ソロモン王の寶窟 : 目次 ------------------------------------------------------------------------------- タイトル:ソロモン王の寶窟 (King Solomon's Mines, 1885) 著者:サー・ヘンリー・ライダー・ハガード (Sir Henry Rider Haggard, 1856-1925) 譯者:平林初之輔 (1892-1931) 底本:世界大衆文學全集 第二十八卷『洞窟の女王 ソロモン王の寶窟』,改造社,昭和三年七月一日印刷,昭和三年七月三日發行 ------------------------------------------------------------------------------- ソロモン王の寶窟 サー・ヘンリー・ライダー・ハガード 著 平林初之輔 譯 ------------------------------------------------------------------------------- 目次 * はしがき * 第一章 サー・ヘンリイ・カーチスに會ふ * 第二章 ソロモン王の寶窟の傳説 * 第三章 ウムボパを雇ふ * 第四章 象狩り * 第五章 沙漠に向ふ * 第六章 水だ!水だ! * 第七章 ソロモン街道 * 第八章 ククアナ國に入る * 第九章 ツワラ王 * 第十章 魔法狩り * 第十一章 天の助けの月蝕 * 第十二章 戰鬪の前 * 第十三章 攻撃 * 第十四章 白髮聯隊の最後の奮戰 * 第十五章 グッドの病氣 * 第十六章 國王の墓場 * 第十七章 ソロモン王の寶窟 * 第十八章 絶望 * 第十九章 イグノシの別辭 * 第二十章 邂逅 注:この『ソロモン王の寶窟』は抄譯です。 ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : はしがき [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- この書物が印刷されて愈々世に出ることになつて見ると、文章に於ても、 内容に於ても、あまりに缺點だらけなのが、大變氣にかゝる。内容については、私は、これは吾々が見たり、 したりしたことを殘らず書いたのではないと斷つておくより他はない。 吾々のククアナ旅行については、詳しく書きたいことで、ほんの一言も言はなかつたことが澤山ある。 その中には、王宮の激戰で吾々の命を救つてくれた鎖鎧や、 鍾乳洞の入口にある「無言の神」の巨像についての不思議な傳説などもある。 それから私は、ズル語とククアナ語との差異についても書いて見たかつた。 そのうちの或るものは非常に暗示的だと私は思つてゐる。 又、ククアナ國の土生の動植物についても數頁の説明をしておいてよかつたと思ふ。 又、ククアナ國のすばらしい軍隊制度のことも興味があるが、そのことにはちよつと觸れただけだつた。 これはズル國の軍隊制度に比べると、動員が迅速な點と有害な獨身生活を強制しない點とだけでも優れてゐると私は思ふ。 最後に、多くの點に於いて非常に風變りなククアナの家庭の習慣や、 彼等が冶金術に優れてゐることを殆んど語らなかつた。 この國民の冶金術は非常な完全なもので、「投げ槍」の如きはその一例だ。 それから文章の拙い點については、私は、日頃鐡砲ばかりいじつてゐて、 ペンをもつことなどは滅多にないためだと辨解するより外はない。 私の文章には少しも修飾や誇張がない。さういふものをあながち排斥するわけではなくても、 私の力には及ばないのだ。しかし私はありのまゝの事柄の方が、 よく人の頭にのこるもので、ありのまゝに書いた書物の方がわかりよいものであると考へざるを得ない。 尤も私にはそんなことを言ふ資格はないだらうが。ククアナの諺に、 「鋭い槍は磨くに及ばぬ」といふ諺がある。私はそれにならつて、眞實の話は、 どんなに不思議な話でも、美しい言葉で修飾する必要がないと言つていゝと思ふ。 アラン・コオターメン [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第一章 サー・ヘンリイ・カーチスに會ふ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- この前の誕生日で、私は五十五になつたわけだ。こんな年になつてから、ペンをとつて、物語りを書かうなんて妙な話だ。 若し旅のをはりまですつかりこれを書きあげてしまつたら、 この物語がどんな風なものになるか、今のところ私にもわからないのだ。 私の生涯は實に長い生涯だつたやうに思ふ。それといふのも極く若い時から私は色々なことをして來たからだ。 他の子供等がまだ學校に行つてゐる時分から、私は舊植民地で商人になつて、 糊口の道を立てゐたものだ。それからといふもの、私は商賣をしたり、 狩をしたり、魚獵をしたり、坑山で働いたりして來た。それでゐて私がやつと一儲けしたのは、 ほんの八箇月のことだ。私はずゐぶん儲けたものだ。どれ程儲けたか私にもわからない位だ。 しかし、私はどれだけ儲かつたかところで、この十五六ヶ月間にやつて來たことをもう一度繰り返してやつて見る氣はない。 たとひ無事に、しこたま儲けて歸つて來られることがわかつてゐても、もう眞つ平だ。 といふのは私は、臆病者で、亂暴なことは嫌ひで、冐險なんてことは蟲が好かぬからだ。 私はどうしてこんな物語を書く氣になつたのか自分でもわからぬ。これはどう見てもお門ちがひだ。 私は筆をもつやうな柄ぢやない。で私がこんな物語を書きはじめる理由があるとすれば、まあ次のやうなものだらう。 第一に、サー・ヘンリイ・カーチスと船長ジョン・グッドとが私にこれを書いて見るやうに言つてくれたからだ。 第二に、私は、いま、左の脚が痛むので、このダーバンへ來て寢てゐるからだ。 あのいま〜しいライオンに噛みつかれてからといふもの、しよつちゆう、 傷をうけたところが痛みがちなのだが、それが今は、わけても激しくなつて、 いつもよりひどくびつこをひいてゐるのだ。ライオンの齒には、きつと毒があるに相違ない。 でなければ、一旦癒えた傷が、毎年、傷を受けた時節になるとまた痛み出すなんて法はない。 私は一生のうちに二十五頭のライオンを射ち殺したのだが、二十六頭目のライオンに、 まるで噛み煙草か何かのやうに脚を噛まれるなんてつくづく情なくなる。 私は物事はきちんとしたことがすきだから、外のことはさておいて、 こんな風に一度だけやり損なつたことが癪にさはつてはならぬのだ。 おつとこれは餘計な話だつた。 第三に、私の倅は今ロンドンの病院で醫者にならうと思つて勉強してゐるが、私はこの倅を樂しませてやりたいのだ。 病院の仕事なんて、退屈なものだから、時々は厭になることもあるに相違ない。 屍體の解剖だつて始終見てをれば飽きがくるに相違ない。 ところがこの物語は、何はともあれ、退屈でないことだけは請け合ひだから、 倅もこれを讀んでゐる一日か二日の間はいくらか氣が晴れるかも知れないと思ふのだ。 第四に、そして、これは最後の理由だが、私がこれから語らうとする物語りは、 又とない不思議な物語りだ。その上特にこの話にはファウラタを除いては女は一人も出てこない。 いや、待つた、ガゴオルといふ老婆が出て來る。だがこれは女といふよりむしろ惡魔と言つた方がよい。 それにこの女は少なくも、もう百歳にもなつてゐるのだから、 結婚のできるやうな女ぢやない。だから私はこの女は勘定の入れないのだ。 兎にかく此の話には艷つぽいところは何もないと言つても大丈夫だ。 さてこれから本題にとりかゝらう。 ナタル州ダーバンの紳士、アラン・コオターメンと申す私は、こゝに宣誓をして申し上げます—— 私はキヴァとフェントフォーゲルとの死について、裁判官の前で證言したときにかういつてきりだしたものだ。 だが書物の書き出しには、どうもこれでは工合がわるいやうに思ふ。 それに一體私は紳士だらうか?紳士とは一體何だらう?私にはまるでわからないのだ。 だが、いづれにしても生れは紳士として生れたのだ。 一生旅 商人《あきんど》をしたり獵師をしたりして過したには過したが、生れは紳士だつたのだ。 今でもさうかどうかは私は知らぬ。それは諸君の判斷にまかせる。私が一生懸命につとめて來たことは神樣が御承知だ。 私は一生のうちに隨分人を殺すには殺したが、決してみだりに人殺しをしたのでもまければ、 罪のない者の血で私の手は汚れてをりはしない。たゞ自衞のために殺したのだ。 神樣から授かつた命だもの、大事にしなくちやならんと私は常々思つてゐるのだ。 さて、私がはじめてサー・ヘンリイ・カーチスと船長グッドとに會つたのはもう十八ヶ月あまりも前のことだ。 私はバマングワトの象狩りに出かけて、散々な不獵で、することなすことがへまになつたばかりならいゝが、 擧句のはてに、ひどい熱病にかゝつてしまつた。病氣が治ると、私は早速ダイヤモンド採掘場へ出かけて、 もつてゐた象牙を、荷車や牛と一緒に賣り拂つてしまひ、 傭つた獵師どもに暇を出して、喜望岬《ケープ》行きの驛馬車に乘つた。 ケープ・タウンで一週間ばかり過した後、ホテルに泊つてゐても費用がかゝる一方だし、 それに、町はすつかりもう見物してしまつて、植物園や、新しく出來た議事堂まで見てしまつたので、 英國からエヂンバー・キャスル號の到着するのを待つて出航する筈になつてゐたダンケルド號に便乘して、 ナタルへ歸ることに決めた。私は寢臺室を買つて船に乘つた。 そして、その日の午後、エヂンバー・キャスル號に乘つて來たナタル行きの乘客が、 こちらの船へ乘り換へて來るのを待つて吾々は出帆したのであつた。 その乘客の中に、私の好竒心を動かした人が二人あつた。 一人は私がこれまでに見たことのない程胸の大きな腕の長い人であつた。 この人の髮は黄色で、髯も薄い黄色で、顏だちはくつきりとしてをり、 どこか昔のデンマーク人のやうなところがあつた。ところが、不思議なもので、 この人はサー・ヘンリイ・カーチスといふ人であつたが、あとからわかつたところによると、 ほんたうにデンマーク人の血をうけた人だつた。それからこの人は、 どこかで見た人によく似てゐると思つたが、その時は誰に似てゐたのかどうしても思ひ出せなかつた。 いま一人の、サー・ヘンリイに話をしかけてゐた男は、頑丈づくりな、色の淺黒い、 全く別種の人であつた。私はすぐにこれは海軍士官ぢやないかなと思つた。 なぜかわからぬが、海軍の軍人はめつたに見損ひのすることはないものだ。 私は、生涯のうちに、海軍の軍人と獵に出かけたことが度々あつたが、 彼等は少々言葉が亂暴であはあつたが、此の上なく氣だてのよい、勇敢な連中であつた。 私はつい今しがた、紳士とは何だらう?と言つたが、今なら答へができる。 海軍の軍人こそは、中にはろくでなしもあるが、概して紳士だと言へる。 廣い海と、風との心を洗はれてゐるので、邪まな考へは心の中から追ひ出されてしまつて、 ひとりでに立派な人間ができ上がるのだらうと私は思つてゐる。 それはさておき、私はあとで、この色の淺黒い男は矢張り海軍士官であつたことをたしかめた。 十七年の間海軍の飯を食つて、中佐になつて士官をやめたのだ。 といふのはもうそれ以上昇進する見込みもないのでお拂ひばこになつたのだ。 一體お上の役人になる者はいつでもさういふ覺悟をしてゐなくちやならんものだ。 やつと仕事の味がわかり出す時分になると、世智辛い世の中へ抛り出されるにきまつてゐるのだ。 その人たちにしてみりや何とも思つてゐないだらうが、私はまあそんなことをするより、 獵師として麺麭を稼いでゐた方がましだと思つてゐる。 士官の名は船客名簿で調べた見たら、グッドといふ名前だつた。船長、ジョン・グッドといふのだ。 この男は肩幅の廣い、中脊の、色の淺黒い、肥つた、少し風變りな男だつた。 いつも身のまはりをきちんとし、鬚は綺麗に剃つて、右の眼に眼鏡をかけてゐた。 まるで眼鏡はそこに生えてゐるかのやうで、紐もつけてゐなければ、 球《たま》を拭くとき以外に外したこともなかつた。初めに、私は、 眠る時も眼鏡をかけた儘で眠るのぢやないか知らんと思つたが、それは間違ひだつた。 床に就く時は、義齒《いれば》と一緒にそれをヅボンのポケットへしまふのだつた。 義齒は非常に立派なのを彼は二組もつてゐた。私の義齒と來たら隨分ひどいものだつたから、 私はつい十誡の十番目の誡めを破つた事が度々あつた。 船が進み出すと間もなく日が暮れて、天氣がわるくなつて來た。 強い風が沖の方から吹いて來て、霧がひどかつたので、船客は皆 甲板《デツキ》から逃げ出した。 吾々の乘つてゐたダンケルド號は平底船だつたので波のまにまにのし上げられて、ひどく搖れた。 まるで今にも顛覆しやしないかと思はれる程だつたが、顛覆はせずにすんだ。 歩きまはることなどはとても出來なかつたので、 私は機關《エンヂン》のそばに立つて私の眞正面にすゑてある振子《しんし》の搖れるのを眺めてゐた。 機關《エンヂン》のそばは温かかつた。振子は船が搖れる度に大きな角度を描いて前後に觸れてゐた。 「あの振子は狂つてゐる」突然私の肩のところで、氣短かな聲でかう叫んだものがあつた。 後《うしろ》を振り向いて見ると、それはさつき私の眼にとまつた海軍士官だつた。 「どうしてさうお考へになるのです?」と私はたづねた。 「考へるつて?考へるんぢやないんだ」と彼は船に搖られた身體を眞直にのばしてから言つた。 「あの振子が指してゐる程にこの船が搖られた日には、もう二度と搖りたくても搖れなくなつてしまひますよ。 それつきりのことです。だが、こゝいらの商船の船長なんて奴は、 みなこんなことにかけちやいまいましい程無頓着ですからなあ。」 ちやうどその時食事の鐘が鳴つた。私はそれを有り難く思つた。 といふのは、海軍士官からこんな話をくど〜聞かされちやたまらなかつたからである。 グッド船長と私とは一緒に食堂へ行つた。サー・ヘンリイ・カーチスはもう既に席についてゐた。 彼とグッド船長とは竝んで坐り、私は二人と向ひあつて坐つた。 船長と私とは直に獵の話を始めた。彼は色々なことを訊ねるので、私はできるだけそれに答へてゐたが、 そのうちに象の話になつた。 すると私の近くにゐた誰かゞ言つた。「あなたはいゝ人をつかまへましたよ。 象の話ならこのコオターメンさんに聞けば誰よりもよく知つてゐますからね。」 ぢつと坐つて吾々の話をきいてゐたサー・ヘンリイ・カーチスは、 この時、他目《ひとめ》にもわかるほどびつくりした。 「失禮ですが」と彼は食卓の上へもたれかゝつて、低い、どつしりした聲で言つた。 「失禮ですが、あなたは、アラン・コオターメンさんと仰有いますか?」 私はさうだと答へた。 この大漢《おほおとこ》は、それつきり何とも言はなかつたが、鬚の中で「よかつた」と呟いたのが私に聞えた。 やがて食事がすんだので、吾々がぞろ〜食堂から出かけて行くと、サー・ヘンリイが私のそばへ寄つて來て、 彼の船室へ煙草を喫《の》みに來ないかと申し込んだ。私は承知した。 そこで彼の船室へ私をつれて行つた。それは立派な船室だつた。 この船室は、以前は二つの室に分れてゐたのだが、 サー・ガーネットといふ成金がこの船へ乘つた時に、中仕切を壞したまゝ、 それつきり、そのまゝになつてゐたのである。 この船室にはソファが一つあつて、その前に小さいテーブルが置いてあつた。 サー・ヘンリイは、給仕にウヰスキーを註文しておいて、 それから吾々三人は椅子に腰を下してパイプに火をつけた。 「コオターメンさん」とサー・ヘンリイは給仕がウヰスキーの瓶をもつて來て、 ランプに燈をつけてから言つた。「あなたは一昨年のこの頃、 トランスヴァールの北にあたるバマングワトといふ所にをられましたね。」 「さうです」と私は答へた。そして、世間にさう注意されてゐる筈もない私の動靜を、 この紳士が知つてゐるのに少なからず驚いた。 「あなたはそこで商賣をしてゐたんでせう?」とグッド船長が例の氣短かな口調で言葉をはさんだ。 「さうです。荷物を荷車に積んで、居留地外に野營をして、品物を賣りつくしてしまふまで、 そこに滯在しとりました。」 サー・ヘンリイは、私に向ひあつて、マデイラ椅子に腰をかけ、兩腕をテーブルの上へもたせかけてゐた。 が、この時顏を上げて、大きな灰色の眼で、眞正面から私の顏をじろ〜見た。 その眼には何となく氣にかゝることがあるやうな樣子が見えた。 「あなたは、もしかしたら、ネヴィルといふ男にお會ひになりやしませんでしたか?」 「會ひました。あの人が奧地へはひつてゆく前に會つたことがあります。 數ヶ月前にある辨護士から私のところへ手紙で、 あの人がどうなつたか知つてゐるかといつて訊ねて來ましたので、 私は、その時、知つてゐるだけのことを答へてやりました。」 「さうですか、その手紙は私の手許へ廻つて來ましたよ。あなたは、その手紙で、 五月のはじめに、ネヴィルといふ紳士《ゼントルマン》が、 一人の御者とジムといふケーファー人の獵師とをつれて、 バマングワトを出立したといふことや、出がけに、もし行けるなら、 マタベレ地方の一番はづれの商業地のインヤチまで馬車で行つて、そこで馬車を賣つて、 その先は歩いて行くのだと言つたといふことや、それから、 その紳士は實際その馬車を賣つた、といふのは、それから六ヶ月もたつてから、 ポルトガルの或る商人が、その馬車をもつてゐるのをあなたが御覽になり、 そのポルトガル人は、その馬車をイヤンチで或る白人から買ひとつたとあなたに話したことや、 それからその白人と土人の下男とは更に奧地の方へ狩に出かけて行つたらしいと、 あなたに話したことなどを書いてをられましたね。」 「さうです。」 それからしばらく話が途切れた。 「コオターメンさん」とサー・ヘンリイは急に口をきつた。「あなたは、多分、 私の——いや、そのネヴィルといふ人が何故南の方へ行つたか、そして、 どこを目指して行つたのかは御存じぢやありますまいね?」 「いくらか聞いてゐることもあります。」と言つて私は口をつぐんだ。 こんな話には私はあまり興味がなかつたからだ。 サー・ヘンリイとグッド船長は互に顏を見合せ、グッド船長は點首《うなづ》いた。 「コオターメンさん」とヘンリイは言葉をつゞけた。「私はこれから一つ身の上話を聞いていたゞかうと思ふのです。 そしてあなたの御意見をうかゞつたり、ことによつたら、 お力を借りたいと思ふのです。私にあなたの手紙を渡してくれた辨護士は、 あなたをナタルで、人に知られ、人に敬まはれてゐる方で、 わけても分別のある方だから、きつとよい智慧を貸して下さるだらうと言つてゐました。」 私は頭を低《さ》げて、てれ隱しに、ウヰスキーと水とを少しばかり飮んだ。 といふのは私はおとなしい人間だからほめられて氣まりが惡かつたのだ。 サー・ヘンリイは猶も言葉をつゞけた。 「ネヴィルといふのは私の弟なのです。」 「ほゝう」と私は吃驚《びつくり》して言つた。といふのは、 サー・ヘンリイをはじめて見たとき、どうもどこかで見たことのある人に似てゐると思つたからだ。 彼の弟は、ヘンリイから見ると體格は小造りで、鬚は黒かつたが、灰色の眼はそつくりで、 その眼の鋭い輝きもそつくりだつたし、顏もよく似てゐた。 「あれは」とサー・ヘンリイは續けて言つた。「私のたつた一人の弟で、五年前までは、 一月だつてお互に離れて暮すやうなことにはならうとは夢にも思つてゐなかつたのです。 ところが、どこの家にもよくあることで、五年前に私どもの家に一つの不幸がふりかゝつ[て]來たのです。 吾々はひどい喧嘩をして癇癪まぎれに私は弟をひどい目にあはせたのです。」 グッド船長は、ひとりで元氣にうなづいた。船ははげしく搖れてゐた。 「御承知と思ふが」とサー・ヘンリイは言葉をつゞけた。 「若し或る人が遺言なしに死んだ場合に、その人に不動産、 つまり土地だけしか財産がない場合には、英國ではその財産はすつかり長男のものになることになつてゐるのです。 ところが、ちやうど喧嘩をして理る最中に、折惡しく吾々の親父が遺言せずに死んでしまつたのです。 遺言を書くのをのばしてゐるうちにたうとう間にあはなくなつてしまつたのです。 勿論私が何とかしなければならぬところだつたのですが、何しろその頃吾々は喧嘩の眞つ最中だつたので、 お恥かしいことながら(かう言つて彼は深い溜息をもらした) 私は弟に何一つやらうと言はなかつたのです。勿論私としても、 そんな不公平なことをする氣ぢやなかつたのですが、 そのうちに弟の方で折れて出るだらうと思つてそれを待つてゐたのです。 ところが弟は飽く迄も強情を張つて、何とも妥協を申し込んで來ないのです。 コオターメンさん、こんなお話をして御免下さい。 でも私はすつかり事情を打ち明けてお話しなくちやならんのです、ねえ、グッド君?」 「さうですとも」と船長は言つた。「コオターメンさんはきつと他言なんかなさらんでせう。」 「勿論です」と私は言つた。といふのは私は分別をわきまへてゐるといふことでは、 少々自慢でもあつたし、サー・ヘンリイが言つたやうに、少しは評判者でもあつたのだ。 「で、弟はその當時自分のものとしては五六百 磅《ポンド》の小遣をもつてゐたゞけなのですが」 とサー・ヘンリイは言葉をつゞけた。「私には何とも言はずに、 此の僅かばかりの金をひき出して、ネヴィルと名前をかへて、 一儲けしようといふ無鐵砲な考へを起して、南アフリカへ出かけて行つたのです。 私はこのことをあとで知つたのです。それから三年もたつて、 弟からは何の便りもありません。私は度々手紙を書いたのですが、 きつと弟の手許までは屆かなんだのでせう。併し時が經つにつれて、 私はだん〜このことが心配になつて來ました。コオターメンさん、 私は血は水よりも濃いといふことをつく〜゛悟つて來ましたよ。」 「もつともですとも」と私は息子のハリイのことを思ひ出しながら言つた。 「私は財産の半分を投げ出してもいゝから、たつた一人の血を分けた弟のジョオジの安否が知りたい、 一目でいゝからもう一度弟に會ひたいと思ふやうになつたのです。」 「併しのぞみはかなひませんでしたね、カーチスさん」とグッド船長はヘンリイの顏をちらりと見ながらせつかちに言つた。 「さうです、コオターメンさん、時が經つにつれて、私は弟の生死が知りたい、 生きてゐるものなら、もう一度家へつれて歸りたいと氣を揉んで來ました。 私は方々を歩きまはつて探しました。あなたの手紙もその搜索によつて手を入れた結果の一つだつたのです。 ところが今のところではまあ安心なのですよ。 といふのは最近までジョオジは生きてゐることはわかつてゐるからです。 しかしその先きが皆目わからんのです。でまあ、長い話をつゞめて申し上げると、 私は弟のありかを探さうと思つて出かけて來たやうなわけなのです。 グッド船長は親切にも、私について來て下さることになつたのです。」 「さうです。」と船長は言つた。「海軍の方をお拂ひばこになつて見れば、 他にすることもないもんですからね。ところで今度は、あなたから、 ネヴィルといふ紳士についてお聞きになつたことを話していたゞきたいですなあ。」 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第二章 ソロモン王の寶窟の傳説 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 「あなたは私の弟がバマングワトへ旅立つたことについて、どんなことをお聞きになりました?」 とサー・ヘンリイは私がグッド船長へ答へやうと思つてパイプに煙草をつめてゐるときに訊ねた。 「私はこのことはまだ、今まで誰にも話したことはないのですが」と私は答へた。 「あの人はソロモン王の寶窟を目あてに旅立たれたのださうです。」 「ソロモン王の寶窟だつて?」と二人の聽手は同時に叫んだ。「それは一體何處にあるのです?」 「私もよくは知らないのですが」と私は言つた。「人の噂だけにきいてゐます、 前に、ソロモン王の寶窟の前にある山の峰を見たことがあります。しかし、 私の立つてゐた處とその山との間には、百三十哩もある沙漠がありましたので、 そこを越して行つた白人は一人つきりしか私は知りません。 だがこんなことを申し上げるより、そのソロモン王の寶窟の傳説について、 私の知つてゐることを申し上げた方がよいと思ひます。但し、この話は、 私にことはらないで、他の人に話さないやうにしていたゞきたいのです、 それにはわけがあるのですから。それでよろしうございますか?」 サー・ヘンリイは點首《うなづ》いた。グッド船長は「大丈夫、承知した」と答へた。 「では申しあげませう」と私ははじめた。「大抵おわかりでもありませうが、 獵師なんてものは、概して粗削りにできてゐますから、 ケーファー人の見たまゝの生活以上の事を知りたいなんて氣はめつたに起すものぢやありませんが、 時々は、土人の傳説を蒐めて、 この暗黒地方の歴史を少しでも明かにしようなんて考へをもつてゐる殊勝な人にもぶつかることがあります。 私がはじめてソロモン王の寶窟の傳説をきいたのは、まあさういつたたちの人からでした。 もうかれこれ三十年も前のことですがね。それは私がはじめてマタベレ地方へ象狩りに出かけた時のことでした。 私にそれを話してくれた男はイヴァンスといふ男で、かはいさうに、手傷を受けた野牛のために殺されて、 今ぢやザムベシ瀧の近くに葬られてゐます。或る晩のこと私はイヴァンスに、 トランスヴァールのライデンブルク地方へ獵へ行つた時に見た金坑の話をしたことがあります。 今でこそこの地方は金山で榮えてゐますが、私はそれよりも前から、 此の地方に金山のあることは知つてゐたのです。するとイヴァンスは『もつと不思議な話がある』と云つて、 ずつと奧地の方にある廢都の話をしてくれたのです。彼はこの廢都は聖書のオフィルのことだらうと言つてゐましたが、 ついでに言つておきますと、その後もつと物識りの學者が矢張りイヴァンスと同じことを言つてゐました。 私はその頃若かつたものですから、熱心にこの古代文明の話をきいてゐました。 するとイヴァンスは突然私に向つて 『お前さんはマシュクルムブェ地方の西北にあたるスリマン山をきいたことがあるかい?』 と申しました。私が聞いたことがないと答へると、彼は『さうか、あそこには、 ソロモン王がほんたうに坑山をもつてゐたのだぜ、ダイヤモンドの坑山をもつてゐたのだぜ』と言ひました。」 「『どうしてそれがわかつたのです?』と私は訊ねて見ました。」 「『どうしてつて、スリマンといふのはソロモンのアラビア訛りだよ。 それにマニカ地方にゐる魔法婆から私はその事をすつかり聞いたんだ。 その婆の話によると、あの山の向うに住んでゐる人間はズル民族の分派で、 ズルの方言を使つてゐるが、ズル人よりは立派で體格が大きいといふ事だ。 それから、そこには偉い魔法使が住んでゐるといふ事だ。この魔法使ひどもは、 まだ『世界中がまつ暗な時代に』白人から魔法を教はつたので、 不思議な『光る石』の出る坑山を知つてゐたといふことだ』 「私はこの話をきいた時大變面白い話だとは思ひましたが、 その頃はダイヤモンド採鑛場の發見される前のことですからたゞ一笑に附してゐました。 だがかはいさうなイヴァンスはそれから出かけて行つて、殺されてしまつたのです。 それから二十年の間、私はこの事は忘れてしまつてゐたのですが、 二十年後に——二十年といへば長い年月ですよ、 象狩りをしやうばいにしてゐる人間は、 しやうばいをはじめてから二十年も生きてゐない人がずゐぶんありますからね—— 私はこのスリマン山とその山の向うにある地方とについて、 もつとはつきりしたことを聞きました。私はマニカ地方の先にあるシタンダ村といふ所まで行きました。 そこは實にひどい所で、食物もなければ、獵の獲物も殆んどゐませんでした。 私は熱病にかゝつて弱つてをりますと、或る日のこと、 一人のポルトガル人がたつた一人の混血兒をつれてやつて來ました。 一體ポルとガル人の商人ときたら、奴隸の生血を絞つて生きてゐる惡魔ですが、 この人は、そんな人ではなく、大層おとなしさうな人でした。 痩せた脊の高い人で、大きな黒い眼をして、灰色のちゞれた口鬚をはやしてゐました。 その人はブロークン・イングリッシを話しましたし、私は少々ポルトガル語がわかつたので、 二人は少し話をしました。その人はジョゼ・シルヴェストルといつてデラゴア灣の近くに住んでゐるのだと言つてゐましたが、 翌日、一人の混血兒の從者《とも》をつれて行きがけに、ひどく古風な帽子を脱いで、 『左樣なら《グット・バイ》』と言ひました。 「『左樣なら《グット・バイ》』、こん度二人が會ふやうなことがあつたら、 その時には私は世界一の大金持ちになつてゐて、あなたをおぼえてゐますよ』とかう言ひました。 私は少し笑ひました。ひどく弱つてゐたので澤山笑へなかつたのです。そして私はあの人は氣狂ひだらうか、 何をさがしに行くのだらうなどゝ思ひながら、その人が沙漠を横ぎつてゆくのを見てゐました。 「それから一週間がたつて、私の熱病はなほりました。或る晩のこと、 私は、私のテントの前にすはつて、土人から布の切れつぱしで買つた最後の鳥の脚を噛みながら、 沙漠の向うへ沈んで行く赤い夕陽を見てゐますと、どうやらヨーロッパ人らしい一人の人影が見えました。 といふのは、その人影は外套を着て、三百 碼《ヤード》ばかり離れたところの、 丘の中腹に立つてこちらを見てゐるのです。その人は這つてゐましたが、 しばらくするとまた起ち上つて歩き、歩き出したかと思ふとまたよろけて這つてゐました。 これはきつと災難にあつた人に相違ないと思つて、私は手下の獵師に、 その人を助けて來るやうに言ひつけました。まもなくその人はやつて來ました。 それは一體誰だつたとお考へですか?」 「無論ジョゼ・シルヴェストルだらう」とグット船長が言つた。 「さうです、ジョゼ・シルヴェストルでした。といふよりも、ジョゼ・シルヴェストルの骨と皮とでした。 顏は熱のために黄色い干乾びた皮膚と、白い髮と、骨とだけになつてゐました。 「『水を!後生だから水を!』と彼は呻きました。かはいさうに、脣はから〜に乾いて、 その間からはみ出してゐた舌は、膨れて黒ずんでゐました。 「私が水の中へ少し牛乳をたらしてやると、彼は一升あまりもの水を息もせずに飮みましたが、 また熱がぶる返して來たので、その場に寢ころんで、スリマン山だとか、ダイヤモンドだとか、 沙漠だとかいふことを夢中で口走りました。私は彼を天幕《テント》の中へつれて來て、 大したこともできませんでしたが、できるだけ介抱してやりました。 十一時頃になると病人も少ししづまつて來たので、少しやすまうと思つて私は寢ましたが、 翌朝、夜明け頃に眼をさまして、薄暗い明りで見ると、シルヴェストルは痩せこけた身體で起き直つて、 沙漠の方を見つめてゐました。やがて、朝日が、吾々の前の廣い平原を横ぎつて、 百哩以上も向うにあるスリマン山の一番高い峯を照しました。 『あれだ』と死にかゝつた男はポルトガル語で叫びました。そして長い痩せた腕でその方を指しながら 『わが私にはもう行けない。誰にだつて行けはしない!』 「それから、彼は急に言葉を切つて、何か決心してゐるやうな樣子でしたが、 やがて私の方を向いて、『お前さん、お前さんはそこにゐなさるか? 私は眼がかすんでよく見えないのです。』 「『こゝにゐますよ』と私は言ひました。『こゝにゐますから、横になつておやすみなさい。』 「『はい』と彼は答へました。『私はすぐにやすみます。ゆつくりと—— いつまでもやすめるやうになります。聽いて下さい。私は死にかけとるのです。 お前さんは私を親切にして下さつた。私はお前さんにこの書物をあげます。 多分お前さんは、私と私の下男とを殺してしまつたこの沙漠さへ無事に通ることができれば、 あそこへ行けるでせう。』 「かう言ひながら彼は、シャツを手探りして、 羚羊《かもしか》の皮でこしらへたボーア人の煙草入れのやうなものを取り出しました。 それは細い紐でゆはへてあつたので、彼はそれを解かうとしましたが、解けなかつたので、 それを私にわたして『これをといて下さい』と言ひました。 私がといてやると、彼はその中から、ぼろ〜になつた黄色い麻の布《きれ》をとり出しました。 それには澁色で何か書いてありました。そしてこのぼろに一枚の紙が包んでありました。 「それから、彼は非常に弱つてゐたので、か細い聲で言ひました。 『この紙には、麻布に書いてあることがすつかり寫しとつてあります。 まあ聽いて下さい。私の先祖はリスボンから逃げて來た亡命政客で、 この土地の海岸へ上陸した最初のポルトガル人の一人だつたのです。 その人が、まだ白人の踏んだことのないあの山へ行つて死にがけにこれを書いたのです。 その人の名はジョゼ・ダ・シルヴェルトラと言つて三百年も前に生きてゐた人です。 この人の歸りを、山のこちら側で待つてゐた奴隸が、このシルヴェストラの死んだのを見つけて、 この書物をもつて歸り、それからずつと私の家に傳はつてゐたのですが、 誰もそれを讀まうとするものはなく、たうとう私がそれを讀みわけたのです。 私はそのために一命をおとしたのですが、誰かゞきつと成功して、 世界一の金持ちになるでせう——世界一の金持ちに。 だが他の人に渡しちやいけませんよ。あんたが自分で行くのですよ!』 かう言つたかと思ふと、彼はまた囈語《うはごと》を言ひ始めて、 それつきり歸らぬ人になつて終つたのです。 「かはいさうに!彼は靜かに死んで行きました。私は彼の屍骸を深く埋めて、 胸の上へ大きな石をのせておいてやりましたから。 豺《むじな》だつて掘り出すことはできんだらうと思ひます。 さうしておいて私は歸つて來ました。」 「してその書物といふのは?」とサー・ヘンリイはひどく興味を感じたやうな口調で言ひました。 「さうだその書物には何が書いてあつたんです?」と船長がつけ加へた。 「おのぞみなら申し上げませう。私はまだその書物をたゞ一人だけにしか見せたことがないのです。 その一人といふのは私がそれを飜譯して貰つた醉つ拂ひのポルトガル人で、 この醉つ拂ひは翌朝になると何もかもけろりと忘れてしまつてゐました。 ぼろ切れに書いた原文と、かはいさうなジョゼの飜譯とはダーバンの私の家においてありますが、 その英譯とそれについてゐた略圖とは、私の手帳の中にしまつてあります。これです。」 「吾れ、ジョゼ・ダ・シルヴェストラは、 吾れがシバの乳房と命名せる二つの山のうちにて南の方に位する山の頂きの北側にある雪のなき小さき洞窟にていま餓死せんとするにのぞみて、 一五九〇年吾が衣の片《きれ》に、骨の破片をもつて、吾が血をインキとしてこれを書き記すものなり。 若し吾が奴隸來たりてこれを發見せば、これをデラゴアに持ち歸り、 吾が友(こゝの所讀み難し)をして、これを國王の御耳に入れしめ國王の軍隊を派遣せしむべし。 若し國王の軍隊が、無事に沙漠と山を越え、且つ勇敢なるククアナ人とその恐るべき魔法に打ち勝ちなば、 國王はソロモン王以來の最も富める王となりたまふべし。 ククアナ人の魔法を破るためには多くの僧侶を伴ひゆかるゝがよし。 吾は吾自らの眼にて『白き死の神』のうしろにあるソロモンの寶窟に無數のダイヤモンドの貯へあるを見たり。 されど、魔法使ひガゴオルの裏切りによりて一物ももち去ること能はざりしのみならず、 一命をも持ち歸る能はずに至りしなり。こゝへ來る者は地圖の案内に從ひ、 シバの乳房の雪道を辿りて頂上に逹すべし。山頂の北側にはソロモンの造れる大道あり、 三日にして王宮に逹すべし。來る者はガゴオルを殺すべし。さらば。 ジョゼ・ダ・シルヴェストラ」 私がこれを讀み了つて老いたポルトガル人が臨終の血で書いた地圖の寫しを見せると、 二人はあつけにとられてだまつてゐた。 「ずゐぶん妙な話ですな」とサー・ヘンリイは言つた。「きつと吾々をからかつておいでなんでせう?」 「さうお考へなさるなら」と私はマッチを消て書物をポケットの中へ藏《しま》ひながら言つた。 「もうこれでよしませう」私は、[言|虚;#2-88-74]《うそ》をついて得意になつたり、 はじめて來た人に、自分の實際やりもしない冐險の話をして自慢したりする人間と思はれたくなかつたので、 かう言つて、もう出て行かうと思つて起ち上つた。 サー・ヘンリイは、彼の大きな手を私の肩へかけて「まあおかけなさい、コオターメンさん」 と言つた。「ごめん下さい。あなたが吾々をだまさうといふ氣なんか毛頭ないことは百も承知してはゐたのですが、 あんまり不思議な話なもんだから信じられなかつたのです。」 「ダーバンへ着いたた、この原文と地圖とを御覽に入れますよ」と私は少し機嫌を直して言つた。 といふのは、この人たちが私の言つたことを眞に受けないのも無理がないと思つたからだ。 「ですが、あなたは御兄弟のことをまだお話ししませんでしたな。 私はあなたの弟樣のおもてなしをして行つたジムといふ男を知つてゐたのです。 この男は、ククアナの生れで、腕利《うできゝ》の獵師で、土人としては大變賢こい奴でした。 ネヴィル樣がお出かけになる朝、ジムは私の馬車の側に立つて煙草を切つてゐました。 「『ジム公、こん度の旅はどちらだね?象狩りかね?』と私は言ひました。 すると『いゝや、象牙よりもつといゝものを取りにゆくんでさ』と奴は答へました。 「『そりや一體何だね?金かね?』と私は好竒心を動かしてたづねて見ました。 「『いゝや、金よりももつといゝものですよ』と言ひながら奴はにた〜笑つてゐました。 「私もあんまり根掘り葉掘り聞きたゞすのは下品に見えると思つて、 それつきり問ふのはやめましたが、どうもわかりませんでした。 するとジムは煙草を切りをはつて『旦那』と言ひました。 「私が氣がつかずにゐると、また『旦那』と言ふのです。 「『何だい?』と私は返事をしました。 「『これからダイヤモンドをさがしに行くんです。』 「『ダイヤモンド!それぢやお前方角ちがひぢやないか?ダイヤモンドなら、 採鑛場《アイールド》の方へ行かなくちや。』 「『旦那はスリマン山の話をきいたことがあるかい?』 「『うん!』 「『あそこにダイヤモンドがあるつてことをきいたかい?』 「『そんな馬鹿な話もきいたことがあるよ、ジム。』 「『それは話ぢやないよ、旦那。わしはあの山へ行つて來て、子供をつれてナタルへ歸つた女を知つてるがね、 その女がわしにさう言つたよ——その女はもう死んだけれどね。』 「『お前さんの主人は兀鷹《はげたか》の餌食になるにきまつてるぜ、 スリマン山なんぞへ行かうとすれば。それから、兀鷹がお前さんのけちな身體でもつまみ食ひしようつて氣を起したら、 お前さんだつて矢つ張り同じだよ』と私は言ひました。 「すると彼奴《あいつ》は齒を剥出して笑ひながら『さうかも知れんね、旦那。 だが人間てどうせ一度は死ぬんだ。わしはまだ人の行かん處へ自分で行つて見たいよ。 この界隈にやもう象も種切れになつたからね。』 「『まあ『蒼白い老人』に咽喉つ首をぎゆつとやられるのを待つてるがいゝさ。 こちとらは、その時お前さんがどんな聲を出すか聞いてゐようよ。』 「それから半時間もたつとネヴィル樣の馬車は動き出しました。するとジムが走つて歸つて 『旦那、左樣なら』と言ひました。『旦那に左樣ならも言はずに行きたくなかつたもんですからね。 といふのは、ことによると旦那の言ふとほり、 わし等はもう南へ歸つて來られねえかも知れませんでな。』 「『ほんたうにお前さんの御主人はスリマン山へ行くのかい、ジム、 それともお前さんが[言|虚;#2-88-74]《うそ》をついてるのかい?』 「『ほんたうに行くんですよ』と彼奴は答へました。 あの旦那はどうしても財産をこしらへにやならんので、 一かばちかダイヤモンドを探しに行つて見るのだと言つてました。』 「『ではちよつと待つてくれ、ジム、お前さんの御主人にこの書き附けをもつて行つてくれ。 そしてインヤチへ着くまでこれを渡さないやうにしてくれ。インヤチはこゝからかれこれ百哩だ。』 「『承知しました。』 「そこで私は紙片をとり出して、 それに『こゝへ來るものは……シバの左の乳房の雪道を辿りて頂上に逹すべし、 山頂の北側にはソロモンの造れる大道あり』と書きました。。 「『さあジム』と私は言ひました。『これを御主人に渡すときに、 こゝに書いてある通りになさいと言つてくれ。だが今渡しちやいけないよ、 あの人が引き返して來て、いろ〜問はれちや困るからな。では行つといで。 もう馬車が見えなくなりかゝつてるから。』 「ジムは此の書き附けをもつて行つてしまひました。 私があなたの弟樣について知つてゐることはこれだけでございますよ。 ヘンリイ樣、だが私の氣になるのは——」 「コオターメンさん」とサー・ヘンリイは言つた。「私はこれから弟を探しに行くのです。 弟のあとをつけてスリマン山まで、そして、必要とあらばその先までも、 兎に角弟を見出すか、弟の死んだことをたしかめるかするまでどこまでも行つて見やうと思ふのです。 あんた、一つ私と一緒に來ていたゞけませんか?」 私は前にも言つたやうに思ふが、用心深い、臆病者なので、 この勸めを聞いて慄へ上つてしまつた。こんな旅をした日には死ぬにきまつてゐるやうに私には思はれた。 それに他の事は兎に角、私にはまだ養つてやらねばならぬ一人息子があつたので、 私はその時はまだ死ぬわけには行かなかつたのだ。「ありがたうございますが、 わたしはお斷りしたいと思ひます」と私は答へた。 「もうずゐ分年もとりましたので私には向ふ見ずなことはできませんのです。 そんなところへ行つたら、あのかはいさうなシルヴェストルと同じやうな最期をとげるにきまつてゐますから。 それに私は一人息子の面倒を見てやらねばなりませんので、 命にかゝはるやうなことは致しかねるのです。」 サー・ヘンリイとグッド船長とはがつかりしたやうな顏をした。 「コオターメンさん」とサー・ヘンリイが言つた。「私は裕福な身で、 こん度の仕事には一生懸命になつてゐるのです。あんたのお骨折りに對する報酬をどれだけでも言つて下されば、 出かける前に前金で差し上げてもいゝです。それに萬一吾々かあなたかに不慮の災難が生じた場合には、 あなたの息子さんには然るべき處置を講じておきます。 これ程迄にしてお願ひするのは、吾々があなたに是非とも行つていたゞきたいからです。 それにもし吾々が、あちらへ行つてダイヤモンドを見つけたら、 それはあんたとグッド君とで山分けにすることにして下さい。 私はほしくありません。だがこの約束は何にもならんでせうから、 その代り吾々がとつた象牙にもこの約束は適用します。 どうぞ遠慮なくあんたの條件を仰有つて下さい。勿論費用はすべて私の方でもちます。」 「ヘンリイ樣」と私は言つた。「私はこんな過分な割のいゝ話をまだもちかけられたことがありませんから、 私のやうな貧乏な獵師商人には、さう仰有られて見ると一概に鼻の先でおことわりするわけにもまゐりません。 しかし、仕事も私がこれまでして來たどんな仕事よりも大物ですから、 こいつはゆつくり考へさして頂きたいと思ひます。ダーバンへ着くまで何分の御返事をいたします。」 「それでいゝですとも」とサー・ヘンリイは答へた。そこで私は二人に別れをつげて歸り、 ずつと以前に死んだシルヴェストルのことやダイヤモンドのことなどを夢に見た。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第三章 ウムボパを雇ふ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 喜望岬《ケープ》からダーバンまでは、船の速力や天候の加減で四日かゝることもあれば五日かゝることもある。 そのころはまだイースト・ロンドンの自慢の波止場もできてゐなかつたので、 そこへ上陸するのに手間がとれたり、正金を積みこんでゐて船脚が重くなつてゐるときには、 荷船へ荷を下すまで二十四時間も遲れることがあるのだ。 しかしこの日は、吾々はちつとも待たなくてよかつた。といふのは砂洲にはとりたてゝ言ふ程の浪もなかつたので、 曵船が醜い平底のボートの行列を曵いてすぐにやつて來たからだ。 そのボートの中へ荷物は亂暴にふりこまれるのだ。陶噐だらうが、木製の噐具だらうが、 何でもかまやしないのだ。私は三鞭酒《シヤンパン》の瓶が四 打《ダース》程こはれて、 ボートの底でしゆう〜゛音をたてゝ沸騰してゐるのを見た。もつたいない話だ。 ケーファー人どもももつたいないと思つたと見えて、まだ壞れない瓶を二つ發見して、 首をかいて中味を呑んでゐた。私は船の中から、それは白人のつかふ恐ろしい藥だとと怒鳴つてやつたら、 ケーファー人どもは魂消《たまげ》て岸の方へ急いで行つた。 その後彼等は三鞭酒《シヤンパン》の瓶には手も觸れぬことだらうと思ふ。 さて、船がナタルに向けて航海をつゞけてゐる間ぢゆう、 私はサー・ヘンリイ・カーチスの申込みについていろ〜思案めぐらしてゐた。 二三日の間はそのことについては何も話さないで、いといろ狩の話をして聞かせた。みんな實際の話ばかりだ。 狩をやつてゐる人間には色々不思議な經驗があるから[言|虚;#2-88-74]《うそ》を吐《つ》く必要はないのだ。 だがこれはまあ餘談だ。 たうとう、一月のよく晴れた夕方——一月といへばこちらでは一年中で一番暑い月だ—— 吾々の船はナタルの海岸を過ぎて夕方までにはダーバンの港にはひれさうになつた。 イースト・ロンドン一帶の海岸は實に景色がよい。赤い砂丘、廣々とした緑の地域、 その間に點在してゐるケーファー族の村落、汀《みぎは》に寄せてゐる白い浪の帶。 しかもダーバンに近附くと景色は更に一層よくなつて來る。 丘には何千來の雨で切り開かれた崖に瀧がかゝつてをり、 神の手で植ゑられたまゝの草叢《くさむら》の緑は愈々深くなり、 所々に白い家屋が無心の海に向つて笑ひかけ、一點の人間味を添へて自然の絶景を完成しゐる。 といふのは、私にはどんないゝ景色だつて、 人間がゐなくては、どうも完全だとは思へないのだ。 それといふのも私はいつも荒涼たる荒野にばかりゐたので、文明といふものゝ有難みを知つてゐたからだらう。 エデンの園は人のゐない前だつて美しかつたに相違ないが、 イヴが歩いてゐたときの方が餘計に美しかつたに相違ないと私は常に思つてゐる。 ところで吾々の時間の見當は少々ちがつてゐた。船が港に碇を下すまでに日はもうとつぷりと暮れてゐた。 ではその晩は酒場《バー》へ行かうなんて思つてゐたものあてがはづれて、 吾々は船の食堂で夕食をすますことになつた。 吾々が甲板《デツキ》へひき返して來たときには、既にもう月が昇つて晃々たる光を海や岸に投げ、 そのために燈臺の光りも蒼ざめて見える位だつた。實にそれは申し分のない夜だつた。 それは南アフリカでなければ見られない、凡ての人の心を妙にしんんみりさせる夜だつた。 吾々、即ち、サー・ヘンリイ・カーチスとグッド船長と私とは舵輪のそばに立つて、暫くぢつとしてゐた。 「さて、コオターメンさん」とサー・ヘンリイはしばらくしてから言つた。 「私のお願ひしたことを考へて下さりましたか?」 「さう」とグッド船長はそれにつゞけて言つた。「どうですな、コオターメンさん? ソロモン山まで、或はあなたがネヴィルといふ名で知つてゐなさるところまで、 一緒に行つて下さると大變有り難いですがなあ。」 私は起ち上つて、返事をする前にパイプから、煙草の灰をはたき落した。 私はもう一息といふところまで決心がつかずにゐたのだ。ところが、 火のついた煙草が海の中へ落ちてしまはぬうちに、ほんのちよつとした瞬間に私は決心してしまつた。 よくさういふことがあるものだ。 「承知しました」と私はまた腰を下しながら言つた。「私は參りませう。 それから御免を蒙つて、私が何故お供をすることにきめたかたいふわけと、 私の條件とを申し上げませう。はじめに私のあなた方に要求する條件から申上げます。 「先づ第一に、費用は全部そちらでもつていたゞいて、象牙とか、 その他値打のあるものが手にはひつたら、それはグッド船長と私とで山分けにしていたゞきます。 「第二に私は、あなたが旅と思ひとゞまりなさるか、吾々が成功するか、 或は不慮の災難で斃れるか、そのいづれかの場合まで、忠實に御用をつとめますから、 出發前に五百 磅《ポンド》の前渡金をいたゞきたいと思ひます。 それから第三に、出立する前に、私が死ぬか、不具者になつた場合には、 いまロンドンのガイ病院で醫者の勉強をしてゐる倅のハリイに、 五カ年毎年二百 磅《ポンド》つゝ支給して下さる契約書を書いておいていたゞきたいと思ひます。 五年たてば倅も一人だちができるやうになるでせうから。條件はこれだけでござります。 多分こんな蟲のよい條件ではいやと仰有るでせうが。」 「どういたしまして」とサー・ヘンリイは答へた。「喜んであなたの條件は承知します。 私はこの計畫にすつかり心をうちこんでゐるのですから、もつと澤山だつて支拂ひする氣だつたのです。 それに、あなたは人の知らない特別のことを知つてゐられるのですから。」 「さうですか、ではすつかりお約束はすみましたから、これから私がどうしてお供をする氣になつたか、 そのわけを申上げませう。先づ第一に、私はこの四五日の間、 あなたがたの樣子をよく注意して見てゐましたが、 失禮ながら私はあなたがたがすきになりました。 かういふ方となら一しよに骨を折つて見てもよいといふ氣になつたのです。 このときは、こん度のやうな長い旅をするには大事なことですよ。 「それから、こん度の旅行そのものについては、ヘンリイ樣にも、 グッド樣にも、ざつくばらんに申し上げますが、私は、スリマン山まで行かうとすれば、 まづ生きては歸れまいと思つてゐます。三百年前のシルヴェストラの運命はどうでした。 その子孫は二十年前にどんな目にあひました?あなたの弟樣はどうです。私は正直に申し上げますが、 私どもの運命もこの人たちの運命と同じだらうと思ふのです。」 私はちよつと言葉をきつて二人の顏色を見た。グッド船長は、少しいやな顏をしてゐたが、 サー・ヘンリイの顏色は少しも變らなかつた。「一かばちかやつて見るんです。」と彼は言つた。 「私のやうな臆病者が、このやうな冐險をやつて見る氣になつたのはあなたがたに不思議に思はれるでせうが、 それには二つの理由があるのです」と私は言葉をつゞけた。「第一に私は宿命論者《フエータリスト》です。 ですから、私の壽命はもう定つてゐるので、どこにゐたところで壽命がつきれば死んでしまふのだと堅く信じてゐるのです。 スリマン山へ行つて殺されるとすれば、もとからさうきまつてゐたので、 私のことは神樣がちやんときめといて下すつたのだから、 私がそれをとやかく心配する必要はないと思ふのです。 第二に私は貧乏な人間です。私はこの職業をはじめてからもう四十年近くになりますが、 やつと食つてゐるだけです。一體象狩りなどを職業にしてゐる人間の平均壽命は、 職業をはじめてから四五年なものです。ところが私はもう既に普通の人の七倍も長生きしたのですから、 これから生きてゐたところがさう長いことはありません。もし、いま何かの間違ひで私が死んでしまふと、 さしづめ倅のハリイを養ふことができなくなります。ところが今度の約束によると五年間は倅を養つていただけます。 かういふわけで私は最後の決心をしたのでございます。」 「コオターメンさん」と熱心に私に注意してゐたサー・ヘンリイは言つた。 「私はあなたの動機を承り、大變あなたが頼もしくなつて來ました。 あなたの仰有るやうに、今度の冐險が失敗に了るかどうかは、時がたつて見なければわかりませんが、 いづれにしても、私はしまひまでやりとほして見るつもりです。」 「さうですとも」と船長が言葉をはさんだ。「吾々は三人とも危險には慣れてゐますから、 今更ら尻込みするわけではありませんよ。」 翌日吾々は上陸した。そして私は、サー・ヘンリイとグッド船長とを、ベレアに私が建てゝおいた小舍《こや》へ案内した。 私はこれを自分の家と呼んでゐたのである。この家には室が三つと臺所があるだけだつた。 それに緑色の煉瓦でつくつてあつて、とたん屋根をふいた粗末な家だつたが、庭だけは立派なものだつた。 サー・ヘンリイとグッドとはこの庭にある小さな蜜柑林の中に張つた天幕《テント》の中で眠つた。 蜜柑林の中にはよひ香ひの花の咲いた樹もあれば、青い實をつけた樹もあり、 黄色く熟した實をつけた樹もあつた。ダーバンでは花と青い果《み》とが一度に見られるのだ。 しかもこのベレアでは大雨でも降らない限りは蚊も殆んどゐないので、まあ理想的な處だと言へる。 閑話休題《それはさておき》、私はいよ〜出かけるときめたので、 行くについての支度にとりかゝつた。先づ第一に萬一の場合のために倅へ渡す證書をサー・ヘンリイから貰つた。 ヘンリイは外國人ではあり、處理すべき財産は海外にあるので、この手續きはちよつと面倒だつたが、 ある辯護士の助けでうまく行つた。この辯護士はこの仕事で二十 磅《ポンド》せしめたが、 隨分ぼろい仕事もあるものだ。私は五百磅の小切手を受けとつた。 それがすむと私はサー・ヘンリイのために馬車と牛を二頭と買ひ求めた。 馬車は頑丈な鐡の車軸のついた長さ二十二 呎《フイート》のものであつた。 この馬車は半幌馬車といはれてゐるものだつた。といふのは車體の後半部だけに幌がついてゐたからだ。 そしてこの後半部には二人寢られるだけの寢臺がついてをり、 銃をのせる臺などがこしらへてあつて、中々便利にできてゐた。 私は百二十五磅でこれを買つたのだが安く買へたと思つた。 それから私は美しい二十頭のズル牛を一組買つた。普通は一組は十六頭なのだが、 私は萬一の用心に四頭だけ餘分のを買つておいたのだ。 このズル牛は普通のアフリカ牛の半分位の大きさだが、 アフリカ牛の死ぬやうな處へ行つてもこの牛は死なゝいのと、 脚が疾《はや》いのとで重寶なのである。それにこの牛は、 草原などを歩くときに、よく牛の生命《いのち》を奪ふ血尿病に對する抵抗力が強く、 また肺炎の一種である胸の病に對して免疫性をもつてゐるのだ。 これは牛の尻尾に少し傷をつけて、病氣にかゝつた牛の肺をそこへくゝりつけ、 輕い病氣を局部に起させて、免疫にするのである。このために尻尾は落ちてしまふ。 蠅の多いこの地方で牛の尻尾を落してしまふのは殘酷なやうだが、 そのために一命が助かるのだから、まあ牛の方でも我慢しなければなるまい。 その次は食料品と醫藥の問題だが、これはあまりかさばらないので、 しかも必要なものに事を缺かないやうにするところに苦心があるのだ。 幸にもグッドは少し醫者の心得があることがわかつた。免状こそもつてゐないが、 以前にこの方面の勉強をしたことがあるので、ちよつと駈出しの醫者などはかなはない程此方面の知識をもつてをり、 旅行用の醫藥と、醫療用の道具を一揃へもつてゐた。 最後にのこつた問題は武噐と傭人とだが、武噐は必要なものはすつかり取り揃へて、 サー・ヘンリイが英國からもつて來たので心配しなくてもよかつた。 傭人はよく相談した結果、五人だけつれてゆくことに決めた。 即ち御者が一人、案内者が一人、それから從者が二人といふことにした。 御者と案内者は難なく見つかつた。二人ともズル人で、一人はゴザと言ひ、 一人はトムと言つた。だが從者を探すにはずつと骨が折れた。 といふのは仕事が仕事だから、吾々の一命は從者のよしあしによる場合もあらう。 だから、餘程信用のおける、勇敢な奴でなければならぬ。やつとのことで、 私は二人だけは工面した。一人はフェントフォーゲルといふホッテントット人で、 一人はキヴァといふ小男のズル人だつた。キヴァは英語が完全に話せた。 フェントフォーゲルは私は前から知つてゐたが、この男は獸を係蹄《わな》にかける名人で、 この道にかけては私はこれ程上手な奴にまだ會つたことがない。 それに、革鞭のやうに頑丈で、疲れるといふことを知らぬ男だつた。 しかしこの男にはズル人に共通の一つの缺點があつた。それは飮むといふことだつた。 近所に徳利があつたら、もうこの男は少しも信用はできなかつた。 だが、吾々がこれから行くところは酒屋などのありつこのないところだから、 この點は大して問題でなかつたのだ。 二人だけ從者が見つかつたが、いま一人がどうしても見附からぬので、 吾々は、途中でいゝのが見つかるかもしれんと多寡《たか》をくゝつて二人だけつれて出發することに決めた。 ところが愈々出發と決めた日の前日になつて、ズル人のキヴァが、 一人のケーファー人が私に會ひたいといつて來てゐることを知らして來た。 その時吾々は恰度食事中だつたので、食事がすむとキヴァにその男をつれて來いと命じた。 すると間もなく、脊の高い、人品のよい三十位の、ズル人にしては色の薄黒い男がはひつて來た。 私はしばらく知らん顏をしてゐた。何故といふと、ズル人に會つてすぐに話をはじめたりしようものなら、 彼等はすつかりこちらを見縊《みくび》つてしまふからだ。 しかし私はこの男は輪人《ケシユラ》だといふことに氣がついた。 輪人《ケシユラ》といふのは頭に脂肪で磨いたゴムの輪をはめてゐる人のことで、 一定の年齡や身分に逹したズル人は普通さうするやうになつてゐるのである。 それから私はこの男はどこかで見覺えがあるやうに思つた。 「えゝと」と私はたうとう口をきつた。「お前の名は何といふんだね?」 「ウムボバと言ひます」と彼は低いどつしりした聲で答へた。 「どこかで見たことがあるやうだね。」 「えゝ、リットル・ハンドで、戰爭のはじまる前の日のお目にかゝりました。」 それで私は思ひ出した。私は、あの不運なズル戰爭のときに、 ロード・チェルムスフォードの指揮官の一人として從軍し、運よくも生き殘つてゐるのだ。 そのことを思ひ出しても悲しくなるから書かないことにする。 だがこの戰爭のはじまる前の日に私はこの男と話をしたことがある。 この男は土人の援軍の小さい部隊の長をしてゐたが、味方の軍が危いといふ意見を私につげた。 その當時は、私はそんなことはだまつて、えらい方にまかせておけと言つたものだが、 後になつて、彼の言葉に思ひあたるところがあつた。 「成る程、わしもおぼえてゐる」と私は言つた。「では用事は何だ?」 「用事と申しますのはね、マクマザン樣」と彼は言つた。ケーファー人は私をマクマザンと呼んでゐたのだ。 「あなたは外國からお出でになつたかたのお供をして、ずつと北の方へ冐險にいらつしやるときゝましたが、 それはほんたうでござりますか?」 「ほんたうだ。」 「ルカンガ河の方までもいらつしやると聞きましたが、それもほんたうでございませうか?」 「どうして吾々の行く先なんか訊くのだい?お前に何の關係があるのか?」 と私は疑はしさうに答へた。といふのは、吾々の旅行の目的は絶對祕密にしてあつたからだ。 「それはね、白人の旦那、ほんたうに、旦那がそんなところまでいらつしやるなら、 私もおともがしたいと思ひまして。」 「お前は少しどうかしてるな」と私は言つた。「お前の言ひかたは輕はずみだ。 そんなものゝ言ひ方をするものぢやない。一體お前は何といふ者で、どこの村のものだ。 それから先へ言はなくちや、吾々は誰と話をしてゐるのかわからんぢやないか?」 「私はウムボバと申します。ズル人ではありますが、ほんたうのズル人とも言へません。 私の家はずつと北の方にあるのですが、ズル人が千年の前にこちらへ移つて來たときに、 あとに殘されたのでございます。私には村といふものはありません。 何年もの間方々を漂浪《さまよ》つて、子供の時分にズルの國へ來たのです。 そしてスカバコシ聯隊ではセテワヨの部下になり、アンスロカポーシ隊長に使はれて戰爭の術を教はりましたが、 その後、ズルの國を逃げ出して、白人の樣子を見たいためにナタルへ來ました。 それから戰爭ではセテワヨを向うにして戰つたこともありますが、 それからはずつとナタルで仕事をしてをりました。しかしそれももうあきて來まして、 また北の方へ歸りたくなつたのでございます。 どうしてもこの土地は私には向きません。私は金はいりません。 しかし私は勇敢な男ですから、おともをさして、食べさしていたゞく値打ちはあると思ひます」 私はこの男やこの男の話しぶりが、どうもよくわからなかつた。 話の模樣では[言|虚;#2-88-74]《うそ》をついてゐるのではないやうだが、 金はいらぬからつれて行つてくれなんていふところは、 普通のズル人とあまりかはつてゐるので、少し信用がおけなくなつた。 困つた擧句、私は、彼の話をサー・ヘンリイとグッドとに通譯して二人の意見を求めた。 サー・ヘンリイは、私に向つて、ウムボバを起ち上らせてくれと言つた。 ウムボバは私の言ふとほりにした。そして、それと同時に着てゐた長い軍服を身體からするりと辷り落して、 腰に卷いてゐる腰帶《モーカ》と、頸にかけてゐる獅子の爪の頸飾りとだけになつた。 私はこれ程立派な土人を見たことがない。丈は六呎三吋もあり、それに應じて肩幅も廣く、 身體の恰好も仲々よく整つて居り、色は、淺黒いといふ位の程度であまり黒くなかつた。 サー・ヘンリイは彼のそばへ歩みよつて、誇りに滿ちた、美しい彼の顏をしげしげと見た。 「實によく揃つてゐますなあ」とグッドは言つた。「二人ともどつちが大きいとも言へませんぜ。」 「私はお前の顏が氣に入つたよ。ウムボバ、だからお前を私の從者にしてあげる」 とサー・ヘンリイは英語で言つた。 ウムボバはわかつたと見えてズル語で「有り難うございます」と答へた。 そして、この白人の體格と胸幅をちらりと見て附け足した。 「私とあなたとは二人とも男の中の男ですな。」 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第四章 象狩り [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- ルカンガ河とカルクエ河との交流點に近いシタンダ村までダーバンから千哩以上もある。 その長い旅の間に起つた出來事を私は一々こゝで話さうとは思はない。 この間の旅の最後の三百哩程は、吾々の徒歩で行かねばならなかつた。 といふのは、その地方にはツエツエといふ恐ろしい蠅がゐるからだ。 この蠅にさゝれると驢馬と人間と以外の動物は一たまりもなく死んでしまふのだ。 吾々は一月の末にダーバンを出發して、シタンダ村の近くに天幕《テント》を張つたのが五月の第二週目であつた。 途中で遭遇した吾々の冐險は種々樣々なものであつたが、それはアフリカの獵師なら誰でも遭遇するものだから、 讀者に退屈であらうと思つてこゝでは一切書かないことにする。 併したゞ一つの例外があつたから、それだけ書くことにしようと思ふ。 ロベングラといふ王の治めてゐるマタベレ國の、商業地としては一番はづれにあるインヤチで、 吾々は乘り心地のよい馬車に名殘をしい別れをつげた。 ダーバンで買つた二十頭の美しい牛の中で、この時まで生き殘つてゐたのは十二頭だけであつた。 一頭はコブラといふ毒蛇に噛まれて死に、三頭は榮養不良と水の缺乏のために死に、 一頭は道に迷つて行方が知れなくなり、あとの三頭はチューリップといふ毒草を食つて死んでしまつたのだ。 チューリップを食つたゝめにあとの五頭も病氣になつたが、チューリップの葉を煎じて服《の》ませたので命をとりとめたのである。 これは手後れにならぬうちに服《の》ませると、よくきく解毒劑なのだ。 馬車と牛とは、御者及び案内者として雇つて來たゴザとトムとに見張りをたのみ、 こんな處まで傳道に來てゐたスコットランドの宣教師に萬事を托しておいた。 それから、ウムボバとキヴァとフェントフォーゲルと、此地で雇つた六人の人足とをつれて、 吾々は徒歩で、無鐡砲な冐險の旅に向つた。 私はよく覺えてゐるが、こゝを出發する時は、皆だまりこくつてゐた。 皆の者は、今別れた牛と馬車とが再び見られるかどうかを氣にしてゐたのだ。 私は萬々そんなことはあるまいと覺悟してゐた。しばらく無言のまゝで歩いてゐるうちに、 先頭にたつてゐたウムボバがズルの歌を歌ひ出した。それは勇ましい人々が、生活がいやになり、 平凡な世の中に飽きて、何か新しいものを見つけるか、それとも死んで終ふか、 どちらかだと覺悟して、荒野の中へ旅立つと、荒野の向うには美しい處があつて、 そこには美しい女や、肥つた牛や、狩の獲物や、殺す相手の敵などが澤山ゐたといふ歌であつた。 吾々一同はみんな笑ひ出した。そしてささきよしと勇み立つた。 ウムボバは實に愉快な蠻人で、時々ぢつと考へこむ癖があるが、その時を除くと、 吾々を元氣づけてくれるこつをよくのみこんでゐた。 吾々はこの男が非常に好きになつた。 さて、これから一つだけ冐險の話しをしよう。といふのは私は狩の話が好きでたまらないからである。 インヤチから半月ばかり旅をつゞけて行つた時、吾々は水の豐富な、 とりわけ美しい林のある地帶を通つた。小山の上には象の大好きなマチャベルの樹が茂つてゐて、 象の歩きまはつた足跡がそこらぢうにあるのみならず、マチャベルの樹が處々折れたり、 根こぎになつたりしてゐた。象がこの邊に出沒するまぎれもない證據だ。 或る日の夕方、吾々は、一日長い旅をして來たあとで、非常に景色のよい處へ來た。 雜木林におほはれた丘の麓に、水の涸れた河床があつた。この河床には處々に水晶のやうな美しい水だまりがあつて、 そのまはりには色々な獸の蹄《ひづめ》のあとがのこつてゐた。 この丘の正面は、公園のやうな野原があつて、色々な樹が茂つてをり、周圍は道もない雜木林になつてゐた。 吾々が此の河床の道へはひつてゆくと、突然丈の高い麒麟の一隊が、妙な足どりで、 尻尾を背中の上へたて、四竹《しちく》のやうな跫音《あしおと》をさせてやつて來た。 吾々のゐるところから三百 碼《ヤード》もはなれてゐるので、射つことはできないのだが、 先頭にたつて、彈丸《たま》をこめたエキスプレス銃をもつて歩いてゐたグッドは、 もう矢も楯もたまらなくなつて鐡砲をとつて、一番あとから歩いてゐた若い雌に向つて發砲した。 どうしたはずみか、彈丸《たま》は、ちやうど頸の眞後へ命中して、脊柱を粉碎し、 その麒麟はまるで兎のやうに頸をぐる〜゛廻しながら倒れた。 「畜生!」とグッドは言つた。どうもこの人は少し昂奮して來ると言葉遣ひがわるくなるのは困つたものだ。 海軍生活をやつてゐる時にさういふ癖がついてしまつたのだ。「畜生つ!たうとう殺しちまつた。」 「よう、ブウグワン」とケーファー人どもは怒鳴つた。「よう。よう。」 ブウグワンといふのは硝子の眼玉といふ意味で、彼らはグッドが眼鏡をかけてゐるので、 彼のことをかう呼んでゐたのだ。 「よう、ブウグワン」とサー・ヘンリイと私とは眞似をして言つた。 その日から、グッドは少くも、ケーファー人の仲間では射撃の名手といふ評判をとつた。 その實彼は射撃は極く下手だつたが、この日の殊勳に免じて、 その後彼が射ち損つたときには、それを帳消しにしてやつた。 人足どもに、この麒麟の肉の、よいところを、切り取らせるやうに言つておいて、 吾々は、とある水だまりから百 碼《ヤード》ばかり離れたところまで小屋をこしらへに行つた。 それは茨の木を切つて、それを積み重ねて圓形の墻《かき》をつくり、 その墻《かき》に圍まれた中の地面を掃除して、その中央に、 若し乾いたタムブキの葉が手にはひればそれで床《ベツド》をこしらへ、 一ヶ所か二ヶ所に火を焚けばよいのだ。 小屋が出來上がつた時分には月は空に昇り、麒麟のテキや、骨の髓を燒いたのなどで夕食の準備ができた。 その時の麒麟の髓のうまかつたこと!噛みくだくのに少し骨が折れたが、 私は、象の心臟を別にすると麒麟の髓くらゐ甘《うま》い料理をまたと知らない。 しかもその翌日は象の心臟も食べられたのだ。吾々は月明りで簡單な食事をすまし、 折々手をやすめてはグッドにお禮を言つた。 食事がすむと吾々は火を圍んで煙草をふかしたり雜談をしたりした。 それは實に珍妙な圖であつたに相違ない。短い、眞直に立つた私の胡麻鹽の髮と、 サー・ヘンリイの少し伸びすぎた黄色い縮れ毛とは好箇の對照だつた。 とりわけ私は瘠せて、ちんちくりんで、色が淺黒いのに、 ヘンリイは脊が高くて、胸幅が廣くて、肥つてゐるといふ違ひやうだつた。 しかし三人のうちで、この場合、一番妙な恰好をしてゐたのはジョン・グッド船長であつた。 彼が革袋の上に坐つてゐる樣子はどう見ても文明國で愉快な一日の獵を了へて家へ歸つて來たといふ風であつた。 それ程彼は身のまはりをきれいに、小じんまりとしてゐたのだ。 彼はスコッチの獵服を着け、對の帽子をかぶり、きれいなゲートルを穿いてゐた。 顏はいつものやうにきれいに剃つて、眼鏡も義齒《いれば》もきちんとしてゐた。 こんな荒野の中で、これ程身なりがきちんとしてゐる人を私は見たことがない。 カラーさへちやんとかはりをもつて來てゐて、新しいのをつけてゐた。 私がそれを驚くと彼は無邪氣に答へた。「こんなものは重いものぢやないですからな。 私はいつも紳士らしくしてゐたいんですよ。」あゝ彼がこの先どんな目にあふか、 どんなものを着なければならなくなるかをこの時に知つてゐたら! 吾々三人は美しい月光を浴びて雜談をしながら、數 碼《ヤード》はなれたところで、 羚羊《かもしか》の角でこしらへた口のついたパイプをくはへてダッカをふかしてゐるケーファー人どもを見てゐた。 彼等はそのうちにダッカに醉つて、次々に毛布にくるまつてごろり〜と横になつて眠つてしまつた。 たゞウムボバだけは少し一同から離れて、頬杖をついて何かどつと考へこんでゐた。 彼はあまり他の連中と一緒にならないこtに私は氣がついた。 まもなく、吾々は後の草叢《くさむら》の中で「ウー、ウー!」といふ高い唸り聲が聞えた。 「ライオンだ!」と私は言つた。そして吾々は起き直つて耳を傾けた。 かと思ふと百 碼《ヤード》ばかりはなれた水溜りの方から、 鋭い象の鳴き聲が聞えた。「象だ!象だ!」とケーファー人どもは囁きあつた。 それから數分間たつと、吾々は大きな黒いものが、 次々に水たまりの方から草叢《くさむら》の方へのそ〜動いてゆくのを見た。 グッドは、それを殺したさに跳び上つた。恐らく彼は象を殺すのは麒麟を射つ位雜作のないものだと思つてゐたのだらう。 私は彼の銃をつかんで彼を坐らせた。 「駄目だ」と私は低聲《こゞゑ》で言つた。「通り過さしておきなさい。」 「どうも此處は獲物の樂園らしいな。一日か二日とまつて少し狩をやつて見るかな」 とやがてサー・ヘンリイが言つた。 私は少々驚いた。といふのはサー・ヘンリイはこれまでいつも旅を急いでゐて、 わけても、インヤチで、二年前にネヴィルといふ英國人が馬車を賣つて奧地の方へはひりこんだといふことを確かめてからは、 餘計と急いでゐたのに、その彼がこんなことを言ひ出したからだ。 きつと彼の狩獵本能が一時彼を壓倒したのだらうと私は思つた。 グッドはこれをきいて喜んで跳び上つた。 といふのは彼はこの象に一發ずどんと喰らはしてやりたくて堪らなかつたからだ。 實をいふと私も同じだつた。こんな象の群を見て、 一發もお見舞せずにむざ〜逃がしてしまつては私の良心が承知しないからだ。 「そりやいゝですな。」と私は言つた。「吾々は少し骨休めをする必要があると私は思ひますね。 で今はもう寢ませう。明日は夜明け前に起きて、奴等が草を食つてゐて、 まだ動き出さない前に襲はねばなりませんからね。」 二人とも私に同意したので吾々は早速準備にとりかゝつた。グッドは服を脱いで塵を拂ひ、 眼鏡と義齒《いれば》を外してヅボンのポケットへしまひ、それを露にあてないやうに、 彼の敷布の隅つこに下へ入れた。サー・ヘンリイと私とはもつと簡單な準備で滿足して、 吾々はめい〜毛布にくるまり、夢も見ずにぐつすり熟睡した。 突然、水溜りの方にあたつて、何かひどく格鬪してゐるやうな物音がきこえ、それにつゞいて、 つゞけさまに恐ろしい呻《うな》り聲が聞えた。その聲が何の聲であるかは聞き誤りやうがなかつた。 あんな聲を出すものはライオンより外にないからだ。吾々はみな跳び起きて水溜りの方を見た。 するとその方に、黒いやうな黄色いやうなごた〜した塊りが、藻掻きながら吾々の方へ進んで來た。 吾々は銃をとり上げ、そつと毛皮でこしらへた靴を穿いて、小屋を出てその方へ駈け寄つた。 この時には、もう塊りは倒れてしまつて、地べたを上になり下になりしながらころげまはつてゐたが、 吾々がそこまでゆくと、それもやんで、靜かにその場に横はつてゐた。 吾々はその塊りの正體を見屆けた。草原の上に一匹の羚羊《かもしか》が、死んで横はつてゐた。 そして、その羚羊の角につきさゝれたまゝ黒い鬣《たてがみ》の素晴らしいライオンがこれも矢張り死んでゐた。 羚羊が水を飮みにやつて來る所をライオンが待ち伏せてゐて、 羚羊が水を飮んでゐるところへ跳びかゝつていつて、鋭い角で突き刺され、 そらから格鬪がはじまつて共倒れになつたのに相違ない。前にも私はかういふ光景を見たことがある。 吾々は死んだ二つの獸をよくしらべてから、すぐにケーファー人どもを呼んで、 みんなでその死骸を小屋まで曵きずつてゆき、それから夜明けまで、 もう眼を醒ますことなしに眠つた。 夜が明けるとすぐ吾々は起き上つて戰鬪準備にとりかゝつた。吾々はてんでに銃をもち、 薄い冷し紅茶のはひつた大きな水筒を用意した。そして少しばかり朝食をかきこんで、 吾々はウムボバとキヴァとフェントフォーゲルとをつれて出かけた。 ほかのケーファー人どもは後にのこしてライオンと羚羊の皮をむいて、羚羊の肉を切つておくやうに命じた。 大きな象の足跡を見出すのは容易であつた。フェントフォーゲルはこの足跡を見て、 象の群は二三十頭で大部分は成長した牡だと言つた。だが、この象の群は、 夜のうちにどつかへ移つてしまつたのだから、吾々が、樹の葉や樹皮についてゐる傷で、 象の近くまで來たのを知つたときはもう九時で、既に暑い日がかん〜照つてゐた。 やがて吾々の件《くだん》の象の群が、朝の食事を終へて、大きな耳朶《みゝたぶ》をぶら〜させながら、 窪地に立つてゐるのを見つけた。その數はフェントフォーゲルが言つたやうに二三十頭であつた。 それは實に素晴らしい光景であつた。といふのは、 彼等は吾々のゐるところから二百 碼《ヤード》位しかはなれてゐなかつたからだ。 私は風向きをしらべるために一握りの枯草をつかんでそれを空に投げて見た。 若し風が向うの方へ吹いてゐると、象の群は吾々が鐡砲を放つことができるやうになるまでに逃げてしまふことを私は知つてゐたのだ。 ところが風はいゝ鹽梅に向うからこちらへ吹くことがわかつたので、吾々は跫音《あしおと》をしのばせて這つて進み、 樹蔭で身體をかくすことができたお蔭で、巨獸の群から四十碼位のところまで近づくことができた。 ちやうど吾々の眞正面に三頭の見事な牡が立つてゐた。そのうちの一つの象の牙は素晴らしく大きなものだつた。 私はほかの者に向つて、中央《まんなか》のを射つと囁いた。サー・ヘンリイは左のを受持つことにし、 グッドは大きな牙をもつた奴をねらうことにした。 「さあ」と私は囁いた。 ズドン!ズドン!ズドン!と三つの銃口から一齊に彈丸《たま》は飛んでいつた。 するとサー・ヘンリイの象は、心臟を射貫かれて、ハムマーのやうに倒れた。 私の象は膝をついたので、死ぬのか知らんと思つてゐると、すぐに起き上つて、 驀《まつしぐ》らの私の眼の前を通り過ぎたので、私は第二の彈丸を肋骨のあたりへ射ちこんだ。 すると象はこの一撃でことりと倒れたので、私は急いで二發彈丸をこめて象のそばへ走つてゆき、 象の腦天を射拔いてやつたので、彼はもう藻掻くのをやめてしまつた。 それから私はグッドがあの大きな牡の象をどうしてゐるかと思つて振り返つた。 私は自分の象にとゞめの一發を射つてゐるときに、 グッドの象が怒つて鳴いてゐるのを聞いたからだ。グッドのところへ行つて見ると、 彼はひどく昂奮してゐた。彼の象は彈丸を受けると、向ひ直つて、 射撃者の方へ跳びかゝつり、グッドが逃げるひまもないうちに、彼の前を通り過ぎて、 吾々の野營の天幕《テント》の方へ盲滅法にかけて行つたのだ。 一方象の群はひどく驚いて、それと反對の方へ逃げ出したのであつた。 暫くの間吾々はどちらを追ひかけようかとためらつてゐたが、遂に象に群の方を追ふことに決めた。 象を追跡する位たやすいことはない。正《まさ》にそれは車の通つたあとをつけてゆくやうなもので、 象があわてゝ逃げて行つたあとは、雜木林がまるで草原のやうに蹂躙《ふみにじ》られてゐるからだ。 併し、あとをつけることゝ追ひつくことゝは別問題だ。吾々は燒けつくやうな日に照らされて、 二時間以上もかゝつて、やつと彼等を發見したのであつた。一頭の牡だけを除いて象の群は一つ處に集つて立つてゐた。 何だかそは〜して、危險に注意してゐるらしかつた。一頭だけは、この群から五十碼ほど離れたところに、 番兵の役目をしてたつてゐた。そこから吾々のところまでは六十碼位であつた。 この上近づいてゆけばこの番兵は、吾々の姿を見るか、嗅ぎつけるかして、 きつとあとの象の群は逃げ出すに相違ない。それに地面は平坦で身をかくす場所もなく、その上、 吾々はこの番兵をしてゐる牡の象がひどく氣に入つたので、 私が低聲《こゞゑ》で合圖をして此の象を射つことにした。 三發の彈丸に射たれて、この象はどしんとその場に沈んでしまつた。 すると象の群はまた逃げ出したが。が、彼等のとつて氣の毒なことには、百碼ばかり進と、 一條の乾いた水路があつて、その岸はけはしい絶壁になつてゐた。 象の群はその中へ跳びこんだのだ。吾々が崖の上まで辿りついた時には、 彼等はひどく狼狽して向う岸へ上らうとあせつてゐた。彼等がきい〜鳴きながら、 先を爭つて逃げてゆくさまは人間そつくりであつた。吾々は好機逸すべからずと、 できるだけ素速く彈丸をこめて、つゞけざまに射ち、立《たちどこ》ろに五頭を射殺してしまつた。 彼等が向う岸へ上るのを斷念して、水路の下の方を一目散に逃げ出しさへしなかつたら、 吾々は鏖殺《みなごろ》しにすることもできたらうと思ふ。 だが吾々はひどく疲れてもゐたし、あまり澤山殺すのも嫌になつた。 一日の獲物として、象八頭といへばさう貧弱でもないのだから。 そこで、吾々はしばらく休憇して、ケーファー人どもに、死んだ象の二頭の心臟を切りとらせ、 明日は人足どもに象牙を切らせようと心で決めながら、大滿足で歸路に着いた。 グッドは頭分の象に傷を負はしたあたりを通り過ぎたとき、吾々は大羚羊の群に出會つた。 併し、食物はもう澤山あるので、射たなかつた。彼等は吾々の前と通り過ぎて、 百碼ばかりうしろの方にある小さい雜木林のところまでゆくと立ち停つて、 くるりとこちらを向いて吾々を見てゐた。グッドはまだあの大羚羊をそばで見たことがなかつたので、 それが見たくてたまらず、銃をウムボバに渡してキヴァと二人で雜木林の方に歩いて行つた。 吾々はその場に腰を下して、休みながら待つてゐた。 陽は雲を血潮のあゆに染めて西に沒するところであつた。サー・ヘンリイと私はこの美景に感歎久しうしてゐた。 その時突然象の鳴き聲が聞えた。そして、夕日を浴びた巨獸の姿が體躯をもちあげ、 尾を上にあげながら突進して來るのが見えた。それは前にグッドに傷つけられた象だつた。 次の瞬間に、吾々の眼には別なものが見えた。それはグッドとキヴァとが、 この負傷した巨獸に追はれながら一目散にこちらへ逃げて來たのだ。 しばらくの間吾々は鐡砲を射つことをなし柄なかつた、 といふのは射てば彈丸がこの二人のどちらかの身體にあたりはしないかとおそれたのだ。 つゞいて恐るべきことが起つた。グッドが文明人の身だしなみの犧牲になつて倒れたのだ。 彼はみんなのものと同じやうに、ヅボンやゲートルなどにかまはず、 フランネルの獵服を着て毛皮の靴を穿いてをれば何でもなかつたのだが、 さうでなかつたので、この死に物狂ひの競爭にあたつて、ヅボンが脚にもつれ、 乾草で磨いた靴が辷つて、吾々から六十碼位のところまで來たときに、荒れ狂ふ象のすぐ前で彼は倒れてしまつたのだ。 吾々はあつと溜息を洩らした。もう駄目だと思つたからだ。そしてできるだけ速く彼の方へ駈出した。 それから三秒の間に萬事終つた。しかしその終りかたは吾々の想像通りではなかつた。 勇敢なキヴァは主人が倒れたのを見て、くるりと向きなほり、 槍を振《ふる》つて象の胴體をずぶりと突き刺した。 巨獸は苦悶の叫びをあげながら、かはいさうなキヴァを、 鼻で卷いて地べたに投げつけ、彼の胴のうへへ大きな脚をのせて、 ぎりつと踏みしめたかと思ふと、キヴァの身體は眞つ二つにちぎれてしまつた。 吾々は恐ろしさに狂氣のやうになつて、つゞけざまに發砲したので、 たうとう象はキヴァの屍體の破片《かけら》の上にどさりと倒れてしまつた。 グッドは起ち上がつて、一命をすてゝ彼の命を救つてくれた勇敢なズルの少年の屍體の上で手をあはせて感謝した。 私もさすがに胸が迫つて、咽喉に塊りができたやうな氣がした。ウムボバは巨獸の屍體と、 かはいさうなキヴァの切斷された屍體とを眺めながら言つた。 「あゝ、こいつは死んだ。だが男らしい死に方だつた!」 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第五章 沙漠に向ふ [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 吾々は都合五頭の象を殺したわけだ。それから牙を切りとつて、天幕《テント》へ運び、 遠くから見てするわはるやうに、それを注意ぶかく大木の根元へ埋めるのに二日かゝつた。 それは實に素晴らしい象牙だつた。一本平均四十 封度《ポンド》から五十封度はあるだらうと思はれた。 キヴァの屍體は、彼の道中の武噐であつた槍とゝもに丁寧に埋めてやつて、 吾々は、無事に歸つて來て埋めておいた象牙を掘りだすことができればよいがと考へながら、 三日目に、また旅をはじめた。途中で色々な冐險もあつたが、それはすつかり省略する。 兎に角吾々は格別道にも迷はずにルカンガ河の近くにあるシタンダ村に着いた。 これから、吾々のほんたうの遠征がはじまるのだ。私はこゝへ着いたときのこと今でもよくおぼえてゐる。 右には、こゝかしこに土人の家が散在して居り、それには石造の牛小舍が付屬して居り、 河の側には、少しばかりの耕地があつた。その向うには乾いた河床がうね〜と這つてゐて、 その中には丈の高い草が生えてをり、その上を小さい獸類がうろついてゐた。 左手には廣漠たる沙漠が廣がつてゐた。こゝがちやうど肥沃な土地の外れらしい。 どんな自然の原因によつて、こんなだしぬけに土壤が變化したのかわからないが、 兎に角ひどい變化である。恰度吾々の天幕《テント》を張つた下に小川が流れてゐて、 そのずつと彼方に石の坂道がある。二十年前に、 かはいさうなシルヴェストルがソロモン山の探檢に失敗して降りて來るのを見たのはこの坂だ。 この勾配の先から、カローといふ一種の灌木の一ぱい生えた水のない沙漠がはじまつてゐるのだ。 吾々が天幕を張つた時はもう夕刻で、太陽は沙漠の中へ沈みつゝあつた。グッドに監督を頼んでおいて、 私はサー・ヘンリイと二人で、向うの勾配の頂きまで歩いてゆき、沙漠の彼方を見渡した。 空は清く澄んでゐたので吾々は、遙か彼方に、 ところ〜゛白い帽子をかぶつたスリマン山の薄い藍色の輪廓を見ることができた。 「あれがソロモン山の障壁ですよ」と私は言つた。「けれどあそこまで行けるかどうか神樣にしかわかりませんがね。」 「弟はあそこにゐるのですね。若しあれがゐるとすれば、兎に角あれのゐるところまで行けるわけですな」 とサー・ヘンリイは、この人に特有の落ちついた口調で言つた。 「だとよいのですがね」と應《こたへ》ながら、私がひき返さうとすると、吾々のそばに誰かもう一人立つてゐた。 ウムボバが矢張り吾々と同じやうに遠くの山を眺めながら立つてゐたのだ。 ウムボバは私が彼のゐることに氣がついたのを見て、サー・ヘンリイに向つて話しかけた。 「あなたはあそこまで行くつもりなんですか?」と彼は、身の廣い槍で山の方を指しながら言つた。 私はどうして御主人に向つて、そんな親しさうな口をきくのだと鋭く詰《なじ》つてやつた。 するとウムボバは靜かに笑ひながら言つた。 「私だつて、あの方と同じ身分かも知れないぢやありませんか?あの人はきつと尊い家柄の人でせう。 あの人の大きな身體と眼でわかりますよ。ところが私だつてさうかも知れないぢやありませんか? 少くも私だつて身體は大きいでせう。マクマザンの旦那、どうぞ私の言ふことを向うの旦那に傳へて下さい。 私はあの旦那とあなたと二人ともに話したいのだから。」 私はケーファー人からこんな對等な物の言ひ方をされた事はなかつたので、 腹がたつたが、それでも妙に彼の言葉には私を動かす力があつたし、それに、 何を言ひたいのか知りたくもあつたので、私は、それをサー・ヘンリイに通譯し、 ついでに、この男は實に無禮な奴で、亂暴極まる物の言ひ方をしてゐると附け加へた。 「左樣、自分はあそこまで行くつもりだ」とサー・ヘンリイは答へた。 「沙漠は廣くて水がありませんよ。山は高くて雪が一ぱいですよ。 山のむかうの日の沈むところには何があるか知つてる者はないのですよ。 どうしてあなたはそこへ行きます、それから何のために行くのです?」 また私は通譯した。 「あの男にかう言つて下さい」とサー・ヘンリイは答へた。 「自分の兄弟がそこへ行つてるので、それを探しに行くんだと。」 「さうでせう。道であつたホッテントット人が、二年前に一人の白人が、 一人の獵師を從者《とも》につれてあの山へ行つたつきり、歸つて來ないと言つてましたよ。」 「どうしてそれがわたしの弟だつてことがわかつたんだね?」とサー・ヘンリイは訊ねた。 「私や知りませんが、そのホッテントット人が、その白人は、あなたと同じやうな眼をして、 黒い鬚を生やしてゐたと言つてゐました。それに、その人は、從者《とも》の名はジムと言つて、 ベクアナの獵師で、着物を着てゐたと言つてゐました。」 「ぢやまちがひつこはない」と私は言つた。「わしはジムはよく知つてるから。」 サー・ヘンリイは點首《うなづ》いて言つた。「それにちがひない。ジョオジは一旦かうと決めたら何でもやる男だつた。 子供の時分からいつもさうだつた。スリマン山を越えたいと思つたら、 途中で何か故障が起らん限りは、越したに違ひない。だから吾々は山の彼方まで行つて弟を探さなくちやならん。」 ウムボバは、英語の話はあまりできなかつたが、英語を聞くことはできた。 「遠い旅ですよ」と彼は口を挾んだ。 「さうだ」とサー・ヘンリイは答へた。「遠いには遠いが、人間がやらうと思つてやれない旅はない。 人間にできないことはないよ、ウムボバ。人間に登れない山つてないよ。 越せない沙漠つてないよ。愛に導かれて、命を捨てゝかゝれば、何だつて人間にできないことはない。」 私はそれを通譯した。 「えらい」とウムボバは答へた。「あなたの口によく似合つた言葉です。あなたの仰有る通りですよ。 命なんて何物です?命なんて羽毛《はね》のやうなものぢやありませんか。 風のまに〜吹きとばされる草の實のやうなものです。どうせ人間は一度は死なゝくちやなりません。 まかりまちがつたつて、少しばかり早く死ぬといふだけです。私は、 途中でへたばつてしまふまでは、沙漠をこえて山の向うまであなたについて行きます。」 彼はしばらく言葉を切つたが、それからズル人に特有の雄辯を揮《ふる》つて滔々と語り出した。 その話には隨分無駄な反復もあつたが、この民族にも詩的本能と、智力が無いではないといふことを示してゐた。 「命とは何です?物識りで、世界の祕密も、星の世界も、星の向うにある世界も知つてゐなさる白人の方々、 教へて下さい。生命《いのち》の祕密を教へて下さい。生命《いのち》といふものは何處から來て何處へ行くのです? 「あなた方には返事ができませんね。あなた方は御存じないのです。聽きなさい。 私が答へませう。吾々は闇の中から來て闇の中へ行くのです。夜、嵐に吹かれて飛んで來た鳥のやうに、 吾々はどこからともなく飛んで來たのです。そして、しばらくの間吾々の翼は火の光りで見えますが、 またどこへともなく飛び去つてしまふのです。生命《いのち》は何でもないものであり、 また凡てゞあるのです。それは吾々が死を追ひ拂ふための手です。 夜光つて朝になると黒くなる螢です。冬、牛の吐く息です。 草の上を這つて日が沈むと消えてしまふ影です。」 「お前は妙な男だね」とサー・ヘンリイは彼が言葉をやめるのをまつて言つた。 ウムボバは笑つた。「吾々はみんな同じですよ。ことによると私もあの山のむかうで兄弟を見つけるかも知れません。」 私は怪訝さうに彼を見ながら訊ねた。「何だつて、ではお前はあの山のことを知つてゐるのかい?」 「少しばかり、ほんの少しばかりですよ。あそこには妙な國がありますよ。美しい國で、 魔法使ひが棲んでゐます。あそこに棲んでる人間は勇ましい人間で、樹や、河や、雪の峰や、 大きな白い道などがあります。私は聞いて知つてゐるのです。だがそんなことを申し上げたつて何にもなりません。 もう暗くなりました。行つて見ればわかることですよ。」 あまり色々なことを知つてゐるので私はまた疑はしさうに彼を見た。 「心配なさらなくてもよいのですよマクマザンさん」と彼は私の眼つきを讀んで言つた。 「私は決して瞞《だま》すやうなことはしません。深い譯があつて申し上げないのぢやないのです。 あの日の沈む山を越したら知つてゐることはみんな申し上げますよ。 だがあの山には死に神が坐つてゐます。今の中にあきらめてお歸りになつた方がためですよ。 歸つて象狩りでもなさつた方がよいですよ。ねえ旦那がた。」 かう言つたとか思ふと、彼は槍をもちあげて會釋をして、天幕《テント》の方へ歸り、 外のケーファー人と同じやうに銃の掃除をしてゐた。 「妙な奴ですな」とサー・ヘンリイは言つた。 「實に妙な奴です」と私は答へた。「何かを知つてるくせに話さないんですよ。 しかしどうせ竒妙な旅なのですから、強ひてきいて見たつて大したことはありますまいけれど。」 その翌日吾々は出發の用意をとゝのへた。重い象狩り用の鐡砲や、 その他の道具をもつて行くことはとてもできないので、吾々は人足を解雇して、 近くに家をもつてゐる土人の老人に、歸つて來るまで、荷物の保管をたのんだ。 併し、こんな重寶な道具を、泥坊も同じ蠻人にまかしておいては危險だと思つたので、 それに對する手配りを十分しておいた。 先づ第一に銃噐にはすつかり彈丸《たま》をこめて、ちよとでもさはつたら彈丸《たま》が飛び出すぞと脅威《おど》した。 そしてこの老人に實驗をして見せた。すると彈丸《たま》は、その時小屋の方へ走つてゐた牛に命中し、 その牛はその場にひつくり返つて死んでしまつた。これでこの老人はすつかり怖氣《おぢけ》をふるつたので、 もうそれに手を觸れる氣遣ひはなかつた。 それから、私は、若し歸つて來たときに何か一つでも失《な》くなつてゐたら、 魔法にかけて皆んな殺してやるし、吾々が死んでも、祟つて、彼等の牛を氣狂ひにし、 牛乳を酸つぱくしてやると脅したので、この老人は吾々の品物を、 先祖の靈のやうに大事にして預つておくと誓つた。この老人はひどく惡い奴だつたが、 又大の迷信家《かつぎや》でもあつたのだ。 これで、老人の方は片附いたので、吾々五人、 サー・ヘンリイとグッドと私とウムボバとホッテントット人のフェントフォーゲルとは、 旅にもつてゆく荷物の整理をそた。荷物といふのは、 エキスプレス銃三挺と彈藥各二百發、コルト短銃三挺と彈藥各六十發、一升三合ばかり這入つた水筒五つ、 乾肉《ビルトング》二十五 封度《ポンド》、一オンスのキニーネ及び其他の藥品と外科用の道具、 小刀《ナイフ》、磁石、マッチ、煙草、鏡、珠數玉[、]ブランデー一瓶、着替へ等であつた。 こんな大冐險に向ふにしては、あまり荷物が少ないやうだが、何しろ、燒けるやうな沙漠を歩くのだから、 これ以上の荷物は持てなかつたのだ。 吾々は三人の土人に、上等のナイフを一挺づつやるからと言つて、はじめの二十哩ばかり、 一ガロン程を入れた瓢箪をもつて送つてくれるやうに説き伏せた。 一晩歩いてから水筒の水を詰め代へようと思つたのだ。土人等は、吾々を狂人だと言つた。 そして咽喉が渇いて死ぬにきまつてゐると言つたが、やがて、他人の生命《いのち》なんかどうならうと、 それよりも自分が立派な小刀《ナイフ》が慾しさにやつと承知した。 その翌日は吾々は一日休養して眠り、夕方に新鮮な牛肉を腹一ぱい詰めこみ、茶を飮んで、 最後の支度をして月の出るのを待つた。たうとう九時半頃になると皓々たる月が上つて、 荒涼たる沙漠を照した。吾々は起ちあがつたが、愈々出かけるとなると一寸躊躇した。 のつぴきならぬ旅に向つて足を踏み出すときに何となく足がでしぶるのは人間の本性だ。 吾々三人の白人は一團になつて立つてゐた。ウムボバは槍を手に持ち、 銃を肩にかついで、吾々の五六歩先に立つて沙漠をぢつと凝視《みつ》めてゐた。 瓢箪を持つた土人等とフェントフォーゲルとは、少し後にかたまつてゐた。 「諸君」とやゝあつてサー・ヘンリイはどつしりした聲で言つた。 「吾々三人はこれから人間業ではとても企てられないやうな旅に向ふのですが、うまく成功するかどうかは甚だ疑問です。 併し三人は良きにまれ惡しきにまれ最後まで運命をともにするのですから、出かける前に、 吾々の運命を司る神の加護を祈りませう。」 彼は帽子を脱いで、一分間かそこらの間、兩手で顏をおほふた。 グッドと私とはそれにならつた。吾々の未來の運命は今全くわからないのだ。 わからに事の前にたつと、吾々の心に信仰が起つて來るものだ。 私は一生のうちでたゞ一度だけをのぞくと、この時位心から神に祈つたことはなかつた。 そして祈つたためにどうやら幸福になつたやうな氣がした。 「さあ行かう」といふサー・ヘンリイの言葉とともに吾々は出發した。 吾々の道しるべとなるものといつては、遠くの方に聳えてゐる山と、 ジョゼ・ダ・シルヴェストラの地圖だけであつた。この地圖も、瀕死の、 半ば氣の狂つた男が三百年も前に麻布の切れつぱしに書いたものだから、 あまりあてにできるものぢやなかつたが、この場合吾々の成功の希望はたゞこの地圖だけにつながつてゐたのである。 この地圖には沙漠の恰度 中央《まんなか》に、即ち吾々の出發點からも山からもそれ〜゛六十哩の地點に惡い水の池があると注意してあるが、 それが見つからなかつた日には、吾々は渇のために、みじめな往生を遂げることになるにきまつてゐる。 それに考へて見れば、こんな茫漠たる沙漠の中で、その池を見つけるなんてことは實に心細いのぞみであつた。 たとひダ・シルヴェストラの地圖に間違ひがないにしても、 三百年もたつた今日《こんにち》、日光に照りつけられて池は乾いてゐるかも知れぬし、 獸に踏まれたり、砂が吹き寄せたりして埋まつてゐるかも知れたものではない。 吾々は影のやうに默つて、重い砂を踏みながら夜道を歩いて行つた。 カローといふ灌木が足にからまつて歩みがおくれる上に、 靴の中へ砂がはひるので、二三哩行つては、足を停めて砂を出さねばならなかつた。 けれども幸ひに夜は相當涼しかつたので、かなりの道程《みちのり》を進んだ。 沙漠といふものは實に淋しいものだ。實際氣が滅入つてしまふやうだ。 グッドは淋しくてしようがないもんだから、一度「あとにのこした娘子は」の唄を歌ひ出したが、 こんな廣々としたところでは歌ふと妙に物悲しく響くのでやめてしまつた。 しばらくすると、ちよつとした出來事が起つて吾々を笑はせた。 とは言へ、その時は非常に吃驚《びつくり》したのである。 グッドは海軍にゐたので磁石の見方はよく心得てゐるので、 一番先頭にたつて進んでゆき、吾々はそのあとから一列縱隊になつて進んでゐたのだが、 突然けたゝましい叫び聲が聞えたかと思ふとグッドの姿が見えなくなつてしまつた。 次の瞬間に、あたり一面に、ぎやあ〜いふ聲やきやつ〜いふ聲と、 あわたゞしく砂の上を走りまはる跫音《あしおと》が聞え、かすかな月明りで、 半ば砂原に隱れながら飛びまはつてゐる物の影が見えた。 土人等は荷物を投げ出して駈け出さうとしたが、何處へも逃げ出すところがないのに氣がつくと、 地べたに身を投げて、惡魔だ惡魔だと呪ひの聲をあげてゐた。 サー・ヘンリイと私とは呆氣にとられて茫然として立つてゐたが、驚いたのはそればかりでなく、 グッドが馬に乘つて走つてゞもゐるやうに、山の方へ向つて一目散に駈けて行くのだ。 即ち彼は兩腕を宙に上げて、どさりと下に倒れたのが聞えた。 それで私はすつかり樣子がわかつた。吾々はちやうど斑驢《カツガ》の群の眠つてゐるところへ通りかゝつて、 グッドがそのうちの一匹の上へ倒れたのだ。するとこの獸は吃驚《びつくり》して起き上つて、 彼を脊にのせたまゝ駈け出したのだ。 私は何でもないのだと皆の者の大聲で言ひながら怪我でもしはしないかと思つてグッドの方へかけつけた。 しかし彼は、砂の上のすわつて、ちやんと眼鏡をかけてをり、ひどく慄へて驚いてはゐたが、 少しも怪我をしてゐなかつたのでほつとした。 その後は何も變つたこともなく、吾々は一時頃まで旅をつゞけた。 それから吾々は足を停めて少しばかり水を呑み、半時間程休んでからまた出發した。 ずん〜進んでゆくうちに、東の空が小娘の頬ぺたのやうに赧らんで來た。 それから微かな櫻色の光が射しこみ、やがてこの光は金色《こんじき》の矢になつて、 沙漠一面に夜が明け渡つた。星は瞬一瞬とうすれていつて遂には消えてしまひ、 月影も次第にうすれて、朝日の光は、あたりにたちこめてゐる靄を拂ひ、 夜は全く明けはなれた。 吾々はやすみたくてしようがなかつたけれど、日が高く昇つたが最後、 もう歩くことはできないのを知つてゐたので、まだ歩みを停めなかつた。 たうとう、それから一時間もたつてから、砂つ原の中に石がもち上つてゐるのを見つけたので、 吾々はそのそばまで足を曵きずつて行つた。幸ひにもそこは岩が上へかぶさつてゐて、 下は滑かな砂地だつたので、太陽の熱をよけるにはもつてこいの場所だつた。吾々はその下へ匍つて行つて、 みんな少しばかり水を呑み乾肉《ビルトング》を食べて横になつたかと思ふとぐつすり眠つてしまつた。 吾々が眼を醒ましたときはもう三時過ぎで、人足どもは既に歸り支度をしてゐた。 彼等は沙漠のことはよく知つてゐたので、それから先はいくら小刀《ナイフ》をやつたつて一歩も行く氣遣ひはなかつた。 そこで吾々は腹一杯水を飮んで水筒を空にしてしまひ、 人足どもが持つて來た瓢箪の水をそれに詰めなほし、 彼等が二十哩の道を引き返して行くのを見送つた。 四時半になると吾々も出發した。實にそれは荒涼たる旅で、 僅《わづ》かばかり駝鳥がゐたのを除くと生き物の影も見えなかつた。 明かに鳥や獸の住むにはあまりに土地が乾燥し過ぎてゐるのだ。 不氣味な恰好をしたコブラを一二匹見た外には爬蟲類も見られなかつた。 しかし昆蟲はたゞ一種類だけだつたけれど非常に澤山ゐた。 それは普通の蠅だつた。蠅は、舊約聖書のどこかに書いてあつたやうに 「ただの斥候としてゞはなく大隊をつくつて」やつて來た。 實に蠅といふ動物は驚くべき動物だ。どこへ行つても蠅のゐない處はない。 太古の昔からさうであつたに相違ない。 私は、五十萬年も昔にできたと言はれてゐる琥珀の中に蠅が閉ぢこめられてゐるのを見たことがあるが、 それはまぎれもなく今日《こんにち》の蠅の先祖に相違なかつた。最後の人間がこの地上で息をひきとるときにも、 若しそれが夏であるならば、此の蠅のやつはその屍體のまはりにぶん〜つきまとうてゐるに相違ない。 日沒に吾々は足を停めて月の出るのをまつた。たうとう、美しく澄み渡つた月が出たので吾々はまた歩き出して、 朝の二時頃に一度休んだゞけで、夜が明けるまでずつと歩きどほした。 太陽が昇つて來ると吾々は少しばかり水を飮んで横になつて眠つた。 こんな見渡す限りの沙漠の中では、どんな敵の襲撃も恐れなくてよかつたので、 見張りを置く必要はなかつた。吾々の唯一の敵は、熱さと、咽喉の渇きと蠅とだけであつた。 しかし、どんな恐ろしい人間でも獸でも、この三つの敵よりはましだと私は思つた。 こん度は前日のやうに、日をよける場所がなかつたので、吾々は身體のしんまでも燒かれるやうな氣がした。 燒けるやうな太陽は、吾々の身體を血までも吸ひ取るやうに思はれた。 吾々は起きなほつて喘いだ。 「畜生つ」と言つて私は身體のまはりに集《た》かつて來る蠅をひつつかんだ。 蠅の奴は暑さなどは屁とも思つてゐないらしい。 「暑いな!」とサー・ヘンリイは言つた。 「まつたく暑い!」とグッドは言つた。 實際暑かつた。それに日をよけるものは何一つないのだ。あたりを見まはしても、 岩一つなければ樹一本生えてゐない。たゞもう果しのない燒け砂原で、砂の上には、 赤熱したストーヴの上に乘つたやうに暑いいきれがたつてゐて、眼がまひさうだつた。 「どうしたらいゝだらう?」とサー・ヘンリイは訊ねた。「こんな風ぢや迚《とて》も長くは耐へられないが。」 吾々はだまつて互に顏を見合した。 「いゝことがある」とグッドが言つた。「穴を掘つてその中へ入つて上からカローの枝をかけよう。」 大したうまい考へでもなささうであつたが、それでも何もしないよりはましなので、 吾々は、もつてきた鏝《こて》と手とでせつせと砂を掘りはじめ、かれこれ一時間もかゝつて長さ十 呎《フイート》、 幅十二呎、深さ二呎ばかりの穴を掘り、獵刀でカローの枝を切つて來て、 穴の中へはひつて上からそれをかぶせた。フェントフォーゲルだけは、ホッテントット人で、 暑さは大して苦にならないので穴の外に寢てゐた。これで幾らか日よけになつたものゝ、 とてもそれ位のことで辛抱できるものではなかつた。吾々は喘ぎながらその中に横になつて、 時々乏しい水で脣を濡らしてゐた。飮みたいだけ飮んだ日には吾々のもつて來た水は二時間ももたなかつたゞらうが、 吾々は水がなくなつたらすぐにみじめな最期をとげにやならんことを知つてゐたので、 非常に用心して飮んだのだつた。 だが何事にも終りといふことがある。ぢつとしてゐたとて晩までは水はもたない。 こんな穴の中で暑さと渇とのためにぢり〜死んでしまふよりは、 一思ひに歩いて斃れた方がましだと思つて、吾々は少しばかり殘つた水をもつて、 午後三時頃に、よろ〜歩きはじめた。水はもう吾々の血と同じ位の温度になつてゐるのだ。 吾々はこれまでにかれこれ五十哩ばかり歩いて來たのだが、 ダ・シルヴェストラの地圖で見ると沙漠の直徑は四十 英哩《リーグ》あることになつてゐる。 そしてその中央に惡い水の池があるわけだ。ところで四十英哩といへば百二十哩だから若し、 ほんたうにそんな池があるとすれば、吾々はその池から十二哩か十五哩ばかりの處までどうにか辿りついたわけだ。 午後は吾々の歩みは一層のろくなつて、一時間に一哩半がせい〜゛だつた。 日沒になるとまたやすんで、少し水を飮んで、月の出るまでしばらく眠つた。 吾々が横になる前に、ウムボバは、八哩ばかり先の沙漠の上に、かすかな、 蟻の巣のやうな丘があるのを吾々に指《ゆびさ》した。私はそれは何だらうとあやしみながらうと〜眠つてしまつた。 月がのぼるのを待つて吾々はまた歩き出した。暑さと渇とのために五臟はへと〜に疲れてゐた。 この苦しみは經驗のない者にはとてもわかりつこはない。吾々は歩くのではなくてよろめいてゐるのだ。 時々疲れのためにばつたり倒れることがある。一時間毎に休まねば足はつゞかないのだ。 吾々はもう物を言ふ元氣もなかつた。グッドは快活な人間なので、それまではよく饒舌《しやべ》つたり、 冗戲《じようだん》を言つたりしてゐたが、もう冗戲どころではなかつた。 たうとう二時頃に、身も心もへと〜になつて、吾々はやつとのことで妙な丘の麓まで辿りついた。 それはちよつと見ると高さ百呎ばかりの大きな蟻の巣のやうな形をしてゐた。 そこで吾々は足を停めて、もう矢も楯もたまらなくなつたので、最後の水を飮み干してしまつた。 めいめい一ガロン位の水は飮みたかつたのだが、その時吾々に殘つてゐた水は、 一人あたり半パイント位しかなかつた。 それから吾々は横になつた。私がうと〜眠りかけようとしてゐると、 ウムボバがズル語で獨語《ひとりごと》を言つてゐるのが聞えた。 「水が見つからなかつた日にや、明日の月が出るまでにみんなお陀佛だ。」 私はこんなに暑いのに拘らず胴慄ひがした。 そんな恐ろしい死が間近に迫つてゐることを考へるとあまり愉快な氣はしないものだ。 しかし、それ程恐ろしいことを考へながらも、あまりに疲れがひどかつたので私はたうとう眠つてしまつた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第六章 水だ!水だ! [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- それから二時間たつて、即ち四時頃に、私は眼を醒ました。身體の疲れがやつとをさまると、 ひどく渇をおぼえて來て、もう眠れなかつたのである。私は岸に緑の草が生えてをり、 その上には青々と樹の葉が茂つた小川で水を浴びてゐる夢を見てゐたのだが、 覺めて見るとやけつく沙漠の中に身を横へてゐるのだ。どんな人間だつて、 此のやうな暑さに水無しで生きてゐるわけにはゆかぬ。私は坐り直つて、 かさ〜になつた角のやうな手で顏をこすつた。脣も瞼もかたくくつついてゐたので、 少し擦つてから努力しなければ開かなかつたのだ。もう夜明けに間もなかつたが、 夜明けらしいすがすがしい氣持は少しもなかつた。空氣は濃厚で何とも言へず重苦しかつた。 他の者はまだ眠つてゐた。やがて東が白んで少し明るくなつたので、私は、 もつて來た「インゴールヅバイ・レジエンド」とポケット版を出して「ランスのジヤリクドオ」と讀みはじめた。 「美しき少年は浮彫せる黄金の水瓶をもてり、水瓶には、 ランスとナミユールとの間を流るゝ如何なる水にもまして清らかなる水なみ〜と滿てり」 この節を讀んだとき、私はひからびた脣で文字通り舌なめずりした。 といふよりもしようと思つたと言つた方があたつてゐるかも知れぬ。舌などはさう自由に動かなかつたからだ。 この清らかな水の事を考へたゞけで私は氣が狂ひさうになつた。 たとひそこに大僧正が、鐘と、書物と、蝋燭とをもつて立つてゐても、 私はそこへ走つて行つてその水を飮み干したゞらう。さうだ、たとひ大僧正が、 羅馬法王の手を洗ふために、その水に石鹸水を入れてしまつたあとでも、 かまはずやつてのけただらう。全カトリック教會の呪ひを一身に集めたつて敢へて意としなかつたであらう。 私はどうも少々氣が變になつたに相違ない。といふのは、私は、その時、日にやけた、 鳶色の眼をした、胡麻鹽頭の獵師がその場へはひつていつて、 汚い顏を聖水盤にあてゝ中の水をがぶ〜飮んだら、僧正や、 少年ジヤツクドオはどんなに驚くだらうと想像して、思はず乾いた脣でひい〜笑つたものだ。 すると皆の者は眼をさまして、汚い顏をこすつて、くつついた脣と瞼とを開けた。 みんなが眼を醒ますと、吾々は額をあつめて善後策を凝議した。 水はもう一滴も殘つてゐなかつた。吾々は水筒を逆しまにしてその口を舐めてみたが、 それはまるで骨のやうにから〜に乾いてゐた。ブランデーの瓶をもつてゐたグッドが、 それをとり出して飮みたさうにすてゐたが、サー・ヘンリイはすぐにそれをとり上げた。 それは酒などを飮めば、益々渇をはげしくする一方だからだ。 「水がなければ死ぬばかりだ」と彼は言つた。 「シルヴェストラの地圖があてになるとすりや、この近所にどつか水があるわけだがなあ」と私は言つた。 けれども、誰もそれには大して期待をおかぬらしかつた。地圖があまりあてにならぬことは明かだつた。 するとその時、ホッテントット人のフェントフォーゲルが起ち上つて、 地上を凝視《みつ》めながら歩きはじめたかと思ふとすぐに立ち停まつて、地上を指さしながら、妙な聲で叫んだ。 「どうしたんだ?」と言ひながら、吾々は一度に起ち上つて彼が立つて地べたをみつめてゐる處まで進み寄つた。 「こりや羚羊の足跡ぢやないか、これがどうしたんだ?」と私は言つた。 「羚羊は水のそばをあまりはなれんものですよ」と彼は和蘭語で答へた。 「さう〜、忘れてゐた。これは有難い」と私は答へた。 このちよつとした發見のために吾々は急に元氣づいた。人間が絶望のどん底に落ちると、 ちよつとした希望にでもすがつて、幸福を感ずるものだ。暗い夜にはたつた一つ星だつてないよりはましなものだ。 フェントフォーゲルは獅子つ鼻を上げて、暑い空氣をしきりに嗅ぎまはしてゐたが、 やがて「水の香ひがする」と言ひ出した。 吾々はこれを聞いてひどく喜んだ。といふのは、かうした野蠻人は實に驚くべき本能をもつてゐることを知つてゐたからだ。 ちやうどその時に旭日《あさひ》が昇つて、素晴らしく雄大な光景を吾々の眼前に現出した。 吾々はしばしの間は渇も忘れてそれに見惚れた位であつた。 吾々から四五十哩離れた前方には、朝日の光を浴びてシバの乳房が銀色に光つてゐた。 そして西方へそれ〜゛數百哩の裾野をひいてスリマン山がそびえてゐた。 その時の吾々の感じは到底筆紙につくしがたい。思ひ出しただけでもたゞ恍惚《うつとり》として感歎するよりほかはないのである。 吾々の前に屹立してゐる二つの峻峰はそれ〜゛少くも一萬五千呎はあるだらう。 その間の距離は十二哩程で、兩者は岩の絶壁でつながれ、その峰には白雪を戴いてゐるのだ。 この巨大な關門のやうにそびえてゐる山は女の乳房そつくりで、時々にその中腹に靄がかゝると、 恰度女が薄紗《うすもの》をまとうて眠つてゐるやうな形になる。 麓の方は、平地からゆるやかに圓味を帶びてふくれ上り、山頂の雪に覆れた部分はちやうど乳房の乳頭のやうに見えた。 吾々が感歎してシバの乳房を見てゐるうちに、いつしか山の姿はうすい雲に包まれて消えてしまつた。 それと同時に、猛烈な勢ひで、渇が吾々を襲うて來た。 フェントフォーゲルが水の匂ひがすると言つたのはよかつたが、 さて何處を探しまはつても水のありさうな處は見つからなかつた。 見渡す限り茫漠たる砂原で、カローといふ灌木が砂の上に匍つてゐるばかりだ。 吾々は砂丘のまはりを歩きまはつて、その反對側の方へ行つて見たが、 矢張り同じで、一滴の水も見られなかつた。況《いは》んや池のありさうな氣配もなかつた。 「馬鹿、水なんかないぢやないか」と私はぶり〜しながらフェントフォーゲルに言つた。 だが彼はまだ醜い獅子つ鼻をひく〜させて嗅いでゐた。 「矢つ張りしますよ、どつかこの空氣の中から水の匂ひがしてきますよ。」 「そりや雲の中にや水があるだらうさ。二ヶ月もたてば下界へ降つて來て吾々の骨を洗ふやうになるだらう。」 サー・ヘンリイは黄色い鬚を撫でながら考へ深い調子で言つた。 「ことによると砂丘の上に水があるかも知れん。」 「冗戲でせう」とグッドは言つた。「丘の上に水があるなんて聞いたこともありませんよ。」 「兎に角行つて見ませう」と私は口を出した。そしてウムボバを先に立てゝ、 あまり大した望みも抱かずに、えつちらおつちら丘を登つて行つた。 するとウムボバは急に化石したやうに立ち停つて大きな聲で叫んだ。 「水がある、水がある!」 吾々は、彼のゐるところまで駈けつけた。實際、丘の頂きの深い凹みの中にまぎれもない水がたまつてゐた。 吾々はどうしてこんな處へ水がたまつたのだらうなんてことは少しも怪しまなかつた。 それにどす黒い水を見ても少しも躊躇しなかつた。それは成る程水にはちがひないが、 水といふよりも水に似たものと言つた方がよかつたかも知れぬ。 しかし吾々にはそれで澤山だつた。吾々は跳んで池のそばへ行つて、腹這ひになつて、 この汚い水をまるで神々の飮む甘露か何ぞのやうに飮んだ。飮んだも飮んだも、大變飮んだ。 それから鱈ふく飮んでしまふと、着物を脱いで、池の中に坐つて、 干乾びた皮膚を水でしめした。 しばらくすると吾々はせい〜した氣持ちになつて起ち上つて、腹いつぱい乾肉《ビルトング》をぱくついた。 この二十四時間といふもの、吾々は乾肉《ビルトング》には一口だつて手をつける氣にもならなかつたのである。 それから吾々は煙草をふかして、水のそばに横はり、正午ごろまで眠つた。 その日は吾々は一日ぢう水のそばで暮して、水の見つかつた幸運を感謝しあつた。 わるい水ではあつたが、そのありかを、 かくも正確に着物の切れつぱしに記しておいてくれたダ・シルヴェストラの靈に感謝することもわすれなかつた。 それにしても不思議なのは、この池が、三百年も前からよくも涸れずにゐたといふことであつた。 きつとこれは深い泉から湧いて來たものにちがひないと私は思つた。 腹にも飮めるだけの水を詰めこみ、水筒にもはひるだけの水を入れて、 吾々は月の出をまつて、非常に元氣よく出發した。その夜は吾々は二十五哩も歩いた。 言ふまでもないことだが、水はそれつきり見つからなかつたが、幸ひにも翌くる日は、 蟻塚のうしろでちよつとした日蔭が見つかつた。朝日が昇つて、靄が晴れわたると、 二つの乳房をもつたスリマン山が、今度は二十哩彼方に、 まるで吾々の頭の上へのしかゝるやうに聳えてゐるのが見えた。夕方になるのを待つて吾々は再び出發した。 そしてつゞめて言へば、翌朝日が昇るまでに、吾々はシバの左の乳房の麓まで着いたのだ。 その時までには、また水がなくなつたので、 吾々はひどく渇のために苦しんだが、ずつと上の雪線までは渇を癒すべきすべもなかつた。 一二時間麓で休んでから、吾々は、渇の苦しさと戰ひながら、燒けつくやうな炎天の下を、 熔岩の坂道に沿うてあへぎ〜攀ぢ登つた。 十一時頃になると、吾々はもうぐた〜に疲れてしまつた。 こゝの熔岩はアセンション島の熔岩などに比べると幾らか滑らかではあつたが、 それでもでこぼこの熔岩の灰滓《はいかす》の上を歩いて行くと足が痛む。 それにひどい渇に苦しめられてゐるので吾々は、すつかりへこたれてしまつた。 だが數百碼上の方に大きな熔岩の塊りがあつたので、その日蔭で休まうと思つて、 一生懸命にそこまで匍ひ上つた。すると驚いたことには—— 驚くだけの力がのこつてゐたのも不思議な位だが——すぐそばの小さい丘の灰滓の上に緑草が生ひ茂つてゐた。 きつとそこは熔岩が分解して土になり、鳥が草の實をそこまで運んで來たのであらう。 併し、この緑草に對する吾々の興味はそれつきりであつた。といふのは、吾々は、 ネブカドネザルのやうに草を食つて生きてゆくわけにはゆかないからである。 そこで吾々は岩蔭に坐つて苦しさうにうん〜呻つてゐた。飛んでもない旅へ出て來たのを私は後悔した。 するとその時、ウムボバが起ち上つて、草の生えてゐる處まで跳んで行つた。 しかも驚いたことには、平素からおとなしいこの男が、何か青いものを振りまはして、 狂人のやうに踊りながら大聲で叫び出した。水が見つかつたのではないかと思つて、 吾々は疲れた足で、できるだけ速く彼の方へ走つて行つた。 「水と食物とが見つかりましたよ。マクマザンさん」かう言ひながら彼はまた青い物を振り廻した。 よく見ると、彼が振り廻してゐるのはメロンであつた。吾々は野生のメロン畑へとびこんだのだ。 何千とないメロンが、しかもよく熟れて生《な》つてゐるのだ。 「メロンだ!」と私はすぐ後から來たグッドにわめいた。忽ち彼の義齒《いれば》は一つのメロンにかぶりついてゐた。 吾々はめい〜六つ宛《づゝ》位食べたやうに思ふ。この際、これくらゐ有り難いものを私は想像もできなかつた。 しかしメロンは大して腹の足しにはならぬ。吾々は渇を癒すことができると、 今度はひどい空腹を感じて來た。乾肉《ビルトング》はもう飽きて嫌になつてもゐたし、 それに、これから先食物が見つかるかどうかわからなかつたので、節約しなければならぬ。 ちやうどその時、幸運にも、十羽程の大きな鳥が群をなして沙漠の方から吾々の方へ飛んで來た。 「旦那、射ちなさい!」とホッテントット人は地べたに顏を伏せながら低聲《こゞゑ》で言つた。 吾々も彼のする通りにした。 その鳥は鴇《のがん》で、吾々のゐるところから五十碼位の高さを飛んでゐるのであつた。 私はウインチェスター連發銃をもつて、鳥が吾々のほゞ眞上を通り過ぎるのを待つてすつくと起ち上つた。 鳥は私の姿を見ると、吾れ先きにと上の方へ舞ひ上つたが、その刹那に私はつゞけざまに二發ぶつぱなした。 幸に一羽だけ死んで落ちて來た。二百 封度《ポンド》もある素敵なのだつた。 それから半時間もかゝつて吾々はメロンの枯れた蔓《つる》で火を焚き、獲物を燒いて一週間ぶりで御馳走にありついた。 吾々は脚の骨と嘴とのほかは何一つのこさずぺろりと平げてしまつた。 その夜吾々はできるだけメロンをもつて、月の出るのをまつてこゝを出發した。 上へ登るにつれて涼しくなるので非常に助かつた。そして夜明けまでには雪線から六哩ばかりの距離まで着いたらしい。 そこではまたメロンが見つかつた。もうすぐ雪線だから、渇に苦しむ心配はなくなつたが、 そのかはり、今度は登り道が非常に急になつて來て、道が中々捗取《はかど》らなかつた。 一時間に一哩がやつとだつた。おまけのその晩に最後の乾肉《ビルトング》を食つてしまつたのに、 鴇《のがん》の外には何一つ生き物は見つからなかつた。それに、妙なことには、 すぐ上には雪があり、雪は解けることもあらうに、河も泉も何にもなかつた。 後でわかつたことだが、水は皆山の北側へ流れてゐるのだつた。 吾々はだん〜空腹を感じて來た。渇の爲めに死ぬことは免れたが、こん度は餓死が心配になつて來た。 それから三日間のことは、その當時私が手帳に書きとめておいた記録を見ればよくわかる。 「五月二十一日——午前十一時に若干のウォーターメロンをもつて出發、 空氣が冷くなつて來たので日中でも歩けるやうになつた。 一日中歩いたがもはやメロンは見つからなかつた。メロンの育つ地帶は通り過ぎたらしい。 鳥獸の姿は少しも見えず。長く食物をとらないので夕方やすむ。夜は寒さのために苦しむ。 二十二日——夜明けをまつて出發する。身心困憊甚だし。終日かゝつて漸く五哩を進む。 ところどころに雪があつたのでそれを食つた外には何も食はず。 大きな丘の下に野營をする。寒さ甚し。みな少量のブランデーを飮む。 毛布をかぶつて、皆一緒に寄りそうて凍死を防ぐ。饑餓と疲勞甚だしく、 夜のうちにフェントフォーゲルは死んだのではないかと思ふ。 二十三日——日が昇るとともに再び登り始める。手足少しく霜やけす。 疲勞困憊極度に逹し、今日中に食物が見つからねば、もうおしまひだと思ふ。 ブランデーも殘り少量になる。 グッドとサー・ヘンリイとウムボバは元氣なれど、フェントフォーゲルは非常に弱つてゐる。 多くのホッテントット人同樣彼は寒さに堪へることができないのである。 飢ゑの苦しみは大して痛くはないが、胃のあたりが痺れたやうな氣がする。皆さう言つてゐた。 吾々は今や二つの乳房を聯[繋,車@(車&山);u7e6b]《れんけい》してゐる熔岩の絶壁と同じ水準面に逹した。 實に素晴しい景色だ。後には沙漠が地平線までうね〜としてつゞいてゐる。 前は何哩も何哩も、固い滑かな、殆んど平坦な雪で、上に昇るにつれて、 むつくりと脹《ふく》れて、その中央から周圍數哩もありさうな乳頭が約四千呎も雲表に聳えてゐる。 生き物は何一つ見えない。もう吾々の最期が來たのぢやないかと思ふ。」 これで日記の拔萃はやめる。それは讀んでも面白くもないし、 且つ又次の出來事はもつと詳しく説明しなければならんからだ。 その日——五月二十三日——は一日ぢゆう吾々は雪の坂道を、度々やすみながら、 のろ〜と登つて行つた。ひもじさうな眼と眼を見かはしながら、疲れた足を曵きずつて、 茫漠たる雪の原を歩いてゆく吾々の恰好ときたら實に見物《みもの》であつたらうと思ふ。 だが、そんなに四邊《あたり》をきよろ〜見廻したつてなんにもなりはしないのだ。 食物などはとても見つかりつこはなかつたのだから。 その日は吾々は七哩足らずしか歩けなかつた。かつきり日沒までに、吾々は、 ちやうどシバの左の乳房の眞下まで來た。 「もうかれこれシルヴェストラとかいふ人の書いてゐた洞窟の近くまで來てゐさうなもんだなあ」 とグッドが喘ぎながら言つた。 「さうですな、そんな洞窟がほんたうにあればねえ」と私は言つた。 「そんな言ひかたをするもんぢやありませんよ、コオターメンさん」とサー・ヘンリイは太い聲で言つた。 「あの人の書いてゐることは全くたしかですよ。水のことでわかるぢやありませんか! 洞窟はきつともうすぐですよ。」 「暗くなるまでに見つからなかつたら、吾々はまづ此の世のもんぢやありませんね」と私は答へた。 ウムボバは、毛布にくるまつて、さうすれば腹の空りかたが少いといつて、 革帶《バンド》でかたく腹のまはりをしめて、まるで娘つ子のやうな腰をして吾々のそばを歩いてゐたが、 この時突然私の腕をつかまへて「御覽なさい」と言ひながら上の方を指さした。 彼の見てゐる方を見ると、二百碼ばかり先に、雪の中に穴のやうなものがあるのが見えた。 「あれが洞窟ですよ」とウムボバは言つた。 吾々が急いでそこまで辿りついた。たしかにそれは洞窟の入口に相違なかつた。 きつとシルヴェストラが書いてゐた洞窟に相違ない。吾々はやつと間にあつたのであつた。 といふのは、太陽はそれからすぐに沈んで、沈んだかと思ふとすぐに暗くなつたからである。 この地方では黄昏《たそがれ》時といふものが非常に短いのだ。 吾々は洞窟の中へ這入つた。それはあまり大きいものではないらしかつた。 吾々は暖をとるために、互に身體をくつつけて、殘りのブランデー——と言つてもほんの一口づつしかなかつたが ——を飮んで、早く眠つて、今のみじめさを忘れやうとした。が、寒さがあまりひどいので中々眠れなかつた。 私の考へでは、氣温は零下十四五度位だつたと思ふ。身體はへと〜に疲れてをり、 ひどく饑ゑてゐる上に、沙漠の熱氣に惱まされて來た吾々にとつて、 この寒さがどれ程身に沁みたかは、私が書くより、讀者の想像にまかした方がたしかだらうと思ふ。 吾々は互に身體をくつゝけて温まらうとしたが、饑ゑた、かさ〜の身體を寄せてみたつてしようがなかつた。 時々數分間とろ〜と眠るものもあつたが、とても長くは眠つてゐられなかつた。 しかしそれが結局幸ひだつたかも知れぬ。うつかり眠りなどしたら、それつきり醒めなかつたかも知れないと私は思ふ。 吾々はたゞ意志の力だけで生きてゐたのだ。 一晩中、フェントフォーゲルは、しよつちゆう齒をがた〜いはせてゐたが、 夜明け前にそれをやめてしまつて深い溜息をした。その時は、私は、彼が眠つたのであらうと思つて、 何の氣もなしにゐたが、彼の背中はだん〜冷たくなつてゆき、たうとう氷のやうになつてしまつた。 そのうちに東が白んで來て、やがて太陽は熔岩の絶壁の上に昇り、 吾々の半ば凍えた身體を照し、フェントフォーゲルの身體をも照した。 彼は石のやうに固くなつて死んでしまつてゐた。背中が冷たくなつたのも無理ではなかつた。 かはいさうな奴だ。彼は夜明け前に深い溜息をした時に死んだのだ。 そして今では凍つて殆んど冷くなつてゐた。吾々はひどく魂消《たまげ》て、 ぞつとして死體から身を引いた。吾々人間はどういふものか死骸と一緒にゐるのを恐れるものだ。 その時までに、冷い日光は——こゝでは日光も冷たかつた——眞直に洞窟の入口にさし込んでゐた。 突然私は誰かゞ恐怖の叫聲をあげたのをきいて、そちらを振り向いた。 するとどうだらう。深さ二十呎もない洞窟のつき當りに、もう一人の人間が、頭をがくりと前へ埀れ、 長い兩腕をだらりと下げてゐるではないか。よく見るとそれも死骸で、しかも白人なのだ。 他の者もそれを見た。吾々のひどく惱まされた神經はもう、 この物凄い光景を見るに堪へなかつたので、みんな、凍えた足のゆるす限り、 大急ぎで洞窟からとび出した。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第七章 ソロモン街道 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 洞窟の外側で吾々は足を停めた。 「わしはもう一度引き返して來る」とサー・ヘンリイは言つた。 「何故?」とグッドがたづねた。 「ことによるとあれは弟の死骸ぢやないかと思ふので。」 そのことにはまだ吾々は氣がつかなかつたので、しらべて見るために後へ引き返した。 明るい外の雪を見たあとなので、しばらくの間は薄暗い洞窟の中はよく見えなかつたが、 やがて、眼が闇に馴れたので、吾々は死骸のそばへ進んで行つた。 サー・ヘンリイは膝を折つて死骸の顏をのぞきこんだ。 「有り難い」と彼は安堵の吐息を洩らしながら言つた。「弟ぢやなかつた。」 そこで、私もそばへ寄つて見た。死骸は、脊の高い中年の男の死骸で、 顏つきは鷲のやうで、毛髮は胡麻鹽で、長い黒い鬚を生やしてゐた。 皮膚は完全に黄色く、かたく骨の上に引きつつてゐた。着物といつては、 羊毛の股引の遺物らしいものがのこつてゐるほかはすつかりなくなつて、 骸骨のやうな身體は裸體であつた。 すつかり凍つて硬くなつた死骸の首のまはりには黄色い象牙の十字架がぶら下つてゐた。 「誰の死骸だらう?」と私は言つた。 「見當がつきませんか?」とグッドが訊ねた。 私は首を振つた。 「ジョゼ・ダ・シルヴェストラの死骸にきまつてるぢやありませんか、勿論」 「そんな筈はない」と私は言つた。「あの男は三百年も前に死んだのですもの。」 「たとひ三千年前に死んだにしたつて、こんなところで、 死骸がなくなつてしまふわけがあれば承りたいもんですな?」とグッドは訊ねた。 「氣温さへ低けりや人間の血や肉はニュウジーランドの羊のやうにいつまでだつて生《な》ま〜してゐますよ。 ところがこゝはこんなに寒いんですからな。日光はあたらないし、 他の動物が來て死骸をつつきまはす氣遣ひもありませんよ。 あの記録に書いてあつた奴隸が着物を脱がしてもつて行つたのですよ。 そして一人だつたものだから主人を埋葬することもできなかつたのです、ほら!」 と言ひながら彼はそこへ屈んで、地べたにさゝつてゐた尖つた骨を拾ひ上げた。 「これはシルヴェストラがペンの代りにして地圖を書いた骨の破片《かけら》ですよ。」 吾々はしばらく自分のみじめな境涯を忘れて、呆氣にとられてそれを眺めた。 「さうだ」とサー・ヘンリイは言つた[。]「そして、シルヴェストラは此處をインキの代りに使つたのです」 と言ひながら死骸の左の腕にある小さな傷の痕《あと》を指した。 もう疑ひの餘地はなかつた。こゝに坐つてゐる死骸こと十代も前にあの記録を書いて、 その指圖に從つて吾々が此處へやつて來たその死骸にきまつてゐる。 私はその時にこの男が使つた骨のペンを握つてゐるのだ。 彼の姿を見てゐると、私は、この悲劇の最後の場面をまざ〜と想像することができた。 寒さと饑ゑのために死に瀕して、しかも自分の發見した大祕密を世人へ傳へようとした旅人の淋しい最期、 その證據が吾々の前に坐つてゐるのだ。よく見ると、この死骸の顏は、二十年前に會つた、 かはいさうなシルヴェストルに似てゐるやうな氣もした。だがそれは多分氣のせゐだらう。 それにつけても、吾々も今、寒さと飢ゑとのために、 この死骸と同じ運命を辿らうとしてゐるのだと思ふとはつと胸が迫つた。 「もう行かう」とサー・ヘンリイが低い聲で言つた。「だがちよつと待つて、 この人に友逹をこさへてやらう」と言ひながら彼はフェントフォーゲルの死骸を起して、 シルヴェストラの死骸に竝べて坐らせた。それから彼は手がこゞえて結び目をほどくことができなかつたので、 シルヴェルトラの首にかけてあつた十字架の紐をひきちぎつた。 彼は今でもそれをもつてゐるだらうと思ふ。私は骨のペンをもつて行つた。 それは今私がこの物語を書いてゐる眼の前にある。とき〜゛私はこれで署名したこともある。 それから吾々は、この二人の死骸を、千古の雪の中にのこしておいて、 洞窟から這ひ出し、吾々があんな風になるのはこれから何時間先のことだらうと不氣味な想像をゑがきながら、 とぼ〜歩き出した。 かれこれ半哩も歩いたときに、吾々は丘の縁端《はづれ》まで來た。 沙漠の方から見ると乳頭はまんなかにあるやうに見えたが實はさうではなかつたのだ。 朝霧がたちこめてゐたので前の方に何があるのか見えなかつたが、霧の上の方が少し霽《は》れるにつれて、 長い雪の勾配の端に、吾々のゐるところから約五百碼程下の方に、緑の草の生えた地面があつて、 その中を小川が流れてゐるのが見えた。しかも川のそばには、大きな羚羊の群が、 寢ころんだり立つたりして日向ぼつこをしてゐた。併し距離が遠いのでどんな種類の羚羊かはわからなかつた。 吾々はこれを見て狂氣のやうに喜んだ。とることさへ出來ればまづ食物は澤山見つかつたわけだ。 しかし、どうしてとるかゞ問題だ。吾々のゐるところからそこまでは、六百碼はたつぷりある。 その成否が吾々の生命にかゝはる際の射撃としては、距離が遠過ぎて心もとないこと夥《おびたゞ》しい。 そこで、吾々は、そつと獲物の方へ忍び寄つて見ようではないかと相談して見たが、 風の向きは惡いし、雪を背景にして歩いて行つたのぢや、どんなに用心したつて見つかるにきまつてゐるので、 その考へは、いや〜ながら抛棄してしまつた。 「兎に角こゝより撃つて見るより外はない」とサー・ヘンリイは言つた。 「ところで、コオターメンさん、連發銃とエキスプレス銃とどちらをつかつたらいゝでせう?」 これがまた問題だつた。ウムボバがかはいさうなフェントフォーゲルのも持つて來たので、 ウィンチェスター連發銃は二挺あつた。この方は千碼まで照準がきく。 ところがエキスプレス銃の方は三百碼までしか照準がきかないから、 それ以上の距離は多少あてずつぽうだ。その代り、彈丸《たま》が命中すれば、 エキスプレスの方は彈道がひろがつて行くから、對手《あひて》を殺す可能性は多い。 そこが問題の難しいところだ。併し私は、一かばちかエキスプレスでやつて見なくちやいかんと決心した。 「みんな自分の眞正面にゐる奴の肩の邊をねらつて、ウムボバに合圖をして貰つて一度に射たう」と私は言つた。 この一發が自分の生命《いのち》にかゝはるのだと思つて、吾々は一生懸命にねらひを定めた。 「射て!」とウムボバはズル語で言つた。すると三つの銃口が殆んど一度に音をたてた。 三つの雲の塊りがしばらく吾々の前にかゝり、銃聲は靜かな雪の中に幾度も反響《こだま》した。 やがて、煙が霽《は》れ渡ると、嬉しや!大きな羚羊が、仰向けにひつくり返つて、 斷末魔の苦悶最中であつた。吾々は凱歌をあげた。吾々は救はれたのだ。餓死をまぬがれたのだ。 吾々は疲れてゐたが、雪の勾配を駈け降りて、銃を射つてから十分間のうちに、 羚羊の心臟と肝臟とは吾々の前に横はつてゐた。しかし今度は又新たな困難が起つて來た。 といふのは燃料がないので、それを料理するための火をこさへることができなかつた。 吾々は當惑して互に顏を見合せた。 「饑ゑた人間は贅澤を言つてちやいけない、生で食はう」とグッドは言つた。 ほかにどうにもしようがなかつたし、それに饑餓はこの上とても辛抱できない程度に逹してゐたので、 吾々は心臟と肝臟とを、しばらく雪の中に埋めて冷し、小川の冷たい水で洗つて、 それからがつ〜生のまゝで食つた。恐ろしいことのやうに聞えるかも知れないが、 正直なところ私はこの生肉程おいしいものをまだ食べたことがない。 十五分もたつと吾々はすつかり別人のやうになつた。元氣は見る〜恢復して、 脈搏もだん〜しつかりうつやうになり、血は、勢ひよく血管を流れ出した。 併し、空き腹にあまり澤山詰めこみすぎて、食傷をおこしてはならぬと用心して、 腹八部目のところでやめた。 「有難い、この獸のために吾々は命を救はれたわけですな、これは何といふ羚羊です、コオターメンさん?」 とサー・ヘンリイは言つた。 私もたしかでなかつたので、起ち上つてその羚羊を見に行つた。 それは角の曲つた驢馬程の大きさの羚羊だつた。私はこんな羚羊はこれまで見たことがなかつた。 毛は鳶色で薄赤色のかすかな斑《まだら》であつた。あとでわかつたことだが、 土人はこれを「インコ」と言つてゐた。珍しい種類で、外の獸の棲まない高い地方だけに棲んでゐるものだとのことである。 彈丸《たま》は見事に肩に命中してゐた。無論誰の彈丸が命中《あた》つたのかはわからなかつたが、 グッドは、麒麟を射つたときのすばらしい手際を思ひだして、ひそかに、 自分の彈丸があたつたにちがひないと思つてゐたにちがひないと思ふ。 吾々は花より團子の譬への通り、食ふのに忙がしくて、ろく〜あたりを見もせずにゐたが、 滿腹になると、ウムボバに、もつてゆけるだけの上肉を切りとらせながら、その間にあたりの景色を見まはした。 もう八時だつたので、霧はすつかりはれ渡り、前に横はつてゐる地方を一眸《いちぼう》のもとに見渡すことができた。 私は、この時吾々の眼前に展開されたすばらしい光景をどう言ひあらはしてよいか知らぬ。 こんな景色はこれまでにも見たことがないし、これからだつてあるまいと思ふ。 吾々の背後《うしろ》には雪を戴いたシバの乳房が聳えて居り、 吾々の立つて居る處からかれこれ五百呎ほど下には何里も何里も續いて非常に美しい田舍景色が横つてゐる。 彼方此方《あちこち》に、鬱蒼たる森があるかと思ふと、銀色の河が蜿々《えん〜》と流れてゐる。 左手にはよく繁つた草原が、緩やかな勾配を造つて廣がつて居り、その上には、 野獸だか牛だかよく判らぬ獸の群が無數に跳び廻つてゐるのが見える。 この草原の周圍を、遠卷きに山が圍んでゐる。左手には、あちこちに獨立の小山が、 地平からもち上つてゐて、山と山との間には、高地が點綴《てんてつ》され、 その間に穹窿形の小屋の群が見える。此處から見渡した景色は、まるで地圖のやうで、 その間を縫ふ河の流れは、銀蛇のやうに輝いて居り、アルプの峯のやうな、 雪を戴いた、峻峰がいかめしく屹立してゐる。そして、これ等凡ての上に、 嬉々たる日光と、大自然の幸福な生命のいぶきとがかゝつてゐるのだ。 それを見てゐるうちに、吾々が、不思議に思つたことが二つあつた。 一つは、吾々の前に横はつてゐる地方は、吾々が通つて來た沙漠よりも少くも五千呎は高いと云ふことで、 いま一つは、河といふ河は、みな南から北へ流れてゐるといふことであつた。 上り道には水がちつともなかつたのに、北側には澤山の小川が流れてゐて、 それが大きな河に合流して、地平の彼方に蜿々《えん〜》と流れて見えなくなつてゐた。 吾々は、暫時《しばらく》の間、腰を下して、無言のまゝこの驚くべき景色を眺めてゐた。 やがて、サー・ヘンリイが言つた。 「あの地圖には、ソロモン街道のことが何か書いてあつたね?」 私はやはり遠くの方を眺めながら點首《うなづ》いた。 「さうだ、あそこにある!」と彼は、吾々の少し右手の方を指した。グッドと私とが、 その方を見ると、遙かの平原の方に廣いローマの街道のやうなものが見えた。 「右の方から廻つて行けばすぐだ。早速行つて見ませう」とグッドは言つた。 そこで吾々は、小川の水で、大急ぎで顏と手とを洗つて出發した。 一二哩の間吾々は、石ころや、解け殘つた雪の道を進んで行くと、 急に小さな岡の頂きについた。すると、吾々の脚下《あしもと》に道が横はつてゐた。 それは、堅い岩を切り開いて造つた、幅五十呎以上もあるすばらしい道であつたが、 不思議なことには、その道は、急にそこからはとまつてゐるらしかつた。 吾々は、その道へ下りて行つて、シバの乳房の方へ、ほんの百歩ほど歩いて行くと、 道はなくなつて、すぐそばまで山が迫つてきてゐた。 「これはどうしたんでせう。コオターメン?」と、サー・ヘンリイはたづねた。 私は、さつぱり判らなかつたので頭を振つた。 「判つた!」と、グッドは云つた。「この道は、きつとこの山を越えて向う側の沙漠まで通じてゐたんですよ。 ところが下の方は沙漠の砂で埋められ、上の方は火山の爆破か何かで、熔岩でつぶされてしまつたのですよ。」 なるほどさうかも知れんと思ひながら吾々は山を下りて行つた。雪の上を、酷い飢ゑに惱まされ、 凍えながら、山を登つて來たとき、いま十分腹をこしらへて、 この坦々たる大道を降つて行くのとは非常な相違であつた。實際、かはいさうな最期をとげた、 フェントフォーゲルと、洞窟の中に凍え死んでゐたシルヴェストラの陰氣な思ひ出さへなかつたら、 これから先に、どんな危險が横はつてゐるか判らないにもかゝはらず、吾々は、非常に愉快であつたらう。 進んで行くにつれて、空氣はますます柔かくなり、景色は、ます〜美しくなつてきた。 それに、吾々の歩いてゐる道ときたら、こんな大工事を見たことがない。 ある處にはトンネルがあつて、その兩側には妙な彫刻がしてあつた。 それはたいてい、戰車に乘つて驅けて行く甲冑をつけた武人の彫刻であつたが、 なかには戰《いくさ》の全景を寫しだしたすばらしいのもあつた。 サー・ヘンリイは、この古代美術の作品をよく調べて見てから言つた。 「これを見ると、ソロモン街道の昔の模樣がよくわかりますね。しかし、私の考では、 ソロモンの民が來る前に、こゝには、埃及人がゐたらしいですね。 この彫刻は、埃及人の手になつたものではないにしても、埃及彫刻に非常によく似てゐますからね。」 正午までに、吾々は、森のある處まで下りて來た。はじめには、ぽつ〜雜木林があらはれはじめ、 その内に道はうねりうねつて、銀色の葉のついた木の繁つてゐた大きな森の中へはひつてゐた。 この木はケープ・タウンの岡で、よく見かける木だが、ほかでは私は見たことがない。 グッドはこの木を見ながら大喜びで言つた。「こゝには木が澤山あるから、 一つ食事をしようではないか、もうあの生肉は、大ていこなれてしまつたから。」 これには誰も異議がなかつた。そこで吾々は、近くに流れてゐる小川のそばまで行つて、 枯枝を集めて火を焚き、吾々が持つて來た、インコの肉の良い所を切つて、 ケーファー人がやるやうに、それを串にさして燒いて喰つた。腹が一杯になると、 煙草に火をつけて、悠《ゆ》つくりと樂んだ。最近に吾々が經驗したひどい困難に比べると、 まるで天國にゐるやうな思ひがした。 吾々は、餘りの變化にものも言へなかつた。サー・ヘンリイと、ウムボバとは、 まづい英語と、ズル語とを、ごつちやまぜにして、低聲《こゞゑ》で何か熱心に話してゐた。 私は、半ば眼を閉ぢて、河岸に生えてゐる羊齒《しだ》の上に寢ころんで二人を見てゐた。 するとグッドの姿が見えなくなつたので、どうしたのだらうとあたりを見ると、 彼は、河の岸に腰をかけて行水をつかつてゐた。フランネルの襯衣《シヤツ》一枚になつて、 生れつきの綺麗好きの癖が起つたと見えてせつせと念入りに化粧をした。 彼は、カラーを洗ひ、ヅボンや上着やチヨッキの塵を拂ひ、いつでもそれを着られるやうに折りたゝんでゐたが、 さうしながら彼は悲しげに頭を振つてゐた。と言ふのは、 今迄に通つてきた怖ろしい道中で、上着やヅボンは方々ちぎれたり裂けたりしてゐたからであつた。 それから彼は靴を出して、羊齒の葉でこすり、インコの肉から注意して採つておいた脂をそれに塗つた。 それから彼は、眼鏡越しによく磨き工合を調べて見て、それを穿き、 今度は別の動作にとりかゝつた。即ち彼は、小さい袋からポケット用の櫛と、 懷中鏡とを取り出して念入りに髮をといてゐたが、どうもまだ滿足出來ない樣子であつた。 と言ふのは頤《あご》のあたりに十日も剃らない鬚がもぢや〜のびてゐたからだ。 「まさかあれを剃る氣ぢやなからうな」と私は思つた。ところがさうではなかつた。 彼は、靴を磨いた脂の片《かけら》を取り出して、それをよく川で洗ひ、 小さい剃刀を取り出して頤《あご》や顏を強く脂でこすつて剃りはじめた。 しかし非常に痛かつたと見えて、時々唸り聲をあげてゐたので、私は、 うちからこみ上げて來る笑ひを抑へることが出來なかつた。 男のくせに、こんなところで、こんな場合に、脂の片《きれ》で顏を剃るなんてまことに可笑しいことだ。 が、たうとう彼は頤と顏の右側の鬚とを剃つてしまつた。 恰度その時、彼の頭の眞上で何かキラリと光るものがあつた。 グッドは頓狂な叫びを上げて跳び上つた。(若し彼の持つてゐたのが安全剃刀でなかつたなら、 彼はきつと咽喉を切つたゞらう)私も物も言はずに跳び上つた。 私のゐるところから二十歩たらず、グッドのゐるところからは十歩ばかり離れたところに、 非常に脊の高い銅色の皮膚をした人の群が立つてゐた。中には頭に大きな黒い羽根飾りをつけて、 豹の皮を身にまとうてゐるものもあつた。この一隊の前に十七位の若者が、 希臘彫刻の槍投げ選手にやうな姿勢をして、まだ手を擧げたまゝ、 前かゞみになつて立つてゐた。いまキラリと光つたのはたしかにこの若者が投げた短刀の光りであつたのだ。 見てゐる中に軍人のやうな恰好をした老人が隊を離れて前へ進み出て、 若者の腕を捉へて何か彼に言つた。そして二人は吾々の方へ進んで來た。 サー・ヘンリイとグッドと、ウムボバとは銃をとつて彼等を脅威するやうに身がまへた。 だが野蠻人の一行は、平氣でずん〜進んで來た。彼等は鐡砲と云ふものを知らないのぢやないかと私は思つた。 でなければこんなに平氣でゐる筈がないからだ。 「銃を下に置きなさい」と私は一同に向つてわめいた。こんな場合妥協するのが一番安全だと思つたからである。 一同はそれにしたがつた。私は前に進み出て、今しがた若者をとめた老人に向つて話しかけた。 「今日は」と私は何處の言葉をつかつてよいか判らなかつたものだからズル語で云つた。 驚いたことには私の言葉は先方に通じた。 「今日は」と老人は答へた。その言葉には少しなまりがあつたが、ウムボバにも私にもよく判つた。 後から知つたところによると、この連中の言葉は、ズル語の古語で、 それと今日のズル語との關係は恰度チョオサー時代の英語と今日の英語との關係のやうなものであつた。 「何處から來なさつた?」と老人は言葉を續けた。「貴方がたは何者ですか?何故貴方がた三人の顏は白くて、 一人の顏は私どもと同じ色なのです?」と云ひながら彼はウムボバを指ざした。 見るとなるほどウムボバの顏は彼等の顏と同じで、體格の大きい點も彼等と同じだつた。 併し私はこの暗合をよく考へて見る餘裕などはなかつた。 「吾々は他國の者です。決して惡意を持つてゐるものではありません」 と私は彼等に判るやうに悠《ゆ》つくりと答へた。「それからこの男は、吾々の從者です」 「それは[言|虚;#2-88-74]《うそ》だ」と彼は答へた。 「生き物の通れないあの山を越えて、他國の人がこんな處へ來る筈がない、 がしかし[言|虚;#2-88-74]《うそ》なんかどうでもよい、もしあんたがたが本當に他國人なら、 あんたがたの命は貰はにやならん。と云ふのはククアナ國では他國人を生かして置くわけにはいかないからだ。 それは國王の法律だから、さあ覺悟をしなさい。」 私はこれを聞いて少し後の方へ踉《よろ》けた。特にこの連中の中の或者が手をする〜と腰のところへすべらして、 腰につけてゐる大きな短刀のやうな物をつかんだときはたぢ〜となつた。 「あの乞食は何を言つてゐるんだね?」とグッドは訊ねた。 「あいつは吾々を殺さうと言つてゐるのだ」と私は苦い顏をして答へた。 「そりや大へんだ!」とグッドはうめいた。その時彼は、困つた時にいつでもするやうに、 義齒《いれば》に手を當てて、それを拔いて裏返しにした。世の中のことは何が幸になるかわからぬもので、 それが非常に幸運であつた。と云ふのは次の瞬間にいかめしく立つてゐたククアナ人の群は、 一度に恐怖の叫びを上げて數碼後へとびさがつた。 「どうしたんでせう?」と私は云つた。 「あの齒ですよ。」とサー・ヘンリイは昂奮して囁いた。「グッドが齒を動かしたんですよ。 おいグッド君齒を外したまへ!」彼はその言葉に從つて、 フランネルの襯衣《シヤツ》の袖の中へ義齒《いれば》をすべり落した。 すると土人の群は怖いもの見たさにそろ〜前へ進んで來た。 彼等はもう吾々を殺すこと等は忘れてゐるらしかつた。 「どうしたのです皆さん」と老人はぶつた口調で尋ねた。 「あのよく肥つた人は、身體には着物をつけて、脚は裸かで、 顏の一方だけに鬚をはやして、一方の眼だけ大きな透き通つた眼をして、 ひとりでに齒を動かして口の外に出したり入れたり自由にしてゐますが、 あれはどう云ふ譯です?」 「口を開けたまへ」と私はグッドに向つて言つた。すると彼は老人に向つて怒つた犬のやうに脣を上下にそらし、 呆氣にとられてゐる老人の眼の前で、赤い二列の薄い齒齦《はぐき》を出して見せた。 老人はアツと魂消《たまげ》た。 「あの人の齒はどうしたんだ。たつた今たしかに見えたんだがな」と一同は叫んだ。 グッドは悠《ゆつ》くりと顏を後へまはして、すばやく手を口へあてた。 そして再び笑ふと今度は綺麗な二列の齒が竝んでゐるではないか。 今しがた短刀を投げた若者は、草の上へ身を投げて長い恐怖の叫びをあげた。 老人の膝は恐ろしさのためにがた〜慄へてゐた。 「判りました。貴方がたは神樣にちがひない」と彼は吃りながら云つた。 「女の腹から生れた人なら顏の一方だけに鬚があつて丸い透き通つた眼をして、 齒がひとりでに動いて、生えたり溶けてなくなつたりする譯はありません。 あゝ神樣、どうぞ私どもを許して下さい。」 これは實に願つてもない幸運だつたので無論私はそれにつけ込んだ。 「その通りだ」と私はいかめしい笑ひを浮べて言つた。 「まことのことを言つて聞かすと吾々はお前たちと同じ人間の形はしてゐるが空にある一番大きい星から來たのだ」 「おゝ!おゝ!」と呆氣にとられた土人どもは聲を揃へてうなつた。 「正《まさ》にその通りだ」と私は再びやさしい笑を浮べながら言葉を續けた。 「吾々はしばらく此處に滯在してお前たちに福を授けてやる。 見る通りわしは此處へ來るために、お前逹の言葉を學んで來たのだ。」 「その通りです、その通りです。」と一同は聲を合して言つた。 「さて皆の者」と私は言葉を續けた。「吾々はこんな長い旅をして來たあとで、 あんな待遇を受けたのだから復讎するかもしれないぞ。さうだ、 あの齒を入れたり出したりする人の頭へ短刀を投げた不埒な奴は殺してしまふかもしれん。」 「あの人を助けてやつて下さい」と老人は拜むやうに云つた。 「あれは國王の王子で私はあれの叔父で御座ります。 若しあれの身に間違つたことでもあると大變ですから」 「お前逹は吾々の復讎の力を疑つてゐるらしい」と私は相手の言葉に耳をかさずに續けて言つた。 「まて、わしが今證據を見せてやる。こりや奴隸、あの音のする魔法の筒を持つて來い」 と私はウムボバに向つて荒々しい言葉で命令しながらエキスプレス銃の方へ目くばせした。 ウムボバはすぐに起ち上つて、ちよつと苦笑ひをしながら私に銃を渡した。 「旦那樣持つて參りました」と彼は鄭重に言つた。 恰度その時小さい一疋の羚羊が七十碼ほど向うの岩の上に立つてゐたので、 私はそれを射つてやらうと心できめた。 「あすこに羚羊がゐるだらう」と私は一同の者のその動物を指し示しながら云つた。 「どうだ、女の腹から生れた人間に、此處から音をさせてあれを殺すことが出來るか?」 「左樣なことはとても出來ません」と老人は答へた。 「ところがわしにはそれが出來るのだ」と私は落ちついて言つた。 老人は「まさか左樣なことは」と答へながら微笑を洩らした。 私は銃を取り上げて羚羊をねらつた。それは小さい羚羊だつたので普通の獵師なら射ち損じかねないものであつたが、 私は射ちそこなふ氣遣ひはないと云ふことを知つてゐた。 私は呼吸を深く引いて悠《ゆつ》くりと曵金をおさへた。羚羊は石のやうにぢつと立つてゐた。 「ズドン!」羚羊は宙へ飛び上つて岩の上に落ちて釘のやうに死んでしまつた。 一同の者は恐怖のためにうめいた。 「肉が慾しければあの羚羊を連れて來るがいゝ」と私は冷やかに言つた。 老人が合圖をすると一人の家來が走つて行つて、やがて件《くだん》の羚羊を持つて歸つて來た。 私の射つた彈丸は肩の下のところに見事に命中してゐた。 一同の者は哀れな獸の死骸のまはりに集まつて仰天して彈痕を見つめてゐた。 「どうだ、わしは[言|虚;#2-88-74]《うそ》を言はないだらう」と私は言つた。 誰も返事をしなかつた。 「若し吾々の力を疑ふものがあるなら、誰か一人の岩の上に立つて見るがよい、 さうすればこの羚羊と同じやうにして見せてやる」と私は續けて言つた。 誰もこんなすゝめに應じさうなものはなかつたが、そのうちにたうとう國王の王子が口をきつた。 「よし、伯父さん貴方あの岩の上に立つて御覽なさい。魔法で羚羊は殺すことは出來ても、 人間を殺すことはできないにきまつてゐるから。」 「いや〜」と彼はいそいで叫んだ。「わしはこの眼でちやんとにらんだ。 この人逹は本當の魔法使ひだ。だから國王の許へお連れ申さう。 だがまだこの上に證據を見たいと云ふものがあるなら、その人を岩の上に立たした方がよいだらう。 さうしてあの魔法の筒に物を云はせたがよからう。」 一同の者はあわてゝもう澤山だと云うやうな表情をした。 「あんな立派な魔法をこちとらのやうないやしい者に澤山見せて貰ふのはもつたいない」と一人の男が云つた。 「こちとらはもう澤山だ。この國の魔法使ひが束になつたつて、あんな藝當を見せることは出來はしない。」 「さうだとも」と老人はほつとしたやうな調子で云つた。「それに違ひない、まあ聞いて下さい、 星の世界のお方逹。光る眼をした、齒の動く、そして遠くから音をたてゝ生き物を殺しなさるお方逹、 私はインファドオスと申しまして、以前にこのククアナの國王であつたカファの子で御座ります。 それからこの若者は、スクラッガと申しましてツワラ大王の王子で御座ります。 ツワラ大王と申しますのは后《きさき》を千人もお持ちになる國王で、ククアナの民の長であり、 この大街道の所有者《もちぬし》であり、魔法の學者で十萬の軍隊を率ゐて敵に恐れられてゐる方で、 片眼に、色の黒い、恐ろしい王樣で御座ります。」 「さうか」と私は鷹揚に言つた。「ではツワラの處へ吾々を案内せい。 吾々は賤しい者とは話をしたくない。」 「承知致しました。がずゐ分道のりが遠う御座ります。吾々は、 王樣の居なさる處から三日もかゝつてこちらへ獵に來たので御座ります。 それをおいとひでなければ御案内申します。」 「そりや仕方がない」と私はぶつきら棒に言つた。「吾々は死ぬと云ふことはないのぢやから、 いつまでかゝつてもかまはん。用意はよいから案内せい。 だがインファドオスもスクラッガも要心せい、吾々を騙さうなどと思つてはいかぬぞ。 お前逹の泥のやうな頭で惡企みをしたつてすぐに判るから復讎するぞ。 あの人の透き通つた眼でお前たちをにらみ殺し、あの出沒自在の齒でお前逹もお前逹の妻子も喰ひ殺してしまふぞ。 あの魔法の筒が音をたてゝお前逹を蜂の巣のやうにしてしまふぞ。よく氣をつけるがよい!」 このいかめしい言葉のきゝめはてきめんであつた。 實を云へばそんなに脅す必要のないほど既に彼等は吾々の力に打たれてゐたのだ。 老人は深く敬意を表して家來の者共に向つて何事かを言つた。すると家來の者共は吾々の荷物を持つた。 グッドの着物さへも持つて行かうとした。それは讀者は記憶してゐるであらうが、 彼がきちんと疊んでそばに置いたものである。 彼はそれを見てあわてゝて手を通さうとした。すると大騷ぎが持ち上つた。 「眼の透き通つた齒の溶けてしまふお方にそんなものをさはらせちやいけない。 持つて行くのは家來の役目だぞ。」と老人は言つた。 「おれはそれが着たいのだよ!」とグッドは氣短な英語でどなつた。 ウムボバはそれを通譯した。 「とんでもない、私どものしたことがお氣にさはつてその美しい白い脚を見せてくださらないのですか?」 とインファドオスが答へた。 私はこの時もうちよつとで失笑《ふきだ》すところであつた。がその間に一人の男は、 さつさと着物を持つて出懸けてしまつた。 「畜生つ!、あの黒ん坊の奴、おれのヅボンを持つて行きやがつた」とグッドはどなつた。 「おいグッド君」とサー・ヘンリイは云つた[。]「君はこの國では特別扱ひにされてゐるのだから、 しまひまでさうしてゐなきやならんよ。いつまで經つてもヅボンなんか穿く譯にいかんぞ。 これからはフランネルの襯衣《シヤツ》と靴と眼鏡とだけで通さなくちやならんよ。」 「さうだ」と私は言つた。「それに片一方だけ頬髯を生やしてゐなければならん。 若しその中の一つでも變へたら奴等は吾々を僞物だと思ふからな。 グッドさんにはまことに氣の毒だが、眞面目にさうしてゐなけりやなりませんよ。 もし奴等がちよつとでも疑ひ初めたら、吾々の命は五厘銅貨の値打もなくなりますからね」 「ほんとに貴方がたはさう思ひますか?」とグッドは悲觀しながら言つた。 「ほんとですとも、貴方の美しい白い脚と貴方の眼鏡とは、吾々一行の目じるしなんだから。 サー・ヘンリイが仰有るやうに貴方は終ひまでそれで押し通さなけりやなりませんよ。 まだしも靴を穿いてゐたのが僥倖《さいはひ》ですよ。それにこゝは空氣が暖いから。」 グッドは溜息をして何にも言はなかつた。がこの新しい貧弱な服裝になれるのに半月もかゝつた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第八章 ククアナ國に入る [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- その日の午後はすばらしい街道に沿うて、吾々はずつと旅を續けた。 街道は、一本調子に北西の方向に向つてゐた。。インファドオスとスクラッガとは吾々と一緒に歩いてゐたが、 彼等の從者は百歩ばかり前を歩いて行つた。 「インファドオス、この道は一體誰が造つたのだね?」と私はたうとう話しかけた。 「これはずつと昔からあるので御座いますよ。どうして出來たのか、 何時造られたのか誰も知つてゐるものはないのです。 何代も何代も生きてゐる物識りのガゴオル婆さんだつてそれは知らないのです。 今時はこんな道は誰にだつて造れはしませんが、王樣は道に草一本生やさないやうにしてをられます。」 「ではこの道へ來るまでに、吾々が通つて來た、トンネルの壁に書いてあつたものは誰が書いたのだい?」 と私は、吾々が見て來た埃及彫刻らしいものゝことを訊ねた。 「やつぱり道を造つた方が、あの不思議な彫刻も造られたのですよ。 私どもには誰が書いたのか判りません。」 「ククアナ人は何時《いつ》この國へ來たのだい?」 「此處の人間は何萬月も前に嵐のやうに向うの大きな國からやつて來たのです」と言ひながら彼は北の方を指さした。 「この國は周圍が山に圍まれてゐるものですから、これからさきへ行くことが出來なかつたのださうです。 それに此の國は良い國だものですから、その人逹はこゝに落着いて、だん〜強い國民になつたのです。 今日では、私どもの仲間の數は濱の砂のやうに澤山あります。 ツワラ王が軍隊を召集されると、廣い野原が羽根飾りでうづまつてしまひます。」 「周圍が山に圍まれてゐちや、軍隊は戰爭する相手がないだらう?」 「ところが北の方は開いてゐるので御座います。で時々私どもの知らない國から雲霞のやうな大軍が押し寄せて來ますが、 吾々は鏖殺《みなごろ》しにしてしまひます。この前に戰爭があつてからもう十年になりますが、 その戰爭で私どもの軍隊は何千となく戰死しました。しかし、たうとう私どもは攻めて來た奴を滅ぼしてしまひました。 それからこつちもはや戰爭はありません」 「兵隊どもは、槍を休めてゐちや、さぞ退屈だらうな?」 「ところがその戰爭が濟んでから實はもう一度戰爭があつたのです。 がそれは内亂でした。犬と犬とが喰ひ合ふて云ふやつです。」 「それはどうしておこつたのだ?」 「私の兄のツワラ王は雙生兒《ふたご》だつたのでございます。 私どもの國の習慣として雙生兒は二人共生きてゐることが出來ないで、 弱い方が殺されることになつてゐるのですが國王の母親は吾が兒を殺すに忍びないものですから、 後から生れた弱い方の子供をかくしておいたのです。その子供が、 つまりツワラ王なのです。私は別の后《きさき》の腹から生れたツワラ王の弟なのでございます」 「それで?」 「私どもの父は、私どもが成人すると死んでしまひ、兄のイモツが、 そのかはりに王位について、しばらく國ををさめてゐる内に、 寵姫の腹から一人の息子が生れたのです。この赤ん坊が三つの時に、あの大戰爭がはじまつて、 戰爭の間ぢゆう、田や畑は種も蒔かず耕しもせずにおいたものですから飢饉がおそつて來たのです。 すると人民はぼつ〜不平をとなへはじめ、何か不平をはらす的はないかと、 飢ゑたライオンのやうにあたりを搜しまはつてゐたのです。 その時に、ガゴオルと言ふ恐ろしい不死身の物識りの婆さんが人民に向つて 「イモツ王は王ぢやない」と言つたものです。その當時イモツは負傷して身體の自由がきかないので、 彼の小舍に寢てゐたのでございます。 「その時にガゴオルは一軒の小舍にあひつて私の兄であり、 國王の雙生兒《ふたご》の兄弟であるツワラを連れ出して來たものです。 この婆さんは、ツワラが生れた時からこの子供を岩窟の中へかくしておいたのです。そしてこの婆さんは、 ツワラの腰から腰帶《モーカ》を取り拂つて彼の腹のまはりにとぐろを卷いてゐる聖蛇のしるしをツワラの人民に見せて 「これがお前逹の王樣だ、妾《わたし》が今迄お救ひ申してゐたのだ」と聲高に叫んだのです。 この聖蛇のしるしは、國王の長子が生れた時につけるしるしなのでござります。 「すると人民は飢ゑのために狂氣のやうになつて、理性を失ひ、 眞僞を見分ける力を失つてゐた際なので「國王!國王!」と叫びました。 しかし私はさうでないことを知つてゐたのです。イモツの方が先きに生れた正當な王であることを知つてゐたのです。 騷ぎがあまり大きくなつたので、イモツ王は病床に寢てゐながらも、妻の手をとり、 幼兒《をさなご》のイグノシを連れて小舍から匍ひだしたのです。 ついでに申し上げますが、イグノシと云ふのは電光《いなづま》と云ふ意味なのでございます。 「『あの物音は何だ?何故國王!國王!なんて叫んでゐるのだ?』と彼はたづねました。 「その時同じ腹から生れたツワラは彼の側へ走りよつて、その髮を掴み、 短刀で彼の心臟を突き刺したのです。すると氣に移りやすい、 いつでも長いものには卷かれろ主義の人民は手を打つて叫びました。 『ツワラが王樣だ!ツワラ王萬歳!』」 「それでイモツの妻と子供のイグノシとはどうなつたんだ?ツワラがやつぱり殺したのか?」 「いゝえ、女王は王樣が殺されたのを見ると、子供を抱いて泣きながら逃げて行つたのでござります。 それから二日目に女王は非常に飢ゑて一軒の小舍へ辿りつきましたが、 もはや國王が死んだあとなので、誰も女王にミルクも食物も與へてくれるものはなかつたのです。 人間と言ふものは、皆、不幸な者を相手にしないものです。 ところが夕方になると一人の小娘が、こつそり穀物を持つて小舍からしのび出て來て、 それを子供に與へ、そして翌朝日の出前に母親はこの子供をつれて山の方へ行つてしまつたのです。 多分、その女は向うで死んでしまつたのでせう、と云ふのはその母親も、 イグノシもそれから後誰も見たものはないのでございますから。」 「ではもしそのイグノシと云ふ子供が生きてゐたら、ククアナ國のほんたうの王になる譯だな?」 「さうで御座います。あの子の腰のまはりには聖蛇のしるしがついてゐます。 生きてゐたら王なのですが、もうずつと前に死んでしまつてゐるのです。」 「御覽なさい」と云ひながらインファドオスは澤山の小舍の集まつた部落を指ざした。 その部落は濠にとり圍まれてゐて、その濠の外側をまた大きな濠が取り圍んでゐた。 「れがイモツの妻が最期に子供のイグノシと一緒にゐた家です。 あなた方は下界でお眠《やす》みなさるのかどうか判りませんが、 もしお眠《やす》みなさるなら、私どもは今夜あの家で泊らうと思つてゐるのです。」 「郷に入れば郷に從へと云ふことがある。ククアナ人の仲間の中にゐる間は、 ククアナ人のするやうにするぞ」と私はおごそかに言つてグッドを振り返つた。 グッドは氣むづかしい顏をして歩いてゐた。 彼の心はフランネルの襯衣《シヤツ》が夕風でひら〜するのを避けやうとすることで一ぱいだつたのだ。 驚いたことに私が後を振り向いた拍子にウムボバの顏につきあたつた。 彼は吾々のすぐ後からついて來て、私とインファドオスとの會話を非常な興味をもつて聞いてゐたらしかつた。 彼の顏つきは好竒心にもちてゐた。それはずつと前に忘れてしまつた何事かを思ひ出さうとして、 一生懸命になつてゐる人のやうな顏つきであつた。 この間に吾々は下の方に、波のやうに起伏してゐる平原に向つてずん〜足を早めた。 吾々が通つて來た山々は今では、頭上にぼんやり霞んで見え、 シバの乳房は羞かしさうに透きとほつた霧のヴェールに包まれてゐた。 進んで行くに連れて景色はます〜良くなつた。植物はよく繁茂してゐたが、 それでゐて熱帶植物ではなく、日光は明るく暖かゝつたけれども灼けるやうではなかつた。 心地よい微風が香ばしい山々の山腹に沿うて吹き下してきた。 實際この新しい國は、地上の天國と云つてもよい位であつた。 景色のよい事と云ひ、自然の産物の豐かなことゝ云ひ、 氣候の温暖なことゝ云ひ、私はこのやうなところを今までに見たことがない。 トランスヴァールも良い國だが、このククアナとは較べものにならぬ。 吾々が出發すると同時に、インファドオスは、この先の村の人民へ吾々の到着を知せるために一人の傳令を派遣した。 この男は非常な速さで出懸けて行つた。インファドオスの話によると、 彼は途中で一度も憇《やす》まずに先方《むかう》まで走り續けるであらうと云ふことであつた。 と云ふのは、この國ではランニングの練習が非常に廣く行はれてゐるからだ。 この傳令を派遣した結果は漸く判りはじめて來た。吾々がその部落から二哩ばかりの處まで着くと、 大勢の男が隊を造つて部落の門から出て吾々の方へ進んで來た。 サー・ヘンリイは、私の腕をさはつて、どうやら款待されるらしいぞと言つた。 するとインファドオスは、彼のそぶりに氣がついて慌てゝ言つた。 「御心配なさるに及びません、私どもあ、決して惡企みをしてゐるのぢやありません、 この軍隊は、私の部下の軍隊で、私の命令でお出迎へに來たので御座ります。」 私は平氣で點首《うなづ》いた。しかし心の中は餘り平氣ではなかつたのだ。 村の門から半哩ばかりのところに、街道から緩かな勾配を作つてもちあがつた長い岡があつた。 軍隊はそこで整列してゐたのだ。それは實に立派な見ものであつた。一隊は約三百人からなつて居り、 めい〜ギラ〜した槍を持ち、羽根飾りをつけて敏捷に岡の上へ駈けあがつて指定された場所に整列した。 吾々がその勾配にさしかゝつた時には、かやうな軍隊が十二も出來て總數三千六百の軍隊が街道に沿うて列《なら》んでゐた。 やがて、吾々は、第一の隊のところまでやつて來て、この驚くべき軍隊をつく〜゛眺めることが出來るやうになつた。 彼等は大部分四十歳位の古兵で、脊の高さは六 呎《フイート》三四 吋《インチ》もあり、 六呎以下のものは一人もゐなかつた。頭には黒い羽根飾りをつけ、 腰の圍《まは》りと、右の膝の下とには白い牛の尾で造つた小さな環が結びつけてあり、 左の手には直徑二十吋ばかりの丸い楯を持つてゐた。この楯は妙な楯であつた。薄い鐡板で造つたもので、 その上に乳のやうに白い牛の皮が張つてあつた。めい〜の持つてゐる武噐はごく簡單なものであつたが、 併し恐るべき效力をもつてゐるものであつた。その一つは木の柄のついた短い非常に重い雙刄《もろは》の槍で、 この槍の刄の一番廣いところは幅六吋ばかりあつた。この槍は、投げ槍ではなくて近くに迫つて來た敵を突き刺すものであつた。 この槍の他に短刀を三ちやう持つてゐた。それはみな二 封度《ポンド》もある大きな重いもので、 一つは牛の尾でこしらへた環の中にはめてをり、他の二つは丸い楯の脊につけてゐた。 この短刀が投げ槍のかはりになるので、ククアナの軍人は五十碼も離れたところへ極めて正確にそれを投げることが出來るのだ。 彼等は敵が近くへ迫つて來ると、どつと喊聲をあげながら、 それを投げるのが習慣になつてゐるのであつた。 各隊は吾々がその正面へ來るまで、まるで銅像のやうにぢつとしてゐたが、 豹の皮の外套を着て五六歩前に立つてゐる指揮官が號令をかけると、 一度に槍を高くさしあげ、三百のものが聲を揃へて歡迎歌を歌つた。 そして吾々が通り過ぎると、そのあとに整列してついて來た。 かうして十二の中隊は全部吾々の後ろについて村の方へ進んで來た。 たうとう吾々はソロモン街道から枝道にはひつて、村の周りを圍んでゐる廣い濠のところまで來た。 村の周圍は一哩もあつて丈夫な木柵で造《こさ》へた垣で取り卷かれてゐた。 入口には、濠の上に原始的な開橋《はねばし》が架つてゐて、番兵がそれを下して吾々を通してくれた。 村は直角に交叉する道路によつて十二の區劃《くくわく》に分れ、 一つの區劃がそれ〜゛一つの中隊になつてゐたのである。小舍は穹窿形で、 ズル人の小舍と同じやうに、小枝で造つて草の屋根が葺いてあつたが、 ズル人の小舍と違ふところは、吾々がたつぷり立つてはいれる位の入口があることだつた。 村の中を貫通してゐる大道の兩側には、澤山の女が列《なら》んで、物珍らしさうに吾々を見てゐた。 これ等の女は、土人にしてはたいへん綺麗で、脊も高く顏も整つてをり、 髮は短いけれども捲毛で、脣も普通のアフリカ土人のやうに不愉快に厚くはなかつた。 しかし何よりも吾々が驚いたのは、彼女等が非常におとなしくて一種の威嚴を持つてゐる點であつた。 彼女等は好竒心に驅られて吾々を見に出たのではあるが、吾々を見てもひどく吃驚《びつくり》したやうな顏をしたり、 不作法な批評をしたりしなかつた。インファドオスがグッドの白い脚を指ざして見せた時ですら、 彼女等は黒い眼で眞白な美しい脚をぢつと見詰めながら感歎してゐるだけであつた。 しかし生來 羞《はに》かみやのグッドにとつてはそれだけでももう澤山だつたのであるが。 吾々が村の眞中に着いた時、インファドオスは遠くから小さい小舍に圍まれた、 大きな小屋の入口で立ち止つた。 「おはいりなさい、星の國のお方逹」と彼はもつたい振つた聲で言つた。 「どうぞこのあばら家でおやすみ下さい。すぐにお食事をさしあげます。 お食事は、蜜と牛乳と、牛と羊とで御座ります。」 「よろしい、吾々は星の世界から降りて來たので大分疲れたからすこし憇《やす》ませてもらはう」 と私は言つた。 それから吾々は小舍の中へはひつた。部屋の中は氣持ちよく準備が出來てゐて、 吾々の寢るために鞣皮《なめしがは》の寢床が設けてあり、 顏を洗ふための水がおいてあつた。 やがて部屋の外で、がや〜云ふ聲と跫音《あしおと》とが聞えて、 娘たちが列をつくつて、牛乳と玉蜀黍《たうもろこし》の燒いたのと、 蜜の入つた壺とを持つて來た。その後から數人の若者が肥つた仔牛を一頭曵張つて來た。 吾々がこの贈物《おくりもの》を受取ると、一人の若者が、腰から短刀を拔いて、 巧みに牛の咽喉を突き刺した。それから十分間の後に、その牛を殺して皮を剥ぎ、 一番良い肉を吾々のために切り取つてくれた。殘りの肉は、 私が一行を代表して周圍《まはり》に立つてゐる軍人共に進呈した。 すると一同は、それをうけとつて「顏の白いお客樣の下さりものだ」 と云ひながらみんなで分けた。 ウムボバは非常に愛嬌のある若い娘に手傳つて貰つて吾々の肉を大きな土鍋に入れて、 小舍の外にこしらへてある竈《かまど》にかけて煮はじめた。 料理が出來あがると、インファドオスと、王子のスクラッガとに使を遣つて一緒に食事をするやうに知らせた。 やがて二人はやつて來て、小さい腰掛に腰をかけた。 老人の方は愛想が良くて丁寧であつたが、若者の方はなんだか疑はしさうな顏附をしてゐた。 彼は他の者の同じやうに、吾々の色の白いのと、魔法を知つてゐるのとに怖氣をふるつてゐたが、 吾々が他の人間と同じやうに、食つたり、飮んだり、眠つたりするのを見て、 畏敬の念がだん〜薄らいで、猜疑の念がこれに變つて來たらしかつたので、 吾々は少し氣味が惡かつた。 食事中にサー・ヘンリイは、彼の弟の運命を知つてゐるかどうか、或ひは、 彼の弟の事を聞いたり見たりしたことがあるかどうかを訊ねて見たらどうだらうと言つたが、 私はこの際その事については何も言はないのが賢明だらうと考へた。 食事が濟むと吾々はパイプに煙草をつめて火をつけた。 インファドオスとスクラッガとは、それを見てひどく驚いた。 ククアナ人は明らかに煙草を喫《ふ》かすことを知らないのだ。 煙草はこの土地には澤山生えてゐたが、彼等はズル人と同じやうに、それを嗅煙草として使用するだけで、 吾々の喫《ふ》かしてゐた煙草がそれと同じものだと云ふことを全く知らなかつたのだ。 それから間もなく私はインファドオスに向つて、いつ出懸けるのだと尋ねた。 有難いことにはもう既に吾々の到着したことはツワラ王の許に知らせてあるから、 明朝出發の手筈になつてゐるとのことであつた。ツワラ王は、 いま宮殿にゐて六月の第一週に行はれる年一囘の大祭の準備をしてゐるらしかつた。 この大祭には警備のために殘つてゐる若干の小部隊を除いて、 全國の軍隊が國王の前にあつまつて閲兵式をすることになつてゐた。 それから年一囘の魔法狩りも近く開かれることになつてゐたのだ。 吾々は翌日早朝に出發することになつてゐた。インファドオスも吾々に同行する筈になつてゐたが、 彼の話によると途中に變つた事さへなければ、二日目の晩には宮殿まで着けると云ふことであつた。 これだけのことを告げると二人の客はおやすみなさいと言つて出て行つた。 吾々は代るがはる一人づつ、若しも吾々を裏切りはしないかと思つて、 用心のために見張りをすることにきめて、あとの三人はごろりと横になつて良い氣持で眠つた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第九章 ツワラ王 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 宮殿へ行くまでの旅の出來事は、一々こゝで書く必要はない。 まつ直ぐなソロモン街道を通つて吾々はそこに着くまでにまる二日かゝつた。 進むにしたがつて、村落とその周圍の高地の數はだん〜多くなつた。 村落は、吾々が初めに見たのと同じ設計に出來てゐて、大勢の軍隊が守備してゐた。 實際ククアナと言ふ國は、ドイツや、ズルや、マザイと同樣國民皆兵主義の國で、 戰爭の時には不具者以外の男子は、凡て戰線に出られるやうになつてゐた。 吾々は旅の途中で宮殿へ閲兵式に出懸けて行く軍隊を澤山見たが、 それは實にすばらしい軍隊であつた。 二日目の夕方、吾々は小高い岡の上にとまつて暫く憇《やす》んだ。 街道はその岡の上を走つてゐたのだ。吾々の眼前に見える美しい沃野の中に首都が見えた。 土人の町にしては、大きな町で、周圍五哩もある。おまけに近接部落がその外へはみ出してゐた。 それは軍隊の駐屯のために使はれたのである。それから、後に吾々がよく知るやうになつた竒妙な馬蹄形の岡が二哩程北にあつた。 町の中央には河が流れてゐて、河には數ヶ所橋が架つてゐるらしかつた。 六七十哩先には雪を戴いた三つの山が三角形をなして平地から聳えて居り、 その山の中腹は、シバの乳房とは違つて屏風のやうな絶壁になつてゐた。 土人等はその山を「三つの魔女」と呼んでゐた。 インファドオスは吾々が山を見てゐるのを見て言つた。「この街道はあそこでおしまひになつてゐるので御座います。」 「どうしてだ?」と私は訊ねた。 「どうしてだか判りません」と彼は肩をすくめながら答へた。「あの山には澤山洞窟があつて、 その間に大きな豎穴が一つあるので御座ります。昔しの賢者たちはこの町へ來て、 そこへ何か採りに行つたのださうですが、今ではこの國の代々の王樣がそこにある墓場の中へ埋められてゐるので御座ります。」 「昔の人はそこへ何を採りに來たのだ?」と私は熱心に訊ねた。 「それは判りません。星の世界からお出でになつたあなた方は御存じで御座りませう」 と彼はちらりと吾々の方を見ながら答へた。明かに彼は口で言つてゐる以上のことを知つてゐるらしかつた。 「左樣」と私は言つた。「お前の言ふ通り吾々は星の世界でいろ〜のことを知つて來たのだ。 例へば、昔の賢者逹が、その山へ、光る石や、美しいおもちやや、 黄色い鐡等を採りに來たといふことを聞いてゐる。」 「あなた方は賢くていらつしやる」と彼は冷やかに答へた。「私はまだほんの子供ですからかやうな事柄については、 あなた方とお話しすることは出來ませんが、國王の宮殿にゐるガゴオルと言ふ婆さんとお話しになればよろしう御座います。 この婆さんはあなた方と同じやうに物識の女で御座います」かう言ひながら彼は出て行つた。 彼が出て行くと私は一同の者に向き直つて件《くだん》の山を指ざし 「あそこにソロモンのダイヤモンド坑があるんですよ」と言つた。 ウムボバは皆の者の傍に立つて、いつもの癖で、何か考へ込んでゐたが、 急に私の言葉尻をとらへて「さうです、きつとあそこにダイヤモンドがあるのですよ」とズル語で云つた。 「どうしてお前はそれを知つてゐるのだ、ウムボバ?」と私は鋭く訊ねた。 私は彼が時々合點の行かぬことを云ふのが嫌いだつたのだ。 すると彼は「何でもない、晩に夢で見たんですよ」と笑ひながら言つてくるりと後を向いて去つてしまつた。 「あいつは何か知つてるやうですね」とサー・ヘンリイは言つた。 「ついでだがコオターメンさん、あいつは私の弟の事を何かきいたでせうか?」 「何もきいてゐないやうです。あいつは知りあひになつた奴等に片つぱしから訊いて見たさうだが、 皆この國へ白人が來たのを見たことはないと言つてゐるさうです。」 「一體あなたは弟さんがこんな處へ來たと思つておゐでですか?」とグッドが口を出した。 「吾々が來られたのだつて竒蹟のやうなものですよ。地圖もなしにこんな處へ來られるものですか。」 「そりや判らんが何だか私は弟に逢へさうな氣がする」とサー・ヘンリイは沈んだ聲で言つた。 陽は緩やかに沈んで行き、突然 四邊《あたり》はまつ暗になつた。 晝と夜との間には呼吸をする隙《ひま》もなかつた。 熱帶地方では黄昏《たそがれ》と云ふものは全くないのだ。 晝から夜への變化は生から死への變化のやうなもので、 太陽が沈めば世界はすぐにまつ暗になつてしまふのだ。 しかしまもなく銀色の滿月が出て下界を隈なく照らした。 それは實に筆紙につくしがたい美しい光景であつた。 私の生涯は殺風景な生涯であつたが、それでも生きてゐてよかつたと思つたことが少しはある。 その中の一つ、ククアナで滿月を見たこともだ。 やがて吾々の冥想はインファドオスの丁寧な聲で破られた。 「皆樣がおやすみになつたら、ぼつ〜宮殿へ參りませう。あそこにはあなた方の今夜のお宿が用意して御座ります。 よい月夜ですから途中でころぶやうな事も御座いますまい。」 吾々はそれに同意した。そして一時間ほど經つと、吾々は町の郊外に着いた。 郊外には無數の篝《かゞ》り火がついてゐた。間もなく吾々は濠のところまで來た。 そこには一人の番兵がゐて武噐をがた〜いはせながら吾々を誰何《すゐか》した。 インファドオスが何か吾々に判らない合言葉を云ふと、番兵は敬禮して道をあけ、 吾々はこの町の中央の大通りを進んで行つた。涯《はて》しなく竝《なら》んでゐる小舍の前を、 かれこれ半時間も歩いて行つたときに、インファドオスは小さい小舍のかたまつて立つてゐる入口で止つた。 この小舍の群には、さゝやかな庭がついてゐて、その庭には石炭が撒いてあつた。 インファドオスはこれが吾々の宿だと告げた。 中へはひつて見ると、吾々にはめい〜一軒づつ小舍があてがはれてゐた。 この小舍は吾々が今迄に見たどの小舍よりも上等なもので、 その中にはめい〜鞣皮《なめしがは》で拵らへた居心地の良い寢床が香草で編んだ敷物の上に展《の》べてあつた。 食事の用意も出來てゐたので、吾々が土甕《どがま》に入れてある水で顏を洗ふと、 すぐに數人の可愛らしい娘が、燒肉と玉蜀黍《たうもろこし》の穗とを木の盆に載せて、 恭々しく吾々の前へ持つて來た。 食事がすむと吾々はベッドを一つの小舍の中へ移させた。娘たちはそれを見てくす〜笑つてゐた。 吾々は長い旅の疲れでベッドに横はるとすぐにぐつすり眠つてしまつた。 眼が醒めたときはもう陽は高く昇つてゐた。化粧等はしてゐないらしい附添の娘たちは、 吾々が支度をする手傳ひをするやうに言ひつかつてゐたと見えて、 もう既に小舍の中へ來て立つてゐた。 「フランネルの襯衣《シヤツ》一枚と靴とを穿くのぢや支度も何もいらないや」 とグッドはなさけなささうに云つた。「コオターメンさん、僕のヅボンを貰つて下さいよ」 そこで私がそのことを頼んで見ると、あの有難い形見の品はもう既に國王に獻上したと言ふ返事であつた。 吾々は附添の娘たちにちよつと外に出て貰つて、こんな場合に出來るだけの身じまひをした。 これには娘たちも驚いたと同時に失望した樣子だつた。 グッドは丁寧にも顏の右側をもう一度剃つた。左の方には毛がもぢや〜と生えてゐたが吾々は、 そちらはさはつてはならんと云つてとめた。吾々はたゞ顏をよく洗つて髮を梳くだけで滿足してゐた。 吾々が朝食《あさめし》を濟し、煙草を喫《ふ》かしてしまつた時分に、 一人の使者がやつて來た。それは外ならぬインファドオスであつた。 彼はツワラ追うはもう會見の準備が出來たから、いつでもお出でなさるやうにと告げた。 吾々は、旅で疲れてゐるからもう少し陽が高く昇る迄待つてもらひたいと答へた。 野蠻人を相手にする時には、いつでも餘り急がない方がよいのだ。 彼等はこちらが禮儀正しくすると返つてこちらを輕蔑するものだ。 そしてその間に、吾々の乏しい所持品から、彼に獻上する品をえり出してゐた。 獻上品といふのはフェントフォーゲルが使つてゐたウインチェスター銃と若干の珠數玉とであつた。 吾々はこの銃と彈藥とを國王に獻上し、珠數玉は后《きさき》と宮女逹とに獻上するつもりでゐた。 やがて吾々はもう支度が出來たからと告げて、インファドオスに案内され、 ウムボバに鐡砲と珠數玉とを持たせて出懸けた。 數百碼進んで行くと、吾々は一つの垣のところまで來た。 それは吾々のあてがはれた小舍の圍りの垣と同じやうなものであつたが、 大きさはその五十倍もあつた。垣の外側にはずつと小舍が列をなして竝《なら》んでゐた。 それは國王の后《きさき》たちの住みかだといふことであつた。 入口から眞正面には廣い空地を隔てゝ獨立した一軒の大きな小舍が建つてゐた。國王はそれに住んでゐたのだ。 その他の小舍には凡そ七八千人もあらうかと思はれる軍隊がぎつしりとつまつて羽根飾りを風に靡《なび》かせ、 ギラ〜する槍を持ち、鐡の裏のついた牛の皮の楯を持つて、銅像のやうに立ち竝《なら》んでゐた。 吾々はその中をずん〜進んで行つた。 大きな小舍の前の空地には數脚の腰掛が置いてあつた。 吾々三人は、インファドオスの合圖によつてそれに腰をかけ、ウムボバは吾々の後に立つてゐた。 インファドオスはといへば、彼は小舍の入口の側の席を占めた。 かうして吾々は十分間かそこら死の如き沈默の中に待つてゐた。 八千對ばかりの眼で凝《ぢつ》と見詰められてゐるのだと思ふと、 薄氣味の惡い法廷へ出たやうな氣がしたが、出來るだけ平氣をよそほつてゐた。 その中にたうとう小舍の扉《ドア》が開いて、立派な虎の皮を悠《ゆつ》たりと肩へ掛けた大きな男がスクラッガ少年と、 毛皮の外套に包まれた瘠せしぼんだ猿のやうなものとを連れて出て來た。 大きな男は椅子に腰を掛け、スクラッガはその側から立ち、瘠せしぼんだ猿は、 小舍の中に薄暗い物蔭へ行つて四つんばひになつてゐた。 それでもまだ靜まりかへつてゐて、誰も一言も言はなかつた。 やゝあつて、この巨漢《おほおとこ》は虎の皮を振り拂つて吾々の前に恐ろしい形相をしてたち上つた。 それは實に嫌な顏をした巨漢《おほおとこ》であつた。この男の脣は黒人の脣のやうに厚ぼつたく、 鼻は平べつたく、一つの黒い眼が爛々と光つてゐた。 片一方の眼は顏の眞中に穴になつて殘つてゐるだけであつた。 全體の容貌はこの上なく殘忍で肉感的であつた。大きな頭の上にはすばらしい白い駝鳥の羽根が立つて居り、 身體にはぎら〜光る鎖鎧を纒ひ、腰の圍りと右の腰とには、普通の白い牛の尾で拵へた環をつけてゐた。 右手には大きな槍を持ち、頸には黄金の重い頸鎖をかけ、 額には一つの大きな琢《みが》いてないダイヤモンドが鈍い光りを放つてゐた。 それでもまだ誰も一言も言はなかつた。しかしそれは長いことではなかつた。 やがて國王らしい巨漢《おほおとこ》は大きな槍をあげた。 すると直ちに八千の槍が上へあがり、八千の口から國王に敬意を表する聲が起つた。 それは三度繰返され、その都度萬雷の墜ちるやうな響きが天地を震撼した。 「もつたいなくも國王の御臨御ぢや」と細い甲走つた聲が聞えた。 その聲は物蔭にゐた例の猿の聲らしかつた。 「國王樣の御臨御ぢや」と八千の聲がこれに應じた。「もつたいなくも國王樣の御臨御ぢや」 それからまた死のやうな沈默にかへつた。だが暫くするとその沈默は破られた。 吾々の左り手に列《なら》んで鵜た一人の兵士が楯を落したのだ。 楯は石灰石の床の上にがら〜と音をして落ちた。 ツワラは冷やかな眼を音のした方へ向けた。 「こちらへ來い」と彼は冷たい聲で云つた。 立派な若者が列の中から進み出て國王の前に立つた。 「楯を落したのはお前だな、このぶざまな、犬奴が。 お前はこの星の世界から來られた客人の眼前でわしに恥をかゝせるつもりか、どうだ返事はあるか?」 かはいさうにこの若者は眞蒼になつてしまつた。 「過失《あやまち》で落したのであります、おゝ陛下」と彼は呟いた。 「では過失《あやまち》の償ひをせにやならん。お前はわしを馬鹿にしたのだ、覺悟をしろ!」 「私は國王の牛で御座います。牛のやうに殺して下さいませ。」と彼は低い聲で答へた。 「スクラッガ」と國王はどなつた。「お前の槍の使ひ振りを見せてくれい。 このぶざまな犬を殺してくれい!」 スクラッガは不機嫌な苦笑をして前に進み出て槍を取り上げた。 哀れな犧牲者は手で眼を蔽ひながらぢつと立つてゐた。吾々は恐ろしさに化石のやうになつた。 彼は槍をりう〜としごいて突き刺した。槍の穗尖は犧牲者の身體を貫通して背中に突き出た。 彼は兩手を擧げてばつたり倒れてしまつた。あたりからひそ〜囁く聲が起つて、 次から次へと雷のやうに鳴りわたり、やがて消えてしまつた。 かうして悲劇は終りをつげ、屍骸はそこに横はつた。 「ふむ、立派な腕まへだ」と國王は言つた。「これをつれて行け」 四人の男が列から進み出て、殺された男の屍骸を運び去つた。 「けがれた血に蓋をせい。蓋をせい!」と猿のやうな女のかな切り聲が聞えた。 「王樣の命令はもう果されたのぢや」 すると一人の娘がカーテンの後から石灰を入れた甕《かめ》を持つて前に進み出て、 赤い血のあとへそれを振り掛けて見えなくした。 サー・ヘンリイはこれを見て烈火のやうに憤つてゐた。實際吾々は彼をぢつとさせて置くのに大へん骨が折れた。 「坐んなさい、お願ひだから」と私は囁いた。「へたをすると吾々の命が危いですから。」 彼はやつとのことで我を折つて靜かになつた。ツワラは悲劇の跡が取り片付けられるのを待つて、 吾々に向つて言つた。 「色の白い客人、貴方がたは何處から、何をしにこの國へお出でなさつたか知らんが、 ようお出なさつた!」 「これはこれは、ククアナ王ツワラ、御機嫌よう」と私は答へた。 「色の白い客人、貴方がたは何處から何をしにお出なさつた?」 「吾々は星の國からこの國を見物に來たのです。」 「ずゐ分遠いところから、つまらぬものを見物にお出でなさつたな。 であの男もやはり星の國から來たのかな?」と言ひながら彼はウムボバを指さした。 「さうです、星の國にも矢張りこの國の人と同じ色をした人間が住んでゐるのです。 だが星の國のことなんかもう訊ねないでほしい。」 「貴方がたは大きなことを言ひなさるが、こゝは星の世界からは遠いのですぞ、 わしが貴方がたを今殺された兵隊のやうな目にあはせたらどうなさる?」 私は大聲を出して笑つた。その實心の中では笑ふどころではなかつたのであるが。 「おゝ國王!熱い石の上を歩くときは、足を燒かぬやうに氣をつけるがよろしいぞ。 槍は柄の方を持たぬと手が切れますぞ。吾々の髮の毛にちよつとでも手をふれたら貴方の身は破滅ですぞ」 かう言ひながら私はインファドオスとスクラッガとを指さして更に言葉をつけたした。 「この人たちは吾々の事を何と言ひました?貴方は吾々のやうな人間を見たことがありますか?」 と言つて私はグッドを指さした。 「成程さう言ふ人は見たことはない」と國王はグッドをよく見ながら言つた。 「あの人たちは吾々が遠くから生き物を殺すことを話しましたか?」と私は續けて言つた。 「その事は聞いた。がわしは信じん、わしにその殺すところを見せて貰ひたい。 向うに立つてゐる奴を誰か一人殺して見せて貰ひたい。さうすればわしも信じる」 と言ひながら彼は廣場の向う側を指さした。 「いや、吾々は正當に罰する時の外は人間の血を流さない。だが、たつてのお望みとあるなら、 貴方の家來に命じて、城門から牛を追ひ出しなさい。さうすれば二十歩と行かぬうちにその牛を殺して見せる。」 「いゝや、人間を殺さなくちや、わしは信じん」と國王は冷笑しながら言つた。 「よろしい」と私は冷かに答へた。では國王、貴方が自分であちらへ歩いて行きなさい! さうすれば門まで行きつかない中に貴方を殺して見せる。 それがいやなら貴方の息子のスクラッガをやりなさい!」 實際私はその時、スクラッガを射つたら、どんなに愉快だらうと思つてゐたのだ。 これを聞くとスクラッガは吼えるやうな叫び聲をあげて小舍の中へ駈け込んだ。 ツワラは苦々しげに眉をひそめた。 「牛の仔を追ひ出せ!」と彼は言つた。 二人の男がすぐに走つて行つた。 「ヘンリイさん、今度は貴方が射ちなさい。あの野郎に魔法使ひは私だけでないことを見せてやりたいのです」 そこでサー・ヘンリイは、エキスプレス銃を取つて身がまへた。 「うまく射てると良いがなあ!」と彼は唸つた。 「うまくやらなきやいけませんよ」と私は答へた。「最初の彈丸で失敗《しくじ》つたら、もう一つ放ちなさい。 照尺を百五十碼にしておいて、獸が横向きになるのを待つてゐるんです。」 それからしばらくたつと、一頭の牡牛が部落の門の方へ向つてまつしぐらに駈け出した。 そして恰度門の處まで來ると、人が澤山ゐるので吃驚してこちらを向いて一聲吼えた。 「さあ今ですよ!」と私は囁いた。 彼は銃を取り上げた。 ズドン!牛は肋骨を射たれて宙を蹴つて仆《たふ》れた、數千の觀集から感歎の吐息が洩れた。 私は冷かに後を振り返つた。 「どうです國王、私は[言|虚;#2-88-74]《うそ》をつきましたか?」 「いゝや本當だ!」と彼は少々怖氣づいた聲で答へた。 「よく聞きなさい、ツワラ!」と私は續けて言つた。「吾々は貴方と戰爭をしに來たのぢやないのだ。」 と言ひながらウィンチェスター連發銃を取つて「この銃を貴方にさしあげる、 これで何でも殺すことが出來るが、人間を殺してはなりませんぞ。 これを人間に向けると自分が死にますぞ。これから私が試して見ませう。 あの兵隊の持つてゐる槍を、こちらへ、槍の身を向けて地面に立てさせさない。」 直ちに槍は地面に立てられた。 「よく見てゐなさい!これからあの槍を射つて見せる。」 私はよくねらひを定めて曵金を引いた。彈丸は槍の刄にあたつてそれを粉微塵に碎いてしまつた。 再び感歎の吐息が洩れた。 「さてツワラ、吾々はこの魔法の銃《つゝ》を貴方にさし上げる。 だが星の世界の魔法を地上の人間に向けたらどうなるかよく氣をつけるんですぞ!」 かう言つて私は彼に銃を渡した。 國王は非常に用心してこれを受け取つて脚下《あしもと》に置いた。 恰度その時に、小舍の蔭から瘠せしなびた猿のやうなものが匍ひ出して來るのが見えた。 それは始めは四ん匍ひになつてゐたが、國王の坐つてゐる處まで來ると、 足で立ちあがつて毛皮のかつぎを拂ひのけて、見るも怖ろしい形相を現はした。 それは非常に年をとつた女のやうであつた。ひどくしぼんでゐるのでふかい黄色い無數の皺がよつてはゐたけれども、 顏の大きさは赤ん坊位の大きさであつた。この皺の中に一つの裂け目がおちこんでゐた、 それが口であつた。口の下には尖つた頤《あご》が外側へまがつてゐた。 鼻は取りたてゝ言ふほどのものはなかつた。實際二つの大きな眼さへなかつたら、 この顏は干乾びた屍骸の顏そつくりであつた。眼はまつ白な眉毛の下でキラ〜と怪しく光つてをり、 頭はすつかり禿げてゐた。しかし頭の皮はコブラの頭の皮のやうに伸びたり縮んだりしてゐた。 この悚然《ぞつ》とするやうな怖ろしい顏をした老婆は、しばらくぢつと立つてゐたが、 やがて一 吋《インチ》もある爪のついた干乾びた手を伸して、 それをツワラ王の肩におき、鋭い金切聲を出して言つた。 「王樣よ聞きなされ!生きとし生けるものは悉く聞け!死して甦りてまた死するすべてのものも聞け! 命の精がわれに乘り移つた!われは豫言する!豫言する!豫言する!」 その言葉は微かな號泣になつて消えていつた。それを聞いた人々の心は恐怖のために縮みあがつたやうに見えた。 吾々も悚然《ぞつ》とした。 「血!血!血!血の川!そこらぢうが血だらけだ!血が見える!血の匂ひがする! 血の味がする![鹹,(一/口)@示]《しほ》からい!血が地上をまつ赤に流れる! 空から雨のやうに降つて來る! 「跫音《あしおと》!跫音!遠くから白人の跫音が聞える。地が震ふ、 大地が其 主人《あるじ》の前でぶる〜震ふ! 「良い血だ。まつ赤な血だ。今出たばかりの血のやうに腥《なまぐさ》くはない、 ライオンがそれを舐めて吼える!兀鷹《はげたか》がそれで翼を洗つて喜び叫ぶ! 「わしは年をとつてゐる。わしは老人だ!わした澤山の血を見て來た。 は!は!だが死ぬまでにもう一度血を見て喜ぶのだ。わしをいくつだも思ふ? お前逹の父親もわしを知つてゐた。その父親もわしを知つてゐた。 その父親の父親もわしを知つてゐた。わしは白人を見たことがある。 白人の望みを知つてゐる。わしは年をとつてゐる。が山はわしよりももつと年をとつてゐる! あの街道を造つたのは誰ぢや言つてくれい?岩に繪を描いた人は誰ぢや教へてくれい! 向うに豎穴を見下してゐる三つの山をこさへたものは誰ぢや知らせてくれい!」 と言ひながら、吾々が前夜見た嶮《けは》しい三つの山を指さした。 「お前逹には判らないが、わしには判つてゐる。白人はお前逹より前からゐたのぢや! そしてお前逹よりも後までゐるのぢや!そしてお前逹を亡ぼしてしまふのぢや! さうぢや!さうぢや!さうぢや! 「魔術の巧みなら何でも知つてゐる、強い、恐るべき白人は何をしに來たか? おゝ國王!そなたの額に光つた石は何ぢや?そなたの鎧は誰がこしらへたのぢや。 そなたは知らぬがわしは知つてゐる。この老婆は、この物識りは、この魔法使は知つてゐる!」 それから彼女は禿げた頭を吾々の方へ向けた。「お前逹は何をしに來なさつた? 星の國の、さうぢや星の國の白人がた?なくなつた人を搜しなさるのか? その人は此處には居らぬ!こゝには居らぬ!ずつと昔からこの土地を踏んだ白人は無いのぢや! たゞ一度しか無いのぢや!そしてその人はこゝを去つて死んでしまつたのぢや。 お前逹は光る石を採りにお出でなさつたのぢやらう。わしはそれを知つとる。 わしはそれを知つとる。だがお前たちがそれを見出すときにはもう血が干乾びてゐる。 だから、お前逹は來た道を引返すしなさるか、それとも此地に留まりなさるか? は!は!は! 「それからそこに黒い色をして威張つてゐるお前!」と彼女は干乾びた指でウムボバを指ざしながら言つた。 「お前は誰ぢや?そして何が慾しいのぢや?光る石ではなからう。黄色い金でもなからう、 お前の心臟の血の匂ひがわかるやうに思ふ。帶を解け!——」 こゝまで云つたときこの不思議な老婆の顏はひきつつた。 そして彼女は癲癇を起して泡を噴きながら地上の仆れ、そして小舍の中へ連れて行かれた。 國王は慄へながら立ちあがつて手を振つた。すると忽ち軍隊は解散しはじめ、 十分間も經つと、吾々と、國王と、數名の從者とを除いて廣場は空つぽになつた。 「色の白い客人!」と彼は言つた。「わしは貴方がたを殺さうと思ふのぢや。 ガゴオルが妙なことを言つたから!」 私はから〜と笑つた。「氣をつけなさるがいゝぞ國王、吾々は、 さう易々と殺されやしないぞ。あの牛を見なさつたか、あんたはあの牛のやうになりたいのか?」 國王は眉をひそめた。「國王などを脅すものぢやありませんよ!」 「吾々は脅してゐるんぢやありません。眞實《ほんとう》の事を云つてるんだ。 吾々を殺さうとして見なさい。さうすれば眞實《ほんと》か[言|虚;#2-88-74]《うそ》かわかるから。」 巨大な蠻人は額に手をのせて考へ込んだ。 「おとなしく行きなさい」とたうとう彼は言つた。「今夜は大舞踏會があるからそれをお目にかける。 今夜のところはわなにかけるやうなことはしないから心配なさるな。しかし明日になつたらまた考へて見る。」 「よろしい」と私は無雜作に答へた。そして吾々はインファドオスを連れてたち上り、 吾々の小舍の方へ歸つて行つた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十章 魔法狩り [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 吾々は小舍へ着くとインファドオスに吾々と一緒に小舍の中へはひるやうに言つた。 「インファドオス、吾々はあんたに話したいことがある」と私は言つた。 「どうぞ言つて下さい。」 「インファドオス、ツワラ王はずゐぶん殘忍な人のやうに見えるな。」 「さうで御座いますよ。あの人の殘忍のために國中は泣いてゐるので御座います。 今夜御覽になれば判りますが、今夜は魔法狩りがあるので御座います。 そして大勢の者が魔法で嗅ぎ出されて殺されるのでござります。 誰一人の命だつて、安全ぢやないのですよ。國王が或る男の家畜や、 女房を慾しがつたり、或はまた、或男が叛反《むほん》をけしかけやしないかと疑つたちしてゐると、 あんた方が御覽になつたあのガゴオルか、またはあの老婆に魔法を教はつた他の魔法使どもが、 その男を嗅ぎつけて、その男を殺して終ふのです。ことによると私も殺されるかもしれません。 これまで私が助かつてゐたのだ、私は戰爭が上手で外の兵隊から愛されてゐたからです。 だがこれから先きどれだけ生きのびられるか私にもわかりません。 國中がツワラ王の殘虐をこぼしてゐます。あの人とあの人の亂暴なやりくちを憎んでゐるので御座ります。」 「では人民はなぜ彼を倒してしまはんのだね、インファドオス?」 「そりやあの人は國王ですからな、それにあの人が殺されりやスクラッガが代つて王位につきますが、 そのスクラッガは又父親のツワラに輪をかけた腹黒です。 もしスクラッガが王になればツワラよりももつと酷い虐政を布くにきまつてゐます。 それにしてもイモツが殺されずにゐれば、或ひはまた、その子のイグノシが生きてゐたらこんなことはなかつたであらうに、 をしいことに二人とも死んでしまひました。」 「どうしてあんたはイグノシの死んだことを知つてゐるのです?」と吾々のうしろから一つの聲が言つた。 誰だらうと思つて驚いて振り返つて見ると、それはウムボバであつた。 「何を言ふんだね、お前は。誰がお前に話をせいと言つたかね?」とインファドオスはたづねた。 「まあ聞きなさい、インファドオス」と彼は答へた。「あんたに一つ話をきかしてあげる。 もう何年も前に、イモツ王はこの國で殺されて、 イモツ王の妻は子供のイグノシをつれてこの國から逃げたとあなたはいふのですね?」 「左樣。」 「その女と子供とは山の上で死んだと言はれてゐるのですね?」 「その通り。」 「ところが、此の母子は死んではゐなかつたのですよ。彼等は山を越えて、 放浪者の群に交つて沙漠を横ぎり、水や草や木のあるところまで辿りついたのです。」 「まあ聞きなさい。二人の母子は何箇月も旅をつゞけてゆくうちに、たうとう、 このククアナ人と同じ血統のアマズル人といふ人間の住んでゐる國へ着き、 そこに滯在してゐるうちに母親は死んでしまつたのです。そこで子供のイグノシは、 また放浪者になつて、白人の住んでゐる不思議な國を旅して歩き、 それから何年もの間白人の學問を學んだのです。」 「そりや面白い話だね」とインファドオスは疑はしさうに言つた。 「それから何年かの間彼はその地で人に使はれたり、兵隊にはひつたりして過してゐたが、 心の中では、母親から聞いた自分の身の上のことを一刻も忘れず、 死ぬまでにどうかして、生れた國へ歸つて自分の臣民を見たいものだと思つてゐたのです。 そのうちに時が來たのです。彼は、この國へゆきたいといふ白人の一行に會つて、 その一行に加はつたのです。この白人たちは、行方不明の一人の人をたづねて、 燒けるやうな沙漠を越えて、ククアナ國へ來て、あんたに會つたのですよ、インファドオス。」 「お前はたしかに狂人だ!」とこの老將は吃驚して言つた。 「さう思ふなら、證據を見せませう、叔父さん。僕はククアナの正當な國王イグノシです!」 かう言ひながら、彼はするりと腰帶《モーカ》を辷り落して、吾々の前に裸體で立つた。 「見なさい!」と彼は言つた。「これは何です?」とかう言つて彼は腰のまはりに青く刺青してある大蛇を指した。 蛇は彼の腿《もゝ》と腰との境目のところで、口をあいて尻尾を咬《くは》へてゐた。 インファドオスは眼の玉が飛び出るほどに驚いて見てゐたが、やがてその場に跪づいた。 「これはお見それした!これはわしの兄の子だ、國王だ!」と彼は叫んだ。 「僕がさう言つたぢやありませんか、叔父さん?僕は今ではまだ國王ぢやありませんが、 これから、あなたの助けをかりて、それからこの勇ましい白人の方々の力を借りて國王になるのです。 しかし、ガゴオル婆の言ふ通りです。先づはじめには、この國に血を流さねばなりません。 その時にはあの婆の血も流れることになるのですよ。あいつは僕の父を殺し、 僕の母を追拂つた奴だから。さてインファドオス、あなたは僕の兩手の中へ手を入れて僕の部下になりますか? あなたはこれから先、僕と危險をともにして、僕を助けて、あの暴君を、 人殺しを、討ち倒しますか、それともいやですか?どちらかきめて下さい。」 老人は頭へ手をあて、考へてゐたが、やがて、起ち上つて、 ウムボバ實はイグノシの方へ進み寄り、彼の前に跪いて、彼の手をとつた。 「ククアナの正當な國王、イグノシ、私はお前の兩手の中へ手を入れて、 死する迄お前の臣下となることを誓ひます。お前がまだ赤ん坊の時分にわしはお前を膝の上にのせてあやしたもんだが、 こん度はこの老いた腕で、お前と自由とのために戰ふのだ。」 「さうですか、叔父さん、若し僕が勝つたならあなたはこの國で國王に次ぐえらい人になれます。 敗けたところで死ぬだけでせう。それに、どの道あなたの命はさう長くはないでせう。 さあ叔父さん、立ちなさい。」 「それから白人のお方々、あなた方も私を助けて下さいますか? もし私が勝つたときは何をさしあげたらよいでせう。白い石がお望みなら、 持てるだけそれを持つて行つて下さい。それで承知して下さいますか?」 私はこの言葉を通譯した。 「あの男は英國人を見損つてゐると云つてやつて下さい。」とサー・ヘンリイは答へた。 「寶物もそりや結構だし、手にあひれば持つて行くが、紳士といふものは寶物のために身を賣りはしない。 だが私はウムボバは好きだつたから、私の力にかなふことなら、あの男を援《たす》けてやるつもりだ。 あの殘忍な惡魔のツワラと雌雄を決するのは面白い、諸君はどうです、グッド君、 それからコオターメンさん?」 「無論私はあの男を援《たす》ける」とグッドは云つた。「しかしヅボンを穿くことを許すことだけ約束して貰ひたい。」 私はそれを通譯した。 「有難う、承知しました」とイグノシは言つた。「ではマクマザンさん、あなたも私を援《たす》けて下さいますか?」 私はしばらく考へてゐたが、手で頭を掻いた。 「ウムボバ、いやイグノシ」と私は云つた。「わしは革命は嫌ひだ、 わしはおとなしい人間で、その上少々臆病者だ——」——こゝでウムボバはちよつと微笑した—— 「しかし、わしは友逹には忠實だ。お前は吾々に忠實に仕へてくれて、 下男の役目さへしてくれたのだから、わしもお前のためには一肌脱ぐ。 だがいゝかね、わしは商人だから自分の口すぎをしなくちやならん、だからわしは、 お前がさつき言つたダイヤモンドがもしも手にはひつたら、それは頂戴するよ。 それから吾々は御承知の通りヘンリイさまの行方不明の弟さまを搜しに來たのだから、 この方を搜すについては、お前も一つ骨を折つていたゞきたい。」 「それは云ふまでもないことです」とイグノシは答へた。「インファドオス、 僕の腰の圍りにある蛇のしるしに契つて訊ねるが眞實のことを云つて貰ひたい。 本當にあなたはこの國へ白人の來たのを知りませんか?」 「ちつとも知りません。」 「もし白人が來たことがあるなら、あんたの耳にはひるわけでせうな?」 「それは確かにはひつたゞらうと思ふ。」 「只今お聞きの通り御舎弟はこの國へはお見えにならんさうです」とイグノシはサー・ヘンリイに向つて云つた。 「よし〜」とサー・ヘンリイは吐息しながら言つた。 「あいつはこんな遠くまでは來てゐなからうと私も思つてゐた。 可哀さうな奴だ。可哀さうな奴だ。これですつかり吾々の計畫も駄目になつたんだ。 だがこれも神樣の思し召しだ。」 「ところで」と私はこんな哀しい問題から話をそらさうと思つて口を出した。 「正當な權利によつて國王になるのは大へん結構だが、それにどう云ふ手段をとるのだね?」 「僕にはわかりませんね、インファドオス、あんな何か名案がありますか?」 「左樣、今夜は大舞踏會と魔法狩りとがあるから」とインファドオスは答へた。 「澤山の人が魔法婆に嗅ぎ出されて殺されるに相違ない。 すると他の者は心の中でそれに同情してツワラ王の處置を憤慨するにきまつてゐる。 舞踏が濟んだら私が二三の隊長に話して見る。 そしてその隊長が承知さへすれば彼にそのことを部下の軍隊に話してもらふやうにする。 私ははじめにそつと話して見て、お前が眞《まこと》の國王だと云ふ證據を見せるために隊長どもを連れて來る、 さうすれば明日の朝までにはお前の部下には二萬の槍を持つた軍隊が出來ると思ふ。 これから私は行つていろ〜用意をしよう。舞踏會が濟んだときまだ私が生きてゐたら、 そして吾々が皆生きてゐたら、此處でまたお目にかゝつていろいろ相談しませう。 よく行つても戰爭はまぬかれませんな。」 恰度この時國王からの使が來たので吾々の話は中絶された。吾々の小舍の入口まで進んで行つて使の者共の中にはひれと命令した。 すると間もなく三人の男がめい〜立派な鎖鎧《くさりよろひ》と戰斧《まさかり》とを持つてはひつて來た。 「星の國の白人の方々へ國王からのお土産で御座います」と使ひの者と一緒に來た一人の傳令が云つた。 「國王に御禮を申す、やおく傳へてくれ。」と私は答へた。 使ひの者が行つたあとで吾々は非常な興味を持つてその鎧を調べて見た。 それは驚くべき立派な鎖鎧であつた。下に置くと兩手で握るには少し大きすぎる位の鎖の塊りになつてしまつた。 「これはこの國で拵へるのかね、インファドオス?」と私は訊ねた。「ずゐ分綺麗なものだね。」 「いゝえ、これは私共の先祖から傳はつたもので御座います。 誰が造つたものかわかりません。それにもう少しゝか殘つてゐませんので、 今では王族の者しかこれを身につけることは出來ないのです。 これは不思議な鎧で、どんな槍でもこれを通すことは出來ないのです。 これを着て居れば戰爭に行つても殆んど安全です。 國王はよつぽど氣にいつた者か、ひどく恐れてゐる者にしかこの鎧はくれないのです。 よく〜あなたがたを恐れてゐる證據でござりますよ。 今夜あなた方自身でお召しになつた方がよいでせう。」 その日の殘りの部分を吾々は靜かに休み、且つ興味あるその場の形勢を語りながら過した。 そのうちに日は暮れて、澤山の篝《かゞ》り火が燃え出すと、闇の彼方から大勢の人の跫音《あしおと》や、 がちや〜言ふ槍の音なぞが聞えて來た。軍隊が大舞踏會に參列するために指定の場所へ集つて行くのだ。 やがて滿月が晃々として輝き出した。吾々が月の光りを見ながら立つてゐると、 インファドオスが武裝した二十人ほどの護衞兵を連れてやつて來た。 この護衞兵が吾々を舞踏會場へ連れて行つてくれるのだ。 吾々はインファドオスのすゝめによつて、國王から貰つた鎖鎧を着てその上へ吾々の普通の着物を着てゐたが、 驚いたことにはこの鎧は大して重くもなく、また着具合も惡くなかつた。 非常に大きな人のために造つたと見えて、グッドと私には少しゆるかつたが、 サー・ヘンリイの偉大な體格には手套《てぶくろ》のやうにしつくりあつた。 それから吾々は腰のまはりに短銃《ピストル》を忍ばせて、手には國王から貰つた戰斧《まさかり》を持つて出懸けた。 その朝吾々が國王に引見された大きな小舍の前に着くと、 その小舍の圍りには二萬人ばかりの軍隊が隊伍を作つて整列してゐた。 聯隊は幾つかの中隊に分れ、中隊と中隊との間には小さい道が出來てゐた。 そこを魔法使があちこち歩き廻るのだ。彼等は完全に沈默してゐた。 そして月の光りは林立した槍の上に彼等の堂々たる風姿の上に、 風に搖《ゆらめ》く羽根飾りの上に、さま〜゛の色をした楯の上に、降りそゝいでゐた。 「これでこの國の軍隊は全部だらうな?」と私はインファドオスに云つた。 「いゝえ、これで三分の一ですよ」と彼は答へた。 「毎年、こゝへ出るのは三分の一です。あとの三分の一は人殺しがはじまつたときに、騷ぎが起るのを防ぐために、 外側に集つてゐるのです。それから一萬人の軍隊は宮殿の周圍を護衞して居り、 殘餘の軍隊は地方の村落を守備してゐるのです。」 「みんな默つてゐるね。」とグッドが云つた。 私はそれを通譯した。 「死の影が頭の上を氣味惡くうろついてゐると誰も物などは言へないのです」 とインファドオスは陰氣に答へた。 「澤山殺されるのかね?」 「澤山殺されるのです。」 「まるで費用を惜まずにかけた、格鬪の見世物を見るやうですね」と私は他の者に云つた。 サー・ヘンリイは身を慄はした。グッドはもう出て行きたいと言つた。 「吾々も危險なのだらうか?」と私はインファドオスに訊ねた。 「それはわかりませんね。しかし恐れるには及びません。今夜一晩生き伸びさへすればもうしめたものです。 軍隊は國王に不平を鳴らしてゐますからね。」 その間に吾々は廣場の中央《まんなか》の方へ進んで行つた。そこには數脚の腰掛が置いてあつた。 吾々が進んで行くともう一組の一行が小舍の方からこちらへやつて來るのが見えた。 「あれはツワラ王と息子のスクラッガと、ガゴオル婆とです。一しよについて來る連中は、今夜人を殺す奴等なんです」 と言ひながらインファドオスは十二人ばかりの巨大な物凄い顏つきをした壯漢《さうかん》の群を指さした。 彼等は片手に槍を持ち、片手に重い棍棒を持つてゐた。 國王は眞中の腰掛けに着席し、ガゴオルはその脚下《あしもと》にうづくまり、 他の者は國王の後に立つた。 「これは、これは、ようこそ、色の白い客人」と吾々が傍へ行くとツワラが叫んだ。 「さあ腰をお掛けなさい。貴重な時間を空費してはなりません。 夜は短かいですからな。でも恰度良いところへお出でなさつた。これから素敵な見世物が見られますよ。 あたりを御覽なさい」と彼は意地惡さうな一つの眼をぎよろりとみまはして整列してゐる軍隊を見まはした。 「こんな光景を見たことがありますか。どうです、 惡い事をした奴は天の審判《さばき》を恐れてブル〜慄へてるんぢやありませんか?」 「はじめ!はじめ!」とガゴオルが鋭い金切り聲を出した。 「鬣狗《ヒイナ》[注:ハイエナ]が飢ゑて食べ物を慾しがつて吠えてゐる。はじめ!はじめ!」 しばらくの間 四邊《あたり》は水を打つたやうに靜まり返つた。 國王は槍をあげた。すると突然二萬人の足がまるで一人の足のやうに上げられて再び地面に下りた。 これが三四囘繰り返され、堅い地面もそのために地響きした。 その時ずつと遠くの方で一人の人間の悲しさうな歌聲が起つた。 その最後の文句は次のやうな文句であつた。 「女の腹から生れた人間の運命はどうなる?」 すると凡ての人の咽喉が鸚鵡返しに答へた。 「死!」 その中にだん〜多くのものがその聲に和して歌ひはじめ、たうとう全軍隊が合唱をはじめたので、 歌の文句はちつとも聞きとれなかつた。或る時は戀歌になり、或つ時は軍歌になり、 最後には死の歌になつて胸を裂くやうな號泣に終つた。 再び廣場は沈默に返つた。が再びその沈默は國王が手を擧げたために破られた。 すると忽ちばた〜と音が聞えて、軍隊の中から竒妙な恐ろしい姿をした人間の群が吾々の方へ走つて來た。 近寄つて來るのを見ると、皆それは年取つた女で、白髮《しらが》を後へ流してゐた。 この白髮には魚の身體から採つた小さい水胞の飾りがついてゐた。 顏は白と黄色との縞に塗られ、蛇の皮を脊にたらし、腰の圍りには人間の骨でこしらへた輪をガチャ〜さしてゐた。 そしてめい〜しなびた手に小さな叉《また》のついた杖を持つてゐた。 皆で十人であつた。彼等は吾々の前へ來ると立ち止つて、 その一人が自分の持つてゐる杖で蹲《うづくま》つてゐるガゴオルの方をさして叫んだ。 「お母さん!年取つたお母さん!皆まゐりました!」 「よし!よし!よし!」と老婆は答へた。「お前逹の眼は見えるかね?暗いところが見えるかね?」 「お母さん見えます!」 「よし!よし!よし!お前逹の耳はあいてゐるかね?舌で言はない言葉が聞えるかね?」 「お母さん聞えます!」 「よし!よし!よし!お前逹の五官は覺めてゐるかね?お前逹は血の臭ひがわかるかね? この國から王樣にはむかふ惡者を淨めることが出來るかね? わしが智慧と魔法とを授けてやつたお前たちに、上帝の審判《さばき》ができるかね?」 「お母さんできます!」 「では行け!ぐづ〜するな、兀鷹《はげたか》ども。色の白い客人が早く見たがつてうづ〜してゐなさる、 早く行け!」 ガゴオルの恐ろしい手下どもは氣味の惡い叫び聲をあげて、腰の圍りに干乾びた骨を、 ガチャ〜させながら、八方へ散らばつて軍人の群の中へ潛り込んだ。 吾々は皆のものを見てゐる譯にいかないので、一番近くにゐた魔法婆だけを見てゐた。 彼女は軍隊の群から五六歩ばかりのところで立ち止つて、無氣味な踊りを初めた。 信じられないほどの速さで、ぐる〜廻りながら「惡者を嗅ぎつけた!」 「母親殺しが傍にゐる!」「王樣に邪心を持つてゐる者が側にゐる!」等と叫んだ。 彼女の踊りは益々速くなつて行き、昂奮の餘り齒を喰ひしばつて泡を吹き、 眼が顏から飛び出しさうになり、肉は目に見えるほど慄へて來た。 突然、彼女は獵犬が獲物を搜しあてたときのやうに、ばつたり踊りをやめてかたくなり、 杖をのばして前にゐる軍隊の方へそろ〜匍ひ出した。 彼女が近づいて來ると、軍人どもは平素の大膽さを失つてしまつて、 彼女からみじろぎした。吾々は恐ろしさと怖いもの見たさで、 息を殺して彼女の一擧一動を見てゐた。 突然、最後が來た。彼女は氣味惡い叫びをあげながら飛び上つて、 叉のある杖で一人の脊の高い軍人に觸つた。すると忽ちその兩隣りにゐた二人の仲間の軍人が、 この男の兩腕を擒《とら》へて國王の方へ連れて行つた。 彼は抵抗しなかつた。しかし彼の手足は痙攣したやうにひきつけ、 手に持つてゐた槍は地上に落ち、指は生れたばかりの子供のやうに自由がきかなくなつた。 この男がやつて來ると二人の獰猛な死刑執行人が前へ進み出て、命令を待つものゝやうに國王を見上げた。 「殺せ!」と國王が言つた。 「殺せ!」とガゴオルが叫んだ。 「殺せ!」とスクラッガが嗄《しやが》れ聲で言つた。 この言葉が殆んど終らぬ中に恐ろしい處刑が行はれた。 一人の男は犧牲者の心臟へ槍を突き刺し、他の男は大きな棍棒を腦天へ打ち下した。 「一人!」とツワラ王は數えた。すると死骸は五六歩さきへ曵きずつて行かれて、そこに投げ棄てられた。 これが終らぬうちに、又次の犧牲者が屠殺場へ連れて行かれる牛のやうに連れられて來た。 今度のは豹の皮の外套をつけてゐるところから見ると、身分のあるものらしかつた。 再び恐ろしい命令が下され犧牲者は死んで仆れた。 「二人!」と國王は數へた。 かくて恐ろしい遊びは續いて行き、かれこれ百人ばかりの屍體が吾々の後の列になつて横はつた。 私はシーザーの格鬪競技の話やスペインの鬪牛の話を聞いたことがあるが、 それ等のものもククアナの魔法狩りと比べると半分の恐ろしくはないだらうと思ふ。 格鬪競技やスペインの鬪牛は、せめて見物人の樂しみにはなるが、 この魔法狩りはそれとは譯が違ふのだ。どんなにひや〜することの好きな人だつて、 この次には自分の番かも知れんなぞ思つてゐた日にはたまつたものではない。 一度吾々は立ち上つて諫めようとしたが、ツワラは頑として肯《き》かなかつた。 「法律は嚴重に適用しなければなりません。この犬どもは惡い奴なのです。 惡い奴が死ぬのは國家の爲ですからな」と彼は答へた。 十時半頃にはこの騷ぎは一まづ歇《や》んだ。 魔法婆どもは血腥《ちなまぐさ》い仕事に飽きたと見えて一處にかたまつたので、 吾々はもう終つたのだらうと思つた。ところがさうではなく、 間もなく、驚いたことには、ガゴオル婆が立ち上つて、杖にすがりながらよろ〜と廣場へ出て來た。 この恐ろしい禿げ頭の老婆が寄る年波に殆んど二重になつたからだに、 徐《おもむ》ろに力を集中して、ぐる〜廻つてゐる光景は物凄いとも氣味惡いとも言ひやうがなかつた。 彼女はあちこち走りまはつてゐたが、やがて或る聯隊の前に立つてゐた脊の高い男を杖で觸つた。 その時、聯隊の中にはうめき聲が起つた。たしかにその男は聯隊長だつたのだ。 でもやはり二人の士官が彼の兩手をとつて彼を處刑場へ連れて行き、彼は殺されてしまつた。 國王は「一百三つ!」と數へた。するとガゴオルはまた跳び上つて、 今度はだん〜吾々の方へ近づいて來た。 「こん度はきつと吾々がやられるのだぜ」とグッドが恐怖の叫び聲をあげた。 「莫迦な!莫迦な!」とサー・ヘンリイは言つた。 この老婆が踊りながらだん〜吾々の方へ近づいて來るのを見たとき私の心臟はほんたうに滅入つてしまふやうな氣がした。 ちらりと後を見ると、後には長い死骸の列がよこたはつてゐる。私は胴顫ひした。 ガゴオルは、まるで生きた、曲つた杖のやうな恰好をして踊りながらこちらへ近づいて來た。 彼女の兩眼はぎろ〜と呪はしく輝いた。 彼女はます〜近づいて來た。城内の群集は固唾を呑んで彼女の一擧一動を見守つてゐた。 遂に彼女は起ち上つてきつとなつて吾々の方へ指さした。 「誰だらう?」とサー・ヘンリイが獨り語を云つた。 だが忽ち疑問は霽《は》れた。老婆はいきなり突き進んで來てウムボバ、いやイグノシの肩に觸つた。 「こいつだ!」と彼女は金切聲を揚げた。「こいつを殺せ!こいつを殺せ! こいつの胸には謀叛心がみちてゐる!こいつを殺さんと血の川が流れる! おゝ國王!こいつを殺しなさい!」 その時ちよつと間があつたので私はすかさず口を出した。 「おゝ國王!」と私は席から立ち上りながら叫んだ。「この男はあなたの客人の從者だ。 吾々の從者の血を流す奴は、吾々の血を流すも同じだ。私は斷然この男を保護します!」 「魔法婆のお母さんのガゴオルが嗅ぎ出したんだからこの男は殺さなくちやならん!」 と國王は膨れ面をして答へた。 「いや殺させぬ!」と私は答へた。「この男に指一本でも觸れたらその者を殺してしまふ。」 「きやつを擒《とら》へろ!」とツワラは處刑人に怒鳴つた。 すると處刑人どもは吾々の方へ進んで來て、もじ〜してゐた。 イグノシは槍を取上げて、そんなにやすつぽく命を賣つてたまるものかと言ふやうな樣子をしてゐた。 「さがれ犬ども!」と私は叫んだ。「この男の髮の毛にでも觸つたが最後、 貴樣等の王の命はないぞ!」と言ひながら私はツワラにピストルを向けた。 サー・ヘンリイもグッドもピストルを取り出した。 サー・ヘンリイは處刑人の首長《かしら》に銃口を向け、グッドはガゴオルの方へ銃口を向けた。 ツワラは私の銃口が、彼の胸のあたりへまつすぐに向けられてゐるのを見て、 眼に見えるほど慄へた。 「さあどうだ、ツワラ!」と私は言つた。すると彼は「魔法の筒はしまひなさい。 今日はあんたがたを款待するやうに約束したのだからこの男は許すことにしよう。 あんた方を恐れてゐるのぢやないのですぞ、おとなしく歸りなさい。」と言つた。 「よろしい」と私は無雜作に答へた。「吾々は人殺しを見るのには飽きて、眠くなつて來た。 「踊りはもう濟んだのかね?」 「もう濟んだんだ」とツワラは不機嫌に答へた。そして長い死骸の列を指ざしながら、 「この死犬どもを兀鷹《はげたか》に投げてやれい!」と言つた。 やがて軍隊が解散し初めたので吾々も立ち上つて小舍へ歸つた。 小舍へ歸つてランプに火をつけて坐ると、ウムボバは吾々に向つて涙を流しながら言つた。 「有難う御座いました皆樣。この御恩は決して忘れはしません。」 「ところでインファドオスはどうしたんだらう」とグッドが言つた。 「今に來ますから待つてゐませう」とウムボバは答へた。 そこで吾々は煙草に火をつけて待つた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十一章 天の助けの月蝕 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 長い間、かれこれ二時間もの間、吾々は默つて坐つてゐた。 餘りの恐ろしい光景を見たので吾々は物も言へなかつたのだ。 そのうちに恰度吾々が寢やうと思つてゐたところへ、どや〜と跫音《あしおと》が聞えた。 入口にゐる番兵が誰何《すゐか》してゐるらしかつた。 しかしこれも無事に濟んだと見えて、跫音《あしおと》はずん〜近づいて來て、 やがて、インファドオスは五六人の嚴めしい顏をした士官を連れてはひつて來た。 「皆樣!それからククアナの正當な國王イグノシ!私はお約束通り、 この方々を連れて參りました。」と言ひながら彼は首長らを指ざして言つた。 「この方々はいづれもその命令のものに手足の如く動く三千 宛《づゝ》の手兵を持つて居られます。 私は自分の見たこと、聞いたことをこの人逹にお話しゝておいたから、 この人逹にもお前の腰の圍りについてゐる聖蛇のしるしを見せてお前の身の上話を聞かせて上げなさい、 イグノシ!さうすればこの人逹はお前の下についてツワラ王に反逆するかどうかを決めなさるだらうから。」 返事をするかはりにイグノシは、また彼の腰帶《モーカ》を解いて、腰の圍りに刺青してある蛇を見せた。 首長等はかはるがはる側へ寄つて薄暗いランプの光りでそれを調べて一言も言はずに引き下つた。 するとイグノシは腰帶《モーカ》をつけて、彼等に向つて今朝の物語りをもう一度繰り返した。 「お聞きの通り、かういふ譯なのですが、どうです皆さん、この人を助けて父親の王位に即かせて下さるか、 それともお嫌ですか?」と話の終るのを待つてインファドオスは言つた。 「人民はみなツワラを呪うてゐます。人民の血は泉から出る水のやうに流れてゐます。 今夜もその血の流れるのを見ました。私がない〜當《あて》にしてゐた二人の首長も今では野獸の餌食になつてゐます。 あなた方もぐづ〜してゐるとそれと同じ目に逢ふでせう。で、どうしますか?」 六人の中で一番年長の、脊の低い、ずんぐりした、白髮《しらが》の軍人が前へ進み出て答へた。 「あなたの仰有るとほりです。私の兄弟も今夜殺されてしまひました。 しかし、これは一大事ですから、うかと信じる譯にもいきません。こちらの計畫が成就する前に、 血の川を流さなくちやなりません。多くのものは國王へつきますからな。 人間といふものはまだ昇らない太陽よりも、今空に輝いてゐる太陽を崇拜するものですからな。 ところで、星の世界からおいでになつたこの色の白い客人は、大變魔法がお上手で、 イグノシを助けて居られると云ふことだが、若しイグノシが正當な國王であるなら、 この方々にそのしるしを示して、吾々にも國民にも見せて戴きたいものです。 さうすれば人民は白人たちの魔術に感歎して吾々の味方になるでせう。」 「諸君は蛇のしるしを見たではないかね?」と私は言つた。 「それだけぢやいけません、蛇はあの人の子供の時分からあるのですから、 その他のしるしを見せていたゞきたい。私どもはしるしを見るまでは動きません!」 一同の者もこれに同意したので、私は弱つてサー・ヘンリイとグッドとを振り返つて、 此の場の事情を説明した。 「良い考があるから、ちよつと考へさしてくれとあの連中に言つて下さい」とグッドが言つた。 私がその旨を告げると首長等は退席した。彼等が出て行くとグッドは藥のはひつてゐる小凾を開けて手帳を取り出し、 その表紙の見返しについてゐる暦《こよみ》のところをあけた。 「明日は六月四日ですな?」と彼は言つた。 吾々は日々はよく勘定してゐたので、さうだと答へた。 「しめた!これを御覽なさい!——『六月四日グリニッチ時八時十五分より月蝕皆既初まる。 南アフリカのテネリフより見ゆ……』これですよ、 彼等に明日の晩、月を暗くして見せると言つて見なさい!」 これは素的な思ひつきだつた。たゞ心配なことは、グッドの暦が正確かと言ふ點であつた。 若しこんなことで間違つた豫言でもしたものなら、吾々の化けの皮は剥がれてしまひ、 イグノシがククアナの王位につく機會もなくなつてしまふ譯だから。」 「この暦だ大丈夫かね?」とサー・ヘンリイはグッドに言つた。 「間違ひつこはありませんよ」と此の間に何か一生懸命に書いてゐたグッドは答へた。 「月蝕の時間に間違ひのあつたことなどこれまでにだつてありませんからね。 それに特に南アフリカで見えると書いてあるのですもの。 私は今吾々のゐる場所の經度をほゞ見當をつけて計算してみましたが、 それによると、こゝでは明日の晩のほゞ十時頃から月蝕がはじまつて、 十一時半頃まで續くことになります。一時間半程の間は全く暗《やみ》になる譯です。」 「ではまあやつて見るか!」とサー・ヘンリイは言つた。 私は心許なくは感じたがそれに同意した。といふのはもし雲つた晩でゞもあつたら困るからだ。 しかし一かばちかやつて見ることにして、 吾々はウムボバに首長等を呼んで來るやうに言つた。彼等が歸つて來ると私は彼等に向つて次のやうに言つた。 「ククアナ軍の首長諸君、それからインファドオスもよく聞きなさい。 吾々はみだりに吾々の力を示すことは好まんが、今は一大事の場合止むを得んから、 皆の者に見えるやうなしるしを示すことにする。こちらへ來なさい」 と言ひながら彼等を小舍の入口へ連れて行き、まさに沈まんとしてゐる月を指さした。 「あれは何だね?」 「あれは沈みかゝつてゐる月です」と一行の代表者が答へた。 「あの月が沈まない中に月の光りを消すことが人間の手で出來るかね?」 すると彼は少し笑つて言つた。「途方もない、そんな事は人間業では出來ません。 月は人間よりも強いのですから。」 「ところが明晩夜中から二時間半ほど前に、吾々は一時間半ばかりの間あの月を消して見せる。 地上をまつ暗にして見せる。それがイグノシがククアナの王であるしるしだ。 さうすれば諸君は滿足するだらうな?」 「はつ!その時には吾々は滿足致します」と老首長は微笑しながら云つた。皆の者も微笑した。 「實は明日の日沒から二時間後にツワラはお客樣方を招待して娘どもの踊りを御覽に入れることになつてゐます」 とインファドオスが言つた。「そして踊りがはじまつてから一時間たつと、 ツワラが、その中から一番美しいと思ふ娘を向うの山に坐つてこちらを見てゐる 『無言の神』への犧牲《いけにえ》として息子のスクラッガに殺させることになつてゐます」 と言ひながらソロモン街道の終點になつてゐるといふ妙な形をした三つの峰を指ざした。 「その時にお客樣がたが月を暗くして、その娘の命を救つて下さば人民はすつかり信じてしまひます。」 「さうだ、なるほどさうすれば人民は信じる!」と老首長は微笑を浮べながら言つた。 「宮殿から二哩ばかり離れてゐるところに」とインファドオスは續けて言つた。 「新月のやうな形をした小山があります。私の部下の一聯隊とこの方々の指揮してゐなさる三聯隊とがそこに駐屯してゐます。 それに、朝になるともう二三聯隊そこへ集まるやうに手筈しておきます。 で、若しあなた方が眞實《ほんとう》に月の光りをお消しになるならば、 その闇の乘じて私はあなた方を宮殿からそこまでお連れ申します。 さうして私どもはツワラ王に對して戰《たゝかひ》を開くことに致します。」 「それでよし!」と私は言つた。「これから少し眠つて、魔法の支度をせねばならぬから、 もう行きなさい。」 インファドオスは起ち上つて吾々に敬禮して首長等を連れて出て行つた。 「皆さん」と彼等の出て行くのを待つてイグノシが言つた。 「あなた方は眞實《ほんとう》にそんな不思議なことがおできになるのですか? それともあの連中に出鱈目を言つたのですか?」 「確かに出來ると思ふんだよ、ウムボバ、いやイグノシ。」 「妙ですな。あなた方が英國人でなければ私は信じないのですが、 英國の紳士は[言|虚;#2-88-74]《うそ》をつかんと言ふことですからね。 若し今度の事がうまくいつたら私はきつとお禮をいたします。」 「イグノシ、たつた一事だけ約束してくれんか?」とサー・ヘンリイは言つた。 「何でも約束します。どういふ約束です?」 「それはかうだ。若しお前がこの國の國王になつたら、 ゆうべみたやうな魔法狩りだけはよしてほしいのだ。 裁判もせずに人間を殺すことだけは止してくれんか?」 私がそれを通譯するとイグノシはしばらく考へてゐたあとで答へた。 「黒人の習慣と白人の習慣とは違つてゐますし、黒人は人間の命を餘り尊重してはゐないのですが、 私はその事を約束しませう。私の力でできる限り魔法狩りは禁止して、 審問も裁判もせずに人を殺すことのないやうにしませう!」 「ではそれで約束は濟んだから少しやすまう」とサー・ヘンリイは言つた。 吾々はすつかり疲れてゐたので、すぐにぐつすり眠つてしまひ、 十一時頃にイグノシが起してくれるまで眠り續けた。 それから、吾々は起き上つて顏を洗ひ、腹一杯朝の食事をした。 それがすむと、吾々は小舍の外を散歩して、ククアナ人の小舍の構造を調べたり、 女の習慣を見たりした。 「月蝕がうまくあればいゝがなあ」とサー・ヘンリイはやがて言つた。 「若しなかつた日には大變だ」と私は答へた。「吾々が普通の人間であることが判つたら、 あの首長等はすぐに國王にすつかり話をするだらう、その時にはとんだ月蝕が起りますからな。」 そのうちに陽が沈んで、一二時間も經つと、八時半頃になつてツワラの使がやつて來た。 そして、これから愈々娘どもの踊りが初まると告げた。 吾々は急いで鎖鎧をつけ、鐡砲と彈藥《たま》とを持つて大膽に出懸けて行つた。 しかし私は心の中では恐ろしさに慄へてゐたのである。 宮殿の前の廣場は昨夜《ゆふべ》とはがらりと樣子が變つてゐた。 今日は兵隊の代りにククアナの娘どもが澤山隊をなして集つてゐた。 着物はあまり着飾つてゐなかつたが、頭に花冠をかむり、 左手に棕櫚の葉をもち、片手には高い白百合の花を持つてゐた。 ツワラ王はそのまん中に座を占め、その脚下《あしもと》にはガゴオルが蹲《うづくま》つて居り、 インファドオスと、スクラッガ少年と、外に十二人の護衞兵とがそばに立つてゐた。 その外に二十人許りの首長らしい士官も列席してゐたが、 その中には昨夜會つた連中も大部分まじつてゐた。 ツワラは、吾々に見かけだけは丁寧に挨拶したが、一つの眼で意地惡さうにウムボバを睨んでゐた。 「ようこそ、星の國のお客さん!」と彼は言つた。「今夜の見ものは昨夜《ゆうべ》のとはまた違つたものです。 昨夜のやうに面白いものぢやありません。女の接吻ややさしい言葉も良いが、 軍人の槍の音や血の匂ひとは比べものになりませんからな。 どうですこの中にお氣にいつた娘はありませんか。あれば遠慮なく幾人でも連れて行きなさい。」 「有難う國王、だが吾々白人は吾々のやうな白人としか結婚しないのです。 あんたの國の娘さん逹も綺麗だが、吾々の女房には出來ないのですよ!」 國王は笑つた。「はゝゝ、さうですか。この國にはかういふ俚言《ことわざ》がありますがな。 『色は變つても女の眼に變りはない』てね。それから『そばに居る女と浮氣しろ。 居ない女は當《あて》にならん』といふ俚言《ことわざ》もあります。 しかし星の國では譯が違ふでせうな。白い色の人間の住む國ではどんなことだつてありますからね。 だがまあそれはさうとようこそお出でなすつた。それからそこにゐる黒いのもよう來た。 ガゴオルが強情を張れば今頃はお前の體は冷たくしやつちこばつてゐたところだ。 お前も星の國から來て果報ものだな、はゝゝゝ」 「僕が死ぬよりさきにあんたを殺して見せる。僕の手足が曲らなくなるよりも前にあんたの體が硬くなつてしまふよ」 とイグノシは落ちついて答へた。 ツワラはぎよつとした。「お前はなか〜大膽なことを言ふな。餘り高言を吐かぬがよいぞ!」 と彼はがみ〜答へた。 「眞實《まこと》を語るものは皆な大膽だ。眞實《まこと》は的を外れつこのない鋭い槍だ。」 ツワラは顏をしかめ面をして一つの眼をぎろりとさせたがそれきり何も言はなかつた。 「さあ踊りをはじめろ!」と彼は叫んだ。すると花冠を冠つた娘等は、隊を作つてやさしい唄を歌ひながら、 棕櫚の葉と白百合の花とをてんでに振りかざして前へ飛び出した。 娘等は月の光を浴びて踊りを續けてゐたが、遂に踊りをやめて一人の美しい娘が列から飛び出し、 吾々の前で爪先立ちになつてぐる〜舞ひはじめた。 その踊りは大抵のバレットの踊り子もかなはぬほど巧みであつた。 やがて彼女が力が盡きて後へ退くと、別の女が現はれて次々に同じやうな踊りを踊つた。 しかし美しさから言つても、踊りのうまさから言つても、第一の娘にかなふものはなかつた。 「どれが一番綺麗だと思ひますかね。色の白い客人?」と彼は訊ねた。 「一番はじめのが美しい」と私は何の氣なしに言つた。がすぐにそれを後悔した。 といふのは、インファドオスが一番美しい娘が犧牲《いけにえ》にあげられるのだと言ふたのを思ひ出したからだ。 「では、あんたの心と私の心とは同じだな。あんたの眼と私の眼とは同じだな。 なる程あの娘が一番美しい。だがそれはあの娘にとつちや氣の毒だな、 そのために死ななくちやならんのだから。」 「さうだ、死なねばならぬ!」とガゴオルが、まだ怖ろしい自分の運命も知らずに、 他の娘の群から十碼ばかり離れた處に立つて、 自分の花冠から神經質に花瓣《はなびら》をむしつてゐた憐れな娘の方をチラリと見ながら、 金切り聲で叫んだ。 「それはどうしてだね、國王?」と私はやつとの事で怒りを抑へながら言つた。 「あの娘は上手に踊つて吾々を喜ばしてくれたし、其上にあの娘は美しいのに、 それだから殺すといふのは酷いぢやないか。」 ツワラは笑ひながら答へた。 「それはこの國の習慣ですからな」と言ひながら彼は遠くに聳えてゐる三つのみねを指ざして 「向うに默つて坐つてゐる神樣は、取るべきものを取らなくちやならんのだ。 わしが今日一番美しい娘を殺さなければわしの一家に禍《わざはひ》が來る。 この國ではかう云ふ豫言が信じられてゐるんですわい 『國王が娘踊りの當日に山の神に一番美しい娘の犧牲を供へなければその國王の一門は亡びてしまふ。』 つてね。前の代にこの國を治めてゐたわしの、兄は娘の涙にほだされて、 その犧牲《いけにえ》を供へなかつたものだから、一家は沒落してしまつて、 その代りにわしが王位についたわけだ。どうしてもあの娘は殺さなくちやならん」 それから彼は護衞兵へ向いて「あの娘を此處へ連れて來い!スクラッガ、槍の用意はようか?」 二人の壯漢が前へ進んで行くと、娘ははじめて自分の身にさし迫つた運命を知つて、 けたゝましい泣き聲をあげながら逃げようとした。 しかし壯漢は彼女をしつかりつかまへて、泣きながらもがいてゐる娘を吾々の前へ連れて來た。 「お前の名は何と言ふのぢやな?」とガゴオルが言つた。 「返事をしなければ國王の王子に仕事をはじめて貰はうか?」 この言葉を聞くと殘忍な顏をしたスクラッガは一歩前へ進み出て、 大きな槍を取り上げた。その時、グッドの手が短銃《ピストル》の方へそつと下りて行くのを私は見た。 哀れな娘は涙に曇つた瞳でぎら〜光る刄物を見て、もう逃げようともがくのをやめ、 兩手を痙攣的に握り締めながら、頭の頂きから足の爪先まで慄へて立つてゐた。 「見ろ!この娘はわしの小さなおもちやを見たゞけで、 まだその味もわからぬうちから慄へてゐる!」とスクラッガは有頂天になつて叫びながら槍の身をたゝいた。 「今に見てゐろ!どんな目に遇ふか、この子犬奴!」私はグッドがかう囁いてゐるのを聞いた。 「さあもう靜まつたからお前の名を言ふのだよ、良い子だ、恐い事はないからさあ名前を言ひな!」 とガゴオルは憎々しげに言つた。 「おゝお母さん!」と娘は慄へながら答へた。「妾《わたし》はファウラタと申しまして、スコ家の者で御座います。 おゝお母さん、どうして妾は殺されねばならんのです?何も惡い事はしないのに?」 「泣くな!泣くな!」と老婆は毒々しい口調で續けた。 「お前は向うの山に坐つていらつしやる神樣の犧牲《いけにえ》として死なねばならんのだ。 しかし晝間苦しんで働くよりも、夜眠る方がよい。生きてゐるより死ぬ方がよいのだよ。 それにお前は國王の王子に手づから殺されるのだぞ!」 娘のファウラタは苦悶のために兩手をねぢまげて大きな聲で叫んだ。「それは餘りです、 妾のやうな若い者を、妾は何のとがで明日の朝日も、明日の晩の星も見られんやうになるのです? 露に濡れた花を摘むことも、水の笑ひ聲を聞くことも出來なくなるのですか? あゝもうお父さんの小羊も見られなくなり、お母さんに接吻をしても貰へなくなり、 病氣の山羊を世話することも出來なくなるのです。戀人に抱かれて眼を見て貰ふことも出來なくなり、 男の子を生むことも出來なくなるのです。あんまりです!あんまりです!」 かう言ひながら彼女は再び兩手をねぢまげて涙に濡れた、美しい、絶望に沈んだ顏を空に向けた。 この姿を見たら、こゝにゐる三人の惡魔以外の人間なら、誰でもほろりとして許してやる氣になつたであらう。 護衞兵やその場に列席してゐた首長等の顏には憐愍の色が見えたが、 ガゴオルと國王父子とはそんなことでは少しも動かされなかつた。 グッドはひどく憤慨して今にも援《たす》けに行きかねまじきそぶりをしてゐた。 女といふものは眼敏《めざと》いもので、この哀れな娘はグッドの心の中を讀んだのか、 すばやく身を動かして彼のそばへ駈けつけ、彼の「美しい白い脚」を兩手で掴んだ。 「おゝ星の國の旦那樣、どうか妾をかばつて下さい!あなたのお力で妾をお助け下さい! あの殘酷な人々とガゴオルとから妾を守つて下さい!」 「よし來た、娘さん、わしが引き受ける」とグッドは昂奮したサクソンなまりで言つた。 「さあ立ちなさい、良い娘さんだね」と言ひながら彼は腰をかゞめて彼女の手をとつた。 ツワラは横を向いて息子のスクラッガに合圖をした。すると彼は槍をとつて前へ進み出た。 「さあ今度はあなたの番だ。何をぐづ〜してゐるのです?」とサー・ヘンリイは私に囁いた。 「月蝕を待つてゐるんですがねえ、もう半時間もぢつと月を見てゐるんだが、 まだちつとも變りがないのです」と私は答へた。 「だが今やらなければあの娘は殺されてしまふ。ツワラはもう癇癪玉を破裂さしてゐますよ。」 それも尤もだと思ひながら私は念のためにもう一度月を仰いで見た。 どんな熱心な天文學者が自分の學説を證明するために天體に起る出來事を待つてゐるときだつて、 その時ほどの熱心をもつて天體を見つめてはゐなかつたゞらう。 しかし結果はやはり駄目だつたので、私は精一ぱいの威嚴を保つて、 ひれ伏してゐる娘とスクラッガの突き出した槍の穗尖《ほさき》との間へ進んで行つた。 「國王、そんなことをしてはいけない!吾々は默つて見てゐる譯にいかん。 この娘は許してやりなさい!」と私は言つた。 ツワラは驚いて烈火の如く怒りながら起ち上つた。 その場にゐならぶ首長連や悲劇を見ようとしてだん〜吾々の方へすり寄つて來てゐた娘等から驚きの囁きが洩れた。 「そんなことをしてはいけないつて、この白犬奴! ライオンの洞穴《ほらあな》の前で吠えてゐる白犬奴、 してはいけないだつて!貴樣たちは氣が違つたのか? よく氣をつけて物を言はぬと貴樣たちも捲きぞへを喰はすぞ、 一たい貴樣たちは何者ぢや?わしの邪魔をするなんて。 下れ!さあ、スクラッガあの娘つ子を殺してしまへ! 護衞の者ども此奴等をふん縛つてしまへ!」 この聲に應じて武裝した者どもが小舍の後から出て來た。前もつて用意してゐたものらしい。 サー・ヘンリイと、グッドと、ウムボバとは私の兩側に竝んで銃をとり上げた。 「やめろ!」と私は大膽に叫んだ。しかし心の中ではびく〜ものだつたのだ。 「やめろ!吾々の星の國の人間の命令だ。その娘を殺してはならぬ。 一歩でもこちらへ寄つたら、月の光りを消して下界をまつ暗にしてやる!」 私の脅しはきゝめがあつたと見えて、者どもはたぢ〜とした。 スクラッガは槍を持つたまゝ吾々の前に立つてゐた。 「は!は!は!」とガゴオルは金切り聲で笑つた。 「この[言|虚;#2-88-74]《うそ》つきは月の光をランプのやうに消すなんて、 さあ消して見ろ!消えたら娘は助けてやる。消えなかつたら娘もろとも殺してしまへ!」 私は絶望の眼で空を見上げた。すると嬉しや!吾々は——いや吾々ぢやない暦《こよみ》は—— 間違つてゐなかつた。おほきな天體の周縁《ぐるり》にかすかな影がさしはじめ、 煙のやうな色が明るい月の面を蔽ひはじめた。 まつ黒な影はだん〜と明るい月の面に浸蝕してゐつた。群集の間から深い恐怖の喘ぎが起つた。 「見よ!國王!」と私は叫んだ。「見よ!ガゴオル!首長たちも、人民も、 女どもも見よ。星の世界の白人の言ふことが[言|虚;#2-88-74]《うそ》か眞實《ほんたう》か見よ! 「月は汝等の前で暗くなつて行く。今にまつ暗になるだらう。滿月の夜に月がまつ暗になるのだ。 お前たちは驗《しる》しを求めた。今それを見せてやる。おゝ月よ! 暗くなれ!清らかなる聖なる月よ!お前の光りを隱してしまへ! 奢れる人の見せしめにこの下界をまつ暗にしてしまへ!」 恐怖の呻きが見物人の中から起つた。恐ろしさに茫然としてしまつたものもあれば、 地べたに跪いて高い聲で叫んだものもあつた。國王はうす穢《きたな》い皮膚の下でまつ青になつてぢつと坐つてゐた。 ただガゴオルだけはびくともしなかつた。 「今にやんでしまふ!」と彼女は叫んだ。「わしはかういふことは前にも見たことがある。 誰にだつて月の光りは消せはしない、元氣を出すんだ!影は今に通りすぎてしまふ!」 黒い環はだん〜月の面に廣がり、群集は物も言はずにうつとりとして空を眺めてゐた。 不思議な、呪はしい影が月の面を蔽ふてゆくにつれて、四邊《あたり》はしんと靜まり、 森羅萬象は死の如く靜かになつた。この嚴肅な沈默の中に時は刻々と過ぎて行き、 滿月はだん〜深く地球の影に沒して行つた。 影はます〜月の面に匍ひよつて、もはや月の面を半分以上も浸蝕して行つた。 四邊《あたり》は薄暗くなつて群集の兇猛な顏も殆んど見えなくなつた。 群集の間からはごとりといふ音もしなかつた。 「あゝ月が死んで行く!白い魔法使が月を殺してしまつた!」とたうとうスクラッガがわめいた。 そして恐怖と怒りとの餘り槍を振つて力ぱいサー・ヘンリイの胸を目がけて突いた。 だが彼は吾々が國王から貰つた鎖鎧を着物の下に着てゐることを知らなかつたのだ。 鋼鐵の鎧は槍を彈ね返した。そしてスクラッガが二度目に突きかゝつて來るまでに、 サー・ヘンリイはスクラッガの手から槍を奪つてそれを彼の體に突き刺してしまつた。 スクラッガはごろりと仆れて死んだ。 これを見て恐怖にうたれた娘等はきやあ〜わめき聲をたてながら門の方へ逃げ出した。 國王も護衞兵や首長等の一部分とガゴオルを連れて小舍の中へ逃げこんでしまつた。 あとには吾々と殺されかゝつたファウラタと、インファドオスと、 前の晩に會つた首長等の大部分とがスクラッガの死體と共に殘された。 「皆さん!」と私は首長等に向つて言つた。「吾々はしるしを見せました。 これで滿足されたなら一刻もはやく昨日《きのふ》の話の處へ行かう。 闇は一時間半ばかりも續く筈だから、その間に逃げて行くことにしよう。」 「こちらへ」とインファドオスは先に立つて行つた。首長等も吾々もその後に續いた。 グッドは、ファウラタの手を取つて行つた。 吾々が宮殿の入口まで着かぬうちに月はすつかり見えなくなり、 まつ暗な空から星の光りが輝き出した。 てんでに手をつなぎ合せて吾々は躓きながら闇の中を進んで行つた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十二章 戰鬪の前 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 幸にもインファドオスと首長等とはこの大きな町の道をすつかり知つてゐたので、 闇にもかゝはらず吾々はずん〜進んで行くことができた。 一時間餘りも歩き續けてゐるうちに、漸く月蝕は過ぎさつて、 はじめに消えて行つた周縁《ぐるり》の方が再び見えるやうになつて來た。 五分間も經つと星の光りはだん〜褪せて行つて、どうにか四邊《あたり》が見える程明るくなつた。 吾々はもう町の外へ出て、大きな頂きの平らな小山の方へ近づいてゐた。 この小山は南アフリカにはよくあるもので、餘り高くはなく、 一番高い處でせい〜゛二百 呎《フイート》位なものであつたが、 馬蹄形をしてゐて、周圍は相當に嶮しく、それに石だらけだつた。 頂上の草原は廣々とした練兵場で少なからぬ軍隊がそこに駐屯することが出來た。 平時はこの小山にゐる守備隊は三千人の兵員からなる一聯隊であつたのだが、 吾々が嶮しい坂道を攀ぢ登つて、微かな月光で見ると、 その晩には數個聯隊の兵がそこに駐屯してゐた。 やがて小山の頂きに着くと眠りから醒めた人々の群が、 今しがた目撃した自然現象を恐ろしがつて一處に集つて慄へてゐた。 吾々は物を言はずにその中を通りすぎて、小山の中央にある小舍に着いた。 そこには、驚いたことには、二人の男が吾々が慌てゝ國王の小舍の中に殘しておいて來た荷物を持つて來てくれてゐた。 「私がこれを取りにやつたのです」とインファドオスが説明した。 「それからこれも持つて來ました」と言ひながら、彼は、長い間なくなつてゐたグッドのヅボンを取り上げた。 「まさかあの方は『美しい白い脚』をかくしておしまひにならんでせうな?」とインファドオスは殘念さうに叫んだ。 しかしグッドはどうしても承知しなかつたので、それきりククアナ人は彼の美しい脚を見ることは出來なくなつたのだ。 それから以後は彼等はグッドの片頬の髯と彼の透き通つた眼と、 動く齒とだけで、彼等の審美的憧憬を滿足させねばならなかつた。 インファドオスはなほもグッドのヅボンを飽かずに眺めてゐたが、やがて吾々に向つて、 夜が明けるとすぐに首長等が叛逆をするに至つた顛末を説明し、 正當な王位の繼承者イグノシを紹介するために各聯隊に整列するやうに命令しておいたと告げた。 そこで朝日が昇るとククアナ人の精華とも云ふべき約二萬の軍隊が召集された。 軍隊は方形の三邊に厚い列を作つて整列し、吾々はその空いてゐる一邊に席を占めた。 吾々の周圍には忽ち、主だつた首長と將校とが集つて來た。 インファドオスはこれ等の軍隊を靜めて、一同に向つて力強い巧みな辯説をふるつてイグノシの父の物語り、 彼がツワラ王のために卑怯な手段で殺されたこと、彼の妻子は追放されて飢ゑてゐたことなぞを話した。 それから彼は人民がツワラ王の暴政の下に塗炭の苦しみを嘗めてゐることを指摘し、 前夜の例をひいて多くの貴族たちが謀反人の名によつて虐殺されたことを指摘した。 次で彼は星の世界の白人逹がこの國を見下して人民の苦しみを眺め、 長い道中をいとはずに遙々やつて來られたといふ次第を語つた。 そして、彼等は追放されて困苦を嘗めてゐたククアナの眞の王イグノシを連れて、 山を越えてこの國へお出になり、ツワラの暴虐を見かねて、娘のファウラタの命を救ひ、 魔法をもつて月の光りを消し、惡魔の子スクラッガを殺して、 これから吾々を助けてツワラを亡ぼし正當な王イグノシを王位につかせて下さるやうになつたのであると語つた。 彼が賞讚の囁きの中にこの演説を終ると、今度はイグノシが出て演説を初めた。 彼は叔父のインファドオスが言つた話を繰り返し、最後に雄辯をふるつて次のやうに言つた。 「おゝククアナの將卒、竝《なら》びに人民諸君、諸君は吾が言葉を聞かれた。 諸君は吾と、吾が王座に坐つてゐる彼、 兄を殺し兄の子を追放して殺さうとした叔父のツワラと何《いづ》れかを選ばねばならぬ。 吾が眞の國王であることはこの首長等が説明することになつてゐる。 彼等は吾の腰の圍りにある蛇の姿を見たのである。 若し吾が國王でなかつたならこの白人たちが魔法をもつて吾を助けて下さる筈はない。 諸君、この白人たちはツワラを困らせ、吾々を無事に逃がして下さるために月の光りを消して下さつたのだ!」 「然り!」と軍人等は答へた。 「吾は國王である!汝等に告げる、吾は國王である!」とイグノシは威大なる體躯をぐつと伸し、 廣身の戰斧《まさかり》を頭上高くさし上げながら續けて言つた。 「もし諸君の中にさうでないと言ふものがあるならば前へ進み出よ、 吾はこの場でその男と雌雄を決し、戰ひの血祭とする」と言ひながら彼は大きな戰斧《まさかり》を振つた。 斧の刄はギラ〜と日光を受けて輝いた。誰もこれに應ずるものがなかつたので、 イグノシは更に言葉を續けた。 「吾とともに戰ふものはもし我軍に利あらば勝利と光榮をわれと共にするであらう。 吾は諸君に牛と女とを與へるであらう。もし戰ひ利あらずばわれは諸君と共に仆れるであらう。 「吾は戰ひに先だつて諸君に約束する。もし吾が父祖の王座についたならば、 流血の慘事はかたく禁ずる。諸君はもはや虐殺者を恨まなくてもよくなる。 魔法婆に嗅ぎ出されて理由もなしに殺されることもなくなる。 國法に觸れたもの以外は殺されことはなくなる。諸君は枕を高くして眠ることが出來るやうになる。 ククアナの將卒及び人民諸君、決心はつきましたか?」 「吾々は決心しました、おゝ國王」と一同は答へた。 「よし、見よ、 ツワラの傳令どもは首都の中を右往左往して吾と諸君とそれからこゝに居られるわが保護者とを仆すために大軍を集めてゐる。 明日か明後日には彼は彼を奉ずる部下の大軍を率ゐて攻め寄せるであらう。ククアナの將卒及び人民諸君、 これで話は終つた。めい〜小舍に歸つて戰の用意をせられよ!」 暫くすると一人の首長が手を擧げて「萬歳」と叫んだ。 それは軍人等がイグノシが國王であることを承認したしるしだつたのだ。 それから彼等は隊伍をつくつて進み出した。 半時間の後、吾々は軍事會議を開いた。その時には聯隊の首長は全部出席してゐた。 遠からぬうちに敵の大軍が吾々を攻撃して來ることは明白であつた。 小山の上から見ると軍隊が續々と召集され、傳令が櫛の齒を引くやうに市中を往來してゐるのが手にとるやうに見えた。 疑ひもなく、國王は軍隊を召集してゐるのだ。吾々の味方には國内の粹をすぐつた七箇聯隊の兵が約二萬人居た。 インファドオスと首長等との計算によると、國王の部下には現在少くも三萬から三萬五千の兵が集つて居り、 明日の正午までには外に五千以上の援軍が集まるであらうとの事であつた。 勿論その中には國王を見棄てゝ吾々の軍の投ずるものもあるかもしれないが、 それは當にならないことであつた。その間にも吾々を鎭壓するための準備は着々と進んでゐた。 既に小山の麓には武裝した強力な部隊が、吾々の動靜を偵察に來て居り、 その外にも將《まさ》に來らんとする攻撃の兆候は隨所に見えた。 しかしインファドオスと首長等との意見によると、 その日の攻撃はないだらうといふことであつた。といふのは、いろ〜準備もあることだし、 昨夜の月蝕によつて沮喪した軍隊の士氣を鼓舞する必要があつたからだ。 彼等の意見によると攻撃は明日だらうと言ふことであつた。 吾々の方でも陣地を固めるために百方手段を講じた。男子は殆んど總出でその日の中にいろんなことをした。 小山の上へ登る道には石を積んで通れない樣にし、 その他いろ〜な方法で上へ登つて來られないやうにした。 山上の處々には石ころを積み重ねて敵が登つて來るときにそれをころがすやうに準備を整へ、 各聯隊の受持場所をきめて、萬端の手筈を整へた。 丁度夕刻前に、吾々が憇《やす》んでゐると、國王の宮殿の方から小部隊の軍隊がこちらへ進んで來るのが見えた。 その中の一人は軍使のしるしとして棕櫚の葉を手に持つてゐた。 彼が近づいて來るとイグノシとインファドオスと一二の首長と吾々とは山の麓まで下りて彼に會見した。 彼は瀟洒たる風采の男で、豹の皮の正服を着けてゐた。 「國王に對して不屆きな謀叛を計るものどもへ國王から使に參つた。 ライオンの踵《くびす》につきまとふ豺《むじな》どもへライオンから使に參つた。」 「用事を言へ!」と私は言つた。 「國王のお言葉だ!もはや宣戰のしるしに黒牛の肩を引き裂いて、國王自から、 この血に塗《まみ》れた牛を陣地へ追ひ出された。大事に至らぬうちに國王に降伏したらどうだ?」 「ツワラはどう言ふ條件を出してゐるのだ?」と私は物好きに聞いて見た。 「國王の條件は大王にふさはしい極めて寛大なものだ。國王はかう仰せられた 「わしは少しばかりの血で我慢する。十人につき一人づゝ殺して、殘りの者は許してつかはす。 だがスクラッガを殺した白人と、わが王位を僭奪《せんだつ》せんとする彼の從者の黒人と、 吾に謀叛を扇動するわが弟のインファドオスとは無言の神の冐涜者としてなぶり殺しにする。』 これがツワラ王の慈悲深いお言葉だ。」 暫らく相談したあとで、私は一緒についてきた兵卒等にも聞えるやうに大聲で答へた。 「汝を使に寄越したツワラの許へとつとと歸つて言へ!王族のインファドオスと將卒及び人民とは、 この小山の上に集合してゐると告げい!そして吾々は降伏等はせん、 これから二度目の太陽が沈むまでに、ツワラの死骸はツワラの門前で硬くなり、 ツワラのために父を殺されたイグノシが彼に代つてこの國を統御するのだと答へろ! 鞭で追ひ歸されん中にさつさと歸つて行け!あとで貴樣の方から手を擧げて降伏しないやうに氣をつけろ!」 すると軍使は大聲で笑つた。「そんな大言壯語に恐れると思ふか」と彼は叫んだ。 「明日もその元氣でお目にかゝらうぜ。鳥に骨を啄《つゝ》かれるまではまあさんざんはしやいでゐるがよい。 事によると明日は戰場でお目に懸るかもしれん。その時には星の世界へ遁げ歸らないでわしを待つてゐてくれ! 頼むぞ!」かうした毒言を吐いて彼が走つて行くとすぐに陽は沈んだ。 その夜は忙しい夜であつた。吾々は疲れてはゐたけれども、 月の光りを便りに明日の戰の準備を續けて行つた。吾々の會議をしてゐた處から傳令は織るが如くに行つたり來たりした。 そのうちに眞夜半《まよなか》から一時間ばかり過ぎると、準備はすつかり出來上つて陣中はひつそりと靜まり返り、 時々歩哨の誰何《すゐか》の聲が聞えるばかりとなつた。サー・ヘンリイと私とは、 イグノシと一人の首長とに伴はれて小山を下りて前哨陣地を視察した。 吾々が進んで行くと、時々思ひ懸ない場所から月の光でギラ〜光る槍の穗先が出たが、 吾々が合言葉を言ふと又消えてしまつた。見張の者は誰一人として眠つてゐるものはない事がそれで判つた。 それから吾々は澤山の眠つてゐる戰士の間を通つて歸つて來た。 恰度夜明け頃、私はインファドオスに起された。彼は國王の宮殿では既に大活動が始まつて、 國王方の斥候は吾々の前哨線に出沒してゐると告げた。吾々は起ち上つてめい〜鎖鎧を着けた。 これがあつたので吾々は非常に有難かつた。サー・ヘンリイは「郷に入れば郷に從へぢや」と言ひながら、 インファドオスに頼んで土人の軍服を用意してもらつてそれを着た。 士官の着る豹の皮の外套を首の圍りに結びつけ、額には高級將校だけのつけてゐる黒い駝鳥の羽根飾りをつけ、 腰には白い牛の尾の腰帶を卷きつけた。足には革靴を穿き、犀の角の柄のついた重い戰斧《まさかり》を持ち、 白牛の皮の裏打ちをした丸い鐡の楯を持ち、所定の投げ槍を携へ、その外に一挺の短銃《ピストル》をつけ加へた。 野蠻な服裝ではあつたが、私はサー・ヘンリイ・カーチスのこの時の姿位立派な姿は餘り見たことがないと言はざるを得ない。 實際彼がイグノシと二人で同じ服裝をして列《なら》んでゐる姿は實に堂々たるものだつた。 グッドと私ともほぼ同じやうな服裝をして、鎖鎧を着け、槍と、楯と、二挺の投げ槍と、 その外に銃を持つことにしたが、銃は彈藥も乏しくなつてゐたし、それに接戰の場合には間に合はんので、 吾々の後から人足に持つて來てもらふことにした。 吾々は支度がすつかり終ると、大急ぎで食事を濟まし、それから動靜を見に出懸けた。 小山の上の平地の一點に褐色の石で拵へた小さな塔のやうなものがあつた。 それは司令部にもなり、物見櫓にもなるやうに造つたものであつた。 インファドオスはそこで部下の聯隊に取り卷かれてゐた。 この聯隊は白髮聯隊と云つて、ククアナ軍の中でも最も精鋭な軍隊であつたのだ。 この聯隊は豫備軍として控へてゐたので、兵卒等は草原の上に隊を作つて横はりながら、 國王の軍勢が長い蟻の行列のやうな縱隊を作つて宮殿から匍ひ出してくるのを見てゐた。 果しなく長い三つの縱隊にはそれ〜゛一萬一二千の兵卒が屬してゐるらしかつた。 これ等の軍勢は町を出ると聯隊に編成され、三隊に分れて第一の隊は右の方に進み、 第二の隊は左の方に進み、第三の隊は徐々に吾々の正面に迫つて來た。 「敵は三方から吾々を攻め寄せるんだな!」とインファドオスは言つた。 これは甚だ重大な、情報であつた。といふのは、小山の上の吾々の陣地は、 周圍が一半も哩あるので[注:一哩半もあるので?]比較的劣勢な防御軍は出來るだけ兵力を集中することが必要だつたからだ。 しかし吾々には敵がどの方向から攻めて來るか判らなかつたので、 臨機應變の處置をすることにし、各聯隊はそれ〜゛部署を定めて別々の攻撃に對抗する準備をするやうに命令しておいた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十三章 攻撃 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 三つの聯隊は急がず騷がず徐々に進んで來た。中央の縱隊は、吾々から約五百 碼《ヤード》の地點迄來ると、 一まづそこに停止して、友軍が同じ位の距離まで逹するのを待つてゐた。 この作戰の目的は三軍が同時に攻撃するために相違なかつた。 「あゝ機關銃が一つあつたらなあ!」とグッドは眼下に迫つて來る敵軍を見ながら唸つた。 「さうすれば二十分の間にあの野原を綺麗にしてやるんだがなあ!」 「ないものは仕方がないさ、だがコオターメンさん、あんた一つ鐡砲を射つて見ませんか」とサー・ヘンリイは言つた。 「向うに指揮官らしい男が立つてゐるでせう。あの男から五碼以内の處へ彈丸《たま》が落ちたら見物《みもの》ですがなあ。」 これを聞いて私は憤然《むつ》とした。そこでエキスプレス銃に彈丸を込めて、 件《くだん》の指揮官が吾々の陣地を良く見るために、一人の從卒を連れて本隊から十碼ばかり前へ進み出るのを待ち、 私は銃を岩の上に載せて照準《ねらひ》を定めた。 この小銃は三百五十碼までしか照準《ねらひ》がきかないのであるから私は首の邊りをねらへばちやうど胸に當るだらうと計算した。 指揮官はぢつと立つてゐたのでねらひを定めるには非常に都合がよかつたのだが、 風の工合か、それとも昂奮してゐたせゐか、彈丸は指揮官には當らないで、 三歩ばかり左の方にゐた從卒が地べたに仆れた。私のねらつた士官はひどく慌てゝ從卒のそばへかけ寄つた。 「うまい!コオターメンさん!あんたはあの士官を吃驚さしたよ。」とグッドは叫んだ。 私はそれを聞くと癪にさはつた。といふのは私は皆の見てゐる前で鐡砲を射ち損なふなんてことは實にいま〜しかつたからだ。 人間が或る一藝の長じてゐる場合には、その一藝だけでは評判を落したくないものだ。 一生鐡砲で渡世して來た私が、鐡砲を射ち損じたとあつては弓矢八幡に申譯けがない[。] 私は今の失敗にやつ氣になつて、亂暴にも、 その士官が走つてゐる處を狙つて第二彈を放つた。すると哀れな士官は忽ち兩腕を伸して前へのめつた。 この白人の魔法を見て、聯隊の者どもは夢中になつて喜び、勝利のさいさきよしと言つてはやしたてた。 それと同時に私のために射ち殺された指揮官の部下の聯隊は混亂して後へ下つた。 サー・ヘンリイとグッドとも彼等の銃を取り出して射ち出し、 私もそれから一二發射つて、何でも都合七八人の敵を仆した。 恰度吾々が銃を射つのをやめたとき、遙か右手の方から氣味の惡い喊聲が聞え、 續いて左の方からも同じやうな喊聲が起つて來た。 この物音を聞くと、正面の凹地《くぼち》を進んで來た敵軍も、 深い咽喉から出る聲で歌を歌ひながら、駈足で吾々の方へ迫つて來た。 吾々は銃を取つて續けざまに發砲し、イグノシも時々吾々に混つて射つたが、 勿論この大軍に對しては大浪に向つて小石を投げるほどの效果しかなかつた。 彼等は喊聲をあげ、かち〜槍の觸れ合ふ音をさせながら、吾々が小山の麓の岩蔭に伏せて置いた前哨隊の處まで肉薄して來た。 そこまで來ると彼等の進み方が少し遲くなつた。それは吾々の方ではまだまじめな抵抗もしなかつたけれども、 敵は小山の崖を攀ぢ上らなければならなかつたからだ。吾々防御軍の第一線は小山の中腹に陣取り、 第二線はそれから五十碼ほど後方に陣取り、第三線は小山の上の平地の縁端《ふち》に陣取つた。 敵は鬨《とき》の聲をあげてだん〜肉薄し、味方もそれに應じて鬨《とき》の聲をあげた。 兩軍が接近するにつれて投げ槍がぎら〜光りながら前に後に飛び交ふのが見えはじめ、 戰の火蓋は遂に切られた。 兩軍は一進一退した。そして彼等の躯は秋の木の葉のやうにバタ〜仆れた。 けれども暫くのうちに敵軍の優勢なことが判りはじめ、味方の第一線はヂリ〜壓迫されてあとに退《さが》り、 遂に第二線と一緒になつた。第二線では最も猛烈な激戰が行はれたが、 又もや味方は押し返されて戰が初まつてから二十分も經たぬ中に敵は第三線まで殺到して來た。 しかしこの時までには攻撃軍もひどく疲れて、その上に夥《おびたゞ》しい死傷者を出してゐたので、 堅固な第三線を突破することは容易でないことが判つた。暫らくの間、 兩軍は一進一退、どちらが勝つとも判らなかつた。サー・ヘンリイは燃えるやうな眼で死物狂ひの爭鬪を見てゐたが、 やがて物も言はずにグッドを連れて一番戰鬪の劇しい場所へ飛び込んで行つた。 そのうちに勝敗の數は漸く明かになつて來た。攻撃軍は勇敢に戰ひながらも寸一寸と山を下へ押し返され、 やがて混亂して、後方に控へてゐる豫備軍の方へ退却して行つた。 その時に傳令が來て左翼の敵も撃退したと告げた。私はこれで戰は一段落を告げたものと思つてやれ〜と喜んでゐると、 右翼の防備に當つてゐた味方の軍隊は、敵に壓迫されて、山頂の原の上をだん〜と吾々の方へ退却して來るのが見えた。 右翼では明かに敵が勝つたのだ。 私の側に立つてゐたイグノシはこの形勢をチラリと見てすばやく命令を發した。 すると吾々の周圍にゐた豫備聯隊は忽ち陣形を整へた。 イグノシが再び命令を發すると、隊長等は直ちにこれを部下に復誦した。 すると南無三!私自身も荒れ狂ふ敵の攻撃の中に卷き込まれてゐたのだ。 私はイグノシの大きな躯の後に身を隱して、ぶきつちよに防戰し、 まるでわざ〜殺されるためのやうに蹌踉《よろ〜》と前へ飛び出したとした。 一二分もたつと味方の軍勢がどつと私のうしろのはうへ退却して陣形を立て直した。 それから後のことは私はよくおぼえてゐないが、たゞ楯の衝突するのがガチャ〜きこえたのを覺えてゐる。 それから突然、眼の球が飛び出した大きな男が血槍を揮《ふる》つてまつ直に私に突きかゝつて來た。 しかし私は起ち上つた。と言ふよりもこの場合身をかゞめたと云つたはうがよいかも知れぬ。 その場に立つてゐれば殺されるにきまつてゐたので、私は巧みに身をかゞめたのだ。 するとこの大男ははずみを喰つて私の上へのしかゝつて仆れた。 彼が起ち上らない先に私の方が立ち上つて背中から骨もとほれと短銃《ピストル》を射ち込んだ。 それから間もなく私は誰かに打ちのめされたやうな氣がする。 そしてそれきり私は何もおぼえてゐない。 氣が附いた時は、私は物見櫓に凭れてゐた。そしてグッドが私の前に身をかゞめて、 水を入れた瓢箪を持つて立つてゐた。 「どうです?」と彼は心配さうに訊ねた。 私は返事をする前に起ち上つて躯を振つた。 「有難う!もう大丈夫!」と私は答へた。 「やれ〜、あんたがこゝへ連れ込まれた時には、もうてつきり駄目だとおもつていやな氣がしましたよ。」 「今の所は大丈夫だ!何でも頭を一つがんとやられて、それきり氣が遠くなつてしまつたやうだ。 で戰爭はどうなりましたね?」 「敵は今の所、すつかり撃退されました。大變な死傷者です。味方の死傷は二千で、 敵の死傷は三千はあるでせう。どうですこれは!」と言ひながら彼は夥《おびたゞ》しい死傷者を指ざした。 各聯隊には十人 宛《づゝ》の軍醫が居て、負傷者の中で恢復の見込のあるものは後方へ移して看護を加へてゐたが、 恢復の見込のないものは一人の醫師が診察するのだと言ふ名目のもとに動脈を鋭利なナイフで切つて一二分間のうちに何の苦痛もなしに殺してゐた。 ずゐ分亂暴な話だが、どうせ助からぬとすれば結局それが本人にとつては情けであるのかもしれぬ。 「この恐ろしい光景から眼を轉じて、物見櫓の向う側を見ると、 まだ戰斧《まさかり》を手に持つた、サー・ヘンリイと、イグノシとインファドオスと、 一二名の首長とが額を集めて協議中であつた。 「やれ〜コオターメンさん、あなたはそこにゐたのですか、重大なことになつて來ましたわい。 吾々は敵を撃退するには撃退したが、ツワラは多數の援軍を得て、 こん度は吾々を包圍して兵糧攻めにするらしいです!」 「それは困つたですな。」 「困つたものです。それになにより困るのはインファドオスが言ふやうに、 水を供給する道がないのです。」 「さうですよ」とインファドオスは言つた。「泉の水ではこんな大部隊の人間を支へるには足りないし、 それに泉ももう涸れかゝつてゐるのです。日が暮れるまでに吾々は渇を覺えて來るに相違ありません。 一體どうしたもんでせう。ツワラは新手の軍隊をどん〜連れて來て補充してゐますが、 彼は前の戰爭に懲りて、今度は容易に攻めて來ないらしいです。 恰度蛇が羚羊を卷き殺すやうに、吾々を卷き殺さうとしてゐるらしいのです。 居ながら戰ふと言ふ戰法を取るらしいです。」 「さうですなあ」と私は言つた。 「そこでマクマザンさん、吾々の取るべき道は三つしかないのです。 飢ゑたライオンのやうに、こゝに待つてゐてのたれ死にするか、 圍みを破つて北の方へ脱出を計るか、それとも」と言ひながら彼は立ち上つて敵の密集部隊を指さしながら云つた。 「吾々の方からまつ直ぐにツワラの咽喉笛を突くか、この三つしかないのです。 サー・ヘンリイさんは最後の説を主張なさるのですが、 マクマザンさん、あなたはどうお考へですか。最後の決斷權は勿論國王イグノシにあるのですが、 あなたのお考へも、透き通つた眼をしたお方の御意見も伺ひたいのです。」 「イグノシ、お前はどう思ふ?」と私は訊ねた。 「私は智慧にかけちやまだ子供ですから、まづ先にあなたの御意見を聞かして下さい」とイグノシは答へた。 そこで私は暫らくグッドとサー・ヘンリイと三人で相談した後で、 大體次のやうな意見を述べた。 「こんな風に敵に圍まれてしまつた以上は、そして特に水の供給の道がない以上は、 ツワラの軍勢に向つて攻撃をしかけるより外にみちがない。 しかも攻撃は直ぐに始めるがよい。でないと首長の中に變心して、 吾々を裏切つてツワラの許へ走るものが出來ないとも限らぬ」と私は言つた。 この意見には大體皆の者が贊成したやうであつた。しかし最後の決定權はイグノシにあるので、 一同の者は今度はぢつと彼の方へ眼を注いだ。 イグノシは、その間ぢゆう深く思案してゐるやうであつたが、暫らく間をおいてから語り出した。 「勇敢なる白人の方々、叔父のインファドオス、それから首長諸君、私の心は決りました。 今日これからツワラの陣地に突入して勝敗を一擧に決しようと思ふ。 勿論、私の命も諸君の命もこの一戰にかゝつてゐるのです!」 「判つた」と私は答へた。 「今は恰度正午で兵卒は食事をしたり、休息をしたりしてゐるが、 陽が少し西に傾いたら、叔父さん、あなたはあなたの聯隊と外にもう一聯隊を率ゐて、 まつすぐにツワラの宮殿に向つて進軍して下さい。 ツワラがそれを見たら彼はきつとそれを粉碎しようと思つて部下の軍隊を差し向けるに相違ありません。 けれどもこの正面は兩方の原から落ちこんで細長い凹地《くぼち》になつてゐますから、 一度に一聯隊づつしかかゝつて來られません。だから一聯隊づつ各箇に破つて行けば良い譯です。 それからヘンリイさんはあなたの聯隊に附いて行つていたゞきます。 ツワラはヘンリイさんの今日の武者振りをよく知つてゐますから、 あの方が戰斧《まさかり》を振りかざして白髮聯隊の先頭に立つて進んで下されば、 きつと度膽《どぎも》を拔かれてしまふでせう。私は第二の聯隊に加はつて行きます。 さうすれば萬一あなたの聯隊が破れても、まだ國王があとに殘つて戰ふことが出來るからです。 それからマクマザンさんは私と一緒に行つていたゞきます。」 「承知しました國王」とインファドオスは彼の聯隊が全滅するにきまつてゐるのを知りながら平然として答へた。 實際ククアナの人民は驚くべき人民で義務のためになら、死を少しも恐れてゐないやうだつた。 「そしてツワラの軍隊の大部分がこの戰ひを見てゐる間に、 生き殘つた味方の軍勢の三分の一は小山の右側から降りて、 敵の左側を襲ひ、他の三分の一は小山の左側から降りて行つて、 ツワラ軍の右側を襲撃するのです。そして兩翼からの攻撃が始まるのを見て私は眞正面からツワラの本據を衝きます。 そして運よく行けば夕方までの吾々はツワラ軍を山へ撃退して平和に國王の宮殿に入城することが出來ます。 グッドさんは右翼軍に附いて行つて、光る眼で味方の隊長どもに元氣をつけてやつて下さい!」 攻撃の準備はすぐに開始され、一時間餘りの内に全軍は凡て食事を終つて、 三箇師團に編成され、首長等にそれ〜゛作戰計畫が説明された。 かうして負傷兵の收容のために殘された小部隊の守備兵を除く外は、 約一萬八千の全軍が今や遲しと出動の用意をしてゐた。 暫らくするとグッドがサー・ヘンリイと私との處へやつて來た。 「左樣なら皆さん!」と彼は言つた。「私は軍令によつて右翼軍に加はる事になりました。 もうお目にかゝれんかも知れませんから、お別れの握手に來ました」 と彼は意味ありげにつけ足した。 吾々は默つて握手をした。だが英國人としては餘りにはしたない、 とり亂した、女々しい樣子はしなかつた。 「妙な因縁ですなあ」サー・ヘンリイは少し顫へを帶びた、どつしりした聲で言つた。 「實を言ふと私も明日の太陽が見られるとは思ひませんよ。 私について行く白髮聯隊は兩翼の軍勢を敵に氣附かれないやうに側面へ迂廻させるために、 最後の一兵まで戰はなくちやならんのです。だがそれは仕方がない男らしい死に方だと思つて諦めませう。 さよならコオターメンさん。あなたの無事を祈ります。あなたは生きのびて、 ダイヤモンドにありつきなさることを望みます。だがもし生きのびなさつても、 今後は決して吾々のやうな山師の相手にはならぬやうにしなさいよ!」 それから數秒たつと、グッドは吾々の手を握つて向うへ行つてしまつた。 そこへインファドオスが來て、サー・ヘンリイを白髮聯隊の先頭へ連れて行つた。 私はあれやこれやと樣々な不安を抱きながら、イグノシに附いて第二の攻撃聯隊の中へ加はつた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十四章 白髮聯隊の最後の奮戰 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 數分間經つと、側面攻撃の任に當つた諸聯隊は、ツワラの斥候の鋭い眼を避けるために、 小山の蔭に沿うてひそかに進んで行つた。側面軍が一時間半許りもかゝつて指定の場所へ着くのを待つて、 白髮聯隊と、それを援助する聯隊とが進軍を始めた。この第二の聯隊は水牛聯隊と呼ばれてゐた。 この二つの聯隊は、その日まだ殆んど敵と戰を交へなかつたので、損害も極めて少なく、 士氣は甚だ旺盛であつた。といふのは白髮聯隊は、朝の戰爭には豫備軍として小山の上に殘つてゐて、 そこまで登つて來た敵とほんの少しばかり戰を交へたばかりだつたし、 水牛聯隊の方は左翼軍の第三防御線を受け持つてゐたので、 殆んど敵の攻撃を蒙つてゐなかつたのである。 老練な名將インファドオスは、この樣な決死の戰鬪の前には、 十分軍隊の士氣を鼓舞しておく必要があることをよく知つてゐたので、 側面軍が進行してゐる間に、部下の軍隊に向つて、 白髮聯隊が正面の戰線を引受けて星の世界の偉大なる白人の戰士と共に戰ふのは非常な名譽であるといふことを莊重な口調で説明し、 勝利の曉には生き殘つた者は陞進《しようしん》して、その上國王から澤山な牛の[注:牛を?]襃美に貰へると約束した。 私は羽根飾りの長い列を見ながら、これ等の勇敢な人々が、一時間も經たぬ中に死んでしまふのかと思つて吐息をした。 彼等は死ぬにきまつてゐるのだ。そして彼等自身もその事を知つてゐるのだ。 彼等の任務は、ツワラの大軍を引き受けて全滅するまで、 或は側面軍が有利な攻撃の時機を見出すまで戰ふことにあつたのだから九分九厘までは既に死んだと同じである。 けれども彼等は少しも躊躇しなかつた。また誰一人として恐怖を抱いてゐるものはなかつた。 彼等は、確實な死に向つて、日の光りに永久の別れを告げようとしてゐるのだ! しかも彼等は泰然として彼等の運命を見ることが出來るのだ。 私はこんな時にもかゝはらず、彼等の氣持と、私自身の氣持とを比べて見ずにはゐられなかつた。 そして何とも言へないいやな私の氣持に引き比べて、彼等の勇敢さを讚美し、羨望した。 義務の爲に是程忠實で、而もその苦しい結果に對して是程無頓着な人逹は私は曾て見たことがない。 「諸君の國王を見よ」と老將インファドオスはイグノシを指ざしながら激勵の演説を終つた。 「國王の爲に仆れるまで戰ふのが勇敢な軍人の任務だ。國王の爲に死を恐れたり、 敵に後を見せたりする人間は、永久に呪はれた奴等だ。士卒諸君、諸君の國王を見よ。 さあ聖蛇に萬歳を唱へて、後に續け!吾とヘンリイ樣とは先頭に立つて進む。」 すると暫らく間をおいて、軍隊の間から、遠くの海鳴のやうな響きが起つた。 それは六千の槍で、靜かに楯をたゝいた響きであつた。響きは次第に高まつて、 遂には百雷の一時に落つるやうに鳴り響いたが、やがてそれも靜まつたときに、 突然、國王に對する萬歳の聲が起つた。 イグノシは其日どんなに得意だつただらうと私は思つた。 羅馬の皇帝だつて『まさに死なんとする』戰士からこんなに心からの萬歳をさゝげられたことはないであらう。 イグノシは彼の戰斧《まさかり》を上げてこの萬歳に答へた。すると白髮聯隊は、 約一千人 宛《づゝ》の戰鬪員からなる三列に別れて進軍を始めた。白髮聯隊の最後の中隊から五百碼程離れて、 イグノシは水牛聯隊の先頭に立ち、進軍の命令を下した。 この聯隊も白髮聯隊と同じ樣に三列になつて進んだ。 言ふまでもない事だが、私は無事に歸つて來られる樣に心から神に祈つた。 私は是迄にも隨分妙な境遇に陷入つた事はあるが、この時ほど不愉快な、 この時程安全に歸れる見込みの少なかつた事はないやうに思ふ。 吾々が小山の縁端《ふち》まで着いた時には、白髮聯隊は、 既に小山の中腹まで進んでゐた。これを見るとツワラ軍の陣營は急にどよめいて、 吾々が凹地《くぼち》の端まで行きつかぬ中に防ぎ止めるために、 急に進軍を始めた。小山の下は、前にも言つたやうに細長い草原の凹地になつてゐて、 一番廣い處で、幅四百歩しかなく、狹い處は九十歩位しかなかつたのだ。 白髮聯隊が、この草原の一番廣い處まで着いて進軍をやめたとき、 吾々の水牛聯隊は、小山のすぐ麓の、草原の狹い部分まで進んで、灰色聯隊の最後の列から百碼程後方に、 豫備軍として控へてゐた。その間に吾々は、ツワラの全軍を見渡すことが出來た。 ツワラ軍には援軍が加はつたと見えて、朝の戰鬪でひどい損害を受けたにもかゝはらず、 總數四萬を下らないやうに見えた。しかし草原の向う側の端まで來ると、 一聯隊 宛《づゝ》しか進めないので、暫らく躊躇してゐた。 勇敢な白髮聯隊はこの大軍を向うにまはして、 曾て三人の羅馬の勇士が數千の敵を向うにまはして橋を守つたやうに、 敵の進軍を阻止しようとしてゐたのだ。 敵は暫らく躊躇してゐたが、やがて凹地《くぼち》にさしかゝる處で進軍を止めてしまつた。 三列に竝《なら》んで身構へてゐる勇敢な白髮聯隊と槍を交へるのは餘り氣が進まぬらしかつた。 しかし、忽ち頭に駝鳥の羽根飾りをつけた、長身の士官が大勢の首長を從卒とを從へて前に進み出た。 それは外ならぬツワラ自身であると私は思つた。彼が聲を勵して命令を下すと、 第一聯隊は白髮聯隊に向つて突撃して來た。白髮聯隊は默々として動かなかつたが、 敵が四十碼の處まで進んで來ると、兩軍の間に風を切つて無數の投げ槍が往來し始めた。 ついで突然喊聲をあげて、勇躍しながら、彼等は槍を振つて肉薄して來た。 二つの聯隊の間に猛烈な白兵戰が開始された。楯と楯との觸れ合ふ音は雷のやうに吾々の處まで聞え、 草原はギラ〜燦《きら》めく槍の光りでまるで生きてゐるやうに見えた。 兩軍は一進一退して戰を交へてゐたが、戰はそんなに長くは續かなかつた。 攻撃軍は見る〜人影が疎《まば》らになつて、やがて完全に撃滅された。 しかし白髮聯隊ももはや二列しか殘つてゐなかつた。三分の一は戰死してしまつたのだ。 白髮聯隊の殘軍は、再び默々として次の攻撃を待つてゐた。 サー・ヘンリイの黄色い髯が味方の軍勢の間からちら〜隱顯してゐたので私はやれ嬉しと思つた。 まだ彼は生きてゐたのだ! その間に吾々の聯隊も戰場の方へ近く進んで行つた。戰場には死んだり、死にかけたり、 負傷したりした、約四千人の人間の體が文字通り朱《あけ》に染つて倒れてゐた。 イグノシは、敵の負傷者を殺してはならぬといふ命令を發し、 その命令は忽ち全軍に傳へらてた。しかも吾々の見た限りでは、 この命令は嚴守されてゐたやうであつた。 それは實に人の心をうつ情味にあふれた光景であつたが、 その時はそんなことを考へてゐるひまなどはなかつた。 その中に白い羽根飾り附けた、第二の聯隊が、白髮聯隊の二千の殘軍に對して進軍して來た。 白髮聯隊は、再び敵が四十碼の處まで近づくのを待つて、 敵軍に向つて突撃し、前と同じやうな悲劇が繰り返された。 併し今度は勝敗は容易に判らなかつた。暫らくの間は白髮聯隊の方に勝味が無いやうに見えた。 白髮聯隊の戰鬪員は、四十歳以上の古兵ばかりで、攻撃軍は皆血氣の青年であつたが、 初めのうちは古兵の方がじり〜押されて行つた。戰は猛烈を極め、一分毎に數百人位の割合でばた〜倒れて行つた。 しかし完全な訓練と不撓不屈の勇氣とは、竒蹟を現出する事ができるものだ。 一人の古兵は、良く二人の若兵に當る事が出來た事が間もなく判つて來た。 ちやうど吾々が白髮聯隊はもう駄目だと思つて、代つて進撃しようと準備してゐたときに、 喧《やかま》しい叫喚の中からサー・ヘンリイのどつしりした聲が聞え、 彼が羽根飾りの上へ振り上げた戰斧《まさかり》のひらめきがチラリと見えた。 形勢はもち直して、白髮聯隊は荒れ狂ふ敵に對して、まだ磐石《ばんじやく》のやうに抵抗してゐたのであつた。 やがて白髮軍は今度は逆襲に轉じた。火噐が使はれてゐないので戰場には煙が少しも上つてゐなかつたから、 戰鬪の模樣は吾々の處からでも手に取るやうによく見えた。 暫らくすると戰鬪はだん〜靜まつて來た。「あゝ實に勇ましい軍隊だ。 きつとまた勝つだらう!」と私の側に昂奮して齒噛みをしてゐたイグノシが叫んだ。 突然、攻撃軍は白い羽根飾りを風に靡《なび》かせながら算を亂して退却し、 後には白髮聯隊の勇士たちが殘つた。それはもう聯隊ではかなつた。 戰鬪の初まる時には三千人もあつたこの聯隊の中でほんの四十分程しか經たない今では、 せい〜゛六百人位の者が血に塗《まみ》れて殘つてゐるに過ぎなかつた。 殘りの者は凡て地上に倒れてゐたのだ。けれども彼等は槍を振《ふる》つて萬歳を唱へ、 それから吾々の方へ引き返して來るかと思ふとさうではなくて、 返つて逃げて行く敵を追うて百碼ばかり前進し、小高い丘を占領してその圍りを三十に圍んで環状の陣形をつくつた。 有難いことには、その丘の頂きにサー・ヘンリイと吾々の老友インファドオスとの姿があつた。 だが、そのうちにツワラの聯隊は三度盛り返して來て、又もや戰ひが始まつた。 この物語りを讀まれる諸君はかねて承知の筈だが、私は正直なところ少々臆病者で、 しば〜不愉快な立場にたつて人間の血を流さねばならぬ事はあつたが、元來戰爭などは嫌ひで、 自分の血の分量も出來るだけ耗《へ》らさないやうに心掛け、 時としては、三十六計の奧の手にたよつて、敵に後を見せて逃げ出したこともあるのだが、 この時ばかりは私の一生で初めて胸の中に鬪志がむら〜と起つて來るのを覺えた。 これまで恐怖の爲に半ば凍つてゐた私の血は活溌に脈管を流れだし、 むやみに人を殺したい野蠻な慾望が湧き起つて來た。 私はちらりと振り返つて後に列《なら》んでゐる士卒の顏を見ると、 皆も私と同じやうに、手を握りしめ、眼をぎら〜輝かして勃々たる戰志に燃えてゐた。 たゞイグノシだけはいつも通りの冷靜な容子をしてゐたが、さすがの彼すらも齒軋《はぎし》りをしてゐた。 「吾々はツワラが吾々の兄弟を向うで鏖殺《みなごろ》しにしてしまつてゐるのに、 こゝに根の生えるまで立つてゐるのかね、ウムボバ——いやイグノシ?」と私は訊ねた。 「いやマクマザンさん」と彼は答へた。「今こそ好機逸すべからずです!」 彼が語り終らぬ中に敵の新手の聯隊は例の丘の側面を通り過ぎて、 こちらへ迂回し、丘をかこんで周圍から白髮聯隊の殘り少ない殘軍を攻撃し始めた。 この時、イグノシは戰斧《まさかり》を振り上げて進軍の合圖をすると、 水牛聯隊は、ククアナ軍特有の鬨《とき》の聲をあげながら怒濤の如く突撃した。 その次に起つた光景は、私の筆では到底書き盡せぬ。私の記憶してゐる事は大地を搖がすやうな、 すさまじい、しかも秩序ある前進と、急に眞正面から敵に衝突《ぶつゝ》かつて恐ろしい衝突が初まり、 鈍い呻き聲がきこゑ、血煙りの中に閃めく槍の光りが見えただけであつた。 私がはつきりと吾に返つた時には、私は白髮聯隊の殘軍に混つて、丘の頂きの近くにゐた。 そして私のすぐ後にゐたのはほかならぬサー・ヘンリイであつた。 私はどうしてこんな處まで行つたのか少しも覺えてゐないが、 あとでサー・ヘンリイに聞くと、水牛軍の最初の猛烈な攻撃の時に、 殆んど彼の足許まで進んで、また敵の逆襲によつて追ひ返されたのを、 彼が圍みの外へ脱け出して私をそこまで曵きずり上げてくれたのだと言ふことであつた。 その次に起つた戰の模樣は到底筆紙で現はすことの出來るやうなものではなかつた。 刻々に頭數の減つて行く、白髮聯隊の殘軍に對して、勇敢な敵は味方の死骸を乘り越えて、 或る時は吾々の槍を避ける爲に死骸を前にかざしながら進んで來た。 しかし彼等は結局死骸の山を堆高《うづたか》くするだけであつた。 老將インファドオスはこの激戰の中にあつて、まるで觀兵式でもやつてゐるやうに、 落着き拂つて命令を下したり、敵を罵つたり、冗談を言つたりさへして、 殘り少なくなつた味方の士氣を勵まし、敵が攻撃して來る度に一番戰鬪の猛烈な處へ進んで行つて敵に應酬してゐた。 けれどもサー・ヘンリイの武者振りはそれよりももつと勇ましかつた。 彼の駝鳥の羽根飾りは槍の爲めに折れてしまひ、黄色い長髮は後へ振り亂れ、 手も槍も戰斧《まさかり》もすつかり血に塗《まみ》れて、巨人の如く、 當るを幸ひ敵を薙ぎ倒してゐた。 この時、不意に「ツワラだ!ツワラだ!」と叫ぶ聲が聞えた。 すると一眼の巨人、ツワラ王が鎖鎧を身に纒ひ、戰斧《まさかり》と楯とを持つて、 群集の中から躍り出した。 「そこにゐるのは息子のスクラッガを殺した白人だらう。どうだ、おれが殺せるか?」 と叫ぶと同時に彼はサー・ヘンリイを目がけて投げ槍を投げつけた。 しかし幸にも彼はそれを見て楯で受け止めたので、投げ槍はさつと楯に突き刺さつた。 ツワラはまつ直ぐに彼に躍りかゝつて、戰斧《まさかり》を振り上げて楯の上に打ち下した。 その力の彈みをくつただけで、さすがのサー・ヘンリイも蹌踉《よろ〜》として膝をついた。 ちやうどその時に、攻め寄せて來た敵の聯隊の中から、困つたやうな叫び聲が起つて來た。 上を見上げるとその原因が判つた。 凹地《くぼち》の左右にある原つぱから一時に無數の戰士の羽根飾りが見えて來たのだ! 側面軍が吾々の救援に來たのだ!それは絶妙な好機會であつた。 ツワラの軍勢はイグノシが豫言したやうに白髮聯隊と水牛聯隊との殘軍を攻撃するのに夢中になつてゐて、 側面軍が押し寄せて來るのを、すぐ側に近寄るまで知らずにゐたのだ。 そこで彼等が陣形を立て直すひまもなく、側面軍の士卒は獵犬のやうに彼等の横つ腹に襲ひかゝつて來たのだ。 そのために、ツワラとサー・ヘンリイとの一騎打ちはそれきりお終ひになつた。 五分間のうちに戰の運命は決せられた。ツワラの軍勢は、正面から白髮聯隊と水牛聯隊との猛撃を受け、 今また左右の兩側から新手の軍勢の攻撃を受けて、算を亂して退却し、 吾々に對《むか》つてゐた敵の部隊はまるで魔法にでもかゝつたやうに潰滅してしまつて、 やがて大浪の引いた後の岩のやうに味方の軍隊だけが跡に殘つた。 しかしそれは何と言ふ光景だつたであらう!吾々の周圍には累々たり死屍が横はり、 白髮聯隊の生存者は僅《わづ》か九十五人になつてゐた。 この一戰で、白髮聯隊だけで三千五百の兵士が仆れたのだ。 「諸君」とインファドオスは腕に受けた傷に繃帶を卷きながら、落着き拂つて言つた。 「諸君は、諸君の聯隊の名譽を傷つけなかつた。今日の戰ひは諸君の孫子の代までも語り傳へられるであらう。」 それから彼は、サー・ヘンリイ・カーチスの手を握りしめて「あなたは偉大なお方だ」と卒直に云つた。 「私は長い軍人生活の間に、ずゐ分勇しい人を澤山見たが、あなたのやうな勇ましい方をつひぞ見たことがありません。」 この時に水牛聯隊は、吾々の陣地のそばを通り過ぎて、宮殿へ通ずる道の方へ進軍を初めた。 その時一人の軍使がイグノシの命令を傳へて來た。それはインファドオスとサー・ヘンリイと私とに、 水牛聯隊と一しよに來て貰ひたいと言ふ命令であつた。 そこで白髮聯隊の九十人の殘軍には負傷者の收容方を命じておいて、吾々はイグノシと共にツワラの宮殿へ攻め寄せて、 勝利を完全にし、できるならツワラを俘虜にしようといふ意氣ごみで進軍した。 吾々がまだ幾程《いくら》も進まないうちに、私は突然グッドが百碼ばかり離れた岡の上に坐つてゐるのを發見した。 彼の側には一人のククアナ人の死骸が横はつてゐた。 「グッド君は負傷したに相違ない」とサー・ヘンリイは心配さうに言つた。 彼がさう言つた時に、大變な出來事が起つた。死骸だとばかり思つてゐたククアナ人が急に立ち上つて、 グッドを打ち下し彼の身體を槍で突き始めた。吾々が呀《あ》つと言つてそばに駈けつけて見ると、 鳶色の兵卒が地べたに仆れてゐるグッドを何べんも突いてゐるのが見えた。 グッドは突かれる度に手足を宙に上げて苦しんでゐた。ククアナ人は吾々が來たのを見ると最後に一突き猛烈に突いておいて、 一目散に逃げ出した。グッドは身動きもしなかつたので、 吾々は彼はもうてつきり殺されてしまつたものと詮《あき》らめた。 悄然として彼の側へ寄つて見ると、驚いたことには、 彼はまつ蒼な顏をして、ひどく弱つてはゐたが、まだ眼鏡を掛けたまゝで、 晴れやかな微笑を浮べてさへゐた。 「實にすばらしい鎧ですよ。」と彼は吾々の顏を見て言つた。そして、それきり氣絶してしまつた。 しらべて見ると彼は追撃の時に投げ槍で脚に重症を負うてはゐたが、 鎖鎧のお蔭で槍に突かれた傷はほんの擦過傷《かすりきず》位しかついてゐなかつた。 だが此の際彼の看護をしてゐる譯にも行かないので、 吾々は彼を楯に乘せて一緒に連れて行くことにした。 宮殿の門前まで行くと、イグノシの軍に歸服した一聯隊の兵が宮殿の警護にあたつてゐた。 町の他の入口も、それ〜゛別の聯隊が敬語してゐた。 そして聯隊長等はイグノシを國王として迎へ、ツワラの軍隊はすつかり城内に逃げ込み、 ツワラ自身もこの中へ逃げてしまつたが、軍隊の士氣はすつかり沮喪してゐるから多分降伏するだらうと言つた。 そこで、イグノシは吾々と協議した結果、各城門へ傳令を派遣して、開城するやうに命じ、 武裝を解除すれば全部生命は許してやると約束した。その效果は忽ち現はれて、 やがて水牛軍歡呼の中に濠に橋が下され、城門はぎいつと開かれた。 吾々は萬一裏切り者のあるのを十分警戒しながら町の中を進んで行つた。 道の兩側には意氣阻喪した戰士等が、首を下げ、楯と槍とを脚下《あしもと》に投げ出して、 イグノシの通るのを見て國王の萬歳を叫んでゐた。吾々はまつ直にツワラの宮殿に進んだ。 一兩日前に、觀兵式や魔法狩りの行はれた廣場に着くと、そこには人つ子の影も見えなかつた。 いや全く見えなかつたのではない、とふのは、ずつと彼方《むかう》の國王の小舍の前に、 ツワラ自身が、たゞ一人の從者ガゴオルと二人で坐つてゐたからだ。 彼が戰斧《まさかり》と楯とを側において、頤《あご》を胸につけ、 老婆一人を友として坐つてゐるのを見ると、憎い奴ではあるにもかゝはらず、 私はそゞろに惻隱の念を催した。彼の率ゐる全軍の中で、 一人の兵卒も、數百の宮臣の中でたゞ一人の宮臣も、たゞ一人の后《きさき》も、 今では彼と運命を共にしようとするものがないのだ!憐むべき蠻王よ! 彼はその時人心の頼みなさをしみ〜゛と感じたのに相違ない。 人間と言ふものは信用を失つたものには見向きもしないものだ。 沒落せんとするものには友もなければ慈悲もないのだといふことを、 彼はつく〜゛と感じたの相違ない。しかもこの場合には彼にとつてはそれが當然だつたのだが。 吾々は宮殿の門をくゞつて前國王の坐つてゐる廣場へ進んだ。 國王から五千碼ばかりの處まで來ると聯隊は止まり、吾々は少しばかりの護衞兵を連れて、 彼の側へ進んで行つた。ガゴオルは吾々を見ると何か口ぎたなく罵つてゐた。 吾々が側へ寄ると、ツワラは初めて頭を上げ、ぢつと押さへてゐた怒りのために、 額に着けてゐるダイヤモンドと同じやうに光る一つの眼で、イグノシをぢつとにらみつけた。 「國王、お目出度う!」と彼は苦々しい嘲るやうな口調で言つた。 「おれの稷《しよく》を食《は》みながら、白人の魔法の援《たす》けをかりて、 おれの軍隊を唆《そゝの》かした國王、お目出度う。これから一體おれをどうするつもりだ?」 「汝がわが父に與へたと同じ運命を汝に與へるのだ!」とイグノシは儼然と言ひ放つた。 「宜しい!おれが死に方を教へてやるから後學のためによく覺えておけ! この次にはお前の番がくるのだぞ!見よ!太陽は地の下へ沈んで行く!」 と言ひながら彼は戰斧《まさかり》を取り上げて沈む夕陽を指ざした。 「おれの太陽はもうこれがお終ひだ。ところで國王、おれはこれから死ぬんだから、 ククアナの法律に從つて最後の恩典を許してもらひたい。おれは戰つて死にたいのだ! それを拒絶する譯には行くまい。 それを斷つたら今日はお前の軍隊に追はれて逃げて來た卑怯な奴等にすらお前は合せる顏がないのだぞ!」 ククアナでは國王が死刑を處せられる時には、誰か相手を一人選んで、 どちらかゞ死ぬまで果し合ひをすることが許されてゐたのだ。 「承知した!誰を相手に選ぶか?わしは遺憾ながらお前と鬪ふ譯には行かん。 國王は戰場以外では鬪ふ事ができない事になつてゐるのだから。」 ツワラの物凄い眼は吾々の隊伍の中をぎろ〜搜し廻つた。時々彼の眼は私の上にも落ちた。 若し彼が最初に私を相手に選んだらどうしよう?六呎五吋もある死物狂ひのあの蠻人と鬪つて私に勝味は絶對にない。 いつそ一思ひに自殺する方が餘程ましな位だ!私は慌たゞしく、 心の中で、たとひククアナ人からどんなに嘲られても彼の挑戰には應じまいと決心してゐた。 戰斧《まさかり》で頭を割られるよりも笑はれた方がましだと私は思ふのだ。 やがてツワラは言つた。 「おい、そこにゐる白人!晝間に始めた格鬪の結末をつけようぢやないか?」 「いけない!」とイグノシが慌てゝ言葉を挾んだ。「この人と鬪ふ譯には行かん!」 「恐ろしいのか?」とツワラは言つた。 運惡くも、サー・ヘンリイはその言葉の意味が判つたも見えて、滿面に朱をそゝいで言つた。 「わしはあいつと鬪ふ。わしが恐れてゐるかどうかを見せてやる!」 「どうぞあんな命知らずと鬪ふことはよして下さい。 今日のあなたの働きを見た人は誰だつてあなたを臆病者だ等と思ひはしませんから」と私は頼んだ。 「わしは鬪ふ!」と彼は不機嫌に答へた。「生きてゐる人間に誰だつてわしを臆病者だとは言はせん」 と言ひながら彼は戰斧《まさかり》を取つて前に進み出た。 「そんなことをしてはいけません!」とイグノシはサー・ヘンリイの腕を輕く叩いて言つた。 「あなたはもう十分戰つて來られたのですから、あなたの身に萬一の事があつたら、 私のこの胸が裂けてしまひます!」 「いやどうしても鬪ふよ、イグノシ!」とサー・ヘンリイは答へた。 「では仕方がありません。鬪ひなさい!あなたは勇ましい方です。 きつと立派に鬪ひなさるでせう。おい、ツワラ、この方が望み通りお前の相手をなさるさうだ!」 前國王は獰猛に笑つて前に進み出で、カーチスと面を向き合せた。 暫らくの間彼等は眞赤な夕陽を浴びて棒のやうにそこにつゝ立つてゐた。 實にそれは好箇の取り組であつた。 暫らくすると彼等は、互ひに戰斧《まさかり》を振り上げて、 相手のすきをうかゞひながら、ぢり〜と詰め寄つた。 突然サー・ヘンリイは、ツワラに躍りかゝつて恐ろしい一撃を加へた。 ツワラは一歩横へ身をかはした。餘りに猛烈な打撃であつたので、打つた方が却つて力のはずみで少し蹌《よろ》けた。 するとツワラはすかさずこの好機に乘じて、大きな戰斧《まさかり》を眞向に振りかざして打ち込んで來た。 私は心臟が口から飛び出すやうな氣がした。もう駄目だと思つた。 ところが豈圖らんや、サー・ヘンリイは素速く左の腕を擧げて戰斧と自分の體との間に楯を挾んで防いだ。 楯の縁は少し毀《か》けて戰斧は彼の左の肩を辷り落ちた。 その次にはサー・ヘンリイが二度目の打撃を加へ、ツワラはそれを楯でがつしと受けとめた。 かくして交《かは》る〜゛打撃が交《かは》されたが、雙方共に巧みに身をかはしたり、 楯で受け留めたりした。昂奮は益々高まり、固唾をのんでこれを見てゐた聯隊の者どもは軍紀を忘れて思はず前へのじり寄つた。 そして打撃が交《かは》されるごとに、叫んだり呻いたりしてゐた。 ちやうどその時、私の側に寢てゐたグッドは、正氣に返つて、 その場の出來事を知ると忽ち起き上つて、片足でピョン〜跳びながら私の手を引いて、 サー・ヘンリイに盛んに聲援を浴せた。 「そこだ。うまいぞ、あぶない。」等と彼は叫びたてた。 やがてサー・ヘンリイは渾身の力を振つてツワラに打つてかゝつた。 さしもの楯も鎖鎧も通つて彼は肩に深傷《ふかで》を受けた。 彼は傷を受けると益々猛り狂つて、又もや骨も碎けよと許り打つてかゝつた。 その力で犀の角で造つたサー・ヘンリイの戰斧は、眞つ二つに割れてしまひ、彼は顏に傷を負うた。 吾々の勇士の戰斧の頭がぼろりと地上に落ち、 ツワラが再び武噐を振りかざして叫びながら打ちかゝつて來た時、 水牛聯隊の勇士たちは呀《あ》つと叫んだ。私は眼を閉ぢた。目を開いて見ると、 サー・ヘンリイは楯を地上に捨てゝしまひ、たくましい腕でツワラに組みついてゐた、 二人の巨漢は熊のやうに、右に左に巨幹を搖ぶつてゐた。 その内にツワラは金剛力を出して、サー・ヘンリイを倒し、 二人は地上に上になり下になり轉げ廻つた。ツワラは戰斧でカーチスの頭を打たうとし、 サー・ヘンリイは腰から投槍を拔いて敵の鎧を突き刺さうとしてゐた。 「戰斧を取つてやれ」とグッドが叫ぶと、その聲はサー・ヘンリイにも聞えたと見えて、 彼は投げ槍を棄てゝツワラの手首に水牛の革で結びつけてあつた戰斧に手をかけ、 尚も喘ぎながら猫のやうに轉げ廻つた。突然水牛の革はびり〜破れて、 戰斧はサー・ヘンリイの手にはひつた。と思ふと次の瞬間に彼はすつくと起ち上つた。 顏からは血が瀧のやうに流れてゐた。ツワラの顏も同樣であつた。 彼は腰から大きな投げ槍を拔いてカーチスに向つて跳びかゝり、それを彼の胸に突き刺した。 的は外れなかつたが、投げ槍は鎖鎧のために跳ね返されて終つた。 ツワラは再び恐ろしい聲で呻きながら鋭利な投げ槍を突き刺したが、 やはりまた跳ね返された。そしてサー・ヘンリイは後へ蹌踉《よろ〜》とよろめいた。 ツワラはまたもや彼に飛びかゝつて行つた。 するとサー・ヘンリイは滿身の力をこめて大戰斧を振り上げ、 敵の腦天を目がけて發矢《はつし》と打ちおろした。 數千の見物人はけたゝましい叫び聲をあげた。と、どうだらう! ツワラの頭はまるで肩から彈かれたやうに飛んで行つて、地上に落ち、 ごろ〜轉げて行つて、ちやうどイグノシの脚下《あしもと》で止つた。 死體は暫らくの間直立してゐたが、やがてどさりと地面に仆れ、 首にかけてゐた黄金の頸鎖は首から拔けてあたりに散亂した。 それと同時にサー・ヘンリイも力が盡きてしまつて、 ツワラの死骸の上にどしんと重なつて仆れた。 人々は彼を抱き起して顏に水を注ぎかけた。すると彼の灰色の眼はパッチリ開いた。 彼は死んではゐなかつたのだ。 陽は今しがた沈んだところであつた。私は薄暗がりの中にころがつてゐる、 ツワラの頭の側へ行つて、死者の額からダイヤモンドを外してそれをイグノシに渡した。 「これがククアナの正當な王のしるしだ!」と私は言つた。 イグノシはこれを額に結《ゆ》ひつけ、前へ進み出て首のない敵の死骸の胸のあたりを足で踏まへて、 勝ち誇つた聲を張り上げて、朗かに凱歌を歌つた。それは實に勇ましい歌であつた。 私は嘗て或る學者が、立派な聲でギリシャの詩人ホオマーの歌を原文で朗讀したのを聞いたことがある。 それを聞いた時には歌の意味は判らなかつたが呼吸塞《いきづま》るやうな氣がしたものだ。 今歌つたイグノシの歌も、意味はよく解らなかつた、このホオマーの詩を聞いた時と同じやうな氣がした。 ククアナの言葉も、古代ギリシャ語に劣らず美しい言語《ことば》だと私は思ふ。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十五章 グッドの病氣 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 戰ひがすむと、サー・ヘンリイとグッドとはツワラの小舍へ運ばれて行き、 私もそれについて行つた。彼等は二人ともひどい疲れと出血のための貧血とでぐた〜になつてゐた。 私とても大した相違はなかつた。私は元來丈夫な人間で、體の輕いせゐや、 長い間獵で鍛へあげて來たせゐもあらうが、疲勞に對しては人一倍抵抗力をもつてゐた。 しかしその晩は眞實《まつたく》へと〜になつてしまつた。 そして疲れた時はいつでもさうだが、ライオンに噛まれた古瘡《ふるきず》がちく〜痛み出して來た。 それに今日打たれた頭の打撲傷が劇しく痛むのだ。およそ、その晩の吾々三人ほど慘めな三人は容易に見附かるものではない。 吾々のたゞ一つの慰めは、今朝元氣よく起きて行つた數千の勇士が、 今夜は野原に死骸となつて横はつてゐるのに、吾々はやつと生きのびて、 自分の慘めさを感じる事が出來たことであつた。 ファウラタは、吾々が彼女の命を助けてやつてからといふもの、ずつと吾々の女中のやうになつて、 特にいろ〜グッドの世話をしてゐたが、この娘の手を借りて、 吾々のうちの二人までの命を救つてくれた鎖鎧を脱がした。 私の思つた通り鎧の下には恐ろしい打撲傷がついてゐた。 鋼鐵の鎖だから刄物こそ貫通しないが打撲傷を拒《ふせ》ぐことは出來ないからだ。 サー・ヘンリイとグッドとはまるで打撲傷の塊りだつたと言つてもいゝ。 そして私とてもそれをまぬがれてゐた譯ではなかつたのだ。 ファウラタは打撲傷の藥だと言つて匂ひの良い何とかいふ草の葉を搗《つ》き碎だいた膏藥を持つて來てくれた。 それを傷に當てると大分痛みは和らいだ。 しかしサー・ヘンリイやグッドの受けた刀傷《かたなきず》に比べると打撲傷は何でもなかつた。 グッドは彼の『美しい白い脚』の肉の部分に貫通症を受けて出血の爲にひどく貧血して居り、 サー・ヘンリイはツワラの戰斧の爲に頤《あご》の上に深い傷を受け、 その他にも數ヶ所の傷を受けてゐた。幸にもグッドは外科の心得があつたので、 小さい藥箱を取り寄せると、早速傷口を洗つて、先づサー・ヘンリイの傷口を縫ひ、 次に自分の傷口を縫つた。それから傷のところに消毒用の軟膏を塗つて、 その上をハンカチの片《きれ》で縛つた。 その間にファウラタは、スープを拵へて來てくれた。吾々は疲れてゐたので堅いものを食ふのは億劫であつたのだ。 吾々はこのスープを飮んで毛皮の蒲團の上に寢ころんだ。運命といふものは皮肉なもので、 ツワラを殺したサー・ヘンリイがちやうどその晩ツワラの蒲團で眠ることになつたのであつた。 だが眠ると言つたつて容易に眠る譯には行かなかつた。夫や息子や兄弟を失くした女逹の泣き聲がそこらぢうから聞えて來た。 それも無理はないのだ!この日の恐ろしい戰ひでククアナ軍の略《ほゞ》五分の一にあたる一萬五千人の人が死んだもの。 寢ながら歸らぬ人のために泣いて居るのを聞いてゐると胸が迫るやうだつた。 だが夜半《よなか》頃になると、女逹の泣聲も段々少なくなつて、たうとうひつそりしてしまつた。 併し時々この沈默を破つて、數分間毎に、鋭い、長い呻聲がすぐ吾々の隣りの小舍から聞えて來た。 それは後から解つた所によると、死んだツワラ王を嘆くガゴオルの泣聲であつたのだ。 そのうちに私も少しばかり眠つたが、時々吃驚して目を覺した。 恐ろしかつた晝間の夢を見たのだ。だが夜はどうにか過ぎ去つて行つた。 夜が明けて見ると仲間の者も私と同じやうに眠れなかつたことがわかつた。 グッドはひどい熱を出し、頭が少し變になつて、おまけに血を吐きはじめた。 これには私も吃驚したが、きつと前日、 ククアナ軍の戰士のために鎖鎧の上からむやみに突かれた時に内出血を起したのであらう。 しかしサー・ヘンリイは、顏にうけた傷のために笑ふこともできず、 物を食ふにもかなり骨が折れるやうではあつたが、大分元氣を恢復してゐた。 八時頃になると、インファドオスがやつて來た。彼は吾々を見て大へん喜んで心から握手をした。 だがグッドの容體を見てひどく心配した。彼はサー・ヘンリイに對しては非常な敬意を表して、 彼をたゞの人間ではないと思つてゐるらしかつた。實際、サー・ヘンリイは、 ククアナの國では神と思はれてゐたのである。軍人等は、口をきはめて彼の勇氣をたゞへてゐた。 晝間にさん〜゛激戰をしたあとで、國ぢゆうで一番強いツワラの首を、 たゞの一打ちで打ち飛ばすやうな人は此の世に二人とないと言つて彼等は感歎してゐた。 その後ククアナの國では、ひどく物を打つ場合には『ヘンリイの打撃』と呼んでゐたものだ。 インファドオスの話によると、ツワラの聯隊はみなイグノシに降伏し、 ツワラがサー・ヘンリイに殺されたので、もう騷ぎはこれ以上起るまいとのことであつた。 といふのは一人息子のスクラッガも殺されてしまつたので、 生きてゐるもので王位に即《つ》く權利のあるものはなかつたからだ。 私はインファドオスに向つてイグノシは血の海を泳いで權力の岸へ泳ぎついたやうなものだと言ふと、 彼は肩をすくめて答へた「さうですよ、だがククアナ人は時々血を流さないと温順《おとな》しくならんのです。 多くの者が殺されましたけれど、女は殘つてゐますから、すぐに代りの者が生れて、 それが大きくなると死んだ人に代つて復讎するのです。 そして又暫くの間國内は平穩に治まつて行くのです。」 その後でイグノシがちよつと吾々の小舍を訪ねて來た。彼の額にはダイヤモンドの王冠が載つてゐた。 私は、彼が從者を連れて嚴めしく進んで來る姿を見て、數ケ月前に、ダーバンで、 吾々の從者として使つて慾しいと頼みに來た脊の高いズル人の姿を思ひ出して、 今更運命の數竒を感じずにはゐられなかつた。 「よう國王お目出度う!」と私は立ち上つて言つた。 「貴方がたのお力でやつと國王になれました」と彼は答へた。 彼の話によると、萬事が順調に運んだので、二週間も經つたら即位の大典をあげたいと思つてゐるとの事であつた。 私はガゴオルはどう處分することになつたかと訊ねた。 「あれは惡い老婆だから、弟子の魔法使どもと諸共に死刑にすることになりました」 と彼は答へた。 「でもあの老婆は物識りだね。」と私は答へた。「知識を集めるのは骨が折れるが、 知識を亡ぼすのは雜作もないものだね、イグノシ!」 「さうです」と彼は感慨深く言つた。「あの老婆はむかうに聳えてゐる『三人の魔女』と 『無言の神』との祕密を知つてゐるのです。そしてこの祕密を知つてゐるのはあの老婆だけなのです。」 「それにダイヤモンドの事もあるね。約束を忘れちやいけないよ。イグノシ。 吾々をダイヤモンド坑まで連れて行つてくれなくちや困るよ!」 イグノシが出て行くと、私はグッドの樣子を見に行つた。 彼は熱に浮かされて譫言《うはごと》ばかり言つてゐた。 四五日の間が最も危險な時期だつたので、ファウラタがその間骨を惜まず看護してくれなかつたら、 彼はきつと死んでしまつたの相違ないと私は堅く信じてゐる。 何處の世界へ行つても女は女だ。皮膚の色によつて變りはないものだ。 彼女はまるで熟練した病院附きの看護婦にやうに、病人の枕元について何かと看護をしてゐた。 初めの一晩は、私は彼女の手傳ひをしようとした。サー・ヘンリイも身體が動けるやうになると、 彼女の手傳ひをしようとしたが、彼女は吾々が世話をやくのを好まなかつたと見えて、 吾々がざわ〜動き廻ると病人が落着かないから、病人の看護は彼女一人に任せてもらひたいと言つた。 吾々もそれはもつともだと思つた。日となく夜となく彼女は彼の病床につききつて看護した。 そして牛乳の中へ一種のチュウリップの莖から採つた汁を混ぜた解熱劑を服《の》ませたり、 彼の身體に蠅がとまらないやうに追拂つたりしてゐた。 グッドはあちこちへ轉げまはり、顏はひどくやつれて、大きな眼は燦々《ぎら〜》光り、 しよつちゆう何かべちや〜しやべつてゐた。彼女は小舍の壁に背を凭《もた》せて、彼の側に立つてゐた。 そのやさしい眼には病者に對する限りないやさしさがこもつてゐるやうに見えた—— ことによるとそれは同情以上の何物かであつたかもしれない。 二日の間、吾々は彼は死ぬに相違ないと思つてゐた。 そして心配さうに度々樣子を見に行つた。 たゞファウラタだけはさう信じてゐなかつた。 「あの人はきつと助かりますよ!」と彼女は言つた。 ツワラの宮殿から三百碼以内の地域内には全く人聲が聞えなかつた。 といふのは國王の命令で、サー・ヘンリイと私との外は、 凡ての者が他の場所へ撤退してゐたからだ。それは病人の耳へ人聲が聞えないやうにするためだつた。 グッドが病氣になつてから五日目の晩に、私はいつものやうに、床へつく前に彼の樣子を見に行つた。 そつと小舍の中へはひつて行くと、薄暗いランプの光りでグッドの姿が見えた。 彼はもうばた〜騷ぐのを歇《や》めておとなしく寢てゐた。 たうとう最期だなと思ふと、私は胸が迫つて思はず啜り泣きを洩した。 「しつ!」とグッドの頭の後の方から誰かゞ言つた。 側へ寄つて見ると、彼はまだ死んだのではなくて、白い手でファウラタの細い指をかたく握り締めながら、 すや〜眠つてゐたのだ。もう危機は通りすぎて彼の命は助かつたのだ。 彼はそんな風にしてもう十八時間も眠つてゐたといふことであつた。 私はこんなことを言ふと嘘だと思ふ人があるかも知れないから言ひたくないのだが、 この十八時間の間ぢゆう、この忠實な娘は自分が動いたり、手を放したりすると病人が目を覺しはしないかと思つて、 ずつとそのとほりにしてゐたのだ!ひもじい位の事は何でもないとして、 どんなに彼女は手足が疲れ、痺れたことであらう。實際彼が目を覺ました時には、 彼女は手足が硬ばつて動けなかつたので、人手を借りて運んで行つて貰はねばならなかつたくらゐだ。 一度危機を通り過ぎると、グッドの恢復は非常に速く且つ完全であつた。 サー・ヘンリイは、グッドが餘程恢復するまでファウラタの心をこめた看病のことを話さなかつたが、 彼女がグッドの目を覺しては惡いと思つて、彼の側に十八時間も立ち通してゐたのだと話したときには、 正直なこの水兵の兩眼には涙が溜つた。彼は早速、ファウラタが晝食を準備してゐた小舍へ眞直ぐに駈けて行つた。 言葉の通じない場合に通譯するために私も一緒に蹤《つ》いて行つた。 「私はあの女のために命が助かつたのだから、あの女の親切は一生忘れませんと言つて下さい」とグッドは言つた。 私がそれを通譯すると彼女は淺黒い皮膚の下で、さつと顏を赤らめたやうであつた。 彼女はまるで小鳥が飛ぶときのやうな素早い、それでゐて、しとやかな身振りで彼の方を向き、 大きな鳶色の瞳でちらりと彼を見ながら言つた。 「どういたしまして、あの方は忘れていらつしやるのよ、 あの方こそ私の命を救つて下さつたのでありませんか、 それに私はあの方の下女ぢやありませんか?」 この娘は、どうやら、 彼女の命を助けた時にはサー・ヘンリイや私も與つて力があつたことなどはけろりと忘れれゐるらしかつた。 しかし女といふものは皆さうしたものだ!私の親愛なる女房もその通りだつたことを私は覺えてゐる。 私は厄介なことになつたと思つて、鬱《ふさ》いだ胸を抱いて、この小さな會見から身を退《ひ》いた。 ファウラタのやさしい目附がどうも氣になつたのだ。といふのは、 水兵といふ人間は一たいに女にあまいものなのだが、特にグッドと來てはそれが甚だしかつたからだ。 この世の中に避ける事が出來ない事が二つある。ズル人に戰爭をさせないことゝ、 水兵にちよつとしたことで、すぐ女に惚れるのをやめさせることゝがそれだ。 それから數日經つと、イグノシは、國民會議を召集して、正式にククアナ國の國王として承認された。 その時には軍隊の觀兵式も行はれて非常に盛大な祝典だつた。白髮聯隊の殘軍は、この日、 軍隊の前で整列して、正式の大戰の時の赫々《かく〜》たる武勳を感謝され、 殘存者は凡て國王から多くの家畜を賜り、悉く士官に昇進して新しく編成される白髮聯隊の指揮官になつた。 また全國に布令を發して、吾々がこの國に滯在する間は、吾々三人には、 國王と同樣の待遇をするやうに命令され、吾々は生殺與奪の權を與へられた。 それからイグノシは今後審問せずして人を殺すことを嚴禁し、 魔法狩りは今後絶對に禁止することを公約した。 式が濟むと吾々は、イグノシを訪ねてソロモン街道の終點にある坑山を探檢して見たいと告げ、 その後この坑山について何か樣子が判つたかと訊ねた。 「かういふことが判りましたよ」と彼は答へた。「この土地で『無言の神』と言はれてゐる三つの巨像は、 その坑山の側にあるといふことです。『無言の神』と言ふのは御承知の通り、 ツワラが少女のファウラタを犧牲《いけにえ》に供へようとした神なのです。 そこにはまた大きな深い洞窟があつて、その中に歴代の國王の屍《しかばね》が埋められてゐるのです。 ツワラの國王もそこに埋められてゐる筈です。そこにはまた深い豎坑があつて、 それはずつと昔の人が掘つたものださうですが、 ことによるとそれはあなた方の仰有る寶石を目當てに掘つたものかもしれません。 また國王の墓場には、祕密の窟《いはや》があつて、それを知つてゐるものは國王とガゴオルとだけなのです。 けれどもそれを知つてゐたツワラは死でしまつたし、 私はその窟《いはや》も知らなければその窟《いはや》に何があるかも知らないのです。 けれどもこの土地の傳説によると、ずつと昔一人の白人が山を越えて一人の女に伴はれてそおの祕密の窟《いはや》へ案内され、 その中に藏《しま》つてある寶物を見せてもらつたと言ふことです。 だがその白人がその寶物を取り出す前に、その女が彼を裏切つたので、 彼はその當時の國王のために山の方へ追ひ返され、その後は誰もその窟《いはや》へ行つたことはないと言ふことです。」 「その話は眞實《ほんたう》だ。吾々は山の上でその白人の死骸を見て來たんだから」と私は言つた。 「さうです吾々は見ました。そして私はあなたに約束しました。 もしあなた方がその窟《いはや》へ行くことが出來て、そこに寶石があれば——。」 「寶石があるつてことは、お前の額につけてゐる石の寶石で判つてゐる」 と私がツワラの死體から取つて彼に與へた大きなダイヤモンドを指さしながら言つた。 「若しあればあんた方は持てるだけお持ちになつて良いのです。」 「まづ第一にその窟《いはや》を見附けなければならん」と私は言つた。 「そこへ貴方がたを御案内出來るものは一人しかありません。それはガゴオルだけです。」 「で、もしあの老婆が案内してくれなかつたら?」 「その時にはあの老婆は死刑です!」とイグノシは嚴肅に言つた。 「私はたゞそれだけのためにあの女を生かしておいたのです。お待ちなさい。 あの老婆がどう言ふか聞いて見ませう。」かう言ひながら彼は從者に命じてガゴオルにすぐに出頭するやうに告げた。 暫らくたつと、彼女は二人の護衞に急きたてられて、その護衞の者を口ぎたなく罵りながらはひつて來た。 「その女を殘しておけ」と國王は護衞に向つて言つた。 彼女は支へるものがなくなると、その場にぐたりとへたばつてしまつた。 「何か用かねイグノシ?」と彼女は嗄《しやが》れ聲で言つた。 「お前はこのわしに指一本も觸ることは出來ないのだぞ。 もし觸つたらお前をこの場で殺してやる。わしの魔法に氣をつけるがよいよ!」 「お前の魔法でもツワラを助けることが出來なかつたではないか。狼婆! わしをどうすることも出來るもんか」と彼は答へた。 「まあ聞け!用事と言ふのはかうだ。光る石のある窟《いはや》を吾々に教へるのだ!」 「は!は!」と彼女は嗄れ聲を出した。「それを知つてゐるのはわしだけだ。 そのわしは決してお前に教へはしないぞ。白人の野郎共はこゝから手ぶらで歸らせてやる。」 「どうしても言はなくちやならん。わしはお前に言はせて見せる!」 「何だつて、國王?お前は成る程偉いかも知れんが、お前の力ではわしの口から眞實を言はせることは出來ないよ!」 「それは難しいだらう。だがわしは言はせて見せる。」 「どうして言はせるのだね、國王?」 「かうするのだ。もしお前が言はないと、お前をじり〜嬲《なぶ》り殺しにしてやる。」 「殺すつて?」と彼女は恐怖と憤怒の餘り金切り聲で叫んだ。 「お前はわしに手を觸れる事は出來ないと言うたではないか。 お前はわしをどんな人間か知らないのだね。わしの年齡は幾つだと思ふ? わしはお前の父親も、お前の父親の父親の父親も知つてるのだよ。 わしはこの國の若い時分からこゝにゐたのだ。 そしてこの國が年をとるまでゐるつもりだ。わしは偶然變死でもすれば別のこと、 人手にかゝつて殺されたり何かはしないよ!」 「それでもわしは殺して見せる。おいガゴオル、お前だつてもうそんな年をして生きてゐる樂しみもないだらう。 髮は脱け、齒は落ち、體の恰好も顏の形も何もかも無くなつて、 たゞ惡心と意地惡い眼とばかりになつてゐるお前のやうな惡婆が生きてゐて何の樂しみがあるのだ? 一思ひに片附けてやつた方が却つてお前のためではないか。」 「莫迦!」と鬼婆は叫んだ。「お前は生きてゐる樂しみは若い者だけしかもつてゐないと思ふのか? さうぢやないんだよ。そんなことを思つてゐるから人間の心が何一つ判りはしないのだ。 若い者は、時とすると死にたい氣もするだらう。若い者には感情があるからな。 若い者は戀をしたり、苦しんだりするからな。戀人が死で行くのを見るのなんざあ、 ずゐぶんつらいもんだからな。だが老人《としより》には感情はないのだよ、 戀もないのだよ、は!は!老人《としより》は他人が死んでも笑つてるのだ、は!は! 世の中で惡いことが行はれるのを見て笑つてるのだ! 老人《としより》の好きなものは何よりも命だよ。命と暖かい陽の光りと、良い空氣とだ。 寒いのと、死ぬのとは老人《としより》には禁物だよ。ひ!ひ!ひ!」 かう言ひながら老婆は地べたにのた打ちながら氣味惡く笑つた。 「へらず口はやめて返事をしろ!」」とイグノシは怒つて言つた。 「お前は一體石の在りかを教へるのか教へないのか? 若し教へないのなら今この場で殺してやる。」 「教へるもんか。お前はわしを殺すことなんか出來はしないのだ。 わしを殺すと災《わざはひ》が降りかゝつて來るぞよ。」 イグノシは槍をとり上げてそれを段々下の方にのばし、 たうとう地面に蹲踞《うづくま》つてゐる襤褸《ぼろ》の塊をちくりと刺した。 ガゴオルはギャッと呻いて跳び上つて、またぐた〜と地面にへたばつた。 「教へます!教へます!命ばかりはお助けを!陽なたに坐つて肉に片《かけ》をしやぶらして下されば、 それでよい、教へてあげます!」 「よし、かうしてやればお前は言ふことをきくんだな。明日インファドオスと白人のお客樣とをそこへ案内せい! 道を間違へぬやうに氣をつけるがよいぞ!若し案内することが出來なかつたら、 なぶり殺しにしてやるぞ!」 「間違へつこはないよ。イグノシ。わしは約束だけは必ず守りますよ。 以前に一度、或る女が一人の白人をその窟《いはや》に案内したことがある。 ところがその白人に災《わざはひ》が起つたのだぜ!」と言ひながら彼女は意地惡い眼をぎとりと光らせた。 「その女の名前もガゴオルと言つたのだ。ことによるとその女はわしだつたかもしれないて。」 「[言|虚;#2-88-74]《うそ》を吐《つ》け!」と私は言つた。 「それは十代も前のことぢやないか!」 「さうだつたかもしれん。餘り長生きをすると忘れつぽくなつてな。 では多分その話はわしの祖母さんから聞いた話だつたのぢやらう。 その祖母さんの名前もたしかガゴオルと言つたつけ。 だがその光る石のある處に石を一ぱい入れた皮の袋が一つあるよ。 その石はその男が入れたのだ。しかし石を集めるには集めたが持つて歸ることは出來なんだのぢや。 災《わざはひ》が起つて來てな。災《わざはひ》がだよ。 途中で戰爭で死んだ者の死骸も見られるしな。もうその死骸の眼玉は失くなつてゐるぢやらうて。 肋骨はがらん洞になつてゐるだやらうて、は!は!は!」 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十六章 國王の墓場 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- それから三日目の日が暮れたときには、吾々は既に『三人の魔女』の麓の小舍に停まつてゐた。 ソロモン街道は、そこまで來てゐるのだ。一行は吾々三人と吾々——特にグッド—— の世話をしてゐたファウラタと、インファドオスとガゴオルとであつた。 ガゴオルは駕籠に乘せられて、ぶつ〜呟いたり罵つたりしてゐた。 その外に護衞兵と若干の從者とが蹤《つ》いて來た。三つの山、 といふよりもむしろ一つの山にある三つの峰——は前にも云つたやうに三角形を形造つてゐて、 その基點になる峰々が吾々の方を向いて聳えてゐた。左右に一つ宛《づゝ》の峰があつて、 中央の峰が吾々の眞正面にあるのだ。その翌朝、 朝日を浴びて高く聳えてゐる三つの峰を見たとこの光景は、忘れられないものであつた。 雪を冠つた山頂は高く〜青空に聳え、雪線の下はヒースのやうに紫色に染つてゐた。 吾々の前には、ソロモン街道が、白いリボンのやうに、眞直ぐに約五哩ほど先きにある中央の峰の麓まで、 爪先き上りに走つて、そこで終つてゐた。 だがさうしたことは諸君の想像に任せることにする。 たうとう吾々は、三世紀以前にポルトガルの老人の慘めな死の原因となり、 その何代目かの後裔であつた私の知つてゐる不運な男の死の原因ともなり、 ことによるとサー・ヘンリイ・カーチスの弟のヂョーヂ・カーチスの死の原因ともなつたかも知れない不思議な坑山に近づいた。 吾々は果してそこから無事に歸つて來られるだらうか? 老婆のガゴオルは彼等に災《わざはひ》が降りかゝつたのだと言つた。 吾々にもその災《わざはひ》が降りかゝるのだらうか?私は歩きながらも幾らか氣がかりになつて來た。 グッドも、サー・ヘンリイも同じだつたと思ふ。 一時間半ばかりも、路傍にヒースの生えた道を歩いて行くと、 少し遲れて蹤《つ》いて來たガゴオルが嗄れ聲を出して吾々に止れと叫んだ。 「もつと悠《ゆ》つくり歩くんだよ。」と彼女は草を編んで拵へた籠の間から顏を突き出して言つた。 「寶物を搜しに行くものには、皆が皆 災《わざはひ》が降りかゝるのだぜ。 そんなに走つてまで、わざ〜災を背負ひ込みに行かなくたつていゝだらう!」 そして彼女は恐ろしい聲で笑つた。彼女の笑ひ聲を聞くといつでも私は背筋が寒くなつた。 だが吾々は尚も進んで行くと、遂に吾々の前に大きな四角い坑《あな》が見えた。 坑の周圍《まはり》は勾配になつてゐて、深さ三百呎、周圍はたつぷり半哩もあつた。 「これは何だか判りますか?」と私は、この大きな豎坑を呆氣にとられて見てゐたサー・ヘンリイとグッドに訊ねた。 彼等は首を振つた。 「ではあんた方はまだダイヤモンドの本場のキンバアリイでダイヤモンドを採掘する所を見たことがないのですね。 これはきつとソロモンのダイヤモンド坑に相違ありませんよ。御覽なさい」 と私は坑の四邊を蔽ふてゐる草の中にまだ見える硬い青土の層を指しながら言つた。 「全然《すつかり》同じですよ。」 ポルトガルの老人の地圖に記してある豎坑に相違ない。この坑の周邊《まはり》で街道は二つに岐れて、 その坑をぐるりとかこんでゐた。この周圍の道の處々はすつかり石で出來てゐた。 それは坑のふちが崩れるのを防ぐためらしかつた。坑の反對《むかう》側に立つてゐる三つの塔のやうなものが見えるが、 あれは何だらうと好竒心に驅られながら、吾々は道を急いだ。 だん〜近づくにつれて、それは三人三樣の形をした三つの巨像であることが判つた。 それこそククアナの人民が非常に畏れてゐる『無言の神』であらうと吾々は推測したが、 果してその通りであつた。しかし、この三つの巨像の壯嚴さはその側へ行くまではつきり判らなかつた。 生殖噐崇拜教の粗笨《そほん》な象徴《しるし》を彫り附けた大きな石の臺の上に、 約二十歩づゝの間隔をおいて、三つの巨像が坐つてゐた。二つは男で、一つは女で、 何れも頭の上から臺の上のところまで十八呎ほどあつた。 女の像は裸體できりつとひきしまつた中々の美人であつたが、 長い年月の間風雨にさらされてゐたために、顏は大分破損してをり、額には角髮のあとがあつた。 これに反して二つの男の像は身に布を纒ひ、恐ろしい形相をしてゐた。 わけても右の方の像は惡魔のやうな顏をしてゐた。左に方のは靜かな顏つきをしてゐたが、 その靜かさは身顫ひするやうな靜かさだつた。 この『無言の神』を見てゐるうちに、誰がこんなものをこしらへたのだらう、 それからこの豎坑を掘り、あの街道を造つたのは誰だらうと言ふ疑念が吾々の心に起つて來た。 ふと私は舊約聖書にソロモンが異國の神を追うて彷徨《さまよ》ひ歩くところを思ひ出した。 その三人の神の名前を私は覺えてゐたシドニヤ人の女神アシトレトとモアビタ人の神ケモシと、 アンモンの子供等の神ミルコムとだ。 そこで私はこの巨像はその三人の神をかたどつたものではなからうかと連れの者に言つた。 吾々がこの古代の遺物をすつかりしらべ終らない中に、インファドオスがやつて來て、 無言の神に槍を擧げて敬禮した。そして吾々に向つて、これから直ぐに國王の墓場に行くか、 それとも晝の食事を濟ますまで待つかと尋ねた。若し直ぐ行くならガゴオルが案内するからといふことであつた。 まだ十一時前ではあるし、吾々は早く目的地が見たくてたまらなかつたので、 直ぐにこれから行きたいと言つた。そして私は、もし遲れた場合の要心に少し食物を持つて行くことにした。 やがてガゴオルの駕籠がその場へ運ばれ、ファウラタは私の頼みで若干の乾肉《ビルトング》と、 水を入れた瓢箪とを葦で造つた籠の中へ入れて持つた。ガゴオルは駕籠の中から出ると、 じろりと吾々を見て杖にすがつて巨像の五十歩ばかり後に立つてゐる八十呎もある嶮しい岩の斷崖の處まで蹌踉《よろ〜》しながら行つた。 吾々も彼女の後からついて行つた。そこには坑道の入口らしいアーチ形の狹い門があつた。 ガゴオルは氣味の惡い笑を浮べながらそこで吾々を待つてゐた。 「さあ、さあ!」と彼女は嗄れ聲で言つた。「皆用意はよいかな。 どれ、それではこれから國王の命令通り光る石のところへ案内することにしよう!は!は!は!」 「用意は良い」」と私は言つた。 「よしきた!氣をたしかに持つて何を見ても吃驚せんやうにするがいゝぜ。 さあインファドオス、國王を裏切つたお前さんも道づれになるかね?」 インファドオスは眉をひそめて答へた。 「いや、わしは行かん、わしには用がない!だがガゴオルよく氣をつけろ! お客樣がたの髮の毛一本でも傷つけたら、お前の命はないのだぞ、いゝか?」 「判つたよ、インファドオス、わしはお前を知つとる。 お前はいつも大きなことを言ふのが好きだつた。お前はまだほんの赤ん坊の時に、 お前の母親《おふくろ》をおどかしたのを覺えてゐるよ。 それはまだほんの此間のことだつたからな。だが心配せんでもいゝ。 わしは國王の命令をはたすだけのために生きてゐるのだからな。 わしはこれまでにも澤山の國王の命令通りに働いて來たが、 しまひにはどの國王も皆わしの命令を聞くやうになる、は!は! どれ、これから昔の國王の顏でも見て來ようか!ツワラの顏もな! さあお出で、こゝにランプがある」と言ひながら彼女は大きな油壺を取り出し、 外套の下からあやしげな燈芯を出して火を點けた。 「お前も行かないかね、ファウラタ?」とグッドはこの娘のお蔭で大分上手になつたククアナ語で訊ねた。 「怖いわね」と娘はおづ〜と答へた。 「では僕がその籠を持つて行かう。」 「いゝえ、あなたの行きなさる處なら、どこへでも一緒に行きますわ!」 「これや愈々困つたことになつたわい」と私は心の中で思つた。 ガゴオルはさつさと道の中へはひつて行つた。道は二人でたつぷり竝《なら》んで歩けるほど廣かつた。 そして眞つ暗だつた。吾々はこは〜゛老婆の嗄れ聲のする方へついて行つた。 すると、不意にばた〜と羽搏きの音がした。 「おや、あれや何だらう?」とグッドは叫んだ。「何か僕の顏にあたつたぜ。」 「蝙蝠だよ」と私は言つた。 かれこれ五十歩ばかりも來たと思ふ頃、吾々は道が少し明るくなつて來たのに氣がついた。 それから暫くたつと、吾々は實に驚くべき場所へ來てゐた。 讀者諸君は諸君がこれまで見たことのある一番大きい伽藍を想像して慾しい。 だがその伽藍には窓はなくて、上の方に、恐らく外へ通ずる豎坑があつて、 そこから微かな明りが通つてるのだ。そしてアーチ形の屋根は、 床の地面から百呎も上にあるのだ。かういふ伽藍を想像すれば、 略《ほゞ》、吾々のはひつて行つた洞窟の大體の見當がつくだらうが、 たゞ異つてゐる點は、この自然にできた伽藍は人間のこしらへたどの伽藍よりも高くて廣いといふ點だ。 しかしこの場所の不思議さは、たゞ大きいといふばかりでなくて、 その中には一見氷のやうな、大きな柱が澤山 竝《なら》んで建つてゐたのだ。 それは鍾乳石の柱なのだ。この白い柱のすくすくと竝《なら》んで立つてゐる光景は到底筆紙でつくしがたい雄大なものであつた。 中には起本部の直徑《さしわたし》が二十呎もあつて天井まで續いてゐる柱もあつたし、 中にはいま現に形成されつゝある柱もあつた。 岩の床からできかゝつて[る]のは古代ギリシャの寺院の壞れた柱そのまゝで、 上の屋根から下つてるのは大きな氷柱《つらゝ》そのまゝであつた。 吾々が見てゐる中にもこの柱は刻々に出來つゝあつた。といふのは上の方の氷柱から下の柱の上へ時々小さい水滴がぽたり、 ぽたりと落ちてゐた。中には二三分に一滴位しか落ちないものもあつた。 こんな割合で高さ八十呎直徑十呎もある大きな柱が出來るには何年かゝるか計算して見るのも興味のあることだらう。 鍾乳石といふものは時々妙な形になることがある。それは水の雫が同じところへ落ちないためにさうなるのであらう。 或るものは大きな説教臺のやうな形をしてゐた。 この大きな洞窟の側壁には、ところどころに道が通じて、 小さい洞窟がその先きに開いてゐた。だが吾々はこんな美しい洞窟もゆつくりしらべてゐるひまはなかつた。 といふのは、ガゴオルは鍾乳洞などには無頓着で、早く自分の仕事を濟ましてしまはうとしてゐたからだ。 特に私はどうして洞窟の中へ明りがはひるのか、それは自然にさうなつてゐるのか、 或はまた人間の手でさういふふうに造つたのかを調べて見られなかつたのを殘念に思つた。 だが吾々は歸りにゆつくり見て行かうと思つて、それで諦めて不愛想な案内者の後を蹤《つ》いて行つた。 ガゴオルのあとへついて眞直にこの洞窟の突き當りまで行くと、 そこはまた入口があつた。この入口は初めの入口と違つて、 上がアーチ形でなく、四角で、ちよつと埃及の寺院の入口に似たところがあつた。 「さあこれからいよ〜國王の墓場へはひるんだぜ、用意は良いかね?」 とガゴオルは訊ねた。明かに吾々をわざと氣味惡がらせるつもりらしかつた。 「いゝから行け!」とグッドはちつとも恐くなんかないといふことを見せやうとしながら嚴かに言つた。 實際吾々はみなさういふふうを裝つてゐたのだ。 たゞファウラタは別で、彼女はグッドの腕につかまつてかばつて貰つてゐた。 「少し氣味が惡くなつてきたねえ」とサー・ヘンリイは暗い道を覗きこみながら言つた。 「さあ行きませう、コオターメンさん、あの婆が待つてゐるから。」 ことり〜とガゴオルは杖の音をさせて無氣味な聲で笑ひながら歩いて行つた。 だが私はまだ何となく薄氣味が惡いのでもぢ〜してゐた。 「早く來なさい」とグッドは言つた。「でないとあの綺麗な案内者を見失ひますよ。」 こんなふうに言はれたので、私も仕方なく道を降りて行つた。 かれこれ二十歩ばかりも行くと、陰氣な暗い部屋の中へ着いた。 その部屋は長さ四十呎、幅三十呎、高さ三十呎位あつて、 明かに人間の手で岩を掘り拔いて造つたものであつた。 この部屋は前の大きな鍾乳洞のやうに明るくはなかつたので、初めて見た時には、 部屋の中に大きな石の臺があつて、その上に巨大な白い像が立つて居り、 その周圍に人間位の大きさの白い姿が立つてゐるのが見えただけであつた。 その次に私は鳶色のものが一つ中央の臺の上に坐つてゐるのを發見した。 それからだん〜眼が光りになれてくるにつれて、そこにあるのが何であるかゞ判つて來た。 私は元來あまり神經質な人間ではない。それにあまり迷信などは信じない方だ。 だがこの光景を見た時ばかりは私は仰天してしまつた。 そしてサー・ヘンリイが私の素首《そつくび》を掴んで止めなかつたら、 私はこの鍾乳洞の外へ飛び出してしまひ、 キンバーリーのダイヤモンドを殘らずこれると言つても二度とその中へはひる氣にならなかつたゞらうと思ふ。 だが、サー・ヘンリイがしつかり掴んでゐてどうにもできなかつたので、私はその場に止つてゐた。 しかし暫らくすると彼の眼も暗《やみ》になれてきたと見えて、 サー・ヘンリイは私を掴んでゐた手を放して額の汗を拭きはじめた。 グッドは微かな聲で神を祈り、ファウラタは彼の頸に抱きついてけたゝましく泣き叫んだ。 たゞガゴオルだけは大きな聲を出して長く笑つただけだつた。 それは實に氣味の惡い光景であつた。長い石の臺の端に、骨だけの指で大きな白い槍を持ちながら死の神が坐つてゐた。 それは高さ十五呎もある大きな人間の骸骨の形をしてゐた。 この骸骨は頭の上へ槍を振りあげて、今にも突かうとするやうな身構へをして居り、 片手は石の臺の上へ載せて、今にも起ち上るやうな樣子をしてゐた。 上體は前こゞみになつて頭蓋骨を前に突き出し、空洞《うつろ》の眼でぢつと吾々を凝視《みつ》め、 頤を少し開いて、今にも物を言はうとするやうな風をしてゐた。 「一體あれは何だらう?」とたうとう私は微かな聲で言つた。 「それから、あの周りにあるものは何だらう?」 とグッドは臺の周りに竝《なら》んでゐる多くの白いものを指ざしながら訊ねた。 「それからあれはなんだね?」とサー・ヘンリイは臺の上に坐つてゐる鳶色のものを指ざしながら言つた。 「ひ!ひ!ひ!」とガゴオルは笑つた。 「國王の墓へはひるものには災《わざはひ》が降りかゝつて來るのぢや。ひ!ひ!ひ!ひ!」 「さあお出で、戰爭では勇しかつたヘンリイとやら、こちらへ來てお前が殺した相手を見るんだ」 と老婆は干乾びた指でカーチスの上衣《うはぎ》を引つぱつて臺のところへ連れて行つた。 吾々はそのあとから蹤《つ》いて行つた。 やがて彼女は立止つて、臺の上に坐つてゐる鳶色のものを指ざした。 サー・ヘンリイはそれを見ると呀《あ》つと叫んで後へ跳び退つた。 それも無理ではない、といふのは、臺の上には、カーチスが戰斧で首と胴とを切り放した、 ククアナの前王ツワラのやつれた死骸が裸のまゝで坐つてゐるではないか。 しかも首は膝の上へのせてあつて、切られたあとの頸の肉は縮んで、 脊柱が一吋ばかり上へ突き出てゐたのだ。おまけに死骸の表面には薄い透明な膜が出來てゐるので、 益々薄氣味が惡かつた。なぜそんなものが出來たのか初めの中は良く判らなかつたが、 よく見ると天井からポタリ〜と水滴が死骸の頸の處へ落ち、 それが體躯の表面を傳はつて、臺の小さな穴から岩の中へ流れてゐるのであつた。 それで薄い膜の出來てゐる譯が判つた。ツワラの死骸は刻々鍾乳石になりつゝあつたのだ。 この氣味の惡い臺の周りを取り圍んで坐つてゐた眞白な人間の姿を見た時に、 この見解は益々確實なものとなつた。そこに竝んでゐるのはみな人間の身體なのだ、 といふよりも嘗て人間だつたのが、今では鍾乳石になつてしまつてゐるのだ。 こんなふうにしてククアナの人民は太古の昔から、國王の屍體を保存してゐたのである。 この國王たちの屍體の長い列は實にこの上なく物凄い見物であつた。 二十七の屍體が悉く氷のやうな屍衣を纒うて、死の神を主人としてその無氣味な臺の周りに列んで坐つて居り、 透明な屍衣を透して、微かに顏の輪廓を見ることが出來た。この屍體の數から推して考へても、 この習慣は餘程昔から行はれてゐたの相違ない。國王の平均在位年限を十五年としても、 四百五十年は經つてゐるのだ。 しかし死の神の巨像の方は、それよりもずつと古いものに相違ない。 これは例の三つの巨像をこしらへたのと同じ藝術家の手になつたものであらう。 この像は天然の鍾乳石を切つて造つたもので、解剖學の心得のあるグッドの説によると、 この骸骨は小さな骨の形や配置にいたるまで、解剖學的に完全なものだとのことであつた。 私の考へによるとそれは多分古代の彫刻家が氣紛れに造つたのを、 ククアナ人が見て、その周圍へ國王の死骸を安置しようと考へついたものであらう。 それともことによるとその先にある寶窟へ闖入しようとするものを恐れさすために造られたものかも知れぬ。 それは何れにしてもこれが白い死の神の白い屍體との正體であつたのだ。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十七章 ソロモン王の寶窟 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 吾々がやつと恐れから鎭まつて、氣味が惡いこの墓場を調べてゐる間に、 ガゴオルは別なことをしてゐた。彼女はどうにかかうにかして大きな臺の上は匍ひあがり、 ツワラの死骸の坐つてゐる傍まで行つて何か無氣味なことをしてゐた。 ことによると、彼の死骸がもうどれだけ石化したかをしらべてゐたのかも知れぬ。 それから蹌《よろ》けながら後へ退《さが》つて鍾乳石の屍衣を纒つた白い一つ二つの屍體の前で立ち止つて昔馴染にでも物を言ふやうに、 何か判らぬことを喋つてゐた。 それがすむと彼女は、死の神の脚下《あしもと》にうずくまつて何か祈りをさゝげてゐるらしかつた。 多分、良くない祈願をしてゐたものだらうと思ふ。 吾々はそれを見るとぞつとして早くこの場から出て行きたくなつた。 「さあ、ガゴオル、寶窟へ連れて行け!」と私は低聲《こゞゑ》で囁いた。 老婆はすばやく臺の上から匍ひ下りた。 「怖くはないかね?」と彼女は私の顏を見上げながら言つた。 「さあ行け!」 「よし、よし」と言ひながら、彼女は杖にすがつてよち〜と死の神の後の方へ廻つた。 「寶窟は此處にあるのだ。ランプに火を點けてはひりな」かう言ひながら彼女は油壺を下において洞窟の壁に凭れた。 私は燐寸《マツチ》を取り出して燈芯に火を點け、入口を搜して見たが、 前には堅い岩ばかりで入口らしいものはどこにもなかつた。 ガゴオルは無氣味に笑つた。「そこが道だよ、は!は!は!」 「お前は吾々をからかつてゐるな!」私はきつとなつて言つた。 「からかつてるんぢやないよ、よく見な!」と言ひながら彼女は岩を指ざした。 ランプを差し上げて見ると、石の塊が徐々に床から上へあがつて、 上の岩の中へ消えてしまつた。きつとその石のはひる窪みが上に出來てゐたのだらう。 その石は高さ十呎幅五呎もあつてかなり大きな扉《ドア》ぐらゐの大きさのものであつた。 重さは少くも二三十 噸《トン》はあつたらうと思ふ。 それが簡單な仕掛けで、雜作なく動くやうになつてゐたのだ。 多分近代の窓を上下するのを同じ仕掛けだつたらうと思ふが、 無論吾々にはどういふ仕掛けになつてゐるのか判らなかつた。 この大石がしづ〜とひとりでに上へ上つて、すつかり見えなくなると、 その跡に眞暗な坑《あな》が現はれた。 いよ〜ソロモンの寶窟へ來たんだな、と思ふと私は昂奮のために身體がぞく〜して來た。 吾々は一ぱいかつがれたのかな、それともダ・シルヴェストラの書いたことに間違ひはなくて、 この暗い坑《あな》の中に寶物がどつさりあつて、吾々は世界一の金持になれるのかな? それはもう一二分でわかるのだ。 「そこへはいるんだよ」とガゴオルは入口から中へ進みながら言つた。 「だが、その前にこのガゴオルの言ふことを聞いておきな。 このさきにある光る石は、無言の神の立つてゐる豎坑の中から掘り出して、 こゝへしまつてあるのだ。誰がさうしたのかわからないがね。 こゝに寶物がしまつてあるといふ噂は、この國の人民に代々言ひ傳へられてゐるのだが、 誰もそのありかを知るものもなく、祕密の入口を知つてゐるものもないのだ。 しかしずつと以前に一人の白人が、山を越えて、この國へやつて來て、 その當時の國王から大變款待を受けたことがある。——多分その白人も星の國からでも來たのだらう。 この白人が、この國の一人の女と一緒にこゝまでやつて來て、 その女が偶然その祕密の扉《ドア》を見附けたのだ。お前さんたちが千年かゝつて搜したつて見附かりつこはないのだよ。 そこでその白人は女を連れて中へはひつて、光る石を見出し、その女が辨當袋に持つて來た、 小さな山羊の皮に石をいつぱい詰めこんだのだ。 そして愈々 窟《あな》を出ようとするときになつて、 もう一つの大きな石を拾い上げて、それを手に持つたのだ」 こゝまで言つて彼女は話を切つた。 「ふむ、それでダ・シルヴェストラはどうしたんだね?」と私は深い興味を感じて呼吸《いき》もせずに訊ねた。 老婆は、私がシルヴェストラの名前を言つたのを聞いて吃驚した。 「お前はどうしてその死んだ男の名前を知つてるのだね?」 と彼女は鋭くきゝとがめた。そして答も待たずに續けて言つた。 「それからかうなんだよ。その白人は急に怖くなつて、小山羊の皮包を下へ落して、 手に持つてゐた石を一つだけ持つて逃げ出してしまつたのだ。 その石がツワラの額についてゐた石なのだ。」 「それから誰もはひつたものはないのかね?」と私は暗い道を覗き込みながら訊ねた。 「それからは誰もはひつたものはないのだ。入口の祕密は嚴重に保たれてゐて、 國王だけは、それを開けて見るのだが、中へはひつたものはないのだ。 この中へはひると一月の間に死んでしまふといふ傳説があるのでね。 白人ですらも山の上の洞穴《ほらあな》で死んでしまつたのだからね。 それで國王でも中へはひらないのだ。は!は!これはまつたくだよ。眞實《ほんたう》だよ。」 吾々はこれを聞いて互ひに眼と眼を見交した。 どうして一體この老婆はこんなことを知つてるのだらうと思ふとぞつと寒氣《さむけ》がして來た。 「さあはひるんだ、わしの言つたことが眞實なら、石を包んだ山羊の皮が、 まだ床の上にあるだらう。それからこゝへはひつたものは死ぬと言ふ事が眞實かどうか後になれば思ひあたるだらうて、 は!は!は!」かう言ひながら彼女は手燭《ランプ》を持つてよち〜坑《あな》の中へはひつて行つた。 白状するが、私はまた彼女の後から蹤《つ》いて行くのを躊躇《しりごみ》した。 「大丈夫だ!あんな婆の言ふことを恐れてたまるものか」と言ひながらグッドは、 ガゴオルの後について坑《あな》の中へはひつて行き、吾々も澁々その後に續いた。 數碼進んで行くと、ガゴオルは立ち止つて、吾々の來るのを待つた。 「こゝを見い」と彼女は手燭《ランプ》をさし上げながら言つた。 「こゝへ寶物を藏《しま》ひ込んだ人たちは、萬一祕密の入口を見附けた者があつても、 中へはひれないやうに、こんな設備をしておかうと思つたのだが、 間に合はなかつたのだ」かう言ひながら、彼女は、二呎四方もある四角な石が道の上に積み重ねてあるのを指ざした。 その傍にもそれと同じ大きさの石がおいてあり、何よりも不思議な事には、 漆喰《しつくひ》と、鏝《こて》とが側においてあつたことだ。 その鏝は、今日の職人の使ふものと同じやうな形をしてゐた。 こゝまで來ると、ファウラタは、恐ろしくなつてもうこれから先きへは行けないからそこで待つてゐると言つた。 そこで吾々は彼女をその造りかけの壁の上に坐らせ、食料品を入れて來た籠を彼女の傍に置いて、 後に殘して進んで行つた。 十五歩ばかり行くと、突然、精巧な彫刻をした、木の扉《ドア》に突きあたつた。 その扉は開け放してあつた。この前にはひつた者が、それを閉めるひまがなかつたのか、 それとも閉めるのを忘れたのかに相違ない。 この扉の閾の上に、山羊の皮で造つた皮袋が落ちて居り、 その中に小石が一ぱいはひつてゐるらしかつた。 「ひ!ひ!どうだね?」とガゴオルは笑つた。「わしの言つた通りだらう。 こゝへ來た白人が慌てゝ逃げ出して、女の皮袋をあそこへ落して行つたのだよ!」 グッドは身をかゞめてそれを拾ひ上げた。それは重くてざく〜音がしてゐた。 「きつとこの中にダイヤモンドがいつぱいあるんだね」と彼は眞顏になつて言つた。 誰だつて、ダイヤモンドのはひつた、山羊の皮袋を見ては眞顏にならざるを得ないだらう。 「さあ行け!」とサー・ヘンリイは焦々《いら〜》しながら言つた。 「その手燭《ランプ》を貸せ」と言つてガゴオルの手からランプを取つて、 部屋の中へはひり、燈りを高く頭上にさし上げた。 吾々も、ダイヤモンドの袋のことは暫らく忘れて中へはひつた。たうとうソロモンの寶窟へ着いたのだ! 薄暗い燈火《あかり》で見ると、それは天然の岩をくりぬいてこしらへた十呎四角位の部屋であつた。 部屋の中には床から天井まで立派な象牙が積み重ねてあつた。吾々の眼に見えただけでも、 最上等の象牙が四五百本位あつた。この象牙だけでも吾々は一生裕福に暮してゆくことが出來る。 ソロモン王は、こゝにある材料で、世界無比の有名な「象牙の玉座」をこしらへたのであらう。 部屋の反對側には、赤く塗つた二十許りの木の箱があつた。 「そこにダイヤモンドがあるにちがひない。燈りをこちらへちよつと」」と私は叫んだ。 サー・ヘンリイは手燭《ランプ》をさし上げて、一番上の箱の側へ近寄せた。 箱の蓋は、こんな乾燥しら場所でも腐蝕して、縁がくだけてゐるやうに見えた。 多分、ダ・シルヴェストラが壞したのだらう。 蓋の穴の中から手を入れて中味を一掴み取り出して見ると、 それはダイヤモンドではなくして、吾々のまだ見たこともない形をした金貨で、 その上には、ヘブライ文字らしいスタンプが捺してあつた。 「これでとも角、手ぶらで歸らなくてもいゝ譯だ。」と私は金貨を側へ置きながら言つた。 「箱の中には金貨が二千 宛《づゝ》位ははひつてゐるの相違ない。 そして箱の數は十八ある。これは多分、職人や商人に支拂ふ金だつたのだらう。」 「ダイヤモンドは、あのポルトガル人が皆な袋の中へ入れてしまつたんだな」とグッドは言つた。 「あの一番暗い處を見るがいゝぞよ」とガゴオルが吾々の顏色を讀みながら言つた。 「あの隅つこに、石の箱が三つある。二つは封がしてあつて、一つは開いてゐる!」 これをサー・ヘンリイに通譯する前に、私は一人の白人が三百年も前にこゝへはひつてから、 其の後誰もはひつた者はないのに、どうしてガゴオルがそんなことを知つてゐるかを訊ねて見ずにはゐられなかつた。 「星の世界の人間は、岩の中を見拔くものがあるつてことを知らないんだね? は!は!は!」と嘲るやうに答へて彼女は笑つた。 「あのすみつこを搜して見なさい、カーチスさん」と私はガゴオルのさし示した場所を指ざして言つた。 「おや、こんな處に押入れのやうなものがある」とサー・ヘンリイは叫んだ。 吾々は急いで彼の立つてゐる處へ走り寄つた。この凹んだ場所の壁際に、 二呎立方ばかりの三つの石の箱が置いてあつた。二つの箱には石の蓋がしてあつたが、 三番目の箱は蓋が取つたまゝで開いてゐた。初めのうちは、 銀色の光りがちら〜して、眼がくらんでよく判らなかつたが、だん〜眼がなれてくると、 中には箱の七分目位のところまで、まだ琢きを入れないダイヤモンドがぎつしりはひつてゐた。 私は身をかゞめてその中の幾つかを取りあげた。實にそれは紛れもないダイヤモンドだつた! そのことはすべ〜した石鹸のやうな手ざはりで判つた。 「これで吾々は世界一の金持になつた!」と私は言つた。 「モンテ・クリストだつて到底吾々にはかなはぬだらう。」 「市場にダイヤモンドの洪水を流してやらう」とグッドは言つた。 「まづ早くそれを取ることだね」とサー・ヘンリイは言つた。 吾々は世界中で最大の果報者である筈だのに、何だかまるでこれから罪を犯さうとする謀叛人かなんぞのやうに、 眞青な顏をして手燭《ランプ》の燈りで燦々《きら〜》光る寶石の前に立つて、 互ひの顏を見合せた。 「ひ!ひ!ひ!」と老婆のガゴオルは、大蝙蝠のやうに飛び廻りながら後の方で笑つた。 「お前さんたちの大好きな光る石がそこに慾しいだけある! だがそれを取つても指の間からこぼれてしまふぞ。食つてしまふか? ひ!ひ!それとも呑んでしまつたらどうだ?は!は!」 その時私はダイヤモンドを喰つたり呑んだりすると言ふ考が妙にをかしくてたまらなかつたので大聲をあげて笑つた。 他のものも譯が判らずに笑つた。だが暫らくすると急に笑ふのをやめた。 「他の箱も開けて見ろ!」とガゴオルが嗄れ聲で言つた。 「きつとその中にはもつと澤山はひつてるよ。澤山持つて行くがいゝ。 存分に持つて行くがいゝ、は!は!」 かう言はれたので吾々は外の二つの箱の蓋を開けにかゝつた。 そして何だか冐涜するやうな氣持で箱の封を切つた。 その箱の中にはやはりダイヤモンドがいつぱい填《つま》つてゐた。 少くも二番目の箱からは、ダ・シルヴェストラが取り出さなかつたので、 箱の縁まで溢れるほどはひつてゐた。三番目には四分の一位しかはひつてゐなかつたが、 それはみな色の變つた石だつた。二十カラット以下のものは一つもなく、 或るものは鳩の卵位の大きさだつた。 この大きなのは燈火《あかり》で透して見ると少し黄味を帶びてゐた。 本場のキンバーリーでは、かういふのを「色變り」と言つてゐる。 だが吾々は、その間にガゴオルが殘忍な目附きで吾々の方を睨みながら、 蛇のやうにこの寶窟を脱け出して、暗い道を通り拔けて、 大きな岩の祕密の扉《ドア》の方へ匍つて行つたのを氣が附かずにゐたのだ。 *    *    *    *    *    *    * 忽ち續けざまに泣き叫ぶ聲が暗い道の方から聞えて來た。それはファウラタの聲だ! 「あゝ眼鏡の方《ブウグアン》、皆さん!助けて下さい!助けて!石が落ちて來ます!」 「おやあの娘の聲だ!では——」 「助けて!助けて!婆さんに突き殺されます!」 吾々はすぐに暗い道の中へ駈け下りた。手燭《ランプ》の光りで見ると、大へんだ! 大きな岩の扉《ドア》が徐々に下へ下りつゝあるのだ。 もう床から三呎しかない。その側でファウラタとガゴオルが掴みあつてゐる。 ファウラタの赤い血は彼女の膝までたれてゐたが、勇敢な娘は山猫のやうな老婆に尚もしがみついてゐた。 あつ!老婆は逃げた!ファウラタはばつたり仆れた。 ガゴオルは地べたに身を投げて蛇のやうに身をねぢつて石の扉の下をすり拔けやうとした。 扉はその時に彼女の身體を上から挾んだ。ガゴオルが下になつたのだ! あ!もう駄目だ!もう駄目だ!彼女は石と石とに挾まれて苦悶の叫びをあげた。 三十 噸《トン》の大石がだん〜下へ下りて來て、彼女の骨だらけの體躯を徐々に下の岩の上へ壓《おさ》へつけた。 けたゝましい叫び聲も遂にやんでめり〜と骨の碎ける音が聞え、 吾々がそこへ駈けつけた時には扉は下まできちんと接《つ》いてゐた。 それは四秒間位の出來事だつた。 それから吾々は、ファウラタの方へ向き直つた。可哀さうな娘は、 胸を突き刺されて仆れてゐた。もう助かる見込のない事が私にはすぐに判つた。 「あゝ!ブウグアンさま(グッドのことを彼女はかう呼んでゐたのだ)妾《わたし》は死にます!」 と美しい娘は喘ぎ〜言つた。「あのガゴオルが外へ匍ひ出して行きましたときには、 妾はちやうど氣絶してゐたので氣がつきませんでした。——すると扉が少しづゝ下へ落ちて來るのです。 その時あの老婆はまた中へ引返して來ました。上の方を見上げると、 あの老婆は少しづゝ下へ下りてくる扉をくゞつて、中へはひつて來たものですから、 妾はいきなりあの老婆に武者振りついて止めてやりました。 するとあの女は妾を刺したのです。この通り!妾はもう死にます、ブウグアンさま!」 「かはいさうに!かはいさうに!」とグッドは叫んで、どうすることも出來なかつたので、 下へ身を投げて彼女に接吻した。 「ブウグアンさま」と彼女は暫時《しばらく》してから言つた。 「マクマザンさまはそこにいらつしやいますか?妾はもう眼が見えなくなつてしまひました!」 「私はこゝにゐるよ、ファウラタ!」 「マクマザンさま。暫時《しばらく》の間お願ひですから妾に代つてブウグアンさまに申上げて下さい。 あの方には妾の言葉は判らないのですが、妾は死ぬ前にたつた一語申上げたいことがあるのです。」 「何でも言ひなさい、ファウラタ。私が通譯してあげる。」 「ブウグアンさまに言つて下さい。——妾があの方を愛してゐると言つて下さい。 妾は死んで行くのが嬉しいのです。さうすればあの方は妾のやうな者とは關はりがなくなつてしまひますから、 太陽と闇とがつり合はないやうに、白と黒とはつい合ひません。 あの方を初めて見た時から、妾は時々まるで胸の中に鳥がゐて、 いつかこゝから飛び去つて、何處へか行つて歌ふやうな氣がしました。 今では妾は手を擧げることも出來ませんし、妾の頭は冷たくなつてゐますけれど、 それでも妾の胸は死ぬやうな氣がしないのです。 妾の胸は愛のためにいつぱいで、千年も、若くて生きてゐられるやうな氣がするのです。 どうぞ、あの方に言つて下さい、若し妾が生れかはつたら、 ことによると星の世界でお目にかゝれるかもしれません、 マクマザンさま、どうぞたつた一言、妾が愛してゐるとだけ言つて下さい ——おゝブウグアンさま!もつと強く、強く抱きしめて下さい。 妾にはもうあなたのお腕が判りません、あゝ!」 「彼女はたうとう死んでしまつた——死んでしまつた。」とグッドは悲しみの餘り起ち上つて叫んだ。 彼の正直な顏には涙が傳つてゐた。 「もうあの女のことを悲しまなくてもいゝよ、グッド君」とサー・ヘンリイは言つた。 「え!それはどう言ふ意味です?」とグッドは詰《なじ》つた。 「それはね、君ももうすぐにあの娘といつしよになれるやう[に]なると言ふことさ。 判らないかね、吾々は生き埋めにされたんだ!」 サー・ヘンリイがかう言ふまで、吾々はかはいさうなファウラタの最期の光景に氣を取られてゐたので、 吾々が現在どう言ふ立場に陷つたかを氣がつかなかつた。しかし彼の言葉を聞いて、 その恐ろしさがやつと判つて來た。重い石の扉《ドア》は閉されてしまつたのだ。 しかも多分永久に閉されてしまつたのだ、といふのはその祕密を知つてゐるだゞ一人の人間は、 その下になつて粉微塵に碎かれてしまつたからだ。このやうな扉は、 強力なダイナマイトでも用ゐなければ到底開く望みはない。 しかも吾々はその扉の惡い方に閉ぢ込められてゐるのだ。 數分間吾々は恐怖にうたれてファウラタの死骸の側につゝ立つてゐた。 元氣の何もすつかりなくなつてしまひ、これから徐々に慘めな最期をとげるのだと思ふと、 吾々は呆然としてどうしてよいか判らなくなつた。今になつて吾々はすつかり合點が行つた。 これはあのガゴオルの惡魔が最初から仕組んだ事に相違ない。 あの老婆はどういふものか吾々をひどく憎んでゐたが、その吾々三人が日頃慾しがつてゐた寶物ともろともに、 飢ゑと渇とで徐々に死んで行くのを見て、彼女は樂しまうと考へてゐたのだ。 彼女がダイヤモンドを食ふとか呑むとか言つて吾々を嘲つた意味が、今になつて私には判つて來た。 恐らくはあの憐れなポルトガル人も、吾々と同じやうな目になひかゝつて、 寶石の一ぱいはひつた皮袋を棄てたまゝ、慌てゝ逃げ出したものに相違ない。 「ぐづ〜してゐても仕樣がない」とサー・ヘンリイは嗄れ聲で言つた。 「ランプはすぐに消えてしまふから、あの扉《ドア》を動かす仕掛がそこらにあるかどうか搜して見よう。」 吾々は死物狂ひになつて、血の沼の中をあちこと歩き廻りながら、 扉《ドア》や、道の兩側の壁を手さぐりして見たが、 仕掛けらしいものは何も見つからなかつた。 「駄目だ!」と私は言つた。「仕掛けは内側にある筈はない。 もし内側にあるのならガゴオルは慌てゝ匍ひ出さうとしなかつたに相違ない。 あの老婆が、大きな石の下に敷かれるのもかまはずに逃げ出さうとしたのは、 内側には仕掛けのない事を知つてゐたからに違ひない。」 「とに角、吾々はこの扉《ドア》をどうすることも出來んから、 もう一度 寶窟《いはや》の中へ引き返さう」とサー・ヘンリイは言つた。 そこで吾々は、後へ引返した。行きがけに、中途にある造りかけの壁の側で、 憐れなファウラタが持つて來た食物を入れた籠を見附けたので、 それを吾々の墓場となるべき寶窟《いはや》の中へ持つて行つた。 それから吾々は引返して、ファウラタの屍體を鄭重に寶窟《いはや》の中へ運んで、 金貨の箱の側へ置いた。 そして吾々は、寶石のはひつた三つの石の箱に凭れてどつかと坐つた。 「これから食物をなるたけ永く續かせるために今の中に三人で分けておかう!」 とサー・ヘンリイは言つた。そこで吾々はそれを分配した。 少しづつ食べれば一人前四囘分 宛《づゝ》位の分量があつた。 それから乾肉《ビルトング》の外に、六合づつ位はひる水を入れた瓢箪が二つあつたのである。 「さあ明日は死ぬんだからこれから食つたり飮んだりしよう」 とサー・ヘンリイは苦笑しながら言つた。 吾はめい〜少量の乾肉《ビルトング》を食ひ、少しばかりづつ水を飮んだ。 いふまでもないことだが、吾々はひどく空腹を感じてはゐたのだが、 食慾は餘り無かつたのだ。それでも食事をするといくらか氣分がよくなつて來た。 それから吾々は起ち上つて、何處かに出口はないかといふ微かな希望を持つて、 この牢獄の壁を系統的に隅から隅まで檢《しら》べて見た。 床も同じやうに注意深く檢《しら》べた。 だが出口は何處にもなかつた。考へて見れば寶窟《いはや》などに出口のありさうなわけもないのだ。 ランプはだん〜薄暗くなつて來た。油はもう殆んど盡きてしまつたのだ。 「コオターメンさん」とサー・ヘンリイは言つた。「今何時ですか?—— あんたの時計は動いてゐますか?」 時計を取り出して見るともう六時であつた。吾々が洞窟の中へはひつたのは十一時だつ[た]から、 もう七時間たつたわけだ。 「インファドオスが待ちあぐんでゐるでせう」と私は言つた。 「若し吾々が今夜ぢうに歸らなければ朝になつたら彼は吾々を搜しに來るでせう。」 「いくら搜しても判るまい。あの男は扉《ドア》の祕密も知らなければ、 扉《ドア》が何處にあるかさへも知らないのだから。昨日までは、 生きた人間で、扉《ドア》の祕密を知つてゐるものはガゴオル一人しかなかつたのです。 今日は誰も知つてゐるものはないのです。たとひあの男が扉《ドア》を見附けたとしても、 あれを壞すことは出來はしない。ククアナの軍隊が總掛りになつたつて厚さ五呎もある岩を壞すことは出來はしない。 もうかうなつては神樣にすがるより外はありませんよ。 考へて見れば寶物を搜しに來たものは皆非業の最期をとげたが、 吾々も矢つ張りその仲間の數を増すだけですよ。」 ランプは益々暗くなつて來た。と思ふと急にぱつと燃え上つて白い象牙の積み重ねたのや、 黄金の箱や、その前に横はつてゐる哀れなファウラタの死骸や、 寶物の一ぱいはひつてゐる山羊の皮や、ダイヤモンドの鈍い光りや、 そこに坐つて餓死を待つてゐる三人の白人のやつれた凄い顏やを、一時に明るく照した。 そして焔は消えてしまつた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十八章 絶望 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- その晩の恐ろしさは私の筆では十分に描きつくせぬ。だが有難いことにはその恐ろしさも時々眠りのために途切れた。 こんあ恐ろしい境遇にあつても疲れきつてゐると時々睡魔が襲つて來るものだ。 けれども少くも私は餘り多く眠ることは出來なかつた。 世界中の最も勇敢な人間でも吾々の眼前にさし迫つてゐるやうな運命には氣がくじけてしまふに相違ないのに、 私は決して勇敢な人間ではないのだ。しかもその事を別としても、 その場の餘りの靜けさだけでも、眠ることを許さなかつたのだ。 讀者諸君、夜、床の中で眼が醒めて四邊《あたり》の靜けさが妙に恐ろしくなる時があるに相違ない。 だが諸君は、完全な靜けさと言ふものがどれ程恐ろしいものかまだ知るまい。 地球の表面では常に何かの音、何かの運動があるものだ。ところがこゝではさいふものが絶對にないのだ。 吾々は雪を戴いた大きな峰の内臟の中へはひつてゐるのだ。 數千尺の上には清らかな風が眞白な雪の上を吹いてゐるだらう。 だがそんな音は此處までとゞきはしない。しかも死人は音などさせるものではない、 世界中の砲兵隊が一度に大砲を放つたつて、この生きた墓場の中にゐる吾々の耳にはとゞく筈がない。 吾々は世界のあらゆる響きら絶縁されてゐるのだ。——既に死んだも同じなのだ。 それに吾々の皮肉極まる立場が妙に強く私の胸を打つた。吾々の周圍にはいゝ加減な國の國債を支拂つたり、 艦隊を建造したりするに足る位の富が横はつてるのに、 吾々はそんなものはいらないから少しでも逃げ出す機會があればよいと思つてるのだ。 今にきつとそんな寶物よりも一片の食物、或は一ぱいの水の方がほしくなつて來るだらう。 そして最後には、一思ひに苦しみを縮めて死んでしまふことが出來れば、 そんな寶物はいらないといふ氣にもなることだらう。實際人間が一生を費して得ようとする富なんていふものは、 最後の時になるとまつたく價値のないものだ! こんなことを考へてゐるうちに、夜はだん〜更けて行つた。 「グッド君、燐寸《マツチ》は何本殘つてゐるかね?」とたうとうサー・ヘンリイが言つた。 その聲は恐ろしい靜寂の中にがん〜響き渡つた。 「八本です。」 「一本擦つて時間を見よう。」 彼が燐寸《マツチ》をすると漆黒の闇に馴れてゐた吾々の眼は、 眼がくらむほどまぶしく感じた。私の時計は五時だつた。 吾々の遙か頭の上では、今、美しい曙の光りが雪の峰を染めてゐるに相違ない。 そして、心地よい微風が、夜の靄を吹き拂つてゐることだらう。 「何か少し食つて元氣をつけることにしよう」と私は言つた。 「物を食つたところで何になるんだ?」とグッドは答へた。 「もう早晩死んでしまふんだもの?」 そこで吾々は乾肉《ビルトング》を食ひ、少しばかり水を飮んでまた暫らく休んだ。 その時サー・ヘンリイは出來るだけ扉《ドア》の近くへ行つて大聲を出せば誰かゞ外で聲を聞きつけるかもしれないと言ひ出したので、 長い間の海上生活で鋭い聲を持つてゐるグッドが、手さぐりで隧道《トンネル》を歩いて行つてわめきはじめた。 彼の出した聲は實に大きな聲だつた。しかし外側へは蚊のなく程にも聞えなかつたであらう。 暫らくすると彼は斷念してすご〜歸つて來た。しかもそのために咽喉が渇いて少し水を飮まねばならなかつた。 それで吾々は水がなくなつてしまふのをおそれてもうわめくのはやめた。 吾々はまた用もないダイヤモンドの箱に凭れて何もせずにつくねんとしてゐた。 この何もせずにゐるといふことが、また吾々にとつては何よりもつらいことの一つであつた。 私はもうすつかり絶望してしまつた。サー・ヘンリイの廣い肩の上に頭をもたせて、 私は思はず涙をこぼした。片一方の肩では、グッドが涙をのみ込んでゐるのが聞えた。 その時ほど私はサー・ヘンリイのやさしさと勇氣とをしみ〜゛感じたことはない。 吾々二人が物に恐れた子供で、サー・ヘンリイが乳母だとしても、 彼はこれ以上吾々をやさしくすることは出來なかつただらう。 彼は、彼自身も同じみじめな境遇にあることは忘れてしまつて、 力のあらん限り吾々を慰めたり勵ましてくれたりした。 そして吾々が浮きたゝなくなると遂にはもう苦しむのも暫くの間ですぐに樂になる、 疲れきつて死ぬのは樂しいもおのだ(これは[言|虚;#2-88-74]《うそ》だが)等と言つたりして吾々を慰めた。 その中に夜が明けたと同じやうに日が暮れて行つた。こんな暗闇の中では晝と夜との區別はないのだが、 燐寸《マツチ》をすつて見ると時計は七時になつてゐた。 吾々はもう一度喰ひ且つ飮んだ。さうしてゐるうちに私の心のうちに一つの考へが浮んで來た。 「この空氣は重苦しいが、それでもいつまでも新鮮なのはどういふ譯だらう?」と私は言つた。 「さうだ。そのことは氣がつかなかつた」とグッドが跳び上つて言つた。 あの石の扉《ドア》から空氣がはいつて來る譯はないから、 何處か他のところからはひつて來るに相違ない。 空氣が通はないとすれば、吾々はこゝにはひつた時に窒息してゐる筈だから、 きつとある、搜して見よう。」 このちよつとした希望の火花を認めただけでも吾々の氣持がどれほど變つたかわからない。 吾々はすぐに四つ匍ひになつて少しでも風の通つてゐさうな處を搜しまはつた。 そのうちに私の手は冷たいものにさはつてぎよつとしたが、 それはファウラタの死んだ顏であつた。 一時間餘りの間吾々は搜しまはつたが、たうとうサー・ヘンリイと私とは幾度びも吾々の頭を象牙や、 箱や、窟《あな》の壁にぶつつけてかなり負傷したので絶望して諦めてしまつた。 しかしグッドは何もしないでゐるよりはましだと言つて、殆んど陽氣な調子で辛抱強く搜してゐた。 「みんなこつちへ來て見なさい!」とやがて彼は壓《おさ》へつけるやうな聲で云つた。 言ふまでもなく吾々は彼の方へ蹌踉《よろ〜》しながらかけつけた。 「コオターメンさんちよつと此處へ手をあてゝ見なさい。 私の手のところへ。なにか感じがありますか?」 「風が下からあがつて來るやうな氣がする。」 「よく聽いてゐなさい」と言ひながら彼は起ち上つてそこを足で踏んだ。 すると吾々の心中にはさつと希望の焔が燃え上つた。そこは空洞《うつろ》のやうな響きがした。 私は手を顫はしながら燐寸《マツチ》をつけた。もうあとには三本しか燐寸は殘つてゐなかつた。 燐寸の光りで見ると吾々の立つてゐる處は窟《いはや》の一番端の隅つこであつた。 それだから吾々は、先程あれ程搜してゐても空洞《うつろ》の響きに氣がつかなかつたのだ。 燐寸の燃えてゐる間に、よく念入りに檢《しら》べて見ると、堅い岩の床に一つの接ぎ目があつた。 そしてその岩に一つの石の環がついてゐた。吾々は昂奮の餘り一語《ひとこと》も言はなかつた。 希望のために心臟の鼓動が劇しくなつて物も言へなくなつたのだ。 グッドの持つてゐたナイフの背には馬の蹄《ひづめ》から石を拔きとるために鍵がついてゐた。 彼はその鍵を開いてそれで環のまはりをほじくり、 たうとうそれを環の下へさし込んで鍵が折れないやうに要心しながらそつとこじ上げた。 環はやつと動き出した。それは石で出來てゐたものだから何百年も前からそこに横になつてゐたにもかゝはらず、 餘り堅く膠着してはゐなかつた。鐡の環なら錆びついてゐて動きはしない處だつたのだ。 やがて環は上へもち上つた。そこで彼はその中へ手を入れて力いつぱい引張つた。 しかし下の岩はびくともしなかつた。 「私がやつて見よう!」と私は焦々《いら〜》しながら言つた。といふのは、 その石の環は、あひにく、ちやうど隅つこにあつたので、 二人で一度に引つぱるわけにはゆかなかつたのだ。私はそれを掴んで引つぱつて見たが何の手答へもなかつた。 それからサー・ヘンリイがやつて見たがやはり駄目だつた。 そこでグッドは再び環を掴んで、吾々が空氣の通つて來るのを感じた隙き間を、 もう一度すつかりほじくつた。 「カーチスさん、これをつけてあなたの背中をその中へ通しなさい。あなたは二人力ありますから」 と言ひながら身だしなみのいゝ彼がもつてゐた丈夫な絹のハンケチを取り出し、 それを環の中へ通した。「コオターメンさん、 あなたはカーチスさんの腰の周りを抱いて私が言葉を掛けたら力一ぱい引きなさい。そら。」 サー・ヘンリイは、滿身の力を振りしぼり、グッドと私とも精一ぱいの力を出した。 「そら、そら、もう一 呼吸《いき》だ。少し動き出した」とサー・ヘンリイは喘ぎながら言つた。 彼の大きな背中の筋肉がめり〜いふのが聞えた。 突然、ぎし〜軋《きし》る音が聞えたかと思ふと颯《さつ》と風が吹きあげて來た。 吾々は三人とも重い敷石の下になつて床の上に仰向けに轉んだ。 サー・ヘンリイの力が遂に效を奏したのだ。 「燐寸をつけなさい、コオターメンさん」と吾々が起き上るとすぐにサー・ヘンリイは言つた。 「今度は氣をつけなさい。」 私はその通りにした。すると有難や!吾々の前に石の階段の第一の踏み段があつたのだ。 「さてこれからどうしよう?」とグッドは訊ねた。 「無論階段を下りて行つてあとは神に任せるのさ!」 「ちよつと待つて」とサー・ヘンリイは言つた。 「コオターメンさん、殘つてゐる乾肉《ビルトング》と水とを持つて行きませう。 あとで要るかもしれませんから。」 私はそれを取りに箱の側へ引き返した。そしてそこから行かうとした時にふと考へついた。 吾々はこの一晝夜といふものはダイヤモンドのことなどは考へなかつた。 實際ダイヤモンドのことなんか考へると、そのためにこんな目に遇つたのだと思つて胸糞が惡くなつたものだ。 だが私は思ひ返して、若しこのいま〜しい坑《あな》の中から出られる事もないとも限らぬと思つて、 少しダイヤモンドをポケットへ入れて行かうと決めた。そこで私は最初の箱へ手を突込んで、 私の古ぼけた獵服のポケットへはひるだけのダイヤモンドを填《つ》め込んだ。 そして一番上へ三番目の箱から大きな奴を一掴みか二掴み入れた。これはうまひ考へだつた。 「あんた方もダイヤモンドを持つて行きませんか?」と私は二人の者に言つた。 「私はポケットへ一ぱい填《つ》め込むましたよ。」 「ダイヤモンドなんてもう二度と見たくもない」とサー・ヘンリイは言つた。 グッドは何とも答へなかつた。彼はその時彼を愛してゐた憐れな娘に最後の別れをしてゐたゞらうと私は思ふ。 家の中に安らかに生活してゐる諸君は、吾々がこんな無限の富をうつちやつておくのを不思議に思ふかも知れぬが、 二十八時間もの間、地球の内臟の中へ閉ぢ込められて、それから先どうなるかも判らないやうな場合には、 誰だつてダイヤモンドに未憐を殘すやうなことはなからうと私は思ふ。 私だつて日頃の習慣のために價値《ねうち》のあるものはちよつとそた機會でもあれば持つて行くと言ふことが第二の天性になつてさへ居なかつた、 ポケットの中へこんな邪魔者を填《つ》め込むやうな事はしなかつたに相違ない。 「さあコオターメンさん、來なさい。私が一番先きへ行きますよ」 とサー・ヘンリイが既に石段の最初の段に足を掛けながら言つた。 「よく氣をつけて行きなさい。下に恐ろしい穴があるかもしれませんから」と私は答へた。 彼は十五段ばかり進んだ時、立ち止つた。「これで石段はお終ひだ。 どうやら道があるらしい、早く來なさい」と彼は言つた。 グッドはその次に、私は最後に竝《なら》んで行つた。そして殘つてゐる二本の燐寸のうちの一本をつけた。 その光りで見ると吾々の立つてゐる處は狹い隧道《トンネル》で、 道が右と左とに直角についてゐた。それ以上の事は判らない中に燐寸は指まで燃えて消えてしまつた。 そこでどちらの道を進んだらよからうかといふ厄介な問題が起つて來た。 勿論、その道はどんなふうなのか、或はまた何處へ通じてゐるのか判りやうはなかつた。 だが一方の道を行けば安全で、一方の道へ行けば破滅かも知れないのだ。 吾々は途方に暮れて終つたが、不圖《ふと》私が燐寸を點けた時に風の爲に焔が左の方へ曲つたとグッドが言ひ出した。 「風の吹いて來た方へ行けば良い。風は内側へ吹くので、外側へ吹く道理はないから」と彼は言つた。 吾々はこの言葉に從つて、兩側の壁を手探りして、一歩《ひとあし》毎に前の地面を足でさぐりながら、 どうにかして命を助からうと思つて、この呪はれた寶窟から出て行つた。 そんあことはあるまいと思ふが、若し生きた人間がいつか此處へはひつたら、 開け放した寶石の箱や、油のなくなつたランプや、 憐れなファウラタの白骨等で吾々が嘗つてこゝへ來たことが判るだらうと思ふ。 手探りをしてかれこれ十五分ばかりも進んで行くと、道は急角度を畫いて曲つて居り、 それからまたしばらく行くと同じやうに曲つて何處までも續いてゐた。 そんなふうにして吾々は數時間も進んで行つたが、どうやらこの道は出口のない石の迷路らしい、 何のための道かは判らないが、確かに太古にこしらへたもので、 鑛脈に沿うて縱横に掘つたものらしい。 遂に吾々は疲れきつてがつかりして立ち止つた。 そして乾肉《ビルトング》の殘りと最後の水とを飮んでしまつた。 咽喉は石灰窯のやうにから〜に乾いてゐた。岩窟の暗闇の中で死ぬことだけはまぬがれたものの、 今度は隧道《トンネル》の暗闇の中で死ぬことになるらしい。がつかりしてそこに立ちつくしてゐると、 何だか物音が聞えるやうな氣がしたので、他の者にもそのことを注意した。 それは、微かな、非常に遠くから聞える音ではあつたが、やつぱり音には違ひなかつた。 こんなに寂然《ひつそり》とした處では音が聞えたゞけでもどんなにほつとするか知れたものではない。 「あれは水の流れる音だ。行つて見よう!」とグッドは言つた。 そこで吾々は以前のやうに手探りしながら音の聞える方へ進んで行つた。 だん〜進んで行くにつれて音ははつきり聞えるやうになり、 遂にはごう〜といふ大きな音になつて來た。確かに水の音だ。 だがいつたいどうしてこんな處に水が流れてゐるのだらう? 水の音はもうすぐ側に聞えて來た。先頭に立つてゐたグッドは水の匂ひがすると言ひ出した。 「そつと行くんだよ、グッド君」とサー・ヘンリイは言つた。 「もうすぐそばに違ひないから。」と突然、ざぶん!と音がしてそれと同時にグッドの叫び聲が聞えた。 彼は水の中へ墜ちたのだ。 「グッド!グッド!何處にゐるんだ?」と吾々は吃驚して叫んだ。 するとむせるやうな聲で返事が聞えたのでほつとした。 「大丈夫です、岩に掴まつてゐるから。燐寸をつけて見せて下さい。」 私は急いで、殘つてゐる最後の一本の燐寸をつけた。その明りで見ると、 吾々の脚下《あしもと》には黒い水が流れて居り、少し先の方の突き出た岩につかまつてゐるグッドの黒い姿が見えた。 水の幅はどれ位か判らなかつた。 「私をつかまへて下さい。そこまで泳いで行きますから」とグッドはどなつた。 ついでざんぶと水の中へ飛び込む音が聞え、やがて彼はサー・ヘンリイの伸してゐる手につかまつた。 吾々は彼を隧道《トンネル》の上へ引き揚げた。 「大へんだつた!」と彼は喘ぎ喘ぎ言つた。「もしあの岩につかまらなかつたら、 そしてもし私が泳ぎを知らなかつたら、土左衞門になつたところですよ。 流れは速いし、底はないのですからね。」 吾々はまた墜ちはしないかと思つてこの流れの岸傳ひに進むことはやめて、 グッドが暫らく休み、吾々も水を飮んだり顏を洗つたりしてから、もと來た道へ引き返した。 そして右の方へ曲つてゐる別の道へはひつて行つた。 「どちらへ行つても同じだね。おつこちる處まで行つて見るまでだ」とサー・ヘンリイは言つた。 今度はサー・ヘンリイが先頭にたつて、吾々は力なくしほれきつてとぼ〜と後から蹤《つ》いて行つた。 突然彼は立ち止つた。「これや私の頭がどうかしたんだらうか? それともあれは光だらうか?」と彼は囁いた。 吾々は眼を据ゑてぢつと見詰めた。すると成程、ずつと先きの方に微かな小屋の窓位な光るところが見えた。 それは吾々のやうに二日間も暗闇の他に何も見なかつた者の眼にでなければ判らないほど微かな光りであつた。 吾々はほつと安心してその方へ進んで行つた。五分間も行くと、 その光りは紛れもないものになつて來た。それから暫らくたつと爽かな風が吾々の顏にあたつて來た。 吾々はずん〜進んで行つた。隧道《トンネル》はだん〜狹くなり、下はもう岩ではなくて土になつてきた。 吾々は四つ匍ひになつて匍ひだし、初めにサー・ヘンリイがやつと外へ脱け出した。 グッドも私もそれに續いて隧道《トンネル》から匍ひ出した。 外へ出て見ると、空には星が輝いてをり、吾々は爽かな空氣を吸ひこんだ。 だがその時突然足をふみはづして吾々は草と軟かい土との上をごろ〜と何處までもころんで行つた。 私は何かにつかまつてとまつた。でその場に坐つて大きな聲でわめくと、 下の方でサー・ヘンリイが答へた。彼も勾配の少し平たくなつた處にとまつてゐたのだ。 彼はせい〜息をきらしてはゐたが別に怪我はなかつたやうだ。 それから吾々はグッドを搜した。グッドも少し離れたところの又のある木の根にひつかゝつてとまつてゐた。 彼は方々を打つたらしいがすぐに正氣にかへつた。 吾々は草の上に坐つて泣きたいほど嬉しい氣持になつた。 すんでのことで吾々の墓場になるところであつた、あの恐ろしい土穽《つちあな》から、 吾々はやつと逃げだすことができたのだ。きつと情け深い神樣の力が、 吾々の足を豺《むじな》の穴の方へ導いて下さつたのに相違ない。 と言ふのはあの隧道《トンネル》の端にあつたのはたしかに豺《むじな》の穴の相違なかつたと私は思ふ。 その時は恰度向うの山は薔薇色に染つてゐるところであつた。 吾々は二度と見られまいと思つた曙の光を見たのだ。 やがてほのかな晝の光りが射し込むにつれて、吾々の居る處は洞窟の入口の附近にある大きな豎坑 に近い處であると言ふことが判つて來た。 上には坑《あな》の縁《へり》に立つてゐる三つの巨像の姿がぼんやり見えた。 疑ひもなく吾々が彷徨《さまよ》ひ歩いたあの隧道《トンネル》は、 このダイヤモンド坑と何か關係があつたのだ。地下を流れてゐるあの河は何の爲の河で、 また何處から流れて何處へ注いでゐるかは判らなかつたが、私はそんな事は知りたいと思はなかつた。 四邊《あたり》はだん〜明るくなつて、吾々はお互ひの顏が見えるやうになつた。 吾々は頬はこけ、眼は窪み、顏ぢゆに埃《ほこ》りと泥とがいつぱいついて居り、 そこらぢゆうかすり疵《きず》のため血だらけになつてゐた。 そして吾々の顏にはさし迫つた死に對する恐怖の色がまだあり〜と殘つてゐた。 到底陽の光りで見られるやうな顏ではなかつた。 しかもなほグッドの眼鏡が彼の眼にはまつてゐた事は儼然たる事實であつた。 恐らく彼は一度もそれを外した事はなかつたのだらう。 眞暗な闇も、地下の河への墜落も、豎坑の勾配を轉げ落ちたことも、 グッドと彼の眼鏡とを引き離すことはできなかつたのだ! やがて吾々は起ち上つた。そして餘り長くとまつてゐると手足がなえて來るのを恐れて大きな豎坑の側壁を徐々に上りはじめた。 一時間餘りも青い粘土の勾配を木の根や草につかまりながら攀ぢ上つてたうとう巨像の立つてゐる街道へ登りついた。 百碼ばかり離れた道端に焚火が燃えてゐて、火の周りには人影が見えた。 吾々が互ひにぐんなりした身體を凭《もた》せ合ひながら、蹌踉《よろ〜》とそちらへ進んで行くと、 その中の一人が立ち上つて吾々を見ると地べたに倒れて恐怖の叫びをあげた。 「インファドオス、インファドオス!、吾々だよ!」 彼は起ち上つて吾々の側へ駈け寄り、まだ恐ろしさに慄へながら、しげ〜吾々を見詰めた。 「おゝあなた方でしたか、眞實《ほんと》にあなた方が生返つて來なすつたのですか! 眞實《ほんと》に生き返つて!」 かう言ひながら老戰士は吾々の前に身を投げ、サー・ヘンリイの膝につかまりながら嬉し泣きに泣いた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第十九章 イグノシの別辭 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- それから十日目に再び吾々はククアナの宮殿へ歸つて來た。 私の頭髮があの洞窟へはひる時よりもずつと白くなつたのと、 グッドがファウラタに死なれてから、とかく鬱《ふさ》ぎがちになつたのとを除くと、 外には大して別條はなかつた。私は舊式な常識家の立場として、 ファウラタが死でくれたたことは幸いだつたと言はざるを得ない。 あの娘が生きてゐたら、きつと面倒が起つたに相違ない。 あの可哀さうな娘は、普通の土人の娘とは違つて殊勝な心掛けの娘であつたらうし、 姿も美しく氣だてもやさしかつたが、どんなに美しくたつて、 どんなに氣だてがやさしくたつて、結局あの娘が自分で言つたやうに、 太陽と闇とはつり合はないし、白と黒とはつり合はないのだから。 言ふまでもなく吾々はソロモンの寶窟へは二度とはひらなかつた。二日休んで疲勞が恢復すると、 吾々が匍ひ出して來た豎坑の側壁にある穴が見つかりはしないかと思つて豎坑の中へ下りて搜して見たがたうとう見附らなかつた。 第一雨の爲に吾々の足跡は判らなくなつてゐたし、それに色々な穴が澤山あつて、 吾々の助かつた穴はどれであるのか到底見判けがつかなかつた。 それから宮殿へ歸つて來る前日に吾々は、あの驚くべき鍾乳洞をもう一度 檢《しら》べに行き、 國王の墓場の中へもはひつて見た。白い死の神の槍の下を通りすぎて吾々は、 吾々の逃げ道を塞いでしまつた大きな岩の扉を眺めた。 その岩の下には、ガゴオルの屍體が平たくぺちやんこにつぶれてゐた。 しかしその岩の扉《ドア》はつぎ目さへ判らず、一時間餘りも搜して見たけれども祕密の仕掛けだどはてんで判らなかつた。 あとに殘して來た數限りない寶物の事を考へると殘念でたまらなかつたがどうにも仕樣がなかつた。 吾々はがつかりして、もと來た道へ引返し、その翌日宮殿へ向けて出發したのであつた。 しかし眞實《ほんたう》のところを言ふと、吾々ががつかりしたなんていふのは餘り蟲がよすぎるかも知れぬ。 といふのは、讀者は記憶してゐるであらうが、 私は急に思ひついて寶窟から出がけに古ぼけた獵服の殘らずのポケットへ寶石を一ぱい填《つ》め込んだからだ。 その中の少なからぬ部分は豎坑の崖を轉げ落ちる時に落してしまつたが、 まだかなり殘つてゐた。中には百カラットから三千カラットまでの大きなのが十八もあつた。 私の古ぼけた獵服だけでもまだ吾々みんなが百萬長者にはなれないまでも、 少くもずゐぶん裕福な身になるのは十分だつた。 その上に三人がめい〜一番立派なのを自分のものとして一組 宛《づゝ》、 ヨーロッパへ持つて歸ることも出來たのだ。 宮殿へ着くと吾々はイグノシから非常に喜んで迎へられた。彼は大層元氣で、 ツワラとの大激戰で損害を蒙むつた聯隊の改造などに忙がしかつた。 彼は非常な興味をもつて吾々の驚くべき物語りを聞いてゐたが、 ガゴオルが恐ろしい最後ととげたといふことを聞くと、急に感慨にたへぬやうな樣子になつた。 そして國王の周りに列《なら》んでゐた顧問の一人を呼んで訊ねた。 「お前はずゐぶん年を老《と》つてるな。」 「さやうで御座います。國王の祖父樣と同じ日に私は生れたので御座います。」 「お前の子供の自分にお前はガゴオルを知つてゐたか?」 「はい知つておりました、國王」 「その時分にはガゴオルはお前のやうに若かつたか?」 「いゝえ國王!あの女は今と同じやうに年をとつてゐました。 そして私の祖父樣のじぶんにもやはり年老つて、干乾びて、醜い、惡い婆でありました。」 「もうあの婆はゐないのだ!あの婆は死んでしまつたのだ!」 「ではこの國から古い災禍《わざはひ》が取り除かれたといふものでございますね。」 「もうよい!」 「はつ!」 「皆さん」とイグノシは言つた。「あの老婆は不思議な奴です。 あの女が死だので私は喜んでゐるのです。あの女は暗い處であなたがたを殺さうとしたのです。 そしてそのあとで私の父を殺したやうにして私を殺したかも知れないのです。 では話をお進め下さい。」 私は吾々の脱出の物語りをすつかり話してしまふと、兼て三人で打合せてあつたので、 私は愈々ククアナの國を出發すると言ふことをイグノシに告げた。 「たうとうお前にお別れをして、もう一度吾々の故國《くに》へ歸る時が來た。 考へて見ればイグノシ、お前は吾々の從者として來たのだが、 今では立派な國王のお前に別れを告げることになつたのだ。 吾々の恩を忘れないならお前が約束した通りにやつてくれよ。 正しい政事《まつりごと》を布き、法律を尊び、理由もなしに人を殺すやうなことはしてくれるな、 さうすれば國は益々榮えてゆくだらう。 明日の夜明には吾々に從者をつけて山の向うまで送つて來てもらひたい。 そのことは許してくれるだらうな國王?」 イグノシは返事をする前に兩手で顏を掩うた。 「私はこの胸が痛みます」とたうとう彼は言つた。「あなたの言葉を聞くと私は胸が裂けるやうです。 皆さん、私がどのやうな事をしたために私を一人殘して皆さんはお歸りになるのですか。 謀叛の時には私といつしよに戰つて下すつて、戰に勝つて平和になると、 どうして私を殘して行つておしまひになるのですか? 私は何をさし上げたらよいでせう?女がお望みなら若い娘の中からお望みのものをお取り下さい! お住居《すまひ》がお入用なら眼の屆くかぎり、どの土地でもさし上げます。 白人の住む家がお望みなら、私の人民に教へて建てさせて下さい! 牛がお望みなら結婚した男に申附けて下されば誰でも牡牛でも牝牛でも持つて參ります! 獵の獲物がお望みなら私の國の林には像が歩いて居ます! 葦の間には河馬が眠つて居ります!戰爭がしたければ私の軍隊はあなた方の命令を待つて居ります! その他何でもお望みのものがあればさし上げます!」 「いやイグノシ、さういふものは吾々は少しも慾しくはない」と私は答へた。 「吾々は生れた土地へ歸りたいのだ。」 「はゝあ判りました!」とイグノシは眼を光らして不機嫌な顏で言つた。 「あなた方は、私より、あなた方の友人の此の私より、光る石が好きなんですね。 あなた方はその石を持つてこれからナタルへ行つて、黒い、動く水を越えてそれを賣つて金持になりなさるのだ。 白人の性根といふものはみんなそんなもんだ。思へば白い石が憎らしい。 それを慾しがる者が憎くらしい。白い石を搜すためにあの墓場へ足を踏み込んだものはみんな死でしまふがいゝ。 ではどうぞ勝手に行つて下さい!」 私は彼の腕に手をのせて「イグノシ!」と言つた。 「お前はズルの國に彷徨《さまよ》つてゐた時分に、ナタルで白人と一緒に住んでゐた時分に、 お母さんから聞いたお前の生れ故郷へ、お前が子供の時分に遊んだところへ、 お前の家のあるところへ、歸りたいとは思はなかつたか?」 「そりや歸りたかつたですよ、マクマザンさん。」 「それと同じだよ、イグノシ、吾々の心は吾々の故郷が懷かしいのだ!」 暫らく沈默が續いたあとでイグノシはがらりと聲の調子を變へて言つた。 「よく判りました。あなた方の仰有る通りです。空を飛ぶものは地上を走ることを好みません。 白人は黒人と住むことを好まないのでせう。私の胸は痛みますけれど、 矢張り、あなた方は行つて下さい。私のところへはあなた方のお便りはないのだから、 あなた方は私のとつて死んだも同じなのですが、私はあきらめます。 「だが聞いて下さい、そして皆の白人に知らせて下さい。今後、他の白人は、 たとひ無事にあの山を越える事が出來たとしても、私は決してこの國へ入れません。 私は鐡砲を持つたり、ラム酒を持つたりして來る商人はこの國へ入れたくありません。 私の國の人民は先祖がして來たやうに槍で戰はせます。水を飮ませます。 私は人間の心に死の恐ろしさを吹き込んだり、國王の法律に叛《そむ》かせたりする説教をする人たちもこの國へ入れません。 若し一人の白人がこの國へ來たら私は送り歸してやります。もし百人の白人が來たら追ひ返してやります。 もし白人の軍隊が來たら私は全力をあげて彼等と戰ひます。光る石はもう誰にも搜させません。 若し軍隊がやつて來たら私はこの國の聯隊を派遣してあの豎坑を埋めてしまひ、 白い柱を折つてしまつてあなた方が話しなさつた石の扉《ドア》のそばへも寄せつけません。 しかしあなた方三人はいつでも來て下さい。喜んでお迎へいたします。 あなた方は生とし生ける何物よりも私にとつては尊いのですから。 「あなた方はお歸りになる時には叔父のインファドオスと私の顧問とに一聯隊の軍隊をつけてお供させます。 山を越して行くには別の道がもう一つありますからその道を案内させませう。 では左樣なら皆さん。もう私を見ないで下さい。私はもうたへられませんから。 私は緊急敕令を出して沿道の人民にあなた方の名前を口にすることをかたく禁じ、 もし命《めい》に叛《そむ》く者は死刑にするやうに布令して置きます (この風變りな消極的な敬意を表する方法はアフリカ民族の間では珍らしくないのである)。 さうすればあなた方の記憶は永久に殘るでありませう! 「ではもう行つて下さい。私の眼に女の眼のやうに涙の流れないうちに行つて下さい。 だが時々長い人生の行路の途中で過去を振り返りなさる時、 またあなた方がお年齡《とし》をとつて火のそばで蹲《うづくま》つて居なさる時には、 吾々がこの國で手に手をとつて戰つたことを思ひ出して下さい。では左樣なら。御機嫌よう。」 イグノシは立ち上つて暫らくの間しげ〜と吾々を眺めてゐた。 それから彼は肩衣《かたきぬ》のすみで顏を掩うて吾々の姿が見えないやうにした。 吾々は無言のまゝ立ち去つた。 その翌朝、吾々は別れを惜む舊友インファドオスと水牛聯隊とに送られて宮殿を去つた。 まだ時刻は早かつたが町の大通りには澤山の人民が列をつくつて吾々に送別の敬意を捧げた。 女どもは吾々に花を投げてくれた。それは實に至情のこもつたほろりとする光景であつた。 しかも送つてくれる相手は野蠻な土人なのだから益々哀切を極めたものであつた。 ところで途中で滑稽なことが起つた。 恰度吾々がある街へさしかゝつたときに、一人の美しい若い女が綺麗な百合の花を持つて、 それをグッドに送つた。どうも女どもはみんなグッドを好いてゐるやうだ。 そしてその若い女は彼に一つの願ひを聽きとゞけて貰ひたいと言つた。 「何だつて言つて御覽!」と彼は答へた。 「どうぞ卑しい妾《わたし》たちにあなた樣の美しい白いおみ脚を拜まして下さい。 あなた樣のおみ脚のお噂を聞いて、遙々四日もかゝつて田舍から參つたものですから。 一目拜まして戴いて孫子の代まで語り傳へやうと思ひますから。」 「そんな馬鹿なことをしてたまるか!」とグッドは昂奮して叫んだ。 「まあまあ君!」とサー・ヘンリイは言つた。「君は婦人《レデイ》の頼みを斷る譯にはゆかんよ。」 「いいや、どうしても嫌だ。そんな不作法な事が出來るものですか」とグッドは頑固に言ひ張つた。 けれどもたうとう彼は承知してヅボンを膝までめくつた。それを見るとその場にゐる女ども、 特に頼みを聞いて貰つたその若い娘は夢中になつて喜んだ。 で、たうとう彼は町の外れまでさうして歩いて行かねばならなかつた。 だん〜進んで行くうちに、インファドオスは、 ククアナ國からシバの乳房を越えて沙漠へ下りる道が外にもう一つあると言つた。 その道を通つてゆけば沙漠の中途に大きなオアシスがあるといふことであつた。 そして歸りにはその道を通つた方がよからうと彼は勸めた。 ククアナを出てから四日目の夜、吾々は再びククアナと沙漠とを隔てゝゐる山の頂きに着いた。 翌日の夜明けに吾々は嶮しい崖の端まで來た。そこから二千呎ばかり下に横はつてゐる平野に下りて行くのだ。 そこで吾々は老戰士インファドオスに別れを告げた。彼は別れにのぞんで、 心から吾々の幸福を祈り、悲しさのために殆んど泣かんばかりであつた。 「この老人の眼ではあなた方のやうな方はもう二度と見られますまい。あなた方のことは一生忘れません。 わけてもサー・ヘンリイさまが戰爭で勇ましい働きをなされた姿はまだ眼に見えるやうです。 兄のツワラの首を切り飛ばされたところなんぞは眞實《まつたく》御立派でした。 あんな事はこれからさき、ことによつたら運よく夢にでも見られるかもしれませんが、 この眼では到底見られますまい」と彼は言つた。 吾々も彼と別れるのが悲しかつた。ことにグッドは非常に別れを惜んで記念に問題の眼鏡を一つ彼にやつた。 それは彼が別に取つておいた眼鏡であることがあとから判つた。 インファドオスは大喜びで、かういふものを持つて居れば彼の威信が大いにあがると言つて、 何べんも失敗《しくじ》つた後、たうとうそれを彼の眼にはめた。 この老戰士が眼鏡を掛けた姿ほど不似合な恰好は私はまたと見た事がない。 まつたく豹の皮の外套や、黒い駝鳥の羽根飾りには眼鏡といふものは似合はないものだ。 それからイグノシの好意で吾々を送つてくれる案内人どもは、 水や食料品を澤山背負ひ、水牛聯隊から割れるやうな送別の萬歳の叫びを浴びながら、 吾々は坂道を下つて行つた。下り道は相當骨が折れたがどうにかその日の夕刻には別に故障もなく麓まで着いた。 その翌日吾々は五人の案内人に水や食料品を持たせて、骨の折れる沙漠の中を歩いて行つて、 晩には沙漠の上にテントを張つて夜を明かし、その翌日の曉方《あけがた》になるとまた歩き出した。 三日目の正午までに吾々は案内人の言つたオアシスの樹立《こだち》を見ることが出來た。 それから日沒前には再び草原の上を歩いて流れる水音を聞いてゐた。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27 ソロモン王の寶窟 : 第二十章 邂逅 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- さてそれから私はこの不思議な旅の中でも最も不思議な話を書くことになつた。 この出來事は運命といふものが如何に竒《く》しきものであるかを示すものだ。 私は他の二人の者の先にたつてオアシスから流れる小川が、飢ゑた沙漠の中へ呑まれてしまふ處まで岸傳ひに歩いて行つた。 その時突然私は眼をこすつた。それも無理ではない。 私から二十碼足らず前の無花果の樹蔭の氣持よい場所に、 小川に面して、こぢんまりした一軒の小舍が建つてゐたのだ。その小舍は、 ケーファー人の小舍と同じやうに、草と細い樹枝とで造つたものではあつたが、 入口は丸くくゞり穴ではなくて、普通のたつぷりした扉《ドア》になつてゐた。 「こんなところに何のために小舍を建てたのだらう?」と私は獨り言を云つた。 すると恰度その時に小舍の扉《ドア》が開いて、 毛皮の服を着て黒い鬚をもぢや〜生やした一人の白人がびつこを引きながら小舍の中から出て來た。 私は餘り強く太陽の熱にうたれたので氣が變になつたに相違ないと思つた。 こんな筈はない。こんな處へ獵師が來た事は曾てない筈だ。 あの小舍の中に獵師などが住んでゐる譯がない。私はぢつと眼を据ゑて見た。 すると向うの男もぢつとこちらを見てゐた。恰度その時にサー・ヘンリイとグッドとが私に追ひついた。 「御覽なさい」と私は言つた。「あれは白人ぢやありませんか、それ共私は氣が狂つたのでせうか? サー・ヘンリイも見た。そしてグッドも見た。 その時突然跛をひいて黒い鬚を生やした白人は大きな聲で叫びながら吾々の方へぴよこ〜歩いて來た。 彼は吾々の側まで來ると呼吸《いき》を切らしてその場に倒れた。 サー・ヘンリイはその側へ跳んで行つた。 「おや!これは弟のジョオジだ!」と彼が叫んだ。この物音を聞いて、 やはり毛皮の服を着たもう一人の男が、鐡砲を持つて小舍から出て來て吾々の方へ駈けつけた。 そして私を見るとこの男は叫んだ。 「マクマザンの旦那!」と彼は嗄れ聲を出した。「私が判りませんか、旦那? 私は獵師のジムですよ。旦那から戴いた書附を無くしてしまつて、 私たちはかれこれ二年も此處にゐたのです。」かう言ひながら彼は私の脚下《あしもと》に轉がつて嬉し泣きに泣いた。 「仕やうのない慌てものだね!」と私は言つた。「大切に藏《しま》つておかないからだ。」 その間に黒い鬚の男は正氣に返つて立ち上り、彼とサー・ヘンリイとは一語《ひとこと》も言はずに顏w見合した。 この兄弟の過去の爭ひは何が元であつたかは私は知らぬし、 訊ねても見たことはないが、多分女の事でもあつたゞらう。 併しその時には屹度《きつと》二人は昔の事はもう忘れて終つてゐたの相違ない。 「ジョオジ!」とサー・ヘンリイがたうとう口をきつた。 「おれはお前がもう死んだかと思つてゐた。お前を搜しにソロモン山まで行つて來たのだよ。 さうしてこんな沙漠の中にお前が兀鷹《はげたか》のやうに止つてゐるのに遭遇《でくは》したんだ。」 「僕も二年ほど前にソロモン山へ行かうと思つたんです。」と彼は少し不慣れな言葉で答へた。 彼は近頃英語を使ふ機會などは全くなかつたのである。 「併し此處まで來たときに、石ころに足を挫《くじ》かれて前へも後へも行けなくなつてしまつたのです。」 その時私は前へ進み出た。「御機嫌よう、ネヴァルさん!」と私は言つた。 「私を覺えてゐますか?」 「おや、あなたはコオターメンさんぢやありませんか。それからグッドさんも? ちよつと待つて下さい。私は目がまひさうになつて來ました。 實にこれは不思議な竒遇《めぐりあは》せですね!」 その晩テントの中の焚火を圍んでジョオジ・カーチスは吾々に彼の物語をした。 彼の物語りも吾々のと同じほど數竒を極めたもので、簡單に言つてしまへば次のやうなものであつた。 彼は三年足らず前に、スリマン山へ登らうと思つて、シタンダ村を出發したのであつた。 私がジムにことづけた書附のことは、彼は今日までちつとも知らなかつたと言つた。 それで、いろ〜土人から聞いた話を總合して、シバの乳房の方へは行かないで吾々が今下りて來た、 梯子のやうな坂道の方へ向つたのであつた。その方がシルヴェストラの地圖に書いてあつた道よりも良かつたのだ。 沙漠の中では彼とジムとは非常な困苦を嘗めたが、たうとうこのオアシスまで辿りつき、 そこでジョオジ・カーチスは恐ろしい不慮の災難に遇つたのである。 彼等がこのオアシスに着いた日に、彼は小川の流れの側に坐つてゐると、 ジムがそのすぐ上の方で沙漠に澤山の針のない蜜蜂の巣から蜜を採つてゐた。 その時にジムの足許の大きな石ころが、ジョオジ・カーチスの右脚へ墜ちて來て彼の脚を挫《くじ》いたといふのであつた。 それから彼は跛になつて、前へも後へも進めなくなり、沙漠の中へ出て確實に死んでしまふよりは、 このオアシスに殘つてゐて、運命を待たうときめて今まで暮してゐたと言ふのであつた。 しかし彼等は食物には困らなかつた。それは彼等は澤山彈藥を持つてゐたし、 オアシスへは樣々な鳥獸が夜分《やぶん》に水を飮みに來るものだから、 それを射つたり、係蹄《わな》にかけて取つたりして、 肉は食ひ皮は剥いで着物に造つたりしてゐたのだ。 「まあかうした譯で」とジョオジ・カーチスは話を終つた。 「吾々は二年近くの間第二のロビンソン・クルーソーと彼の召使ひのフライデーとのやうに、 いつか土人が此處へ來て吾々を助けてくれはしないかと心細い望みをあてに生きて來たのです。 だが誰も來てくれませんでした。やつと昨夜《ゆうべ》吾々は、 ジムがシタンダ村へ行つて助けの者を呼んで來ることに話をきめた所なんです。 彼は明日發つ筈になつてゐたのですが、私は彼が再びこゝへ歸つて來ることなどは當にしてはゐませんでした。 ところが、今、あなたが、人もあらうにあなたが、 私のことなんどはとつくに忘れて本國で贅澤に生活《くら》してゐるであらうと思つたあなたが、 こんなわかりにくい道を通つて來て、あなた自身も思ひがけない處で私を見附けて下さつたのです。 こんな不思議な、こんな涙のこぼれる程有難い話は、私は聞いたこともありません!」 それから今度はサー・ヘンリイが口を開いて吾々の冐險の主な事實を夜の更けるまで話した。 「でもまあ」とジョオジは私が彼にダイヤモンドを出して見せた時に言つた。 「あなた方はあなた方の骨折りに對して私の取るにも足らん身體の外に、 せめて何物かを手に入れられた譯ですね!」 サー・ヘンリイは笑つた。「あれはコオターメンさんとグッド君とのものなんだよ。 獲物があつたら何でも二人で分けるやうに約束してあつたのだ。」 この言葉を聞くと、私は少し考へるところがあつて、グッドと相談した上で、 サー・ヘンリイに向つてダイヤモンドの三分の一は受取つて貰ひたい、 もし彼が受取らんと言ふなら、このダイヤモンドを搜しに行くために、 吾々よりももつと苦しい目にあつた、弟のジョオジさんに渡して貰ひたいと傳へた。 そこでサー・ヘンリイはやつとのことで納得したが、 ジョオジ・カーチスは少し後までそのことは知らずにゐたのだ。 *    *    *    *    *    *    * ここで私はこの物語りを終らうと思ふ。沙漠を越えてシタンダ村へ歸るまでの吾々の旅はずゐぶん困難なものであつた。 特に右脚を痛めてゐるジョオジ・カーチスを助けて行かねばならなかつたので非常に苦しかつた。 だがともかく無事にシタンダ村まで着いたのであつた。 その間の出來事を詳しく話すと行きがけの話と重複するからそれは省略することにする。 シタンダ村へ着くと、吾々が行きがけに預けて置いた鐡砲やその他の荷物等はすつかり無事であつた。 しかしそれを預けて老いた不頼漢《ならずもの》の老人は、 吾々が無事に歸つて來たのを見て目算《あて》が外れたやうな嫌な顏をしてゐた。 吾々は此の村へ着いてから六ケ月目に一同揃つてダーバンの近くにあるベレアの小さい私の住居《すまひ》へもう一度歸つて來た。 私は今そこでこの物語りを書いてゐるのだ。そして此處で私は、 私の長い變化の多い生涯のうちでも最も不思議な旅をともにして來た人逹に別れを告げたのであつた。 後記——恰度私が最後の言葉を書いてしまつた時に一人のケーファー人が私の家の蜜柑の竝木の處へやつて來て、 郵便局からだといつて一通の手紙を渡した。それはサー・ヘンリイからの手紙で、次のやうに認《したゝ》めてあつた。 一八八四年十月一日 ヨークシャー、ブレーリー・ホールにて 「親愛なるコオターメン 「私は二三便前に、吾々三人、ジョオジとグッドと私とが、無事に英國へ着いたことをお知らせしました。 吾々はサヾムプトンで船を降りて町へ上陸しました。 その翌日からのグッド君の成金振りをあなたにお目にかけたいやうです。 鬚は綺麗に剃る、よく合つたフロックコオトを着込む、 新らしい素敵な眼鏡を新調する、などたいへんな景氣です。私は彼と一緒に公園へ行つて散歩しましたが、 そこで二三の知り人に遇ふと早速「美しい白い脚」の話をして聞かせました。 「彼はひどく怒つてゐます。特にあの意地の惡い男がそのことを或る社交新聞に掲載したものですからね。 「さて用件に移りますが、グッド君と私とはダイヤモンドを持つて寶石商に値踏みをして貰ひに行きました。 彼等がつけた値段は餘りの巨額な値段ですから、あなたにはいま申しあげないことにします。 しかし勿論彼等は斯樣な大きな石がこんなに澤山市場に出たことはないから、 その値段は幾分あてずつぽうだと言つてゐました。 一番大きな一つ二つの石を除くと殘りのものは全部最上等のブラジル石に匹敵するやうな上等な品らしいです。 私は彼等にそれを買はないかと言つたところ、彼等の力では到底買へないと答へました。 そして市場に恐慌を來すといけないから少し 宛《づゝ》賣るがいゝと忠告してくれました。 しかし彼等はその中の僅《わづか》の部分に對して十八萬 磅《ポンド》の値を附けました。 「あなたも早く歸つて來てかう言ふ樣子を見なければなりません。 特にあなたがどうしても三分の一の分け前を下さると言ふのなら尚更です。 それは私のものではなくてジョオジのものになるのです。 グッド君はもう以前のグッド君ではありません。 同君は鬚を剃つたりその他身の周りを飾ることに浮身をやるしてゐます。 だが、同君はまだファウラタのことが思ひ切れないやうすです。 同君は國に歸つてから、姿の點にかけても、 表情の美しい點にかけても彼女に匹敵する女をまだ見ないと私に言つてゐました。 「是非あなたも歸つてお出なさい。そしてこの近くで家を一軒お購《もと》めなさい。 あなたはもう生涯の仕事はしてしまはれたのだし、今では金は澤山あるし、 それにすぐ近所の恰度あなたに誂へ向きの賣家が出てゐます。 是非歸りなさい。早いほどよいです。吾々の冐險の物語りは船の上でも書き終へることが出來ます。 吾々はあなたがそれを書いてお終ひになるまでは誰にも話をしないことにしてゐるのです。 それは聽く人が信じないと思ふからです。 この手紙が着き次第お歸りになればクリスマスまでにはこちらへ着きます。 クリスマスには私の名と一緒にあなたの名も記入して申込んでおきます。 グッド君もジョオジも來ます。それから序《つい》でゞすが、 あなたの息子さんのハリイさんも來ます(これはあなたのための囮ですよ)。 私は一週間程、ハリイ君と狩に行きまして同君が好きになりました。 ハリイ君は落着いた青年ですね。同君は誤つて私の足を射ちましたがすぐに彈丸《たま》を取り出してくれました。 そしてそれからは獵に行く時には、醫學生を連れて行くのが便利だと言ふことを證據だてゝくれました。 「では左樣なら。私はもうこれ以上言ふことが出來ませんが、 あなたが是非歸つて來られることを知つて居ます。」  草々。 ヘンリイ・カーチス 追伸——かはいさうなキヴァを殺した大きな牡象の牙は今この室に、 あなたから戴いた一對の水牛の角の上に飾つてあります。なか〜立派なものです、 それから私がツワラの首をチョン切つた戰斧《まさかり》は机の上に掛けてあります。 私は鎖鎧の上衣《うはぎ》を持つて來られなかつたのを殘念に思ひます。 ヘンリイ生 今日は火曜日だ。金曜日には船が出るはずだ。 私は實際カーチスの言葉に從つてその船で英國へ歸らなければならんと思つてゐる。 吾が子のハリイよ。お前に遇ふだけのためにでも歸らなくちやならんのだ。 それにこの物語りが印刷されるについてもいろ〜面倒を見なくてはならぬ。 私は、この仕事は他の誰にもまかせたくないのだ。 アラン・コオターメン ソロモン王の寶窟 終 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/01/27