生田譯:ゲエテ詩集 ------------------------------------------------------------------------------- 底本:ウォルフガング・ゲエテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832年)著,生田春月(1892-1930年)|譯『ゲエテ詩集』, 新潮社,大正八年五月二十日印刷,大正八年五月廿三日發行,大正十一年四月十二日廿四版。 ------------------------------------------------------------------------------- ゲエテ詩集 ウォルフガング・ゲエテ 著 生田春月 譯 目次 * ハイネ「雜文集」より * 獻辭 * 序 * 小曲 * 團樂小曲 * ヰルヘルム・マイステルから * 物語 * 雜簒 * エピグラム ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:獻辭 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 佐藤春男君に獻ず      譯 者 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:ハイネ「雜文集」より [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 然らば獨逸人にはいかなる榮冠が殘されてゐるのか? さうだ、我々はこの地上の最もすぐれた歌謠の詩人である。 いかなる國民も獨逸人ほどに美しい詩歌を有たない。今凡ての國民は政治上の問題に多忙を極めてゐる。 けれども一度びそれが終つたならば、我々獨逸人、英吉利人、西班牙人、彿蘭西人、 伊太利人は、我々はのこらず緑の森へ出かけて行つて歌はう、 そして夜鶯をその判者に定めよう。然らば私は確信する、この歌戰さに於て、 勝利の榮冠が我がウォルフガング・ゲエテの手に落ちることを。 ハイネ「雜文集」より [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:序 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- ゲエテはつひに『私のゲエテ』となつた。今、この小さな詩集を世に出すに當つて、 私はただナイイブな喜びを表白することよりも、より氣の利いた何事をも知らない。 いかなる小さな著作といへども、それが世に現れる迄に、 いかに多くの困難を克服したかを談つてゐると言つたブランデスの言葉を想起して、 私は暴風の中を凌いで來た航海者の、港の入口で感ずるあの歡喜と安心とを禁じ得ない。 ポオプのホメロスの飜譯を贈られた英吉利のある貴族は『ポオプ君、これは大變結構だ、 然しホオマアぢやないね』と言つたさうだ。私もまた『春月君、これは大變結構だ、 然しゲエテぢやないね』と言はれるかも知れない。然し私はそれで滿足である。 ゲエテをゲエテのままに示し得る人はゲエテの外にない。 私はこの集に於て、ただ自分を示し得るのみであらう。これは『ハイネ詩集』の場合に於ても同樣であるが、 ただ、ハイネにあつては、私はなほ或點までat homeであり得たし、 また二人の間の懸隔がこれ程に甚しくはなかつたのであるが、ゲエテに於ては、 私は宛もこの見すぼらしい姿でワイマルの宮廷にでも導かれたやうな當惑を覺えずにはゐられなかつた。 それゆゑここに現れたゲエテはかの『ポオプのホオマア』の如く、 また單に『私のゲエテ』に過ぎないのである。 私はただそれがポオプに於ける如く『大變結構』でないことのみ虞れてゐる。 元來、詩の飜譯は獨特のものである。それは最も危險なる冐險の一種である。 それは不可能を可能にせんとする努力である。それは既に一種の創作と見なすべきものである。 常に粉本を横に見て詩作する或種の模擬詩人のそれよりも、 より意義ある創作と見なすべきである。もつとも私は出來得る限りゲエテの世界に沒入しようと努めはしたのであるが。 ゲエテの詩は殆んど無數である。ここに集められたものは、然しその代表的なものである。 即ちReclam版の詩集を底本として、その"Lieder."及び"Aus Wilhelm Meister."の全部、 "Vermischte Gedichte."の大部分"Gesellige Lieder.", "Balladen.", "Epigrammatisch"の一半に加ふるに "Chinesisch-Deutsche Jahres = und Tageszeiten.", "Neugriechische Liebe Skolien." 各十篇を以てし、その總計二百三篇、その選擇には十分意を用ゐたつもりである。 そしてこの中に收むべくして收め得なかつた諸名篇及び"West=[o:]stliche Diwan" は他日機會があらば飜譯して見ることがあるかも知れない。 飜譯するに當つてE. A. Bowringの英吉利譯、及び後にAstor版のもの(その一半は前者に同じ)を、 參考にする事はしたが、それがいづれもtranslated in the original metresであると云つただけで、 もう私がさまでの利益を得なかつたことはわかるであらう、英吉利譯の語法に從つた箇所もあるにはあるけれども。 そしてDuentzer其他の註釋者は敢て見なかつた。その本が手に入らなかつたのも一つの理由であるが、 主としてゲエテの傳記に親しんでゐる限り、さうした讀書の餘力をむしろ文字の彫琢に捧げたいと思つたからである。 加ふるに、私はいつも自分のやり方に從つて、徹頭徹尾、これを自分一個の學力によつて仕遂げた。 しかもそれが極めて短時日の間に於てであるから、隨分推敲を施したのではあるが、 まだ十分のやうに思はれない。と云つても、 これは自分はもつとよくするだけの力があるのだぞと匂はせるのでは決してない。 私はこの成績によつて甘んじて自分の力を測られよう。それで若し自分が力のないものと見なされたなら、 その時は私によき才能と、十分なる教養を享受するだけの境遇とを與へなかつた運命を歎く外はない。 兎まれ、その成績はこれをすべて世の公平なる批判に一任しよう。 そして不備の箇所は、切に世の篤志家の教示を得たいと思ふ。 ウォルフガング・フォン・ゲエテその人については、ハインリッヒ・ハイネと同じく、 若くはそれ以上に、茲に敢て一言をも費す必要はなからうと思ふから何も言はない。 一九一九年五月一二日 生田春月 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:小曲 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 小曲     早く響いたものは晩く響く     幸福と不幸とは歌となる はじめの言葉 燃ゆる思ひの口《く》ごもりも書かれてみると どんなにめづらしく見えるだらう! そこでわたしは家《うち》から家《うち》へと 散らばつた紙を集めて廻るのだ この世で互に遠く隔つて はなればなれになつてゐるものも いあんかうして一つの表紙に蔽はれて 我が善き讀者の手にわたる 缺點を恥ぢるには及ばない 早く完備するには小さな書物《ほん》だ 世界は矛盾に充ちてゐる なぜ矛盾があつてはならないのだ? 懇篤な讀者に 詩人は沈默することを好まない 世間に自分を示したがる 賞讚と非難とはもとより覺悟のまへだ! 何人《だれ》も散文で懺悔するものはない ただ詩神《ミユウズ》のしづかな森でだけ 我々はそれをこつそりやる わたしがどんなに迷ひ、どんなに努めたか どんなに惱み、どんなに生きたかは ここなる花輪の花となる さうして老境もまた青春も 徳も不徳も集めて見れば また捨てがたい歌となる 新しいアマディス まだほんの子供であつたとき わたしは閉ぢこめられて 何年といふ長い年月を たつた一人ぽつちですわつてゐた お母さんのおなかのうちででもあるやうに けれどもその時おまへはわたしの玩具《おもちや》であつた 黄金の空想よ むかしのピピイ王子のやうに わたしは情深い勇士になつた この世を隅なく經廻《へめぐ》つた たくさんの水晶の城を奪ひ取り それをうちこわしてしまつたり 手に持つ鋭い投槍を 龍の胴腹へ打ち込んだ さうだ、わたしは男子であつた! 立派な騎士のするやうに わたしは王女のフィッシュを助け出した 彼女は大變愛層よく わたしを食卓に案内した そしてわたしは慇懃だつた 彼女の接吻は甘露のやうな味がして 酒のやうに燃えてゐた ああ!わたしは死ぬほど愛してゐた! その身のまはりは日を受けて 黄金《きん》の後光がさしてゐた ああ!誰が彼女をわたしから奪つたのだ? どんな魔法の紐でも急いで逃げる 彼女を引止めることが出來なかつたか? 言へよ、何處に彼女の國はある? 其處へ行く道は何處にある? 狐は死んで皮を殘す 晝すぎに僕等子供のむれが 木蔭にすわつてゐると 愛の神《アモオル》が來て『狐は死んで』を 一緒に遊ばうと誘つた 僕の友逹はみな仲よしの 少女《むすめ》と並んで樂しくすわつた 愛の神《アモオル》は松明を吹き消して 『ここに蝋燭がある!』と言つた 蝋燭は燃えながら 素早く手から手へ渡つた みなそれを大急ぎで 人の手に押しつけた そしてドリリスはふざけながら それを僕の手にわたした 僕の指がそれにさわつたら 蝋燭はぱつと燃え上る 僕の眼と顏とを燒き焦がし それから胸に燃えうつツた 僕の頭の上で 焔がもつれ合つたほど 僕はもみ消さうと手を振り廻したが やつぱり燃え續けて消えはせぬ 死ぬるどころかその狐めは 僕には生きてしまつたのだ あれ野の薔薇 一人の子供が薔薇を見た あれ野の薔薇を その朝のやうな若さ美しさを なほよく見ようと駈け寄つて 子供は見ました喜んで 薔薇よ、薔薇よ、紅薔薇よ あれ野の薔薇よ 子供が言ふには『僕はおまへを折つてやる あれ野の薔薇よ!』 薔薇が言ふには『そしたらわたしは刺しますよ あなたがいつまでもお忘れにならぬほど わたしも折られたくはありませんもの』 薔薇よ、薔薇よ、紅薔薇よ あれ野の薔薇よ 亂暴な子供は折りました あれ野の薔薇を 薔薇は拒んで刺しました けどもういくら泣いても追つ附きません 薔薇は折られてしまひました 薔薇よ、薔薇よ、紅薔薇よ あれ野の薔薇よ 鬼ごつこ おお、かあいらしいテレエゼよ! おまへの目の開いてゐる時は どうして直ぐそんなにきつくなる! 目かくしされてゐる時に おまへは素早くわたしをつかまへた そしてなぜまた丁度わたしをつかまへたのか? おまへはあてでツぽうにわたしをつかまへて しつかり握つてはなさぬので わたしはおまへの膝に仆れた 目かくしが取られてしまふかと思ふと もう嬉しさは無くなつた おまへはこの盲目を素氣なくつツ放した 彼れはあちこち手探りをして 變な格好をするものだから みんなはいろいろからかつた おまへが愛してくれぬなら かうしてわたしは泣いて行く いつも目をくくられてゐるやうに クリステル どうかすると暗い沈んだ氣持になつて わたしはすつかり滅入りこんでしまふ けれどかあいいクリステルのところへ行くと またすつかりいい氣持になつて來る 何處へ行つてもあの人の姿がはなれない さうしてなぜまたこんなに廣い世の中で どんなに、何處で、何時あの人が わたしの氣に入つたのかわからない 眞黒ないたづら者らしい眼のうへに 黒い眉毛がついてゐる たつた一度でもその眼を見ると わたしの心はからりと晴れる こんあかあいらしい口もとや こんな頬をして娘が何處にあらう? まあ、そのふつくらしてゐること いくら見てゐても見あきがしない! さうして愉快な孤獨風な踊りで しつかり彼女をつかまへながら ぐるぐる廻り、鋭くまはる 何とも言へないそのうれしさ! さうして彼女が熱くなつてよろけると わたしは直ぐさまひつかかへる この胸にまたこの腕に まるで王樣にでもなつた氣で! さうして彼女がやさしい目附で見てくれると わたしはもう何もかも忘れてしまひ 彼女をしつかり胸に押し附けて はげしい接吻《きす》を浴びせてやる すると背隨からかけて兩足の 親指のさきまでもぞつとなる! わたしは弱い、わたしは強い わたしは樂しく、また悲しい! かうした日がいつまでも續けばよい 晝は長いとは思はない -- 若しまた夜分《やぶん》も一緒にゐられたなら 夜を恐れることもなくならう わたしは彼女をぢつと抱きよせて この戀のなやみをしづめたい それでもこの苦惱《くるしみ》が消えぬなら 彼女の胸で死んでしまひたい! 無頓着な女 清らかに晴れた春のあさ 若くて美しくて苦勞を知らぬ 羊飼ひの娘は歌ひながら行つた その歌は野末に響いて行つた ソララ!レララ! テュルジスが接吻《きす》を一つゆるしてくれたなら そこの羊を二三頭あげると言ふと 彼女は暫くふざけたやうに彼を見てゐたが また笑ひながら歌ひつづけた ソララ!レララ! また他の男はリボンをやると言ひ 三人目のは心を捧げると言つた けれど彼女は羊と同樣に 心もリボンも笑ひ捨て ただララ!レララ! 物思はしくなつた女 夕やけのかがやくことを 森どひにこつそり行くと ダンンがすわつて笛吹いてゐた その音は岩に響いて ソララ! あの人はわたしを引き寄せて 甘い接吻をしてくれた 『もつとお吹き!』とわたしが言うと いい若い衆はまた笛吹いた ソララ! それからは心の落着きなかうなつて 樂しい氣持もなくなつて 昔の音がいつまでも 耳についてはなれない ソララ!レララ! 救助 愛する少女に棄てられて 僕は喜びを憎むようになり 河ばたに走つて行くと 水は目のまへを流れてゐた そこに僕は默つて絶望して立つてゐた 頭の中はまるで醉つぱらつてでもゐるやうで すんでのこと河へ飛込まうとした 眼がくらくらして何《なん》にもわからなくなつた 不意に何だか呼びかける聲がした -- ちやうど僕の眞後《まうしろ》あたりから -- 何とも言へずかあいい聲で 『御用心遊ばせ!その河は深うございます』 僕は身體《からだ》中ぞツとして 見ると愛らしい少女《むすめ》である 『あなたの御名《おな》は?』ときくと『ケエトヘン!』 おお美しいケエトヘン!おまへは親切者だ おまへは僕を死から引き止めてくれた 永遠に僕の生命はおまへのお蔭だ だがそれだけではまだ十分でない 今度は僕の生命の幸福になつてくれ! そこで僕は彼女に自分の惱みを訴へた 娘はやさしく眼を伏せながら聞いてゐた 僕が接吻《きす》すると娘もしかへした さうして -- もう死ぬなんて騷ぎでなくなつた 詩神の子 野越え森越えぶらぶらと 自分の歌を笛で吹き かうして歩いて日を暮らす! まはりのものは何もかも わたしの歌に調子を合はせ うまい工合に踊つて過ぎる 庭園《には》の小草のはじめの花が 木にほころびるはじめの花が 待つ間《ひま》もなく咲き出して わたしの歌に挨拶する それからまた冬がやつて來ると わたしはまたあの夢をうたふ わたしはそれを遠くでうたふ 限りも知れぬ氷の上で すると冬もきれいに花が咲く! この花がまた消えてしまふと あたらしい喜びがあらはれる 畠《はたけ》の出來てゐる丘の上に 菩提樹のしたに遊んでゐる 子供のむれに行きあふと 直ぐにみんなは浮かれ出し 鈍い小僧も歌ひ出し かたい娘も踊り出す わたしの笛の音《ね》につれて あなた方はわたしの足に翼をくれて 谷間をわたり丘越えて その可愛い兒に旅をおさせになりますが あなた方のやさしい詩神《ミユウズ》よ いつになつたらあなた方の胸に わたしの身はまたやすめませう? 見つけた 森をわたしは歩いてゐた たつたひとりで 何を探しにゆくといふ あてもないのに ふつとわたしは木の蔭に 星のやうに輝いて 瞳のやうに美しく 咲いた小さな花を見た つひ手折らうとしましたら 花がやさしく言ふのには 『かうしてあなたに手折られて 萎《しほ》れてしまふ身でせうか?』 そこでわたしは根もとから よく氣を附けて掘り出して きれいな家のうしろなる 庭園《には》へ大切に持つて來た さうしてそれを植ゑました もの靜かな片すみに すると花は大きくなつて 咲きつづけましたいつまでも 似合ひの夫婦 釣鐘草のひともとが 地から萠え出して かあいらしい花を咲かせた はやくから、樂しき野邊に すると小さな蜂がやつて來て おいしさうに蜜を吸ふ -- どうです、ふたりは本當に 似合つた夫婦ぢやありませんか 雙方の舞踏の歌     無關心な人逹 美しいお方、さあ御一緒に踊りませう! こんな祭の日には踊るものです あなたがわたしの戀人でなければ戀人になれますよ たとひ戀人にはならなくとも踊りませう 美しいお方、さあ御一緒に踊りませう! こんな祭の日には何よりも踊りです     ものやさしい人逹 愛するお方、あなたがなければ祭が何でせう? やさしいお方、あなたがなければ踊りが何でせう? あなたがわたしの戀人でなければ踊りたくない いつまでも戀人でゐて下さればこの世は長い祭です 愛するお方、あなたがなければ祭りが何でせう? やさしいお方、あなたがなければ踊りが何でせう?     無關心は人逹 あの人逹には勝手に愛させておいてふたりは踊りませう! 戀に惱んでをつてはとても踊りはしませんよ ふたりは愉快に組んづほぐれつ踊りませう あの人逹が暗い森にかくれてしまはうと あの人逹には勝手に愛させておいてふたりは踊りませう! 戀に惱んでをつてはとても踊れはしませんよ     ものやさしい人逹 あの人逹には勝手に踊らせておいてふたりは歩きませう! 戀人同士の散歩は天上の踊りです 愛の神《アモオル》はあの人逹の嘲りを聞いてゐて きつと復讐《しかへし》しますよ直ぐしますとも あの人逹には勝手に踊らせておいてふたりは歩きませう! 戀人同士の散歩は天上の踊りです 自欺 隣の家の部屋で 窓掛《カアテン》ははたはた搖れてゐる 此方《こつち》を窺つてゐるに違ひない わたしは家《うち》にゐるかしらと またわたしが一日燃やしてゐた あの嫉妬の焔が胸底に 永遠に消えて行くことのないやうに やつぱり燃えてゐるかしらと だがあの美しい娘は殘念ながら そんなことを感じはしない 見るとなに、それは夕風が 窓掛にふざけてうぃるのだつた 宣戰 あの田舍の娘たちのやうに わたしが美しかつたなら! 彼等は薔薇いろのリボンのついた 黄色な帽子をかぶつてゐる わたしは本當に美人だと ひとりで勝手に定《き》めてゐた 市街《まち》の若樣のおつしやることを ああ!わたしは本當にしてゐました 春が來たのに、ああ!今は もう喜びもなくなつた 田舍娘があの方の 心を奪つてしまつてからは もう胸衣《きもの》もスカアトも 今は變へねばなりません わたしの身體《からだ》は痩せ細り 着物はゆるくなりました そこで黄色な帽子をかぶり 雪のやうに白い着物を着て 花の咲いてゐるクロオヴアを みんなと一緒に刈りに行く 大勢歌をうたつてゐるなかで きれいな姿を見附けたか いたづらな若い衆が わたしに家《うち》へ入れと合圖する わたしは眞赤な顏してついて行く どんな女か知らないのに 彼はわたしの頬をちよいと突き わたしの顏をぢつと見る さあ市《まち》の娘がおまへたち 田舍娘に挑戰するよ さうして二倍も魅力があれば 勝利を得るにきまつてゐる いろんな姿に身を變へて 魚《さかな》であつたらよからうに すばやい元氣なあの魚《うを》で おまへが釣りに出て來れば その鉤針にかかりたい 魚《さかな》であつたらよからうに すばやい元氣なあの魚《うを》で 馬であつたらよからうに そしたら大切にされように 車であつたらよからうに おまへをはこんであげように 馬であつたらよからうに そしたら大切にされように 金であつたらよからうに いつもおまへに握られて おまへが買物するとこは すぐまた走つて歸りたい 金であつたらよからうに いつもおまへに握られて 心變りはしたくない いつも花嫁の氣でゐたい 二世《にせ》を契つた仲となり どうでも別れはしたくない 心變りはしたくない いつも花嫁の氣でゐたい 年を取つて血の氣のない 皺くちや爺《ぢゞい》になつたらば おまへがわたしを拒まうが 別に苦情は申すまい 年を取つて血の氣のない 皺くちや爺《ぢゞい》になつたらば すぐあの猿になれたなら いたづら者のあの猿に おまへがどんなに怒らうと いたづらをしてやるんだに すぐあの猿になれたなら いたづら者のあの猿に 羊のやうに素直になれたなら 獅子のやうに強くなれたなら 山猫のやうな眼をもてたなら 狐のやうにずるくなれたなら 羊のやうに素直になれたなら 獅子のやうに強くなれたなら たとひどんなであらうとも おまへにこの身をささげたい 王樣の贈物でもあるやうに どうぞこの身を取つてくれ たとひどんなであらうとも おまへにこの身をささげたい だがわたしが今のわたしでも どうかこの身を取つてくれ! もしこれで滿足出來ぬなら おまへの好きなものに變へてくれ だがわたしが今のわたしでも どうかこの身を取つてくれ! 金鍛冶の徒弟 むかふの娘はまあなんといふ かあいらしい娘だらう! 朝早く仕事場へ出ると おれはむかふの店を見る そして指輪や鎖《くさり》にと 細い金の條金《はりがね》を打つ ああ、いつになつたらケエトヘンに こんな指輪がやれるのだらう? 娘が店の戸を開けると もう市中《まちぢう》の人がやつて來る そしてはがやがや喧ましく 店中のものを値切り倒す おれは鑢《やすり》をつかつてたくさんの 金の條金《はりがね》を切りそこなふ 親方は小言をくれる、頑固な親方は! あの店ばかり見てやがつてとがみがみ言ふ それから店が閑《ひま》になると直ぐ 娘は絲車に手をかける なぜあんなに精出すのかわかつてゐる 娘はあてにしてゐることがあるんだ 小さな足は踏みに踏む おれはその脛をおもひやり またあの靴下を思出す おれのおくつてやつた靴下を するとあの人は唇に持つて行く その細い細い絲を ああ、おれがあの絲であつたらば どんなに接吻が出來たらうに 樂しさ苦しさ わたしはあはれな漁夫《れふし》の子 海の中の黒い岩に すわつて餌をつけながら 四邊《あたり》を見まはしては歌をうたふ 釣針がゆらゆら沈んで行くと 直ぐに魚が寄つて來る そら食つたぞとはやす間に -- 魚はちやんと引つかかつてゐる ああ!岸邊に沿うて、野原を越して 谷間をすぎて、森の奧までも おなじ足あとを追つて行くと 牧場の少女は一人でゐた 眼は下向いてしまひ言葉も出ない! -- ちやうど彈機《ばね》がかちりと落ちるやう 彼女はわたしの髮をつかむ 小僧はちやんとツつかまつてゐる 彼女は今度はどんな牧者と仲よくするか それを知るのは神樣ばかり! わたしは海に出かけて行かねばならぬ どんなひどい荒れの日も さうして大きな魚や小さな魚が 網にかかつて[足|宛;#1-92-36]《もが》くのを見ると いつでもわたしはあの腕に やつぱり抱かれてゐたくなる! 三月 雪はちらちら落ちて來る まだ待ち遠い時は來ない いろんな花が咲き出せば いろんな花が咲き出せば ふたりはどんなに嬉しからう うらうらと照る日のかげも やつぱり嘘であつたのか 燕でさへも嘘をつく 燕でさへも嘘をつく どうして?たつたひとりで來るからは! いくら春にはなつたとて ひとりでどうして嬉しからう? けれどふたりが一緒になる時は けれどふたりが一緒になる時は すぐもう夏になつてゐる 問答遊びの返答     婦人 この狹くて廣い世の中で 女の心を嬉しいがらせるのは何でせう? 新しいものには違ひありません 新しい花はいつでも氣に入りますわ けれど眞實なものがずつといい 果實《くだもの》のみのる時分になつてもやはり 花でわたし逹を喜ばせてくれますもの     若紳士 パリスは森や洞窟《ほらあな》で ニムフと一緒に遊んでゐたが 一つ虐《いぢ》めてやらうとゼウスの神が 三人の女神をお送りになつた 今も昔も女を選ぶのに これほど迷つた男といふものは 一人も外にありますまい     世間通 女たちにはやさしい風をすることだ この言葉を守つたら女は手に入る! 素ばしこくツて圖々しいものは 多分もつと好結果を得るだらう だが心をそそつたり迷はせたりする さうした手腕《うで》のないものは 容易に侮辱したり怒らせたりしてしまふ     滿足者 人間の努力はさまざまだ その不安も、その苦しみも またさまざまの惠みは與へられ さまざまの樂しみもあるけれど この世で一番大きい幸福は 一番豐かな賜物は 善良で快活な心である     愉快な忠告者 人間のおろかな奔命《ほねをり》を 毎日眺めて罵倒をしてゐるものは 他人を馬鹿だと言ひながら 自分も馬鹿になつてしまふ 水車場へ荷を搬んで行く駄獸《けもの》でも それほどの重荷を負つてゐない さうしてわたしがこの胸に感ずるやうな まつたく!そんなものにわたしはなつてしまふ おなじ場處でのいろんな氣持     少女 あの方を見ましたとき! まあどんな氣持がしたでせう? あの方が此方《こちら》へお出でになると わたしはもうどぎまぎしてしまひ いきなりあと戻りしてしまひました 思ひ惑つたり夢見たり! ねえ岩よ、樹立よ わたしの喜びを隱しておくれ わたしの幸福《しあはせ》を隱しておくれ!     青年 あの娘を探し出したいな! ぢつと後姿《うしろ》を見送つてゐると ここらに隱れてしまつた 僕の方へやつて來るかと見ると 急にどぎまぎして眞赤になつて あと戻りしてしまつた 望があらうか?夢だらうか? おい岩よ、樹立よ おれの戀人を出しておくれ おれの幸福《しあはせ》を出してくれ!     煩悶者 露の置いてゐるこの朝を ここに隱れてわたしは嘆く わたしの寂しい運命を 多くの人には誤解されて かうして靜かな片隅に わたしはそつと引きさがる! おお、やさしい人よ おお、默つて隱しておいで この永遠の苦しみを 隱しておいでおまへの幸福を!     狩獵者 今日は運が向いて來て いつにないこの獲物 これなら出て來た甲斐がある 正直な下僕《しもべ》は 兎や雉子を 背負つて歸る ここにはどうだ、まだ網に 小鳥もかかつてゐる 狩獵者萬歳だ 狩獵者の幸福萬歳だ! 誰が愛の神を買うのか? 町の市場《いちば》へ持ち出される あらゆる遠い國から君逹に 搬んで來てやつたものよりも 氣持のいいものはない おお、我々の歌をお聞き そして美しい鳥を御らん! あれは賣物ですよ まづこの大きないたづらな 愉快な鳥を御らん! 彼は身輕に快活に 樹から藪から飛び下りて 直ぐまた上へ飛んでゐる 敢て手前味噌はこねますまい まああの愉快な鳥を御らん! あれは賣物ですよ さああの小さな鳥を御らん いかにもおとなしさうにしてゐるが 實はいたづらな奴ですよ 大きな方と同じやうに 彼は大抵こつそりと 氣質《きだて》のいいところを見せる あのいたづらな小鳥を御らん! あれは賣物ですよ まああの小さな鳩を御らん あのかあいい雌の斑鳩《じゆずかけばと》を! 少女のやうにかあゆらしく 悧巧で作法を知つてゐる あいつは化粧が大好きで 君逹の戀の使ひをする あの小さなやさしい鳥は あれは賣物ですよ 敢て手前味噌をこねますまい どうとでも試して御らんなさい まな新しいところを好いてますよ だがその忠實かどうかについて 證書や印判はまづ御免蒙る 鳥には翼がありますからな なんと鳥はきれいなものでせう なんと買物は愉快なものでせう! 人間嫌ひ 彼ははじめのうち暫くの間《ま》は 晴れ晴れとした顏をそて すわつてゐるかと思ふと急に 顏ぢゆうがむづかしくなる まるで梟みたやうに どうしたわけだと問ふのかね? 戀かそれとも退屈か ああ、その兩方さ! 意の儘にならぬ戀 わたしはちやんと知つてゐて嘲つてやる 君たち少女は移り氣だ! 君たちの戀はまるで骨牌《かるた》遊びだ 今日はダ・ッド、明日はアレクサンデル 彼等は互に自分がもてた氣で それでどちらも好都合 だが僕はやつぱり悲慘《みじめ》だよ 人間きらひな顏をして 戀の奴隸よ、あはれな馬鹿者! どうかしてこの苦痛から逃れたい! けれど胸底ふかく潛んでゐるために 嘲弄すらも追出せぬ、その戀を ほんとの樂しみ 少女《むすめ》の心を得ようと思ふなら その膝に金を積んだつて何になる 愛の喜びを贈つてやらねばならぬ おまへの方でそれを味つて見たければ 金は群集の聲をも買ひ得ようが たつた一つの心をもかち得はしない だが一人の少女を買はうと思ふなら 行つて自分自身を拂ふがよい 神聖な紐にくくられてゐないのなら おお青年よ、おまへは自分で自分をくくれ 人間は本當に自由に生きられる だが束縛されないではゐられない ただ一人の女のために熱くなることだ すると彼女の心は愛情でいつぱいになる そこで愛情の紐にくくられるがよい 義務にくくられてはならないからね まづ感ぜよ、青年よ!それから身體も美しく 心も美しい一人の少女を選べ 少女は少女でおまへを選ぶ するとおまへは幸福だ、わたしのやうに わたしはこの技術をよく心得てゐて 一人の少女を選び出した この美しい結婚は更に幸福《しあはせ》にも 僧侶《ぼうず》の祝福なんぞに煩はされなかつた 彼女はわたしを喜ばせることの外には苦勞せずに ただわたしの爲めにのみ美しく化粧をし わたしの傍でのみ放逸で 世間の眼にはしとやかな女である ふたりの情熱を歳月《つきひ》もさまさぬために 彼女は自分の弱さの權利も棄ててしまふ 彼女の愛はいつも聖母のそれのやう わたしはいつも有難く思はずにはゐられない わたしは滿足しきつて樂しんでゐる 彼女がやさしく笑つて見せるとき 食事中にその愛する男の足を 自分の足の踏臺にしてくれるとき その齒がたをつけた林檎をくれるとき その口をつけた杯をくれるとき またはわたしの接吻を半ば拒むやうな振りをして いつもは隱してゐる胸を見せるとき さうして彼女が靜かな樂しい折りなどに わたしと共に戀の話をしてゐるときに わたしはその口から言葉をのぞむ 言葉ばかり、接吻を望みはせぬ 彼女のうちには何といふ智慧が宿つてをつて たえず新しい魅力を與へることぞ! 彼女は完全だ、彼女の欠點は ただそのわたしを愛してゐることばかり 崇敬の念はわたしを彼女の足下《あしもと》に投げる [りつしんべん|尚;#1-84-54]悦はわたしを彼女の胸に投げる 見よ、青年よ!これが快樂だ 聰明なれ、さうしてこの快樂を求めよ 死は他日おまへを彼女の傍から 天使の合唱の音《ね》とともに 樂園《パラダイス》の喜びの中に誘つて行くが おまへは少しもその推移をさとらない 羊飼ひ なまけ者で通つた羊飼ひがあつた ほんとにひどい寢ぼすけで 朝から晩まで寢てばかり 一人の娘が彼の心をとらへた そこでこの馬鹿な男は 食氣《くひけ》もなくなり睡氣《ねむけ》も失せた! 遠いとこまでかけ歩き 夜は星かげを數へたh 泣き悲しむ身となつてしまつた ところで娘が彼の願ひを容《い》れたので すべてはもとの通りになつて來た 渇きも、食氣《くひけ》も、眠たさも 別れ この眼で別れを告げませう とても口では言へぬゆゑ! 堪へられない、とても堪へられない! これでももとは一人前の男子《をとこ》であつたのに 戀のたのしい典物《かた》さへも 今は嘆きの種となる おまへの接吻《きす》の冷たさよ おまへの握手の力なさ そつと盜んだその接吻《きす》も つねにはどんなによかつたらう! その嬉しさははつ春の日に摘み取つた 菫のやうであつたものを けれどこれからはもうおまへのために 花輪に薔薇も摘みはせぬ 春は春でも、フレンツヘン わたしばかりは秋となる! 美しい夜 今わたしはこの小舍を棄てて行く わたしの戀しい人の住つてゐる家《うち》を 足音を忍ばせて歩いて行く くらい寂しい森なかを 月は藪や樫の樹の間を洩れて來る 微風はほのかに吹き渡る 樺の樹は枝をゆるがせて 大さう甘い匂ひを蒔き散らす この美しい夏の夜の この涼しさの樂しさよ! おお、夢みるによいこの靜けさ 本當に心も幸福で一杯になる その樂しさは味はひ盡せない位だ! だが天よ、わたしはおまへにやる こんないい夜をいくらでも あの娘《こ》がわたしにその夜の一つでもくれるなら 幸福と夢と おまへはよくさうした夢をみた ふたりが一緒に祭壇の前へ行く夢を おまへは妻として、わたしは夫として おまへが氣をゆるしてゐる時に わたしはおまへの口から取つた 取られるだけの接吻《くちつけ》を ふたりが味はつた清い幸福は その多くの時間の樂しみは 時の流れと共に逃げてしまふ 樂しいと言つたところで何にならう? 夢のやうに熱い接吻《くちつけ》は消えてしまふ さうして喜びはみな接吻《くちつけ》のやうなもの 生きた記念 愛する人のリボンと結飾《かざり》を奪つてやると 半ばはおこつて見せて半ばは許してくれる それで君逹にはたくさんだとわたしは思ふ 君逹のさうした自欺《きやすめ》は許してあげる 面紗《・エル》や手巾や指輪や靴下は まつたくつまらないものではない だがわたしにはそれも十分ぢやない 彼女の生命《いのち》の生きた一片《ひときれ》を ちよいと拒んでみたあとで 最愛の人はわたしにくれた するとあの立派な品もつまらなくなつてしまふ そのがらくたどもをわたしは笑つてやる! 彼女はわたしに美しい戀をくれた その美しい顏の飾りをば たとひふたりが別れなければならなくとも おまへはすつかり離れて行きはしない 眺めたり撫でたり接吻したりするために おまへの紀念品《かたみ》は殘つてゐる -- わたしの運命も似てゐるその髮に 我々は曾て彼女の傍でおなじ幸福を味はつたのに 今我々は彼女から遠ざかつてゐる 我々はしつかり彼女にまつはつて そのまるい頬をなでてゐた 甘い望みに誘はれて 我々はゆたかな胸へすべり落ちた おお嫉妬《ねたみ》を知らぬ競爭者よ 汝ゆかしい贈物よ、汝美しい獲物よ あの幸福な樂しい時を思ひ出させてくれ! 遠ざかつてゐる幸福 飮め、おお若者よ!神聖な幸福を 終日《いちにち》、愛する人の目つきから 夜《ばん》になると彼女の姿がおまへをとりめぐる 愛してゐるものはみなかうしたものだ ところで幸福はだんだん大きくなる 愛する人から離れるだけ 永遠の力と、時間と、空間とは 星宿の力のやうにひそやかに この血を搖《ゆす》ぶつて寢かしてしまふ わたしの氣持はだんだんやはらげられ わたしの胸は毎日輕くなる さうして幸福はだんだん増してくる 何處へ行つてもあの人のことが忘れられぬ それでもわたしは落着いて食事が出來る わたしの心は晴れやかに伸び伸びしてゐる さうして目に見えない魔法の手が 愛の思ひを崇拜に變へ 慾望の念を敬慕にする 太陽の光に輝きながら 大氣の中に漂うてゐる 輕い樂しい雲切れにもまして わたしの心は安らかで喜ばしい 恐怖からは免《まぬ》がれ、嫉むには餘りに大きく わたしは愛する、永遠に彼女を愛する! 月の女神に はじめの光の姉妹《はらから》よ 悲しんでゐるやさしい姿よ! おまへのほれぼれとする顏のまはりに 霧は白銀《しろがね》の雨を漂はす おまへの輕い足どりは 晝間は閉ざされてゐる洞窟《ほらあな》から かなしく死んで行つた人たちを わたしは、夜鳥《よどり》を呼び醒ます 隈なくおまへの眼は及ぶ 限りも知れぬ遠くまで わたしをおまへの傍に引上げて その幸福に醉はせてくれないか! 落着いた樂しい心持で 惡智慧に長《た》けたこの騎士は あの格子戸の硝子越しに その少女《むすめ》の夜毎の眠が見たいのだ かうして眺めてゐる幸福は 遠く離れてゐる苦痛をやはらげる それでわたしはおまへの光を集め わたしの眼をもつと鋭くする あらはな身體のまはりは早やも だんだん明るくなつて行く さうして彼女はわたしを引き寄せる おまへが昔エンディミオンにしたやうに 婚禮の夜 祝宴《いはひ》の席から離れた寢室に 愛の神《アモオル》はおまへに忠實にすわつて氣にしてゐる たちの惡い客のいたづらに 婚禮の夜の平和が亂されはしないかと そもまへに蒼味がかつた松明の火が 神聖な光を放つてゐる 香の煙は部屋一杯に立罩めてゐる おまへ逹の興を助けるやうに 客の騷ぎを遠ざける時計の音に おまへの胸はどきどきする やがて默つてもう何一つ拒まない 美しい脣《くち》を思つておまへの血は燃え上る! 彼女と一緒に神殿に入つて行つて 事を果さうとおもあへは急いでゐる 番人の手に持つてゐる松明は 枕もとの燈《ひ》のやうに微《かす》かになる 雨のやうなおまへの接吻《きす》のために 彼女の胸、彼女の顏中は顫《ふる》へ出す! 彼女の愼しみは顫へとなり おまへの大膽さは義務となる 愛の神《アモオル》は手早く彼女の衣裳をぬがせるが おまへの方がもつと早い そこで彼はずるさうにまたつつしまう ふたつの眼をしつかり閉ぢてしまふ 意地の惡い喜び わたしは息が絶えたとき 蝶のすがたに身を變へて 樂しい時を送つたあのなつかしい處へと ひらひらと飛んで行く 牧場をぬけて泉水の方へ 丘をめぐつて森越えて 睦まじさうな二人の話を聞かうとて 美しい少女の頭にいただいてゐる 花輪にとまつて見おろすと 死がわたしから奪つたものがみな この一場の光景にまた見出せるので わたしは昔のやうな幸福《しあはせ》な氣持になる 彼女は彼を默つて笑つてかい抱《いだ》き 彼の口は惠みぶかい神樣の授けてくれた 樂しい時を味はつてゐる わたしはわざと飛びまはる 胸から口へ、口から兩手へと 彼のまはりを舞ひめぐる すると彼女はわたしを見てゐたが その友逹の熱望に身を顫はせて 飛上るのでわたしは逃げてしまふ 『ねえあなた、あれをつかまへて下さいな! ねえ!わたしはあれが慾しいのよ あの小さい綺麗な胡蝶《てふてふ》が』 無邪氣 人の心の最美《さいび》の徳よ ものやさしさの清い源泉《みなもと》よ! ビロンよりもまたパメエレよりも 理想なるものよ、稀有なるものよ! 若しほかの火が燃え上るなら おまへのやさしい弱い光は消えてしまふ おまへを感じるのはおまへを知らぬものだけだ おまへを知るものはおまへを感じない 女神よ、おまへは樂園《パラダイス》で わたし逹と一緒に暮してゐた おまへはいろんな牧場に姿を見せる 朝まだ太陽ののぼらぬうちに ただおとなしい詩人だけが 霧に包まれておまへの行くのを見る 日の神《ペブス》が現れると霧は逃げてしまふ さうして霧と一緒におまへも行つてしまふ そら死に お泣き、少女よ、この愛の神《アモオル》の墓の上で! ここで彼は何でもなくて死んだのだ けれど本當に死んだのか?どうだか知れやしない 何でもないことがまたよく彼を呼び醒ます 身近に どうしたわけかおまへは、かあいい子よ 時をりわたしに馴染のないものになる! 騷がしい人ごみの中にゐる時は 嬉しい氣持は殘らず消えてしまふ けれど四邊《あたり》が暗く靜かになる時は おまへの接吻でおまへが直ぐ知れる 十一月の歌 太陽を自分の胸に收めて 空に輝くその顏を 雲ですつかり隱してしまふ あの老人《としより》の射手《いて》ではなくて 薔薇のあひだに遊んでゐる 男の兒に捧げようこの歌を 我々の樣子をうかがひ折りを見て 美しい心をねらふあの子供の弓取に その子供のおかげで我々は 常は冷たい陰氣な冬の夜も たくさんのいい友逹や 御婦人方と親しめる これからその子の美しい姿が 星空たかくかかツてくれればよい さうしてそのやさし姿が永遠に 我々に上《のぼ》つたりしづんだりしてくれればよい 選ばれた人に 手に手を!脣に脣を! 愛する少女よ、眞實であつてくれ! さようなら!おまへの戀人は まだたくさんの暗礁を横ぎつて行く けれども他日|暴風雨《あらし》の後で ふたたびもとの港を望むとき 彼がおまへとでなく樂しむならば 神々が彼をお罰しになるように 大膽に敢行するものははや勝つたのだ わたしの仕事はもう半ば出來上つた! 星はわたしに日のやうに輝《て》る 卑怯なものにだけ夜なのだ おまへの傍に怠けてゐたときに 苦勞はわたしを壓しつけたのに かうして遠方に行つてゐると わたしはどしどし仕事をする、ただおまへの爲に まへにふたりが一緒にさまようて 河の流れが夕暮どきを しづかに流れて行くのを見た あの谷はもはや見えて來た 牧場の上のこの白楊よ 森の中なるこの山毛欅《ぶな》よ! ああ、さうしてこれらのうしろには 小さな家が建てたいものだ はじめの恨み ああ、誰があの美しい日を持つて來る あの初戀の日を ああ、誰があのうれしい時の たつたひと時でも返して呉れる! 寂しくわたしはこの傷手《いたで》を養つてゐる 絶えず新しくされる嘆きをもつて なくなつた幸福をかなしんでゐる ああ、誰があの美しい日を返して呉れる あのたのしい時を! 後感 葡萄がふたたび花咲くときには 葡萄酒は樽に搖れてゐる 薔薇がふたたび花咲くときには わたしは知らない、自分がどうなるか 涙は頬から流れ落ちる 働いてゐても休んでゐても ただ何とも知れぬ渇望が 胸を燒くのを知るばかり そして最後に悟らずにはゐられない しづかに思ひをめぐらすとき むかしかうした美しい日に ドリスがわたしを愛してくれたことを 愛人の傍 わたしはおまへを思ふ、海の方から日光が    わたしに照り返すとき わたしはおまへを思ふ、月の輝きが    泉に影をうつすとき わたしはおまへを見る、遠くの路の上に    塵のたちのぼるとき 夜ふけの狹い橋の上に旅人が    ふるへて立つてゐるとき わたしはおまへを聞く、鈍い音を立てて    むかふに波の躍るとき 靜かな森へ行つては耳を傾ける    すべての聲の絶えたとき わたしはおまへの傍にゐる、どんなに離れてゐようとも    おまへもわたしの傍にゐる! 日は落ちて、程なく星もわたしを照らす    おお、おまへも來ておくれ! 現在 すべてのものがおまへを告げてゐる 壯麗な日が現はれると おまへも直ぐに來てくれるに違ひない おまへが庭園《には》へ立出ると おまへは薔薇の中の薔薇 また百合の中の百合でもある 若しもおまへが舞踏《おど》るなら 星宿もみなおどり出す おまへと一緒に、おまへを取卷いて 夜!ああ、夜になつたなら! おまへは清く愛らしい 月の光をも凌ぐだらう おまへは清く愛らしい さうして花も、月、星も 太陽なるおまへを崇拜する 太陽よ!おまへはわたしにも 莊麗な晝の創造者であつてくれ! それでこそ生命もあり永遠もある 遠く離れてゐる人に わたしは本當におまへを失《な》くしたのか? 美しい人よ、おまへは行つてしまつたか? 今も耳についてはなれない あの聞きなれた言葉や聲音《こわね》やが 頭の上の大空で 雲雀の歌のするときに 旅人の目がいたづらに 朝《あした》の空を探すやうに そんなに心配らしくわたしの眼は探す 野邊に林に森かげに -- わたしの歌はみなおまへを呼ぶ おお、いとしい人よ、歸つて來ておくれ! 河ばたで 流れて行けよ、いとしい歌よ 忘却の海へ流れて行け! 一人の子供も最う喜んでおまへを歌はない 一人の少女《むすめ》も花どきに おまへはただわたしの愛を歌つた いま彼女はわたしの忠實《まこと》を嘲る おまへは水に書かれたのだ だから水と一緒に流れて行け! 憂愁 いとしの薔薇よ、おまへは萎れてしまふ わたしの戀人はおまへを持つては行かなかつた! 咲いてくれ、ああ!希望を失つたものに 苦痛に心を破られたものに! いまも悲しくわたしはあの日を偲ぶ 天使のやうなおまへによりそうて はじめの蕾を見ようとて 朝早く庭園《には》へ出て行つた日を 花といふ花、實《み》といふ實を おまへの足もとに持つて行き そしておまへの目のまへで 胸は希望《のぞみ》に波だつてゐた いとしの薔薇よ、おまへは萎れてしまふ わたしの戀人はおまへを持つては行かなかつた! 咲いてくれ、ああ!希望を失つたものに 苦痛に心を破られたものに! わかれ 約束を違《たが》へるのは面白いことだが 日ごろの義務を怠るのはむづかしい そしてああ、心にそまないことを 約束は出來るものでない おまへは昔の歌にある魔法をつかひ 落着くひまもない彼をまたしても 樂しい愚行の小舟に誘《いざな》つて 危險をまた新たにに二倍する なぜおまへはわたしに隱れるのだ! もう打ちとけてくれ、わたしの眼を避けないで! 晩かれ早かれ見附け出さずには置かぬからね さうして今おまへの約束の言葉をかへしてあげる わたしの義務はこれで果された もはやおまへはわたしのために煩はされはせぬ だが赦してくれ、今からおまへに背を向けて 靜かに自分の世界にかへつて行くおまへの友逹を 變化 小川の砂利の上に寢そべつてゐると、その明るさ! 寄せ來る波にむかつて腕をひろげると 彼は待ち構へてゐる胸に戲れかかる そして氣輕に流れて行つてしまふ するとまた次ぎの波がやつて來てわたしを撫でて行く かうした變化する快樂の嬉しさ だが悲しくもおまへは無駄にとりすがり 逃足早い人生の尊い時を 最愛の少女に忘れてしまはれてから! おお、あの樂しい時が返つて來ればいいに 第二の脣は甘い接吻《きす》をする 第一の脣の接吻《きす》がまだ消えぬ間《うち》に 自箴(二章)     その一 ああ、人間は何を求めたらいいのだらう? ぢつと落着いてゐた方がいいのだらうか? 後生大事に自分を守つてゐた方がいいのだらうか? いろいろやつてみた方がいいのだらうか? 小さな家を建てたがいいのだらうか? 天幕の中で暮したがいいのだらうか? かたい岩を信じてゐたらいいのだらうか? かたい岩さへふるへるものを 一人にいいからとて皆によくはない! 人はみな自分のする事をよく見てし またよく場處を見てから立止れ そして誰でも倒れないために立つてゐる     その二 卑怯な考へ 氣遣ひな躊躇 柔弱な不決斷 不安の愁訴が どうして不幸を救はうぞ 汝を自由にするものぞ あらゆる暴力に 敢然として抗つて かつて身を屈せず 力強く構へてゐたならば 神々はおのづと 助けてくれる 凪ぎ 深い靜けさは水中にこもり 海は身動きもせずにやすんでゐる 船頭はさも心配らしく 滑かな水面を見廻してゐる 何處にもそよとの風もない! 恐ろしいやうな死の靜けさ! 見わたすかぎり たつ波もない 幸福な航海 霧は散つて 天《そら》は晴れ 風信《エオルス》の神は 心配の紐をほどく 微風はそよぎ 船頭は働いてゐる 疾《はや》く!疾《はや》く! 波は切られて 遠方は近くなり はや陸《をか》が見える! 勇氣 最も大膽な人さへこれまでに 道を拓いてゐなくとも 心配しないで進んで行け 自分で自分の道を拓け! 靜かなれ、愛するものよ、わが心よ! たとい鳴動しても裂けはせぬ! たとい裂けても、おまへとは裂けはせぬ! 忠告 おまへは先きへ先きへと行かうとするのか? 見ろ、幸福はつい目の前《さき》にあるではないか ただそれをひツつかまへる術《すべ》さへ學べばよい 幸福はいつでも手もとになるのだから 出合ひと別れ 胸は波打つ、急いで馬に! 思案する間もなく飛んで行く! 夕《ゆふべ》ははやも地を眠らせて 山々には夜の帷が埀れてゐた 樫の樹ははや霧に罩められて 巨人のやうに突立つてゐた 闇は林のしげみから 無數の黒い眼で窺ふ 月は山のやうな雲の間《あひだ》から 狹霧をわけて悲しげに照つてゐた 風は輕い翼を動かして 耳元にすさまじく鳴る 夜は無數の怪物を生み出したが わたしの心は元氣よく喜ばしい わたしの脈には何たる焔! わたしの胸には何たる火! おまへに出逢ふと、嬉しさは その甘い眼からこちらへと流れ込む わたしの心はおまへに寄り添うて おまへのために波を打つ 薔薇色をした春の氣は そのあいらしい顏をめぐつてゐた そのやさしい仕打は -- ああ神々よ! これまでわたしの望んで得なかつたものだ! けれどああ、朝日は早やものぼつて 別れはわたしの胸を亂す おまへの接吻には何たる快樂! おまへの眼には何たる苦痛! 別れる時おまへは立つた儘眼を伏せてゐた 濡れた眼をしてわたしを見送つた だが、愛せられるのは何たる幸福! 神々よ、愛するのは何たる幸福! 新しい戀、新しい生 心よ、心よ、どうしたのだ? どうしてそんなにわくわくしてゐる? 何たる不思議な新たな生だ! これがおまへだとはとても思はれない おまへの愛したものは皆なくなつた おまへを惱ましたものもなくなつた おまへの勤勉も不安も -- ああ、どうしてこんなになつたらう? 限りなき力をもつておまへを捉へるのは この若い花のやうな面影か このかあいらしい姿か この忠實《まこと》と愛に充ちた目附か? わたしは大急ぎで彼女から離れて行かうと 懸命に逃げようとするけれど 忽ちにまた引戻される ああ、また彼女のところへと 斷ち切ることの出來ない この魔の紐をしつかりと 愛する殘酷な少女は握つてゐる どんなに逃げようとしたとても もうわたしは彼女の魔法の圈《わ》のなかで 彼女の心のままに生きなければならない ああ、何たるひどい變りやう! 戀よ!戀よ!わたしを放せ! 愛する人に どうしておまへはむりやりにあの豪奢の中へ ああ、このわたしを引き寄せるのか? わたしは寂しい夜を幸福《しあはせ》に送つてゐた いい若者ではなかつたか? 小さな部屋にひとりこつそり閉ぢこもつて 月影の中に横はり その物凄い光にすつかり照らされながら わたしはうとうとと眠り入る するとまじり氣のない快樂を味つてゐた あの黄金時代を夢に見る はやおまへのかあいい姿はまざまざと 胸の底から浮んで來る おまへがあの光り輝く室《へや》の骨牌臺に据ゑたのは このわたしではなかつたか? いつもあのたまらない人逹の目のまへに 引き据ゑられてゐたものは? いま野に咲いてゐる春の花もこのわたしには おまへより美しくはない 天使よ、おまへのゐる處にこそ愛もあれば幸福もある おまへの處にこそ自然もある 五月の歌 自然は莊麗に わたしを照らす! 太陽は輝く! 野は笑ふ! 花は咲き出る 枝ごとに 鳥はさへづる 木立から 歡びと樂みは湧く 人の胸から おお地よ、おお太陽よ! おお幸福よ、おお快樂よ! おお戀よ、おお戀よ! あの山にかかつてゐる 朝の雲のやうに 黄金なすその美しさ! 爽かな野に おまへは祝福を埀れて この世はすつかり 花の霞となる おお少女よ、少女よ わたしはおまへを愛するよ! おまへの眼の輝くことよ! おまへはわたしを愛するよ! こんなに雲雀は愛する 歌と空とを 朝の花はまた 空の匂ひを わたしはおまへを愛する 熱い血をおどらせて おまへはわたしに青春と 喜ばしさと勇氣とを あたらしい歌によつて 踊りによつて與へてくれる 永遠に幸福であれ そしてわたしを愛してくれ! 描かれた紐につけて 小さな花を、小さな花びらを 親切な若い春の神々は ふざけながら薄い紐の上に 輕い手つきで蒔いてくれる 微風よ、これをおまへの翼にのせて わたしの愛する人の着物に織り込めよ! すると彼女はいそいそとして 鏡のまへに立つて行く 薔薇にすつかり蔽はれて 自分も咲き初《そ》めた薔薇のやう たつたひと目を、かはいい人よ! するとわたしはすつかり酬ひられる この胸の思ひを汲み取つて わたしのその手にお貸しなさい さうしてふたりを結ぶこの紐は 弱い薔薇の紐ではないやうに! 黄金の頸飾りにつけて おまへにこの紙片は一つの鎖を齎したがつてゐる それは大層曲りくねることが上手で 何百とも知れぬ小さな輪をこしらへて おまへの頸にまつはらうと望んでゐる この馬鹿の望みをかなへておやりなさい こいつは無邪氣で厚かましくない 晝間は小さな飾りとなり 夜《ばん》にはおまへに投げ出される けれど誰かがもつと嚴しく強くしめる あの鎖をおまへに持つて行かうとも わたしはおまへを怒りはせぬよ、リゼッテよ おまへがちよいと思案をするならば ロットヘンに 多くの喜びや、多くの悲みや 多くの心配の群れ騷ぐ中で わたしはおまへを思ふ、おおロットヘン、我等二人はおまへを思ふ 靜かに夕やけの照つてゐるなかで おまへが我々に親しく手を差出した時 壯麗な自然の膝もとで よく拓《ひら》かれた野の上で 愛する心にそつと被せかけられたその蔽ひを おまへが取除けてくれた時のことを わたしがおまへを誤解しなかつたのは氣持がよい 直ぐはじめて會つた時からして 口もとの心からの表情を見て おまへを本當のいい子だと呼んだのは 靜かに安らかに狹いところで育てられてゐると 我々はいきにあり世間へ投げ出される 數限りない波が我々を洗ひ去り 凡てのものは我々の心を奪ひ、あるひは氣に入つたり あるひは腹立たせたりする、さうして絶えず 直ぐ不安になる氣持あ動搖する 我々は感ずる、そしてその感じたことは はげしい浮世の波に洗ひ去られる わたしは知つてゐる、我々の胸を 多くの希望、多くの苦痛の横《よこぎ》るのを ロットヘン、誰が我々の思ひを知らう? ロットヘン、誰が我々の心を知らう? ああ、それを知つてくれる人があつたなら 誰かの心に同感が充ち溢れたなら 自然のすべての苦痛と喜びとを 親しく二重に感じられたら そこで屡々あたりを見廻して探すけれど 駄目だ、何處もかしこもみな閉ぢられてゐる かうして人生の一番樂しい時は 動亂もなく安息もなしに過ぎてしまふ さうしておまへの永遠の不愉快にまで 昨日おまへを引き寄せたものが今日は突放す おまへをいつも欺いて來た世間に對して おまへの苦みの時、おまへの幸福の時 知らぬ顏して澄ましてゐた世間に對して おまへは愛情を注ぐことが出來るであらうか? 見よ、精神は今やうちに閉ぢこもつて そして心は -- 戸を閉めてしまふ かうしてわたしはおまへを見出し、おまへに向つて行つた 『おお彼女は愛される價値がある!』と わたしは叫んで、おまへに清い天福を祈つた その惠みは今やおまへの女友逹によつておまへに與へられる 湖上で そして鮮《あた》らしい食物《たべもの》を、新らしい血を わたしはこの自由な世から吸ふ わたしを抱き寄せてゐるこの自然は どんなにやさしく立派なことか! 波は我等の小舟を搖《ゆす》ぶりあげる 櫓拍子の調子につれて さうして雲のやうに空に聳えた山々は 我等の疾《はし》つて行くのを迎へる 眼よ、我が眼よ、なぜしづむ? 黄金の夢よ、またやつて來たか? 行け、夢よ!たとひ黄金であらうとも ここにこそ愛もあれば生甲斐もある 波の上にはきらきらと 數知れぬ星が漂ふ やはらかな霧は身のめぐりに 聳立つ遠山を呑んでしまふ 朝風は蔭つてゐる 入江を吹きめぐり そして湖上にはよく熟れた 木の實が影をひたしてゐる 山から 若しもわたしが愛するリリよ、おまへを愛してゐなかつたなら この眺望《ながめ》もわたしに何の樂しみをも與へなかつたらう! さうして若しもわたしが、リリよ、おまへを愛してゐなかつたなら わたしはこんなに至る處に幸福を見出したらうか? 花の挨拶 わたしの摘んだこの花輪 おまへに挨拶するよ何千度でも! わたしはいつまでもお辭儀した ああ、もう千度も二千度も さうして胸へ抱きよせた 千度、二千度、三千度でも! 夏に 野も畠《はたけ》も 露に輝いてゐる! 草も木も 眞珠をつづツてゐる! 茂みを通して 爽かな風が渡る! あかるい日を浴びて 小鳥は高く囀つてゐる! ああ、それでも この低い狹苦しい 小さな部屋に 閉ぢこもつて 日影を避けて 愛する人を見るのにくらべれば この世は何でもないものだ たとへどんなに美しからうとも! 五月の歌 小麥|畠《ばたけ》か麥畠《むぎばた》か 生垣の茨《いばら》の間か 木立の中か草場の方か あの人は何處へ行つたらう? わたしに言つてくれ!   わたしのかはいいあの人は   家《うち》にはゐなかつた   わたしの大切《だいじ》なあの人は   外にゐるに違ひない   春の五月は美しく   草は萠え花は咲いてゐる   愛する人は出て歩く   面白さうに氣樂さうに あの河のほとりの岩かげに はじめの接吻《きす》を 彼女がくれたあの草の間《ま》に 何だか見える! あれかしら? 早春 樂しい時よ はや來たか? 丘と森とに 日は照るか? 小川は嬉しさうに 流れて行く あれは牧場か? あれが谷か? 青々とした爽かさ! 空と高見よ! 金色の魚は 湖水に泳ぐ 色鳥《いろどり》は 森にひそめき たのしい歌は ひびいいて來る 緑の下から 花が萠え出し 蜜蜂のむれは 蜜を吸ふ かるいどよめきが 大氣にふるへ 氣持のよい香氣《にほひ》は 睡氣《ねむけ》を催す やがて微風《かぜ》が出て 一層はげしくどよめくが すでに茂みに 消えてしまふ けれどそれは胸へと かへつて來る 搬んでおくれ、詩神《ミユウズ》たち わたしのためにこの幸福を! 知つておいでか、昨日から わたしに何が起つたか? あいらしい姉妹《きやうだい》たち それそこにあの人が! 秋の思ひ わが葡萄酒よ、青々と その棚にそうて わたしの窓に這ひのぼれ! 葡萄の房よ、ふさふさと 重り合つてふくらんで もつと早く、もつとゆたかにみのれ! 母の日影は別れにも なほおまへを育んでくれ 空の惠みのやしなひの 風はおまへを吹きめぐり 月のやさしい息吹は おまへを涼しくする そしてああ!この眼からは 永遠に力づける 愛の涙が溢れ出て おまへを濕《うる》ほす やみまなき戀 雪に、雨に 風にむかつて 谷あひの水氣をくぐり 霧をとほして ただ先けへ先きへと! やすむ時なく! むしろ苦痛に 身を打ちたい 人生の多くの喜びに 堪へて行くよりは 心から心へ傳はる すべての愛情が ああ、なぜこんなに 苦痛の種になる! いつそ逃げ出さうか? 森へ行かうか? すべて無益だ! 人生の王冠は やすみなき幸福は 戀よ、おまへに外ならぬ! 羊飼ひの嘆きの歌 むかうの高い山の上に わたしは千度も彳んで 牧杖に身をもたせ 下の谷間をながめやる それからまた家畜について行くと 犬はわたしに代つて番をする わたしは山を下りて行く どうしたわけやら自分も知らないで すると野原は見るかぎり 美しい花が咲き亂れてゐる わたしはその花を折つてみる 誰にやらうといふあてもなく すあして嵐が起ると雨風を わたしはそつと木蔭に避ける むかうの戸口はやつぱり閉つてゐる だがこれもみな悲しい夢だ あの家の屋根の上には 虹がかかつてゐる! だがあの人はもう行つてしまつた 遠くの國へ行つたのだ 遠くの國へはるばると 海さへ越えて行つたのだ さきへお行き、羊たち、さきへお行き! 羊飼ひはいま悲しいのだ 涙の慰め どうしたわけで君はそんなに悲しげなんだ? すべてのものは悦ばしさうに見えるのに 君の眼を見ると直ぐにわかるよ たしかに、君は泣いてゐたね 『たとい僕がひとり隱れて泣いたとて それは僕自身の苦痛《くるしみ》だ さうして涙は本當に甘く流れる 僕の心を輕くしてくれる』 快活な友逹は君を招いてゐる おお、我々の胸へ來給へ! たとい君がどんなものを失つたにしろ 損失はもうあきらめるがよい 『君等は騷いでばかりゐて氣が附かない 何がこの哀れな僕を苦しめるかを ああいや、僕は何も失つたのぢやない たとい僕に欠けてゐるものはあつても』 そんなら早く元氣を出したらどうだ! 君はまだ青年の身ぢやないか 君位の年頃には人は働いて手に入れるだけの 氣力もあれば勇氣もある筈だ 『ああいや、僕は働いて手に入れることは出來ない それは僕にはあんまり縁が遠いから それはあんなに高く、美しく輝いてゐる あの空の星のやうに』 星は手に入れようとしたつて駄目だ ただその光を樂しめばよい さうして恍惚として眺めることだ 窓のよく晴れ渡つた夜毎《よごと》に 『僕も恍惚として眺めやつてゐる もう長いこといつも晝のうちは せめて夜分は泣かせてくれ この涙の盡きてしまふまで』 夜の歌 おお、そのやはらかな蓐《しとね》にうつらうつら 夢みながら半ば耳をおかし! わたしの琴の調《しらべ》につれて おやすみ!おまへはこの上何が慾しい? わたしの琴の調《しらべ》につれて 數限りない星の群れは この永遠の感情を祝福する おやすみ!おまへはこの上何が慾しい? その永遠の感情は わたしをすつかり高めてくれる この騷しい地上から おやすみ!おまへはこの上何が慾しい? この騷がしい地上から おまへはわたしをすつかり遠ざけて わたしをこの涼氣の中に追ふ おやすみ!おまへはこの上何が慾しい? おまへはわたしをこの涼氣の中に追ふ せめて夢の中だけで耳をお貸し ああ、そのやはらかな蓐《しとね》の上で おやすみ!おまへはこの上何が慾しい? あこがれ わたしの心をこんなにするのは何だらう? わたしを引張り出すのは何だらう? この家《うち》の中から、この部屋から 出て來いといつてそそのかすのは? むかうの山のまはりに 雲は漂つてゐる! 彼方《あそこ》へ行つて見たい 早く行つて見たい! 鴉の群れは列をつくツて 飛んで行く わたしもその群れにまじつて ついて行かう さうして山も城壁も どんどんあとにして行くと 下にあの人の姿が見える わたしはそれをぢつと窺ふ 彼女はしづかにやつて來る! わたしは直ぐにかけつける 歌ふ小鳥のやうに 森のしげみまで 彼女はそつと立止まつて聞耳立てて ひとりでにツこりして考へる 『あれ、あんなに可愛く歌つてゐる わたしのことを歌つてゐる』 入日が山の頂きを 黄金《こがね》の色に染めるとき 思ひ沈んでゐるその美しい人は それをぢつと眺めながら 小河のほとりをぶらぶらと 牧場に添うて行く すると路はだんだん暗くなり はやわからなくなつてしまふ その時不意にわたしは姿を見せる きらめく夕の星のやうに 『あんなに近くまたあんなに遠く 輝いてゐるのは何であらう?』 さう言つておまへが驚いて その星かげを見入るとき わたしはおまへの足もとに横たはる そこでわたしは幸福《しあはせ》だ! ミニヨンに 谷や河流《ながれ》の上をわたつて 日の車はしづかにめぐつて行く ああ、太陽はいつも動いてやすまない そのやうにおまへの、わたしの苦しみも 胸の底から いつも朝になるとまたあらはれる 夜が來たとてもうわたしには何でもない いまは夢さへ悲しい姿をして わたしの眠りに來るものを さうしてわたしは覺える、この苦みの 音なく胸に だんだん積つて行くそのはげしさを わたしはもう隨分ふるい昔から この下を舟の行くのを見る みなそれぞれ目的《めあて》の土地に着く けれどああ、この昔ながらの苦しみだけは 胸の底にゐて 河と一緒に流れて行きはせぬ わたしはきれいな晴着を着なければならぬ 着物は戸棚から出してある ちやうど今日は祭の日と言へば 誰も悟らない、このくるしみに わたしの胸の はげしく掻きむしられてゐることを いつもこつそりわたしは泣いてゐる でも外觀《おもて》は陽氣に見せてゐる しかも丈夫さうに血色もよく 若しこの苦しみが致命のものであつたなら この胸に ああ、疾くの昔にわたしは死んでゐた筈だ 山上の城 むかうの山の頂きに 古いお城がたつてゐる 門や扉のうしろには 騎士《ナイト》や馬がむかしはをつた その門や扉は燒けてしまひ あたりはただもうひつそりとしてゐる 古いくづれた城壁を わたしは好き放題に攀ぢまはる むかうの隅には穴藏があつて 高價な酒が一ぱい入つてゐた 今ではもはや徳利をさげて 氣輕に下りて行く侍女《こしもと》もない 彼女はもはや廣間の客に 杯をついで廻りもしない 彼女は聖餐のとき坊樣の 瓶を充たしに行きもしない 彼女はだらしのない家來どもに 廊下で酒をふるまひもしない そしてそのせはしないふるまひのため せはしないお禮を受けもしない もうずつとの昔に梁《うつばり》も 天上ものこらず燒けてしまひ 階段も廊下も禮拜堂も 鳥有に歸してしまつたのだもの だが琴と瓶とを手にもつて この高くけはしい岩の上へ よく晴れた日にあの人の 登つて行くのを見た時に 荒涼とした沈默の間《あひだ》から 樂しさ嬉しさがまた湧いて出た ちやうど昔の愉快な時が も一度かへつて來たやうに まるで尊いお客樣のために 廣場に用意が出來てゐるやうに まるであのさかんな時代から 一組の戀人同志が出て來たやうに まるであの禮拜堂に 氣高い坊さんが立つてゐて 『おまへさん方は結婚する氣か?』と問うと 我々は笑つて『はい!』と答へるやうに さうして胸の底から湧きあがる 深い感動のこもつた歌聲は 群集の口からではなくて 木精《こだま》の口から繰返される さうしてだんだん夕方になつて すべてが靜かになつたとき 燃える日影はそば立つた 山の頂きに眼を投げる さうしてこの家來とこの侍女《こしもと》は まるで主人のやうに振舞つてゐる 彼女が酒をついでやると 彼はお禮を言つてゐる 亡靈の挨拶 古いお城の高い塔の上に 英雄の氣高い靈が立つてゐて 舟が下を通つて行く毎に 速く走れと命令する 『見ろ、おれの筋肉は強かつた おれの心はきつく烈しかつた この骨には騎士《さむらい》の氣骨があつた またこの盃は一杯に充たされてゐた おれは半生を嵐のやうに過して來て 半生を安樂の中に送るのだ そしておい、そこを行く人間の舟 進んで行けよ、いつまでも!』 頸にかけた黄金の心臟に 今なほわたしの頸にかけてゐる 汝消えてしまつた喜びの紀念よ おまへは我々ふたりの心の紐より長持するか? おまへはふたりの戀の短い日を長くしてくれるか? リリよ、わたしはおまへから逃げて行く! だがやつぱりおまへの紐にくくられて、知らぬ他國を 遠くの谷や森を通つて行かねばならぬ! ああ、リリの心はそんなに早く わたしの胸から離れはせぬ 縛《いまし》めの紐とたち切つて 森へ歸つた鳥のやうに 彼は縲絏《るいせつ》の恥辱《はぢ》を引きずつてゐる やつぱりその紐の切れはしを 彼は昔の自由な鳥ではない 既にもう誰れかのものであつたのだ 憂愁の樂み 乾かすな、乾かすな 永遠の戀の涙を! ああ、ただ半ば乾かされた眼にのみ いかに荒涼と、いかに死んで此世は見えるよ! 乾かすな、乾かすな 不幸なる戀の涙を! 旅人の夜の歌(二章)     その一 おまへは天《そら》からやつて來て すべての苦しみ、痛みを鎭め 二重の苦惱になやめるものに 二重の囘歸の力を充たす ああ、奔命にわたしは疲れた! すべての苦痛《くるしみ》、快樂《たのしみ》も何であらう? 甘い平和よ ああ、早く來てくれ、この胸に!     その二 山々の頂きには 安息がある 木々の梢には 搖れもせぬ そよとの風も 小鳥は森に聲を呑む まあお待ち、今におまへも 休めように 獵夫の夕暮の歌 彈丸《たま》を籠めた鐵砲を手にして 野みちをひとり靜かに辿るとき おまへの姿がちらちら浮ぶ おまへのかあいい面影が おまへは今野を越え谷を横ぎつて ひとり靜かにさまよふだらう そしてああ、直ぐに消え去るわたしの面影は おまへは寄り添ひさへもしないのか? 腹立たしげに不興げに この世を渡るその人の おまへを棄てて行くに忍びず 西に東にさまよふ面影は おまへのことを思ひさへすれば 月の光りでも見るやうに 靜かな平和な氣持になる どうしたわけか知らないけれど 月に またもおぼろの光もて 森をも谷をも靜かにつつみ つひにはわたしの心をも おまへはすつかり融かしてしまふ 慰め顏におまへの眼は わたしの庭にひろごつて來る わたしの運命をあはれむ女の 心やさしい眼のやうに 嬉しい時悲しい時の名殘は わたしの胸に響いて來る 喜び苦みふたつの間《なか》を 寂しくわたしはひとりさまよふ 流れよ、流れよ、いとしの河よ! 樂しい時はまたと來ない 冗談も接吻《きす》も眞實《まごころ》さへも もうわたしには消えてしまつた わたしも昔は本當に 尊いものを有《も》つてゐた! しかもそれをこの苦しい中で 決して忘れる時はない! 流れよ、流れよ、谷ぞひに やすむことなくためらふなく 流れよ、流れてわたしの歌に 調子を合はせてくれ 冬の夜あらく波立つて おまへの水嵩《みかさ》のまさるとき 春の若葉のまはりに 湧きあがるとき 憎惡の念《おもひ》をもたないで 世間から身を遠けて 一人の友を胸に抱き その友とともに 世の人のまだ知らないこと 思ひも寄らないことを樂しんで 夜半胸中の迷宮《ラビリンス》を さまよふものは幸福だ 制限 わたしは知らない、この狹苦しい世の中で 何がわたしの氣に入るのかを 何がやさしい魔の紐でわたしを捉へるかを わたしは忘れる、忘れたい いかに不思議に運命がわたしを導くかを そしてああ、わたしは感ずる、遠くに近くに わたしにまだ澤山のものが用意されてゐるのを おお、それが間違つたものでないように! いまわたしに何が殘されてゐよう 生命の力に充たされまた包まれて 靜かな現在に未來の望みを得るよりは! 希望 わたしの手がける此の仕事 それを成就するとは何たる幸福! おお、どうぞ途中で疲れぬやうに! さうだ、それは空しい夢ではない いまは此の樹は一もとの幹にすぎないが やがては實をも結ばう、影をもささう 心配 この同じ軌道をおなじやうに めぐることはもうやめるがよい! 許せよ、おお許せよ、わたしのやり方を 與へよ、おお與へよ、わたしに幸福を! 逃げ去るべきか?勇氣を出すべきか? さうだ、絶望はもうたくさんだ 若しわたしを幸福にしたくないのなら 心配よ、わたしを賢くせよ! 所有物 わたしは知つてゐる、抑へも出來ず わたしの心から湧き出して來る また好運の手がいい折りを見て 底の底までわたしに味はさせる この思想といふものを外にしては わたしの所有物《もちもの》はないことを リナに 愛する人よ、この詩集が いつかまたあなたの御手に渡つたら ピアノにむかつておかけなさい あの友逹が後《うしろ》に立つてゐた時のやうに 鍵板の上にすばやく指を走らせて それから書物《ほん》を御らんなさい 讀んではいけない!ただお歌ひなさい! この頁《ペエヂ》はみんなあなたのものだ ああ、どんなに悲しくわたしを見るであらう 白い上に黒く浮き出たその文字は あなたの口から神聖化されて 心をやぶるその歌は! [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:團樂小曲 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 團樂小曲     一座のなかでうたふ歌は     心から出て心へ通ふ 年の始めに ふるい年と 新しい年との間に ここに幸福を樂しむことを 運命は我々に許す 過ぎ去つた年は こころやすく 前途を望ましめ 既往を囘顧せしめる 苦惱の時は ああ、過ぎ去つた 惱ましい眞實も 樂しい愛も より値《あたひ》ある日は 我々をまたも集めて 快活な歌は 心を強くする 殘された喜びと 消え去つた苦痛とを 共に手をとつて たのしく思ひ出す おお、運命の 不思議な攝理! ふるい結合よ あたらしい贈物よ! はげしく打寄せる 幸福に感謝せよ 運命の與へる あらゆる惠みに感謝せよ 變化を喜べ 快活な本能を 卒直な愛情を 内心の熱を ふるい年の上を 蔽ふ幕を 悲しくおづおづと 眺める人もあるが 懇ろに眞實な年は 我々に輝いてくれる 見よ、新しい年は 我々をも新しくする ちやうど舞踏會で 戀人同志の一組が 姿を消しては また現れるやうに 人生のもつれもつれた 迷路を通して 愛情よ、我々を この年へ導け コプト人の歌(二章)   その一 學者どもには議論をさせて置け 教師どもは謹嚴にさせて置け! あらゆる時代のあらゆる賢人たちは 微笑してうなづいて同意してくれる 『愚者の賢くなるのを待つのは馬鹿げてゐる! 聰明の子等よ、おお痴者のことは 痴者にまかせて置け、それ相應に!』 老メルリンは光輝ある墓の中から わたしが若い時分に教へを乞ふたとき やつぱりおなじ答へを與へてくれた 『愚者の賢くなるのを待つのは馬鹿げてゐる! 聰明の子等よ、おお痴者のことは 痴者にまかせて置け、それ相應に!』 また印度の高い天空でも 埃及の墳塋の深い底でも わたしはこのおなじ神聖な言葉を聞いた 『愚者の賢くなるのを待つのは馬鹿げてゐる! 聰明の子等よ、おお痴者のことは 痴者にまかせて置け、それ相應に!』   その二 行け!わたしの教へに從つて 汝の若い時代を利用せよ 時機を逸せず賢くなれ! 運命の偉大なる秤《はかり》にあつては 針はしばらくやすむことはない 汝は上《あが》るか下《さが》るじかしなければならぬ 汝は支配し成功を得なければならぬ または服從し失敗しなければならぬ 敗北するか凱旋を奏するかだ 鐡鍖《かなしき》となるか鐡鎚《かなづち》となるかだ Vanitas! vanitatum vanitas!(空なり!空の空なり!) おれは何にもたのみにやしなかつた     愉快愉快! それでこの世が樂しみだ     愉快愉快! おれの仲間になりたいものは 杯を打合せて合唱しろ 滓《をり》まですつかり飮みほして おれは金をたのみにした     愉快愉快! そこで喜びと元氣を失つた     悲慘悲慘! 貨幣《かね》はころころ轉げまはり そつちで掴んだと思ふまに あつちで滑つて行つてしまふ おれはそこで女をたのみにした     愉快愉快! さあそこでいろんな恥をかいた     悲慘悲慘! 薄情ものはこつちの手に合はず 操があるのは退屈だ 一番いいのは賣物でない おれは旅行をたのみにした     愉快愉快! そして國風《くにぶり》を忘れてしまつた     悲慘悲慘! それに何處へ行つても氣が晴れず 食物《たべもの》は口に合はず、寢床はおそまつだ おれをわかつてくれる人もない おれは名譽をたのみにした     愉快愉快! だが見ろ!直ぐに他人が凌駕した     悲慘悲慘! それでおれの方で上に出たときは みんなはおれに澁い顏をした おれは誰の氣にも入らなかつた おれは戰爭《いくさ》をたのみにした     愉快愉快! さうしておれたちは澤山の勝利を得た     愉快愉快! おれたちは敵國へ侵入した 互に戰友に負けまいとした そしておれは脚《あし》を一本失つた もうおれは何にもたのみにやしなかつた     愉快愉快! それで世界中はおれのものだ     愉快愉快! さあ宴會も歌もおしまひだ 杯の底の滓までも飮み盡くせ 最後の一|滴《しづく》まで飮み盡くせ! 厚顏に愉快に 娘たちとは仲よくし 男たちとはなぐり合ひ 金はなくとも借金《かり》をして 世間を渡つて行けるもの 一緒に酒飮むものはたくさんあるが 一緒に住めるものはあまりない その多い少いが反對《あべこべ》ならば これに越した愉快はない むかうの意地が強ければ こちらでゆづることになる 席をゆづツてくれぬなら いいからどしどし追ひ立てろ いいからみんなに猜《そね》ませておけ 奴等の手に入らぬものを さうして心の底から愉快でゐろ これがいろはの初めでまた終りだ 世間さまには調子を合はせ かうした氣持で暮して行け 嬉しいにつけ悲しいにつけ この貴いいろはを考へろ Ergo bibamus!(然らば、飮まむ!) ここに我々は賞むべき行爲のために集まつてゐる  それゆゑ友よ|Ergo bibamus! 杯は鳴り、會話《はなし》はやんでしまふ  心に浮ぶのは|Ergo bibamus! これはすばらしい古《むかし》の言葉 どんな人の胸にもこたへる言葉 饗宴《いはひ》の席に反響《こだま》はひびく  すばらしい|Ergo bibamus! やさしい愛人の姿を見ると  わたしは密かに考へる|Ergo bibamus! 親しげに近くとあの人はついと行つてしまふ  そこでやむなく考へる|Bibamus! よしやまた來て抱いて接吻《きす》してくれようと よしやそれきり抱いても接吻《きす》してもくれなからうと 相も變らず、なんかいい事のあるまでは  氣ばらしによい|Ergo bibamus! 運命の聲が友逹の手からわたしを呼べば  愛する友よ!|Ergo bibamus! わたしは手輕な荷物をもつて別れて行く  それでどちらも|Ergo bibamus! たとへ高利貸が何を身體から剥いで行かうとも やつぱり愉快な顏をしてゐるがよい 愉快な人に愉快な事はある  さあ、愛する友よ、Ergo bibamus! 今日のこの日に何と言はう?  わたしはただ考へよう|Ergo bibamus! これこそ全く珍らしい言葉だからね  それゆゑいつでも|Bibamus! この言葉は開いた門から喜びを連れて來る 雲は輝き、埀幕は裂ける すると神聖な一つの像が輝き出る!  さあ杯を鳴らして歌はう|Bibamus! 獅子里亞《シチリヤ》人の歌 おまへの黒いかあいい眼! おまへが目くばせしただけで 家はくづれて落ちるだらう 街《まち》も倒れてしまふだらう それからわたしの心のなかの この漆喰《しつくひ》の壁さへも -- まあちよつと思案をしておくれ! -- これが落ちたら何とする! 瑞西人の歌 山の上に すわつて 小鳥を 見てをると 飛んだり 歌つたりして 巣を こしらへる 庭の中に 立つて 蜜蜂を 見てをると ぶんぶんいつたり うなつたりして 巣を こしらへる 牧場の上を 歩きながら 胡蝶《てふてふ》を 見てをると 蜜を吸つたり 舞うたりして 目を なぐさめる そこへハンスさんが やつて來て いそいそわたしが 迎へると いつものやうに につこり笑つて あつい接吻《きす》を してくれた 芬蘭人の歌 ふかい馴染のあの人が またも歸つてくれるなら あの脣《くち》に接吻《きす》をしてあげよう たとい狼の血で染まつてゐようとも その手をぢつと握つてあげよう よしや指さきが蛇だらうとも 風よ!おお、おまへに心があらば ふたりの言葉を取次ぎな あんまり遠いあひだゆゑ 途中で少しは消えようが いつそ御馳走も食べますまい おいしい肉も忘れよう 夏のうちに素早くつかまへて 長い長い冬の間に手なづけた あの人とお別れするよりは ジプシイの歌 さらさらと降る霧の中に、深い雪の中に さびしい森のなかに、冬の夜 餓ゑに吠える狼の聲がした また梟の鳴き聲がした     ヰレ ワウ ワウ ワウ!      ヰレ ウォ ウォ ウォ!       ヰト フウ! おれは一日《あるひ》垣根の猫を射たをした[注:原文のまま] 魔法遣ひのアンネ婆さんの黒猫を すると夜なかに七匹の狼がやつて來た 狼になる村の七人の女たちが     ヰレ ワウ ワウ ワウ!      ヰレ ウォ ウォ ウォ!       ヰト フウ! おれは奴等を皆知つてゐる、よく知つてゐる それはアンネに、ケエテに、ウルゼルに、 リイゼに、エヴに、バルベに、ベエトだが おれのまはりに輪をつくつて吠え立てた     ヰレ ワウ ワウ ワウ!      ヰレ ウォ ウォ ウォ!       ヰト フウ! そこでおれは大聲でみんなの名を呼んだ アンネさん、ベエトさん、どうする氣だい? するとみんなはがたがたふるへ出し 吠え出てながら走つて行つてしまつた     ヰレ ワウ ワウ ワウ!      ヰレ ウォ ウォ ウォ!       ヰト フウ! [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:ヰルヘルム・マイステルから [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- ヰルヘルム・マイステルから     騷々しい人ごみの中でさへ     かの精靈の歌は聞かれる ミニヨン(三章)   その一 わたしを語らせて下さるな、默らせて置いて下さい わたしの祕密はわたしの義務なのですもの あなたにこの胸の思ひを殘らずお話ししたい けれど運命がそれを許してはくれませぬ 時をたがへず日はのぼり、暗い夜陰を追ひはらふ 日は照らさずにはゐられません 堅い岩もついには胸を開きます 地は底に隱れた泉を惜しみはいたしませぬ どなたを見ても友だちの腕にすがつては 胸の惱みを訴へて安らかな氣持になられます わたしばかりは一つの誓ひが脣《くち》を抑へてをりまして それを開けて下さるのはただ神樣ばかり   その二 あこがれわたる心を知る人だけが御存知です わたしの惱みがどんなかを! たつたひとり嬉しいことのすべてから 引きはなされて わたしは空をながめやる かなたの空を ああ!わたしを愛し、お知りになる方は 遠い他國にいらつしやる! わたしは目まひがしまして、腸《はらわた》は 燃えるやうでございます あこがれわたる心を知る人だけが御存知です わたしの惱みがどんなかを!   その三 ほんとにかうした姿になる迄はどうぞこの儘にして置いて この白い着物をぬがせて下さいますな! この美しい世を棄てて あのゆるがぬ家へまで そこに暫く靜かにやすんだなら きよらかな眼は開きませう 白い着物もぬいですて 帶も花輪もすてませう するとあの天使のやうな姿になつて もはや男女《をとこをんな》のへだてもありませず 透き通つてゐる身體には なんの着物もいりませぬ わたしは何の苦勞も知らずに來ましたが 心の底には深い苦痛を抱いてゐて 惱みのためにあまりに早く年をとりました どうぞわたしを永遠に若返らせて下さいまし! 彈絃者(三章)   その一 孤獨にふけるそのひとは ああ!やがてひとりになつてしまふ! 人はみな自分の生活や戀を樂しんで 苦しんでゐる人を相手にしはしない よろしい!わたしを惱みに棄てて置け! わたしがほんの一度でも 本當に孤獨になれたなら わたしはもはやひとりぢやない 愛するものは耳すましながらそつと忍び寄る その女ともだちが一人でゐるかしらと そんなに晝夜忍び寄る さびしいわたしに苦しみが さびしいわたしに悲しみが ああ、わたしがやつと墓に入り さびしく眠るその日こそ それはわたしを棄てて行くであらう!   その二 わたしは戸《と》毎に忍び寄り そつとつつましやかに立ちとまるまる やさしい手が食物《たべもの》を惠んでくれる わたしはまたもさきへと歩いて行く 誰れも自分を幸福《しあはせ》だと思ふだらう わたしの姿が目に入ると さうしてほろりとするだらう だがわたしはその人がなぜ泣くのやらわからない   その三 涙ながらに麺麭《パン》を食べ 辛《つ》らい夜毎を床の上に 泣き明かしたことのない人は おまへ逹、天の力を知りはせぬ! おまへ逹は我々をこの世に連れ出して このあはれなものに罪を犯させて さうして苦痛のなかに棄てて行く この世の罪はすべて報ゐのあるものを フィリイネ そんなかなしい調子で歌つて下さいますな ひとり夜の寂しさを! いいえ、夜分は、やさしいお方 たのしい語らひのために作られてます ちやうど女が男にその美しい 半分として與へられてゐるやうに 夜はわたし逹の生涯の半分ですわ しかも一番美しい半分ですわ あなた方はいつも嬉しいことの邪魔をする 晝をお好きでいらつしやいますの? 晝は消えてしまつた方がようございます その外に何の役にも立ちませぬ けれど若し夜分になりまして 樂しい燈火《ランプ》のほのかな光が流れ 口から口へ雨のやうに 冗談と愛とが注ぎ込みますときは あの素ばしこいいたづらな男の兒が(キュピド) いつもは火のついたやうに急いで行つてしまふのに ほんのつまらない贈物にすかされて 氣輕にふざけながら止まつてゐますとき あの夜鶯《うぐひす》が戀に狂つてゐる人たちに 樂しい歌をうたつて聞かすとき またそれが囚人や悲しんでゐる人たちに 嘆息や悲鳴のやうに響くとき どんなに輕く心をおどらせて あなた方は鐘の音をお聞きになりませう! 安息と平穩とを告げるやうに 重々しく響く十二の鐘の音《ね》を! だから長い晝の間に、よいお方 この言葉をしつかり胸に藏《をさ》めて下さいまし 晝は苦しいものですけれど 夜は樂しいものですわ [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:物語 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 物語     物語はどんなに不思議でも     詩人の伎倆《うで》はそれを眞實にする ミニヨン レモンの樹の花咲く國を御存知ですか? 暗い茂みの中には黄金《こがね》色に柑子がみのり 青い空からはやはらかな風が吹き ミルテの樹は靜かに月桂樹《ラウレル》は高く聳えてゐる あの國を御存知ですか?     あちらへ!あちらへ ねえ、いとしいいお方、わたしはあなたと參りませう 圓い柱に屋根を支へてゐるあの家を御存知ですか? 廣間はきらびやかね、部屋も輝いてゐて 大理石像はぢつとわたしを眺めて言ふ 『可哀想に、おまへはどうかしたのかい』と あの家を御存知ですか?     あちらへ!あちらへ ねえ、いとしいいお方、わたしはあなたと參りませう あの雲に聳えた山路を御存知ですか? 驢馬は霧の中に路を求めて行き 洞窟《ほらあな》の中には年とつた龍が棲まつてゐて くづれ落ちた岩の上に波のうち寄せる あの路を御存知ですか?     あちらへ!あちらへ ねえ、小父さま、ふたりで一緒に參りませう 樂人 『城門の前に聞えるのは何だ? 橋の上に響くのは何だ? その歌を廣間のなかに 耳元ちかく歌はせろ!』 王の言葉に小姓は走つた 小姓は來た、王は叫んだ 『此方《こちら》へ連れて來い、その老人《としより》を!』 『御機嫌うるはしう、殿樣がた 御機嫌よろしう、奧樣がた! 綺羅星のあやうに輝いてゐられまする! 誰れかは御名を知り申さう? 光り輝くこの立派な廣間の中で 眼よ、閉づてしまへ、今は驚いて ただ見廻してゐる時ではない』 樂人はおもむろに眼を閉ぢて 調べを高く歌ひ出した 騎士等は鋭く目を見張り 美しい貴婦人逹は膝の上に眼を落した 王はその歌をいたく喜びたまひ 樂人の技を賞せんとて 黄金の鎖を持つて來させた 『黄金の鎖はわたくしに下さいまするな 鎖は騎士樣がたにお授けなされませ その勇ましいお顏を見ると 敵の槍さへひるんでしまふ騎士樣がたに また君のお仕へになる大臣樣に ほかにいろいろ重荷をお持ちになりまするが なほその黄金の重荷をもお授けなされませ わたくしは枝に巣くうてゐる 小鳥のやうに歌ふばかりでございます 喉から出て來るこの歌が わたくしには何よりの報酬《むくひ》でございます けれど若しお許し下さるなら一つお願ひがあります どうぞ一番上等の酒を黄金《きん》の杯に なみなみついで下さいませ』 樂人は杯を口に持つて行き、ぐつと飮み乾した 『おお、生命《いのち》も若がへる甘露の味! おお!この尊い酒も物の數ならぬ 神の惠み溢るる君が館《やかた》よ、いや榮えませ! 榮えましまさば、卑しきこの身を偲びなされて 神樣にあつく御禮を申しなされませ この酒のためにわたくしが殿樣に御禮を申上げますやうに』 菫 野原に菫が咲いてゐた 葉かげに隱れて人知れず ほんに可愛うしほらしう すると羊飼ひの娘がやつて來た 足取り輕く心も輕く すたすたと 歌ひながら牧場をやつて來た 『ああ!』と菫が考へるには 『この世で一番きれいな花でありたいな ああ、ただほんの一寸でも さうして愛する人の手に摘まれ その胸に押附けられて萎れたい! ああ、ただほんの ほんの十五分間でもいいんだから!』 ああ!ところがああ!娘はやつて來て 菫の花には氣も附けないで あはれな菫を踏み附けた 菫は折れて息が絶えながらも喜んだ 「わたしは死んでも恨みはない あの娘さんのために あの娘さんの足に踏まれて死ぬんだもの』 魔王 こんな嵐の夜更けに馬を驅るのは誰か? それは父親とその子供とだ 父はわが兒を腕に抱いてゐる しかと、温かく抱いてゐる 『坊や、なぜそんなに恐ろしさうに顏隱すのだい?』 『御らん、お父さま、あの魔王を御らん! 冠をかぶつて裾を曵いてるあの魔王を!』 『坊や、あれは霧が棚曵いてゐるんだよ』 《ねえ坊ちやん、いい兒だからこつちへお出で! 面白いことをして遊びませんか きれな花のたくさん咲いてゐる岸邊へ來て わたしの母は黄金《きん》の着物を有つてますよ》 『お父さま、お父さま、あれお聞きなさいな 魔王が坊やに小聲で約束してゐるよ!』 -- 『安心をし、安心してお出で、ねえ坊や あれは枯葉が風にがさがさ鳴つてるのだよ』 《坊ちやん、ねえ坊ちやん、一緒にまゐりませう! わたしの娘たちはあなたを待ちかねてます わたしの娘たちは手を取つて夜の踊をおどります 踊つて歌つてあなたを寢かせてあげますよ》 『お父さま、お父さま、あれ御らんなさいな あのむかふの暗い處に魔王の娘の立つてゐるのを!』 -- 『坊や、ねえ坊や、あれは何でもないよ あれは古い灰色をした柳の樹だよ』 《かはいい坊ちやん、わたしの大好きな坊ちやん あなたが承知しなければ無理にも攫《さら》つて行きますよ》 『お父さま、お父さま、あれ魔王が僕を捉《つかま》へる! 魔王が僕をこれこんなに虐《いぢ》めるよ!』 父はぞッとして、一目散に馬を飛ばした 彼はしくしく泣く兒を腕に抱いたまま やつとのことで屋敷に着くと 子供は腕に死んでゐた 漁夫 波は鳴り立ち、波は湧き上る 一人の漁夫《れふし》が岸邊にすわり しづかに浮標《うき》を見つめてゐた 胸の底まで冷たくなつて すわつて耳をすましてゐると 波がたちまちふたつにわかれて ゆらめく水の間から 濡れた女の姿が現れた 女は歌つた、話しかけた 『どうしてあなたはわたしの眷族を 人間の智慧で、人間の奸計《たくらみ》で 陸《をか》に誘つてお殺しになるんです? ああ、海の底で魚がどんなにか 樂しく暮してゐるかお知りになつたなら あなたもその儘下りてお出でになつて はじめて穩かな身におなりでせうに お天道さまもお月さまも海へお入りになつて 元氣附きにおなりになるではありませんか? 波を浴びて一層お顏も美しう おかへり遊ばすではありませんか? この深い空、この澄み切つた紺青が あなたのお心を誘ひはしませんか? この永遠の露に映るあなたの面影が あなたのお心を誘ひはしませんか?』 波は鳴り立ち、波は湧き上る 波は漁夫のはだしの足を洗ふ 愛する人に挨拶された時のやうに 彼の心はあこがれで一杯になつた 女は歌つた、話しかけた 漁夫《れふし》はもはやさからふことも出來ず 半ば引き寄せられ、半ば倒れて行き もはや姿は見えなかつた ツウレの王 むかしツウレに王樣があつた 實《じつ》ある夫であつたので 妃《きさき》は黄金《きん》の杯を 王に殘してなくなられた 王はこよなくそれを愛で 宴《うたげ》の度に取り出され その杯を乾すごとに 顏をそむけてほとりとされた 王は死ぬ日を悟られて 國や都をのこりなく 世繼《よつぎ》の君にゆづられた 杯だけが別にして 海のほとりの城のうち 父祖の傳へた座について 王は宴《うたげ》を催した あまたの騎士を侍《はべ》らせて わが老酒客《らいしゆきやく》は立ち上り 生命《いのち》の終《はて》の火を盛つた 聖《きよ》い杯ぐつと乾し 海をめがけて投げ入れた 落ちて傾き底ふかく 沈む杯うち眺め 王は眼を閉ぢ一滴も また飮まぬ身となつたとぞ 美しい花     捕はれたる伯爵の歌   伯爵 ほんとに美しい花をわたしは知つてゐる その花をわたしは手に入れたい たづねてゆきたいと思つても 捕はれの身の甲斐もなく その苦しさはいかばかり 心のままであつた日は つい手もとに咲いてゐたものを 嶮しい岩のこの城で どんなにあたりを眺めても この高い塔からなんとして その花を見附けることが出來ようか それをわたしの目の前に持つて來てくれたなら 騎士であらうと下僕《しもべ》だらうと ながく恩顧の臣としようものを   薔薇 わたしは美しい薔薇の花でございます 今この格子窓の下で聞きますと あなたはわたしのことを仰しやつてゐられますね お氣の毒な氣高い騎士《ナイト》さま! あなたはまことに氣高い心をお有《も》ちです だからあなたのお胸に宿つてゐる花は 花の女王のわたくしに相違ありませぬ   伯爵 緑いろの上着《うはぎ》を纒うたおまへの紅《くれなゐ》は まことに尊いものだから 黄金や尊い飾りとおなじやうに 世間の娘たちはおまへを慾しがつてゐる おまへの花輪は美しい顏を一層美しくする けれどもおまへはわたしがこつそりこの胸で 尊《うやま》つてゐるその花ではない   百合 薔薇さんはまことに高慢な方ですから ただもう人を凌がうとばかりなさいますが やさしい心で人で[注:人をの誤り]愛する人は 百合の飾りを賞めてくれませう わたくしのやうにまごころのある人でしたなら 心の清い方でしたなら わたくしを一番好いて下さいませう   伯爵 わたしは清淨潔白の身で 何の罪をも犯しはしなかつたが ここにかうして押籠められて 一人寂しく惱んでゐる おまへは清くやさしい少女《をとめ》たちの 美しい心をよくあらはしてゐるけれど わたしはもつといい花を知つてゐる   石竹 それはこのわたしではございませぬか わたしは牢番の庭に咲いてゐる石竹です どんなに心をつくしてあの老人《としより》が わたしの世話をしてゐますでせう? わたしの花びらは美しい輪をつくり 生涯いい香《にほ》ひをはなつてゐます その上一々數へられぬ位色さまざまに開きます   伯爵 石竹は決して片隅に捨てて置ける花ではない 園丁《にはつくり》の誇りともし樂しみともする花で あるひは日向《ひなた》に持ち出したり あるひは日蔭に置いたりする けれどもこの伯爵の身を幸福にするものは ことさらめいた華美ではない それは人知れず咲く小さな花だ   菫 わたしは葉蔭にかくれて俯向いたまま おしやべりなんかいたしたくはありませぬが 今は默つてゐる時ではありませぬから いつもの無言をやぶつて申します もしもわたしがその花でしたらば、よいお方 この薫りをのこらずあなたに捧げませうに それが出來ないことが悲しうございます   伯爵 やさしい菫はわたしのまことに好きな花だ おまへは大層謙遜にまた美しく匂つてゐる だがこのはげしい惱みのある身には もつといい花が慾しいのだ 今おまへ逹に本當のことを言つて上げるが こんな岩山の瘠地には あのかはいい花の見附かる筈がない けれど彼方《あちら》の小川のほとりを 世にもまことある女はさまよひながら わたしがこの牢屋から出て來るまで いつもいつも悲しさうに嘆息《ためいき》ついてゐる 彼女が小さな青い花を手折りながら 『お忘れ遊ばすな!』(わすれなぐさ)と言ふ毎に こんな遠方にゐてもそれが感じられる さうだ、こんなに離れてゐても二人は 互におもつてをれば心強い それだからこそこの暗い牢屋にゐても わたしはかうして死なずにゐるのだ 胸も破れさうにおぼえる日でも 『忘れるな!』(わすれなぐさ)と呼びさへすれば わたしはまた生きかへつたやうな氣持になる 寶掘り 財布は空しく、心は痛み 長いその日を引きずつて行く 貧乏にまさる不運はない 財産にまさる福はない! そこでこの苦しみを取除かうと わたしは出かけた寶掘りに 『わたしの魂はおまへにやる!』と わたしは自分の血で書いた かうして幾重にも魔の圈《わ》を描いて 藥草と骨とを集めて來て わたしは不思議な火を焚いた そこで呪文も終へたので 習ひ覺えた術をもて かねて覺えの場處に行き 古い寶を掘りかけた 夜は眞闇《まつくら》で荒れてゐた すると遠くに火が一つ現れた 空にかがやく星のやうに そして遙か遠くからやつて來た 丁度十二時の打つたとき もうどうすることも出來はしない 忽ちあたりはぱつと明るくなつた 美しい童子の持つてゐる 聖杯《さかづき》の酒の輝きに ゆたかに編んだ花輪の下に 清らかな眼を輝かし 神酒《みき》の光を浴びながら 童子は魔の圈《わ》の中に入《い》り 懇《ねんご》ろにその酒を奬《すゝ》める わたしは思つた『この美しい 輝く酒を持つてゐるこの童子は 惡魔でありよう筈がない』 『この清い生命《いのち》の酒を飮め! 飮んでその教訓を悟つたなら またとこの場にかへつて來て 覺束ない呪文を誦《よ》んではならぬ この上無益に掘るのをやめよ 日毎の業務《つとめ》!夜毎の接待《もてなし》! 仕事日の勤勞《いそしみ》!休日の宴會《いはひ》! これこそおまへの未來の呪文に外ならぬ』 法廷で わたしはおなかにゐる子が誰の子か わたしは申し上げますまい この淫賣奴が!と唾をお吐きかけなさらうと わたしは立派な女です 誰とねんごろしたかは申しますまい わたしの大切《だいじ》なお方はまことにいい方で 金の鎖を頸に卷いてゐます 麥藁帽をかぶつてゐます 嘲りと侮りを受けねばならぬのなら わたしが一人で受けますわ わたしはあの方を知り、あの方もわたしをお知りです このことは神樣もよく御存知です 牧師さま、御役人さま方 どうぞわたしをうつちやつといて下さいまし これはどこまでもわたしの子です だからもうお止めなさいましよ 髑髏舞 眞夜中ごろに塔守が 立ならぶ墓標を見下してゐると 月は隈なく照りわたり 墓場はまるで白晝《ひる》のやう 途端、一つ一つ墓が動き出し 女の、男の亡者が現れて來た 白い裳《もすそ》を引きずつて 亡者は骨と手で圈《わ》をつくり 愉快な踊りを直ぐに始めようとした 老人《としより》も若いものも貧しいものも富んだものも けれど長い裳《もすそ》が邪魔になるので もはや羞恥《はぢ》といふものも無い身ゆゑ 皆その着物をぬぎ捨てた 着物は丘の上に散り亂れた さあ、脛があがる、脚が動く 身振り手振りのその不思議さ 骨はこつこつ打《ぶ》つ突かる まるで拍子木でも打つやうに もう塔守は可笑しくてならなくなつた! その時惡魔が來てその耳に囁いた 『行つてあの經帷子《きやうかたびら》を一つ取つて來い!』 思案する間もなく直ぐ取つて來て 急いで聖堂の扉の後に隱れた 月はやつぱり明るく照つてゐた 物凄い亡者の踊りをば だがたうとう月も隱れると 亡者はひとりひとりに着物を着て たちまち草場の蔭にかくれてしまふ ただ一人だけがいつまでもよろよろと 手探りしては墓の間をうろつきまはる これまで彼をこんなひどい目に遭はせたものはないのだ 彼は大氣の中に着物の匂ひを嗅ぎ附けて 塔の扉をゆすぶつたが、びくともしない 塔守の幸福《しあはせ》には、魔除けにと その扉には金の十字架が光つてゐたのだ 着物を取返さなければ休まれぬので 亡者は何の思案もあらばこそ ゴシック式の螺旋飾りをつかまへて その突端《とつぱな》を一段一段攀ぢのぼる あはれな塔守は既に運命窮つた! 亡者は螺旋飾りから螺旋飾りへ飛びうつる まるで長い脚をした蜘蛛のやうに 塔守は色を失ひ、塔守は顫へ その經帷子を返してやらうと思つたが これが運の盡きといふものか 着物の裾が釘に引つかかツて離れない 月の名殘りの光りもはやうすれて 鐘が喧《けたゝ》ましく一つ打つたかと思うと 忽ち骸骨は下に碎け散つた [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:雜簒 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 雜簒     その品物はどんなに雜多でも     見本を見ればすぐわかる! マホメット頌歌 見よ、岩間の泉を 星かげのやうに その喜びに輝くを 心やさしい精靈は 雲に聳えた岩の間の 繁る葉かげに その見やしなふ 血氣にはやるその子供は 雲のなかから大理石の 岩の上へ飛び下りては 天にむかつて 歡呼する 山の窪みを貫いて 色さまざまの小石を追ひ はやくも頭領《かしら》の威を帶びて その同胞《はらから》の泉を 連れて行く 谿《たに》に下れば、その息吹に その足おとに 花もひらき 牧場も蘇へる けれど日蔭の谿《たに》にも その膝に卷き附いて 媚びある眼つきで見る花んいも 引留められないで 蛇のやうにうねりながら 平野の方へおし迫る やがて小川の數々も 仲間に入るままに 銀に輝き平野に入れば 平野とともに輝きわたり 平野から來た河も 山から來た川も 歡呼して言ふ『同胞よ! 同胞よ、おまへの同胞を連れて行け おまへの古い父親の あの永遠の大海へ! 腕をひろげて我等を待てど ああ!その古い父の腕は そのあこがれてゐる子供を 抱かうと聞いてゐる甲斐もなく 滿目荒涼たる沙漠にて 渇いた砂は我等を吸ひ 天の日は我等の血をすすり 丘は我等を遮りとめて沼とする 同胞よ、我等をこの平野から 我等をこの山から連れて行け おまへの父のところまで!』 『ぢや、みんな來たまへ!』 -- かう言つて彼は一層|水嵩《みかさ》を増して 仲間中からその君主《きみ》tp 押し戴かれる! さうして凱旋とともに流れて行く あまたの國々に名を與へ あまたの都市《みやこ》を踏み分けて やまずたゆまず流れ行く 輝く塔の頂きも 大理石の宮殿《みや》も その功業《いさを》をもあとにして 大船巨船をアトラスは その巨大な肩に擔ふ その頭上には颯々と 無數の流旗《はた》が飜《ひるがへ》る 彼の威力を示しつつ かうして彼はその同胞を その愛人を、その子等を 歡呼とともに連れて行く 待ちかねてゐた母の胸へ 水の上の精靈の歌 人間の靈魂《たましひ》は 水のやうだ 天から來つて 天にのぼり またもくだつて 地にかへり 永遠にそれを繰返す 高く嶮しい 絶壁から 清い光と流れ出て 滑かな岩のおもてに 飛び散つては 霧をただよはし またそれを輕くをさめて 草かげを さらさらと 谷間に流れ落ちる 巖《いはほ》そびえて 行手をはばめば 焦立《いらだ》たしげに泡立つて 岩から岩へ躍つて 淵へくだる 河床《かはどこ》の平らな野邊は 音をひそめて忍び行き 滑かな湖水に入れば その面《おもて》には ありとある星宿《ほし》が宿る 風はやさしい 波の愛人だ 風は泡立つ波を 底からまぜ返す 人間の靈魂《たましひ》よ おまへは水に似てゐる! 人間の運命よ おまへは風に似てゐる! プロメテウス ゼウスよ、雲や霧をもつて おまへの天を蔽ひかくせ さうして薊《あざみ》の頭をむしる 子供のやうに、山の上 樫の梢に威張つてをれ! だが、おれのこの土地は おれの自由だぞ おまへの建てたのでないおれの小舍《こや》も おれの竈《かまど》もおれの自由だ この竈の火のために おまへはおれを嫉んでゐる 汝等神々よりも憐れなものは この日の下にまたとない! 汝等は供物《さゝげもの》や 祈祷の聲によつて その威力を纔《わづ》かに 養ひ支へるのみだ 若しも子供や乞食のやうな 甲斐もなく祈る痴者なくば 汝等は餓ゑて死ぬるだらう おれが子供であつた時は どうすることも出來なくなると 自分の嘆きを聞く耳が おれの心とおなじやうに 惱んでゐる者を憐れむ心が ありはせぬかと日の方へ 迷ひの眼《まなこ》を向けて見た 何處に思ひあがつた巨人族《テイタアン》の手から おれを助け出したものがある? 何處におれを死から、奴隸の身分から 救ひ出したものがある? 聖《きよ》く燃え立つ我が胸よ これ等を仕遂げたのは皆おまへぢやないか? 若い素直な心を欺《だま》されながら あの天に眠つてゐるものに なぜ御禮を述べねばならないのだ? おれがおまへを崇《うやま》ふ?何のために? おまへは曾つて重荷に苦しむ者の 苦痛を輕くしてやつたことがあるか? おまへは曾つて心痛してゐる者の 涙をとどめてやつたことがあるか? おれを男子に鍛え上げたものは おれとおまへにおなじく主なる あの全能の時ではなかつたか? あの無窮の運命ではなかつたか? おれの花々しい夢想が 皆が皆ものにならないからとて おれが人生を憎んで 沙漠へ逃れねばならぬとでも おまへは言ふのか? ここにおれはすはつて、人間を創る おれの姿になぞらへて おれによく似た種族をば 苦しむことも、泣くことも 樂しむことも、喜ぶことも さうしておまへを尊敬せぬことも おれとおなじい種族をば ガニメッド おまへは朝の輝きをもて わたしの心を燃えさせる 春よ、愛するものよ! 數限りなき愛の喜びをもて わたしの心におし迫る おまへの永遠の温かみの 神聖なる感情は 無限の美は わたしはおまへを捉《つかま》へたい この腕に! ああ、おまへの胸に横はり 思ひ焦れてなやむ時 おまへの花、おまへの草は わたしの胸を押し附ける 愛らしい朝風よ! おまへはわたしのこの胸の 燃ゆる渇きをおし鎭める 谷の狹霧《さぎり》の中から愛らしく 夜鶯《うぐひす》はわたしを呼ぶ 行きたい!行きたい! だが何處へ?ああ何處へ? 上へ!上へとのぼりたい 雲は下へと漂うて この焦れる胸へと 下りて來る わたしに!わたしに! ああ、おまへに乘つて のぼりたい! 抱いて抱かれて! 愛する父よ あなたの胸へのぼりたい! 人間の限界 神聖不死の 父なる神が おほどかな御手《みて》もて 走る雲から 惠みの電光《いなづま》を 地の上に蒔き給ふ時 その御衣《みけし》の裾に わたしは接吻する 子供らしい物怯《ものお》ぢを 胸に覺えながら いかなる人間《ひと》か 神々とおのれを 測り得ようぞ たとへ空に飛び上つて 頭《かしら》を星に 觸れようとも あぶない蹠《あなうら》は 蹈むところなく 雲に風に もてあそばれる たとへ堅い骨もて ゆるぐことのない 不變の大地に 立つてゐようとも 樫の樹ほども 葡萄の蔓ほども 高く延びえぬ 身のあはれさ 神々と人間との 差別はいかに? 神々の前には 無窮の河も ただ流れ去るのみだが そのおなじ波が我等を 擡《もた》げ、呑み 沈めてしまふ 小さな圈《わ》が 我等の生を限る さうして多くの人の子は その存在の無限の鎖に ひとりひとりに つながつてゐるのだ 神性 人間は氣高くあれ 慈悲深く善良であれ! ただこの事だけが 我等の知つてゐる すべての物から 人間を區別する 我等の豫感する かの知られざる、より高き 實體はめでたきかな? 人間は彼等に似る 彼の例は我等に教ふ そのものを信ずることを 見よ、自然は 無感覺だ 太陽は惡をも 善をも照らす また月も星も 善人とおなじく 惡人にも照る 風と雨とは 雷と霰とは ざわめき鳴つて 駈け過ぎながら 誰れ彼れとなく ひツつかまへる 運命とてもおなじく 群衆《ひとごみ》の中に 無邪氣な子供の 毬毛《まきげ》を掴み また罪造りした 禿頭《はげ》をも掴む 永遠にして偉大なる 黄銅の法則に從つて 我等すべてのものは 我等の存在の 循環を終へねばならぬ ただ人間のみが 不可能なことをもやる 人間は差別し 選擇し審判する 人間は瞬間に 永遠の光を與ふ ただ人間のみが 惡人を罰し 癒やし、救ひ あらゆる迷ひ、惑へるものを 結び合せて有用なものにする 我等は崇《うやま》ふ 不滅の神を あだかも[注:あたかもの誤り?]彼等もまた人間であつて 最大の人間もただ小事に於てのみ 爲しまたは爲さんと慾することを 大事に於て仕遂げるかのやうに 氣高い心の人間は 慈悲深く善良であれ! 倦まず撓《たゆ》まず 益を求め、義を踏んで かの豫感してゐる實體の 表象となれ! 王者の祈祷 然り、我は世界の主だ我を愛する 我につかへる貴族等は 然り、我は世界の主だ!我を愛する 我の支配する貴族等は おお、大なる神よ!我を護りて 高貴と愛とに誇らしむるな 人間の感情 ああ、汝等神よ!偉大なる神々よ かなたの廣い天にゐますものよ! この地上なる我等に與へたまへ しつかりした心とひるまぬ勇氣とを -- おお、然らば我等は汝等に、善き神々よ 汝等のいと高く廣い天をまかせよう! 愛の惱み 誰がわたしを聞いてくれる?ああ、誰に訴へたらよからう? その聞く人はわたしをあはれと思つてくれるだらうか? ああ、昔あんなにたくさんの喜びを 味ひもし、人に與へもした脣は 裂けて破れていたましくうづいてゐる 愛する人がわたしをあまり烈しく引ツつかまへて この友逹を放しちやならぬといふ氣でもつて ぢつと噛みしめて味つたので この脣は傷いたのではなからうか いや、いま霜や氷をかすめて鋭い風が はげしく無慈悲に吹きつけて來たばつかりに やはらかなこの脣は裂けたのだ かぐはしい葡萄の液《しる》と甘い蜜蜂とが この胸の火で溶かしてまぜられて わたしの惱みを癒やしてくれればよいが ああ、それとても何にならう、もしあの人がその中に あのバルザムの一滴《ひとしづく》をまぜてくれぬなら! 無頓着な女に あの橙《オレンヂ》を見ましたか? あのまだ樹に埀れてゐる橙を はや三月は過ぎてしまひ あたらしい花が咲き出した その樹の下に近づいて わたしが言ふには、橙《オレンヂ》よ よく熟れた橙《オレンヂ》よ 甘い橙《オレンヂ》よ わたしはゆすぶりゆすぶつてみる -- おお、わたしの膝に落ちて來い! 懇願 おお、かはいらしい娘さん 黒い髮した娘さん どうして窓からのぞいてゐるのです? どうして露臺《バルコン》に立つてゐるのです? 何といふこともなく立つておいでになるのですか? おお、あなたがわたしのために立つてゐられるので わたしのために掛金をはづしてくれますなら どんなにわたしは仕合せでせう! どんなにわたしは飛んで駈け上るでせう! 朝の嘆き おお、意地惡な、かはいい娘 どんな罪をわたしが犯したのでせう? こんなにわたしを責め苛《さいな》んで 約束の言葉まで破つてしまふとは 昨夜《ゆうべ》あんなにおまへは親切に わたしの手を握つてやさしく囁いたらう 『ええ、まゐりますわ、明日の朝 あなたのお部屋へ、きつとよ』と そこでわたしは扉《と》を輕く立てかけておいた まづ蝶番《てふつがひ》をよくしらべて見て そのきしらないのを喜んだ 何たる期待の夜は過ぎ去つたか! まんじりともせず時間を數へてをつた もつともほんの束の間眠りはしたが 心は始終醒めてゐた さうしてわたしを微睡から呼醒ました たしかに、わたしは暗を祝福した 靜かに萬象《すべて》を蔽ひかくす暗を 天地に充つる靜寂を喜んで 絶えず靜寂の中に聞耳立ててゐた 何かの音が響いて來はしないかと 『わたしの考へることを考へたなら わたしの感ずることを感じたなら 彼女は朝をも待たないで はやこの時に來るだらうに』 猫が一匹屋根裏を飛び廻つたり 鼠が片隅でことこといはせたり 何とも知れぬ物音の屋内《やない》でする時は いつもわたしは望んだ、これがおまへの足音ならと いつもわたしは思つた、おまへの足音かと かうして長く、長いこと、臥《ね》てゐると はや東の空がしらみ出し あちらこちらでばたばたしだした 『むかふの扉口《とぐち》だらうか?わたしの扉《と》だらうか?』 寢床に肱ついて起き上り 仄かに白んだ扉口をながめやつた もしや今にも開きはしないかと だが二つの翼扉はやつぱりたてかけられて 蝶番《てふつがひ》の上に靜かにたれてゐるばかり もう夜はすつかりあけてしまひ はや隣家《となり》の扉口《とぐち》のがらがら開いて 仕事に出かける音がする やがて車が走り出し 市街《まち》の門も開かれた そらから市場《いちば》の喧騷《ひしめき》も 耳にうるさくなり出した 家の中でも足音が往つたり來たり 階段を下りたり上つたり 時々|扉《と》ががたぴしいひ、踏段がぎしぎしいふ それにわたしは美しい生活からででもあるやうに わたしの希望から別れ得ない たうとう本當に憎い太陽が わたしの窓と壁とにさしこむと わたしは跳び起きて庭園《には》へ駈けつける わたしの渇望に燃えてゐる氣息《いき》で 涼しい朝風をかき亂さうと 多分|庭園《には》でおまへに逢へようと だがおまへの姿は繁つた木立の間にも 高い菩提樹の並木道にも見出せぬ 訪問 今日あの人のところへ忍んで行くと 扉《と》がしまつてゐた けれど衣嚢《かくし》に鍵がある! そつとゆかしい扉《と》をあける! 廣間には娘の影もない 居間にも娘の影はない たうとうそつと寢室《ねべや》の扉《と》をあけると 彼女は本當にかあいらしく寢てうぃつた 着物のままで長椅子に 仕事をしながら寢入つたのだ 編物と針とはやすんでゐた 組まれたやさしい手のなかに わたしは彼女の傍にすわり 起したものかどうかと思案した そして彼女の瞼《まぶた》の上に漂へる 美しい平和を眺め入つた 脣の上には無言の眞實《まこと》があり 頬の上にはかあいらしさがあつた 清い心のあどけなさは おだやかな胸の鼓動《どうき》に見えてゐた 手足はいかにものびのびと横つてゐた 甘い神の香油にとかされたやうに 嬉しくすわつたまま見てゐると その起さうとする慾望はだんだんに 目に見えて紐でしつかりくくられてしまつた 『おお、かはしい子、微睡《ねむり》といふものは とかく嘘いつはりを洩らすものなのに これさへおまへを傷けないのか、友逹の 靜かな心を破る何物をも洩らさぬか? おまへのかはいい眼は閉ぢられてゐる その開かれてゐるだけでもうわたしを迷はした眼は おまへの甘い脣は動かない 話のためにも接吻《きす》のためにも わたしはおまへの腕の この魔の紐はとけてゐる それから樂しい抱擁の助手である 美しき手さきもぢつと動かない わたしの思ひは間違ひだらうか わたしの愛は自己欺瞞《ごまかし》だらうか それを今發見しなけりやならない 愛の神《アモオル》が目かくしもなく傍《わき》へすわつたゆゑ』 長いことわたしはかうしてすわつてゐた 彼女の價値とわたしの愛とを心《しん》から喜んで 彼女の寢姿は本當に氣に入つた とても起す氣なんぞ起らぬぐらゐ そつとわたしは二つの橙《オレンヂ》と 二つの薔薇とを卓《つくゑ》の上におき そつと、そつと忍んで外へ出た 彼女が眼をあけたなら、このかはいいものは すぐこのきれいな贈物に目をつけて ちやんと扉《と》を閉め切つて置いたのに こんな親切な贈物が來てゐるのに驚くだらう 今夜わたしがまた訪ねて行つたらこの天使は おお、どんなにか喜んで二倍に酬いてくれるだらう このわたしのやさしい愛の供物《さゝげもの》に! 夜の思ひ おまへ逹は氣の毒なものだね、不幸な星よ 美しくつて、氣高く輝いてゐて 神々《かみ》にも人間《ひと》にも報いられなくとも 苦んでゐる舟人《ふなのり》に行手を照らしてやるものよ -- おまへ逹は戀をしない、一度も戀を知らなかつた! 無窮の時は遙かな天の果てから果てへ やすむことなくおまへ逹の群れを導いて行く どんな遠い旅路をおまへ逹は辿つて來たのだ! わたしがいとしい人の腕にいだかれて おまへ逹をも夜中をも忘れてゐた間《ひま》に リダに リダよ、おまへの愛するひとりの人を おまへはすつかり自分のものにしたいと言ふ それも無理はない、彼もすつかりおまへのものだ さうだ、おまへと別れて來てからは この慌しい人生の喧騷《にぎはひ》も それをとほしておまへの姿が絶えず 雲間のやうに透けて見える 薄い紗のやうにしか思へない その姿はわたしを眞實《まごころ》こめて照らしてゐる 北極光のちらちらする光線のなかに 不滅の星の輝くやうに 永遠に この世の牢獄《ひとや》にあつて人間が 天國の名をもつて呼ぶ最高の幸福は ゆるぐことのない眞實な愛情だ 疑惑《うたがひ》といふものを知らない友情だ 賢人に孤獨な思索の中でのみ燃える光明だ 詩人に美しい空想の中でのみ燃える光明だ それをわたしはわたしの一番樂しい時間《とき》に 彼女のうちに見出した、そしてわたしのものにした 二つの世界の間にて たつたひとりの女のものとなり たつたひとりの男を崇《うやま》ふことは どんなに心をしつかりさせるだらう! リダよ!一番手近な幸福よ ヰリヤム!一番美しい空の星よ 君たちのお蔭だ、わたしの今日の身は その日その歳はみな消えてしまつたけれど あの時間《とき》にこそ わたしの價値《ねうち》の總量《すべて》はかかつてゐるのだ のぼり來る滿月に(三章)     一八二八年八月二十五日、ドルンブルヒにて おまへは直ぐにわたしを棄てて行つてしまふのか! 今こんなに近くにゐるくせに! 雲がおまへを圍むと見ると もはやおまへの影もない だがおまへはわたしの悲しみをよく知つてゐる 一つの星宿《ほし》として靜かに照らしてくれる! わたしが愛せられてゐることをおまへは告げる 愛する人はたとひどんなに離れてゐようとも さあのぼれ!のぼつて更に鮮かに 清く隈なき光りを放て! わたしの心臟は痛い位に鼓動しようとも 今夜はまことに幸福すぎる ---------------     一八二八年九月、ドルンブルヒにて 谷、山、庭園《には》が夜明け方 霧の面紗《ヴエエル》をぬぐときに 今か今かと待つうちに 色よい花の咲くときに 雲を浮べた大空が あかるい晝と爭ふときに 雲を追ひやる東風が 青い太陽の道をばつくるとき おまへはぢつと眺め入りながら 壯麗な自然の淨《きよ》い胸に感謝する 落ち行く眞紅な太陽が 地平線を金色に染めるときも --------------- 晝間は遠くの青い山が わたしの渇望の眼を惹くとき 夜は數知れぬ星かげが わたしの頭上に燃えるとき 晝と晝とて夜は夜とて わたしは讚へる、人間の運命を 人間は永遠に正しい考へをもち 永遠に美しく偉大ゆゑ! 花婿 眞夜中にわたしは眠つてゐたがその胸に 愛の心は醒めてゐた、晝間のやうに 夜の明けるのが日の暮れたやうな氣持がする 晝が何を齎らさうともわたしには何でもない 彼女と離れて、晝間の暑熱《あつさ》をものとせず 精出して働くのもただ彼女のためばかり だが涼しい夜《ばん》は本當にすがすがしい! もうそれだけで一日の苦勞も酬ゐられる 日は沈むと、ふたりは手に手をとりながら その最後の惠みの眼つきに挨拶した 眼と眼はぢつと見合つて言ふ 東からまたもどつて來るのね!と 眞夜中に!夢の中で星かげは 彼女の寢てゐる部屋に案内する おお、わたしも今に彼處《あすこ》で寢たいものだ どんなに苦しくとも人生は面白い! 眞夜中に 眞夜中に小さな小さな子供のわたしは行つた 行きたくはなかつたけれどあの墓地へ お父さんの牧師の家へ、星かげは 天《そら》一面に大さうきれいに輝いてゐた   眞夜中に その後大きくなつてから愛する人の 姿に惹かれて訪ねて行かずにゐられなかつた 星と北極光とは頭の上で爭つてゐた わたしは往き歸る途中で幸福を味つた   眞夜中に それからつひに滿月の光りがくつきりと わたしの窓からさし込むと わたしの胸は急にいろいろと 過ぎ來し方や行く末を思ひ煩ふた   眞夜中に シルレルの頭蓋骨を眺めて 一日、わたしは陰鬱な納骨堂に足を踏み入れ  頭蓋骨の規則正しく列んでゐるのを眺めて  灰いろになつた古い時代を思出した かつては烈しく憎み合つたものも犇々と立並び  生前生命がけで打ち合つた硬い骸骨も  互に組合せられて永遠におとなしく横つてゐる 曲つた肩胛骨よ!それが何を擔つたかを  もはや問ふ人もない、そして立派な四肢は  手も足も生命の繼目からばらばらになつて了つてゐる 卿等《おんみら》疲れた人々は無益に横はり伏してゐる  墳墓に於ても卿等《おんみら》は安息を許されないで  再び白日の下《もと》に追ひ上げられたのだ 而して何人もこの萎《しな》びた殼を愛するものはない  假令《たとひ》それが如何に壯麗な高貴な中核《なかみ》を含んでゐたらうとも  よく這般の消息に通じてゐるわたしに與へられた文字の その神聖なる意味は何人にも啓示されるものではない  かくの如き凝然たる群衆の間に於て  名状し難く壯麗なる一個の形態を認めたとき この冷濕の氣の漂ふ狹隘な堂の中に於て  わたしは自由と温暖とを感じてともに蘇生の思ひがした  あだかも生の泉が死の中から迸り出たかのやうに いかなる神祕な喜びをわたしは感じたであらう!  一瞥は忽ちわたしをかの海へと移した かの力強い人物の潮《うしほ》を湧き上らせた海へと  神祕なる容噐よ!神託を唱《とな》へつつ  わたしに汝をこの手に取上げる價値があらうか? 汝最高の寶物《たから》を濕氣の中より敬虔に取上げて  自由なる沈思に耽りつつ外氣の中に  日光のもとにうやうやしく搬び出すとするも 人生に於てこれ以上の人間の獲得があらうか  神なる自然の彼に啓示せられることよりは  不滅の力をその精神に注がれるよりは  またその精神の産物をかたく保存せられるよりは! 『若きヱルテルの悲み』の後に 若者はみな愛したがつてゐる 娘たちはみな愛せられたがつてゐる ああ、この我々の最も神聖な本能から なぜ恐ろしい苦痛が湧いて出る? 彼を愛し彼の爲めに泣きたまふやさしい人よ 彼の記念を不面目から救ひたまふ人よ 見よ、彼の靈は地獄から御身に語る 男子であれ、そしてわたしに傚ふなと 豎琴(對話)     男 なんの苦みもないと思つてゐたに なんだか氣が滅入つてしかたがない まるで目隱しでもされてゐるやうで 頭のなかはからツぽだ -- たうとう涙がとめどなく流れ落ち 抑へてしまつた告別《わかれ》の涙が湧き上る -- 彼女はとり亂しもせずに別れて行つたが 今はやつぱりおまへのやうに泣くであらう     女 ああ、あの人は行つてしまつた、仕方がない! 親切なお方、どうぞうつちやつて置いて下さい あなた方には定めし變に見えるでせうが いつまでもこんな風ではございませんわ! 今はあの人がなくては堪へられません それで泣かずにはゐられません ---------------     男 悲しい氣持だといふのでもないけれど わたしは喜びも感じない いろんな樹からむしつて來る 熟した果實《このみ》も何にならう! 晝はまことに厭あであり 夜の燈のつくときも退屈だ わたしに殘つてゐるたつた一つの樂みは おまへのやさしい姿が永遠に新しくなることだ おまへがこの幸福の願ひを知つてくれて その半途《はんみち》をわたしの方へ來てくれたら     女 あなたはわたしが來ないとて、離れてゐては 眞實に思つてをりはしなからうとお悲しみなのね わたしの心はあの肖像のうちにありますものを 虹は青空を飾るぢやありませんか? 雨が降つたら直ぐに新しい虹はかかります お泣きになれば、直ぐにわたしはまゐります     男 さうだ、おまへは本當に虹のやうだ あの愛らしい不思議な虹だ あんなに立派でしなやかで調和があつて いつも新しくいつもかはらない 五月 銀色の雲は輕く浮んでゐる 温かになつたばかりの大空に ものやはらかな光りにとりめぐらされ 太陽はやさしく香《にほひ》の中を照つてゐる 波は輕く捲き上つては打ちよせる ゆたかな岸の胸へまで 洗ひ上げたやうな早緑《さみどり》は ゆらゆらゆらと搖れながら くつきり影をうつしてゐる 空は靜かに、そよとの風もない それに枝の搖れるのはなぜだらう? 溢れんばかりの熱い愛が 樹立から藪を通して行くのだらう さあ、眼が急に輝いた 見よ!翼の生えた子供の群れが まるで朝から生れた子のやうに 矢のやうに迅《はや》く飛んで行く 二人づつ一組になつてあの空を 屋根を葺き出したこの小舍は どんな人のために建てたのだ? 一人前の部屋らしく 椅子も卓《つくゑ》もまんなかに! かうしていぶかしがつて 日の沈むのも知らなかつたのに 今ではいつもその小舍へ 愛する人がわたしを連れて行く! 晝も夜も、なんたる夢! 翌年の春 花壇の草は のびあがる ゆらゆらするまつゆき草は 雪のやうに白い 蕃紅花《サフラン》は芽ぐむ 火のやうに 緑玉《エメラルド》のやうに 血のやうに 櫻草は見榮を張つて すましこみ いたづら好きの菫は 懸命に身を隱す どちらを見ても 生々《いき〜》してゐる 春はゆたかに 動いてゐる けれども庭園《には》でどらよりも きれいに咲いてゐる花は 愛する人の あいらしい心だ その眼はいつも變りなく わたしのために燃えてゐる わたしの歌を呼び出し わたしの言葉を輕くする いつも咲き誇つてゐる 花の胸 眞面目な時は懇ろに 冗談の時は清らかに たとへ薔薇と百合とを 夏が持つて來て 愛する人と競爭しようも 無駄なこと 四月 眼よ、おまへたちの言ひたいことを言へ! おまへたちは本當にかはいいことを言ふ 本當にたのしい聲音《こわね》で言ふ おまへたちも同じ思ひで問ひかける わたしはおまへたちをよく知つてゐる この涼しいはつきりした眼のおくに 愛と眞實に充ちた心がひそんでゐる 今すつかり思ひに暮れながら その心はいい氣持がするに違ひない そんなにものうひ盲《めし》ひた眼の下に たうとう正《まさ》しく尊重出來る 眼附を見つけたその時は この暗號文字の研究に すつかり耽つてゐるうちに わたしの眼の暗號文字を讀むように おまへたちをもさせてしまふ いつでも何處でも 山の洞穴《ほらあな》深く押入れ 空高く雲について行け ミユウズの神は小川と谷とに 繰返し繰返し呼びかける 鮮《あたら》しい花のひらくたび あたらしい歌が生れ出る 時の流れはざわめき去れど 四季はいつでも繰返る ネポムック聖者の逮世     一八二〇年五月十五日、カルルスバッドにて 燈火《あかり》は流れに漂つてゐる 子供たちは橋の上で歌つてゐる 鐘は、小さな鐘は寺院《おてら》から 祈念に恍惚に調子を合せてゐる 燈火は消える、星は消える かくて我等の聖者の靈も解けてしまふ 打ち明けられたいろんな罪業を 聖者の靈は告げはしない 漂へ、燈火《あかり》よ!遊べ、子供たち! 子供も合唱よ、おお歌へ!歌へ! さうして露ほども言ふのぢやない 何が星を星まで連れて行くのかを 相互に どこにすわつてゐるかあのひとは? どうしてあんなに喜んでゐる? 離れてゐてもその人を しつかりだいてゆすぶつてゐる きれいな籠にあのひとは 一羽の小鳥を飼つてゐる さうして外へ出してやる いつでも自分で氣がむくと 小鳥はあのひとの指をつついたり また脣をつついたり 飛んで翔《かけ》つてゆくけれど またその傍へかへつて來る さあおまへも急いで歸るがよい それがこの世のならはしだもの おまへが娘を愛するなら 娘もおまへを愛しよう 泥坊 おれの家《うち》にや扉口《とぐち》がない おれの扉口《とぐち》にや家《うち》がない そしているでも品物《もの》もつて しきりに出たり入つたり おれの臺所《だいどこ》にや竈《かまど》がない おれの竈《かまど》にや臺所《だいどこ》がない 炙つて見たり煮て見たり 一人のためにおれのために おれの寢床にや寢臺がない おれの寢臺にや寢床がない だがおれより樂しく寢る人を ひとりもおれはまだ見ない おれの穴藏は高見にある おれの物置は底にある 上から底までおれのもの -- そこに倒れておれは寢る それから起きるとおれの身は その日もやつぱりおなじこと おれの土地にやすまゐがない おれのすまゐにや土地がない いらいらしさ 絶えず果てなき世界にむかひ 國をへめぐり海ぞひに 限りも知れぬ空想は 岸邊をあちこち往來《ゆきき》する! いつも經驗はあたらしく 心はいつも心配だ 苦痛は青年の食べものだ 涙は幸福の頌歌《ほめうた》だ 『遍歴時代』をもつて 遍歴時代ははじまつた 旅人の歩みは覺束ない 歌ひも祈りもしないけれど 路が疑はしくなり出すと 狹霧の中で嚴しい眼を 自分と、愛人の心に向ける 旅の歌 山から丘へと谷ぞひに 下つて行くと谷路《たにみち》に 鼓翼《はゞた》くやうな足の音 唱歌のやうなひびきかた 心のままに行くときは 喜びもある、途《みち》もある おまへの努力は愛から生れて來い! そしておまへの生活は行爲であれ! もう束縛の紐もきれ 人にたのみもなくなつた もうわたしには定《き》まつてゐる どんな事件にぶツつからうと いまは別れて行かねばならぬ 泣き悲しんでゐる寡婦のやうに いつもあの人この人の 力にたよつて行くよりは! ひとつ處にぢつとすくんでゐちやいけない 元氣よく出かけて行くがよい! 頭も腕も生々《いき〜》と力が籠もつてゐたならば 何處へ行かうと心のままよ 日に照らされて行くときは どんな苦勞も消えてしまふ 我等が氣散じするために 世界はこんなに廣いのだ 移住者の歌 止まつては行き行つては止まり さあこれからしつかりやれ 我々が立派な仕事を營むところ それより貴い土地はない 汝に從ふのはわけもない よく服從してこそ成功はする さあ、しつかりした本國を見せてくれ! 指導者萬歳!國體萬歳! 汝は力に應じて仕事を分け よく考へてことをする 老人には安息と名譽を與へ 若者には仕事と妻とを與へる たのみに思ひたのまれて 小ざつぱりした小舍を建て 庭や屋敷もこしらへて 近所同志は仲よくしよう よくきり開かれた街道《とほり》には 新規な居酒屋のあるるところ 知らぬ人にもたくさんに 田地が分配されるところで 仲よく一緒に住み附かう 急げ、急いで入つて行け しつかりした本國へ! 指導者萬歳!國體萬歳! 支那歳時記(十章)     一 言へ、我々支那官人《マンダリン》に 命令したり命令されたりする代りに こんなうららかな春の日に 北の國を後《あと》にして 南の草場で水邊で 一杯まら一杯、一行また一行と 怡《たの》しく飮んでは、詩を作るより 外に何のいいことがあるだらう?     二 百合のやうに白く綺麗な燭の列 ほのかに搖れる星の火の そのまん中に心《しん》はあかあかと 情《なさけ》の火のやうに燃えてゐる 丁度そのやうに早咲きの水仙は 庭に並んで咲いてゐる こんなに添木をされて誰を待つてるか このいい花は知るかしら     三 牧場を羊は群れて行き 草は青々生えてゐる ここもまもなく樂園《パラダイス》 花がとりどり咲き出せば 希望は我等の眼のまへに 霧のやうに輕い面紗《ヴエエル》をひろげる 願ひはかなツて日の祭は始まり 雲はわかれて我等に幸福を齎らす!     四 いやな聲で孔雀は啼くけれど、その聲は その目のさめるやうな羽根を思ひ出させる だからその聲もわたしは厭《い》やではない 印度鵝鳥はところでさうではない とてもあれは我慢が出來はせぬ 醜い鳥の厭やな聲と來たらたまらない     五 時鳥《ほとゝぎす》だとて夜鶯《うぐひす》だとて 春を惜しむのは變りやせぬ それにはや來た蕁麻《いらぐさ》と 茨《いばら》の夏はどちらにも いとしい姿を人知れず ぬすみ見させてくれてゐた あの樹の輕い葉かげさへ 夏はこんもり茂らせて 屋根も格子戸も門口も すつかり隱してしまつたからは どんなにのぞいて見たかとて いつまでたつても夜は明けぬ     六 夕闇は空から落ちて 近いものもみな遠くなる そこへまづのぼつてくる 夕づつのやさしい光! 萬象はおぼろおぼろにゆらめき去り 霧は空高くのぼつて行く 黒き底なき闇黒《くらやみ》を うつして湖水は鎭まつてゐる 東の空にはいましがた 月の光りがほのめいて 髮に毛のやうな柳の枝は 近く波に戲れかかり ゆらめく葉影にまつはつて 月の光は顫へてゐる 胸やはらげる涼しさは 眼から心へ忍び入る     七 薔薇のさかりがすぎたいま 薔薇の蕾のねうちが知れる たつた一つの遲れ咲き 花の世界をうめあはす     八 むかしの夢は消えてしまひ 今では薔薇と戲れ木立と語る 少女《むすめ》の代りに賢者の代りに どうだ感心なことではないか だから仲間が集まつて來て おまへのまはりを取卷くさ おまへと我々とのためにとて この草場には刷毛と繪具と酒がある     九 この靜かな喜びを妨げようといふのかい? どうぞわたしをかうして杯に向はせておいてくれ 知識を得ることなら他人と一緒に出來ようが 靈感はたつた一人でなくちや得られやしない     十 『さあ!我々が急いで行くまへに 何か爲になることを話してくれますか?』 無駄な思ひはさらりと棄てて、未來のことは氣に留めず その日その場で一生懸命に働くがよい 新希臘の戀歌(十章)     一 めざす方角はたがやせぬ 歩いて行けよ何處までも! どんな闇でも邪魔ものでも わしの歩みを止めやせぬ 明《あか》いすずしい月かげが 行手を照らしてくれるまで いつもいつまでもまつすぐに いとしい人の住家《すみか》まで 河の流れがさへぎれば 舟で渡つて行くつもり さらばやさしい月かげよ! 向ふ岸まで案内をたのむ はやもうむかふにあの小舍が 小舍のランプの火が見える ほんにおまへの玉座には 星をのこらず輝《て》らさせたい     二 いつもいつでも變りなく 花のおもかげ目にちらちらと 何處へ行つてもついて來る かうしてわたしは泣きながら 畠や野原を駈けまはり 何處で訊いても無駄なこと 巖も山も言ひきかす とても忘れは出來まいと 牧場が言ふには、お歸りよ 却つて家《うち》で泣くがよい おまへの悲しい樣子を見ると わしの心さへくらくなる もう今は元氣を出すがよい はやく悟つてしまふがよい 笑ひも涙も樂しみも苦しみも みんな從兄弟《いとこ》同士の間《あひだ》だと     三 どんな邪魔でもおしのけて かがんでおくれ、扁柏《いとすぎ》よ! おまへの頭に接吻《きす》をして この世の苦勞が忘れたい     四 この園藝術をならはうと もはやたのみはしますまい わたしの素馨《そけい》は行つてしまひ 薔薇も歸つちやくれぬゆゑ     五 春が來て、呼びものされた夜鶯《うぐひす》は 耳あたらしい歌でもならつて來たかしらと おもうてきけば、これはまた ふるい馴染の歌ばかり     六 月は御空に照らうとままよ わたしや少しも嫉みやせぬ どんなにあの人を見ようとままよ いやな目つきさへかはさねば     七 はにかみもせずにあいらしく おまへはわたしを呼んだつけ いまそつと傍を通つたら こちらをちよいとでも見てくれますか?     八 指輪をお買ひなさい!早く、御婦人がた! もう商買《あきなひ》もいやになりました その眼、その眉、それがため 賣つてあげましよこの指輪     九 ああ、見上げるばかりの扁柏《いとすぎ》よ わたしの方へかがんでくれよ この祕密をおまへに打明けて それから永遠に默つてゐたい     十 子供の時から好きだつたのに 少女《むすめ》はわたしをはねつけた でも寡婦《ごけ》さんになつた日は 昔馴染のわしのもの [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28 ゲエテ詩集:エピグラム [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- エピグラム     深遠な意味を氣輕に言ふところに     かうした贈物の價値はある 少女の望み ほんとに、ひとりのお婿さまが わたしのためにあつたなら! なんてまあいいことでせう お母さまと呼んで貰へたら それにお仕事をさへしてゐたら 學校へ行かなくつてもいいんだし いろいろ差圖が出來るうへ 女中を叱つてやることも出來 好きな店から 好きな着物は選べるし 舞踏會へは出られるし 自由に散歩も出來るもの お父さまやお母さまに 何一つお訊ねしなくても 叫び     伊太利語から ある日わたしは娘を追ひかけて行つた ふかい森の奧までも さうして彼女の頸を抱くと『あら!』と言つて 彼女はおどした『聲を立てますよ』 そこでわたしは意地になつて叫んだ『いいとも! 二人の邪魔をする奴は殺してやる!』 -- 『しツ』と彼女は囁いた『靜かになさいよ! 誰かがあなたのお聲を聞くといけません!』 長太息 ああ、もつとお金も出來たらう こんなに目的も變らなかつたらう こんなに馬鹿にもならないし、無駄な思ひもなかつたらう またもつともつと幸福《しあはせ》であつたらうに -- この世の中に酒さへなかつたなら 女の涙といふものさへなかつたなら! 思ひ出     男 おまへはまだあの時のことを覺えてゐるか 二人がひとつ心になつたあの時を?     女 わたしがあなたに逢はなかつたら どんなに日が長かつたでせう     男 それからどうだ!二人で出逢つてね 今思ひ出しても嬉しいよ     女 わたし逹がお互に迷ひこんだのね 本當に美しい時でしたのね 白状     甲 このひどい奴、さあ正直に言へよ 君は澤山の失錯《しくじり》を見附けられたらう!     乙 さうさ!だがおれはまたうまくごまかしたよ     甲 どうしてね?     乙     うん、人のするやうにしてさ     甲 どんな風にやり出したんだね?     乙 なに、また新しい失錯《しくじり》をやつたのさ そこで奴等は忘れたのさ 古い失錯《しくじり》を忘れてしまつたのさ 總體 氣に利いたやさしい伊逹者《カヴアリイル》は 何處へ行つても歡迎される 彼はうまい頓智と冗談とで たくさんの女を迷はした だが彼に拳と力とが缺けてゐたならば 一たい誰が彼を保護してくれるだらう? さうして彼に臀部《おしり》がないならば どうしてこの氣高い男はすわられよう? 適合 樽のあるところに葡萄は實る 濡れたところに雨は降る 鳩のところに鳩は飛ぶ 螺旋《らせん》は螺旋止にぴつたりはまる 栓は徳利をたづねてまはり 宿賃はお客の財布をねらふ なんでも動きのあるものは どの道一しよになりたがる 花粉が花粉に出逢ふのも みな神樣のこころざし そこで娘と若い衆は 春が來たとて馴れ染める 厚顏に快活に 戀の惱みをおれの心は嗤《わら》ふ やさしい嘆きを、甘い苦しみを ただきついものだけをおれは知りたい 熟した眼附を、はげしい接吻《きす》を 苦痛のまじつた樂しみから みじめな奴よ、元氣づけ! 少女よ、おまへの爽かな胸に 苦痛は與へるな、ただ樂みだけを 兵士の慰め さうさ!何の不足もあるものか 黒い娘に白い麺麭《ぱん》! ところで明日は他所《よそ》の町 黒い麺麭に白い娘! 天才的衝動 かうしておれは始終《しよつちゆう》ころがし廻る ディオゲネス聖者のやうにこの桶を 眞面目でかと思へばまた冗談で 愛からかと思へばまた憎しみから このためかと思へばまたあのために 目的《あて》があると思へばまた目的《あて》無しに かうしておれは始終《しよつちゆう》ころがし廻る ディオゲネス聖者のやうにこの桶を 會合 かつてある大きな會合から 物靜かな學者が家へ歸つて行つた 『どうでした?』と問はれて答へて曰く 『あれが書物だつたらわたしは讀みますまい』 箴言、逆の箴言 矛盾したことを言つておれを苦しめてくれるな! 人は何か話し出す時にはもう迷ひ出してゐるのだ どうしたところで 君が奴隸に成り下つたとて 誰も氣の毒がるものはなく、ひどい目に出遭ふ だがまた君が皆《みんな》のかしらに立てば それも世間ぢや氣に食はぬ そこで結局君が今の通りの君でゐると 世間は君のことを案外つまらぬ男だなと言ふ 處世術 天氣と長上《めうえ》の機嫌には 決して眉を顰めるな それから美人の氣儘には 決して氣分を損ふな 最善の道 もし君の頭と胸とが混亂するならば どうして今よりましな事が出來ようぞ! 最早愛しなくなり、迷はなくなつたなら その人は墓に埋められてしまふがよい 客の選び方 おれは自家《うち》に來る客の中で 快活な男が一番好きだ 自分自身を座興に投出せないものは たしかによく出來上つた人とはいへぬ 忘れぬ爲めに(二章)     その一 運命に抵抗することは出來る だが打撃はどうしてもやつて來る もし運命の方で避けないならば よし!おまへの方で避けてやれ!     その二 運命に抗てはならない またそれを逃避してもならない! 汝がそれにむかつて行つたなら 運命はやさしく汝を引寄せるだらう 廣くても長くても 謙遜なものは我慢しなけりやならぬ 厚顏なものは苦しまなきやならぬ こんなにどのみち罰を受ける 厚顏だらうと謙遜だらうと 處世法 生き甲斐のある生活をしようと思ふなら 過ぎ去つた事に屈托してはならない 極くつまらない事さへ腹立たしくするから 始終現在を樂んで行くがよい とりわけ何人をも憎んではならない そして未來は神にまかしておけ 墓碑銘 少年《こども》の時は含羞家《はにかみや》で我儘で 青年の時はお洒落で尊大で 中年になると仕事に身が入り 老人になると氣輕で氣まぐれで! -- おまへの墓碑の上にはかう讀める これは眞に一個の人間だつた! 世のならはし わたしが愉快な快活な 若者であつたとき 畫家《ゑかき》に肖像《すがた》を描《か》かせたら なんにもない顏だと言つた その代り美しい娘がたくさんに わたしを眞實に愛してくれた 今ではかうして名譽ある老人になつて 街路《とほり》で逢つた人はみな挨拶する 老フリッツのやうに何處へ行つても 煙草やお茶をすすめてくれる だが美しい娘さんは一人も寄り附かぬ おお青春の夢よ!おお黄金の星よ! 好例 わたしは我慢が出來なくなると 地球の辛抱強さを考へて見る 地球は毎日廻轉するさうな おれだつて我慢の外に何が出來る? おれもこのお母樣の例に傚はる あべこべに 我々の愛するものが不幸に陷つたなら 此上もなく悲しい氣がするだらう わが我々の憎んでゐるものが幸福ならば どうしたことやらわけがわからない 若しこれが反對《あべこべ》ならば大喜びだ こんなに我々は親切者だし意地惡だ [E']galit[e'](同等) 飛び離れて大きいと手の屆かないものと諦めて みな自分と同等なものを嫉むばかり そこでこの世で一番たちのよくない嫉妬家《やきもちやき》は 誰でも自分と同じやうに思ふ人間だ そちがそちならこちもこち 衣嚢《ポケツト》の口をふさいでばつかりゐる男 おまへには誰だつていい事をしちやくれぬ 手はただ手からして洗はれる 取らうと思ふならまづ出すがよい! そのうち何とかなる 何處に直ぐ何でも究めようと思ふものがある! 雪が溶けたらあらはれよう --------------- どんなに骨を折らうと今は駄目! 薔薇なら花が咲くであらう 土間の客曰く 嚴格なお孃さんには聲かけるのも 遠慮をせずにをられない 自墮落ものの美人なら ふざけた氣持で相手が出來る まはりくどい言廻しは 舞臺の上でも大嫌ひ 結局わけのわからぬことを なんで賞めねばならないか? よく筋の通つた輕い身の振りは おれの心を迷はせる いつそ趣味の墮落をした方がよい 退屈をしてしまふより かはいいもの いま逃げるやうに通つて行つた あの娘を君は見たか? あれがおれの花嫁だつたなら! ああ見たよ!あのブロンドの色白の娘だらう! 燕のやうにかはゆく飛ぶね 巣をこしらへる燕のやうに --------------- おまへはわたしのものだよ、かはいい娘《こ》 おまへはわたしのものだよ、きれいな娘《こ》 だがまだ何だかおまへにや缺けてゐる ちやうど鳩が水をすする時のやうに 脣《くち》をとがらせて接吻してくれたなら おまへは一番かはいいものになる 相も變らず 市場を歩いてゆくときに 人ごみに かはいい娘を 見附けると 娘の方でもやつて來る 近よれぬけれど 誰もふたりを見てゐない ふたりの戀を 『おとしより、まだお止めにならぬ氣か? いつも娘、娘と! 若い時分に仲よしだつたその娘は ケエトヘンとかいひましたね それが今でも樂しい氣持をさせますか? はつきり言ひなさい』 まあ見ろ、あの女がおれに挨拶するよ あれは眞理といふ女だ 今日と永遠と 日を日に示すことは不可能だ それはただ紛糾を紛糾に映すだけだ 人はみな自分を無類の正しい人間だと思ふ 自分を鞭《むちう》つ代りに他人を鞭《むちう》つ 精神が絶えず飛翔してゐる時には 脣は默つてゐる方がいい 昨日から今日は來ない、だが時代は 絶えず衰へたり盛んになつたりするであらう 痴者のエピログ たくさんのいい仕事をおれはした 君たちが賞めてくれれば惡い氣はしない この世ではすべてのものがやがてまた うまい工合になるだらうとおれは思ふ おれが馬鹿げた事をした爲めに賞めるなら おれは腹の底から笑つてやる おれが立派な事をしたのに罵るならば おれは全く愉快な氣持で聞いてやる 強い者がおれを痛い程|打《ぶ》つならば おれはそれがほんの冗談だつたやうなふりをする だがそれがおれと同じ位なものの一人なら おれは思ふさま打ちのめしてやる 幸福がおれに笑つて見せればおれは喜んで dulci Jubilo(快哉快哉)を歌ふ その車輪がめぐつておれを轢き倒せば きつとまた引き上げるだらうと考へる! 夏の日かげの下では心配しない やがてまた冬になることを さうして眞白な吹雪がやつて來ると たのしく橇を走らせる 何でも好き放題におれはしたい だが太陽はおれのためにぢつとしてゐない いつも昔どほりの道を行く 長い一生の終るまで 家の主人も下男とともに 毎日出たり入つたり 彼等は互に身分の高下を爭ひながら 寢たり起きたり飮んだり食つたりしてくらす そんなことにおれはついぞ煩されない 痴者のやうにやりたいならおまへ逹は悧巧でなくちやならぬ! ---- ゲエテ詩集了 ---- [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/09/28