チャイルド・ハロルドの巡禮:目次 ------------------------------------------------------------------------------- 土井晩翆 (1871-1952) 譯,バイロン(Lord Byron, 1788-1824) 著 「チャイルド・ハロルドの巡禮 (Childe Harold's Pilgrimage(1812-1818))」。 底本:チャイルド・ハロルドの巡禮 (英米名著叢書),新月社,昭和二十四年四月五日印刷,昭和二十四年四月十日發行。 ------------------------------------------------------------------------------- チャイルド・ハロルドの巡禮 バイロン 著 土井晩翆 譯 目次 * はしがき * マシュー・アーノルドの論集中より * 第一卷及第二卷の序 * アイアンシイに * 第一卷 * 第二卷 * 第三卷 * 第四卷 * 註釋 ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:はしがき [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- はしがき 黄金の筆を捨ててグリイス獨立戰爭に參加したバイロンが雄圖なかばにミソロンギノ露と消えて後正に一二四年である。 こゝに彼の一代の傑作長篇『チャイルド・ハロルドの巡禮』の全部を日本の韻文に譯して此大詩人に對する記念となし得たのは私の光榮とする處である。 猛虎の如く『初めの跳梁を誤れば呟きて籔に退く』とは詩作に就いてバイロンの僞らぬ告白であらう。 隨つて精神彫琢の功を缺くこともあるが、洪水の如く、猛火の如く、颱風の如き、一氣呵成の天才の筆、雄健に壯大に魂麗に、 マコーレイの評の如く『英國の國語と共にのみ亡ぶべき金玉の佳什が甚だ多い』。 -- 此等の作をわが拙劣な日本韻文の瓦礫に變じたのは私の慚愧に堪へぬ處である。 本書は四卷から成り、著作の原序に曰ふ通り、ハロルドといふ假設の主人公に託して、著者が漫遊し視察した諸邦 -- 大一卷はポルトガルとスペイン、第二卷がグリイスと其附近、第三卷はベルギイ、ライン地方及びスイス、 第四卷はイタリア -- 此等の風土、人情、傳記、逸話等を敍し、其間に著者の感情思想を點綴したもので、 必ずしも首尾一貫の構想があるのでは無い、獨立した幾十篇の詩歌を集めたものと見ても差支は無い。 前の二卷は一八一二年に刊行されて一朝忽ちバイロンの詩名を九天の高さに揚げたもの、第三卷は一八一六年、 第四卷は一八一八年、いづれも『自ら流竄の』バイロンが英國をとこしへに去つた後の作で、 此後二卷は前二卷より遙かに遠く傑出し、バイロンの名聲を英文學史上に不朽たらしめたものである。 時代の好尚と流行に應じて詩人の聲價は常に變化するが『チャイルド・ハロルドの巡禮』は英詩界の傑作として、 常に青年の愛誦として、 百年の盛名を失はぬ。高等英文學の教科書として全世界に今日尤も廣く採用さるゝ長篇の英詩は恐らく本當であらう。 我國にも東亰高等師範學校の故岡倉教授が邦文の註譯を加へて刊行せしめたものがある。 バイロンは革命時代の潮流の中に生れた。 彼の生るる(一七八八)五年前アメリカの植民地は獨立して合衆國を建設した。 彼が生れて一年後フランス革命は端を開いた。彼は青春の曙に於て、 舊來の制度信仰習慣が『道理の法廷』の前に喚び出され、 一朝忽ち顛覆さるるを見た。彼は一般の革命的感情が自由、民生、道理、 革命の語をして到るところ人口に膾炙せしむるを見た。 ワーヅワースが山川の間に自然と默會しつゝある際、コレリヂが超自然界を夢みつゝある際、 キーツが美の女神を崇拜しつゝある際、彼はシェリイと共に革命の使徒として人界の狂瀾怒濤を凌いだ。 『チャイルド・ハロルドの巡禮』は自由と民政に對する熱烈奔放の貢獻である。 大ゲーテが驚嘆したバイロン、全歐洲の文壇を風靡したバイロン( -- プシキン、ミケイヰチ、ラマルテン、 ユーゴー、ミュッセイ、ハイネ等第一流の名はこれを證明する)、 今日なほ全大陸がシェークスピアにつぐ英國最大の詩人と稱するバイロン、 -- 極東の我々は彼の一二四年祭の今日に當りて彼の傑作に一瞥を投ずるを惜むだらうか。   一九四八年十二月 土井晩翆 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:マシュー・アーノルドの論集中より [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- マシュー・アーノルドの論集中より わが見るところ此世紀の英國詩人中バイロンとワーヅワース は實際の作品に於て優秀で卓越で正に光榮の雙星である。一 千九百年の暦が飜る時、わが國民が正に終り去れる世紀中の 詩的光榮を追想する時、其時到らば英國にとりて第一流の名 は此兩者である。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:第一卷及第二卷の序 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第一卷及第二卷の序 此詩は大概その描寫を試むる其場其場で書き下され、アルバニアに於て先づ初められたものである。 スペインとポルトガルの關する部分は此國々に於ける著者の觀察から作られた。 敍述の正當を確かむるため斯く陳ぶることは必要であらう。描かんと試みた場所はスペイン、 ポルトガル、エパイラス、アカルナニア及グリイスで、現在の本詩はそこで止る、 著者が進んでアイオニア及びフリヂアを過ぎ、 東邦の首府へと讀者を導くや否やは本詩に對する世間の歡迎如何に因て決せらるるであらう。 此第一第二卷は只の試筆に過ぎぬ。 本篇に纒まりを附くるため(いつも左樣とは曰ひ得ぬが)一個の假の人物が設けられた。 此假作人物チャイルド・ハロルドとは著作たる餘が或る實際の人物を指したものとの疑を招くかも知れぬとわが敬服する友逹は忠告してくれた。 此の疑は斷然斥けねばならぬ、ハロルドは全く想像の所作で其目的は前述の通である。些々たる若干の -- しかも單に局所的な -- 場所に於てかゝる疑の根據があるかも知れぬ、しかし大體に於ては一つもかゝるものがない。 チャイルド・ヲータース、チャイルド・チルダース等の如く、 チャイルドといふ稱號は餘が採用した韻文法に適當するものとして使用されたことは殆ど曰ふ迄もないことである。 第一卷の初めにある「別れの曲」はスコット氏が刊行した「邊境曲」の中、「マクスヱル卿の別の曲」から暗示を得た。 スペインを題目として發刊された種々の詩とイベリヤ半島(スペイン及ポルトガル)を説いた本詩の第一部との間には、 聊かの類似があるかも知れぬが全く偶然に外ならなぬ。一二の終の章を除けば本詩の全部は東邦に於て書かれたのである。 「スペンサアの詩節《スタンザ》」は、最も成功した詩人中の一人の説に據ると、 あらゆる種類の敍述に適する。ベッティ博士は曰ふ『遠からぬ前、餘はスペンサアの詩節と詩體で一詩を初めた、 而してこゝに餘は諧謔或は悲壯、敍述或は感傷、温柔或は諷刺等、 氣分の向くに隨つてあらゆる傾向をほしいまゝに現はさうと思ふ。 若し餘が誤らぬなら餘が採用した韻律法は以上の種類の詩を等しく容るゝからである』かゝる大家により、 又イタリヤ詩人の最高なるものの例により、我説を確められて、餘は本詩に於て同種の試をなすことに對し、 何等辨解の必要を認めぬ、若し我が詩が不成功なら、其缺點は我が作爲の上に係るので、決してアリオスト、 トムソン及びベッティの作により是認された意匠に依るのではないと信ずる。 一八一二年二月 ロンドンに於て [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:アイアンシイに [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- アイアンシイに   *アイアンシイに 1. 女性の艷美類なしと早く曰はれし郷《さと》ながら わが先つ頃漂浪の旅をたどりし**邦々に、 或は獨り夢にのみ眺め得たりと吐息する 人の心に示されし其幻影のただなかに、 君に似し者あらざりき、現《うつつ》にも又思ひにも。 君を一たび仰ぎ見て、光かゞやき移りゆく その美の力描くべく我空しくも試みじ -- 君を見しことなきものに我言《わがこと》何の效あらむ? 君を眺めし者にとり何等の言葉あり得べき? *オックスフォード伯の第二女シャーロット・ハーレイ十一歳の少女 **スペインとトルコ 2. あゝ願くは今のまゝ君とこしへにあり得んを、 其青春の約束にふさはぬことに無からんを。 姿いみじく、其心清うして且つ暖かに、 獨り翼を缺くばかり*「愛」の地上の姿なり、 「希望」の思ふ處より更に優りて無垢の影! 心をこめて其若さ養ひめづる母君は 斯く刻々に照りまさる君に確かに認め得ん 未來の年の空染むる其|虹霓《こうけい》のきらめきを、 その天上の色の前、あらゆる悲哀消え去らむ。 *キュピト、「愛の神」 3. あゝ西歐の年わかき*仙女よ!すでにわが齡 君の齡にたくらべて倍數ふるぞ我に善き、 わが愛なき目ゆるかずに君の姿を眺め得ん、 その熟し行く艷麗を心安けく望み得ん。 行末遠きうつろひを見ざらん我の運もよし、 猶|幸《さち》なるは若き心傷まん時に我ののみ 逃れん辛き運命を、 -- 續きて來る讚美者よ 君が目來す運命を -- 彼らの讚美さりながら 「愛」の甘美を極めたる時にも惱纒ふべし。 *原語ペリ、ペルシヤ語にて「精」の意 4. 羚羊《れいやう》の目の如くして或は晴やかに勇しく あるは美しくはにかみて、見廻す時に心奪ひ、 見つむる處眩ましむる君の其|眸《まみ》願くは この集の上一瞥を投げよ、しかしてわが作に その微笑を惜まざれ、 -- *たゞ友のみに非らば そは我が胸のいたづらにあこがれ慕ふものならむ。 親しき少女、願くは之を與へよ、問ふ勿れ 何等の故にうらわかき人にわが歌捧ぐると、 ひとつ類なき百合の花、許せ花環に加ふるを。 *友人以上に愛を抱くならば其微笑にあこがるは空し 5. このわが歌に結ばれし君の名正に此*たぐひ、 世々のやさしき人の目が、此ハロルドの詩の上を 永く射る時、其中に初に見られ、いやはてに 忘らるる名ぞこゝに齋《いつ》くアイアンシイの名なるべき。 われの現世の生閉ぢて此過ぎ去れる慇懃の 禮辭は君の艷麗を讚ぜし彼の**豎琴の 傍《かたへ》に君の美はしき指をいざなひ導かば、 そは思ひづるわが靈の願ふ至上の幸たらむ、 ***「希望」の請に優れども、劣るを「友情」求めんや? *百合の花の清さ **琴を彈ず、即此詩卷を讀む ***望みて得がたかるべけれど友情として其以下は求めず [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:第一卷 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第一卷 1. +あゝ君!むかしグリイスに天の素生と崇められ、 詩人の意より造られし若しくは譬へ説かれしミュウズ! 後の下界の豎琴にしば〜耻を感ずれば、 聖き丘より降るべくわが歌君を招き得ず、 さもあれ我はさまよひき、君が譽の小川の上、 さなり、かこちき、デルファイの長く荒れたる*祠堂の上、 微かの泉よそにしてそこにすべては皆しづか、 わが琴倦める**九はしらの神女起すは難きかな、 かゝるはかなき物語わが低調の歌のため。 +ミユーズに祈る詞 *ミユーズを率うるアポロの殿堂 **ミユーズの數は九 2. +一時嘗つて*アルビオンの島に若人住みたりき、 道義の上に聊かも彼は思を寄せざりき、 彼は竒怪のさわぎもて其月其日を打ちすごし、 「深夜」の耳を醉興の騷ぎに亂し惱ましき、 あゝ彼まことに無耻にして、 酒食に荒み淫樂に 耽りて其目たのしむは、 怪しき女性劣情の友ら或は さまざまの思あがれる醉客ら。 +ハロルドの素性等 *英國の雅名 3. チャイルド・ハロルド、と彼は曰ふ、 さはれ家名と*系統の本探るべき我ならず、 たゞ曰へ知名の家にして 昔譽のものなりと、 昔はいかに榮えしとも 不良一人の故により家名いたくも汚されき、 孜々として系圖學者の古人の灰より撰るところ、 はた華美の文、虚僞の詞華、 不徳を飾り罪惡を清むることはなしがたし。 *名家のあと 4. +類は同じき蠅蟲の如く戲れ日を浴びて チャイルド・ハロルド身をのしぬ、 短き生の盡くる前、 つめたき嵐吹きくるを 悟らず、されど一生の三《みつ》の一《ひとつ》の過ぎぬ中、 逆運よりもつらきもの彼を襲へり、 そはなに、彼は飽滿のつらき惱を身に覺え、 隱者の悲しき洞《ほら》よりも淋しきおのが故郷に 住みつゞくるを厭ひはつ。 +生に倦めるハロルド 5. +其身かくぞ、彼の罪の長き迷路をたどり來つ、 過てるわざ犯ししも其償をなし遂げず、 愛せし者は一ながら多くの者に吐息しき。 其めでられし美《よ》き人は彼に許さず、 幸なりき、貞《ただ》しき者を汚すべき彼の接嘴《せつし》をのがれ得て。 まなく賤しき世の幸に 彼れの愛人の美を替へむ、 はた其浪費をよそふべく彼女の領を奪ひ去り、 清き家庭のやわらぎを味ふこともあらざらむ。 +ハロルドの愛 6. +チャイルド・ハロルド今いたく心惱みて立ちあがり 酒食の友に別れんず、 涙時には催うせど 誇によりてその滴落さじとこそ人は曰へ、 人をはなれて悄然と思にくるゝ彼は今 故國をさりて旅の途に 海のあなたの焦熱の郷を訪はんと心しぬ、 娯樂ほと〜身を毒し、禍却つて求められ、 局面かゆるばかりにも冥府の空をたづぬべし。 +故郷をはなる 7. +祖先のやかた立ちいづる そはおほいなる尊とき屋、 幾多の長き年を經て崩れんとして崩れ得ず、 さはれおの〜廓廊の中に力はなほこもる。 むかしは修道の家にして今淫蕩の宿となり、 ++先は迷信の巣なりしを、 今は*バホスのむすめらの笑ひ歌ふを人は知る、 斯くして僧侶「わが時は再び來ぬ」と讚ぜんか、 むかしの**話誡にてこれらの聖者|誣《し》ひざらば。 +彼の居館 ++淫女のこと *バホスは地中海のサイプラス島にあり **僧侶の墮落の話 8. +さはれ屡狂醉のきわめの中にありながら、 不思議の惱ハロルドの額を掠めひらめきぬ、 さながら凄き怨恨の、はた失戀の思ひでが 心の底に濳むごと。 さはれ誰しもこを知らず、恐らく知らんとするもなし、 彼は惱をうちあけて心おきなく慰を 人に求むる魂ならず、 抑へかねたる悲は何ものにあれ慰を はた忠告を捧ぐべき友を求むる彼ならば +沈鬱無言のハロルド 9. +彼を愛せる人もなし、遠きより又近きより 飮酒の友を客廳にはた園亭に集めしも。 そは饗宴の諂《へつらひ》の友に過ぎずと彼は知る、 ただ一時の心なき寄生蟲とぞと彼は知る、 さなり誰しも嬖人《へいじん》も彼には愛を傾けず、 ひとり華麗と力のも女性の求め望むもの、 そのある處移り氣の*エロスは配を見いださん、 燿くものにひかるるは常に少女と蛾の蟲か、 天使も望み得ぬところ猶**マンモンは進み入る。 +彼の伴侶 *愛の神キユーピト **富の神 10. +チャイルド・ハロルド母ありき、忘られざりし母ありき、 その母よりし別るるは、彼の求めしことならず、 彼には愛でし姉ありき、されども長き巡禮の 其門出に先ちて姉を見ることあらざりき。 友ありとてもいづれにも彼は別を告げざりき、 さりとて爲めに彼の胸鐡より成ると思はざれ、 數多からぬ親しみの友を飽くまでめづる者、 彼ら悲しく感ずべし、かゝる別はなか〜に 慰めなんとする魂を思はげしく惱ますと。 +母と姉と友 11. +彼の家庭と彼の館、彼の家産と彼の土地、 笑みを湛ふるいくたりの女性あるじのうらわかき 其情熱を長らくもはぐくみ育て來る者、 其おほいなる藍色の眼と眞白きそのかいな、 美しき髮隱遁の清き枕を亂す者、 はた數々の値の高き葡萄の美酒の盃も はた其外に樣々の驕奢に誘ふものを皆、 吐息もあらでふりすてつ、海をわたりて遠くあなた、 異教の子らの岸を訪ひ赤道線を過ぎ行かむ。 +すべてを捨てゝの門出 12. +其故郷より喜びて遠くに彼を吹く如く 風爽かに吹き起り乘り行く船の帆を張れり、 岸の白亞の巖壁はとく目のよそに沈み去り めぐり泡だつ大汐の漲げる中に消え果てぬ、 其時邦を去る願かれ恐らくは悔みしか、 さはれ無聲の胸の中思つゝみて口よりは 嘆の一句洩れいでず、 他はみな坐して涙ぐみ、 めゝしくうめき心なき嵐の音に伴へり。 +出帆 13. +さはれ波の上日入る時 (習はぬながら折ふしは 耳傾くる他人《よそびと》の無き時々の手すさびに 掻き鳴らしけむ)豎琴の 上には今はた指はしり、 朧にくるゝ黄昏に奏でいでたる別の曲。 白帆は張りて舟|去《はし》り、 岸は次第に遠ざかる 時ぞ嵐に波に呼ぶ(聞かずや)彼の「告別」を。 +別れの歌 1. いざや別れむ!故郷は 青海原に沈み去る 夜あらし吹きて波あれて かもめ痛くも鳴き叫ぶ。 いざ、波に入る夕日影、 其あと遂はむ、 かれとなれとに故郷よ 別れむさらば!やすらへよ。 2. しばし過ぎなば日は又も いでゝ再び朝生まむ、 われ又海と空を見む、 さはれ大地の母は見じ。 わが善き館は荒れはてゝ いろりは淋し、 壁にあらく草生えて わが犬門に吠え叫ぶ。 3. 小さき扈從《こしやう》こゝに來よ! などなれは泣き又嘆く、 大波の狂をなれは恐るや? あらしにおぢてなれは震ふや? 目より涙をおし拭へ、 我舟はやし且強し、 翼するども隼も かほど樂しく飛びかけじ。 4. 『はげしき風、高き波 我は恐れず、何かある、 さわれ怪みたまはざれサア・チャイルド わが心の優嘆を。 なつかしの父なつかしの 母をのこしてわれは立ち、 友とては只此等と君と はたかの天に居ますもの。 5. 『さきくと父は心こめ 祈りてさまで泣かざりき、 されどもいたく母は嘆き わが歸るまで止まざらむ』 『よし〜足れり小さき子 なが目にふさはし其涙。 なが僞らぬ胸あらば わが目ひとしく濕《うるほ》はむ』 6. こなたに來よ強き若人、 など青白きながおもわ? フランスの仇をなれは恐れるや、 あるはあらしになれは震ふや?』 『命をしさにをののくと おぼすや?さほど弱からず、 別れし妻を思ふとき さはれわが頬青ざめむ』 7. 『湖水に沿へる君が館、 傍にすまふわが妻子、 子ら其父を呼ばんとき 母は何とか答ふべき?』 『よし〜足れりわが若人、 誰かなれの憂拒む、 われのみ心輕うして 旅たつままに笑ふべし』 8. 誰かよそめのためいきを その妻妾に信ずべき? あらたの主は乾かさむ 先に泣きつる青きまみ、 すぎし樂われ泣かじ、 はた寄せ來る禍も、 ひとり涙を求むべき もの殘さざる事ぞうき。 9. 今われ廣き海のうへ 友なくひとり世に住めり、 わがため誰も泣かざるを などわれよそのため嘆く? 恐らくわが犬うめきなき、 やがてよそ人の手に飼はれ、 かくしてわれの歸るとき その場にわれをつんざかむ。 10. 泡たつ潮かきわけて 舟よいましと共に行かむ、 わが郷にしもあらざらば いづこに行くも厭ふまじ、 來れ濃藍《こあゐ》を染むる波、 波また眼の外ならば 來れ砂漠と洞窟と! わが故郷よやすらへよ! 14. +次第に舟は帆走りて陸は後へと遠ざかり、 眠らぬ波のビスケイに風は痛くも吹きあらび、 四の日數を過して來て五の日程なく見いだしし、 新たの岸のおもかげにあらゆる胸は躍り立つ、 シントラの山途すがら彼等を迎へ、 また昔より曰ひ傳ふ黄金の砂 海に向ひてそゝぎゆくテーグスも見ゆ、 程なく舟に乘り入るは*ルゥシタニアのパイロット、 刈手乏しき豐沃の岸に沿ひつゝ導けり。 +ポルトガルに着く *ポルトガル 15. +あゝキリスト!此美はしき郷のため、 天の恩寵下れるは何等たのしき眺めぞや! 香の高き果實《このみ》樹々にあからみ、 收穫《みのり》の望は丘に廣がる。 さるを人間恐なく不敬の手もてそこなへる、 しかして皇天鞭をあげ、其嚴命を破るもの はげしく痛く懲すとも、 彼の火の矢は幾倍の復讐をもて *ゴールの毒蛾逐ひ拂ひ大地の上を清むべし。 +フランスの敵軍に荒さるゝ豐沃の地 *フランス 16. +何等の美觀リスボアの市まづこゝに現はすや、 その影浮ぶ大河に *詩人空しく黄金の砂《いさご》を廣く敷くところ、 今は其上百千の艦隊列を整へて ++其威を揮ふ -- アルビオン、ルーシア人と同盟の 好《よしみ》結びて親しめば。 此民さはれ驕慢と無耻との故に あらきゴールの怒よりおのれを救ひ拒ぐべき 利剱を揮ふ人の手をねぶりつゝ又忌みきらふ。 +リスボン市 *底に金沙ありとむかしより信ぜらる(七四節) ++英とポルトガルと同盟 17. +遠目にひかり天上の趣見する此都市の 中にひとたび入らんもの 見る目いぶせき面影に 心わびしく、さまよはむ、 宮も藁屋も垢つきて 民は汚の中に生き、 貴賤を問はず身にまとふ上衣下衣の清らさを 絶えて願はず、エジプトの*禍の蟲やどせども 浴みず、櫛の齒を入れず、しかも其のため害うけず。 +リスボン市の光景 *しらみ 18. +憐むべき賤しき奴隸!しかも最美の地に生まれ、 自然よ爾の妙工を彼等に輿ふ、何故ぞ? 見よ!シントラの光榮のエデン! 山と谷との錯雜の迷路をなして横はる。 あゝあゝ!何等の腕がよく筆を導き、いにしへに 樂園の戸を驚ける世界の前に開きたる *詩人の述べし言葉にまさり、 人間の眼を驚かす其絶妙の影のうへ 半を逐うて進み得む? +ポルトガルの自然の美 *ミルトン 19. +倒されとする僧庵をのする嶮しき岩の角、 さがしき崖をおほひ纒ふ色の眞白きコークの樹、 炎天に色染められし山の苔、 日蔭にしめる灌木のむらがる谷間、 鏡の如きひいらかの波のおもての藍の色、 みどりの枝に黄金を飾る橙果《だいだい》、 崖より谷に跳る急湍、 高きに蔦、低きに楊柳《やなぎ》、 共にひとつに混り合ひ、相の變化の美を極む。 +自然の變化 20. やがてしづかに羊腸の山路をめぐり、 途すがら足をとゞめて目を放て、 更に巖の高きよりより新の風致ながめ見よ、 かくて『聖母のしろしめす憂の宿』に身をいこへ! つゝましやかの山僧は其いさゝかの實物を 示し、旅ゆく人々に昔の事を説ききかす。 神に非禮のともがらの罰うけし場こゝとこそ、 又見よ、かなた洞窟の中に住みたり難行と +苦行をつみて天上の報得るべくホノリアス。 +有名の隱者一五九六こゝに死す 21. +しかしこゝに又そこに人|峨巖《ざんがん》をのぼるとき 見るべし路の傍に粗く削りし十字架を、 そは信仰の供物ならず、 そは殺害の脆きかたみ、 叫ぶ犧牲が刺客《せきかく》のナイフに突かれ倒れたる そのおのおのの場《には》の上 人は朽ち行く薄板の十字のしるし打ちたてぬ。 森と谷とに幾千のかゝる姿の充てる見よ 山河は美なる邦ながら法度は生を確めず。 +十字架 22. +傾斜の丘に、下なる谷に 見るは諸王のみゆきの堂宇、 其數々に今たゞ匂ふ纒へる野花、 しかも崩れし壯麗の跡はかすかに猶殘る、 はた又あなた帝王のよき宮聳ゆ、 ++そこにワスエクよ、英國の尤も富める爾又 其樂園を築きしよ、悟らぬ如し放縱の 富その業ををはるとき 「平和」はつねに歡樂の誘をさくる習はしを。 +古蹟 ++英の富豪ベクフォード 23. この地に爾すみなしてとこしへ美なる山の下 歡樂の殿もくろみき、 さもあれ今は人間に忌み厭はるゝものの如 美屋はなんぢと共に淋し、 雜草長くはえしげり、 戸口開きて人すまぬ堂に行くべき路ふさぐ、 現世にうべき快樂の みなことごとく空しきをこゝに新たに悟るべし 流轉の波に忽ちに洗はれさりてあともなし! 24. +見よ先つ頃列邦の大官集り議せし廳! あゝ英人の目に忌まはしの堂! 「フルスカツプ」の冠着て *惡魔 -- 絶えずも冷笑の小魔はこゝに 羊皮紙の衣纒ひて席を占め、 印璽と黒き卷物を其腰に帶ぶ、 中にいにしへ勳爵の士流に知れし名は光る、 種々の署名は卷を飾り、 小魔はこれを指して腹を抱へて打笑ふ。 +シントラに於ける會議英人失敗して戰勝の效果を失ふ *外交を人化す 25. +集議は呼ばる侏儒の魔と、 マリアルバの堂の中、彼は武將にいち勝ちぬ。 腦ありとせば其腦を欺きすかし、 國民の淺き悦暗としぬ。 「おろか」はこゝに戰勝の高き誇を地に投じ、 「策」は利劔の失ひしところをこゝに戻し得たり、 わが將軍のたぐひには桂樹しげるも用あらず 勝てる者こそ哀れなれ、負けたるものはさにあらず、 ルゥシタニアの海岸に破れし「勝利」うつむけば! +シントラのマリアルバに於ける會議 26. 其軍議會ありしより あゝシントラよ!ブリタニア常になんぢの名に惱む、 その名を曰へば官人は 怒を帶びて耻のため(能はば)面を赤うせむ。 後世子孫いかに此耻づべき史實傳ふべき! わが國民と友邦と笑はざらめや?眺め見て 此等の武將欺かれその譽を失ふを、 敵は軍に破るれど此會場に勝ち得たり、 來らん長き年代に「輕侮」其ゆび指すところ。 27. 淋しき影に山上の路たどるとき ハロルドかくと觀じ去る、 山河の景は妙なれど 浮浪の性は空かくる燕にまさりとく去らむ。 こゝに暫く冥想に彼は耽りぬ、又更に 悟る理性は省みて若き昔の狂想を 卑しむべしとさゝやきぬ、 さもあれ眞を眺むればかれの目いたみかきくもる。 28. 征馬すゝめてハロルドは 其魂を和ぐる平和の郷を後に捨て、 其陰鬱の思より再びさめてたちあがる、 されども今は盃と卑しき女性目にあらず。 前に進みて巡禮の終りの果に やすらひを取るべき郷は定まらず、 勞苦によりて漫遊の望をいやし、胸しづめ 高きたまもの、經驗の富受けん前、 數々の山河の影を過ぎ去らむ。 29. +さはれマフラの都市こゝにしばらく旅の足とめむ、 こゝに*古へ薄命の女王みゆきのあとをとゞめ、 その典禮を教會と朝廷ともに相まじへ、 祈祷の式と宴會とかはる〜゛に行はる、 實に王侯と僧團と何等の竒なる配合か! バビロンの娼婦こゝに燦爛の**堂築き、 光まぶしく振舞へば、 人々彼の流したる鮮血の罪忘れ果て 好みて罪を塗りかくす華麗に膝は曲げられぬ。 +マフラ市 *太后マリア狂疾にかかりこゝに移さる **ローマ教會をさす 30. 果樹に埋もる谷の上、興趣豐かの山の上 (あゝかゝる山、自由の子等を宿しましかば!) 歡喜に人の目みつるところ チャイルド・ハロルド樂しき道をたどり行く。 懶惰のものはこれを笑ひ、 人安逸の椅子をすて困苦の旅を山河遠く すゝむるを見て訝れど、 知らずや山嶽の空に佳味あり、 逸樂肥滿の輩のあづかり知らぬ命あり。 31. +山々は遂におぼろに遠ざかり、 谷の繁りいつとなく、減りし次第に滑に、 目路行く限り渺々と遠く遙かに果しなく、 スペイン國の領土見ゆ、 そこに牧人群を驅る、 其羊毛は商賣の徒共にあまねく譽めたたふ、 今彼をして力こめ其小羊を防がせよ、 非道の敵軍攻め來れば人は各々心して 努めておのが産守る、さすらば雌伏の難受けむ。 +スペインの遠望 32. +ルゥシタニアとスペインと相逢ふ處、 如何なる界そを分つ? 嫉める二國逢はん前、 *ターヨーの川大なる水を流すや? 或は連峯さがしく立つや? 或は支那の長城に似る人工の垣ありや? 牆壁あらず、大河あらず、 峻巖あらず、高山あらず、 イスパニアをゴールより隔つる岩に似るものあらず。 +ポルトガルとの界 *テーグス 33. たゞ銀色の一筋の小川、 其みどりなす兩岸に、 二國境を迫れども殆ど名さへ弁へず、 こゝに物倦く牧童の たゞ茫然と杖により走る漣見るところ、 怨深き敵人の間靜に水はゆく。 こゝに農夫は最高の貴族と共に義に勇む、 低きが中の低き奴隸ルゥシタニアの人民と われとの區別、見よスペインの民は知る。 34. さはれ混ずる國境遠く遙かに過ぐる前、 暗きグァデアナ流れゆく。 其淙々のおほいなる水怒る水 むかしの歌にいちぢるし。 其岸のうへいにしへは*ムーアと騎士と、 幾萬の軍、金甲にかゞやき、 足ときもこゝに斃れ、強きものこゝに流れさり、 異教の**「タルバン」、キリストの教徒の甲亂れ合ひ、 浮ぶ尸《かばね》に埋もるる流を染めて爭ひき。 *マホメット教徒のムーア人 **冠もの 35. +あゝ美はしのスペイン、興味ゆたかの譽の地! 「ゴース」の血もてその山河染めたる軍の一隊を 美人カーバの父なる叛將はじめてこゝに呼びし時、 勇士ペラヂオ擔ひたる軍旗は今は何處ぞや? いにしへなんぢの子らの上あらしを凌ぎひるがへり、 攻め來し敵をその岸に遂にはらひし 勇ましかりし大旗は今いづこぞや? *十字架赤くかゞやき弦月青く光さめ、 「ムーア」人士の母の悲泣アフリカの岸にひゞきしよ。 +八世紀に於けるスペイン人とムーア人との戰 *赤十字架のしるし 36. +おの〜の歌光榮の功を永く歌はずや? あゝ英雄のおほいなる運命ついにかく了る! 堅き巖は朽ち崩れ、留めし記録すたるとき ひとり農夫の歌ありて只あやしげの名をとゞむ。 「誇」よ!天より目をさげて爾の領を眺め見よ! おほいなるもの、只小さき歌に縮むを眺め見よ! 書册圓柱宮殿はなんぢの大をたもち得るや? 「諂《へつらひ》」なんぢと共に眠り「史」はなんぢを誣ゆるとき ひとりたよるは傳記《でんせつ》の短き舌にとゞまるや? +英雄の末路 37. +めざめよ、兩スペインの子ら!さめよ!進めよ! 見よ!なんぢの昔の神女「武道」は叫ぶ、 さはれ昔と異にして彼女は渇く槍を揮はず、 空に眞紅の羽毛をかざさず、 燃え立つ彈丸の烟に乘り、 砲のとゞろき電鳴の聲に叫び、 轟くごとに『さめよ!立てよ!』と叫ぶなり、 曰へ、其聲はいにしへに劣るや否やいにしへに、 *アンダルシャの岸のうへかの雄たけびしいにしへに? +ナポレオンに對するスペイン獨立の叛抗 *ムーア人の撃退 38. 聞かずや凄き馬蹄の音? 聞かずや原上苦鬪のひびき? 血烟立てゝ劍戟に斃れしものを見ざりしや? 猛火の高く光る下、 汝の同胞斃るるを 汝ら救ひ得ざりしや? 高きにひらめく -- 岩より岩にとゞろく砲聲「數千《すせん》の命ゆく」と呼ぶ! 「死」は硫黄の熱風に乘り、 赤き「戰」足踏みならす、其震動を民はきく! 39. +見よ!巨人の山上に立つを、 紅血染むる捲髮日にひかり、 死の彈丸燃ゆる手にかゞやき、 その目は睨むすべてを焦し、 忽ち轉じ、忽ち見据ゑ、 忽ち今また遠くを照す、其足もとに 爲すわざいかに認むべく「破壞《はえ》」ぞかゞむ。 故は此朝雄邦の*三の大軍集りて かれも尤もよしと見る血を其祠の前に注ぐべし。 +「戰」の人化 *彿軍と英伊聯合軍 40. 友あるひは兄弟をこゝに持たざる者の目に 見るは何等の壯大か! 綾羅《りやうら》ぬひとる軍旗の模樣、 空にひらめく種々の剱戟、 其巣窟をかけいづる戰の猛犬 牙かみならし聲高く餌食求めてうめきあふ! すべては狩に加はれど勝を得るもの少しや、 最大の賞うばひさるものたゞ「墳墓」、 歡喜のあまり其列を「破壞」は容易し算し得ず。 41. +三の軍勢|牲《にへ》そなふべく竝び立ち、 三の國語高きに竒なる祈さゝげ、 三の大旗燦爛とみどりの空を嘲り、 フランス、スペイン、アルビオン、勝利と叫ぶ。 *敵と*牲と*同盟と(すべての爲めに戰ひて しかも效なき同盟と)こゝに會して爭ふよ! (曰ふやさながら、國内に死を求むるも得られずと) はてはタラベラ平原の鴉の餌《えば》とならんのみ、 おの〜奪ひ取らんずる野をただひとり肥やすのみ! +戰爭 *フランス *スペイン *英(アルビオン) 42. +巧名の爲め身をすつる愚物かなたに朽ちはてむ、 「ほまれ」彼等の屍を埋むる土を粧はむ、 むなしき僞弁!思へば暴主憐れの人間の 心臟用ゐ其路を(そは何の路、ただ夢か?) 布かんずる時機萬の投げすつる 噐 -- 碎くるうつはに過ぎず、ああ彼ら。 專制の主は其權を讚するものをよく得るや? 或は土の一片を眞にわれのと曰ひ得るや? 遂には竝び骨朽つる其|墳瑩《ふんけい》をよそにして。 +功名の牲 43. +あゝアルブェラ!譽の、しかも悲哀の戰場! さきになんぢの原上に*旅人馬をかりしとき かくも程なく敵味方たがひに誇り 血を流す場たるべしとおもひきや? 亡びしものに休あれ!戰士のほまれ、凱旋の 記念の上に注がるゝ涙報を永うせよ! 他の將軍に率ゐられ他の軍勢亡ぶまで なんぢの名こそ驚嘆の群のほとりをめぐり行かめ、 しばし歌謠の題としてさもなき歌に名をとめむ。 +アルブエラの戰場 *ハロルド 44. あゝ戰の寵兒らを説くこと足れり、 命の競技演じつゝ譽に生を換しめよ、 名を只一つ飾るべく千人命を失ふも 譽かれらのしかばねに再び生を與へ得じ、 生きては國の耻たらむ彼等めでたき*傭兵の、 國のためとて斃るべき望を拒むよしもなし、 恐らく家庭の爭に死せずとはせじ、あるは又 其分狹き「掠奪」の途行かずとも限られず。 *英國などの兵士は皆應募による 45. +セビラの都悠然と敗らるゝなく立つ處、 淋しき旅を速かにチャイルド・ハロルドたどり行く、 掠むるものゝ餌となる地はまだ安し、然れども、 まなく「勝利」の猛き足侵し來りて此郷の 其美はしき堂屋うぃ荒し黒くし亂さんか? 避くべからざる天の時!飢ゑたる種を「荒廢」が 植うる處に運命に抗し爭ふこと難し、 さらずば*イリオン又タイヤ今なほこゝにながらへむ。 「徳」はすべてに打勝たむ、「殺害」榮ゆることやまむ。 +セビラ *昔のトロイなど 46. さもあれ來る運命をすべての人は悟り得ず、 祭と歌と宴樂と今この郷におびただし、 竒なる歡喜のならはしに時はすぎ行き 國に忠なる人々は國の創ゆる傷つかず、 こゝ戰爭の喇叭なく、ひびくはひとり愛の琴、 こゝなほ「癡情」は信徒を囚《とら》へ、 またわかき目の「淫蕩」は夜半にあたりをめぐりゆき、 數多の首府に見るところ祕密の罪にとりまかれ、 やさいき「不徳」終まで倒れんとする壁による。 47. +されど農夫はさにあらず、をのゝく妻ともろともに 潛みかくれて彼は今遠くに重き目をあげず、 その葡萄園たゝかひの 黒くも暑き息により荒さるゝ影見じとこそ。 はた柔かの夕ぐれのうなづく星のもとにして、 *「ファンダンゴウ」は舞ひをどる調べの節の木を拍《う》たず、 あはれ王公!なんぢの暴《あらび》打ちくだく民の愉安を味はば なんぢ功名の働に心を勞することあらじ、 しわがれ鈍き軍鼓睡り、人間なほまた幸あらむ。 +農夫の恐れ *村人のおどり、これを人化して曰ふ 48. いま勇しき騾馬曵の歌ふ處の何ものか? きのふ驛|路《ろ》の遙けきを慰めながら途すがら、 駒の鈴のね調添へ歌ひし如く 愛を傳記を信心を説くや?さならず、 ゆくゆくも彼は歌へり*『ヰバー、エル、レイ!』 歌をとゞめて罵るは姦臣ゴドイ、 はた又王妃奪はれし王のチャーレス、 かれの詛ふはスペインの王妃はじめて眼の黒き **豎子《じゆし》を眺めて「叛逆」の不義の「快樂《けらく》」の生みたる日。 *國王萬歳 **ゴドイ 49. +ムーアの諸壘たつところ、 遠く峻巖を戴けるかなたの長き原の上、 馬蹄碎けし地に印す、 緑野のおもて炎々の猛火に焦がしそこなはれ、 無慘のあとは告げて云ふ*「アンダルシヤの客は敵。」 勇なる農夫こゝに惡龍の巣を攻めき、 かれ今勝利の誇もて之を示しつ、 屡攻め取り取られたる絶壁遠く指させり。 +古戰場 *ムーア軍 50. +途上ゆくゆく逢ふところ人はおのおの 其帽に眞紅の徽章まとひつけ 避くべきものと迎ふべきものゝ區別をさし示す、 この愛國のしるしなく おほやけの目に歩むもの禍なりや、 ナイフは刄尖鋭くて不意に閃めき人を刺す、 かくしてゴウルの敵人は痛く患へん、 上衣の下に隱されし鋼《はがね》の光ものすごく 軍刀の刄を鈍らして砲の烟を拂ふとき。 +フランスに對する叛抗 51. +暗きモレアの山のうへおのおの路の曲り目に 見る砲榮の鐡の怪、 人目の遠く行くかぎり、 山砲の列、碎けし道路、 むらたつ木柵、あふるゝ塹壕、 駐屯の兵士、常備の警衞、 岩窟の中蓄ふ火藥、 藁屋に時まつ武裝の馬群、 山なす彈丸、炎々として燃えたつ火口《ほくち》 -- 。 +戰備 52. 來らん役をものがたる、 -- さもあれ首の一振に 弱き王公倒したる*彼いましばし、 ふりあぐる鞭をとゞめてやすらへり。 猶豫はただにまたゝくま、 千兵萬騎程なく寄せ、 恐怖の西歐やむなくも「世界の鞭」を認むべし、 あゝスペイン!來らん日いかに悲しき、 ゴールの荒鷲羽をのして天がけり、 なんぢの子らは群れなして冥府の暗に沈み去らむ。 *ナポレオン 53. +あゝ若きもの、義に勇むもの、強きもの、 誇る巨魁の暴力を増す牲として逝くべきか? 降服及び墳瑩の途中の歩あらざるや? 掠奪ののち、まつしぐらにスペイン國の滅亡か? しかして天にいます者その運命を定むるや? 祈り悲む者のためその訴うぃきかざるや? 其狂ほしき、豪勇も爲す業遂に空しきや? 賢明の策、愛國の情 勇士のたくみ、青春の熱、又壯年の鐵腸も? +スペインの危機 54. +弦なき琴をスペインの乙女柳にかけすてつ、 女性の分をなげうちて短剱とりて聲高く 軍歌を朽ちにたゝかひの業に勇みて從へる -- そはこのためにあらざるや? 先には疵の跡におびえ、又|梟《ふくろ》の鳴聲に 胸を冷やせし裙釵《くんさ》の身、 今萬軍を驚かす銃剱の音、刀槍の閃の中、 未だ冷えざる屍體をふみてかけはしる、 *マースも震ふ戰場に神女ミネルバ見る如く。 +スペインの女性の戰鬪 *グリイスの軍の神 55. +彼女の業を耳にして君驚嘆に充たされむ。 其温柔の本性の昨日《きのふ》に先に彼を知り、 其身につくる漆黒の衣にまさる黒眼を見、 其後庭に喃々《なんなん》のうれしき輕き調聞き、 畫工の力破るべき長き柔かの髮を目に 世のつねならぬ優麗の姿眺めしことあらば 信じ難けむサラゴサの塔の下、 彼女「危難」の恐るべき面に對してほゝゑみて、 むらがる敵を刈り倒し追討の軍率ゐしを。 +サラゴサに於けるスペイン女性の勇武 56. 其戀人の斃る時、不祥の涙彼は埀れず、 其將軍の死ぬる時、あやふき位置に彼代り、 其同輩の逃ぐる時、卑しき業を彼とゞめ、 其強敵の走る時、彼追討の先を馳く、 愛人の靈を誰か善く彼の如くに慰めん? 將軍の死を誰かよく彼の如くに仇討たん? 望なき時誰かよく彼の如くに救ひ得ん? 破壞の壘の前にして婦人に敗れ逃げはしる ゴールの兵を誰かよく彼の如くに追ひ攻めん? 57. スペインの女性さり乍らかの*「アマゾン」の類ならず、 あらゆる戀の妖艷な術自ら身に備ふ。 +武具をとりては男性と競ふに足れど、 はた恐ろしき方陣の中に走るをよくすれど、 そはたゞ鳩の温柔のいみじき力憎むべく 雄を傷つくる人の手をかすかにつゝくたぐひのみ。 其やさしみも、はげしさも、たゞ惱ましき喃々の 舌に名高き**遠き郷の女性に遠く優るめり、 心彼より氣高くて、艷恐らくは劣ろ得じ。 *スペイン女性の温柔の面 +古代の勇しき女人國 **英國 58. 「愛」のくぼます指おしゝ 印は觸れしその頤のやはらかなるを示すめり、 接嘴《せつし》其宿いづるべく口先つぽむ嬌《たほや》かさ、 受けんとならば猛かれと異性の子らを譽めむ、 艷なる彼のまなざしよ、其頬の上に觸るゝべく 「日の神」いかに媚びつるよ! 其愛の觸《ふれ》なか〜に頬滑かに光らしむ。 誰そ、北歐の遠きあなた色白き子を求むるは? 弱く倦《ものう》く青白く見すぼらしげの人の子を? 59. +詩人讚ずる東方の邦よ!わがためくらべ見よ! 冷嘲の徒も認むべき麗人ほめて遠く遙か われ今調整ふる邦の*女性とくらべ見よ! 風に身を乘せ「愛」去るを恐れ、あらしに觸るゝべく 君が禁ずる**「天女」等を黒目の光るスペインの わかき女性と比ぶるを許せ、かくして觀じ見よ、 君の賢き***豫言者の樂園そこに眺むべく、 天使の如く、やはらかく、黒く目光る天上の 乙女をそこに見るべしと。 +トルコとスペイン美人 *ハロルド今トルコにありてスペイン美人を追想す **トルコのハレムにある美人 ***モハメツト 60. +あゝ爾パルナサス!今われ憧れ見る處 夢みる者の目に寫る空想ならず、 歌の譬の景ならず、生れの空に高らかに雪に包まれ、そばだてる げに山嶽の威容の儀表 怪む忽ち今こゝにわれ歌はんとつとむるも。 其巡禮のもろ〜の中に尤も微なるもの こゝ經て爾の「反響」を其絃により呼ばんとす、 其山頂の高きより一の「ミューズ」も飛ばざれど。 +詩神の宿、パルナサス山 61. あゝ爾のほまれの名、知らざる者は人界の 聖ききわみの技知らず、 しば〜爾を我夢み今はた眺め、愧づらくは もつとも弱き調もて爾を拜せざるを得ず! 其いにしへの崇拜の輩あげて思ふとき、 われをのゝきて膝を曲ぐ われ聲を揚げず、思ひあがらず、 たゞ恍惚と目を擧げて爾の雲の天蓋の 下に眺めて其影に觸るゝを切にうれしまむ。 62. こゝにおいては運命を遠き故郷に限されし もろ〜偉なる詩人より更に幸多き我、 聖なる場を眺めては心動ぜぬよしもなし! 我より外は知らずしてたゞ譫言《うはごと》に叫ぶのみ、 アポロは既に洞窟におとづるゝことあらずして 先に「ミューズ」の宿なりし爾は今は墓ながら、 やさしき靈は今もこゝに 嵐に嘆じ、洞窟にもだし、 あなた潺湲《せんくわん》の波のうへ滑かの脚にすべり行く。 63. +後に爾をまた説かん -- 調半ばにふりむきて、 こゝに渇仰《かつこう》の意を致し、スペイン國の 乙女等と子らと郷とを忘れつゝ、 自由の子らになつかしき其運命を忘れつゝ、 なんぢを呼びて恐くは涙なきにはあらざりき。 今わが題に歸らんず -- されど爾の聖所より 名殘のかたみ、思出の種を搬ばむ。 與へよダフネの*不死の樹の葉の一片を今われに! 歸依者の望いたづらの誇と人に曰はしめな。 +再びスペインに返りて歌ふ *月桂樹 64. さもあれ爾美なる山、そのグリイスのいにしへも アンダルシヤの温柔のかゞやく膝に育ちたる 乙女に優り美なる群廣き麓に持たざりき。 世にあるまじき情熱に「ビジアの頌《しよう》」でデルファイの 神巫《しいぶ》歌ひし時に尚ほ之に優りて愛の歌 呼びいたすべき美しき群を見ることあらざりき、 光榮すでに其谷を遠く逃れて去りしかど 平和の宿をグリイスは與へ得べきに、惜いかな 彼等の上に惠まれじ。 65. +譽のセヴィラ美はしや、力と富と古蹟とを 民の誇るもうべなりや、 さはれカデズは遠き岸に よし賤しとも温柔の優る讚美を喚び起す、 あゝ「淫蕩」よ、放縱のなんぢの道の柔かさ! 青春の血の燃ゆる時 其魔の眼を誰れか免れむ。 天使を兼ぬる妖怪が、なんぢ向ひて口開き 欺く姿おのおのの趣味に合はせて裝へり。 +セヴィラとカデズ 66. 「時」の力に斃されて*パホスの都逝けるとき、 (忌はしの「時」!一切に勝てる女王も「時」に負く) 「歡樂」逃げて遠くこゝに温和等しき地によりき、 生れの本の海岸に忠なる**ヴィナス(其外の すべてに對し忠ならぬ)こゝに逃れて其宮を 白き壁ある郷に据ゆ。 たゞ一堂に禮拜を限ることなく其式に 歸依の信徒の多かるよ! とこしへ燃ゆる***祭壇は千を數へてあまりあり。 *昔ヴィナスの殿堂ありき **ヴィナスは海の泡より生ると傳ふ ***カデズの歡樂の場所 67. 朝より暮に至る迄、更に夜より「朝」の影 紅潮さして歡宴の笑へる群を照す照す迄、 薔薇の花輪纒はれて歌舞のひゞきはなり止まず、 竒異なる意匠とこしへに又新たなるもろ〜の 遊戲踵をつゝけ合ふ。 こゝにあるもの沈默の歡喜に對し背を向く、 はた醉興を妨ぐる物たえて無し、誠なる 信心の替へて形のみの香煙のぼり、戀愛と 祈祷と交り、時に又代る代るに行はる。 68. +めでたき休の日は來る、其安樂の清き日を 基督教の此港いかなる樣に清むるや? 見よ壯嚴の祭の式 聞かずや森の王のさけび! *鬪士の槍を折りくだき、其角の下たほれたる 人と馬との鮮血の泉嗅ぎつゝうめく聲。 演技の場裏むらがれる客は猶もと叫び立て、 乘馬の臟腑さかるゝを見て狂ほしく咆えあらび。 女性の眼《まみ》もたじろかず、痛める樣を粧はず。 +安息日 *鬪牛 69. +こは是週の第七の日よ、人類の祭日よ! ロンドン!爾いみじくも、まさに祈祷の日を知れり、 其日爾の清き民、身を潔めたる、徒弟の子、 姿をこらす職工等、その全週の氣を吐かむ、 乘合馬車、輕き馬車、一頭の馬車 卑しき極みの二輪車も、郊外目ざしおちこちと ブレンドフォード、ハーローとハムステッドに往き通ふ。 果は疲れて倦める駒、車輪を曵くを怠れば かち行く野夫の聲高き妬笑の的となる。 +ロンドンの日曜日 70. リボンつけたる美き人をテムズの水にこぐは誰ぞ? 更に安けき田舍路に馳せ向へるは誰なりや? リチモンド丘行くもあり、ヱーヤにはしるものもあり、 ハイゲイトの高き丘多きものめざし行く、 今われ仰ぐ*ビヨーシヤの森よ、其故君問ふや? +「神祕」の清き手の握るかの壯嚴の「盃」の 祭の禮に外ならじ、 其恐るべき御名により男女ひとしく盟《ちかひ》たて、 盟固めて、神酒干して、あくる朝まで舞ひをどる。 *著者今グリースにありて曰ふ +飮酒の故に彼等が行く也 71. +おろかの癖は國皆に -- 濃藍の海の上にたつ 美なるカデズよ爾のは我のそれとは區別あり。 朝の鐘のね九時をつげ、勤行の時はじまれば、 聖なる信徒つゝしみて珠數をまさぐる。 珠數とる人の群にまさる 其かず〜の罪のゆるし聖母マリヤもつらからむ。 (聖母ぞこゝに唯一の乙女なるべき、) かくて演技の場にゆく、 若き、老いたる、高き、低き、皆一樣の樂しみに。 +カデズの日曜日 鬪牛の日 72. 演武の場に開かれて廣き圓陣現はるゝ、 席は幾百幾千と層々として重れり。 喇叭はじめてひびく前、 あくれしものは席あらず、 こゝに紳士と名流と狡猾の目に婉然と 秋波たくみにたゞよはし、しかも又よく戀の疵 癒すに常に心ある、貴女は主として群れり、 狂ふ詩人の泣く如く、「愛」の悲しき矢によりて、 貴女のつめたきいやしみに死の運命をもつは無し。 73. 喃々の舌靜まりぬ、 -- 駿馬にのりて 乳白の冑いたゞき黄金の拍車をつけて輕やかに 槍とる四騎は勇しく備整ひ慇勤に、 低く禮しつ演武場へと進み來る。 其肩衣は美しく、其馬巧みに馳せをどる。 此日危險の業成らば 群衆叫ぶ高き聲、貴女のしたゝる艷なる目 (よき行の最上の賞ぞ)彼等にむくはれむ、 王侯將士得るところすべて彼等の勞酬ふ。 74. 價の高く光あり華麗の上衣きかざりて、 輕き手足の*「マタドール」場のなかにたゞひとり、 かちにて立ちて牛王を 襲ひ攻めんと奮ふめり、 さはれ何等の障碍か其行く道に濳まずや、 心を配り場内を先づ一めぐりしらべ行く、 かれ一條の投槍を振ひ、はなれて戰はむ。 馬の助のあらざらば人なすところかくとのみ、 哀れや馬は彼をのせ、血を流すべくせめらるゝ。 *鬪牛の主役者 75. 三たび喇叭鳴りわたり、合圖の旗たれさがり、 穴は開かれ、言葉なき*「期待」ひとしく沈默の 數千の看客むらがるゝ場のめぐりに口開く。 巨獸は正に奔雷の勢なして躍り出で、 猛に其目を怒らしてとゞろく脚に砂を蹴る、 さはれ當なく狂ほしく敵に手向ふことをせず、 怒る尾《しりを》を打振りる、はじめの撞《つき》を覘ふべく 頭を轉ずをちこちに、 見張るまなこは爛として紅燃ゆる火に似たり。 *看客が期待をなして口を開くの意|今期待を人化してかくの如く曰ふ 76. 牛は俄に立どまり、其目を見据う、いざ爾! 往け往け、爾氣輕の子!槍を備へよ、時いたる、 死せんか、あるひは狂へる牛をとゞめて身の修煉 あらはさんかの時いたる。 調子そろひし跳躍に駿馬巧にかけめぐり、 泡吹き乍ら進む牛傷つきぬ、 其脇より眞紅の血潮瀧と散り、 苦痛に心亂るれば彼は逃げ又かけめぐる、 矢は矢につゞき、槍は槍に -- 、巨獸惱みの聲高く。 77. 牛は再び進み來る。投槍、手槍效あらず、 責めさいなまれ、狂ほしく馳せくる駿馬も力なし、 人も、しうねき鐡槍も攻むれど武噐はあだにして 人の力は猶空し、 一頭の駿馬つんざかれ屍躰となりて横はり、 更に一頭見るも無慘に腹つかれ、 血まぶれの胸生命の鼓動の本をあらはして、 致命の疵を受けながら弱る身さゝへ、 未だひとつの疵負はぬあるじを乘せてよろめけり。 78. 覘外れて、血を流し、息をもつかず、終まで 勢猛く場の中央、牛逆襲の位置にたつ、 數多《あまた》の負傷《てきず》、投槍のひゞき、手槍のむらがりと あらびに弱る敵人の團を受けて中に立つ、 時なり、今ぞ「マタドール」彼のめぐりに働きて、 赤き牛は奔雷の勢ないsて馳せいづる、 怒は空し、巧なる腕を上衣ははなれ飛び、 牛のはげしき目をかくす。 -- 了れり沙上に牛は斃る。 79. 脊骨に彼の逞しきおほいなる首つく處、 致命の武噐はつきさゝる。 牛はとどまる -- たち上る -- よわり倒るを卑しめば、 -- やがて勝利の喝采のなかにしづかに今倒る、 もがかず、鳴かず、今倒る、 やがて飾の車來つ其上屍積みのする -- 卑俗の目によき眺め -- やがて四頭の駿足は 眼にもとまらず速やかに黒き塊引きてさる。 80. +スペイン國の乙女等を誘ひ、農夫を慰むる、 あらき演技はかくと見よ。 若き時より血に馴れて 彼の心は復讐を好み、他人の惱めづ。 亂るゝ村を汚すもの、何等私憤の爭ぞ! 陽《あらは》に敵に向へるはたゞ一隊のむれ乍ら 蔭に潛に茅屋《ぼうおく》の多く殘りて友の身に 祕密の打撃たくらむよ。 本はわづかの怨のみ、紅血ために流されむ。 +血に馴れて殘忍なるスペイン人 81. +さはれ「嫉」はたち去りぬ、横木、貫木《くわんのき》あとなくて やせ衰へし監視役、附添老女また去れり。 老いていかめし癡《ち》なる者、魂へりと思ひしや? やさしき魂のいとふもの、其數々の妨は 移る世ともに暗に入りぬ。 戀人めづる夜の*女王《によわう》はでの舞踏をてらす時、 (火山の如き狂ほひに戰あらび起る前) 髮を結びてみどりの野躍り廻りしスペインの 少女の如く自在なる誰かはありし?われ知らず。 +スペインのわかき男女の情事 *月 82. +あゝ幾度かこの前にハロルド人を戀しけう。 或は戀ふと夢みけむ(歡喜は遂に夢なれば) さもあれ、今は頑なの彼の心は搖らざりき、 過去を忘るゝ*流の水波なほ未だ掬まざれば。 而して彼は近き頃觀じ悟りき、 **翼は「戀の神」持てる其首先の寶ぞと。 いかに優しく美はしく若く見ゆるも「喜」の 甘き泉の本よりし 泡立つ毒を花の上に苦き或ものふりそそぐ。 +ハロルドの戀 *先の戀をまだ忘れず、レーズの水は冥府にありこれをのむものすべてを忘ると傳ふ **移り易し 83. さはれ艷なるもかげに彼盲なるにあらざりき、 賢き人もろともに彼今尚も動かさる 智慧の教が彼のうへ 清くもすごく恐るべき目をたれしには非ざりき。 さはれ『熱情』あらびては、遂にしづまり或は逃ぐ。 はた『淫蕩』は自らの放縱の墓うがつもの、 此もの彼の望をばまた起たぬべく葬りぬ、 あゝ快樂のいけにえよ!生をいとへる暗黒は そのおとろへの額のへ書けりカインの運命を。 84. 彼なほ群衆をながめつ。しかも之とは交らず、 されど人類の憎しみの思を以て之を見ず、 歌と踊に加はるは彼今厭ふことならず、 されど運命にしづむものいかで笑を催さん。 彼の見しこと一として彼の憂を減し得じ、 されど一度悲の魔鬼に對して抗《あらが》ひつ、 美人の宿に思こめ坐りし時に 此の即興の歌よみぬ、 彼の幸の日慰めし麗人に似しよき人に。   イネツへ 1. 否、笑む勿れ曇る額に、 われは笑を返し得ず、 さもあれ君が泣かんこと、恐らくあだに泣かんこと 神ねがはくはとめ給へ! 2. 青春と歡喜とを蝕める いかなる祕密の愁抱くと問ふや? 君も慰め得まじき惱 そは何もと君しらんとや? 3. そは愛ならず、憎ならず、 いやしき功名の敗ならず、 このわが今をいとはしめ 先に尤も崇めたる人より走らしむるもの、 4. そは逢ふ處、聞く處、見る處より 起りきたる彼の倦怠 美はわれに快を與へず、 君の目はわれを魅する力なし。 5. 譬のヘブライのさすらひ人が になひし不斷の固まりし暗、 墓のあなたに望おかず、 この世の體求め得ぬもの、 6. いかなる流人かおのれをさけむ? いかほど遠き遠き地までも いづくの果に我あるも 生の禍、魔の思はれを追ふ。 7. よそ人は喜び狂ふ如くして わが棄てはてしものを味ふ、 あゝ歡樂を夢みよ彼等! せめても我の如く覺むることなかれかし、 8. 忌まはしき多くの思出もて われは多くの邦をたどらむ、 よし何事の起るとも 最惡過ぎぬと知るは慰安《なぐさめ》、 9. その最惡は何ものか?君問ふ勿れ われを憐みて探らざれ、 笑をつゞけよ、人の心をあばきつゝ そこの地獄を見んとなしそ。 85. 別れん、さらばいみじのカデズ!長く別れん、 爾の城のよく凌ぎしを誰か忘れむ? 自由の先頭、雌伏の最後、 すべての變り行きし時、獨り爾は誠なりき、 あらびはげしく狂ふうち、 爾の街《ちまた》國人の血汐にまみれたりとせば、 *只一人の叛逆者、不和の犧牲となりしのみ。 こゝはすべては尊かりき、ひとり貴族を外《よそ》にして! 敵の鎖を付けざりき、墮落の士人を除きては! *カデズの知事ソラノ敵に内通して市民に殺さる 86. +スペインの子はかゝりけり、國の運命竒なりしよ! 自由の爲に戰へる彼等は自由ならざりき 氣力乏しき邦をして王者を持たぬ民は彼、 叛逆謀る國奴らよ 忠を盡して將軍の逃るる時も戰へり、 生命のほか何物も與へぬ邦をめでをしみ 自由に到る道筋を勇む「誇」はさし示す。 かく戰に敗れてもまた爭に立ち返り、 軍をつねに口によぶ『ナイフとりても戰はむ。』 +スペイン人の特性 87. スペイン國とスペインの人を更にも知らまくば 慘を極むる爭について書かれしものを讀め するどき「復讐」外邦の敵に加へて成す處、 みな悉く人間の命に對してこゝにあり。 閃めく短剱、祕密のナイフ、 あらゆる武噐は復讐の求に應じ用ゐらる、 かくして妻女姉妹等の操を彼は守るべく、 かくして非道の暴君は汚れの血汐灑ぐべく、 かくして敵は殘虐の怨の所爲を身に受けむ! 88. 斃れし者に一滴の愛の涙やそゝがるゝ? 流血烟る平原のむごきあらびを眺め見よ、 女性を害し紅を染めたる腕を眺め見よ、 かくて野犬にうづもれんう屍體與へて食ましめよ、 かくて野鳥におの〜の斃れしからをとらしめよ、 (摯鳥《してう》の口を滿たすべくよし其からは耐へずとも) 彼等の白く漂《さら》されし骨と血潮の紅の あとをすごくも戰場の印とながくならしめよ、 われらの見たる光影をたゞかくてのみ子ら知らむ! 89. 痛ましい哉恐るべき役猶未だ果されず 新の軍團陸續とビレネース山くだりくる 事またゞの初のみこれより日々に深むべし、 人間の目は遠き末を今あらかじめ眺め得ず。 亡びし諸國スペインを眺む、スペイン解かるれば あしき*ビザロがいにしへに縛りしに増すもの解かむ、 竒なる報よ、**コロンビヤ今其平和いにしへに ***キトウの子らが被りし害を償ひ、しかうして 母國の上に「殺戮」は思ふがまゝに荒し行く。 *スペイン人にて昔南米の人を困む **アメリカ ***當時のペルの都 90. タラベラにそゝがれしあらゆる血 バロサの戰爭のあらゆる驚異、 死者多かりしアルブエラの役。 何れも未だスペインの正しき權を收め得ず。 いつ其縁の橄欖樹枯死の災免れ得む? いつ紅潮を頬に呼ぶ勞苦を國は脱し得む? 迷ひ、疑、災、の日數を經るは幾何《いくばく》ぞ! フランスの賊掠奪をやめてあなたに遠く去り、 異邦の種の自由の木此地に榮え茂る前に! 91. +しかしてあゝわがめづる友!空しき愁胸より湧き、 調に混じ交れば、我かく歌ふ、あはれ友 -- 世のおほいなる者ともに剱によりて君逝かば、 悲しみ泣くを友にすら「誇」はとゞめ戒めむ。 さるを桂の冠着ず、一つ淋しき胸の外、 すべてによりて忘れられ泉下むなしく沈みさり、 討死ほこる者と共に混じて、しかも血流さず、 君より劣る幾何の頭光榮を粧ふを あゝ君何の咎ありて平和にかくも息《やす》らふか? +亡友(ヂョン、ヰングフィールド)ポルトガルに於て戰役中に熱病に斃れしを傷む 92. あゝむかしより交りて尤も敬を致すもの! ほかに親しき者持たぬ一つの胸は君をめづ! 今望なきわれの日にとこしへ長く閉づるとも 夜半の夢になかにして見なんを拒むこと勿れ! 白む「曙」ひそやかに 目ざめ憂に歸り來る「思」に涙そゝがせむ、 血汐の染めぬおくつきの上、想像は翔けめぐり、 やがていつしか脆きわがむくろは土に歸りゆき、 悲しむものと悲を受くるもの皆倶ならむ。 93. こゝにハロルド巡禮の第一卷終る。 更に其先知るべくと求むる君は 後のページに若干《いくばく》のおとづれ讀まむ、 韻語をつゞる彼更に尚筆を續けなば。 「そは辛し」とや、きびしき評家さな曰ひそ。 忍べ、しかして彼の行く運命なりし邦々と 其の見しものと君はきかむ、 グリイス及びグリイスの美術、野蠻の手に失せし 其前の世の跡とむる諸々の地に見しところ。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:第二卷 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第二卷 1. 嗚呼天上の緑眼の處女! (あはれ君まだ一篇の歌を人界に鼓吹せず) あゝ智慧の神女!この場に君の*殿堂ありき、 今も尚あり、禮拜を跡なくなしし 戰爭と猛火と歳をよそにして。 されども鐵に火に年にまさりて更にあしきあり、 君にかゝはる思出が -- まだ聯想が磨かれし 胸に與ふる神聖の光を感じ得ざるもの、 **其者もてる王笏と、其もの揮ふ權勢と。 *アクロポリス山上神女パラスアテーナの殿堂 **トルコ人 2. +古の日よ!莊嚴のアテーナよ!いづく今 君を崇めし偉なる者、又大なる魂は? あゝ皆去れり、おぼろげにありし昔の夢を經て。 光榮《ほまれ》の的に導けるその競爭に勝を得て 彼等は去れり。事たゞひとりそれのみか? あゝたゞ兒童の物語、たゞ一時の驚嘆か! 武將の噐《うつは》、學者の衣、探すも空し、 歳月の霧におぼろに朽ちてゆく 堂塔の上灰色の力の影ぞかすめ飛ぶ。 +グリイス文明の衰亡 3. +東方の曙の兒よ立ちて此處に *近よれ! -- さはれ禦《ふせぎ》なきあなたの壺な苦しめそ。 あゝ見よこの場 -- 國民の墓 はたその祠殿に香る煙絶ゆる諸神の宿。 げに神々も亦屈し、宗教等しくうつりゆく。 先にはヂョウブ今はマホメット、 他の教又他の年と共に起ち、かくして人は覺るべし、 香の煙牲の血潮皆悉くはかなしと、 望は葦に築かるる死と疑との隣の子。 +宗教の變遷 *トルコ民族など 4. +大地の上に繋がれて人は天上を仰ぎ見る -- 憐れなる者、爾今生けりと知りて足らずや? 生は惠の賜か、一度既に行き乍ら いづくか知らず、顧みず、 たゞ現世を外にして 未來の憂、喜を天に混じて又も生き 又も再び夢むとは! あなたの塵の散らむ前且眺め見よ且計れ 幾百千の説教にその*瓶《かめ》の言いやまさる。 +來世の望 *遺骨ををさむる 5. +もしくは逝ける英雄の高き墳墓を穿ち見よ、 彼今*國を遠く去り獨りさびしき岸に寢ぬ。 彼**逝ける時諸々の亡びゆく民圍み泣けり、 その時泣きし幾千のうち今誰か悲まん。 記録にのする古の半神半人ありし所、 その勇ましき歸依の者夜すがら歎く事あらず、 枯骨の堆の亂れより一つの髑髏とり來れ、 神に似る者宿るべき殿堂まさに比のものか? その碎けたる室を見て蛆蟲すらもいやしまん! +英雄また枯骨 *グリイスを去りてトロイに **パトロクロスの死の如き 6. +見よその破れしアーチ、碎けし壁、 寂しき堂、荒れたる諸門。 さなりこの者一度は慾望の廳、 思想の堂宇、靈魂の宮殿。 見ずや、おのおの光を缺ける目なき[穴/果;#1-89-51]《くわ》を、 こは智慧の宿、才の宿、 人の制禦を聞かざりし燃ゆるが如き熱情の宿。 聖者、賢人、博學の書き教へたり總皆《すべて》 之この寂しき*堂を活かし、再び此|宅《やど》修理し得るや? +同 *肉體の復活を證明し得るや 7. +いしくも云ひし*アテナの最賢者 『何事もしれずと知るは至上の智』 避け得ぬ所我人は何故ありて辭すべきか? 人は各々その苦あり、されども弱き惱む者 腦に湧きくる禍の夢に己とうめき泣く。 機會或は運命のよしと宣ずる所遂へ! そこには既に倦ける客に強ひてすゝむる宴《うたげ》なし、 「沈默」常に歡迎のやすらひの床設け敷く。 +人間の無智 *ソクラテス 8. +されども聖の極みなる人々思ひし如くして かの物すごき岸のをち、若し靈魂の郷あらば、 *サドカイ及び異端の徒疑惑の説に狂へえるを 耻しむるに足るあらば、 人間の勞を輕うせしすぐれし人ともろともに 祈るは如何に樂しかるらん! 又と聞かじ悲しみしその聲又も聞くべくば! **バクトリアの聖、***サモスの聖、道を教へし諸々の おほいなる靈目の前に出現するを見得べくば! +來世の祝福の望 *來世なしと説く宗派 **ゾロアスク上 ***ピタゴラス 9. +そこに我が友!君はあり、その生と愛共に去り、 我を空しく人の世に殘して去りし君はあり、 我が心情にまとはれて。 思出胸にひらめけば逝けりと君を思得じ、 よしよし君と我とまた再び合ふと夢むべし。 我が青春の思出その時あらば、 「未來」のわれに命ずるところ如何にとも 君の魂幸なりと知りて心に喜ばん。 +亡友エルドストンの追懷 10. +此處に巨大の石の上今我をして坐せしめよ、 此大理石圓柱のまだゆるがざる礎に、 あゝサタルンの子!君の好める玉座は此處、 あゝ神明の中至大のもの!此處より君の宮殿の ひそめる偉大をうかゞはん。 その事或は難からむ、「時」の努めて消ししもの そは「想像」ももどし得じ、 さはれ誇の圓柱も吐息をさそふ種ならず、 「モスレム」坐して感じなく、グリイス人は只歌ふ。 +ヂュピタアの殿堂 11. +さり乍ら誰そ高きに於ける彼の祠殿 -- そこにはパラス古の神威のなごり惜みつゝ とゞまる處、其宮を掠め荒らしゝものゝ中、 最惡最後の鈍き業犯しゝ彼は何者ぞ? 耻ぢよ汝*カレドニア!しかなせるは汝の子、 喜べ、汝アルビオン、汝の子には非ざりき。 自由に生れし爾の子、自由のものをいたはらむ、 さるを彼等の心なき -- 悲む祠堂をそこなひて 彼浪の忌むを顧みず、海のあなたにとり去りぬ。 +パラス殿堂の却掠 *スコットランド人エルヂン卿 12. あゝあゝ尤も甚し今の*ビクトの卑陋の誇、 ゴースと「時」とトルコ人許せしものを奪ひ去る。 **あゝアテーナの遺物こゝより移すべく 思ひし頭、勉めし手 彼の故郷の岸の上の巖の如く荒からむ、 心は岩と共に荒れ、情も共につらからむ、 神聖の宮守るにはあまりに弱きグリイスの 子らなほ母の悲のいくばく感じ悟り得つ、 其時までは暴君の鎖の重さ知らざりき。 *スコットランドの賊民 **英人も多少鬪すれど主として蘇國人のわざ云々 -- されど本章と前章とは矛盾あり 13. +アテーナの涙に於てアルビオン幸なりと 大英の人の口の端曰ふべしや? 爾の名にてアテーナの胸を奴隸は裂きぬとも 面赤くする歐洲の耳に此業聞かしめな。 あゝ大洋の女王、自由の譽のブリタニア、 *痛む郷よりいやはての掠めをなせり、耻ぢざるや、 義侠の救に譽得し彼女鷙鳥のあらき手に 古蹟のなごりとりさりぬ、 嫉める「時」はこを禁じ、暴君も觸れず殘ししを。 +英國とアテナ殿堂 *11と矛盾 14. +爾の*「エーギス」いづくにありし、パラス、アテーナ! むかし掠めしアラリクを其の途上にとゞめしは? 冥府も囚ふる能はざるペリユスの**子いづこにありし? かの日其の靈冥府より視る目もすごく恐るべき 粧なして光明の中に現はれいでたるを! 冥府の王は將軍を再び許し、新なる 第二の賊を其餌より遠ざけ嚇《おど》し得ざりしや? かれステジアの岸の上、たゞにむなしくさまよひて 先に好みて守りたる祠堂を防ぐこともなし。 +アテーナの神威と勇將アキレスの靈 *恐しきゴルゴンの首をしるせる胸甲の一種にてパラスのつけたるもの **アキレス(=アヒロイス=エーチルス) 15. 思ひし人のなきあとを見る愛人の如くして 美なるグリイス!爾を見、感ぜぬ心つめたしや! 英國人の手によりて爾の壁の荒らさるゝ 爾の朽つる殿堂の奪はるゝ見て泣かざらば 其眼いかに鈍からん、修復再びなし難き この古の殿堂を守るは彼の分なるを。 詛ふべきかな其島をはなれて彼等たちたる日! 爾のひるむ神々を忌まるゝ北にはこびし日! 16. +さはれいづこぞハロルドは?其陰鬱の旅人を わだつみの上進むべく我忘れはてよからんや? 人の痛みて惜むもの彼は全く顧みず、 今いつはりの嘆にて狂ふ昔の愛もなし、 冷めたき旅人他の邦に移るにあたり、さりがての 別を惜しみ手をのぶる友とて今は一もなし、 艷美も囚へ得ざるべき彼の心は固きかな ハロルド今はいにしへの如く感ぜず、彼は今 嘆息なくて戰爭と罪惡の地を立ち去りぬ。 +ハロルドの旅 17. +濃藍染むる海の上帆走る者は いみじき姿時に眺めむ、 風爽かによする時、 白帆をはりて勇ましく船は進める、見渡せば 帆柱、帆綱、港岸右へとしざり、 大海原は漫々と舳のあなたに遠くのび、 白鳥の群とぶ如く護衞を受くる舟竝び、 最も鈍き船すらも今勇ましく進み行く、 おのおのはしる舳のうへ波はでやかに捲きかゝる。 +海上の旅 18. +しかしてこゝに船中に見る勇ましき小世界! 据ゑらるゝ砲、張られし綱、 一言のもと船頂に部員その場に當る時、 嗄がるゝ命令、せはしき音 帆綱せはしく船員の手をすべるとき、 聞け下士の呼聲、たのしき叫、 或は少年候補生かたへに立ち、 善きも惡きも事あらば鋭く聲をふりあぐる、 して温順の海員等此熟練の豎子に聞く。 +船中の景 19. 一點の汚なく鏡の如き白き甲板、 其上歩む沈着の士官の見張り、 見よ又孤獨の艦長にあてがはれたる聖き場所、 すべての人に恐れられ、彼おごそかに大股に、 足を運びて默然と、そのいかめしき抑制を、 守らんがため其部下と語らふ事は多からず、 其抑制のすたるとき權と譽とは消え去らむ。。 いかに苛《つら》くも自らの力強むる法の外に、 ブリテンの子は足踏まず。 20. 吹け!速かに速かに龍骨進むる風よ吹け! 次第にうするゝ光線を夕陽《せきやう》西にかくす迄、 其時護衞の旗たつる船はその帆をゆつめつゝ、 おくるゝ船の悠然と來るを待たざるべからざり、 あゝ迅風を鈍き遲き船に空しく吹かしむる、 何等のつらき煩悶か、何等不安のたじろぎか。 あすの曙あくる迄失ふ道は幾何ぞ! 思を寄する波の上、かく心なくためらひつ、 ひらめく白帆おろされて遲なはる船待つばかり。 21. 月は昇りぬ、美はしの夕や! 光は躍る波のうへ長くも流る、 今ぞ岸のへ少年は吐息し、乙女はうべなはむ、 再び陸に歸りなば我運又もさもあらむ! 折しも粗き*アリオンのせはしき腕は 水夫等のめづる調を奏でいで 樂しき聽手一團をなして傍にたたずめり、 或は名高き節々にあはして踊るものもあり、 氣がかりなくて陸上に自由のそゞろあるく如く。 *古グリイスの樂人、こゝに粗きアリオンとはあまり巧みならぬ樂人を曰ふ 22. +カルピの海峽すぎ行きて、嶮しき岸を眺め見よ、 ヨーロッパとアフリカと互に見つめあふ處! 黒目の少女、黒き「ムーア」、其二の地青白き 月の光の下に見る、 月はスペインの岸のうへ、其弦影に暗ませど 尚ほ明かに、岩と岡と暗き森とを現はして 物やはらかに照すめり、 *モーレタニヤの巨大なる影は山なす絶壁を 下り岸邊にいたるまで物すさまじくひろがりぬ。 +ジブラルタルの弦月 *モロツコの古名 23. +夜なり、今ぞ冥想はかく感ぜしむ、 戀は終りを告ぐれども我等一たび戀せりと。 其敗れたる熱情を淋しく嘆く人心 今友なきも一度は友を持てりと夢むべし。 青春の身もわかき愛、わかき喜失ふを、 誰そ老境の歳月に身の屈まるを求めんや? あゝ魂と魂と、その交を忘るとき、 其力もて碎くべき名殘のものを*「死」は持たず、 あゝ幸の日よ!青春を誰か再び願はざる? +夜半の冥想 *即ち人生に何等のよきものを殘さず 24. +斯く船べりによりかゝり、 水面にうつる月を見て、 望と誇みな忘れ、 知らず識らずも魂はあと戻りゆく年を逐ふ。 おのれに勝りなつかしみ、涙を誘ふ本として、 先に思の種となり、今も然かある或人を 持たざる程に荒れはてし魂は此世にあらざらん。 疲れし胸は心より閃めく苦痛取り去るを 叶はぬ乍ら試みん。 +愛の思出 25. +岩の上坐して流に思ひ、丘に思ひ、 人間の領を認めざるものある處、 人間の歩み殆ど入らざる處、 しづかに森の蔭厚き場を心に探り行き、 小屋を求めぬ天然の野生の群ともと共に、 人目にふれず、道なき山をよぢのぼり、 きりぎし或は泡立てる瀑布の上によりかかる、 これ豈孤獨と稱せんや、自然の魅力と話し合ひ 其蓄積のひろがりを眺むることに外ならず。 +自然との交 26. +さはれ人間の群の中、騷の中、激動の中、 現世の疲れし諸人を眺める、聞きつ、感じつつ、 更に領しつ、交はりつ、靜に觀じ思ひ見れば、 わが幸祈るものはなく、われ又爲に祈るなく、 盛時に寵を受けしもの、時衰へて逃げ去り、 -- 諂《へつら》ひつ、從ひつ、求めつ、乞ひしすべての中、 われと等しき同類のしたしき情を抱きつつ、 わが無きあとに微笑を減ずと見えんものもなし、 これぞ誠の孤獨、誠の寂寥! +孤獨 27. +これに優りて幸なるは淋しきアソスの山の上に 見らるゝ如き隱者の生、 夕は高き峯の上、 眺むるは緑の波、すみわたる空、 其いみじさにかゝる時この清き場見たるもの、 彼はそゞろにすてがての思にこゝに留らむ、 心ならずも、かくて後、心を魅する景を捨て、 運命しかもあり得ばと思の吐息なしつゝも 既に殆んど忘れたる世を憎むべく立去らむ。 +アソス山上の隱者 28. 長き一樣の海上の旅 渡りて跡を殘さゞる其水上の路をわけ、 なぎと、あらしと、天候の變と、汐路の掛引と、 波と風との氣紛と、 海にあたりを圍まるゝ羽ある城の中にして、 水夫よく知る歡と又憂とを後にしつ、 風の吹く時、沈む時、又大波のおこる時、 あらきもの、晴るゝもの、順なるもの、逆なるもの、 皆經て、とある樂しき朝、見よ見よ陸なり!すべてよし。 29. +地中海のもなかに宿る姉妹の島。 カリプソの島、無言に過ぐること勿れ。 ひとつの港なほそこに疲るゝ者にほゝゑめり、 心強くも人界の妻を擇びし*英雄を かひなく眺め、岸のうへ、いみじき女神なきたりし 其あとすでに遠けれど。 又いかめしきメントルの諫によりて彼の子は あなたの汐に高きより物凄くも飛びこみぬ、 かくも二人を失ひて神女二重の吐息しき。 +カリプソの島 *グリイスの英雄ユリツセイ(オデツセイ)こゝに女神カリプソに抑留されしのち故郷を思ひて女神を棄てさる 後其子テレマカス亦女神の愛を逃る 30. +神女のよさしむかしにて、其柔かき榮も去る、 さはれ信頼こゝにおかず、輕浮の子らよ警めよ! 人間の女主今もなほその危險なる王座占む、 なんぢ新たのカリプソをそこに見出すことあらん。 あゝやさしき*フローレンス、此我儘の愛なき心、 分ち取るものありとせばそは君ならむ。 されど絆《ほだし》の妨に君の祠《やしろ》に價なき もの捧ぐるをわれ得せじ、 わがため痛感ぜよと尊き胸にわれ乞はじ。 +危險なる人界の女主 *マルタ(モルタ)島にてバイロンが逢ひしスペンサア夫人 31. +かくこそ思へ、ハロルドは其貴女の眼を眺めやり 禍なくて掠めさる光まともに受けし時、 たゞ讚嘆の感じのみ、外には思あらざりき。 「愛」は遠くは離れねど、別れて立ちて今悟る、 かれの信者は失はれ又捕へられしも屡々に、 しかしてすでに禮拜を致さんことのあるまじと。 羽ある*小兒其胸を再び覘ふことあらじ、 崇拜我に捧げよと勸めて效のあらざれば 小さき神はいにしへの力去りしと觀じ知る。 +ハロルドすでに戀を棄つ *「愛」=エロス=キュピト 32. 逢ひし女性に悉く思ひを寄すと曰はれたる、 此子彼女のひかる目に心動かず向くを見て フローレンスは驚けり。その目を他の人々は 其望とし、法となし、運命となし、罰となし 其奴隸より妖艷の女性求むるすべとして、 恐るるもあり或は又恐粧ふものもあり。 彼女は若き彼にして世にあり勝の戀の火を +感ぜず、あるは少くも粧はぬを見て怪しめり、 其火に眉はひそむれど、怒る女性は稀といふ。 +現代婦人の特性 33. 今沈默におほはるゝ、或は誇にとめらるゝ 石とも見ゆる彼の心、嘗ては戀のたくらみに 巧みならぬに非ずして、 到る處に放縱のわなを擴げて求むべき 價あるものある限り、 いやしき狩を棄てざりき -- かくとは彼女悟り得ず、 しかあれ今はハロルドはかゝる巧みにたよるなく、 かくも緑の艷なる目、よしめづるとも世の常の 戀の奴のうめき泣く其群のうち加はらじ。 34. +吐息によりて「我がまゝの物」を得べしと思ふ者、 (わが見るところ)彼はよく女性の胸を弁へず、 既に一たび囚へ得ば人の心を何かせむ。 爾の偶像の目に對し、よく臣服の禮致せ、 さもあれ卑下に過ぎなそせ、過ぐれば爾と其願 よし慇懃を盡すとも彼女は厭ひ侮らむ。 愚かならずば爾なほ温柔さへもつつみ掩へ、 活氣に滿つる信はよく女性に向ふ武噐たらむ。 刺戟と慰安|交互《かへがへ》にやがては戀をかち得べし。 +戀の祕訣 35. +此戒はむかしより。 -- 「時」こを眞とあらはさむ、 こを最も知れるもの最も之を悲しまむ。 すべてが得んとする處、得られし時に觀ずれば いやしき賞は拂はれし勞償ふに價せず。 すたれし青春、やぶれし心、失ふ名譽 -- 遂げ得し戀よ、これぞ爾の果實なる 人やさしくも酷《つら》うして若き望の破るれば 其生む惱終まで病となりて消え失せず、 戀も心を飽かしめぬ時にも遂に癒されず。 +戀の犧牲 36. +去らん哉、去らんかな、歌に道草はむ勿れ、 幾重こすべき山もあり、 幾重こぎそふ岸もあり、 導くものは「空想」ならず、「悲哀」の思ひ -- 行手に山河美しく、人間の腦その微なる、 思想の途にたどるもの、 若しくは更に新らしき「無何有《むかう》の郷」に説きしもの、 そは人間にその命と其道とを示すもの、 若しかの*腐敗のものにして教を受くるべかりせば。 +前途の旅 *人間 37. +そのやわらかき面ざしは常に移りて替れども 懷しの自然は今も無上の慈母、 其愛兒にはあらねども、その胸つねにはなれざる われはこゝより飽くまでも其養を吸ひとらむ。 あゝ人工の巧にてその途汚さゞる處 あらき姿に自然は最も美なりけり。 夜も日も彼はほゝゑみぬ、 他の何人も見ざる時、ひとりわれ見ていやましに 求め求めて、就中あらびのなかにこを愛でぬ。 +自然の愛 38. +アレキサンダー起りし所、アルバニヤ 青年の題目、賢者の燈臺、 はた同名の*彼も出でぬ、彼に屡々敗られし 敵は勇猛の彼の威の前にひるみぬ、 アルバニヤ、爾蕃族のあらき乳母、 いざ爾の上に目をむけ、 十字架は沈み、爾の塔は起り、 都市のすべての目の前に杉の木立を貫きて 見よ青白き**弦月の飾の光谷にてる。 +アルバニヤ *一四〇四に生れしロウド・アレキサンダア屡トルコを敗る **トルコの勢盛也 39. +チャイルド・ハロルド帆走りて、むかし悲哀の*ペネローペ 大わだつみの波を見し荒れたる場を通り過ぎ、 更に進みて人の世にまだ忘られぬ名所《などころ》の 山 -- 戀のやど、レスビヤの哀れの人の墓を見る。 あゝ秀れたる暗き**サホウ、不朽の歌は 不朽の焔宿せし胸を救はざりしや? 世に永遠の生命を與へし人は生き得ずや? 下界の人の望み得る唯一の天、永遠の 生は絃歌に待つあらば、 +ペネローペとサホウ *ユリツセイの妻、十年の孤閨を守る **有名なる失戀の女詩人 40. +遙に遠くリューカヂヤの岬 あこがれ*切に去りがての郷、 チャイルド・ハロルド眺めしはグリイスの秋の靜けき夕ぐれ。 屡々彼はいにしへの戰の場を眺めにき、 アクチアム、レパント、又不幸なるトラファルガー、 心動ぜず眺めにき、 譽少き遠き星のもとに此世に生れ來て、 無頼の勇士の業を厭ひ、武道の人を嘲ければ、 鮮血流す爭と戰のわざ好まねば。 +リューカヂア *こゝよりサホウ身を投げたりと傳ふ 41. されどリューカヂアの恨の岬 遠く突き出づる岩の上、かゝる夕星眺めやり、 空しき戀のいやはての宿りに向ひ呼びし時、 世の並ならぬ情焔を感じ、あるひはしか覺ゆ、 其いにしへの山蔭に 船悠々とはしるとき うれひの波のうねり見つ、 常の如くに悄然と思の海に沈めども 其目は澄みぬ、青白き額《ぬか》はしづかに、滑かに。 42. +夜はあけ放れ、いかめしく山あらはるゝアルバニア、 スーリの暗き岩と又ピンダスの奧の嶺、 半は霧に包まれて雪か眞白き水にぬれ、 黒き或は紫の幾多の線に粧はれて、 起てり、そを蔽ふ雲晴れて、 見るは山地の人の宿、 狼こゝにさまよひて、荒鷲こゝに嘴《はし》をとぐ、 荒きけだもの、荒き鳥、又それよりも荒き人 見ゆ、今四方に吹きおこるあらし暮れ行く年亂す。 +アルバニア巉 43. +ハロルド今は淋しくも孤獨の客と身をなして、 長き別をキリストの教奉ずる邦に告げ、 すべての人は讚ずれど多くは見るを恐れたる 異邦の岸にのりいだす。 其堅き胸運命に抗し、願も多からず、 進みて危險求めねど又仲々に避けもせず、 境地まことに荒けれど境地新たに珍しく、 かくして絶えぬ旅の憂《うき》慰め得べし、するどくも あらぶあらしを凌ぐべし、燃えつく夏の日も忌まず、 +異邦の岸に入る 44. *割禮の子に痛はしく侮らるれど十字架は (赤き十字架なほこゝに) 奢り高ぶる僧輩の好める誇忘れたり、 僧俗ともに彼によりひとしく厭ひ賤まる。 飾をいかに裝ふとも惡しき迷信何かせむ、 偶像、聖徒、聖母、豫言者、弦月のしるし、十字のしるし、 何のしるしに尊まれ、崇めらるゝも みな僧職の益、すべての不利! 眞の拜みの純金を爾の滓《かす》と誰れか別つ? *こゝにはマホメット教徒 45. +見よアムブラシヤの灣、*婦人のため いみじき無害のものゝため -- 一つの天下失せし處、 あなた漣しくほとり、其水車を危げの 勝負に、たしかの殺戮に呼びしは幾多の ローマの諸將、アジヤの**諸王。 オーガスタの戰勝の記念の立てる處見よ、 築き建てたる手の如く、それはた今は衰へに、 人間の世に禍をます帝王の濫政よ! あゝ神!世界はかかる徒の賭博たるべき運命か? +アクチアム海戰の古蹟 *クレオパトラ **アントニイの同盟たる 46. +荒き風土のものすごき境を過ぎて ハロルドはイリリヤの谷のただなかに、 史上のあとに記されぬ邦々わたり、 莊嚴の多くの山を越行きぬ、 名あるアチカも美しきかゝる谷はた多からず、 此等の邦に知られざる風致の妙を 美はしきテンペの郷も誇り得ず、 パルナッサスは神聖のむかし名高きあと乍ら、 此ものすごき岸の中に濳める景に比《たぐ》へ得ず。 +イリリヤ 47. +更に過ぎ行く荒涼のピンダスの山、アケルシヤの湖、 又此邦の首府をあとに、 山河いくたび踏みわけて、 訪ふアルバニアの*首長のもと、 其恐るべき嚴令は法なき法と行はれ、 殘忍の手に騷しき、しかも猛しき民をすぶ、 猶をちこちに剽悍の山賊ありて其權を あなどり、岩の寨《とりで》より遠く侮蔑を投げかけて 屈せず黄金の威の他に。 +アルバニヤの首長訪問 *有名のアリ將軍 48. +「ヂザ」の名を呼ぶ修道院! 爾ささやかの幸ある聖地! 其蔭深く高所より、上、下、周圍、 いづくに眼を轉ずるも何等の色彩ぞ、妖艷ぞ! 岩、川、森、山、これに滿ちて 夏に濃藍の空すべてうぃ整ふ、 下には遠く急流の音、 水量あつめて瀧ありと告ぐ、 魂驚かし喜ばす絶壁の間貫きて。 +ヂザの修道院 49. あなたの茂る丘の頂、 連綿として傍に、更に多くの高き山、 そばだつなくばをゝしとも稱へらるべき丘の上、 一叢《ひとむら》しげる森のなか、 高きに光る修道院の白き壁、 道士はこゝに宿をとる、 彼粗野ならず、又歡待に吝ならず、 こゝよぎるもの迎へられ、 こゝより急ぎ逃げさらじ、自然の景に心あらば。 50. 炎暑はげしき節に彼れ靜かにこゝに身を憇へ、 こゝ繁りあふ老木の蔭の緑はあざやけし、 翼最もやはらかき風は其胸扇ぐべく、 まともに天の高きより清き呼吸をとり得べし、 平野は遙か遠く下に -- なし得る時に 彼をして清き樂とらしめよ、こげつく熱の光線は 病の種をやどしつゝこゝを貫くことあらず、 巡禮の子にこゝろよく此處にその身をのさしめよ。 倦むことなくて彼をして朝、午、夕を過ぐさせよ。 51. 暗く巨大に眼の前に 自然の圓き劇場か、 キメラの連山かれよりこれに 下には、生ある谿は動くに似たり 羊は戲れ木はふるひ、流は走り、 山樅《やまもみ》の木はうなづきぬ、見よ黒き*アケロン! むかしは墓に捧げし流れ、 あはれ**プルトウ今見るところ、冥府ならば 劣る樂園の門を閉ぢよ、わが亡靈はそを乞はじ。 *冥府の川と傳ふ **冥府の王 52. 都會の塔は一として此好景を汚すなし、 丘の屏風は掩はれて 遠からねどもヤニナは見る目遮らず、 人は少く、村も乏し、寂しき小屋も共に稀、 ただもろ〜の絶壁を覘き下りて山羊ははむ、 其散りし群氣にとめて 白き衣の牧童は 若き姿を岩に沿ふ、 若しくは彼の窟の中、しばしあらしのあらび避く。 53. +あゝいづくにドドーナよ!爾の古き森は? 豫言の泉は?神託は? *ヂョーブの答を其むかし何等の谷かひびかせし? 雷霆の神の殿堂の何等の跡か今殘る? すべて -- すべては忘れらる、さるを人間其生を つなぐしばしの脆き絆《ほだし》切るゝを敢て悲しむや? やめよ!しれ者、諸神の運は爾の運、 大理石に樫の木になんぢ優らんと欲するや? 國民、言語、世界ともに無常の敵にひれふすを。 +ドドーナ(古グリイス時代神託の場) *オリンピヤ十二神の主、即ちヂュピター 54. +エバイラスの境はあとに、山は姿を收めたり、 永く見あぐる勞に倦み、 みどりを春の染むる時、 かの滑らかの谷の上、目は喜びてやすらへり。 平野の上も擴がるは絶えて卑しき美に非ず、 茫々の原とほりゆく其おほいなる水の岸、 岸には影を鏡なす水にやどして 森は高くも風にゆらぎ、 或は月もろともに夜半の崇嚴の眠とる。 +平野の景 55. 日は巨大なるトメリト山の蔭に沈み、 ラオスの流廣くはげしく怒號し來る。 見馴るゝ夜の黒き影寄せ來る時に 嶮しき岸を心して曲り下りて、 チャイルド・ハロルド眺め得たり、空に流星のひらめく如く その壁川を見おろせる テパレンの市のかゞやく諸塔。 更に近より彼は聞く、夕の谷に吐息する 風に音そへ、口づさむ戟《ほこ》とる人のものゝねを。 56. +尊き「ハレム」の無言の塔過ぎ、 弓形なせる大門の下、 權勢の君の館《たて》彼は見たり。 そこにあたりのものすべて宣じぬ彼の高き位置、 專制の君はなみならぬ威儀のただ中、 奉仕せはしく滿廷の震ふが中に坐を占めて、 奴隸、宦官、、また兵士、賓客、僧徒かしづけり。 内には宮殿、外には城砦、 あらゆる風土の人々は皆悉くよせきたる。 +アルバニア首長の居館 57. +華麗の飾裝ひて準備とゝのふ軍馬の列、 又|種々《さま〜゛》の武備の品、 下なる廣き庭に滿つ、 上には竒異の群、廻廊飾り、 或は高帽の韃靼人廣場にひゞく戸を過ぎて 屡々馬を走らしむ。 トルコ人、グリイス人、アルバニヤ人、モーア人、 こゝに色彩さま〜゛の粧なして混じあふ、 折しも深き軍鼓の音この日の終告げひゞく。 +アリの陣營及軍隊 58. 見る目まばゆく金色の絲の刺繍の上衣つけ、 絹に頭を包ませて飾の銃を手にとりて 軍袍膝に至るアルバニア人、 紅眞の肩衣のマセドン人、 恐ろしの帽子を着、偃月刀帶ぶデリイ人、 勇しくしてしなやかのグリイス人、 又色黒く疵つきしヌビヤ人、 權高ければ和《わはら》かず、物云ふこと稀にして、 すべて周圍《あたり》の人々のあるじ -- 髯あるトルコ人 59. 著しくも交れり、或は群れてよりかゝり、 あたりに移る種々の光景見つむるものもあり、 又おごそかの囘教徒うつむきふして祈るあり、 また煙草を吸ふもあり、又戲るゝものもあり、 アルバニヤ人は傲然とこゝに大地を踏みはだき、 グリイス人は喃々と半そこにさゝやけり、 聞け、囘教の寺院より夜ごといかめしひゞく聲、 塔震はして僧は叫ぶ、 『アラー他に神あらず、祈れ、神たゞおほいなり』 60. +季節正しく*「ラマザン」の斷食の時、 日一日永く其禁戒は保たれぬ。 さはれたそがれ過ぎ去れば 酒宴歡樂開かれて、 今やすべては皆騷ぎ、 僕《しもべ》の群は豐なる食卓、内に設け布く、 今廊廓は人なくて築きし效のなき如く、 給仕と奴隸紛々と内に入るとき出づるとき、 種々の室より騷しく混じてものの音聞ゆ。 +ラマザン節 *囘教の斷食の月 61. +こゝに女性の聲聞かず、彼は離れて、守られて、 面蓋《おもおひ》つけて、戸の外に行くを殆ど禁ぜられ、 心と身とを一人に任せて籠に親みて また飛び立たん願なし、 故は主人の愛により幸なしとせず、更にまた あらゆる感にいや勝る母性のつとめ樂しくて (何等の幸のつとめ!そは) 他に勝りて生みの子を、がふくみそだて、子は永く その胸去らず、母をしていやしき情をわかしめず。 +トルコの女性 62. +大理石敷く廳のうち、 其もなかより迸る泉のぼりて 一面にすゞしき清さ蒔く處、 又温柔に放縱の床やすらひをよぶ處、 戰の人、禍の人たるアリはよりかゝる、 「柔和」光を尊くも 老いたる面にそゝぐ時、 其風貌に人は見じ、 下に潛みて耻辱もて彼を汚せし行を。 +首長アリ 63. +其白うして長き鬚、 青春の情に似合はずと曰ふには非ず、 戀は齡に勝つといふ*ハヒツの昔説く處、 **テオスの詩人又しかく歌ひ、その歌誤らず。 さもあれ慈悲の柔かの聲を嘲り笑ふ罪、 すべてに合はず、就中老に合はざる深き罪、 ***虎狼の牙を彼に付けぬ、 血は血につゞき、人界の生を通じて絶ゆるなく、 血に初めたる人々はます〜酷き血に終る。 +アリの殘虐 *十四世紀ペルシヤの大詩人 **アナクレオン ***アリは晩年特に殘虐の行あり|後に彼は殺されたり 64. +耳と眼とに珍しき中に巡禮 疲れたる足をとゞめて休らひつ、 囘教の奢四方の眺め、 廣き館の放縱と富とに早く倦みはつる、 こゝは都會の喧囂《けんごう》に 飽きて好みて大官の退くところ、 豪奢その度を減じなば誠に彼によからまし、 そも〜平和は人工の種々の喜いとふもの、 快樂、華美と與《くみ》すれば共に兩者の味を消す。 +アリの居館 65. +はげしきは、げにアルバニヤ人、されども少し熱すれば、 彼等は徳はなしとせず、 彼等の脊を見し敵ありや? 彼等の如く戰の勞に堪ゆるは誰なりや? 苦難の際の助には其要寨も彼等より 優りてたしかなりとせず、 彼等の怒ものすごく、其交はいと固し、 感恩もしくは勇のより、彼等その血を灑《そゝ》ぐとき 首長いづくに率ゐるも奮然として馳せいづる。 +アルバニヤ人の特性 66. 其將軍の塔の中、勇みて軍にはなやかに 彼等群がり集るをチャイルド・ハロルド眺めたり、 後に彼等の手の中に困苦の牲となりし時、 まじりて再び之を見き、 そは惡人のいやましに迫り惱ます不利の時、 されど彼等は慇懃にその屋の下に宿かしぬ、 文明の子もかゝる時よする慰少くて 國を同じうするものも、遠く離るゝ時にして、 心の試おこる時之に堪ゆるは少しや。 67. +逆風彼の舟を吹き、スーリのあらき岸の上 まともに之を寄せし時、 あたり淋しく暗かりき。 陸に上るはあやうくて、留ることはいや惡し、 奸計あるひはひそまむと しばし水夫等ためらへり、 されども遂に水夫らは危ぶみながら進み行く。 *西歐、トルコの民を共にひとしく厭ふ邦の人、 其いにしへの虐殺を新たにするを疑へど。 +ハロルドとアルバニア人 *アルバニア人はかく兩者を厭へり 68. 其恐はあだなりき、スーリの人々慇懃に、 巖の上を沼澤の危きそばを導きて 行儀正しき奴隸より更にやさしく心こめ、 (彼ほど柔和ならねども) 火を焚き、しめる衣搾り、盃みたし、燈點じ、 食をつらねき(粗かりしかどすべてなり) かかる行博愛の世にも稀なる型を帶び、 疲れしものをやすましめ、悲しきものを慰めて 幸ある人に教埀れ、惡しき者をば辱かしむ。 69. 其かりやどの山國を 去らんずる折、山賊の一團起り群りて 途の半ばに途塞ぎ 遠く近くを剱戟と猛火を以てあらし去りぬ、 アカロナニヤのひろき森こさんが爲にハロルドは、 かくて一隊の護衞軍、 軍に馴れて辛勞に色の黒める隊雇ひ 進みて白きアケルスの波と語りつ、その岸の あなたよりしてエトリヤの森を遠くに眺めやる。 70. ウトライキイの淋しき岸、曲りて灣をなす處、 疲れし潮退きて、休みしづかに光る處、 西より輕く風吹きて、 藍なす波の澄み行くを亂さず口をふるゝ時、 緑の丘の森の木の葉 夜半のしづけき水面に埀れてその色いかに深き、 こゝにハロルド客となり、 此おだやかの眺見て、心動かしぬよしもなし、 夜のやはらの姿より多く喜び刈りとれば。 71. +かゞやかしくも篝火の燃ゆる平の岸のうへ、 酒宴開かれ、をしこちと葡萄の美酒はゆきめぐる、 たま〜之を見なんもの 驚き呆れ口開けむ、 しづけき夜半の過ぐる前、 其軍隊の習の樂しき宴は初まりつ、 若ものおの〜剱を捨て、 人と人とは、つながりて、手に手をとりて跳り出で、 竒異の哀歌を叫びつゝ、陣袍着たる群をどる。 +岸上の夜宴 72. チャイルド・ハロルド少しくはなれ、身をおきて、 興を催し、此歡樂の宴を見つ、 粗くも、しかも害のなき其戲厭ふなし、 まこと彼等の野蠻なる、さはれ醜陋の體は無き、 歡喜はいやしき眺ならず、 火焔に面照さしめ、 其身振はしなやかに、其黒き眼はひらめきて、 其あらき髮長く流れて帶にたれ、 聲を合して其曲を半は歌ひ半は叫ぶ。 1. *「タムブルギ」よ!「タムブルギ」よ!爾の遠音 勇なる者に授くるよ、望と軍の約束を、 山地の子らは悉く皆音きゝてたちあがる、 キマリ人、イリヤ人、色黒きスーリ人 *太鼓を打つ人 2. 雪白の袍及びあらき上衣を穿ちなす 黒きスーリの人よりもまして勇なるものありや? 彼は羊を狼と鷹とにまかせ[以下何文字か判読不能] 岩より落つる流の如く野に下る。 3. 友の過《あやまち》許さゞるキマリ人、 敵の命を許さんや? 覘違はぬ砲をしてやめしめんや?復讐を? 何等の的か怨敵の胸に勝るものあらむ? 4. 不屈の人種を送りだすマセドニヤ、 彼等はしばし洞穴と獵とをすてむ、 されど血紅の肩衣は更にひとしほ赤からむ、 剱を鞘にし、戰を終らん前に赤からむ。 5. その時波の傍に住めるパルガの海賊ら、 奴隸の難を*「フランク」に 教ゆる彼ら其船を櫂を汀にすておきて 岸の捕虜《とりこ》を宿に引かむ。 *一般に西歐人 6. 富の與ふる快樂をわれは求めず、 弱者の金に買ふ處、我の剱は奪ひ得む、 流るゝ髮の丈長き若き花よめ奪ひ得む、 更に多くのうるはしき乙女を母より裂きとらむ。 7. 若き乙女のうるはしの面ぞめでたき その媚我を和むべく、其樂我を慰めむ。 其部屋より調よき琴を携へ來らしめ、 父の戰死を題として我等の爲に歌はせむ。 8. 思ひ出よ*プルギサの陷ちし時、 負けしものゝ叫び、勝ちしものゝうめき、 われ等の燒きし屋、分ちし掠、 殺せし富豪、許せし美人。 *一七九八にアリが彿國より取りし地 9. われ慈悲を説かず、恐を説かず 大將軍に仕ふるもの、こを決して知るまじき、 わが豫言者のむかしより アリパシヤほどの英雄を弦月いまだ嘗て知らず。 10. +彼の子黒きムクタルはダニューブさして馳けいでぬ、 その髮黄なる*異教徒に恐れて彼の馬尾を見ん、 かれの騎兵血に染み岸をかくるとき モスコー人の陣營を逃れんものはいかに少き! +「パシヤ」の記號 *ロシヤ人 11. *「セリクタール」よ!わが將軍の刀拔け、 「タムブルギ」よ!その音は戰の約興ふ、 岸にわれらの下り行くを見る山々よ、 勝者として我を見む、さらずば我を見ざるべし。 *劍を負ふもの 73. +あゝ美なるグリイス!逝きにし英武の悲しき形見! すでに逝けるも不朽なる、亡び去れるも偉大なる! 誰か今はた散り去りし爾の子等を率ゐ統べ 長く馴れ來し束縛を破らむ? 荒れて淋しきサーモピリイの墓なる峽に むかし待ちたる爾の子、 死を甘んずる絶望の勇士は今の比にあらず、 あゝ!誰かその勇しき魂をとり、 *ユーロータヌの岸より飛びて墓より爾を招き呼ばん? +グリイスの題目に返る *スパルタの川 74. +自由の靈よ!*フィレイ山の頂に スラシビラスとその部下と爾とむかし坐せし時、 爾のアチカの平原の緑の佳景曇らする 今この不快の時あるを爾占ひ得たりしや? いま三十の暴主のみ鎖を強ゆるものならず、 ひとり〜の賤陋のものこの陸に**主たり、 爾の子等は立たずして效なく只に罵るよ、 トルコの人の手に振ふ鞭打の下におのゝきて、 一生奴隸の身となりて言《ことば》に衰へて。 +自由の靈 *三十の暴主に反して英雄の據りし山 **グリイスは此時トルコに臣從せり 75. たゞ形骸を外にして、すべてはいかに替れるよ! なほ各々の目に光る炎々の焔眺め見て、 あゝ失はれし自由の靈!爾の亡びぬ光もて 彼等の胸の新たしく燃ゆると誰か知らざらん。 多くは夢む、手の中に 祖先の權を返すべき時は近きにいたりぬと、 彼等はそゞろにあこがるゝ外邦の武噐また援助、 さもあれ獨り強敵の怒に向ふものもなし、 或は奴隸の記録より汚名を割きとるものもなし。 76. +あゝ世襲の奴隸の身!しらずや? 自由たらんもの手を下さゞるべからずと、 勝利は己の腕により求めざるべからずと、 ゴール若しくはモスコー人士爾を囘《かへ》さんや? まことに彼等は爾等を掠むるものを斃すべし、 されど自由の祭壇は爾のために燃えざらん、 あゝ*「ヘロト」の靈よ!起ちて爾の敵に勝て! グリイスよ主は替るとも状態遂に一つのみ、 爾の光榮の名は過ぎぬ、爾の耻辱の日は過ぎず。 +グリイスよ自ら奮へ *グリイスの古代に叛抗したる奴隸 77. 「アラー」の爲に*異教徒よりとられし**都、 異教徒更にオスマンの人士の手より奪ひ去らむ、 侵すべからぬ帝王のゆゝしき宮、 舊主の猛き***「フランク」を又も迎ふることあらむ、 或は****ワハブの叛抗の人 -- 先に一度豫言者の 墓より敢て珍寶を穿ちて掠めさりしもの、 其殘忍の路を遠く西方さしてめり行かむ、 さもあれ自由は薄倖の此地を訪はじ、 無邊の勞の年月に奴隸は奴隸に相つがむ。 *教徒より見て -- 即ちキリスト教徒のこと **コンスタンチノープル ***一般に西歐人 ****アラビヤの清教徒の如きものメツカを陷る 78. +さもあれ彼等の娯樂を見よ、 日々の精進夜々の祈祷 行ひなして深重の罪を悔いよと、 尊き式を設けたる精進節のいたる前、 「懺悔」が憂の灰色のいたみの衣つくる前、 歡喜の日數そこばくはすべての上に命ぜらる、 人は各々快樂の祕密の分をとるべしと 種々の衣を着かざりて假面の會に踊るべく。 うれしたのしき謝肉祭假裝の列に入るべしと。 +グリイスの謝肉祭 79. 嘗ては彼等の治世の女王、あゝ*スタンブール! 歡樂汝に優るものいづくにありや? 今トルコ人ソフィアの祠殿を汚すとも、 祭壇すらもグリイスは今見ることを得ざれども、 (あゝ其悲、我の調にゆきわたる) 其樂人ははでなりき、其民衆は自由なりき、 すべては共に喜びき、今只これを粧ふのみ、 人目を引きてボスホラス、岸に震ひし景と音、 其に似しもの屡々はわれ未だ見ずまた聞かず。 *コンスタンチノープルのトルコ名稱 80. 岸のへの輕きさはぎは高かりき、 樂は屡々替れど調をやめず、波のうへの 拍子揃ひし櫂の音に響き返して奏でられ、 漣たてる水面は、たのしきうめきの聲放ち、 潮の*女王は天上にうなづきつゝも輝けり、 かくてしばしの風吹きて波をしづかに拂ふ時、 恰も天上の玉座よりかくるが如く 反射の影はいやましの光を與へ かゞやく波は燦爛と其洗ひ去る岸てらす。 *月 81. +波に添ひつゝ、多くの輕き小舟はすべり、 岸の上にはこの邦の乙女等舞へり、 男性女性いづれも皆休を思はず、家を思はず、 ものうき目とふるへる手 あらがひがたき秋波をそゝぎ、 又柔に握られて又柔かのそを返す、 あゝ戀よ!若き戀よ!爾の赤き紐に結ばれ、 聖者或はすね人に思ふがまゝに曰はしめよ! つらき人生救ふもの、そはたゞひとり斯る時! +戀の群 82. +さはれ樂しき假裝會、その群の中、 祕密の痛に震ふ胸、厚く蓋へる胸衣を 通して半ば見ゆるもの潛み隱るゝなからめや? 海のしづけきつぶやきが斯る恨の胸にとり、 彼等空しく悲めるすべてを返響すとも見ゆ、 かゝるものには快濶の群の悦いたづらに たゞ執拗の思の種、又いかめしの輕侮の種、 むなしく高き笑聲、いかに彼等は厭ふらん、 彼らは歡喜の色衣を黒く葬衣に替へんとす。 +潛める憂 83. +こはグリイスのまことの子、疑もなく感ずべし、 もしグリイスに一人のまことの愛國の者あらば、 其流ならず、戰を喋々すれども身を潛め、 奴隸の平和甘んじて、失へるもの悲めど、 尚ほ滑かの笑もて、暴主の面を仰ぎやり、 奴隸の鎌を振へども、剱振はぬ輩よ、 あゝグリイス!爾を愛せざるものは尤も爾におへるもの、 其生、其血、其記録 -- 墮落の群を恥ぢしむる祖先の記録を負へるもの。 +愛國の人いづくにある 84. +ラセデモンの剛勇再び出づる時、 セーベス、エパミノンダスを再び起らしむる時、 アゼンスの子等心情を受くる時、 グリイスの母まことの男子生まんとき、 その時爾また起たむ、其時來ずば能ふまじ、 一千年の歳月も一邦たつるになほ足らず、 たゞの一刻塵の中之を斃さん -- 何の日か、 其崩れたる壯麗を人は新たに改めて 國に精華をよびかへし、「時」と「運」とに打かたん? +グリイス何の時か起たむ 85. +さりながら、あゝ亡べる神と神に似し人との國、 憂の時に當りても、いかに爾の美はしき! 爾の常盤の緑の谷、爾の白き雪の嶺、 今も*自然の多樣なる寵兒と爾を世に宣ず、 すぐれし大地としづかに混じ、 農夫の鋤に碎かれて 爾の聖處、爾の殿堂は地に伏しぬ、 人界に生れし記念はかく亡ぶ、 よく記されし優越を除けばすべてはかく亡ぶ。 +グリイスの風土 *カルシアスのグリイス史に「此國ほど風土動植の變化に富める處地球上他に見られず」 86. +除外は、とある圓柱、同じ洞より穿たれし その*同胞にひれふせる姿の上に哭く處、 除外は、高くアテーナの殿堂コロナのきりぎしを 飾りて岸うつ波に沿ひ、ひらめく處。 除外は、とある將軍の半ばすでに忘られし 墳墓のうへに灰色の石と踏まれぬ青草と 共にかすかに、「忘却」に抗せず、「年」に抗する處、 折しもひとり旅人は思そゞろに通り行き、 恐らく我の如くして、とまり眺めて吐息せむ。 +古蹟 *同じ石山より來りし他の石材 87. +されどミネルバほゝゑみし昔の時とひとしくて 爾の空は藍色に、爾の岩はなほ荒し、 爾の森はいみじくて、爾の原はみどり也、 爾の橄欖なほみのり、ヒメタス蜜の富與へ、 たのしき蜂は香ばしき砦をそこに築きつゝ、 爾の山の空のうち自由に羽にさまよへり。 アポロは爾の長き〜夏をてらし、 メンデリの大理石なほその光のなかに輝く。 藝術、光榮、自由は去れど自然は常に猶美はし。 +好風土 88. わが脚いづくを踏むも神聖の土地、 爾の土は卑しき塵に掩がれず、 驚嘆のおほいなる領土よもにひろがり、 あらゆるミューズの物語眞の跡と思はれる、 わが青春の早き夢やどりし場を見つむれば 感覺遂にいたむに至る、 山、岡、谷、森、悉く 爾の過ぎし殿堂を碎きし力侮るよ。 アテーナの塔「時」は震へど、許す灰色のマラソンを。 89. +太陽大地あと變へず、ひとり奴隸の變るのみ、 外來の君よそにして物悉く跡變へず、 ペルシヤ犧牲の軍勢がヘラスの刄の下に はじめて伏せし戰場よ、 遠き「光榮」になつかしき朝マラソンの、 とゞろく名、神祕の呪語となりし時、 其時ともに境界と無邊の譽猶たもつ、 其名をいへば聞くものゝ目にはひとしく現はるゝ 陣營、軍勢、戰爭と勝利を得たる人の跡。 +マラソン古戰場 90. 逃げゆく*ミイド、碎けし弓矢、 追ひ行くグリイク、血染めに大槍、 山々上に野と海下に 「死」は先頭に「破壞《はえ》」は陣後に! 光景かゝりき -- 殘るは何か? 「自由」のほゝゑみアジヤの涙、 録《しる》して聖なる地を示す何等の聖なる標象ありや? 見よ、只ひとり碎けし瓶、やれし塚、 粗暴に旅人よ!更に又爾が馬蹄に蹴散らす塵。 *ペリシヤ人 91. されど爾の莊嚴の過ぎし形見に巡禮は 思をこめて倦まずして群り寄せむ、末遠く。 西よりよするイオニヤの風もろともに旅人は 軍と歌のほまれある郷を長くも祝《ことほ》がむ。 長く爾の年代史、長く爾の不朽の語 多くの邦の青年に爾のひまれ傳ふべし、 老年のほこり!青春のをしへ! 賢者の長く尊ぶ處、詩人の永くあがむる處、 神女パラスとミューズとが威嚴の術を示す時、 92. 別れし胸は顧みて馴れし故郷の屋にすがる、 類のひとしき或者が爐を親しからしめば。 淋しき者はこゝに來て心しづかに なつかしき性の等しき土地を見よ。 グリイス國はありふれし世の樂の邦ならず、 されど悲哀に親しめる人は此地に留りて 生れの國を惜むまじ。 かのデルファイの聖き地の傍しづかにあゆむとき、 又グリイスとペルシヤ人戰死の場を望む時、 93. かゝる者この神聖な土地に近より、 神祕の荒地をしづかい過ぎよ、 されど尊きいにしへの跡を掠むること勿れ、 すでに飽くまで汚されし場を汚さゞれ忙しき手! 此等の祭壇かゝるため立ちしにあらず、 むかし諸邦の敬ひし名殘のあとを敬へなんぢ! かくしてわが國その名を汚すことなけむ、 かくして*爾青春をそだてし場に榮え得む、 愛と生命の喜びの清き種類を身にうけむ。 *旅人に對して曰ふ 94. +あまり延びたる歌をもて、ほまれのあらぬ言葉もて、 時のつれ〜゛慰めし*爾の上に返らんか、 この今の世の聲高き歌人の群のうちにして 間なく爾の聲は消えむ、 やがて朽つらむ月桂のほまれを彼等競へかし、 鋭き咎、正《まさ》なき讚《ほめ》、心にかけぬ今 かゝる比《たぐひ》の爭はふさはしからず、 嘉みせむ優しの友は今すでに此世に影とめず、 愛づべく誰も殘らねば、樂しますべきものもなし。 +著者の述懷 *著者 95. +君又ゆけり、我がめでしいみじの*君! 青春並びに青春の情はわれらを結びにき、 他に何人もせぬ處、我になせしは君なりき、 君にふさはしからねども君はわが身を避けざりき。 わが生果して何物か?君今すでに世にあらず、 友の旅人歸り來るを迎ふべく君世にあらず、 再び共に眺め得ぬ時を思ひて我は泣く、 あらざらましかば其時は!或は再び來ましかば! **旅の新たの種を見に歸らざること優ならめ、 +亡友を憶ふ *この人不明 **歸國ののち又外遊を迫るべき理由のなからんことを望む 96. あゝ!常に愛したる、愛すべき君、愛されし君! わが私の悲はいかに過ぎしを偲び出で、 むしろ今はた無かるべき種々の思に纒《まと》はるよ! さもあれ「時」はいつしかは我より君の影裂かん。 いかめしき「死」よ!われより爾とるべきすべて取り去れり、 親を取り去り、友を去り、友より勝るものを今! かくまで早く爾の矢飛びしこととてあらざりき、 かくて悲哀は相つゞき、混じ合して 人生の與ふべきちさき喜奪ひ去りぬ。 97. +かくして我また群衆に混じ、 「平和」の靈の賤つみんて侮るものを逐ふべきか? そこに「歡樂」人を呼び、むなしく高き「大笑」は 心を欺き頬をゆがめ、 萎ゆる魂二重に弱め、 なほ無理強ひに慰むる面の上に 喜を粧ひ、不滿をかくすべし。 微笑はやがて來るべき涙の溝を穿ち去り、 隱しおはせぬ嘲をゆがむる口にうかばしむ。 +俗界の嘆 98. 老ゆる齡につきまとふ不幸の最惡何ものか? 何か額の上に皺更に一しほ深むるは? めでたるものが一人一人生のペーヂを去るを見て わが世淋しく殘ること -- 我いま正にかゝるあと。 懲しめ諭す神の前、我つゝましく膝つきて 別れを告げし魂を、碎けし望を、偲びやらむ。 去りゆけ、爾むなしの日、心輕くも流れ去れ、 わが樂とするところ、「時」は空しく奪ひ去り、 老に伴ふ禍をわが青春に混ぜたれば。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:第三卷 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第三卷 1. +あゝわが美はしき子よ!エーダよ!わが家と心の ひとりむすめよ!なが面は母に似たるや? 最後に我の見たるとこ、藍色の目はほゝゑみき、 かくして我等は別れたり、今の別の如からず、 望に滿ちて別れたり、 -- 今はは我に返り見れば 大波はわが身を圍む、おほ空は 風吹きすさび、我は去る、いづこの果ぞ、われ知らず、 さはれアルビオンのうすれゆく影。 目を悲ませ、あるは目を喜ばす時すでに無し。 +むすめのエーダに 2. +再び今また海の上に!さなり、再び海のへに! 乘手をよく知る駒に似て、波は躍るよわが下に、 善いかな、善いかな、そのとゞろき いづこの果に誘ふともその導きは早かれよ! よしやはり切る帆檣《ほばしら》は葦の如くに震ふとも よしや帆布は劈《つんざ》くあらしの吹くにまかすとも われは必ず進むべし、われは草にも似たるかな、 草岩より投げられて、わたつみの泡の上に、 大波の拂ふがまゝに、あらしのいきの吹く儘に。 +又海上に 3. +わが人生の夏の時、われは歌ひき、とある一人、 おのれの暗き心より、われとわが身を捨てし者、 その時初めしばかりなる題目再び取りあげて、 携へ行かむ、われと共に、譬へて曰はゞ吹く風の 雲を進めて驅る如く、 -- その話の中にして 長き思と乾きたる涙のあとをわれは見る、 涙は涸れて荒れはつる道を殘しつ、 その上に重々しくも、行く年は 命の終の沙を踏む -- そこに一つの花もなし。 +ハロルド 4. 喜あるひは痛の感はげしき青春のその日このかた、 恐らくわが心、又わが琴、その一絃や失ひし、 ふたつもろとも調狂ひ、恐らく先に歌ひし如く、 今歌はんと勉むるも空しき勞に終らんか、 さはれ調は淋しとも、われ猶之にすがり行かむ、 わが私の悲とわが私の喜の 倦める夢より此われをはなし得べくば -- われのめぐりに忘却を纒ひ得べくば -- 外には知らず、我にとり、嬉しからざるものとせじ。 5. この憂の世界の中、この人世の深み貫き、 年にはよらず、わざいにより、老の身となりしもの、 何等の驚異も起るなく、 戀も憂も爭も譽あるひは功名も、 堅くするどき無言の刄もて 再び胸を切ることすでにあらぬもの、 彼こそ知らめ、いかなれば思想は淋しき洞窟に その隱所を求むるを、そこに滿つるは多くの幻影、 古くも形をそこなはず、靈の室の中やどる影。 6. +作らんがため -- 作りて深き生味ふ爲め、 人は空想に形を與へ、 心に思ふ生命を之に分ちて共に又 其生命をわれに受く -- 我今こゝに爲す如く、 われは何物?たゞの空。されども爾 思想の靈は空ならず、爾と共に世をめぐり、 人には見えず、われは見て爾の精と身を混じ、 爾の生と交りて光を増し得、 わが感情の枯れはつる時にも共に感じ得て。 +作者の心理 7. されど今我先よりも、やさしき思ひ直すべし。 あまりに長く又苦樂われに思ひつき、其ために わが腦沸きて渦卷きて、 空想及び炎々の焔の淵となるはてぬ。 わが若き時、わが心馴らす教を缺きたれば、 生の泉は毒されぬ、やんぬる哉はや遲し、 されども我は變りたり、時劫の減じ得ぬところ、 之を忍びて運命を責めることなく味にがき果實を喰まん其力 こは古に變らねど。 8. +わが説くところ多きに過ぎぬ、事は終りぬ、 呪文は無言の印もて閉ぢぬ、 永らく姿見せざりしハロルド遂に出で來る、 命絶たねど癒されぬ疵に惱める胸の彼、 これより後は感情を好みに宿すことあらじ。 されどすべてを替ゆる「時」、齡と共に 彼の面わも魂もひとしく替へぬ -- 逝く年は 心より火を、四肢より力を奪去り 生の怪しき杯は縁《へり》の近くに光るのみ。 +ハロルドまた現はる 9. 彼のはあまりに早く干されぬ、かくして彼は 底なる滓の苦きを知りぬ、 されど先より聖き*場に先より清き泉より 再び酌みて、その本は涸れずと思ひき、そは空し。 彼をめぐりて鎖は尚もまとひつき、 永くも彼を惱まして人目に觸れず縛りつけ、 音はせねどもいと重く、帶ぶるに起る身の苦痛、 言葉なけれど鋭くも其身を痛め、 行手の山河經るごとに一歩々々にくひ入りぬ。 グリイスの旅行など 10. 冷靜その身を守り得て自ら安しと觀じつゝ 彼又再び同類と其身を伍してかく思ふ -- 魂すでに定りて 疵つけがたき心に蓋はれ、 喜すでにあらずとも、悲はたまたま潛まずと、 かくて群衆の中に立ち、人に見られず、 異郷の空にさまよひて、神と自然の手になれる 驚異のわざのあとに得る其冥想を求めゆき、 あまねく世の中進み得む。 11. さはれいみじく咲きにほふ薔薇眺めて胸の上に 誰か着けむと願はざらむ? たれか豐頬《ほうけう》のつやを見てときめく心とこしへに 老いずといかで觀ぜざらむ? 雲を貫き「光榮」がその嶮崖にてりいづる 星を示すを眺めみて、誰か攀ぢんと願はざらむ? かくてハロルド又も再び渦中に投じ、 「時」を驅りつゝ眩《めくるめ》く群もろともに流れ行く、 たゞ青春の盛より更に目當を高うして。 12. さはれたゞちに自らを人間の中ことさらに、 他と交はるに適せずとハロルド正しく感じ知る、 人と共なる處なし、其若き時その魂は おのが思想に鎭めしも、 他に其思想をゆづるべく教を受けず、 わが靈|抗《あら》がふ他の靈に 心の領土讓るなく、 淋しく荒めど傲然と 他の人間を外にして生命おのれの中に見る。 13. +山嶽そばだてば彼に友あり、 大洋波まけば彼の家あり、 藍色の天、かゞやく風土ある處、 彼は漫遊の好あり、力あり、 沙漠、森、洞、波の泡沫、 彼には常に伴にして彼等互の語を話し、 母國の言に寫さるゝ書册の勝りて明けし、 書册しば〜抛ちて 彼は湖上に日光の寫す自然の文をよむ。 +自然の愛 14. カルデア人の跡學び、かれ天上の星を見て 其光に似たる者そこに宿ると觀じ得つ、 而して大地の騷ぎ、 また人界の一切の罪悉く忘られぬ。 その[(自/[三&丿])|羽;#1-90-35]翔《かけはせ》を彼の靈、續け保たば、 彼は幸なりつらむ されど土なる肉體は靈の不滅の火を沈め、 めざしてのぼる光明を之に妨げ、その岸に 人を誘ふ天上のつなぐ鎖を斷つ如し。 15. されど人間の宿にては彼れいかめしう勞れはて、 倦める不穩のものとなる、 無邊の空を家とする荒き生《うまれ》の若鷹の 翼たゝれし有樣か? つゞいて發作また起る、 -- 之に勝つべく 籠にとられし荒鳥の 胸と嘴《はし》とを獄にうちつけ、其血汐 翼を染むる樣に似て 抑へられたる魂の熱を胸ぬち喰ひいらす。 16. 追竄自ら身をせむるハロルド再び旅だてり、 殘りし希望なけれども暗愁今また多からず、 空しく此世に生き來り、 墓のこなたに用なしと、 悟るが故になか〜に、「絶望」ひとつの笑含み、 (掠められたる破船のうへ、 水夫は沈む甲板に強烈の酒あほりつゝ 最後の命に逢ふ如く) -- よし暴くとも 一種の勇を鼓吹しぬ、其勇彼は妨げず。 17. +留めよ脚を!なが歩《あゆみ》今帝國の幕にあり! おほいなる地震の鹵獲《ろくわく》こゝに埋まる! この場巨大な*胸像なきや? はた凱旋のしるしとて飾の圓柱あらざるや? あらず、さもあれ**誡はかくて却つてあらはなり、 前にあり來し状のまゝ、此地を永くあらしめよ -- かの鮮血の雨いかに地の收穫を増さしめし! 而して世界が爾より得たるすべてはたゞこれか? 爾空前の大戰地、爾***帝王を作りし勝利。 +ヲーターロー *當時いまだ何等の紀念物も無かりき **戰爭は空しきものなりとの訓 ***此戰の結果帝王の勢力盛となる 18. 而してハロルドいまこゝにこの骸骨の場に立つ、 あゝこれフランスの墓、悽慘のヲーターロー! いかに運命忽然と先の惠を亡ぼすか! 瞬時に移る名譽を等しく共に移らして。 *誇の極み高くこゝにあら鷲最後に高く飛び、 かくして彼の猛き爪鮮血染めて地をさきて、 聯合軍の矢にさゝる。 あゝ功名の生と勞とはみな空し、 世界しばりし鐡鎖の破片、彼今これを身にまとふ。 *鷹狩りの語 19. げに應報は正しかりけり!ゴールくつわを噛みしめて 械《かせ》着け泡を吹くもよし、さはれ世界は自由を増すや? 諸國の民は一人を屈するための戰か? 或はあらゆる帝王に主權教ゆる聯合か? あゝ何事ぞ!よみがへる奴隸の制度又こゝに 文明の世につくろひのかの偶像の聯立か? 玉座に低き流目と卑しき膝を捧げんか? -- 驗せよ、讚辭を吐かん前に! 20. 驗せずとせば斃れたる暴主の故に誇らざれ! むなし、*いみじき紅頬が葡萄の園を踏みにじる、 兇徒によりてあらされし歐洲の花傷みつゝ 熱き涙に濕ふも。 むなし死滅と荒廢とはた束縛と恐怖との 年、百萬の民により忍ばれ、次いで解かれしも。 光榮最もいみじきは「ミルチ」の緑、 利劔をつゝむ時にあり、**ハルモヂアスが アゼンスの暴主の上に拔きし如く。 *美人の愛人を哭す **昔アゼンスの暴君を斃せし愛國者 21. +夜歡樂の音ひゞき 美人と騎士とベルギーの首府に集り、 燈火燦爛ときらめきて 勇士と佳人をかゞやかし、 數千の心臟たのしく拍ちぬ。 かくて音樂洋々のしらべを奏でいづる時、 柔かの目は目に語り愛の答《いらへ》をかち得たり、 あらゆるものは婚禮の鐘の如くににぎはひぬ。 さはれ聞かずや?深き音さながら哀鐘聞く如き。 +ブラツセル府の舞踏會 22. +爾等耳にせざりしか?否否、たゞの風の音、 さなくば車輪石がちの道の上はしるひゞきのみ。 續けよ舞踏を!限あらすな喜びに! 「青春」並に「快樂」の集り合ひて足はやき かゞやく「時」を逐はんとき、朝まで睡ること勿れ! さはれ聞け!かの重たき音また襲ふ、 其反響をさながら雲のよぶ如く。 次第に近く明かに、前より更に恐ろしく! たて、たて、たて、たて!まさしくもそは大砲のとゞろきぞ。 +ものの音 23. +かの高らかの廳の中、窓を備へし壁龕《へきがん》に、 ブランスヰクの薄命の將軍座せり、その耳は たのしき宴のうちにして首として其音きゝしもの、 「死」の豫言の耳をもてかれ其調聞きとりぬ、 近しと之を思へるを衆人そゞろに笑ふ時、 かれの心はあまりにも、正しく音をきゝ知れり 鮮血染むる戰場を*父を倒せし其ひゞき、 其血ならでは鎭め得ぬ復讐の念燃え立たす。 彼れ戰場に躍りいで、眞先に馳けて斃れたり。 +ブランスヰク公の戰死 *一八〇六年アウエルステトに戰死 24. あゝ!其時其處、見るは四方のかけ走り、 せきくる涙、惱みの慄、 青白き頬 -- そは只の一時の前、われとわが いみじさ自ら讚じつゝ、紅潮たゝへしものなりき。 又そこに若き胸より生命を おしだす如き俄の別、 はた恐らくは最後なるむせびの吐息。 誰か測らん此等の目再び逢はん時ありと、 見ずや、やさしき夜に續き、かゝる怖の朝湧けり。 25. はたまたせはしき乘馬の群 集まる軍團、とゞろく車輪、 猛なる速さにかけつゝ進み、 はやくも戰鬪隊形つくる。 遠くに續いてとゞろく雷鳴。 近くに鳴らす軍鼓のひゞき、 曉ひかる星よりも前に兵士をよびおこす。 同時に市民は無言の恐怖、 或は色なき唇にさゝやく『敵は來れり』と 26. 而して荒く又高く*『カメロン進軍』の樂起る、 そはロチールの軍歌 アルビンの丘に轟きて **サクソンの敵の聞きしもの -- いかに夜半にあらくするどくかの風笛の曲の震ふよ! 其山國の笛みたす呼吸もろとも、 山人はたけき本性の勇あふる、 そは千載の永きより勇みの思みたすもの、 かくしてエパン、ドナードの名は旅人の耳に鳴る! *蘇國ハイランドの名門 **蘇國 27. かくて*アルデーン自然の涙にうるほひて 其緑葉を過ぎ行く彼等の頭上に震ふ。 無生《むぜい》のものも情ありて悲しむとせば、かの森は 行きて再び來らざる勇士の上を悲まむ、 悲しきかな、夕べの前、草の如くに踏まるべし、 草は今其脚もとに、されどこん年緑を染めて 其屍の上に繁らむ、 生ける勇氣のはげしき軍勢敵に向ひてすゝみ行き 高き望に燃ゆるもの、冷く低く朽ちん時。 *森の名 28. 昨日の眞晝は勇に溢るゝ彼等を見、 夕は美人の群の中、はでの誇の彼等を見、 夜半は來せり戰爭の相圖の音、 朝は軍備の整を、 晝は戰の莊麗の列を! 今見よ雷雲その上に、 雷雲散るとき大地は別の土もて、蓋はれ、 其土大地はおのれの中に埋めむ厚く封じて、積みて 騎兵と騎馬と友と敵の一つの紅き葬に。 29. +彼等の讚はわれよりも高き絃歌に歌はれぬ、 されどすぐれしその群の一人を我は撰び擧げん、 一は彼の系統と我のと近し人曰へば、 一は嘗つて其の*父に禮失ひしことあれば、 一はすべて秀でたる名により歌は清まれば、 しかして彼は最も勇なる名の一人、 死の彈丸がうすれ行く戰列めがけてふりし時、 戰雲狂ひしもなかにも彼は爾のそれよりも 尊き胸を打たざりき、若く勇なるハーワード! +若きハーワードの戰死 *バイロンの後見者、之を嘗て詩作中に諷刺したり 30. 君のためには多くの涙、多くの碎くる心あり、 われ今捧げんものあるも物の數にも非ざらむ。 されども鮮《あざやか》の緑の木蔭、 君がたほれし場《には》にわれ立ち、 わがめぐりに廣き野が果實並にゆたかなる 年の望を現はして生きかへり、 たのしき無心の鳥の群率ヰて春は喜の わざをなすべく歸れるを見し時、春のもたらせる 物よりそむき、春に尚囘り來らぬものに向きぬ。 31. われ君にむき、又幾千の死者にむきぬ、 其おの〜は其やから、其朋友の群のうち さびしく凄き空隙を作るなりき、 殘れるものに忘却を教へんこそ情《なさけ》ならめ。 彼らがあこがれ望む者を さますは「光榮」のそれならず大天使の喇叭の音。 名譽の聲はたゞしばしこそ慰むれ 空しきあこがれの熱とゞめ得ず、 譽をうくるかゝる名はさらにも強く嘆かれむ。 32. +彼等は哭けど遂にほゝゑみ、ほゝゑみながら又嘆く、 樹木は倒るゝ前、長く枯れ、 帆も帆檣も破るれど舟は尚漕ぎ、 棟木は落つれど廳の中、 朽つるもましろく逞しく、 風に胸壁崩れてもやぶれし壁は尚も立ち、 獄は其中幽閉のとらはれ人のあとに殘り、 あらしの雲は太陽を消すも白日進み行く かく又心碎くるも碎けながらも生きつゞく。 +遺族等の悲しみ 33. +例へば碎けし鏡の如し、鏡面おの〜斷片を なして加はり、もとはひとつの影を今 別ちて幾千の形とし、 形は替へず、碎くるごとにいや多し、 かくぞ碎けし姿に生きつゝ、逝きしいにしへを 思ひ捨てざる人心靜かに冷く血もなくて 睡も知らぬ悲哀に惱み、目に見るしるし現はさず、 衰へつゝも進み行き、後には老し影となる。 +悼亡の思 34. ひとつの命わが絶望に中にあり そは毒の活氣、するどき根、 恐ろしき枝やしなふもの。 われ人死するも何かあらむ、されど命は 悲哀の忌まるゝ果に頼らむ、 死海の岸の林檎に似、 味ひ見ればすべて灰、 人歡樂をもとゝして、其の味ひし斯る時、 生に對して算じなば、かれ六十を名指さんや? 35. *「詩篇」の作家人の定命《ぢようめい》を算へたり、 其年は足る、しかして爾悽慘のヲーターロー 其しばらくの歳月も彼に惜める爾の算、 正しかりせば定命は足りての上に餘あり。 百萬の舌爾を語る、しかして新たに 其子らの唇傚ひて又言はむ、 『こゝ、聯合の諸國民其剱を拔きし處、 其日同じく我國民も戰へり』 而して此事すでに足る、空しく消ゆる跡ならず。 *舊約全書の中にある詩篇、人生七十といふ 36. +沈めりこゝに人間の中の最も偉なるもの、 しかも最惡ならぬ者、其魂矛盾を混じ 一瞬時又一瞬時偉大と微小のものゝ上 ひとしく切に思をこめ あらゆるものに度を極む。 -- 君中庸をとり得なば 帝座は今尚君のもの、あるひは先よりあらざらむ。 敢勇によりて君起り、敢勇によりて君倒る。 君今も尚帝王に姿をとりて再びも 世を震はんと求むるよ、此全局の雷鳴者! +ナポレオンの敗亡 37. 君は世界の征服者、又その捕虜! 世界は今猶君を恐る、而して君の荒き名は 今より更に人口に響きしことはあらざりき、 今は運命のもてあそび、君今たゞの空にひとし、 先には君の臣として「運命」切に哀を乞ひ、 君の猛威に諂へば 君は自ら神となし、力なき世も驚きて 共にひとしくしか思ひ、 しばし君を誇りがに君が宣ずるまゝとしぬ。 38. あゝ人間よりも或は勝り或は劣り、高き若しくは低きにありて、 諸國と戰ひつゝ、戰場より逃れつゝ、 時に帝王の首を足臺とし、 時に卑しき兵よりも更に屈すべく教へらる、 一帝國の破碎と支配と再建と なし得たれどもいさゝかの情を抑ゆることを得ず、 いかほど深く人間の靈に通じ得たりとも おのれの靈を透し視ず、はた戰の慾とめず、 誘へば運命最高の星を捨つつを知らざりき。 39. さりながら君の魂、教へられざりき生來の 悟によりて運命のうつる潮を忍び得き。 智慧か或は冷靜か、深き誇か孰れとも、 敵にとりては其悟、苦汁の如く辛かりき、 憎惡の全團近くに立ち、 君のひるむを眺めつゝ嘲らんとしつるとき、 すべてを忍び、落ちつける眼を擧げつゝほゝゑみぬ、 驕れる寵兒ふりすてゝ「幸運」遠く去りし時、 身にふりつもる禍の下に屈せずば君は立てり。 40. 非運に於て賢なりき、幸あるとこは功名の 一念君を固うして、人類並に其思想を 咎むる不斷のあなどりを示さゞりけり、 其侮を感《かう》ずるは賢し、 口に面影にそを現はすは賢ならず、 はてはおのれの覆滅の種となる迄自らの 用ひなれたる噐《うつはもの》、そを蹴やりしは賢ならず。 得るも或は失ふもただ價なき世界のみ、 其事君に、又似たる籤とりしものに明けし、 41. 嶮しき岩上の塔の如く 立つも倒るもた獨なる君ならば、 かく人間をあなどるはげに轉愛を凌ぐ途、 されど人々の思想こそ君の王座のきざみはし、 其賞讚は君にとりての非常の武噐。 フィリップ王の*子の分は正しく君の分なりき、 ダイオゼニスのいかめしき世のは分ならず、 (其帝王の紫の衣棄つるに非らば) 王笏握る皮肉屋にとりて世界は廣過ぎむ。 *アレキサンダー大王 42. +さはれ鋭き胸にとり穩和は正に地獄のみ、 君の禍こゝにあり、われ自らの狹き生に 留り得せず、 -- 願望のまさしき領を越へ過ぎて、 憧れのぞむ魂よ、あゝ其熱火その動作、 一度點火さるゝとき、その後とわに消ゆるなく、 冐險の高きを餌とし驅り進み、 すべてに倦まず、ひとりたゞ其休息を厭ふのみ、 胸のもなかの燃ゆる熱 禍なりや抱くもの、抱き來しもの、いにしへも。 +不穩の人 43. こは自らの感染に他人を狂者たらしむる 其狂人の來るところ、そはもろ〜の征服者、 帝王、宗祖、學統の親、 更に詭辯者、詩歌の子ら、政治家、すべての不穩のもの、 彼等は靈の祕密の泉まりに深く動かして、 其欺くものゝ目に皆愚者たるを免れず、 羨まるれど羨むに當らず、何等の刺《とげ》ぞそは? 一の胸を發《あば》き見なば燿く望 -- 權力の望すてよと 諭すべき一の教そこにあらん。 44. 彼らの呼吸は擾亂、その生は嵐、 之に乘り行きやがて沈まむ、 なほ爭に養はれつ、固まりつ、 危難了りて餘生の空 しづけき黄昏《くわうこん》に溶け行かば、 悲哀に又は衰に心蓋はれて、かくて逝く、 薪を得ざる火焔の狂ひ、 自ら焚きて亡ぶもかくや 若しくは棄てられ、自ら蝕し、榮なく剱の[金|肅;#1-93-39]《さ》び行くさまか? 45. +山頂高くのぼらんものは眺むべし、 最高の峯ことさらに雲と雪とに掩はるを、 世間の人を凌ぐもの或は之に勝つものは 下なるものゝ憎を見下さゞるを得べからず。 上には高く光榮の太陽照り、 下には遙か大地と海とひろがるも、 あたりに見るは氷の巖、 狂[風|(火/(火|火));#1-94-08]《きようたん》はたまた頭を吹きて 頂上攀ぢ來し勞苦に酬ゆ。 +他を凌ぐものは他に憎まる 46. +やみなん此等!眞なる智者の世界は自らの 創造の中、あるひは爾の中にあらむ、 母なる自然!威嚴を備ふるラインの岸に 誰か爾の如くに富まむ。 こゝにハロルド一の神聖の作を見つむ、 あらゆる美觀の湊合《そうがふ》を見つむ、 流、谷、森、岩、山、畑、果實、緑葉、葡萄園、 また諸々の主なる古城、蔦這ひかゝる灰色の 壁より別を告ぐる處、「廢滅」緑にやどる處。 +ライン川 47. +しかしてそこに古壘立ち、氣高き心の立つに似たり、 弱れど卑しき群には屈まず、 寂然として隙もる風に屈するのみ、 或は暗きおとづれを空行く雲に替《かは》すのみ、 彼等の若やぎ誇りし昔、 高きには旗かへり、下には戰荒れき、 戰ひしものは、血に染む葬衣につゝまれ、 かへりしものは、破片を留めざる塵となり、 荒べる胸壁は、再び未來の打撃に堪へじ。 +ラインの古城 48. +此胸壁の下、此城壘の中、 「力」は「情」を伴とし住み威儀おごそかに、 群盜のかしら武裝の館構へ 其兇暴の意を遂げて劣らざりけりその誇 *更に遠かるいにしへの更に優れし英雄に。 此浪々の征服者、文章買ふを外にして 史上に「大」を呼ばるべく缺ける處は何ものぞ? 更に大なる領有か?粧ひかざる墳瑩《ふんけい》か? 彼等の望は共に熱く、彼等の靈は共にたけし。 +ラインの城主 *古代の英雄と軌を一にす 49. +彼等諸侯の爭に、一騎一騎の鬪に 何等いさましかりし業、記録もとめず亡びしか! 愛の誇にたくまれし 象《しるし》の楯に紋章を與へし「戀」は金鐡の 心の鎧うがちけむ、 その情焔ははげしくて 鋭き爭、又之と連なる破滅|齎《もたら》しつ、 美人の爲に得られたる幾多の塔は碎かれし 下に眺めき、色替るラインの水の流るゝを、 +ライン河畔のむかしの戰 50. +さもあれ爾、歡び誇り流るゝライン! 兩岸の美はとわに續かむ、 その間過ぎ、洋々と惠の波を流す大河、 人もし爾のかゞやける天地に觸れず、 また戰鬪の鎌をもていみじき明日の約束を こゝの面より刈るなくば、やさしき水の爾の谷、 見るはさながら天上と等しく大地布かるゝと 知ることならむ、今すらかくと見ゆるべく 足らざる處何物か?そのたゞ*レーズたらんこと。 +ラインの美 *一切の過去を忘れしむる冥府の川 51. 百千の鬪なんぢの岸をあらしぬ、 されどこれ等は、名聲の半は共に過ぎ去れり、 しかして「殺戮」累々の屍を高きに積み上げぬ、 彼等の墓も過去れり、彼等果して何物か? 爾の水は昨日の血汐を洗ひ去り、 すべては汚とめずして其清らかの水の上、 寫る天日燦爛の其光をおどらしむ、 されど黒みし思出の心傷むる夢の上、 爾の波は力なし、皆を流すと見え乍ら。 52. しかくハロルド心に語りて過ぎ行きつ、 はた追竄《つゐざん》も惡しからぬいみじき谷の中にして、 たのしき鳥を早き歌に誘ひだす天然の 微妙の氣運其胸に感ぜざるはあらざりき。 かれの額におごそかの線、又おだやかのいかめしの影、 これより先の熱烈のしかもやさしき情に代へ、きざまれたるも、 歡喜は常に其面を去るとは曰はじ、 かゝる場には忍び出ん、しばしの跡を浮かばして。 53. +また情熱の若き日は塵に歸りて消ゆれども、 愛ことごとく彼により拒まれしには非りき、 われにはほゝゑむ人につめたき眼はむけがたし、 あらゆる俗の群衆を心はいとひすつれども、 誠をいたす人々に心やさしくたちかへる。 かくはハロルド身に覺ゆ、 故はやさしき思出、永くも消えず、 ひとつやさしき他の胸にいみじき信かれは抱き、 そこに心は溶け入りて思和らぐ折に住む。 +ハロルドの愛 54. +其故知らず、(彼の如き身にそは竒しく思はれむ) 其うら若き初なる花の蕾の幼子の かよわき貌《すがた》愛づるべくハロルドさきに學べりき、 人の侮蔑にしみわたる心をかくも替るべく 誘へるものは何なりや? 知るも何等の效なけむ、 さもあれ事はしかありき、枯れたる情は 孤獨にありて、そだゝむ力持たねども、 枯れには此情燃えたりて、他は皆擧げて消ゆる時。 +其小兒の愛 55. +而して先に曰ふ如くひとるのやさしき*胸ありて 世の教會の結ぶより優りて強き繋にて 彼との結び合はされき。 婚を結ぶにあらざれど其愛永く清くして、 又いさゝかも隱されず、 世のあらがひに耐へ忍び、つねに分れず、其ほだし 女性の目には恐ろしき危險の爲めにいや堅し、 げに其愛は堅かりき、外なる國の川岸に 遠く忍びて書きおくるかゝえう便もうべなりき! +ラインよりのおとづれ *一八一六の五月バイロンが姉に送りしは次の數節也。 この後チャイルド・ハロルドの人物は影をひそめ第四卷の終にいたりてあらはる 1. *ドラヘン、ヘルスの古城の岩 ひろくうねるラインを睨む、 其大水じや葡萄のみのる 岸と岸とのあひを流る。 花さく樹々のしげる丘、 穀と酒とを契る畑、 又其上にをちこちの都市、 その白壁は四方に光り たのしき景をこゝに布く、 君あらばいやましの喜にkれを眺めん。 *ラインの名勝龍が岩の意 2. 農家のむすめは濃藍《こあゐ》の眼もて 手に初花を捧げつゝも 此樂園を笑ひつゝ行く。 上には屡々封建の塔、 緑の葉を穿ち、灰色の壁をかゝぐ。 けはしく聳ゆる多くの岩、 誇りがにくづるゝ尊きアーチ、 此葡萄園の谷を見おろす、 されどひとつラインの岸に足らぬもの、 わが手に握らん君の手なり! 3. こゝに求めし百合の花、君に送らむ、 御手にふるゝに遠く先だち、 枯るゝはたしかと知り乍ら、 枯るとてさはれ棄てなせそ、 うなだるゝ花を君見て ラインの岸に得つと知り、 わが心より君に捧ぐと知らん時。 君のたましひ遠くこゝに 導く故にいみじとし われ其花をめでたれば。 4. 川はいみじく泡たち流る、 この妖艷の郷の魅力。 其幾千の屈曲は 一つ〜に新たなる眺めを示す、 誇り高ぶる人も亦こゝに喜び、 世を終るべく望かぎらむ、 又此世に自然の上に、われの上に、 かほどめでたき郷はあらじ 君の目われに伴ひて ラインの岸を更によくせば。 56. +コブレンツの傍なだらかの岡のうへ、 小さき飾なきピラミッド、みどりの土手の上にたつ、 其下に英雄の遺骨埋まる、 そは敵なりし、されど其のため、 マルソウに名譽を拒むこと勿れ、 彼の青春の墓の上 粗暴の兵のまぶたより多くの涙注がれぬ、 母國の權を囘《かへ》すべくフランスのため斃れたる 其運命を悲み、しかも尊みて。 +彿のマルソウ將軍の墓 57. 短くしかも勇しく譽の彼の若き生涯、 弔ふ者は敵と味方の二軍勢 見しらぬ者もこゝにとゞまり、彼の勇なる魂の 平和の休みに祈るもうべ、 彼は自由の選手なりき、 自由の武噐をとるものに自由が與ふる罰の權 -- その權限を踏みこさぬ稀なる者の一は彼、 かれ其魂の純白を常に保ちき、 かくして人は彼のため哭く。 58. +こゝにエーレン、ブライト、シュタイン、爆彈碎きし 破壞の聲高く聳えて、そのむかし 砲彈銃彈むなしく強き壁上に 跳ね返りしその時のおもかげ示す。 勝利の塔よ!敗られし敵の逃走 そこより遠く平野に沿ふて見られしよ。 されど*平和は戰爭の碎きかねたるもの破り、 誇の屋根を夏のはげしき雨にさらす、 むかしはその上銃丸の雨いたづらに注ぎしを。 +破られし砦 *一八〇一、ルネビユの條約より武備を撤す 59. +さらば別れむ、美はしのライン! 旅人いかに喜びて永らくこの地に留らむ! つれあふ魂も、孤獨者も共に此地を喜ばん、 *荒鷲絶えず自らをさいなむ胸を食ふこと 終るとすればこゝならむ、 こゝに自然は陰鬱あまりに深からず、 陽晴あまりに激しからず、 荒けれど粗にあらず、威ありてあまり猛からず、 大地に對し比ぶれば四季に對する秋に似たり。 +ラインの別 *良心の惱に譬ふ 60. +再びラインよ!別れを告げむ、告ぐるも空し! 爾の如き風光に別告ぐるを得べからず、 あらゆる爾の色によりわれの心は染めらるゝ。 心ならずもわれ人がなつかしき眺望を 美はしきラインよ、爾の上に捨つとせば、 別の讚美みちわたる感謝の思を持ちてこそ。 更に大いなる郷あらむ、更に輝く郷あらむ、 されど一つの懷しき迷路に孰れか纒め得ん 輝けるもの、美なるもの、柔かのもの -- 過ぎし榮《はへ》 -- 。 +ラインの美 61. 散漫として偉大なるもの、はた又來らん豐饒の しるしの花、ましろき都市の燿く姿、 流るゝ大川、絶崖の暗、 森のしげり、間《あひ》のゴシク式の壁、 人間の枝あなどりて塔の形とる荒き岩、 此等と共に更に又處の如く 樂しき面影示す人種。 こゝのゆたかの恩澤は爾の岸に湧きいでゝ すべてに及ぶ -- もろ〜の帝國のそばに倒るゝも。 62. +さもあれこれら遠ざかる、アルプス今たつわが頭上、 正にこれ自然の王宮、そのおほいなる城壁は 雲中に雪の頂をあげ、 冷めたき崇高の冰《こほり》の館に 永遠をいつき祭り、そこには起りまた降る雪の雷霆《らいてい》アバランチ。 靈魂を擴くし、しかも驚かすもの これらの山頂のめぐりに集り、示すに似たり、 大地が空を貫きて、虚榮の人間下に殘すを。 +アルプス 63. されど此等の比なき高處を敢て上る前、 空しく過ぐを許さゞる一の場 *モラア、報國の誇の戰場、そこに人 死者のものすごき記念を眺め、 その野に勝ちし人の爲其面を紅くせじ。 バーガンデイ塚なき一團こゝの殘し、 百年長くそのまゝに唯骸骨の堆なして かれら自ら記念たり、冥府の岸を墓持たぬ 兵士の靈はさまよひて宿なき幽鬼みな哭けり *瑞士獨立の戰場に(一四七六)バーガンデイ侯を敗りぬ 64. ヲーターローと*カンネイの役と競はゞ 並べ立つべしモラーの野とマラソンと、 彼等は汚なきまことの光榮、 勝てるもの皆野望なき友愛市民のほこりの一團、 不徳を釀す「腐敗」のために 世の帝王に雇はれし此に非ず。 **ドラコの如くいかめしく文を飾りて 帝權を望と宣ずる法律の 其冐涜を嘆ずべく何の邦をも苦めず。 *カルタゴ人がローマ軍を敗りし處 **アゼンスの嚴酷なる立法者 65. +淋しき一の壁の傍、更に淋しき圓柱 いにしへの日の灰色の悲哀によはる影示す、 歳の破壞のいやはての名殘、 驚きにより石と化し猶意識ある人間の 驚きみだれし目を以て あたり眺むる樣に似る、 時を共なる人工のアベンチクムは碎かれて その臣從の土に散るを、 この物獨り衰へず、人の怪しと見る迄に。 +古ヘルベチアの都アベンチクムのなごり(ローマに亡されしもの) 66. +しかしてそこの其名やさしく聖ねれや! ヂューリア -- いみじき至孝のむすめ、 その青春を天に捧げ、更に心は 皇天に次ぐ道のため*父の墓のへ碎けしよ。 正義は涙にとかされず、彼女の涙 其みなもとの生命を救はんとこそ望みしか、 判官さはれ道枉げず、 救ひ得ざりし父を逐ひ彼女は逝けり、 彼等の墓は飾なく又胸像の記號《しるし》なし、 一の心、一の情、一つの灰をおさめしよ。 +ヂューリア父子の墓 *父ローマに背き刑死す(紀元一世紀) 67. さはれ此等は不朽の行爲、 殘らざらんや名は永く、 大地はまさしき衰の其帝國を忘るとも、 奴隸とするもの、さるゝもの、其生死忘るとも。 高うして山の如き威嚴の品格、 現世のうくる苦難を凌ぎ、 永遠亡びぬ高さより、悠々日輪と對し見む、 下界のすべてにまさりて清き かなたのアルプスの雪の如し。 68. +レーマンの湖水われを水晶の面もて誘ふ、 そのおほいなる鏡のなか、 遠き高さと色とを見する、星と山とは水面に おのが姿をてらすらん。 こゝに人界のこと多きに過ぎ、 わが見るところ正しくも觀じ照さんことかたし、 さもあれ衆と交りて心ならずも獸欄《じゆうらん》に 身を入れし前のいにしへに劣らず、今もめでらるゝ 濳みし「思想」速かに「寂漠《じやくばく》」われにめざまさむ。 +レーマンの湖水 69. +人界を逃るゝや必ずしもそを憎むに非ず、 あらゆるもの皆人界に働き動くに適すとせず、 はたまた心を深源におくは不滿の故ならず。 恐るゝ處其心、 熱き群集の中にして甚だしくも沸き返り、 人は感染の餌となりて、あまりに遲く又長く、 嘆じて憂ひ、束縛にもがき苦むことあらむ、 相爭へる一つの世、中に禍互に酬ひ、 力を盡しつとむれど遂に一人も強からず。 +社交と孤獨 70. そこに忽ち一生をすごす懺悔の 中に投じ、わが魂の凋落に あらゆる血汐を涙に變じ、 未來の物を夜の色もて染むるあらむ。 暗黒の中歩む人にわが人生の競爭は 望のあらぬ逃なり。 海上には最勇の人たゞ港の招きに漕ぐ さはれ永劫界の旅人あり、 其舟走りまた走り、錨をおろすことあらじ。 71. 然らばむしろ勝らずや、ひとりおのれを友として、 たゞに大地のために愛でんこと、 *ローンの流藍染めて矢を射る如き水のそばに、 或は之を養へる湖水の清き胸のそばに、 其養ふを譬ふれば慈愛の母が美はしき ほしいまゝなる幼子を、そだてゝ叫ぶたびごとに 其やはらかき口づけに靜め治むるありあさまか? 忍び或は傷《そこな》はん運命もてる人の群に 交るよりそは勝らずや、かくわが生を過さんは。 *ローン川はレーマン湖より出づ 72. +我は自らの中に生きず、 わが周囘《めぐり》にあるものゝ一部たり。 又我にとり高き山々は情感の種、 しかして塵界のひゞきこそわれには苦痛。 自然のなかに忌むべきものは一も見ず、 たゞ形骸の聯鎖にて心にもなき一環を 成しつゝ、外の生物の間に交じることぞうき、 魂ははるかにとびかけり、其路空しからずして、 空、嶺、海、原、星辰と混じ自由の羽を伸さむ、 +自然との融合 73. 自然にわれはかくも融け入る、これぞ誠の命なる、 かくて苦痛と爭亂の場として われ過ぎ去りし人間の沙漠を眺む、 そこに一の罪の故に働くべき惱むべく、 しかして後に新なる翼をのこして登るべく 我は悲哀に陷りき -- 我今感ず其羽生ゆと、 かくて若くもむかひあふ嵐と共に強まりて、 勇み喜び人生のめぐりに纒ふ冷かの きづなを蹴つて飛び上る。 74. +しかして後にわが心、此賤しき姿にて 其忌みきらふ處より 解けて形骸の生はなれ、 微蟲*にありて幸多き點のみ獨り殘る時、 おの〜物みな類の同じものと結びさり、 塵は塵にと歸るとき感ぜざらんや見る處、 前より更に暖かに、見る目にまぶしからずとは。 無形の思想、山河の靈、 其不朽の性今も時には我も分ち受く。 +肉體と心 *腐るべき肉體散じて蟲類の身に化す 75. +山河、天空、海洋の波、われと魂との 一部ならずや?われ又彼の一部なり、 これに對するわが愛は至純の情に深うして 此に比しては物すべて われ皆侮り棄て得ずや? 輝き得ざる思持ちてたゞに低《ひくき》に眼を向け、 地を眺めみる人々のつらきいやしき想に代へ、 かゝる好感棄てんより、 むしろ苦惱の波に抗せん。 +自然はわれの一部 76. +さりながらこはわが題ならず、 我今手近きものに行き 古人の跡に冥想の種を見出すものに曰ふ、 旅の途上に清き氣を我今しばらく吸ふ處、 こゝに生れて人となり 嘗つては一身炎々の焔に滿ちし此國の すぐれし*人を觀ぜよと。 彼の願は光榮を得るにありしよ、愚かなる 望、そを得て保つべく彼一切を牲《にえ》としぬ。 +ルウソウ *ゼネヴに生れしヂャン・ヂャック・ルウソウ(一七一二 -- 一七七八) 77. +こゝに自ら苛責する論客、粗豪のヂャン・ヂャック、 苦惱を美化し、感情のうへに魅力を投じつゝ、 潮の如き能辯を世の難艱と不幸より、 [手へん|丑;#2-12-93]《ねぢ》取りし者この郷にはじめて息を吸ふひ得たり、 その息彼の幸ならず、 されども狂を美に粧ひ、*謬る行爲《わざ》と思想とに 天のきらめく色彩の言葉を投じ、日輪の 光の如く目を眩し、有情の涙はげしくも 灑《そゝ》がしむべき術知りぬ。 +ルウソウの特技 *「新エロイズ」の中にあるヂュリイの戀などを指す 78. +彼の愛こそ情の精髓、雷光により 炎々燃ゆる木の如く靈火によりて 彼は燃やされ、また害されき、 かくあることゝ愛づること彼にありて一なり、 されど彼のは生ける女性の愛ならず、 夢路に起り現はるゝ世に無き人の愛ならず、 理想の美の愛それにして彼にありては實となり、 溢れ〜て燃えわたる彼の文章に漲《みなぎ》りぬ、 其愛狂ふに似たりしも、 +ルウソウの愛 79. *ヂュリイにありて此愛活き、 激しきいみじきすべてにて彼の女を包めりき。 此もの再び朝な〜其熱したる唇が 迎ふところの**口づけの忘れ得ぬもの清めたり、 そはたゞ友の情として彼女が許したりしもの、 その柔かき觸合に震へる魂の 愛の熱、肝腦貫き、ひらめきぬ、 心こめたる息により幸恐らくは優るべし、 卑しき者が求めたるすべてを得たる幸よりも。 *ルウソウの作中にある熱愛の女性 **ルウソウが客寓せし貴婦人の宅に於てウードトウ夫人より毎朝の挨拶としてうけしもの 80. +自ら求めたりし敵、又は捨てたる其友と 爭ふ長き戰は其一生の跡なりき、 かくして遂に其心「疑惑」の宮となりつゝも 己れの酷き牲として類の同じきもの擇び、 狂ほへり、怪しき盲目の怒り起して狂ほへり。 彼狂ほへり、何人かよく其故を知り得しや。 道に長《たけ》たる人も尚ほ知り得ぬ故やありつらむ。 病或は禍か孰れか因をなしつゝも 理性の影を帶ぶるところ彼は最惡の狂となる。 +狂へるルウソウ 81. +其時靈感天より降り *ピジアの神祕の窟《いはや》よりいでしが如く、 神託彼より湧きいでゝ遂に世界を燃え立たせ、 燃えに燃えつゝ、もろ〜の王國遂にあともなし、 世々につたへ來し虐政の暴威の下に屈したり フランス國に彼は斯く正に爲せしに非るや? くぢかれ、縛る頸木《くびき》に震ひ、遂には彼と **同輩の聲とにめざめ憤激の餘りフランス國の民 あまりの恐怖因をなし、遂に己を忘れたり。 +フランス革命の點火 *むかしグリイスのピジアの殿堂に **ヲルテイア、ヂデロウ等 82. +彼等は己を恐るべき記念となして傳統の 世の開闢の昔より 成りし一切を破り去り、其面蓋をつんざきぬ 蔭にありしは何物か、世界擧りて之を見む、 さもあれ彼等惡と共に善をひとしく覆し、 獨り破片の塊殘す。 是より同じ基礎の上、二つ同時に造られて *獄も**王座もまた起る、これ迄ありしさまのまゝ、 其由いかに?野心は私なる故に。 +革命と反動 *恐怖政治 **ナポレオンの帝國及びブルボンの復興 83. +此こと永く續くまじ、續くべからず、人類は すでに力を感じ知り、又他の之を感ぜしむ。 其善用は爲し得しに 新たの勇に誘はれて互に酷く相責めつ、 「憐憫」むかしの天然の、 慈愛に因りて人心を溶かすをやめぬ。 されど壓制の暗き窟《いはや》に住みしもの、 白日の光もて養はれたる鷲ならず、 時には其餌を誤りし、それは何か怪まむ? +革命の暴動 84. 如何なる深き疵にしてあとなく癒しものありや? 心臟の出血尤も長し、癒ゆるも之を傷ひし ものゝあと帶ぶ、而して希望と戰ひて 敗れしものは默すも遂に從はず 其巣窟の中にして凝り固れる不平の情、 息をこらして幾年の恨晴さん時を待つ。 誰か失望を要とせん?見ざるや「時」は むかし來れり、今來る、後また再び來るべし、 罪する力許す力、其*一方は遲からむ! *人間互に赦しあふ日の遠きを嘆く 85. +澄める穩《おだやか》のレーマンの水!わが住みし荒き世と 對照なせる湖は、清き爾のために世の 亂れし水を棄てよとて、その靜けさにより、 われを諫めるものなりけり、 此靜かなる帆は紛亂の世のさわぎより 我を吹きおくる音なき羽か、むかしはわれは 大わだつみの轟きめでき、されど爾のつぶやきは わがいさめしき喜にかくも心の動きしを さながら一人の妹の咎むる聲の如くにやさし。 +靜なる湖水 86. +夜は靜かなり、爾の岸と山との間、 すべては暗く又明か、溶けて混じて しかもなほ著しくも窺はる、 ひとり*ヂューラは暗くして雲を頂く嶺の上は さがしく急に見えわたる、又近よれば 咲きしばかりの鮮かの花、 岸の上生ける香を吐きつ、 耳にひゞきはかゝれる楫《かい》のしづくの音、 もしくは夜半のきりぎりす、「ねよ」との歌の一くさり。 +湖上の夜 *ヂューラ連峯はアルプスの一部 87. 彼は夕の歡樂者、其一生をはでやかの 穉子《おさなご》としてあく迄も歌ひてやまぬおもしろさ。 時には籔の間よりしばしは聲にあらはれて、 つゞいてしづまる鳥もあり。 丘には浮ぶさゝやきのあるにも似たり、 さはれそは迷なりけり、見ずや星夜の露 しづかんい戀の涙を埀れ、 泣きて泣きて泣き去りて 自然の胸に自然の色の靈をにじます。 88. +あゝ燦爛の星!天上の詩歌! 爾の光る影のなかに人間並に帝國の 運命よむうぃ人の望まば許せかし、 偉大なるべきあこがれに わが宿命は人間の世を飛びこえて、 爾と同じ類とのぞむも。 爾は美なり、神祕なり、而してはるかに遠きより、 愛と敬とをわが胸に湧かす、 幸運、權力、名譽、生命、おの〜自ら星といふほど。 +星の讚 89. +天地悉く靜かなり、睡るには非れど、 息はあらず、感情高まる時の如し。 はた聲もなし、あまりに深き思に似たり。 さなり、天地は靜かなり、高き星の萬軍より しづまる湖面と川の岸とにいたる迄、 すべては激しき生命のなかに凝る、 一の光、一の氣、一の木の葉も空しからず、 みな生命の一部を含み、 すべてを造り、すべてを守る造化の力を感ぜぬぞなき。 +靜夜思 90. その時無限の感起る、 人の尤も孤獨なる幽居にありて感ずるところ、 そは生命に行きわたり、 わが私を拂ひのけ、清むる眞理 -- 一《ひとつ》の調《てふ》 そは音樂の精と源、永劫の諧音悟らしめ、 むかし譬へし*シティラの神祕の帶が美によりて 一切のもの結びしに 似たる魅力を注ぐもの、 (傷《そこな》ふ力ありとせば)死魔の力も奪ふもの。 *即ちヴヰナス。其帶は愛を吹きこむ。バイロン今これを廣義に解す 91. +遠き昔のペルシャ人、遠く下界を眺め見る 山々たかき頂を其祭壇といつき立て、 壁みないみじき殿堂を 設けて靈を求めしはうべなりけり。 人間の手に立てられ祠堂は靈の譽には、 げにもあまりに弱かりき、來りて比せよ、 ゴース或はグリイスの偶像の宿と圓柱と 自然の手になる禮拜所、大地と空と比べ見よ、 爾の祈限るべくたゞ一場を定めざれ。 +自然は格好の殿堂 92. +空は變じぬ!何等の變!あゝ夜よ、 あらしよ、暗よ、竒しくつも強し爾等は、 されど強くていみじかり、譬へば女性の黒き目の 光に似たり!遠くあなたは 峰より峰に鳴り渡り、巖の間《あひ》に生ける雷霆《らいてい》 をどりとぶ、たゞ一片の雲のみならず、 あらゆる山今舌を得つ、 ヂューラは霧のおほひつらぬき、 高く彼女に叫び叫ぶ歡喜のアルプスの聲に答ふ。 +夜半の暴風雷鳴 93. しかして此事夜に起る!最も光榮の夜よ!爾! 爾は睡のためならず!激しく廣き悦に 預らしめよ、われをして あらしと爾の一部たらせよ! あゝ燐光の海、湖面のいかにかゞやくよ! しかし大雨をどりつゝ大地めがけて降り來る! しかして今また暗に入り、今また高き丘の叫び、 山の歡喜になるゆらぐ、 若き「地震」の誕生をさながら祝ふ如くして。 94. +今急流のローンの水、高きが間に 其途をつんざくところ -- 其つんざきを譬ふれば憎み別れし愛人か? 不和の深みを隔とし、 心おの〜碎くれど二人再び逢ふを得ず、 互にそむく魂の中、生命の花枯らし棄て、 かくて別れしおりかなる怒の本は愛ながら! 愛は消ゆれど幾年の 長きをすべて冬として心の中に悶えしむ。 +ローン川 95. +かく急流のローンの水、そのゆく途を切る處、 あらしの最も偉なるもの位を占めぬ、 こゝには只に一ならず、多くのあらし吹きすさび 轟きわたる雷霆を手より手に とばし、投げうち、ひらめかす。 其群のうち、光最も強きもの 此つんざけし丘の間、その電光を閃めかす。 「破壞」の水力造りたる此さけ口に潛むものの すべてを電火燒くべしと觀ずる如く閃めかす。 +電光 96. +空、山、川、風、湖水、電光!爾等! 夜と雲と心と -- これらを感じ、感ぜしむる心と共に、 げに〜われを睡らしめざるものなりけり。 爾の別れの遠きひゞきは、わが心の中にして われ休むともいねざるものゝ*反響《こだま》なりけり。 さはれあらしよ!いづくに爾のはてありや? なんぢ人間の胸の中のそれに等しきものなりや? あるひは遂に鷲の如く高きにある巣を見出すや? +あらしと心 *心の中の靜まらぬ思 97. +尤も深くわが中に潛めるものを今洩し、 形にあらはし得べくんば -- 思を言語に洩し得て、魂と心と情と思と (強かれ或は弱くもあれ)、わが求むべかりしもの、 今はたわれの求むる處、忍びて知りて感ずる處、 こを一語に託し得ば、 而して其語電光ならばわれは曰はむ、 さもあれ事はかくあれば、われ曰はずして生き且死なん、 尤も聲なき思抱き、剱を鞘にさす如く。 +心中の思、不可説 98. +「朝」まためざめり、露けき朝、 其息すべてかんばしく、其頬すべてくれなゐに、 其戲れの侮りに、あらゆる雲を笑ひ去り、 此世に墓のなき如く、 活きつゝやがて白日と光りかがやく。 人生はたまた再び進まむ、 かくして我はいみじのレーマン!爾の岸のへ 冥想の材と領とを求むべく、 思凝さば行く人を留むるものを看過さじ。 +朝の湖上 99. +クレランス!いみじきクレランス!深き「愛」の生れし處、 爾の空氣は熱烈の思のわかき息。 爾の樹木は「愛」に根ざし、 氷河の上の雪なほ愛の色をとり、 休らふ夕日の光よりそうびの色を染めいだす、 岩と不變の絶壁と ひとしくこゝに「愛」を説く、 望に人の魂を誘ひてついでにあざみ笑ふ 浮世の騷ぎ逃れきてこゝに避けたり「愛」を説く。 +クラレンス(湖畔の名所ルウソウが新エロイズの中にほむる處) 100. +クレランスよ! 爾の道は天上の脚にて踏まる -- 其階段を山とする王座にこゝによぢ登る 不滅の「愛」の脚はそれ、 「愛」こゝに行きわたる命なり、光なり、 只に山頂の上のみならず、 また靜けき窟と森のみならず、 花の上、彼の目のかゞやき、彼の息ふく、 その和らかの夏の息、その吹く力やさしくて、 あらしの尤もあらぶ時振ふ力にいやまさる。 +愛の精のやどる處 101. こゝにあらゆるものは「愛」のもの。 黒き松は高きに於ける彼の影、 急湍のとゞろきに彼は耳たつ、 岸にいたる葡萄蔓は彼の緑の路下る、 岸にはかゞむ波彼と逢ひ、 つぶやきながらその足に口づけつゝも禮いたす。 幹白けれど輕き葉は喜の如く若やぎて、 古木の森はむかしの場に今も立ち、 「愛」並びに「愛」の伴に命充ちたる宿捧ぐ。 102. 蜂と鳥とのすむ幽居 はたまた住むは精の*形、多くの色を帶ぶるもの、 言葉にまさる調にて「愛」を讚じつ、 罪なく喜びの羽を開き、 恐れず生にみてるもの。 泉の躍り、瀧の水、たわゝの枝のうねい、 最も早く美の思をもたらす芽 -- こゝに混じて擴がりて、 しかして愛に作られて、ひとつの趣意に集るよ。 *蝶などを曰ふ 103. 生れて愛を知らぬもの、こゝに其道悟り得て その心を靈とせむ、 その神祕のやさしみを知り得たるもの 猶いやましにこゝに愛さむ。 故はこゝは「愛」のかくれ場 -- あだなる人の禍と 世の放逸は彼等より遠くこの地に「愛」を驅りぬ。 進む若しくは亡ぶるは彼の性、 彼はしづかに立つことあらず、彼は或は衰へん、 或は無限の惠と長じ、*不朽の力と競ひ得む。 *星 104. 愛情こゝにやどらしてルウソウこの場《には》擇びしは 作り話の爲めならず。彼は觀じき「感情」が *心にうめる清淨の物に與へん場こゝと、 こゝ也「愛」が**サイケイの帶をほどきて 美を以てそれを清めしは、 こゝ淋しく、深く、不可思議に、しかも音あり、 感じあり、いみじの眺あり、 こゝにローンは床を設け、 アルプスは王座打建てぬ。 *創作されし人物 **魂を具體化したるもの 105. +ローサーンよ!又ファルネイよ!爾の中にやどれりし すぐれし人の名によりて爾各々名を得たり、 彼等は危き道により、 不朽の譽の途求め、之をかち得しものなりき、 げにも巨大の心とてめざす處は*タイタンに 似て勇しき「疑」をもとゝし、天の轟雷を 火焔を招くばかりなる思想を積まんことなりき、 天もし人と人のなす探究の上に、 たゞほゝゑみを催して**止るものに非らば。 +ローサーン(大史家ギボンの寓)ファルネー(ヲルテイアのそれ) *グリイスの神話中、巨人プロメセアス、天に抗したるもの **單に笑つて止むことなく怒り咎むるならば 106. +一人は火なり、移り氣なり、はげしく願ひの移ろふ小兒、 ひとしく心の替れる才子、 或ははでにおごそかに、或はあらく賢くて、 歴史家、詩人、哲學者身ひとつに兼ね、 身を人類のなかに増しゝ 其才能の*プロテアス、 さもあれ彼の才能は尤もはげしく嘲弄に あらはれ、風の吹く如く、自ら好む途により、 あらゆるものを引倒す、時には愚物、時には王座。 +ヲルテイア *グリイス神話中、種々に形を替ふる海神 107. +一人は深く、遲々として、あまねく思想を穿ちなし、 勤勉の年、おの〜ともと共智慧を貯へて 冥想に入り、研磨に耽り、 するどき刄もて武噐作り おごそかの嘲に、おごそかの*教を涸《から》す、 反語の大家 -- すぐれし魅力、 敵は恐れてかつ怒り、 狂信の徒の設けたる地獄に彼の命|宣《の》りぬ、 げに一切の疑をよく**能辯に解くものよ。 +ギボン *獨斷的キリスト教の攻撃 **反對者を目して地獄に投ぜらると稱する者を冷笑する也 108. さはれ平和はとこしへにその屍《なきがら》の上にあれ! 彼等はすでに償へり、その償ひの正しくば さばきはわれの分ならず、況んやこれを責むるをや、 かゝる事柄一切の人悉く悟るべき 時は必ず來るべし、或は望と恐とは 眠によりて靜められ、ひとつ枕に塵に伏さん、 塵は必ず朽ちぬべし、其こと露も疑はず、 われらの信じなす處、塵蘇へるものならば そは許されんため、正しき報を受けんため。 109. +さもあれ人の業を捨て、めぐりに布ける神の業 再びこゝに讀ましめよ、而してわれの冥想を 本としのべて、はてしなく延びると見ゆる此卷を 今しばらくは閉ぢしめよ。 頭上の雲はましろなるアルプスに向ふ、 其雲われは貫きて 其湧き起るおほいなる郷《さと》に歩みを運ぶ時 よくせん限り、あらゆるものを*探るべし、 そこに**大地は抱擁に天の力を迫るめり。 +此卷を終る辭 *イタリア漫遊のこと **雪又は嵐が高山に集るを曰ふ 110. +あゝイタリヤよ!イタリヤよ!爾を見れば 魂に時代のひらめき起る、 殆んど爾を*勇猛のカルセージ人占めしより 聖《きよ》き爾の史乘のほまれ、 諸將、諸賢のいやはての後光の時にいたるまで、 爾は諸々の帝國の王座竝に墓なりき。 憧れのぞむ思にて智識の渇を癒すべく、 飽くまで魂の吸ふところ、 泉はローマ帝王の丘の永遠の源よりぞ。 +イタリヤのあこがれ *ハンニバル 111. めでたからざる祥《さが》をもて再び初めし題目を われ斯くまでに進め來ぬ。 -- これ迄われのありし如く、今はあらずと思ふこと。 あるべき如く我はあらずと思ふこと、 心を心自らに對して固く鎧《よろ》ふこと、 誇る心の謹に、愛又憎また其他 わが思想を虐ぐるその壓制の種々の靈、 情を、感じを、目的を、悲哀或は熱望を 押し隱すこと辛きかな、さもあれわれは學び得たり。 112. かく我歌に織りなしゝ言葉やいかに、 恐らく無害のたくらみか -- 過ぎ行く處々の景のいろどり、 通りながらわが胸を、或は他の人のそれを しばし紛らし慰めん術にとわれのなす處。 名は青春の渇《か墲ォ》のみ、われは世間のほゝゑみと 其ひそみとを光榮の運の酬と 失《うしなひ》と思はん程に若からず、 われ獨り立てり、獨り立つ、人は忘るも、覺ゆるも。 113. +われは世間をめでざりき、世間も我をめでざりき。 われその惡しき氣に諂《こ》びず、 其偶像に忍びこらゆる膝|抂《ま》げず、 頬に微笑を詐らず、世評を敬して 聲高く叫びしことは絶えてなし、 われを群衆の一片と人々われを思ひ得ず。 彼等の思ならざりし思の中に包まれて。 彼等の中にまじれども、之に興せずわれ立ちき、 今も立ち得む、わが心自ら抑ゆることなくば。 +世間と著者 114. 我は世間をめでざりき、世間もわれをめでざりき -- さもあれ彼れ我れ公正の敵と分れむ。 未だ見ざれどわれは信ず、 空漠ならぬ言葉あり、欺かざる希望あり 慈愛に富める徳ありて、倒るゝ者に係蹄《わな》編まずと、 等しくわれまた想ふべし、 心よりして或ものは人の悲しみ悲しむと、 二人或は一人のもは殆んど表《おも》に見ゆるまゝ、 善は空しき名にあらず、幸福はたまた夢ならず。 115. +わが娘よ!なんぢの名もて此卷は初まりき、 わが娘よ!なんぢの名もて卷は終らむ。 見ずも聞かずも何人も わが如く、なんぢを思ふものあらじ なんぢは遠き年の影及ぶところの友にこそ、 わが面影を見ざるとも、 そだらむ後のまぼろしにわが聲まじり、 (我の心は已に冷え、ただ思出の音のみなる その時)父の墓よりぞなんぢの心に屆き行かむ。 +愛孃エーダに寄する筆 116. なんぢの心の育ち行くを介《たす》くること、 小さき喜の曙を見守ること、 坐りて爾の伸び行くあとを見なんこと、 (なんぢにとりて不思議なる)物の智識を補ふるを 眺めんこと、又やはらかの膝のへ爾をのせんこと、 やさしき頬のへ親の口づけしるすこと、 我に對して此事は許されざりき、然れども わが性の中これありき、事皆かくの如ければ 今何ありやわれ知らず、此に似るものありぬべし。 117. さもあれ鋭き憎しみを務となして學ぶとも、 なんぢがわれを愛するを我知る -- はた又恐るべき *破滅に充つる呪とし、絶ち了りたる權となし、 わが名をなんぢの身の上に人々よしや閉ざすとも、 爾と我と隔てなして墓は間にとぢぬとも 究竟《くきよう》は同じ、なんぢはわれをめづと知る。 なんぢの身よりわが血汐搾るを人は勉めるも、 またその事は叶ふとも -- すべては空し! なんぢはわれを愛しつゝ保たむ命にまさるもの。 *バイロンとエーダとを絶縁せしめんとするなり 118. 苦難に生れ、擾亂の中に育つも 愛の子よ、これらはなんぢの父の世界、 共にひとしくなんぢの世界、 なんぢを廻り、かゝるもの*猶あり、 されど爾の火更に和らぎ、望は更に高からむ、 搖籃の夢たのしかれ!海原かけで遠くはるか わが今息吸ふ山々より、爾の上に喜びて 祝福われは送りやらむ、しかして吐息にわれ思ふ これと等しき喜とわがため爾成り得しを。 *苦難等なほあり [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:第四卷 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 第四卷 1. +ヴェニスの中、われ*「吐息の橋」の上たてり。 かなたは宮殿、こなたは牢獄、 魔法師の振ふ杖より起るが如き 數多の家屋波より起るをわれは見たり、 千年の歳月の翼を わが廻《めぐり》にひろげ亡びんとする光景は 遠きいにしへの時にほゝえむ、 むかし**隸屬の邦々は仰げり羽ある***獅子王ヴェニス 數百の島の上、王樓金殿かまへしところ。 +ヴェニス *所の名ある橋 **十五世紀ダルマシヤ、グリイスの或島及び其他を領す ***セント・マークの獅子=ヴェニスの記號 2. 太洋《わだつみ》のおもより清らにたてる*「シベール」 漂渺の遠きあなたに莊嚴の夢をこらし ほこりの「塔の冠」をのせて 波を治め、波の邦々を治むる姿。 げにいにしへはしかなりき、その多くの息女|齎《もたら》し得しは よもに打かち掠めし寳。 -- つくせぬ富の東の邦々、 かれの膝への燦爛の珠玉をそゝぎぬ、 彼は紫の衣をまとへり、もろ〜の王侯 その饗宴に與りて威光の増すを覺えたり。 *地の女神城壁の冠をつくるものとして 3. あゝヴェニス、 -- タッソーの邊響今は亡び、 歌なうして*「ゴンドリーヤ」淋しくも漕ぐ、 その宮殿は岸のへに朽ちかゝり 樂のねつねに耳にひゝくとはせじ。 いにしへの日は過ぎぬ -- さもあれこゝに美は殘る、 邦は亡び、藝は過ぐれど、自然は死せず、 自然は忘れず、いにしへヴェニスのいみじかりしを、 あらゆる祭のたのしき場、 世界の饗宴、イタリヤの劇場たりしを。 *昔はタツソーの歌をうたひつゝもゴンドラをこぎたり 4. +さはれ我には豐の感興、 たゞ*「ドージ」無き淋しき都市に なほ蔭やどす幾多の俊豪 史上に名高き影のみならじ、 名所の**リアルト亡ぶとも、 不朽の寳はわが手に殘る、 ***シャイロク、ムーア、又ピイル廢れじ、消えじ、永く亡びず、 正に「アーチ」の要石《かなめいし》、 -- すべては遂にいつろふも われにとりては寂寞の岸のうへ常に命あり。 +英國人にとりてヴェニスの感興 *ヴェニス大名 **グランド、カナルにかかる橋、シェークスピアの作の中にも見ゆ ***「ヴェニスの商人」「オセロ」及びオトヱイの作中の人物 5. +人の心の生みなすもの、そは形骸の生ならず、 その本來の質は不朽に 燿く光いみじき生命 造りてわれらの中に殖ゑしむ。 現世のほだしの鈍き命に、運命拒みて禁ずるところ、 此等の靈より惠まれて 忌むべきものを驅り拂ひ、之に代りて 青春の花枯れし心の上に水|濺《そゝ》ぎ、 更に新たの發生に空漠たりし場《には》滿す。 +藝術中にある人物 6. +青春ならびに老境の慰こゝに いつはる希望と空虚との惱を癒す材となる、 珍らかならぬ此感じ、幾多の卷に形をとり、 恐らく又わが目の下に生ずる處、しかならむ。 さもあれ詩歌の幻境を凌げる人の世の實《まこと》、 色と形とのいみじさは 詩の空幻の郷に優り、 ミューズの微妙の手によりて 其領みたす燦爛の星座の列にも優るもあらむ。 +詩と現實 7. +かゝるをわれ見、あるは夢みき -- さもあれ之を去らしめよ -- その來りしや眞《まこと》の如く、その去行きしや夢の如し。 彼れ何ものなりしとも今はたゞ夢、 望まば眼下にわれまた之を招くを得む、 心に求めて時には得たる 數多の姿はわが胸充たす、 そも亦過ぎ行け -- さめし理性は かゝる幻影の高ぶりを空しと咎む、 他の聲今呼び他の影來る。 +過ぎさりしなつかしき姿 8. *異邦の言葉われは學び 異邦の人われに親しむ、 心に自ら足らん時、何等の變に驚かむ、 人ある或は人無き邦を 新たに作るは辛きに非ず、或は見出だすは難きに非ず、 さもあれ生れしわが故國、そは人々の誇る處、 誇るもうべなり、しかして我、 賢き自由の人の邦清淨の島あとにして 遠き海のへあらたに邦を求むとも -- 。 *イタリヤなど 9. +われは故國をめでつらむ、 故郷にあらぬ土地の中、よしわが骨を埋むとも わが靈故郷に又行かむ、 形骸あとをたゝん時、人なほ墓を選び得ば 願はく母國の言葉にて 母國の子孫に偲ばれむ、 その憧憬は愚にて、あまりに分が過ぎなんか、 わが名は運命もとろともに 早く匂ひて早く散り、鈍き「忘却」われの名を -- 。 +故郷のあこがれ 10. 譽の死者が萬人に因りてうやまひ齋《いつ》かるゝ *宮より拒み去りなんか、それも亦よし! さらばほまれの月桂は優る頭《かしら》を飾るべし! わが上むかしスパルタの勇士の碑銘あらしめよ、 **『スパルタは彼に優れり多くの子あり』 われ今何等の同情求めじ、要とせじ、 わが刈りし荊棘《けいきよく》は、我が植ゑし木の生むところ、 我を刺しつゝ血を流す、 かゝる種よりかゝる實の起るを悟るべかりしを。 *エストミンスター寺院 **スパルタの將軍の母がいひし言 11. +わびしきアドリヤ亡夫《なきつま》を戀ふ、 年ごとに祝ひし*婚禮、今は廢り やもめの悲しきかたみの粧《よそひ》 -- 「ブセントール」舟は朽ちつゝ殘り、 **セイント・マルクは其獅子のむかしの場に立つを見る、 さもあれ、今は衰の力の影を保つのみ、 君王禮せし誇の場、 諸王の眺めしヴェニスの光榮 無雙の寳を嫉みし場《には》に。 +ヴエニスの今昔 *アドリヤ海とヴェニスとの婚儀年々行はれ、舟「ブセントール」は之に用ゐられき **ヴェニスの守護聖徒 12. いにしへスワビヤ王朝乞ひ、今オーストリヤ王家は主たり。 むかしは帝王膝をつき、今は帝王足に踏む。 王土はすたれて屬領となり、 鐡鎖はむかしの首都を繋ぐ、 しばしは光にてらされて 崖よりなだれの落つる如く、國民はたまた權力の たかねを下りて溶け了る。 あゝ八十の老將軍盲目の*ダンドロー ビザンチゥムに打勝てる譽片時も今しあらば! *第四囘十字軍のときヴェニスの老將軍トルコを破る 13. +燿く胸甲旭日に照りて 黄金の四馬セント・マークの前に光る、 さはれ*ドリヤの威嚇成り 四馬繋がるゝにあらざるや? 一千三百餘年にわたる、自由は終りて亡びしヴェニス、 海草に似て其本の波にと沈む よしや波浪の下深く葬り去り埋まりて、 破滅の底にありとても、敵をさくるは善からずや? 敵は恥づべき休息をわが服從に與ふべし。 +ヴェニス自由の亡び *ゼノア人ドリヤ一三七九の年にヴェニスを破りセント・マークの馬を囚へてのち和せん云々の威嚇をなせり 14. 若かりし時ヴェニス光榮の極なりき、新たのタイヤ、 其*綽名さへ勝より起り、 屬領屬海もろ〜の上にかへりし「獅子の旗」を 猛火並に鮮血の間にヴェニス搬び行きぬ、 衆邦奴隸となしたれど自ら自由を失はず、 トルコを防ぐ歐洲の要寨、 いにしへトロイに比ぶべき**カンデア城を眺めずや、 認めよ爾、***レパントの戰を見し不滅の波、 時も暴威もとこしへに亡ぼし得んや爾の名。 *「パンタレオ」といふ、其意は次にいふ獅子の旗 **ヴェニス人こゝによりて多年トルコを防ぎぬ ***一五七一トルコを敗りし大海戰 15. 玻璃か立像みな碎け、ヴェニスの過ぎし「ドージ」の列 無慘や塵に倒れて並ぶ、 さもあれ宮殿樓閣のおほいなるもの その莊嚴の官職の名殘忍ぶ、 碎けし王笏、錆びたる寳剱、 いま外人の手に降り、空しき廣廳、 わびしき街路、又外邦のおもかげは (此地に何人主たるを告げ) ヴェニスの壁上さびしくあるゝ雲を投ぐ。 16. シラキュースにそのむかし、アゼンの軍敗られて、 數千の兵士戰の縲《いましめ》の恥うけし時、 救となりしはアチカの*「ミューズ」 其聲唯一の贖《あがなひ》なりき、 彼等の吟ずる悲劇の歌章、 きゝつゝ勝ちたる敵將負け、 車を留めて手綱を放ち、 鞘より離れし剱をあげて鎖を切りつゝ彼等に命ず、 自由と曲とを詩人に謝せと。 *シシリイに於てグリイスの兵敗れしときユーリピデスの詩を誦して救を得たる話(プルターク傳) 17. ひとしくヴェニスよ、爾に更に強き權能あらずとも、 なんぢの史上の誇の跡皆悉く忘るとも、 聖なる詩人の歌の思出、 タッソーの崇めし爾の愛は 暴主の束縛切り斷つに足るべかりしを、 爾の運は諸邦の恥、ひとしほ更に あゝ*アルビオンよ爾の恥!大洋の女王 大洋の子らを棄つべきや?ヴェニスの亡び眺め見て 海の鐡壁あり乍ら爾の亡び思ふべきを。 *英國、海上王として 18. 若かりしよりわれはヴェニスをめでたりき、 彼は心の靈境に似き、 龍卷の波のおもより昇るにも似き、 歡喜の郷よ、富の市場よ、 而してオトヱー、ラドクリフ、シルラー、及びシェークスピア、 其もろ〜の藝術は彼の姿を見捨て別るゝことあらじ、 憂の今こそなか〜にゆかしさまされ、 驚異と誇と莊麗の姿示せし昨日にも。 19. +淋しき場を過去の影にてわれは滿し得、 はた現在のそれの中、眼に、思に、澄みわたる 冥想に向ひ來るもの尚充ち足りて、恐らくは 望み或は求めしに優りて多く今あらむ。 わが生命の織物の中の尤も樂しき瞬時、 其或ものは、美しきヴェニス爾の領よりし 其色彩を借り來る、 時劫の消し得ぬ感《かんじ》あり、 苛責も之を搖がさじ、さらずは我情冷えて音《ね》無けむ。 +ヴェニスの追憶 20. +さもあれアルプス怒號のあらし、 狂ふを支へむ土壤もあらで、 荒れたる巖に根をすゑて 高くも高き嶺の上 生ずる「タンネ」の巨幹を見ずや! 颶風《ぐふう》を嘲り、その身を延し 其質、其丈高嶺に恥ぢず、 げに灰色の淋しき巨巖 そこより生れて巨木となるか、人の心も亦さなり。 +人心の譬 21. +この生はたまた忍ぶを得べし、 生と苦痛の深き根は 淋しき胸に宿を造らむ。 駱駝は無言に重荷を運び、 狼は聲なく最後を遂ぐ、 其跡わが世の教ならずや? 猛きもの、はた卑しきもの、 しのびてひるまず -- すぐれたる 人類ひかで耐へざらむ、唯一日の事なるを。 +人生の忍耐 22. +苦難は人を惱ませど、又人に因り敗られん、 惱める者に敗られん、いづれにするも終るべし、 或ものは望新たに勇みたち、 其もと出でし場に歸らむ、 先と等しき願にて再びその布織出さん、 或はかゞみ、うなだれつ、時に先ち衰へて その寄りかゝる葦草もろとも亡び去らむ、 或は信と戰と、善事若しくは罪惡を 求めむ、心の沈むべき、或は攀づるべくあるがまゝに。 +人生の惱 23. +さあれ鎭めし悲の名殘は折に歸り來て、 さそりの刺《とげ》に髣髴と、 姿見せねど新たのにがみ含むべし、 重荷心に來らすは、とこしへ棄てむと心の願ふ かすかの物にあらざるや? 一つのひゞき、一ふしの樂、春又夏の夕ぐれか、 一つの花か、風のねか、海か、すごくも我人を 束ねしばらむ微妙の鎖 鑄りつゝ傷みをわれに負《おは》さむ。 +にがき追憶 24. そは何故か如何にか問ふも由なし、心の電《いなづま》、 其起り來る本の雲、探り得がたし、知りがたし、 たゞわれ囘り歸り來る激動覺ゆ、 其あと殘る黒みと疵は消えがたし、 思ひもよらず、わざとにあらず、 馴れ來しものより呼び起す むかし幻影 -- 呪文も之を去りがたし、 つめたきもの、かはりしもの、恐らく或は逝きしもの、 悼まるゝもの、愛でしもの、失ひしもの、 -- あゝいかに*多き。いかに**少なき。 *惱を被らすが故に **さもあれ廣き人界より見て眞にわれを惱すに足るものいかに少き 25. +さはれわが魂遠くさまよふ、今われ之を呼び返し、 古蹟に冥想こらさしめ、もろ〜並び廢墟の中、 同じく一つの廢墟と立たせ、かくしてこゝに探り見る、 興亡幾度おほいなる倒れし過ぎし諸邦のあと。 此郷いにしへ世界の霸王、 今尚秀麗無雙の國土、 永遠に自然の模範の妙工、 こゝより生れいでたるは英豪のもの自由のもの、 勇武のもの、美なるもの、陸と海との主たるもの -- +絶妙なるイタリヤの風趣 26. 皆悉く帝王の資を備へたるローマの民! しかして今尚ほ美なるイタリヤ! 爾はまさに世界の樂園、 藝術竝びに自然の本土、 荒るゝも爾に何か比べむ、 野草も美はし爾の荒土、 よそなる風土の肥饒《ひぜう》に勝る、 其破片も一の光榮、その頽廢も清淨の 艷美に飾られ、汚れを納《い》れじ。 27. +月正にのぼりぬ、されど夜ならず、 入日と分くる天の領 -- みどりの*フリウリ連山の脈、 蓋ふは光のまばゆき海、 雲あらなくに天は百千の彩《あや》を染め、 巨大の虹と溶けかゝる -- 其西空の **永劫の過ぎ去るなかに日は沈む、 あなたみどりのひがしなる 空には浮ぶ月の影、幸ある靈の宿る島! +ヴェニス附近の實景 *トリストの蔭よりヴェロナの近くにわたるアルプスの一部 **其日其日は次第に皆永劫の世界に沈みさる 28. 其傍には星一つ、艷なる空のかた〜゛を 月もろともに治むるや、さもあれあなた、 煌燿の空の大海高まりて、 遠きレチアの頂に流れて掛り、 自然の順の來るまで、晝と夜との爭を 見する如くたなびけり、 しづかに流るブレンタの水 照すは空の夕映や、 ひたり紅咲きそむる薔薇の花と燃えわたる。 29. はるかに遠き高きより 流の上に影落し來る空の彩《あや》、 夕日夕星もろ〜の 色變幻の美をこらす やがて見るまゝ色替り さめゆく彩は嶺々の上にたなびき、 痛みの故に喘ぐたび新たの色に染めらるゝ 海豚《いるか》の最期見る如く、しづかに沈む入日影、 最後は最美、そも消えぬ、空灰色にさめ行きぬ。 30. アルカの郷の墓一つ、 石棺土に埋らず、空に掛りて 麗人のローラをめでし*君の骸《から》 納むる、 -- こゝを戀の恨、戀を歌ひし靈妙の 詩才をめづる人は訪ふ。 國の言葉を高むべく、之に加へて更にまた 野蠻の仇の鎖より國救ふべく君たてり、 詞の葉の露愛人の 名を負ふ**樹の根うるほしてかち得し譽永く朽ちず。 *ペトラルカの墓 **ローラ即月桂樹 -- 詩人のほまれ 31. +その臨終のアルカの地かれの骸《むくろ》を納めたり、 君の一生のおはりの日、 この山里にしづかにも暮の谿間を降りしよ、 其おくつきと其宿と二つを共に旅人に 示すぞ里の誇なる -- 里の正しき誇なる、 君の調にふさはしき 思催すよすがとて 二つは共に純朴に虚飾をさりてたふとしや、 石壘かれのおくつきを作るも之に若《し》かざらむ。 +アルカの郷 32. 彼の宿れる穩かの村の面影は みどりの岡の蔭にして、 深き木立の奧深く、 姿は人の世の無常悟り、衰ふ望より、 逃れし者にふさはしや、 都の遠きおもかげは ほの見らるゝも世捨人を 再び引かんすべもなし、 かゞやく空の日の光其慰めにこと足れり。 33. +光は照す山々を、花を木の葉を、さら〜と 流るゝ川を、其川に 添ひて靜かにもにうげに 水もろともに時は行く、 むなしと目には映るとも内に教のなからめや、 生は浮世に學び得ば、 孤獨は我に死を教う。 諂《へつらひ》の者こゝに見ず、 虚榮の助、こゝに來ぞ、人たゞ神に向ふのみ。 +穩退の生 34. +或は時に魔の群に向ふもあらむ、 思想のよき根を魔は枯らし、 悲哀の胸を餌《えば》とせむ、 かゝるは誰ぞや?若きより常に鬱悒の日を送り、 光を避けて暗に住み、 離れ得がたき艱難の運命われに定まると、 感じて斯くて紅の血汐の色に日を眺め、 墓の如くに世を觀じ、墓を冥府と思ひなし、 冥府も更に一層の闇に思をこらす者。 +魔に誘はるゝ人 35. +フェルララよ、其街區の正しきは 幽居のためにあらざりし、今たゞ廣く草生ゆる 中にさながらいにしへの名家エステの族のうへ 詛《のろひ》の掛るを見るに似たり、 こゝを鎭じてむかしより ++權威におごる其心變りゆくまゝ意のまゝに、 先にはひとりダンテのみ帶びし冠を戴ける 詩人を時に養ひて、 時には彼を虐げき。 +フェルララを治めしエステの名家 ++機におごり其心變りゆくまゝ意のまゝに 36. +してタッソーは彼等の誇、彼等の耻、 彼の調に耳を寄せ、彼のひとやに目を寄せよ、 トルコートーの譽得し犧牲やいかに? アルフォンソが詩人を閉ぢし場《には》いかに? 高き魂耻ぢしめて 獄に投じて一群の狂者にまじへ、その魂を 鎭め去るべく無道の君の求めしも、 あだなり -- はて無き光榮は 雲を拂ひてあらはれつ、彼の名のうへ列世の -- 。 +エステ候より保護され又幽閉せられし詩人トルコートータツソー 37. +涕と讚美伴へり、 こなた家系の誇より空しく亡び、塵芥《ちりひぢ》に 爾の名こそ朽つべきを たゞ詩人の運命に たづさはるよりあなどりの 名をかち得つゝ人の世に 爾の邪心忘られじ、あゝアルフォンソ! 王侯の誇いかに空しき!外の位に生れなば なんぢの爲めに泣かされし彼の奴隸に足るまじを。 +タツソーを苦しめしエステ家のアルフォンソ 38. +爾!口腹の慾に生き、侮うけて亡ぶ命、 空しく死する獸に似、たゞ飼桶と 住む檻のおほひなるもの持てるのみ! ++彼!その波よる額のへ、其時あふれ今もなほ 目を眩すべき光榮にあらゆる敵の前に照る、 *敵はクルスカ雅樂の一團、 更に**ボアロウ -- その妬《ねたみ》自國の絃歌拙くて たゞ單調の鐡の線、齒ぎしる如き狂ふ音 辱しむべき正大の調を聞くに耐へぬもの。 +アルフォンソ ++タッソー *タッソーに反對したるもの國語改良の團體なり **フランスの詩人兼評家 39. トルコートーの傷める靈にやすみあれ! 「惡」の覘《ねら》へる、しかも當らぬ毒の箭の (生きしむかしも、死ののちも)的となりしは彼の命、 あゝ近世の詩界無頼の勝者、 年ごと數萬《すまん》の人生る、 時の流の行き廻り、 長きにわたり集れる群をいくばくを合せ得て 君に似たるを産じ得む? 散りし光をよするとも太陽のそれ作られず。 40. おほいなりし君の類無きには非ず、 同じき邦の偉なるもの、*冥府の詩人、騎士の詩人、 君に先だちかゞやけり、 前にはタスカン詩聖の神曲、 又フローレンスの君に劣らず、 美妙の歌に新たなる 天地を作る**南歐のスコット、 彼れ北歐のアリオストに似 女性の愛と戰と騎士のほまれを***歌ひ出でぬ。 *ダンテとアリオスト **即アリオストとスコット ***シャーレマン大帝部下の勇士を謳へる長篇『狂へるオルランド』 41. +電光襲ひてアリオストの 像より拂へり月柱の鐡冠、 怪しき天火は不明に非ず、 まことの光榮つけなす冠 轟雷きりとる樹より成らず、 まねたる假裝はかれの額を汚すのみ。 さはれ「迷信」嘆きをなさば 電火の下り打つところ、もの清まると觀じ知れ、 かなたの頭令は前より清し。 +アリオストの像雷にうたる 42. +イタリヤよ!あゝイタリヤよ!非運にも 「艷美」の天惠受けし國 -- 惠却つて 過去の難はた今殘る災の種、 君がやさしき額のへ、「耻」の穿ちし悲と 焔の文字が刻まれし代々の惱のあとを見る、 あゝ、あゝ、君の赤裸の姿、かく迄艷美ならざらば、 或は君に一層の力まさりて其權を 稱へ、よせくる群盜を斥け得なばよからましを。 (彼等は迫りて君を刺し、君の涙をすゝらんず) +イタリヤの好風土は禍の種 43. さらば彼等を嚇し得む、或は更に好まれず、 姿鄙びて擾《みだ》されず、 かくて破滅の種となる美の爲泣かんことあらじ、 さらばアルプス連峯を下りて常にたゆるなく 倦まざる軍勢潮とよすることあらじ、 はた國々のよせ來る群盜、 ポーの流に水と血汐を呑まざらむ、 はた外人のかざす剱、悲しき防ぎたるまじく、 勝つも負くるも敵の奴隸、友の奴隸たらざらむ。 44. +若き昨日のさすらひに、わが探りしは彼の途、 彼れ*ローマ人、ローマの尤も尊き魂タリイ・シセロの友なりき、 順風に駕し、みどりなる 晴れたる海を漕ぎゆけば、 メガラはわが前現はれぬ、 後にはエーヂナ、右にピロイス 左コリンス、 -- 舳《へさき》にわれは 身をよせつゝも、もろ〜の名所ひとしく崩れたる 跡を眺めき、いにしへ彼の見し如く。 +曾遊の跡 *スルピシアスそのむかし此等の名所の跡を見き 45. 故は「時」まだ其跡に修復の業を施さず、 たゞその破壞の場のうへ、野蠻の宿を打たてぬ、 かくて散らけし光明のわづかの名殘、 はた消えうせし力のあとを いやましに懷からしめ、慕はしむ、 其世に於てローマ人そゞろ感傷の種となる これらの墓を、諸々の都の墳《つか》を眺めたり、 今其*殘す文のおも かゝる旅より學び來し教の言をなほ保つ。 *スルピシウスの當時の紀行文 46. その文今ぞわが前に -- わが文さらに *彼の國亡びし跡を遠くむかし 彼の傷める國々の上に重ねて寫し見る。 われも荒べり -- その時に 荒れたりしもの今も荒る、 更に今はた霸王のローマ、あらしに打たれ俯伏《うつぶ》すよ! 同じき塵にくらやみに。 其おほひなる殘骸の跡を今すぎ、一の世界 その灰未だ冷えざるをわれ弔ひてさまよはむ。 *ローマ 47. +さはれイタリヤ!あらゆる外の國々に 聞え渡らむ、偶よる偶に君の災、 むかしは勇武の母にして今は藝術の母なる君! 君が手むかしはわれの守、しかして今尚ほわれの導き、 わが宗教の親たる君!其前もろ〜の國の民 こぞりて天の國の鍵求めんために膝つけり 見よヨーロッパ不幸の罪を悔い詫びて 君を贖《あがな》ひ救ふべし、かくしてあとに 野蠻の汐退きて罪の許を願ふべし。 +イタリヤの古今 48. +さはれアルノー美はしき白き壁にわれを誘ふ、 そこに*エトルリヤのアゼンス府、其靈妙の建物に 對しやさしき情求め、又その情をもりそだつ、 丘の舞臺に圍まれて五穀と酒と油とを 彼は刈り取り、「豐饒」は 溢るゝ角を携へて、ゑみ崩れつゝ舞ひをどる。 ほゝゑむアルノー流れゆく其岸に沿ひ**「貿易」の 近世の奢生れ出で 又うづもれし學藝はこゝに新たの朝を見き。 +アルノー河畔のフローレンス *フローレンスはエトルリア地方の中心 **こゝを治めしメデシ家の富 所謂ルネッサンスはフローレンスを中心としたりき 49. +また石像の微妙の女神愛をこの地に現はして めぐりの空に美を充たす、 其かんばしき面影を人は吸ひこみ、眺め見て 不朽不滅の氣を偲ぶ、 天の面蓋《おもおほひ》半ばはがる、 其境内に佇立《たたず》ち其面影と形とに 自然の力足らぬとき心の作る工《たくみ》見む、 かくて古代の偶像の教奉ずる人の子に かゝる魂作りなす靈火の光嫉みおもふ。 +フローレンスの『ウフイチ、ガレリイ』に於けるヴィナスの像 50. 眸こらして見まもりて、知らずいづくに向換へむ、 美に眩《めくるめ》き美に醉ひて 飽滿の故に魂はよろめく、 そこに誇の藝術の車の上にしばられて、 捕虜の如くに立ちつつも、又そを去らむ望なし。 微を穿ち細に入る紛々の言葉何かせむ -- 「誇學」が「愚昧」を欺くところ、 石像の市のかしましき聲はあさまし、われに目あり、 *血は脉搏は又胸はパリスの賞を認むべし。 *グリイスの神話中、パリスが三女神ヂューノー、ミネルバ、ヴィナスの美を判じて後者に賞を與へし話 51. パリスに君の現じ出でしは此影か? 或は更に寺多き*アンカイセスの目の前に? 或は神の圓滿の姿をなしてその前に 伏せるあらびの**軍神に? 君の膝の上身を置きて君が面わの星仰ぐ 如く眺めし軍神の 目は豐頬の美に醉へば、 君の唇熔岩の如くに「キス」を彼の目に 額に口にあびせかけ壺傾くる如かりき。 *此英雄とヴィナスとの間にローマの始祖ともいふべきエーネアス生る **武神マース 52. 熱しかゞやき、言葉なき愛にひたされ、 其圓滿の神性も愛の思を現はすに、 或は之を補ふに、力は遂に足らざれば 神々やがて人に似る -- はた又人の運命も 神の尤も燿ける時に似るものなしとせず、 ただ塵骸の重み歸りくる -- それはた何か、 ありしもの、あり得るものを材として かゝる幻影を思ひ浮べ、 女神よ君に髣髴の姿この世に作り得む。 53. 優美の曲線、艷美の膨み 如何にして鑑賞の法のはめ得む 學べる指、賢き手、藝術の徒、 はた又之を眞似るもの、能くせば之を説き示せ、 能くせば述べよ、述べ得ぬ處。 彼ら汚の息をもて亂すをやめよとこしへに 美の影宿るその流、 空より降る人間の深き魂照しくる 最美の夢の亂れぬ明鏡! 54. +聖なるサンタ・クローチェの尊き域に一層の 聖を加へて納まる冷灰、 はや渾沌の領に入りし莊嚴偉大の 靈のかたみの是この一片、並びに過去の 歴史のみ、他に何物も殘らねど その塵すでに不朽を得たり、 休めりこゝにアンジェロウ、又アルフィエリ、 更に惱めど星と輝く偉大のガイレオ、 又其本なる地に返るマキャベリィのなきがらも。 +聖十字院にある四人の遺骨 55. 地水火風の諸元の如く、新たの天地 作るに足るべしこれら四人。 あはれイタリヤ!君が帝王の錦のころも 微塵にさきて侮りし 「時」はあらゆる他の邦に、是より後も、これ迄と 共にひとしく破壞より偉靈の起つを拒むべし。 君の衰なほ神性の偉なるを含み、 再び生氣の溌剌の光を以て飾られむ、 むかしの偉大に並ぶもの見よ今の日の*カノーバに。 *當時の大彫刻家 56. さはれいづくに休む?エトラスカの三人 ダンテ竝びにペトラルカ、また劣るなき 創造の竒才、散文の*詩人、 **愛の百話を述べしもの、 彼等いづくに(生の中別るゝ如く) その遺骨世の凡俗に別るゝや? 彼等は塵に歸れども母國の石は言はなきや? 其石坑は一塊の半身像を與へずや? 祖國の胸にその子たる形見の灰を託せずや? *ボッカチオ **デカメロン 57. +あゝ忘恩のフローレンス!ダンテは遠くはなれてねむる、 叱り咎むる波のそば、眠る*シピオを見る如く。 内亂よりも更にあしき **黨派の爭詩人を逐ひぬ。 其名は永く子孫の子孫、 百年つきせぬ憾に讚ぜむ。 はたペトラルカ譽ある額にまとふ冠の 月桂の木は途遠き外なる***土に生ひたちぬ、 其生、其名、破られし墓も爾のものならず。 +ダンテとペトラーカの遺骨 *シビオは故國を去りてカムパニアの岸リテルナムに逃る **「ゲルフ」「ギベリン」の爭 ***ペトラルカはローマにて月桂冠を授けらる 58. +親なる土にボッカチオ其なきがらを葬りぬ、 其音すでに歌なしり散文の詩、律の妙、 艷美の言葉タスカンの言葉作りし彼の上、 祈の讚美おごそかに歌はれつゝも、 おほいなる祖國の子たにまじらずや? あゝさにあらず、彼の墓も 虎狼の如き狂信の子らの手により、發《あば》かれて 耻辱をうけて世の常の卑しきものと交り得じ、 君にと人のなつかしく注ぐ吐息も惠まれず。 +ボッカチオの墓 59. かくしてサンタ・クローチェは彼等の偉なる塵を缺く、 其缺くためにことさらに著《しる》し、いにしへの*シイザアの ねり行く列にブルータスの像省かれて見るものに ローマの中の秀れたる其子偲ばしめし如。 優りて幸のラベンナよ!亡ぶる邦の**砦《とりで》なる 爾の波の打つ岸に不朽の***流人葬らる、 アルカも更に流麗の調べのかたみ、わがものと 求めてたもち、そのためにフローレンスは空しくも 其逐ひやりしすぐれたる故人の骨を得ずに泣く。 *ローマの帝室の葬式の列にブルータスの像を許さゞりき **西ローマ皇帝しば〜こゝに逃れしが故 ***ダンテ 60. +寳の石を鏤めし彼の*「ピラミッド」は何ものぞ? 石英、瑪瑙、斑岩と珠とつやのある大理石、 其もろ〜の色と質包むは骨か貿易の 長者を兼ねし**王侯の? 其名ミューズの譽なる墓の緑の芝土に 夕の星にてり乍ら、鮮《あざけ》さ添ふる露の玉、 其上しづかに踏まむ者、 彼の王侯の屍おふ平板の上歩むより さらに優りて敬はむ。 +メデシ家の墓 *莊麗なる紀念碑の意 **メデシ家はフローレンスを治めたる大富豪 61. アルノーの岸、藝術の精を集むる*院の内、 **彫める工《たくみ》・七彩の色ある技と競ふ場、 心と目とを奪ふべき寳は更に數多し、 更に幾多の驚異あり、されども我の領ならず、 +畫堂の中の工より原野に眺むる自然の美 わが感興を起し馴る、 聖なる作はわが靈の敬を呼べども わが靈は感じながらも産みなさじ。 その使ひなすものゝぐは -- *ウフィツ美術館 **畫と彫刻 +美術よりも自然 62. +異なる質に鑄《い》らるれば -- かくて今われ意のまゝに スラシメーンの湖上のほとり -- その昔勇にはやりてローマ軍 亡びし谿の跡を訪ふ。 思ひいづるはカルタゴの*將軍巧みに敵軍を 山と岸との谷あひにおびき入れたる計《はかりごと》 そこにローマの軍勢は勇氣挫けて打倒れ、 鮮血により量まして 屍をちらす炎天の野に谷川はあふれ來る。 +ローマ、カルタゴ大戰の跡 *ハンニバル 63. +大風あれて吹き倒す森か、亡びし兵のむれ、 其日大地の震ひしを、 はげしき狂、戰鬪のあらびに心奪はれて、 衆軍遂に辨へず、 其足もとのおごそかの自然のゆらぎ地を割きて、 倒れて楯にのせられし勇士のために墳瑩を 開くを知らず、國と國 戰ふ時の憎しみの はげしさかゝるものなりき。 +地震ありしを覺えざりき 64. 大地は彼等を永劫の世にはこびさる舟に似き、 彼等はよもに大海を眺めたれども其舟の *ゆらぎ動くを認め得ず、 知覺の能はとゞまりて、 地震の恐れ知らざりき、 山々震ひ、空の鳥碎け飛び散る巣を逃れ、 逃れて雲に舞ひこもり、 野飼の牛は吠え叫び、ゆらぎたかまる野に迷ひ、 人の恐怖ははてしらぬ、 -- 災彼ら知らざりき。 *大地を舟にたとへ、地震を舟のゆらぐにたとふ 65. 何等の相違ぞ、今スラシメーン、 たゞ一面の白銀の水、 漣ひとりその面を亂すのみ、 古木ならびて茂りあひ、むかし其下 むらがりし戰死の群になも似たり、 さもあれ細き一筋の山川傍にいにしへの 血汐の雨に名をかりて、 *サンギネトは今示す、流血大地をうるほして 厭へる水を赤くせし戰場のあとこゝなりと。 *「血」の意 66. +さはれ爾クリタムナスその清き波、 生ける水晶の如くにいみじ、 川の神女はめでゝ眺めて、 其すき透る水おもに手脚ひたして嬉しまむ。 其緑の岸の上、乳白の牛草をはめり。 あゝ穩かにして清き流、 澄みわたる影、明かの水、 殺戮そこに汚《けがれ》加へじ、 若き艷美の娘等の鏡、また身を洗ふ場。 +清き流 *タイバア川の支流にして南ウムプリヤにあり 67. 爾のたのしう岸の上、 形小さく姿とゝのひ、 なだらの丘の坂の上 爾の記念を今も殘せる寺一つ、 其下走る穩《おだやか》の流、 其鏡なす水の中に 住みてたはむる銀鱗の魚しば〜も跳りいづ、 或は散り來る睡蓮の花、 流れて下る、さら〜歌ふ淺き瀬を。 68. 此場の精に祝福を祈るなくしてすぎさりそ! 空にそよ風かんばしく おもてを吹かば彼のわざ、 此|縁《へり》にそひ、一しほの趣深き岸の草、 踏まば -- 或は鮮かのけしき心に すずしさを灌ぐとすれば -- かくして倦める人生の塵を拂ひて いみじき自然の洗禮に清むとすれば -- 浮世の嫌一時は止めるを彼に謝すべけれ。 69. +開け、水のとゞろき!絶壁の高きより 懸崖ますぐに劈くエリノ、 見よ水の落下!電光の如くひらめきて 水は泡立ち淵みだす。 あゝ水の陰府《よみ》!水は吼え、水は叫び、 はてしなき苦惱にわきたつ、 其おほいなる惱の汗、 湧きたつすごき流より搾りとられてうづまくよ! 恐怖の中に据ゑられて淵の戸守る巖のあたり。 +タイバア川の支流ヱリノによりて生ずるテルニの瀑 70. 水烟立ちて空に舞ひ、空よち更に またはてしなき雨と降り、 しぶきたえざる濛々の 雲は此地にとこしへの春、 一面碧玉のみどりと粧ふ。 深きに凄き淵の下、 水は狂ひて岩より岩にをどり飛び、 あらびて進む足もとに 懸崖|磨《へ》りて淵の中ものすさまじき口開く。 71. 過ぐつは滔々落ちゆく流、 谷の間を幾廻りほとばしる行く 諸々の川の源たるよりも。 新たの世界の生みの苦に 山の胎より切られ去る 「海」の幼兒のもとゝ見ゆ、 ふりかへり見よ!永遠の姿の如く 途のあらゆるものを拂ひ、 見る目をくらまし、驚かす無雙の大瀧 -- 。 72. +恐ろしくも美しや!されど縁《へり》には 輝く朝日の下、こゝよりそこに 臨終の床の「希望」の如く、 狂ひあらべる波のうへに、虹かゝり 色は變らず、曇なし あたりのものは亂流に碎かるれども。 その燦爛の色換へず、 叫喚苛責のたゞなかに 面影變へず「狂亂」を看まもる「愛」にさも似たり。 +虹のかゝる 73. +再びわれ立つ森深きアペナイン、 そはアルプスの幼兒か、 -- 其おほいなる親の山 (峨々たる嶺に松立ちて、 雷となだれの吼ゆるところ) 眺めざりせば今よりも優りてこれを愛づべきを、 さはれ我は見き半天の*ユングフラウ、 とこしへ踏まれぬ雪の嶺、 更に遠く又近くすごきモンブランの氷河見き、 更に**キマリの嶺にして恐怖の響耳にしき -- +アペナイン山 *アルプス山脈の一高峯 **エパイラスとイルリアとの境にあり 74. *(アクロセロニヤその古名) -- 又パルナッサスの嶺のうへ、これを鎭むる靈の如く、 さながら譽慕ふが如く、言に盡せず高く高く 鷲の一群かけとぶを見き、 またトロイ人の眼をもてイイダの神嶺をわれは見き、 アソス、アトラス、オリンピヤ、エトナに比して 今に見る此等の丘は低きかな、 +ひとりソクラテ孤立の影、 今はた雪をおほはねどローマ**詩人の助より -- *「雷の嶺」といふグリイク語 +ソクラテ山 **ホーレース 75. +わが思出を湧かしむる、影はうねりの長き波 崩れんとして崩れ得ず、しばし掛るか、とばかりに 平野のおもを起きのぼる -- 心あるもの思出を集め、懷古の興わかし 「ラテン」の歌の反響に丘を醒すもおもしろし、 さはれ字々句々強ひられて わが若かりしいにしへに厭ひきらひし學窓の つとめを詩人の名に免じ 修めんことは難かりき。 +ソクラテ山を歌ひしホーレース(ローマの大詩人) 76. +惱む記憶を苦めし日々の配劑、思出の もの悉く厭はしく、たのしみをもて記し難し、 學びしものを思へよと「時」は心を教ふれど、 若き昔の憤今に解け得ず、 執念《しうね》くもわが胸の中わだかまり、 選擇われのまゝならば、心の求めたらんもの、 そを樂しむに先ちて興さむるまゝ、今にして 心の平和|囘《かへ》されず むかし厭ひし忌みしもの、今も心にあきたらず。 +學窓に苦みし思出 77. さらば分れむホーレース、いたくも君を厭ひしは 少しも君の咎ならず、まつたく我のそれなりき、 君の韻律君の詩歌解し得れども感じ得ず、 愛し得ざるぞ痛はしき。 君に勝りし人生を深くも解きし哲士あらず、 *詩のわが解きし詩人あらず、 情傷けず、めざまして 人の良心貫ける諷刺家あらず、然れども いざや別れむ、ソクラテの嶺のへ永く君とわかれむ。 *ホーレース詩學を説く 78. +あゝローマ!わが故國!わが魂の憧れの都市! 逝ける諸帝國の淋しき母! 心の孤兒は君に向き、 小さき憂を閉ぢたる胸に抑ふべし、 わが災、わが惱、何かはあらむ? 來りて白楊を見、鴟《ふくろう》を聞き、 亡べる王座殿堂の階段をふめ、あゝ爾 苦痛は一日の過ぎざる爾!顧みよ、 土より脆く一の天下わが脚下に倒るゝを。 +ローマ敍述の發端 79. 諸々の國の*ナイオーベ!子なく冠なく、 無聲の愁に彼はたてり、 皺びし手のうち壺は空し、 其聖き塵はとくに散じぬ **シピオ累代の墳《つか》は灰なし、 秀れし勇者、その中にねむれるものは今はいづくぞ? タイバーの古き水爾大理石の荒野を過ぐるや? たちて黄色の波をあげ 彼の惱をおほはずや *十二人の子を産みてレト神が只二子あるを笑ひしがため神の怒にふれ悉く其子を失ふ **一七八〇アピア街道に發見されしが其後遺骨を散じて跡なし 80. +ゴート人、基督教徒、時、戰、洪水、火 *七丘の都の誇打碎き、 星また星の光榮亡び、 むかし戰車が**カピトルをのぼりし處、 嶮しき坂を今蕃族の王は騎し行く、 遠く近くに殿堂高塔倒されてあとを留めず。 あゝ渾沌の廢墟の群!誰かむなしきを探り得て 破片のうへに微光を投げ、 二重の夜のあるところ、こゝぞと指《ゆびさ》し點ぜんや? +渾沌たるローマの古蹟 *ローマ七丘の上に立つ **ローマ七丘の一、ヂュピターの殿堂ありき 凱旋の將軍ここに詣づる習なりき 81. 二重の夜 -- 「時」の夜、また 「夜」のむすめの「無智」のそれ、 わがあたりを包みさりて、たどればたゞに迷ふのみ。 游《うみ》には海圖、天には星圖、 「智識」は之を膝の上ひろぐ。 されどローマは沙漠の如し、 わが思出をたどり躓き、 時には、げにも手を打ちて「見たり!」と叫ぶ、 廢墟の幻樓いつはりてわが傍にうかぶ時。 82. +あゝ悲しい哉!大なる都市!あゝ悲しい哉! *百を三なるほまれの凱旋! 譽を得るのブルータスの短劍 戰勝の劍にまさりし日! あゝ悲しい哉!シセロの辨、**・ルジルの歌、 更に***リビイの畫の如き文 -- これらは、さはれ ローマの復活 -- その他あらゆるもの亡ぶ。 あゝ悲しい哉大地球!ローマ自由のむかしの日、 その目にやどりし光、此より後にあらざらん! +亡びしローマの光榮 *ローマの凱旋三百餘囘 **ローマの大詩人 ***有名の歴史家 83. +あゝ爾「幸運」の輪に兵車とばせし戰勝のシルラ! 其身にうけし怨を思ひ、 讐に重る怨報ゆる 其前母國の敵を敗り、 ひれふすアジヤに「鷲」の大旗とばしゝ爾、 目を怒らして元老院を斃しゝ爾 爾は遂にローマに恥ぢず、 あらゆる不徳あり乍ら之を償ふ微笑をもて いしくも棄てぬ、*世の帝冠に勝るものを。 +シルラ=ローマのデクテータ *デクテータの職 84. 「デクテータ」の冠をすてたる爾 人間の分を凌げる高き權、 一朝空しく過ぎ去るを、爾占ひ得たりしや? 占ひ得しや?ローマは脆くローマ以外に倒さるべしと、 「永久」の名をかち得しローマ、 軍勢送れば必ず勝てる -- おほいなる影世を蔽へる -- 頭上の大空つくる迄、かけゆく翼ひろげたる 全能至大と呼ばれしローマ! 85. +シルラは勝利の第一人、さはれわれのは クロムヱル!尤もたくみに奪へるもの、 彼また王位を覆へし、 並びに議員を逐ひ去りし 不朽の叛人 -- 見よ何等の罪を牲《にえ》として たゞ一瞬の自由を得、又千歳の譽を得たる! 其盛衰の運のもと、見よ命數の教ぞこもる、 ++二重の勝利と死との日は 二の領土を占めたる日、更にその息絶えたる日。 +クロムヱル ++九月三日ダンバーの戰勝またウスターのそれ而して最後に彼の逝ける日 86. 先には殆ど王冠をかち得んとせし同じ月、 同じ三の日、權勢の王位の上をおだやかに 去らしめ、さきに逝くものゝ塵にひとしく混ぜしむ。 かくして「運」は示さずや?譽も權も 人間の樂しと思ひ、魂を傷め 苦難の道經て求むる處、 *彼の目に見て墓よりも其幸は少きを、 人間の目もかく見なば、 その成敗の差やいかに。 *「運」 87. +また爾恐るべき像!赤裸の威嚴、 堂々の姿をなしてたてるもの、 刺客の群のたゞなかに大シイザア血にまみれ、 衣ひきよせ、臨終の威儀とゝのへてその下に *斃るゝを見しあゝ爾! 神と人とを統ぶる女王、偉なるネメシス復讐の 神より爾の壇の上獻げられたる牲はかれ! 彼逝くて爾逝けりや?ポンペイよ、爾等無數の王に勝てりや? 或は單に一場傀儡たるに過ぎざるや? +スパダ宮におけるポンペイの裸像 *シイザアはポンペイの像下に殺さる 88. +また爾、雷撃うけしローマの乳母! 牝狼!其黄銅の身の乳房、 古代の美術の記念とてミューズのうちにたつところ、 今も勝利の乳を與ふ。 -- 偉なる心を持てる子の 母よ、爾の乳房よりローマの開祖吸ひ取りき。 天上はるかに巨神の下す するどき雷霆《らいてい》の矢にうたれ、 四肢は黒めり、爾いま 尚不朽の子らを守り、愛の務を忘れずや? +カピトルのミューゼアムにある牝狼ローマの始祖二人に乳を與ふる像。此像雷に打たれしことシセロの辯論の中にあり 89. さなり爾は猶守る、されども爾養へる 鐡の子ら、皆過ぎ去れり、 而して彼等の墳墓より世界は多くの都市を建てぬ。 其恐るゝものに傚ひ、人は血流し、戰ひつ、 勝ちつ、同じき途の上、眞似るも遂に及び得ず、 かれと同じき優勝に 近よりしもの絶えてなく、又そを能くせんものあらず、 *ひとり唯あり、むなしき者、未だ墓には入らずして おのれに敗れ、おのれの奴隸に奴隸たるもの。 *當時セントヘレナにあるナポレオン 90. +あだなる權勢に迷ふ癡人、 -- シイザアに似て非なるもの、彼につゞけど若かぬもの、 故はローマの英雄は 俗界の塵少くて 情ははげしく、斷は冷か、 更に不朽の本能に、 柔にして且猛き心の[月|(勹/巳);脆の誤りか?]《もろき》、補ひつ、 今クレオパトラの足下に絲卷もてる*アルシデス、 今本來の面目に光放つて燿けり。 +シイザアとナポレオン *即ハルキュレス、英雄にして時に女王オムフアールのために絲卷を持たせられき、シイザアがクレオパトラに屈せし如く 91. 而して*來れり、見たり、勝てり! されど**ゴールの先頭に鷹の如くに翔つべく もろ〜の鷲馴れしめつ、 長きにわたり光榮の勝利の道に導きつ、 聾《し》ひたる心自らの聲聞くものと見えざりし ***彼そも何の竒異の質ぞ 唯ひとつ -- 一つの弱み甚だし、 其名は虚榮、功名に心浮きたち、彼はなほ 求めてやまず、求むるは何か?彼よく告げ得しや。 *シイザアの有名なる戰勝の報告書 **フランス軍「わし」はこゝに軍隊のこと ***ナポレオン 92. +すべてか、虚無か、求むる所そのひとつ、 やすらひの墓來ること疑なきを待ちも得ず、 僅かの年の過ぎゆかば人の今ふむ歴代の 帝王の土と彼の身を共にひとつに混ずべきを、 この空のため勝利者は凱旋門を築き建て、 この空のため血と涙昨日も今も湧き流る、 それ世界の洪水か! 不幸の民の宿るべき方舟《はこぶね》なしと世に見えて 其水引くも亦歸る!神よ*新に虹染めよ! +一將功成萬骨枯 *ノアの洪水の時の如く虹いでゝ再び災なき盟の記號たれかし 93. +この空しき生よりして人の刈取るもの何物ぞ? 人の感覺狹くして人の理性はたゞ脆し、 人の命は短くて、眞理は深みをめづる珠、 あらゆるものを掛け見るは只習慣の誤る衝《はかり》、 俗論尤も強くして暗黒をもて世を包み、 善と惡とはたゞ偶然のことゝなり、 人は己の判斷のあまり明るくなるに恐《お》ぢ、 自由思想は罪となり、 世界にあまり光明の照るを恐れて面を替ふ。 +淺ましき人世 94. かくして人々鈍き苦難をたどり行き、 親より子に、代より代に、腐れ行き、 ふみにじられし性を誇り、かくて亡びて 歴世傳はる熱情を新たに産るゝ奴隸にゆづる。 奴隸は鎖の擁護につとめ、 自由の民とならんより 寧ろ鬪士の血流す如くくるしみて、 同じ樹木の葉の如く、 同類先に斃れしを見たる場裏に身をつくす。 95. +われ人間の信仰説かず、この事 人と神とにかゝる -- たゞ許さるゝ -- 述べらるゝ -- 知らるゝ -- 日に日に見るところ *二重に屈したる我等のくびき、 世間に認むる專制の意思、 此世の君主の法令説かむ。 彼等はさきに傲る者くじきて王座の眠より こを**目ざましゝ彼をまぬ。 ***彼の巨腕のなしゝ處これのみならば無上のほまれ! +專制政治 *革命前及び神聖同盟の當時の **ナポレオンをまぬ ***若し歐洲の專制政治を斃しゝのみならば 96. 暴主を破るは暴主のみか? 金甲鎧ふ清淨の無垢の*パラスと**コロンビヤ 生れし時に見し如き***勇士を「自由」は得がたきや? 愛撫の自然いはけなきワシントンの上ほゝゑめる 荒野のほとり、瀑布のとゞろき、 又斧入らぬ深林の奧にあらずば かゝる人育ち得ざるや? 大地や胸にかゝる種なき? ヨーロッパはたかゝる郷なき? *パラス(ミユルバ)生れ乍らに金甲をよろふ **アメリカ ***ワシントン 97. +さはれフランス血に醉ひて罪を吐き、 其*祝祭はあらゆる時にあらゆる邦に 自由のために厄《やく》なりき、 故はわが見し恐怖の時代、 また人類と望との間に堅き牆壁を 築きし卑劣の野心の輩、 また局面の**最後の行列、 皆悉く永久の奴隸の制の口實よ、 生命の木をみしばめる人間第二の墮落の制度。 +フランス革命の功罪 *大革命を曰ふ **ナポレオンの帝國(或は解すブルボンの復興と) 98. +「自由」よ、さはれ爾の旗、裂かれて猶もひるがへり、 あらしに向ひ雷雲の狂ふが如く閃めくよ、 爾の鋭き喇叭のね、弱りて今は消えんとするも、 なほ烈風のあとに殘せる至高の聲。 爾の樹木は花を失ひ、其樹皮は 斧に切られて姿は粗し又賤し されど樹液は猶のこり、其種北土の 胸にしら深く蒔かれて地にうもる、 かくて他日の優る春かく苦からぬ果《み》を生まむ。 +自由は亡びず 99. +立つや、いかめしの昔の圓塔、 城砦に似て儼然と廻らす石壘、 攻め來てたぢろぐ敵軍を拂ふに似たり。 たゞ胸壁のなかばを殘し 二千餘年のきづたのしげみ、 永遠の花環を成して 「時」の倒せる一切の上に緑の葉は震ふ。 堅固の此塔何ものぞ?其洞の中、 如何なる寳封ぜられ隱さるゝ?只一人の女性の墓。 +ローマ郊外メテラの墓 100. +さはれ彼女は何ものぞ?死者の中なる女王の如く、 宮殿を塚とする -- 貞なしりや美なりしや? 帝王の配か?或は優りて*ローマ人のか? 彼女は領主英雄の何等の群をうみ出でし? 其美を嗣ぎて何等の女性うまれいでし 其生、其死、其愛いかに? 卑しき屍體朽ち得ぬ場に 斯く光榮を受けたるや? 世の並ならぬ運命を思ひいづるべく祭られて。 +塚中の主は何ものか *ローマ人は帝王の威を凌げる故に 101. おのれの夫をめづるもの、人の夫をめづるもの、 二の中のいづれぞ彼女? 昔も斯るものありとローマの歴史傳へ曰ふ、 賢婦*コルネリアの面影か? 奢侈放縱のエジプトの名高き女王の艷容か? 歡喜を捨てゝ貞操を飽くまで守り固めしか? ものやわらかの愛情を其一身を向けたるや? 其もろ〜の悲の中より愛を棄てたるや? 愛を賢く棄てたりや?情は悲しきものなれば。 *グラッカス兄弟の母 102. +恐らく彼女妙齡の中に逝きけむ、恐らくは 其柔かの屍《から》を押す重き墓より猶重き 禍難のためにかゞまりて。 その艷麗のおもざしに雲たれかゝり、 寵兒に神の惠なる若き死告げて 其目の中に曇り湧き、 しかも廻りに落日の艷なる光かゞやきし、 更に淋しき夕星の病める光は痩せほそる 彼の頬のへ照しゝや秋の木の葉のくれなゐを? +メテラに就いての想像 103. 或は彼女老齡に逹せし後に逝きたるや? 美貌と子等と血族と皆悉くさきだてゝ、 その丈長き髮染むる銀色なほもその昔 若きいにしへ結ばれし時のあるもの偲ばしめ、 美貌と粧、滿城のねたみと的と賞讚と なりし昔を偲びしか? あゝ想像の馳するいづこぞ? たゞ我知る、メテラ逝けりと *最富のローマ人の妻、見よ彼の愛を或は誇を! *グラッカス 104. 其故知らず -- さはれ爾のかたへに立ちて 墓よ爾の中のもの、さながら我は知りたる如し、 かくして過ぎし昨日の時 思出の曲かなでつゝ歸り來る。 その調變じておごそかに 遙けき風のうへ消え行く雷か? なほ此|緑蘿《りよくら》の石に倚り、 熱き心の中よりわれ形新たに造り得ん、 あとに*「破壞」の殘したる浮ぶ破片を集め來て。 *墓の主の傳記に關する證據の斷片 105. 岩のへ散れる板あつめ 小さき*希望の舟造り 再び海と激浪と 親しき者の碎かれて伏せる淋しき岸のへに 絶えずも寄する打波と戰はんかな。 さり乍らわが舟のため大波の 洗ひし材をかき集め、 拾ひ取るとも何くに漕がむ? 家なし、生なし、望なし、**眼前のもの除きては。 *疲れし魂は想像の世界に逃る **ローマの廢墟 106. +さらばあらしの吠ゆるまゝ任せむ、あらしの諧調は こののち我の樂《がく》たらむ、 しかして夜は鴟《ふくろう》の叫に其ね混ずべし、 闇夜の鳥の馴るゝ宿に、 かすかの光の消え行く中に -- われ今彼を聞く如く *パラタイン丘上たがひに答へ、 おほいなる目は灰色に光かゞやき、 翼するどく翔けめぐる -- かゝる場にて人間の ちさき悲哀は何ものぞ?われのは數に加はらじ。 +パラタイン丘 *ローマ七丘の一 107. 緑蘿《りよくら》、老杉《ろうさん》、雜草、野花《やくわ》、 みだれもつれて生えしげり、 丘はむかしの殿堂につもり、 アーチ碎け、圓柱倒れ、洞門塞がり、 壁画は鴟のぞき見て夜と眺むる地の下の しめりにひたる -- 殿堂か、浴場か、廣廳か? 知るものあらば之を曰へ、「博學」究めて 得しところ、たゞ壁なるを知るばかり -- 見よローマ帝王の丘!おほいなるもの斯く倒る! 108. +あらゆる人間の示す教はこゝに、 共に皆これ同一の過去の復習に外ならず、 はじめは自由、次は光榮 -- 光榮去れば、 富貴、敗徳、また腐敗 -- 蠻風來るいやはてに、 而して歴史、あらゆる巨大の卷あれど たゞ一ページ持つばかり、其一ページこゝによく 記さる、華麗の專制があらゆる寳、 あらゆる歡樂集めし處、耳目と心の求むる處、 口舌求めてやまざる處。 -- 言葉を棄てゝ近よりて。 +ローマ史人間一切の史に似たり 109. 讚ぜよ、喜べ、卑め、笑へ、泣け、この場に あらゆる感情の料となる斯るものあり -- 人間よ。 爾、涙と笑との間に動く搖錘よ!! あらゆる時代、あらゆる領土、この一場に、 基礎荒れはてし此山上にむらがれり。 あらゆる帝土王領の極まるところ、 その先頭に光榮の兒戲の飾はきらめきて 日輪はたまた其影に光を増せし程なりき! その*黄金の屋はいづこ?いづこぞ之を鑄《い》たる人? *丘上に黄金の屋ありき 110. +その基埋るゝ無名の圓柱! シセロの能辯なんぢに*如かず、 いづくぞシイザアの額上の月桂? われに冠せよ、其宿の緑のつたを、 わが逢ふところ、誰のアーチか圓柱か? タイタスのかトラヂャンのか?否、そは「時」のもの、 凱旋、アーチ、圓柱を彼ことごとく打ち倒す その灰高く空の上に眠る**帝王の骨の壺 踏むはキリスト使徒の像 +フォーラムに於ける圓柱 *人間の無情を示して **トラヂヤンの圓柱の頂に聖ペテロの像立つオーレリアンの柱は聖パウロの 111. ローマ藍濃き大空に星仰ぎつゝ 莊嚴に高く埋まり睡る*灰 その灰宿せし魂は住所を星と共にせむ、 あらゆる天下治めたる、ローマの世界治めたる 諸帝の最後は**彼なりき、 子孫は之を支へ得ず、彼の獲たるを捨て去れり、 彼あにアレキサンダーの流のみにて止みなんや? 血族流す血に、酒に、汚れず、優に帝王の 徳具へたり、トラヂャンの高き名今も人あがむ。 *遺骸の **トラヂヤン皇帝の時ローマの領土は最大 112. +「凱旋の岩」いづくぞや?いづこ、ローマが戰勝の 其英雄を抱きしは?いづこ險しさタルペーア、 國をうらぎる輩にふさはしかりし最後の地、 叛きし者が一跳に慾望たちし絶壁は? 凱旋の將軍この場《には》に彼の捕獲をならべしや? さなり、しかしてかしこ下なる平野には 今はしづまる千年の黨爭眠る、 不朽の音調熱せし「フォーラム」 しかして今なほ能辯の空氣はシセロの爲めに燃ゆ。 +カピトル丘 *叛人をこゝより下の崖へ投げおとしたり **カピトルの神殿の前に ***元來は市場こゝに公開演説行はれき 113. +自由と黨爭、名譽と流血眺めし場、 芽ぐみしばかり帝國の遠き昔のはじめより 攻むべき領土盡きはてし其後の世にいたる迄 こゝに誇の人民は其熱血を吐きだしき。 さはれ是より前長く「自由」の面は掩はれて 「無政」は放恣の性帶びき、 かくしてすべて*不法の兵士襲ひ進みて 震ふ無言の奴隸たる元老議員ふみにじり、 あるひは娼婦のわざに似る卑しき慾の聲あげぬ。 +フォーラム *軍人ほしひまゝに皇帝を擁立して私利を計れり 114. +いざ我向はむローマ最後の「トリビューン」、 其百千の暴主を棄てゝ君に向はむ! 耻辱の暗の數百年救ひしものは君なりき ペトラークの友よ!イタリヤの望よ、 リヱンジ、最後のローマ人! 「自由」の樹木の枯れし幹、なほ一葉をめぐみ得ば 君の墓上の花環たれ! 「フォーラム」の勇士、人民の主領、 再生の*ヌーマ、あゝ其治政いかに短き! +リヱンジー中世ローマの自由囘復者 *古代ローマの賢君又立法者 115. +エゲリア!なんぢの理想の胸に 似て美はしき人界の宿を得ざりし魂の 作りなしけむ微妙の影、 何ものにまれ、大空のわかき*オーロラ 愛に溺れし絶望の夢なる幻影、 もしくは地上の生ける美人、 君は崇拜度を越せし世の常ならぬ歸依の**人 得たり、素生はわれ問はじ、 げに君こそは美はしの思、やさしき形をとりし影。 +エゲリアの泉こゝにヌーマ王エゲリヤに逢ひ相愛の契を結べりと傳ふ *曙の女神 **ヌーマ王 116. 君の泉の青苔は今もひとしく靈郷の しづく灑《そゝ》がれ -- 洞窟に圍まれ、年の皺もたぬ 泉のおもは此|場《には》の 眼《まみ》のやさしき*精をうつす。 その緑なす荒き縁、いま人間の巧にて 擦り減さるゝことあらず、 裂けし立像の基より湧きいづる水、岩石の 堅きが中に封ぜられ空しく眠ることあらず、 小川やさしく流れいで、あたりは蔦と花と羊齒 -- *花を曰ふか 117. 思ひ思ひにもつれあふ -- みどりの丘は 春まづ匂ふ花に滿ち、草の中には めばやき蜥蜴さと走り、 過ぎ行く人を樂しく鳥のねは迎ふ、 色鮮かの、もろ〜の花は歩を留めしめ、 むらがる姿|彩《あや》深く そよ吹く風に舞ひをどる、 菫のまみの藍深き 天の呼吸のキス受けて空の彩より染められむ。 118. 魂を恍惚たらしむる此洞窟に宿りしよ、 エゲリア!君の天上の思を滿たす玉の胸、 此うつし世の戀人の歩を待ちてゆらめきて。 紫にほふ眞夜中は燿く星の天蓋に 神祕の滿つる會合をいほへり、かくて 君を慕へる人のそば坐して何事起りしや? げに此洞はあこがれの神女迎ふるために成り、 室は尊き愛の精來りて常におとづれき、 愛は此世に告げられし最も早き神の聲。 119. かくして高まる君の胸、かれのに答へ、天上の 神の心を人間の情にひとつに混ぜしか? 生るゝ間なく吐息して亡ぶは愛の常なるを、 そを君朽ちぬ歡樂と共にひとしく受け得しか? その歡樂を、その愛を不朽となして君の枝 天の清さをうつし世の歡喜に與へ、 あらゆるものを碎き去る鈍き飽滿、 -- 其の毒を 去れど*矢じりを鈍くせず、 かくして人を飽かしむる毒草魂より拔き得しや? *歡喜の感覺 120. +あゝ悲し、青春の愛、流るゝはたゞ荒野、 或はうるほすは只沙漠、 こゝに見るもの只暗く繁る雜草、 見る目誘へど厭はしくせわしく生ゆる醜草《しこぐざ》、 或は其香惱ましき花、 或は其液毒ある樹木、 人の求に許されぬ天の果實にあこがれて わが世の荒き沙漠のうへ「情熱」走り行く時に 其足の下かゝる草木生え茂る。 +人界の愛のあさましさ 121. +あゝ「愛」!君は下界のものならず、 目に宿らざる一天使、人の信じて仰ぐところ、 其信仰のいけにへは碎け焦るゝ人の心 -- されども赤裸の目は未だ君の姿をありのまゝ 見しことあらず、のちも亦絶えて見ることあらざらん、 それ自らの憧憬の空想をもて人間の 心は君を作りなし、こを天上に宿らしめ、 飽かざる人の魂に纒へる姿思はしむ、 魂渇き、倦みはてゝ、又惱され、つんざかる。 +「愛」は下界にあらず 122. 人の心は自らの美の故に病み、 熱を起して僞の姿を作る -- 何處にか 彫刻の師の魂の補へし姿、いづこにか? 只々彼の中にのみ、いかで自然の領に見む? 若かりし時、心に思ひ、人となる後求め行く 美貌と美徳いづこにか? 逹せんとして逹し得ぬわが絶望のパラダイス、 畫筆文筆よくし得る力を凌ぎ、卷册に 寫され、匂ふことを得ず。 123. 愛する者は狂ふ者、愛は青春の病のみ、 さはれ崇めし偶像に纒へる艷美ひとつづゝ ほどけ、心のかき抱く理想の影を外にして 價あらず、又美あらずと悟るとき 更に治療の道にがし、 しかして「愛」なほわづらひの呪文を結び、人を引き、 しばしば*蒔きし風を種に暴き旋風刈りとらん、 頑にして迷へる心、怪しき術をはじむれば 的は絶えずも近く見え、いたく敗れてよしと思ふ。 *蒔きし物よりも更にはげしきもの起り來る 124. +青春このかた、人衰へ、人喘ぎ、 病みて -- 寳は得べからず、渇は遂にとゞまらず、 わが老境の端にありて初め求めし幻影は 最後の時にいたる迄人を誘へど -- 事すでに 遲きにすぎ*二重に人は詛受く、 愛と譽と功名と慾と其あと皆同じ、 皆空し、皆惡し、一も最惡のものあらず、 すべては其名異にする流星に外ならず 彼等の光の沈み行く黒烟、 -- これを「死」と名づく。 +人世の惱 *欺ける理想に誘はれ又すでに遲しと思ふ 125. 愛づる者、めで得しもの -- 得たるはいかに稀なりし 事變あるひは盲目の接合、あるひは愛すべき 運命ありて、人々の抱く反感とりされど まなく再びそは歸る 取り返し得ぬ禍の毒を帶びつゝ歸りくる、 また不靈の神、拙き匠者 名を「境遇」とよべるもの、來らむ禍かもしつゝ、 撞木《しゆもく》に似たる杖により、之を支へて進み行く、 其杖觸れて痛むべし「望」は踏まるゝ塵となる。 126. +人生そもそも虚僞のもの、遂に調和の外《ほか》にあり、 是このつらき自然の命數、 取りさりがたき罪の汚、 是この無限の毒ある樹、すべてを荒しそこなふ樹、 其根は大地、其枝と葉とは禍下す空、 露の如くに人の上に其厄難を降らしむる -- 病と死魔と束縛と -- 目に見るすべての災と 更にあしきは目に見えぬ災ありてとこしへに 新たの苦惱もたらして癒えざる魂に脉《みやく》うてり。 +人生は禍 127. +さはれ人、その思索は猛かれよ! 思想の權をねぐつは理性のいやしき抛棄のみ 思想は最後の隱の場、此ものせめて身につけむ、 よし生誕の日よりして此神聖の能力は 縛り責められ、抑へられ、繋ぎ閉ぢられ、暗中に -- (眞理あまりに煌燿と心がけなき魂のうへに 照るを恐れて)暗中に養はるれどいつしかに 光明そゝぎ照り入らむ、 「時」と巧は盲目をやがて癒さむものなれば。 +思想の力 128. +アーチ重なる幾層々!さながらローマ歴代の おもなる戰利の品あつめ、 其凱旋を一堂に築くを願ふ如くして 立てり巨大のコリゼアム、月光こゝに燿きて そのふさはしき篝火にさながら似たり、永らくも 探られ、しかも盡くるなき この冥想の礦山を照してこゝに流れ入る 光は聖かるべき故に -- 更にイタリヤ暗緑の夜、そこに大空色深く。 +「フラビアン、アムヒセアター」即コリゼアム、八萬人を容れ得たる競技場 129. +物曰ふ影を湛へつゝ人に天界を告ぐるもの、 此おほいなる驚嘆の紀念の蹟《あと》におほひかゝり、 その光榮を朧げに照す。そも〜世の中の 「時」に屈《く》したるものゝ上、靈の思は授けらる、 「時」其手觸れ、しかも*其鎌折りし處 破れ崩れし胸壁に ひとつの威あり、魔力あり、 今を時めく宮殿も之に比べて歩を讓り、 時代の錆の粧を待ちて微妙の影見せむ。 +「時」の威力 *「時」の破壞力の及ばざる 130. あゝ「時」!死者を美化する者、 破れし故蹟を飾るもの、心いたくも惱む時 慰むるもの、又たゞ獨り癒やすもの、 「時」よ!審判の誤るときに正すもの、 愛と眞とをためすもの、又唯一の哲學者、 (他は皆僞辨の徒なるのみ) 「時」よ爾復讐者!わが手と眼と心とを 爾にむけて差しのばし、一つの惠乞ひ求む、 よしおくるゝも誤らぬ、爾の*貯藏の間より。 *棺蓋ふて名定まる如く「時」の判定は後代のため貯藏せらる 131. 此すたれたる蹟《あと》の中、こゝに一の殿堂を 爾神聖に荒しゝ處、 爾に捧ぐるおほいなる牲《にえ》に混じて我のあり、 そは短くも運命の數竒に滿てる年の*あと われ若し誇過ぎたりと爾認むることあらば 我にきかざれ、 -- 然れども若し穩に幸を負ひ、 我をば倒し得ざるべき世の憎に爭ひて 誇を保ち來しとせば、此銅鐡をわが脚に 着けしを空《あだ》に了らせそ、悔ゐざらんやわが仇は? *過去のたれし時のあと 132. しかしてあゝ君、偉大の*ネメシス! いまだ人類の惡報を正さゞることなかりし靈、 こゝ其**むかし長らくも人々君をあがめしところ、 ***(外の手なさば正しきも道に背ける復讐を 罪し咎めてオレステスの周にうめき叫ぶべく 冥府の淵より一團の魔障を招き呼びし君) 其いにしへの領の上、君を塵より呼び起し われ今叫ぶ -- 君わが心を聞かざるや? さめよ!必ず君聞かむ、君あに聞かでよからむや! *ネメシス、復讐の神 **ローマ人はネメシスを崇めたり ***オレステス其父を其母が殺したるが故に母に復讐したり 133. +血を流したる身の負傷、その基たる 祖先の罪またわが罪は無しとせじ。 正しき武噐に傷かば其疵包むべくもなし、 其血流れてつきざらむ、 さもあれ今はわが血汐空しく土に沈むまじ、 我は*爾にこを捧ぐ -- 求めらるべく、得らるべき その復讐を爾なさむ、 我自らせずとせば**( -- そは何人のためなりや?) さはれ其はた何かあらむ、我は眠れど爾さめむ。 +社會より受けしバイロンの迫害 -- 其復讐の思 *前章にいふネメシス **とある一人の爲の故に之を行はず 134. 今われ聲を洩すとも身に蒙りし惱より ひるむと敢て曰はさむや、知る者あらば之を曰へ、 わが額上に衰を嘗て眺めしものありや? さわぎ亂れてわが心よわるを誰か認めしや? いざ今こゝに此紙上ひとつの記録殘しおかむ、 我もし塵に歸るとも此言空に散りはてじ、 行末遠き後の日は此詩の中に深くこもる 豫言の心はらすべく、人の頭に積み上げむ 山なす高きわが詛《のろひ》! 135. +詛《のろひ》は何か?「許」なり -- 大地よ聞け、天も視よ! われ運命と爭ひて、 人が許を求むべき苦難受けしに非るや? わが腦髓は渇かされ、わが心はつんざかれ、 望は枯され、名は汚され、命の命|誣《しい》られて たゞわが眺むるともがらの魂に腐敗し去る如き 質とは違ふふしあれば 免れ得たり其ためんい絶望の淵に沈み入るを。 +バイロンの受けたる禍と惡評 136. +大なる不義より小なる欺騙にいたるまで、 人のなし得る一切を我こと〜゛く見ざりしか? 泡だつ誹謗の高き咆哮、 同じく賤しき二三の輩の小さき囁、 或は忍び寄せくる群の毒、 意味深き目の二樣の瞥見、 沈默を以て詐るを學び、誠を裝ひ、 吐息或は身振のほか何等の言をのべずして 曰ふべからざる醜名をめでたき愚者に施せり。 +惡名 137. さもあれ我は生き來り、しかも空しく生きざりき、 わが心はその力、わが血汐は其熱を 失ひ、われの形骸は苦痛に勝ちつゝ亡びんか、 さもあれ我の身の中に「苛責」を「時」を凌ぐもの -- 我は逝くとも猶のちに生《なが》らへ殘るものはあり、 彼等の思ひかけざりし此世にあらぬとある物、 今は默せる豎琴の思ひださるゝ調に似、 柔ぐ彼等の胸の中沈み下りて動かさん さながら岩に似る胸に愛のいたみの後悔を。 138. 印璽《いんじ》は据ゑぬ -- いざ來よ爾恐ろしの*力! 名はあらねどもしかも斯く其おほいなる力にて、 畏敬をみたし、しかも猶恐怖と全く異にして 夜半の暗黒の中あゆむもの、 爾の宿は死せる璧、みどりの蔦の這ふ處、 おごそかの場は爾より 且深うして且清き感を受けてかくて人は、 過ぎて歸らぬ諸々の物の一部と化し了り、 **處に神は融け入りて目には映らで眺め立つ。 *懷舊の感情 **過去の世界に沒入し場所に同化し事物を觀察しながら自ら殆んど見えざるものとして立つ 139. +しかしてこゝに熱したる諸邦の民はどよめきぬ、 人同類の人により屠られし時、これがため 或は憐みつぶやきつ、或は高く譽めあげて。 その屠られし何の故?豈《あ》に他あらんや、殘忍の 競技の場の法なれば!*優しき法はしかあれば! また帝王の御意なれば!それはた何の不可あらん? 戰場もしくは競技場 -- いづくに倒れ、 蟲の腹肥やすも等し、何の差ぞ? 共にひとしく俳優の死して腐るゝ舞臺のみ。 +コリゼアムに於ける昔の眞劍競技 *反語 140. +眼の前、われ見る鬪士の伏すを、 かれ手にもたる -- 勇ましき 額は一死あまんじて、しかも苦惱にうち勝てり、 しかして弱る其頭次第に低う低う埀れ、 脇腹傳はり最後の血汐 雷雨のはじめに髣髴と 滴々つゞいて疵より下る、 今競技場はあたりに泳ぐ -- 彼ゆけり、 勝てる奴輩を譽め叫ぶ鬼畜の聲はやまざるに。 +鬪士の最後 141. 彼れそを聞けり、されども之を意にとめず、彼の目は 彼の心と共にあり、心は遠く遠くあなた。 失ふ命、賭物も彼は等しく顧みず、 されどダニューブ岸近く、賤しき小屋のあるところ、 そこに遊びて戲るゝ蠻兒ならびにデーシヤの 族の彼等の母すめり、彼等の父たる彼はこの ローマの祭の日のため死せる -- 鮮血もろとも此念溢る、空しく亡びで報はれざるや? 立て立て*「ゴート」!飽く迄爾の怒を充たせ! *後年ゴート族ローマを掠む 142. さはれ此場「殺戮」が其血烟立てしところ、 もろ〜の民|囂々《がうがう》とさわぎて路に充ちあふれ、 其急淵の行くまゝに突き入り或は曲り行く 山の流を見る如く、呟き或は吠えしところ、 こゝにローマの百萬の襃《ほめ》と咎《とがめ》は生か死か、 たゞ一場の群集の玩物たる處、 こゝにわが聲強くひゞく、しかして星のかすかの光 下るは空しき鬪場に、崩れし席に、曲る壁に はた廻廊に -- わが歩、こゝに淋しく鳴りわたる。 143. 一の廢墟 -- さりながら何等の廢墟!此の中に 取りし石にて築けるは宮殿、城壁、市街、市區、 その巨大の骸骨を今なほ人は通りすぎ、 怪み思ふ、いづこにか掠め取られしあとを見ん! 廢墟は掠め取られしか或は清められたるか? さはれ痛はし、心こめ巨大の壘に近けば 破壞のあとはあらはなり、 受くるにたへず、白日の光 -- 過ぎ行く歳月と 人もろとも切り取りし跡にはげしく照る影に。 144. +されど靜かに月出でゝ最高頂のアーチ攀ぢ 登りてそこに休む時 星またゝきて「時」のわざ、破壞の跡をのぞく時、 大シイザアの禿頭に月桂の冠つくる如く 灰色なせる壘壁の載する飾の灌木を 空にかすかに夜の風搖がす時に、おもむろに、 まぶしからずに澄み渡る光しづかにてらす時、 其時神祕の此場に幽鬼の群ぞたちあがる、 英雄こゝを踏みたりき -- 人々踏むは彼の塵。 +月夜のコリゼアム 145. 『コリゼアムの立つ限、ローマ立たむ、 コリゼアムの倒るゝとき、ローマ倒れむ、 ローマ逝くとき世界亡びむ』 わが母國*巡禮は此おほいなる壁を斯く 稱へたり、そは「サクソン」時代 -- われらはこれを 古しと曰はむ、しかうして此浮世の三つの物、 今その基を失はず、皆悉く跡かへず、 ローマとローマの廢墟とは遠く「修復」のわざ離れ、 **世界は同じ廣き窟 -- 賊の!名は君好むまゝ。 *八世紀の巡禮の言葉 **世界は群盜の巣窟 146. +簡に直に嚴にいかめしく崇高に ヂョゥブよりキリストに到るすべての神の堂、 又すべての聖徒の宮「時」に許され、惠まれて 悠然として立つ姿、其めぐりには帝國も アーチも崩れ、又倒れ、しかして人は荊棘《けいきよく》を 過ぎて灰燼たどり行くを -- 光榮の堂! 爾いかでか續かざらむ、「時」の鎌、暴君の鞭、 爾に對し力なし、藝術および信仰の 聖き宮なり故宅なり、パンテオンよ!ローマの誇。 +パンテオン(萬神堂)アウグスタス帝の友アグリッパ將軍の建設 147. 尊かりし昔の名殘、又至高の藝術の! 掠められしも完くて、すべての魂に訴ふる 神聖の氣は此宮の圓頂と共ひろがれり、 藝術にとりひとつの模範、而してローマを 古蹟のために訪ふ者に其光明を「光榮」は 爾の唯一の頂にある孔より注ぐ、 又禮拜の人々の珠數を繰るべき壇はこゝに、 また天才を偲ぶもの、あたりに迫る胸像の 譽の姿に目をとめむ。 *此堂の圓蓋の中央は空なり **ラフアヱル等こゝに埋めらる 148. +ひとつの土牢、 -- その朧の淋しき蔭 わが見るところ何物ぞ?空《くう》のみ、されどまた見ずや? 二つの姿おもむろにわが目に映る、 そは遊離する二つの腦裏の幻影か? 否、さにあらず、我あきらかに善く認む、 ひとりは老人、他は美しき女性、 脈管の血を靈液と湛へ、はぐゝむ母に似たり、 首をあらはに、白き胸を露はに 彼女のわざは何事か? +土牢の中に父を養へる孝女の話(サンタニコロの教會に隣る) 149. +胸の上により、胸よりし初めの最美の養を 人々おの〜身に受くる、そこには若き生命の 深くも清き泉溢る、 初めて母と祝はるゝ女性はじめて搖籃の、 隅より芽ぐむ小さきものゝ無心の面に、 或は小さき口の叫び、痛を忍ばず、待つを知らぬ 聲に異性の知り得ざる歡喜を味ひ悟る時。 *成る實は何か?我知らず、 カインはエバの子ならずや! +乳育の幸 *子孫の賢愚善惡は知るべからず 150. +さもあれこゝに若き者、老いたる人に餌を捧ぐ、 其乳の本は彼の恩、父に今はた酬ゆるは 其身と共に生れたる血の恩愛の負債のみ、 其美はしき暖かき脈のたゞ中、 尊き情と健康の熱火と燃えて おほいなる自然のナイルを湧かすかぎり、 老いたる人は命あらむ、その深き水 エジプトの河の夫にも優《ま》して湧く、 老いたる人よ吸ひに吸へ!天にもかゝる泉あらず。 +父に乳を與ふるむすめ 151. +天上の銀阿の譬いみじきも 此物語の清淨に及ばず、更に 美しさ優る光の星座なり、 しかして神聖の自然のほまれ、 その命令の*顛倒のこゝにありていやまさる、 千萬の世の燿の遠き**深淵におけるより あゝ最も聖き乳母、その甘き乳《ち》の一滴も 爾の親の胸めがけ途を失ふことあらじ、 源《もと》を充さむ -- 魂が融けて宇宙に入る如く。 +オリンピアの天妃ヒーラ(ヂューノー)が眠りつゝある時ヘルメスの神、 下界より小兒ハークレスを連れ來り、彼女の乳を吸はしむ、女神驚きさめ、 小兒をかきのけしとき乳溢れて銀河となりぬ *子が親に乳を與ふ **銀河 152. +ハドリアンの高きにたてし壘を見よ、 いにしへ遠きエジプトの塚を慕ひし 巨大なる醜きものゝ[艸かんむり/日/大/手;#1-84-88]倣《もはう》者よ、 遙けきナイルのおほいなる範《のり》に思を馳せながら、 其空しき屍《から》のため、また縮れる灰のため、 巨大の規模に此塔を築きたつべく 枝術屋[技術屋の誤り?]のつらき勤を命ぜしよ、 かゝる本より起りきし此おほいなる姿見て 人に悟道の笑あらむ。 +ハドリアン帝の墳墓 エジプトの昔をまねたるもの 153. +さはれ見よ!おほいなる驚異の堂、 殉道の使徒のなきあとに立つ、キリストの大殿宇 之に比すれば*ダイアナの不思議も一のたゞの小屋、 我嘗て見たりエヘシヤの不思議、 其圓柱は荒野んい布かれ、其かげに **「ハイエナ」やどり豺狼住むを。 我嘗て見たり、***「ソフィヤ」の光る大屋根が きらめく姿擴ぐるを、而して之を奪ひさりし 囘教の子ら祈るとき其聖殿を眺めたり。 +セントペテロ大寺 *世界七不思議の一、エヘシヤに於けるダイアナの神殿 **猛獸の一種 ***コンスタンチノープルに於けるセントソフィヤの大寺 154. さはれ爾、古今の殿堂神壇の 中に比すべきもの無くて、尊くも眞なる 全能の神にふさはしく、獨り斯くこそ聳え立て。 神むかしの都棄て、*シオンの宮の荒れし後 彼の譽に建てられし世の一切の構造の 中にこれより莊嚴の 優るをいづこ見出さむ? 威嚴と力と光榮と強さと美とは皆やどる 此汚れなき清淨のとこしへ朽ちぬ神壇に。 *エルサレムの殿堂 155. 中に入り見よ、壯大は人を壓することあらず、 そは何故か?壯大減ることあらざれど、 人の心は此場の靈の力に擴げられ 巨大となりて、永遠の望の宿り現はるゝ 處をひとり適當の家と見なさん、 君もし他日叶へりと認められなば 高き全能の御姿を親しく仰ぎ得べからん、 今君神に代るもの かの神聖の法《のり》の王眺めて恐れざる如く。 156. +君、堂中を歩み行き、進むと共に力増し いよゝ高まるアルプスの嶺を巨大の壯麗に すかされつゝも登る如し、 宏大はいよいよ長じ、律に協《かな》ひ、 諧調の美をなしつゝも増して行く、 美しき大理石、更に美はしき繪畫 -- 黄金の燭ひかる祠堂 -- 天空高く地上の巨殿と競ふ*圓蓋、 かれは堅固の土に立ち、これは雲霧の領に入る。 +寺院の壯大雄麗 *セントペテロ大圓蓋虚空にそびゆ 157. 目に見るところ全ならず、其全ひとつひとつづゝ 離れ〜゛の觀測に切り放つべし、譬ふれば 見る目を誘ふ港灣の多くを海のうむ如し、 こゝに爾の魂を手近きものに先づ据ゑて 思まとめよ、斯くて後 心は微妙の釣合を 諳《そら》んじ熟し、おほいなる 順に整へ一つ一つ 初め一時に寄せざりし全光榮を現はさむ。 158. 初め一時に寄せざるは、其責ならず、見る者の 責なり、人の官覺は次第々々に物を見る、 而して最も人々の激しく感じ知るところ 人の微かの表現を凌ぐが如く、正にこの 心抑へて燦爛と光かゞやく殿堂は 好みて溺れ、眺めわたすわが眼孔を欺けり、 偉大の中、最も偉大を極むるもの 始めは人の本來の性の微なるを侮らむ、 やがて見らるゝ物ともに人は其靈廣めしむ。 159. さらば爾の足とゞめ、教化を受けて蒙啓け、 樂しき驚異に飽き足る目、 或は此場に崇拜を捧ぐる敬畏、 或は先の年代と精練並に思想の力 爲し遂げざるを凌ぎ得し名家並に技の讚美、 すべて之等に優るもの斯る觀測の中にあり、 崇高の泉、その源をあらはせり、 心はこれより黄金の沙を吸み 偉なる思想のなし得ることを學び得む。 160. +或は轉じて「・チカン」に苦痛を莊嚴ならしむる ラオコーンの惱み行きて見よ -- 父の愛情、人の苦痛、 神の忍耐 -- 皆相共に混ずるを。 悶かひなし、老人の拳は大蛇卷きつけて 次第に深く喰ひ入るを防ぐ能はず、 毒ある生ける長き鎖は締めつけつ、 大蛇は次第に苦痛を加へ 呼吸を次第につまらしむ。 +・チカン宮にあるラオコーン像(父子三人大蛇にしめつけらるゝ像) 161. +或は君見よ、覘はづれぬ弓の神、 詩と生命と光との神 人間の姿をとれる日輪の靈、 戰勝ちて光榮に輝く額仰ぎ見よ。 神の復讐いさましく 弦線鳴りて箭《や》は飛べり、 其目の中に、鼻孔の中に、 いみじき輕侮と力と威嚴、 電の如くに閃めきて一目に神を現はせり。 +・チカン宮にあるアポロの像 162. +さもあれ彼の微妙の姿 -- 天上不死の愛にあこがれ、その幻影に狂ひたる 淋しき天女その胸の 中に造りし「愛」の夢 -- こゝに現世の外にはする 魂に理想の美の惠、與ふるものぞ現はるゝ、 思おのおの不死の光、天上降る靈にして 星の如くにむらがりて 集り神と化する時。 +アポロは天上理想界の幻影 163. 人の*惱の種となる火をプロメセアス天よりし 奪ひきたりしことあらば、 此石像を永遠の光につゝみ粧ひし 人はその火を償へり、 人の手これを造りしも 是れ人間の思ならず 「時」またこれを淨化して 一筋の毛を塵に捨てず、 年の流に染まずして昔の靈火今も吐く。 *靈火は却つて人間の憂の種プロメセアス天上より火を奪ひ來つて之を人間に與へし神話 164. +さはれ、いづくぞわが巡禮? 過ぎし昨日にわが歌の主題となりし彼いづこ? 思ふに永くためらひて、彼の來るや遲かりき、 彼いますでに世にあらず、此等の息はその最後、 その漂浪ははや終り、その幻影はひきさりて 彼いますでに空に等し、 彼もし只の幻ならず、生きつゝ惱む人の子に 類を同じくしたりしか?それもよし、 「破滅」の領のあるところ、彼の影また沈み行く。 +ハロルドの追想 165. +「破滅」は影と生命と物と人々 亡ぶべき骸の中に受け嗣ぎし すべてを集め、朦朧のひろき柩の衣まとふ、 すべてのものは之により幻影となり、むら雲は 浮世の榮を人々と隔てゝおほひ、たれこめつ、 「光榮」はたまた微かににほひ、 悲しき後光示すなり、暗黒のへりにたじろぐを 許さるまじ其後光、 悲哀極むる夜よりも更に淋しき光にて -- +萬物無常 166. 淋しき光目を亂し幽淵の深み覘かしめ、 此あさましき姿より 更に形の減り解けて 塵骸何の影とるか、 觀ぜしむべし、更にまた 譽を夢と觀じ去り、やがて再び聞くまじき 虚名の塵を拭ひ去らむ、 さもあれ(嬉し此思)塵骸もとに返るなし、 心一たび重き荷を擔うて足れり、汗血なり。 167. +聞け!幽淵いづる聲一つ、 遠く低く長く呟く恐の音、、 癒えざる深き疵により、國民擧げて痛む時、 あこるが如きものゝ音、 あらしと暗のただなかに大地はさけて、底しれぬ 淵にはしげく影滿てり、おもなるものは王家の姿、 冠かうべに着けねども面青ざめて美はしく、 母性の悲哀にかきくれて、 ひとり幼き子を抱く、胸は救を與へ得ず。 +皇女シャーロットの死(當時攝政たりし、ヂョージ四世の獨娘にて一八一七年産褥に逝けり) 168. 諸王諸帝の芽なるもの、君はいづこに今ありや? 多くの民の心より愛でし望の君逝くや? 墳墓は君を打忘れ、君より威嚴と人望の 劣れるものを取り得ずや? たゞ一瞬の母として其子のために心いため 泣きたる夜半のとこしへに死靈は惱しづめたり、 淀むばかりに島々の 帝土みたしゝ現在の、はた又未來の喜は 君もろともに消去りぬ。 169. 庶民は分娩やすかるを、 かく幸多くかく人の崇めし君の逝けりとは! 王者の爲には泣かぬもの、君のためには悲まむ、 「自由」の心は痛み惱み、多くの悲ふりすてゝ ただにひとりのため泣かむ、「自由」は祈りき君のために、 「自由」は君のかうべのうへ、彼の希望の虹を見き、 はたまた*爾!爾に閉づる淋しき君、 君の婚儀はあだなりき、 たゞ一年の夫のみ、父となりしも子は逝けり。 *夫君レオポルト親王(獨逸聯邦サクセコーボルグの) 170. 君の婚儀の禮袍は*粗き布より作られき、 其宴會のくだものは灰なりき、 あゝ島國の髮美はしき、すぐれし女性! 幾百萬の人の愛つなぎしものは塵となる、 人々いかにゆく先の運を彼女に託せしよ! わが墓の上暗くとも、われらの子孫かれの子に 從ふべしと思ひやり、彼と其子を祝しつゝ 望は牧の子に於ける星の如くにかゞやき、 あゝそは流星の影なりき。 *凶禮の 171. +禍なるかな、あゝわれら、彼は然らず、よく眠る、 興望の變りやすき聲、空しき助言、 *僞の神託の聲 -- 王國の成りしこのかた弔鐘を 世々帝王の耳のもと凄くも鳴らし來るもの、 かくして起る緊張の多くの民の狂ひの武裝、 偉大の帝王覆へし、その盲目の權力に 抗して重き分銅を いつか破壞の種となる對《つゐ》の秤の皿の中、 投ぜし竒なる運命や -- 。 +歐洲帝王の運命 *姦臣君を誤りて失政を施し君主を禍を來らす 172. 此等は彼女の運命か?否、さに非ず、 われらの心そを拒む、かくも若くてかくも美に、 勉めずして善良に、敵あらずして優秀に、 昨日は新婦 -- 今は母性 -- 而して次はあゝ斯くぞ! その巖の瞬間は幾多の絆やたち切りし、 父なる君の御胸より賤しき民の胸に迄、 その絶望の一連の電氣の如き鎖ひく、 その激動は地震に似、全土をあげて壓し去りぬ、 全土こぞりて愛でければ至上にめでし人ぞ無き。 173. +見よネミの湖水、森しげき岡のたゞなか 深く包まれ -- あらし狂ひて樫の樹を その根本より拔きたほし、 大わだつみを岸より陸に溢れしめ、 泡沫を大空高く吹きあぐるも 鏡に似たる爾の面を心ならずも宥すべし、 胸に祕めたる憎の如く、冷めたく深く落ちつける、 如何なるものも搖らし得じ、 自ら圓く捲きめぐり、恰も眠る蛇に似たり。 +ローマ郊外ネミの湖水 174. +隣の谷の近きより分ると見えぬアルバノの 湖面の水はかゞやけり。 遠くうねるはタイバアの水、 大海原はラチアムの岸邊を洗ふ、 古詩にわが讀む*「戰と人」との古蹟、 再び昇る彼の星は帝國の上にかゞやけり、 右の麓はローマより落ちしシセロの休の地、 またとり圍む山々の脈は眺を蔽ふ處 サビヌの畑は世に倦める**詩人の耕し嘉《よ》みせし地。 +アルバノ湖及び遠望 *ワルジルの大作ローマの祖先を歌へるもの **ホーレース 175. +さはれ我忘れたり -- わが巡禮は宮につきぬ、 彼と我とは別るべし、そも亦よしや、 彼のわざ、又われの業共に等しくほゞ成りぬ、 いざ猶ひとたび諸共に海を眺めむ、 おほいなる地中海、ふたりの前に現はれて、 アルバン山の高きより共に今見る わが青春の友なる大洋。 その海むかしカルプの岩に波うちよする見てしより、 其あと逐ひてつゞけ來ぬ、かのおほいなる黒海が -- 。 +ハロルドと著者 176. シンプレガディーズ藍色の島に大波そゝぐ迄、 さまでの數にあらねども歳いくめぐり移り行き、 惱と涙、初めほゞわが踏みいでし場のうへ われらを殘し過ぎ去れり。 されど浮世のわが旅は遂に空しきものならず、 報《むくい》を得たり、そはかくぞ、 われ猶ほ照す日輪の光をめづることを得て 地より海より歡びを刈り得、 -- さながら 清きものを亂す一人も無き如く。 177. +あゝわが住家沙漠にて、 一つの善き精われに仕へ、 あらゆる人類忘れ得て、 憎むものなく、たゞ彼を我よく愛し得ましかば! 四大よ!爾のおごそかの動の中に 爽かに感ずる我に斯るもの 與へ得ざるや?斯るもの 多くの場に宿れりと思ふは我の誤か? 之と言葉を替さんは極めて稀の運ながら。 +バイロンの熱望 178. あゝ路なき森に娯樂あり、 淋しき岸のへ歡喜あり、 誰しも侵し來らざる世界は深き海のそばに、 又娯樂は波浪の中に、 その親しみに融け去りて わが人間の愛小ならず、自然の愛は優る也、 我はかくして過ぎしもの又來るべきものを棄て、 口にはたえて述べ得ねど 包めぬものを感ずべく宇宙の中に混じ入らむ。 179. 波まけ、深き濃藍のおほわだつうみ、波あげよ! 萬艘ならぶ水軍も爾の上に痕とめず、 破滅のしるし人類の附くるはひとり陸の上、 其權能のはたらきは岸もろともに止りて、 大海原の面の上、破壞はひとり爾の業! こゝに人間のあらび露もあらず、ひとり己に加ふるのみ、 其時さながら降り來る雨の滴を見る如く 忽然として泡立てゝ、うめきて塵骸沈みさる、 墳瑩あらず、棺あらず、哀鐘鳴らず、人知らず。 180. 人の歩みは爾の途の上にあらず、 爾の領は彼の手に入る獲物ならず、 爾はたちておのれより彼をふりすて、賤しくも その陸上の破壞にと震ふ力を侮りて 爾の胸より空に蹴り、 戲れ狂ふ泡沫に震ひて叫ぶ彼を投ぐ、 其運命の神の手に、 小さき希望、傍の港の上にあるところ、 かくして陸にうちつくる -- 彼を其の場に伏せしめよ。 181. 巖築きしおほいなる都會の壁を雷霆《らいてい》の 怒るが如く攻めうちて其國の民おのゝかせ、 其帝王をいかめしき首府のもなかに震はしむる 艦隊 -- 樫のおほ鯨 -- 其巨大なる肋骨は 之を造れる塵の子に爾の君と戰の 判者と高く稱號の空しきものを取らしむる -- これらは爾のもてあそび -- 爾の波の泡沫の 中にめいらむ雪に似て、波はひとしく碎き去る 大「アルマダ」の誇らひとトラファルガーの獲物とを。 182. 爾の岸は世々の帝國、爾をよそに皆遷る、 グリイス、ローマ、アッシリヤ、カルセージかれ何物ぞ? 彼等の自由なりし時、爾の波は權力を 來し、其のち專制の多くの君主もたらしぬ、 彼等の岸は外人に奴隸に又は蕃族に 從ひ、彼等衰へて領土は沙漠と干からびぬ、 爾さならず、激浪の戲の外變りなし、 爾の緑の額上に皺を時劫は書きつけず、 天地創造のあけぼのゝ見しまゝ爾波を捲く。 183. 爾、光榮のおほ鏡!あらしの中に 全能の姿おのれを見るところ、あらゆる時に なぎに暴《あら》びに、微風、暴風、旋風に、 或は極洋|冰《こほ》らしめ、或は燃ゆる熱帶に 暗澹として高まりて、はてしなく、終なく、崇嚴に、 「永遠」の肖像、「無象」の王座! 爾の泥の中よりも深淵の怪うまれいづ、 諸帶おのおの爾に從ふ、 爾は進む、恐ろしく、底なく、獨り、悠々と。 184. しかして大洋!われは爾を愛でたりき、 わが青春の喜は爾の胸に抱かれて 泡の如くに驅られ行く其事なりき、 我は小兒の昔より爾の波に戲れき、 波は歡喜のものなりき、氣を爽にする海は 波を恐れとしつるとも、そは樂しき恐のみ、 我はさながら爾の子、 我は遠く又近く爾の波に身を任せ、 爾の髮に手をかけき -- 今も替らず爲す如く。 185. +わが業成り、わが歌終り、わが題目 消え去りて一片のひゞきかすかに殘る、 長く延びたる此夢の興の盡くるも宣べなりや。 夜半の燈火照したる影は消ゆべし、 わが筆の綴りしものはかくのまゝ。 優らましかば、あるよりも!さはれ今 我はきのふの我ならず、 わが目の前に幻はたゞ朧にかけり去る、 わが魂に宿りたる光は震ふ、弱く低く。 +末 186. +「さらば!」ありきし言葉、あるべき言葉、 人をたじろかしむる音、さもあれ遂に「さらば」也、 わが巡禮のあとを逐ひ、最後の場に來る君、 其追想の中に若し一たび彼の物なりし ひとつの思ひ宿りなば -- 或はたゞに一片の思出君にありとせば。 かの巡禮の貝の杖、藁靴彼に空《あだ》ならず、 別を告げむ、さらばいざ!苦惱はひとり彼にあれ、 若しありとせば彼の歌の教は君と共にあれ。 +別 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16 チャイルド・ハロルドの巡禮:註釋 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- 註釋 第一卷 此の卷の主題はスペイン及びポルトガルの獨立運動であるから當時こゝに起つた事實を略記するのが註釋の總序として適當であらう。 一八〇七年ナポレオンは英國の同盟國ポルトガルを攻むる口實を作らんが爲め其國の攝政親王に對し、 國内滯在の英人を拘禁し、其財産を沒收せんことを要求した。 案の通り之が拒まれた。そこでナポレオンは將軍ヂユウノウに命じ、 スペインを横斷して一擧直ちにリスボンを突かしめた。 ポルトガルの王朝は之を豫期し、敵將が首府に入る時には既に南米の屬領に向つて逃亡の途に就きはじめて居た。 スペインは是時フランスと同盟の間柄である。國王チヤーレス四世は惰弱の人物で、 實際に國柄を執る者は首相たるゴドイで、しかも彼は皇后の愛人である。 ポルトガルの南部を侯國としてゴドイに與ふといふ約束でナポレオンはかの軍隊のスペイン横斷を實行し得たのである。 然れどポルトガルの征服が了ると直ちにナポレオンは其軍隊をスペインに向けた。 かくて國王は危險と恐れ、首府を去つてセビルに移らうとし追つては亦南米へ逃亡しようとした。 然るに國民は之に反對し、チヤーレスの退位を迫り、其子フエルヂナンド七世を立てようとした。 ナポレオンは是等の紛擾を利用し、種々の口實を設けて以上の一同及びゴドイを誘ふてフランスに移らしめ、 而して其兄ヂヨゼフ・ボナパルトをスペイン王位に即かしめた。 スペイン人は奮然として所々に叛抗の旗を擧げた。 英國は之が救援として一八〇八年の夏エルリントンをして一萬の兵を率ゐてポルトガルの南部に上陸せしめ、 直ちにヰミイラの役で彿軍を撃破した。然るに英國政府は彼を召喚して代りにダリンプルを指揮官とした。 此將軍は彿軍と條約を結び、ヂユノー將軍をして安全にポルトガルより退却するを得せしめ、 加ふるに英國の舟によりて彿軍隊をフランスの岸に上陸せしめ、 更に其兵が直ちに軍役に參加せずとの保證さへ取らない。是が即ちシントラの會議である (シントラにて英將が報告書を作つたので實際の會議場はこゝでは無かつた) スペイン遠く侵掠した武將サア・ヂヨン・ムーアの退軍、及びコルナの於ける其最後が續いて起つた。 其後遠からずエルリントン再び元帥に任命せられ一八〇九年の春にポルトガルより彿兵を追ひ拂つた。 此年の夏バイロンの來遊があつたのである。 親友ホブハウスと共にリスボンよりセビルに彼が騎行せし間にタラベラの劇戰が行はれた。 「ミユーズに祷る詞」 古來長篇の詩の初めに慣習的に行はるゝもの、ホーマアより初め、ワルヂルもダンテもミルトンも。 「……譬へ説かれし」 ミューズに祈り乍ら、之を詩人が作つたものといふのは多少、矛盾にて妙ならず。 「小川の上……」 デルフアイの近く、パルナサスの山腹にカスタリヤの泉あり、此の近くに昔ミューズの殿堂があつた。 「チャイルド……」 チャイルドは中世の勳爵士の稱號、初めの本詩集の原稿には「チャイルド・ビューラン」と題した。 これが彼の家名の昔の綴であつた。 「テーグス……」 此川は黄金(沙金)を流し下すものと古に信ぜられた。 「法度は生を確めず」 バイロン訪問の頃リスボンの市街中折々暗殺が行はれた。 「シントラの會議」 屈辱の條約として英國人を怒らしめしもの。 こゝにいふ小魔とは外交を人化したもの、フルスカップの冠とは其相手を愚弄するを意味する。 「マフラ」 シントラより十英里、一七三〇年ヂヨン五世が祈願の成就を祝して建てた寺院がある。 フランス軍侵掠前十六年以來ポルトガルの皇后狂してこゝに獨居した。 「ムーアと」 中世紀を通じて續いた囘教徒と基督教徒とのスペイン占有の爭。 「ペラジオ……」 スペインの英雄 -- 基督教徒のためにムーア軍を敗つた -- 七一八年のこと。 國王ロドリクがヂューリアン伯の娘を辱しめたのを怒り、ヂューリアン叛旗を擧げ、 ムーア軍を誘ひ入れ、ロドリク爲めに戰死した。 「アルブエラ」 ベーレスフオード將軍の率ゐた英兵こゝにスール部下の彿軍を敗つた。 この事は本詩の第一第二卷が書かれた後に起つた。此章は追加である。 「戰の寵兒……」 バイロンは屡々軍人に對する侮蔑を洩した。 此章の終に曰ふ處はあまりに甚しい、「彼等が生存したなら國辱とならう」云々、 又「盜賊剪經とならう」云々。 「國に忠なる人々は……」 反語。 「柳にかけすてつ」 柳は憂の象徴。 「ダフネ……」 アポロに追はれ、逃るゝことが出來ぬのでダフネは神々に救を祈り、 桂樹に變ぜられたといふ神話がある。 「週の第七の……」 週の第一を第七とバイロンが誤つたのである。 「壯嚴の盃の禮……」 ハイゲートの酒店にては顧客に大盃を捧げ、小盃をとらずとの盟を立てしむる習慣があつた。 「ナイフ取りても」 サラゴサの城主イーボルトが彿の降服の勸告斥けて使者に宣せし言葉。 「ピザロ」 南米ペルー國を虐げ欺き掠めとれるスペイン人。 第二卷 パルテノス(ミネルバの殿堂)の大理石彫刻物の移轉。 グリイスの有名なアクロポリス丘上の殿堂は十七世紀の末頃まで、殆んど完全に保存された。 一六八七年ヴエニス軍が攻めた時トルコ人此殿堂内に火藥庫を設けた。 之が爆發したので中央部は破壞された。バイロン往訪の頃、 在トルコの英國大使エルジン卿は當路の官權と相談して殿堂の飾、柱、棟などを解き下して之を英國に輸送した、 而して一八一六年英國民は之を買ひ取つて仕舞ふた。今大英博物館の珍寶となつて居るのは之等である。 以上の行動は正か否か今に到るまで定論が無い、隨つてバイロンの考は正當の憤慨か、 無理な感想かも決しかねる。他の諸國民の古物蒐集は之とは違ふ、 彼等は主として地中の發掘である。或は既に崩れて倒れた物である。 然るにミネルバ殿堂は殆んど二千年間儼然として風雨を凌ぎ來たのである。 咎むる者は曰ふ『是は人生に威嚴を與ふる物に對する暴擧である、 古代の記念物は宗教的尊敬を以て取り扱はるべきものである、 之に對する暴擧は盜賊の行爲と同一に見なされねばならぬ』 アルバニア及びグリイスに於けるバイロン 第二卷は前述の殿堂の奪掠を以て初まり、次にハロルドの旅行に返る。 ジブラルターから彼はモルタ(マルタ)にホブハウスと同行し、 そこから軍艦に乘る許可を得てアルバニアに上陸し、そこからエバイラスの首府ヤニスに、 次にアリパシャの霸府テペレンに着いた。 マルタ灣に歸つてそれから乘船したが暴風に惱されスーリの近岸に上陸した。 こゝからアルバニアの兵士卅七人に護衞せられミソロンギを經、パトラスに着き、 そこより種々の途を經てコリンス灣を渡り、デルファイに、こゝよりアゼンスに着いた。 此時グリイスはトルコの屬領として屈辱の状態にあつたがバイロンは其時にも自由囘復の希望を抱いて居つた。 「ペリユスの子いづこにありし」 暴王アラリク來りてアゼンを攻めしとき神女パラス及びアキレスの靈現はれて之を追ひ攘ひたり(古話) 「カリプソの島」 マルタ島及び隣のゴゾを指す、ホーマアのオデッセイ中に女神カリプソの宿る處。 「レスビアの哀れの墓」 レスビアの好詩人サツホウはフアオンといふ美少年を戀して成らず、此岬より入水したといふ話。 「あゝ……暗きサホウ」 「暗き」とは深き神祕の感を含む。 「不幸なるトラフアルガー」 ネルソンの戰死の故にかく曰ふ。 「いみじき無害のもの」 反語的にいふ、「もの」とは輕蔑していふ。 「此邦の首府をあとに」 エパイラスの首府ヤニナ、當時尤も重要の場處。 「ヂザの修道院」 ヤニナの北西十五英里、白壁を廻らして深林の間にある、近くにカラマスの流瀑となりて其音がこゝに聞ゆる。 「……アリはよりかゝる」 アルパシヤは一七四〇年頃生れ、山賊として生活を初め、アルバニア國の紛壤に乘じた。 かくて巨資を積み得て、トルコ朝廷からパシヤの名稱を買ひ取り、又近隣の諸侯を平げて愈威力を増し、 アルバニヤ、エパライス、セツサリイ、及びグリイスの大部分を領有した。 彼は教育を奬勵し、文章を愛好して首府ヤニナを文化の中心たらしめた。 然るに晩年トルコ朝廷に叛いて官兵と戰つたが、敗れてヤニナ湖中の島に於て、 一八二二年殺された。(本詩集の出版の後のこと) 「山々上に……」 マラゾンの平原は三方山に圍まれ殘る一方は海岸である。 第三卷 第二卷の公刊以來六年を經て第三卷が現はれた。第三卷は前に比して遙に優る。 彼の天才は圓熟した、彼の境遇は激變した。 「大波はわが身を圍む」 此第三卷はスヰツツランドに於て書かれたのであるが、此の章は其以前の第二囘の英海峽渡航を追想してゐる。 「とある一人」 チャイルド・ハロルドを意味する。 「留めよ脚を!」 バイロンがヲーターローを訪ひしは大戰の後一ケ年を過ぎざる内であつた。 「地震の鹵獲」 ヲーターロー役を地震と見なす。 「いかに運命忽然と」 運命は忽ち名聲を轉ぜしめ、又物質上の恩惠をも移らしめる。 「誇の極み」 鷹狩の語、 -- 最高の飛翔を曰ふ、こゝでは鷲をナポレオンに比べた。 「世界しばりし鐡鎖」 ナポレオンはこのバイロン詩作の頃セント・ヘレナに生在した。 「驗せよ、讚辭を吐かん前」 ヲーターローを攻める前、その結果を考へよ! 「光榮最もいみじきは……」 自由のためになるときのみ戰勝は最も光榮である。 「アルデーンの森」 フランスとベルギイの境にあるアルデーン地方 -- その一部分として詩人はこゝにブラツセルよりヲーターローにいたるソアギユーの森を稱へる。 「樹木は倒るゝ前、長く枯れ」 之と次の五個の譬喩は生命の光輝と活力とは亡び去るも生命の外見は尚續くの意。 「詩篇の作家……」 曰く『われらの命は七十年、長くして或は八十に到らむ』(舊約聖書、詩篇九十篇十節) 「而して此ことすでに足る」 後世子孫に對する名譽は是にて十分である。 「運命星を捨つ……」 ナポレオンは彼の運命に對して激しき信仰を抱いて居つた。 「楯に紋章を與ふ」 武術の仕合に於て彼等は愛即ち出血の心臟を示す標象をつけた。 「ひとつのやさしき胸に」 バイロンの姉オーガスタを暗に指す。 「かゝる便もうべなりき」 こゝにチャイルド・ハロルドのと掲げられた歌はバイロンが一八一六年五月ラインの岸から姉に送つた歌である。 -- 此後ハロルドといふ人物は詩中から全く影を隱して第四卷の終に近づく頃、また現はれる。 「ドラヘンヘルスの古城」 ラインの岸ボン府の向側に。 「モラアの戰場」 瑞士人民の軍隊がバルガンデイ侯をして一萬五千の兵を失はしめた戰場、一四七六年。 「ヂユーリア」 ローマ軍アベンチクムを降せしとき、其主將の人ヂューリアス・アルピナスを死刑に處した。 孝女は父を救はんとしたが許されないで父と同時に此世を去つた。 「ルウソウ」(一七一二 -- 一七七八) ゼネバの人、 -- バイロンのこゝに述べた其人物評は先のナポレオンまた後に來るヲルテイア、 ギボンと同樣に頗る適切なもの、バイロンの炯眼を窺ふに足る。 「神託……世界を燃え立たせ」 ルウソウ作はフランス大革命を起す尤も有力な原因であつた。 「恐るべき記念」 此章及び次章に於てフランス革命の功罪を尤も正當に説く。 「シテイラの帶」 ヴイナスの帶は之を着くるものに愛を吹きこむ。 「クレランス」 ルウソウが「新エロイズ」に寫した名所。 「勇しき疑」 ヲルテイアとギボンと共に懷疑説を基に當時の宗教を攻撃した。 第四卷 此第四卷はヴエニス滯在中に伊太利漫遊を材料として書かれたもの。 ヴエニスの昔の光榮と今の衰微とを歌ひて此卷を開く。 「オーストリヤの王家……」 ナポレオンの敗亡の後、ヴエニスは墺領となり一八六六年にいたつた。 「ドリヤの威嚇」 ゼノアの將軍ドリヤ、ヴエニス人が和を乞ひし時 「聖マルコ寺の前にある馬に手綱をあけぬ内は和を許さぬ」と嚇した。 「一千三百餘年……」 アツチラの侵入當時四五二年近隣の人々逃れてこゝにヴエニスを建設した。 「トロイに比ぶべき」 ヴエニス人トルコに對してカンデアを防ぐこと二十年。 「月正に昇りぬ……」 ヴエニスの題目と他のイタリヤの諸市のそれとをつなぐ敍景詩。 時の推移を背景とする敍述を注意せよ。 「イタリヤよイタリヤよ……」 是と次節とはイタリヤ詩人フイリカヂヤの作を譯したもの。 「メガラ……」 サロニカ灣頭に向つて航するものにはかゝる位置に見ゆ。 「藝術の兵車の上に」 ローマの凱旋將軍は其捕虜を車前に進ましめた。こゝは一歩を進めて車に縛ばると曰ふ。 「誇學が愚昧を欺くところ」 商人が專門的の文句を用ゐて客をだますこと。 「タスカンの言葉」 イタリヤ語中尤も美はしきものと稱へられる。 「ブルータスの像省かれて」 大シイザアの暗殺の故にブルータスを忌みて行列中に其像を加へず。 「さらに優りて敬はむ」 王侯の壯麗なる墓に於てよりも天才の飾なき墓に於て一層の尊敬が湧く。 「自然のゆらぎ地を割きて」 當時イタリヤの諸市を倒したる大地震は此戰に加はりし人々に感ぜられなかつた。 「今はた雪を……」 ホーレスの歌に白雪のソラクテ山を詠ず。 「ゴート人……」 ローマは四一〇年アラリク王に掠められた。基督教徒は「異教のもの」として神殿等を破壞した。 またタイバアの洪水があつた。 「あゝ爾幸運の……」 シルラは「幸福者」と綽名された。何事も成功したので。 「自由よ、さはれ爾の族」 當時歐洲の人口に膾炙したる詩章。 「偉大のネメシス」 ローマ人はネメシスの神を崇拜した。 「眼の前、鬪士の伏すを」 ローマカピトルの博物館に此像がある。しかし勿論こゝではコリゼアム中の活劇として書く。 「築けるは宮殿」 コリゼアムの石を材料として。 「カルプの岩に」 ジブラルターのこと。 「シムプレガデイーズ」 ボスホウス海峽から黒海に入る口にある二の岩島。 「トラフアルガーの獲物」 捕獲の敵船、戰につゞいて起りし暴風のために沈沒した。 「今も替らず爲す如く」 海上を航すと想像して曰く。 [目次] [前章] [次章] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日: 2003/02/16