イーリアス : 目次


タイトル:イーリアス (Iliad)
著者:ホメーロス(Homer, 紀元前九-八世紀)
譯者: 土井晩翆 (つちいばんすい)(1871-1952)
底本:世界文學選書19『イーリアス』
出版:三笠書房
履歴:昭和二十五年二月五日印刷,昭和二十五年二月十日發行

イーリアス

ホメーロス 著

土井晩翆 譯


目次


更新日:2004/04/19

イーリアス : 序


西歐詩界の王座にギリシヤの詩があり、ギリシヤ詩界の王座にホメーロスの二大詩、 『イーリアス』と『オデュッセーア』がある。此二大敍事詩はギリシヤ詩歌全體の源泉であり、 典型であり、随ってギリシア詩歌を源泉とし、典型とする西歐諸國の詩歌一切の根本であり、 詩經と楚辭とが支那歴代詩賦一切の根本であるのに酷似する。 或時代には忘れられたこともあるが、概して今に至るまで、 文運時運の消長を通じ、三千年の長きに亙ってホメーロスは西歐の慰藉であり、好尚である。 「向後一千年の未來時代に、猶確に讀まるゝものはバイブルとヘメーロス」 とは十九世紀後半の碩學ルナンの斷言であった。 最近の獨佛戰爭に於て幸に破壞を免れたパリのルーブル美術館所藏、 アングルの一千八百二十七年の大作『オメール(ホメーロス)の神化』は、 王座に倚り、詩神に月桂冠を授けらるる詩聖を西歐諸國歴代の詩傑文豪が膽仰する畫面である。

『ギリシヤの天才』の卷頭に述ぶるヂョン・チャプマンの言を藉りて曰へば、 近代最高のシェークスピアが忘らるゝとも、ホメーロスは決して忘れられぬ。 後者は歴史の中流に泛び、前者は一の渦流中に浮ぶ。詩を好む者、詩を説く者は (東洋は別として)誰よりも先にホメーロスに向はねばならぬ。

ブラトーン、アリストテレス及び其他が著書中にホメーロスを或は論評し或は引用した時代、 アレクサンダー大王が黄金の[竹/匣]に藏めて『イーリアス』を陣中に携へた時代、 ——其頃のギリシヤは二大詩の作家としてのホメーロスの史的實在に何らの疑を容れなかった。 七つの都市が其生誕地たる光榮を論爭した。其傳記は八種あったが、 其中の一、ヘーロドトスの作と稱するものは、詩聖の誕生を西暦紀元前(B.C.)八百三十年とする。 他の説くところは年代が互に相違して、最古はB.C.一千百五十九年、 最新はB.C.六百八十五年とする。二大詩は別々の人の作と主唱する者、 いはゆる分離論者(コーリゾンテス)が現れたのはギリシヤ文學の末期、 B.C.百七十年頃アレクサンドリア時代に於てである。 (易の十翼は孔子の作たることを司馬遷が史記に明記した以來一千餘年の後、 歐陽脩が初めて否定したやうなものである。)其先頭に立った者はクセーノンと曰ふ學者であった。 當時のアレクサンドリアの圖書館長アリスタルコスは之に反對して古來の傳説を肯定した。 是より先、B.C.六世紀にアテーナの獨裁君主ペーシストラトスは、 從來唯口傳に因って流布した二大詩を書物にした。 次にゼーノドトス(B.C.三百二十五年生れ)といふ學者(第一囘のアレクサンドリア圖書館長)は、 同館中の材料を集めて初めてホメーロスの定本を作った。

クセーノンとアリスタルコス以來、歴代續いて否定或は肯定の論爭が盡きない。 ローマのセネカ(ネロ皇帝の侍從、後に彼に殺された大儒)は、 「かゝる論爭をするには人生は短か過ぎる」と冷語した。

今日現存する『イーリアス』最古の寫本は、西暦紀元(A.D.)十世紀のもの、 アリスタルコス以下諸學者の註解を附して最も貴重なもので、 伊太利ヱニスのマルコ圖書館に珍藏さるゝ。 一千七百八十八年(フランス大革命勃發の前年。日本の天明八年) 此寫本がヰロアソンといふ學者の手によってヱニスに刊行された (其一本を幸に私は所藏してゐる)。これがホメーロスに關する近代の研究と論爭の土臺となった。 即ち一千七百九十五年刊行の有名なフリイドリヒ・ヲルフの『ホメール序論』はヰロアソン刊行の 『イーリアス』を精細に研究考査した結果である。彼の結論によれば、 二大作は別々の人の作、其各も一詩人の作ではない、從來の諸作の集合である。 爾來、昔からの論爭がもろもろの専門家によって繰返されて今日に到った。 ベルリン大學のヰラモヰツ・ミュレンドルフ教授(一八四八——一九三一)は、 ギリシヤ文學研究の一大權威であるが『ホメール研究』(一八八四)等に於て、 ヲルフの説に贊成した。アンドルウ・ラングは『ホーマアと敍事詩』(一八九三)及び 『ホーマアの世界』(一九一〇)に於て、J.W.マッケイル(オックスフォード大學に於ける詩學教授)は 『ギリシヤ詩講議』(一九二六)に於て、C.M.ボーラ(同大學講師)は『古代ギリシヤ文學』 (家庭大學叢書第百六十七卷、一九三三)に於て、ヲルフの説を否定した。 以上は只一二の例を擧げたに過ぎぬ。時代の趨勢に因って、 否定説肯定説かはる〜゛に行はれ、新時代毎に新學説が起って將來永く窮盡する所を知らないであらう。

しかし詩として二大詩を見る一般讀者は、如上の論爭を全く度外視して差支が無い。 昔のギリシヤ人が之を朗吟した伶人(ラプソーヂスト)に恍惚と聞き入った其態度を取って十分である。 但し次の事を忘れてはならぬ。二大詩は彼に先だてる前人の多くの作を材料として集大成したもの、 言語が發達し成熟した曉に、技巧を盡くして完成した非口語體の藝術的作品である。 十九世紀のロマンチク評論が之を(藝術に對して)素朴な自然的作品と稱へたのは全然の誤であった。

『イーリアス』の背景は十年に亙るトロイア戰爭である。 少年時代トロイア戰爭物語に興味を感じたハインリヒ・シリーマンが、 一千八百七十年、小アジアのヒサルリクに古跡を發掘した以來、 考古學的研究は其歩を進めた。その結果、ホメーロスを歐洲文明の曙光と觀じた十九世紀のギリシヤ史専門家、 グラドストーン、フリーマン等の説が根柢から覆へった。 トロイア戰爭を遡ること一千餘年の遠い昔に、エーギア文明は高度の發達を遂げ、 そして其後種々の國家の盛衰存亡が續いたことが明かになった。

トロイア戰爭はどれだけ史的確實性があるか、考古學、言語學、 比較神話學及び史學の嚴密な見地から、未だ容易に決定されない。 「歴史家の歴史」は古來の傳説として、トロイアの落城を假にB.C.一千八十四年としてゐる。 トロイア民族及びギリシヤ民族の紀原及び其關係、更に遡ってエーギア海を舞臺としたクレータ文化、 之につゞくミケーネ文化、又その次の(ホメーロスの歌へる)英雄時代文化、 更に之に次ぐドリアン族進入(B.C.一千百年頃)以來の新文化、 是らに關する學究的論爭は(ホメーロス問題と同様に)將來長きに亙って續くだらうが、 此序篇において言及する必要は無い。

『オデュッセーア』も同様であるが、『イーリアス』の一行一行はいはゆる Heroic Hexameterfダクテル(—∪∪)とスポンデー(——)即ち長短長と長長との交錯の六脚から成る。 長は短の二倍に當る。短の一シラブルを一單位とすれば、各行は二十四單位である。 日本の七、五調は十二音、倍にすると二十四音、 私は此七、五、七、五(私の青年時代の作『萬里長城歌』の如き)を一行として原詩の一行に對し、 原詩と同じ行數一萬五千餘行に譯了した。 二十卷の萬葉集全部の二倍の長さである。『オデュッセーア』は一萬三千餘行である。

「神聖のホメーロスも時には居眠りす」と曰ふ昔のラテンの諺があった。 此居眠りの部分は、恐らく後世の添加であらう。一萬五千餘行全體が悉く精金美玉ではあり得ない。 カーライルのシェークスピア論に「彼の作は窓戸の如し、是に因って内部の面影が覗ける。 が比較的に曰はば、彼の作は粗漏であり、不完である。只處々に完全美妙の文句—— 光輝燦爛として、天火の降るが如きものがある。 ……しかし此光輝は其周圍の光らざるを感ぜしむる。」と曰った。 ホメーロスにも或點に於て同様の事が曰はれよう。 しかし詩中の優秀な部分はホメーロス研究の大家リーフの評の如く、 人界にあり得べき最上最高最美最麗の詩である。「才氣の大、筆力の高、 天風、海濤、金鐘、大鏞も能く其到る處に擬することなし。」 とは杜甫に對する沈徳潛の評であるが、移して詩聖ホメーロスに適用すべきであらう。

歐洲近代の諸國語によるホメーロス飜譯の困難はマシュー・アーノルドの所論の通り、 況して文脈語脈の全然無關係なる日本詩に譯することは非常の難事である。 されど西歐文學東漸以來、 明治大正昭和の三代を經てホメーロスの韻文完譯がまだ一度も世に現はれぬのは日本文學の名譽では無い。 委細は跋文に譲るが、私は分を計らず、微力を盡して此難事に當った。 原作の面目を幾分なりと髣髴せしめ得るなら望外の幸である。

この度三笠書房より出版するに当り、折惡しく譯者病床にあり。 そのため校正その他一切を出版社に一任す。 他日、萬一生き残ったならば、更めて訂正することあるべし。

 昭和廿四年十二月四日

仙臺に於て 土井晩翆

更新日:2004/04/19

イーリアス : 例言


例言

(一)梗概

『イーリアス』とは「イーリオン(トロイエー即ちトロイア)の詩」といふ意味である。 本詩の歌ふところは、アカイア(ギリシヤ)軍勢が十年に亙って、 小亞細亞のトロイアを攻圍した際起った事件中の若干部分である。 是より先、トロイア王プリアモスの子パリス(一名アレクサンドロス)が、 スパルタ國王メネラーオスの客として歡待された折、主公の厚情を裏切って、 絶世の美人、王妃ヘレネー(ヘレン)を誘拐して故國に奪ひ去った。 ヘレネーは其昔列王諸侯が一齊に望む處であったが、 遂にメネラーオスの娶るところとなった。其以前に佳人の父は彼等に、 誰人の妻となるにせよ、若し其夫より佳人を奪ふ者あらば、 協力して夫を助けて奸夫を膺懲すべしとの盟を立てさせた。 かういふ次第でメネラーオスの兄、ミケーネー王アガメムノーンが、 列王諸侯を四方から招いて聯合軍、略十萬人を率ゐて、 舟に乘じてトロイアの郷に上陸し、十年の攻圍を行ったのである。 トロイアは死力を盡くして城を防いだ。しかし城を出でて戰ふことを敢てしない。 トロイア軍中第一の勇將ヘクトールさへも敵し得ない英雄アキリュウスが、 聯合軍に加ってゐたからである。然るに十年目の聯合軍中に内訌が起った。 總大將アガメムノーンが威に誇って、一女性の故により、アキリュウスを辱しめたのである。 後者は激しく怒って、もはや聯合軍のために戰ふことはしないと宣言して、 部下の將士を纒めて岸上の水陣へ退いた。『イーリアス』はこゝから筆を起す。 「神女よ、アキリュウスの怒を歌へ」と。アキリュウスの怒及び其結果、 最後に其怒の解消——以上が『イーリアス』の中心題目である。 此を中心としてトロイア落城の前五十一日間に起った様々の事件が詩中に歌はれてゐる。 アキリュウスが退陣したのでトロイア軍は進出した。二十四卷の『イーリアス』中、 初の十五卷は兩軍相互の勝敗の敍述である。後にトロイアが優勢となりアカイア軍は散々に敗退する。 其時アキリュウスの親友パトロクロスは之を坐視するに忍びず、 友の戰装を借り、進んで勇を奮って數人の敵將を斃したが、 最後にヘクトールに殺され、其戰装が剥ぎ取られる。之に於てアキリュウスは、 初めて猛然と立ちあがり、アガメムノーンと和解して戰場に躍りいで、 敵軍一切を追ひ攘ひ、只一人踏み留ったヘクトールを斃して、 パトロクロスの仇を討ち、屍體を兵車に繋いで之を友の墓のめぐりを曳きずり行くこと十日に及ぶ。 其後敵王プリアモスは神令により、竊かに人目を掠めてアキリュウスの陣を訪ひ、 賠償を出して愛兒の屍體を乞ふた。アキリュウス之を許して數日の休戰を承諾する。 敵王は屍體を城中に携へ歸り葬儀を行ふ。『イーリアス』はこゝに終る。

なほ二十四卷の一々に亙って其梗概を記せば左の通りである。

第一 アポローンの祭司クリュセース、アガメムノーンに辱しめられ、復讐を祈る(第一日)。 疫病(二日 -- 九日)。評定の席開かる。續いて爭論。 アガメムノーン其戰利の美人クリュセーイスを失へる償として、 アキリュウスの美人ブイセーイスを奪ふ。アキリュウス悲憤のあまり神母テチスに訴ふ(十日)。 神母はオリュンポス山上に、十日の旅の後歸り來れる大神ヂュウスに見え、 アキリュウスが今の屈辱に代へて光榮を得る時まで、 トロイア軍に戰勝あらしめ給へと乞ふ(二十一日)。

第二 大神ヂュウス「夢」の精を遣はして、アガメムノーンを欺き、 トロイア軍と戰はしむ。兩軍の勢揃ひ(二十二日)。

第三 兩軍の會戰並に休戰。パリスとメネラーオスとの一騎打ち。 負けたるパリスは愛の神アプロヂーテーに救はる(同日)。

第四 トロイアの將パンダロス、暗に矢を飛ばしてメネラーオスを射り、休戰の約を破り戰闘起る(同日)。

第五 ヂオメーデースの戰功。アプロヂーテーと戰ふ(同日)。

第六 敵將グローコスとヂオメーデースとの會見。ヘクトール城中に歸り、妻子に面す(同日)。

第七 ヘクトールとパリス戰場に進む。アイアースとヘクトールとの決闘、未決に終る。 兩軍おの〜評議。トロイアの媾和使斥けらる。(二十三日)死者を葬るために休戰。 アカイア軍水陣の周圍に長壁を築き、塹壕を穿つ(二十四日)。

第八 戰闘。トロイア軍クサントスの岸に夜中に屯榮(二十五日)。

第九 アガメムノーン謝罪の使をアキリュウスに送り救援を乞ふ。アキリュウス之を拒む(二十五日)。

第十 ヂオメーデースとオデュッシュースとの夜間の進撃、 敵の間謀ドローンを屠る(二十五日夜より二十六日迄)。

第十一 アガメムノーンの戰功、其負傷。ヂオメーデース及びオデュッシュースの負傷。 軍醫マカオーンの負傷(二十六日)。

第十二 トロイア軍進んで敵の壘壁を襲ふ(二十六日)。

第十三 海神ポセードーン竊にアカイア軍を助く。兩軍諸將の激戰(二十六日)。

第十四 天妃ヘーレー計って天王を睡らしむ(二十六日)。

第十五 天王覺めてトロイア軍を助く。アイアース水陣を防ぐ(二十六日)。

第十六 パトロクロスはアキリュウスの戰装を借りて陣頭に進み、 サルペードーンらの猛將を斃し、最後に遂にヘクトールに殺さる(二十六日)。

第十七 パトロクロスの屍體を爭ひて兩軍の激戰(二十六日)。

第十八 パトロクロスの死を聞き、アキリュウスの慟哭。 神母テチス來って彼を慰め、新たの武装をヘープァイストスに造らしむ(二十六日)。

第十九 アキリュウスとアガメムノーンとの和解。復讐の決心(二十七日)。

第二十 諸神戰場に出現。 アキリュウス勇を奮ってアイナイアース及びヘクトールと戰って之を走らす(二十七日)。

第二十一 スカマンダロスの河流、死體に因て溢る。アキリュウス溺れんとして、 ポセードーンに救はる(二十七日)。

第二十二 ヘクトール獨り踏み留ってアキリュウスと戰ひ、遂に殺さる(二十七日)。

第二十三 パトロクロス夢にアキリュウスに現はる。パトロクロスの葬儀(二十八日)。 弔祭(二十九日)

第二十四 ヘクトールの屍を贖ふ。贖ひ得たるヘクトールをトロイアの諸人悲しむ(四十日)。 ヘクトール火葬の準備(四十一日 -- 四十九日)。火葬(五十日)。

 註 日の分ち方はオスカール・ヘンケ博士による。

(二)『イーリアス』中に出づる主要の神と人

〔神〕
ヂュウス
(ラテン名ヂュピター)=クロニオーン又クロニデース(クロノスの子)最上の神、 クロノスとレアとの子、ポセードーン、アイデース、ヘーレー、 デーメーテール諸神の長兄、而してアレース、ヘープァイストス、 アポローン、アルテミス、アプロヂーテー、ヘルメーアス…諸神の父。 また諸英雄(ヘーラクレース、サルペードーン…)の父。 「アイギス(盾の一種)持てる」「雷雲集むる」神、人間の運命を定むる神。
ヘーレー
(ラテン名ヂューノー)ヂュウスの妹、又其妃、「牛王の目を持てる」「玉腕白き」「端嚴の」神女、 アカイア軍を助く。
アポローン
(ポイボス)(ラテン名アポロー)ヂュウスとレートーとの子、アルテミスの兄、 トロイア軍を助くる神、「遠矢射る」神、「銀弓の」神。
アレース
(ラテン名マース)ヂュウスの子、殺戮、闘爭の神。
アテーネー
(パラス、アテーナイエー)(ラテン名ミネルバ)智と勇の神女、ヂュウスの女、 金甲を鎧ひてヂュウスの頭中より生るといふ神話はホメーロス中に無し。 「藍光の目の」神女。アカイア軍を助く。
ポセードーン
(ポセーダイオーン)(ラテン名ネプチューン)ヂュウスの弟、海を司る。
ヘープァイストス
(ラテン名﨏ルカン)ヂュウスとヘーレーとの子、跛行神、工匠の神。
アプロヂーテー
(キュプリス)(ラテン名ヴェーヌス)ヂュウスとヂオーネーとの子、 アイネーアースの母神。美と戀愛の神。
ヘルメース或はヘルメーアス
(ラテン名マーキュリイ)、アルゲープォンテース(アルゴスを殺す者)の別名あり、 使者の役を勤む。
〔人〕
アガメムノーン
(アートリュウスの子=アートレーデース)アカイア聯合軍の總大將。 ミケーネー等の領主。
メネラーオス
(同、アートリュウスの子=アートレーデース)前者の弟、もとヘレネーの夫、 スパルテーの領主。
アキリュウス
(アキルリュウス)、ペーリュウスの子(ペーレーデース)、 母は神女テチス、聯合軍第一の猛將。
アイアース
(テラモンの子=テラモニデース)第二の猛將。
ヂオメーデース
(チュウヂュウスの子=チュウデーデース)前者と伯仲の勇將。
イドメニュウス
(イドメネー)クレーテース族の王、槍の名將。
ネクトール
思慮に長ずる老將軍、ゲレーニアーの領主。
パトロクロス
アキルリュウスの最愛の友。
オデュッシュース
智謀に富める勇將。(以上アカイア側)
プリアモス
トロイア城守、ヘクトール、パリスらの父。(トロイアの正しき發音はトロイアー)
ヘクトール
トロイア軍第一の勇將。
パリス(アレクサンドロス)
ヘレネーを誘拐せる元兇。
アイネーアース
ヘクトールに次ぐ勇將。
サルペードーン
援軍リュキオイ(或ひはリュキエー)族の大將。
グローコス
前者の副將。
アンテーノール
トロイアの元老。
ヘカベー
王妃、ヘクトールらの母。
ヘレネー
先にメネラーオスの妃、トロイア戰役の主因、無双の麗人。(以上トロイア側)

(三)如何に『イーリアス』を讀み初むべきか

譬へば大美術館を訪ひ、美術品を研究翫賞せんとする。 何らの豫備知識なくこゝに臨まば、目は應接に暇なく、 得る處は茫然漠然たる印象のみであらう。かゝる場合には、案内記を讀み、 館中の何物が優秀の作品なるかを辨へ、先づ之に視線を注ぎ、 よく〜其傑作を鑑賞して然る後全體に向ふがよろしい。

文學上の雄篇大作に對する場合も同様である。 内容のあらましを知了した後、先づ篇中の優秀の部を再三讀み味ひ、 然る後、初めから順を追って最後まで讀了するが賢い遣口である。

ホメーロス以外の他の例を取らば『バイブル』である。 『バイブル』はホメーロスと共に萬古不朽の書であるが、 『創世記』第一章から『黙示録』の最後まで讀み通すことは容易ではない。 ヘレン・ケラアは『バイブル』全部を通讀じたことを寧ろ後悔したといふ事である。 『バイブル』中、先づ第一に讀むべきものは何々か、 之に關する委細は此文の正面の目的でないから省略する。

そこで『イーリアス』に返る。全篇の梗概を知了した上は、 詩中の優秀な部分若干を讀み、之を讀み馴れた上で初めから順を逐って最後に至るが宜しい。

優秀な二三の例を左に擧げる。

  1. アンドロマケーとヘクトールとの別れ。(第六歌三百九十以下)
  2. サルペードーンの奮進。(第十二歌二百八十九行以下)
  3. パトロクロスの奮戰と最期。(第十六歌全部)
  4. 最後の二十四歌。

『イーリアス』の核心部第一歌、第九歌、第十一歌、第十六歌以下第二十四歌迄(計十二篇) これを『アキリュウス物語』として刊行したものがある。

(四)固有名詞の發音について

ギリシヤ語の發音は今日に傳はらぬ。種々の學者が各其意見に随って、 好む通に發音してゐる。(1)英國風(2)大陸風(3)近代ギリシヤ風(4)古典風の少くも四通の發音がある。 私は比較的一般に多く用ゐらるる(4)を取って固有名詞を發音した。

(Blassの『古代ギリシヤ語發音』(一八九〇年英譯)に詳説がある)

一般に外國の固有名詞の發音は難題である。特に詩歌に於て左様である。 『假名手本忠臣藏』をロンドンで英譯した時、固有名詞の或者は英語に調和せぬので、 自由に取捨したさうだ。『新約全書』の日本譯にはギリシヤ原音ヨーアンネースをヨハネ、 ペトロスをペテロと直してある。ちと極端の譬だが日本、東京、 神田區、をニホ、トキヨ、カダク、と直すやうなものである。 ホメーロスの原名を歐洲各國は勝手に直してゐる。 英國はホーマー、獨逸はホメール、佛蘭西はオメール、伊太利はオメーロである。 皆其國語の調のためである。(中華民國はホメーロスを荷馬と書く!)

ギリシヤ文法によると固有名詞も格に因って形が變る。其上所謂詩的 特權(ライセンス)に因って、 時としては長短自在である。例へばパトロクロスはパートロクロスとなり得る。 (Brasse's A Greek Gradus 一八四二年刊行)

漢文學の上に見ると、固有名詞の詩的特權は同じく甚だしい。 杜甫の『秋日詠懐一百韻』の中に六朝の書聖顧愷之の名を一字省いて顧愷といひ、 公孫は姓、弘は名である、即ち公孫の姓の上の名一字を省いたのである。 かかる例は無數である。要は調のために取捨するのである。

私も此譯に於て同様の原理に由る固有名詞の發音を採用した。 例へば第一歌劈頭近くにアカイアと發音したものは、斯くしたのである。 メネラーオスをメネラオスとしたのは他の例である。


更新日:2004/04/19

イーリアス : 第一歌


第一歌

詩神への祈。題目の略示。アポローンの祭司其女クリュセーイスの贖を求めてアガメムノーンに辱めらる。 祭司の祈に依りアポローン疫癘をアカイア陣中に湧かしむ。豫言者カルハースの説明。 アガメムノーンとアキリュウスとの爭。アガメムノーン祭司の女を返し、 其代償として先にアキリュウスの獲たるブリイセーイスを奪ふ。 アキリュウス怒り、部下を率ゐて水陣に退く。神女テチス其哀訴を聞き、 ヂュウスの救を乞ふことを約す。クリュセーイスの解放。 神母オリュンポスに登り、ヂュウスに約すらく、 アキリュウスの屈辱を雪ぐ迄はトロイア軍に戰勝を許すべしと。 天妃ヘーレー之を悟りて天王と爭ふ。ヘープァイストス之を和解せしむ。

神女[1]よ歌へ、アキリュウス・ペーレーデース[2]凄じく
燃やせる瞋恚——その(はて)はアカイア軍[3]におほいなる
禍來たし、勇士らの猛き魂冥王[4]に
投じ、彼らの(しかばね)を野犬野鳥の()と爲せし
すごき瞋恚を(斯くありてヂュウスの神意滿たされき)
アトレーデース[5]、民の王、および英武のアキリュウス、
猛けり爭ひ別れたる日[6]を吟詠の手はじめに。

[1]詩神ムーサ(複ムーサイ)。
[2]ペーレーデースとはペーリュウスの子の意。
[3]正しく曰はばアカーイアー。當時はグリースの名稱無し。國王はアカーイオス(複アカーイオイ)又アルゲーオイ又ダナオイとも呼ばる。
[4]冥府の王アイデース或はハイデース、いつもペルソーナとして冥府を見る。二十三歌ニ四四に初めて冥府となす。
[5]アトレーデースは「アトリユスの子」の意。此發音は他の詩歌による。ホメーロスの作中には必ずアートレーデースと發音(Brasse's Greek Gradus)本訳には兩者共に用ふ。
[6]「爭ひ別れたる日」のこのかた「ヂュウスの神意滿たされき」と解する人々あり。

いづれの神ぞ、爭を二雄の(あひ)に起せしは?
そはレートーとヂュウスとの生める子[7]——彼は其祭司
クリュセーイスを恥ぢしめしアトレーデースにいきどほり、
陣に疫癘湧かしめぬ、斯くて衆軍亡び去る。
これより先にクリュセーイス其の愛娘を救ふべく、
巨多の賠償もたらして、アカイア族の輕舟の
水陣さして訪ひ來り、手に黄金の笏の上、
神アポローンの「スチンマ」[8]を掛けてアカイア衆人に、
願へり、特に元帥のアトレーデース兄弟に。

[7]アポルローン。此譯に於てはアポルローンをアポローンに縮む。
[8]幣帛の類。

『アトレーデース及び他の脛甲堅きアカイオイ、
ウーリュンポス[9]の高きより、神靈願はく敵王の
都城の破壞(はえ)と安らかの歸國を君に惠めかし。
君は愛女を身に返し、その贖を受け納れよ、
銀弓鳴らすアポローン——ヂュウスの御子(おんこ)惶みて。』

[9]ウーリュンポス或はオリュムポス、神々の住するところ。

アカイア全軍之を聞き、祭司を崇め、珍寳の
贖得べく一齊に心合はせて(うべな)へり。
アガメムノーンただ獨り怫然として悦ばず、
不法に祭司追ひ攘ひ、更に罵辱を(あび)せ曰ふ、

『老翁!なんぢ、水軍のかたへためらふこと勿れ、
再びこゝに推參の姿あらはすこと勿れ。
神の金笏「スチンマ」も汝に何の助無し、
故山を遠く後にしてあなたアルゴス[10]空の(もと)
わが舘の中、(はた)に寄り、閨に仕へて老齡の
逼らん時の來る迄、なんぢの愛女放つまじ。
我を怒らすこと勿れ、今平穩に去らまくば。』

[10]アガメムノーンの領土、首府はミケーナイ。アルゴスは又グリース全土の稱となることあり。

威嚇の言に老祭司、畏怖を抱きて命に因り、
默然として身を返し、怒濤轟く岸に沿ひ、
離れてやがて老齡の聲を搾りて訴へり、
髪美しきレートーの生めるアポローン大神(おほかみ)に、

『ああクリュセーを、神聖のキルラを守り、テネドスを
猛くまつらふ銀弓の大神、われをきこしめせ、
スミンチュウス[1]よ、御心に叶ひ神殿飾り上げ、
牛羊(ぎうよう)の肥えし肉炙り捧げしことあらば、
われの願を聞し召し、悲憤の涙わが頬に
流せしダナオイ族をして君の飛箭(ひせん)を受けしめよ。』

[1]小アジアの緒都に於けるアポローンの稱。恐らく野鼠を亡せる者の意か。

切なる願納受する神、プォイボス・アポローン、
包み掩へる胡簶(やなぐひ)と白銀の弓肩にして
ウーリュンポスの高嶺(たかね)より怒に燃えて駈け降る、
夜の俄かに寄する(ごと)凄く駈け來るアポローン、
怒の神の肩の上、矢は戛然(かつぜん)と鳴りひびき。
やがてアカイア水軍のまともに立ちて鋭き矢、
切って放てば銀弓の絃音凄く鳴りわたり、
騾馬の群、はた足速き犬は眞先に斃れ伏し、
次いで軍兵陸續と射られ亡べば山と積む
死體を焼ける炎々の火焔収まる隙も無し。

九日(ここのか)續き陣中に神矢あまねく降り注ぐ、
十日に至りアキリュウス、衆を評議の席に呼ぶ。
(たゞむき)白きヘーレーの神女ダナオイ軍兵の
亡び眺めて傷心の思を彼に吹きこめり)
呼ばれ評議の席に着く其會衆のたゞ中に、
脚神速[2]のアキリュウス、身を振り起し陳じ曰ふ、

[2]アキリュウスの常用形容詞。

アトレーデー[3]よ、我れ思ふ、戰爭、惡癘わが軍を
斯くも長らく害す時、死に幸に逃げ得ば、
緒軍再び漂浪の(はて)に故郷に歸るべし。
さもあれ、祭司に、豫言者に、或は夢に説く者に、
(夢はヂュウスの告なれば)究めしめずや、いかなれば、
神プォイボス・アポローン、斯くもわれらに憤ほる?
祈禱或は犠牲をば怠る故に咎むるや?
或は山羊と小羊の薫ずる匂納受して
この惡癘を退くや?答を彼に求めん。』と。

[3]アトレーデースの呼格。

斯く陳じ終へ、坐に着けば、續いて衆の前に立つ
占術妙技すぐれたるテストリデース・カルハース、
現在の事、過去の事、未來の事をみな悟り、
神プォイボス・アポローン賜へる豫言の能により、
アカイア軍をイーリオス[4](さと)に導き率ゐたる
其カルハース慇懃の思をこめて衆に曰ふ、

[4]イーリオス又イーリオン=トロイアー。

『ヂュウスの寵兒アキリュウス、君われに問ふいかなれば
銀弓の神アポローン、かくも激しく怒るやと、
さらば解くべし、只我に誠をこめて先づ約せ、
言句並に威力にて我救ふべく先づ盟へ、
思ふ、恐らくアルゴスを統べ、アカイアに君臨の
高き位にある者をわれの言句は怒らせん。
下なる者に怒る時、王者の稜威ものすごし、
たとへ今日暫くは其憤激を抑ふるも
後日に之を霽すまで胸裏に宿る炎々の
瞋恚の焔収まらず、君よく我を救はんや?』

脚神速のアキリュウス即ち答へて彼に曰ふ、
『信頼われに厚くして神託降るが儘に曰へ、
ヂュウスの愛づるアポローン——之に祈りて神託を
ダナオイ族に君傳ふ——その神かけてわれ盟ふ、
われ生命のある限り、我光明を見る限り、
わが水軍の傍にダナオイ族の一人だも
君に兇暴の手を觸れじ、今アカイアの中にして
至上の權を身に誇るアガメムノーンを名ざすとも。』

その言信じ、玲瓏の心眼常に曇なき
豫言者即ち説きて曰ふ、『祈禱犠牲のなほざりを
怒るに非ず、アポローン、——愛女許さず贖を
受けず、祭司を侮りしアガメムノーンに憤ほり、
災難われに降したり、災難更になほ繼がむ。
贖受けず、父のもと、美目の少女返しやり、
淨き犠牲を、クリュセース祭司の許に送らずば
疫癘荒るる禍を神アポローン退けじ、
若し斯く爲さば和ぎて我の祈を納受せむ。』

陳じ終りて坐に着けばつづいて衆の前に立つ
アトレーデース、權勢のアガメムノーン、猛き威も
胸裏は暗に閉されて憤激やるに處なく、
(ふたつ)(まなこ)爛々とさながら燃ゆる火の如く、
瞋恚はげしくカルハース睨みて暴く叫び曰ふ、
『常に樂しき事曰はず、ただ禍を豫言しつ、
常に不祥を占ひて心樂しと思ふ者、
汝、好事を口にせず、はた又之を行はず。
クリュセーイスの身に代ふる好き賠償を収むるを
わが許さざる故をもて、遠く矢を射るアポローン、
ダナオイ族に禍を降すと衆の集りの
もなかに立ちて陳ずるや?——風姿、容貌、女性の技、
我その昔娶りたる夫人クリュタイムネストレ[1]、
之に比べて劣らざる——之に優りてわが愛づる
少女は國に携へむ——わが情願のある處。
さもあれ、其事好しとせば少女を放ち去らしめん、
禍難を衆の逃れ得て安きにつくはわが望。
今[2]ただ急ぎ新たなる償われの爲め探せ、
アルゴス人のたゞ中に我のみ戰利失ふを
正しとせんや?見ずや今我が獲し者の立ち去るを。』

[1]クリュタイムネーストレーを縮む。
[2]此要求は無理ならず、戰利を失ふは物質上の損害並に名譽の毀損なり(リーフの説)。

脚神速のアキリュウス其時答へて彼に曰ふ、
『アートレ,デーよ、高き名になど貪婪の激しきや?
わが寛大のアカイオイ、いかに補償を與へ得ん?
皆知るところ、いづこにも今や戰利の殘りなし、
城市を掠め獲たる物、皆悉く頒たれぬ、
今また之を奪ひなば誰か不法と咎めざる?
君甘んじてかの少女、神の御もとに捧ぐべし。
ヂュウスの惠厚くしてトロイア堅城壞る時、
アカイア軍は三重四重に君に補償を致すべし。』

其時答へて權勢のアガメムノーン彼に曰ふ、
『汝、英武のアキリュウス、汝誠に勇なるも、
我を欺くこと勿れ、凌ぐを得せじ説きも得じ、
汝に戰利保つため我わが戰利失ふを
甘んずべしと思へるや?少女棄てよと命ずるや?
若し寛大のアカイオイわが望むまゝ平等の
戰利を我に與へなばわれ(うべな)はむ、然らずば、
親しく行きてアキリュウス、汝、或はアイアース、
オヂュッシュウス得しものを奪ひて共に歸るべし。
我斯く行きて奪ふ者、彼は恐らく怒らんか。
さはれ此事計るべき時は後こそ、今は先づ、
わが神聖の海の上、黒き一艘の舟浮べ、
すぐれし水夫乘りこませ、中に犠牲を備へしめ、
頬美はしきわが少女クリューセーイス乘らしめよ、
首領のひとり共に行き、その一切の指揮を爲せ、
イドメニューウスかアイアース、はたオヂュシュウスあるは又、
衆軍の中第一に畏るべきものアキリュウス、
行きて犠牲をたてまつり飛箭の神を和げよ。』

脚神速のアキリュウス目を怒らして彼に曰ふ、
『ああ厚顏無恥にして偏に私利を願ふ者、
アカイア軍中何ものか汝の命に從ひて、
汝の爲めに道を行き、汝の爲めに戰はむ?
長槍握るトロイア族何らの害も加へねば、
之に戰闘挑むべく我此郷に來しならず、
其民かつて牛羊をわれに掠めしことあらず、
緑林掩ふ連山と怒濤轟く海洋と
間にありて隔つれば、數多の勇士うみいでし
フチーエー[3]の地未だ其劫掠受けしことあらず、
只汝とメネラオス、讐トロイアに報い得て
喜ばんため、われ人は顏は野犬の如くなる
無恥の汝に從へり、汝この事顧みず、
更に今またアカイオイ我の勞苦に報ふべく、
我に頒ちし戰利をも汝は奪ひ去らんとや?
アカイア軍トロイアの一都市先きに破る時、
汝の戰利多くしてわが獲しところ小なりき。
戰闘激しく暴るる時、わが手最も善く勉め、
戰闘の利を頒つ時、汝最も多くを得。
奮戰苦闘に疲れし身水軍中に休むべく
わが得しところ小なるも甘んじ受けて退きき。
いざ曲頸の船泛べフチイエーむけ歸るべし
故山に向ひ歸ること遙かに優る、恥受けて
こゝに汝の富と利の増すを空しく眺めんや!』

[3]アキリュウスの領土。

アガメムノーン、衆の王、その時答へて彼に曰ふ、
『逃げよ、心の向くが儘、とく去れ何ぞためらふや?
我がためこゝに殘るべく汝に願ふ我ならず、
衆人敬ひ我に聽き、至上のヂュウス我を守る。
神寵受くる列王の中に最も憎むべき
汝、口論(くろん)と爭と闘、常にこゝろざす。
汝、もっとも勇ならばある神靈の惠のみ。
いざ今部下と戰艦を率ゐて國に歸り行き、
ミュルミドネス[1]を司どれ、我は汝を憚らず、
汝の怒顧みず、汝を嚇し更に曰ふ、
神、銀弓のアポローン、クリューセーイス求むれば、
わが船舶と部下をして彼女を返しやらしめん。
しかして汝の陣に行き、汝の獲たる紅頬の
ブリイセーイス奪ひ取り、わが威汝に優れるを
痛く汝に知らしめん、衆人はたまた威服して
わが眼前に憚らず、肩並ぶるを愼しまむ。』

[1]アキリュウスの領民(單數ミュルミドーン)。

その言聞きてアキリュウス悲憤の思耐へがたく、
胸鬚荒き胸のうち、心二つに相亂る。
鋭利の劍を抜き放ち、集へる衆を追ひ攘ひ、
不法の募る驕傲のアートレ,デース殺さんか?
(ある)は悲憤の情抑へ、自ら我を制せんか?
思は亂れあひ乍ら、鞘よりまさに長劍を
抜き放さんとしつる時、天より降るアテーネー、
二人を共にいつくしみ二人を共に顧みる
白き(かいな)のヘーレーの命傳へ來るアテーネー、
アキルリュウス[2]の後に立ち、衆には見えず、たゞ獨り
彼に姿を示現して、その金色の髪を曳く、
愕然としてアキリュウス、後を見返り忽ちに、
眼光爛とアテーネー射る神容を認め知り、
即ち之に打向ひ羽ある言句[3]陳じ曰ふ、

[2]アキルリュウス又アキリュウス。
[3]言句は羽ありて飛翔すと曰はる。此よりして「羽ある言葉」の句あり。或る獨逸の麗句集は此を以て書名と爲す。

『アイギス[4]持てるヂュウスの子、今何故の降臨か?
アトレーデース暴れ狂ふ其驕慢の照覧か?
彼其不法を償ひて程なく命を失はむ、
此事必ず成るべきを今より君に誓ふべし。』

[4]恐るべき模様を有する盾の一種。

藍光の目のアテーネー即ち答へて彼に曰ふ、
『汝二人をもろともに愛し、等しく顧みる
玉腕白きヘーレーの命を奉じて我れ來る。
わが嚴命を畏まば棄てよ汝の(いきどほり)
やめよ汝の爭を、手中の(けん)を抜く勿れ、
たゞ意のままに言句(ごんく)もて飽くまで彼を耻ぢしめよ、
我今汝に宣し曰ふ、我言必ず後成らむ、
即ち今の屈辱を償はんため三倍の
恩賞汝に來るべし、自ら制し我に聽け。』

脚神速のアキリュウス即ち答へて彼に曰ふ、
『憤懣いかに激しとも高き二神の嚴命を
奉ぜざらめや、奉ずるは賢きわざと我は知る、
神靈の命きくものを神靈嘉みし冥護せむ。』
しかく陳じてアキリュウス、手を白銀の柄に留め、
パラスの命に從ひて長劍鞘に収め入る。
神女即ちアイギスを持てるヂュウスの殿堂に、
諸神の群に交じるべくウーリュンポスに歸り行く。
ペーレーデース引き續きアガメムノーンにいきどほり。
彼に向ひて荒らかに更に罵辱をあびせ曰ふ、

『卑怯の心鹿に似て醜き(まみ)は狗に似る、
酒に亂るるあゝ汝!汝他と共に戰闘の
爲めに武装を敢てせず、アカイア勇士もろともに
埋伏するを敢てせず、之を恐るる死の如し、
げに其よりもアカイアの陣中汝に爭へる
人の戰利を奪ひ取るわざこそ遙か優るらめ。
貪婪の王、ああ汝、ただ小人に主たるのみ、
アートレ,デーよさもなくば、けふの非法は最後(いやはて)ぞ。
更に汝に神聖の誓をかけて曰ふを聞け、
誓はこれこの笏[5]に掛く、——この笏はじめ山上の
樹木の幹を辭してより再び枝を生じ得ず、
再び其芽萠え出でず、緑再び染むる無し、
青銅これが皮を剥ぎ、葉を拂ひ去り、斯くて今
高きヂュウスの命を受け、(さばき)行ふアカイアの
法吏その手に執るところ、此笏にかけ曰ふを聞け、
アカイア全軍他日われペーレーデースに憧れむ、
トロイア勇將ヘクト,ルの手に衆軍の亡ぶ時、
汝いかほど悲むも遂に施す術無けむ、
其時汝アカイアの至剛の者を侮りし
身の過を悟るべし、碎くる胸の惱亂に。』

[5]此笏はアキリュウスの所有ならず、諸頭領共有の物。今彼の談論に當りて臨時に渡されしもの。

ペーレーデース斯く陳じ、黄金の鋲ちりばめし
笏を大地に投げつけつ、やがておのれの坐に歸る。
アトレーデース亦怒る——其時立てり衆の前、
ピュロスの辨者、温柔の言葉いみじきネストール、
蜜より甘き巧妙の言を舌より湧かす者、
彼その昔神聖の郷土ピロスに生れ出で
共にひとしく育ち來し現世の友は先だちぬ、
先だつ二代[1]見送りて今三代に王たる身、
彼いま衆に慇懃の誠をこめて説きて曰ふ、

[1]ヘロドートス二歌一四二に人間三代は一百年とあり、ネストールは七十歳位ならむ。

『あゝあゝ悲し、アカイヤの族に大難降り來る、
ダナオイ族の中にして、智略にすぐれ戰闘に
すぐれし二人汝等の爭ふ始末聞き知らば、
敵の大將プリアモス及び其子らことほがむ、
他のトロイア人一齊に又起すべし大歡喜、
我れ汝らに歳まさる、われの苦諌を聞き納れよ。
いにしへ我は汝らに優る緒勇士友としき、
其中誰か輕慢の心を我に抱きしや?
かゝる勇士を其後見ず、今より後も見ざるべし、
ペーリトオスよ、衆人を廣く治めしドリュアスよ、
エクサヂオスよ、カイニュース、ポリュペーモスは神に似き、
〔アイギュース[2]の子、テーシュース、ひとしく不死の靈の類、〕
彼ら地上の人類の中に最も猛き者、
其敵ひとしく(もう)なりき、敵は山地のペーレス[3]の
半獣半人末遂に激しく打たれ亡びにき。
我その昔ピロスより、遠きはるかの故郷より、
招きに應じ來り訪ひ、彼らに結び交はりき、
與みして共に戰ひき、大地の上に住めるもの、
誰かは之を敵として戰ふ事を得たりしや?
其勇者すら諌納れ我の言葉に耳かせり。
汝ら等しくわれに聞け、諌を容るは善からずや?
アトレーデーよ、勇なるも少女を奪ひ取る勿れ、
勿かれ、アカイア衆人の彼に與へし恩賞を。
ペーレーデース、汝また彼と爭ふこと勿れ、
ヂュウスの寵を蒙りて笏を其手に握るとも、
彼と等しき光榮を誰かは外に授りし?
汝神母の産めるもの、汝まことに勇なれど、
彼れ大衆に君として權威遙かに優らずや?
アトレーデーよ、憤激をやめよ、我今敢て乞ふ、
彼を憎しむこと勿れ、存亡危急の戰に
彼ぞアカイヤ全軍の金城堅き守なる!』

[2]二六五行は大概の寫本に省かる。後世の添加。
[3]いはゆるセントール。

アガメムノーン其言に答へて彼に曰ふ、
(おぢ)よ、汝の曰ふところ皆悉く理に當る、
さはれ此者一切の衆を凌ぎて上に立ち、
治めて御して衆人に令を下すを冀ふ。
我が見る處、あるものは此事彼に許すまじ、
不死の神靈よし彼を戰士となすもこれがため、
漫に非法の言吐くを神靈彼に許さんや!』

その時英武のアキリュウス彼を遮り答へ曰ふ、
『汝の命に從ひて汝にすべて譲らむか、
即ち小人卑怯の名、我また(いろ)ふことを得ず、
他人にかゝる命下せ、我に命ずること勿れ、
〔今より後に再びと我は汝の令聞かず[4]。〕
我いま汝に曰ふ處、之を心に銘じおけ、
汝ら先に與へしを今取り去るに過ぎざれば、
たゞに少女の故をもて我汝等と爭はじ、
さもあれ黒き輕舟のほとりに我の持つところ、
わが意に背き一毫も汝ら掠め去る勿れ、
之を犯して衆人の目に觸るゝべく試みよ、
直ちに汝の暗黒の血潮わが手の槍染めむ。』

[4]アリスタルコス此行を省く、緒評家によりて省かるる行は前後屡々あり、本譯の註解中には一々是を指摘せず。
只(……)の記號を折に用ゐて表示することあるべし。

斯くして二人爭ひの言句了りて立ちあがり、
斯くしてアカイヤ水陣のほとりの會は散じ解け、
メノイチオスの子[5]と共に部下の衆兵引きつれて
ペーレーデース陣營と戰船さして歸り去る。
こなた輕舟浮ばせてアートレ,デース令下し、
漕手二十を撰びあげ、犠牲と共に紅頬の
クリュセーイスを導きて來りて舟に移らしむ、
親しく舟を指揮するは智慧逞しきオヂュシュウス、
かくて衆人一齊に水路はるかに漕ぎいだす。

[5]メノイチオスの子=パトロクロス。

アートレ,デースの命により、こなたアカイヤ全軍に
潔齋式[6]は行はれ、衆人ひとしく身を清め、
洗ひし水を海にすて岸に集り牛羊(ぎうよう)
いみじき牲を銀弓の神アポローンにたてまつる、
烟と共にたなびきて牲の香高く天上に。

[6]恐らく疫癘の際、彼らは身を洗淨せず、又哀慟の記號として頭上に塵を撒きしならむ(十八歌二三参考)。

陣中にして衆は斯く、而して先にアキリュウス
嚇せる怒引きつげるアガメムノーン今更に、
傳令の司役どり侍從の職にいそしめる
タールチュビオス及び又ユウリバテース召して曰ふ、
『汝等二人つれたちてペーレーデース・アキリュウス
彼の陣より紅頬のブリーセーイス[1]とり來れ、
彼若しこれを與へずば我衆人を引きつれて、
行きて少女を奪ひ去り、更に苦惱を増さしめむ。』

[1]ブリーセーイスとはブリーセスの女といふ意味、本名はヒポダメーア。

しかく宣して兇戻の命を下して送りやる、
止むなく二人打つれて荒涼の海の岸に沿ひ、
ミルミドネスの陣營とその水師とを訪ひ來り、
その陣營と水師とに勇士坐せるを眺め見る、
二人の來るを望み見てペーレーデース喜ばず、
二人恐れて敬ひて將軍の前立てつまゝ、
一言一句陳じ得ず、何等の間も出し得ず、
されど將軍意に猜し二人に向ひて宣し曰ふ、

來れ二人の傳令者、神明及び人の使者、
近くに來れ、われ責めず、たゞ汝等を遣はして
ブリーセーイス奪ひ取るアートレ,デース責むるのみ。
パトロクロスよ、つれ來りし少女彼らの手に渡し、
去り行かしめよ、しかはあれ異日禍難の起る時、
衆の破滅を救ふべくわれの力の望む時、
其時二人わがために證者たれかし、慶福の
諸神の前に、無常なる緒人の前に、殘忍の
王者の前に、——見ずや彼無慚の心あれ狂ひ、
アカイア人に水軍のほとりに勝を來すべく
等しく前後の計廻らすことを敢てせず。』

斯く陳ずるを聞き取りてパトロクロス[2]愛友の
言に從ひ、紅頬のブリーセーイス陣營の
中より出し與ふれば、アカイア軍に引き返す
二人につれて愁然と少女去り行く——こなたには
ペーレーデース只ひとり友を離れて、銀浪の
岸拍つほとり澘然(さんぜん)と涙流して、渺々の
海を眺めて手を擧げて祈願を慈愛の母に斯く、

[2]パトロクロス又パートロクロス。兩様の發音。

『あゝわが神母、早世の運に生れし我なれば、
ウーリュンポスの高御座(たかみくら)、轟雷振ふわがヂュウス、
われに光榮 ()ぶべきを露ばかりだも顧みず、
アートレ、デース、權勢のアガメムノーン威に誇り、
われの戰利を奪ひ去り、我に無禮を斯く加ふ。』

涙を流し陳ずるを千仞深き波の底、
老いたる父の海神[3]のかたへに神母きゝとりつ、
銀波忽ちかきわけて煙霧の如く浮び出で、
澘然(さんぜん)として涙なる愛兒の前に向ひ坐し、
玉手に彼をかい撫でて即ち彼に向ひ曰ふ、
『愛兒なに故悲むや、何故心痛むるや?
胸に藏めず打ち明けよ共に親しく知らんため。』

[3]後の神話にネーリュウスの名を以て呼ばるる者。

脚神速のアキリュウス吐息を荒く母に曰ふ——
『君はすべてを皆知れり、述ぶるも何の效かある?
エーエチオーンの聖き郷、テーベイの市に侵し入り、
之を掠めて一切をわが軍こゝに齎しつ、
アカイヤ人らその戰利 ()きに叶ひて分ち取り、
クリュセーイスの紅頬はアガメムノーン収め得き。
さはれアポローンの祭司たるクリュセースは堅甲の
アカイア人の輕舟の陣を目ざして訪ひ來り、
(とりこ)の愛女救ふべく巨多の贖持ち來し、
手に黄金の笏の上、飛箭鋭き大神の
スチンマのせて衆人に、特に二人の元帥の
アートレデース兄弟に言懇に訴へぬ。
其時すべてアカイヤの軍勢ひとしく聲あげて、
祭司を崇め珍寳の贖得るをうべなへり、
ひとり驕傲の威の募るアガメムノーン憤り、
不法に祭司斥けて更に罵辱の言加ふ。
祭司怒りて退きて祈を捧ぐ、かくて見よ、
アポローン彼を愛すれば其訴を納受しつ、
無慘の飛箭射放てばアルゴス人は紛々と
共にひとしく斃れ伏す、續きて神に怒の矢、
更にアカイア全軍の四方(よも)に隈なく降り注ぐ、
その時豫言者銀弓の神の御旨を宣り示す、
その時我は先んじて神意解く可く諌めたり。
されど權威にいや誇るアートレ、デースいきどほり、
立ちて威嚇の言を述べ、其言遂に遂げられつ、
かくて少女を(まみ)光るアカイア人の輕舟に
神の供物ともろともにクリュセーイスに返しやり、
更に今はた傳令の使アカイア衆人の
われに與へし紅頬を陣の外へと奪ひ去る。
神母よ君の子を救へ——言葉或は行に
よりてヂュウスを君嘗つて喜ばしめしことあらば、
ウーリュンポスの頂にのぼりヂュウスに訴へよ。
屡聞けりわが父の宮殿の中ほこりがに
君のいへるを——その昔[1]ウーリュンポスの諸神靈、
ヘーレー及びポセードーン、パ,ラス・アテーネー一齊に
雷雲かもす大神を鐡の鎖につけし時、
諸神の中に君ひとり彼の禍掃へりと。
君は其折、天上にブリアレオース、地の上に
勇力父に優るゆゑアイガイオーン[2]の名を呼べる
百の腕ある怪物を、ウーリュンポスの頂に
急ぎて呼びてクロニオーン・ヂュウスの縛を解かしめき。
怪物ヂュウスの傍に揚々として誇らへば、
諸神は畏怖の念に滿ち再び彼に觸れざりき。
乞ふ、今行きて雷霆の神の前坐し膝抱き、
むかしを語り訴へよ、神恐らくはトロイア人
援け、アカイア軍勢を海に舳艫に追ひやらむ、
かくして彼等王のため禍難を受けて悲まむ、
かくして遂にかの王者自ら先にアカイアの
至剛の者を侮りし身の過を悟り得む。』

[1]此奇怪の神話は他に何等の出所無し。
アテーネーとヘーレーと與みしてヂュウスに抗す云々は奇怪の甚しきもの。説明し難し(リーフ)。
[2]アイガイオーンは荒るる者を意味す。
或説は彼を海王ポセードーンの子とし、他はウーラノス(天)とガイア(地)との子とし、又或説はポントスとクラッサとの子とす。

テチス其時 澘然(さんぜん)と涙そゝぎて答へ曰ふ、
『あはれ汝をいかなれば不運に生みて育てけむ!
汝の(めい)は短くて遂に長きを得べからず、
水師のほとり涙なく禍なくてあるべきを、
など宿命のはかなくて、不運すべてに優れるや!
あゝ運命の非なるより汝を宮にかく産めり。
こを雷霆の神の前、
聞え上ぐべく雪積る
ウーリュンポスに赴かん、(神の納受のなからめや)
その中、汝激浪の洗ふ船中留りて
アカイヤ人に憤ほれ、其戰に加はるな。
昨日(きのふ)ヂュウスは清淨のアイチオペース[3]の宴の爲め、
オーケアノスに出で行きて諸神ひとしく伴へり、
十二の日數過ぎ去らばウーリュンポスに歸り來ん、
金銅の戸の彼の宮その時汝の爲めに訪ひ、
膝を抱きて訴へん、彼の納受は疑はじ。』

[3]アイチオペース族は敬信の念に滿つ、神々は屡往きて其祭を受く。

陳じ了りて辭し返る、殘れる彼は胸の中
心に叛き奪はれし帶美はしき子の故に
なほ憤悶の情やまず。——同時にかなたオヂュッシュース
淨き犠牲を携へてクリュセースを尋ね行く。
衆人斯くて深き水湛へし灣に入りし時、
白帆(はくはん)おろし、折り疊み、黒く塗りたる船に入れ、
急ぎ綱曳き帆檣(はんしょう)を倒して(わく)に支へしめ、
これより櫂に漕ぎ入りて舟灣内に進ましむ、
つづいて衆は碇泊の重石沈め、綱繋ぐ。
これより衆は一齊に海岸さして進み行き、
飛箭の神に奉る淨き犠牲を曳きいだす。
クリューセーイス又波を分け來し船を出で來る。
其時智あるオヂュシュウス彼女を引きて祭壇に
進め、愛する父の手に渡して彼に陳じ曰ふ、

『ああクリュセー[4]よ、王者たるアガメムノーンの令に因り、
汝の愛女今返し、更にダナオイ族の爲め、
淨き犠牲をアポローンに——先にアルゴス軍中に
禍難くだせし神靈に——捧げて彼を和げむ。』

[4]呼格。

しかく陳じて彼の手に渡せば、祭司喜びて
愛女を受けつ、衆人は(すぐ)にりりしき祭壇を
めぐり犠牲を並べつつ、飛箭の神に奉り、
皆一齊に手を淨め、聖麥[5]おのおの手に取りぬ。
その時祭司双の手を擧げて高らに祈り曰ふ、

[5]牲の角の間に、又神壇の上に蒔くもの。

『ああクリュセーを、神聖のキルラを護り、テネドスを
猛くまつらふ銀弓の大神、われを聞し召せ、
神靈先にわが祈納受ましまし、わが譽
高めて更にアカイアの軍勢痛く惱せり。
更に今また新たなる我の祈を納受して、
ダナオイ族の疫癘の禍難を攘ひ去りたまへ。』

しかく祈願を捧ぐればアポローン之を納受しぬ。
祈願終りて聖麥を牲の頭上に蒔き散らし、
斯くして牲を仰向けて[6]屠りてこれが皮を剥ぎ、
つづいて股を切り取りて二重の脂肪これを蓋ひ、
更に其上精肉を載せて、斯くして老祭司、
薪燃やして焼き炙り、暗紅色の酒灑ぐ、
五叉の肉刺携ふる若き人々側に立ち、
股の肉よく焼けし時、臓腑を先に喫しつつ、
殘りの肉を悉く細かに割きて串に刺し、
心をこめて焼き炙り、終りて串を取り除けつ、
料理終を告ぐる時、酒宴の備整へつ、
斯くて衆人席に着き、心の儘に興じ去り、
飲食なして口腹の慾を滿たして飽ける時、
溢るゝばかり壺の中神酒[1]を充たし、まづ先きに
奠酒を爲して若き人普く衆に酌ましめぬ。
斯くて終日アカイアの子ら讚頌の歌謡ひ、
飛箭鋭き大神を柔ぐべきも試みぬ。
アポローン之を耳にして心喜び樂しめり。

[6]神々に捧ぐる時は仰向かしめ、冥府の靈に捧ぐる時は下向かしむ。
[1]此前後不明、諸名家の譯も一致せず。初めに祭司らが飲食し、後に一般の参加者が飲食せしか?

斯くて紅輪沈み去り、暗き夜の影寄する時、
衆人ともに船繋ぐ綱のかたへに打ち臥しつ、
薔薇(そうび)色なす指持てる(あけ)の神女のいづる時、
アカイア軍のおほいなる水陣さして立ち歸る。
之を惠みて銀弓のアポローン追風(おひて)吹き送る。
斯くして衆は帆檣を立てて白き帆高く張る、
快風吹きて帆のもなか滿たし、波浪は紫を
染めて高らに艫のめぐり鞺鞳(たうとう)として鳴り響く。
潮を蹴りて走る船斯くて海路の旅果す。
やがてアカイア陣營の廣きに歸り着ける時、
衆は黒船陸上に、白洲の上に引き揚げつ、
長き枕木その底に並べて布きて業終り、
終り、おのおの陣營に或は船に散じ去る。
こなた足 ()きアキリュウス・ペーレーデース、神の子は
その輕舟の傍に坐して憤悶抑へ得ず、
勇士集る席上に、又戰陣のたゞ中に
絶えて姿を現はさず、欝々心 (むしば)めて
思空しく戰闘に、又叫喚にあこがれぬ。

その後十二日は移る、その曙に不滅なる
諸神ヂュウスに從ひてウーリュンポスの頂に
皆一齊に歸り來る——時に愛兒の訴を
忘れぬテチス渺々の波浪をわけて浮び出で、
曙早く天上のウーリュンポスに昇り行き、
見ればかなたに軍神を離れて坐せり連峯の
聳ゆる中の絶頂にクロニーオーン、雷の神。
神女即ち近寄りて其前に坐し左手に
其膝抱き[2]、右の手をのばして彼の頤を撫で、
クロニーオーン、神の王ヂュウスに祈願述べていふ——

[2]相手の膝を抱き其頤を撫づるは古來ギリシヤ人一般の習。

『天父ヂュウスよ、軍神の間に在りてわれ嘗つて、
君を助けし事あらば此わが願容れ給へ、
他よりも早く運命の盡くるわが子を愛で給へ、
アガメムノーン、衆の王、今しも彼を侮りて
彼の戰利を奪ひ去り不法におのがものとしぬ。
ウーリュンポスを統べ給ふ君光榮を彼に貸し、
アカイアの民わが愛兒崇め尊ぶ時來る
その前トロイア軍勢に願はく力添へ給へ。』

雷雲寄する天王は之に答へず、默然と
長きに亘り口緘む、膝を抱きしテチス今
更に迫りて身を寄せて、再び彼に問ひていふ、
『わが情願を受け納れてうなづき給へ、しかあらば、
諸神の中にわが譽れいとも劣るを悟るべし。』

深き吐息に雷雲のクロニーオーン答へ曰ふ、
『なんぢに()られ、ヘーレーの憎しみ起し、彼をして
われを怒らす暴言を吐かしめんこと痛むべし。
彼は諸神の中にして常に不法に我を責め、
われ救援を戰場にトロイア軍に貸すと曰ふ。
さはれ今去れ、ヘーレーに見咎められそ、我に今
求むる處、心して必ず之を成らしめん、
望まば埀れんわが頭、これに汝の信を措け、
見よ群集の中にしてわれの至上のこの(あかし)
わがこの頭うなだれてうべなふ處欺かず、
(かへ)るべからず、いたづらに無效の聲と過ぎ去らじ。』

クロニーオーン[3]しか宣し點頭(うなづ)き埀るゝ双の眉、
アンブロシャ[4]の香漲れる毛髪かくて天王の
不死の頭上に波立ちて震へり巨大のオリュンポス。

[3]此三行に鼓吹せられてギリシヤ最大の彫刻家フェーヂアースはヂュウスの像を造れりと曰ふ。
[4]天上の靈液。

二神かくして議を終り別る、テチスは晃燿の
ウーリュンポスを辭し去りて波千仞の底深く、
ヂュウスは彼の神殿に——その時諸神の中にして
居ながら待てる者あらず、おの〜其坐立ち上り、
臨御を迎ふ一齊に。クロニーオーンかくて其
王座につけり、然れどもヘーレー彼を窺ひて、
老の海神うみなせる愛女、その脚銀光を
放てるテチス、天王と計りし跡を察し知り、
憤然として言荒くクロノス[1]の子を責めて曰ふ、

[1]クロノスの子即ちクロニーオーン即ヂュウス。

『いづれの神ぞ狡獪の君もろともにたくらむは?
われを疎んじ外にして常に秘密の(はからひ)
君は好みて行へり、かくして未だ温情を
我に施し胸の中打明けしことあらざりき。』

人天すべての父の神即ち答へて彼に曰ふ、
『ヘーレー、汝一切の計らひ總べてを知るを得ず、
汝天王の配なれど此事汝に許されず、
知るべきところいや先に天上及び人間の
あらゆるものを後にして聞く光榮は汝の身、
衆神ひとしく外にしてわが胸ひとり知る處、
汝も之を探り得ず、汝の問ふを許されず。』

その時牛王の目を持てるヘーレー答へて彼に曰ふ、
『天威かしこきクロニデー[2]、仰せ何等の言音ぞ?
われ究間の度を越して先に探りしことあらず、
悠然として君ひとり好めるまゝに計らへり。
今たゞ恐る、年老いし海王産めるかの神女、
脚銀色のテチスより神慮あるひは誤るを。
王座のもとに今朝はやく彼が御膝を抱きしを
見たり、思ふにアキリュウス崇めて更にアカイアの
軍を水師の傍に斃さん約の整ひか。』

[2]クロニデース(クロノスの子)の呼格。

雷雲寄するクロニオーン即ち答へて彼に曰ふ、
『奇怪の汝、疑を常に抱きてわれ覘ふ、
かち得るところたゞ獨りわれの不興を増すのみぞ、
はては禍難のはげしきを汝の上に招くのみ、
かの事よし又りとせば、我の心に協へばぞ、
口を閉して席に着き、わが命令を重んぜよ、
ウーリュンポスの群神の數はた如何に多くとも、
わが手の威力打たん時汝を救ふものなけむ。』

しか宣すれば牛王の目あるヘーレー畏怖に滿ち、
胸を抑へて默然と返りておのが座に着けば、
ヂュウスの宮に天上の諸神ひとしく悲めり。
ヘープァイストスすぐれたる神工、その時彼の慈母
玉腕白きヘーレーを慰め衆に陳じいふ、

『下界の人間の故をもて神靈二位のあらびより、
天上緒靈のたゞ中の騒起りて可ならんや。
その事誠に痛むべく、遂に堪ふべきものならず、
御宴の娯樂、絶え果てて不祥の禍難代るべし。
神母自ら悟らんも我は諌めてかく曰はむ、
慈愛の父の大神に切に和ぎ求めよと、
さなくば再び彼怒り諸神の宴を妨げむ、
雷霆飛ばす大神の威力誰れかは敵すべき、
怒らば天の群神の列坐ひとしく倒されむ。
今願くは温柔の言葉に彼を柔げよ、
直ちに聖山一の神われに慈愛を施さん。』

しかく陳じて身を起し二柄の(はい)をとりあげて、
愛する母の手に捧げ再び言を嗣ぎて曰ふ、
『不滿は如何にはげしくも胸をさすりて耐へおはせ、
君懲しめを蒙むるをわが目いかでか忍び見む、
憤激わが血あほるとも威力誰しも及びなき
雷霆の神敵として君を助けんこと難し。
むかし助けを心せし我を天宮のしきみより、
踵によりて引き掴み投げ飛ばせしは彼のわざ、
終日空を飛ばされて沈む夕陽もろともに、
息絶え〜に(さかしま)に落ち來し郷はレームノス、
シンテーイスの人々の温情により助かりぬ。』

斯く陳ずるを腕白きヘーレー聞きてほゝゑみつ、
笑みて其子の捧げたる二柄盃手にとりぬ。
つゞきて天の靈液を諸神おの〜手に取れる
酒盃に注ぎ殿中をヘープァイストス廻り行く。
そのあしらふに慶福の諸神ひとしくほゝゑみつ、
のどけさつきぬ笑聲は歡喜溢るゝ宮の中。

斯くて終日夕陽の降り沈むにいたる迄、
御宴をつゞけ群神の心に充たぬものもなし、
神アポローンの手に取れる瑤琴の音またひゞき、
歌の神女の宛轉の微妙の聲もつぎ〜に。
斯くて落日晃燿の光の名殘消え去れば、
諸神おの〜其宮に就きてやすらひ睡るべく、
ヘープァイストス跛行神、巧みの技に天上の
靈おの〜に築きたる王殿さして歸り行く、
はたオリュンポス雷霆の天威かしこきクロニオーン、
甘眠來り襲ふとき憩ひ馴れたる床の上
登りて睡る——黄金の王座ヘーレー側らに[1]。

[1]第一卷中に本詩中の最も重大なる配役者(神も人も)が讀者の前に現出す。
人間中にアガメムノーン、アキリュウス、ネストース、パトロクロス、神明中にはヂュウス、ヘーレー、アテーネー。第三卷に到ってトロイア側の人と神とが現はる。
ヘクトール、パリス、プリアモス、——神女アプロヂーテー及び全局の中心ヘレネー。


更新日:2004/04/27

イーリアス : 第二歌


第二歌

大神ヂュウス計りて夢の靈をアガメムノーンに遣はす。 夢の靈王の枕上に立ち詐はりてトロイア落城の近きを告ぐ。 王起ちて緒將軍を召集す。次に軍隊を集め[、]之を試さんために、 歸陣を命ず。軍隊の擾亂。神女アテーネー之を憂ひ、來りてオヂュッシュースに命じ、 其擾亂を鎭せしむ。オヂュッシュース緒軍に勸告す。 テルシテース罵詈の言を放ってアガメムノーンを責む。 オヂュッシュース之を懲す。又衆軍を勵まして戰を續けしむ。 ネストール之を讚す。犠牲を備へ神を祭りて戰勝を祈る。 アカイア軍の勢揃ひ。戰役參加の諸將及び其船數。 トロイア軍集る、其の勢揃ひ。

諸神並に諸將らの終夜の休み(よそ)にして、
クロニオーン・ヂュウスの目甘き眠[1]に囚はれず、
胸に計略たくらみつ、アキルリュウスに(はえ)あらせ、
アカイア軍の傍に衆人斃さん術思ひ、
思ひこらして元戎のアガメムノーンの陣營に
欺瞞の『夢』を送るべく計りて自ら(よし)となし、
即ち精を呼び出し、飛翔の言を(せん)しいふ、

[1]第一歌の終と矛盾すれど、其矛盾はさまで重大ならず。

『欺瞞の「夢」よアカイアの水軍めがけ飛び行きて、
アートレ、デース——元戎のアガメムノーンの營に入り、
正しく我の命のまゝ述べよ、戰備を髪長き[2]
アカイア人に迅速に爲さしむべく彼の曰へ、
「トロイア人の街廣き都城この日に陥らむ、
ウーリュンポスの山上の衆神今は爭はず、
女神ヘーレー懇に願ひ諸神の心曲げ、
爲めに悲慘の運命はトロイア城に懸りぬ」と。』

[2]アカイア人の長髪は唯に飾のみならず、自由の記號(アリストレレスの「修辭」一ノ九、又クセノフォンの「ラケドモンの政體」十一ノ三)。

しか(せん)すれば「夢」の靈その嚴命をかしこみて、
アカイア人の輕舟の陣に急ぎて走り來つ、
やがて續きて元戎のアガメムノーンにおとづれて、
陣營の中、かんばしき甘き眠の王を見つ、
即ち彼の枕上の立ち、ネストール(大王の
尊敬最も篤うするネーリュウスの子、ネストール)
その影取りて「夢」の靈彼に向ひて(せん)しいふ、

『軍馬を御する勇猛のアトリュウスの子たる者!
眠るや?汝王者の身、民の信頼あるところ、
心に大事を思ふ者豈に夜もすがら眠らめや!
今速かに我に聞け、遠く離れて思ひやる
クロニオーン憐れみて我を汝に遣はせり、
其命受けて長髪のアカイア軍を速かに
準備せしめよ、街廣きトロイアけふぞ亡ぶべき、
ヘーレー女神懇に求め、諸神の意を抂げつ、
ウーリュンポスの山上の群神今は爭はず、
禍難はヂュウスの手よりしてトロイア城に今掛かる
汝心に之を記せ、甘美さながら蜜に似る
睡なんぢを去らん時わがいふ處忘るな。』と。

しかく陳じて靈は去る、後に王者は胸の中、
成就すべくはあらぬ(わざ)、プリアモス()るトロイアを、
其日の中に奪ふべく愚の心もくろみつ、
トロイア並びにアカイアの民にひとしく叫喚を、
禍難を來す戰爭の猛きをヂュウス・クロニオーン、
心ひそかに計へるその計略を悟り得ず、
眠さませる大王の耳に神秘の聲は鳴る。
アートレ、デース身を起し、新たに成れる美はしき
衣を纒ひ、戰袍の廣きを上に打はふり、
光澤なめらの雙脚にいみじき戰鞋(せんあい?)穿ちなし、
銀鋲うてる長劔を肩に斜めに投げ掛けつ、
父祖相傳のいかめしき王笏手にし、青銅の
胸甲穿つアカイアの陣中さして出でて行く。
見よ今 淨きエーオース[1]、ウーリュンポスに向ひ行き、
ヂュウス並びに群神に光を傳ふ、こなたには
アートレ、デース音聲(おんじやう)の朗らの緒使に令下し、
毛髪長きアカイアの衆を集議に招かしむ。
緒使その令を傳ふれば衆人はやく寄せ來る。
斯くてすぐれし元老[2]の集議まさきにネストール
(ピュロスの王者ネストール)其船めぐり行はる。
かく群衆を集め得て大王賢き[3]策をいふ、

[1]曙の女神。
[2]一般に當時ギリシヤの社會は三階級より成れり、王、元老、平民。
[3]反語的か。

『諸友は願はく我に聞け、尊き夢の靈 夜半(よは)
眠の中に現はれぬ、其風貌はさながらに、
其身の丈に到る迄、みなネストール見る如し、
わが枕上に立ち留り、我に向ひて彼は曰ふ、
「軍馬を御する勇猛のアトリュウスの子たる者、
眠るや、汝王者の身、民の信頼するところ。
心に大事思ふもの豈よもすがら眠らんや。
今速かにわれに聞け、遠くはなれて思ひやる
クロニオーン憐みて、われを爾に遣はせり、
その命受けて髪長きアカイア人を速かに
準備せしめよ、街廣きトロイア今日ぞ亡ぶべき、
女神ヘーレー懇ろに求めて衆の意を抂げつ、
ウーリュンポスの聖山の衆神今は争はず、
禍ヂュウスの手よりしてトロイア城に今降る。
汝こゝろに之を記せ。」しかく陳じて夢の精、
飛び去り行きて、甘眠は再び我におとづれず、
さらばアカイア衆軍に準備せしめん、よからずや。
我まづ初め衆軍を試めさむ[4](正し、かく爲すは)
即ち舟を(よそほ)ひて邦に歸れと勸め見ん、
即ち諸友、部を分ち、勸めて彼ら引き留めよ。』

[4]甚だ當を得ず、又後に諸友が兵を引き留むる事なし。

しかく宣して坐に返る。つゞきて衆の前に立つ、
ピュロス沙岸の一帶を領し治むるネストール、
軽量密に參列の衆に向ひて陳じ曰ふ、
『あゝアルゴスの諸君王及びわが友、緒將軍[5]、
今聞くところ、此夢を他のアカイア人見しとせば、
欺瞞となして信頼をこれにおくべき由あらじ。
されども見しはアカイアの至高と自ら誇る者、
いざ、さは、アカイア軍勢に勉めて準備なさしめよ。』

[5]ネストールの演説極めて弱し、アリスタルコスは全く之を省く。

しかく陳じて集會の席をまさきに辭し去れば、
つゞいて王笏もてる者、同じく立ちて群衆の
牧者の命に從へり。——今、軍勢は寄せ來る、
似たり恰も巖石の隙より絶えず新しく
陸續きとして繰り出す密集無數の蜂の群、
群がり寄せて陽春の花をめぐりて飛び翔けり、
こゝに或は又そこに紛々として亂る如く、
斯く百千の軍勢は兵船並に陣營を
出でゝ隊伍を順々に大海原の岸の上、
集會めがけ押し寄する——中にヂュウスの使たる
オッサ[6]姿を燦爛と照して衆を逐ひ進む。
かくして寄する集會の騒はげしく大地 ()る、
その擾々のたゞ中に立てる九人の傳令使、
朗々の聲衆に呼び騒を制し神明の
命を奉ずる列王の宣言聞けと命下す。
かくて漸く坐に着きて衆人席を占め終り、
叫喚やめば其の中にアガメムノーン起ち上る、
其の手に握る王笏はヘープァイストス鑄たるもの、
ヘープァイストスの手よりこを受けしは天王クロニオーン、
天王これをアルゴス[7]を屠れる使者のヘルメース、
彼に讓ればヘルメース悍馬を御するペロプス[8]に、
ペロプス之を嗣がせしは衆を治むるアトリュウス、
そのアトリュウス臨終にチュエステースに、又次いで、
アルゴス[9]及び列島を此笏取りて治めよと、
チュエステースは其順にアガメムノーンの手に讓る、
其王笏に身をもたせ王は普く衆に言ふ、

[6]流言報告等を人化す。
[7]アルゴスは百眼の怪物、而して都市アルゴスの建設者。
ヘルメースはアルゲープオンテースと呼ばる。されど或説によれば是句は「速かに走るもの」を意味す。
詳細はザイラアのホメール字書を見よ。
[8]系統左の如し。
[9]この場合にアルゴスはギリシャ全土の稱。

『友よ、ダナオイ緒勇士よ、神アレースの部將等よ、
見よ、クロニオーン、運命の非なるに我を屈せしむ。
イリオン城を覆へし、振旅し國に歸るべく
先に欺騙をたくらみて衆兵すでに失へる
我に空しく譽なき歸陣の酷き命下す。
威靈かしこき天王の神慮まさしく斯りけり。
彼は幾多の城壁をすでに地上に打ち崩し、
此後つゞきて崩すべし、彼の神威は物すごし。
思へ、アカイヤ緒民族、この大軍を擁し得て、
たゞに無效の戰伐を事とし、數の劣りたる
敵軍前に相向ひ何等の蹟も擧げ得ざる、
此事子孫聞き知らば、思へ、何等の恥辱ぞや。
今トロイアとアカイアと兩軍互ひに相約し、
斃れしものを葬りておの〜勢を數へんか、
トロイア城内一切の族悉く寄り來り、
われアカイヤの大衆は十人おの〜群をなし、
その群おの〜飲宴の給仕たるべくトロイアの
一人づゝを採るとせば、トロイアの數なほ足らず、
アカイア人の數 (いう)に城内すめるトロイアの
數を凌ぐは斯くばかり、さもあれ幾多の城市より、
長槍揮ふ衆勇士來りて彼の應援に
勢猛くわれ防ぎ、壯麗堅固のイーリオン、
其城破り碎くべきわれの希望を打ち絶やす。
天の照臨するところ星霜九年過ぎ去りて、
今わが船の材は朽ち、繩は腐れぬ、かくてわが
故郷に遠く恩愛の妻子淋しく日を送り、
われを待ちつゝあるべきを、しかもわが軍遠征の
基となりし業遠く容易く成就すべからず。
いざ今われの曰ふ如く衆一齊に承け入れよ、
いざ今衆軍船に乘り、愛の故郷に歸り去れ、
街路の廣きトロイアは遂に陥落の時あらず。』

宣言かくて其はじめ集議の席にあらざりし
群衆すべての胸の中、其心肝をかきみだす。
天王ヂュウスの黒雲の中より飛べる東風(とうふう)
また南風(なんぷう)と煽り拍つ渺々の海イカリオス[1]、
その激浪の立つ如く、群衆ひとしく亂れ立つ、
或は西風寄り來り勢猛く飄々と
無邊の麥隴みだす時、穂の一齊に伏す如く、
群衆ひとしく亂れ立ち、即ち歡呼の聲を揚げ、
水陣めがけ馳せ出せば、脚下に塵は濛々と、
亂れて空に舞ひのぼる——衆人互に勇み合ひ、
船をおろして大海に浮ばしめよと罵りつ、
船渠空しく殘されて歸郷を急ぐ叫喚は
天にのぼりぬ、船舶を支へし材は拂はれぬ。

[1]正しく曰はばイーカリオス。ダイダロスの子イーカロス人工の翼を附けて天に上る、
而して誤りて落下し海に沈む、これよりイーカリオス海と呼ばる。
バートランド・ラッセル先年"icarus"を著し、道義を伴はざる物質文明の沒落を諷す。

その時ヘーレー聲あげて藍光の目のアテーネー、
神に呼ぶこと無かりせば彼ら歸国を遂げつらむ、
『アイギス持てるヂュウスの子、アトリュウトーネー[2]、あゝ見ずや!
斯くアルゴスの緒軍勢祖先の宿にあこがれて、
渺々の海打ち渡り故郷に歸り去らんとや!
かくして彼らプリアモス又トロイアに戰勝の
譽れ並にアルゴスのヘレネー殘し去るべきや?
あゝ此の女性の故を以ってアカイア人の幾萬は、
遠く故郷をはなれきてトロイアの地に斃れしを!
なんぢ今行け、胸甲のアカイア人を巧辭もて、
留めよ、船の激浪を躍り進むを押し止めよ。』

[2]アトリュウトーネーは倦まざるもの、制すべからざる者を意味す。アテーネーに對する常用形容句。
アートリュウトーネー、又はアトリュウトーネー(Brasse's Greek Gradus)。

藍光の目のアテーネーその宣命に順ひて、
ウーリュンポスの頂を飛ぶが如くに馳けくだり、
忽然としてアカイアの輕舟の陣訪ひ來り、
聰明さながら神に似るオヂュシュウスの立つを見る。
將軍心に魂に且つ憤り且つ悶え、
楫取多き黒船に未だ其手を觸れざりき、
藍光の目のアテーネー近より來り宣し曰ふ、
『ラーエルチァデイ、神の族、妙算奇謀のオヂュシュウ[3]よ、
楫取多き船に乘り、汝ら斯くも憧憬の
地なる祖先の恩愛の宿をめざして去らんとや?
汝らかくてプリアモス又トロイアに戰勝の
譽並にアルゴスのヘレネー棄つや?彼のため、
アカイア族の幾萬は國を離れてトロイアの
郷に逝けるを!いざ立ちて彼らに向へ、ためらひそ。
なんぢ巧の言により衆のおの〜押しとめよ、
波浪を越して其舟の躍り進むを警めよ。』

[3]共に呼格。オヂュシュウスはラーエルテースの子即ちラーエルチアデースなり。

かくと陳ずるアテーネー、其忠言を聞き悟り、
將軍急ぎ馳け出だす、その脱ぎすてし戰袍は
從者(ずさ)イタケーの傳令者ユウリバテース[1]運び行く。
斯くて走りて總帥のアガメムノーンの前に行き、
相傳不朽の王笏[2]を彼より借りて携へて、
青銅鎧ふアカイアの水陣指して馳け出す。
かくして進むオヂュシュウス、列王或は將帥の
一人に逢へば引き留め、言句(ごんく)巧みに説きて曰ふ、

[1]一歌三二一は同人異人。
[2]一〇一以下にいふところの笏。

『豪勇の士よ、卑怯者の如くおのゝくことなかれ、
なんぢ何故沈勇を示して他にも勸めざる?
アトレーデースの秘意未だ君明かに悟り得ず、
彼れ剛臆をためすのみ、やがて彼らを咎むべし、
集議の席に述べしことすべての人はまだ聞かず、
恐らく彼の憤激はアカイア人の利にあらじ、
神の寵する大王の怒まことに恐るべし、
彼の光榮神に出で、神の愛護は彼に埀る。』
或は卒伍の卑き者罵り呼ぶにいで逢へば、
王笏揮って之を打ち、おどし叱りて宜しいふ、
『友よ吻りに動かざれ、優る他人の曰ふ處、
聞かずや!汝戰に適せず力弱くして、
集議或は戰闘の場に何らの效もなし、
アカイア人の一切はこゝに統治を行はず、
多數の統治 (よし)とせず、クロニオーンの撰び上げ、
他の一切を治せんため、笏と律とを附するもの、
其者ひとり主たるべし、其者ひとり王たらむ。』

斯く彼れ至上の威を振ひ陣中めぐり令すれば、
衆人即ち水陣と陸續とより叫び出で、
集議の席に押し寄する、似たり高鳴る滄溟の
狂瀾岸の岩拍ちて怒潮うづまき吠ゆるさま。
斯くて衆人悉くおのおの席に歸り着く。
テルシテース[3]はたゞ獨り猶叫喚の聲やめず、
胸に無盡の迷妄の思貯ひ、列王に
みだりに抗し争ひて、首尾整はぬ亂言に、
たゞにアルゴス衆人の笑起すを喜べる
彼れ、イリオンに寄せ來る衆中最も醜惡の
相を持つ者、斜視にして、一脚他より短かかり、
左右の肩は聳え立ち胸に向ひて迫り來つ、
頂顧光りてまばらなう毛髪これが上に生ふ。
常に誹謗の的なればペーレーデースとオヂュッシュース、
彼を最も憎しめり、今はた彼の妄言は
アガメムノーンに向ひ來る、衆人これを顧みて
胸に瞋恚の焔燃え、憤激彼に甚だし。
彼は即ち大音に叫びて王を責めて曰ふ、

[3]此人物は又ソポクレースの作『プイロクテーテース』四四二にあり。
彼に關して奇異の傳説あり、即ち彼はホメーロスの後見人。
而して彼の産を奪へるが故に詩人はその不朽の詩に於て彼に復讐すと。
又第二の傳説——カリドーンの野猪狩に於て、メレアーグロスは彼を絶崖より落して不具者たらしむ云々。
野猪狩は九歌五四三に見る。

『アートレ、デーよ!今更に何の不足ぞ?欲求ぞ?
陣營の中、青銅は君に餘れり、アカイアの
軍勢敵を屠る時、主として君に捧げたる
佳人の數も陣營の中に不足にあらざらん。
或はとあるトロイア人、我か或はアカイアの
外の勇士に捕はれし子の償にイリオンの
城より取りて來るべき黄金を君欲するや?
はた妙齡の婦女を獲て、かたへ人なき密房に
愛に耽るを望めるや?ああ全軍の將として
アカイア族を困厄に導き入れて宜からむや!
あゝ柔弱者恥しらず、アカイア族の名は空し。
さもあれ我は船に集り故郷に去りて王をして
あとトロイアに留りて獨り戰利に飽かしめむ。
然らば我の要あるや然らざるやを辨へむ。
あゝ彼れ優れる豪勇のアキルリュウスを辱め、
其獲し戰利其手より強奪なして身に収む、
さあれ微温のアキリュウス、胸裏の怒大ならず、
アートレ、デーよ、さもなくば君の非法は今最後!』

アガメムノーン總帥に、かゝる毒舌あびせたる
テルシテースの傍に、直ちに寄する、オヂュシュウス、
將軍彼を睨まへて憤然として叫び曰ふ、

テルシタ[4]、汝亂言者、辯は(まこと)に雄なるも、
默せよ、汝、列王を叨りに誹謗する勿れ。
アトレーデースもろともにトロイア寄せし衆の中、
賤陋汝に優るものわれは知らずと敢て曰ふ。
汝集會に口開き諸王を云々する勿れ、
彼等に無禮曰ふ勿れ、歸郷を語ること勿れ、
戰役何らの形とる?商量未だ及び得ず、
アカイア族の歸郷又可否は未だに測られず、
アトレーデース、民の王、アガメムノーンに惡言し
彼にダナオイ緒將軍獻ずる所多しとて、
そのため汝衆人の前に誹謗の言放つ、
さはれ汝に今宣す、宣する處 ()と成らむ、
今なす如く亂言を吐くこと汝やまざらば、
我は汝を捕縛して服装すべて剥ぎ取らむ、
汝の耻を掩ふ處被袍と下衣と剥ぎ取らむ、
かくて汝を辱かしめ、鞭に懲して集會の
席よりかなた輕舟の陣に泣き咆え去らしむ。
我もし之れを能くせずば肩のへ(かうべ)戴かじ、
テーレマコス[1]は身を父と此後またと呼ばざらむ。』

[4]呼格。
[1]オヂュッシュースの愛兒。——長男の名を一種の名譽の稱號とすること他にも例あり。

しかく宣んして彼の肩、背に打ちおろす笏の鞭、
妄人即ち身をかがめ、涙はげしくはふり落つ。
見よ金笏の打おろす肩は血にしむ疵の痕、
テルシテースはおののきて苦痛激しく、茫然と
あたり見廻し、流れくる涙ひそかに推し拭ふ。
衆人之を眺めやり、傷み乍らも快然と
笑みておのおの傍に坐れる者に向ひ曰ふ、
『ああオヂュシュウス聰明の意見集議の端開き、
或は敵と闘ひて百千の功建て來る、
されども今し傲慢の彼を集議の座より追ひ、
アカイア族に勲功の至上のものを齎らしぬ。
驕慢彼を促して妄人さらに罵詈の言、
放ちてまたと列王を侮どることは能くし得じ。』

衆人かくぞ——こなたには都市の破壞者オヂュシュウス、
金笏持ちて立ちあがる、(そば)に神女のアテーネー、
傳令使者の姿取り、沈默せよと衆人に
()る、アカイオイ、高きもの、又低きもの一齊に
彼の言句に耳を貸し、彼の意見を顧慮せよと。
將軍即ち其見(そのけん)を錬りつゝ衆に宣んし曰ふ、

『アートレ、デーよ、明朗の聲ある人[2]の目の前に、
アカイア族は今君を誹謗の的となさんとす。
駿馬産するアルゴスを立ち出でし時、衆軍の
誓「トロイア堅城の破却の後の凱旋」と
等しく共に大王に約せし言は遂げられず。
幼齡の兒の爲す如く、或は寡婦のわざに似て、
衆人おの〜懷郷の(なげき)に堪へず、悲めり。
辛酸痛く嘗めし後、誰か歸郷を勉めざる?
たゞ一月も最愛の妻に、故郷に別れ來て、
激浪及び嚴冬の嵐に惱む船の中、
留るものは寂寞の思に堪へず悲しまん。
()して春秋 九囘(ここのたび)、わが軍こゝにつきてより
移りぬ、()べし衆人の水師のほとりつぶやくは、
咎むべからじ、然れども滯陣の日の長くして、
功なく空しく歸らんは何らの恥辱!いざや友!
暫く忍び留りて究め知らんと欲せずや?
占ひ説きしカルハース、當るや或は非なるやを。
此事われ人、胸中に皆悉く銘じ知る、
死の運命を免れし緒卿はた又證者たり、
事たゞ昨日と見るばかり、アカイア水師アウリス[3]に
集り、害をイリオンとプリアモスとに謀る時、
泉のほとり神聖の壇を設けて列神に
いみじき犠牲たてまつり、清冽の水迸る
かたへ葉廣きプラタンの樹の下、衆の立てる時、
大なる奇蹟現はれき、オリュンピオスの遣はせる、
背は血紅の恐るべき蛇現はれて聖壇の
下より這ひ出、プラタンの梢めがけて這ひ上る、
その最上の枝のうへ、廣き緑葉繁る蔭、
まだ聲立たぬ可憐なる子雀八羽潜み居つ、
これらを産める母鳥と合はせて九羽を數ふるを
木昇る惡蛇進み寄り、悲鳴の子らを呑みさりぬ。
母鳥しきりに悲鳴して愛兒の廻り翔け飛ぶを
惡蛇這ひ寄り其翼無慘に捲きて捕まへぬ。
されど其蛇母と子と九羽の鳥皆呑みし時、
彼つかはしゝ神靈は奇蹟をこゝに顯しぬ、
神意微妙のクロニオーン、惡蛇を化して石としぬ。
これを眺めし衆人は、身じろぎもせず茫と立つ、
牲の祭の中にして神の降せる此不思議、
起るを見たるカルハース未來を悟り衆に曰ふ、
「あゝ長髪のアカイヤ族、何故默し佇むや?
クロニーオーンおほいなる奇蹟を我に遣はせり、
事の成就は遲くとも成りて光榮朽ちざらむ。
惡蛇は雛と其母と合はせて九羽の鳥呑みぬ、
數は同じき九春秋、戰闘こゝに續くべく、
暦數十たび移る時廣き街路のイリオンの
堅城遂に破られてわが軍の手に落ちぬべし。」
しか宣したる彼の言、今は正しく成らんとす。
敵の堅城イーリオンわが手の中に落つる迄、
陣營こゝに張らしめよ、わが堅甲のアカイオイ!』

[2]人間を明朗の聲あるものと稱す。
[3]トロイアに向ふ緒軍船の集合點。

その言聞きてアルゴスの衆軍ひとしく歡呼しつ、
歡呼の聲に水軍のほとり普く震動し、
皆英豪のオヂュシュウス陳べし處を讃美しぬ。
ゲレーナ騎將ネストール、その時衆に宣し曰ふ、

『ああ、痛むべし、集會の席に汝ら曰ふところ、
心に軍事留めざる幼穉の輩にさも似たり、
先に結びし約束と誓[1]いづくに今ありや?
會議と男子の謀らひと盃擧げし約束と
信を撃げる握手とはすべて烟と消ゆべきや?
長時に亙り、こゝにある衆は空しくいたづらに
口論(くろん)に耽り方策の宜しきものを見出し得ず。
アトレーデーよ、先の(ごと)、今も不撓の意氣により、
奮戰苦闘のたゞ中にアルゴス族に令下せ、
衆軍の中、一二の徒、説異にして雷霆の
ヂュウスの約の眞否まだ知れざる前にアルゴスに
歸らんずるものありとせば(彼の願は成らざらむ)
其意にまかせ、彼をして其運命に就かしめよ。
聞かずや昔、イリオンに流血破滅を加ふべく、
アルゴス衆軍一齊にその船舶に乘りし時、
神威無上のクロニオーン、我の願を納受しつ、
右手(めて)に電光閃かし[2]、善き前兆を現はしき。
衆人おのおのイリオンの女子を奪ひて册かせ、
かれヘレネーの嘆息と惱を報ひ終らずば[3]、
歸郷を急ぐべからざる故はかくこそ、了せりや?
されども國に歸るべき願切なる者あらば、
漕座いみじき黒船に彼の手をして觸れしめよ。
他に先んじて凶運と死とに其者出で逢はむ。
されば大王心して是より外の説を聞け。
わが曰ふ處、いたづらに汝棄つべきものならず、
大王、今わが衆兵を種族家族により別て、
家族互に相援ひ、種族互に助けよと、
命下る時アカイアの衆みな之に從はば、
諸將並に緒兵士の勇怯忽ち悟り得ん、
人々各其族のために戰ふものなれば。
又敵城の落ちざるは神意に因るや、あるは他に
緒軍の懈怠、戰闘の拙によるやを辨へむ。』

[1]ヘレネーの奪取を報復せずばトロイアより歸らずとの盟。
[2]右に現はるるは吉兆。
[3]頗る不明、——此儘ならばヘレネーの逃亡は暴力により止むを得ざりしこととなる。
アリスタルコスはヘレネーのに非ずヘレネーの爲めに國人の嘆息と解す。

彼の答へて權勢のアガメムノーン宣し曰ふ、
『あゝ(をぢ)、集議にアカイアの子らを遙に君凌ぐ、
ああ今われにクロニオーン、又アテーネー、アポローン[4]、
賜ふ參與の十員の君に似るものあらましを。
さらば直ちにプリアモス彼の堅城陥りて
わが軍勢の手の中に奪はれ破壞さるべきを。
さるを天王クロニオーン口論(くろん)と無用の爭に
われを投じて之がため禍難を我に降らしむ。
たゞに少女の故をもて嗚呼われ並にアキリュウス
口論はげしく戰ひつ、しかも我まづ怒りしよ。
兩者再び一心に結ばゝ敵のトロイアの
禍難必ず遠からじ、必ず近く來るべし。
さもあれ今は戰闘の備のために食に就け、
おのおの鋭く鎗琢け、おのおの楯を整へよ。
おのおの糧を駿足の群に與へて飽かしめよ、
おのおの戰闘心して隈なく兵車檢し見よ、
夕陽沈み入らん迄奮戰苦闘爲さんため。
暗夜到りて衆軍の勇み抑ゆること無くば、
瞬く隙も戰闘を中止することあらざらん。
かくしておのおの胸の上身を蓋ふ楯の革紐は
汗にまみれむ、長鎗を揮ふ堅腕倦み果てん、
閃めく曳く馬も淋漓の汗に苦まむ、
はた曲頸の船のそば戰よそに遠ざかり、
殘りわが目に觸れんもの、彼豈に鷙鳥の餌となり、
野犬の腹を肥やすべき無慚の運を免れんや?』

[4]切なる祈願の時此等三神の名を呼ぶ、四歌二八八、十六歌九七にも。

しか宣すればアカイヤの軍一齊にどよめきぬ、
そを譬ふれば、絶崖のほとりの波を南風の
襲ひて驅りて聳てる危巖めがけて打つ如し、
巖はつねに波ひたる、あらしの向きに係らず。
衆人かくて身を起し、水師の中に驅け走り、
陣に火煙を吹き揚げて糧食ひとしく喫し去り、
やがて應護の神靈に衆人おのおの牲を上げ、
非命の戰死、惡戰の苦惱の救ひ祈り請ふ。
アガメムノーン大王は牲に五歳の肥へし牛、
天威至上のクロニオーン・ヂュウスの前にたてまつり、
式にアカイア族中の宿老將士呼びあつむ。
初め來るはネストール、王イドメネー之に次ぐ、
次ぐは二人のアイアース、同じく跡に續き來る
ヂオメーデース、第六は聰明理智のオヂュシュウス、
更に英豪メネラウス、自ら來る、其兄の
胸中の感、悟り得て招かれなくに來り訪ふ。
斯くて犠牲の牛圍み、聖麥[1]握る衆の中、
アガメムノーン、權勢の王は聲あげ祈り曰ふ

[1]一歌四四九參照。

『虚空に位し、雲湧かす光榮至上のクロニデー[2]!
イリオン城の宮殿を烟塵暗く覆し、
その城門を悉く猛火の焔打ち崩し、
勇將ヘクト,ル胸に着る甲を鋭刄つんざきて、
彼の廻りに同僚の一團ひとしく倒れしめ、
塵噛ましめん其前に神願くは許さざれ、
光輪西に落ち行くを、暗の大地に降り來るを。』

[2]クロニオーンの呼格。牲を備へ神を祭る同様の儀式は詩經大雅の早麓篇にあり。
「清酒既に載せ、騂牡(赤牛)既に備はり、以て享し以て祀り、以て景福を(まこと)にす。」

クロニオーン其祈願いまだ許さず其の牲を
納受なせども辛勞を王に對して増し加ふ。
衆は祈祷を上ぐる後、やがて聖麥振り蒔きつ[3]、
犠牲の首を仰向かせ、屠りて之の皮を剥ぎ、
續きて股肉[4]切り取りて二重の脂肪に(おほ)はしめ、
四肢より截りし精肉を更に其上重ね載せ、
葉を棄てさりし樹の枝を集め燃して之を焼き、
ついで臓腑を串にして火上にかざし炙り焼く。
次に股肉の焼けし後、臓腑試み喫する後、
殘れるところ悉く細かに割きて串に刺し、
用意洩れ無く焼き炙り、炙りて火より取り出し、
斯くして準備終る時、酒宴の席を整へて、
衆人共にこゝに座し、皆一齊に飽き足りぬ。
かくして宴飲了し果て口腹おのおの滿てる時、
ゲレーナ騎將ネストール、衆中立ちて宣し曰ふ、

[3]一歌四四九とほぼ同じ。
[4]股の肉は最上。

『アトレーデーよ、光榮のアガメムノーンよ思ひ見よ、
言論討議すでに足る、神明命じ我の手に
託せる事功いつまでか、またと引延さすべきや?
いざ傳令の使者をして青銅よろふアカイアの
衆水陣に集むべく聲朗かに宣らしめよ、
われ亦共に連れ立ちてアカイア陣に赴きて
急にアレース、勇猛の(いくさ)の神を目醒まさむ。』
その進言に從ひてアガメムノーン統帥は、
直ちに音吐朗々の令使に命じ、長髪の
アカイア族を戰闘に皆悉く招かしむ。
令使即ち命傳へ、衆迅速に集へ來る。
アートレ、デース取り圍む神寵厚き列王は
馳せて隊伍を整ふる、中に藍光の(まみ)持てる
アトリュトーネー・アテーネー不朽不滅の楯を取る、
楯に純金の百の(ふさ)埀れたり、總は精好の
織はいみじくおのおのの價正しく百の牛[5]、
此楯取りてアテーネー、アカイア族の陣中を
縦横はげしく驅け廻り、衆を勵まし胸中に
奮戰苦闘の勇ましき思おのおの湧かしめぬ。
衆忽然と勇み立ち感じぬ、戰甘くして
船に乘じて恩愛の故郷に行くに勝れりと。

[5]六歌二三六に又「百牛の價」あり。

見よ、山岳の頂の大森林を焼き立つる
猛火暴びて、炎々の焔遠きに照る如く、
集り來る軍勢の武具より燦と照り返す
光輝は高く空に入り、天に沖して物凄し。
譬へば空にとび廻る百千萬の鳥の群、
雁、鷺、丹頂、頸長き白鵠ひとしく群れ翔り、
廣きアシオス原[6]上に、ケーストロスの沿岸に
翼を()して揚々と、あなた、こなたに飛び廻り、
嗷々鳴きており立てば沼澤ために鳴りひびく、
様さながらにアカイアの衆軍陣と水師より、
スカマンダロスの岸の上、群がり來れば軍勢と
軍馬の脚の轟きに大地はげしく鳴りどよむ。
斯くして春に花と葉と萠えづる如く百千の
衆軍並びたち留る、スカマンダロスの花の野に。

[6]アーシオス平野、リヂアにあり。

陽和の春のうららの日、瓶に牛羊の甘き乳
溢るゝ頃に、牧童の小舎に粉々飛び廻る。
無數の蠅の密集の群見る如く、髪長き
アカイア族の軍勢はトロイア軍と相對し、
その覆滅を志し平野の中に立ち並ぶ。

譬へば羊百千の群 牧場(ぼくぢゃう)に混ずるを、
養ひ馴るる牧童ら容易く認め知る如く、
諸將おのおの其部下の衆兵分ち整へて
戰場さして進ましむ。アガメムノーン[1]、其中に
頭と眼とは雷霆の神明ヂュウス見る如し、
腰はアレース、胸許はポセードーンのそれに似つ、
百千群がる牧の中、すぐれて目だつ牛王の
雄々しく列を櫂んずる姿も斯くや、陣中に
此日此時百千の勇將中に赫耀と、
アートレ、デース神明の惠みに影を抜き出でぬ。

[1]聯合軍の主將として堂々の威を振ふアガメムノーン。——本詩の中他にまたかかる形容なし。

ああオリュンポス宮殿のムーサイ[2]今はた我に曰へ、
君は神靈、すべてを見、すべてを知りて隅あらじ、
我たゞ風聞聽けるのみ、何らも見知ることあらず、
ダナオイ衆軍率ゐたる王侯將帥誰なりや?
アイギス持てるヂュウスの子、ウーリュンポスに住む詩神、
イリオンに來し衆軍を我に告ぐるに非ずんば、
口舌おのおの十あるも、疲勞知らざる聲あるも、
金銅不壞の意志あるも、かの衆兵を名ざすこと、
彼の衆軍を擧ぐること、我豈にいかで善くせんや?
いざ軍船の將帥を、又軍船の一切を——

[2]歌の神女、(英語のミューズ、)單数ムーサ、歌神に呼ぶことは此後時々あり。

ボイオーチア族[3]率ゐるはペーネレオース、レーイトス、
アルケシラオス又更にプロテーノール、クロニオス、
そのあるものはヒリエーと岩石多きアウリスと、
スコイス及びスコーロス、また嶺多きエテオノス[4]、
又テスペーア、グライアー、また原廣きミカレソス[5]、
之等を郷に、他はハルマ、エーレシオンとエリュトライ、
更に他は又エレオーン、ヒュレー並びにペテオーン、
オーカレエーと堅牢に築きたる都市メデオーン、
ユウトレーシス、コーパイと鳩の産地のチースベー、
他は又更にコローネーア、ハリアルトスの青草地(せいさうち)
更に他は又プラタイア、更に他の領グリイサス、
更にその領堅牢にヒュポテーバイを築ける地。
オンケーストス、聖なる地、ポセードーンの(うま)し森、
更に他の郷、葡萄の地、アルネー及びミイデーア、
聖なるニイサ、極境を占めたる城市アンテドン[6]、
此らの地より五十艘、兵船來り、船ごとに
ボイオーチア[7]の健兒らは乘り込む一百二十人。

[3]此「舟揃」四九四——八七七は後世の添加ならむ。評家の意見様々なり。
初めにボイオーチアー軍(縮めてボイオーチアとす)。
[4]エテオーノスを縮む。
[5]ミカレーソスを縮む。
[6]アンテドーンを縮む。
[7]ボイオーチアは、こゝに劈頭にしかも最も長く説かれしも後の卷々における其行動は微々たり。
又此の船揃ひ中に録せられたる勇士にして全く戰爭に加はらざるものあり。

アスプレドーン、ミニエーのオルコメノスに住める族、
將はアレース生める二子、アスカラポスとヤルメノス、
その誕生のゆかり聞け、アゼーオスの子アクトール、
()にむかし無垢の處女アスチオケーは樓の上
昇り、群神アレースと私かに契り生むところ、
三十艘の兵船は彼らをのせて進み來ぬ。

ポーキヤ族に將たるはエピストロポス、スケヂオス、
二人の父はイーピトス、その又父はノーボロス。
彼らの郷はキパリソス、また石多きピトーンの地、
聖きクリーサ、更に又ドーリス及びパノピュース、
アネモーレーア、更に又ヒアムポリスも其領土、
更に彼らの住む處、聖なるケーピソスの岸、
更に其領この川の源流に沿ふリライア市、
黒き兵船四十艘、彼らと共に進み來ぬ。
二將勉めてポーキアの衆の隊伍を整へて、
ボイオーチアの軍勢の左に接し陣取りぬ。

ロクロイ族に將たるはオイリュースの子アイアース、
テラモニデース・アイア,ス[8]に其の身長をくらぶれば、
遙かに劣り小なるも、鎗を取りてはアカイアと
ヘルラス族[9]を凌ぐもの、布の胸甲身に着けぬ。
ロクロイ族の住む處、キノス、オポース、カリアロス、
ペーッサ及びスカルプェー、更にいみじきアウゲーア、
更にタルペー、トロニオン、ボアグリオスの川に添ふ。
彼等の黒き兵船の四十こぞりてアイア,スに
附きて聖なるユゥボィア島のをちより進み來ぬ。

[8]アキリュウスに次げる猛將軍、七七〇行を見よ。
[9]ギリシヤ全體の稱としてヘルラスを用ゐるはホメーロスの詩中獨此一行あるのみ
六八三は其一部の地の名。

闘志はげしきアバンテス、彼等の領はユウボイア、
カルキス及びエレトリア、ヒースチアイア葡萄の地
ケーリントスの港市(みなといち)、更にヂオスの高き都市、
更に其領カリストス、更に其郷スチュラの地、
エレペーノール(その父はカルコードーン)アレースを
祖先となして猛勇のアバンテス族導きぬ。
その脚疾きアバンテス髪をうしろに振り亂し[1]、
敵の胸甲碎くべく長鎗はげしく繰り出し、
彼に從ひ奮闘の勇氣はげしく續き來ぬ、
黒き兵船四十艘彼に續きて一齊に。

[1]うしろに髪を亂す——恐らく頭の前面を剃りしか、四歌五三三トレーケース人は結髪す。

堅固美麗に築かれし都市アテーナイ、すぐれたる
エレクチュウス[2]の所領の地、ヂュウスの神女アテーネー、
豐かの「大地」産み出でし彼をいにしへ養ひき、
しかして彼をアテーナイ中の佳麗の殿堂に、
入れしこのから年廻り、アテーナイ市の若き子ら、
牛と羊の牲捧げ、親しく之を祭りたる[3]
其民族を率ゐるはペテオスの息メネスチュ,ス[4]、
普天の下に彼よりも馬と盾取る勇士とを
巧みに統ぶる者あらじ(獨り老將のネストール、
年齒彼より優る者彼に競へり)黒く塗る
兵船あげて五十艘、彼に從ふ一齊に。

[2]大地より生れしエレクチュスはアカイア以前の神話、
こゝに神女アテーネー其殿堂に彼を入ると説くが事實は正反對、
アテーネーは後より来れるもの、然れど兩者が同一殿堂に祭られしは頻る早き時代よりなり。
[3]「……之を祭りたる……」或譯者は之をアテーネーとし、他は之をエレクチュウスとす。
[4]メネスチュースを縮む。

十二の船をサラミスの地よりアイア,ス引き來り、
アテーナイ人水陣を据ゑし(かたへ)に整へぬ。
アルゴス及び城壁を固く備へしチイリンス、
深き港灣含みたるアシネー及びヘルミオネー、
トロイゼーンとエイオナイ、エピドーロスの葡萄の地、
領する種族、更に又アイギナ及びマーセース、
領する若きアカイオイ、率ゐる將は大音の
ヂオメーデース、又次ぎてカパニュウスの子ステネロス。
祖父はタラオス、王たりしメーキスチュウス父として、
勇武さながら神に似るユゥリュアロスは將の三、
されども高き音聲のヂオメーデース全隊を
統べたり、黒き八十の船は彼等に附き來る。

[5]アイアースの如き特に勝れし勇將は只二行を與ふるは怪むべし(リーフ)。

堅固美麗に築かれし都市ミケーネー領と爲し、
更に富強のコリントス、クレオーナイの堅固の市、
オルネーアイと美しきアライチレーを郷となし、
又シキュオーン(そのはじめアドレーストス治めし地)
ヒュペレーシエイ、嶮要の地なるゴノエサ、ペレーネー、
領して更にアイギオン、アイギアロスの一帶を、
又おほいなるヘリケーのほとりを領し占むる者、
その民族の百の船、率ゐる王は權勢の
アトレーデース、アガメムノーン、精鋭及び數のうへ
優る衆軍從へり、率ゐ流彼は燦爛の
黄銅の武具身に穿ち、勇武秀いでゝ軍勢の
數はは及ぶものなきを昂然として誇らへり。

山嶽 四方(よも)に聳え立つラケダイモーン、スパルテー、
パーリス及び鳩多きメッセー領し住める者、
ブリュセーアイと秀麗のオーゲーアイを郷となし、
アミュクライと港市(みなといち)ヘロスを領し住める民、
更にラースを領と爲し、オイチュロスに住める者、
その民族の六十の船を王弟——勇猛の
將メネラオス[6]從へり、衆軍區々に陣取りぬ。
わが猛勇に信を措き、衆を鼓舞して戰闘に
進むる彼は、ヘレネーの逃亡並びに涕涙の
怨報へん情願は衆に優りて激しかり。

[6]メネラーオスを縮む。以下同様。

ビュロスと美なるアレイネー、アルペーオスの貫ける
トリオン、更に堅牢のアイピユの郷に住めるもの、
キュパリッセース、プテレオス、アムピゲネーア、ドーリオン、
更にヘロスに住める者、(詩の神むかし此郷に
トレーケー人タミュリスに會し、其歌亡ぼせり。
オイカリエーのユウリュトス其 (もと)辭して歸り來て、
歌人誇れり『アイギスを持てるヂュウスの神女(かんむすめ)
ムーサイよしや歌ふとも競ひて之に勝つべし。』と。
怒れる神女彼を打ち、盲目となし加ふるに
彼の歌謡を奪ひ取り更に彈琴忘れしむ)
これらの族を率ゐるはゲレーニャ[1]騎將ネストール、
兵船九十、一齊に彼に從ひ進み來ぬ。

[1]ゲレーニアーを略す。

キュルレーネーの高き山、麓の郷のアルカヂア、
アイピチオスの墓の(わき)、接戰手鬪の武士の郷、
ペネオス及び牧羊地オルコメノスに住める族、
リペー並にストラチイ、また風勁きエニスペー、
テゲエー及び美はしきマンチネエーを占むる者、
スチュンペーロス領となし、パルラシエーに住める者、
其民の舟六十をアンカイオスの生むところ、
アガペーノール將として率ゐぬ、舟の一一に
戰術特に巧みなるアルカヂア人多く乘る、
アガメムノーン統帥は櫂揃ひたる黒き船、
かれらに賜ひ、黯紅の海を走れと下命しぬ。
その船舶を造るべき技に彼らは疎かりき。
ブプラシオンと神聖のエーリスに住む民の群、
其領の端ヒュルミネー、又ミュルシノス、岩勝ちの
オーレニエーとアレーション、中に含める民の群、
四人の將帥之を統べ、おのおの率ゆ十の船、
その船舶に數多くエペーオス族乘り込めり、
アムピマコスとタルピオス、彼を生めるはクテアトス、
これを生めるはアクトルの系より出でしユウリトス[2]、
二人おのおの將となる。オーゲーアスの子たる王、
第三將はヂオーレ,ス、アマリンキュウスの勇武の子。
アガステネスの生むところ、ポリュクセーノス第四將。

[2]先文五九六は同名別人。

海のあなたにエーリス[3]と向ひ對する島二つ、
ドーリキオンとエキナデス、その民族を率ゐるは、
メゲース、勇は軍神のアレースに比す、雷霆の
神の愛するピュリュウスの生みたる子息メゲースは
父に對して憤りドウリキオンに退きき。
黒き船舶四十艘附き從へりメゲースに。

[3]エーリスとエキナデスとは相向はず、地理についての不明の一例。

ケパルレーネス勇猛の民を率ゐるオヂュシュウス、
彼等の領はイタケーと緑葉震ふネーリトン、
クロキュレーアと嶮要のアイギリープス、更に又
ザキュントスの地領となし、更にサモスを郷と爲し、
本土並びに緒の岸を領とし占むる民、
智は神に似るオヂュシュウス率ゐて之が將となる、
艫は紅の兵船の十二ひとしく彼に附く。

アイトウロイ族率ゆるはアンドライモーン生める息、
トアス、其領プリュウローン、オーレノス又ピュレーネー、
海の臨めるカルキスと岩石多きカリュドウン。
先に英武のオイニュウス其もろ〜の子と共に、
此世を辭して金髪のメレアグロスも亦逝きぬ、
アイトウロイ族一切を擧げてトアスの指揮仰ぎ、
今一齊に随へる黒き兵船四十艘。

鎗の名將イドメネー[4]、クレーテ,ス[5]、族導けり、
彼等の領はクノーソス、城壁堅きゴルチユス、
リュクトス及びミレートス、更に白堊のリュカストス、
更に戸數の豐かなるパイストス又リュウチオン、
其他に更に百城のクレーテーの地住める族、
率ゐて之に將たるは鎗の名將イドメネー、
メーリオネース之に副ふ、神アレースに似たる者、
八十艘の黒き船みな一齊に從へり。

[4]イドメニュウスの佛蘭西訓み。
[5]地名クレーテー、族名クレーテース。

ヘーラクレース生みたる子、トレーポレモス丈高き
勇將かなたロドスより郷土の緒豪從へて
九艘の兵船率ゐ來ぬ、彼らは別る三の郷、
リンドス及びイエーリュソス及び白堊のカメーロス、
トレーポレモス、譽ある鎗の名將之を統ぶ。
アスチュオケーは彼の母、ヘーラクレース獲たるもの、
神寵うけし勇士らのあまたの都城やぶる後、
セルレーエースの川の岸、エピュレーよりし獲たるもの。
トレーポレモス壯麗の宮殿中に養はれ、
長じてヘーラクレースの叔父老齡の傾ける
リキュムニオスを(アレースの裔を)俄かに討ち果し、
長じて多く船造り、衆を集めて渺々の
海に浮べり、力あるヘーラクレ,スの他の子孫、
彼に報復計れるを恐れて海に浮び去り、
辛苦を經つつ飄零の果にロドスにたどり來ぬ。
部下の衆人族に因り分れて三の郷開き、
諸神緒人を司どる天王之に愛を埀る、
クロニオーン豐饒の富を彼らに授けたり。

ニーリュウス又三艘の等しき船をシュメーより、
ニーリュウス、母はアルガイエ、王者カロポス彼の父、
ニーリュウス、彼れイリオンに寄せしダナオイ族の中、
ペーレーデース・アキリュウス除けば無双の美貌の身、
されども彼は弱くして只少數の兵率ゆ。

ニーシュロスまたクラパトス領し、並びにカソスの地、
ユウリュピロスの都市コース、カリュドナイの群島を
領する(やから)率ゐるはペーヂッポスとアンチポス、
二人の父はテッサロス、ヘーラクレース祖父にして。
三十艘の兵船は彼に随ふ一齊に。
ペラスゴスなるアルゴスを領する(やから)、アーロスに、
居を占むる者アロペーとトレーキスとに住める者、
プチエイ及び美はしき女性の産地ヘルラスを、
領する(やから)其稱はミリミドネスとヘレーネス、
又アカイオイ、其船を五十を率ゆ、アキリュウス。
されども之を戰場に驅るべき將は今あらず、
衆兵こぞりて喧囂の戰今は心せじ。
髪美はしき妙齡のブリーセーイス本として
()く走るアキリュウス怒りて船に留れり。
苦戰の末に其むかしリュルネーソスを陥れ、
テーベー城を打碎き、セレーピオスの子たる王、
ユウエーノスの二人の子、鎗の名將ミネースと
エピストロポス[1]打斃しリュルネーソスに少女獲き。
今は怒りて休らへど程なく立たむアキリュウス。
族あり其郷ピュラケーとデーメーテ,ル[2]の聖地たる
花咲き匂ふピューラソス、羊産するイトーンの地、
海に臨めるアントロ,ン、緑草深きプテレオス、
プロ,テシラ,オス[3]雄豪の將軍彼ら統べたりき、
されども亡び黒き土彼を蓋へり、其妻は
半ば成りたるピュラケーの館に殘りて氣は狂ふ、
アカイア族に先んじて將軍船より飛びおれる
其時彼を殺せしはダルダニエーのとあるもおん、
新たの將帥缺かざれど衆みな切に彼偲ぶ、
アレース神の苗裔のポダルケースは今首領。
ピュラコスの子イピクロス牧羊多く持てるもの、
ポダルケースを産みなせり、プロ,テシラ,オス老練の
武人即ち其義兄、プロ,テシラ,オス英豪に
齢も勇も優れりき、亡きを繼ぎたる將あれど
部下の民族過ぎさりし名將軍を今思ふ。
黒き兵船四十艘みな一齊に從へり。

[1]五一七と八五六とに同名異人二人あり。
[2]農業の神女。
[3]プローテシラーオスを縮む。

ボイベースの湖に沿へるペライに住める者、
ボイベー及びグラピュライ、更に堅固のヨールコス、
其族の舟十一をユーメーロスは率ゐ來ぬ。
アドメートスは彼の父、母は美貌の勝れたる
アルケースチス、ベリアスの息女の中に秀でたり。

メートーネーとトーマキー占め從へる民族の
又其領地メリボイア、又嶮要のオリゾーン、
その民族の七艘を率ゐるピロクテーテース、
弓の名將、其もとに舟各にのりこめる
漕手は五十、弓術にすぐれて奮ひ戰はむ。
されど將軍[4]島の中、聖なるレームノスの中、
苦惱激しく惡靈の水蛇の噛める疵により、
アカイア人に棄てられてひとり淋しく打ち伏せり。
さはれ苦惱に打ち伏せど水師のほとりアカイアの
衆軍ピロクレーテース勇將ほどなく思ひ出む、
部衆は將を缺かざれど、かの勇豪をなほ思ふ、
あらたに彼ら率ゐるはメドーン、都城を破壞する
將オイリュウス生める庶子、レーネー彼の母なりき。

[4]此有名の將軍に關してホメーロスは只如上を記す、ソホクレースの悲劇
「ピロクテーテース」に七艘の舟を率ゐることを述ぶ、明かにこの一段より來るなり。

トリッケイまた山多きイトウメー又オイカリエ、
オイカリエーのユウリトス嘗つて領せし其都城、
これらを占むる民族をアスクレーピヨス生める息、
ボダレーリオス、マカオーンすぐれし二人の醫は率ゆ。
三十艘の兵船は之に随ふ一齊に。

オルメニオスに住める民、ヒュペーレーアの源泉と
アステリオン又チタニスの雪嶺近く住める者、
ユウアイモーンの秀れし子、ユウリピロスの令を受く、
黒き兵船四十艘彼に随ふ一齊に。

民あり其領アルギッサ、ギユルトーネー、更に又、
オルテー及びエーロ,ネー、オロオッソンの白堊の府、
その民族を率ゐるはポリュポイテース、武勇の士、
ペーリトオスは彼の父、神靈ヂュウス産むところ、
ペーリトオスはその昔長髪亂す怪物[1]を、
ペーリオンより驅り出だし、アイチイケスに放ちし日、
ヒポダメーアと契り得てポリュポイテース生み出でぬ。
其副將はレオンチュ,ス、かれアレースの裔にして
父は英武のコローノス、更に其祖父カイニュウス。
黒き兵船四十艘みな一齊に随へり。

[1]怪物は即ちCentaurs(一歌二六七)。

キュポスの地より二十二の舟率ゐるはグーニュウス、
エニエース族又強きペライボイ族從へり。
彼ら其居は定めしはドウドウネーの冬の郷、
其耕作の勞積むはチタレーショスの岸の上、
その清き水流れ入りペーネーオスに注げども、
ペーネーオスの銀浪と混ずることは絶えてなし、
油の如く徒らに其表面を走るのみ、
凄き陰府のスチュクスに別れ來りし水なれば。

テントレードーン生める息、マグネテス[2]族率ゐ來ぬ、
ペーネーオスの流、又緑葉震ふペーリオン、
其ほとりなる民族を率ゆ、足疾きプロトオス、
黒き兵船[3]四十艘みな一齊に從へり。

[2]マグネーテスを縮む。
[3]以上列擧するところ、舟の數は一千一百八十六、乘組員の最多は百二十人、
最少は五十人、其平均八十五人とすれば遠征軍の人數は十萬人なり(リーフ)。

かくぞダナオイ軍勢を率ゐし列王將士の名、
詩神今はた我に曰へ、アトレーデース率ゐ來し
衆中至剛の者は誰ぞ?至上の軍馬またいづれ?

軍馬の最も優るものペーレース[4]の子それなりき、
ユウメーロスは之を御す、馳けて飛鳥にさも似たり、
その年齢と脊の丈と毛色と兩馬相同じ、
神、銀弓のアポローン、ペーライエーの牧場に
畏怖の戰廣ぐべき此兩牝馬養へり。
英武無双のアキリュウス並に彼の聯乘の
馬も遙に優れども怒りて陣に退けば、
テラモニデース・アイアース今人中に勝れたり。
波浪を分くる曲頸の舟の中にし横はる
ペーレーデース沸然と、アガメムノーン大王に
怒抱けり、その部下は鞺々波うつ岸の上、
圓盤長鎗投げ飛ばし、或は弓矢に興をやる。
軍馬はたまたそれ〜゛に兵車のそばに立ち停り、
ロートス或は沼澤のほとりに生へる芹を噛む。
兵車また善く蓋はれて部下の諸將の營中に
藏まり立てり、その諸將ペーレーデースを惜み合ひ、
陣營のうちさすらひて猶ほ戰鬪に加はらず。

[4]ペーレースの子アドメトス、アドメトスの子ユウメーロス。

かなた大地を焼き拂ふ猛火の如く進む軍、
大地は下に震ひ鳴る、雷霆の神憤ほり
チュポーンの郷のアリマの地(怪人[5]そこに其床を
構ふと人は傳へ曰ふ)其地激しく撃つ如く、
大軍過ぐる脚もとに大地高らに震ひ鳴る、
大軍かくて歩を速く廣野よこぎり進み行く。

[5]地震の神話的説明、日本は鯰——、一笑。

かなたヂュウスの命に因り、憂の報を齎らして、
迅速恰も似るイーリス[1]、トロイア軍を訪ふ、
そこにトロイア滿城の老少共に集りて、
イリオン城の廻廊に評議の席を開きあり。
プリアモス王生める息ポリテースの聲をまね、
()きイーリス近寄りて(かたへ)に其時立ちていふ、
(その健脚に依り頼み、トロイア哨の役を帶び、
老いしアイシューエーテース[2]其墳塋の高き地に、
アカイア軍勢兵船を出で來る時を窺へる)
其ポリテースに身を似せてイーリス衆の中に曰ふ——

[1]使の神女。
[2]古のトロイア王。

『ああ老父王、君は今平和の時に於ける(ごと)
はてなき議論喜べり、されど戰亂今起る。
われ人間の戰に屡々會へり、然れども
今寄せ來る軍勢の如きは未だ嘗て見ず、
數はさながら深林の緑葉或は海の沙、
われの都城を攻めんため敵は平野を進み來る。
ああ英豪のヘクトール、君に忠言特にいふ、
プリアモス王のおほいなる都市に援軍集れり、
さはれ四方に分れ布く緒人の言語一ならず、
されば衆將率ゐ來し部下におのおの令下せ
(おの〜)所屬の衆軍を整へ之を繰出せ。』

しか陳ずれば、ヘクトール其言聞きて誤らず、
たゞちに衆議の會を解く、衆人はしりて武器を取り、
あらゆる城門推し開き歩兵團また騎兵團、
全軍ひとしく奔り出で騒ぎは激し囂々と。

都城の前に平原の中に離れて丘陵の
高く立つあり其四方おの〜道は開かるる、
この丘陵を人界に呼ぶ名稱はバチイエー、
されども神は脚早きミュリーネーの墓と呼ぶ。
トロイア並に應援[3]の衆軍こゝに陣取りぬ。
トロイア軍を統ぶるものプリアミデース・ヘクトール、
堅甲光る飛將軍、その最鋭の軍勢は
數はた(ほか)に抜きいでゝ長鎗振ひ戰へり。

[3]應援軍の中トレーケース、キコーネース、パイオニエースは歐洲人[、]他は亞細亞人。

アンキーセース生むところ、アイナイアース勇にして
ダールダニアの兵率ゆ、アプロヂイテー、美の女神、
イデーの丘に人間と契りて彼を生れしむ、
アンテーノールの二人の子、戰術すべて巧みなる
アルケロコスとアカマース、彼とならびて將となる。

イデーの丘の麓端、ゼレーアの地に住める民、
トロイアの族、富み榮えアイセーポスの水に飲む、
其民族を率ゐるはリュカーオ,ンの子パンダロス、
神アポローン勇將に親しく弓を授けたり。

アドレーステーア占むる族、アパイソスの地占むる族、
またピチュエーア、更にまたテーレーエーを族、
率ゐて之に將たるはアドレーストスと胸甲を
布もて造るアムピオス——ペルコーショスのメロポスは
彼ら二人の父なりき、人に勝りて將來を
占ふ術に長ずれば、二兒の從軍 ()しとせず、
されども二人順はず死の運命に引かれ來ぬ。
ペルコーテーとプラクチョス其ほとり住みアビードス、
又セーストス、更にまたアリスベーの地、聖き地を
占むる民族率ゐるはヒュルタキデース・アーシオス、
アリスベーの地貫けるセルレーエースのほとりより、
其軍將を丈高き黒き駿足乘せ來る。

土地豐饒のラーリッサ領して鎗に名ある族、
ペラースゴスの民族を率ゐる將はヒポトオス、
並び將たりアレースの系勇猛のピュライオス、
二人の父のレートスはチュウタモスの生むところ。

將ペーロオス、アカマース、奔潮高きわだつ海、
ヘレースポントス境するトレーケー族並び統ぶ。

ユウペーモスはキコネスの長鎗揮ふ民率ゆ、
神の寵せるケアスの子、トロイゼーノス彼の父。

遠きあなたのアミドーン、アーキシオスの岸邊より、
地上に走る至美の水、アーキシオスのほとりより、
ピュライクメース曲弓のパイオニヤ族導けり。

荒き野生の騾馬出づるエネタイ人の故郷より、
ピュライメネース勇將はパプラゴス族引き來る。
彼等の領はキトウロス、更に其領セーサモス、
パールテニオス流水のほとりの名家、更に占む
アイギアロスとクロームナ、エリュチイネーの高原地。

エピストロポスとオヂオスはハリゾウノス族率ゐ來る、
銀の鑛山あるところ遠きアリュベイ彼の領。

ミューソイ族を率ゐしはクロミス及びエンノモス、
後者は鳥に占へど死の運命を免れず、
他のトロイアの勇將と共に亡べり、足早き
アイアキデース[1]流水の中に彼らを打ちとりぬ。

[1]アイアキデース即アキリュウス。此名は祖父アイアコスより來る。

ポルキユス更にプリュギアの好戰の民導けり、
アスカニエーの遠きよりアスカニオスともろともに。
ギューガイエーの湖上にてタライメネース生む處、
メストレースとアンチポス、メーオネス族導けり、
トモウロス山、その下に生れし同じ民族も。

蠻語[2]あやつるカーレスの族を率ゆるナステース、
彼らの領はミレートス、緑葉の山プチイレス。
マイアンドロスの緒川流、はたミュカレーの高き嶺。
アムピイマコスとナステース彼らを率ゐ將たりぬ、
アムピイマコスとナステース、二人の父はノミオーン、
アムピイマコスは金冑を少女の如く飾り着ぬ、
愚かや黄金無慘なる破滅を彼に防ぎ得ず、
流れの中に足はやきアイアキデース彼を討ち、
彼は亡びてアキリュウスかの黄金を獲て去りぬ。

[2]「蠻語」の句はホメーロス詩中只此一行のみ。

遠きリュキテあなたより、クサントスの流より、
來るリュキオイ族率ゆサルペードーンとグローコス。


更新日:2004/05/01

イーリアス : 第三歌


第三歌

兩軍の會合。パリスの出陣。メネラーオスを見てパリス恐れて退却す。 ヘクトール大にパリスを叱る。パリスの辯解並に決闘の提案。 兩軍休戰して決闘を待つ。ヘレネー侍女をつれてトロイア城のスカイアイ門に現る。 プリアモス王の問に答へてアカイア軍中の諸將を説明。 王戰場に進み盟約並に祭事を行ふ。メネラーオスとパリスとの決闘。 パリス負けて逃げ歸る。神女アプロヂーテー之を救ふ。アガメムノーン盟約の履行を迫る。

おのおの將に随ひて衆軍隊に就ける時、
トロイア軍は叫喚と喧囂あらく進み行き、
群鶴高く雲上に翔けりて鳴くにさも似たり、
嚴冬並びに淫霖を避けて長鳴空にあげ、
オーケアノスの潮流の上に飛翔を續けつつ、

ピグマイオイの族人に悲運と死とを齎して、
暁天高く奮闘を挑む群鶴[1]斯くあらむ。
之に反して勇を鼓し相互の救念じつつ[2]、
アカイア軍は堂々と無言の中に進み行く。
南風吹きて濃霧湧き、石を抛つ距離の外、
視線ふらますばかりなる——そを牧人は厭へども、
賊は夜よりも喜べる——其霧に似て濛々と
進み來れる軍勢の脚下はげしく塵起る。
かくして彼等足速く大野横ぎり進み行く。

[1]小人國と群鶴との戰——昔の傳説。
[2]四歌四二九にも同様の記事。

兩軍向ひて相進み互ひに近く迫る時、
トロイア軍の先頭に艶冶のアレクサンドロス[3]、
現はれ出でゝ豹皮着る其肩の上短弓と
利劔を負ひつ、青銅の二條の鎗を振り廻し、
來りて彼とまのあたり向ひ勝敗決すべく、
アルゴス軍中勇猛のすぐれし者に呼び挑む。

[3]即ちパリス——プリアモス王の子、ヘクトールの弟——ヘレネーを奪へる元兇。
[4]豹、獅子、又狼の皮を鎧の上に着くるは當時の習ひ、夜行の時は特に。十歌二三にも同様の記事あり。

アレース神の寵兒たる王メネラオス、悠然と
衆のまさきに進み來る敵を望見しつる時——
譬へば獅子王餓迫り、めぐり逢ひたる巨大なる
角逞しき大鹿を、或は荒き山羊を獲て
欣然として貪りつ、彼のうしろに迫り來る
獵の一群、速き犬強き壮士を見ざる如、
王メネラオス斯くばかり、艶冶のアレクサンドロス
來るを眺め喜びつ、罪あるものを懲さんと、
武器を携へいち早く兵車をおりて地に立てり。

斯く戰陣の眞先(まっさき)に彼の出でしを望み見て、
艶冶のアレクサンドロス愕然として胸打たれ、
死の運命を逃るべく陣中さして逃げ歸る。
譬へば、とある山麓に毒蛇を見出で驚きて、
歩みすばやく飛びしざり、兩膝そゞろおののきて、
兩頬ともに青ざめて逃ぐる恐怖の人や斯く、
艶冶のアレクサンドロス、アトレーデース[1]に恐じ怖れ、
自方トロイア軍勢の陣中さして逃げ歸る。
こを眺めたるヘクトール憤然として叱り曰ふ、

[1]弟アトレーデース即ちメネラオス。

『無慙の汝、姿のみ艶美、好色の詐欺の子よ、
汝此世に生れずは、或は女性に逢はずして
逝かば却って(まし)ならむ、汝のために斯く願ふ、
衆の目の前、冷笑と侮蔑の的にならんより。
見よ長髪のアカイア族、汝の美貌の故によ因り、
勇武に長けし鬪將と汝を見なし、聲あげて
嘲み笑へり、あゝ無慙!汝勇なし、力なし。
斯くありながら大海の波浪を渡る船に乘り、
親しき友ともろともに航し渡りてトロイアの
人と交はり、歡待を裏ぎりつゝも其郷の
勇士の夫人艶麗の女性ヘレネー奪ひしか、
(はて)は、汝の老親に、故郷に、民におほいなる
禍難、敵には喜びの勝利、汝にたゞ恥辱。
アレースの寵メネラオス之に汝は向ひ得じ、
知るべし汝奪ひたる美婦の夫を何ものと。
肝腦塵にまみる時、アプロヂ,テーの惠なる
美貌も髪も絃琴も汝に何の效あらじ。
トロイア人は卑怯なり、さなくば彼に來たしたる
禍難の故に汝とく石の衣[2]を着しならむ。』

[2]石に打たれて死せん。

艶美のアレクサンドロス其時答へて彼に曰ふ——
『汝の苛責皆正し、あゝヘクトール皆正し、
汝の心あゝ強し、船造るべく巧妙に
巨木つんざく人の手の揮へる手斧——揮るごとに、
力いよいよ優り來る斧の如くにあゝ強し。
げに勇猛の精氣こそ常に汝の胸中に。
アプロヂーテー惠みたる恩寵[3]さはれ、咎むる()
諸神賜へる恩寵は棄つべきならず、何人も、
たゞおのれの意思により受くべきものに非るを。
今もし汝、戰鬪に我の奮ふを望まんか、
トロイア並びにアカイアの兩軍さらば對せしめ、
其先頭にアレースの寵兒、敵王メネラオス、
並びに我を立たしめよ、ヘレネー及び財寳を
堵けて戰ひ、勝を得て優者たるもの其許に
彼女並びに一切の財寳を獲て歸るべし、
兩軍斯くて親睦と堅き約定整へて
我はトロイア豐沃の郷に向はむ、はた彼は
馬の産地のアルゴスと美人に富めるアカイアに。』

[3]美貌。

斯く陳ずるを耳にして歡喜大なるヘクトール、
トロイア軍の陣中に馳せ、長鎗のたゞなかを
握りて衆を留れば、全軍ひとしく靜まれり。
その時長髪のアカイア族彼をめがけて矢を放ち、
或は石を抛ちて彼を打たんと騒ぎ立つ。
アガメムノーン統帥はされど大音擧げて曰ふ、

『やめよ汝等アルゴスとアカイアの子ら、射る勿れ、
堅甲光る[4]ヘクトール今わが軍に叫ぶらし。』
其言聞きて戰鬪をやめて衆人忽ちに、
鳴しづむればヘクトール二軍にひとしく叫びいふ、

[4]ヘクトールの常用形容句。

トロイア、アカイア兩軍士、われを通じて爭の
本たるアレクサンドロス彼の主張を耳にせよ。
トロイア、アカイア兩軍士、汝等おの〜一齊に
大地の上に美はしき汝の武器を横たへよ、
かれと勇武のメネラオス、ヘレネー及び其産を
堵けて兩人相對し、正に勝敗決すべし。
其戰に勝を得て優者たるもの其許に、
彼女並びに其産を皆悉く取り去らむ、
しかして二軍友好と堅き盟約整へむ。』
しか宣すれば衆軍は皆寂然と鳴しづむ。
その時高き音聲の王メネラオス衆に曰ふ、

『衆人我にも耳をかせ、大なる苦痛わが胸に
迫る、我またアカイアとトロイア軍の解散を
望めり、我に爭とはた又アレクサンドロス、
初めし非行本とせる二軍の辛勞すでに足る。
死と運命と臨めるは我が兩人の中いづれ?
其者は逝け、他は早く和ぎ、散じ分るべし。
汝等地靈[1]と日輪に黒白二頭の羊の子
捧げよ、我も一頭を別にヂュウスに捧ぐべし、
またプリアモス老王を呼びて犠牲を屠らせよ。
年まだ若き彼の子ら驕慢にして信を缺く——
その僭越のわざによりヂュウスの誓破ること
無からんためぞ——年少の心は常に定らず。
されど老者の係はらば雙方最も善しとする
其結果を來たすべく前後ひとしく顧みむ。』

[1]誓約の時にはヂュウスと日神(ヘーリオス)と地神(ゲーア)とに牲を捧ぐる古代の習ひ。

しか宣すれば、トロイアとアカイア軍勢もろともに、
悲慘の軍終るべき希望に滿ちて喜べり。
すなはち軍馬を列に留め、おのおの兵車を下りて立ち、
戰具を棄てゝ地の上に互に近く横たへつ、
兩軍互に向ひ合ふ、間の距離は大ならず。

二人の使者をヘクトール都市に遣はし、速かに
小羊二頭求めしめ、プリアモス王招かしむ。
アトレーデースこなたには水陣さして使者として、
タルチビオスを遣はして同じく小羊求めしむ、
アガメムノーンの嚴命に使者は背くを敢てせず。

玉腕白きヘレネーを今イーリス[2]は訪ひ來る、
借れる姿は其義妹アンテーノ,ル[3]の子の夫人、
アンテーノリデ[ー?]ス・ヘリカオーン王の娶れるラオヂケー。
プリアモス王産みいでし息女の中にすぐれし美。
ヘレネー時に宮中に大機据ゑて紫の
二重の綾[4]を織り出す、圖は青銅の鎧きる
アカイア人と馬馴らすトロイア人の戰鬪を
寫す、彼女の故をもてアレースの手のなせしもの。
()きイーリス近寄りて傍に立ちて陳じいふ——

[2]使の女神。
[3]アンテーノールはトロイアの有名な老將軍、其子(アンテーノリデース)の名はヘリカオーン。
[4]二重に身を蓋ふべき幅の。

『いみじき姫よ、來り見よ。悍馬を御するトロイア人、
青銅穿つアカイア人、行はんずる晴業を。
先に悲慘の戰を願ひ、平野に軍神の
あらび互に被らし涙の雨を蒔けるもの、
今は戰収りて彼らは盾に身を()たせ、
鎗を大地に突き立て鳴を鎭めて休らへり。
只かれアレクサンドロス、アレース愛づるメネラオス、
長鎗取りて戰ひて君一身を爭はむ、
その戰に勝つ者の妻とし君は呼ばるべし。』

先きの夫に双親に故郷に、むかひ纒綿の
思を、斯くてヘレネーの胸に神女は湧かしめぬ。
今純白の埀絹に面を掩ひ悄然と、
涙にくれて速かに彼女は室を立ち出でつ、
身ひとりならず(かたはら)にピトチュウスの女アイトレー、
明眸の人クリメネー二人の侍女を伴ひて
かくて進みてスカイアイ城門[5]のもと立ちとまる。
こゝにトロイア緒元老、群がり坐せり、プリアモス、
チュモイテース、パントオス、ランポス及びクリュチオス、
アレースの裔ヒケタオーン、更に二人の智ある者、
ウーカレゴーン、老巧のアンテーノール、城門に——
齡の故に戰場の難を避くれど論辯の
席にいみじき、譬ふれば深林の中、枝高く
聲朗らかに秋蟬[6]の歌ふ姿や斯くあらむ。
かゝるトロイア緒元老今塔上に座する者、
其塔前にヘレネーの來るを眺め見たる時、
聲を潜めて翼ある言句互に陳じ曰ふ——

[5]「西門」の意、又「ダルダニアイ門」とも曰ふ。
[6]プラトーンのプアイドロス西四十一章に蟬に關する意味深き神話の起原を説く。

『容顏[7]さながら凄きまで不死の神女に髣髴の
斯る女性の故に因り宣べなり猛きトロイアと、
脛甲堅きアカイアと多年の戰禍忍べるは!
さはれ美貌も何かせむ、ああこの女性船に乘り、
故郷に去りて禍を我の子孫に殘さざれ!』

衆はしか曰ふ。プリアモスその時呼びてヘレネーに
曰ふ『わが愛兒、こゝに來てわが傍に坐を占めよ、
先夫並に姻戚と親しき友ら望み見よ、
(汝に何の罪も無し、アカイアの族慘澹の
戰かれに加へしは責むべき諸神の所爲なりき[1])
かなた雄々しき一人の名を今われに知らしめよ、
誰そ?かの目だつアカイア人、威風あたりを拂ふ者、
軀幹彼より高きもの他に我は見る、然れども
けだかき威容、秀麗の姿を彼に比する者、
わが眼まだ見ず、帝王の相を正しく彼具ふ。』

[1]人間の不幸と罪過とは神明の所爲と信ぜられたり。六歌三五七。

女性の中にすぐれたるヘレネー答へて彼にいふ、
『ああ恩愛と威光とを兼ぬるかしこき舅君(しうとぎみ)
君の御子(おんこ)の跡慕ひ、わが閨房を兄弟を
愛兒[2]を更に、年齡の等しき友を打棄てし
その時凄き死の禍難われを襲はば善かりしを、
運命之を許さねば[3]今は悲涙にくるゝのみ。
いざ今君の問ひたまふ事の次第を陳ずべし。
アトレーデース、權勢のアガメムノーン、かれこそは、
すぐれし王者[4]、勇しき戰士ひとりに兼ぬる者、
ああいにしへは義兄とし仰ぎしものを、無恥の我れ。』

[2]唯一の兒ヘルミオーネ。
[3]自殺せんとせしも遂げず、六歌三四五に同様の懺悔を述ぶ。
[4]アレクサンダー大王の愛誦の句。

老王聞きて嘆稱の聲を放ちて陳じ曰ふ、
『アトレーデー[5]よ、幸多し、神寵厚し、運強し、
アカイア健兒ひれふして附くものいかに多きかな、
葡萄の實るフリギエー[6]、其地をむかし我訪ひて、
駿馬を御するフリギアの無數の族を眺め見き、
そはオトリュウス[7]、又神に似しミグドーンに附けるもの、
サンガリオスの流域に其時彼等陣取りぬ、
その應援の將としてわれ其數に加はりぬ、
むかし勇なるアマゾーン女軍寄せ來し時なりき。
されど彼らも(まみ)光るアカイア族に數若かず。』

[5]アトレーデースの呼格。
[6]ホメーロス以後の小フリギエーと混ずべからず。
[7]此二將の妹ヘーカベーはプリアモス王の妃。

次に見たるはオヂュシュウス、老王即ち問ひて曰ふ、
『愛女よ更に我に曰へ、かなたに見るは何人ぞ、
アトレーデース大王に軀幹の丈は劣れども、
眺むる處雙の肩、胸の廣さは優るもの。
豐かに惠む地[8]の上に彼其武器を横へて、
其身親しく群衆の列の間を馳け廻る。
わが見る處譬ふれば厚き毛を着る牡羊の
悠然として行く如し白き羊の群わけて。』

ヂュウスの生める艶麗のヘレネー答へて彼に曰ふ——
『ラーエルテースの子なり彼、聰明叡智オヂュシュウス、
イタケー邊土の民族の中に育てど百千の
策に巧みに賢明の言をしばしば出すもの。』

アンテーノール、賢明の元老即ち答へ曰ふ——
『然かなり女性、君が今述ぶる言句ぞ誠なる、
いにし日偉なるオヂュシュウス、君に關して使者として[9]、
武神のめづるメネラオスもろともこゝを訪ひし時、
われ兩人を客としてわが殿中にもてなしつ、
その性情と賢明の言句を共に學び得き。
彼等トロイア集會の席に列なり立てる時、
ゆゆしき双の肩廣くまさりて見えき、メネラオス、
されど其座に就ける時威容勝れき、オヂュシュウス。
かくて彼らの辯論[10]と討議に進み入りし時、
かれメネラオス急速に彼の所懷を披瀝しつ、
其言ふ處少なれど言は頗る明快に、
齡は比して若けれど、岐路に走らず、多辯せず。
されども次に聰明の將オヂュシュウス語る時、
立ちて(うつむ)き双の目をしかと大地に据ゑ付けつ、
手に取る笏を(うしろ)にも前にも絶えて搖がさず、
しかと握れる其擧動痴人のわざに似たりけり。
「勇には富めど愚かなり」見しものかくも曰ひつらむ、
されど胸より朗々の聲迸り、辯論の
言句さながら嚴冬の吹雪の如く出づる時、
何らの人か巧妙をオヂュシュウスに競ひ得む、
今勇將の姿見てかくあることを怪まず。』

[9]戰爭の前アカイアの二將來りてヘレネーを取り返し平和の解決を得んとしたり。
[10]アンテーノールは當時和睦を唱ふ、他は之に反す。

プリアモス王第三にアイアース見て尋ね問ふ、
『見よ彼秀れて偉なるもの、頭と厚き肩と共
アルゴス人を凌ぐ者、かのアカイヤ人何ものぞ?』

埀絹長く面を掩ふ艶美の女性答へ曰ふ、
『彼アイアース、すぐれたるアカイヤ軍の堅き城、
こなたは英武イドメネー、クレーテース[1]の衆中に
神の如く立ち上り、諸將士彼を取り圍む。
クレーテーとり出でし時、アレースめづるメネラオス、
わが宮殿の中にして屡々彼をもてなしき。
其他すべての(まみ)光るアカイア人を我は見る、
彼等は我を能く知れり、彼等の名を皆語り得む、
たゞ民族の二將軍今わが(まみ)は見出し得ず、
馬術巧みのカストール、ポリヂュウケース、拳鬪者
兄弟二人われととも同じ胎より生れし身、
ラケダイモンの故郷より二人はこゝに來らじか?
或は波浪つんざける船のへこゝに來れども、
われに基く數多き恥辱と汚名恐るれば、
衆の爭ふ戰鬪の列にまじるを願はじか?』
かくは陳じぬ、然れども二人はすでに一切を
生める大地に歸り去る、ラケダイモンの故郷にて。

[1]地中海の一大島クレーテーに住める民族(十一歌六四九)。

かなた府中に傳令の使者は神への供物、
小羊二頭、又地より來り[2]心を慰むる
酒を壺中に運び行く、別に他の使者イダイオス、
燦然として光る瓶、又黄金の盃を
手に老王の傍に寄りて促し陳じ曰ふ、

[2]大地は一切を生ず。

『ラーオメドーン[3]の御子(みこ)よ起て、かの原上に降り行き、
神の供物を屠るべく、馬術巧みのトロイア人、
青銅鎧ふアカイア人、二軍の首領君を呼ぶ、
やがてアレクサンドロス、武神のめづるメネラオス
長鎗取りてヘレネーの一身賭して戰はむ、
彼女並に其資産勝ちたる者の手に落ちむ。
而して衆は友好と盟約堅く結び得て、
我は豐沃のトロイアに歸らん、彼はアルゴスの
駿馬産する其郷に、美人の産地アカイアに。』

[3]ラーオメドーンはトロイアの先王、プリアモス、ランポス……らの父。

其言聞きて可憐なる老王そぞろ慄きつ、
車馬の備を命ずれば、從者はとみに從へり。
プリアモス王篭に乘りて雙の手綱をかいとれば、
アンテーノール傍に華麗の臺に身を乘せて、
スカイアイ門通り過ぎ馬を大野に驅り進む。

斯くてトロイア、アカイアの陣門近く着ける時、
車馬より出でゝ、豐沃の大地の上におりたちつ、
トロイア並びにアカイアの二軍の中に進み入る。
アガメムノーン衆の王其時たゞちに身を起す、
又聰明のオヂュシュウス同じくたてば、傳令使、
神に捧ぐる盟約の牲を集めて寳瓶の
中に神酒[4]を混じ入れ、列王の手に水灑ぐ。
アトレーデース長劔の巨大の鞘の傍に
常に携ふ短劒をやがて手中に抜きかざし、
牲の頭を厚く掩ふ柔毛[5]ざくと斬り落す、
そをトロイアとアカイアの貴人に令使分ちやる。
アトレーデースやがて手を擧げて大事を祈り曰ふ、

[4]恐らくトロイア人の齎らせる酒とアカイア人のそれとを混ぜるならむ。
[5]頒たれし毛を衆は祈の前火に投ず。

『靈山イデーの高きよりまつらふ至上のわが天父、
また一切を見渡して一切を聞くヘーリオス[6]、
更に川流また大地、又僞の誓言を
盟へる者に其死後の罰を冥府に課する者、
緒靈願はく證者たれ又冥護せよ此盟。
若し彼れアレクサンドロスわがメネラオス殺しなば、
ヘレネー及び一切の資産は彼の物たらむ、
而してわが軍悉く海を渡りて辭し去らむ。
されど金髪のメネラオス、アレクサンドロス斃しなば、
トロイア人はヘレネーと其資産とを渡すべし、
又正當の賠償をアルゴス人に拂ふべし。
この事永く將來の子孫に因って傳はらむ、
アレクサンドロス斃るるも、プリアモス王及び諸子
否みてこゝに約さるる賠償拂ふを欲せずば、
我は即ち償の爲めに此地に留りて、
最後の望遂ぐる迄戰鬪續け止まざらむ。』

[6]日の神。エーエリオス(詩的)[。]

かく宣べ牲の小獣の(のんど)を酷き青銅の
()は劈きて地の上に喘ぐがまゝに斬り倒す、
無慚や青銅生命を體より奪ひ息たやす。
かくて瓶より金盞に酒を滿たして、更に地に
灑ぎ、天上常住の不死の諸神に祈りつつ、
トロイア並にアカイアの兩軍おのおの陳じ曰ふ、

『至上至大のわが天父、又他の不死の緒神靈、
兩軍の中まつさきに盟を破り棄てんもの、
彼も子孫も肝腦は今此酒を見る如く、
地上に灑げ、其妻は敵の手中に奪はれよ。』
斯く陳ずれど、クロニオーン未だ願を納受せず。

ダルダニデース・プリアモス其時彼等に告げて曰ふ、
『聞けトロイア人、脛甲の善きアカイヤ人、共に聞け
高きイリオン風強きあなたに我は今歸る、
アレース愛ずるメネラオス、彼と我が子の戰ふを
我今親しくわれの目に眺むることを忍び得ず、
兩者いづれに運命の終りの既に定るや、
ヂュウス並に天上の緒靈正しく知ろし召す。』
しかく宣して神に似る老王やがて、小羊の
遺骸と共に()に乘りて手綱を双の手に操れば、
アンテーノールかたはらに華麗の臺に身を乘せつ、
二人は共にイリオンの都城をさして立ち歸る。

プリアモスの子へヘクトール及び英武のオヂュシュウス、
其時現場先づ測り、次に青銅の(かふ)を取り、
中に二條の(くじ)を入れ、之を搖がし兩人の
孰れか先に鋭鎗を投ずべきかを定めんぞ。
その時衆人もろ〜の神に祈りて手を擧げて、
アカイア及びトロイアの兩軍ひとしく陳じ曰ふ、

『靈山イデーの高きよりまつらふ至上のわが天父、
いづれにもあれ兩軍の中に眞先きに爭を
起さんものの命を絶ち、冥王の府に入らしめよ、
友好及び盟約はわれらの上にあらしめよ。』

しか陳ずればおほいなる堅甲光るヘクトール、
(おもて)をそむけ打ふればすぐにパリスの鬮出でぬ。
つゞいて衆は隊列を爲して地上に坐を占めつ、
その傍に駿馬の軍馬は休む、武具も地に。
艶冶のアレクサンドロス、髪美はしきヘレネーの
夫、その時肩のへに華麗の鎧投げかけつ[1]、
之に續きて白銀の締金(しめがね)具せる脛甲の
美なるを左右(さう)の脛めぐり堅くよろほひ了る後、
かれの兄弟リカオーン常に帶びたる青銅の
胸甲いみじく彼の身に適ふを借りて胸に着け、
肩のあたりに銀鋲を飾りて美なる青銅の
長劍懸けておほいなる堅盾(けんじゅん)更に其上に
馬尾の冠毛ものすごく勢猛く震り搖ぐ、
次に鋭き長鎗をしかと其手に握り持つ、
アレースめづるメネラオス其軍装は又等し。

[1]軍將の武装の順序。十一歌一八、十六歌一三一、十九歌三六九、などほゞ同じ。

軍装おのおの兩陣の中に終りて、トロイアと
アカイア勢のたゞ中に二人の武將いかめしく、
睨み進めばトロイアの駿馬を御する軍勢と
脛甲堅きアカイアの陣勢畏怖の念に見る。
測り定めし場の中にかくて兩雄相近く、
おのおの鎗を振りかざし互に憤怒の情に燃ゆ。
直ちにアレクサンドロスまさきに、影を長く曳く
長鎗ひゃうと投げ飛ばし、アトレーデースの盾を打つ、
青銅さはれ貫かず、鎗の穂先は堅剛の
盾に曲りぬ、引きついで長鎗とりて進み出で、
アトレーデース・メネラオス祈念を神に捧げいふ、

『天王ヂュウス[2]、われをして眞先きに我を傷へる
これこのアレクサンドロス今懲さしめ、わが手もて
彼を斃すを得させしめよ、後世之に鑑みて
主人の盡す歡待に仇報ゆるを畏るべし。』

[2]歡待を裏切るものを懲罰する神としてヂュウスに呼ぶ(十三歌六二四にも)。

しかく宣して影長き大鎗揮りて投げ飛ばし、
プリアミデースの滿月に似たる圓盾ひゃうと打つ。
燦爛光る圓盾を堅剛の鎗貫きつ、
巧盡せる銅冑のただ中更に刺し通し、
更に其鎗脇腹に添うて胴衣を劈んざきぬ。
その時アレクサンドロス其身屈めて死を逃る。
アトレーデース嗣ぎて又銀鋲飾る劔を抜き、
高く振り上げ堅甲の頂めがけ切りおろす、
されども三つに又四つに長劔折れて飛び散れば、
アトレーデース大空を仰ぎて嘆じいふ、

『ああクロニデー!何神か君に殘忍優らんや!
無道のアレクサンドロス討たんとわれの盟ひしを、
長劔碎け手より落ち、鎗またわれの掌中を
離れて飛びて效あらず、あゝわが敵は傷かず。』

しかく叫んで飛びかゝり、馬尾の冠毛戴ける
堅甲つかみ彼を曳きアカイア陣に引き返す。
その堅甲を齶の下結びて刺繍美はしき
革紐かれの柔軟の咽喉いたく引き締めつ、
かくて捕へて勇將は不朽の譽得べかりし、
そをすみやかに認め來てアプロヂイテー、ヂュウスの子、
猛に屠りし牛王の革にて造る紐斷てば、
頭はづれし堅甲はアトレーデースの手に殘る、
そを堅甲のすぐれたるアカイア軍の陣中を
めざし打振り投げやれば親しき朋は収め去る。
更に新たにメネラオス飽く迄敵を斃すべく、
鋭鎗取りて憤然と走り出づれば敵將を
アプロヂ,テーは神力に易く雲霧の中隠し、
香を薫んじてかんばしき閨房の中つれ來る。
神女かくしてヘレネーを呼ぶべく進み、高塔の
中に多數のトロイアの友の間に彼を見て、
神酒の如き薫香を放つ其 (きぬ)取りて引き、
ラケダイモンに其むかし久しく仕へ美しき
羊毛彼のために織り、痛くも彼に愛されし
今は老齡進みたる——女性の姿とり來り、
アプロヂ,テーはヘレネーに向ひて即ち宣し曰ふ、

『來れこなたに、パリス今汝を呼びて歸らしむ、
彼今中に閨房に美なる臥榻に横はり、
容姿耀き華衣を着く、その様人と戰鬪を
爲すべく來るそれならず、舞踏の會に赴くか、
或は舞踏を今やめて休らふ様にもさも似たり。』

其言聞きてヘレネーは胸裏の思亂されつ、
やがて神女の艶麗の首筋、情を刺戟する
胸もと及び明眸の光を認め知りし時、
愕然として聲をあげ、アプロヂ,テーに向ひいふ

『あゝ非道なり、わが神女!われを欺く何故ぞ?
今また我を遠き地に——フリギエイ又メ,オニエー[1]、
戸口豐かのとある郷——そこに明朗の聲[2]放つ
人間のうち君めづる人ある庭に——引き行くか?
今メネラオス秀麗のパリスに勝ちて其郷に、
無慙の我を率ゆべく望むが故にまたこゝに、
君現はれて陰險の策謀またもたくらむや?
あゝ君、神明の域を棄て、進んで彼の前に坐せ、
足に再び神聖のウーリュンポスを踏む勿れ、
今より永く彼のそば悲み嘆け、彼護れ、
やがては彼れの婦とならむ、或は彼の婢とならむ。
そこに臥床を備ふべく罪を犯してわれ行かじ、
行かばトロイア滿城の人悉くわれ責めむ、
しかして無限の憂愁を我は心に抱くべし。』

[1]リヂアの古名。
[2]人間は言語明かのもの。

アプロヂ,テイはいきどほり即ち答へて宣し曰ふ、
『愚かなる者警めよ、われを激すること勿れ、
我怒る時一朝に憎愛處を換ゆべきぞ、
二軍の中に怨恨を生ぜしむべきわが思案、
今はた汝恐れずや?悲慘の最期恐れずや?』

『しか宣すればヂュウスの子ヘレネー聞きて畏怖を爲し、
光り耀く銀色の被衣(かつぎ)に隠れ默然と
行くをトロイア軍は見ず、神女は彼に先立てり。』

斯くてパリスの壯麗の館に再び來る時、
從者はすべて急がしく各々彼の業に就き、
麗人ひとり宏壮の高き屋の下、閨房に。
笑嬉々たるアプロヂ,テー彼女のために椅子を取り、
親しく之を運び來てそを愛人の前に据う。
アイギス持てるヂュウスの子ヘレネー之に身を托し、
目をそむけつゝ良人を咎めて彼に陳じ曰ふ——

『君戰場を逃げ歸る[3]、そこにはじめのわが夫、
英武の彼に斃されて君生命を棄つべきを。
武力に腕に、鎗術に武神のめづるメネラオス、
之に優ると高言をああ君先に吐き乍ら。
今まのあたり又更に武神のめづるメネラオス、
彼に戰挑むべく行かずや——ああ否、今君に
勸む、戰ふこと勿れ、彼れ金髪のメネラオス——
彼を敵とし愚かにも勝負決すること勿れ、
恐らく彼の長鎗に忽ち命を失はむ。』

[3]ヘレネーの性格を現はす、——一方に於いて高き義憤あり、しかも他方に於ては賤み乍らも愛するパリスの安全を慮る。

その時アレクサンドロス答へて彼に陳じ曰ふ、
『妻よ苛酷の言葉もてわれを咎むること勿れ、
神アテーネー助くれば今メネラオス我に勝つ、
我また機會なからめや、われにも神の助あり。
いざ今共に閨に入り愛を飽く迄味ははむ。
戀情われを襲ふこと今の如きはあらざりき、
ラケダイモンの好土より君を誘ひてその昔、
舟に乘り行き、クラナエー其の島の中温柔の
閨裏に君と語らひし、その日も今に猶若かじ、
今身を襲ふ戀々の情はそゞろに耐へ難し。』
しかく陳じて先立てばヘレネー後に從へり、
やがて美麗の榻の上二人は共に打ち臥しぬ。

アトレーデースこなたには艶冶のパリス探すべく、
獅々奮迅の勇なして緒軍の間巡り行く。
されどトロイア軍勢もその援軍もアレースの
めづる勇將メネラオスにパリスの姿示し得ず、
愛せし故に隠せしに非らず(パリスを見しとても)
死に運命を見る如く彼はすべてに憎まれき。
アガメムノーン、衆の王、その時衆に向ひ曰ふ、

『トロイア、アカイア兩軍と援軍共にわれに聞け、
アレースめづるメネラオス今明かに打勝てり、
いざアルゴスのヘレネーと其資産とを皆我に
渡せ、而してふさはしき賠償われに今拂へ、
此事永く後世の記録の上に傳はらむ。』
アトレーデース斯く宣しアカイア軍勢みな贊す[1]。

[1]第三歌はこゝに終れどメネラオスとパリスとの決闘の仕末は第四歌二一九に到って定る。ホメーロスの兩作を各二十四歌に別つは遙か後世(アレクサンドリア時代)ならむ(リーフ)。


更新日:2004/05/10

イーリアス : 第四歌


第四歌

オリュンポス山上神々の評議。天王クロニオーンはアカイア、トロイア兩軍を和せしめんとす。 天妃ヘーレーの怒。クロニオーンの答、トロイアは天妃の意の儘亡滅せしむべし、 然れども同様に天王は他日天妃の愛する城市をも其意の欲する時は破滅すべしといふ。 天妃の承諾。天王はアテーネーをトロイア軍に遣はし、先の約定を破らしむ。 使の神女はトロイアの將パンダロスに勸め敵王メネラーオスを射て負傷せしむ。 其出血を見てアガメムノーン悲む。輕傷なることを告げてメネラーオス兄を慰む。 軍醫マカオーンの施藥。アガメムノーンの戰の準備。陣中を巡り勇者を勵まし、怯者を責む。 諸將の態度。兩軍の形勢。混戰の敍述。アーンチコロスの奮戰。 エレペーノールの死。ロイコスの死。オヂュッシュースの怒。敵王の庶子を討つ。 トロイア勢を勵すアポローン。ヂオーレスの死。パイロオスの死。兩軍相互の討死。

こゝにヂュウスを中心に黄金の床に坐を占めて、
群神評議行へる——中にヘーベー[1]端麗の
神女かれらにネクタルを捧げ廻れば相つぎて、
金の盃ほしながらトロイア城を眺めやる。
其時直ぐにクロニオーン天妃ヘーレーの胸の中、
瞋恚を起すつらき言紆餘曲折に宣し曰ふ、

[1]ヂュウスとヘーレーとの女、宴席に侍するもの。

『二位の女神はアカイアの王メネラオス助くめり、
そはアルゴスのヘーレー[2]とアラルコメネーのアテーネー[3]。
されど二神は遠ざかり、たゞ傍觀を喜べり、
之に反してパリスには、嬌笑好むアプロヂ,テー
絶えず伴ひ、運命の非なるを常に拂ひ除け、
今はた最期覺悟せる彼の一命助けたり。
されども正に戰勝はアレースめづるメネラオス。
その終局をいかにせむ、この事われら計らはむ。
更に新たに残虐の奮戰苦鬪起さんか?
或は平和を兩軍の中に今更來さんか?
若し今すべて衆こぞり和議を喜び納るべくば、
プリアモス王領有の都府は豐かに榮え得ん、
又メネラオス、ヘレネーを勝利の家に伴はむ。』

[2][3]二神の崇拜は此二部を中心とす。

しか宣すれば向ひ坐し、トロイア軍の禍を
計らひ居たるアテーネー、ヘーレー共につぶやきつ、
アテーナイエー[1]默然と口を閉してもの曰はず、
激しき憤怒身を焚きて父なる神にいこどほる。
されどヘーレー胸中の怒抑へず叫び曰ふ、

[1]アテーネー又アテーナイエー。

『あゝ恐るべきクロニデー[2]、今何事の仰せぞや、
わが心勞と流汗を(疲勞の故の流汗を)
君今空しくなさんとや?プリアモス等の一族を
絶やさんためにわが戰馬人間に似て皆疲る、
よし爲さば爲せ、他の諸神斷じて之を讚し得ず。』

[2]クロニデース(クロノスの子)の呼格。

雷雲寄するクロニオーン怒りて彼に答へ曰ふ、
『非道の汝、プリアモス並に其子何程の
害を汝に加へしや?汝はげしくイリオンの
堅固の都城倒すべく願へる迄に加へしや?
其城門を城壁を崩して汝、生き乍ら
プリアモス王及び子ら、及び其他のトロイアの
民を貪り食ふ時、汝の怒愈されむ。
汝の望むまゝに爲せ。この爭は此後に
我と汝の間との難題たること無かれかし。
我また汝に別に曰ふ、汝心に銘じおけ、
我また情願切にして、汝のめづる民族の
住まへる都城壞ぶるべく望まん時に、汝わが
怒止むること勿れ、任せよわれに一切を。
わが意に反し行ふを今日は汝に許すべし。
日輪及び天上の緒星の下に人間の
住む一切の都府の中、高き聖なるイ,リオンを、
プリアモス王及び其槍術まさる民族を、
我は其他の一切に優りて痛く()で思ふ。
彼等は我に祭壇を捧げ、供物を怠らず、
神酒犠牲を怠らず、こは神明の受くる禮。』

その時 牛王(ぎうわう)の目を持てるヘーレー答へて彼に曰ふ、
『あらゆる都城の中にしてわが最愛のものは三、
アルゴス[3]及びスパルテー、更に廣街のミケーネー、
君憎惡の的たらば此等すべてをくつがへせ!
よしわれ怒り其破壞禁ぜんとても效あらじ、
怒るも何の效あらじ、君の力はいや優る。
されどもわれの辛勞を無效に歸すこと勿れ、
われは神なり、其本は正しく君と相同じ、
巧智に富めるクロノスの至上の子とし()れし我、
彼の子にして又君の正配の名を呼ばるれば、
二重に(たか)し、君は又神明すべてを皆率ゆ。
さは當面の此事についておの〜讓るべし、
君は此の身に、身は君に、而して他は皆從はむ。
トロイア、アカイア兩軍の戰場中にアテーネー
今速に遣はして試みしめよ、いかにして
トロイア軍は眞先(まっさき)に盟に背き、戰勝の
アカイア軍を破るべく、其開端をいたさんか。』

[3]アルゴスは一般にグリース國全部を指す。されどこの行のは一都市の名稱。

しか宣すればクロニオーン人間並びに神の父、
之に從ひアテーネー呼びて直ちに彼に曰ふ、
『今迅速にトロイアとアカイアの軍さして行け、
トロイア軍の眞先(まっさき)に盟にそむき、戰勝の
アカイア軍を破るべき其方法を試みよ。』

しかく宣してアテーネー(素より之を望みたる
神女)を激し勵ませばウーリュンポスの高きより、
彼は飛び降る、譬ふればクロノスの子を降す星、
爛々として海人に、又軍隊に兇兆を
なすもの、而して光芒を四方に遠く放つ者、
神アテーネー之に似て大地の上に飛び降り、
二軍の中に現はるる、之を眺めて驚くは
馬術巧みのトローエス[4]、脛甲堅きアカイオイ。
各之を眺め見て近きに隣る者に曰ふ、
『更に新たに残虐の畏怖の戰起らんか?
或は人間の戰の審判者たるクロニオーン、
トロイア、アカイア兩軍の間に平和來さんか?』

[4]トロイア人=トロース、又トローオス其複數はトローエス。

アカイア及びトロイアの各人かくぞ陳じたる、
今トロイアの陣中をあまねく巡るアテーネー、
アンテーノールの子ラオドコス勇士の姿借り來り、
英武恰も神に似るパンダロスを探し行き、
リュカーオーン[5]の剛勇の子のたゞずむを見出しぬ。
彼を圍むは盾持てる精悍無比の若き子ら、
アイセーポスの流れより彼に伴ひ來る者、
即ち彼に近寄りて羽ある言句述べて曰ふ——

[5]二歌八二六[。]

リュカーオーンの勇武の子、君今我に聽くべきか?
勁箭飛ばしメネラオス王を射ること能くせずや?
能くせばトロイア全衆の感謝並に賞贊を、
特にもアレクサンドロス・パリスのそれをかち得べし。
彼ら眞つ先に莫大の恩賞君に與ふべし。
アトレーデース、軍神のアレースめづるメネラオス、
君の飛箭に斃されて火葬の堆に登る時。
いざ立て、立ちて光榮の敵王目がけ矢を放て。
さはれアポローンに先づ盟へ、リキア生れの銀弓の
神に初生の子羊のすぐれし牲を捧げんと、
聖なる都ゼレーアに君の歸郷のかつつきに。』

しかく宣するアテーネー、淺慮の彼は從ひて、
直ぐに光澤うるはしき弓をとりいづ[1]、其弓は
山羊の角より成れるもの、彼れ其むかし岩窟に
埋伏しつゝ飛びいでし獸の胸を貫きて、
地上に仰に倒れしめ(とう)よりいづる右左、
十六束の長さなる二條の角を得たる時、
良工巧みに其角を合せ整へ滑かに、
磨き終りて黄金の端を上下に附せるもの、
其剛弓を張り終へて之を地上にさしおけば、
勇武の友ら其前に盾を並べて押し隠し、
アレースめづるメネラオス敵の勇將射る前に、
アレースめづるアカイアの健兒の襲なからしむ。
かくして彼れの箭筒より蓋を開きて一條の
新たの羽箭——恐るべき苦痛の本を取り出し、
弦上直ちに慘酷の飛行の武器をあてがひつ、
聖なる都ゼレーアにおのが歸郷のあかつきに、
清き初生の子羊の牲捧ぐべく銀弓の
神アポローン——リキエーに生れし神に盟かけ、
矢と牛王の筋[2]と共矢筈を取りて引きしぼる、
弦は胸許、鋼鐵の鋭き(さき)は弓端に。
かくて大弓滿月の如くに張りて射放てば、
弓高らかに鳴りひびき弦は叫んで鋼鐵の
(やじり)するどき勁箭は、衆軍の上翔けり飛ぶ。
されど不滅のもろ〜の神は汝を、メネラオス、
忘れず、特にアテーネー、戰利の司ヂュウスの子、
汝の前に身を進め飛箭の害を滅ぜしめ、
安らに眠る小兒より蠅を慈愛の母拂ふ
跡見る如く、勇將の身より飛箭をはづれしむ。
神女即ち佩帶の金の締金、胸甲の
二重の上に合ふ處[3]、こゝに勁矢の路を向く。
今慘毒のつらき矢は飛んで帶のへ進み來つ、
其精妙に造られし帶を貫き跳び入り、
同じく共に精妙の胸甲、更に金屬の
胴衣を穿つ——、其胴衣矢を防ぐべき身の護り、
至上の護り外の端、皮膚を破れば忽ちに、
黯紅色のすごき血は疵口よりし流れ出づ。
メーオーニエー又カエーラのとある女性が、染料の
赤きを以て純白の象牙の馬具を色どりつ、
こを室内に陳ずれば多くの騎士は憧憬の
目を光らせど求め得ず、たゞ帝王の珍寳と
なるうのみ、彼れの乘る駒の飾、並に御者の榮——
かくこそ染むれメネラオス、汝流せる紅血は
眞白き汝の股と脛、更に下りて足首を。

[1]レッシングの「ラオコーン」十五章十六章に此一段を評す。
[2]弦[。]
[3]體の上部を蓋ふ鎧、下部を蓋ふ鎧と合する處。

その黯紅の血の流れ疵より出づるを眺め見て、
アガメムノーン、衆の王、愕然としてをののけば、
アレースめづるメネラオス、同じく共に身は震ふ。
されどつゞいて附け紐[4]と矢じりと共に體外に
あるを認めてメネラオス其沈着を取りもどす、
アガメムノーン、然れども、其弟の手を取りて、
僚輩ともに叫喚の聲もはげしく陳じいふ、

[4](やじり)(やがら)に固着せしむる紐なるべし。

『あゝわが弟、トロイアと戰はんため陣頭に
汝を立たせ盟ひしは汝にとりて死なりしよ、
トロイア人は神聖の盟を破り、汝射ぬ。
さはれ盟と子羊の血と純粹の灌奠と
信頼おける握手とは遂に空しきものならず。
よし迅速ならずとも、ウーリュンポスの神靈は
遲くも必らず成し遂げむ、彼等は重く賠はむ、
彼等の頭、また妻子すべてを擧げて賠はむ。
此事今我明かにわが胸中に感じ知る、
聖なるイリオン・プリアモス及び鎗術秀いでたる[5]
かの族擧げて一齊に亡滅の時來るべし。
高き玉座に、天上に宿れるヂュウス・クロニオーン、
彼等の不信いきどほり黒暗々のアイギスを
彼等すべてに動かさむ、此事必ず効あらむ。
さはれあゝわがメネラオス、汝亡びて一生の
運命こゝに閉づべくばわれの苦惱はいかばかり、
かくて乾けるアルゴスに責むべき我は歸らんか、
直ぐにアカイア軍勢は祖先の郷にあこがれん、
プリアモス王、トロイアの誇のまゝにアルゴスの
ヘレネーこゝに殘し行き、汝の骨は地下に朽ち、
成すべき業は成らずしてトロイアの地に葬られ、
かくて無慙のトロイアのあるもの、汝メネラオス
埋まる墓に飛び上り跳り叫びて斯く曰はむ、
「こゝに空しくアカイアの軍勢率ゐ來し如く、
アガメムノーンの一切の怒の果は斯く成らむ、
見よ善良のメネラオスこゝに殘して、空虚なる
船に乘じてなつかしき故郷は彼に去り行けり」
他日あるもの斯く曰はむ。——大地その時[1]身を掩へ。』

[5]六歌四四八に同様の豫言ヘクトールの口の述べらる。
[1]その時は予は死を願ふ。

その時金髪メネラオス彼を慰め答へ曰ふ、
『悲しむ勿れ、アカイアの衆を(おど)すことなかれ、
鋭き鏃、幸に急所を外づれ、佩帶は
表にわれを防ぎ得つ、下に胸甲また胴衣、
銅工巧みにわがために造りたるもの、身を救ふ。』

アガメムノーン・クレーオーン[2]其時彼に答へ曰ふ、
『しかあれかしと我念ず、あゝ友愛のメネラオス、
さはれ負傷を調べ見て上に良藥貼すべく、
辛き苦痛を救ふべく今一人の醫を呼ばむ。』
しかく宣して傳令のタルチュビオスに向ひ曰ふ、

[2]「權威あるもの」。

『タルチュビオスよ速かにこゝにマカ,オーン呼び來れ、
アスクレーピヨス——すぐれたる名醫の息を呼び來れ、
來りて彼は檢すべし、アカイア軍の首領たる、
アレースめづるメネラオス、トロイア(ある)は援軍の
リキアの弓に射られたり、彼の光榮わが苦痛。』

しか宣すれば傳令使、命を奉じて誤らず、
鎧冑うがつアカイアの軍を横切り、すぐれたる
マカーオーンを探しつゝ、やがて佇立む彼を見る、
彼を圍むは盾持てる健兒一團、トリケーの
地より、良馬の産地より彼に從ひ來る者、
即ち(そば)に近寄りて羽ある言句を陳じ曰ふ、
『馳けよアスクレーピヨスの子、アガメムノーン、君を呼ぶ、
往きて宣く檢すべし、アカイア軍の主領にて
アレースめづるメネラオス、トロイア或は援軍の
リキアの弓に射られたり、彼の光榮、わが苦痛。』

しかく陳じて胸中の彼の心を動かしつ、
アカイア族の大軍の列を二人は過ぎて行く。
かくて金髪メネラオス飛箭に打たれ疵つける
地點に着けば、緒の將軍彼を取り圍む、
すぐれし軍醫マカ,オーン、妙技は神に似たる者、
眞中(まなか)に立ちて負傷者の帶より直ぐに其矢拔く。
鋭き其矢抜き去れば鋭き鏃碎け落つ。
光る佩帶やがて解き、つゞいて下の胸甲と、
青銅の具を作りなす工人の手になる胴衣、
解き、慘毒の矢の射りし疵をくはしく檢し了へ、
血を吸ひ出し、熟練の醫は妙藥を其上に
貼しぬ、むかしケーローン、彼の父愛でたびしもの。
衆人かくて豪邁の將メネラオスいたはれる、
其時かなたトロイアの盾持つ軍勢寄せ來る、
アカイア同じく戰鬪を思ひ再び武具を帶ぶ。
そこに見るべし英邁のアガメムノーン怠らず、
畏れず、荒ぶ戰鬪に對し避易敢てせず、
光榮得べき奮戰をめがけ激しく(いらだ)つを。

戰馬並びに青銅のいみじき戰車彼は棄つ、
ペーライオスの孫にしてプトレマイオス生める息、
ユウリュメドーン[戸/巴]從[誤?:扈從]して、喘ぐ双馬を傍らに
駐むれば王は命下し、(かたへ)離れず近く立ち、
諸隊經廻り指揮の果、疲勞の折に備へしむ。
かくして歩足(かち)に緒の部隊を王は巡り行き、
駿馬を御するアカイオイ勇みはやるを望む時、
(かたはら)に近寄りて痛く勵し宣し曰ふ——

『アルゴスの子ら、勇しき英氣弛むること勿れ、
天父ヂュウスは虚僞の子を絶えて援くることあらず、
眞先に盟破り棄て行ふ不義の者、
鷙鳥彼らの柔かき肉喰ふべし、其愛づる
妻女並びにいとけなき子らは我らの兵船に
運び去るべし、イーリオン陥落なさん暁に。』

之に反して戰鬪にためらふ者を望む時、
憤怒の言に激しくもアガメムノーン責めて曰ふ、
『あゝ、汝らアルゴスの怯れたるもの恥ぢざるや?
いかなれば斯く茫然と鹿の子の(ごと)佇立むや?
廣き大地を翔け走り疲るる時に立ち停り、
勇氣は絶えて胸中に湧かざる子鹿見る如し、
汝ら斯くも茫然と立ち戰鬪に加はらず。
クロニオーン手を延して救ふや否や見んが爲め、
白浪寄する海の岸、我が兵船を曳き上げし
ほとりに近くトロイアの軍近くを待たんとや』

緒軍諸隊に命令を傳へて斯くて巡り行き、
クレーテー人豪勇のイドメニユウスを取り圍み、
軍装しつゝある處、諸隊を經つつ王は訪ふ。
イドメニュウスは先頭の中に猛き猪見る如し、
メーリオネース彼のため後陣を勵し進ましむ。
アガメムノーン、衆の王、これを眺めて喜びて、
甘美恰も蜜に似る言に直ちに讚し曰ふ、

『駿馬を御するダナオイのすべてに優り君をわれ、
イドメニュウスよ尊べり、戰場並びに他の役に、
又宴席に尊べり、アルゴス軍の諸頭領、
その盃中に宿老の酌むべき美酒を混ずる時、
他の髪長きアカイアの族は酌むべき分量に
限りあれども只君に、我と等しく充ち溢る
盃つねに前にあり、心の儘に酌み得べし、
いざ戰鬪に奮ひ立て、先に高言せし如く。』

クレーテー族率ゐたるイドメニュウスは答へ曰ふ、
『アトレーデーよ其むかし約し盟ひし時の如、
君に對してとこしへに我忠誠の友たらむ。
他の長髪のアカイア族、さはれ勵せ迅速に
鬪はんため——盟約を踏みにじりしはトロウエス、
彼を未來に待つものは死と荒廢の二つ也。
彼は眞先に約破り我に禍害を加へたり。』

しか陳ずれば喜びてアトレーデース過ぎ去りつ、
次ぎに隊伍を經廻りてアイア,スの許訪ひ來る、
アイア,ス二人、鎧ほいて歩兵の群は雲に似る。
山羊を()ふ者、展望の高き場より海のうへ、
ゼピュロス[1]吹きて驅り來る飛揚の雲を望む時、
漫々として限りなき潮を下に瀝青の
色を深めて寄する雲すごき颶風を誘ふ時、
牧人震ひ慄きて洞窟のもと群を驅る、——
其雲に似て勇猛の二人アイア,ス取り圍み、
ヂュウスの系の少壯の密集の隊物凄く、
盾と鎗とを振りかざし戰場さしてゆるぎいづ。

[1]西風。

アガメムノーン、權勢の王は眺めて喜びて、
彼らに向ひ口開き羽ある飛揚の言を曰ふ——
『青銅鎧ふアカイアの衆を率ゐるアイアンテ[2]、
君に指令の要を見ず(君を鼓舞する不可なれば)
君は衆人勵まして戰鬪はげしく勉めしむ。
あゝわが天父クロニオーン、又アテーネー・アポローン、
斯くある心意一切の人の胸中存し得ば!
プリアモス王統ぶる都府今迅速に陥らむ、
わが軍勢の手よりして劫掠受けむ荒されむ。』

[2]呼格。

しかく宣して其 (には)に彼らと別れ他に進む。
次に見たるはネストール、ピュロスの首領、朗々の
聲を放ちて戰鬪に軍を整へ進ましむ。
かたへに立つはペラゴーン、アラストールとクロミオス、
王ハイモーン更にまたビアス、緒民の主たるもの、
戰馬兵車を備へたる騎兵まさきに進ましめ、
後陣は勇氣凛々のあまたの歩兵、戰の
防壁として守らしめ、劣れるものを中央に
据ゑて斯くして好まずもやむなく戰鬪勉めしむ。
彼は眞先に命令を騎兵に下し警めて
軍馬を制し、隊列の中に亂入なからしむ、

『誰しも馬術と勇氣とに信頼なして他の前に
ひとりトロイア軍勢と戰ふことを求むるな、
又何人も退くな、しかせば汝弱からむ。
さはれ誰しも戰車より敵のそれへと移るもの、
槍を揮ひて衝き進め、此事遙かに優るべし。
正に等しくいにしへの勇者は彼の胸中に
かかる思と心とを具して都城を破りにき。』

戰術永く善く知れば老將かくは勵ましぬ、
之を眺めて喜べるアガメムノーン、權勢の
王は即ち彼に向き羽ある飛揚の言をいふ、
『老將軍よ願くは君の心の望むまま、
雙脚君にしなやかに、勇力君に強かれよ、
しか念ずれど老齡は他における如君を打つ、
あゝ他の誰か代り得て、君少壯の勇ならば!』

ゲレーニャ騎將ネストール即ち答へて彼に曰ふ、
『アトレーデーよ我も亦切に望めり、その昔
エリユウタリオーン[1]斃したる其日の如くあれかしと。
さはれ諸神[2]は人間にすべてを同時與へ得ず、
ああ少壯の身は昔、——今は老齡身を襲ふ、
さはれ我尚ほ騎兵らの列に加はり、忠言と
論辯[3]を以て令すべし、これ老齡の分ならむ。
その年齡の若きよりわれに優りて武具を取り
その精力にたよるもの宜しく鎗を揮ふべし。』

[1]七歌一三三以下。
[2]十三歌七二八、十八歌三二八。
[3]二歌五三。

其言聞きて喜びてアトレーデース過ぎ去りつ、
ペテオースの子、強き騎士メネスチュウスの立つを見る。
彼を圍むはアカイアの鯨波の叫び高き群、
其傍に近く立つ聰明智謀のオヂュシュウス。
ケプァレー人の剛強の群、將軍を圍み立つ、
彼らは未だ衆軍の擧ぐる鯨波の音聞かず、
戰馬を御するトロイアとアカイア軍もろともに
今辛うじて起ち上がる其形勢を見る彼ら、
アカイア軍の他の部隊トロイア軍を敵として
奮ひ進みて戰鬪を初むるを待ち佇立めり。
アガメムノーン、衆の王、之を眺めて叱り責め、
即ち彼に打向ひ羽ある飛揚の言を曰ふ、

『ペテオースの子、あゝ汝ヂュウスの系の王の子よ、
あゝ又汝策謀に富みて僞多き者、
汝らなどて離れ立ち、怖れ慄ひて他を待つや?
先鋒中に身を措けば汝ら宜しく身を起し、
奮戰苦鬪のたゞ中に勇みて進むべからずや!
アカイアの人、宿老のために酒宴を開く時、
其宴席にいや先きに汝二人を余は招く、
そこに汝等燔肉の美味を口にし、蜜に似る
甘き芳醇酌み干して、欲する儘につねに飽く。
さるを汝に先んじてアカイア軍の十部隊
劍戟取りて戰ふを汝等空しく眺むるや?』

智謀に富めるオヂュシュウス目を怒らして彼に曰ふ——
『アトレーデーよ何らの語、君の齒端を洩れ出づる?
我れ戰鬪を棄つるとや?軍馬を御するトロイアの
衆に對してアレースをアカイア人の醒ます時[4]、
欲せば或は念頭に置かば君また眺むべし、
テーレマ,コスの父は善く軍馬を御するトロイアの
先鋒めがけ鬪はむ、空し君の語、風に似て。』

[4]アレース(軍神)を醒ますとは戰をなすこと。

アガメムノーン・クレーオーン彼の怒を認め知り、
先きの言句を打消して笑を含みて彼に曰ふ——
『ラーエルチアデー、神の裔、智謀に富めるオヂュシュウス、
我は過分に君責めず、過分に君に指令せず。
君胸中に明策を蓄ふことを我は知る、
君の心に思ふこと我も同じく亦思ふ。
いでや此事此後にわれら善くせむ、若し辛き
言句わが口洩るとせば——神明すべてを打ち消さむ。』

しかく宣してその(には)に彼らと別れ他に進み、
チュウデュウスの子、剛勇のヂオメーデース、堅牢に
組まれ戰馬に曳かれたる兵車の上に立つを見る、
其傍に立てるものカパニユスの子ステネロス。
アガメムノーン・クレーオーン彼等を眺め叱り責め、
羽ある飛揚の言放ち彼に向ひて宣し曰ふ、

『軍馬を御する豪勇のチュウヂュウスの子ああ汝、
何故恐れ慄くや、戰場眺め怖るゝや?
汝の父は畏怖知らず、常に親しき同僚に
先んじ進み戰鬪を敵に挑むを喜べり、
その戰場に勤むるを眺めしものの曰ふ如し。
我は彼見ず彼知らず彼の優秀人は説く。
彼その昔客としてミュケーネーの地往きて訪ひ、
ポリュネーケースもろともに從軍の徒を呼び集め、
(二人その時テーベー[5]の聖なる都市と戰へり)
すぐれし援軍與ふべく彼らに切に乞ひ求む、
ミュケーネー人諾ひて彼等の請を贊せしも、
ヂュウスは之をひるがへし、不吉の兆を現はしぬ。
二人は斯くて辭してたち行路進めてアソーポス、
高き蘆萩と青草の繁れる郷にたどり來ぬ。
そこにアカイア衆民の令を奉して使者となる
彼チューヂュウス、カドモスの多くの子らの飲宴を
エテオクレース勇將の居館の中に認め得つ、
馬術巧みのチューヂュウス彼たゞ一人客として、
カドモス族の數多き最中(もなか)にありておののかず、
彼等に競技挑みつゝ、容易に彼等一切に
勝を制せり、アテーネー神女の助けかしこかり。
カドモス族は憤懣にたへず、其歸路伺ひて、
五十の少壯誘ひ來て密に埋伏の陣を布く。
其五十人率ゐるは二人の勇士、其一は
ハイモニデース・マイオーン、不滅の神に似たる者、
アウトポノスを父とするポリュボンテースまた強し、
されども之に打勝ちて無慚の運に終らしめ、
神の示驗をかしこみて只マイオーン一人を
許して國に歸らしめ他を一齊に打ち取りぬ、
アイトーリオス、チュウヂュウスかかりき、生める彼の子は
武勇は父に劣れども辯論の上彼に勝つ。』

[5]即ち七門を有する城市 四〇八。

しか宣すれど豪勇のヂオメーデース物曰はず、
高き王者の叱責を默然として惶みぬ、
されど名譽のカパニュウス産める子[1]答へて王に曰ふ——
『アトレーデースよ僞りそ、事明かに知り乍ら。
父に遙かに優れりとわれら自ら誇り曰ふ、
諸神の示驗かしこみて、ヂュウスの助け蒙りて、
ただ少數の軍勢をアレースの壁潜らせて、
城門[2]七つ備へたるテーベーの都市取りし我。
しかして敵は愚かにも氣の錯亂に亡び去る、
されば同じき光榮にわれと父[3]とを置く勿れ。』

[1]ステネロス。
[2]十年後再び攻めてテーベーを取る。
[3]父に優ると自讃す。東洋的ならず。

しかいふ彼を豪勇のヂオメーデース睨め曰ふ、
(をぢ)よ黙して坐に返り我の言句を受け容れよ、
脛甲堅きアカイアの軍、戰場に驅り立つる
アガメムノーン總帥をわれ豈に敢て咎めんや?
アカイア軍勢打ち勝ちて聖地イリオン陥いれ、
トロイア軍を亡さば光榮彼の身にあらむ、
アカイア軍勢敗れなば大哀彼の身にあらむ。
そはともかくも我れ二人身の豪勇を省みむ。』

しかく宣して兵車より大地の上に飛び降る、
其將軍の穿ちなす青銅の武具鳴りひゞき、
倔強の勇士なほ聞きて其心肝を冷やすべし。

譬へば海の潮流の鞺鞳として岸の上、
西吹く風に驅られ來て波また並と碎け散り、
始めは沖に高まりてやがて大地に打ちつけつ、
怒號はげしく更に又岬のめぐり、波がしら
立てて泡沫飛ぶ如し——正に其様見る如く、
ダナオイ族の軍團は隊また隊と休みなく、
つゞいて戰場さして行き、諸將おの〜令下し、
兵は無言に進み行く[4]、かかる多數の軍勢の
胸裏に聲の有り無しを人の疑ふばかりにも、
默然として粛々と進む衆軍、身に穿つ
種々の武装は燦爛とあたりに映じかゞやけり。
之に反してトロイアの軍は豐かの村人(むらびと)
獸欄の中、數知れぬ牝羊——乳を搾られて、
立つ時兒らの聲を聞き、絶えずも叫び鳴く如し。
斯くトロイアの大軍の中に叫喚湧き亂る、
衆の叫びは一ならず、又唯一の聲ならず、
種々の言語は相混じ種々の人種は相交る。
アレースかなた勵せば更にこなたを勵すは
藍光の目のアテーネー、『畏怖』と『恐懼』と入りまじる。
渇のはげしき『不和』を起つ、そは人殺すアレースの
姉妹又友、そのはじめ()さく育てど[5]天上に
今は頭を支へしめ、脚は大地を踏みて立つ。
彼また群衆横切りて爭あまねく其中に
投じ亂して衆人の呻吟苦叫起らしむ。
彼ら斯くして一齊に進みて、とある地に着けば、
獸皮の盾は相拍ちて、長槍及び青銅を
鎧ふ勇士の勇猛と飾鋲(かざりびょう)[6]ある大盾と、
互に當り相拍ちて轟々の音湧き起り、
撃たるる者と撃つ者の歡呼或は叫喚の、
音一齊に喧びしく紅血地上を流れ行く。
白雪(はくせつ)融けて量増せる二條の流れ山降り、
怒號の水をもろともにその源泉の高きより、
深く凹める峡谷に合流なして注ぐ時、
離れて遠き山上に牧童その音聞く如く、
混じ戰ふ軍勢の中より音と畏怖と湧く。

[4]三歌八に同様の敍述あり。
[5]不和は小なる原因に生じ大なる結果を來たす。
[6]盾の外面の中央に隆起す。

タリシュオスの子エケポ、ロス、トロイア軍の先陣の
中にすぐれし勇將を、アーンチロコス先づ斃す、
馬尾の冠毛振りかざす(かふ)天邊(てっぺん)打碎き、
鋭刄凄く骨に入り、其額上を貫けば
一命亡び死の暗は忽ち彼の目を蔽ひ、
亂軍中にどうと伏し塔の倒るを見る如し。
その倒るるを脚取りてエレペーノール[1]曳き來る、
カルコウドーンの生める息、アバンテース[2]の族の長、
亂箭中より引き出し其軍装を迅速に
剥ぎ取るべくと望みたる其勞遂に空しかり、
屍體を曳ける彼を見て敵の勇將アゲノール、
槍を飛ばして盾の側かがめる彼の脇腹の
隙を覗ひて打當てつ、手足の力弛ましむ[3]。

[1]二歌五四〇。
[2]二歌五四二。
[3]死すること。

斯くして去れる彼の魂——彼を廻りてトロイアと、
アカイア二軍、猛烈の技を演じて群狼の
如く、人々飛びかかり人々互に相撃てり。

かなたアイア,ス、テラモ,ンの子は花やかの若き武者、
アンテミオーンの若き息、シモエーシオス打ち取りぬ、
イデーの嶺を降り來し其母むかし、兩親に
附きて羊群守るべく、來りし時にシモエース、
流のほとり彼を生み、シモエーシオスと名を呼びぬ、
慈親に受けし養育の恩を酬ゆる邊なく、
命薄うしてアイア,スの槍に斃され亡び去る。
其前方に進み行く彼を、胸のへ右側の
乳房に添うてアイア,スの鋭槍酷く刺し通し、
青銅肩を貫けば大地に斃れ伏す。
譬へば廣き沼澤の地に白楊の生え出でゝ、
幹滑かに、頂きに近く枝葉のしげるもの、
車匠は之を耀ける斧を揮ひて切り倒し、
造る華麗の車駕のため曲げて輪縁(わぶち)となさんとし、
乾燥のため川流の岸に晒しておく如し。
斯くの如くに英豪のアイア,スの手に斃さるる
シモエーシオス塵に伏す、其アイアース目ざしつつ、
プリアミデース・アンチポス[4]群衆中に槍飛ばす、
覘は()れてオヂュシュウス率ゐたる伴リュウコスを、
鼠蹊のほとり丁と射て、(かばね)曳きずるままに打つ。
リュウコスかくて倒れ伏し屍は彼の手より落つ。
其殺されし伴のため忿然としてオヂュシュウス、
光る冑に身を固め先鋒中に進み出で、
敵に近づき立ち停り、あたり見廻し、燦爛の
投槍飛ばす——かくと見てトロイア軍はとしざる。
槍は空しく飛ばざりき、デーモコオーン——アビドスの
駿馬産するほとりより呼ばれ來りし一勇士、
プリアモス王うみなせる庶子を鋭刄うちとめぬ。
伴の死滅をいきどほり、槍もて彼の顳顬(こめかみ)
うつ豪勇のオヂュシュウス、其青銅の槍凄く、
穂先かなたに貫ぬけば暗黒かれの目を蔽ひ、
倒るる時に地はひゞき介冑彼の上に鳴る。
先鋒並びにヘクトール斯くて後陣に退けば、
雄叫びすごきアカイアの衆は屍體を曳きずりて
なほ奮進を續け行く——之を怒れるアポローン、
ベルガモスより見おろしてトロイア軍に叫び曰ふ、

[4]プリアモスとヘカベーとの子後アガメムノーンに殺さる。

『駿馬を御するトロイアの汝ら奮へ、アカイアの
軍に敗る()、彼らの身岩石ならず、鐵ならず、
肉を(つんざ)く鋭刄に打たれて堪ふるものならず、
髪日はしきテチスの子、ペーレーデース戰を
休み、水師の中にして其憤悶を養へり。』

かく城壁の高きより怒に燃ゆるアポローン、
こなたアカイア軍勢の弱り見る時、群衆の
間を廻り勵ますはトリートゲネーア・アテーネー[5]。

[5]トリートニス湖上に生る。

アマリンケース生みなせるヂオーレ,ス[6]いま(めい)つきぬ。
鋭き石は(くるぶし)のほとり右脛を猛に打つ、
イムブラソスの子、ペーロオス、トレーケースの族の長、
アイノスよりし來るもの尖る石もて彼を打つ、
無慘の石に筋二條並びに骨を碎かれし
彼は斃れて塵に伏し、天を仰ぎて双の手を
其僚友にさしのべつ、最後の息を引き取れば、
馳せ近きてペーロオス、槍とり直し、しかばねの
腹部のもなか突通す、無慚や臟腑悉く
溢れ地上にひろがりて暗黒彼の目を閉ざす。
其ペーロオスを更に又アイトーロスの將トアス[1]
槍を飛ばして打ちたほし、鋭刄肺を貫けり、
トアスつゞきて近寄りて、倒れし敵の胸部より
其大家槍を抜き取りつ、更に鋭利の劍をとり、
彼の腹部の中央を切りて生命奪ひ去る。
されど甲冑剥ぐを得ず。髪を結べるトレーケ,ス
族の同僚長槍を手中に取りて圍み立ち、
身の丈高く勇猛の著名の敵を追ひ拂ふ、
爭ひかねて悄然とトアスうしろに引き返す。
かくて二將は並び伏す、エペーオイ族青銅を
鎧へる者と其敵のトレーケースの族の長。
之をめぐりて數多く他も亦共に亡び去る。
幸にして青銅に射られず絶えて創受けず、
戰場中を巡る者——アトリトーネー・アテーネー
其手を取りて導きて猛き飛刄を外らしむる——
かくある者は陣中にありて戰鬪恨むまじ。
此日トロイア、アカイアの衆勢ともに相並び[2]
ともに地上に斃されて等しく塵の中に伏す。

[6]二歌六二二[。]
[1]二歌六三九。
[2]最後の二行全たく衍文。


更新日:2004/05/16

イーリアス : 第五歌


第五歌

神女アテーネー勇將ヂオメーデースを勵す。兩軍諸將の奮戰。 ヂオメーデース敵將パンダロスを殺し更にアイネーアースを傷け之を救はんとする神女を追ふ。 アプロヂーテー馬をアレースに借りオリュンポスに逃る。ヂオーネー之を慰めて傷を治す。 アポローン、アイネーアースを救ひてペルガモスに歸る。アレース、トロイア軍を勵す。 ヘクトールの進撃。ヂオメーデース退く。サルペードーンとトレーポレモスの戰。 神女ヘーレーとアテーネー、オリュンポスを下りアカイア軍を援く。 ヂオメーデース神女に勵されてアレースを討つて之を傷つく。 アレース逃れてオリュンポスに登り、ヂュウスに訴へて叱らる。 負傷の治療。二神女また歸り來る。

見よ今パラス・アテーネー、ヂオメーデース、チュ,ヂュウスの
子に與へたり勇と威を、アルゲーオイの一切の[1]
中に抜き出で光榮の譽を彼の得んがため。
即ち彼の兜より盾より光焔放たしめ、
初秋の空に爛々と耀く星[2]を見る如し、
其星、海の大潮に浴し衆星凌ぎ照る。
かかる光焔頭より肩より彼に耀かし、
彼を促し群衆の繁きが中に推し進む。

[1]アルゴス族=アカイア族。
[2]シリアス即ち天狼星。

トロイア族の中にしてダレースの名を呼べるあり、
ヘープァイストスの祭司にて、正しく富みて生みなせる
二子ペーギュウス[3]、イダイオス戰術すべて精しかり、
分隊列を離れ出でヂオメーデースに向ひ行く。
彼ら二人は兵車の上、これは地上に歩を進む、
かくて双方進み出で互に近く來る時、
先づペーギュウス影長く引く鋭槍を投げ飛ばす、
鋭利の穂先敵將の左の肩の上を越し、
彼に當らず、之に次ぎチュウデーデース進み寄り、
手中の槍を投ずれば、覗違はず敵の胸、
乳房の間貫きて馬より彼を打ち落す。
之を眺めてイダイオス華麗の兵車うち棄てて、
すばやく逃れ、同胞の屍體防ぐを敢てせず、
おのれ自ら辛うじて死の運命を避けしのみ、
ヘープァイストス暗影の中に隱してこを救ひ、
彼の老父に限りなき悲嘆に沈む勿からしむ。
ヂオメーデースこなたには捕獲し得たる馬二頭、
其同僚の手に渡し水師の中に送らしむ。
かくダレースの二人の子其一人逃れ去り、
兵車のかたへ他は斃る、之を眺めてトロイアの
衆人、恐れおののけば藍光の目のアテーネー、
はげしく荒るるアレースの手を取り彼に宣しいふ、

[3]三歌二四七は同名異人。
[4]劍に槍に、車戰に歩戰に遠近共に長ず。

『嗚呼ああ、アレース、人類の災、なんぢ、血に染みて
都城を破壞する汝、トロイア並にアカイアの、
いづれにヂュウス光榮を、贈るも彼れの戰鬪を
後にしわれは退きて、彼れの怒を避くべきぞ。』
しかく宣して、荒れ狂ふアレース引きて、戰場を
去らしめ、之を座らしむスカマンドロスの岸のうへ。

今アカイアの軍勢はトロイア軍を打ち破り、
將帥おのおの一人の敵を打取る、——いや先きに
ハリゾウノスのオヂオス[1]をアガメムノーン射て斃す、
即ち先に逃るべく退きかくる彼の(せな)
左右の肩のただ中を飛槍は射りて胸に入る。
車上よりして敵は落ち、落ちて介冑鳴りひびく。

[1]二歌八五六。

地味豐沃のタルネーを出で來りたるパイストス——
メーオネス人ボーロスの子をイドメネー屠り去る、
槍の名將イドメネー兵車の上にのりかゝる
敵をねらひて長槍に彼の右肩(うげん)を突き通す、
兵車よりして落つる敵、死の暗黒に蔽はれぬ。
其軍裝をイドメネー率ゐる部下は剥ぎとりぬ。

ストロピオスの生む處、狩獵の術に巧みなる
スカマンドリオス[2]亡さる、槍の名將メネラオス
アトレーデ,スの鋭刄に。山の深林養へる
猛き獸を射る術を教へたりしはアルテミス、
されど弓矢を弄ぶ神女も、先きに彼の身の
飾となれる弓術も其時彼を救ひ得ず。
槍の名將メネラオス・アトレーデース目の前に
逃げ行く彼の背を突けば、肩の(あひ)より胸にかけ、
貫ぬく槍にこらへ得ず、大地の上にうつ伏しに
倒れて亡ぶ、亡ぶ時鎧甲高く鳴りひびき。

[2]ヘクトールの子も亦之と同じ名將を有す(六歌四〇二)。

更にこなたにペレクロス——ハルモニデース工匠の
生みたる子息倒されぬ、メーリオネ,スの手によりて。
神女パラスに惠まれて、技工すべてに長ぜる身、
パリス率ゐし緒の船造りしは彼なりき、
船は禍難の基にしてトロイア及びおのが身に
破滅來せり、神明の警彼は知らざりき。
メーオリネース彼を追ひ、彼に近づき、長槍を
揮ひて彼の右の腰、突けば鋭き其穂先、
貫ぬき通り膀胱のほとり恥骨の下に入り、
うめき叫びて地に伏せば、死の暗黒は彼をおほふ。

アンテーノ,ルの子ペ,ダイオス、メゲースにより亡さる。
庶子なりしかど貞淑のテア,ノウ[3]愛兒もろともに
その良人の意を迎へ思をこめてはぐくみぬ。
槍の名將メゲースは彼に迫りて鋭刄を
飛ばして首のくぼみ撃つ、齒牙の間を貫きて、
舌を無慚に槍は截り其一命を亡せば、
冷めたき刄先噛み乍ら彼れ塵中に倒れ伏す。

[3]アンテーノールの正妻にしてアテーネー殿堂の祭司(六歌二九八……)。

スカマンドロスの祭司たり、神の如くに仰がれし
ドロピオーンの生める息ヒュプセーノール勇將は、
ユウアイモーン生みなせるユウリュピュロス[4]に打ち取らる。
ユウアイモーンのすぐれし子、ユウリピュロスは目の前に
逃げ行く敵を追ひかけて、迫り近づき長劔を
揮ひて彼の肩を撃ち、重き(かひな)を切り落す、
鮮血凄く大地染め、死の黯黒と兇暴の
運命彼に迫り來て其兩眼を閉ぢしめぬ。

[4]二歌七三六。

斯く猛烈の戰鬪に衆人ひとしく倦み疲る。
さはれチュウヂュウスの生める子[5]は、トロイア或はアカイヤの
いづれに與みし戰ふや、殆んど辨じ得ぬばかり、
縦横無碍に原上を走り駈け行く、譬ふれば
水量増して荒るる河、溢れて堤坡崩し去る、
堅く築ける堤防も其奔流を留め得ず、
ヂュースの雨に勢を増して俄に襲ふとき、
沃野の土工また之を防ぎ抑ゆること難し、
村の少壯努めたる工事はすべて破壞さる、
斯の如くにトロイアの密集諸隊破られて、
軍兵乏しからねどもヂオメーデースに抗し得ず。
かくて諸隊を目の前に亂し破りて原上を
進める彼を認めしは、リュカオーンのすぐれし子[6]、
チュウデーデース的としてすぐに強弓圓く張り、
馳せ來る彼の右の肩、其胸甲の結節に
はげしく飛んで射當てたる勁矢は之を貫きつ、
勇將穿つ胸甲は凄く黯紅の血に染みぬ。

[5]ヂオメーデース。
[6]パンダロス(四歌八九)。

リュカオーンの子此を見て、大音あげて叫び曰ふ、
『起て豪勇のトロイア人、駿馬巧みに御する者、
アカイア軍の最勇士射られぬ、我は敢て曰ふ、
勁矢に永く彼耐へじ、リキアよりして急ぎ來し
われをアポローン、ヂュースの子、勵し力貸すとせば。』

斯く誇へり然れども勁箭敵を亡さず、
ヂオメーデース退きて、戰車戰馬を前にして、
カパニュースの子ステネロス呼びて即ち陳じ曰ふ、
『カパネーイアデー[1]、願くは汝の兵車下り來れ、
下りて無慚の勁き矢をわれの肩より抜き棄てよ。』

[1]呼格。

其言聞きてステネロス馬よりおりて地に降り、
傍に立ちて彼れの肩貫く勁矢抜き去れば、
其しなやかの被服[2]越し、鮮血高く迸る。
その時亂軍の勇士たるヂオメーデース祈り曰ふ、

[2]鎖帷子の類か。

『アイギス持てるヂュウスの子、アトリュトウネー[3]!われに聞け、
凄き苦戰の中にしてわれと父との傍に、
應護を埀れて立ちし君、今もしかあれ、アテーネー!
われに先んじわれを射り、更に今又我を誣ひ、
再び長く光輪の影は見まじと叫ぶ彼、
許せ、飛ばさんわが槍の射程に入りて亡びんを!』

[3]「屈せざるもの、弱らざるもの」の意、アテーネーの名稱。

しかく祈願を陳ずればこを納受するアテーネー、
彼の肢體を、兩脚を、更に双手を輕くしつ、
(かたへ)に立ちて翼ある言句を彼に宣し曰ふ、

『ヂオメーデス[4]よ、信を取りトロイヤ人に渡り合へ、
堅盾揮ふチュウヂュウス持ちしが如き強烈の
威力汝の胸中に、すでに送れり、恐るるな、
我また汝の双眼を蓋ひし霧を、吹き去りぬ、
かくして汝明かに神と人とを辨ずべし。
例へば汝を試すべくある神こゝにおとづれむ、
汝心を警めて他の神靈と戰ふな、
されどヂュウスの娘たるアプロヂィーテー來りなば、
彼と戰ひ青銅の刄を以て彼を打て。』

[4]呼格。

藍光の目のアテーネーしかく宣して引き去れば、
更に再び先鋒にチュウデーデース加はりつ、
トロイア軍と奮戰の先の思をいやましに、
烈々として三倍の威力を増せり——譬ふれば、
野に群羊を飼ふ牧者、其牧場に躍り入る
獅子に微傷を負はすれど、之を制することを得ず、
たゞ其猛威増すばかり、群羊救ふに術なくて、
震ひて小舍にすくまれば、可憐の群は怖ぢ恐れ、
やがて累々重なりて血は原頭を染むる時、
獸王たけりて牧場を再び跳り飛ぶ如し、
ヂオメーデース斯く暴れてトロイア軍に馳せ向ふ。

その場に彼に打たれしはアスチュノオス[5]とヒュペーロン、
一人は彼の長鎗の胸のたゞ中貫かれ、
他は肩の上大刀に鎖骨に掛けて斬られ伏し、
斯くして頸より又背より肩は無慚に(つん)ざかる。
これを後にし又向ふポリュイードス[6]とアバスとに——
夢を占ふ老夫子ユウリュダマスの二人の子、
其戰場に來るとき父は其夢占はず、
ヂオメーデース猛勇に二人を屠り且つ剥ぎぬ。

[5]十五歌四五五のと同名異人。
[6]十三歌六六三と同名異人。

其老齡にパイノプスうめる子二人クサントス、
並にトオーン[7]亦打たる、父頽齡に衰へて、
家産を譲り傳ふべき他の子を遂に儲け得ず、
ヂオメーデース兩人を屠りて魂を奪ひ去り、
たゞ慟哭と悲痛とを彼の老父に殘すのみ、
父は故郷に歸り來る二兒を迎ふるを得ず、
家産は遂に親屬の間に分ち配られぬ。

[7]十一歌四二二と同名異人。

プリアモス王うめる二子エケムモーンとクロミオス、
一つ戰車に並び乘り同じく共に亡さる、
譬へば森に草を喰む其牧牛の群目がけ、
跳り來りて獅子王が彼等の首を碎くごと、
ヂオメーデース戰車より二人の敵を打ち落し、
猛威を奮ひ亡ぼして其戰裝を剥ぎ取りて、
部下に命じて生捕りし馬を水師に送らしむ。
かく先陣を荒らし去る勇將を見てアイネア,ス[1]、
たちて戰場横切りて飛槍の間通り過ぎ、
探し廻りぬ弓術は神明に似るパンダロス、
其パンダロス、リュカオーンの勇武の子息見出して、
其傍に立ち停り彼に向ひて陳じ曰ふ、

[1]トロイアの名將軍、アイネアース又アイネーアースとも訓む。

『ああパンダロス、いづくにぞ汝の弓は?勁箭は?
はた名聲は?何人もこゝに汝に比せぬもの、
リキア軍中何人も優ると誇り得ざるもの、
いざ今ヂュウスに手を擧げて祈りて彼に矢を飛ばせ、
彼ら何者ぞ?我に勝ち、多くの禍難トロイアに
來たし、多くの勇將をすでに地上に倒れしむ、
神に非ずば彼を射よ、犠牲の故にトロイアに
怒れる神に非ざらば、——神の怒は恐るべし。』

リュカオーンのすぐれし子其時彼に答へ曰ふ——
『青銅よそふトロイアに忠言寄するアイネアス!
我いま彼を勇猛のチュウデーデースと眺め見る、
其楯により、其兜——冠毛振ふものにより、
其馬により、しか思ふ、彼神なりや我知らず。
わが曰ふ如く人にして只チューヂュースの子なりせば、
神助なくして斯く迄に猛きを得まじ、神明の
あるもの彼の側に立ち、雲霧に彼の肩を掩ひ、
彼に當りし勁箭を別の道にと外らしめぬ。
正しく我は一箭を彼に飛ばして右の肩、
其胸甲の(つがひ)より他の端までも射透しぬ。
彼を冥王の府の底に沈めさりぬとわれ言ひき。
とある怒の神明の助けに彼は免れ得ぬ。
我の乘るべき戰の車も馬も今あらず。
リュカオーンの殿中に戰車十一うるはしく、
新たに成りて裝はれて飾の被帛之を蓋ふ、
其おのおのに繋がれて二頭の馬は首ならば、
白き大麥裸麥噛みつゝ共に地を踏めり。
父、老練のリュカオーン其美はしき殿中に、
門出の我に喃々と幾多の事を説き勸め、
奮戰苦鬪のたゞ中に戰車戰馬に身を乘せて、
トロイア軍に令せよと我に命じき慇懃に、
されども我は聽かざりき(聽かば遙かに善かりしを)
衆人密に群れば、多量の食を取り馴れし
戰馬恐らく其糧を缺乏せんの掛念より。
かくして我は之を捨て、徒歩にイリオン訪ひ來り、
ただ勁弓にたよりしよ、今見る我に效なきを。
まさしく我はメネラオス、ヂオメーデース兩將を
覘ひて勁矢飛ばしめつ、之を傷け鮮血を
流さしめしも徒らにたゞ其勇を増せしのみ、
われイリオンの堅城にトロイア軍を導きて、
わがヘクトール助くべく立ちしかの日に兇惡の
運命弓を掛釘の上よりわれに取らしめき。
他日歸りてわが故郷、又わが家妻、又わが屋、
高き樓閣、此目もて親しく又も見なんとき、
わが知らぬ人忽ちにわれの頭を斬り落せ、
若し我れ弓を折り碎き炎々燃ゆる火の中に
投ずることを爲さずんば——無效は風の如き弓。』

アイナイアース、トロイアの將軍其時答へ曰ふ、
『しか曰ふ勿れパンダロス、我々二人彼目がけ、
戰車戰馬を驅り進め、武器を揮ひて彼を打ち、
彼を試さん其前は局面何の變なけむ。
いざ乘れわれの戰車の()、乘りて知るべしトロイアの
軍馬[2]の良きを、原上の縦横無碍に馳せ走り、
敵を逐ふ時、逃ぐる時、共に軍馬は飛ぶ如し。
ヂュウス再び恩寵をヂオメーデースに埀るべくば、
其時兩馬安らかに我を都城に返すべし。
いざ今鞭と輝ける手綱汝の手に握れ、
汝の御する車のへ立ちてわれ彼の強敵を
撃たむ、さなくば汝撃て、われは戰馬を御すべきに。』

[2]二六五以下參照、又二十歌二二〇。

その時リュカオーンのすぐれし子、彼に向ひて答へ曰ふ、
『アイナイアース、手綱とり戰馬御するは汝たれ、
ヂオメーデースの手を逃れ退かんとき、其馴れし
主人のもとに迅速に車を兩馬引き得べし。
彼等恐怖し駈け狂ひ、汝の聲の無きが爲め、
戰場よりし安らかに我を乘せ去ることなくば、
ヂオメーデース、英豪のチュウヂュースの子飛びかかり、
我を倒してすぐれたる戰馬捕へて引き去らむ。
されば汝の戰車又戰馬は汝御し進め、
向ひて來る強敵を鋭槍揮ひ我受けむ。』

しか曰ひ二將、雜色に塗りし戰車に身を乘せつ、
熱情燃えて駿馬をヂオメーデース目がけ驅る。
之を眺めてステネロス、カパニュウスのすぐれし子、
チュウデーデースに打ち向ひ羽ある言句陳じ曰ふ、

『チュウデーデー[1]よ、わが愛づるヂオメーデス[1]よ、我は見る、
二人の勇士量りなき威力を持ちて猛然と、
汝に向ひ進み來て汝を敵に戰はむ、
一人は弓に秀いでたるかれパンダロス、リュカオーンの
子とて自ら誇る者、他はアイネアス、彼も亦
アンキイセースの子と誇り、アプロヂ,テーを母と曰ふ。
いざ今戰車に身をのせて退き去らむ、先鋒の
中の奮戰戒めよ、恐らく命を失はむ。』

[1]共に呼格。

しか曰ふ彼を睨め見てヂオメーデース叱り曰ふ、
『恐怖の言を吐く勿れ、なんぢの諌われ知らず、
戰鬪中にたじろぐは、或は震ひおのゝくは、
わが本性のわざならず、われの猛威はなほ強し、
われは乘車を歡ばず、今あるまゝに徒歩にして、
向はむ、パラス・アテーネー許さずわれの戰慄を。
よし一人は免るとも彼らの駿馬兩將を
もろとも乘せて陣中に驅け歸ることなかるべし。
我また汝に更にいふ、汝心に銘じおけ、
埀示かしこきアテーネー、二將を共に倒すべき
光榮われに()ぶべくば、其時汝わが馬を
駐め、手綱を引きしめて戰車の縁[2]に繋ぎ置け。
しかも必ず忘れずに彼の戰馬に飛びかかり、
擒へて之をアカイアの軍陣中に曳き到れ。
聲朗々の神ヂュウス、ガニュメーデースの償に[3]、
父トロースに與へたる馬と正しく同じ種、
暁光及び日輪の下に至良の馬は是れ、
ラーオメドーン[4]の目を掠め、牝馬をこれに觸れしめて、
私かに種を愉みしはアンキイセース、民の王、
かくして彼の城中の六頭の駒産れ出づ、
かくて自ら心籠め中の四頭を養hつ、
畏怖の基なる他の二頭、子のアイネアス求め得ぬ。
今もし之を擒へ得ばわれの聲譽は大ならむ。』

[2]兵車の前面と側面との添へる欄。
[3]トロースの美貌の子ガニュメーデースを奪ひ、其償に名馬を與ふ(神話)。
[4]トロースの馬を托されし者、彼はプリアモス王の父。

かくも如上の事に付き二人互に陳じ曰ふ。。
そこに直ちに二敵將駿馬を驅りて迫り來つ、
リュカオーンのすぐれし子まさきに聲を放ちいふ——
『英豪勇武のああ汝、チュウデーデース、先きにわが
射りし勁箭、(にが)き武器、遂に汝を倒し得ず、
鋭刄效を奏するや?今わが槍に試みむ。』

しかく叫んで影長き大槍揮ひ投げとばし、
チュウデーデースの盾打てば、穂先は之を貫きて、
勢猛く衝きて入り、其の胸甲に迫り來る、
之を眺めてパンダロス勇み高らく叫び曰ふ、
『汝腹部を貫ぬかる、其重傷を時長く
(こら)へは得まじ、光榮を汝はわれに與へたり。』

ヂオメーデース威を奮ひ、憤然として答へ曰ふ、
『汝謬る、長槍はわれに當らず、然れども
汝戰やめざらむ、汝のひとり倒されて
其血を以って猛勇のアレース神を飽かす迄。』

しかく叫びて飛ばす槍、槍を導くアテーネー、
鼻を打たしむ眼の下に、槍は眞白き齒を碎き、
堅き青銅更にまた根本に舌を打ち落し、
更に其穂は(あご)の端貫き外に抜け出でぬ。
戰車を落つるパンダロス、其燦爛の戰裝は
戛然(かつぜん)として鳴りひゞき、足とき駒はをののけり。
魂と力ともろともに、彼の體より逃れ去る、
其しかばねを、アカイアの將士奪ふを恐れたる
アイナイアース、盾と槍とりて兵車を下り來つ、
獅子の如くに身の威力信じ、倒れしなきがらを
めぐり、身の前、長槍と圓楯かざし、大音に
叫喚しつつ、なきがらを奪はんものを倒すべく、
勢猛くめぐり立つ。チュデーデース之を見て、
巨大の石を高らかに——今の時見る人間の
二人合して上げ難き石を容易くたゞ獨り、
振り上げとばし、敵將の臀部に——股と接合の
局所——そは又 髀臼(はいきう)と呼ばるる者に打ち當てつ、
髀臼碎き更に二條の筋を斷ち截りぬ。
其大石に肉割かれ剥ぎ去られたるアイアネス、
大地に倒れ膝つきて兩手わづかに身を支へ、
其雙眼は迫り來る黒暗々(こくあんあん)の夜に閉ぢぬ。

かくしてそこに人の王、アイナイアース死せんとす、
そを速に認めたる、アプロヂイテー、ヂュウスの子、
(彼の母なり、牧牛のアンキーセイスに此子生む)
翔けり來りて白き腕のして愛兒をかき抱き、
駿馬跨るアカイアの一人彼の胸を刺し、
彼を倒さんと恐より、槍に對する防ぎとし、
彼のめぐりに輝ける被袍廣げておほし去る。
神女かくして戰亂の中より其子救ひ出す。

カパニュウスの子こなたにはヂオメーデース英豪の
將軍先きに令したる約を忘れず、混亂の
外に離れて單蹄の彼の兩馬を引き出し、
手綱をつよく張り締めて兵車の縁に繋ぎ止め、
アイナイアース乘せて來し二頭の駿馬、たてがみの
美麗のものに飛びかゝり、之を奪ひてアカイアの
陣中に引き、親友のデーイピロスに(同齡の
友の間に同心の故もて特にめづるもの)
彼に渡して水軍の中に曳かしめ、斯くて彼、
耀く手綱ひきしめて強き蹄の馬を驅り、
兵車飛ばして迅速にヂオメーデースの跡を追ふ。
其勇將は無慚なる青銅揮ひキュプリス[1]を
逐ひ行く、弱き神と知り、戰鬪中に人間に
令する神女アテーネー、あるは城壁打ち碎く
猛きエニューオー[2]、あるは其類に非ずと認め知り、
群衆中を駈け走り、逐ひ行き之に迫り來て、
ヂオメーデースましぐらに其長槍を振り上げて、
鋭き穂先き柔軟の玉手のおもてはたとつく。
奉仕の仙女織りなせる微妙の帛を貫きて、
鋭刄 (すぐ)(たなぞこ)の端に當りて肉に入り、
アプロヂ,テーの血を流す、そは透明の清き液、
そは慶福のもろ〜の神明の身に宿る液、
神明素より麺麭(めんぱう)()せず、葡萄の酒飲まず。
(故に人間の血に非ず、故に不滅の身と呼ばる)
打たれて神女泣き叫び、地上に愛兒振り落す、
そを手の中に収めしは神プォイボス・アポローン、
暗き雲中隱し去り、駿馬を御するアカイアの
中の一人も其胸を射て倒すこと勿らしむ。
其時勇將たからかにアプロヂ,テーに叫び曰ふ、

[1]アプロヂイテー。
[2]アレースに伴ふ神女本歌五九二にもあり。

『戰鬪軍事の間より退け、汝ヂュウスの子!
かの纖弱の女性らを欺き得ても足らざるや!
また戰場に身を置かば、之を恐れて震ふこと
疑あらじ、遠くより其亂鬪を聞かん時。』

其言聞きて狂はしく苦痛激しく去る神女、
そを疾風の脚早く救ひ、イーリス群衆の
外に出せば、激痛に惱み、美麗の膚染めて、
行きてアレース戰場の左[3]にあるを見出しぬ、
雲霧の中に其槍と二頭の駿馬そばにして。
神女即ち其愛づる同胞の神の膝の上、
倒れて彼に金甲をつけし駿馬を乞ひ求む、

[3]スカマンダラスの岸上、戰場の左に(三五 -- 三六)。

『ああわが同胞、憐憫を埀れて汝の馬を貸せ、
神の聖座のあるところ、ウーリュンポスの行かんため。
負傷の痛堪がたし、チューデーデース我を打つ、
ああ此地上の人の子はヂュウスとすらも戰はむ。』

其言聞きてアレースは彼の金甲の馬與ふ。
神女かくして痛心の其身兵車の上にのす、
其傍に座をしめてイーリス手中に綱を取り、
快鞭馬に加ふれば勇みて兵車曳き走り、
忽ち高きオリュンポス、神の聖座に到り着く。
そこに疾風の足はやきイーリス戰馬引きとめて、
兵車の外に解き放ち之に微妙の糧與ふ。
その時神母ヂオーネー[4]、アプロヂイテー聲あげて、
膝に倒るをかき抱き、玉手靜かに艶麗の
愛兒を撫でゝ口開き之に向ひて宣し曰ふ、

[4]ヂオーネーはホメーロスの作中只單にアプロヂイテーの母神としてのみ記され、局面中何らの行動に加はらず。

『愛兒よ、天の何者か汝をかくは傷めたる?
さながら汝一切の目の前、惡をなせしごと。』
嬌笑めづるアプロヂ,テー[5]即ち答へて母に曰ふ、
『ヂオメーデースわれを打つ、彼れチュウヂュース生める息、
われわが愛兒アイネアス——人中最もめづるもの、
そを戰場の間より救ひ出でたる故をもて。
今戰鬪はトロイアとアカイア族のそれならず、
ダナオイ族はおほけなく神明さへ敵と爲す。』

[5]「嬌笑を好む」の意なるプイロンメーデースは此女神の常用形容句。

神女の中にすぐれたるヂオ,ネー答へて諭しいふ、
(こら)へよ愛兒惱む時、忍べなんぢのつらきわざ、
ウーリュンポスに住める者、多く地上の人間と
互に禍難蒙らせ互に惱み苦めり。
斯くアレースは苦めり、アロウユウスの二人の子、
エピアルテース、オートスが鎖を彼に掛けし時、
堅き牢中囚はれし月數算ふ十と三、
二人の繼母うるはしきエーエリボイア憐みて、
ヘルメーアスに訴へて弱れるアレース救はしむ、
若し然らずば戰鬪に猛きアレース弱り果て、
無慚の戰身を責めて遂に最後を遂げつらむ。
天妃ヘーレー苦めり、アムピトリュオーンの猛き子が[1]、
時に殆んど治しがたく苦痛は天妃惱せり。
冥府の王者ハーデース同じく共に苦しめり、
アイギス持てるヂュウスの子、前と同じき猛き者[2]、
冥府の門に飛ばす矢に彼の苦惱を受けし時。
勁箭彼の肩を射て疵に惱めるハイデース、
ヂュウスの宮を、——おほいなるウーリュンポスをたづね行き、
負傷の故に其心惱亂しつゝ堪へやらず。
其時彼にねんごろに苦痛鎭むる藥塗り、
癒やせし者は巧妙のパイエーオーン——神のわざ。
ああ強暴の人の子は斯くも不敬を敢てして、
ウーリュンポスの神明にその矢放つを憚らず。
藍光の目のアテーネー、神女今はたかの者を
擧げて汝に向はしむ、愚かや彼の胸中に
ヂオメーデース悟り得ず、神と戰ふ人間は
壽命長きを得べからず、戰爭軍旅の間より、
歸らん時に其膝に寄りてあまゆる子は無しと。
ヂオメーデース勇なるも今すべからく思ふべし、
彼に優れるあの神は彼に手向ふことあらむ、
アドレーストスの愛娘(まなむすめ)、アイギスアレーア[3]いたく泣き、
アカイア中の至剛なる若き良人哭しつつ、
睡る家人を起たしめむ。ああ彼の賢婦英豪の
ヂオメーデース失ひて哭する時ぞ來るべき。』

[1]ヘーラクレースがヘーレーを傷けしこと古き神話にありと見ゆ。
[2]ヘーラクレース。
[3]ヂオメーデースの妻。

しかく宣して双の手をのし透明の血を拭ひ、
之を癒せば忽ちにアプロヂ,テーの苦は輕し。
こを眺めたるアテーネー、天妃ヘーレーもろともに
辛辣胸を刺す言にクロニオーンを激せしむ。
藍光の目のアテーネーまづ口開き宣しいふ——

『ああ父ヂュウス、われの今述ぶる言句を怒らんや?
見よキュプリスは限りなく愛づるトロイア軍勢の、
跡を追ふべくアカイアのとある女性を促しつ、
美麗の衣纒ひたるその女性[4]をばかい撫でて、
その黄金のとめ金に彼女纖手を傷つけぬ。』

[4]ヂオメーデースに傷けられしを反語的に曰ふ、勇將を一女性と呼びつつ。

その言聞きて人間と神との父は微笑みつ、
黄金の如美はしきアプロヂイテー召して曰ふ、
『愛兒、汝に戰爭のつらき仕業は課せられず、
そは猛勇のアレースとアテーネーとの司のみ、
汝はひとり温柔の婚嫁の術に身を盡せ。』

斯くして諸神相對し此等の事を談じ合ふ。
ヂオメーデースこなたにはアイナイアース追ひ迫り、
神アポローン應護の手、彼に延ばすと知り乍ら、
偉大の神をいさゝかも恐れず、敵のアイネアス
屠りて彼の戰裝のいみじきものを剥がんとし、
飽くまで敵を倒すべく三たび激しく追ひ迫る、
三たび燦爛の楯揮りてアポローン彼を追ひ返す。
更に四たびの試みに神の如くに迫るとき、
銀弓強きアポローン嚇し叱りて叫び曰ふ——

『退け汝ヂュデーデー、汝神明に相如くと
思ひなはてそ、永遠の不滅の神は地の上に
歩む無常の人間と其本性を一にせず。』

其言聞きて二歩三歩ヂオメーデース(あと)しざり、
勁箭飛ばすアポローン神の怒りを避け逃る。
その群衆を遠ざかり、アポローン行きて彼の宮
建てる處のペルガモス、聖地に移すアイネアス、
そこにレートウ又弓矢好める神女アルテミス、
秘宮の中に彼を治し、彼に光榮あらしめぬ。
また銀弓のアポローン一の幻影作り成し、
アイナイアース及び其武具に全く似せしむる、——
その幻影を取り圍み、アカイア及びトロイアの
兩軍互に牛皮張る圓盾あるはその(ふさ)
亂るる小盾其胸をおほへるものを打ち合へり。

其時猛きアレースに向ひアポローン宣し曰ふ、
『嗚呼ああアレース、人間の禍、汝、血に染みて[2]
城壁碎くああ汝、來りかの者豪勇の
ヂオメーデース攘はずや?ヂュウスにさへも手向はむ
かれ眞っ先にキュプリスを打ちて其手を傷付けぬ、
而して更に神明の如くにわれに迫り來ぬ。』

[2]此アポローンの言は五歌三一と同じ。

しかく宣してアポローン行きて位すペルガモス[3]。
こなたアレース激勵をトロイア軍に施して、
トレーケースのアカマース[4]武將の影に身を似せて、
ヂュースの裔のプリアモス王の衆子に命じ曰ふ、

[3]アポローン戰を見るべく屡ペルガモスに座す(四歌五〇八)。
[4]二歌六四四のと同名異人。

『ああヂュウスより傳はれる王プリアモスの子ら汝!
汝の堅き城門の前の戰鬪來るまで、
アカイア緒軍汝らを亡すことを(うべな)ふや?
アンキーセースうみなせるアイナイアース、猛き者、
わがヘクトールもろともにわれの尊ぶ猛き者、
倒る、いざ立て紛擾の中より勇士救ひ出せ!』

しかく宣しておのおの魂と勇とを鼓舞せしむ。
その時猛きヘクト,ルをサルペードーン[5]叱り曰ふ、
『ああヘクトールいづくにぞ先きに汝の持てる勇?
汝は曰へり兄弟と姉妹の夫もろともに、
自方並に友軍の力用ゐず獨力に、
トロイア城を保たんと、さはれいづこに彼らある?
獅子の前なる犬のごと彼ら震ひてすくだまる。
之に反して友軍に過ぎざる我は戰はむ。
さなり友軍に過ぎぬ我れ遠き郷よりこゝに來ぬ。
リキアは遠し、クサントス[6]渦卷く流ある處、
そこに恩愛の妻と子を殘して我はこゝに來ぬ、
はた又貧者羨めるあまたの資産殘し來ぬ。
われはリキアの郷人を勵し進め自らも、
戰鬪切に今望む。しかもアカイヤ衆軍の
掠めて奪ひ去らんもの此處に微塵もわれ持たず。
さるを汝は立ち停り動かず、絶えて衆人に
奮ひ起りて其妻女防ぎ護れと指令せず。
思へ、恐らく大綱に洩れなくかかる魚の如、
汝ら敵の戰利また(ゑば)となることなからずや?
敵は汝の堅城を破壞することなからずや?
此事汝晝に夜に常に心に戒めよ。
汝よろしく遠來の友の將士に懈怠なく
任につくべく乞ひ求め、彼の誹謗を免れよ。』

[5]リキアの將軍、二歌八七七。
[6]トロイア平野を流るる同名の川(一名スカマンドロス)あり。

サルペードーンしかいへば、慚愧に堪へず、ヘクトール、
直ちに武具を携へて兵車を降り地に立ちて、
鋭利の槍を揮ひつゝ、緒隊の間かけめぐり、
衆を促し進ましめ凄き戰亂めざめしむ。
衆軍即ち引き返しアカイア軍に立ち向ふ。
アカイア軍勢又密に列を造りてたじろがず、
金色(こんじき)の農の神デーメーテール[7]、強く風
吹くに乘じて穀物と糠とをふるひ別つとき、
農家の清き床の上、風の齎らす細粉の
積りて白く高まるを見るが如くに、アカイアの
軍勢白く塵被ぶる——トロイア軍の兵車曳く
戰士再び盛り返し、戰場中に駈けしむる
軍馬の蹄、空中に蹴揚げし塵に白くなる。
かくて衆軍堅剛の腕の力を推し進む。
更にあたりに猛勇のアレース霧を暗うして、
トロイア軍を援け行き、黄金の劔身に帶ぶる[8]
アポローン、下せし令を遂ぐ。ダナオイ軍を助けたる
藍光の眼のアテーネー去るを眺めてアポローン
彼に命じてトロイアの軍の勇氣を覺まさせき。

[7]オリュンポスに住まず、只地上にありて農業禾稼を司る神女。
[8]此句はひとりアポローンに屬す。

銀弓の神又更に聖殿外にアイネアス、
送り出して胸中に鋭き英氣滿たさしむ。
勇將かくて陣中に入れば衆人喜べり、
彼の生けるを、更に又健やかにして凛々の
勇を奮ふを喜べり、されど何らの問をせず。
神アポロ,ンとアレースと果なる荒るる鬪の
靈ともろとも成す業は其糺問を扣へしむ[1]。

[1]エリス四歌四四一。

アイアス二人オヂュシュウス、ヂオメーデースもろともに
ダナオイ軍を一齊に戰鬪中に進むれば、
衆は勇みてトロイアの威力並に叫喚を
物ともせずに悠然と立てり——颯々の呼吸より
朗に吹きて慘憺の陰雲拂ふ強き風、
ポレアスの類睡る時、空靜穩に返る時、
連山高き頂にウーリュンポスのクロニオーン、
雲を留めて動かさず、——其雲のごと悠然と
ダナオイ軍勢トロイアの軍を迎へてたじろがず。
アトレーデース陣中を廻りあまねく令しいふ——

『友よ男兒の面目に汝の勇氣振り起せ、
はげしき軍旅の中にして汝ら互に恥を知れ、
見よ恥を知る人中に死よりも生の數多し、
怯れて逃ぐる者の上光榮あらじ、益あらじ。』
しかく宣して槍飛ばしアイナイアスの友にして、
將ペルガソス生めるもの、デーイコオーンを打ち倒す、
彼は勇みて先鋒の中に交りて戰へば、
プリアモス王生める子の如くに衆に尊ばる——
其堅楯をひゃうと射るアガメムノーンの長き槍、
楯は鋭刄支へ得ず、槍は激しく劈きて、
更に腹帶又下の腹部を突きて打倒す、
突かれて敵はどうと伏す、鎧甲高くひゞかして。

かなたダナオイ勇將を、ヂォクレースの二人の子、
オルシロコスとクレ,トーンをアイナイアース打ち倒す、
二人の父は堅牢に築かれし都市ペーレーに
住みて家計は豐なり、ピュロスの原を貫ける
アルペーオスの廣き河、河靈の裔は彼の父。
河靈[2]は衆の王としてオルシロコスを生れしめ、
オルシロコスは英豪のヂオクレースの父となり、
そのヂオクレース双生のオルシロコスとクレートーン、
善く戰術に通じたる二人の子らの父となる。
二人長じて暗黒に染めし兵船身を托し、
アガメムノーン、メネラオス二將に譽加ふべく、
良馬の産地イリオンにアカイア軍に伴へり、
死の運命は無慚にも二人をこゝに亡びしむ。
譬へば山の頂に繁る叢林奥深く、
母獸によりて養はれ長ぜし荒き獅子二頭、
牧牛並に肉肥えし群羊屠り餌食とし、
獸欄いたく荒らす後遂に主人の手にかゝり、
其青銅の鋭刄に撃たれて斃れ伏す如し、
二人正しくその如く、アイナイアースの手によりて、
打たれて伏して、おほいなる樅の倒れを見る如し。
其斃れしを憐みてアレースめづるメネラオス、
燦爛、光る青銅の鎧穿ちて先頭に
進みて槍を打ち揮ふ——アイナイアースの手に因りて
斃れんことを望みたるアレース彼を勵せり。
アーンチロコス(英豪のネスト,ルの子)は之を見て、
王の危險を憂慮しつ、其禍にアカイアの
勞苦空しく成るべきを思ひ眞先に馳せ出づる。
アイナイアース、メネラオス二將互に相面し、
戰望み鋭刄の槍をおのおの振りかざす、
アーンチロコス進み來て王にまちかく並び立つ。
二人の勇士並び助けて立つを眺め見て、
アイナイアース勇猛の將軍乍ら引きかへす。
こなたの二將アカイアの陣に二友のなきがらを、
携へ歸り同僚に渡し了りて又更に、
激しく戰鬪勉むべく先鋒中に引き返す。

[2]河靈を父とするオルシロコスよりヂオクレース生れ、ヂオクレースより祖父と同名のオルシロコス生る。

楯を備ふる勇猛のパフラゴニアの首領たる
ピュライメネース[3]、アレースに似るもの車上に立つ處、
槍の名將メネラオス、アトレーデース其槍を
飛ばして彼を覘ひ打ち鎖骨に當てて斃れしむ。
アチュムニオスの勇武の子ミユドーン兵車を御する者、
逃れ去るべく單蹄の馬を後へと返す時、
アーンチロコス石投げてはげしく彼の臂打てば、
象牙を飾る其手綱彼の手はなれ塵に落つ、
アーンチロコス飛び掛り、(つるぎ)を揮ひこめかみを
衝けば堅固の兵車より呻を揚げてさかさまに、
沙塵の中に倒れ落ち頭と肩を地に埋む、
沙塵の堆は深くして長く(さかさ)に立てる彼、
やがて屍體を其双馬蹴りて地上に斃れしむ、
アーンチロコスは鞭うちて馬をアカイア陣に驅る。

[3]同名の將十三歌六四三に現はる。恐らく別人か。或評者は此矛盾を以てイーリアスが同一作者の手に成るに非ずとふ一論據と爲す。

戰陣中にヘクトール之を眺めて大聲を
揚げて進めば、勇猛のトロイア軍勢之につぐ。
其眞っ先にアレースと並びて進むエニューオー[1]、
女神その手に殘忍のキュードイモス[2]を齎らせば、
更にアレース手の中に巨大の槍を打ち揮ひ、
前に或は又後に將ヘクト,ルに添ひて行く。
混戰中に勇奮ふヂオメーデース之を見て、
おののき震ふ、譬ふれば大平原をたどる者、
海洋さして速かに流るる川の岸に立ち、
泡沫たてゝ咳くを驚き眺め歩を返す、
チュウデーデース之に似てたじろき衆に告げて曰ふ、

[1]戰の女神。
[2]騒ぎを人化する名。

『友よ勇武のヘクトール、槍に巧みに戰鬪に
すぐるる彼を驚嘆の目もて我らは眺め來ぬ、
ある神明は傍にたちて禍難を免れしむ、
見よ今アレース人間の形をとりて前にあり、
今トロイアの軍勢に面しながらも引き返せ、
返せ、效なく神明に對し戰ふこと勿れ。』

かくは陳じぬ。トロイアの軍勢眞近く寄せ來り、
戰術長けし二勇將メネステースとアンキュロス、
同じ兵車にたちたるを打ちて倒せりヘクトール、
其倒るるを憐みてテラモニデース・アイアース、
近くに寄せて燦爛と光る大槍投げ飛ばし、
アムピイオスを(セラゴスの子たる)武將を射て斃す。
財に領土に豐かにてパイソスの地に住めるもの、
運命彼を導きてトロイア軍を援けしむ。
テラモニデース、アイアース彼の帶射て影長き
槍に下腹部貫むけば地響なしてどうと伏す、
其戰裝を剥がんとしアイア,ス之に飛びかかる、
トロイア軍は之を見て燦爛光る投槍を
彼に飛ばせば楯の上其幾條はつき刺さる。
かくて屍體を足に踏み青銅の槍拔きとれど、
斃れし敵の美麗なる戰裝更に双肩の
上より剥ぐを善くし得ず、亂槍彼を襲ひ來る。
猛威にはやる敵軍は其數多く槍振ひ、
勢凄く迫り來る。將軍さすが勇なるも、
其身長も高くして、其名聲も高けれど、
之に手向ふことを得ず、次第に後に引きさがる。
兩軍かくて烈々の奮戰苦鬪に亘り合ふ。

其時辛き運命はヘーラクレース生むところ、
トレーポレモス勇將をサルペード,ンに向はしむ、
雷雲寄するクロニオーン其の子並に其裔の、
二將[3]互に近よりてやがて面して立てる時、
トレーポレモスまづ先きに口を開きて陳じいふ、
『サルペードーン、リキエーの参謀、汝戰鬪の
術知らずしていかなればこゝに震ひてくぐまるや?
アイギス持てる天王の裔と汝を呼ぶものは
僞れるかな、そのむかしクロニーオーン生みいでし
その緒の英豪に汝遙かに劣らずや?
されども人の曰ふ如く豪勇にして獅子王の
心を持てるわれの父ヘーラクレース偉なるかな、
ラーオメドーンの馬のため彼その昔ここに來つ、
たゞ六艘の舟及びたゞ僅少の人を()て、
イリオン城を陥れ、これの市街を破壊しぬ。
さるを汝は怯にして率ゐる民も弱り果つ。
リキアよりしてこゝに來て、更に今より猛しとも、
思ふに汝トロイアに何らの救與へ得ず、
我に打たれて冥王の關門通り過ぎんのみ。』

[3]サルペードーンはヂュウスの子、トレーポレモスはヂュウスの子たるヘーラクレースの子。

リキア軍勢率ゐたるサルペードーン答へ曰ふ、
『トレーポレモス、げに然り、トロイア領主ラーオメドーン、
愚なるが故に其城は汝の父に亡さる。
領主は彼に功立てし勇士をいたく罵りて、
その爲め遠く彼の來し馬[4]を恩賞なさざりき。
されど汝にわが手より死と暗黒の運命と
來らん、汝わが槍に斃れて我に名聲を
與へん、更に良馬持つ冥府の王に魂魄を。』

[4]ガニメーデースを天上に奪ひ去りし其償としてヂュウスがトロースに與へ、トロース之を其子ラーオメドーンに與へし馬——
ヘーラクレースはラーオメドーンの女を救ひ、此名馬を賞として受くる約を得、されど其約果されず。

サルペードーンかく陳じ、トレーポレモス更にその
利刄振り上げ、兩將の手より同時に長き槍、
はなれ激しき飛び行きて、サルペードーンは敵の頸
眞中を打てば、物すごき鋭刄刺して内に入り、
暗黒の夜は双眼を蓋ひて彼を倒れしむ、
トレーポレモス投げ突けし槍は敵將の左腰
打ちて鋭く其穂先貫き通り骨に觸る、
されど天父の救あり、彼に死滅を逃れしむ。
その神に似る英豪のサルペードーンを戰の
場よりその友救ひ出す、其身に立てる長槍は
曳かせ行くまま惱ますを、危急の際に何人も
氣づかず、之を腰部より拔き去り彼を地の上に
立たしめんこと思ひ得ず、辛勞かくも大なりき。
脛甲堅きアカイアの友亂戰の場の外に
トレーポレモス運び出す、そを眺めたるオヂュシュウス、
心肝堅く忍ぶ者さすがに痛く胸動く、
その時彼は胸中に思ひ煩ふ、まづ先きに
雷霆の威のヂュウスの子サルペードーンを追ふべきか?
或はリキア郷軍の夥多の命を奪はんか?
されどヂュースの猛き子をその鋭利なる長槍に
倒さんことは英豪のオヂュシュウスに許されず。
リキアの群に其心向はしむるはアテーネー。

かくして打たるコイラノス、アラストールとクロミオス[1]、
アルカンドロス、ハリオスとノエーモーンとプリュタニス。
堅甲光るヘクトール之を認むるなかりせば、
リキア軍勢の他を多くオヂュシュウスは打ちつらむ。
かくてダナオイ軍勢に恐怖もたらし、ヘクトール、
耀く武具に身をかため先鋒中に進めるを、
サルペードーン、ヂュウスの子喜び悲痛の聲に呼ぶ、
『プリアミデーよ、敵人の餌食とわれの斃る身を
忍ぶことなく今救へ、止むと得ずんば後の日に
一命こゝになげうたむ、かくして我は本國に、
祖先の郷に立ちかへり、恩愛深き我が妻に、
わが幼弱の子に歡喜與ふることのあらざらむ。』
かく陳ずるにヘクトール答へず、堅甲ゆるがして、
アカイア屬を速に攘ひ斥け、其軍の
多數の命を奪ふべく勇み躍りて進み行く。
而して勇武神に似るサルペードーンを同僚ら、
共にいたはり、アイギスをもつ天王のめづる樹[2]の
下に横たへ、其腰に立つ白楊の堅き槍、
槍を親しき剛勇のペラゴーン引きて抜き去りぬ。
其時濃霧彼の目を掩ひて魂は彼を棄つ、
されど程なく生き返る——北風吹きて奄々の
呼吸苦しき勇將を再び生に返らしむ。

[1]同名異人一五九。
[2]此ぶな樹はスカイア門の前にあり。六歌二三七。

かなたアレース軍神と黄銅鎧ふヘクト,ルに
向ひ對するアルゴスの軍勢船に歸り得ず、
又奮然と進み出で之を戰ふことを得ず、
トロイア陣中アレースのあるを悟りてあとしざる。
プリアミデース・ヘクトール及びアレース軍神に
殺され武具を剥れたる最初は誰か?最終は?
神に類するチュートラス、馬術すぐるるオレステス、
アイトーロスのトレーコス、オイノマオスは之に次ぐ、
オイノピデースは又次に——オレスビオスの住む處、
ケーフィーシスの湖に隣りて特に豐沃の
ピューレー、之れの傍にボイオーチアの富民住む。

かく猛烈の戰にアルゴス軍勢數多く、
打たるるを見る皓腕の神女ヘーレー、かたはらに
藍光の目のアテーネー立てるに向ひ叫び曰ふ、
『アイギス持てる天王の常勝の兒よ、ああ見よや!
若し無慙なるアレースの斯かる兇暴捨ておかば、
堅城イリオン亡して勇み故郷に歸るべく、
メネラーオスに約したるわれの盟の辭空し。
いざ立て、共に猛烈の救ひの道を計らはむ。』

宣する旨に藍光の目のアテーネー順へり。
かくてヘーレー端嚴の神女——偉大のクロノスの
子は黄金の頭甲(づかふ)ある戰馬の具裝整へつ、
侍女ヒーベイは速かに鐵の車軸をたゞ中に、
()の數八の黄銅の輪を車體にぞ据ゑ付くる、
車輪の縁は不壞の金、其上更に黄銅の
被覆いみじく外縁をなして見る目を驚かし、
銀より成れる兩轂(もろこしき)左右ひとしく廻り行く、
戰車の床は黄金と白銀の紐編み成して、
而して二重欄干は前後左右をとり圍む。
車體の先に銀製の(ながえ)突き出づ、其端に
美なる黄金の(くびき)附け、之に黄金の紐を埀れ、
軛の下の疾風の足とき馬をヘーレーは
手づから御して戰鬪と其喊聲にあこがれぬ。

アイギス持てる天王の愛づる明眸アテーネー、
其多彩なる精妙の衣自ら織り出し、
自ら工み成せるもの、天父の堂に脱ぎ棄てて、
雷霆の神クロニオーンもてる被服[1]を身に着けつ、
かくて涙の基たる暴びの戰具整へり、
双の肩のへ投げ掛くる大槍——總を埀るるもの、
凄し『恐怖』は其中に至重の位保つめり、
『闘爭』そこに、『暴力』も、紅血冷やす『追撃』も、
又恐るべきゴルゴーの怪物すごき頭あり、
アイギス持てる雷霆の神の示せる畏怖の像。
又頭上にアテーネー兜戴く、其の上に
日本の角と隆起四つ、百の都城の兵を掩ふ[2]、
かくて親しく燦爛の兵車に神女立ちあがり、
重くて堅き大槍を其手にとりぬ、槍により
手向ふものをアテーネー奮然として打ち敗る。
ヘーレー斯くて迅速に駿馬に鞭を打ち當てて、
驅れば天上もろもろの門は豁然(くわつぜん)と開かるる、
門の司は『時の靈[3]』——上天及びオリュムポス
之に托さる、濃雲を開き或は閉ぢるため、
こゝを二神はその命に應ずる駿馬驅り去りぬ。

[1]アテーネーが父神の武裝を身に着くること八歌三八四にもあり、特殊の恩愛を見るべし。
[2]意味分明ならず、七三九以後此一段に關して學者の意見紛々。
[3]ホーライの數と名とをホメーロスは(ムーサイと同様に)詩中に説くこと無し。

緒峯群れ立つオリュンポス、其最高の頂に
諸神と離れ悠然と坐せる雷霆のクロニオーン、
之を眺むるヘーレーは、兵車を其處にひきとどめ、
天威かしこきクロノスの子に問ひかけて陳んじ曰ふ、

『天父ヂュウスよ、アレースの斯く兇暴に狂へるを
君怒らずや?アカイヤの族の幾何、何人を
彼は無慚に斃せしぞ!悲哀かくして我にあり。
さるをキュプリス、銀弓のアポローン共に狂暴の
彼を勵まし荒れしめて悠然として喜べり!
天父ヂュウスよ、アレースを痛く懲して戰場の
外に我若し攘はむに君それ我に怒らんか?』

雷霆寄するクロニオーン其時答へ曰ふ、
『彼に對してアテーネー、勝利のわが子、起たしめよ、
わが子すべてに優る彼れ、アレース懲す術に馴る。』
然か宣すれば皓腕のヘーレー之に從ひて、
劇しく鞭を加ふれば、兩馬即ち飛ぶ如く、
大地と星の空のあひ勇みて遠く驅け出す。
岸上高く展望の岬に立ちて人遠く、
葡萄の酒の色湧かす大海眺めわたす如、
蹄の音も高らかに神女の双馬遠く馳す。
斯くしてトロイア平原にスカマンダロス[4]、シモエース、
二つの流れ相混じ合する場に着ける時、
馬を駐めて戰車より玉腕白きヘーレーは、
之を放ちて其めぐり厚く雲霧を掩ひ布く、
又シモエース之が爲めアムブロシア[5]を生ぜしむ。

[4]別名クサントス。
[5]こゝには芳草を意味す。

共にアルゴス軍勢に力添ふべく念切に、
怯ゆる鳩の行く如くそこより二神歩を進め、
馬術巧みの豪勇のヂオメーデース取り圍み、
軍勢中の至剛なる、數また最も優るもの、
生肉喰ふ獅子の如、或は猛く容易くは
打勝ちがたき野猪の如、群れゐるほとり訪ひ來り、
玉腕白き端嚴の神女ヘーレー高らかに、
聲黄銅の如くして五十の人の聲合はす
ステントール[6]の雄剛の姿を借りて宣し曰ふ、
『恥ぢよ汝らアルゴスの卑怯なる者、形のみ
優る、先にはアキリュウス軍陣中にありし時、
ダルダニエー[7]の城門の前に、トロイア敵軍は
彼の鋭き槍恐れ、其れの姿を見せざりき、
見よ今敵は其都城離れて船を前に攻む。』
然かく宣して將卒の魂を勵し勇を鼓す。
更に藍光の眼の神女チュウーデーデース訪ひ行けば、
兵車駿馬の傍らに猛き將軍其疵を——
さきにパンダロス射りし矢の疵を治めて坐を占めつ、
其圓形の楯むすぶ太き革紐、その下の
淋漓の汗に惱みつゝ腕疲れたる勇將は、
即ち紐を解き緩め疵の黒血を吹き拭ふ。
其時神女その馬の軛に觸れて彼に曰ふ、

[6]此名は此後イーリアス中に現はれず。しかも大音の諺となる。
アルストテレスの政治論七歌四「ステントールの聲を持たずしては……」
[7]即ちスカイアイ城門。三歌一四五。

『ああチュウーヂュース生める子は痛くも父に似ざるよな!
將チューヂュース身の丈は短かりしも勇ありき。
むかし身獨りテーバイに、使となりてカドモスの[1]、
種族の中に往ける時、(われ其時に廳中に
彼を酒宴に招かしむ)武勇の示し、競技(きほひわざ)
彼に對して我はつゆ求めざりしも例の如、
英武の彼はテーバイの子らに挑みて技競ひ、
すべてに於て悉く其一同に打ち勝てり、
(容易く勝てり[2]、それに我れ彼に援助を施しき。)
今われ汝の(そば)に立ち、汝を守り、心より
敵軍トロイア軍勢と戰ふことを命じ曰ふ。
さはれ夥多の戰鬪によりて汝の四肢疲る、
或は卑怯の恐怖より汝は絶えて動き得ず。
知るべし汝、勇猛のオイネーデース[3]の子に非ず。』

[2]チューヂュース自ら勇を今女神は説きつゝあり。此行は矛盾、誤って捜入さる(リーフ)。
[3]オイニユウスの子即チュウヂュウス。

ヂオメーデース——勇猛のチュウデーデース答へ曰ふ、
『アイギス持てる、ヂュウスの子、神女よ君をわれは知る。
されば進んで聊かも隱さず君に打明けむ。
卑怯の恐れ、怠慢はわれを抑ゆるものならず、
君が降せる嚴命を思ひ出づるが故にのみ。
慶福享くる緒の神に對する戰は
すべて許さず、ただ獨りアプロヂ,テーの戰場に
來らん時は青銅の刄をあげて打つべしと。
其命により退きてこゝに留り、同僚の
アルゴス將士誡めてこゝに等しく陣せしむ、
アレースかなた戰場に命を下すを知るが故。』

藍光の目のアテーネー神女答へて彼に曰ふ、
『ヂオメーデース、わが愛づるチューヂュースの武勇の子、
恐るる勿れ、アレースを、はた又神明の中にして
何もの彼に與みするも、我は汝を助くべし。
いざ單蹄の馬を驅り、まづアレースに突きかかれ、
近きに迫り、アレースを——かの暴れ狂ふ慓悍の
神——反覆の(まがつみ)を打ちて憚ること勿れ。
先には天妃ヘーレーと我とに彼は約し曰ふ、
アルゴス勢に味方してトロイア軍を打つべしと、
その約忘れ、彼ぞ今トロイア軍の援なる。』

しかく宣して兵車より神女手づからステネロス
引きて大地に降らしむ、勇士直ちにおりたてり。
かくして神女豪勇のヂオメーデースの傍に
勇み戰車に乘りたてば、樫の軸木は高らかに
神と人との恐るべき重さのもとに鳴りきしる。
即ち鞭と手綱とを手にしてパラス・アテーネー、
アレースめがけ單蹄の駿馬ただちに驅り進む。
アレースときにペリィパス(オケーシオスの生む處、)
アイトーロスの族中にすぐれし巨人の武具を剥ぐ、
血汐に染みて武具剥げる其アレースに見られじと、
アーイデース[4]の其甲いたゞく神女アテーネー。

[4]冥府の王の名は『目に觸れざる者』の意。アイデース又アーイデース(Brasse)。

こなたアレース、人間の禍の神、英豪の
ヂオメーデース眺め見つ、倒して魂を奪ひたる
長身の敵ペリイパス斃れし場に棄ておきて、
馬術巧みの豪勇のヂオメーデースに馳け向ふ。
斯くして兩者眞近くに互に迫り來る時、
敵の生命絶やすべき一念切にアレースは、
軛手綱の上こして黄銅の槍投げ飛ばす、
その槍宙に手に握る藍光の目のアテーネー、
かくて空しく飛び來る槍を戰車の外に投ぐ。
つゞいておのが順來る雄叫び凄き豪勇の
ヂオメーデース、黄銅の槍繰り出せばアテーネー
こをアレースの革帶のほとり腹下に衝き入らす。
勇將かくてアレースに疵を負はして肉破り、
槍を手許に繰りもどす、其時強きアレースの
叫ぶ音聲譬ふれば九千或は一萬の
軍勢ともに同音に戰場中に叫ぶごと、
トロイア及びアカイアの兩軍ひとしくこれを聞き、
恐怖に震ふ、アレースの叫喚かくも凄かりき。

天蒸暑く風荒び怒號の中に夜のごと、
雲霧まくろく湧き出づる——其様みせて物凄く、
ヂオメーデース、剛勇の將の目の前アレースは——
暴びの神は雲に乘り、大空高く昇り去る。
斯くて諸神の住む處、ウーリュンポスの頂に
早くも着きて雷霆のクロニオーンのそばに坐し、
受けし疵より流れづる淨血示し慘然と、
悲憤の念に驅られつつ、羽ある言句を陳じ曰ふ、

『天王ヂュウス、あゝ君は此凶暴を怒らずや?
われら諸神は人間に惠を加へ施して、
好みて相互爭ひて激しく苦難忍び受く。
狂ふ無慙のかの息女——常に不法をたくらめる——
彼に父たる故をもてすべては君に相叛く、
ウーリュンポスに住める他の不滅の神は悉く、
君に忠順盡しつつ、其命令に從へり。
言句或は業に因り君はかの女を警めず、
子たるの故に君はその狂暴のわざ勵せり[1]。
彼女は斯くて剛勇のヂオメーデースをそゝのかし、
不死の諸神に逆ひて彼れの暴威を奮はしむ。
アプロヂ,テーの手首をば彼は眞先きに傷ひて、
次にさながら神の如われを目がけて襲ひ來ぬ。
さもあれ我の迅き脚われを救へり、然らずば
死屍累々のたゞ中に長く惱を受けつらむ、
或は彼の利刄に打たれ虚弱になりつらむ。』

[1]ホメーロスの詩中にアテーネー誕生の詳説なし、ヂュウスの頭より生る云々は後世の説。

雷雲寄するクロニオーン睨みて彼に答へ曰ふ、
『わが傍に占めて嘆くを止めよ、反覆者、
ウーリュンポスに住む神の中に最も憎き者、
汝は不和を爭を又戰鬪をつねに好く。
汝を生めるヘーレーの耐ふべからざり屈せざる
性は汝は受け嗣げり、彼を制すること難し。
恐らく彼の助言より汝この難受けつらむ。
汝の長く苦むをさもあれ我は忍び得じ、
汝正しく我の種、ヘーレー我に生みなせり。
忌み恐るべき汝他の神より()れしものならば、
ウーラニオーンの諸子[2]よりも低きにとくに落ちつらむ。』

[2]クロノス及びイーアペトス(八歌四七九)。

しかく宣して命くだしパイエーオーンに治療せしむ、
即ち鎮痛の藥もてパイエーオーン忽ちに
彼を癒しぬ、畢竟は死すべき質に非れば。
譬へば白き乳液に無花果の汁搾り入れ、
掻き亂す時忽ちに凝りて固體となる如く、
斯く迅速に猛烈のアレース傷を癒されぬ。
ヒーベイ彼の身を洗ひ美麗の衣纒はしむ、
即ち彼は傲然とクロニオーンの側に座す。
更にアルゴスのヘーレーとアラルコメネー,スアテーネー、
共にヂュウスの宮殿に歸り來れり、人間の
禍の本アレースの屠殺を絶やし平げて。


更新日:2004/05/29

イーリアス : 第六歌


第六歌

神々去る後、兩軍相戰ふ——アカイア軍の優勢。 ヘレノスに説かれてヘクトール城中に歸り母へカベーをして神女アテーネーを祭らしめんとす。 グラオコスとヂオメーデースとの會見。彼等の父祖の親交。之を思ひ、戰はず、武具を交換して別る。 ヘクトール城中に歸る。神女アテーネーに捧ぐる寶と祈。 ヘクトール其妻子との會見及び告別。パリス武裝してヘクトールと共に戰場に進む。

(諸神退き[1])戰鬪はトロイア及びアカイアの
軍勢中に行はれシモエースまたクサントス、
兩河の間、原上のあなたこなたに黄銅の
槍は互に揮はれて奮戰正に今激し。
テラモニデース・アイアース、アカイ軍の堅き城、
眞先に立ちてトロイアの陣を破りて、光明を
其友僚に齎しつ、トレーイクスの族中に
至剛のほまれアカマース[2]、(ユウソーロスの子)を打ちぬ。
アイア,ス即ち眞つ先きに長き冠毛振りかざす
其敵將の甲突けば覘違はず鋭刄の
槍は骨まで深く入り、暗黒彼の目を蔽ふ。

[1]此句原文に無し。
[2]二歌八四四、五歌四六二。

雄叫び高き剛勇のヂオメーデース打ち取るは、
チュウトラースの生めるもの、堅き城市のアリスベー[1]
領とし富みてよく人に愛を受けたるアキシュロス、
其邸宅は街道にのぞみ親しく人を容る。
されどもこゝに何人も其面前に走り來て、
彼の悲慘の運命を救はず。二人命おとす、
彼と從者のカレーシォス、——彼の戰馬を御する者、
二人等しく斃されて共に黄土の底に行く。

[1]二歌八三六。

ユウリアロスの打ち取るはアペルチオスとドレーソス、
ついで二將のあとを追ふ、アイゼーポスとペーダソス、
二將の母は水の仙、アバルバレエー、其むかし
ブーコリオーンに二子生みぬ、ブーコリオーンはすぐれたる。[誤?:すぐれたる、]
ラーオメドーンのはじめの子、私かに母の産むところ、
彼れ群羊を牧ひし時、そこに仙女に契り逢ひ、
仙女かくして身ごもりてやがて双兒の母たりき。
メーキスチュウス生める子[2]は今其二人打ち倒し、
威力と肢體亡して更に肩より武具を剥ぐ。

[2]即ユウリアロス。

ポリュポイテース次にアスチュアロスを打ち取れば、
ベルコーテーのピデュテスをオヂュシュウスは黄銅の
槍にて倒し、チュウクロスまたアレタオーン打ち取りぬ。
アブレーロスを槍をもてアーンチロコスは打ち取りぬ、
アガメムノーン、民の王、王は倒せりエラトスを、
サトニオエース清流のほとりに近く、嶮要の
ペーダソス市に住む者を——又ピュラコスの逃げ行くを、
打ちて倒せりレーイトス、メランチオスをユ,リピュロス。
雄叫び高きメネラオス、アドレーストス[3]を生き乍ら
(とら)へり、彼の戰車曳く二頭の馬は原上を、
恐れ狂ひて駈け走り、柳の枝にからまりて、
爲に轅の端の上戰車を碎き、他に人馬
怖れて逃ぐる路の上共に城市に向ひさる、
車上の彼は逆さまに振り落されて、地の上に
車輪のほとり塵噛みて俯せば、(かたへ)に迫り來る
アトレーデース・メネラオス手には大身の槍を取る、
其膝抱き聲あげてアドレーストス乞ひ求む、

[3]二歌八三〇同名異人。

『アトレーデースよわが命助け、賠償を受け納れよ、
富める我父蓄ふる種々の財寳數知れず、
黄銅並に黄金を又鐵製の具を備ふ、
アカイア水師の中にしてわれの生けるを知らん時、
父喜びて莫大の賠償君に贈るべし。』

しかく陳じて將軍の胸裏の思動かせば、
彼はアカイア輕舟の中に其捕虜送るべく、
之を從者に附せんとす、その面前にとぶ如く、
アガメムノーン馳けて來て大喝なして叫びいふ、

『ああ懦弱なるメネラオス、など敵人を憐むや?
トロイア族のおほいなる好意を汝館内に
嘗て受けしや?一人だもわれらの手より蒙らす
無慚の破滅避けしめな、まだ胎内にある子すら
免るべからず、悉く皆絶やすべし、一片の
墳墓も跡もトロイアの空に留めず絶やすべし。』

アガメムノーンかく宣ぶる忠言聞きて弟は、
心を變じ手をのしてアドレーストスを引き握み、
投げてあなたに打ち飛ばす、倒るゝ彼の脇腹を
突きて殺して、勇猛のアトレーデース其胸を
踵に踏まひ鋭刄の槍を死屍より引き抜きぬ。

その時高くネストール、アルゴス勢に叫び曰ふ、
『友よ、ダナオイ緒勇士よ、神アレースの從者らよ、
汝等の中何人も、戰利の品を飽く迄も
水師の中に運ぶべく、後に留りて掠奪の
業にいそしむこと勿れ、たゞ敵人を打倒せ、
後に靜に原上に彼等の死體を剥ぎ得べし。』

しかく陳じておのおのの意氣と勇とを奮はしむ。
その時トロイア軍勢はアレース愛づるアカイアの
軍に追はれてイーリオス場内さして逃げんとす。
プリアモスの子ヘレノスはすぐれし占者[1]斯くと見て、
アイネーアスとヘクト,ルのかたへにたちて之に曰ふ、

[1]プリアモス王の子にして占術を能くする者は彼と妹カッサンドレーとのみ。

『アイネーアスよ、ヘク,トルよ、戰鬪並に評定の
席に汝等一切に優る、汝等トロイアと
リキア二族の信頼を最も多くおくところ、
汝四方を廻る後こゝに留り、わが軍を
城門前に引き止めよ、さらずば逃げて城に入り、
婦女に抱かれ戯れて敵の嗤笑を招くべし。
かくてすべての軍隊を勵し勇を鼓する後、
疲勞厭はずもろ共にこゝに留り、アカイアの
軍に敵して戰はむ、運命われに迫り來ぬ。
ヘクト,ル、汝城に入り我ら二人の母に曰へ。
母は丘の上祭らるる藍光の目のアテーネー、
神女パラスの殿堂の聖門鍵もて開け入り、
中にトロイア城内の主婦を普く集むべし、
母はしかして館中のもてる衣裳の數々の
中に、最美と最秀と認め最も愛づる者、
そを雲髻(うんけい)のアテーネー神女の膝[2]に捧ぐべし。
更に母また盟ふべし、トロイア城と城中の
妻子老幼憐みて、神女計りてイーリオン
そこより猛き敵の將、恐怖をわれに起すもの、
ヂオメーデース攘ひなば其壇上に一歳の
無垢の子牛の十二頭感謝をこめて捧げむと。
チュウデーデースは敵中の、わが見るところ最勇士、
怖るべきかな、女神より()れしと傳ふアキリュウス、
其にも増して恐るべし、ああ猖獗や此敵士、
その烈ゝの剛勇を彼と比すべき者あらず。』

[2]坐像と見ゆ、衣を神女に捧ぐる模様の彫刻はアテーナイ府のパルテノーン殿堂にあり。

しか宣すればヘクトール其同胞の言に聽き、
武具を携へ戰車よりひらり大地に飛び降り、
鋭刄の槍を揮り舞はし緒隊遍ねく經巡りて、
之を勵し猛烈の戰鬪に驅け進ましむ。
かくして彼等引き返しアカイア勢に向ひ立つ。
アルゴス陣は退きて其殺戮の手を留め、
心に思ふ、衆星の(つらな)る天を降り來る
とある神明トロイアを助けて斯くも奮はすと。
その時トロイア軍勢に大音に叫ぶヘクトール、

『ああ豪勇のトロイア族、又遠來の援軍ら、
わが友!汝の勇を鼓し、その面目を恥ぢしめそ。
我れイリオンに赴きて而して評議司どる
長老及び妻女等に勸め促し、慇懃に
諸神に祈禱(きたう)捧げしめ、犠牲の盟爲さしめむ。』

堅甲光るヘクトール、しかく宣して立ち去れば、
今背に負へる彼の盾[3]隆起の飾もてるもの、
(へり)をなす黒き革、頸と踵を亂れ打つ。

[3]盾は枠の上に黒き皮革を張り、上に金屬の板を蓋ふ。皮革は金板の外に食み出で縁を爲す。
退く時は此肩を背に負ふ。盾は大にして足に屆く。

ヒポロコスの子グローコス、又チューヂュースの武勇の子、
各々はげしく戰鬪を望み二陣の前に出づ、
かくして二將 (あひ)近く互に迫り寄する時、
雄叫び高き豪勇のヂオメーデース先づ陳ず、

『ああ無常なる人間の中に秀づる君はたそ?
名譽を競ふ戰場に我は初めて君を見る、
影長く曳く鋭鋒の、これこの槍に手向へば、
君は正しくその勇氣凛々として他に勝る。
わが剛勇を敵とする子らの父こそ不幸なれ。
さはれ君若し天上を降れる神の一ならば、
我れ戰はず、天上の神を敵とし戰はず[4]。
ドリアスの子のリュコエルゴス勇すぐれしも天上の
神を恐れず敵として遂に壽命は永からず。
ニューセイオンの丘の上ヂュオニューソスの緒の
保姆をいにしへ驅りし彼れ、リュコエルゴスは無慚なる
尖れる棒に追ひたてて、彼らの杖を悉く
地上に投じ棄てしめぬ、ヂュオニューソスは恐ぢ震ひ、
海の湖の底くゞる、テチスその時その胸に
人のおどしに震ふ彼恐怖の彼を抱き取りき。
リュコエルゴスを悠々の生を送れる神明は
かくして憎み、雷霆のヂュウスは彼の目を奪ふ。
不死の諸神の憎しみに、かくて程なく彼逝けり。
われ慶福の神明と戰ふことを敢てせず、
されど大地の産物を食ふ人間の身なりせば、
汝近づけ、速かに死滅の域に入らんため。』

[4]ヂオメーデースが神と戰ひしこと前の五歌にあり、此段と矛盾す。

ピッポロコスの勇しき子息答へて彼に曰ふ、
『ああチューヂュースの勇武の子、我の素生をなど問ふや?
樹の緑葉のそれのごと人の素生も亦然り[1]、
風は樹葉を吹き去りて大地に散らし、森林は
春の新たに囘る時他をまた芽出し長ぜしむ。
斯く人間の世代も時に生れて時にやむ。
されど多くの人々の能く知る如く、われの系、
君もし委細知らまくば今われ君に陳すべし。
馬匹の産地アルゴス[2]の郷の一都市エピュレーに、
いにしへ住めるシーシュポス・アイオリデース、策略は
衆に優りき、優る者生みたる其子グローコス、
そのグローコス比類なきペレロポンテース[3]産みなせり、
神の惠に此勇士美にして威あり猛からず。
彼に國王プロイトス禍害たくらみ領土より
放ちて外に遣はしぬ、王プロイトス、アルゴスの
中にヂュウスの寵によりあまねく部下を服せしむ。
是より先きに彼の妻艶麗の妻アンテーア、
私かに勇士慕へどもベレロポンテ,ス警めて、
操守正しく身を守り邪戀の聲に耳貸さず。
淫婦怒りてプロイトス夫王に讒し告げて曰ふ[4]、
「ああプロイトス、亡び去れ、さなくば我に不義の戀、
迫りし彼の命を絶て、ベラロポンテ,スとく殺せ。」
しか陳ずるを耳にして王ははげしく憤る。
されども彼を恐るれば其殺害を敢てせず、
リキアの郷に彼をやり、たゝむ書板の其中に
其殺害の命令を記せるもの[5]を齎らして、
岳父の許に致さしむ、彼の一命絶やすため。
かくて諸神に導かれ行きて流のクサントス
リキアの郷に着ける時其廣大の地のあるじ、
リキアの王は慇懃に勇士を崇め、もてなしつ、
九頭の牛を屠りつつ、九日續きて宴開き、
あくるあしたに、紅の薔薇色なる指もてる
曙の神エーオース現はれし時、彼の問ひ、
其愛婿のプロイトス送れる帖を求め取り、
之を開きて中にある凄き命令讀める時、
彼に命じてまづ先きに打ち勝ち難きキマイラを、
神の系たるキマイラを敵として行きて破らしむ、
怪物の身は前は獅子、後はドラゴン、中は山羊、
炎々として物凄き火焔口より吐けるもの。
ベレロポンテ,ス神明の教奉じて怪物を
倒せる後に引き續きてソリュモイ族と戰へり。
その戰鬪は人中の至難のものと彼は曰ふ。
更に續きてアマゾネス、勇武の女軍亡ぼせり。
其凱旋の途待ちて王は新たにたくらみつ、
廣き領土のリキアの地、中に至剛の徒を撰び、
埋伏せしむ、然れども彼等に家は歸り來ず、
ベレロポンテ,ス勇奮ひ皆悉く打ち取りぬ。
其時王は神明の種とし彼を認め知り、
彼と留めて彼の手に愛女を與へ、更に又
王者の名譽一切の半を割きて譲り去る、
リキアの族は加ふるにすぐれし領土一部割き、
彼に與へり、豐沃の果樹と穀との(うま)し地を。
ベレロポンテ,ス勇將の妻は三兒を擧げ得たり、
イーサンドロス、ヒポロコス、ラオダメーアを擧げ得たり、
ラオダメーアにクロニオーン、雷霆の神契りつゝ
黄銅鎧ひ神に似るサルペードーンを生みなしぬ。
ベレロポンテス、さり乍ら後に諸神[6]に憎まれつ、
心を蝕し悄然と、一人さびしく漂浪の
旅に人目を避け行きぬ、アレーイオスの原上に。
ソリュモイ族の勇士らとイサンドロスの戰へる
時にアレースあらびつつイサンドロスを亡ぼしぬ、
またアルテミス憤りラオダメーアを亡しぬ。
殘るは獨りヒポロコス、彼ぞ正しくわれの父。
我をトロイア戰場に送りてわれを警めぬ、
つねにすべてに立ち勝れ、すべての中の至剛たれ、
エピュレー及び廣大のリキアの郷に産れ來て、
歴代常にかち得たる祖先の名譽汚す()と。
系統及び血族のいはれは斯くと我誇る。』

[1]有名の句、シモニデス曰く、『キオスの人(ホメーロス)の句に云々あり』
人生の無常は二十一歌四六四 - 四六七にも説かる、
人間の不幸を嘆ずるは十七歌四四五 - 四四七、二十四歌五二五。
[2]こゝはペロポンネソス全部を指す。エピュレーは恐らくコリントス。
[3]本名はヒッポノス、其族人ベレロスを殺せる故にベレロポンテースと呼ばる。
[4]淫婦の邪戀の物語、グリースに於て他に有名なる者はヒポリュトスのそれ、ユーリピデース之を悲劇となす、
後代にセネカ又更に後代にラシイヌの作あり。
[5]當時文書の技ありしことを示す。
[6]晩年狂ふ。

しか陳ずれば大音のヂオメーデース悦喜しつ、
即ち槍を取り直し大地の胸に衝き立てつ、
睦みの言句向ひ合ふ將に對して宣し曰ふ、

『さてこそ君は昔より祖先傳來われの友、
我の勇祖父オイニュウス[1]其舘中にそのむかし、
ベレロポン,ス[誤?:ベレロポンテ,ス]もてなして二十日(はつか)に亘り宿らしめ、
更に互の友愛に美麗の品を取り換へき、
紫染めし燦爛の帶をわが祖父彼の手に、
黄金製の盃をベレロポンテ,スわが祖父に、
その盃は門出にわれ邸中に殘しきぬ。
アカイアの軍テーベーに敗れし昔、家を辭し
父チューヂュウス去れる時我幼くて見覺えず。
我今かなたアルゴスに主として君を迎ふべし、
我リキアの地訪はん時君また我を迎ふべし。
さらばこれこの戰場に互の槍を避けしめよ。
神明われに惠垂れ、わが健脚の及ぶもの
トロイア及び援軍の中に打ち取る者多し。
同じくアカイア軍勢の多くを君は打取らむ。
いざ今軍裝われと君換うべし、父祖の傳來の
友たることを兩軍の戰士ひとしく知らんため。』

[1]九歌五三三以下に又オイニュウスを説く、彼はチューヂュウスがテーベーに戰死の後、孫ヂオメーデースを育つ。

しかく陳じて戰車[2]より兩將等しく飛びおりつ、
互に手と手握り合ひ誓言互に曰ひ換はす。
その時ヂュウス・クロニオーン、グローコスの智を奪ふ[3]、
ヂオメーデース勇將と彼は武裝を取り換へぬ、
百牛の()の黄金を九牛の値ある黄銅に。

[2]二一三に槍を大地につきたつとあり。矛盾。
[3]此奇異なる結末は了解に苦む。

こなた英武のヘクトール、西大門[4]と山毛欅(ぶな)の木に
着けばトロイア城中の夫人息女ら寄せ來り、
子弟と友と良人の消息切に尋ね問ふ。
將軍さはれ儼然と誡め、神に祈るべく、
禍害を憂ひおbいえたるすべてに命をのべ傳ふ。
かくて華麗の宮殿に王プリアモス住む處、
彫琢こらす柱廊を具へるほとり到り着く。
そこに琢ける石の室互に隣り築かるる
其數五十、元戎の王プリアモス生みなせる
緒王子おの〜正妻と共に起き伏しするところ、
更に同じく國王の息女のために設けられ、
廣き中庭隔てたる向ひの側に彫琢の
石にて成れる室十二、王プリアモスの愛婿ら、
その貞淑の妻共に鄰り起き伏しする處、
そこに慈愛の母夫人、息女の中に艶麗の譽の
高きラオヂケイ倶し、將軍に向ひ來る、
親しく彼の手を執りて彼に對して陳じ曰ふ、

[4]スカイアイ(西門に意)。

『我が子何故戰場の荒びを棄ててこゝに來り?
荒びて狂ふアカイアの軍勢迫り城壁の
側に戰ふ、かるが故汝の心イリオンの
高き壁上神明に祈り上げよと命じけむ。
暫く休め、甘美なる芳醇悦はもたらさむ。
クロニオーン及び他の諸神にはじめ奉り、
次に我子よ口にして汝の元氣とり直せ、
疲れし人に玉盃は頗る可なり、汝今
勇を奮ひて同胞を禦ぎて痛く疲れたり。』

堅甲光るヘクトール即ち答へて陳じいふ、
『あはれわが慈母、甘美なる酒を齎すこと勿れ、
恐らく我を弱らしめ、勇と力と棄てしめむ。
洗はざる手に黒き酒クロニオーンに捧ぐるを
われは憚る、雷雲を集むる神に血と塵に
まみる不淨の手を擧げて祈らんことは許されず。
さはあれ君は香料を携へ、老いし女性らを
倶して藍光の目の神女、アテーネーの宮 (まう)づべし。
居館の中に蓄ふる最上最美のよき衣、
君の最も愛づるもお、そを取り出し、鬢毛の
美なる神靈アテーネー其膝のへに奉れ、
而して誓へ、神女若しトロイア及び城中の
女性並に小兒らを憐みおぼし、チュウヂュース
生める猛將、恐るべき戰將・禍難を醸す者、
彼を聖なるイーリオン場外遠く攘ふ時、
初歳の牝牛十二頭無垢なるものを捧げんと。
いざやわが慈母アテーネー神女の宮をさして行け、
われはパリスの許を訪ひ彼に命ぜん、わが言に
彼もし耳を貸すとせば。ああ今大地忽然と[5]
彼に向ひて開けかし、ウーリュンポスの神かれを
そだてて、トロイア、プリアモス並に諸子のおほいなる
詛となせり、彼にして冥王の府に落ち行くを、
わが目親しく見るとせば苦き不幸を忘るべし。』

[5]四歌一八二。

()か宣すれば母夫人その館中をめざし行き、
從者に命じ城内の老いし女性を集めしむ。
しかして香を薫じたる奥に進めり——もろもろの
千紫萬紅を飾る衣服はそこに數知らず。
美貌のアレクサンドロスひろき海原漕ぎ返し、
名家の娘ヘレネーを誘ひし同じ途の上、
シドーン[1]の地より得たるもの、シドーンの少女織りしもの。
中に一枚とりあげてヘカベー之を奉つる、
そは巧妙を極めたる最美最麗、燦として、
星の如くに耀きて、すべての下に藏めらる。
即ち之を携へて侍女を率ゐて宮に行く。
かくして高き丘の上、神女パラスに詣うづれば、
頬美しきテアーノー[2]、アンテーノルの配にして
父は老將キッセイス、トロイア人に撰ばれて、
宮の祭司となれる者、彼らのために戸を開く。
悲しみ叫ぶ女性らは神女に向ひ手を擧げつ、
頬皆美はしきテアーノー衣服を取りて鬢毛の
美なる神女の膝の上、獻じ捧げて雷霆の
クロニオーンのおほいなる息女に祈り求めいふ、

[1]ポエニキエー(ヘニキア)の最古の都。
[2]五歌七〇、十一歌二二四。

『ああ端嚴のアテーネー、尊き神女、わが應護、
ヂオメーデースの大槍をくじかせたまへ、願くは
彼れスカイアイ大門の前に直逆に落ちよかし。
トロイア及び城中の女性小兒に哀憐を
賜はば初歳の子牛らの無垢なるものを十二頭、
直ちにこゝに牲として此神殿に捧ぐべし。』

祈願をかくは陳んずれどそを受納せずアテーネー。

斯く雷霆の神の子に彼等は祈る、——かなたひは
パリスの華美の邸さして脚を進むるヘクトール、
邸はトロイア城中の(すぐ)れし工匠もろともに、
主公自ら建てしもの、居室と堂と中庭と
精美を窮め高き地に造られ、王者プリアモス
及び英武のヘクトール、彼等の邸は皆近し。
神の愛するヘクトール、今此邸に進み入り、
十一ペークス長き槍燦爛たるを手に握る、
穂は黄銅の製にして、根元を金の環包む。
パリスは室の中にして華麗の武具を整へつ、
楯と胸甲、角弓を其手に取りて調べ居り、
侍婢の間に坐を占むるアルガエエーのヘレネーは、
之を督して工藝のいみじき業に勸めしむ。
將軍その時パリスを見、罵辱の言句吐きて曰ふ、

『奇怪の汝、憤慨[3]を胸裏に宿すこと勿れ、
見よ、衆軍は城壁に、或は城市の傍に
陸續として打死にす、城市のほとり戰鬪の
叫喚高く亂るるは汝の故ぞ、汝まら
他の者戰場逃げ去らば必ず之を罵らん。
起たずや、敵の兵燹(へいせん)に都城の亡び焼くる前。』

[3]メネラオスと一騎討し危きに臨める時トロイア軍は彼を助けざりき。

容姿は神の如くなるパリス答へて彼に曰ふ、
『ああヘクトール、剴切(がいせつ)の君の呵責を我は受く、
さらば答へむ、願くは心に留め、我に聞け、
トロイア軍に憤り、怨み怒りて我こゝに
坐するに非ず、口獨り悲哀に浸り耽ける[4]ため。
いま我が妻も温柔の言句によりて勵して
我を戰場に驅らんとす、我また之を善しと見る、
勝利の運は敵自方互に遷るものなれば。
さはれ君待て、軍装を我に整へ終るまで
或は先に進み行け、續きて君に追ひ附かむ。』

[4]一騎討に失敗せるが故に。

堅甲光るヘクトール默然として答無し、
其時ヘレネー蜜に似る甘美の言を陳じ曰ふ[5]、
『ああ我が義兄、禍の基となりて恐るべき
我は狗にも似たる者、——わが母我を産みし時、
颶風の吹氣(いぶき)われを驅り山或は大海の
潮の底に行くすゑを消すべかりしを、さありせば
山海我を葬りてこれらの禍難起り得じ。
さはれ神明この難をその意に決し遂げし後、
我なほ衆の憤慨と罵詈とを解し、其責を
感ぜる更に良き人の妻としならば善かりしを!
あはれ此人その心堅固に非ず、後も亦
然らむ、斯くて應報をいつしか受けむ、我は知る。
さはれ君今内に入り、此椅子につけ、わが義兄、
狗にも似たるわが故に、パリスのなせる咎ゆゑに、
他の一切を打越して君の心は惱めるよ。
ああクロニオーン、運命[1]の惡きを加ふ、斯くありて
末代遠き人々に我れ醜名を歌はれむ。』

[5]可憐なる美人の懺悔(三歌一七五參照)。
[1]三歌一六五。

堅甲光るヘクトール其時答へて彼に曰ふ、
『ヘレネー、汝、慇懃に我を留むること勿れ、
從ひ難し、わがトロイア勢の應援に、
我を驅り立つ、彼ら今我無き故に悲めり。
勵せ汝この人を、彼また自ら急ぐべし、
わが城中にある中に來りて我に會すべく。
いざ今行きて我が邸を訪ひて家臣と恩愛の、
妻と可憐の子とを見む、ああ我れ知らず、後に又、
此一身を全うし歸りて彼ら見るべきや、
あるは神命アカイアの手中に我を委すべきや。』

堅甲光るヘクトール、しかく宣して別れ去り、
建造いみじき其邸に到る、されども邸中に
アンドロマケー、皓腕の恩愛の妻見出さず、
妻女は幼兒携へて美服纒へる一侍女と
共に城上の塔の中、慟哭しつゝ立ち留る。
貞淑の妻邸中に見出し得ざるヘクトール、
戸口に行きて立ち留り、侍女らに向ひ宣し曰ふ。
『侍女らよ、汝、眞實を委細に我に打明けよ、
邸中去りて皓腕のアンドロマケー今いづこ?
我の姉妹や訪ひ行きし?あるは美服(びふく)の義妹にか?
あるはトロイア女性らが鬢毛美なる恐るべき
神女に祈禱奉るパラスの高き殿堂か?』

その時とある忠勤の老女答へて彼に曰ふ、
『正しき報道我に君、命じたまへり、ヘクトール。
君の姉妹に、あるは又、美服を纒ふ義妹らに、
はたトロイアの女性らが鬢毛美なる恐るべき
神女に祈禱奉る宮に夫人の脚向かず、
トロイア軍勢迫られて敵軍盛に奮へるを、
聞けるが故にイリオンの大塔さして脚運び、
さながら狂女見る如く、急ぎ走りて城壁に
今たゝずめり、乳母また共に幼兒を抱き行く。』

その言聞けるヘクトール、直ちに邸を走り出で、
先に來りし道の上、再び急ぐ脚進め、
城中過ぎてスカイアイ(その大門を駈け出でて
戰場さして進むべき)ほとりに來り着ける時、
彼に逢ふべく高貴なる[2]アンドロマケー駈け來る。
(森の掩へるピラゴスの高地の麓テーベーに
住みてキリケス民族の主領なりけるエーチオーン、
エーチオーンの生みたるはアンドロマケー、——トロイアの
黄銅鎧ふヘクトール、娶りて彼の妻としき)
夫人近より來る時、ひとりの侍女は從ひて、
胸に幼齡の兒を抱く、恩愛の父ヘクトール
めでいつくしむ幼兒(をさなご)は美麗の星にさも似たり。
(父ヘクトール命ぜし名、スカマンダリオス[3]、然れども
衆人呼べる彼の名はアスチュアナクス[4]——其父は
ひとりイリオン守るため)、彼れ今無言にほゝゑみて
愛兒眺むる傍にアンドロマケー近よりて、
涙を流し彼の手を執りて言句を宣し曰ふ、

[2]結納の豐富なる意。
[3]河神スカマンダロスより?
[4]「防都者」。

『あはれ良人、勇により君は亡びん、幼齡の
子をも不幸の我身をも君憫まず、速かに
ああ我れ寡婦となりぬべし、——アカイア勢は一齊に
君を襲ひて斃すべし、君失はば我むしろ
泉下に入るを善しとせむ——君その破滅告ぐる時、
我には一の慰藉なし、殘るは獨り幽愁の
暗のみ、あはれ恩愛の父母もろともに我に無し。
アキルリュウスは我父を殺しぬ、彼は殷賑の
キリケス族の都なる城門高きテーベーを
荒らしつくして我の父エーイチオ,ン[5]を亡しぬ。
さはあれ彼は憚りて其戰裝を剥ぎ取らず、
その精巧を盡したる武具もろともに彼を焼き、
その()に墓を打ち立てつ、後に雷霆のクロニオーン
生める、山住む仙女らは、めぐりに(にれ)の樹を植ゑぬ。
はた我ともに殿中に育ちし同胞七人は、
皆悉く同じ日に冥王の府に落ち行きぬ、
皆悉く蹣跚と歩む群牛、銀色の
羊兒の掩へるプラゴスを領せし我の母夫人、
そを擒にしアキリュウス他の數多き鹵獲とも
こゝに連れ來て其後に、無量の賠償受け納れて
放ちぬ、されどアルテミス、父の居城に母を射ぬ[1]。
さればヘクト,ル、君は今我にとりては父と母、
兄弟を兼ね、しかも猶ほ勇氣盛のわが所天。
されば自ら身を愛し、こゝ塔中に留れかし
愛する者を無慚にも孤兒また寡婦と爲す勿れ。
また衆軍を無花果樹のほとりに留めよ、其ほとり
防禦薄くて敵の軍、來りて之を試みき、
二人のアイア,ス、高名のイドメニュース、又更に
アトレーデース、勇猛のヂオメーデース將として。
恐らく誰か神託を悟りて之を勸めしか?
或は彼ら自らの武勇促がし寄せ來しか?』

[5]二十一歌四二は同名異人。
[1]六歌二〇五に他の例。

堅甲光るヘクトールその時答へて彼に曰ふ、
『妻よ、この事悉く同じく我の胸にあり、
されど怯者の如くして我もし戰避くとせば、
トロイア滿城男女らは何とか曰はむ、恐るべし。
我の心も之を責む、我は學べり剛勇に、
常に振舞ひ、トロイアの先鋒中に戰ひて、
祖先の名譽、わが名譽、露だも汚すべからずと。
ああ我は知る、心中に我明かに感じ知る——
日は来るべしイーリオン、聖なる都城亡びの日[2]、
槍に秀づるプリアモス、民衆とともに亡びの日。
さはれ來らんトロイアの禍難[3]、わが母ヘカベーの
それすら、父王の禍難すら、はた勇猛に戰ひて
敵に打たれて塵中に、俯伏しなさむ同胞の
その禍難すら、汝ほどわれの心を惱さじ。
黄銅鎧ふアカイアの一人酷く(いまし)めて、
涕にくるる汝の身囚へ引き去る其禍難。
斯くて恐らくアルゴスに主人の命に從ひて
布帛織らむか、あるは又メッセーイスかヒュペレーア、
泉の水を擔はむか、つらき運命身を()して。
しかして流涕の汝を見、ある者他日かく曰はむ——
「彼の夫はヘクトール、イリオン城の戰に
馬術巧みのトロイアの陣中最も猛き者」
斯くこそ他日人曰はめ、新たの悲哀汝の身
襲はむ、奴隷の境地より救ふべき者あらずして。
あゝわれ汝の囚はれと悲痛の叫び聞かん前、
大地穿ちて墳塋(ふんえい)の暗なす底に入らまほし!』

[2]著名の句、四歌一六四參照、カルタゴー落城を眺めしシピオ(アフリカヌス)此句を吟ぜしと曰はる。(アッピアンのカルタゴ戰爭百三十二章)。
[3]父母以上に妻を悲む、僞らざる告白か。東洋倫理とのコントラスト。

しかく宣してヘクトール、愛兒に向ひ手を延せば、
父を眺めつ、燦爛の(かふ)に恐れつ、甲の上
馬尾の冠毛おそろしく搖ぐを眺め、恐怖せる
幼き身は泣き出し、叫喚高く面背け、
華麗の帶を纒ひたる乳母の胸に身を隱す。
之を眺めて恩愛の父と母とは微笑みつ、
(すぐ)に英武のヘクトール(とう)より(かふ)を取りはづし、
燦爛として輝けるまゝに地上に据ゑおきつ、
胸に愛兒を抱き取り、手中に彼をあやしつゝ、
クロニオーン及び他の諸神に祈願捧げ曰ふ、

『ヂュウス並に緒の神靈願はくわれの子を、
我と等しくトロイアの中に著名の者と爲し、
勇猛の威も等しくてイリオン城を治せしめよ。
然らばわが子戰の場より歸り、血と塵に
まみれし鹵獲もたらして母の喜たらん時、
「父にも優る英豪」と讚して人は稱ふべし。』

しかく宣して愛妻の手中に愛兒抱きとらす、
涙ながらも微笑みて香焚きこむる胸の中、
愛兒抱くを眺めつつ、憐憫そゞろ堪へ難く、
手を()し妻をかい撫でて慰め語るヘクトール、
不便(ふびん)の者よわが爲めに悲み過すこと勿れ、
何らの敵も運命に背きて我を倒し得ず、
一たび生を享くる後、勇怯を問はず、人間の[4]
いかなる者も運命を逃るべからず、ああ思へ!
いざ今家に立歸り、おのれの業に心せよ、
(はた)(かぜ)とに心せよ、而して侍女に命下し、
おのおの業に就かしめよ、戰こそはイリオンに
住める男兒の身の勤め、特に中にもわれの分。』

[4]十二歌三二五。

しかく宣してヘクトール馬尾冠毛の(かぶと)取り、
(かうべ)にのせぬ、可憐なる妻ははてなき涕涙に
泫然としてあまたたび見送りながら別れ去り、
やがて堅固に築かれし英豪の將ヘクト,ルの
舘に歸りて數多き侍女に委細を物語り
その哀號を擧げしむる、——其時侍女ら舘の中、
大ヘクトール、其主公、生ける間に悲めり、
アカイア族の勇猛の手を免れて戰の
場より再び歸ることあり得べしとは信ぜねば。

かなたパリスは棟高きその舘中に留らず、
黄銅製のすぐれたる武裝に其身堅めつゝ、
その健脚に信をおき、城中過ぎて急ぎ行く。
そを譬ふれば厩中(きうちゅう)に飽くまで糧を喰みし駒、
繋げる手綱ふりほどき、原上さして馳せ出す、
清き河流に浴すべく馴れたる駒は揚々と、
高く頭を振り上げつ、肩のめぐりに鬣を
亂しつ、かくて雄麗の姿に誇り、神速の
脚を飛ばして牧草の繁れる(には)に行く如し。
斯く丘上のペルガモス降り、燦爛の武具ひかる
プリアモス王生める子のパリス恰も日輪の
如く輝き、高らかに笑ひて速き脚進め、
直ちに兄のヘクトール、妻と語れるその場より
別れ去る時認め得つ、容姿さながら神に似る
弟アレクサンドロスまづ口開き陳じ曰ふ、
『わがためらひの長くして急げる君を停めしを、
君、乞ふ許せ、尊命の如くにわれは來り得ず。』

堅甲光るヘクトール其時答へて彼に曰ふ、
『正しき心持てる者、誰も汝を戰鬪の
枝に暗しと賤めず、汝まことに勇士なり、
たゞ惜むらく怠りて其意志弱し、その爲に
我は悲む、トロイアの人の口端惡評を
汝の上に聞ける時、汝の故に我惱む。
さはれ今起て!此事を他日正して捕はむ、
黄銅鎧ふアカイアの軍をトロイア城外に、
驅逐し去りて、掌中に天の永遠の神明に
感謝の(はい)を捧ぐべく、クロニーオーン惠む時。』


更新日:2004/06/12

イーリアス : 第七歌


第七歌

アテーネーとアポローンの二神戰を終らんがためヘクトールを促し、敵の最勇者に一騎討を挑ましむ。 アカイアの勇將九人應じて立てる中、(くじ)によってテラモニデース・アイアース撰に當る。 兩雄の勇戰。夜に到りて中止、アガメムノーンの陣に食事の後ネストール休戰して屍體を焚かんとす、 又城壁と塹壕とを設けしむ。トロイア軍にアンテーノール和議を提出しヘレネーを返さんとす、 パリス反對す。翌日プリアモス使をアカイア陣に送る。談判成らず。兩軍屍體を葬る。 アカイア軍土工を起す。海神ポセードーン怒る。兩軍眠る間雷鳴はげし。

しかく陳じて城門を急ぎて出づるヘクトール、
弟アレクサンドロス之に伴ふ、兩將は
情念切に激烈の奮戰苦鬪こゝろざす。
譬へば水夫海上に善く琢かれし楫使ひ、
波浪の上を長く漕ぎ疲勞に四肢の弱る時、
神憐みて順風を望める彼に惠むごと、
しか待望のトロイアの軍に二將は現はれぬ。

其時パリス打ち取るはアレーイトオス王の息、
アルネーに住むメネスチオス、父は巧みに矛使ふ、
目は牛王のそれに似るプュロメヅウサは彼の母。
エーイオニュウス黄銅の甲戴く其へりの
下に其頸鋭刄の槍に貫くヘクトール。
ピポロコスの子グローコス[1]、リキアの軍に主たる者、
亂軍中に槍投げて、デキシアデース、イーピノス、
速き戰車に飛びのれる彼の肩射て貫ぬけば、
眞逆(まっさかさま)に戰車より地上に落ちて息絶えぬ。
斯く猛烈の戰にトロイアの諸將アルゴスの
軍を破るを眺めたる藍光の目にアテーネー、
ウーリュンポスの頂を降り聖なるイリオンに
着きぬ。其時ペルガモス丘上高くアポローン、
神女を眺め、トロイアの戰勝願ひ降り來つ、
二神斯くして樫の木の(かたへ)互に相向ひ、
銀弓の神アポローンまづ口開き宣し曰ふ、

[1]六歌二三四。

『クロニオーン、雷霆の神の息女よ、新なる
何等の思念切にしてウーリュンポスをおり來しや?
戰運決しアカイアに勝利を惠むためなりや?
ああ亡び行くトロイアの運命、君は憐まず。
さはれ君もし諾はばその事遙かに善かるべし、
今日はしばらく兩軍の戰爭こゝに止めしめよ、
後日再び奮鬪を初めて遂にトロイアの
亡滅あらむ、此都城破壞し去るは、君及び
他の諸の神命の心に協ふことなれば。』

藍光の目のアテーネー其時答へて彼に曰ふ、
『しかあらしめよ、勁箭を遙かに飛ばす君——われも
同じ思にトロイアとアカイア陣のたゞ中に
來りぬ、さはれいかにしてこの戰鬪をとゞむべき?』

ヂュウスの神子アポローンその時答へ陳じ曰ふ、
『戰馬を御するヘクト,ルの勇氣を奮ひ起たしめよ、
彼はアカイア陣中の勇士に挑み、まのあたり、
戰慄すべき戰を一人と一人決すべし、
黄銅鎧ふアカイアの軍勢はたまたいきどほり、
猛きヘクト,ル敵とする一人の勇士勵まさん。』

藍光の目のアテーネー其言聞きてうなづきぬ。
しか計らへる二位の神、神意悦ぶ計らひを
王プリアモス生める息ヘレノス[1]胸に感知して
行きて英武のヘクトール訪ひて向ひて陳じ曰ふ、
『王プリアモス生める息、智は神に似るヘクトール、
君と我とは同じ(はら)、君今我に聽くべきか?
トロイア及びアカイアの軍勢ひとしく坐らしめ、
アカイア勢の中にして至剛の者を君挑め、
戰慄すべき決鬪に來りて我と戰へと。
死の運命は未だなほ君に到らず、しかくわれ
天上不死の神靈の聲を正しく聞き取りぬ。』

[1]六歌七五。

しか陳ずればヘクトール聞きておほいに歡喜しつ、
陣中行きて其槍のもなかを握り、トロイアの
すべての部隊おし留む、衆は即ち地に坐しぬ。
黄銅鎧ふ自方をばアガメムノーン坐せしめぬ。
藍光の目のアテーネー、銀弓の神アポローン、
兩軍眺め喜びて、アイギス持てる天王の
聖なる樫の樹の上に、身を猛禽[2]の形にして、
坐せばトロイア、アカイアの兩軍おの〜密集の
部隊をなして地に坐しぬ、盾と兜と槍並めて。

[2]神々の變形、十四歌二九〇などにも。

あらたに起るゼピュロスの氣息巨海にかかる時、
下に海潮その爲めに黒むが如き様見せて、
アカイア及びトロイアの兩軍共に原上に
坐せり。其時ヘクトール間に立ちて宣し曰ふ、

『われに聞けかし、胸中の心の命を今曰はm、
トロイア勢よ、堅甲の善きアカイアの軍勢よ。
高き位のクロニオーンわが盟約[3]を遂げしめず、
禍難心にたくらみて、こを兩軍に課せんとす。
やがて汝等壁高きトロイア城を奪はんか、
或は汝等水軍のほとりわれらに敗れんか。
全アカイアの軍勢の緒將汝の軍にあり、
其中一人其心わが敵たるを望むもの、
こゝに來りてヘクトールわれと勝敗決せずや?
今われ宣す、わが言の證者たれかしクロニオーン!
若し黄銅の鋭刄に我を倒さば、わが武具を
剥ぎ取り之を水軍の中に持ち去れ、然れども
われの屍體は返すべし、かくてトロイア城中の
男女ひとしくわが死屍に火葬の禮を行はむ。
若しアポローン光榮を我に與へて、我彼を
打たば武裝[4]を剥ぎ取りて聖イリオンに運び行き、
神、銀弓のアポローン祭る祠堂に掲ぐべし、
而して屍體は汝等の水師の中に返すべし、
さらば長髪のアカイアの衆人之を葬りて、
ヘレースポントス[5]廣原のほとりに墓を築くべし。
さらば將來生るべき人のあるもの、舟にのり、
暗緑そむる大海を漕ぎめぐりつゝ見て曰はむ、
「こは古の遠き日の人の墳瑩、すぐれたる
彼を光榮のヘクトール戰ひ勝ちて倒しぬ」と。
かくこそ曰はめ、かくありて我が名聲は亡ぶまじ。』

[3]本篇六七の一段を後世の添加とするはリーフ。又曰く先に三歌に於てメネラオスとパリスとの決鬪あり、而してトロイア軍の盟約の破壞あり、今また再度の決鬪は詩作上一貫の道に非ず、三歌よりも本篇は古き作なるべし云々。
[4]鹵獲の武具を神に捧ぐるは古來の習。
[5]廣き意味に於ての。

しか宣すれば默然と衆人共に鳴靜む。
其眺戰を拒まんは恥辱、うくるは身の危難、
やがてはげしくメネラオス身を振り起し、憤慨の
吐息もあらく衆人を罵詈の言句に叱り曰ふ、

『ああ嗚呼汝ら大言者、汝ら今はアカイアの
男兒に非ず、婦女子のみ、ダナオイ族の一人も、
彼ヘクト,ルに向はずば何ら無上の屈辱ぞ!
ああああ汝悉く水と土[6]とに成りはてよ、
汝ら全く譽なく皆茫然とこゝに座す。
いざ今彼に向ふべく武裝を我は整へむ、
勝敗いづれ、天上のたゞ神明の旨にあり。』

[6]咒詛の意を包む、「空しく元の水土に歸せよ」此罵詈の言メネラオスに相應せず、全軍は彼のヘレネーの故に惱む。

しかく宣してメネラオス華麗の武具を身の裝ふ。
ああメネラオス!その時にアカイア諸王立ちあがり、
なんぢを止め、更にまたアガメムノーン自らも、
汝の右の手を取りて汝に叫ぶなかりせば、
汝の命はヘクト,ルの手中に遂に落ちつらむ。
トロイアの名將ヘクトール、はるかに汝の上にあり。

アガメムノーン叫び曰ふ、『汝狂へり、メネラオス、
その狂何の要もなし、扣へよ怒はげしとも、
汝に優る英豪に敵し戰ふこと勿れ、
プリアミデース・ヘクトール、彼を諸將は皆恐る、
ペーレーデース・アキリュウス遙かに汝に優るもの、
それすら恐るヘクトール、彼に敵すること勿れ、
汝今行き友軍の(あひ)に汝の席占めよ。
アカイア軍は敵すべき他の勇將を起たしめむ。
其者誠に勇にして戰つねに飽かずとも、
凄き兵亂、恐るべき格鬪逃れ出でん時、
思ふに[1]彼は喜びて疲勞の膝を息ませむ。』
アガメムノーンかく宣し、その愛弟を説き諭す、
理の當然にメネラオス聽けり、その時喜びて
彼の肩より戰裝を從者ら共に解きおろす、
ついで老將ネストール立ちてアカイア軍に呼ぶ、

[1]ヘクトールと戰ひ生還せば幸ならむ。

『ああああ悲し、大哀[2]はアカイア軍に降り來ぬ。
ああ汝等ヘクト,ルを恐れ震ふを耳にせば、
いかに嘆かんペーリュウス、騎馬の老將すぐれたる
ミルミドネスの評定者、また辯論者、そのむかし、
其館中[3]に我に問ひ、アルゴス族の血統と
素生を聞きて喜べるああかれ老雄ペーリュウス、
高く手を擧げ神明に祈り求めん、魂魄の
肢體を離れ暗深き冥王の府に落ち行くを。
ああわが天父クロニオーン、又アテーネー、アポローン、
むかしペーアの城壁のほとり、急流ケラドーン、
又ヤルダノス[4]岸上にピュリオイ族[5]と槍使ふ
アルカデス族戰ひし、其時我は若かりき。
其日眞先に戰ひて猛勇神の如くなる
エリュウタリオーン[6]穿ちしはアレーイトスの着し武裝。
アレーイトスは戰爭に弓を用ゐず、長槍を
使はず、獨り鐵の矛揮ひて敵の堅陣を
破るが故に人々は、帶美はしき女性まで、
矛の勇士と綽名しき。アレーイトスを勇將を
力に因らず計略に因り、狭隘の道の上、
打ち倒せしはリュコ,ルゴス、そこには彼れの鐵の矛、
彼の破壞を救ひ得ず、不意に襲ふてリュコ,ルゴス、
槍もて腹部貫けば彼れは地上に打ち斃る、
かくて軍神アレースの賜へる鎧剥ぎ取りつ、
その後つねに戰亂の場に其武具身に着けつ、
やがてさしものリュコルゴ,ス[7]その殿中に老いし時、
エリュウタリオーン愛臣に之を讓りて穿たしむ。
之を穿ちて傲然とあらゆる勇士挑みしも、
勇士等共に恐ぢ震ひ彼に抗するものあらず。
其時衆中年齡に於て最も若かりし。
我奮然と進み出で、かの勇將に手向へる
戰の果、光榮をわれに賜へりアテーネー、
軀幹最も大にして、勇氣最も勝れたる
彼はわが手に倒されて大地の上に身を延しぬ。
其時の如我れ若く勇力今に續き得ば、
堅甲光るヘクト,ルに忽ち向ひ戰はむ。
汝らアカイア全軍の中の至剛と誇るもの、
汝ら立ちてヘクト,ルと戰ふことを敢てせず。』

[2]一歌二五四。
[3]ネストール先にペーリュウスの舘に來りアキリュウスを訪ひトロイアに向はしめき。
[4]ヤルダノスはセミチク起源ヨルダンと同じ。
[5]ネストールの族。
[6]矛の勇士アレーイトスをリュコエルゴスは倒して其鎧を奪ひ後之をエリュウタリオーンに讓る。其エリュウタリオーンをネストール打ち取る。
[7]正しき發音はリュコエルゴス六歌一三〇のと同名異人。

老將しかく罵れば勇將九人立ち上がる、
眞先きに早く衆の王アガメムノーン身を起し、
次にチュウヂュウス生みなせるヂオメーデース、又次に
勇氣飽く迄逞しき同名二人アイアース、
彼らの後にイドメネー、また彼の友英豪の
メーリオネース、其勇はアレース神に似たるもの、

ユウリュピロス[1]は之に嗣ぐ、ユウアイモーン生める息、
つづくはトアス[2]、其父はアンドライモーン、また次に
神明に似るオヂュシュウス、みなヘクト,ルと戰はん。
ゲレーニャ[3]老將ネストール其時彼らに告げて曰ふ、
『何人撰に當るべき?そを籤に因り決めしめよ。
善き堅甲のアカイアの全軍彼を喜ばむ。
彼また自ら心中に深く喜悦を感ずべし、
凄き兵亂、恐るべき格鬪逃れ出でん時。』

[1]二歌七三六。
[2]二歌六三九。
[3]ゲレーニアーを縮む。

しか宣すれば諸將軍おのおの籤に記號附け、
アガメムノーン總帥の兜の中に之を入る。
その時衆は高らかに其手を擧げて大空を
仰ぎ、各神明に祈願捧げて陳じ曰ふ、
『神、願くはアイアース、ヂオメーデース、あるは又
黄金富めるミケネーの王[4]に此籤落ちしめよ。』
衆は斯く曰ふ、ゲレーニャの老將兜打振れば、
籤は兜の外に出づ、傳令使即ち之を手に取りて、
右より始め順々に諸將のもとを巡り行く。
アカイア陣中他のものは之を認めず、こを知らず、
かくてあまねく經廻りて、末アイアース、其籤に
記し兜に投じたる勇士のもとに到るとき、
アイアース手をさしのぶる、使者近よりて其籤を、
渡せば記號[5]認め得て勇將そゞろ歡喜しつ、
脚下に之を地に投じ衆に向ひて叫びいふ、

[4]アガメムノーン。
[5]これに因らば當時文書の術あることは明かならず。六歌一六八と矛盾す。以上はある評家の説なれど此場合は記號を用ゐるが正當なり。

『見よや同僚この籤を!嬉し正しく我の者、
我は正しく大豪の彼ヘクト,ルに打ち勝たむ。
さはれ今我戰裝を着くる間にわがために、
クロニーオーン雷霆の神に祈願をたてまつれ、
聲をな立てそ、トロイアの軍勢之を聞き取らむ、
否、公然と曰ふもよし、我何ものも恐れねば。
何もの敢て勇力にはた計略に意のままに、
我を敗らむ、サラミスに生れ育ちしアイアース、
我甘んじて敗れむや!われ戰術に暗からず。』

しか陳ずれば雷霆のクロニオーンに祈りつゝ、
アカイア軍勢天上を仰ぎてかくも叫び曰ふ、
『イデーの嶺にまつらへる至上至高のクロニデー!
勝利並びに光榮を賜へ、われらのアイアスの。
さはれ等しくヘクト,ルを愛さば共に兩雄に
賜へ、一式勇力を、賜へ等しき光榮を。』

然く衆軍祈るまに黄銅光る鎧着つ、
武具一切を身のめぐり整へ了るアイアース、
さながら巨大のアレースの進むが如く驅けいだす、
雷霆の神クロニオーン荒き戰果すべく、
命じ進むる緒の勇士の中に軍神の
進むが如くアカイアの堅き城壁アイアース、
大身の槍を打ち揮ひ、顏面凄く笑浮べ、
歩武堂々と軍勢の中より立ちて馳せ出づる——
その勇猛の姿見てアカイア軍は歡喜しつ、
トロイア軍は戰慄の肢體めぐるを禁じ得ず。
ヘクトールなほ心臟の鼓動高まる、然れども
挑戰われより初むれば逃避するを得べからず、
はた退きて同僚の隊伍の中に混じ得ず。
近きに迫るアイアース、巨塔に似たる盾を取る——、
牛七頭の皮重ね、更に其上黄銅を
張りし大盾、ヒュレー[6]の地住める名匠チュキオスの
精を盡して彼のため造りしところ、燦爛の
光を放つ黄銅は第八層を成せる盾、
其盾胸の前にしてテラモニデース・アイアース、
近く英武のヘクト,ルに迫り威赫の言放つ、

[6]ボイオーチアーの一市(二歌五〇〇)。

『知れ明かに、ヘクトール、威は獅子王の如くして、
敵の軍陣打ち碎くアキルリュウスを外になほ、
アカイア陣中剛勇の將軍こゝに數あるを。
ああアキリュウス、彼は今潮に浮ぶ曲頸の
船中殘り衆の王アガメムノーンに憤る。
汝を敵に戰はんわが同僚は數多し、
起て今汝、いざわれと戰ひ、勝負決すべし。』

堅甲光るヘクトールその時答へて彼にいふ、
『神より()れしアイアース・テラモーニオス[7]、衆の將、
戰鬪の技覺えなき弱き小兒を見る如く、
或は女性見る如く我を侮ること勿れ、
我れ戰鬪の技を知り善く殺戮の技を知る、
我れ牛革の大盾を右に左に打振りて、
常勝の威を振ふべく勇み戰ふ技を知る、
我れ迅速の馬の驅る兵車の上の馳驅を知る、
我れ健脚を踏み鳴らすアレース神の歩武を知る、
されどさすがの勇猛の汝を我は埋伏の
途には打たず、打つべくばわれ公に戰はむ。』

[7]テラモニデースの等し。

しかく叫びて影長く曳き大槍を打ち飛ばし、
革七重の恐るべきテラモーンの子の盾に當て、
まづ貫くは外の端、第八枚の黄銅皮、
鋭き槍は六枚の革つんざきて内に入り、
第七枚に觸れて止む。やがて續きておのが順、
神より()れしアイアース影長く曳く槍飛ばし、
プリアミデース・ヘクトール持つ圓楯に打ち當てつ、
その燦爛の大槍を鋭き楯は貫きて、
巧窮むる胸甲の裏をかきつゝ進み入り、
利刄は更に脇腹のかたへに被服つんざきぬ。
敵はその時身をそばめ死の運命を免がれぬ。
ついで兩將手を()して各々槍をぬきとりつ、
奮然として彼と此互に襲ひ、生肉を
食ふ獅子王見る如く、暴べる野猪を見る如し。
プリアミデース敵將の盾のもなかを槍あげて、
突けど黄銅貫かず、鋭刄脆く(さき)曲る。
今奮進のアイアース、敵の盾打ち猛然と
貫き通しヘクト,ルを勇み乍らもよろめかす。
見よ鋭刄は彼の頸觸れて鮮血迸る、
堅甲光るヘクトールされど戰鬪まだ止めず、
數歩すざりて路の上其目に觸れし巨大なる
黒き巌石逞しき腕に取り揚げ振り飛ばし、
アイアス持てる七重の盾を目がけて投げつけつ、
盾のもなかの浮彫を打てば鏘然鳴りひゞく、
續いてやがておのが順、更に一層のおほいなる
石振り上ぐるアイアース、怪力こめて打ち當てつ、
碾臼の石見る如き巨大の打撃盾碎き、
盾に潰され打たれたる敵將の膝疵つけて、
身を仰向きに倒れしむ、アポローン之を引き起す。
ついで兩將劍を取り互に迫り近きて、
打たんずる折、神明と人との使、彼と此、
トロイア及び黄銅を鎧ふアカイア軍勢の
中より來るイダイオス、タルチェビオスも細心に。
兩使即ち兩將の間に笏をさし入れつ、
忠言馴るるイダイオス知慮ある使者は宣し曰ふ、

『汝等二人戰をやめよ、爭ふこと勿れ、
汝等共に雷霆のクロニオーンのめづる者、
汝等共に勇猛の戰士、われ等の知る處、
夜は來れり其命に因りて休むを善しとせむ。』

テラモーニオス・アイアース其時答へて彼に曰ふ、
『汝の言に答ふべくヘクト,ルに曰へ、イダイオス、
わが軍陣の緒勇士にまづ挑みしはヘクトール、
彼ははじめに答ふべし、彼從はゞ從はむ。』

堅甲光るヘクトール其時答へて彼に曰ふ、
『ああアイアース、神明に長軀と智慮と勇武とを
合はせ惠まれ、アカイアの中に無双の名槍手、
けふの奮戰格鬪を是迄に留め引き分けむ。
後日新にまた汝敵としわれは戰はむ、
神明二者を相判じ、勝をひとりに賜ふまで。
夜は來れり、其命に因りて休むを善しとせむ。
斯くして汝水軍のかたへ、アカイア全軍を——
特に汝の朋友とめづる同僚慰めむ。
プリアモス王司どる、城壁の中われも亦、
歸りトロイア軍勢と長く裾曳く女性らを
喜ばすべし、わがために祈らむ彼等神殿に。
別れに臨み贈答のすぐれし品を換へしめよ、
然せばアカイア、トロイアの各人やがて斯く曰はむ、
「心を碎く憤激に因りて彼等は鬪へり、
されども後に和ぎて友誼結びて別れたり。」。』

しかく陳じて銀鋲を打てる長劔、その鞘と
合はせて更に、精巧の革帶加へ與ふれば、
こなた勇武のアイアース(こう)燦爛の帶贈る。
かくて兩將別れ去る、彼はアカイア軍陣に、
これはトロイア友僚の中に。——友僚恙なく
テラモーニオス・アイアスの勇武の手より免れて、
生きて歸れる彼を見つ、その安全を期せざりし
衆は歡喜の情に滿ち、彼を城裏に導きぬ。
脛甲堅きアカイアの軍勢こなたアイアスを、
勝を喜ぶ總帥のアガメムノーンに連れ來る。
アトレーデース[1]の陣營に彼ら斯くして着ける時
アガメムノーン衆の王、彼らのために雷霆の
クロニオーンに牲をして五歳の牡牛奉る[2]。
即ちこれが皮を剥ぎ、これを調理し四肢分ち、
巧に肉を切り割きて串に貫き火にかざし、
心用ゐて善く炙り、炙りて火より取り出す。
調理の技の了る時、宴の準備の終る時、
衆はおのおの食に就き、皆平等に飽き足りぬ。
されどもひとりアイアース受けしは脊筋長き切れ、
アガメムノーン、民の王、彼の譽にこを與ふ。
かくて衆人口腹の慾を飽く迄滿たす後、
ゲレーニャ騎將ネストール——評議の席に至上なる——
彼今先に忠言を試みんとし立ち上り、
思慮を豐かに慇懃に彼らに向ひ陳じ曰ふ、

[1]七歌後半の初まり。
[2]二歌四〇二。

『アトレーデース及び他の全アカイアの緒將軍、
見よ長髪のアカイアの衆人亡び、鮮血は
スカマンダロス奔流のほとり、アレース軍神に、
無慚に蒔かれ、魂魄は冥王の府に沈み去る。
されどあしたの暁にアカイア軍を休ましめ、
我一齊に集りて牛また驢馬に痛むべき
屍體をこゝに運ばしめ、かくして之を水陣の
近くに焼かん、しかすれば他は故郷に歸る時、
彼等可憐の子息らに其白骨を頒ち得む。
更に火葬の(には)近く土を原頭集め來て、
すべての爲めに墳瑩(ふんえい)を、又速かに其そばに、
船舶及び軍勢の禦ぎに壁を築くべし。
又堅牢の緒の門を設けて、其中に
戰馬の通る一條の道をおのおの開くべし、
壁を廻りて外傍に塹濠深く穿つべし、
かくせば軍馬軍勢を外に停むることを得む、
荒び高ぶるトロイアの戰禍襲ふを防ぎ得む。』

しか宣すれば一齊に諸將は之に贊し聽く。
こなたトロイア衆族の會は恐ろし、かまびすし、
王プリアモス司どるイリオス城の門のそば。
アンテーノール思慮深く其時衆に宣し曰ふ、
『トロウエス[3]又ダルダノイ、また援軍も我に聞け、
わが胸中の心肝の命ずる儘に我曰はむ、
急ぎて起ちてアルゴスのヘレネー及び其資財、
アトレーデ,スに引き渡せ、我軍今は誓約を
破りてこゝに戰へり、其誓約を果さずば、
わがトロイアの陣中に何らの好事望み得ず。』

[3]トロイア人(複數)。

しかく宣して坐に着けば、續きて立てり鬢毛の
美なるヘレネー妻とする美貌のアレクサンドロス、
彼に答へて怫然と羽ある言句陳じ曰ふ、

『アンテーノール!君の言、われの喜ぶものならず、
これより優る他の言句、君は宣ぶるべき術を知る、
今曰ふ處眞實に述べりとなすや?さもあらば
神明君の分別を定めし奪ひ去りつらむ。
馬術巧みのトロイアの緒軍に我は今曰はむ、
其まのあたり我曰はむ、わが妻敵に返さずと、
さはれかの時アルゴスの地より、我家に齎らしし
資財は彼に返すべく更に我のも附け足さむ。』

しかく陳じて坐につけば、續きてたてりトロイアお
ダルダニデース・プリアモス聰明神に似たる者、
思慮をこらして慇懃に衆に向ひて陳じいふ、
『トロウエス又ダルダノイ、又援軍もわれに聞け、
わが胸中の心肝の命ずる儘に我曰はむ、
例の如くに城中に歸りて今まづ食を取れ、
而して守備を心して其警戒を解く勿れ。
明くるあしたにイダイオス敵の水軍さして行き、
アガメムノーン、メネラオス二將に面し、今パリス
陳ずるところ傳ふべし、ああかれ戰禍の基なり、
使者また思慮の言述べん、敵人之に應じ得ば、
叫喚怒號の戰をしばらく止めて、戰場の
屍體を焼きて其後に更に新たに戰はむ、
神明二軍を相判じ勝を一方に惠む迄。』

しか(せん)すれば衆人は耳傾けて聽き贊じ、
次に部隊に相別れ各々夜の食を取る。
あくるあしたにイダイオス使となりて、アカイアの
水陣を訪ひ、アレースに仕ふる緒軍もろともに、
アガメムノーン總帥の舟のめぐりに()るを見る、
其集團の中にたち使者大音に叫び曰ふ、

『アトレーデース及び他の全アカイアの諸將軍、
聽けプリアモス及び他のトロイア諸將命下し、
われに曰はしむ(其言を願はく諸君贊せずや)
言は正しくパリスの語(彼は禍難の基なり)
いにしへアレクサンドロス其舟中にトロイアの
持ち歸りたる財寳を(其前死せば善かりしを)
皆悉く返すべく、更におのれの財足さむ、
たゞ光榮のメネラオス王の王妃は返し得ず、
パリス斯く曰ひ、トロイアの緒人の諌止きき入れず、
更にかれらの曰ふ處傳へて我は陳ずべし、
叫喚怒號の戰をしばらくやめて、戰場の
屍體を焼きてやがて後、神明二軍を相判じ、
勝を一方に惠む迄戰ふことを欲せずや?』

しか宣すればアカイアの全軍鳴りをしづめ聞く、
中に憤然立ちあがるヂオメーデース叫び曰ふ、
『今何人もパリスより、財寳或はヘレネーを
得ること勿れ、トロイアに破滅の運の迫れるは、
すでに明か、聰明を缺ける者すら皆知らむ。』

しか陳ずればアカイアの全軍共に聲あげて、
贊し、馬術に巧なるヂオメーデースの言に聽く。
アガメムノーン斯くと見てイダイオスに向ひ曰ふ、
『汝自ら。イダイオス、聞けりアカイア族の言、
彼らの答、今聞けり、我が意も、是と相同じ。
さはれ屍體に關しては我は火葬を拒むまじ、
生命すでに亡びたる死者に對して何人も、
火葬によれる迅速の靈の慰藉を拒むまじ。
雷霆の神クロニオーン、我がこの誓聞し召せ。』

しかく宣して神明に向ひて笏をさし上げぬ。
かなた使のイダイオス、トロイアさして歸り去る。
トロウエス又ダルダノイ其衆共に一齊に、
集議の廣に坐を占めて使者の歸を待てる時、
歸り來れるイダイオス、彼らの中に立ち乍ら、
齎たし來る使命述ぶ。衆人之に從ひて、
屍體を運び薪材を求むる業の用意しつ。
同じくかなたアカイオイ、急ぎ水師を立ち出でて、
死體或は薪材を運ばんためにいそしみぬ。

滉瀁として靜かなるおほわだつみを昇り來る
日輪天に輝きて光大地に觸るる時、
トロイア・アカイア兩軍は又原頭に相會す。
血汐にまみれ汚されて、面貌分くるよしもなき
死屍におの〜水灑ぎ、洗ひてかくて兩軍は
熱き涙を泫然と流し車上に之をのす。
さはれ偉大のプリアモス號泣するを禁ずれば、
默々として炎々の火上に屍體積みて泣き、
火葬を終へて神聖のイリオンさして歸り行く。
同じかなたの堅牢の堅甲つくるアカイオイ、
心傷めて炎々の火上に屍體積み上げつ、
火葬終りて中廣き軍船さして歸り行く。
その夜深更、空おぼろ、暁光未だ出でぬ前、
火葬の場の傍に立てるすぐれしアカイオイ、
原頭、土を運び來てそこに一つの共同の
墳墓を築き、更にまた其傍に長壁と
高塔造り、兵船と軍勢共に防がしめ、
中に堅固に組み立てし緒門を設け、門内に
戰車驅るべき道備へ、また長壁を取りまきて、
其外端に幅廣く水量深く、おほいなる
塹濠穿ち、濠中にあまたの(くひ)を植ゑつけぬ。
毛髪長きアカイアの軍勢かくもいそしみぬ。
電光飛ばすクロニオーン、ヂュウスのかたへ坐を占むる
諸神これらのおほいなる作業見おろし驚きぬ。
大地を震ふポセードーンその時先に宣しいふ、
『ああわが天父クロニオーン、果なき地上人間の
ある者此後神明に心を意思を宣ぶべきか?
君は見ざるや?髪長きアカイア族は其船の
前に長壁築き揚げ、更にめぐりに塹濠を
穿ちて、しかも神明にいみじき犠牲怠れり[1]。
壁の譽は暁光の廣まる限り大ならむ、
而して我とアポローン、ラーオメドーンのためにして、
力盡してかの都城築きし聲譽忘られむ。』

[1]重大の事に當りて神に祈り牲を捧ぐるは古の聖き習ひ、アカイア人忽々の際此式を怠る。

雷雲寄するクロニオーン慨然として答へ曰ふ、
『ああ大地を震ふ者、威力の汝何を曰ふ!
神明の中汝より腕力及び豪勇の
劣れる者はかの業に恐怖抱くもさもあらむ、
さはれ暁光布く限り汝の光譽大ならむ、
奮へ、長髪のアカイアの軍勢こゝを一齊に、
船を率ゐて打上げて彼等の郷に去らん時、
その時汝かの壁を倒し怒潮に投じ入れ、
廣き岸上悉く沙塵の山におほひ去れ、
かくてアカイア軍勢の壁はあとなく亡ぶべし。』

かく天上に神々は言を換はして相謀る。
まなく夕陽沈み去り、アカイア軍の作業成る。
かくて陣中牛屠り衆は夕の食を取る。
レームノスより船あまた、ユウネーオスの遣はせる、
酒積みのせて岸にあり、彼を生めるはイエーソーン、
民の王たるイエーソーン、ピュプシピュレーは彼の母。
アガメムノーンとメネラオス、アトリュウス生む兩子息、
之に醇酒の千「メトラ」ユウネーオスは贈り來ぬ。
毛髪長きアカイアの緒人、舟より酒を買ふ、
そのあるものは黄銅に、或は光る鋼鐵に、
或は皮に、あるものは牛に、或は囚へたる
奴隷に代へて酒を買ひ、豐かの宴を用意しつ、
かくてよすがら長髪のアカイア族は樂しめり。
トロイア及び同盟の軍勢かなた又同じ。
されどよすがらクロニオーン、其胸中に災難を
たくらみ高く雷震ふ。爲めに衆みな畏怖の色、
其盃を傾けて大地に灑ぎ、クロニオーン
神に灌酒の禮了へて、初めて酒盃口に觸る、
つづきて囚人床に就き甘き睡眠味へり。


更新日:2004/06/21

イーリアス : 第八歌


第八歌

ヂュウス衆神に命じて兩軍に助力すること勿らしむ。 アテーネーは其命に從へどアカイア軍に忠言せんことを乞ふ。 朝より正午に到り兩軍互に死傷あり。正午を過ぎヂュウス黄金の秤を取り出し二軍の運命を量る。 アカイアの非命決定せらる。アカイア諸將退却。ヘクトール追撃。 ヘーレー之を見て悲みポセードーンを促してアカイア軍を助けしめんとするも聽かれず。 アガメムノーン憤然として諸將卒を勵ます。アカイア諸將の奮戰。 射手チュウクロスの巧名。——ついでヘクトールの爲めに敗られ退く。 ヘーレーとアテーネーはアカイア軍の退却を悲む、而かもヘクトールの死を豫言す。 兩神進んでアカイア軍を助けんとするを認めてヂュウス大に怒りイーリスを遣はして之を止む。 夜にいたりて休戰、ヘクトール衆軍を激勵す。 クサントス川とトロイア城との間、原上の夜營と篝火。

番紅花(サフラン)色の衣着る曙光[1]の神女エーオース、
全地照せば雷霆のクロニオーン、連峯の
ウーリュンポスの頂に、諸神の會議[2]催しつ、
親しく言を宣すれば諸神ひとしく之を聞く。

[1]十一歌十九歌及び其他曙光の神の出現を以て初まる篇多し。
[2]四歌一參照。

『諸神並に諸神女ら、われの宣する言を聞け、
わが胸の中、心胆の命ずる處我のべん。
何ら神女も又神も我の言句に抗すべく
試みなせそ、一齊に之を贊せよ、しかあらば
此等の業を迅速に我は遂ぐるを得べからむ。
汝等の中誰にてもひとり離れてトロイアに
或はかなたアカイアに救助を望み行かんもの、
ウーリュンポスに歸る時、恥づべき打撃被むらむ。
我は其もの引き捕へ、投ぜん暗きタータロス[3]、
遠きほとりに、其中に地下最深の淵湛ふ。
其城門は鐵にして黄銅これが門戸たり。
冥府の下の其距離は天と大地の距離に似る。
神威至上の我たるを其もの斯くて悟るべし。
或は汝ら望みなば悟らんために試みよ、
黄金製の一條の鎖、天より垂れ下げて、
諸神ら及び諸神女ら、汝らこれに取りすがれ、
されど天より地の下にクロニオーンをおろし得じ、
力合せて勉むるも至高の我をおろし得じ。
されども我もし心きめ汝をしかく爲さまくば、
大地を海を汝らを皆一齊に下すべし、
ウーリュンポス[4]の頂にわれ其時に其鎖
繋がば共に汝らは釣られて空に漂はむ。
諸神並びに人間に我の優るは斯くと知れ。』

[3]反抗する者を罰する場處、八歌四八一。
[4]ウーリュンポスは神々の居として天と混同さるることあり、テサリアにある實際の山なれども

しか宣すれど諸の神明黙し靜まりぬ、
威風するどき宣告を諸神等しく驚きぬ。
藍光の目アテーネー其時彼に答へ曰ふ、

『ああわが天父クロニデー、神明すべての中にして、
君の威力の至高なる、我等すべての知るところ、
されど飛槍に巧みなるアカイア種族、運命の
非なるを滿たし亡ぶるは、われの悲み泣くところ。
君命じなば戰に加はることを敢てせじ、
されど彼等を益すべき忠言彼に與へんず、
君の怒の故による彼等の破滅なきが爲め。』

雷霆醸すクロニオーン、笑を含みて答へ曰ふ、
『トリートゲネーア[1]、わが愛女、安かれ、他には懇情の
言句用ひず、然れども汝に對し我やさし。』

[1]アテーネーの別名 四歌五一六。

しかく宣して黄銅の脚、鬣は黄金に、
迅速さながら飛ぶ如き軍馬に車曳かしめつ、
身に黄金の裝着け、黄金の鞭、精巧を
盡せるものを手に取りて斯くて車上にクロニオーン、
鞭を加へて勵せば、勇む双馬は衆星の
(つらな)る天と地の間飛ぶが如くに馳けり行く。
清泉多く涌きいでゝ野獸むれゐるイデー山、
其一偶のガルガロン[2]、聖なる森と神壇の
薫ずるところ人間と神との父は駒とどめ、
戰車の外に解き放し、雲霧あたりに振り蒔きつ、
其光榮に(ほこら)ひて嶺上高く坐をしめて
見おろすトロイア城中とアカイア族の水陣を。

[2]ガルガロンはイデーの最頂、海抜五六〇八フィート。

毛髪長きアカイアの軍勢はやく陣中に、
おのおの糧を喫し了へ、ついで軍裝身に纒ふ。
同じくかなたトロイアの軍、城中に武裝しつ、
婦女と小兒を護るべき要に迫られ、其數は
敵に劣るも奮然と勇み戰鬪こゝろざす。
かくて諸門は一齊に開かれ、歩兵また騎兵、
皆一齊に駈け出でゝ動亂 四方(よも)に湧き起る。

兩軍かくて相進み原上互に逢へる時、
矛を打ち合ひ、槍飛ばし、黄銅鎧ふ軍勢の
勇と勇とを鬪はし、浮彫高き大槍を
互に近く迫り寄す、斯くて戰亂湧き起り、
打たたる者[誤?:打たるゝ者]と打つ者と叫喚怒號紛として
兩軍亂れ鬪ひて血は戰場を流れ行く。

曙光はじめて照りしより日の中天に昇る迄、
飛刄はげしく兩軍をうちて彼これ相たほる。
かくて光輪めぐり行き天の眞中を過ぐる時、
クロニオーン黄金の秤[3]取り出し其中に、
駿馬を御するトロイアと黄銅鎧ふアカイアの
運を——すべてに懸り來る死に運命を投じ入れ、
秤の眞中手に取ればアカイア非命の運沈み、
運傾きて慘憺と大地の上に垂れさがり、
之に反してトロイアの運は高くも天のぼる。
やがてイデーの高きより雷霆の神雄たけびつ、
アカイア軍に閃々の電火飛ばせば之を見て、
衆はひとしく驚愕に打たれて畏怖に青ざめぬ。
イドメニュウスも留らず、アガメムノーンも、アレースに
仕ふる二人、アイアース共に留らず、引きのきて、
ゲレーニャ騎將ネストール、アカイア軍を守るもの、
其馬[4]打たれ斃るれば獨り留る、やみを得ず。
鬢毛美なるヘレネーの夫のアレクサンドロス、
一矢飛ばして其馬の頭を鬣生ゆるきは、
矢は腦中に貫むけば苦痛にたへず飛び揚り、
もがき狂ひて馳けめぐり戰車戰馬をかき亂す。
と見る老將跳り出で利劔を抜きて曳革を、
切れば忽ち猛然と、戰場さしてヘクトール、
プリアミデース剛勇の將軍兵車驅り來る。
かくて老將一命はほとんど亡び去らんとす、
その時之を目にとむるヂオメーデース、大音の
勇將すごく雄叫びて、オヂュッシュウスを叱り曰ふ、

[3]ヂュウスの秤は二十二歌二〇九、十九歌二二三參照。
[4]斃されしは所謂脇馬なり。軛に附けらるる者に非ず、車の側面に繋がる。

『神より()れしオヂュシュウス、なんぢ智謀に富めるもの、
軍勢中の卑怯者の如くに汝背をむけて
いづこに逃る?恐らくは背を鋭槍は貫ぬかん。
返せもろとも強敵を攘ひ老將救ふべし。』

しか叫べども忍從のオヂュッシュウス聞き取らず[5]、
急ぎて馳せてアカイアの水軍中に身を潛む。
ヂオメーデース只一人殘り先鋒の中に入り、
ゲレーニャ騎將ネスト,ルの馬前に立ちて聲揚げて、
危急に迫る彼に呼び羽ある言句陳じいふ、
『あはれ將軍、激しくも若き戰士は君を攻む、
君の威力は衰へて苦の老齡は身に纒ふ、
君の從者は弱くして君の戰馬は脚おそし、
われの戰車に乘り移れ、トロースの馬原上を
縦横無碍にかけ廻り、進退共に勇しく
飛ぶが如きを君は見む、アイネーアスの御せる者、
無双の駿馬、先にわれ彼より奮ひとりしもの[1]、
君の戰車と戰馬とをわれの從者は心せむ。
いざわが車馬をトロイアの陣中向けむ。ヘクトール、
知るべしわれの手の中に鋭槍いかに強きかを。』

[5]或は「聞き入れず」と解す、しかせば勇將の性質と矛盾す。
[1]五歌三二三。

しか陳ずればゲレーニァの老將之に從へり。
ユウリュメドーンとステネロス、二人の從者猛きもの、
心やさしくネスト,ルの戰馬いたはり引きしざる。
かくて兩將もろともにヂオメーデースの車の()
燦然として耀ける手綱を取りてネストール、
馬に鞭あて迅速にヘクト,ル目がけ迫り來つ、
ヂオメーデースましぐらに彼に鋭刄投げ飛ばす。
覘外れて其槍は戰車の手綱とれる者、
テーバオイスの生める息エ,ニオピュウスに打ち當る、
車上に立てる其從者、乳のほとりを貫かれ、
兵車の外に逆落ちて馬はあとへと引きしざる、
撃たれし彼は其儘に魂魄さりて地に返る。
之を眺めしヘクトール悲哀に堪へず、然れども
斃るる儘に伏さしめて、更に新の勇猛の
御者求むれば、程もなく得たるはアールケプトレモス、
猛き勇士はイピトスの子息、忽ち脚早き
双馬の車上身を乘せて、新の御者はの手に
綱をかいとり、ヘクト,ルの(かたへ)にたちて任に就く。

その時禍難近づきて悲慘の業は湧き起り、
トロイア軍は小羊の如く城裏に入らんとす。
されど諸神と人間の父なるヂュウス之を見て、
高く雷音轟かし、霹靂(へきれき)飛ばし、爛として、
ヂオメーデース乘る馬の其眼前にひらめかし、
炎々として燃え上る硫黄の焔舞ひおこる、
之に驚怖の双の馬戎車のもとにひれ伏せば、
燦爛の綱その手より緩めてはづすネストール、
恐怖に滿ちて慄然とヂオメーデ,スに叫びいふ、

『チュウデーデース、單蹄の馬を返して逃れ走れ、
神の下せる戰勝は汝にあらず、悟らずや?
雷霆の神クロニオーン今光榮を敵の手に
與へり、後日われに又好まば之を與へんか?
勇力いかにすぐるるも塵界の子はおほいなる
威力遙かに優る神ヂュウスの旨に抗し得ず。』

ヂオメーデース、大音の勇者答へて彼に曰ふ、
『老將軍よ君は今正しくこれらの事宣す。
されどしかせば恐るべき悲嘆はわれの胸打たむ、
トロイア族の集會に曰はむ後の日、ヘクトール、
「われを恐れて其船にチューデーデース逃れきと」
かれ高らかに斯く曰はむ其時われに地よ開け[2]。』

[2]死すること。

ゲレーニャ・ネストール、其時答へて彼に曰ふ、
『ああチューヂュース生める息、汝何をか今曰へる?
卑怯無力とヘクトール汝をいつか罵るも、
何かはあらむ、トロイアとダルダニエーの男兒、又
トロイア女性信ずまじ、女性の夫、倔強の
勇士を汝塵中に斃したること幾何ぞ。』

しかく宣して單蹄の馬を返して戰場を
後に逃ぐればトロイアの軍勢並にヘクトール、
叫喚はげしく槍投げて彼の後追ひ迫り來つ、
堅甲光るヘクトール大音擧げて彼に曰ふ、
『チューヂューデーよ、駿馬驅るアカイア族は光榮の
席に酒肉の饗宴に汝を特に尊びき、
今は汝を侮らむ、汝女性に今似たり、
卑怯の少女逃れ走れ、われを敗りてひるまして、
わが城壁を攀ぢ登り、われらの女性水陣に
奮ひ歸るを善くせんや、その前汝命盡きむ。』

ヂオメーデース之を聞き思は二途に相分る、
馬首を轉じてヘクト,ルに向ひ勝敗を決せんか、
戰場あとに逃れんか、三たび心に迷ふ時、
三たびイデーの高きより迅雷震ふクロニオーン、
トロイア軍に應援のしるし勝利を報ずれば、
トロイア軍にヘクトール大音あげて叫びいふ、
『トロイア勢よ、リキオイよ接戰死闘のダルダノイ!
汝わが友、勇猛の威力を奮へ、男子たれ!
クロニオーン喜びて戰勝及び光榮を
われに、敵には敗亡を與へしことを我は知る。
愚かや、彼ら築きたる長壁脆く弱くして、
效なし、さはれ其爲めにわれの力を分つまじ、
廣き塹濠容易くもわれの駿馬はとびこさん。
而して中の空虚なる敵の諸船に到る時、
焚焼凄き炎々の火焔を汝忘れざれ、
猛火に船を焚き掃ひ、烟に迷ふアカイアの
軍勢、船の傍にわが手親しく亡さむ。』

宣し了りてヘクトール更にその馬激し曰ふ、
『クサントス又ポタルゴス、ランポス及びアイトーン、
汝ら飼養の恩思へ、アンドロマケー、おほいなる
エーイチオーンのまなむすめ、すぐれし女性蜜に似る
甘味の麥をはましめて、さらに汝の願ふとき、
彼女の配と誇る我、我に先んじ芳醇の
酒を汝に飲ましめし飼養の恩を今拂へ。
急ぎて馳けよ、ネスト,ルの盾をわれ今獲んがため、
矛も取柄も黄金の、——其名聲は天上に
ひびきし盾を獲んがため、更に巧みに造られし
ヂオメーデースの介冑を、ヘープァイストス鑄るがため
勞せしものを、勇將の肩より奪ひ取らんため、
此らの二つ奪ひ得ばアカイア勢は今宵にも
——われは望まむ、迅速に航する船に乘り込まむ。』

祈り斯くいふヘクトール——かなたに怒る端嚴の
ヘーレー其坐立ちあがりウーリュンポスを搖がしつ、
即ち行きてポセードーン大神の前宣しいふ、
『あゝ大地をゆする者、遠く威力の及ぶ者、
ダナオイ族[1]の壊滅に汝心を傷めずや?
ヘリケー[2]及びアイガイに豐かの供物齎らしし
彼らを思へ、戰勝を彼らの爲に心せよ。
アカイア族に身方するわれら、トロイア軍勢を
攘ひ、雷霆のクロニオーン神に抗して起たん時、
イデーの嶺にたゞ獨り坐りて彼は悲しまむ。』

[1]ダナオイ=アカイオイ=アカイア族=アルゴス族。
[2]ペロポンネソスの北岸二歌五七五ポセードーンを崇拜の二市。

大地をゆするポセードーン、慨然として答へ曰ふ、
『ヘーレー何ら大膽の言句を汝宣するや!
クロニオーンの外の神あらがふ事をわが心
敢て願はず、われらより彼は遙かに強ければ。』

二位の神明相向ひ、しかく談じぬ。こなたには
塹濠並に長壁と船との(あひ)に横はる
大地の上に一齊に、戰馬並に盾持てる
戰士群がる——アレースに似たる勇將ヘクトール、
プリアミデース、光榮を神より受けてこを集む。
その時アカイア軍勢を急ぎて立ちて鼓舞すべく
アガメムノーンを端嚴の神女ヘーレー勵しつ、
斯くしてアカイア水陣は凄き兵燹(へいせん)免れぬ。
大王即ち水軍と陣營さして進み行き、
權威を示すおほいなる紫袍を腕にかいとりつ、
オヂュッシュウスの黒き船、舷側廣き前に立つ、
船は眞中に位置を占め、テラモニデース・アイアース、
またアキリュウス兩將の陣營左右に見渡して、
呼ばゝ彼らに聞かるべし(腕の力と勇氣とを
信じ、兩將其船を左右(さう)の眞先に並べしむ)
大王かくて朗々の大音放ち叫び曰ふ、

『恥ぢよ、汝ら、形のみ優る卑怯のアカイオイ、
先の廣言いづこぞや?思ひいでずや?レームノス[3]
かしこにありて大言し、至剛の者と誇らひつ、
(つの)眞直(ますぐ)なる牛王の肉を喫しつゝ、芳醇の
溢るゝ(はい)を傾けて叫びし聲はいづこぞや?
汝ら曰へり、戰場に一もて敵の百人に、
更に二百に當らんと、さるを一人のヘクト,ルに
敵するを得ず、彼は今猛火にわれの船焼かむ。
あゝわが天父クロニオーン、人界の王の孰れをか
君はかく迄懲らしゝや[4]?かくも譽を奪へりや?
禍害の運にこゝに來し楫取多き船の上、
途に壮嚴の君の壇すぐるたびごと、堅城の
トロイア軍の壊滅を祈りて、爲めに牛王の
脂肪美肉を捧げしを今明かにわれは曰ふ。
あゝクロニオーン願くはわれの祈りを受け納れよ!
危難逃れて一命を保つを許せ、トロイアの
軍勢われに打勝つをあゝ願くは許さゞれ。』

[3]遠征の途中に上陸せる地。
[4]二歌一一一參照。

涙流して陳ずるをクロニオーン憐みつ、
アカイア軍に破滅なく免るべきを首肯しつ、
禽鳥中にすぐれたる鷲を下せば、猛鳥は
足敏捷の牝鹿の子、可憐のものを其爪に
攫み舞ひおり、壮嚴の神壇の前、アカイアの
衆その牲を神明に捧ぐるほとり投げおろす。
鳥はヂュウスのもとよりと見たる軍勢勇み立ち、
トロイア軍を進み撃ち、奮鬪すべくこゝろざす。

その時接戰つとむべく戰馬を敵に向け直し、
塹濠躍り越さしめし、緒軍の數は多けれど、
チュウデーデース[1]凌げりと誇り得るものあらざりき。
ヂオメーデース眞っ先に駈けてトロイア一勇士、
プラドモーンの生める息、アゲラオス[2]を打ちとりぬ、
馬を廻して逃るべく、退く敵の背を槍に、
肩と肩との間うち胸貫けば車上より
大地に落つるアゲラオス、黄銅の武具高なりぬ。
ヂオメーデース追ひ[3]、次ぎて、アガメムノーン、メネラオス、
又之に次ぎ勇猛の威勢の二人アイアース、
イドメニュウスは又次に、續きて彼の從者たる
メーリオネース、殺戮のアレース神に似たる者、
ユウアイモーンのすぐれし子、ユウリピュロスは又續く、
順は九番のチュウクロス[4]、彈力強き弓を取り、
テラモーンの子アイア,スの楯のうしろの立ち留る、
其アイアースその楯を時に少しく(もた)ぐれば、
その隙間よりチュウクロス四方眺めて敵陣の
中の一人を覘ひ射る、敵は斃れて命おとす、
脚を返してチュウクロス、母の蔭なる子の如く、
燦爛光るアイア,スの楯のうしろに身を隱す、

[1]即ちヂオメーデース。
[2]十一歌三〇二 ヘクトールに殺されしアカイアの將、同名異人あり。
[3]此二六一 -- 二六五と七歌の一六二 -- 一六七とを比べ見るべし。
[4]アイアースの異母弟。

彼の矢先にトロイアの陣中斃れし者や誰?
オルシロコス[5]は眞っ先に、之につゞくはオルメノス[6]、
オペレステース[7]、ダイトール、リュコポンテース、クロミオス[8]、
ポリュアイモーンの生める息、アモパオス又メラニポス。
其諸勇士は順々に彼に射られて地に倒る。
アガメムノーン、衆の王、之を眺めつ、トロイアの
堅陣彼の強弓に崩れ亂るを悦喜しつ、
進みて彼の側に立ち、羽ある言句を宣し曰ふ。

[5]五歌五四六は別人。
[6]十二歌一八七は別人。
[7]二十一歌二一〇のと別人。
[8]五歌一五九、五歌六七七、十七歌二一八のと別人。

天晴(あっぱれ)、汝チュウクロス、覇者テラモーンのいみじき子、
アカイア軍に光明を、汝の父に光榮を
與へんとせば射續けよ、庶子なりしかど館内に
汝の幼稚なりし時、彼は汝を愛撫しき。
故郷に遠く離れたる彼の譽に名をあげよ。
われ今汝に宣すべし、宣んするところ、きと成らむ、
アイギス持てるクロニオーン又アテーネー惠垂れ、
建造堅きイーリオン都城の破壞許す時、
我のすぐ後恩賞を汝手中に受取らむ、
鼎或は神速の二等の駿馬、戰車とも、
或は美人、其閨を汝と共に分つもの。』

いみじき若きチュウクロス其時答へ陳じ曰ふ、
『威光至上のアトレーデ、自ら焦る我の身を
など勵すや?勇力のあらん限りは奮戰を
やめじ、わが軍イリオンをめがけ進みし日よりして、
羽箭飛ばして敵人を我は屢々(しば〜)射倒しつ、
(やじり)の長き勁箭をわれは八條射放ちて、
若く勇める敵人の體中深く沈ましむ、
されど我かの狂犬[9]を未だ射倒すことを得ず。』

[9]ヘクトール。

しかく宣してヘクト,ルを斃さん思胸に燃え、
彼をめがけて新たなる一矢弦より切り放つ。
其矢當らず、然れども王プリアモス生める息、
ゴルギュチオーン、勇猛の武者の胸をぞ貫ぬける、
カスチァネーラ、彼の母、その美神女に似たる者、
アイシュメー[10]より嫁し來る此麗人は彼生みき。
園中咲ける罌粟の花、其結ぶ實の重きより、
又陽春の露によりうつむく様を見る如く、
射られし彼は戴ける兜の重みにうなだれぬ。

[10]トレーケースの一市。

更に一箭チュウクロス、ヘクトール射て斃すべき
思に驅られ奮然と弦音高く切り放つ、
されどアポローン其矢先 ()らして胸を射せしめず、
矢は戰場に急ぎ來るアールケプトレモス[1]の胸、
剛勇の武者ヘクト,ルの戰車驅るもの、其胸を
乳のほとりをひゃうと射る、射られて戰車落ち降る
勇士地上に命おとし二頭の駿馬あとかへす。
御者の落命憐みて悲痛にたへぬヘクトール、
傷心いとゞ切乍ら、屍體をそこにふせるまゝ
のこして更に傍のケブリオネース[2]同胞に
戰馬のたづな握らしむ、其命彼は應じ聽く。
其燦爛の兵車より大地に降るヘクトール、
大音聲に叫びつゝ、手に大石を振り上げて、
若き弓手を斃すべく奮然として飛びかゝる、
其矢筒より一條の勁箭更に抜き出し、
その弦上にあつる時、堅甲光るヘクトール、
ねらひて弦をひく彼の肩に間近く、頸と胸、
鎖骨によりて別たれて致命の急所ある處——
そこにきざある大石を投げてはげしく敵を撃ち、
筋斷ち切れば彼の手は麻痺しつ、彼は膝突きて
地上に倒れ、剛弓は彼の手はなれ地に落ちぬ。
されど英武のアイアース、倒れし涕眺め見て、
奔り來りて彼を()り其大楯に彼を掩ふ。
而して更に友二人、一はエキオス生める息、
メーキスチュウス[3]、又一はアラーストール、近よりて
はげしくうめく負傷者を兵船中に搬び去る。

[1]八歌一二六。
[2]十一歌五二二 十六歌七三八。
[3]十三歌四二二。

ウーリュンポスのクロニオーン、今又更にトロイアの
勇を鼓すれば奮ひ立ち、アカイア軍を塹濠に
追ひつむ、それの先頭に勇みて進むヘクトール、
脚神速の獵の犬、野猪を或は獅子王を、
追ひつゝ之に飛びかゝり、腰に或は其下肢に
噛みつき、彼の惱めるを見守る如くヘクトール、
毛髪長きアカイアの軍勢驅りて追ひ攘ひ、
後れしもおnを打ち取れば慌てふためき逃る敵、
逃げ塹濠と濠中の杭とを返り過ぎし後、
トロイア軍の手にかゝり無慙の打撃受けし後、
アカイア勢は兵船のかたへ留りて休らひつ、
互に諌め勵まして更に其手を高く擧げ、
神明皆に心こめ切に祈願をたてまつる。
こなた勇めるヘクトール、ゴルゴー[4]或はアレースの
面見る如く物凄く、鬣美なる駿足を
あなたこなたに進むれば、敗れしものを腕白き
ヘーレー眺め憐みて藍光の目の神に曰ふ、

[4]恐ろしき怪物(十一歌三六)。

『あゝ無慚なり、汝見よ、アイギス持てるヂュウスの子!
アカイア軍の亡ぶるを猶この際に救はずや?
運命惡くつらくして只一人の猛勇の
故に彼らは亡びんか、プリアミデース、ヘクトール
飽く迄禍害行へり、彼の兇暴忍ばれず。』

藍光の目のアテーネー、其時答へて彼にいふ、
『アカイア軍の手に懸り、勇氣と生と一齊に
亡び、故郷の土の上、彼は遂には斃るべし。
さはれわが父クロニオーン、奇怪の計慮胸にして、
つれなく常に剛腹にわれの努力を妨げつ、
ユウリスチュウス[5]命じたる役に惱める彼の子を
屢々助け救ひたるわが勳勞を顧みず。
天を仰ぎて悲しめる子に救援を與ふべく、
雷雲寄するクロニオーンわれを天より遣はしき、
忌み嫌はるゝハイデス[6]の城門堅き館に入り、
そこエレボスの暗きより獵犬引きて歸るべく、
主命を彼のうけしとき、今日(こんにち)あるを我知らば
彼スチュクスの奔流の水をいかでか免れむ。
テチスの願納受して父今我を憎しめり。
都城を破るアキリュウス譽を得るを祈願しつ、
彼、天王の膝抱き軟手に彼の頤撫でき。
「藍光の目の愛女よ」ととさはれ天父は又曰はむ。
いざ今單蹄の駿足をわれらの(あひ)に引き出せ、
アイギス持てる天王の宮に進みて戰鬪の
武裝を我は整へむ、しかして我は眺むべし、
プリアミデース・ヘクトール堅甲光るかの勇者、
われら二神の戰場に入るを果して喜ぶや?
見よ、アカイアの船のそば、トロイア軍の一人[7]は
斃れ、其肉其脂、野犬野鳥を飽かしめむ。』

[5]天妃ヘーレー計りてミケーネーの王者ユウリスチュウスにヘーラクレースを服從せしめ、十二の難事を行はしむ。(十五歌六四〇 十九歌一三二)。
[6]冥府の王ハイデース。
[7]ヘクトールの死を豫言す。

しか宣すれば皓腕の神女ヘーレー欣然と、
(いみじき神女ヘーレーは偉なるクロノス生む處)
之に順ひ黄金を裝へる戰馬曳き出す。
アイギス持てる天王の愛づる明眸アテーネー、
その多彩なる精妙の衣、自ら織りいだし、
自ら巧みなせるもの、父神(ふしん)の堂に脱ぎ棄てつ、
雷霆の神クロニオーンもてる胸甲身に帶びつ、
かくて涙の基なる暴びの戰具整へり。
かくて親しく燦爛の兵車に神女立ちあがり、
重くて堅き大槍を其手にとりぬ(槍により
手向ふ者をアテーネー奮然として打敗る)
ヘーレー斯くして迅速に駿馬を鞭に打ちあてゝ
驅れば天上もろ〜の門戞然と開かるゝ。
門の司は「時」の靈、上天及びオリュムポス、
之に托さる、濃雲を開きあるは閉ぢるため、
そこを二神はその命に應ずる駿馬驅り去りぬ。

[8]二神女の武裝の敍述は五歌七二〇 -- 七五二にもあり。

されどイデーの高きよりクロニオーン之を見て、
大に怒り、黄金の羽あるイーリス呼びて曰ふ、
『なんぢ、イーリス、()く行きて後に引かせよ、わが前に
彼ら來るを押しとめよ、われに抗せば害あらむ。
今、我敢て宣し曰ふ、宣する處きと成らむ。
戎車の下に脚速き彼等の馬を疵つけむ、
彼らを車下に打ちおとし、車輪微塵に碎くべし、
わが轟雷の打つところ、重き負傷に惱むべく、
月と日廻る十年[1]に亘りて傷は癒えざらむ。
われに抗する禍はかくと知るべし、アテーネー、
われヘーレーに對しては怒らず、瞋恚催さず、
我の計畫するところ破るは彼[2]の習のみ。』

[1]月と日廻る十年とは滿九年の意。九は神聖の數を曰はる。三も同様。
[2]五歌八九二、一歌五一八。

しか宣すれば疾風の足ときイーリス令傳へ、
イデーの峯を降り來てウーリュンポスに翔け向ひ、
渓谷多きオリュムポス其いやさきの門の前、
二神に逢ひておしとゞめヂュウスの言を宣んじいふ、

『いづくに馳すやあゝ汝?胸ぬち何の悖狂ぞ!
クロニデースはかく嚇す、しかして其事きと成らむ、
戎車の下に脚速き汝の馬を疵つけむ、
汝を車下に打ちおとし、車輪微塵に碎くべし、
彼の轟雷打つところ重き負傷に惱むべく、
月と日めぐる十年に亘り其疵癒えざらむ。
彼に抗する禍はかくと知れかしアテーネー、
彼、ヘーレーに對しては怒らず瞋恚催さず、
彼の計畫するところ破るは彼の習のみ。
さもあれ汝、アテーネー、あゝ狂妄の無恥の狗子、
クロニオーンに逆ひて汝の槍を擧ぐとせば……』

しかく宣して疾風の足ときイーリス歸り去る、
その時ヘーレー口開き藍光の目の神に曰ふ、
『あゝ無念なり、アイギスを持てるヂュウスのまなむすめ、
已むなし、われら人間の故にヂュウスと爭ふを
やめむ、彼らのあるものは亡び、あるものながらへむ、
そは運命のあるが儘、クロニオーン胸の中、
トロイア及びアカイアに施すところ定むべし。』

しかく宣して單蹄の駿馬あとへと曳き返す。
ホーライ[3]其時鬣の美なる駿馬のもろ〜を、
放ちて解きてアムブロシヤ匂ふ馬槽の前繋ぎ、
燦爛光る壁に倚り彼らの戰車駐め据う。
二位の神女は黄金の玉座に着きてもろ〜の
他の神明に相まじり、慘然として樂しまず。

[3]單數はホーレー(時)、複數の形にては天候の管理者(女性)、またヘーレーの侍女。

その時イデーの高きよりウーリュンポスの峯さして、
兵車と馬を驅り來りヂュウス諸神の會に着く。
大地をゆするポセードーン其時馬を解き放し、
兵車を臺の上に据ゑ、据ゑて布藍に之を掩ふ。
雷音遠く鳴りひゞくヂュウスその時、黄金の
玉座によりておほいなる山を脚下に震はしむ。
ヘーレー及びアテーネー彼に離れて席を占め、
彼に何等の句も曰はず、何らの間を打ち出でず。
クロニオーン然れども心の猜し宣し曰ふ、

『などかく悲哀催すや?ヘーレー及びアテーネー、
汝ら深き怨恨をトロイア軍に向け起し、
之と戰ひ亡すを念じて休むことあらず。
我の力と我の手は抗すべからず、もろ〜の
ウーリュンポスに住める神われを攘ふを得べからず。
戰鬪及び其來す恐るべき業見る前に、
汝等二神耀ける四肢は恐怖に震ふべし。
我今汝に宣すべし、宣する處きと成らむ、
雷に撃たるゝ汝らは戰車に乘りて此場に——
不死の神明集れるウーリュンポスに歸り得じ。』

しか宣すれば[1]、向ひ坐しトロイア軍の禍を
計らひ居たるアテーネー、ヘーレー共に舌打ちぬ。
黙然として言葉なき藍光の目のアテーネー、
唯烈々の憤懣をクロニオーンに抱くのみ。
されどヘーレー胸中の怒抑へず叫び曰ふ、
『あゝ恐るべくクロニデー、何らの言を宣するや?
君の威力[2]の微ならざる、既にわれらの知るところ、
たゞ運命にまれず、亡びんとするアカイアの
可憐の勇士思ひやり、われは悲憤を抑へ得ず。
されど嚴命下る時、われ戰鬪に加はらじ、
君の憤怒の故によりアカイア全軍悉く
亡ぶることの無きがため、只忠言を與へんず。』
雷雲よするクロニオーン彼に答へて宣し曰ふ、
『望まば汝あした見む、汝、牛王の目を持てる
ヘーレー、汝、つよき我れ威力無上のクロニオーン、
アカイア軍を今よりもなほ痛烈に()すべきを。
見よ、猛勇のヘクトール、水師のほとり足速き
ペーレーデース立たん迄、戰鬪やむことあらず、
その日船尾の傍に彼ら激しく戰はむ、
パトロクロスの死の故に接戰苦鬪凄からむ。
斯く運命は定れり。われは汝の憤激を
心に掛けず、地と海の果に汝の行かんとも[3]、
イーアペトス[4]とクロノスのやどる其 (には)、其ほとり、
ヒペリオーン[5]耀けるエーエリオスの光線も、
風もかしこに音づれず、たゞタータロス四方(よも)にあり。
汝飄零の果そこに行かんも我は顧みず、
汝の怒顧みず、汝無上の無恥のもの。』

[1]四五七 -- 五六二は四歌二〇 -- 二五に同じ。
[2]四六三 -- 四六八は八歌三二 -- 三七にほゞ同じ。
[3]「地の底海の果に行きて彼等の助を求むるとも我は恐れず」の意。
[4]ウーラニオーンの子ら、敗れて地底に住む(五歌八九八)。
[5]エーエリオス(太陽)の詩的別名。

しか宣すれど皓腕のヘーレー彼にもの曰はず。
やがて燦たる日の光オーケアオスに沈み去り、
大地の面に暗黒の夜陰の幕を降らしむ。
その夕陽の沈めるをトロイア軍は喜ばず、
三たび祈れるアカイアの軍は暗夜を歡呼しぬ。

その時耀くヘクトール、水師離れて、渦卷ける
川の岸のへ鮮血にまみれし屍體無きところ、
率ゐ來りしトロイアの衆の會合打開く。
衆人即ち兵車より大地の上に下り立ち、
ヂュウスのめづるヘクトール宣ぶる言句に耳を貸す。
彼の手中の長き槍、黄銅の穗は耀きて、
穂先の根元、黄金の環を廻らせり、其槍に
身をもたせつゝヘクトール、トロイア軍に宣んしいふ、

『ダルダニエーとトロイアの軍勢及び諸援軍、
わが言を聞け、アカイアの軍船軍勢亡して、
風すさまじきイリオンに歸陣なすべく我曰へり。
されども暗は寄せ來る、暗は救へり、波荒ぶ
海の岸のへアカイアの軍勢並に其船を。
我又黒き夜の命奉じてこゝに休らはむ。
いざ晩食の備せよ、鬣美なる駿足を
兵車よりして解き放ち、馬糧を之に與ふべし。
今速に都城より肥えし牛羊曳き來れ、
甘美の酒と麺麭(めんばう)を陣營よりし運び來よ。
更に加へて薪材の多くをこゝに集め來よ、
あすの暁光出づる迄、炎々の火をよもすがら、
わが軍陣の前に焚き、光燄天に()らしめむ。
暗に乘じて長髪のアカイア軍勢蒼惶と、
渺々廣き海上に逃れ去ること得べからず、
又傷みなく静穏に船に乘ること得べからず、
船に乘る時、わが軍の放つ飛箭に投槍に、
打たれて敵のあるものは故郷に疵を養はむ。
之を眺めて他の者は馬術巧みのトロイアの
軍に對して戰鬪を挑むを遂に憚らむ。
ヂュウスのめづる傳令使、今城中に觸れ廻れ、
神の造れる塔上にわが世の花の少年[6]と、
鬢毛白き老人と併せて共に寄るべしと、
又纖弱の女性らはおの〜家に炎々の
火を燃しつゝ、警戒の備、怠ること勿れ、
隙にずる敵軍の不意の襲の無きがため。
わが剛勇のトロイア軍、わが言ふ如く成らしめよ。
わが曰ふ處今に足る、たしかの言句今日に足る。
殘る處は明くる朝宣ぶべし、トロイア陣中に。
望みてわれはクロニオンまた他の神に乞ひ祈る、
ケーレス神[1]に遣はされ、黒き船のへ此郷に
來りし狗群、速かに追ひ攘ふべく今祈る。
夜を徹して我軍の警備怠ること勿れ。
あしたの夜に起し黄銅武裝とゝのへて、
アカイア水師ほど近く攻撃強く試みむ。
ヂオメーデース、猛勇のチュウデーデース、水師より
城壁かけてヘクトール我を果して攘はむや?
彼を或は我斃し血染の鎧剥ぎ得むや?
あすの日彼は其勇をいかにと知らむ、わが襲ふ
槍を迎へて立たん時。さはれ思ふに傷きて
先鋒中に横はり、多數の友ももろともに
倒れん、朝日昇る時。斯くして我はとこしへに
不死と不老の身となりて、藍光の目のアテーネー、
銀弓の神アポローン——神とひとしく譽得む。
アカイア軍に禍の襲ひくること確かなり。』

[6]或版には「少年と」の代りに「少女らと」。
[1]死の運命。

しかく宣するヘクトール、トロイア軍は歡呼しぬ。
かくて汗する駿足を軛よりして解き放ち、
革紐によりおの〜の兵車に之を繋ぎ留む。
衆軍やがて速かに肥えし牛羊都城より、
もたらし來り、陣屋より甘美の酒と麺麭(めんばう)
搬び來りつ、更にまた薪材多く集め來る。
〔衆軍[2]かくて神明にいみじき牲をたてまつり、
風は其香を天上に原頭よりし搬びゆく。
さはれいみじき諸神靈いづれも之を受け納れず、
之を望まず、イーリオン白楊の槍手に揮ふ、
王プリアモス眷族を、民をひとしく憎しめり。〕

[2]五四八 -- 五五二括弧内の數行は如何なる寫本にも無し、プラトーンの作と稱せらるる「アルキビアデース」二歌の中に引用さる、
トロイアの破滅は諸神一切の願に非ず、只一部の神のも之を願ふ、ヂュウスはトロイアを憎まず、其敬信を嘉みすること四歌四四以下に見るべし。

衆軍かくて功名の念に燃えつゝ夜もすがら、
戰場中に休らへり、(かがり)は光煌々と。
譬へば[3]風無き夜半(よは)の空、澄める月球とりかこみ、
燦々として衆星の光照り出で、もろ〜の
山も岬も谿谷もひとしく影を示す時、
天上高く限りなく光る衆星仰ぎ見て、
牧人あすの晴思ひ欣然として勇むごと、
かばかり多くトロイアの軍勢燃やす(かがり)の火、
舟と流のクサントス、(あひ)、イーリオン城の前。
原上、篝の數は千、そのおの〜に相添ひて、
兵員五十、炎々の燄の前にやすらへり。
白き大麥裸麥噛める軍馬も一齊に、
兵車の前に列びたち、あすの曙光を待ちつくす。

[3]此譬喩は有名のもの、テニスンこれをいみじく譯す、何故彼は更に多くを譯さざりしか?
マシュー・アーノルドは其論文『ホーマア飜譯について』の中に此八歌の五五三以下を試譯す。
ポープは最後を語譯す。フォッスの獨譯は頗る妙。


更新日:2004/06/29

イーリアス : 第九歌


第九歌

アカイア軍の憂怖。アガメムノーン退去を説く。ヂオメーデースとネストール之に反對す。 壘壁及び塹濠の防備。諸將の評議。ネストールの發議。アキリュウスを起たしめんとす。 アガメムノーン後悔し、彼に莫大の贈與を盟ふ。 使者としてオヂュッシュースとアイアースとプォイニクスら行く。 アキリュウス之を款待す。オヂュッシュース辯を振って説く。アキリュウス之を拒む。 プォイニクスまた勸めて先例を説く。アイアースも諫む。效なし。使者歸り報ず。 ヂオメーデース衆を勵す、衆軍眠に入る。

かくトロイアの軍勢は警備に勉む、アカイアは
辛き「恐怖」の伴にして神の送れる「逃走」の
靈に憑かれて、最剛の武者も憂愁抑へ得ず、
鱗族多きわだつみの水をボレース、ゼプュロスの、——
[1]トレーケーより湧き起る二つの風の——忽然と
襲ひて吹きて亂す時、狂瀾怒濤一齊に
暴び起りて海草を水のうちとに散らす(ごと)
アカイア族の胸中の思はげしく碎かれぬ。
アトレーデース殊更に心憂にうち沈み、
あなたこなたに歩を進め、聲朗々の傳令の
使に命じ、叫喚を禁じ靜に名を呼びて、
評議の席に諸將軍招き自ら先に立つ。
憂に滿つる席上にアガメムノーン悄然と、
暗き洞より陰惨の泉溢れて巉崖を、
流れ落して來る如く、涕流して立ち上り、
長嘆しつゝアカイアの衆に向ひて陳じいふ、

[1]本詩は小亞細亞に成るとの説を唱ふるもの此らの行を引く。

『あゝアカイアを導きて之を治むるわが友よ、
クロニーオーン、おほいなるヂュウス先には、堅牢の
イ,リオン城を亡して歸陣すべしと約したり。
彼今酷くおほいなる禍難をわれに沈め去り、
惡しき欺騙をたくらみて、われに命じて軍勢を
失ひし後アルゴスに譽なくして歸らしむ。
天威かしこきクロニオーン、しかあることを喜べり。
あゝ彼既に數多く都城の(かうべ)打碎く、
更に此後しかなさむ、無上の威力彼にあり。
されば汝等、我の今宣する處聽き入れよ、
船に乘じて恩愛の故郷に向ひ逃げ歸れ、
街路の廣きトロイアの陷落遂に得べからず。』

しか宣すれば默然と衆軍鳴りをおし靜め、
無言に長くアカイアの子ら一齊に悲しめり。
程經て高き音聲のヂオメーデース陳じ曰ふ、
『アトレーデースよ、我は先づ評議の席にふさはしく、
君の淺慮の言責めむ、願はく怒ること勿れ。
さき頃君は陣中に[1]我を誹謗し罵りぬ、
鬪志はあらず勇なしと、而して此事悉く、
アカイア將軍一齊に老も若きも皆知れり。
クロニデースは意地あしく君に二物を施さず、
すべてに優り王笏の光榮君に與へしも、
至大の力、豪勇の徳をば君に施さず。
訝かし、君はアカイアの子ら鬪志なく勇なしと、
君の宣する言の(ごと)あるを望みてやまざるか?
歸国の途につくことを切に願はゞ速かに、
立ち去れ、途は開けたりミケーネーより從ひて、
君に附き來し數多き舟は岸邊に皆待てり、
されど其他の長髪のアカイア族はトロイアの
城落つる迄殘るべし、更に彼らも一齊に、
舟の乘じて郷めざし遁逃なさんことあるも、
われとわが友[2]ステネロス、トロイア城の最後迄、
奮戰つゞけやまざらむ、神明われと共にあり。』

[1]四歌三七〇以下。
[2]二歌五六四參照。ヂオメーデースは言行共に勇まし。

しか宣すればアカイアの衆一齊に歡呼して、
悍馬を御する英豪のヂオメーデースの言を褒む。
その時騎將ネストール列座の中に立ちて曰ふ、
『チュウデーデーよ、戰鬪の中に汝は至剛の身、
また評定の席の上、同輩中の至上たり。
アカイア族の何人も汝の言を責めざらむ、
爭ふ事はあらざらむ、されど言論なほ足らず、
汝は未だ年若し、齡はを問はゞ汝なほ
我が最少の子の如し、しかも理により説くが故、
アカイア族の王侯に堂々の言吐き得たり。
齡は汝に優れるを誇り得る我今こゝに、
陳じてすべて打明けむ、わが言ふ處何人も、
アガメムノーン大王も敢て侮ること無けむ。
[3]恐るべきかな同士討、これを好める儕輩は
[4]眷屬あらず、法あらず、爐邊の平和またあらず。
暗黒の夜は今到る、夜に應じていざ共に
食事の準備なさしめよ、夜を警むる各隊は
長壁の外 穿(うが)たれし塹濠に沿ひ守備を爲せ。
我少壯にかく勸む、されどこれらの命令は、
アートレーデーよ、君にあり、君は至上の權あれば。
また宿老に[5]饗宴を君具ふるを善しとせむ。
[6]君の陣中蓄ふる好き酒多し、アカイアの
舟大海を渡り來てトレーケーより持ち來る。
君款待の力あり、君は多數を統べ治む。
衆人ひとしく評定の席に着く時、その中に
至上の説を吐くものに聽くべし、アカイア全衆は、
美なる正しき忠言を要せむ、敵は舟近く
煌々として篝焚く、誰かは之を喜ばむ?
わが軍隊を亡ぼすも救ふも正に今宵なり。』

[3]アキリュウスとの調停をほのめかす。
[4]眷屬と法と家庭とは古の社會の三大根底。
[5]宴を催して其後協議せんとす。
[6]七歌四六七參照。

しか宣すれば衆人は耳傾けて之に聽き、
警備の隊は武器具して蒼惶として奔り出づ、
率ゐるものはネスト,ルの生みたる[7]トラシュメーデース、
[1]アスカラポスとアレースの豪勇の子のヤルメノス、
メーリオネース、[2]アパリュウス、[3]デーイピュロス又次ぎて、
クレーオーンの生める息[4]リュコメーデース亦 (たけ)し。
指揮の七將、おのおのに從ふ者は、百人の
若き勇卒、手の中におのおの槍を携へて、
長壁及び塹濠の間、眞中に陣を張り、
炎々篝焚きながらおの〜食の備なす。

[1]二歌五一二。
[2]十三歌四七八。
[3]五歌三二五。
[4]十七歌三四五。

アトレーデース陣中に、アカイア軍の數多き
宿老招き、盛大の宴を彼らのために設く、
備へ設けし飲食に諸將おのおの手を延ばす。
斯くておのおの口腹の慾を滿たして飽ける時、
先に至上の忠言を述べし老將ネストール、
今又衆に先じて勝れし意見述べんとす。
老將即ち慇懃の思をこめて宣し曰ふ、

『アトレーデーよ、光榮のアガメムノーン、衆の王、
[5]わが言最初君に向き、最後同じく君に向く、
君は最多の衆を統ぶ、笏と權威をクロニオーン、
君の手中に托しつゝ、衆人のため計らしむ。
さればすべてに抜きいでゝ君は説くべし、他の説に
耳を貸すべし、他の善しと思ひて進言する處、
君は爲すべし、實行はひとへに君の上にあり。
我今最も善しとする我の意見を陳ずべし。
他の何人も恐くは是に優れる説無けむ。
わが是の意見抱けるは一日ならず、さきつ頃
雷霆の神生める君、明眸プリーセーイスを
アキルリュウスの陣よりし、彼の憤激顧みず、
奪ひ來りし時よりぞ、われらの(さん)せざりしもの、
われもろ〜の理によりて諫めたりしも君聽かず、
權威に誇り紅頬の少女を君は奪ひ取り、
神明さへも尊べるアキルリュウスを辱しめぬ。
甘美の言と珍寳の贈與によりて和げて、
彼に説く道——今になほはゞ——講ずべからずや?』

[5]此の句は神を讃美する時に用ゐるもの、今ネストールはアガメムノーンが恰も地上におけるヂュウスの代表たるが如くに曰ふ。

其時彼に衆の王アガメムノーン答へ曰ふ、
『あゝ(おぢ)、我の(あやまち)を君は正しく説き得たり、
我あやまりて、あやまりて、今更之を否み得じ。
ヂュウスの愛づる英豪は百千人に相當る、
彼を崇めてアカイアに神は禍難を降したり。
無慙の情念われを驅り、われに過失を犯さしむ。
今莫大の贈與もて願くは彼を和げむ。
其償の珍寳を今衆前に披露せむ。
まだ火に觸れぬ鼎七、十タランタの黄金と、
光り耀く釜二十、その神速の脚により
賞を儲けし倔強の良馬揃へて十二頭、
この單蹄の駿足のわがため先に獲しところ、
さほどの財を獲なむ者、乏しき人と曰はるまじ、
人の望める黄金の財に乏しと曰はるまじ。
更に手藝に勝れたる女性七人贈るべし、
そは堅城のレスボスを彼の破りし時にわれ、
自ら撰び取りしもの、艶美秀づるレスボスの
これらの少女贈るべし、中に[6]彼より奪へりし
ブリーセーイス加はらむ、更に盟ひて我曰はむ、
その閨房に進み入り、男女の間、世の常の
習はしなれど慇懃のかたらひなせしこと無きを。
即時にこれら諸の贈遺を彼に整へむ、
而して此後神明の惠みによりて、イーリオン
都城の破壞あらん時、アカイア軍勢其戰利
別たん時に彼來り、黄金黄銅其船に
滿たして、更にトロイアのすぐれし女性十二人、
かのアルゴスのヘレネーに次ぐ者自ら撰ぶべし、
而して異日アルゴスの豐沃の地に歸る時、
彼を養ひ子となして、富裕の生に育ちたる
われの末の子最愛のオレステースに劣るなく、
彼を崇めむ。わが館の中に三人(みたり)の息女あり、
[7]クリュウソテミス、ラーオヂケー、イーピアナッサ——其中の
一人、彼の望む者、[8]結納なくて彼の父、
ペーリュウスのもと彼連れよ、その時われは何人も
未だ其女に與へざる多量の贈遺致すべし。
更に戸口の賑へる七つの都市を贈るべし。
カールダミュレー、緑草のイレー、エノペー、神聖の
ペーラス及び茫々の平原廣きアンテーア、
風光美なるアイペーア、葡萄に富めるペーダソス、
すべては海に遠からず、沙地のピュロスの端を占む。
その住民は牛羊の多くの群を養へり、
その住民は彼迎へ神の如くに尊ばむ、
彼の手にする王笏の下に貢賦は盡きざらむ、
憤怒を解かば彼にわれ以上の贈遺致すべし。
和ぎ彼にあらしめよ、和ぎがたく曲げがたき
冥府のあるじ[1]アイデース、最も人の憎惡たり、
願はく彼の讓らんを、[2]我の王權彼に()し、
我の年齡また彼に比して長きを顧みて。』

[6]アキリュウスの名を指さず、只彼といふ、アキリュウスは之に反して『憎むべきアートレーデース』を繰り返す。
[7]グリース悲劇作中には此らの名に相違あり、イーピアナッサはイプイゲネーアか然らばアウリスにおけるイプイゲネーアの牲の話はホメーロスの全く知られざりしなり。イーピアナッサ此時健在なれば。
[8]嫁の父に資財を呈するは當時の習。
[1]何らの方法を以てしてもアイデースの司配する死を免れず[。]
[2]ネストールが一歌二八〇以下に説く如し。

ゲレーニヤ騎將ネストール其時答へて彼に曰ふ、
『アトレーデース、光榮のアガメムノーン、衆の王、
君の贈遺のもろ〜はアキルリュウスの賤めじ。
ペーレーデース・アキリュウス宿る陣舍に速かに、
行きて説くべき選良をいざ今奮ひ起たしめよ。
よし我之を選ぶべし、選ばるゝもの命を聽け、
ヂュウスの愛づる[3]プォイニクス眞先に立ちて導けや、
次は偉大の[1]アイアース、又神に似る[5]オヂュシュウス、
二人の使オヂオスとユウリバテースまた續け。
[6]清めの水を持ち來れ、聖の沈默あらしめよ、
クロニデースに祈り上げ其冥護をぞ願ふべき。』

[3,4,5]使者三人最も適當。プォイニクスはアキリュウスを其の少年の時育つ、アイアースはアキリュウスに次ぐ最強の武將、オヂュッシュースは能辯にして策謀に富む。
[6]清めの水 六歌二六六 -- 二六八參照。

しか宣すれば衆人は皆喜びて之を聞く。
直ちに[7]侍者は衆人の手に水灑ぎ清めしむ。
若き給仕は芳醇を溢るゝまでに瓶滿たし、
[8]奠酒を果し隊中を廻りすべてに酌み與ふ。
奠酒の式にはじまりて衆人心滿てる時、
アガメムノーン大王の陣を使者等は奔り出づ。
ゲレーニャ騎將ネストールその時衆に、又特に
オヂュッシュウスに目を注ぎ、ペーレーデース英豪の
説伏切に勉むべく種々の訓示を之に埀る。

[7]原文に「使者」なれども、こは今行かんとする使に非ず。
[8]まづ神明に酒を捧げ、盃を地上に傾く。

二人はかくて鞺々とひ゛く波浪の岸に沿ひ、
アキルリュウスの倔強の心容易く服すべく、
大地を搖するおほいなる神に行く行く祈上ぐ。
ミュルミドネスの陣營に並に船に着ける使者、
精美盡して銀製の絃柱もてる[9]竪琴の
玲瓏の()に其王者心樂む姿見る、
エーイチオーンを陷れ鹵獲の中に撰りしもの、
弾じて彼は興じつゝ[10]武勇の事蹟謠ふめり。
パトロクロスは只ひとり默然として其前に、
アイアキデース吟謠を終るを待ちて向ひ座す。
そこに智勇のオヂュシュウス先に二人は進み入り、
アキルリュウスの前にたつ、驚く彼は座より立ち、
手に絃琴をとるまゝに急ぎ二人に向ひ來る、
同じくこれを認めたるパトロクロスも身を起す。
脚神速のアキリュウス其時二人を迎へ曰ふ、
『善くぞ!友とし來るかな、迫る用事は何者か?
我は怒れどアカイアの中に汝は愛の友。』

[9]ホメーロスの詩中、軍將にして琴を弾ずるものはアキリュウスとパリス(三歌五五)他に名を擧げられしもの無し。
[10]ホメーロス以然敍事詩の存せる一證。

然かく陳じてアキリュウス二人導き中に入り、
紫紺いみじき氈しける榻の上之を坐せしめつ、
パトロクロスの傍にたてるに向ひ直にいふ、
『メノイチオスの勇武の子、あほいなる瓶持ち來り、
中に芳醇滿たしめて盃わたせ、おの〜に、
親しみ最も深きもの今陣營の中にあり。』

しかく宣する愛友にパトロクロスは應じきく。
爐火のほとりに大なる卓を据ゑたるアキリュウス、
羊の背肉、山羊の肉、脂肪の光澤々の
家猪の肥鮮の豐肉をとり〜゛これの上にのせ、
[11]オートメドーンを手助けに勇士親しく肉を割き、
薄身に切りて幾條の串に貫き了すれば、
メノイチオスの勇武の子、炎々強き火を燃す。
焚火やがては燃え盡し勢やゝに沈む時、
燠火(おきび)を廣く散らし布き、其上串を据ゑかざし、
更に架上に取り直し清めの鹽をふりかけぬ。
かくして調理事終り、美味卓上に並ぶ時、
パトロクロスは美麗なる籠に麺麭(めんぱう)齎して、
之を頒てば、アキリュウス同じく肉を衆前に。
かくして彼はオヂュシュウスまともにおのが座を占めつ、
パトロクロスに命下し諸神に牲を捧げしむ、
友は應じて調し得し眞先の肉を火に投ず。
かくして衆はその前の美味に向ひて手をのしつ、
やがて飲食事終り口腹おの〜飽ける時、
ポイニクス見てアイアースうなづく、これはオヂュシュウス
悟り、盃充たしつゝアキルリュウスを祝し曰ふ、

[11]アキリュウスの御者。十七歌四二九。

『さきくあれかしアキリュウス。われら共同の宴缺かず、
アガメムノーン光榮のアトレーデース、其陣に
同じく共に皆缺かず、心を慰する饗宴の
豐かの料は具はれり、さはれ飲食今われの
煩ひならず、おほいなる禍難逼るを我恐る。
あゝアキリュウス!君にして奮ひたゝずばアカイアの
櫓櫂いみじく備はれる舟の存亡計られず。
水師並に長壁に近く勇めるトローエス、
遠くよりして呼ばれ來し援軍共に陣を布き、
諸隊あまねく煌々と篝火を焼きて宣すらく、
敵は拒ぐを得べからず、船中なして逃れんと。
彼らに向ひ[1]クロニオーン吉兆示し、霹靂を
飛ばして、かくてヘクトール高言吐きて傲然と、
物凄き迄暴れ狂ひ、ヂュウスを信じ、何人も
何らの神も尊まず、はげしき猛威身に滿てり。
彼は曙光の速かの出現切に乞ひ禱り、
舳より[2]記號剥ぎとりて舟を炎々の火に焼きつ、
烟に咽び逃げ迷ふアカイア軍をそのそばに
皆悉く討つべしと飽く迄誇り叫び曰ふ。
われは痛くも心中に嘆きて畏る、神明の
計らひ、彼のおびやかし成りて、アルゴス——駿足を
産する地より遠くこゝトロイアの地に死すべきを。
トロイア軍の奮戰に痛くも惱むアカイアの
軍勢救ふ念あらば、よし遲くとも奮ひ起て。
さらずば悲嘆君に來む、一たびすでに逃げられし
禍難の治療見出すべき術あるなけむ、されば今
アカイア軍の禍の日を掃ふべく努めずや。
あゝ友、父のペーリュウス薄、プチーエーより君の身を
[4]アガメムノーンに送りし日、訓戒切に斯く曰ひき、
「わが子よ、汝にアテーネー及びヘーレー意ある時、
威力惠まむ、胸中に汝よろしく剛強の
心を抑へ制すべし、謹愼の徳あゝ思へ、
禍醸す爭を根絶すべく心せよ、
しかせばアカイア老少はひとしく汝崇むべし。」
老翁斯くも教訓を垂れしを君は忘れたり。
いざ今心肝煩はす怒を棄てよ、アガメムノーン、
怒棄つべく君のためいみじき贈遺備へせり。
君もしこれを聞かまくばアガメムノーン營中に
約し盟ひし珍寳の數々こゝに語るべし。
まだ火に觸れぬ鼎七、十タランタの黄金と、
光り耀く釜二十、その神速の脚により、
懸賞得たる倔強の良馬揃へて十二頭、
これらすぐれし駿足のアガメムノーンに獲し所、
さほどの財を獲る者は乏しき人と曰はるまじ、
人々望む黄金の財に乏しと曰はるまじ、
更に手藝に秀でたる女性七人贈るべし。
こは堅城のレスボスを君の破りし時に彼
自ら撰び取りしもの、艶美秀づるレスボスの
これらの少女贈るべし、中に君より奪へりし
ブリーセーイス加はらむ、更に盟ひて彼は曰ふ、
かの閨房に進み入り男女の間、世の常の
習はし、彼と慇懃のかたらひ爲せしこと無きを。
即時にこれらもろ〜の贈遺を君に整へむ、
而して此後神明の惠によりて、イーリオン
都城の破滅あらむ時、アカイア軍勢その戰利
頒たん時に、君行きて、黄金、黄銅、船中に
滿たして更にトロイアのすぐれし女性二十人、
かのアルゴスのヘレネーに次ぐもの君は撰ぶべし。
而して異日アルゴスの豐沃の地に歸る時、
君を養ひ子となして、富裕の生に育ちたる
かれの末の子、最愛のオレステースに劣るなく
君を崇めむ、彼の館、中に三人の息女あり、
クリューソテミス、ラーオヂーケー、イーピアナッサ——その中の
一人、君の望む者、結納なくて君が父
ペーリュースのもと君つれむ、その時彼は何人も
未だ息女に與へざる多くの贈與致すべし。
更に人口殷賑の都城七つを贈るべし、
カールダミュレー、緑草のイレー、エノペー、神聖の
ペーラス及び茫々の平原廣きアンテーア、
風光美なるアイペーア、葡萄に富めるペーダソス、
すべては海に遠からず、沙地のピュロスの端にあり、
その住民は牛羊の多くの群を養へり、
其住民は君迎へ神の如くに尊ばむ。
君の手にする王笏の下に貢賦は盡きざらむ。
憤怒を解かば君に彼以上の贈遺致すべし。
アトレーデース及び其贈遺を痛く憎むとも、
君願はくは、陣中に惱むすべてのアカイアの
他の軍勢に哀憐を垂れよ、彼等は神明の
如くに君を尊べり、その眼前に勲功を
たてよ、近くに寄せ來るかれ、ヘクトール打斃せ、
暴びたけりて彼は曰ふ、戰艦こゝに搬び來し
ダナオイ軍の一人も我に手向ふ者なしと。』

[1]八歌一四一 -- 一七〇等。
[2]舳部における突出部。ヘクトールは之を鹵獲品となさんとするか?
[3]『禍難の來りし後は愚者も知る(悟る)』十七歌三二參照。
[4]オヂュシュウスはネストールと共にプチーエーに行きてアキリュウスを誘へり(十一歌七六五)。

脚神速のアキリュウス其時答へて彼に曰ふ、
『ラーエルテースの秀れし子、智謀に富めるオヂュシュウス、
心にわれの思ふ儘、事成るべしと思ふ儘、
矯飾あらず、明かに口を開くぞ善かるべき。
かくせば君らわが前にうるさき言句述べざらむ。
心に一事蓄へて口に別事を述ぶる者、
我は痛くも忌みきらふ、冥王の門見る如し。
今わが心正當と思ふ所を陳ずべし、
アトレーデース、アガメムノーン並に外のアカイアの
すべてはわれに勸誘をなすべからずと我思ふ。
不斷に敵と鬪へど常に感謝は拂はれず、
同じ運休休らへる、はた鬪へる者にあり、
同じ運命卑怯なる、はた勇悍の者にあり、
死は一樣に勤めたる、はた怠れる者にあり、
命を不斷の戰に(さら)して爲めに心中に
いたく苦難をうけし後、われに何らの酬なし。
譬へば未だ飛び得ざる雛に其餌をあさり來て
與へて、たゞに辛酸を自ら嘗むる母鳥か。
敵と戰ひ汝等のめづる女性を護るため、
斯く我、多く睡眠を知らざる夜を過したり。
斯く我、多く流血の無慚の日數過したり。
船の乗じて敵人の[1]十二の都城打ち破り、
また陸上にトロイアの郷に十一陷れ、
其一切の財寳を奪ひ來りて衆の王、
アガメムノーン、權勢のアトレーデースに與へたり。
彼は水師の(かたはら)に悠然として居殘りて、
受けて小量他に頒ち自ら多く貪りぬ。
其列王と諸將とに頒ちし戰利皆共に
衆は手中に失はず、ひとりアカイア軍中に
わが得しところ温柔の女性を彼は奪ひ去る。
歡會かれにあらしめよ。思へ、アカイア軍勢は
何らの故にトロイアに敵せる?衆を何故に
アトレーデース率ゐたる?——ヘレネー故にあらざるや?
肥え朗かの人類の中に女性を愛するは、
アトレーデースあるのみか。情理正しき者は皆
[2]妻女を愛し勞はらむ。我また等しく慇懃に、
彼女を愛でき、戰鬪の力によりて獲たれども。
わが手中よりわが戰利奪ひて恥辱與へたる
彼はいかでか我に説き我を服することを得む。
オヂュッシュウスよ、彼をして君と諸將の力借り、
敵の猛火を水師より攘はん術を取らしめよ。
我に加はることなくて夥多の業は遂げられぬ、
長壁すでに築かれぬ、めぐりに廣き大なる
濠穿たれぬ、其中に多くの(くひ)は植ゑられぬ、
しかも斯くして獰猛の敵ヘクトール攻め來るを、
防ぎも得せじ。先に我、アカイア陣にありし時、
かれヘクトール城壁を離れ戰鬪挑み得ず、
たゞスカイエー城門と樫の樹のそば寄せ來り、
一囘われと戰ひて危く命を免れき。
されど我今ヘクトール敵とすること好まねば、
ヂュウス並にもろ〜の神を明日の日祭る後、
物滿載のわが緒船、水におろさむ、その時に、
(望まば、而して此事に君ら意あらば)眺むべし、
暁早くわが諸船、鱗族富めるわがつ海
かのヘルレースポントス渡るを、水夫櫂取るを。
大地を震ふポセードーン善き航海を惠みなば、
第三日に豐沃のプチーエーにぞ歸るべき。
我に多くの資財あり、不幸にこゝより黄金を
また黄銅を、美はしき帶の女性を、鋼鐵を、
我の得し者悉く搬び去るべし、然れども
アガメムノーンわれの手に先に頒ちて今奪ふ。
これ等を彼に公然とわが望む儘云へ——さらば
厚顏常に恥知らず、恐らく更にダナオイの
とある一人欺くを彼望むとき、一齊に
アカイア軍は怒るべし。[1]狗に等しき(おも)持つも、
アトレーデース今更に我をまともに眺め得じ、
評議或は行動にわれ亦かれと伴ならず、
われを欺き怒らせし彼また更に甘言に、
欺くことを得べからず、事すでに足る、今やいざ
破滅に向へ、神明は彼より智慮を取去りぬ。
彼の贈遺は汚らはし、われに微塵の價なし、
彼の所有の十倍に、はた二十倍、更に又
他方より來る財寳に、[2]オルコメノスの領に入る
其貢獻の數々に、[3]アイギュプトスのテーベーの
貢獻加へ贈るとも——巨萬の富の満ち溢る
テーベー百の門ありてその各を兵二百
馬と車と共に過ぐ——これらをわれに贈るとも、
沙と塵との數多き贈遺をわれに爲すとても、
我を惱めし禍のすべてを拂ふことなくば、
アガメムノーンわが心絶えて説得すべからず。
アガメムノーン權勢のアトレーテース生める子を
我娶るまじ、美に於てアプロヂテーに競ふとも、
技藝に於てアテーネー・パラス神女の等しとも、
我娶るまじ、王をして他のアカイアの族にして
更に權勢優る者、適せる者を取らしめよ。
若し神明の加護ありて故郷に我の歸りなば
われに必ずペーリュウス一人の女性撰ぶべし。
ヘルラス及びプチイエー、中に多くのアカイアの
女性ら、都市を防護する勇士の生める息女あり、
中の一人、われの意に適する者を婦となさむ。
かくて正しき合法の配偶を得て之と共、
老ペーリュウス、われの父、獲たる資財をうけつぎて
享樂すべし、その強き情願われの胸に滿つ。
アカイア軍の寄する前、先に平和の日にありて、
トロイア族の持てりてふ其珍寳の數々も、
はた石がちの[4]ピュートウの地の銀弓のアポローン・
プォイボス神の殿堂の中に収まる珍寳も、
わが見る所生命に絶えて優れる物ならず。
肥えたる羊、牛の群之を獲ること難からず、
鼎鐺はたまた銀色の駿馬も求め難からず、
たゞ人間のこの呼吸、齒の防壁を出で去らば、
本に囘すを得べからず、捕ふることを得べからず。
足銀色の玲瓏のわが母テチス示し曰ふ、
二重の運命われをわが最期の途に導くと、
トロイア城の壁の下、こゝに殘りて戰はゞ、
歸郷の幸は失はれ、不朽の名譽獲らるべし、
之に反してわが愛づる祖先の郷に歸らんか、
高き光榮失はれ、しかも壽命は長うして、
死の運命は速かにわれに到らん事あらじ。
われ又衆に船の乘り郷に歸るを勸むべし。
高き堅城イーリオン、其滅亡の期をもはや
汝らを見るを得べからず、轟雷震ふクロニオーン、
手を延べ之を擁護して其民奮ひ喜べり。
さはれ汝ら今行きてわがアカイアの諸勇士に
其報告を齎せよ(そは宿老の勤め也)
彼らの船と船中のアカイア軍を救ふべき、
外の優れる考案を、其胸中に講ずべく
彼らの告げよ、今の案效なし、救これにより
實現するを得べからず、わが憤激は解けざれば。
さはれ老將プォイニクス、こゝに殘りて休み取れ、
明日われの船の上、我に從ほ故郷に
望まば歸り行かんため、さはれ強ゆるを我はせず。』

[1]レスボス(九歌一二九)テネドス(十一歌六二六)テーベー(二歌六九一)ペーダソス(六歌三五)及び其他。
[2]此一段も亦英雄時代における正式結婚の婦人に對する愛の證明。
[1]一歌二二五。
[2]ミニアイの首都、二歌五二。
[3]エジプトのテーベー(テーブス)は當時全盛、第二十一王朝の都。
[4]デルファイの古名、「イーリアス」全體中ただ一度こゝに名ざさる「オヂュッセーア」には二度八歌七九、十一歌五八〇。

しか宣すれば之を聞く衆默然と口を閉ぢ、
勢猛に拒みたる彼の言句に驚けり。
馬術巧みのプォイニクス老將その時アカイアの
水師を痛く悲しみて熱涙そゝぎ陳じいふ、
『[5]あゝ勇壯のアキリュウス、憤激汝の身を驅りて、
歸郷の念を胸中に抱き、無慚の兵燹を
攘ひて水師防ぐこと少しも汝望まずば、
あゝわが愛兒いかにして汝と離れ我こゝに
殘るを得んや?その昔馬術巧みのペーリュウス、
プチイエーよりわれと共アガメムノーンに遣はせし
其日汝は若かりき、すべてに辛き戰鬪を
知らず、評議の席の上、身を抜んずる術知らず。
そも如何にして言論に秀で戰法長ずべき。
之を汝に示すべく老將われを遣はしき。
されば愛兒よ、汝より離るゝ事ぞ憂はしき、
離れは得せじ。離れなば神明われの老衰を
癒し、むかしの青春を囘すとよしや約すとも。
あゝ青春のその昔、われははじめて麗人の
郷ヘルラスを立ち退きぬ、父の怒を避くるため
(オルメノスより生れたるアミュントールは我の父)
父は正妻わが母を嫌ひて、とある麗人を
戀へり、悲しむわが母は反間の策先んじて、
其麗人と契るべく我に請願切なりき。
我其言に從ひてしか行へり、そを悟る
父ははげしき呪詛の言放ちて凄き[1]復讐の
神女に乞へり、彼の膝攀づべき者の一人だも
われより生れ出でざれと——其請願を納受せる
深き地底の[2]ヂュウス又[3]ペルセポネーア恐るべし。
悲憤に耐へず鋭利なる刄に父を弑せんと
念ぜる折に、とある神、我を抑へてわが胸に、
アカイア族の中にして父を殺せる惡名の
世間の批判思はしめ、緒人の非難恐れしむ。
かくて瞋恙[誤?:瞋恚]の父と共、同じき宿に一身を
留めんことは胸中に遂に全く忍ばれず。
さはれ親戚僚友は共にひとしく傍に
ありて館中殘るべく諫諍切に我を止む。
即ち蹣跚と歩み行き、角の曲れる肥えし牛、
脂肪に富める羊また家猪を屠りて、炎々の
[4]ヘープァイストスの火の上にかざして之を炙り焼き、
又老人の蓄ふる瓶より酒を酌みほして、
かくして九囘夜を重ね、我のめぐりにやすらへり。
衆人かくてかへ〜゛に監視續けて、一方は
防備嚴しき中庭の廻廊の下、他の方は
わが住む室の戸に近き玄關の前、煌々の
篝火絶えず焼きつゞく。されど十日目暗黒の
夜來る時、わが室の堅く閉せる戸を破り、
又中庭の厚き壁、容易く越して、警戒の
緒人並に奉仕せる女性の(まみ)を掠め去り、
逃れて遠く茫々のヘラスの郷を巡り行き、
足駐めしは羊群の滿てる肥沃のプチーエー。
その領主たるペーリュウス、身を慇懃にもてなして
愛でぬ。さながら老齡に及びはじめて儲けたる
唯一の子息、裕なる家庭にはぐむ親の如。
かくして我に富與へ、多く庶民を從はす。
斯くプチーエーの端を占め、[5]ドロペス族を我統べぬ。
而して汝を心より、あゝ神に似るアキリュウス、
愛でつゝ我は[6]育み來ぬ、汝その時他の者と
共に食事の卓上に着かず、館裏に物 ()まず、
必ず我の膝の上、坐するを汝常としつ、
わが細かに切りしもの食みて葡萄の美酒すゝり、
時に幼稚の身の習ひ、啣めるものをわが胸の
上に吐きだし笑止にもわれの衣を潤しき。
汝の爲に斯くばかり我は勞苦の數積めり。
神明われに生まるべき子を許さずと觀じ知り、
アキルリュウスよ、我の子と汝を見なし、いつしかは
わがためつらき災難を攘はんことを望みてき。
あゝアキリュウス剛腹の心抑へよ、殘忍の
思を胸に滿たしめな、徳も力も光榮も
優る神靈、彼すらも時には讓ることあらむ。
罪を犯して悔ゆる時、香を燻じて心より
祈願をいたし、奠酒禮供へ、脂肪のいけにへを
捧げて人は神明の心を抂ぐることを得む。
知るべし「祈願」もろ〜はクロニオーンの息女なり。
其脚 (なへ)ぎ其おもて皺み其 (まみ)斜視にして、
常に[7]「罪過」の後を追ひ進み行くべくこゝろざす。
「罪過」は強し、脚速し、速きが故に一切を
凌ぎ大地の面に添ひ、先んじ驅けて人類に
種々の禍害を蒙むらす、「祈願」は後に之を治す。
クロニオーンの息女らの近よる時に崇敬を
致さん者は惠まれて其念願は聽かるべし、
之を推し退()け頑強に拒まん者は許されじ、
「罪過」に彼の追ひつかれ禍難をうけて償ふを、
息女ら即ちクロニオーン・ヂュウスに迫り求むべし。
アキルリュウスよ、謹みてクロニオーンの息女らを
崇へ、外の英豪も心ひとしく伏すところ。
アトレーデース禮物を贈らば、後を約さずば、
而して今に其激怒續けて休む無かりせば、
其事いかに緊急に要ありとても、汝また
怒を棄てゝアカイアを救へと我は命ずまじ。
されども彼は今多く贈與し、後を又約し、
而してアカイア族中親しみも最も深き僚友を、
送りて哀訴致さしむ。先の怒は可なれども、
彼らの言句又使命汝侮ること勿れ。
われはすぎにし古のすぐれしものが、憤激を
起してしかも禮物を受けて動きて、諫爭に
從ひたりし行動の次第つぶさに聞き知れり。
そのいにしへの事にして新たの跡にあらぬもの、
思ひ出でたり、汝らのすべての前に陳ずべし。
クーレーテス族、豪勇のアイトーロイ族その昔、
カリュドーンの都市のそば相戰ひて打ち打たる、
アイトーロイは美はしきカリュドーンの都市守り、
クーレーテスは其都市を攻め落さんと焦りたる——
([1]事の起りを尋ぬれば)オイニュウス王もろ〜の
神には犠牲捧げしも、黄金の座のアルテミス
神女に對し豐沃の土地の初穂を獻ぜねば、
クロニオーンの女は怒り禍難をこゝに蒙むらす。
懈怠あるひは忘却によりて國王過てり。
斯くして弓に巧みなる神女怒りて、兇暴の
野猪を下して鋭利なるましろき牙を鳴らさしめ、
王の領する豐沃の地をこと〜゛く荒さしむ。
あまたの巨木根こそぎに、花も果實も猛獣は
皆一齊に累々と大地の上に倒れしむ。
オイニュウス王生めり息、メレアーグロスその時に、
獵犬及び獵犬を種々の都市より集め來て、
野猪を斃しぬ(大なる野獸を先に僅少の
衆制し得ず、そこばくの人は殺され(から)焼かる)
されども神女斃されし獸の(かうべ)、粗き毛の
皮を爭ふ亂鬪を、クーレーレスと豪勇の
アイトーロイの兩族の間に更に生ぜしむ。
メレアーグロス戰鬪を續けし限り、敵軍の
クーレーテズは不利にして、其軍勢は多けれど、
敗れて都市の城壁の外に留ることを得ず。
[2]メレアーグロス、然れどもそゞろ憤激堪へやらず、
——思慮あるものも憤激によりて胸裏に念亂る——
生みの母なるアルタイア、母に對して憤り、
クレオパトレー艶美なる妻のかたへに身を留む。
ユウエーノスの生み出でしマルペーッサは妻の母、
父はイデース、人界の中に最も強きもの、
脚美はしき女子のため、神プォイボス・アポローン、
威靈かしこき神明に向ひて嘗て弓張りぬ。
父と母とは其館に[3]アルキオネーの綽名もて
愛女を呼べり、遠矢射る神プォイボス・アポローン、
彼女を奪ひ去りし時、悲痛はげしき哀號の
その[4]禽鳥を見る如く痛くも嘆き泣きたれば。
其女のそばに豪勇のメレアーグロス身を留め、
母に激しく憤る、母はおのれの兄弟を
打ち斃されし怨よりおのが愛兒を呪詛しつゝ、
其手をあげてあまたゝび大地を打ちて、ハイデース
冥王及び恐るべきペルセポネーア呼びかけつ、
大地に膝をつき乍ら襟をうるほして、
愛兒の死滅乞ひ求む、そを暗に住むエリーニュス、
無情の心持てる靈、エレボスよりし聞き入れぬ。
今速かに城門のほとり巨塔は破られて、
騒音はげしく湧き起り、アイトーロイの諸長老、
神の至上の祭司らを送りて彼に莫大の
贈與を約し、現れて救助なすべく乞ひ求め、
地味豐饒のカリュドーン、中にも特にすぐれし部、
そこに意のまゝ撰ぶべき五十ギオンを——其中の
半ばは葡萄みのる園、半ばは平野、耕作に
適するものを取るべしと衆人かれに約し曰ふ。
更に其父オイニュウス老いし騎將も彼に乞ひ、
彼の宿れる高き屋の居室の閾進み入り、
その堅牢に組まれたる戸をゆるがして哀訴しつ、
同じく共に其姉妹、先に咀ひし母も亦、
其哀憐を求むれど聽かず、同じくもろ〜の
僚友※皆の中にして親交最も厚きもの、
誠あるもの願へども彼の心を抂げ難し。
されども遂にその居室激しく破り、塔上を
クーレーテス族攀ぢ登り、兵火放ちて都城焼く。
その時美麗の帶纒ふ妻は嘆きて其夫、
メレアーグロスに訴へつ、都城一たび破る時、
來らむ慘禍——其民は屠られ盡し、城塞は、
兵燹燃やし、其子らは、また女性らは囚はれて、
漂浪の道進むべき無慙の姿ものがたる、
かたる慘状耳にしてメレアーグロス猛然と、
思ひ直して立ち上り、燦爛の武具身に着けて、
進み戰ひ、禍をアイトーロイより攘ひ去る。
されど約せし數々の贈與は遂に果されず、
果されざれど勇將は國の慘禍を攘ひ退()く。
されども友よ情念を彼と同じうする勿れ、
神明願はく此途に君を誘ふこと勿れ、
わが船舶の焼けん時、救はすでに遲からむ。
來り禮物今うけよ、アカイア族は神の如、
君を崇めむ、禮物の無きに及びて戰はゞ、
敵軍いかに破るともかかる光榮得べからず。』

[5]六〇五までプォイニクスの言つづく。
[1]エリーニユス(單數)エリーニユエス(複數)はこゝに父の權利の擁護者として説かる。
[2]冥王ハイデース。
[3]冥王ハイデースの妻。
[4]火を掌る神。
[5]プチーエーの西に住む民族、こゝよりポオイニクスはミルミドネス五隊の一を率ゐ來る(十六歌一九六)。
[6]十一歌八三一によればケントール彼を救ふ。
[7]人の犯す罪過、之を治むるものは神明への祈願(リタイ)。脚蹇ぎ云々は懺悔者の態度を表す。
[1]原文に此句無し、添加す。
[2]メイアーグロスはアイトーロイ族の王オウニュースの子、母はクーレーテス族の王女。
野猪を殺せる後メレアーグロスは母アルタイアの兄弟と爭ひ彼らを殺して母の爲めに咒はる。
イデースはユーエーノスより其女マルペーツサを奪ふ、而してアポローンまた彼女を得んとして彼と爭ふ。
ヂュウス女をして撰ばしむ、女はイデースを撰ぶ。イデースとマルペーツサの間に生れしはクレオパトレー即ちメレアーグロスの妻。
メレアーグロス母の咒詛を怒り、愛妻の許に閉ぢこもる。クーレーテス軍來りてアイトーロイの城を攻めし時も出でて救はず、後ち愛妻の痛諫によりて初めて起って之を救ふ。
[3]即ちクレオパトレー。
[4]翡翠(英語halcyon)の言語はアルキオネー。

脚神速のアキリュウス答へてその時彼に曰ふ、
『あゝプォイニクス、敬すべき(おぢ)よ、ヂュウスの愛づる君、
君曰ふ如き光榮は我に要なし、我思ふ、
ヂュウスはすでに光榮を我に賜へり、船のそば
息ある限り、兩膝の動く限りは身にあらむ。
今われ一事君に曰ふ、銘ぜよ、これを胸の中、
アトレーデースのため計り、われの心を嘆息と
悲泣によりて亂すことやめよ、かの人愛するは
君に似合はず、しかなさばわが憎惡の的たらむ。
惱す彼を我とゝも惱すことぞ君によき。
我と等しく統治せよ、威光の半わけ受けよ。
他の友僚はわが答、歸りて述べん、君はこゝ、
陣に殘りて温柔の床に休らへ、あくる朝
君もろともに計るべし、歸るや或は殘るやを。』

しかく宣して眉あげて、パトロクロスに言葉なく
合圖をなして、老將を床に就かしめ、速かに
陣營よりし別るべく他の僚友を誘はしむ。
テラモニデース・アイアース其時口を開き曰ふ、

『[1]ラーエルテースのすぐれし子、計策富めるオヂュシュウス、
いざ辭し去らむ、言説の目的かゝる道により、
遂げらるべしと思はれず、いま迅速に彼の言、
よし善からずも待ち侘ぶるアカイア族に傳ふべし。
あゝアキリュウス、剛勇のペーレーデース、飽くまでも
其胸中に憤懣の思ひ滿たして、無慙にも
其同僚の愛情を——水師のほとり一切の
他の誰よりも尊べる其友情を顧みず。
あゝ無慙なりアキリュウス!見ずや世の人、兄弟を、
子を亡せる仇よりし賠償収め許す時、
其族人のたゞ中に仇は安んじ身を留む。
賠償得たる者はその激しき怒抑へとむ。
神明君の胸の中、少女一人の故をもて、
抂げざるつらき心おく、而して今は七人の
明眸及び諸の贈與は君に捧げらる。
君、その心和げよ、又欵待の禮思へ、
君の宿れる陣の中、われらはこゝにダナオイの
中より來り、アカイアの族人中の誰よりも、
誠盡して慇懃に君と睦みを冀ふ。』

[1]卒直なる武人の句として簡單明瞭、一女子の賠に七女子を得て足らざるや?云々。

脚神速のアキリュウス其時答へて彼に曰ふ、
『神より()れしアイアース、テラモーンの子、民の王、
衷心よりし君のいふ言に一理のあるを見る。
しかはあれどもアルゴスの衆人中にわれを彼、
アトレーデース無禮にも、さながら一の放浪の
徒たるが如く恥ぢしめし時を思へば、憤激は
わが胸そゝる、いざ歸り我の答を傳へ曰へ、
プリアミデース・ヘクトール勇を奮ひてアルゴスの
子らを殺しつ、兵燹に船を亡し、進み來て
ミルミドネスの陣犯す其時未だ到らずば、
われ鮮血を流すべき戰思ふことあらず。
さはれいかほど勇むともわが陣營と船のそば
彼、ヘクトール、戰を挑むわれに憚らむ。』

陳じ終ればおの〜は二柄の(はい)に灌酒しつ、
オヂュシュウスは先にたち、水師に沿ひて歸り去る。
こなた急ぎて友僚と婢女とに命じ、慇懃に
パトロクロスは厚く床、老將のため設けしむ。
命に應じて人々は床を設けつ、羊毛の
氈と被覆と華麗なる麻布とを之に備ふれば、
老人しづかに其中に身を横へて(あけ)を待つ。
アキルリュウスは堅固なる陣營の奥、床に就く。
その側に添臥すはパルボスの女、紅頬の
ヂオメーデーはそのむかし、レスボスよりし連れし者。
パトロクロスの(かたへ)には帶美はしき一女性、
イーピス待しぬ、エニュユース領する高地スキュロスの
都城落せるアキリュウス囚へて彼に與へし子。

アガメムノーンの陣營にかなた使節の歸る時、
之を抑へて立ち上る衆陣おの〜黄金の
盃あげて勞らひつ、アキルリュウスの答聞く、
眞先に口を聞けるはアガメムノーン、衆の王、
來れ、褒むべきオヂュシュウス、あゝアカイアの譽たる
君、報じいへ、アキリュウス、敵の猛火を掃はんと
思ふや、あるは憤激をやめず、わが命拒めるや?』

耐忍強きオヂュシュウス其時答へて彼に曰ふ、
『アトレーデース、光榮のアガメムノーン、衆の王、
聞け、かの人は憤激をやめず、ます〜胸の中
瞋恙蓄へ、君の威と君の贈遺を拒み棄て、
アカイア軍と軍船をそもいかにして救ふべき、
之をアルゴス衆人の(あひ)に計れと君に曰ふ、
而して更に嚇し曰ふ、明くる曙光ともろともに
二列漕座のよき船を海に泛べて去るべしと。
而かも猶いふ、他を勸め、故山に向ひ波わけて
歸らしめんと、蓋し彼思へり、高きイーリオン、
その陷落は望まれず、音聲高きクロニオン、
之に應護の手を加へ、其民ひとしく勇み立つ。
斯くこと彼は陳じたれ、我に從ひ行きしもの、
アイアーヌ[誤?:アイアース]又兩人の使節謹み深きもの、
同じく之を報ずべし、老プォイニクス彼ひとり、
かしこに留る、アキリュウス、彼に勸めて明くる日に
郷に意あらば波わけむ、されど強ゆるをせずと曰ふ。』

しか報ずれば衆軍は默然として鳴靜め、
アキルリュウスの猛烈の言句を聞きて驚けり。
長きに亘り、口緘み、心惱ますアカイアの
陣中、やがて猛勇のヂオメーデース起ちて曰ふ、
『アトレーデース、光榮のアガメムノーン、衆の王、
アキルリュウスに哀願を致して、君が(はかり)なき
贈與を約し盟ひしは、よからざりけり、さなきだに
傲れる彼に一層の驕慢、君は増さしめぬ。
さはれ歸るも留るも彼に任せよ、いつの日か
其胸中の勇猛の心促し起たん時、
神明彼を驅らむ時、彼は再び戰はむ。
いざ今我の曰ふ處、衆軍聞きて受け入れよ、
酒と食とを口腹に滿たして後に床に就き、
英氣養へ、酒と食、そは勇氣なり、力なり。
薔薇の紅き指もてる美なる「(あけぼの)」出づる時、
水師の前に速に軍馬軍勢整へて
之を勵せ、先鋒の中にわが王あゝ奮へ。』

しか陳ずれば諸將軍、皆一齊に歡呼しつ、
悍馬を御する猛勇のヂオメーデースの言を褒む。
かくておの〜灌酒禮、終りて陣の引き歸り、
臥床に其身横へて眠の神の惠受く。


更新日:2004/07/12

イーリアス : 第十歌


第十歌

深夜アガメムノーン憂ひて起ち弟メネラーオスと共に陣中を巡り諸將軍を呼び醒す。 ネストール進言し、偵察を爲すべく諸將に計る。ヂオメーデース及びオヂュッシュース選に當りて進む。 トロイアの偵者ドローンを捕ふ。其白状。之により兩將進んでトロイア軍の援軍トレーケース軍を襲ひ、 十二將を斃し、最後に其王レーソスを殺し、馬を奪ひて凱旋す。 本篇は『ドローン物語』と稱せらる。或評家は後世の追加なりといふ。

他の[1]アカイアの諸將軍、おの〜船の傍に
甘き眠に襲はれて夢路に入りぬ、よもすがら、
されど胸中さま〜゛に思ひ煩ふ民の王、
アガメムノーン温柔の熟睡遂に取るを得ず。
鬢毛美なるヘーレーの夫、天王クロニオン、
電火を飛ばし、大雷雨あるは雹霰あるは雪、
(雪は粉々亂れ飛び原野を掩ひ、時に又、
もの恐しき戰鬪の巨大の口を掩ふめり)
雪を來らす時の如、アガメムノーン胸中に、
心肝深き底よりし[2]屢々うめき身をもだゆ。
眸放ちてトロイアの原上彼は眺めやり、
イリオン城を前にして燃ゆる數千の篝火に、
又吹奏の笛の音、人の騒ぎに驚きつ、
次にアカイア軍勢と其兵船を見渡しつ、
その根元より頭上の[3]毛髪あまた掻きむしり、
高きにゐます雷霆の神に祈りてうめき泣く。
王は其時胸中の此計畫を善しと見る——
ネーリュウスの子、ネストール、人中最も優る者、
之を訪ひ行き、もろともにダナオイ族の一切の
禍難を攘ふ方略を講ぜんことを善しと見る。
即ちむくと身を起し胸のめぐりに武具を着け、
耀く双の足の下、美麗の軍鞋穿つ後、
大なる獅子の鳶色の毛皮——足まで埀るゝもの——
肩の廻りに投げかけて鋭利の槍を手に取りぬ。

[1]此本篇の初りは二歌の初を模したるものとリーフは曰ふ(集合論者リーフはイーリアスを構成する諸篇の作成の時代を三段に區別す)。
[2]電火の屢々飛ぶ如く屢々(しば〜)うめく。比喩は唯比のみ。
[3]十八歌二七。

甘眠同じくその眼蓋おとづれかねしメネラオス、
アガメムノンの弟は、彼の爲とて大海の
波浪を渡り、トロイアに來り、激しき戰鬪を
思ふアルゴス軍勢の惱み恐れて胸痛む。
即ち先に斑なる豹の毛皮に肩掩ひ、
次に燦爛光射る黄銅製の兜取り、
頭上に之をいたゞきて、その剛強の手に槍を
握り、その兄(アルゴスの衆のすべてに命下し
神の如くに敬さるゝ)兄醒ますべく趨り行き、
船尾のかたへ華麗なる武具を肩のへ投げ懸けし
兄——大王を見出して其到着を喜ばる。
その時勇猛のメネラオス先づ口開き陳じ曰ふ、
『君。何が故黄銅の兜を着くる?トロイアの
軍探るべく同僚の一人醒まさんためなるや?
暗黒の夜にたゞ獨り奮ひ進みて敵軍の
偵察敢てなすべしと君に約さんものありや?
さる者無きを我恐る、あらば無双の勇ならむ。』

アガメムノーン權勢の王者、乃ち答へ曰ふ、
『神の育つるメネラオス!アルゴス勢と水軍を
防ぎて救ふ方策の急務は、我と汝とに
今こそ到れ、天王の神慮變ると我は見る。
神は心をヘクト,ルの犠牲の上に注ぐめり、
神の愛するヘクトール、さもあれ神の子に非ず、
神女の子にもあらぬもの、アカイア軍に加へたる
かゝる災難一日に、何者嘗て身一つに
起せるありや?我は見ず、人の語るを我聞かず。
大難われに加へたる彼の武功は末遠く、
遙かに遠くアルゴスの民の憂の種たらむ。
さはれ水軍さして行き、呼べ勇猛のアイアース、
イドメニュウスを共に呼べ、我は進みてネストール
勇將訪ひて、彼をして奮ひて立ちて護衛軍、
すぐれし群を訪はしめて之らに令を爲さしめむ、
彼らは痛く勇將に服して命に從へり、
其子護衛の將として、イドメニュウスの伴侶たる
メーリオネスと相並ぶ、二人は任を我に受く。』

その時猛きメネラオス答へて彼に陳じ曰ふ、
『君の言句は何事を我に托すや、命ずるや?
かなたに衆ともろともに留まり君を待つべきか?
或は令を下し終へ、走りて君に歸らんか?』

アガメムノーン、衆の王その時答へて彼に曰ふ、
『かなたに留まれ、往復の中に恐らく共々に
相見失ふことあらむ、軍旅の(あひ)に道多し。
行く途すがら聲揚げて衆呼び醒ませ、おの〜に
その[1]父の名と家系とを、また譽ある稱號を
呼び勵せ、汝まら心に誇ること勿れ。
我ら二人は辛勞を盡さむ、[2]神は艱難の
重きを我に負はしめぬ、わが誕生の初めより。』

[1]父の名を呼ぶは其名譽のため。
[2]九歌二三參照、神意に服從せざるを得ずの意あり。

しかく宣して命令を下し、王弟去らしめつ、
自ら立ちてネストール將軍めがけ進み行き、
陣營並びに黒船のかたへ温柔の床の上、
休める將を見出しぬ、あたりにあるは種々の武具、
盾と二條の大槍と燦爛光る銅甲と、
種々に飾れる皮帶は又側に横はる、
そは流血の戰鬪に軍勢率ゐ進むべく
鎧はん時に帶ぶるもの、老齡彼を()せしめず。
老將その時肱立てゝ身を振り起し頭揚げ、
アトレーデース近寄るに向ひて聲を放ち曰ふ、
『汝、何者?衆人の眠れる時に只獨り、
暗夜の中に船舶の間、軍營 彷徨(さまよ)ふは?
汝は騾馬を求むるや、あるはひとりの友僚か?
語れ、無言に近寄りそ、何らの要ぞ我に曰へ。』

アガメムノーン、衆の王その時答へて彼に曰ふ、
『ネーリュウスの子、ネストール、アカイア軍の光榮の
汝認めむ、明かに、アガメムノーン、われ來る、
胸に呼吸のある限り、兩膝動き利く限り、
たえず、ヂュウスは衆人に優りて我を勞せしむ。
今甘眠はわれの目を訪はず、戰鬪、アカイアの
災難われを憂しめ斯くて今われさまよへり。
ダナオイ族を思ふよりわれの憂怖は甚だし、
心は安きことを得ず、搖蕩しつつ胸の中
跳りてやまず、堅甲を帶ぶるわが四肢皆震ふ、
君亦睡取るを得ず、心に思ふことあらば、
こゝより去りて衛軍に共に行かずや?恐らくは
勤務に弱り睡眠に襲はれ、全く其任を
彼等忘るゝなしとせず、いざ今行きて檢し見む、
敵は近くに陣を張る、誰か知るべき眞夜中に
なほかつ彼等戰鬪を起さんことのあるべきを。』

ゲレーニャ騎將ネストールその時答へて彼に曰ふ、
『譽れ至上のアトレ,デー、アガメムノーン、衆の王、
思ふに高き神明は敵の勇將ヘクトール
その胸中に望むもの、すべてを許すこと無けむ。
思ふ、英武のアキリュウス、その心より物凄き
憤怒を棄つることあらば敵將いたく惱むべし。
今、われ君の跡を追ひ、更に他將を醒ますべし、
槍の名將、勇猛のチュウデーデース、オヂュシュウス、
又足速き[1]アイアース、又ピュウリュウスの[2]英武の子。
而して我は又望む、或るもの行きて、神に似る
アイアース、又すぐれたるイドメニュウスを呼ぶことを、
彼らの船は外よりも遠く離れて近からず、
さはれ今、我メネラオス等咎めむ、よしや親しくて
敬すべけれど咎むべし(よし君之を恐るとも)
見よ、彼眠貪りてたゞ君ひとり勞せしむ。
彼すべからく列將を廻りて切に懇願の
勞を取るべし、襲ひ來る危急は遂に忍ばれず。』

[1]オイリイウスの子たるアイアース(二歌五二七)。
[2]メゲース(二歌六二七)。

アガメムノーン、衆の王、その時彼に答へ曰ふ、
(をぢ)よ、他の時、彼の者の咎める君に勸むべし、
彼は無能の者ならず、又怠慢の徒に非ず、
我の所業に目を注ぎ、我を仰ぎて我の命
待つも、時には緩慢に振舞ひ勞苦敢てせず、
されども今は我よりも先んじ醒めてわれ訪へり、
君の求めし諸將軍呼ぶべく彼を我やりぬ。
いざ今行かむ、衛兵の中に諸門の前にして
彼らに逢はむ、かの場に我集合を命じたり。』

ゲレーニャ騎將ネストール其時答へて彼に曰ふ、
『さあらば彼の令下し勵ます時に、アルゴスの
軍勢中の何人も怒るまじ、又背くまじ。』
しかく陳じて其胸のめぐり胴衣を纒ひ着け、
華美の戰鞋を耀ける其双脚に穿ちつゝ、
廣き二重の紫の袍——其上を柔かき
絨毛厚く蓋ふ者——はおりてしかと締めとめぬ。
老將かくて黄銅の穂先つけたる槍を手に
取り、黄銅の胸甲のアカイア軍の船に行く。
ゲレーニャ騎將ネストール眞先に醒ますオヂュシュウス、
聰明さながら神に似る、そのオヂュシュウス、眠より
醒まし叫べる音聲は直に彼の胸に入る。
即ち陣營の外に出で二人に向ひ陳じ曰ふ、
『何故君ら唯二人、アムブロシヤの夜のもなか、
軍陣すぎて船舶のほとりさまよふ?危機何か?』

ゲレーニャ騎將ネストール乃ち答へて彼に曰ふ、
『ラーエルテースの生める君、策謀富めるオヂュシュウス、
怒をやめよ、おほいなる憂アカイア軍にあり。
我に附き來よ、他の者を醒まし、評議をこらすべし、
逃走或は戰鬪のいづれか、今の急務なる?』
策謀富めるオヂュシュウス其陣營の中に入り、
種々に飾れる大盾を肩に投げかけ共に行き、
チュウデーデース、剛勇のヂオメーデース休らへる
許に來りて、陣營の外に見出ぬ、其部下は
あたりに眠り、其盾は頭の下に、其槍は
地に柄を植ゑて直に立ち、鋭刄遠く耀きて、
クロニオーンの電光に似たり。首領の將軍は、
野牛の皮を敷き擴げ其上眠り、燦爛の
華麗の(せん)は熟睡の彼の頭の下にあり。
ゲレーニャ騎將ネストール側に近寄り呼びさまし、
其足あげて彼に觸れ彼を起して叱り曰ふ、

『チュウデーデース、とく起きよ、などよもすがら睡り去る?
知らずや原上高き()にトロイア軍勢陣を張り、
わが水陣に近くして(あひ)、寸尺の地あるのみ。』

しか叫ばれて將軍はすぐに床より立ち上り、
羽ある言句陳じつゝ彼に向ひて答へ曰ふ、
(おぢ)よ、何らの健剛ぞ、倦まず勞務に常に就く、
アカイア族の中にして君より齡若きもの、
軍營遍ねく經廻りて、諸將おの〜呼びさます
任務につかんものなきや?あゝ(おぢ)、君ぞ無双なる。』

ゲレーニャ騎將ネストール乃ち答へて彼に曰ふ
『然かなり、友よ、君の言、皆悉く理に適ふ、
優れし子らは我にあり、多數の部下もわれにあり、
中のいづれか經廻りて諸將を醒ますことを得む。
さはれ危急の運命はアカイア軍に今逼る、
もの凄じき敗滅か?或は生か?アカイアは
正に鋭利の剃刀の薄刄の上に立つ如し。
いざ今行きて脚速きアイアース、またピュリュウスの
子を呼び醒ませ、君わかし、わが老齡を憐まむ。』

聞きて勇將おほいなる獅子王の皮、其脚に
埀るゝを取りて肩にかけ又長槍を手に取りぬ。
斯くして彼は出で行きて部下を起してつれ來る。
衆將かくて哨兵のつどへる群に到るとき、
見る集團の諸隊長甘眠敢て貪らず、
すべて目ざめて凛然と武具携へて並びあり。
譬へば山中の森過ぎて來る猛獣吠ゆる時、
瀾のかたへに羊らを守る狗群は安からず、
猛獣めぐり、一齊に番号番犬囂々と、
亂れ騒ぎて睡眠は(また)く彼等に失はる、
斯く陰慘の夜もすがら警守の任に當るもの、
その目蓋より甘眠は逃げて、其目は平原に
常に向ひて、トロイアの進撃いかに窺へり。
老將軍はかくと見て心喜び口開き、
即ち之を勵して羽ある言句宣し曰ふ、
『さなり、愛兒ら、しか守れ、睡魔誰をも襲はざれ、
さらば災難免れ得て敵の歡喜はあらざらむ。』

しかく宣して塹濠を越せば、評議に呼ばれたる
アカイア族の諸將軍ひとしく彼の後を追ふ。
同じく共に進めるはメーリオネース、更にまた
ネストールのすぐれし[1]子、評議の故に呼ばれたり。
かくして彼ら塹濠を過ぎて、大地の一隅に
坐せり、そこには戰沒のむごき屍體の影とめず。
そこより猛きヘクトール、夜の暗黒寄せし故、
アルガイ族の敗るのち其陣營に退けり。
そこに衆人座を占めて互に語り談じ合ふ、
ゲレーニャ騎將ネストールまづ口開き宣し曰ふ。

[1]トラシュメーデース(九歌八一、十歌二五五、十四歌十〇)。

『わが同僚よ、汝らの中に一人勇猛の
意氣に驅られてトロイアの陣中犯すもの無きや?
恐らく彼は敵軍の中にさまよふとある者、
亡ぼすを得む、恐らくはトロイア陣中何事を
計るや、それの消息を洩れ聞くを得む、わが陣を
隔てゝ彼ら原上に殘らんずるや?あるは又
アカイア軍を破る後、城壘さして歸らんや?
此らを彼の探り得て安らかに歸り來なん時、
普天の下のおほいなる光榮彼のものたらむ。
すぐれし恩賞また彼に授けらるべし、水軍に
命令下す諸將軍、その各は小羊に
乳を與ふる[2]黒色の羊を彼に與ふべし、
之に比すべし實無し、而して彼にとこしへに
宴席、食事一切にひとしく我と共ならむ。』

[2]かかる恩賞は勇將たるものに相應せず。恐らく他處にあるべきを誤ってこゝに入れしか(リーフ)。

しか宣すれば衆人は默然として靜まれる、
その中にして剛勇のヂオメーデース陳じ曰ふ、
『あゝわが老將ネストール、われの心とわれの意氣、
われを促し手近なる敵のトロイア陣中に
行かしむ、されど一人のわれに伴ふものあらば、
わが熱情は更に増し、更に武勇の業あらむ、
二人もろとも行くとせば、中の一人 (ほか)よりも
先んじ功を成し遂ぐる道を辯ぜん、さもなくて
唯一人の行かん時思慮遲くして策淺し。』

しか陳ずれば諸勇士はヂオメーデースに次がんとす、
アレース神に從へるアイアス二人、又ついで
メーリオネース、又ついでネストールの勇武の子、
槍の名將メネラオス、アトレーデース皆望む、
また耐忍のオヂュシュウス常に胸裏に熱情を
宿す將軍、トロイアの軍中さして行かんとす。
アガメムノーン、衆の王、その時衆の前に曰ふ、
『あゝチュウヂュウスの勇武の子、ヂオメーデース、わが心
愛するところ、こゝにある諸將の中に伴として
望むが儘に選び取れ、多くの勇士そを望む。
心の中に憚りて至剛の者を省かんは
要なし、素生の尊きに、又權勢の大なるに
其目曳かれて憚りて、劣れる者を取る勿れ。』

しかいふ彼は金髪のメネラーオスのため憂ふ。
ヂオメーデース勇武の士、再び衆の前に曰ふ。
『自ら伴を選ぶべく諸君子我に命ぜんか?
さらば取るべしオヂュシュウス、聰明、神に似たる者、
千辛萬苦迫る時彼の心と勇氣とは、
優にぬきんづ、アテーネー神女は彼をいつくしむ、
彼もし我と共ならば猛火をさへも逃れ得て、
安らに歸り來るを得む、彼れ策謀にすぐれたり。』

耐忍強きオヂュシュウス、神に似る者答へ曰ふ、
『チュウデーデーよ、あまりにも我を讚することなかれ、
咎むるなかれ、いふ處、アルガイ族はすでに知る。
さはれ夜は今更け行きて曙來る遠からず、
天の衆星進み行き、夜の長さの三の一今たゞ僅か殘るのみ。』

しかく二人は語り合ひ、凄き武裝に身を包む。
その時トラシュメーデース勇武の將は取り出でし
兩刄の剱を盾と共ヂオメーデースに貸し與ふ、
(彼は其剱船中に殘し來れり)更に又
[1]カタイチクスとよばれたる(かぶと)(つの)なく冠毛の
なきを冠らす、牛皮より成りて若人守るもの。
メーリオネースは弓と剱また{{胡簶](やなぐひ)}を聰明の
オヂュシュウスに備へしめ、革の兜を頭上に
戴かしめぬ、其裏に強き革紐多く布き、
表に銀を見る如き眞白き野猪の牙多く、
あなたこなたに熟練の妙技を以て緊密に
植付けられつ、三層の眞中は強き革帽子。
[2]アウトリュコスはそのむかし、オルメノスの子[3]アミュントル
住める堅固の館破り、エレオーン城よりこの(かぶと)
スカンデーアに奪ひ來て、之を其後キュテーラの
アムフィダマスに譲り去り、アムフィダマスは欵待の
禮にモロスに、モロス又メーリオネースまづる子に、
斯くして遂にオヂュシュウス之を頭上に戴きぬ。

[1]グリーキ文學全部の中に此語こゝにたゞ一つあるのみ(リーフ)。
[2]オヂュシュウスの母アンチクレーア、其母の父はアウトリュコス。
[3]九歌四四九。

二將かくして堅牢の武裝を具して立上り、
あとにアカイア諸將軍のこして脚を進め行く。
其道近く右側に一羽の鷺を、アテーネー、
神女パラスを遣はせる、夜の暗黒その影を
目には視せねど鳴く聲を二將は耳に聞きとりて、
喜び勇むオヂュシュウス、神女に向ひ祈り曰ふ、
『アイギス持てる天王の息女、わが言きこしめせ、
あらゆる辛苦の中にしてわれに()みして行くところ、
われを顧み給ふ君、今こそ特に愛でたまへ。
トロイア軍の煩ひとならん偉業を果す後、
櫂を傭ふる船舶に無難に歸らしめ給へ。』

ヂオメーデース、勇猛の將軍同じく祈上ぐ、
『アトリュトーネー、ヂュウスの子、我の祈も聽き給へ。
父チュウヂュウスその昔、アカイア族の使者となり、
[4]テーベー城に赴ける時の如くに共にあれ、
その時黄銅の甲着けしアカイア軍をアソポスに
殘して父は親しみの言を傳へぬカドマイア、
[5]されど歸郷の道の上、目は藍光のアテーネー、
君の救援仰ぎ得て勇武無双の業遂げき、
今その如く側にたちてわが身を()りたまへ。
捧げまつらむ牲として初歳の仔牛、其おもて
廣く豐かに其首に軛を未だ着けぬもの、
捧げまつらむ其角に光る黄金(こがね)の箔つけて。』
しか念ずるをアテーネー神女パラスは納受しぬ。

[4]四歌三七八、五歌八〇二。
[5]四歌三九一。

斯く二將軍おほいなる神女に祈り願ふ後、
さながら二頭の獅子のごと暗黒の夜の空の下、
殺傷屍體たゞ中に、流血武具の間行く。

こなた英武のヘクトール亦トロイアの勇將の
眠許さず、トロイアの首領將軍もろ〜の
すぐれし者のある限り皆悉く呼び集め、
集めし席に巧みなる謀略のべて陳じ曰ふ、
()そ今われの曰ふところ、わが爲め約し成し遂げて、
多大の恩賞得るものぞ?豐かの酬あるべきを。
敵の兵船、先の如、今も敵軍守れりや?
わが軍勢に破られて疲勞によりて力盡き、
たゞ逃亡を心して守衛をなさん念なきや?
そをアカイアの輕舟の水營中に近づきて、
窺ひ探り光榮をかち得なんもの、其者に
われ與ふべし一輛の戰車並びに一双の
駿馬、其首高きもの、即ちアカイア水陣の
かたへ最も優るもの、われは勇士に與ふべし。』

しか陳ずるを耳にして、默然として靜まれる
トロイア軍の中にして一人ドローンと呼べる者、
(父はすぐれし傳令使、ユウメーデース、黄金に
富み黄銅に富めるもの)形惡しきも脚速し、
姉妹五人の中にしてたゞ一人の男子たる
彼いまトロイア軍勢とヘクトールとに向ひ曰ふ、

『あゝヘクトールわが心わが猛き意氣促して、
敵の輕舟の陣近く其動靜を探らしむ。
されど其前笏揚げて願はくは我の爲め盟へ、
駿馬並びに黄銅の飾をつくるかの戰車、
ペーレーデースを乘するもの、必ず我にたぶべしと。
我また君に無效なる偵察なさず、徒らに
君の望を裏切らず、敵陣中を經廻りて
アガメムノーンの船につき探らん、そこに諸將軍
逃亡あるは戰鬪の評議をこらしつゝあらむ。』

其言聞きてヘクトール手に笏とりて盟ひ曰ふ、
『ヘーレーの(つま)、霹靂を飛ばす天王、證者(あかし)たれ、
他のトロイアの何人もかの駿馬には乘るを得ず、
我敢て曰ふ、汝のみ光榮つねに持つべしと。』

しかく宣して勵して空しかるべき盟取る、
聞きてドローンは速かに曲弓肩の上に負ひ、
灰白色の狼の皮を被むり、頭上には
(いたち)の皮の頭巾つけ、鋭利の投槍手に取りて、
隊を離れて敵軍を目ざし進みぬ、然れども
之に近づき探り得て、其報告をヘクト,ルに
齎らし歸る命ならず、馬と人との群集を
後に殘して奮然と途上に走りすゝむ彼れ、
オヂュシュウスは見出してヂオメーデ,スに向ひ曰ふ、

『ヂオメーデーよ、かの者は敵の陣より出で來る、
わが水軍の偵察のためか?或は戰場に
斃れし屍體剥ぐ爲か?いづれか我は辧へず。
ともあれ原上まづ彼を少しく前に進ましめ、
其後われら飛び出だし直ちに彼を捕ふべし。
若し彼の脚速くして我ら二人を凌ぎ得ば、
トロイア軍に遠ざけてわが水軍に追ひつめよ、
槍を振ひて彼を追へ、敵城さして逃げしめな。』

しかく談じて二勇將、路の傍散らばれる
屍體の(あひ)に身を隱す、敵は知らずに馳せて行く。
されども駿馬の鋤く(うね)の長さの程に、敵の距離
なりし其時(重き鋤、深き土壤に驅り進む
わざに於ては、牛よりも騾馬は優れり)其時に、
二人は追ひて驅け出す、足音聞きて留る敵、
心に思ふ、トロイアの陣よりわれを呼び返す
友は來れり、ヘクトール新たに令を下せりと。
されど投槍とゞく距離、あるはそれより尚近く
迫りし時に敵と知り、駈足速く逃げ出せば、
二將ひとしく迅速に躍り進みて之を追ふ。
譬へば鋭利の牙もてる狩に慣れたる狗二頭、
林の中に吠え叫び、逃げゆく牝鹿、逃げ走る
兎を逐ひて猛然と隙をあらせず飛びかゝる、
正しくかくもオヂュシュウス、チュウデーデースもろともに、
敵の陣より遮りて勢猛に彼を逐ふ。
水陣さして逃げ走り、哨兵團のたゞ中に
正にドローンの入らん時、黄銅鎧ふアカイアの
一人も彼に先んじて、敵を討てりと誇ること
無からんために、アテーネー、チュウデーデースに力貸す。
チュウデーデース槍を手にはしりて敵に叫び曰ふ、
『止まれ。さらずば槍飛ばむ、わが手の下す物凄き
死命を汝長らくは免るゝ事得べからず。』

しかく宣して槍飛ばしわざと覘を外し打つ、
鋭利の穂先、右の肩越して大地に突きさゝる。
斯くと眺めて足止むる敵は肢體を震はして
言句吃りぬ——口中に齒と齒ときしる音きこゆ、
恐怖の故に青ざめる彼に二將は喘ぎつゝ、
來り近づき手を捕ふ、ドローンは泣きて詫びて曰ふ、
『我を生捕れ、自ら我賠はむ、わが家の
中にあまたの黄銅と又黄金と琢かれし
鋼鐵とあり、わが生きてアカイア軍の船中に
ありとし聞かば、わが父は賠償巨多に拂ふべし。』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に宣し曰ふ、
『意を安んぜよ、胸中に死滅を思ふこと勿れ、
いざ今我に打ち明けよ、委細正しく我に曰へ。
他の衆人の眠る時、此暗黒の夜を犯し、
隊を離れて身一つにわが陣向ひ、いづく行く?
戰鬪の場に斃れたる屍體を剥がんためなりや?
或は汝をヘクトール、視察のためにわが陣に
遣はしたるや?あるは又心汝に命ぜしや?』

その時肢體をのゝけるドローン答へて彼に曰ふ、
『禍難に向けてヘクトール我の心を惑はしぬ、
アキルリュウスの單蹄の駿馬、並びに黄銅を
飾りし戰車與ふべく、我に約してヘクトール、
我に命じて暗黒の夜を犯して敵陣に
近く迫りて探らしむ、アカイア軍の輕舟は
先と等しく今も尚堅く敵軍守れりや?
或はわれの軍勢にすでに激しく破られて、
たゞ逃亡を念ずるや?疲勞にすでに力盡き
夜の警備を怠るや?われに命じて探らしむ。』

智謀に富めるオヂュシュウス(ゑみ)を含みて彼に曰ふ、
『げにも汝は莫大の恩賞念じたりしよな!
アキルリュウスの駿馬とは!不死の神女の生みいでし
アキルリュウスを外にして、死の運命の人界の
何者敢て之を御し、之を制することを得む!
さはれ委細を打ち明けて正しく我に知らしめよ、
使命をうけて來る時、諸軍の首領ヘクト,ルと
汝いづくに別れしや?いづくぞ彼の武器と馬?
他のトロイアの哨兵と陣營のさま、はたいかに?
更に彼らの談じ合ふ思念やいかに?わが舟に
離れてしかも相對し、そこに殘るを欲するや?
あるひは我に勝てる後引きて都城に歸らんや?』

ユウメーデース生める息、ドローン答へて彼に曰ふ、
『これらの事を詳細に正しく君に語るべし、
評議の員に備はれる諸將と共にヘクトール、
[1]聖イーロスの墓のそば、外の擾ぎに遠ざかり、
評議を凝らす——はた君の問へる哨兵われ説かむ、
特に軍隊衛るもの、警備の任に當るもの
あらず、トロイア衆軍の篝に近くおの〜は、
要に應じて睡眠を省き、互に警めて
互に守る、諸の國より來る援軍は
睡る、警備をトロイアの隊に托して皆眠る。
彼等の子らも妻女らもかたへに近くあらざれば。』

[1]イーロスはトロースの子、ラーオメドーンの父、イーリオンを創設せる者、イーロスの墓は十一歌一六六、三七一にも説かる。

智謀に富めるオヂュシュウス再び敵に問ひて曰ふ、
『其援軍の眠れるは馬術巧みのトロイアの
軍隊中にまじりてか、或は別か、われに曰へ。』

ユウメーデースの生める息、ドローン答へて彼に曰ふ、
『これらの事を詳細に正しく君に語るべし。
海に向ひて陣するは[2]カーレス及びパイオネス、
其郷の軍、又更にカウコーネスと[3]レレゲスと、
[4]ペラスゴイ族更に又[5]チュムブレーにはリキア族、
ミューシアの族、更に又[6]フリュゲス及び[7]メーオネス。
さはれこれらの詳細を君何故に我に問ふ?
君、それトロイア軍中に進み入らんと欲するか?
新たに來り陣頭にトレーイケスの族宿る、
エーイオニュウス生める息、王レーソスは()を率ゆ。
王の駿馬を我見たり、華麗を極め、丈高し、
色は雪よりなほ[8]白し、飛ぶこと風にさも似たり、
彼の戰車は黄金と又白銀と相飾る、
更に彼また身に着くる目を驚かす莊麗の
黄金製の鎧見よ、不死の神明ならずして
人界の子の何者か之を帶ぶるに適せんや?
さもあれ迅く漕ぎ走る船にわが身を運び行け、
あるひはこゝに嚴重の鎖によりてわれ縛れ、
かくして君ら進み行き、果して我のいふ處、
正しかりしや、然らずや、自ら試すことを得む。』

[2]二歌八六七、八五〇。
[3]こゝに初めて記さるる名。
[4]二歌八四一。
[5]平原の名。
[6]二歌八六二。
[7]二歌八六五。
[8]白馬は往時最も尊ばれたり。

ヂオメーデース憤然と睨みて彼に宣し曰ふ、
『ドローンよ、汝、善き事をわれに忠言したりとも、
一たび我の手に落ちぬ、免るべしと()ふ勿れ。
今もし汝を解き許し汝を放ちやるとせば、
他日再びアカイアの輕舟さして寄せ來り、
或は我を偵察し或はわれと戰はむ、
今もし我の手に掛り汝命を失はゞ
此後またとアカイアの禍難の種とならざらむ。』

しかいふ彼の顎に手をのして悲しみ訴ふる
ドローンに猛に飛びかゝり、鋭利の剱ふりあげて、
頸のもなかに切り付けつ、二條の筋を斷ち去れば、
物曰ふ彼の首落ちて塵埃中に横はる、
其時、ドローン頭上の革の(かむり)を二將剥ぎ、
又狼の皮衣、弓と槍とを奪ひ取る、
かくて戰利を司どるパラス女神にオヂュシュウス、
これらの物を捧げつゝ祈願をこめて陳じ曰ふ、
『喜び給へ、あゝ神女、これらの物を——オリュンポス
諸神の中にまっさきに君に我呼ぶ。いざや今
トレーイケスの陣營と駿馬にわれをむけ給へ。』

しかく宣して手を延して戰利を高く傍の
柳に懸けて目じるしに、繁れる枝と蘆の葉を
集めて之が上にのせ、夜の暗黒犯しつゝ、
歸り來ん時、誤りて見失ふことなからしむ。
二將かくして歩を進め流血及びもろ〜の
武具踏みわけて速かにトレーイケスの陣に着く。
その軍勢は勤勞に疲れ弱りて皆眠り、
武器はかたへに整然と三列なして地の上に
ならべられあり、おの〜に又一双の軍馬沿ふ。
王レーソスは戰陣の眞中に眠る、其駿馬
手綱によりて並びつゝ戰車の端に繋がれぬ。
そをまづ見たるオヂュシュウス、ヂオメーデ,スに示しいふ、
『ヂオメーデーよ、屠りたるドローンのわれに話せしは、
正しくこれこの將帥と正しくこれこの駿馬なり。
いざ今汝旺盛の勇氣呼び出せ、武器持ちて、
ためらふ勿れ、この駿馬、今速かに解き放せ、
或は汝敵を撃て、われは駿馬を牽き去らむ。』

しかく彼曰ふ——其時に藍光の目のアテーネー、
ヂオメーデ,スに力添ふ、勇士即ち斬り廻る、
斬られし者の叫喚はすごし、大地は血に赤し。
山羊か羊か可憐なる家畜の群の守りなき、
そを襲ひ來て獅子王の勢猛く跳びかかる
樣もかくこそ、敵團をチュウデーデース襲ひ討ち、
斃せる勇士十二人——智謀に富めるオヂュシュウス、
その同僚の剱により打たれし屍體脚とりて
引きずり去りて推しのくる智謀豐かのオヂュシュウス、
かくせば彼の捕へくる鬣振ふ敵の馬
安らに過ぎむ、數々の屍體を踏みて驚きて
をのゝき慄ふことなけむ、[1]馬は屍體にまだ馴れず。
更に敵王レーノスをチュウデーデース襲ひ討つ。
蜜の如くに甘美なる命失ひ息絶ゆる
第十三の牲は王、その頭上に「凶死」立つ、
此夜パラスの策により[2]オイネーデースの子息立つ、
こなた倦まざるオヂュシュウス單蹄の二馬解き放し、
手綱によりて結びつけ、戰車の上におかれたる
美麗の鞭を手の中に取るを忘れつ、弓あげて
馬を打ちつゝ陣營の外に驅り出し進ましめ、
口笛吹きて剛勇のヂオメーデース相圖なす。
されども彼は尚殘りなほ一層の勇を鼓し、
華麗の武具の横はる兵車奪ひて轅取り
牽き歸らんか?高く背に擔ひて運び歸らんか?
トレーイケスの軍勢の更に多くを屠らんか?
これらを胸にさま〜゛に思へる時にアテーネー、
來りて近く側にたちヂオメーデースに向ひ曰ふ、

[1]四三四に曰ふ如くトレーイケスは新來の軍、未だ戰はず。
[2]オイネーデース=チューヂュウス=ヂオメーデースの父。

『強きチュウヂュウス生める子よ、水陣さして歸るべく
思へ、今こそ——さもなくば敗れて逃ぐることあらむ、
恐らくトロイア軍勢を外のある神めざまさむ。』
神女の言に從ひて彼は直に馬に乘り、
馬を弓あげ、むちうてるオヂュシュウスともろともに、
飛ぶが如くにアカイアの輕舟さして馳せ歸る。
さはれ銀弓のアポローン彼の監視を怠らず、
チュウデーデースにアテーネー附き(まと)へるを眺め見て、
心に之を憤り、行きてトロイア軍勢の
中に進みてヒッポコオーン——トレーイケスの將起す。
レーソス王の勇しき族人乃ち睡より
さめて、駿馬の立ちたりし(には)のむねしく荒るゝを見、
又恐るべき殺戮の中に最後の喘ぎなす
人を眺めて驚きて、急ぎて友を呼びおこす。
騒動痛くその時に、むらがり來るトロイアの
中に起りて、敵將の二人しとげし驚愕の
業に彼等は目を張りぬ、二人はすでに立ち去りぬ。

先にヘクト,ル遣はしし諜者屠りし其 (には)
二人かくして來る時、ヂュウスのめづるオヂュシュウス、
駿馬とむれば剛勇のチュウデーデースおりたちて、
血にまみれたる戰利品オヂュシュウスの手に渡し、
再び乘りて馬に鞭あてゝ勇みて走らしめ、
やがて水師に歸り來て心くつろぐ二將軍、
音をまさきにネストール耳に聞き取り叫び曰ふ、

『あはれ、同僚、アルゴスの將帥及び號令者、
わが曰ふ處誤か、(まこと)か?心われに告ぐ。
[1]奔馬の迅き足の音、われの耳底を襲ひうつ。
願はくは彼、オヂュシュウス、ヂオメーデースもろともに、
單蹄の馬敵地より奪ひてこゝに乘りくるを、
さもあれ、切にわれ恐る、トロイア人の手の中に、
わがアルゴスの二勇將或は禍難受けたるを。』

[1]暴君ネロがローマを落ち、追ひ來る騎兵の馬蹄の音を聞き、此句を吟じて最期を遂げた。

其言未だやまぬ中、二將はすでに進み入り、
馬より下り土に立つ、衆喜びて手をのべて、
之を迎へて蜜の如、甘美の言にねぎらへり。
ゲレーニャ騎將ネストールその時さきに問ひて曰ふ、
『あゝ稱ふべきオヂュシュウス、わがアカイアのおほいなる
譽、今曰へ、いかにしてこれらの駿馬捕へたる?
トロイア軍を犯してか?あるは神明の賜物か?
驚くべくも太陽の光に似たる此駿馬。
我はトロイア軍勢と常に戰ひ、老ゆれども
水師のほとり空しくも殘り留ることあらず、
されども今に到る迄かゝる良馬を絶えて見ず、
思ふに汝にいで逢ひし、ある神明の惠みしか?
雷雲寄するクロニオーン又その息女、藍光の
目の耀けるアテーネー汝二人をいつくしむ。』

智謀に富めるオヂュシュウス其時答へて彼に曰ふ、
『あゝネーリュウスの子、ネストール、アカイア軍の譽なる
君は知るべし、とある神好まばこれら駿足に
優るものすら賜ふべし、神の力はおほいなり。
されども君の曰ふ處、新たに到る駿足は、
トレーイケス族もちしもの、その頭領を剛勇の
ヂオメーデース打ちとりぬ、部下の十二をもろともに、
われらは更に船近く第十三を打ちとりぬ、
それは諜者なり、わが軍を探らんためにヘクトール、
又トロイアの諸將軍こゝに派遣し來る者。』

しかく宣して揚々と、塹濠こして單蹄の
馬を驅り入る、アカイアの友喜びてあとを逐ふ。
チュウデーデース堅牢の陣にかくして入りし時、
よく編まれたる手綱もて衆は厩舍にこを繋ぐ、
そこにさながら蜜に似る甘美の小麥噛み乍ら、
ヂオメーデ,スの脚早き軍馬は立ちて相並ぶ。
又ドローンより剥ぎとりし武具を船尾にオヂュシュウス、
掛けて犠牲をアテーネー神女にあぐる備とす。
かくて二將は海に入り、波浪を浴びて淋漓たる
汗を股より頭より腰より洗ひ落し去る、
かくして波は兩將の膚より淋漓わきいでし
汗を全く洗ひ去り氣を爽になせる時、
二人は更に浴室に入りて潮水洗ひ棄て、
香油を膚にまみらしてかくて[2]酒宴の席に就き、
蜜の如くに甘美なる酒のあふるゝ寳瓶を、
傾け來りアテーネー神女の捧げ奉る。

[2]九歌九〇、二二一によればオヂュッシュースは此夜三度酒宴の席につく。


更新日:2004/07/18

イーリアス : 第十一歌


第十一歌

ヂュウス、計りて暁に「爭」の神女をアカイア軍に遣はし勇氣を鼓す。アガメムノーンの進撃。 トロイア軍また進む。晝に到りてアカイア軍優勢となる。 アガメムノーン奮って敵の諸將を殺す。ヂュウス使者イーリスをヘクトールに遣し、 アガメムノーンの勇戰の間は進む勿れ、其負傷して退く時に迫撃せよと命ず。 果して神命の如し。アガメムノーン退く。同じく勇將ヂオメーデース退く。 オヂュッシュース敵に包圍さる。アイアース之を救ふ。 アカイアの軍醫マカオーンら亦負傷す。老將ネストール彼を助けて歸陣す。 アキリュウス其友パトロクロスをネストールに遣してマカオーン等の安否を訪はしむ。 ネストール、善くパトロクロスに説き、アキリュウスの救を暗示す。 パトロクロス歸途にユーリピロスを助け、アカイア軍の急状を聞く。

不滅の神に人間の天の光明頒つべく、
[1]チートウノスの傍の床より起てり[2]エーオース、
其時ヂュウスの戰爭のしるしを手中携ふる
神女[3]エリスのアカイアの水陣さして進ましむ。
テラモニデース・アイアース及び勇武のアキリュウス、
腕の力と勇氣とに信頼篤く其船を、
陣の左右の兩端に共に曳き上げ据ゑたりき、
二將の陣の中央に位占むるはオヂュシュウス、
其おほいなる黒船の上に神女は立ち留る。
斯くて左右に響くべく神女は高き音聲に
叫び、アカイア軍勢の其おの〜の胸の中、
勇氣を鼓して休みなく奮鬪苦戰つとめしむ。
[4]衆忽然と勇み立ち感じぬ、戰甘くして
船の乘じて恩愛の故郷に去るに優れるを。
アトレーデース大呼してアルガイ軍に戰裝を
命じ、自ら燦爛の黄銅の武具身に纒ふ。
まづ双眸に美麗なる脛甲あてゝ、白銀の
留金をもてしかと締め、之に續きてその胸の
めぐり美麗の胸甲を纒ひぬ、むかし[5]キニュレース
客を尊ぶ禮としてアガメムノーンに寄せしもの。
アカイア軍勢船の乘り、トロイアさして進み漕ぐ
そのかしましき風評の、キュプロス島に傳はるを
聞き、大王の歡心を得んと欲して寄せしもの。
其胸甲の線條は十は眞黒き鋼鐵と、
十二はひかる黄金と、二十は錫と相まじる、
左右おの〜頸に向き走る三條藍色の
蛇あり、[6]虹にさも似たり、虹は天王クロニオ,ン
言鮮けき人間に(しるし)と爲して雲に懸く。
大王更に肩の上、柄にはあまたの黄金の
鋲燦爛と光る剱、投げ懸く、鞘は白銀を
材とし、幾多黄金の締輪によりて飾られぬ。
更に手をとる堅牢の美なる大盾身を掩ふ、
巧み凝らしてその周り青銅十の輪は走り、
二十の錫の圓形の白き隆起は其おもに、
而してそれの中央に鋼鐵黒き隆起あり。
盾の上部に[7]ゴルゴーは其兇暴の眼を張りて
すごく睨まへ、傍に「畏怖」と「[8]恐惶」伴へり。
盾の附帶は銀の製、上に藍色の蛇うねる、
その蛇のばす一つ首、首より三つの頭出で、
互に纒ひ解けがたくからみ合ふ樣物凄し。
[9]四つの隆起を頂に具ふる兜、その上に
馬尾の冠毛凄じく搖ぐを王は戴きつ、
更に手にするおほいなる二條の槍は青銅の
穂先鋭く爛々と光放ちて空高く
冲す、其時アテーネー、ヘーレー共にミケーネーの
王を崇めて殷々の[10]霹靂遠く轟かす。
その時諸將おの〜は御者に命じて其馬を、
整然として塹濠のほとりに駐め抑へしめ、
自ら進み青銅の武具を穿ちて堂々と、
まさきに進み喚聲をまだ薄暗の空に揚ぐ。
[11]かくて戰士は塹濠のほとりに並び、騎士隊に
先んじ進み、やゝ後れ騎兵の群は續き行く。
クロニオーンは其中にはげしき騒ぎ湧かしめて、
天より露を虹の血汐に染めて降らしめ、
勇士を多く暗深き冥王の府に投げんとす。

[1]ラーオメドーンの子、其美貌を戀ひて「曙」の神女天上に奪ひ去り夫君と爲す。
[2]「曙」の神女。
[3]「不和」の神女、戰爭のしるしとは恐らくアイギスならむ。
[4]二歌四五三 -- 四五四の繰返し。
[5]キプロスの富める王。
[6]十七歌五五〇。
[7]恐るべき怪物(八歌三四八、五歌七四一)。
[8]ψοβοσ恐惶、逃亡。
[9]五歌七四四。
[10]雷は只ヂュウスの力なるを思へば此行は怪むべし(リーフ)。
[11]極めてあいまい[、]解すべからず(リーフ)。

かなたトロイア軍勢は丘の[12]高所に陣を占む、
その中心はヘクトール、又勇剛の[13]ポリュダマス、
トロイア軍に神のごと崇められたるアイネアス、
アンテーノールの三人(みたり)の子、ポリボス及びアゲーノル、
不滅の神に髣髴のまだ年わかきアカマース、
先頭中にヘクトール圓き大盾手にとりぬ。
[1]凶星光り爛として雲より出でゝ忽ちに
また暗澹の雲に入る、其樣かくやヘクトール、
先陣中に現はれてやがてたゞちに其姿
後陣にかへり令下す、身は青銅を鎧ほひて、
アイギス持てる天王の飛電の如く耀けり。

[12]十歌一六〇。
[13]又プーリユダマスとも曰ふ、トロイアの名將。父はパントーオス。十二歌六〇。
[1]シリアス(天狼星)か、二十二歌二八等に見ゆ。

富める土豪の畑の上、働く農夫打ち群れて(あぜ)に添ひ
互に向ひあひ乍ら小麥大麥刈り行けば、
紛々として地に落つる穗のうづ高く積るごと、
トロイア及びアカイアの軍勢互に進み行き、
殺戮互に行ひて卑怯の(にげ)を思ふ無く、
互に()せず奮然と餓狼の如く突き進む。
之を眺めて喜ぶはエリス、呻吟嘆息の
基をおこす「不和の神」、衆神中にたゞひとり
戰場にあり、他の神は離れてこゝに遠ざかり、
ウーリュンポスの連峯の上に華麗の宮殿を
營むところ、其中に悠然として座を占めつ、
雷雲寄するクロニオーン、トロイア軍の光榮を
加へんとする故をもて衆神ひとしく之を責む。
天王之を省みず、離れて奥にたゞひとり、
他の群神に遠ざかり其光榮に誇らひて、
トロイア城とアカイアの水軍、更に青銅の
耀き、更に打つ者と打たるゝものを眺めやる。

曙かけて、更に日の昇るにつれて、兩陣に
飛箭投槍ふり注ぎ、軍勢互に相倒る。
眞晝に到り、山上の森林中に杣人が
食の準備にかかる頃——おほいなる樹を伐り倒し、
左右の腕は弱りはて、倦怠いたく其胸を
襲ひ、口腹滿たすべき美味の願の起る頃、
ダナオイ軍勢勇を鼓し敵軍猛く打ち破り、
隊伍横ぎり同僚を諌め勵ます、その先に
アガメムノーン奮ひ馳せ、敵の一將ビエーノル、
續きてかれの兵車驅るオイリュウスを打ちとりぬ。
車臺をおりてオイリュウス勢猛く眞向に
まちかく立つを、鋭利なる槍を延ばして面を突く。
青銅重きその兜、敵の鋭刄支へ得ず、
兜、並びに額骨を貫く槍の鋭刄は
頭腦無慚に碎き去り、猛き戰士を打斃す。
アガメムノーン、衆の王、かくて二人の胸甲を
剥ぎ去り、白き其胸を露はすまゝに棄てさりて、
更に進んで[2]アンチポス、イソス二敵に打ちむかふ。
プリアモス王生める二子、嫡子と庶子と相並び、
一つ戰車に身を托し庶子は手綱を取り捌き、
武勇すぐれしアンチポス親しく敵に打向ふ、
イデーの兵に羊飼ふ二人を襲ひアキリュウス、
柳の()もて縛りつけ賠償とりて放ちにき。
アトレーデース、剛勇のアガメムノーン槍をもて
イソスの胸部——乳の上貫き更に剱を抜き、
[3]アーンチポスの耳のわき打ちて車外に斃れしめ、
すぐに手早く華麗なる武具剥ぎとりぬ、そのむかし
脚神速のアキリュウス、イデーの地より囚へ來し
二人を王は輕舟のほとりに眺め知り得たり。
()き牝鹿生める子ら、可憐の群のすむ處、
そこに獅子王襲ひ來て之を無慙の牙にかけ、
屠りつくして孱弱(せんじゃく)の若き呼吸を絶やす時、
近く牝鹿は立ち乍ら之を救ふに力なし、
救ふ力の無きのみか、驚怖の念に四肢震ひ、
猛獅の難を逃れんと、淋漓の汗に飛ぶ如く
走りて驅けて、荊棘と茂林の間逃げて行く、
正しく斯くもトロイアの中にひとりも、友僚を
救ふ者無く、悉くアカイア軍を避けて逃ぐ。
アンチマコスの二人の子、ペーサンドロス、ヒポコロス、
二人は王に今向ふ。アンチマコスはパリスより
黄金珍寳うけ入れて、特に努めて金髪の
メネラーオスにヘレネーを返すを止めたりし者、
其二子ともに俊足の馬を驅りつゝ、もろともに
一つ戰車の上に立つ、之を目がけて獅子の(ごと)
アガメムノーン猛然と勢凄く近よれば、
二人畏れてふためきて華麗の手綱取り落し、
涙流して膝つきて車上に哭し陳じ曰ふ、
『アトレーデーよ、生捕りてわれの賠償受納れよ、
アンチマコスは其家に、精鍊したる青銅と、
黄金及び鋼鐵を夥多豐に貯へり、
そを莫大に取り出だし父は償致すべし、
アカイア軍の船中にわが生存を知らん時。』

[2]四歌四九〇に出で、但し二歌八六五は同名異人。
[3]アンチポス又アーンチポス。原文には語の位置に從ひ音を伸縮す。他處に於ても同樣。

涕流して温柔の言葉に斯くと陳ずれば、
これに答へて殘酷にアトレーデース叫び曰ふ、
『汝ら、正に不敵なるアンチマコスの生める子か?
神にひとしき[4]オヂュシュウスもろとも先に使者として、
トロイア軍にメネラオス、行ける其折其場に
彼を殺してアカイアに歸らしめなと進議せし
彼の子なるか?さらば今、父の非法の報取れ。』

[4]三歌二〇五兩將トロイアに使しヘレネーの引渡しを求めし折のこと。

しかく宣して槍のべて胸を貫き車上より、
ペーサンドロス突き落し、地上に仰ぎ倒れしむ、
つゞいて剱をふりあげてヒッポロコスの手向ふを
打ちて兩腕切り落し、首打ち落し地の上に
斃しさながら臼の(ごと)、戰場中にまるばしめ、
更に進みて軍勢の最も多き諸部隊の
亂るゝ(には)に躍り入る、同じくアカイア衆兵も。
かくて歩兵は逃走の敵の歩兵を追ひまくり、
騎兵は刀槍ふりかざし敵の騎兵を亡せば、
人馬の脚は轟きて濛々の塵、地上より
昇り立たしむ、その中にアガメムノーン奮然と
進み續けて敵を打ち、アカイア軍を勵ましむ。
猛火の熖繁り立つ林の上にかゝる時、
風は四方に其火熖あまねくあほり運ぶとき、
火の猛勢に打負けて地上に樹木倒るごと、
斯く奔竄の敵軍の首は地に落つ、剛勇の
アトレ,デースの眼前に——逃げ行く馬は戰場に
亡べる主公悼みつゝ空しき戰車率き返す、
勇士は斃れ地の上に伏して再び起き出でず、
今恩愛の妻よりもむしろ鷙鳥を喜ばす。

ヂュウスはかなたヘクト,ルを矢より塵より逃れしめ、
殺戮流血喧騒の場より去らしむ、こなたには
アトレーデース敵を逐ひアカイア軍を鼓舞し行く。
トロイア軍は蒼惶とダルダニデース・イーロスの
[1]墳墓のほとり平原のもなか無花果樹たつ處、
過ぎて走りて城中に退かんとす。そのあとを
アトレーデース鮮血に手をまみらして叫び逐ふ。
されど城門スカイアイまた[2]無花果樹にいたるとき、
トロイア軍は立ちとまり、軍勢互に待ち合はす。
後れし者は平原を蒼惶として逃げて行く、
ちさき牝牛のむらがりを夜半に獅子王襲ひ來て、
逐ふにも似たり、恐るべき死は其中の一頭を
囚ふ、獸王その頸を鋭き牙にまづ碎き、
やがて滴る鮮血をすゝり臟腑を喰ひ盡す、
正しく斯くも豪勇のアガメムノーン追ひ迫り、
最後の敵を打ち果す、殘りの者は逃げ走る。
かく槍揚げて奮然とアトレーデース追ひ打てば、
打たるゝ敵は紛々と馬より前後倒れ落つ。
斯くて都城と城壁にアガメムノーン迫る時、
人間並びに神明の[3]父は天上おり來り、
泉ゆたかに湧きいづるイデーの嶺に座を占めて、
手に閃々の電光を握り、翼は黄金の
イーリス呼びて勵まして彼の使命に走らしむ。

[1]十歌四一五。
[2]VossはBucheと譯す。Murray英譯はfig-treeとす。言語φηγοσ[。]
[3]ヂュウスは身親しく戰場に出づることなし、イデーに降りて戰場を眺むるのみ。

『イーリス、汝神速に行き、[4]ヘクト,ルに斯く述べよ——
アガメムノーン敵の將、先陣中に戰ひて
トロイア軍を打ち敗る、——そをヘクトール見る中は、
身を退けて加はらず、たゞ衆軍に令下し、
混戰いたく敵軍に向ひて奮ひ起たしめよ。
されど敵王槍をうけ、(ある)は飛箭に傷きて、
戰車に其身乘せんとき、われヘクト,ルに勇力を
與へて敵を打たしめむ、かくして彼は漕座善き
アカイア船に近よらむ、日は沈むべし、夜は寄せむ。』

[4]十一歌一六三以下參照。

しか宣すれば疾風の脚のイーリスかしこみて、
イデー連峯はせ下り忽ち到るイーリオン、
そこに双馬と兵車との上にたちたるヘクトール、
プリアモス王うみいでし英武の將を見出しつ、
脚神速のイーリスは即ち向ひて陳じ曰ふ、
『プリアミデース・ヘクトール、聰明神に似たる者、
聞け、天王クロニオーンわれを遣はし、かく宣す、
アガメムノーン、敵の王、先陣中に戰ひて、
トロイア軍を打ち破る——これを汝の見る中は、
身を退けて加はらず、たゞ衆人に令下し、
混戰、猛に敵軍に向ひて奮ひ起たしめよ、
されど敵王槍を受け、或は飛箭に傷きて、
戰車に其身乘せんとき、神は汝に勇力を
與へて敵を討たしめむ、かくして汝漕座善き
アカイア船に近よらむ、日は沈むべし、夜は寄せむ。』

しかく陳じて神速のイーリス立ちさりぬ、
その時武具をヘクトール取りて地上に降りたちつ、
鋭利の槍を打ち揮ひ隊伍の間駈け廻り、
戰鬪すべく勵しぬ、かくて激戰また起る。
かくてトロイア軍勢はまた盛り返し向ひ來つ、
こなたアカイア軍勢はその陣營に兵加ふ。
かくて兩軍相對し奮戰またも初りぬ。
その先頭に他を凌ぎアガメムノーンまた奮ふ。

ウーリュンポスの宮殿に住める[1]ムーサイ今告げよ、
アガメムノーンに眞っ先に向ひ來るは誰なりや?
トロイア軍の一人か?援軍中のあるものか?
そはイピダマス其父はアンテーノール——勇にして
魁偉なるもの、育ちしは羊に富めるトレーケー、
幼き時に母方の祖父[2]キッセイス——紅頬の
佳人テアノーうめる祖父其屋に彼を養へり。
歳月移り、青春の盛となりし彼の身を、
なほ其もとに引き留め、[3]愛女を與へ伉儷の
契を結ぶ間もあらず、アカイア軍の遠征を
聞きて閨房たち離れ、十二の舟を率ゐ行く、
されど其舟こと〜゛く[4]ペルコーテーに泊めおき、
上陸なして徒歩にしてイリオン城に向ひ來ぬ。
アガメムノーン、衆の王、アトレーデ,スに向へるは
彼なり、斯くて左右より兩將迫り近づきて、
アトレーデース其覘、過まり槍はそれて飛ぶ。
されどこなたにイピダマス、敵の胸甲、其下の
帶をまともに突きあてつ、勇を頼みて槍を繰る、
されども槍は精巧に組まれし帶を貫かず、
穂先は銀の壁に觸れ鉛の如く打ち曲がる、
その時權威おほいなるアガメムノーン、獅子王の
如くあらびて其槍を激しく引きて捻り取り、
更に利劔に敵の頸切りて其四肢緩ましむ。
敵は斯くして[5]青銅の睡に入りて倒れ伏す、
憐れなるかな、友邦を救ふが爲に恩愛の
妻を別れてこゝに逝く、妻に贈與の數多き
その感謝をばまだ受けず、先きに與へぬ百の牛、
牧塲(まきば)より千頭の山羊と仔羊約したり。
其時彼を剥ぎとりて、アトレーデース華麗なる
その軍装を運び去り、アカイア陣に引き返す。

[1]詩神(複數)。
[2]五歌七〇、六歌二九八以下、テアノーはアンテーノールの妻、アテーネー殿堂の祭司。
[3]テアノーの妹即ち叔母に當るもの、叔母と婚せるヂオメーデース五歌四一二參照。
[4]二歌八三五、六歌三〇。
[5]利刄に討たれて亡ぶを曰ふ。此句をヰ゛ルギリウスは直譯してferreus somnus(Aen.十歌七四五)と曰ふ。

衆中特に抜んづるほまれのコオーンかくと見る、
アンテーノ,ルの長子、彼その弟の斃れしを
悼み、はげしき哀痛に其双眼は蓋はれつ、
乃ち槍を携へてアガメムノーンの目を偸み、
斜に進み迫り來て、其肱の下前膊の
もなかを討ちて耀ける鋭刄直に刺し入れば、
アガメムノーン、衆の王さすが慓然うち震ふ、
されど戰鬪、攻撃をあく迄やめず、猛然と
颶風の如く槍とりてコオーン目がけて飛びかゝる。
コオーンは弟イピマデス同じき父の子の屍體、
其足曳きて諸勇士に呼ばはり乍ら急ぎ行く、
曳き行く彼を隆起ある圓楯の下槍に突き、
アガメムノーン青銅の利刄に四肢を緩ましめ、
更に近より其首をイピダマスの()斬り落す。
アンテーノ,ルの二人の子、斯くして共に運命を
アガメムノーンの手にゆだね、冥王の府に沈み入る。

こなたは王者堂々と敵の陣中かけめぐり、
槍と劍と巨大なる石塊用ゐ戰へる、
その間に熱き鮮血は、彼の疵より溢れ出づ、
されど其疵乾き來て流血やめば、猛烈の
苦痛は強きアカイアのアトレデ,スを惱ましむ。
そを譬ふればヘーレーの娘や、助産 (つかさど)
[6]エーレーチュウアイ放てる矢、(にが)き鋭き惱の矢、
産褥中の女性らを射るにも似たり、おほいなる
苦惱は王者、勇猛のアトレーデ,スを襲ひくる。
苦惱を遂に(こら)へ得ず、戰車の中に跳り入る
アガメムノーン聲あげて、御者に命じてアカイアの
水陣さして走らしめ、更に身方に叫びいふ、
『あゝアルゴスの諸頭領、諸將勉めて海洋を
わたるわれらの戰艦を攻むる敵軍よく防げ、
計略密のクロニオーン、我に許さず、トロイアの
軍に對して日暮まで飽く迄奮ひ鬪ふを。』

[6]助産の神女。十九歌一一九にも出づ(複數)。

しか宣すれば、水陣をさして鬣美はしき
双馬に鞭を當つる御者、馬は勇みて飛ぶ如く
駈けつ、泡沫その胸に、下は塵埃まみらして
弱れる王を戰亂の巷はなれてのせて行く。

その時、勇將ヘクトール、アガメムノーン退くを
認め、トロイア、リュキエーの兩軍よびて叫び曰ふ、
『トロイア及びリキア軍、ダールダノイよ、勇しく
進み戰へ、猛烈の威力今こそ呼び起せ、
至剛の敵は退けり、クロニオーンわれに今
賜ふすぐれし光榮を、いざ單蹄の馬を驅り、
勇武の敵に打ち向ひ偉なる功名身に立てよ。』

しかく宣して各の意志と勇氣を呼びおこす。
とある獵人牙白き狗の一群はげまして、
暴き野獸に獅子王に向くるが如く、禍の
神アレースに髣髴とプリアミデース・ヘクトール、
トロイア軍を勵してアカイア勢に向はしめ、
身は功名の念に燃え、先鋒中をかけめぐり、
亂軍のなか進み入る、高き天より吹きおろし、
緑の海波かきみだす颶風の如くすさまじく、
ヂュウス譽を與へたるプリアミデース・ヘクトール、
眞先に誰に滅せる、誰を最後に打ち取れる?

先に打ちしは[1]アサイオス、オートノオスとオピイテス、
クリュチデース・ドロプスとオペルチオスとアゲロ・オス、
アイシュムノスとオーロスと勇武ひいづるヒポノオス、
此らダナオイ諸將軍、プリアミデース打取りて、
次に雜兵また斃す——南風寄せし雲の群、
そを西風の咆哮のあらしの呼吸亂すとき、
大海原の潮捲きて泡沫高く中空に、
風のいぶきに紛々と亂れ吹かれて飛ぶ如く、
あまたの頭ヘクト,ルに打たれひとしく亡び去る。

[1]三〇一 -- 三〇四 此等のアカイア緒軍の名は前後に記されず。

ヂオメーデース猛將にその時智勇のオヂュシュウス、
呼ばゝることの無かりせば破滅と大事湧き起り、
アカイア勢は蒼惶と軍船中に逃げつらむ。
『チュウデーデーよ、何事のあればぞ我ら勇猛の
威力忘れし?あゝ奮へ、わが(そば)に立て!ヘクトール
我が軍船を掠めなば、何等われらの恥辱ぞや!』

しかいふ彼に勇猛のヂオメーデース答へ曰ふ、
『我は正しく留りて敵を支へむ、然れども
其效蓋し小ならむ、雷雲寄するクロニオーン、
我よりむしろトロイアに勝與ふるを喜べり。』

しかく陳じて馬上より[2]チュムブライオス敵將の
左の胸を槍に刺し、落せばこなたオヂュシュウス、
王の從僕[3]モリオーン、容姿すぐれし者殺し、
戰鬪またと爲し得ざる彼らの屍體後にして、
二將進んで敵軍を亂す、譬へば勇猛の
勢鼓せる野猪二頭、獵犬の群襲ふごと、
斯く引返しトロイアを討てばアカイア軍勢は、
ヘクト,ルの手を遁れ得て安堵の呼吸喜べり。

[2,3]チュムブライオスとモリオーン、前後に無し。

二將は次に一輛の戰車を襲ひ、すぐれたる
二人の勇士打取りぬ、ペルコーテーの[4]メロプスの
子ら打ちとりぬ、占術に長ぜる父は、流血の
戰場さして行かざれと、子ら警めぬ、然れども
其命きかず、暗黒の死の運命に導かる、
ヂオメーデース英豪の槍の名將彼を打ち、
魂と生とを奪ひ去り華麗の武具を剥ぎとりぬ。
ヒペーロコスとヒポダモス二人斃すはオヂュシュウス。
その時イデーの高きよりクロニオーン見おろして、
彼と敵とに戰を均衡せしむ、かくありて
兩軍互に相討ちつ、チュウデーデース槍あげて、
パイオーン生める勇將の腹を貫き打ち斃す。
救ひの乘馬近からず、從者は之を遠ざけぬ、
アガストポロス思慮足らず、勇に任せて走り出で
先鋒中に戰ひて遂に一命失へり。
そを速かにヘクトール隊列中に眺め見て、
叫び二人に向ひ來る、トロイア勢は後を追ふ。
ヂオメーデース大音の勇士眺めてをのゝきて、
オヂュシュウスの傍に近く立てるに向ひ曰ふ、
『見よ、勇猛のヘクトール、憎むべきもの驅け來る、
いざ脚固め立ち停り勇氣を鼓して防禦せむ。』

[4]二歌八三一。

しかく陳じて影長く曳く投槍を振りかざし、
頭覘ひて過たず、飛ばして敵の被むれる
堅固の兜射當つれど、其青銅をかするのみ、
(はだへ)に觸れずけし飛びぬ、神プォイボス・アポローン
賜へる三重(みへ)の堅甲は青銅の槍はね返す。
されど遠のくヘクトール急ぎて衆に身を混じ、
膝つき伏してその儘に大地に強き手を突けば、
暗黒の夜襲ひ來てその兩眼をおほひ去る。
チュウデーデース先鋒を離れて遠く、彼の射し
槍の大地につきさゝる地上に向ひ進むまに、
我に返りしヘクトール、兵車の上に身をのせて、
群衆中に驅け入りて黒き運命避け得たり。
槍携へて飛びかゝるヂオメーデース叫び曰ふ、

『[1]さはれ禍難は遠からず
來らむ、今はアポローン、汝をまたも救ひたり、
槍とぶ場に進む時、汝は彼に祈るよな、
後に再び逢はむ時、我は汝を斃すべし、
若し神靈のとある者、我に冥護を貸すべくば——
今は他の敵、わが前に現はるるもの追ひ打たむ。』

[1]アキリュウスの口に此らの句また述べらる。(二十歌四四九以下)かかる著名の文句を異なる二人に述べしむるは性格描寫として敍事詩人にふさはしからず(リーフ)。

しか曰ひ、槍に巧みなるパイオニデース剥ぎかゝる。
その時鬢毛美はしきヘレネーの妻、トロイアの
パリスは、弓を勇猛のヂオメーデースに向けて張り、
國の元老ダルダノス其の子イーロス——イーロスの
墳墓のめぐり圓柱の一つに其身もたせ倚る。
こなた武勇のトロイアのアガストロポス穿ちたる
光る胸甲また肩におほひし盾と兜とを
ヂオメーデース奪ふ時、パリス圓弓高く張り、
剽と放てる一箭は無效に非ず、飛び行きて
敵の右足(うそく)(かふ)を射り貫き地に立ちぬ。
その時アレクサンドロス欣然として高らかに
笑ひ、隱れし所より跳り出して叫びいふ、
『汝 (まさ)しく射られたり、わが矢空しく飛ばざりき、
汝の腹の下部を射て生命絶やし得ましかば!
さらばトロイア軍勢は禍逃れくつろがむ、
獅子を畏るゝ山羊のごと、彼等汝を畏れたり。』

其時つゆも恐なくヂオメーデース答へいふ、
『あゝ
[2]高言の射手、汝、少女に秋波注ぐもの、
武器を携へ、まのあたり我の威力を試めしみば、
汝の[3]弓と矢數とは汝の用をなさざらむ。
我が足の甲射たりとて汝空しく誇り曰ふ。
何かはあらむ、一女性或は無知の一小兒
射らるが如し、怯憶の賤しき者の矢は鈍し。
われの鋭く放つ矢は之に異なり、いさゝかも
當らば人は凄慘の死を免るゝことを得ず、
妻たるものは悲みて其紅頬を疵つけむ、
其子ら孤兒の身とならむ、彼は大地を赤く染め、
腐れむ、側に女性より多く野鳥は集らむ。』

[2]三歌三九ヘクトールがパリスを罵る句參照。
[3]武裝完全の勇士が弓手を侮ること、グリース史に傳統的。

しかいふ彼の傍に槍の名將オヂュシュウス、
來りて前に扣へ立つ、彼は退き地に坐して、
脚より其矢抜き去れば激しき苦惱身を襲ふ。
かくて戰車にとびのりて御者に命じて軍船を
さして後陣に歸らしむ、彼の苦痛はおほいなり。

槍の名將オヂュシュウスかくて留るたゞひとり、
アカイア勢は畏怖抱き、かたへに殘るものあらず、
彼は呻きて勇猛のその魂に向ひ曰ふ、
『あゝ我、何をか今爲さむ?敵を恐れて逃げ去らば
その禍は大ならむ、敵に身をひとり獲らるるは
一層辛し、クロニ,オーン、わが友僚をおどし去る、
さはれわが魂何故にこれらを我に談ずるや?
卑怯の者は戰場を逃れむ、されど戰鬪の
中にその勇示すもの、彼は宜しく勇敢に
留るべきを、討たるゝも、はた敵人に打勝つも。』

これらの思念其魂の中に動きて廻るまに、
盾携ふるトロイアの軍勢近く襲ひ來て、
其恐るべき禍の種と見なして攻め圍む、
譬へば森の繁みより眞白き牙をとぎすまし、
野猪の現れ出づる時、若き獵人、獵犬の
群一齊に勇みたち、彼を圍みて襲ひくる、
野猪は其牙噛み鳴らし、見るもすさまじ、然れども
衆は飽く迄退かず、勇を奮ひて襲ひ來る、
斯くトロイアの軍勢に攻め圍まるゝオヂュシュウス、
神の寵兒は奮然と躍り、鋭き槍揮ひ、
其肩撃ちて眞っ先に勇將デーイオピテース
傷け、終で[4]エンノモス、[5]トオーンの二將打ちはたし、
次いで其槍さしのべて[1]ケルシダマスの戰馬より
降るその時、隆起ある圓盾の下、臍突けば、
其手大地を握みつゝ塵埃中に斃れ伏す。
これらを棄てゝ猶進み[2]ヒパソスの息カロプスを——
高き素生のソーコスの義弟を槍に突き倒す。
こを救ふべく驅け出づる神に等しきソーコスは、
近くに進み脚とゞめ敵に向ひて陳じいふ、
『計略及び策動に飽かず、名高きオヂュシュウス、
今日(こんにち)汝ヒパソスの二人の子らを打斃し、
其軍装を奪へりと高言せんか、然らずば
わが槍先に貫かれ、其一命を失はむ。』

[4]二歌八五八のエンノモスは別人。
[5]五歌一五三のトオーンは別人。
[1]ケルシダマスは前後に無し。
[2]十三歌四一一に他のヒパソスあり又十七歌三四八にも同名の人あり。

しかく叫びてオヂュシュウス持てる圓盾打ち目がけ、
飛ばす激しき投槍は耀く盾を貫きて、
その精妙に造られし胸甲中に進み入り、
脇腹よりし肉を割く、されどもパラス・アテーネー、
利刄進みて勇將の臟腑に入るを防ぎとむ。
槍の急所をはづせしを知りて勇めるオヂュシュウス、
あとにしざりてソーコスに向ひて高く叫び曰ふ、
『不幸なるもの、あゝ汝、大難すぐに到るべし、
げにも汝はトロイアの戰爭我に停めたり、
されど我曰ふ、殺害と黒き運命今の日に
汝襲はむ、わが槍に斃れて汝光榮を
われに與へむ、魂魄は馬に名高き冥王に。』

しか陳ずればソーコスは逃げてうしろに引き返す、
逃げ行く彼の背をめがけ左右の肩のたゞ中を、
槍を飛ばして胸かけて打ち貫けば、ソーコスは
大地のどうと倒れ落つ、そを見て誇るオヂュシュウス、
『馬術に長けて勇しきヒパソスの息、ソーコスよ、
最期の非命、進み來て襲へる汝免れず。
不幸なるものあゝ汝、その[3]臨終に父と母、
汝の(まみ)を閉ざし得ず、腐肉をくらふもろ〜の
野鳥集り飛び廻り、汝のむくろ喰ひ裂かむ、
されども我は逝かんときアカイア人に祭られむ。』

[3]臨終に目を閉ざすは兩親の、又特に義務なりき。

しかく宣して勇ましきソーコスの槍鋭きを、
身より盾より——隆起ある盾より抜けるオヂュシュウス、
槍抜かるれば血は溢れ勇士の心惱ましむ。
勇士の流す血を見たるトロイア勢は其時に、
互に警め合ひ乍ら皆一齊に寄せ來る、
その時あとにオヂュシュウス歩み轉じて、同僚に
聲ある限り高らかに三たび續きて呼び叫ぶ。
叫びを三たび耳にするアレースめづるメネラオス、
たゞちにそばにアイアース立てるに向ひ陳じ曰ふ、

テラモニデース、衆の王、ヂュウスの裔のアイアスよ、
われは智者のオヂュシュウス、叫べる聲を聞き得たり、
聲はさながら曰ふ如し、トロイア軍勢亂戰の
中に遮り、他と分ち、たゞ一人の我攻むと。
いざ敵陣に赴かむ、彼の救援よからずや!
我今恐る、勇なるも敵陣中に彼ひとり
災うけむ、おほいなる悲哀は湧かむ、わが陣に。』

しかく陳じて驅け出せばつゞく勇武のアイアース、
行きてヂュウスの寵兒たるオヂュシュウスの敵中に
陷るを見る——譬ふれば獵人放つ矢に射られ、
角逞しき大鹿の疵つき走る山の上、
茶褐色なる豺の群襲ふに似たり——獵人を
避けて逃げ行く大鹿は、血の温く膝動く
その()は走る、然れども矢疵に遂に弱るとき、
豺は山の()、森の中、こを噛み倒す、しかれども
運命こゝに一頭の獅子を引き出す、これを見て
恐るゝ豺は逃げ去れり、大鹿獅子の餌となる。
斯く數多き剛勇のトロイア勢は、計略に
富み且つ猛きオヂュシュウス攻めて圍めり、然れども
槍を揮ひて勇將は黒き運命追ひ拂ふ。
其時さながら塔に似る巨大の盾を携へて、
かたへに來るアイアース、見てトロイアの軍震ふ。
アレースめづるメネラオスその時敵の陣の外、
其手を引きて友救ふ、御者は戰車を寄せ來る。
その時進みてアイアース、トロイア軍を襲ひ打ち、
プリアモス王生める庶子[4]ドリクロス又パンドロス、
リサンドロスとピューラソス、又ピラルテ,ス打ち斃す。
譬へばヂュウスの雨により、水量増せる一條の
河、平原に山腹を急湍なして溢れ來る、
乾ける樫と樅の樹の數百を流し、更に又
泥土塵埃大海に搬び去るにもさも似たり。
斯く耀けるアイアース、[1]人馬を碎き敵軍を
亂し原上追まくる——こなたに之をヘクトール、
未だ悟らず、全軍の左にありて戰へり、
スカマンダロス岸の上、敵ゲレーニャのネストール、
又剛勇のイドメネー之を廻りて叫喚は
絶えず、首級の紛々と落つるほとりに戰へり。
その中にしてヘクトール、戰車の上に槍揮ひ
若き戰士の隊列を荒して偉功立て續く。
鬢毛美なるヘレネーの(つま)たるアレクサンドロス、
その三叉(みつまた)(やじり)ある矢にマカオーン勇將の
右の肩射て奮戰を停むることの無かりせば、
アカイア軍は其道を退くことのあらざらむ、
勇氣凛たる衆軍は彼の一身憂慮しつ、
形勢轉じ敵の爲、彼の死せんを悲しめり。
かくて直にイドメネー、ゲレーニャ騎將に向ひ曰ふ、

[4]これらの名前後に無し。別人ピュラルテースは十六歌六九六にあり。
[1]勇將を洪水に比するは五歌八七にもあり。

『ネーリュウスの子、ネストール、アカイア軍の譽れ君、
戰車の乘りてマカオーン同じく共に引き具して、
疾く單蹄の馬驅りて軍船さして歸り去れ、
矢を拔くを知り微妙なる良藥疵に塗るを知り、
醫療の術に優るもの、外の多數に(たぐ)ふべし。』

しか陳ずればゲレーニャの老ネストールうべなひて、
戰車にすぐに身をのせつ、すぐれし軍醫マカオーン、
アスクレ,ピオス生める息、同じく共に打ちのして、
鞭を双馬に加ふれば、飛ぶが如くに軍船を
さして驅け出す、又そこに歸るを軍馬喜べり。

其時他方トロイアの軍敗るゝを眺め見て、
戰車御しつゝヘクト,ルにケブリオネース陳じいふ、
『こゝに我らは、ヘクトール、禍難を生める戰場の
一つの端にアカイアの兵と戰ふ、トロイアの
他の軍勢は人馬とも紛々として他に敗る。
テラモニデース・アイアース味方を破る、我れは知る、
彼、肩の上おほいなる盾をかざせり、いざや今
戰車、戰馬を驅り行かむ、かなたに、他に勝り、
騎兵と歩兵一齊に殺し合ひつゝ猛烈の
戰鬪なして、叫喚のたえず湧きでるかの場に。』

しかく宣して鬣の美なる双馬を音高き、
快鞭揮ひ驅り進む、音に勇みて驅けいづる
馬はアカイア、トロイアの兩陣さして迅速に、
戰車牽きつゝ倒れたる屍體を盾に踏みにじる、
車軸は下に鮮血にまみれ、座席の周圍なる
欄また廻る車輪より、又馬蹄より揚ぐる血の
しぶきにまみへるヘクトール、かくて念じて敵軍の
中に突き入り突き返し、縦横無碍にアカイアの
軍を亂して其槍をやすむる隙はしばしのみ。
槍とつるぎと巨大なる石塊とりて敵軍の
中を貫きヘクトール、かく勇猛にあらべども、
テラモニデース・アイアスと戰ふことを敢てせず、
([2]優れるものに手向ふをヂュウスは彼に喜ばず)
其時ヂュウス、アイアスに驚怖の念を起さしむ、
勇士驚き立ち止まり、やがて七牛の皮張りし
盾をかつぎて敵陣を見わたし乍ら逃れ行き、
あとをしば〜振り廻る獸の徐々に去る如し。
[3]犬の大群、農夫らと力合して牛小屋に
寄する茶色の獅子王を攘ふもかくや?農夫らは
夜すがら()ねず、看守りて脂肪に富める牧牛を
取るを許さず、貪婪の獸は餌にあこがれて、
勢猛く襲へども遂に其意を遂げがたし、
勇武の手より放つ矢と、さすが畏るゝ炎々の
松明(たいまつ)かれに飛び來れば、あらび乍らもたぢろぎつ、
やがて曙光の到るとき恨抱きて遠く去る。
斯くアイアース、トロイアの軍勢あとに怏々と、
心ならずもアカイアの船を憂ひて引き返す。
又譬ふれば鈍き驢馬、農場近くよせ來り、
小兒ら棒の折るる迄打てど叩けど顧みず、
これを凌ぎて悠々と侵し入りつゝ、蓄へる
穀を飽く迄貪りて、後に初めて弱き子の
棒に追はれて悠々と其 (には)あとに去る如し、
かく剛勇のトロイアの軍勢、及び集れる
種々の援軍槍飛ばし、テラモニデース・アイア,スの
巨大の盾を射りつゝも皆一齊に逐ひ進む。
その時、おのが猛威力思ひてあとにふりかへり、
悍馬を御するトロイアの衆の襲ひをアイアース、
防ぎとどめつ、やがて又脚廻らして去り乍ら、
わが輕舟に向ひ來る敵悉くひきとゞめ、
トロイア及びアカイアの兩軍間に立ち乍ら、
奮ひ戰ふ。勇敢の手に放たれし投槍は、
或は飛んでアイアスの巨大の盾につきささり、
或は彼の身に立つを望み乍らも、途にして
落ちて大地に突きたてり、白き(はだ)には觸れも得ず。

[2]此一行いづれの寫本にも無し。
[3]五四八 -- 五五五 此比喩は又十七歌六五七以下メネラオスの上に用ゐらる。

かく亂箭にアイアース惱むをユウアイモーンの子、
ユウリュピロスは認め知り、來りて彼のそば近く
立ちつゝ、勇士耀ける其長槍を繰りいだし、
ポーシオスの子、民の王、アピサオーンを突き伏せつ、
横隔膜のすぐの下、肝臟つきて打ち斃す。
ユウリュピロスは走り出で敵の肩より武具を剥ぐ、
アピサーオーンの戰裝を剥ぎとる彼を認めしは、
美麗のアレクサンドロス、彼はたゞちに弓を張り、
ユウリュピロスに一箭をとばして、右の股を射る、
蘆にて造るその矢柄折れて其股痛ましむ、
ユウリュピロスは同勢の中に退き、死をのがれ、
鋭く聲を張りあげてアカイア軍に叫びいふ、
『あゝアカイアの諸頭領また諸將軍、われの友、
脚を廻らし踏みとまれ、禍防げアイアスに、
見よ、彼、敵の亂箭に惱めり、彼の悲慘なる
戰場 (よそ)に逃るゝを思ひ得がたし、あゝ奮へ、
テラモニデース、アイアスをめぐり汝ら踏みとまれ。』

疵うけ乍ら勇猛のユウリュピロスはかく叫ぶ、
衆人乃ちそのそばに近づき來り、其盾を
肩にかざして其槍をくり出し乍ら立ちとまる、
そこに再びアイアース歸りて衆の前に立つ、
かくして彼ら炎々の火熖の如く戰へり。

かなた淋漓の汗流すネーリュウスの馬はネストルを、
また民の王マカオーンを戰場よりし搬び去る、
その時脚は神速のペーレーデース・アキリュウス、
巨大の船の傍にたちつゝ之を眺め得て、
アカイア軍の敗走とその難局を認め知り、
すぐに船より聲あげて其親愛の同じ伴、
パトロクロスに呼はゝれば、こを陣營の中に聞き、
外に勇士は出で來る、彼の禍難の本はこれ。

メノイチオスの勇武の子まづ口開き問ひて曰ふ、
『アキルリュウスよ、何のため我に呼びたる?要はなぞ?』
脚神速のアキリュウス、彼に向ひて宣しいふ、
『わが心肝のめづるもの、すぐれしメノイチアデーよ、
アカイア族は案ずるに、われの膝下に願ひ來む、
遂に耐ふるを得ざるべき危難彼らに迫り來ぬ、
ヂュウスの愛づる友よ、いざ行きて尋ねよ、ネスト,ルに、
戰場よりし連れ來る負傷の勇士誰なりや?
後より我の見るところ、アスクレピオス生める息、
マカオーンにぞ彼は似る、されど面貌われは見ず、
急ぎに急ぎ双の馬わが眼前を過ぎ行けり。』

しか宣すれば其言にパトロクロスは従ひて、
アカイア軍の陣營と舟とを出でゝ走り行く。
かなた、ネスト,ル陣營に友もろともにつける時、
戰車を出でゝ豐沃の大地の上におりたちぬ。
ユーリメドーンは老將の御者——今彼は戰車より
双馬を解きぬ、解きし後、波浪の岸に佇みて、
吹き來る風に胸甲の汗を兩將乾かしつ、
やがて陣舍の中に入り、休の床に身を延せば、
[1]ヘカメーデーは其爲に酒を混じぬ、鬢毛の
美なる麗人、おほいなるアルシノオスの生むところ、
([2]テネドス城をアキリュウス、掠めし時に老將の
功を思ひて、衆人の撰びて頒ち與へたる)
麗人その時琢かれし美はしき卓、緑色の
脚あるものをまづ先に二人の前に引き出し、
青銅製の籃をその上におきつゝ、酒によき
葱と新たの蜂蜜と聖なる麥の粉とを入る。
そばの金鋲ちりばめし華美の[3]酒盃は老將の
家より携へ來るもの、四つの把手のおの〜に、
黄金製の二羽の鳩餌をついばめる彫刻の
美なるものあり、盃は下に二つの脚備ふ。
此盃の滿つる時卓より之を動かすは、
老ネストール除く外、誰も難しとするところ、
姿神女に髣髴の麗人、中に混成し、
造る飲料——青銅の銼器(おろし)によりて乾酪を
おろしゝものと白き粉を、プラムネーオス産したる
酒に混ぜる飲料を二人に勸め酌み干さす。
二人は之を飲み終へて痛く惱める渇を去り、
互に談話かはしつゝ心くつろぐ折もあれ、
戸口の前に神に似るパトロクロスは訪ひ來る。
之を認めて耀ける椅子より起てる老將は、
彼の手を取り内に入れ席に就くべく説き勸む。
これを拒みて口開きパトロクロスは陳じいふ、

[1]後十四歌六に又出づ。
[2]一歌三七、九歌三二八。
[3]ミケーネーにてシリーマンの發掘せる黄金の盃頗る此敍述に似る。

『神の養ふ尊榮の(おぢ)よ、坐すべき暇無し、
勸むる勿れ、戰の(には)より君のつれ來る
負傷の彼は誰なりや?問ふべくわれを遣はせる
彼[1]敬すべし、恐るべし、われマカオーンを認めたり、
こを報ずべくわれは今アキルリュウスに歸り行く。
神の養ふ尊榮の(おぢ)よ、正しく君知らむ、
彼、恐るべし、ともすれば彼は罪なきものを責む。』

[1]最愛の友の此句はアキリュウスの威望を卜すべし。

ゲレーニャ騎將ネストールその時答へて彼に曰ふ、
『アカイア戰將これ迄に多く(きづつ)く、何故に
今に及びてアキリュウス、特に痛むや?彼知らず、
陣營中に懊惱の起るを、——特に秀でたる
諸將ら槍に矢に打たれ、兵船中に休らふを。
チューヂュウスの子おほいなるヂオメーデース傷けり、
槍の名將オヂュシュウス、槍に傷く、總帥の
アガメムノーン亦然り、ユウリュピロスは股に矢を
受けたり、更に弦上を離れし飛箭此友を
射たるを我は戰場の中より救ひこゝにあり。
されど英武のアキリュウス、アカイア軍を憐れまず、
(かれ)岸上の迅き船、アカイア勢の禦げども、
敵の兵火に焚かるるを、又わが將士順々に
討たれ亡ぶを待たんとや?ああわが力いにしへの
ありし日われの柔靭の肢體における如からず。
[2]あゝわれむかしエーリスの住者とわれの族のあひ、
家畜を奪ひ戰のありし日の(ごと)、わかくして
勇力堅くあらましを。かの時われは剛勇の
[3]ヒュペーロキデース・イチモネー、エーリス人を打斃し、
償取りぬ。——先陣の間にありて牧牛を
防げる彼はわが手より投げし鋭槍身に受けて、
大地に落ちつ、其部下の農民怖れ逃げ散りぬ。
かくして敵の原上に掠めし獲物おびただし、
牝牛の數は五十頭、羊の數も亦等し、
又數等し家猪の群、山羊亦同じ數なりき、
栗毛の馬は百五十、しかも擧げて奪ひ取り、
夜に乘じて悉くネーリュウスの市ピューロスに
驅りて歸りぬ、若くしてわれ戰場に立ち乍ら
巨大の鹵獲得たりしを、いたく嘉みしぬネーリュウス。
次の日曙光出づる時、傳令使らは朗々と
聲あげ、先にエーリスに害をうけたる人々を
集む、かくしてピューロスの首領ら來り、掠奪の
品を頒ちて、先きの日にピューロス戸口乏しくて、
弱りていたくエーリスの民に迫害うけたりき。
[4]ヘーラクレースそのむかしあらび我が郷犯し入り、
わが族中の優秀の多くの者を亡ぼせり、
わが剛勇のネーリュウス其子數ふる十二人、
其中ひとり我殘り、他は悉く亡さる。
黄銅うがつエーリスの族人これを伺ひて、
心勇みて凌辱を加へし處、今報ふ。
今ネーリュウス一群の牧牛及び數多き
羊を撰び三百を、併せて牧の人を取る、
エーリス族に蒙りし彼の被害は大なりき、
競馬に勝てる四俊足、兵車も共に奪はれき。
鼎を堵して競走に送りし馬をエーリスの
オーゲーアス王奪ひとり、御者を叱りて憤激の
涙にくれて去らしめし——其兇行と兇戾の
言語思ひて、いきどほる老翁かくて莫大の
賠償とりて身に収め、殘れる處こと〜゛く
緒人に與へ、憾みなく各々分を収めしむ。
かくして衆は一切の獲物を頒つ邑の中、
諸神に牲を捧げたる、其第三日に敵軍は、
數を盡して早急に單蹄の馬驅り來り、
犯し來れる其中にモリオン二人兄弟は、
年若くして勇戰に堪へねど共に武具取りぬ。
沙地のピュロスの境なるアルペーオスの岸の上、
高き丘のへ邑ありて[1]トリュオェッサの名を呼べる、
その覆滅を心して敵軍之を攻め圍む。
其敵軍の原上をまったく通り過ぎし時、
ウーリュンポスの高きより使となりてアテーネー、
夜を犯して走り來てわれに武裝を促しつ、
ピュロスの中に勇戰を念ずるもおんを呼び集む。
われの武裝はネーリュウス許さず乘馬おし隱し、
軍事につきて何事も未だ知らずと我をいふ。
されど馬無く徒歩ながらわれは騎將に交はりて、
神アテーネー導けば功名ことにすぐれたり。
海に直ちに注ぐ川——ミニュエ,イオスの名を呼びて
アレーネーにし程近し、こゝにピュロスの騎兵隊、
着きて曙光の聖き待ち、歩兵の隊も群れ來る。
そこより急ぎ一切の武裝とゝのへ眞晝ころ、
アルペーオスの神聖の流の岸に進み來つ、
すぐれし牲を大能のクロニオーンにたてまつり、
アルペーオスの河靈又ポセードーンに一頭の
牡牛おのおの、藍光の目の神女には若牝牛、
捧げてかくて陣中に隊にわたりて食を取り、
おのおの武裝そのまゝに其神聖の川の岸
沿ひて眠りぬ。かなたには勇氣盛りのエペーオイ、
すでに覆滅企てて都邑を圍み陣取りぬ、
されど其前アレースのおほいなる業現はれぬ。
大地の上に燦爛の日の出づる時わが軍は、
ヂュウス並にアテーネー拜し戰地に進み出づ、
ピュロスの軍とエペーオイかくて鋒刄まじへたる——
其の眞っ先きに敵將のムーリオスをば我殺し、
その單蹄の馬奪ふ、オーゲーアスの壻にして、
王の長女と生れたるアガメーデーは彼の妻、
大地産する藥草を知る金髪の一女性。
近よる來る敵將をわれ黄銅の槍を以て、
打てば塵ぬち倒れ伏す、その兵車の()飛び乘りて、
先鋒中に加はりて我は進めり。エペーオイ
武勇すぐれて駿馬の隊率ゐし將の斃されて、
大地に伏すを見て怖れ、あなたこなたに逃げ走る、
追ひ行く我は暗黒のあらしの如く驅り進み、
奪へる兵車數五十、その各に乘る二人、
わが鋭槍に討たれ地に、落ちて齒を以て塵を噛む。
更に我又アクトルの裔のモリオン若き二子、
討つべかりしを遠近に威力振うて地を()する
彼らの[2]父は救ひとり、むらぎる霧に包み去る、
その時ヂュウスおほいなる勝を惠みてピュロス軍、
廣き平野を驅り進み馬前に敵を追ひはらひ、
衆を亡し華麗なる武裝を剥ぎて集めとり、
[3]ブープラシオン、麥の土地、[4]オーレニエーの岩の土地、
アレーシオスの名を呼べる岡あるところ進み打つ、
其ほとりよりアテーネーわが軍勢を追ひかへす。
最後の敵をわれ討ちしブープラシオン其地より
アカイア軍は其馬をピュロスにかへし神の中
特にヂュウスを讃美しぬ、人の中にはネスト,ルを。

[2]六七〇以下七六一に到る迄ネストールの青年時代の回顧エーリス(住民エーレーオイ、其古名はエペーオイ)はペロポンネソスの中にあり、其北部にエペーオイ住み其南部にアカイア族住みてネストールの領土たり。此一段は後世の添加なるべしと或評家は曰ふ。
[3]イチュモニュウスの佛蘭西訓み。
[4]ヘーラクレースはグリースの國民的英雄に非ず、ホメーロス中には西部グリースの不法なる壓制者として記さる。
[1]トリュオェッサ 一名トリオン二歌五九二。
[2]ポセードーン(十三歌二〇七)此神は一般に勇士の父として現はる。
[3]アカイアに隣る(二歌六一五)。
[4]二歌六一七。

斯くその昔戰場にわれはすぐれき、しかれども
ただアキリュウス剛勇のほまれを獨り今に受く。
見よわが族の亡ぶ時彼は哀悼切ならむ。
ああ友、君をそのむかしプチーエーより總帥の
アガメムノーンに送るときメノイチオスは警めき、
われ諸共にオヂュシュウス、その時共に室にゐて、
彼が汝を警しめしその一切を耳にしき。
彼の巨館に[5]ペーリュウス、豐沃(ほうよく)の郷アカイアの
四方(よも)より客を呼びしかば、われら二人も共なりき。
その時亦汝ありき、メノイチオス又アキリュウス、
同じくありき、ペーリュウス戰車を御する老將は、
庭の中にて牛の股肥えたる肉を雷霆の
ヂュウスのために焼き炙り、手に黄金の盃を
取りて、きらめく芳醇を火焰の上にふり蒔きき。
その時肉を汝らは調理し立てり。而うして
我ら戸口に近寄るを見て驚けるアキリュウス、
進み來りて手を取りて内に導き坐を備へ、
客をもてなす諸の美味をわが前据ゑたりき。
而して食に飲料に口腹おのおの飽ける時、
我まづ先に口開き共に從軍勸むれば
汝二人は喜べり、二翁も警告切なりき。
即ち老いしペーリュウス、常に勝れよ、他のものに、
劣る勿れと慇懃にアキルリュウスを警めき。
また、アクトール生める息メノイチオスは警めて、
汝に曰へり『ああわが兒、アキルリュウスは汝より
素生は高し、年齡は汝優れり、勇は彼、
汝よろしく智慧の言陳じて彼を諌むべし、
又命ずべし、其言に従ひ彼は益を得む。』
老翁かくは教へし汝は之を忘れたり。
されど今なほ剛勇のアキルリュウスに陳じ見よ。
誰か知るべき神明の助によりて彼の意を
汝動かし能はずと。友の忠言つねに善し。
彼もしとある神託を恐れ避くるか、あるは又、
ヂュウスの言を彼の母彼に傳へしことあらば、
なほ少くも汝をば彼送れかし、而うして
ミュルミドネスともろともに、恐らく汝アカイアの
光明たらむ、更に又、彼其華麗の軍装を
貸して汝を戰場に立たしめよかし、トロイアの
軍勢彼と誤りて戰やめん、アカイアの
疲れし諸勇士くつろがむ、戰鬪しばし隙あらむ。
あるは新手の汝らは、わが陣營と水師より、
疲れし敵を容易くも彼の都城に攘ひ得む。』
しかく陳じてネストール、パトロクロスを動かせば、
水陣過ぎて走り出で、アキルリュウスの許かへる。
かくして智謀神に似るオヂュシュウスの船のそば、
パトロクロスは馳せ來る、そこに彼らの集會(しうゑ)あり、
審判の席またありて諸神の壇も設けらる。
そこに鋭き矢を股に受けて跛足をひきつゝも、
戰場よりし逃れ來しユウリピロスは彼の逢ふ、
ユウアイモーンの勇武の子、肩と頭は淋漓たる
汗にまみれつ、いたはしき疵口よりはだくだくと、
黒き血潮の流るれど勇氣は未だ衰へず。
メノイチオスの勇武の子、之を眺めて憐憫に
堪へず、呻きて翼ある言句を彼に陳じいふ、

[5]九歌二五二。

『ああ無慚なり、アカイアの諸王並に諸將軍、
友を郷土を離れ來てこゝトロイアの空の下、
汝ら白き脂肪もて野犬の口を飽かしめむ、
神の養ふ英豪のユウリュピュロスよわれにいへ、
アカイア軍は畏るべき將ヘクトール支ふるや?
或は彼の槍の下皆悉く亡びんや?』

矢疵に惱む豪勇のユウリュピュロスは答へ曰ふ、
『[1]パートロクロス、神の裔、アカイア軍は今既に
防禦の()なし、黒船をさして退き逃るべし、
先きに至剛の譽得し諸將こぞりて、トロイアの
鋭き槍に打たれ、皆船中に横はり
起たず、而して敵軍の勇はます〜激しかり。
さはれ乞ふ、今黒船の中に導き我救へ、
股を穿てる矢を抜きて湯をもて黒き血を拭へ、
而して疵に有效の善き軟膏を(まみ)れかし、
ケントール中すぐれたる[2]ケーローンよりし學び得て、
汝に先にアキリュウス傳へしものと人はいふ。
ポダレーリオス、マカオーン二人の醫師の中一人、
思ふに彼は疵うけて其陣中に横はり、
其身自らすぐれたる醫師を求めて惱むべく、
他は原上に戰ひてトロイア軍を支ふべし。』

[1]パートロクロス及びパトロクロス兩樣に發音せらる。
[2]ケーローンはアキリュウスを教ふ(四歌二一九)。

メノイチオスの勇武の子即ち答へて彼にいふ、
『此事いかに成り行かん?われら何をか今なさむ?
アカイア軍の(まもり)たるゲレーニャ騎將ネストール、
下せる令を剛勇のアキルリュウスに傳ふべく
われ途にあり、然れども惱める汝を棄ておかじ。』

しかく陳じて頭領を胸に抱きて、陣中に
運び來れば、其從者認めて牛の皮を敷く。
其皮の上、横にして、(つるぎ)を抜きて鋭き矢
股より斷ちて、流出の黒き血潮をあつき湯に
拭ひつ、やがて其上に(にが)き草根、くるしみを
留むるものを施せば、ユウリュピュロスの一切の
苦惱は去りぬ、疵口は乾きぬ、血潮とどまりぬ。


更新日:2004/08/14

イーリアス : 第十二歌


第十二歌

アカイア軍の壘壁後年に到りて破滅すること。アカイア軍退却。 プウリダマスの言を納れ、ヘクトール騎兵を車上より降らしめ、 五隊に分れて徒歩にて進撃す。アシオス其隊を率いて左門に向ふ——二勇將之を守る。 凶鳥トロイア軍に現はる。プウリダマス之を見てヘクトールを諫むれども聽かず。 アカイア軍に向って大神暴風を起す。ヘクトール壁を襲ふ。 二人アイアース衆を勵す。トロイアの援軍サルペードーン及びグローコス進撃。 テラモーンの諸子之を防ぐ。グローコス負傷して退く。 サルペードーン胸壁を破る——ヘクトール大石を投じ門を破る—— トロイア軍の侵入。

メノイチオスの勇武の子、かく陣營の中にして、
ユウリュピュロスの矢の疵をいたはる。——かんたトロイアと
アカイア二軍戰鬪をつづく、はたまた塹濠と
其上高き壘壁はアカイア勢を末長く
守るに耐へず——壘壁は高くも立ちて其めぐり、
塹濠廣く廻らして中に多くの輕舟と
夥多の戰利安らかに保たんために築かれき。
されど不滅の神明に犠牲捧ぐること無くて、
神意にそむき營まれ、永く榮えんよしあらず。
アキルリュウスの憤激と將ヘクト,ルの生命の
續ける限り——プリアモス王の都城の破られず、
立ちたる限り——アカイアの巨大の壘は堅かりき。
されど其後トロイアの勇將すべて死せる時、
又アルゴスの諸將軍あるは殺されあるは生き、
第十年にイリオンの堅城遂に陷りて、
アカイア軍勢船に乘り故郷に歸り去れる時、
ポセードーンとアポローン共に壘壁崩すべく、
高きイデーを降り來て大海そそぐ諸川流、
カレーソス又レーソスと、ヘプタポロスとロヂオスと、
グレーニコスと神聖のアィセーポスとシモエース、
スカマンダロスもろ〜の川の威力を打ちつくる
——其岸のうへ牛皮張る多くの盾と兜とは
[1]半ば神なる英雄の群もろともに地に伏しぬ——
此らの川を向かへて神ポイボス・アポローン、
九日續きて壘壁に注げば、更にクロニオーン、
疾く大海に流すべく絶えず豪雨を降らしむ。
更に地を震るポセードーン三叉(さんさ)の鋒を手にとりて、
眞先に進み、アカイアの軍勢堅く据ゑたりし
その木石の根底を、波浪に流し壘壁を
拂へる後に、澎湃のヘレースポントス大波の
岸悉く平げてまた一面の沙としつ、
かくて再びもろ〜の川をその前美しく、
流れ馴れたる川床に再び戻り歸らしむ。
ポセードーンとアポローン後の日かくぞ振舞へる。
今は戰爭叫喚の狂ひは壁をとりかこみ、
うたれて塔のもろ〜の棟木(むなぎ)は高く鳴りわたる。
クロニオーンの鞭により打たるるアカイア軍勢は、
その輕舟の傍に追はれ來りてすくだまり、
はげしき畏怖の基たる將ヘクト,ルに向ひ得ず、
そのヘクトール今も亦颶風の如く荒れ狂ふ。
譬へば獅子王あるは野猪勇に誇りて一群の
狩人及び狩犬を前に其身を囘らせば、
衆はさながら壁のごと隊を組みつゝ相向ひ、
はげしく早く手中より投槍飛ばす、然れども
野獸の心猛くして畏れず怯ぢず、荒れ狂ひ、
(其勇遂に生命に亡ぼす本となりぬべし)
かくて屢々身を転じ隊の勇氣を試みて、
奮ひ躍りて入るところ、衆は恐れてあとしざる。
かくヘクトール隊中を進み乍らに同僚を
勵まし敵の塹濠を渡り行くべく説き勸む。
されども彼の脚早き駿馬空しく岸の上、
其外端に立ち留り、ただ高らかに嘶きて
廣き塹濠恐れつゝ敢て進まず、一躍に
其濠越すを得べからず、渡ることまた易からず、
濠の兩側懸崖は迫るが如く聳え立ち、
上にアカイア軍勢の植ゑし鋭き(くひ)繁く、
叢がりたちて敵人の侵入いたく拒ぐめり。
車輪を牽ける馬にして容易く越んものあらず、
されども徒歩の分勢は勇みてこれを遂げんとす。

[1]「半ば神なる英雄」此句はホメーロス中唯こゝにのみ、後代に至りて廣く用ゐられる。以上の理由により此らの段は後世の添加なりと主張する評家あり。

その時猛きヘクト,ルにプーリュダマスは陳じ曰ふ、
『ヘクト,ル及びトロイアの諸豪並に諸將軍、
駿足驅りて此濠を越えんとするは愚かなり、
濠を越すこと易からず、鋭き杙は其中に、
植ゑられ、しかもアカイアの壘壁すぐに聳えたつ、
騎兵たるもの降り行き戰ふ事を得べからず、
處は狹し、恐くは害受くること多からむ。
高きにゐます轟雷のクロニオーン憤ほり、
わが仇斃しトロイアの軍に助を心せば、
アカイア勢はアルゴスの故郷はなれて譽なく
こゝに亡びむ、其事の早くも成るをわれ願ふ、
されども彼ら盛り返し、我ら船より攘はれて、
彼の穿ちし塹濠の中に陷ることあらば、
再び振ふアカイアの軍を逃れて、わが城に
歸り敗報傳ふべき一人もなきをわれ恐る。
いざ今われの忠言を衆ことごとくうけ入れよ。
從者に命じわが馬を濠のほとりに留めしめ、
我らは徒歩に軍装を整へ、共にヘクト,ルの
あと一齊に追ひ行かむ、破滅の(きづな)アカイアの
軍勢纒ひ附くべくば我に(あらが)ふこと無けむ。』

プウリダマスの陳べし言、贊しうべなふヘクトール、
直ちに戰車とびおりて武裝整へ地に立てり。
その時外のトロイアの軍勢猛きヘクト,ルを
眺め同じくためらはず戰車を棄てゝおりたてり、
かくておのおの其御者に命じ、順よく塹濠の
ほとりに馬を駐めし、衆人即ち相わかれ、
更に五隊に軍勢をとゝのへ、かくて堂々と
進みおのおの命令を下す武將のあとにつく。

ヘクト,ル及び豪勇のプウリダマスの率ゐたる
第一隊は兵の數最も多く勇すぐれ、
壘壁破り船の前戰ふ念も他に優る。
[1]ケブオネース第三の將たり、ケブオネースより
劣れるものをヘクトール戰車に沿うて留らしむ。
パリス並に[2]アルカトス、[3]アゲーノールは第二隊、
第三隊はプリアモス王の生みたる双生兒、
[4]デーイポボスとヘレノスに並び將たりアーシオス、
(ヒュルタキデース・[5]アーシオス、セルレーイス流より
[6]アリスベーより鳶色の駿馬に乘りて來るもの)
アンキーセース生むところ、アイナイアース第四隊、
率ゐつ、共に將たるはアンテーノルの二人の子、
[7]アルケロコスとアカマース、共に戰術すぐれたり。
最後の隊はほまれある援軍、之を率ゐるは
サルペードーン、(とも)として、[8]アステロパイオス、グローコス、
撰べり、二將彼に次ぎ勇武もっとも優れりと
其眼に映る、然れども主將すべてにいや優る。
かくて衆隊一齊に牛皮を張れる盾用ゐ、
身を()り、急ぎアカイアの軍勢めがけ奮ひ行き、
心に思ふ、敵軍は支へず船に逃ぐべしと。

[1]ヘクトールの御者八歌三一八、十一歌五二二。
[2]アイシュエテースの子、ヒポダメーアの夫。(十三歌四二八)[。]
[3]アゲーノールはアンテーノールの子。(四歌四六七 十一歌五九)。
[4]デーイポボス勇將の一人(十三歌一五六)。ヘレノスは六歌七五。
[5]アシオスは二歌八三七。
[6]二歌八三六アリスベー。
[7]アルケロコスとアカマース。二歌八二三。
[8]二十一歌一四〇。

他のトロイアの軍勢と譽とどろく援軍は、
常に過失犯さざるプーリダマスの言を納る。
ヒュルタキデース・アーシオス、一の部隊を率ゐたる
彼ただ獨り其戰馬並に御者を濠のそば、
殘すことなく一齊に率ゐて敵の舟せまる。
愚なるかな凶運を逃れて敵の舟よりし、
風凄じきイーリオン都城をさして揚々と、
戰車戰馬を引きかへす譽得べきに非りき、
その事あるに先だちてヂュウカリオーンのすぐれし子、
[9]イドメニュウスの槍により彼は非命に斃れたり。
(事に始末をたづぬれば)アカイア勢が平野より、
戰馬戰車を引きかへす水師の左翼めあてとし、
彼の戰馬と戰車驅り進みて敵の陣門に、
到れば長き(かんぬき)は引かれず、其戸閉されず、
戰場よりし舟めがけ逃れ來らん同僚を。
救はんために陣門は廣く開きて殘されぬ。
そこに勇みて馬を驅る、衆も叫喚物すごく、
之に續きて攻め寄せて、思ふアカイア軍勢は
留り支ふるを得ず、水陣さして退()くべしと。
愚かなるかな、門の前、見ずや佇立む二勇士を、
ラピタイ族の槍使ふ英豪の子ら、その一は
[10]ペーリトースの生める息、[11]ポリポエテース、他の者は
[12]レオンチュウスの名を呼びて殺戮好むアレースに
比すべし。二人高らかの門の戸口にすくとたつ、
譬へば樹梢高らかに空に冲りて山上に、
屹然として聳え立ち、おほいなる根を廣く張り、
日々に雄々しく雨風を凌ぐ大檞見る如し、
かくて二人は其腕と勇氣を頼み、押し寄する
敵アーシオス待ち受けて一歩もあとに退かず。
敵は牛皮を張りし楯高くかざして堅牢の
壘壁めがけ叫喚の聲かしましく攻め來る。
率ゐるもおんはアーシオス、[13]イアメノス又オレステス、
アーシオスの子アダマース、[14]トオーン並に[15]オイノモス。
こなた二將はそのはじめ壘壁の中聲あげて、
舟防ぐべく堅甲のアカイア軍勢勵しき。
されどトロイア軍勢がこゝに向ひて殺到し、
身方の勢は叫喚を發し逃げんとするを見て、
二將即ち出で來り陣門の前戰へり。
二頭の野猪が山の中荒れて狩人狩犬の
群、奮然と襲へるに抗し左右(さう)より向ひ來て、
あたりの樹木推し倒し根もとよりして打碎き、
牙噛み鳴し狂ひつゝ、遂には群の一人の
放つ矢玉に斃されて其生命を失へる——
正にその如、兩將の光る胸甲敵人の
打撃を受けてひびくまで、味方の勢の壁上に
立つを、はた又わが力猛きをたのみ戰へり。
身の生命と陣營と舟とを守り防ぐため、
アカイア軍は壁の上其堅牢の塔により、
石投げ落す。譬ふれば暗澹として凄き雲、
雲を驅り行きあらぶ風、風の激しく吹きまくる
雪は粉々舞ひ降り、大地の上にふるごとし。
かくしてかなたアカイアの、こなたトロイア軍勢の
手より投ぜる飛道具、巨大の石の降り來て、
激しく打てば兜鳴り隆起の高き盾ひびく。
ヒュルタキデース・アーシオスその時うめき、双の股
激しく打ちて憤然と聲はりあげて叫びいふ、
『[1]天父ヂュウスよ、君も亦忌むべき虚僞をかくばかり
好むものかな、わが威力、わが堅剛の手に向ひ、
アカイア勢のかくばかり(こら)へ防ぐを思ひきや?
嶮しき路に巣を造る、體しなやかの熊蜂か、
あるは蜜蜂いそがしく獵りする群に奮然と、
抗して常に過らず、その子を守り禦ぐため、
其宿めぐり紛々と亂れ翔るを見る如し。
僅か二人に過ぎざれど、討つか、あるひは討たるゝか、
最後の時の到る迄彼等陣門たち去らず。』

[9]十三歌三八八。
[10]二歌七四一。
[11]二歌七四〇。
[12]二歌七四五。
[13]イアメノスとオレステスとは後レオンチュウスに殺さる一九三。
[14]五歌一五三、十一歌四二二は別人。
[15]正しく曰はばオイノマオス、五歌七〇六は別人。
[1]神を人間が咎むること。三歌一六四。

しか叫べどもクロニオーン其神意をば動かさず、
彼の光榮授くるはただヘクトール一人のみ。

他衆同じく他の門のほとりに立ちて戰へり、
我もし神の身なりとも此らすべてを述べ難し、
見よ石造りの壁に沿ひ、いたるところに猛火燃ゆ、
苦み乍らアカイアの軍はやむなく其舟を
禦ぐ、而してアカイアを其の戰鬪の(には)の上、
助くることを念じたる諸神ひとしく悲めり。

しかして奮戰力鬪にラピタイ二將努めたり。
ペーリトオスの生める息ポリポエテース勇奮ひ、
槍を飛ばしてダーマソス着る青銅の兜うつ、
兜は槍を防ぎ得ず鋭き穂先突き入りて、
彼の頭骨つんざけば腦髄うちに飛び散りぬ、
勇にはやりし[2]ダーマソスかくて無慘に亡び去り、
[2]ピュローン並に[2]オルメノス同じく次いで斃れたり。
レオンチュウスはアレースに似たる勇將、槍飛ばし
アンチマコスの生める息ヒッポコマスを射て斃し、
更に鞘より鋭利なる(つるぎ)(さん)と抜き放ち、
群がる敵を通り越し、[3]アンチパテ,スにまっさきに、
近づき寄りて討とめてどうと地上に切り倒す。
續きて[4]メノーン、イアメノス、オレステースを順々に
レオンチュウスは勇を鼓し大地の上に切り倒す。
而して彼ら身につけし耀く武具を剥ぎとれる、
()にかなたヘクト,ルとプーリダモスに續きたる
トロイア壯士、其數も最も多く、其勇氣
最もすぐれ、壘壁を破りて船を焚かんずる
思念最も強きもの、濠のへ立ちてためらへり。
故は塹濠渡るべく念ぜる時に忽然と、
高く空飛ぶ荒鷲は陣の[5]左方を掠め來つ、
爪に血紅のおほいなる蛇をつかめり、其蛇は
なほ活き、もがき、抵抗を棄てず忘れず、身をかへし、
捕へる鷲の頸のそばはげしく胸に噛みつけば、
猛鳥さすが苦みに堪へず獲物を打すてゝ
大地の上に、軍隊のむらがる中にふりおとし、
聲高らかに鳴き叫び嵐に駕して飛び去りぬ。
トロイア勢は足許にもがく蛇見てアイギスを
持てるヂュウスの(しるし)とし畏怖にうたれて立ちとまる。

[2]ダーマソスとピュローンは前後に無し、八歌二七四に他のオルメノスあり。
[3],[4]アンチパテースとメノーン他に見えず。
[5]左方に現はるるを凶兆とす。二歌三五三。

その時勇武のヘクト,ルにプーリダマスはよりて曰ふ、
『ああヘクト,ル、集會の席に忠言吐く我を
汝はつねに責め叱る、げに民衆のとある者、
評議或は軍略に汝を反し述ぶること、
ふさはしからず、須らく汝の威力加ふべく
勉むべからむ。然れども今最善の策述べん。
進みアカイア軍勢と船を爭ふこと勿れ、
トロイア軍勢この濠を越すべく念じたりし時、
此鳥來る、之により思ふに結果かくあらむ。
高く空とぶ荒鷲は軍の左方を掠め來ぬ、
爪に攫むは巨大なる血紅色の凄き蛇、
なほ生けるもの、然れども巣に到る前、地に落し
携へ歸り雛鳥に與ふる望空しかり。
かくの如くにアカイアの陣門並に壘壁を、
力をこめて打ち碎き、敵をはげしく破るとも、
同じく道を整然と舟より歸り得べからず。
多數の味方後なるを、アカイア勢は水軍の
防禦の爲めに、青銅の刄を以て殺すべし。
神の(しるし)を聰明の心の中によく悟り、
占ふものは斯く釋かむ、衆は其耳傾けむ。』
堅甲光るヘクトール、彼を睨みて叱りいふ、
『プーリダモスよ、汝いふ言はわが耳善ばず。
これより優る善き言句、汝は述ぶる術知らん。
されども汝、心よりかゝる言説吐くとせば、
正しく天の神明は汝の智慧を亡せり。
汝はわれに轟雷のクロニオーン約したる、
しかもうなづき、うべなひし教示を忘れしめんとし、
而して翼おほいなる鳥に服從せよといふ。
そを我敢て省みず、つゆ念頭に掛くるなし、
右方に飛びて曙と光輪めがけ翔るとも、
左方に向きて暗澹の夜の領へと進むとも、
何かはあらむ、我は只人間並に神明の
王たる高きクロニオーン降す警め守るべし。
[1]祖國のための戰は、正に無上の善き(しるし)
何故汝戰と爭鬪、切に恐るるや?
我ら他の勢悉くアルゴス軍の舟廻り、
討死すとも、汝のみ死すべき恐怖あらざらむ、
汝の心、戰に剛健ならず勇ならず、
されども戰地はなるゝか、あるは他人を言句もて、
誘ひ戰避けしめば、許さぬわれの長槍は、
鋭く討ちて忽ちに汝の(めい)を絶やすべし。』

[1]此名句は古人の賞嘆する處、アリストテレスの修辭學十一章、二十一章。プルタルコスのピルロス傳二十九章……に引用。
VOSSの譯"Ein Wahrzeichen nur gilt, das Vaterland zu erretten"

しかく陳じて先頭に進めば、衆は囂々(ごう〜)
叫喚あげて後を追ふ、その時ヂュウス・クロニオーン、
イデーの山の高きより颶風一陣吹き送り、
船をめがけて眞向(まっかう)に沙塵を飛ばし、アカイアの
軍を惱まし、ヘクト,ルとトロイア軍のほまれ増す。
神の(しるし)とわが威力信じて頼む[2]トローエス、
アカイア勢の壘壁を勇み進んで碎かんず、
即ち塔の[3]笠石を崩し、胸壁押し倒し、
アカイア軍がそのはじめ塔の堅めに地の中に、
据ゑし支への巨材をば槓杆用ひこぢ()げて、
はづしてかくてアカイアの壘壁碎きおほせんず。
されどアカイア軍勢は其場を絶えて立ちのかず、
[4]牛皮〔の盾〕に胸壁を飽く迄堅く防禦しつ、
壁に向ひて寄せ來る敵にはげしく石を投ぐ。

[2]トロイア人(トロース)の複數。
[3]原語『カロッサイ』明かならず。
[4]原語は單に『牛皮を以て』或は盾ならず牛皮を以て破隙を被はんとするか?されどを單に牛皮と呼ぶこと稀ならず。

こゝに二人のアイアース塔に沿ひつゝ令下し、
至る所にアカイアの軍の力を振はしめ、
畏怖し全く戰場を退くものを見る時は、
あるは温言あるは又叱咤によりて誡めぬ、
『わが戰友よ、アカイアの中に抜んじ出づる者、
或は力、中等の者、又劣る者、
(戰の場に萬人は皆平等に造られず)
いづれのものも悉く其任あるを汝知る、
威赫の聲を聞かむもの誰しも船に逃るゝな、
進め、進みて各は友を勵せ、クロニオーン
空に電光飛ばすもの、敵の攻撃打ち拂ひ、
之を都城にかへすべく恩寵賜ふことあらむ。』
しかく叫んで兩將はアカイア軍を振はしむ。
石は今 ()る、譬ふれば雪の大地にふる如し、
考量深きクロニオーン玄冬の日に白雪を、
恰も彼の矢の如く風をしづめて紛々と、
人間の世に降すとき、高き山々高き埼、
草生ふ平野、農人の畑一齊に掩ふ時、
又大海の岸の上、港の上に下す時、
かくして獨り波浪のみ、其上襲ひ來る雪を
溶かして影を殘す時、——クロニオーンの手よりして
天地一つに包む迄、斯く降り來る雪のごと——
敵と身方の兩軍は互に石を投げかはし、
トロイア軍はアカイアに、アカイア軍はトロイアに、
投げて飛ばして壘壁の廻り喧囂おびただし。

その時ヂュウス其愛兒サルペードーンをアカイアの
軍にさながら牧牛の中に獅子王荒るるごと、
向はすことのなかりせば、トロイア軍とヘクトール、
敵の陣門また巨材破り碎くは不可ならむ。
見よ、勇將の振りかざす圓き大槍いみじきを、
鍛鍊なせる青銅の華麗の楯は、良工の
造りしところ、圓面のめぐりを走る黄金の
條に牛皮の幾層を縫ひて堅めてなりしもの、
此楯前に捧げもち更に二條の槍振ひ、
サルペードーン深山に永く飢ゑたる獅子の如、
奮ひ進めり——其獅子は猛き心に促され、
守り堅固の羊欄を襲ひて家畜屠るべく、
進み侵して、其 (には)に槍を具したる牧人と、
番する犬と諸共に群を守るを見出すも、
一の試なさずして場を逐はるゝを肯んぜず、
跳りかゝりて一頭を噛むか、或は牧人の
すばやき手より飛ばさるる槍にうたれて斃るべし。
かく敵營を襲ひ討ち其胸壁を崩すべく、
サルペード,ンの勇猛の心は彼を促して、
ヒポロコスの子グローコス友を勵まし叫びいふ、

『ああ、グローコスいかなれば我ら二人はリュキエーに、
衆に優れる席順とまた食膳と芳醇を
受くるや?衆は何故に神の如くに崇むるや?
更に我らはクサントス、流れに沿ひてうるはしき、
果樹の畑又麥の畑、廣き莊園領と爲す。
さらばリュキエーの軍勢の先鋒中に身を置きて、
燃ゆるが如き戰鬪に面することぞふさはしき、
さらば胸甲纒ひたるリュキエー人は斯く曰はむ——
「肥えたる羊、食となし、蜜の如くに甘美なる
酒傾けてリュキエーを治むる彼等諸統領、
げにも卑しき者ならず、見よ、有力もまた優り、
リュキエー軍の先鋒に立ちてかく迄戰ふを。」
[1]ああ友、今し亂鬪の此現場を免れて、
とこしへ常に不老の身、不滅の者となるべくば、
我は再び先鋒の(あひ)に戰ふことなけむ、
譽を得べき戰場に君を進むることなけむ。
さあれ死滅の運命は無數、われを取り圍む、
いかなる者も是を避け、是を逃るを得べからず。
さはいざ行かむ、光榮を他に與ふるもわれ取るも。』

[1]是亦古人の賞嘆の句、Demonsthenesの王冠論二十八章、Ciceroのフィリピックス十の十、VirgiliusのAeneis十歌六七……に引用さる。

しか陳ずればグローコス、背かず絶えて(わき)向かず、
共にリュキエーの大部隊率ゐて猛に攻めかゝる。
破滅を來す敵將のおのが持ち場に攻め寄るを、
ペテオースより生れたる[2]メネスチュウスは見て震ひ、
畏れ、アカイア軍勢の[3]塔を見廻し、將軍の
一人(いちにん)友の災を防ぎ救ふを乞ひ求む。
やがて二人のアイアース戰志倦まざるもの認む、
新に[4]陣を出て來るチュウクロス亦そば近し。
されど大聲發するも彼らの耳に入り難し、
喧囂最も甚だし、打たるゝ盾と兜との、
ひびき、はた又關門をうつ音、高く(そら)に入る。
そは閉されし關門を圍みて前に立てるもの、
勇を振ひて打ち破り内に入らんとするが故。
直ちに彼は使者としてトーオテースを走らしむ、
『トーオテースよ、()く走り、行きてアイアス呼び來れ、
或はむしろ、兩將を——、さらば最も可なるべし、
今速に此 (には)に凄き壞滅(くわいめつ)起らんず。
過ぎしこのかた恐るべき鬪爭中に、其威力
猛きリュキエー二將軍、こゝに向ひて迫り來る。
されどかなたも戰鬪の勞に衆人かゝはらば、
せめてもひとりテラモーン生める豪雄アイアース
來れ、(しか)してチュウクロス、弓の名將彼に嗣げ。』

[2]二歌五五二。
[3]壁全部を曰ふ。
[4]ヘクトールに傷けられて陣に退く。八歌三三四。

しか陳ずるを聞ける使者、命に少しも忤らず、
走り、青銅身に鎧ふアカイア軍の壁めがけ、
行きアイアース立てるそば近づき寄りて叫び曰ふ、

『青銅鎧ふアカイアの將軍、二人アイアース、
聞け、ペテオース生める息、メネスチュウスは乞ひ求む、
かなたに行きて戰鬪に、しばしなりとも面せよと。
叶はば二人もろともに——さらば最も可なるべし、
今速にかの場に凄き壞滅起らんず、
過ぎしこのかた恐るべき鬪爭中に、その威力
猛きリュキエー二將軍かなたに向ひ迫り來る、
されど、こゝにも戰鬪の勞に衆人かゝはらば、
せめても獨りテラモーン生める豪雄アイアース
行け、而うしてチュウクロス、弓の名將彼に嗣げ。』
しか陳ずれば大いなるテラモニデース・アイアース
うべなひ、すぐにオイリュウス生める子息に叫び言ふ、
『汝、並に力ある[1]リコメーデースこゝにたち、
奮って敵に向ふべく、アカイア軍を戒めよ、
我はかなたに進み行き其戰局に面すべし、
而して援助はつる後、()くこの(には)に歸り來ん。』

[1]九歌八四。

(しか)く陳じて進み行くテラモニデース・アイアース、
父は同じき弟のチュウクロスまた共に行く、
其曲弓を携へてまた[2]パンヂオーン共に行き、
壘壁の中通り過ぎメネチュウスの守る塔、
——形勢正に迫りたる部隊に到り眺むれば、
敵はさながら暗澹の颶風の如く胸壁を
登りるゝあり、勇猛のリキアの主領諸將軍、
かくて戰鬪、相亂れ叫喚はげしく湧き起る。

[2]前後に此名なし。

テラモニデース・アイアースまさきに打ちて斃せしは、
サルペードーン伴へる、名は[3]エピクレース、強き武者、
壘の中にて胸壁の眞上にありし鋸齒状の、
巨大の岩を振り斃せり、岩は人間の
誰しも双の(かひな)もて(盛りの年の勇あるも)
支ふることを得ざるもの、そを高らかに持ち上げて、
投げ飛ばしたるアイアース、四つの(つの)ある(かぶと)討ち、
エピクレースの頭骨を碎けば、彼は潜水者
見るが如くに、壘壁の上より落ちて息絶えぬ。
高き壁上矢を飛ばしヒポロコスの子グローコス、
進み來るを(あらは)なる腕に射たるはチュウクロス、
斯くして彼の戰鬪の力碎けば、悄然と
私かに壁を飛び降る、アカイア軍のとあるもの
其射られしを認め得て高言吐くを拒ぐため。
かくグローコス退くを悟るや否や悲は
サルペードーン更に又その剛強の腕のして、
胸壁つかみ、もみ碎き引けば壘壁土崩れ
上部あらはに露出して侵し入るべき口開く。
その時彼にアイアース、またチュウクロス一齊に、
向ひ來りて敵將の胸を蓋へる大楯の、
耀く紐に矢を射あつ、されどもヂュウスその愛兒
水師のほとり斃るるを惜み、彼より凶命を
そらしむ、つぎてアイアース躍りかゝりて盾を突く、
突きて穂先は入らねども、勇める彼をよろめかす。
かくして彼は胸壁を前に少しくあとしざる、
されど、またくは退かず、なほ光榮に望かけ、
身をひるがへし勇猛のリュキエー軍に叫び曰ふ、

[3]他に此名現はれず。

『リュキエー軍よ、いかなれば汝の勇を弛めるや?
我はかばかり勇なるも、唯身一つにいかにして、
壘を破りてアカイアの水師に到る路あけむ?
いざ立て、われにつき來れ、人多かれば功優る。』

リュキエー軍は其言を聞きて苛責に怖じ畏れ、
嚴命下す王の身を廻ります〜迫り行く。
之に向ひてアカイアの軍はこなたに壘中に
其隊勢を増し加ふ、大事は起る目の前に。
かくてリュキエーの軍勢はアカイア軍の壘破り、
其水軍に進むべき道を開くを得べからず、
又槍揮ふアカイアの勢は一たび迫り來し、
リュキエーの軍を壘の外追ひ攘ふこと得べからず、
界を示す石のそば測りの竿を携へて、
その共同の地所に立ち爭ふ二人狹隘の
區域にありて彼と此、おの〜分を獲んとする
其樣斯くか、兩軍は壘をおの〜相分ち、
其壘の上戰ひて、互の胸に牛皮張る
盾を、小盾を、圓形の巨大の盾を、打ちつけぬ。
斯くて戰鬪相つづき、無慚の(やいば)或者の
うしろを見せて退ける露出の(せな)を傷けつ、
或は盾を貫きてまともに敵の肢體討ち、
胸壁、並に塔の上到るところにトロイアと
アカイア軍の双方の流す流血ものすごし。
かくてアカイア軍勢を追ひ退くるを得ず、
そを譬ふれば細心の女性が左右(さう)の皿の上、
分銅及び羊毛をのせて(はかり)を均くし、
之を績ぎて子らのため些少の賃を得る如し、
かく戰へる兩軍の勢力正に相等し。
やがて勝利の光榮をクロニーオーン、ヘクト,ルに——
プリアモス王生める子に——與へて壘を眞先(まっさき)
越えしむ、彼は高らかにトロイア軍に叫びいふ、

『馬術たくみのトロイアのわが軍勢よ、いざ進め、
アカイア軍の壘破れ、舟を猛火に焚き拂へ。』
しかく陳じて勵ませば衆軍これを耳にして、
猛然として壘めがけ一團なして迫り行き、
鋭き槍を手にとりて壘上高く馳せ上る。

その時下部は厚くして上部は尖る石一つ、
城門のまへ横はる、そをヘクトール抱き上ぐ——
今ある如き人間の力、最も強きもの、
二人合して地上より槓杆用ゐ車の()
容易くこれが乘せがたし、されどヘクト,ル唯ひとり、
クロニオーンの助けよりこを輕々と抱き上ぐ。
譬へばとある牧羊者やすく羊毛一房を
片手に取りて其重み些の煩をなさぬ如、
かくヘクトール大石を抱きおこして腕にとり、
嚴重堅固の備ある其關門の戸の前に
搬び來りぬ、關門は二重の扉高く張り、
二條の横木、一條の閂、内にこを固む、
その前迫り立ち停り、投げの威力を増すがため、
しかと兩脚踏み張りて、まともに巨石投げ飛ばし、
門を堅むる鉸番(てふつがひ)左右二つを碎き去る、
石はおのれの重みにて内に落ち入り、關門は
高鳴り、横木支へ得ず、石に打たれて堅剛の
扉左右に飛び散りぬ、かくて勇めるヘクトール、
(おも)は俄かの[1]夜の如く、その黄銅の裝は
燦爛として、其手には二條の槍を携へて、
躍り進みて内に入る、神を除きて何人も彼に
手向ふことを得ず、其眼光は火の如く、
衆軍中に振り向きて壘を越すべくトロイアの
緒軍に高く呼はれば、彼の指令を衆は聽き、
其あるものは壁を越し、他のあるものは堅牢の
門を潜りて流れ入る、アカイア勢は支へ得ず、
水陣さして逃げて走り喧囂絶えず湧き起る。

[1]一歌四六。


更新日:2004/08/29

第十三歌


第十三歌

舟のほとりの戰。ポセードーンはアカイア軍の敗亡を憐み、 行きて其陣中に現はれ、カルハースの姿を借りて衆軍を勵す。 双雄アイアース勇を奮ってヘクトールを退く。 其他諸將の奮戰。左陣に於てイドメニュウス、メーリオネース、 アーンチコロス、メネラーオスらはアイネーアース、デーイポポス、ヘレノス、パリスと戰ふ。 プウリダマスの忠言により、ヘクトールは諸將を集めて一齊に追撃す。戰益々激し。

トロイア軍とヘクト,ルをアカイア軍の船のそば、
導き來る[1]クロニオーン、絶えず努力と艱難を
彼らの課しつ、自らは其爛々の二つの眼、
囘してあなたトレーケー、馬の産地と接戰の
ミューソイ族とすぐれたるヒペーモルゴイ住める郷、
馬乳飲む者、更にまた正しき義民アビオイの
國々遠く見渡して、またくトロイア顧みず、
[2]心に想ふ、神明の中のいづれもトロイアに
又アカイアに應援の爲めに行くものあるまじと。
大地を震ふポセードーンされど看取を過らず、
[3]サーモス・トレーイキエーの緑埋むる高き嶺、
其頂に坐せる神、驚き乍ら戰爭と
苦鬪を眺む、其場よりイデー並にイリオンの
都城並にアカイアの船望むべし、大海を
出で來る神かく坐して、トロイア軍に破らるる
アカイア軍を憐みて、痛くヂュウスにいきどほる。
[4]直ちに彼は高峻の山より降り、其脚を
急に運べば、欝蒼の森も聳ゆる山々も、
ポセードーンの大いなる不滅の脚の下に()る。
三たび進める大跨(おほまたぎ)四度(たび)に着くは終なる
[5]アイガイ、其所にわだつみの波浪の底に黄金の
光耀き永劫に朽ちざる宮ぞ築かるる。
[6]こゝに來りて青銅の脚ある駿馬——黄金の
たてがみありて迅速に飛ぶを兵車に繋ぎつけ、
身に黄金の鎧着て手に精巧に造られし
金の鞭とり、悠然と車臺に乘りてまっしぐら、
潮の上を乘り行けば海の百妖、洞窟の
中より出でて、君主を認めて波に躍り舞ふ、
波浪も共に喜びて路を開けば神速に、
馬はさながら飛ぶ如く青銅車輪濕はず、
神を運びてアカイアの舟師めがけて進み行く。

[1]イデー山上に座して(十一歌一八三 -- )。
[2]八歌七。
[3]エーギア海中の島。
[4]ヰルギリウスのアエネーイス五の八一七以下はこの一段をまぬ。
[5]アカイアの一市(八歌二〇三)か、ユーボイアの傍の島か、ユーボイアの岸上の市か、古來の註解者未決。
[6]ボアロウの名譯あるよし。

テネドス及びイムブロス、其險要の(あひ)にして、
おほわだつみの淵の下、廣き洞窟あるところ、
大地を震ふポセードーン、驅りし駿馬を留まらしめ、
兵車よりして解き離し、アムブローシヤの食物を
投げ與へつゝ、其脚を黄金の枷、堅牢に
解き得ぬ枷に繋ぎとめ、こゝに再び自らの
歸り來る迄留らしめ、かくてアカイア陣に行く。

かなたトロイア軍勢は一隊と成り炎々の
(ほのほ)の如く、吹きまくる嵐の如く、叫喚の
聲を擧げつゝ猛然とプリアモスの子ヘクト,ルに
つづきアカイア兵船を奪ひ、全師を斃さんと、
望む折しも大海を出で來りたるポセード,ン、
大地を抱き又震ふ神はアカイア軍勢を
勵まし、聲と姿とは、[1]カルハースの如くして、
すでに猛威の隆なる同名二人アイアース、
二將に叫ぶ、『アイアース、汝らアカイア軍勢を、
救はん、勇を振り起し卑怯の逃を思はずば。
一隊なして壘壁を越せるトロイア軍勢の
勇猛の腕、我は他の部署に於ては恐怖せず、
脛甲堅きアカイアの軍一齊にみな支ふ。
われただ痛く恐るゝはこゝなり、禍難來るべし、
[2]ヂュウスの息と(たかぶ)れるプリアミデース・ヘクトール、
士卒に令し猛勇の威勢さながら火の如し。
されど或る神汝らの胸に勇氣を吹き入れむ、
斯くて汝ら勇猛に支へ、尚且つ同僚を
警め、敵の奮戰を船脚速き水軍の
外の攘はむ。オリュムポス主神は敵を助くるも。』

[1]占術に長ぜるもの(一歌一六九)。
[2]ヂュウスに愛さるるもの守らるるもの。後一五三又十八歌二九三等。

しかく宣して、大地ゆり大地を包むポセードーン、
其笏あげて兩將に觸れて勇氣を滿たさしむ、
かくて二人のアイアース手足ひとしく輕く()し。
かくて譬へば千仞の高き嶮しき岩山の
上より(さっ)と落し來て、平野の空に鳥を逐ふ
翼するどき若鷹の勢猛く翔くるごと、
大地を震ふポセードーン二人を離れ驅けさりぬ。
これを眞先きに認めたるオイリュウスの子アイアース、
すぐにテラモーン生みいでし他のアイア,スに向ひいふ、

『見よアイアース!とある神、ウーリュンポスを降り來て、
占者の姿とり乍ら水師のそばの戰を
命じぬ、([3]鳥のふるまひを解くカルハース、彼ならず、
驅けさる彼の後影我は容易く認めたり、
足の動きを認めたり、神認むるは難からず、)
今胸中にわが心、奮戰苦鬪果すべく
いたく奪ひて勇みたち、はげしく躍り靜まらず、
下の双脚また上の兩腕ひとしく皆勇む。』
テラモーン生めるアイアース其時答へて友にいふ、
『正に同じく剛勇のわが手は槍を振ふべく
勇み、わが意氣また奮ひ、堅き双脚輕くして
驅けいでんとす、たとへ身はひとりたりとも猛勇に
狂ふ敵將ヘクトール迎へて雌雄決せんず。』

[3]鳥の動きを見て占ふ。

(しか)く互に陳じ合ふ兩將胸の神靈の
注げる思、戰鬪の思に勇み喜べり。
時を同じく輕舟のほとり、後陣に留りて
氣を養へるアカイアの軍を勵ますポセード,ン。
彼らの四肢は痛はしき苦鬪によりて弱りはて、
トロイア軍の一齊に勢猛く壘壁を
昇り來るを眺めやり、胸に悲痛の念滿たす。
斯くて敵軍侵し入る姿を眺め、泫然と
涙を垂れて、身の破滅免れ得ずと觀じたる
アカイア勢をポセード,ン、訪ひて勇氣を振はしむ。
初めに訪ひて勵すはチュウクロスまた[4]レーイトス、
ペーネレオスと勇猛のトアス並にデー,ピュロス、
又音聲の大いなるメーリオネース更に又、
アーンチロコス勵して羽ある言句宣しいふ、

[4]レーイトスとペーネレオスはボイオーチアーの將軍(二歌四九四)トアスはアイトーロイの將(二歌六三八)デーイピュロスは九歌八三に出づ。

『恥ぢよ!汝らアカイアの小兒、汝ら戰ひて
わが水陣を防ぐべく我は信頼かけたりき、
汝らつらき戰鬪を恐れて逃ぐることあらば、
トロイア軍の戰勝の日は正しくも()けしなり。
あはれ何らの驚異なる、今わが(まみ)に映ずるは!
忌まはしきかな、かゝることあり得べしとは思ひきや!
我に向ひてトロイアの軍勢かくも寄せんとは!
怯れて道に逃げ迷ひ、鬪ふ(すべ)を知らなくに、
(はて)は無慚に林中に虎豹或は豺狼の
餌食となれる鹿の群、先にはこれに似たる敵、
トロイア軍は眞向にアカイア軍の勇力に
手向ふ術を知らざりき、拒ぎ得ざりき、しばしだも。
さるを今[1]はた總帥の過失、並びに士卒の
懈怠の故に、都城より離れて彼ら水軍の
ほとりに荒び、わが軍は之と戰ひわが船を
守る能はず、いたづらにこゝに無慚に滅さる。
アトレーデース、權勢のアガメムノーン、英豪の
彼れ脚早きアキリュウス・ペーレーデース恥かしめ。
そのため招く禍の本たる責は免れず、
しかはあれども戰鬪を捨つるはわれの分ならず、
いざ禍を救ふべし、勇士の心癒え易し、
軍中最もすぐれたる汝ら猛き剛勇の
意氣抛ちてよからむや?(ほか)の卑怯の(ともがら)
恐れ戰場引き去るを、われは咎めず爭はず、
ただ軍中の勇士たる汝に痛く憤る。
あゝ汝ら弱き者、間なく懈怠の罪により、
更に大なる禍を來さん、いざやおのおのの
胸の恥辱と憤激を滿たせ、大事は起らんず。
雄叫び高きヘクトール勇を奮ひて水軍の
そばに戰ひ、關門を長き横木を破りたり。』

[1]アガメムノーンがアキリュウスを怒らせしこと。

大地を包むポセードーンかくアカイアを勵ませり、
かくて二人のアイアスを廻りて、強き陣列は
悍然として踏みとまる、アレース敢て侮らじ、
兵を勵ますアテーネー又侮らじ、衆中に
勇氣最も優るもの起ちてトロイア軍勢と
ヘクト,ル迎へ槍と槍、楯と楯とは相逼る。
[2]兜と兜、人と人、盾と盾とは相迫り、
戰士頭を搖がせば、光る兜の頂の
馬尾の冠毛ゆらめきて彼と此とは相ふれつ、
槍ははげしく勇敢の手に揮はれて相交り、
敵も味方も勇猛の念を燃して戰へり。

[2]原文一三一 -- 一三三は十六歌二一五 -- 二一七に又出づ、古代に有名なりし句、本詩の最上のスタイルを代表するものと稱せらる。

トロイア軍は密集の隊を造りてヘクトール、
その先頭にたけりたつ、譬へば大雨 (いきほひ)
添ふる急湍溢れ出で、嶮しき山根打ち崩し、
頂高く大石を緩めて坂を落す時、
路にあるもの皆碎け、森は其下なりひびく、
其石躍り飜り、落ちて平野に下る時、
なほ勢は殘れども留りて遂に轉び得ず、
斯くその初め殺戮を加へアカイア陣營と
船とを過ぎて海岸進み行くべく嚇せしむ
見よヘクトール、密集の敵の部隊に逢へる時、
近く迫れど立ち留る。その時アカイア軍勢は
利劍を振ひ、双刄の槍を振ひて追ひ攘ふ。
追ひ攘はるるヘクトール、思はず引きてめくるめき、
大音あげてトロイアの軍勢よびて叫びいふ、
『トロイア、リュキエー諸軍勢、接戰強きダルダノイ、
(こら)へよ、敵は壁のごと、その隊勢を整へて
密に合ふとも、又永く我を支ふることを得じ、
ヘーレーの(つま)、雷霆のヂュウス、諸神の主たるもの、
力を貸さば、わが槍に逐はれて彼ら退かむ、』
しかく宣しておのおのの勇と意氣とを呼び起す。

プリアモス王生める息、デーイポボスは勇猛の
思を鼓して圓形の盾を其前ふりかざし、
之に其身を掩ひ()り、脚神速に進み行く。
メーリオネース之を視て耀く槍を投げ飛ばし、
牛皮のつゝむ圓盾に覘違はず打ち當てぬ、
されども之を貫かず、鋭く長き槍はその
根元に於て穗を碎く——デーイポボスは剛勇の
メーリオネース突く槍を恐るるあまり、牛皮もて
包める盾を腕のばし胸より隔て身を蔽ふ。
かなた英武の敵將は、勝利を外し槍折りし
其失敗に憤る脚を囘して隊に入り、
やがて陣舍とアカイアの水師に急ぎ立ちかへり、
先きに陣中殘し來し巨大の槍を手に取りぬ。

他の軍勢は戰ひて不斷の叫び湧き起る。
テラモニデース・チュウクロス奪ひ、牧馬の群多き
メントロスの子——勇猛のイーンブリオス討ち取りぬ。
アカイア軍の寄せし前、ペーダイオスに住める者、
プリアモス王生める庶子、メーデシカステー彼の妻。
アカイア軍勢船率ゐ、郷に上陸したる後、
イリオン城に入り來りトロイア中に名を揚げつ、
プリアモス王、子の如く愛して宮に留めしもの。
テラモニデース・チュウクロス長槍振ひ耳の下、
彼を貫き其槍を引けば大地の斃れ伏す、
山頂高く四方より仰ぎ見るべき喬木の
幹を青銅の斧伐りて其葉地上に散る如し、
彼は斃れて青銅の琢ける武具は鳴りひびく。
武具は剥ぐべくチュウクロス勢猛く驅け出す、
驅けだす彼をヘクトールめがけ耀く槍飛ばす、
そを認めたるチュウクロス避けて危く逃れ得つ、
槍は戰地に立ち向ふアンピマコスの胸を射る、
老アクトルの生める息クテアートスを父とする
彼れヘクト,ルの槍うけて地に伏し武具は高鳴りぬ。
その時馳せてヘクトール、勇武のアンピマコスより
其額上を掩ひたる兜を奪ひ剥がんとす、
其驅けいづるヘクト,ルを、耀く槍にアイアース、
覘ひて討てど、堅牢の青銅武具に守らるゝ
かの身に入らず、大盾のおもての隆起討ちあてぬ、
これに怯れてヘクトール、敵と視方の二勇士の
(かばね)をあとに引きされば、アカイア之を取り収む。
アテーナイ族率ゐたるメネスチュウスとスチキオス、
アンピマコスの屍體(なきがら)をアカイア陣に搬びさり、
更に二人のアイアース、イムブリオスを勇ましく、
搬ぶ、譬へば獅子二頭、鋭き牙の狗の群、
守れる山羊を奪ひ取り、繁れる薮のただ中に
啣みて、頭高らかに振りあげ搬びさる如し、
斯く青銅を鎧へる二人の猛きアイアース、
高く屍を引き揚げて武裝を剥ぎつ、更に又
[1]オイリアデース其友のアンピマコスの故により、
怒りて敵の柔き頸より頭切り落し、
投ぐればあなたヘクト,ルの脚下に塵にまみれ落つ。

[1]オイリユースの子なるアイアース。

この恐るべき戰鬪に斃れし[2]裔子憐みて、
大地を震ふポセードーン痛く心に憤り、
ダナオイ族の勵ましに、アカイア軍の陣營と
水師に向ひ、トロイアの軍の禍もくろめる——
其行く道に出で遇ふは槍の名將イドメネー、
鋭き青銅其膝を打てるひとり[3]彼の友、
戰場あとに歸れるに別れて來るイドメネー、
仲間に負はれ來りたる負傷の友を醫に托し、
身は戰場に向ふべく、念じて陣に急ぎ行く
彼に向ひてポセードーン、威力大地を震ふもの、
アンドライモーン生める息トアスの聲をまねいていふ、
(トアスの領は[4]プリューローン、又嶮要のカリュドーン、
アイトーロイを統べ治め、神の如くに崇めらる。)

[2]一八六のクテアートスはポセードーンの子と稱せらる。クテアートスの子はアンピマコス。
[3]無名氏。
[4]二歌六三九。

『クレーテー族導けるイドメニュースよ、いづくにぞ?
トロイア軍に加へたるアカイア軍の[5]おどかしは。』
クレーテー族導けるイドメニュースは答へいふ、
『トアスよ我の見るところ、アカイア軍中誰人も
咎むべからず、悉く皆戰鬪の術を知る、
卑怯の恐れ抱くもの一人もなし、一人も
懈怠の故に戰を避けむとはせず、然れども
アルゴス遠く此郷に、アカイア軍の譽れなく
亡びんことは、最高のクロニオーンの意志と見ゆ。
さはれトアスよ、その昔汝は強く勇溢れ、
怯るゝ者のある時は之を勵まし諭したり、
汝今なほ()を止めず今なほ衆を警めよ。』

[5]二歌二八七 トロイアを亡ぼさずば國に歸らずの盟など。

大地を震ふポセードーンその時答へて彼にいふ、
『イドメニュースよ、けふの日に戰鬪棄てゝ逃ぐるもの、
斯くあるものはトロイアを去りて望める其郷に
歸らむことの無かれかし、——彼は野犬の餌たらむ。
いざ今、汝武器を取りわれに從へ速かに、
ただの二人に過ぎざるも恐らく軍を救ひ得む、
弱き者だも結ぶ時集る力大ならむ、
しかも我らは勇猛の敵と戰ふ道を知る。』

しかく宣して人間の戰鬪中に神は入る。
彼方堅固に建てられし陣營中にイドメネー、
行きて華麗の鎧つけ二條の槍を携へて、
電光の如く——譬ふればウーリュンポスの高きより、
雷霆の威のクロニオーン、放ちて人に驚愕の
念を來らす爛々の電火の如く——進み行き、
馳せ行くときに脚廻る彼の[1]青銅耀けり。
行きて陣舍に遠からず、青銅の槍求むべく、
歸り來れる副將のメーリオネースに道にあふ、
勇氣盛りのイドメネー彼に向ひて陳じいふ、

[1]胸甲。

『メーリオネース、モロスの子、最愛の者、脚早き
汝何故亂戰と苦鬪を捨てゝこゝに來し?
疵を負ひしや?鋭き矢或は汝惱ますや?
或はとある使命帶びわれを訪ふべく來りしや?
我は陣舍に留るを好まず出でて戰はむ。』

メーリオネース、思慮深き勇士答へて彼にいふ、
『青銅鎧ふクレーテス族を導くイドメネー、
陣中君の殘したる槍もしあらば取らんため、
戰場よりし歸り來ぬ、先きに我が手に取りし槍、
無慚や[2]折れぬ、高慢のデーイポボスの盾打ちて。』

[2]一六二。

クレーテス王イドメネー彼に答へて陳じいふ、
『わが陣營の耀ける壁に立て殘したる
槍を望まば汝取れ、一條 (ある)は二十條、
トロイア戰士亡してわれの分捕したる槍、
敵の戰士と(あひ)隔て鬪ふことを我はせず、
故にわれには槍多し、(おもて)隆起の盾多し、
燦爛光る胸甲と頭甲(づこう)の數も亦多し。』

メーリオネース、思慮深き勇士即ち答へ曰ふ、
『我も同じく陣中に又わが黒き船中に
トロイア戰士掠めたる武具は數あり、いかにせん、
身近にあらず、取りがたし、勇猛の意氣忘れしと
われは思はず、戰鬪のあらび湧く時わが軍の
先鋒中に交りて譽の場にわれは立つ、
青銅鎧ふアカイアの他の衆人は速に
戰ふ我を認め得ず、さもあれ君は能く知らむ。』

クレーテス王イドメネー其時答へて彼に曰ふ、
『われは汝の勇を知る、辯言何の要あらむ、
水師のかたへ最上にすぐれしわれら撰ばれて、
埋伏の陣造るとき(人の勇氣の(もと)も善く
知らるゝ處、)怯なるもの、勇氣のものは一樣に
露顯なすべし、怯るるは顏貌種々に色を變へ、
靜に心悠々と其胸中に宿り得ず、
膝おののかし兩脚を折りて大地に横はり、
辛き運命あらかじめ感じて、爲に胸中の
鼓動はげしく、口中に齒と齒と打ちて音いだす。
勇なるものは顏色を變へず、一たび埋伏の
隊に入るとき何事も彼の戰慄起し得ず、
ただ速かに物凄き戰鬪場裏に入るを乞ふ。
汝の腕と力とを誰しもこゝに咎むまじ。
苦鬪の汝、遠くより或は汝近くより、
討たれん時に敵の武具、汝の頸を(うしろ)より、
或は汝の背の上を傷くことはあらざらむ、
先鋒隊に加はりて進む汝の胸部又
腹部を討たむ、さはれ今、痴人の如くかゝる言、
陳ぶるを止めむ、恐らくは或者痛く咎むべし、
いざ陣中に赴きて鋭利の槍を取り來れ。』

しか陳ずれば速に、メーリオネース陣營に
入り青銅の槍を取り、アレースの(ごと)神速に、
イドメニュウスのあとを逐ひ勇戰念じ進み行く。
譬へばアレース「人間の禍」戰地に行く如し、
愛兒「恐怖」は彼につぐ、(勇敢にして強き者、
人界いかに勇なるも彼を恐れぬものあらじ、)
二靈かくしてトレーケー出でて戰裝整へて、
エピュロイ及び剛勇のプレギアイ族めがけ行き、
兩軍共に扶けずに、只一方に勝與ふ、
メーリオネース、イドメネー二將正しく其の如く、
青銅鎧ひ耀きて戰陣さして進み行く。
メーリオネース其時にまづ口開き陳じ曰ふ、

『[3]ヂューカリオーン生める息、いづくの隊に君入るや?
全軍中の右なるか?或はそれの中央か?
或はむしろ左にか?毛髪美なるアカイアの
軍勢猛し、いづこにも武勇に缺くることあらず。』

[3]即ちイドメニュウス下文四五一以下を見よ。

クレーテス王イドメネー即ち答へて彼に曰ふ、
『見よ、兵船の中央に(ほか)の防禦の勇士あり、
同名二人のアイアース、更にアカイア軍中の
無双の弓手チュウクロス——彼また歩戰に巧なり。
プリアミデース・ヘクトールいかに其威を振ふとも、
勇氣いかほど勝るとも彼らの武力、恐るべき
腕に勝ち得てわが船を焚くは誠に難からむ。
雷霆の神クロニオーン船脚早き水軍に
自ら炬火の猛焰を投ずとすればいざ知らず。
死の運命を身に負ひて、[1]デーメーテルの惠なる
穀を食として、劍戟に巨石に打たれ、疵を負ふ
人界の子のいづれにも、テラモニデース、アイアース
譲らず、一騎相討たば、わが勇猛のアキリュウス、
ペーレーデースに譲るまじ、ただ健脚は及び得ず、
いざいま向へ軍陣の左方に——間なく知り得べし、
われ與ふるや光榮を他に、他はわれに與ふるや?』

[1]穀物の神。

しか陳ずれば神速のアレース神に髣髴の
メーリオネース、命うけし陣門さして走り出づ。
かくて猛威は炎々の焰の如きイドメネー、
從者と共に精巧の武具を着くるを眺め見て、
トロイア軍は隊中に警め乍ら寄せ來り、
かくてアカイア水軍のほとり亂鬪湧き起る。
塵埃厚く道を蔽ふその日疾風吹きまくり、
颶風となりて濛々の沙塵の雲を空高く
揚ぐる姿も斯くあらむ、トロイア、アカイア兩軍の
勇士は同じ一點に會し、鋭利の青銅の
刄を振ひ相討ちて心は燃えて火の如し。
かくて破滅を産み來る戰暴れて兩軍の
揮ふ長槍相亂れ、群がり寄する勇士らの
耀く兜、新しく琢ける鎧燦爛の
盾よりかへす青銅の光に、目と目みな(くら)む、
この亂戰のありさまを親しく其目眺めやり、
[2]苦惱感ぜず喜べる人はいたくも酷からむ。

[2]戰場の慘、四歌の終參照。

さはれクロノス産みいでし[3]二神おの/\思慮異に、
辛き苦惱を戰へる勇士の上に相醸す、
ヂュウスはトロイア軍勢とヘクトールとの勝求め、
アキルリュウスに光榮を歸せんとするも、アカイアの
全軍擧げてイリオンの前に亡ぶを喜ばず、
テチスと彼の勇敢の愛兒の譽ただ念ず。
またひそやかに大海の波浪を分けて出て來る
ポセードーンはアカイアの陣を訪ひ來て勵ましつ、
トロイア軍に負けたるを怒り、ヂュウスに憤ほる。
二位の神靈その系とその種と同じ、然れども
長子と()れしクロニオーン、その智は特にすぐれたり。
ポセードーンはこれがため(あらは)の救助さし(ひか)へ、
ただ人間の姿とり秘密に常に勵せり。
かくして二神兩軍に、かはる/\゛に奮鬪と
勝負半ばの戰のもつれを與ふ、そのもつれ
解くこと難し、絶ち難し、人の兩膝わななかす。

[3]ヂュウスとポセードーン。

頭髪半ば白けれど槍の名將イドメネー、
アカイア軍に呼ばはりてトロイア軍を追ひ攘ひ、
カベーソスより戰場の譽求めて先つ頃、
こゝに訪ひ來し一武將、オトリュオニュース打ち果す、
王プリアモス生める中カッサンドレー最美なり、
[4]そを禮物を具せずして娶るを望み彼は曰ふ、
アカイア軍はトロイアの地より攘ひて功立てむ。
誓言聞けるプリアモス、愛女を許し與ふべき
其約束に信を措き、揚々として戰場に
進み出づるをイドメネー覘ひ、耀く燦爛の
槍を飛ばせば、身に帶べる其青銅の胸甲は
防ぎ守らず、鋭刄は腹の最中につき刺さり、
どうと倒れぬ、これを見て勇士勇みて叫び曰ふ、

[4]ソールの女を得べく百人のフィリステン人を殺さんとのダビデの約を思はしむ。

『オトリュオニュース、汝もしダルダニデース・プリアモス
王に約せる一切を遂げ果し得ば、一切の
人に優りてわれ褒めむ、彼は愛女を許したり。
われまた同じ事柄を約してしかも果すべし、
而して汝われと共富み榮えたるイリオンを
攻め亡さば、アルゴスの郷よりこゝに誘ひ來て、
アトレーデ,スの最美なる娘汝に與ふべし。
いざわが後につき來れ、波浪をわたる舟の上
[1]婚嫁につきて談ずべし、われら鄙吝の友ならず。』

[1]嘲弄的反語。

しかく宣してイドメネー、亂軍中に敵の脚
ひきつゝ歸る、其敵の救助に來る[2]アーシオス、
馬に先んじ歩行(かち)に立つ、近くに御者の曳きし馬、
馬の呼吸は肩に觸る、しかして彼は心中に
イドメニュースを打たんとす、されども勇士先んじて
槍を飛ばして腭の下、喉を射當てゝ貫けり。
敵は倒れぬ、——山上に樵者(きこり)新に()がれたる
斧ふりあげて船材となるべく倒す巨大なる
樫の如くに、白楊の如くに、あるは松柏の
如くに倒れ、身をのして馬と兵車の(あひ)に伏し、
齒を噛みならし鮮血に染めたる塵を手に握む。
之を眺めて彼の御者茫然として其心
またく失ひ、敵の手を免れ出づべく其馬を
牽きも歸さず佇める、そを槍飛ばし覘ひたる
アーンチロコス(まさ)しくも其胴體のただ中を
射れば、青銅きたへたる胸甲彼を守り得ず。
巧みに組める車臺より、うめきて落ちて地に俯せる
彼の駿馬を、ネストール生める[3]勇將速かに
トロイア勢の間よりアカイア軍に奪ひ牽く。

[2]七歌九五。
[3]アーンチロコス。

デーイポボスはアーシオス切に痛みて側近く、
イドメニュースに覘ひ寄り、耀く槍を投げ飛ばす、
その青銅の投槍を、イドメニュースは眼 (さと)くも
認めて避けて、携へし其圓き盾——牛王の
皮と耀く青銅を料とし造り、更に又
[4]二條の把手を備へたる——盾をかざして一身を
またく蔽へば、青銅の槍はその上飛び過ぎて、
楯の(へり)をぞ掠めたる、楯は鏘然音たてて。
されども強き手よりして放ちし槍は(あだ)ならず、
ヒッパシデース、衆の將、[5]ヒュプセーノール隔膜の
下——肝臟を貫ぬかれ、直ちに膝を緩め去る。
デーイポボスは眺め見て傲然として叫び曰ふ、
『復讎なしにアーシオス逝けるに非ず、冥王の
城門堅く恐るべき宮を訪ふとも、われ彼に
曰はむ、心に喜べと、一人の伴をわれ附せり。』

[4]二條の把手とは盾の裏面に縦横各々一本の把手、十字形をなすもの。
[5]同名の人五歌七七にあり。

しか陳ずればアカイアの軍勢、彼の廣言に、
悲み怒り、就中アーンチロコス俠勇の
心痛く惱ましめ、友棄ておかず走り出で、
之を守りて盾の下蔽ひ隱せば引きつぎて、
親しき彼の友二人、一はエキオス生むところ、
メーキスチュース、他は神に似たる美麗のアラス,トル
呻めく同僚援けあげ軍船かして引きかへす。

イドメニュースは勝れたる勇氣をつゆも緩まさず、
トロイア勢のあるものを斃すか、あるはアカイアの
破滅防ぎて自らの死するを念じ怠らず、
アイシュエ、テース[誤?:アイシュエ,テース]愛する子、クロニーオーン養へる
勇士、その名はアルカト,ス——(アンキーセ,スの女壻(むこ)にして
ヒポダメーアは彼の妻、家庭に於て恩愛の
父と母とが心より痛くもめでし長女(うへむすめ)
容姿も技も心情も同じ(とし)の友どち[誤?:友だち]に、
優れたる故、トロイアの都城のうちに其武勇
衆に優れしアルカト,ス娶りて彼の妻としき)

今ポセードーン耀ける彼の[6]双眼くらましつ、
またその四肢を鈍らしてイドメニュースに打たれしむ。
彼は後陣に退くをなし得ず敵を避けも得ず、
柱の如く、繁りたる巨木の如くゆるぎなく
たてるを、勇士イドメネー槍を飛ばして胸を射り、
彼の穿てる青銅の胸甲ぐさと貫けり。
先きには身より傷害を禦ぎし鎧いま脆く、
鋭利の槍に碎かれて破るる音はもの凄く、
どうと倒れて伏せる敵、敵の心臟貫きて
それの最後の鼓動より端のゆらげる長き槍、
そも亦しばし、猛烈の[7]槍の力は収まりぬ。

[6]同樣にアポローン神はパトロクロスを打たれしむ(十六歌七八七以下)。
[7]直譯すれば「アレースの力収まる」。

大音聲にイドメネーその時誇りて叫び曰ふ、
『[8]一に對して三を討つわが戦略のいみじきを、
高言 (みだり)に吐く汝、デーイポボスよ認むるや?
無慙の汝、今われに面して立ちて見て悟れ、
何等ヂュウスの裔としてわれ今こゝに來るやを、
天王さきにクレーテー領する[1]ミ,ノース産みいでぬ、
ミ,ノース次ぎに剛勇のヂューカリオーン産みいでぬ、
ヂューカリオーンは廣大のクレーテーにて數多き
民を領するわれ生めり、我れ今舟師率ゐ來て、
汝と父とトロイアの民に禍難を齎せり。』

[8]一は自方のヒュプセーノール、三はオトリュオニュウス、アーシオス、アルカトース。
[1]ミーノースはヂュウスがユーローパと契りて産む者(十四歌三二二)。

しか陳ずれば胸中にデーイポボスは二筋に
思ふ、或は退きてトロイア勢のあるものに
救乞はむか、あるは又只一身に努めんか?
思案の後に、勇猛の[2]アイネーアース求むるを
善しと決して退きて、後陣の中に彼を見つ、
勇は緒人に優れども、王プリアモス[3]崇敬を
致さぬ故に、老王に對して常に憤どほる
彼のかたへに走り來て、(はね)ある言句陳じ曰ふ、
『アイネーアース、トロイアの参謀、汝縁戚の
(よしみ)思はば今來り、汝の義兄救ひ出せ、
われに續きて救ひ出せ、アルカトースはそのむかし、
若き汝をその家に義兄の縁に養へり、
槍の名將イドメネー今し彼をぞ斃したる。』

[2]アイネーアース又アイネアース。
[3]トロイア王家の分派相互の間の嫉妬 二十歌一七八 -- 一八六參照。

その言聞きて胸中に勇氣を奮ひ起したる
アイネーアース、猛然とイドメニュースに向ひ行く。
されど勇將イドメネー小兒の如く畏怖知らず、
屹然として立ち留る、譬へば野猪が山の上、
おのが威力に依り頼み、荒れたる途に寄せ來る
衆の喧騒待つ如し、野猪は背の毛を逆立てて、
双の(まなこ)は火の如く。牙を磨きて獵人と
獵犬の群、攘ふべく、猛然として勇み立つ。
槍の名將イドメネー斯くて戰鬪巧みなる
アイネーアース寄せ來るを迎へ、一歩も退かず、
されども猛き同僚を、——アスカラポスとアパリュウス、
メーリオネース、デー,ピロス、アーンチコロス——もろ/\の
勇士を呼びて勵まして(はね)ある言句叫び曰ふ、
『來れ同僚!孤獨なるわれを助けよ、脚早き
アイネーアース襲ひ來る、あれの恐るる敵の将、
かれ戰鬪に勇にして人を屠るは數知れず、
かれは正しく青春の、至大の威力身に備ふ、
心と共に年齡も等しかりせば、われか彼れ、
いづれか高き巧名の譽を搬び去るべきに。』
しか陳ずれば衆軍は同じ思を胸にして。
おのおの肩に盾あてゝ彼のめぐりに近く立つ、
アイネーアースまたかなた、その同僚を警めつ、
デーイポボスとパリスとを眺めつ、更に神に似る
アゲーノールら、もろともにトロイア軍の首領たる
諸將に呼べば、衆卒は從ひ來る——牧場を
出で牡羊のあとにつき群羊水に進むとき、
牧人そぞろ胸中に喜悦の情の湧く如く、
アイネーアース衆卒のつづき來るを喜べり。

かくて長槍手に取りてアルカトースの身をめぐり
兩軍迫り相撃てば凄く彼らの胸の上、
青銅鳴りて亂軍の中に彼らは相覘ふ、
中にも(しる)き二勇將、共にアレース軍神に
比すべし、こなたアイネ,アス、あなた名將イドメネー、
互に敵を屠るべく凄き槍もて向ひ合ふ。
アイネーアースまっさきにイドメニュースを覘ひ打つ、
それをまともに認め得て青銅の槍、彼は避く、
アイネーアース投げし槍、その剛勇の手よりして、
空しく飛びてその穂先ゆらぎ大地に突きさゝる。
槍の名將イドメネー、[4]オイノマオスの腹部打ち、
その胸甲を貫けばそこより臟腑溢れいで。
敵は沙塵の中に伏し双手に土をかい握む。
イドメニュースは影長く曳く槍、敵の屍體より
抜き得たり、然れども他の精巧の軍裝を
彼の肩より掠め得ず、敵の射撃は物凄し、
()せるも双脚の骨筋今は堅からず、
走りておのが槍を取りまた敵の槍避くること
難し、震ひて接戰に死の運命を防げども、
戰場あとに速かに退くことは易からず。
かくして徐々に立ちさるを憎怒つねに抱きたる
デーイポボスは伺ひて耀く槍を投げ飛ばす。
されども覘誤りて槍はアレース愛づる息、
アスカラポスの身に當り、激しき穂先その肩を
貫き刺せば塵の中倒れて土をつかみ伏す。
猛威恰も火に似たるアレース未だ戰場の
亂れの中にその愛子斃れ伏せるを悟り得ず、
クロニオーンの計らひによりて止められ、オリュンポス
至上の嶺に黄金の雲に包まれ坐に着けり、
戰場はなれ遠ざかる諸神も共に一齊に。

[4]十二歌一四〇。

アスカラポスをただ中に兩軍迫り相撃てり、
アスカラポスの頭よりデーイポボスは輝ける
兜を奪ふ、——かくと見てメーリオネース迅速の
アレースのごと走り出で槍を飛ばして腕を打つ、
打たれて手より頭鎧は大地に落ちて鳴りひびく。
メーリオネース更にまた鷹の如くに飛びかゝり、
鋭き槍を敵將の腕の端より抜き去りて、
すばやく返し友軍の間に交る。ポリテース
その時、腕に同胞の腰をかゝへて囂々の
戰場そとに引き出し、後陣の彼の脚早き
駿馬のもとにつれ來る。御者と戰車ともろともに、
戰後に彼を待ちし馬、疵に惱みていたはしく
はげしくうめくその主人、乘せてトロイア城中を
さして駈け行く、鮮紅の血汐の流れ溢るまま。
他の軍勢は戰を續け雄叫び鳴りやまず、
カレートールの産める息アパリュウスの向へるに、
アイネーアース飛びかゝり、鋭き槍に喉を突く、
突かれて頭傾きて倒れて盾と兜とは
これに續きつ、息絶やす死滅は彼をおほひ去る。

トオンその背を向けし時、アーンチロコス認め得て、
走りかかりてこれを討ち、背筋全部に添ひ走り、
頸におよべる脈管を勢猛くたち切りぬ。
勢猛くたち切れば敵は沙塵に仰向きて、
斃れ双手を傍らのその同僚にむけのばす。
アーンチロコス飛びかゝり、あまねく四方見わたして
敵の肩より武具を剥ぐ、トロイア軍勢迫り來て、
圍みて彼の巨大なる華麗の盾を四方より、
打てどもこれを貫きて、アーンチロコスの身にがいを
加ふるを得ず、ポセードーン大地を震ふ神靈は、
亂射の中にネストール生める愛兒を蔽ひ()る。
アーンチロコス勇にして敵を逃るゝことあらず、
これに面して鋭槍を勢猛く振りまはし、
絶えず勉めて敵人をめがけて槍を投げ飛ばし、
あるひは近く飛びかゝり接戰するを念じ掛く。

かく亂軍のただ中に、勇める彼にア,シオスの
うめる[1]アダマス飛びかゝり、鋭き槍に大盾の
もなかを討ちぬ、然れども毛髪黒きポセードーン、
彼の生命いとしみて鋭き槍を無效とす。
かくして槍の一半はア,ンチロコスの盾の中、
[2]くすべし(くひ)を植うる如、他部は地上に横はる、
敵は運命逃るべく友の間に引き返す。
返すを逐うて槍飛ばすメーリオネース誤らず、
臍と恥骨の(あひ)にして、特にアレース不運なる
人に對して殘忍の力を振ふそのほとり、
正しくこゝに鋭槍の覘ひ貫く、突かれたる
敵は屈みて鋭刄によりつゝ(もが)く、譬ふれば、
牧人山の中にして嚴しく繩に繋ぎつゝ
ひき行く屠牛見る如し、疵つけられし敵將は
かくこそもがけ、そもしばし、メーリオネース迫り來て
槍ぬきとれば暗黒は彼の兩眼おほひさる。
こなた[3]ヘレノス近よりてデーイピロスの蟀谷(こめかみ)を、
トレーケースの[4]大いなる劍に斬りて頭鎧を
碎く、頭鎧つんざかれ地上に落ちてころがるを、
とあるアカイア一戰士足もとよりし拾ひ取る、
暗夜はかくて薄命の將の双眼おほひさる。

[1]十二歌一四〇。
[2]腐敗を防ぐため杙の末端をくすべて地に植う。
[3]六歌七五。
[4]トレーケースは大刀を産す。

これを眺めて悲めるアトレーデース、大音の
將メネラオス、大股に鋭槍ふるひ敵の將
ヘレノスめがけ威しより、將は剛弓高く張る。
兩將かくて相向ふ、これは鋭き投槍を
飛ばさんとしつ、かれは又絃上の矢を放たんず。
プリアミデース敵將を覘ひてかれの堅く張る
胸甲めがけ矢を飛ばす、されど勁箭はねかへる。
譬へば廣き穀倉の床の()振ふ大いなる
箕より黒豆白豆の鋭き風に扇がれて、
農夫の強き力より紛々として飛ぶ如し、
かく光榮のメネラオス穿つ胸甲貫かず、
鋭き飛箭はね返り離れて遠く飛び行きぬ。
その時大音のメネラオス・アトレーデース槍飛ばし、
磨ける弓を手に握る敵將の手に射あれば、
青銅の穗は貫きて手より弓へと刺し通る。
敵は運命免るべく、あとに返して友軍の
間に混じ、射られたる槍を垂れたる手もて曳く。
その槍、手より勇猛の[1]アゲーノールは引き抜きて、
羊毛 ()りし皮紐の繃帶かけていたはりぬ、
石を抛るための紐、從者携へ來るもの。

[1]アンテーノールの子(十二歌九三)。

[2]ペーサンドロスその時に敵メネラオス、光榮の
將に向へり、禍の運命彼を導きて、
メネラーオスよ、君のため亂戰中に倒れしむ。
兩將互に相迫り近よる時にメネラオス、
アトレーデース誤りて其槍敵をはづれたり。
ペーサンドロス光榮の敵メネラオスもてる盾、
打てども堅き青銅を貫き通すことを得ず、
巨大の盾はそを支へ、槍は穂先を打ち碎く、
されども敵は心中に勝を望みて喜べり。
アトレーデースその(つか)に銀鋲うてる長劔を
抜きて振りあげ、まっしぐらペーサンドロス襲ひ討つ、
敵は琢ける橄欖の長き柄つけて青銅を
鍛へし[3]斧を盾の下、取りて互に相向ふ。
敵は覘ひて打ちゆらぐ冠毛の下頭鎧の
頂邊(てつぺん)討てば、メネラオス走りかゝりて敵將の
鼻梁のはしを眞向に骨打ち碎く、碎かれて
血に塗れつゝ、眼球は其足許に地に落ちて、
沙塵にまみれ、敵將は斃れて遂に地に伏しぬ、
其胸彼は踏みつけて武具を奪ひて誇りいふ、

[2]同名の別人はアガメムノーンに殺さる(十一歌二二)。
[3]斧或は矛はホメーロス詩中の諸將用ゐること稀。(後者は七歌一四一に見ゆ)アカイア軍は全く用ゐず。

『汝ら斯くも駿馬驅るアカイア勢の水陣を
去らむ、汝ら、喊聲に飽かざるトロイア誇傲の徒!
汝ら無慙、狗の群、汝ら我に加へたる
無禮と恥辱幾何ぞ、汝らヂュウス・クロニオーン——
世の歡待を司る——神の雷霆凄しき
怒を畏ぢず、[4]他日彼れ汝の都城壞るべし。
汝らむかしわが妻の厚き歡待受けしとき、
彼女並に其資財非法に奪ひ立ちさりき、
而して今は海岸を渡るわれらの兵船に、
猛火を放ち焼き拂ひアカイア勢を屠らんず。
汝らいかに勇むとも遂に戰場追はるべし。
あゝわが天父クロニオーン、其智あらゆる人天に
優ると曰はる、然れどもこれらは凡て君の所爲、
君今[5]非法の國人を——トロイア人をいかばかり、
愛でんとするや?あゝ彼ら心は常に不義にして、
しかも戰亂鬪爭の騒に常に飽き足らず。
人はすべてのものを愛づ、或は睡、又は愛、
又は歌謠のいみじきを、又は舞踊の(たへ)なるを、
戰よりもこれらをば好みて人は飽かんとす、
ひとりトロイア族人は常に戰鬪飽き足らず。』
しかく陳じて剛勇の將メネラオス敵將の
身より血染の武具を剥ぎ、そを同僚の手に渡し、
更に進んで先鋒の隊伍の中に加はりぬ。

[4]メネラオスがヂュウスに對する祈を參照すべし(三歌三五一以下)。
[5]惡事を爲すも天罰を被らざるは何故か、東西千古の疑問、ホメーロスは之を只ヂュウスの所爲に歸す。從來エスキュラス(アイシュロス)は之を運命(アナンケー)に歸す。

その時彼を襲ひしはピュライメネース王の息、
ハルパリオーン、戰を願ひて父のあとにつき、
トロイア訪ひし彼遂に歸国の運を惠まれず、
アトレーデース携ふる盾のもなかを近よりて、
うてども堅き青銅を貫き通すことを得ず、
死の運命を逃るべく敵の刃を恐れつつ、
あたり見廻し退きて友の間に身をかくす。
逃げ行く彼に矢を飛ばすメーリオネース過たず、
右の腰部を貫きて鋭き鏃、骨の下、
その膀胱を貫きて彼を地上に倒れしむ。
そこにさながら蟲のごと、その身をのして愛友の
手に抱かれて、いやはての呼吸を彼は引きとりぬ、
暗紅色の血の流れ凄く大地を濕して。
その介抱は勇猛のパプラゴニアの郷の友、
悲哀に沈み(しかばね)を車に乘せて神聖の
イリオン城に持ち返る、涙にくれてその中に
[6]父は伴ふ、死せる子の復仇遂に遂げられず。

[6]父ピュライメネースは五歌五七六以下に於て戰死、これらの矛盾は後世の挿入ならむ。

されどもパリス死者のため心の憤怒甚し、
パプラゴニアにそのむかし彼の歡待受けたれば、
爲めに怒りて鋭き矢、絃上つよく射て飛ばす。
ユウケーノール(其父は豫言巧みの[7]ポリュイ,トス、
富みて勇あり、コリントス郷を住居となせるもの)
非命を遂に逃れずと悟りて船に乘り來る。
故は老いたるポリュイドス屢々(しば/\)彼に陳じ曰ふ、
惡き病を身に受けて其邸中に身まかるか、
若くはアカイア水軍のそばにトロイア軍勢に
殺さるべしと。かくて彼れ、心の惱み逃るべく、
アカイア人の刑罰と惡しき病魔を共に避く。
その耳のもと、顎の下パリスに射られ、その生氣、
彼の肢體を離れさり、暗黒彼を蔽ひさる。

[7]同名の別人五歌一四八。

かくて兩軍炎々の(ほのほ)の如く戰へり、
ヂュウスの愛兒ヘクトール、彼の軍勢水陣の
[1]左に於てアカイアの軍に破られ、程も無く
アカイア勢は、——大地震り大地を抱くポセード,ン、
アカイア軍を勵まして威力を之に加ふれば——
勝ちて光榮得るべきを未だ聞き得ず、知るを得ず、
先に盾持つ密集の敵の軍陣打ち破り、
その城門と壘壁に進みしほとり、彼は今
たてり、そこにはアイアース、プロテシラオス、乘りて來し
軍船白き激浪の寄する岸の()相ならび、
そこに築ける壘壁は最も低し、然れども
軍馬軍勢もろともに勇氣尤も甚だし。

[1]ヘクトールより見て左。

[2]ボイオートイとその被服長き民族[3]イアオネス、
又ロクロイとプチィオイ、譽の高きエペーオイ、
急ぎて船を襲ひ來る敵將防ぐ、然れども
猛威さながら火の如きヘクトールをば攘ひ得ず。
\}tdfo\}fo [2]二歌四九四。
[3]即Ioni[an?]s——「被服長き」は戰裝に非ず。


アテーナイオイ軍中の精華率ゐて將たるは、
ペテオースの子メネスチュ,ス同じく之に續けるは
[4]ペーダス、ビアス、スチキオス。エペーオイ軍率ゐるは
ピュリュエース生めるメゲースとアンピィオーンとドラキオス。
プチオイ族を率ゐるはメドーン並に[5]ポダルケ,ス
オイリュウスの庶子にして、アイアースをば兄とする
メドーンは先に其父の娶れる繼母エリオピス——
繼母の族を討てるためピュラケーの地に移りにき。
ポダルケースはイピクロス・ピュラキデースの生めるもの。
ポダルケースとメドーンとの兩將舟を防ぎつゝ
プチオイ軍の先に立つ、ボィオートイともろともに。

[4]ペーダスとビアスとは前後他に現はれず、アンヒィオーンとドラキオスも亦然り。
[5]ポダルケースは二歌七〇四。

オイリュウスの子アイアース、テラモーンの氣アイアース、
互に近く相接し、たえて離るゝことあらず、
譬へば黒き牛二頭ひとしく勇氣ふりおこし、
頑丈の鋤牽く如し、力をこめて喘ぎつゝ、
牽けば獸の角の(はし)、汗は淋漓と流れ出づ、
畦を踏み行く[6]兩牛を別つはひとり琢かれし
頸木あるのみ、かくありて鋤は耕地の端に着く、
斯く二勇將彼と此、互に接し位置を占む。
その數多き勇猛の將士は共にテラモーン
生める勇士に伴ひて、汗と疲勞に彼の膝、
そゞろに弱りはつる時、彼より受けて盾を取る。
ロクロイ族は剛勇の[7]オイリアデ,スに伴はず、
故は歩兵の戰に彼らの心安んぜず、
冠毛しげき青銅の(かぶと)を持たず、圓形の
盾また持たず、白楊の柄ある長槍携へず、
ひとり羊の毛を()りし抛石紐と剛弓に、
たよりて遠くイリオンに伴ひ來り、その武具を
用ゐて後に屢々もトロイア陣を破りたり。
斯くて一部は精妙の武具を用ゐて先陣に、
トロイア及び青銅を穿つヘクト,ル敵と爲し、
一部後陣に身を隱し、矢と石飛ばし敵陣を
亂せばトロイア軍勢すでに戰疲れたり。

[6]牛は頸によらず角によりて連結せらる(リーフ註)。
[7]オイリアデースとはオイリュウスの子の意、即ちアイアース。

かくてトロイア軍勢は、兵船ならびに陣營を
棄てゝ退き、風荒きイリオンさして歸らんず、
その時強きヘクト,ルにプーリダマスは寄りて曰ふ、
『あゝヘクトール、忠言に君は容易く耳貸さず、
戰術、衆に優るべき神の惠みの故をもて、
君また衆を智に於て凌がんことを念ずるや?
[8]あらゆる能を一身に備へんことは得べからず。
ある一人に神明は戰ふ業を、又他には
舞踊の業を、又他には琴と歌とを授けたり、
又他の胸に轟雷のクロニオーンは智慮深き
心におけり、これにより多數の人は利を受けむ、
衆を救はむ斯る人、最も智慮の徳を知る。
われ今君に最善と思ふところを陳ずべし。
君をめぐりて戰鬪の環は火の如く燃え立てり、
敵の壘壁、越せる後わが勇猛のトロイア勢、
あるひは武具を携へて休み、あるひは敵船の
ほとり、多數を敵として寡勢ながらに戰へり。
君いま脚を廻らしてこゝに至剛のものを呼べ、
而して次に一齊に討議凝さん、神明の
助によりて敵軍に勝つべくあらば彼の舟——
漕座、數ある舟めがけ勢ひ猛く襲はんか、
あるは傷害受けぬ前、敵船あとに歸らむか、
恐るゝところ先きの害[1]、敵軍われに報ふべし、
彼らの舟の中に、今戰飽かぬ一戰士
殘れり、しかも戰を思ひ棄てたるものならず。』
プウリュダマスはかく陳じ、ヘクト,ルこれを受け納れつ、
ただちに彼は武具を取り、大地に戰車おりたちて、
飛揚の羽ある言句もて友に向ひて陳じ曰ふ、
『プーリダマスよ諸々の勇將こゝに呼び來れ、
われ先づ行きて戰場に勤め、而して號令を
衆に下して、然る後また此 (には)に歸り來ん。』

[8]四歌三二〇。
[1]八歌におけるアカイアの敗北。

しかく陳じて[2]白雪の山の如くに駈けいだし、
叫喚あらくトロイアと其友邦の陣、過ぎ行きぬ。
パントオスの子、勇猛のプウリュダマスの立つ處、
衆將ともにヘクト,ルの聲聞くときに寄せ來る。
彼は進んで先鋒の中に同僚探しゆく。
デーイポボスを、剛勇の王ヘレノスを、アシオスの
息アダマ,スを、更にまたヒュルタコスの子アシオスを。

[2]非常に高き山の如くの意か、此比喩は前後に見えず、四歌四六二「塔の如く倒る」の句あり。

彼は探せど見當らず、傷害うけず、助かりし
友は今無し、あるものはアカイア勢の手に亡び、
アカイア軍の水陣のほとりに近く横はり、
又あるものは壘壁の中に射られぬ、疵つきぬ。

その悲慘なる戰場の左の端にヘクトール、
見出し得たり、鬢毛の美なる女性のヘレネーの
(つま)たるパリス、その友を鼓舞し戰勸むるを。
即ち近く進み來て彼は叱りて叫び曰ふ、
[3]『無慙のパリス!姿のみ美にして婦女に惑溺し、
欺瞞に馴るるあゝ汝、デーイポボスはいづくぞや?
勇將ヘレノスいづくにぞ、アシオスの子アダマ,スは?
ヒュルタコスの子アシオスは?オトリオニュウスはたいづこ?
高きイリオン崩るべし、汝も正に亡ぶべし。』

[3]三歌三九。

姿は神に似るパリス、答へて彼に陳じ曰ふ、
『咎なきものを咎めんと念ずる汝、ヘクトール、
さきにはとまれ、戰場を今に逃るゝわれならず、
卑怯の者とわが母はわれを産みしにあらざりき、
舟のめぐりに戰鬪をなすべく汝、わが軍を
激せし以來こゝにたち、アカイア勢を敵として
弛まずわれら戰へり、汝の探す戰友は
討たれぬ、ひとりヘレノスと(彼は勇將)——その友の
デーイポボスは長槍に手は射られしも死を脱れ、
クロニオーンの助け得て、この戰場を立ちさりぬ。
雄志の汝進むべく命ずる處、軍勢を
導け、われら勇を鼓し、汝のあとに從はむ、
思ふに武力足るとせばわれら勇氣を失はず、
武力を越せる戰鬪は勇める者も能くし得ず。』

しかく陳じて同胞の心をパリス柔げつ、
かくして彼等混戰と苦鬪の荒き中に行く、
ケブリオネ,スと勇猛のプーリダマスとパルケース、
オルタイオスと神に似るポリペーテース、パールミュス、
アスカニオスとヒッポチオ,ン生めるモリュス立つほとり、
これら前の日、交替にスカニエーの豐沃の
郷より來る——クロニオーン今戰場に勵ましむ。
これら雄志の進むこと凄き颶風の吹く如し、
クロニオーンの轟雷によりて颶風は平原を
襲ひ、轉じて海洋の泡立つ潮高まりて、
溢れ流るゝ銀浪は、前に後に湧き起る、
斯くもトロイア軍勢は前と後と相迫り、
燦爛光る青銅を鎧ひ主將のあとを逐ふ。
プリアミデース・ヘクトールこれを率ゐて人類の
禍害アレース見る如く、圓き大盾、牛王の
皮はりつめて青銅を上に延したるものを手に
取りて、耀く頭鎧はその蟀谷(こめかみ)の上搖ぐ。
盾をかつぎて進む前、靡くや否や、敵陣の
四方にわたり試みて勇將徒歩に馳せ進む、
されどアカイア軍勢の心ひるますことを得ず。
濶歩し來るアイアース眞先に彼に挑み曰ふ、

『奇怪の汝、いざ寄せよ、など斯く汝アルゴスの
軍勢 (おど)す?わが將士つゆも未練の徒にあらず、
アカイア勢はただヂュウス降せし鞭に弱るのみ。
正しく汝心中に、われの軍船破るべく
念ず、されども速に我手は之を拒ぐべし。
むしろこれより先んじて汝の都城——人口の
豐かなるものわれの手に奪ひ取られん、荒されむ。
われは汝に今告げむ、時は迫ると、——クロニオーン
及びその他の神明に汝逃げつゝ祈る時、
平野を駈けて塵立つる軍馬汝をイ,リオンに
搬び去ること鷹よりも早くと汝祈る時。』

しかアイアース叫ぶ時、右手の方に現はるる
蒼旻高く翔ける鷲、アカイア兵士その祥に
勇みて叫ぶ聲高し、答へてヘクト,ル彼に曰ふ、

ああ大言のアイアース、汝何らの饒舌(ぜうぜつ)ぞ!
この日アカイア全軍に(まさ)しく禍難 ()る如く、
しかく確かに願くはアイギス持てるクロニオーン、
われその愛兒たり得まし——天妃ヘーレー母として、
アテーナイエー、アポロ,ンと同じ光榮惠まれて。
しかして汝わが長き槍に向ふを敢てせば、
亂軍中に殺されむ、槍は汝の柔き
膚つんざかむ、舟のそば倒れて伏せる汝その
肉を脂をトロイアの狗と鳥との餌となさむ。』

しかく陳じて先頭にたてばその友一齊に、
叫喚凄く續き來て士卒高らに後に呼ぶ。
こなたアルゴス軍勢は同じく叫び、勇猛の
氣を失はず、寄せ來るトロイア軍の勇士待つ。
その兩軍の喊の聲、天にヂュウスの宮に入る。


更新日:2004/09/18

第十四歌


第十四歌

マカオーンを看病しつつあるネストール出でて戰況を見る。 負傷の諸將アガメムノーン、ヂオメーデース、オヂュッシュースと語る。 アガメムノーンは退却すべしと説く。オヂュッシュース之を駁す[。] ヂオメーデースの忠言に從ひ、諸將進んで衆軍を勵す。 ポセードーンはアガメムノーンを勵す。神女ヘーレー計りてヂュウスを睡らしむ。 ポセードーン先頭に立ちアカイア軍を進ましむ。アイアース大石を投げてヘクトールを氣絶せしむ。 トロイア軍退却。アカイア諸將の戰功。

酒盃擧ぐれど[1]ネストール、かの喊聲を耳にして、
(はね)ある言句陳じ曰ふ、アスクレ,ピオス生める子に、
『思へ、すぐれしマカオーン、このこといかに成り行かん?
血氣の子らの喊聲は舟のかたへに高まりぬ。
さはれ汝はこゝに坐し耀く酒盃傾けよ、
やがて鬢毛うるはしきヘカメーデーは温浴を、
汝の爲めに備ふべく、凝血洗ひ清むべし、
われは急ぎて(には)に現状眺むべし。』

[1]負傷のマカオーンをネストールは其陣中につれ歸る(十一歌五一七以下)。

しかく陳じてその子息、馬を御するに巧みなる
[2]トラシュメーデ,ス陣中に殘せる盾を手に取りぬ、
そは青銅に輝ける精妙の武器、彼れの子は
代はりて父の盾とりき。老將はた又青銅の
鋭き槍を手に握り、陣外出でゝ眺むれば、
無慚やアカイア軍勢は破れ、トロイア軍勢は
勝に勇みて逐ひ來り、アカイア壘壁打破る。
暗澹として滄溟のうねり高まり、漠然と
やがて吹き來ん疾風の道告ぐる時、海の波
未だ左右のいづれにも向ひ捲き立つことあらず、
やがてヂュウスの手よりして疾風つよく襲ふべし。
斯くの如くに老將は胸裏二つの筋道を
決しかねつゝ佇めり、駿馬を御するダナオイの
戰陣めがけ急がんか、アガメムノーンに向はんか、
思ひ煩ふ果に先づアトレーデース訪ひ行くを
善しと判じぬ。かなたには兩軍互に相當り、
つらき青銅鳴りひびき、刀刄または兩刄の
槍を用ゐて彼れと是紛々として屠り合ふ。

[2]九歌八一。

ヂュウスのめづる列王は船より出でてネストールに
逢へり、鋭利の青銅に傷つけられし諸將軍、
チューデーデース、オヂュシュウス、アガメムノーン。其船は
戰場はなれ、波さわぐ(なぎさ)の上に揚げられき、
諸王の船は[1]最前の列をなしつゝ陸の上、
最後の船の端近く[2]壘壁長く造られき。
沙岸狭きに非ざれど、舟一切を悉く
並ぶるを得ず、軍勢は豐かに地所を占めがたし、
かくして彼ら幾列に舟を引き上げ、海岸の
廣き入口悉く滿たす高地の麓まで。
かくして諸王隊を組み槍を杖つき、もろともに
難戰苦鬪見渡して胸を傷めて悲めり。
そこに老將ネストール訪ひて、アカイア列王の
[3]胸裏の思傷ましむ、アトレーデース、衆の王、
その時飛揚の翼ある言句を彼に陳じいふ、

[1]海に最も近きの意か、岸上に舟を引き揚げしことは一歌四八五。
[2]七歌三三八。
[3]意味不明(リーフ)。ネストール負傷せずして來る、何故諸將は胸を傷ませるや。

『ネーリュウスの子ネストール、アカイア軍の譽ある
君、何故に人間の禍害——戰場あとにして
こゝに來れる?われ恐る、から勇猛のヘクトール、
さきに[4]トロイア陣中にのべてわれらを嚇したる
其言遂に成るべきを、われらの船を焼き拂ひ、
われらの軍を亡ぼして後イリオンに歸らむと。
ああ彼の言今にして程なく正に遂げられむ。
痛しいかな脛甲の堅きアカイア諸軍勢、
アキルリュウスともろともにわれに向ひていきどほり、
船嘴のかたへ戰ふを念ぜず、彼の胸中に。』

[4]八歌一八一。

ゲレーニャ騎將ネストールその時答へて彼に曰ふ、
『さなり誠に君がいふ事は成るべし、眼の前に、
轟雷高きクロニオーン、彼すら之を變へがたし。
わが軍勢とわが船に對し、不落の防陣と
信頼篤くおきたりし壘壁遂に崩されぬ。
敵の軍勢わが船のそばに不撓の戰を、
續けて休むことあらず、又いかばかり探るとも、
いづれの側にアカイアの將士敗られ逐はるるや?
辨へがたし、紛々と屠られ、喊聲天に入る。
されど思念の效あらば、局面いかに動くべき、
こを今共に計るべし、されど渦中に加はるを
われは勸めず、傷負ひし將は奮鬪なしがたし。』

アガメムノーン衆の王、彼に向ひて答へ曰ふ、
『ああネストール、衆軍は船首のほとり戰ひて、
而して堅き壘壁も又塹濠も效あらず、
そはダナオイ諸軍勢つとめて造り、胸中に
わが軍勢とわが船の防禦たるべく望むもの。
我は思ふに、クロニオーンこゝにわれらのアカイオイ、
アルゴス遠く此郷に空しく死ねと計らへり。
先に大神喜びてわが軍勢を助けたり、
我が知るところ彼は今敵に譽を神のごと、
與へて我の健剛の腕と力を縛りたり。
やむなし、されば今われの言に衆人耳を貸せ。
海にま近く陸上に揚げ据ゑられし諸の
舟をこぞりて今もとに海波の中に返し入れ、
之れに重みの石を附け、波浪の上に浮かしめよ、
「夜」の神聖の幕たれて、トロイア軍の戰を
やすまん時に、すべて他の舟、水上におろすべし。
夜間なりとも禍を免るることは恥ならず、
亡ぶるよりは禍を逃れ避くるを善しとせむ。』

計略富めるオヂュシュウス奮然睨みて彼にいふ、
『アトレーデーよ、何らの語、君の齒端を洩れ出でし?
無慙なるかな、あゝ汝、汝は(よそ)の卑怯なる
隊率ゆべし、我が軍に主たるべからず——我軍の
少年及び老年の(すべて)に、高きクロニオーン、
最後の一人死する迄、奮戰苦鬪勉めしむ。
汝は斯くも廣街のトロイア都城さらんとや?
其爲われら忍びたる辛苦の量はいくばくぞ?
默せよ、外のアカイアにかかる言句をきかしめな、
正しき言を語るべく胸に叡智を持つ者は——
而して汝アルゴスに王たる如く、王冠を
戴き衆に服從を命ずる者は何人も、
かかる言句の齒端より逃れいづるを許すまじ。
我は全く汝今述べし計慮を善しとせず、
戰爭喊聲盛なる中に、われらの兵船を
海におろせと汝曰ふ、しかせばすでに優勝の
勢誇るトロイアはいよよ思の儘ならむ、
而して破滅敗亡の運命われに降るべし。
故はアカイア軍勢は兵船波に浮ぶ時、
其戰を續くまじ、四方(よも)を眺めて逃るべし、
汝の計慮成る果は斯る禍難を生み出でむ。』

アガメムノーン、衆の王、その時答へて彼にいふ、
『あゝオヂュシュウス、痛烈の叱りを以てわが心、
汝は刺せり、然れどもアカイア軍勢意を抂げて、
おのおのに海に其船をおろせと敢へて我曰はず、
老少いづれは我問はず、優れし計慮抱くもの、
請ふ速かに現はれよ、われ喜びて耳假さむ。』

ヂオメーデース、大音の勇士その時衆に曰ふ、
『[1]その者正に前にあり、永く求むる要あらず、
汝らおのおの喜びて我の言葉に耳を貸し、
衆中最も若しとて我を侮ることなくば。
素生は卑しからざるを我は汝に敢へて曰ふ、
父はチュウヂュウス、テーベーの異郷の土は掩ほふ者。
すぐれし三子そのむかし生める遠祖はポルチュウス、
彼らの郷はプリュウローン、又嶮要のカリュドーン、
長アグリオス、次ぎメラス、三は騎將オイニュウス。
そはわが父を生めるもの、勇名尤も高かりき。
彼は故郷に、わが父は諸所の漂浪永き後、
ヂュウスと諸神の命のまゝ來てアルゴスの地に住みぬ。
アドラストスの娘らの一人を彼は妻として、
資産豐かに居を定め、あたりに麥の畑廣く、
又果樹多き地を領し、更に群がる牧羊を
飼ひたる彼は槍とればアカイア族を凌ぎけり。
わが曰ふところ誤か、汝等すべて聞きつらむ。
されば素性は賤しかる卑怯の者とおとしめて、
わが忠實に曰ふところ輕んじ笑ふこと勿れ、
いざ戰場に向ふべし、疵は負へどもやむを得ず。
されどかしこに行かん後戰なさず飛ぶ武器を
避けん、さらずば或者は疵又疵を重ぬべし。
されど是迄心中に怒を抱きたちはなれ、
戰はざりし人々を勸め戰地に行かしめむ。』

[1]自己を指して曰ふ。

しか陳ずれば彼の言聽きて衆軍從へり。
斯くして彼ら動き出で、アガメムノーンこを率ゆ。

大地を震ふポセードーン其警戒は(あだ)ならず、
一老人の姿取り諸將と共に歩を進め、
アガメムノーン衆の王アトレーデ,スの右の手を
取りて勵まし、翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

『アトレーデーよ、今しがた、アキルリュウスの無慙なる
心、胸裏に喜べり、アカイア軍の敗亡と
死滅を眺め喜べり、ああ彼微塵の知慮も無し、
見よ彼やがて亡ぶべし、神靈彼を倒すべし。
さはれ汝に慶福の諸神は怒るところなし、
トロイア軍の將帥と首領はやがて廣原の
塵を揚ぐべく、汝また舟と陣營あとにして
イリオン城に逃れ去る彼等の姿眺むべし。』
しかく陳じて原上を走り乍らにポセード,ン、
高らに叫ぶ。譬ふれば九千或は十千の
將士戰地にアレースの列に加はり叫ぶごと、
かかる喊聲胸よりし叫び出せりポセード,ン、
かくしてアカイア軍勢のそのおのおのの心中に、
はげしき威力増し加へ不撓のいくさ勵ましむ。

今黄金の王座もつ神女ヘーレー高らかに、
ウーリュンポスの頂にたちて見おろし、忽に
功名來たす戰場に彼の同胞——しかもまた
彼の[2]義弟の——ポセード,ン奮ふを眺め喜びつ、
更に清泉豐かなるイデーの峯の絶頂に
クロニオーンの坐せる見て心に深く憎しめり。
その時牛王の目を持てるヘーレー思ひ廻らして、
アイギス持てる大神の心欺く道究め、
やがてすぐれし計略と自ら思ふものを得つ、
即ち容姿整へて行きてイデーの峯を訪ひ、
クロニオーンの情慾をそゝり、かくして閨房に
もろとも入りて、歡會の果にいみじき甘眠を
彼の眼蓋にそゝぐべく彼の聰明蓋ふべしと。
神女かくして室に入る、室は彼の子、神工の
ヘーパイストス彼れの爲め造りたるもの、秘密なる
(かんぬき)用ゐ堅めたる其戸、他神は犯し得ず。
ヘーレーかくて室に入り其燦爛の戸を閉ざし、
まづアムブロシヤふりかけてその艶麗の肢體より
汚れを清め、柔かく芳薫強き膏油もて
膚を塗りぬ、其薫りクロニオーンの青銅の
戸を備へたる宮の中、ゆらがば餘香天上に
いみじく布かむ、下界にもなごりの薫傳はらむ。
かく膏油もて艶麗の身を塗り終り、手を揚げて、
其神聖の頭より、長く流れて垂れさがり、
薫あふるる鬢毛は(くしけづ)りつゝ編み上げつ、
つぎに神女はアムブロシヤ匂ふ衣を身に纒ふ、
そは精妙にアテーネー、縫ひて刺繍を添へしもの、
そを胸の上、黄金の襟留用ゐ着けし後、
百の(ふさ)ある艶麗の帶を纒ひて腰につけ、
更に左右の耳の下、三つの珠ある寳環を
垂るれば、照す燦爛の光あたりにかがやけり。
輝く神女更にまた華麗の面帕(おほひ)、日輪の
如くにひかるものを取り、いみじく面を掩はしめ、
次に同じく光ある脚に美麗の履穿つ。
斯くして神女莊嚴のすべてを以て身を飾り、
其室いでて神明の群の中よりただひとり、
アプロヂイテー招きつつ、彼に向ひて陳じいふ、

[2]ヘーレーと共にクロノスを父とするポセードーンはヂュウスの弟、而してヂュウスはヘーレーの夫、故にポセードーンは又ヘーレーの義弟。

『わが子よわれの乞ふ所、汝はわれに應ずるや?
或は汝わが言に背くや、汝はトロイアを、
救ふに反し、アカイアを我の救ふに腹立てて。』

アプロヂイテー、艶麗の神女答へて彼にいふ、
『ああおほいなるクロノスのむすめ、ヘーレー、端嚴の
神女、陳ぜよ君の旨、其旨われは遂げしめむ、
我にしかする能あらば、又遂げ得べき事ならば。』

その時神女、端嚴のヘーレー計りて彼にいふ、
『與へよ我に情慾と愛との秘術——これにより
神靈及び人間を汝の制し馴るるもの。
故は我今萬物を育つる大地の果に行き、
諸神を産めるおほいなる[1]オーケアノスとテーチュスを
訪はんと欲す、クロノスを大地の下に、海濤の
搖ぎの下にクロニオーン、投げしむかしにかの二神、
[2]レーアの手よりわれを取りその宮中に(はぐく)みき。
我今訪ひてはてしなき彼らの爭とめんとす、
瞋恚を胸に蓄へて互に離れ、温柔の
閨を分ちて、抱擁を彼ら永くも忘れたり。
甘言をもて説き勸め、再び閨を共にして、
互に熱き抱擁の昔に彼ら返し得ば、
我はうれしきよき友と彼らに永く仰がれむ。』

[1]ホメーロスによれば(ヘーシオドスの説と異る)神々は皆オーケアノスとテーチュスとより生る。(アキリュウスの母神テチスと混ずべからず)
ヘーシオドスによればオーケアノスはウラノスとゲーアの子にして其妻たり妹たるテーチュスと共に三千の河流を生む。
[2]レーアはクロノスの妹及び妻、——ヂュウス、ヘーレー、ポセードーン、皆其生むところ。

しかく陳じて[3]腰のへの寳帶解きぬ、精巧を
極めたる者、その中に種々の魅惑の籠るもの、
こゝに戀あり、そこに媚、燃ゆるが如き情熱と、
また温柔の戯れと——賢者も心迷ふもの、
其寳帶を手渡してアプロヂイテー彼にいふ、
『あらゆる秘法こもりたる此精巧の帶取りて、
君の御膚につけ給へ、君の心に願ふもの、
遂ぐることなくいたづらに歸り來給ふことあらじ。』

[3]原文には「胸のへの」。

しか陳ずれば牛王の眼のヘーレーはほゝゑみぬ、
ゑめる神女の端麗の膚に寳帶まとはりぬ。

アプロヂイテー艶麗の神女其家さして去り、
ヘーレー高きオリュンポスあとに急ぎて飛び降り、
[4]ピイエリエイとうるはしきエーマチエーを通り過ぎ、
トレーケースの騎兵らの領する雪の山の上、
其絶頂の峯こして脚は大地に觸るるなく、
アトス下りて激浪のとどろく海に、又嗣ぎて
勇武恰も神に似るトアスの領のレームノス、
着きて睡の靈に逢ふ(そは死の靈と同じ(はら)
即ち彼の手をとりて彼に向ひて陳じ曰ふ、
『睡の靈よ、一切の神と人との主たるもの、
汝は先にわが言を聞けり、願はくは今も聽け、
即ちわれの一生を通じて感謝を捧ぐべし。
ヂュウスのかたへ温柔の閨にわが身の臥さん後、
直ちに彼の眉の下、耀く(まみ)を睡らせよ。
酬としては黄金の不壞の玉座を贈るべし、
双腕固きわが愛兒ヘーパイストス、精妙に
造らんところ、其下に又足臺を備ふべし、
食事の際に汝その耀く脚をおかん爲め。』

[4]マケドニアの南部にあり。

甘き睡の靈彼に答へて即ち陳じいふ、
『ああおほいなるクロノスの生めるヘーレー、わが神女、
永遠不死の神々の他のいづれをもわが力、
眠らし得べし、おほいなるオーケアノスの流さへ、
其流こそ一切を生めるものなれ。然れども
クロニーオーン・ヂュウスには近寄ることを得べからず、
又かれしかく命ぜずば眠らすことを得べからず。
クロニオーンの勇しき[1]愛兒、トロイアを亡ぼして
イリオンあとに彼の上去りしかの時、我れ痛く
君の下せる命の故懲されたりき、苦みき。
アイギス持てる天王に我は甘美の氣を注ぎ、
彼の心をくらましき、その時君は彼れの[2]子に
禍難たくらみ、大海のおもに暴風吹きおこし、
友より遠く人口の多きコオースに驅りさりき。
覺めたる後にクロニオーン痛く怒りて、宮殿の
ほとりに諸神ふりとばし、特にわが身を追ひ求め、
天上遠く追ひ拂ひ海に投げんと激したる——
その時神と人間治むる「(よる)の神」のもと、
われ逃げ來り救はれき、足とき夜を惱ますを
恐るる故にクロニオーン・ヂュウス怒を抑へたり。
なすまじき行爲(わざ)今君は再び我に命ずるや?』

[1]ヘーラクレースがトロイアを破りしこと五歌六三八以下。
[2]ヘーラクレース。

その時牛王の目を持てるヘーレー答へて彼にいふ、
『睡の靈よ、何故にこれらを思ひ煩ふや?
ヘーラクレ,スの故に因り怒れるヂュウス、轟雷の
[3]クロニーオーン、トロイアに救援貸すと思へるや?
我は汝に妙齡の天女のひとり與ふべし、
[4]汝のつねにあこがれしパーシテエーを與ふべし、
彼は汝と婚すべく汝の妻と呼ばるべし。』

[3]クロニーオーン心ならずもトロイアに應援するなり。第一歌以來曰ふ如し。
[4]二六八は大概の版に省かる。

しか陳ずれば喜べる睡の靈は答へ曰ふ、
『然らば盟へ、[5]スチクスの犯すべからぬ水により、
片手をもって豐沃の大地に、(ほか)の手を以て
耀き光る海に觸れ、盟へ、然らばクロノスと
共に深きにある諸神、われの間の證たらむ、
君今われに妙齡の天女のひとり與ふべし、
わが身のつねに憧れしパーシテエーを()ぶべしと。』

[5]冥府の川。

玉腕白きヘーレーはその時つゆもためらはず、
願のままに盟ひつつ、[6]チーテーネスの名を負ひて、
[7]タータルロスの下にある諸神を呼べりおごそかに。
ヘーレーかくておごそかの盟を果す。然る後、
二靈は共にレームノス、イムブロス二都あとにして
霧に包まれ速かに其行程を進め行く。
荒き野獸を生む處、泉豐かのイデーの地、
其一隅のレクトンに波路を捨てて陸上る
歩を進むれば足の下巨大の林みな震ふ。
ヂュウスの(まみ)に寫る前、睡の靈は丈け長き
樅の木のぼり身をひそむ、イデーの山に生じたる
最も高きその巨木、雲霧つらぬき天に()る、
其樅繁る枝のあひ、聲玲瓏の山鳥の
姿をとりて身を潜む、神の間に其鳥は、
カルキスといひ、人間に呼ばるる其なキュミンヂス。

[6]英語タイタンス、獨逸語=チターネン。
[7]冥府。

ヘーレー斯くて速かにたかきイデーの頂の
[8]カルガロンにし近寄る雷雲寄するクロニオ,ン、
眺むる時に、其むかし親の眼掠め、閨房の
中に隱れて温柔の戀の戯せし如く、
激しき情火、思慮深き彼の心をそそらしむ。
即ち女神の前に立ち、ヂュウスは彼に陳じいふ、
『ウーリュンポスを降りて來てヘーレー何を望めるや?
汝の常に乘り慣るる馬も車も我は見ず。』

[8]八歌四八ガルガロンにヂュウスの殿堂あり。

その時神女、端嚴のヘーレー計りて彼にいふ、
『われは萬物養へる大地の端を訪ひに行く、
又もろ/\の神生めるオーケアノスとテーチュスを。
彼らはむかし其館に我をはぐくみ養へり、
我今彼ら訪ひ行きて果なき敵視解かんとす、
永きに亙り爭ひて彼等心に憤り、
其閨房と抱擁を互に離ち分れたり。
又堅固なる陸の上、又風浪の海の上、
わが驅る馬は清泉のイデーの山の下に立つ。
ウーリュンポスをわれこゝに降り來るは君のため、
われ一言を述べずして、オーケアノスの激流の
深きやどりを訪ひ行かば、君の怒は恐るべし。』

雷雲寄するクロニオーン其時答へて彼に曰ふ、
『ヘーレー、汝、かれの許訪ふは今とし限るまじ。
いざ温柔の床の上、燃ゆる思を晴すべし、
女神或は人界の女性に向ふ情念は、
かばかりわれに迫り來て胸を充たせし事あらず。
智謀恰も神に似し[1]ペーリトオスを産めるもの、
イキシーオーンの[2]愛妻をわれ斯く迄は愛でざりき、
アクリシオスの娘たる脚美はしきダナエーも、
(勇士すべての勝れたる[3]ペルシュウスは其息子)
高き譽のポイニコス其娘にてわが爲めに
ラダマンチュース、ミーノース生みたる[4]彼もかばかりは。
ヘーラクレース生みいでしアルクメネーもかく戀ひじ、
またセメレーも、かく戀ひじ、又人間の喜の
[5]ヂオニューソスを産みいでし彼れ艶麗のセメネーも、
デーメーテール、鬢毛の美なる女王も、光榮の
神女レートー亦さなり、更に先にも汝をも、
情念燃ゆる今の如かく戀したることあらず。』

[1]三一七 -- 三二七をアレクサンドリアの評家は退けたり。
[2]愛妻の名はホメーロス詩中に見えず、神話によれば其名はヂーアー(リーフ)。
[3]海麿を殺しアンドロメダを救ふ。
[4]ユーローパ。
[5]六歌一三二 ヂオーニュソスは詩的發音、所謂バッカス。

その時ヘーレー、端嚴の神女謀りて彼にいふ、
『天威かしこきクロニデー、何らの言を宣んするや?
高きイデーの峯の上、あらゆる事のあらはなる、
そこに温柔の床の中、君は臥さんと(おぼ)すとや?
常住不壞の神明のあるものわれら眠る見て、
行きてあらゆる神々に之を告げなば何とせむ?
その温柔の床を出で、再び君の宮殿に、
到らんことは叶ふまじ、何らの恥辱!耐へがたし。
されども君の御心は強ひても、しかく望まんか、
かれに室あり、君の御子ヘーパイストス、君のため
造りて、これに堅牢の戸を具へたる室かれに、
かしこに行きてかたらはむ君は臥床を求むれば。』

雷雲寄するクロニオーンその時答へて彼に曰ふ、
『ヘーレー、汝、此事を人間あるは神明の
見るを恐るること勿れ、われは汝を黄金の
雲に包まむ、[6]エー,リオス、眼光他よりも鋭くも、
之を貫き、われ/\の姿伺ふことを得じ。』

[6]エー,リオスはエーリオスを縮む、太陽神。

しかく宣してクロニオーン神女を腕に抱き取れば、
大地は下に聖くして新たの草花生ぜしむ、
露を帶びたるロートスと番紅花(さふらん)及び風信子(ひやしんす)
厚くてしかも柔かに地上離れて神支ふ。
そこに二神は添ひ臥して、黄金の雲美しく
之を蔽へば、燦爛と輝く露ぞ降り來る。

ガルガロンの頂に眠と戀に制せられ、
腕に神女を抱きつつ、クロニーオーンかく眠る。
甘き眠の靈かくてアカイア軍の水陣に、
大地を抱き又震ふ神に使命を傳へ行き、
即ち之に近づきて飛揚の羽ある言句いふ、
『ダナオイ族に、ポセードーン、今し勇みて力假せ、
しばしなりとも光榮を加へよ、ヂュウス眠る中、
甘美の眠かれの上われは注げり、更に又
ヘーレー彼を温柔の床に迷はしやすましむ。』

眠の靈はかく陳じ、アカイア軍の救援を
ポセードーンに勵まして、譽の群に飛び去りぬ。
直ちに神は先鋒の中に飛び出し叫び曰ふ、
『アルゴスの子よ、見過ごすやプリアミデース・ヘクトール、
勝を制して舟奪ひ功名たてて喜ぶを?
ペーレーデース憤ほり舟に停りて出でざれば、
まさしく事の成るべきを彼は陳じて誇らへり。
されどもわれら一齊に相互の(あひ)に力假し、
奮はばさまでアキリュウス・ペーレーデース要とせし。
いざ今我の命のまゝ全軍こぞり奮ひ立て!
戰陣中に最上の盾かつげ、光耀く青銅の甲に頭を守らせよ、
手に最長の槍をとれ、奮って進め、われ先に
立ちて汝を導かん、思ふに敵將ヘクトール、
プリアミデース、勇むとも永く留ることあらじ。
勇猛なるも肩の上、掩へる盾の小さき者、
之を劣れる人の假し、おのれ大なる盾を取れ。』

しか陳ずれば衆軍は容易く聽きて從へり、
しかして疵を負ひたれど列王立ちて列につく。
チューデーデース、オヂュシュウス、アトレーデース、衆の王、
みな戰陣の中を行き戰鬪の器を取り換へつ、
勇者は優る武器を取り、劣れる者は劣る器を。
かく耀ける青銅に身をよろひたる諸將卒、
其先頭に身をおきて、大地を震ふポセード,ン、
其強き手のふりかざす鋭き劔は恐るべく、
さながら電火飛ぶ如く、之に對して何人も
戰場中に立つを得ず、驚怖は彼を妨げむ。
されどもかなたヘクトール、トロイア勢を整へり、
かく黒髪のポセードーン、又光榮のヘクトール、
彼はアカイア軍勢に、これはトロイア軍勢に、
力を假して戰の氣運飽く迄熟せしむ。
[1]その時アカイア水軍と其陣營に大海は
波打ち寄せつ、兩勢は喊聲高く相討てり。
北吹く風の恐るべき呼吸によりて、滄溟の
淵よりかられ、岸上に寄する波浪もかく吠えず、
溪谷深く炎々の焰を揚げて森林を、
猛火はげしく焼き拂ふその轟きも亦若かず、
樫の巨木の頂きに高らに叫ぶ疾風の
怒り狂へる咆吼の極みの音も亦若かず、
トロイア、アカイア兩軍の將士互に相襲ひ、
戰ふ時に物凄く擧ぐる怒號の雄叫びに。

[1]詩的轉囘、——單純にして效果大なり。三九四以下は後世の挿入か。

眞先の譽のヘクトール槍を飛ばしてアイアース
まともに向くを覘ひうつ、覘外れず、然れども、
二條の胸綬——盾の帶、又銀鋲をちりばめし
(つるぎ)の帶——と胸の上、重なるところ打ち當つる、
當つれど肉を傷けず、之を眺めてヘクトール、
飛ばせし槍の效なきに怒り乍らも退きて、
死の運命を免るべく隊伍の中に身を潜む。
退く彼を勇剛のテラモニデース・アイアース、
船の支となる石の——勇士戰ふ脚下に
ころがる石の一つとり、高らにあげて、ヘクト,ルの
かざせる盾の縁の上、首もと近く胸打ちて、
獨樂の如くに轉々と巨大の肢體廻らしむ。
クロニオーンの雷撃に樫の大木根こそぎに
倒れ、そこより硫黄の香もの凄しく湧き起り、
傍へに立ちて見るものの心肝爲におぢ震ふ、
(雷雲よするクロニオーン、その電撃ぞ恐ろしき、)
かく剛勇のヘクト,ルどうと倒れて塵に伏し、
槍は離れて手より落ち、盾また次ぎて頭鎧と
共に地に落ち、燦爛の青銅の武具高鳴りぬ。
その時アカイア軍勢は高く叫びて寄せ來り、
彼を曳きずり去らんとし、激しく迅く槍を投ぐ、
されど誰しも投げ槍にまた突く槍に敵將の
身を疵つくることを得ず、救の諸將集れり、
プーリダマスと勇將のアゲーノールとアイネ,アス、
リュキエー軍を率ゐたるサルペードーン、グローコス、
其他の勇士ひとりだも彼を思はぬものあらず、
彼を蔽ひて圓形の盾をおの/\突き出す、
諸友はたまた腕に抱き戰場よりし運び出し、
後陣にありて待ちわぶる軍馬並に美しく
飾れる兵車、また御者のかたへに彼を連れ來り、
はげしく呻めく將軍を乘せて都城に歸らしむ。

かくしてかれら永遠のクロニオーンの産み出でし
渦卷く流れクサントス清き岸のへ着ける時、
兵車よりして地の上に彼をおろして水そゝぐ、
即ち呼吸ふきかへし(まなこ)を開き天仰ぎ、
膝をつきつつ黯黒の血をもの凄く吐き出し、
やがて再び地に倒れ、目は暗黒の夜の中に
蔽はれさりて、被むりし打撃に魂をめいらしむ。

こなたアカイア軍勢は將ヘクトール去るを見て、
ます/\勇を振りおこし、トロイア軍に攻めかかる、
中にはるかに抜きんじてオイリュウスの子アイアース、
鋭き槍を振りあげて突けり敵將サトニオス。
水の仙女と契りつゝ彼を生めるはエーノプス、
[1]サトニオエース岸の上、牛を牧ひたるエーノプス。
槍の名將アイアース近く迫りて敵將の
其脇腹を貫けば仰ぎ倒るゝ其めぐり、
トロイア及びアカイアの二軍はげしく相討てり。
斃れし友を救ふべく同じく槍に秀でたる
プーリダマスは寄せ來る、パントーオスの生める彼、
槍を飛ばして右肩にアレーイリコス生める息
[2]プロテーノール覘ひ打つ、打たれて彼は地に伏せば、
プーリダマスは傲然と大音あげて叫びいふ、
『パントーオスの武勇の子、其剛強の手よりして、
槍は空しく飛ばざるを見よや、アカイア軍勢の
一人之を身に受けぬ、思ふに彼は杖として、
之に身を寄せ[3]アイデース住める冥府におり行かむ。』

[1]六歌三四。
[2]ボイオーチアーの將 二歌四九五。
[3]冥府の王。

しか叫びたる高言を聞きてアカイア軍勢に
悲哀起りて、なかんづくテラモニデース・アイアース、
そばに斃れし友を見て痛く心を惱ましむ。
退く敵に速かに彼は輝く槍とばす、
されども之を外づし得てプーリダマスは片側に
跳びて死命を免れつ、アンテーノール生みいでし
[4]アルケロコスは神明の旨より槍を身に受けぬ。
槍の突きしは脊柱(せきちゅう)の至上の局部、——彼の頸、
頭に繋ぎ合ふ所、——槍は二條の筋を截る。
彼の頭と口と鼻、斯くして脛と膝とより
遙に先きに地に落ちて塵埃中に横はる。
その時勇むアイアース、プーリダマスに叫び曰ふ、
『プーリダマスよ思ひ見よ、プロテーノ,ルの酬とし、
此ものこゝに斃さるる價あらずや?思ひ見よ、
わが見る所卑賤なる素生にあらず此將士、
馬術すぐれし老將のアンテーノール産める子か?
或は彼の同胞か、容姿頗る彼に似る。』

[4]十二歌一〇〇。

實を知れどもしか陳じトロイア軍を嘆かしむ。
其斃れたる同胞の近きに寄れる[5]アカマース、
(かばね)の足を曳かんずるボイオーチア,のプロマコス、
槍に斃して大音に傲然として叫び曰ふ、

[5]アルケロコスの同胞、プロマコスは初めて現はる。

弓勢(ゆんぜい)荒るるアカイアの軍勢、汝ぢ脅喝に
厭かず、辛苦と不幸とは獨りわれらのものならず、
汝ら共に一齊に同じく打たれ亡ぶべし、
見ずや汝のプロマコス、わが鋭刄に亡され
眠るを、われの同胞の血の復讐は遠からず、
かくある故に神明に人は祈らむ其仇を
報はんために其家に族人殘り留るを。』

その高言に悲めるアカイア勢の中にして、
特に心を傷めたるペーネレオース、すぐれたる
勇將たちて奮然とアカマ,スめがけ突きかかる、
アカマ,ス逃げて鋭刄はイリオニュースを打ち斃す、
トロイア族の中にして神ヘルメース特にめで、
牛羊多く富ましめし[6]ポルバスの息——唯一の
子息と彼の妻産みしイリオニュースを打斃す。
額の眞下つんざきて酷く出でしめつ、頭蓋の
裏に通れば手を張りて彼は地上に倒れ伏す。
ペーネレオースまた次に鋭利の劔抜き放ち、
頸を目がけて打ちおろし、兜とともに其頭
斬りて地上にまろばしむ、しかも長槍また抜けず、
眼を貫ぬける、その儘に頭を高く手にとりて、
トロイア勢に示しつゝ傲然として叫びいふ、
『トロイア勢よ、すぐれたるイリオニュースの父母に
わがため告げよ、失せし子を其宮中に悲めと、
同じく我のプロマコス——アレゲーノルを父とする
彼を其妻歡びて迎へ得ざらむ、トロイアを
あとに航してアカイアの壯士故郷に歸る時。』

[6]ポルバス及びイリオニュース前後に無し。

しかいふ言に敵軍のすべては震ひおののきつ、
各々あたり見廻して破滅逃るる術思ふ。

ウーリュンポスを家とする歌の神女ら乞ふ告げよ、
大地を震ふポセードーン戰機一たび換へし後、
アカイア軍の中にして誰か眞先に敵人の
武具を剥ぎしや?アイアース・テラモニデースそれなりき。
ギュルチアデース・ヒュルチオス・ミュソイの將を彼うてり。
アーンチロコスはパルケースまたメルメロス剥ぎ取りぬ、
メーリオネ,スはヒポチオ,ン及びモリュス打取りぬ、
チュウクロスは討つ敵の将、ペリペーテース、プロトオン、
アトレーデース之に次ぎ、ヒュプレーノール敵將の
腹部を突きて斃れしむ、其槍突きてもの凄く、
臟腑を外に溢れしむ、受けたる重き疵口を
逃れて魂は急ぎ去り、暗黒彼の目を閉ぢぬ。
されど最も數多く敵をうちしはアイアース、
オイリュウスの子——何人もかく迅速に敵打たず、
クロニオーンのおどかしに逃げ行く群の後逐ひて。


更新日:2004/10/28

イーリアス : 第十五歌


第十五歌

ヂュウス目を覺まして戰況を眺め、ヘーレーを叱り責め、 イーリスを遣はしてポセードーンを退かしめ、アポローンに命じてヘクトールを助けしむ。 ヘクトール負傷より恢復し、アポローンの援助により進んでアカイア軍を討ち、 敵の退却を逐ひ、塹濠と壘壁とを越す。 パトロクロス此戰況をユーリピロスの陣營に於て眺め、 急ぎアキリュウスを説服せんとす。アカイア軍は前線の水師より退く。 テラモニデース、甲板に立ちヘクトールが焼かんとするプロテシラオスの舟を防ぐ。

柵と塹濠過ぎ越えて、トロイア軍は蒼惶と
逃れ走りつ、アカイアの軍勢の手に粉々と
打たれて、[1]戰車待つ處來りて陣を整へる、
恐怖に滿ちて蒼然と面色かへて立てる時、
黄金の座のヘーレーのかたへ、イデーの峯の上、
目を覺したるクロニオーン、立ちて二軍の樣を見る、
トロイア軍は破られて逃れ、其あと逐ひせむる
アカイア勢をポセード,ン勵し進め、こなたには
地上に伏せるヘクトール、其友僚に圍まれて
呻吟の聲たえ/\゛に氣を失ひて血を吐けり、
彼を打てるはアカイアの衆中弱き者ならず。
彼を眺めて人天の父クロニオーン憐みつ、
目を怒らしてヘーレーに向ひ即ち宣し曰ふ、

[1]トロイア軍は先に塹濠の前に戰車を殘して進み來れり(十二歌八一以下)。

『ヘーレー、汝、狡獪の策を弄して勇猛の
將ヘクト,ルを退けて、トロイア軍を敗れしむ。
憎き汝の奸計の報の果はいやさきに
汝に來すと誰かいふ、われは汝を鞭うたむ、
思ひ出でずや、[2]高きより吊られし汝兩脚に
金砧(かなとこ)垂れて、黄金の堅き鎖は汝の手、
解くべからずに縛りしを、其時汝雲中に
懸りて諸神これが爲めウーリュンポスに悲みき、
近寄り汝救ふべく彼のらの力 (あだ)なりき。
わが手の攫み取らんもの天より遠く地の上に
[3]投げ落されて氣は絶えん。されども依然わが心、
[4]ヘーラクレースめで思ひ悲む苦惱解けざりき。
かの時汝、風の神ボレエースより助力得て、
嵐を起し、奸計を工みて荒るる海の上、
わが子を放ちコオースの戸口豐かの地にやりぬ、
我はそこより救ひ出し、牧馬に富めるアルゴスの
郷に再び辛勞を盡せる後に齎らせり。
汝このこと思ひ出で奸計またとたくらむな、
狎戯並に閨房のたくみ汝を救ひ得じ、
諸神はなれて閨房に汝は我を欺けり。』

[2]かかる刑罰當時に行はれき、『オヂュッセーア』二十二歌一七三に牧人メランチユースかく苦めらる。
[3]一歌五九〇。
[4]十四歌二五三以下。

しか宣すれば牛王の目のヘーレーはおののきつ、
即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、
『ああわが爲に證者(あかし)たれ、大地並に宏大の
上天並に地に底の流スチュクス——神明に
とりて最も恐るべき、又おほいなる盟の語——
又神聖の君の頭、またわれ/\の合歡の
閨房——之に僞りの盟は掛けず——證者たれ、
大地を震ふポセード,ン、わが命により、トロイアの
軍勢並にヘクト,ルを害せしならず、其敵を
助けしならず。恐らくは自ら進み斯くなせり、
船のかたへに惱みたるアカイア勢をあはれみて。
さもあれ我は忠言を彼に致して、雷雲を
集むる君の命のまゝ其道行くを勸むべし。』

しか陳ずれば人父の天なる神はほゝゑみつ、
即ち飛揚の言句もて彼に向ひて宣し曰ふ、
『汝、牛王の目を持てるヘーレー、此後群神の
席に臨みて心相をわれと同じうするとせば、
かのポセード,ン、其願いかほど我に反するも、
直ちに念を飜へし、われに汝に從はむ。
汝誠に僞らず正しく所念述ぶとせば、
[1]今群神の集の中に訪ひ行き、イーリスを、
また銀弓のアポローンを、呼びてこなたに來らせよ。
青銅鎧ふアカイアの陣にイーリス使して、
大地を震ふ海の王ポセードーンにまのあたり、
戰やめて其家に歸らんことを命ずべし
しかしてポイボス・アポローン、彼はヘクト,ル促して、
また戰場に進ましめ、勇氣を彼に吹き込みて、
今其心惱ませる苦痛を忘れ去らしめん。
かくしてアカイア勢に未練の恐怖起さしめ、
再び之を破るべし、敵は逃れてなだれ落ち、
ペーレーデース・アキリュウス領する船に退かむ、
パートロクロス、彼の友かくて出づべし、然れども
サルペードーン、わが愛兒及び諸勇士うてる後、
イリオン前にヘクト,ルに打たれん、ついでアキリュウス、
仇を報いて光榮の將ヘクトール殺すべし。
その時以來舟師より、わが意によりてトロイアの
軍の退却ひき續き、遂にアカイア軍勢は、
[2]アテーネーの助より、堅城トロイア亡さむ。
されど其時到る迄我は恐を續きべく、
ダナオイ族に他の神の救援絶えて許すまじ、
やがてペーリュウス生める子の念願成らむ、初め我れ
約して頭うなだれて諾せし如し、[3]かの時に
都城を破る剛勇のアキルリュウスを(はや)すべく、
神母テチスはわが膝にすがり情願切なりき。』
しか宣すれば腕白き神女ヘーレーかしこみて、
ウーリュンポスの頂さしてイデーの山を出づ。
譬へば諸國經廻りて、其胸中に「彼の郷に
あらまほし」など又其他、更に多くの情願を
抱ける人の想念の、自由に迅く飛ぶ如く、
かく迅速に端嚴のヘーレー其歩をまゐるに近く寄り來る、
來るを眺め群神は盃取りて相迎ふ。
されどヘーレー顧みず、ひとり[4]テミスの手よりして
盃とりぬ、紅頬の若き神女はいやさきに、
立ちて向ひて翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、

[1]五四 -- 七七 ヂュウスの言によりて戰局の未來を述ぶ。
[2]木馬の計略によりてトロイアを亡す(オヂュッセーアの四歌二七二等)。
[3]一歌五〇〇以下。
[4]ヂュースに使ふる神女の一。

『何らの故の來臨ぞ?ヘーレー、御心病むと見ゆ。
クロニーオーン、君の(つま)、君を恐らく脅せしか?』

玉腕白き端嚴のヘーレー答へて彼に曰ふ、
『神女テミスよ、其事をことさら我に曰ふ勿れ、
彼の心の驕傲を又剛愎を汝知る、
今堂上に群神に宴を初めよ、クロニオーン
何等不祥の行を宣し述ぶるや、不滅なる、
集る諸神もろともに汝親しく學び得む、
こを聞きながら宴席を樂み好む者あらば、
人天中の何者も之を喜ぶこと無けむ。』

しかく陳じて端嚴のヘーレーおのが座につけば、
クロニオーンの宮中に諸神ひとしく悲めり。
其紅唇は微笑めど神女の黒き眉の上、
額は晴れず憤然と衆に向ひて陳じ曰ふ、
『ヂュウスに對し思慮淺く怒るわれらは愚かなり、
言葉或は力もて迫りて彼の爲すところ、
妨碍するは愚かなり、見よ見よ彼は遠ざかり、
絶えてわれらを顧みず、神明すべての中にして
威力と勇氣明かにおのれ無上と誇らへり、
いかなる禍難下すともおのおの之を耐へ忍べ。
思ふに今しアレースに彼は災加へたり、
見よ戰場にアレースの、威力はげしきアレースの、
最愛の子と呼べるもの[5]アスカラポスは斃れたり。』

[5]十三歌五一九。

その時アレース平手もて、其たくましき双の股
はげしく打ちて、愁嘆の聲を放ちて衆にいふ、
『ウーリュンポスに住める友、われを咎むること勿れ、
愛兒の仇を報ふべくアカイア水師襲ひ討ち、
ヂュウスの雷火身を碎き、血と塵埃にまみれたる
戰死の群に加はるるは、われの運命ならんとも。』

しかく陳じて[1]「逃走」と「恐怖」に命じ戰の
裝ひ馬に備へしめ、身に燦爛の鎧着る。
やがて未曾有のおほいなる憤怒瞋恚恐るべく、
クロニオーンの手よりして諸神の上に落ちんとす、
されど藍光の(まみ)光るアテーナイエー、群神の
惱を患ひ座より起ち、堂の戸口を過ぎ行きて、
アレース神の頭より肩より盾と兜とを、
又青銅の大槍を其剛強の手より取り、
荒るるアレース誡めて叱りて彼の陳じ曰ふ、

[1]ダイモスとポボス、人化して曰ふ。四歌四四〇。

『狂へる汝、分別を失ひ、我を忘るるや?
聞くべき耳を持たざるや?恥と知慮とを棄てたるや?
クロニーオーン・ヂュウスより只今歸り來りたる
玉腕白きヘーレーの言を汝聞かざるや?
汝多くの災難をうけたる後にやむを得ず、
悲み乍ら歸り來て、ウーリュンポスの此 (には)に、
われらすべての神明に禍難蒙らしめんとや?
見よ、クロニオーン、トロイアとアカイア棄てて速に、
ウーリュンポスに神々を痛く騒がせ惱まして、
罪あるものも罪なきも皆順々に懲すべし。
されば汝に我勸む、子ゆゑの怒打ち棄てよ、
腕に威力の汝の子、凌げるものも殺されぬ、
後にもやがて殺されん、汝よろしく思ひ見よ、
[2]あらゆる人の子らを皆守るは易き事ならず。』

[2]神より出づる人の子を救ふは神の所爲(十六歌四三三以下)、されど神も亦運命に因りて決定せる死をば救ふこと能はず(八歌六九以下)。

しかく陳じて荒れ狂ふアレース席にもどらしむ。
ヘーレーやがてアポロ,ンを堂の中より呼び出し、
又神明の使たるイーリス共に呼び出し、
飛揚の羽ある言句もて之に向ひて陳じ曰ふ、
『汝二神にクロニオーン、能くする限り迅速に
イデーに來よと命下す。行きてまともに逢はん時、
彼が汝に令すべき其一切を怠りそ。』

宣し了りて端嚴のヘーレー歸り、おのが座に
着けば二神は立ち上り、急ぎて路を進み行く。
泉豐かに猛獣の宿るイデーに彼ら來て、
雷音高きクロニオーン、ガルガロンの頂に
坐せるを眺む、香雲は彼を廻りてたなびけり。
二神即ち雷雲をよするヂュウスの目のあたり、
立てば眺めてクロニオーン、天妃くだせい命令を
彼ら直ちにききたれば、心に深く喜べり。
即ち先きにイーリスに向ひ言句を宣しいふ、
『迅きイーリス、とく走り、ポセードーンに一切の
使命傳へよ、聊かも誤り述ぶること勿れ。
戰鬪攻伐打棄てて、去りて諸神の集りに
合せよ、あるは洋々の波浪の中に行けといへ、
彼もし我に從はず、命を侮ることあらば、
よろしく彼の胸中に思はしむべし、いかばかり
強くもわれの攻撃を凌ぎて耐ゆること難し、
我は宣せん、我が威力彼に優りて更に又、
長子と我の生れしを、然るを彼は衆神の
恐るる我に劣らずと胸裏に曰ふを憚らず。』

しか宣すれば疾風の脚のイーリス命をきき、
イデーを降り神聖のイリオンさして急ぎ行く。
譬へば雪と雹霰と雲より出でて、玲瓏の
空より()れし北風の呼吸に驅られ飛ぶ如く、
しかくイーリス迅速に勇みて驅せて進み來つ、
近くに寄りて地を震ふポセードーンに向ひ曰ふ、

『ああ大地を抱くもの、汝、鬢毛黒き神、
アイギス持てるヂュウスより、我は使命を持ち來る。
戰鬪攻伐打ち棄てて、去りて諸神の集りに
合せよ、あるは洋々の波浪に入れと彼の命。
彼の言に從はず之を侮ることあらば、
彼は自らこゝに來て汝を敵に猛烈の
戰なさむ、しかも彼れ汝に之を避くべしと
警む、彼は其威力汝に勝つと宣し曰ひ、
しかも長子の權誇る、然るを汝衆神の
恐るる彼に劣らずと胸裏に曰ふを憚らず。』

その時大を震ふ神、大に怒り彼に曰ふ、
『無慙なるかな強くとも彼の高言甚だし、
位は彼に劣らざる我を威力に()さんとや?
クロノス、レーア父母としてわれら同胞の神三位、
ヂュウスと我と地の底の冥府の司ハイデース。
一切三つに分たれて各々おのが領得たり。
籤を引く時とこしへの居住となして漫々の
海をわれ得つ、暗黒の領を得たるはハイデース、
ヂュウスは高く雲上に廣き天界受け得たり。
されどすべてに倶なるは大地と高きオリュンポス。
かくある故にヂュウスの意われは奉ずることをせず、
彼いかばかり強くとも第三領に甘んぜよ。
さながら我を怯として手をあげおどすこと勿れ。
彼の子息ら息女らを暴びの言におどすこと、
彼のとりては優ならむ、彼の生みたるものなれば、
彼の命ずる一切に止むなく彼ら從はむ。』

その時疾風の脚早きイーリス答へて彼にいふ、
『ああ大地を抱くもの、汝鬢毛黒き神、
此不屈なる粗暴なる言をヂュウスに述べよとや?
或は改め變ぜんか?智者の心は改まる、
汝知れりや[1]、エリニュエス常に長子に伴ふを。』

[1]特に家庭の神聖を守りて秩序を保つ者、不正に對し復讐する者。(九歌四五四 -- 四五七)

大地を震ふポセード,ン答へて即ち彼に曰ふ、
『神女イーリス、今汝述べたる言句正しかり、
使たる者適當の言を述ぶるはげにいみじ、
されど等しき分を持ち同じき命をうくる者、
之を瞋恚の言句もて叱り罵る者あらば、
われの心と魂に苦き惱は襲ひ來む。
さもあれ今は憤悶を抑へてわれは譲るべし、
但し一事を今述べて之を威嚇の言とせむ、
戰利を分つアテーネー、天妃ヘーレー、ヘルメース、
ヘーパイストス及び我れ——其一切を侮りて、
イリオン城の要害を彼もし許し破壞せず、
アカイア軍に莫大の力假すこと無かりせば、
知るべし彼と我の(あひ)不盡の怒燃え出でん。』

しかく宣して大地ゆる神はアカイア軍勢を
去り海浪に沈み去る、アカイア軍勢みな嘆く。

雷雲寄するクロニオーン、その時アポローン呼びて曰ふ、
『ゆけやポイボスわが愛兒、青銅鎧ふヘクト,ルに。
大地を抱き又震ふポセードーンは今しがた、
われの激しき憤怒避け、波浪の中に退けり。
さもなかりせば、クロノスと共に地底の暗に住む
他のもろ/\の神明は、わが戰を開きつらむ。
彼この事の起る前、怒り乍らもわが腕に
()せしはよろし、彼の爲又わが爲にともによし、
故はこの事ありとせば苦鬪の汗は流されむ。
さあれ汝は總飾るアイギスとりて進み行き、
之を激しく打ふりてアカイア軍をおびやかせ。
飛箭の汝、光榮の將ヘクトール善く守り、
偉なる力を彼に假せ、水師とヘルレースポントス
さして逃れて、アカイアの軍勢そこに到る迄。
(のち)所爲と言句とをわれ計らはん、其 (はて)
再びアカイア軍勢は辛勞終へて休らはむ。』

しか宣すればアポローン、父の命令かしこみて、
羽禽の中にいと(はや)き翼をもてる若鷹の
鳩逐ふ如く速かに、イデーの丘を翔け下る。
下りて見ればヘクトール・プリアミデース座につきて、
また原上に身を伏さず、生氣囘りて傍に
其僚友を認め得つ、呻吟、流汗すでにやむ、
アイギスもてるクロニオーン計りて生に囘らしむ。
其時飛箭のアポローンかたへによりて宣し曰ふ、
『プリアミデース・ヘクトール、など衆人と相離れ、
弱りてこゝに留るや?何らの禍難來れるや?』
堅甲振ふヘクトール呼吸弱りて彼にいふ、
『神明の中すぐれたる君、誰なればしか問へる?
君は知らずや?アカイアの船のかたへにアイアース、
大石なげてわが胸を、われ其友を屠る時、
はげしく撃ちて、奪鬪[誤?:奮鬪]のわれの力を留めたり。
我は思ひき、けふ此日わが生命を吐き去りて、
死人の群を、アイデ,スの領を親しく見るべしと。』

飛箭鋭きアポローン、その時再び彼にいふ、
『勇め、今こそ、クロニオーン汝に添ひて助くべく、
イデーの峯の高きより、[2]黄金の(けん)身に()ぶる
われアポローンは遣はせり。われは先にも汝が身
守り救へり、イーリオン汝の堅き城ともに。
いざ起て、奮へ、兵車驅る多くの御者を勵まして、
敵の軍船まつかうに足 ()き軍馬駈けしめよ、
我れ先頭に進み行き、兵車のために路開き、
アカイア軍の諸勇士を討ちて敗走なさしめむ。』

[2]五歌五〇八。

しかく宣して勇將に偉大の力吹きこみぬ。
かくて[3]譬へば厩中に食を飽くまで喰み了へる
駿馬たづなをふりほどき、平野の上を驅け走り、
清く流るゝ川流に其身をひたし、揚々と
勇みて頭高く上げ、肩に鬣颯爽と
靡かせ流し、壯麗のおのが姿にほこらひつ、
牝馬のむるる牧場に勢猛く馳する(ごと)
斯くアポローンの聲ききて勢猛くヘクトール、
膝と脚とを早めつゝ御者を勵まし進ましむ。
譬へば角の(たくま)しき鹿を或は山羊(やぎ)を追ひ、
獵犬の群、獵人の群、一齊に進む時、
娥々たる巌、繁る森、牲を救ひて隱れしめ、
之を探りて見出すこと遂に彼等の運ならず、
囂々として叫びあふ、其眼前に金毛の
獅子現はれて、勇みたる一群攘ひ退()くるごと、
アカイア軍勢一團となりて利劍を、兩刄(もろは)ある
槍を揮ひつ敵軍を追ひつつ進む眼前に、
プリアミデース・ヘクトール其陣中にあるを見つ、
恐怖に滿ちて脚の下勇氣全く沈みさる。

[3]六歌五〇六以下。

アンドライモーン生める息アイトーロスの族の中、
槍を飛ばすに秀でたる、又接戰にすぐれたる、——
討議の席にわかき子ら競へる時にアカイアの
會中尤もすぐれたる——トアス其時衆の前、
立ちて慇懃の思こめ、口を開きて陳じ曰ふ、

『無慙なるかな(おほい)なる驚異ぞわれの眼に映る、
あゝ彼再び起ち上る、死の運命を免れたる
彼ヘクトール。わが軍のおの/\心望みしは、
テラモニデース・アイア※スの手により彼の亡べるを。
今神明のとある者再び救ひ(たす)けたる、
かれヘクトール、これ迄にアカイア軍を惱ませり、
思ふに再び斯くなさむ、轟音高きクロニオーン、
助くることのなかりせば斯く先頭に勇むまじ。
さはれ今我れ曰ふ如く汝ら聽きて命守れ、
われ衆勢に命下し水師をさして去らしめむ、
されど陣中剛勇と稱するものは立ちとまれ、
かくて眞先にまのあたり、槍を揮うてヘクト,ルを
攻めて退却なさしめん、よしいかばかり勇むとも
彼は心にアカイアの軍を犯すを憚らむ。』

しか陳ずれば衆人はかしこみ聞きて從へり。
かくアイア,スの(かたはら)に、イドメニュウスの傍に、
メーリオネース、チュウクロス、アレースに似るメゲースの
傍にある人々は勇士に呼びて陣勢を
張りて、トロイア軍勢とヘクトールとを待ち抑へ、
他の衆勢はアカイアの水陣さして退けり。

そのときトロイア軍勢は密集なして寄せ來る、
導く者はヘクトール、堂々として大跨(おほまた)ぎ、
更に先んじアポローン・ポィボス雲に肩包み、
總ある盾の燦爛を手にす、それはた神工の
ヘーパイストス、敵敗るヂュウスのために造るもの、
こを携へてアポローン衆の眞先きに進み行く。

こなたアカイア軍勢も密集なして相迎ふ、
喊聲二陣に相起り、矢は弦上を放て飛び、
剛勇の手に投げられし槍のあるもの、戰鬪に
勇む壯士の身を穿ち、更に多くは肉體に
觸るる其前 (みち)に落ち、肉に飽かんとあせれども、
其效あらず、いたづらに大地の中に突きささる。
神ポイボス・アポローン盾動かさず保つ()は、
彼此二軍の羽ある武器互に壯士斃れしむ。
されど眞ともにアカイアの軍勢睨め大音に、
叫びて盾を揮ふとき、彼らの心胸中に
恐れて震ひ慓きてその勇猛の意氣忘る。
譬へば牛の一群を、あるは羊の群集を、
其牧人のあらぬ時、黒夜の暗に突然と、
猛獣二頭襲ひ來て、騒がし(ちら)し逐ふ如く、
かく紛々とアカイアの軍勢勇を喪ひて、
走る、アポローン恐惶をかれらに起し、トロイアの
軍に、勇將ヘクト,ルに勝利の譽れ與へたり。

かくて兩軍亂れ合ひ、兩軍互に相殺す、
ヘクトール手に倒せしは、アルケシラオス、スチキオス、
一は青銅の鎧着るボイオーチアの族の長、
一は武勇にすぐれたるメネスチュウスのめづる友。
メドーン並にイアソスをアイナイアース討ち倒す。
[1]メドーンは勇士オイリュウスうみなせる庶子、アイアスの
弟、——父の娶りたるおのが繼母の旅人を、
エリオーピスの族人を——殺せし故に故郷より、
離れて遠くピュラケーの郷に移りて住める者、
またイアソスは將としてブーコリデース・スペーロス
生める子息と呼ばはれてアテーナイ族率ゐたり。
プーリダマスの倒せしはメーキステース、エキオスを
討ち取る者はポリテース、アゲーノールはクロニオス、
パリスは打てり、デーイオコス、先鋒中に逃げ行くを
肩の根射れば青銅の鏃は彼を貫けり。

[1]三三三 -- 三三六は十三歌六九四 -- 六九七と同じ内容。

斯くして彼ら屍體より武具を剥ぎとる、——かなたには
アカイア軍勢逃げ走り、塹濠及び塞柵に
身を投じつつ、迫られて其壘壁に退けば、
大音あげてヘクトール、トロイア勢に叫び曰ふ、

『急げ汝ら船さして、捨てよ血染のものの具を、
船より離れ遠ざかり立つものあるを認め得な、
その場に彼の誅滅をわれ計らはん、其者に
其親戚の男女らは火葬の禮を致すまじ、
イリオン城の前にして群犬彼の肉喰まむ。』

しかく陳じて腕揮ひ、長鞭馬を驅り立てて、
トロイア勢を陣中に呼び勵ませば、一齊に
等しく叫び、戰馬驅り戰車進めて囂々の
騒を起す、其先に進むポイボス・アポローン、
堅脚あげて塹濠の堤容易く踏み破り、
()を水中に投げ入れて廣き道路を造り上ぐ、
壯士力を試すため腕を揮うて投ぐる槍、
空を飛び行き地に落つる距離と等しく長き道、
其道過ぎて密集の隊伍進めばアポローン、
眞先に立ちて燦爛の盾をかざしてアカイアの
城壁易く打崩す。譬へば海の岸の上、
嬉々と戯る少年の其玩弄に、沙山を
造りて後に堆積を手にて脚にも崩すごと、
[1]かく銀弓のアポローン、神はアカイア軍勢の
努力の效果打ち碎き、之をおどして走らしむ。
斯くして船の傍に來り留まるアカイオイ、
互に呼びて勵まして、各々高く双の手を
延ばし、すべての神明に其救援を祈願する、
其中特にアカイアの守りゲレーニャ・ネストール、
星張りつむる天上に其手をあげて祈り曰ふ、

[1]原文、こゝに二人稱を用ゐ、『……アポローンよ君は……』。

『ああわが天父クロニオーン、聲を産するアルゴスの
あるもの君に牛羊(ぎうよう)の肥えたる股を焼き捧げ、
歸郷の祈り念ぜしを、君うなづきて納受せる——
そを今 (おぼ)し、災難を、ウーリュンポスに住める君、
攘ひ、トロイア軍勢の手よりわれらを救護せよ。』
ネーレーイアデ,ス老將の祈りてしかく陳ずるを、
クロニーオーン納受して殷雷[2]遠く轟かす。

[2]雷は時には凶兆 時には善兆(八歌一三三參照)。

アイギス持てるクロニオーン鳴らす轟雷耳にして、
トロイア軍はなほ強くアカイア軍に攻めかかる。
渺々としてはてしなき海上さして高きより、
颶風はげしく吹きおろし、銀浪怒濤かりたてて、
漂ふ舟の甲板を襲ひて之を涵す如、
トロイア軍は大音をあげて壘壁をどり越し、
中に戰車を驅り入れて兩刄の槍を繰り出し、
短兵急に敵艦の船首に近く戰へば、
アカイア勢は黒船の船上高く攀ぢ上り、
甲板上に、水戰のために備へて青銅を
先につけたる長き矛とりて奮ひて戰へり。

是より先に船離れ、トロイア、アカイア二軍勢
壁のほとりに戰へる其間にかなた親しめる
ユウリュピロスの陣の中、パトロクロスは座を占めて、
言句を以て慰めつ、彼のうけたる疵の上、
[3]つらき苦惱を救ふべく良藥塗りてかしづけり。
されど今はた壘壁を上るトロイア軍勢と、
叫喚揚げて逃げ去るアカイア軍を見たる時、
思はず起る呻吟の聲もろともに平手もて、
双の股打ち愁然と友に向ひて陳じ曰ふ、

[3]十一歌八四六。

『ユウリュピロスよ、要あれど我は汝の傍に
今は留ること難し、見よや大事の迫れるを、
從者、汝をいたばらむ、我はただちに急ぎ行き、
ペーレーデース・アキリュウス訪ひて戰勵むべし、
天佑あらばわが諫、彼の心をおこすこと
なしと誰かは斷ずべき?汝の諫は力あり。』

しかく陳じて其脚に任せて彼は進み行く。
かなたアカイア軍勢はトロイア勢を防げども、
數は劣れる敵軍を舟より攘ふことを得ず、
トロイア勢もアカイアの陣を破りて陣營を
水師の中に攻め入るを能くせず、[1]之を譬ふれば、
藍光の()のアテーネー教ゆる故に一切の
道に巧みの工匠の、其手用ふる準繩は、
船作るべき木材を正に二つ分つごと、
二軍の(あひ)は勝敗の運は正しく相等し、
かくて攻防相續き水師のほとり戰へり。

[1]同樣の譬喩は、十二歌四三三。

中にほまれのアイア,スに向ひ來るはヘクトール、
同じ一つの舟のそば二將爭ひ、一方は
敵を攘ひて兵燹に舟を焼打するを得ず、
他も亦敵に神明の救ある故追ふを得ず。
やがてほまれのアイアース、舟をめがけて松火(たいまつ)
投ぜんとするカレート,ル——[2]クリュチオスの子に槍を、
飛ばして胸を貫けば、松火落し地に倒る、
舟をまともに塵の中、從兄弟の倒るるを、
悼める(まみ)に眺めやる將、光榮のヘクトール、
大音あげてトロイアとリュキエー軍に叫び曰ふ、
『接戰猛きトローエスダルダノイ又リュキエーの
汝ら、これこの急迫の時に逃げ去ること勿れ、
汝ら救へ、斃れたるカレートールを、敵の船
群がる前に斃れたる其武具敵は剥がんとす。』

[2]プリアモスの弟。(三歌一四七)。

しかく陳じて燦爛の槍をアイア,スめがけ打つ、
覘違へり、然れどもマストールの子リュコプローン、
[3]キュテーラよりの彼の臣、(キュテーラの地にある人を
殺し、主公の許住みし)彼れアイア,スの傍に
立てるを、打ちてヘクトール其青銅の利き槍に、
耳の()、頭つらぬけば船首を落ちて仰向きに、
大地の上に塵の中、倒れて四肢は緩みたり。
之を眺めてアイアース戰慄しつつ弟に向きて即ち陳じいふ、

[3]ラコニアの南岸に近き島。

『ああチュウクロス、われ/\の親しき侶は斃れたり、
マストリデース、斃れたり、キュテーラよりし訪ひ來り、
われらと共に住める時、親の如くにめでし彼れ、
彼を英武のヘクトール殺せり、いづこ汝の矢?
はたポイボス・アポローン與へし汝の弓いづこ?』
しか陳ずれば諾ひて走り來りてそばに立ち、
張りし勁弓蓄ふる
胡簶(やなぐひ)そばに、速かにトロイア勢をめがけ射る。
而して射たりクレートス、——ペーセーノール生める子を、
パントーオスの勇武の子、プーリダマスは彼の友、
射られし前にクレートス手綱をとりて其戰車、
驅りて最も戰鬪のはげしきほとり馳せ向ひ、
ヘクト,ル及び衆軍の意を滿たしめき、然れども
災到り、救援を念ずるものも防ぎ得ず、
見よ彼れ首に慘毒の飛箭を受けて兵車より、
身を飄へし倒るれば馬は主なき車引き、
迷ひ驅くるを速かにプーリダマスは認め得て、
まさきに來り引き留めて、プロチアオ,ンの生める息、
[4]アスチュノオスに引き渡し、嚴しく命じ目を留めて、
之をおのれの傍近く隨はしめつ、自らは
脚を返して先鋒の勇士の中に混じ入る。
チュウクロス今第二の矢、青銅鎧ふヘクト,ルを
覘へり。勇む敵將を射りて生命奪ひ得ば、
船の(かたへ)の奮鬪をとこしへ彼に絶たしめむ。
されどもヂュウス聰明の思慮は忘れず、ヘクト,ルを
防ぎ守りてテラモ,ンの子の功名を奪ひ去る。
見よチュウクロス精巧の弓を張る時、クロニオ,ン
其絃ふつと斷ち截りて鏃鋭き勁箭は、
それてけし飛び手中より剛弓落ちぬ、斯くと見て、
戰慄しつつチュウクロス、兄に向ひて陳じ曰ふ、

[4]同名の別人ヂオメーデースに殺さる。(五歌一四四)。

『無慙なるかな、とある神わが戰爭の謀らひを
皆打ち碎き、剛弓を我の腕より奪ひ去り、
新たに縒りし[5]弦斷ちぬ、今日朝早く心して
絶えず勁箭射飛ばすに耐ゆべく強く張りしもの。』

[5]筋肉他。

その時テラモーン生める息、大アイアース答へ曰ふ、
『ああわが弟、アカイアの軍に惡意を抱く神、
汝の弓と箭をくじく、弓箭さらば打棄てよ、
長槍汝の手にとりて盾を汝の肩にとれ、
トロイア軍と戰ひて他の衆兵を起たしめよ、
敵軍われを制するもわが備ある戰艦を
彼あに易く奪はむや!いざ戰鬪の念奮へ。』

しか陳ずればチュウクロス、弓箭陣の中に捨て、
肩のめぐりにおほいなる[1]四重の盾を打ちかざし、
駿馬の髪を飾りたる兜を彼のおほいなる
頭の上にいただけば冠毛凛と打ち振ふ。
かくして彼は青銅の穂先するどき長槍を
手にす、急ぎて速に兄のかたへに來り立つ。
かなたに勇むヘクトール、敵の弓箭效なきを
見て、トロイアとリュキエーの二軍に大音あげて曰ふ、
『接戰猛きトローエス又ダルダノイ、リュキエーク、
わが友僚よあゝ奮へ、勇み進んで中廣き
敵の戰船襲ひ打て、わが目親しく今見たり、
ある敵將の弓と矢をクロニオーンの挫きしを。
ヂュウス勝利の光榮を與ふるところ、勇士らの
冥議誠に明らけし、同じく神の冥護なく、
挫かるる者亦しるし、見よ今ヂュウス、アルゴスの
軍勢痛く弱らしめ、我に應護を加ふるを。
いざ密集の隊なして敵の兵船おそひ打て、
刀槍或は箭に打たれ死の運命に逢はんもの、
[2]甘んじ死せよ、國のため死するは何の光榮ぞ!
あとに殘れる恩愛の彼の妻子と其家と、
其所領土は一齊に害受くること絶えてなし、
敵の軍勢舟に乘り故郷をさして去らん時。』

[1]革四枚を重ねたる。
[2]同樣の奬勵十二歌二四二。

しかく陳じて各々の意氣と勇とを勵ましむ。
かなた同じくアイアースその友僚に叫び曰ふ、
『アカイア勢よ、恥を知れ、道は明か、討死か、
(ある)はおのれの救援と舟より敵の驅逐のみ。
堅甲震ふヘクトールわれらの舟を奪ふとき、
汝ら徒歩に其國に歸り得べしと期し得るや?
舟を焼くべく雄叫びて、其軍勢を高らかに
かれヘクトール勵ますを汝等耳に聞かざるや?
舞踊に非ず戰場に、彼は將士を勵ませり。
われにとりては、猛烈の腕を振ひて接戰に
進むべきのみ、この外に優る方なし計なし。
かく空しくも舟のそば、劣れる敵に襲はれて、
長く苦戰と亂鬪に陷いるよりは、一時(ひととき)
死か生存か運命を決せんことぞ優るべき。』

しかく陳じて各々の意氣と勇とを勵ましむ。
ペリメーデース生む處ポーケース族率ゐたる
[3]スケヂオス今ヘクト,ルに打たる、されどもアイアース、
歩兵率ゐるラオダマス、アンテーノ,ルの子を倒す。
キュルレーネーのオートスを、將ピュリュウスの子の友[4]を、
エペーオイ勢率ゐるをプーリダマスは打倒す。
之れを認めしメゲースは近寄り來り襲ひしも、
プーリダマスは身をかはし遁れぬ、故はアポローン、
パントーオスの生める子を先鋒中に死なしめず。
さはれメゲースその槍にクロイスモスの胸突きて、
どうと地上に倒れしめ、其武具より剥ぎかかる。
剥ぐメゲースを今襲ふ槍にすぐれし[5]ドロプスは、
猛勇もとも甚だし。ラーオメドーンの孫にして、
父はラムポス、衆中に勇武のほまれ高きもの。
ピュレーデース・メゲースの盾の眞中を鋭槍に
近寄り彼は貫けど堅き胸甲身を救ふ。
身に着け馴るる金屬の堅き胸甲そのむかし、
セルレーエ,スの岸の上、[6]エピュレーよりし父は得ぬ、
ユウペーテース、其土地の君主は彼を客として、
戰鬪中に強敵を禦ぐ守に與へたる、
此武具今や彼れの子の身より破滅を外らしめぬ。
ついでメゲース鋭利なる槍繰り出し、敵將の
冠毛ゆらぐ青銅の(かぶと)の高き穹窿を
突きて、そこより冠毛を拂ひ落せば、新らしく
眞紅の色に染め上げし飾は塵にまみれ去る。
かくして敵と戰ひて勝利の望抱くとき、
彼に救を與ふべく來る勇武のメネラオス、
槍を手にしてひそやかに(かたへ)に立ちてうしろより、
敵の肩射る。猛然と投げ飛ばしたる其槍に
胸を無慚に貫かれ倒れ地上にうつぶしの、
敵に二將は迫り來て、肩より彼の青銅の
武具を剥ぎ取る。ヘクトールかなたすべての同族に、
殊にまさきにメラニポス——[7]ヒケタオーンの勇猛の
子を呼び叱る。これ迄にペルコーテーの郷にして、
敵來ぬ中は蹣跚の牛群彼はやしなへり。
されどアカイア軍勢の船に乘じて來る時、
イリオン城に歸り來てトロイア勢の中秀いづ。
プリアモス王其舘にやどりし子のごとあしらへり。
彼を叱りてヘクトール、(はね)ある言句陳じいふ、

[3]同名の別人は十七歌三〇六にあり。
[4]メゲース。
[5]十一歌三〇二は別人。
[6]二歌六六〇。
[7]プリアモスの弟三歌一四八。

『ああ思ひ見よ、メラニポス、かかる怠慢よからんや!
汝の心斃れたる同族を見て痛まずや?
見ざるや?敵はドロプスの武裝剥がんとつとむるを、
いざ立て、もはや遠くよりアカイア勢と相打たじ、
やがて彼らを殺すべし、或は彼ら嶮要の
イリオン城を覆し其城民を亡ぼさむ。』

神に似る將しか陳じ先だつ後を彼は追ふ、
テラモニデース・アイアース、かなたアカイア軍勢を
警めていふ『[1]ああ勇士、心に恥を忘るる()
暴び爭ひ戰の中に互に相恥ぢよ、
恥ある者の助かるは死するに比して數多し、
逃げ去る者の間より勝も譽も起り得ず。』

[1]五歌五二九以下同様の言樣を以てメネラオス自方を勵す。

しか陳ずれば、自らも敵を防ぐに勇みたる
衆は其言胸にして、即ち青銅の垣をもて
船を守れり、クロニオーンこれにトロイア勢を向く。
アーンチロコスに其時に呼ぶ大音のメネラオス、
『アーンチロコスよ、アカイアの中に最もわかき者、
最も脚の速きもの、勇氣最も強きもの、
願はく進みトロイアのとある勇將打ち倒せ。』

しかく陳じて勵ましておのれはあとに引き返す、
曰はれし彼は先鋒の中より拔けて進み出で、
あたり見廻はし爛々の槍を投げつく、其前に
トロイア勢はあとしざる、槍は空しく飛ばざりき、
即ち猛きメラニポス——ヒケタオーンの生める子の
來るを撃ちて乳の(そば)、胸を無慚に貫けば、
どうと地上に打ち倒れ暗黒彼の目を蔽ふ。
巣を飛び出す若鹿を、覘ひ正しく狩人の
射りて四足を緩ましめ、地に倒すとき狩犬の
勢猛く跳びかかる、其樣見せてメラニポス、
汝の上に剛勇のアーンチロコスは飛びかかり、
汝の武具を剥がんとす。之を認めてヘクトール、
亂軍中を走り過ぎ、まともに彼に向ひ來る。
勇はあれども其おもにアーンチロコス向ひ得ず、
荒き野獸が牛群を()りする犬を牧人を
殺し、無慚に暴れ盡し、獵の一群寄せぬ間に、
すばやく遁るあとや斯く、アーンチロコス引き返す、
ネストリデース引き返す後を慕ひてヘクトール、
トロイア軍も一齊に喊聲高く槍飛ばす、
されど身方の陣に着き、むき直りつゝ立ちとまる。

こなたトロイア軍勢はさながら荒るる獅子のごと、
アカイア軍の船襲ひ[2]、ヂュウスの令を果さんず、
神はトロイア軍勢に盛に勇氣起さしめ、
アカイア軍を滅入らしめ其光榮を奪ひ去る。
プリアミデース・ヘク※トルにかくして神は光榮を
加へなんとす、斯くありて(へさき)とがりし船の上、
炎々として燃えさかる猛火をかけて、僭越の
[3]テチスの祈成らしめむ。知慮を廻らすクロニオ,ン、
燃え出す舟の猛焔を眺めんとして斯く待てり。
かくある後に舟よりのトロイア勢の退却を
命じ、新たにアカイアの軍に光榮與へんず。
かかる計慮にアカイアの船に向ひてクロニオ,ン、
すでに自ら勇みたるプリアミデース・ヘクト,ルを
驅れば、恰も槍揮ふアレース又は、深林を
炎々として焼き拂ふ猛火の如く暴れ狂ふ、
見よ口角に泡を噴き、双の(まなこ)は爛々と
其恐ろしき眉の下燃えて戰ふヘクト,ルの
頭甲(づかふ)を飾る冠毛は凄く額上打ち振ふ。
〔故は天よりクロニオーン自ら彼に助け貸し、
多勢の勇士ある中にただ彼ひとりヘクト,ルに
光譽あらしむ、故は又彼の生命永からず、
アキルリュウスに討たるべき其運命の禍つ日を、
すでにパルラス・アテーネー彼に向ひて急がしむ。〕
彼いま敵の軍隊の威勢最も盛なる、
武裝もつとも勝れたるものを求めて、猛然と
進めり、されど勇めども敵軍破ることを得ず、
隊列つくり屹然と敵は留る、譬ふれば、
鋭き風の迅速の道に當りてたぢろがず、
澎湃としておしよする波濤の怒ものとせず、
大海原の岸の上ますぐに立てる大岩か。
かくトロイアの襲撃に耐へて、アカイア軍勢は
逃げず、されどもヘクトール火焔の如く敵陣に
迫れば、アカイア軍勢は心恐怖に碎かれぬ、
譬へば暗雲低く垂れ、颶風起りて奔潮の
勢猛く襲ふ船、船は一面泡沫に
蔽はれ、風は咆吼の聲凄しくまつかうに、
白帆を打てば、生と死と只一髪の隔りの
水夫の群の一齊にをののき震ふ有樣か。
をののく軍をヘクトール襲ふ、恰も獰猛の
獅子王、沼に沿ふ牧に、無數の牛の草喰むを
襲ふが如し、牧人は可憐の群が猛獣の
餌食となるを救ひ得ず、ただ漫然と群の先、
群の最後に沿ひて行く、されども獅子は中央に
躍りかかりて忽ちに一頭の牛打ちころし、
貪り食ふ、これに恐ぢ群一齊に逃げ出す。
斯くヘクト,ルとヂュウスとに逐はれ、アカイア勢は逃ぐ。
されどヘクト,ル打取るはミケーネー人ただひとり、
ペリペーテース、(コプリュウス生みたる勇士、)其むかし
ユウリスチュウスの命によりヘーラクレース訪ひしもの。
父は劣れる質乍ら子は優良の材にして、
文武に秀いで、健脚に、又戰爭の術に長け、
智慮に於てもミケーネー族人中に秀でたる——
彼れ戰勝の光榮を今ヘクト,ルの手に譲る。
歩みをあとに返すとき脚まで屆く彼の楯、
槍の防禦にかつぐものペリペーテース誤りて
之に躓き仰むきに地に倒るれば、倒れたる
勇士の兜ものすごく、その顳顬(こめかみ)のほとり鳴る。
直ちに之をヘクトール、認め走りて近よりて、
槍もて敵の胸を突き其同僚の傍に
之を屠りぬ、同僚は哀悼いたく切なるも、
勇猛の將ヘクト,ルを恐るる故に救ひ得ず。

[2]上文二五四。
[3]一歌四〇八と五〇二。

かくして彼ら退きて水陣中にたてこもり、
其外端の船守る、されど敵軍逐ひ來れば、
アカイア勢はやむを得ず、其先頭の船棄てて、
一隊なして陣營のかたへに敵を待ちうけつ、
さすがに恥を知るが故、又敗滅の怖れより、
其陣中を散り去らず、絶えず互に呼び交はす。
[1]アカイア軍の守りたるゲレーニャ騎將ネストール、
特に將士のおのおのに父祖の名を呼び諫め曰ふ、

[1]六五九 -- 六七三は後世の添加へたること疑なし(リーフ)。

『ああわが友ら、男兒たれ、衆の目の前汝等の
心に恥を忘るるな、おのおの胸に思ひでよ、
其恩愛の妻を子を家産を更に双親を、
そのあるものは生けりとも、他のあるものは逝けりとも。
われは離れて遠ざかる彼らのために敢て乞ふ、
勇を奮ひて敵防げ、怯れて逃ぐること勿れ。』

しかく陳じて各々の意氣と威力を勵ませば、
藍光の眼のアテーネー衆の(まなこ)を蓋ひたる
不思議の雲霧拂ひさる、光明かくて燦然と、
兵船の上、戰場の上をひとしく照すとき、
彼らは見たり大音の將ヘクト,ルを其部下を、
部下のあるもの陣勢のあとに控へて戰はず、
あるもの船のかたはらに勇を奮ひて戰へり。

今剛勇のアイアース、他のアカイアの軍勢と
離れて陣をとる處、そこに殘るを喜ばず、
數艘の舟の甲板を、あなたこなたに大股に
歩み、金環繋ぎたる長さ二十二ペークスの
おほいなる戈——海戰に用ゐるものを手に握る。
[2]乘馬の術を巧妙になすもの、あまた駿足の
中より四頭選び取り、之を御しつゝ颯爽と、
平野を過ぎて、大いなる都城をさして驅けいだす、
その驅け過ぐる道の上、之を眺むる群衆の
男女ひとしく驚ける、彼は巧みに、過たず
馬より馬に飛び移り、飛びかへりつゝ驅けて行く。
正しく斯くもアイアース、船より船に大またぎ、
甲板上に乘り移り、舟と陣營救ふべく、
アカイア軍を勵まして物 (すさまじ)く呼び叫ぶ、
聲はひびけり天上に。かなたは敵のヘクトール、
青銅鎧ふトロイアの隊列中に留まらず、
流の岸に餌をあさる羽禽の群に——頸長き
白鳥あるは丹鶴に、雁鷺に——荒き金色の
鷲猛然と飛びかかり、襲ふすがたも斯くあらむ、
黒き船首(へさき)の船めがね、猛然としてヘクトール、
直ちに迫る、うしろより[1]其おほいなる手をあげて、
彼を進むるクロニオーン、衆軍ひとしく勵まさる。

[2]ホメーロスの時代に曲馬の藝ありしを見る。
[1]形容的と見るべし。

斯くて再び船のそば起る戰鬪ものすごし、
二軍互に向ふ時、彼らさながら倦怠と
疲勞を知らぬものに似て、さばかり暴く戰へり。
その戰鬪に當る時、彼等の念は斯くありき——
アカイア勢は思へらく、危難逃れず、亡ぶべし、
トロイア軍の各將士その胸中に望むらく、
アカイア軍の船を焚き、其勇將を討つべしと、
兩軍しかく念じつゝ互に向ひ陣を張る。

海上迅く走る船、[2]プロテシラオス乘せ來り、
トロイアの地につきしもの、されど故郷に勇將を
のせ歸さざる迅き船を、其艫をつかむヘクトール、
船を廻りてアカイアとトロイア勢と密接の
戰なして相うてり。もはや離れて戰はず、
羽箭並びに投槍の飛來を今は待ちも得ず、
二軍心を一にして近く互に相向ひ、
鋭利の[3]斧と手斧とを握り、或は長き劔、
あるは兩刄の槍とりて勢猛く戰へり。
黒く捲かれし(つか)持てる長劍利刄數多く、
奮ひ戰ふ勇士らの手より肩より落されて、
黒き大地に横はる、淋漓流るる血は(すご)く。
かなた勇めるヘクトール一たび船を占めし後、
(とも)の[4]飾を手にとりて放たず衆に叫び曰ふ、

[2]二歌六九八以下、彼は最も早く上陸せる故舟も最先端に曳き上げらる。
[3]十三歌六一三。
[4]艫の突出部——飾となす(九歌二四一)。

『持ち()よ、猛火!共に又喊聲擧げよ一齊に、
今クロニオーンわが軍に酬ひ勝利の日を與ふ。
神に背きてこゝに來て、わが長老の卑怯より、
災難われに與へたる船を取るべき日を與ふ。
わが長老は敵軍の船尾のかたへ戰鬪を
勵まんとするわれをとめ、又將卒を抑へたり。
見よ雷霆のクロニオーン、先にはわれを欺けど、
今はわが軍勵して自ら我に令下す。』

しか陳ずれば衆軍はいよ/\激しく敵襲ふ。
こなた英武のアイアース、さすが(こら)へず投槍に
いたく襲はれ、敗滅を覺悟し乍ら、[5]七尺の
高き舷橋わたり去り、舟の甲板退きぬ。
やがて勇將踏みとまり槍を揮ひていつ迄も、
船に猛火を掛けんずるトロイア勢を防ぎとめ、
ものすごき迄高らかの聲を放ちて叫びいふ、

[5]原語ヘプタポデーン。

『ああわが友ら、アカイアの勇士、アレース神の僕、
友ら奮つて男兒たれ、はげしき苦鬪心せよ。
曰ふや汝ら、背面に別の救の軍ありと?
或は破滅援ふべく更に堅固の壁ありと?
否、否、壁を廻らせる城市、われらを守るべく、
戰機新たに轉ずべき力あるもの(そば)に無し、
今わが立つは青銅を鎧ふトロイア軍の土地、
海只われの頼みなり、祖先の郷は道遠し、
救はわれの腕にあり、鈍き戰事の中ならず。』

しかく陳じて鋭利なる槍を揮ひて敵を討つ。
將ヘクト,ルの命により猛火を船に掛けんとし、
進み來れるトロイアの兵を英武のアイアース、
待ち受け長き槍のして防ぎてやまず、かくしつゝ、
船のかたへの接戰に敵の十二を傷けぬ。


更新日:2004/11/17

イーリアス : 第十六歌


第十六歌

パトロクロス戰況を報じ、アキリュウスの武裝を借りて進撃するを乞ふ、 アキリュウス之を諾し、部下を率ゐて進ましむ。兩軍の諸將の奮戰。 パトロクロス勇を鼓してトロイアの諸將を屠る。サルペードーン之を迎へて力戰し、 遂にパトロクロスの飛槍に射られて死す。彼の屍體を廻りて兩軍の爭。 神々はサルペードーンの屍體を救ひ、故郷リュキエーに送る。 パトロクロスなほ進んでトロイア城壁に迫る。神アポローン之を退く。 ヘクトール、神に鼓吹せられケブリオネースと共に進む。 パトロクロス石を投じてケブリオネースを斃す。トロイアの若き將軍ユウポルボス、 槍を飛ばしてパトロクロスに當て、更にヘクトール亦同じく槍を飛ばし、 急所を射て之を斃す。パトロクロスの臨終の言。 ヘクトール進んでオートメドーンを追ふ。

斯くて兩軍[1]漕座善き船をめぐりて戰へり。
パートロクロス今行きてアキルリュウスの許を訪ひ、
泫然として[2]涙埀る、譬へば暗き泉より、
(ほとばし)り出で嶮崖を降る濁流見る如し。
脚神速のアキルリュウス之を眺めて憐みつ、
即ち彼に打向ひ飛揚の羽ある言句曰ふ、
『パトロクロスよ、いかなれば泣涕さまではげしきや?
[3]幼き少女其母の跡を逐ひ行き、急げるを
妨げ袖を引きよめて其抱擁を乞ひ願ひ、
願ひ成る迄涕涙の目もて見上ぐる如くなる??
パトロクロスよ、汝いま悲哀の涙留らず。
ミルミドネスに、我がもとに齎す何の報告か?
あるはプチェー故郷より聞き得し何の消息か?
アクトールの産みたる子[4]メイノチオスは健在に、
アイアキデース・ペーリュウス同じく郷に活くといふ。
二人もし世を去るとせばわれらの悲哀大ならむ。
もしくは先きの専横の故にアカイア軍勢が、
船のかたへに斃るるを思ひて汝悲むや?
包まず胸を打ち明けよ、我ら等しく知らんため。』

[1]原語ユセルモス。Voss譯はschongobordet[o:] Lang譯はWell-timbered, Murray譯はWell-benched。
[2]何樣の形容 九歌一四。
[3]この種の比喩を下女二五九、十七歌四、五七〇、二十一歌二五七、二十三歌七六〇にも見るべし。
[4]パトロクロスの父はペーリュウスの許にあり(十一歌七七一)。

その時長き大息にパートロクロス答へ曰ふ。
『アカイア中の至剛なる、ペーリュウスの子、アキリュウス、
怒を除け、おほいなる危難われらの上迫る!
陣中先に猛勇のすぐれし諸將、見ずや今、
射られ突かれて一齊に、わが船中に横はる。
ヂオメーデース、剛勇のチュデーデース射られたり、
オヂュシュウス亦突かれたり、アガメムノーン亦同じ、
ユウリュピロスは腰のそば、飛箭によりて射られたり、
而して治療の術優る醫士らは疵を救ふべく、
彼らのそばにいそしめり。されど汝は枉げがたし??
汝の胸の憤りわれの心に入る勿れ。
アカイア軍にふりかかる此災難を攘はずば、
後の子孫は汝より何の救護を得るとせむ。
無情の汝、今見ればペーリュウスは父ならず、
テチスは母に非ざりき、之に反して波荒き
海と險しき大岩は苛酷の汝産みしなり。
汝[5]胸裏に神託を恐れて之を避くとせば、
あるは汝の端嚴の母より神語聞くとせば、
やむなし、されど速かにわれ立たしめよ、われに又
ミルミドネスの勢を附せ、アカイア軍を救ふべし。
さはれわが肩鎧ふべく汝の武裝われに借せ、
われを汝と誤らばトロイア軍は憚りて、
戰やめむ、アカイアの武勇の子らは疲弊より
休らひ得べし、戰場の休みはよしや短くも。
而して船と陣營をあとに都城に、疲れたる
敵を容易くわが新手、疲れぬ軍は攘ふべし。』

[5]同樣にパトロクロスに對してネストール曰ふ(十一歌七九四)。

しかく陳じて需めしは不明なりけり、自らに
死の運命と大難を願ひしものと知らざりき。
脚神速のアキリュウス大息しつゝ彼に曰ふ、
『ああ無慚なり、神の裔、パートロクロス、何を曰ふ!
われ耳にする神明の暗示は我を惱さず、
端嚴の母また我にヂュウスの言[6]をことづてず。
ただとある者權勢に誇りて、おのが同輩を
欺き、彼の戰勝の酬を掠め奪ふ時、
恐るべくして耐へがたき悲哀はわれの胸襲ふ、
胸に災受けたれば大なる悲哀われにあり。
アカイア衆軍戰利とし、われに撰べるかの少女、
敵の堅城打破り、わが槍先に得しものを、
アトレーデース、權勢のアガメムノーンわが手より、
われ譽なき[7]外邦の子なるが如く奪ひ去る。
さはれ是みな過ぎしこと、心の中に限りなく、
瞋恚は滿たすべきならず、只我さきに念じたり、
戰及び喊聲のわが兵船を襲ふ時、
其時 ()るに先んじてわが武裝なんぢの肩の上よろへ、
ミルミドネスの勇卒を戰場さして繰り出せ。
トロイア勢の黒く雲、勢凄く舟の上
襲ひて懸り、わが軍は只陸上の一小地
殘して、岸に踏みとまり、トロイア勢は全力を
あげて勝利を信じつつ猛然として寄せ來る。
故は彼らの眞近くに輝くわれの頭鎧の
おもて眺めず。然れどもアガメムノーン權勢の
彼れ慇懃の計らひを我に加ふることあらば、
今戰へる敵逃げて濠を屍體に埋むべし。
チュウデーデース、剛勇のヂオメーデース、其槍は
アカイア軍を救ふべく其手の中に強からず、
其憎むべき口開きアトレーデース叫ぶ聲、
われ耳にせず、ただひとりトロイア軍を警むる
兇暴の敵ヘクトール叫ぶ聲のみ鳴り響き、
アカイア軍に打勝ちてかれら平野に(あるじ)たり。
いざ兵船の災を、パトロクロスよ、攘ふべく
激しく攻めよ、然らずば敵は猛火に船を焼き、
わが軍勢のなつかしき國に歸るを妨げむ。
わが曰ふ處、その要を汝の胸に銘じ聞け、
即ちアカイア勢の前、汝わがため光榮と
名譽かち得よ、しかあらば彼らはわれに紅頬の
少女を返し、すぐれたる禮物更に加ふべし。
さはれ船より敵軍を攘はば歸れ、轟雷の
クロニーオーン光榮を汝に許すことあるも、
我さしおきてトロイアの勇士と汝、身一つに
戰ふことを求むるな、わが面目は害されむ。
又敵勢を討ち斃し、亂戰苦鬪喜びて、
イリオン城のまのあたりわが軍勢を進むるな。
恐らく不滅の神一位、ウーリュンポスを降り來む、
飛箭鋭きアポローン特に彼らをいつくしむ、
さればアカイア兵船の安寧果し得なん時、
退き歸り、原上の戰事を(ほか)の手に托せ。
[1](あゝ)わが天父クロニオーン、アテーナイエー、アポローン??
ねがはく、トロイア、アカイアの二軍の中の一人も、
死をまぬがるる事なかれ、ただ我二人災難を
のがれ聖なるイリオンの高塔破り得んことを!』

[6]われを悲しますべき言を。
[7]九歌六四八。
[1]自分も我に無情なりとアキリュウスは思ふ、此四行に對してリーフのイリアッド版第二卷一六三に長き説明あり、アリスタルコスは此四行を咎む、其説に近來の諸評家は皆贊成す。

しかく二人は相向ひ、これらの事を語りあふ。
かなた英武のアイアースもはや支ふることを得ず、
ヂュウスの意志と槍飛ばすトロイア勢の猛撃に、
惱める勇士、額上に耀く兜絶間なく、
打たれてひびく音凄し、見よ精巧の頬當(ほゝあて)
紛々として打つ槍を、更に左に彼の肩、
絶えず耀く盾しかと支ふる故に疲れはつ、
しかも敵軍槍をもて迫りて彼を攘ひ得ず、
彼は次第に其呼吸迫るを感じ、淋漓たる
汗は四肢より流れ落ち、ただ束の間の恢復の
機會はあらず、四方より禍難つづいて湧き來る。

ウーリュンポスに鎭れる歌の神々乞ふ告げよ、
猛火はじめてアカイアの船にかゝりし樣いかに。

アイアスめがけヘクトール、迫り來りておほいなる
利劍揮ひて敵の槍、穂先に近きただもとを
斬って落せば、アイアース・テラモーンの子の手の中に、
殘るはひとり無效なる柄のみ??其手を離れ行く
鋭き穂先き青銅は、大地に落ちて鳴りひびく。
こを神明のなす(わざ)と畏怖の思ひにアイアース、
觀じそゞろに身は震ふ、轟雷高きクロニオ,ン、
彼の軍器を打碎き、トロイア軍に勝與ふ。
しかく觀じて投槍を避けぬ。こなたにトロイア軍、
猛火を船に打かけて瞬く中に炎々の
焰起せば()を廻り火は荒れ狂ふ??かくと見て
ペーレーデース股を打ちパ,トロクロスによびかくる。

『パートロクロス、神の(すゑ)、すぐれし騎將、ああいそげ!
はや我は見る、舟のそば敵の火焰の狂へるを!
恐らく舟は亡され、我に歸郷の道なけむ!
急ぎわが武具身に帶びよ、われ軍勢を集むべし。』

しか陳ずれば軍裝をパートロクロス身に纒ふ、
即ち双の健脚に、白銀製の留金を
よくあしらへる、壯麗の脛甲まさきに纒ひ附け、
續きて廣き胸めぐり、色彩つよく耀ける
胸甲纒ふ、??脚早き[2]アイアキデース貸せしもの、
次に銀鋲飾りたる??()は青銅??の長劍を
肩に投げかけ、其上に巨大の堅き盾を負ひ、
その頭上(づじゃう)には精妙な工みになれる大かぶと、
馬尾の冠毛頂きを飾りてすごくゆらめけり。
次に二條の長き槍、手にふさはしきものを取る。
只剛勇のアキリュウス使ふ大槍、重くして
堅固なるもの手に取らず、アカイア軍の中にして、
アキルリュウスを除きて之を使用し得るは無し。
こは勇將ら斃すべく[3]ケーローンよりし彼の父
譲られしもの、ペーリオン嶺の白楊、柄を造る。
戰馬御すべく彼は今オートメドーンに令下す、
アキリュウスの剛勇に次ぎて敬ふ彼の友、
亂戰中に彼の令奉じ最も誠なり。
オートメドーンは命を聞き戰車に繋ぐ二駿足、
風とひとしく飛び驅くるパリオス及びクサントス、
オーケアノスの岸近く草嚙むときに[1]ハルピュイア、
(名はポダルゲー)を産むところ、風の王なるゼピュロスに。
更に二頭の傍に[2]駢べて繋ぐペーダソス、
[3]エーイチオーンの都市破りアキルリュウスの掠めたる、
()は尋常の種なれど天馬に並び競ふべし。

[2]即ちアキリュウス。
[3]四歌二一九。
[1]嵐を人化せる者、天馬と譯すべきか。
[2]四六七。
[3]一歌三六六。

ミルミドネスの各部隊あまねく廻るアキリュウス、
衆に命じて陣中に武裝なさしむ。衆軍は
譬へば凄き猛勢を其胸中に蓄ふる
豺狼の群見る如し、角逗[誤?:逞]しき大鹿を
山徑のうへ打殺し、貪り食ひ鮮血に
牙を染めつつ、群りて滾々として湧きいづる
溪流求め、陰慘の水を痩せたる舌をもて、
吸ひつゝ、凄き鮮血を吐きいだしつゝ、勇猛の
氣は胸中に漲りて腹は飽くまで滿ち足れる
其群狼を見る如くミルミドネスの諸隊長、
アキルリュウスの剛勇の副將めぐり集まれり、
其陣勢の中に立つ脚神速のアキリュウス、
戰馬並に盾かつぐ將卒ひとしく勵ましむ。

神の寵兒のアキリュウス・ペーレーデース故郷より、
トロイアめがけ率ゐ來し迅き兵船數五十、
舟おのおのに五十人心一つに漕座占む。
此等の勢を令すべく、彼は信頼おくところ、
五人の將の名を擧げて身は最高の指揮を執る。
第一隊に將たるは胸甲華美のメネスチオス、
神より出でし河の神、スペスケ,オスは彼の父、
ペーリュウスの女、うるはしきポリュドーレーは彼の母。
スペルケーオス、(力ある神)と契りし女性をば、
ペリエーレース生める息、ポーロス後に莫大の
資財を具して妻としてメネスチオスの義父となる。
ユウドーロスは勇にして第二の隊の將となる。
ポリュメーレーは彼の母、美なる舞姫、ピューラスを
父とするもの、??そのむかし、黄金の箭を携ふる
神アルテミス司どる歌舞の群のち、窈窕の
女性かいまみ戀したる猛き[4]アルゲーポンテース、
ただちに彼の樓上にヘルメーアスは慇懃に、
登りひそかに語らひき、かくて生れしすぐれし子、
ユウドーロスは勇にして駈けに戰事に脚早し。
[5]エーレーチュイア、分娩を司どるもの、光明に
彼をさまして太陽の影を小兒の見たる時、
アクトールの子、勇猛のエケクレーオス、莫大の
産を與へておのが家に小兒の母を連れ去りぬ、
子を老祖父のピューラスは、はぐくみ育て、心して
恩愛篤く慇懃にわが子の如くあしらへり。
第三隊に剛勇の[6]ペーサンドロス將となる。
マイマロスの子、槍の手はアキルリュウスに伴へる
パートロクロス外にして、ミルミドネスの衆凌ぐ。
馬術巧みの[7]ボイニクス老將第四の隊率ゆ。
ラエルケスの子すぐれたるアルキメドーンは第五隊、
かく軍勢の將定め正しく部署を整へて、
ペーレーデース・アキリュウス言句激しく宣し曰ふ、

[4]即ヘルメーアス。
[5]分娩を司どる女神(十一歌二七〇)。
[6]同名の人、十一歌一二二、十三歌六〇一等。
[7]九歌四三二等。

『わが憤激のありし時、ミルミドネスよ、輕快の
舟のかたへにトロイアの軍に汝ら吐きたりし
威嚇の言を忘るるな、汝ら我を責めたりき、
「ペーリュウスの子酷き哉、膽汁をもて君の母、
君育てしや?船のそば厭へる部下を抑へ留む、
波浪 (つんざ)く船に乘り、むしろ故郷に立ち去らむ、
不祥の怒り斯く迄も君の心を領すれば」
屢々かくも汝らは集議の席に述べたりき。
汝らかくも求めたる戰正に今來る、
勇ある者はトロイアの敵にはげしく打かかれる。』

しかく宣しておのおのの勇氣盛に奮はしむ、
主將の言にもろ/\の部隊ます/\迫り合ふ。
風の暴威を防ぐべく密に組みたる石をもて、
巨屋の壁を工人の築くが如く緊密に
兜と兜、人と人、盾と盾とは相迫り、
戰士頭を搖がせば光る兜の頂の
馬尾の冠毛ゆらめきて、彼と此とは相ふれつ、
かばかり將士相 (まじ)り密集しつゝ並び立つ
その全隊の先に立つ二人の勇士意は一つ、
ミルミドネスを率ゐつつパートロクロス、鎧ひたる
オートメードン[誤?:オートメドーン]奮然と進めり。こなたアキリュウス、
その陣營に立ち歸り、美なる精巧の(ひつ)の蓋、
開きぬ、櫃は銀色の脚のテチスが船中に
彼に備へておけるもの、中に豐かに充たせるは、
下衣並に風防ぐ外套及び氈の類。
中に又見る精巧の(さかづき)、外の何人も
これより美酒を酌まぬもの、彼自らも之に因り、
ヂュウスの外の神の前、奠酒の禮をんさぬもの。
櫃より之を取り出だし、まづ硫黄もて淨めたる
ペーレーデース、次にまた清き流にこを洗ひ、
次におのれの手を洗ひ、(はい)に葡萄の美酒滿たし、
陣のもなかに立ち上り、天を仰ぎて芳醇を
地に傾けて祈り乞ふ、雷霆の神きこしめす。

[1]『天王ヂュウス!嚴冬のドードーネーをまつろひて、
ペラスゴイ族守る神、地に臥し足を洗はざる
祭司セルロイかしづきてあなたに遠く住める神!
[2]既に先きにはわが祈り求むるところ聞くし召し、
わが身を揚げてアカイアの軍に災加へたり、
今は新たのわが祈願再び之を聞き給へ。
われ自らは留りて水師のほとり控うべく、
而して友に戰に、ミルミドネズの陣勢と
共に送らむ。光榮を彼に雷霆の神よ貸し、
彼の胸中雄心を充たしめ給へ、??ヘクトール
かくして知らん、わが友のひとり戰事に勇なりや、
或はわれの戰鬪に共に並びて進む時、
其時にのみ剛強の彼の(かひな)の凄きやを。
而して船より叫喚の敵の軍勢攘ふのち、
恙なくしてわがもとに、彼れ其武具と接戰の
勇士ら率ゐ水陣に歸り來るを得せしめよ。』

[1]オリュンピアならず、ドードーネーを鎭するヂュウスに祈る、アキリュウスはドードーネー市を含むテッサリーの人。
[2]一歌四〇九、五〇三。

祈りてしかく陳ずるを聞ける明知のクロニオーン、
天上の父その言の一部を許し他を拒み、
敵の襲撃水師よりパトロクロスの攘はんを、
許せど彼の恙なく陣に歸るは諾はず。

奠酒の禮を行ひて祈りを終へてアキリュウス、
その陣中に立ち歸り、櫃に寳器を藏め入れ、
再び出でて陣營の前に佇み、トロイアと
アカイア二軍怖るべく戰ひ合ふを見なんとす。

武裝整へ剛勇のパトロクロスに附き來る
衆軍、かくて勇み立ち、トロイア勢に打ちかかる。
ただちに衆は散兵の線に擴がる、譬ふれば、
路傍に巣くふ熊蜂を惡き習の少年が、
つねに無慚に怒らして刺戟を續け、其はてに
あまねく衆に災を來らし、とある旅人が、
それとは知らず、其路を過ぎて覺はず觸るる時、
勇氣に滿てる蜂の群、奮然として飛び出し、
其巣の中にこもりたる幼き者を禦ぐ如。
正しくかかる勇を鼓し、ミルミドネスは奮然と、
その水陣を立ち出でて揚ぐる喊聲果しらず。

パートロクロス大音にその友軍に呼びて曰ふ、
『ミルミドネスよ、英剛のアキルリュウスの友軍よ、
ああわが友よ、男兒たれ、はげしき勇を忘るゝ()
水師のほとりアカイアの中の至上のアキリュウス、
猛き武將の頭たる彼に光榮與えずや、
アカイア中の至上者を尊とまざりし(あやまち)を、
アトレーデース、權勢のアガメムノーンに知らせずや!』

しかく陳じて友軍の意氣を力は奮はしむ。
かくて衆軍一齊にトロイア勢に打ちかかる、
そのアカイアの叫喚に船は凄くも鳴りひびく。

かなたトロイア軍勢は、耀く武具を裝へる
メノイチオスの剛勇の子息、並に其部隊
眺めし時に一同の心騒ぎて隊亂れ、
思へり、船の傍に脚神速のアキリュウス、
先きの瞋恚を抛ちて新たに衆と結べりと、
かくて破滅を免るべく各 四方(よも)をかへり見る。
パートロクロスまつ先きに耀く槍を投げ飛ばし、
プロテシラオス乘りし船、黒き船尾の傍に
敵の軍勢群れるそのただ中に抛げ飛ばし、
おほいなる川アキシオス、流るるほとりアミドーン
郷より、騎馬のパイオニア勢を率ゐし剛勇の、
[1]ピュライクメ,スの右の肩打てば、呻めきて塵の中、
あをのけ樣に打ちたほる。戰事すぐれし其首領、
パトロクロス打たるるをパイオニヤ勢打ち眺め、
恐怖抱きて一齊に算を亂して逃げ去る。
かくして彼は水師より敵を攘ひて炎々の
焰を消しぬ。軍船は半ば焼かれて岸にあり、
トロイア軍は紛々と亂れて逃れ、アカイアは
船中さして殺到し高き喧囂わき湧る。
今譬ふれば霹靂を飛ばす天王クロニオーン、
厚き雲霧を大山の頂よりし攘ふ時、
[2]丘陵及び高き峯また谿谷も一齊に、
現はれ出でゝ仰ぎ見る大空廣く開くごと、
船より敵の兵燹をアカイア軍勢攘ひ得て、
しばしくつろぐ、然れども戰またく止みはせず。
故はトロイア軍勢は黒き船より背をむけて、
アカイア軍の奮戰の前にまたくは退かず、
なほ抵抗を試みてただ強力に屈するのみ。

[1]二歌八五〇。
[2]八歌五五七。

今亂戰のただ中に將帥中の人と人、
互に打てり、まっさきにメノイチオスの勇武の子、
その青銅の槍飛ばし逃れんとする敵の將、
[3]アレ,イリコスの股を打ち、貫き通る鋭刄に
骨をはげしく劈けば大地の上にうつぶしぬ。
アレースに似しメネラオス、[4]トアスの胸の露はなる、
楯のおほはぬ胸を討ち、彼んも肢體をゆるましむ。
[5]ピュレーデースは敵の將アムピクロスの突き來るを、
認めて之に先んじて、脛の起端を??筋肉の
最もあつき部を討ちぬ、槍の穂先きに筋肉は
つんざかれつゝ、暗黒は彼の兩眼おほひ去る。
ゲレーニャ騎將ネストール産める二人の子のひとり、
アーンチロコスは槍をもて[6]アチュムニオスの腹部刺し、
その眼前に斃れしむ、兄を打たれていきどほる
マーリス近く迫り來て、屍體の前にふみとまり、
アーンチロコスを打たんとす、トラシュメデース之を視て、
先を制して打ちかかり、覘違はず忽ちに
其肩打てば、槍の先鋭く入りて根本より、
腕をもぎとり、更にまた骨を無慚につんざけば、
どうと斃れて地に伏して暗は兩眼蔽ひ去る。
[7]アミソーダロス生める二兒、サルペードーンの友にして、
槍を飛ばすに巧みなる兄弟二人かくのごと、
敵の二人の兄弟に打たれ冥府の暗に入る。
父は人類の禍の怪物[8]キマイラ養へり。
オイリュウスの子アイアース、奮ひ進みて生き乍ら、
[9]クレオブロス、亂軍の中に惱むを引き捕ひ、
やがて利劍をひき拔きて其頸打ちて斃れしむ。
熱き血汐は刀身を全くぬらし、もの凄き
死滅並に恐るべき運命彼の目を蔽ふ。
[10]ペーネレオース打ち向ふ敵將リュコーン、槍をもて
おのおの覘過ちて利刄空しく飛び去れば、
更に互に劍を取り迎へり、リュコーン其時に
利劍は(つか)のもとにして折れとぶ??彼を耳の下、
ペーネレオース斬りさげて落す(かうべ)は一枚の
皮に僅に支へたれ、肢體は土に倒れ伏す。
メーリオネース殺急の脚に、敵將アカマース
追ひて、兵車にのるところ、覘違はず右の肩
討てば、大地に打斃れ暗は兩眼おほひさる。
イドメニュウスは殘忍の青銅をもて[11]エリュマスの
口突き刺せば鋭利なる槍は頭腦の下を過ぎ、
貫き通り白き骨、勢猛くつんざきつ、
齒は碎け飛び、兩眼は無慚に紅き血を滿たし、
張りし口より鼻孔より、滾々として鮮血を
吐き出し乍ら斃れふし、死の暗雲におほはれぬ。

[3]十四歌四五一は別人。
[4]二歌六三九は別人。
[5]ピュリュウスの子=メゲース。
[6]五歌五八〇は別人。
[7]或説によればリキエア族の王、前後に其名無し。
[8]六歌一七九。
[9]前後に無し。
[10]二歌四九四。
[11]下文四一五のは別人。

これらアカイア將帥は各々敵の一人討つ。
譬へば牧人怠りて群山上に散れる時、
群の中なる小羊を、あるは小山羊を貪食の
狼襲ひうつ如し。好餌認めて猛然と
迫り來りて惡獸は、可憐群のを奪ひ去る。
斯くもアカイア軍勢はトロイアめがけ打ちかかる、
勇を忘れし敵軍はただ逃走をこころざす。
テラモーニオス・アイアースつねに念じて青銅を
鎧ふヘクト,ル討たんとす、されど戰事に巧みなる
敵は牛皮の楯をもて、その大なる肩掩ひ、
飛箭の音に投槍の響に耳を傾けつ、
勝利の運は敵軍に向ふを悟り知り乍ら、
なほ斯く後に踏み留りその戰友を救はんず。

ヂュウスあらしを起すとき、ウーリュンポスの高きより、
晴れし日ののち暗き雲天に沖して上るごと、
舟よりトロイア軍勢は叫喊高く逃げ走る、
彼ら塹濠退くに隊伍整ふことを得ず。
將ヘクト,ルを武具ともに脚神速の馬は曳き、
後に殘れるトローエスやむなく濠に遮ぎらる。
その濠の中駿足の多くの戰馬將帥の
兵車の(ながえ)打碎き彼らを後に殘し去る。
パートロクロス之を逐ひ、アカイア勢を勵まして、
トロイア軍を討たんとす。敵は隊伍を破られて、
叫喊及び畏怖をもて其途滿たし、塵埃の
あらしは高く雲に入る、而して船と陣營を
あとに都城をめざしつゝ、單蹄の馬驅けて行く。
敵軍最も數多く亂ると彼の見るところ、
パートロクロス聲あげて戰馬驅くればその下に、
敵は地上に倒れ伏し、兵車碎けてくつがへる。
斯くて神よりペーリュウス受けし恩寵、不死の馬、
飛ぶが如くに塹濠をその神速の脚に越す、
其馬進め、ヘクト,ルをパートロクロス打たんとし、
心しきりに勵めども敵は駿馬を驅りて逃ぐ。
集議に席を暴威もて審判まげつ、正道を
棄てて諸神の復仇を、物ともせざる民の上、
怒をむけてクロニオ,ン豪雨はげしく注ぐ時、
秋の一日慘澹のあらし大地を襲ひ打ち、
すべての河流洪水をなして走れば、丘陵は
怒の波に崩されつ、水は滔々おほいなる
響を以て、源泉の山より凄き大海に
其奔流を下し行き、人の勞作、田園の
富一齊に碎き去る、??正しくかかるおほいなる
叫びを以て、トロイアの馬一齊に嘶けり。

パートロクロス敵軍のはじめの隊伍破る時、
更に彼らを驅り立てて水師めざして走らしめ、
都城に向ひ逃れんとするを許さず、水軍と
川と高らの城壁の(あひ)におしつめ、其中に
躍り進みて亡して、死せる自方の讐を打つ。
かくて眞先きにプロノオス盾の隙より露はせる
胸を耀く槍に刺し、彼の肢體を緩ましむ、
敵は大地にどうと伏す。エーノプスの子テストール、
つづいて彼に亡さる。光る車臺にゐすくまる
敵は恐怖に氣は滅入り、茫然として双手より
手綱落せる時まさに、彼れ迫り來て槍をもて、
右の顎刺し貫きて齒牙悉くつんざきぬ、
かくて車臺のへりの上槍もて彼を曳き來り、
譬へば岸の岩の上坐せる漁翁が[1]神聖の
魚を釣糸、青銅の耀く針に釣り上げて、
海より陸に移すごと、耀く槍に車臺より
地にうつぶして倒れしむ、倒れて彼は息絶えぬ。
次にはせくる敵の将、ラエリューラオスの頭蓋の
もなかに石を打ち當つる、堅き甲を被れる
頭二つに碎かれて敵は地上にうつぶして、
生を奪へるものすごき死の運命は彼を掩ふ。
アンポテロスとエリユマス、エパルテースに引きつぎて、
ダマストールの生める息トレーポレモス、エキオスと、
ピューリス、イピュウス、ユウイポス、アルゲアスの子ポリュメュロス
かはるがはるに豐饒の大地の上に打ち斃る。

[1]水に住む者として怪神ポセードーンに屬する故に神聖と曰ふ。

メイノチオスの勇武の子パトロクロスの手の下に、
帶なき胸衣身につくる友僚かくも斃るるを、
サルペードーン眺め見てリュキエー軍を叱り曰ふ、

『恥ぢよ、リュキエー軍勢ら!いづくに逃ぐる!ああ奮へ!
我かの敵に向ふべし、勝に誇れる彼は誰ぞ?
多くの勇士うち倒し、トロイア軍に災を
かくも來せる彼は誰そ?向ひて其名聞きとらん。』

しかく陳じて兵車より武具を手にして地に降る、
パートロクロス斯くと見て同じく車臺飛び下る。
觜曲り爪猛き二羽の荒鷲憤然と、
高き岩のへ物凄く叫び戰ふ樣見せて、
喊聲高く敵身方二將互にわたりあふ。
計略深きクロノスの子たるヂュウスは之を見て、
之を憐み、其天妃また[1]同胞のヘーレーに
向ひて語る『ああ無慚!人間の中最愛の
サルペードーン、敵の將パトロクロスに倒されむ。
思ひ亂るる胸の中われ今二つの途念ず、
涙の種の戰場の外に救ひてやすらかに、
彼を富饒のリュキエーの故郷に搬びさるべきか?
パトロクロスの手の下にやむ無く彼を倒さんか?』

[1]ヘーレーはヂュウスの妃並に妹。

その時牛王の眼をもてるヘーレー答へて宣しいふ、
『天威かしこきクロニデー、今何事の仰せぞや?
長き前より運命の定められたる一人を、
不祥の死より救ふべく君は新たに念ずとや?
しかせよ、(ほか)の神明は君に贊することあらじ。
われ今一事君にいふ、銘ぜよ君そを胸の中。
サルペードーンを生き乍ら彼の故郷に遣はさば、
思へ、恐らく外の神、また戰亂の街より、
離れて遠くその愛兒送らんことを望むべし。
君が向ひて恐るべき瞋恚を起す衆神の
多くの子らは戰へり、プリアモス()る城のそば。
君もし彼をいつくしみ心に彼を憐まば、
亂戰中に彼をしてメノイチオスの勇武の子、
パトロクロスの手の下に打たれ最期を遂げしめよ、
その靈魂と生命と共に勇士を去らん時、
[2]死の神及び甘美なる眠の神に令下し、
彼を運びておほいなるリュキエーの地に行かしめよ、
そこに同胞親友は柱を立てて墳設け、
彼を埋めむ、しかするは死者に對する禮にこそ。』

[2]「死」は「眠」十四歌二三一。

しか宣すれば人天の父クロニオ,ン之に聽き、
やがて地上に血の雨を灑ぎ愛兒を崇めしむ、
程なく彼はリュキエーの故郷を遠く隔てたる
こゝ豐沃のトロイアに、パトロクロスの手に死なむ。

敵と身方の二勇將かくて互に迫るとき、
メノチオスの勇武の子パートロクロス槍飛ばし、
[3]トラシュメーロス??主將たるサルペードーンの勇猛の
臣下の腹の下部を射て彼の肢體を弛ましむ。
サルペードーンこれに次ぎ、耀く槍を投げ飛ばし、
打てど覘を誤りぬ、されど其槍敵將の
馬ペーダソス石の肩打てばはげしく嘶きて、
倒れて塵の中に伏し叫び乍らに息絶えぬ。
かくして副部、挽綱を曳くもの塵に伏したれば、
殘りの兩馬相はなれ、(くびき)きしりて網 (もつ)る。
オートメドーン、槍術に巧みの勇士、かくと見て、
その逞しき腰の下鋒刄長き劍を拔き、
走り來りてためらはず副馬の綱を切り放つ、
かくして兩馬立ち直り、もとの如くに手綱張る。

[3]前後に無し。

かくして二將もの凄き苦鬪に又も渡り合ふ。
サルペードーン再びも、その燦爛の槍をもて、
覘誤まり、鋭刄はパトロクロスの左肩
掠め落つれば、青銅をかざし馳せ寄る敵の將、
パートロクロス手中より放つ飛槍は誤らず、
隔膜及び心臟の觸れ合ふほとり打ち當つる。
巨船の材を造るべく磨きあげたる斧を揚げ、
山の間に工人の群、樫の木を白楊を、
はた長松を伐り倒す、正しくかくも馬の前、
兵車の前に身をのして、サルペードーン倒れ伏し、
苦惱に高く呻きつゝ血潮に染める塵攫む。
[4]蹣跚として歩む群、中にすぐれし褐色の
牛を獅子王襲ひ來て、無慚に屠り殺す時、
牛は悲鳴の聲あげて嚙まるる儘に死するごと、
パトロクロスの手に死する援軍のリュキエー猛將は、
最後の勵み聲揚げてその友僚に叫び曰ふ、

[4]四八七以下此比喩の複雜は後人の添加か。

『ああグローコス、人中の戰士、今こそ覺悟せよ、
槍を揮ひて恐怖を知らぬ勇士たれ!
凄き戰鬪心せよ、奮ひて進め、ためらふ()
まさきに四方馳せ廻り、サルペードーンの(から)の爲め、
苦鬪なすべくリュキエーの諸將に呼びて起たしめよ、
次ぎに自ら槍取りて奮ひ戰へ、われのため!
船をめぐりて戰ひてわれ斃る時、アカイアの
敵わが武具を剥ぐとせば、此後我は永遠に
汝に對しとこしへに非難恥辱の種たらむ。
ああ起て!奮へ、一切のわが軍勢を起たしめよ!』

陳じ終れる勇將の(まみ)を鼻孔を、いたはしき
死の暗影はおほひ去る。パートロクロス其胸を
踏みて(から)より槍拔けば臟腑つづいて溢れ出づ、
かくして魂と鋭刄を共にひとしく引き拔きぬ。
ミルミドネスの軍勢は、主公の兵車打ち棄てて、
逃れんとして嘶ける敵の軍馬を抑へとむ。

友の最後の音聲をききて悲むグローコス、
救助を果し得ざるため痛く心を惱ましつ、
更に其手に腕つかみ、力をこめて疵抑ゆ、
城壁さして走るとき、敵の副將チュウクロス
友軍救ひ、矢を飛ばし彼の[1]腕射て疵つけぬ。
その時彼は銀弓の神アポローンに祈り曰ふ、


[1]十二歌三八六。

『神、きこしめせ、[2]リュキエーの豐饒の地におはすとも、
又トロイアにおはすとも、到るところに人間の
惱聞くべき力ある神みそなはせ、わが惱み。
われこのつらき疵を負ひ、腕のめぐりは猛烈の
苦痛によりて惱まさる、流るる血汐留めんと
すれど留まらず、わが肩は疵ゆゑ重く耐へがたし、
しかとわが槍とりがたし、更に進んで敵軍と
奮ひ戰ふことを得ず。ヂュウスの子なる最勇の
サルペードーン討死し、大神これを憐まず。
されども君はわが負へる重疵いやし、激烈の
苦惱柔げ、新なる力を我に貸し給へ、
さらばリュキエー軍勢に呼びて戰勵まさん、
われも自ら殺されし友を護りて戰はむ。』

[2]アポローンはリュキエー族の神(四歌一〇一)。

祈りてしかく陳ずるを神アポローン納受しつ。
[3]直ちに苦痛和げて、重き疵より溢れくる
黒き血潮を乾かしつ、心に勇氣吹き込めば、
これを感ずるグローコス、かく速にアポローン、
彼の祈りを聽きたるを知りて心に歡喜滿ち、
起ちて四方を驅けめぐり、リュキエー諸將勵まして、
サルペードーンのなきがらを廻り戰はしめんとす。
しかしてのちにトロイアの陣に濶歩し寄せ來り、
パントーオスを生める息プーリダマスとアゲノール、
アイネーア,スと青銅を鎧ふヘクト,ル訪ひ來り、
傍に立ちて口開き飛揚の羽ある言をいふ、
『あゝヘクトール、援軍を汝全く忘れたり、
汝のためになつかしき故郷を友をあとにして、
命を棄つる軍勢の援を汝心せず。
見ずやリュキエー軍勢を率ゐ、力と正義とに
よりて彼らを治めたるサルペードーンは今死せり、
見よ青銅の[4]アレースはパトロクロスの槍により、
彼を死せしむ、今彼の(かたへ)に立ちて勇奮へ!
ミルミドネスは恐らくは彼の武裝を剥ぎとりて、
彼の恥辱を加ふべし、船のかたへに槍をもて、
わが軍さきに倒したるアカイア勢の復讐に。』

[3]神々は速に疵を癒やす(五歌九〇一)。
[4]ここのアレースは單に戰鬪を意味す。

しか陳ずればトロイア勢、耐ゆべからざる強烈の
悲哀に打たる、彼にとりサルペードーンは外來の
勇士なれども、其都市の堅き防備を引きうけて、
多數を具して其中に奮鬪最も勉めたり。
今や彼らは勇を鼓しアカイア軍に向ひ行く、
その先頭にヘクトール、サルペード,ンのために起つ。
かなたアカイア軍勢をパートロクロス勵ましつ、
眞先きに二人のアイアース、すでに自ら勇めるを
勵ましていふ『アイアース、先きに戰士の中にして
すぐれし汝勇奮へ、更に一層勇奮へ!
アカイア軍の壘壁にまさきに入りし敵の將、
サルペードーン斃れたり、いざ今行きてなきがらに、
恥辱與へて軍裝を彼の肩より剥ぎ取らむ、
なきがら守る友軍をわが鋭刄に打ち取らむ。』

その言聞ける兩將はすれに自ら勵み合ふ。
かくて兩軍彼と此、各々隊伍整ふる、
トローエス、リュキエー軍とミルミドネスとアカイオイ、
喊叫すごくその武具を高らに鳴らし、斃れたる
サルペードーンのなきがらを廻り互に渡り合ふ。
逝ける愛兒の傍に戰鬪いたく荒るるため、
その時ヂュウス戰場のはげしき上に夜を擴ぐ。

トロイア軍はまっさきにアカイア勢を追ひまくる、
ミルミドネスの陣中に怯れぬ一人先づ斃る、
アガクレエース生める息エペーギユスはそのむかし、
ブーデーオンの豐かなる都市に君臨したるもの、
其勇しき同族を殺せる故に逃げ來り、
助け求めてペーリュウス、又銀色の光ある
脚のテチスに憑りすがり、其命によりトロイアと
戰ふために、勇猛のアキルリュウスに附けるもの、
死體剥がんとする彼を覘ひ譽のヘクトール、
(かしら)に石を投げあつ、堅き兜におほはれし
頭二つに碎かれて、勇士は(から)の傍に、
地にうつぶしに打倒れ、死の暗影に蔽はれぬ。
かく友僚の斃れしをパートロクロス悲しみて、
憤然として先鋒を過ぎてさながら猛き鷹、
羽音するどく小鴉を又椋鳥を逐ふ如く、
友を傷みて騎馬の將[1]パトロクロスよ汝今
リュキエー及びトロイアの軍に向ひて打ちかかる。
かくて勇將石飛ばしイタイメネース生める息、
ステネラオスの頸にあて其筋肉をつんざけり。
敵の先鋒、譽あるヘクト,ル共にあとしざる。
競技の場にも戰場の生死爭ふ境にも、
力をこめて抛てる壯士の長き槍の身の、
飛び行く距離に等しかる、さほどの道をトロイアの
軍はアカイア軍勢に追はれてあとに退けり。
されど眞先にグローコス、盾持つリュキエー軍勢の
主將、かへしてカールコーン生める勇將バチュクレス
討ちぬ、ヘラスの郷に住み、其財力と資産とは
ミルミドネスの(しゅ)たるもの、あと逐ひ來り迫る時、
不意にかへしてグローコス、その長槍をさしのべて、
覘違はず敵將の胸のもなかを貫けば、
どうと大地に斃れ伏す。かく勇將の斃るるを、
眺めてアカイア軍勢は悲しみ、トロイア軍勢は
痛く喜び、一團となりて來りてそばにたつ、
アカイア軍勢も其勇を忘れず、奮ひ、立ち向ふ。
メーリオネースその時にオネートールの生める息、
[2]ラーオゴノスを討ちとりぬ。父はイデーのクロノスの
子の奉仕して民により神の如くに崇めらる。
顎と耳との下うたれ倒れし彼れの肢體より、
魂魄早く立ち離れ凄き暗黒彼を蔽ふ。
アイナイアースその時に青銅の槍投げとばし、
盾をかざして進み來るメーリオネース打たんとす、
されど勇將之を見て其青銅の槍を避け、
前にかがめば(かしら)越し飛べる長槍その背後、
落ちて大地をぐさと刺し槍身しばし打震ひ、
やがて程なく恐るべき[3]アレースの威は鎭りぬ。
[4]〔アイナイアース剛勇の手より空しく抛げられて、
覘はづれて長槍は大地の中につきささる〕
アイナイアースその時に憤然として叫び曰ふ、

[1]三人稱より二人稱への變化稀なるが前にもあり。
[2]同名の別人二十歌四六一にあり。
[3]槍を曰ふ。
[4]此二行後人の添加。

『わが槍汝を貫かば、メーリオネースよ、速かに
[5]舞踏の術に長じたる汝の息をとどめしを。』

[5]冷笑の句、歩武堂々の反對。

その時槍の名手たるメーリオネース、答へ曰ふ、
『汝誠に勇なるも、ああ[6]アイネーア、進み來て
汝に向ふ一切の敵の威力を鎭むるは、
難かるべきぞ、汝また死ぬべき者と生れたり。
汝誠に勇ありて其腕力に(たよ)るとも、
われ青銅の鋭きを投げて汝に討つとせば、
我に光榮、冥王に魂魄、汝譲るべし。』

[6]呼格。

しか陳ずるを警めてパートロクロス叱り曰ふ、
『[7]メーリオネーよ、剛勇の汝何らの饒舌ぞ!
思へ、罵辱の言によりトロイア勢は屍體より
あとに返さず、その前に地に倒るもの多からむ、
戰時の決は腕力に、言句のそれは評定に。
されば無用の辯棄てよ、たゞ奮鬪を心せよ。』

[7]呼格。

しかく陳じて先にたち、勇將つゞき跡を逐ふ。
谷間に繁る森の中、木樵(きこり)の群の丁々の
響起れば、反響は遠くあなたに湧く如く、
刀劍及び兩刄の槍を用ゐて兩軍の
戰ふ時に、大地より、彼ら打合ふ盾の音、
青銅及び牛皮張る盾の轟音湧き起る。
サルペードーンの屍體今、(かしら)よりかけ足先に
到り全身こと/\゛く武器に射られて、鮮血に、
塵にまみれて、先によく知りたる友も認め得ず。
さはれ其そば衆軍は群がり寄する??譬ふれば、
陽和の春の農園に搾りし乳の滿つる桶、
溢れ流れて其めぐり蠅の一群寄するごと、
斯く衆軍は死體めがけ群がり寄せぬ。クロニオン
さはれ耀く双眼を戰場よりし他に向けず、
凄き光景見おろして胸に思案を廻らしつ、
パトロクロスの殺害につきて考慮をくりかへす、??
無慚に死せる勇猛のサルペードーンの(から)の上、
その場去らせず彼を高き譽のヘクトール、
飛刄(ひじん)によりて打斃し、肩より武具を剥ぐべきか?
或は更に衆を討ち彼れ功名を増すべきか?
思案のはてにクロニオ,ン斯く意をきめて善しとなす、??
アキルリュウスの勇猛の副將更に勇を鼓し、
都城をさしてトロイアの軍勢並に其首領、
青銅鎧ふヘクト,ルを走らせ、衆を討つべしと。
斯くして神に眞先(まっさき)に恐怖の念を注がれし
將ヘクトール、飛び乘りし兵車を驅りて逃げ乍ら、
ヂュウスの[1]聖き秤知り、トロイア軍を返さしむ。
その時強きリュキエーの軍勢同じく支へ得ず、
其心臟の碎かれて屍體の群の中、伏せる
主將をあとに一齊に皆逃げ出す、クロニオ,ン
激しき軍促して衆軍そばに斯く斃る。
かくして部下は燦爛の青銅の武具、斃れたる
サルペードーンの肩よりし剥ぎ取りたるを中廣き
軍船さして運ぶべく、パートロクロス令下す。
その時かなた雷雲の神はアポローン呼びて曰ふ、
『[2]ポイボス、わが愛兒、飛箭、飛槍の間より、
サルペード,ンを引き出し、黒き血潮を拭ひ去り、
更に遠くに搬び行き、流るゝ水に洗淨し、
アムブロシアをまみらしてアムブロシアの(きぬ)きせよ。
しかして彼れを神速の運搬者たる双生兒、
[3]「眠」と「死」とに一齊に故郷に擔ひ去らしめよ。
彼らは廣きリュキエーの豐かの郷に速に、
行かん、而して盟友と同胞彼を葬りて、
[4]墳と柱を打建てむ、死者に對する禮は斯く。』

[1]聖き秤 八歌六九、こゝは只ヂュウスの意。
[2]十五歌二二一アポローンは最もヂュウスに愛さる、而して常に其命を奉ず。アテーネーも最も愛さるれども時に反抗す。
[3]上文四五四。
[4]上文四五六。

しか宣すればアポローン、父なる神の命を聽き、
イデーの連山おりたちて凄き戰場訪ひ來り、
()ぐに飛刄の間よりサルペードーン引き出し、
之を遠くに搬び去り、流るゝ水に洗淨し、
アムブロシアを(まみ)らして、アムブロシアの衣きせつ、
しかして彼を神速の運搬者なる双生兒、
「眠」と「死」とに一齊に故郷に搬び行かしめぬ、
彼らは廣きリュキエーの豐かの郷に擔ひ去る。

オートメドーンと戰馬とをパートロクロス勵して、
トロイア、リュキエー軍勢を逐ひし其果、災難を
遂に招けり。アキリュウス先に[5]命ぜし警めを
守らば、あしき運命と黒き死滅を免れしを。
さはれヂュウスの[6]考量は人のそれよりいや強し。
(彼は勇士を畏れしめ、其戰勝をたやすくも
奪ひ、而して又次に彼を戰裡にかり進む)
パトロクロスの胸の中かく今彼は勇を鼓す。
その時誰を眞先(まっさき)に、誰を最後に、汝の手、
[7]パトロクロスよ、討ちたるや?[8]運命自ら盡き乍ら。

[5]先文八七。
[6]十七歌一七六、十八歌三二八。
[7]先文五八四。

[9]アドレーストス、[9]オウトノス、又[9]エケクロス、メーガスの
生みたる子息ペリモスとエピストールとメラニポス、
これら眞先に、エラソスと又[9]ムーリオス、[9]ピラルテ,ス、
同じく討ちぬ、殘るものたゞ逃走を願ふのみ。

[8]直譯すれば「神々汝を死に呼ぶ時」。
[9]アドレーストス以下9を記せるものに同名異人あり。他は初めて出づる人名、但しメラニポスは十五歌五四六。

その時ポイボス・アポローン、イリオン固き城壁に
立ちて禍難を彼の上たくらみ、トロイア軍勢を
助くることのなかりせば、鋭刄揮ひ荒れ廻る
パトロクロスの手によりて、トロイア城は落ちつらん。
三たび壁上突角にパートロクロス攀ぢ登り、
三たびポイボス・アポローンゆゝしき神の手を延して、
燦爛の盾打ちたゝき勢猛く追ひ攘ふ。
四たび猛將奮然と鬼神の如く進むとき、
凄く叫びてアポローン(はね)ある言句宣し曰ふ、

『退け、汝、神の裔、パトロクロスよ、豪勇の
トロイ都城、槍とりて落すは汝の命ならず、
汝の勇にいやまさるアキルリュウスも能くし得ず。』

しか銀弓のアポローン叫ぶ怒を恐れ避け、
パートロクロス悄然とはるかに後に引返す。

單蹄の馬をスカイエー門に駐むるヘクトール、
心に念ず、亂戰の中に再び驅るべきか?
衆に命じて城壁の中に集らしむべきか?
念ずる彼の(かたはら)に來るポイボス・アポローン、
ヂマスの子息、ヘカベーの同胞、しかも年若く
勇氣に滿てる[1]アーシオス??悍馬を御するヘクト,ルの
母方の叔父、而うして[2]サンガリオスの岸近き
プリュギエーに住める者、その風貌を身に借りて
ヂュウスの寵兒、銀弓のアポローン彼に呼びて曰ふ、

[1]ヒユルタコスの子に同名別人(二歌八三七)。
[2]三歌一八九。

『あゝ光榮のヘクトール、など戰場を退くや?
勿れ、あゝわれ汝より勝らましかば!劣る我、
しかも直ちに戰場を去るは汝の恥ならん!
起て、單蹄の馬驅りてパトロクロスに打ちかゝれ!
彼に勝ち得ばアポローン光榮汝に與ふべし。』

しかく宣して人間の爭鬪の場に神は入る、
その時譽のヘクトール、ケブリュネースに命くだし、
戰馬を驅りて戰場に驅けしむ。かなたアポローン、
軍勢群れたつ中に入り、アカイア勢の陣中に
騒擾起しヘクト,ルとトロイア勢に(はえ)與ふ。
その時勇むヘクトール他の敵勢に目をかけず、
討たず、ひとへにその駿馬パトロクロスに向けて驅る。
パトロクロスは兵車より大地の上におりたちて、
左の手には槍を取り、右には白く耀ける
角ばる巨石??剛健の拳にしかと握り締め、
力をこめて投げ飛ばす。石は覘へる敵將を
はづしたれども空しくは地上に落ちず、ヘクト,ルの
御者の額に??手綱とるケブリオネ,スの眞向に、
鋭き石は飛び當る。彼れ敵王の庶腹の子、
石は眉毛を右左(みぎひだり)ひとしく碎き、其骨も
支へず、かくて右左兩眼落ちて足もとに、
塵土の中に埋れつ、彼はさながら潜水夫
見るが如くに、車上より落ちて魂魄身を去りぬ。
その時汝あざけりてパトロクロスよ、かく曰ひき、
不憫(ふびん)なるかな、輕き身に水を潛るに似たるもの、
さなり、魚類の豐かなる海の上にし彼あらば、
波あるるとも船を出で、飛びて潛りて蠣求め、
多くの人を飽かしめむ、見よ彼れ斯くも身も輕く、
戰車下りて大地のへ眞逆樣(まっさかさま)に倒れたり、
[3]げに水潛るもの多くトロイア軍の中にあり。』

[3]上文六一七に同樣の嘲笑の句あり。

しかく陳じて剛勇のケブリオネ,スの死屍めがけ、
獅子の如くに奮ひ行く、獅子は牧場をあらすのち、
胸をうたれておのが勇すぐるゝ故に命おとす。
パトロクロスよ、汝かくゲブリオネ,ス[誤?:ケブリオネ,ス]に打ちかゝる。
かなた大地にヘクトール兵車よりしておりて立つ。
ケブリオネ,スの(から)の故、二將さながら飢ゑはてし
二頭の獅子が、奮迅の勇を揮ひて山頂に、
打ち殺したる鹿の餌を爭ふ如く鬪へり。
ゲブリオネ,ス[誤?:ケブリオネ,ス]の(から)の故、メノイチオスの勇武の子、
パトロクロスと光榮の將ヘクトールおのおのの
肉を無慚の刄もて打ち碎くべく奪ひ合ふ。
(から)の頭をヘクトール堅くつかみて放つなく、
パトロクロスは其脚を同じく()れば、トロイアと
アカイア二軍加はりてはげしき戰鬪湧き起る。

[4]ユーロス、ノトス二種の風互に競ひ吹きまくり、
みやまの溪のしげき森、(ぶな)と白楊、滑かの
皮の山茱萸(やまぐみ)一齊に搖る時、樹々は凄じく、
叫びて吠えて、おほいなる枝と枝とを打ち當てて、
碎きて折りて、轟々の爆音起す樣や斯く、
トロイア・アカイア兩軍は互の上に打ちかゝり、
討ちて屠りて敵身方つらき逃走心せず。
ケブリオネ,スの(から)めぐり、鋭き槍と絃上を
放れ飛び來る勁箭は、大地のうへにつき刺され、
あたりに立ちて戰へる猛士らの盾おほいなる
石に打たれて相碎く、されども死者は戰馬驅る
術を忘れて悠然とうづくまる塵の中に伏す。

[4]東風と南風。

日輪高く[5]中天にかゞやく迄は、兩軍の
飛刄はげしく彼と此おのおの討ちて衆亡ぶ、
されど光輪傾きて、牛の(くびき)を解く頃に
到れば、アカイア軍勢は運命凌ぎ勝を得て、
ケブリオネ,スを亂刄の外に、トロイア軍勢の
叫の外に奪ひさり、肩の軍裝剥ぎ取りぬ。

[5]十一歌八四以下參照。

パートロクロス之に次ぎ敵軍めがけ三度まで、
高く叫んでアレースの進むが如く打ちかゝる、
三たび進んで敵軍の九人斃せる勇將は、
鬼神の如く今 四度(よたび)奮然として進む時、
パトロクロスよ、生命の最期、汝に現はれぬ。
故は汝に亂戰の中に汝は認め得ず、
厚き雲霧に掩はれて恐るべき神近寄りて、
背後に立ちて、彼の背と廣き左右の(もろ)肩を、
手のひらあげてはたと打つ、打たれて彼は目くるめく、
ついでポイボス・アポローン彼の頭甲(づかふ)を打ち落す、
冠毛飾るその頭甲馬蹄に蹴られ轉がりて、
音響たてつ、冠毛は鮮血及び塵埃に
むごくまみれぬ。これ迄は冠毛飾る此兜、
鮮血及び塵埃にまみるゝことは許されず、
神にも似たる英雄兒??アキルリュウスの美はしき
額と頭守りにき。今やヂュウスはヘクト,ルの
頭に之をいたゞかす。[1]彼の運命迫り來ぬ。
パトロクロスの長き槍、重くて堅くたくましく、
青銅の穗のすごき武器、その手の中にぽきと折れ、
總をつけたる大盾は肩より皮帶ともに落ち、
ヂュウスの愛子アポローン彼の胸甲ほどき去る。
かくして彼は茫然と心暗みて驚きて、
さすがの肢體ゆるみはて、佇む時にうしろより、
近づき双の肩のあひ、鋭き槍を飛ばし射る、
ダルダニエーの一勇士、[2]パントオスの生める息、
[3]ユウポルボスは槍術に騎馬に奔馳に同齢の
儕輩ひとしく凌ぐもの、はじめてこゝに戰鬪の
修業に兵車ゐて來り、二十の騎者を討ちしもの、
パトロクロスよ、眞先(まっさき)に彼は汝に槍とばし、
打てど汝を制し得ず、投げし鋭槍引き拔きて、
蒼惶として退きつ、今は其身を防ぐべき
武裝を缺ける敵將に、向き得で衆中潜み去る。
パートロクロス神明の打撃と槍にまかされて、
死命避くべく友僚の(あひ)に同じく退けり。

[1]ヘクトールはパトロクロスを斃し、其着せるアキリュウスの兜を奪ひて暫く之を頭上に戴けど、やがてアキリュウスに殺さるべし。
[2]三歌一四七。
[3]十七歌六に、又十七歌四五以下に於てメネラオスに殺さる、ピタゴラスはアルゴスにおけるヘーレーの殿堂に掛けられしユウポルボスのむかしの盾を取り卸して勇將の魂は我に下れりと主張す。(オービトのメタモルフィーシス十五歌一六一)[。]

鋭刄うけて傷きて、パートロクロス剛勇の
將もやむなく退くを、見たる敵將ヘクトール、
陣列すぎて迫り來て、長い鋭槍投げ飛ばし、
彼の腹部の下の端、利刄に刺して貫けば、
どうと音して地に倒れ、アカイア勢を痛めしむ。
譬へば山の頂に乏しく泉湧くところ、
共に其水飲まんとし競ひ爭ひ鬪ひて、
その奮迅の力より獅子王遂に[4]荒き野猪、
息絶え/\゛の猛獣をまたく負かすも斯くあらむ。
プリアミデース・ヘクトール近く迫りて槍をもて、
メノイチオスの勇武の子、衆勢うちし猛將の
息の根とめて揚々と誇りて飛揚の言句曰ふ、

[4]印度マーラツタ地方の諺に『二虎の間に一猪水を飲む』、此獸は時に極めて強暴。

『パトロクロスよ、わが都城、取るべく汝念じたり、
自由を奪ひ、トロイアの女性を汝、舟にのせ、
祖先の國に搬ぶべく正に思へり、愚かなり。
われヘクト,ルの神速の馬は女性を守るべく、
戰地に走り、又我は勇むトロイア陣中に、
槍にすぐれて彼らより悲慘の命を攘ふべし。
されど汝はこゝに死し鷙鳥の腹を肥すべし。
無慚なるかなあゝ汝、アキルリュウスは勇なるも、
汝救はず、居殘りて汝立つ時曰ひつらむ。
「パトロクロスよ、騎馬の將、鮮血そむるヘクト,ルの
胸衣を彼の肢體より、剥ぎとる前に汝この
わが水營に歸ること斷じて勿れ」正しくも
彼曰ひつらん。愚かにも汝其言納れつらん。』

パトロクロスよ、其時に汝の言句かくばかり、
『誇れ、ヘクト,ル今の間に!容易く我を挫きたる
かれ、[5]クロニオーン、アポローン汝に勝を與へたり、
われの肩より軍裝を奪ひ去りしは彼なりき。
汝の(たぐひ)、二十人、我に向ひて戰ふも、
わが長槍に打ち負けてこゝに斃れん悉く。
されども辛き運命とレートーの子と人中の
ユウポルボスはわれを討つ、汝は最後に討ちしのみ。
我又汝に[1]敢て曰ふ、汝心に銘じおけ、
汝の餘命長からず、すでに汝の(そば)近く、
死と兇暴の運命と立てり、汝は無双なる
アイアキデース・アキリュース、彼に打たれて斃るべし。』

[5]クロニオーンはこゝに運命を代表す。
[1]臨終の人は特殊の豫言力を持つと一般に信ぜられたり。

しかく陳ずる勇將の死を暗影を掩ひ去る、
肢體はなれて彼の魂非命を嘆じ傷みつゝ、
青春及び剛勇を捨て冥王のもとに飛ぶ。
息を引取る敵將にかくと叫びぬヘクトール、

『パトロクロスよ、何故に我に非命を豫言する?
誰か知るべき、アキリュウス鬢毛美なるテチスの子、
わが鋭槍に貫かれ、まさきに死することなしと。』

しかく陳じて敵將の(かばね)を踏みて、其疵の
口より拔ける青銅の槍もて(かばね)覆へし、
すぐに其槍携へてオートメドーンを逐ひて行く、
アキルリュウスの猛勇の家臣をうたん念強く。
されども不死の()き駿馬??諸神の惠みペーリュウス
うけたる駿馬、脚速く彼を救ひて驅け行けり。


更新日:2005/01/28

イーリアス : 第十七歌


第十七歌

パトロクロスに死體を爭ふ兩軍の奮戰。メネラーオス特に奮ひ、ユウポルボスを斃す。 ヘクトールはオートメドーンの追撃をやめ、パトロクロスの武裝を剥ぐ。 クロニイオーン[誤?:クロニオーン]之を眺めて其最期の近づくを嘆ず。 新たに武裝を具せるヘクトール又進んでパトロクロスの屍體を奪はんとす。 アカイア諸將之を防ぎ、兩軍互に死傷あり。 パトロクロスの死を悲んで二頭の駿馬流涕す。オートメドーン之を戰場に驅る。 ヘクトールとアイネーアース之を捕へんとするも能くせず。 アイアースの奮戰。メネラオス陣中を廻りてアーンチロコスを求め、 彼に面して悲報をアキリュウスに傳へしむ。 メーリオネースとメネラーオス戰場よりパトロクロスの屍體を運び去らんとす。 アイアース二人迫り來るトロイア軍を防ぐ。

アレース愛づるメネラオス、亂軍中にトロイアの
手により遂に斃れたるパトロクロスを認め得つ、
身に燦爛の青銅を鎧ひ彼の屍體に近きぬ。[1]母性の愛を知らざりし
牝牛初めて子を産みて、やさしき聲に鳴き乍ら
庇ふが如く、金髪のメネラオス鋭刄の
槍を、全面皆丸き盾を、屍體の前かざし、
來りて犯す敵軍を討つべく猛く念じ立つ。

[1]此比喩に似るもの十六歌八。

パントオスの[2]子、槍術に巧みなるもの又こなた、
パトロクロスの斃れしを認め近くに迫り來て、
アレースめづるメネラオス立てるに向ひ叫び曰ふ、
『アトレーデース・メネラオス、神の育てし民の王、
歸れ、屍體を離れ去れ、血染の武具を棄てゝ行け、
トロイア又は譽ある援軍中の何人も、
われより先に戰場にパトロクロスを撃たざりき、
トロイア勢の中にして優る譽はわれのもの、
妨げなさば汝撃ち甘美の(いのち)奪ふべし。』

[2]ユウポルボス。

その大言にメネラオス大に怒り叫び曰ふ、
『あゝわが天父クロニオーン、過度の高言聞き苦し、
豹の暴びも及ぶまじ、獅子のあらびも叶ふまじ、
其胸の中猛然と力に誇りものすごく、
怒り狂へる[3]野猪も亦、パントオスの子、白楊の
槍を使へる傲慢の彼の暴びに劣るべし!
ヒュペレーノール、騎馬の將、誇りて我を侮りて
アカイア中の卑怯者とわれを欺き戰へる、
其時彼の青春の血氣は遂に空しくて
亡べり、思ふ、彼の脚、彼を運びて恩愛の
妻と父母との喜びに故郷に歸り去らしめず。
汝今もし手向はゞ、此と同じく汝の威
われ碎くべし、然れども汝に教う、退きて
陣中に行け、わが前に殘り留ること勿れ、
然らずば[1]禍難來るべし、來りし後は愚者も知る。』

[3]野猪の強暴十六歌八二五參照。ユウポルボス、ヒュペレーノール、プリウダマス、三將みなパントオスの子。
[1]九歌二五〇。

しか陳ずれど聽き入れず、敵は答へて彼に曰ふ、
『神の育てしメネラオス、わが同胞を屠りたる
汝は彼の落命を償ふべきぞ、高言の
汝は彼の妻をして、[2]新婚の屋に薄命の
寡婦たらしめつ、双親に悲憤の涙流さしむ!
されど汝を討ち倒し、頭と武具を携へて、
パントオスと端嚴の[3]プロンチスとの手の中に、
捧げん時ぞ哀愁の彼らの恨晴らされむ。
汝と我の爭は勝利敗北いづれとも、
()なく決せむ、いたづらにためらふことはあらざらむ。』

[2]新婚の夫婦は親の邸内に新の屋を築きて住む古の習ひ、印度に於て今日なほ然りといふ。
[3]パントオスの妻。

しかく陳じて圓き盾、目がけて槍を突き出だす、
槍は青銅貫かず、穂先は曲る堅牢の
大盾の中。??之につぎアトレーデース・メネラオス、
槍ひつさげて躍り出でクロニオーンに祈り上げ、
その剛強の手に任せ、勢猛く押し進み、
鋭利の穂先、柔軟の頸をますぐに貫けば、
地響き打ちて斃れ伏し、鎧は上に高く鳴り、
金糸銀糸に捲き上げし美麗の髪は??髣髴と
天女のそれに似たる髪??無慚亂れて血にひたる。
[4]泉ゆたかにあふれ湧く靜けき郷に人ありて、
勢強き橄欖の若木??緑の榮え行くを、
植ゑ育つれば四方より光風和風吹き來り、
かくる吹嘘(いぶき)に枝ゆれてましろき花は咲き匂ふ、
されど烈風忽然と勢強く襲ひ來て、
そを根こそぎに吹き倒し大地の上に倒れしむ、
アトレーデース・メネラオス恰もかゝる有樣に、
ユウポルボスを打倒しその戰裝を剥ぎかかる。

[4]四歌四八三下の比喩に似る。

譬へば山の若き獅子、その強暴の威を頼み、
草はむ牧の群の中、すぐれし牝牛引きとらへ、
まづ其頸を恐るべき牙に碎きつ、引きつぎて
其身つんざき、鮮血と臟腑あく迄喰ふ時、
彼をめぐりて番犬と牧場守る人の群、
遠く離れて大聲に叫び乍らも、猛獣を
恐るゝ故に、まのあたり近くことを敢てせず、
正しく斯くも光榮のメネラーオスにまのあたり、
迫る勇氣を胸の中宿し得るもの絶えて無し。
斯くして正にメネラオス、パントーオスの子の鎧、
美麗の武裝やす/\と奪ひ去るべき其時に、
之を惜みてアポローン、脚神速のアレースに
似るヘクトールたゝしめつ、[5]キコネス賊のかしらたる
メンテースの姿似せ、彼に向ひて叫び曰ふ、
『あゝヘクトール、汝、今アキルリュウスの馬を逐ふ、
されど汝は[6]得べからず、不死の神母の生むところ、
アイアキデース外にして、人間の子の何ものも、
かの俊足を制し得ず、その背上に乘るを得ず。
思を轉じ、かなた見よ、アレースに似るメネラオス、
パトロクロスの傍に、トロイア陣中再勇の
ユウポルボスを打ちとりて彼の猛威を亡しぬ。』

[5]二歌八四六。
[6]十歌四〇二。

宣し終りてアポローンまた戰場の中に去る。
その言聞けるヘクトール悲哀の暗に胸曇り、
戰陣よもに見渡して直ちに認む、一人は
華麗の武具を剥ぎとるを、他に一人は地の上に
無慚に伏して鮮血は疵口よりし流るゝを。
かくと見るより耀ける青銅穿ち、先鋒の
中に驅入り、消ゆるなきヘープァイストスの火の如く、
奮ひて揚ぐる叫喊はアトレーデースの耳に入る、
叫びを聞きて呻きつゝ勇將胸の中にいふ、

『我れ進退を如何にせむ?こゝに美麗の武具を捨て、
わが雪辱のため死せるパトロクロスを棄て去らば、
之を眺むるアカイアの軍勢われに怒るべし、
恥を怖れて單獨に、ヘクト,ル及びトロイアの
衆を敵とし戰はゞ、多數の包圍身にうけむ。
堅甲震ふヘクトールこゝに衆勢引き來る。
さはれ何故わが心これらの事を我に曰ふ?
神意を蔑みし、神明の寵する者を敵として、
戰ふ時は忽ちに、はげしき禍難迫るべし。
今ヘクトール神明の意によりわれを戰はゞ
われ逃るるも之を見てアカイア勢は咎むまじ。
音聲高きアイアース、彼をわれ若し見出さば、
彼もろともに振り返し又奮鬪をこゝろざし、
神の心に抗してもアキルリュウスの眼前に、
パトロクロスを搬び來て禍難輕むることを得ん。』

かく其胸に心胆に勇士思ひをこらすまに、
トロイア群勢迫り來て先をかくるはヘクトール、
かくと眺めてメネラオス屍體を棄てて引き返し、
返し乍らも幾度も後ふりかへる、譬ふれば
番犬及び番人に槍と叫に、農園を
逐はれて返す獅子王の、さすがの猛き胸震ひ、
心ならずも悄然と牧場あとに退()く如し。
かく金髪のメネラオス、パトロクロスを棄てゝ去る。
されど陣中歸り着き、足を駐めて八方に
その目を配り、剛勇のテラモニデース・アイアース
いづく?と探し、忽ちにに陣の[1]左方に彼を見る、
銀弓の神アポローン、恐怖の念を滿たしたる
部下を勵まし、戰場に赴かしむる彼を見る。
即ち急ぎ驅け來り、傍に立ちて彼に曰ふ、

[1]ヘクトールの戰ふ處十一歌四九八。

『あゝわが()づるアイアース!パトロクロスのなきがらの
爲に急がん、剥がれしもアキルリュウスの眼前に
恐らく搬び行くを得む、武具はヘクト,ル剥ぎ去りぬ。』
しかく陳じてアイア,スの勇猛心は奮はしむ。
かくして彼は金髪の將メネラオスもろともに
先を驅け行く??かなたにはパトロクロスの武具剥ぎて、
屍體引き行くヘクトール、肩より首を切り放ち、
之を餌としてトロイアの野犬の群に與へんず。
斯くと眺むるアイアース、巨大の盾を打ちかざし、
近づき寄れば、ヘクトール退きかへし、陣中に
入りて兵車に身をのせつ、奪ひし美なり戰裝を
部下に命じて城中に搬び譽を揚げんとす。
メノイチオスの[2]子のめぐり、巨大の盾をアイアース
かざして立てり、譬ふれば深林中に子らを具し、
獵夫に逢へる獅子王か?獅子は其子を蔽ひ()り、
其おほいなる威に誇り、すごき眉毛を垂れさげて、
其眼を蓋ふ??かくの(ごと)テラモニデース・アイアース、
惜くも逝ける勇猛のパトロクロスの(から)守る。
アレースめづるメネラオス・アトレーデース胸の中、
深き憂愁みたしめて其傍に立ち留る。
[3]ヒポロコスの子、グロウコス、リュキエー軍を率ゐたる
勇士、その時ヘクト,ルを睨み、はげしく叱りいふ、
『あゝヘクトール、見る處、姿は凛々(りゝ)し、勇は缺く!
戰場逃げて光榮を全うせんと欲するや?
トロイア領に生れたる土民ばかりともろともに、
汝、都城と壘壁を防ぐべき術考へよ!
[4]リュキエー軍の何人も是より後は城のため、
アカイア軍と戰はじ、絶えずも敵と奮鬪を
つとむる者に、見るところ、何らの感謝拂はれず!
客と友とを身に兼ねしサルペード,ンをアカイアの
[5]餌とし戰利とならしめし、無慚の汝いかにして
彼より劣る軍將を混戰中に救ふべき!
生ける間はトロイアと汝とのため盡したる
彼の(から)より犬の群攘ふを汝敢てせず!
故にリュキエー軍勢の一人われに從はゞ、
去りて故郷に歸るべし、破滅を逃れずイーリオン!、
祖國のために敵を討ち艱苦を忍ぶ勇士らを、
鼓舞する鋭氣、剛強の不屈の鋭氣、トロイアの
軍勢中に今あらば、此頽勢を盛り返し、
パトロクロスのなきがらをイリオン城に搬ぶべし。
かく敵將のなきがらを戰場よりし奪ひ來て、
王プリアモス戴ける都城の中に納め得ば
敵は直ちに之に代へ、サルペードーンの華麗なる
武具返すべく、彼の身もイリオン城に戻し得む。
水師めぐりてアカイアの再勇猛のアキリュウス、
其友うたれ亡びたり、多くの勇士斃れたり。
然るに汝勇猛の將アイアースまのあたり、
亂軍中に向ひ視て手向ふことを敢てせず、
彼の武勇の勝るため彼と戰ふことをせず!』

[2]パトロクロス。
[3]六歌一四四以下にグロウコスの系統。
[4]一四六 -- 一五三リキアの將軍は特に勇に誇る。サルペードーンがヘクトールに述べし言(五歌四七二)參照。
[5]サルペードーンの屍體は救はれしを(一六歌六六七以下)グロウコスは知らず。

しか陳ずるを睨まへて堅甲震ふヘクトール、
『あゝグローコス、さかしきに汝なにら[誤?:なんら]の暴言ぞ?
地味豐沃のリュキエーに住へるものゝ一切に、
優りて汝聰明の質ありとしも思へるを、
かゝる亂言耳にして汝を咎めざるを得ず、
われ剛勇のアイア,スを支へがたしを汝曰ふ。
われ陣前の戰を戰馬の音をものとせず、
アイギス持てるヂュウスの意、さはれ至上の力あり、
勇氣に滿てる戰將を走らし、勝を忽ちに
奪ひ、或は時として又戰に驅り進む。
さはれ今わが傍に立ち奮戰を眺め見よ、
果して汝曰ふ如く、我は終日怯なりや?
パトロクロスの死のために、猛威を鼓して寄せ來る
アカイア軍のある者を、迎へて之を破らんや?』

しかく陳じて大音を揚げてトロイア勢に呼ぶ??
『接戰つよきトローエス又リュキオイとダルダノイ!
男兒たれかし、勇猛の意氣を飽く迄ふり起せ、
わが手に討ちし剛勇の、パトロクロスを剥ぎとりて、
アキルリュウスの華麗なる鎧わが身に着くる迄。』

しかく陳じて戰場を堅甲震ふヘクトール、
去りて走りて速かに、距離遠からぬ其部衆??
アキルリュウスの華麗なる武具を、都城に搬び行く
其の跡追ひて、神速の歩みを以て近きつ、
憂苦を(かも)す戰場を離れて武裝改めつ、
これ迄着けし甲冑をトロイア勢の手に托し、
イリオン城に搬ばしめ、パトロクロスにアキリュウス
貸せし美妙の武具を着る??天の神明その父に
惠みたるもの??老齡に至りて父は此武具を
子に讓りたり、然れども子は之を着て[1]老いざりき。

[1]若くして逝けり。

雷雲よするクロニオーン、かなたよりして神聖の
アキルリュウスの武具を身に穿てる彼を眺め見つ、
即ち頭搖がして自ら胸に宣し曰ふ。

『無慚なるかな、あゝ汝、今眼前に迫りくる
最後を汝つゆ知らず!衆の恐るゝ英剛の
勇士の武裝??靈妙の武具をおのれの身に穿つ。
アキルリュウスの勇猛の、しかもやさしき、友を討ち、
彼の肩より頭より無慚に武具を剥ぎ取りて。
さあれ我今おほいなる力汝に加ふべし、
戰場歸る汝よりアキルリュウスの美なる武具、
[2]アンドロマケー受くること絶えてあらざる償に。』

[2]ヘクトール戰場に斃れて其妻彼を城中に迎ふることを得ず。

しかく宣してクロニオーン黒き眉垂れうなづきて、
武具ヘクト,ルに適はしむ、さらにアレース勇猛の
神靈彼に加はれば、威力と猛氣其四肢に
飽く迄滿てるヘクトール、雄叫び高く奮然と、
譽れの高き援軍の中に進みてアキリュウス・
ペーレーデースの燦爛の武具を穿てる姿見せ、
陣中遍く經廻りて説きて衆將勵ましむ。
[3]メストレースとグローコス、テルシロコスと將メドーン、
デーセーノール、ヒポトオス、アステロパユウス勵しむ。
更にポルキュス、クロミオス、更に占者のエンノモス、
これらすべてを勵して飛揚の羽ある言句曰ふ、

[3]みな同盟軍の將、この中初めてこゝに名ざさるる者デーセーノール。

『あゝ邦隣る同盟の衆人、われの言を聞け。
たゞ軍勢の數のため、其要のため汝らを、
其各々の都城よりこゝに呼びしにあらざりき、
たゞ汝らが快く戰好むアカイアの
手より、トロイア女性らと子らを救はんためにこそ。
これらの事を胸にして、われわが民のもてる物、
糧食ともに汝らの力を増さんために徴す。
されば汝ら敵軍に向ひ、あるひは身を捨てよ、
或は生きよ、これはこれ皆戰の習のみ。
パトロクロスの(なきがら)を、悍馬を御するトロイアの
軍勢中に曳かん者、又剛勇のアイアスを
破らん者は、われと共戰利の半分分け取らむ、
而して彼の光榮は當にわれのに(たぐ)ふべし。』

しか陳ずれば衆人は敵軍めがけ槍擧げて、
激しく迫り、アイアース・テラモニデ,スの脚下より、
パトロクロスの(しかばね)を曳きとらんとす、愚かなり、
迫り來れる敵あまたこゝに打ち取るアイアース、
音聲高きメネラオス王に向ひて叫び曰ふ、

『あゝわが愛づるメネラオス、神の寵兒よ、戰の
(には)よりあとに返すべき希望はすでに我に無し。
今トロイアの狗の群、野鳥の群に餌たるべき、
パトロクロスのなきがらを憂ふるよりもわが(かしら)
汝の頭、禍にかゝるをむしろ我憂ふ。
見よ戰の黒き雲、將ヘクトール迫り來る、
而して我に恐るべき破滅の運は近よりぬ。
さはれすぐれし同僚に叫べ、あるもの聞きとらむ。』

しか陳ずれば脚迅きオイリュウスの子アイアース、
聞きて眞先に戰場に彼に逢ふべく走り出づ、
イドメニュースは之に次ぐ、メーリオネースその副手、
恐るべき神アレースに似たる勇將またつゞく。
(其他かれらのあとに附き、奮ひ戰ふアカイアの
その衆勢を誰か能くおのが力に名だし得ん?)

かなたトロイア軍勢はヘクト,ル先きに寄せ來る。
神より出づる大川の河口に於て、奔流に
(さから)ひ、海のおほいなる波浪怒りて叫ぶ時、
之に臨める高き岸みな一齊に鳴りひゞきく。
正しく斯る叫喊にトロイア勢は寄せ來る。
かなたアカイア軍勢は青銅の盾身にかざし、
パトロクロスの(から)守る。その兩軍の輝ける
頭甲(づかう)のめぐり濃雲を厚く掩へるクロニオ,ン。
先に此世にありし時、アイアキデースに仕へたる
パトロクロスを轟雷の神は憎しみ忌まざりき、
今其屍體トロイアの狗の餌食となることを、
きらへる故に同僚を勵まし之を防がしむ。
眸かゞやくアカイアの衆まづ敗れ、死屍棄てて
恐れてあとに引返す、されどトロイア軍勢は
勇めど敵の一人も其槍揮ひ倒し得ず、
たゞかの屍體ひき去りぬ、アカイア軍は退くも
たゞしばしのみ、速かに彼らを立たすアイアース、
其風貌も其勇もペーレーデース、アキリュウス
除けばアカイア全軍のすべての上に臨む者、
彼れ今立ちて先鋒の中に進めり、その猛威、
譬へば山の獵犬と獵人の群やす/\と、
叢林中を經廻りて追ひ散し行く野猪の如、
テラモニデース、剛勇の譽の高きアイアース、
トロイア軍の隊列を縱横無碍に追ひまくる、
パトロクロスの(しかばね)を圍み奪ひとり、
イリオン城に巧名を揚げんずるもの追ひまくる。

ヒッポトオスは其 一人(ひとり)、ペラスゴス人レートスの
生みたる勇士、亂戰の中に努めて、皮紐に
屍體の足の頸しばり、曳きずり去りてトロイアの
緒軍並にヘクト,ルの感賞得んと望みたる??
彼に忽ち難起り、友は望めど救ひ得ず。
テラモニデース戰陣の間を馳せて飛びかゝり、
近くによりて青銅の彼の兜を槍に突く、
冠毛ゆらぐ其 頭甲(づかふ)利刄はげしく剛勇の
腕の力にくりだせり槍にむごくもつんざかれ、
鮮血染むる腦膸は槍の身傳へ、疵口の
外に溢れつ、忽ちに勇士の力衰へて、
パトロクロスの脚を地に其手中より取り落し、
(かばね)のそばにうつぶしに、地味豐かなる[2]ラーリッサ、
故郷はるかに打ち斃る。かくして彼は勇猛の
テラモニデースの手に討たれ、亡びし命短くて、
其養育の厚き恩、親に報ゆることを得ず。
こなたヘクト,ル燦爛の槍を飛ばしてアイアース
覘へど、之を認め得てその青銅の鋭刄を
勇將避けつ、其槍はイーピトスの子[1]スケヂオス??
ポーケース族??其中の武勇最も優るもの??
パノピュウスの名勝地占めて衆民統ぶる者??
彼の鎖骨のたゞ中の下を貫き、青銅の
穂先はげしく進み入り、肩のうしろに貫けば、
地ひゞきうちて斃れたる彼の武裝は高鳴りぬ。
またかなたにはアイアース、パイノプスの子剛勇の
將ポルキュスの腹部うち、ヒッポトオスを庇ひたる
彼の胸甲貫きて、鋭刄臟腑つんざけば、
摚と倒れて塵中に伏して双手に土握む。
かくと見るよりヘクトール、先鋒ともにあとに引く。
アカイア軍は聲あげてヒッポトオスとポルキュスの
屍體を奪ひ曳きずりて肩より武裝剥ぎとりぬ。

[2]二歌八四〇。
[1]二歌五一七。

アレースめづるアカイアの勇士に斯くも攘はれて、
怖氣のつしきトローエス、イリオン城にひかんとし、
アカイア軍は勇を鼓し、ヂュウスの旨に忤ひて、
勝利の譽かち得んず。されどポォイボス・アポローン、
アイナイアース勵して[2]ペリイパースの姿とる、
孝の一念その胸を領して老に到る迄、
父に仕へし傳令者、エーピュチデースの姿とる、
かくてプォイボス・アポローン彼に向ひて宣し曰ふ、

[2]アイトーロスの將軍に同名人あり。(五歌八四二)

『ああ[3]アイネーア、いかにして、よしや神意に背くとも、
わがイリオンの堅城を防ぎ得べきか?われ先きに
眺めし如く、あるものは勇と威により、其力
劣れる衆を率ゐるも之を頼みて戰へり。
しかもヂュウスはアカイアの勝よりむしろわが軍の
勝を喜ぶ、然れども戰避けて汝逃ぐ。』
アイナイアースその言を聞き、銀弓のアポローン、
親しく認め、ヘクト,ルに大音あげて叫び曰ふ、

[3]呼格。

『あゝヘクトール、又汝、トロイア及び援軍の
將よ、恥辱ぞ、アレースのめづるアカイア軍勢に
追はれて怯れて蒼惶とイリオンさして逃るるは!
今神靈無上のクロニオ,ンわれの戰助けんと。
さればアカイア軍勢に向へ、彼らに水陣に、
パトロクロスのなきがらをたやすく曳くをゆるさゞれ!』

しかく陳じて先鋒の遙か前に出でて立つ。
部衆再び盛り返し、アカイア軍に打ち向ふ。
アイナイアース槍のべて[4]レーオークリトス疵つけぬ、
彼、アリスバス産むところ、リュコメーデースの強き友。
倒るゝ時の剛勇のリュコメデース憐みて、
近きに寄せて燦爛の槍を飛ばして[5]アピサオ,ン
ヒッパソスの子??衆民を率ゐる者の隔膜の
下、肝臟を突きあてゝ膝ゆるましむ、討たれしは、
パイオニエーの地味肥えし郷より來り、戰場に
[6]アステロパュウス外にして勇武尤も優る者。
其斃るゝを憐めるアステロパウス勃然と、
勇を奮ひて走り寄り、アカイア軍勢破らんと
思へど空し、地に伏せるパトロクロスの屍のうへ、
衆人ひとしく盾かざし其長槍を繰り出す。
故は衆勢經廻りてアイアス固く令下し、
屍體を棄てゝ後方に誰しも返すこと勿れ、
他の同勢に先んじて進み戰ふこと勿れ、
パトロクロスのそば去らず、之をめぐりて戰へと、
かく勇猛のアイアース令を下せり。大地今
鮮血流れ、かなたにはトロイア及び應援の
勢、こなたにはアカイアの衆徒ひとしく陸續と
倒れ、紅血流さずに戰ふことはあらざりき。
さはれ地上に倒るゝはむしろ少なし、亂戰の
中に互に凄慘の死を逃るべく念じあふ。

[4]前後に無し。
[5]十一歌五七八は別人。
[6]上文二一七。

かくて衆軍炎々の(ほのほ)の如く戰へり。
彼らの目には天上の日月共に光なし、
パトロクロスの死體めぐる、敵と身方のすぐれたる
將は、蹴立つる塵埃の暗に全く蔽はれつ。
他のトロイアと堅甲の善きアカイアの雜草は、
晴天のもと悠然と相爭ひつ、日輪の
つよく光に照らされて、地上並に山上に
かゝる雲霧の影を見ず、
且つ戰ひて且つ休み、
唸りを生じ飛び來る亂刄避けて彼と此、
間を隔つ。然れども眞中にありて剛勇の
すぐるる者は戰と暗とに惱み、青銅の
利刄の爲に弱はり果つ。さはれかなたに大剛の
パトロクロスの斃れしをトラシュメデースまだ知らず、
アーンチロコスまだ知らず、即ち思ふ、猶生きて
身を先鋒の中に伍しトロイア軍と戰ふと。
二將かくして同僚の死と退却を警めて、
かなたに別に戰へり、黒き船より戰場に、
彼ら促し立たしめし老ネスト[※;ー?]ルの命の儘。

斯くて終日ものすごき戰鬪あらび休みなく、
アキルリュウスの遣はせる其副將のしかばねを、
めぐり戰ふトロイアの軍勢、及びアカイアの
衆の膝節、脚の先、(かひな)も肱も一齊に
皆悉く疲れはて淋漓の汗に惱まさる。
脂肪のしめる大いなる牡牛の皮を延ばすべく、
一家のあるじ一群の僕に渡すをうけとりて、
圓陣つくり立ち乍ら力こめつゝ引き延ばす、
かくして濕氣速かに外にはみ出し、これと共、
脂肪は肉にしみ入りてかくして皮は延ばされん。
狹き地上に立ち乍ら斯の如くに兩軍は、
互に屍體引き合ひつ、トロイア軍はイリオンに、
アカイア勢は水陣に、搬び去るべく胸中に、
切に念じて猛烈の爭斯くは湧き起る。
(いくさ)はげますアレースと軍眺むるアテーネー、
心激しく怒れども敵を互に咎め得ず。
パトロクロスのなきがらを廻りて此日クロニオ,ン、
人馬のかゝる苦しみを起せり、しかも英剛の
アキルリュウスは未だ猶、パトロクロスの死を知らず。
輕き船より遠ざかり、トロイア城の壘壁の
下に彼らの戰へば、彼死せりとは思ひ得ず、
なほ生命の全うし、敵の城門近づきて、
やがて歸らんことを待ち、パトロクロスが身ひとりに、
或は共に[1]敵城を取ること敢て思念せず、
雷雲よするクロニオーン、神の心のあるところ、
ひそかに先にテチスより屢々彼は聞き知りぬ。
されど神母は最大の不幸を嘗つて打明けず、
他の一切に優りたる至上の愛の友の死を。

[1]アキルリュウスがトロイア城の前に斃るることを神母テチスは先にいふ(九歌四一〇以下)。

かなた兩軍鋭刄の槍を揮ひて休みなく、
屍體をめぐりて戰ひて荒く互に屠り合ふ。
青銅鎧ふアカイアの軍の一人叫び曰ふ、
『あゝわが友よ、中廣き船の退き返ること、
恥なり!むしろ黒き土こゝにわが爲口開け!
その運命に陷るはむしろわれあに優ならむ、
都城をさして此屍體、曳きずり行きて光榮を
得るを、トロイア軍勢に得させんよりは優ならむ。』

しかしてかなた剛勇のトロイア勢の一人(ひとり)曰ふ、
『あゝわが友よ、こゝにこの屍體めぐりてわが同士、
亡び果つべき命とせば、退く勿れ誰ひとり!』

とある一人かく陳じ、衆の勇氣を勵ましむ。
兩軍かくぞ戰へる。荒れたる空を貫きて
打ち合ふ凄き音響は青銅色の天に入る。

その戰場を離れたる二頭の馬は[2]涙垂る、
アキルリュウスの御せしもの、敵ヘクト,ルの手にかゝり、
パトロクロスが塵中に斃れ死せるを知れるため。
ヂオーレースのすぐれし子、オートメドーンは()き鞭を
屢々之に加ふれど、或は蜜の甘き言、
或は嚇す荒き言、かはる/\゛に陳ずれど、
ヘレーポンテス岸の上、水師をさして退くを、
又アカイアの戰場の進むを兩馬悦ばず、
世に無き人のあと殘す其墳瑩の上にたつ
圓き柱を見る如く、動かずそこに立ち留る。
かく悄然と華麗なる兵車を附けて立ち留り、
頭大地に近づけてパトロクロスの死を傷む。
悲嘆の兩馬潸然と、熱き涙をまぶたより
地上に流し、身につくる軛の左右垂れさがる
其美はしき鬣は、塵に無慚にまみれ行く。
悲む兩馬見おろして(あはれ)催すクロニオ,ン、
頭搖がし我とわが胸中ひとり宣し曰ふ、


[2]一切を生かす詩人の空想は此の双馬をして單に泣かしむるのみならず、一九歌四〇六に於て人語を發せしむ。

『あゝ不便(ふびん)なり、などてわれ不老不死なる汝らを、
人界の王ペーリュウス死すべきものに與へけむ?
そは不幸なる人類と共に悲み泣くためか?
大地の上に氣を吸ひて動く生類一切の
中、[1]人間にいやまして不幸なる者われ知らず。
プリアミデース、ヘクト,ルは、さはれ汝と華麗なる
兵車に乘るを得べからず、此事われは許し得ず。
アキルリュウスの武具を得る誇りは彼に足らざるか?
汝の脚に心中に威力をわれは加ふべし、
オートメドーンを救ひ出し、戰場あとに汝らは
水陣中に返すべし、しかも我なほトロイアの
軍に譽を加ふべし、漕座よろしき兵船に
着きて、夕陽沈みさろ、聖き暗影來る迄。』


[1]人間の不幸は同樣にオヂュッセーア一七歌一三〇以下に説かる、人世の變遷は本詩六歌一四六に。

しかく宣して勇猛の力を馬に吹きこめば、
まみれし塵を地の上に鬣振り拂ひ去り、
トロイア、アカイア兩軍の中に兵車を驅り進む、
馬の背後に乗車するオートメドーンは、その友を
悲み乍ら戰ひて鵞鳥に向ふ鷲の如、
トロイア軍にかけ向ひ、時に或はあとしざり、
或は敵の衆列を力容易く遂に拂ふ。
さもあれ敵を散らせども討ち取ることは難かりき、
聖き車臺にたゞひとり立ちてひとしく槍揮ひ、
ひとしく速き馬を驅る??此事彼は遂げがたし。
されど間もなく彼の友[2]アルキメドーン之を見る、
ハイモニデース・ラエルケ,ス勇士の息は近づきて、
オートメドーンにうしろより聲を放ちて叫び曰ふ。

[2]一六歌一九七。

『オートメドーンよ、神靈のいづれぞ汝の智を奪ひ、
汝の胸にいたづらに無用の策を納れたるは?
先鋒中にたゞひとり、トロイア軍を戰へる。
汝知らずや?友斃れ、アキルリュウスの軍裝を
奪へる敵のヘクトール、肩のへ帶びて誇らふを。』

ヂオーレスの子、勇猛のオートメドーンは答へ曰ふ、
『アルキメドーンよ、アカイアの中の何もの、此不死の
馬の進退制し得て汝に(たぐ)ふものあらん、
その思慮、神に劣らざるパトロクロスは今は無し。
死と運命ともろともに彼を囚へて今は無し。
汝今とれ()き鞭と輝く手綱手の中に、
われは車臺をおり立ちて敵に向ひて戰はん。』

しか陳ずれば、戰場を走る兵車に飛びのりて、
アルキメドーンは速に鞭と手綱を手にとりつ、
オートメドーンは車より降る??そを見るヘクトール、
アイナイアース傍に立てるに向ひ説きて曰ふ、

『アイナイアース、青銅を鎧ふトロイア軍勢の
謀王よ、見ずや?脚速きアキルリュウスの双の馬、
拙き御者に驅られ來て今戰場に現はるを、
汝同じく念とせば、かの俊足を願はくを、
われは奪はん。もろともに力を合せ進む時、
われに對してまのあたり彼ら戰ひ得ざるべし。』

しか陳ずれば命をきくアンキーセースの勇武の子、
共に肩のへ堅牢の乾ける牛皮、青銅を
厚くのべたるものをつけ、二將驀地につきかくる。
あとに從ふクロミオス、又秀麗のアレートス、
二人もろとも驅けいでて敵の二將を打ち斃し、
昂然として頸擧ぐる双の駿馬を奪はんず、
愚かなるかな流血の災なくて引き返し、
オートメドーンを逃ること二人の命に非ざりき。
天父ヂュウスに祈禱上げ胸に勇氣を滿たしめて、
オートメドーンは心友のアルキメドーンに向ひいふ、
『アルキメドーンよ、双の馬われより離すこと勿れ、
彼らの呼吸われの背の上にあれかし、われ思ふ、
プリアミデース・ヘクトール、鬣美なる此双馬??
アキルリュウスの(もの)に乘り、われら二人を打斃し、
わが軍勢を走らすか、(ある)は自ら先鋒の
中に戰ひ討死か、勇氣其迄やまざらん。』
ついで二人のアイア,スとメネラオスとに叫び曰ふ、
『アカイア軍の主將たる汝二人のアイアース、
またメネラオス、その(から)をめぐり戰ひ、敵軍の
隊伍散らすは諸の他に勇將に任かし去れ、
生けるわれらを亡滅の運より汝、乞ふ、救へ。
トロイア軍の最勇のアイナイアースとヘクトール、
亂軍すぎてこなたより勢猛く襲ひ來る、
さはれ、これらの成敗は只神靈の[1]膝にあり、
われ又槍を飛ばすべし、すべてはヂュウスの命の儘。』

[1]文句は曖昧なれども意味は明かに「神明の處置」、??神の坐像の前に物を捧ぐるより來るか。

しかく陳じて影長く曳き槍ふりて投げ飛ばし、
アレートスの手かざしたる圓き大盾はたと打つ。
盾は長槍とゞめ得ず青銅つきて肉に入り、
護身の帶をつんざきて下の腹部にさし通る。
譬へば強く若き(もの)、鋭き斧をふりかざし、
野に立つ牛の角のもと、打ちて無慚に筋肉を
つんざき去れば、よろめきて大地にどうと倒れ伏す、
その有りさまにアレートスよろめき(あは)に倒れ伏す。
鋭き槍は内蔵に立ちて震ひて四肢ゆるむ。
オートメドーンにヘクトールかゞやく槍を投げとばす、
されど()ともに之を見て彼は青銅の槍さけつ、
前に其身をかゞめたる、其上飛びて長き槍、
うしろの土につきさゝる。さゝれてしばしその根本、
震ひ動きてやがて後激しき力をさまりぬ。
ついで双方相迫り、劍ぬかんずる折もあれ、
友に呼ばれて亂軍のあひを、急ぎて驅け來る
二人の猛きアイアース、あらぶる兩者引き分くる。
之を恐れて後方に再び返すトロイアの
アイナイアース、ヘクトール、又神に似るクロミオス、
あとに地上にアレートス討たれしまゝに棄てゝ去る。
アレースに似て脚速きオートメドーンは其武具を
死體よりして奪ひとり、欣然として叫び曰ふ、

『パトロクロスの死を傷む恨いさゝか晴らしたり、
今討ちとりし敵將はさまでの恨勇士ならずとも。』
しかく陳じて鮮血に染みし武裝をとりあげて、
兵車の中に納め入れ、牛を屠れる獅子のごと、
兩手兩足血にまみれ車臺の上に躍り立つ。

パトロクロスの(から)めぐり、激しく強く痛むべき
戰またも湧き起る。心を變へてアカイアを
勵まさんずるクロニオ,ン其命うけてアテーネー、
天上あとに降り來てこゝに爭湧き他ゝす。
地上に人の勞作を止め、家畜を悲します
その嚴冬のつらき節、もしくは凄き戰鬪の
前兆としてクロニオ,ン、高き雲の()紫の
虹、人類に示すごと、紫の雲身を覆ひ、
アカイア軍に降り來る神女かれらを勵ましむ。
眞先に神女アテーネー、かたへに近くメネラオス、
アトレ,デース、勇猛の將の立てるを顧みて、
彼を勵まし、疲れざる音聲及び外貌に、
將ポイニクスまねつゝも(はね)ある言句陳じ曰ふ、

『あゝメネラオス、すぐれたるアキルリュウスのめでし友、
彼をトロイア城の下、狗の一群嚙み裂かば、
恥辱と慚愧とこしへに汝の上にあるべきを、
いざ勇猛の氣を鼓して勵ませ友を一齊に。』

音聲高きメネラオス即ち答へて彼に曰ふ、
『あゝポイニクス、老齡の尊き叟よ、願はくは
神アテーネー力貸し飛刄の猛威防がんを!
パトロクロスの落命をわれ懇ろに悲しめば、
彼の屍體を()り禦ぐ願はあつし、然れども、
プリアミデース・ヘクトール猛威さながら火の如し、
ヂュウス譽を與ふれば彼の殺傷果知れず。』

しか陳ずれば藍光の目のアテーネー喜べり、
あらゆる神の中にして眞先に祈うけたれば。
かくして神女將軍の肩と膝とに力添へ、
その胸中に蚊蚋の持てる不屈の勇加ふ、
蟲は屢々人間の體より追はれ攘はれて、
なほ執拗に嚙み續け、甘き人間の血をば吸ふ、
かゝる勇氣を胸中に神女によりて滿たされて、
パトロクロスのから守り、燦爛の槍投げとばす。
今トロイアの族の中エーイチオーンの生める息、
富みて勇あるポデースを其最愛の友として、
又宴飲の客としてヘクト,ルいたく重んじぬ。
ポデース今し戰場を急ぎ逃げんとしつる時、
金髪ひかるメネラオス、彼の皮帶射て當てる、
青銅の槍貫きて地ひゞき拍ちて倒れしめ、
パトロクロスを敵軍に奪ひて陣に曳き來る。

その時近くヘクト,ルの傍に立ちてアポローン、
アビードスの地、郷として彼に最も親しめる
アーシオスの子[1]パイノプス、其相假りて勵ましつ、
銀弓の神アポローン即ち彼に宣し曰ふ、


[1]五歌一五二。

『あゝヘクトール、アカイアの他の何人か汝をば
今恐るべき???先頃は弱將たりしメネラオス、
彼より汝は逃げ去るや???見よ身一つにメネラオス、
かの屍を奪ひ去り、更に汝の友を討つ、
エーイチオンの生める息、先驅に勇むポデースを。』

その言聞きてヘクトール、悲哀の雲に蔽はれつ、
光る青銅身に着けて先鋒中に現はるゝ、
その時、房の飾ある輝く盾をクロニオ,ン、
手にして厚き黒雲にイデーの嶺を包ましめ、
電火を飛ばし、雷音を轟かしめて盾握り、
トロイア軍に勝與へ、アカイア軍を恐れしむ。

[2]ペーネレオースまづ走る、彼はボイオーチアの人、
プーリダマスの近きより射たる鋭槍彼を射る、
敵におもてをさらしつゝ立ちたる彼の肩の先、
かすり行きたる敵の槍、彼を疵つけ骨に觸る。
アレクトリオーン勇將の生みたる子息[3]レーイトス、
彼の手首をヘクトール打ちて戰ひ得ざらしむ、
槍を手にしてトロイアとまた爭ふを得ずと知り、
恨み抱きて悄然とあたり見廻し彼は去る、
其レーイトス追ひ迫る將ヘクト,ルの胸甲の
乳のあたりを覘ひつつ、イドメニュウスは槍とばす、
されど長槍柄は碎けトロイア軍は聲を揚ぐ。
[4]ヂューカリオーンの生める息イドメニュウスが車臺のへ、
立つを覘へるヘクトール、鋭槍少しく覘ひそれ、
メーリオネ,スの部下にして兵車を御する[5]コイラノス、
うてり、戸口(ここう)の豐かなるリュクトスよりし來る者、
(イドメニュウスは海上にうかべる舟を去りし時、
徒歩に來りてトロイアに功名得さすべかりしを、
急ぎて御者のコイラノス駿馬とばしてかけ來り、
彼を救ひて恐るべき運命の手を免れしめ、
爲に自ら敵將の手により命を失へり。)
その顎の下、耳のもとするどく射たるヘクトール、
槍は齒の根を打碎き舌のまなかをつんざけば、
車臺の下にどうと落ち手綱は垂れて地に觸れぬ。
そを身を曲げて大地よりメーリオネースとりあげつ、
イドメニュウスに聲あげて羽ある言句陳じ曰ふ、
『鞭を加へて馬を驅り、水師めざして急ぎ行け、
勝利はすでにアカイアにあらずと汝悟るべし。』

[2]二歌四九四。
[3]二歌四九四。
[4]十三歌四五一。
[5]五歌六七七は同名別人。

イドメニュウスは之を聞き鬣美なる馬を驅り、
恐怖の念を胸中に充たし乍ら舟に去る。

確かの勝をトロイアに、クロニオーン與へしを、
今や悟れるメネラオス、又剛勇のアイアース、
即ち衆にアイアース・テラモニデース陳じ曰ふ、

『あゝ無慚なり、トロイアに助けを天父クロニオーン、
貸すを今はた悟るべし、思慮淺はかの人の子も。
勇氣の有無に係らず、かの軍勢の投げ飛ばす
槍悉く皆當る、ヂュウスすべてを導けり。
しかも我らの放つもの、ただ地上に落つるのみ。
さはれ今われ最上の策を心に廻らさむ、
パトロクロスの死屍を曳き、身を全うし歸り得て、
親しき友を喜ばす其道いかに、(きは)め見ん。
友はこなたを見渡して痛く惱みて思ふべし、
將ヘクト,ルの強暴の威力をわれら支へ得じ、
その剛勇の手に驅られ水師になだれ落つべしと。
アキルリュウスに速に、此らの報をいたすべき
使は無きや?われ思ふ、彼は悲痛の音づれを、
パトロクロスの落命の報を未だに耳にせじ。
されどアカイア陣中にかゝる使を見出し得ず、
烟塵暗く軍勢を戰馬と共に蔽ひ去る。
あゝわが天父クロニオーン、わが軍勢の暗攘へ!
空吹き晴らし、其目もて親しく見るを得せしめよ。
神慮のまゝに光明の中にわれらを死なしめよ。』

涕流して陳ずるをクロニオーン憐みつ、
直ちに霧を吹き拂ひ暗雲速く散ぜしむ、
かく燦爛と日は出でゝ戰場廣く照りわたる。
音聲高きメネラオス今アイアスの言を聞く、
『ネストールの生める息、[6]アーンチロコスは尚生くや?
ヂュウスの愛兒メネラオス、汝目を張り探し見よ、
あらば勸めて速かにアキルリュウスを訪ふはしめよ、
告ぐべし彼の最愛の友は亡びて今無しと。』

[6]アキルリュウスの友、脚速し(十五歌五六九)。

しか陳ずれば大音の將メネラオス從ひて、
出で行く、[1]之を譬ふれば牧場守る人と犬、
防げる獅子が倦み疲れ、野よりあなたに去る如し、
彼らよすがら見張りして、肥えたる牛に猛獸の
襲ひ來るを妨げつ、飢ゑたる獅子は勇めども、
其意を遂げず、投槍は強き腕より放たれつ、
彼の恐るゝ松火は猛焰吐きて飛び來る、
かくして彼は進み得ず、やがて曙光の照す時、
憤然として逃げ歸る??恰も斯る樣見せて、
音聲高きメネラオス、パトロクロスの(から)あとに、
アカイア勢の散々に敗れて(から)を敵軍の
()と棄つべきを憂ひつゝ、心ならずも去り行けり。
行くに臨みてアイアスにメーリオネースに呼びて曰ふ、

[1]同じ比喩十一歌五八四以下。

『アカイア軍の首領たる汝二人のアイアース、
メーリオネース、又汝、忘るゝ勿れ、薄命の
パートロクロス生ける[2]間は、やさしかりけり衆人に。
無慚なるかな今は死と暗き運命彼を蔽ふ。』

[2]彼の友情屢々記さる。先文二〇四、十九歌二八七、二十一歌九六。

しかく陳じて金髪のメネラオス出で行きつ、
鷲の如くに八方にその目を配る??人は曰ふ、
鷲は空飛ぶ禽鳥の中に最も目は強し、
()き兎、林叢の繁みに其身ひそむとも、
高きに翔けて認め知り、羽音鋭く落し得て、
彼を襲ひて速に捕へて息の根を留む。
ヂュウスの寵兒メネラオス、斯くも汝の光る目は、
ネストールの子、なほ生きてあるや否やを知らんとし、
多くの同志群れる中を普く見渡して、
忽ち認む全軍の左端にありて勇將の、
其同僚を勵まして戰場めがけ進むるを。
近きに寄せて金髪の將メネラオス彼に曰ふ、

『アーンチロコス、こゝに來よ、ヂュウスの寵兒あゝ汝、
世にあるまじき災難の報を新たに聞かんため!
思ふに既に汝の眼、親しく眺め知りつらん、
神はアカイア軍勢に破滅を、敵に光榮の
勝與へしを??ダナオイのすぐれし將は斃れたり、
パトロクロスは斃れたり、あゝわが軍の大悲哀!
さもあれ汝速かに馳せアカイアの舟に行き、
アキルリュウスに言告げよ、願はく彼は迅速に、
裸の(から)を引きとらん、武具はヘクトール剥ぎ取りぬ。』

しかく陳ずる彼の言、アーンチロコス愕然と、
聞きてしばらく哀悼に言葉もあらず、涕涙は
二つの目より潸然と流れて聲は塞りぬ。
しかありながら、メネラオス下せる命を怠らず、
傍へに立ちて單蹄の馬を御しつる[3]ラオドコス、
親しき友に其武具を與へて急ぎ馳せいだす。
ペーレーデース・アキリュウス訪ひて悲報を傳ふべく、
涙乍らに戰場をあとに勇將かけいだす。

[3]四歌八七アンテーノールの子に同名の人あり。

アーンチロコスいで行けるあとに弱れる其同志、
いで行くかれにあこがれるピュロスの同志??其隊を
ヂュウスの寵兒メネラオス、汝は敢て援くるを
念ぜず、されど其隊にトラシュメデース送りやり、
其身はまたも英剛のパトロクロスのからのそば、
走り歸りてアイアスの傍へに立ちて叫び曰ふ、

『彼を我今輕舟の陣に遣はし、脚速き
アキルリュウスを訪はしめぬ。さもあれ我の見る處、
アキルリュウスはヘクトールを痛く怒れど來るまじ、
武裝を缺ける彼いかでトロイア勢に向ひ得む?
さあれ今われ最上の策を心に廻らさむ、
死屍を奪ひて曳き歸り、トロイア軍の騒ぎより、
われら自ら安かに死の運命を避くる策。』

テラモニデース・アイアース偉大の將は答へ曰ふ、
『あゝ光榮のメネラオス、なんぢの言句すべて善し、
メーリオネースと汝今、急ぎ屍體をとりあげて、
戰場の外運び行け、あとに殘りて我二人、
心も一つ名も一つ、勇を奮ひて英剛の
將ヘクト,ルとトロイア軍に向って戰はむ、
先にも二人相依りてはげしく苦鬪行へり。』

しか陳ずれば他の二人、地より屍體を高らかに、
勢猛くかつぎ擧ぐ、屍體をあぐるアカイアの
將を眺めてトロイアのおめき叫べる軍勢は、
獵する人の目の前に、負傷の野猪に飛びかゝる
狗の一群見る如く、猛然として驅くる群、
されど力に誇らひてあと引き返す猛獸の
ふりむく時は退きて、恐れ四方に逃げ散ず。
まさしく斯くもトローエス、隊を造りてしばらくは、
劍或は兩刄ある槍を揮ひて追ひ進む、
されど二人のアイアース之に向って振り返り、
立ち留まれば衆人は色を失ひをのゝきつ、
前に進んで死屍のため戰はんずるものも無し。

斯くして二人戰場をあとに屍體を水陣に、
搬ぶを追ひて戰はげしく荒ぶ、譬ふれば、
不意に襲ひて立ち並ぶ人家を掠め、炎々の
焰を揚ぐる火の如し、火光の中に散々に
家は焼け落ち、吠え叫ぶあらしは更にあらび増す。
斯くも退く敵軍を追ひてトロイア軍勢の
戰馬と戰士恐るべき騒ぎ収まる時もなし、
高き山より險阻なる阪を下りて全身の
力を騾馬は振りおこし、船造るべき大木を、
(ある)は棟木を搬ぶ時、流るゝ汗と疲勞とに
可憐の家畜惱む如、精を盡して二勇士は
屍體を擔ひ退けり。そのあと防ぐアイアース、
トロイア勢を喰ひとむる、そを譬ふれば、平原に
廣く亙れる堅牢の堤、怒潮を防ぐ樣、
滔々として漲りて勢猛く寄する水、
之を抑へて暴れしめず、破壞の力挫きつつ、
行くべき路に漫々の流を走り行かしむる??
正しく斯くもトロイアの軍勢とむるアイアース、
されども後を逐ひ來る中にすぐれし二勇將、
アンキーセース生める息、アイナイアースとヘクトール。

小さき鳥に滅亡を齎らす鷹の近づくを、
椋鳥又は樫鳥の一群認め、ものすごき
叫びを揚げて逃ぐる樣、アカイア勢は一齊に、
アイナイアース、ヘクトール二將來るを眺め見て、
畏怖の叫に退きて戰忘れ逃げ歸る。
斯くて逃るる軍勢の美なる戰具は數知れず、
塹濠めぐり散らばりぬ、戰止まむ時知れず。


更新日:2005/01/28

イーリアス : 第十八歌


第十八歌

アーンチロコス戰場より歸りてパトロクロスの死をアキリュウスに告ぐ。 アキリュウスの慟哭。其聲海底に達す。神母テチス彼を慰むるため海中の仙妃團を率ゐて來る。 アキリュウスの復讐の念。彼の兵具を作ることを神母はヘープァイストスに願はんと曰ふ。 仙妃らを海に返し自らオリュンポスに上る。パトロクロスの屍體を繞りて兩軍の奮戰。 ヘクトールとアイアースの戰。天妃ヘーレー使としてイーリスをアキリュウスに送る。 イーリス來りアキリュウスを陣頭に進ましむ。 塹濠の上に立ちアキリュウス大音聲を發してトロイア軍を威嚇す。 トロイア軍恐怖してパトロクロスの屍體をアカイア軍に奪ひ返さる。 日沒に到り兩軍互に退く。トロイア軍退陣して評議の席に開く。 ポリダマスの忠言。ヘクトールの反對。パトロクロスの屍を抱きてアキリュウスの慟哭。 天上におけるヂュウスとヘーレーの問答。テチス行きて神工ヘープァイストスと訪ふ。 神工夫妻の歡迎。神母の依頼を受けてアキリュウスの爲に諸種の武具を造る神工の妙技。 まづ盾を造る。盾の面に鑄らるる自然の景と人間の行爲との多種多様。 盾の後に介冑と兇と堅甲を造る。すべての完成。テチス之を携へてオリュンポスを降る。

[1]斯くて兩軍炎々の焰の如く戰へり。
時に使命に脚はやくア,ンチロコスは、アキリュウス
[2]舳艫 (すぐ)なる船の前、立てるを訪へば慘然と、
將軍すでに成り果てし[1]凶變胸に感じ知り、
大息しつゝ英豪の心に獨り嘆じ曰ふ、

[1]十一歌五九七と同じ。新たのエピソードの初をしるす。
[2]「直ぐの角ある」(直譯)。

[1]親しきパトロクロスの死。

『ああ長髪の[2]アカイア族、原上走る畏怖の色、
水師をさして蒼惶と退き歸る、何事ぞ?
我の悲む災難を恐らく諸神果せしや?
[3]神母は先に此事を我に啓示し告げたりき、
我なほ生を保つ中、[4]ミルミドネスの最勇士、
トロイア人の手に懸り、日の光明を見棄てんと、
メノイチオスの勇武の子[5]、あゝ彼れ遂に亡べりや?
敵の猛火を掃ひ去り、水師に歸れ、豪勇の
ヘクトールとな戰ひそ??しか我れ彼に命ぜしを。』

[2]グリース人を指す、ホーマア詩中に「グリース」の名なし。
[3]アキリュウスの母神テチス??ここに述ぶる處は十七歌四一〇と矛盾す。
[4]彼らの種屬の稱。
[5]パトロクロス。

斯くも胸裏に煩ひて思に惱むアキリュウス、
その傍に走り來りて英名しるき [6]ネスト,ルの
子は熱涙を流しつつ彼に凶變告げて曰ふ、
『ああ無慘なり!勇しき[7]ペーレーデース、大哀の
おとづれ今こそ君聞かめ、世にあるまじき禍や!
[8]パートロクロス殺されて、鎧はヘクト,ル奪ひ去り、
彼れの赤裸の(しかばね)を兩軍今し爭へり。』

[6]「ネストール」を[※;「音」又は「只」?]調のため縮むPoetical License「,」を用ふ。
[7]ペーリュウスの子アキリュウス。
[8]パトロクロス、パートロクロス、パトロークロス……音調のために種々に變化す(Brasse's Greek Gradus)

しか陳ずれば英雄を悲哀の黒き雲は蔽ふ。
見よ、彼れ、双の手を延して餘爐の[9]黒き灰握み、
[10]頭の上に振りかけて其秀麗の面汚し、
灰塵更に美はしき軍袍の上まみれつく。
長軀今はたおほいなる幅を滿たして地に倒れ、
我と我手に頭髪を[11]將軍そぞろに掻きむしる。
パートロクロスと[12]アキリュウス、共に囚へて侍らしし
婢女 一齊(いっせい)に悲みて、叫はげしく陣營の
門走り出で、猛勇のアキルリュウスの傍に、
寄りてひとしく胸打ちて、おのおの膝を震はしむ。
ア,ンチロコスは自らの涕ながらも警めて、
悲嘆のあまり鋭刄の(のんど)を割かん恐より、
英武無双のアキリュウス・ペーレーデースの手を抑ゆ。
斯く物凄く嘆く彼れ、そを千尋の波の底、
老いたる[13]父の傍に其座を占むる端嚴の
[14]神母ききとり誘はれて共にひとしく咽び泣く。
その時滄溟の底に住む仙女の群は其めぐり、
集り寄りぬ、[15]グラウケー、ターレーア、はたキモドケー、
ネーサイエーとスペーオウ、トエー、[16]美目のハリイエー、
キュモトエイ又續き()るリムノーレーア、アクタイエ、
更にメリテー、イアイラー、アムピトエーとアガウエー、
ドウトウ及びプロウトウ、ペルーサ及びヂナメネー、
デクサメネーに續き來るカルリアネーラ、カリアナサ,
續きて更にクリメネー、ヤネーラ及びヤナッサア、
オーレーチュイア、マイラアと髪美しきアマテーア、
その他、波浪の底に住む水の仙女ら群りて、
銀光照らす洞窟に皆 一齊(いっせい)に胸打ちて、
悲み泣けり、其時にテチス先づ聲あげて曰ふ、

[9]水師の戸外に立てど神壇恐らく戸の前にありて香火を焼きしならむ。
[10]舊約全書ヨブ記??大苦惱の時、ヨブは塵をかぶる。
[11]十歌十五,二十歌七七,四〇六。
[12]アキリュウス、アキルリュウス兩用。
[13]海王ネーリュウス。
[14]テチス。
[15]三九 -- 四八の仙女の名 -- ヘーショッドの『テオゴニス』二四三行以下にある中より撰ばれしものならん。後の添加なるべし。
[16]『牛王の目ある』直譯。

[17]『ネーレーイデス、われに聽け、ああわが姉妹、汝らの
おのおのすべてわが胸の悲哀いかにと思ひ見よ。
あはれ薄倖!英雄の母たる我の運命や?
絶えて責むべきあと見ざり英武のわが子産み出でて、
勇者の中に傑れたる(百幹の如く生ひ立てる)
彼を沃土の野に立てる樹木の如くはぐくみつ、
やがて曲頸の船の上、トロイア族の戰に、
イリオンさして遣はしき、??ああペーリウスの家の中、
再び歸りくる彼に向ふる時はあらざらむ。
生の脈搏ある限り、日の光明を見る限り、
彼れ其苦惱免れじ、[1]われ近よりて救ひ得じ。
さはれ今行き、めづる子に逢ひて(たゞ)さむ、戰鬪の
(には)を離るる彼にして何の禍難に苦むや?

[17]『海王ネーリュウスの子ら』

[1]神々も運命を抂ぐるを得ず。

しかく宣して洞窟を出でつつ共に一齊に、
ネーレーイデス伴ひて涙ながらに波を分け、
進みて斯くて豐沃のトロイア郷の岸の上、
行列なして登り來ぬ、ミルミドネスの數多き
兵船曳かれアキリュウス將を廻りて並ぶ場。
悲慟はげしき彼のそば、端嚴の母近く寄り、
共に流涕はげしくて愛兒の(かしら)かき抱き、
痛く悲み彼に斯く[2](はね)ある言句(ごんく)述べて曰ふ、

[2]羽翼を有するものと言葉を形容す。

『愛兒!何らの涙ぞや?何ら心の哀傷ぞ?
陳ぜよ、隱すこと勿れ、先に汝が手を揚げて
祈り求めし[3]情願は成りしならずや?神明の
計ひありてアカイアの子らは汝の無きが故、
水師のかたへ破られて恥をかく迄受けたれば。』

[3]第一歌??總戎アガメムノーン辱かしめし故にアキリュウス怒りて退きアカイア軍の敗北を望めり。

脚神速のアキリュウス、泣きて叫びて答へ曰ふ、
『慈母よ、誠にわがために[4]ウーリュンポスの神これを
成しぬ、惠みぬ、しかはあれ、パートロクロス、恩愛の
友は亡べり、一切の友に優りてめでし友、
われの頭の見る如く愛せし友は殺されぬ!
彼を倒してヘクトール、目を驚かす莊麗の
鎧奪へり、[5]ペーリュウス、神の惠みと受けしもの、
神そのむかし人間の妻とし君を爲せる時。
??波浪を宿の神明の間に君は留りて
ペーリュウスただ人界の女性を娶るべかりしを、??
さもあれ今はおほいなる悲哀は君の胸にあり。
君の愛兒は斃るべし、故郷に歸る彼の身を
君は再び見ざるべし、われ又 (せい)を續くべき
情願あらず、人界に殘り留る事あらず、
わが槍に因り、ヘクトール先づ三寸の息絶えて、
パトロクロスの無慘なる戰死償ふこと無くば。』

[4]オリュムポス、又ウーリュンポス。
[5]鎧はアキリュウスがパトロクロスに貸せしもの、即ち前者の父ペーリュウスが其妻テチスを娶りし時、海神ネーリュウスより受けしもの。

涙流して端嚴のテチス即ち答へ曰ふ、
『愛兒よ、汝曰ふ如く、汝の壽命長からず、
死の運命はヘクト,ルの其れに續きて備へらる。』

脚神速のアキリュウス、慨然として答へ曰ふ、
『[6]非命に逝ける愛友を救はん事の叶はねば、
願はく、ただちに我れ死せむ??友は故郷に遠ざかり、
その逆運を防ぐべき我が救助なく斃されぬ。
愛づる祖先の故郷へと歸るに非ず、しかも猶、
パトロクロスを救ひ得ず、敵の勇將ヘクトール、
其手に逝ける幾何の他の將卒を救ひ得ず、
用なく地上の煩ひと水師のそばに身をおきて、
青銅鎧ふアカイアの中に無双の勇者の名、
享くるもよしな、(評定の席には優るものあれど)。
いざ、[7]神明の爭も又人間の爭も
失せよ、深慮の人々を分離せしむる(いきどほり)
[8]流るる蜜の甘きにも遙かに勝さり、あらびては、
猛火の如く人間の胸に燃えたつ(いきどほり)
失せよ、大王アガメムノーン我をさばかり怒らせき。
苦惱は激しかりしとも、過ぎたるものを過ぎしめよ、
胸の中なる心靈をただ運命に()せしめよ。
いざ今行きて、愛友を倒しし敵將ヘクトール
屠り、つづきてわが生を棄てむ、ヂュウスと諸の
天の神靈一齊に、此事成るを望む時。
天王ヂュウス・クロニオーン、其最愛の子と誇る
ヘーラクレース偉なりしも、遂に死命を免れず、
[9]運命及びヘーレーの凄き怒に倒されき。
斯く又我に運命の同じきものの來るべくば、
倒れて遂に地に伏さむ、ただ光榮を()ち得まし。
ダールダニエイ、トロイアの[1]胸温柔の女性らの
一人(いちにん)、双の手を延して、紅潮さむる頬の上、
涙を拭ふ慟哭の[2]本を我まづ成し遂げむ。
知るべし彼等、戰鬪の休みは既に我に足る、
愛はさもあれ戰を()めざれ、命に從はじ。』

[6]屢々古代の著書に引用さるゝもの、プラトーの『アポロギア』三十八節など。
[7]戰は宇宙の第一義と説けるグリース哲人ヘラクリタスは此句を責む??アリストートルの倫理學に之を説くよし。
[8]樹より滴る野生の蜜=舊約全書サミエル前書十四章二十六節參照。
[9]八歌三六二、一四歌二五〇、一五歌二七、一九歌一一九。

[1]βαθνκσλπων「深き胸の」「深き襞ある胸衣の」--VossはSchwellenden Busensを譯す。
[2]ヘクトールを殺し、アンドロマケーを哭せしむること。

[3]足は銀色玲瓏の神女答へて彼に曰ふ、
『わが子、誠に()かなりき、厄に陷る同輩を、
破滅無慚の境より、解くをいみじとせざらめや?
さはれ汝の美しき武具、青銅の燦爛の
鎧、トロイア人の手に、殘り今その肩の上、
堅甲振ふヘクトール着けて誇らふ??さはれ見よ、
彼の歡喜は永からず、死の運命は近よりぬ。
今ただ汝戰鬪の中にな入りそ、この(には)
親しく汝まのあたり我が再来を見なんまで??
[4]ヘープァイストス神工の(もと)より美麗の武具を()て、
あしたの空に昇る日と共に我また音づれむ。』

[3]「銀色の足ある」??テチスの常用形容句。
[4]ラテン名はウ゛ルカン、鍛冶の神、跛足なり。

しかく陳じて身を轉じ、愛兒を去りて海岸の
波浪に浮ぶ姉妹(あねいもと)水の仙女に宣し曰ふ、
『汝ら去りて大海の深き胸のち潜り行き、
波浪のあるじ、老齡のわが父のもと音づれて、
この一切を物語れ、[5]ウーリュンポスの頂に、
ヘープァイストス神工のもとをわれ訪ひ、燦爛の
武具を武勇の我れの子に、造るや否や尋ね見む。』

[5]オリュンポス、又ウーリュンポス、神々の住める山。

しか宣すれば仙女らは海潮ただちに潜り行く。
足銀色の玲瓏のテチス、即ち莊麗の
武具を愛兒に倶せんため、ウーリュンポスに進み行く。
ウーリュンポスに双の脚彼女を運ぶ、その間、
殺戮無慙のヘクト,ルの手を(まぬが)れて水陣に、
ヘレースポントス海峽に叫喊高くアカイオイ
着きぬ、されども堅甲のアカイア軍も、斃れたる
パトロクロスに(しかばね)を、激しき敵の飛箭より
救ひも得せじ、トロイアの軍勢軍馬一齊に、
猛火の如きヘクトール共に屍體を襲ひ討つ。
三たび光榮のヘクトール屍體の双の脚取りて、
奪ひ去るべく、憤然とトロイア人に呼はりつ、
三たび勇猛の威を奮ふ[6]アイアス二人一齊に、
死屍より彼を逐ひ攘ふ、されども勇むヘクトール、
時に亂軍のただ中に突き入り、時に大音に
喊めき叫びて、一歩(ひとあし)も絶えて(うしろ)に退かず。
譬へば原に牧の子ら、焰の如き獅子王の
飢はげしき(しかばね)(ゑば)より攘ひ得ざる(ごと)
勇を奮へるアイアスの二人斯して屍體より、
[7]プリアミデース・ヘクト,ルを逐ひ斥くること難し。
斯くして敵は奪ひ去り、無比の譽を得なんとす、
その時 疾風(しっぷう)の脚早く、ヂュウスと諸神の目を掠め、
ウーリュンポスを降り來て、ペーレーデース・アキリュウス、
彼に軍裝せしむべく、天妃ヘーレーの命帶ぶる
[8]イーリス彼の(そば)に立ち(はね)ある言句陳じ曰ふ、

[6]同名二人のアイアース。
[7]トロイア王プリアモスの子。
[8]ヂュウス、ヘーレーらの使者。

『起て、アキリュウス、一切の人中最も猛き者、
パトロクロスの(なきがら)を救へ??そのため水車の
かたへ戰荒れ狂ひ、兩軍ひとしく彼と此、
討ちつ討たれつ爭へり、(これ)(かばね)を囘すため、
かれトロイアの軍勢は風凄しきイーリオン、
都城に之を奪ふため、中に光榮のヘクトール、
切に望を之に懸け、いみじき頸を斬り落し、
(かしら)を高く城門の(くひ)に懸けんとこころざす。
起て、今、休暇に足る、??パトロクロスの(から)にして、
かれトロイアの群犬だも汚れるだ汝何等の恥辱ぞや!」

脚神速のアキリュウスよ、我に君送りしものは
『あゝ、イーリスよ、我に君送りしものは誰なりや?』
答へて疾風の脚早きイーリス示して彼に曰ふ、
『ヂュウスの天妃、端嚴のヘーレー我を遣はせり、
高き天位のクロニオーン、はた白雪のオリュンポス
嶺に往へる諸の神靈共にこを知らず。』

脚神速のアキリュウス答へて即ち彼に曰ふ、
『我いかにして戰鬪の(には)に入るべき?わが鎧、
敵は奪へり、わが神母われに命じて出陣を
禁ぜり、彼の再來をわが眼親しく見なんまで、
ヘープァイストスの手許より武具齎らすは彼の約。
そを外にして勝れたる武具を借るべき者知らず、
テラモーンの子アイアスの盾ただ一つあるばかり、
さはれ彼今先鋒の間にありて槍揮ひ、
パトロクロスの(しかばね)を衛るがために戰へり。』

その時疾風の脚早きイーリス答へて彼に曰ふ、
『美なる汝の鎧いま敵手にあるも我も知る、
ただ塹濠の(そば)に行き、トロイア人に身を示せ、
トロイア軍勢恐らくは汝を恐れ、戰を
やめん、斯くしてアカイアの疲勞の勇士休らはむ、
斯くして荒るる戰鬪の休息しばし有り得べし。』

()かく宣して疾風の早きイーリス立ち去れば、
ヂュウスの寵兒アキリュウスこなたにすくと身を起す、
その剛健の肩の上 (ふさ)あるアイギス投げかけて、
頭のめぐり黄金の雲を擴ぐるアテーネー、
神女斯くして燦爛の焰を彼に燃え立たす。
譬へば遠き離島、その城中に狼煙の
天に冲して入るところ、敵軍 四方(よも)を取り圍み、
城兵 終日(ひねもす)討ち出でて奮戰苦鬪なる處、
太陽やがて落ち行けば數團の火焰燃え渡り、
火光閃めき炎々と()いりて天に映る時、
四周の隣里望み見て禍難をこゝに救ふべく、
計略おのおの廻らして船に乘じて寄する(ごと)
()かく英武のアキリュウス(とう)より光空に射る、
即ち城壁の外に出で、塹濠の上立ちとまり、
神女の命をかしこみてアカイア軍に加はらず、
立ちて叫べば、遠くより妙音振ひ、トロイアの
陣一齊に()らしむる[1]藍光の目のアテーネー。
斯くて城都を四方より圍める敵の、吹き鳴らす
[2]サリピンクスの朗々の響の如く、叫喊の
[3]アイアキデース呼ばはれる音聲高く雲に入る。
アイアキデース呼ばはれる其朗々の聲聞きて、
敵軍怖じて騒ぎ立ち、鬣長き一群の
戰馬ひとしく禍を、感じて兵車曳き返し、
車上の敵は勇猛のペーレーデース頭上に、
藍光の目のアテーネー、點じ燃せる光焰の
不盡の靈火望み見て、心に畏怖を充たしめぬ。
三たび塹濠の上に立ち叫ぶ英武のアキリュウス、
三たびおののくトロイアと其豪勇の諸援軍、
中に勇士の十二人、おのが兵車の傍に、
おのれの槍に貫かれ亡べり、こなたアカイアの
軍勢勇み、亂箭(らんせん)の中より援ひ引き出し、
パトロクロスの(なきがら)を床にかきのせ、一團の
親友泣きて(かたはら)に立てり、その中アキリュウス、
鋭刄痛くつんざける??柩の上に横はる
友を眺めて泫然と熱き涙に添ひて行く。
先に兵車と戰馬とを具して、荒べる戰に
遣はせし友、生還の姿再び向へ得ず。

[1]「藍光の目の」アテーネーの常用形容。
[2]喇叭の一種。
[3]アキリュウスの別名。

その時[4]牛王(ぎうわう)の目を持てるヘーレー、強ひて日輪を、
大わだつみの波のをち、疲れぬ乍ら沈ましむ、
紅輪斯くて落ち行けば、奮戰苦鬪の惱より、
勇武の將士アカイアの軍勢しばし休らへり。
こなたトロイア諸軍勢、奮戰苦鬪のあらびより
退き歸り、兵車より足 ()き馬を解き放し、
食を思ふに暇無く、()ぐに評議の席に入る。
一人(ひとり)も敢て坐に着かず、眞直(ますぐ)に立ちて評定の
席を開きぬ、??アキリュウス長き勇武の戰を
休みし後の出現に、トロイア軍勢怖じ震ふ。

[4]「牛の目をもつ」ヘーレーの常用形容。

其時智ある[5]ポリュダマス、パントオスの子、將來と
過去とを獨り悟るもの、ヘクトールの友にして、
同じき(よひ)に生れいで、友は長槍の術により、
名あるが如く、辯口の巧に秀いで名あるもの、
彼今衆に慇懃(いんぎん)の思をこめて陳じ曰ふ、

[5]ポリュダマス又プウリュダマス、好參謀、十二歌六〇參照。

『わが同志らよ、よく思へ、我は勸めん、汝らが
都城に引くを、原上(げんじゃう)に舟のかたへに曙の
到るを敢て待つ勿れ、我れ今、城壁去る遠し、
アガメムノーン元帥に彼の怒りし昨日(きのふ)まで、
彼らアカイア軍勢と戰ふことは易かりき、
敵の兵船、われの手に奪ひ取るべく樂みて、
その水陣の(かたはら)に我れ安んじて、さまよひき。
さはれ足 ()きアキリュウス、彼れ今われの畏怖の(まと)
その兇暴の一念は、トロイア及びアカイアの
二軍 (たがひ)相對(あひたい)し、威武を比ぶる原上に
留ることを肯んぜず、進み、都城と女性とを
擧げてひとしく掠め去る其戰を彼れ念ず。
我言(わがこと)ききて城内に歸れ、この(こと)()に當る。
今清淨の夜の影、アキルリュウスの戰を
留む、されども鋭刄を其手に取りてあすの朝、
こゝに我が軍襲ふ()き、彼の武勇は凄からむ、
幸にして(のが)るもの、トロイア城に歸り得む、
されど多くの我軍は犬と鳥との()とならむ、
ああ其不祥のおとづれは願はく耳に入る勿れ。
心に忌むもわが言に汝ら聞きて從はば、
こよひ集る城中に我の力を養はむ。
かくして塔を、城門を、之に適ひてふさはしく
琢き光りて大なる(とびら)を、城を護るべし。
かくしてあした朝早く身に青銅を鎧ひて、
城壁の上 ()み立たむ、其時彼ら水陣の
中より進み出で來り、攻めんものこそ(とが)あらめ。
城のめぐりを驅け走る頸たくましき駿足を、
疲らし果てて、水陣をさして再び退かむ。
城壁の中犯し入る思を彼は抱き得じ、
之を亡し得べからず、野犬(やけん)のの(ゑば)と先づ成らむ。』

堅甲振ふヘクトール()を怒らして彼に曰ふ、
『あゝポリュダマス、聊かも汝の言句意に滿たず、
城中歸りいたづらに閉ぢこもるべく汝曰ふ。
城壁中にこもること未だ汝に足らざるや?
いにしへよりしプリアモス、領する[1]都城 黄金(わうごん)
滿ち、青銅に滿つる事、世人(せじん)あまねく口に曰ふ。
されどもヂュウス・クロニオーン怒りし故に其寳、
諸の家はなれ去り、フリュギエー又うるはしき
メーニュオーの人々の手に買ひ取られ散じ盡く。
今はた計慮深き神クロニーオーン、水陣の
そばに光榮われに貸し、アカイア軍を岸上に
閉ぢこむる時、愚かにもかゝる助言をわが民に
告げざれ、トロイア一人も聞かず、我まら許すまじ。
今我れ親しく曰ふところ、汝らすべて身に納れよ。
今戰陣の中にして汝ら各々食を取れ、
(よる)の警備を心して各々怠ること勿れ、
トロイアの族その家に藏むるものをいとしまば、
之を集めて衆人に與へて糧の足しとなせ、
敵のアカイア軍勢に與ふるよりも優らずや。
いざ紅輪のあさぼらけ、身に青銅を鎧ひて、
敵の兵船まちかくに猛き戰起すべし、
而して若もアキリュウス、戰望み兵船の
かたへに立たば禍は彼にあるべし、我いかで
彼を恐れて戰場を逃るべきかは!まのあたり
立たむ、勝利は彼の手に、()しくは我にあるもよし、
アレース皆に(たひら)なり、打たんずるもの、打ちとらむ。』

[1]五歌四八九、九歌四〇二及び其他にプリアモスの富を曰ふ。

しかヘクトール陳ずれば、トロイア軍勢愚かにも
贊じ叫べり、アテーネー彼らの心くらませり、
將ヘクトール誤りて計るを彼ら譽め稱へ、
叡智の(こと)を宣したる[2]プーリュダマスを喜ばず。
かくて食事を陣中に取りぬ、しかしてこなたには、
アカイア軍勢よもすがらパトロクロスを悲しめり。
ペーレーデース眞先(まっさき)に逝きたる友の胸の上、
その剛強の手を延して、涙はげしく泫然と
悲しみ泣けり、譬ふれば顎髯(あごひげ)長き獅子王の
愛兒の群を、繁りたる森より人の奪ふ時、
時におくれて歸り來て痛く悲み猛然と、
憤怒の情に耐へやらず、彼らの跡を探るべく、
谷のほとりを驅け廻り、狂ひ廻るも斯くあらむ。
ミルミドネスの中にして哀號はげし、アキリュウス。

[2]プーリュダマス、即ちポリュダマス音調のため原典に自由に用ふ。

『あゝ無慚なり、我彼(われか)の日メノイチオスを??勇將を、
彼の(やかた)の中にして慰めし(こと)今空し、
トロイア城を陷れ、分てる戰利もたらして、
[3]オポスの(さと)に光榮のその子連れんと約せしも。
さもあれヂュウス人間の祈願すべて受け納れず、
こゝトロイアの郷の土、彼と我との紅血を
染めん運命定りぬ、??駿馬を御するペーリュウス、
その城中に歸り來る我を迎ふること無けむ、
神母テチスも亦さなり、我この(さと)に命終へん。
パトロクロスよ、斯くありて汝のあとに追ふが故、
汝をうてる豪雄の將ヘクト,ルの首と武器、
こゝに携へ歸る迄われ葬禮を行はず、
屍體を焼かん火の前に、トロイア陣中すぐれたる
十二の首を刎ね落し、無念の思晴すべし。
その時迄は、曲頸のわが兵船の、かたはらに
休らへ、そばに(よる)()も[1]言あざやけき人間の
富裕の都市を陷れ、わが長槍と力とに
よりて捕へて獲しところ、ダールダニエー・トロイアの
(むね)温柔の女性らは涙 (そゝ)ぎて悲まん。』

[3]メノイチオス父子はもとロクリス(二歌五三一)のオポスに住めり、後フチーエーに移る(十一歌七六五)。
[1]M[ε']ροποs(禽獣と異り言語明瞭の意)

しかく陳じて勇猛のペーレーデース、衆人に
命じ、火焰の傍に巨大の鼎備へしめ、
パトロクロスの(しかばね)の汚れし血汐淨めしむ。
斯くて衆人燃えあがる火焰の上に鼎据ゑ、
水を滿(みた)して炎々の薪を下に投げ入れぬ、
水焰鼎をうち圍み滿たせる水を沸かし立つ。
斯くて耀く青銅の中に熱湯沸ける時、
紅血染めし屍を洗ひて上に(あぶら)塗り、
更に九年の長き經し芳香疵に施しぬ。
かくして床に(から)を乘せ、其頭より足にかけ、
柔軟の布被むらせ、上に雪白の氈おほひ、
よすがら長く勇猛のアキルリュウスの側に、
ミルミドネスの諸將卒パトロクロスを悲めり。

その時ヂュウス、妹の神妃ヘーレーに向ひ曰ふ、
『ああ牛王(ぎうわう)の目を持てるヘーレー、汝脚速き
アキルリュウスを起たしめて、遂に素懷を遂げ得たり、
鬢毛長きアカイアの民ぞ汝の子なるべき。』

その時 牛王(ぎうわう)()をもてるヘーレー答へて彼にいふ、
『天威かしこき[2]クロニデー、仰せ何らの言句ぞや?
朽つべく、しかも神明の知を備へざる人の子も、
これらの(わざ)を他に對し敢て加ふることを得ん。
素生に因りて、更にまた天のすべての神明を
治むる君の(はい)として、女神すべての長なりと
自ら誇る我、いかで意のまゝ振舞ひ得ざらんや!
怒の故にトロイアに禍害を加へ得ざらめや!』

[2]クロニデース=クロニオーン=クロノスの子。クロニデーは呼格。

二位の神明かくばかり互ひに言句(ごんく)相交ふ。
(しか)してかなた銀色の脚のテチスはたづね行く、
ヘープァイストスの青銅の不壞(ふえ)の[3]神殿 燦爛(さんらん)
光りて(ほか)を凌ぐもの、跛行者自ら建てしもの。
そこに(ふいご)の前にして汗を流して働ける
彼れ、(いしずゑ)の堅牢のその宮殿の壁のそば、
据うべき二十おほいなる鼎造るに忙はし。
その各々の脚の下、金の車輪を彼は附す、
かくて見る目を驚かし、鼎自ら搖ぎ出で、
神の評議の席に行き、しかして後に歸るを得。
工おほかたは遂げられて、ひとり鼎の精妙の
耳のみ殘る、之のために彼今鋲を鑄つゝあり。
その功妙の工みもて働く彼に、玲瓏の
銀色の脚美はしきテチス近づきおとづるる、
その時名工の譽ある跛行の神の配にして、
光る面紗の美はしきカーリス即ち認め得つ、
進み迎へて手をとりて思をこめて陳じ曰ふ、

[3]諸神の殿堂と共にオリュンポスにあり。(一歌六〇七)

『ああ(いつく)しく譽あるテチス、衣の長き曳き、
稀の玉歩をこゝに抂げ、音づれ來る何故か?
いざ身につづき内に入りわが歡迎の宴につけ。』

しかく陳じて天上の女神の中にすぐれたる、
あるじはテチス導きて、銀鋲打てる莊麗の
玉座の上に坐らしめ、下に脚臺据ゑおきて、
ヘープァイストス譽ある神工を呼び叫び曰ふ、

『ヘープァイストス、いざここに、テチス來りて君を待つ。』
ヘープァイストス譽ある跛行の神匠答へいふ、
『ああ譽ある端嚴の女神わが屋の中にあり、
[4]跛行の故におのが子を隱さんとせしヘーレーの、
願によりて落されて、苦難のはげしかりし我、
救ひし女神ここにあり。ユウリュノメーは潮流を
()へす海神生める姫、ユウリュノメーとテチスとの
胸その時に受けざらば、わが心痛やいかなりし。
九年の間、そのそばに、居を空洞の中に据ゑ、
頸の飾と腕の環と胸又耳の飾との
工み數々鑄たる我、外は泡立つ海神の
無限の(うしほ)澎湃(はうはい)と高鳴り渡り、神明の
また人間の何ものも絶えて此場を知らざりき、
ひとり我が身を救ひたるユウリュノメーとテチスのみ。
テチス今われ訪ひ來る、一命の恩、鬢毛(びんもう)
美なる神女に正にわれ報いん時は今到る。
いざ今、汝、歡迎の宴を神女の前いたせ、
我、今行きて諸の器具を(ふいご)を収むべし。』

[4]此の神話と別に、ヂュウスがヘープァイストスを天上より

しかく陳じて鐵砧(かなとこ)を立ちて[1]煤けし巨軀起し、
跛足を曳けど神工の痩せたる脚はいと速し。
かくて鞴を猛火より遠ざけ離し、手にとりて
勤めし器具を悉く白銀製の(ひつ)に納れ、
やがて海綿とりあげて(おもて)並に双の手を、
又逞しき頸筋を、粗毛の厚き胸を拭き、
而して上衣身に纒ひ、手に太やかの杖握り、
跛足を曳きて出で來る、彼を助けて(いのち)ある
少女に似たる金製の群像あとに働けり。
彼らは心 知解(ちかい)して中に聲あり、力あり、
しかして不死の神明の靈妙の(わざ)學び知り、
主公の神の傍に勉めり、こなた神工は、
來りテチスの座に近く耀く椅子に身をよせつ、
即ち彼の手を取りて思をこめて陳じ曰ふ、
『ああ我が愛づる端嚴(たんげん)のテチス、衣を長く曳き、
ここ音づるる何故か?先は光臨稀なりき、
君の心を打明けよ、われの力の及び得ば、
又其事の成るべくは、成し遂げんことわが願。』

[1]αιηγονは意味不明、Vossはrussige, MurrayはDan[※;l又はtか?対応する単語不明]ingと譯す。

その時テチス泫然と涙を垂れて答へて曰ふ、
『ヘープァイストスよ、思ひ見よ、ウーリュンポスの頂の
女神の中の何ものか、[2]クロニーオーン・ヂュウスより、
我唯獨り蒙りし如き禍難を受けたるや?
海の神女の群の中、彼はわが身を撰び取り、
人界の子のペーリュウス・アイアキデ,スに嫁せしめき、
心ならずも(かし)づける彼れ老齡の惱より
居城の中に弱り伏す。しかも()の難又我に、??
ひとりの男兒彼れ我に生ませ、すぐれし英雄と
はぐくましめて、繁り行く若木の如く長ぜしむ、
廣き沃土に立てる樹の如く長ぜしめ、
トロイア勢に向ふべくイーリオンにと、曲頸の
舟に乘じて行かしめし彼を再び其郷に、
ペーリュウス住む城中に、迎ふることはあらざらむ。
かれ生命のある限り、目に光明を見る限り、
絶えず苦む、我れ行きて彼を助くること難し。
アカイア諸軍賞として彼に少女を與へしを、
アガメムノーン威に誇り、彼の手よりし奪ひ取る。
彼は少女の故により痛く惱めり、かなたには、
アカイア軍をトロイア勢、舟のあたりに閉ぢこめて、
外に出づるを得せしめず、しかしてアルゴス諸長老、
彼に願ひて數々のすぐれし贈與算へ擧ぐ。
されども彼は進み出で禍難攘ふを(うべな)はず、
パトロクロスに自らの武具を與へて穿たしめ、
夥多の戰士引き具して戰場さして進ましむ、
彼は終日スカイエー門のほとりに戰へり。
神アポローン、先鋒の中に敵軍惱せる
パトロクロスを??勇將を斃し、譽をヘクト,ルに
與ふることの無かりせばその日トロイア落ちつらむ。
我その故に今來り汝の膝の前に請ふ、
わが薄命の子に盾と兜並に胸甲と、
脚部を守る武具附せる脛甲、汝 ()ぶべきや?
彼の戰裝、トロイアの敵に討たれし親友の
身より剥がれて、奪はれて彼今土に伏して哭く。』

[2]ヘーレーに養育の恩を負ひしテチスはヂュウスに背きしことあり、天王之を怒り、人間に嫁せしむ云々の神話。

その時跛行のすぐれたる神工答へて彼に曰ふ、
『心安かれ、そのために胸を痛むること勿れ、
危急の運の迫る時、無慚の凶死遠ざけて、
彼の一命守るべく我願くは心せむ、
即ち彼に(すぐ)れたる戰裝我は整へむ、
これを眺むる人界の子は悉く驚かん。』

しかく宣して神工はテチスを去りて進み行き、
猛火に(ふいご)さしむけて其働きを始めしむ。
すべての(ふいご)一齊に熔爐二十の上に吹き、
炎々として燃えあがる火焰の嵐立たしめつ、
ヘープァイストス望む儘、又其業の進む儘、
時に勉めて時にやむ神工助け働けり。
斯くして彼は炎々の火中に強き青銅と、
錫と貴き黄金と銀とを投じ、又次ぎて、
その臺上に巨大なる鐵床据ゑつ、一方の
手に堅剛の鎚をとり、火箸を外の手に握る。

眞先に彼はおほいなる堅牢の盾鑄造りつ、
美妙の(たくみ)施して燦爛(さんらん)としてかゞやける
三重(さんぢう)(へり)、一條の銀の吊紐(つりひも)之に附す。
層五重より成れる盾、盾のおもてに神工は
その靈妙の巧より種々の意匠を施せり。

[1]盾の表に鑄造るは緑の天と海洋と、
大地と倦まぬ日輪と、團々缺けぬ月輪と、
天を飾りて連れる無數の高き星宿と、
[2]プレーイアデス、[3]ファアーデス、更に堂々のオーリオーン、
更に車輪の異名呼ぶ大熊星の座ぞ高き、
同じ處を廻り行きオーリオーンを眺め見て、
オーケアノスの潮流に彼のみ(ひた)ることあらず。

[1]こゝより本歌の終迄盾の意匠の詳説、まづ大地日月星を彫る。(一)
[2,3]共に牡牛座中の星群。

盾の面に更に鑄る[4]人界の子の都市二つ、
美麗なるもの、その一は婚禮及び賀宴の場、
松火(たいまつ)かざし花やげる新婦のむれを人々は、
室より誘ひ外に連れ、婚賀の歌を唱へ出づ。
若き子の群、青春の血を躍らして舞ひ廻る。
その中起る嘹喨の笛のひゞきと琴のおと、
女性はあまた戸の前に立ちて驚異の目を見張る。
又かなたには集會の廣場に衆は群れり、
争議おこれり、殺されし人の賠償、題として、
甲乙、二人爭へり、賠償すでに濟みたりと、
衆に向ひて甲は述べ、そは未だしと乙は曰ひ、
判者の前に爭を兩者もろとも終へんとし、
衆は双方いづれかを贊するまゝに呼び叫ぶ、
そを傳令はとりしづむ、かなた聖なる一團に、
老いし判者のおのおのは彫琢されし石の上、
坐して音聲朗々の傳令の笏手に握り、
かはるがはるに立ち上り、其判定をのし示す。
其判定を巧妙に、宣する者に與ふべく、
席のもなかに黄金の兩タランタおかれあり。

[4]平和の場面(二)。

外の[5]都市には燦爛(さんらん)の武裝穿ちて攻め圍み、
二種の考思を胸にして、二軍の勇士陣構ふ、
一は都城を破らんを念じ、他は又城中の
資材を擧げて其 (なかば)受けてこれらと和せんとす。
されど城兵從はず、埋伏すべく武裝しつ、
その城壁と恩愛の妻と幼き小兒らを、
齢傾く衰殘の輩に托して守らしめ、
立ちて進めばアレースと藍光の眼のアテーネー、
黄金の衣纒ひて先に行く、
武具携ふる莊嚴の華麗の姿、天上の
神に叶ひていちじるし、衆の軀幹は小なりき。
埋伏するに善しと見る(には)に軍勢やがて着き、
牛羊(ぎうよう)來り水を()ふ川のほとりに、燦爛の
青銅の武具鎧ひて、おの/\隱れ屯しつ、
而して列と隔りて、二人の卒は偵察の
任に當りて、牛羊の群の來るを待ちわびぬ。
すぐに牛羊むらがり()、二人の牧者これにつぎ、
敵の計略思はねば笛を弄して樂めり。
軍勢かくとうかがひて走りかかりて忽ちに、
牛の群また雪白の羊の群を打ほふり、
率ゐ來りし牧人を共にひとしく打とりぬ。
圍める軍は評定の場に坐しつゝ、牛羊の
ほとりに湧る騒擾の聲を耳にし、俊足の
軍馬に乘りて怱忙(さうばう)と馳せてこの場に寄せ來る、
彼等は斯くて川流の岸のへ立ちて戰ひつ、
青銅の槍くりだして兩軍互に相うてり。
中に[6]『爭』『騒ぎ』あり凄き『運命』またありて、
あるは疵負ひ尚ほ活くる、あるは未だに疵負はぬ
ものを握みつ、あるは又死者の脚曳き陣を過ぐ。
其『運命』は肩の上、人の血に染む(きぬ)まとふ、
恰も生ける人に似て三靈互ひに相交り、
互に打ちて戰ひて互に死屍を曳き合へり。

[5]戰の場面(三)。
[6]四歌四四〇。

盾の表に柔かの耕土の姿亦鑄らる、
鋤返すこと三度なる豐かの(はた)に農民は、
牛馬(ぎうば)を驅りてをちこちに(くびき)を轉じ進ましむ。
[7]軛を轉じ進ましめ耕地の端に達すれば、
人現れて蜜に似る甘美の酒の一盃を、
各自の手中受け取らす、受けたるものは身を返し、
圃畦に進み、またかなた耕地の端に着かんとす。
盾の地板は金なれど、鑄られし耕地黒くして、
鑄る妙工の巧みより(まこと)の物を見る如し。

[7]耕地の姿(四)。

[1]次に鑄たるは収穫の野のおも、ここに鋭利なる
大鎌とりて、勞働の群は収穫忙はし。
無數の瑞穂(みづほ)、あるものは今畦に添へ地の上に、
刈られて落ちつ、あるものは又繩により束ねなる。
束ぬるものは三人(みたり)あり、並びて立てばうしろには、
年若き子ら穗を集め、腕に抱へて休みなく
彼らに運ぶ、(しかう)して主人はひとり默然と、
その(あひ)立ちて杖を取り心の中に喜べり。
又かなたには僮僕は木蔭の下に食のため、
屠れる牛を調理して忙しく勤め、女性らは、
夥多の麥を振り蒔きて農夫の食事とゝのへぬ。

[1]収穫の場面(五)。

[2]盾のおもてに又次に金をもて鑄る葡萄園、
葡萄の房は充ち滿ちて實は皆黒く熟したり、
葡萄の蔓の這ひわたる棚の支柱は銀に成り、
周圍は深き溝流れ、錫もて造る垣たてり。
只一條の路ありてこの場に通じ、これにより、
働く者は園内に入りて葡萄の房を刈る。
若き女性と若人は柔和の思胸にして、
編める籃ぬち熟したる果實を共に運び行く、
其の群の中一人の小兒美妙の琴とりて、
美妙の曲を奏しつゝ、その晴朗の聲揚げて、
葡萄の歌を吟ずれば、衆人同じく之に和し、
大地を脚に踏み鳴し、歌ひつ呼びつ進み行く。

[2]葡萄園と酒の醸造の場面(六)。

[3]盾の(おもて)に次に見る、(つの)眞直(ますぐ)の一群の
牝牛あるもの黄金に、あるもの錫に鑄り出さる、
(なき)聲高く牛舎より引き出されて牧場に、
出づる道のべ潺湲(せんかん)の流れの岸に蘆なびく。
又黄金に鑄られたる牧人四人牛を逐ひ、
更に九疋の脚早き犬の一群從へり。
そこに二頭の恐るべき獅子王、群の前列を
犯し捕ゆる一牡牛、牛は高らに吠え叫び、
曳かれて行けば犬の群、牧人ともに之を逐ふ。
今獅子王はおほいなる牛嚙み倒し皮を剥ぎ、
内臓及び黒き血の溢れいづるを貪りぬ、
牧人逐へど(かひ)あらず、只脚早き犬に呼ぶ、
されど獅子をば嚙み得ざる群は恐れて之を避け、
あたり圍みて[4]狺々(ぎん/\)の聲あぐるのみ、近づかず。

[3]牧牛と獅子(七)。
[4]『猛犬狺々……』(宋玉九辨)。

[5]次に跛行の神工の盾のおもてに鑄るところ、
一の美麗の谷の中、白き羊の(むれ)遊ぶ
廣き牧場、更に又[6]小屋と羊舎と園庭と。

[5]牧場と羊舎(八)。
[6]原文は「屋根のある小屋」、屋根の無き小屋は無し、くどきこと斯の如し、只調のため也。

次に跛行の神匠は盾にあらはす[7]舞踊の場、
ダイダーロスがそのむかしクノーソスなる廣き地に、
鬢毛(びんもう)()なるアリアドネー彼に造りしそれに似る。
こゝに少年親しく取り合ひて樂しく共に舞ひ踊る。
舞の群の中少女らは華麗の(きぬ)を身に纒ひ、
また少年は精巧に織られし光る上衣着る、
更に少女ら冠のいみじきものを戴きつ、
又少年は白銀の帶、黄金の劔を帶ぶ。
譬へて曰はば、陶工が手の中取れる廻轉の
ろくろをためす時に似て、馴れたる脚に速かに、
列を造りて彼と此、互に向ひ進み合ふ。
多數の群は樂しみて此一團を取り圍み、
更に其中すぐれたる歌謠者、絃を弾じつつ、
吟じ、(しか)して其歌の始まる時に、輕妙の
二人の業師(わざし)、群衆のものあかにありて跳ね踊る。

[7]舞踊の場面(九)。

斯く堅牢に造られそ盾の外輪(そとわ)に、神工は、
鑄りぬ、潮流湧きかへる[8]オーケアノスの偉なる影。
斯く堅牢の大盾を神工造りはてて後、
火焰に優り耀ける胸甲彼のため造り、
又その(ひたひ)おほふべき精巧華美の甲造り、
黄金製の冠毛を更に其上飾り附け、
又屈伸の自在なる錫の堅甲造り終ゆ。

[8]オーケアノスは世界全體を圍む流と考へらる。

譽れの神匠一切の武具をかくして造り終へ、
アキルリュウスの母にもて携へ來り捧ぐれば、
ヘープァイストスの宮居(みやゐ)より神母さながら鷹の(ごと)
燦爛(さんらん)の武具携へてウーリュンポスを飛び降る。


更新日:2005/01/28

イーリアス : 第十九歌


第十九歌

神工ヘープァイストスの造れる武具を携へ、神母テチス來りてアキリュウスを訪ひ、 又パトロクロスの屍體の腐爛を防止す。アキリュウス陣を出でて集會の席に臨み、 アトレーデースと和睦す。アガメムノーン己が過失を衆前に認め、 先に約したる賠償を出し、アキリュウスの從者に之を其陣中に搬び去らしむ。 オヂュッシュースの勸を納めて衆人みな食を取る。 アキリュウス獨り飲食を欲せず。麗人プリイセーイス陣に歸りてパトロクロスを哭す。 アテーネー、ヂュウスの命を奉じ、來りてアムブロシアをアキリュウスの胸中に注ぎ、 飢渇の患なからしむ。アキリュウスの出陣。駿馬クサントス、神女ヘーレーの惠に因り、 人語を發しアキリュウスの運命を豫告す。アキリュウス之を顧みず戰車を驅り進む。


[1]番紅花(さふらん)色の被衣(かつぎ)着て、神と人とに光明を
與ふるためにエーオース、オーケアノスの波わくる、
折しもテチス神工の惠携へ舟を訪ふ。
訪へる神母はその愛兒、パトロクロスの傍に
伏して號慟切なるを認む、同僚亦ともに
あたりに泣けり、端嚴の神女その時近寄りて、
彼の手を取り、翼ある言句を陳じ彼に曰ふ、
『愛兒よ、悲哀切なるも、彼の伏すまゝ打すてよ、
その初より神明の意により彼は討たれたり、
いざ人界の子が未だ肩に荷ひしことのなき、
華麗の鎧収め取れ、ヘープァイストスの贈物。』

[1]八歌一以下。

しかく言句を宣しつゝ、アキルリュウスの目の前に、
精美の武具を並ぶれば、皆錚々と鳴り響く。
ミルミドネスの諸勇士は、驚怖にうたれ一人も
之をまともに眺め得ず、されど英武のアキリュウス、
これを眺めて憤然と更に勇氣を振りおこし、
眼蓋(まぶた)の下の双眼を火焰の如く耀かし、
神の惠の燦爛の武具を手に取り喜べり。
精美の武具を恍惚と眺め終りてアキリュウス、
(たゞち)に母に翼ある飛揚の言句陳じ曰ふ、

『慈愛の母よ、この武具を神は賜へり、まさしくも
こは天上の作ならむ、人間これを造り得ず、
我今行きて甲冑を着けん、されども我恐る、
青蠅の群、勇猛のメノチオスの子の疵に??
鋭刄割きし疵に入り、蟲を湧かして(しかばね)
汚さんことを、我れ痛く恐れ悲しむ、(生命は
逃れ去りたり)全身を死はいたはしく腐らせむ。』

脚玲瓏の銀色のテチス答へて彼に曰ふ、
『愛するわが子、此事を胸に憂ふること勿れ、
打死したる勇將の屍體を嚙まむ青蠅の、
むごき一群追ひ去るを我は必ず勉むべし。
パトロクロスの屍は一年こゝに殘るとも、
絶えず姿を變ゆるなく却りて今に優るべし。
汝は行きて集會にアカイア勇士呼び集め、
アガメムノーン元帥に對する憤怒和らげて、
戰鬪のため速かに武裝とゝのへ勇を鼓せ。』

しかく言句を宣しつゝ、彼に激しき勇加へ、
パトロクロスの鼻孔より、アムブロシア、又血紅の
靈液注ぎ、其屍體腐敗すること勿らしむ。

やがて英武のアキリュウス、怒濤の岸を進み行き、
大音聲に叫びつゝアカイア勇將呼び起す。
呼ばれてかくて兵船の(たむろ)の中に住めるもの、
(かぢ)とりて兵船の先に其座を占むるもの、
又水陣の中にあり、人に糧食配るもの、
これらの衆は一齊に??戰場長く退きし
アキルリュウスの出でたれば??勇み集會()の席に就く。
その時二將、アレースに仕ふる二將、槍を杖に、
[2]疵なほ痛く惱むため跛行なしつゝ出で來る、
チューデーデース勇將と、智慧神に似るオヂュシュウス、
二將はかくて前列の中に加はり座を占めぬ。
最後に來しは疵帶べるアガメムノーン、混戰の
中に青銅の槍をもてアンテーノール生める子に??
[1]コオーンに??突かれ疵つきしアガメムノーン、民の王。
かくてアカイア緒軍勢皆一齊に集れば、
脚迅速のアキリュウス彼らの中に立ちて曰ふ、
『アートレ,デーよ、過ぎにし日、少女の故に君と我、
痛く心を苦しめて憤怒激しく爭ひし、
其時和解ありつらば二人のために善かりしを。
[2]リルネーソスを陷れ少女わが手に奪ひし日、
船のへ矢もて[3]アルテミス彼を斃さば善かりしに。
さらばアカイア衆軍はわれの憤怒の故により、
敵に打たれて亡され塵を嚙むことなかりけむ。
ヘクト,ル及びトロイアに取りて此事 (さち)なりき、
君と我との爭をわが民長く忘るまじ。
さはれ苦痛に係らず、運命により胸中の
われの思を制し得て、過ぎたることを過ぎしめよ。
我今憤怒鎭むべし、執念深くとこしへに
怨抱くはわれに不可、いざ速に戰に、
毛髪長きアカイアの軍勢君は立たしめよ、
しかせば我はまのあたり、行きてトロイア軍勢に
向ひ、彼らが我船のほとり殘るや試めし見む。
思ふに荒き戰をわが鋭槍を免れて、
歸りて膝を曲ぐること彼らの多數喜ばむ。』

[2]十一歌三七七、四三七。
[1]十一歌二四八。
[2]二歌六九〇。
[3]アルテミスは矢を放って忽ち人を斃す(六歌二〇五)。

しか陳ずれば堅牢の堅甲つくるアカイアの
軍勢痛くアキリュウス怒やめしを喜べり。
その時衆のたゞ中に進むこと無く、民の王、
[4]アガメムノーン悠然と坐せる場より陳じ曰ふ、
『友よ、アカイア勇將よ、神アレースの隨從よ、
立ちて陳ずる者に善く耳を傾けよ、妨げを
爲すこと勿れ、妨げは馴るる者にもつらからむ。
衆人はげしく騒ぐ時、誰かは善くも聞くを得む、
善く言ふを得む、朗々の聲あるものも亂されむ。
アキルリュウスに辯解を我は致さむ、アカイアの
衆人ひとしくわが言を聞きて各々悟れかし。
アカイア人はこれ迄も屢々かゝる言陳じ、
われを咎めき、然れども罪あるものは我ならず、
罪あるものはヂュウスなり、又[5]モイラなり、暗に住む
エリニュスなり、わが魂を??アキルリュウスの獲たる者、
我の奪ひし彼の時に??集議の席に(くら)ませり。
我れ何事を爲したりや?すべてを成すはある神女、
即ちヂュウスの端嚴の息女??すべてを欺ける
凄き[6]アテーぞ、其脚は輕捷にして地にふれず、
たゞ人間の(かうべ)()歩みて彼は人間に
害を加へつ、あるものゝ魂を繋縛し喜べり。
[7]人間及び神明の中の至上と曰はるれど、
ヂュウスも嘗て彼のため欺かれたり、ヘーレーは
女性の身にて(其力借りて)巧みに欺けり。
そは堅城のテーベーにアルキュメーネー今正に
ヘーラクレース勇猛の男子産まんとしつる時。
其時ヂュウス揚々と諸神の中に宣し曰ふ、
『あゝ一切の神明と神女もろともわれに聞け、
[8]エーレーチュイア??誕生を司るもの??光明の
中に一人(ひとり)を今日擧げん、血統われを本とせる
人界の子の中にして、彼れ一切を率ゆべし。』
計略たくむ端嚴のヘーレー其時彼に曰ふ、
『君恐らくは僞らむ、其言ふところ遂げざらむ、
ウーリュンポスを統べる者、今誓言を立てゝ曰へ、
君を本なる血統の人間の子の中にして、
此日女性の胎内を出で來るもの、彼れ正に、
他の一切の隣人を皆悉く統ぶべしと。』
しか陳ずればクロニーオーン・ヂュウス僞計を悟り得ず、
固き誓言宣し述べ、次ぎて痛くも欺かる。
ウーリュンポスの高嶺よりかくてヘーレー飛び降り、
ペルシュウスの子、ステネロス娶れる淑女住むところ、
神女は知りてアルゴスのアカイア城市さして來つ。
彼れ其時に胎中に愛兒宿して七ヶ月、
産期滿たねど、ヘーレーは光の前にその子擧げ、
エーレーチュイア遮りて、[1]アルキュメ,ネーの産留め、
かくして行きてクロニーオーン・ヂュウスの前に陳じ曰ふ、
『耀く電火飛ばす君、われ一言を陳ずべし、
アルゴス族を治むべき譽れの人は()れいでぬ、
ペルヒーイアデ,ス・ステネロス生みたる其子、君の系、
ユウリュスチュウス、アルゴスを司る事不可ならず。』
しか陳ずれば、おほいなる哀愁痛く胸打ちて、
怒はげしきクロニーオーン、即ち毛髪輝ける
アテーの頭かいつかみ、すべてを斯くも欺ける
アテー、再び星光る天界並にオリュンポス、
訪ふべからずと、莊嚴の誓を堅く宣し告げ、
宣し終りて手の中に彼を握りつ、星光る
天よりはるか抛げおとし、下界の中に降らしむ。
ユウリュスチュウスの令をうけ、賤しき勞にいそしめる
[2]愛兒見るたびクロニーオーンつねにアテーを憎しめり。
斯く亦われもおほいなる堅甲振ふヘクトール、
わが水陣の傍にアルゴス軍を打てる時、
はじめ我身を欺きしアテーを忘れ得ざりけり。
さもあれ我は過てり、ヂュウスはわれを欺けり、
かゝれば今は和ぎて[3]君に賠償贈るべし。
乞ふ、戰鬪に身を起し我が衆軍を起たしめよ。
先きに英武のオヂュシュウス親しく君の陣に行き、
[4]約せしところ一切の贈遺を君に致すべし。
君に意あらば、戰の情念いかに激くも、
暫く殘れ、わが家臣、舟より品を齎さむ、
心に叶ふ珍重を贈るを斯くて君は見む。』

[4]衆の眞中に立たざるは負傷の故か、或は近くアキリュウスに聞かせんためか、此句評家に種々の説あり、VOSSは「席より立ちて、しかれども集團中に進まずして」と譯す。
[5]運命、時には好運、時には惡運、エリニユスは九歌四五四と五七二參照。
[6]九歌五〇二「罪」(アテー)と「祈」參照。
[7]九五 -- 三三他のエピックよりの挿入なるべし、此の場合にふさはしからず。
[8]十一歌二七〇。
[1]ヂュウス
  │
ペルシュウス
  │
  ├─────────┬──────────┐
  │         │          │
ステロネス     アルケーオス     エレクトリオン
  │         │          │
ユウリュスチュウス アムプイトリオン─┬─アルキュメーネー
                   │
                ヘーラクレース
[2]ヘーラクレース。
[3]アキリュウス。
[4]九歌一二〇以下。

脚神速のアキリュウス即ち答へて彼に曰ふ、
『アートレ,デーよ、光榮のアガメムノーン、衆の王、
望まば君は正しくも約せる品を與ふるを
得べし、或は扣ゆるを。今は我たゞ速かに
戰鬪念ず、こゝにしてたゞ空言に耽けること、
猶豫すること不可ならむ、偉なる事業はまだ成らず、
やがて見るべし、先頭に立ちてトロイア軍勢を、
青銅の槍打ち揮ふアキルリュウスの亡ぼすを。
かく又汝ら敵軍と戰ふことを心せよ。』

智謀に富めるオヂュシュウス即ち答へて彼に曰ふ、
『あゝ英武のアキリュウス、汝誠に勇なるも、
食を取らずにわが軍を、敵と戰爲さんため、
進むる勿れイリオンに、二軍ひとたび向ふ時、
而して神が各々に燃ゆる勇氣を鼓する時、
わが見るところ戰爭の時期は短きものならず。
いざ兵船の中にして食と酒とを充すべく、
アカイア軍に令下せ、勇も力も是よりぞ、
夕陽入るにいたる迄、終日たえて食物を
取ることなくば、いかにして敵と戰ふことを得む。
心の中に戰鬪の激しさ人は望むとも、
彼の筋骨おのづから疲勞を感じ弱るべし、
餓と渇とは迫り來て歩むに膝は惱むべし。
之に反して、酒に飽き食に等しく飽き足りて、
終日敵の軍勢に向ひ力を奮ふ者、
彼の胸中勇猛の氣は衰へず、双の膝
戰場あとに歸る迄、絶えて疲るゝ事あらず。
いざ軍衆を解き散じ、食傳ふべく令下せ。
アガメムノーン、衆の王、アトレ,デース、集會の
席のもなかに約したる品を搬ばむ、アカイアの
衆軍親しく之を見む、君亦心喜ばむ。
又アルゴスの衆中に立ちて誓言彼述べむ、
世間の習ひ、兩性の間に常にある如く、
ブリセーイスの床の上、未だ上りしことなしと、
しかせば君の胸中に心おのづと鎭まらむ。
而して王は陣中に豐かの宴を催して、
君の心を和げむ、君の求めは皆滿たむ。
アトレーデーよ、今の後、他にも一層正しかれ、
われ眞先に他に對し、非法をなさば己より
進み和睦を求むべし、この事王の恥ならず。』

アガメムノーン、衆の王、即ち答へて彼に曰ふ、
『智謀に富めるオヂュシュウス、我喜びて君に聞く、
君説くところ詳細に皆悉く理に叶ふ。
我の心の命の儘、これらの事を盟ふべし、
神明の前僞の盟は爲さず、アキリュウス、
戰志さこそは激しくも、暫くとまりこゝに待て、
衆將同じく亦殘れ、約せる贈遺、陣よりし
來らしむべし、而うして堅き盟を結ぶべし。
オヂュシュウスよ、我れ君に願ひ而して又命ず。
アカイア族中すぐれたる青春の子ら撰び取り、
我の舟より、先きにわが約せる儘に大量の
贈遺の品を取らしめよ、又女性らを連れ來れ。
而してアカイア軍中に[1]タルチビオスよ牲として、
ヂュウス並に日の神に野猪さゝぐべく備せよ。』

[2]死人が顔を戸口に向くる習はローマ人中にもあり、足を戸口に向け……と譯せる者あるは誤か。

智謀に富めるオヂュシュウス其時答へて彼に曰ふ、
『あゝアキリュウス、アカイアの中に勇武の勝れたる
ペーレーデース、槍取らば汝誠に我よりも
優る、されども光輪の影まづ我の身を照し、
世を見しことの多ければ智慧は汝に我優る。
されば汝の心よくわが忠言を受入れよ。
激しく暴ぶ戰鬪に早くも人は飽き足らむ。
鋭刄廣く地の上に多くの犠牲切り斃す、
されど戰鬪 (さば)く神、クロニーオーン權衡を、
傾けむ時[3]収穫は思の外に小ならむ。
アカイア勇士食斷ちて死者を傷むは不可ならむ、
戰ひ死する者の數極めて多く日々續く。
いづれの時か人は能く其辛勞を休み得む?
されば一日哀弔を致せる後に、剛健の
心を持ちて、戰歿のわが同僚を埋むべし、
又悲慘なる戰に(まぬが)れ生を保つもの、
彼は酒食を念頭におくべし、かくて將來に
堅き青銅身に着けて、絶えずも敵の軍勢に、
向ひ戰ふことを得む。我また曰はん、軍中の
誰しも二度の忠言を待ちて留ること勿れ!
われの水師の傍にたぢろぎ留るものあらば、
禍ならむ、我軍は寧ろ群り、一齊に
駿馬を御するトロイアの軍ぬ向って戰はむ。』

[3]鹵獲の少きを曰ふか。

しかく陳じて立上る、伴ふものはすぐれたる
ネスト,ルの子ら更に又、ピュリュウスの息メゲースと、
メーリオネース又トアス、クレーオ,ンの子リュコメデ,ス、
又伴ふはメラニポス、打ちつれたちて元戎の
陣に入り來る間もあらず、言の如くに行爲(わざ)は成り、
船より齎らし來るもの[4]、七つの鼎、約の儘、
燦爛として光る釜、其數二十、引き來る
駿馬合せて十二頭、技藝すぐれし七人の
女性、つゞいて第八はブリセーイスのやさ姿。
衡にかけてオヂュシュウス、十タランタの黄金を
携へ行けば、アカイアの青年同じく品々を
齎らし來り、集會の席のもなかに之をおく。
アガメムノーン身を起す、其傍に朗々の
聲、神に似るタルチビュオス、手に一頭の野猪押ふ。
アートレ,デースおほいなる(つるぎ)の鞘の傍に
帶べる短刀引き拔きて、野猪の頭の一總(ふさ)
粗毛をさくと切り落し、双手を擧げて神明に
祈凝せば、アカイアの衆軍ひとしく聲収め、
皆蕭然と元戎に耳傾けて座に並ぶ。
その時、王はおほ空を仰ぎ祈禱(きたう)を捧げ曰ふ、

[1]婦人の慟哭二歌七〇〇 十一歌三九三。

『[2]パトロクロスよ、優しくもわが心痛を憐みし
君なほ命ありし時、我れ陣營を別れゆき、
今し歸れば衆人の頭領??君はすでに逝く。
斯くして禍難相つゞき我が身を襲ふ、かなしさや!
恩愛の父母許したる我の良人、青銅の
刄に裂かれ斃れしを、先には見たり[3]都府の前、
わが慈母生める三人の愛の兄弟、禍の
其日ひとしく薄命の最後とげしを又見たり。
脚神速のアキリュウス我が良人を討ち倒し、
ミネースの都市破りたる、其時君はわが泣くを
許さず、我を英剛のアキルリュウスの妻となし、
舟に乘じてプチエーに、歸りてそこに大禮を、
ミルミドネスの族中に擧げんと優にのたまひき。
優にやさしき君の死を我はいかでか泣きやまむ!』

[2]パトロクロスの優しさ十七歌六七〇。
[3]リルネーソス、二歌六九〇。

涙流して陳ずれば、(かたへ)の女性一同に、
パトロクロスを[4]陽に泣き、心におのが難を泣く。
今アカイアの諸長老アキルリュウスの傍に、
集り食を勸むれば、拒みて慟哭しつゝ曰ふ、

[4]十八歌二八 -- 二九。

『愛するわれの同僚のいづれかわれの(めい)聽かば、
われは願はむ、口腹の好みに因りてわが心
慰むべしと曰ふ勿れ、大哀我の身を襲ふ、
夕陽沈む時まではまだ/\酒食我取らず。』

しかく陳じてアキリュウス、友の諸將を去らしめぬ、
殘るは二人の[5]アトレーダ、及び英武のオヂュシュウス、
イドメニュースとネストール、老齡の御者プォイニクス、
これら等しく慟哭の切なる友を慰めぬ。
されども暴るゝ血戰の中に入らずば慰まず、
彼は過ぎしを思ひ出で慟哭しつゝ叫び曰ふ、

[5]複數。

『薄命の君、一切の中に至愛のわれの友、
駿馬を御するトロイアに、アカイア軍勢悲慘なる
戰鬪はげしく挑みし日、心をこめて迅速に、
わが陣中に豐かなる食を君こそ備へたれ。
而して今は鋭刄にさかれて君は横たはる、
君を悼めば陣中に具へる酒食取ることを
わが情とゞむ。君の死に優る災難われ知らず。
妖婦ヘレネー本をなし、異郷の空にトロイアと
戰ふ其子思ひ侘び、プチエーの地に恐らくは
今泫然と悲みの涙灑がん、われの父、
その父死すと聞かんとも、ネオプトレモスわが愛兒、
スキュロスの地に育てられ、今安からむ秀麗の
彼死したりと聞かんとも、我はかほどに嘆くまじ。
先にひとりの胸中に我の心は念ずらく、
馬の産地のアルゴスを、隔ててこゝにトロイアに、
歸りて黒き船の上、我が子をかなたスキュロスの
郷より呼びて、彼の目にわが一切の財寳を、
我の有する奴隷らをわが高屋を示せとぞ。
故は、思ふにペーリュウス、其頃既に生命を
またく棄つべし、さもなくば餘命短く老齡は
彼を襲ひて惱まして、つねに悲報を期し乍ら、
遂には此身アキリュウス??彼の愛兒の死を聞かむ。』

涙流して陳ずれば、共に等しくもろ/\の
長老おの/\其家に残せしものを思ひ泣く。
其泣くを見てクロニーオーン彼等を痛く憐みつ、
たゞちに羽ある言句もてアテーナイエーに向ひいふ、

『あゝわが愛兒、剛勇の男子を汝見棄てたり。
汝の心いさゝかもアキルリュウスを思はずや?
船首(へさき)眞直の舟のそば、見よ彼坐して亡びたる
その愛友を思ひ泣く。他の同僚はみな去りて
その宴席に赴けり、彼たゞひとり酒食斷つ。
汝今行きネクタルと、アムブロシアの芳醺を、
彼の胸裏につぎ入れよ、然らば餓に苦しまじ。』

しかく宣して、素よりも望める神女呼び起たす。
神女即ち(はね)廣く聲の鋭き鷲のごと、
虚空横切り天上を降る。其時アカイアの
軍勢共に速に其陣中に身を鎧ふ。
神女即ちネクタルとアムブロシアの芳香を、
アキルリュウスの胸の中注ぎて弱る勿らしめ、
かくて至上の力ある天父の宮に歸り行く。
而して軍勢速き舟、離れて岸に擴がりぬ。
虚空に湧けるボレアスのいぶきに吹かれ紛々と、
天より降る[1]雪片の亂れて飛びて舞ふ如く、
かく燦爛と輝ける無數の(かぶと)、水陣の
外に搬ばる、浮彫の無數の盾も、青銅を
厚く重ねし胸甲も、堅き長柄の大槍も。
其閃光は空を射り、大地は共に青銅の
光のもとに微笑みつ、軍勢進む足もとに
響は起る、其中に、鎧ふ英武のアキリュウス、
([2]齒ぎしり強く、爛々と光る双眼譬ふれば、
炎々燃ゆる火の光、憤怒はげしく迫り來て、
思に耐へず、トロイアの軍に怒りて、神工の
ヘープァイストス鑄造りて贈れるものを身に纒ふ。)
先づ初めには双脛をめぐりて美なる脛甲を、
銀の締金備へたる其脛甲を、其次ぎに、
胸のめぐりに堅牢の青銅製の胸よろひ、
肩のめぐりに、細かに銀鋲うちし壯麗の
青銅の劍、之につぎ取る堅牢の大盾の、
光は強く輝きて滿ちたる月を見る如し。
譬へば海に漂へる水夫の(まみ)に、炎々の
火焰??あなたの荒涼のほとり、山上燃え上る
光現はれ出づる時、颱風おこり、やむを得ず、
友を離れて魚群るる海上遠く去る如し、
斯く精巧を盡したるアキルリュウスの壯麗の
盾の光は空に入る。而して照りて星に似る
堅固の甲取り直し、頭の上にいたゞけば、
上の冠毛搖めける、其黄金の冠毛は、
ヘープァイストス甲頂のめぐりに厚く着けしもの。
その時猛きアキリュウス武具善く彼に適するや、
剛き肢節はしなやかに、動くやいかに檢すれば、
さながら羽翼生ゆるごとわが勇將を躍らしむ。
つゞきて彼は其父の傳へし槍を架臺より
拔き取る、[3]重き堅牢の大槍??外のアカイアの
誰しも揮ひ得べからず。揮ふはひとりアキリュウス。
彼の父にとケーローン與へたるもの、諸勇士を
討たんが爲にペーリオン山に其柄を切りし者。
オートメドーンと[4]アルキモス次に軛に戰馬附け、
其胸めぐり、革帶を美々しく纒ひ、[(糸|言|糸)/口{[]](くつばみ)}を
しかと嚙ましめ、堅牢に組める車臺に、其手綱
きびしく結び、乘り入るる戰車に立ちて、手の中に
オートメドーンは輝ける使ひ馴れたる鞭を取る。
彼のうしろにアキリュウス、纒ふ鎧に輝きて、
ヒュペリオーンの燦爛の姿の如く立ち上り、
父乘り馴れし駿足にもの凄じく叫び曰ふ、

[1]十二歌一五六、十五歌一七〇、等參照。
[2]三六五 -- 三六八後世の添加としてアレクサンドリヤの學者等の棄てたるもの。
[3]十六歌一四二。
[4]十六歌一九七アルキメドーンを縮めし名。

『あゝポダルゲー生むところ、しるき譽のクサントス、
及びバリオス心せよ、わが戰をやめん後、
ダナオイ陣に安らかに騎乘のわれを引き返せ、
パトロクロスを見る如く戰死の我を捨てなせそ。』

その時疾風の足はやきクサントス只愁然と、
軛によりて首を垂れ、軛の輪より垂れさがる
鬣長く地に觸れて、答へて彼に陳じいふ、
(玉腕白きヘーレーの神女言葉を彼に貸す)
『あゝ英剛のアキリュウス、我今君を救ふべし、
さはれ大難近づけり、責あるもの我ならず、
ある[1]おほいなる神及びつらき運命然らしむ。
わが怠慢と遲緩とによりてトロイア軍勢は、
パトロクロスの肩よりし彼の武裝を剥がざりき。
鬂毛美なるレートーの生める一位の[2]高き神、
先鋒中に彼を討ち、將ヘクト,ルの名を成せり。
神速無比と人の曰ふゼピュロスの(いき)もろともに、
速く翔けむはわが願。さはれ運命君が身に
既に定まる、あゝ君は[3]神と人との手に死なむ』

[1]アポローンを暗に指す。
[2]即ちアポローン。
[3]神はアポローン、人はアレクサンドロス。

陳じ終れば其聲を[4]エリーニュエスはおし留む。
脚神速のアキリュウス痛く怒りて彼に曰ふ、
『あゝクサントス、あらかじめ、など死を告ぐる?益も無し。
我善く知んぬ、恩愛の父と母より遠ざかり、
こゝに死すべき運命を、??さはれ飽く迄戰ひて、
トロイア軍を破るべき其時迄は留らず。』
しかく叫びて先鋒に單蹄の馬驅り進む。

[4]九歌四五四参考、自然の秩序を護る者。

[目次] [前] [次]
更新日:2005/01/28

イーリアス : 第二十歌


第二十歌

ヂュウス令を下して諸神を集め、各々其欲するまゝトロイアの軍を助けしむ。 雷鳴り地震ひ、冥王も地底に畏れ震ふ。アポローンはアイネーアースを勵ましてアキリュウスに向はしむ。 兩將の相互威嚇の言句。アイネーアース父祖の系圖を説く。兩將の激戰。 アイネーアース敗れて退きポセードーンに救はる。 ヘクトールつづきてアキリュウスに向はんとするをアポローン押し止む。 アキリュウス前後つづきてトロイア諸將を斃す。ヘクトール再び進んでアキリュウスに向ひ敗れて退く。 アキリュウス單騎進んで敵軍を破る。

戰鬪飽かぬ剛勇のアキリュウスをたゞ中に、
アカイア軍は曲頸の舟のかたへに陣を布き、
かなたトロイア軍勢は對して高き原上に。
その時ヂュウス連峯のウーリュンポスの高きより、
[1]テミスに命じ群神を衆議の席に呼び集む、
神女四方をかけ廻り衆をヂュウスの宮に呼ぶ。
オーケアノスを別にして川の諸神は悉く、
蔭美はしき深林と、清き泉と、草青き
野を、逍遙の一切の仙女もろとも(つど)ひ來つ、
雷雲よする天王の宮殿の中進み入り、
[2]ヘープァイストス優秀のたくみによりて彼の父、
ヂュウスの爲めに造りたる廻廊の中、座に着けり。
かく宮中の宮の中、群神よれば、ポセードーン、
地を震ふもの彼も亦神女の命に隨ひて、
波浪を出でゝ來り坐し、ヂュウスの神意問ひて曰ふ、
『あゝ轟雷を飛ばす君、など又神の集りぞ?
トロイア及びアカイアに關し何らの計らひか?
二軍の間、戰鬪と抗爭痛く迫り來ぬ。』

[1]十五歌八、七[注:八、七に読めるが対応しない?]。
[2]一歌六〇七。

雷雲よするクロニオーン即ち答へて彼に曰ふ、
『大地ゆるもの、汝わが胸の計らひ、群神の
集る故を悟るべし。その滅亡の際に猶ほ、
我人界の子を思ふ、されどもこゝに座を占めて、
ウーリュンポスの高きより眺めて心樂しめり。
されば汝等意の儘に、トロイア或はアカイアの
陣に進みて孰にか汝の威勢貸し添へよ。
ペーレーデース、トロイアに[1]一人向ひて戰はゞ、
脚神速の勇將を暫しも防ぐものあらじ。
先には彼を見しばかり猶全軍は動搖(どよ)めきぬ、
彼れ愛友を失ひて痛恨胸をみたす時、
運命とゝめ遮るもイリオン城を崩すべし。』

[1]神々の干渉なくばの意。

しかく宣してクロニオーン烈しき軍起さしむ。
群神即ち意のまゝにおの/\戰場さして行く。
アカイア軍の兵船にゆくはヘーレー、アテーネー、
同じく共にポセードーン、大地を廻り振ふもの、
巧みの智計身を飾り奉仕勉むるヘルメ,アス、
更に彼らと共に行く、ヘープァイストス、英剛の
氣を負へるもの、蹌踉と跛行の脚を曳きて行く。
トロイア勢に向へるは頭甲光るアレースと、
鬢毛長きアポローン、射弓を好むアルテミス、
レートー及びクサントス、嬌笑好むアプロヂテー。

是まで諸神人界に係はりなくて遠のける
時しも、アカイア軍勢は其アキリュウス、戰鬪の
勞より長く休らひて出でしが故に勇みたち、
しかしトロイア軍勢は脚神速のアキリュウス、
身に燦爛の鎧つけ、猛勇恰もアレース、
髣髴として出づるを見、四肢わななかし畏れたり。
今オリュンポス山上の群神來り、人界に
加はる時に扇動のエリスあらびて立ちあがる。
見よ、壁の外、塹濠の(かたへ)、或は鞺鞺(たうたう)
波うつ岸に、大聲に叫ぶは神女アテーネー、
かなた都城のかしらより、時にシモエイス川に添ふ
カリコロネーを驅けながら、トロイア軍に雄たけぶは、
猛きアレース、咆吼の烈風暴るゝにさも似たり。

かく天上の群神は二軍の兵をはげまして、
戰はしめつ、おのれ又等しく猛く戰へり。
群神及び人間の父なるヂュウス・クロニオーン、
上に烈しく雷おこし、下には共にポセードーン
大地山嶽ゆるがしめ、かくて泉流豐かなる
イデーの山の麓より、トロイア都城丘陵と、
アカイア軍の兵船と、皆一齊にゆらめきぬ。
而して冥府司る[2]アイドーニュウス地の底に、
恐怖に打たれ王座より、たちて叫喚(うごめ)く聲高し、
大地震はすポセードーン、大地を發き、慘憺の
冥府の姿??神さへも恐るゝものを、人間と
神との前にあらはすを患ひ叫喚(うごめ)く聲高し。
かくて群神戰鬪の暴び起せば、比類なき
巨大の響き湧き起り、ポセードーンに逆ひて、
鋭き飛箭携へて立つはプォイボス、アポローン、
アレース武神に向へるは、藍光の目のアテーネー、
ヘーレーめがけ向へるは、飛箭鋭きアポロ,ンの
妹にして黄金の弓を手にとるアルテミス、
レートーめがけ迎へるは強き應護のヘルメアス、
ヘープァイストスに向へるは、淵を湛ふる川の神、
天上の名はクサントス、スカマンダロスと人は呼ぶ。

[2]アイデース(詩的延長)。

[3]かく天上の諸の神挑み合ふ、こなたには、
プリアミデース、ヘクト,ルを一人めざしてアキリュウス、
心の聲の命により、彼を斃して鮮血を
神アレースに捧ぐべく、亂軍中に進み入る。
されどプォイボス・アポローン、アイネーアースを勵まして、
アキルリウスにむかふべく彼に勇氣を注ぎ入る、
即ち神は[4]リカオーン・プリアミデースの聲を眞似ぬ、
斯くてアポローン、ヂュウスの子、彼に向ひて陳じ曰ふ、

[3]七五 -- 三五二 アイネーアースとアキリュウスの戰、??此枝話は本來の原詩以外のものにして行文も着想も宜しからず、後世の挿入なりとリーフは曰ふ。しかもリーフは一六四以下の比喩をホメーロス詩中の獅子談中最も完全なるものと讚す。
[4]三歌三三三。

『トロイア軍の參謀のアイネーアース、先きつ頃、
盃擧げてトロイアの諸將に誇り、アキリュウス・
ペーレーデースに向くべしと大言吐けり、今いかに?』
アイネーアース其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『プリアミデーよ、勇猛のペーレードース・アキリュウス、
これと戰ひ好まざる我に何とて強ひて説く?
脚神速のアキリュウス、彼に始めてけふ此日
向ふにあらず、むかし彼わが牛羊の群襲ひ、
リルネーソスとペーダソス荒したる時イデーより、
槍をふるひて我を攻め我を敗りぬ、クロニオーン
其時我の身を救ひ、四肢と勇とをはげましぬ。
さなくば彼の手に死なむ、彼を助けしアテーネー、
彼を導き戰捷の譽を與へ、青銅の
槍をふるひてトロイアとレレゲスの民撃たしめき。
人界の子の何者かアキルリュウスに敵し得む!
とある神明傍に彼の禍拂ひ捨つ、
而して更に彼の槍、ますぐに飛びて敵人の
身を刺さずんば留まらず、若し平等に戰鬪の
運を頌たん神あらば、容易(たやす)くわれは敗るまじ、
一身すべて青銅と彼誇るとも效あらじ。』

ヂュウスの神子アポローン即ち答へて彼に曰ふ、
『勇士よ汝亦起ちて、祈を高き神靈に
捧げよ、汝を生みたるはアプロヂ,テーと人は曰ふ、
アキルリュウスを生みし神、位は彼の下にあり、
汝の母はヂュウスの子、彼のは老いし海神の
子なり、進みて青銅の鋭き槍をくり出せ。
彼の威喝に欺かれ恐れて引きて可ならむや!』

しかく陳じて統率の將に猛威をふき込めば、
光る青銅よろほひて先鋒すぎて進み行く、
かくアキリュウス目ざしつゝ、戰士の群を驅け拔くる
[1]アンキーセースの勇武の子、これを認めし玉腕の
ヘーレー乃ち友に呼び、之に向ひて宣し曰ふ、

[1]アイネーアース。

『ポセードーン又アテーネー、事の成行きいかならむ?
汝等二神おの/\の胸にこの事思ひ見よ、
アキルリュウスを目がけつゝ、光る青銅の甲着て、
アイネーアース進み來ぬ、アポローン彼を勵ませり。
何かはあらむ、今彼を其陣中に返すべし、
或は誰か其 (わき)にたちて威力の激しきを、
ペーレーデースの身に與へ、勇氣外より優れしめ、
かくて悟れる彼をして「偉なる神靈身をまもる、
先にトロイア軍勢に力を貸して戰鬪と
混亂の難 ()らしたる神は劣る」と知らしめむ。
ウーリュンポスの高きより下り戰ふわが望み、
今日アキリュウス敵陣の中に禍なきをこそ、
神母勇士を生みし時、運命既に定めたる
その一切はアキリュウス後に必ず身に受けむ。
神明の聲この事を彼に告げずば、敵對の
神を見ん時、勇猛の彼も恐れむ、神靈の
姿あらはしいづる時、人間の目は耐へがたし。』

大地を震ふポセードーン彼に答へてん[誤?:答へて]宣し曰ふ、
『ヘーレー、さまで理を離れ怒るをやめよ、君に似ず。
我らの力優るとて諸神互に相對し、
互に戰ひ挑み合ふ、そはわが好むことならず、
寧ろこゝより立ち離れ行き高山の上に座し、
休みてひとり戰を人界の子にゆだぬべし。
たゞ若しアレース、アポローン戰鬪中に身を投じ、
アキルリュウスを妨げて其たゝかひを留めんか、
即ちすぐに戰のあらび彼等を取り卷かむ、
して運命の定めより我が勇猛の威に負けて、
彼ら敗れて速かにウーリュンポスの頂きに、
退き返し他の神の群集中に加はらむ。』

しかく陳じて先に立ち、みどりの髪のポセードーン、
英雄ヘーラクレースの廣き壘壁さしてくる、
(高き壘壁、彼がためトロイア人とアテーネー、
築きたるもの、波洗ふ岸を離れて原上に。
海の妖怪追ひ來る、其時潛む場として。)
こゝに來りてポセードーン他の神明と共に坐し、
双の肩のへ雲深くおほひつゝみて見えわかず、
かなたに別に銀弓のアポローン、及び都市破る
アレースのそば、一隊はカリコロネーの山に坐す。
斯くて兩陣立ち分れ、計略凝し座につきて、
まだ戰鬪の烈しさに進むを避けつためらへり。
されどもヂュウス・クロニオーン高きにありて令下す。

今や平野は一面に戰士戰馬に充ち滿ちて、
青銅光り、兩軍のひとしく進む脚の下、
大地とゞろく、そが中に他より優れし二勇將、
戰鬪猛く志し、時を同じく驅けいづる、
アンキーセスの子、勇猛のアイネーアースとアキリュウス。
アイネーアース眞先に大喝なして進み出で、
その堅牢の甲の上、冠毛すごく振り立てつ、
大盾(おほたて)、胸の前につけ手に青銅の槍揮ふ。
しかして英武のアキリュウス、猛威さながら獅子王の
荒るゝが如く向ひ來る、獅子は全村こぞり來て、
打たんとするも悠然と衆を侮り道を行く、
されども勇む若人が槍を飛ばして當つる時、
憤然として物凄く口を開きて泡を嚙み、
猛然として奮迅の威勢はげしく吠え叫び、
左右に強き尾を振りて脇と腰とを打拂ひ、
群がる衆を眞向に跳りかゝりて打たんとし、
双眼燃えて火の如く、狂へる如く進み來て、
敵を屠るや、前列の中に斃るや顧みず、
正しく斯くもアキリュウス、凛然として勇を鼓し、
敵の猛將トロイアのアイネーアースめざし行く。
二人の勇士近よりて互に向ひ立てる時、
脚神速のアキリュウス飛揚の言句先づ陳ず、

『アイネーア,スよ、斯く遠く隊を離れて進み來て、
我に向ふは何故ぞ?王プリアモス見る如く、
馬率ゐるトロイアの族の統率、念として、
汝來りて戰ふや?さもあれ汝勝てりとも、
王プリアモス其爲に汝に主權與ふまじ、
子ら彼にあり、彼の意は堅し、謹愼又深し、
或は我を亡さばトロイア人は賞として、
果園と耕土??すぐれたる沃地汝のために割き、
與ふることを念とすや?思ふに汝得べからず。
先きには我の鋭槍を恐れて汝逃げさりき、
思ひ出でずや、その昔イデーの山に群牛を
汝ひとりに牧ひし時、我速かに逐ひたるを?
跡見返らず飛ぶ如く汝逃足速かりき、
リルネーソスに逃げ走る汝を逐ふて其都城、
ヂュウス並にアテーネー助くる故に陷れ、
中にこもれる女性らを囚へ、自由を剥ぎ取りき、
されどヂュウスと諸の神明汝を救ひたり。
今は汝の望むまゝ神の助は來るまじ、
我は汝に今命ず、こゝ退きて隊列の
中に加はれ、又われに向ひ戰ふこと勿れ、
禍來るを待つ勿れ、事成る後に愚者は知る。』

アイネーアース其時に答へて彼に叫び曰ふ、
『ペーレーデース、言句もて、さながら小兒見る如く、
われを(おどか)す事勿れ、汝は之を望み得ず、
我また罵辱嘲弄の言句を陳ぶることを得ん。
生死の運の人間のいにしへ述べし言により、
我と汝と諸共に系統並ぶに親を知る、
汝は我の親を見ず、我も汝の親を見ず。
世人はいへり、汝かの譽の勇士ペーリュウス、
又鬢毛の美はしき神女テチスを親とすと、
而して我は英雄のアンキーセースを父とすと
曰はる、又曰ふ、わが母はウーリュンポスのアプロヂテー。
その神明のいづれかは其恩愛の子を此日、
失ふべきぞ、空言を費す後に相別れ、
双方共に戰場を退くことはよもあらじ。
汝好まば我の今述ぶる處を耳にして、
わが系統を學び知れ、衆のひとしく聞く處、
雷雲寄するクロニオーン眞先にうめる[1]ダルダノス、
ダルダニエーを打ち建てぬ。其時聖き[2]イーリオス、
(こと)鮮けき人の都市、未だ平野に立たざりき、
泉流多きイデー山、麓に民は集りき、
其ダルダノス生みたるは[3]エリクトニオス、王として、
生死の運の人間の中に最も富みし者、
彼の領する沼澤の地に草はめる三千の
牝馬は、嬉々と喜びてめづる仔馬を伴へり。
草喰む牝馬、其中にあるもの慕ふ[4]ボレェース、
鬣黒き馬の(かた)現じて之を交はれり、
種を宿せる牝馬らは遂に子を生む十二頭、
穀を産する豐沃の地上をこれら躍るとき、
熟りし麥の頂の高きを飛びて傷つけず、
或は彼ら海洋の潮の上に躍る時、
白く碎くる激浪のかしらを凌ぎ飛びこせり。
エリクトニオス生める息、トローオス、彼れトロイアを
治めて之が王となり、生みたる三兒皆勝る、
アッサラコスとイーロスと、更に容貌神に似る
ガニュメーデース、人界の中に最も美なるもの、
その秀麗の故により、長く天上住まふべく、
諸神は彼を伴れ去りて酒をヂュウスに捧げしむ。
はたイーロスの生みたるは[1]ラーオメドーン、すぐれし子、
ラムポス及びクリチオス、更に勇武のヒケタオーン。
アッサラコスの子はカピュス、アンキーセースはカピュスの子、
アンキーセース我を生み、プリアモス王、ヘクト,ルを
生めり。種族と血統は、我の誇りとするところ。
クロニオーン一切の主たるが故に意の儘に、
時には人に力添へ、時に或はそを減ず。
さあれ[2]敵對混戰のもなかにありて、斯る事
喃々するも愚かなり、小兒の如し、はや止めむ。
[3]罵辱の言を述ぶること我も汝も難からじ、
其量多く百の橈こぐ大船に餘るべし。
人間の舌滑かに、中にあらゆる言説を
含む、言語のおほいなる領は隨處に眺むべし。
汝の口に曰ふところ、汝は他より耳にせむ。
さあれ汝と我と今かゝる言語の爭を、
交はして何の效あらむ、女性を見るに似たるべし、
心惱ます爭論に怒る女性は足進め、
道の眞中に相向ひ、憤怒の情に驅らるれば、
まことの事も僞も喃々しつ他を咎む。
青銅採りて()のあたり戰ふ前に恐喝の
言葉を以て汝わが勇を攘ふを得べからず、
いざ速に槍揮ひ互に技倆試めし見む。』

[1]ダルダノスに關して古の史家詩人らの曰ふところ互に相違あり。
[2]後世の詩人中ダルダニエーとイーリオスとを同一視するものあり。
[3]ダルダノス
  │
エリクトニオス
  │
トローオス
  │
  ├─────────┬──────┐
  │         │      │
ガニュメーデース  アッサラコス  イーロス
            │      │
          カピュス   ラーオメドーン
            │
          アンキーセース
            │
          アイネーアース
(二三六)
[4]風の神。此らの馬の系統については十六歌一四九參照。
[1]イーロス
  │
ラーオメドーン
  │
  ├──────┬─────┬─────┬────┐
  │      │     │     │    │
ヒケタオーン クリユチオス ランポス プリアモス チトーノス
                     │
                   ヘクトール
[2]十三歌二九三參照。
[3]二四六 -- 二五五 十行は恐らく後世の添加。

しかく陳じて、恐るべき盾をめがけて、堅牢の
槍を飛ばせば、其穂先其大盾に鳴りひゞく。
さすがに震ふアキリュウス、其剛健の腕のして、
前に大盾突きいだす、蓋し思へり勇猛の
アイネーアース投げし槍、容易く盾を穿たんと
神靈惠む精巧の武器は生死の人の子の
力に因りて挫かれず、絶えて敗るゝ事なきを、
愚かに彼は胸の中、心の中に悟り得ず。
アイネーアース勇將の影長く曳く大槍は、
盾を破らず、[4]其二層穿てどあとに三層は
殘る、譽れの神工は五層重ねて鍛へあぐ、
表にあるは青銅の二層、裏には錫二層、
その中央の黄金の一層、さすが猛將の
抛げし鋭き其槍の力を防ぎ留めたり。

[4]盾は五層の皮革より成る、金屬は外面の飾のみ、寄するに此數行は全く盾を誤解するもの、??後世の添加なること疑なし、リーフの註解詳悉に説明す。

次いで英武のアキリュウス、影長く曳き槍飛ばし、
アイネーアース持てる盾、圓き大盾うちあつる、
あつるは盾のはしのへり、青銅薄く掩はれて、
更に其上又薄き牛皮掩ふを、[5]ペーリオン
山に伐りたる大槍は貫き、盾は高鳴りぬ。
アイネーアース恐ぢ怖ひ、其身を屈め腕を()し、
身よりはなして盾支ふ、其身を護る圓盾の、
二層を通し貫ける槍は彼の背うちこして、
大地に刺さる、鋭刄をアイネーアース免れ得て、
立ち停りつゝ、おほいなる憂愁、双の眼を滿たし、
(かたへ)の槍の立つを見て恐る、直ちにアキリュウス、
勇氣激しく物凄く、大喝しつゝ劔を拔き、
走りて彼に打ちかゝる、アイネーアース其時に、
巨大の石を??今の世に二人揃ひて揚げがたき
巨大の石を、やす/\と手に取り之を打振りぬ。
進み來れる敵將の甲、或は先に死を
防ぎし盾を、勇將は石を投じて打たんとし、
アキルリュウスは劔をもて敵の息の根とめんとす。
その時地を()る[6]ポセードーン早くも之を認め得つ、
たゞちに不死の神明の群に向ひて宣し曰ふ、

[5]十六歌一四三一[誤?:一四四]。
[6]ポセードーンは先にトロイアに適する神、今アイネーアースに同情す、アポローンに對する反感より、又運命の欲するところを成さしめんために。

『あゝわが憂ひ??剛勇のアイネーアース速に、
アキルリュウスに破られて、冥王の府に降るべし、
愚かなるかな、矢を飛ばす神アポローンに彼れ聞けり、
而して神は亡滅の禍救ふこと無けむ。
無慚なるかな、罪なくて唯に他人の罪のため、
など彼れ禍難受くべきや?見よ、彼つねにおほいなる
天上住める神明に、すぐれし牲を供ふるを。
いざ今行きて死滅より彼を救はむ、アキリュウス、
彼を倒さば恐くはクロニデースは怒るべし、
見よ、運命の定めあり、彼は死滅を免れむ??
生死の運の女性らに、うませし彼の一切の
子らに優りて、クロニオーン愛するところ、ダルダノス、
其裔かくて血族を斷ちて亡ぶること無けむ。
クロニオーンは今すでに[1]プリアモス王の族憎む、
[2]アイネーアース勇にしてトロイア族を治むべし、
彼らの子孫、引きつゞき生れんものも治むべし。』

[1]トロイア軍が盟を破りたるためか、されど四歌四四以下ヂュースはトロイア族を憎まず。
[2]此豫言は所謂「ホメーロスの讃歌」中アプロヂーテーの讃一九七以下にものべらる。ヰ゛ルギリウスのアイネード三歌九四 -- 九八にも。

その時 牛王(ぎうわう)の眼もてるヘーレー答へて彼に曰ふ、
『大地を震ふ汝、今、心に思へ、危難より、
アイネーアース救ふやを、(ある)は勇将棄て去りて、
アキルリュウスの手に打たれ亡ぶるまゝに任かすやを。
我れ藍光の(まみ)光るアテーナイエーもろともに、
不滅の神の群の前、誓しば/\宣したり、
トロイア族の禍を逃るを絶えて許さずと、
勢猛きアカイアの子ら其都市を焼きたてて、
トロイア全部炎々の猛火のために滅ぶ時。』

大地を震ふポセードーン其言きゝて立ち上り、
戰場あとに槍刄の響をあとに進み行き、
アイナイアース、アキリュウス二將の立てる(には)に着く。
(しか)してすぐにアキリュウス、ペーレーデースの目の前に、
神は雲霧を捲き散らし、アイネーアース勇将の
[3]盾より敵の青銅の穂先鋭き槍を拔く、
アキルリュウスの足の前、拔きたる槍を神はおき、
アイネーア,スを大地より空のへ高く引上ぐる。
斯くして神の手によりて、アイネーアース、もろもろの
勇士の列を、もろ/\の戰馬の列を飛びこして、
戰鬪はげしくあれ狂ふ(には)のこなたのはしに着く、
[4]コウコーネスの諸軍勢そこに戰裝整へり。
大地を震ふポセードーン、彼のかたへに近づきて、
乃ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、
『あゝアイネーア、神明の誰ぞ、汝を欺きて、
アキルリュウスに向かしめし?剛勇無雙アキリュウス、
遠く汝を凌ぎ得て、神の恩寵また優る。
彼に再び逢はん時、避けて退け、然らずば、
[5]その定命(ぢゃうみゃう)に先んじて汝冥王の許行かむ。
而して他日アキリュウス、死と運命に逢はん時、
其時汝安んじて先鋒中に驅け得べし、
アカイア軍の何人も汝を殺し得ざる故。』

[3]二八一と矛盾す。
[4]十歌四二八此民族は第二歌のトロイア應援軍中に無し。
[5]上文三〇二參照。

しかく一切明かに陳じて彼を離れ行き、
直ちに次に暗雲をアキルリュウスの眼より去る。
暗雲散じ、アキリュウス其眼をあげて眺め見て、
大息なして豪勇の心に向ひ陳じいふ、

『あゝわが双の()に寫る此れそも何の奇怪ぞや!
わが槍こゝに横はる、而して一命絶たんとし、
此鋭刄を飛ばしたる當の敵今あとも無し。
アイネーアース、彼も亦、同じく不死の神明の
愛兒、さもあれ、我思ふ、彼の誇は空語のみ。
彼は逃げたり、胸の中、再びわれに敵すべき
念はあるまじ、今正に死を免れて喜べり。
いざ戰鬪を喜べるアカイア族に令下し、
他のトロイアの軍勢に向ひて之と戰はむ。』

しかく陳じて陣中に進みて衆に叫び曰ふ、
『あゝ、豪勇のアカイオイ、トロイア軍を離るゝな、
おの/\敵の相對し、鬪志はげしく振り起せ、
われの勇氣は大なれど、かゝる衆軍追攘ひ、
其一切を敵として戰ふことは易からず、
不死の神たるアレースも、はたアテーネー、彼も亦、
かゝる苦戰の難局をいかに勵むも凌ぎ得じ、
さはれわれ能く爲す限り、わが手わが脚わが勇を
奮はん、われは一寸も敢て弛むること無けむ。
われ敵軍を貫かむ、トロイア軍の中にして、
わが鋭槍に近づきて喜ぶものはよもあらじ。』

しかく陳じて衆軍を警しむ、こなたヘクトール、
アキルリュウスに自らの向ふを宣し曰ふ、

『あゝ勇猛のトローエス、アキルリュウスを恐るゝな、
言句を以てわれも亦神と戰ふことを得む、
槍を以てはわれも亦神と戰ふことを得む、
槍を以ては叶ふまじ、神は遙かにいや強し。
アキルリュウスも其言を皆悉く成すを得ず、
中あるものは成るべきも他は半ばにて敗るべし。
我今彼に向ふべし、()の手猛火に似たりとも、
さなり猛火に似たりとも、力は鐵に似たりとも。』

しかく陳じて勵ませば、トロイア軍は敵の前、
槍をかざして一齊に進んで鯨波湧き起る。
その時プォイボス・アポローン、來てヘクト,ルに宣し曰ふ、

『あゝヘクトール、先陣にアキルリュウスと戰ふ()
迎へよ、彼を衆軍の中、混戰のたゞ中に、
さらずば彼の飛ばす槍あるは利劔に傷かむ。』
しかく宣する神の聲、聞くヘクトール慄然と、
震ひ怖ひて、衆軍の隊伍の中に混じ入る。
猛威を奮ふアキリュウス、雄叫び凄く、トロイアの
軍を襲ふて眞先に、イプィチオーンを打ち倒す、
屢々都城破りたるオトリュンチュウスは彼の父、
仙女ネーイス彼の母、彼は多數の民の長、
雪を戴くトモーロス、麓のヒュデー彼の郷、
憤然として進み來る彼の頭のたゞ中を、
アキルリュウスは槍飛ばし、射當て二つに打ち碎く。
摚と大地に倒れ伏す彼に叫べるアキリュウス、

『オトリンチューデー、勇猛の汝大地に横はる、
こゝに汝の命盡きぬ、[1]ギューガイエーの(みづうみ)
岸は汝の()れし(には)、父祖の花園あるところ、
魚族に富めるヒュルロスと渦のヘルモス程近し。』

[1]二歌八六四、八六五。

しかく誇りて陳じ曰ふ、かくて敵の目暗に閉づ。
彼の屍體をアカイアの戰馬、車輪に先陣の
中に碎けり、之に次ぎアキルリュウスは打ち斃す、
アンテーノールの生みし者、[2]デーモレオーン、勇武の子、
その黄銅の頬當を具せる兜を貫きて、
顳顬(こめかみ)うてば黄銅は槍を支へず、鋭刄は
貫き通り骨碎き、内の頭腦は悉く
微塵となりて、アキリュウス敵の猛威を抑へ止む。
而して次に兵車より降り、目前逃げゆける
[3]ヒッポダマスに槍投げて、背筋貫き地に倒す、
敵は最後の息吐きて呻めき、恰も[4]ヘリケーの
神の祭壇めざしつゝ、ポセードーンの喜に、
若き人々ひきて行く牛の呻めきを見る如し、
しかく呻めきて敵將の猛き魂魄身を離る。
つゞいて彼は槍揮ひポリュドーロスに向ひ行く、
王プリアモス生みたる子、年齒も若ければ、
父王は彼の最愛の此子進んで戰ふを
許さず、更に競走にすべてを凌ぎ勝ちし彼、
今若年の誤に脚の速さを示すべく、
先鋒中を駈け廻り遂に一命亡しぬ。
脚神速のアキリュウス馳せ行く彼の背の眞中、
飛刄はげしく打當てゝ金の締金、革帶を
留め、二重に胸甲の重なるほとり貫きつ、
穂先鋭く投槍は臍のほとりに突きいづる、
討たれし敵は膝折りて、呻めきはげしく暗黒に
目は蔽はれつ、はみいづる臟腑を抱き地に伏しぬ。

[2]前後に無し。
[3]前後に無し。
[4]アカイアにあり、ポセードーン崇拜の本據。八歌二〇三。

臟腑を抱き地に伏せるポリュドーロスを、愛弟を、
見たる將軍ヘクトール、悲哀に堪へず、双眼は
愁の霧に掩はれつ、離れて遠くたゆたふに
もはや忍びず、憤然と鋭き槍を打ち揮ひ、
猛火の如くアキリュウスめがけ驀地に馳せ出づる、
之を眺めてアキリュウス跳り上りて喝し曰ふ、

『來れり、われの心情を最も痛く惱ませる
彼れ??わが愛でし僚友を斃したる者、戰鬪の
(には)を雙方、彼と我、逃るゝことをもはやせじ。』

しかく陳じてヘクト,ルに目を怒らして叫び曰ふ、
『近寄れ、汝速かに死滅の運に逢はんため。』

堅甲振ふヘクトール恐れず答へて彼に曰ふ、
『[5]ペーレーデース!言句(ごんく)もてさながら小兒見る如く、
われを嚇かすこと勿れ、われも同じく慘毒の
言句を放つ術を知る、侮辱の言を吐くを知る。
我また汝の勇を知り、[1]我の劣るを善く悟る、
さもあれ勇は劣るとも汝に槍を投げ飛ばし、
汝の(めい)を奪はんか、否か、其事神明の
手中に殘る、わが槍の穂先誠に鋭利なり。』

[5]上文二〇〇 -- 二〇二にあり。
[1]斯る文句を敵將に述ぶること訝かし。

しかく陳じて大槍を揮ひ飛ばせばアテーネー、
輕きいぶきに鋭刄を拂ひ、英武のアキリュウス、
打つを得させじ、あとがへる槍は將軍ヘクト,ルの
足許近く地に落ちぬ、續きて敵を倒すべく
はげしく念じ、憤然と叫喚すごくアキリュウス、
勢猛く飛び出せば敵をプォイボス・アポローン
神力揮ひ、容易くも救ひて雲に隱れしむ。
三たび英武のアキリュウス、其青銅の槍あげて、
鋭き脚に進みより、三たび濃霧の中を打つ、
四たび續きて神靈の暴るが如く進みつつ、
聲を勵まし物凄く羽ある言句陳じ曰ふ、

『汝今また、憎き狗!死を逃れたり、禍は
眞近く側に來れるも、今は汝が投槍の
響の中に祈る神、アポローン汝を救ひたり。
されど此後われに又神の助の有らん時、
汝に向ひ戰ひて汝の(めい)を奪はんず。
今は他の敵わが前に現はるゝもの追ひ打たむ。』

しかく叫んでドリュオプス打てる投槍、其頸の
眞中通れば脚もとに倒れて伏せり。そを捨てて、
フィレートールの生みたる子デームウコスの膝討ちて、
槍に貫き逃げ去る彼を留めつ、引きつゞき、
かざす大刀ふりあげて其生命の根を留む。
つゞきて襲ひ打ち取るはビアースの二子、車上なる
[2]ラーオゴノスとダルダノス??槍を飛ばして彼を打ち、
劔を揮ひてこれを打ち、共に地上に倒れしむ。
アラストールの生みたる子、[3]トローオス又打ち倒す、
等しき顧みてわが一命を助けよと、
彼は近づく敵將の膝を抱きて哀を乞ふ、
哀訴素より空しきを愚かや彼は悟り得ず、
敵は柔和の性ならず、温情知らず、勇猛の
氣に滿ち溢る、手をのべて膝を抱きて哀願を
致すも遂に效あらず、敵の利劔は肝臟を
碎けば臟腑溢れいで、流れ出でたる黒き血は、
胸を滿たして、暗黒は一命つきし彼の目を
蓋へり。次に[4]ムーリオス近くにあるを槍飛ばし、
耳より耳に青銅の穂先するどく貫きて、
之を倒しつ、又次にアゲーノールの生みたる子、
エケクロス打ち、長劍に(かうべ)のまなか打碎く。
刀身すべて血に熱く、一命こゝに盡き果てし
彼の双眼、暗き死と凄き非運におほひ去る。
[5]ヂュウカリオーンは次の牲、肱の筋肉合ふところ、
其腕をうつ青銅のアキルリュウスの槍凄し、
彼は空しく腕を垂れ死の運命を覺悟して、
敵の迫るを迎へ待つ、敵は利劍を打ち揮ひ、
兜のまゝに其頭、打つて落せば背骨より、
脊髄溢れほとばしり、(から)は大地に倒れ俯す。
[6]ペーレーオスの産みたる子、リグモス??郷は豐沃の
土地トレーケー??こを目がけアキルリュウスは迫り寄り、
槍を飛ばして胸を打ち、青銅肺を貫きて
兵車の下に倒れしめ、更につゞいて彼の御者。
[7]アレーイト,スの背を槍に、打ちて同じく兵車より
大地に落ちて倒れしむ、戰馬は爲に暴れ狂ふ。

[2]十六歌九〇四に他のラーオゴノスあり、ダルダノスは前後に無し。
[3]上文二三〇、二三一に他のトローオスあり。
[4]十六歌九六八は別人。
[5]トロイアのヂュウカリオーン前後に無し。
[6]二歌八四四ペーローオスと同人。リグモスは前後に無し。
[7]七歌八のと別人。

譬へば(ひで)る山脈の、深き谷間に暴れ狂ふ
猛火の力炎々と、深き林を焼き拂ひ、
風は四方に其火焰吹き捲き飛ばす樣や斯く、
アキルリュウスは槍揮ひ、神の如くに猛然と、
踏まるる敵を追ひ討ちて大地に黒き血は流る。
譬へば額廣き牛、軛を附けて農場の
床に小麥を踏み行けば、高らに吠ゆる牛の下、
紛々として白き穀、踏まれて殻を去る如く、
アキルリュウスの進め驅る單蹄の馬脚あげて、
[8]敵の屍體を盾と踏み、而して車軸悉く、
車臺をめぐる縁と共、馬蹄並に輪金より
飛び散る凄さ鮮血に、皆一齊に染められぬ。
かくして勇むアキリュウス・ペーレーデース、巧名の
情念切に剛勇の手を血に染めて暴れ狂ふ。

[8]十一歌五三四以下と同じ。


更新日:2005/01/28

イーリアス : 第二十一歌


第二十一歌

クサントスの岸上にアキリュウスの奮戰。トロイア軍の一部は城中に逃げ、 一部は河上に逃ぐ。後者をアキリュウス劔を揮って討ち、又十二人の敵の少年を捕ふ。 リカオーン及びアステロパイオスの死。 クサントス(=スカマンダロス=)の河靈怒りて激浪を揚げて勇將を苦しむ。 ポセードーンとアテーネー來りて彼を慰む。されど河靈は怒をやめず、 シモアイスの河靈を呼び再びアキリュウスに迫る。 ヘーレー之を見てヘープァイストスに命じ、猛火を起して平野を焼き、 河流をを枯渇せしむ。天上に於て諸神互に相討つ。 アテーネーはアレースを破る。ポセードーンに激せらるるもアポローン戰はず。 アルテミスはヘーレーに惱まさる。プリアモス王命じて城門を開き、 逃れ來る自方を入らしむ。追撃し來るアキリュウスはアゲーノールに迫る、 アポローン之を救ふ。

水美はしきクサントス、クロニーオーン生むところ、
流渦卷くクサントス、其岸さしてトロイアの
軍到る時、アキリュウス之を散らして、一隊を
都城の方に平原の上に追ひ打つ、[1]前の日に、
アカイア軍がヘクト,ルに追はれ畏れて逃げし(には)
トロイア勢は逃げ走りこゝに群がる、其前に
ヘーレー霧を敷き散らし路を遮る、他の隊は
深き大河(おほかは)、銀浪を渦卷く中に追はれ入り、
騒音高く落ちこみつ、深き流は咆え哮び、
岸はめぐりに轟々の音もの凄く鳴りひゞき、
叫喚高く敵の軍泳ぎて波に捲かれ去る。
譬へば猛き火に追はれ、流に向ひ遁るべく
蝗の一群飛び翔くる、而して火焰炎々と、
激しく襲ひ焼き立てゝ、蟲は流に落つる(ごと)
流れ渦卷くクサントス、其喧囂の大水は、
アキルリュウスの手よりして人と馬とに滿たされぬ。

[1]十七歌七五三以下。

ヂュウスの寵兒アキリュウス、岸の(かたはら)楊柳の
幹に其槍立てかけて、ただ一刀を手に握り、
神の如くに勇猛の(わざ)たくらみて、切りまくる、
四角八面斬りまくる其鋭刄につんざかれ、
凄き叫喚湧き起り、流るゝ川は血に紅し。
譬へば魚群おほいなる海豚(いるか)に追はれ、逃げ泳ぎ、
捕ふるものを皆喰らふ敵を恐れて、碇泊に
善き港灣の隅にある洞を充たすを見る如し。
斯くトロイアの軍勢は、流うづまく大川の
けはしき岸に身を隱す、而して既に殺戮に
其手を倦めるアキリュウス、流れの外に、生き乍ら
パトロクロスの牲として、囚ふ[2]少年十二人。
仔鹿の如くおのゝける其一群を引き出し、
彼ら自ら[3]しなやかの被服のめぐり纒ひたる
[4]革紐奪ひ、背の上に彼らの双手しばりつけ、
兵船さして送るべく、其友僚に渡すのち、
また殺戮の念に燃え、陣頭さして躍り出づ。

[2]十八歌三三七に十二人のトロイア少年を牲とするをアキリュウスは盟ふ。
[3]鎖かたびらの類か(五歌一一三)。
[4]捕虜を縛るため用意せるものと見ゆ(評家ユウスタチオスの説)。

その時彼の逢ひたるは、ダルダニデース・プリアモス
生みたる愛兒[5]リュカオーン、水より遁れ出でしもの。
これより先にアキリュウス夜に乘じて襲ひ入り、
捕へて父の果園より荒くも奪ひ取りしもの、
乘車の輪 (へり)造るべく鋭き刄、無花果の
枝に加へし彼の上、不意の禍難は降りけり。
而して舟にのせ行きて彼を賣りしはレームノス、
堅き都城のあるところ、[6]イエソーンの子は買ひ取りき、
そこより彼を莫大に[7]エーイチオーンは賠ひき、
(彼の故郷はイムプロス)そこより更にアリスベー、
送られし彼逃げ出で祖先の家に歸り來ぬ。
レームノスより歸り來て、友と語りて樂しめる
日數十一、其の次の第十二日、運命の
神は可憐の子を又も、アキルリュウスの手に渡し、
勇将彼を好まざる冥王の許送らんず。
脚神速のアキリュウス、勇める(まみ)に見るところ、
彼は赤裸に、兜無く、盾なく、更に槍も無し、
すべて是らを地の上に彼悉く投げ棄てぬ、
汗は川より逃れ來し彼を弱らせ、兩膝は
疲勞に惱む??之を見てペーレーデース怒り曰ふ、

[5]リキエーの將軍に同名別人あり二歌八二六。
[6]イエソーンの子はユーネーオス七歌四六八。
[7]テーベーの君主に同名別人あり(六歌四一六)。

『何らの奇怪!今われの(まみ)に親しく映るもの!
彼の勇猛のトロイアの軍勢われの討ちしもの、
陰霧の暗の郷を出で再びこゝに現はれむ、
見よ秀麗のレームノス郷に賣られし彼は今、
不幸の運を免れてこゝに來れり、海岸の
白波は衆を捕ふるも彼を抑ゆることあらず。
さはれ今はたわが槍の鋭刄彼も味はゝむ、
しかせど我は胸中に(くわん)じ、しかして悟るべし、
同じく彼がかなたより歸るや、あるは生の本、
大地は彼を留むるや、他の勇将に爲す如く。』

しかく念じてアキリュウス立てば、恐怖を抱く敵、
近くに來り彼の膝ふれんとしつゝ飽く迄も、
無慚の死滅暗黒の運命逃れ去らんとす。
その時かなた英剛のアキルリュウスは[1]大槍を
高く振りあげ打たんとし、こなたリカオーン其下を
潛り、身を()し膝に觸る其背を越して飛べる槍、
人の血肉飽く迄も求め乍らも地に刺さる。
その時彼は片手もて哀願しつゝ膝に觸れ、
また他の手もて[2]鋭刄の槍を抑へて放たせず、
かくて飛揚の翼ある言句を陳じ彼に曰ふ、

[1]先文一七には槍を岸の樹に立てかくとあり、かかる矛盾或は略文に關して古の或評家は喋々す。
[2]槍は地に刺さる、他の槍か?(一七)。

『あゝアキリュウス、哀願を聞きて憐みわれ許せ、
神の寵兒よ、われの身は君の被保護者、そのむかし
デーメーテールの穀物を君の許にて味はひき、
そは果樹園の中にわれ囚へて父と友とより、
離して遠くレームノス聖なる郷に曳き行きて、
われを賣りし日??百頭の牛はわが身の(しろ)なりき。
而して我今三倍を與へて此身償はむ、
多くの苦難受けし後、われイリオンに着きてより、
今に到りて十二日、しかも今猶非なる命、
君の手中に我を置く、ヂュウスは我を憎しみて、
再び君に我與ふ、ラーオトエーはわれの母、
われを短命の子と生めり、母の老父はアルテース、
サトニオエース河に沿ふ地勢の高きペーダソス、
領とし、猛きレレゲース族を率ゐるアルテース。
彼の愛女をプリアモス、他の女性らと共に取る、
これより()れし二人の子、われらを君は打たんとす。
ポリュドーロスを先鋒の歩兵の中に[3]君打てり、
鋭き槍に君討ちし彼は正しく神に似る。
而してこゝに禍は我に及ばむ、われは知る、
ある神靈の驅りし我れ、君の手中を逃れずと、
さはれ他の事我曰はむ、之を銘ぜよ、胸の中、
我をば殺すこと勿れ、優しきしかも猛勇の
君の愛友殺したるヘクトールとは母は別。』

[3]二十歌四〇八。

プリアモスの子リカオーン、斯くの如くに言句もて
哀を求めぬ、然れども答ははげし、無情の句??

『愚かなる者、償を曰ふこと勿れ、説く勿れ、
パトロクロスが禍をまだ受けざりし昨日迄、
トロイア人の生命を許すをわれは喜べり、
而して彼ら生き乍ら捕へ、多數をわれ賣りぬ、
されども今はイリオンの前に、わが手に神明の
投ずるものは一として、死を免るゝものあらじ、
トロイア人は皆然り、プリアモスの子猶更に。
斯れば汝亦死せよ、何故汝斯く泣くや?
汝に遙か優れたる[4]パトロクロスも亦死せり。
汝見ざるや更にわが軀幹の美なる大なるを?
すぐれし勇士、父とする、われは神女の生むところ、
しかも死滅と非命とは我にも遂に來らんず、
そは曙か、黄昏か、はた日中か、われ知らず、
あるもの我に手向ひて鋭槍飛ばしわれ討たむ、
あるひは絃を離れ來る[5]勁箭われの命絶たむ。』

[4]「パトロクロスも亦死せり」アレクサンダー大王臨終の時、侍醫カリステネース此句を大王に誦せりといふ。
[5]ヘクトールを倒せる後日パリス彼を射て殺す。

しか陳ずればリカオーン、心も膝もわなゝきつ、
覺悟極めて槍放ち、兩手をのして地の上に
坐れば、やがてアキリュウス、鋭利の劍を拔き放ち、
頸筋めがけて斬りおろす、兩刄の劍斬り入りて、
無慚に裂けば、うつぶしに大地の上に身を延して、
彼は斃れつ、暗黒の血潮流れて地を染めぬ。
その脚取りて屍をアキルリュウスは水に投げ、
勝に誇りて翼ある言句放ちて叫び曰ふ、

『魚類の中に水中に汝休らへ、疵口の
血を意のまゝに水族は()むべし、而して恩愛の
母は汝を床に乘せ、泣き悲しむを得べからず、
スカマンドロス渦券きて[誤:卷きて]大海原に引き去らむ。
潮の中に躍る魚、暗き波浪を潛り行き、
リカオーン汝の白き肉求めて之を(ゑば)とせむ。
亡べ、汝ら逃げ走る其後追ひてわれ暴ぶ、
遂に聖なるイーリオンわれの手中に歸する迄。
美麗の流、銀浪の渦卷く川も汝らの
助けとならず、[1]牲として夥多の牛を捧げしも、
又渦卷きに單蹄の馬生き乍ら沈めしも、
汝ら斯くも運命の非なるに因りて亡ぶべし、
パトロクロスの落命に、われの不在に舟のそば、
汝加へしアカイアの軍の死傷の償ひに。』

[1]十一歌七二八參照、??ペルシヤ人は馬を川に牲として投ぜり(ヘロドートス六歌六一、四歌一一三、パーチア人はユーフラテース川に馬を牲とせり(タチツスの年代史六歌三七)。

しか陳ずれば河の靈、更に一層怒り増し、
アキルリュウスの猛勇の働き抑へ、トロイアの
軍の破滅を救ふべく恩廻らす胸の中。
その時長く影を曳く槍ひつさげてアキリュウス、
ペーレゴーンの生みたる子、[2]アステロパイオス倒すべく、
念じて猛く突きかゝる(ペーレゴーンはアキシオス
河の靈の子、其母はアケサメノスの息女らの
中の長たるペリボイア、彼と契れり、河の靈)
今アキリュウス突きかゝる敵は川より驅けあがり、
二條の槍を手に握る、而して河靈クサントス、
彼の心に勇を添ふ、河靈は猛きアキリュウス、
流の中に若き子ら酷く討てるをいきどほる。
かくて兩將打向ひ、近よる時に、脚速き
アキルリュウスはまづ口を開きて敵に叫び曰ふ、

[2]パイオニヤの將軍アステロパイオス(十七歌三五一)。

『いしくもわれに手向へる汝の種族何ものか?
わが猛勇に手向ふは皆薄命の人の子ぞ。』

ペーレゴーンの勝れし子答へて彼に陳じ曰ふ、
『汝、勇武のアキリュウス、などわが素性問ひ正す?

遠く離るゝ豐沃の[3]パイオニエーはわが故郷、
[4]長槍揮ふパイオネス族を率ゐてイーリオン、
此地に我の着きてより第十一の日は曙けぬ、
我の祖先はアキシオス、其大水の河の靈、
(大地に添ひて清き波送る流のアキシオス)
槍の名將ペーレゴーン、彼の子にしてわれの父、
人は然かいふ、さはれ今、アキルリュウスよ戰はむ。』

[3]パイオネス族弓手とあり。
[4]二歌八五〇、十七歌三五〇。

しかく嚇せばアキリュウス、高らにかざすペーリオン山より取りし秦皮(とねりこ)の大槍、??こなた左右(さう)の手に、ひとしく槍をふりあぐる、アステロパイオス勇将の、
[注:「しかく」以下は原文で改行されず。161-163の三行分に相当する。]
其一條は盾に當つ、されども之を貫かず、
神の賜へる黄金の層は鋭刄遮りぬ、
他の一條はアキリュウス勇士の右の腕掠め、
腕より黒き血は流る、而して槍は彼を過ぎ、
肉に飽くべく念ずれど空しく土に突き刺さる。
次に英武のアキリュウス、其鋭利なる槍かざし、
アステロパイオス倒すべく勢荒く投げ飛ばす、
しかも其槍覘 ()れ、高き堤に突き當り、
槍身 (なかば)隱れつつ、土中に深く突き刺さる。
ペーレーデースついで又腰より利劍拔きかざし、
激しく敵に進み行く、敵は剛強の手をのして、
アキルリュウスの長槍を岸より拔くを得べからず、
拔くべく猛に念じつゝ三たび其槍握り()る、
而して三たび效あらず、四度試み、勇将の
投げし長槍おし曲げて、折らんとしつる折もあれ、
近く迫りてアキリュウス劔を擧げて彼を打つ、
腹部のもなか臍のそば、打てば臟腑は悉く
溢れ地上に擴がりて、暗は喘げる彼の目を
おほへり、かくてアキリュウス彼の胸のへ脚加へ、
武裝剥ぎ取り、揚々と大言放ち陳じ曰ふ、

『かく横はれ、おほいなる河靈の裔と生るるも、
クロニーオーン天王の子らと戰ふ事難し、
廣く流るる大川の靈より出づと汝曰ふ、
さもあれ我はクロニオーン・ヂュウスの裔と身を誇る、
我を生めるは數多きミルミドネスを司どる
アイアコスの子、ペーリュウス、其アイアコス、神の裔、
而してヂュウス、大海に流るる川の靈よりも
勝る、さばかりヂュウスの子、河靈の子にぞいや勝る。
汝の(かたへ)おほいなる川流るゝも、汝の身
助くるを得ず、クロニオーン・ヂュウスは遂に敵あらず。
[1]アケローイオスの大いなる力も彼に並び得ず、
潮流深く湧き返るオーケアノスの大威力、
川こと/\゛く流れいで、海ことごとく湧くところ、
あらゆる泉、底深き井水ひとしくいづる本、
彼れなほ偉なるクロニオーン天上高く震ふ時、
その恐るべき轟雷に、その霹靂におのゝけり。』

[1]アイトーレーとアカルナニエーの間を流るるヘラスの大河、グリース人は頗る之を崇む、後代の文學には川の人化又水の人化として用ゐらる。

しかく陳じて堤より其青銅の槍を拔く。
敵の一命斷てる彼れ、屍體をそこにうち棄てつ、
沙場に伏して濁りたる波に空しく浸らしむ。
その(から)目がけ寄せ來る鰻の群は、もろもろの
[2]魚類と共に腎臓のほとり脂肪を嚙み喰らふ。
パイオネス族冠毛を揮ふをついで彼は打つ、
アキルリュウスの手にかゝり、利劍によりてその主將、
戰軍中に亡べるを、眺める軍はおのゝきて、
渦卷く川の岸に沿ひ走るを追ひて彼は打つ。
[3]テルシロコスとミュドーン又アスチュピロスを進み打つ、
又ムネーソス、トラシオス、オペレステース、アイニオス。
其外あまたパイオネス彼に打たれて死なんとす、
その時深き水の靈、假に人間の(かた)現じ、
怒りて彼に渦卷ける水の底より叫び曰ふ、

[2]鰻を魚と認めず。
[3]十七歌二一六、ミュドーンは五歌五八〇のとは別人、アスチュピロス以下皆前後に無し、オペレステースは八歌二七五のとは別人。

『あゝアキリュウス、人間の業にあまりて振舞へる
汝の暴び、神明は汝に常に力貸す。
トロイア軍の敗滅をヂュウス汝に許しなば、
我より避けて平原の上に無慚のわざを爲せ。
いみじき我の川流は屍體に滿ちて、溢るれば、
我は聖なる大海に水を搬ぶを得べからず、
汝、無慚に人を討つ、その凶暴を今止めよ、
あゝ勇猛のアキリュウス汝は我を驚かす!』

脚神速のアキリュウス答へて即ち彼に曰ふ、
『スカマンダロス、天王の愛兒、汝の命のまま、
成るべし、されど城中にトロイア軍を追ひ攘ひ、
敵ヘクト,ルと相向ひ、彼と我との勝敗を
決する前は、驕傲の彼らを殺すこと()めず。』

しかく陳じて敵軍を神の如くに襲ひ討つ。
その時、河の渦卷ける靈はアポローン呼びて曰ふ、

『あゝ銀弓のアポローン、クロニオーンの命令を
汝守らず??夕陽のしづかに入りて、豐沃の
大地を夜の暗き影、蓋はん迄は、汝善く
トロイア軍を援けよと、ヂュウスは[4]嚴に命ぜずや!』

[4]ヂュウスは衆神にその好むまま兩軍中の一方を助くべしと命ず(二十歌二二 -- 二五)。

しかく陳じぬ、こなたには槍の名將アキリュウス、
流の中に嶮崖を飛びおる、川は躍り立ち、
狂へる流捲き立てゝ、アキルリュウスの倒したる
多くの屍體其中に群がるものを押し流し、
波浪の響、轟々と吠ゆる巨牛を見る如く、
屍體を岸に打上げつ、更に渦卷く深淵の
中に、美麗の川底に、生者を救ひ押し隱し、
更に逆立つ奔流は、アキルリュウスを攻め圍み、
はげしく襲ひ、盾を打ち進めば、彼の兩脚は
支ふるを得ず、手にしかと、岸より崩れ落ち來る
巨大の楡の樹を摑む、巨木は根より打ち倒れ、
堤崩して繁り合ふ枝に美麗の水塞ぐ、
巨幹はかくて大川にさながら橋をかけわたす、
さすが畏るゝアキリュウス、深き水より躍り出で、
脚神速に平原の上に走りて逃げんとす。
されど其時おほいなる河流の神は休み無く、
黒ずむ波の頭立て、アキルリュウスを逐ひ進み、
其勇猛の業とめて身方の厄を拂はんず。
ペーレーデース其時に遠のく距離は、投槍の
飛び行く長さ??禽鳥の中に速さも猛しさも
勝る黒鷲、獵の鳥、飛ぶが如くにアキリュウス、
猛然として躍り飛ぶ??其胸の上鏘然と、
青銅凄く高鳴りて水のがれ行く彼のあと、
スカマンダロス轟々と波高く逐ひ驅くる。
比喩(たとへ)を取らば、源流の暗き淵より水を引き、
田圃並に緑園の中に流を灌ぐ人、
手に鍬握り溝渠より砂礫をさらひ捨つる時、
傾斜の岸を淙々と音して水ははしりゆき、
あらゆる土砂を推し流し、流の脚は導きの、
人を凌ぎて先んじて、走り行く樣見る如し、
かくの如くに奔流の水は絶えずも、脚速き
アキルリュウスに追ひつけり、神は人より勝るなり。

脚疾く馳する剛勇のアキルリュウスは踏みとまり、
天を領する神明のすべてを擧げて悉く、
彼を逐はんとすや、否や、究めんとして勵むたび、
其度ごとにヂュウスより流れ出でたる大川は、
彼の肩のへ襲ひ打つ、而して彼が心中に
惱み乍らも、其足を運べば、川は奔流の
勢荒く彼の膝うちて脚下の砂洗ふ。
その時高く天仰ぎペーレーデース嘆じ曰ふ、

『あゝクロニオーン、神明のいづれか我を憐みて
此水難を救はずや?後はすべてに我耐へむ。
天上やどる神明の中に最も我にとり、
罪あるものは我の母??虚言に我を迷はしめ、
胸甲鎧ふトロイアの軍勢守る壘の下、
アポローン飛ばす箭によりて、我が逝くべきを[1]告げたりき。
こゝの至剛のヘクトール我を斃さば善からまし、
討たるる者も討つ者も勇士なりせば善からまし。
さるを運命非なるわれ、大河(たいが)の中に封ぜられ、
無慚の最後遂げんとす、急湍わたる牧童が、
あらき風雨に襲はれて溺るゝ樣を見る如く。』

[1]十七歌四〇七は斯く明かには告げず、漠然として説くのみ。

陳ずる彼に速に、ポセードーンとアテーネー、
近づき來り人間の姿を取りて側に立ち、
其手に彼の手をとりて言句を述べて慰めつ、
大地を震ふポセードーン先づ口開き宣んし曰ふ、
『ペーレーデースあまりにも恐れて騒ぐこと勿れ、
クロニオーンの許可により、二位の神靈こゝに來て、
汝を助く、見よ、われと藍光の目のアテーネー。
河流に因りて斃るべき非命汝に下されず、
河靈程なく靜まらむ、汝親しく之を見む。
さはれ服せば忠言をわれら汝に與へんず、
汝逃るゝトロイアの軍勢逐ひて、イーリオン、
城壁中に押し込むる前に、互角の(いくさ)より
手を退()く勿れ。ヘクト,ルを倒さば汝水陣に
立ち歸るべし。光榮をわれら汝に與へんず。』

しかく宣んして二位の神、天上さして立ち歸る。
其神靈の勵ましに勇将奮ひ立ち上り、
平野にのぼる、??一面の大水そこに滿ち溢れ、
逝ける諸勇士身に帶べる美麗の武具は、(しかばね)
共に無慚に漂へり。流を凌ぐアキリュウス、
やがて其の膝水面を躍り上がれば、奔流も
彼を止めず、アテーネー威力を彼に貸し與ふ。
スカマンダロス然れども怒をやめず、いやましに、
アキルリュウスに憤ほり、更に高らに奔流を
激しく蹴上げ、[2]シモアイス呼びて彼に曰ふ、

[2]合流する川の靈。

『汝と共に弟よ、此人間の威を止めむ、
さらずば彼は速にイリオン城を壞るべし、
而してトロイア軍勢は戰地に跡を留めざらむ。
いざ迅速に救援に來り、源泉溢れ來る
水に汝の量滿たし、急流すべて勵まして、
高く波浪を逆立てよ、而して樹木岸石の
騒音あらく起らしめ、おのれ自ら神明に
等しと誇り、勝ち誇る此猛將を喰ひ止めよ。
彼の勇力、秀麗の姿、綺羅めく戰裝も
かれを救はず、深潭の底に泥土に蓋はれて、
武具は沈まむ、我は又、沙利を盛に搬び來て、
勇士を底に葬りて上に砂泥を積み上げむ、
而してアカイア軍勢は彼の遺骨を集め得じ、
(かばね)の上に泥濘を我は深くも積らせむ。
かくておのづと彼の爲紀念の(しるし)たてられむ、
アカイア人は又別に墳墓を築く要なけむ。』

しかく陳じて猛然と荒び進みて、アキリュウス
めがけて攻めつ、泡沫と血と屍體とを亂しつつ、
神より()れし大川は暗紅色の波凄く、
逆卷き立てて剛勇のペーレーデース押し流す。
されどヘーレーおほいなる川流深く渦卷きて、
アキルリュウスを溺らすを憂ひ、叫喚高くあげ、
たゞちに彼の愛兒たるヘープァイストス呼びて曰ふ、

『立てや、跛行のわが愛兒、渦卷き流るクサントス、
正に汝の好敵手、わが見る所過らじ、
いざ迅速に救援に行きて猛火を起たすめよ。
我はた行きて、ゼピュロスと脚神速のノトスとの、
はげしき呼吸、海洋の沖より誘ひ吹かしめむ、
彼らは凄き猛熖を搬び來りて、トロイアの
軍勢並にその武裝焼くべし、汝岸に沿ひ、
樹木を焼きて、クサントス河を火中に追ひ拂へ、
彼の甘言又威嚇、汝の耳に入る勿れ、
われ叫喚を擧げむ前、汝の怒とゞむるな、
叫喚かば猛熖の荒び其時靜むべし。

ヘーレーしかく宣んすれば、ヘープァイストス持ち來す
不思議の神火、眞先(まっさき)に平野に燃えて、累々と
伏せる(しかばね)、アキリュウス倒せしものを焼き盡す、
平野はかくて皆乾き、輝く川の水停る。
譬へば秋のボレエース、先に洪水襲ひ來し
耕地を不意に乾かして、農夫の歡喜増す如し。
斯くて平野は悉く乾きて猛火もろ/\の
屍體を焼きつ、神は今、川に火熖(くわえん)をさしむくる。
楡と御柳(ぎょりう)と楊柳と今悉く燃え上る、
ロートス、蘆萩、キュペーロン、川の美麗の水に沿ひ、
豐かに生じ並ぶもの、等しく共に焼かれ去る。
更に渦流に舞ひ躍る鰻、並びにもろ/\の
魚は策謀巧みなるヘープァイストス、いぶき出す
其猛熖に、悉く呼吸苦しく惱まさる。
巨川同じく又焼かれ、神に向ひて叫び曰ふ、

『ヘープァイストスよ、神明の誰も汝に向ひ得ず、
猛火によりて焼き倒す汝と我は戰はず。
戰やめよ、アキリュウス勇将すぐに都城より、
トロイア勢を逐ふも善し、われ戰に加はらじ。

猛火に焼かれ斯く叫び美麗の流沸き返る。
比喩(たとへ)をとらば、乾燥の薪を焚きて烈々の
火熖盛に釜包み、よく蓄はれたる肥えし家猪、
煮られて脂肪とけ流れ、四方に溢れ出づる如、
美麗の河は火に焼かれ、水は盛に沸き上り、
前に進まず、留まりて、ヘープァイストス、計略に
すぐれし神の力より、出づる呼吸に惱まさる。
斯くして彼はヘーレーに哀訴捧げて叫び曰ふ、

『ヘーレー、などて汝の子、他を棄てひとりわが流、
惱ますことを勉むるや?汝の前にわが罪は、
トロイア軍に應援の衆靈よりも重からず。
さはれ汝の命ならば、其應援を停むべし、
彼も同じく又停めよ。更に我また盟ふべし、
トロイア軍に禍の日の來るをば妨げず、
アレースめづるアカイアの軍勢焼きてトロイアの、
全部ひとしく猛熖の力に亡び去らんとも。』
しか陳ずるを耳にして、玉腕白きヘーレーは、
ヘープァイストス??愛づる子??に向ひ直ちに宣し曰ふ、

『ヘープァイストス、光榮のわが子、とゞまれ、人間の
爲にかく迄、他の神を惱ますことはよかるまじ。』

しか宣んするに從ひて、ヘープァイストス神秘なる
火を収むれば、大川は再び清き水流す。
斯くクサントス憤激を抑へ、二神の爭は
終りぬ、心怒れどもヘーレーかれらを警めぬ。

されども別の爭は、激しく荒く他の神の
間に起り、抗敵の思かれらの胸煽る、
喧騒高く相向ふ神に大地は轟きて、
サルピンクスの音を以て大空高く鳴き渡る。
ウーリュンポスに座を占むるクロニオーン之を聞き、
諸神互に戰ふを見て欣然と微笑めり。
間なく彼らは相向ふ、其眞先に盾碎く
神アレースは、青銅の槍を手にして、藍光の
目のアテーネー襲ひ討ち、罵言の言句をあびせ曰ふ、

『狗と蠅とに似たる者、汝何故兇暴の
勇に驅られて神々を又鬪爭に誘へるや?
チューデーデース、勇猛のヂオメーイデース、勵まして
我を討たしめ、燦爛の槍を手にして眞向に
我を襲ひて、わが肢體破らしめしを忘れしや?
彼の時汝爲せしこと此日汝に報ふべし。』

しかく陳じて殺戮を好むアレース、おほいなる
槍を飛ばして盾を打つ、そは天王の轟雷を
物ともせざる恐るべき大盾、(ふさ)を着けしもの。
あとに退くアテーネー、地に横はる嚴々の
黒き大石、そのむかし、土地の境の標として、
据ゑられしもの、手にとりて投げて勇武のアレースの、
頸打ち四肢を弛ましむ。七ペレトラの地をおほひ、
倒れし彼は頭髪を塵にまみらし俯伏して、
鎧あたりに高鳴るを笑ふパルラス・アテーネー、
勝に誇りて翼ある言句を彼に宣し曰ふ、

『愚かなる者、汝まだ我の汝に優れるを
悟り得ずして、いたづらに我の力に(あらが)へる!
アカイア族を棄て去りて、汝誇傲のトロイアの
軍を救ふを憤ほり、禍難を汝の身の上に
加ふる母の呪咀の言、汝今こそ充たすべく。』

しかく宣んして爛々の目を他の方に轉じ去る、
氣を失ひて呻吟の聲しきりなるアレースの
手を、其時に[1]アプロヂテー、ヂュウスの息女引きて去る。
そを玉腕の眞白なる神女ヘーレー見たる時、
直ちに彼はアテーネー、パルラス呼びて宣し曰ふ

[1]五歌三五七アレースの車をアプロヂーテー借りて逃る。

『アイギス持てるヂュウスの子、アトリュトーネー、汝見よ、
狗兒蒼蠅に似たるもの、彼れ、アレースを戰場の
中より救ひ混亂の列を過ぎ行く、汝逐へ!』

しか陳ずればアテーネー、勇みて跡を追ひ進み、
アプロヂテーに飛びかゝり、強き手をもて胸を打つ、
打たれて膝を折り伏して、恐怖に心おのゝきつ、
斯くてアレースもろともに大地の上に横はる、
勝に誇りてアテーネー羽ある言句陳じ曰ふ、

『トロイア軍に身方して、胸甲鎧ふアカイアの
軍と戰ふ者は皆、今アレースを救ふべく
來りて我に手向へるアプロヂテーを見る如く、
勇氣鋭く強しとも此の如しと覺悟せよ。
堅き都城のイーリオンとくの昔に打ち崩し、
ヘーレーともに我は疾くやむべかりしを戰を。』

[2](しか宣すれば玉腕のヘーレー聞きてほほゑめり。)
更にかなたにポセードーン、神アポローンに向ひ曰ふ、

[2]此一行多くの版に省かる。

『あゝプォイボス・アポローン、などてわれらはためらふや?
他は今すでに初めたり、戰はずしてオリュムポス??
ヂュウスの宮に退くは、無上の恥辱??思はずや?
初めよ、汝、年若し、我初むるは不可ならむ、

齢に於て、知に於て、我は汝の上を超す。
汝愚にして思慮足らず、汝はすでに忘れたり、
諸神の中に只われら[3]二神ヂュウスの命により、
來りてこゝにイリオンのほとりに痛く惱みしを、
ラーオメドーン高慢のあるじの下に一年を、
期間となして報酬を定めて命を奉ぜしを。
我はその時おほいなる美麗の壁をトロイアの
都市のめぐりに營みて、難攻不落のものとなし、
汝はイデーの山の上、森繁くして谷深き
ほとりに牧へり、角曲がり蹣跚として歩む牛。
斯くて樂しき四季移り、彼傭の期日滿ちし時、
ラーオメドーン暴戾のあるじすべての給料を
非法に奪ひ、更にまた、われらを嚇し追ひ攘ふ。
彼はわれらの手を足を共に縛りて奴隷とし、
離れて遠き海上の島に賣らんとおびやかし、
青銅をもてわれ/\の耳を斬るべく壯語しき。
約して彼の拂はざる報酬のため憤り、
われらは斯くて胸中に不快を滿たし歸り來ぬ。
而して汝今彼の民に好意を施せり、
而して汝高慢のトロイア族が恩愛の
妻子と共に亡ぶるをわれと同じく試みず。』

[3]七歌四五二。

その時飛箭のアポローン答へて彼に陳じ曰ふ、
『汝大地を震ふ神、われ人間の群の爲め、
汝を敵に戰はば我は(さか)しと曰はるまじ、
[4]微々たる彼ら草木の葉にも似るかな、大地より
生ずる果物、食として育ち行きつゝ榮ゆるも、
やがて空しく亡び去る、さはれ我らは速かに、
戰鬪やめむ、鬪爭は彼らの爲すに任すべし。』

[4]六歌一四六 -- 一四九。

しかく言句(ごんく)を陳じつゝ、父の弟、敵として
戰ふことを恐るれば、あとへと返すアポローン、
されど猛獸驅り使ふ彼の妹のアルテミス、
獵する神女爭ひて、罵辱の言句吐きて曰ふ、

『箭を射る汝逃げ去り、ポセードーンに一切の
勝利を讓り、あるまじき光榮彼に與ふるや?
さらば何故、愚者(おろかもの)、無用の弓を携ふる?
ポセードーンに相向ひ戰ふべしと、神明の
群のもなかに昨日迄汝誇れり、今にして
ヂュウスの宮にかく誇る汝を我は聞かざらむ。』

しか陳ずれど銀弓のアポローン彼にもの曰はず。
されどヂュウスの端嚴の神妃ヘーレーいきどほり、
罵辱の言にアルテミス、矢を射る神を叱り曰ふ、

『恥無き牝犬、いかなれば我に對して爭ふを
汝願ふや?弓あるも武力によりて眞向に
いかでか我に敵し得む!雌獅子と汝をクロニオーン、
たゞに女人の(あひ)にのみなして殺戮意にまかす。
優れる者にいさましく敵するよりは山あひに、
[鹿/木]鹿並びに猛獸を屠ることこそ(まし)ならめ。
さもあれ汝、戰を望まば來れ、われの威に
向ひ來る時、いかばかり我の優るや悟るべし。』

しかく陳じて左手をのべ、彼の兩手の手首(たなくび)
つかみ、同じく右手のべ、肩より弓矢ひきたぐり、
[1]囅然(てんぜん)として笑ひつゝ、其弓矢もて、身をかはす
彼の耳端打ちたゝく、矢は速かに地に落ちぬ、
打たれて神女泣き乍ら屈みて逃る、譬ふれば、
鷹に追はれて洞窟の奥の深きに逃げかくれ、
死の運命を免れたる可憐の鳩を見る如し、
弓矢地上にすてし彼、涙流して逃げ走る。
その時[2]アルゲープォンテース、使者はレートーに向ひ曰ふ、

[1]呉都賦(左思)。
[2]アルゴスを屠るの意即ちヘルメーアス又はヘルメース。

『レートー、汝に戰を我は挑まず、雷雲を
集むるヂュウス天王の妃と爭ふは危かり、
激しき武力勝を得てわれを汝は破れりと
いざ今汝神明の群の間に誇れかし。』

しか陳ずればレートーは渦卷く塵のたゞ中に
亂れて落ちし彎弓(わんきう)と矢とをひとしく拾ひ上ぐ。
かくして神女その弓矢とりて愛女の後を追ふ。
ウーリュンポスに、青銅のヂュウスの宮に歸り着き、
わかき神女は泫然と、涙を垂れて父神の
膝にすがりて、アムブロシア薫ずる衣震はせば、
笑含みてクロニオーン彼を抱きて問ひて曰ふ、

『いづれの神か、正なくも斯くは汝を虐げし?
恰も衆の面前に過失犯せる者の(ごと)。』

(かむり)美麗のアルテミス答へて彼に陳じ曰ふ、
『君の配なる腕白きヘーレー我をさいなめり、
諸神の(あひ)の爭と不和とは彼の爲すところ。』

しかく互に天上の諸神言句を陳じ合ふ。
かなたプォイボス・アポローン、其堅牢の都市の壁、
其運命に先んじて正しく其日敵軍に
破壞さるゝを恐れつゝ、聖イリオンの中に入る。
他の常住の神々はウーリュンポスをさして行き、
そのある者は憤り、又あるものは誇らひて、
雷雲寄する天王の周圍に坐せり。かなたには
トロイア軍と單蹄の馬とを殺すアキリュウス。
都城焼かれて其烟濛々として天に入り、
神の怒に煽られて、すべての者に艱難を、
多くの者に憂愁を、來す姿を見る如く、
トロイア軍にアキリュウス艱難憂苦 (かうむ)らす。

その時、老いしプリアモス、神の造れる塔の上、
立ちて巨大のアキリュウス認めぬ、見よや、恐怖せる
トロイア軍は散々に破れ防禦の力なし、
大息なして老王は壁より地上降り來つ、
壁のめぐりのいさましき守衛勵まし呼びて曰ふ、

『汝ら廣く城門を明け放し置け、逃げ歸る
衆軍中に入らん迄。ま近く迫り襲ふもの、
彼は正しくアキリュウス、恐らく禍難起るべし。
城裏に衆の収りて初めて息をつかん時、
汝ら堅く緊密に左右の扉閉ぢ返せ、
かれ兇暴の敵の將、中に入ること恐るべし。』

しか陳ずれば閂を外づして衆は門開く、
門開かれて光明を來す。かなたにアポローン、
トロイア軍の敗滅を防がんために驅けいだす。
渇に惱みて塵あびて、衆は都城と壘壁を
目ざし平野を逃げはしる、其あとしたふアキリュウス、
槍を揮ひて猛然と追ひうつ彼は束の間も、
勇を緩めず功名の念は激しく胸に滿つ。

斯くしてアカイア軍勢はトロイア城を取らんとす、
されどプォイボス・アポローン、アンテーノール生みたる子、
武勇に勝れ力ある[1]アゲーノールを勵ませり、
即ち彼の胸中に勇氣を滿たし、自らは
傍へに立ちて山欅樹(ぶなのき)に身をもたせつゝ、運命の
つらき打撃を防がんず、濃雲神の身を隱す。
都城を破るアキリュウス見たるトロイア勇将は、
敵の迫るを待ち乍ら立ちて心肝惱しつ、
大息しつゝ、剛強の心の中に念じ曰ふ

[1]四歌四六七。

『あゝ進退を如何にせむ?衆の恐れて紛々と
逃げ去るほとり、我も亦アキルリュウスを逃れんか?
彼は我にも逐ひつきて手向ひ得ざる身を討たん。
或は衆のアキリュウス・ペーレーデースに逐はるゝを、
棄てゝ別路に足運び、城壁遠くイリオンの
平野の上を驅け走り、かくして後に高き岡、
イデーに入りて林藪の中に終日身を潛め、
夕べ靜に來る時、溪流中に身をひたし、
汗を洗ひて然る後イリオン城に歸らんか?
さはれ何故わが心かゝる思念を廻らすや?
都城離れて原上を我の走るを彼認め、
其迅速の脚飛ばし逐ひつくことの無かれかし、
追ひ附かれなば運命と死とを逃るゝことを得ず、
彼れ一切の人類に優りて勇は比類無し。
(ある)は都城の傍に彼と面して立つとせば……
さなり、鋭き青銅に彼の肢體は傷かむ、
彼も生命たゞ一つ、不死に非ずと衆は説く、
たゞ光榮をクロニオーン、ヂュウスは彼に儲けしむ。』
しかく陳じて決然とアキルリュウスを待てる彼、
強き心は胸中に奮鬪念じ躍り立つ。
譬へば獵の人目がけ、深き藪より猛然と、
現はれ出づる豹に似る、豹の心は何ものも
敢て恐れず、獵犬の咆ゆる叫も物とせず、
獵師まさきに矢を飛ばし、槍を揮ひて彼を討ち、
利刄に彼を貫くも敢てひるまず、迫り來て
鬪ひ、あるは斃るまで猛氣を棄つることあらず、
アンテーノール生みたる子、アゲーノールは斯くのごと、
アキルリュウスを試めす前、退くことを敢てせず。
即ち圓き大盾を前にかざして、青銅の
槍もて敵を覘ひつゝ、大音あげて叫び曰ふ、

『汝、譽れのアキリュウス、正しく此日勇猛の
トロイア族の城壘を破滅を汝望めるよ!
愚かなる哉。トロイアのほとり多くの難あらむ。
その城門に勇猛の多數の軍は恩愛の
親と妻子の目のあたり、此神聖のイーリオン
防がん、こゝに災難に汝は逢はむ、アキリュウス、
汝、誠に勇猛のすぐれし將士なるべきも。』

しかく陳じて剛強の手より鋭槍投げ飛ばす、
しかして敵の膝の下、脛部を打ちて誤らず、
新たに成りし錫製の脛甲爲に物凄く、
鏘然として鳴りひゞく、されど鋭刄刎ね返り、
討たれしものを貫かず、神の恩惠かれを()る。
つゞきて進むアキリュウス、アゲーノールを??神に似る
勇士をめがく、然れどもアポローンかれに光榮を
許さず、勇士引きとりて濃霧の中に隱れしめ、
つゞきてこれを戰鬪の()より靜に退かす。
策を廻らすアポローン、アキルリュウスをトロイアの
軍より離し、目前にアゲーノールの姿(すがた)取り、
佇み立てば、神速の足を搬びて迫り來つ、
やがて豐沃の野の添ひて、あとより逐へばアポローン、
少しく彼に先ちてスカマンダロス??渦卷ける
流に向ひかけ走り、巧みに策を廻らして、
彼を誘ひて迅速に追ひつくことを望ましむ。
かなた殘りのトロイアの軍勢逃げてむらがりて、
城内歸り喜べり、彼らは城に充ち滿ちぬ。
逃れしものは誰なりや?たそ戰場に倒れたる?
之を知るべく城壁の外に立ちつゝ、同僚を
待たんずるもの絶えて無し、たゞ早急に城内に
その脚により膝により助かりしもの流れ入る。


更新日:2005/01/28

イーリアス : 第二十二歌


第二十二歌

アポローンに欺かれて之を追ふアキリュウス、悟りて歩を轉じてヘクトールに向ふ。 ヘクトールは城中に入らず、唯一人城外に立って敵將を待つ。 兩親城壁より聲を放って城中に入るべく彼に勸むれど聽かず。 アキリュウス來り迫る。其威容に驚怖して三度城の周圍を逃れ去る。 ヂュウス黄金の衡を取り出し、兩將の運命を掛く。ヘクトールの非運決定す。 アテーネー計りてヘクトールの弟の姿を取り、 彼を勵してアキリュウスに向はしむ。決戰。 ヘクトール遂にアキリュウスに討たれて死す。 其屍體の脚に革紐を通じ、兵車に結びてアキリュウスは原上を驅る。 城上より之を眺めてプリアモス王、ヘカベー、アンドロマケーの慟哭。

斯くして衆は怯れたる仔鹿の如く、城中に
逃れ歸りて汗拭ひ、身を胸壁にもたせつゝ、
冷水飲みて渇癒やす、而してかなたアカイオイ
肩の()、盾をかざしつゝ壘壁近く寄せ來る。
而して凄き運命は、イリオンの前、スカイアイ
城門の前、ヘクト,ルを留めて内に入らしめず、
其時プォイボス・アポローン、アキルリュウスに宣し曰ふ、

『あゝアキリュウス、いかなれば汝、人間の分として、
不死の神たる我を斯く迅き脚にて逐ひ來るや?
汝は我を神なりと認めず、やまず暴れ狂ふ。
激しく破り城中に逃れしめたるトロイアの
軍を汝は打ち捨てて、こなたに向ひ來りしな。
汝は我を殺し得ず、死滅の運は我に無し。』

脚神速のアキリュウス痛く怒りて彼に曰ふ、
『飛箭の汝、一切の神明よりも凄き者、
敵城離れこの場に我を誘へり、さもなくば、
イリオン城に入らん前、多くは土を嚙みつらむ。
汝は我をおほいなる光榮奪ひ、容易くも
敵を救へり、ゆく先きの復讐汝ものとせず、
あゝ我れ之を能くし得ば汝に讐を報ひんを。』

しかく陳じて功名の念に燃えつゝ、颯爽と
敵城さして驅けいだす、(かけ)に勝ちたる駿足が、
車を牽きて平原を勇み躍りて驅ける(ごと)
斯く迅速にアキリュウス脚と膝とを搬び行く。

しかして彼が燦爛と耀き平野馳せ來るを、
眞先に王者プリアモス其目を擧げて認め得つ、
秋としなれば大空に夜の影ぬち、衆星の
間にありて爛々の光を放つ[1]一巨星、
オーリオーンの狗と名を人間の世に歌はれて、
光輝最も強きもの、又凶變の(しるし)とて、
激しき熱を不幸なる人類中に運ぶもの、
その星のごと驅け來る彼の胸甲耀けり。
之を眺むる老王は痛く呻めきて高らかに、
双手を擧げて頭拍ち、又高らかに聲あげて、
彼の愛兒に呼び叫ぶ、其ヘクトール門外に
アキルリュウスと戰ふを激しく念じ佇めり。
兩手のばして老王は聲を搾りて呼びて曰ふ、

[1]シリウス、支那人は之を天狼星と呼ぶ。オーリオーンはもと獵人の名、今日の天文學上一の星座の名、隣の星座中にシリウスあり。

『あゝわが愛子ヘクトール、衆を離れて只一人、
彼の敵將を待つ勿れ、しかせば汝速かに、
アキルリュウスの手に死なむ、彼の勇武はいや優る。
無慚なるもの、願くは我と等しく神明が
彼を嫌ひて憎まんを、然らば狗兒と鷙鳥とは、
斃れし彼の肉食みて我の悲嘆は解けさらむ。
多くのわれの勝れし子、我より彼は奪ひ去り、
彼らを殺し、又遠き島のあなたに賣り去りぬ。
今又トロイア軍勢は都城の中に歸れども、
[2]ポリュドーロスとリュカオーン、二人の愛兒我は見ず、
女性の中にすぐれたるラーオトエーの生める者、
敵軍中にもし彼ら生きつゝあらば、青銅と
黄金をもて贖はむ、わが家これに豐かなり、
老いし譽れのアルテースこれを愛女に頒ちたり。
さはれ彼らはすでに死し、冥王のもと行きつらば、
彼らを生める我妻と我の悲嘆はおほいなり。
されども汝ヘクトール、アキルリュウスの手に懸り、
亡ぶることのなかりせば衆の悲嘆は長からじ。
愛兒よ、汝城壘の中に歸りてトロイアの
男女を救へ、恐るべきアキルリュウスに、大いなる
譽與へて、貴重なる一命絶やすこと勿れ。
更に憐め、餘喘あるわれを、運命薄くして
不幸の者を??クロニオーン、われ老境に臨む時、
辛き非運に死なしめむ、多くの禍難繼ぎ到り、
多くの子息殺されつ、[1]多くの息女奪はれつ、
わが宮殿は掠められ、まだ物曰へぬ幼兒らは、
激しく狂ふ戰亂の中に大地に投ぜられ、
子らの妻子はアカイアの兇暴の子に奪はれむ。
而して我を敵人が鋭利に刄もて斬り殺し、
あるは飛槍に打倒し魂を體より離す時、
肉食む狗は前門のほとりに、われのなきがらを
喰ひ裂くならむ、その狗はわれ宮中に食卓の
下に飼ひつゝ、わが門を守らせしもの、我の血を
飲みてあらびて門の前、臥さん。??年齡若きもの、
鋭利の刄つんざきて戰場中に斃るもの、
彼にすべては惡からず、死するも恨なかるべし。
されど老翁殺されて、白きかしらと白き髯、
赤裸のかばね、群犬の牙に恥辱を被らば、
不幸の人の世に起る無上の慚にあらざるや!』

[2]ポリュドーロスは二十歌四〇七。リュカオーンは二十一歌三五。
[1]亡國の婦人らの運命の描寫 六歌四六五、九歌五九四參照。

[2]老王しかく叫びつゝ、手もて頭の白髪を
無慚につかみ引き拔けり、ヘクト,ル、さはれ從はず、
その時母は泫然と涕にくれて身を起し、
右手に[3]胸をかき開き、左に乳房引き出し、
涙流して翼ある言句を彼に叫び曰ふ、

[2]十歌一五。
[3]古ゲルマーネンの間にも女性が胸を開き勇士を勵ます習ありき(タチツスのゲルマニア八章)。

『あゝわが愛兒ヘクトール、これを眺めてわれの身を
哀と思へ、此乳房吸ひて汝の歡びし
昔を忍べ、あゝ愛兒、かの敵將を防ぐべく、
城壁内に歸り來よ、眞先きに彼に手向ふな。
あゝ彼れ無慚の敵の將、汝かの手に討たれなば、
愛兒よ、我は床のへに汝を哭くを得べからず、
富める汝の妻も然か、我ら二人を遠く去り、
アカイア軍の船のそば、犬は汝を嚙み裂かん。』

老いし二人は泣き乍ら、斯く言盡し、彼らの子
諌むとめれど、ヘクトール遂に心を動かさず、
迫り來れる魁偉なるペーレーデース待ちて立つ。
譬へば山の洞窟に近づく人を覘ふ蛇、
[4]毒草はみてものすごく、怒に滿ちて爛々の
眼をかゞやかし、窟内にとぐろを捲きて待つ如し、
かくヘクトール烈々の勇氣に滿ちて退かず、
耀く盾を城壁のその突角にたてかけて、
太き吐息に慨然と其[5]胸中に陳じ曰ふ、

[4]毒草を食ひて蛇は毒を有すと古人は信じたり(アエリアン動物誌六ノ四)。
[5]アゲーノールの獨語參照二十一歌五五三以下。

『あゝ何とせむ!城門の中に我もし今入らば、
プーリュダマスは眞先に我を咎めむ、剛勇の
アキルリュウスの起てる時、夜に乘じて城中に、
[6]トロイア軍を引くべしと彼は其時説きたりき、
されども我は聽かざりき。聽かば遙かに宜かりしを。
わが執拗の故により多くの衆を失へる
今われ、トロイア軍勢と、裾長く曳く女性らを
恐る、われより劣る者、他日或は斯く曰はむ、
「力頼みてヘクトール多くの衆を失へり」
かくは宣ぶらむ。さらば今アキルリュウスと戰ひて、
彼を倒して歸る事、或は城の前にして、
彼に打たれて、光榮の死を遂ぐる事 (まし)ならむ。
或は若しも隆起ある盾をわれ棄て、堅牢の
甲を棄てゝ城壁に槍を立てかけ、身の圍り
武裝なくして剛勇のアキルリュウスの許に行き、
彼に約さむ、爭の基となれるヘレネーを、
??更にパリスが舟のへに彼の資財を悉く
携へ來り、トロイアの城中収めし者を皆、
アトレーデースに返すべく、更に加へて此都市に
隱せし富をアカイアの衆に等しく頒たんと、
而して次ぎに長老によりて盟をトロイアに
盟はしむべし、何物も隱さず、すべて一切を
??美なる都城に藏むるを出し二つに分たんと。
さはれ何故わが心かゝる思を念ずるや?
否、否、行きて訴を彼に爲すまじ、我を彼
憐まず、又重んぜず、弱き女性を見る如く
武具悉く棄て去りて防備なき身を屠るべし。
否、否、今は彼と共、談じ合ふべき時ならず、
巨木の下に岩蔭に、若き男女の喃々と
語らふ如く、我は今彼と談ずる時ならず。
會戰こそは優ならめ、やがて知るべし、クロニオーン、
我と彼とのいづれにか勝の光榮與ふるを。』

[6]十八歌二五四以下。

しかく念じて待つ彼に迫り來れるアキリュウス、
軍神アレース見る如く、(かぶと)はげしく搖がして、
右手に高くペ,リオンのすごく大槍ふりかざし、
鎧ふ青銅輝きて、炎々燃ゆる火の光、
あるは(とう)々のぼり來る旭日の光見る如し。
かくと眺めしヘクトール、恐怖に滿ちて其 (には)に、
敢て留らず怱忙と城門あとに逃げ出す。
そを神速の脚飛ばし、逐ひかけ走るアキリュウス、
そを譬ふれば禽鳥の中に最も迅きもの、
深山の鷹が颯爽と(をのゝ)く鳩を打つ如し、
鳩は斜めに身をかはす、鷹は鋭き聲あげて、
飽く迄之を捕ふべく絶えず激しく飛びかゝる、
正しくかくもアキリュウス激しく走る、かなたには、
トロイア城の壁の下、恐れて驅くるヘクトール、
二將かくして警哨の地點、並びに風搖ぐ
[1]無花果過ぎて、壁の下、車道に沿ひて馳け走り、
スカマンダロス渦卷ける其源泉に滾々と、
水美はしく二筋に溢るゝほとり來り着く。
泉の一つ熱き水、流のほとり湯氣立ちて、
炎々燃ゆる薪より烟の立つを見る如し、
(ほか)の泉は盛夏にも流極めて冷かに、
雹霰又は白雪に又寒氷に觸る如し。
此泉流の(そば)に又石に組まれし洗淨の
廣き(には)あり、そのむかしアカイア人の寄せざりし
平和の時に、トロイアの士人の妻と、佳麗なる
息女と來り、光澤の衣此場に洗ひたり。
(には)過ぎて一は逃げ、他はうしろより之を逐ふ。
逃げ行く彼の剛勇に更に勝りて、勇猛の
此ははげしく追ひ迫る。世の競走の賭となる
牛皮或は(いけにえ)を彼ら望まず、賭くるもの、
駿馬を御するヘクトール、其名將の命のみ。
賭を得るべく單蹄の駿馬はげしく終局の
地點??そこには[2]戰歿の人の記念にすぐれたる
賭物??鼎あるは女子おかるゝ處、??さして飛ぶ、
[3]正しく斯くも兩勇士イリオン城を三たび迄、
飛ぶが如くに馳け廻る。すべての神は()を眺む。
その時、人と神の父、眞先に彼らに宣んし曰ふ、

[1]六歌四三三。
[2]神の祭禮に競技を爲すことは、ホメーロス以後のグリース風俗。
[3]紫宸殿をめぐりて源義平と平重盛との驅馳に似たり。

『あゝ無慚なり!我は今、愛する者が、城壁の
めぐりに逐はれ行くを見る、憐れなる哉ヘクトール!
彼は多くの牛の股炙りてわれに捧げたり、
あるはイデーの連峯の上、又時に城中の
最も高き壇の上、??彼を勇武のアキリュウス、
脚を飛ばしてプリアモス王の都城をめぐり逐ふ。
[4]汝ら諸神今計れ、計慮誤ること勿れ、
彼の死滅を救はむか?あるひは惜しき勇將を、
ペーレーデース・アキリュウスの手を今借りて倒さんか?』

[4]十六歌四三三 -- 四三八。

藍光の()のアテーネー其時答へて彼に曰ふ、
『雷火を飛ばし雲湧かす者、今何の仰せぞや?
運命すでに定れる彼を、生死の人の子を、
恐怖の死より今も尚、君救はんと宣んするや?
爲さまくば爲せ、一切の他の神明は喜ばず。』

雷雲寄するクロニオーン其時答へて彼に曰ふ、
『トリトゲネーア、わが愛女、心安かれ。定まれる
心よりして我曰はず、汝にわれは辛からず、
汝の胸に思ふ儘、行へ、何ぞためらふや?』
しか宣んすれば、アテーネー??既にこの事望みたる
神女勇みて颯爽と、ウーリュンポスを飛びくだる。

かなた脚 ()きアキリュウス、絶えずヘクトール逐ひ走る、
譬へば山に狩の犬、籠れる巣より鹿の子を、
驅り立て、谷を林藪を過ぎて激しく逐ふ如し。
可憐の仔鹿怖じ震ひ、繁みの内に隱るれど、
足跡したひ絶間なく逐ひ來る犬は探り出す、
斯くの如くにヘクトール、アキルリュウスを逃れ得ず。
堅固の構、壁の下、ダルダニエーの子らの門、
壁の上より矢を飛ばし助くる者のあるべきを、
望みてこゝに驀地(まつしぐら)、彼は駈けんと幾度も
焦せるも、敵は遮りて彼に先んじ、平原の
方にと彼を追ひまくり、身は城壁に近く馳す。
夢にて人は逃げ走る者に逐ひつくことを得ず、
また逃ぐるもの逐ひ來る人を免ることを得ず、
斯く一方は達し得ず、他方等しく逃れ得ず。
神プォイボス・アポローン今や最後に近づきて、
勇氣を鼓舞し迅速の膝を勵ますことなくば、
これ迄いかにヘクトール死の運命を免れし、
今剛勇のアキリュウス、頭を曲げて友僚に
相圖なしつゝ、ヘクト,ルに飛刄を放つ勿らしむ、
他は功名を先きに得て我れ次なるを恐るれば。
かくして二人今四たび泉のほとり來り着く。
其時ヂュウス[1]黄金の(はかり)取り出し、皿の中、
二つ死滅の運命の(おもり)をおけり、其一は
アキルリュウスの、他は敵の將ヘクト,ルの持てる運。
(はかり)のものか手にとりて秤れば、垂るゝヘクト,ルの
運は冥王のもとに行く、アポローン遂に彼を棄つ。
藍光の目のアテーネー其時來り近づきて
アキルリュウスを勵まして(はね)ある言句陳じ曰ふ、

[1]八歌六九 -- 七二。

『ヂュウスの愛兒、光榮のアキルリュウスよ、我々は
今こそ望め、戰鬪に飽くこと知らぬヘクト,ルを
倒し、アカイア水軍に偉大の譽搬ぶべし。
彼は今こそ我らの手遁るゝことを許されず、
飛箭鋭きアポローン、アイギス持てる天王の
前にひれ伏し哀願に力こむるも効あらじ。
さもあれ汝今立ちて休らへ、我は走り行き、
彼に勸めむ、まのあたり汝に向ひ戰へと。』

しかく宣んするアテーネー、勇將喜び之を聞き、
青銅の穗の大槍に身をもたせつゝ立ち留る。
そをあとにしてアテーネー、敵將めがけ走り來つ、
[2]デーイプォボスの身相と高き音聲、その儘に
()せて(かたへ)に近よりて、羽ある言句陳じ曰ふ、

[2]彼の音聲十三歌四一三參照。

『あゝわが家兄、脚速きアキルリュウスは君を攻め、
飛ぶが如くにイリオンの都城廻りて君を逐ふ、
いざ今共に立ち留り、彼を迎へて戰はむ。』

堅甲振ふおほいなる將ヘクートル[誤:ヘクトール]答へ曰ふ、
『デーイプォボスよ、汝をばプリアモス王、ヘカベーの
(ふた)親生める兄弟の中に最も我 ()でき、
今は一層胸の中、我は汝を尊ばむ、
事の危急を眺め得て、敢てわが爲城壁の
外にいしくも來れるよ、他は皆中に留るに。』

目は藍光のアテーネー、彼を欺き答へ曰ふ、
『家兄よ、げにもわが父とわが恩愛の母及び
あたりの諸友、わが膝をかはる/\゛にかき抱き、
出づる勿れと警めき。(さほどに彼ら畏ぢ震ふ)
しかはあれども、わが心痛く悲哀に滿たされき。
いざ今勇氣振り起し、まともに彼と戰はむ、
槍を惜まず戰はむ、かくて知るべしアキリュウス、
汝の槍に斃るゝか、あるは我らを打倒し、
血潮に染める戰裝をその水陣に持ち去るか?』

しかく陳じてアテーネー彼を欺き先に立つ。
斯くして近く彼と此、兩將互に相進み、
堅甲振ふヘクトール眞先きに口を開きいふ、

『ペーレーデース、先の(ごと)、我は汝に今怖ぢず。
三たびイ,リオンおほいなる都城の廻りわれ走り、
襲ふ汝を待たざりき。されども今はわが心、
討つも或は討たるゝも汝に向ひ立てと曰ふ。
さはれ諸神をもろともに仰がむ、彼ら最上の
證者たるべし、諸の誓約彼ら護るべし。
若しもヂュウスの寵により、汝に勝ちて生命を
奪はゞ、我は汝の身、無慚に害すことをせず、
たゞ莊麗の武具を剥ぎ、終りて死體をアカイアの
軍の手許に渡すべし、汝同じく之を爲せ。』

脚神速のアキリュウス目を怒らして彼に曰ふ、
『忘れぬ恨、ヘクトール、誓約敢て曰ふ勿れ、
獅子と人との間には堅き約束あるを得ず、
狼及び小羊の間同じき心無し、
彼らは常に相互(あひたがひ)只傷害の思念あるのみ、
斯くの如くに戰鬪に飽かざる武神アレースを、
紅血をもて飽かす前、汝と我の間には、
愛の協定あるを得ず、誓約絶えてあるを得ず。
あらゆる勇氣振り起せ、今こそ汝投槍を
巧みに使ふ勇猛の戰士とおのが身を示せ。
逃るゝ道は既に無し、わが槍によりアテーネー・
パラス汝を亡さむ、今こそ汝償はめ、
暴びて槍に倒したるわが友僚の悲しみを。』

しかく陳じて影長き大槍揮りて投げ飛ばす、
之をまともに()かと見て、巧みに避けしヘクトール、
身を屈むれば其上を青銅の槍飛び過ぎて、
大地に刺さる、こを拔きて私かにパラス・アテーネー、
ヘクト,ルの目に觸れずしてアキルリュウスの手に渡す。
その時ヘクト,ル剛勇のアキルリュウスに向ひ曰ふ、

『あゝ神に似るアキリュウス、汝誤る、ヂュウスより
わが運命をまだ聞かず、空しく(こと)を弄ぶ、
汝巧みに喋々し、われを欺き、われをして、
汝を怖れ勇と意氣忘れしめんと念ずるや?
汝は槍に逃れ行く我が身の背をばよも刺さじ、
勇氣溢るゝわが胸を刺せ、神明の寵あらば、
いざ今汝青銅のわが鋭槍に心せよ、
汝の肢體願くはまともに受けよわが飛刄、
然らばトロイア軍勢に此戰は易からむ、
その最大の禍難たる汝生命失ひて。』

しかく陳じて影長き大槍揮りて投げ飛ばし、
アキルリュウスの大盾のもなかを打ちて誤らず、
されども盾を貫かず、槍は之よりけし飛びぬ。
其手中より徒らに飛べるを怒るヘクトール、
他の鋭槍を持たざれば頭を垂れて佇みつ、
デーイプォボスに[1]盾白き勇士に高く呼びかけて、
求む一條長き槍、されども彼ははや見えず、
はじめて悟るヘクトール大息しつゝ叫び曰ふ、

[1]錫を以て盾の表を蓋ふ。

『あゝ無慚なり、もろ/\の神明われを死に呼べり。
デーイプォボスは勇を鼓し(かたへ)にありと思ひしに、
さならず、城の中にあり、我を計れりアテーネー。
恐るべき死は今前にわれを去ること遠からず、
逃るゝことは得べからず、とくの先よりクロニオーン、
また箭を飛ばすアポローン、之を望めり、一たびは
われを愛して守りしも、??今運命は迫り來ぬ、
されど空しく譽なく生を終らん我ならず、
すぐれし業を爲し遂げて未來にわが名響かせむ。』

堅甲振ふヘクトールしかく陳じて、腰の上
懸けし鋭きおほいなる、(つるぎ)を颯と拔きかざし、
勇を奮ふて飛びかゝる??大空翔くる荒鷲が、
黒き雲より平原に勢猛く舞ひ下り、
あるは可憐の小羊を、あるは怯れし子兎を、
襲ふが如くヘクトール鋭刄かざし飛びかゝる。
同じく進むアキリュウス、激しき勇氣其胸を
滿たし、華麗の精巧の大盾かざし胸の上
蓋ひて、[2]四つの隆起ある輝く兜ゆるがせば、
ヘープァイストス神工が其邊に植ゑしもの、
燦爛として美はしき金の冠毛打震ふ。
夕暗寄する天の上、群がる星の中にして、
(よひ)の明星??天上の中の最も美なるもの、
光るが如く、アキリュウス右手に揮ふ鋭刄の
槍ひらめかし、剛勇の將ヘクトール倒すべく、
その壯麗の身の中に隙ある處打ち覘ふ、
されど全身悉く、パトロクロスを亡して
奪ひ取りたる青銅の、美麗の武具におほはれつ、
露出はひとり咽喉部、そこに鎖骨は頸部より
肩を分ちて、生命の亡び最も()きところ、
そこを目がけてアキリュウス、烈しく飛ばす大槍の、
覘たがはず鋭刄は敵の頸部を貫けり、
たゞ青銅の重き槍、喉笛はづれ、ヘクト,ルに
なほも言句を吐かすべき一縷の望猶殘る。
其時伏せる敵將にアキルリュウスを誇り呼ぶ、

[2]五歌七四三。

『パトロクロスの武具奪ひ、安しと汝思ひしか?
わが遠ざかる故をもて畏怖知らざりしヘクトール、
愚かなるかな、船の中、彼と離れて彼よりも
大なるもの、我ありき、今や汝を打倒し、
彼の怒を復さんず。汝の屍體 (はじ)しめて、
狗と鷲鳥嚙み裂かむ、彼をば友は葬らむ。』

堅甲振ふヘクトール息絶え/\に答へ曰ふ、
『汝の命に、また膝に、また兩親にかけて請ふ、
舟のかたへに、アカイアの狗にわが身を裂かしめな、
わが父及び端嚴の母が、汝に拂ふべき
青銅及び黄金を豐かに汝受け納れて、
我の死體をイリオンに還せ、故郷にトロイアの
男女ひとしく清淨の焰に我を焼かん爲。』

脚神速のアキリュウス目を怒らして彼に曰ふ、
『わが膝にかけ兩親にかけて哀願する勿れ。
汝與へし禍を思ひて怒るわが心、
われに勸めん、(つんざ)きて(なま)の[1]汝の肉食めと!
汝の頭嚙み碎く狗を禦がん人あらじ、
否、否、十倍二十倍増して賠償もたらすも、
否、否、更におほいなる約を爲すとも肯はず、
ダルダニデース・プリアモス、その等量の黄金に、
汝の屍體償ふを命ずるとても肯はず、
汝を生める恩愛の母は、床のへ載せらるる
汝を嘆くことを得ず、狗と鷲鳥は嚙み裂かむ。』

[1]四歌三四。

堅甲振ふヘクトール[2]いまはの際に彼に曰ふ、
『あゝ我汝を善く(くわん)ず、汝に請ふは不可なりき、
汝の心硬くして抂ぐべくあらじ、鐵に似る。
さはれ、恐れよ、神々の復讐われぞ祈るべき、
汝いかほど勇なるも、[3]パリスとプォイボス・アポローン、
スカイエーの城門のわきに汝を討ち取らむ。』

[2]パトロクロスの最期の言參照(十六歌八五四)。
[3]十九歌四一〇及四一七。

しかく陳ずる彼を今、死の暗黒はおほひ去り、
その運命を泣き乍ら、青春及び剛勇を
あとに殘して體はなれ、魂は冥王のもとに行く、
死體に向ひ剛勇のアキルリュウスは叫び曰ふ、

『亡べ、我また[4]運命を受けむ、正しくクロニオーン、
及び其他の諸神靈わが臨終を望む時。』

[4]十八歌一一五。

しかく陳じて屍體より其青銅の槍を拔き、
(かたへ)に之を捨て置きて、敵の肩より血まみれの
武具を剥ぎ取る。(しかう)して他のアカイアのわかき子ら、
あたりを圍み、ヘクト,ルの軀幹竝びに雄麗の
姿を[5]檢し、近寄りて各[6]死屍を傷けつ、
各之を見守りて憐れる者に陳じ曰ふ、

[5]ペルシヤ戰爭にペルシヤ將軍の死體をグリース軍が檢して其軀幹の大と美とを讚せしことヘロドートスの史(九歌二五)にみゆ。
[6]死屍を傷くるは同僚がヘクトールに殺されしに報ゆるならむ。

『見よ、ヘクトール觸るゝべく今は遙かに柔ぞ、
先きに猛火にわが船を焼かんとしつる時よりも。』
しかく陳じて近寄りて彼ら各死屍を打つ。
脚神速のアキリュウス勇士は武具を剥ぎ終り、
アカイア軍の中に立ち彼らに向ひ陳じ曰ふ、

『あゝわが友ら、アカイアの諸將竝びに統率者、
他の一切の人凌ぎ、禍害を多く行へる
この人間を、亡ぼすを神明われに許したり、
いざ今立ちて軍勢を率ゐて都城攻め寄せむ、
トロイア軍は何らの意今や抱くか知らんため、
彼の者すでに死したれば高き都市を棄つべきや?
あるはヘクト,ル亡べるも猶殘らんと念ずるや?
さはれ何故わが心かゝる思念を生ずるや?
パトロクロスの屍體今船のかたへに横はり、
まだ哀哭と弔祭を受けず、わが生ある限り、
わが兩脚の行く限り、我は彼の人忘られず、
冥王のもと逝ける者、そを人々は忘るとも、
われはそこにも懷しきわが同僚を思ひでむ。
いざ今行かん、アカイアの若き人々、高らかに
凱歌うたひて、船の中彼の屍體を携へよ、
トロイア人士一齊に神の如くに崇めたる
將ヘクトル打ち倒し、われら偉功を成し得たり。』

しかく陳じてヘクト,ルを辱しむべき法案じ、
(くびす)より(くるぶし)に左右の足に孔穿ち、
こゝに牛皮の強き紐貫き通し、其端を
兵車に繋ぎ、頭をば無慚に地上に引きずらせ、
耀く武具を積み入れてかくて車臺の上に乘り、
鞭を當れば揚々と飛ぶが如くに兩馬馳す。
屍體曳かるゝ地上より斯くてうづまく砂烟、
黒髪亂れ、先までは美麗の頭、塵埃に
まみれ汚れぬ、クロニオーン斯く讐敵にヘクト,ルを、
彼の祖先の郷の上辱かしむるを許容しぬ。

斯く塵埃に其頭まみれ汚るゝ無慚なる
姿眺めて、恩愛の母は白髪掻きむしり、
美なる面帕打棄てゝ聲を搾りて泣き叫ぶ。
しかして彼の恩愛の父も悲痛の聲放ち、
全市ひとしく哀悼と慟哭の聲滿ち亙る。
高きイリオン悉く猛火に焼かれ、高樓の
上より下に至る迄、皆亡び去る時や斯く?
聖イリオンの城門を出でんと焦せり悲しめる
王プリアモス留むべく、ほどほど衆は苦めり。
その各の名を呼びて、塵土の中に這ひながら
痛くも泣ける老王は、哀願しつゝ叫び曰ふ、

『留むる勿れ、わが友ら、懸念誠に()りながら、
我れ身一つに城を出で、アカイア軍を訪はしめよ、
行きて無慚の兇行の彼に哀訴を試むむ、
或は彼は老齡を崇め白髪憐みて、
我に聽かむか。彼も亦、父あり、即ちペーリュウス、
彼を生みいで養ひて、トロイア族の禍と
ならしめ、特に一切に優りて我を嘆かしむ、
(さか)行くわが子幾人を彼は無慚に斃せしか!
さはれ彼らの一切の悲しみ乍ら、ヘクトール
只一人ほど我泣かじ、彼を慕ひて冥王の
もとに行かまし、あゝわが兒、我に抱かれ死すべきを!
さらば勝れし子を生める母と我とはもろともに、
心ゆくまで哀悼の涙を得べかりき。』

泣きつゝ斯くぞプリアモス、衆人同じく又泣けり。
ついでヘカベー、トロイアの女性の中にまづ哭す、

『あゝわが愛兒、汝逝く、我いかにして恐るべき
災忍び生くべきや!全都に亙り日に夜に、
われの誇のあゝ汝、神の如くにトロイアの
男女は彼の救たる汝仰げり、生あらば
彼に對しておほいなる譽なりきを、今にして、
無慚なる哉、運命と死とは汝を捕へたり。』

母は泣きつゝ斯く陳じ、()かはあれどもヘクト,ルの
妻は何をもまだ知らず、いかなる人も使者として、
彼の夫の城外にあるを如實に知らせ來ず、
高き(やかた)の奥深く、機を設けて紫の
二重の衣織りなして、種々の刺繍を施しつ。
鬢毛美なる侍女を呼び、(やかた)の中におほいなる
鼎を据ゑて火を焼きて、戰場よりしヘクト※ル[注:ヘクト,ルか?]の
歸らん時の沐浴の備なさしむ、無慚なり、
沐浴既に用あらず、目は藍光のアテーネー、
アキルリュウスの手によりて彼を討ちしをまだ知らず。
さはれ慟哭哀痛の聲はひゞけり塔の上、
聞きて思はず膝震ひ梭を地上に取り落し、
[1]風[※;鬟?]霧鬢美しき侍女に向ひて陳じ曰ふ、

[1]王漁洋の句を借る。原語を直譯すれば「美はしき髪の」。

『附き()よ、汝の中二人、今何事の起りしや?
われの尊む姑の聲今聞ゆ、自らの
胸裏心は口までも躍り、わが膝今しびる、
プリアモス王生める子ら、彼らに危害迫るらし。
かゝる事をばわが耳よ、聞かざれ、さはれ我恐る、
彼れ神に似るアキリュウス、わが剛勇のヘクト,ルを
獨り、城よりかけ隔て平野の上に逐ひまくり、
其一身を領したる激しき[2]勇氣今すでに
亡したるにあらざるや???あゝわが夫、群衆の
中に殘らず、一切に勇氣まさりて先を驅く。』

[2]六歌四〇七。

しかく陳じて鼓動する胸を抑へて、屋形より
狂せる如く走りいづ、二人の侍女は從へり。
斯くして彼ら塔上に群衆中に着ける時、
壁上立ちて目を放ち、城のかなたに良人の
曳きずられて行く姿見る、足とき駿馬無情にも、
アカイア軍の水陣に勇士の(から)を曳きて行く。
かくと認めし双眼を暗黒の夜はおほひ去り、
可憐の夫人のけざまに倒れて息は絶えかかる。
かくて彼女の頭より華麗の飾ほどけ落ち、
額の上の天卷も、髪を束ぬる綱も解け、
(おもて)をおほふ帛も落つ、アプロヂテーの贈物、
その贈りしはヘクトール、エーイチオンの(やかた)より、
婚資豐かに與へつゝ、彼女娶りて連れ來し日、
今倒れたるそのめぐり(おっと)の姉妹、兄弟の
妻女もろとも集りて、息絶え/\の身を抱く。
息吹き返し胸中に心再び覺めし時、
はげしく呻めき、トロイアの女性の中に陳じ曰ふ、
『あゝヘクトール、わが良人(おっと)、われは薄命、君と我
同じき運に生れたり、君トロイアにプリアモス
王の(やかた)に、我はまたプラコスの下、森繁る
[1]テーベー城に、エーイチオーン幼き我を(たて)の中、
不幸の我をはぐくみき。ああ生れずば、善かりしを!
あゝ君今や暗の底、冥府の神の宿に行き、
われを(やかた)に、無慚なる嘆きの中に、寡婦として
あとに殘せり、はたわが子、??共に不幸の君と我と
生みたるわが子、いはけなく未だ言語を善くし得ず。
あゝヘクトール!君死して彼に何らの助なし、
[2]彼また君を助け得ず。彼アカイアの戰を
逃れ得るとも、其後に嘆きと惱いたるべし、
彼の領土を他のものは非道に奪ひ掠むべし。
孤兒となる日に一切の友悉く失はる、
彼の頭は低く垂れ、彼の頬のへ涙垂る。
乏しき時にその父の舊友彼は訪ひ行きて、
哀を求めて裾を曳き、上着を曳くも効なけむ、
憐む友のある者は()さき盃取り出し、
彼の唇潤すも彼の喉をば潤さじ。
又双親を持つ者は手を擧げ彼を打ち乍ら、
其厨より彼を逐ひ、罵辱の言句浴びすべし、
「立ち去れ、汝、我が家に汝の父も招かれず」
斯くて涙に暮れながら寡婦なる母に歸り來ん。
アスチュアナクス、あゝわが子!昔は父の膝の上、
ひとり羊の脂ぎる肉と髄とを口にしつ、
而して眼襲ふ時遊戯を棄てて閨に入り、
乳母の腕に抱かれて、心しづかに喜びに
滿ち、柔軟の床の上、夢路たどりしあゝわが子。
恩愛の父失ひて今はた彼は惱むべし、
[3]アスチュアナクスとトロイアの衆人汝の名を呼べり。
あゝヘクトール獨り君、トロイア城を禦ぎたり。
今は(うご)めく蛆虫は、親を離れてアカイアの
舟の(かたへ)に狗の口、飽かず赤裸の君嚙まむ。
女性の手にて作られし美なるいみじき(しとね)今、
(やかた)の中に空しくも歸り來らぬ君を待つ。
されど此らを悉く猛火にかざしわれ焼かむ、
君にとりては用あらず、此上君は身を据ゑじ、
トロイア男女の目の前にこを焼き棄てん君の名に。』
涕涙切に斯く呼べばすべての女性また泣けり。

[1]六歌三九五、一歌三六六。
[2]四八七 -- 四九九は後世の加筆なるべしとてアリスタルコスは棄つ。
[3]「城を守る者」六歌四〇二。


更新日:2005/01/28

イーリアス : 第二十三歌


第二十三歌

ミルミドネス軍團と共に、アキリュウスはパトロクロスの死體を哭す。 葬禮の宴を設く。疲れて睡るアキリュウスの夢に、パトロクロスの靈現はれて親しく共に語り、 アキリュウスの死の後ち遺骨を共に一器に納めよと請ふ。 朝に到りアガメムノーン緒軍に命じて火葬のために伐木せしむ。 かくて縱横百尺の火葬臺を設け、パトロクロスの屍を載せ、衆多の牲と共に之を焼く。 ボレアス、ゼピュロス二位の風の神、祈に應じ來りて火焰を盛ならしむ。 翌日遺骨を瓶に納めて陣中に齎らす、墳墓の位置を定む。 葬儀の禮として種種の競技を行ふ。兵車競技、拳鬪、角力、徒走、競走、槍、投盤、弓、投槍。

[1]彼ら斯くして城中に悲しみ泣けり、こなたには、
アカイア軍は水陣に、[2]ヘレースポントスさして來つ、
衆は散じて陣を解き、各おのが舟に行く。
ミルミドネスを然れどもアキルリュウスは散らしめず、
即ち彼の勇猛の部下に向ひて陳じ曰ふ、

[1]獨逸第二の詩豪シラは本歌を過度に讚す、「此篇を讀みて人は生き效あり」云々。
[2]七歌八六。

『ミルミドネスの諸勇士よ、友よ、駿馬を御する者、
まだ兵車より單蹄の軍馬を(はづ)すこと勿れ、
軍馬並びに兵車 ()て、近きに寄りて亡びたる
パトロクロスを弔はむ、死者に對する酬なり。
[3]心往く迄哀悼を致し終らば、其後に
軍馬を解きて(しかう)してこゝに食事を共にせむ。』

[3]「慟哭は悲を癒やす」??アイシュロス(エスキューラス)。

しかく陳じて哀號を爲せば衆人また哭す。
即ち三たび死屍めぐり、鬣美なる馬を驅る、
しかしてテチス衆人に悲哀の情を起さしむ。

かくして岸に砂原も、衆の武裝も涕泣の
涙にぬれつ、敵にとり恐怖の英雄を、
[1]悲しむ中に、先に立つペーレーデース、強き手を
其亡友の胸にのせ、慟哭しつつ叫び曰ふ、

[1]十八歌三一六。

『パトロクロスよ、冥王の宿に於ても歡喜せよ、
先に汝に[2]約したる事一切を今爲さむ、
こゝに曳かれしヘクトール、狗に與へて嚙ますべく、
トロイア族の美麗なる小兒こぞりて十二人、
首を火葬の壇の前、刎ねて汝を弔はむ。』

[2]十八歌三二五。

しかく陳じて剛勇の將ヘクトールの(しかばね)
恥辱を案じ、亡友の死屍のかたへに、塵中に
俯伏(うつぶ)さしめぬ??而して部衆おのおの青銅の
輝く鎧脱ぎ棄てて、嘶く戰馬解き放つ、
斯くして衆は脚速きアキルリュウスの舟のそば、
寄れば其前豐かなる葬禮の宴備へらる。
酷き刄に屠らるる多くの牛は悲鳴あげ、
多くの羊鳴き叫び、山羊また牙の眞白なる
家豚、脂肪に富める者、共にひとしく炎々の
ヘープァイストスの火の上に、調理のために炙られつ、
死體のあたり杯を滿たすばかりに血は流る。

やがてアカイア諸將軍、その首領たるアキリュウス、
友を悼みの痛恨にひたるを強ひて説き勸め、
彼を導き衆の王アガメムノーンに到らしむ。
アガメムノーンの陣營に衆人やがて着ける時、
直ちに音吐朗々の傳令の徒に(めい)下し、
巨大の鼎据ゑ付けて、熱湯わかし剛勇の
アキルリュウスを促して其血痕を清めしむ、
されども彼は()く迄も之を否みて誓ひ言ふ、

『あらゆる神の中にして至上至高のクロニオーン、
彼に盟ひて我は曰ふ、パトロクロスを淨火もて
焚きて、勇士の記念建て、わが髪斬るに先ちて、
わが頭上の血痕を洗ひさること許されず、
われ人界にある間、かゝる悲哀はまたらじ。
さもあれ今は葬禮の宴に就くべし。而して
アガメムノーン、衆の王、明くるあしたに衆人に
命じ薪を取らしめよ、而してすべて暗深き
冥府に沈む勇將に、供ふべきもの整へよ、
斯くして焰炎々と屍體を焼きて其姿
消すべし、かくて衆人は戰場さして向ふべし。』

しか陳ずれば衆人は其言聽きて從へり。
かくて衆人意を盡し、食事を備へ、平等の
分をおの/\分ち得ておの/\心飽き足れり。
かくて衆人飲食の願を滿たし飽ける時、
おの/\起ちて陣營の中に歸りて床に就く。
ミルミドネスの衆軍の中に脚疾きアキリュウス、
激しく呻めき喘ぎつゝ、高鳴る海の岸の上、
岸を洗へる潮流の淨めし(には)に横はる。
風吹きあらぶイリオンのめぐりヘクト,ル追ひ行きて、
強き肢體も疲るれば、やがて甘美の柔かき
眠の靈はおとづれて、胸より悲哀ふりほどく。
その時彼に臨み來るパトロクロスの幽魂は、
身の丈け及び美はしき双の目、更に音聲も、
衣服もすべて悉く、ありし昔の儘にして、
友の頭の上近く立ちて即ち陳じ曰ふ、

『汝は眠る、アキリュウス、汝は我を忘れしや?
生ける間は忘れねど死すれば汝忘るゝや?
冥王の門過ぎんため、葬れ、我を速かに。
惱み亡べるもろ/\の靈はわが身を追ひのけて、
しかして我の[3]河を過ぎ、共に混じるを喜ばず、
かくて冥府のおひなる門のほとりにわれ迷ふ。
いざ我に貸せ汝の手、われの涙の願なり、
淨火一たび身を焚かば我れ冥王の許去らじ。
他の僚友を別にして、汝と共に計策を
講ぜんことはもはや無し、わが生れより一身に
定り來る運命は、酷くもわれを亡せり。
而して汝アキリュウス、神に等しき汝また、
トロイア城の壁の下、死すべき運は定れり。
我また一事君に乞ふ、君願はくは之を聞け、
我の遺骨をアキリュウス、汝のそれと分たざれ。
(さい)子の遊びに憤り、心ならずも誤りて、
アムフィダマスの子をわれの殺せし昔、復讐を
メノイチオスは恐ぢ怖れ、幼き我をオポエスの
故郷をあとに連れ出し、汝の家に托したり、
其時騎將ペーリュウス、汝の父は慇懃に、
我を養ひはぐくみて、臣下となして同じ家に
汝と我を住ましめき、死後も同じく住ましめよ、
神母汝に與へたる一つの容器、黄金の
瓶に願はく我々の骨はもろとも収まらむ。』

[3]冥土の河、但しいづれの河か、ホメーロス詩中には明かならず、後の詩人によればスチュクス。

脚神速のアキリュウス其時答へて彼に曰ふ、
『最愛の友、何故こゝに來りて、一々に
此事爲せと命ずるや?此らの事を悉く、
汝の爲に行ひて汝の命に從はむ。
さはれ一層わが傍に近づき來れ、願はくは
しばしなりとも抱き合ひ、悲痛の思ひ飽かすべし。

しかく陳じてアキリュウス双の(かひな)をのぶれども、
觸れ得ず、靈は微かなる悲鳴を擧げて地の下に、
烟の如く消え去りぬ、驚き覺めるアキリュウス、
左右(さう)の兩手を相拍ちて悲痛の聲を放ち曰ふ、

『痛ましきかな、げに人は冥府の王の宿にすら、
[1]魂あり、影あり、然れども生氣は(また)くそこに無し。
あゝ薄命のわれの友、パトロクロスの幽魂は、
泣きて呻めきて夜もすがら、われの(かたへ)に近づきて、
云々の事なせといふ。影は不思議に生ける儘。』

[1]死者についてのホメーロス時代の觀念。

しかく陳じて衆人に悲泣の念を起さしむ。
薔薇(ばら)色の指もてる『曙』出でて、無慚なる
死體を嘆く衆照す。アガメムノーン衆の王、
その時四方の陣屋より人と駿馬とを勵まして、
木を運ばしむ。(しかう)してメーリオネース、剛勇の
イドメーニュウスの部將たる彼れ先に立ち導けり、
衆は即ち伐木の鋭利の斧を手に握り、
又よく縒りし繩を取り、騾馬を先立て進み行く、
斯くして登り又降り、或は斜め或は横、
行きて泉流豐かなるイデーの峰に到り着き、
急ぎて直ぐに鋭刄の青銅採りて、巨大なる
樹木を打てば、おほいなる音響たてゝ地に倒る、
アカイア勢は引きつゞき、之を斷ち切り騾馬の背の
上に載すれば、一列は蹄大地を蹴り乍ら、
繁き林藪穿ちつゝ、平野に向ひ急ぎ行く、
イドメーニュウスの部將たるメーリオネース命ずれば、
幹を倒せる衆人も、各割木背に負へり。
運び來りて岸の上、アキルリュウスが友のため、
身のため墓ときめし()に、材を衆人おきならぶ。
斯くて衆人四方より多量の材を集め來て、
こゝに身を坐しやすらへり。アキルリュウスは其時に、
ミルミドネスの勇士らに命を下して、青銅の
鎧着けしめ、おの/\の兵車に馬を繋がしむ、
衆は急ぎて立ち上り、しかして武裝整へり。
車臺に乘るは戰鬪の勇士並びに駕御の伴、
騎士は先立ち、其後に無數の歩兵隨ひて、
パトロクロスの(なきがら)を同僚まなかに擔ひ行く。
彼らは更に[2]毛髪をおの/\斬りて屍體(しかばね)
上に蓋へり、アキリュウス(うしろ)につきて其頭、
手に觸れ泣きて、愛友を冥土の旅に送り行く。

[2]古代の一般の習。

斯くして先にアキリュウス定めし(には)に到り着き、
屍體をおろし、速に山の如くに薪積む。
脚神速のアキリュウスその時一事また案じ、
火葬の場を離れ立ち、[3]スペルケーオス神のため
先に育てて長うせし黄金色の髪を切り、
即ち暗緑の海眺め慨然として叫び曰ふ、
『あゝスペルケー、空しかり、君に我父ペーリュウス
立てし誓は??懷しき故郷にわれの歸る時、
わが金髪を君に切り、聖なる牲をたてまつり、
更に五十の牡羊を、君の神苑??香烟の
かをれる壇に程近き流に投じ捧げんと、
われの老父は誓ひしも、君は其意を成らしめず。
我は祖先のなつかしき故郷に歸る命ならず、
パトロクロスにわが髪を與へ携へ行かしめむ。』

[3]十六歌一七四。

しかく陳じて愛友の手に金髪を握らしめ、
眺むる衆に哀悼の念をそぞろに起さしむ。
哭する衆を夕陽の落ち行く光、照らす前、
アキルリュウスは近づきてアガメムノーンに向ひ曰ふ、
『アトレーデーよ(アカイアの族は最も君の言、
つゝしみ仰ぐ)衆人は後ちに飽く迄哭くもよし、
されども今は葬禮の()より彼らを去らしめよ、
食事の備なさしめよ、故人に愛の深かりし
我らすべてを行はむ、諸將は共に殘れかし。
アガメムノーン、衆の王、彼の陳ずる言を聞き、
たゞちに衆を解き散じ、おの/\船に歸らしむ。
葬儀の任に當るもの、あとに殘りて薪材を
集め、縱横百尺の火葬の臺を築き上げ、
心に悲哀滿ち乍ら、其頂上に屍體おく。
而して火葬の臺の前、脂肪に滿てる群羊と、
角は曲りて脚歪む牛を屠りて皮を剥ぎ、
肉を調理す、其脂肪アキルリュウスは取り出し、
友の屍體の上に載せ、あたりに牲を積み重ね、
更に其上蜜蜂を油を盛れる壺二つ、
傾け注ぎ、慟哭を續け乍らも、頸高き
四頭の馬を速かに火葬の材の上に載す。
九頭の狗を食堂にパトロクロスは伴ひき、
中の二頭の喉きりて同じく上に彼は置き、
更に犠牲と蓄へしトロイア族のすぐれたる
子ら十二人、青銅に酷く屠りて積み重ね、
かくして狂ふ炎々の猛火の焰あらびしむ。
その時彼は慟哭の聲を放ちて友を呼ぶ、

[1]『冥府の暗に宿るとも、パトロクロスよ、歡喜せよ、
先に汝に約したるすべてをすでに爲し遂げぬ。
トロイア族のすぐれたる子ら十二人皆すべて、
汝と共に火に焼けむ。プリアミデース・ヘクト,ルは、
之に反して火に焼かず、狗に與へて嚙ましめむ。』

[1]前文一九。

しかく罵り叫びしも、狗は屍體に近づかず、
ヂュウスの神女アプロヂテー之を守りて夜も日も、
狗を遠ざけ、アムブロシア薔薇の香油まみらして、
アキルリュウスにひきながら屍體を裂くを得せしめず。
更にプォイボス・アポローン、平野の上に黒雲を、
天より彼のため擴げ、屍體の占むるすべての地、
皆蔽ひ去り、日輪の威力の爲めにいち早く、
肢體並びに筋肉の萎縮すること無からしむ。

パトロクロスの火葬堆、しかはあれども善く燃えず、
脚神速のアキリュウス再び一の策案じ、
即ち堆を立ち離れ、ゼピュロス及びボレエース、
風の二靈に祈禱上げ、すぐれし供物捧ぐべく
誓ひて、金の杯に數多の奠酒行ひて、
すぐに屍體の燃え上り、薪材迅く焼けん爲、
その來向を乞ひ求む。イーリス直ちに其祈
聞きて、急ぎて使者として、風の二靈を訪ひ來る。
吹嘘(いぶき)激しきゼピュロスの館に二靈は其時に、
集ひ宴を開き居り、石の戸口にイーリスの
足を駐むるを、目を擧げて眺めて共に一齊に、
座を立ちあがり、各々はおのれの許に彼を呼ぶ。
されどイーリス座に着くを拒みて即ち陳じ曰ふ、

『留るを得ず、我は今オーケアノスの潮流に、
[2]アイチオペーの郷に行く、衆人そこに神明に
犠牲を捧ぐ、我も亦同じく之に預らむ。
さはれゼピュロス、ボレエース、汝來るをアキリュウス、
切に祈りて豐かなる供物約せり、願はくは
汝猛焰煽り立て、アカイア人の悲める
パトロクロスの葬りの火堆はげしく燃えしめよ。』

[2]一歌四二三。

しかく陳じてイーリスは別れて去れば、颯々の
音も激しく叢雲を驅りつゝ二靈たちあがり、
直ちに海の上來り、いぶけば潮澎湃と
嵐の下に湧き上る、やがてトロイア豐沃の
郷に、火葬の堆上に、吹けば神火は咆え叫ぶ、
二靈かくしてよもすがら荒れに荒れつゝ堆上の
焰を煽る、而して脚神速のアキリュウス、
又夜もすがら黄金の瓶に葡萄の美酒湛へ、
二柄の(はい)に酌みとりて注ぎて大地潤しつ、
パトロクロスの薄命の魂呼べり、譬ふれば
華燭新たの若き人、俄に死して双親を
泣かしめ、遺骸焼く父の愁傷禁じ得ざるごと、
正しくかくもアキリュウス其親友の骨を焼き、
火葬の場を廻り行き、時々慟哭の聲放つ。

地に光明を告ぐるべく(あけ)の明星あらはれつ、
ついで番紅花(さふらん)の衣着る「曙」波を渡る時、
激しく堆を焼きたてし猛火は遂に鎭りて、
風の二靈はその郷に、トレーイケスの海の上、
今はと共に立ち歸り、また澎湃の波湧かす。
ペーレーデースこなたには、火葬の堆を遠ざかり、
疲勞のあまり横はる、甘眠彼の目をとざす。
されど衆人群りてアトレーデース打ち圍み、
おこす騒ぎと雑音は端なく彼を目ざましむ。

即ち彼は身を起し衆に向ひて陳じ曰ふ、
『アトレーデース及び他のアカイア族の諸頭領、
まづ暗紅の酒をもて、猛焰つよく襲ひたる、
火葬の堆を鎭め消せ、而して次ぎに心して、
メノイチオスの生める息、パトロクロスのもろ/\の、
骨を仔細に撰り分けよ、認め知ること難からず、
堆のもなかに波伏せり、其他の人馬もろともに、
離れて端に横はり、雜然として火に焼かる、
脂肪二重につゝませて、彼の遺骨を黄金の
瓶に藏めよ、冥府の郷に我また行かん迄。
今造るべき墳瑩をあまりに大にする勿れ、
程よく建てよ、後の時、汝ら之を高くして、
大なるものとなすあらん、漕座あまたの舟の中、
我より後にながらへて殘るアカイア衆、汝。』

脚神速のアキリュウス、しか陳ずれば衆は聽き、
まづ暗紅の酒そゝぎ、猛焰つよく襲ひたる
火葬の餘燼しづむれば、あとに積るは厚き灰。
涕を垂れて衆人はやさしき友の白骨を、
脂肪二重に包みつゝ、藏む黄金の瓶の中、
而して之を陣營の中に齎らし帛に蓋ふ、
而して次に墳瑩の位置を劃して其基礎を、
火葬の堆のそばに据ゑ、直ちに上に土を積む。

斯くて墳瑩積み上げて去らんとするを、アキリュウス、
[1]そこに留めて、盛なる集會(しうゑ)の席に坐らしめ、
舟より種々の賞品を??鼎を鑊を取り來る、
數多の馬を又騾馬を、首逞しき大牛を、
衣帶いみじき女性らを、又燦爛の(くろがね)を。

[1]葬儀の禮としてこれより八種の競技始まる。第一は兵車競走。

まづ、いやさきに彼は懸く兵車競ひの賞の品。
第一等は工藝にすぐれし女性、加ふるに
二十二メトラの大きさの耳環を附せる大鼎、
次に二等の賞として定むる處、六歳の
牝馬、未だに馴れずして胎に仔馬を宿すもの、
次ぎ三等に對しては、四メトラ測る大きさの
まだ火に觸れぬ釜一つ、銀色燦と光るもの、
次に四等の賞として懸く黄金の二タラント、
五等に未だ火に觸れぬ二柄の瓶を定めたり
斯くして立ちてアカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、

『アトレーデース、及び他の脛甲堅きアカイアの
友よ、場裏に騎士待ちて此等の賞は横はる。
他の戰將の爲に此競技をわれら行はゞ、
我一等の賞を得てわが陣營に持ち去らむ。
汝ら知らむ、わが御する双馬すぐれていみじきを、
彼ら不死なり、わが父にポセードーンのそのむかし
與へたるもの、わが父は我に彼らを傳へたり。
さもあれ我も單蹄の双馬も共に動くまじ、
彼らを御せしすぐれたる、しかもやさしき勇將は
亡べり、彼は(たび)々も清き水もて洗ふ後、
双馬の長き鬣にいみじき香油灑ぎしよ。
其勇將を悲みて髪を地上に垂れつつも、
見よや、可憐のわが双馬、悄然として佇むを。
さはれ汝等アカイアの中の誰しも、其馬と
其兵車とを頼むもの、いざ競爭の備せよ。』

しかく陳ずるアキリュウス、聞きて騎士らは寄せ來る。
[2]ユウメーロスは民の王、アドメートスのめづる息、
馬術すぐれし彼は今遙か眞先に立ち上る、
チューデーデース、剛勇のヂオメーデース之に次ぎ、
[3]アイナイア,スに奪ひたるトロイア双馬御して立つ、
(主公の彼を救ひしは銀弓の神アポローン。)
アトレーデース・メネラオス金髪の將また續く、
ヂュウスの裔の勇將は二頭の駿馬御して立つ、
アガメムノーンのアイテーと、おのれ有するポダルゴス、
アガメムノーンに此牝馬エケポーロスは與へたり、
[4]アンキーセースの子たる彼れ、イリオンさしてつき來るを、
好まず、邦に留るを願ふが故に與へたり、
ヂュウスに巨富を惠まれてシクオーンの地に彼は住む。
牝馬アイテーおほいなる歡喜に滿ちて(かけ)を待つ。
アーンチロコスは第四番、鬣美なる馬を御す、
ネストールのすぐれし子、父は高貴の性にして、
其また父はネーリュウス、ピュロスの産の駿足は、
兵車を彼の爲に牽く、思慮に長ぜる彼のそば、
父は來りて慇懃に更に教をこめて曰ふ、

[2]二歌七六四。
[3]五歌二九六、三二四。
[4]アイネーアースの父と同名別人。

[1]『アーンチロコス、汝をば若き時よりポセードーン、
ヂュウスもろとも寵愛し、種々の乘馬の道を善く
示せり、然れば今更に汝に告ぐる要あらず。
汝全く終點を廻り驅くべき術を知る、
されど汝の馬遲し、禍難或は起らんか。
彼らの馬は皆速し、されども彼ら駿足を
御すべき技は、わが愛兒、汝に優ることあらず。
いざ立て、愛兒、而して種々の計慮を胸の中
廻らせ、懸けし恩寵を失ふことの無きがため、
腕力よりも技に因り樵夫遙かに相勝る、
船こぐものも技に因り、風に惱める快船を、
暗紅色の海の上、進め走らす術を知る、
同じく戰車御する者、巧みによりて他を凌ぐ。
されど戰馬と戰車とを偏へに信じ頼むもの、
思慮なくあなたこなたへと、永きに亙り馳せらして、
場裏に馬の驅け行くを正しく御する道知らず。
之に反して智あるもの、御する其馬遲しとも、
終點常に目に入れて、それの近くを驅り走る、
また初より牛皮にて造れる手綱手にとりて、
馬を御しつゝ怠らず、先だち驅くる相手見る。
今明瞭の目じるしを汝に告げむ、心せよ、
[2]かなた地上に一 (ひろ)の乾ける樹幹立つを見よ、
檞かもしくは松柏か、雨に朽ちずに聳え立つ、
白き二つの石は其右と左の兩側に、
道の狹みの中にあり、競馬の路は其めぐり。
恐らく昔、亡びたる或る人間の記念樹か?
或は過ぎし人々のきめし競馬の目標か?
今足速きアキリュウス之を決勝點と爲す。
汝かしこに進む時、そこに戰車を近く驅れ、
而して車臺の上にして双馬の中に左へと、
少しく汝の身を寄せよ、而して高く叱咤して、
右手の馬を驅り進め、而して手綱緩うせよ。
次に左の馬をしてかの目標に迫らしめ、
車輪の(こしき)其へりに觸るゝと見ゆる時までも、
とく驅けしめよ、然れども石に觸るゝを警めよ、
恐らく馬と戰車とを傷つけ碎くことあらむ、
然らば勝利他に歸して汝恥辱を蒙らむ。
されば愛兒よ、心せよ、警戒怠ること勿れ。
もし曲り目に競爭者凌ぎて驅くることを得ば、
汝に誰も追ひ付かじ、況んや汝を凌がんや。
よし(うしろ)より[3]アリーオーン、神の裔なる駿足を??
[4]アドレーストスの駿足を??人は驅るともあるは又、
こゝに飼はれて傑れたる[5]ラーオメドーンの馬驅るも。』

[1]三四八までこの教訓は續く。或評家曰く全く無用。後世の拙き加筆。
[2]以下頗る曖昧。
[3]アリーオーンは後代テーベーの神話に著名の馬。
[4]二歌五七二。
[5]五歌二六六、二六八。

ネーリュウスの子ネストール其子に種々の忠言を
斯くの如くに陳じ了へ、やがておのれの座に歸る。

鬣美なる馬を御し、メーリオネース第五番。
五人車臺に身を乘せて(くじ)を兜の中に入る。
之を打振るアキリュウス、其時先に出でたるは、
アーンチロコスの(くじ)にして、ユウメーロスのそれは次ぎ、
次は槍術巧みなるアトレーデース・メネラオス、
メーリオネースまた次いで彼の戰車を進めんず、
チューデーデース、衆人にすぐれたる者、最後なり。
かくして五將一線に並ぶその時アキリュウス、
遙かあなたの平原の上の目標示しつゝ、
父の御者たるプォイニクスすぐれし勇士遣して、
此競走を監せしめ、報告誤りなからしむ。

其時五將一齊に馬に向ひて(むち)加へ、
はげしく打ちて高らかに勢猛く叱咤しつ、
衆馬即ち速に水師のもとをたち離れ、
平野に沿ひて馳せ走る、其の脚のもと、蹴上げたる
塵埃亂れ、濛々と雲とあらしを見る如し、
而して彼の鬣は風の呼吸に流れ飛ぶ。
戰車時には豐沃の大地の面を掠め去り、
時には高く飛び揚がる、而して之を御する者、
車臺に立ちて心臟の鼓動はげしく優勝を、
おの/\念じ、其馬をおの/\痛く勵ませり、
馬のおの/\塵埃を立てゝ、平野の上を飛ぶ。

かくして衆馬脚速く平野の端に着きて後、
再び本に波白き海原さして歸る時、
彼らの長所現はれて力の限り驅け走る。
ユウメーロスの驅る駿馬その時まさき驅け來る。
これに續きて飛び來るヂオメーデース御する馬、
トロイア産の駿馬は極めて近く迫り來て、
前の戰車に乘らんずる如くに見えて、其呼吸
ユウメーロスの背及び、廣き双肩掠め吹く、
見よ、追ひ來る其双馬、頭は彼の身に觸れて、
而して彼に追ひ付くか或は彼を越さんとす。
その時[1]プォイボス・アポローン、チューデーデースに憤り、
彼の手中の耀ける鞭を彼より奪ひ去る。
恐る勇將泫然と涙流して眺め見る、
相手の牝馬いや速く驅くるに反し、おのが馬
驅るべき鞭の無き儘にその進行の遲々たるを。
かく勇將を欺けり神プォイボス・アポローン、
之を認めてアテーネー、急ぎ勇將逐ひ行きて、
その鞭彼の手に與へ、彼の駿馬の勇を鼓す。
更に神女は憤然とユウメーロスのあとを追ひ
双馬の(くびき)打碎く、かくして馬は左右、
道より狂ひ躍り驅け、(ながえ)碎けて地に落ちぬ。
而して車輪の傍に其車臺より落されて、
彼れ自らは肱と口また其耳をすりむきつ、
眉毛にかけて其額疵を負ひつゝ、双の眼に
無念の涙溢れ來て、朗らの聲を止りぬ。
チューデーデース其時にあらゆるものに先んじて、
路を轉じて單蹄の馬をすゝめぬ??アテーネー
馬に勇氣を鼓吹して勇者に譽與へたり。
次に進むは金髪のアトレーデース・メネラオス、
アンチロコスは(之を見て)御し行く馬に叫び曰ふ、

[1]アポローン嘗つてユウメーロスの父アドメートスの此馬を御せり(二歌七六六)。

『進め、汝ら、全力を盡せ、汝の脚を延せ、
チューデーデース乘る馬に競へと敢て我曰はず。
目は藍光のアテーネー、勇者の馬に力貸し、
速く驅けしめ、光榮を彼らの主に與へたり。
アトレーデース乘る馬に、さはれ追ひつけ、速かに、
後るゝ勿れ、アイテーは牝馬ならずや!汝らは
優れるものを、何故に後れて恥を受くべきぞ?
今汝らに告げんとす、告ぐる所は()と成らむ、
今怠慢の故を以て劣れる賞を取るあらば、
衆民統ぶるネスト,ルに汝再び用なけむ、
彼は鋭き青銅をとりて汝ら屠るべし。
いざいま續け、全力を盡くし、相手のあとを逐へ、
我は計略廻らして巧みに狹き道に入り、
彼を追ひ越す事をせん、此事必ず我爲さむ。』

しか陳ずれば双の馬、主公の威喝恐れつゝ、
激しく走る、然れども間なく忽ち勇猛の、
アーンチロコス目前に、窪める狹き路を見る、
冬の雨水 (たう)々と集り寄せて道崩し、
あたりをすべて推し窪め、深き低地となす處、
他と衝突の患避け、そこに向へりメネラオス。
[2]されどたくらむネスト,ルの子は單蹄の双馬驅り、
聊か脇に外れ乍ら路を離れて彼を追ふ。
アトレーデース見て怖れアーンチロコスに叫び曰ふ、

[2]此二行不明(リーフ)。

『アーンチロコスよ、思慮なくも驅くるな、馬の足留めよ。
此道狹し、すぐ汝廣き道にて乘り越さむ、
我の兵車に打ちあてゝ共に(そこな)ふこと勿れ。』

しかく陳ぜり、然れどもアーンチロコスは其言を
聞かざるまねし、鞭あげて愈々双馬驅り進む。
力を試す屈竟の青年腕を高く上げ、
投ぐる圓板遠く飛ぶ、其距離ほどに先んじて、
双馬すゝめば、其あとをアトレーデースの馬は馳す、
彼は勉めて其馬を進むることを差し控ふ、
道路の上に彼と此、單蹄の馬打ち當り、
いみじき兵車くつがへし、爲に勝利を期し乍ら、
二人おのおの地に落ちて塵にまみるゝ恐れより。

今金髪のメネラオス叱りて彼に叫び曰ふ、
『アーンチロコスよ、汝ほど奸智に富める者あらず、
汝を先にアカイアの緒人褒めしは誤れり、
かく行ふも[3]誓言を宣べずば汝賞を得じ。』

[3]姦策を爲さずとの誓。

しかく陳じて其馬を勵まし彼に叫び曰ふ、
『汝ら留ること勿れ、心惱むも休やひそ、
相手の脚と膝と共、疲勞は汝のそれよりも
早かるべきぞ、青春の力を彼ら失へば。』

しか陳ずれば双の馬、主公の威喝恐れつゝ、
激しく驅けて競爭の相手にすぐに近づけり。

平野の上を廣揚げて、飛ぶが如くに驅け來る
馬群眺めて、アカイアの緒人 集會(しうゑ)(には)に坐す。
場より外の高き丘、四方(よも)を眺むる處より、
眞先に馬を認めしはクレーテー王イドメネー、
まだ遠けれど大音に馬を勵ます聲を聞き、
其誰たるを認め知る、又見る、先に馳せ來る
駿馬は赤し、たゞ一の白き斑點圓くして、
さながら月に似たるもの其額上にいちじるし、
かくと認めて立ち上りアカイア族に向ひ曰ふ、

『あゝアカイアのもろ/\の頭領及び將帥よ、
我のみ馬を認むるや?汝ら未だ認めずや?
先にはすぐれ先頭を驅けし牝馬は、平原の
上、いづくにか疵つける、我が見るところ今先を
驅くるは別の馬にして、別の勇將之を御す、
(先には彼ら境界を廻り驅くるを我れ見たり、
されども今は何處にも見えず、トロイア平原を
わが目あまねく見廻すも、彼らを見るを得べからず[1])。
御者は手綱を取り落し、馬を正しく境界の
ほとりに驅るを得ざりしか?轉囘するを得ざりしか?
思ふに彼は車臺より地に落ち車輪破れしか?
而して馬は暴れ狂ひ、道より外にそれたりや?
されど汝ら立ち上り共に眺めよ、われは能く
見わくるを得ず、たゞ思ふ眞先に驅けり來るもの、
彼はアイトーロスにして、アカイア軍を司どる
ヂオメーデース??剛勇のチューデーデースなるべきを。』

[1]以上三行大概の版に除かる。

しか曰ふ彼を[2]アイアース・オイレーオスは誹り曰ふ、
『イドメ,ニュウスよ、饒舌はまだ尚早し、平原の
廣きを遠くかなたより馬は躍りて驅け來る。
アカイア族の中にして汝は若き者ならず、
汝のもてる双眼は善く明快に見るを得ず、
されども常に饒舌に汝は耽る、饒舌は
汝なすべき事ならず、勝れる者は(ほか)にあり。
先に先頭驅けし馬、今も眞先に驅け來る、
ユウメーロスのそれにして手綱を取りて彼は驅る。』

[2]勇將等の口論全く小兒の爭の如し、好笑。

クレーテー王憤り答へて彼に叫び曰ふ、
『誹謗に最もすぐれたる[3]アイアン(汝アカイアの
中に他のこと皆劣る)汝の心酷きかな、
いざ今こゝに三脚の鼎もしくは釜を賭け、
アガメムノーン元戎を共に判者と戴かむ、
いづれの馬が先なるや、汝敗れて悟るべし。』

[3]呼格。

オイレーオスのアイアースその言聞きていきどほり、
直ちに立ちて激烈の言句に彼に答へんず、
斯くして二人爭を高めんずるを見て取れる
ペーレーデース・アキリュウス、自ら立ちて陳じ曰ふ、

『アイアン及びイドメニュー、汝ら辛き言句もて、
應答するをはや止めよ、ふさはしからず汝らに、
他のもの斯かる事あらば汝ら正に怒るべし。
集會(しうゑ)の席に身を据ゑて汝ら、來る馬を見よ、
勝を競ひて速に群馬この場に來らんず、
來らん時に汝らはおのおの知らむ、アカイアの
馬群の中に何ものか、一着或は二着かを。』

しかく陳ずる間もあらず、チューデーデース近づけり、
絶えず鞭を振り上げて進むる双馬速に、
空に躍りて飛ぶ如く平野の上を走り來る。
しかして絶えず塵埃は濛々として御者を打つ、
而して錫と黄金と掩ひ飾れる其兵車、
脚神速の馬牽きて進めば、めぐる双輪は、
輕き平野の塵埃の上に殆ど其痕を
殘し留めず、斯くばかり飛ぶが如くに急ぎ驅く。
ヂオメーデース場中にかくして着けり、淋漓たる
汗は双馬の首と胸流れて地上ふりそゝぐ。
勇士 (すなは)ち輝ける兵車をおりて地に立ちて、
鞭を(くびき)に立て掛けぬ。その時彼の身の代り、
賭の褒美の一等を、即ち女子を、把手(とりて)ある
鼎を受くるステネロス、直ちに之を家臣らに
搬び去らしめ、自らは疲れし双馬解き放つ。

續きて馬を驅り來るネーレーイオス、計策に
因りメネラオス凌ぎたるアーンチロコス今着けり、
而してすぐにメネラオス迫りて馬を驅り來る。
その間隔は小にして、譬へば兵車驅り乍ら、
主公を乘せて平原を走れる馬と輪との距離、
(馬の尾毛の末端は車輪の縁に相觸れて、
大平原を颯爽と勇める駿馬かけて行く、
かけ行く彼と車輪との間の幅は短かかり)
アーンチロコス後れし距離はかくばかり、
初め後れし間隔は、投げ飛ばさるゝ圓板の
距離にも等し、しかれども鬣美なるアイテース、
アガメムノーンの貸しゝ馬奪ひて彼に追ひつけり。
二人に對し競爭の路程これより長からば、
アーンチロコスを凌ぎ得て勝負明かなりつらむ。
イドメニュウスの家臣たるメーリオネース槍投げの
距離ほどおくれ、メネラオスすぐれし王のあとに着く。
鬣美なる彼の馬、脚は頗る速からず、
彼も場裏に其兵車驅るべき技倆他に劣る。
アドメートスのすぐれたる[1]子は總體のいや末に、
美麗の兵車率きつゝも双馬を前に驅り來る。
脚神速のアキリュウス眺めて彼を憐れつ、
アカイア人の群の中立ちて飛揚の言句曰ふ、

[1]ユーメーロス。

『最優のものいやはてに其單蹄の馬を驅る、
第二の賞をふさはしく彼に我らは與ふべし、
第一賞は勇猛のチューデーデース取るべかり。』

しかく陳ずる彼の言、衆人等しく善しと爲す。
アカイア緒人贊すれば[2]馬をば彼に與へんず、
アーンチロコス其時に憤然として立ち上り、
ペーレーデース・アキリュウスの前に正しく叫び曰ふ、

[2]二六五行にいふ所。

『あゝアキリュウス、汝その言を遂げなばわが心
痛く怒らむ、汝今さすが勝れし勇將の、
兵車も馬も敗れしを痛く憐み顧みて、
正にわが賞奪はんず、彼は宜しく神明に
祈るべかりき、しか爲さば最後の馬を驅らざらむ。
汝心に彼を愛で而して彼を憐まば、
汝の營に黄金と青銅及び羊群と、
捕虜の女性と單蹄の馬のもろ/\數多し、
(これ)の中より取り出でゝ優れし賞をやがて後ち、
彼に與へよ、アカイアの友喜ばゝ今すぐに。
我は牝馬を讓るまじ、そのため腕の力もて
我と爭ひ戰ふを望まんものは現はれよ。』

しか陳ずればアキリュウス勇將そゞろ微笑みつ、
親しき故に愛友のアンチロコスを喜びて、
即ち飛揚の言句もて彼に答へて陳じ曰ふ、

『アンチロコスよ、汝もしユウメーロスに、我が營の
中より賞を與ふるを、望まば我はしか爲さむ。
[3]アステロパイオス打倒し取りし青銅の胸甲を
彼に與へん、耀ける錫の粧飾其上に
施されあり、彼にとりこの物高き賞ならむ。』

[3]二十一歌一四〇、一八三。

しかく陳じて其家臣オートメドーンに令下し、
營より武具を搬ばしむ、乃ち行きて搬び來て、
ユウメーロスの手に渡す、勇士喜び之を受く。

つづきて衆の面前にアンチロコスに憤ほる
王メネラオス立ち上る、彼の手中に傳令の
使は[4]笏を握らしめ、アカイア軍に沈默を
命ず、その時神に似るアトレーデース陳じ曰ふ、

[4]一歌二三四。

『アーンチロコスよ、昨日迄賢かりしに汝今
何をか爲せる?劣等の汝の馬を驅り進め、
われのを敗り、わが長所汝はかくも辱しむ。
いざアカイアの諸頭領また諸將軍願はくは
われら二人に審判を下せ、私ある勿れ、
アカイア軍のあるものに斯く曰はしむる事勿れ、
「アーンチロコスを虚言もて王メネラオス欺きて
賞與の馬を牽き去りぬ、力と勇は優れども
彼が場裏に御せし馬いたく劣れるものなりき」
いざ今我は宣すべし、而して思ふアカイアの
他の何人も咎むまじ、我が曰ふ處誤らず。
アーンチロコスよ、こゝに來て世の(ならはし)のあるが儘、
馬と兵車の前に立ち、先に用ゐて驅りたてし
柔軟の鞭手にとりて、ヂュウスの裔の汝、今、
馬に觸れつゝ大地 ()るポセードーンに盟ひ曰へ、
故意に工らみ我が兵車妨げしこと無しと曰へ。』

彼に答へて聰明のアーンチロコス陳じ曰ふ、
『許せ、わが王メネラオス、我は遙かに汝より
(わか)し、年齒に剛勇の汝は遠く我を越す、
年齒の若き人の子の過如何に、汝知る、
彼の心は焦燥に、彼の考慮は深からず。
願はく汝柔げよ、わが獲し馬を快く、
汝望まば喜びて(たゞち)に我は捧げんず、
或は別にわが(もと)に更に善き物あるべきか。
ヂュウスの愛づる汝より常に憎まれ、而して
不敬の罪を神明に犯すことより優ならむ。』

しかく陳じてすぐれたる老ネストール生める子は、
牝馬引き來てメネラオス王に渡せば喜べり、
秋収穫の原上に波よる麥の穗のならび、
玉露の惠み成熟の喜び獲たる時の如、
しか喜べるメネラオス、アトレーデース欣然と、
即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じいふ、

『アーンチロコスよ、憤激を先にはわれは起せしも、
今は汝に讓るべし、輕卒ならず、狂ならぬ
汝この日に心なく、血氣に驅られ誤れり。
此後再び先輩を欺き犯すこと勿れ。
[1]アカイア族の他の者は我を早くは柔げじ、
されど汝は剛勇の汝の父と兄弟と、
共に同じくわが爲に痛く勉めて惱みたり。
かゝるが故に我は今汝の乞に從はむ、
而して我の贏ち得べき馬を與へん、衆人は
かくして知らむ我心誇らず苛酷なるざるを。』

[1]此戰爭はメネラオスの王妃ヘレネーを原因とするが故に。

しかく陳じて其馬をアーンチロコスの同僚の
ノエーモーンに牽かしめて耀く釜の賞を受く。
メーリオネース第四次に、馬を驅り來て黄金の
兩タランタの賞を受く、後に殘れる第五賞、
二柄の(はい)をアキリュウス、アカイア族の集團の
前に携へ、ネスト,ルに與へて彼に陳じ曰ふ、
(おぢ)よ、いざ此品受けよ、パトロクロスの埋葬の
記念に之を蓄へよ、アカイア陣中また彼を
見ること無けむ、我れ君にかくして賞の品捧ぐ、
君は再び拳鬪に又は角力(すまう)に爭はじ、
また投槍に加はらじ[2]競けの走も爲さゞらむ、
辛き老齡痛むべく君の肢體を弱らしむ。』
しかく陳じて賞の品渡せば彼は喜びて、
之を受けつゝ翼ある言句のべていふ、

[2]以下四球技(投槍の代に圓盤投のことあり)及び兵車競爭を合しての五をホメーロス時代のペンタートロンと曰ふ、以下の三競技は後の添加。

『わが子、汝の曰ふところ皆悉く理に當る、
わが双脚ははや既に堅固に非ず、わが腕は
左右(さう)の肩より敏捷に昔の如く動き得ず。
あゝ我わかくわが力昔の如くあらましを、
エペーオイ族そのむかし[3]ブープラションに其主公
アマリュンケース葬りて、王子ら賞を懸けし時、
エペーオイ又ピュリオイの、更にはたまた剛勇の
アイトーロイの族の中、我に()く者あらざりき。
[4]クリュイトメーデス(エーノポス生める勇士)を拳鬪に、
プリュウローンの勇士たる[5]アンカイオスを角力(すまう)にて、
また優れたる[6]イプィクロス、彼をば徒歩の競爭に、
[7]ポリュドーロスと[8]ピュリュウスを皆投槍に打ち破り、
ひとり兵車の競爭に飽く迄勝を爭へる
アクト,ル生める二子のため、數の力にわれ負けぬ。
至上の賞を懸けし故彼ら飽く迄爭へり。
彼らは共に双生兒、一は激しく馬を御し、
他は其鞭を振りあげて激しく馬を叱咤しき。
昔は我は斯くありき、今妙齡の子らをして、
斯る行爲を爲さしめよ。我はやむなく老齡に
屈すべからむ、いにしへは諸豪の中にすぐれし身。
いざ今行きて競技もて汝の友の葬禮を
行へ。我は心より歡喜に滿ちて此品を
受けむ、汝はとこしへに我の好意を胸に留め、
我を忘れず、アカイアの衆中われに敬いたす。
其報酬に神々は汝に寵を賜ふべし。』

[3]十一歌七五六。
[4]前後に無し。
[5]二歌六〇九とは別人。
[6]二歌七〇五。
[7]二十歌四〇七別人。
[8]二歌六二八。

ネーレーデースしか陳じ、贊する言辭悉く
ペーレーデース聞ける後、アカイア陣をさして行き、
更に激しき[9]拳鬪の競技の上に賞を懸く。
即ち彼は逞しき一頭の騾馬牽き來り、
集會(しうゑ)(には)につなぎ留む、馴らすに難き六歳の
騾馬なり、更に敗者には彼は二柄の(はい)
備へ、アカイア衆の前、立ちて彼らに宣し曰ふ、
『アトレーデーよ、又 (ほか)の脛甲堅きアカイアの
友よ、我れ今此賞のために二人の剛勇の
友に奮ひて拳鬪をなすを勸めむ。アポローン
勝を與へてアカイアの衆人認めたらん者、
彼はすぐれし此騾馬を其陣營に牽きて行け、
敗れん者は其分に二柄の盃を請けよかし。』

[9]競技第二拳鬪、六九九迄。

しか陳ずれば忽ちに、拳鬪の術すぐれたる
パーピュウスの子エペーオス、強き魁偉の勇士立ち、
すぐれし騾馬に手を觸れて衆に向ひて叫び曰ふ、

『二柄の盃を請けん者こゝに現はれ出でよかし、
アカイア軍の何人も拳を以て勝を占め、
騾馬を牽き去ることなけむ、我この術に優れたり。
我れ戰鬪に拙きを咎むる勿れ、一切の
技悉く長ずるは人の善くする事ならず。
我今こゝに曰ふところ必ず成らむ、わが敵の
肉を全く我れ破り、彼の骨皆碎くべし。
哭くべき彼の親族は相集りてこゝに待て、
わが手によりて破られし死屍を引取り去らんため。』

しか陳ずれば衆人はみな黙然と靜まりぬ。
[1]ユウリュアロスは只一人敵對すべく立上る、
メーキステース生める息、祖父はタラオス、王者の身。
彼その昔テーベーに[2]オイヂポデース弔ひの
式に來りてカドモスの[3]すべての子らに打ち勝ちぬ。
チューデーデース槍術に巧みの勇士、言句もて
彼を勵まし、彼の身に勝利あれとて念じ立ち、
眞先に帶を纒はしめ、つゞきて更に牧場の
牛の皮もて作りたる革紐彼の手に與ふ。
二人の勇士帶締めて競技の場に入り來り、
猛然立ちて相向ひその剛力の手をあげて
相打つ、かくて物凄く拳と拳たゝきあひ、
又すさまじく齒ぎしりの音は響きて、淋漓たる
汗を四肢より流れ落つ、今や勇なるエペーオス、
隙を覘へる敵の頬激しく打てば(こら)へ得ず、
よろめく脚をとゞめ得ず、どうと大地に倒れ伏す。
譬へて曰はば、北風の波紋の下に魚躍り、
海草纒ふ淺瀬のへ、落ちて再び黒き波、
之を蔽へる樣や斯く、打たれし敵は飛び上り、
やがて倒れて地に伏せば、その時強きエペーオス、
手をかけ立たす彼の側、友群りて連れいだす、
黒き血を吐き脚を曳き頭かたへに垂れしまま、
氣を失へる彼を斯く友の間に臥せしめて、
衆は進みて賭けられし二柄の盃を取り來る。

[1]二歌五六六。
[2]即ちオイヂポス、ソホクレース大悲劇の主人公。
[3]カドモスの子らはテーベーの古住民。

[4]ペーレーデースすぐに又猛き角力の技のため、
アカイア人の眼前に三たび賭物持ち來る、
勝たん者には炎々の火にかざすべき大鼎、
アカイア人は評し曰ふ、價は牛の十二頭、
負けん者には工藝に巧みの女性、その價、
牛の四頭に當るもの、共に場裏に引き出さる。
ペーレーデース立ち上り衆に向ひて叫び曰ふ、
『此競爭に意あるもの、乞ふ速かに出で來れ。』
聲に應じて現はるゝテラモニデース・アイアース、
又オヂュシュウス、敏くして深く智謀に富める者。
二勇士かくて帶を締め共に場裏に進み入り、
その剛強の手を揮ひ勢猛く搦みあふ、
そを譬ふれば、すぐれたる番匠風を防ぐため、
二條の棟木、宏壯の館のかしらに組む如し。
かくして揮ふ双の腕、その力爭に二勇士の
背中はげしくきしり合ひ、汗は淋漓と流れ落つ、
かくて兩者の肩及び脇腹に添ひ、紅血の
幾多の條ぞ湧きあがる、而して二人賭けられし
鼎獲るべく奮然と長く激しく爭へり。
かくして敵をオヂュシュウス足を抄ひて倒し得ず、
はたアイアースよくし得ず、敵の力は強かりき。
脛甲堅きアカイアの衆人永くこを眺め、
倦めるその時、アイアース・テラモニデース叫び曰ふ、
『ラエルチアデー、神の裔、智謀すぐるゝオヂュシュウス、
われを擡げよ、さもなくばわれは汝を??一切は
神の意の儘』しかのべて擡げしかども、オヂュシュウス、
術を忘れず、うしろより敵の膝蹴り脚挫き、
仰向けざまに倒れしめ、而して敵の胸の上、
オヂュシュウスまた打ち倒る、衆は眺めて驚けり。
次にすぐれしオヂュシュウス剛力奮ひ試みて、
地より少しく動かせど敵を擡ぐることを得ず、
膝と膝とを搦み合ふ兩勇遂に地に倒れ、
重なり伏して其四肢はみな塵埃に汚れたり。
三たび勇士ら立ち上り、また角力はんとしたる時、
アキルリュウスは身を起し之をとゞめて陳じ曰ふ、
『もはや努むること勿れ、努力に惱むこと勿れ、
勝は二人に共にあり、等しき賞を領受して、
去れかし、外のアカイアの衆人別に爭はむ。』

[4]競技第三、角力七三九まで。

しか陳ずれば兩勇士聞きて容易く順ひつ、、
四肢より塵を拂ひ去り脱ぎし衣を身に纒ふ。

[1]つぎて直ちにアキリュウス、足 ()き者に賞をかく。
そは銀製の瓶にして美妙の細工、六メトラ
蓋ふべし、地上外にまたかゝる華麗の物あらず、
手の工藝に秀でたるシドーンの人の作にして、
ポイニーケーの人むかし大海の上持ち來り、
港に揚げて豪族のトアスに獻じたりしもの、
プリアモスの子リカオンの償としてトアスの子、
イエーソンの生める息、ユウネーオスは英豪の
パトロクロスに與へにき。今アキリュウス取り出でて、
賞とし、脚の速力のすぐれしものに與へんず。
脂肪に富める大牛は第二の者に、しかうして
最後の者に黄金の半タランタは約されぬ。
將軍立ちてアカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、

[1]競技第四、競爭七九七迄。

『此競爭を試みる意のあるものは出で來れ。』
しか陳ずれば忽ちにオイリュウスの子アイアース、
智謀に富めるオヂュシュウス、つぎてネストール生める息、
足の速さに衆凌ぐアーンチロコスは立ち上る。
三人かくて立ち並び、アキルリュウスは決勝の
點を示して競走の路程を定む。その時に
オイリアデース眞先(まっさき)に驅け、その後にオヂュシュウス、
近く逼りぬ??近きこと帶美はしき一女性
梭を手にとり、縱糸の上に苧環(をだまき)はしらする
其時彼の胸許に、織 (はた)の梭眞近くに
來るが如し、オヂュシュウスしかく逼りて、先の者
蹴立てし塵の靜まるに先んじ跡を追ひ走り、
飛ぶが如くに驅け行けば、はげしき呼吸、其敵の
頭に吹けり、かくと見るアカイア衆人悉く、
勝を求めて極力に走る勇士に呼び叫ぶ、
最後の道を進む時、藍光の眼のアテーネー
神女に向ひ、オヂュシュウス心に念じ祈り曰ふ、

『神女よ、祈願きこしめし脚に力を添へ給へ。』
しかく祈ればアテーネー・パルラス之を納受しつ、
彼の兩脚兩手ともひとしく輕く動かしむ。
かくして賞を()ち得べく三勇ともに驅くる時、
驅けて躓くアイアース??神女は彼を妨げぬ、
足とく走るアキリュウス、パトロクロスの爲にして
屠りし牛の其汚物ちらばる中にどうと伏し、
鼻孔も口も群牛の汚物によりて充たされぬ。
かくてすぐれしオヂュシュウス第一着の故をもて、
寳瓶とればアイアース第二の賞の牛を得つ、
かくて汚物を吐きながら、手に逞しき牛の角、
握りて、かくてアカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、
『遺憾なるかなアテーネー、母の如くにオヂュシュウス
そのそば常に近く立ち、之を助くるアテーネー、
我の走りを妨げぬ。』聞きて衆人皆笑ふ。
アーンチロコスは又次ぎて最後の賞を搬び去り、
微笑なしつゝアカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、

『既に汝ら知るところ、我、なほ曰はむ、今も猶
年齡高き人の上、神は譽を降すなり。
見よ、アイアース我よりも長ずるところ只わづか、
之に反してオヂュシュウス、先の時代の長者たり、
老ゆれど豪の者なりと人は曰ふめり、アキリュウス
除かば誰か競走に彼を凌ぎて勝ち得んや。』

しかく陳じて脚速きアキルリュウスを譽め稱ふ。
ペーレーデースその時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『アーンチロコスよ、空しくは、汝の言句放たれじ、
見よ、半タランタの黄金を汝の賞に増し加ふ。』

しかく陳じて彼の手に渡せば受けて喜べり。
ペーレーデース又次ぎて場裏に更に持ち來す、
影長く曳く[2]大槍と盾と鎧を??先の日に
サルペードーン打倒しパトロクロスの剥げる物。
即ち立ちてアカイアの衆に向ひて陳じいふ、

[2]競技第五、槍の仕合ひ八二五迄以下明かに後の添加、特に槍の仕合ひの如き最も奇怪なり。

『此らの賞を衆人の見る目の前に競ふべく、
武裝とゝのへ青銅を手にして二人アカイアの
中の最も強き者、互に腕を試みよ、
いづれにもあれ先んじて敵の武裝を貫きて、
肢體疵つけ血を流し敵の急所に觸れんもの、
彼に與へんこの劍、銀鋲うてる美なる物、
アステロパイオス帶びしもの、[1]わが手彼より剥ぎしもの、
こはトレーケー郷の産。他は兩人共にせよ。
また彼らには陣中に美なる食事を備ふべし。』

[1]二十一歌一六三。

しか陳ずればアイアース・テラモニデース飛び出し、
ヂオメーデース、剛勇のチューデーデースも飛び出す。
衆の群がる左右よりかくして二人武裝しつ、
場の眞中に躍り入る、鬪志はげしく物凄く
睨まへ合うて入るを見てアカイア衆人をのゝきぬ。
かくて兩雄相迫り互に近く寄する時、
三たび襲撃試みて三たび近づき飛びかゝる。
敵のかざせる大盾をはげしく打てるアイアース、
護る胸甲堅ければ彼の肢體を傷けず。
チューデーデースは又次ぎに光る飛刄の(ほこさき)
敵のかざせる大盾のかげに其頸打たんとす。
アカイア衆人これを見てアイアースの身を危ぶみつ、
戰とめて而して等しき賞を分たんず。
今アキリュウスおほいなる劍と鞘と精巧の
皮帶ともに齎してチューデーデースの手に授く。

[2]ペーレーデースやがて又鑄鐵の球賞に懸く、
[3]エーチオーノスその昔力奮ひて投げしもの、
足疾く走るアイアース彼を殺して奪ひ取り、
其他の寳もろともに、其船中に運びたる
彼今立ちて、アカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、

[2]競技第六投盤八四九迄。
[3]アンドロマケーの父 六歌四一六。

『此競走に意あるもの、現はれ出でゝ試みよ。
勝を得ん者、豐沃の農園いかにひろしとも、
(いつ)たび歳のめぐる中、豐かに鐵を用ゐ得む、
彼に仕ふる牧童も又農民も彼の許、
訪ひて求めて事欠かじ、彼は必ず與ふべし。』

しか陳ずれば健鬪の[4]ポリュポイテース立ち上る、
また神に似る豪勇のレオンテーオス、又更に、
テラモーンの子アイアース、又すぐれたるエペーオス、
皆一線に相並ぶ。まづ勇しきエペーオス、
振り廻しつゝ球を抛ぐ、アカイア衆人皆笑ふ。
レオンチュウスはアレースのたぐひ、二度目に抛げとばす、
テラモーニオス・アイアースその剛強の腕あげて、
第三囘に抛げ飛ばし先の二人の(しるし)超す、
されど最後に健鬪のポリュポイテース球を取り、
とある牧童、群羊を牧ふもの、杖を投ぐる時、
杖は其群飛びこして廻りてあなた落つるごと、
其距離ほどに他を凌ぎ抛ぐれば衆は歡呼しぬ。
ポリュポイテースのい家臣らは即ち立ちてアキリュウス
懸けたる賞を領し得て其船中に運び去る。

[4]二歌七四〇以下。

次に[5]弓射る者のため暗緑の鐵賞に賭け、
兩刄の斧と片刄とを各々十個取り出し、
而してはるか沙の上、引き上げられし黒船の
(はしら)を的と打ち定め、そこに可憐の鳩一羽、
細き糸もて足繋ぎ之を射るべく命下す、
『いづれにもあれ矢を放ち可憐の鳩を打たんもの、
彼は双刄の十の斧取り陣營に運び去れ、
鳩に射當てず、たゞ糸を射たらんものは負として、
十の片刄の斧を得て其陣營に携へよ。』

[5]競技第七弓八八三迄此も亦笑ふべし、弓の競技はアイネーシス五歌にヰ゛ルギリウスも述ぶ、されど此場面における如き不合理を避く。

しか陳ずれば立ちあがる武勇の王子チュウクロス、
イドメニュウスの家臣たるメーリオネース又立てり。
かくして二人青銅の兜に(くじ)を投げ入れて、
振り搖がせばチュウクロス先に當りていやすぐに、
弓勢強く切り放つ、されど初生の仔羊の
すぐれし牲を捧ぐるを神アポローンに盟せず。
アポローン斯くて許さねば、遂に鳩をば射當て得ず、
たゞ其足の間近くに繋ぎし紐に射當つれば、
鋭き鏃忽ちに紐斷ち切りつ、放たれし
可憐の鳩は空に舞ひ、()られし紐は地に垂れぬ。
之を眺めてアカイアの衆一齊に歡呼しぬ。
メーリオネースその時に勇みて[1]弓を奪ひ取り、
長く前より心して放ち射るべく矢を持てる
彼は直ちに祈願して、新たに()れし仔羊の
すぐれし牲を捧ぐべく神アポローンに誓立つ、
かくして高き空の上可憐の鳩を窺ひて
高く翔け舞ふ鳥の羽の、下の眞中に射當てたる、
其矢はもとに落ち來り、メーリオネースの足許に
近く大地につきさゝる。射られし鳩は其 (へさき)
眞黒の船の船檣におりて其頸垂れさげつ、
而して厚き兩翼は共にひとしく垂れさがる。
斯くて生命速かに鳥のむくろを逃れ去り、
鳥は帆柱下に落ち、眺むる衆は驚けり。
メーリオネース悉く十の双刄の斧を取り、
片刄の斧をチュウクロス其船中に運び去る。
ペーレーデース又[2]次ぎに更に場裏に持ち來す
影長く曳く投槍を、牛一頭の價ある
鼎を??未だ火に懸けず、花の浮彫せるものを。
槍を投ぐるに巧みなる勇者、こなたに權勢の
ア,トレーデーよ、一切に君の優るをわれら知る、
其權勢に、槍投ぐる術に、すべてに打ち勝つを、
いざ此賞を携へて君の船中歸り去れ、
而して君の心もし贊せば槍を豪勇の
メーリオネースに與へずや、正しくわれの望なり。』
しか陳ずれば權勢のアガメムノーンうべなへり、
メーリオネース青銅の槍を受けたり、其家臣
タルチュビオスにかの賞をアガメムノーン授けたり。

[1]斯る折弓は只一張。
[2]競技第八、投槍八九七迄。


更新日:2005/01/28

イーリアス : 第二十四歌


第二十四歌

眠れぬ夜曙けアキリュウス起ちて、パトロクロスの墓のめぐりに、 ヘクトールの屍を曳きずる。神々之を見て評議す。ヂュウスは使を遣はし、 アキリュウスに諭し、賠償を納れるヘクトールの屍を返せと命ず。 同時にプリアモスに賠償を命ず。 王妃ヘカベーの諌を聽かず王プリアモス進んでアキリュウスの陣營に行く。 ヘルメーアス之を護る。陣營に着きて老王の哀訴。 アキリュウス之を聽き、十一日間の休戰を約す。 屍を車に乘せてプリアモス王トロイアに歸る。 ヘクトールの妻アンドロマケー、母ヘカベー、及びヘレネーの慟哭、ヘクトールの葬式。

集會(しふくわい)今や解け散じ、衆人おのおの其船に
別れて去りて、口腹を又甘眠を滿すべく
念じぬ。されどアキリュウス、ペーレーデース唯獨り、
親しき友を憶ひ出で悲しみ泣けば、一切を
制する睡寄せて來ず、あなたこなたに寢返りて、
パトロクロスの剛勇と其精力を忍び泣き、
波浪の上の艱辛を、又陸上の戰を、
共に分ちて努めたる其いにしへを忍び出で、
泫然として爲に泣く涕涙長く留らず、
時に或は脇に伏し、時に或は仰向きつ、
時に或はうつ伏しつ、遂にはやがて身を起し、
思に暮れて大海の岸邊に添ひて廻り行く。
さはれ海のへ岸の上照す曙光に心附き、
戰車の下に駿足の二頭の馬を駢ばしめ、
車臺の後にヘクト,ルの屍體曳くべく結び付け、
メノイチオスの[1]逝ける子の墓のめぐりを三たび曳き、
終りて屍體うつぶしに塵埃中にのこしつゝ、
陣に退き休らへり、而してプオイボス・アポローン、
死屍よりすべて傷害を除き、逝きたる英雄に
憐憫加へ、黄金の[2]アイギスをもて全體を
守りて、敵に曳きずられ害うくること勿らしむ。

[1]パトロクロス。
[2]神聖の盾。

怒りに任せ敵將を斯く(はづか)しむアキリュウス、
之を眺むる天上の諸神は彼を憐みて、
ヘルメーアスを促して死體を盗ましめんとす。
こをもろ/\の神明は皆賛すれど、ヘーレーと、
ポセードーンと、藍光の(まみ)もつ神女アテーネー、
賛せず、聖きイーリオン、王プリアモス、また部下の
民をパリスの咎のため先きの如くに猶ほ憎む。
パリスの牧場訪へる時、彼は[1]神女ら辱しめ、
不義の歡樂得させたるアプロヂ,テーを尊べり。
さはれ數へて十二囘曙光の返る曉に、
神プォイボス・アポローン諸神に向ひ宣し曰ふ、

[1]イーリアスに歌はるる此戰爭の基となる事件、??これは詩中に他の説かれず、
後の詩人の説くところ次の如し。神女テチスの婚禮宴に衆神各々招かる、
ひとり爭の神女エリス招かれず、之を怒りて復讐のため、宴席に『最美の者へ』と書せる黄金の林檎を投ず。
ヘーレー、アテーネー、アプロヂーテー各之をわが物と主張す。
ヂュウスは三神女に令しイデー山に牧羊せるパリス(アレクサンドロス)に審判を乞はしむ。
パリスはアプロヂーテーを最美と判じて他の二神女を辱しむ。
以來二神女は飽くまでもパリスとトロイアとを憎む。
不義の歡樂得させたるとはアプロヂーテーの誘によりてパリスがヘレネーと通じたること、
即ちトロイア戰爭の起源。王子パリスが牧人となれる理由は(後人の神話)次の如し。
彼の母夢にトロイアはパリスの故に亡ぶべしと見たる故に恐れて山中に棄つ、
牧人ら拾ひて彼を養育す云々(アポロドーロス綜合年代記三ノ十二及び其他)。

『諸神、汝ら酷くして禍降し、ヘクト,ルが、
先きに精美の肉炙り捧げたりしを省みず、
息絶えし後今に猶ほ彼の救護を念とせず、
其恩愛の妻と子と母と父とに又民に、
彼眺むるを得せしめず。しかせしめなば慇懃(いんぎん)
彼等は早く淨火もて其葬禮を營まむ。
諸神よ、さはれ汝らはアキルリュウスに力貸す、
彼の胸中正しかる思念はあらず、温柔の
魂は宿らず、獅子に似てただ兇暴の思のみ。
獅子は勇氣と兇暴を頼みとなして、其食を
求むるために人間の群に向って進み行く、
斯くの如くにアキリュウス憐憫の情失ひて、
廉恥を知らず、??人間に利害齎す情知らず。
抑も人は最愛のものを??例へば同胞の
兄弟あるは恩愛の子らを失ふことあらむ、
されど傷みて泣かん後遂には情を制すべし。
『運命』かかる忍耐を人の心の中に置く。
然るを彼はヘクト,ルの尊き魂を奪ふ後、
屍體を馬に曳かしめて親しき友の墳瑩を
廻り行くなり。こは彼の譽に非ず、利にあらず。
いかに勝るも神明の怒りに觸れて可ならむや!
[2]彼は狂ひて知覺なき敵の屍體を辱しむ。』

[2]アリストテレスの修辭學二歌三に之の行を引く、「怒の原因たる者が知覺なきに到らば賢者は其怒を抑ゆべし」云々。

玉腕白きヘーレーは其時怒りて彼に曰ふ、
『ああ白銀の弓の神、アキルリュウスとヘクト,ルを、
汝等しく褒むとせば、汝の言句(ごんく)皆空し、
只の人間ヘクトール女性の胸に育てらる、
アキルリュウスは神女の子、われは神女を養ひて、
育てて遂に妻として王ペ,リュースに仕へしむ。
痛く諸神に愛でられし彼の婚資の席のうへ、
諸神ひとしく連れる中に汝も琴を手に、
加はり乍ら惡人の友たり、汝信あらず。』

雷雲寄するクロニオーンその時彼に宣し曰ふ、
『ヘーレー、汝、神々に對して怒ること勿れ。
彼ら二人の光榮は同一ならず、然れども
イーリオン中、他に優りヘクト,ル最も愛すべし。
われに然かなり、故は彼つねに供物を怠らず、
其祭壇はわが爲に祝祭缺かず、また奠酒
燔肉の禮怠らず、これらの榮をわれは受く。
されど勇なるヘクト,ルを奪はんことは爲さざらむ、
アキルリュウスに知られずに此事なすを得べからず。
彼の神母は夜も日もひとしく彼の前近し。
今われ望む、とある神、テチスをこゝに呼び來れ、
われは神女を諭すべし、アキルリュウスが敵王の
齎らす寳納受して其子の屍體返すため。』

しか宣すれば、疾風に似たるイーリス使とし、
去りて[3]サモスと嶮崖のインブロスとの間なる
暗き潮に飛び込めば、騒然として波亂る。
[4]牡牛の角の先につく鉛の(おもり)、貪慾の
魚に死命を齎らして沈み行く樣見る如く、
千仞深き波の下、使イーリス潜り行き、
神母テチスを廣やかの洞窟中に見出しぬ。
海の仙女ら群りて共に坐れるただ中に、
故郷離れてトロイアの沃土に死なん運命を??
すぐれたる子の運命を、神母は泣きて悲めり。
其そば近く疾風の速きイーリス立ちていふ。

[3]十三歌一サモトレーケー嶋。
[4]「オヂュッセーア」十二歌二五一以下に同樣の比喩。

『テチス起たずや、クロニオーン、永遠の智者召し給ふ。』
銀色(ぎんしょく)の玲瓏のテチス答へて彼に曰ふ、

『おほいなる神何故に來れと我に命ずるや?
神に混じるをわれ恐る、われの心に惱あり、
さはれ行くべし、おほ神の述べん言句は空ならず。』

しかく陳じて神聖の神女は黒きかつぎ取る、
是に優りていや更に黒き衣はあらざらむ。
斯くして脚は疾風の速きイーリス導きて、
進む行方に漫々の潮は分る右左。
やがて岸上登り來てそれより高く天に飛び、
四方を遠く眺めやるクロニオーンを見出せり、
彼を廻りて慶福の不死の神々並び坐す。
ヂュウスのそばにテチス今坐れば席をアテーネー、
護り、ヘーレー黄金の盃與へ、慰めの
言句を述べぬ。??飲み終へて盃もとに納むれば、
人間並に神明の父は即ち宣し曰ふ、

『テチスよ、汝、胸の中、言に述べ得ぬ憂愁を
抱きウーリュンポスに來ぬ、我も親しく之を知る。
汝をこゝに呼び寄せし其故我は今告げむ
九日(こゝのか)續きヘクト,ルの屍體並に、アキリュウス、
都城を破る勇將につきて諸神は爭へり。
あるもの屍體盗むべくアルゲープォンテースそそのかす。
されども我は[1]光榮をアキルリュウスに與へんず。
愛と敬とを末永く我は汝にいたすべし。
今陣中に速かに行きて汝の子に告げよ、
告げよ、彼れ猶暴れ狂ひ其曲頸の舟のそば、
なほヘクトール留め置く、其故を以て神明の
すべては怒る、特に我れ外に優りて憤ほる。
彼若し我を憚らば將ヘクト,ルの死屍返せ。
而して我はイーリスをプリアモスへと遣はさむ。
アカイア陣に赴きて愛兒の屍體求むべく、
アキルリュウスに其心和らふ寳贈るべく。』

[1]屍を償ふべきプリアモスの贈遺??これなくばアキリュウスの面目立たず。

しか宣すれば銀色の脚のテチスは命奉じ、
ウーリュンポスの頂の高きを早く飛び下り、
愛兒の陣に來り着き、そこに勇將悲みて
聲を擧げつゝ泣くを見る、其かたへには諸の
親しき家臣いそがしく、朝の食事を整へつ、
羊一頭屠られて陣營中に横はる。
その時彼に端嚴の神母近より坐を占めて、
手もて撫でつつ名を呼びて言句を彼に陳じ曰ふ、

『我が子 何時(いつ)まで悲しみて身を苦めてかく迄も、
ひとり心を蝕むや?食事或は甘眠を
汝心に思はずや?女性と愛を契ること
また宜からずや?永らくは汝は生きず、無慚にも
死と物凄き運命と共に汝に近寄れり。
今速に我に聽け、ヂュウスぞ我を遣はせる。
狂ひ怒りて曲頸の船のかたへにヘクトール
留めて汝返さねばすべての神は(いきどほ)る、
而して外の一切に優りてヂュウス憤る。
やめよ、屍體を返し去り、其賠償を受け納れよ。』

脚迅速のアキリュウス聞きて神母に答へ曰ふ、
『しかくあれかし、クロニオーン誠に之を命じなば??
彼ら賠償齎して屍體を運び去るべけれ。』
數多の船のただ中にテチス並にアキリュウス、
しかく飛揚の翼ある言句互に相交う。
かなたイ,リオンめざしつゝイーリス送るクロニオーン、

『ウーリュンポスを後にして、イーリス、汝速かに
聖イ,リオンに赴きて王プリアモスに宣し曰ふ、
彼は愛兒の贖にアカイア水師おとづれて、
アキルリュウスを和ぐる賠償彼に致すべし。
トロイア軍の何人も彼に伴ふこと勿れ。
ただ老年の使のみ伴ひ、騾馬と輕輪の
車引くべし、而うしてかれ剛勇のアキリュウス、
殺せる屍體かなたよりイ,リオン城に運ぶべし。
死滅或は他の恐怖、彼の心に無かれかし、
彼を導く役としてアルゲープォンテ,ス與ふべし、
即ち彼を導きてアキルリュウスにつれ行かむ。
アキルリュウスの陣營に一たび彼を導かば
勇士は彼を殺すまじ、又他を抑へ制すべし、
彼は[2]ならず、思慮缺かず、斷じて惡き者ならず、
彼に悲み乞ふ者を心を盡し(いたは)らむ。』

[2]愚と無思慮と惡意とは人をして殘虐を行はしむ??或るイーリアスの評論家の言。

しか宣すれば、疾風の脚とき使イーリスは、
起ちておとづるイーリオン、悲嘆に滿つる城の中、
父プリアモス打圍む數多の子息悉く、
涙に衣濡せり、老いたる王は其の眞中、
被覆全く身を包み、苦悶のあまりころがりて、
われとはなしに手を攫み投げし汚物の數々に、
頸また頭無慚にもいたくまみれてむさくろし。
而して彼の數多き娘と嫁は一齊に、
アカイア軍の手に斃れ、地上に屍體今さらす
數多の勇士忍び出て、涙流して悲めり。
その時ヂュウス遣はせるイーリス、王の前にたち、
恐れて手足戰ける王を柔和の聲に呼ぶ、

『ダルダニデーのプリアモス、心安んじ、恐れざれ。
我れ禍を告ぐるためこゝに汝をおとづれず、
好意齎らし來る我、ヂュウスはわれを遣はせり。
遠く離れて彼は善く汝を守り憐めり。
其大神はかく命ず、アキルリュウスを飽かすべく、
あまたの寳携へて子のヘクトール贖へと、
トロイア軍の何人も同じく共に行く勿れ、
ただ老年の使のみ汝に附きて騾馬を引き、
輕車曳くべし、而うして彼れ英豪のアキリュウス、
殺せる汝の子の屍體イ,リオン城に運ぶべし。
死滅或は他の恐怖、汝の胸に無かれかし、
汝導く役としてアルゲープォンテ,ス倶ならむ。
彼は汝を導きてアキルリュウスにつれ行かむ。
アキルリュウスの陣營に一たび汝到る時、
彼は汝を殺すまじ、又他を抑へ制すべし、
彼は愚ならず、思慮缺かず、斷じて惡しき者ならず、
彼に悲み乞ふ者を心盡して勞はらむ。』
しかく陳じて疾風の脚のイーリス別れ去る。

王は即ち騾馬の曳く輪車整へ、其上に
一つの籠を載するべく、もろ/\の子に命くだす。
而して彼は屋の高き木の香匂へる室に入る、
室には種々の珍寳の目を驚かす數多し。
而して彼はヘカベーを、彼の王妃を、呼びて曰ふ、

不便(ふびん)の王妃、我に聞け、アカイア水師おとづれて、
アキルリュウスに物贈り愛兒の屍體求めよと、
ウーリュンポスの高きより神の使は來り曰ふ。
さもあれ汝、胸の中思ふところをわれに云へ、
アカイア勢のおほいなる陣をめがけて舟のへに、
我の勇氣は我を驅り、我に命じて進ましむ。』
しか陳ずれば驚きて聲を震はせ妃は叫ぶ、
『悲しや君の氣は亂る、先に異邦の人々も、
またわが部下も讚したる君の譽れの思慮いづこ?
君の多くの勇猛の子らを殺せる敵將の、
そのまのあたり身ひとりに、アカイア勢の水陣を
君訪はんとや?然かあらば君の心は鐵ならむ。
ああ不信なる酷き敵、彼もし親しく君を目に、
眺め檢することあらば、君を憐むことあらじ、
君を敬することあらじ。否否、むしろ城中に
坐しつゝわが子哀まむ、彼をこの世に産みいでし
其日につらき運命の絆は彼の身を繋ぎ、
親を離れて足早き野犬の口を充たすべく、
かの兇敵に斃れしむ、ああ[1]われ敵の心肝を
嚙み取ることを得ましかば、??さらばわが子の復讐を
まさしく爲すを得べからむ。彼の殺せしわが愛兒、
絶えて未練のあとあらず、恐を知らず、退却を
知らず、雄々しくトロイアの男女の爲に戰へり。』

[1]二十二歌三四七參照。

しか陳ずればプリアモス、神の姿の王は曰ふ、
『我の行かんと念ずるを止むる勿れ、城中に
不吉の言を吐く勿れ、汝はわれを諫め得ず、
地上に生ける人間のあるもの、我に命じなば、
即ち僧侶、卜筮者、あるは巫人の言ならば、
之を虚誕と觀じ去り、我れ其言を受けざらむ、
されども耳に聞きたるは神女の言葉、しかも目は
彼を眺めり、いざ行かむ。胸甲よろふアカイアの
水師のそばに斃るべき、運命われにありとせば、
われ甘受せん。??アキリュウスわれを打てかし、わが腕に
愛兒を抱き慟哭の涙を流し果てん後。』

しかく陳じてもろ/\の(ひつ)の美麗の蓋開く。
かくて内より取り出す華美の禮服十二枚、
單衣(ひとへ)の袍の十二枚、毛氈の數亦同じ、
華麗の上着、また下着、數はいづれも皆同じ。
更に數へて黄金の十タランタを取り出し、
更に輝く三脚の鼎二つと四つの盤、
又目を驚かす精巧の盃一つ、その昔、
トレーケースに客の時贈られしもの、宮中に
惜み留むることをせず、ただ其愛兒贖の
念に忙しく、老王は柱廊よりし一切の
トロイア人を追ひ拂ひ、罵辱の言を浴せ曰ふ。
すされ汝ら無慚の徒、汝等すでに慟哭は
滿ち足るべきを何故に來りて我を煩はす、
汝ら思ふやクロニオーン我に悲哀を齎らして
わが最勇の子を奪ふその禍は小なりと。
やがて汝ら悟るべし、一旦彼の逝ける後、
アカイア人は汝らを更に容易く亡さむ。
ああわが都城破られて掠み去られん、??其姿
わが目親しく見る前に、我は冥王におり行かむ。』

しかく陳じて笏揮りて衆を嚇せば、老王に
追はれて衆は散じ去る、あとに殘れる其子らに
王は叱りて命下す、ヘレノス、パリス、アガトーン、
アンチポノスとパムモーン、音聲高きポリテース、
デーイポボスとヒポトオス、ヂオス、すぐれし勇武の子、
九人の子らに呼ばはりて老王かくは命下す、

『急げ汝ら不肖の子、無慚のやから、汝らは
水師のほとりヘクト,ルに代りて死せばよかりしを。
ああわれ痛く不幸の身、廣きトロイア領の中、
すぐれし子らを産みたるも今一人もながらへず。
神にも似たる[1]メーストル、車戰巧みの[1]トローイロス、
又人中の神たりしヘクト,ル??彼は人間の
生みたる者と見えざりき、正しく神に似たりけり。
アレース此らを悉く亡す、あとに殘るもの、
無慚のやから、善く踊り、虚言を吐きて、同族の
手より彼らの群羊と山羊とを掠め奪ふ者。
汝ら急ぎ我が爲に車駕を整へ、其中に
此らの品を積みのせて、われの行くべき備せよ。』

[1]此二人はトロイア戰爭以前に逝く。

しか陳ずれば老王の言を恐れて、もろ/\の
[2]子ら輕輪のよき車、新たに成りてうるはしき
車を騾馬に曳かせ來て上に一つの籠を載す。
彼らはついで掛釘にかかる(くびき)をとりおろす、
騾馬のひくべき其軛??黄楊(つげ)の軛に(つまみ)あり、
手綱のための輪を具ふ。??軛もろとも九ペーギの
手綱を彼ら齎らして、善く琢かれし梶棒の
先に結びて而して輪を木釘に嵌め合はす。
而して三度右左綱を(つまみ)にくくりつけ、
[3]更に其後梶棒に結びて下に(かぎ)を曲ぐ。
而して衆はヘクト,ルの(かうべ)に代ゆる珍寳の
贖多く取りいだし、善く磨かれし車の()
積みつ、蹄の強き騾馬二頭軛の下に据う。
王プリアモス其むかし[4]ミューソイ族ゆ贈られて、
美なる厩に飼ひ來る其すぐれたる騾馬二頭、
衆は今はた老王の爲に軛の下に据う。
傳令並びにプリアモス、賢き思念胸にして
高き(やかた)の庭の中其兩頭を御して立つ。

[2]二六六 -- 二七四馬具のくわしき圖入の説明リーフのイリアッド第二卷附録六二三以下にあり。繁きによりて省く。
[3]不明。
[4]三歌八五八。

その時心安からぬヘカベーそばに寄り來り、
その右の手に蜜に似る酒を湛へし黄金の
盃持ちて、門出に奠酒の禮を果すべく
兩馬のかたへ立ち乍ら口を開きて陳じ曰ふ、

『ああ君しばし留りてヂュウスに神酒奉り、
敵陣よりし恙なき歸參を祈れ、わが心
好まざれども、水陣に飽く迄君は行かんとす。
雷雲寄するクロニオーン、イデーにありてトロイアを
みな悉くみそなはす、その大神にああ祈れ、
空とぶ使、衆鳥の威力まさりて大神の
最も愛づる鷲をして、君の右邊(うへん)に飛ばしむる
その吉兆を祈れかし、親しく之を眺め得ば、
之を信じて喜びてアカイア軍を訪ひ得べし、
廣く目を張るクロニオーン若しこを聽かず、飛ぶ使
あらはすなくば、アカイアの水陣さして行かんずる
君の情願激しとも、我は飽く迄おとしめむ。』

神に似る王プリアモス即ち答へて彼に曰ふ、
(きさき)よ汝曰ふところ、我今敢て背くまじ、
ヂュウスに兩手さしあげて哀憐乞ふは惡からず。』

しかく陳じて老王は、侍女の一人に清淨の
水を其手に灑ぐべく、命を下せば盤と瓶、
共に左右の手に取りて王の(かたへ)に近く立つ。
洗ひ終りて王妃より盃うけて衆の前、
眞中に立ちて滴々と酒を灑げる老王は、
天を仰ぎて聲揚げてクロニオーンに斯く祈る。

『ああおほいなる光榮の天王、イデーを知ろしめす、
アキルリュウスを訪ふわれに彼の憫み受けしめよ、
空とぶ使、衆鳥に威力まさりて天王の
最も愛づる鷲をして休徴(しるし)となりてわが右に、
(げん)ずることを得せしめよ、わが目親しく之を視て、
之を信じてアカイアの水陣さして行かんため。』

祈りてしかく陳ずればクロニーオーン聽き取りて、
直ちに鷲を遣はしぬ。休徴(しるし)最も確かなる??
獵に巧みの黒き鳥、人界の名はペルクノン、
高く聳ゆる嚴重の富豪の(やかた)其戸前、
廣く左右に張る如く飛び來る鳥の大翼、
翼は張りて城上の空を翔けつつ、群衆の
右手の方に現はるる、衆人親しく之を見て、
歡喜に滿ちておのおのの心樂しく晴れわたる。

車臺の上に老王は其時急ぎ身を載せて、
玄関及び鳴りわたる柱廊よりし外に出づ、
騾馬は四輪の車曳き、前に進むをイダイオス、
賢き御者は驅り立てつ、この(うしろ)より老王の、
鞭を振ひて城中を過ぎて進むる馬は行く、
其時友は一齊に續きて彼に從ひて、
彼の恰も死地に入る思をなして悲めり。
斯くして衆は城外に下りてやがて平原に、
到れる後に王の子ら、女婿ら共に引き返し、
イ,リオンさして歸り來る。廣く目を張るクロニオーン、
老翁二人平原の上を進むを見逃さず、
憐憫垂れて其愛子ヘルメーアスに向ひ曰ふ、

『ヘルメーアスよ、人間に伴ふことを汝よく好み、而して
汝また念ずる者に耳を貸す、さらば今行き、アカイアの
水陣さしてプリアモス王を導け、ダナオイの
衆人中の誰一人、彼を見、彼を認むるを
得せしむ勿れ、進み行きアキルリュウスに到る前。』

[1]令に從ひ立ちあがる使アルゲープォンテース、
直ちに彼は脚の下、履を結びぬ、??黄金の
神聖の履、之により風の如くに迅速に、
波浪の上を(はてし)なき大地の上を翔くるもの??
續いて彼は杖を取る、其意の儘に或ものの
(まぶた)を閉ざし、時に又眠れるものをおこすもの??
強きアルゲープォンテース、之を手にして飛び行きて、
直ちにヘレースポントスに、又トロイアに到り着き、
顋に柔毛(にこげ)の生えそめて影青春の美しき、
王子の姿現はして彼方に向ひ進み行く。

[1]三三九 -- 三四五は「オヂュッセーア」五歌四三 -- 四九にまた出づ。

かなたイーロス王の[2]墓過ぎたる時に二老翁、
騾馬と駿馬を引きとめて流れの水を飲ましむる、
折しも暗は蒼然と大地の上に寄せ來る、
その時傳令イダイオス、ヘルメーアスの(そば)近く
立てるを認め、プリアモス王に向ひて陳じ曰ふ、

[2]十歌四一五。

『ダルダニデー、かなた見よ、心戒心の要起る、
我見るところ、とあるもの、すぐにわれらを喪はむ。
いざ馬驅りて逃げ去らむ、さらずば彼の膝抱き、
彼の憐憫、恩情を言懇ろに求むべし。』

しか陳ずれば老王の心亂れて畏怖強く、
毛髪爲に逆だちて肢體そゞろにわなゝきつ、
茫然として立ち留る、其そば近く寄り來る
ヘルメーアスは、老王の手を取り彼に尋ね問ふ、

(おぢ)よ、いづこに此騾馬と駿馬を君は導くや?
夜は闌にかんばしく、睡に人の沈む時、
君恐れずや勇猛のアカイア族は敵慨の
思はげしく物凄くこゝらに近く群がるを。
彼らの一人暗黒の夜ももなかに、珍寳の
かゝる多量を携ふる君見出さば何とせむ。
君若からず、陪從の人も亦老ゆ、とある者
進み來りて襲ふ時、防禦誠に難からむ。
されども我は君の身に害を加へず、むしろ他の
害を防がん、君のため、君は愛する父に似る。』

神の姿のプリアモス老王答へて彼に曰ふ、
『はしき若人、げに()なり、誠に君の曰ふ如し、
とある神明手をのべてわれの如きを尚守り、
君の如きの伴侶、我の途上に得さしめぬ。
いみじや君に壯麗の肢體と容姿備りて、
更に叡智は胸の中、幸なる哉君の親。
徒アルゲープォンテース即ち答へて彼に曰ふ、
(おぢ)よ、然かなり、正しくも君はこれらの事を曰ふ、
さはれ今また一切をまことに我に打ちあけよ。
夥多貴き財寳を身に安らかに保つため、
異郷の民の許さして君今搬び去らんずや?
(ある)は君の子、すぐれたる勇將すでに逝きたれば、
恐れてここを??神聖のイ,リオン城を去り行くや?
アカイア軍の戰に彼は無双の勇なりき。』

神の姿のプリアモス老王答へて彼に曰ふ、
『はしき若人、君はたそ?君を生めるは何人か?
わが薄命の子の最期君はいしくも我に曰ふ。』
使アルゲープォンテース即ち答へて彼に曰ふ、

『我を試して君は問ふ、將ヘクト,ルに付きて問ふ、
我は屢々此目もて、親しく彼を光榮の
戰鬪場に眺め見き、水陣近く追ひ詰めて、
利き黄銅の刄もてアカイア勢を討つを見き、
アガメムノーンに憤るアキルリュウスが戰を
許さぬ故に傍に立ちて眺めて驚きき。
ミルミドネスの族にしてポリュクトールの子たる我、
アキルリュウスの部下として同じ船にてこゝに來ぬ。
父は豐かに家は富み、君の如くに今は老ゆ、
我を除きて六子あり、我は即ち第七子、
彼らと共に籤引きて我れ從軍の命を得つ、
船を離れて原上に今我來る。眼の速き
アカイア軍は暁に城外かけて鬪はむ、
彼らは坐して耐へ切れず、アカイア軍の頭領は、
戰爭待ちてあこがるる衆を抑ゆること難し。』

神の姿のプリアモス老王即ち彼に曰ふ、
『君は誠にアキリュウス、ペーレーデースの部下ならば、
我れ君に乞ふ、全くの眞實われに打明けよ、
舟の(かたへ)にわが子今横はれるや?アキリュウス
彼の屍體をつんざきて狗の口腹充たせしや?』
使アルゲープォンテース即ち答へて彼に曰ふ、

(おぢ)よ、心を安んぜよ、鷙鳥も狗も、未だ猶
喰はず、彼は陣の中、アキリュウスの船近く、
前の如くに横はる。曙光の彼を照すこと、
十有二囘、然れども皮膚は腐らず、アレースの
牲と斃れし人々を喰ふ蛆また(さいな)まず。
曙毎に親友の墓のめぐりをアキリュウス、
彼の屍體を無慚にも曳きずり、兵車驅り飛ばす、
されども彼を傷はず、來りて君は眺むべし、
彼れ清淨に横はり、血は悉く拭はれて、
いづれの部にも汚なし。敵人あまた斬りこみし
其疵口は癒されて、痕跡見るを得べからず。
斯く神々は心より痛く汝の子を愛でつ、
既に逝けるも英雄を念頭よりし棄て去らず。』

しか陳ずれば喜べる老王答へて彼に曰ふ、
『ああ若人よ、神明に()るべき物を獻ずるは、
正しく宣し、われの子は生ける間はオリュンポス
領する神を宮中に絶えて忘れしことあらず、
其故神は運命の非なるも彼を思ひ出づ。
いざ此美なる盃を受けよ、感謝のわが手より、
而してわれを保護しつゝ導け神ともろともに、
斯くして我は到るべしアキルリュウスの陣營に。』

使アルゲープォンテース其時答へて彼に曰ふ、
(おぢ)よ、年齡若き身を君は試む、われ聽かず、
アキルリュウスに知られずに物を受けよと君は曰ふ、
彼畏るべしわが心彼を奪ふを敢てせず、
しかせば後日災難の身にかかることありぬべし。
さはれすぐれしアルゴスにわれ懇ろに導かむ。
或は船に又陸に心をこめて伴はむ、
導く我を侮りて君と戰ふ者無けむ。』

ヘルメーアスは然か陳じ、兵車と馬と飛びのりて、
其手の中に速に鞭を握りて手綱取り、
而して騾馬と駿馬とに強き威力を吹きこみぬ。
かくして彼ら水陣の壘壁及び塹壕に
着ける其時、守兵らはすでに食事を爲し了へぬ、
其目に睡注ぎたる使アルゲープォンテース、
つゞきて直ぐに門開き、其貫木を引き拔きて、
プリアモス王また寳、車乘のままに引き入れつ。
やがてつゞきてアキリュウス宿る屋高き陣に入る。
ミルミドネスが王のため巨木の幹を切り倒し、
築きて上に、沼澤に刈りて集めし柔き
蘆萩を以て屋を葺ける其陣營に忍び入る。
部下は又その王のため廣庭設け、其廻り
繁く並べて(くひ)を植う、而して樅の(かんぬき)
關門閉ざす、閉ざすとき三人(みたり)の力要すべし、
このおほいなる閂を拔き去る時も亦同じ、
されどもたゞに一人にてアキルリュウスはこを善くす。
その時老いし王のため、ヘルメーアスは門開き、
アキルリュウスの側近く貴重の寳齎らしつ、
馬よりやがて地の上に降りて彼に陳じ曰ふ、

(おぢ)よ、我こそ不死の神、ヘルメーアスぞ、來れるは。
クロニオーンの命によりわれは汝を導けり。
我今あとに返すべし、アキルリュウスの眼の前に
われは行くまじ、天上の不滅の神が明かに、
かく人間を愛づること蓋し善きには非らむ。
いざ今汝中に入り、アキルリュウスの膝抱き、
彼の父また鬢毛の美なる母、また彼の子の
名を呼び彼に訴へよ、彼の心は動くべし。』

しかく陳じておほいなるウーリュンポスをめざしつつ、
ヘルメーアスは立ち去りぬ。其時地上に車より
プリアモス王おりたちて老イダイオス殘しつゝ、
騾馬と駿馬を守らしめ、自らすぐにアキリュウス??
クロニオーンのめづる者、住める處に進み來つ、
彼を見出しぬ、其部衆離れて坐して、たゞ二人、
オートメドーンとアレースのめづる豪雄[1]アルキモス、
かたへに侍せり、彼は今酒食具へし杯盤を
離れしばかり、食卓は退()けられずしてそこにあり。
王プリアモス部下の目を逃れて側により來り、
アキルリュウスの膝を手に抱きて、彼のもろ/\の
子らを屠りし無慚なる、恐るべき手に口を觸る。
故郷に於ける殺人の罪ありし者『運命』に、
追ひ拂はれて他の國に來り、富豪の家の中、
身を現はせば之を見て衆は茫然愕かむ、
かくの如くにアキリュウス敵王を見て愕けり、
二人の侍者も愕きて互に目と目見合しぬ。

[1]十九歌三九二。

王プリアモス其時に哀告しつゝ陳じ曰ふ、
『あゝ神に似るアキリュウス、汝の父を思出でよ、
我と同じく老齡の悲慘の門に彼も立つ、
恐らく彼を圍む者彼に逼りて苦しめむ、
而して死より苦鬪より救はむ者はあらざらむ、
されども彼は其愛兒汝生めると聞き知りて
その胸中に喜ばむ、而して更にトロイアを
あとに歸らん汝待ち日々に希望を抱くべし。
さもあれ我は不幸なり、トロイア城にすぐれたる
多くの子らを生みたるも、今一人もながらへず、
アカイア勢の寄せし時[2]わが子はすべて五十人、
中の十九はわが妻の一つ胎より生れ出で、
殘るすべては宮中に侍女らわが爲生みいでぬ。
彼らの多數アレースの爲に打たれて亡び去る。
而して我の最後の彼、??一切をイ,リオンを
防げる彼は??國のため奮へる彼は??ヘクト,ルは、
遂に汝の手に斃る。彼を贖ひ返すべく、
無量の寳携へてわれアカイアの船を訪ふ。
あゝアキリュウス、神明をかしこめ、我に憫みを
垂れよ、汝の父思へ、われは最も不幸の身、
地上に住める何人も享けざる非運われは享け、
愛兒屠れる敵の手にわが唇を觸れんとす。』

[2]王の諸の子息の館につき六歌二二四以下參照。王の寵妃中、名をホメーロスの詩中に現はすものはカスチアネーラ八歌三〇四とラーオトエー二十一歌八四。

しかく陳じて其父を痛む思念を起さしむ。
其時王に穏かに手を觸れ彼をおしのけて、
此と彼とは共に泣く、彼は勇將ヘクト,ルを、
アキルリュウスの足許に轉げ廻りて思ひ出で、
激しく泣けば、アキリュウス・ペーレーデースは父のため、
パトロクロスの爲に泣き、哀慟高く屋にひゞく。
其哀慟を盡したるペーレーデース・アキリュウス、
[3](胸より身より哀悼の思の散じ行ける時、)
たゞちに坐より立ち上がり、手に老王を引き起し、
眞白き彼の(かうべ)又眞白き髯を憐みて、
即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じいふ、

[3]此一行無用、後世の添加と古來批評家が曰ふ。

『あゝ君、誠に不幸なり、受けし災難いくばくぞ!
多くの子らを勇將を屠れる我の眼のあたり、
アカイア軍の水陣に、君いかにして來訪の
強き決意を爲し得たる?君の心は鐵なりき。
いざ身を起し席に着け、苦惱誠にはげしとも、
悲哀を共に胸中に君も我身も靜むべし、
何らの益も慟哭の激しき中にあらざれば。
蓋し神明かくの如、苦難の生を送るべく、
われら不幸の人間に命ぜり、神は愁なし。
二つの壺はクロニオーン、ヂュウスの門におかれあり、
(ひとつ)は福を他は難を[1]充たす、ヂュウスが人間に
與ふるところ、??雷霆の神こを混じ與ふれば、
人は時には禍に時には福に出で合はむ。
禍のみを受くる者ただ陵辱に暴されむ、
つらき『飢饉』は神聖の大地の上に彼逐はむ、
神と人とに侮られ彼は四方に彷徨(さまよ)はむ。
かく神明はペ,リュウスに誕生以來勝れたる
惠與へき、かくありて彼は裕かに幸多く、
あらゆる人に立ち優り、ミルミドネスの首領たり。
而して神は人間の彼に神女を娶らしむ、
されど他の神、禍を彼に加へり、彼の後、
其宮中に君臨の子孫は絶えてあらざらむ。
その唯一の子たる我、若く逝くべく、老齡の
彼にかしづくことを得ず、故郷を去りてトロイアに
來り汝を子息らを我はかく迄惱せり。
(おぢ)よ、汝もいにしへは[2](さち)なりしより我ら聞く、
王のマカルの領したる、海のかなたのレスボスの
全嶋、並にフリュギエー、ヘレースポントス悉く
子らの力に富により汝統べりと我ら聞く。
されど天上すめる神、其後災降らしめ、
かくて都城に殺戮と戰爭つねに絶ゆるなし。
忍べ、果なく胸中に悲み嘆くこと勿れ、
愛兒を如何に悲むも何らの益もあらざらむ、
彼を再び生かし得ず、其前外の難あらむ。』

[1]プラトーンのポリタイア(レパブリカ)二歌三七九參照。ピンダロスのピチアンオーヅ(ピュチオニカイ)三歌一四六には福の壺一、禍の壺二つとあり、後の詩人が歌へるパンドーラの箱の觀念はこゝらより來るならむ。
[2]十八歌二八八以下參照。

神の姿のプリアモス答へて陳じ曰ふ、
『葬られずにヘクトール、陣營の中伏せる()は、
神の寵兒よ、我をまだ座にう着かしむること勿れ、
急ぎて彼を引き渡せ、わが眼親しく之を見む、
わが齎らせる賠償の多くの寳身に受けて、
汝故郷に歸れかし、而して我に生らへて、
光り耀く日輪の姿を見るを得せしめよ。』
足疾くはしるアキリュウス睨めて彼に陳じ曰ふ、

(おぢ)よ、此上怒らすな、我は汝にヘクト,ルを
引き渡すべし、海洋(わだつみ)の老いたる神のうむところ、
わが母テチス神明をうけて使しわれに來ぬ、
而して(おぢ)よ心中に我は悟れり、明らかに、
わがアカイアの水陣にある神女導けり。
いかに若きも人間はわが陣營を犯し得ず、
われの守衛の嚴重の目を遁れ得ず、おほいなる
わが關門の閂を容易く拔くを得べからず。
されば此上哀痛に沈めるわれの此心
激する勿れ、哀告の汝を我は陣營の
中に許さで神明の命に背かん恐れあり。』

しか陳ずればプリアモス恐れて命に從へり。
ペーレーデース門さして獅子の如くに飛び出す、
身一人ならず彼と共二人の部將また續く、
オートメドーンとアルキモス??部將の中に將軍は、
パトロクロスの逝ける後二人を特に崇べり。
騾馬と駿馬を軛より二人はやがて解き放し、
老いたる王の傳令の使を内に導きて、
席に着かしめ、而うして將ヘクト,ルのなきがらに
代る無數の財寳を、車の外に取り出し、
獨り二枚の上衣また他に精巧の一枚の
下衣を殘し、歸る時屍體をこれに掩はしむ。
アキルリュウスは老王の見ざる處になきがらを
齎らし、侍婢に命下し洗ひて香油まみらしむ。
屍體を見なば老王は悲嘆のあまり其怒
はげしく爲に敵將を激せん、かくてアキリュウス、
彼を殺して天王の命に背くを免れじ。
かくて侍婢らは屍を洗ひ香油をまみらして、
下衣並に華麗なる上衣を之に着せし後、
アキルリュウスは床のへに手づから之をかきのせつ、
やがて部將はこを擔ひ琢ける馬車の上に載す。
將軍やがて聲をあげ呻きて友の靈に呼ぶ。

『パトロクロスよ、ヘクト,ルを父老王に渡せるを、
[3]冥府にありて聞かんとき我に怒をなす勿れ、
彼の齎らす賠償はふさはしからぬ者ならず、
汝に對しふさはしき分を我又配るべし。』
しかく陳じてアキリュウスその陣營に立ち歸り、
而して壁に添ひ乍ら先に起ちたる華麗なる
其の席の上、身を据ゑて王プリアモスに向ひ曰ふ、

[3]アキリュウスはヘクトールの屍體を狗に與へんと約したり 二十三歌二一及び一八三。

(おぢ)よ、汝の命の儘、汝の子息渡されて、
かなた車上に横はる、あくるあしたに引き返り、
親しく汝彼を見む、今は飲食思ふべし。
娘六人、青春の男子六人かれとこれ、
合せて十二悉く其宮中に死したるも、
鬢毛美なる[1]ニオベーはなほ飲食を求めたり。
頬美しきレートーにおのれを比して誇へる
ニオベー曰へり、レートーはただに二人の子を生めり、
我の生めるは數多し??其高言に憤り、
銀弓のアポローン、射る矢鋭きアルテミス、
二神は起ちて憤然と十二の子女を亡しぬ。
魂魄去りし十二人、九日續きて地に伏して、
之を葬る者あらず、近寄るものをクロニオーン、
石と變じぬ、十日目に諸神かれらを葬りぬ。
涙流して悲めるニオベー食をなほ思ふ。
シュピロスの郷、荒涼の山の岩蔭、そこにして、
アケローイオスもろともに踊り狂へる仙女達、
休の床をおくといふ、そこに今尚ニオベーは、
石に化しつつ神明の下せる難を耐へ忍ぶ。
尊き(おぢ)よ、われら亦同じく食を思ふべし、
終りて後ちにイ,リオンに屍體携へ歸るのち、
汝愛兒を哭すべし、涕その時多からむ。』

[1]タンタロスの女。父と等しく神々と交はることを得、此特權を濫用して高言を吐き、子女を失ふ。

しかく陳じて脚早きアキルリュウスは身を起し、
白き羊を屠り去る、二人の伴は皮を剥ぎ、
調理巧に肉を切り串に貫き叮嚀に、
心をこめて火に炙り、炙りて肉を引き拔きる、
オートメドーンは食卓の上、おのおのに雅麗なる
籠に入れたるパンくばり、アキルリュウスは肉くばり、
かくて一同手を延して其眼前の美味を取る。
飲食終へて口腹の願おのおの滿てる時、
ダルダニデース、プリアモス、神にも似たる相好の
アキルリュウスの麗容を驚きの目に眺めやる、
アキルリュウスも、敵の王ダルダニデースのすぐれたる
面を眺め、今更に其聲聞きて驚けり。
兩者互に相眺めおのおの心滿てる時、
神の姿のプリアモスまづ口開き陳じ曰ふ、

『神の寵兒よ、速かに我を臥榻に就かしめよ、
心しづかにやすらひて甘き睡に入らんため。
わが子汝の手に斃れ其一命の盡きし後、
目蓋の下は我に目を閉ざせしことは甞て無く、
わが廣庭に地の上に塵にまみれて輾々し、
呻き叫んでとこしへに無量の悲嘆續けたり。
今にはじめて我れ食を取りて芳醇わが喉を
降りぬ。前は一片の肉をもわれは味はず。』

しか陳ずればアキリュウス侍婢と部下とに令下し、
柱廊の下、床を据ゑ、角紫の華麗なる
(しとね)を敷きて毛氈を其上に掛け、又次に
此らの土[誤?:上]に柔かき毛布を更に重ねしむ。
彼らは命に從ひて松火(たいまつ)持ちて室を出で、
急ぎつとめて迅速に二つの床をしつらへぬ。
その時足疾きアキリュウス半戯れ陳じいふ、

(おぢ)よ危し、此室の外に汝の床につけ、
常に傍に評定の言を呈するアカイアの
一人(いちにん)意見齎らして或はこゝに來るあらむ。
かかる一人暗黒の夜の中汝認め得て、
直ちに衆の王者たるアガメムノーンに報ぜんか、
さらば屍體の解放の延引あるひは起るべし。
さはれ今曰へ、眞實を正しく我に打明けよ、
將ヘクト,ルの葬禮を營む日數幾何ぞ?
その終る迄我休み、又我民を抑ゆべし。』

神の姿のプリアモス老王答へて彼に曰ふ、
『アキルリュウスよ、其如くわれを惠みて我をして、
わがヘクト,ルの葬禮を行はしめば嬉しかり。
君知る如く城中にわれら圍まる、木材を
取るべき山は程遠し、トロイア人は皆懼る。
九日われらはヘクト,ルをわが宮中に哭すべし、
十日目彼を葬りて凶禮の宴設くべし、
あくる日墳を彼の爲築かむ、これを成し終へて、
第十二日戰を若し要あらば初むべし。』

彼の足疾きアキリュウス勇將答へて陳じ曰ふ、
『プリアモス王、汝今曰へるが如くしかあらむ、
汝の曰へる日の間われ戰を禁ずべし。』
しかく陳じて老王に心の畏あらせじと、
其右の手の手首(たなくび)をアキルリュウスは手に取りぬ。
斯くして王者プリアモス其傳令の使者と共、
思慮を抱きて室の外、柱廊の中、床に就き、
アキルリュウスは堅牢の其陣營の奥深く
眠り、かたへに紅頬のブリセーイスは又眠る。

馬上戰ふ人々も又神々もよもすがら、
甘き眠に襲はれて靜かに休む、そを外に
人を助くる神明のヘルメーアスは目を閉ぢず、
嚴しき守備の目を遁れ、王プリアモス、スカイアの
水陣いかに退()くべきや、策を心に廻らして、
即ち王の枕もと立ちつゝ彼に陳じ曰ふ、

『アキルリュウスに許されて危難の思またく無く、
(おぢ)よ汝は敵陣のもなかにかくも眠るかな。
今や汝は莫大の寳に愛兒贖へり。
されど汝のここなるをアガメムノーン敵の王、
アトレーデース聞き知らば、アカイア軍勢皆知らば、
なんぢの子らは三倍の賠償拂ふ要あらむ。』

聞きて畏るる老王は又傳令を呼びさます。
ヘルメーアスは其爲に騾馬に駿馬に軛かく、
斯くて急ぎて陣中を過ぐるを誰も認め得ず。

清き流のクサントス、不死のヂュウスの産み出でし
渦卷く流れクサントス、其岸の上來る時、
ヘルメーアスはおほいなるウーリュンポスに分れ去り、
番紅花(さふらん)色の衣つけ(あけ)の神女は地を照らす。
彼らは呻めき泣き叫び、城中さして馬を驅る、
騾馬は屍體を曳き乘せて。??されど城中何人も、
帶美はしき女性らの誰しも未だこを知らず。
[1]カッサンドレー只一人、アプロヂ,テーに似たるもの、
ペルガモスの塔のぼり、車臺の上に立つ父を、
又傳令の聲高き使者を認めつ、更に又、
車上の臺にヘクト,ルの屍伏すを認め得つ、
即ち聲をあげ泣きてイ,リオン市民に叫び曰ふ、

[1]十三歌三六五。

『ああトロイアの男女達出でよ、ヘクト,ル見るべきぞ、
其生ける時戰場をあとに歸るを喜びき、
彼は城中一切の民に歡喜の種なりき。』

其聲聞きて城中に男女一人も居殘らず、
耐ゆるに難きおほいなる悲哀は衆を皆襲ふ。
衆群りて門のそば屍體引き來る王圍み、
眞先きに彼の愛妻と彼の慈母とはもろともに、
車めざして奔り來て死屍の頭に手をふれつ、
狂ふが如く髪むしり、衆は泣きつつ(そば)に立つ。
而して衆は門の前、流涕切にヘクト※ル[注:ヘクト,ルか?]を
哭し、夕陽沈む迄ひねもすここに殘らんず、
されど老王車上より衆に向ひて叫び曰ふ、

『騾馬を驅るため道開け、わが宮中になきがらを、
収めん後に飽く迄も汝ら彼がために泣け。』

其言聞きて衆は去り、兵車の爲に路開く。
かくて屍體を壯麗の館のもなかに齎らして、
之を組まれし臺にのせ哀歌始むる一群の
歌手をかたへに坐らしむ。即ち彼ら哀痛の
[2]聲を放てば、そを繞る女性らすべて咽び泣く。
アンドロマケー、腕白き妻はその時ヘクト,ルの
頭双手にかき抱き、まづ慟哭の聲をあぐ。

[2]ヘクトールの死を知りし時の悲泣二十二歌四二九以下參照。

『ああわが夫、若うして世を去り我を屋の中に
寡婦と殘しぬ、なんぢの子、なんぢと我と薄命の
親を持ちたる小さきもの、其生長は頼まれず、
之に先んじわが都城その基礎までも崩されむ。
都城を守り端嚴の女性を守り、物言はぬ
小兒を守る汝今邦を禦ぎて斃れたり。
彼らはやがて船の上遠くあなたに搬ばれむ、
我亦之と倶ならむ。わが子よ汝また我に
附きて異郷に酷き主の命のまにまに働きて
恥辱の業や營まむ、あるはアカイア軍勢の
一人(ひとり)汝を手に取りて、塔より下に抛げ飛ばし、
無慚の最後遂げしめむ、恐らく彼の兄弟を、
或は父を又は子をわがヘクトール斃ししか?
彼らの多數ヘクト,ルの爲に塵土を嚙みて死す。
汝の父は戰場に於て優しき人ならず、
その爲衆は城中に亙りて彼を悲めり。
ああヘクト,ルよ、双親に無量の悲嘆負はしめぬ、
更に我には就中はてなき恨殘されむ、
ああ君死して臨終の床より我に手を延さず、
智慮の一言又のべず、のべなば我は日も夜も、
之を思ふて流涕の悲つくること無けむ。』

しか陳ずれば女性らは聞きてそゞろに悲めり。
母のヘカベー之に次ぎ悲嘆激しく叫び曰ふ、

『ああヘクト,ルよ、子らの中われの最も愛でし者、
わが爲汝生ける時、汝は神に愛されき、
死の運命にある時も神は汝を勞はりき。
我の他の子をアキリュウス捕ふる時は、荒れ狂ふ
波のあなたの國々に??あるひはサモス、時に又、
インブロスまた香煙のレームノスにし賣りたりき。
されども長き青銅の刄汝を討てる時、
汝が先に斃したるパトロクロスの墳瑩の
めぐりを彼は曳きずりぬ、されども死者を起し得ず、
汝今はた宮中に靜かに臥して鮮かに、
(また)く新たに斃されて死せるに似たり、銀弓の
アポローン彼の矢を飛ばし射て亡せる者に似る。』

泣きて陳ずる母の言、はてなき(うめき)ひき起す。
三人目(みたりめ)衆の哀號をヘレネー起ちて誘へり、

『義兄義弟の中にして最も愛でしヘクトール。
[1]姿は神に似たるもの、パリスぞわれの夫なる、
彼トロイアにわれ連れぬ、その前死せば宜かりしを。
故郷を去りてこゝに來しこの方過ぎし年の數、
今年は正に春秋の[2]二十重ねしうたてきや。
されども遂に君よりし惡言罵詈の聲聞かず、
若し宮中に何人か??(あるひ)は義兄又義妹、
わが良人の姉妹又義兄らの妻あるは義母、
([3]舅の君は優しくてまことの父に似たりけり)
われを叱れば君はそを咎め言葉に諫めつつ、
その温情と温言によりて彼らを諭したり。
されば今我れ苦みて君と我との爲に泣く、
廣きトロイア城中に我に優しき者はまた
見るを得がたし、すべて皆人はわが身を忌みきらふ。』

[1]良人のパリスもヘクトールほど我を保護せずの意を含むか。
[2]古の評家の説、初の十年は遠征の準備に費さる云々。アキリュウスの子ネオプトロモスは(二十一歌三二七)成長せる一青年なるを思へば二十の春秋云々は不穏當ならず。此が事實ならばヘレネーの齡は四十前後ならざるべからず。スパルタを亡命せる時に既に一子あり。
[3]スカイエー城門の上におけるプリアモスのやさしき三歌一六一以下參照。

『しか嘆ずれば之を聞き無數の群は又嘆く。
その時老王プリアモス衆に向ひて叫び曰ふ、

『トロイア人よ、燃料を都城に運べ??アカイアの
埋伏あるを恐るるな、アキルリュウスが、水師より
われの歸るを送る時、十二日目の曙の
光の前はわれわれを攻めずと堅く盟ひたり。』

其言聞ける衆人は牛と騾馬とに(くびき)着け、
車引かして城門の前に直ちに集りつ、
九日つづいて莫大の燃料城に齎らしぬ。
人に光明携ふる曙十たびあくる時、
涕流して剛勇の將ヘクト,ルを搬び來て、
衆人高く積み上ぐる薪にのせて火をかけぬ。

薔薇の色の指もてる曙またもあけし時、
衆は來りてヘクト,ルを焚ける淨火を取り圍み、
(相集りて一團をなしてあたりを取り圍み)
まづ暗紅の酒を()て先に猛焰襲ひ來し
あらゆる淨火うち消しつ、續きて友と兄弟と
力を共に白骨を拾ひ集めつ、慘然と、
泣ける涕はおのおのの頬を傳へてはてあらず。
集めし骨を黄金の壺に納めて柔軟の
紫染むる絹をもて之を包みて、穿たれし
墳のたゞ中おきすゑつ、つづきて衆は數多き
おほいなる石其上に、厚く積み上げかくて後、
急ぎて土をもりあげて墓を築きて其めぐり、
守備の群おく、アカイアの來り襲ふを誡めて、
墓を築きてたち歸り、更に再び集りて、
ヂュウスのめづるプリアモス、トロイア王の宮殿の
中に弔慰の盛なる美なる宴飲催しぬ。
駿馬を御するヘクトールの葬禮斯くぞ營まる。

(大尾)

更新日:2005/01/28

イーリアス : 跋


ホメーロスの原典を讀むこと、況してこれを韻文化すること、 ——これは私が大學卒業前後には全く思ひがけぬことであった。

其頃、故男爵神田乃武先生からラテン語を三ヶ年正科として教へて頂いた。 或日課程の終った後、ギリシヤ語學習の望を先生に申上げた處 「よし給へ、どうせ物にならぬから。」とあっさり諭されて悄然と退却したものであった。 その後この大それた考へは一切打ち捨てた。 當時東京にあった唯一の帝國大學の圖書館に一部のホメーロス原典が無かったと思ふ。

大學卒業二ヶ年の後、第二高等學校に奉職した。 ある日先師粟野教授を訪問して所藏の諸書を閲覧すると、 中にパリのアシェット會社刊行のシェーザーの『ゴール戰爭記』、 原文に二重譯(直譯と飜譯)を添へたものがあった。 其附録の廣告で、ホメーロスに關する同様のものがあることを知った。 それで「イーリアス」の第一册(第一歌——第四歌)を試にアシェット社から取寄せて見た。 そしてギリシヤ文法初歩を披き乍ら、初めて「神女よ、歌へ……」の劈頭を解するを得た。 囘顧すれば五十年の昔である。

ローマの"Delenda est Cartago"の老カトーは八十歳になって初めてギリシヤ語を學んだ。 之を想起して、今からでも遲くはないと又野心を起し、 此困難な語學をやらうと思ひ直した。が中々捗らぬ。 少年時代のしなやかな頭腦ではない。「どうせ物にならぬから。」 神田先生の言をしみ〜゛味った。『イーリアス』譯完成の今も語學としては物になって居らぬ。

その後二年、同郷(仙臺)同町の志賀潔君(當時すでに赤痢菌發見の幸運兒) が北里研究所から獨逸留學に旅立つことになった。「洋行」といふ二字は當時非常に魅力を持ったものだ。 そこで父に願って二高の教授職をやめて志賀君と同じ船(後に日露戰役で撃沈された常陸丸)で渡歐した。 (『東海遊子吟』に其門出を詠じた。)在外三ヶ年半、 此間にちょい〜ホメーロスの本文若干種またホメーロスに關する文學書を手當り次第集めた。 英國の南岸ボーンマウスに病養の際、一日古本屋でアンドルーラングの『ホーマーとエピック』、 またラテン譯を添へた原典等を求めた。「ホーマーに關するものが欲しい」と曰ふと、 店の主人がびっくりしたやうな顏付で、『日本人がホーマーを讀むといふのか、 我々が孔子の原本を讀むといふやうなものだ。』と叫んだ事を思ひ出す。

獨逸に移ってライプチヒ滯在中(日露戰爭開端の號外をこゝで聞いた)、 他の若干の善いものと同時に求めたギリシヤ文法一覧(パラヂクメン)の餘白に、 「我に幸するものはギリシヤ語か、 我に禍するものは又ギリシヤ語か」と書いたのを今見出して多少の感慨である。

日露戰爭結末近く歸朝して再び第二高等學校に奉職、 「怪しげな英語教師」として奉職すること三十餘年(新潮社刊行、近代詩人全集第二卷、 一頁の自傳中に述ぶる通り、)此間に時々閑を偸み、 前述の如く大學時代には思ひもかけなかった『イーリアス』の韻文譯をおっかなびっくり試みた。 そして第一次世界戰爭の勃發直前、大正三年の中央公論春季號に、 『イーリアス』第一歌の三百四十九行以下後半譯を寄稿した。 此春季號を今出して見て、又多少の感慨、爾來二十六年の歳月が夢のやうに過ぎたのである。

ホメーロスの近代歐洲諸國語の譯は何百種あるか分らぬ。 英國博物館の書庫には比較的多數のホメーロス文學があると思ふ。 同書庫最新のカタログ(全部の豫約價一萬圓以上)は未だ『ホーマア』に到らぬ。 十九世紀終に近く刊行の舊カタログは上野の國立圖書館にある。

十數年前何かの文學雜誌で『オデュッセーア』英譯は既刊二十五種(?)あることを讀んだ。 『イーリアス』のは其二倍もあるだらう。序文の中にも書いた通り、 マシュウ・アーノルドは『ホーマア飜譯論』に於て完美の譯は不可能と斷じた。 英國の大詩人ポープのも、又キーツを鼓吹したチャプマンのも、 クーパアのも完美でないと斷じた。

ハインリッヒ・フォッスの獨逸譯は有名である。「ルーターは聖經を譯し、 君はホメールを譯して、共に獨逸國民に最大の恩恵を與へた。 優秀の物を自國語で讀めぬなら、其民族は野蠻であり、 優秀の稱揚した。「フォッスの恐ろしい(ウンゲホイレ)計畫(ホメーロス譯)は時立つに随ひ、 戸々一本を藏すべしと世人の考ふる一種の聖典とならう。」 是はヰイランドの讚辭であった。しかし其短所を摘發したものもある。 ゲオルグ・フィンスラーの『近代におけるホメール』中に詳説してある。

序文にも曰ふ通り、文脈語脈の全く無關係な日本韻文に、 しかも原典と等しい行數に本篇を譯すといふことは無上の難事である。 弱い肩の上に負ひ切れぬ此荷物の下んい絶望の聲を放って、 二十四歌の中僅か四五篇を譯したまま中絶すること十餘年。 我乍ら餘りにも意氣地が無かった。今更慚愧至極である。

昭和七年、八年とつゞいて最愛の長女照子(二十七歳)と唯一の男子英一(二十五歳)が死んだ。 かう曰ふと親馬鹿と笑はるゝのは請合だが、二人は共に鳶が生んだ鷹であった。 其兩兒がもう現世では逢へぬ、わが殘生は前途黒暗暗であった。 が彼等の靈が、時々夜の夢に現はれ、「父さん、しっかり! 私共のやるべき仕事の幾分を代ってやって下さい。 祈ってお助けしますよ。」此聲に勵まされ、二兒が生存中であった十年のむかし、 『野口英世頌』の末段に「地上における愛の極、やさしき子らの祈より力を得つつ執りし筆」と書いた通り、 多年中絶のホメーロス譯を取り上げた。 そして三十餘年勤續した第二高等學校から引退して時間の餘裕を得たので、 あまりにも重い此荷を再び擔ぎ上げて、よろめく脚を踏みしめ乍ら、 徐々に歩を進めて今度やっと完成を告げた。まるで夢のやうな心地である。

孝廉の故に封建時代、仙臺藩主から恩賞を賜はった私の曾祖父(養賢堂學頭、 大槻格次編、仙臺孝義録所掲)は弘化四年(西暦一八四七年)逝去したが、 其配たる享年九十一歳の私の曾祖母は、和歌にくはしくて、 少年時代の私を教へてくれた。十八歳で其父を失った祖父は神佛の尊信に極めて熱心であった。 父は擧芳の號で俳句と和歌とを嗜んだ。幼年時代に父から八犬傳、 太閤記等をお伽噺に聞かされ、又少年時代に日本外史、四書、五經の素讀を教へられたのが、 私の文學趣味の根柢をなした。少年時代仙臺の立町小學校の修身教科書にあった宋の范質の句 「遲々澗畔松、欝々含晩翆」は私の雅號の出所である。

此『イーリアス』譯の完成に當りて今更乍らいにしへ、北歐のイグドラジル樹の譬喩を思ふ。 萬有成立の生命樹イグドラジル、過去、現在、未來を兼ぬ、 已に成れるもの、今成るもの、後に成るものの一切である。 爲すといふ動詞の無窮變化である。今日のわが述ぶる言語、 わが書く文章は、原人が初めて言葉を發した以來の一切の人に負ふ。 嚴密に曰って、われのものと稱すべきは一もあることがない。 襟を正してしばし瞑目の後、我に返りて此跋文を結ぶ。

 昭和廿四年十二月四日     仙臺にて

土井晩翆

更新日:2004/04/19