アラビヤンナイト物語 : 目次
タイトル:アラビヤンナイト物語
譯者:井上勤 (1850-1928)
底本:アラビヤンナイト物語
出版:岡村書店
履歴:初版印刷・發行は不明,明治四十一年二月十日改訂印刷發行,明治四十四年八月廿九日拾版印刷發行
備考:定價金壹圓
アラビヤンナイト物語
井上勤 譯
目次
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 解説
解説
アラビヤンナイト物語は、昔から天下の奇書として、有名なるものである。
また今後幾百千年を經ても、其の奇書たる價値を、損ずる様な事はない。
随分不思議な構想の書物も少くはないに、嶄然頭角を現はして見へるのは、
これも不思議の一として、勘定する値がある。元來此の本が命題の示す、 アラビアの産物でない事は一讀して見れば明白で、
傳へられて居る處に依れば、波斯の一千話、「ハ、サー、アフサナー」のアラビヤ譯が基になって、
出來たものと云ふ。生れが何處でも、育ちが何處でも差支はないが、
中に現はれて居る、神話、比喩、小話等に、古い亜細亜傳説の匂ひがある。
是等の作者に就いても、随分説が有るが、解らない。兎に角一人で無かったと見へる。
始め書き出した時の組立法が、末へ行くと變化して居る、始めの考へは、
王妃の話が枝から枝が生へて、一千一百夜の物語を形ちづくる積りだったに違ひない。 處が段々思想の變化か、筆者の變化か末かに至っては、
箇々獨立のお伽噺風になって仕舞った。畢竟王を樂しませる爲の話が、 讀者本意になったものである。但し組織の變化は、
物語の興味を少しも&$x61cf;じない。讀者側では差引同じ事である。
要するに天下の奇書は、何時代にも何人の前にも、 天下の奇書で祖先を樂しましめ、其人を樂しめた様に、
此物語は子々孫々をも樂しましめる、使命を有して居る。
明治四十一年二月初旬
それがし
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 其一
其一
古き世の事とかや茲に比耳斯亞の國は 世々の國王其の威權を振ひ四隣を蠶食して
漸やく版圖を擴め印度諸島を包ね岸世壽を超て遠く支那に達す中に就て 當時尤も優れたる一王あり
偏に政略に富み驍勇比倫なく 常に精兵を養なひ仁政を施こすを以て國民鼓腹の思をなし
内治外望其宜きを得
比隣の邦國爲めに兢々として之を恐れざるものなかりき王に二人の子あり
兄を西加亞利亞と呼び天性才徳を兼ね具へ實に父の仁政に襲べきの人なり
其弟を西加亞世南と云ふ天性才徳兄に劣らず兄たりがたく弟たりがたく 其
年に長少あるのみ 誠に得がたき同胞なり
父は長なへに仁を施こし徳を布き國威を遠近に輝かして 果敢なく薨去したるより法の如く
兄 西加亞利亞は繼で王位に上り 弟 西加亞世南は此國の法律として政務に與かるを得ざれば
宮殿深く埀れ籠て閑散無聊に日を送りたまへど素より悌義に厚ければ
兄と生れし西加亞利亞が父の王位を繼て榮華の身となりぬるを嫉み羨やむの心なく
却って兄が朝な夕な政務に心思を勞しぬる其 鬱情を慰さむるを
自己の義務となす程ゆゑ西加亞利亞も亦弟を愛し 二なき者と思ひつゝ自と兄弟の中
睦しく 墻に鬩ぐの口説もなく兄は弟を愛しみ弟は兄を敬ひつ 優愛の情義
濃厚なり 去程に西加亞利亞は弟の温和を愛するの餘り自己の所領なる
大達兒達利王國を以て西加亞世南に分ち與へ
其を所領せしめたり西加亞世南は左まで榮華を羨やむの心はなけれど
兄の意に背くも惡しと與へられたる大達兒達利王國の首府なる
西麻兒漢土に移り住み政府を設け宮殿を造り人民統御の任を盡し國ます〜富たりしが
茲に兄弟分離してより相見ざること十年間 西加亞利亞は
折に觸れ事に付ては弟の事のみ思ひ起しつ思ひわび戀々の情止み難く一時も早く面會して別後の情を語りたしと
弟を迎へ取らんため大達兒達利王國へ使者を派遣して其旨を言送りぬ
這囘の使臣に撰ばれたる者は現政府の重役にして相當の屬役數名を引倶し
日を期して出發せしが最とも急ぎの使命なれば夜白兼行急ぎ行き西麻兒漢土府近くなる程に
西加亞世南は比耳斯亞國なる兄の許より使節の來るを知るものから
迎接の爲め重立たる貴族を前後に從がへつゝ共に衣服の美麗を飾り禮節を厚ふして
首府の出口に迎へ使臣に向ひて取あへず兄の起居如何に在ます
恙もあらせ玉はぬやなど問たまふ詞に使臣は答へて 主君は恙なく渡らせたまふ旨
且つ使節としてはるばる參着したる使命の趣旨を謹しんで述ければ
西加亞世南の欣喜大方ならず
斯まで兄の此身をば深く愛したまふかと漫に感涙に咽びしが稍あって
使臣に向ひ現に難有き兄上の友愛謝するにも尚餘りあり 汝をわざ〜をわざ〜遣はされ余を迎へ取らせたまふは
我身の榮譽國の面目此に上越すものあらじ 余は先年兄上に飽ぬ別をなしつゝも此地に來りし其日より
一日寸時も兄上の事忘れねばこそ思も出ず相見たくは思へども 苟めにも一国を治め下人民を統御なす貴重の身にしあるなれば
思ふのみにて心に任せず思は同じ兄上にも嘸な逢たく思すらめ
兄弟遠く隔たりて是彼居所を異にするとも 友愛の情孝悌の義何條
舊時に變るべき我が國内は幸ひにして 現時平穏無事なれば汝と倶に兄上の膝下に參り見ゆべし
遮莫旅立の準備をなす間 余に十日の猶豫を與へよ斯る僅少の日數なれば
汝等の一行を態々府内に誘なはんも何かに付て 不便なる上是等の事に日を空過さば旅立の日限に後れを來し
悔しきこともあるべければ汝は天幕を爰に張て 余の發途を待設けぬ
恁て西加亞世南は國政上最とも緊要なる事件は皆な一々に順序を立て
悉皆宰相に打ち委せ常に實驗して其徳望あるを知り人も
厚く信じて疑はざる適當の人物を撰みて參議とし其他不在中の萬事を處置し
旅の準備もそこ〜に已に十日の日限になりければ 王妃に暫時の別を告げ誰や彼やの
黄昏數多の従者を從へて
府宮を跡に立ち出でたまひ間もなく使臣が滯在の場所に着たりければ 其
傍側に王の張幕を張り假に玉座を設けさせ翌日は未明に
發足せんと其夜は痛く更るまで使節と種々の會話をなし居たまひしが 元來
西加亞世南は妃を愛すること深ければ 暫しの名殘も惜まれて今一たび抱き寄せ引寄られて
顏を見つ見られもせんと只一人潛行て宮殿に立ち歸り 王妃の紅閨に忍び寄る王妃は
爭でか斯としるべき王の不在を幸はひに
豫て人目をしのび〜語らび居たる家臣の中にて最も低き役を勤むる密夫を
紅閨に引入れ楚臺の雨 巫山の雲不義の淫樂を極めつゝ熟睡なして
前後をしらずかゝる折から西加亞世南王は拔足さし足忍び寄り
肚裏に思ふやう我が妻は我を愛する事我が彼を愛するに異なければ 若し我が顏を見るならば嘸驚ろき喜ぶべし 我が此
紅閨に忍び寄しを彼妃に悟られて眼を覺させては興薄し 如何にして驚かさんかと樂しみながら尚深く忍び入りつゝ
埀籠たる錦の鈍帳を刎除ててやをら奥を覗へば
個は开も什麼是は如何に
王妃は臥床の上に打臥し其脇に一人の男王妃の腕を枕として
居汚なく寐亂れし奇怪なる有様の燃さしたる炬火の光に四方を照し
白晝を欺むく許りなれば毛髪の細きまでいと明らかに見ゆるものから 是は如何にと驚ろき呆れ訝しきかな
斯程までに我彼を愛すれば彼又我を愛すること山より高く海より深く 最と睦ましき中なるに我が留守を奇貨として
密夫を引入つかゝる所業のあるべきぞ 彼の事のみ思詰たる我心の迷より斯は我眼に見ゆるならん
夫かあらぬかと計にて半信半疑 稍しばし佇たるまゝ
見詰居たるが看る〜面色朱を沃ぎ平生の温和に引換て
怒れる目眦逆まに裂け毛髪逆立ち帽を突き身を震はしつ
大喝一聲疾風の如く飛掛りて密夫と王妃の襟髪左右を猿臂を差伸て
無手とばかりに掻掴み男女の罪を責て云やう 我宮殿を出て他に在ると稀なるに僅一夜の空閨を守るあたはず
我が宮殿をも憚からで密夫を引入つ斯まで我を陵辱するとは果して何事ぞや
亦此の不忠不義なる悪漢よ臣下の身として王妃を竊み大膽にも 密會ひ我に耻辱を與へたる
开も汝等は我が爲に前世の仇か將た惡魔か
我れ此國に君臨し我が領内にて罪を犯せし汝等二人を罰せずんば 何を以てか法律を匡さん觀念せよと罵もあへず
王妃を膝下に踏居て右手に引拔く氷の刄 逃んと悶く密夫の細頸
丁と打落し 返す刄に王妃の胸元 刄尖深く突き貫むきて
是をも頸を打落し一刀兩斷不義の男女を重ねて四斷に斬さいなみ
刄の血を押拭ひ元の鞘へと納めても納め兼たる胸中の怒は尚も止ざりけり
王はやがて男女の死骸を擡げ上げつゝ窓の外なる大堀の中へと投げ捨てたり。
却って説く西加亞世南王は不義の男女を成敗し 其場を去らせず充分に復讐の事を果せしかば
前に忍びし處より密に宮殿を立出で程なく府内を出離れて
彼の張幕を張たる場所に歸りしが彼不義不忠の男女をば斬殺したる事はしも
自ら愧て露ばかりも心に秘て語りやまはず 恁て天幕を取収めさせ旅立の支度を命じ
夜は未だ明ざれど少しなりとも急がんと 使臣の一行を促がし立て夥多の從者の行列を正し
旅路にこそは就たるが行々太鼓を打ち笛を鳴し其他の樂を奏して
行路の欝を慰さむる程に人々思はず音樂の面白き節に聞取れて足の運歩も自と迅く
心耳を澄し愉快を覺ふる中に西加亞世南王のみは王妃が不義を働らきて
吾が王位を陵辱し心柄とは言ながら刄にかゝる
非業の死を遂げ死後まで汚名を流せしことの口惜くも又悲しく左なきだに
旅は物憂き物なるを況てや發途の其夜さり現に淺ましき事ありしを 思ひ出しつ胸に泣く心の中や如何ならん
迦陵頻伽の美はしき聲を欺く音樂の耳にも入らず
欝情を慰さめぬもの現に道理なりと推量られて哀なり。
既にして西加亞世南王は使臣と共に道を急ぎ 印度の首府に近づく程に兄
西加亞利亞王は貴族大臣の面々を前後左右に從がへて 弟を郊外まで出迎へ居られ待つ待れつ兄弟が絶て久しき對面に
互に別後の恙なきを祝し合ぬる 喜悦の情は何に譬へんものもなく急ぎ馬より下り立ちて
手を取り身體を抱きあひ其他 欣喜の情を表する種々様々の仕方をなし
爰にて話しもなしがたければ率罷らんと 兄弟共に馬に跨がりて供奉の行列
整々堂々前駈後從の列を正し 府内をさして練り行く様は他の見る目も羨やましく
現に親睦き兄弟かなと 上の好む處ろ下必らず從がふとか 其
盛式を拝觀せんと四方よりして蟻の如く集まり來たりし人民は
市街の左右に充滿て人もて堤を築きし如く錐を立つべき地もあらず 恁て西加亞利亞は弟
西加亞世南を誘なふて 一の美麗を極めたる宮殿に到りたり そもこの宮殿は這囘弟
西加亞世南を迎へんため新に造り設けたるものにして 其の結構の壯麗なる玉を彫ばめ金を鏤し廣き庭園には
種々の名木珍草を植付け春夏秋冬四季折々花に青葉に眺望を添へ
右手に音樂を奏する室ありて種々の樂器を併列し樂人に限らず 誰にても随意に奏樂するを得せしめ左手の室には
金銀財寶種々の珍器を置併べ庭園を傳ふて西加亞利亞の宮殿へ往復するの道を通じ
公宴又は公會を開く時の用に充て貴族及び 政府の顯官が遊技場にも充るものなれば 遊戯の具
悉々く具はり目を欣こばせ 耳を澄し人の心を慰さむる酒池肉林管弦の曲至らざるなく盡さゞるなく
實に善美を極めたりといふべし 此の一事を以ても西加亞利亞が弟を愛するの心厚きを知るべし
去るほどに西加亞利亞は弟を此の宮殿に誘なひ 尤とも美麗を極めたる中央の室に入り兄弟相對して
坐を占め遙か隔たりたる場所には夥多の群臣 威儀を正し
位階官等の順序に從がふて二列三列に居流れつ
警護の武士は宮殿の内外を常に巡邏して準備をさ〜嚴重なり
兄は弟に打むかひ嘸な長途に疲れたまはめ
余も足下の顏を見たるより喜こばしさに日來の待草臥つ
待わびし疲勞を一時に覺ふるものから浴もなしつ 衣を換へ又改ためて對面し積る話しを聞もしつ問れもせんに
足下も又 浴み理髪を換え 膝くつろぎて休らひたまへと言つゝ起て
園傳ひ我が宮殿へ入相の黄昏近くになりにけり
兄も弟も浴み理髪衣の着換も濟たれば 再たび元の筵に囘り甲一
齣乙一 齣 襟を開いて迭代に別後の情をいと睦まじく
兄弟が語りつきせぬ渝々快々此時既に日は暮て銀燭爛々席を照し 晩餐の膳部酒池肉林山海の珍味
田野の佳肴處ろせまきまでおき併らべいと
懇切なる管待の善を盡し美を盡し疾箸をあげたまへと
親しき中にも自づから禮ある義ある宴會の体裁甚はだ整蕭たり
既にして兄弟は共に倶に晩餐を喫しをはりて 尚盡ぬ友愛の情義に引されて長談糸を繰るがごとく
縷々續々興味は盡ず興盡ざれば情盡ず情盡ざれば談話も盡ず 夜の更るをも知らざりしが西加亞利亞は
弟に向ひ語る話柄の面白く盡せぬまゝに思はずも痛く夜を更したり
足下は長途の疲勞もあらんに嘸な睡魔を
催ほしぬらん主個振の気付なさ深く懺愧に堪ざるなり 早く臥房に入りたまへ我も歸りて眠りなん
餘談は翌朝に譲るべしと別を告て立別れぬ 不幸なるかな西加亞世南は已に臥房に入る月の影
ほの暗き綾の床錦の夜具に包まれて 枕に就しが今迄は兄との對話に慰さめられ打ち紛れつゝ忘れ居たるが
今は夜も深け寂寥と水は物かは草木まで眠るかしらねど
妻の事思ひ起せば忽まちに胸塞がりて眠られず兄の家とはいひながら 寝付ぬ家に夢むすび一夜を明かす程だにも旅寝となれば物憂きに
況てや恩愛の契り淺からず年來日頃 添遂し妻の罪惡宥しがたく
發途の夜さり命を斷ち刄に血塗し忌はしさ かゝる罪惡を犯すが如き妻を娶し我身の不幸我れ今まで人を僞はり
或は人を虐げたる事は素より無く父母には孝ならざるも敢て不幸の罪を犯さず
又兄に悌ならざるも不敬不遜の惡行を愼み善人とは稱されずとも惡人と呼るゝの覺なし かくまで潔白端正なる我が身をなどてや上帝の恵みたまはで
我が國王たるの尊位を瀆すが如き
惡人の妻を與へ而して我に其妻を殺戮せしむるが如き不幸の身とはなしたまふ 天道果して是なるか非なるか嘆息するにも餘ありと
是非曲直の境遇に迷ひ 無量の憂愁胸に溢れ眠らんとすれば生憎に神經ます〜敏捷を覺へ 感慨百端
措くあたはず 臥床の上に寝つ起つ微睡もせで夜を明し
終日終夜思ひ屈し思ひわびたる其果は終に神經を疲らして 身體いたく衰ろへつ顔色 漸やく憔悴し病とはなしに
鬱々と埀籠てのみ在するを兄 西加亞利亞王は心配し
いと訝かしく思ふの餘り日毎夜毎に弟の方へ音信れ來りて 問はるやう足下は何故氣分
惡とて 斯く埀籠てのみ居りたまふ 我が對遇の屆かぬものから心に適はぬ不平ありてか
足下は何と思ふかしらねど余は斯くまで親愛深き實の 骨肉
同胞を何條惡しく對遇すべき我が力の及び 心の達かん限は飽まで厚くものすべきに
足下の心に何まれ角まれ適はぬことのあるならば 腹臟なく言聞たまへ 隔意あるべき事ならず
余は足下の我と親しむ其心情は余が足下と親しむ心情と同じきを
堅く信じて疑はざれば此事にてはよもあらじ 或ひは思ふ此 年來住なれたまひし本國を遠く離れし事なれば
故國を慕ふの心地して漫に感情を起されしか但しは愛妃を本國へ殘しおきて
來りしゆゑ愛戀の情に堪ざるにや万一此等些少の事の心に掛りて 憂鬱の病苦の種となりしならば最と名殘は惜けれど引止めんも
心憂し我が推量の三つの内 何れか是なると弟の心知らねば兄は氣に掛て
問慰さむる友愛の眞實面に現はれて又他事もなく見へにけり
しば〜問れて西加亞世南は苦しき胸に充滿たる憂苦の様を兄に悟られ
深く心を煩らはせじと笑に紛らし答ふるやう箇は勿體なき兄上の仰
如何でさる事の候らふべき我が氣鬱の病と云も苟且の事なれば 只打捨ておきたまへと實直しげに答ふるものから
何やら濟まぬ面色を見て取る兄は弟の病氣國に歸りて愛情も殊更深き
妻女の看護を受なば頓に本復せんと 肚裏に思按なし弟が歸国の準備を整のへ
其折携さへ歸すべき種々の土産物より
万津漏なく用意しつ尚ほ且日ごとに何とかして弟の鬱氣を慰さめんと 口には珍味
佳肴を撰び目には様〜の遊戯を見せ耳には音樂の美を調べ 此よからん彼よけんと手を換へ品を交る〜少しも退屈せざるやう
外事を顧慮に暇なきやうい只管其事をのみ勉めたり。
有一日西加亞利亞は首府より二日路ほど隔たりたる
郊外の地に至り遊獵を催ほし而して弟を慰さめんと企だてしが 殊に其地は鹿兎等の獣物多き場所なれば獲物果して多く又
一入の 快樂ともなり病氣のために宜かるべければ
是非とも同伴したまへと幾度となく勸めたれど 西加亞世南は氣分 惡く折角の好意に背く譯なれど
殘念ながら御供仕がたく惡くな思ひたまひそと
否なむを無理にとも強かねて然らば足下の心任せ自由に保養したまひね
余は是非とも足下を誘ひ同伴すべく思ひしゆゑ 既に用意を整のへたるに今更止んも無益なれば我れ一人出て獵し
多くの獲物を取り得て歸らん暫しが程ぞ淋しくとも留守してたべと言ひ置て 西加亞利亞はその翌日貴族
顯官は言も更なり 夥多の從者を引連つゝ遊獵にこそ出で行たり
西加亞世南は愁じ生中兄に蒼蝿く慰さめられ
却って心を勞するよりいと宏大なる宮殿に獨り在れば
徒然を慰さむ由も我が部屋に埀籠てのみ居たりしが
我と氣を變へ玉椽の端近く立出て庭の面を眺むれば
花は籬に倚て時知り顏に爛漫れ風は徐ろに吹て
暗香を送り樹間を飛翔ふ小鳥の宛囀 其聲
頗ぶる美しく耳に聞く者眼に見る佳景 流石に無きにあらねども憂を遣るの種とはならで 只
徒らに情に觸れ感を起すの媒介となるのみ
愛妃が未曾有の汚行をなして遂に我が手にかゝる横死を遂たる事の不幸なる
我身を喞つ嘆息の思ひは胸に斷間なく見れども見へず 鳥の音も耳に聞ゑぬばかりなり。
西加亞世南は憂愁百 端胸に溢れて心情も悒ぼれ解ぬ遺憾の涙
惆然として部屋に入り窓の中より庭面を眺め居たるが 忽まちに其眼界に入りたるものあり
一瞥するより今までの充滿たる憂愁の感情は轉じて腦裏にあらずなりぬ
如何なる事の西加亞世南を能く慰さめ能く感ぜしめ 不測の思を惹起させしと其
事由を繹ぬるに 此庭園の片隅に兄 西加亞利亞の常に住する國王宮殿へ往復する
小さき出入の門ありけるが其門忽まち颯と開け此方の庭へ動搖めきながら 足音荒く出て來るものあり
如何なる者かと見てあれば是なん宮中にて王妃に侍づく十九人の宮女なり
中に一層美麗なる衣服を着し頭の挿花も射目きまでに 粧ほひたるは問ずして兄
西加亞利亞の王妃なるを知る 渠食後の運動かた〜゛此庭園の景色を眺め遊歩にや出たりけんと思ふ折から
西加亞世南が惆然獨座なし居たる窓下近く來りければ
西加亞世南は我が身體を見られじ見せじと兄にさへ遇ふを嫌ふの折なるゆゑ
隠れて様子を覗き見つ如何なる遊戯をなすらんと
尚も窺ひ居るぞともしるやしらずや彼の王妃を伴なひ來りし宮女 們は 皆な婦人なりと思の外
被ぎし上衣を取除き初めて顏を露はすを見れば
箇はそも如何に其中九人は何れも黒人にて各々自己が情婦を携さへたる有様なり
王妃は獨り情郎なき有様なりしが暫らくありて自から手を打ち
麻斯土よ麻斯土よ再三囘呼ぶ聲に應と答へて
生茂る庭の樹立を押分て現はれ出る一個の黒人
王妃の傍へと走寄たるは豫て契りし情郎と
思ひ合され淺ましくも嘆かはしさに西加亞世南は且驚ろき且呆れ
熟々判定を下して謂らく箇は必らず 嫂の兄
西加亞利亞が余を伴なひ遊獵に行しと思ひ其留守を幸はひとし
豫て契りし密夫を引入れ不義の淫樂を極むるならん
主を見習ふ宮女まで思ひ〜に情夫をば婦人の形に打扮せ後園深く
人の眼を掠むる事の大膽さよと餘の事に茫然と舌を捲てぞ窺がひ居たり。
斯くて此の園中に集まり來りし黒人等と王妃及び宮女の間に什麼なる事を爲したるや
其事實を記述せんは道徳の許さぬ處なるのみならず之を記するも益なければ 此
件は筆を閣おき單に西加亞世南は我が親愛なる兄上も
自己の如く不幸の身となりたることを目前に委しく見たりといふ迄にて 充分此の事情の如何をば讀者も察し得らるべし
去る程に相供に溺愛せる男女の仲間に夜半頃まで
庭中の甲首乙首を優遊して餘念なき有様は 痴蝶の菜花に戯ふれ狂鳥の露を吸に異ならず
最後に至りて該園中第一の装飾なる大池の中に男女交々
衣帶をとき〜跳り入り水を游ぎて戯むれをりしが暫らくにして陸に上り
各々脱捨たる衣帶を着け後を契りて蝶々喃々手を引合て元の如く 出入の門の中に入り後宮へと歸り行きたり
然るに麻斯土のみは只ひとり高く聳へし庭園の
立樹の稍に攀ぢ上り枝を傳ふて塀牆を乘越るよと見る間に 忽まち姿は見えずなりぬ。
西加亞世南は右に記せる此の有様を見るよりも感慨忽まち胸に滿て
獨語て云く余曩には我身程不幸な者は 廣き世にあらずと思ひ身神も疲勞なすまで嘆息せしは
大なる間違にて思ひきや兄上は我身に優るも劣らざる不幸の身にてあらんとは 今更思へば我が不幸を嘆息せしは愚なりき
凡そ夫たるもの斯かる場合に遭遇し凭る有様を見る時は人を殺し人を屠るの惡きは
豫て知るものあkら決して避るを得ざるべし 況んや兄上は世界萬国に其英名を轟ろかし土地廣く兵強く地球上著大なる國王なるに
閨門亂れて治まらず尊とき王位を陵辱され如何に温厚の人なりとも 此まゝにしてやは措べき 之をしも忍ぶべくは亦
孰をか忍ざらん 余はかゝる何處にもあるべき普通の不幸を我身のみ受たる事と
誤認して悲痛の情嘆息の心に心を責られて爲に身體を疲勞せしめ 求めて我が身を殺すが如き女々しき業はなさずもあれ
之を見是を思ふときは我が身の不幸も不幸ならずと心始めて安堵たり。
西加亞世南は此時より我が身の不幸と悲痛の情は烟と散じ霧と消えて
心氣殊に爽快を覺え彼の窓下の後園に起りたりし 嫂始め宮女
們の惡業を見ぬ以前は食事も咽喉に下らざりしが 是等の不幸は普通の事にて格別珍らしき事にもあらずと思ひ返せば
神經も臍下に落ち居て食事も進み西麻兒漢土を出しより
始めて晩餐の旨さを覺え食事の間兄が注意にてそが耳を慰さめんと備へ置れし
音樂の調も妙に聞えつゝいと快よく聽居たり。
斯りし程に西加亞世南な從來とは打て變り目に見るもの
耳に聞くもの何れも樂しからぬはなく既にして兄 西加亞利亞の 歸り來るを知るからに急ぎ宮中を立出て其
路次に出迎へ兄の顏を見るよりも いと快よく顏色して傍近く進み寄り
遊獵の模様は如何なりし獲物は多く在つるか 恙もあらせたまはぬやなど問慰さむる有様の先に變りて
見ゆるものから西加亞利亞は心も付ず弟に向ひて 去ればなり何どでや足下は此度の遊獵に
我と同伴したまざりし心地あしゝと聞きしゆゑ如何にあらんと案ぜしに思ふに増して
恙なき顏を詠めて我もまた大慶何ものか之に如ん
开は左も右も此度の遊獵は 獲物
頗ぶる多くして如此くに持歸れり 是見たまへと獵得たる獣物たる獣物を取出て弟に見せ
今夜は之を料理して足下と共に晩餐の箸を上げつゝ 夜と共に語り明さん誘たまへと言つゝ弟を慰さむる常に變らぬ
兄の眞實を西加亞世南は難有き旨 答へなし
今まで精神を封蔽したる悲嘆の雲霧は消散して心に殘る隈もなく
兄弟倶に馬を併べて各々宮殿へ歸り着き
其夜は獵得し獣物を料理し晩餐の筵を張にけり。
西加亞利亞は曩に宮殿を立出たる日の如く 弟は定めて何事か心頭に掛る事のありて矢張人に逢ふを嫌ひ
宮殿深く埀こめ居るならんと遊獵の面白きも何となく心急ぎ のせらるゝまゝ歸りて見れば弟の面色いと快よき有様に見受しかば
訝かしくも又喜こばしく弟に向ひて云るやう余が親愛なる弟[※;よ?]
余は汝が以前に變り我が出獵の留守の間に 昔日の病苦を洗ふが如く最と快よく見受るは
喜悦何ものか之に如かん 就ては余足下に對し頼み入たき一事あり
承諾きたまふや什麼ぞやと問れて弟の西加亞世南は
啖きなしつ答ふるやう箇は兄上の仰とも覺えず
父なき後は兄を以て父とも母とも尊とみ敬まふ我が心にてあるなれば如何なる事も背き申さじ
殊には友愛親密なる兄上の仰に爭でか背かん 何事なりとも憚りなく疾々仰せ聞られかしと云ふに
喜こぶ西加亞利亞夫にて余も滿足せり 然らば足下の問ふ事あり
足下は我が宮殿に來りし以降何事の足下の心に適はざるにや
怏々として樂しまず憂愁胸に充滿たる其容貌を見るに忍びず 問慰さむれど只
苟且の病苦とのみ答へたまひて 深き仔細を明されず打捨ておけよと曰まへどわざ〜遠方より
迎へ取り別後の情を語りつ聞つ樂しまんと思ひしを足下にかゝる 不愉快ありては我亦 爭で樂しかるべき
如何にもして足下の心を慰さめ賺し快よく 兄弟倶に語らんと常に足下の好めるものは
何くれとなく心を盡し手を換へ品を代る〜取繕ろへと 何事も足下を慰さむ種としならで尚も憂苦ます〜いよ〜
欝ぎてのみ在すすゆゑ其心を測りかね種々に
思ひし後思ひ悒ぼれたまひしならめ逈に聞く
西麻漢土に遺しおきたまひたる足下の王妃は 世にも優れし非常の美人なりとし云へば戀々の情も手傳ふて
偖こそ病の根本となりしかと考がへ得たれど
此事を若し強て問糾さば足下が憂苦を増もやせんと 今日まで打捨ておきたるが今
足下の擧動を見るに 我が推量は全たく違ひて其根源又別にあるが如く我が留守中いつの間にやら
快氣に赴き足下は勿論我身まで心頭に掛りし黒雲は 跡なく晴て爽快なるは不思議といふも餘りあり
何ゆゑ前には悲痛の様を見せて吾濟を苦慮せしめ今又俄然喜こばしく
爽快の有様を現出して疑團の心を増さしめたまふ心得がたきの至なり 定めて仔細のあることなるべし
包まず語り聞せよと老實てこそ問たりける 此時に當り西加亞世南は何と答へてよからんと暫らく
躊躇して居たりしが稍ありて答ふるやう此事ばかりは如何様に問たまふとも お答へは何分共にお免しあれと言せもあへず
西加亞利亞は否々我が親愛なる弟よ 足下は曩に何と言つる如何なる事をも否みはせじ
決して背かじと誓ひしならずや 秘密にすべき事柄なりとも他人にあらぬ此兄に語り聞すに遠慮は無益
我は斯まで足下を愛し親しみ睦むに足下は亦求めて
疎遠にしたまふかと氣色ばみつゝ怨ずる語を聞より
今は西加亞世南も退引ならぬ此場の當惑逃れぬ處と
胸を定め斯まで御心に掛まくも問せたまふを答へぬは慈愛に背くの至なれば
早や此上は是非に及ばず具に語り申さんと 此地へ發途なすの夜 芟西麻漢土の宮中にて
王妃が犯せし罪惡を認め怒りに堪へず姦所にて其場を去らせず姦夫淫婦を成敗なしたる事の
有枝有葉を詳細に語り尚ほ詞を次で云ふやう
實に愧づべく嘆ずべき淺ましき事なれば死すとも口外なすまじと
心に秘て居たりしが斯る不幸の境遇に陥りたるの身を喞ち
嘆息の思ひ内に在れば其色外に顯はれて鈍くも兄上に認められ 問るゝ事の切なるまゝ包まず語り出たるなり
是ぞ我が憂愁の胸に悒ぼれ解やらで痛く心神を苦しめたる原因にて候らふなり
又我が今の物語にて我が憂愁斷膓の念慮を絶ちたる趣きは物語らずとも 兄上の鋭敏なる腦膸に斯くありしゆゑ我が憂愁の消散したるなるべしと
充分に推量あってよしなに判斷したまはんことを只管希望に堪ざるなり。
西加亞利亞は事新らしき弟が物語を聞くに付け其 驚愕大方ならず
何とも名状すべからざる世にも不思議なる嘆聲を發し足下が今の物語を聞くや 其先如何になることぞと心
頻に先に進み驚ろくにも餘りある 不思議の珍事に聞惚たり
余は王妃の淫奔なる足下の王位を辱かしめ密夫を引入て
不義不忠を働らきたる罪惡人を誅戮して立地に
讐を報ひぬる足下の處置を快よく能くぞ斯は斷行されしと 稱賛の外あらざるなり
何人か當時に在りて姦夫淫婦を誅戮しぬる足下の處置を 不當なりとて非難するものあらずかし
誠に正しき處置といふべし 此事若し我が身の上にかゝる王妃の擧動あらば我は決して
足下の如く僅に二人の生命を斷ちて 其
忿怒を散ずるが如き温和平穏の處置を以て中々滿足すべくもあらず
我は必らず千人の婦人を屠りて誅戮せざれば決して滿足せざるべし 余は最早
足下が憂愁の悒ぼれ解ぬ 縡の起因を解し得たれば今はしも心配ふことはあらざるべし
其物語を聞てさへ腹立しくも忌はしければ足下をして憂愁の苦惱を免かれしめんとするも
爲し得べからざるの業にして道理とこそ覺えたれ 嗚呼天道は是なるか非なるか
實に足下は生れ得て温和篤實品行方正親には孝兄には悌朋友には信義ありて
露ばかりも惡業を働らきたる事あらざるにかゝる不幸を與へたまふ 誠に奇々怪々の珍事といふべし
余は足下の外に誰かまた恁る不幸に遭遇する者のあるべしとも
思はれず足下が胸に充滿て悒ぼれ解ぬ憂愁を一掃したるに就ても
亦深き原因のあるなるべく开は畢竟 什麼なる譯か詳細に
語り聞せよと再たび問れて西加亞世南は其の原因は兄上の身にかゝりたる 不幸の顛末
云々なりと言出んも心苦しき限なれば
我が身上に附まとう不幸の始末を語るが如く錇卒の間の言も出ず
左や云はん右や答へんと心一つに定めかね
默然として居たりしが斯まで強て問ひたまふ兄の詞を背くべうもあらず
我今語り出でずとも此事いつしか發露なすべしと思へば告ぬも不本意なり
告るもいとゞ難面れど此場に至りて彼是と躊躇なすも栓なしと
思按を定めて兄に對ひ餘りに烈しく問たまへば逃るゝ道もなきまゝに 仰に從がひ物語らんが假令ひ我れ此事を語るとも
兄上決して我を咎め痛くな怒りたまふべからず今兄上我に迫り此事を聞たまひなば
我が以前の憂苦愁嘆に幾層倍の憂苦を惹起し斯る事なら
聞かずもあれ問はずんい置しが優ならんに由なき事を
根問して弟を苦しめ我も亦餘計な苦惱を求めしと必らず後悔したまふな
其場に至りて我が答を否みし事の道理なるを心に解したまはんと云に 西加亞利亞は尚ほ答へて今
足下が言ふ所猶更不思議に思ふなり 我が疑團は足下が言を左右に托して 其
返答を拒むに依てます〜深く我が心急立て止めても更に止まらねば
善惡吉凶何事に論なく寸刻も早く我に語り隠したるを顯したまへ
率疾々と迫立られ西加亞世南は是非なくも 今は包に包まれず先の日
窃に後園にて 王妃 并びに宮女 們が黒人を引入て不行状を働きしを
窓の裡より垣間見たる事又た王妃が密夫の名は
麻斯土と呼べる事まで落なく語りて云るやう 王妃及び宮女
們が憎むべく厭ふべきの其醜行を見たるより
我れ忽まちに以爲く外面如菩薩内心似夜叉
七人の子は生すとも婦人に心は許されず 凡そ婦人は其心常に浮て定まらず動ともすればかゝる惡業に傾ぶき
易きものなれば假令如何なる法律を設け如何なる方法を以て 拒がんとするとも其功絶て無るべし
左すれば男子が婦人を信じ我れ彼れを愛すること厚ければ 彼れ又我れを愛すること我に異なること有まじと我が心を以て彼れを量り
信用するの殊に厚きは男子の弱き心より起りたるの過失なるべしと
悟りて見れば今迄に我程不幸の者あらじと此を思ひ彼を考がへ我から求めて 愁嘆せしは現に大なる過失なりきと思へば
忽まち充滿さる胸裡の憂愁は解散して跡も止めず 烟と消え失せ該王妃の醜行は一旦我に憤怒の心悲痛の情を起さしめしも
前の如くに悟る時は怒るべからず悲しむべからず兄上若し我が言に從がひたまふお心なら
我が爲したる如くに爲したまへと愁然として語り畢んぬ。
西加亞世南が兄の問に答へて餘儀なく語り出たる言語は
至極當を得ていと穩謐に聞ゆるものから西加亞利亞は
弟の語氣を考がへ味はふるに暇なく忿怒の色 面に顯はれ
切齒扼腕して云るやう我が比耳斯亞王國の妃にして 斯る醜行あらんとは言語道斷の至なり
我が親愛なる弟よ足下が今我に對し語りし事の實なるも 我が目前見たるにあらねば少しく疑惑なきにあらず
开も此事たる誠に非常の大事なれば 足下の虚談にもあらざるべし
此事誠に實なりやと眼に角立て詰寄れば西加亞世南な笑を含み
徐ろに答ふるやう餘の事とは變りたる不測の大事を告げまゐらす 故意にかゝる虚言を構へ兄上を欺むき何をかせん
兄上若し此事を目撃したく思ひたまはゞ又鹿狩に行くと言なし 貴族 顯官を從がへて我等は宮中を立出つ夜更を待て
兄上と共に宮中に立囘り密に垣間見たまひなば
我言の僞妄ならぬを悟るは最とも容易の業なりと云ふに
點頭く西加亞利亞は半は疑がひ 弟の言に從がって直に出獵の令を布き
臣下に供奉の用意を命じ獵場に天幕を張らせなどし 準備全たく整のふたり。
其翌日 兄弟の國王 兩個に供奉の羣臣を引連つ 貴族
顯官と諸共に獵に托して宮中を立ち出で 豫て陣取ありたる天幕の中に着し夜に入るまで此處に留まり
既に夜も更たれば時分によしと西加亞利亞は重立たる官吏を呼び近づけ
余は急に思ひ立たることあれば弟と共に出行く程に汝等は我が不在を護り 如何なる事のありとても決して此處を動くべからず
我が歸り來るを待ち居るべし此儀 篤と心得て我が命令を背くべからず
若し之を背くに於ては嚴罰に處すべき旨を嚴重に言渡し 供奉の人を連れたまはず西加亞利亞は弟と共に
馬に跨がり只二人一鞭加へて宙を飛び潛びて 天幕を立出つ急ぎに急ぎて馳せかへるほどに間もなく宮殿に着ければ
密に西加亞世南の部屋に入り潛み居たるを 誰ありて知る者曾て無かりけり
去る程に西加亞利亞は弟が曩に見たりしといふ
小窓の下に立寄りて西加亞世南と共々に身を潛ばせつ 息を殺し窓の戸を細目に明けて覘がひ居るとも知らぬが
佛面は柔和忍辱の菩薩と見せて 心情は夜叉を欺むく王妃宮女は今夜が弟を連れ
獵に出たる留守を奇貨とし誰憚かりの關の戸なる 彼の通用門を押明て後園へこそ入來るものあり
西加亞利亞は瞬たきもせず手に汗握りて見詰居るうち宮女 們は
各々黒人の手を引て笑ひ動搖めき窓下ちかう歩み寄りたる 其の折りに王妃は頻りに麻斯土々々々と續け様に呼立る聲に應じて
一個の黒人樹立の間より現はれ出で其後弟が物語し如く現に
其婦人の夫にして迚も眼前見るに忍びざる醜行を演ぜしかば
西加亞利亞は思はずも嘆聲を發し嗚呼上帝よ上帝は何故
余をかゝる不幸の身となしたまふ賤しむべしとも惡むべしとも 言語に盡すあたはざる嘆かはしさの至なり
かゝる大國に君臨し夥多の臣民を統御なす 人間社會最上の位地を占め王たる此身の王妃が見るにも忍びず聞くにも
堪ざる娼妓だも尚ほ爲さゞる此の醜行を演ずるとは果して
是れ何事ぞや今之を以て見れば國王たる者が富貴に飽き居るに堂々たる宮室あり 出るに車馬
乘輿あり玉を炊ぎ桂を焼き無上の驕奢を極むるとも 幸福を得たる身なりと人に對して誇るを得ず嗚呼我が親愛なる弟よ
死生苦樂を倶にせんと此世は愚二世三世
比翼連理の契約深き妻さへ此の如くなれば
人の心の頼みなき斯までにあらんとは絶て思ひ掛ざりきと言つゝ
弟の手を取て抱き寄つゝ澘と下る涙は雨の如し
弟も有繁に兄の嘆き現に道理とは思へども 道理なりとも慰さめかね我が曩の夜
西麻兒漢土にて此の場合に遭遇したる當時の事を思ひ出し
婦人の心の頼むに足らぬを悟るものから又更に我身と兄の不幸を嘆ずる悲痛の情義胸に迫り
何と詞もあらざりける西加亞利亞は眼に餘る涙を拭ふて弟に向ひ
曩に足下が物語を聞たる時は我が王妃に限りかゝる所業あるまじと
半信半疑の詞を吐しを今更思へば耻かしく今は此世に在るを欲せず
名譽も既に盡果たれば我が尊とき王位を捨て我が廣大なる版圖をも
皆こと〜く放棄して遠く江湖の外に遊び此身の死生存亡を生涯漂泊に委ねんこそ 今の不幸に彌まして中々に心易かるべし
我は此より他の邦國に移り跡を埋めて此身を隠し人の視聽に觸ざるやう 我が身に受たる大耻辱を蔽ひ藏さんと思ふなりと
思ひ入たる覺悟の體を見るより驚く西加亞世南は
兄を諌めて云るやう开を道理には侍れども
假令此の國を立去て御身を秘し玉ふとも 一旦受たる不幸の名を雪ぎ清むる術なければ勞して功なかるべし
此儀は思止まりたまへと再三再四諌めても我が志ざし定まれりと答へて
從がふべくもあらねば西加亞世南は肚の裏に 又つく〜゛と思ふやう斯まで兄が決心したるを我れ如何程
詞を盡し 道理を押て諌むるとも只 徒づらに怒を増し
ます〜兄を苦しめんのみ左では弟の道ならずと乃はち 西加亞利亞に打對ひ既に覺悟したまひつる
兄上の心底を能くも測らで口賢しくも諌めまつりし 愚さよ尚ほ能く思へば宣まふ處
頗ぶる道理に適ふたれば 如何にも仰に從がふて我も王位と富貴を振捨て天涯漂泊の身となるべし
併しながら若し我より不幸なる人に逢ふときは其誰たるに論なく何時たりとも
直ちに家に歸るべし此儀は如何にと問ふ詞を聞より西加亞利亞は
しば〜點頭き現に足下の言ふ如く我等より尚ほ不幸なる人に
逢なば引返し直に家に戻らんとは至極我心に適へり
去れど恐らくは我等の如き不幸の境遇に陥りたる其人物に出逢んこと恰かも
木に縁て魚を求め淵に臨んで獣を獲んとするに
異ならじと言ば弟は頭を振り愚考は兄上と異なり
我が這囘の旅行は甚はだ暫時の事ならんと
兄弟迭に後來の意見を異になすものから
不幸は同じ同胞が旅の準備もそこ〜に元來し道へ引返し
忍びて宮中を立出つさして行衛も定めなき物憂き旅路に出たまふ
左右なすうち夜は明けて寝棲を離るゝ鴉の聲
旭日まばゆく差し昇れば兄弟交々胸裡の憂苦を語り
持て行く开がほどにその日は果敢なく暮果て行惱みたる
行路難不知案内のみちなるに天さへいとゞかき曇り 暗黒の夜となる鐘も初更二更と更染めて黒白も判かね
烏羽玉の咫尺も更に辨じかね淋しき道にいきくれたる
艱難辛苦の有様は筆紙の盡すべきにあらず此夜は木下蔭を宿とし草をしき寝に木根をば
枕となして眠らんと路の傍の大樹の下に横たはりしが 颯々と松吹く風の身に染て憂苦ある身は尚ほ更に夢結ぶ間もなか〜に
假睡もせず悶ゆるのみ夜の明るをば待つ程に鶏鳴近く
聞えつゝ明るに程もあらざれば疾々人里へ出なんと兄弟共に
身を起し足に任せて急ぎ行しが海岸に沿て築立たる堤の上に出たりけり
堤上には青草生茂り左右には大樹繁茂し高く天涯に聳ゆるあり 低く堤上に枝を埀れ蟠腕屈曲したるあり
海面より吹來る風は樹梢を拂ふて囂々たる其音いとゞ
凄まじく昨夜より足に任せて逸走りに走りたる疲勞を生じて
今はしも一歩も運び得ざるゆゑ暫し此處に憩ふはんと兄弟併びて
樹下に坐し海の景氣をうち眺め怨みつ喞ちつ共に倶に 妻の不義を語り出で何故我々
兄弟は斯まで 不幸の境遇に陥りたるやと天を怨み人を恨むの涙痕は拭へど消る間なかりけり。
二人は暫らく此處に相併びて坐を占つ四方八方の物語に思はずも時を移し
海面の景色をうち眺め暫し憂苦を忘れゝ如くいと夥たゞしき物音して 又恐しげに呌ぶものあり
何やらんと透し見るに海面に穴を穿ち波にして波にあちず水にあらざる一道の
黒氣天に朝し大柱を立たるが如く頓て雲間に達したり
二人は今目前に不測の有様を見たるより恐怖の念止みがたく 迂濶々々此處に長居せば如何なる憂目に逢んもしれず去とて
生じ逃出さば彼の怪物に認められん隠るゝこそ上策ならめと
岸破とばかりに身を起し後に高く聳へたる大樹に忙て攀ぢ昇りしは
开も如何なるものなるかと
僅に首を囘らして打ち眺むるに彼の黒柱と見えつる物は
次第に海岸の方に近づき波を蹴立る有様は恐ろしくも又凄まじく 兄弟二人は股戰なき四肢震ふて
樹の上に止まる事のならざる迄に恐るゝ念の増すものから落なば如何なる憂目に逢んかと
一生懸命樹の枝を握りつめつゝ身を忍ばせ尚も様子を窺がふに暫らくありて
此の黒柱は人間に大害を與ふる毒惡神の一つなることを認め得たり
恁て此の黒柱は漸々陸に近寄て堤の上に來ると思へば
忽然化して世に恐ろしき兇體惡相黒色の見てさへ
膽を寒からしむる怪しの大男となりたるが身の丈凡そ八尺餘り
蓬にみだす黒髪は縮れて栟櫚を束ねし如く
眼の光り爛々と鏡を二つ併べしかと疑がふばかり 頬骨の高く顯はれ出たるが何やらん其頭上に
一個の大なる硝子の篋を輕々しげに荷なふたり 其
篋は鋼銕を以て製したる以上四個の錠を掛て堅く之を閉たるが 彼の大男は其
篋を天窓の上に載たるまゝ悠々として
兄弟二人が攀ぢ上りたる樹下に歩み來りて動乎と坐し
仰ぎて二人を瞠乎と見たる眼の恐ろしさ已に怪物に
我が身體を見認られたる上からは噛殺さるゝに
相違なしと早や死したる心地して身も動かさず戰慄き居たるが大男は二人をば
死したる人とや思ひけん一たび見たるのみにて後には 曾て仰ぎ見ず恁て件の大男は彼の硝子
篋を地上に卸し 其 傍らに坐をうつし漸ありて帶とおぼしき腰にまきたる
衣の中より四個の鍵を取出し彼の硝子 篋を打ひらけば
是は开も什麼に其中より顯はれ出たる
一個の美人年の齡は二十三四花の顏色玉の肌
嬋娟婀娜たる其風致は惱める西施泣る虞姫も 羞て影を隠し魚も爲に沈みつべし
姿と言ひ恰好といひ最と尊とく氣高くて王妃といふとも爭でか及ばん 此美人一たび笑ば六宮の粉黛顏色なけん
恐怖の中にも兄弟は世にはかゝる美人もあるものかなと
尚も様子を窺がふに大男の怪物は美人を側に引寄て涎を流しつ
舌を吐き戀々の情に堪ざるが如き面色して美人の顏を右視左視
しばらくして云るやう足下は婦人中の最美なるものにして
世界は廣し地球は大なりと雖ども足下に優る美人ありとは
更々思ひはべらずかし左るからに我が性命を投じ婚姻の夜の乘じて 偖こそ足下を奪ひ去りたり
足下は吾が親愛なる妻なれば我れ足下を愛すること寸刻分時も 忘れしことなし少しは哀れと聞たまへなと掻口説きつゝ重ねて
曰ふやう我れ甚はだ眠を催ほせり我か此場所に足下を伴なひ 斯く急ぎ來りしは少しく疲勞を愈さんためなり
暫しの間 足下の傍にて眠に就しめたまへとて 大男は巨大なる頭を美人の膝に倚し兩脚長く踏のばしたる
踵は海濱にまで達するかと覺へたり此時大男は眠に就き 前後もしらぬ高鼾は海に響き堤に鳴り
其返響は大風の樹梢に咽ぶに髣髴たり。
美人は四方を見廻しつゝ偶然兄弟が怖れ戰慄き樹上に昇りて
潛み居る其の有様を見認たるより手眞似をなして 大男に悟られぬやう静かに樹下に下り來れといふ
兄弟二人は此の美人に招かれて尚ほ一層の恐怖を抱き見付られぬと
思ふものから今更に逃るゝ道もあらざれば此方よりも手眞似して 樹下に下り立つを許せよといふ
美人はやがて怪物の巨頭にやをら手を掛て目覺ねやうに膝より下し起ち上りて
聲いと低く左のみ恐るゝことなければ疾々地上に下り立ちたまへ 妾は決して君達を害するものにはあらずといふ
兄弟二人は尚更に薄氣味わるく恐ろしさに同じ事を幾度となく繰返して
手眞似をなし眠り居る怪神の恐ろしければ地上に下り立つことはしも
何とぞ許したまはれと示すを見て取る件の美人は焦立ちたる有様にて 足下們などで臆病なる
斯まで妾が下よといふは 足下們二人を助けんとこそ思へばなり
去るを尚ほ疑がふて樹上に躊躇したまはゞ怪神今に目を覺し君等を殺すこと
必定なれば目覺ぬ中に分別して疾々下り立ちたまへと云ふ。
兄弟二人は此言葉の眞實自づと顯はれて他事なく聞え殊に 又下ずば怪神目覺て後
噛殺されんと聞くからに今ははや進退谷まり
樹上に在て死を待つより只命運を天に任せ美人の詞に從がふて下るこそよからめと
漸やくに尋思しつ兄弟齊しく徐ろに枝を傳ふて
地上に下り立ち美人の側に近づくにぞ美人は二人の樹上より下立しを見て
深く喜こび右と左に兄弟二人の戰なく手頭を握りつめ 此方へ來ませと怪物の寝たる場所二十
間餘り隔たりたる樹下へ 誘なひゆき二人に向ひて實直たる頼をなすにぞ
始めの程は兄弟供に只恐ろしさの先立て少しも迅く此所を逃れ去らんと
思ふのみゆゑ其頼みを肯ぜざるを美人はいとゞ焦思がり 遂に兄弟を強迫して無理に承諾せしめし後
美人は頻きりに二人の手先を檢ため見つゝ指輪を見付け何とぞ 此指輪をば卑妾に與へたまへとて切に乞て止まざれば
二人は夫さへ否みがたく乞がまに〜其指輪を取出して 二人に示し問けるやう君達は此指輪は如何なる寶玉なるか
貴女幸ひに教へたまへと答ふる詞に美人は微笑み 此等の指輪は皆な我が恩恵を與へたる人々の所有物にして 其數九拾八個あり
卑妾は夫等の恩恵を與へし人々を記臆なして 忘れぬため貰ひ受て所持せるなり
今君達に貰ひ受しも全たく同じ道理にして妾は君達の數を合せ 百の數に充んとすと言つゝ傍の怪物を指ざし
聲を低めて告るやう此の毒惡なる怪神は嫉妬の心殊に深く 卑妾を人に盗まれんを恐れ此なる硝子の筐に入れ
外より堅く錠を鎖し海底深く沈めおきて卑妾を護るに 透間なく注意をさ〜嚴しけれど卑妾は又た彼が術中に在りて
彼を欺むくの術あれば硝子の筐に幽閉られ
浮む瀬あらぬ海底に沈めらるゝも早晩に逃れ出つゝ怪神の隙なき眼を 掠めてはしのび〜に語らひたる其
情郎を數ふれば君達と合せて 一百人指輪の數だけ持ち侍り 君達も卑妾の話しを只輕々に聞きたまふな
凡そ一人の婦人にして心に詭計を巧むときは如何なる夫も欺むき得べく
如何なる男も蕩かし得べく又如何なる情郎たりとも 遂には其身を殺さるゝを防ぎ得るものなかるべし
故に本夫が其妻を壓し之れが不行状を防がんとするは 恰かも其妻に狡猾の詭道を教ゆると異ならず
壓抑の方則嚴なれば逃るゝの道も從がって緻密に渉り
意表に出づと語り終りつ件の美人は兄弟二人より
貰ひし指輪を外の多くの指輪を貫ぬきたる糸に聯ぎ樂しげなる面色して
怪物の傍に歩み寄り再たび怪物の巨頭を我が膝の上に擡げ載せ
二人に早く去れよ〜と手眞似して指示しぬ。
兄弟二王は此時に漸やく虎の腮を脱れ毒蛇の尾を踏み心地して
元來し道へ立戻り跡をも見ずに十町餘り逃延て吻と一息後の方を顧みれど
最早遠く隔たりて美人及び怪物程不信實なる妻を持たる者なく又た彼の美人ほど世に恐ろしき
毒惡の淫婦はあらじと考がへたるが足下の感覺 什麼にぞやと問れて
西加亞世南は答ふるやう如何にも兄上の仰の如く 我も然こそ思ふなり
然すれば彼の怪物ほど世に不幸なるものはあらじ 我等が不幸を彼に比すれば十分の一にも尚ほ足らぬ些少の事と言んのみ
去れば初めに兄弟が約せし如く今既に我れに倍する不幸の人に出逢たる上からは
求めて艱難辛苦を嘗め旅路に彷徨も無益なれば 我等は此所より引返し急ぎて所領に立歸り
又別に改ためて妻を娶るも妨たげなし 假令妻を娶るとも妻の不行状を豫防するの方法なくては適ふまじ
余は既に已に考がへ得たる我が妻をして止むを得ず 其貞節を守らしむるの一策なきにあらざれど明白地には
告げがたければ此方に耳を寄せたまひねと
西加亞世南は兄の耳に口を寄つゝ稍しばし咡やき果て
尚ほ言ふやう兄上は我が言ふ所の手段を用ゐたまふや 什麼に云に點頭く西加亞利亞は
弟の詞に從はひて其策極めて妙なれえば我も左なすべしとて
兄弟共に足を早め曩の夜天幕を張たる場所に無事に歸り着たるは 此天幕を立出てより第三日目の夜なりけり。
從者は曩の夜さり國王二人天幕を飄然として立出たまひ行先をも告たまはず
殊に留守を堅く守りて必らず他出すべからずと嚴重に言渡されしゆゑ 其
天顏を拝せしより群臣の喜悦は如何ならん 天幕の内外に立列び祝賀の意を表したり
西加亞利亞は羣臣の祝賀を受て天幕の中に入り 從者一同に休息すべきの由を命じ前日に變りて殊の外
欣喜しき 顏色をなし暫らく群臣を遠ざけて密談數刻に渉りし後
思ふ仔細のあるなれば都合に依りて這囘は遊獵を見合すべし 就ては是より首府へと歸るの用意をなすべしと
夫々の向へ令を傳へ歸路の支度の整のひたれば西加亞利亞は 弟と共に府中の宮殿へ歸り着たり。
是より先き西加亞利亞は王妃の罪を糾さんため前夜重立たる 役人に命じ既に王妃を捕縛おきたれば今
西加亞利亞が弟を 伴なひ宮中に歸りて王妃の部屋へ入たる時は哀れむべし
王妃は我身の罪惡にかゝる絏紲の淺ましき麻繩もて宮中の柱へ確乎と
括り付けられ國王を見て怨めし氣に首を埀て解語ず
愁然たる有様は正に是海棠の雨を帶び筒に挿たる牡丹花の水あげ兼し
風情にて匂ひこぼるゝ黒髪の肩に掛るも妖嬌に春の柳の糸埀て 人を招くに髣髴り
西加亞利亞は眼を瞋らし王妃を[激,さんずい@石{[]](はた)}と
白眼つ怒れる聲を振立て一々其罪を責め重臣に命じて絞罪の刑に處すべしといふ重臣は
畏こみて起も上らぬ王妃をば捕吏に命じて牽けといふ無慙なるかな
王妃は姿の花も心から夜半の嵐に吹き萎れ天羅脱れず
縛めの索にひかるゝ姫百合や何よ鳴子の音に騒ぐ雀色時ならなくに見る眼は暗き
孫廂引立られつ追立られ廊下傳に惆然と刑場へこそ 歩み行く屠所の牛羊釜中の魚三寸息絶れば事みな止ん
果敢なき者は命なり 既にして刑場へ到着せしかば重臣は下司に令を傳へ王の命に是非なくも
王妃を縊り殺しつゝ右の由を復命したり 去程に西加亞利亞は王妃一人を誅せしのみにて
忩:怒は尚も靜まらず再たび法官に令を下し 王妃に侍づく宮女をば殘らず捕へて獄に下し
罪の有無を能くも糺さず國王自から手を下して宮女の首を刎たりける
實に此慘状は爛漫れたる海棠を無情の嵐吹きさびて
花を散しつ枝を折り塵埃に委ぬるが如く憫れといふも無慘なり
西加亞利亞は怒に任せかゝる酷烈の處刑をなし少しは腹を愈せしが
此後婦人たる者の不忠不義を行なひたるとき之を罰し之を懲すの良法なくては
再たび王妃を迎ふるとも又もや國王の尊嚴を損なふ事のありもやせんと 種々に工夫を凝せし末 竟に左の法律を設けたり。
王妃の王位を汚辱するが如き不義不忠の事を爲さしめざるため 毎夜王妃を娶り一夜の夢を結びし翌朝
直に其王妃を縊り殺し 夜毎に王妃を娶り毎朝之を縊り殺す事
西加亞利亞は已に此の古今未曾有前代未聞なる酷烈の苛法を設けたれども 弟
西加亞世南が本國へ歸るの後之を實施せんと心の中に構へ居たり
西加亞世南は兄の許に音信來りし其日より
種々の不幸に逢ひ様々の不愉快ありたるため此等の妨碍に阻せられて
長く滯留に時日を經過り本國の政治も心許なく頻りに 兄に暇を乞ひ歸着なさんと言出しを兄も名殘は惜けれど
其意に任せて再會を契り珍寶奇器の贈物は山の如く丘の如く
郊外まで送り行きいと懇切なる管待を深く謝しつゝ
西加亞世南は兄に別れて比耳斯亞國を跡に見顧り 旅の空本國さして出立せり。
西加亞利亞は弟を其本國へ送り歸しぬれば豫て思ひ定めたる
新設の法律を施行せんと重臣に命じて國内に布令示し平民の娘にして 其美色あるものを撰び王妃に捧げたてまつるべき嚴酷の令を四方に下し
尚ほ臣下をして此處彼處を捜索せしめ美麗なる娘あるときは
國王の威權を以て其父兄を強迫し直に宮中に迎へ取て王は一夜の夢を結び
翌朝之を臣下の手に渡し無慙にも縊り殺し斯すること數十回群臣皆な
眉を顰め額を病して罪もなき少婦を殺すの不仁なる桀紂だも
猶爲さゞる王の惡行を嘆息し爪弾きして厭ふものから國王の命令を背くべくもあらずと
野蠻卑屈の心より誰とて諌め爭そふものなく命令を奉じて唯々諾々
只管國王の怒に觸れ自己もかゝる殘酷の處刑に遭遇せざらんことを
希圖するの外他事なかりき或る時一人の重役は国内を捜りて最と
艶麗なる少女を誘なひ來りつゝ國王の妃に奉まつりしを
少女は豫て翌朝になりなば命を取らるゝと知るからに
花を欺むく顏色も愁を含みて泣腫せし瞼もいとゞ重たげに
玉の褥綾の床翠帳紅閨金殿玉樓 人間世界の極樂も今夜を限る蜻蛉の短かき命と思ひ見れば
針の筵劔の山に追上さるゝ心地して 恐ろしくも又耻かしさに夢結ぶ間も情なや
東の天の白み來てばや明近く鳴渡る鐘は冥土の迎かと 今夜は特に短かきを覺え翌れば閨より
引出され仁も義もなき西加亞利亞が無殘の刄に
少女の首は軀を放れて落てんげり。
實や好事門を出でず惡事千里を走るの道理此の評判の忽まちに全國中に擴ろがり 誰知らぬ者もなく府中府外
遠邇を問はず民間には寄ると障ると 此事をのみ噂して家々には唯悲痛怨恨の聲滿ち曩には仁君と尊とみ敬まひ
明君賢主と崇めしも今は變じて暴虐無道殘忍不仁の暗君となり 我々人民を苦しめたまふ
开も今代の國王は鬼か人かと恐れ戦慄き
娘を持たる親の悲嘆歎くもあり罵るもあり見るに忍びず 聞にだも堪ざる程の慘状なり
案下休題爰に亦此國の宰相 某甲なるもの國王が暴行を
嫌厭し面て冐して幾囘か諌を入れど
容れざるより折もあらばと引籠り思按に光陰を送居たるが此宰相に二女あり
姉を世邊羅亞土妹を爾那兒亞土と呼
姉は勇氣を具て果斷活齑其智略に富たり 妹は天性怜悧にして才徳を兼備へ世に得難き賢女なれば
父もつねに決せざる事は姉妹に謀る位にて愛情も從って親密なり
就中姉は書を讀を好み偏く群書を渉獵して
一たび讀たる事柄は細大となく記臆して忘るゝこと絶てなく 哲學究理學理歴史文學論學彫像學音學等の如きは尤も其長所にして
奥妙を推究し啻に才學の萬人に傑出したるのみならず 其
顏色の美麗なる雪をも玉をも欺くべき如何なる妙手の畫工の筆にも
如何なる文章家にものさするとも能く其風致を寫すべうもあらず 天より禀得し性中に就き最も尊とみ稱すべきは 百 折千
挫屈撓せざる節操徳義の二ツなり
或日 世邊羅亞土は父に向ひ威儀を改ためて云るやう 卑妾は父上に折入て懇願したき事の候ふ
父上果して卑妾が懇願を聞入たまふやたまはぬやと問ば
父は答ふるやう何事の願かしらねど道理に適し事ならば何條拒むの故あらんと
承諾く詞に世邊羅亞土は 喜悦の色 面に現はれ卑妾が願は余の儀に非ず
吾身を犠牲にして國王の暴虐非道を押留め苛法を破りて
國民の疾苦を救んと思ふのみと決然として言放ちし娘の詞を聞よりも 父は之を危みて云く汝が其
企圖は身を殺して仁を爲す 實に仁者の行爲なれど國王が今囘の暴行苛法は我に於ては
左ても右ても治療の術なしと考がふ 汝は亦如何なる手段ありやと問返されて世邊羅亞土は
莞爾と笑て去ばなり我國王は父上に仰て娘を求めさせ 毎夜新婚を爲したまふと聞く
左るからに父上は卑妾を媒介して 國王の玉閨の傍に侍づかするを得せしめ玉はゞ
苛法を破り萬民の疾苦を即坐に救濟せんと卑妾が方寸の中に在と
從容として説出たる娘が願意を聞く父は一語々々に驚き呆れ
我子ながらも大膽なる其心情を測りかね色蒼ざめて身を震はせ暫し言葉もなかりける
畢竟父は世邊羅亞土の願意を許すや許さざるや 將亦賢婦
世邊羅亞土は什麼なる事をや言出る
开は次の卷は分教べし。
更新日:2004/04/23
アラビヤンナイト物語 : 其二
其二
却って説く宰相は娘 世邊羅亞土の義に勇む健氣な詞を聞よりも
忽まち形容を改ためて涙に曇る憂苦の聲を發して云やう
今汝が云ふ所ろ道理あるに似たれども其目的の危險きのみならず
其策極めて過まりて汝は才智ある者ゆえ其處等に如才あるまじく
如何に詞を巧みにし道理を責て説とても斯る危險の業に
其身を擲うつを我れ若し汝の請を許し國王の玉閨に侍づくを
得せしめんに國王は豫て定めたる苛酷の法に遵がふて
余に我が帶たる短刀を以て汝の胸を裂よと命ぜば哀しいかな君臣の間其君命を否むに由なく 命のまに〜汝が胸を裂ざるべからず
若し然らんには親として手自ら我子を斬害なすは 刀下に死する汝より手に掛け殺す親の心は果して是れ如何ならん
胸破れ膓斷れ地獄に堕て牛頭馬頭の鬼に責られ 身體を寸斷にさるゝも啻ならず
左るを汝は顧みず我が身を殺して君の爲め國民の爲めに仁を爲し 死する命は惜まずとも親たる我が此の兩手の先へ汝が血液を染るが如き
不幸の境遇に陥らしめ死するに優る幾層の苦惱を與へて以て快々とするや
篤と思慮したまひねと涙ながらに説諭せば
世邊羅亞土は低伏たる首を擡げて云るやう
慈愛も厚き父の仰背くべうはあらざれど此※[此時?]ばかりは卑妾が胸に思ふ
仔細のあるなれば仰に戻りて飽までも願ひ上げはべるなり 何とぞ許させたまへかしと言せもあへず宰相は忽まち顏の色を變へ聲も鋭どく怒を帶び
嘆息なしつ偖云ふやう余は餘りの汝が執拗なるに 驚ろき且少しく怒らざるにあらず
我れ斯までに詞を盡し道理を責て説諭せど露ばかりも聞入ず
飛で火に入る夏虫の我から刀下の鬼となり天より禀得し身體を
何故に殺さんとは爲したまう日來の怜悧に似氣もなく 此
思慮の愚さよ凡そ人間は危險の企圖をなすとも 能く其結果を見せざれば必らずその身に幸福を得るものなし
爰に驢馬に付て物語るべき一條の話頭あり
此の奇談は實に汝を諭し汝の心に悟らすべき一事にして汝が頂門の一針なるべし
汝若し我言に從がはずは彼の驢馬と同一の結果を見るなるべしと
余は憂慮に堪ざるなりと言れて世邊羅亞土は問けるやう 其驢馬は如何なる不幸に逢たるや疾々語り聞せたまへと
迫る様子を見てとる父は爭で娘を諭さんと詞を和らげ云るやう
汝若し我が言ふ處を聞かんとならば我れ物語り聞すべし能く此の話を味ひて
驢馬が不幸に逢ぬる顛末を悟らんことこそ望ましけれ。
茲に一人の最と富有なる商人ありけり
處々に多くの別荘を所有し又種々の家畜を數多く畜なひて何不足なく暮しけるが
或時田地のことに付て但在る村落の別荘へ妻子と倶に引き移り 何角の用を達し居たり
然るに這の商人は如何なる方よりか傳はりけん
不思議にも鳥獣の言詞を解する術を知ることさへも 深く包隠みて云はざりしが折しも夏の始めにて
天氣殊に麗らかなれば彼の商人は子供を連れ裏手なる小屋の近邊に行き
菁蒼として生茂る夏草の上の腰打ち掛け最面白氣に遊び戯むる 我が子供 們を眺め遣りて餘念もなくありし折
忽まち後ろの方に當りて頻りに話し聲の聞ゆるにぞ誰なるらんと振囘り 見れども更に人影なし
這は不審しと耳を欹だて能々聞ばコハ什麼に
人にはあらで彼の小屋に日來よりして飼ひ置きたる一疋の牛と驢馬なるが 如何にも面白き様子なれば近く寄りつゝ側聞に
牛は驢馬に打ち對ひていと不平の色を顯はし 實に貴公ほど世の中に幸ある者はあらずかし
毎日何の爲すこともなく偶々仕事のあればとて 何れも最易き業のみなり
また夫のみか穀物を食ひ飲料には清水を用ゐて 身體は毎日洗ひ清め只 畢生の大仕事と云ふは
偶々主人の他行する時 开と乘せ近路を走るに過ぎず 實に只平々易々たるのみ
夫に引かへ俺們如き果敢なきものは世に在じ 什麼なる前世の業因にや
東方漸やく白み初め横雲空に靉靆きて 八聲の雞の啼ふ頃より
結びも敢ぬ夢を破られ夫より終日野に在りて
追ひ使はるゝ光景は地獄の鬼の責苦にも増すとも爭で劣るべき 頓て日暮れ星出て初めて其の日の仕事を了り身體
宛ながら 綿の如く寸歩も運歩び難かるを心なき牛飼等は 只
鞭韃を以て責めはたり犂にて
十分摺り脱たる腰の邊を無慚にも打ち撲かるゝ痛さに
堪へ兼ぬ足を曳摺て小屋へと歸れど却々に
身體を洗ふは思ひも寄らず僅かに味なき乾豆を少し許貰ふのみ
又他の食物あらざれば餘儀なく咽喉の乾干くまゝ 水も碌々得飲ず最堆高く重りて臭気殊に
堪へ難き糞の裡に横たはりて秋の夜長も立通す其苦しみは如何ばかりか 少しは思ひ遣りたまへ
此の故を以て貴公をば此上なき幸ひの者となし羨やみつ 又嫉みしも決して道理なきにはあらじ
貴公は什麼思ひたまふと涕打ち埀して語りくれば 驢馬は頻りに嘆息し貴公の述懐 道理なり
去りながら農夫們が貴公を馬鹿畜生と罵るは 畢竟貴公が常に超え温良柔順を旨となし
假令如何的様の目に逢ふとも 唯々諾々と怖れ從隨ひ絶て勇氣の有ざれば
彼們は是を好き事として益々貴公を耻かしむ 是亦自然の道理なり
貴公は什麼に思ひたまふて情知らずの農夫們が
安樂利益の其の爲に斯くは身躰を勞したまふぞ 假令如何程勞せしとて無神經なる彼們ならば
報酬は究めて無るべきに身を動すこそ愚なれ 是より少しく勇氣を顯はし田圃より歸りし時は
角もて荒に荒れ出し農夫の一個もかけ飛さば 彼們はなどか驚ろかざらん
斯く爲したらば彼等をして貴公を怖れ敬ふの念を起さすのみならず 以來は慘く使用ふまじ
又朝夕の食物に從前通り乾豆や惡き藁など與へなば 同じく前足を地に踏み込み一聲高く咆哮たまへ
必らず彼們は怖れ惑ひて貴公が心のまゝになし 今日羨みし俺が榮華も日ならず貴公の身にあらんと
懸河の如く滔々と理せめて説き出たる驢馬が言辭に 彼の牛は感嘆の外更に他事なし
其の忠告を喜び聞えて更に驢馬に打ち對ひ實に貴公の説くところ 一々胸に的中して初めて夢の醒たる如し
是より貴公の言辭に從ひ形の如くに爲すべければ 其の結果は如何ならん
意を注て見たまふべしと云ひ終りて 其の後は更に何の言辭も聞えず樹梢に蝉の聲のみすれば
彼の商人は殘りなく二獣の對話を聞き取りて片頬に笑を含みつゝ
子供を引き連れ靜々と別荘の裡にぞ入にける。
斯て翌朝に至りければ農夫は例の如く牛を小屋より引き出し
[犂,牛@木{[]](すき)}に縛りて追立〜田圃を投して出行きたり
然るに牛は驢馬よりして昨日云れし事あれば野に出ても働かず種々農夫を
苦しめしすゑ頓て暮昏になりしかば農夫は其の日の仕事を終へ
牛を連て歸り來り其の儘小屋に繋がんとするにぞ牛は此所ぞと心得て
前に驢馬の云ひたる如く前足を立て角を振り農夫を目掛て
飛び蒐らんず最と凄まじき容體なれば農夫は驚き慌忙つゝ 漸々にして繋ぎ留めそこ〜にして出行きたり
斯て其の翌朝に至り農夫は又例の如く牛を追んと彼の小屋に來りて見れば
昨夜與へし乾豆は小屋中一面撒き散して一粒だにも食たる状態なく
敷たる藁も其の儘にて絶て觸りし光景も見えず牛は遙か脇に在りて
兩足折て伏して居り其様如何にも病疾ある如く見受けたるにぞ
有繁心なき農夫なれど病たる牛を追使ふは情の忍ばれざる所ありしにや 強牛
引出さず立歸りて主人の商人に斯と話しければ商人は聞て
打點頭き偖は曩に驢馬の爲に説き付けられて其の氣になり
斯は農夫を欺むきけめ惡む可きは彼の驢馬なりヨシヨシ嚴しく彼を罰して
其の非を後悔なさしむべしと心の裡に思ひ定め彼の農夫に吩咐て
牛の代理に今日一日驢馬を使用ふべしとありければ農夫は委細心を得
頓がて彼の驢馬を引出して牛と一般く[犂,牛@木{[]](すき)}を縛り
田圃に出で朝未明より息もつかせず追立〜少しく躊躇する時は
鞭もて尻を強く打ち最も緊しく使用ひしかば驢馬は仕馴れぬ
業をして疲勞殊に甚太しく珠なす汗を流しつゝ
喘ぎ〜働きたる兎角するうちに炎るが如き天日も早晩山の端に傾むきて
田面をわたる夕風に晝の暑さを忘れつゝ頓て小屋に歸り來り
驢馬を追ひ入れんとなしたりしに晝間の疲勞の餘りに強く
足もしどろに潰れ込み再び立も得上らず牛は獨り小屋に在りて思ふが随意に喰ひ散らし
靜かに休足して喜び大方ならざる所へ斯る體にて歸り來りし驢馬を見るより 笑を忍び流石
貴公の忠告丈け計略全たく其の圖に中りて今日は生れて
甞て見ざる此上なき樂をいたしたり夫に引きかへ貴公は又常に
傚馴れる仕事をして嘸な疲れたまひためと微笑つゝ云ひ掛けしに
驢馬は何の答へもなさず只顧胸の裡に今日圖らずも
理不盡に斯く辛き目に逢はせられしを返へす〜も口惜しく思ひ 霎時默然として居たりしが稍ありて牛に向ひ
俺が今日の幸なきは皆な俺が胸に先見の明なきよりして 起りたれば身をば恨みて人は怨まじ
久しく受し榮曜榮花に心 奢りのせられしまゝ 盛者必衰の理を忘れ行て再び歸る事を知らず
怠慢の心起りしより斯は今日の困苦に遭ひぬ 是みな偏へに俺が罪なり
俺れ倘し此の困苦を免がるゝ道を發見し得ざるときは
未來永劫の困苦はみな是れ自業自得なりと云も終らず
絶え入りて更に心地なく片息になりて呻吟き居たりぬ。
と話説し終りて宰相は娘 世邊羅亞土に打ち對ひ 今
俺が語りし這の話説は甞て他人より聽きたりしが 中に警誡の意を含みていと面白かりければ
今尚ほ記臆えて些とも忘れず卿は彼の驢馬の光景を 什麼に聞き取りたまひしぞ人口
先見無き時は 又た此の驢馬と異なることなく殃禍踵を旋さゞるべし 今
卿の請ふところは實に先見なきの極にて
忽ち其の身を白刄の錆と隕すのみかは此の父を悲嘆の病痾に沈まして
死せしむるは目前努々我が言辭に從ひて行先永き若草の
葉末の露の玉の緒を斷を急がず村肝の心を
臍に落着て俺が云ふことを能く噛み分け後にて悔の 百千度及ばぬ縡を爲ぬうちに必らず
思ひ止まりたまへと老の一心子を思ふ闇に涙の雨注ぐ膝の上には 時ならぬ玉の霰を連ねたり
娘は聞て打萎れ斯程までに妾のことを思して只顧止めたまふ 其の御
言辭は一々に胸にこたへて有難く思ひ止まりたくは侍れども 今
目前國民の周ねく嘆を見るに忍びず數ならぬ身を危ぶみて 國の憂苦を除かんと思ひ立ては却々にいと
畏氣なき事ながら父君の仰も背き侍る喃願くは
妾を以て急ぎ御殿へ出たまひ妾が懇望を
國王へ何卒言上して給と
思ひ込んでは却々に止まるべうも見へざれば父は最太ふ 困じ果て俺斯程迄に道理を責め諭せども
聞入れねば今は諌むる言葉もなし 只彼の先の商人が其妻を扱かふたる同じ方法もて 俺も亦
卿を扱ふの外なかるべし 今其の話説を語るべければ心を靜めてよく聽ねと
眼に持つ涙押拭ひ言辭靜かに語り出たり[。]
却説も彼の商人は驢馬が殊の外倦み疲れて半死半生の體なりと聞き
猶も其の容子を探り見んと晩餐を仕舞ひし後妻と共に 別荘の裡を出て小屋の方へ向ひしに折しも
一輪の明月山の端よりさし上り隅々までも隈なく照し宛ながら
白晝に異ならず門邊を流るゝ細溪川の
水面をわたる涼風の衣の袖を吹返して白晝の暑さを
忘るゝばかりなれば兩人は小扇の邊を 彼首此首と漫歩行しつゝ
彼の商人は左あらぬ體にて小屋の方へ 耳を傾け容子 什麼に側聞くに驢馬は少しく
囘復しけん牛に對ふって語るを聞けば貴公明朝彼の農夫が食物を持て
來りしならば如何做たまふ心得なるや語りたまへと 問ひかけられ牛は少し考へて俺とても如何して宜らんか
左せる思慮はなけれども貴公の曩に教えられし 彼の如りに爲さまく思へり
左れば明朝彼の農夫が食物を持て來るを待ち 开が側へは寄らずして只遠くより角を振り立て
先づ其の膽を挫ぎ置て再び病氣の状を爲し今にも死なんず 眞似を爲しなば什麼あらんと云ひければ驢馬聞て
眉根を寄せ俺れ俺れ今日 貴公の縡につき一大事を聞き得たり
开は御身の性命にも拘はる程の縡なりと
何となく底氣味惡く云ひければ牛は連りに急焦立て
开は又如何なる縡のありしぞ包ゝまず語り聞かせたまへと
只管問ふて止まざれば驢馬は傚て遣たりと思へども 絶て色にも現はさず聲を潜めて云ひけるやう先程夕方のことなりしが
主人が農夫に語るを聞しに彼の牛も斯様に物を喰ずしては迚も農業には使用ひ難し
左るからは生け置くとも何の用にも立ざれば明日は寧そ彼を殺して 肉は近邊の貧民に施し皮は自分の用に供へん
明日は早く屠牛者の家に至りて呼び來れ 早速皮は柔革者へ廻し遣らんなど細々と語るを聞て打ち驚ろき
直様貴公に告んとは思ひしかども身體の疲勞の 強かりし故
今まで貴公に告ざりし斯云ふも貴公とは
日頃懇意の中なれば知らして危急を逃るべき手術を共に計らまほしく思ふ心の 一
杯より斯は明白に打ち明けぬ 夫につき俺が思ふには明朝農夫が食物を持て來しならば
起上りいと快よく食したまへ 左すれば主人も貴公の病痾平癒せしと心得て
貴公を殺すの相談は頓に止んこと疑ひなし
若し俺が云ふことに從はず屠所に曳るゝ場になりて悔ゆとも却々及び難し 能々考がへたまひねと心あり氣に語りけり
驢馬の話説に彼の牛は驚き騒ぐ事一方ならず聲を放って鳴きければ 先程より聞居たる彼の商人は聞く事々の餘り可笑さに堪へ兼て
思はずホヽと笑ひ出しを側に在たる其の妻が不審に思ひ 何故に笑ひたまふと問ひければ商人は頭を打ち振り。
イヤ吾妻是の事だけは其の理由を問ずと置ねと
脇を向き問はずもがなと思へども妻は益々不審に思ひ頻りに問ふて止ざれば 商人は困じ果て我が笑ひしは餘の議に非ず
今此小屋なる驢馬と牛が話して居たる其の事の非常に可笑しかりければ 思はずフツと噴き出しておん身の怪訝を惹き起しぬ
話説の分解は故ありて如何におん身が尋ぬるとも 決して語り聞し難しと聞て妻は不興氣に年來連添ふ
此の妾に何故左程隠したまふと少しく怒りの色見ゆれば
商人は益々困じ倘し此の事を少しにても おん身に語り聞す時は俺が性命の即坐に絶えなん
夫故おん身に語らずとの答へに妻は色を變へ 我 本夫には妾を捉へ愚弄りたまふ
お心か左らずば今迄 宣まひし彼の事共は詐か 假令秘密は話したまはずとも二獣の間の
話し丈け語りて妾が胸の裡を晴さしたまへと云ひながら 足音あらく家の内に閉る折戸の音高く其の儘 室の隅に至り
聲を放って終宵泣き悲しんで止ざれば 商人は其夜 臥床の上に獨り寢の夢を結び
翌朝起出て妻の分野は如何あらんと彼の室の隅へ至り見るに
昨夜のり猶止ず怫然として見えければ商人は言葉を和らげ
婦人は愚痴な者とは云へど斯る些細の縡に依り 左程怒りを發すること餘り愚かな仕業にあらずや
抑此の事はおん身に取りて實に些細なることなれど
我に取りては性命に係る一大事にてあるなれば是ぎり奇麗に 怒りをおさめ此の後は斯る益なき事に心を勞するは廢たまへと
調和むる本夫の言葉を聞ず斯程までに 思ひ込んだる聞たる縡を徒ずらに聞で過なん
苦しさは身を切らるゝより猶ほつらし彌々話したまはずば
妾は晝夜泣き呌びて愁を遣るの便とせん
商人は是を聞て假令おん身がいかばかり泣つ怒りつ 口説くとも齒一枚が生死の境構へて口外なし難し
然るにおん身は何時迄でも我意を張りなば末終に 开が爲め命を果すに至らん
行て囘らぬ冥途の旅へ啓行する其の前に 子供等の顏を見て置んと早速人を走らせて妻の兩親兄弟より
親類眷族を殘りなく皆な此の別荘へ呼び集へ
一坐の中には商人は此囘の譯を委しく話し離別の爲に招き寄しと云へば
一同興醒顏にて左る些細なる事を根に持ち子供の如く 我慢を張るは内室の方宜しからずと
異口同音に述べければ妻は一同に打ち對ひ何れも
左様仰せらるれど妾は一度思ひし縡をやはか徒づらに 止め侍るべき我妻
彌々彼の秘密を語りたまはぬとあるならば
露の命は惜まじと思ひ込んで云ひければ父母は共に言葉を揃へ其方が聞まく
欲する事は何も益なきことなるに何どて斯く迄我意をや張る早々思ひ止まりねと云ふ
傍より子供等は母の顏をば打ち眺め常にかはれる憤怒の相に 如何なる故と云ふことを知らず
只怖ろしさに堰き上げてヨヽと泣くこそ憫れなる此の時商人は 宛ながら氣抜したる人の如く只茫然として在りけるが
素より妻を愛するの情深かりければ今は早詮方なし
寧そ己れが命を捨るも妻の性命を助けんと思ふ心は 早晩に表面の色に現はれたり。
爰に此の商人の内い雌雞五十羽
雄雞一羽と一疋の家守る犬を飼ひ置きけるが
此日商人は妻の爲に彌々命を隕さんと思ひ極めしも 今更に後のことなど想ひ遣られ頻りに心を惱ます折しも
庭に小虫を啄み居たる彼の雄雞の其側へ走り來りし
守盗の犬何やらず耳引っ立て聞とはなしに語るを聞けば
犬は雄雞に打對ひ和主は
近來此の家に勃興ったる騒動の事の起原を
知って居るには這はお互ひの生活に影響を及ぼす縡にしあれば 他事には見過し難し
今もし是を救はざれば後に至りて詮術なしと云へば
雄雞は打ち驚き俺は絶て斯る事を聞かず
お互ひの身に及ぶと聞けば爭で等閑に過さるべき 疾々語って聞しねと云はれて犬は得意顏
和主は未だ知らざるか 具さに語り聞すべし
如何なる事かは知らねども我等の主人が性命に掛て誰にも口外なし難き一 件の
秘事を早晩夫人が嗅ぎ出して 何でも語り聞したまへ左らずば妾は死に侍らんと
和理なく云れて日頃より深く愛する我が妻を殺すは却々忍び難し 寧そ我が性命を斷なんと
我等が主人は既にはや心を決めたまひたり 如何に女房が可憐とて由なきことに
貴重なる命を捨るは愚痴ならずや左れども最早今になりては 命を助くる便なからん
我們此の事に驚かずして復何をか驚ろくべき 和主は差して此の縡を大事と思はぬ面相なれど
一旦主人の死したまはゞ一家忽ち分散して我們も何國へ流浪ふやう 向ふは全たく見え分ず
然るを和主は悠然と驚かぬは是れ如何なる故ぞと問ひ掛けられて
雄雞は今まで頂埀れし頭を擡げ
カツ〜と兩三聲嘲笑ひ禽類の我等でさへ
五十の妻妾を統べ治めて毫も苦情を云はしめず去るを 萬物の靈長たる人間ほど世の中に愚かなる者はあらずかし
倘し主人をして俺が妻妾を統御するの術に傚はしめば 其の功
立地に顯はれて今の心配も
忽ち煙の如く消え失せんと雄雞が慨嘆の話しに 犬は頻りに小首を傾むけ如何にも和主の説の如し
开は兎も角も差掛り主人の危急を救ふべき術とは 餘の義にあらず
主人先づ妻の部屋へ到りて緊しく四方を立廻し手適の棒を振り上て
滅多打に打のめさば妻は必ず吾に返りて忽まち我が身の非を悟り
再び本夫に秘事を語れと迫ることあるべからず
都て女子と云へるものは弱身を見すれば増長し強く當れば忽ち屈す 是れ通例の人情なれば我が言葉の誤まらざる事
聢かに請け合ふ所なると 最誇り顏に説き示すを先の程より耳を澄し他事を忘れて聞き居たる彼の商人は
ハタと掌を撲ち吁嗟俺ながら鈍ましかりき
雄雞の説最も妙なり左なり〜と獨り點頭き
手適の棒を携へて直様妻の部居に至り 物をも云はず左手もて妻の襟髪
無手と掴み持て來し棒を 振り上げて情用捨も有らばこそ所嫌はず滅多打に
ハッシ〜と打ち据ゆれば妻は苦しき聲を揚げ嗟痛や吁苦しや
我が夫御慈悲に宥させたまへ最早構へて我意を張り云ひ聞されぬと宣まふ縡を
決して尋ねまいらせぬ程に請願宥してたまはれと兩掌を合せ伏し拝む
其の容子何にも本心に立返りたる如く見ゆれば
商人は漸々手を止め執へし襟髪放ち遣れば妻は嬉し氣に外面に出で
最心よげに來合せたる隣舎の細君と談話などし
再び家の裡に來りて本夫に向ひ幾度か我身の不心得を
太く詫び是より家内に波風なく初に倍して睦みしとぞ。
宰相 某甲は永々と右の談話を語り終りて
再に娘に打ち對ひ卿が我意を云ひ張りて俺が言ふことを
聞入ず是非に毒蛇の潛みたる淵に齊一して王宮へ
老先短かき俺を捨て行んと云ふは恰かも是れ 今 談話したる商人の妻の所行に異ならず
左れば卿の心次第是非にとあれば詮方なし 彼の商人が用ひたる手荒の處置を行なひなん
卿の心は如何にぞと云へど世邊羅亞土は騒ぐ色なく
妾が斯まで我意を張り父上の命をも悖りまつりて
是非に行んと申し侍るは努々商人の妻の如く 我が情慾を達せんとの淺墓なる心得ならず 只
國民を濟はん爲め貴き性命も顧みず
身を犠牲に供へても君王が荒ふる御心を和らげまいらす心なるを
斯る架空の話説もて止めんとしたまふともやはか止まり侍るべき
今父上に話しまいらせ妾が望みの道理なるを悟らせまうす
話説あれど縡長ければ暫らくおき妾が心の切なるを聞て 願を許容させたまへ
假令父上如何ばかり今更止めたまふとも已に決せし妾が心を 飜へさんこと最難し
彌々父上恩愛の絆に曳れ妾が身を放ちたまはぬ御心なれば
餘儀なく妾は只獨り君王の御前に罷り越して日頃の望みを達すべしと 思ひ込んだる娘の言辭に宰相
某甲も今は早云ふべき縡もなまよみの 甲斐なき縡を幾度か繰り返すとも其の詮なしと思ひにければ
胸を定め斯程までに思ひ込だる卿の心を見るからは俺も今更止めまじ
俺は直様我が君の御前に至りて此の由を申し上んと云ひ畢り
己れが部屋へ立歸りて登城の用意を爲すうちも翌日は娘が敷皮の上に直りて
果敢なくも白刄の露と消え失んと思へばいとゞ浦悲しく漫ろに
涙せき敢ず悲嘆に時を移せしが漸々心を取り直し千萬無量の
胸の裡表面の色に現はるゝを皺に隠して萎々と王城差して 赴むきたる心の中こそ憫れなる[。]
再説宰相 某甲は王の御前へ罷り出で娘が切なる願望を述べ
君さへ宥したまはらば明日の夕刻伴なふて後宮のうちに加ふべしと意外の言葉に 西加亞利亞は驚ろきたまふこと大方ならず
宰相に對ひて宣まふやう朕れ曩に制定を定め
后妃は總て一宵の枕の塵を拂はせなば翌日の日影の昇らぬ間に
草葉の露に先だちて果敢なく殺す其の仔細は卿も知りて居るべきに
今最愛の娘を捨て願ひ出るは故こそあらめよも其の方が心より出し縡にはあらざるべし
包まず語れと仰せたまへば宰相は額を着きいかにも勅錠の通りに候ふ 此の事
愚臣は初より及ばぬ空の雲の上思ひ止まるべしと諌しかど
娘は却々聞入ず是非に短かき一夜なりとも君王が御褥の端を
汚さば仮令其の身は死するとも絶て心に恨はせじと思ひ込んで
愚臣が止むる言辭も聞入れず自ら御前に罷り出べき
氣色の見ゆるに詮方なく愚臣斯は參内せり 此の事
宥許させたまふにやと云へば王は點頭きたまひ 娘が心此の如く決せしからは止むとも止らじ 兎に角
明日伴なひ來れ 望に任せて予が寢間の枕の塵を拂はせなん
去りながら先に定めし法律をば卿が娘の故をもて 妄りに破ること難かり
翌朝に至りなば娘を卿に遞與さんに只纔ては
父の手に罹て冥途の導引せよかしと仰せに
宰相はいとゞ猶悲しさ云ん方もなく堰き來る涙を瞼に匿し
世の諺言に子寶と云けんも今身の上に悲憂を來たす仲立となるこそいとゞ悲しけれ
何時の世いかなる報にて親が手づから手に罹て我が子を殺すことなるか 我が君
愚臣が胸の裡を少しは察したまはるべしとは云へ
君の仰せなれば假令如何ほど悲しくとも忍びて殺し申さんと云へば
王は點頭きたまひ既に斯る上からは明晩相違なきやうに娘を伴ひ來るべしと仰に
宰相は心得て王に暇を申しつゝ我が家を差して歸りける。
恁地宰相は家に歸り側に呼び寄せて王が仰せの趣を
逐一語り聞せしに世邊羅亞土は我が望みの思ひの儘に達きしを
天に歡こび地に喜こび滿面に笑を含みつゝ先に我が意を達せんとて 強く父上に抵抗ひまいらせ太く禮を失なひき
只々御宥しを願ひ侍ると首傾むけて差し覗く娘の心に引きかへて 父が悲嘆は如何なりけん
眼を閉つ嘆息吐き拱ぬく腕の其の上に [さんずい澘落る涙の球
世邊羅亞土は見て 肝の裡に慰めばやと思ひつゝ父に對ひて云けるやう 父上 左のみ嘆きたまひぞ
妾后妃となりたりとて方寸に自から良策あり 爭で無慚々々殺され侍らん
見たまへ必ず後に至りて思ひ合する縡のあり 今の嘆きは忽まち天下の人の喜悦となる 其の時を待ちたまへ
決して悲きたまひぞと父を慰さめ世邊羅亞土は自己が部屋へ立歸り
髪の化粧や更衣心いそしく健々と準備も已に 調のひたれば妹
爾那兒坐亞土に別離を告んと頓て妹の部屋に來り
近く寄りて云ひけるやうおん身も定めて聞つらんが今囘思ふ仔細ありて
妾は人の忌み嫌ふ王の后妃にならんとて強て父上を説き諭し 漸々相談調のふたり
夫に付て此の姉がおん身に折入て頼む縡あり
妾が命んい觸るべき一大事にてあるなれば構へて辭みたまはるな 最早時刻も近づきぬれば父は妾を伴なふて
御殿へ至りたまふべきに決して驚ろきたまふべからずして 妾が頼托と云ふは妾王の寢間に入りて
此の世に在るも暫しなれば妹を此處へ呼び迎へて妾の側に伏さしめたまへ
盡ぬ名殘を惜まんと願ふて許可を得し時はおん身を迎ひに來るべきに 其時少しも怖るゝことなく使と倶に來りたまへ
偖王の臥戸に入りて曉近くなりし時 おん身 妾を搖り動かし喃姉君よ目醒したまへ 最早
東白るに間もなきにお顏を拜むは今 霎時只纔て
現世のお名殘に今迄多く讀みたまひし書籍の中なる珍らしき
話説を語り聞したまへと最悲慘し氣に云ひたまへ
妾は其の時おん身に向ひて最面白き物譚りを口に信して語るべし
左すれば頓て夜の明て話説は途中に跡繼れなん
人の情とて聞かけたる話説の終結を聞かざれば
物足はぬ心地すなるに王は必らず物譚の最後を聞んと思ひたまひて
其の日は妾を殺したまはず次の宵まで置きたまはん 此の手段にて次第々々に荒ぶる王の御心を和め柔らげ
府中の人の悲嘆を濟ふ 妾が心底嗟賢人にな語りたまひぞと云へば
妹は打點頭き仰せ畏み候ひぬ よく爲したまへと囘答ふるにぞ姉は喜こび暫らくして妹に別の言葉を述べ
父に從がひ健々と王宮 投して赴むきぬ。
斯て世邊羅亞土は父と倶に王宮に至りて西加亞利亞王に謁し
頓て父と立別れ多くの宮女に伴はれて奥殿深く進み行き
一際華美に飾りたる一室の裡に入にける
是なん國君の寢殿にして君には先より褥の上に在して
待兼たまひしかば宮女は世邊羅亞土を押し進め暇申して出行ぬ
後には王と世邊羅亞土いまだ何の言葉もなく對ひ合てありけるが
王は頓て手を執りて邊近く引寄せたまひやをら面被を 取り除くれば輝やくばかりの美貌
妖顏金鸞初めて卵を出で 玉樹はじめて花を締ぶ夫よりも 尚
嬋妍に儔少なる美人なれば 王は漫ろに恍惚たまひ目瞬もせず瞻りたまふ
世邊羅亞土は此時までも一言半句の言葉なく愁然として愁を含み
差附むいてありけるが思はず飜す一滴の涙を 王は目敏く見付け如何なる悲しき縡の有ておん身は涙を流したまふ
語りたまへと仰せければ世邊羅亞土は此ぞと思ひ益々愁ひの面色にて
王に對ひ云ひけるは妾に一人の妹有りて 名を爾那兒坐亞土と呼び侍るが
日來より最睦ましく姉よ妹よ朝夕に同じく父に仕へ侍りしが
今囘妾が我君に嫁ぐと聞て泣き悲しみ先程家を出る時も 袖を扣へて名殘を惜み血の涙を流し侍りき
斯程妾を戀慕ふ妹を見ずに死にもせば 冥途の障碍にもなりやせん
あはれ我が君御慈悲を埀れ妹を此所へ呼び迎へてお寢間の隅を貸したまはれ
今宵かぎりの妾が命盡ぬ名殘を惜み侍らん 左すれば妹もいかばかり君のお慈悲を仰ぎ侍らん
今生にてのお願ひは更に此の外に侍らずと
雨を含める海棠の風に惱める風情にていとゞ和理なく云ひければ 王は頻りに點頭きたまひ姉妹の情
左もありなん おん身の願を許可すべきに早々 此所へ呼び取りて 今宵を語り明したまへと最心よげに仰せけり
世邊羅亞土は仕濟したりと思ふ心を色にも出さず 早速 御許可を賜はりて嬉しき旨を聞えあげ
直様人を走らせて爾那兒坐亞土を呼びけるに 兼て期したる縡なれば支度も頓に整ひて使者に連られ
時を移さず頓て宮中に參り着き夫より宮女の伴なはれて 王の寢間に來にければ世邊羅亞土は喜こばしげに
手を執り褥の上に引寄せ姉妹互ひに抱き合て友愛の情いと深く 他の見る目も憫然しく兎角する程に夜も早
太く深け行て 子刻鐘聞ゆれば驚ろかされて世邊羅亞土は王と倶に
鴛鴦の衾を重ね千年にあらぬ一宵の仇なる夢や結びけん 妹
爾那兒坐亞土は只獨り王が玉床の下にある
矮き寢床の上に在りて今宵の縡を思ひ遣り眠らんとすれど眠られず 枕に響く鐘の聲
僂なへ見れば早寅刻最早 暁るに
程あらじと思へばやをら起直り豫て牒し合せし如く手を以て 姉を搖り起し最早
暁るに間もなければ今世にての 對面は霎時の間に侍るなり
現世の名殘に姉上が今まで多年讀みたまひし書籍の中なる珍らしき 話説を一つ語りたまへ
何時の世までも姉上の紀念と思ひよく記臆へて
愁ひを遣るの便とせんと云へば姉は目を醒し妹に向ひて囘答せず
傍に臥せし王に對ひ妹が箇様に申し侍れば
此の世の紀念に唯一つ最珍らしき物譚を語り侍らんと思へども 專まゝに做し難かり
此の縡許したまはるかと云へば王は點頭きたまひ
朕も聞んに率疾々夜の暁ぬ間に語りねと奨むる言辭に
世邊羅亞土は肚裏にて笑を含み
吾が計略其の圖に中り王は既に陥穽へ片足踏み込み玉ひしと思へば
いとゞ可咲さを悟られまじと二ツ三ツ口咳しつゝ居直りて 言葉靜かに語り出たり。
第一夜の物譚
今説き出す話説は過ぎし頃の縡なるが 茲に一個の商估ありけり
家に巨万の財を畜はへ外に數千町の田地を有ちて
盛んに商賣の道を營なみ手代を四方に派出して外國とも交易を倣し 又 夥多の奴隷をも畜なひたり
主人は斯る富貴を極めながら些しも高慢ぶる氣色なく
商法を爲すべき者の自分其の道に精しからで 手代任せに爲て置くより多くは財を失なひ家を破りぬ
俺は此の覆轍を覆まずとて自ら手代の如く四方に出向き
世上の商況に眼を注ぎて少しも怠たりの色見えざりしが 或る時
最大切なる商事出來て是非に自から行ざれば運びの着ぬ塲合になり自から行んと決心せしが
這囘は長旅の事ゆゑに沙漠をも通るべければ
食物の準備無ては叶はず人を連るも心苦しと一疋の馬に打騎り
鞍の後邊に大きやかなる革の嚢を縛り着け其の中に多く
乾麺包棗など盛り遙けき旅路に上りしが途すがら何の變りし事もなく
日を經て恙なく志す方へ辿り着き大切の用も思ひしよりは
逸早く仕果にければ一刻も早く家に囘りて妻子に無事な顏を見せ
喜ばせんと思ひつゝ先の如く馬に跨がり歸り路とて心勇み已に第四日目になりけるに
此日は炎暑殊に烈しく焚くが如くに照付る日は今 頭の上にあり
人馬共に疲れ果て寸歩も進み難ければ何れにか木陰を求め馬の足を休めばやと
見遣る彼方に生茂る一叢の椰子樹あり 是幸ひと來て見れば樹下には清水
潺湲と湧き出で涼風面を拂ふにぞ 蘇生へりたる心地しつ馬を傍の樹に繋ぎて自分は
清流の邊に坐し鞍に着けたる革嚢より棗などを取出し
水を掬びて咽を濕ほし喰ひ了りたる棗の實核を
殘らず四下へ投げ散らし頓て口を洗ひ手足を濺ぎ
日頃信ずる回々教の經文の高らかに讀誦なし
一心不亂に餘念なく神を拜みて跪づく其の目の前へ忽然と顯はれ出たる一個の怪物
身の丈の高きこと天に達するかと疑がはれ髪白くして雪を欺むき眼 大にして鏡に似たり
手に大いなる刀を提さげ天地に響く大音上げ 汝如何に膽太ければ我が兒子等を殺しけるぞ
俺汝を切り殺して俺が子の仇を討つべきに疾々前へ出ざるやと
眼を睜り足 履鳴し最凄まじく叫んだり
商估は先の程より生たる心地は更になく蒼くなりて震ひ居たるが
今怪物が言語の中に俺を殺さんと云しを聞き益々驚ろき慌忙つゝ
辛くして怪物に對ひ开は何をか云ひたまふ
罪なき俺を如何なれば妄りに殺したまふぞと云せも果ず 怪物は再び大なる聲を發し汝
俺が兒を殺しながら罪なしとはよくも云ふたり 猶是にても陳ずるやと叱り付れば商估は恐る〜怪物に向ひ
おん身如何ばかり宣まふとも俺おん身の子兒などを殺せし覺え更に無し
我いまだおん身の子を見もし聞もしせぬものを如何にしてか殺し得べき
如何なる縡の間違にや此處の道理を聞分て疑念晴したまふべしと云へば
怪物は頭を打ち掉り否々左様は云せまじ 汝先に此所に坐り革嚢の中より棗を取出し
开喰ひし時 俺が子息は此の所を通りしに
折ふし汝が抛ちし棗の實核が圖らずも我が子の眼の中に入りしかば
夫が病の根原となりて遂に果敢なく死去ぬ
俺が汝を仇と呼びしは此故あるを以てなり
最早云ふべき言葉もなければ率立上って快よく俺が這の刀を受ずやと云へば
商估は悲しみ嘆き俺れおん身の子を見ざりし程に 何心なく核を抛ち知らず識らず殺したり
全たく惡意に出しにあらねば俺が心中を推量して宥したまへと叫びけり
怪物再び商估に向ひ俺れ原一點の慈悲心なければ汝を宥すこと難し
都て人を殺せし者は其身も同じく死すべきは是れ天地の公道にして 妄りに渝ゆること能はず 汝
俺が兒を見ざる故知らずと云ど殺したるは同じく殺せしに相違なければ汝の罪は遁れ難し
無益の言を並べ立て空しく時を移さんより後かれ早かれ死すべき命 斯して呉んと云ひながら大木の如き手をさし伸べ首筋
無手と引捉へて 大地に動と投げ倒し持たる大刀振り上て既に斬んとなしければ
商估は涙雨の如く白刄の下をかい潜りて
兩手を合せ聲震はせ开は餘りに聞分なし
罪なき吾濟が殺されなば後に殘りし古郷の妻子の悲嘆は如何ならん
宥して給と打ち泣けば無情の物さへ感じけん 梢を渡る風も止み側を流るゝ彼の小川も俄然に音を止めたり
怪物は是を聞ども聞ざる眞似して大喝一聲今に至りて如何ばかり泣ど喚けど
死亡たる我が子の蘇生すべきにあらねば汝が罪は消え難し何の道死すべき命なるに
何ど快よく死に就ざると聞入る氣色あらざれば
商估は益々嘆き俺斯く嘆き訴たふをば無情の草木に至るまで感ずるものを
如何なれば通力自在のおん身のみ絶へて憫然としたまはず 罪なき者を殺さんと云ひ張りたまふぞ不審しけれ
少しは憫然と思したまへと恨みつ詫つ掻口説く
哀れを他に怪物は臼に齊一しき頭を掉り
假令無罪の者にもせよ俺一度殺さんと思ひ定めし上からは 必らず殺す心得なるに況して罪ある汝の命
何どて助け置べきかと再び刀を振り上げたり。
ト 此所まで語り來りし時 雞も屡鳴き
白小雲東の空に靉びきて夜は全たく明放れ 朝日の光いと目眩ゆく早 寢殿を照しければ
吾を忘れて聞き居たりし西加亞利亞は起上り拜神の時 已に來り
出廷の期も近きにければとて衾の内を出たまふ 妹は姉に向ひ偖も不測なる話説かな 此の後
如何成り行くやらん聞まほしやと云ひければ 世邊羅亞土は微笑みつゝ王と妹とに打ち對ひ
此の後の物譚は一層奇妙不思議にして聞く人は我を知らず
今宵の話説は譬へて言ば家の入口に異ならずいまだ奥の模様を知らず 陛下若し此の後の話説を知らんと欲したまはゞ
只一日の玉の緒を妾に假してたまはるべし 今宵再び譚りて陛下に聞し進らせん
妾も折角語り掛し話の終結を着て死なば恨むる所更になしと
豫て巧みし事なれば王の心を動かさんとさも仰々しく語りければ
果して王は心動き俺卿に一日の猶豫を與へ遣はすべきに 今宵再び此の後の話説を語り聞したまへ
其の後兼ての掟に從がひ卿の命を縮むべしと云ひつゝ
寢殿を立出たまひ天地の神を拜し了りて頓て政廳へ出たまふ。
此に又父の宰相は愛し可憫の姉娘を王の后妃に進らせて
悄々家に歸りしが熟々思ひ廻らせば
娘が露の玉の緒も今宵を限り詰朝は我手に掛て殺すかと思へば悲しさ遣る方なく
獨り胸のみ痛めつゝ床に就けども眼は合ず夜深けゆくまゝに世間の人も寢静まり
四下寂寥となる鐘も娘の死期を近くするものと思へば
猶更に感慨百出寢も眠られず頻りに落る暗涙の濡す枕に喧しく 烏の聲の響くにぞ驚かされて起き出つ早
參内の時刻になれば 進まぬ足を運ばして政廳に出頭なし今にも王の出まさば
娘の死刑を命ぜられんと心も空に身を慄戰はし待つ間程なく警驛の聲に從がひ
靜々と立出たまふ西加亞利亞王 御氣色殊に美はしく絶て死刑の沙汰に及ばず常に變らぬ有様に宰相は
如何なる故と云ふことを知らず夢に夢みし心地して更に合點は行ざりしが
頓て退廳の時刻になり衆官員と諸共に王の前をぞ退きける。
西加亞利亞王は政廳を退きて
奥殿に入りたまひ日の暮るを待兼て宵の程より寢殿に入りたまひ
世邊羅亞土と枕を并べて楚岫巫山の故事を
又他事もなく相譚らひて頓て眠に就き玉ひ已に 曉に近づきければ妹
爾那兒坐亞土は例の如く 世邊羅亞土を搖り起して昨夜語り殘し玉ひし後の話説を
率疾々話したまへと促せば王も傍より言辭を添へ同じく共に
奬むるにぞ世邊羅亞土は首肯きて其後の話説を語り出たり。
第二夜の物譚
却説彼の商估は決心したる怪物か手の持つ大刀振り上げて已に
頭上に打ち下さん容子に益々惘れ惑ひ悲しき聲を張り上げて喃待ちたまへ云ふことあり
已に前にも云ひたるごとく吾濟は古郷に妻子あり
若し此の儘におん身の手に罹りて敢なく亡もせば其の悲嘆はいかならん
其上家の財産を分配すべき方法を着ねば我が亡き後にて爭論の起るは必定
然ありては先祖へ對して云譯なし斯る餘義なき仔細あれば暫らく俺を宥し玉ひ
一度故郷へ歸したまはゞ妻子に逢ふて名殘を惜しみ後の縡など十分に心殘りのなきやうに
整頓へ置て然るのち再び此所へ來りつゝおん身の罰を受んほどに
少しは吾濟が心の裡を察したまひて霎時の猶豫を
與へたまはれといとゞ和理なく請ひければ怪物は嘲笑ひ
俺れ倘し汝を放ち遣なば汝は夫を機會にして
再び此所へ來りはせじと信ずる氣色あらざるにぞ 商估は色を正し我が言葉
倘し詐僞ならば 此所を流るゝ清水の如けん 天地 地祇も照覽あれ
決しておん身を欺むかじと信實 面に顯はれて詐ならず
見えければ怪物はやう〜首肯きシテ其の要事を終るまで
大凡幾日を費すぞと問れて商估小首を傾むけ左れば
吾濟が家に歸り用事を殘りなく濟すには大凡一年を費すべければ
今より吾濟に十二ヶ月の猶豫を與へたまはりね
此の期に片時も後るゝことなく必ず此所に待ち合せて此の樹下に
潔よくおん身が怨恨の刄を受んと最老實だちて 云ければ怪物漸やく得心なし汝
彌々其の言葉を天地に誓ふや誓はんと互ひに後日を契りつゝ 彼の怪物は掻き消す如く忽ち姿は見えずなりぬ
去る程に商估は虎口を逃れ龍潭を遠ざかりたる心地して
再び馬に打乘つ道を急ぎて古郷の空を目的に 辿り行く心の中は只顧に彼の怪物のことのみ想ひ
假令一旦斷べかりし露の命の玉の緒を暫らく繋ぎ止めたれども天地の神に誓言を立て
彼と番ひし言葉のあれば其の期の及て違ひ難し思へば想へば 此の身ほど果敢なき者は世にあらじと悲しさ餘り
澘と落る涙は鞍を濕ほし時 維れ
水無月中浣なれど空に知られぬ五月雨の身を知る
雨ぞ晴間なき斯て日數經るほどに頓て我家に歸り着きしかば 妻子を始め家内の者 何れも其の恙なきを祝し旅路の様を問ひなどし
圍繞渇仰なしけれども商估は始終愁の面色にて
更に何の言葉もなく只涙を發露々々と流しければ家内の者は皆其の故を知らず
什麽怎生なる仔細有て斯様に愁を含みたまふと右左りより
問掛られしに商估は只太き息を兩三度吐しのみにて
猶も答へを做ざれば妻は特に心を痛め 我 夫如何なる縡の在して斯は愁ひに沈みたまふ家内の者は
過る頃より首を伸して夫の歸りを待に待たる甲斐ありて 今日恙なく歸りたまふ家内の祝喜に引變て
其のお嘆きは何事ぞ聞ねば胸が晴侍らず早く話してたまはれと
眼に持つ涙袖もて拭ひ膝押し動かし問ひかけられ商人漸々
頭を擡げ俺が世に在るも今よりして最早 一年に
過可からず年久しくも連添ひし卿を始め愛子等に別るゝことの悲しさに 思はず涙を滴したり
其の仔細は斯様々々と彼の怪物に逢ひしより誓言を爲せし顛末を
殘る方なく物語り左れば一年の光陰を過さば 再び原の所に至りて彼に性命を授ずば
誓ひし言辭什麽にせんと 又
潛然と嘆きければ妻をはじめ家内の者皆是を聞て驚ろき慌忙て
コハ如何にせんと嘆き悲しみ目も當られぬ光景なり 妻は特に狂氣の如く天に叫び地に浮若身を投げ伏して嘆きければ
髪は蓬に振り亂し瞼は忽ち腫れ上りて流るゝは 只血の涙前後不覺に泣き沈めばまだ頑是なき子供等まで傍の嘆きに
自から悲しき縡に思ひけん 母様何を嘆きたまふ坊も悲しい悲しやと母に取付き泣叫けぶ聲は
家内に震動し流す涙は川を爲して其の有様は是やこれ
往昔羅馬の「ボムベイ」府が火山の灰に埋められ石雨灰霧の 其の中に市中の人の泣き叫びしも是には過じと覺えたり
斯て其の翌朝に至り商估は死後の準備を爲さんものと
先づ商買上の要事を調のへ貸借の始末を殘りなく終へ夫より朋友への
進物など皆悉く取揃へ大約要事を終りしかば
後生を祈らん其の爲に廣く貧民に施物を與へ家に繋ぎし奴隷をば殘らず解きて
自由の身となし家産は一家親族へ分に應じて配け與へ幼少なる小兒等には
いと聢かなる後見人を傳け妻への紀念何や角も 僅少の間に濟したり
斯て光陰に關守なく春と立ち秋と暮て早くも十二ヶ月を過しければ
彼の商估は誓言に違ひ不信の人と成るまじと
流石宗教の信者なれば神に對するの誠に頓て旅行の準備をしつ
革の嚢に死出三途冥途の旅の死装束力もなげに押し入つ先の如くに馬に打乘り出んとすれば
今更に兼て覺悟の上なれど互ひに別れのいと惜く手を取り合ふて嘆きしかど 果しなければ商估は涙拭ふて出んとする
袂扣へて妻と子が右左りより取縋り別れ難なき恩愛の絆を
更に斷よしもなく又も涙に暮たりしが再び心を取直し聲勵まして云けるやう 死別に増して生別は悲しきものを今
爰に袂を分つは吾に於ても 忍び難なき限なれど離苦哀別は浮世の常事時に望みて
詮術なし 現世は假の宿にして假令ひ後れ先だつとも
大凡生とし生る者誰かは終に死なざらん 觀ずれば夢の世 觀ぜざるも亦夢の世夢と思へば何事も
哀しき縡のやはあらん能く此の道理を了解り得て
悲哀を止めたまふべしと云ひつゝフツと取り止めし袂を拂ひ飛鳥の如く
馬に跨り妻や子が嘆きの聲を跡にして心を鬼に立出る胸の中こそ可憫なる去る程に
商估は道を急ぎて行し程に日ならず先に休ひたる椰子樹の下に來にければ
やをら馬より下立て馬を傍の樹に繋ぎ死装束を取り出して 心ならずも之を更衣へ細流の側に坐を占めて
我身の不幸と故郷なる妻子の悲嘆を想ひ遣り漫ろに
涙進まれて時雨も敢ぬ溪川の水層増るばかりなり
折しも後ろに跫音して此方へ進み來者あるにぞ 偖は怪物の來りしかと今更流石に怖ろしく震へながら
顧へれば怪物にはあらずして一個の老翁一疋の牝鹿を曳て 靜々と商估の傍に近付たり
去る程に彼の老翁は商估の側に近く來りて禮を施し云けるは
喃若人御身は什麽なる用事ありて斯る所に止りたまふ
御身知らずや此の所は世に怖ろしき魔所なるを 若し永居せばいと危うし疾々立ち去りたまふべし
御身茂れる此の樹を見て人の住しと思ひ取り夫故
住りたまふべけれど全たく惡魔の巣穴なればおん身の爲に尤も危うし
疾去りたまへと云ひけれども商估は只 涕うちかみ
吾濟も已に如斯知るからに斯る所に住るべき念慮は
更々無れども斯々云々の譯ありて怪物のみか天地の神へ誓ひを立て
契りし言の默止し難く斯くは此の所に待受けて自から死期を急ぐなり
憫みたまへと打ち嘆てば彼の老翁は聞く事毎に
且つ驚ろき开は亦奇代の事なりかしおん身の胸中察し入る
去りながら外に詮術なきまゝに俺も此處に殘り居て
おん身が怪物に再會の證人となり折あらば言葉を添て成る可くは御身の命を乞ひ見んと
いと親切に云ひ聞え其の他の事など語り合て怪物の出るを待ち居たり。
世邊羅亞土は此の所まで辨に任せて説き來りしが
折しも旭日嬉々として窓の障子を照しければ話しを止めて王に向ひ 最早夜明き候ふに話説も今は此迄なり
此の後の話説は愈々奇にして聞く人 思はず身を震はし怖るゝばかりに侍れども夜暁て語るに
由なりと言辭巧みにほのめかしければ
王は後談の聞まほしさに此日も重ねて世邊羅亞土が死刑の沙汰を延したり。
第三夜の物語
國王 西加亞利亞は此の日も政務に與かりて終日朝廷に
日を送りたまひ夜に入りて寢殿に入らせたまひ世邊羅亞土と枕を並べて
倶に打ち臥させたまひしが曉近くなりし頃
爾那兒坐亞土は姉に對ひ前夜語り殘し玉へる彼の商估の成行は
什麽如何に侍るらん
早く語り聞せたまへと頻りに燥急て止ざれば世邊羅亞土は心を得臥したる王に
會釋して語り出たる物譚は。
恁て彼の商估は件の老翁と對坐ゐて
種々の縡問ひつ語りつ暫らく時を移す程に 又二疋の黒犬を曳たる一個の老翁顯はれ出で
二個の側に近付きて小腰を屈め會釋をなし此處にて何を倣したまふと
訝かり問へば先の老人彼の商估が怪物に不圖出逢し初より誓を做せし
終まで縡落もなく物語れば彼の老人も深く憫れみ 俺も殘り止まりて其の結局を見究めんと商人の側に坐を占たり
暫くして又一人の老人忽然として出來り三人の側に近よりて彼の商估が殊の外
色蒼ざめたるを打ち見やり其の故を訝かり問ば第二の老翁進み出で 自己が聞たる縡の趣一言
違はず話しけり 此の老翁も聞き了りて漫ろに可憫の情を起し 共に此處に止まらんと都合四人
團欒して怪物今や來かと互ひに 潜々耳語き合ふ其の言辭いまだ終らざるに忽ち遙か彼方より 一
朶の黒雲疾風の如く渦卷き來り四人が坐せる其の側へ近づくよと 見るうちに忽然として其内より顯はれ出たる一箇の怪物
是なん先に商估が誓ひを立し怪物なり 斯て怪物は商估の姿を夫と見るよりも矢庭に左手を差伸て
襟髪 無手と掻掴み右手に大刀 提さげて聲 荒らかに
呼はるやう你先年の誓言を渝へず此處に來りて
潔よく死を待こと殊勝なれ其の代には俺が刀もて何の苦もなく
一刀兩斷よき往生を遂げさせ呉ん覺悟を爲よと罵も敢ず氷の刄振り上て
既に斯よと見えければ商估は云ふも更なり
側に在りたる三人の老翁も思はず身を震慄はし苦と叫びて 地に倒れ悲嘆の涙に咽びけり。
斯く話し來りし折柄夜 已に明け放れたれば世邊羅亞土は
話説を止め又頻りに後談の珍らかなる由を語りければ
王は漫ろに心浮かれ餘り話説の面白しさに再たび世邊羅亞土の
死刑を延べ次の夜其の後談を聞くんとて其日は朝廷に出たまふ。
却って説く世邊羅亞土の父宰相は毎朝朝廷に出れども
絶て娘が死刑の沙汰王の勅宣あらざるにぞ心頻りに之を訝り若しや他人へ仰せ付られ 已に所刑の濟けるか
开も亦絶て聞ざれば斯る事にてもあらざるべしと其の父にさへ
分らざれば朝廷の百官より府中の人々に至りては更に其の心を得ず
互ひに揣摩の臆説を己が随意〜云ひ傳へて此の噂のみ高くなりぬ。
第四夜の物譚
却説國王は世邊羅亞土と此の夜も衾を重ねたまひ
已に暁近くなりしかば世邊羅亞土は妹の請ふに任せ
王に許可を願ひつゝ前夜の續話を語り出たり。
わが君よ偖て彼の牝鹿を曳き連れたる老翁は今にも怪物が
哀れ柔弱き商估を只一刀の光の下に打ち果さんず
容子を見いとゞ不便に思ひしかば吾を忘れて怪物の足の下に 滾び行き身を投げ伏して怪物の足を口もて吸ふて曰ふやう
噫我が魔王よ待ちたまへ暫く忩怒を鎭めたまひて 俺が云ふ事を聞きたまへ
俺れ今御身に俺が素性と此なる牝鹿の成立を委しく語り申す可し
這は復世間にありふれたる俗談冗話と異にして
最珍らしき話説ゆゑ御身これを聞たまはゞ必定驚ろき怪しみたまはん
开を聞んと思し玉はゞ此の商估を宥したまへ
實に憫れむべき者なりと兩路かけた云ひ出ければ
彼の怪物は稍暫く首を傾むけ考がへ居しが遂に老人の意に從ひ 話説を語り終るに於ては宥し難き
商估が生命を助け得さすべしと聞て 老翁は打ち喜こび怪物に向ひ説き出たり。
老人は怪物に打向ひ抑此の鹿は見らるゝ如く吾が妻にして 從姉なり 十二歳の春
俺に嫁き早二十 年の光陰を經れど 子と命くる者一人もなし
左れども俺は天に歸し彼が罪と爲さゞれば疎み思ふの念慮なき
いと睦じく暮せしに熟々思ひ廻らせば心細さの限りなし 一人の子供を何ぞして設けんものと考への末は
一人の女奴隷を抱へる事に心を決し終に一人を買ひ來りて多く年月を經ぬうちに
玉の様なる男子を生みたりしかば吾が宿望是に至ってはじめて
達し喜ぶこと限りなく掌の中の珠と愛しむを元來
嫉妬の心深き此なる妻はその子の母を惡み思ふこと一方ならず
私かに惡意を養なひ居しが吾は斯とも毫知らねば 其の子が十歳になりし時
一日去り難き所用ありて遠き所へ旅行たんと 其の門出の時に臨み此なる妻を呼び寄せて 俺今
一度出て行なば一年餘りは歸り來じ 夫に付て気掛るは女奴隷と其の子なり 外に寄る邊のなき身なれば御身
俺に成變りて只顧世話を頼むぞと云へば 妻は快げに开は云ふ迄も侍らぬかし
御身の子なれば妾が子に齊しく何とて麁末に思ひ侍らん
御心安く思し召といと容易く云ひけるにぞ
俺も大いに心を安んじ猶留守の縡呉々も殘る方なく
云ひ置て旅路の空に向ひしが後に殘れる吾が妻は俺が留守を幸ひとして 今こそ日頃の怨恨を晴す能き折なりと思ひけん
我が子を人なき所へ伴なひ兼て私かに學び得たる妖術をもて小牛と化し 農夫に與へて養はしめ他より買し容子になさしめ
微知らぬ顏にて家に歸り猶飽足らずや女奴隷を同じ法もて牝牛と化し 之をも農夫に與へたり
留守にて斯る出來事の起りしとは率毫知らず 一年餘りの光陰を經て久しぶりにて家に歸り
我が子の顏を見んと母子の縡を尋ねしに妻は空涙を流しつゝ
女奴隷は過し頃より病に罹りてありけるが醫藥つひに 其の功驗なく近頃空しくなり侍りぬ 又彼の子供は二ヶ月前
不圖家出を爲せし儘今に行衛は知れ侍らずと 信しやかに物語る故 俺は些とも疑はず
女奴隷は死せし故嘆くも今更詮なけれど我が子は家出せしと云ば 再び逢ふの望みありと歸り來る日を待ちたれども
爭で歸り來るべき早八月を過しけり 折しも囘々教の大祭日に中りて國中一般の祝日なれば
牛を屠りて神前の供物を調へんと農夫の許に人を遣り
一疋の牝牛を求めしに頓て曳き來る一疋の牝牛は是ぞ妖術にて化せられたる
彼の女奴隷なりとは神ならぬ身のいかで知るべき其の儘屠所へ曳き持て行き
已に屠らんとなしけるに牛は悲しき聲を發し泣き悲しむこと
いと哀れ氣に涙を流す事雨の如くなれば我は忽ち心動き頻りに不便の情を發して
終に之を殺すに忍びず農夫に向ひて他の牛を連れ來るべしと命じければ
此なる妻は側にありて我が本夫何どて此の如く心弱きことを宣まふや
疾々之を屠りたまへ左様の事を宣まふて如何で
生物が殺さるべき農夫は他に善き牛を持ち侍らずと種々に
己が惡意を遂んとて聲高やかに罵しれば我は再び其の意に從がひ彼の牝牛の側へ近寄り
心を鬼に刀を擧げ已に刺んとなしけるに牛は彌々泣き悲しみ
涙を流すこと甚はだしければ擧げし拳も忽ち痿へ 今は屠るべき氣力なく農夫に彼の牛を遞與しつゝ
屠りて持て來よと命じけり 農夫は畏まり候ひぬと絆を執て曳て行く曳れながらに
彼の牛は泣き悲しむの聲を止めず涙を瀧の如く流しつゝ萎々として歩行みゆく 其の様いとゞ憫然なり
時を移さず彼の農夫が屠りて持て來し肉を見るに最太く痩果
恰かも骨と皮のみなれば俺は大いに望を失なひ斯る痩たる肉をもて 何の用にか供ふべき
汝貧民に施すとも开は心任せに爲すべし
俺は於ては用ひ難かり若しよく肥えたる小牛あらば曳き來りねと命じけるに 農夫は頓て一疋の肥へたる小牛を曳き來りぬ
是こそ日頃戀慕ふ我子なりとは夢にも知らず刺し殺さんとなしたりしに 虫が知らすか何となく憫れを催ほし殺しともなく
其の折しも小牛は縛りし繩索を引き切り俺が足下に
纒はりつ首を土地に摺り付けて狂ひまはる有様は 宛ながら子供の戯るゝに似たり
俺が此時の感情は先に牝牛を殺さんとなしけるときより猶強く 爭で小牛を屠り得ん 愛憐の情
彌増して又もや屠るの念を絶ち 再たび農夫の手に遞與して此の小牛は俺が思ふ仔細のあれば丁寧に
養ひ置て屠るには又よき牛を探せよかしと云へば妻は傍よりいと不興氣に
口を尖らせ我が本夫今日は何故に斯る事のみ 宣ひて牛を屠りたまはざると常になく俺を責るゆゑ
訝かしさよち思ひながら其の原由を知らざれば左して心に留もせず
俺れ彼の牛は何となく不便の情の遣る瀬なければ如何にも殺すに忍びられず
御身は默りて俺が爲す縡を瞻り居てこそ事足りなん 要ざることを云ひたまふなと叱り付くれど吾
妻は却々聞入る氣色なく 猶も彼の小牛を屠りたまへと頻りに勸めて止ざれば吾も終に其の氣になり
再び小牛の手足を縛りて右手に牛刀取り揚つ已に屠らんと身構へたり。
と語り終れる其時しも夜は早全たく暁放れて朝雀の聲 喧すしく
旭日の光まばゆく差込みければ今は話しも此迄なりとて世邊羅亞土は語り止ぬ
爾那兒坐亞土は姉に向ひて頻りに其の面白き由を語り
妾は今まで我を忘れ一心不亂に聞居たりと云へば世邊羅亞土は嘆息し 今
倘し一日の命あらば此の後の話説を物語りて おん身の心を慰さめんに夕べを待ぬ 妾が命
復是非なしと打嘆てば妹も共に嘆息す 西加亞利亞は此の後の話説を頻りに聞まく思へば
世邊羅亞土に向ひたまひて朕卿に今一日の猶豫を與へ遣はすほどに
翌日の曉時に此の後談を語るべしと命じたまへば 姉妹はいと有難く覺へける 畢竟
世邊羅亞土が後に至りて什麽なる話説を語るやらん
且次囘の分説を聽け。
更新日:2004/05/10
アラビヤンナイト物語 : 其三
其三
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 其四
其四
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 其五
其五
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 其六
其六
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 其七
其七
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 其八
其八
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 其九
其九
更新日:2004/04/19
アラビヤンナイト物語 : 其十
其十
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アラビヤンナイト物語 : 其十一
其十一
更新日:2004/04/19