な裁き方をなさるのだ。私は間違つたことをした。罪のない花を汚し -- その清淨さに罪の息吹をかけようとした、すると神はそれを私から奪ひ去つておしまひになつたのだ。 強情な腹立ちの餘り、その宣告に屈するどころか私は殆んど天の配劑を呪ひさへした、 公然とそれに叛抗したのだ。神の裁きは、着々と進んで、私は大きな不幸に出逢ひ、 死の蔭の谷間を通ることを、餘儀なくさせられた。神の懲罰は強い力を持つてゐる、 私はもう永久に頭の上らなくなるやうな一撃を受けてしまつた。あなたも知つてるやうに、 私は自分の力を誇つてゐた、しかし、子供のやうに、もうそれを他人の手に頼らねばならない今は、 それが何にならう。近頃になつて、ジエィン -- ほんの -- ほんの近頃になつて -- 私は自分の運命に加へられた神の手を見もし知りもするやうになつたのだ。 悔恨、悔改めを、經驗しはじめたのだ。造り主に從ひかへらうとする願ひなのだ。時々私は祈りを -- それはもう實に短い祈りだけれど、しかし本當に心からのものをはじめたのですよ。
「幾日か前 -- いや、數へることが出來る -- 四日前だ、この間の月曜の夜だつた -- ある不思議な氣持が私にやつて來てね、狂亂が憂鬱となり -- 不思議な怒つた氣持が悲哀に代つたのです。 私はもう長いこと、何處にもあなたが見つからないからには、もう死んでしまつたに相違ないといふ氣がしてゐたのだ。 その晩おそく、 -- 多分十一時から十二時迄の間だつたと思ふけれど -- 陰氣な床に就く前に私は神樣にお祈りしたのです。 若しいゝと思召すなら、早くこの世から私を去らせて、なほまだジエィンと共になれる希望のある未來の世に行かせ給へと云つて。
「私は自分の部屋を開け放した窓際に坐つてゐた。かぐはしい夜の空氣に觸れると私はなだめられるのです、 星は見えず、たゞぼんやり光る明る味によつて月んお出てることがわかるばかりだつたが。 私はあなたを求めた、ジャネット!あゝ、私はあなたの身も心も二つ乍ら求めた! 苦惱と謙遜の中から、若しや私はもうあまりに長い間たゞ一人殘され、惱まされ、責められてゐるのではないか、 そしてやがて今一度幸福と平和を味ふことも今は出來ないのかと神樣に訊ねたのです。 私は耐へ、忍んだ總ての苦痛と悲しみは當然といふこと -- 最早この上耐へることが出來ないことを私は訴へたのだ。 そして私の心を終始してゐる願ひが我知らず口に出たのです -- 『ジエィン!ジエィン!ジエィン!』と。」
「その言葉を大きな聲で仰しやつたのですか?」
「さうだ、ジエィン。若し誰か聞いてた人があつたら、きつと私のことを狂氣だと思つたに違ひない。 まるで氣が狂つたやうに一生懸命に叫んだのだ。」
「そしてそれはこの間の月曜の晩で、
「さうだ。しかし時間のことは何の關係もありはしない、その次にあつたことが不思議なことなんだ。 あなたは私のことを迷信深いと思ふだらう -- ある迷信は私の血にあるし、またいつもあつたのだ。 しかし、それにも拘らずこれは本當なのだ -- 少くとも今私が話すことを私が聞いたのは本當なのだ。
「私が『ジエィン!ジエィン!ジエィン!』と叫んだとき、聲が -- その聲が何處から來たかわからなかつたけれど、誰の聲かよく知つてゐる聲が答へたのだ、 『今行きます、待つてゐらして下さい』と。そして間もなく、風にまじつて囁くやうに 『あなたは何處にゐらつしやるのですか?』といふ言葉が聞えたのだ。
「出來るならばその言葉が私の心にもたらした思ひを、姿をあなたに話して上げ度い。
しかし私の云ひ度いことを口に云ひ現はすのは難かしい。ファンディンは、あなたも知つてるやうに、
物の音などは
讀者よ、それは月曜の晩だつたのだ --
「だからもう驚く譯はないでせう、」と私の主人は言葉を續けた。
「昨夜あんなに思ひもかけずあなたが私の許に現はれたとき、あの眞夜半の囁聲や山彦が前に消えてしまつたと同じに、
靜けさと
彼は私を膝から下ろして、起ち上ると、うや〜しく帽子をとつて、見えぬ目を地上に落して、 無言の祈祷を捧げて立つた。たゞその祈りの最後の言葉だけが聞えた --
「裁きの中にあつても我が造り主が惠みを忘れ給はなかつたことを感謝いたします。願はくは我が救世主よ、 今より後は、今迄私の送つて來たものよりはもつと清らかな生活を送る力を私に與へ給はんことを!」
そして彼は曵いて呉れと手を差しのべた。私はそのいとしい手を取り、しばし、 それに唇をつけて、それから肩にかけた。彼よりも隨分背が低いので、私は彼の杖にもなり導き手にもなつたのであつた。 私共は森に這入つて家路についた。
讀者よ、私は、彼と結婚した。私共の結婚式は、ひつそりとしたものだつた。
彼と私、牧師と書記、たゞそれつきりが出席しただけであつた。教會から歸ると、
私は、
「メァリー。私、今朝、ロチスターさんと結婚しましたよ。」 この女房と亭主はどんなときにでも、金切聲で耳をつんざかれたり、
それに次いで
「左樣ですか、あなた?それは、それは!」
ちよつと經つてから彼女は續けた -- 「あなたが旦那さまとお出掛けなさるのはお見掛けしましたけど、
御婚禮の式をなさりに教會へお出でんさつたとは氣が附きませんでした。」
そして、彼女は、肉汁に埀らす方にかゝつた。振り向くとジョンは齒をむき出して、にや〜と笑つてゐた。
「だからメァリーに云つてたんだ、」と彼は云つた。「
「有難うよ、ジョン。ロチスターさんが、これをお前とメァリーのお遣りと云つて下すつたのよ。」
私は彼の手に、五
「あの人はきつと、あの立派な貴婦人の誰よりもあの方にやあ、いゝだらうよ。」
それからまた、「あの人が、素敵もない美人の一人ぢやないたつて、あの人は、決して
私はすぐにムウア・ハウスとケムブリッヂに私のしたことを知らすために、手紙を書いた。 何故に私がこんな風な行動を取つたかをもまた、十分に詳しく説明した。 ダイアナとメァリーは隔意なく私の處置に贊成してくれた。 ダイアナは私が新婚の旅を終るのを待つて、來訪し、私に會はうと云つて來た。
「それまでお待ちにならない方がいゝよ、ジエィン、」と私が彼女の手紙を讀んで聞かしたときに、
ロチスター氏は云つた。「でないと、もう間に合はなくなるよ、何故つて、我々の
どんな氣持で、セント・ジョンが、その報せを受け取つたか、私は知らない。 彼は私がこのことを知らせてやつた手紙には、決して返事を寄越さなかつたのだ。 しかし六ヶ月經つてから、彼は手紙を寄越した。しかしその中には、ロチスター氏の名を云ふこともなく、 私の結婚にも言及してなかつた。その時の彼の手紙は、落着いた、しかし非常に嚴肅な親切なものであつた。 それ以來いつも、彼は度々ではないが、規則正しく通信を續けて來た。彼は、私が幸福であることを希望し、 また、私が神なくしてこの世に生活して、たゞ地上のことのみを思ふ人ではないと、信じてゐるとあつた。
讀者よ、あなた方は幼いアデェルのことを、殆んど忘れてはゐないでせうね。
私は、忘れてはゐなかつた。私は、直ぐに、ロチスター氏に願つて、あの子の入つてゐる學校に行つて、
會つて來る許しを得た。再び、私を見たときの彼女の狂ほしい程の喜びが、いたく私を動かした。
彼女は蒼ざめて痩せて見えた。幸福ではないと彼女は云つた。直ぐに私はその學校の規則が餘りに嚴重過ぎることと、
彼女位ゐの年頃の子供にとつて、その學課の課程が餘りに重過ぎることを知つた。
私は、彼女を一緒に連れて歸つた。私は今一度、彼女の先生になる積りだつた。
しかし直ぐに、この不可能なことに氣がついた。私の時間も注意も今は他の人に取られてゐた --
私の
私の物語ももう終りに近づいた。私の結婚生活の體驗に關して、一言、 そしてこの物語の中にその名が最も屡々出て來た人々の運命に短い一瞥を與へれば、それでもう終りになるのである。
もう私は結婚以來十年になる。私には、この世で最も愛する者の爲めに、
またそれと共にひたすら生きるといふことがどんなことであるかゞわかつてゐる。 私は、自分に最上の祝福を受けつゞけて來た --
言葉に云ひ現し得ぬ程の祝福である。 何故なら、私は、彼がさうであると同じく、まつたく私の
ロチスター氏は、私共の結婚の最初の二年間、盲ひのまゝであつた。 多分このやうに私共を近づけたのは --
こんなに私共をしつかりと結びつけたのは、その事情だつたのだ! 何故なら、今なほ私が彼の右手であるやうに、その當時私は彼の眼だつたから。
文字通りに、私は(彼が屡々私のことをさう呼んだ)彼の眼の
二年目の終り頃のある朝、彼の命に從つて手紙を
「ジエィン、お前、頸に何か光つた飾をつけてゐるの?」
私は
「そして
さうだつた。すると彼は、先日から片方の眼を蔽うてゐた暗さがだん〜薄れて行くやうな氣がしてゐたが、 今それがはつきりと確かめられたと私に説明した。
彼と私は、倫敦に出掛けて行つた。彼は或る有名な眼科醫にかゝつて、とう〜その片方の眼の視力を恢復した。 今は非常に明瞭には見えないし、またたくさん讀んだり書いたりは出來ないけれど、 しかし手を取られなくも歩くことは出來るやうになつた。最早、空は、彼にとつて、無地ではなく -- 地も、最早空虚なものではないのだ。彼の最初の子供が彼の手に抱かれたときにも、 その男の子が嘗てあつた彼自身の眼 -- 大きく、輝いた、黒い眼を受け繼いでゐるのを見得たのであつた。 そのとき、彼は再び心から、神がその裁きに惠みを加へ給ふたことを認めたのであつた。
かうして、私のエドワァドも私も、幸福である。そして、わけても嬉しいのは、
私共の最も愛する人々が同じやうに幸福なことである。リヴァズ家のダイアナと、メァリーの二人は、
兩方とも結婚した。代る〜一年交代に、彼等は私共に會ひに來、私共は彼等に會ひに行つた。
ダイアナの
セント・ジョン・リヴァズはと云へば、彼は英吉利を去つた -- 印度へ行つたのである。
彼は自分の着眼した途に這入つて行つた。今もなほそれに從つてゐる。これ以上斷然たる、
不屈不撓な開拓者が、岩石と危險の眞只中に働くといふことはなかつたであらう。
セント・ジョンは結婚しないまゝである。もう彼は決して結婚しないであらう。
彼自身今までに十分勞苦を續けて來た。そしてその勞苦も終りに近づいてゐるのである。
彼の光輝ある太陽は、今
「主は」と彼は云ふ、「小生に、豫め警告を下し置かれ候。日毎、主は益々明瞭に -- 『必ず、我は、急ぎ行かん、』と告げ給ひ、毎時、小生は、益々切に答へ居り候、 -- 『アーメン。何時にても來り給へ、主イエスよ』と。」