シラノ・ド・ベルジュラック:目次 ------------------------------------------------------------------------------- 底本:楠山正雄|(1884-1950年) 譯,エドモン・ロスタン (Edmond Rostand, 1868-1918)年) 著, 泰西戲曲選集(5)『シラノ・ド・ベルジュラック』,新潮社, 大正十一年十二月五日印刷,大正十一年十二月十日發行。定價九拾錢。 ------------------------------------------------------------------------------- シラノ・ド・ベルジュラック エドモン・ロスタン 作 楠山正雄 譯 * 序説 * 獻辭 * 人物 * 第一幕 * 第二幕 * 第三幕 * 第四幕 * 第五幕 ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/06/21 シラノ・ド・ベルジュラック:おぼえがき [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 序説 『シラノ・ド・ベルジュラック』(Cyrano de Bergerac)の作者エドモン・ロスタン(Edmond Rostand, 1868-1918)は、 南フランスのマルセイユの人である。父は新聞記者で經濟學者であるが、 生れた家には音樂ずきの血筋があり、父親は詩も作つた人である。 そんなことで彼は子供の時から詩や音樂に對する情緒をはぐゝまれてゐた。 詩作では早くからよく人をおどろかした。 パリーのスタニスラス・コルレージュで哲學と美學を學んで、 ソルボンヌで法律學士となつたが、法律家にはならずに、詩集を出したり、 美貌の女詩人ローズモンド・ジェラールと結婚したりした。 これは彼が二十二歳の時である。その翌年初めて、『レ・ロマネスク』といふ脚本を出して、 三年後の一八九四年コメヂー・フランセーズ座の舞臺に上ると、 その年での第一の喜劇として、プリー・トロアックの賞を得た。 これがロスタンにネオ・ロマンチックの序曲であり、自然主義に對する反動藝術家としての彼が第一聲であつた。 その翌年テアートル・ルネーサンス座で女優サラ・ベルナールが、彼の第二作『遠くの王女』を上場した。 これは東洋の遠い國の王女メリザンドに夢のやうな戀を寄せて船出をするブライエの詩人王子ゲオフライ・ルーデルのことを作つたものである。 その後の作は、ヨハネ傳から材料をとつた『ラ・サマリテーヌ』(一八九六)で、 これもサラ・ベルナールのために書いたものである。 さてその翌年サラとならぶ男優老コクレンの依頼を受けて書いたのが『シラノ・ド・ベルジュラック』(一八九七)である。 これが一八九七年一二月二十八日の夜ポルト・セン・マルテン座で上演せられてユーゴーの『エルナニ』以上のセンセーションをパリーの全市に與へた。 ロスタンはたゞ一夜で、智識階級と衆俗とをおしなべて、全フランス人の魂を掴んでしまつた。 彼等の胸中に交錯する舊い傳統的感情と、新しい近代的精神とを一つにして完全にこれを把握し得たのである。 この人氣はその後一年半もうちつゞけた興業の間少しも衰へなかつたのみならず、脚本はヨーロッパの各國に爭ひ讀まれた。 その間に作者の胸はレジオン・ドノール勳章で飾られた。 『シラノ』の次に、ロスタンは『雛の鷲』(一九〇〇)を書いた。鷲は大ナポレオンで、 雛はすなはち「ローマ王」である。これは『シラノ』の作者の名聲を下すとも、上げるものではなかつた。 その翌年彼はアカデミー・フランセーズの會員に推薦せられた。 それから十年の長い沈默の後、ロスタンは動物寓喩劇『シャントクレール』(一九一〇)を書いて、 形式と落想[譯注:着想の誤り?]の風變りなのと、作者に對する久しい期待とで、 發表後間もなく世界的名聲を得た。主人公の雄鷄シャントクレールが詩人で哲學者で、 兼ねて戀を知る勇士であることは、やはりロスタン好みといふべきである。 しかし究竟ロスタンを永久にするものは『シラノ』の外には無い。 シラノといふ人物は、ロスタンが少年時代から空想の上で藝術化してゐた人物ださうである。 それでコクレンから脚本執筆の頼みがあつて、ちやうど柄が出合ふところから思ひついて書いたのだといふ。 一體シラノといふ人物は、十七世紀の前半に實在した人物で、 芝居の中にもあるやうに、實際、詩人で侠客で軍人で、月世界旅行の物語詩を書いた外に、 小説、脚本、敍事詩、戀愛小説、いろ~の作をした天才であるが、 當代には不遇であつたといふ。全體十七八世紀のフランスが、 日本に江戸時代も安永天明時代に當るとすれば、 シラノはさしづめ現實では平賀源内、假想では歌舞伎十八番の助六を一しよにしたやうな人物らしく、 少くとも外觀だけは見える。たゞロスタンのシラノの持つてゐる根づよい人間的なロマンチックの精神は、 源内にも助六にもない。これが十九世紀末のフランスと十八世紀末の江戸との岐かれ目である。 それにも拘らず一種の風俗史劇として、市井の抒情詩としての一面には、 『シラノ』と『助六』との間に共通した特色がないとはいへないのである。 一九二二年十一月 譯 者 識 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/06/21 シラノ・ド・ベルジュラック:獻辭 [目次] [前章] [次章] -------------------------------------------------------------------------------        *初めてシラノに扮した俳優老コクレン わたしはシラノの靈魂に向つて、この 詩を捧げたいと思つてゐた。 けれども*コクレン、それは今君に轉生し たのであるから、わたしは改めてこの 詩を君に捧げるのである。     エドモン・ロスタン [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/06/21 シラノ・ド・ベルジュラック:人物 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 人物     ――男 性―― * シラノ・ド・ベルジュラック * クリスチヤン・ド・ヌーヴィエット * 伯爵ド・ギーシュ * ラグノー * ル・ブレー * 陸軍大尉カルボン・ド・カステル=ジャルー * 青年隊(カドー)等 * リニエール * ド・ヴァルヴェール * 第一の侯爵 * 第二の侯爵 * 第三の侯爵 * モンフルリー * ベルローズ * ジョドレー * キュイジー * ブリッサイユ * 苦情屋 * 銃兵 * 他の銃兵 * イスパニヤ軍の士官 * 近衞士官 * 木戸番 * 町の男 * その息子 * 掏摸 * 見物 * 憲兵 * 笛手ベルトラン * カプセン派(尖帽宗)の僧 * 二人の樂師 * 詩人等 * 菓子職人等 * 侍童等     ――女 性―― * ロクサーヌ * 教妹マルト * リーズ * 物賣場の娘 * 教母マルゲリット・ド・ジェジェ * 侍女 * 教妹クレール * 喜劇女優 * 侍女役の女優 * 花賣娘 群集、町の男、侯爵、銃兵、掏摸、菓子職人、詩人、ガスコンの青年隊、喜劇俳優、ヴィオロン彈き、 侍童、子供、兵卒、イスパニヤ軍の兵卒、見物の男女、プレシューズ(伊逹女)、 喜劇女優、町の女、尼等その他。初めの四幕は一六四〇年、第五幕は一六五五年。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/06/21 シラノ・ド・ベルジュラック:第一幕 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第一幕 オテル・ド・ブルゴーニュの芝居。 オテル・ド・ブルゴーニュの廣間、一六四〇年のこと。 ジュー・ド・ポーム(庭球場)の物置場の一種を芝居の興行用に修理し、裝飾したもの。 廣間は長方形の部屋。それを斜めに見るやうになつてゐる、從つてその側壁の一つは、右手の前景を見切り、 左手の後景と會つて、半分だけ見えてゐる(劇中劇の)舞臺と角度を作つてゐる。 その舞臺の兩側には、見物用の椅子が並んでゐる。幕は左右へ開く二枚の緞帳でできてゐる。 マントー・ダルルケン(道化役者の外套 -- 舞臺兩側の額縁幕をいふ)の上にルイ王家の紋章。 舞臺から廣間に大きな階段。この階段の兩側にヴィオロン彈きの座。蝋燭の脚光。 二段になつた東西の棧敷。上段の棧敷はボックスに仕切つてある。 廣間の土間は實際の劇場の舞臺で、それには椅子が無い。この土間の奧、 即ち前景の右手には階段の形に並んだ五六脚の長椅子。 二階棧敷に上る階段の上がり口だけ見えてゐる下に、屋臺店の飮食場、 小型華燭臺、瓶、玻璃杯、菓子皿、酒瓶その他で飾り附けができてゐる。 芝居の出入口には、光景の中央の、ボックスになつた二階棧敷の下についてゐる。 大きな扉が見物の出入のために半開きにしてある。その扉の上にも、 方々の隅にも、屋臺店の上にも、「ラ・クロリーズ」と、 今日の芝居の外題を書いた赤いビラが貼り出してある。 幕が上がると、廣間は薄ぐらく、まだ空虚になつてゐる。 大形華燭臺が廣間の中央まで下げられて、燈のつくのを待つてゐる。 第一景 見物追々に集まる。 近衞士官、町の男、貴族の家來、侍童等、掏摸、木戸番その他。後から侯爵等、 キュイジー、ブリッサイユ等の貴族、屋臺店の物賣娘、ヴィオロン彈き等。 大勢のがや~いふ聲が外で聞える。一人の近衞士官がそゝくさと入つて來る。 木戸番 〔後から追ひ縋り〕もし~、おまへさん、木戸錢は。 近衞士官 おれはたゞだよ。 木戸番 なぜね。 近衞士官 なぜだと、これは近衞の騎兵隊だぞ。 木戸番 〔入つて來た、もう一人の近衞士官に〕おまへさんは。 第二の近衞士官 おれは拂はん。 木戸番 どうしてね……。 第二の近衞士官 おれは銃兵だ。 第一の近衞士官 〔第二の近衞士官に向ひ〕芝居は二時にならなければ開かん。土間はあいて居る。さア暇つぶしに一番竹刀で行かうか。 二人は持つて來た竹刀で、仕合を始める。 一人の家來 〔入つて來て〕おい、……フランケン……。 他の一人 〔既に中に入つて居り〕シャンパーニュかい…… 第一の家來 〔胴着からカルタを出して見せながら〕見ろ、カルタも骰子もあるぞ。〔土間の上に坐る〕さあ一挺來い。 第二の家來 〔同じ所作〕よし來た、野郎。 第一の家來 〔かくしから蝋燭の燃えさしをとり出し、これに火をつけて床の上に立てる〕旦那のを少々失敬して來た明りなんだ。 一人の憲兵 〔そこへ入つて來た一人の花賣娘に〕明りのつかない前にやつて來るとは、感心、感心。〔娘の腰を抱く〕 撃劍者の一人 〔突かれて〕まゐつた。 博奕仲間の一人 トレーフル(クラブ)だ。 憲兵 〔娘の跡を追ひながら〕キスだよ。 花賣娘 〔すりぬけようともがきながら〕みんな見て居るわよ。 憲兵 〔娘をくらい隅に引き摺つて行つて〕大丈夫だい。 一人の男 〔土間の上に他の喰べ物を持つて來た人逹と坐つて〕早めに出かけたからゆつくり物が喰べられるよ。 一人の町の男 〔自分の息子をつれて來て〕にいや、こゝにしよう。 博奕仲間の一人 三度目のアス(ポイント)だ。 一人の男 〔外套の下から酒瓶をとり出して自分も土間に坐りながら〕さつさ飮め~ブルゴン酒…… 〔酒を呑む〕ちやうど處もブルゴン座か。 町の男 〔息子に〕おや~とんでもない惡い場所へ來てしまつたね。 〔杖で隣りの醉拂ひをさし示す〕とんだのんだくれだ…… 〔撃劍者の一人立廻りながら町の男につつかゝる〕これは亂暴な。 〔よろけて博奕仲間の眞中にころげ込む〕いやはや、ばくちかい。 憲兵 〔直ぐその後ろでまだ花賣娘をからかつてゐる〕さあ、キスを一つさせろといふに。 町の男 〔慌てゝ息子をかくまひながら〕いやはや……あきれたものだ。 -- これがおまへ、 昔はロトルーをやつた劇場だ。 -- 少年 えゝ、えゝ、それからコルネイユもね。 侍童の一群 〔手をつなぎ合つて〕ファランドール(田舍踊)を踊つて、歌を唱ひながら入つて來る トラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、レール…… 木戸番 〔むづかしい顏をして侍童等に向ひ〕小僧さん、いたづらをしてはならないぞ。 第一の侍童 〔威嚴を損じたやうな風で〕何んだと。 -- よけいなお世話だ…… 〔木戸番が背中をむけるやいなや早速第二の侍童に向ひ〕君、絲は。 第二の侍童 あるとも。釣針も持つて來たよ。 第一の侍童 よし~。ぢやあ、あそこの棧敷からかつらを釣つてやらう。 一人の侍童 〔まはりに五六人、人相の惡い若者を集めて〕おい、新來の泥助、一番泥棒學の手ほどきをしてやるから、 耳をほぢくつて聞くのだぞ。 第二の侍童 〔上の棧敷に上がつた他の侍童に聲をかけ乍ら〕おい~、君、吹矢持つてるかい。 第三の侍童 〔上から大聲で〕あゝ持つてるよ。豆もあるよ。〔吹矢を吹く、人々の頭に豆を飛ばせる〕 少年 〔父に〕今日の狂言は何だい。 町の男 クロリーズさ。 少年 誰が作つたの。 町の男 バルタザール・バロー先生さ。面白い芝居さね……〔息子の肱をとつて向うへ行く〕 掏摸 〔子分に向ひ〕何より膝にぴら~するレースだ -- あれをちよきりとやるんだな。 一人の見物 〔他の見物に棧敷の片隅を指し示しながら〕シッドの初めて出た晩には、わつしやああそこで見ましたよ。 掏摸 〔指でもつて掏摸の恰好をして見せながら〕時計をとるのはかうするのだ…… 町の男 〔又息子と一緒に戻つて來て〕あゝ、いい役者が澤山出るよ…… 掏摸 〔物をそつと指先で引き出す形をしてみせながら〕ハンカチは斯う -- 町の男 モンフルリーも出る…… たれか一人 〔上の棧敷から聲をかけて〕明りをつけろ。 町の男 ……ベルローズも、レビーも、ラ・ポープレも、ジョドレーも。 一人の侍童 〔土間の中で〕やあ、中賣りの女が來たぜ。 物賣りの娘 〔屋臺店の後から出て來て〕蜜柑に牛乳、莓水にセドル水…… 戸の外でワアッワアッといふ聲が聞える。 金切り聲 どけ、けだものめ。 一人の家來 〔びつくりして〕殿樣逹だ -- 土間へ入るのか知らん…… 外の家來 なあに、二分か三分さ。 若い侯爵の一團が入つて來る。 一人の侯爵 〔廣間が半分すいてゐるのを見て〕おや~どうした。 これでは我々も羅絨屋並に入らずばなるまい。これでは人民共の邪魔もできないぞ。 あいら[注:あいつら?]のかゝとを踏んでやることもならないぞ。 チョツ、チョツ。〔自分より少し先に入つた他の貴族逹を見附けて〕 キュイジー君。ブリッサイユ君。 挨拶と抱擁。 キュイジー お堅いことですね……實際明りもつかない前から來るとは…… 侯爵 いや、わかりましたよ。どうも氣色が惡いんだ…… 見物一同 〔點燈の男が入つて來たので喝采する〕いよう。 一同は明りがつくとそのまはりに圓くかたまる。中には棧敷に坐る者もある。 リニエール、立派な風采ながら、だらしなく著物を著て、 クリスチヤン・ド・ヌーヴィエットと手を組んで入つて來る。 クリスチヤンはしやれた身なりはしてゐるが、少し流行に後れた服裝で、 何か氣をとられることがあるらしく、棧敷のボックスに目をつけた儘でゐる。 第二景 前の人々、クリスチャン、リニエール、後から、ラグノー、ル・ブレー。 キュイジー リニエール君。 ブリッサイユ 〔笑ひながら〕 まだのんだくれないのかい。 リニエール 〔傍を向いてクリスチヤンに〕 君を紹介しよう。 〔クリスチヤンにうなづく〕 ド・ヌーヴィエット男爵です。 〔頭を下げる〕 見物一同 〔初めの華燭臺に明りがついて天上に釣上げられて行くのを見て喝采しながら〕 いよう。 キュイジー 〔クリスチヤンの樣子を見ながらブリッサイユに〕 可哀らしい奴さんだね。 第一の侯爵 〔傍で聞いて居て〕 ふん。 リニエール 〔人々をクリスチヤンに紹介して〕 ド・キュイジー閣下 -- ド・ブリッサイユ閣下…… クリスチヤン 〔お辭儀をしながら〕 何分よろしく……。 第一の侯爵 〔第二の侯爵に〕 ちよいと樣子は惡くはない。だがどうも身なりは流行おくれだ。 リニエール 〔キュイジーに〕 この人はツーレースから來られたのです。 クリスチヤン さうです。わたくしはパリーへ參つてからまだ二十日にはなりません。 明日から近衞の青年隊に入る筈です。 第一の侯爵 〔棧敷の客をながめて〕 大法官オーブリ夫人が來てゐる。 物賣り娘 蜜柑に、牛乳……。 ヴィオロン彈き 〔調子を合せながら〕 ラ……ラ…… キュイジー 〔どん~一杯になつて來る廣間の群集を指しながらクリスチヤンに〕 込んで來たね。 クリスチヤン えゝ、全く、大入ですね。 第一の侯爵 なか~えらい見物だ。 色々に伊逹に著飾つてボックスに入つて來る貴婦人逹をみつけて名前を呼び、丁寧に頭を下げる。 貴婦人逹微笑して答禮する。 第二の侯爵 ド・ゲメネ夫人 キュイジー ド・ボア・ドーファン夫人…… 第一の侯爵 我等が渇仰の的。 ブリッサイユ ド・ジヤヴィニー夫人…… 第二の侯爵 君は我等の哀れなる心をもてあそび給ふ。 リニエール やあ、ド・コルネイユ君がルーアンからやつて來たね。 少年 〔父に向ひ〕 學士會員も來てゐるの。 町の男 あゝ……大分集つてゐるよ。ブーヂさんに、ボアッサーさん、それからキュロー・ド・ラ・シャンブルさんに、 ポルシェレーさんに、コロンビーさんに、ブールゼーさんに、ブールドンさんに、アルボーさん…… みんな後世に殘る人逹ばかりだ。すばらしいものだ。 第一の侯爵 おい見ろ、プレシューズの伊逹者連中がやつて來たぜ。バルテノイードに、ウリメドント、 カッサンダースにフェリッゼリー…… 第二の伯爵 〔感服したやうに〕 いやはや、恐ろしく洒落た名前だね。侯爵、君は皆あの女連を御存じかい。 第一の侯爵 あゝ~、殘らず知つてゐるよ。 リニエール 〔クリスチヤンを傍へ引張りながら〕 君、僕は君を喜ばせようと思つてわざ~やつて來たのだが、 お目當の貴婦人はやつて來ないね。僕は又すこし例の惡事を用ひたくなつたからね。 クリスチヤン 〔頼む樣に〕 いけない~。君は宮中でも町中《まちなか》でも顏の賣れた唄作りだ。 僕が死ぬほど戀こがれてゐる婦人が、誰だといふ事をおしへてくれるのは君に限る。 暫く待つてくれたまへ。 ヴィオロン彈きの長 〔弓で臺を叩いて〕 皆さん、では。 〔弓をとりあげる〕 物賣りの娘 マカロンにシトロン。 ヴィオロン彈き、彈き始める。 クリスチヤン どうもあの人は男たらしで、氣どり屋で、氣むづかし屋ではないかと思ふ。 氣の利かない僕のやうなものは、どうしてものがいはれよう -- なんていひかけたらいゝだらう。 あの人逹がこの頃使ひもし、書きもする言葉と來ては、かいもく僕にはわからない。 僕はたゞの正直な、はにかみやの軍人といふだけだ。 -- あの人はいつも、 あそこの右手の奧の、まだ空いてゐるが、あのボックスに入つてゐるのだがね。 リニエール 〔行きかける樣子をして〕 おれは行くぞ。 クリスチヤン 〔止めながら〕 まあ、待つてくれたまへ。 リニエール だめだ。ダスーシーが酒場で待つてゐる。ここにゐると喉が渇いて死にさうだ。 物賣り娘 〔盆を前に出しながら〕 蜜柑水はいかゞ。 リニエール ウッフ。 物賣り娘 牛乳はいかゞ。 リニエール 馬鹿な。 物賣り娘 肉豆蒄酒はいかゞ。 リニエール 待て。 〔クリスチヤンに〕 よし少し居てやらう。 -- おいその肉豆蒄酒をくれ。 〔屋臺店に立つ。娘は酒をついでやる〕 叫び聲 〔一人のむく~肥つた小男が入つて來ると、見物一同面白さうに喝采する〕 よう、ラグノー。 リニエール 〔クリスチヤンに〕 あれが評判の菓子屋の主人のラグノーだ。 ラグノー 〔菓子製造人のよそ行きの服を來て、氣さくにリニエールの方へ出かけてゆく〕 あなたはシラノ先生を御存じありませんか。 リニエール 〔この男をクリスチヤンに紹介しながら〕 役人と詩人の菓子屋さんだ。 ラグノー 〔恐縮して〕 どうも恐れ入りますなあ。 リニエール まあ、お默んなさい。君はメセーヌ(文藝の保護者)だよ。 ラグノー いやどうして旦那方の御贔屓を戴いて居ります。 リニエール しかも掛で貸してある。その上なか~、立派な詩人だよ。 ラグノー まづ皆さんがそんなことを仰しやいますので。 リニエール 詩人氣違さ。 ラグノー なるほど小唄には……。 リニエール お饅頭をくれます。 ラグノー いやはや、どうして小饅頭をね。 リニエール 畜生、味をやるぞ。この男なか~うまく逃げを打つわい -- ところでトリオレー(三行毎に第一句を反覆する八行小詩)には何がほうびに出るね。 ラグノー 小パンでも。 リニエール 〔嚴に〕 牛乳のついたやつにしてもらはうか。 -- それから芝居は。好きだらう。 ラグノー 氣のちがふほど。 リニエール おい、君は切符の代を菓子で拂ふだらう。内證でおれの耳に入れてくれ。今夜の場代は幾らした。 ラグノー フラン四つにシューが十五。 〔そこらを見廻す〕 シラノ先生はお見えになりませんな。そんな筈はないが。 リニエール といふのは。 ラグノー モンフルリーが芝居に出るんですよ。 リニエール あゝ、それはあの酒樽爺が、今夜フェドンの役をするのは本當だが、 だがそれがシラノに何の關係があるのだ。 ラグノー おや御承知はないのですか。あの方はモンフルリーではすつかり御機嫌を損じておいでです。 そこであの男が向ふ一箇月の間、舞臺に面を出すことを嚴重におさし止めになりました。 リニエール 〔四杯目の杯をのみほしながら〕 なるほど。 ラグノー それをモンフルリーめは芝居をやる積りですね。 キュイジー 〔傍に來て〕 あの男がそれを妨げることはなるまいて。 ラグノー まあ~どんなことになりますやら。 第一の侯爵 そのシラノといふのは何です。 キュイジー 劍道では逹人といふ男ですよ。 第二の侯爵 家柄の生れかね。 キュイジー 左樣さ、まあ立派な貴族で、近衞の青年隊に居るのだ。 〔その時廣間をあちらこちら行つたり來たり、誰か搜す樣にしてゐる一人の貴族を指して〕 あれ、あのル・ブレーは友逹だ。あれは一番よくあの男のことを知つてゐるだらう。 〔呼ぶ〕 ル・ブレー。 〔ル・ブレーこちらへやつて來る〕 君はド・ベルジュラックを搜してゐるのか。 ル・ブレー あゝ、どうも心配だ。 キュイジー あの男はおよそ世の中の變り者だといふぢやないか。 ル・ブレー 〔懷しさうに〕 うん、あの男はこの宇宙での一番立派な人間だ。 ラグノー 詩人です。 キュイジー 軍人だ。 ブリッサイユ 哲學者だ。 ル・ブレー 音樂家だ。 リニエール それになんといふとぼけた顏附だらう。 ラグノー 全くな。あれではこちの氣むづかし屋の畫工さん、フィリピ・ド・シャンペーヌ先生も當惑するでせう。 わたしの思ひますには、あの通りのとびはなれて氣紛れな、氣違ひじみたおどけた顏を寫す者は、 まあ~死んだジャック・カルローの外にはありますまい。 それこそあの人の御得意な、氣ちがひ武士の彫刻の大傑作が殘る所でしたらうそれ、 帽子に三本鳥の羽、六つに裂けた胴腹に、マントの後ではねあがり、 威張り返つた雄鷄の尻尾の樣な劍の尖、カスコーニュが昔も今も生みに生むアルタバン(古アジヤの大勇王アルタベン。) まがひの猛者共を一つに集めた大猛者が、プルシネラ型の大襟飾から鼻つき出して威張られまする。 -- それに旦那方の前ですが、 何といふあれは鼻でせう。あの方の鼻を見ては、誰だつて大聲で、『いやはや、あんまりひどからう、 あの男はおれをからかつてゐる』と、かう叫びたくなるでせう。だがその後ではすぐ笑つて、かう云ひます、 『なあにそのうち取りのけるよ』とね。ところが何うしてド・ベルジュラックさんは取り除けるどころぢやござんせぬ。 ル・ブレー 〔頭を仰向けて〕 ありやああの男の表道具よ。誰でも鼻の話をしたがいゝ、すぐ眞二つまゐられる。 ラグノー 〔自慢らしく〕 いや、あの方の劍と來ては -- ありや運命の鋏の片刄さ。 第一の侯爵 〔肩を聳かしながら〕 あの男は來るものか。 ラグノー どうして……。なんならかけを致しませう。 -- ラグノー特製の -- 雛料理をね。 第一の侯爵 〔笑ひながら〕 よし~。 廣間の中に感嘆の囁きが起る。ロクサーヌがちやうど、ボックスの中に現れる。 彼女は前の椅子に掛けて侍女を後に坐らせる。クリスチヤンは物賣娘に金を拂つて居たところなので、 女の入つて來たことを知らない。 第二の侯爵 〔小さな歡聲をたてゝ〕 どうだ、諸君、實に目が覺めるやうだ、實に凄いやうな美人だね。 第一の侯爵 あの人の顏を見てゐると、莓に笑ひかけてゐる桃のやうだ。 第二の侯爵 それになんといふ涼しい美人だ。あんまり側へ寄ると、心臟が惡いおこりを病みさうだ。 クリスチヤン 〔頸をあげてロクサーヌを見る。そこ~さとリニエールの腕をつかまへる〕 あれだよ。 リニエール いやはや、あの人かい。 クリスチヤン あゝ、すぐに、名をいつてくれたまへ。心配だ。 リニエール 〔肉豆蒄酒をぐび~やりながら〕 マグダレーヌ・ローベン、人呼んでロクサーヌさ。 どうしてなか~の才女だよ -- プレシューズさ。 クリスチヤン やれ~。 リニエール 獨り身でみなし兒だ。 -- 今方話をしてゐたシラノの從妹だよ。 此の時一人のしやれた樣子の貴族、胸に斜かひに青リボンをかけたのが、 ボックスの中に入り、立ちながらロクサーヌと話をする。 クリスチヤン 〔びつくりして〕 誰だ、あの男は。 リニエール 〔醉眼をすゑて向うを見ながら〕 はツ、はツ、伯爵ド・ギーシュだ。あの女に惚れて居るのだよ。 だがもうアルマン・ド・リシュリューの姪と結婚の約束が出來てゐる。 そこで子爵のド・ヴィルヴェールとかいふお人好しの氣の毒な野郎に、 ロクサーヌをとりもつて、手前の自由にしようとしてゐる。 ところがあの人はそんな取引を承知する女ではない。 だがド・ギーシュは勢ひのある奴だ。たかが平民の娘位いぢめようと思へば出來る。 そこでおれはあいつの狡猾な腹の中を小唄に作つて、世間に擴めてやつたのさ。 あいつきつとおれを恨んで居るにちがひない。結びの文句がひどく急所を突いてゐるんだ…… まあ、聞けよ。 〔よろ~よろけながら立ちあがり、杯を高くあげて唄を唱ひかける〕 クリスチヤン いや澤山だ、さやうなら。 リニエール 何處へ行くのだ。 クリスチヤン そのヴィルヴェールといふ奴のところへ。 リニエール 氣を附けろ。あべこべに向うが君を殺すだらうよ。 〔横目でロクサーヌの樣子を見て〕 まあ落ち著いて居ろ。 -- 女が君を見て居るぜ。 クリスチヤン さうだな。 〔ぢつと女の顏に見とれる。掏摸の群、彼がそんな風に頭を宙に浮かし、ぼんやりと口を開いて居るところを見て傍に近附く〕 リニエール ところがおれは行かなきやならない。おれは喉が渇いて居る。それにみんな待つてゐる -- 酒場でね。 〔くる~廻りながら出て行く〕 ル・ブレー 〔廣間をぐる~廻つて居たが、又ラグノーの所へ戻つて來て、確かな調子で〕 たしかにシラノは見えないぜ。 ラグノー 〔信じないらしく〕 そんな筈は……。 ル・ブレー まあ、どうかしてあの男が芝居のビラを見なかつたのだな。 一同 始めろ~。始める。 第三景 前の人々、リニエールを除く。ド・ギーシュ、ヴァルヴェール、後からモンフルリー。 一人の侯爵 〔ド・ギーシュが、ロクサーヌのボックスから下りて來て、追從する子爵ド・ヴァルヴェールを始め貴族逹に取りかこまれて土間を横切るところを眺めながら〕 ほう、ド・ギーシュ奴、立派なお取卷がついたものだ。 もう一人 やれ~……あれもガスコン生れさ。 第一の侯爵 だが、冷たい、世間上手なガスコンさね。あれだからどん~出世をするのだ。 まあまあみんな行つて御挨拶を申上げようよ。 一同ド・ギーシュの方へ出かける。 第二の侯爵 これはお立派なリボンですな。伯爵、此の色は何と申しますな。キスしてたもれの戀の色か、 それともやさしい鹿の子色ですか。 ド・ギーシュ こりや病めるイスパニア色といふのです。 第一の侯爵 成程。名詮自稱ですね。あなたの武勇のおかげで、やがてフランドルでは、 病めるイスパニアになりさうです。 ド・ギーシュ 舞臺へ行かう。皆さんどうです。 〔舞臺の方へ行く。侯爵及び紳士等ついてゆく。振り向いて聲をかける〕 來たまへ、ヴァルヴェール。 クリスチヤン 〔ぢつと樣子を見ながら耳をたてゝ居たが、今名前を呼ぶ聲を聞いて飛びあがる〕 子爵だ。あゝおれはあいつの面に投げつけてやるものが…… 〔片手をかくしに突つ込むと、ちやうどものを盜む積りで探つてゐた掏摸の手をつかむ。後を振り向く〕 おや。 掏摸 これは……。 クリスチヤン 〔堅く手をつかんで〕 おれは手袋を出さうとしたら……。 掏摸 〔憐みを求めるやうに微笑して〕 ところがこの手がありました。 〔暫く調子を變へて小聲で〕 これを離して下さるなら、一大事を知らせませう。 クリスチヤン 〔未だ掏摸の手をおさへた儘〕 一大事とは。 掏摸 リニエールさん……今し方別れて歸つていらつしつた…… クリスチヤン 〔前と同じに〕 ふうん、それで。 掏摸 お命が危うございます。あの方の作つた唄が時めくお歴々の御不興をうけました。 そこで百人の人間が -- わたしもその仲間ですが -- 今夜外に待ち伏せて…… クリスチヤン 何。百人。誰の指圖で。 掏摸 それは申されませぬ…… クリスチヤン 〔肩を聳かして〕 何を。 掏摸 〔大いに勿體振つて〕 謂はゞ商賣の祕密です。 クリスチヤン して待伏せの場所は。 掏摸 ポルト・ド・ネールでございます。歸り道を氣をつけておあげなされませ。 クリスチヤン 〔手をはなして〕 だが、どこへあの男は行つたらう。 掏摸 酒場といふ酒場を巡つてごらんなさい。 -- 「金の酒搾り」に、「松ぼつくり」、 「はちきれ帶」に、「二本たいまつ」、「三つ組漏斗」、 さういふ店に一軒々々目につく注意書をまはして置くんですね。 クリスチヤン よし。おれは飛んで行く。はてさて卑怯な惡黨ども。たつた一人に百人の相手とは。 〔ほれぼれとロクサーヌの方をみて〕 いやはや、あの人にもおわかれか…… 〔怒つた顏でヴァルヴェールの方をみて〕 それからあいつにも……だがリニエールは助けなきやならない。 〔急いで出て行く〕 ド・ギーシュ、子爵、侯爵等皆々舞臺の上に据ゑた椅子席につくために幕の後に入る。 土間は一杯になる。棧敷にもボックスにも人がぎつしり詰つてゐる。 見物一同 始めろ。 一人の町の男 〔上の棧敷に居る侍童の投げた釣り絲に引つかゝつて、かつらが釣りあげられる〕 かつらをどうする。 歡呼の聲 禿げ頭だ。いよう、甘くやつた -- はゝ、はゝ、はゝ。 町の男 〔怒つて拳固を振りあげながら〕 いたづら小僧め。 笑ひ聲と叫び聲 おう。 〔さひめは騷々しく、やがてふと水を打つた樣になる〕 は、は、は、は、は、は。ぴつたり默る。 ル・ブレー 〔びつくりして〕 急に靜かになつたのは、どうしたといふことだ…… 〔一人の見物が何か低い聲で囁く〕 へゝえ……。 その見物 今し方慥かな筋から聞きました。 人々の囁き聲 〔廣間の中に擴がる〕 しいツ。あの方だ。 -- いゝや、 -- 何、さうだよ -- 貴賓席だ。 リシュリューさまだよ -- カルヂナルだよ。 一人の侍童 やれ~、それではおれ逹もそろ~行儀をよくしずばなるまい。…… 合圖のノックが舞臺の上で聞える。人々は靜まり返る。間。 一人の侯爵 〔靜かな中で、緞帳の後から〕 この蝋燭の心を切れ。 もう一人の侯爵 〔緞帳の間から首を出して〕 椅子を一つ。 〔椅子が一つ。見物の頭の上を手から手に渡される。侯爵はそれを受取つて、ボックスにゐる誰かにキスを送つてから引つ込む〕 見物の一人 東西。 とん~~と三度舞臺の上で合圖のノックをする。緞帳が眞中から左右に上がると、書き割。 侯爵等は威張り返つた樣子で舞臺の兩側で見物してゐる。後景はパストラル(牧者の劇)の青々した風景を表す。 小さな華燭が四つ舞臺を照らしてゐる。ヴィオロンが微かに響く。 ル・ブレー 〔小聲でラグノーに〕 モンフルリーは出るだらうか。 ラグノー 〔同じく小聲で〕 左樣、あの男はのつけに出る筈です。 ル・ブレー シラノは來てゐない。 ラグノー わたしはかけに負けちやつた。 ル・ブレー 負けて結構、負けて結構。 鈍い笛の音が聞える。モンフルリーが出て來る。恐ろしく肥つた男、 パストラルに出る羊飼の服を著てゐる。薔薇を飾つた帽子を耳の上まで被り、 紐のついた牧笛を吹く。 土間の客一同 〔喝采する〕 待つてました、モンフルリー。 モンフルリー 〔低く一禮をして、フェードンの白にかゝる〕 「樂しやひとり世をはなれて 心からなるさすらひに、 樹梢《こぬれ》をわたる風もよし…… 聲 〔土間の眞中から〕 惡黨め、一箇月舞臺に出ることをとめてあるのではないか。 見物呆然。皆々振り返る。囁き聲。 色々の違つた聲 いよう。 -- 何だい。 -- ありやあ何だ。 皆々ボックスの中で立ち上つて見ようとする。 キュイジー あいつだ。 ル・ブレー 〔慌てゝ〕 シラノだ。 その聲 やい、阿呆の王樣、すぐ舞臺からひつ込めい。 見物一同 〔怒つて〕 おう。 モンフルリー でも。 その聲 ぬかすか、きさま。 色々な聲 〔土間からも棧敷からも〕 東西、東西。 -- もう澤山だ -- やれ、やれ、モンフルリー。 -- こはがることはないぞ。 モンフルリー 〔震へ聲で〕 「樂しやひとり世をはなれて、 心からなる…………」 その聲 〔愈々はげしく〕 よし~道化面の惣碌め、一番出かけて行つて、きさまの頭にこの杖の味を思ひしらさなきやならにか。 〔杖を振りあげた手が見物の頭の上に飛び出す〕 モンフルリー 〔聲が段々弱る〕 「樂しやひとり…………」 杖が振り廻される。 聲 出て行けやい。 土間一同 いよう。 モンフルリー 〔首を絞められたやうな聲で〕 「樂しやひとりひとり世をはなれて…………」 シラノ 〔突然土間の眞中に現れる。椅子の上に立つて、兩腕を組み、帽子を阿彌陀に被り、八字髯を上に反らせ、例の鼻を恐ろしくいからせてゐる〕 さあ、もう愈々我慢がならないぞ。 さわ~する。 第四景 前の人々、シラノ、後からペルローズ、ジョドレー。 モンフルリー 〔侯爵等に〕 殿樣方、どうぞお助けを。 一人の侯爵 〔無造作に〕 やれ。やれ。 シラノ 太つちよめ。わからぬか、それでもやるなら、いやでも、そのふくれた面を、おれは張り倒さねばならないのだ。 その侯爵 やつかましい。 シラノ おつと殿さまたちは、お默りなさるがよろしからう。さもないと、 いやでもこの杖をお見まひ申さにやならない。 侯爵等一同 〔立ちあがり〕 もういゝ加減にしろ。それ、モンフルリー、しつかりやれ。 シラノ あいつがすぐに引ツ込まぬなら、おれはあいつの耳をちよん切つてやる、縱に引き裂いてやる。 或聲 然し……。 シラノ 引ツ込め。 別の聲 でも……。 シラノ まだぐづ~してゐるのか。 〔腕まくりをする身がまへ〕 よし~、それならば一番舞臺を俎板にして、此の結構なイタリヤ製の大腸詰を料理してやらねばなるまい。 モンフルリー 〔つとめて威嚴を保たうとして〕 わたくしを侮辱なさるといふことは、芝居の女神タリーさまを侮辱なさると同樣ですぞ。 シラノ 〔わざと馬鹿丁寧に〕 どうも親方、その女の神樣がお前さんなぞを御存じの筈はないのだが、 萬一お近附になる光榮をお持ち合せだつたら -- 何しろお前さんの水甕のやうに肥つてのろ~したところを御覽になつたばかりで、 神樣はそのギリシヤ風の高下駄でお蹴とばしになるだらうよ。 土間 モンフルリー、モンフルリー。 -- 早くやらないか、バローの芝居を。 シラノ 〔ぐるりで聲を立てゝゐる大勢に向ひ〕 おつと御用心、御用心、おやめにならないとこの鞘の中身が拔けだしますよ。 輪になつて取りまいて居た群集離れる。 群集 〔後じさりしながら〕 いよう。 シラノ 〔モンフルリーに〕 引ツ込め。 群集 〔また傍へやつて來てがや~云ふ〕 いよう。いよう。 シラノ 〔きつと振り返つて〕 誰かいひ分があるか。 一同又退く。 或聲 〔後の方でうたふ〕 「シラノの旦那が、 我が儘なさる。 我が儘なさるは 御勝手なれど、 ラ・クロリーズは見せとくれ、よい~。」 土間の客一同 〔歌ふ〕 「ラ・クロリーズ、ラ・クロリーズ……。」 シラノ その唄をもう一度唄つて見ろ、貴樣等殘らず撲り殺すぞ。 一人の町の男 いよう、サムスン樣め。 シラノ さうだ、さういふ腮の骨を御用心なさるがいゝ。 或貴婦人 〔ボックスの中で〕 ひどい人。 貴族 無法な奴だ。 町の男 堪らないなあ。 侍童 面白い、面白い。 土間 しツ、しツ、 -- モンフルリーい。シラノお。 シラノ だまらないか。 土間 〔はげしく湧いて〕 ヒン~、ガア~、コケコッコー。 シラノ だまれい。 侍童 ニヤーオ。 シラノ やい、だまれつたら默れ、平土間殘らずおれが相手だ。 -- 一人々々名前を名のれ。 若い豪傑共、さあ出て來い、一人宛代り番こに、出て來い。出て來い。 誰が一番に名乘りを揚げるのだ。君か、違ふか。君か。第一番に決鬪の相手に立つものは、 おれが一番、名譽を以て天國へやつてやる。 -- 命にかけがへのある奴は手をあげろい。 見物靜まる。 ふん、おとなしいな。どなたも拔身はおきらひか。一人も名を名のるものはないかな -- 一人も手をあげるものは無いかな。 -- よし、それではこちらの爲事にかゝるぞ。 〔舞臺の方を向く、モンフルリーが困りきつた顏をして待つて居る〕 どうも芝居が大入過ぎて、はちきれさうだ -- 一番綺麗にしてやらう……さあ引つ込まぬなら…… 〔剱の柄に手をかけて〕 人斬庖丁だ。 モンフルリー わたくしは……。 シラノ 〔椅子を離れて、まはりを取り卷く人々の輪の中にどつかり掛け〕 さあ手を三つ鳴らすから -- いゝか、滿月野郎、三度手が鳴つたら、月蝕になつて消えるのだぞ。 土間 〔面白がつて〕 やあ……。 シラノ 〔手を打つ〕 一つ。 モンフルリー わたくしは……。 聲 〔ボックスの中で〕 引ツ込むなよ。 土間 居るだらうか……引ツ込むだらうか……。 モンフルリー わたくしの思ひますには……皆樣方……。 シラノ 二つ。 モンフルリー どうもわたくしはそれが一番……。 シラノ 三つ。 モンフルリー鼠罠から拔けるやうにはふ~引ツ込む。どつといふ笑ひ聲。口笛など。 一同 何だ弱蟲……出て來い……出て來い……。 シラノ 〔上機嫌になり、椅子の上に樂々とそり返り、腕組をして〕 出られるなら、出てみやがれ。 一人の町の男 頭取を呼べ。 ベルローズ出て來てお辭儀をする。 ボックスの客 やあ、ベルローズだな。 ベルローズ 〔氣どつて〕 お歴々の皆樣方に申しあげます……。 土間 よせ~。ジョドレー、出ろ。 ジョドレー 〔前へ出て、鼻から聲を出しながら〕 さわぐまい、犢ども。 土間 いよう、うまいぞ。やれ~、しつかり。 ジョドレー しつかりどころか、旦那方。皆さんごひいきの悲劇の役者太つちよめは、ちと痛み所がございまして……。 土間 臆病者め。 ジョドレー ぜひなく退場いたしてござる……。 土間 ひツぱり出せ。 或人々 止せ、止せ。 他の人々 出せ、出せ。 一人の若者 〔シラノに向ひ〕 だがあなたは一體どういうわけで、モンフルリーがおきらひなんですか。 シラノ 〔やはり腰をかけたまゝ、言葉は上品に〕 その理由には二つあるが -- どちらも立派な理由だ。 第一に下手くそな役者として、小鳥のやうに飛ばせたい詩の文句を、 釣瓶を井戸から引きあげるやうにあへぎ~しやべるのが氣に食はぬ。 第二には -- おつとこれはいへない、こちらの祕密…… 年寄の町の男 〔後から〕 けしからんことだ。あなたはわしどもからクリローズをおとり上げなすつたが……わしはどうでも見ずには置かぬ。 シラノ 〔今ものをいつた年寄の方に椅子をくるりと向けて丁寧に〕 おぢいさん、バローおやぢの書いた芝居なぞは三文の價うちもないものだ。 その惡い芝居の邪魔をしてあげたのは……。 伊逹の婦人逹 〔棧敷から〕 まあバローさんのお作を -- ようも詰らぬ芝居だなぞと、そんな無法な……。 シラノ 〔椅子をくるりと棧敷の方へ向けかへて、氣取つて〕 艷美並びなき姫君たち、、仰ぎ願はくば光とかゞやき、花と咲いて我等の脣に陶醉の夢の盃を捧げたまへ。 又死の君が優しき微笑をもて死のあらびをなだめたまへ。我等が詩の興とはなりたまへ、 然しながら -- 批評はやめて貰ひませうか。 ベルローズ 木戸錢は返さなければなりますまい。 シラノ 〔椅子を舞臺の方に向けて〕 やあ、ベルローズ、お前さんがやつと物のわかつた話をしたね。 おれがまさか悲劇の元祖テスピスの神聖なマントに穴をあけるものかい。なあ。 〔立上つて財布を舞臺の上に投げる〕 それ、お寶だ。その代りだまつたもらひたい。 見物一同 〔あきれて〕 いよう。……へゝえ。 ジョドレー 〔素早く財布を拾ひあげて、目方をひいてみて〕 どうして旦那、これだけの埋合せがつきやあ、毎晩お出になつて、クリローズの邪魔をしておもらひ申したいねえ。 土間 やい……やい……。 ジョドレー 一しよにこちとらまでなぐられても……。 ベルローズ さあ、土間を明けて頂かうぜ。 ジョドレー どうぞお歸りを願ひます。 見物ぞろ~と立ちかける。シラノは滿足さうに見送る。けれどその立ちかけた見物が次の對話を聞くと、 ふと足を止めて、その儘そこに立止まる。外套を著かけた女逹は棧敷の椅子を立ちかけたが、 これも聞きつけて立止まり、しまひには又坐つてしまふ。 ル・ブレー 〔シラノに向ひ〕 氣違ひじみてるなあ……。 苦情屋 〔シラノに近附き〕 モンフルリーほどの役者を、どうもひどいことをしますなあ。 だつてあれはカンタル公爵のお抱へ役者ですぜ。あなたには後楯がありますかね。 シラノ そんなものはないよ。 苦情屋 後楯はありませんか…… シラノ ないといつたらない。 苦情屋 何だ、あなた、御威光で尻押しをしてくれる大旦那は有りませんか。 シラノ 〔ぢり~して〕 ないと、二度までいつたぢやないか、まだ足りないのか。ないといつたら、尻押しなぞは一人もないのだ…… 〔劍に手をかけて〕 おれの尻押しはこれだけだ。 苦情屋 するとあなたはこの町を立退かねばなりますまい。 シラノ ふうん、さうなりやその時よ。 苦情屋 公爵の手はなか~長くのびますよ。 シラノ 何の、おれの手だつて負けはしないぞ…… 〔劍を引きつける〕 この通りだ。 苦情屋 まさかあなたは喧嘩をなさる積りではありますまいな。 シラノ する積りだ。 苦情屋 それでも……。 シラノ もう行かんか。 苦情屋 それでもわたしは……。 シラノ 行つてくれ、なぜそんな風に、じろじろおれの鼻をみるのだ。 苦情屋 〔こは~゛〕 わたしは……。 シラノ 〔つか~と男の傍へ出かけて行つて〕 やい、鼻に不思議なことでもあるか。 苦情屋 〔後じさりしながら〕 どういたしまして……。 シラノ 何、どういたした、象の鼻でぶよ~、ぶらん~して居るか。 苦情屋 〔いよ~、後じさりして〕 決してそんな……。 シラノ 梟の嘴のやうに、鉤になつてでも居るか。 苦情屋 わたしは……。 シラノ 鼻の先に疣でも見附けたか。 苦情屋 まさか……。 シラノ それでは蠅でも涼んでゐるか、きよろ~何か見るものがあるのか。 苦情屋 さあ……。 シラノ 何を見るのだ。 苦情屋 でもわたしは精々みないやうに致しました。 シラノ ぢやあなぜお前さん見ないのだ。 苦情屋 それはその……。 シラノ どうだ、胸でも惡くなるか。 苦情屋 どう致しまして……。 シラノ その色氣が堪らないとでもいふのか。 苦情屋 どう致しまして……。 シラノ それとも怪しからんものに似た恰好だといふのか。 苦情屋 いゝえ、とんでもない……。 シラノ ぢやあなぜそんな不景氣な面をするのだ。……何だな、お前さんは、 この鼻がちとでか過ぎると思つてゐるのだな。 苦情屋 〔どもりながら〕 どう致しまして、小さいにも、それはそれはごくちつぽけで -- 目の中にも入るやうでございます。 シラノ ごくちつぽけだと、何を云ふ、おれをちやうさい坊にしやがるのか。 ふざけるな。おれの鼻が小さいなどと。やい。 苦情屋 やれ~。 シラノ 何だと、あつらへのでかい鼻だぞ。やい聞け、このかんから頭の、出過ぎものの、 ちよび鼻め。この突き出したお道具はおれの自慢だ。どなたも御存じ、でつけえ鼻はな、 優しくつて、深切で、禮儀を弁へ、寛大な上に勇氣のある、 ちやうどこの御本尊樣の性根そのまゝの形を見せて居るのだぞ。 貴樣のやうなろくでなしの下司野郎などの夢にも知らないことだわい。 この貴樣の阿呆面は、それ、おれがかうしてくらはしてやるが、 -- いや、からきしたはいもねえ -- 〔平手打を喰はす〕 苦情屋 あいた、た。 シラノ そのうつけた阿呆面には、意地もなければ張りもない、詩もなければ畫もないのだ。 ましておれのでつかい鼻からとびちる神樣のやうな火花があらうか。 〔男の肩をつかんで後ろ向きにし、白に所作を合せて〕 それ……貴樣なぞはこの靴でかうして蹴飛ばしてやればいゝのだ。 苦情屋 〔逃げ出しながら〕 人殺し。憲兵を呼んでくれ。 シラノ やい氣を附けろ、馬鹿野郎ども。かりにもおれの顏の眞中の飾りに向つて、 とやかくぬかす奴があれば、よしそいつが貴族であらうとも、 どいつこいつの容赦はない、そいつにはおれの鍛へた鐡をくらはせる、 靴位ではすまさないのがおれの家法だ。 ド・ギーシュ 〔侯爵等と舞臺から下りて來て〕 いつまでもうるさい奴だなあ。 子爵ヴァルヴェール 〔肩を聳して〕 空威張です。 ド・ギーシュ あいつを押へる者はないか……。 子爵 誰もないか。よし待て、わしが出てやらう……一つ警句でやつつけてやる。 〔シラノの傍に寄る。シラノその顏を眺めてゐる。子爵は高慢らしい樣子をして〕 はゝあ、貴公は……貴公の鼻は……ふうん、どうも……なか~でつかいなあ。 シラノ 〔重々しく〕 いかにも左樣。 子爵 〔笑ひながら〕 はゝは。 シラノ 〔落著き拂つて〕 それだけか……。 子爵 何だと。 シラノ やいやい、なまくら小僧、貴公のせりふはそれだけか。せい~゛調子を變へた上、 同じ事でもずゐぶん違つた言草もありさうなものだ……まづこんなものさ、 よく聞けよ……喧嘩づくなら、「お前さんおれがこんな鼻だつたら、早速切斷して貰はにやならない。」 深切づくなら「それでちび~あがつたら、コツプに鼻が入りませう。特製の茶碗で酒を上がるがいゝ。」 敍事文ならば、「岩あり……峯あり……岬あり -- 果して岬なりや、こは半島なり。」 苦勞性なら、「その細長い袋は何ですね。インク壺か、鋏入れか。」 上品なら、「あなたは小鳥がお好きもみえますね。可愛らしい爪をのせるには成程たつぷり廣いとまり木でございませう。」 無作法ににいふなら、「あなたが煙草をあがる時……煙が鼻から吹き出したら、 近所合壁勢のいい煙をみて、火事だと騷ぎはしませんか。」 心配性なら、「鼻の重みで頭が下がりはしませんか……前にのめらぬ御用心。」 優しくいふなら、「小さな傘でもおさしなさい。折角の色艷が天日で褪めるといけません。」 學者めかすなら、「例のアリストファーヌがいつた、ヒッポカンペレフォントカメロス(海馬、象、駱駝獸)といふ奴は、 ちやうどこんな風な肉と骨の塊を、瘤の出た額の下に、はやして居たに違ひない。」 今風なら、「それは最新の流行ですか。とんだ調法な帽子掛ですね。」 大袈裟にいふなら、「どうも立派な、威張つた鼻ですな。大抵の風ではくしやみも出ますまい。」 襃めていふなら、「香水屋の看版ですね。」 抒情詩で行くなら、「そは海に吹く貝の笛……トリトンにこそ君はあれ。」 無邪氣になら、「その記念碑の除幕式はいつですか。」 お行儀よくなら、「謹んで御挨拶申し上げます。街の御新宅ができましたな。」 山出しの言草なら、「これが鼻かい、あきれたものだ。これはあうら生の南瓜か、出來のいい蕪だに。」 軍隊風なら、「騎兵隊現る、鼻砲用意。」 實用向なら、「福引の景物におしなさい。それこそ一番の大當りでせう。」 さてまたピラーム模《もど》きの白でいはうか、「やおれ主人の顏の造作を損ねをつた鼻めを見い、 過ちを恥ぢて赤くなつたも。」 -- まあお前さんにこれんばかりの才氣があり、文字があれば、その位のことは云へるのだが、 いやはやお氣の毒な人間の、才氣などといふものは藥にしたくも持合せぬ。 さて知つてゐる文字といつたら、たつた三字 -- それはた、は、けといふ文字だ。よし又 -- この大勢の眞中で、 今おれが云つて聞かしたやうな洒落れたことのいへる頓智があるにしても…… それでもやはり口は利かせぬ -- どうして、そんな冗談の一言半句もいはせるものか。 おれの惡口はおれ自身がいふばかり、どいつの口からも決していはせはしないのだ。 ド・ギーシュ 〔ぼんやりしてしまつた子爵を引摺る樣にしながら〕 子爵、行かう。 子爵 〔怒つて口も利けずにゐる〕 大きな口を利きおるわい。たかが田舍侍めが……手……手袋もないくせに。見れば袖章もなく、 金線もなし、飾總もないぼろ侍めが。 シラノ さうさ、おれは心に伊逹を飾る。おれは人形のやうにべた々無いと上邊を飾り立てはせぬ。 はでな身なりこそしないが、心の中まで磨きあげてある。濯ぎきれぬ恥辱だの、ねぼけ眼、 しよぼ~眼の良心だの、尊大ぶつた名譽心、ぐづら~としかめ面した狐疑逡巡だの -- そんなものは持ち合さぬ。きら~しい寳石を飾らずとも、正義眞實、獨立獨行、これが自慢の羽飾だ。 腰をしらりとみせようためのコルセーこそははめないが、心にはめたコルセーは堅い。 でこ~リボンに飾らずとも、巧名が飾つてくれる。あふれる元氣はお前さんの口髯のやうにピンと立つて、 群集の中を闊歩しながら、眞理は勇ましく拍車のやうな響を立てるのだ。 子爵 でも君は……。 シラノ 手袋をはめてゐないといふのか。……それが何だ。尤も一つはあつた……使ひ古しの半分が…… だが我慢の爲切れないことがあつて、それも或小僧のたはけ面に叩きつけてしまつたのだ。 子爵 馬鹿、惡黨、たはけ面の田舍侍。 シラノ 〔帽子をぬいで、ちやうど子爵が自分自身を右のやうに名のつて紹介したかと思はせるやうにお辭儀しながら〕 ははあ、さやうか……そんならおれは、シラノ・サヴァニアン・エルキュール・ド・ベルジュラックといふ者だ。 皆々笑ふ。 子爵 〔ぷり~して〕 たはけめ。 シラノ 〔まるで痙攣が起つたやうに叫んで〕 あいた、あいた。 子爵 〔行きかけてふりむく〕 野郎、こんどは何をいひ出した。 シラノ 〔痛さうにしかめつ面をして〕 どうでも使つてやらなきやならない。どうも錆びついて來たやうだ。遊ばせて置いたせゐだ、 -- あいた……。 子爵 何をいふのだ。 シラノ 痙攣だよ。おれの劍が痙攣を起したのだよ。 子爵 〔劍を拔いて〕 よし、やるか。 シラノ そろ~と、具合よくお見舞申しませうかい。 子爵 〔馬鹿にしたやうに〕 詩人面が。 シラノ いかにも左樣さ、詩人でござる。それの證據に立ち合ひながら、即席にバラードでも作つて見せようか。 子爵 バラードとは。 シラノ お前さんのやうな人でも、バラード位は知つてゐさうなものだがなあ。 子爵 何だと……。 シラノ 〔子供に物でも教へるやうに口うつしにして〕 バラードとは、八行詩三聯より成る詩にして……。 子爵 〔足踏みをしながら〕 こいつめ。 シラノ 〔やはり口うつしに〕 而して最後に四行一聯の反歌を加ふ……。 子爵 うぬ……。 シラノ 決鬪をしながら歌を作るのだ。最後の一句で一番ぐつさり見舞つてやるのだ。 子爵 何を。 シラノ 何をだと。 〔朗誦する〕 「オテル・ド・ブルゴーニュにて、ド・ベルジュラック氏が、或無頼漢となしたる決鬪のバラード。」 子爵 なあんだ、そりやあ。 シラノ 表題よ。 見物一同 〔大騷ぎになる〕 退け、退け -- 面白いぞ -- 通してくれ -- 靜かにしろ。 畫面。面白半分の見物、土間の中に輪になる。侯爵、士官等、町人の中に交る。 侍童等てん~゛の肩にのぼつて、少しでもよく見ようとする。 婦人逹は棧敷の中で總立ちになる。右手にはド・ギーシュがそのお供ぞろへを從へてゐる。 左手にはル・ブレー、ラグノー、キュイジーなど。 シラノ 〔暫く目をふさいで〕 待てしばらく、韻を擇ぶから……よし、極つた 〔次の詩の文句に合せて、所作〕 思ひ切りよく軍帽を投げ出し、 足手まとひの重たいマントは、 まつこのとほりにかなぐり捨てたよ。 そこで引きぬく劍の稻づま、 セラドンもどきにくる~まはつて、 スカラムーシュの身構へ素早く、 そこで一言、聞けやい色男、 返しの一句でぐつさり行くぞよ。 切結ぶ。 よせばいいのにさりとは殊勝な、 どこを串刺し、七面鳥野郎の、 胸か、水色リボンの下かい -- 腰を一つき、へたばらせようか。 劍がうなつてりん~鳴るぞよ。 -- 何だ -- お突きか。下手に動くと、 どてつ腹めがけてずぶりと見まふぞ。 返しの文句でぐつさり行くぞよ。   そら~韻字だ、韻字だ、どつこい…… ぬらりと逃げたが泥鰌ツ子野郎め、 貴殿はお色がお蒼うござるぞ、 -- はつし、みごとに受けとめ申した。 -- そのなまくらを觸らうなどとは。 おつと隙だよ、夢中で一本、 突いて來ないか、甘酒進上 -- 返しの文句でぐつさり行くぞよ。 勿體らしく唱へる。    返しうた 殿さま、冥護の御祈誓なされい。 一足とび込み -- 手練の早わざ、 ずぶりとお胴を、えい、   〔お突きをいれて〕そらどうだい。 子爵たふれる。シラノ挨拶する。 返しの一句でぐつさり行《い》たぞよ。 喝采。棧敷の中にも拍手。花束やハンカチが投げ出される。士官等シラノを取りまいてお祝ひをいふ。 ラグノーうれしまぎれに踊りまはる。ル・ブレーはうれしいながらも心配らしい。 子爵の友人は彼を肩にかけて抱いて行く。 群集 〔同音に、長い叫聲〕 あゝあ -- 一人の近衞士官 素敵だ。 一人の婦人 うまく行つてね。 ラグノー 不思議だなあ。 一人の侯爵 斬新だよ。 ル・ブレー いやはや、氣違ひが。 群集 〔シラノの周りに押寄せる。異口同音に〕 おめでたう。……うまくやつた……えらいものだ……。 一人の婦人の聲 英雄よ。 一人の銃兵士官 〔シラノの傍により、手をさし延べながら〕 君、どうぞ握手を免してくれたまへ。……あゝ、實に立派だ -- 僕はたしかにみました。 -- 僕は感謝して、思はず躍り上がりました。 〔出て行く〕 シラノ 〔キュイジーに〕 あの人は誰だい。 キュイジー 何だ -- ダルタニヤンさ。 ル・ブレー 〔シラノの腕うぃつかまへながら云ふ〕 君に話がある……。 シラノ 待て。有象無象が出て行つてからな。 〔ベルローズに〕 居てもいゝかね。 ベルローズ 〔丁寧に〕 どうぞごゆるりと……。 叫び聲が外で聞える。 ジョドレー 〔外をのぞいて〕 あれはモンフルリーを笑ふのだ。 ベルローズ 〔勿體らしく〕 Sic transit!(かくて終りぬ)…… 〔木戸番に〕 掃除をして、方々を締めろ。明りはその儘にして置いてくれ。 夕食がすんだら、又來てあしたの狂言の稽古をするのだ。 ジョドレーとベルローズとが丁寧にシラノに禮をして出て行く。 木戸番 〔シラノに〕 あなたは御食事はね。 シラノ いらないよ。 木戸番出て行く。 ル・ブレー なぜさ。 シラノ 〔威張つて〕 なぜでも…… 〔木戸番が出て行つてしまふと聲の調子を變へて〕 金がないからさ……。 ル・ブレー 〔財布を投げる形をして〕 おいどうした。財布なんぞを。 シラノ おやぢの恩給、一日でふいよ。 ル・ブレー どうして今月はやつて行く。 シラノ からけつよ。 ル・ブレー 財布を投り出すなんて馬鹿だな。 シラノ だが豪氣だらう。 物賣り娘 〔臺の後で咳拂ひをする〕 えへん -- 〔シラノとル・ブレー振り向く。女はきまり惡さうに出て來る〕 あなた……御免なさい、おなかがお空きなのを……平氣でみては居られませんから。 〔屋臺を指す〕 さあ、何でもよろしいものを幾らでもおとり下さいまし。 シラノ 〔帽子をぬいで〕 どうも有難う、可愛いことをいふね。わたしがガスコン魂の意地ではお前さんからたゞ物を貰ふ譯にはゆかないが、 折角のお志を無にしても却つて意地がすたる譯だ。とにかく貰つて置きませう…… 〔賣場の方へ行く〕 葡萄を少し……。 〔女が葡萄を一房出す。シラノはほんの一顆とる〕 いゝや、これ一つで澤山。水を一杯…… 〔女は葡萄酒をつがうとする、止める〕 いや澄んだ水がいゝのだ。 -- それからマクロンを半分。 〔半分返す〕 ル・ブレー 何を、馬鹿なことを。 物賣り娘 まあ、もつと何かおとんなさいな。 シラノ ぢやあ、お前さんの手を接吻させて貰はうか。 〔女の手を王女の手でもとるやうにして接吻する〕 物賣り娘 どうも有難うございます。 〔女は敬禮する〕 左樣なら。 〔出て行く。〕 第五景 シラノ、ル・ブレー、後に木戸番。 シラノ 〔ル・ブレーに〕 さあ、話が有るなら聞くよ。 〔賣場の前に立つて、自分の前に先づマカロンを置いて〕 これが食事だ…… 〔それからコップの水を置いて〕 これが飮物だ…… 〔次に葡萄を置いて〕 これが菓子だ…… 〔腰をかける〕 さあ、これで食卓につける。いやはや、君、やけに腹の減つたといつたらないぞ。 〔喰べる〕 そこで話は -- 。 ル・ブレー あゝいふ伊逹者の喧嘩早い奴等、あゝいふものにかゝり合ふと、君は魂をどうかされてしまふよ…… ちと物のわかつた人に相談して、君のあのやり方から、どんな結果がくるか聞いてみるがいゝよ。 シラノ 〔マカロンを食べてしまつて〕 そりやあ大變だらうよ。 ル・ブレー カルヂナルもね……。 シラノ 〔うれしくなつて〕 カルヂナルが居たかい。 ル・ブレー あれをみては、きつと思つたらう……。 シラノ うん、竒拔だとね。 ル・ブレー だが……。 シラノ あの人だつて作者だから、仲間の作者の狂言の邪魔をおれがしたことを、 愉快に思はないことはないのよ。 ル・ブレー 何にしても、君は恐ろしく澤山の敵を抱へ込んだものだなあ。 シラノ 〔葡萄を食べながら〕 今夜でどの位敵が出來たらうな。 ル・ブレー 四十八人。それも婦人連を別にして。 シラノ 數へてみたまへ。 ル・ブレー 第一にモンフルリー、それから町の男に、ド・ギーシュに、子爵に、バローに、學士會員……。 シラノ もういゝよ。おれは無上にうれしいのだ。 ル・ブレー だがあの竒妙なやり方で通して行つて、結局今にどうなるのだ。君の考へを聞きたいね。 シラノ おれは迷宮に迷ひ込んで居る -- 道が幾つも有りすぎるのだ。そこでまづとつた道は……。 ル・ブレー どの道だ。 シラノ なにさ、一番簡單な道さ……萬事につけて人からやんやといはせることにしたのだよ。 ル・ブレー 〔肩を聳かして〕 それはまあいゝだらう。 -- だが君がモンフルリーをいぢめる譯は -- さうだ、あれを話してくれ。 シラノ 〔立ちあがつて〕 あの肥つちよの太鼓腹の下司野郎め。あれでもまだ自分ではいつぱしの色事師の積りで自惚れて、 どたり~と芝居をやるあひまには、目を細くして棧敷に色目を使ふのだ -- あの助平の蛙めが。あいつのあの目で、人もあらうにあの人に……後目《しりめ》づかひ…… 美しい花瓣に蛞蝓がのたくり廻つて、よだれを引いてゐるやうな氣がしたのだ。 ル・ブレー 〔驚いて〕 へえゝ。何だね。君でもそんな……。 シラノ 〔苦笑ひして〕 戀なんぞするかといふのか……。 〔調子を代へて眞面目に〕 おれは戀をしてゐるよ。 ル・ブレー 聞かせてくれ……そんな話はなかつたが。 シラノ 戀の相手が誰だといふのか……まあ~考へてくれ……どんな詰らないお多福にでも、 惚れられようなどといふことはこのおれの鼻では馬鹿な望みだ -- この長い鼻め、 おれの行く先き~゛へ三四町も突き出して居るのだ。それでもおれには戀がある…… それも誰あらう、女の中でもこの上のない美人、それを思ふといふのも、因果な話だなあ。 ル・ブレー この上ない美人だと……。 シラノ さうだ、この世の中で、この上のない美人だ。飽くまで艷な -- 飽くまでたをやかな -- 〔苦しさうに〕 飽くまでもブロンドの、美しい金髮の女性だよ。 ル・ブレー へえ、その婦人は一體誰だい。 シラノ 否應いはさぬ生死の一大事だ。夢にも思はない美しさだ。自然のかけわなだ。 高い香りの薔薇の花だ。その花瓣の中に、愛の神のアムールが待ち伏せをしてかくれてゐる。 あの女の微笑を見附けたものは、圓滿具足といふことを見附けたのだ。 かりそめの身じろぎに、優雅の精髓はあたはれ、わざとならぬ素振に、神の靈智は宿つてゐる。 美の女神のヴェヌスが、法螺貝に乘つて波の上を漂ふすがたも、 どうしてあの人が輿にのつたすがたに及ばう。獵の女神のヂアヌが春の花の咲く森の中を走る歩みも、 わが佳人がパリーの町に舖石を踏む足の輕さには及ぶまい。 ル・ブレー 大變々々。もういゝ、わかつたよ。 シラノ 物を透かすやうにか。 ル・ブレー 君の從妹のマドレーヌ・ローベンだらう。 シラノ うん、ロクサーヌだ。 ル・ブレー さうか、それなら尚いゝではないか。あの人にすぐさうぶつつけていふがいゝ。 君の今夜の働きはあの人もここで見て居たのだ。 シラノ まあ、おれの顏をみてくれ、さうした上でいつてくれ。 そんな卑しい僭上を胸に抱いてみたところで、それに何の希望があるだらう。 おれは空しい幻影で自分を欺かうとはしない。 -- だがおれは時々氣が弱くなる。 紫色の暮れ方にはおれも相應に美しい空想に耽ることもある。この情ない、 醜い碌でなしの鼻でも、春の精氣は嗅ぎつける -- 銀色の月の光の下で、 どこかの騎士が貴女を腕に抱いてゐる姿をみる。さうすると考へる。 こんなにして月夜の晩に女と並んで歩けたらと思ふ。その考へにうつら~と我を忘れる…… ふと夢が破れる -- おれの醜い横顏が壁の上に影を寫してゐる。 ル・ブレー 〔しみ~゛と〕 まあ、君……。 シラノ 君、それは時々自分の孤獨といふこと、自分の薄運といふことを思ふと、 つらくもなる。苦しくもなる……。 ル・ブレー 〔友の手をとつて〕 君、泣くのか。 シラノ いゝや、泣きはしない。かうしてあのひとを思ふ涙が、この醜い鼻を傳はると思ふと泣くにも泣かれぬ。 おれは自分の抑制を失はない限り、涙の神々しさを -- その美しさを、 こんなつまらぬ、醜い片輪もののために汚されてなるものか……何だつて涙よりも嚴肅なものはないのだ。 莊嚴なものはないのだ。おれは自分が泣いたために、涙のかすも嚴かな感情を笑ひ草にされたくはないのだ。 ル・ブレー まあ、くよ~するな。戀が何だ。 -- たかが廻り合せだよ。 シラノ 〔頭を振つて〕 だめだ。おれはクレオパトラを戀ふる。だがおれにシーザーの姿があるかい。 おれはベレニスを慕ふ。だがおれにチートの面影があるかい。 ル・ブレー だが君の勇氣だ、君の才だ -- 今し方君に食べ物を呉れた小娘をみろ、 あの女の目は君をきらつてはゐなかつたぞ -- それは見たらう。 シラノ 〔感動して〕 さうなあ。 ル・ブレー どうだ、してみると……おれがみたところでは、さつきロクサーヌは眞蒼な顏をして決鬪をみてゐたよ……。 シラノ 眞蒼な。 ル・ブレー あの人の心も、あの人の魂も、すでにつかんでゐる。まあやれ、言ひ出して見て……。 シラノ あのひとはおれの鼻を笑ふだらう。だめさ。 -- こいつはおれの鬼門だからなあ。 木戸番 〔誰かをシラノに紹介する〕 あなた、どなたかあなたを訪ねてお出でです。 シラノ 〔侍女をみて〕 おや、あの人の召使だ。 第六景 シラノ、ル・ブレー、侍女。 侍女 〔丁寧に挨拶をする〕 わたくしはある貴婦人がそのお勇ましいお從弟のあなたに -- 内々でどこでお目に掛かれるか伺つて來いといふ、 そのお使ひに參りました。 シラノ 〔呆れて〕 わたしに會ひたいと。 侍女 〔恭しく〕 さやいでございます。 -- その方が何か申しあげたいことがございますさうで。 シラノ どんな……。 侍女 〔尚恭しく〕 何か御用事でせう。 シラノ 〔あわてながら〕 いやはやどうも。 侍女 明日、朝の引き明けに、わたしどもはセン・ローシュのお寺の彌撒《ミサ》に參ります。 シラノ 〔ル・ブレーによつかゝりながら〕 どうも。 侍女 そのあとで -- ちよつとでもお話をする暇が、どこぞに……。 シラノ 〔どぎまぎして〕 どこぞで……えゝ……でも……どうもはや……。 侍女 いかゞでございませう。 シラノ 考へてゐる所です……。 侍女 どこで……。 シラノ ではその……ラグノーの……菓子屋で……。 侍女 それはどこでございます。 シラノ セントノレー町の……。 侍女 〔行きかけて〕 よろしうございます。どうぞお出でを七時には。 シラノ 間違なく。 侍女出て行く。 第七景 シラノ、ル・ブレー。後から喜劇の男優逹、キュイジー、ブリッサイユ、リニエール、木戸番、ヴィオロン彈き。 シラノ 〔ル・ブレーの腕に縋つて〕 おれに……あの人から。會ひたいといつて來た…… ル・ブレー 君、もうふさぐには及ぶまい。 シラノ あゝ、何が何でも、あの人はとにかくおれの存在を認めたのだ。 ル・ブレー これで少しは落著いたらう。 シラノ 〔うれしさの餘り我を忘れて〕 落ち著いたと……おれは氣が狂ひさうだ。めちやくちやに氣が違ひさうだ。 さあ、大軍で攻め立てゝ來た -- 三軍を相手だ。おれは十も心臟がある、二十も腕がある。 小人島などが、お相手になるものかい。 〔氣違ひのやうに叫ぶ〕 さうだとも、今は巨人だ。 この少し前から俳優逹の影が舞臺の上に動いて、囁き聲が聞える -- 舞臺稽古が始まる。 ヴィオロン彈き等、席につく。 舞臺からの聲 しツ、しツ、どうかお靜かに願ひます。稽古がはじまりますから。 シラノ 〔笑ひながら〕 こつちは出て行くのだ。 〔行きかける〕 奧の大扉があいて、キュイジー、ブリッサイユ、及び多くの士官等醉つてゐるリニエールを支へて入つてくる。 キュイジー シラノ。 シラノ うん、何だ。 キュイジー 大きな鶫を連れて來た。 シラノ 〔見附けて〕 リニエールか……どうしたのだ。 キュイジー この男は君を搜してゐる。 ブリッサイユ どうしても家へは歸れないのだ。 シラノ なぜだ。 リニエール 〔もみくちやになつた手紙を出してみせて、しやがれた聲で〕 この手紙でみると……百人の人間がおれに爲返ししようといふんだ……そらあの唄の……爲返しさ -- ポルト・ド・ネールだよ……家へこれから歸るには、あそこを通らなけりやならぬ……それはいやだ…… 今夜君の家に一晩とめてくれ、頼むぞ……。 シラノ 百人だと。なに、やはり貴樣の家へ寢させてやるぞ。 リニエール 〔びつくりして〕 でも君……。 シラノ 〔その時脇で面白半分聞いてゐた木戸番の手に持つた提燈を指示して、こはい聲で〕 この提燈をもて…… 〔リニエール提燈を手にとる〕 さあ出かけるのだ。 -- おれはきつと今夜貴樣の寢床を拵へてやる。 〔士官等に向ひ〕 君たちも離れてついて來てくれ給へ。證人になつてくれ給へ。 キュイジー 百人だつて……。 シラノ 今夜はそれより少なくては、どうもたんのうしさうもないのだ。 男優逹と女優逹、役の着附けの儘舞臺を下りて話を聞く。 ル・ブレー 何だつて又そんなことにかゝり合ふのだ。 シラノ あら、ル・ブレーが叱ります。 ル・ブレー こんな碌でなしの醉拂ひなんぞに。 シラノ 〔リニエールの肩を叩きながら〕 なぜだと、それはかういふわけだ。こののんだくれの酒樽め、燒酎の呑み拔けめ、いつか感心な爲業をしたことがある。 この男が彌撒の歸りに出て來ると、お定りのこいつの女が、そこで聖水をふりかけてゐるのだ。 するとこの水嫌ひの酒好きが、いきなり水盤にかけて行つて、一滴のこらずのみほしたものさ。 一人の女優 〔侍女の扮裝で〕 まあ感心な話だわね。 シラノ どうだい、感心ぢやないか。 その女優 〔他の人他に向ひ〕 でもなぜ百人もかゝるんでせう。相手は唯一人の氣の毒な詩人さんなのに。 シラノ さあ行かう。 〔士官等に〕 諸君、だが僕に敵がかゝつて來ても、どんなに危いことがあつても、一人も助太刀に出ては困る。 もう一人の女優 〔舞臺から飛び下りて〕 まあ、わたし、行つてみたいわ。 シラノ あゝお出で。 もう一人外の女優 〔飛び下りて〕 あなた行くの、カッサンドル……。 シラノ みんな來い、來い。ドクトルも、イサベルも、レアンドルも、みんな來い。 てんやわんやの集り勢で、このイスパニヤ流の大芝居に、イタリヤ俄のお景物をそへるのだ。 鼾に負けずに、バスク人の鈴太鼓のやうに氣ちがひじみた音を立てるのだ。 女逹一同 〔うれしさうに踊つて〕 素敵だわ -- マントを早く -- わたしの頭巾は。 ジョドレー そら行け。 シラノ 〔ヴィオロン彈きに、〕 おい樂隊の先生逹、マーチを頼むよ。 ヴィオロン彈き等行列に加はる。皆々脚燈をもつて炬火の代りにわけてもつ。炬火行列の形になる。 よし來た。士官逹、次に衣裳をつけた女逹、前に二十歩離れて…… 〔自分の場所を定める〕 おれは唯一人、榮光が親しく飾る軍帽の鳥毛の前立を押し立てゝ、 -- ナシカを三倍したシピョオンもどきに意氣揚々…… -- わかつたかい -- 加勢は禁物だよ -- 一、二、三。木戸番扉を開けろい。 木戸番扉をあける。昔のパリーの景色が月の光に照らされて現れる。 いよう……夜に包まれたパリーの景色か。おぼろに霞む月あかりが青い甍の上を流れる。 この殺風景な一幕にはこれは又やさしい背景だ。 棚曵く靄の帶の下にセーヌの流れが魔法の鏡のやうに神祕らしく震へてゐる。 ……さあこれからいゝものをみせてやるぞ。 一同 そんならポルト・ド・ネールまで。 シラノ 〔閾際に立ちながら〕 さうだ、ポルト・ド・ネールまで。 〔先刻の侍女役の女優に向き〕 お前さんだつたね、なぜたつた一人のこの詩人に、百人もかゝるのかと聞きなすつたのは。 〔劍を拔く、それから靜かに〕 それはこの男が、おれの友逹だといふことを、みんな知つてゐるからさ。 出て行く。リニエールはすぐ後からひよろ~ついて行く。 -- 次に女優逹、士官等の腕にからまつて、 -- それから男優逹踊りながら出て行く。 -- 行列はヴィオロンの音につれて、 微かな蝋燭の光の中に動いてゆく。 ---- 幕 ---- [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/06/21 シラノ・ド・ベルジュラック:第二幕 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第二幕 ラグノーの店、料理店兼菓子屋。セントノレー町とラルブル・セック町の角にある大きな料理場 -- 右の二つの町の往來が奧の玻璃戸を通して、明方の灰色の光の中に浮んで見える。 左手前に帳場。その頭に鐡の品物掛け、これに鵝鳥鴨及び白孔雀なぞが掛かつて居る。 大きな陶噐の花瓶には脊の高い野生の花、主として黄色い日向葵なぞが投げ込んである。 同じ側のずつと奧に大きな口を開いた爐がある。その前に竒怪な形の五徳の上に、 手鍋が一つづつかけてあつて、蒸燒の肉は鍋の中でじり~脂がこげてゐる。 右手前の方に戸がある。更に奧に屋根裏に通ふ梯子段、その内部は開け放した扉の向うに見える。 この部屋に卓が一つ置いてある。小さいフラマン風の燭臺に明りがついてゐる。 そこが飮食の場所である。梯子段に續く木造の廊下の向うに、他の同じ小さい部屋がいくつかある。 店の眞中に鐡の鉤が一本の絲でさがつて居る。その絲であげたりさげたり出來るやうになつてゐる。 大きな獸や鳥がそのまはりにかけてある。梯子段の下の暗闇に煖爐が赤い舌をみせて居る。 ハムがぶら下がつて居る。ちやうど朝の忙しい時である。皿洗ひ、肥つた料理番、給仕の小僧らが忙しく働いて居る。 これらの被つてゐるコック帽の雛の羽だの、七面鳥の羽のごた~した飾りがせはしく行きちがふ。 金屬製の皿や、柳細工の皿に乘せて、ブリオーシュや、プチー・フール(二つとも菓子の名)を山にのせて運んでゐる。 菓子や皿を乘せた食卓がある。まはりに椅子を並べて客待ち顏な食卓もいくつかある。 隅の小さい卓の上には紙切れが取り散らしてあつて、幕の開いたとき、 主人のラグノーはこれに向つて何か書いて居る。 第一景 ラグノー、菓子職人、後から妻リーズ。ラグノーは興の乘つた樣子で、小卓に向つて書きながら、 指の先で韻字を數へてゐる。 第一の菓子職人 〔綺麗な面白い形に並べた菓子皿を持つて來て〕 へい、果物のヌガー。 第二の菓子職人 〔別の皿を持つて來て〕 へい、これはフラン。 第三の菓子職人 〔羽で飾つた炙肉を持つて來て〕 へい、孔雀で。 第四の菓子職人 〔盤の上に一釜の菓子をのせて來て〕 へい、ロアンソール。 第一の菓子職人 〔鉢のやうな噐を持つて來て〕 へい、牛の蒸燒。 ラグノー 〔書いて居た手を止めて顏をあげる〕 曙の女神の射出す銀色の光がもう銅鍋の上に輝いてゐる。 やよ汝、おゝラグノー、汝の胸の詩が神の歌をやめよや。やがて豎琴上げてうたふ時は來ん -- 今ぞ竈の時なれば。 〔立ちあがる。一人の料理番に〕 これ、そのソースはもちつと長くのばせ。それではつまりすぎてゐる。 料理番 どの位つまつてますかね。 ラグノー 字足なら三脚位。 〔次の皿に移る〕 料理番 何のことだえ。 第一の菓子職人 〔皿をラグノーに見せる〕 へい、タルトでござい。 第二の菓子職人 へい、トウルトで。 ラグノー 〔火の前で〕 我が詩の女神よ、いざ隱れたまへ、御身のやさしき眼は卑しき竈の焔に燒かれなむ。 〔一人の菓子職人にパンの塊をつきつけ〕 お前、このパンの半斤づつのくぎりがまづいなあ。句切りは半行と半行の間にあると極つたものだよ。 〔他の職人に、半出來のパテを見せて〕 おゝ、このパテの御殿にやあ、屋根を葺かなきやならないよ。…… 〔土間に坐つて鳥肉に串を刺してゐる小僧に向ひ〕 さてお前さんは、そのべらぼうな長串に、おとなしい雛鷄と、七面鳥の親玉を刺すのなら、 マーレルブ大人の御得意なやうに、長い文句と短い文句を互ひちがひに刺すのだよ。 そこでその炙肉の塊が、一節づつ、背中でぐる~廻されるのだ。 他の一人の小僧 〔きれをかけた皿を持つて來る〕 旦那、わつしは旦那のお好みに合ふやうに、斯ういふ趣向をやらかしました。どんなものだか。 〔皿の布をとると菓子で拵へた大きなリラの琴が現れる〕 ラグノー 〔うれしがつて〕 おや~、リラだね。 小僧 ブリオーシュの粉でやつたんで。 ラグノー 〔感心して〕 砂糖漬の果物だね。 小僧 御覽なさい、絃は砂糖です。 ラグノー 〔銀貨をやる〕 さあおれの健康を祝つてくれ。 〔妻のリーズの入つて來るのをみて〕 しツ、お上さんだ。早くその錢をかくせ。 〔リーズにリラの琴をみせて極り惡さうな顏をする〕 綺麗ぢやないか。 リーズ 馬鹿氣てゐるわ。 〔帳場の卓に紙袋の束を載せる〕 ラグノー 袋かい。よし~、難有い。 〔よく~みる〕 おや~おれの大事な詠草だ、友逹の詩だ。それを破つて、ビスキーやボン~の袋にしてしまふとは……いやはや、 相變らずだな。昔からある奴さ……オルフェーとバッキュスの巫女の爭ひだ。 リーズ 〔平氣で〕 でもお前さんの碌でもない詩人仲間が、お勘定の代りに置いて行つたほご紙を、 どう使つたつてよささうなものぢやないか。 ラグノー 蟻め……汝、神聖なる蝉の歌を罵る勿れだ。 リーズ お前さんがあの連中のお仲間にならなかつた前は、決して女房のことを、 蟻だの、バッキュスの巫女だなぞとは云はなかつたよ。 ラグノー 折角の詩をそんなものに使つてしまふとは。 リーズ 何、これが相應だなあ。 ラグノー ぢやあ奧さん伺ひたいね、碌でもない散文は何に使へますね。 第二景 前の人々、二人の子供、その時店に驅け込んで來る。 ラグノー これ~坊や、何がほしい。 第一の子供 パテを三ツおくれよ。 ラグノー 〔それをやりながら〕 よし~、そらな、こんがり焦げた……温かいところをやる。 第二の子供 ねえをぢさん、袋に入れておくれよ。 ラグノー 〔おしさうに、傍を向いて〕 いやはや、おれの大事の詩の書いてある袋を。 〔子供逹に〕 何だと、袋に入れてくれと。 〔一枚の袋をとつて、パテを入れかけて、上の文句を讀む〕 「斯くぞユリッセスはペネロープに別れけむ……」これはいけねえ…… 〔それを脇に置いて、もう一枚の袋をとり、それにパテを入れようとして又讀む〕 「黄金の髮のフィービュスは……」いやこれもいけねえ…… 〔前と同じ爲ぐさ〕 リーズ 〔じれつたがり〕 何をぐづ~してゐるのよ。 ラグノー さあ~。 〔第三の袋を拔き出して、諦めたやうに〕 フィリスに寄せるソンネだ……だがこれにも別れるのはつらいなあ。 リーズ やれ~、やつと決心がついたかねえ。 〔肩を聳かして〕 馬鹿らしいよ。 〔椅子の上に乘つて棚の上に皿の並べはじめる〕 ラグノー 〔女房が後を向いてゐる暇を窺ひ、戸口まで出かけてゐる子供逹を呼び返す〕 おい~、坊や……をぢさんにそのフィリスに寄せるソンネを返しておくれ、 その代りパテを倍にまけてやる。 子供逹袋を返して、すばやく菓子を取つて出て行く。 ラグノー 〔紙の皺を伸し、朗讀しはじめる〕 「フィリス……」折角の美しい名の上にバタの油が沁みたなあ……。「フィリス……。」 シラノがせか~入つて來る。 第三景 ラグノー、リーズ、シラノ、後から銃兵。 シラノ 何時だ。 ラグノー 〔丁寧にお辭儀をして〕 六時でございます。 シラノ 〔興奮して〕 この一時間だ。 〔店の中を歩きまはる〕 ラグノー 〔シラノの後からついて歩いて〕 どうもえらいなあ……拜見しましたよ。 シラノ 何をよ。 ラグノー あなたの勝負を……。 シラノ どの勝負を -- 。 ラグノー オテル・ド・ブルゴーニュのさ、勿論。 シラノ 〔馬鹿にしたやうに〕 なんだ……あの決鬪か。 ラグノー 〔感歎したやうに〕 さやうさ、あの決鬪を詩で行くところは。 リーズ うちではあの話ばかり致してをりますよ。 シラノ うん、さうか。もうよせ。 ラグノー 〔一本の炙串を持つて火の上でお突きをし乍ら〕 「返しの一句でぐつさり行くぞよ……返しの一句でぐつさり行くぞ -- 」うまいものだなあ。 〔愈々夢中になり〕 「返しの一句で……。」 シラノ ラグノー、何時だ。 ラグノー 〔ふとお突きの手をやめて時計をみる〕 六時五分で……返しの一句で 〔眞直になり〕 いやはや、あのさなかでバラードをお作りになるとは。 リーズ 〔シラノが帳場の前を通り過ぎてから、つひ無造作に自分に握手をしたので〕 おや、お手をどうかなさいました。 シラノ 何でもない、かすり傷さ。 ラグノー 何か事件がございましたか。 シラノ 何の、何があるものか。 リーズ 〔シラノに指を振つて見せ〕 あら、そんなことを仰しやつても、ほんたうには致しませんよ。 シラノ さういふおれの鼻がぴくりツとでも動いたか。どうして~、それが動いたなら、大きな嘘にちがひない。 〔調子を變へて〕 おれは人を待つてゐるのだ。來たらそつと、人をよけてもらひたい、いゝかしつかり。 ラグノー でもそれはむづかしうございます、詩人仲間がやつて參りますから……。 リーズ 〔皮肉に〕 えゝさうですよ、朝の餌にありつきにねえ。 シラノ まあ頼むよ。おれが合圖をしたら、あいつらを傍《わき》へやつてくれ……何時だい。 ラグノー 六時十分で。 シラノ 〔いら~しながら、主人の食卓の前に腰かけて紙切れを引き寄せながら〕 ペンをかせ。 ラグノー 〔耳に挾んだペンをとつて渡しながら〕 さあ、白鳥のペンですよ。 一人の銃兵 〔いかめしい口髯をした男、大聲で〕 お早う。 リーズがいそ~客を迎へる。 シラノ 〔振り向きながら〕 ありや何だい。 ラグノー 家《うち》の上さんの仲よしでしてね -- 大した恐い軍人 -- と、自分だけは名乘つてゐる男でさ。 シラノ 〔ペンをとりあげて、ラグノーを傍に行かせながら〕 しツ、靜かにしろ。 〔獨言〕 おれはこれを、書いて、封じて、渡して、逃げる -- 〔ペンを置く〕 臆病者め……だがおれは殺されてもいゝ、あの人に物をいふことができたら……どうして唯の一言だつていへるものかい。 〔ラグノーに〕 何時だ。 ラグノー 六時十五分ですよ。 シラノ 〔腰をうつて〕 いやはや -- 色々云ひたいことの唯一言だつて、とても~。だが書く方ならわけはない…… 〔ペンをとり上げる〕 さあ書くぞ、戀の手紙を。おゝおれはそれは紙に書くまでに、胸の中で何度書いて消したか。 おれの魂を紙に塗るには、詰りその通りを引き寫しにすればいゝのだ。 〔書く〕 玻璃戸の向うに微かな人の影がおぼつかなく動く。 第四景 ラグノー、リーズ、銃兵。シラノは小卓で書いて居る。詩人逹、黒い服を著て靴下も止めずに、泥をあげてゐる。 リーズ 〔入つて來て、ラグノーに〕 そら、おいでなすつた、溝ねずみのお仲間が。 第一の詩人 〔入つて來て、ラグノーに〕 藝術の兄弟。 第二の詩人 〔ラグノーに向ひ手を握りながら〕 よう兄弟。 第三の詩人 菓子製造場に天翔ける大鷲の君。 〔嗅ぐ〕 どうも君の巣はいゝ匂ひがするね。 第四の詩人 フェービスの焔に肉を炙き給ふ君。 第五の詩人 大膳職の中のアポロンだ君は。 ラグノー 〔皆に取り卷かれ、抱かれて、握手されて〕 どうも、かういふ方々とゐると、早速にうれしい氣持になつて。 第一の詩人 彌次馬に引きとめられてね、ボルト・ド・ネールは夥しい人だかりだつた。 第二の詩人 血まみれなならずものの死骸が八つ、敷石の上にころがつてゐた -- みんなみごとに切り込まれた跡が大きく口を開いてゐた。 シラノ 〔ちよいと頭をあげて〕 八人だつたかな……待てよ七人だと思つたが。 〔書き續ける〕 ラグノー 〔シラノに〕 あなたはその決鬪の勇士が誰だか御存じでせう。 シラノ 〔無造作に〕 いゝや知らんよ。 リーズ 〔銃兵に〕 ぢやあ、お前さん、知つてゐるでせう。 銃兵 〔八字髯を捻りながら〕 ゐるかも知れん。 シラノ 〔少し離れて書いてゐる。時々口の中でつぶやいてゐるのが聞える〕 わが憧《こが》るゝは……。 第一の詩人 話では、たつた一人でのこらず相手にしたと云ふことだが……。 第二の詩人 珍しい見物《みもの》だつたよ。棒切れが一杯現場に散つてゐた……。 シラノ 〔書きながら〕 ……君の目にこそ……。 第三の詩人 何でもオルフェーヴルの濠端までも帽子が飛んでゐた。 第一の詩人 驚くなあ。その男は餘程恐しい奴に違ひない。 シラノ 〔同じ爲ぐさ〕 ……君の脣にこそ……。 第一の詩人 こんな業をする男はとても恐しい人間以上の奴だらう。 シラノ 〔同じ爲ぐさ〕 ……されば君のみ姿をかいまみる時は、たゞ~恐しさに氣も遠くなるを覺え候。 第二の詩人 〔菓子をすばやく盜み喰ひながら〕 ラグノー君、近頃お作が出來たかね。 シラノ 〔同じ爲ぐさ〕 ……憧るゝものより……。 〔手を止めて、署名をしようとして立ちあがり、手紙をかくしに入れる〕 手渡するのに名はいらぬ。 ラグノー 〔第二の詩人に〕 菓子の製法を詩に作りました。 第三の詩人 〔シュー・ア・ラ・クレームの皿の前に腰をかけて〕 さあその詩を一つ拜聽しようぢやないか。 第四の詩人 〔手にとつたブリオーシュをみながら〕 このブリオーシュは、帽子を横つちよに被つてゐるね。 〔帽子を一噛り噛る〕 第一の詩人 どうだ、このパン・デピース(胡椒入パン。)は、白[くさかんむり/止;#1-90-68]《よろひぐさ》の眉をつけた杏の眼が、 空腹の詩人の心を誘ふではないか。 〔一きれを掴む〕 第二の詩人 さあ聞かうよ。 第三の詩人 〔シュー・ア・ラ・クレームをそろ~と指でいぢりながら〕 このシューはクレームのよだれを出してゐる。笑つてゐるなあ。 第二の詩人 〔菓子で拵へた大きなリラの琴を噛りながら〕 リラが腹の足しになつたのは、詩人になつてこれがはじめてだ。 ラグノー 〔詩を朗讀する用意を整へ、まづ咳をして帽子を直し、氣どつて姿勢をつくる〕 菓子の製法を歌へる詩……。 第二の詩人 〔第一の詩人に向ひ、肘をついて〕 朝食にありついたか。 第一の詩人 〔第二の詩人に向ひ〕 すると君は晝食か。 ラグノー 〔朗讀す〕   杏入りタルトレット製法の歌 卵を手早く掻きまはし 泡立つ中に一たらし、 セドラの甘露に、上等の 杏の濃漿《こんず》交ぜるなり。 タルトレットの燒型の ぬめりにフランの粉しいて、 手だれに押すや杏印、 落す卵の甘い汁。 さて爐にかけた燒型の 一つ~に、こんがりと 狐色なす名物の タルトレットの杏入り。 詩人逹 〔口に一杯ほゝ張りながら〕 うまいぞ、素敵だぞ。 一人の詩人 〔喉と哽らせ〕 ごほん。 詩人逹喰べながら立ちあがる。 シラノ 〔この樣子を眺めてゐたが、ラグノーの方へ行く〕 お前の聲に紛らして、あいつらはしこたま腹を爲込んで行つたぢやないか。 ラグノー 〔微笑しながら低い聲で〕 まあね、それはよくわかつて居ますさ。……だがあの人逹をしよげさせるのも氣の毒故、 見て見ない振りを致しました。これであの人逹にわたくしの作つた詩を讀んで聞かせますのには、 二重の樂しみがございますよ。なぜといやあ、 わたくしが自分ながらいとしくて堪らぬ弱身を滿足させながら、朝食も食べられぬ氣の毒な人逹に、 勝手に食事をさせてやるのでございますから。 シラノ 〔ラグノーの肩を叩いて〕 うん、貴樣は氣味のいゝ奴だよ。 〔ラグノー仲間を追つて向うへ行く。シラノ後から目で見送ると、急に少しいきみ聲で〕 おい、こら、リーズ。 〔その時例の銃兵と睦しく話をしてゐたリーズがびつくりして立ちあがり、シラノの方へ來る〕 そこで、この立派な軍人さんが、お前さんを陷落させたといふ譯か。 リーズ 〔怒つて〕 かりにもわたしの身上に向つて、とやかくいふ人があれば、わたしのこの利かぬ氣な目で睨み殺してやるから。 シラノ ふん、どうもその目は殺す目よりも、殺される目らしいて。 リーズ 〔息の止るほど怒つて〕 まああんまり……。 シラノ 〔鋭く〕 おれはラグノーといふ男が大好きだ -- お氣をつけなさい、奧さん -- おれはあの男を、誰の笑ひ草にもさせたくないのだ。 リーズ でも……。 シラノ 〔聲を張りあげて、わざと銃兵に聞えるやうに〕 命が惜しけりや、氣をつけろい…… 〔銃兵にお辭儀をして、時計をみてから、戸口へ行つて外に氣をつける〕 リーズ 〔銃兵がほんのシラノに答へてお辭儀を爲返しただけなので〕 どうしたのさ、お前さん。勇氣がないね……なぜあの男の鼻のことをいつて、 からかつてやらないのだね。 銃兵 あの鼻か……ふん~……あの鼻か……。 〔さつさと出て行く。リーズ後からついて行く。〕 リーズ 〔戸口からラグノーに、詩人仲間を他へやるやうに合圖しながら〕 いゝか……。 ラグノー 〔一同に右手の戸を示して〕 あそこの方が靜かでいゝでせう。 シラノ 〔じり~しながら〕 いゝか、いゝか。 ラグノー 〔一同を引つ張つて行きながら〕 詩を讀むにはこつちがいゝ。 第一の詩人 〔口に一杯ほゝ張りながら、情なささうに〕 おや~菓子を置いてか。 第二の詩人 何、持つて行くのさ。 一同ラグノーの後から行列を作つて行く。行きがけに皿の上に乘つてゐた菓子をさらつてゆく。 第五景 シラノ、ロクサーヌ、侍女。 シラノ あゝ、ほんの希望のほのかな光でも見附けたら、その時手紙を出すとしよう。 ロクサーヌ覆面をして、侍女を從へて玻璃戸の外に現れる。 シラノ 〔いそ~開けてやる〕 お入んなさい…… 〔侍女の方へ進んで〕 ちよいと二言だが、お前さんに。 侍女 なんなら四言でも。 シラノ お前さんは甘いものは好きかい。 侍女 はい、病氣になつても平氣でございます。 シラノ 〔帳場から紙袋を二三掴み出して〕 よろしい。ここにバンスラード君のソンネが二首ある……。 侍女 へえ。 シラノ ……それにグリオールを入れてあげる。 侍女 〔顏色を變へて〕 まあ。 シラノ プチ・シューといふ奴はどうだね。 侍女 クレームで拵へたものでしたら、それは何よりも好物でございます。 シラノ ぢやあセンタマンの作つた詩の袋に六つはふり込むよ。それからシャプランの詩には、 プウプレンのかけを入れる。 -- 待て~、お前さんはガトー・フレー(冷菓)は好きかい。 侍女 まあ結構でございますわ。 シラノ 〔女の抱へ切れないほどの菓子の袋をやつて〕 そこでいゝ子だから、それを往來へ持つて行つてゆつくり食べてもらひたい。 侍女 でもまあ……。 シラノ 〔女を締め出して〕 そのお菓子をのこらず食べてしまふまで、歸つて來てはいけないのだ。 〔戸を締める。ロクサーヌの方へ行く。脱帽して恭々しく女から離れて立つ〕 第六景 シラノ、ロクサーヌ。 リーズ わたしといふ詰らぬものの居ることを覺えてゐて、わざ~會ひに來て下さつた今日の日は、 わたしにはこの上もない樂しい日です。それで何かお話が……。 ロクサーヌ 〔假面をとつて〕 何よりもまづお禮から申しあげねばなりませんのは、昨晩あなたのお勇ましいお腕前で、 見事におこしめ遊ばしましたあのばかな伊逹者の子爵……あの男といふのが、 わたくしに好意を運ぶ有力な方樣が、わたくしのために……。 シラノ はあ、ド・ギーシュでせう。 ロクサーヌ 〔目を伏せて〕 無理にわたくしに迫つて……夫にさせようと……。 シラノ 何、夫に……阿呆の夫に……世間體の夫に。 〔お辭儀をしながら〕 いや、失禮。でもわたしは幸にもわたしの惡い生れ合せのためにではなく、あなたの美しいお生れ合せのために戰つた譯ですね。 ロクサーヌ さて懺悔致さねばなりませんが、でもわたくしが懺悔を致します前に、聞いて戴きたいことは、あなたは、 もう一度、昔花園や池の傍で、御一緒に仲よく遊びましたね、あの時のにいさまに歸つては戴けませんでせうか。 シラノ さう~……あなたは毎年春になると、わたしの故郷のベルジュラックへ遊びにお出でしたつけね……。 ロクサーヌ あなたは葦を切つて劍になさいました……。 シラノ するとあなたはとうもろこしで人形の金髮を拵へました。 ロクサーヌ ほんとに昔ばなしのやうな……。 シラノ 童あそびの時代でした。 ロクサーヌ あの時分は、あなたは何でもわたくしの云ふことをきいて下さいました。 シラノ 短い著物マドレーヌ、それも今のロクサーヌさん。 ロクサーヌ あの時分、わたくし可愛らしうございまして。 シラノ いやな子では有りませんでしたよ。 ロクサーヌ よく木登りをしては、血だらけな手になつて、あなたは驅けてお出になりましたね。 すると -- 一かどのおかあさんらしく、わたくしはませた言葉であなたを叱りましたつけ -- 。 〔男の手をとる〕 「まあ又こんなに擦りむいて、何です。」つてね。 〔はつと驚いて話を止め〕 まあ、どうなすつたの、このお怪我は。 〔シラノ、手を引ッ込めようとする〕 いゝえ。お見せ遊ばせ。この年になつても相變らず。どこで擦りむいていらしつたの。 シラノ なあにちよいと -- ポルト・ド・ネールでいつもの惡《わる》さ。 ロクサーヌ 〔卓に腰をかけ、ハンカチを水入の中に浸しながら〕 さあこゝへいらつしやい。 シラノ 〔女の傍に腰をかけ〕 まあ優しい。相變らず元氣なおかあさんですね。 ロクサーヌ わたくしがかうして血を拭いてあげます間、お話をしてくださいまし。 敵は幾人かゝつて來たのでございます。 シラノ なあに。百人といふふれ込みでしたよ。 ロクサーヌ まあお話してよ。 シラノ いや、よしませう。それよりかあなたが今し方言ひかけておよしになつた事を、どうぞ伺ひたいものです。 ロクサーヌ 〔男の手をとつた儘〕 ではわたくし申しますわ。昔話のなつかしい香氣のせゐか、 わたしは氣が強くなりました。えゝ、つひお話いたしてしまひますわ。 お聞き下さい、思ひ初つて申します。實はあのわたくしには戀人があるのでございます。 シラノ はあ。 ロクサーヌ けれどその人は知らずに居るのでございます。 シラノ はあ……。 ロクサーヌ 今でもまだ。 シラノ はあ……。 ロクサーヌ でもその人は知らないと申しても、もうやがてわかるでございませう。 シラノ はあ……。 ロクサーヌ その氣の毒な若い人は、もう始終遠方からおづ~戀をなさるばかりで、 それを打ちあけて仰しやる勇氣がないのでございます。 シラノ はあ……。 ロクサーヌ 手をお引ツ込めにならないでください。まああなたのお手は熱でもおありのやうに熱いこと。 -- けれどわたくしは、その人の脣の震へで戀をするお心がわかりました。 シラノ はあ……。 ロクサーヌ 〔ハンカチで男の手を縛つてやつて〕 で、まあどうでせう。ほんの偶然とはいひながら -- その人はあなたと同じ聯隊に勤めておいでなのでございますもの。 シラノ はあ……。 ロクサーヌ 〔につこりしながら〕 あなたの方の青年隊なのでございますよ。 シラノ はあ……。 ロクサーヌ その人の額には天才が刻まれて居りますわ。それは~は立派で、品がよく、 お若くつて、大膽で、美しくて……。 シラノ 〔ふと立ち上がり眞蒼になり〕 何、美しい。 ロクサーヌ はてどうなさいました。 シラノ なに何でも。 〔手をみせてにつこりする〕 少し疼くばかりです、この傷が。 ロクサーヌ わたくしはまあその方をおしたはしく思つてゐるのでございます。 けれど實を申すと、わたくしがその方にお目にかゝつたのは、芝居でだけなのでございます。 -- シラノ なに、あなたはまだ口も利いたことも。 ロクサーヌ えゝ、ほんの目で物を申しただけ。 シラノ それでは、どうしてその人が……。 ロクサーヌ さあそれはプラース・ロアイヤールの菩提樹の下で、人の噂を聞いたのでございます。 おしやべりな人たちが、教へてくれたのでございます。 シラノ 青年隊ですと。 ロクサーヌ 近衞のね。 シラノ してその名は。 ロクサーヌ 男爵クリスチヤン・ド・ヌーヴェット。 シラノ おや~……さう云ふ人は青年隊には居りませんが。 ロクサーヌ いゝえ。どうして。今日からあなたの隊附になり、 カルボン・ド・カステル=ジャルー大尉の手につく筈でございます。 シラノ いやはや、早いものですなあ。心臟の血の流れるのは、早いものですなあ。……でもあんまりな赤さん。 侍女 〔戸口を開けて〕 ベルジュラック樣、お菓子はすつかり戴きました。 シラノ では袋の上に書いてある詩でも讀んでおいでなさい。 〔侍女出て行く〕 ……でも赤さん、あなたは流れるやうな言葉、輝くやうな雅びを好む人としても、 もしその男が何にも出來ぬ田舍者であつたなら。 ロクサーヌ いゝえ、その方の、あの美しいヂュルフェの勇士のやうな髮の毛では。 シラノ いやはや美しい當世頭でも、ことによると鈍物なこともある。 ロクサーヌ いゝえ~、あの方のお言葉のどうして美しくないことがありませう。 シラノ なるほど美しい口髯の下からは、いつも美しい言葉が出るさうですからね。 -- でももしその男が阿呆だとしたら……。 ロクサーヌ 〔足踏みをして〕 えゝもう、その時にはわたくし體を地の下に埋めてしまひますわ。 シラノ 〔間を置いて〕 あなたがわたしをこゝへ呼んだのは、つまりそれを話す積りでしたか。 でもそれが何のお役に立つことやら。 ロクサーヌ さあそれは、昨日人の噂で恐しい事を聞きました。あなたのおいでになる中隊の人逹は、 あなたはじめ皆ガスコン生れの人ばかりだと云ふことですし……。 シラノ それに生粹の(生粹とはうれしいな)ガスコン人でもないくせに、恩典をかさに我々の仲間に入つてくる青二才の新米には、 ずん~喧嘩を爲かけると -- その男はいつて聞かしたでせう。 ロクサーヌ まあわたしそれでどんなにあの方のために心配してゐるでせう。 シラノ 〔口の中で〕 御尤さま。 ロクサーヌ ところがゆうべわたくしは、あなたがいかにもお勇しく、世の中に恐れといふことを知らないやうに、 あののらくら者をお懲しになつた上、大勢の亂暴者に向つておいでになるところを拜見して、 わたくしつく~゛思ひました、萬人の恐れる一人のあなたがお力になつてさへ下さいましたら。 シラノ よろしい、わたしはあなたの可愛い男爵をかばつてあげませう。 ロクサーヌ まあ、あなた、わたくしのためにそれをして下さるのね。わたくしいつもあなたのお優しいお心をお慕ひ申してをりました。 シラノ はあ、はあ。 ロクサーヌ ではあの人のお友逹になつて下さるのね。 シラノ 誓言です。 ロクサーヌ では決してあの人に決鬪なぞはおさせにならないやうにね。 シラノ 決してさせません。 ロクサーヌ お優しいことですね。ではわたくしもうお暇をいたさなくては。 〔手早く假面を著け、ヴェールを被り、さて心も空に〕 さう~、わたくしまだ昨晩の一件を伺ひませんでしたわ。 まあきつとそれはお勇しいことでしたらうね……あの人に手紙をよこすやうに仰しやつてください。 〔指で接吻のまねをする〕 ほんたうに、あなたはいゝ方ね。 シラノ はあ、はあ。 ロクサーヌ 百人も掛つて來たのですか、まあ。ではさやうなら。 -- わたし逹は仲よしですね。 シラノ はあ、はあ。 ロクサーヌ どうぞあの人に手紙をね。 -- あなたいづれお話を伺ひませうね -- 相手は百人だなんて、まあ、勇氣がおありになるわ。えらいことですわ。 シラノ 〔女にお辭儀をする〕 その後の方が苦戰ですよ。 女は出て行く。シラノはぼんやり動かず、床をみつめた儘立つてゐる。沈默。 右手の扉開く。ラグノーのぞく。 第七景 シラノ、ラグノー、詩人等。カルボン・ド・カステル=ジャルー、青年隊、群集その他。後からド・ギーシュ。 ラグノー はひつてもよろしうございますか。 シラノ 〔動かず〕 うん……。 ラグノー目配せをする。詩人等一同入つて來る。 同時に後の戸からカルボン・ド・カステル=ジャルーが大尉の軍服を著て出てくる。 シラノをみやると、仰山な身振りをする。 カルボン こゝにゐたのか。 シラノ 〔顏をあげながら〕 やあ中隊長。 カルボン 〔愉快げに〕 勇士、皆聞いたぞ。我が青年隊は、三十人以上も來てゐるぞ。 シラノ 〔後退りをして〕 でも……。 カルボン 〔引摺るやうにして〕 我輩と來い、みんな君の顏をみない中は落著けないといつてゐる。 シラノ 御免を蒙る。 カルボン みんな向うの「熊の頭」の店で飮んでゐる。 シラノ 僕は……。 カルボン 〔戸口の方に出て往來の向うに雷のやうな聲でどなる〕 行かないといふぞ。わが勇士は御不興の體だ。 聲 〔外で〕 やあ、けしからん。 外で騷ぎ、長靴と劍を鳴らす音が近くに聞える。 カルボン 〔兩手をこすつて〕 皆市街を横斷してやつて來るぞ。 青年隊 〔入つて來る〕 悲觀……憤慨……殘念……チエツ。 ラグノー 〔びつくり、あとじさりしながら〕 旦那方は皆さん、カスコンの方でございますか。 青年隊 さうだ。 一人の青年隊 〔シラノに〕 いやあ。 シラノ あゝ、男爵。 別の青年隊 〔手を握つて〕 萬歳。 シラノ あゝ、男爵。 別の青年隊 さあ、僕は君を抱かなきやならん。 シラノ 男爵……。 ガスコン五六人 抱きつけ~。 シラノ 〔誰に返事していゝのか、わけがわからないので〕 男爵……男爵……もう助けてくれ……。 ラグノー あなた方は皆さん殘らず、男爵でいらつしやいますか。 青年隊 殘らずだと。 ラグノー 殘らずだと。 ラグノー まあ、さうですか……。 第一の青年隊 さうとも -- だから、君……我々の男爵寶冠を重ねれば、いやでも塔が出來る。 ル・ブレー 〔入つて來て、シラノの傍に驅け寄り〕 皆、君を搜してゐる。ゆうべ君について行つた人逹が先立ちで、大變な人數がやつて來る……。 シラノ 〔驚いて〕 何だと。君はあれらに、おれの居るところを教へたのか。 ル・ブレー 〔手をもんで〕 云はなくつてさ。 一人の町の男 〔入つて來る、あとに一團の人數を連れてゐる〕 旦那、マレーの町内のこらずこちらに伺ひました。 外の往來は人で一杯になる。輿や馬車がとまる。 ル・ブレー 〔低い聲で、にこ~しながらシラノに〕 時に、ロクサーヌさんは。 シラノ 〔あわてゝ〕 こら。 人々 〔外で呼ぶ〕 シラノ……。 群集店に中に押し合ひへし合ひ飛び込む。どよめき。 ラグノー 〔卓の上に突立ちながら〕 大變だあ。どか~店に押し込まれる。物は片端から皆壞される。素晴らしい景氣だ。 人々 〔シラノのまはりをとりまいて〕 君……君……。 シラノ どうも昨日までは、こんなに友逹はなかつた筈だ。 ル・ブレー 〔うれしがつて〕 成功だ。 若い侯爵 〔兩手を高くさしあげながら、驅け込んで來て〕 おい、友逹、貴樣知らないか……。 シラノ 貴樣だと……おや~……君は……一體君とはどこでそんなに親しくなつたかなあ。 他の一人 わしは君を、あそこの馬車の中の貴婦人に紹介するよ。 シラノ 〔冷淡に〕 いやはや、それよりも、全體いつ誰から君は紹介されたのだ。 ル・ブレー 〔びつくりして〕 どうして今日は機嫌が惡いのだ。 シラノ 靜かにしろ。 一人の文士 〔矢立を持つて〕 くはしいお話をお伺ひしたいのですが……。 シラノ 御免々々。 ル・ブレー 〔肘をついて〕 テオフラスト・ルノードーだよ。新聞を創めた人だよ。 シラノ それが何だ。 ル・ブレー だがあの人の新聞は大した評判だよ。前途有望だといふ評判だよ。 一人の詩人 〔前に進んで〕 あなた……。 シラノ 何だ、又か。 詩人 ……どうぞあなたのことを詩に作りたうございますから……。 或人 〔又進み寄り〕 もしあなた……。 シラノ もう澤山だ、澤山だ。 群集の中に騷ぎが起る。ド・ギーシュ士官等を連れて現れる。 キュイジー、ブリッサイユ、前の晩シラノと一緒に行つた士官逹。 キュイジー、早足にシラノに近附く。 キュイジー 〔シラノに〕 ド・ギーシュ閣下です。 わや~いふ聲 -- 皆々道をあける。 ガッシオン元帥の御命令をうけて來られたのです。 ド・ギーシュ 〔シラノに會釋する〕 ……わたしは元帥よりのお使として、昨今專ら噂の高い、君が最近のお手柄に對して敬意を傳へにきたのです。 群集 いよう、萬歳……。 シラノ 〔會釋を返し〕 さすが元帥は武勇を愛せられる方ですな。 ド・ギーシュ 元帥も初めは、この人逹が實地の證明者となられるまでは、事實とは信じられなかつたでせう。 キュイジー 我々のこの目で現に見たのですから。 ル・ブレー 〔シラノが氣拔のやうになつてゐるので、心配してそつと〕 でも……。 シラノ まあいゝ。 ル・ブレー 君は何だか弱つてゐるなあ。 シラノ 〔震へる。はつとして〕 このがらくたどもの前で…… 〔ぐつと反り身になり口髯を逆立てる〕 おれが弱つてゐる……待て……今に。 ド・ギーシュ 〔キュイジーが小聲で何かいふのを聞いて〕 これまでも君の武勇の手柄話は澤山にある -- 君はこの亂暴者のガスコン隊の仲間だね。 シラノ さやう、青年隊です。 一人の青年隊 〔凄いやうな聲で〕 我々の隊です。 ド・ギーシュ 〔シラノの後に並んでゐる青年隊の方をみて〕 いやはや……この利かぬ氣の面魂の方々が、これがその音に名高い……。 カルボン シラノ。 シラノ 何です、中隊長。 カルボン 我々の隊が一同こゝに集つてうぃるのだから、どうか彼等を閣下に紹介してやつて貰ひたい。 シラノ 〔ド・ギーシュの方へ二足進んで〕 わがド・ギーシュ閣下、失禮ながら御紹介 -- 〔青年隊を指さして〕 これやガスコン健兒の青年隊、 時はカルボン・ド・カステル=ジャルー、 決鬪好物、駄法螺は名人、 これやガスコン健兒の青年隊、 重代の武具、家の紋、 掏摸よりましな貴族でござる、 これやガスコン健兒の青年隊、 小はカルボン・ド・カステル=ジャルー。 鷲の眼に、鶴の脛、 髯は猫に似て猛く、齒は狼に似て鋭し、 世間のがらくた、こつぱ微塵。 鷲の眼に、鶴の脛、 よそ目に派手な大鳥毛の前立、 その實は破れ帽子のぼろかくし。 鷲の目に、鶴の脛、 髯は猫に似て猛く、齒は狼に似て鋭し、 「どてつ腹破り」に「眉間の梨割り」 それは中でも柔しい綽名、 功名手柄に魂の醉ひどれ。 「どてつ腹破り」に「眉間の梨割り」 喧嘩口論ぶつかり次第、 劍と血しほの逢ひびき同士、 「どてつ腹破り」に「眉間の梨割り」 これは中でも中でも柔しい綽名。 よおい、よおい、ガスコンの健兒隊、 摘み喰ひの色男われらの嬲りもの、 南無や淫亂の女菩薩、渇仰、讚歎、 よおい、よおい、ガスコンの健兒隊、 亭主の佛頂面、厭ならよしやがれ、 あゝいや、ちやんちやか、どかどかどんどん、 よおい、よおい、ガスコンの健兒隊、 摘み喰ひの色男われらの嬲りもの。 ド・ギーシュ 〔ラグノーの持つて來た肱掛椅子に腰をかけて〕 詩人のお取卷か、これが當節の贅澤だ。 -- わたしの所へ來る氣はないか。 シラノ いや眞平。どちらへも御奉公は致しません。 ド・ギーシュ ゆうべの君の即興は小父のリシュリューも聞いて喜んでゐた。 いつでも小父に頼んであげてもいゝよ。 ル・ブレー 〔喜んで〕 大したことだ。 ド・ギーシュ 君は五幕の韻文劇を書いたさうだが。 ル・ブレー 〔シラノの耳に口を寄せて〕 おい、君のアグリピースだ。あれが愈々舞臺に上る時が來たと云ふものだ。 ド・ギーシュ それを小父にみせたらどうだ。 シラノ 〔ふいと誘はれてその氣になるかける〕 なるほど……。 ド・ギーシュ 小父は老練な批評家だ。二行や三行のことなら、手を入れてくれるだらう。 シラノ 〔顏附きがすぐ堅くなる〕 御免蒙りませう。他人が句點一つ直したといふだけでも、この血が凍るやうに思ひます。 ド・ギーシュ だが一句でも氣に入れば、小父は莫大な襃美をくれるよ。 シラノ 小父樣の襃美よりも、わたし自身の襃美の方が嬉しうございます。 氣に入つた文句が出來れば、自分で襃美をやつて、自分で高い聲で歌つて居ります。 ド・ギーシュ 氣位が高いな。 シラノ さうでせうね。それにお氣が附きましたか。 一人の青年隊 〔ぼろ~な鳥毛の前立、海貍皮の帽子の穴だらけなのを劍の先に幾つも芋ざしにして持つて來る〕 これみい、シラノ。 -- 今朝海岸通りで、とんな竒妙な羽のある竒麗な鳥をつかまへたぞ。 逃げて行つた奴等の帽子だ。 カルボン 名譽の戰利品だ。 皆々 〔笑ふ〕 よう、よう、は、は、は。 キュイジー こつとそいつらを頼んだ奴は、嘸くやしがつて、怒つてゐるだらう。 ブリッサイユ 誰だらうな、そいつは。 ド・ギーシュ その頼み主はわたしだ。 〔笑ひ聲はたと止む〕 わたしがあれらを使つたのだ。わたしの劍を穢すまでもないから、 人手を借りてあの醉拂ひの詩人めを懲しめてやつたのだ。 〔強制された沈默。〕 青年隊 〔シラノに持つて來た帽子をさし示しながら小聲で〕 これをどうしよう。ひどく脂ぎつてゐる。シチウにでもするか。 シラノ 〔刺した劍を受取り、丁寧に會釋をしながら、帽子をド・ギーシュの足元にころがす〕 閣下、それでは失禮ながら、この品を御友人逹にお返し下さい。 ド・ギーシュ 〔立ちあがり、尖い聲で〕 輿を持つて來い -- 早く -- わたしは歸る。 〔シラノに向ひ劇しく〕 これ君は。 聲 〔往來で〕 ド・ギーシュ樣のお乘り物だ。 ド・ギーシュ 〔やつと自分を抑へて、につこりしながら〕 ……君はドン・キショートを讀んだかね。 シラノ 讀みました。あの氣違ひじみた武者修行の無法者にはさすがに兜を脱ぎますよ。 ド・ギーシュ まあ、あれを君によく研究してもらはうかい……。 輿丁 〔後に現れる〕 殿樣お乘物の用意が。 ド・ギーシュ あの風車の章をねえ。 シラノ 〔お辭儀をして〕 第十三章ですね。 ド・ギーシュ 風車に向つて槍を振り廻す奴には -- 今に…… シラノ するとわたしはその日その日の風向き次第で、へら~廻る奴に向つて槍でも振り廻しましたかな。 ド・ギーシュ その風車の大きな帆は貴樣を叩き倒すぞよ、溝泥の中へでも…… シラノ ことによつたら星の世界の上までへもねえ -- ド・ギーシュ出て行く。輿に乘るのが見える。他の貴族等囁き合ひながら出て行く。 ル・ブレーはこれについて扉口まで行く。群集は散る。 第八景 シラノ、ル・ブレー、青年隊、青年隊は右手左手の食卓で飮食してゐる。 シラノ 〔彼に挨拶をし得ずに出て行く貴族に對して、わざと馬鹿丁寧に頭を下げて〕 閣下……閣下御無事に…… ル・ブレー 〔歸つて來て、がつかりしたやうに〕 どうも、偉い騷ぎだつたなあ。 シラノ いやはや、また小言かい。 ル・ブレー とにかく、君も好運にぶつかつては、自分からふいにすることの氣違ひじみてゐることは認めるだらう…… シラノ さうだよ -- おれは氣違ひじみてゐる。 ル・ブレー 〔それみろといふやうに〕 なあ。 シラノ だがそれには主張があるのだ、模範になることだ。 おれがさう云ふ風に氣違ひじみて振舞ふのをいゝことだと思つてゐるのだ。 ル・ブレー まあその氣違ひじみた高慢は止したらどうだ。好運と名譽は貴樣を待つてゐるからなあ…… シラノ さうよ。それだから何だといふのだ。……勢力家の保護を頼み、蔦のやうに大木にからみついて、 その木の皮をしやぶつて身をたてりといふのかい。實力でなしに、 追從や横著で立身をしろといふのかい。とんでもない、まつ平御免だ。 何なら一層世間並に、金持を煽てる詩を作つたり、お太鼓叩いて阿呆の眞似をしてみせて、 やつとのことで旦那の脣に滿更でもない薄笑ひを見ては樂しみにするか、とんでもない、まつ平御免だ。 毎朝、蟇蛙をうのみにするか。大儀な體を動かして、よろ~腹をへらせるか -- 膝の皮をすりむいて這ひずりまはるか。 背中を曲げて輕業をやるか。とんでもない、まつ平御免だ。……さもなきや、 面をかぶつて狡猾に立廻り、獵犬をつれて獵をしながら、兎と一緒に駈けるまねをする。 脂つこい舌をまはして、賞讚の脂味に飽かうとする、勢のある奴の鼻先にぴよこ~米搗ばつたをやる、 とんでもない、まつ平御免だ。懷から懷に忍び入つて、小人仲間でいつぱし大家になりすます、 さもなきや、下らぬ戀歌を帆にはらませ、おいぼれ貴婦人の感嘆のため息にのつて、そろり~と乘りまはすか、 とんでもない、まつ平御免だ。本屋のお情にすがつて詩集の出版を頼み込むか、とんでもない、まつ平御免だ。 たはけ共が酒場會議の法王に選擧される運動をするか、とんでもない、まつ平御免だ。 ろく~作もしないでゐて、たつた一つの小唄を虎の子にして、評判を釣らうと骨を折る、 とんでもない、まつ平御免だ。へちやむくれ共の御機嫌とりか、ぼろ新聞の惡口にびくついてばかりゐるか。 おゝメルキュール新聞さま、お目かけられて下さりませとお願ひ申し奉るか。とんでもない、まつ平御免だ。 始終びく~、青しよんぼくれて、胸の算盤はぢいてゐるか。詩を作るひまがあれば、 御きげん伺ひ、紹介の名刺頂戴か、お手當金引出しに駈けまはるか。とんでもない、まつ平御免だ。 厭なことだよ。しみ~゛厭だよ。何の、おれは歌ふばかりだ。夢を見て、笑つて、心もかる~゛、 孤獨の代りにや自由氣まゝで、横目もふらずに、ぴたりと目を据ゑ、 物をぢ知らぬ聲ほがらかに、帽子が縱に曲らうと横にくねらうとおれの心まかせ、 否か應かの一言に命をかけて果し合ふ。 -- その合間に詩作三昧さ。 名譽も利得もへちまの皮、ぜひやりたいと思ふのは月の世界の旅行だけ。 眞實うぬの心の底からむつくり湧いた感興なしには、詩作のペンをとらうとは思はん。 そのくせ謙遜をあくまで胸に抱きしめて、かういつて聞かせるのだ。 なあ、お友逹、お前は花でも -- 果實でも -- なあにたゞの葉つぱにだつて滿足してゐりやあいゝんだ。 いづれも手前の花園でない、外の花園から摘むことはならないのだ。 だからどうした拍子でよし運勢がむいて來ても、そこは竒麗さつぱりセザールどのに返す借りは一文も無い、 時のえらい方々にびた一文の借りも無いのだ。萬事は手前の腕一本よ、つゞまる所は、 人をたよりの蔦かづらのいくぢなしにはなりたくない、[木|解;#1-86-22]《かしわ》や楡の大木になつて -- むやみに上へのびないでも、飽くまでも一本立でゐたいのだ。 ル・ブレー 一本立か、それもいゝさ。だが相手かまはず逆ふのはよくないぞ。一體全體何と思つて、 ぶつかり次第むちやくちやに敵をこしらへるのだい。 シラノ そりやあ貴樣がぶつかり次第に友逹をこしらへやがるからさ。相手かまはず口の裂けるほど追從笑ひをしやがるからよ。 おれは往來で挨拶をしない奴が多くなるほど、いよ~愉快に歩けるのだ、 いよう、お前さんも敵だね -- と、どなつてやるのだ。 ル・ブレー 氣ちがひ。 シラノ ふん、これがおれの惡い癖といふものだらうよ。厭がらせるのが好きなんだよ。 憎まれたいが願ひなんだよ。なあ、おい、いこぢのやうだが、白い眼の十字火を浴びておれは歩きたいのだ。 竒麗なレースの胴服の上に、ぺつたりついた猜忌のしみや、 卑怯のよだれがどんなに馬鹿に見えるか貴樣にやわかりまい。 -- 貴樣のくるまつてゐるふやけた友情なんといふものは、しまりのないイタリヤ製の襞飾同樣、 ぐにや~、べた~氣色がわるい。そりやあ、嵌めてゐるのは樂だらうが、ぴんとした氣持にはなれまいよ。 支へるものも締めるものもないから、首は右にも左にも前にも後にもぐら~だ。 そこへ行くとおれなんざあ、憎みが硬い糊つけの襞飾をはめてくれるから、いつでも首がぴんと立つてゐる。 敵が殖えれば襞も一つふえる、おかげで窮屈にはなるが、光榮も加はるのだ。 何しろ憎みといふ奴は、イスパニヤ人のかぶる襞襟同樣、毒蛇のやうに首をしめるが、 後光のやうにも輝くのだ。 ル・ブレー 〔沈默の後、シラノ肱をとつて〕 ぢやあ、やい~大きな聲で、がみ~と高慢にわめき立てるがいゝさ。 -- だがまあさしあたりこれだけ内證でいつてきかしてくれ、あの人はおれを好いてゐないとね。 シラノ 〔烈しく〕 だまれ。 クリスチヤンこの時入つて來て、青年隊の仲間になる。 青年隊は彼には話しかけない。クリスチヤンは一人で食卓に向ふ。リーズもてなす。 第九景 シラノ、ル・ブレー、青年隊、クリスチヤン・ド・ヌーヴィエット。 一人の青年隊 〔盆を手に持つて奧の食卓に坐る〕 おい、シラノ。 〔シラノ振り向く〕 話はどうした。 シラノ 今に話すよ。 〔奧へル・ブレーと行き、小聲で話をする〕 青年隊 〔立上がつて、前へ來る〕 ゆうべの喧嘩の話をしろよ。いゝ教訓になるよ。 〔と云ひかけて、クリスチヤンが腰をかけた卓の前で立止まり〕 この弱蟲お小僧さんのな。 クリスチヤン 〔顏をあげて〕 何、小僧だと。 もう一人の青年隊 さうよ、この病人じみた北國の田舍者のなあ。 クリスチヤン 病人じみたとは。 第一の青年隊 〔嘲るやうに〕 おい、聞けよ、ド・ヌーヴィエット男爵の君、君の耳に入れて置くことがあるよ。 こゝでは云つてはならないことがある。首くゝりのあつた家で繩の話をしないやうに、 こゝでは云つてならないことがあるのだ。 クリスチヤン それは何ですね。 もう一人の青年隊 〔恐しい聲を出して〕 これをみい。 〔自分の指を三度まで神祕らしく鼻の上にのせる〕 わかつたかい。 クリスチヤン はゝあ、それは、は…… もう一人の青年隊 しツ。おつと、その言葉が禁物だよ。 〔ル・ブレーと話をしてゐるシラノを指さす〕 それでないとあそこに居る小父さんに、ひどいめに會はされるからなあ。 もう一人 〔その時そつと卓の上に腰をかえて、後で囁く〕 どうして持前の鼻聲で話をしたといふだけで、二人までも鼻聲の男が、 あの男の刀に錆になつた。 もう一人 〔卓に下に潛つてゐたのが四つん這ひになつて這ひ出して小聲で〕 お前さんがあたら若樹の花を散らせまいと思ふなら -- どうしてどうして、 一言でもあの鬼門の軟骨にさはることは禁物だ。 もう一人 〔肩を叩いて〕 一言どころか、素振でもいけないのだ。こゝに愼みのない奴が、うつかり鼻ふきを振り廻して見ろ、 早速に經帷子を著なきやならない。 沈默。一同腕を組んでクリスチヤンを見る。クリスチヤン立上がつてカルボン・ド・カステル=ジャルーの方に近づく。 カルボンは一人の士官と話をしてゐて、みて見ない振をしてゐる。 クリスチヤン 中隊長どの。 カルボン 〔振り向いて、クリスチヤンを頭から足の先までぢつとみて〕 何だ。 クリスチヤン 失禮ながら、南の人間が餘り大法螺を吹きまくる時、どうそれを受けたらよろしうございませう。 カルボン そいつらに北の人間もやはり骨があるといふところを、みせつけてやる他《ほか》はあるまい。 〔くるりと背を向けてしまふ〕 クリスチヤン 有難うございます。 第一の青年隊 〔シラノに向ひ〕 さあ話をしろ。 皆々 さあ話だ。 シラノ 〔皆の方へ來る〕 話だと…… 〔皆々椅子を持つて來て、シラノのまはりに車座になり、熱心に耳を傾ける。クリスチヤンは一人椅子に馬乘りに跨つてゐる〕 さて、おれはたつた一人で大勢待伏せてゐる場所へ向つて行つたのだ。大時計のやうな月が空の上に照つてゐたが、 ふと用心深いどこぞの時計屋が、綿の雲でこの時計の銀側をすつと拂つた。 するうちいきなり墨を流したやうな闇夜になつた。河岸通は泥沼のやうな闇の中にかくれてしまつた。 やれやれ、これで一寸先は如法闇夜…… クリスチヤン 鼻をつままれても分らぬ。 沈默。皆々こは~゛シラノの顏をみて、そつと立ちあがる。シラノはふと話をやめてあきれてゐる。間。 シラノ ありや全體何者だ。 一人に青年隊 〔囁きながら〕 あれは今朝隊に入つた新米だ。 シラノ 〔一足クリスチヤンの方に寄り〕 今朝だと。 カルボン 〔小聲で〕 さうだ……名前はたしか男爵ド・ヌーヴィエ…… シラノ 〔ぢつとこらへて〕 わかつた。うん、さうか。…… 〔顏色を變へ、青くなり赤くなり、またクリスチヤンに飛びかゝりさうな樣子はしたが〕 おれはな…… 〔ぢつとこらへて〕 何、いいさ…… 〔また話し始める〕 何を話したつけなあ…… 〔又込みあげてくる憤をあらはし〕 畜生…… 〔それから又おだやかになつて〕 さう~、如法闇夜、何も見えぬと云つたのだ。 〔皆々驚く。青年隊等シラノの顏をみながら又腰をかける〕 さておれはかまはず進んで行つたが、心の中では、このろくでなし野郎の味方をしてやりやあ、 いづれどこかの貴族か威勢のある奴を怒らして、きつとそいつはこのおれの…… クリスチヤン 鼻柱を折るかもしれない。 皆々立ちあがる。クリスチヤン椅子の上で馬乘りになつて、體の拍子をとつてゐる。 シラノ 〔絞めつけられた聲で〕 ……何くそ、齒だ。そいつはおれの齒を折るかもしれない。ところでおれは出過者のやうに、 なぜこんなことにとび出して餘計な…… クリスチヤン 鼻を突つ込むのだ…… シラノ 餘計な指を……幹と皮の間のわれ目に突つ込むのだ。相手はなか~しぶとくつて、 一番おれの…… クリスチヤン 鼻にまゐる…… シラノ 〔額の汗をふいて〕 ……急所に參るは知れてゐる。さうは思つたが、「ガスコン男子だ、しつかりやれ。 男は意氣地だ、引くな、シラノ。」となあ、心に叫んで進んで行くと……いきなり闇から突き出す…… クリスチヤン 鼻先…… シラノ 突き出す刄先を引つぱづして、すぐ突き合はす…… クリスチヤン 鼻と鼻。 シラノ 〔いきなりクリスチヤンに飛びかゝりさうにしながら〕 やい、貴樣。 〔青年隊一同はつとして、飛びあがる。しかしシラノはクリスチヤンの傍まで行くと、怒を鎭めて、又話を續ける〕 同勢百人のならず者、酒のいはせる附け元氣…… クリスチヤン 鼻をつくやうな…… シラノ 〔色を變へたが、につこりして〕 ぷんとくる葱や、どぶろくのむかつく匂ひ……かまはず飛びあがつて切りかける刀は、風切る…… クリスチヤン 鼻を切る。 シラノ 二人は串刺し。一人は胴切り。また切り込んで來る奴を、ぱつと受けては、ひつぱづす…… クリスチヤン 鼻がはつくしよい。 シラノ 〔どなりだす〕 さあ出てくれ。貴樣逹皆出てくれ。 青年隊一同扉口に駈けて行く。 一人の青年隊 とう~虎が目を覺ました。 シラノ 皆出てくれ。この男だけにおれは話がある。 第二の青年隊 あいつ、可愛さうに賽の目に刻まれて -- ラグノー 何、刻まれて。 もう一人 大きなパテにされるのよ。 ラグノー わたしは青くなりました。白くなり、ぐにや~にへしつぶされてしまひます。 カルボン さあ、みんな退却だ。 もう一人 あとにはかけらものこるまい。 もう一人 どうなることかと思ふと氣味が惡い。 もう一人 〔右手の扉を締めながら〕 何れ、大變なことになるだらう。 皆々右に、左に、奧に、思ひ~の扉口から出て行く。中には梯子段をあがつて行く者もある。 シラノとクリスチヤンは暫く顏と顏を見合せて向ひ合ふ。 第十景 シラノ、クリスチヤン。 シラノ さあ抱きつけ。 クリスチヤン でも…… シラノ 貴樣は勇氣があるぞ。 クリスチヤン やあ。でも…… シラノ まあ、いゝからよ。 クリスチヤン でもどうぞ、わけを。 シラノ いゝから抱き附け。おれはあの人の兄弟だよ。 クリスチヤン 誰の兄弟ですと。 シラノ あの女のさ。 クリスチヤン えゝ。 シラノ ロクサーヌのさ。 クリスチヤン 〔駈けよつて〕 おや……あなたが、あの人のお兄さん。 シラノ 從兄妹といへば、兄弟も同樣さ。 クリスチヤン そしてあの人は何もかもあなたに打ち明けて。 シラノ 何もかも。 クリスチヤン あの人はわたしを思つてくれてゐるでせうか。 シラノ ゐるかも知れない。 クリスチヤン 〔手をとつて〕 わたしはあなたに會つたのは何よりの喜びです。 シラノ それは急な變りやうではないか。 クリスチヤン どうぞ堪忍して下さい…… シラノ 〔クリスチヤンの顏をみて、その肩に手を乘せ〕 ふん、いゝ男だわい。畜生めが。 クリスチヤン まあ、わたしがその位あなたをお慕ひ申してゐたか、御存じでしたら。 シラノ だがさつき、鼻々と云つたのは…… クリスチヤン おゝ、あれはみんな取消します。 シラノ ロクサーヌは君の文を待ちこがれてゐるよ…… クリスチヤン やあそれは。 シラノ どうしてだ。 クリスチヤン わたしが口をきいたらおしまひです。 シラノ それはなぜだ。 クリスチヤン わたしは氣が利きません。恥かしくつて死にたい位です。 シラノ どうしてなか~隅にはおけないぞ。さつきおれにからかつた手際は鮮かなものだつたよ。 クリスチヤン 馬鹿な、喧嘩の威勢をつける位は心得て居りますさ。軍人並の頓智はありますが、 さて女子の前に出ては口をつぐまねばなりません。 成程わたしが前を通りますと女子の目はやさしくなつて…… シラノ それで貴樣が立ちどまれば、女子の心はいよ~優しくなる筈だ。 クリスチヤン いゝえ、とんでもない、わたしは口無調法な、とても女子に向つて戀を打ちあけることなぞの出來ぬでくの坊 ……それが苦勞でなりません。 シラノ さうするとおれなぞは、造化がもうちつと深切に、もうちつと丁寧に、 拵へてさへくれたなら -- それこそ戀を打ちあけることに苦勞はいらぬ人間なのだが。 クリスチヤン みやびな言葉で思ふことを打ちあけられたら…… シラノ みやびな姿の軍人で練り歩けたら…… クリスチヤン ロクサーヌは才女です。わたしはきつとあの人を失望させるにきまつてゐる。 シラノ 〔相手の顏を見て〕 どうかかういふ顏を借りて、おれの心を述べて貰ふことが出來るなら…… クリスチヤン 〔落膽して〕 雄辨よ、それはどこにあるのだ。 シラノ 〔あわたゞしく〕 よし、おれが代りをしてやる。貴樣がその竒麗な戀の勝利者の護符をおれに貸してくれるなら、 二人がかりで戀の主人公になれまいものでもない。 クリスチヤン えゝ。 シラノ どうだ、貴樣。おれが毎日教へてやる言葉をそのまゝ、鸚鵡返しをやることが出來るか。 クリスチヤン それは何のことですね。 シラノ ロクサーヌに興覺ましをさせてはなるまい。そこでどうだ、 貴樣とおれと組になつてあの人に戀を求めるのだ。二人一緒に力を合せて、 あの人の戀を求めるのだ。おれの無骨な皮の上着から出た考へを、 貴樣のしやれた絹の上著にくるんで出すのだ。 クリスチヤン でも、シラノ、…… シラノ どうだ、どうだ。 クリスチヤン でもどうやら氣味が……[注:「君が」の誤りか?] シラノ 何も貴樣のためだぞ。貴樣一人ではあの人の心を凍らせることを恐れてゐるから、 その代りにおれの言葉をお前の脣に云はせて、あの人の胸に情の火を燃しつけてやらうと云ふのだ。 クリスチヤン さう云ふあなたのお目は輝いて…… シラノ どうだ。 クリスチヤン あなたはそれがうれしいのですか。 シラノ 〔夢中になつて〕 それは…… 〔又平靜に返つて實務的に〕 おもしろいぢやないか。それは詩才を試すいゝ工夫だよ。 貴樣がおれをとりつくろつてくれるか、おれが貴樣のつぎ足しをしてやるか、 とにかく貴樣は元氣よく歩いて行く、するとおれはその蔭について行くのだ。 おれは貴樣のために才を貸してやる。貴樣はおれの美を引き受けてくれゝばいいのだ。 クリスチヤン とにかく、僕の文をあの人がさういふ今も待つてゐるのかなあ。 僕にはとても…… シラノ 〔先刻書いた手紙をとり出して〕 それこゝに -- 貴樣の出す手紙があるよ。 クリスチヤン 何ですと。 シラノ 手にとつて見給へ。名さへ書けばいゝのだ。 クリスチヤン でも。 シラノ あぶながることはない、それをやり給へ。ちやうどうまくできてゐるのだ。 クリスチヤン だがそれでどうして…… シラノ いゝや、我々詩人といふ奴は、いつもかくしに一杯、 クロリス(花の神クロール)の女神に上げる戀の文を入れてゐるのだよ。 それもおれたちの阿呆頭にでつち上げた女神をね。空想の戀の姫君のさ。 シャボン玉をふくらました夢中の幻影さ。さああの幻影をつかまへて譫言のやうな戀の言葉を本物にするのだ。 おれはあてもなしに戀の吐息をついたり、うなつたりした。この行きどころもなくつて、 さまよつてゐる戀の小鳥に君が巣を作つてやるのだ。 君はこの手紙を見れば、僕がよく流暢自在になるほどいよ~眞劍でないことが分かるだらう -- さあもつて行くのだ、それでおしまひにするのだ。 クリスチヤン 何か二言三言、言葉を換へないでもいゝでせうか、出鱈目に書いたこの手紙がロクサーヌにはまるでせうか。 シラノ はまるとも。手袋のやうにぴつたりはまるよ。 クリスチヤン でも…… シラノ いやはや、そこが戀の手形だ。ロクサーヌはその文の一言一句自分の胸から湧き出したやうに思ふだらう。 クリスチヤン 有難い。 〔シラノの腕に抱きつく。二人は暫くその儘でゐる〕 第十一景 シラノ、クリスチヤン、ガスコン隊、銃兵、リーズ。 一人の青年隊 〔半分扉をあけて〕 どうした。……死んだやうに靜かだ。……氣味が惡い。…… 〔顏を出す〕 おや~…… 青年隊一同 〔入つて來て、シラノとクリスチヤンが抱きあつてゐるのをみて〕 おや~。……へえ…… 一人の青年隊 何のことだい。 驚愕 銃兵 〔嘲るやうに〕 ほつほ。 カルボン 惡魔が聖徒になつたかな。右の鼻の孔を打たれても -- どうだ、左の鼻の孔を向けてゐるぞ。 銃兵 ぢやあ、これからはあいつの鼻をからかつてもいゝのだな…… 〔リーズに呼びかけて高慢げに〕 -- おい、リーズ、見ろよ。 〔態とらしくふん~やる〕 おや、おや……變だぞ。何だか臭いぞ。…… 〔シラノの方に寄り鼻をじろ~見る〕 ねえ、君臭いなあ。一體何の匂ひだらう…… シラノ 〔横面を一つ喰はし〕 平手の匂ひだ。 皆々大喜び。青年隊等シラノが又いつもの面目に戻つたのをみて、うれしがつてとんぼ返りをする。 ---- 幕 ---- [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/06/21 シラノ・ド・ベルジュラック:第三幕 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第三幕 ロクサーヌの接吻 その昔のマレー町の小さな四ツ辻。古い建物。小路の遠見。 右手に、ロクサーヌの家と深い木立に蔽はれたその園の塀と。 扉口に頭に窓と露臺。扉口の前に腰掛一つ。 塀には蔦がからんで居る。露臺のまはりに素馨の花散りながら咲く。 この腰掛と、塀から突き出した石を足がかりにして容易に露臺にのぼれるやうになつてゐる。 住居の前に煉瓦と石を積んだ出入の扉のついた同じ樣式の古い家。 その扉口のノッカーは傷ついた親指のやうに麻布で卷いてある。 幕が開くと、ロクサーヌの侍女が腰掛にかけてゐる。ロクサーヌの露臺の窓は廣くあけてある。 ラグノーが貴族の家來のやうな服裝で、彼女の傍に立つてゐる。ちやうど何か侍女に向つて物語を終つた所で、 涙を拭いてゐる。 第一景 ラグノー、侍女。後からロクサーヌ、シラノ、及び二人の侍童。 ラグノー そこでね、あまの奴は銃兵の野郎と驅け落ちさ。女にや捨てられる。商賣は駄目になる。 何も彼も見切りをつけてしまつて、首を縊らうとした。愈々これで娑婆の見納めといふ所へ、 いらしつたのが、ド・ベルジュラック樣だ。それでおいらを助け出して、 お從弟樣の所へ御用人に世話をして下すつたと云ふ譯さ。 侍女 まあ、でも、どうしてそんなにいけなくなつてしまつたの。 ラグノー なあにさ、リーズは軍人が好きだつたが、おいらは詩人が好きだつた。何の事はない、 アポロンが置いて行つた菓子を、素ばしつこくマルスにしてやられたと言ふ譯さ。 -- かうなるとあとは、落ちぶれるのに手間暇はいらないのさ。 侍女 〔立ちあがり、開いた窓に向つて呼ぶ〕 ロクサーヌさま、もうよろしいのでございますか。……皆さまお待ち兼ねでございますよ。 ロクサーヌの聲 〔窓から〕 わたし外套を着るだけなのよ。 侍女 〔ラグノーに、向ひ家の扉口を指しながら〕 あの向うのクロミールさまのお住ひで待つていらつしやるのよ。 あの方は今日草庵に會を開いて、「閨情」と云ふ題で何かお讀みになるのよ。 ラグノー 「閨情」だと。 侍女 〔氣どつた聲で〕 えゝ、さうなのよ。 〔窓に向つて呼ぶ〕 ロクサーヌさま、早くお出でになりませんと、折角の「閨情」の品定めにお間に合ひませんよ。 ロクサーヌの聲 もうすぐよ。 絃樂の音近づく。 シラノの聲 〔舞臺裏で歌ふ〕 ラ、ラ、ラ、ラ。 侍女 〔驚いて〕 流しが來たのか知らん。 シラノ 〔テオルブを抱へた二人の侍童を連れて〕 おい、そこの所は三十二分音符だと云ふのに、馬鹿。 第一の侍童 〔旦那、ではあなたは、十六分音符と三十二分音符のけぢめがわかりますか。〕 シラノ ガッサンヂーの弟子はみんな樂師ではないか。 その侍童 〔彈き、且歌ふ〕 ラ、ラ。 シラノ 〔テオルブをひつたくり、唄の言葉を續けながら〕 おれがやつてみせてやらあ。ラ、ラ、ラ、ラ。 ロクサーヌ 〔露臺の上に現れて〕 おや、あなたなの。 シラノ 〔節を續けて、それに合はせて歌ひながら〕 我は來ぬ、君が百合をば稱へんため、我が胸の誠をば、君が薔薇に寄せんがため。 ロクサーヌ そちらへ參りますわ。 〔露臺を去る〕 侍女 〔侍童を指さして〕 どうして二人の樂師逹を連れてお出でになりましたの。 シラノ ダスーシーと賭をして勝つたのさ、我々は文法上のちよいとした事で論じ合つてゐた。 爭論に花が咲いて。いゝやさうだ、いゝやさうぢやないでやる中に、いきなり相手はこの二人の足長小僧を指さして -- こいつは始終あいつが連れて歩いて、長つ細い爪で絃《いと》を掻き廻してゐる奴なのだが。 「-- おれは一日分の音樂を賭けるぞ」といふんだ -- 所が奴、まんまと負けてね。 そんな事でごらんの通り、お日樣の車が又東に軋りだす頃までこのテオルブ彈きめがおれの尻をつけ廻して、 一々おれのすることを見ても居れば、云ふことを聞いてもゐる、何かにつけてぢやらん~やりながら、 どこまでもくつついて來る。初めの中こそ面白かつたが、今ぢやあ少し持てあましだ。 〔樂師に〕 おい、こら、おれの代りにモンフルリーの所へ行つて、流して來い。パヴァーヌを一曲やつて來い。 〔侍童等奧の方へ行く。 -- 侍女に向ひ〕 おれはいつもの通り、毎晩かうしてロクサーヌに…… 〔行きかけて居る侍童等に〕 ゆつくりとやつて來いよ -- 調子ぱづれに掻き廻して來いよ。 〔また侍女に〕 あの人の戀人が相變らずでゐるか、しくじりでもやらないか、わざ~聞きに來るのだよ。 ロクサーヌ 〔家の中から出て來る〕 どうしてまああの方はそれはお立派で、それは才がおありになりますわ。ですもの -- どんなにわたくし、あの方が好きでせう。 シラノ 〔微笑しながら〕 クリスチヤンはそんなに才がありますか。 ロクサーヌ どうしてあなたさまよりもよつぽどお有りの位です。 シラノ それは何よりですね。 ロクサーヌ ほんにこの世の中に、あの方ほど、ほんの何でもないことをあれほどに意味深く仰しやる方は、 ございますまい。時々はでも、心がうつろになつたやうに、 ミューズがぷつつりだまり込んでしまひますが、ふと又急に仰しやるのが -- それは魂ををののかすやうな、何とも云へぬ美しさ。 シラノ 〔信じられないやうに〕 なあに。 ロクサーヌ あら、そんなことを仰しやるものではありませんわ。でも殿方はどうしてさうなのでせうね。 あいつは顏は綺麗だが、口を利かせたら愚物だなんて。 シラノ でもあの男も戀を語るのは、なか~逹者だとみえますね。 ロクサーヌ 戀を語る。どう致して語るだけではございません。議論もあれば、解剖もあります。 シラノ ペンを持たしたらどうです。 ロクサーヌ なほのことよろしいわ。まあお聞き遊ばせこれを。 〔朗誦する〕 「わが胸の思は君にとられて、 いよ~思ひまさり候へ。」 〔勝ち誇るやうに、シラノに〕 これはいかゞ。 シラノ ふん。 ロクサーヌ ではかういふのは…… 「愛の征矢の苦しきに堪へんに、 楯をこそわれは慾しく候なれ、 君よいつまでもわが心を止めて返したまはずば、 せめて君がやさしき心をめぐみ給へ。」 シラノ おや~、初めは心が多ぎて、こんどは心が足りなすぎる。一體どれだけ心があればいゝと云ふんです。…… ロクサーヌ 〔足ぶみをして〕 あなたはぢれつたい方ね……まあきつとやきもちをやいていらつしやるのよ。 シラノ 〔はつとして〕 え、何ですつて…… ロクサーヌ さうよ。詩人のやきもちなのよ。ではこれはいかゞ。これでも優しい感情ではないでせうか。 「わが心が君の送るはたゞ一つの叫びのみ、 もし口づけが文の翼を借りてとび行くことの候はゞ、 君のやさしき脣にて、 わが文を味ひたまへかし、 げに口づけが文字にて運ばるるものならば、 君の脣にてわが文を讀み味ひたまへかし。」 シラノ 〔我知らず會心の微笑を洩して〕 は、は。そのおしまひの文句は -- ふん……ふん。 〔氣を取り直して -- 輕蔑するやうに〕 どうも隨分甘つたるいなあ。 ロクサーヌ ではこれは…… シラノ 〔夢心地になり〕 ではあなたはあの人の文を空で覺えてゐるのですね。 ロクサーヌ それはのこらず、一句々々を…… シラノ 〔髯を震はせて〕 全くどうもお羨しいことですなあ。 ロクサーヌ 大詩人の作ですわ。 シラノ 〔謙遜に〕 とんでもない、何が大詩人…… ロクサーヌ いゝえ、ほんたうです -- 大詩人ですよ。 シラノ ぢやあまあ -- さうして置きませう。 侍女 〔急ぎ足に戻つて來て〕 ド・ギーシュさまがお出ででございます。 〔シラノを家の方に押しやりながら〕 お入り遊ばせ。あの方に見附からない方がよろしいでせう、嗅ぎつけられるといけませんから…… ロクサーヌ 〔シラノに〕 ほんにわたしの大事な祕密をね。あの方はわたしにお心が有る上に威勢をかさに翳す人ですから。 あの方に知られては何もかも駄目になりませう。わたしの戀の生木も引き裂かれてしまひませう。 シラノ 〔家の中に入りながら〕 よろしい、よろしい。 ド・ギーシュ現れる。 第二景 ロクサーヌ、ド・ギーシュ、侍女、少し離れて立つ。 ロクサーヌ 〔ド・ギーシュに敬禮して〕 わたくし、出かける所でございますのよ。 ド・ギーシュ わたしはお別れに來たのだ。 ロクサーヌ え、どこにお出かけでございます。 ド・ギーシュ 戰に。 ロクサーヌ まあ。 ド・ギーシュ しかも今夜。 ロクサーヌ あら。 ド・ギーシュ わたしは命令を受けました、我が軍はアラスで圍まれてゐるのです。 ロクサーヌ まあ -- 圍まれて…… ド・ギーシュ さうです。……だがわたしの出征などは何ともお思ひになりますまい。 ロクサーヌ 〔おとなしやかに〕 それはあんまり…… ド・ギーシュ わたしは胸が迫るやうだ。再びお目にかゝれるか……それもいつだかわからない。 わたしが聯隊司令官に任命されたことはお聞きだらうね…… ロクサーヌ 〔無頓著に〕 おめでたう。 ド・ギーシュ 近衞聯隊のね。 ロクサーヌ 〔はつとしてえ、近衞の……〕 ド・ギーシュ さうだ、あのお前さんのお從兄さん、あの大法螺の名人殿のゐられる隊です。 アラスへ行つたら、どうか仇がとれるといふものだ。 ロクサーヌ 〔息を詰めて〕 何を仰しやいます、あの近衞がアラスへ參りますか。 ド・ギーシュ 〔笑ひながら〕 どうしてさ、わたしの聯隊だからね。 ロクサーヌ 〔倒れかゝるやうに腰掛にかけて -- 傍白〕 あゝ、クリスチヤン。 ド・ギーシュ あなたがどうした。 ロクサーヌ 〔深く感動して〕 まあゝ -- わたしはがつかり致しました。お慕ひ申す方が -- 御出陣とは。 ド・ギーシュ 〔驚きもし、うれしくも思つて〕 そんな優しい言葉をあなたから聞かうとは、これが初めだ、しかも別れて行かうといふ間際に。 ロクサーヌ 〔亂れた心をとり直して扇子を使ひながら〕 それでは -- あなたはあの從兄にお恨みをお晴らしになるのでせうか…… ド・ギーシュ 〔せゝら笑つて〕 あなたはあの男の味方なのでせう。 ロクサーヌ いゝえ -- あの人とは敵同志ですわ。 ド・ギーシュ ちよい~逢ひますか。 ロクサーヌ ほんのたまさかでございます。 ド・ギーシュ あの男はどこへでも、この頃は青年隊を一人、きつと連れてゐますなあ…… 〔名をいはうとして〕 何でもヌー……ヴィラン……ヴィレ……何とか。…… ロクサーヌ 脊の高い…… ド・ギーシュ 髮の美しい…… ロクサーヌ えゝ、赤つ毛の男でせう。 ド・ギーシュ 好男子のな…… ロクサーヌ あらいやだ。 ド・ギーシュ だが馬鹿ですよ。 ロクサーヌ でもそんな風ですね。 〔調子を變へて〕 それであなたはあのシラノに、爲返しをどうしてもなさるお積りですか……。 きつとあの人を彈丸の雨の中にお突き出しになるのでせう……。 でもそれはいかにもまづい爲返しのやうに存じますわ。あの人は却つてそんなめに逢ふのが好きでせう。 わたくしならあの男の高慢な鼻柱をもつと手ひどく、くぢいてやる手段を存じて居りますわ。 ド・ギーシュ それは何です。 ロクサーヌ あなたの聯隊がアラスに向けて出征をしたあとで、あの男と、あの仲間の青年隊だけを、 腕組みした儘戰爭の間パリーに置き去りになすつたらどうでせう…… それがあのやうな男を狂ひ死にさせるこの上ない手段でございますわ。 あの男から死者狂ひの働きを封じてごらん遊ばせ、それが何よりも辛い刑罰ですわ。 ド・ギーシュ 〔傍に寄り〕 なるほど女だ……女でなければ、そんなこまかい計略はおもひつくまい。 ロクサーヌ ごらん遊ばせ。さうなるとあの男は心を腐らせる。仲間は戰《とき》に外されて、 拳のやりばに困るでせう、それが何よりの復讐でございます。 ド・ギーシュ 〔近寄つて〕 ではあなたはわたしを愛してくれるのですか、少しは。 〔彼女はほゝ笑む〕 ロクサーヌ、あなたがわたしの味方になつてくれるのは -- 愛情のしるしと思ひたいのだ。 ロクサーヌ それはさうでございますとも。 ド・ギーシュ 〔封をした書面を幾つか見せて〕 これが動員の命令だ。これは今にも各中隊に渡す筈だが…… 〔その中の一通を拔き出して〕 これは別にして置かう。青年隊の分だ。 〔かくしに入れる〕 これはわたしがしまつて置く。 〔笑ひながら〕 は、は、は。シラノめ、喧嘩氣違ひめが……これでみるとあなたはちよい~、 いたづらをするのだね……一體あなた方の仲間では…… ロクサーヌ えゝ、時々はね。 ド・ギーシュ 〔ぴつたり傍に寄つて來て〕 おゝ、わたしはどんなにあなたを愛してゐるでせう。氣が違ひさうだ。聞いて下さい。 今夜にも -- わたしはまつたく出發しなければならぬ -- だがそれもあなたの心がわかつたその間際に、 どうして別れて行けようか -- 聞いて下さい、すぐ近所のオルレアン町に、 神父アタナーズといふフランシスク派の坊さんが建てた寺がある。 それは無論、俗人禁制の寺ですが、その邊は坊さん逹と話をつけてみる -- あの人逹の法衣《ころも》の袖に、大丈夫かくしてくれるでせう。大きな法衣の袖にねえ。 何しろ彼奴等はリシュリューの私有の寺に勤めて居るのだからね、小父がこはけりや甥もこはい。 -- 世間には出發したと思はせて置いて、わたしは假面をつけて歸つて來る。だから明日までどうぞ待つて下さい。 ねえ、優しいロクサーヌ。 ロクサーヌ 〔強く〕 でもそれが世間に知れたなら、あなたの御名譽は…… ド・ギーシュ 何です。 ロクサーヌ でも敵の圍みは -- アラスは…… ド・ギーシュ それはどうにかなるでせう。許すだけ許して下さい。 ロクサーヌ いけません。 ド・ギーシュ ねえ、許して下さい。 ロクサーヌ 〔優しく〕 それをお止め申すのは、わたくしのつとめですわ。 ド・ギーシュ あゝ。 ロクサーヌ お立ち遊ばせ。 〔傍白〕 クリスチヤンはのこつてゐますやうに。 〔聲を大きく〕 わたくしはあなたのお勇ましい武者振りを拜見致したうございますわ。アントワーヌさま。 ド・ギーシュ おゝ、うれしい言葉です。ではあなたは愛してくれるの、そのアントワーヌを…… ロクサーヌ ……そのお方のために、このわたしの心は震へて居りますわ。 ド・ギーシュ 〔心もそゞろに〕 あゝ、では立ちませう。 〔女の手に接吻する〕 あなたはよろこんでくれるでせうね。 ロクサーヌ えゝ~、ほんに。 ド・ギーシュ出て行く。 侍女 〔その後から馬鹿にしたやうな敬禮をしえ〕 えゝ~、ほんに。 ロクサーヌ 〔侍女に〕 今、わたしがしたことを云つておくれでない。あの人の戰に出る邪魔をしたと聞いたら、 シラノさんは承知しまいからね。 〔家の中に聲をかける〕 おにいさま。 第三景 ロクサーヌ、侍女、シラノ。 ロクサーヌ さあ、クロミールさまの所へ參りませう。 〔向うの扉口を指さす〕 アルカンドルさんと、リジモンさんがお話をする筈よ。 侍女 〔彼女の耳に小指をあてゝ〕 えゝ、でもわたくしの小指の占ひでは、もうそれには間に合ひますまい。 シラノ お猿さんの話にはづれてはお氣の毒だなあ。 皆々クロミール家の扉口に行く。 侍女 〔上機嫌に〕 あらまあ、このノッカーは卷いてございますよ。 〔ノッカーに話しかける〕 これはお前さんの金具の舌がやかましい聲を立てて、折角のお話の邪魔をしないやうに猿ぐつわをはめられたのだよ、 可哀さうに。 〔恐しく靜かにノッカーをとつてそつと叩く〕 ロクサーヌ 〔扉があいたのをみて〕 入りませう…… 〔閾際でシラノに〕 クリスチヤンがお出でになりましたら、それはきつとお出になるのですからね、 待つてゐて下さるやうに仰しやつてね。 シラノ 〔彼女が入りさうにするので慌てゝ〕 やあ。 〔彼女は振り向く〕 今夜もいつもの通り、あの男に何か尋ねる積りでせう。 ロクサーヌ あら…… シラノ 〔熱心に〕 何ですそれは、仰しやいよ。 ロクサーヌ ではあなたは、默つてゐらつしやるのよ。 シラノ 壁のやうに、だまつてゐますよ。 ロクサーヌ 何も大したことではありませんわ。……唯、か云ふのよ。あなたの空想の手綱をお放し遊ばせ、 よそ行きの言葉でなしに、御自由にお考へをお話し下さいまし、戀のお話をね、 面白くお話下さいねつてね。 シラノ 〔微笑しながら〕 それは面白い。 ロクサーヌ でも内證よ…… シラノ 内證…… ロクサーヌ 一言もね。 〔彼女は入つて扉をしめる〕 シラノ 〔扉がしまつたので、お辭儀をして〕 まづこれで難有い。 扉が又あく。ロクサーヌ首を出す。 ロクサーヌ あの方が御用心をなさるといけませんからね…… シラノ 大丈夫 -- 決して、決して。 侍女 〔一緒に〕 内證々々…… 扉がしまる。 シラノ 〔呼ぶ〕 クリスチヤン。 第四景 シラノ、クリスチヤン。 シラノ 何でもおれが心得て居てやるよ。さあ、これからおさらひだ。 愈々貴樣が光榮を頭からひつ被る時が來たのだ。さあこの時を外してはならない。 これ、さうむくれるなよ。一緒に貴樣の所へ行かう。教へてやるから…… クリスチヤン 厭だ。 シラノ なぜさ。 クリスチヤン うんにや、僕はロクサーヌを待つてゐよう、ここで。 シラノ これ血迷ふな、早く行つて覺えるのだよ…… クリスチヤン 厭だ~、厭だといつたら。僕はもう借り物の艷書や口説には飽き~した。 情ない役を勤めて、しよつちゆう慄へてばかりゐるのは厭だ……そりやあ初めはまあよかつた -- だがもう今ではあの人の惚れてゐることがわかつたのだ。 何もう大丈夫 -- 僕は一人でもやつてみせる。 シラノ とてもだめだよ。 クリスチヤン なあにどうして僕に出來ないことがあるか -- 僕だつてそれほど馬鹿でもないんだ。 君の稽古もお蔭にはなつたが、まあ見て呉れ給へ、一人でやつてみせるから。 何くそ、どんなにしてもあの人を抱き込んでみせるから…… 〔ロクサーヌがクロミールの家から出てくるのをみて -- やあ、あの人だ。〕 いけない、シラノ。僕を置いて行つては困る。 シラノ 〔お辭儀をして〕 よろしく一人でお話なさいまし、さやうなら。 〔園の塀の後にかくれる〕 第五景 クリスチヤン、ロクサーヌ、五六人伊逹の男女逹、侍女。 ロクサーヌ 〔クロミールの家から仲間の一團と出て別れの挨拶〕 さやうなら、バルテノイードさん -- アルカンドルさん -- グレミオーヌさん…… 侍女 〔ひどくがつかりして〕 とう~「閨情」の講釋を聞きそこなひましたねえ。 〔ロクサーヌの家に入る。〕 ロクサーヌ 〔まだ挨拶をしてゐる〕 ウリメドントさん……さやうなら…… 〔皆々ロクサーヌに挨拶をして、又お互ひに挨拶をして、別れ~に違つた通りに遠ざかつて行く。ロクサーヌはふとクリスチヤンをみる〕 まあ、あなたでしたの。 〔男の方へ行く〕 暮れかけて來ましたのね。お掛け遊ばせ。いい風ですこと。もう人影も絶えます。 さあお話なさましな。伺ひますわ。 クリスチヤン 〔彼女と並んで腰掛にかける。沈默〕 おゝ、わたしはあなたを戀してをります。 ロクサーヌ 〔目をふさいで〕 えゝ、では戀のお話を遊ばせな。 クリスチヤン わたしはあなたを戀してゐます。 ロクサーヌ それは題でございますわ。でもそれに色々と文句の色がつかないでは。 クリスチヤン わたしはあなたを…… ロクサーヌ 〔調子を變へて〕 文句のあやをね。 クリスチヤン わたしは隨分あなたを戀してゐるのです。 ロクサーヌ あら、それは分かつてゐますわ -- それで。 クリスチヤン それで……わたしはほんたうに -- それはどんなにうれしいでせう、 あなたがわたしを愛して下さるなら -- ロクサーヌさん、愛してゐると云つて下さい。 ロクサーヌ 〔少し顏をしかめて〕 わたしはクレームのお菓子を頂きたいと思ふのに、あなたは唯のパンを下さいますのね。 それはどういふ風に愛していらつしやるのか伺ひたいのよ…… クリスチヤン おゝ、……非常にです。 ロクサーヌ あれまあ……そのむすぼれた思ひを美しくおほぐし遊ばせよ。 クリスチヤン 〔傍にくつ附いて、ブロンドの後れ毛のかゝる女の襟足を見つめる〕 おゝ、その襟元へ接吻してあげたい…… ロクサーヌ まあ、クリスチヤン。 クリスチヤン わたしはあなたを愛します。 ロクサーヌ 〔立ちかけて〕 又それ許り。 クリスチヤン 〔夢中になつて引止めて〕 いゝや、愛してはゐないのです。 ロクサーヌ 〔又腰を下して〕 それは結構ですことね。 クリスチヤン どうして僕は崇拜してゐるのです。 ロクサーヌ 〔立ち上がつて向うへ行きかけて〕 まあ。 クリスチヤン いや實際……わたしは馬鹿です。 ロクサーヌ 〔味も香もなく〕 それはわたし大嫌ひ。それは醜くなつたよりも、わたし嫌ひでございますわ。 クリスチヤン でも…… ロクサーヌ 逃げて行つた氣の毒な舌を探していらつしやい。 クリスチヤン わたしはあなたを…… ロクサーヌ えゝ~、愛して下さるのでせう。それは分かつて居りますわ。さやうなら。 〔家の方へ行きかける〕 クリスチヤン おゝ、まだ行つてはいけません。わたしは云ふことがあります -- ロクサーヌ 〔扉をあけかけて〕 わたしを崇拜して下さるつてね……それももうたんと伺ひましたわ。 いやです、いやです。 -- どうぞお歸り下さいまし。 クリスチヤン でもわたしはまだ…… 彼女は男の鼻先で扉をぴつしやりたてゝしまふ。 シラノ 〔この少し前、そつと出て〕 いよう、大成功。 第六景 クリスチヤン、シラノ、二人の侍童。 クリスチヤン 頼む、加勢して。 シラノ 厭でござい。 クリスチヤン でも、こゝですぐあの人の好意をとり返さなければ僕は死んでしまふ。 シラノ だつて馬鹿々々しい、すぐと稽古が出來るものかい…… クリスチヤン 〔シラノの腕を捉へて〕 やあ、君、あそこを見たまへ。 露臺の窓に明りがつく。 シラノ 〔胸を轟かせ〕 あの人の窓だ。 クリスチヤン 〔呼ぶ〕 おゝ、僕は死んぢまふ。 シラノ 靜かにしろ。 クリスチヤン 〔囁き聲で〕 死んぢまふ。 シラノ 今夜は暗い…… クリスチヤン うん。それで。 シラノ だからどうにかなりさうだ。貴樣にやだめだ……まああそこに立つてろ、 朴念仁め、露臺の前だぞ。おれが蔭について居て、白《せりふ》をつけてやる…… クリスチヤン でも…… シラノ だまつてゐろ。 二人の侍童 〔奧に又現れて、シラノに〕 もし。 シラノ しツ。 〔二人にさゝやくやうに合圖をする〕 第一の侍童 〔小聲で〕 お言附けのセレナードを、モンフルリーの所で、やらかして來ました…… シラノ 〔低い聲で早口に〕 それ、あそこの蔭にかくれろ。一人は露地の向う角に、 一人はこち角に張番して、誰でも入つて來る奴があつたら一曲彈くのだ。 第三の侍童 どんな曲に致しませう。ガッサンデーの大先生。 シラノ 女が來たら陽氣にやれ。男が來たら陰氣にやれ。 〔侍童等、一人づつ露地の兩角に隱れる。クリスチヤンに〕 呼んでみろ。 クリスチヤン ロクサーヌさん。 シラノ 〔窓に投げつける砂利を拾ふ〕 それ砂利のお見舞だ。待つてゐろ。 第七景 ロクサーヌ、クリスチヤン、シラノ、暫く露臺の窓の下にかくれてゐる。 ロクサーヌ 〔窓を半分あけて〕 どなた、お呼びになつたのは。 クリスチヤン わたしです。 ロクサーヌ わたしつて、どなた。 クリスチヤン クリスチヤン。 ロクサーヌ 〔さげすむやうに〕 まあ、あなたなの。 クリスチヤン お話があるのですよ。 シラノ 〔露臺の下でクリスチヤンに〕 うまいぞ。もつと低い聲でやれ。 ロクサーヌ いや。あなたはつまらないお話をなさるから。 クリスチヤン おゝ、そんなことをいはないで。 ロクサーヌ 厭ですわ。あなたはもうわたしを愛してはいらつしやらない。 クリスチヤン 〔シラノに白をつけて貰つて〕 とんだことを -- 何の、わたしがもうお慕ひ申さぬなどと -- わたしの思ひは愈々募るばかりですのに…… ロクサーヌ 〔窓をしめ切らうとして、やめて〕 おや少しお上手になつて來てね。 クリスチヤン 〔同じ所作〕 おののく心の中で搖れながら、戀は愈々育ちます……その哀れな心を譬ふれば、 いはけない稚兒が、假に入つた搖籃です。 ロクサーヌ 〔露臺に出て來て〕 なか~お上手になつてね。 -- でもその愛の稚兒が、まこといはけないものならば、 なぜ搖籃に搖れた儘で、息の根を止めておしまひなされませぬ クリスチヤン 〔同じ所作〕 おゝ、わたしはそれを試してみましたが、しかし畢竟無駄に了りました。 なぜといふにこの……生れ出た稚兒こそは、幼い勇士……エルキュールでしたから。 ロクサーヌ 段々お上手ね。 クリスチヤン 〔同じ所作〕 それ故にその幼い勇士は、わたしの心の中に巣ふ慢心と……疑惑と……二頭の蛇を締めあげたのです。 ロクサーヌ 〔露臺に寄りかゝつて〕 あら、うまいわね -- でもどうしてそんなに慄へ~物を仰しやるの。 あなたの空想に痛み所ができたのでございますか。 シラノ 〔クリスチヤンを露臺の下に引き入れ、その代りに這出して〕 どけ、こりや、なか~むづかしいわい。 ロクサーヌ 今日は……あなたのお言葉がよどみ勝でございますヒ。 シラノ 〔クリスチヤンに似せて -- 小聲で〕 夜のとばりが落ちました……その闇の中を盲さぐりに、言葉があなたのお耳を求めてゐるのです。 ロクサーヌ でもわたくしの言葉はそのやうな妨げには會ひませぬ。 シラノ あなたのお言葉は道に迷はぬといふのですか。それに不思議はありません、 そのお言葉を迎へる宿りはわたしの心ですもの。わたしの心のどんなに廣く、 あなたのお耳のどんなに小さいことでせう。それに -- 高みから天くだる言葉は落ち方も早いのに、 わたしの言葉はよぢ~上へのぼつて行くのです。暇のかゝる筈ですよ。 ロクサーヌ でも唯今のあなたの言葉は大そう早くのぼつて來ました。 シラノ 空を攀ぢる輕業も慣れゝばむづかしくはありません。 ロクサーヌ ほんにわたくしは高みからお話をして居りますのね。 シラノ いかにも見上げる高みから、つれない言葉が落ちて來たなら、命も危いことでせう。 ロクサーヌ 〔動きかけて〕 降りませう。 シラノ 〔慌てゝ〕 いや~。 ロクサーヌ 〔露臺の下の腰掛をさして〕 ではその腰掛をのぼつてお出で遊ばせ。早く。 シラノ 〔びつくりしてくら闇に飛び退つて〕 いけません。 ロクサーヌ はて、なぜ、いけないのでございます。 シラノ 〔愈々興奮して〕 暫くこの儘にしてゐませう。……これが樂しいのですよ……お互ひの心をば靜かに顏を見合せず話し合ふのには、 今が又とない折ですから。 ロクサーヌ なぜ -- 顏を見合せずに。 シラノ 全くそれが樂しいのです。半分かくれて半分見えて、あなたはわたしの後に引いたマントの黒いひだを見て下さい。 わたしはあなたの夏着の白い色を眺めませう。わたしは黒い影ですが、あなたは美しい光です。 この瞬間がわたしにどんなに樂しいか、おわかりにはならないでせう。よしこれまでにわたしの舌が、 いかほど流れるやうであつても…… ロクサーヌ ほんにそれは流れるやうな…… シラノ けれど今夜といふ今夜までは、わたしの言葉はすぐと心の泉から湧き出たものではなかつたのです。 ロクサーヌ それはなぜでございます。 シラノ なぜといつて……今までのはわたしの言葉は上の空…… ロクサーヌ 何でございますつて。 シラノ あなたの前にゐても、我か人か夢うつゝに、または慄へるやうに思はれたのでした -- けれども今夜といふ今夜こそは、……初めてしんみりあなたとお話をするやうに思はれます。 ロクサーヌ さう仰しやればお聲までも、いつもと違つた調子ですこと。 シラノ 〔夢中になつて傍近く寄り〕 さうです、變つた調子です。懷しい夜のかくれがに、わたしは初めて誰憚らず自分の心を押し出すのです。 〔ふと云ひよどむ。言葉が亂れる〕 何を云つてゐたつけ、わからなくなつた。 -- おゝ、許して下さい、わたしの胸は湧き立つやうです。 -- 何といふ樂しさ、何といふ物珍しさ…… ロクサーヌ え、物珍しい。…… シラノ 〔調子を狂はせ、切れた言葉の絲をさぐらうと試みながら〕 えゝ。やつと眞劍になれるのが物珍しいのです。これまでは人に笑はれるのを恐れて胸を痛めてばかり居りました。 ロクサーヌ 笑はれるとは、何のために。 シラノ 何、その、みだれた物思ひのために……さうです、わたしの心は、嘲るやうに眺められる目からかくれて、 才智の言葉を著るのです -- それでも時々は、み空の星の花に思ひをかけては見るものゝ、 つひ物笑ひを恐れては、やはり野の花に戲れてせめて心を慰めます。 ロクサーヌ 野の花にも匂ひはありますわ。 シラノ えゝ、でも今夜は星の花をば…… ロクサーヌ まあ、これまではつひぞそんなお言葉はおつかひになりませんでした。 シラノ あゝ、箙も、炬火も戀の征矢も、投げ捨てゝ、すぐと遙か爽かな -- 現實を少しでも追ふことが出來たなら。 小人の金の盃に一滴づつまづい世間の水を啜るよりは、戀の大河の溢るゝ水を一息に傾けたら、 心の底の渇きをも一度に止めることが出來ませう。 ロクサーヌ でもうるはしい才智も惜しいものですわ…… シラノ わたしの初めことそれを用ひてあなたの心をとらへようとしましたが、今は却つてこのかぐはしい夜に對して -- このしみ~゛となつかしい自然に對して、侮辱であると思ふやうになりました。 空しい戀の文を飾る美しい言葉が何でせう。唯々み空の星を眺めませう。 靜かな空はわたし逹の胸をあらゆる人爲のわづらひから引離して呉れるでせう。 わたしたちが使ひ馴れた雅びの術《わざ》は却つて天眞の感情を損ひはしないでせうか。 空しい遊戲の靈の泉は涸れて、美の美な言葉は美の窮極ではないのです。 ロクサーヌ でもその才智は…… シラノ その才智こそまことの戀の罪人です -- 憎むべきものです。つひ無邪氣にうちあけてすむことを、 いらぬ人爲の垣を結ぶのです。いづれその戀の至極の瞬間は來るに極つたものを -- おゝ、その瞬間を知らぬ輩こそ氣の毒です -- お互ひの心に尊い戀を感じながら、 一言一句持つてまはつた言葉のあやに耽るといふことは、卑いことです、情ないことです。 ロクサーヌ ではもしその瞬間が、わたしたちの仲に來たとしましたら、どんなお言葉をあなたはおつかひなさるでせう。 シラノ どんあ、どんな、どんなそれは言葉でも、胸に浮んだ言葉といふ言葉を、それも花環に綴り合せるひまはない、 束のまゝあなたにうちあけます。わたしはあなたを戀してゐる。わたしは氣がちがひます。 わたしは戀して、息もつまるやうです。流れる戀に胸が張りさけるかと思はれます。 あなたの名はわたしの胸に鈴の音のやうにのこつてゐる、あなたのことを思つてわたしの胸のふるへるとき、 鈴はゆれてあなたの名をりん~と高く響かせます。あなたのことといへば何もかも好きなのだから、 何もかも想ひ出すことばかりです。それは去年の或日、五月の十二日でした、 外出《そとで》の支度をするといつて、あなたは髮を直してゐましたねえ、 わたしはあなたの髮をば日の光を仰ぐやうにいつも仰いでゐるのでした。 それで日輪の圓光をぢつと見つめてゐた目には、いつまでも何かその紅いしみがつきまとつて離れないやうに、 あなたの輝くやうな光から離れた時、わたしの眩い目には何を見ても、 ブロンドのしみがしみついて見えたのです。 ロクサーヌ 〔激動して〕 まあ、それこそまことの戀ですわ。 シラノ あゝその通りです、わたしの心にあふれる恐ろしい執念こそまことの戀の心です。 その虚妄に走せた心こそ傷ましい、しかもふしぎにそれは我執でない、 あなたの喜びのためにわたしの喜びなどはいつでも捧げてしまひます。 -- それはあなたに知れないことでも、 -- 決して知れずにしまつても、 -- たゞたまさかに、 -- 寂しい遠音にでも、 わたしの捧げた喜びの樂しい反響を聞くことができたら、わたしは滿足です。 あなたから一目見られる度ごとに、わたしの心には向上の志が -- 新らしい、何ともしれぬ勇猛精進の志が湧き立ちます。あなた、これで少しは分りましたか。 夜の闇をよぢて行くわたしの靈魂を心に感じてゐるでせう。 あまりに美しい夜ですね。あまりに美しい、あまりに優しい瞬間ですね。 わたしがかうしてお話をする、そこであなたがそれを聽いて下さるのですものね。 あまりといへば美しすぎる。この瞬間にわたしは、わたしは、この上なく高い望をおこしました、 こんなに大きな望みをおこしたのは初めてです。この上はもう死ぬ外に何も無い。 わたしの言葉にあなたをふるへさせる力があつたでせうか。ふるへてゐますとも。 わたしには感じられるのですもの -- あなたの心にそれを思つても、 思はないでも、あなたのお手のやさしい震への、素馨の枝を傳はつてくるのが感じられるのですもの。 〔夢中になつて、埀れ下がつた卷鬚の一本に接吻する〕 ロクサーヌ えゝ、わたしはふるへて居りますわ。泣いて居りますわ。 -- わたしはあなたの物ですわ。 あなたはすつかりわたしの心を醉はせておしまひになりました。 シラノ もう死んでもいゝ。そのあなたを醉はせたのは、わたし自身の力でした。 唯一つこの上のお願ひは -- クリスチヤン 〔露臺の下から〕 接吻です。 ロクサーヌ 〔後ぢさりして〕 え、何を。 シラノ あゝ。 ロクサーヌ あなたはそんなら…… シラノ なに……わたしは…… 〔クリスチヤンに小聲で〕 馬鹿、早すぎるぞ。 クリスチヤン あの人はあれまでのぼせて來てゐるのだ -- そこへうまくつけ込むのだ。 シラノ 〔ロクサーヌに〕 わたしは思はず向う見ずに云ひました。とはいへ思へば大膽すぎた言葉でした。 ロクサーヌ 〔少し熱がさめて〕 どうしてその上をもう一息お進みにはなりません。 シラノ えゝ、もう一息進んだら……そこを進ませずに……つゝましいあなたのお心を痛めはしないだらうかと。 あゝ、さうでないなら -- その接吻はぜひわたしが -- いや、それは辭退いたしませう。 クリスチヤン 〔シラノのマントの裾を引きながら〕 なぜだ。 シラノ だまつてゐろ、クリスチヤン。 ロクサーヌ 〔上からのり出して〕 何をこそ~云つていらつしやるの。 シラノ あまり大膽なわたしの心を、自分で叱つたのです。「だまれ、クリスチヤン。」といつて。 テオルブの音樂が聞えはじめる。 いや、暫く待つて下さい……誰か來ました。 〔ロクサーヌは窓をしめる。シラノはテオルブに耳を傾ける、その一つは陽氣な調子、他の一つは陰氣な調子を奏でる〕 何だ、陰氣な節と -- 陽氣な節と、それから陰氣な……どうしたのだ、男か女か -- はゝああ坊主かい。 カプセン派(尖帽宗)の僧が一人、提燈を持つて出て來る。家から家へ、一軒一軒見て歩く。 第八景 シラノ、クリスチヤン、カプセン派の僧。 シラノ 〔僧に〕 あなたは何をしてゐる。ヂオゼヌの物まねか。 僧 わしはさる婦人の家を尋ねてゐますぢや…… クリスチヤン あゝ、戀の邪魔者めが。 僧 マドレーヌ・ローベンと云ふ方で…… クリスチヤン 何だと…… シラノ 〔奧の通を指さして〕 この道をまつ直ぐに……どこまでもね。 僧 どうも有難う。そのお志にはこの珠數の最後の珠の數までお祈り申しませう。 〔出て行く〕 シラノ まあせつかく無事でお探しなさい。 〔又クリスチヤンの所へ戻つて來る〕 第九景 シラノ、クリスチヤン。 クリスチヤン おい、キスをするやうにしてくれよ…… シラノ 厭だよ。 クリスチヤン どうせおそかれ早かれだ。 シラノ それはさうだ。何れお前の口とあの人の口がお互ひに出合つて魂のでんぐり返るうれしい時が來るだらう。 うれしいな、貴樣の髯はブロンドだし -- 向うの脣は薔薇色だ。 〔獨語〕 まあどうかさうしてやりたいものよ…… 又扉のあく音がする。クリスチヤン露臺の下にかくれる。 第十景 シラノ、クリスチヤン、ロクサーヌ。 ロクサーヌ 〔露臺の前に出て〕 まだそこに。わたしたちお話しましたね、あの…… シラノ えゝ、接吻のね。その言葉はやさしい言葉ですね。その言葉をあなたの脣が避けるのはどうしてでせう。 その言葉だけで脣を燒くのなら -- ほんの接吻にあつたらどうなるでせう。 まあ、びつくりなさることはないのです。つひ今しがたあなたは知らずしらず遊戲の戀を捨てて、 微笑からため息に -- ため息から涙に、つひいつの間にか移つて行つたではありませんか。 おだやかに、それとなく、その上にもう一段進んで頂きたい。 -- 涙から接吻に -- そこには瞬間のをのゝきがあるだけです -- 胸のときめきがあるだけです。 ロクサーヌ もうお止め遊ばせ。 接吻とはつまり -- 何でせう。誓約のしるしです。 -- 約束のかためです。 破らじと戒める心のめどです。愛著といふ文字を上に打つ赤い一點です。 耳に囁かず口に囁く祕めごとでもあり -- 瞬間を無窮に爲る蜜蜂の羽音でもあります。 -- 春の野の花と香ふ聖餐です。 -- 靈魂の泉が泡を立てゝ脣に溢れて上るとき、 張り裂く胸を和げる戀の手段です。 ロクサーヌ あゝもう何も…… シラノ いゝやあなた、接吻は無上の高貴です。わがフランスの女王も、貴族の中の最も幸多き人に、 一度の尊い接吻をお許しになる例もあるのです -- 女王すらも。 ロクサーヌ と仰しやるのは。 シラノ 〔愈々熱をもつて〕 バッキンガムの大公も人知れず女王のために心を焦しました -- ちやうどそのやうに、 わたしも慕ふ女王をばいつまでも悲しみながら慕ふのです。 ロクサーヌ でもあなたはバッキンガムさまのやうにお美しうはございませぬか。 シラノ 〔急に熱がさめて傍白〕 全くだ、おれは美しい、それを忘れてゐた。 ロクサーヌ ではわたしはその比ひない花を摘みにこゝまでおあがり遊ばせ、 とあなたの申上げねばなりますまい。 シラノ 〔クリスチヤンを露臺の方に押しやつて〕 さあのぼれ。 ロクサーヌ さあ、この胸のときめきを…… シラノ 上がれといふに。 ロクサーヌ その蜜蜂の羽音を。…… シラノ あがれといふに。 クリスチヤン 〔愚圖々々して〕 でも斯うなると、何だかきまりが惡いなあ。 ロクサーヌ いはゞ無窮の瞬間を。…… シラノ 〔まだクリスチヤンを押してゐる〕 さああがらぬか、馬鹿野郎。 クリスチヤン飛びあがる。腰掛から素馨の繁みから柱を傳つて露臺にのぼり、欄干を跨ぐ。 クリスチヤン あゝ、ロクサーヌ。 〔女を引き寄せて脣に向ふ〕 シラノ ちよつ、妙に胸がきり~する。戀の宴《うたげ》の接吻の始まりにて候ふか。 さしづめラザルのおれは闇の門に置き去りかい。だがさういふおれも御馳走のお裾分けにはあづかつてゐるのだ。 お相伴をしてゐますよ、ロクサーヌさん、わたしの胸もお相伴をしてゐますよ。 なぜといつて、お前さんのその脣は知らずに、わたしの言葉を接吻してゐるのだ。 わたしの言葉を -- 〔テオルブの音が聞える〕 陰氣な節に陽氣な節に、又坊主か。 〔この時初めて遠方から驅け附けて來たやうに驅け出して叫びたてる〕 やれ~。 ロクサーヌ どなた。 シラノ わたしですよ。ほんの通りがかりです。……クリスチヤンはまだゐますか。 クリスチヤン 〔びつくりして〕 おや、シラノ。 ロクサーヌ 今晩は、にいさま。 シラノ やあ、今晩は。 ロクサーヌ わたくしそこへ參りませう。 〔家の中にかくれる。奧から僧又出て來る。〕 クリスチヤン 〔僧を見て〕 又來やがつた。 〔ロクサーヌについて行く〕 第十一景 シラノ、クリスチヤン、ロクサーヌ、僧、ラグノー。 僧 こゝぢや -- たしかにこゝが -- マドグレーヌ・ローベンの家だぞ。 シラノ おや、あなたは、ローレンといひましたぜ。 僧 いゝや~、ベンぢや、B,I,N -- ベンぢや。 ロクサーヌ 〔入口に現れる。あとから提燈をもつたラグノーと、クリスチヤンがついて來る〕 何でございます。 僧 お手紙ぢやて。 クリスチヤン 何に。 僧 〔ロクサーヌに〕 どうして神聖な御用向ぢや。さる貴いお方から…… ロクサーヌ 〔クリスチヤンに〕 ド・ギーシュよ。 クリスチヤン あいつどこまでもやる氣だな……。 ロクサーヌ まあ、さういつまでも困らせられはしませんわ。 〔手紙を開きながら〕 わたしはあなたの外にはね -- ですから…… 〔低い聲で、ラグノーの提燈を借りて讀む〕 「孃よ 戰の鼓は鳴りわたし候。わが聯隊は甲《よろひ》の胸をしめて發足いたし候。 されど小生は -- 今や既に發足せるものと信じられ居り候へども -- 實はなほ後に殘り居り候。 小生は君の言葉にあへて背きて、只今この僧院の中にかくれ居候。今夜これより御許に赴くべく候。 ついてこの一文不通なる愚昧の僧を以てこの旨お知らせ申上げ候。 先刻君が脣の微笑のいかにやさしく小生の心を動かし候ふぞや。 いかにしても再び相見ずては止まじとの決心動かしがたく候。 小生はたゞ二人にて見えんと慾す、お人ばらひの上、小生を一人迎へ入れたまはんことを。 -- 大膽千萬なる申出を、切なる心にめでて、御ゆるしあらまほしく、 これこそ小生が命に代へて……しか~゛……。」 〔僧に向ひ〕 神父さま、手紙にはかう掻いてありますのよ。 -- 〔皆々傍へ寄る。ロクサーヌ高らかに讀む〕 「拜啓 カルヂナルの意志は法にして曲ぐべからず。御身は抂げてこれに服從せざるべからず候。 即ちこゝにいとも尊く賢き聖の御手に托して、この趣をお傳へ申上ぐる次第に候。 この上は猶豫なく今夜にもお宅にて結婚の式を擧げられて然るべく、 〔手紙の頁をまくる〕 我等の希望に御座候。世間に知らせず、クリスチヤンは御身の夫たるべく、 即ち彼をつかはし申し候。御身は深くこの配備を嫌はるゝならんも、また止むをえざる儀と御諦め下さるべく候。 御身が服從の誠は天も見そなはし給ふべく候。ここに謹んで小生が御身に對する滿腹の敬愛を表白し、 幾久しく變らぬ壽を……しか~゛……」 僧 〔大喜び〕 いやはや、えらい殿樣ぢや。何も氣遣ひなことはないと申したのはこれぢや。 神聖な御用向と云ふだけぢや。 ロクサーヌ 〔クリスチヤンに向ひ小聲で〕 わたし手紙を讀むことは上手でせう。 クリスチヤン ふん。 ロクサーヌ 〔大聲に、絶望的に〕 あゝ、……ほんたうに恐ろしうございますわ。 僧 〔シラノの方に提燈の火を向けて〕 あなたですかい。 クリスチヤン わたしですよ。 僧 〔明りを彼の方に向けて、その美男なのをみて疑が起つたやうに〕 でもなあ…… ロクサーヌ 〔口早に〕 おや、わたし追つて書を讀み落してゐましたわ。 「尚々金千二十ピストール僧院へ寄進致し候。」 僧 いやはや、えらい殿樣ですわい。 〔ロクサーヌ〕 何事もお諦めなさるがよい。 ロクサーヌ 〔殉教者のやうな顏つきで〕 かうなりましては、諦めますわ。 〔ラグノーが扉をあけて、クリスチヤンが僧を中に案内してゐる間に、彼女はシラノに囁く〕 ねえ、あなた、こゝでド・ギーシュさんを止めてゐて下さいな。 あの人やつて來るでせうから、中へ入つて來ないやうに…… シラノ よし來た。 〔僧に〕 結婚式はどの位かゝりますね。…… 僧 十五分あればよろしかろ。 シラノ 〔皆々を家の中へ押しやり〕 さあお入り。わたしはこゝにゐるから。 ロクサーヌ 〔クリスチヤンに〕 さあ行きませう。 皆々入る。 第十二景 シラノ一人。 シラノ さあ、そこで十五分の間どうしてド・ギーシュめを食ひ止めてやるかな。 〔腰掛にとびあがあり塀へ傳つて露臺にのぼる〕 よし……あれへのぼつてやらう……うまい工夫があるぞ。 〔テオルブの音が大そう悲しい調子を奏で出す〕 おや、人だな。 〔トレモロの音は愈々沈んで行く〕 おや、こんどこそ男だぞ。 〔露臺んいのぼる。帽子を目の上まで引き下げる。劍を脱し、體をマントにくるんで、上からのぞく〕 何だ、大して高くもないなあ 〔欄干に跨り、園の塀脇の一本の長い枝を引き寄せて、兩手でこれに吊下がり、いつでも落ちられる用意をする〕 靜かな空氣を少しばかり騷がしてやらうか。 第十三景 シラノ、ド・ギーシュ。 シラノ 〔入つて來る。假面をつけて黒闇をさぐり~゛來る〕 あのくそ坊主、一體何をしてゐるのだ。 シラノ 畜生め、あいつおれの聲を……知つてゐるかな。 〔片手を放す。目に見えない鍵を廻すやうな風をする〕 かちり、かちやん。 〔勿體らしく〕 さあ來い、シラノ、音に名高いベルジュラックのお國訛でやつつけて呉れべえ。 ド・ギーシュ 〔家を眺めて〕 こゝかな。さつぱり見えん -- 假面が邪魔になつてならぬ。 〔 家の中に入らうとする、その途端に木の枝を捉へて露臺から飛び下りる。 枝はしなつて彼を扉口とド・ギーシュの間にどさりと落す。 彼は恐しく高い所からでもひどく落ちでもした樣子で、地びたにへたばつた儘氣絶したやうに動かずにゐる。 ド・ギーシュはびつくりしてあとじさりする。 〕 おや、何だ。 〔仰向いてみると、木の枝はもとの通りにはね返つてゐる。見えるのは空ばかり。彼はあつけにとられてゐる〕 この男は一體どこから落ちて來たのだ。 シラノ 〔起きあがり、ガスコーニュの田舍訛で〕 月の世界から落ちたゞよ。 ド・ギーシュ 何、月の……。 シラノ 〔夢を見てゐるやうな聲で〕 何時だらうの。 ド・ギーシュ どうもきつは氣が變らしい。 シラノ 何時かなあ。こゝはどこの國かい。はて何の月の、何日やら。 ド・ギーシュ だが一體……。 シラノ おらは氣が遠くなつたゞよ。 ド・ギーシュ こら。 シラノ 鐵砲玉のやうに、おらあ月から落ちたゞなあ。 ド・ギーシュ 〔いら~しながら〕 これ、もう止せ。 シラノ 〔立ちあがつて、恐しい聲で〕 おらあ月から落ちたんぢやぞ。 ド・ギーシュ 〔讓歩して〕 よし~、わかつた。それならさうにして置かう。……何しろこいつは氣違ひだ。 シラノ 〔彼の方へ歩いて行つて〕 月から落ちたと言ふんぢやい、喩へ話ぢやないんぢやぞ。 ド・ギーシュ でもまあ…… シラノ 百年前ぢやつたか -- つひ一秒前ぢやつたかなあ。 -- 落ちた間がどの位なんぢやか、見當がつかんぢやて。 -- 何でもサフラン色の丸《たま》の中にゐたんぢやよ。 ド・ギーシュ 〔肩を聳して〕 うん、よし~。だからまあおれを通してくれ。 シラノ 〔邪魔をするやうに〕 どこぢやいこゝは。まつすぐにいはんかい。こはいことはないぞよ。 遠慮するなよ。どこだ、どこだ、おらは空から落ちた隕石ぢやい。 ド・ギーシュ 面倒な奴……。 シラノ 何しろ落ちるなあ目にも止まらぬ早さぢやつたよ。どこへ落ちるか、考へるひまもないぢやて。 -- だからどこへ落ちたか知らん。臀の重みにひきずられ、落ちたは月かよ、人間界か。 ド・ギーシュ これよさぬか。 シラノ 〔恐しい金切聲をあげる。ド・ギーシュびつくりして後じさりする〕 やあはゝ、おつたまげた。こりやはあ、この國ぢや、人間がまつ黒けな面をしてやがるぢや。 ド・ギーシュ 〔思はず顏に手をあてゝ〕 何だと。 シラノ 〔わざと大げさな驚きやうをしてアルジェールかいな、こゝは。お前さん、土人ぢやな。〕 ド・ギーシュ 〔自分の假面に氣がついて〕 この假面がか…… シラノ 〔〕 然らばヴニーズか、 -- それともジューヌか。 ド・ギーシュ 〔通り拔けようとする〕 ある婦人が待つてゐるのだ…… シラノ 〔すつかり安心して〕 はゝあわかつた、そりやこそパリーぢやな。 ド・ギーシュ 〔思はず笑ひ出して〕 この氣違ひはをかしな奴だ。 シラノ 御身は笑ひ給ふなよ。 ド・ギーシュ 笑ふさ。だがもう通してくれ。 シラノ 〔うれしさうに顏を輝かして〕 こりや又パリーに歸つたか。 〔すつかり安心して笑つて、塵を掃つて、禮をしながら〕 實は、 -- おはづかしいわけぢやが -- 今しがたの龍卷にまかれてやつて來ましたのさ。 エーテルをひつかぶつてね -- 何しろどえらい道中さ。眼に中にやあまだ星くづが一杯たまつてゐるし、 拍車のとつ先にや、惑星のわた毛がくつついてゐますのさ。 〔袖から何かとりながら〕 ほい、おらの胴にやあ -- へん、彗星の尻尾が下つてゐるぢやい。 〔吹けばとびでもするやうに息を吹つかける〕 ド・ギーシュ 〔我を忘れて憤る〕 こら。 シラノ 〔彼が通らうとすると何かを見せやうとするやうに脛を出して引き止める〕 おらの脛の -- ふくらはぎにやあ -- 大熊星の齒がさゝつてをるぢやよ -- 海王星の傍を通るときにや、あぶなく三股の尖に引つかゝらうとして、おつころんで、 とう~天秤星座にどつさり尻餠をついたのよ。今ごろはあそこの空で、 おらの目方をその天秤にかけてゐるべえ。 〔ド・ギーシュの通つて行くのを劇しく引きとめて、胴服のボタンをつかむ〕 これさ、これさ、おらの鼻を摘んでごらうじろ、甘い乳が噴き出すからのう。 ド・ギーシュ やあ甘い乳だと。 シラノ 天の川の甘い乳がよ。 ド・ギーシュ やい、大馬鹿もの。 シラノ 〔腕を組む〕 こりや我こそ畏くも天降つたものぢやぞ。いや、ほんの話は、 かう落ちて來る道々で、天狼星が夜の頭巾をかぶつたすがたをちらりと見たのさ。 いやまつたくさ。 〔打ちとけた風で〕 外の熊星はまだ小さくて、噛みつくだけの勢ひはなかつたあね。 〔笑ひながら〕 それから天琴星座を突きぬけて綱を一本切りましたよ。 〔誇張した調子〕 おたはこの事件をすつかり本に書かうと思ふんぢや。いづれその節はな、 外套にくるんでおつかなびつくり持つて歸つた金色の星粒は、頁の上の星印にでも使はうよ。 ド・ギーシュ まあ、そこらでおしまひにしてもらつて、おれが頼むが…… シラノ どつこい、知つてる、おめえはずるいよ。 ド・ギーシュ これさ。 シラノ おめえ、おらから何もかも聞きださうつといふんぢやらう。 -- お月さまはどんな風にできてゐるかとか、 ふくれた南瓜形の中に人間が住んでゐるかとか。 ド・ギーシュ 〔怒つて〕 さうぢやない、おれの聞くのは…… シラノ は、は -- おらがどうして昇つたか、知りたいんぢやらう。こりやい、そりやあおらが獨特の發明だぞ。 ド・ギーシュ 〔がつかりして〕 氣ちがひだ。 シラノ 〔卑しむやうに〕 何だと、おらはな、レジオモンタヌスの考へた大べらばうな鷲だの、 アルシタスのいぢけ鳩だの -- そんなものを使やしないぞ。…… ド・ギーシュ ふん、阿呆だ。だが物識りの阿呆だ。 シラノ おらは人のまねなんかしないぞ。 〔ド・ギーシュは首尾よく通りぬけて、ロクサーヌの家の扉口に行く。〕 シラノ追ひすがつて力づくで引きとめやうとする おらはな處女《きむすめ》のやうな大空を手に入れる斬新な方法を六つまで發明したのぢやよ。 ド・ギーシュ 振りむいて 六つだと。 シラノ 〔べら~と〕 まづ第一は曙の露の涙を小瓶につめ、裸身にふりかけ~日に晒せばお日さまが惡い光で露もろとも、 おらまでも虚空に吸ひ上げる。 ド・ギーシュ 〔驚いて、シラノの方へ一足進んで〕 あゝ、そりやさうだ。 シラノ 〔後じさりして、向うの隅へ誘き出すやうにして〕 さてはまた次は風の製造 -- その噐械には杉箱の中にあふれた空氣をば、 二十四面體の鏡に照らして輕くするのだ。 ド・ギーシュ また一足進んで 二つ。 シラノ 〔なほ後へ退りながら〕 さてまた -- おらは名代のからくり師、そこで考へた蝗のおもちや、鋼のゼンマイ爲かけに跨り、 ぽん~うち出す烟硝花火に乘つて、星の世界の草原までも一つとびだ。 ド・ギーシュ 〔思はず彼について指を折つて數へながら〕 三つ。 シラノ 上がる煙は天まで昇る、それから趣向の輕氣球、煙を詰めてふくらませ、それに腰かけふはり、ふはり、空の旅。 ド・ギーシュ 〔同じしぐさ、いよ~びつくりして〕 これで四つ。 シラノ さてまた一つは牡牛の髓を體に塗れば、十二宮のいつち下でお日さまが、髓が好きで吸ひ上げる、 體も一しよに上がる道理。 ド・ギーシュ 〔驚嘆〕 五つ。 シラノ 〔話しながら腰掛の傍の空地の向う側まで相手を引きよせて〕 さて最後には、鐡の板に乘る。磁石は傍から投げ上げる、投げた磁石は空を行く、なるほどこれは考へた。 磁石を追つてどこまでも鐡は上がつて行くばかり。ほら來た投げろ、磁石が下がればまた投げる、 どこまで上がるか程しれず。 ド・ギーシュ 六つ -- 六つともなか~妙案だ……その中どれを貴樣は選んだ。 シラノ どれも選ばん、七番目の奴を選んだ。 ド・ギーシュ おどろくな、何だ、それは。 シラノ いくらでも數はつきないよ。 ド・ギーシュ この氣ちがひめ、だん~面白くなつて來たわい。 シラノ 〔不可思議な大げさな身振で、波のくる音をまねながら〕 ざざあツ、ざざあツ、ざざあツ。 ド・ギーシュ うん~。 シラノ わかつたかね。 ド・ギーシュ わからん。 シラノ 潮のさしひき。お月さまが波に忍び逢ふ魔が時、潮を浴びて砂濱にころりと横に成ると、 何しろ汐に漬つた頭の髮の毛はじく~ちよつくり乾かない、 月が潮を引くたびに、頭の潮も共に引かれる -- ところでおらが大空に向つてむつくり首を上げる、 -- そのまま體は砂をはなれて、何の苦もなくふら~と、天使のやうに舞ひ上がる、しんづ~と舞ひ上がる…… やツしまつた、その途端、どんと劇しくぶつかつた……その時だ。 ド・ギーシュ 〔好竒心に引かれて腰掛の上に坐する〕 その時どうした。 シラノ さればその時…… 〔突然あたりまへの聲に還つて〕 まづは十五分立ちまあした。もう~お引き止めは致しません。 結婚の式は滯りなく相すみました。 ド・ギーシュ 〔とびあがり〕 やあ、しまつた……あの聲は。 〔扉があく。侍童が燈の附いた燭臺を持つて出る。あかるくなる。シラノ氣どつて帽を脱ぐ〕 やあ、その鼻は……シラノだな。 シラノ 〔お辭儀をして〕 シラノでござる。 -- たゞいまめでたく指環のとりかはせはすみました。 ド・ギーシュ 誰が。 〔 振り返る -- 畫面。家來の後にはロクサーヌとクリスチヤンが現れて、 手をとり合ふ。僧、微笑しながらあとから續く。ラグノーも蝋燭の火をかゝげる。 侍女は慌てゝねぼけ服で身づくろひをして殿りを勤める 〕 やあ、やあ。 第十四景 前の人々、ロクサーヌ、クリスチヤン、僧、ラグノー家來、侍女。 ド・ギーシュ 〔ロクサーヌに〕 あなたが。 〔クリスチヤンに氣が附いてびつくりして〕 あの男と。 〔感服してロクサーヌにお辭儀をしながら〕 うまく爲組んだなあ。 〔シラノに〕 お禮を云ふよ、飛行機の發明家、君の嘘話には、天國へ急ぐ聖者も、 入口で足を止められるだらう。細かく書き止めて置きたまへ。面白い本になるかもしれないよ。 シラノ 〔お辭儀をする〕 そのお勤めは、必ず守ることに致しませう。 僧 〔得意らしく大きな白髯をゆすつてド・ギーシュに二人の戀人をさし示しながら〕 あなたさまの御志で、結構な御夫婦が出來ました。 ド・ギーシュ 〔冷い目で眺めて〕 ふうん。 〔ロクサーヌに〕 奧さん、どうかお婿さんにお別れの御挨拶をなさるがいゝ。 ロクサーヌ 何でございますつて。 ド・ギーシュ 〔クリスチヤンに〕 もうずん~聯隊は出發してゐる。君も早く行きなさい。 ロクサーヌ あの戰をしにでございますか。 ド・ギーシュ 勿論だ。 ロクサーヌ でも、青年隊は行かないのでございませう。 ド・ギーシュ あゝ、いや行くのだ。 〔かくしの中にしまつて置いた書附を出す〕 これが命令だ。 〔クリスチヤンに〕 男爵、これをもつて行きたまへ、早く。 ロクサーヌ 〔クリスチヤンの腕に體を投げて〕 クリスチヤン。 ド・ギーシュ 〔せゝら笑ひながら、シラノに〕 新婚の當夜までは、どうもなか~遠さうだなあ。 シラノ 〔傍白〕 あんなことでいつぱしおれまで苛めた積りでゐるのかい。 クリスチヤン 〔ロクサーヌに〕 おゝもう一度接吻を。 シラノ これ~、もういゝ加減にしろ。 クリスチヤン 〔まだロクサーヌに接吻をしながら〕 これで別れるのは辛いなあ……君は知らなからうが…… シラノ 〔連れて行かうとしながら〕 知つてるよ。 〔遠くで進軍の太鼓が鳴る〕 ド・ギーシュ 〔奧へ行つてみて〕 愈々聯隊は出發するか。 ロクサーヌ 〔シラノが始終クリスチヤンを連れて行かうとするのを引き止めて、シラノに〕 あゝ……わたしこの人をあなたにお預け致しますわ。どうぞ危い所へ行かないやうに、 氣をつけてやると約束して下さいな。 シラノ 心がけておきませう。けれども約束は出來ませんなあ……。 ロクサーヌ 〔同じ所作〕 でも氣をつけるやうに約束してね。 シラノ えゝ、やるだけはやりますよ。だが…… ロクサーヌ 〔同じ所作〕 籠域の中で、寒さに中らぬやうに。 シラノ するだけのことは何でもね、だが…… ロクサーヌ 〔同じ所作〕 この人が心變りしないやうにね。 シラノ 無論です、だが……。 ロクサーヌ 〔同じ所作〕 ちよい~お便りを下さるやうにね。 シラノ 〔止つて〕 それならば -- 大丈夫、お約束しますよ。 ---- 幕 ---- [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/06/21 シラノ・ド・ベルジュラック:第四幕 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第四幕 ガスコーニュの青年隊 アラスの攻圍戰に於けるカルボン・ド・カステル=ジャルーの中隊の占領した陣地。 奧は舞臺前面を横切る土手。その向うに地平線にまで續いた平野の遠見。平野は陣營で蔽はれてゐる。 遙かの遠方にアラス城の石垣と、その屋根の輪廓がくつきり空に浮いてゐる。 天幕、散亂した武噐、太鼓、その他。 -- 夜が明けかけて東の空に黄色い日の出る色がぼんやり映つてゐる。 -- 歩哨そこここに立つ。警戒の銃火。 ガスコーニュの青年隊は外套にくるまつて眠つてゐる。 カルボン・ド・カステル=ジャルーとル・ブレーは夜番をしてゐる。 みな大層蒼い疲れた顏をしてゐる。クリスチヤンは同じく外套にくるまつて、 前景に、人々の中に眠つてゐる。その顏は銃火によつて輝く。沈默。 第一景 クリスチヤン、カルボン・ド・カステル=ジャルー、ル・ブレー、青年隊、あとからシラノ。 ル・ブレー これぢやあたまらないなあ。 カルボン うん、かけらものこつてゐないぞ。 ル・ブレー 弱つたな。 カルボン 〔もつと低い聲で話をするやうに合圖をしながら〕 これ靜かにしろよ。みんなを起してしまふぞ。 〔青年隊に向ひ〕 しツ、寢てゐろよ。 〔ル・ブレー〕 眠れば飯の代りになるよ。 ル・ブレー さうすると眠れない奴は愈々絶食だな。やけに腹が鳴るなあ。 カルボン 畜生、打ち出しやあがつた。……野郎共を起してしまふ。 〔頭をもちあげた青年隊に向ひ〕 寢てゐろよ。 〔砲聲又前よりも近く聞える〕 一人の青年隊 〔動きながら〕 畜生め。又かい。 カルボン 何でもない。シラノが歸つて來たのだ。 〔頭を持ちあげたものも再び眠る身構へをする〕 一人の歩哨 〔外で〕 こら、誰だ。 シラノの聲 ベルジュラックだ。 歩哨 〔土手の上で〕 誰だ。 シラノ 〔土手の上に現れて〕 ベルジュラックだ、馬鹿。 〔下りて來る〕 ル・ブレーは彼を迎へて心配さうにいふ。 ル・ブレー やあどうした。 シラノ 〔外の者を起さないやうに合圖をして〕 しツ。 ル・ブレー たられやしないかい。 シラノ どうしてどうもて|[注:どうしての誤りか?]、毎朝おれを目がけて撃つても、 彈丸の方でおれを避けるのは知つてるぢやないか。 ル・ブレー それはさうだが、毎朝早く敵地をぬけて手紙を運んで行くなんといふ危險に、態々身をさらすといふのは。 シラノ 〔クリスチヤンの前に立止まつて〕 おれは始終この男に手紙を書かせると約束したのだ。 〔クリスチヤンを見る〕 寢てゐるな。なんといふ蒼い顏だ。だが苦勞にやつれても相變らずいゝ男だなあ。 この男が可哀さうにかうして餓死しかけてゐることをあの女が知つたなら…… ル・ブレー 早く寢床に入れよ。 シラノ いや、まあ叱つてくれるな、ル・ブレー。おれはほんの少し危險を犯したといふだけだ。 おれはイスパニヤの戰線で奴らが毎晩醉つぱらつて、眠つてゐる穴を知つてゐるのだ。 ル・ブレー いづれそのうちには兵糧でもとつて來てくれるといふわけだな。 シラノ なあに通り拔けて行くには身輕でなければだめだよ。 -- だが今夜こそは何か面白いことがありさうだ。 フランス軍は食ふか死ぬから……おれの見たところに間違ひがなけりやあ……。 ル・ブレー おい、話してくれよ。 シラノ いやまだいけない。慥かぢやないのだから。いづれあとでわかるよ。 カルボン いやはや、外聞の惡い話さ。城を圍んでゐる方が、兵糧攻めに逢ふなぞとは。 ル・ブレー 全くだ。このアラスの圍みほどこんがらがつた事はない。なあ。 何しろおれ逹が圍んでゐる、それがまた罠にかゝつて、 イスパニヤの皇太子軍に圍まれてゐるのだからなあ…… シラノ それでこんどは、そいつが誰かに圍まれりや世話はないのさ。 ル・ブレー こつちは眞面目な話だぞ。 シラノ おや、おや。 ル・ブレー たかが手紙一本のために、大事な命を賭けるなどと、命知らずだなあ。 〔シラノが天幕の方に行きかけるのを見て〕 どこへ行くのだ。 シラノ もう一本手紙を書くのだ。 〔天幕の中に入り、見えなくなる〕 第二景 前の人々、シラノを缺く。 日はのぼりかけてゐる。薔薇色の光。アラスの町は地平線の上に金色に輝く。 大砲の音が遠方に聞え、すぐ續いてその右手に遠くはなれて太鼓の音が聞える。 他の太鼓はもつと近くに聞える。砲聲がこれに答へる。再び近くなる、 すぐ舞臺に近く火花を上げる、陣營を通過して右手の遠ざかる。 陣營の中に目がさめて人の騷ぐ音。遠方の士官の聲。 カルボン 〔溜息をついて〕 起床喇叭か……やれ~。 〔青年隊は動き出して伸びをする〕 腹のたしになる筈の睡眠ももうおしまひだ。あいつらが起きるいきなりどなる文句分かつてゐる。 一人の青年隊 〔起きかけて〕 やけに腹が空つたなあ。 他の青年隊 飢《かつ》ゑて死にさうだ。 皆々 あゝ、やり切れねえ。 カルボン 起きろ~。 第三の青年隊 一足も動かれない。 第四の青年隊 おれもだめだ。 第一の青年隊 〔胸甲を鏡にして見て〕 おれの舌は黄色いぞ。消化を惡くする陽氣だからなあ。 他の青年隊 おれはシュステルのチーズと取換へつこなら、男爵帽を賣りとばしてもいゝや。 外の青年隊 おれは誰か胃の腑にビールを一杯爲込んでくれなきや、 アシール(古稀臘の大勇士)のやうに天幕の中に引つ込んでしまふぞ。 他の青年隊 あゝ、何か食ひたい。パンの皮でもいゝや。 カルボン 〔天幕に行つてそつと呼ぶ〕 シラノ。 他の青年隊 おれ逹は往生しちまふぞ。 カルボン 〔天幕の入口で小聲に話を續けながら〕 助けてくれよ、あいつらをすぐにも陽氣に、はしやがせる術をお前は知つてゐる。 來て、元氣をつけてやつてくれ。 第二の青年隊 〔何か口でくしや~やつてゐる他の青年隊にとびかゝつて〕 何をくしや~やつてゐるのだ。 第一の青年隊 大砲に詰め込む絲屑さ。車の心棒にさす油であげたんだ。 アラスのあたり近所はのこらずしけだよ。 一人の青年隊 〔入つて來て〕 おれは獲物をせしめて來たぞ。 他の青年隊 〔續いて入つて來て〕 おれはスカルプ河で魚を釣つた。 一同 〔二人の入つて來た青年隊にとびついて行く〕 いよう、何をとつて來たのだ。 -- 雉子か -- 鯉か -- 來て見せてくれよ。 釣をした男 目高だよ。 獵をした男 雀だよ。 皆々一同 〔がつかりして〕 もうとても我慢が出來ねえ -- 愈々謀叛だ。 カルボン おい、シラノ、助けてくれよ。 太陽は愈々のぼる。 第三景 前の人々、シラノ。 シラノ 〔ペンを耳に挾み、片手に本を持つて、落ちつき拂つて天幕から出て來る〕 どうしたといふのだ。 〔沈默。第一の青年隊に〕 何で足をさう苦しさうに引き摺つて歩くのだ。 その青年隊 何か重たいものが踵にぶら下つてゐるやうだから。 シラノ 何がよ。 その青年隊 胃袋がさ。 シラノ 御同然よ、いやはや。 その青年隊 君だつて苦しいでせう。 シラノ どうして、おれはおかげで大きくなつたなあ。 第二の青年隊 食ひたい~で齒が長くなつた。 シラノ 齒が長けりや噛むのも早い。 第三の青年隊 おれの胃がぼこ~云つてるぜ。 シラノ それはいゝ。太鼓腹を叩いて敵に向ふだけさ。 他の青年隊 おれは耳ががん~鳴る。 シラノ べらばうめ。空腹に耳があるか。 他の青年隊 あゝ何か食ひたいなあ。 -- ちよいと油つこいものでも。 シラノ 〔青年隊の帽を脱いで、相手にそれを渡して〕 それサラダにしてくれ。 他の青年隊 いやはや、厭になるほど食べて見たいなあ。 シラノ 〔手のもつてゐる本を投げつけて〕 それイリヤッドだ、しつかり呑み込め。 他の青年隊 大宰相リシュリュー閣下は、パリーで一日四度飯を食つてゐらあな。 シラノ それだからといつて、貴樣に鴟鴣の雛つ兒でも送つてよこす義理があるかい。 同じ青年隊 なくつてさ。それに酒もな。 シラノ リシュリューよ、イフ・ユー・プリーズ(なにとぞ)ブルゴンの美酒を與へたまへよさ。 同じ青年隊 部下の坊主にもたしてよこせばいゝのさ。 シラノ 醉つぱらひの和尚さんにか。 他の青年隊 かうなると人でも食ひたくなる。 シラノ やあ、……子供を食ふのかい。 第一の青年隊 〔肩を聳して〕 相變らず警句三昧か。 シラノ さうよ、警句よ。おれは死ぬならこんな風にして死にたくない。 夕方、薔薇色の空の下で何か爲になるやうな警句をのこして死にたいのだ。 屈強な相手を渡り合ひ、名劍のきつ先を胸にうけて、軍人らしい最期を遂げるのが本懷なのだ。 熱に浮かされた寢床の上はおれはいやだ。血しほに染んだ草の上で、 脣にも鋭い警句、胸先にも鋭い切先を存分に受けて死にたいのだ。 一同の叫び聲 あゝ、腹が空つた。 シラノ 〔腕を組んで〕 ちよつ、食ふことと飮むことばかり考へてゐるなあ。……おい笛吹のベルトラン -- お前もむかしは羊飼の小僧さんだ。その貴樣の封の革袋から笛を出して、 このがつ~した食ひしん坊の兵隊共に一曲聽かしてやつてくれ、 なつかしい故さとの響のこもる節々毎に、 可哀い妹たちが名殘を惜しむ囁きが聞えて、ゆるやかな調子が生れた家の茅ぶき屋根の竈からのぼる煙のやうに、 すう~と流れて空に上つて行くのだ。その音樂はガスコンの鄙歌のやうに耳を打つのだ……。 老笛手坐つて、笛を吹く用意をする。 貴樣の笛も今では籠城の苦に泣く軍笛だが、まだその一管に貴樣の指は小鳥の舞踏を踊つてゐる。 笛よ、貴樣も今のやうに黒檀ではなく、やさしい蘆の笛だつた昔を想出してくれ、 田舍の牧場に樂しく暮らした若い日の記憶をば、おれたちの胸に甦らしてくれ……。 老笛手ランドグッドの曲を吹きはじめる。 あれを聽いたかガスコン健兒……ありやあ、いつもの劈くやうな戰の笛ではないぞ -- あの男の指の先から流れ出すのはなつかしい草笛だ。ありやあ戰場へ追ひ立てる笛ではに、 野邊にさまよふ羊を追ふやさしい戀の曲だ。……聽けやい、それ谷だ。野だ。森だ。 赤い頭巾の下の日にやけた羊飼の小僧だ、ドルドーニュの川岸に夕まぐれだ、 耳にもきこえる、目にも見える、みんなガスコーニュのふる里のおもひ出だなあ。 聽いたか、ガスコン、あの音樂を。 青年隊首をうなだれて坐つてゐる。遠くの夢を追ふやうな目。 -- こつそり服の袖や、 外套の端で目を拭く。 カルボン 〔シラノに向ひ、低い聲で〕 おい、みんなを泣かしてしまつたなあ。 シラノ さうさ。故郷を思ふ涙だ……空腹よりは尊い惱みだ。……體のなやみではない、 精神のなやみだ。あいつらのなやみが場所を換へたのは何よりだ。 胸の病は胃袋の病より上等だからなあ。 カルボン だがかうやつて、あいつらの心臟の絲を鳴らしてくれると元氣がなくなるよ。 シラノ 〔合圖をして鼓手を近寄らせる〕 大丈夫だ。ガスコンの血の中に眠つてゐる英雄の魂は、 いつでもあいつらの心の中で目を醒すのだ。それにはこれだけの事でいゝのだ…… 〔合圖をする、太鼓が鳴る〕 青年隊一同 〔立ちあがり、武噐を取らうと驅け出す〕 畜生、何だ……どうしたのだ。 シラノ 〔微笑しながら〕 ほら見ろ、太鼓を一つ叩けばこの通りだ。夢もなやみもふる里も戀も何もおさらばだ……。 一人の青年隊 〔舞臺の奧をのぞきながら〕 おやおや。ド・ギーシュ閣下の御入來だ。 青年隊一同 〔囁きながら〕 ふうん……ひと面白くもねえや。 シラノ 〔微笑しながら〕 それ~、そいつはうれしいお出迎ひだ。 一人の青年隊 あいつ、胸くその惡い奴だなあ。 他の青年隊 あの鎧の上にレースの飾襟なんかつけやあがつて、貴族氣どりで來やあがつた。 他の青年隊 鐡の上に布をかけた恰好だなあ。 第一の青年隊 あいつの首に腫物が出來た時には、あゝして繃帶するといゝや。 第二の青年隊 hゝん、あれも大宮人の片つ端しか。 他の青年隊 時めく方の甥の殿御とござい。 カルボン それでも何でもガスコンだよ。 第一の青年隊 何さ、ガスコンの似せものでさ。……あてにやあならない……何でもガスコンは我武者に限るんだ…… 理窟ツぽいガスコンなんか劍呑千萬。 ル・ブレー 何て蒼い顏をしてゐやがるんだ。 他の青年隊 なあに腹が空つてゐるんだよ。……御同樣慘めな餓鬼さ。 それにあいつの胴鎧は、鍍金の止め金をうんと打ち附けてあるから、あいつの痙攣を起した胃袋は、 日にあたるときら~光るといふものだ。 シラノ 〔早口に〕 もうお互ひに苦しさうな面はしつこなしだぞ。カルタをとつたり、莨をのんだり、 賽を轉がしたりしてゐるんだ。 皆々素早く、太鼓の上や腰掛の上、又は地べたに外套をしいて勝負をはじめ、 長いパイプに火をつけたりする。 ところで、こちとらはデカルトを讀むのだ。 〔かくしから小さな本を出して讀みながら、そこらを歩き廻る〕 畫面の見え。ド・ギーシュ入つて來る。一同餘年なくうれしさうにしてゐる。 ド・ギーシュは眞蒼な顏をしてゐるカルボンの方に近づく。 第四景 前の人々、ド・ギーシュ。 ド・ギーシュ 〔カルボンに〕 やあ。 -- ごきげんよう。 〔二人はお互ひの顏をさぐり合ふ。安心したやうに傍白。〕 この男もまつ蒼い。 カルボン 〔傍白〕 目ばかり光らしてゐやあがる。 ド・ギーシュ 〔青年隊をみて〕 無頼漢どもが集つたなあ。……おい、諸君、君等の隊は我輩を笑ひものにしてゐるといふ噂を方々で聞いたぞ。 たかが田舍つぺえ、山家育ち、貧乏な百姓侍、ペリゴールの田吾作男爵の青年隊が、 聯隊長たるド・ギーシュ大佐に對して、ありつたけの侮辱をあびせかけてもまだ足りないで、 姦侫呼はりしてゐるといふ噂を聞いたぞ。我輩の胸當につけたレースの飾襟が氣に喰はないのか。 -- 我輩がガスコンのくせに、ぼろ侍でないのが癪にさはるのか。 〔沈默。一同煙草を燻らせ、カルタをつゞける〕 中隊長に命じて罰してやるとことだが、まあ止めとかう。 カルボン それもわたしの自由です -- 漫りに罰することは出來ません。 ド・ギーシュ へえ。 カルボン わたしの中隊にはわたしが給料を拂つてゐる。これはわたしのものだ。 わたしは唯軍令を受けるだけです。 ド・ギーシュ ふん、成程 -- それもいゝだらう。 〔青年隊に話しかける〕 我輩は君等の空威張位何とも思はん。我輩が戰場の働きは知つてゐる通りだ。 昨日もバポームでブッコ伯爵軍を物の見事に退却させた手際を見て知つてゐる筈だ。 我輩は部下を集めて、三囘まで猛襲を行つたのだ。 シラノ 〔本から顏も上げずに〕 ところであなたの白の綬はどうしました。 ド・ギーシュ 〔驚いて且つ滿足げに〕 君はあの話を知つてゐるのか……さうだ。それはかういふわけだ。 三囘めの猛襲をやるに際し、部下を呼び集めるつもりで輪乘をやつてゐる中に、 いつか逃走する敵兵の渦の中に捲き込まれて、敵の線内に入つてしまつたのだ。 俘になるか、殺されるか、一大事の危急に迫つた時、ふと思ひついて、 我輩の官等を表はす白綬をといて捨てることにしたのだ。この妙計は圖に中つて、 敵の目をのがれて無事にぬけ出すことができたのさ。 さて軍に歸ると早速手勢を集めて、英氣百倍、敵の大軍を蹶ちらしてくれたのだ。 どうだ -- 君等、これでも何かいへるか。 青年隊は聽かない振をしてゐたが、こゝまで來ると、カルタや賽筒をもつた手がお留守になり、 パイプの煙が口の邊に動かずにゐる。期待。 シラノ 僕はいふが、これがアンリ四世なら、どんな危急の場合でも、 兜の白毛の前立を自分からもぎ捨てるやうなことは、ゆめ~承知されなかつたらうと思ふ。 沈默の歡喜、カルタは下り、賽はころがり、煙草の煙はなびきはじめる。 ド・ギーシュ しかし僕の計略は功を奏したのだ。 前と同じ期待の所作。 シラノ さうかも知れん。しかし武士は輕々しく敵の的となる名譽を辭すべきものではない。 カルタ落ち、賽まはり、煙なびいて、青年隊いよ~うれしがる。 閣下の綬が地に落ちたとき、わたしがその場にゐ合せましたら、 -- 閣下、 我々の勇氣は閣下とはちと種類の違つたものでしてね -- わたしはその綬を拾ひ上げて、しつかりと體につけたでせうよ。 ド・ギーシュ はい、はい、又しても大言壯語、相變らずのガスコン流かい。 シラノ 大言壯語だ。……その綬を拜借願はうか。誓つてそれは今夜でも、 それを襷に綾どつて、夜襲の一番乘りを勤めてお目にかけよう。 ド・ギーシュ それまたガスコン流の空威張か。何しろその綬は敵地に止つて、 スカルプ河の岸にあるのだ。……砲彈雨下の地點にあるのだ -- 誰がとりに行けるものか。 シラノ 〔かくしからその白綬をとり出してド・ギーシュに渡す〕 この通り、こゝにありますよ。 沈默。青年隊等はカルタや賽の筒で笑聲をごまかさうとする。ド・ギーシュは振り向いて彼等を眺める。 皆々すぐ眞面目な顏になつて、遊びをはじめる。彼等の一人は知らん顏で笛手の奏した調子を口笛で吹いてゐる。 ド・ギーシュ 〔綬をとつて〕 いや有難う。これで我輩も合圖が出來るといふものだ。それを今まで控へてゐたのだ。 〔土手へ行つて攀ぢ上つて、それを三度振る〕 皆々 何だ。 歩哨 〔土手の上から〕 おい、あそこに驅けて行く奴があるぞ……。 ド・ギーシュ 〔下りて來て〕 あれはイスパニヤの似せ間諜だ。あいつが敵軍にもつて行く報告は、 我輩があいつに與へてやるのだ。さうするとつまり我々が敵の決斷を左右してゐるといふ譯だ。 シラノ ふん、小人め。 ド・ギーシュ 〔無造作に綬をかけながら〕 それは都合がいゝのだ。何の話をしてゐたのだつけ。 -- さう~……君たちに知らせることがあつたのだ。 昨夕、吾々に糧食を供給するため、元帥は最後の英斷を試みられた -- 即ち密かに、王の兵站部のあるドールランに向つて出發されたのだ。 ところでだ -- それについて元帥は無難に歸營するために必要なだけの軍隊を率ゐて行かれたから、 この際敵の攻撃をうけると我軍は苦もなく爲てやられる危險があるのだ。 我軍の大半は陣地を明けて外に出てゐるのだからな。 カルボン さやうさ、イスパニヤ軍が知つたら、厄介なことになりますなあ。 だが奴らは何も知りますまい。 ド・ギーシュ いゝや、知つてゐるのだ。今にも我々を攻撃しようとしてゐるのだ。 カルボン やれ~。 ド・ギーシュ あの似せものの間諜が我輩の所に敵の進撃の知らせを持つて來たのだ。 あの男は、わたしは彼等の攻撃地點を決定することができます。 どこを攻撃されるのかお望みですか。わたしは彼等に向つて、 そこが最も防備の手薄な地點だといつてやりませう。 -- すると彼等はそこに砲火を集中するでせう、といふのだ。 我輩はそこで、よろしい、陣から出て見てゐろ、信號をするから。 信號した場所がさうだと思へと答へた。 カルボン 〔青年隊に〕 諸君用意だ。 皆々飛びあがる。劍の音、革帶の音。 ド・ギーシュ 一時間以内だ。 第一の青年隊 よし……何くそ……。 一同又坐つて、遊戲をはじめる。 ド・ギーシュ 〔カルボンに〕 時間を延ばさなければならん。その中には元帥も歸つて來られる。 カルボン どうして延ばしませう。 ド・ギーシュ 多少は君逹の仲間を殺す氣でやるのだね。 シラノ 意趣返しですな、つまり。 ド・ギーシュ ふん、我輩が君等を全く愛してゐたなら、或は君や君の仲間を選ばかなつたかもしれん。 だが實際に於て君逹の絶倫の勇氣がどんな敵にも引けをとらぬといふことも大きな理由だ。 それで王樣にも忠義になり、我輩の復讐をも同時に行ふといふわけだ。 シラノ 〔敬禮して〕 どうぞわたしの感謝を受けて頂きたい。 ド・ギーシュ 〔敬禮を返しながら〕 我輩は君が好んで百人の敵を相手にすることを知つてゐる。 これで相手の數に不平はあるまい。 〔カルボンと共に出て行く〕 シラノ 〔青年隊に〕 おい、我々はガスコンの軍服に、青と金と六本筋の外に、もう一つこれまでなかつた赤い血の筋を加へるのだぞ。 ド・ギーシュは奧でカルボンと低い聲で話をしてゐる。號令がかけられる。 戰鬪準備が出來る。シラノ腕組みをして立つてゐるクリスチヤンに近附く。 シラノ 〔クリスチヤンの肩に手をかけて〕 おい、どうしたい。 クリスチヤン 〔首を振つて〕 ロクサーヌ、あゝ。 シラノ いやはや。 クリスチヤン せめて僕はあの人にしみ~゛と別れの心を美しい文にかいて送つてやりたい。 シラノ どうもおれも、それが今日ではないかと思つてゐた。 〔胴服のかくしから一通の手紙を出し〕 それでそれを書いておいた。 クリスチヤン 見せてくれ。 シラノ 見たいのか……。 クリスチヤン 〔手紙を奪ふやうに取つて〕 あゝ。 〔あけて讀む〕 やあ……。 シラノ 何だ。 クリスチヤン この小さな點は。 シラノ 〔手紙を手にとつて何氣なく眺める〕 點だと……。 クリスチヤン こりや涙だ。 シラノ さう……つまり詩人よ。作りごとでもいつかはその境につまされる -- それがいゝ所さ。……この告別の手紙を書きながら、つひ泣かされて涙をこぼしたのよ。 クリスチヤン 泣いたと、なぜ。 シラノ だつて死ぬのは何も恐しくはないが、だが……二度とあの人にもう逢へないといふのは…… それが死ぬより辛いのだ -- なぜといつて。おれはもう~あの人を……。 クリスチヤン顏を見る。 いや、おれ逹はあの人を…… 〔口早に〕 なにさ貴樣があの人を……。 クリスチヤン 〔彼から手紙を引つたくつて〕 その手紙は僕にくれ。 遠くの陣營で人の騷ぐ聲。 歩哨の聲 誰だ、止まれ。 銃聲 -- 人聲 -- 馬車の鈴の音。 カルボン 何だ。 歩哨 〔土手の上で〕 馬車です。 皆々驅けて行つて居る。 叫び聲 やあ -- 陣の中に入つて來るぞ -- 敵の方から來たのだ -- 撃て -- いや待て -- 馭者がどなつてゐるぞ。 -- 何をいふのだ -- 何、陛下の御用だと。 皆々土手の上にのぼる。鈴の音近附く。 ド・ギーシュ 陛下の御用だと、……はてな。 皆々土手を下りて整列する。 カルボン 全員脱帽。 ド・ギーシュ 陛下の御用だ。 -- 整列しろ、馬鹿。陛下の御馬車にふさはしい莊嚴な曲線を描くやうにするのだ。 馬車塵と泥にまみれた儘、まつしぐらに入つて來る。 窓掛が閉ぢてある。家來が二人後に乘つてゐる。やがて止まる。 カルボン 〔呼びながら〕 敬禮の太鼓打ち方。 太鼓鳴る。青年隊脱帽する。 ド・ギーシュ 足臺を出せ。 〔二人の青年隊が前へ驅けて出る。扉があく〕 ロクサーヌ 〔馬車から飛び下りて〕 みなさん暫く。 皆々女の聲を聞いて、恭しく下げた頭を、一度に頭をあげる。 第五景 前の人々、ロクサーヌ。 ド・ギーシュ 王樣の御用で、あなたが。 ロクサーヌ まあ、それも戀といふ王樣よ。外の王樣のものですか。 シラノ やあ。 クリスチヤン 〔前に飛び出して〕 あなた、どうして來ました。 ロクサーヌ あんまり長すぎるわね、この籠城は。 クリスチヤン でもどういふわけで……。 ロクサーヌ 今のこらず申しあげますわ。 シラノ 〔彼女の聲を聞いて、そこに根にはえたやうに突つ立つた儘、目をあげてみることも恐しい風でゐる〕 ああ、あの人に又逢はうとは。 ド・ギーシュ あなたはこゝにゐるわけには行かない。 ロクサーヌ 〔元氣に〕 でもわたくし居りますのよ。どなたか、一つ太鼓をこゝへ貸して下さいましな。 〔轉がして來た太鼓の上に腰をかける〕 まあ有難う。 〔笑ふ〕 わたしの馬車は彈丸を打ちかけられましたわ 〔高慢らしく〕 どなたか斥候の方に。 -- まあ、あなた方はわたしの馬車は昔噺のサンドリヨンの馬車のやうに、 南瓜ででも出來てゐると思召したんでせう -- ですから馬丁までも鼠のお馬のやうな形をしてをりますわ。 〔脣を突き出して、クリスチヤンに接吻するやうな樣子をしながら〕 お珍しう。 〔一同を見廻して〕 あなた方皆さん、元氣にお見えにならないのね。 -- まあアラキスまでは何て遠いんでせうね。 シラノを見つけて にい樣しばらく。 シラノ 〔彼女の傍により〕 まあ、どうして來たのです。 ロクサーヌ どうしてわたくしが味方の隊へ來る道を搜したと仰しやるの。それは何でもないことなの。 お話しませうか。わたくしは戰で荒らされてゐる土地の見える所までかまはずやつて來たのですわ。 まあ何て恐しかつたでせう。實地にそれを見るまでは、とてもこれほどとは思へなかつたでせう。 ほんたうに皆さん、かういふことも陛下へのお勤めなら、わたくしもまけはいたしません。 シラノ でもこれは思ひ切つて竒拔すぎますよ。全體まあどこをどうして切りぬけて來たでせう。 ロクサーヌ どこをつて、イスパニヤ軍の中をですわ。 第一の青年隊 どうも女といふものは全く魔法つかひだなあ。 ド・ギーシュ でもどうして敵の軍勢の中を切りぬけて來ました。 ル・ブレー 全くえらい爲事だつたに違ひない。 ロクサーヌ 何、大したことでもございませんでしたわ。わたくしは唯しづ~と馬車を進めて參りました。 誰かこはさうな顏をした人が引き止めますとね、その時はわたくし窓からもう有りつたけの愛嬌笑ひをしてみせました。 するとこのイスパニヤの武士逹は、あなた方には失禮ですが、 何しろ世界中で一等の粹な人逹ですからね -- それでわたくしわけなしに通り拔けてしまひました。 カルボン 成程、その笑顏は旅行劵と同格だらうて。けれどもたまには、どこへ行くか位は聞かれたでせう。 ロクサーヌ えゝ、それは度々ね。さういふ時わたくしは答へてやりましたの、 「わたくし、戀しい人に逢ひにまゐるものです。」つてね。さう聞くと、 それは中でもいかめしい顏をした猛者までが、勿體らしく馬車の扉をしめてくれて、 それは王さまだつて嬉しくお思ひになるやうな恭々しい姿勢を作つて、部下の兵隊に合圖をして、 わたくしに向けてゐた銃を下させました。 -- さて悲しさうな、 そのくせ飽くまで優美な威儀を作つて、前立の毛が風に吹きとばされると思ふほど、軍帽を深く下げて、 丁寧にお辭儀をしながらいふことは、「いざお通りあられい、姫君。」 クリスチヤン でもロクサーヌ……。 ロクサーヌ 御免あそばせ、わたくしは戀しい人にと申しました。……でもまあこれが夫に逢ひになぞと申しましたら、 誰だつて通してはくれなかつたでせう。 クリスチヤン ……でも。 ロクサーヌ どう遊ばして。 ド・ギーシュ すぐこの場を立ちのいてもらひたいのです。 ロクサーヌ あのわたくしが。 シラノ 急いで。 ル・ブレー ぐる~してゐてはいけません。 クリスチヤン 全くその通りです。 ロクサーヌ でもなぜわたくしが。 クリスチヤン 〔困つて〕 でもそれはあの……。 シラノ 〔前と同じに〕 四十五分以内に。 ド・ギーシュ 〔前と同じに〕 ……せめて一時間以内に。 カルボン 〔同じく〕 それが、あなたのお爲ですよ……。 ル・ブレー 〔前のやうに〕 どうかするとあなたまで……。 ロクサーヌ あなた方はこれから戰爭をなsるのでせう。なほのことわたくし、こゝに居りますわ。 皆々 だめだ~。 ロクサーヌ この人はわたくしの夫でございます。 〔クリスチヤンの腕に縋る〕 わたし逹二人は一緒に殺されたうございます。 クリスチヤン どうしてそんな風な目でわたしをみるのです。 ロクサーヌ そのわけはあとでいつてあげますよ。 ド・ギーシュ 〔絶望して〕 こゝは命に係はる危險な場所ですよ。 ロクサーヌ 〔振り向いて〕 危險な場所ですつて。 シラノ 危險な場所にあの人がしたのでさ。 ロクサーヌ 〔ド・ギーシュに〕 まあ、ではあなたはわたくしをやもめになさるお積りでございますね。 ド・ギーシュ 決してそんな……。 ロクサーヌ わたくしは參りますまい。わたくしはもう夢中でございます。もうここから身動きも致しますまい -- それになか~面白いことですわ。 シラノ これはしたり、とんだ女丈夫が出來あがつた。 ロクサーヌ ド・ベルジュラックさま、わたくしはあなたの從妹でございます。 一人の青年隊 我々はあなたを十分保護しますよ。 ロクサーヌ 〔愈々興奮して〕 皆さん、わたくしはそれは、安心してお任せ致しますわ。 もう一人の青年隊 〔夢中になり〕 我が陣營は菖蒲の香に香ふやうだ。 ロクサーヌ それで爲合せとわたくしも戰場によくつり合つた帽子を被つて參りました…… 〔ド・ギーシュをみて〕 でも伯爵さまはお歸り遊ばす、今がしほ時でございませう。敵が襲つて參りますよ。 ド・ギーシュ いや、これは手きびしい。わたしは大砲の檢査に行くのだ。ぢきに歸つて來ます……、まだ時間もある。 考へ直してはどうだね。 ロクサーヌ 厭でございます。 ド・ギーシュ出て行く。 第六景 前の人々、ド・ギーシュを缺く。 クリスチヤン 〔頼むやうに〕 お歸りなさい、ロクサーヌ……。 ロクサーヌ 厭よ。 第一の青年隊 〔他の者に〕 あの人は居るとよ。 皆々 〔お互ひに打つかり合つて、ごつた返して、お洒落をする〕 櫛だ、シャボンだ -- おれの軍帽は裂けてゐる -- 針だ -- リボンだ -- 鏡を貸せ -- おれのカフスは -- それ君の髯鏝だ -- 剃刀を出せ。 ロクサーヌ 〔まだ彼女にしきりと歸つてくれと頼んでゐるシラノに向ひ〕 厭です。どうあつてもわたくしはこゝを動きません。 カルボン 〔これも他の者と同じやうに、腹帶を締め、すぐ塵をはたき、帽子にブラシをかけ、〕 羽毛の前立を直し、カフスを引き出して、ロクサーヌの方に進み、禮儀を正して かういふ事になつた以上、こゝであなたの目の前で戰死の名譽を擔ふ諸君もあるでせうから、 前もつて御紹介して置く方がいゝだらうと思ひます。 〔ロクサーヌ頭を下げる、クリスチヤンの腕に縋つて立つ。カルボンは彼女を青年隊に紹介する〕 ド・ペイレスクース・ド・コリニヤック男爵。 その青年隊 〔丁寧に禮をして〕 何分よろしく……。 カルボン 〔引き續いて〕 ド・カステラック・ド・カユザック男爵 -- アンチニヤック・ジュゼー男爵、 寺領管理職ド・マイグイール・エトルサック・レスバス・デスカラビオー男爵 -- イルロー・ド・ブラニヤック・サレシヤン・ド・カステル・クラビウール男爵……。 ロクサーヌ まあ皆さんお一人にどの位お名前があるでせう。 男爵イルロー しこたま持つてゐますよ。 カルボン 〔ロクサーヌに〕 あなた、そのハンカチを持つておゐでの手を開いてみせて下さい。 ロクサーヌ 〔手をあげる、ハンカチ落ちる〕 なぜでございます。 皆々驅け寄つて、これを拾はうとする。 カルボン 〔急いでそれを拾ひあげて〕 わたしの中隊には軍旗がありませんでした。でもこれからは全軍隊の中で一番美しい軍旗を持つ事になるでせう。 ロクサーヌ 〔微笑しながら〕 少し小さすぎるでせう。 カルボン 〔ハンカチを槍の先に結びつけて〕 でもこれにはレースの飾がある。 一人の青年隊 〔外の者に〕 こんな美しい人を見た上では、おれは愉快に死んで行けるが、 それにしても胃袋に、せめて桃一つでも食べさせて死にたいものだなあ。 カルボン 〔今の言葉を聞きつけて怒つて〕 何を、この恥知らずめ、佳人の前で食ひ物の話などをする奴があるか。 ロクサーヌ でもこの空氣は家の中とちがつて、澄んで居りますから、わたくしもお腹が空いて參りました。 パテに、冷肉に、古い葡萄酒 -- これがわたくしの今日のお獻立ですわ。 -- どうぞそれをみんなおとり寄せ下さいまし。 皆失望の樣子。 一人の青年隊 それをみんなですと。 もう一人の青年隊 でも一體そんなものあどこにあるか……困つたことをいふ。 ロクサーヌ 〔落著いて〕 わたくしの馬車の中にございますわ。 皆々 どうして。…… ロクサーヌ さあ、それではお膳拵へをいたさなくてはね。皆さんもうちつと傍に寄つて、 馭者の顏をよくごらん遊ばせ。どうして、それは何よりうれしい男が來てゐるのでございますよ。 どんなソースでもお望み次第、この男は温めてくれますでせう。 青年隊等 〔馬車に向つて、まつしぐらに驅けて行く〕 やあ、ラグノーだ。 〔喝采〕 やあ、やあ。 ロクサーヌ 〔後から見送り〕 ほんにお氣の毒な。 シラノ 〔彼女の手に接吻して〕 優しい佳人よ。 ラグノー 〔大道の野師のやうに箱の上に突つ立つて〕 さて諸君……。 一同うれしがる。 青年隊 いよう、いよう。 ラグノー ……かのイスパニヤ人は、あでやかなる美人の嬋妍に目を奪はれ、 さしもあでやかなる兵糧樣の御通行をうつかり看のがしたのでござる……。 喝采。 シラノ 〔小聲でクリスチヤンに〕 おい、おい、クリスチヤン。 ラグノー ……婦人に對して伊逹らしくガラントリーで夢中になり、うつかり忘れた -- 〔座席の下から皿を出し、高くさし上げて〕 -- ガランテン……。 喝采。ガランテン手から手へ渡る。 シラノ 〔なほ小聲でクリスチヤンに囁きながら〕 ほんの一言いひたいことが。 ラグノー 次ぎはヴエヌスの女神が、うま~敵の目を欺き、ヂヤナにそつと運ばせた -- 〔羊肉の肩をふりまはして〕 おんのり物の鹿の肉。 大喝采。澤山の手が肩肉の方へ差しのべられる。 シラノ 〔いよ~低聲でクリスチヤンに〕 おれは貴さまに話があるのだ。 ロクサーヌ 〔てんでんの腕に食物をのせて運んでくる青年隊に〕 それをみんな下にお置きなさい。 彼女は馬車のうしろに謹んでゐる二人の馬丁に手傳はせて、草の上に食卓ごしらへをする。 ロクサーヌ 〔シラノが遠くへ連れ出さうとしてゐるクリスチヤンに〕 さあ、あなたもお手傳ひ遊ばせな。 クリスチヤン手傳ひにくる。シラノの不安加はる。 ラグノー 菌入りの孔雀でござい。 第一の青年隊 〔のぼせ上がり、大きなハムの切れを切りながら前で出てくる〕 素敵々々。最後の危險に突貫するのだ、はちきれるほど詰め込まずには置かぬぞ。 -- 〔ロクサーヌを見て急に行儀を直す〕 これは御免 -- バルタザールの饗宴です。 ラグノー 〔馬車のクッションを投り出しながら〕 クッションの腹にはオルトラン(蒿雀)を詰めました。 どよめき。皆々クッションを敷いて、中のものを引き出す。大哄笑 -- 大愉快。 ラグノー 〔青年隊に赤葡萄酒の瓶を投げながら〕 これはルビーの大壜でござい -- 〔今度は白葡萄酒を投げ〕 -- これはトパズの大壜でござい。 ロクサーヌ 〔シラノの頭に、疉んだテーブル掛を投げつけて〕 このナプキンをほどいて下さいまし。 -- ほら、ほら。上手にうまくね。 ラグノー 〔馬車の提燈をふりまはしながら〕 馬車につけましたる提燈の儀は、どれも可哀らしい肉部屋にございます。 シラノ 〔二人で卓かけをひろげながら、小聲でクリスチヤンに〕 貴さまがあの人と話をするまへに、おれは貴さまにいつておくことがあるのだよ。 ラグノー 〔いよ~調子づいて〕 さてわたくしの鞭の柄はアルレの名物腸詰とございます。 ロクサーヌ 〔酒をついでまはつて給仕を爲ながら〕 どうせわたしたちは討死するのですから、外の軍隊なんか自分で勝手に糊口の道を考へさせればいゝわ、 みんなガスコンのものですよ。よござんすか、ド・ギーシュさんがいらしつても、 御馳走なんかして上げないがいいわ。 〔此方から彼方まで見まはして〕 さあ、さあ。まだ時間がありますわ。そんなにあわてて上がるものではございませんわ。 -- ちつとお乾し遊ばせ -- おや、あなたどうしてお泣きになるの。 第一の青年隊 あんまりうまいのでねえ……。 ロクサーヌ いやですよ -- 赤にしませうか白にしませうか -- ド・カルボンさんにパンを差上げませう -- ナイフは。 そのお皿をお貸し遊ばせな -- パンの堅いところを上がりますか。 -- もつとでございますつて。 お給仕をいたしませうね -- あのブルゴンですか -- エールですか。 シラノ 〔彼女のあとから、兩腕に皿をかゝへ、手傳つてみんなに給仕をしてやりながら〕 いよ~崇拜したくなつた。 ロクサーヌ 〔クリスチヤンの方へ行つて〕 あなたはいかゞ。 クリスチヤン なんにも。 ロクサーヌ いいえ、いいえ、このビスキイを召上がれ、麝香が入つてゐるのよ、さあ……ほんの二かけらね。 クリスチヤン 〔彼女を引きとゞめようとして〕 まあ、どうしてあなたいらしつたのです。 ロクサーヌ まあお待ち遊ばせ、この困つていらつしやる方から、先一義務を果してから -- ね、後でね。 ル・ブレー 〔土手の上の歩哨に、槍の先にパンを刺してやつてゐたが〕 ド・ギーシュだ。 シラノ 早くしろ。壜も、皿も、鉢も、籠も隱せ。それ大いそぎだ。 -- みんな知らん顏を爲るのだぞ。 〔ラグノーに〕 それ馭者臺にとび乘れ。 -- みんな伏せてしまつたか。 忽ちの中に、一切天幕の中に押しこめられ、又は胴服のかくしや、外套の裏や、 帽子の中にかくされてしまふ。ド・ギーシュはいそいで入つて來る -- ふと立止まる、 ふん~鼻をぴこつかせる。沈默。 第七景 前の人々、ド・ギーシュ。 ド・ギーシュ うまさうな香ひがするな。 一人の青年隊 〔鼻唄〕 ト、ロ、ロ……。 ド・ギーシュ 〔その顏を見て〕 どうしたのだ。 -- 君は大層顏が赤いな。 青年隊 どうしたといつて -- 何でもございません。 -- これは血ですよ -- いざ戰場といふので、 血が湧き立つたのでござんせう。 もう一人 プン……プン……プン……。 ド・ギーシュ 〔振り返つて〕 それは何だ。 青年隊 〔ほろ醉ひ〕 何でもない……こいつあ歌でさ -- ほんのちよいとした……。 ド・ギーシュ おい、ひどく陽氣だな。 青年隊 間近い危險に醉ひ心地でね。 ド・ギーシュ 〔カルボン・ド・カステル=ジャルーを呼んで命令を與へようとする〕 中隊長。わたしは…… 〔彼の顏を見て言葉を切る〕 呆れたものだ。君までが元氣な顏をしてゐるなあ。 カルボン 〔顏を眞赤にして、壜をうしろに隱しながら、逃身になつて〕 やあ……。 ド・ギーシュ 大砲が一門だけある、これをこちらへ廻させて置いた -- 〔後景のうしろを指さす〕 -- あそこの隅にな……必要に應じて部下に使はせるがいい。 一人の青年隊 〔千鳥足で〕 結構な御注意さね。 もう一人 〔愛嬌笑ひをして〕 とんだお世話になりまする。 ド・ギーシュ 何だ。奴等は皆氣がちがつたか。 〔そつけなく〕 お前たちは大砲を使ひつけないのだ。後へ返るから用心しろ。 第一の青年隊 はゝん。 ド・ギーシュ 〔猛つて彼の方へ行きかけて〕 何だと。 その青年隊 ガスコンの大砲は後へは返らないといふことでさ。 ド・ギーシュ 〔彼の肱をとらへてゆすぶりながら〕 貴樣醉つ拂つてゐるな -- 何で醉つたのだ。 その青年隊 〔誇張した調子で〕 -- 火藥の匂ひに醉つてござる --。 ド・ギーシュ 〔肩を聳かしながら、青年隊をつき放してつとロクサーヌの方へ行く〕 手短かに、あなた、どう御決心をなすつたか。 ロクサーヌ こゝに居ることにしました。 ド・ギーシュ いやお逃げなさい。 ロクサーヌ いいえ、居りますよ。 ド・ギーシュ さういふことになつて見れば、誰かわしに銃を貸してくれ。 カルボン 何に爲さる。 ド・ギーシュ 何につて -- わしもこゝに踏み止まるのだ。 シラノ さてはて。閣下、それでこそほんの勇氣ですぞ。 第一の青年隊 襟にレースの飾はつけても、性根はやはりガスコンですかね。 ロクサーヌ 何といふことでございます。 ド・ギーシュ 女子を一人危地にのこして行くには忍びん。 第二の青年隊 〔第一の青年隊に〕 おい、おい、これではあの人にも何か分けてやらずばなるまいよ。 食物のこらず再び魔法のやうにあらはれる。 ド・ギーシュ 〔目が輝く〕 糧食だね。 第三の青年隊 さやうさ、てん~の上著の下から出てくるところにお目を止めてごらうじろ。 ド・ギーシュ 〔自分を抑へて大風に〕 貴樣たちの食ひあましをおれが食へると思ふか。 シラノ 〔禮をして〕 進歩したものですな。 ド・ギーシュ 〔高慢らしく、語調に思はず輕い訛を加へて〕 おれはかんからな腹で鬪ふのだ。 第一の青年隊 〔夢中になつてうれしがり〕 かんからかんか、お里をとう~むき出しだ。 ド・ギーシュ 〔笑ひながら〕 おれがか。 青年隊 ガスコンだ、ガスコンだ。 皆々踊り出す。 カルボン・ド・カステル=ジャルー 〔土手のうしろに姿をかくしたが、また土手の上にあらはれる〕 槍兵隊は列に就かせました。彼等は決死隊です。 〔うしろの槍の列を指さす、その頭は土手の上に見えてゐる〕 ド・ギーシュ 〔ロクサーヌに禮をして〕 わたしの手をおとり下さい、御一しよに閲兵をしませう。 〔彼女は男の手をとる、二人は土手の方へ行く。皆々脱帽してあとについて行く。〕 クリスチヤン 〔シラノの傍へ行き、せかついて〕 早く話してくれ。 〔ロクサーヌが土手の上にあらはれると、敬禮のため下げられて、槍の頭が見えなくなり、鬨の聲が上がる。〕 槍兵隊 〔外から〕 萬歳。 クリスチヤン 内證の話といふのは何だい。 シラノ ロクサーヌのことだが……。 クリスチヤン ロクサーヌに……。 シラノ 手紙の話をしたか……。 クリスチヤン うん知つてるよ……。 シラノ びつくりした風なんぞして、事をこはしてはだめだぞ。 クリスチヤン 何にびつくりするさ。 シラノ くはしくいはないと分らないがね……おい、何も大したことはないのだ -- たゞ今日あの人の顏を見たんで、 思ひ出したのだ。貴樣はあの人になあ……。 クリスチヤン 早くいへよ。 シラノ 貴樣はあの人になあ……貴樣が思ふより、しげ~あの人に手紙を出してゐるのだよ。 クリスチヤン それはどうして、 シラノ それはかうさ。おれは貴樣の代りになつて、貴樣の胸の炎を言葉に書き直す手傳ひをしただけさ。 ……とき~゛は一々「書いた」とことわらずに手紙を書いたこともあるのだ。 クリスチヤン やあ……。 シラノ それだけのことよ。 クリスチヤン だがかうして敵に圍まれてゐる中で、よくそれだけ運びができたなあ……。 シラノ ……なあにさ、夜明けなら……敵の中をぬけて行けるのだ。 クリスチヤン 〔腕を組んで〕 それが何でもないことかい。それでしげ~といふのは一週にどのくらゐ書いたのだね。 ……二度か -- 三度か -- 四度か -- 。 シラノ それどころかい。 クリスチヤン え、毎日かい。 シラノ うん、毎日 -- しかも二度。 クリスチヤン 〔亂暴に〕 それでそのたんびに君は氣のちがふほどうれしいのだな。そのために死生を忘れたのだな……。 シラノ 〔ロクサーヌの戻つて來るのを見て〕 しいツ、あの人の前ではいけない。 〔あわてゝ天幕の中に入る〕 第八景 ロクサーヌ、クリスチヤン。遠方に青年隊往つたり來たりする。カルボンと、ド・ギーシュ命令を與へてゐる。 ロクサーヌ 〔クリスチヤンの方へ駈けて行つて〕 あゝ、クリスチヤン、やつとこれで……。 クリスチヤン 〔彼女の手をとつて〕 さあわけを話して下さい -- あなたはどうしてこれほど危い敵地をぬけて、 野蠻な兵隊共の列を作つた中を通つて、こゝまで來てくれたのです。 ロクサーヌ だつて、あなた、お手紙を頂いたのですもの。 クリスチヤン 何ですつて。 ロクサーヌ わたしがこんな危い目を冐して來たのも、みんなあなたのせゐですわ。 あなたのお手紙がわたしの頭をのぼせかへらせたのですわ。まあ、この數ヶ月の間、 それはどの位たくさんのお手紙を下すつたでせう -- そして來るたんび~に、 お手紙はだん~美しい~情がこもつてくるのですもの。 クリスチヤン 何ですつて。 -- あれんばかりのおはづかしい戀文のために。…… ロクサーヌ 何にも仰しやらないでね。まああなたにはおわかりがないのですわ。あの晩、 あゝまでわたしにはめづらしいお聲で、わたしの家の窓の下から魂の底を打ちあけて下すつたその時から -- まあ、それからといふもの、わたくし、あなたを拜んでゐるのでございますわ。 さてこんどはあの一月、一日かゝさぬお手紙でせう -- わたくし、まるでそのお手紙を拜見する度に、 あの時のやさしい、まことのこもつた、ふつくりと包むやうなお聲を伺ふやうに思ひました。 ほんたうにあなたのせいですわ。わたくしをこゝまで引きよせたの、あの晩のお聲なのですわ。 まあ、むかしのユリツスも、あれほどの手紙を書いてやれたなら、いかに賢いペネロープだつて、 ぢつとして機なんぞ織つて家でお留守をしてはゐないでせう。 もうそれは絹絲の絲卷などは投り出して、エレーヌ女王のやうに、物ぐるほしく戀人の後を追つたでございませう。 クリスチヤン でも……。 ロクサーヌ わたくしはそれはもう何度も何度も讀みましたわ -- 讀むうちにほうつと變に魂を奪はれてしまひましたわ。 わたくしはのこらずあなたのものですわ。その手紙の一ひら一ひらが、風にひるがへる花びらのやうに、 あなたの心からひら~とぬけてわたくしの胸に吹きつけられてくるのですわ。 そのメルやうな一言一言に、それは思ひ入つた、力強い戀が刻みつけられてゐるのですわ……。 クリスチヤン 思ひ入つた戀ですつて。それが、ロクサーヌ、あなたにわかりますか……。 ロクサーヌ えゝ、わかりますとも。 クリスチヤン それであなたはこゝへ來たのですね……。 ロクサーヌ わたくしが來たのはおゝ、クリスチヤン、わたくしの心の戀人、 -- わたくしこゝにかうして、あなたのお膝にすがりましたなら、あなたわたくしを引きおこさうとなすつても -- そこに横になつたのは、わたくしの心ですもの -- それは決して上がりはしないでせう) -- わたくしのこゝまで來たのは、あなたのお許しを願ふためでしたわ。 (えゝ、こんどはお許しを願ふためにですわ。もうやがて死が近づくことでせうから。) わたくしは改めてあなたに働いた無禮の罪をゆるして頂かなければなりません、 初めはたゞあなたのお顏だけに戀をよせたわたくしの浮氣な心をおわびしなければなりません。 クリスチヤン 〔驚愕にうたれて〕 まあ、ロクサーヌ。 ロクサーヌ それから後では -- それほど浮氣でないまでも -- 羽はひろげてもとび立ち得ない小鳥のやうに -- あなたのお美しい噐量につながれ、あなたのおやさしい心にほだされて -- わたしは二つを一しよにしてあなたをお慕ひするやうになつたのでした。 クリスチヤン それで今は。 ロクサーヌ あゝ、あなたは御自分以上に優越しておしまひになつたのですわ。 かうしてわたしはあなたのお心ゆゑに、あなたをお慕ひ申してゐるのですわ。 クリスチヤン 〔後じさりして〕 ロクサーヌ。 ロクサーヌ およろこび遊ばせ。美しいかたちのために愛せられるのは -- それは時の立つと共にやがて絲目のほぐれてしまふ哀れな假面ですもの -- それは氣高い心に人に -- 向上の志のある人にとつては、苛責でございませう。 あなたのやさしいお心は、初めのうちこそわたくしの目を奪つたあの美しさを、 拭ひ消してしまひました。今こそわたくしにははつきりと見えますの -- もう目では何も見はいたしません。 クリスチヤン おゝ……。 ロクサーヌ あなたはまだこれほどの勝利をお疑ひになるのでせうか。 クリスチヤン 〔痛ましく〕 ロクサーヌ。 ロクサーヌ わたくしどうもあなたがまだこの戀をお信じにならないことが……。 クリスチヤン わたくしは [注:「わたしは」の誤り]そんな戀を求めてはゐないのです。わたしはもつと單純に愛されたのです。それは……。 ロクサーヌ それは、これまで外の人たちが、交る~゛あなたを愛したやうにと仰しやるのでせう -- いやなことですね。まあ、それよりももつとよい爲方で、愛させてくださいまし。 クリスチヤン いいえ、初めの戀のの方がよかつたのです。 ロクサーヌ まあ、何にも聞いていらつしやらないのね。今こそわたくしはこの上なく愛してゐるのですわ。 -- 立派な愛ですわ。わたしのお慕ひ申すのは -- あなたのまことのすがたですわ。 あなたの華々しい光がうすれても……。 クリスチヤン しいツ。 ロクサーヌ わたくしやはりあなたを愛しますわ。さうよ。あなたの美しさが今日限り無くなつてしまつても……。 クリスチヤン そんなことを言はないで下さい。 ロクサーヌ いいえ、わたくしは申します。 クリスチヤン 醜くつても。どうしてね。 ロクサーヌ 醜くつても。わたくし、やはりあなたを愛することを誓ひますわ。 クリスチヤン あゝ。 ロクサーヌ やつとそれで滿足でせう。 クリスチヤン 〔つまつた聲で〕 えゝ……。 ロクサーヌ どうかなすつて。 クリスチヤン 〔やさしく彼女を押しのけながら〕 何でもありません……ほんの二言いふことがあるのです -- ちよいとの間……。 ロクサーヌ でも……。 クリスチヤン 〔青年隊を指さしながら〕 あの可哀さうな連中は、もう程なく死ぬ運命です -- わたしの戀にかまけて、 あの人たちからあなたを引きはなしてゐました。行つて -- 物をいつてやつて下さい、 笑ひかけてやつて下さい、死にに行く前に。 ロクサーヌ 〔深く感動して〕 やさしいクリスチヤン……。 彼女は青年隊の方へ行く、青年隊等敬意を以て彼女のまはりに群る。 第九景 クリスチヤン、シラノ。後景にロクサーヌ、カルボンと青年隊の或人々と話してゐる。 クリスチヤン 〔シラノの天幕に聲をかける〕 シラノ。 シラノ 〔すつかり武裝をしてまた出てくる〕 何だ。どうしてそんな蒼い顏をしてゐる。 クリスチヤン あの人は僕を愛してはゐないのだ。 シラノ 何だと。 クリスチヤン -- だつてあの人はたゞ僕の心だけを愛してゐるといふのだ。 シラノ ほんたうか。 クリスチヤン さうだよ、それ -- 見ろ、その心といふのは君の心だ……だからあの人の愛してゐるのは君なのだ -- そして君も -- あの人を愛してゐるのだ。 シラノ おれが。 クリスチヤン おゝ、俺は知つてゐるぞ。 シラノ さうだ、それはその通りだ。 クリスチヤン 君は狂氣に近いほど愛してゐる。 シラノ さうよ、いや、それ以上だ。 クリスチヤン ではあの人に一そう打ち明けるがいい。 シラノ いやだ。 クリスチヤン でもなぜさ。 シラノ おれの顏を見ろ。 クリスチヤン あの人は醜くつても僕を愛したらう。 シラノ あの人はさういつたか。 クリスチヤン あゝ、さういふ言葉で。 シラノ おれはあの人がさう貴樣にいつたと聞くと嬉しいよ、だが馬鹿だ -- そんな言葉をほんたうにするな。 あの人がさう貴樣にいはうと考へただけでもうれしいのだ。それをほんたうに思ふな。 醜くなつてはならんぞ。 -- さうしたらあの人はおれを責めるだらう。 クリスチヤン 僕はそれを見せてもらひたい。 シラノ いけない、お願ひだ。 クリスチヤン あゝ、あの人は二人の中一人を擇ぶだらう -- あの人に何もかもうち明けてくれ。 シラノ いいや、いいや。おれはそれはしまいぞ。それはゆるしてもらひたい。 クリスチヤン よし、僕の顏がたま~綺麗であつたにしても、 それであの人の幸福を破つていいものだらうか。それはあまり不道理だ。 シラノ さう言やおれだつて -- 自然のいたづらで、たま~おれに物をいふ才能があるからといつて -- 多分は貴樣だつて心には感じて口にいへないことを、いふだけの才能があるからといつて、 おれが貴樣の幸福を臺なしにすることができるものか。 クリスチヤン のこらずいつてしまへよ。 シラノ おれをそんな風に誘惑するのは罪だよ。 クリスチヤン 隨分久しくおれは自分の心の中に戀の敵をしよつて歩いてゐたのだ -- もう澤山だ。 シラノ クリスチヤン。 クリスチヤン おれたちの結婚といつても、立會人もなし -- 祕密にやつた -- 人しれない結婚なんか -- すぐにも破れるよ。 よしこの先おれたちが生きのこるにしたところが。 シラノ おや~ -- まだ強情をいひはるのか。 クリスチヤン 僕は自分を愛してもらひたい -- さもなきやまるつきり愛してもらひたくないのだ -- 僕は行つて、みんなの樣子を見てくるよ -- あそこの歩哨の所へ行つて。 あの人にいつてしまつてくれたまへ、そのあとでわれ~二人のどちらでも擇んでもらつてくれたまへ。 シラノ それは貴樣だらうさ。 クリスチヤン まあ……、どうかさうありたいものさ。 〔呼ぶ〕 ロクサーヌ。 シラノ よせ、よせ。 ロクサーヌ 〔正面に出て來る〕 何に。 クリスチヤン シラノが何かお耳に入れたい用事があるさうですよ。 彼女はシラノに近づく。クリスチヤンは出て行く。 第十景 ロクサーヌ、シラノ、後からル・ブレー、カルボン・ド・カステル=ジャルー、青年隊、ラグノー、ド・ギーシュ等。 ロクサーヌ 用事ですつて何に……。 シラノ 〔ぼんやりして〕 行つてしまひましたね。 〔ロクサーヌに〕 何でもないんですよ。……まあ、あの男が、何でもないことを、 大したことにいふのは御存じでせう。 ロクサーヌ 〔はげしく〕 あの人わたしのいつたことを疑つてゐるのでせうか。 -- あゝさうよ、 あの人きつと疑つてゐるのよ。 シラノ 〔彼女の手をとつて〕 でもあなたはたしかにほんたうの心を、あの男にうちあけたのですか。 ロクサーヌ えゝ、わたしあの人を愛しますわ、それはあの人がよし…… 〔いひかけてためらふ〕 シラノ 〔悲しく笑つて〕 その言葉をわたしの前でいふのは工合がわるいんですか。 ロクサーヌ わたくし……でも。 シラノ わたしは何とも思やしませんよ。お言ひなさい。あの人が醜くつてもとね。 ロクサーヌ さうです、醜くつても。 外に一齊射撃の音。 おや。うち出しましたね。 シラノ 〔夢中で〕 恐ろしい顏でも。 ロクサーヌ 恐ろしい顏でも。えゝ。 シラノ かたわでも。 ロクサーヌ えゝ、かたわでも。 シラノ 異形でも。 ロクサーヌ それはどうしたつて、わたくしにとつて化物のやうには見えますまい。 シラノ それでもやはり愛しますか……。 ロクサーヌ それでもやはり -- いいえ、それだと餘計に。 シラノ 〔自制の力を失つて -- 傍白〕 ありがたい。きつとそれはほんたうだ、愛の幸福がそこに待つてゐるのだ。 〔ロクサーヌに〕 わたしは……ロクサーヌ……聞いて下さい……。 ル・ブレー 〔あわてゝ入つて來て -- シラノに〕 シラノ。 シラノ 〔振り向いて〕 何だ。 ル・ブレー しいツ。 〔何かシラノの耳の傍で囁く。〕 シラノ 〔ロクサーヌに手を出して叫び聲を立てる〕 あゝ……。 ロクサーヌ 何です。 シラノ 〔獨り言に -- ぼんやりして〕 それで萬事終つた。 また射撃の音。 ロクサーヌ どうしたのでせう。あれ。また射ち出しました。 外の樣子を見にまた立上がる。 シラノ もう間にあはない。おれはもういふことはできない。 ロクサーヌ 〔駈け出ようとして〕 何か起つたのですか。 シラノ 〔はげしく彼女を止めて〕 何でもないんです。 青年隊の數人入つてくる、運んで來るものを隱すやうにして、 そのまはりに集つてロクサーヌに傍によるのを憚る樣子である。 ロクサーヌ それにこの人たちは。 シラノ 〔彼女を引き寄せて〕 構はずにお置きなさい。 ロクサーヌ 今しがたあなたは何をいはうと爲すつたの……。 シラノ 何をわたしがいはうとした……何にも。えゝ何にも、全くです。 〔嚴かに〕 わたしは誓ひます。クリスチヤンの才も、魂も……。 〔あはてゝ訂正して〕 いいえ、それはあくまで氣高いものでした……。 ロクサーヌ でしたとは。 〔高い叫び聲を立てる〕 あゝ……。 〔何もかもつきのけて駈け出す〕 シラノ いよ~終つたのだ。 ロクサーヌ 〔クリスチヤンが外套にくるまつて地の上に横たへられた姿を見る〕 おゝクリスチヤンさま。 ル・ブレー 〔シラノに〕 敵のうち出した第一彈でやられたよ。 ロクサーヌ、クリスチヤンの死骸に體を投げかける。また新らしい大砲のの音 -- 劍戟のもの音 -- どよめき -- 太鼓の音。 カルボン 〔劍を空にふりまはして〕 來たぞ。銃をとれ。 〔青年隊を從へて、土手の向う側へ行く〕 ロクサーヌ クリスチヤンさま。 カルボン 〔向う側で〕 それ、早く。 ロクサーヌ クリスチヤンさま。 カルボン 列を作れ。 ロクサーヌ クリスチヤンさま。 カルボン 火繩の用意。 ラグノー兜の中に水を入れてもつて駈け出してくる。 クリスチヤン 〔瀕死の聲で〕 ロクサーヌ。 シラノ 〔ロクサーヌが夢中になつて、胸につけた布を引きさいて、水にひたして傷口に當てようとしてゐる間に、〕 小聲でクリスチヤンの耳に囁く おれはあの人にみんないつたぞ。あの人はまだ貴樣を愛してゐるぞ。 クリスチヤン目を閉ぢる。 ロクサーヌ どうあなた。 カルボン 込矢引け。 ロクサーヌ 〔シラノに〕 もうだめでせうか。 カルボン 藥莢を齒で開け。 ロクサーヌ あゝ、すりつけてゐるこの人の頬が、だん~冷たくなりますわ。 カルボン 狙へ。 ロクサーヌ 手紙が。 〔開けて見る〕 わたしに宛てたのだ [注:「宛てたのですわ」の誤り]。 シラノ 〔傍白〕 おれの手紙だ。 カルボン うて。 一齊射撃 -- 鬨の聲 -- 戰鬪の響。 シラノ 〔ロクサーヌが膝の上に抑へてゐる手をはなさうとして〕 でもロクサーヌ、あれあの通り戰つてゐます。 ロクサーヌ 〔引き止めて〕 まあしばらくゐて下さいまし。この人は死にました。 あなたの外にこの人を知つてゐる人もありませんでせう。 〔靜かに涙を拭いて〕 まあ、美しい心の人でしたに、めづらしい天才の人でしたのに。 シラノ さうです、ロクサーヌ。 ロクサーヌ 稀世の詩人でしたのに。 シラノ さうです、ロクサーヌ。 ロクサーヌ その上それは氣高い精神の人でした。 シラノ あゝ、さうですね。 ロクサーヌ 世俗の心に汚れるにはあまりに深いお心、立派な、可哀らしい心の方でした。 シラノ 〔しつかりと〕 さうです、ロクサーヌ。 ロクサーヌ 〔死骸の上に體を投げかけて〕 その戀人も死にましたわ。 シラノ 〔傍白 -- 劍をぬいて〕 あゝ、これではおれも今日は死なずばなるまい -- 何にも知らずに、 この女は、あの男に托してこのおれの死を悔んでゐるのだ。 遠方に喇叭の音。 ド・ギーシュ 〔土手の上にあらはれる -- 兜を脱いでゐる -- 額に手疵をうけてゐる -- 雷のやうな聲で〕 合圖だぞ。喇叭の聲がするぞ。味方が糧食をもつてやつて來たぞ。もうしばらくだ。持ちこたへろ。 ロクサーヌ これ、手紙の上に血がにじんでゐますわ -- 涙も。 一つの聲 〔外で -- 叫ぶ〕 降參しろ。 青年隊 何くそツ。 ラグノー 〔馬車の上に突つ立つて、土手越に戰鬪をながめてゐる〕 だん~危くなつて來たぞ。 シラノ ド・ギーシュに、ロクサーヌに指示しながら 頼みますぞ。この人を連れて行つてください。 ロクサーヌ 〔手紙に接吻して -- 半ばかすれた聲で〕 この人の血。この人の涙。 ラグノー 〔馬車からとび下りて、ロクサーヌの方へ駈けよる〕 氣絶なすつた。 ド・ギーシュ 〔土手の上で -- 青年隊に -- 猛つて〕 しつかりしろ。 一つの聲 〔外で〕 武噐を捨てろ。 青年隊の聲 何くそツ。 シラノ 〔ド・ギーシュに〕 さあ、閣下、あなたの御勇氣は見えました。 〔ロクサーヌを指さして〕 この人を救けてこゝを逃げて下さい。 ド・ギーシュ 〔ロクサーヌの傍へ駈けて行き、腕に抱へて立つ〕 よし來た。しばらくこらへろ、勝利は味方のものだ。 シラノ よろしい。 〔ロクサーヌに向つて呼ぶ、彼女はド・ギーシュにラグノー手傳つて、人事不肖のまゝで運んで行く〕 さやうなら、ロクサーヌ。 どよめき。叫び聲。青年隊手疵を負つて、また出て來て、舞臺の上に倒れる。 シラノ、戰場に突進しようとして、カルボン・ド・カステル=ジャルーに引き止められる、 カルボンは血を流してゐる。 カルボン 退却だ。おれはやられた -- 二度矛で。 シラノ 〔ガスコーニュ隊に向つて叫ぶ〕 しつかりやれえ。やい、ガスコンの奴等、背を見せるな。 〔支へてやつてゐるカルボンに〕 大丈夫だ。おれは二人の敵をとらねばならん。クリスチヤンと、おれの死んだ幸福のために。 〔皆々また下りて行く -- シラノ、ロクサーヌのハンカチを尖に結んだ槍を振りまはしながら〕 なびけ風に、あの人の名前を縫ひ込んだハンカチよ。 〔槍を地べたに突き立てゝ、青年隊に向つて叫ぶ〕 かゝれ、ガスコン共、ぶつつぶせ。 〔笛手に〕 笛吹、一曲やれい。 笛手吹く。負傷者立ち上がらうとする。青年隊數人、一人一人重なつて土手をころがつて來て、 シラノと小旗のぐるりに集る。馬車の中は外も人がいつぱいになり、 銃槍が立ちならび角面堡とかはる。 一人の青年隊 〔土手の上にあらはれ、撃退されながら、それでもなほ鬪つて、叫ぶ〕 敵は土手を上がつて來た。 〔いひながら死んで倒れる〕 シラノ どれ、御挨拶申上げようか。 土手は見る~夥しい敵軍の一隊で蔽はれる。帝國の大軍旗が押し立てられる。 シラノ 射てえ。 一齊射撃。 叫び聲 〔敵軍の中から〕 射てえ。 はげしい反撃。青年隊八方に倒れる。 イスパニヤの士官 〔脱帽して〕 飽くまで死守する君たちは誰だ。 シラノ 〔彈丸の雨の中に立つて朗誦する〕 これやガスコン健兒の青年隊 將はカルボン・ド・カステル=ジャルー 男逹、劍客、大法螺吹き…… 五六人の生存者を從へて敵の中に突進する。 これやガスコン健兒の…… シラノの聲は戰鬪の中に沒してしまふ。 ---- 幕 ---- [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2003/06/21 シラノ・ド・ベルジュラック:第五幕 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第五幕 シラノの新聞 十五年の後、一六五五年。パリーに於ける修道院内の遊苑。 深い樹立、左手に家、廣い階段、その奧に幾つかの扉口、 舞臺の中央楕圓形の小廣場に孤立して一本の大木。右手前景、 大きな黄楊の木の茂みの中に、半圓形の石の腰掛け。 舞臺の奧全部マロニエの木の並木道が通じ、右手後景マロニエの木の間に隱見する禮拜堂の扉口にまでつゞく。 この並木の二列になつた樹立を通じて芝生、他の並木、苑内の道、空が見える。 禮拜堂は小さい側面の扉によつて、紅く色づいた葉で飾られた柱廊に向ひ開かれる。 その柱廊は更に右手前景黄楊の木の後に到つて見えなくなる。 季節は秋。樹々の紅葉が芝生の美しい緑に對映してゐる。青い黄楊と水楊の木が眞黒な影を印してゐる。 それ~゛の樹の下には黄葉が散りしく。舞臺は一面の落葉。並木道を踏めば、 かさこそと音をたてる。その上階段と腰掛を半ば隱してゐる。 右手の腰掛と木との間に大きな刺繍の臺、その前に小さい椅子が置いてある。 絲玉や絲卷の一杯はひつた籠。しかけの刺繍。 幕が上がると尼逹、遊苑の中を行つたり來たりしてゐる。ある者は年上の尼を取卷いて腰掛にかけてゐる。 落葉が雨のやうにふる。 第一景 教母マルゲリット、教妹マルト、教妹クレール、他の教妹逹。 教妹マルト 〔教母マルゲリットに〕 クレールさんは頭巾が似合ふかどうかつて、鏡を二度までも、御覽になつたのですよ。 教母マルゲリット 〔教妹クレールに〕 よくないことですね。 教妹クレール でもマルトさんは、タルトの杏を出して食べていらつしやるところを今朝拜見してよ。 教母マルゲリット 〔教妹マルトに〕 まあ卑しいことですね。 教妹クレール ほんのちよいと見ただけですわ。 教妹マルト ほんの小さな杏ですわ。 教母マルゲリット シラノさんに言ひつけますよ。 教妹クレール 〔恐れてあらそれだけは御免よ。 -- あの方おからかひなさるから。〕 教妹マルト あの方は仰しやるでせう。尼さん逹は隨分おしやれだつて。 教妹クレール さうして隨分食ひしん坊だつて。 教母マルゲリット 〔微笑しながら〕 えゝ、それから隨分優しいつてねえ。 教妹クレール ねえ、マルゲリット樣、あの方はもうこの十年といふもの、毎週土曜日にはこのお寺にいらつしやるのでせう。 教母マルゲリット いゝえ、もつと前からですよ。えゝ、あれは一四年も前でした。 あの方のお從妹さんがここへお出になつた時からですよ。 尼寺の白い鳥の仲間に一羽交つた黒鳥のやうに、わたし逹の麻の頭巾の中へ、 世の中の悲しみを込めたやもめの薄ものをお交へになつた時からですよ。 教妹マルト あの時から年月經つても消えないあの方の胸の惱みを、 その時々に慰める術《すべ》を知つていらしつたのはシラノ樣だけでした。 教妹逹皆々 あの方隨分おどけた方ね -- あの方がいらつしやると面白いわ -- あの方隨分おからかひになるのね -- でもみんなあの方はお好きね -- あの方にアンジェリカ草のパテをこしらへてあげませうよ。 教妹マルト でもあの方ごく信心の深いカトリックではおありにならないのね。 教妹クレール わたし逹で、あの方改宗させませうよ。 教妹逹 さうしませうよ、さうしませうよ。 教母マルゲリット あなた方、それはいけません、いゝえ、そんなことであの方を困らせてはなりません -- さうすると懲りて今迄のやうにお出でがなくなりますよ。 教妹マルト でも……神樣は……。 教母マルゲリット いゝえ、それは大丈夫です。神樣はあの人をよく御存じでいらつしやいます。 教妹マルト でもいつでも土曜日にお出でになると磊落な風で、「ねえ、僕は昨日肉を食べたよ。」 なんておつしやるんですもの。 教母マルゲリット まあ、そんなことをおつしやるの。どうして、 この前いらしつた時なんかはもうまる二日も食物はお口に入らずにゐたのですよ。 教妹マルト まあ。 教母マルゲリット あの方は貧乏なのですよ。 教妹マルト 誰がさう申しまして。 教母マルゲリット ル・ブレーさんがね。 教妹マルト 誰も助けて上げないのでせうか。 教母マルゲリット それはあの方が承知しません。 奧の並木道にロクサーヌが現れる。やもめの冠る頭巾と長いヴェールを被つて、 黒の喪服を著てゐる。ド・ギーシュが立派な風彩ながら、目に見えて年をとつたのが、 傍に並んで歩む。二人はそろ~と歩く。教母マルゲリットは立上がる。 もう入りませう。……マドレーヌさんがお客樣と庭を散歩していらつしやる。 教妹マルト 〔教妹クレールに向つて小聲で〕 元帥のグラモン公爵でせう。 教妹クレール 〔彼を見て〕 さうらしいのね。 教妹マルト もう何箇月か尋ねてお出でになりませんでした。 教妹等 隨分お忙しいのよ -- 宮中のはうも -- 戰爭のはうも……。 教妹クレール 御交際のはうもね。 皆々出て行く。ド・ギーシュとロクサーヌは默つた儘前へ出て來て刺繍臺の傍へ來て立止まる。 第二景 ロクサーヌ、ド・グラモン公爵 -- 昔のド・ギーシュ伯爵、後からル・ブレー及びラグノー。 公爵 それであなたはこゝにかうしていつまでも、喪服の儘、女盛りを埋れてしまふお積りなのですか。 ロクサーヌ えゝ、いつまでも。 公爵 やはり操を守つて。 ロクサーヌ えゝ相變らず。 公爵 〔間を置いて〕 わたしは許されたのでせうか。 ロクサーヌ 〔修道院の十字架を眺めながら、短く〕 えゝ、わたしがこゝへ參りましてからは。 又沈默。 公爵 あの人は立派な人物だつたとおつしやるのですな……。 ロクサーヌ えゝ、あなたは御存じの筈でせう。 公爵 えゝ多分はね……どうも然し、わたしはほんたうには知らなかつたのですな…… であの人に最後の手紙は、始終あなたの胸に祕められてゐる。 ロクサーヌ 肌身離さず、お守りのやうにかけてをりますの。 公爵 では死んでしまつても、あなたはまだあの人を愛してゐるのですか。 ロクサーヌ 時々わたくし思ひますの、あの人はほんの體だけ死んだので、二人の心はいつまでも戀を語りつづけてゐる。 あの方の愛情がその儘生きて、いまだにわたくしのまはりに漂つてゐるやうなのでございます。 公爵 〔又沈默の後〕 シラノは尋ねて來ますか。 ロクサーヌ えゝ、ちよい~。 -- なつかしい優しい昔馴染のお友逹ですわ。 あの方は、わたしの新聞の代りになつてゐて下さるのでございます。 あの方はきつと几帳面にいらしつて、ちやうどこの木の下にお天氣の好い日には椅子を据ゑます。 わたくしはおとなしく待つて刺繍を致してをります -- 時計が鳴ります、 その最後の音が鳴り止むと -- もう決して振り向いて見るまでもなく、 あの人の杖がこつこつと石段に當る音が聞えるのでございます。 あの方は腰を下すと、輕い冗談交りに、いつ出來上がる時のないわたくしの刺繍を見てはからかひます。 さうしてわたくしに、この一週間の世間の出來事を殘らず話して下さいます。それから……。 ル・ブレー階段の上に現れる。 おや、ル・ブレーさん。 お友逹はどんな風ですの。 ル・ブレー よくない、どうも非常によくないのです。 公爵 どうしたね。 ロクサーヌ 〔公爵に〕 大袈裟に言ふのですよ。 ル・ブレー 何もかもわたしが昔豫言した通りです、落ちぶれて尾羽打枯してしまひました…… その上あの男の公開状は今になつても新規な敵を作つてゐます -- 何しろえせ貴族、えせ信者、えせ勇士 -- 剽窃作者、何といふ事なしに片つぱしから世間相手に喧嘩を賣るのですからね。 ロクサーヌ まあ、でもあの人の劍には誰一人まともに刄向ふ人はありますまい。 公爵 〔首を振つて〕 さあ、どうだかね。 ル・ブレー あゝ、でもあの男の爲に恐れるのは世間の攻撃ではありません…… それよりも孤獨です -- 饑餓です -- 冷い十二月です。 それは狼のやうにそつとあの男の荒れ果てた暗い部屋の中へ入つて來るのです。 全くこれこそあの男にとつて恐ろしい刺客です。 毎日のやうにあの男はボタンの穴一つづつ革帶が狹くなつて來るのです。 あの可哀相な鼻は -- 古物の象牙のやうな色になつて來ました。 著る物といつては、もう粗末なセルの服一著しか持ちません。 公爵 まあ運命の御襃美に預らなかつた男さね。 -- だが自業自得だ、氣の毒がるにも當らない。 ル・ブレー 〔苦笑ひをして〕 元帥閣下。 公爵 まつたく、氣の毒がることはないさ。あの男は何事も心の儘に、したい儘にやるといふ、 あの男の持つて生れた精神を押通して來たのだから。 ル・ブレー 〔同じ調子で〕 然し閣下。 公爵 〔傲慢に〕 さうだよ。わしは何でも持つてゐるが、あいつは何も持たない。……だがわしは立派にあいつと握手してやらうよ。 〔ロクサーヌに挨拶をしながら〕 ではお暇しませう。 ロクサーヌ そこまで御一緒に。 公爵ル・ブレーに挨拶する、ロクサーヌと階段の方へ歩いて行く。 公爵 〔彼女の階段を上がつて來る間立止つて〕 いや全くはあの男を羨しいとも思ひますよ。 -- まあ考へて見て下さい。 人の一生は餘り成功し過ぎると、 -- 勿論過去に何も後暗い事をしたのでなくつても -- 何となく、 數しれない厭な思ひが殘ります。これをまとめて考へると、後悔といふのではないが、 ほんやりとした不安がそこにありますね。それで世間の名譽の階段を一つ一つ登るにつれて、 公爵の毛皮の外套は、その裏に滅びた幻影、空しい悔恨の微かな絹づれを伴つてゐるのです。 それは木の葉の戰ぎといふほどでもない、あなたがその石段を上つて來られる時、 あなたの喪服の裾が落葉に觸れて、微かにさら~と鳴るやうなものではあるが。 ロクサーヌ 〔皮肉に〕 あなたはまあ空想家でいらつしやること……。 公爵 さうですとも、 〔行きかけて突然〕 ル・ブレー君、 〔ロクサーヌに〕 失禮、ちよいと一言。 ル・ブレーの傍へ行き、小聲で 全くだ。誰も敢へて君の友人を攻撃する者はないだらう。だが憎んでゐる者は隨分ある。 昨日も女王陛下のカルタ會で誰かが、「シラノといふ男は不慮の變事で死ぬかも知れぬ。」と言つてゐた。 ル・ブレー え。 ロクサーヌ[注:公爵の誤りか?] さう、なるべく内にゐて用心させるがいゝよ。 ル・ブレー 〔兩腕を空に上げながら〕 用心しろ、成程今にここに來るでせう。よく言つてやりませう -- ですが……。 ロクサーヌ 〔階段の上に立止つてゐたが、そこに來かかつた一人の教妹に〕 何か御用。 教妹 ラグノーさんがお目にかゝりたいと言つておいでです。 ロクサーヌ こちらへどうぞ。 〔公爵とル・ブレーに向ひ〕 あの男はいろ~心配事を打明けに來るのですよ。作者にならうとしたものの、氣の毒な、 色んなものに變つてしまつて、先づ第一に歌唄ひ……。 ル・ブレー 湯屋番……。 ロクサーヌ それから役者……。 ル・ブレー 寺男……。 ロクサーヌ それから鬘師……。 ル・ブレー テオルブのお師匠さん……。 ロクサーヌ それで今では何になつてゐるのでせう。 ラグノー 〔大急ぎで入つて來て〕 あゝ、奧さま。 〔ル・ブレーを見て〕 やあ先生、あなたも。 ロクサーヌ 〔微笑しながら〕 お前さんの打續く不幸をこの方にお話しなさい。わたしはすぐに歸つて來ますよ。 ラグノー でも奧さま……。 ロクサーヌ、公爵と共に出て行く。彼はル・ブレーの方へ來る。 第三景 ル・ブレー、ラグノー。 ラグノー とにかくあなたがここにおいでになるのだから、あの方は何も御存じない方がいいでせう。 -- 實はわたくし今し方あなたのお友逹の處へ上がりました。ちやうどお住ひから五六間手前で…… わたくしはあの方のおいでになる姿を見ました。わたくしは急いで驅けて行きますと、 あの方は町の角を曲らうとなさるのです。……するといきなり通りかゝつた家の窓から -- まあ偶然でしたらうが……一人の小者が大きな材木を落したのです。 ル・ブレー 卑怯者め……。あゝシラノは。 ラグノー わたくしは驅けよつて -- 見ました……。 ル・ブレー 考へてもぞつとする。 ラグノー どうです、あなた、我々の詩人は -- 我々のお友逹は、地面の上に打倒されて、頭に大きな負傷をしてゐられるのです。 ル・ブレー 死んだか。 ラグノー いゝや、……とにかくわたくしは家の中へ、あの方のお部屋へかつぎ込みました。 まあそのお部屋といふのが、見るも涙の種ですよ。 ル・ブレー 苦しがつてゐるかね。 ラグノー いゝや、まるで正體が無いのです。 ル・ブレー 醫者は來たかい。 ラグノー 一人まあ、お情ごかしで來てくれました。 ル・ブレー 可哀さうなシラノ。 -- この話をだしぬけにロクサーヌにしてはいけない。 -- でそのお醫者は何と言つてゐた。 ラグノー 何ですか、わたくしにはわからない事を -- 熱があるとか、腦膜炎をおこしたとか、 まあとくかく樣子を見てあげて下さい。頭はすつかり繃帶してあります……早速行きませう。 -- 誰も枕元についてゐる者はないのです。あれで無理に起きあがれば死んでしまひます。 ル・ブレー 〔右手の方に引張りながら〕 さあ、禮拜堂を拔けて行かう。あれが一番の近道だ。 ロクサーヌ 〔階段の上に現れる。ル・ブレーが禮拜堂の扉口に續く柱廊を通つて行くのを見て〕 ル・ブレーさん。 ル・ブレーとラグノーは返事もしないで逃げて行く。 ル・ブレーさんは行つてしまつた、わたしが呼んでゐるのに。 きつとまたラグノーぢいさんの新しい物語ができたのだよ。 〔階段を下りる〕 第四景 ロクサーヌ一人。後から二人の教妹。 ロクサーヌ まあこの九月の終りの日の美しいこと、わたしの胸の悲しみもほつと息をつくやうな、 春の日の喜びは目が眩むやうで、思はず悲しみもまぎれるが、秋の日は却つて靜かな心で慰めてくれる。 〔刺繍臺に向ふ。二人の教妹逹は家の中から出て來て木の下に大きな肱掛椅子を置く〕 あゝ又あの人が、昔馴染のあの人が、腰をかけに來る。いつもの椅子が出ましたね。 教妹マルト でもこれが應接室で一等大きい椅子なのですよ。 ロクサーヌ ありがたう。 〔教妹等去る〕 もうおつつけあの人も來るでせう。 〔腰をかける、大時計が打つ〕 時計が鳴る、 -- わたしの絲卷は -- まあ時計が打つてゐるのに、 あの方が今日に限つて時間に遲れるといふのはどうしたといふのでせう。 きつと門番のおばあさんが -- おや指拔きはどうしたでせう……あゝ、あつた -- きつと悔悟をさせるつもりでお説教をしてゐるのね。 〔間〕 えゝきつとお説教をしてゐるのに違ひないわ、もうぢきにいらつしやるに違ひないわ。 まあ、木の葉の落ちること。 〔爲事の上にかゝつた葉を拂ふ〕 それでなくつて外に何も -- おや鋏は -- あゝ袋の中だつた。 -- ほかにあの方を妨げるものはないはずですもの。 一人の教妹 〔階段の上に現れて〕 ド・ベルジュラックさんですよ。 第五景 ロクサーヌ、シラノ、暫くの間教妹マルト[。] ロクサーヌ 〔振り向くことなしに〕 わたし何を言つてゐたのでせう。 彼女は刺繍をする。シラノはひどく蒼い顏をして、帽子を目の上まで冠つて出て來る。 案内をした教妹は去る。彼はそろ~と階段を下りる。見るから自分の體をまつすぐに支へてゐることがやつとらしく、 苦しさうに杖にすがつてゐる。ロクサーヌはその儘刺繍の爲事を續けてゐる。 まあ、この色の褪めたこと……これをどういふ風に直したら色が出逢ふでせうね。 〔シラノに向ひ、冗談に叱るやうな調子で〕 遲刻は今日が初めてね。もう一四年の間に今日が初めて[。] シラノ 〔やつと椅子に辿りついて腰を下ろす -- 青ざめた顏にまるで釣合はない元氣な聲で〕 さうです、ひどい奴だ、すつかり遲らせられてしまつた。 ロクサーヌ 何で……。 シラノ 圖々しい厭な客のために。 ロクサーヌ 〔氣にも留めないやうに爲事をしながら〕 掛取りでも。 シラノ さうですよ。わたしから借金をはたり取る最後の掛取りです。 ロクサーヌ それでお拂ひになりまして。 シラノ いゝやまだ。延ばしました。かうわたしは言ひました。お氣の毒だが今日は土曜日で、 どうしても義理にある人に逢はなければならない、あとにして下さい、とね。 ロクサーヌ 〔無造作に〕 おや~それではその掛取りはうんと待たなければなりませんのね。 わたくしどうせ日暮れまではあなたをお歸ししませんから。 シラノ 事に依るとその前にお暇をするかもしれません。 〔 目を閉ぢる、暫く沈默する。教妹マルトは苑の向うを、禮拜堂から階段の角まで横ぎる。 ロクサーヌはその姿を認めて傍に來るやうに合圖をする 〕 ロクサーヌ 〔シラノに〕 まあどうしてあなたはいつものやうにマルトさんにおからかひにはなりませんの。 シラノ 〔あわてゝ兩眼を開いて〕 さうだ。 〔おどけた大聲で〕 マルトさんおいでなさい。 〔教妹は彼の傍へ駈けて來る〕 はゝゝ、どうしましただ。この可愛らしい眼はいつも羞しさうに下向いて。 教妹マルト 〔笑ひながら目を上げて〕 でも…… 〔シラノの顏を見て、變つてゐるのでびつくりしたといふ顏つき〕 あら。 シラノ 〔ロクサーヌを指し、小聲で〕 これ、靜かに、何でもない。 〔大聲にとんきような聲で〕 僕は今日も肉を食べましたよ。 教妹マルト わかつてゐますわ。 〔傍白〕 それだからあの人はあんなに蒼い顏をしてゐるのよ。 〔早口に小聲で〕 早く食堂にいらつしやい。うまいスープをたんと御馳走してあげますよ……いらつしやいますか。 シラノ はい、はい、はい。 教妹マルト あらまあ、今日はあなたは大そうお聞きわけがよろしいこと。 ロクサーヌ 〔二人のひそ~話を聞いて〕 マルトさんはあなたを改宗させようといふのよ。 教妹マルト いゝえ、そんなことはありませんわ。 シラノ いや、それは全くだ。あれ程おしやべりだつたあなたも、もうわたしにお説教はしないでせう。 驚いたことだなあ…… 〔わざとらしい大仰な聲で〕 よし、わたしが一つ驚かしてやらう。いゝかね。かういふ譯だ…… 〔何かマルトをからかふ種を探すやうな振をして、やつとそれを見つけたやうに〕 あゝ、少し種が新し過ぎるかな -- とにかくわたしのために今夜はお堂でたつぷり祈つて貰ひませう。 ロクサーヌ まあ、まあ。 シラノ 〔笑つて〕 マルトさんはびつくりしたかい。 教妹マルト 〔おとなしく〕 わたくしはあなたから、さういふお許しが出ようとは思ひませんでした。 〔出て行く〕 シラノ 〔相變らず爲事に夢中になつてゐるロクサーヌに向ひ〕 相變らずの刺繍女史か。全體わたしの眼は、いつそれのお終ひを見ることやら。 ロクサーヌ きつとそれを仰しやるだらうと思つてゐました。 輕い風が起つて木の葉が落ちる。 シラノ 秋の落葉か。 ロクサーヌ 〔首を上げて、向うの並木道を眺めながら〕 あの柔かなブロンドはヴェネチア人の髮の色でございますね。まあ、よく落ちますこと。 シラノ 御覽なさい、勢よく落ちて息ますね。最後の旅路を急いで土と共に朽ちて行く。 それに末期の恐れを隱して、あくまでも品よく無造作に落ちて行くのです。 ロクサーヌ まあ、あなたは大そう悲しさうに。 シラノ 〔氣を取り直して〕 何、ロクサーヌ、そんなことは。 ロクサーヌ ではあのプラターヌの葉なんぞは落ちたい儘にまかせてお置きなさいまし…… それよりかお話をしませうよ。まああなた今日は何にも面白い種を持つて來て下さらなかつたの。 わたくしの新聞は。 シラノ ぢやあ、始めます。 ロクサーヌ えゝ。 シラノ 〔益々蒼くなり、苦痛をこらへながら〕 十九日、土曜日、國王陛下には八囘セット産の葡萄糖をきこしめされし爲、御發熱あり、 されど鍼治によりて、件の大逆人鎭定し、御脈平靜にかへらせ給ふ。 日曜日、女王陛下御主催の舞踏會に於て大白蝋を燈すこと七百六十三本なり。 聞くところによれば我軍はオーストリヤ軍を撃退したりといふ。 巫女四名絞罪に處せらる。ダチス夫人の愛犬は灌腸を試みることゝなれり……。 ロクサーヌ まあ、ド・ベルジュラックさま、もうお止め遊ばせ。 シラノ 月曜日、別に事件無し -- リグダミール夫人は情夫を變更せり。 ロクサーヌ まあ、そんなことまで。 シラノ 〔いよ~顏色が變つて來る〕 火曜日、宮中全員フォンテンブローに出遊せり。 水曜日、ラ・モングラー夫人はド・フィエスク伯爵に向つて答へたり……否と。 木曜日、マンチニ -- つひにフランスの女王たるか。 -- 未定なり。 二十五日、金曜日、ラ・モングラー夫人再びド・フィエスク伯爵に答ふ -- 諾と。 さて二十六日、土曜日…… 〔目を閉ぢる、首ががつくりうなだれる。沈默〕 ロクサーヌ ふと男の聲のしなくなつたのに驚いて、振り向いてみて、あわてて立ち上がる おや氣が遠くおなりますつたのかしら。 〔〕 さけびながら駈けて行く シラノ樣。 シラノ 〔目を開けて、けろりとした聲で〕 何です。 -- えゝ。 〔ロクサーヌが自分に覗き込んでゐるのを見て、あわてゝ帽子を直し、椅子に正しく掛ける〕 いや全く、何でもありません。構はずに置いて下さい。 ロクサーヌ でも……。 シラノ あの時のアラスの古傷が、……御存じの通り時々痛んでね……。 ロクサーヌ まあね。 シラノ 何大したことはない。ぢきに痛みは癒ります。 〔勉めて微笑する〕 ほら、もう癒つてしました。 ロクサーヌ 〔彼の側に立つて〕 わたくし共はお互ひにあの人の古傷を持つてゐますのね。 わたくしはわたくしで、やはり傷が癒らずに今でも胸に疚いてゐます。 〔胸に手をあてる〕 ここの年と共に黄ばんで行く皮一重の下に、涙の滴に汚れた儘、 血汐の汚れに染んだ儘、いつまでも殘つてをりますわ。 夕闇が迫つて來る。 シラノ その胸の下に祕めた手紙は、……あゝ、それをあなたはいつかわたしに讀ませると仰しやつたことがありますね。 ロクサーヌ えゝ、讀みたいと仰しやるの……あの人の手紙を。 シラノ えゝどうぞ讀まして下さい、……今日ここで。 ロクサーヌ 〔首にかけた袋を渡して〕 ほら、これですよ。 シラノ 〔受取つて〕 開けていゝのですか。 ロクサーヌ えゝ、開けてお讀み下さいまし。 〔彼女は刺繍臺に戻る、爲事をかたづけにかゝる〕 シラノ 〔讀む〕 「ロクサーヌよ、さらば。我は今や死の首途に赴かんとす……。」 ロクサーヌ 〔驚いて〕 おや、大きなお聲ですこと。 シラノ 〔讀みづつける〕 「戀人よ、いよ~今夜にこそ迫りたれ。語りはてぬ戀のためにわが心はいとも重し。 我は死なん。もはや日頃の戀に醉ふわが眼の、情に燃ゆるわが眼の……」 ロクサーヌ 何て手紙のお讀みぶりでせう。 シラノ 〔つづける〕 「……わが眼の君がやさしき立居をあからめもせず打まもりし、樂しみを再びする日はあらざるべし。 物言ひたまふ毎に、指をやさしく頬にあてたまふ君がいつもの顏まで目の前に浮びぞ出づる。 あはれ忘れられぬ面影よ、わが心は叫ばんとす -- 聲を限りに、さらばよと……。」 ロクサーヌ 〔惱ましく〕 まあ、何て面白さうな -- その手紙のお讀みぶり……。 夕闇知らぬ間にいよ~濃くなる。 シラノ 〔讀み續ける〕 「なほ叫ばん、さらばよと……。」 ロクサーヌ そのお讀みぶり……。 シラノ 「わがいのち、わが寶玉、わが……」 ロクサーヌ 〔夢を追ふやうに〕 ……そのお聲は……。 シラノ 「わが戀……」 ロクサーヌ そのお聲はたしかに…… 〔ぎよつとして〕 たしかに -- はじめてうかがふお聲ではありません。 彼女は男に悟られぬやうに手紙を見る。 -- ごくそつと傍に寄り、その椅子のうしろに行き、 音のしないやうにのぞき込んで手紙を見る。 -- 闇は深くなる。 シラノ 「げにわが心は片時も君を忘れず、この世にもかの世にも、われはたゞ戀ふるのみ、 戀ふるのみ -- われは……。」 ロクサーヌ 〔手を男の肩に置いて〕 どうしてあなたお讀みになれますの。もう暗くつて手紙の文字は見えない筈ですのに。 シラノ驚く。振り向くとすぐ傍に女の姿を見る。ふと物に恐れるやうに首をうなだれる。 やがてその時もうすつかり二人を包んでしまつた深い夕闇の中で、 彼女はごく靜かに兩手を組合せながら言ふ。 ではこの一四年の間、あなたはおどけて人を笑はせる、昔馴染のお友逹といふだけの役を、 ずつと勤めていらしつたのね。 シラノ ロクサーヌ。 ロクサーヌ やはりあなたでしたのね。 シラノ いゝや違ひます、ロクサーヌ。違ひます。 ロクサーヌ さう言へばあの時わたくしの名をお呼びになつたその方が、やつとわかるやうに思ひます。 シラノ いゝや違ふ、わたしでは無い。 ロクサーヌ 確かにあなたでございます。 シラノ 決してそんな……。 ロクサーヌ そのお優しい作り話の底にあなたのお志は見えました。手紙もみんなあなたでした……。 シラノ いゝえ。 ロクサーヌ あのなつかしい、物狂ほしい戀の言葉はあなたでした。 シラノ いゝえ。 ロクサーヌ あの夜のお聲もあなたでした。 シラノ どうして、飛んでもないことです。 ロクサーヌ あのお心意氣、 -- あれもやはりあなたでした。 シラノ わたしはあなたに戀はしません。 ロクサーヌ 戀をしないと仰しやいますか。 シラノ 〔爭ふ〕 それはもう一人の男でした。 ロクサーヌ あなたこそ戀して下さいました。 シラノ 〔聲が顫ふ〕 いゝや、どうして。 ロクサーヌ ほら御覽なさい、さう仰しやるお聲がだん~細ります。 シラノ いゝや、どうしてわたしは決してあなたに戀なぞはしませんでした。 ロクサーヌ ほんに、ほんに。思へばいろ~の事が消え失せたり又浮び上がつたり致しました。 まあどうしてこの一四年の間もぢつと默つてゐて下さいました。 この手紙の言葉にあの人の言葉はありません。この涙の痕はあなたの涙でございました。 シラノ 〔彼女に手紙を返して〕 でも血の染みはあの男のです。 ロクサーヌ まあ、ではその床しい沈默をば、それ程久しく祕めたその沈默をば、 なぜ今日になつてお破りになつたのです。 シラノ なぜですと……。 ル・ブレーとラグノーが駈けて入つて來る。 第六景 前の人々、ル・ブレーとラグノー。 ル・ブレー 何といふ無茶をやるのだ。やはりここだ。どうもさうだらうと思つた。 シラノ 〔微笑しながら立上がつて〕 どうしたい。 ル・ブレー 奧さん、かうして起きてゐてはこの男の命は無いのですよ。 ロクサーヌ まあどうしませう。では今しがたから……がつくり急に弱つてお見えなのは……。 シラノ うん、さうだ。新聞が途中できれた……二十六日、土曜日、晩餐前一時間ド・ベルジュラック氏暗殺せらる。 〔帽子を脱ぐ、始めて繃帶をした頭が現れる〕 ロクサーヌ まあどうなすつたの、 -- シラノさん。 -- おつむりを殘らず繃帶して…… まあ、どうしたと言ふ事でせう。誰がそんな。 シラノ 「屈強な相手とわたり合ひ、名劍のきつ先を胸にうけて、最期を遂ぐるが本懷」などと言つてゐたのは夢でした。 いやはや、運命の皮肉さ。御覽の通り。殺されるに事をかいて、暗討ちに後から小者づれの手にかゝるとは、 まあそれもよからう。わたしは失敗者だ。何事にも失敗して來た一生は、死ぬ最後まで失敗だ。 ラグノー あゝ先生……。 シラノ ラグノー、そんなに見苦しく泣くなよ。 〔手を與へて〕 おれの昔馴染ともある者が、みつともない。この頃はどうしてゐる。 ラグノー 〔涙の中から〕 ……モリエールの芝居に雇はれて、蝋燭の心……心切りを致してをります…… シラノ モリエールだ。 ラグノー はい、でも明日は出てしまふ積りでございます。とても我慢が出來ません。 昨日もあの男の『スカパン』の芝居をやりました -- その中の一場はそつくりあなたのお作の盜坊です。 ル・ブレー 何、そつくり一場を。 ラグノー さやうでございます、旦那さま。あの名高い「全體どんな魔がさして……」といふ一くだりを……。 ル・ブレー 〔怒つて〕 モリエールが盜んだといふのか。 シラノ これ、もういゝ。あの男はいゝ事をしてくれたのだ…… 〔ラグノーに〕 それでどうだつた、その一場は、受けたか -- 受けたらうな。 ラグノー 〔啜泣きしながら〕 はい、見物が笑ひましたとも笑ひましたとも。 シラノ なあ、さういふ風におれの生涯は人に箔をつけてやつて、自分は誰からも忘れられる後見の役廻りだつたのだ。 〔ロクサーヌに〕 あなたは覺えてゐるでせう、あの晩露臺の下で、クリスチヤンが話したその言葉を。 さうです、あの間にもあたし[注:わたしの誤り]の全生涯が籠つてゐる。 わたしは一人暗闇に殘つて階段の下に佇んでゐると、他の奴等は輕々と階段を登つて、名譽の接吻を受取ります。 これが正しい裁判だ。ここに死の悲しい入口に立つて、 わたしは改めてほかの人並に薦詞を贈らう。モリエールの天才に -- クリスチヤンの美貌に。 〔禮拜堂の鐘が鳴る、祈祷に赴く尼逹の姿が奧の並木を通つて行くのが見える〕 鐘が鳴つてゐる。祈りに行く者は行かせるがいゝ。 ロクサーヌ 〔立上がつて呼びかける〕 どなたかちよいと。 シラノ 〔彼女を止めて〕 いや~、誰も呼ばないで下さい。わたしをこの儘にしておいて下さい。 呼びに行つてそれが歸つてくるまでには、わたしは長くこの世を去つてゐるでせう。 〔尼逹は皆禮拜堂に入つてしまふ。オルガンの音が洩れる〕 せめて音樂でも慾しいと思つたが -- あの通りそれも聞かれる。 ロクサーヌ 生きてゐて下さい。わたくしあなたを愛してをりますのに。 シラノ いけません。お伽話にあるでせう。噐量惡く生れた皇子に向つてお姫さまが、わたくし、 あなたを愛してゐます、といふが早いか、皇子のみにくさは消えてしまふといふことが。 でもわたしは最後までもこの通り同じことです。 ロクサーヌ わたくしはあなたの御一生を誤りましたのね -- わたくしが、わたくしが。 シラノ どうして、あなたはわたしの生涯を樂しくして下すつたのです。 わたしは女の愛といふものをつひ覺えませんでした。 母は綺麗な子供だと思ふことは出來ませんでした。わたしには妹もありませんでした。 大人になつた時、わたしはわたしを嘲る女の目を見るのが恐ろしかつたのです。 けれどわたしは初めてあなたによつて女のお友逹を持つことが出來ました。 荒れたわたしの生涯の道に、優しい女の衣ずれの音を聞いたのです。 ル・ブレー 〔樹立の間から洩れて來る月の光を指しながら〕 もう一人君の女性のお友逹が君を見てゐる。 シラノ 〔微笑しながら〕 おれも見てゐる。 ロクサーヌ わたくしたゞ一度戀をして、そのくせ二度も戀を失ひました。 シラノ これル・ブレー、おれは間もなく月の世界に行くだらう。今日こそは何の噐械の工夫もいらぬ。 月の世界へ一足飛びだらう。 ロクサーヌ 何を言つていらつしやるのです。 シラノ いや、これからはゆつくりと天國に昇つて、傷の養生をしようといふのです。 そこまで行けば、ソクラートでも、ガリレーでもわたしの好きな人逹がいとほしがつて迎へてくれるでせう。 ル・ブレー 〔悲しげに〕 いや~、つまらぬ事だ、間違つた事だ。かほどの詩人が、かほど大きな、氣高い魂が、 こんな風に死ぬものか。死ぬのを止める道がないとは……。 シラノ これル・ブレー、また小言を言ふよ。 ル・ブレー 〔泣きながら〕 思へば思ふ程なつかしい……。 シラノ 〔つと立上がり目を据ゑて〕 これやガスコンの青年隊……物質の本體……さうだ……そこが問題だて……。 ル・ブレー この期になつても學問の事ばかり。…… シラノ あゝ、コペルニックが言つたには……。 ロクサーヌ まあどうしませう。 シラノ 全體どんな魔がさして、全體どんな魔がさして、こんな舟に乘り込んだのだ…… 哲學氣ちがひ、數學者、詩人、劍客、音樂師、 月の世界の浮浪人、やり損ひの色事師、 數の知れない決鬪に、舌にも風をひかせぬ男 エルキュール=サヴァニアン、 ド・シラノ、ド・ベルジュラック 何でも來いの、何にもできず。 ここに眠つて神さまの、 最後の裁きを待つばかり。 さあいつまで、ぐづ~してもゐられまし。皆さん御免、あの通り月の光が迎へに來ました。 〔椅子の上にがつくり倒れる。ふとロクサーヌの啜泣きが又現實に呼び生ける。彼女のヴェールに觸りながら〕 わたしはあなたがあの善良な、正直なクリスチヤンのためにあくまで悲しみの涙を注いで下さることを望みます。 たゞせめてものお願ほには、やがてこのわたしの骸が冷たく土の中に埋められた時、 あなたのこの黒い喪服に二人の喪をこめて、あの男を悼む片てまに、時々わたしの事も思つて下さい。 ロクサーヌ それは神かけてお誓ひ申します……。 シラノ 〔ふと勢荒く體をふるはし、烈しく立ち上がつて〕 これそこではない、何、その椅子ではない。 〔皆々駈けよらうとする〕 誰にも押へて貰ふまい。無用々々。 〔木によりかゝる〕 この木で澤山。 〔沈默〕 いよ~「死」がやつて來た。もう足に大理石の靴を穿かされた。 -- 兩手に鉛の手袋を穿かされた。 〔かたくなつて立つ〕 だがまて、折角「死」が迎へに來たからは、こちらからも迎へてやらう。 〔劍を拔く〕 さあ來い。劍をかう持つて、待ちうけてやる。 ル・ブレー シラノ。 ロクサーヌ 〔半ば絶え入りながら〕 シラノさま。 皆々恐れて後じさりする。 シラノ 何、あいつはおれの鼻を見て、からかふつもりだな……。やい無禮者め。 〔劍を振上げる〕 何だと……、手向つてもむだだと……。その位はおれだつて知つてゐる。 だが勝利と極つた時ばかり戰ふ奴があるか。おれは負けると知つても戰ふ。 當てのない喧嘩にもめげはせぬ。やい、誰だ、貴樣は。何千といふ同勢だな。 やあ、みんな知つてゐる顏だ、昔馴染の敵共だ、嘘吐き共だ。 〔空に劍を振り廻す〕 それいゝか。行くぞ、やあ「妥協」だな。「卑怯」だな。「偏見」だな…… 〔空を斬る〕 降參しろ、おれに。まつ平だ。誰が「愚昧」などに。 -- 貴樣もゐるのか。 最後におれを叩き伏せるのは貴樣だらう。構ふものか。おれは戰ふ、あくまでも戰つて倒れるのだ。 〔空中に劍を振り廻し、息を切りながら立止まる〕 貴樣逹はおれの手から桂の冠も薔薇の花も奪つてゆくのか。 えゝ皆持つて行け。だが貴樣逹がいくらおがいても、どうしてもとれぬ一つの寶をおれは持つてゐる。 それこそ今夜、清淨な青空の道を通つて、天國のお審きの庭に入るときに、 お前さんたちにはお氣の毒だが、しみ一つ、よごれ一つつけずに、 その寶をそのまゝ持つて行くのだよ。 〔駈け出す。劍を高く上げる〕 その寶とは、外でもない…… 〔劍が手から離れる、よろ~してル・ブレーとラグノーの腕に倒れる〕 ロクサーヌ 〔男の上に覗き込んで、その額に接吻しながら〕 その寶とは……。 シラノ 〔目を開いて女を見つけて、ほゝ笑みながらいふ〕 おれの帽子の前立毛。 ---- 幕 ---- [目次] 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