底本:ダンテ・アリギエリ (1265-1321)著,中山昌樹 (1886-1944) 譯『ダンテ・神曲』,新生堂。
地獄篇:大正拾三年七月十二日印刷,大正拾三年七月十五日發行。
煉獄篇:昭和八年四月三十日印刷,昭和八年五月四日新版發行。
天國篇:昭和八年四月三十日印刷,昭和八年五月四日新版發行。
神曲の三篇地獄煉獄天國合して百曲一萬四千二百三十三行。その量に於て必ずしも大なりとは云へにが、 その結構の壯大と内容の豐富たるに至つては世界的傑作中に於ても嶄然として頭角を拔いてゐる。 結構より云へば地の奧底より天の窮極まで即ち全宇宙がその舞臺であり、 内容より云へば古典と歴史と哲學と宗教と政治とを渾融包容せる藝術の一大繪卷である。 今少しく具體的に云へば聖書とアリストテレスの哲學と・ルギリウスの詩とトマス・アクヰナスの神學とその他當時の學術智識一切を攝收保藏せる壯美な一大殿堂である。 されば彿蘭西のLamennaisは神曲を稱してpo[e:]me encyclop[e']dique(百科全書的詩)と云つてゐる。 然し神曲の偉大なる所以はこの宇宙的宏大によるのでなしに、 その中に鑄込まれたるダンテその人の深刻なる内的生活と崇高なる型想と熾烈なる熱情に存するのである。 誰かダンテにごとく純潔にして熱烈なる戀愛を完うしたものがあらうか。 誰か彼のごとく華麗莊美なる藝術にまで昂揚したものがあらうか。 誰か彼のごとく徹底せる宗教乃至政治上の理想實現を追究したものがあらうか。 而して只それのみでない。ダンテは人生の苦難、生活の苦味をその殘滓まで甞め盡した第一人である。 彼はグェルフェおよびギベルリニ兩黨まだ黒白兩黨の激烈なる政爭の犧牲となり一三〇二年にフィレンツェ市より追放され、 五十六歳を名殘りとして一三二一年九月ラ・ンナに客死するまで流竄二十年の生涯を送つた。 彼ほどの悲痛な生活をしたものは少ないと云はねばならぬ。 傲岸波のごとき貴族的靈魂を以つてして尚ほ且つ叫んでゐる。 「不當にも落魄の人の屡難ぜられる運命の傷を意ならずも曝露しつゝ私は、 巡禮のごとく殆んど乞食のごとくこの國語(伊太利亞語)の用ゐらるる地を略ぼ遍く行きめぐつた。 げに私は帆なく舵なく慘ましく貧窮より吹く乾ける風のまにまに樣々な港と陸と濱邊に運ばるる船であつた」(「饗宴」一の三)。 眞に彼は「他人の麺麭のいかに鹹く、他人の階の下り上りにいかに辛き徑なるかを閲みし」盡したのであつた(天國篇一七の五八 -- 六〇)。 而して彼は現代人のごとく生活の苦惱を絶叫して同情同感を博し得るやうな幸福な時代に住んではゐなかつた。 武力と權力と貴族の時代にあつた彼は、そして何よりも彼自身の靈魂が傲岸にも貴族的であつたので、 この生活苦鬪は一しほ陰慘なものであつた。しかも彼は遂に屈服し得なかつた政治と權力と榮譽の門の永久に鎖された彼はその靈魂を眞と善と美の永遠の世界に馳せられた。 彼は地獄の懊惱と罪惡を見窮め、煉獄の懺悔と精進を體驗し、遂に天國の光榮と凱旋に到逹した。 而してこの勝利の獲得と共に彼はこの世界を去つて永遠の世界にのぼつた。
ダンテは人類に眞の憎惡を教へる。憎惡すべきものを憎惡し切ることを教へる。またその力を與へる。
彼は神にも神の敵(惡魔)にも味方しなかつた天使逹を憎んでこれを地獄に置く。 彼が地獄にて最初に遇つた亡靈のひとりは、
正義に立ち敢然として戰ふ決意なかりし隋弱な法王であつた。彼は邪淫者を永劫の旋風に
次にダンテは人類に眞の戰鬪を教へる。戰鬪すべきものを戰鬪し切ることを教へる[。]また其力を與へる。
陰慘な地獄を去つて南半球に出づれば朗かな空の東方碧玉の甘美な色が再びダンテの眼に喜悦を新たにした。
朝露に顏を拭ひ渚の葦を謙卑の印として帶び、白衣の天使の船に乘じて煉獄淨罪山の麓に着いた。
靈魂はこゝに自由意志を唯一の力として淨罪の苦鬪を戰ひ徹す。
ダンテは屡運命を論じてゐる。しかし彼は彼の世界觀人生觀を到底こゝに基礎づけることが能きなかつた。
また彼は現實に悲慘なる運命に虐待されたが到底これに屈服し得なんだ。
彼は敢然として自由意志の尊嚴を主張した。「一切にい勝つ意志」を主張した。 彼はまた人類の罪惡に對する「神の恩寵」を信じてはゐた。
然しながら彼は「罪の空虐にする處を、惡しき快樂に逆ひ、正しき刑罰によつて盈たきぬかぎり、
人は永久その尊嚴に復歸するを得ず」(天國篇七の八二 -- 四)と云つてゐる。 而してこの刑罰を充足するは實に自由意志である。
ダンテよりも「自然」の威力をより多く知悉する我等現代人は然く容易に自由意志の絶對性に信頼し得ないが、
しかしダンテのこの意志の尊嚴は我等の精神の最高部分に永久に訴へる。 煉獄の刑罰は地獄のそれに殆んど劣らないほど苦しいものである。
傲慢者は側面の大理石にマリアやダビデの謙讓の模範を刻める臺地を大なる石を背負ひつゝ休みなく辿る。
いづこともなく「心の貧しきものは福なるかな」とのラテン語の聖句が聞える。
嫉妬家は黒衣を纒ひその瞼は堅く縫ひ合はされる。「
眞の憎惡[を]窮め意志の尊嚴を獲得したダンテは愛と正義の勝利と意志の完成とに到逹した。
自分は十年に近き或月を神曲に傾倒した。
そして巨大なる大理石の像を刻む彫琢的[※;一字判讀不能]感と殆んど苦役的勞作とを以つて伊太利亞の原文より此飜譯を完成した。
然し世界的名著の中神曲ほど飜譯に困難なものはない。殊に全然語脈を異にせる日本語の韻文譯のごときは難事中の難事である。
否不可能事である。そこで自分も敢て斯かる無謀の擧を企てず、 只神曲の内容を知らうとする人々のために逐語譯的口語譯を試みた。
目下のところ此は最も賢明な態度であると信ずる。 詩調の妙味に觸れやうとする人々は直接原詩に
Moore博士のTextual Ciriticism of the Divina Commediaによつても分るやうに伊太利亞語原文の校訂そのものが實に複雜極まるものである。 その中に伊太利亞政府によつて精確な校本が出來るとのことであるが今のところムウア博士の校本が最も正確とせられてゐる。 神曲の註解は如何にして詳細ならんかよりも如何にして簡明ならんかゞ問題である。 自分は遺漏なからんことを努めたと共に能ふ限り簡潔ならんことに心を注いだ。 邦譯のうちにては先日出版されし山川丙三郎氏譯地獄篇に用ゐられた譯語及び註解をも參照し、 固有名詞の註解は主としてToynbeeのConcise Dante Dictionaryに據つた。尚は書目、ダンテの傳記、 神曲の梗概を附すことが適當と思つたが、 それは引續き出版さるゝ「神曲總論」乃至「ダンテ評傳」に讓つて茲には一切除いて置く。 固有名詞の邦譯は飜譯に於ける困難の一つであるが、先づ各國固有の發見によるのが最善と思はれる。 然し神曲のうちにある夥しき固有名詞を一々各國固有の發音に從ふは譯す方にも讀む方にも堪へ難い煩累である。 そこで最も多く現はれるのは云ふまでもなく伊太利亞語の固有名詞であるので、 本文の方は全部伊太利亞語讀みに[し]た。 註解の方に於ても此用法に從つたが讀者の便宜のために各國固有の發音を併用した處もある。 本文の上にある數字は原詩に從つて行數を示すものである。 註解中「神學綱要」とあるのはトマス・アクヰナスのSumma Theologicaにして 「エネアの歌」とあるは・ルギリウスのAeneisのことである。
神曲の英譯は三十種hどあつて、その中一般に讀まるるはケリイ譯とロングフェロ譯であるが、 前者は原詩の原形を離れた極めて古い意譯であつて、その地獄篇は一八〇五年に出版され、 神曲全體の譯は一八一二年に出版されたものである。 即ち百餘年前の飜譯であるので今日の原文批評より見れば時代遲れで不完全の點多く語譯も少くない。 この點より見てロングフ[ェ]ロの譯は秀れたものであるが尚ほ不完全の點が多い。 目下の所英譯ではNortonの譯が最も精確である。 獨逸譯の中ではストゥレックフスの韻文譯が有名であるがこれは獨逸譯としてゞあつて、 正確なるは寧ろフィラレテス譯又は・ッテ譯である。ノアトン譯は精緻な逐語譯にして自分の發見した限りに於ては二三の脱字のほか全然原詩をそのまゝ英語に移したものであつた。 伊太利亞語原詩を讀まんとする者には實[際?]貴重な助けである。
終りに臨み多くの參考書を貸與し懇切なる誘導を與へられし在大阪大賀壽吉氏に對して厚き感謝の意を表す。
一九一六年十二月二十二日
ダンテの偉大は歴史の進展とともに増大しゆくとは、ダンテを識るものゝ凡て認めるところであるが、 殊に人類の生活が激動混亂の状態にあるとき文明救濟者としてのダンテの威力がいよ〜發揮せられるのを覺える。 世界大戰亂の後歐洲諸國民におけるダンテに對する渇仰は實に顯著なものがある。 世界平和と人類の秩序と統一とを畢生の心願としたダンテは、現時の惑亂せる諸國民に對して、 必然に彼らの靈感者、指導者、救濟者として現出する。 今日世界諸國民のうち最も悲慘なる状態に陷つてゐる獨逸國民はその復興の力の靈感と源泉とをダンテにおいて見出さうとしてゐると聞く。
只に政治上のことのみでなく、思想界に、宗教界に、藝術上に、また一般文化において、 われ〜は全く「牧ふ者なき羊群」の状態に置かれてゐる。 この時にあたり能くわれ〜をして人流の生活の目指しゆくべき正しい標的を指示し、 これに向つて雄往邁進する勇氣と靈感とを與へてくれる第一人者はわがダンテであらう、 彼は眞の國際正義をわれ〜に靈感する。彼は眞の宗教をわれ〜に啓示する。 彼はまた眞の藝術をわれ〜に具現してくれる。文明はたゞ彼によつてのみその俗惡と頽廢とより救濟される。
神曲の本譯書が大正六年に始めて出版せられてより茲に滿八年以上を經過し、 その間に地獄、煉獄、天國の各篇がそれ〜゛數版を重ね、更に大正十一年には三篇を合して一册一千頁の書として出版された。 果して幾千の程度の理解をもつて讀まれたかは別として、世界最高級の、 同時に最難解の作品である神曲の邦譯が、兎に角これだけの讀者を見出したことは、 日本に交化[文化の誤り?]のために慶賀していゝことゝ思ふ。これらの實状に照らして見て自分は、 神曲および「新生」のほかに、ダンテの作品全部を譯出する勇氣を得、またその出版の見込みも立つたので、 遠からずダンテ全集の完成を見ることができるであらう。
尚ほ神曲の本譯書は茲一年餘、或る餘義なき事情のもとに絶版同樣になつており、 そのうちに昨秋の震火災のために紙型を燒失してしまつたが、いま版を改め出版書肆も改め、 地獄、煉獄、天國の三篇に分册して再び世に出づることゝなつた。 引續き「詩聖ダンテ」および「ダンテ神曲の研究」が刊行される筈であるが、一讀せらるれば、 神曵を理解するうへに利益があらうと信ずる。
一九一四年六月
地獄は地殼より地心に亙る一大漏斗状の坑なり。 怯懦者の罸せらるる地獄圈外を過ぎて本地獄に入れば環状を成す斷層階段をなし、
此の底を加へて都合九個の環となる。ディテ城壁の上の五環には放縱罪罸せられ、
下の四環には邪惡罪罸せらる。この中第七環は更に三圓に、第八環は
人生の旅路なかばに[1]
正しき道をうしなひ、わが身の
暗き林のうちにゐるのを見た。
あゝ荒れすさみ分け入りがたき
この林の状 を語るはいかに難きことよ。
おもふだに恐れが新たになり
苦しきこと死もこれに優るまじ。
然し彼處 にてうけし惠みを説くため
彼處にて私の見たことを語る。
10 いかに彼處[2]に入つたか良く述べ得ない。
眞 の道[3] を棄てたその瞬間
私は眠りに充ち滿ちてゐた。
しかし恐れにわが心を
貫きし谷[4]のつきるところ
一の小山[5]の麓にいたつて
仰ぎのぞみ、既にその肩の
人をいかなる徑にも正しく導く
遊星[6]の光線を纒ひをるを見た。
その説きわが心の湖にやどり
20 いと慘 ましく夜を過させた恐れが
少しく鎭められた。
かくて呼吸 もくるしく海より
濱邊に出た人[7]の振りかへつて
危ふかりし水を睨 めるやうに
尚も逃げゆくわが心は
嘗て人の活きて去りしことなき
逕[8]を眺めんとして後 にむいた。
疲れし體を少しやすめた後
ふたゝび道を荒れはてし山腹にたどり
30 かくて絶えず低き足を踏みしめた[9]。
すると見よ、崖の始まらうとする處に
斑紋 な皮に覆はれた一疋の
輕くしていと迅き牝豹[10]がゐた。
かれわが顏のまへより去らず
却つてわが路を遮つたので
幾度も身を囘 して私は歸らうとした。
説きは朝のはじめであり
太陽はまた諸の星[11]、即ち神の愛[12]に
初めて動かされたとき共にゐたところの
40 美しきものら[13]を伴ふて登つてゐた。
そこで時の刻 と快き季節とが
この華やかな皮の獸にむかひ
よき望み[14]を私に起こさせはしたが
現はれいでし一疋の獅子の姿にむかひ
私を恐れざらしむるには足らなかつた。
彼は頭を高くして飢えかつへ
私にむかひ來るものゝごとく
空氣もこれを怖るよと見えた。
またその羸痩 に一切の慾を
50 荷なふよと見えた一疋の牝狼が現はれた。
かれは既に多くの民の生涯を慘ましきものにした。
その姿よりいでし恐れにより
かれはいたく壓したので
高きにいたる望を私は失ふた。
欣然として獲るも時いたつて
これを失ひ、思をつくして
泣き悲しむ人がある。
平和なき獸は私をかくならしめ
私にむかひ來て徐ろに私を
60 太陽の默する[15]ところへ押しかへした。
低き處へと私が落下してゐた間に
長き沈默のために微 んだ[16]と見えるものが
わが眼のまへにあらはれた。
大なる荒野にて彼を見たとき
「影か眞の人間か、いづれにもあれ
汝私を憐め」と私は彼に叫んだ。
彼は私に答へた「人間でない、嘗ては
人間であつた。わが兩[親]はロムバルディア人[17]にして
祖國をいへば共にマニト・[18]人であつた
70俺 は遲くであつたが[19]sub Iulioに生れ
虚妄欺瞞の神々の時代にあたり
善きアウグスト[20]のもとに羅馬に住んだ。
俺 は詩人にして傲 れるイリオン[21]の燒けた後
トゥロイアより來たアンキエゼの
義しき子のことを歌つた[22]。
しかし汝は何ゆゑにかくも大なる惱みに
歸るのか。何ゆゑに一切の歡喜の始にして
原 なる喜悦の山にのぼらないのか」。
私は羞らう頬をもつて彼に答へた
80 「されば汝は・ルヂリオにして、言葉の
いとも廣き流を注ぎいだせる泉であるか。
おゝ諸の詩人の譽また光よ
汝の卷物を探らしめし
わが長き研鑽と大なる愛とは徒らならざれ。
汝はわが師にしてまた典據である。
私に譽をあたへた美しき文體は[23]
たゞ汝より汲んだものである。
獸を見よ、これがために私は身を囘 した。
名高き賢者よ、かれより私を扶けよ
90 彼はわが血脈をも脈搏をも顫はす」。
私の泣くのを見て彼は答へた
「この荒れし處より逃れたくば
ほかの道を汝は探らねばならぬ[24]。
けだし汝を叫ばしめるこの獸は
おのが途を人に通らさず
殺してまでもこれを遮ぎる。
またその性極めて兇惡にsいて
飽くなき慾は盈たさるることなく
糧 ののちは前よりも飢える。
100 これと婚する獸はおほく[25]
また獵犬[26]の來てこれを憂ひのうちに
死なしめるあんで、尚ほ數が多からう。
この獵犬の糧は土や錫蝋にあらず
智と愛と徳にして、その國は
フェルトゥロとフェルトゥロの間であらう[27]。
處女カムミルラ[28]、エウリアロとトゥルノ
またニソ[29]が傷をうけ身を殉ぜし
低き伊太利亞[30]の彼は救濟となるであらう。
彼はあらゆる邑々をめぐつて狼を逐ひ
110 初め嫉妬のために[31]その出て來たところ
即ち地獄へ遂にこれを返すであらう。
されば汝の俺に從ふことが汝のため
最も善しと俺は思ひ識るので俺は汝の
導者となつて、ここより永劫の處[32]へつれてゆかう。
そこにて汝は絶望の悲鳴を聞き
おの〜第二の死を叫ぶ[33]
古 のなやめる靈どもを見るであらう。
その後汝は火中に安んじをるものらを
見るであらう、これ何日 かは祝福 れし民に
120 至る望が彼等にあるからである[34]。
汝やがて彼等のもとに登りたくば
その爲俺よりも尊い魂[35]があるであらう。
俺が分れる際に汝をこれに委ねやう。
けだし天上を治めたまふ皇帝が
俺がその掟に逆つたので[36]
俺に導かれてその都に來るを許し給はぬ。
彼は凡ての處に帝 たるも彼處 に統 べるたまふ。
かしこにその都ありまた高き御座 あり。
おゝ擇ばれて彼處に入るものは福かな」。
130 そこで私は彼に「詩人よ、汝の識らざりし
神によつて汝に私はねがふ
この禍と更に大なる禍[37]を免れんため
今汝のつげし處に私を導き
かくて聖彼得 の門[38]および汝の云へる
いたく惱めるものらを見せしめよ。」
そこで彼は進み、私はその後を追ふた。
ダンテ三十五歳にして暗き林に迷ひ、朝日に輝く小山に登らんとせしも豹獅子狼に遮られて、 林に歸る時・ルヂリオ現れて地獄煉獄天國三界の遍歴を勸め、自ら導者となりて先づ地獄に降る。
日はゆき[1]、うす暗き空氣は
地にある生物をその疲勞より
釋 いた。私はたゞひとり
かく路と哀憐[2]との戰ひを
支へんと備へした。
誤らざる記憶がこれを寫すであらう。
おゝムウゼ[3]よ、おゝ高き才よ、今我を扶けよ。
おゝわが見しものを刻める記憶よ
こゝに汝の貴さあらはるべし。
10 私は始めた「私を導く詩人よ
峻しき路に私を委ねるまへに
わが力の能く堪へうるやを見よ。
シル・オの親[4]が尚ほ朽つべき身ながらに
朽ちざる世につき、感覺の體のまゝ
かしこにゐたと汝はいふ[5]。
しかし彼より出づべかりし偉業と
その誰[6]たり何[7]たるかをおもへば
一切の惡の敵[8]あ彼に慇懃であつたとしても
智者にとつては不當と見えない。
20 けだし彼は清火天[9]にて尊き羅馬
及びその帝國の父に擇ばれた。
彼も此も(眞を語れば)
更に大なる彼得 [10]の後繼者の坐する
聖處として定められた[11]。
この行 により(此によつて汝は彼に誇あらしめる)
彼はその勝利と法王の外套 の
起原 となりし諸のことを聽いた[12]。
その後選ばれし噐[13]が救ひの道の
始めなり信仰に勵ましを
30 齎らすために彼處 に行つた[14]。
然し私は何故に彼處に行き又誰が此を許すのか。
私はエネア[15]でない、私は保羅 でない。
私が此事に堪へることは私も人も信じない。
さればもし身を投じて行くとすれば
行くことの狂暴ならんことを恐れる。
汝は賢い、わが語らざることを汝は悟る」。
意 ひ立ちしことを斷念し
新しい考へに志を變へて遂に
始めたばかりに全く退く人があるが
40 暗き山邊にて私はさうであつた。
即ち思ひめぐらしつゝ私は始まりの
斯く粗忽であつた企てを廢めた。
豁逹なるものゝ影[16]が答へた
「汝の言葉を聽いて俺が誤らぬとすれば
汝の魂は怯懦にそこなはれてゐる。
これは屡人をさまたげ
あらぬものを見て怯 える獸のやうに
尊き企てより身を囘 へしめる。
この恐れより汝を解かんため
50 何ゆゑ俺 が着たか、また何事を聽いて
始めて汝のために憂ひたかを語らう。
俺 は懸埀者[17]おあひだにゐたが
尊き美しい貴女[18]が私を呼んだので
即ち彼女の命令を私は乞ふた。
その雙眼は星よりも輝いてゐた。
言葉親しく、天使の聲にて
柔かく優しく私に語り始めた
『おゝ慇懃なるマント・の魂よ
その名聲の尚も世にのこり
60 また運行[19]お續かん限り殘るものよ
わが友にして幸福の友ならざる者が
荒れ果てし山腹の路を遮られ
恐れて歸つて來た。
彼につき天にて聞いたことにより
妾 は既に彼が深く迷ひ、彼を救はんとして
妾の起つたことの遲くなかつたかを恐れる。
いざ行き、汝の飾美しき詞 と
また凡て彼の救ひに要するものを以て
彼を扶け、かくて妾を慰めよ。
70 汝を行かしめる妾 はベアトゥリチェである[20]。
妾はわが歸らうと願ふ處から來た。
愛[21]が妾を動かし、妾に語らしめる。
わが主のみまへにあらん時
屡汝のことを彼に妾は讚めやう。』
かくて彼女は默した、そこで私は始めた
『おゝ徳[22]の貴女よ、最小の環を有する
天[23]に包まる一切のものに人類の
優さるはたゞ汝による。
汝の命令は俺 にいと嬉しく
80 既に服したとても遲しとおもふ。
この上汝の意 を披 くにおよばず。
たゞ汝の歸らうと熱望する
廣き處[24]より、この中心へ降ることを
何とも思はなかつた譯を俺 に告げよ』。
彼女は俺に答へた『汝かく内より物を
知らうと願ふゆゑ、何ゆゑ恐れず此處に
妾が來たかを短く汝に告げよう。
恐るべきはたゞ人に禍を
做す力あるものであつて、他にはない。
90 これ恐れるべきものでないからである。
神の惠みにより、汝等の患みも
妾に觸れず、この灼熱の焔も
身を襲はぬやうに妾はつくられた[25]。
優しき貴女[26]が天にゐて、わが汝を
遣して除かうとする障碍を哭き
かくて天上の嚴しき審判を破る。
彼女はルチア[27]を呼び、親しく乞うて
云つた「汝の忠信なるものが今
汝を要する。されば我彼を汝に薦む」と。
100 すべて酷きものゝ敵なるルチアは
動き、妾が古 のラケレ[28]とともに
坐してゐた處に來て云つた
「ベアトゥリチェ、神の眞 の讚美よ[29]
汝をかくまで愛し、汝ゆゑに俗衆より
出て來たものを何とて汝は救はないのか。
彼の慘ましき嘆きを汝は聞かないのか。
氾濫して海も誇りを失ふところに[30]
彼を撃つ死を汝は見ないのか」と。
世の人の利に馳せ害を避くること
110 迅しと雖も、これらの言葉を
聞いて後妾が、汝および此を聞きゝ[注:ゝは不用か?]し者に
譽れあらしめる汝の眞摯な言葉を
頼みとして、わが祝福 まれし座より
こゝに降り來た迅さには及ぶべくもない』。
かく俺に語つて後彼女は
涙ながらに輝く眼をめぐらし
かくて俺を一入迅く來たらしめた。
俺はかく彼女の意 によつて來た。
美しき山の近道を奪へる
120 かの野獸[31]の前より汝を救ふた。
然るに何事ぞ、何故に、何故に止まり
何故に斯かる卑屈を心に宿すのか。
かく三人の祝福 まれし貴女逹[32]が
天の宮居 にて汝のことを慮り
又わが言葉が斯くも大切なる幸福を約束するのに
何故に汝は勇なく信なきか」。
宛ら夜の寒さにうなだれて閉づる花が
太陽のこれを白 むるころ
みな眞直 になつてその莖の上に開くごとく
130 わが弱りし力もいきかへり
またいと強き勇氣がわが心に馳せたので
解かれた人のやうに私は始めた
「おゝ私を救ひし彼女[33]は憐み深きかな
また彼女の傳へし眞 の言葉に
速かに從ひし汝は慇懃なるかな。
汝の言葉によつて、かく行く願ひを
わがこゝろに起こさしめ
私は初めの志にかへつた。
さらば行け、ふたりにたゞ一つの意思あり。
140 汝導者よ、汝主よ、汝師よ」。
かく彼に云ひ、やがて彼が進んだ時
私は峻しく荒れた路に入り込んだ。
ダンテ地獄遍歴に對する自己の力を疑ふ。 ベアトゥリチェの意をうけて彼を救ひに來りし由を告げて・ルヂリオ彼を勵ます。 ダンテ即ち一切の恐怖を去つて愈地獄へ向ふ。
「我を過ぎて憂愁の都へ
我を過ぎて永劫の憂苦へ
我を過ぎて亡滅の民のうちへ
正義わが高き造主 を動かし[1]
神の力、至高の智慧
また本原の愛我を造れり[2]
永劫のもの[3] ゝほか我より前に
造られしものなく、我は又永劫に續く。
一切の希望を棄てよ、汝等こゝに入る者」。
10 暗き色のこれらの言葉が
一の門の頂に録されてあるを私は見た。
そこで私は「師よ、此等の言葉は私には解し難い」。
すると彼は物慣れた人のやうに私に
「こゝに一切の疑惧 を棄てねばならぬ。
一切の怯懦がこゝに死なねばならぬ。
智性の功徳[4]を失へる憂ひの民を
見るだらうと俺が汝に
告げた[5]ところに我等は來た」。
かくして嬉しげな顏をし、その手を
20 わが手に置いて私を勵まし
祕密の物象裡へと私を入れた。
こゝに怨嗟、悲嘆また高き咆哮が
星なき空に反響してゐたので
私は初めに涙を流した[6]。
異樣の國語、怕しき言語
憂ひの言葉、忿怒の語調
高きまた微かな聲々、また手の響きが
これに合して擾亂し、旋風吹く時の[7]
砂のごとく、たえず永久 に
30黜 づむ空をめぐつてゐた。
そこで私は怕れ[8]に頭を緊 られて
云つた「師よ、私の聞くのは何か。
又憂にかく負けると見えるのは何の民か」。
すると彼は私に「汚名もなく譽 もなく
世を送つたものらの悲しい魂が[9]
この慘めな状をつゞける。
神に逆ひしにもあらず、また
忠なりしにもあらず、只己のことを圖りし
天使の卑しい一團[10]が彼等に混つてゐる。
40 天は美を減ぜざらんため彼等を逐ひ
深き地獄は罪人等のこれによつて
誇ることなきやう、彼等を受けない[11]」。
そこで私は「師よ、何が苦しいので
彼等は斯く烈しく嘆くのか」。
彼は答へた「極めて短く汝に語る。
これらのものには死[12]の望みがない。
またその盲目の生涯[13]はいと卑しく
他の運命をすべて彼等は嫉む[14]。
世は彼等の名聲の存在をゆるさず
50憐憫 も正義も[15]彼等を蔑 ずむ。
我等も彼等のことを語らず、只觀て汝過ぎよ」。
眺めてゐた私は一の旗を見たが
飜つていと迅く馳せ
少しの休みだに蔑 ずむやうに見えた[16]。
またその後 に民の長い行列が來たが
死が斯く多くの人々をそこなふたとは
甞て私は思はなかつた。
識れる者を幾人かその中に認めた後
私は怯懦のゆゑに大なる拒絶を
60 なした者[17]の影を見て識つた。
直ちに私は、これが神にも神の敵にも
喜ばれない卑劣者の
一族であることを悟つてうなづいた。
甞て生き[て?]ゐたことのない[18]此等の
あさましき者等は裸で、そこにゐた蝱や
大黄蜂に甚だしく刺されてゐた。
彼等の顏に血に條 をひき
涙にまじる血を嫌らしい蟲が
その足もとにあつめてゐた。
70 また身を伸ばして尚も前を眺め
一の大なる河[19]の堤に民を見たので
私は云つた「師よ、彼等が誰であるか
また微かな光をすかして識 るに
彼等が渡らうと急ぐやうに見えるは
何の慣ひによるのか今願くは私に知らせよ」。
すると彼は私に「アケロンテの
悲しき岸邊にわれらの足を止める時
これらのことが汝の瞭 かにならう」。
その時私は耻ぢて眼を埀れ
80 わが言葉の彼を煩はすを恐れて
河に至るまで語ることを控えた。
時に見よ、年を經し髮にて白き
ひとりの老人が[20]、船にて我等の方に來て
叫んだ「禍なる哉、汝等邪惡の魂よ
天を見やうなどゝは望むな。
俺は彼方の堤、永劫の闇の中、熱の中
氷のうちに汝等をつれてゆくために來た。
またそこにゐる汝活ける魂よ
死するこれらの者より去れ」。
90 しかし私の去らなかつたの[を?]見て彼は
云つた「他の道より、他の港より
汝は岸に來たれ、こゝは渡るべきでない。
尚ほ輕き船が汝を運ばねばならぬ[21]」。
そこで導者は彼に「カロンテよ怒る勿れ。
意 ふたことを凡て爲す力ある處にて
かく意 ひ定められたのだ[22]。この上問ふ勿れ」。
すると眼にまはりに焔の輪ある
鉛色の沼の渡守の
毛深い頬がしづまつた。
100 しかし疲れて裸であつた魂どもは
酷き言葉を聞くや直ちに
色を變へて齒をうちあわせた。
神とおのが兩親と人類と
また彼等が蒔かれた彼等が生れた處と
時と種[23]とを瀆 した。
かくて彼等は皆烈しく泣きながら
すべて神を畏れない人を待つ
禍の堤に寄せ集まつた。
鬼カロンテば燠火 の眼をもつて
110 相圖により彼等を悉く集め
おくれるものを[24]櫂にて打つ。
秋に一葉また一葉散つて
遂に枝がその衣を悉く
地にをさめるやうに[25]
アダモの惡しき裔 は[26]
宛ら呼び返へされる[27]鳥のやうに
相圖によつて一人づゝ岸より投じた。
かくて彼等は薄暗い波を越えてゆき
まだ彼方に下りないまへに
120 既に此方には新しい群が集まる。
慇懃の師が云つた「わが子よ
神の怒のうちに死するものが
各地より皆こゝに集まり來る。
また彼等が河を渡らうと急ぐのは
神の正義がこれを拍 つて
恐怖を願望に變へるからである[28]。
善き魂はこゝを渡ることがない。
さればカロンテ[よ?]汝に對して囁 くも
今よく汝はその言葉の意味を識るであらう」。
130 これが終るや薄暗い曠野が
いと烈しく震ひ、その驚愕の記憶は
今なほ私を汗に浴びしめる。
涙の地は風をおこし
風は朱の光をひらめかして
わが感覺を悉く壓した。
そこで眠が捉ふ人のやうに私は倒れた。
地獄の門を過ぎて汚名も譽もなしに活きし亡靈の一群に遇ひ、 進んでアケロンテに至り、亡靈を船にて運ぶ渡守カロンテを見る。 やがて薄暗き曠野震動して、朱の光閃き、ダンテ卒倒す。
烈しき雷鳴[1]が頭のうちの
熟睡を破つたので、私はゆすり
おこされた人のやうに立ちあがり
ますぐに起きて憇ふた目を
めぐり動かし、私のゐた處を
識らうとして眴 めた。
げに私は無數の咆哮の雷鳴を
集める憂ひの深淵の
縁にゐたのであつた[2]。
10 暗く、深く、また曇つてゐて
眼を底に注いだが
何ものをもそこに私は認めなかつた。
全く死人のやうになつて詩人が始めた
「いざ我等盲目の世界[3]に降らしめよ
俺は第一たり、汝は第二たれ」。
私はこの色をさとつて云つた
「常にわが惑ひの勵ましであつた汝が
怖れるとすれば、私はいかにゆくべきぞ」。
すると彼は私に「この下にゐる民[4]の
20 苦しみが憐憫 をわが顏に彩るを
汝は恐れであると解する。
長途われらを促すゆゑ進むゆかう」。
かくて彼は立ち、かくて深淵をめぐる
第一の環[5]に私を入らしめた。
耳をそばだてば、こゝには
永劫の空を震はす
怨嗟のほかに悲嘆がなかつた[6]。
これは幼兒と女と男の
多く大なる群集の受けをる
30 苛責なき患みより來たものであつた。
善き師は私に「汝の見るこれらの
靈が何であるかを汝は訊ねない。
尚ほ進みゆかぬ前に今汝に知らしたい。
即ち彼等は罪を犯さなかつた。然し彼等に
功徳があつても、汝の信ずる信仰の
一部分[7]なる洗禮をうけなかつたので[8]充分でない。
また基督教以前の者であれば
正當に神を拜まなかつたものである[9]。
俺自身が斯かる人々のひとりである。
40 他の罪でなく、この過 のために
われらは滅びたので、受ける害も
たゞ希望なく願望のうちに活きることである[10]」。
彼に聽いてゐる尊き民が
この邊疆 に懸つてゐた[11]ことを識り
大なる憂ひがわが心を捉へた。
一切の迷ひに勝つ信仰[12]を
堅うしようとして私は始めた
「語れ、わが師よ、告げよ、主よ
おのが功徳により又は人の功徳により
50 こゝを出て遂に祝福 をうけたるものがあるか」。
わが隱語 さとつた彼は
答へた「俺がこの状になつて間もなく[13]
勝利の標徴 を冠として
ひとりの『力ある者[14]』のこゝに來るを見た。
彼は最初の親[15]の魂、その子アベレの魂
またノエ[16]の魂、立法者にして
從順なモイゼ[17]の魂、族長アブラアムと
王ダ・デ、イズラエレ[18]とその父[19]
その子[20]等、および彼が大いに盡せし
ラケレ[21]、その他多くのものゝ魂を
こゝより引き出し祝福 をあたへた。
然し彼等の前には人の靈の
救はれたことがないと汝知れ」。
彼語る我等は歩みをゆるめず
林即ちむらがる靈の林を
たえず過ぎて行つた。
わが眠りそ處[22]より此方、われらの道を
ゆくこと未だ久しからずして、暗の半球を
征服する一の火[23]を私は見た。
70 我等はなほそれより少し距つてゐたが
この處の一部分を領する尊き民[24]を
私が認め得ないほどではなかつた。
「おゝ汝、學藝に譽れあらしめるものよ
他と樣を異にして[25]
かく崇められをるは誰か」。
彼は私に「汝の世界に響く
彼等の崇められる名が恩寵を
天に獲て、かく彼等は擢 んぜられる」。
この時聲[26]が私に聞えた
80 「いと高き詩人をあがめよ
去りにし彼の魂が歸つた」と。
聲がやんで靜まつたとき私は四つの
偉大なる影が我等の方に來るを見た。
その姿には悲哀も喜悦もなかつた。
善き師は語り始めた
「劍を手にして[27]宛ら王者のごとく
三人のものゝ前に來る者を見よ。
彼は詩人の王なるオメロ[28]である。
次に來るのは諷刺家オラツィオ[29]である。
第三はオ・ディオ[30]、最後はルカノである[31]。
一の聲[32]の響かした名は俺と同じく
彼等皆の得たものであるゆゑ
彼等は俺を崇める、又然するは宣い」。
かく他のものゝ上に鷲のごとく
翔けるいと高き歌の王[33]の
美しい一派の集まるのを私は見た。
暫くともに語らつた後彼等は
私に向つて挨拶の印をした。
これを見て師は微笑した。
100 更に彼等は私をその群に加へて
尚も大なる譽 を私にあたへたので
私はこの大智の第六人となつた[34]。
かく 我等は、この處にては語るべく
今は宜しく默すべきことどもを
語らひつゝ光の處[35]まで行つた。
一の貴き城[36]の麓に我等は來た。
これは高き城壁にて七重にかこまれ
周圍 は一の美しい流に固められる。
これを堅き地のやうに我等は渡り
110 賢者逹とともに七つの門に入り
鮮緑の野原に着いた。
こゝに眼ゆるやかにして重く
その姿に大なる權威を帶び
語ること稀に、聲柔しき民がゐた。
そこで我等は一方の廣く明るい
高いところに身を寄せて
凡てのものを悉く見ることが能 きた。
眞向ひの彼方 、緑の[さんずい|幼]藥 の[37]上に
偉大なる諸靈が見えた。
120 彼等を見たことが今尚わが心を高める。
エレットゥラ[38]とその多くの伴侶 を私は見た。
その中にエットレ[39]とエネア[40]、武裝せる
大鷹の眼のチェザレ[41]を私は認めた。
他の方にカムミルラ[42]とペンテシレアを[43]
私は見た。またおのが娘ラ・ナと
共に坐せる王ラティノ[44]を私は見た。
ラルクヰノを逐ふたプルト[45]、またルクレツィア[46]
ジウリア[47]、マルツィア[48]とコルニリア[49]を私は見た。
またひとり離れてサラディノ[50]を私は見た。
130 尚ほ少しく眉をあげて私は
智者の師[51]が哲人の一族のうちに
坐してゐたのを見た。萬人彼を眺め、萬人彼を崇める。
衆に先き立つて彼にいと近く
ソクラテ[52]とプラトネ[53]をこゝに私は見た。
世界を偶然に歸するデモクリト[54]、また
ディオヂュネ[55]、アナッサゴラ[56]とタレテ[57]
エムペドクレ[58]、エラクリト[59]とツェノネ[60]。
また善く特性を蒐めたもの即ち
140 ディオスコリデ[61]を見た。またオルフィオ[62]
トゥルリオ[63]とリノ[64]と道徳のセネカ[65]
幾何學者エウクレデ[66]とトロムメオ[67]
イッポクラテ[68]、ア・チェンナ[69]、ガリエノ[70]
大なる註解を作つたア・ルロイ[71]を見た。
凡てのものを述べ盡しえない。
即ち題材長うして私を驅り
屡事に言葉を添はざらしめる。
六人の伴侶 が二人[72]に減つた。
賢き導者は他の道により私を
150 靜かな空より震へる空[73]へ導き
私は輝くものなき處に來た。
ダンテ醒めて地獄の第一環に至り、基督を知らず洗禮を受けずして世を去りし男女小兒の怨嗟を聞く。 またこゝに古の王者武人哲人詩人女丈夫を見、去つて第二環に向かふ。
かくて第一環より第二環に
降れば、圍む處は減つたが[1]
患みは優し、刺して咆哮となる。
こゝにミノスが怕ろしく[2]立つて唸り
入口[3]に罪を調べて
審判 き、身を卷いて送る。
即ち不幸に生まれた[4]魂が
その前に來るや一切を告白し
罪を判ずるものは
10 地獄の何處がこれに當るべきかを見
送り込まうとおもふ段に準じて
身を幾度も尾にて卷く[5]。
たえず彼の前に多く者が立つ。
彼等は交々行つて各審判をうけ
述べて聞き、かくて投げ下ろされる[6]。
私を見た時、かくも大切な務の
業 をやめて、ミノスが私に云つた
「おゝ汝、憂ひの宿に來たものよ
何處に入り又誰に身を委ねるかを省みよ
20 入口の廣いのに[7]欺かれるな」。
そこでわが導者は彼に「何故に又叫ぶのか。
彼の定められた道行を妨げるな。
意 ふことを凡て果す力ある處にて
かく定められたのだ。この上問ふ勿れ[8]」。
憂ひの節 が私に聞え初め
多くの嘆きが私を
撃つところにやがて私は來てゐた。
私の來た處には一切の光が默し[9]
逆ふ風に攻められて嵐に
30 鳴る海のやうに咆えてゐた
休むことなき地獄の颶風は[10]
諸靈を奪取し去り
めぐり撃ちつ彼等を窘 しめる。
その突進[11]のまへに彼等が來る時
こゝに悲鳴、愁訴また悲嘆がある。
彼等はこゝに神の力を瀆 す[12]。
かゝる苛責に罰せられをるは
理性を本能に從はす[13]
肉慾の罪人であることを私は悟つた。
40 寒き時椋鳥 が翼により
大なる密集群をつくつて漂ふごとく
風は諸の惡しき靈をたゞよはし
此方に、彼方に、下に、上に運び
休息の望も苦痛輕減の望も
彼等を慰めるこtが絶えてない。
また鶴が自ら長い線を空につくり
彼等の哀歌をうたひつゝ行くごとく[14]
私は、吁と叫んでかの暴風に
運ばれて來る諸の影を見た。
50 そこで私は云つた「師よ、黒き空氣の
かく懲らす此民は誰であるか」。
その時彼は私に云つた「その由緒を
知らうと汝のねがふものゝ第一人は
多くの國語の皇后であつた。
彼女は淫慾の罪惡に耽溺し
自ら招ける非難を除かんため
おのが法律 により快樂 を正しとした[15]。
彼はセミラミデ[16]にして、ニノの後を繼ぎ
その妻なりきと書 に[17]記される。
60 スルタノの治める地[18]を彼女は領してゐた。
次は戀ゆゑに身を殺し
シケオの灰に對して信を破つた者[19]である。
その次は淫亂なクレオパトラ[20]である。
エレナ[21]を見よ、彼女のゆゑに長き禍の
時がめぐつた。また終りまで戀と
戰ひし偉大なるアキルレ[22]を見よ。
見よ、パリデ[23]を、トゥリスタノ[24]を」と。
尚ほ戀がこの世より去らした千餘の影を
彼は私に示し、指ざして名をあげた。
70 わが師は古 の貴女逹や騎士逹を
名ざすのを聞いた時
憐憫 が私に起り、殆んど私は昏迷した。
私は始めた「詩人よ、連なりゆき
風にいと輕 らかに見える
かの二人に私は語りたくおもふ[25]」。
すると彼は私に「尚ほ近く彼等が
われらに近づく時を見圖り、彼等を
導く戀によつて願へ、彼等は來るであらう」。
風が彼等を我等に寄せた時直ちに私は
80 聲をあげた「おゝ弱れる魂等よ
彼[26]拒み給はずば、來つて我等に語れ」。
鳩が願望 に呼ばれ
翼を擧げて固め[27]、意 に運ばれて
樂しき巣へと空を翔るやうに
彼等はディドネ[28]のゐた群をいで
有毒 の空を貫いて我等に來た。
情 の叫びはかく強いものであつた。
「おゝ世を紅血 に染めた我等を
訪れつゝ暗紫 [29]の空を過ぎゆく
90 優しき慈愛ぶかき人よ
われらの邪 な[30]禍を汝憐むゆゑ
宇宙の王がもし友なりせば
我等汝の平安を彼に祈らんものを。
汝が聞きまた語らうとすることを
今しわれらのため風の默するまに
われら汝等に聞きまた語らはう。
わが生まれし地は
ポオ河[31]が平安 を得んとて
その從者逹と下る海邊に坐す[32]。
100 優しき心をいちはやく捉へる戀が[33]
美しきわが身によつて此者を捉へ
わが身は奪はれ、その状今尚妾を害 なふ。
戀人を戀せしめでは措かぬ戀が
彼慕はしさにいと強く妾をとらへ
遂に汝の見るごとく今尚妾を棄てない。
戀が我等を一の死に導いた。
我等の命を斷つたものをカイノ[34]が待つ」。
これらの言葉が彼等より我等に傳へられた。
害 はれし魂等の語るを聞くや
110 私は直ちに顏を埀れて長く下にしてゐたので
詩人は遂に私に云つた「何を思ふか」。
答へんとして私は始めた「あゝ
いかばかり甘き思ひが、いかなる願望 が
彼等をこの憂ひの徑 に導いたのか」。
かくて再び身を彼等に向けて私は語り
且つ始めた「フランチェスカよ、汝の苛責は
私を悲しく憐憫 に泣かしむる。
しかし語れ、甘き溜息 のころ
何により又いかにして戀が汝に
120おづる願望 をそれと識らしたか。」
する[と]彼女は私に「悲境にあつて
福ひの日を想ひかへすに優る
悲しみなし。汝の師[35]もこれを知る。
しかしわれらの戀の初根 を識らんとの
強き求めを汝抱けば
泣いて語る人のやうに妾は語る。
ある日娯 みにとてランチロット[36]の
戀に搦 められし段 を我等は讀んでゐた。
我等のみにして又何の惧 れもなかつた。
130 讀みゆくうち幾度 か眼はそゝられ
また顏より色が奪はれたが
われらを服したのは只一節であつた。
あこがれし微笑[37]が斯かる戀人に
接吻せられたのを讀んだ時
永久 に妾 より難るゝことなきこの人が
顫ひわなないで妾の口に接吻した。
書 とこれを書いた者がガレオット[38]であつた。
その日我等は又と讀まなかつた」。
一の靈[39]はかく語つてゐた間
140 他の靈[40]はいたく泣いてゐたので
憐憫 の餘り死せん[と]するやうに氣を失ひ
屍體の倒れるやうに私は倒れた。
ダンテ地獄の第二環に至り、邪淫者の群颶風に漂はされて暗黒の空をめぐるを見る。 その中の一人たるフレンチェスカの靈尚も戀人パオロに擁せられしまゝ、 おのが樂しき悲しき戀物語をし、ダンテこれを聞きて卒倒す。
義兄弟のふたり[1]を前にして憐み
全く悲しみに亂されて塞ぎし
わが心が歸つた時[2]
わが動く處わが向く處
またわが眴 る處、新たな苛責と
新たな苛責を受ける者を身の周圍 に見た。
永劫の呪はしき冷き重き
雨の第三環に私はゐる。
雨の法則と質とは新たなることがない[3]。
10 粗大な雹と、溷つた水と、雪とが
闇の空を衝いてふりそゝぎ
これを受ける地は惡習を放つ。
酷き異形の野獸チュルベロは[4]
こゝに浸る民のうへに
三の喉にて犬のやうに吠える。
彼は朱の眼、脂ぎる眞黒な髯
また大きな腹と爪ある手をもつ。
彼は靈どもを爪にかけ、銜 へて[5]片々 にする
雨は彼等を犬のやうに咆えしめる。
20 彼等は片脇をもつて片脇の防禦とし
慘めな冐涜者等は頻りに輾轉する。
われらを見た時、大なる蟲[6]は
口をあけて牙を見せた。
肢體を少しも堅くしてゐなかつた。
わが導者はその掌 をひろげて
土を採り、拳 一杯にしてこれを
飽くなき喉管 へ投げ入れた。
吠えて強請 む犬が
食物を噛むや靜まつて專心これを
30 貪り食はんと爭ふことがある。
喚いて魂どもを愕かし、聾たらんことを
彼等にねがはしめた鬼チェルベロの
汚い顏もまたそのやうであつた。
重き雨の影どもの上を過ぎ
人體 と見える虚象[7]のうえに
われらは蹠 を置いた。
彼等は皆悉く地に臥してゐたが
たゞ一人[8]我等がその前を通るを見て
直ちに坐らうとして起きた者があつた。
40 「おゝ汝、導かれてこの地獄をゆく者よ
爲しうべくば俺を想ひ起こせ、俺が
毀たれぬ前 に汝は造られた[9]」と彼は私に云つた。
そこで私は彼に「汝の受けをる苦惱が
恐らく汝をわが記憶より奪つたのであらう[10]。
汝を見たことがあるやうに思はれない。
然し語れ、かく慘ましき處に置かれ
また斯かる罰をうける汝は誰であるか
此よりも重い罰はあつても斯く不快な罰はない」。
すると彼は私に「嫉妬に充ちて
50 既に嚢 の溢れる汝の都[11]が
朗かな夜に俺を容れてゐた。
汝等市民は俺 をチャッコ[12]と呼んだ。
害ある饕食 の罪により
汝の見る如く、俺は雨に穿たれる。
また悲しい魂は俺 ひとりでない。
即ち此等のものは皆同じ罪により
同じ罰をうけてゐる」。かくて又語らなかつた。
私は彼に答へた「チャッコよ、汝の惠みは
私をいたく壓して涙に誘ふ
60 然し汝を知りをらば[13]語れ、分離せる
都[14]の市民はいかになりゆくか。
そこの義しい者がゐるか。又かく大なる
不和がこれを襲ふた譯を私に告げよ」。
すると彼は私に「長い鬪爭[15]の後に
彼等は血を流し、蠻野黨[16]は
いたく恨んで他黨を逐ふであらう[17]。
かくて後三たび太陽がめぐるうちに[18]
これは倒れ、今し繰 るものゝ[19]力によつて
他黨が凌ぎ立つであらう。
70 時ながく額を高うして他黨を
いかに哭かうが又耻ぢやうが
重壓の下に抑へるであらう。
義人はふたり[20]ゐるが其處に識られず。
傲慢、嫉妬、貪婪は
心を燃やした三つの花火である」。
こゝに彼は涙ながらの響きをとゞめた。
私は彼に「汝が尚も私を訓へ
更に言葉を私に賜物とせんことを願ふ。
いと秀れしファリナタ[21]とテッギアイオ
80 またヤコポ・ルスティクッチ、アルリゴとモスカミ
その他善行[22]に才を注ぎし者等は何處 ぞ
私に告げ、私に彼等を知らしめよ。
蓋し天が彼等を甘くするか、地獄が彼等を
毒するか知らんとの大なる願望 が私に迫る」。
すると彼は「彼等は尚ほ黒き魂共の中にゐる。
異なる罪が彼等を重くして底に沈める。
そこまで降つて彼等を能く見るであらう。
然し汝樂しき世界に至るとき
願くは人々の記憶に俺を浮べよ[23]。
90 この上俺は汝に語らず、又此上汝に答へず」。
かくて彼はその眞直 な眼を斜に扭 り
少しく私を眺めて後頭を埀れ
そのまま他の盲人[24]等と駢んで倒れた。
そこで導者は私に云つた「天使の喇叭の
響くまで[25]、彼は醒 めない。
敵なる權能 が來る時[26]
各その悲しき墓に立ち歸り
おのが肉とおのが形とを採り直し
永劫に鳴り響くものを聞くであらう」。
100 少しく來世のことに觸れつゝ
かく影と雨と汚 くまじる中を
緩 い歩みにて過ぎた。
そこで私は云つた「師よ、大なる宣告の後
これらの苛責は増すべきか減るべきか
または斯く燃えるべきか」。
彼は私に「汝の知識[27]にかへれ
曰く物のいよ〜完きに從ひ
いよ〜福を感じ、苦も亦然りと。
この呪はれし民は永久に
110眞の完全に逹することなしと雖も
その後[28]は今よりも優さらんことを知る」。
こゝに述べない多くのことを語りつゝ
我等はこの途を迂廻し
降るべきところへ來た。
こゝに巨人プルト[29]を我等は見た。
地獄第三環に至れば饕食の徒小止みなき雨と雹と雪とに惱まされ、チェルベロに苛責せらる。 ダンテは同郷のチャッコなる者を見つけフィレンツェの政事の預言を聞く。
Pape Satan, pape Satan aleppeと[1]
嗄れた聲をしてプルトが始めた。
凡てのことを知れる優しい賢者は
私を勵まさうとして云つた「汝の恐れに
身を害ふ勿れ、いかなる力が彼にありとも
汝にこの巖を降らしめぬことがなからう」。
かくてその膨 れた顏にむかつて彼は
云つた「默れ、呪はれし狼[2]よ
己が忩怒 により己の衷 に盡き果てよ
10 深淵へのこの道行は譯がないのでない。
ミケレ[3]が不遜な暴逆[4]を復讎した
高きところにて定められたのである。
風に膨 れた帆が、檣の
摧ける時、絡まつて落ちるやうに
むごき野獸は地に倒れた。
かくて我等は全宇宙の惡を
つゝむ憂愁の堤を尚も辿つて
第四の崖へくだつた。
あゝ神の正義よ、私の見たやうに
20 かく夥しい新たな苦痛と刑罰とを積むのは誰か。
又いかなれば我等の罪が斯く我等を滅すぞ。
己に逆ふものに挫 ける
彼方カリッディ[6]の波濤のごとく
こゝに民はリッダ[7]を舞はねばならぬ。
此處に何處よりも夥しい民が
此方彼方にあつて[8]大いに咆え、胸の
力によつて重きものを轉 すのを私は見た。
彼等は互にうち當り、かくて直ちに
各身を共に囘 し、轉がし返しつゝ
30 叫ぶ「何故に貯へるか」「何故に投げるか」と。
かく彼等は尚もこの耻づべき節を
互に叫びつゝ暗い環 を此方彼方へと
反對の方向へ歸つていつた。
やがて環の半に至るや再び
試合をし、各身をめぐらした。
心つらぬかるゝ許りになつた私は
云つた「わが師よ、此は何の民か。
また我等の左にゐる髮を剃つた者等は
凡て僧侶であつたのか、今私に示せ」。
40 そこで彼は私に「此等は凡て皆
第一の生涯にあつて心歪み
程よく費さなかつたものである。
相反する咎が彼等を分かつ環の
二點に來る時、彼等はこのことを
その吠え聲によつていと明かにする。
頭に髮の蔽ひなきは僧侶であつた
また法王もカルディナレ[9]逹もゐる
彼等のうちに貪婪が擅 にふるまふ」。
そこで私は「師よ、この罪惡に
50 汚されてゐたもの數人を、私は
確かに彼等のうちに認めるであらう」。
すると彼は私に「汝は虚しい思ひを抱く。
彼等を汚した辧 へなき生命 が今や彼等を
昧 まして全く彼等を辧 へ難きものにする[10]。
永久に彼等は二つの衝突[11]に來るであらう。
此等は拳 を閉ぢ[12]、此等は髮を挘 られて[13]
墓よりふたたび起きあがるであらう。
惡 く與へ惡 く貯へたことが、美しい世界[14]を
彼等より奪ひ、彼等を此爭ひに置いた。
60 その状を述べるために俺は言葉を飾るまい[15]。
今子よ、命運に委ねられ
人類を亂れしめる財寶 の
儚き戲れを汝能く知れ。
蓋し月の下にあり又嘗てありし
凡ての黄金も此等疲れたる魂の
一つをだに憇はしめ得ないのである[16]」。
私は彼に云つた「更にいま私に告げよ
汝の仄めかすこの命運とはいかなる者ならば
斯く世界の財寶を掌握するのか」。
70 彼は私に「おゝ鈍き人々よ
何たる無智が汝等を躓かすぞ
汝今これにつきわが説[17]を哺 めよ。
その智萬物を超越するものが
諸の天を造つて此に導くものを與へ給ふた[18]。
かくて各部は各部に輝き
應分に光をわかつ。
これと同じく世の輝きを總 べ
司つて導くものを定めたまふた。
このものが時に及び、人智の防禦を
80 越えて、民より民に
血[19]より血に虚しき財寶を移す
かくて草の中に蛇のやうに人に
隱れをる此者の審判に從つて
一の民が治め、他の民が衰へる。
汝等の智はこれに抗 ひ得ない。
他の神々[20]の凡てなすごとく
これは先を見、審 き、制御す。
その排列には休戰なし。
必至これを迅速ならしめ
90 かくて流轉に遇ふ者が引繼ぎ來る。
彼はおのれを讚 むべきものに
却つて十字架につけられ[21]、誣ひて
難ぜられ、惡聲を加へられる。
元始の被造物[22]とともに喜んで
おのが圈を廻し、又祝福 まれて歡ぶ。
さて今より我等は更に大なる憂愁に降らう。
俺 が進んだ時[23]のぼつてゐた星が皆
既に落ちたので長く止まつてはならぬ」。
100 我等はこの環を過ぎて向かふの
堤にいで、一の泉の上に來た。
泉は湧いて己よりいづる溝に注ぐ、
水は暗紫[24]より遙かに暗かつた。
我等は黜 ずむ波浪を伴侶 とし
異樣な道に沿うて下に入つた。
この悲しき小川は鼠色の
毒性な阪の下にくだるや
スティヂェ[25]と名づけられる一の沼となる。
さて心をとめ眺めて立つてゐた私は
110 泥にまみれ皆裸にて怒つた貌 をした民を
この水溜のうちに見た。
彼等は手のみならず、頭にて
胸にて、また足にて打ちあひ
齒にて片片 に切り裂いてゐた。
善き師が云つた「子よ、忩怒 に
負けたものゝ魂を今汝は見る。
更に水の下に民のゐることを確 く汝の
信ぜんことを望む。いづこに轉ずるとも
汝の眼に告げるやうに、彼等は
120嗟 いてこの水の表に芽をいだす[26]。
泥の中に粘 いて彼等は云ふ『太陽に
喜ぶ甘美な空氣のなかにても
無精な氣を衷 に宿して我等は悲んだ。
今我等は黒き泥のうちに悲しむ』。
全き言葉にて語りえないので
彼等はこの聖歌[27]をその喉笛より漱 ひする」。
かくて泥土を呑むものらに眼をむけ
乾いた堤と濕つた處との間を通り
汚い沼の大なる弧をめぐつて[28]
130 遂に一の櫓のもとに我等は來た。
地獄篇第四環に入り富貴財寶の魔神プルトにあふ。 この環は二分されて一部分には吝嗇家一部分には濫費家が罰せらる。 ・ルヂリオ命運のことを論ずる間に第五環に到り、忿怒家の亡靈の泥濘に沈みをるを見る。
續いて[1]私は語る。我等が
高き櫓のもとに至る遙かまへに
二つの小さき焔の置かれてあるを見て
われらの眼はその頂の上に赴いた。
また他に一つ殆んど眼の捉へ難いほど
遠くより、相圖をしかへしてゐた[2]。
そこで私は一切智の海[3]にむかつて
云つた「これは何と云ひ、かの火は
何と答へるのか。又此等を作つたのは誰か」。
10 すると彼は私に「方に來らんとするものを[4]
もし水溜の氣が蔽さないならば
既に汝は辧 へ得たであらう」。
絃の彈 く矢の空を貫いて
道を馳せること迅きも
この時私の見た小舟には及ばない。
舟はたゞひとりの艪手に操られて
水上を我等の方へと來た。
艪手は叫んだ「邪惡な魂よ、今汝は着いたのか」。
わが主は云つた「フレヂアス[5]、フレヂアス
20 この度は汝叫ぶも無益である。たゞ汚泥を
渡るほか、汝は俺等 に用がない」。
忩怒を集めてフレヂアスは宛ら
已[注:己の誤り?]にむかつて加へられる大なる欺瞞を聞き
これを慨嘆する人のやうになつた。
わが導者は船にくだり、ついでその後に
私を入れたが、私の入つた時にのみ
荷を積んだやうに見えた[6]。
導者と私とが船に入り終るや
古びた舳は直ちにすゝみ
30 水を切ること他の者等を伴ふ時より深し[7]。
死の渠 を我等が駛せてゐたとき
泥に充つるものが一人、わが前にでゝ
云つた「時到らぬに[9]來る汝は誰か」。
そこで私は彼に「來はしたが私は滯 まらない。
然しかく酷くなれる汝は誰か」。
彼は答へた「俺が泣く者なるを汝は見る」。
私は彼に「呪はれし靈よ
汝哀哭と悲嘆のうちに殘れ
蓋し全く汚れをるも汝を俺 は識る」。
40 すると彼はその兩手を船にのばした[10]。
敏き師は彼を押しのけて云つた
「彼方へ去り他の犬共[11]に加はれ」。
かくて彼は腕にて私の頸を卷き
わが顏に接吻して云つた「義憤の魂よ
汝を孕みし彼女は福なるかな。
彼は世にて傲岸な人間であつた。
彼の記憶を飾る善行がないので
かく彼の亡靈がこゝに猛々しいのである。
やがて自ら怕るべき誹を殘して
50 こゝ泥濘のうちゆに豚の如く止まるべき
いかに夥しき者等は今地上に大王と崇められをるぞ」。
そこで私は「師よ、湖を我等が出る前に
この羹 の中に彼の沈むを
見んことをいたく私はねがふ」。
すると彼は私に「堤が姿を汝に見せぬ前に
汝の望みは叶へられよう。かゝる願望の
汝を悦ばすは、適はしいことである」。
その後暫くして私は、彼が泥塗れの民に
いたく引き裂かれるのを見たが、その爲
60 今尚ほ私は神を讚め、その爲彼に感謝す。
皆が叫んだ「フィリッポ・アルヂェンティを」と。
すると激せるフィレンツェの靈は
齒をおのれ自らに向けた[12]。
茲にて彼を見棄てたので、彼の事を此上述べない。
さて一つの嘆きがわが耳をうつたので
心をとめて眼を前にうち開いた。
善き師が云つた「子よ、今
重き[13]市民と大なる群集とを携へる
ディテ[14]と名づけられる都が近づく」。
70 そこで私は「師よ、谷になかに私は
火より出たやうな朱色の
伽藍[15]を既に定 かに認める」。
彼は私に云つた「彼處のなかに燃える
永劫の火が、汝の見るごとく
この下界地獄にも彼等を赤く見せる」。
われらは遂にこの慰めなき地を
とり繞る深い濠の内に着いた。
城壁は鐡より成るやうに私に見えた。
まづ大なる一周をせざるを得なかつたが
80 我等は一の處に來て、そこで渡守は
「汝等出よ、こゝが入口だ」と強く叫んだ。
門の上[17]に天より降つた千餘のものら[18]を
私は見たが、彼等は怒つて云つた
「死なずに死んだ民の王國を
過ぎゆくこの者は誰ぞ」。
そこでわが賢き師は彼等と
密 に語りたい意 を仄めかした。
すると彼等はその大なる憤怒を少しく
閉ぢて云つた「汝ひとり來て、かくも
90 大膽にこの王國に入つた者を去らせよ。
狂亂[19]の徑を彼ひとり歸らしめよ。
かく爲しうるや試 めさせよ。即ち斯く
暗き國に彼を護り來た汝はこゝに殘れ」。
讀者よ、この咀 ひの言葉の響きに
わが心が摧 がれなかつたか否やを思へ
蓋しこゝに歸り[20]うるとは私に思へなかつた。
私は云つた「おゝ七度 以上も私を
安全にかへし、また立ちむかふ大なる
危險より私を引きだした我が愛する導者よ
100かく見放して私を去るなかれ。
もし尚ほ過ぎゆくことが拒まれるとせば
夙く共に我等の足跡を辿り歸らしめよ」。
すると私をこゝに導いた主が云つた
「恐るゝ勿れ、彼[22]によつて與へられし
我等の徑は、何ものも此を奪へない。
然しこゝに俺 を待て。また汝の衰へし
靈を勵まし、善き望をくらへ。蓋し俺は
汝をこの低き世に棄て去りはしない」。
[か]くて慕はしく父は行つて私をこの處に殘し
110私は惑ひのうちにとゞまる。
即ち「然り」と「否」[23]とがわが頭の中に鬪ふ。
彼は何を彼等に傳へたか、私には聞こえなかつた。
然し彼がそこに彼等と止まること久しからずして
彼等は各爭ふて内に馳せ歸つた。
この我等の敵はわが主の胸先に
門を閉ぢた。彼は外に殘され
かくて歩みのろく私の方に歸つた。
眼は地に、また眉は勇を
全く刈りとられ、かくて嘆じて云つた
120「誰か憂愁の家[24]に俺 を拒んだものがあつたか」。
また彼は私に云つた「俺が怒るので
汝驚く勿れ。蓋し何ものが内に廻つて
防がうとするとも、俺は爭ひに勝つ。
彼等のこの不遜は新しいことでない。
即ち祕密少き門[25]にて嘗て彼等はこの手を用ゐたが
これは今に閂なしである。
上に死の銘を汝が見たかの門である。
さてそれより此方に護衞者なく
諸の環を過ぎてひとり崖[26]を降るものがある。
130 彼によりこの地が我等に開かれるであらう」。
ダンテ進んでディテの櫓に近づくや烽火相閃く。やがてフレヂアスの船に乘じてスティヂェの沼を渡る。 やがてフレヂアスの船に乘じてスティヂェの沼を渡る。 フィリッポ・アルヂェンティの泥塗みれなるに遇ひ、かくて岸に着きディテの門に入らんとせしも鬼共これを遮る。
わが導者の歸り來るを見て
怯懦のわが面 を彩つた色が[1]
一際迅く彼の新たな色[2]を衷に抑へた。
黒き空を貫き、また厚い霧をわけて
眼が遠く彼を導きえなかつたので
物聽く人のやうに心をこめて彼は踏み止まつた。
彼は始めた「必ず我等は戰に勝つべきである。
もしも……彼女[3]が我等に身を供した。
おゝ彼の者[4]の此處に到ることのいかに遲きぞ。
10 彼が初と異なる言葉により
冐頭を後に來た句にて
いかに蔽ふたかを良く私は見た。
しかも彼の言葉は私に恐れをあたへた。
これ恐らく切り裂かれた言葉を私が
あらぬ更に惡い意味にとつたからであらう。
「罰としてたゞ希望を斷たれる
第一の段より[5]、誰か鐡鍖 介殼[6]の
この深處 に降ることがあるか」
この問を私は起こした。彼は私に答へた
20 「我等のうち俺 のゆく旅を
するやうなものは稀である。
尤も何日ぞや亡靈をその肉體に
呼びかへす慣ひであつた酷きエリトネ[7]お
呪文により俺は此處に降つた。
肉が俺から剥れて間もなく
ヂウダの環[8]おり一の靈をひき出すだめ
彼女は俺を城壁の中に入れた。
それはいと低き處にて又いと暗く
萬物をめぐらす天[9]よりいと遠し。
30 よく俺は途を知る。故に汝安んぜよ。
大なる惡臭を吹き出すこの沼は
今忩怒をうけずには我等の
入り難き憂愁の都を取り圍む」。
又他に彼は語つたが私は心に留めてゐない。
蓋し眼が高い櫓の赤い頂へと
全く私を惹きよせたからである。
忽ちそこに血に染むフリエ[10]あ
一瞬時に立ちあらはれた。
彼等の四肢も擧動も女ににて
40 深緑の水蛇を帶としてゐた。
小さき蛇を角蛇[11]とを鬣とし
その猛き顳顬はこれに卷かれてゐた。
かくて永久の悲嘆の女王の婢 ら[12]を
よく認めて彼は私に云つた
「獰猛なエリネ[13]を見よ
左の方のこれはメヂェラ[14]であり
右に泣くのはアレット[15]にて、テシフォネ[16]は
央 にゐる」。かくて彼は沈默した。
爪にて各胸を裂き
50 掌にて己を打ち又聲高く叫んだので
をののいて私は詩人に身を寄せた。
見下しつゝ彼等凡てが云つた
「メドゥサ[17]を來らしめよ、かくて彼を石にしよう。
テセオの襲撃に復讎しなかつたのが惡かつた」[18]。
「うしろに向いて眼を閉ぢをれよ
もしゴルゴネ[19]が現れ、汝彼女を見んか
上に歸る術 なき[に?]至るだらう」。
かく師は云つて自ら私を振向かし
また私の手に安んぜずして
60 おのが手にて尚も私を塞いだ。
おゝ汝等康かなる智性をもつ者よ
竒しき詩の面覆 の下に
隱される訓を看よ[20]。
既にして驚愕に充つる響の爆音が
溷れる波を越えて寄せ來たり
ために兩岸が震動した。
その状は逆ふ熱[21]によつて烈しく
林を撃ち、少しも沮 まず枝を裂き
折つてこれを運び去り[22]
70 塵を捲き、傲然として前進し
かくて獸や牧者を遁げさす
風に異ならなかつた。
わが眼は弛めて彼は云つた「古びた
泡の上を越え、彼方烟のいと苦き處に
眼の神經を今むけよ」。
敵なる蛇の前に、蛙らが
皆水中に消えうせ、遂に陸上に
おの〜塊 るやうに
亡滅の千餘の魂[23]あ、ひとり[24]蹠 の
80 乾いたまゝスティヂェを徒歩 にて
渡るものゝ前に、かく遁げるのを私は見た。
彼は頻りに左手 を前にふりつゝ
顏より厚い空氣を拂つた。
又この煩ひのみにて彼は疲れたやうに見えた。
彼が天よりの使者であつたことを私は
良く識つて身を師に向けた。すると彼は
私に相圖して靜かに立ち身を其者に屈めしめた[25]。
あゝいかに憤怒に充ちて彼は見えしぞ。
彼は門に行つた。かくて支へる何ものもないので
90 小さき杖にてこれを開けた。
怕ろしい閾の上にて彼は始めた
「おゝ天を逐はれし蔑 むべき民よ
汝等に宿るこの横暴は何處から來たのか。
その目的の斷たゝることなく
且つ幾度も汝等の憂愁を増せる
『意意』にむかつて蹴らんとするおは何故ぞ[26]。
運命に角突いて何の益ぞ。
これが爲汝等のチェルベロ[27]が今尚ほ
顎と喉[28]とに毛のないことを想ひ起こさぬか」。
100 かくて彼は汚い徑に歸つて
また一言も我等に語らず、恰も前に
居るものゝことよりも、他の配慮 [29]に
迫られ噛まれる人の貌 をしてゐた。
われらは聖き言葉によつて安んじ
足をその地の方へと進めた。
我等は何の戰ひもなくその内に入つた。
また斯かる砦の鎖す地のさまを
見んとの願望 を抱いてゐた私は
内に入るや直ちに眼を周圍 に遣り
110 四邊に憂愁と酷き苛責に滿つる
大なる平原を私は見た。
ロダノ河の澱むアルリ[30]、または
伊太利亞を鎖してその境を洗ふ
クァルナロ灣に近きポラ[31]い
あまたの墓が地を汎く蜒 らすやうに
こゝにも墓が到る處を斯くならしめ
たゞ異なるは其状の更に苦々しいことである。
即ち墓の間に焔が散亂して
全くこれを熱し、鐡のこれよりも
120 熱せんことをいかなる技工 を求めまい。
その蓋は悉く擧げられて
慘ましき者と害はれし者とに良く似あふ
いと烈しき悲嘆がそれより外に出てゐた。
そこで私は「師よ、此等の柩の中に
葬られ、憂愁の嗟嘆にて己を
人に知らすこの民は誰ぞ」。
彼は私に「こゝには異端[32]の巨魁らが
その各派の弟子とともにゐる。また墳墓は
汝の思ふよりも遙か多くの荷[33]をになふ。
130 類は類をもつて此處に葬られ
碑は或は強く或は弱く熱する」。
かくて彼が右手に[34]向つた時
われらは苛責と高き胸壁の間を過ぎた。
フリエ現れてメドゥサを見せダンテを化石せしめんと威嚇す。・ルヂリオはダンテの眼を手にて蔽ふ。 やがて神の使者に扶けられて門内に入り、異端者等の無數の燃ゆる墓を見る。
さてこの都の城壁と苛責との間の
祕密[1]の徑 に沿ひ、わが師は辿り
私はその肩の後を追ふた。
私は始めた「おゝ不虔の諸環を過ぎて
私をめぐり行かす至高の徳よ
語つてわが願望 を充たせよ
墓中に横たはる民、私はこれを見得るか。
蓋は皆既に擧げられて
護るものとてはない」。
10 すると彼は私に「彼等が地上に
殘せる肉體をもつてヨサファッテ[2]から
此處に歸る時、皆鎖されるであらう。
此方には肉體とともに魂が
死するといふエピクロ[3]とその凡ての
弟子等の墓がある。
されば汝の俺 に訊ねたもの
また尚ほ汝の俺に默しをる願望 が
この中にて直ちに充たされるであらう」。
そこで私は「善き導者よ、言葉少なに
20 する爲でなくば、わが心を祕めはしない。
汝が私に斯く思はしめたのは今のみでない[5]」。
「おゝ斯く恭しく語りつゝ火の都を過ぎて
生きながら道を辿るトスカナ[6]人よ
願はくはこの處にとどまれ
汝の言葉は、俺の恐らく
窘しめ過ぎた尊き祖國[7]の
汝が生れであることを示す」。
突然この響が柩の
一つから發したので怖れて
30 私はわが導者に少しく近寄つた。
すると彼は私に「身を囘 せ。汝何をなすぞ。
彼處に直立するファリナタ[8]を見よ
彼の帶より上全體を汝は見るであらう」。
私は既にわが顏を彼の顏にむけてゐた。
すると彼は恰も地獄を大いに蔑ずむごとく
胸と額とをもたげてゐた。
そこで「汝の言葉を明かならしめよ」と
云ひつゝ、わが導者の勇敢敏捷な手が
私を彼にむけ墓のうちへ押しやつた。
40 彼の墓のもとに私が逹した時、彼は
少しく私を見遣り、かくて侮るものゝごとく
私に訊ねた「汝の祖先は誰であつたか」。
從はう[9]と思ふた私は隱さず
一切を彼にうち開けた。
すると彼は眉を少しく上に擧げ
かくて云つた「彼等[10]は俺 と俺の先祖と
また俺の黨派に激しく敵對したので
二度までも[11]俺は彼等を逐ひ散らした」。
「彼等は逐はれたが一度目も二度目[12]も
50 四方より歸つて來た。然し汝等の族 は良く
この技 を學ばなかつた」と私は彼に答へた。
その時これと列んで顎まで
露 はな一の影が立ち現れた[14]。
彼は膝にて起きたと私はおもふ。
他に私と共にゐる者があるかを見やうと
するかのやうに彼は四邊 を眺めたが
その思はくが全く外れたので
泣いて彼は云つた「汝もし天下の高邁ゆゑに
この盲目の牢獄をめぐりゆくとすれば
60 わが子[15]は何處ぞ、何故汝と共にゐないのか」。
そこで私は彼に「私は自ら來たのでない。
彼方に待つものが私をこゝに導く。
恐らく彼は汝のグヰトの侮りしもの[16]である」。
彼の言葉と刑罰の状が既に
その名を私に判じさしたので[17]
私の答はかく充分なるを得た。
忽ち直立して彼は叫んだ「何で汝はりし[18]と
云つたのか。彼は尚ほ活きてゐないのか。
甘美な光が彼の眼を撃たないのか」。
70 答をする前に少しく私の躊躇 ふのを識つて
彼は再び仰向きに倒れ
もはや外にあらはれなかつた。
然し私を立ち止まらした今ひとつの
豁逹たるものは[19]容 もかへず頸も動かさず
またその脇腹をも曲げなかつた。
「さて」と初の言葉に續けて彼は云つた
「彼等がその技 を學びそこねたとすれば
その事がこの寢床[20]よりも強く俺 を苛責する。
然しこゝを治める貴女の顏が
80 五十度燃えぬまへに[21]、汝はその技 の
いかに難きやを知るであらう[22]。
願はくは甘美な世界に汝の歸りえんことを。
乞ふ俺 に告げよ、何故に人心がその凡ての
法律により、わが一族に向ひ斯く無慈悲なのか[23]」。
そこで私は彼に「アルピア河[24]を赤く
彩つた殺戮と大なる破壞とが
かゝる祈祷を我等の神殿に捧げしめた[25]」。
嗟きつつ頭を振つて彼は云つた
「そのこと[26]に關つたのは俺のみでなかつた。
90 また確かに譯なしに俺は人々と共に動きはしない。
否フィレンツェの破壞が協議せられた
かの處[27]にて、憶面なくこれを
擁護したのは只俺ひとりであつた」。
私は彼に乞ふた「願はくは汝の裔 の
遂に安かならんことを。乞ふ茲にわが判斷を
縺れしめた結節 を私に解けよ。
わが聞く處正しとせば、汝等は時の
齎らすものを豫め觀うるも
現在に對しては事情異なると見える[28]」。
100 彼は云つた「我等は光惡しき[29]人のやうに
我等を距つものを見る。
至高の導者は尚ほ斯く我等を照らす。
物が近づくか、又は近くにある時
われらの智性は全く空し。さればもし
我等に傳へる者なくば、人間の状を知らない。
故に汝語れ、未來の門の
鎖されるその瞬間よりして
われらの知識の全く死ぬることを[30]」。
そこで私はわが過 を悔いて
110云つた「さらば汝[32]今かの倒れし者に告げよ
彼の子の尚ほ生者のうちに加はりをることを。
また曩に私が默して答へなかつたのは
汝の私に解いた迷ひに既に私が
陷つてゐたからであると彼に知らせよ」。
さて既にわが師が私を呼び返してゐたので
一際 急いでこの靈に、共にゐる者の
誰であるかを告げるやうに乞ふた。
彼は私に云つた「此處に千餘の者と俺 は臥す。
こゝの中に第二のフェデリゴ[32]と「カレディナレ[34]」がゐる。
120 その他の者等のことは俺が默する」。
かくて彼は隱れた。私は亦私の
敵 と見えるかの言葉を想ひかへしつゝ
足を古 の詩人の方にむけた。
彼は進んだ。やがて斯く歩みつゝ
彼は私に云つた「汝何ゆゑにかく惑ふぞ」。
そこで私は彼の問を充たした。
「汝の聞きし身の凶事を汝の記憶に
收めよ」と賢者は私に命じ「また今
こゝ[35]に心をとめよ」とて彼の指をあげて云つた。
130「美しき眼にて萬象を見るものゝ[36]
うるはしき光線の前に至るとき汝は
彼女より汝の生涯の道程を識るであらう。
かくて彼は左手 にその足をむけた。
我等は城壁を去り、高くこゝまで
おのが惡臭に心地惡しからしめる谷[37]に
至る徑に沿ふて中央の方へと行つた。
ダンテ地獄第六環に至り靈魂不滅を否定せしエピクロ一派の墓を見る。 次いで打ち開かれて火焔を吐く墓穴にあつて尚も傲然として地獄を睥睨するファナリタと政爭を語らひ、 己が流竄の豫言を受け、又カ・ルカンティとも語る。
巨巖が環に裂けて成る
高き堤[1]の際端さして我等は
いよ〜酷 き堆塊[2]の上に來た。
こゝに深淵の投げだす惡臭の
怕 ろしい烈しさのために我等は
一の大なる塋 の蔽ひの後 に身を寄せた。
そこに一つの銘を私は見た。曰く
「我はフォティノ[3]が正しき道より引離せし
法王アナスタシオ[4]を護る」と。
10 「われらの下降を緩かならしめよ
かくて感覺がまづ少しく悲しき吹氣 に慣れんか
その後は何の煩ひにもならぬであらう」。
師は斯く云ひ、私は又彼に云つた「時が
失せて過ぎさるやう何か償 をせよ」。
すると彼は語り始めた「わが子よ、此等の岩の内に
三つの小さい環があつて、汝の去らんとする
諸の環と同じく、段また段をなす。
皆呪はれし靈に充ちてゐる。
20然しこの後汝が見るのみにて足るやう
今彼等が如何に何故に縛られるかを聞け。
憎惡を天に獲る一切の邪惡[5]は
傷害を目的とするものである。然して
斯る目的は凡て暴力又は欺瞞によつて他を悲ます。
然し欺瞞は人間特有の罪惡なれば
いよ〜神を悦ばさない。されば欺瞞者は
低きにあつて、大なる憂愁がこれを襲ふ。
第一環は凡て暴行者より成る。
さて暴力は三つの人格に加へられる故に
30三つの圓に分けて組みたてられる。
即ち暴力は神に己に己が隣人に加へられる。
彼等と彼等に屬するものを[6]俺が指すことを
やがてうち開いた言葉にて汝は聞くであらう。
暴力により隣人に死と慘ましき傷とが
また其所有物に破壞放火
又害大なる掠奪が加へられる。
されば第一の圓は殺人と凡て
不法に人を撃つ者、荒らす者と
掠める者とを群を異にして苛責する。
40 人は暴行の手を己に
又おのが産業にくだす。
されば自ら汝等の世界より去るもの[7]
おのが産業を賭博によつて鎔かすもの[8]
又歡ぶべかりし處に哭くものら[9]は凡て
謌黷フ圓にて空しく悔いねばならぬ。
心に神を拒み彼を瀆 し
また自然と神の惠を蔑 みして
暴 を神に加へることもある。
されば最小の圓がソドマ[10]と
50カオルサ[11]、また神を蔑みして
これを語るものを此封にて印する[12]。
凡ての兩親を刺す欺瞞[13]を
人は己に信頼するものに、また
信頼する由 なきものに加へる。
この後者は自然の造くる愛の
絆を殺すと見える[14]、されば
僞善、阿諛、また人を惑はす者
詐僞、竊盜と「シモニア[15]」
女衒 、汚吏、及びおなじ類 の
60汚穢が第二の環に巣くふ。
前者によつては、自然の造る愛と
後これに加へられて特殊の信任を
造りだすところのものが忘れられる。
されば宇宙の一點にして
ディテ[16]の坐する最小の環には
凡て裏切る者が永劫に消滅する」。
そこで私は「師よ、汝は説いて
いと明かに進み、またこの淵と
これを占める民をいとも良く分かつ。
70然し我に告げよ、肥えた沼の彼等
風の運ぶもの、雨の撃つもの
またいと凄き言葉にてうち當たるもの[17]
もし神彼等を怒りたまふとすれば
何ゆゑに紅 の都の内に罰を受けないのか。
もし然らずとせば、何故に斯かる状にあるのか」。
彼は私に「恆にも似ず何ゆゑに
汝の才智は斯くさすらふぞ。然らずとせば
汝の心はあらぬ何處 を眺めてゐるのか。
天の容さぬ三つの性向、放縱
80邪惡および狂へる獸心のこと
また放縱が神を怒らすこと少く
非難を抄 ること少なき譯を
述べつくす汝の倫理[18]の言葉を
汝は憶ひ起こさないのか。
汝もしこの訓をよく省み
且つ外の上[19]にて懲罰を受けをるものの
誰であるかを心に浮べんか
汝はよく何故に彼等がこの兇惡の
徒より分かたれ、また何ゆゑに彼等を槌打 つ
90神の復讎[20]の怒の小さきかを見るであらう」。
私は云つた「おゝ亂るる一切の眼を
康 かにする太陽よ、汝は解きて私を充ち足らせば
疑惑も智識に劣らず私に嬉しい。
さりながら少しく後 にむかひ
高利を貪るは神恩を怒らすと
汝の云へる處[21]に歸つて結節 を解け」。
彼は私に云つた「哲學はこれを
悟るものに自然がその行程を
神智とその技 より採ることを
100ひと處と云はず、示してゐる。
汝また良く汝の理學を[22]調べんか
幾枚ならずして、汝等の技 が能ふかぎり
自然に從ふこと、恰も弟子の
師に於けるがごとく、かくて汝等の技 が
謂はゞ神の孫[23]であることを汝は見るであらう。
汝創世記の初めを心に浮べんか[24]
人はこの二つ[25]によつて
生活しまた進むべきである。
然るに高利を貪るものは他の道を採り
110望を他のものに置くゆゑに
自然そのものとその從者[26]とを蔑 にする。
さて今俺に從へ、俺は前進をねがふ。
蓋し雙魚[27]地平線上にゆらめき
北斗全くコロ[28]を越えて横たはる
しかも下るべき斷崖は遙か彼方に遠し」。
異端の法王アナスタシオの惡臭の煙を放つ墓の側にて・ルヂリオ此より下るべき地獄の形状と罪人の分類をダンテに説明す。 進んで勞働を避け高利を貪りて生活するものを鋭く難詰す。
堤をくだらうとして我等の來た處は
峻しく、あまつさへ其處にゐた者[1]のため
いかなる眼もこれを避けんことをねがふ。
トゥレント[2]の此方に、地震または
支へを缺いだがためアディヂェ河[3]を
その側 より撃ち
かくて崩れだした山頂より
平野に至るまで巖が碎けてまろび
上行く人に徑ともなれる崩壞[4]がある。
10 この下る峽 は恰もそのやうであつた。
また裂けた崖の端[5]には
模造の牝牛に孕んだクレタの
汚辱[6]が偃してゐた。
やがて我等を見るや、衷 に忩怒 の
裂けるもののやうに彼は自らを噛んだ。
わが賢者は彼に向つて叫んだ
「地上に汝を死なしたアテネの公 [7]が
此處にゐると恐らく汝は思ふのか。
去れ、獸、この者は汝の姉妹に
20教へられて來たのでなく、汝等の罸を
見やうとして行くのである」。
既に致命の打撃をうけるや
綱を解いた牡牛が歩み得ずして
此方彼方に跳ねることがある。
ミノタウロの斯く跳ねるのを私は見た。
すると敏き彼[8]は叫んだ「途に走れ
彼の狂ふ間 に宜しく汝は降れ」。
かくて我等は珍らしき荷のため
わが足の下に屡うごく
30巖の投荷 をつたうて下つて行つた。
私は思ひに耽つて行つた。すると彼は
云つた「恐らく汝は今し俺 が鎭めた獸の
怒に護られる此荒廢のことを思ふてゐる。
今汝知れ、低き地獄へと俺が
下の此處に下つたあの時[9]
この巖はまだ落ちてゐなかつた。
然し俺のわきまふところ正しくば
ディテ[10]に課して大なる獲物を最も高き環より
歛 りたてた彼が來た確か少し前に[11]
40深い汚い谷が四邊に震ふたので俺は
かの世界を往々混沌に變へしめたと
或る人の信ずる愛を[12]
宇宙が感じたと思ふた。
かくて其瞬間この古き巖が
此處にも他の處にも斯く墜落した。
さて眼を谷にとめよ。蓋し血の河[13]が
近づき、暴行によつて他を害ふものが
悉くその中に煮られる。
おゝ短き世に斯く我等をそゝり
50後永劫の世に斯く酷く我等を浸す[14]
罪ふかくも狂へる盲目の貪慾よ[15]。
わが護衞者の云へるごとく[16]
弧に彎曲して全平野を抱くと思はれる
一の廣い濠を私は見た。
また堤の裾と此との間に數多 のチェンタウロが[17]
世にて狩に出た時の状宛らに
箭に武裝し、相追ふて走つてゐた。
我等のくだるを見て各立ち止まり
群より三疋まづ弓矢を
60擇んで離れて來た。
かくて一疋が遙かに叫んだ「崖を降る汝等
何の苛責を受けに來るのか
そこから云へ、然 なくば弓をひくぞ」。
わが師は云つた「我等は近づき
その處にてキロネ[18]に答へやう。
汝の意 は常に斯く逸 つて禍ひした[19]」。
かくて私に觸 つて云つた「あれは
美しいデイアニラゆゑに死し、自ら
おのが仇を報いたネッソ[20]である。
70眞中にて胸を眺め居るは
アキルレを育てた[21]大なるキロネである。
他のひとりは怒に充ち滿ちたフォロ[22]である。
彼等は百また千濠の周圍 を行き
おのが罪のあてがふよりも高く
身を血より拔く魂を射る」。
われらは此等の迅き獸に近づいた。
キロネは箭を採り
弰 にて鬚を腮 へ寄せた。
大きな口を露 にして後、彼は
80伴侶 に云つた「後 にゐる者の觸れて
物を動かすを、汝等は見てとつたか。
死者の足は斯くせざるを常とする」。
そこで二つの象 の[23]の相結ばる胸に
既に及んでゐたわが善き導者が答へた
「げに彼は活く。また彼は獨りなので
俺は暗き谷を彼に見せねばならぬ。
彼を導くは必至にして娯樂にあらず。
アルレ[ー?]イアの誦唱 を離れて來たもの[24]が
この新しい務を俺 に委ねた。
90彼は盜人でもなく俺も亦盜賊の魂[25]ではない。
然し斯く荒れた逕に沿うて俺 に
わが足を進ますこの力ゆゑに
汝の群のひとりを我等に與へよ。
我等は彼につき添ひ、彼は我等に
渉るべき處を示し、また空ゆく靈ならぬ
この者をその腰の上に負ひもせよ」。
キロネは右胸に身を囘 してネッソに
云つた「歸つて斯く彼等を導け。
他の群が汝等に出遇へば、それに避けしめよ」。
100 煮られる者の高く悲鳴をあげる
朱 の沸騰の堤に沿ひ、我等は
この頼もしい護衞と共に進んだ。
眉まで沈む民を私は見た。
大なるチェンタウロが云つた「彼等は濫りに
血と所有物とを掠めた暴君共である。
こゝに彼等は無情の加害を哭く。
こゝにアレッサンドゥロ[26]、またシチリアに
憂ひの年を重ねしめた猛きディオニシオ[27]がゐる。
いかにも黒き髮のあるあの額は
110アッツォリノ[28]である。また金髮のものは
げに上の世にて繼子に殺されし
オピッツォ・ダ・エスティ[29]である」。
この時私は詩人に身を向けた。すると彼は
云つた「今彼を汝の爲に第一俺を第二とせよ」。
尚ほ進んでチェンタウロは
沸騰の外に喉まで出すと
見えた民[30]の上に立ち止まり
側 の孤獨の影[31]を示して云つた
「彼は今なほタミヂ河[32]の上に崇められる
120心臟を神の懷[33]にてい裂いたものである」。
次に頭また胸さへも悉く
河の上に出してゐた民[34]を私は見た。
且つその中に私の識れる多くの者がゐた。
かく此血はます〜低くなり
遂に足を烹 るのみとなる。
そして其處が我等の濠を渡る徑であつた。
チェンタウロは云つた「煮える血が
此方へと絶えず減りゆくのを
汝見るがやうに、その底が彼方へと
130次第に押し下がりゆき、遂に
暴虐[35]の呻吟すべき處に至つて再び
結びあふことを※に信ぜしめたい。
神の正義はこゝの地の鞭たりし
かのアッティラ[36]およびピルロ[37]とセスト[38]を刺し
また大道 にかの戰ひを釀せし
リニエリ・ダ・コルネトと
リニエリ・パッツォ[39]を煮て解き
永劫に涙を搾る」。
かくて身を囘 して再び彼は淺瀬を渡つた。
ダンテ斷崖をつたひて第七環第一圓に至り、 牛頭人身のミノタウロの跳躍を見進んで沸騰する血河に人に暴虐を加へし者等の浸り居るを見る。 罪人にして血河より身を拔かんとする者を半人半馬のチェンタウロ弓にて射る。
ネッソがまだ彼方に着かぬ間 に
われらは徑の跡方もなき
一の森にわけ入つた。
葉は緑ならで色黜 み
枝は直 ならで節 ばりくねり
果 はあらで毒ある刺あり。
チェチナ河とコルネトの間[1]に
耕地を憎む猛き野獸も
かく凄く斯く茂る叢林を有たない。
10 未來の被害の悲しき報知 により
トゥロイア人をストゥロファデより逐ひし
醜きアルピエが[2]此處に其巣をつくる。
廣き翼を携へ、頸と顏は人にして
足に爪、大なる腹には羽毛がある。
彼等は竒怪な樹の上に嘆く。
善き師は私に云ひ始めた
「遠く入らぬさきに知れ、汝が
第二の圓にゐることを。また怕ろしい
砂[3]に赴くまで汝は此うちにゐるであらう。
20故に良く看よ、さすれば我言葉より
信を奪ふものを[4]汝は見るであらう」。
四方に呻吟の吐かれるのを私は聞いたが
これを出す人を見なかつたので
全く惑ふて立ち止まつた。
かく多くの聲は我等ゆゑに身を
幹の間に隱した民より出たと
私が思つたと彼が思ふたと思ふ[5]。
即ち師は云つた「この樹の一つより
いづれの小枝にても折らんか
30汝の抱く思は凡て斷たれるであらう。
そこで私は手を少しく前に伸ばして
大きな荊棘 より一つの小枝を採つた。
すると其幹が叫んだ「何故に俺 を裂くか」。
やがて血に黜 み來るや、再びそれは
叫び始めた「何故に俺 を折るか。
憐憫 の精神 が少しも汝にないのか。
人間であつたが今俺等 は幹[6]となる。
よし俺等 が蛇の魂であつたとしても
げに汝の手に今少しの憐憫 があるべきだ」。
40 青い[木|戈]の一端が燃え
他の一端よりは雫して
出てゆく風に音を立てるやうに
裂かれた小枝から言葉と血とが
共に出た。そこで尖 を落として
恐れる人のやうに私は立つてゐた。
わが賢者は答へた「毀 はれし魂よ
彼がもし我詩の中に[8]のみ見たことを
先づ信じ得たならば
汝に手を伸ばさなかつたであらう。
50然し事が信じ難いので、彼に勸め
俺自らを壓する此行 をなさしめた。
さて汝は誰であつたかを彼に告げよ。
さすれば彼が許されて歸る上の世にいささか
其償 として汝の名聲を新たにもしよう」。
すると幹は「汝は斯く甘い言葉にて誘ふので
俺 は默つてをられず、心惹かれて少しく
我語ることの汝に煩はしからざらんことを望む。
俺 [9]はフェデリゴの心の鍵を
二つながら持ち、これを廻して
60いかにも柔かに掛けては開け
殆んど凡ての人を彼の祕密より遠ざけた。
この光榮ある職務に忠にして
これが爲睡眠をも脈搏をも俺は失つた。
チェザレの宿 [10]より秋波の眼を
嘗て放たず、普遍の死にして
宮廷の罪惡たる遊女[11]が
凡ての者の心を燃やして俺に逆はしめ
燃やされた心は又アウグスト[12]を燃やし
かくて喜びの譽が哀しき嘆きに變はつた。
70わが精神は憤怒を甞め
死によつて誹を免れようと思ひ
正しき我身に不正を行ふた。
この木の竒しい根によつて汝に誓ふ
かくも譽 を受くるに足るわが主に
嘗て俺 は信を破つたことがなかつた。
されば汝等のうち若し世に歸るものが
あれば、嫉妬の下した打撃ゆゑに
今なほ地にうち臥すわが記憶を慰めよ」。
暫く待つて後詩人は私に云つた
80「彼默するが故、時を失はず
尚汝望まば、語つて彼に訊ねよ」。
そこで私は彼に「私を充ち足らすならんと
汝の思ふことを更に彼に問へ
憐憫 が心に迫つて私は訊ね得ない」。
即ち彼は再び始めた「幽囚の靈よ
願くは汝の言葉の願ふものを
この人の懇 に汝の爲に果さんことを、
されば乞ふ、此等の節 に魂の結ばる状を
尚も語れ。またなし得べくば、斯かる
90肢體より解かれるものあるかを告げよ」。
すると幹は強く吹き出し、後
その風は斯くのごとき聲に變つた
「短く汝等に答へよう。
猛き魂が肉體を去つて
己を身より引き離すとき
ミノスがこれを第七の溝[13]に送る。
このものが林に落ち、然も定まれる
處なく、たゞ運命の射る處にて
そこに麥の粒のやうに發芽し
100若枝を生じ、また野生の植物となる。
かくてアルピエがその葉を食 つて
痛みをあたへ、又痛みに窓[14]を與へる。
他のものと等しく我等も脱殼 のため行くが[15]
これを再び着る者がある譯でない。
蓋し自ら棄てた物を取るは正しくない。
此處にこれを我等は曵き來たり、我等の肉體は
幽鬱な林の中、いづれも己を窘しめた亡靈の
荊棘 の上に懸けられるであらう」。[16]
他の幹のなほ我等に語ることと信じて
110なほも心をとめてゐた時
我等は喧騷のために驚かされて
宛ら己が立場[17]に野豬と獵犬の
來るを識り、獸と枝との擦れ音を
聞く人のやうになつた。
見よ、左の方にふたり、裸にて
掻きさかれ、烈しく逃げ
林の埀枝を悉く折る。
前の者[18]が「いざ夙 く、夙 く、死よ」。
すると自ら餘りに緩 しと見た他の者[19]が
120叫んだ「ラノよ、トッポの試合に
汝の脛 はかく捷 くはなかつた」。
かくて恐らく息氣が切れた爲であらう。
彼は己を柴と一塊 にした。
彼等の後 には鎖を放れし
獵犬のやうに走る飽くことなき
黒い牝犬にて林が充ち
この蔽 れてゐた者に齒をたてゝ
これをすだすだに裂き
かくてその慘ましい肢體を運び去つた[20]。
130そこでわが護衞者は手を採つて
柴の處に私をつれて行つた。
柴は血の滲む裂目より空しく哭いて語つた
「おゝヂヤコモ・ダ・サンタンドゥレアよ
俺 を防禦として汝に何の益があつたか。
汝の罪の一生に對して俺に何の咎があるぞ」。
その上に踏み止まつて師は云つた
「かく多くの尖端 より血とともに
憂ひの言葉を出す汝は誰であつたか」。
すると彼は[21]我等に「おゝ來たつて
140かくわが小枝を俺 から引き離した
この不實な殺生を見る魂共よ
これを悲しき柴のもとに集めよ。
俺は最初の守護神を洗禮者に
代へた都[22]の者であつた。このため彼は
その術[23]によつて常にこの都を悲します。
その微かな俤が今尚ほアルノ[24]の渡 の
上に留まらなかつたならば
アッティラ[25]の殘した灰の上に
再び都を建てた市民の
150苦勞は空しくなつたであらう。
俺 はわが家をわが絞首臺とした。
ダンテ第七環第二圓にくだり、自殺者の樹木と化して林をなすを見ある幹の枝を折りしに血液と共に聲出でゝダンテの無情を恨む。 また己が産業を荒らせしものゝ黒き牝犬の群に噛み苛まるゝを見る。
生地の情にほだされて[1]私は
散らばる小枝を掻きあつめ
既に聲微かなる彼にこれを返した。
かくて第二圓を第三圓より分かち
また正義の怕ろしい業 の
見える境にわれらは來た。
竒しきものを明かに示す爲に
私はいふ、一切の植物を床より
除く平地にわれらは着いた。
10 憂愁の林[2]これをめぐりて花環となり
同じく悲しき濠[3]は又林をめぐる。
こゝに我等は足を縁の縁に踏み止めた。
地は乾ける砂にて厚く
その状嘗てカトネの足に
踏まれしも [4]異ならず。
おゝ神の復讎よ、わが眼に
示されしことを讀む人皆に
汝はいかに強く畏れらるべきぞ。
裸の魂の大群を私は見た。
20彼等はいと慘めに哭き
また彼等の受ける掟は一樣ならずと見えた。
或る民は地に仰向きに臥し[6]
また他のものは全く縮まつて坐し[6]
また他のものは續け樣に行 いてゐた[7]。
めぐり行くものはいと多く
また苛責に臥すものは少なかつたが
その舌は憂ひに却つて弛められた[8]。
砂の上には凡て伸びたる
火の襞が緩やかに降つて
30風なき高嶺 の雪のごとし。
印度の熱きところにて己が
軍隊の上に焔が落ち、地に至るも
粘き合つてゐたのを見て
アレッサンドゥロが、火氣は孤なる間に
消しやすしとて、己が軍隊に
地を踏み蹂らさうと企てたことがある[9]。
その如く永劫の灼熱は憂ひを
倍にせんとて落下し、ために砂は燃やされ
火打鎌の下の火繩のやうであつた。
40慘ましき手の亂舞[10]は
休むことなく或は彼方或は此方に
新しき灼熱を身より拂ふてゐた。
私は始めた「門の入口[11]にて出でゝ
我等に逆ひし頑冥な鬼のほか
一切のものに勝つ汝師よ
火災を意とせざるが如く、また侮り
歪みてうち臥すかの偉大なる者[12]は誰か。
この雨も彼を熟※しめずと見える」。
すると私が彼のことをわが導者に
50問ふのを識つて、彼は自ら叫んだ
「活きし如く死しても然り。
たとへヂォヴヱ[13]が俺を最期に撃つた
あの鋭い電光を、恐れる彼に
渡した鍛工 も疲らすとも
或はたとへフレグラ[14]の戰の時のやうに
『善き・ルカノ[15]よ、助けよ、助けよ』と
呼ばはりつゝモンヂベルロ[16]の黒い鍛冶場に
殘りの鍛工 等[17]を交々疲らせ
彼の全力をもつて俺 を射るとも
60それにより心ゆく復讎をなし得まい」。
そこでわが導者は大なる力を入れて
「おゝカパネオよ、汝の傲慢の滅びないのが
即ち汝のいよ〜重い罰であるのだ。
汝の怒のほかにいかなる苛責も汝の憤怒に
適はしい苦痛がないであらう」と云つたが
かく烈しく彼の語るのを私は嘗て聞かなかつた。
かくて彼は稍顏を和げ、私に向かつて
云つた「あれはテエベを圍んだ七王[18]の
ひとりにて神を傷けたものだが
70今なほ然りと見えて神を崇めぬやうである。
然し俺 が彼に云つたやうに、彼の侮蔑は
彼の胸にいとも適はしい裝飾である。
され俺の後に來たれ、また尚ほ
心して燬けた砂に足をつけぬようにし
たえず森に沿うて辿れ」。
默して我等は一のさゝやかな小川の[19]
林より注ぎ出るところに來たが
その赤さは今なほ私を慄へしめる。
宛らブリカメ[20]より出て、後罪ある
80女逹の自ら分けとる流のやうに
砂を貫いてこの小川は下つた。
その底に傾く兩岸と又側 の
縁とは石と成つてゐたので
こゝに徑[21]のあることを私は識つた。
「閾を何人が通るも拒まぬ門[22]を
過ぎて我等が入つて以來
俺 が汝に示したもののうち
凡ての焔をその上に死なす[23]
この流れほど著しいものが
90汝の眼には見られなかつた」。
これわが導者の言葉であつた。
そこで私は願ふ心を私に惠んだ彼に
食物をも惠まんことを求めた[24]。
彼は即ち云つた「中央の海[25]に
荒れた地があつてクレタ[26]と稱へられる。
そこの王のもとに世界は嘗て純潔であつた。
彼處にイダ[27]と呼ばれる一つの山がある。
嘗ては水と葉に嬉々としてゐた。
今は古びたもののやうに荒れ果つ。
100レア[28]が嘗てこれを選んでその幼兒の
頼もしき搖籃とし、その泣く時に良くこれを
蔽ひ得るやう其處に叫びを起させた。
山中にひとり大なる老人[29]が直立し
肩をダミアタ[30]の方に向け、また己が
鏡にむかふが如く羅馬を眴 る。
彼の頭は純金にてつくられ
また腕と胸とは純銀である。
それより叉 までは銅である。
そこより下は精鐡であるが
110たゞ右足のみは燒土にて
然かも他の足よりも此方によつて直立する[31]。
黄金のほかは何れの部分にも
一つの裂目が生じて涙が滴り
集まつてかの岩巖をうがつ[32]。
その水路は岩をかすめて此谷に至り
アケロンテ[33]、スティヂェ[34]、またフレヂェトンテ[35]となり
後この狹き溝に沿うて下りゆき
遂にその上くだることなき處に至つて
そこにコチト[36]となる。この水溜の状は
120やがて汝は見るので、こゝに語らない」。
そこで私は彼に「もしこの流が
我等の世より斯く出るとすれば
何故にこの縁[37]のみにて我等に現はれるのか」。
すると彼は私に「汝はこの處の圓きを知る。
汝の來たること遠しと雖
常に底にむかひ只管 左へ[38]と下るゆゑ
まだ環を汝は全く廻つてゐない。
されば新しいものが我等に現れるとも
驚愕 を汝の顏に齎らすべきでない」。
130そこで私は再び「師よ、フレヂェトンテと
レエテ[39]は何處ぞ。蓋しその一つのことは默し
また一つはこの雨より成ると汝はいふ」。
彼は答へた「げに汝の問は凡て俺 を
悦ばす。然し赤き水の沸騰が
汝の問の一つを良く解いた筈である[40]。
レエテはやがて見るであらうが
この濠の外[41]、罪業の除かれた時魂が
自ら洗ひにゆく彼處 にある」。
かくて彼は云つた「さて森と
140去るべき時である。俺の後 に來たれ
燃えざる縁が道となり
一切の火氣がその上に消える」。
地獄第七環の第三圓に至れば神に暴行を加へしものら乾ける熱砂の上を歩み、 火の襞永劫に降り注いで彼等を苛責す。カパネオこの中にあつて尚ほ屈せず冐涜の言を發す。 やがて血に流を見・ルヂリオはイダ山中の老巨人のことをダンテに告ぐ。
堅き縁の一つが今我等を運び
また小川の煙は上を蔽ふて
水と石堤とを火より救ふ。
グヰッツァンテ[1]とブルッヂァ[2]の間にフィアンドゥラ人が
おのれの方に寄せくる波濤を恐れ
海を走らしめんため防ぐものを造り
またブレンタ[3]に沿へるパド・人が
キアレンタナ[4]が熱を覺えぬ前に
己が町々と己が城とを防ぐために然する如く
10この堤も斯かる形に造られてゐた。
但し工匠 は、誰であつたにせよ[5]
これを斯く高くも斯く厚くも造らなかつた。
既に我等は林より遠く距り
いくら身を後 に囘 らしても
その在處 が私に見えなくなつた頃
石堤に沿ふて來る魂の一群に
我等は出遇つた。すると夕暮
新月の下に人が人を見るやうに
彼等は各我等を眺め、また老いたる
20裁縫師が針の目を通すやうに
我等の方へ眉を尖らした。
かゝる一族に斯く眼をつけられて
私はその一人に識 られた。彼は私の裾[6]を
捉へて叫んだ。「何たる驚愕 よ」。
そこで彼がその腕を私に伸ばした時
その焙 けた容 に眼を注いだが
焦げた顏もわが智解を妨げずに
彼を識らしめた。即ちわが顏[7]を
彼の顏に埀れて答へた
30「卿 はこゝに居給ふか、セル・ブルネット」。[8]
すると彼は「おゝわが子よ、ブルネット・ラティニが
少しく汝と共に後 にかへり
かくて行列を進ますとも汝忌ふ勿れ」。
私は彼に云つた「それは我力の限り願ふ所
汝又わが汝と共に坐するを願ひ、其事が彼處に
居る者の意 に適へば然するであらう。蓋し私は彼と共に行く」。
彼は云つた「おゝ子よ、此群の中一瞬にても
とまるまる者あれば、その後百年うち臥して
火おのれを撃つも自ら扇ぐに由なし。
40されば進み行け、俺 は汝の衣について行き
やがて己が永劫の罰を哭きつゝゆく
わが一隊に再び結ばるであらう」。
彼と並びゆくべく私は敢て
途よりくだらず、たゞ恭しく
歩む人のやうに頭を埀れてゐた。
彼は始めた「最後の日以前[9]に、何の運命
または定命 が此下界に汝を導くか。
また路を示すこの者は誰か」。
私は彼に答へた「高くかの上
50朗かな世にて、わが齡の滿たぬ前[10]
とある谷に私は迷ふた。
これに私が背を向けたのはつひ昨日の朝[11]である。
彼處 に歸らうとする私にこの者[12]が現れて
この徑に沿ひ私を家[13]に導く」。
すると彼は私に「佳 しき世にて我識 つたことが
正しいとすれば、汝の星に從ふ限り[14]
汝は榮光の港を失ふことがない。
またかく夙く俺が死ななかつたならば[15]
天の斯く汝に惠み深きを見て
60俺は汝の事業を勵ましたらうに。
しかし昔フィエゾレ[16]より降り
今なほ山と磐石 とを携ふ[17]
かの邪惡な忘恩の人民は
汝の善行ゆゑに汝の敵とならう。これは亦
當然である。蓋し酸 き清涼茶のなかに
甘い無花果の實を結ぶは適はしくない。
世の古き名聲が[18]彼等を盲と呼び
貪婪、嫉妬、傲慢の民である。
汝自らを彼等の風習より磨き潔めよ。
70汝の運命は大なる譽を汝の爲に備へる故
彼我兩黨[19]が飢えて汝を見るであらう。
しかし草は牡山羊より遠くあらう。
フィエゾレの獸等に己を敷藁となさせ
もし植物がその糞 のうちに生じもせば
これに觸れしむるなかれ[20]。
この處が斯かる邪惡の巣になつた時
こゝに殘れる羅馬の聖き[21]裔 が
これによつて再び活きるであらう」。
私は彼に答へた「わが求めが悉く
80充たされたらんには、汝は未だ
人の象 より逐はれずにゐたであらう[22]。
蓋しにあつて人の永遠に入る道を
常に私に教へ[23]たまふた當時の
汝の慕 かしく善き父らしい像 が
わが記憶に粘いて今尚わが心をそゝる。
また私がこの教にいかに感佩するかは
わが活きる間の我言葉によつて識られよう。
わが行末につき汝の述べる處を私は録 して
他の本文とともに貯へ置く[24]。やがてかの貴女に[25]
90至る時、彼女は知りてこれを釋 き示すであらう。
たゞ汝に示したい一事は
わが良心の私を責めざる限り
いかなる運命をも私が覺悟してゐることである。
かゝる手附金 [26]は我が耳に新しくない。
されば運命に好むがまゝ、その輪を
めぐらせ、農夫には其鶴嘴 を振らしめよ」。
この時わが師は右の方より
後に向いて私を見て云つた
「良く聽く者は心にとめる者である[27]」。
100 かゝる間も私はセル・ブルネットと
語りゆくことをやめず、その最も著しく
最も秀 れた伴侶 は誰々であるかと問ふ。
すると彼は私に「數人について知るのは善い
その他については默するこそ賞むべけれ。
蓋し時短うして斯く多く語り得ない。
要するに彼等は皆世にあつて同じ
一つの罪に汚された僧侶と
大なる名ある學者であつたと知れ。
プリシアノ[28]とフレンチェスコ・ダッコルソ[29]が
110此慘ましい群と共にゆく。汝また願を
斯かる痂 [30]にかけんか、『僕等の僕[31]』によつて
アルノ河[32]よりバッキリオネ河[33]に移され
そこに惡に伸びた神經を
棄てた彼[34]を尚ほ見得たであらう。
このほかにまだ擧げたいものがあるが
砂よりあがる新しい煙[35]を彼方に見るがゆゑ
俺 はこの上行くことも語ることも能 きない。
わが共なるべからざる民が來た[36]。
俺はわが『テゾロ』[37]のうちに活く。
120これを汝に薦めたい。その他を俺は求めない」。
かくて彼は身を囘 し、宛ら
緑の纒衣を得んとて・ロナの郊野を
走る人[38]のやうに見え、然も勝つものの如く
敗けるもののやうではなかつた。
堤に沿ひて第七環第三圓の第二種の罪人即ち男色家の火雨にうたれつゝ群を成して來るに遇ふ。 ダンテその中にブルネット・ラティニを見付け、己が將來を豫言せしめ、 また群の中の顯著なるものゝ名を擧げしむ。
既にして次の環[1]に落つる水の
反響が宛ら蜂の窠の唸るやうに
聞えたところに私は來た。
その時三つの影が走りつゝ
凄い苛責の雨をくぐつて
過ぎる一隊[2]をひとしく離れ
我等の方に來て各叫んだ
「衣により[3]我等の墮落せる
地の者と見える汝、止まれ」。
10 吁何たる傷を彼等の肢體に私は見たかよ
焔に燒かれて新しきあり古きあり
想ひ起すだに今尚心苦し。
彼等の叫びに我師は心を留め
顏を私の方に向けて云つた
「さて待て、彼等に慇懃たらねばならぬ。
されば若し處の性質上火を射ないならば
急ぐべきは彼等よりも寧ろ
汝自身であると云はねばならぬ[4]。
我等が止まるや彼等は再び
20 古い歌[5]をうたひ、やがて我等に追付くや
三人が皆寄りあうて一の輪をつくつた[6]。
裸にて膏 を塗り、撃ちあひ
突きあふ前に常に取組む
隙をうかがふ鬪士等のごとく
彼等も亦廻つて皆顏を
私にむけ、かくて頸はたえず
足と異なる方に進んだ[7]。
そのひとりが始めた「この柔 い處の慘さと
我等の黜 み爛れた容 とが
30 よし我らと我等の願とに輕蔑を招くとも
ねがはくはわが名聲が汝の意 を曲げ
活ける足にて斯く安らかに地獄を擦りゆく
汝の誰であるかを我等に告げしめよ。
汝の見るごとく、俺 に足跡を躪 ましめる
この者は全く裸にて毛なく[8]歩むが
汝の思ふよりも位大なるものであつた。
彼は善きグワルドゥラダ[9]の孫にて
名をグヰド・グヱルラ[10]と云ひ、世にあるうち
智と劔とにて多くのことをした。
40俺の後 に砂を踏みにじるは
名聲の上の世界に稱へらるべき
テッギアイオ・アルドブランディ[11]である。
また彼等と共に十字架に懸けられる[12]俺 は
ヤコポ・ルスティクッチ[13]であつたが
げに猛き妻が何者よりも俺を害 ふ」。
もし火を防ぎ得たならば私は身を
彼等のうちに投げ入れたであらう。
師もこれを許したと私は信ずる。
しかも燒かれ烹られる身であつたので
50俺 に彼等を抱かんと貪らしたところの
わが善き意志 を恐怖が征服した。
そこで私は始めた「汝等の状 は
輕蔑にあらず、剥ぎ取らるゝこと
極めて遲き憂ひをわが衷に宿らす。
これは斯くわが主の言葉[14]いよつて
汝等の如き民が來ると
自ら私の識つたその時に始まつた。
私は汝等の邑 の者にて
常に慕つて汝等の行 と
60譽 とを語り且つ聞いた。
私は膽 [15]を棄て眞の導者により私に
約束せられた甘い果 を獲んとしてゆく。
然しまづ中心まで私は降りねばならぬ」。
その時彼は答へた「願くは
魂が長く汝の肢體を導き
また汝の名聲の汝の後に輝かんことを。
されば乞ふ告げよ、慇懃と武勇とが
昔ながらに我等の邑 にとゞまるや
或は全く去つて行つたか。
70蓋し我等と共に惱むこと僅かにして
彼方に我等の伴侶 とゆきグリエルモ・ボルシエレ[16]が
その言葉によつて大いに我等を憂へしめる」。
「新たな民[17]と急激な獲得とが
フィレンツェよ、傲慢と放埒とを汝の中に生み
汝は既にそれがために哭く。」
顏を擧げて[18]斯く私は叫んだ。
すると此を答と識つて三人は、眞 を聞いて
人の見交はすやうに彼等は見交はした。
皆が答へた「かく價ひ廉くいつか又
80人々を滿足せしめ得るならば
かく意 のまゝに語る汝は福なるかな[19]。
されば汝此等の暗き處をのがれ
再び美しき星を見んとて[20]歸り
『我はありき』と歡び云はん時[21]
願くは我等のことを民に傳へよ」。
かくて彼等は輪を破つて逃げ去り
その迅 き脛 は翼と見えた。
亞孟 の一語も彼等の消え失せたほどに
かく迅くは唱へないであらう。
90かくて師も去るを善しと見た。
彼に從ひゆくことを僅かにして
水の響がわれらにいと近くなり
語るも殆んど聞えぬほどであつた。
モンテ・・ゾの東方
アペンノニの左の裾に
初めおのが水路をとり
高處にあつて低き床に下らぬ前は
アックワケタと呼ばれ
フォルリにてこの名を空しうする流が[22]
100一時に落下して千を容るべき
サン・ベネデット・デル・アルペ[23]の
上に反響するごとく
かの色づく水の程なく
耳を害 はんばかりに鳴り響きつゝ
嶮しい堤より落ちるのを我等は見た。
私は身のまはりに一條 の繩を帶びてゐたが
曩にこれにて私は彩れる皮の
豹[24]を捕へようと思ふた。
導者の命ずるまゝに私は
110これを全く身より解き
結びつかねて彼に渡した。
すると彼は右側の方に向き
岸より少し離してこれを
かの深い峽 に投げ入れた。
「げに師の斯く眼を添ふ常ならぬ
相圖には、また常ならぬものが
應 へるに違ひない」と私は心の中に云つた。
あゝ只行ひを見るのみならず、その智にて
衷 なる思ひを看る者に伴ふ人は
120いかに細心なるべきぞ。
即ち彼は私に云つた「わが待つものが
直ちに上に來たり、かくて汝の心の
夢みるものが直ちに汝の眼に露 はにならう」。
僞の顏する眞 については
能ふ限り人は常に唇を噤むべきである[25]。
これ咎なくして耻を招くによる。
然し茲に私は沈默し得ない。さらば讀者よ
この喜曲 の節々によつて -- 願くは恩寵
これに永く盡きざれ -- 私は汝に誓ふ。
130私は濃い暗い空氣のうちに
いかに堅き心にも怪しまれる
一の形象 の泳ぎつゝ上り來るを見た。
その状は宛ら礁 その他海中に
潛むものの掴む錨を解くため
時々下りゆく人が上に伸び
足を窄 めて歸るやうであつた。
ダンテ更に進みゆき、凄き火雨を潛つて三罪人の馳せ來るを見る。 そのひとり此苛責の中にあつて尚ほ故國を忘れず、フィレンツェの慘状に對するダンテの慨嘆を聞いて悲しむ。 やがて第七環の端に至り、紐を投ずれば怪物ヂェリネオ浮び來たる。
「尖れる尾をもち、山々を越え
又城壁と武噐とを毀つ野獸[1]を見よ
全世界に惡臭を放つものを見よ」
かくわが導者は私に語り始め
我等の過ぎて來た大理石の端[2]近く
岸に來るやうに彼に相圖をした。
すると欺瞞のこの忌まはしき像 が來て
頭と胸部とを堤に擡らせたが
尾は堤のうへには曵かなかつた。
10その顏は義しき人の顏にて
皮の面 にはいかにも仁慈を漾 ふはし、
胴はすべて蛇であつた[3]。
二本の前足は腋まで毛深く
背と胸と兩脇とには
輪索 [4]と小圓楯 [5]とが描かれてあつた。
タウタロ人またはトゥルコ人[6]の造れる
織物の地も刺索 も此程多くの色はなく
アラニヱ[7]も斯かる布を織つたことがない。
往々岸に小舟が一部水中に
20一部陸上にあるやうに
また彼方饕食の獨逸人等[6]の間に
海貍がその戰ひをなさんとて[9]身構ふやうに
いと惡しき此野獸は
砂を鎖す石の縁 に止まつた。
蠍の状 に[10]に尖 を武裝せる
毒々しい叉 を扭 ぢ上げ
尾は全部虚空に震ふてゐた。
導者は云つた「今少し我等の道を
曲げて彼等にうち臥す
30かの惡しき獸のもとに行かねばならぬ」。
そこで我等は右胸[11]の方に降り
砂と焔とを善く避けんため
端を行くこと十歩[12]
やがて彼のもとに來た時私は
尚少し前 の空處に近く
砂の上に民[13]の坐しをるを見た。
こゝに師が私に云つた「この圓の
知識を皆悉く携へ去らんため
汝今ゆきて彼等の状 を見よ。
40彼處 にて汝の話は短かれ。
汝の歸るまで俺 は此ものと語り
その強き肩を我等に容 させやう」。[14]
かくて全く獨り更に私は高く
第七環の際端 をつたひ
幽鬱の民の坐しをる處に進んだ。
彼等の憂ひは眼より迸りいで
此方彼方に或は火氣或は
焦土を手にて除けてゐた。
その状は夏蚤や蠅や蝱に刺される時
50犬が或は口端 にて或は
足にて掻くのに異ならず。
憂ひの火の落下する人々の
或るものの顏に眼を注いだが
私の識れる者がひとりもなく[15]
たゞ一定の色と一定の印のある嚢[16]が
各の頸より懸かり、これによつて
彼等の眼を養ふやうに見えるのを認めた[。]
彼等の間を見廻しつゝ行くうち
黄色の財布の上に淺藍色 の
60獅子の顏と姿[17]とを私は見た。
わが眺めが馳せ進んだ時
他の一つ血のごとく赤きに
牛酪よりも白い鵝鳥[18]を示すのを見た。
さてひとり其白い小袋に
淺藍色の孕める牝豚[19]を記號 とする者が
私に云つた「此濠の中に汝は何をするか。
夙 く立ち去れ。かくて汝は尚ほ生きをる故に[20]
知れ、わが隣人・タリアノ[21]は
やがて此處にわが左[22]の脇に坐するであらう。
70此等フィレンツェ人中にあつて俺はパド・人である。
『やがて三 の嘴ある嚢を携ふべき
卓 れたる騎士[23]よ來たれ』と叫びつゝ
屡彼等はわが耳を擘 く」。
かくて彼は口を歪め、鼻を舐 る
牡牛のやうに舌を突きだした。
さて尚も止まつて私は、たゞ暫く
止まれと誡めた[24]彼を惱まさんことを恐れ
疲れた魂どもを去つて歸つた。
わが導者の既に猛き獸の
80臀の上に乘りをるを私は見た。
彼は私に云つた「されば強く勇ましかれ
これより斯かる階 [25]によつて降る。
汝は前に乘れ、これ尾が害を加へ得ざるやう
俺 が間にあることを願ふからである」。
四日熱をわづらふ人の惡寒を迫れば
爪は既 や死の色を帶び
[※]を見たばかりに顫ひわななぐやうに
この言葉を聞いて私はうち慄ふた。
しかし彼の誡[26]が私を耻ぢしめた。
90これぞ主の前に僕を強からしむるものなれ。
私は身をその巨大な肩の上に置いた。
「さらば汝私を抱けよ」と云はうとしたが
思ふやうに聲が出なかつた。
しかし前に他の危險より
私を救ふた彼は、私が乘るや
直ちに私を抱へ腕に支へて
云つた「ヂェリオネよ、いざ動け
輪は大きく、また下降は徐々たれ
汝珍らしき荷[27]を負ふことを思へ」。
100 小舟が處を出て後 へ後へと
行くやうに彼は其處をはなれた。
やがて全く身の浮ぶを覺えた時
彼は胸のあつた處へ尾をめぐらし
これを鰻のやうに伸ばして動かし
また足にて空氣を身に掻き集めた。
フェトンテ[28]が手綱を棄て、ために今なほ
見えるごとく、天が燬かれた[29]時も
また蝋が熱して慘ましきイカロ[30]が
腰より翼の捥 ぎとられるを覺え
110「惡い道を汝は辿る」と
彼に父の叫んだ時の恐れも
思ふに四邊空氣に包まるを見
萬象姿を滅して只野獸のみなるを
見た時のわが恐怖には優るまい。
緩く緩く彼は游ぎゆき
めぐつて下る、然し顏をうち
下よりする風によらずば私は此を識らず。
既にして右手にあたつて我等の下に
淵の怕ろしい轟音をあげるを私は聞いた。
120そこで私は眼を埀れて頭を伸べた。
すると火が見え悲嘆が聞えたので
斷崖の状に私はいよ〜竦 み
全く慄へつゝ身をひきしめた。
やがて四方より近づく大なる禍[31]により
前に見えなかつた下降と
廻轉とを私は見た[32]。
長らく翼を張つたが誘餌 も
鳥も見ず[33]「あゝ汝は下る」と
鷹匠に云はれる鷹が
130曩に素 ばやく立ち去つた處に今は
百の輪を描いて下り、飼主より
遠く離れ、憤り怒つて身を置くごとく
ヂェリオネは粗削りの巖の
麓の底にわれらを置き
荷の我等の身をおろすや
弦 を離れる矢筈のやうに消え失せた。
人面蛇身の怪物ヂェリオネ現る。ダンテ火にうたれて落涙せる高利貸共の群を見る。 彼等は尚ほ彩れる財布を頸より放たず。やがてダンテは・ルヂリオと共に怪物の背に乘つて地獄第八環へ降る。
地獄にマレボルヂェ[1]といふ處がある
その周圍をめぐる環[2]のごとく
凡て石より成つて鐡色をする。
この毒性 の曠野の眞中に甚だ大きい
深い一つの坎[3]が口を開く。
その構造はその處に至つて語る。
さて坎と高く堅い堤の裾との間に
殘る一帶 [4]は圓く
底は十の谷に分かたれる。
10 此等の谷は恰も城壁を
護るため濠が幾重にも
城をめぐるところの有樣に
似た像 をこゝに現してゐた。
また斯かる城寨には閾[5]より外の堤に
多くの小橋がかゝるやうに
岩橋 が岩根から出て
石堤と濠とを貫き
坎 に至り、斷たれて集まる[6]。
ヂュリオネの脊骨 より振り落とされて
20 我等はこの處にゐた。かくて詩人は
左にむかひ、私はその後に進んだ。
右手に新たな悲哀、新たな苛責
新たな鞭韃者にて
第一嚢[7]の充ちをるを私は見た。
底には裸の罪人等がゐた。
中央より此方のものは我等に面して來たり
彼方のものは我等と共に進むも其足が早かつた。
宛ら大會式[8]の年、群衆大なるにより
羅馬人等が民のため
30 橋の上を渡る方法を講じ
片側のものは皆額を「城[9]」の方に
向けて聖彼得 に行き、片側のものは
「山[11]」の方に行くのに似てゐた。
暗い岩の上には此方彼方に
角ある鬼が大なる鞭をもつて
酷 く彼等を後 から打つのを私は見た[12]。
あゝ最初の一打 にいかに彼等の
踵 を擧げたかよ。げに二打 三打 を
待つ者とては一人もゐなかつた。
40 進んでゐた時わが眼は
一人の者に遇ひ、直ちにかく私は云つた
「嘗てこの者を見ないではなかつた」。
そこで彼を見定めんとして足をとゞめた。
慕はしき導者も亦私と共に止まり
少しく後 に私の行くことを許した。
するとかの笞 たれる者は顏を埀れて
身を隱さうと思つたが叶はず。
即ち私は云つた「眼を地に投げる者よ[13]。
汝の携へる顏が僞らないならば
50 汝は・ネディコ・カッチアニミコ[14]である。
さて何が斯くも辛 きサルセ[15]に導いたのか」。
すると彼は私に「云ふを好まぬが
汝の明かな[16]言葉が俺 を強ひ
昔の世を俺にしのばしめる。
俺はギソラベルラ[17]を誘 うて
侯爵 [18]の意 に從はしたものである
(この耻づべき物語がいかに傳へられをるとも)。
また此處に哭くボロニア人は俺 のみでない。
否この處は彼等にて充ち滿ち
60 サ・ナとレノ河との[19]間にsipa[20]と
今云ふ習ふ舌の數も斯く多くはない。
この事の徴 または證 を願へば
われらの貪婪な胸を心に浮べよ」。
かく彼が語つた時一疋の鬼がその鞭にて
彼を打つて云つた「去れ、女衒
貨幣 にする女はこゝに居らぬぞ」。
私は身を我が護衞者に結んだ。
やがて數歩にして我等は
堤より岩橋の出てゐた處に來た。
70 いと容易 くこれに登り
破岩に沿うて右に廻り
此等永遠の環[21]より我等は去つた。
その下にうち開けて、笞 たれる者に
徑 を與へる處に我等が來た時
導者は云つた「止まれ、かくて不幸に
生まれし者等の顏を汝に向けしめよ。
我等と共にゆくゆゑに
彼等の顏を汝はまだ見なかつた」。
他の側より我等の方に來たり
80 おなじく鞭の追ひたてる一列[22]を
我等は古い橋より眺めた。
訊ねざるに善き師は私に云つた
「かの偉大なる者の來るを見よ
憂ひに涙を注ぐとも見えず
何たる王者の姿を尚ほ彼は保つぞ
彼は勇と智とにてコルコ人より
牡羊を奪ひしヂアソネ[23]である。
レンノ島[24]の大膽無慈悲な女逹が
その凡ての男を死に至らしめた後
90 彼はこの島を過ぎ
嚢に凡ての人々を欺いた乙女
イシフィレ[25]をこゝに彼は
印[26]と飾れる言葉とにて欺き
身重の彼女ひとり此處に殘した[27]。
かゝる罪が斯かる苛責に彼を罰し
尚まらメデア[28]の仇も報いられる。
凡てかく欺く者が彼と共にゆく。
さて第一の谷と其齒に咬へられる者を
識ることは此にて足れりとせよ」。
100 既にして我等は狹き徑 [29]が
第二の石堤と交叉し、これを
次の拱門[30]の肩とせる處に來た。
そこより次の嚢 に民の[31]嗚咽し
鼻端 を鳴らし、掌 にて
身をたゝきをるを私は聞いた。
下よりの吹息 は堤に粘 いて
これを黴 におほひ
眼また鼻とあらそふ。
底はいたく窪み、岩橋の
110 いとも高まる拱門の背に登らねば
何處 よりも能く見えなかつた。
そこに我等は行き、そこより私は
濠のうちに民がゐて、人の厠 から
來たと見えた糞尿に沈みをるを見た。
かくて下の彼方を眼にて伺ふうち
僧俗いづれとも分らぬほど[32]糞に
頭をいたく汚せる者を私は見た。
彼は私を叱つた「他 の汚 きものらを
措いて何ゆゑに汝は斯く俺 を貪り見るぞ」。
120 私は彼に「わが記憶正しとせば
嘗て私は乾ける髮の汝を見たことがある。
即ち汝はルッカのアレッツオ・インテルミネイ[33]である。
されば凡て他の者を措いて汝に私は眼を注ぐ。」
すると頭蘆[注:頭蓋の誤りか?]を打つて彼は
「阿諛が俺 をこゝに沈めた。
わが舌はこれに飽くことがなかつた」。
この時導者は私に云つた
「なほ少し顏を前に付き出し
汚れて髮を亂し、彼方に不淨の爪にて
130 身を掻き、即ち蹲り
忽ち足にて立つ
賤女の顏に眼を屆かせよ。
彼女は『汝は我に大いに謝するや』と
おのが情人の云ふた時『げに竒 しく』と
答へた遊女タイデ[34]である。
さてこれにて我等の眼を足らしめよ」。
ダンテ第八環に降る。第八環は十の嚢に區分せらる。 第一嚢には處女を弄びしヂヤソネ初め、女を誘拐せし者が鬼に鞭韃さる。 第二嚢には阿諛者糞尿に浸り、アテネの遊女タイデこの中にあり。
おゝシモン・マゴ[1]よ、おゝ慘ましき從者逹よ
善の新婦 たるべき神の物を
貪婪にも汝等は金のため
銀のため辱しむ。
汝等第三嚢にあるがゆゑ
今汝等に向かひ喇叭吹かるべし[2]。
既にして我等は岩橋が鉛錐に
濠の眞中に昂まる處に上 り
次の墳墓[3]に來てゐた。
10 おゝ至高の智惠よ、天に地に
又惡しき世[4]に示す技 のいかに大なるぞ。
又汝の力頒 つこといかに正しきぞ[5]。
側 にも底にも、大いさ皆一にして
いづれも圓い穴に充つる
鉛色の石を私は見た。
[此?]等は受洗者逹の場所として我が美しき
聖約翰 のうちに造られたもの[6]——
まだ幾年にもならぬ前私は其一つを毀つた。
これは其中に絶息せんとした者の爲であつた[7]。
20 されば此言葉が印となりて凡ての人の誤りを解け[8]
——より狹くも大きくも見えなかつた。
いづれの口よりも罪人の足
また脛 が腓 まで出て
ほかは皆中にあつた。
凡ての者の蹠 は二つとも火に燃え
ために關節はいと烈しく戰 ぎ
索 も紐も斷ち切るほどであつた。
脂氣あるものの焔が常に
たゞ表側 をすゝむやうに
30 こゝに踵 より尖 までが斯く燃えた。
「師よ、他の同僚 よりも烈しく
戰 いで苛 だち、一際 猛き[9]焔に
吸はれをるは誰か」と私は云つた。
すると彼は私に「尚ほ抵き[低き?]堤[10]に沿ひ
汝は彼より彼とその咎のことを知るだらう」。
そこで私は「女の悦ぶもの皆私に善し。
汝は主にして又汝の意 より私の離れぬを知り
またわが默しをる[11]事柄を知る」。
40 やがて我等は第四の石堤の上にゆき
轉じて左手 に降り
穴だらけの狹い底におよんだ。
善き師は斯く脛 にて哭 く者[12]の裂目に
私を到らすまで
その腰より私をおろさなかつた。
私は云ひ始めた「おゝ杙 のごとく
插されて上を下にする汝は誰か
傷 ましい魂よ、なし得べくば語れ」。
埋 められて後なほも死を延ばさんとて
50 不信の暗殺者に呼び止められ
その懺悔を聽く僧[13]のやうに私は立つてゐた。
その時彼[14]は叫んだ「汝は既に其處に立つか
ボニファチオ[15]よ、汝は既にそこに立つか。
書 [16]が俺 を僞つて數年を違 へた。
かの産に斯く夙 く汝は飽いたのか。
汝はそのために美しい『貴女』を欺いて[17]捉へ
次いで恐れず彼女を虐げた」。
答の意味が分からず
恰も嘲けられしものの如く立ち
60 何と答ふべきかを知らぬ人のやうに私は佇 んだ。
すると・ルヂリオが云つた「私は
汝の思ふ彼でない彼でないと云へ」。
そこで命ぜられたやうに私は答へた。
すると靈は足を悉く扭 た。
かくて嗟きつゝ又涙ぐむ聲にて
私に云つた「さて汝は俺 に何を求めるのか。
俺の誰であるかを知らうと願ふあまり
かく堤を馳せ下りたとすれば
知れ、俺は大なる外套 [18]を纒ふたことがある。
70 げに俺 は『牝熊』の仔[19]にして
仔熊の繁榮にいたく熱中し、地上にては
財寶 を、こゝにては身を財布[20]の中に入れた。
俺は先んじて『シモニア』を行つた人々が
わが頭の下に曵き込まれて
巖の裂目に平たくなつてゐる。
前 不意な問ひをかけて俺が
汝と思ひ違へた彼が來る時
俺は順に下へ落ちてゆく。
然し俺が足を焙 り斯く逆 に
80 なりをる時の長さは、やがて彼が
足を赤くし插されて止まる時に優る[21]。
即ち彼の後に法を無視し
行 いよ〜醜く、彼をも俺 をも蔽ふに足る
ひとりの牧者[22]が西方[23]より來るであらう。
彼はマッカベイのうちに人の讀むヂアソネ[24]の
再來となり、王が彼に甘かりしごとく
彿蘭西 を治める者がこれに甘くあらう」。
こゝに私がたゞ斯る節 をもつて彼に答へたのは
餘りに愚であつたか否やを知らない。
90 曰く「あゝ今私に告げよ
我等の主が鍵を聖彼得 に委ねんとして
若干 の寶 を求めたまふたか。
げに求めたまふたのは『我に從へ[25]』に外ならなかつた。
また罪ある魂の失つた位に
鬮 にてマッティアが撰ばれた時[26]
彼得 も他の弟子逹も彼より金銀を取らなかつた。
されば汝止まれ、汝の罸は宜 し。
かくて汝を大膽にしカルロ[27]に
背 はしめた不義の財寶 を良く護れ。
100 悦ばしき世にて汝が握りし
至高の鍵の尊敬が
今も尚ほ私を禁 めないならb
更に嚴しい言葉を私は用ひたであらう。
蓋し汝等の貪婪は世界を悲しませ
善き者を蹂躙して悖 れる者を擧げる。
水上に坐する彼女[28]が諸王と
淫するを見た時、福音者[29]の
心にあつたのは汝等牧者逹であつた。
即ち七つの頭をもつて生まれ
110 徳がその夫に慕はれた間
十の角よりその證 を得た女[30]である。
汝等は自ら金銀を偶像とした。
かくて汝等と偶像禮拜者の違ひは何ぞ。
彼等[31]は一を汝等は百を拜む[32]、只それのみ。
あゝコンスタンティノ[33]よ、汝の改心にあらず
初めの富める『父[34]』が汝より受けし
その賜物が何たる禍の母となつたかよ」。
さて私が斯かる節 を彼に歌ひをる間
彼を噛んだのは忩怒 か良心か
120 彼は烈しく二つの蹠 をゆすつた。
私は正 に確信する、此事がわが導者の
意 に適ひ、いかにも滿足氣な顏をして
彼はわが吐く眞 の言葉の響きに心をとめた。
やがて兩腕にて私を捉へ
かくて私を全く抱き上げるや
嚢に降つた道を再び登つた。
また私を身に抱き緊張めて疲れず
第四より第五の石堤へかよふ
拱門の頂の上まで私を運んだ。
130 巖橋粗く嶮しくして山羊にも
難い途であつたので
こゝに彼は靜かにその荷[35]を下ろした。
こゝより次の大きい谷が私に露 はれた。
ダンテ第三嚢に至り僧職乃至聖物を賣買せし罪人を見る。 彼等は倒に石の穴に插し入れられて足のみを外に出し、 その蹠は焔を擧ぐ、こゝに法王ニコロ第三世の罰せらるゝを見、ダンテは教會腐敗を長嘆す。
新たな刑罰を詩として私は
沈淪者をうたふ第一歌[1]
第二十曲の題材とせねばならぬ。
既にして我等は苦惱の涙を
浴びた露 な底の
まともに見える處に至り
圓い大谷に沿ふて民[2]が
この世の祈祷の行列の歩みにて[3]
默して哭きながら來るのを見た。
10 わが眺めが尚ほ低く彼等にくだるや
いづれも顎と上胸 のあひだが
あやしく歪んで見えた。
即ち顏が腰の方に反れて
前方 を見得ないので
彼等は後 に行かねばならなかつた。
嘗て中風にひきつけられて
かく全く歪んだ人もあらうが
私は見もし又あらうとも思はない。
讀者よ、神汝をして讀みて果 を
20 摘ましめ給はんことを、されば今自ら思へ
我等と同じ像 のいたく扭 れ
眼の涙が背筋をつたうて
臀を濡すのを間近に見た時
何で私は顏を乾かし置き得ようぞ。
堅き岩橋の巖の一つに凭れて
眞 に私は泣いた。そこでわが導者は
私に云つた「汝はなほ愚人の輩 なのか。
憐憫全く死する時敬虔がこゝに活きる[4]。
神の審判 にむかひ憫情 をおこすに
30 優つて罪大なるものは誰ぞ。
頭 をあげよ、あげて彼を見よ。
彼にむかひ地がテエベ人の眼前に開けた。
その時人々が皆叫んだ『何處 へおちるのか
アンフィアラオ[5]よ、何ゆゑ戰ひを廢 めるのか』。
しかも彼等は落下して止まらず
遂に萬民を捉へるミノス[6]に逹した。
見よ、彼は雙肩を胸とするを。
餘りに前を見ようとしたため
後 を見つゝ逕を退きゆく。
40 ティレシア[7]を見よ。彼は
姿をかへて男より女となり
肢體を全くとりかはした。
後再び男性の羽毛[8]を獲んため
彼は絡みあふ二疋の蛇を
まづ杖にて更に打たねばならなかつた。
この者の腹を背にするは
アロンタ[9]にて、下に住む
カルララ人の草とるルニ[10]の山上
白き大理石[11]の間に巖窟を
50 おのが住家 とし、遮られずに
そこより彼は星と海とを眺めた。
また胸は亂れ髮に蔽はれて
汝に見えず、毛のある肌を
全く彼方に向けをるはマント[12]にて
彼女は諸國を探 ね廻つた後
俺 の生まれた處[13]に止まつた。
されば乞ふ少しく俺に耳傾けよ。
彼女の父が世を去つて
バコの都[14]が奴隸となるや
60 彼女は長い間世界を漂浪 うた。
上[15]の美しい伊太利亞ティラルリ[16]を
蔽うて獨逸を鎖すアルペの麓に
一の湖が横たはりベナコ[17]と呼ばれる。
ガルダ1[8]と・[※,ル?]・カモニカ[19]の間の
確かに千餘の泉によつてアペンニノ[20]は
洗はれ、その水がこの湖に湛える。
その中央に一つの處があつて、トゥレント
ブレッシア、・ロナの牧者逹が此路を探らんか
いづれも此處に記號 を切るであらう[21]。
70 美しき堅き要害ベッシエラ[22]は
ブレッシア人ベルガモ人[23]に而して
周圍 の岸邊のいと低き處に坐す。
ベナコの懷に止まりえぬもの
必ずみな此處に落ち
流となつて緑の牧塲をくだる。
馳せんとて水が頭を向けるや
もはやベナコにあらず、ゴ・ルノ[24]に至りて
ポオにおちるまでミンチオと呼ばれる。
水路久しからずして平地にあひ
80 そのうちに擴がつて沼となり
夏は屡人をなやますを常とする。
この處を過ぎようとして
酷き處女 は澤の眞中に
耕さ無人の地を見た。
そこに人間一切の交際を避け
おのが技 [25]を行ふため其僕逹と止まり住み
かくて其處に彼女の形骸 を殘した。
後あたりに散りをりし人々が
四方にある澤のために堅固な
90 この處にあつまつた。
死せるこの骨の上に彼等は都を建て
初めてこの處を選んだ彼女の因み
他の卜筮 [26]によらで此をマント・[27?]と名づけた。
カサロディ[28]の愚昧をピナモンテより
欺瞞を受けなかつた前
その中を民も嘗ては尚ほ密 であつた。
されば俺 は汝に教へる、わが都の
起原 [28]が他にありと聞くとも
僞りに眞 を欺かしめざれ」。
100 そこで私は「師よ、汝の陳ぶる處は
私にとり極めて確かにして我が信を獲たゆゑ
他の説は私には燃え盡きし炭であらう。
然し進みゆく民のうちに、目を注 むるに
足る者を汝見んか、私に告げよ
蓋し我心はたゞ此ことに向く」。
すると彼は私に云つた「頬より
黜 む肩に髯を埀れをるは
希臘 が男子を缺き
搖籃
に殆んど殘らなかつた時[29]の
110卜筮 者[30]にて、カルカンタ[31]と共にアウリデ[32]に
最初の纜 の斷たるべき時を彼は告げた。
彼の名はエウリピデといひ、俺 の高き
悲曲の何處[33]かに彼をかく詠じてゐる。
その全體を知れる汝は此事を良く知る。
次に兩脇のいと乏しきは[34]
ミケレ・スッコト[35]にて、げに魔術的
欺瞞の術を知つてゐた。
グヰド・ボナッティ[36]を見よ、アスデン[37]を見よ
彼は革と絲とに心を注ぎしものをと
120 今ねがふも改悔は遲し。
針、梭 、紡錘 を棄てゝ
卜者 となつた悲しい女逹を見よ。
彼等は草[38]と人形[39]とにて魔術を行ふた。
しかし今來たれ、カイノと
荊棘 とは既に兩半球の境を占め[41]
シビリア[42]の下の波に觸れてゐる。
昨夜[43]月は圓かつた。
これは深林のうちにて屡汝に
害なからしめた故良く汝は覺えてゐよう」。
130 かく彼は私に語り、語る間も我等は進んだ。
ダンテ第四嚢に至り魔術者卜筮者等の罰せらるゝを見る。 潛越にも未來を豫斷せし彼等は首を後方に扭ぢられて歩む。 その中マントと稱する妖女・ルヂリオの故郷マント・の起源を詳しく説く。
このほかわが喜曲 の歌ふを
ねがはぬことどもを語りつゝ
かう橋より橋に行つて頂[1]に至つた時
我等はマルボルヂェの次の割目と
次の空しい嘆きを見ようとして止まつた。
かくてその怪しく暗いのを私は見た。
冬、・ネツィア人の船廠[2]に
彼等の康 かならぬ船を填 め塗るため
粘り強き瀝青 が煮えるやうに——
10 これ彼等が航海し得ないからであつて
その代りに一人は己が新しき船を造り
また一人は多くの航路を重ねた船の脇を塞ぎ
ひとりは舳 に又ひとりは臚に釘うち
或るものは櫂を造り又或る者は綱を綯 ひ
ひとりは前帆後帆をつくらふ——
下には火によらず、神技 によつて
濃い瀝青 が煮え
堤の到る處を塗り散らしてゐた。
私は此を見たが、煮え上る泡のほか
20 何ものもその中に見えず
凡て膨 れ、また縮まつて退いた。
私が凝呼 と下を眺めてゐた時
「看よ、看よ」と云つてわが導者は
私の立つてゐた處から私を己にひき寄せた。
そこで逃げて避くべきものを
見ようと焦慮 るも
忽ち恐れて氣がくぢけ
見ながら停 まらずに去る人のやうに
私は振りかへり、我等の後 より一疋の黒き
30 鬼が岩橋に沿うて馳せ上り來るのを見た。
あゝ彼の姿はいかに獰猛なりしぞ。
また翼を擴げ足輕き彼の擧動 の
いかに凄く私に見えしぞ。
鋭く聳える彼の肩に
ひとりの罪人の兩腰を負ひ
その足の腱を固く攫んでゐた。
我等の橋の上より彼は云つた「おゝマレブランケ[3]よ
見よ聖 ツィタ[4]のアンツィアニ[5]のひとりを。
彼を沈めよ、俺 は斯かる者を
40 多く備へ置いた邑へ再び歸る。
彼處 にはボントゥロ[6]のほか悉く汚吏である。
否 が金錢 のために然 とせられる」。
彼を投げ入れ、堅い岩橋に沿うて
歸つたが、放たれし猛狗も
かく迅く盜人を追ふたことがない。
彼は沈み、身を褶 んで浮び上がつたが
橋に蔽はれてゐた鬼共は叫んだ
「聖顏 [7]もこゝには無用だ。
こゝはセルキオ[8]とは泳ぎ工合が違ふ。
50 故に俺等 の鐡把 を好まないならば
瀝青 の上で態 を浮ばすな」。
かくて彼等は百餘の鉤 の齒を彼にかけて
云つた「こゝは蔽 れて汝の踊る處なので
能 きればひそかに盜んで[9]せよ」。
料理人がその僕に肉を鉤 にて
鍋の眞中に沈めさせて
浮ばしめないのもこれに異ならない。
善き師は私に云つた「汝のこゝにゐるのが
見えぬやうに破岩 のうしろに
60蹲踞 まつて汝を蔽ふ物とせよ。
また俺 に加へられる何んな害にも
汝は恐れるな。嘗て一度[10]掛るゝる掛引に
遇つたので此等のことを俺は識つてゐる」。
かくて橋頭を渡つて彼方に行き
やがて第六の堤に逹するや
彼は凛然たる額を見せねばならなかつた。
止まる處にて突 しぬけに
物を乞ふ貧民に馳せかゝる
群犬のやうに憤怒激動して
70 彼等は小橋の下より出で來たり
魚杈 を悉く彼に差しむけた。然し彼は
叫んだ「汝等いづれも兇惡ならざれ。
汝等の鍵が俺 を捉へるまへに
汝等の一人が進み出て俺に聽き
かくて後俺をひき掛くべきかを圖れ」。
一齊に彼等は叫んだ「マラコダ[11]を行かしめよ」。
そこでひとりの者が進み出て他は止まつた。
彼は「これが彼の何の益になる」と云ひつゝ來た。
わが師は云つた「マラコダよ
80 神意と幸運によらずして今まで
すべて汝等の妨害を受けずに俺 が
こゝに來るを得たと汝は思ふか。
我等を行かしめよ、俺 が荒れた路を
ひとりの者に示すは天意による」。
そこで彼の驕傲がくぢかれ
鉤 を足もとに落として他の者等に
云つた「かくては彼を撃てない」。
そこでわが導者は私に「おゝ汝
橋の破岩の間に蹲踞 まつて坐する者よ
90 汝今安んじて俺に歸れ」。
即ち私は進み急いで彼のもとに來た。
すると鬼共も皆前に出たので私は
彼等が契約を守らざらんことを恐れた。
嘗て契約[12]によつてカプロナ[13]を出た歩兵隊が
自ら夥しき敵の間にゐるを見て
また斯く恐れた[14]のを私は見た。
私は全身をわが導者に寄せ添はせ
善からぬ彼等の貌 より
眼を背 けなかつた。
100 彼等は鉤 をおろして「俺が彼の臀に
觸ることを汝はねがふか」とひとりが他の者に云つた。
すると彼等は答へた「然り一撃を彼に試みよ」。
然しわが導者と話してゐた鬼が
急ぎ振り返つて云つた
「止めよ、止めよ、スカミリオネ」。
かくて彼は我等に云つた「第六の拱門は
悉く碎くかれて底にある故、この岩橋に沿うて
この上行くことが能 きない。
されば汝等なほも進まんとせば
110 この岩窟に沿うて行け
近くにいま一つの岩橋[15]があつて道となる。
この道がこゝに毀たれて以來
昨日より今の五時後 にて
一千二百六十六年が滿ちた[16]。
身を乾かすものの居るや否やを看んため
俺 はわが部下のものを彼處 の方に遣す。
汝等彼等と共にゆけ、彼等は害を加へない」。
そして彼は云ひ始めた「アリキノと
カルカブリナ、また汝カニアッツオも前に出よ
120 バルバリッチア、汝は十 のものを率ゐよ
リビコッコとドゥラギニアッツオ、牙あるチリアットと
グラフィアカネ、ファルファレルロと
狂亂のルビカンテ進みゆけ[17]。
煮える鳥黐 の周圍 を巡り
この洞窟の上に汎くかゝる[18]
次の破岩 まで此等の者を護送せよ」。
私は云つた「おゝ師よ、わが見るこれは
何ごとぞ。あゝ汝道を知らば護衞者なしに
我等のみ行かしめよ、私自らは彼を願はない。
130 汝平常 の如く心さとからんか
彼等が齒をかみ合はせ、又眉にて
我等に災 の兆 を見ないか」。
すると彼は私に「汝の恐れないことを望む。
彼等の意 のまゝに切齒せしめよ。
彼等の斯くするは煮える苦難者に對してである」。
轉じて彼等は左の石堤を辿つたが
まづ各その頭 に向かひ相圖として
舌を齒にて緊め
頭 はまた臀を喇叭とした。
ダンテ第五嚢に至り職權を濫用して私利を圖れる汚吏の罰せらるるを見る。 彼等は煮ゆる瀝青の濠に漬り、鬼共に嚴しく監視さる。 やがて一群の鬼を伴ふてダンテは堤にすゝむ。
嘗て騎兵が陣をすゝめて
飛躍を始め、その軍容を整へ
時には逃げんとして去るを私は見た。
おゝフィレンツェ人よ、或は喇叭、或は鐘[1]
或は太鼓、或は城の相圖[2]
或は本國異國のものにあはせ
進み寄るもの、侵し入る者を
汝等の地に見、また武を競ひ
馬上に馳せあふのを私は見た。[3]
10 然し未だ嘗て斯く異樣の笛[4]に合はせて
騎兵または歩兵の動き、陸または
星を標 に船の進むを見なかつた。
われらは十疋の鬼と共に進んだ。
あゝ猛き伴侶 よ、然し聖徒と
會堂に、饕食家と酒店 に。
嚢 とその中に燃える民の状を
悉く見ようとしてわが心は
瀝青 の上にのみ注がれた。
背の弓によつて水夫等に
20 相圖をし、その船を救へと
さとす海豚 のごとく[5]
苦痛を輕くせんとて時々
罪人のひとりが背を露 はし
電光よりも迅くこれを蔽す。
また濠の水の縁に蛙どもが
たゞ鼻端 を出して
足と他の太いところを蔽すやうに
罪人等は到る處に浮いてゐた。
しかしバルパリッチアが近づくや
30 彼等はまた斯く沸騰の下に退いた。
蛙が一疋殘つて他 の一疋が飛び込むことが
あるやうに、ひとりの者の待ち居るを
私は見た。これを思ふて今尚ほ我が心は戰 ぐ。
いと近くに面してゐたグラッフィアカネは
瀝青 に塗 れた髮を鉤 にかけて曵き上げたので
彼は水獺 のやうに見えた。
既にして私は彼等凡ての名を知つた。
即ち彼等が擇 り出された時[6]心を留め
後また彼等が互に呼ぶ状に耳を傾けた。
40 「おゝルビカンテよ、汝爪を背にかけ
斯くて彼奴の皮を剥げ」と
呪はれし者共が皆一齊に叫んだ。
そこで私は云つた「わが師よ
汝なし得ば、おのが敵の手に落ちし
慘ましき者の誰であるかを知れ」。
わが導者はその側に寄り添ひ
いづこの者かと彼に訊ねた。すると彼は
答へた「俺[7]はナ・ラ王國の生れであつた。
俺 を生んだのは無頼漢にて
50 身をも己が物をも持ち崩したので[8]
わが母は俺 をひとりの主の僕にした。
後俺は善き王テバルド[9]の家に入り
そこにて俺は瀆職の行 に身を委ね
そのためこの熱の中に償ひする」。
豬のごとく口の兩端より
牙の出てゐるチリアットが亦
その一の切味を彼に知らせた。
惡い猫のなかへ鼠が來たのである。
然しバルバリッチアは彼を腕に抱きしめて
60 云つた「俺 が彼を挾む間、退 いてをれ」。
かくてわが師に顏を向けて云つた
「汝なほ知らうと思ふことがあれば
ほかの者等が害 はぬ間に進んで彼に訊ねよ」。
導者「さらば今ほかの罪人等のことを語れ。
此瀝青 の下に汝の知れるラティオ[10]の者が誰かゐるか」。
すると彼は「彼處[11]にてその隣人であつた者[12]に
俺 は少しさき別れて來た。
もし彼と共に尚も蔽れてゐたならば
爪も鉤 も恐れなかつたのに」。
70 その時リビコッコは「俺 等は忍び
過ぎた」と云つて腕を銛 にて捉へ
かくて引き裂いて肉片を取り去つた。
ドゥラキニアッツオ、彼も亦低く脛 を
捉へようとした。するとその十人の頭 は
惡い容子をして周圍 を見廻した[13]。
彼等が少し靜まつた時
尚もおのが傷を眺めてゐた者に
わが導者はためらはずに訊ねた
「不幸にも汝が別れて堤に
80 來たといふのは誰か」。
彼は答へた「ガルルラ[14]の者にて
僧 ゴミタ[15]と云ひ、凡ゆる欺瞞の噐であつた。
彼は己が主の敵を手に收め
かくて彼等凡て己を稱へしめた。
彼の云ふごとく、金錢 を取つて彼は
彼等を穩かに去らしめた。また他の務 にも
彼は汚吏の小ならず優なる者であつた。
ロゴドロ[16]のドンノ・ミケレ・ツァンケ[17]は
彼と常に交はり、サルディニアのことを
90 語つて彼の舌は疲勞を覺えず。
おゝ汝等切齒する彼を見よ。
なほ俺 は語りたいが、彼が俺の痂 を
掻かうと身構へるを恐れる」。
撃たんばかりに眼を轉 ばしてゐた
ファルファレルロに向かつて大なる隊長が
云つた「惡しき鳥[18]よ、側 に退 け」。
そこで恐怖者 が再び始めた「汝等もし
トスカナ人又はロムバルディア人[19]を見
又これに聞かんことを願へば彼等を俺は來させよう。
100 しかし彼等がその復讎を恐れぬやう
マルブランケ[20]を少し退かしめよ。
俺はこのまゝ此ところに坐り
我等のひとりが外に出る時にする
慣ひに從ひ、やがて俺が嘯 く時[21]
ひとりの俺に代へて其七人[22]を來たらせる」。
カニアッツオはこの言葉に口端 を擧げ
頭を振つて云つた「身を投げ
入れyぷと企んだ奸計を聞け」。
すると罠に大いに富む者が答へた
110 「わが伴侶 に悲しみを大ならしめる時
俺は過ぎたる惡人となる[23]」。
アリキノは控えず衆に逆 つて
彼に云つた「汝身を投げんか
俺は汝のあとを追ひ驅けず
翼を瀝青 のうへに搏 つであらう。
我等は頂を棄てゝ[24]堤を楯とし
汝ひとりにて我等を凌ぎ得るやを見よ」。
おゝ汝讀者よ、竒しき戲れを聞け。
彼等はいづれも眼を向ふ側にむけた。
120 心いと澁りしものが[25]第一に斯くなした。
ナ・ルラ人は善く己が時をうかがひ
蹠 にて地を踏み、
瞬時に起 つて彼等の隊長から離れた。
そこで各くやんだが
過 の原因 となつた者が殊に甚だしく
即ち動いて叫んだ「汝は捉へられる」。
然し無益であつた。翼も懼れを
追ひ越し得ず、彼は沈みゆき
此は胸を上の方にむけて飛んだ。
130 鷹が近づくや鴨は直ぐ下に潛る。
かくて鷹は苛立 ち崩 をれて
上に歸るのも此に異らない。
カルカブリナは愚弄されたのを憤り
彼[26]と鬪ふため、實は彼の逃げることを
希 ひつゝ、飛んでその後を追ふた。
やがて汚吏が消え失せるや
即ち彼は爪をおのが伴侶 にむけ
濠の上にてこれを攫 んだ。
然し彼も實 に青鷹 [27]にて
140 良く爪をこの者にかけ、二つながら
煮える澱 の眞中に落ちた。
熱は即ち掴みを解いた。
しかも其翼は脂 に塗 れて
起きあがる者がなかつた。
バルバリッチアは其殘りの部下と共に憂ひつゝ
その中の四疋に皆鉤 を携へて
向かふ側に飛ばしめた。かくて彼等は
いと迅く此方にも彼方にも[28]己が立處 にくだり
既に黐 にまみれて外殼 [29]のうちに
150烹 られる者等にむけ鉤 を伸ばしてゐた。
我等はかく絡む彼等を殘して去つた。
ダンテ十疋の鬼と共に進み、海豚のごとく背を瀝青の上に浮ばしをる汚吏どもを見る。 その中の一人チヤムポロなる者鬼等の鉤にかけられしが、後巧みに逃げて瀝青のうちに沈めり。 ために鬼共互に爭ひ始め煮ゆる瀝青の眞中に落下す。
沈默、孤獨、而して伴侶 なく
ひとりは前に他はうしろに
宛ら道ゆくミノリ僧[1]のやうに我等は進んだ。
眼前の爭ひによつてわが想ひは
蛙と鼠のことを云へる
イソポの寓話[2]にむけられた。
蓋し心をとめて始め終りを
番 ひあはせば、moとissa[3]の類似も
これと彼とのそれには及ぶべくもない。
10 又一の想ひより他の想が綻 び出るやうに
その時これより他の思ひが生れて
わが初めの恐れを二重にした。
私は斯く思ふた、彼等は我等のために
嘲けられ、且つ必ず彼等をいたく
なやますと思はれる程の害と詭計に合つたと。
もし怒が惡意の上に加へられんか
彼等は我等を追ひ來て、その酷きこと
兎を追うてこれを銜 へる犬に優るであらう。
既にわが髮は恐れに逆立つを
20 覺えて、たえず後 に氣を配りつゝ
その時私は云つた「師よ汝と私とを
直ちに蔽さねば私は、マレブランケを
恐れる。彼等は既に我等の後 に迫る。
私は彼等を想ひ浮べて既に此を感ずる。
すると彼は「俺 が鉛づきの硝子[4]であるとも
いま俺が汝の内の像 を受けるよりも迅くは
汝の外の像 をわが身に寫しえまい[5]。
今し汝の想ひはおなじ動作 と
おなじ顏とを以つて我が思ひの中に來たり[6]
30 かくて俺 はこの二つ[7]より一つの策略を得た。
右の崖が傾いて
次の嚢 に降り得ば
我等は想像の追跡[8]より免がれやう」。
この策略を彼がまだ述べ終へぬに
我等を捉へやうとして彼等が翼を擴げ
程遠からず來るのを私は見た。
擾亂に醒 ざめた母が身近かに
焔の燃えるを見
わが子を抱いて逃げ、己よりも
40 子のことを氣にして肌衣 一枚
着る間も止まらないやうに
わが導者は直ちに私を捉へた。
かくて堅き堤の頂より下へ
次の嚢 の片側をとざす斜岩 へと
仰向けに身を投じた。
陸上粉轉車 を廻さんとて
樋を馳せゆく水が輻 に
いと近き時も、その迅さ
わが師が伴侶 にあらず
50 子のやうに私をその胸の上に抱いて
その縁 [10]を越えたのには及ばない。
下の深處の床に彼の足が逹するか
逹せぬに、彼等はわれらの上の丘に
來てゐたが、しかし惧れはなかつた。
蓋し彼等を第五の濠の司 に
定めた高き攝理が彼等より
其處を離れる力を奪つてゐた[11]。
いと緩 き歩みにて行きめぐり
哭きつゝ疲れ衰ふ貌 の
60 彩れる民[12]を下に我等は見た。
コロニア[13]の修道僧用の型に
裁 つた衣を彼等あ纒ひ
僧帽は眼前 に埀れてゐた。
外は鍍金 して眩むばかりであるが
内は凡て鉛にて、その重きに比べては
フェデリゴ[14]の着せた衣は藁であらう。
おゝ永遠疲勞の外套よ。
悲嘆に心をとめつゝ彼等と諸共に
我等は尚ほも專 ら左手 に向つた。
70 然し重さのために此疲れし民の歩みは
いと遲く、我等は腰を動かす毎に
伴侶 を新たにした。
そこで私はわが導者に「業 または
名によつて知られる者を見付けんため
かく進みつゝ眼をあたりに動かせよ」。
すると一人トスカナの言葉を聽きつけて[15]
我等の後 に叫んだ「足をとゞめよ
汝等黜 む空を斯く馳せゆく[16]者よ
恐らく汝の求めるものを俺 より獲やう」。
80 そこでわが導者は振向いて云つた「待て
かくて後彼の歩みに合はせて進め」。
私は止まり、私と共にならうと焦慮 る心を
顏に示すも、荷[17]と狹き道とが
遲れしめた二人の者を見た。
追ひつくや彼等は物を云はず
斜眼 [18]にて良く私をながめ
やがて互に振向いて語りあつた
「喉の活動 により[19]此者は活きると見える。
また彼等が死者であるならば、何の特權により
90 重き肩衣を纒はずに歩むのか」。
かくて後彼等は私に云つた「おゝ悲しき[20]
僞善者の集團に來たトスカナ人よ
厭はず汝の誰であるかを告げよ」。
そこで私は彼等に「美しきアルノの
流の畔 、大なる都[21]に私は生れて育つた。
また俺 は常に携へてゐた肉體のまゝである。
さてわが見るごとく、憂ひが
斯く注いで頬を流れる汝等は誰か。
また汝等に斯くも煌 くは何の刑罰か。
100 すると一人が私に答へた「橙色の衣は
鉛にて甚だ厚く
その重荷が斯く秤 を軋らしめる[22]。
我等は喜樂僧[23]にてボロニア人
俺 はカタラノ[24]、この者はロデリンゴと
呼ばれた。汝の地の安寧を保つため
常にたゞ一人が取られる慣ひであるのに
我等は共に採られた。そして我等は
今尚ほガルディンゴ[25]のあたりの示す如き者であつた」。
「おゝ僧等よ、汝等の禍は……」と私は始めたが
110 それ以上は語らなかつた。これ一人[26]杙にて地に
磔 けられた者がわが眼を撃つたからである。
私は見るや彼は全身を扭ぢ
嗟きを髯に吐き入れた。
これを識つて僧カタラノは私に
云つた「汝の看る此貫かれし者は
人民のためひとりの人を難 ますは
善しと[27]ファイセイ人[28]等に勸めた。
汝の見るごとく、彼は裸にて
道に横たはり、過ぎゆく者の重さ如何を
120 まづ身におぼえねばならぬ。
彼の舅[29]および猶太人 の
禍の種であつた會議の他に人々も
また同じ状にて此濠の中に惱んでゐる」。
この時永遠の流竄のうちに斯くあさましく
十字に張られをる者を眺めて
・ルヂリオの怪しむ[30]を私は見た。
やがて彼は斯く僧に言葉をむけた
「汝許されあらんか、右手に口があるか
厭はずに我等に告げよ。
130 我等はそれによつて共に此處を出で
かくてこの深處 より我等を救ひ出すため
黒い天使[31]を強ひて來たらすに及ぶまい」。
すると彼は答へた「汝の望むより
近くに岩[32]があつて大なる環より出て
猛き大谷に全く蔽 さり
たゞ此谷に碎けてこれを蔽はない。
側に横たはり底に昂 まる
崩壞の上を踏んで汝等は登り得る」。
導者は暫く頭を埀れて立ち
140 やがて云つた「彼方に罪人を
鉤 にかける者が事を僞り傳へた[33]」。
すると僧は「嘗てボロニアにて鬼の惡につき
多くの話を聞いたが、そのうちに彼は
虚言者また欺瞞の父[34]なりと俺 は聞いた」。
その時導者は少しく怒りに
貌 を曇らし、大股に進んだ。
そこで私は荷を負ふものらに別かれ
慕はしき蹠 の跡を追ふた。
ダンテ鬼に追跡されて第六嚢に至り、僞善者の罰せらるゝを見る。 彼等は外部は燦爛として煌くも裏は重き鉛の外套を着て歩む。 ボロニアの喜樂僧二人と語らひ、基督を十字架につけしカヤパの路上に磔けらるゝを見る。
一年 まだうら若うして[1]
太陽は寶瓶宮裡に髮をととのへ[2]
夜は既に南に過ぎ[3]
霜はその白き姉妹[4]の像を
地上に寫すも、筆の捌 きの
續く間とてもあらぬころ
貯へつきし農夫は起きいでゝ眺め
野の一面に白きを見るや
腰をうつて家にかへり[5]
10 せん術 知らぬ憐れなる人のごとく
こなた彼方につぶやくも
やがて再びいでゝ暫しの間に
世界の面 の變はりをるを見
望みをとり囘 へして己が杖をとり
小羊を牧場に追ふて行く。
かく師はいたく亂れる額を見せて[6]
私をおそれしめ、また斯く
速かに痛みに粉藥 をえさせた。
即ち荒れた橋に我等が來た時
20 導者は嚢に私が山の麓にて見たやうな[7]
快い容子をして私に向いた。
まづ良く崩壞 を眺め
自ら圖りさだめた後
腕をひろげて彼は私を捉へた。
かくて働き且つ量り
常に豫め備へする人のやうに
私を一の巨岩の頂の方に高く擧げ
ほかの破岩を見つけて彼は云つた
「次にそれを掴めよ、然しまづ
30 その能く汝を支へ得るやを試せ」。
これは合羽を纒ふ者の道にあらず
蓋し彼は輕く、私は押しあげられた、其我等にさへ
岩より岩へと登るは苦痛であつた。
もしこの境の片側が他の側よりも[9]
短くなかつたならば、彼のことは
知らぬが、私は全く力盡きたであらう。
然しマレボルヂェは皆いと低き
井戸の口の方に傾くゆゑ
從つていづれの谷の状も
40 片側が昂まり他 の側が低くなつてゐる[10]。
遂に我等は最後の石の
碎けるところに逹した。
登るや息氣 はいたく肺より搾られ
私はその上進みえなかつた。
否行き着くや直ちに私は坐つた。
師は云つた「これより汝は斯くして
懶惰を棄てねばならぬ。蓋し柔毛 に坐し
または蒲團の下に臥して名をなす者はない。
これを得ずしてその生命 を終へんか
50 地上に殘す己が記念 は
宛ら空中の烟、水上の泡沫のみ。
されば起きあがり、一切の鬪ひに勝つ魂が[11]
もしその重き肉體とともに弱らねば
汝の喘ぎにうち勝てよ。
登るべき尚ほ長い階 [12]がある。
これらを離れるのみにては足らず[13]。
わが意 を悟らば今汝自ら益を得よ」。
そこで身を起こし、自ら感ずるよりも
良く呼吸 をとゝのへ示して私は
60 云つた「行け、私は強く且つ勇む」。
岩橋を渡つて我等の辿つた道は
凸凹烈しく、狹うして難く
前のものよりも遙かに峻しかつた。
弱味を見せざるやうに私が語りつゝ
進んでゐた時、言葉を成すに足らぬ
一の聲が次の濠[14]から發した。
既に私はこゝに懸かる拱門の背にゐたが
それが何と云つたか分からず
たゞ語る者が怒りを起こしてゐると見えた。
70 私は下に向いたが闇のため
活ける眼[15]は底に行きえなかつた。
そこで私は「師よ願くは汝次の環[16]に
至り、我等に障壁[17]をくだらしめよ
蓋しこゝより私は聽くも分からず
かく見おとして何ものゝ形をも認めない」。
彼は云つた「實行のほかに俺は汝に
答へを與へない。蓋し正しき求めに
行ひが默して從うべきである」。
我等は橋をその頭 即ち
80 第八の堤とつらなる處より下るや
その時嚢 が私に明 はになつた。
その中に蛇の怕ろしい塊[18]を私は
見たが、極めて異樣のものにて
記憶がいま尚ほわが血を凝 らす。
リビア[19]ももはやその砂を誇らざれ。
蓋しケリドゥリ、イアクリとファレヱ
またチェンクリとアムフィシベナ[20]を生ずるとも
かれ又全エティオピア[21]または
紅海のほとり[22]のものを加へるとも
90 かく多く斯く怕ろしい疫癘 を現したことがない。
この酷きいと悲しき群の間に
穴も血玉髓[23]も得る望みなく
裸の民が怖れ走つてゐた」。
蛇は彼等の手をうしろに緊 め
尾と頭とにて腰をつらぬき[24]
前にてからんでゐた。
而して見よ、われらの堤の
近[く]にゐた一人に一疋の蛇が飛びつき
頸の肩に結ばる處を貫いた。
100 忽ち彼は火を發して燃え
全く灰となつてあえなく倒れたが
O もI も[25]斯く迅く書かれたことがない。
かく彼は毀たれて地にあつたが
塵はおのづから集まつて
立ち處に原 の身に歸つた。
大なる賢者逹[26]が斯く述べてゐる
曰くフェニチェが五百歳に近づく時
死んで後再び生まれる。
おのが一生のうち草をも穀物をも食 はず
110 たゞ香 の涙とアモモ[27]を食とし
また甘松 と沒藥 とが彼の最後の屍衣であると。
さて鬼の力[28]によつて地に曵かれ
或は他 の閉塞[29]に沮まれて倒れる人が
起きて見廻すものその故を知らず
受けし大なる苦惱のために
全く惑ひ、眺めつゝ
嗟くことがあるが
起きた後の罪人の状も亦さうであつた。
おゝ復讎として斯かる打撃を
120 降らす神の力[30]はいかに嚴しきぞ。
やがて導者は彼に誰であつたかと訊ねた。
すると彼は答へた「俺 は暫くまへ[31]に
トスカナよりこの猛き喉に降つた。
俺は騾馬[32]であつたので、即ち人にあらず
獸の生涯を好んだ。俺は獸・ンニ・フィッチにて
ピストイア[33]が俺に適はしい洞窟であつた」。
そこで私は導者に「彼に逃げ去るなと云ひ
また何の罪が彼をこゝに
突き落としたかを訊ねよ。
130 蓋し彼が血と憤怒の人であるのを私は見た[34]」。
すると罪人は聽いて佯 らず、心と頭とを
私の方にむけて悲しい羞ぢに身を彩つた。
かくて彼は云つた「この悲境にて汝[35]に
見つけられたのは、かの世より俺 が
取られた時よりも憂ひが強い。
汝の問ふものを俺は拒みえない。
かく深く俺が沈められてゐるのは
美しく裝ふ聖房の盜人[36]であつたからである。
しかも過 つてこれが他人に負はされた。
140 しかしやがて汝がこの暗い處を出て
わが態 を見たことを歡びとしないため
わが音 に耳を開けて聽け。
ピストイアはまづ黒黨 を取られて痩せ[37]
次でフィレンツェは民と慣ひを新たにする[38]。
マルテ[39]は亂雲につゝまれて
ヴル・ディ・マグラ[40]より火氣[41]を引きだし
烈しく凄まじき嵐とともに
ピチュノ原頭[42]にたゝかひ
かくてこの者が忽ち霧を裂き
150白黨 は悉くこれに撃たれるであらう。
汝を憂へしめんために俺はこれを云ふた」。
ダンテ嶮しき道を迪りて第七嚢に至り、塊なす蛇に驚く。 盜賊こゝに罰せらる。そのうちピストイアの聖房を掠めし・ンニ・フィッチいでゝ身の來歴を語り、 フィレンツェの禍を預言す。
かの盜賊はおのが言葉の終りに
兩手の指を握り[1]、これを擧げて叫んだ
「取れ、神よ、俺 はこれを汝に向ける」。
この時より此方は蛇がわが友であつた。
即ち其時「我は汝にまた語らしめず」と
云はん許りに、一疋彼の頭に絡まり
また他の一疋は腕に再び卷きつき
前にて身を堅く結んだので
彼はこれをうち振るひ得なかつた。
10 あゝピストイア[2]よ、ピストイアよ
惡行には汝の祖先[3]に秀でながら
何故に決然自ら灰となつて斷滅しないのか。
地獄の暗き凡ての環 を通じて私は
かく神に向かつて不遜な靈を見なかつた。
テエベの城壁より落ちし[4]者も此に及ばず。
彼は逃げてまた言葉を語らなかつた。
やがて「何處 ぞ、澁い奴は何處ぞ」と呼ばはり
憤りに充ちた一疋のチェンタウロ[5]の來るを見た。
彼が人間の貌 になり始める臀の處まで
20 負ふてゐたほどの夥しい蛇が
マルムマ[6]にゐると私は信じない。
彼の肩の上項 のうしろに翼を擴げて
一疋の龍がうづくまり
出遇ふほどの者に悉く火を點ずる。
わが師は云つた「これは
アヴヱンティノ山の巖蔭の下に幾度も
血の湖[7]をつくつたカコ[8]である。
彼が兄弟等と一つ路を行かぬのは[9]
近隣にゐた家畜の大群を
30 欺き盜んだからである。
かくて此曲れる行 はエルコレの
棍棒のもとに止 まつた。毆打凡そ
百を加へたが、彼はその十を感じなかつた[10]。
かく語つてゐた間に彼は過ぎ去り
また三つの靈が我等の下に來て
「汝等は誰か」と叫んだまで
私もわが師も彼等に氣付かなかつた。
そこでわれらの話をやめて
ひたすら心を彼等に注いだ。
40 私は彼等を知らなかつた。しかし
時折よく起こるやうに、圖らずも
その一人が他の一人の名を呼んで
云つた「チアンファ[11]は何處に止まるか」。
そこで私は導者の心をひくため
指をあげ顎より鼻にかけて置いた[12]。
讀者よ、汝今わが云はんとすることを
信ずるに躊躇 ふとも怪しむに足らない。
これを見た私すら此を受容れ難いからである。
彼等に私が眉をあげてゐた時
50 六脚の蛇[13]が一疋ひとりの者の前に
飛びついて、全く彼に絡み粘 いた。
中央の足にて肚 を卷き
また前足にて腕をとらへ
かくて此方彼方の頬に齒を入れた。
うしろ足を腿 に張つて
尾を兩股のあひだに入れ
腰の沿ふてうしろに伸 しあげた。
この怕ろしい獸がかの者の肢體に
身を絡ましたやうには、蔦が
60 その髭にて樹に纒 はつたことがない。
やがて彼等は熱い蝋のやうに
融着してその色をまじへ
これも彼も既にありし俤を止めず
その状は宛ら焔に先きだつて紙に
鳶色があらはれ、また黒くならぬ間に
白が消えゆくやうであつた。
ほかの二人はこれを看ていづれも叫んだ
「おゝアニエルロ[14]よ、汝はいかに變はつたかよ。
見よ、汝は既に二つでも一つでもない」。
70 既に二つの頭が一つになつた時
二つの顏が交つて二つとも失はれ
一つの顏となつて我等に現れた。
四片より二つの腕が出來[15]
腿 と脛 、腹と胸とは
人の見たことのない肢體となつた。
凡て原 の俤はそこに失せ
異形の像 は二にして然も何れとも
見えず、かくて緩い歩みにて去つた。
酷暑の大なる鞭[16]のもとに
80 蜥蜴が籬 をかへんとして道を越えんか
電光のやうに見える。
鉛色にて胡椒の粒のごとく黒く
燃える小蛇[17]が、ほかの二人の腹を
目がけて來た状も亦さうであつた。
かくてその一人[18]の、人の始めて
榮養を採るところ[19]を貫き
やがて彼の前に身を伸 して倒れた。
貫かれた者はこれを眺めて何どとも云はず
却つて足を踏まへて宛ら睡眠か
90 熱病に襲はれたやうに欠伸 をした。
彼は蛇を、また蛇は彼を看た。
彼は傷より、またこれは口より
烈しく烟を吐き、烟は相交つた。
以後ルカノ[20]は默して、慘ましき
サベルロとナッシディオのことに觸れず
待ちて今わが述ぶることを聞かしめよ。
オ・ディオもカドゥモ[21]とアレトゥサ[22]のことを默せよ。
よし彼が詩に男を蛇に、女を泉に
かはらすとも私は彼を嫉 まない。
100 蓋し彼は二つの自然を相面して
かはらし、かくて直ちに兩者の形に
その質を換へさせないからである[23]。
彼等が相應じた状は次のやうであつた。
即ち蛇は尾を裂いて叉 とし
傷つけられた者は兩足を寄せた。
兩脛兩腿は共にそれぞれ自ら癒着して
束の間に關節の跡が
少しも見えなくなつた。
裂けた尾は失せた他の形となり[24]
110 またその肌は柔らかく
他の者の肌は堅くなつた。
兩腕が掖下に入りこみ、その縮むに
つれて獸の短い兩足が
長くなるのを私は見た[25]。
次いでうしろの兩足が縒 れあふて
人の隱すものとなり
慘ましき者の分に二つにわかれた[26]。
烟が新たな色に此をも彼をも
蔽ひ、この方に毛を生えしめ
120 かの方より毛を拔く間に
これは起き彼はうち倒れた。
しかも尚ほ不虔の光[27]を背 けず
その下におの〜顏をかへた。
立てる者は顏を顳顬 の方に寄せた。
するとそこに來た材 は餘つて
耳となり、平 らかな頬のうへに出た。
うしろに馳せずに止まつた分は
その餘りにて顏に鼻をつくり
また厚くなつて程よき唇となつた。
130 臥せる者は顏を前方 に逐ひ[28]
角を隱す蝸牛のごとく
耳を頭にひき入れる。
また前に一枚にてよく語つた舌は
裂け[29]、ほかのふた叉 の舌は
結びあつて烟はやまつた。
獸となつた魂は啾々
聲をたてゝ谷を逃げ延び
他は物云ひつゝ其うしろに唾きした[30]。
かくて彼は新たな肩を向けて[31]
140 これに云つた「プオソ[32]が俺のしたやうに
匍うてこの徑を驅けらんことを願ふ」。
かくて第七の砂利[33]の變はり又入り替るを
私は見た。さてこゝにわが筆が少しく
亂れる[34]とも、事の竒なるにより私を赦せ。
わが眼はやゝ亂され
わが心は惑はされたが
彼等ふたりは隱れて潛み得ず
良く私はプッチオ・シアンカト[35]を認めた。
嚢に來た三人の伴侶 のうち
150 變らなかつたのは彼[36]のみであつた。
他は、カ・ルレよ、汝の哭くその者であつた。
・ンニ・フィッチ不虔の拳をあげて神を冐涜す。蛇彼の頸に腕に絡み、 無數の蛇を負ふカコこれを追跡す。やがて三人のフィレンツェの亡靈あらはれ、 うち二人は蛇に姿を變へたり。
フィレンツェよ歡べ、汝はいと偉大にして
海に陸に翼を搏 ち
また汝の名は地獄にひろがる[1]。
盜賊のうちに斯かる汝の市民
五人[2]を見たので、耻が私を襲ふ。
汝も亦これによろ大なる譽 に登るまい。
しかし朝に近い夢が眞 であれば[3]、他は云はず
プラト[4]が汝の上に喘ぎ求めるものを
今より程なく汝は身に覺えるであらう。
10 よし既に起こるとも早過ぎはしない。
必ず起こるべければ、寧ろ斯くあれ。
蓋し老ゆるに從つて強く私を壓するからである[5]。
我等は此處を去り、わが導者は
嚢に我等がくだる時[6]の階 となりし
岩角をつたひ上つて私を引きあげた。
かくて岩橋の破岩 と巖の間の
淋しい道を追ひゆくに
手を借りずには足も效かなかつた。
その時私は憂ひた[7]。また見たことに
20 心をむけて今再び私は憂ふ。
且つ徳に導かれずに馳せぬやう
わが才を常になく差し控える。
これ善き星[8]又はなほ善きもの[9]が此賜物[10]を
私に與へる時、自ら此を失はざらんが爲である。
世界を照らすもの[11]がその顏を
われらに蔽すことのいと少なき時
丘に憇ふ農夫が
蚊の蠅にかはるころ
谷の下の恐らくおのが葡萄を
30 採つて耕すところに螢を見るやうに
多くの焔にて第八嚢がすべて輝いていた。
これ底の見えるところに至るや
直ちに私の認めたものであつた。
また熊によつて復讎した者[12]が
エリアの兵車の去らんとして
馬の天に立ちあがるを見た時
眼を擧げてその後を追ふたが
見えるははだ一朶の雲のごとく
高くのぼる焔のみであつたやうに
40 焔はみな濠の喉[14]を通つて進み
いづれもその盜 を見せずに
しかもひとりの罪人を盜んだ[15]。
私は見ようとして起き、橋の上に立つた。
さればもし巖を捉へなかつたならば
突かれずとも下に落ちたであらう。
わが斯く心をとめるのを見て導者は
云つた「火のうちに靈が居る。
いづれも己を燃やすものに卷かれてゐる」。
私は答へた「わが師よ、汝より聞いて
50 私は確信を増したが
私も既に然あらんと察して今にも汝に
エテオクレとその兄弟の荼毘 の焔のごとく[16]
上の分かれた火につゝまれて
來るのは誰かと云はうとした」。
彼は私に答へた「その中にウリッセと
ディオメデが苛責せられ、共に怒りに
向かつたやうに斯く共に罸に立ち向かふ[17]。
またかの焔の中に彼等は
羅馬人の貴き祖先のいでし
60 門となつた馬の伏兵[18]を嘆く。
その中にて彼等は、アキルレゆゑに
死せるデイダミア[19]を今なほ憂へしめる奸計 を哭き
またそこに彼等はパルラディオ[20]の罸をうける。
私は云つた「火花の中にて語る力が彼等に
あれば、師よ、私はひたすら汝に願ひ
また重ねて願ふ、この祈が千を兼ね
かくて角ある焔のこゝに來るまで
汝わがために待つこと拒むなかれ。
願望 ゆゑにわが身を其方に曲げるを汝は見る」。
70 すると彼は私に汝の求めは嘉賞に
價ひする。されば俺 はこれを容れるが
たゞ良く汝の舌を控へよ。
汝の願ふことを俺は識 つたゆゑ、話は俺に
委せよ。蓋し彼等は希臘 人であつたゆゑ
恐らく汝の言葉を忌 ふであらう」。
やがて焔が來てわが導者に
時も處も善しと見えるや、これに向かひ
斯かるさまにて彼の語るを私は聞いた
「おゝ一つの火のうちに二つなる汝等
80 わが生ける間俺が汝等の意 に適ひ
高き詩を世にしるして多少にもあれ
汝等の意 に適ふたとすれば[22]
乞ふ進むことなく汝等の中の一人が
何處 に迷ひ行きて死んだかを告げよ」。
古き焔の大なる角[23]が
宛ら風の疲らす焔のやうに
つぶやきつゝ搖 めき始めた。
かくて物いふ舌のごとく
頂 を此方彼方に操り
90 聲を投げ出して云つた「エネアが
まだガエタ[24]と名づけなかつた前
その近くに一年餘も俺は
匿 まふたチルチェ[25]に別れた時
子[26]の情愛も、老いし父[27]への
孝心も、將 たまたペネロペ[28]を
悦ばすに足る義理の愛[29]も
世界のこと、また人間の惡と
徳とを親しく識らんとの
わが衷 に抱きし熱誠に勝ち得なかつた。
100 否俺は俺を棄てざりし
僅かな伴侶 と共にたゞ一隻の
船に乘つて廣い大洋[30]に出た。
遠く西班牙 、モロッコに至るまで
俺 は彼我兩岸を見、またサルディニア島
その他この海の繞つて洗ふ島々[31]を見た。
人の越えて出ざるやうにとて
エルコレがその目標を掲げし
かの狹い口[32]に來た時
伴侶 等も年老いて緩 くなつた。
110右手 にシビリア[33]を俺 は殘し
左手 には既にセッタ[34]を殘してゐた。
『おゝ百千の危險を經て
西方に逹した兄弟等よ
汝等太陽を追ひゆき[35]
殘ることいと短き汝等の感覺の覺醒 に[36]
人なく世界[37]を識らすを拒むなかれ。
汝等の種[38]をおもへ。
獸のごとく活きるために
汝等は造られず、徳と知識とを
120 追ふためであつた』と俺は云つた。
この些 かな勸めにより
俺の伴侶 を路に勇みたゝせ
後には却つて彼等を止め難くなつた。
斯くして我等の艫 を朝[39]に向け
われらの櫂を狂奔の翼とし
たえず左手 の方へと辿つた。
既にして夜は他の極[40]の凡ての星を見
われらの極[41]はいと低うして
海の底よりのぼらなかつた。
130われらが難路に入つて以來
月下に光が五度
冴えて五たび消えた頃[42]
一の山[43]が我等に現れ、距離のため
薄黒く、またいかにも高うして
私は斯かるものを嘗て見たとは覺えない。
我等は歡んだが忽ちそれは哭きに變はつた。
即ち一陣の旋風が新しき陸より
生じて船の前面を撃ち
水もろ共にこれを三度 旋囘し
140 四度目に彼[44]の旨 により
その艫 を上に擧げ舳 を下にゆかしめ
遂が海が我等の上を閉ぢ終つた[45]」。
ダンテまづ故國フィレンツェの慘状を慨嘆す。やがて第八嚢に至り謀略家の火に包まれて暗夜の螢のごとく行きかふを見る。 やがてトゥロイア戰役の勇將ウリッセの亡靈おのが悲壯なる航海の最期を物語る。
もはや物を云はなくなつたので焔は
既に上に向いて靜まり、まや優しき詩人の
許し[1]を得て既に我等より去つた時
ほかの焔がその後 より來て
中 から外に出る[口|曹]音により
我等の眼をその頂 に向けさせた。
鑢 にて己を整へた者の嘆きを
第一の鳴聲とした(これは又正しいこと
であつた[2])シチリアの牡牛[3]が
10 患む者の聲によつて鳴き
かくて銅であつたのにも關らず
宛ら苦しみに貫かれるかと見えたやうに
初めは火[4]にも出道も
穴もなく、慘ましい言葉が
火のことば[5]に變はつた。
然し道を繰 つて尖 にのぼるや
通り過ぎんとして舌の與へた搖 めきを
これに傳へ、かく云ふのを我等は
聞いた「おゝ汝、わが聲を掛ける者よ
20 また今しロムバルディア語[6]にて『さらば行け
もはや俺は汝を嗾 かけず[7]』と云つた者よ
恐らく些 か遲れて俺 は來たが
汝止まつて俺と語るを厭ふ勿れ。
これを厭はずしてわが燃えるを見よ。
汝もし俺の携へる凡ての罪を犯した處
かの甘美なラティオ[8]の地より
今し此盲目の世界[9]に墮ちた者ならば
ロマニア[10]人は和しをるや戰ふやを告げよ。
蓋し俺[11]は彼方ウルビノとデ・レ河の
30 解かれる嶺との間なる山中の者であつた」。
なほも下に心をとめて蹲 んでゐたが
その時わが導者は私の脇を突いて
云つた「汝語れ、これは拉甸 人[12]である」。
そこで既に答への成つてゐる私は
ためらはずに語りはじめた
「おゝ下に隱れをる魂よ
汝 がロマニアは今も昔も
暴君等の心中に戰ひは絶えないが
今私が去つた時明 なものはなかつた。
40 ラ・ンナは多年ありしその儘である。
ポレンタ[13]の鷲がこれをぬくめ
かくてその翼にてチェル・ア[14]を蔽ふ。
嘗て長き試練に堪へて
彿蘭西 人の血の堆 を築いた地[15]は
ふたたび緑の足の下にある。
モンタニア[16]を虐げた・ッルッキオの
舊新の猛狗[17]はいつもの處にて
齒を鑽 にしてゐる。
夏より冬に味方をかへる
50 白き巣の小獅子[18]はラモネ[19]と
サンテルノ[20]の邑 を率ゐる。
またサ・オ河に脇を洗はれるもの[21]は
その野と山との間にあるやうに
壓制と自由との國の間に生きる。
さて願ふ、汝の誰であるかを我等に知らせよ。
汝の名もし世に秀 づべきば
他[22]よりも頑 なならざれ。
火はその慣ひに從つて暫く
咆えた後、鋭い尖 を此方彼方に
60 動かし、やがて斯く息氣を發した
「もし俺 の答へを聽く人が
やがて世界に歸りゆく者であると識れば
この焔はもはや搖 がずに止まるであらう。
然しわが聽くことが眞 なれば、此深處 より
活きて歸つた者が絶えてないゆゑ
俺は汚名の懼れなしに汝に答へる。
俺は武人であつたが、後帶繩僧 [23]となり
かく帶して罪を償はうと思ふた。
また俺を原 の諸惡に歸らしめた
70 かの大なる僧[24]が居なかつたならば
確かに俺の所信が叶つたであらう。禍彼にあれ。
されば乞ふ、事の次第と起因 とを俺に聽け。
俺がまだ母の俺に與へた骨と
肉の形をしてゐた間、俺の行ひは
獅子にあらず狐のやうであつた[25]。
詭計と覆道を俺は知り盡くし
その響き地の際涯 にまでも
及ぶほど此等の技 をおこなふた。
わが齡が進み、人みな帆をおろし[26]
80索 を卷くべき際 に
至つたのを見るや
曩に俺を喜ばしたものが、やがて俺を
厭はし、改懺悔して俺は身を棄てた。
吁悲し、かくて助かるべかりしを。
新しいファリセイ人等の王[27]は
ラテラノ[28]の近くに戰ひをひらき
(サラチノ又は猶太 人とではなく
その敵はみな基督教徒にて
しかもその一人だにアクリ[29]征服に赴かず
90 またソルダノの地に商人たらず[30])
自ら至高の識務をも聖位をも顧みず
また帶びる者のいたく痩せるを
常とした繩[31]の我が身にあるを顧みず
恰もコンスタンティノ[32]が癩病を癒されやうとして
ソラッテにシルヴヱストゥロを訪れたやうに
この者はおのが傲慢の熱病[33]を
癒されんため、俺 を醫者として訪れた。
彼は策略を俺に求めたが、彼の言葉が
醉つてゐたやうなので俺は默してゐた。
100 すると彼は俺に云つた『汝心に戰 く勿れ
今より後汝の罪を俺は赦す。さればパレストゥリナ[34]を
地に擲つために爲すべきことを汝俺に教へよ。
汝の知るごとく俺は天を閉ぢも
開きも能 きる。即ち鍵は二つにて
俺の前任者[35]はこれを尊ばなかつた』。
かくて重い論鋒は俺を促して
遂に沈默の甚だ惡しきを喩 したので
俺は云ふた『父よ、汝はわが陷るべき
罪より俺を洗ふゆゑに敢て云ふ
110 長き約束に短き履行[36]が汝を
高き位に凱歌を奏せしめるであらう』。
後俺が死んだ時フランチェスコは俺を
迎へに來たが、黒いケルビニ[37]のひとりが
彼に云つた『運び去るな。俺に非をなすな。
僞りの策略を授けたゆゑに彼は
わが憐れむべき者等のうちへ下らねばならぬ。
それより此方俺は彼の髮にゐた。
蓋し悔いざる者は赦され得ない。
また改悔と我意[38]とはその相容れざる
120 矛盾のため、兩立し難い』。
おゝ憂き身よ、彼が俺を捉へて『俺が
論理家なることを恐らく汝は思はなかつたらう』と
云ふた時、いかに俺は戰慄 いたかよ。
彼は俺をミノスに運んだ。
すると此者は尾を堅い背に八囘卷きつけ[39]
大いに憤つてこれを噛み
『これは盜む火[40]の罪人等の同類だ』と云つた。
斯くして汝の見るごとく此處に沈淪し
かゝる衣[41]を纒ひ、怨みつゝ進む」。
130 かくその言葉を終へた時
焔は鋭い角 をゆがめ振りつ
憂はしげに立ち去つた。
私もわが師も共に岩橋を越えて
なほも進み、濠に懸かる次の拱門の
上に至つた。濠の中には分離を釀して
重荷を獲た者等が賃 を拂つてゐる[42]。
ウリッセの焔沈默するや新たる焔更に咆えいづ。 これは武人にして後フランチェスコ派の僧となりしグヰド・ダ・モンテフェルトゥロの靈なり。 ダンテにむかひてロマニアの現状を訊ね、また策略を以つて法王を助けし懺悔の物語をなす。
たとへ解かれし詞 [1]にて幾度
逑ぶるも、今し私の見た血と
傷とを誰かは語り盡し得よう。
かく多くを包むには
我等の言葉と記憶の力が乏しきゆゑ
いかなる舌も必らず事足らず。
嘗て運命定めなきプリア[2]の地にて
トゥロイア人[3]のため、また誤ることなき
リ・オ[4]の記すごとく莫大な指輪を
10 分捕りし長き戰ひ[5]により
その血を悲しむ民が凡て
ふたたび相集 ひ
ロベルト・グヰスカルド[6]に對抗して
打撃の苦を受けし人々
その他凡ゆるプリア人の不忠となりし處なる
チェペラノ[7]、またタリアコッツオ[8]の彼方、老いたる
アラルド[9]の武噐を用ゐずに征服した處に
今なほ骨を堆み重ねをる者等を加はへ
ひとりは貫かれ、またひとりは
20 斷たれし肢體を示すとも
第九嚢の忌まはしき状には比するべくもない。
顎より人の放屁する處まで裂かれた者を
私は見たが、中板または側板 を
失ふた樽の穴も斯程ではない。
脛のあひだに腸が埀れ
臟腑とまた呑み込みしものを
糞にする情ない袋が見えた。
全心をこめて彼が私を見てゐた時
私を看、兩手にて胸を開いて
30 彼は云ふた「いざわが裂き開かれた状を見よ。
マオメット[10]の斷ち斬られた状を見よ。
顎より前額 まで額を裂かれ
哭きつゝわが前にアリ[11]が行く。
このほか凡て汝のこゝに見るものは
生前誹謗分離の種を播いた者である。
そのため斯く彼等は引き裂かれる。
こゝに一疋の鬼が後にゐて
我等が憂愁の途を一周するや
再びこの一團の者を悉く劍の刄にかけ
40 かく酷き我等を裝ふ。
これ再び彼のまへを過ぎるまでに
傷が塞がれるからである。
さて汝は誰か。岩橋の上より覗き込む[12]は
恐らく汝の自由[13]によつて定められし
刑罰に就くのを延ばすためであらう」。
わが師は答へた「死は未だ彼に至らず
また罪も彼を苛責に導くにあらず
たゞ彼に全き經驗を與へんため
死せる俺 が彼を導いて地獄を通り
50 環より環へとこゝに下ることになつた。
此事は俺が汝に物いふ如く眞である」。
これを聞くや、愕いて苛責を忘れ
私を見やうとして濠のうちに
止まつたものは百にも餘つた。
「されば汝ほどなく太陽を見ると思はる者よ
フラ・ドルチノ[14]に、若し俺に從ふて
速かに此處に來ることを願はずば
ほかの途にては獲易からぬ勝利を
雪の壓迫がノ・ラ人[15]に與へぬやう
60 糧食に身を堅めよと云へ」。
行かうとして片足をあげた後
マオメットはこの言葉を私に語り
かくて去らうとして此を地に伸ばした。
ほかの一人喉を抉り鼻を
眉毛の下まで切り取られ
たゞ片耳しかなかつた者が
他の者等[と]共に止まつて
愕き眺め、外面の到る處朱の色の
管 [16]を衆に先んじて開いて云つた
70 「あゝ汝罪が罸せず
また甚しき似顏が俺を欺かねば
地上ラティオの國[17]にて見たことのある者よ
やがて歸つてヴヱルチェルリ[18]より
マルカボ[19]に傾く甘美な野[20]を見るとすれば
ピエル・ダ・メディチナ[21]を憶ひいでゝ
ファノ[22]の最も善き二人メッセル・グヰド
ならびにアンヂオレルロ[23]に知らしめよ
我等の先見 こゝに空しからずば
兇惡なひとりの暴君の不信ゆゑに
80 彼等はその船より投げ出され
チプロ島とマイオリカ島[24]との間に
海賊によつてもアルゴの民[25]によつても
かゝる大罪を行はれるをネットゥノ[26]は嘗て見なかつた。
たゞ片目にて見[27]、且つ此處に俺と共なる者に
見なかつた方が善かつたとおもふ地[28]を
領するかの背信者は
彼等を來たらしめて己と議せしめ
かくてフォカラ[29]の風に彼等が
90 誓ひもする要なからしめやう」。
そこで私は彼に「汝の音 を私が
地上に齎らすことを願へば、見て[30]
辛 しといふ者の誰であるかを私に示し明かせよ」。
すると彼は手をその伴侶の一人の
顎に置き、口を開けさせて
叫んだ「それは此[31]であるが、物を云はず。
追放されて彼はチェザレに、備へ成つて
逡巡せんか常に害を被むる[32]と
説いてその疑ひを鎭めた」。
100 おゝ語ること斯く大膽なりしクリオが
舌を喉吭 より切り去られ
いかに懼るる態 であつたかよ。
また一人この手かの手を斷たれた者が
殘れる腕を黜 める空に差しあげ
かくて顏を血に汚ごして叫んだ
「汝また、吁、『事果たされて成る』と
云つたモスカ[33]を憶ひ起こせ。
この一語はトスカナ人の禍の種となつた」。
そこで私は彼の言葉に加へた「また汝の一族の
110 死でもあつた[34]」。すると憂ひが憂ひに
重なり、悲しむ狂ふ人のやうに彼は去つた。
然し私は一隊を眺めんとて止まつた。
そして他に證 なく、もし良心が
私を堅うしなかつたならば
語るだに恐るべき者を私は見た。
良心こそは純なりとの自覺を鎖子鎧として
人を疚 しからしめざる良き伴侶 なれ。
げに首なく胸像が悲しき群の者等の
歩みにあはせ行くのを私は見た。
120 いまも尚ほ見えるやうである。
かくて此者は切られた首の髮をとり
提燈のごとく此を手に吊した。
首は又われらを眺めて「吁」と云ふ。
自ら己れのために燈 となり
二にして一、一にして二であつた。
いかにしてかは、斯く定め給ふ者ぞ知る。
橋の眞下に來た時彼は
おのが言葉を我等に近くするため
腕を首諸共に高く擧げた。
130 曰く「いざ窘しき罸を見よ
汝呼吸 しつゝ死者を見てゆく者よ
かく重きものが他にあるかを見よ。
また汝が俺の音 を傳へうるため
俺がベルトゥラム・ダル・ボルニオ[35]にて
若き王[36]に惡しき勸めをした者と知れ
俺は父と子とを互に相叛 かしめた。
邪惡な教唆によりアンソロネをダ・デに
叛かしめたアキトフェル[37]も此には及ばず。
かく結べる人々を分けたので
140 わが腦を、あゝ、この胴にある
その根元[38]より離して俺は携へる。
應報が斯くわが身に現はれてゐる」。
ダンテ第九嚢に進み宗教乃至政治上の分爭を事とせし人々の罰せらるゝを見る。 皆肢體を斷ち切らるゝ中にマオメットは胸を眞二つに裂かれて來たる。
おほくの民とさま〜゛な傷とが
わが眼をいたく醉はしめ
眼は止まつて泣かんことを願ふた。
然し・ルヂリオは私に云つた「なほ
何を眴 めをるか。何故に汝の眺めを下方
斷ち切られて悲しき靈の間に注ぐのか。
他の嚢 にて汝は然 しなかつた。
彼等を算へる積りなれば
おもへ此谷の周圍は二十二哩 ある[1]。
10 また月は既に我等の脚下にある[2]。
われらの許された時[3]は今や少なく
しかも此外に見るべきものがある」。
そこで私は答へた「汝もしわが
眺めをりし譯に心をとめたならば
恐らくなほ私を止め置いたであらう」。
語る間も導者は立ち去り
私はその後に進み、この答へをなし
また加へた「今し私が眼を
斯くも留めてゐたあの洞窟[4]のうちに
20 わが血族の一靈が下のかなたに
かく價ひ高き罪を哭くと私はおもふ」。
すると師は云つた「これより後
汝の思ひを彼のうえに碎く勿れ。
他のものを心にとめ、彼は彼處に殘し置け。
蓋し彼が小橋のもとにて汝を示し[5]
指にて烈しく嚇 すのを私は見た。
またそのヂェリ・デル・ベルロ[6]と呼ばれるを聞いた。
汝はその時嘗てアルタフォルテを
領せし者[7]の上に全く心を塞がれて
30 彼方を見なかつたので彼は去つた」。
私は云つた「おゝわが導者よ、
彼の横死が耻辱を共にすべきもの[8]により
まだ報いられないので憤り
察するにそのため彼は俺に
物を云はずに行つた。
このことが俺に彼を益憐ます。
かく語つて我等は岩橋のうち
次の谷の初めて見える處に來た。
光が此處に強かつたならば底も皆見えたであらう。
40 我等がマレボルヂェの最後の僧院[9]の
上に出て、その歸依者逹が
われらの前に現れた時
憐憫 を鏃とする箭の
異樣の悲嘆が私を射た。
そこで私は手にて耳を蔽ふた。
七月と九月の間、ヴァルディキアナ
マレムマ、サルディニア[10]の病院より
諸の病が一の濠の悉くに集まらんか
その患みはこゝのやうであらう。
50 こゝより發する惡臭は
腐爛した肢體よりいづるものに似てゐた。
我等は長き岩橋より最後の
堤の上にくだり、ひたすら左手 に向かふや
やがてわが眺めは活きづいて
底の方を瞰下 したが、そこには
高き主の司 たる誤りなき正義が
この世にて録し置く僞造者逹を罰する[11]。
エヂナ[12]の人民の悉く病む見る
悲しみも(その時空氣は毒に充ち滿ち
60 小さき蟲に至るまで動物は
凡て斃れ、また詩人逹の
確かなりといふ處によれば
古 の民が蟻の種族よりその後
ふたたび原 に取りかへされた)
此暗き谷の中に樣々な塊となつて衰へゆく
靈を見る悲しみには優らぬと私はおもふ。
ひとりは腹匍ひ、ひとりは他の者の
肩のうへに臥し、またひとりは
四つ匍ひになつて悲哀の徑を移り行つた。
70 おのが身を上げ得ざる病人等を眺め
またこれに耳を傾けつゝ
我等は物云はず歩一歩進んだ。
鍋が鍋に凭れて熱するごとく
互に凭れて坐し、頭より足まで
痂 に斑 なふたりの者を私は見た。
また痒 さいと烈しく
しかも他に術 なく、いづれも
己が身を頻りに爪に噛ませてゐた。
主人を待たす馬丁、または意 ならずも
80醒 めをるものの[13]、かく早く
馬梳 を用ゐたのを見たことがない。
また包丁が鯉[14]または尚も鱗の大きい
ほかの魚の鱗をおとすやうに
爪は痂を掻きおとした。
わが導者はその一人に始めた。
「おゝ汝指にて自ら鎧[15]を剥ぎ
且つ屡これを釘拔にする者よ
この中のものの間に
ラティオ[16]人がるかを我等に告げよ
90 かくて汝の爪の永遠に此勞苦に堪へんことを」。
ひとり哭きながら答へた「こゝに汝の見る
斯く毀たれた我等は共にラティオ人であつた。
然し我等のことを訊ねる汝は誰か」。
そこで導者は云つた「俺はこの
活ける者と共に斷崖より斷崖へ降る者にて
地獄を彼に見せやうと意 ふ」。
すると互ひの支へが碎け
いづれも顫ひつゝ、彼の言葉を聞きし
他の者等とともに私に向いた。
100 善き師は全く私に寄つて云つた
「汝のおもふことを彼等に云へ」。
そこで彼の意のまゝに私は始めた
「第一の世[17]にて汝等の記憶が
人の心より消え失せず
多くの太陽の下に[18]存 へよかし。
汝等は誰にて何れの民であるかを私は[注:私に?]告げよ。
汝等の壞敗厭ふべき罸に恐れず
身を私にうち明けよ」。
そのひとりが答へた「俺[19]はアレッツオの者にて
110 アルベロ・ダ・シエナ[20]が俺を火の投じた。
然し俺を死なしたことが俺を此處に導いたのでない。
俺が戲れに身を空中に擧げて
飛ぶ術 を知ると彼に云ひ
また事を好んで智の乏しい彼は
その技 を俺の示すことを願つた。そこで只
俺が彼をデダロ[21]たらしめなかつたばかりに
彼を子とする者[22]に俺を燒かしたのは眞 である。
然し過ち得ざるミノスが
俺を十のうちの最後の嚢 に罸したのは
120 世にて俺が行つて[注:行つた?]錬金術による」。
私は詩人に云つた「抑もシエナ人の如き
虚妄な民が嘗て存したか。
げに彿蘭西人 も遠くこれに及ばず[23]」。
すると他のひとりの癩病者[24]は私に
耳を欹 てゝわが言葉に答へた
「節險の術 を知つてゐたストゥリッカ[25]
また丁香 の種の根をおろす園に
その贅澤な用を初めて
發見したニコロ[26]を除け。
130 また葡萄園と大なる簇林を
蕩盡したカッチア・ダシアノ及び己が才を
見せびらかしたアッバリアト等の一隊[27]を除け。
然しかく汝を輔 けてシエナ人に
逆ふ者の誰であるかを知るため、俺の方に
眼を鋭くせよ、され、わが顏、良く汝に答へ
かくて俺が錬金術によつて諸の金屬を
贋造したカポッキオ[28]の靈であるを汝は見
またわが眼が汝を見て誤らねば、俺がいかに
自然の巧な猿であつたかを想ひ起こすであらう」。
ダンテ遂に第十嚢に至り、人を騙りし者等が病者のごとく腐爛して罰せらるゝを見る。 中錬金術を行ひしアレッツオ人またシエナ人の靈ダンテに身の來歴を物語る。
ヂウノネは怒をしばしば
あらはしたが、セメレゆゑに
テエベに向かつて怒つた時[1]
アタマンテ[2]は全く狂氣し
妻が雙手 にふたりの子[3]を
積み來るを見て叫んだ
「我等網を張り、牝獅子と
仔獅子等を途に捉へやう[4]」。
かくて無殘の爪を伸ばし
10 ひとりレアルコといふを捉へ
振り廻してこれを岩に撃ちつけた。
彼女はまた殘りの荷[5]と共に自ら溺れた。
また何事をも敢てしたトゥロイア人の
高慢を命運が覆へし
かくて王[6]が王國と共に亡びた時
悲しい慘めな俘虜 のエクバ[7]は
ポリッセナの死するを見
またこの憂ひの女は
そのポリドロを海邊にみとめ
20 犬のごとく狂はしく吠え
遂に憂ひに心を奪はれた。
然しテエベまたはトゥロイアの狂暴も
私が二つの蒼白き裸の亡靈の中に
見たほど殘忍に獸を驅らず
なほ更人の肢體を驅らなかつた。
彼等は檻より放たれた時の
豚のやうに噛みつゝ走つた。
一つがカポッキオに至り、背頸に
齒を立てゝ曵き、その腹を
30 堅い底に掻き挘 らしめた。
慄へて殘つたアレッツオの者[8]が私に云つた。
「かの妖精はヂアン・スキッキ[9]にて
狂ひ廻り、人々をかく裝はす。
私は彼に云つた「おゝいま一つの者が
汝の上に齒を立てざれかし。願くは
この者の誰であるかを厭はず私に告げよ」。
彼は私に「これは正しき愛を
越えて己が父を戀ひせし
おぞましきミルラ[10]の古い魂である。
40 他人の形に身を佯つて彼女が
かく彼と罪を犯すに至つたのは
恰も彼處にゆく者が獸の貴女[11]を
得んとて敢て身をブオソ・ドナティと佯り
遺言状を作り、遺言状を
正式なものにしたのに似る」。
やがて狂亂のふたりが過ぎ去るや
私はこれに注いだ眼を轉じて
ほかの不幸に生まれた者等を見た。
人の兩股のあたりより鼠蹊 を
50 切れば即ち成る琵琶の
形をしたものを私は見た。
同化し難き水液により
顏と腹と配はざるほどに肢體を
不均衡ならしめる[12]重き水腫病は
その唇を開いたまゝにし
宛ら消耗熱患者が下唇を顎の方に
上唇を上にむけるのに似てゐた。
彼は我等に云つた「おゝ何故かは
俺には分らぬが、汝等何の罸をも
60 受けずに此慘ましき世界にゐる者等よ
師アダモ[13]の慘状を看て心をとめよ。
生きては慾するものを豐かに俺は
得たが、今や吁、水の一滴に喘ぐ[14]。
カセンティノ[15]の緑の丘邊より
アルノに流れ下り、水路を涼しく
柔げる多くの小川が
常にわが前にあつて然も徒らならず。
蓋しその姿が俺を乾 あげることは
遙かわが顏の肉を剥ぐ病ひに優さる。
70 俺を笞つ嚴しい正義は
いよ〜わが溜息を飛ばしめんとて
その原 をわが罪を犯せる處に引く[16]。
彼處にロメナ[17]とて俺が『洗禮者』の
銘ある貨幣[18]を贋造し、ために俺が
燒かれて體を地上に殘した處がある[19]。
然しこゝにグヰドか、アレッサンドゥロか
または彼等の兄弟[20]の悲しい魂を見るを得ば
俺はブランダ[21]の泉にも眼を呉れまい。
めぐりゆく狂亂の亡靈の言葉が
80眞 ならば、その一人[22]は既に此中にゐる。
然し肢體の縛られる俺には何の益がある
なほ身が輕く、せめて百年に
一吋 を進み得もせば
たとへ周圍十一哩 [23]
また幅がこゝに半哩 を下らぬとも
俺は既に徑を辿り
彼をこの壞敗の民の間に探したであらう。
彼等ゆゑに俺は斯かる族 の中にゐる。
彼等は俺を誘ふて裕に三カラトの
90金滓 あるフィオリノを鑄らしめた[24]」。
私は彼に「汝の右際に
寄り添ふて臥し、冬の濡手のやうに
煙る二人のあさましき者は誰か」。
彼は答へた「この崖[25]に俺が降つた時
彼等はこゝにゐたが其後身動きもしない。
また永劫に動くとも思はれない。
ひとりはヂオセッペを罪せし僞りの女[26]
ひとりはトゥロイアの希臘 人 僞りのシノネ[27]。
烈しき熱病ゆゑに彼等は斯かる臭き烟を吐く」。
100 すると其ひとり、かく惡しざまに
名ざされたのを恨むと見えて
その硬 い[28]腹ををおのが拳 にて撃つた。
それは太鼓であるかのやうに鳴つた。
そこで師アダモは堅さ此に劣るとも
見えぬ己が腕にてこの者の顏を打つて
云つた「肢體の重さのため俺は
動き得ないが、その代用として
腕が俺に弛められてゐる」。
する[と]此者が答へた「火に赴いた時
110 汝の腕はかく迅くなかつた[29]。
然し造幣の時は斯く、否、なほ迅かつた」。
そこで水腫の者が「かく汝の云ふは眞 である。
しかしトゥロイアにて眞 を問はれた時
汝は斯く眞 の證人でなかつた[30]」。
シノネは云つた「俺 は僞りを云つたが
汝は貨幣を贋造した。又俺がこゝに居るのは
一の罪の爲だが、汝の罪は鬼よりも多い[31]」。
腹を膨らしをる者が答へた。
僞誓者よ、馬を憶ひ起こし[32]
120 全世界のこれを知りをることを悲しめ」。
希臘 人が云つた「汝の舌を割る渇きと
また腹を汝の眼さきの
斯く籬にする腐水 を悲しめ」。
そこで贋造家は「汝の口は常のごとく
おのが禍に向かつて斯くうち開く。
蓋し俺は渇き、體液が俺を腫 ますが
汝は燃えて頭が痛み
多くの言葉にて誘はれなくも
ナルチッソの鏡[33]を汝は甜 るであらう」。
130 全く彼等に聽き惚れてゐた時
師が私に云つた「さて少しく愼しめよ。
もう少しで俺は汝と爭ふであらう」。
彼の怒つて私に語るのを聞いた時
今なほわが記憶に渦 くばかりの
耻を抱いて身を彼の方に向けた。
凶夢を見、夢みつゝ夢なならん[注:夢ならん?]ことを
願ひ、かくて然るを然らざるごとく
切望する人のやうになつて
私は語ることが出きなかつた。
140 即ち詫びんと願ひ絶えず詫びながら
斯くなしたとは思はれなかつた。
師は云つた「微かな恥が汝の
陷つたものよりも大なる咎を洗ふ[34]。
されば汝の一切の悲しみを下 せ。
民がこれに似た爭ひをする處に
なほも運命が汝を集 はすこともあれば
俺が汝の側 に常にゐるをおもへ。
斯かる事を聞かうと願ふは卑しい願ひである」。
ダンテなほ第十嚢にありて欺僞のため苛責せらるゝ罪人を見る。 即ち變裝して不倫の情慾を充たせしミルラを始め、 多くの贋造家、僞誓者等渇きと水腫とに患む。
おなじ一つの舌[1]が前 には
私を刺して[2]左右の頬を彩り[3]
後には藥[4]を私にえさせた。
アキルレとその父の槍[5]もまた
斯くのごとく常に前には悲しみの
後には善き賜の原因 になつたと聞く。
われらは背を慘ましき大谷[6]にむけ
これを取りめぐる堤の上に出て
一語もかたらずに横ぎつた。
10 こゝは夜にもあらず晝にもあらず
かくてわが眺めは殆ど前に進まなかつた。
然し一切の雷 を微かならしめるほど
高く響く角笛が聞えて
その越し方[7]を遡りつゝわが眼を
悉く一の處に向けしめた。
カルロ・マニオが聖軍[8]を失ひし
愁しき敗北の後のオルランド[9]も
かく怕ろしくは響かさなかつた。
彼方に頭をめぐらして程なく、多くの
20 高い櫓が見えたゆに思はれたので
私は云つた「師よ、語れ、此は何の都か」。
彼は私に「汝は餘り遙かに
暗 の中を透し見るゆゑ
遂に想像を誤ることになる。
彼處に到れば、距離のため感覺の
いかに欺かれるかを良く俺は識るであらう。
されば少しく汝自らを尚ほ急がしめよ」。
かくて彼は優しくわが手を採つて云つた
「われらが尚も進むまへ、この事の
30 汝にいと不思議に思はれぬために知れ
かれらは櫓にあらず巨人逹[10]である。
またいづれも皆その臍より下は
井[11]の中、堤の周圍 にある」。
水蒸氣が空氣に籠つて
蔽すものの像 が霧の散るにつれて
徐ろに見えて來るやうに
私が緑の方に次第に近づき
濃い暗い空氣を穿つた時
誤謬は私を逃げ恐怖が私に増した。
40 恰もモンテレッヂオニ[12]が圓き圍 の上に
多くの櫓を冠とするごとく
怕ろしい巨人等は半身を
坎 をめぐる堤の櫓にしてゐた。
ヂオヴェは雷鳴して今なほ
天より彼等を威嚇する[13]。
既にして其ひりとり顏
肩、胸、また腹の大部分と
埀れをる雙腕を私はみとめた。
げに自然が斯かる生物 を
50 造くる技 を廢 め、斯かる司 共を
マルテ[14]より奪つたのは甚だ善し。
また自然は象と鯨を造つて
悔いないが、慧明の人はこれによつて
自然をいよ〜正しく智慮ありとする。
けだし心の固 [15]が若し惡意と
力とに結ばる時は
何人もこれを防ぎ得ない。
彼の顏は羅馬にある聖彼得 の
松毬 [16]のごとく長く大きく見え
60 ほかの骨もまた此に釣合つてゐた。
されば下半身の膝被 たりし堤の上に
いと高く身を現してゐたが
三人のフリジア人[17]も能くその髮に
屆くを誇り得ないであらう。
人の外套をかきあはす處より下が[18]、
裕に三十パルモあるのを私は見た。
Rafel mai amech zabi almi[19]と
猛き口が叫びはじめた。
此より甘美な聖歌は此口に似合はない。
70 そこでわが導者は彼に向かひ「愚鈍の魂よ
忿怒その他の烈情に觸れるときは
角筈をとらへてこれに氣を洩らせ。
頸を探つて結べる紐をとり
おゝ惑亂の魂よ、また汝の
大なる胸を角笛の卷くを見よ」。
かくて彼は私に云つた「彼は罪を自白する。
これはネムブロット[20]である。たゞ一の言語の
世に用ゐられぬのは其惡念による[21]。
我等は彼を居殘し、空しく彼と語るを止めやう。
80 蓋し彼の言語 が他の何人にも分からぬやうに
一切の言語 が彼に分からない」。
やがて左に向かつて我等は遠く
道を辿り、弩弓のとゞく距離 に
又ひとり遙かに猛く大なる者を見た。
彼の縛り主 が誰であつたか私[22]は
云ひ得ないが、鎖は右腕を後 に
他の腕を前に繋ぎ
頸より下を縛つて
身に露 はなところを
90 卷くこと五囘におよぶ。
わが師は云つた「この傲 れる者は
至高のヂオヴェんい逆つて己が力を
試めさうとした。故に斯く報ひを受ける。
その名をフィアルテ[23]と云ひ、巨人等が神々を
恐れしめた頃、大なる試み[24]をなして
揮つた腕も「とこしへに動かない」。
そこで私は彼に、「若しかなはゞ
測りがたきブリアレオ[25]の
わが眼に見えんことを願ふ」。
100 すると彼は私に答へた「こゝより近くに汝は
アンテオ[26]を見るであらう。彼は語つて繋がれず[27]
我等を一切の罪の底に置くであらう。
汝の見やうとねがふ者はなほ遠き
彼方にゐて、此者の如く縛られ
姿も同じく、只その容 は更に猛しい」。
フィアルテは忽ち身を搖すつたが
いかなる地震も斯く烈しく
櫓をゆるがしたことがない。
その時私は常に優つて死を恐れた。
110 またその鐘を見なかつたならば
懼れは死を齎らすに足つたであらう。
かくて我等はなほも前に進んで
アンテオに來た。彼は岩窟の外にいづること
頭を除いて裕に五アルラ[28]はあつた。
「おゝアンニバレ[29]がその兵等 と共に
背を敵に見せた時、スシピオを光榮の
嗣 たらしめた命運の谷間に
嘗て獲物として一千の獅子[30]を運んだ汝
また兄弟等の激戰[31]に加はつたならば
120 地の子等が捷 つたものをと
今なほ信ずると思はれる汝
願はくは冱寒コチト[32]を鎖すところに
我等を下 し、斯くするを厭ふ勿れ。
我等をティツィオにもティフオ[33]にも行かしめるな。
此者は人のこゝに求めるもの[34]を與へる得る[注:與へ得る?]故
身を屈めよ、顏を扭ぢるなかれ。
彼は尚ほ能く汝の名聲を世の興す。即ち彼は
生きてゐる。又時至らぬに『恩寵』がその許に
彼を呼び給はぬ限り尚ほ永く活きん事を彼は俟 む」。
130 かく師が云つた。すると彼は嘗てエルコレが
大なる壓搾を受けたその雙手[35]を
素迅 く伸ばしてわが導者を捉へた。
・ルヂリオは己が捉へられたのを識るや
私に云つた「俺が汝を抱きうるやうに此處に
來たれ」。かくて彼と私とを一束にした。
傾く下よりカリセンダ[36]を眺めば
雲がその上を越えゆく時
これを迎へて倚りかゝるよと見える。
私の眴 つてゐたアンテノの屈む状も
140 そのやうであつた。ほかの途より行かうと
私のおもふたのもこの時であつた。
然しルチフェロ[37]とヂウダ[33]を呑む底に
輕やかに彼は我等を置き
また斯く屈んでそこにためらはず
船の檣のやうに彼は身を起こした。
ダンテ大なる角笛の響きに導かれて地獄第八環を去り、櫓のごとく屹立する巨人等を見る。 その中のひとりなるアンテオ巨大なる體躯を曲げて彼を地獄最終の環に送る。
凡ての坎[1]に適はしい凄く
嗄 れた韻 が若し私にあれば
わが想念 の汁をなほも豐かに
搾つたであらう。然し此が私にないので
語るあたりに恐れなきを得ない。
けだし全宇宙の底[2]を敍するは
戲れにすべき業 にあらず
またmammaやbobbo[3]と叫ぶ舌の業にもあらず。
10 然しアムフォネ[4]を扶けてテエベを
鎖すたかの貴女逹[5]わが詩をたすけ
かくて言葉を事に違 へざらしめよ。
おゝ凡てに優つて不幸に造られし庶民
語るも辛き處にゐるものらよ、この世にて
羊か山羊なりしならんには尚よかりしものを。
暗き井 のうち、巨人の足もとより
さらに遙か低き處に我等はくだつて
なほも高き障壁を私が眺めてゐた時
「心して歩めよ、かくて慘ましく
20 疲れた兄弟逹[6]の頭を蹠 にて
踏む勿れ」と私にいふのを聞いた。
そこで私は身を囘 し
前にあたつてわが足の下に寒さのた、え
水にあらず硝子の姿の池[7]を見た。
冬のアウストゥリアのグヌピオ河も
また彼方寒天の下のドン河[9]もこの處の如く
厚き面覆 をその水路に造つたことがない。
けだしタムベルニック[9]または
ピエトゥラパナ[10]が上に落ちるとも
その縁にピチとも云はしめ得まい。
また村女 が夢に落穗を
頻りに拾ふころ[11]、蛙が鼻端 を
水より出して鳴いてゐるやうに
なやめる靈は耻のあらはれる處[12]まで
鉛色となつて氷に入り
齒を鸛 の節 にあはせてゐた。
いづれも皆顏を下にし
寒さは口より、悲しき心は眼より
それぞれ證 を得てゐた[13]。
40 暫らく周圍 を眺めた後私は
足もとに向いて、頭の髮の交 り
合ふ程寄り添ふ二人のものを見た。
私は云つた「かく胸を壓しあふ汝等は
誰であるか私に告げよ」。すると彼等は
頸を曲げ、やがて顏を私の方に擧げたが
嚢には内のみ濕ふてゐた眼が
瞼[14]の上に溢れいで、また寒きは其中の
涙を凍らして再びこれを鎖した。
鎹 も斯く強く材木と材木とを迚も結び得ない。
50 そこで彼等は二疋の牡山羊のやうに
觝 きあふた。かく怒が彼等を制御した[15]。
またひとり寒さのため兩耳を
失つたものが尚も顏を下にして云つた
「何ゆゑ斯く我等を汝の鏡とするか。
この二人が誰であるかを知りたくば
聞け、ビセンツィオ[16]の傾きいづる谷は
彼等の父アルベルト[17]のもの又彼等のものであつた。
一の肉體より彼等は出た[18]。全カイナ[19]を
採 すとも彼等に優つて氷漬に適はしい
60 亡靈を汝は見ないであらう。
アルトゥロの手にかゝり只一撃のもとに
胸に影とを裂かれたものも[20]
フォカッチア[21]も、また頭にて俺 を妨げ
俺に遠くを見させぬ此サッソル・マスケロニ[22]と
呼ばれる者(汝トスカナ人ならば良く今
彼の誰であつたかを知る)も此に優らない。
また尚も汝が俺に語らしめぬため
知れ俺はカミチオネ・デ・パッツィ[23]にて
カルリノ[24]が俺の罪を疏 くのを待つてゐる」。
70 かくて私は寒さのため犬[の]やうに成れる
千の顏を見た。ために凍れる池を見る毎に
私は慄ふ。また永久に然するであらう。
我等は一切の重力[25]の集まる
中心さして進み、永遠の冱寒に
私が慄へてゐた間に
神意か定命 か運命か、私は知らぬが
多くの頭の間を過ぎゆきつゝ
ひとりの顏に強く足を打ちあてた。
泣きつゝ彼[26]は私を叱つた「何ゆゑ俺を
80 碎くか。モンタペルティの復讎を増すため
來たらずとせば、何ゆゑ汝は俺を窘しめるか」。
そこで私は「わが師よ、この者により私が
疑ひより去り得るため、今こゝに私を待て。
その後意 のまゝに私を急がせよ」。
導者は止まつた。そこで尚も
頑固に罵つてゐた者に私は云つた
「かくも人を叱咤する汝は何ものぞ」。
彼は答へた「アンテノラ[27]を過ぎ行き
人の頬をうつ汝こそは誰か。かくて
90 汝が生者であれば餘りの仕打である」。
私は答へた「私は活きてゐる。されば
汝名譽を求めば、汝の名を私が記録に
止めることは汝の希 ふところであらう」。
すると彼は私に「俺の願ひは正 に反對である[28]。
こゝより去つてまた俺を煩はす勿れ。
蓋し此平地 に阿諛の益なきを汝は知らないのか」。
そこで私は彼の項 の毛を捉へて
云つた「必ず自ら名乘れ。然らずば
こゝに汝の髮が一筋も殘らぬぞ」。
100 すると彼は私に「汝たとひ我が髮を拔くとも
俺が誰であるかを汝に云はず。また汝千度
わが頭上に落ちるとも汝に明かすまい[29]」。
既に私は髮を手に卷きつけて
拔くことが一總 よりも多かつたので
彼は吠えつゝ眼を埀れてゐた時
他の一人が叫んだ「ボッカよ、何事ぞ。
汝吠えずとも顎を鳴らして居るではないか。
いかなる鬼が汝に觸 るのか」。
私は云つた「さて邪惡な反逆者よ
110 汝は語るに及ばず。私は汝の
眞 の音 を携へ行き、汝の恥にしよう」。
彼は答へた「行け、かくて汝の意 のまゝに語れ。
然しこの中より出たならば、今かく迅く
舌を效いた者のことを默すなかれ。
彼[30]はこゝに彿蘭西人 の銀を哭く。
汝須く云へ、俺は罪人等の
冷えをる處にドゥエラの者を見たと。
汝まら他に誰がゐたかと訊ねられなば
見よ側 にフィレンツェに喉を
120挽 かれたベッケリア[31]の者がゐる。
ヂアンニ・ソルダニエリ[32]はガネルロネ[33]及び
ファエンヅァを其眠れる時に開いたテバルディロ[34]と
共に更に彼方にゐると俺はおもふ」。
既にして我等が彼を去つた時
一の穴に凍るふたりの者を私は見た。
即ち一の頭の帽子となり
上のものが下のものの腦と
項 の結ばる處んい、飢えて麪包 を
貪り食らふごとく齒をたてゝゐた。
130 この者が頭蓋その他のものを
噛 つた状は、ティデオが憤つて[35]メナリッホの
顳顬 を碎いたのに異ならず。
私は云つた「おゝ汝かくも獸のごとき
印 によつて憎惡を汝の食らへる者に示すものよ
これを約束にその譯を私に語れ。
即ち汝に彼ゆゑに泣く理 があれば
汝等の誰であるか、また彼の罪を知り
もし私のいふもの[36]が乾かねば
上の世にて更に汝のために報いをしよう」。
ダンテ愈地獄最終の環に下る。第九環は各種の背信者の罰せらるゝ處にして四圓に分かたる。 まづ第一圓カイナにて血族の信に背きし者等を見、 次いで第二圓アンテノラにて祖國乃至自黨を裏切りし者等の氷漬けとなれるを見る。
かの罪人は猛き食物より口をあげ
彼がうしろに荒らせし
頭の毛にこれを擦 つた。
かくて彼は始めた「語らぬ前既に
思ふのみにて我が心を壓する絶望の憂ひを
俺に新たにさせやうと汝はねがふ。
然しわが言葉が俺の噛む反逆者の汚名を
結實 らす種ともなれば、汝見よ
俺はこもごも語り且つ泣くであらう。
10 汝が誰であるかも又いかなる樣 により
此處に降り來たかも俺は知らぬが、言葉を
聞くに汝は確かにフィレンツェ人と思はれる。
俺は伯爵ウゴリノ[1]にて此は大僧正
ルッヂェリ[2]であつた[3]と汝知れ。俺が斯かる
隣人となつた譯[4]を今汝に語る。
彼の惡しき思ひが果たされるや
彼を信じてゐた俺は捕へられ
かくて後殺されたことは語るに及ばず。
そこで汝の聞き得なかつたこと
20 即ちわが死がいかに殘忍であつたかを聞いて
彼が俺を虐げなかつたか否やを知れ。
俺により饑餓の稱を得て
その中 に尚も人々を閉ぢ込むべき
かの塒 [5]のなかの隙間が
その穴より既に多くの月を
俺に示した頃[6]、俺はわが未來の
面覆 をひき裂いた凶夢を見た。
此奴 はルッカをピサ人に見させぬ山の[7]
上に狼と仔狼を獵 る首領
30 また主君のやうに俺を見えた。
痩せて勇ましく馴らされた牝犬[8]と共に
グァランディとシスモンディとランフランキ[9]を
その前面に先きだたした。
駛驅わづかにして父と子とは疲れたと見え
また彼等の脇腹が鋭い牙に
引き裂かれるのを見たと覺えた。
朝まだき醒 めた時
俺 と共にゐたわが子等[10]が夢[11]の裡に
泣いて麪包 を求めるのを聞いた。
40 若しわが衷 に心の豫兆するものを思ふて
既に憂ひないならば、げに汝は冷酷である。
また泣かぬならば涙は何の用ぞ。
既にして彼等は醒 めた。食物の
與へられる時が近づいた。
然し夢ゆゑにいづれも不安になつた。
そして俺は怕ろしい塔の下の扉が
釘うたれる[12]を聞いた。そこで俺は
無言に、わが子等の顏を眺めた。
俺は泣かなかつた。心は斯く石になつてゐた。
50 彼等は泣いた。そしてわがアンセルムッチオ[13]は
云ふた『汝は斯く眺める、父よ、何ごとぞ』。
かくても俺は涙ぐまず
また其日も續く夜も答へず
遂に再び太陽が世に出た。
光線が微かに憂ひの牢獄に
入りこみて四つの顏に
俺 自らの姿[14]をみとめた時
憂ひのため俺はわが雙手 を噛んだ。
すると食らはうとして斯く
60 俺がしたと思ひ、急いで身を起こして
彼等は云つた『父よ、我等を食 ひ給ふ方が
我等の苦痛が遙かに少ない。汝は此悲慘な肉を
我等に纒はせた。されば汝これを剥ぎとれよ』。
彼等を尚も悲しませぬやう俺は鎭まつた。
その日も次の日も我等は皆默つてゐた。
あゝ無情の地よ、何故に汝は開かざりし。
かくて我等が第四日[15]に及んだ時ガットが
『わが父よ、何故私を扶け給はぬか』と
云つてわが足もとへ身を投げ伸べて
70 そこに彼は死んだ。また汝が俺を見るやうに
俺は五日と六日目の間に一人また一人
三人の斃れるを見た。そこで既に
盲となつてゐた俺は皆を索 りもとめて
その死後二日[16]の間彼等を呼んでゐた。
やがて斷食が憂ひよりも力強くなつた[17]」。
このことを云ふた時彼は目を歪め
犬のごとく骨に強い齒をもつて
無慘な頭蓋を再びとらへた。
あゝピサロよ、siの響くところ
80佳 はしき國[18]の民の恥辱よ
汝の隣人[19]等が汝を罸すること遲きゆゑ
カプララとゴルゴナ[20]動きて
アルノの口に籬 をつくり
汝の中の凡ゆる人を溺れしめよ。
蓋し若し城を賣つたとの噂[21]が
伯爵ウゴリノにあるとも、汝は
子等を斯く十字架に懸く[22]べきでない。
新しきテエベよ、齡 わかいゆゑ[23]に
ウグッチオネもイル・ブリガタ[24]も又上に
90 この曲[25]に名を擧げた他の二人も罪なし。
我等は更にほかの民が俯 かずに[26]
全く反りかへり、氷の荒らく
包むところへ過ぎた。
涕泣 自ら涕泣を茲に許さず
憂ひはまた眼の上に障礙 をうけ[27]
苦惱を増さんとて内に歸つた。
即ち初めの涙は塊となつて
さながら水晶の瞼甲 のごとく
眉の下の盃[28]を全く充たした。
100 かくて寒さのため凡ての
感覺は、胼胝 の處のごとく
わが顏より失せ去つたとは云へ
其時些 か風を感じたやうに覺えたので
私は云つた「わが師よ、此を動かすのは誰か。
下のこゝに一切の氣[29]が消えないのか」。
そこで彼は私に「風を降らす
原因[30]を眼が見てこれの答を
汝にする處に汝は速かに行くであらう」。
やがて凍れる皮の悲しめる者の
110 一人が我等に叫んだ「おゝ最後の立處 [31]を
受けたほど殘忍な魂どもよ
堅い帷 をあげて
涙の再び凍らぬ間に
わが心に孕む憂ひを少しく洩らさしめよ[32]」。
そこで私は彼に「私が汝を助けんことを願はゞ
汝が誰であるかを告げよ。かくトも私が汝の
障 りを除かぬならば必ず氷の底に私は行く」。
すると彼は答へた「俺は僧 アルベリゴ[33]である。
かの惡しき園の果ゆゑに[34]此處に俺は
120 無花果にかへて大棗[35]を採る」。
私彼に云つた「おゝ、さらば汝は既に死んだのか」。
彼は私に「わが肉體が上の世に
如何になつてゐるか少しも知らない[36]。
このトロメア[37]に一つの特權があつて
アトゥロポス[38]の動かさぬまへに
魂がしば〜゛此處に落ちることがある[39]。
また汝が玻璃のごとき涙を尚も快く
わが顏より剃りとり得んために知れ
俺のしたやうに魂が裏切るや
130 その肉體は直ちに鬼に奪はれ
かくて己が時のめぐり終る間
これに支配され、自らは[40]
かくの如き水槽に落下する。
されば此處わが後 に冬を過ごす亡靈も
恐らくその肉體をなほ地上に現してゐやう。
今下つて來た許りなれば汝は彼を知つてゐやう。
彼はセル・プランカ・ドリア[41]にて
かく閉ざされてより既に多年が過ぎた」。
私は彼に云つた「汝は俺を欺くと思ふ。
140 けだしブランカ・ドリアはまだ
死なずに食ひ飮み眠り衣を着る」。
彼は云つた「上のマレブランケの濠[42]の
粘 き瀝青 の煮えるところに
ミケレ・ツァンケがまた着かないうちに
この者は己の代りに鬼を
その肉體に殘し[43]、彼と共に裏切りし
その親屬の一人も亦かく爲した。
さて今手をこなたに伸べてわが眼を
開けよ」。然し私はこれをあけなかつた。
150 暴[戸/犬][41]こそ彼に慇懃たるなれ。
あゝヂェノヴァ人よ、一切の慣ひをはなれ
一切の瑕瑾 に充つる人々よ[45]
何ゆゑに汝等は世より散らされないのか。
蓋しロマニアの極惡な靈[46]とともに
汝等のひとり[47]がその行ひによつて
魂の既にコチトに浴し
肉體は尚ほ活きて地上に現れをるを私は見た。
ダンテ尚ほアンテノラにありて、おのが子等と共に餓死せしめられしウゴリノ伯爵の悲慘なる物語を聞く。 次いで第三圓に下り友を賣りし者等の氷に鎖され居るを見る。
[「]Vexilla regis prodeunt inferni[1]
(我等の方に)、されば汝彼を認め得ば
前を眺めよ」とわが師が云つた。
濃霧が吹く時、または
我等の半球が夜になる時
風の廻す碾粉車 が遙かに見えるやうに
その時私も斯かる建物を見たと思ふた。
かくて風[2]ゆゑに身をわが導者の後 に寄せた。
これ他 に岩窟がなかつたからである。
10 やがて私は諸の亡靈が全く蔽はれて
硝子のなかの藁屑のやうに透き
徹る處[3]にゐた。恐れつゝこれを私は詩に編む。
ある者は臥し、或は頭或は蹠を
あげて直立してゐた。ある者は
弓のごとく顏を足に彎 げてゐた。
遠く我等が進んだ時わが師は
嘗て姿の麗はしかつたもの[4]を
私に見せやうとおもひ
私の前より身を除 け私を止めて云つた
20 「見よディテ[5]を、また見よ剛勇に
汝を鎧ふべきこのところを」。
この時いかに私が凍えて沮喪したか
讀者よ、問ふ勿れ。蓋し一切の言葉が
足らぬゆゑ私はこれを記さない。
私は死にもせず又生きてもゐなかつた。
汝に才智の花だに[6]あれば、此をも
彼をも[7]失つたわが状を今自ら思へ。
憂愁の王國の皇帝が
胸の半 まで氷の外に出てゐた。
30 巨人をその腕に比べるよりは
寧ろ私を巨人に比ぶべきである。
その一部が斯くの如しとすれば、これに
添ふ全體のいかに大なるべきかを今思へ。
今醜きがごとく嘗ては彼は美しく
然も己が造主 に向かひ眉を上げたとせば
一切の悲愁 の彼より出でしも宜 なるかな。
おゝ彼の頭に三つの顏[8]を見た時
いかに大なる驚愕が私に映じたかよ。
一つは前にあつて朱 く
40 他の二つは雙肩の眞中 の
上にてこれと聨 なり、共に
鷄冠 のところ[9]にて結ばつてゐた。
右なるは白と黄の間と見え
左なるはその姿ニロ[10]の出で
くだる處より來る人[11]のやうに見えた。
いづれの顏の下よりも、斯かる鳥に
適はしい二つの大なる翼が出てゐた。
海の帆の斯く大なるを私は見たことがない。
此等の翼に羽なく、その状
50 蝙蝠のごとく、これを羽搏 けば
三つの風が彼よりおこり
そのためコチト[12]は全く凍つた。
彼は六つの眼にて泣き、また三つの
顎の上には涙と血の涎が滴つてゐた。
いづれの口にも彼はひとりの罪人を
齒にて裂くこと紵麻梳 のごとく
かくて三人のものを患ましてゐた。
前のものは爪にかけられて
背骨がしば〜゛全く皮を剥がれた。
60 これに比べては噛まれるは何ごとでもなし。
師は云ふた「高くかしこに最大の
罰を受け、頭を内にして脛 を外に
振る魂は、ヂウダ・スカリオット[13]である。
頭を下にするふたりのうち
黒い口端 より埀れるはブルト[14]である。
いかに身を扭 ぢて言葉なきかを見よ。
他 のひとり肢體の太く見えるはカッシオ[15]である。
然し夜が再びのぼる[16]。我等は
一切を見たので今去らねばならぬ」。
70 彼の意に從ひ彼の頸を私は抱いた。
すると彼は善き時と處をはかり
翼のよく開かれた時
毛深い脇に身を粘 け
かくて尨毛 より尨毛へと下へ
濃い毛と氷殼と間をくだつた。
腿 の曲がり際
腰の厚いところに我等が至つた時
導者は疲れて苦しげに[17]
嚢に脛 を置いた處に頭をむけ
80 のぼる人のやうに毛を掴んだので
私は地獄に又も歸るのかと思つた[18]。
疲れた人のやうに喘いで師が云つた
「よく捉へよ、斯くのごとき階 により
かく大なる惡を我等は去らねばならぬ」。
かくて彼は岩の穴を拔け出て
私を縁 にすわらせ、やがて
愼ましき歩みを私の方に運んだ。
私が去つた時のまゝなるルチフェロの
姿を見ることとのみ思ふて眼をあげたが
90 脛を彼が上にしてゐたのを私は見た。
その時の私の惑ひ如何 は
私の過ぎた處の何であるかを[20]
辨へない鈍き民ならでは識りがたい。
師が云つた「足にて起き上がれ
道遠く旅路また惡 し。
且つ太陽[21]も既に第三時[22]の半 に歸る」。
我等のゐた處は宮殿の
廣間ならで、床惡 く光乏しき
自然の坑であつた。
100 直立して私は云つた「わが師よ
私が身をこの深淵[23]より拔き去る前に
少しく語つて私を迷ひより解け。
氷[24]は何處 ぞ。この者の斯く逆倒に
置かるるは如何に、又如何にして
太陽が斯く束の間に夕 より朝 に移つたのか」。
そこで彼は私に「汝はなほも地心の彼方
俺が世界を貫く邪 な蟲[25]の
毛を掴んだところにゐると想像する。
彼方に汝のゐたのは俺が降つた間のみ。
110 俺が身を囘 した時、汝は重き物を
四方よりひく點[26]を過ぎた。
また大なる乾いた土が蔽ひ[27]
且つ罪なく生れて活きし人[28]が
其頂點の下に殺された半球[29]を離れ
今これに相反する半球の下に汝は逹した。
汝は足をヂウデッカ[30]の背面を
成す小さき圈[31]のうへに置く。
彼方が夕の時こなたは朝である。
また毛により我等に階 となつた此者は
120 いまも尚ほありし原 のまゝに置かれる。
この處に彼は天より落ちた。
また嚢にこゝに現れてゐた陸は
彼を恐れて海を面覆 とし
われらの半球へ來た。恐らく此方に
見える陸も亦彼を逃げやうとして此空處を
こゝに殘して馳せのぼつたのであらう[32]」。
下の彼方にベルヅェブ[33]より距つこと
その墳墓[34]の長さに等しい處があつて[35]
眼にては分らぬが、一すぢの小河の[36]
130 響きによつて知られる。この流れは
囘 つて傾斜急ならず、自ら噛んだ岩の
穴に沿ふてこゝにくだる」。
導者と私とは輝く世界に歸らうとして
この蔽 れたる路に入り
少しの憇ひをもおもはず
遂に一つの圓き孔[37]より天の運びゆく
美しきものを[33]私が見得た處まで
彼は第一に私は第二にのぼり
斯くて星[39]を再び見んとて此處を出た[40]。
ダンテ愈地獄の奧底に下り恩人を賣りし人々の罰せらるゝを見る。 即ちヂウダ、ブルト、カッシオの徒三面のルチフェロに噛み苛いなまる。 やがて地獄の一切を見し兩詩人はルチフェロの背を辿りて地心を過ぎ、 再び世の美しき星を見んとて地下の隘路を辿りぬ。