十五少年 : 目次 ------------------------------------------------------------------------------- タイトル:十五少年 (明治廿九年,1896), Deux Ans de Vacances (1888) 著者:ジュウールス・ヴェルヌ (Jules Verne, 1828-1905) 譯者:森田思軒 (1861-1897) 底本:現代日本文學全集第三十三篇,少年文學集 出版:改造社 履歴:昭和三年二月二十五日印刷,昭和三年三月一日發行 ------------------------------------------------------------------------------- 十五少年 ジュウールス・ヴェルヌ 著 森田思軒 譯 ------------------------------------------------------------------------------- 例言 一 是篇は佛國ジュールス ヴェルヌの著はす所『二個年間の學校休暇』を、英譯に由りて、重譯したるなり。 一 譯法は詞譯を舍《す》てゝ、義譯を取れり、是れ特に逹意を主として修辭を從としたるを以てなり。 一 篇中の[糸|肅;#1-90-22]像《しうざう》は多く漣《さゞなみ》君の意匠を煩はせり。 餘が原書にある所を擇取して以て畫工の考に資する者、亦一二はあり。  明治廿九年十一月廿八日夜根岸の僑居に居て 思軒居士 目次 * 第一囘 大あらし ○太平洋心の一孤舟 ○只だ是等の童子のみ ○陸影 ○船首の叫聲 * 第二囘 ニウジランドの一 黌舍《くわうしや》 ○暑中休暇 ○十四名の生徒 ○解纜《かいらん》の前夜 ○沙嘴《さし》の上 * 第三囘 四邊の觀察 ○船中の食糧器具 ○灣北の岬 ○海豹《かいへう》 ○ペンギン ○東方の一條の淺碧色《せんぺきしよく》 ○新に派せられたる四名の遠征委員 * 第四囘 東方一面の茂林《もりん》 ○岸壁の背後 ○小川 ○徒矼《かちばし》 ○人の手もて作れる小舍 ○湖 ○第二の小川 ○繋舟所 ○舟材の斷片 ○樹皮の上に彫られたる數個の字 ○一大洞居 ○前住者の遺物 ○本島地圖 * 第五囘 會議 ○移居の準備 ○船體の解きほどき ○筏の編成 ○貨物の裝載 ○解纜 ○佛人の洞《ほら》 ○駝鳥 ○石中の怪しの聲 ○フハンの失踪 ○一變事 * 第六囘 新洞の發見 ○怪物の本體 ○新宅の經營 ○命名式 ○太守の選立 ○冬ごもり ○採薪 ○スロウ灣訪問 ○洞内の商議 * 第七囘 烈風 ○車の製作 ○駝鳥の乘りならし ○探征隊の發程 ○第一夜 ○停宿川 ○家族湖の北端 ○さびしき夢 ○酒の木と茶の木 ○第三夜 ○野獸の來襲 ○未來の乳母と未來の良馬 ○歸着 ○兄の情 * 第八囘 厩舍《うまや》の建作 ○砂糖の木 ○狐がり ○スロウ灣遠征 ○異樣なる馬車 ○海豹《かいへう》の油 ○基督 誕辰祭《たんしんさい》 ○來冬の準備 ○東方遠征論 ○探征艦の拔錨《ばつべう》 ○東方川 ○兩岸の風光 ○欺瞞灣 ○巨熊岩上の眺望 ○雲耶山耶《くもかやまか》 ○弱克《ジャック》の懺悔 ○無言の航行 * 第九囘 報告 ○南澤の一邊 ○珍禽異鳥 ○杜番《ドノバン》の人望 ○環投げの戲《たはむれ》 ○口論に次げる拳鬪 ○傳書燕 ○六月十日の選擧 ○陰氣なる冬 ○氷すべり ○霧中の人影 * 第十囘 二童子の歸來 ○弱克《ジャック》の迷路 ○恐ろしき道づれ ○杜番《ドノバン》の義務 ○湖畔の露營 ○四子の分離 ○東方川の畔の樹下の一夜 ○新宅の選擇 ○欺瞞灣頭の新植民地 ○巨熊港 ○北部探征 ○北方川 ○貘《ばく》 ○山毛欅林 ○大あらし ○破れたるボートの二個の人體 * 第十一囘 闇中の討論 ○天明 ○死體の失踪 ○桑港《サンフランシスコ》の一商船 ○佛人洞の掛念 ○大紙鳶《おほだこ》の製作 ○林中の一婦人 ○圭兒《ケート》の物語 ○七個の殺人賊 ○夜中の航行 ○岸上の火光 ○亞米利加虎 ○親切の温と倨傲の氷 ○四童子の復歸 * 第十二囘 洞中の情況 ○洞外の形勢 ○人心恟々 ○圭兒《ケート》の發案 ○武案《ブリアン》の沈吟 ○新式の空中飛行機 ○夜中の試驗 ○弱克《ジャック》の懺悔 ○漂流の原因 ○空中旅行 ○遠近二種の火光 ○紙鳶《たこ》の線《いと》斷《き》れたり * 第十三囘 武案《ブリアン》の復命 ○胡太《コスター》の恙《つゝが》 ○傳書燕の歸來 ○人心の沮喪 ○ラマの死體 ○一個の煙管《きせる》 ○無風無雨の大あらし ○戸外の叫聲 ○濡れくたれし一漢子 ○伊範《イスパンス》の物語 ○大苦戰 * 第十四囘 セベルン號の傳馬船 ○ハノーバル島 ○説明と講釋 ○マゼラン海峽 ○將來の計畫 ○目下の防禦 ○力取乎智取乎 ○二個の漂流水夫 ○夜半の活劇 ○圭兒《ケート》の慰解 ○福倍《フホーベス》の糾問 ○偵察隊の出發 ○第一第二の銃聲 ○武案《ブリアン》の失踪 ○杜番《ドノバン》の負傷 ○洞邊の叫聲 * 第十五囘 二個の人質 ○危一髮 ○福倍《フホーベス》の改心 ○轟然一聲 ○林中の探索 ○杜番《ドノバン》の容體 ○傳馬船修復工事 ○二月五日 ○三疊の讚呼《さんこ》 ○煙波渺々 ○マゼラン海峽の航行 ○グラフトン號 ○歸國 ○餘輩が學び得たる訓言 地圖 * 慕員《ボウドヰン》の地圖 ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第一囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 一千八百六十年三月九日の夜、彌天《びてん》の黒雲《こくうん》は低く下《た》れて海を壓《あつ》し、 闇々濛々《あん?もう?》咫尺《しせき》の外を辨ずべからざる中にありて、 斷帆怒濤《だんぱんどとう》を掠《かす》めつゝ東方に飛奔《ひほん》し去る一隻の小船《せうせん》あり。 時々閃然《じゝせんぜん》として横過《わうくわ》する電光のために其の形を照し出ださる。 船は容積百?噸《とん》に滿たざる、ヨットの一種にして、英國及び米國にて、 スクーナーと稱する兩檣《りやうしやう》的なり。 船の名をスロウ號と呼ぶも、曾《かつ》て其の名を記したる船尾の横板は、物に觸れてか、浪に洗はれてか、 とく剥落《はくらく》し去りて、復《ま》た其の名を尋ねむに由《よし》無し。 夜は既に十一時を過ぎぬ、此の緯度にありて此ころは、夜甚だ長からざれば、五時に向ふ比《ころ》ほひに、 早やうす白き曉の色を見ることを得べし。然れども天《てん》明けなば、スロウ號は能く現時の危難を免るべき歟《か》、 風濤《ふうたう》は能く制止すべき歟《か》。 船の上には三個の少年、一個は十五歳、他の二個は各《おの?》十四歳なるが、十三歳なる黒人の子と共に、 各《おの?》必死の力を戮《あは》せて、舵輪《かぢわ》に取りつきをり。 [石|平;#u7830]然《はうぜん》たるすさまじき響きとともに、一 堆《たい》の狂濤《きやうたう》、 來りて船を撃つと見えしが、舵輪《かぢわ》は四少年が、必死の力を戮《あは》せて取りつきたるにも拘はらず、 忽焉《こつえん》逆轉して、四少年を數歩の外に擲《なげう》ちたり。 一個「武安《ブリアン》、船には異状なきや」。 武安《ブリアン》は徐《しづか》に身を起して、再び舵輪《かぢわ》に手をかけながら、 「然り、呉敦《ゴルドン》」と答へて、更らに第三個に向ひて、「しかと手をかけよ、杜番《ドノバン》、 沮喪《そさう》する勿《なか》れ、餘等は餘等の一身の外に、更らに思はざるべからざる者あるを、 忘るべからず」、又た黒人の子を顧みて、「莫科《モコー》、汝は怪我せざりしか」。 黒人の子「否な、主公《しゆこう》武安《ブリアン》」。 渠等《かれら》の操《と》る所は皆な英國語なりき、唯だ武安《ブリアン》と呼べる童子《どうじ》の言ふ所に、 著るしく佛國人《ふつこくじん》のなまり有るのみ。 是時、船室に通ずる梯子の口の戸、突然開けて、二個の童子の顏現はれ、 之に續いて一個のやさしげなる犬の面《おもて》現はれ出でぬ。 犬は二た聲三聲高く吠えぬ、童子の年長《としうへ》なるかたは十歳ばかりなる可し、 「武安《ブリアン》、武安、何事なるぞ」。 武安《ブリアン》「何事もなし、伊播孫《イバーソン》、何事もなし、返れ、とく船室に返りてをれ」。 他の年少《としした》なるかたの一個「されども、餘等はあまり恐ろしければ」。 武安《ブリアン》「他の諸君は」。「皆な均しく恐れをれり」。 武安《ブリアン》「憂ふる勿れ、返りて蒲團にくるまり、兩眼《りやうがん》を閉ぢてをれ、 しかせば恐ろしきこと無かるべし、何等の恐ろしきことも有るなし」。 莫科《モコー》「氣をつけ、又た一個の巨濤《おほなみ》來りたり」。 言《ことば》未だ訖《をは》らず、再び一個の崩濤《ほうたう》あり、 俄然《がぜん》船尾を來り襲へり、然れども幸ひにして潮水《てうすゐ》船室に走入《そうにふ》するに至らず。 呉敦《ゴルドン》は少しく聲を勵まして、「返れ兩君、君等は餘輩《よはい》の言を聽かざるか」。 二個の童子の顏やう?沒し去るや去らざるに、復《ま》た一個の少年の姿ありて、 梯子の口に現はれ出でぬ、「武安《ブリアン》、君等は餘輩の力を須《もち》ひざるか」。 武安《ブリアン》「否な、馬克太《バクスター》、君等は下方《した》にありて、 幼年諸君を看護しくれ、此處は餘等四人にて十分なり」。 然らば、斯の大洋中に最大洋なる太平洋の上に於て斯の暴風怒濤の中にありて、 斯の船の上には、唯だ是等少年童子の外、更らに一個の人無き歟《か》。 然り、船は唯だ武安《ブリアン》等十四個の童子と、給事のボーイ黒人の子一個とを載《の》するのみ。 船員として、少くとも一個の船長、一個の副船長、及び五六個の水夫を有すべき、 斯の百 噸《とん》のスクーナーに於て、船員と稱すべきは、 唯だ一個の給事のボーイ莫科《モコー》の在る有るのみ。是れ何を以てぞや、 抑《そもそ》も船は何の目的あり、何地《いづち》より何地に往かむと慾して、 乃ち斯のあらしには遭ひたるや。若し他の船の洋上にて、 スロウ號に邂逅するあらば、其の船長は必ず第一に之を怪しみ問ひたるべく、 衆童子は必ず十分の説明をこゝに與へ得たりしならむ。然れども是時洋上には、 四方幾百里の間《あひだ》スロウ號の外、復《ま》た一隻の船も見えず。 あらしは益《ますま》す其の勢を倍《ま》せり、 風は疾風烈風より一變して[風\炎;#2-92-35]風《へうふう》となれり、 スロウ號は今にも驚瀾《きやうらん》怒濤の中に呑了《どんれう》されむとす、 後檣《こうしやう》は既に二晝夜以前に吹き折られて、 甲板の上には其の本《もと》四尺 許《ばかり》を留めて欹立《いりつ》するのみ、 前檣《ぜんしやう》は幸ひにして猶ほ全《まつた》きを得たるも、 風勢《ふうせい》 益《ますま》す猛《たけ》くして、童子等の力もて其の帆を卷收《けんしう》する能はざるがため、 其の滿帆の風に吹き撓《たわ》められて、其の根接《ねつぎ》の處より絶えず左右に搖るぎ動くを見る、 若し前檣《ぜんしやう》にして一たび倒れむには、 船は坐《ゐ》ながら風濤《ふうたう》の恣《ほしい》まゝに弄《もてあそ》ぶ所に任して、 童子等は手を束《つか》ねて、覆沒《ふくぼつ》を待つの外、復《ま》たせむすべ無かるべし。 渠等《かれら》は皆な兩眼を[目|爭;#1-88-85]開《みひら》きて、前方を瞻《み》つめたるが、 只だ是れ闇々濛々《あん?もう?》として、一寸の陸影《りくえい》、半點の火光《かくわう》をだに見るべからず。 午前一時に及ぶ比《ころ》ほひ、忽ち一道の物すごき響き、高く風聲《ふうせい》怒號の上に聞えぬ。 杜番《ドノバン》「前檣《ぜんしやう》倒れたり」。 莫科《モコー》「否な、只だ其の帆の吹き斷《ちぎ》られしのみ」。 武安《ブリアン》「さらば其の帆を截《き》り去らざるべからず、呉敦《ゴルドン》、 君は杜番《ドノバン》と倶《とも》に留まりて舵輪《かぢわ》を看《まも》れ、莫科《モコー》、 汝《おんみ》は來り餘を助け」。 莫科《モコー》はかねて船中の給事をつとめて、自然多少航海上の經驗を得、 武安《ブリアン》は曾て歐洲より濠洲に來るとき、大西太平兩洋を航行して、 幾分か操舟《さうしう》上の知識を學び得たる所あり、 衆童子が兩個を推して斯のスクーナーの指揮を委ねしは是がためなり。 兩個の伎倆は、斯の新らしき厄難に逢ひて、亦た其の一證を示したり。 渠等《かれら》は前檣《ぜんしやう》の下《もと》に來りて、其の破損を檢するに、 帆は上邊《じやうへん》の索《なは》を吹き斷《ちぎ》られて空中に翩飜《へんぽん》せるが、 幸ひにして其の下邊《かへん》は、猶ほ依然として帆桁に結《ゆ》ひ着きをり、 渠等《かれら》は先づ上邊の索を全く截《き》り去りて、下邊の帆桁を甲板を離るゝ四五尺までひき下し、 初め帆の上邊たりし布の二隅を把《と》りて、之を甲板の上に緊《しか》と約《くゝ》し着けぬ、 渠等《かれら》は此《かく》の如くして、却て前よりも更らに安全に、 風を趁《お》ひて進みゆくを得べし。 渠等《かれら》は此の間に、絶えず甲板を飛越せる巨濤《おほなみ》のために其の身を洗ひ去られむと慾しては、 纔《わづ》かに自から支へ得たるもの、啻《たゞ》に五七囘のみならず、兩個は滿身づぶ濡れとなりて、 舵輪《かぢわ》の下《もと》に歸り來るに、恰も同時に、梯子の口再び開けて、 武安《ブリアン》の弟 弱克《ジャック》の頭《かうべ》現はれ出でぬ。 武安《ブリアン》「何用あるや、弱克《ジャック》」。 「來れ、來れ、とく來れ、船室の中に海水 漏入《ろうにふ》しはじめたり」。 「眞《しん》か」と叫びつゝ武安《ブリアン》は、直《たゞ》ちに船室に下りゆけり。 船室には一個の吊りラムプ中央に懸り、うす暗き燈火の下《もと》に、十個の少年、 或はソーフハ、或は臥棚《ぐわほう》の上に、己《おの》がじしに横はりをり、 八歳乃至九歳なる最も穉《をさな》きは畏《おそ》れ怖れて、互に相抱擁せるもあり。 武安《ブリアン》は「餘等は既に陸に近づきるゝあり、復《ま》た恐るべきなし、 憂ふる勿れ」と一同に力をつけつゝ、蝋燭を點《とも》して、熟《つらつ》ら室内を檢《けん》するに、 少許《せうきよ》の海水ありて、船の搖動につれて、座上を一 往《わう》一 反《ぱん》するを見る、 然れども遍《あま》ねく室内を索《もと》むるに、海水の漏入《ろうにふ》すべき罅隙《かげき》あるなし、 更らに其の濕痕《しつこん》を追ひて、次の艙房《さうばう》に至るに、初めて其の由來を發見するを得たり、 蓋し絶へず甲板を洗ふ所の海水の餘滴《よてき》、甲板の艙口《さうこう》より艙房《さうばう》に流下して、 此より船室に流入せしなり。 武安《ブリアン》は船室に返りて、諸童子に之を語り、其の恐るべきもの無きよしを告げし後、 再び甲板に上り來るに、夜は既に二時に埀《なんな》むとせり、一天墨を溌せる如く、 風勢は依然として、猶ほ少しも衰へず、 時に[革|堂;#1-93-80]鞳《だうたふ》たる風濤《ふうたう》の響きを破りて一聲頭上を叫過《けうくわ》するは、 是れ海燕《うみつばめ》乎《か》。 然れども海燕を聞けるがために、陸に近しとは斷ずべからず、 渠等《かれら》は屡《しばし》ば遠く洋心に[(自/(三&ノ))|羽;#1-90-35]翔《かうしやう》することあればなり、 既にして又一時間を過ぐるほどに轟然として、大砲を發《はな》てる如き響き、高く空中に揚りぬ、 蓋し前檣《ぜんしやう》二つに折れしなり、寸々斷々となりし碎帆布片《ほのきれ》は、 一團の[區|鳥;#1-94-69]《かもめ》の如く、紛然として空中に散飛せり。 杜番《ドノバン》「餘輩《よはい》は復《ま》た帆を挂《か》くる能はず」。 武安《ブリアン》「何ぞ憂へむ、餘輩は帆無きも、猶ほ帆有るの時の如く、 疾走することを得べし」。莫科《モコー》「幸ひにして船は正《ま》さに浪を背に負へり、 船は一直線に前進することを得べし、唯だ屡《しばし》ば浪のために、 追ひかぶせらるゝことを免れざるべければ、餘等は自から身を舵輪《かぢわ》に縛《くゝ》りて以て、 浪のために洗ひ去らるゝことを、防がざるべからず」。 莫科《モコー》の言未だ全く訖《をは》らざるに、一 堆《たい》の奔濤《ほんたう》あり、 高く其の頭《かしら》を船尾の上の擡《もた》ぐると見る間に、 すさまじき響きを作《な》して、甲板の上に崩下《ほうか》しつ、 艙口《さうこう》の一半を缺き取りて、救命艇《ライフボート》二隻、短艇《ヤウル》一隻と、 羅針盤凾《らしんばんかん》とを洗ひ去り、餘勢《よせい》更らに船邊《ふなべり》を碎裂《さいれつ》して、 海中に流れ落ちぬ、幸ひにして船邊《ふなべり》を碎裂されぬ、 若し其の此《かく》の如くして速《すみや》かに海に流れ落つるなかりせば、 船は其の重量に耐へ得ずして直ちに沈沒したるならむ。 武安《ブリアン》、杜番《ドノバン》、呉敦《ゴルドン》は船室の梯子の口に擲《なげ》つけられしも、 こゝに捉《つか》まりて、僅《わづ》かに海の運び去らるゝことを免れしが、 莫科《モコー》はかの巨濤《おほなみ》とともに姿見えずなりぬ。 武安《ブリアン》はやう?語《ことば》を發するを得るやうになるや否や、「莫科《モコー》、莫科《モコー》」。 杜番《ドノバン》「海中に運び去られしか」。呉敦《ゴルドン》は忙がはしく船邊《ふなべり》に倚《よ》りて、 海中を俯瞰しながら、「何等の影も見えず、何等の聲も聞えず」。 武安《ブリアン》「餘輩《よはい》は必ず渠《かれ》を救はざるべからず、 浮嚢《うきぶくろ》及び索《なは》を投《とう》ぜ」といひつゝ、又た更らに聲を高くして、 「莫科《モコー》、莫科《モコー》」。 「助け、助け」と、かすかなる聲ありて、答へ叫べり。 呉敦《ゴルドン》「渠《かれ》は海中に陷りしならず、聲は船首のかたより來れり」。 武安《ブリアン》「餘 往《ゆき》て渠《かれ》を救はむ」。いふより早く、 動《やゝ》もすれば失脚跌倒《しつきやくてつたう》せむと慾する、甲板の上をつたひつたひて、 船首のかたに走《は》せゆきぬ。 武安《ブリアン》はやう?艙口《さうこう》のほとりまで來りて、 復《ま》た高く給事の名を呼ぶに、答へなし。武安《ブリアン》は反覆せり、 かすかなる應聲《おうせい》、再び武安《ブリアン》の耳に到れり、 武安《ブリアン》は更らに其の聲をたよりて、船首なる絞車盤《まきろくろ》と舳頭《みよし》との間に來り、 頻りに闇中《あんちう》を模索するに、終に聲さへ得出ださず煩悶しをる童子の體に摸着《さぐりあた》れり、 蓋し莫科《モコー》は嚮《さき》の巨濤《おほなみ》のために、推されて此に至り、 帆索《ほなは》に喉を纒《まと》はれて之を脱《はづ》さむと慾して、 [手へん|爭;#2-13-24]扎《もが》けばもがくほど、愈《いよい》よ喉を緊約《しめ》られて、 今は呼吸《いき》も絶え?゛となれるなり。 武安《ブリアン》は忙がはしく、其のナイフを取り出だして、帆索《ほなは》を斷《き》りて、 莫科《モコー》を救ひ出だせり、莫科《モコー》は數多《あまた》たび武安《ブリアン》に救命の恩を謝したる後、 相《あひ》挈《たづさ》へて舵輪《かぢわ》の下《もと》に返りぬ。 武安《ブリアン》の豫言に反して、船は帆を失ひてより、 其の速力 頗《すこぶ》る著るしく減少し、浪は船を追ひこし追ひこし疾走すれば、 船は今にも浪のために、追ひかぶせられ、覆飜《ふくほん》されむとす。 今は何等か帆に似たる者をさへ挂《か》くるに由《よし》なき童子等は、 如何にして能く此の危難を避くべきか。 南半球に於ける三月は、餘輩《よはい》北半球に於ける九月と相同じ、 故に午前五時に向ふ頃ほひには、早く暁《あかつき》の色を望むことを得べし、 天《てん》明けなば、風威或は少しく衰ふことあるべし、 或は更らに幸ひにして、是等二者の一を得ば、童子等は尚ほ九死の中に一生の望みあることを得ると謂ふべし。 既にして四時半を過ぎぬ、うす白き曙光は、徐《おもむ》ろに東方地平線上をより起りて、 次第に天心《てんしん》を射照《しやせう》せり、然れども不幸にして、 煙霧猶ほ深く洋上を鎖《とざ》したれば、童子等は三町の外を見る能はず、仰ぎ看れば、 雲は皆なすさまじき速力をもて、驀然《ばくぜん》東方に飛行しつゝあり、 風勢は毫《すこし》も減退の色あらず、眸《ひとみ》を展《の》べて更らに前方を望めば、 眼《まなこ》の屆く限り、渾《す》べて是れ混々として一樣の沸泡《ふつはう》飛沫のみ。 四少年は空しく四邊の狂瀾《きやうらん》怒濤を瞻《まも》りて、彳立《てきりつ》せり。 渠等《かれら》は各自心の中に、其の運命の次第に望少くなれるを思ひたり。 とたんに、忽ち莫科《モコー》の聲を聞けり、「陸、陸」。 渠《かれ》は、是時 忽焉《こつえん》破開《はかい》せる煙霧の間より、 一帶の陸影を瞥見したるやうに覺えしたり。然れども是れ果して陸なるか、 是れ渠《かれ》の眼花《がんくわ》にあらざる無きを得むや。 武安《ブリアン》「陸と」。莫科《モコー》「然り、前方即ち東のかたに」。 杜番《ドノバン》「汝《おんみ》はたしかに錯《あやま》らざる歟《か》」。 莫科《モコー》「煙霧の再び破開《はかい》せむとき、舳頭《みよし》より少しく左を看よ」。 言《ことば》未だ訖《をは》らず、煙霧は再び破開《はかい》せり、 未だ幾ばくならずして、四邊幾マイルの間、忽ち了々《れう?》として明かに見るべくなれり。 武安《ブリアン》は叫べり、「然り、陸なり、實に陸なり」。 今は復《ま》た疑ふべくもあらず、スロウ號の舳頭《みよし》にあたり、 東方地平線上に、一帶の陸影あり、長さ五六マイルに亙るべし、 若し目下の速力もて駛《は》せ行かば、スロウ號は一時間を出でずして、 彼處《かしこ》に到ることを得べし。風勢は益々加はれり、 船は驀然《ばくぜん》一直線に、陸を望みて走《は》せすゝみぬ。 漸《やう》やく近づきて之を視るに、岸上には百數十尺の岩壁 聳起《しようき》し、 岩壁の前面には、黄色《くわうしよく》の沙嘴《さし》平衍《へいえん》し、 沙嘴《さし》の右方は、一 簇《ぞく》の喬木《けうぼく》ありて之を限れり、 是れ内地なる茂林《もりん》の端《はし》なるべく見ゆ。 武安《ブリアン》は舵輪《かぢわ》を他の三個に委ねて、 獨り船首《へさき》に來りて、岸邊《がんぺん》の光景を熟察し、 船の錨を投ずるべき處を心計《しんけい》するに、岸邊には、 一個の港灣らしくものも有るを見ず、且つ最も不便なるは、 沙嘴《さし》の外は一面の鋸齒《きよし》の如き岩礁、 海底に蜿蜒《えん?》し、其の起伏の迹《あと》、黒く海波《かいは》の上に隱顯《いんけん》せり。 武安《ブリアン》は之を熟察し畢《をは》りて、 則ち一同を甲板の上に召《よ》び集めおきて不虞《ふぐ》の備ふることの得策なるべきを思ひたれば、 返りて船室の梯子の口を開きつゝ、「來れ、一同」。 眞先に上り來りしは犬なり、之に續いて十一名の童子 跫然《きようぜん》相 踵《つ》いで上り來りぬ。 最も幼年なるは、「四邊の光景を一目するよりも、早く畏怖極まりて啼哭《ていこく》するも多し、 蓋し是時陸に近づくに隨《したが》ひて、海底次第に淺くなるほどに、 其の怒濤 洶湧《きようゆう》の状《さま》の、物すごく恐ろしきは、 却て洋心《やうしん》に在る時に倍せしなり。 午前六時の數分前、船は岸邊《がんぺん》に逹したり、 武安《ブリアン》は早くも上着《うはぎ》を脱ぎすてゝ、何人にもあれ、 海中に陷る者あらば、之を救はんと身がまへたり、蓋し船は必ず岩礁に衝突して、 粉碎せむこと、十中の八九なるべく見えたればなり。 俄《には》かにして船は一種の撞觸《どうしよく》を感じたり、 スロウ號は暗礁の上に坐りしなり。船の外皮は勿論いたく損傷を蒙りたるべきも、 未だ海水の直ちに漏入《ろうにふ》するほどに至らず、 既にして第二の奔濤《ほんたう》は船を驅りて、更らに五十尺前進せしめぬ、 かくてスロウ號は左舷のかたに傾欹《けいい》したるまゝ、 免れたりと雖《いへど》も、猶ほ沙嘴《さし》を去る三町の外に在り。 武安《ブリアン》と呉敦《ゴルドン》とは、船室及び艙房《さうばう》を檢《けん》して、 船體の損傷の海水を漏入《ろうにふ》するに至らざるを知りて、 大に心を安じつゝ、甲板に返りて、一同に之を語り、 「恐るゝ勿れ、船體は恙《つゝが》無し、且つ陸は目前に在り、 暫く少しく待て、餘輩《よはい》は徐《しづ》かに上陸の計《はかりごと》をなすべし」。 杜番《ドノバン》「何が故にこれを待つや」。 韋格《ヰルコクス》と呼べる十三歳なる一童子、之に和して、 「然り、何故に之を待つや、杜番《ドノバン》の言《げん》是《ぜ》なり、 餘等は爭《いか》で之を待つを須《もち》ひむ」。 武安《ブリアン》「何となれば、浪尚ほ此《かく》の如くあらければ、 若し強《しひ》て之を渉《わた》らんと慾せば、餘輩《よはい》は恐らく岩礁の上に擲《なげう》たれて、 身を韲《くだ》くに終るべし」。乙部《ウェッブ》と呼べる韋格《ヰルコクス》と略《ほ》ぼ同齡《どうれい》の一童子 「とかくする間《うち》、船體粉碎し了《をは》らば如何」。 武安《ブリアン》「餘はそを恐るゝの謂れ無きを思ふ、 少くとも潮の退《ひ》きつゝある間は、船體の粉碎すべく憂ひ無しと思ふ」。 武安《ブリアン》の説 是《ぜ》なり、太平洋の潮の進退、 割合ひに著るしからずと雖《いへど》も、而も進潮《しんてう》と退潮《たいてう》との間には、 猶ほ判然差別あり。武安《ブリアン》の説の如く、 更らに幾時間を待たば風波の或は靜止せざるを必すべからざるのみならず、 幸ひにして岩礁の背は潮全く落ちて之を歩行し得るの便あるやも亦た料《はか》るべからず。 然れども杜番《ドノバン》及び他の數子は、尚ほ嗷々《がう?》として、 武安《ブリアン》の説に從ふを肯《がへん》ぜず。蓋し杜番《ドノバン》、韋格《ヰルコクス》、 乙部《ウェッブ》、及び虞路《クロース》等が事毎に、 武安《ブリアン》の意見を奉ずるを快しとせず、 之に逆はむと慾したるは、從來其の例一二に止まらず、 然れども其の默して此に至りしは、唯だ武安《ブリアン》が航海上の知識ありて、 之に一船の指揮を委ねざる能はざるが故を以てのみ、 然れども渠等《かれら》は今既に陸に逹したり、 故に乃ち必ず其の行爲の自由を己れに得むことを主張するなり。 杜番《ドノバン》、韋格《ヰルコクス》、乙部《ウェッブ》、及び虞路《クロース》の四個は他の諸童子に離れて、 一方の船邊《ふなべり》に集處して、洶湧《きようゆう》泡沸《はうふつ》する海の面《おもて》を凝視すること、 之を久くせしが、到底其の泳過《えいか》すべからずして、 武安《ブリアン》の言の如くするの已むを得ざるを見て、 再び一同の處に返り來るに、武安《ブリアン》は呉敦《ゴルドン》及び諸童子に向ひて、 今に及びても尚ほ、一同一處に在りて以て、緩急相救ふことの必要なるを、 諄々《じゆん?》として諭しをり、「若し互に相離れば、是れ即ち亡滅の道なり」といへり。 方《ま》さにこゝに來りて、此の語《ことば》を聞きし杜番《ドノバン》は、 「君は敢て餘等の上に、法律を制定し、施行するの權利ありと謂ふか」。 武安《ブリアン》「何ぞ此《かく》の如き權利ありと謂はむ、唯だ、 共同の安全を保るがために、餘輩《よはい》は互に相離れるべからずと謂へるのみ」。 常に深慮ある呉敦《ゴルドン》は之に和して「武安《ブリアン》の説 是《ぜ》なり」。 かねて武安《ブリアン》を信頼する幼年の二三子は、「然り、然り」と應呼《おうこ》せり。 杜番《ドノバン》は默して再び言はざりき、然れども渠《かれ》は其の黨の三子と偕《とも》に、 獨り怫然《ふつぜん》として、一方に引去《いんきよ》せり。 抑《そ》もこの陸は大陸か、島か、岸壁の下《もと》に半月形をなせる黄色《くわうしよく》の沙嘴《さし》は、 兩端各丘陵の地に至りて而して盡く。其の北なるは高峻《かうしゆん》にして、 其の南なるは稍《や》や低くして、夷《たひら》かなり。 武安《ブリアン》は望遠鏡を把《と》りて、良《や》や久しく、陸のかたを望視《ばうし》しゐたりしが、 又た之を置きて、「陸上には一條の煙も見えず」。莫科《モコー》「且つ濱邊に一隻の舟もあらず」。 杜番《ドノバン》は傍《かたは》らより之を嘲りて、「既に灣港《わんかう》なし、 何ぞ舟あるを得む」。呉敦《ゴルドン》「そは未だ以て濱邊に舟無きの十分の理由となるべからず、 或は漁舟の出でゝ、此處に魚《うを》を打つこともあるべきなり。 蓋し舟無きは頃來《けいらい》のあらしに恐れて、 皆な各《おの?》其の避所にかくれをるを以てなるべし」。 之を要するに此地《このち》此邊《このへん》は、人の居住する者無き荒寥《くわいれう》の境なるを知る。 是時、風は勢少しく衰へたるが、次第に北西に吹きまはりて、退潮《たいてう》を支へたれば、 潮の退《ひ》きかた極めて遲々なり、童子等は時至らば直ちに上陸せむと慾して、 皆な手に?、必要の物件を甲板に搬《はこ》び上ぼす、船中には乾餠《かたパン》、 乾菓《かんくわ》、鹽、缶づめの肉類、饒《おほ》く有りたれば、 先づ是等を包束《はうそく》して以て、負荷携帶に便なすやうす。 既に七時となりぬ、岩礁の上の海水は、著るしく減落したりしが、是がために、 船は益々左舷に傾欹《けいい》して、若し此《かく》の如くしもてゆけば、 或はもてゆかば、或は遂に横ざまに覆へるに至らずやとの恐れさへ生じたり、 蓋し速力の快利《くわいり》なるを慾して、其の龍骨《キール》を高くし、 船底を尖削《せんさく》せる、此のスクーナーの如き構造にては、 之を恐るゝも、亦た宜《むべ》なり。 童子等は、是に於て、深く昨夜のあらしの爲めに、 悉く其の短艇《ぼーと》を奪ひ去られたるの不幸を悲しめり、 若し是等の短艇《ぼーと》だに有らしめば、渠等《かれら》は或は今直ちに、 此を藉《か》りて、濱邊までこぎ去《ゆ》くことも得たるならむ、 又た上陸の後に及びても、容易に此の船に往來して、 現時にては渠等《かれら》が携帶上陸する能はざる諸種の有用物件を、 此に載せて以て、運び去るを得るならむ。 時に忽ち船首《へさき》のかたに、常ならぬ叫び聲有り。 *    *    *    *    *    *    * [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第二囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- この時に當りてチェイアマン學校といへるは、南太平洋に於ける英國重要の一藩地ニウジランドの首府、 アウクランド市にありて、最も有名なる黌舎《くわうしや》の一なりき、 此に來り學ぶ者は英、佛、米、獨等の白色人の子に限りて、皆な市の有地者、銀行者、巨商、官吏の子なり。 ニウジランドは北島及び南島と稱する二大島と他の諸 小嶼《せうしよ》とより成れる一群島にして、 二大島の間を隔つる一 葦帶水《ゐたいすゐ》は、即ち有名なる世界環航者の記念を永く留むる所のクック海峽なり。 斯の群島は南緯三十四度より四十五度の間に横亙《わうこう》して、北半球に於ける佛國、合衆國、 及び日本の本島等と正《ま》さに其の位置を同じくす。 北島の北西端は一條の狹長《けうちやう》なる半島を成し、 其の半島の頸《くび》をなせる處は幅二三マイルに過ぎず、アウクランド市は即ち其の頸《くび》の上に立てり、 其の北島に於ける位置の希臘《グリース》のコリンスと相肖《あひに》たるにより、 往々呼びて南洋のコリンスと做《な》さる。 一千八百六十年一月十五日の午後百 許名《きよめい》の生徒は各《おの?》其の親たちに隨伴して、 方《ま》さに籠の戸を開かれし鳥の如く、欣々然として女皇街《クヰンストリート》なるチェイアマン學校の門を出で來れり。 この日は是れ暑中休暇の始めにして此より二個月間は渠等《かれら》自由に受用するを得る所なり。 中に就て一隊の童子等の尤も得意なりしは、かねて久しく願慾《ぐわんよく》待望せしニウジランドの沿岸週航の遊びの、 斯の休暇の間に於て實行さるゝことゝ定まりたればなり。 童子等の乘組まむとする美麗なるスクーナーは、童子等の中の一個の父 雅涅《ガーネット》氏の所有に係り、 週航の費用は勿論童子等一同の親たちの醵出《きよしゆつ》する所なり。 英國の寄宿學校の風は甚《いた》く佛國等に異りて、概して生徒をして自助 自頼《じらい》の習ひを養はしむるを專らとすれば、 其の風采擧動の割合に早く大人びて沈着老成するが多し。チェイアマン學校は生徒の級を分ちて五となし、 其の第一第二の級に在る者は、尚ほ其の親たちの頬に接吻するを以て禮となすほどの幼年者なりと雖も、 第三級以上の生徒に至りては、既に握手を以て接吻に代ふるほどの長年者少からず。 英國學校の習ひとして、長年者は各《おの?》幼年者を保護する代り、 幼年者は其の保護者なる長年者のために、朝飯を運び、衣服を刷《は》き、靴を磨き、 使命に奔《はし》る等諸般の役に服さゞるべからず、若し之を否む者は、一同のために、 疾《にく》まれ虐《しひた》げられて、一日も學校に安居すること能はざるに至り、 是によりて英國學校の幼年生徒は又た佛國等に罕《ま》れに見る所の奉上《ほうじやう》勤務の念に厚きの特色あり。 いまスロウ號の乘組みて週航の途《みち》に上らむと慾するは、 第五級より第一級に亙りて、其數十四名にして乃ち左《さ》の如し。 杜番《ドノバン》、虞路《クロース》これ皆な第五級員にして齡《とし》十四歳、 其の父は各《おの?》均しく市の富豪なる有地者にして、兩個は乃ち從兄弟《いとこどし》なり。 杜番《ドノバン》は天性怜悧にして學業優等なるがうへ、一種貴族的の倨傲ありて、 常に人の上に立たむことを慾すれば、 儕輩《さいはい》は渠《かれ》を綽名《あだな》して相公《とのさま》杜番《ドノバン》といへり。 されば渠《かれ》と同級同齡の武安《ブリアン》が平素 儕輩《さいはい》に間に愛重《あいちよう》さるゝを見て、 杜番《ドノバン》の常に之と相 乖《そむ》き相 軋《きし》るの傾きあるは、 勢ひの自から然るべき所なり。虞路《クロース》に至りては、 只だ常に其の從兄 杜番《ドノバン》の思ひ言ふ所を敬服 感戴《かんたい》する外は、 他の異處《いしよ》なき平々の童子なり。 馬克太《バクスター》、亦た同級同齡にして市の巨商の子なり。 靜和にして思慮あり、勤勉にして才智あり。 乙部《ウェッブ》と韋格《ヰルコクス》とは、十三歳と十四歳にして共に四級に屬し、 各中等の才智を具す。其の親戚は皆な富饒《ふぜう》なる高等官吏なり。 雅涅《ガーネット》と左[田|比;u6BD7]《サービス》とは、共に十三歳にして同じく第三級に在り、 前者は退職海軍士官の子にして、後者は富饒《ふぜう》なる移住者の子なり。 前者の一 癖《ぺき》は小風琴《アッコーヂオン》を嗜《たしな》みて暇あれば輒《すなは》ち之を弄《もてあそ》ぶ、 斯の週航の途に就くに方《あた》りても、渠《かれ》は第一に之を携帶して船に上れり、 後者は快濶にして常に冐險的生活を夢寐《むび》し、平生 魯敏孫《ろびんそん》漂流記の外は殆ど復《ま》た他の書を讀まず。 次の二名は各十歳の幼年者にして、善均《ゼンキンス》はニウジランド科學協會の會長の子にして、 伊播孫《イバーソン》は牧師の子なり、前者は尚ほ第三級員にして、後者は尚ほ第二級員に過ぎざるも、 皆な將來有望の優等生徒なり。 次の二名は更らに年少《としした》にして、土耳《ドール》、胡太《コスター》、共に九歳に過ぎず、 土耳《ドール》は其の執拗なるをもて、胡太《コスター》は其の大食なるをもて、 各《おの?》著るし。皆な陸軍士官の子にして第一級生徒なり。 此外更らに二個の佛國人の子と、一個の米國人の子とあり。米國人の子は呉敦《ゴルドン》と呼び、 齡《よはひ》十五歳一隊の最年長なり、第五級員にして、杜番《ドノバン》の如く才鋒《さいほう》鋭利ならざるも、 亦た同級中の優等者たるを失はず、幼《をさなき》より父母を喪《うしな》ひて他人の手に人となり、 最も深慮ありて常識に富めり。二個の佛國人の子は兄 武安《ブリアン》十四歳、 弟 弱克《ジャック》九歳にして、 其の父は北島の中央なる沮洳《そじよ》の地の排水工事を[艸/重;u856B]督《とうとく》するために二年前此土に來りたる有名の工學士なり。 武安《ブリアン》は拔群の記憶力あり、又た非凡の同化力あり、 聰明輕快活溌にして、左[田|比;u6BD7]《サービス》と相 竝《なら》びて、 同級中或は學校中第一のいたづら者なり、 弱克《ジャック》は常に人をかつぎ儕輩《さいはい》を欺き嚇《おど》すことを喜び、 平生只だ是等 頑要《いたづら》の手段を工夫するより外、復《ま》た他の念無きものゝ如くなりき。 然れどもスロウ號が本土を離れてより以後は、渠の人となり俄然一變して、 極めて謹直寡默なる、まじめの童子となりたるは、他の諸童子の皆な怪しみ且つ訝かりて、 其の故を解するに苦しむ所なりき。 スロウ號の船員は副船長一名、水夫一名、料理番一名及び黒人の子にして莫科《モコー》と呼べる十三歳の給事一名にして、 船長には船主 雅涅《ガーネット》氏自から之に當り、 獵犬としてフハンと呼ぶ呉敦《ゴルドン》所養の亞米利加犬をさへ併せ載せ、 拔錨《ばつべう》は二月十五日の午前と定《さだま》りぬ。既にして十四日の夕《ゆふべ》となるほどに、 十四名の童子等は早くも打つれて船に上るに、船には副船長及び莫科《モコー》の二名ありて、 一行を迎接《げいせつ》せり、船長 雅涅《ガーネット》氏は明朝拔錨の際に至らざれば出で來ざるはずにして、 水夫等は皆な更らに一杯のホイスキーを傾くるがため、陸に上りてをり、 船には唯だ斯の二名を留むるのみなり。既にして副船長は童子等を各自 臥牀《がしよう》に安寢《あんしん》せしめし後、 他の水夫等を追ひて、亦た岸上の酒店に往き、ボーイ莫科《モコー》は船首なる水夫室に退きて、 早くも熟睡の境に入りぬ。 如何にして斯の事ありし歟《か》、船は何時のほどにか纜《ともづな》解けて、 潮水《てうすゐ》の引くがまに?次第に洋心《やうしん》に流れ出でしを、 知る者絶えてあらざりき。夜色《やしよく》黒く灣港《わんかう》を封じて物の色分明ならざるに、 をりしも陸上より吹く地あらしの風、潮水《てうすゐ》を助けて船を驅りたれば、 船は看す?獨り數十町を流れ去《ゆ》けり。莫科《モコー》はふと覺《めざ》めしに、 船の異樣に動搖するに疑ひ惑ひて、甲板に走り上れるに、即ち此の如きを見たり。 給事の叫び聲に驚き醒めて、呉敦《ゴルドン》、武安《ブリアン》、 杜番《ドノバン》等數名の童子は蹶起《けつき》して甲板に走《は》せ上り、 給事と倶《とも》に聲を合せて助けを呼びしが、功無かりき、 船は既に三マイル以上も岸を離れ、アウクランド市の火光《かくわう》は、 既に闇冥《あんめい》の中に沒して見るべからず。童子等は武安《ブリアン》の説と莫科《モコー》の贊成とによりて、 先づ帆を揚げて船の方向を轉じ、岸に返らんと務めしが、 帆は太《はなは》だ重くして童子等の力をもて自由に使用する能はざるより、 船は却て是が爲めに益《ますま》す陸に遠ざかりゆけり。 船は既にコレビール岬を遶《めぐ》り、岬と大防壁島《グレートバアーリアー》との間なる海峽を過ぎ、 ニウジランドを離るゝ數マイルの洋心《やうしん》に流れ出でぬ。 童子等は既に助けを陸上より得べきの望みなし、縱《たと》ひ搜索船の直ちに渠等《かれら》を追ひて出でし有りとするも、 其の此の如き暗中に、渠等《かれら》の所在を見出ださむことは難かるべく、 縱《たと》ひ能く見出だすとするも、其の此處に追ひ及ぶまでには、 數多時間を費やさゞるべからず、而して渠等《かれら》は其の間に又た數マイルを流さるべし。 唯だ渠等《かれら》萬一の僥倖は、 前方よりニウジランドに向ひて來る所の何等かの船に邂逅して其れに救はれむこと即ち是なり。 是れ甚だ頼み難きの僥倖なりと雖も、莫科《モコー》は直ちに前甲板の上に燈火を掲げて、 遠くより之を望む者のたよりと爲せり。幼年の童子等は幸ひに熟睡してをれば、 徒《いたづ》らに之を驚かし怖れしむるの益無きを思ひて、 喚び覺ますことを爲さず。武安《ブリアン》等は百方術を盡して船の方向を轉ぜしむと慾したるが、 皆な功無かりき。船は益《ますま》す東へ東へと流れ去《ゆ》けり。 俄《には》かにして一點の火光《かくわう》、二三マイルの那方《かなた》に見えぬ。 其の白色なるは分明是れ走行中の汽船なるを知るべし。 既にして又た一個は赤く、一個は青き、二個は燈火現はれ出でぬ、 其の此の如く同時に二個を望み見るを得るは、其の汽船の一直線に斯のヨットのかたに向ひて走《は》せ來るものなるを推すべし。 童子等は各《おの?》必死の聲を揚げて、汽船を喚びたるが、 洶濤《きようたう》の音、蒸氣機關の響、及び是時次第に愈《いよい》よ烈しくなれる風の音は、 相合《あひがつ》して童子等の聲を沒して、汽船の上に聞えしめず。 汽船の上にては、縱《たと》ひ童子等の聲を聞く能はざるも、 スロウ號の上に掲げたる火光《かくわう》を見ること無かるべきやは。 不幸にして船の突然一方に傾動するはずみに、燈籠《とうろう》を吊りし索《なは》斷《き》れて、 燈籠は[さんずい|勹/言;u6E39]然《くわうぜん》海中に陷りたり。今は復《ま》た一物のスロウ號の所在を、 闇中《あんちう》に標示するもの無し。汽船は正《ま》さに一時間十二三マイルの速力をもて走《は》せつゝあり、 未だ幾 秒間《セコンド》ならずして、汽船はスロウ號の船尾を掠《かす》めて、船尾の上の飾り板を擦落《さつらく》し、 低微《ていび》なる撞觸《どうしよく》をスロウ號に感ぜしめたるまゝ、 驀然《ばくぜん》西方に走《は》せ去りぬ。童子等は失望せり、 船は益《ますま》す東方に吹き去られぬ。既にして天明けぬ、眼界の中一片の帆影《ほえい》だも見えず、 太平洋の此邊は素《も》と船舶の往來割合に少きに、 其の濠洲と亞米利加との間を往來する者は、皆な更らに北方或は南方を航すれば、 童子等は終日一隻の船に逢はず、既にして夜は來れり、 天氣は前夜よりも一層あれ模樣にて、風は益す強く、東に?と吹きつゞきぬ。 武安《ブリアン》は其の齡《よはひ》に罕《ま》れに見る能力と勇氣を顯《あら》はして、 一同の倚頼《いらい》する所となり、 剛腹《がうふく》なる杜番《ドノバン》をさへ其の指令を奉ぜざるを得ざるに至らしめたるは即ち是等の事情の間に於てなりき。 渠《かれ》は船の速力を左右するほどの航海上の知識を有せず、 亦た諸種の帆を展用するに必要なるほどの膂力《えよりよく》を有さゞりしと雖も、 其れの僅《わづ》かに有する所の知識を善く使用して、 常に船の傾覆《けいふく》破損を防ぎ、日又た夜、夜又た日、 絶えず甲板に見張りをして、時々刻々、地平線上を凝望《ぎようばう》し、 何等か眼界の中に來る所の助け手あらば、之を免《のが》さじと務むること、 幾週間の久しきを通じて、曾て須臾《しばらく》も懈《おこた》らず、 或は其の遭難始末を書したるを數個の罎に盛りて、之を海中に投じ、 或は常に幼年者を勵まして、其の失望喪氣に陷るを防ぐ等、 皆な渠《かれ》の率先盡力する所にあらざる莫《な》し、 而して無限の西風は仍《な》ほ依然として、船を東に?と驅り去りぬ。 此より以後の事は、讀者の既に第一囘に於て見たる所なり。 蓋しスロウ號がニウジランドの岸を離れたる後、 未だ幾日ならずして、更らに一大暴風の南太平洋を過ぐるあり全二週間西より東に吹きつゞきぬ、 若し堅牢 鞏固《きようこ》スロウ號の如きものに非ずば、 船は已《す》でに久しく怒濤のため打碎《ださい》されしなるべし。 當夜スロウ號の失踪を知りしときの雅涅《ガーネット》氏、 及び其他衆童子の親たちは錯愕《さくがく》掛念《けねん》は言ふもさらなり。 渠等《かれら》は直ちに二隻の小汽船を發して搜索せしめしが、 翌日の及びて、皆な手を空しくして還りぬ。 否な手を空しくして還るよりも更らに惡しかりしは渠等《かれら》はスロウ號が汽船のために擦落《さつらく》されたる船尾の飾り板の零片《れいへん》を拾ひ得て還りぬ。 飾り板の上には尚ほ「スロウ號」の數字の一半を留めて、讀み得べかりき、 是に於てスロウ號の既に覆沒して、衆童子の皆な溺亡《できばう》したるべきは、 復《ま》た疑ふべき無きの事實となりぬ。 *    *    *    *    *    *    * 却て説く武安《ブリアン》等は船首のかたに、常《たゞ》ならぬ叫び聲起るを聞き、 走《は》せゆきて其の故を尋ぬるに、嚮《さき》に巨濤《きよたう》のために洗ひ去られしと堅く信じたる短艇《ヤウル》の、 舳頭《みよし》やり出しの支柱の間に介《はさ》まりて、留まりをりしを、 馬克太《バクスター》の偶然發見したりしなり。 短艇《ヤウル》は僅《わづ》かに五六個の人を載するほどの大さに過ぎざれども、 今之を發見したりしは、童子等にとりて非常の便宜なり。然れども是がため、 杜番《ドノバン》と武安《ブリアン》との間に、亦た一條の葛藤を生じたり。 杜番《ドノバン》は短艇《ヤウル》の無事なるを見るより、 直ちに韋格《ヰルコクス》、乙部《ウェッブ》、虞路《クロース》の三個と共に之を取り出だして、 海上にくり下らむと慾する所に、武安《ブリアン》は走《は》せ來りて、 「君等は何をか爲す」。韋格《ヰルコクス》「そは餘輩《よはい》の自由なり」。 「君等は斯のボートを下さむと慾するか」。 杜番《ドノバン》「然り、然れども君は之を止める權利あらじ」。 「有り。君等は他の諸君を棄てゝ以て」。杜番《ドノバン》は武安《ブリアン》の言《ことば》をして訖《をは》らしめず、 「決して棄つるにあらず、餘輩《よはい》は上陸の後又た一人再び之をこぎ返して、 他の諸君を載せ去るべし」。「然れども若し之をこぎ返す能はずば如何、 石に當りて碎けば如何」。乙部《ウェッブ》は武安《ブリアン》を排《おしの》けて、 「退《の》け、武安《ブリアン》」。武安《ブリアン》は肯《あへ》て一歩を退かず、 「否な、ボートは第一に先づ幼年諸君の用に供へられるべからず」。 若し此時 呉敦《ゴルドン》の來りて調停する無かりせば、杜番《ドノバン》の黨と武安《ブリアン》の黨とは、 茲に終に一場の戰鬪をも啓《ひら》くに至りしなるべし、 呉敦《ゴルドン》は最も年長者にして、且つ最も靜思沈慮《せいしちんりよ》あれば、 竊《ひそ》かに武安《ブリアン》の説を是《ぜ》とし、 杜番《ドノバン》をなだめて、此の如く浪あらき時に於てボートを下すも、 徒《いたづ》らにボートを失ひ併せて人の命を殆《あやふ》くするの危險あるのみなればとて、 百方諭し止めたり。呉敦《ゴルドン》「スロウ號の坐礁せしは、 六時ごろなりと覺ゆ、如何 武安《ブリアン》」。武安《ブリアン》「然り」。 「潮の全く落つは何時なるべき」。「十一時ごろならむ歟《か》」。 「恰好の時刻なり、然らば餘輩《よはい》は今より食事をなして、 上陸の準備せざるべからず、或は海水を泳ぎ渡らねばならぬ處もあるべし、 食後若干の時を經ずば、泳ぐに甚だ不便なるべし」。是れ極めて有理の説なれば、 ジャム及び乾餠《かたパン》を取り出だして、一同 早飯《あさめし》をしたゝめぬ、 食事の間も武安《ブリアン》は專ら善均《ゼンキンス》、伊播孫《イバーソン》、土耳《ドール》、 胡太《コスター》等の幼年者を監視して、其の暴食を戒めぬ、 渠等《かれら》は殆ど全一晝夜の間、全く食を絶ちたれば、 今陸に逹したるの喜びに、驟《には》かに勢ひつきて、 急に其の空腹を滿たさむとせば、爲めに病ひを生ずべければなり。 潮《うしほ》の落ちかたは極めて徐《おもむ》ろなりしかども、 兎に角に海水は次第に減少すると見え、船の傾欹《けいい》は愈《いよい》よ著るしくなりぬ、 然れども莫科《モコー》が測量 索《なは》を下して探り試むるに、 船側の海水猶ほ八尺以上の深さあり、莫科《モコー》は諸童子を畏怖せしむるを恐れて、 密《ひそ》かに之を武安《ブリアン》のみに囁やき告ぐるに、 武安《ブリアン》は又た密《ひそ》かに呉敦《ゴルドン》と計議して以爲《おもへ》らく、 風は潮《うしほ》を支へて全く退《ひ》かしむるを許さゞるに似たり、 然《さ》りとて明日の退潮《たいてう》の時まで待たむとせば、 船は其の間の滿潮に逢ひて、傾覆《けいふく》し或は粉碎すべし、 故に渠等《かれら》目下の策は、唯だ何人か索《なは》を持ちて岸に至り之を濱邊の石に約《くゝ》し、 由りて以て斯の船を岸に引くの一法あるのみ。而して其の索《なは》を持ちて岸に到るの任には、 武安《ブリアン》之に當るべしと定まりぬ、勿論是れ武安《ブリアン》の自ら薦めて之に當れるなり。 武安《ブリアン》は斯の危險なる企うぃ試むるに先だちて、船中にある所の浮嚢《うきぶくろ》を悉く取り出だして、 之を幼年者に分ち與へぬ、萬一海水尚ほ深き時に、早く船を去らざるべからざるの急有らむとき、 渠等《かれら》は此によりて身を浮ぶことを得べく、 然《しか》すれば年長者は船より濱邊に張る所の索《なは》を捉《とら》へて、 隻手《かたて》に幼年者を扶《たす》けつゝ、岸に泳ぎ到るを得べければなり。 既にして十時を過ぐる十五分となれり、此より一時間ならずして、 潮《しほ》は其の最低度に落つべし、然れども舳頭《みよし》の下に於て、 海水は猶ほ四五尺の深さあり、縱《たと》ひ此より一時間を經るも、 更らに數寸を減ずるに過ぎざるべし、船より三十 間《けん》も前方《さき》に往けば、 海底頗《すこぶ》る淺くなるは、其の海面の黒く見ゆると、 處々に岸頭《がんとう》の露出せるとに由りて明かなり、 故に尤も困難なるは、船より三十間ほどの前方《さき》まで至るの間なるべし。 武安《ブリアン》は外衣《うはぎ》を脱ぎて、 中ぶとの索《なは》を擇みて、其の一端を把《と》りて胸の邊《ほとり》に約《くゝ》しつけぬ。 杜番《ドノバン》等四名の童子も、武安《ブリアン》が一同のために危險を冐して、 此の如き重要の使命に赴かむとするを見ては、復《ま》た手を束ねて傍觀すべきに非ざれば、 呉敦《ゴルドン》等と共に武安《ブリアン》を助けて、逐次其の索《なは》をくり出だすの勞に服さむと慾す。 武安《ブリアン》は一切の準備を了りて、將《ま》さに海中に跳《をど》り入らむとするとき、 弱克《ジャック》は聲を揚げて號泣しつゝ、兄のほとりに走《は》せよりて、 「兄うへ、請ふ往く勿れ、往く勿れ」。武安《ブリアン》「恐るゝ勿れ、弱克《ジャック》」 と答へしまゝ早くも海中に跳《をど》り入りて、拔き手をきりて泳ぎはじめぬ。 然れども風は正《ま》さに引潮と相逆ひ相撃つに加へて、海水 凸凹《とつあふ》せる岩礁の上に激盪《げきたう》して、 盤渦《うづ》をなせる處さへ多ければ、武安《ブリアン》は早や次第に體疲れて、 手足の働き自在ならず、俄《には》かにして、渠《かれ》の身は一大盤渦の裡《うち》に吸ひこまるゝと見えたが、 「助け、助け」と叫べる聲を遺したるまゝ、忽ち沒して見えずなりぬ。 呉敦《ゴルドン》は一同と共に、直ちに索《なは》を手ぐりて、昏々として人事不省となれる武安《ブリアン》を船の内に拯《すく》ひ上げぬ。 幾ばくもなくして、武安《ブリアン》は蘇息《そそく》するを得たりしが、 其の濱邊と交通せむと慾したりし企は茲に全く望絶えぬ。兎角するうちに早や正午を過ぎぬ、 潮《しほ》は再び進《さ》しはじめぬ、浪は愈よあらくなりぬ。 時 正《ま》さに新月に向ひたれば、潮《しほ》は前夜に比して、 一層高かるべし、即ち滿潮のときに至らば、船は其の膠着の處より浮び上がりて、 他の更らに高き巖頭に撞觸《どうしよく》し、粉碎し、 或は覆沒するに終るべし、孰《いづ》れの場合に遭はしむるも童子等じや能く命を逃るゝこと難かるべし。 然れども渠等《かれら》は復《ま》た施すべきの術無きなり、 渠等《かれら》は一同船尾に集立《しゆうりつ》して、 空しく一個又一個巖頭の次第に進潮《しんてう》の下に沒し去るを瞻《まも》りてをり。 加ふるに不幸にも、一たび北に吹きかはりし風は再び西に吹きもどりて、 船を直ちに岸に擲《なげう》たむとす、潮《しほ》益す進みて、 岩礁の上の海水益す深くなれば、船は必ず益す高く岩礁の上にのり上ぐるばかりなるべし。 此より以往《いわう》は、只だ上帝の大み心に在るのみ。童子等は斷續せる哀祷悃祈《あいたうこんき》の聲は、 畏怖號泣の聲と相 間《まじ》りて、高く天に揚りぬ。 午後二時に向ふ比《ころ》ほひ、次第に進潮《しんてう》に擡《もた》げ起されて、 傾斜したりし船の左舷は浮かび上がりたるが、船首は猶ほ海底に膠着し、 船尾は尚ほ岩間に介《はさ》まりて自由なることを得ざれば、 船は一頃又た一頃來りて其の側面を撃つ所の浪に震盪《しんたう》されて、 はげしく左右に動搖し、童子等は互ひに相抱擁して、以て纔《わづ》かに跌倒《てつたう》を防ぎたり、 俄《には》かにして、一 堆《たい》の小山の如き巨濤《きよたう》あり、 船の後邊《こうへん》に近く其の頭《かしら》を擡起《たいき》すると見えしが、 忽ち大川を決する如き、すさまじき勢ひをもて、驀然《ばくぜん》船尾を來り打つと共に、 岩礁の上は一面の沸泡《ふつはう》噴末をもて掩被《えんび》され、 船は一種の撞觸《どうしよく》を感じて、突然昂起前進したりしが、轉瞬の間、 既に沙嘴《さし》の一端なる沙場の上に在り、嚮《さき》に遠く望みたる一 簇《ぞく》の茂樹《もじゆ》の前列は、 近く眼前二百尺の那方《かなた》に在り。 顧みれば船をこゝに推進したる巨濤《きよたう》は已《す》でに退却して其の後には依然たる海水の岩礁の上に激盪《げきたう》迸射《はうしや》するを見るのみ。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第三囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 船は幸ひに巨濤《きよたう》に驅られて、一躍して岩礁の上を超越し、 其の底板は勿論 許大《きよだい》な損失を蒙りたるにも拘はらず、 無事濱邊に到ることを得たるが、船の沙場に坐りてより、既に一時間以上を過ぐるも、 未だ一個の人の影をも見ず。茂樹《もじゆ》の那方《かなた》には小さき川の流れありて、 海中を入るを望めども、亦た其の上に一個の漁舟《ぎよしう》の浮ぶある無し。 呉敦《ゴルドン》「餘輩《よはい》は幸ひにして陸に逹したり、然れども是れ一個の無人の野なるに似たり」。 武安《ブリアン》「餘輩のさし向き求むべきは、餘輩《よはい》殊に幼年者を庇護すべき屋宅《をくたく》なり、 其の此地の何處《いづこ》の邦《くに》に屬するやの如きは、餘輩が假りに身を託するの所を求めたる後、 徐《おもむ》ろに探究するを得べきなり、先づ餘輩をして此地四邊の光景を觀察せしめよ」。 かくて武安《ブリアン》は呉敦《ゴルドン》と偕《とも》に甲板を下りて、かの茂樹のかたに赴くに、 茂樹は岸壁と川との間にありて、岸壁のかたに近づくに隨《したが》ひて愈よ益す鬱密《うつみつ》し、 其の中に分け入れば、多くの喬木《けうぼく》は自から僵《たふ》れるがまゝに朽腐《きうふ》し、 落葉は陳々《ちん?》相因りて、高く地上に堆積して、兩個の膝を沒するばかり、閑々《かん?》又た寂々《せき?》、 絶えて人の踪縱《そうしよう》を見ず。然れども時に禽鳥《きんてふ》の兩個の來るを見て、 紛然として驚飛《きやうひ》し去る有るは、其の既に人を識りて人の恐るべきを知りれる故なるべき歟《か》。 茂樹を穿ちて行くこと十分間ばかりにして、岸壁の下に至るに、 岸壁は直立二百尺、平面板の如くして、啻《たゞ》に洞穴の類の童子等が假りの棲居《すまひ》に充《あ》つべきもの無きのみならず、 縁《よ》りて以て其の頂きに攀ぢ登るべき足がゝりの罅隙《かげき》さへある無し。 因りて岸壁の下に沿ひて又た南のかたに行くこと半時間 許《ばかる》するに、 嚮《さき》の望める所の川の右岸に出でたり。 兩個は岸壁の頂きに登らば以て四方の光景を一目の下に俯覽《ふらん》するを得べしと思ひて、 此に至りしなるが、岸壁は依然 峻削《しゆんさく》屹立《きつりつ》して、 路は早く此に盡きたれば、兩個は僅《わづ》かに、 川の此方《こなた》の岸は美木《びぼく》鬱蒼たるに反して那方《かなた》の岸は一面の平原にして全く青緑の色無きを、 看取したるのみにて、一とまづ船に歸り來れり。兩個は一同に其の見たる所を語りて、 乃ちさし向きは仍《な》ほ船を以て一同の起居の所となすの得策なるを説けり。 船はいたく龍骨《キール》を破損され、且つ其の體《たい》傾欹《けいい》して穩坐《おんざ》すべからざるも、 尚ほ以て一時風雨を庇遮《ひしや》するに足れり。武安《ブリアン》等は先づ一條の繩梯子を取り出だして、 之を船の右舷に懸け、以て幼年者も容易に甲板より沙場に上下出入するを得るやうにし、 莫科《モコー》は左[田|比;u6BD7]《サービス》の助けを假りて、 其の多少 知得《ちとく》せる所の料理法によりて晩飯《ばんはん》を準備し、一同に薦むるに、 一同はニウジランドを離れてより以來、久々にて始めて少しく心を安じて食味を味ふことを得、 善均《ゼンキンス》、伊播孫《イバーソン》、土耳《ドール》、 胡太《コスター》等の無邪氣なる幼年者は早や時々 嬉笑《きせう》の聲をさへ發するに至りたり。 唯だ怪しむべきは、平素學校中第一のいたづら者と稱せられたる武安《ブリアン》の弟 弱克《ジャック》は、 善均《ゼンキンス》等の此の如く渝々《ゆゝ》たるを見るも、 獨り別に一隅に退きて悄然として群を離れてをり、或は其の模樣の常ならぬを見て、 其の故を怪しみ問ふ者あるも、渠《かれ》か顧みて他を言ふのみ。 食事 畢《をは》れば、一同は二十餘日來の疲れに早く睡氣《ねむけ》を催して、 各自 臥牀《がしよう》に退き寢《い》ねたるが、武安《ブリアン》、呉敦《ゴルドン》、 杜番《ドノバン》の三個は萬に一つ猛獸蠻人などの不意の來襲あらむを虞《おそ》れて、 更《かは》る?゛甲板に見張りして、以て夜を徹せり。翌日は朝まだきに一同起き出でゝ、 上帝に感謝の詞《ことば》を捧げたる後、是日の事務にかゝりしが、 第一に先づ爲すべきは、船内にある食物其他を精査するに在り。 食物は乾餠《かたパン》の外、乾菓《かんくわ》、鹽漬《しほづけ》の豚肉《ぶた》、腸づめ、 薫牛肉《コルンドビーフ》、鹽漬の魚等、儉約して之を用ふれば略《ほ》ぼ二個月を支ふべし。 然れども渠等《かれら》は斯の限有るの食物を以て、期《あて》無きの將來を永く支ふべきにあらあざれば、 渠等《かれら》は或は銃獵《じゆうれふ》或は漁業に由りて、其の食物を補給するの計《はかりごと》を爲さゞるべからず。 因りて先づ幼年者には、船内に多く有る所の釣絲を授けて、莫科《モコー》をして之に隨はしめ、 濱邊に往きて釣魚《てうぎよ》を試みしめ、年長の童子等は船内に留まりて諸物を點檢するに、 乃ち其の目《もく》左《さ》の如くなりき。 大小の帆布《はんぷ》、繩索《じようさく》類、及び鐡鎖《てつさ》、 錨碇《べうてい》等一式、是れ一應斯の船に具《そな》へられし者の補缺として別に備へられしもの。 投網《とあみ》、釣絲《つりいと》等の漁具、大小若干。 施條《せでう》銃八個、射鴨《しやわう》銃一個、連發短銃一ダヅン、 硝包《せうはう》三百個、各二十五 磅《ポンド》づゝの硝藥を裝《も》れる木凾《もくかん》二個、 鉛塊《えんかい》及び大小 鉛丸《えんがん》若干。 食膳及び庖厨《はうちう》の用ふる所の器皿《きべい》、鍋、釜等は、 二十餘日のあらしの間に毀損《きそん》したる者の少からざれども、 現存のもののみにても、猶ほ童子等今後の用に供して十分 餘《あまり》有るべし。 毛絲、綿絲の織物、フランネル及びリンネンの類、亦た多く之れ有り。 臥具《ぐわぐ》、大小の蒲團、枕の類、童子等の數に視《くら》べて餘《あまり》有り。 此外晴雨計二個、百度わりの寒暖計一個。時辰《じしん》表二個、 遠距離に通話する喇叭。望遠鏡三個。コムパス大一個小二個。 將《ま》さに來らむとする暴風雨を豫示《よし》する暴風雨計一個。 英國旗若干。信號旗一式。木匠《もくせう》器具一式。針、絲、鈕釦《ぼたん》等若干。 マッチ、及び燧石《ひうちいし》火鎌《ひうちかま》若干。ニウジランド沿岸の詳細地圖數枚、 これは目下童子等に用無かるべきも別に全世界地圖一枚あり、 是れ大に用有るべし。 書籍室には英佛二國の著名なる旅行者の遊記冐險譚等若干あり。 又た筆、鉛筆、インキ、紙、竝《ならび》に今《こん》千八百六十年の暦《こよみ》一册あり、 馬克太《バクスター》は此より斯の暦《こよみ》に就き、 日を逐ひて有りし所の事を記さむとす、又た金貨にて五百 磅《ポンド》の財《かね》あり。 酒類を貯へたる樽は、破漏《はろう》して其の實《じつ》を亡《うしな》ひしも少からざれども、 尚ほ葡萄酒及びセリー百ガロン即ち二 石《こく》四 斗《と》、ジン、ブランデー、 ホイスキー、五十ガロン、麥酒《ビール》無慮二十五石 許《ばかり》を剩《あま》し有せり。 之を總《す》ぶるに、童子等の若干月の間は兎に角に百事不足を告ぐること無くして生活しゆくを得べし。 正午に及ぶ比《ころ》ほひ、幼年者等は多量の貝類を拾ひ得て、莫科《モコー》と偕《とも》に歸り來りたり。 莫科《モコー》の説に據《よ》れば、岸壁の一處に數千の鴿《はと》の群集しをるを見たりと、 因りてかねて銃獵を嗜《たしな》みて且つ多少の熟練ある杜番《ドノバン》は、 他の夥伴《なかま》を率ゐて明日往きて之を獵すべしと議定したり。 中飯《ひるめし》は幼年者等の拾ひ來りたる貝類を第一の主品とし、 其の他は些《すこし》の薫牛肉《コルンドビーフ》と、 川より汲み來りたる水に幾滴のブランデーを注ぎたる者とのみなりしが、 一同は皆な舌を鼓《う》ちて貝類の珍味なるを賞翫《しやうぐわん》せり。 午後は船體のさし向き修繕を要する所にして、 且つ童子等の手を以て修繕し能ふ所の破損處を修繕し、 幼年者等は川に往きて釣魚《てうぎよ》を試みなどして、打ち過ぎたり。 晩飯《ばんはん》の後は一同 直ちに寢《しん》に就き、是夜は馬克太《バクスター》、 韋格《ヰルコクス》の兩個 更《かは》る?゛甲板に見張りせり。 抑《そ》も此地は島なるか大陸なるかとは、武安《ブリアン》、呉敦《ゴルドン》、 杜番《ドノバン》等年長者の此地に漂着して以來、常に關心しつゝある所の第一問題にして、 渠等《かれら》は屡《しばし》ば首を聚《あつ》めて、其の意見を鬪はすことあり。 然れども兎に角に此地は熱帶に屬せざることは、 かの茂林《もりん》中の木に太平洋中に赤道國に見るべからざる柏、樺、松、檜、 山毛欅《ぶなのき》等多きを觀て知るべきなり。且つ地上は既に落葉のために蔽はれて、 松《まつ》檜《ひのき》の外殆ど復《ま》た其の青翆《せいすい》を持するもの無きを觀れば、 此地はニウジランドよりも更らに南に偏りたる高緯度に在るやも、未だ知るべからず。 果して然らば、其の冬は更らに一層の嚴寒を齎《もた》らすことを期せざるべからず。 今は三月の中旬《なかば》なれば、四月の下旬に至るまでは、尚ほ或は好天氣の打ち續くことをも望み得べきも、 五月即ち北半球の十一月より以後に及びては、或は意外の險惡なる天氣に遭逢《さうはう》せむも料《はか》るべからず。 故に渠等《かれら》は此より六週日内外の間に於て、去留《きよりゆう》ともに其の運動を成就するを要す。 渠等《かれら》は幾囘の商議を經たる後、兎に角に、 先づ灣の北端を界斷《かいだん》する所の岬頭《かふとう》の高地に攀《よぢのぼ》りて、 此地の模樣を觀察し、其の觀察の結果によりて、復《ま》た計議する所あるべしと定め、 其の觀察の任には武安《ブリアン》之に當るべしと定めたり。 此の間 武安《ブリアン》と杜番《ドノバン》とが屡《しばし》ば互に其の意見を異《こと》にして相反目するを、 呉敦《ゴルドン》の毎《つ》ねに間に居りて調停せるは、言はむもさらなり。 岬は船の在る所と相 距《さ》ること、直徑五マイルに過ぎざれるべければ、 濱邊の曲折を算するも、武安《ブリアン》の踏過《たふか》すべき路程は七八マイル即ち三里内外を出でざるべし。 岬の斗出《としゆつ》したる頭《ほとり》は、海面を拔くこと三百尺以上なるべく見ゆれば、 少くとも傍近《ばうきん》幾マイルの間の光景を展望することを得せしむべし。 不幸にして三月十二日より天氣再び曇りはじめて、 雨さへ屡《しばし》ばふりたれば武安《ブリアン》は其の探檢の途に上ること能はず、 然れども時は決して空費されざりき、渠《かれ》は此の間に於て、 水夫等の行李の中より發見したる衣類を取り出だして、 莫科《モコー》と共に不手ぎはながら之を縫ひ縮めて、 童子等の身に稱《かな》ふやうになして以て將《ま》さに來らむとする冬を禦《ふせ》ぐの準備をなせり、 他の童子等も亦た爲すこと無くして徒《いたづ》らに日をば送らざりき、 幼年者等は雅涅《ガーネット》或は馬克太《バクスター》の監視の下《もと》に、 或は川に漁《すなど》り、或は濱邊に貝類を拾ひて、 自から勞作すると共に自ら歡娯《かんご》せり。渠等《かれら》は其の雙親《ふたおや》を思ふ毎に、 悲哀の情胸を塞ぎて、涙を催すに至らざるには非ざりき、 然れども渠等《かれら》は未だ曾て再び其の父母を見るの望み無しなどおもふ念の、 其の頭中に浮びたることあらざりき。杜番《ドノバン》、韋格《ヰルコクス》、乙部《ウェッブ》、 虞路《クロース》の四名に至りては、日の獵犬ハフンを從へて銃獵に出であるきて、 他の童子等と偕《とも》にあることは幾《ほとん》ど稀《ま》れなり。 渠等《かれら》の獲ものの中には、鴿《はと》、鵝《がてう》、 鴨等一同の珍味として賞翫《しやうぐわん》せる所の者も多かりしが、 亦た莫科《モコー》が之を奈何《いかん》ともする能はざる所の[區|鳥;#1-94-69]《かもめ》、 [盧|鳥;#1-94-73][艸/(幺|幺)/鳥;#2-94-30]《う》等の類も少からざりき。 十五日に至りて、天氣も稍《や》や霽《はれ》に向ひて、晴雨計も亦た明日の快晴を豫示《よし》したれば、 武安《ブリアン》は是日より準備をなして、翌朝は昧爽《まいさう》起き出でゝ其の探檢の途に上りたり。 渠《かれ》は護身の用として一條の[竹/(エ|卩)]《つゑ》、一個の連發短銃を携へたる外、 其の帶に繋《か》けたる小さき袋子《ふくろ》の裡《うち》には、若干枚の乾餠《ビスケット》、 些《すこし》の鹽漬の肉、及びブランデーと水とを調合して盛りたる一個のフラスクを納め、 又た一個の望遠鏡を携へたり。渠《かれ》は行くこと一時間にして、 既に杜番《ドノバン》等の足跡の未だ及ばざる所に逹して、已《す》でに路程の半ばを來りたり、 渠《かれ》は心に若し此《かく》の如くにして進まば八時には岬に逹するを得べしと算したり。 然れども此邊より、岸壁と海際《みぎは》との距離次第に縮まりて、 道の幅次第に狹くなり、之に加ふるの、是までの平軟《へいなん》なるなる沙場とは異なりて、 脚下は一面の凹凸せる堆巖《たいがん》、蒙茸《もうじよう》たる海草團となりたれば、 跋渉《ばつせふ》の困難なるは言ふもさらなり、或は靴を脱して、 膝を沒するばかりなる海水の中を徒渉《とせふ》せるも、 啻《たゞ》に一二たることも、亦た三五次に及びたり。 渠《かれ》は十時に至りて、即ち豫算より二時間遲れて、やう?岬の下《もと》に逹したりといはゞ、 讀者は武安《ブリアン》が後の三四マイルを跋渉《ばつせふ》するに、 如何に困苦を極めしかを推量するに難からざるべし。武安《ブリアン》は石の上に腰をおろして、 其の袋子《ふくろ》の裡《うち》より、食物及びフラスクを取り出だして、 其の飢渇を療しつゝ魚族波上に盤渦《ばんくわ》を印して潛游《せんいう》し、 其の間に二三隻の海豹《あざらし》の出沒 嬉戲《きゞ》するあり、 渠《かれ》は之を見て此地の、其の是まで思ひをりしよりは、 更らに高緯度に在ることを推斷せり。をりしも颯然《さつぜん》聲を成して頭上を過ぐるは、 ペンギンと呼ばるゝ鳥の群にして、斯の鳥は南極地方に於て殊に見らるゝ所のものなり[注:空飛ぶペンギンは誤りか?]。 武安《ブリアン》が此地を以て意外の高緯度に在るものとなせる推斷は、益す確かとなれり。 休息すること一時間ばかりにして、武安《ブリアン》は再び身を起して、 岬に攀《よぢのぼ》りはじめしが、岬は無數の巨岩大石の累積して之を成したるものなれば、 其の岩石より岩石につたはりて、爬登《はひのぼ》ることの困難なるは、 亦た常に非ざりしが、百難に撓《たわ》まざる武安《ブリアン》は、 やう?にして其の頂きに逹することを得て、先づ望遠鏡を把《と》りて東方を展望するに、 灣に面して屏立《へいりつ》せる一帶の岸壁及び己れの現に立てる所の岬頭《かふとう》の背後は、 皆な内地に向ひて陵夷走下《りよういそうか》し、内地は只だ是れ一 平《へい》の坦野《たんや》にして、 鬱蒼たる茂林《もりん》之を蔽ひ、茂林の間を破りて此處《こゝ》彼處《かしこ》に隱見する川流《せんりう》は、 皆な其の末海に入るものなるべし、武安《ブリアン》が展望せる東方左右十一二マイルの間は只だ斯の如きのみ、 更らに北方を展望するに、武安《ブリアン》の脚下より七八マイルの間は、 濱邊一直線に打ち續き、濱邊の極まる處に、亦た一帶の岬ありて之を界斷《かいだん》し、 岬の那方《あなた》には沙漠の如き廣遠の沙場ありて、海に沿ひて蜿蜒《えん?》す、 又た南方を囘顧すれば、武安《ブリアン》が立てる所の岬の那方《かなた》は、 濱邊次第に南東に折れて、濱邊の内がはは一面の沼澤なり。 則ち若し此地をして一個の島ならしむるも、其の一大島なる知るべし。 武安《ブリアン》は更らに望遠鏡を擧げて西方の海上を眺望するに、 正《ま》さに西に傾きたる太陽は斜めに波面を射て、搖光《えうくわう》目に眩《まばゆ》き中に、 三個の小さき黒點ありて海上の凸出《とつしゆつ》するを見る、武安《ブリアン》は初め覺えず「船」と叫びしが、 熟視するに及びて、其の不動的なるを知り、是れ三個の小嶼《せうしよ》なるべきを料《はか》りたり、 小嶼《せうしよ》は此處《こゝ》と相 距《さ》ること十五マイル内外なるべし。 既にして二時となれるにぞ、武安《ブリアン》は復《ま》た久しく此處《こゝ》留まる能はず、 將《ま》さに岬を下らむとしたしが、其の下り去るに先きだちて、 更らに一たび望遠鏡を取りて東方を展望せり。 蓋し太陽の益す傾きて、其の光線の射點《しやてん》變ずるにつれ、 嚮《さき》には見ること能はざりし所のものゝ、今は見るを得るやうになれるも、 或は有るべしと思ひたればなり。武安《ブリアン》の爲せし所は徒勞ならざりき、 眼界に盡くる處も茂林《もりん》の梢の那方《あなた》に、 北より南に横曳《わうえい》せる一條の淺碧色《せんへきしよく》ありて、 遠々地《ゑん?ち》に天際《てんさい》に浮出《ふしゆつ》せり、 武安《ブリアン》は大に疑ひ惑ひて、「是れ何物なるべきや」と獨語したるが、 復《ま》た之を熟視して、「海、然り是れ海なり」と叫びて、 望遠鏡は殆ど渠《かれ》の手より落ちむとせむ。 此より十五分の後は、渠《かれ》は既に岬を下りて磯上《いそのうへ》に在り。 五時には無事スロウ號に歸り着きたるが、一同は皆な領《えり》を引《のべ》て渠《かれ》の歸るを待ちてをり。 是夕 晩飯《ばんはん》を畢《をは》りて後 渠《かれ》は一同に其の觀察の結果を語り、 東方亦た海ありとせば、此地の大陸に屬せずして、一個の島なるは、 復《ま》た疑ひ無きよしを告ぐるに、一同の失望落膽は言はむもさらなり。 然れども常に喜びて武安《ブリアン》に反對する杜番《ドノバン》は一《ひとつ》には武安《ブリアン》の言ふ所に反對せむと慾すると、 二つには武安《ブリアン》の言ふ所の成るべく實《じつ》ならざらむを希《こひねが》ふとより、 是れ或は武安《ブリアン》が一時の幻視ならしならむも知るべからず、 己《おの》れは自から往きて其の海の有無を探視《たんし》したる後に非ざれば、 之を信ずる能はずといひ、杜番《ドノバン》に黨《くみ》する諸童子は皆な之に贊成し、 呉敦《ゴルドン》も亦た、是れ第一の重要なる問題なれば、 更らに之をたしかむる爲めに東方に遠征して其の海の有無を探視《たんし》するを可とすといひ、 遂に遠征委員として、武安《ブリアン》、 杜番《ドノバン》の二人の外に韋格《ヰルコクス》左[田|比;u6BD7]《サービス》の二人を遣はすこととなりたるが、 翌日より雨再びふり出でゝ、連日 休《や》まず、一同は或は船體の破損處を修繕し、 或は雨の小歇《こやみ》を見て銃獵に出で、川に漁《すなど》りして、 以てくらす間に、三月は既に逝《ゆ》きて、四月の一日となりぬ。 更らに一個月せば冬 當《ま》さに來るべきに、此ごろの寒さの日にまして甚しくなるは、 其の冬の如何に猛烈なるかを想像するに餘《あまり》有り、縱《たと》ひ此地をして果して大陸に屬せしめて、 童子等は東方の人あるかたを尋ねゆくとするも、 渠等《かれら》は冬過ぎて暖和《だんわ》なる氣候の囘《かへ》り來るを待たざるべからず。 即ち此より五六個月は仍《な》ほこゝに留まらざるべからず。而してスロウ號の破損處は、 日炙雨淋《につしやうりん》のために、其の罅隙《かげき》日に益す大きくなりて、 到底此より五六個月の間其の體を全《まつた》くして、童子等を庇護すること能はず。 故に遠征委員は東方に於て、海の有無を探視《たんし》すると共に一同の栖居《せいきよ》に適すべき處を求め、 若し已む無くば、新らしく家を建つるの計《はかりごと》をもなさゞるべからずと議定せり。 是日晴雨計は俄《にはか》に昇りて、明日以後の快晴を豫示《よし》し風も亦た全く死《な》ぎたれば、 四名の遠征委員は直ちに發足の準備をなし嚮《さき》に武安《ブリアン》が望み見たる海色《かいしよく》は、 此方《こなた》の濱邊より六七マイルの距離に在りしといへば、 此處《こゝ》より往復一日乃至二日を費やさば十分なるべきに似たるも、 不知《ふち》案内の道をゆく者なれば、不測の障碍あらむを慮《はか》り、 毎人四日分の食物を負ひ、各《おの?》一個の旋條銃と一個の連發短銃を挈《たづさ》へ、 外に斧二個、懷中 磁石《じせき》一個、望遠鏡一個、毛布數枚、マッチ及び燧石《ひうちいし》、 火鎌《ひうちがま》若干を携へたり。呉敦《ゴルドン》は自から一行に伴ひて、 武安《ブリアン》と杜番《ドノバン》との間を調停したしと思ひたるも、 然かしては、内に留まりて幼年者を看護すべき者無きにぞ、心ならずも其の念を斷ちたるが、 渠《かれ》は武安《ブリアン》を人無き處に招きて、 くれ?゛も遠征中 杜番《ドノバン》との不和合を生ぜざるやう説き諭して、 武安《ブリアン》が決してさる事あらざるやう自から戒むべしと誓ふに至りて、 纔《わづ》かに心《むね》を安《やすん》ぜり。 日沒前には天全く霽《は》れて、蒼穹《さうきう》復《ま》た一點の雲無く、 夜に入りては南半球の群星宿《ぐんせいしゆく》 燦然《さんぜん》各《おの?》光を放つ中に就て一きは目を惹くは、 特に南極地方に於てのみ仰ぐことを得る南方十字星なり、 呉敦《ゴルドン》等諸童子は、明日發足せむとする四名の遠征委員の前途の身のうへを氣づかひて、 一同 悵然《ちやうぜん》たりをりから、不圖《ふと》首を擧げて是等の群星宿《ぐんせいしゆく》を仰ぎ見たるときは、 皆な忽ち其の父母の事故郷の事を憶《おも》ひ起して、 幼年者等は皆な宛《さな》がら寺院の十字架の前に跪拜する如く、南方十字星の前に跪拜して、 前途の好運を祷りたり。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第四囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 翌二日朝七時四名は、呉敦《ゴルドン》の勸めにより獵犬フハンを從へて、 スロウ號を出でゝ、遠征の途に上りたり。是日は北半球の十月に屡《しばし》ば見る如く屡ば見る如き、 小春の好天氣にして、四名に先づ其の門出のさいさきよきを祝しつゝ濱邊を北に進み行けり。 渠等《かれら》は已むなくば、嚮《さき》に武安《ブリアン》の攀《よぢのぼ》りたる岬のほとりまでゆきて、 岸壁に登るべき道を求め、是より其の背後に下りて、 武安《ブリアン》の望み見たりといふ海色《かいしよく》のかたに一直線に進み行かむと慾するなり。 スロウ號の所在地より以南には、岸壁の頂きに登るべき道無きは、 武安《ブリアン》と呉敦《ゴルドン》とが探究して既に明かなる所なればなり。 四名は岸壁の下に沿ひて行くこと一時間ばかりにして、 前頭に進みたる左[田|比;u6BD7]《サービス》のフハンと共に忽焉《こつえん》見えずなりたるにぞ、 他の三名は驚きて之を求めむと慾するうち、左[田|比;u6BD7]《サービス》の喚《よば》はり叫ぶ聲と、 フハンの高く吠ゆる事、相和して聞えたり、三名は聲を尋ねて其の處に走《は》せ至るに、 左[田|比;u6BD7]《サービス》は獵犬と共に、岸壁の一 襞折《へきせつ》を成せる所の陰に於て、 岸壁の破裂痕の前に立ちてをり。蓋し寒氣熱氣の作用によりてか、或は濕氣の浸潤したりし爲めか、 岸壁の面《おもて》、頂きより地に逹するまで一條の縱裂痕を生じ、 縱裂痕の裡面《りめん》は寛濶《かんかつ》にして、人の身を容れて餘《あまり》有るに、 又た四十度乃至五十度の斜面を成し、其の斜面のうへは凸凹一ならざれば、恰好の足がゝりを爲すべきに似たり。 杜番《ドノバン》は武安《ブリアン》が危險なりとして止むるをも、 聽かずじて、早やこれを登りはじめたり、他の三名も續いて登りゆくに、 幸ひにして無事相 踵《つい》で岸壁の頂きに逹することを得たり、 三名の頂きに逹したるときは、杜番《ドノバン》は既に望遠鏡を取り出だして、 熱心東方を展望しつゝありき。韋格《ヰルコクス》は之を見て、「何等か水の色を見るか」。 杜番《ドノバン》「否な」。韋格《ヰルコクス》は杜番《ドノバン》がわたす望遠鏡を受けて、 亦た展望すること良《や》や久くせるが、「眼の屆く限り、只だ一面の茂林《もりん》を見るのみ」。 武安《ブリアン》「此處《こゝ》はかの岬より百尺内外も低と見ゆれば、 其の眼界の更らに限られて、かの岬より望み得る所を望む能はざるも宜《むべ》なり、 若しかの茂林《もりん》を突貫して、一直線に東に進まば、 餘の見し所の果して誤れるや否やを證するは甚だ容易なり」。 杜番《ドノバン》「そは極めて勞多くして、而かも餘は其の勞の甚だ無用なるを思ふ」。 武安《ブリアン》「然らば杜番《ドノバン》、君は此處《こゝ》に留まりて待て、 餘は左[田|比;u6BD7]《サービス》と二人して往て之を探り究めむ」。 韋格《ヰルコクス》「餘等も勿論同行すべし、來れ杜番《ドノバン》、 餘等をして更らに進ましめよ」。左[田|比;u6BD7]《サービス》 「然り、然れども先づ腹をこしらへて後」。四名は各《おの?》其の携へたる處の食物を取り出だして、 十分 早飯《あさめし》をしたゝめたる後、再び岸壁を東に下りはじめぬ。 最初の一マイル許《ばかり》の間は、平軟なる草原にて、 此處《こゝ》かしこに三五個の小石丘の蘚苔《せんたい》に被はれしが散點するあるのみ。 其の間亦た一二の灌木叢あり、灌木は柊《ひいらぎ》バーベリー等、 極寒の地方にも繁生することを得るといふたぐひの者に限れり。 既にして茂林《もりん》の中に進み入るに、幾多の僵木《きやうぼく》は僵《たふ》れたるがまゝに朽腐《きうふ》し、 密艸《みつそう》いやがうへに雜生して、童子等は手づから榛莽《しんまう》を斫《き》り開きて、 然して後始めて進み行くことを得るも、屡ばなり。故に其の疲勞の甚だ大にして、 進行の極めて遲きは、言はむもさらなり。數時間を費やして、僅《わづ》かに三四マイルを徑《わた》り得たるのみ。 午後二時に至りて、一條の淺き小川の上《ほとり》に出でたり、 童子等は草を藉《し》きて暫らく此處《こゝ》に休息せるが、川の水は清くして底の石を見《あら》はし、 且つ其の水面に一介の枯枝《こし》一片の草介《さうかい》をさへ泛《うか》べざるは、 其の源の此處《こゝ》を去る遠からざることを推《すゐ》すべし。 川を横ぎりて、幾個の平石《へいせき》あり、點々互に同じ距離をもて、水中に立ちたるは、 宛《さな》がら人の手を以て、故《こと》さらに按排して、徒矼《かちばし》を作りたるにも似たり。 川は北東に向ひて走れば、是れ或は武安《ブリアン》が嚮《さき》に東方の發見せし所の海の注ぐ者ならむも、 知るべからず。故に童子等は、且《しば》らく試みに川を追ひて其末の注ぐ所を檢討すべしと議決して、 先づ徒矼《かちばし》をわたりて對岸に到りたり。是れ下流に至らば、 其の幅員の次第に廣がりて、或は之を濟《わた》らむと慾するも、能はざることあらむを慮《おもんぱ》かりたればなり。 川はより?密樹のために其の水面を蔽はれて、 其の所在を失ふことあるも、童子等は多くの困難なく、其の岸に沿ひて下りゆくことを得たり。 川は急轉 慢折《まんせつ》、一にして足らざりしが、其の大體は依然東方に向ひて走りたり。 然れども其の末は尚ほ甚だ遠しと見えて、水の流れは依然として徐《しづ》かに、 其の幅員は依然として些《すこ》しの廣さをも加へず。五時半に至りて、 童子等は遂に斯の川の全く北方に走るものなるを發見して、 大に失望落膽せり。渠等《かれら》は川を舍《す》てゝ、再び路を東方に取りて進み行けるが、 密樹 鬱葱《うつそう》として晝尚ほ暗き處多きに、 長艸《ちやうさう》は往々 渠等《かれら》の頭《かしら》を沒して、互に相喚び相應じもて行かざれば、 動《やゝ》もすれば相失はむとするの懼《おそ》れ有り。 既に七時に埀《なんな》むとせるに、未だ茂林《もりん》の外に出づる能はず。 武安《ブリアン》杜番《ドノバン》は相 議して、今夜の此《この》處に宿して、 明日 復《ま》た其の進行をつゞくべしと決しぬ。 是時天已でに黒くして、十分物の色を辨ずる能はざりしも、一方に一團の茂樹ありて、 下枝《しづえ》四面に廣がり延びて、恰《あた》かも屋根の状を成せるを望み見て、 一同其の中に分け入りて、持ち來りたる毛布《ケット》を展《の》べ、 燻牛肉《いぶしにく》乾餠《かたパン》等取り出だして、 各《おの?》飢を療せしが、未だ幾ばくならずして、一同横に臥すとそのまゝ熟睡して、 前後も知らずなりにたり。獵犬フハンは戸を守りて、茂樹の外に見張りせしが、 是れさへ遂には目を合せて動かずなりぬ。 翌朝七時、一同は眠《ねむり》覺めて、此 處をたち出でむとせしが、 獨り先づ茂樹の外に出でたる左[田|比;u6BD7]《サービス》は、 忽ち恐ろしき聲を揚げて、「武安《ブリアン》、杜番《ドノバン》、韋格《ヰルコクス》、 とく來りて之を見よ」。三個は驚きて、走《は》せ出づるに、左[田|比;u6BD7]《サービス》 「とく來りて、昨夜餘輩の宿したる處の何處《いづく》なりしやを見よ」。 童子等の宿せしは、昨夜想像したる如き、茂樹の中にはあらずして、 一個の小舍なりき、小舍は樹の枝を編みて屋蓋《やね》となし亦た壁となしたる粗製のものにして、 黒人《インヂアン》が稱してアジョウパとなす所のものなり。 創建以來、已でに許多《きよた》の星霜を經たりと見え、屋蓋《やね》及び壁ともに、 僅《わづ》かに其の形を存するばかり。杜番《ドノバン》「さては、此地は、無人の郷《さと》に非ず」。 武安《ブリアン》「少くとも、昔は無人の郷《さと》に非ざりき」。 韋格《ヰルコクス》「此によりて昨日の徒矼《かちばし》の原因も亦た判然せり」。 然れども此地にして若し野蠻なる黒人の住む所ならしめば、 童子等は又た更らに一段の憂へを加へたるものと謂はざるべからず。 童子等は再び小舍の中に入りて、仔細に檢尋《けんじん》するに、 一面に地上を蔽ひたる枯葉の底に於て、一個の土器の破片を拾ひ得たり、 是れ亦た一個の人工的遺物なり。一同は此 處を出でゝ磁石を手にして一直線に東方に進み行くに、 十時に向ふ比《ころ》ほひ、やう?茂林《もりん》の外に出づるを得たり。 打ち看れば、茂林の外は一面の平地にして、たち麝香艸ヘザー等 叢生《そうせい》し、 八町 許《ばかり》前方には、一帶の白沙、限り無きまで長く左右に曳きて、 白沙の上には武安《ブリアン》が嚮《さき》に望み見たりといふ海の千波萬浪《せんばばんらう》、 徐《おもむ》ろに打ち寄せ打ち返す。 今は復《ま》た疑ふべき無し。此地は大陸にあらずして、一個の島なり。 童子等は平地を徑《わた》りて濱邊に赴きつ、白沙の上に坐を占めて、 早飯《あさめし》をしたゝめしが、一同悄然として、言《ことば》を發する者さへあらず。 既にして食事 畢《をは》りしかば、杜番《ドノバン》は先づ身づくろひして、 「いざ、打ちたゝむ」。蓋し渠等《かれら》は若し早きに及びて歸途に就かば、 或は日沒以前にスロウ號の在る所に逹することを得べし。 四個の童子は、最後に復《ま》た齊《ひと》しく首《かうべ》を囘《かへ》して、 恨めしげに海の面《おもて》を看たるまゝ、再び茂林《もりん》のかたに返らむとするに、 如何にしけむ獵犬フハンは、突然として海際《みぎは》に走《は》せゆくしが、 忽ち口をさし入れて、海水を飮みはじめぬ。杜番《ドノバン》は從《お》ひゆきて、 亦た掬《きく》して之を飮むに、水は些《すこ》しの鹽氣無き純然たる淡水なりき。 即ち此地の東方に横はれるは、海に非ずして一個の湖なりしなり。 是れ島か是れ大陸かの一問題は、此に至りて復《ま》た不分明の中に落ちぬ。 斯の湖の看わたす限り、前方及び左右二方、殆ど亦た此地の大陸なるやを疑はしむる者も無きにあらず。 武安《ブリアン》「若し大陸ならむには、應《ま》さに是れ亞米利加なるべし」。 杜番《ドノバン》「餘は初めより、しか信ぜり、餘の説果して誤らざりしに似たり」。 武安《ブリアン》「兎に角に、餘が嚮《さき》に望見《ばうけん》したるは、やはり水の色なりき」。 杜番《ドノバン》「然り、然れども是れ海にはあらざりき」。 若し此地をして大陸に屬せしむるも、童子等が人有る郷《さと》を尋ねて、 東方に旅行せむことは、數月の後、春暖の候の囘《かへ》り來るを待ちてなるべからず。 既に數月を此地に消《せう》さゞるべからずとせば、西方の濱邊に於て、 其の栖宅《せいたく》に適當なる洞穴の類を發見する能はざりし渠等《かれら》は、 斯の湖のほとりに於て、何等の其の棲居《すまひ》に適當の處ありや無しやを探究せむことも、 亦た緊急の一事なり。加ふるに、かの徒矼《かちばし》の如き、 小舍の如き、曾て人の此地に住みしもの有りしことを證するの遺迹《ゐせき》多く此 邊《ほとり》に存するを觀れば、 更らに仔細に探討《たんたう》せば、或は又た更らに幾多前人の遺物を發見するを得て、 童子等が進退を定むるの參考とすべき良材料を得ることもあらむ歟《か》。 四個の携帶せる食物は、尚ほ四十八時間を支ふるに足るべく、天氣も亦た幸ひに激變を來すべくも見えず。 故に四個が目下決すべき問題は唯だ是れなり。曰く渠等《かれら》は此より北に向ふべきか、 南に向ふべき歟《か》と。蓋し北に行くは、スロウ號に益す遠ざかるものにして、 南に行くは、稍《や》や之に近づくなり。故に渠等《かれら》は南に向ひて、 湖邊《こへん》を探究しゆくべしと定めたり。 湖邊は一樣の平地打ちつゞきて、歩行に困難少かりしかば、 四個は大なる疲勞もなく、是日十マイル許《ばかり》を行きて、歇《とゞ》まり宿せり。 途中曾て一縷の煙の樹外に騰《のぼ》り、一雙の足跡の沙上に印するを見ざりしは、 此地已でに久しく人の住むもの無きを料《はか》るべし。又た曾て一個の猛獸、 或は食草的動物に逢はず。唯だ二三囘一種の巨鳥が、茂林の裡《うち》に出沒するを望み見たり、 左[田|比;u6BD7]《サービス》は初めて之を見たるとき直ちに一同を顧みて、 「是れ駝鳥なり」。杜番《ドノバン》「駝鳥とせば、是れ極小駝鳥」。 武安《ブリアン》「若し渠等《かれら》をして駝鳥ならしめ、此地をして大陸に屬せしめば、 此地は必ず亞米利加なり、亞米利加は即ち尤も駝鳥多き處なれば」。 四個は午後七時 復《ま》た一條の小川のほとりに出でたり、川は分明湖より流れ出づるものあり。 此の時天 漸《やうや》く晩《く》れたれば、明朝を待ちて川を濟《わた》るかた安全なるべしとて、 乃ち是日は此處《こゝ》に歇《とゞ》まり宿せることゝなせるなり。 四個は獵犬と共に、沙上に横臥して眠りしが、翌朝目を開けば、 既に七時を過ぎたるに、驚き起きて、先づ川の對岸を展望するに、 川の那方《あなた》は眼の屆く限り、只だ是れ一面の沼澤なりき。 一同は相顧みて、昨日《きのふ》強《しひ》て川を濟《わた》らむには、 直ちに斯の沼澤の中に陷るべかりしに、此方《こなた》に歇《とゞ》まり宿せるは、 幸なりしと相 賀《が》しつゝ、川の右岸に沿ひ、流れを趁《お》ひて進み行くに、 渠等《かれら》の右方に一帶の岸壁ありて、遠方より來りて次第に隆起 聳立《しようりつ》するを見る、 是れスロウ灣の上に屏立《へいりつ》する岸壁のつゞきなること莫《な》きかとは、 一同の齊《ひと》しく心に思ひたる所なりき。スロウ灣とは、童子等が此のところ、 スロウ號の漂着せる所の灣を、假りに稱する評語なりき。 韋格《ヰルコクス》は忽ち叫びたり、「看よ、あれを看よ」。 韋格《ヰルコクス》の指さすかたを視れば、是れ繋舟《けいしう》の所となしたる者なるべし、 幾多の石の、人の手を以て累積されたるが、半ば殘破しながらも、猶ほ舊時の形を存してをり。 武安《ブリアン》「此邊に曾て人ありて住みしは、益す明かなり」。 杜番《ドノバン》「然り」と答へつゝ、繋舟所の一方に、 茂草《もさう》の間に横はりたる幾多の木片を指させり。 是れ當時の船の破片なることは、其の形に由りて甚だ明かなるのみならず、 舟の龍骨《キール》をなしたりし者の破片なるべしと見ゆる木片の一端には、 猶ほ一個の鐡環ありて附着せり。四個は宛《さな》がら、曾て斯の舟を用ひ斯《か》の繋舟所を築きたる人の、 今にも突如として、渠等《かれら》の面前に現はれ出でむとする如く思はれて、 各《おの?》四邊を看まはしつゝ、默然として彳立《てきりつ》せり、 然れども四邊は闃《げき》として、一個の人の影も見えず。 唯だ蕭々たる水の輕く岸を洗ひて、悠然として逝くあるのみ。 舟の此處《こゝ》に棄てられしより、既に幾多の年所を經たると覺しく木片は皆な蘚苔《せんたい》に蔽はれて、 鐡環は通身《つうしん》赤く[金|肅;#1-93-39]《さび》を生ぜり、 而して曾て斯の舟を用ひし人は、今 安《いづ》くに在るや、渠《かれ》は何許《いづく》の人にして、 何樣《なにやう》の終りをなせるや、是れ四個が皆な知らむと慾して、知る能はざる所なり。 既にして獵犬フハンの異樣なる動作は、又た忽ち童子等の驚きて、目の注ぐ所となれり。 フハンは雙耳《さうじ》を張り、尾を掉《ふ》りつゝ、しきりに地上を俯《ふ》し嗅ぐは、 何等か異常の臭を聞きいだせしなるべし。既にしてフハンは足を擡《もた》げ、口を開きて、 暫らく猶豫《ためら》ふさまなりしが、又た忽ち一方なる樹叢《こだち》を望みて、 まつしぐらに走《は》せ去りたり。樹叢は湖の畔《ほとり》に於て、岸壁の下《もと》に傍《そ》ひて立てる所なり。 一同はフハンの後に從ひて、樹叢のほとりに至るに、前頭に一株の舊《ふる》き山毛欅《ぶなのき》ありて、 其幹の皮を刻みて、 F. B. 1807 の六字を記しあるを見たり。童子等が足を停《とゞ》めて、之を諦觀する間もなく、 フハンは再び少しく却走《あともどり》して、岸壁の角を遶《めぐ》りて、忽ち見えずなりぬ。 武安《ブリアン》「此處《こゝ》へ、フハン、此處へ」と喚びたるがフハンは歸り來らず、 那方《かなた》にありて、俄《には》かに常ならぬ聲して頻りに狂ひ吠ゆる響聞ゆ。 武安《ブリアン》「一同一緒にかたまりて、自から衞《まも》らざるべからず」。 この言杞憂にあらざりき、或は猛獰なる恐るべき黒人の、 近く渠等《かれら》を窺《うかが》ふもの有るなるやも料《はか》るべからず。 童子等は各《おの?》武器を提《ひつさ》げて、一團となりて、かのフハンの聲のするかたに走《は》せゆくに、 岸壁の角を遶《めぐ》りて行くこと、未だ數 間《けん》ならず、杜番《ドノバン》は忽ち足を停《とゞ》めて、 地上に遺《お》ちたる一個の物を拾ひあげぬ。是れ一個の鋤《すき》なりき、 而かも是れ未開人の作りたるものに非ず、必ず亞米利加或は歐羅巴、 文明人の製《せい》に係るものなり。其の嚮《さき》の鐡環と同じく、 通身《つうしん》赤く[金|肅;#1-93-39]《さ》びたるは以て其の亦た幾多の年所を經たるを推すべし。 更らに意を留めて其のほとりを視るに、岸壁の下《もと》に、當時耕作せし迹《あと》と見え、 髣髴《はうふつ》として溝の痕《あと》あり。又た一とかたまりの芋の、 今や野生のものと變じて、肆《ほしい》まゝに蔓延したる有り。 時に再びフハンの哀しげに叫ぶ聲聞えしが、フハンは忽ち童子等の前にかけ來りて、 いたく激昂したるさまにて、童子等の顏を仰ぎては、往きつ返りつ、走《は》せまはる、 宛《さな》がら童子等に己れに隨ひ來るべしと催促するものおに似たり。 童子等はフハンの導くがまゝ隨ひゆくに、やがて一簇の荊棘《けいきよく》灌木雜生せる岸壁の下《もと》に至りて、 止《とゞ》まりたり。童子等は心を用ひて、恐る?荊棘を披《ひら》き、灌木を拂うて、 其の中を窺《うかが》ふに、岸壁の面《おもて》に、黝然《えうぜん》として黒く見ゆるは洞《ほら》の口なるべし。 武安《ブリアン》は手ばやく枯草を聚《あつ》めて、之に火を點じ、洞中にさし入るゝに、 依然として熾燃《しねん》せるは、洞中の空氣の呼吸に害なきを知るべし、 武安《ブリアン》は又た川の上《ほとり》に往きて、松樹の枝を折り取り來りて、之に火を點じて、 早速の火把《たいまつ》となし、之をかざして、一同相率ゐて洞中に進み入るに、 口は高き五尺幅二尺に過ぎざるも其の中は呀然《がぜん》として、二十尺四方の一 廣室《くわうしつ》を成し、 地上は一面に美くしき乾沙平布《かんさへいふ》して、毛氈《まうせん》を覆《ふ》むが如し、 室の口の右方に、一個の粗製の卓子《てーぶる》ありて、卓子の上には、 土製の水さし一個、巨《おほい》なる貝殼數個あり。貝殼は蓋し皿として用ひられたるものなるべし。 又た一個の缺折《けつせつ》したるナイフの赤く[金|肅;#1-93-39]《さ》びたるがあり、 二三個の釣魚鉤《うをつりばり》、一個の錫のコップあり。一方の壁ぎはには、 一個のあら木製《きづくり》の匣《はこ》ありて、 内には衣服の破片若干を藏せり。疑ひも無く、斯の洞中には曾て人ありて住みしなり、 而《しかう》して是れ何人にして、何時の事なりしならむ歟《か》。 次第に進みて室の奧に至るに、此處《こゝ》に破爛《はらん》せる藁ぶとん有りて、 其の上に色褪めたる毛布被ひあり、斯の臥具《ぐわぐ》のほとりに、 一個の[登/儿]几《しやうぎ》ありて、[登/儿]几《しやうぎ》の上に、亦たコップ一個と、 木製の蝋燭たて一個とあり、童子等は此處《こゝ》に至りて、 覺えず慄然として一二歩退却せり。 斯の臥具《ぐわぐ》の中にこそ定めて昔斯の洞《ほら》の主《あるじ》たりし所の人の遺骸あるべしと思ひたればなり。 杜番《ドノバン》は自から勇氣を奮ひて、進みて毛布を掲げ起しぬ、然れども臥具《ぐわぐ》の中は空虚なりき。 洞中を檢搜《けんそう》し畢《をは》りて、四個は出で來るに、フハンは仍《な》ほやツきとなりて、 狂ひ叫びをり、四個は獵犬の導くがまゝに再び隨《したが》ひゆきたるが、 川の岸に沿ひて下りゆくこと十 間《けん》許《ばかり》にして、 渠等《かれら》は齊《ひと》しく悄然として足を停《とゞ》めぬ。 川の上《ほとり》に一株の巨《おほ》いなる山毛欅《ぶなのき》ありて、 其の下《もと》に一 堆《たい》の白骨横はり臥せり、 是れ蓋しかの洞《ほら》の主《あるじ》たりし薄命の人の遺骸なるべし。 四個は默然として彳立《てきりつ》したるまゝ、身動きだもするもの有らず。 斯の人は是れ何人ならむ歟《か》、或は破船《はせん》水夫の此地に漂着して、 空しく救ひを待つうちに、遂に病みて死したる歟《か》。 若し然らば、渠《かれ》は其の間如何にして其の生活をなしたる歟《か》、 渠《かれ》が洞中に貯へたる諸種の什具《じふぐ》は、渠《かれ》が本船より僅《わづ》かに取り出だし得て、 此 處に持ち來れる者なる歟《か》。抑《そもそ》も尤も知りたしと慾する所の者は、 若し此地をして大陸に屬せしめば、渠《かれ》は何故に内地或は沿岸の、人有るかたを尋ねゆくことを爲さずして、 空しく病みて死したる歟《か》。或は其の旅行甚だ困難にして、渠《かれ》は終に其の目的を逹すること能はざりし歟《か》。 或は其の路程の極めて遼遠にして、之を跋渉《ばつせふ》せむことの、 到底能ふべからざりし歟《か》。若し斯の人にして、昔此地より人有る郷《さと》に尋ねゆかむと慾してゆく能はず、 遂に此 處に終りたりとせば、爭《いか》で獨り今日のスロウ號の破船《はせん》者のみが、 之を企てゝ成功することを望むことを得むや。兎に角に童子等は、 更らに仔細に洞中を檢搜《けんそう》せば、或は斯の人の書きおきたる日記などの類の、 童子等に、斯の人のみのうへと始末とにつきて、更らに詳密なる知識を與ふべき者あらむも、 料《はか》られず。 四個はフハンを從へて、再び洞中に還り來るに、先づ渠等《かれら》の目につきしは、 右方の壁に掛りたる一個の袋にして、袋の中には、 獸の脂肪と船中にて用ふる所の[土|眞;#1-15-56]絮《まきはだ》とを以て製したる蝋燭數個あり。 左[田|比;u6BD7]《サービス》は直ちに其の一個を取り出だして、之に火を點《とも》して、 嚮《さき》に見たる所の蝋燭たてに之を植《た》てゝ、さて一同熱心に洞中を檢搜《けんそう》しはじめたり。 洞中は唯だ其の口を經由して、風を通ずるのみなれども、些《すこ》しの濕氣なく、 四方の壁は淨然《じやうぜん》燥《かは》きて花崗石の如く、 東方の壁は恰《あた》かも海上より來る所の風を防ぎて、海氣の此裡《こゝ》に入り來るをを拒《ふせ》げり、 洞中の甚だ闇《くら》きは眞《まこと》に一缺點なり、然れども前方の壁に二三の窓を穿たば、 以て斯の缺點を補ふことを得べし。洞中の面積は二十尺四方に過ぎざれば (即ちたゝみ二十二三枚をしくに過ぎざれば)十五名の童子の棲居《すまひ》として、 十分の廣さありと謂ふを得ざれども、兎に角に以て數月を此處《こゝ》に消《せう》すぜからざるに非ず。 かの山毛欅《ぶなのき》の下《もと》の白骨と化したるし斯の洞《ほら》の主《あるじ》が、 初め此處《こゝ》に上陸したりし時は、蓋し一身の外多くの物を齎《もた》らす能はざりしなり。 童子等が洞中を檢搜《けんそう》して、新たに發見し得たるものは一個の斧、一個の鋤《すき》、 二三の割烹器具、ブランデーを盛りたる者らしき一個の樽、及び槌、鑿《のみ》、鋸《のこぎり》等なり。 想ふに渠《かれ》は是等の諸品を携へて、 今はこの茂草《もさう》の間に横はる零細の木片となり了りたる一隻のボートに駕《が》して、 童子等は更らに査索《ささく》しゆくに、又た一個の懷中ナイフ、磁石、湯わかし、 鐡鍋、索《なは》つぎ針を發見せり。然れども未だ曾て一個の火器の類あるに逢はず、 時に韋格《ヰルコクス》は忽ち一個の物を取りあげて、「是れ何物なるべきか」。 他の三個も來りて共に之を視るに、是れ二個のまろき石を索《なは》もて緊《しか》と約《くゝ》しあはせたる者にして、 南亞米利加の黒人は、之を投じて走獸《そうじう》を撃つに、百に一を失はずと云ふ。 想ふに斯の洞《ほら》の主《あるじ》は、自から之を製し之を用ひて、 以て其の火器の缺を補ひしなるべし。韋格《ヰルコクス》は又た壁の上に一個の懷中時計懸り居るを發見せり、 時計は通例水夫の持つ所のものには異なりて、白銀の雙蓋《さうぶた》にて、 鎖鑰《くさりかぎ》ともに同じく上等の白銀なり。蓋は[金|肅;#1-93-39]《さ》びつきて容易に開かざるを、 やう?開き視るに、長短の針は正《ま》さに三時廿七分を指せり。 杜番《ドノバン》「蓋の裏に製造者の名あるべし、そを觀れば以て其の所持者の何の國の人なるかを推《すゑ》するを得べし」。 武安《ブリアン》「君の説 是《ぜ》なり」。蓋の裏を返し視るに、 Delpleuch. Saint Malo,と刻みあり。武安《ブリアン》「さては渠《かれ》は佛人なりき、 餘が同國の人なりき」。渠《かれ》の佛人なりしことは、更らに一個の確證ありて、 愈よ益す明かになりぬ。杜番《ドノバン》は臥具《ぐわぐ》を打ちかへせるに、 其の間より一册の手帳現はれ出でぬ。手帳の紙は多くの年所を經たるがために、 皆な黄《きば》みて、其の面《おもて》に書ける文字も、 多くは讀むべからずなりたるが、唯だ其の間に屡ば『朗法《フランソア》、慕員《ボウドヰン》』の二語ありて、 是のみはやうやう讀みわくることを得たり。二語の頭字《かしらじ》は即ち、 嚮《さき》に見たる山毛欅《ぶなのき》の幹に刻みありし二字と相符すれば、 是れ斯の人の姓名なるべし。手帳に記せし所は、渠《かれ》が此處《こゝ》に漂着して以來の事どもを録せるものなるべし。 武安《ブリアン》は又た手帳の中に就て、「ヂュゲー、トロイン」の一語を讀みあきらめぬ、 是れ遭難せる本船の名なるべし。手帳の首《はじ》めに一千八百零七年の年號記しあり、 亦たかの幹に刻みある年號と相符すれば、是れ其の破船《はせん》の年なるべし。 然《さ》れば朗法《フランソア》慕員《ボウドヰン》が此處《こゝ》に上陸してより、 今に至りて五十三年なり。更らに仔細に手帳を査閲するに、手帳の間に一枚の疉みたる紙あり、 開きて之を視るに、是れ一個の地圖なりき。 杜番《ドノバン》「地圖」。武安《ブリアン》「想ふに、慕員《ボウドヰン》が自から畫ける所のものなるべし」。 童子等は一目の下《もと》、直ちに己れ等が現に其の西岸を探究しつゝある所の湖、 及びスロウ灣、スロウ灣上の岸壁等を、地圖に上に認め得たり。 而して之を周匝《しうそう》する者は、皆な[水/(水|水);#1-86-86]々《べう?》たる一樣の大洋なり。 武安《ブリアン》が想像せし所は遂に誤らざりき。童子等の現に立てる所は一個の孤島なりしなり。 是れ慕員《ボウドヰン》が幾年或は幾十年の久しきを閲《けみ》して、終に此 處を脱《の》がれ出づること能はず、 かの山毛欅《ぶなのき》の下《もと》に病死したりし所以なり。 蓋し地圖は慕員《ボウドヰン》が躬《み》親《みづか》ら全島を遍歴して、 其の目撃せる所に由りて、調整したるものなるべく、かの茂林《もりん》中の小舍及び徒矼《かちばし》は、 即ち其の跋渉《ばつせふ》のをりに造られしものなるべければ、 斯の地圖の示す所の精確なるは、復《ま》た疑ひを容れず。 但《た》だ其の距離の尺度に至りては、勿論測量器具ありて之を測量せしに非ず、 渠《かれ》が經過の時間の長短に由りて、之を臆算せしに過ぎざらむ歟《か》、 地圖に據《よ》るに、島の大形は蝴蝶に似て、其の中央に湖あり。湖の四面は皆な一樣な茂林《もりん》なり。 幾條の川此より流れ出でゝ、海に注ぐ。現に斯の洞《ほら》の外に流るゝ川の如き即ち其の一にして、 斯の川は即ちスロウ灣の南端に於て海に注ぐ者と同じ一つの流れなり。島中一個の山なく、概して一樣の平野にして、 其の北方は乾燥にして沙場多く、南方は沼澤 沮洳《そじよ》多し。 全島面積は東西 約《およ》そ二十五マイルなるべし、 但《たゞ》この島の位置の南半球に於て何の邊に在るかは、地圖に示す能はざる所なり。 要するに、慕員《ボウドヰン》の遂に此處《こゝ》に終りしを觀れば、 斯の島の人の來り訪ふこと希《ま》れなる絶海の中に在るものなるを推すべくして、 童子等の此處《こゝ》に消《せう》すべき歳月は將來尚ほ悠遠なりと想定せざるべからず。 兎に角に、其の棲宅《せいたく》に恰好なる斯の洞《ほら》を發見したりしは一同の幸ひなれば、 嚴冬の烈風のスロウ號を來り襲ふに先きだちて、 速かに其の食物其の他を運搬して、此處《こゝ》に移居するの計《はかりごと》を爲ざゞるべからず。 四個は今は只だ速かにスロウ號に還るべき一事あるのみ、渠等《かれら》は地圖に據《よ》りて、 洞外に流るゝ川は、其の末スロウ灣に入ることを知りたれば、斯の流れに沿ひて、 スロウ號に還るべしと定めたり。川の長さは七マイルに過ぎずと見ゆれば、 是れ僅々《きん?》三五時間の路程なるべし。四個は此處《こゝ》を去るに先きだちて、 洞中に在りし鋤《すき》を取りて、 慕員《ボウドヰン》が其の姓名の頭字《かしらじ》を刻みたる山毛欅《ぶなのき》の下《もと》を掘りて、 其の遺骸を此處《こゝ》に葬り、又た洞《ほら》の口を塞ぎて、野獸の此の中に闖入するを防ぎなどし、 畢《をは》りて岸壁を右にして、川の流れを左にしつゝ進み行くに、此邊は樹木も稀《ま》れにして、 途上の障礙《しやうがい》少ければ歩行意外にはかどりて、一時間の後は、岸壁の次第に川より遠ざかりて、 斜めに北西のかたに走《は》せ去る處まで來りたり。 武安《ブリアン》は斯の川の或はスロウ灣と湖との間に交通を助くべき便道となることあるべしと思ひて、 行く?意を留めて之を觀るに、川は十分ボート或は筏を容れて、之を通行せしむるだけに餘地あり。 進潮《さししほ》に乘じて棹さゝば、多くの勞力を須《もち》ひずして、流れを遡ることを得べし。 四時に至て、一個の大なる沼澤ある處に來りたれば童子等は已むを得ず、 北西のかたに路を迂《う》して、進み行きしが、雜木地を蔽ひて、 歩行次第に困難となり、既にして六時となり、 七時となり、天《そら》は漸《やう》やく黒くなるに、茂林《もりん》は益す密になり、 八時に及びては、夜色《やしよく》已でに四方を罩《つゝ》みて全く方位を辨ずべからざるに至れり。 時に忽ち茂林《もりん》の一方に、燦然《さんぜん》たる一道の明光ありて、 空中に閃き騰《のぼ》るを望めり。左[田|比;u6BD7]《サービス》「あれは何物なるべきや」。 韋格《ヰルコクス》「蓋し流星ならむ」。武安《ブリアン》「否な狼火《のろし》なり、 スロウ號より擧ぐる所の狼火《のろし》なり」。杜番《ドノバン》「即ち呉敦《ゴルドン》の餘輩に示す所なり」 と呼はりて、其の銃を發《はな》ちて其の信號に答へ應じつゝ、 眞先きに走《は》せ出だせり。四十分の後に一同 恙《つゝが》なく、スロウ號に歸り着きぬ。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第五囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 翌日朝まだきに衆童子は甲板の上に集衆して、四個の遠征委員が遠征の結果を聽き、今後の進退につきて、 相 議する所あり。地圖に據《よ》るに、斯の島は東西十里南北二十里ありて、 必ずしも世界 輿地《よち》全圖に載せられざるほどの極小なるものに非ず。 然れども輿地《よち》全圖を照査するに、南亞米利加の海岸に近き處に於て、著名なる群島より以外に、 當《ま》さに是れなるべしと想はるゝ孤島もあらず。若し斯の島をして、是等群島の中に屬する一島にして、 即ち其の左右に近く他の島有る者ならしめば、慕員《ボウドヰン》が其の地圖の上に、 其の事を記さずしては已むべからず。武安《ブリアン》「要するに目下の第一策は、先づ餘等の居を、 かの湖畔の佛人の洞《ほら》に移すに在り」馬克太《バクスター》「洞《ほら》は餘等一同を容るゝだけの大さあるか」。 杜番《ドノバン》「否《い》な、然れども餘等は更らに岩壁を穿ちて、之を廣むることを得べし」。 呉敦《ゴルドン》「縱《たと》ひ多少の不便あるとも先づ其のあり形のまゝに用ひて、 然る後 徐《おもむ》ろに他の計《はかりごと》を講ずるも、亦遲からじ」。 蓋し是時スロウ號は、其の甲板の側面及び側面の破損處次第に益す大きくなりて、 殆ど風雨を庇《おほ》ふべからざりしのみならず、烈風一たび怒濤を送りて、其の背を打たむには一二時間ならずして、 全船體粉碎し了るべき状《さま》を呈せり。故に移居は渠等《かれら》にとりて、焦眉《せうび》の急なりしなり。 杜番《ドノバン》「移居の事を了るまでは、餘等は何處《いづく》に宿すべきや」。 呉敦《ゴルドン》「天幕の下《もと》に、川の上《ほとり》に天幕を張りて以て」。 渠等《かれら》が船中に有らゆる物を荷づくりし、船體を解きて其の有用なる材木其他を擇《え》りわくるには、 少くとも一個月は要すべく、渠等《かれら》が此處《こゝ》を發足するは、早くも五月の初めとなるべし。 五月は餘輩北半球の十一月にして、即ち冬の初《はじめ》なり。渠等《かれら》が一日をも空費すべからざるは是が爲めなり。 呉敦《ゴルドン》が其の假宅《かたく》の地を川の上《ほとり》に擇《えら》みしは智《かしこ》かりき、 渠等《かれら》が船中の物を、佛人の洞《ほら》に運搬するには、 川に由りて筏を用ふるより善きは莫《な》し、則ち川の上《ほとり》は其の發足に最も便利なる位置なればなり。 衆童子は是日より、直ちに其の假宅《かたく》工事に着手して、先づ川の上《ほとり》に繁生《はんせい》する山毛欅《ぶなのき》の枝と枝との間に、 長き材木をわたして、之に大小の帆を張りて、屋蓋《やね》となし、亦た壁となし、 此 裡《うち》に其の火器彈藥及び諸般の食物、其の他必須缺くべからざる鍋釜 器皿《きべい》の類を納めぬ。 毎日風は強かりしも、幸ひにして快晴打ちつゞきたりしかば、渠等《かれら》は着々其の工事の歩を進むることを得て、 既に船中の物を悉く、天幕の内に運搬して了り、次に船體の外皮を解きはじめぬ。 外皮を包める銅鈑《あかゞねのいた》は、後來《こうらい》諸種の用あるべきを思ひたれば先づ丁寧に之を剥ぎ取りたり。 然れども熟練無く膂力《りよりよく》弱き童子の手を以て、百 噸《トン》の船體を解くことは、 甚だ容易の業《わざ》にあらざりき。 然れども四月二十五日に至りて、不思議の助《たすけ》ありて、大に渠等《かれら》の勞を省きぬ。 是日夜半より烈風吹き起りて、天明まで吹きとほし、翌朝 渠等《かれら》濱邊に往き視るに、 スロウ號は全然破戒し了られて、唯だ大小の木片の、地を蔽ひて堆積 亂布《らんぷ》するを見るのみなりき。 此より後兩三日は只だ濱邊に亂布せる木片を拾ひて、之を天幕の前、即ち川の右岸の中に運搬するのみに消《せう》されしが、 是れ亦た決して容易の業《わざ》にはあらずりき。 其の最も年長者と稱する者さへ未だ十五歳には滿たざる一群の童子が、或は長き木材を槓杆《てこ》として重きを起すあれば、 或は圓《まろ》き木材をコロとして重きを轉《まろ》ばすあり、或は擔《にな》ふあり、 或は舁《か》つぐあり、互にえい?聲をあはせて、一心に奔走勞作するさまは、 如何に憐れにも、しをらしく、勇ましき觀ものなりしとするぞ。二十八日の夕がたには、既に一切、 絞車盤《まきろくろ》鐡竈《かまど》水桶等の甚だ重きものに至るまで凡《およ》そ船體に附屬せる者にして有用なる者は一切悉く川の右岸に運搬し了られたり。 明日よりは筏の編成に着手すべしといふ、筏編成の工事は、馬克太《バクスター》主として之を統督し、 他の諸童子は多く馬克太《バクスター》の指揮に從ひて運動せり。 蓋し馬克太《バクスター》が天性一個の木匠《もくしやう》たるの才は、 今回 假宅《かたく》の工事及び船體解きほどきのことにつきて、 大に衆童子の間に顯《あら》はれて、衆童子は自然 渠《かれ》に倚頼《いらい》して、 其の力を藉《か》ること多かりしなり。渠等《かれら》は先づスロウ號の龍骨《キール》を截《き》りて二つとなしたる者、 前檣《ぜんしやう》まら後檣《こうしやう》の下半、帆桁等、スロウ號より取り來りたる諸種の長き木材を把《と》りて、 川の中に投じ、其の長きを縱にし、其の短きを横にして、 堅く相 約し以て、堅《たて》五 間《けん》幅二間半の筏の骨格《ほねぐみ》を作りたり。 骨格《ほねぐみ》既に就《な》りしかば、次にはスロウ號の甲板及び側面より剥ぎ取りたる板を以て、 其の上に平布《へいふ》して、之を釘粘《くぎづけ》にし、かくして不手ぎはながら、 遂に一個の筏を編成し了りたり。然れども是れなか?の困難工事なりしかば、衆童子は夜以て日に繼ぎて、 纔《わづ》かに其の工事を了りしは、五月二日なりき。翌三日よりは直ちに貨物をつみはじめしが、 善均《ゼンキンス》、伊播孫《イバーソン》、土耳《ドール》、 胡太《コスター》等の幼年者は各《おの?》其の體力に稱《かな》ひたる少量輕量の貨物を肩にして、 之を筏の上に運搬し、筏の上には、武安《ブリアン》馬克太《バクスター》等ありて、 呉敦《ゴルドン》の指揮に從ひて、偏輕偏重《へんけいへいぢゆう》の患《うれ》ひなきやう、 之を按排陳列す。又た鐡竈《かまど》水桶 銅鈑《あかゞねいた》等重量のものは、 絞車盤《まきろくろ》の助けを藉《か》り、年長童子等の手を以て、之を筏の上に縋《つ》り下ろせり。 之を總《す》ぶるに、衆童子の一心協力によりて、 五月五日の午後には、天幕の内外にありし一切の貨物、悉く筏の上につみ了られたり。 今は只だ明朝八時を待ちて、進潮《さししほ》の流れに乘じて、 纜《ともづな》を解き川を遡るべきの一事あるのみ。 呉敦《ゴルドン》「然れども、餘等が此 處を去るに先きだちて、 尚ほ爲しおくべき一事あり、餘等既に此 處から去るからは、 縱《たと》ひ船の斯の沖を過ぐるあるも、餘等は復《ま》た之を望みて、 之に信號し、其の救ひを乞ふこと能はざるべし、故に餘等はかの岩壁の頂きに、一個の竿を樹《た》て、 常に信號旗を掲げおきて、以て斯の沖を過ぐる船もあらば、其の船の注意を惹かむと慾す、 諸君は以て如何となす」。他の諸童子も勿論斯の用心の策に異議あるべきにあらねば、 直ちに旗を掲ぐるに決し、是日の午後は斯の事のために消《せう》し了られたり。 翌朝は一同早くより起き出でゝ、天幕を卸して、之を筏の上なる貨物の上に被ひ、莫科《モコー》は三四日分の食物を準備して、 之を筏につみなどす。七時には既に一切の事 畢《をは》りて、一同筏にのり移れり。 年長者は各《おの?》手に?棹を把《と》りて、潮の進むを待ちてをり。 八時を過ぐる三十分 許《ばかり》するほどに、今まで海に注ぎし川の水は、 次第に進潮《さししほ》に推されて、海より湖のかたに向ひて、 逆さまに流れはじめぬ、筏は直ちに纜《ともづな》を解きぬ。 不手ぎはなる筏が、其の尾《しり》にスロウ號唯一の遺物なる短艇《ヤウル》を挽《ひ》きつゝ、 徐《おもむ》ろに川を遡りはじめたるときは、衆童子は齊《ひと》しく手を拍《う》ちて、 自から喝采 驩呼《かんこ》するを禁ずる能はざりき。 渠等《かれら》は縱《たと》ひ世界第一の良船美艦を造り出だしたりとも、 これより更らに喜ばしくは感ずる能はざりしなるべし。 筏は常に川の右岸に沿ひて、すすめられたり、是れ潮の流れの此方に於て、 特に急迅なるを見しと、又た二には右岸は、左岸よりも更らに高く水面に拔《ぬきん》でてをり、 棹を[手へん|掌;#2-13-47]《さゝ》ふるに尤も便利なればなり。 然れども進行は甚だ遲々にして、解纜《かいらん》より二時間を經て、尚ほ僅《わづ》かに一マイルを來りたるに過ぎず。 スロウ灣より湖に至るまでは、少くとも六マイルはあるべければ、 毎 進潮《しんてう》の間に於て、一マイル半乃至二マイルづゝを進行するとせば、 渠等《かれら》は尚ほ數囘の進潮《しんてう》を經ざれば、其の目的地に逹すること能はざるべし。 十一時に至りて潮は再び退きはじめたるにぞ、渠等《かれら》は筏を繋ぎて、暫らく此處《こゝ》に休息せり。 午後にも勿論又た一囘の進潮《しんてう》ありと雖《いへど》も、 呉敦《ゴルドン》は夜中の進行は、危險無きにあらざればとて、明日まで之を待つこととして、 是日は此處《こゝ》に宿したり。 翌日は午後一時、嚮《さき》に遠征委員の一行がスロウ灣に還るとき沼澤に逢ひて路を轉じたりし處まで、 來りて筏を繋げり。頃來《けいらい》寒氣日に加はりて、日中さへ身にしむばかりなれば、 夜間は殊に甚しく、此夜沼澤の面《おもて》には既に薄氷のはるを見たり、 衆童子は或は進行のあまりに遲々として、川の面《おもて》に亦た凍結することあらば、 進行益す困難なるべしなど、杞憂せしが、次日午後には、遙かに湖の碧色《へきしよく》を前方に望むを得て、 三時幾分には無事佛人の洞《ほら》の前面なる、川の右岸に着したり。 一同の喜びは言はむもさらなり、善均《ゼンキンス》、伊播孫《イバーソン》、土耳《ドール》、 胡太《コスター》等の幼年者は早くも岸に登りて、何事か相 語り相 罵りつゝ、 讙然《かんぜん》tおして嬉戲《きゞ》跳躑《てうてき》す、筏の上より之を望める武安《ブリアン》は、 其の弟 弱克《ジャック》を顧みて、「汝《おんみ》も那處《かしこ》にゆかざるか」。 弱克《ジャック》「否《い》な、餘は此處《こゝ》に留まるべし」。 武安《ブリアン》「弱克《ジャック》、餘は汝《おんみ》が近來の擧動を解する能はず、 汝《おんみ》は何事か心中に隱しをるもの有るに似たり、汝《おんみ》は近來 病《やまひ》あるか」。 弱克《ジャック》「否《い》な」。武安《ブリアン》は更らに深く推詰《すいきつ》せむと慾したるが、 今は久しく是等の問答に從事しをるべき時にあらざれば、問答は茲《こゝ》に終りて、 一同と共に筏を岸に緊《かた》く約《くゝ》しつけたる後、 岸に登りて佛人の洞《ほら》に至り、嚮《さき》に口を塞ぎおきし灌木を拂ひて、 其の内を檢《けん》するに、洞《ほら》の内は前日のまゝにして、些《すこ》しの異状もある無し、 渠等《かれら》は先づ一同の臥具《ぐわぐ》を取り來りて、之を洞内に按排し、 スロウ號食堂の大 卓子《てーぶる》を把《と》りて、洞《ほら》の中央に安置し、 又た雅涅《ガーネット》は幼年者を統督して、鍋釜 器皿《きべい》等の包みを解きて、 之を洞内に運搬せしむ。一方には莫科《モコー》が洞外岩壁の下《もと》に、 俄《にはか》に石を布きて竈《かまど》を造り、スープの鍋をかけ、又た小鳥の串を炙りなどす。 小鳥は杜番《ドノバン》等が、此處《こゝ》に來る途《みち》すがら、筏の停泊せるをりをりに、 岸に登りて獵獲せし所にして、今其の串を轉《まは》し?て之を炙《あぶ》るは、 伊播孫《イバーソン》と土耳《ドール》との擔當する所なり。 七時には一同洞内の大 卓子《てーぶる》の周圍に、[登/儿]几《しやうぎ》、 柳條《りゆうでう》椅子等スロウ號より取り來りて此處《こゝ》に運び入れたるを環列して、 之に坐し、大 卓子《てーぶる》の上には、湯氣のたつスープ、燻牛肉《いぶしにく》、小鳥の炙りもの、 少許《せうきよ》のブランデーを點ぜる清水《まみず》、及び乾酪《チーズ》、セリー酒等あり。 一同舌を鼓《こ》して飽くまで此等の美味を賞したる後は、頃來《けいらい》の疲勞一時に發するを覺えて、 早くも睡りを慾せしが呉敦《ゴルドン》の發議によりて、一同打ちつれて慕員《ボウドヰン》の墓に詣《いた》りて、 斯の薄命なりし破船者のために、哀祷の詞を捧げぬ。かくて九時に及ぶ比《ころ》ほひには、 見張りの番に當りたる杜番《ドノバン》韋格《ヰルコクス》兩人を除く外は、 一同皆な酣然《かんぜん》として臥具《ぐわぐ》の中に睡りたりき。 翌日をはじめとして三日の間は全く、筏の上なる貨物を洞内に運び入るゝに、消《せう》せられぬ。 次の若干日は又た、筏を解きて、其の木材を取りからづくる爲に、消《せう》せられぬ。 これ是等の木材の又た他日に用あらむを、思ひたればなり。 五月十三日にはコロを用ひてかねて洞外まで運び置きたる鐡竈《かまど》を、 洞内に運び入れて、洞口の右方に取りつけたり、馬克太《バクスター》は洞壁の甚だ堅からざるを見て、 試みに之を鑿《うが》ちたるに、遂に洞《ほら》の全面に於て、鐡竈《かまど》の上に、 一個の穴を穿つを得たり。此裡《こゝ》より煙突を通ずれば、渠等《かれら》は自今《じこん》洞内に於て、 一切 水烹《すゐはう》を了することを得べし。是等の事 畢《をは》り後は、 杜番《ドノバン》韋格《ヰルコクス》乙部《ウェッブ》虞路《クロース》の四名は、 毎日銃を肩にして、傍近《ばうきん》の茂林《もりん》沼澤を跋渉《ばつせふ》して、 夕《ゆふべ》には必ず多少の獲禽《えもの》を持ちて歸り來るを、常とせるが、 一日 渠等《かれら》は湖畔に沿ひて、佛人洞《ふつじんどう》を距《さ》ること半マイル許《ばかり》の北方なる、 茂林の中にわけ入りしに、圖らずも此處《こゝ》かしこに、人の手もて掘りたるに疑ひ無き深き坑《あな》ありて、 散點せるを發見せり。坑《あな》の上には多く樹枝《きのえだ》など、縱横にかけわたしいあり、 其の一個の坑《あな》の若《ごと》きは、其の底に、何等か動物の遺骨らしき者ありて、 散落《さんらく》するを見たり、蓋し慕員《ボウドヰン》が、當時由りて以て諸動物を掩取《えんしゆ》したる所の、 陷穽《かんせい》の迹《あと》なるべし。四名は是等の坑《あな》を暦看《れきかん》したる後、 再び佛人洞に歸り去らむとするとき、韋格《ヰルコクス》「餘に一案あり、 更らに斯の坑《あな》を蓋《おほ》はおかば、或は又た何等かの動物ありて、 自から來りて此の裡《うち》に投ぜむも、知るべからず」。 他の三名は、韋格《ヰルコクス》の想像のひやうきんなるを笑ひつゝも、 渠《かれ》の説に從ひて、其の上に土などふりかけて、歸り去りぬ。 四名は此の如く遊行する間に於て、 川の對岸なる沼澤の周圍にセレリー(荷蘭みつばの屬)茂生《もせい》するを發見し、 又た水芹多くある處有ることを發見せり、二植物は口に旨くして、且つ衞生に效ある者なり。 天氣は日を逐ひて次第に益す寒きも湖及び川ともに未だ凍結するに至らざれば、 幼年者は毎日水邊に往きて、釣絲《てうし》を埀ること自由なり、 故に莫科《モコー》は又た其の庖厨《はうちう》に魚無きことを憂へざりき。 五月十七日 武安《ブリアン》及び若干の童子は、何等か物置に用ふべき洞《ほら》などの、 傍近《ばうきん》岩壁の面《おもて》にあることあらずやと、之を檢討せむと慾して、 佛人洞を出でゝ、 北方なる茂林《もりん》の中にわけ入りて、 嚮《さき》に杜番《ドノバン》等が發見せしといふ陷穽《かんせい》のほとりに近づけるに、 忽ち異樣な[口|(自/(二|二)十);#2-04-33]聲《なきごゑ》ありて、渠等《かれら》の耳を劈《つんざ》けり。 武安《ブリアン》は眞先きに、杜番《ドノバン》等は之に續きて齊《ひと》しく、 聲するかたに走《は》せ到るに、聲は一個の坑《あな》の裡《うち》より起る。 坑《あな》の上《ほとり》に近づき視るに、土は散落《さんらく》し、 樹枝《きのえだ》は摧《くだ》け折れて、何等か動物の此の裡《うち》に陷りしは明かなり。 然れども童子等は未だ其の何物なるやを知らざれば、むざと坑《あな》の口に立ち寄るべきにあらず、 「フハン、此處《こゝ》へ、フハン」。フハンは坑《あな》の口に至りて、 略《ほ》ぼ其の中を瞰《かん》一 瞰《かん》するや否や、些《すこ》しの懼《おそ》るゝ色もなく、 躍然《やくぜん》坑《あな》の裡《うち》に跳り下りぬ。 武安《ブリアン》杜番《ドノバン》は獵犬に續きて、來りて坑《あな》の底を窺ひしが、 一齊に首を擧げて、「來れ諸君」。事の險夷《けんい》を料《はか》りかねて、 數歩の後《しり》へに停立《ていりつ》せる童子等は、皆な走《は》せ來て、乙部《ウェッブ》「豹か」。 虞路《クロース》「クーガル(亦た豹の一種)か」。杜番《ドノバン》「否《い》な、一個の二足動物、駝鳥なり」。 實に是れ亞米利加駝鳥と稱せらるゝ所の者の一個なりき、頭《かしら》は酷《はなは》だ鵝《が》に肖《に》て、 全身灰色の羽毛をもて被はれ、其の肉尤も口に佳《か》なり、 左[田|比;u6BD7]《サービス》「餘等は生きながら之を捕へざるべからず」。 其の巨鳥の坑《あな》の裡《うち》にありて、脱《の》がれ出づる能はざるは、 坑《あな》の内狹くて、其の翼を奮《ふる》ふに由《よし》なきを以てなり、 左[田|比;u6BD7]《サービス》は忽ち身を跳らして坑《あな》の裡《うち》に飛び下りしが、 巨鳥の嘴《くちばし》に二たび三たび啄《つい》ばみ撃たるゝを事ともせず、 手ばやく其の喉を扼《やく》して、半ば其の氣力を奪ひし後、 他の童子等が投げ下す幾條の手巾《しゆきん》を結び合はせて、緊《かた》く其の兩足を縛《ばく》し、 他の童子等と共に、難無く之を地上に曳きあげぬ。 虞路《クロース》「餘等は將《ま》さに之を奈何《いか》にせむとするや」。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「問ふまでもなし、洞《ほら》につれてゆき、之を馴らして、 餘等が騎騁《きてい》の用に供ふるのみ」。其の果して容易に騎騁《きてい》の用に適するようになるべきや、 否やは、甚だ疑ふべかりしも、之を洞《ほら》につれてゆくは亦た極めて容易なりき。 呉敦《ゴルドン》は初め諸童子の斯の[广/龍]然《ほうぜん》たる大物をつれもどりしを見たるときは此の如くして更らに一個の人口を、 洞内に増すことは、洞内の經濟のために計りて、得失如何なるべきやに、 頗《すこぶ》る疑ひ惑ひしが、再び考ふるに及びて、斯の新來の客は、 單に草或は木葉を食ひて以て、生活し能ふものなることを憶《おも》ひだして、乃ち心を安んじたり。 佛人洞《ふつじんどう》の傍近《ばうきん》に於て、 物置として用ふべき洞《ほら》のたぐひを發見すること能はざりしかば渠等《かれら》は再び最初の案にもどりて、 斯の洞《ほら》をほり廣げて以て、物置の一室を作るべきに決したり。 岩壁は幸ひに其の質甚だ堅からず、馬克太《バクスター》は嚮《さき》に鐡竈《かまど》の上に煙突の穴を穿ちたる後、 續《つい》で洞《ほら》の口を廣げて、此處《こゝ》にスロウ號より取り來りし戸板の一個を嵌め、 又た其の左右に各一個の窓を穿てるに、勿論衆童子の熱心盡力に由るとは雖《いへど》も、 皆な既に成功することを得たりき、故に渠等《かれら》が今 洞《ほら》をほり廣げて、 別の一室を作らむと慾するも、勿論多大の勞力をば須《ま》つべきも、 決して爲すべからざるの事を爲さむと慾する者にはあらず。 かくて渠等《かれら》が始めて鶴嘴《つるはし》及び[金|産;#1-93-37]《すき》を揮《ふる》ひて、 洞《ほら》の右壁即ち湖に面せるかたの壁を穿ちはじめしは、五月二十七日なりき。 武安《ブリアン》「一直線に此處《こゝ》をほりゆかば、餘等は湖に面したる岩壁の下《もと》に出づるなるべし、 若し風烈しくして、前面の戸を開く能はざるをりには、此の如くして側面の口に由りて、 洞外に出づることをも得べし」。蓋し洞内より湖畔岩壁の下に出づるまでの距離は、 直徑七 間《けん》乃至八間なるべし。渠等《かれら》は初め先づ狹きトンネルを穿ちて、 然る後之を次第に上下左右に、ほり廣げゆくべき設計なりしなり、 此方《このはう》は岩壁又た殊に軟脆《なんぜい》にして、ほりゆくに隨《したが》ひて、 左右に木材の支柱を施して、其の崩壞を防がざるべからざる處さへ、少からざりしほどなりしかば、 三日 許《ばかり》の間に於て、工事は意外に速かにはかどりたり。 此の間 呉敦《ゴルドン》は他の手あきの童子等と共に、嚮《さき》に筏を解きて得たる所の木材を類別 區畫《くくわく》して、 其の中よりトンネルの支柱に用ふべき者を、擇《え》りわくるなどのことをなし、 幼年者は又た皆なトンネルの中より、岩屑《がんせつ》石片を運び出だして、之を洞外に棄つるなどのことを手つだふ。 かくて三十日の午後には、既に五六尺の長さのトンネルを穿ち成すまでに至りしが、 時に駭《おどろ》くべき不思議の事起りたり、武安《ブリアン》は例の如く、 トンネルの奧にありて、しきりに岩壁を穿ちをりしに、 己れを距《さ》る遠からざる岩壁の一方に、何者か呻吟する聲あるに似たり。 武安《ブリアン》は愕然として、覺えず手を停《とゞ》めて耳を欹《そばだ》つるに、 疑ひもなく呻吟の聲なり。武安《ブリアン》は忙はしく匍匐 却行《きやくかう》して、 呉敦《ゴルドン》馬克太《バクスター》に斯のよしを語るに、呉敦《ゴルドン》「そは君の幻聽なるべし」。 武安《ブリアン》「試みに君往きて之れを聽け」。 未だ幾分ならずして、呉敦《ゴルドン》は再びトンネルの中より現はれ出でゝ、 「君の言眞なり、何物か低く咆吼しつゝあり」。馬克太《バクスター》も入りて之を聽けるが出で來りて、 「是れ何物なるべきや」。三個は直ちに杜番《ドノバン》韋格《ヰルコクス》乙部《ウェッブ》雅涅《ガーネット》等の年長童子を喚びて、 更《かは》る?゛入りて之を聽かしむるに、聲は已でに息《や》みたりと見え、 渠等《かれら》は皆な聞く所なしといひ、是れ三個の幻聽に欺かれしならむといふ、 兎に角に是れがために、工事を中止すべきに非ざれば、武安《ブリアン》等は再びトンネルを穿ちゆきたるが、 夜九時に至りて、此のたびは前に比すれば更らに明かに、咆吼の聲を聞きぬ。 時に恰《あた》かもトンネルの中に入り來りしフハンは、 之を聞くより早くもトンネルを跳り出でて、不穩の色を作《な》しつゝ、 洞内を走《は》せめぐれり、是夜は一同掛念の中に眠りに就きて、屡ば惡夢に驚かされしが、 翌朝は早くより起き出でゝ、馬克太《バクスター》杜番《ドノバン》の二人先づトンネルの中に入りしが、 寂然《せきぜん》として何等の聲も聞えず。フハンも亦た平然として、 昨日《きのふ》の如く怒りくるふ態《さま》をも作《な》さず、二人は又た相 議して洞外に出でゝ、 路を求め岩壁の巓《いたゞき》に登りて、佛人洞《ふつじんどう》の頂より、 其の四邊を遍《あまね》く檢索せしが、一 縷《る》の風を通はすべしと見ゆる極小の罅隙《すき》さへあらず、 二人は再び洞内に還りて、他の諸童子にも之を語りて、さて例の如く一同又た終日岩壁を穿ちゆきしが、 是日は聲全く息《や》みて、復《ま》た聞えず。唯だ[金|産;#1-93-37]《すき》の岩壁に觸るゝとき、 中虚の物を打つやうの響きを反射しはじめしは、或は岩壁の一方に亦た一個の洞《ほら》ありて、 渠等《かれら》が穿ちゆく所のトンネルの、次第に其の洞《ほら》に近づくために非ざるなき歟《か》。 果して然らば、渠等《かれら》は由りて以て多大の勞を省くことを得べく、 其の幸ひは非常なりと謂ふべし。 一同は是日の業を畢《をは》りて、晩飯《ばんはん》の膳に就けるに、 常に其の主公の椅子の側《かたは》らに座を占めて、食事に伴ふ所のフハンは、 如何にせるか、是 夕《ゆふべ》に限りて見えず。一同「フハン、フハン」と喚びたつるも、 答へ無し、呉敦《ゴルドン》は戸のきはに往《ゆい》て、高く之を喚びたれども、 亦た應聲《おうせい》無し、杜番《ドノバン》は湖畔に往き、韋格《ヰルコクス》は川の岸に登り、 其の他一同手を分ちて、洞《ほら》の四邊を索《もと》めたれども、 遂に發見する能はず、時既に九時を過ぎたれば、 渠等《かれら》は復《ま》た遠く茂林《もりん》沼澤の中にわけ入りこと能はず、 一同 愀然《しうぜん》として、再び洞内に還り來りぬ。渠等《かれら》は互に目と目を視あはせて、 長嘆短吁《ちやうたんたんく》するのみ、敢て一言を發する者なし。 俄《には》かにして、はげしき咆吼怒號の聲聞えぬ。 武安《ブリアン》「聲は正《ま》さに此の内より來る」と叫びつゝ、 トンネルの中に走《は》せ入りたり。年長者は皆な蹶起《けつき》して、 不虞《ふぐ》の變に備ふべき身がまへし、幼年者は恐怖して、 皆な蒲團を首《かうべ》より被りて、そこに俯伏《ふふく》せり。 武安《ブリアン》はトンネルの中より出で來りて、「必ず岩壁の一方に、他の洞《ほら》あるに定まれり」。 呉敦《ゴルドン》「而して幾個かの動物の其の中を以て棲處《すみか》とするなり」。 杜番《ドノバン》「餘も亦たしか想像せり、明日を待ちて餘等は更らに仔細に、 其の洞《ほら》の口の在る所を尋ぬべし」。再び物すごきの怒吠《どはい》の聲、 恐ろしき咆吼の聲、相 續《つい》で洞《ほら》の壁を震《ふる》へり。 韋格《ヰルコクス》「フハンが何等の動物と鬪ひつゝあるなり」。 武安《ブリアン》は再びトンネルの中に入りて、耳を帖《て》けしが、 復《ま》た何等の響きも聞えず。是夜は一同殆んど睫《まぶた》を合はさずして、以て天明に至りたり。 杜番《ドノバン》等の一隊は、朝まだきより出で行きて、仔細に湖畔岩壁の上下を探り索《もと》めしが、 遂に洞《ほら》の口を發見する能はず、武安《ブリアン》馬克太《バクスター》は例の如く、 トンネルの中に拮据《きつきよ》して、正午までに、更らに二尺をほり進みたり。 中飯《ひるめし》の後、再びトンネルの中に入りしが、トンネルは愈よ益す他の洞《ほら》に近づきゆくやう覺ゆるにぞ、 幼年者は悉く洞外に出だしやりて以て、預《あらかじ》め不虞《ふぐ》の變を避けしめ、 杜番《ドノバン》韋格《ヰルコクス》乙部《ウェッブ》等の年長者は、各《おの?》手に武器を持ちて、 トンネルの中なる諸童子と、緩急相應ずるの備へをなせり。午後二時に至りて、 武安《ブリアン》は忽ち驚叫《きやうけう》の聲を發せり、 渠《かれ》の方《ま》さに岩壁の面《おもて》に揮《ふる》ひ下したる鶴嘴《つるはし》は、 忽ち岩壁を透し穿ちて、俄然そこに一個の大なる穴を現じたりしなり。 武安《ブリアン》は忙はしくトンネルを出で來りて、諸童子に斯のよしを語らむと慾するをり、 又た瓦亂々々《ぐわら?》地響き起り、續《つい》で驀然《ばくぜん》トンネルの中より、 洞内に飛び出で來る者あり、是れ獵犬フハンなりき。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第六囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- フハンは一直線に水盤《みづばち》に走《は》せゆきて、 先づしたゝかに水を飮みたるが、畢《をは》りて主公 呉敦《ゴルドン》のほとりに來りて、 戲《たはむ》れ跳るさまは、毫《すこし》も常に異ならず。 童子等は之を見て、其の懼《おそ》るべきもの無きを知れるにぞ、 武安《ブリアン》は前頭《さき》に、呉敦《ゴルドン》、杜番《ドノバン》、韋格《ヰルコクス》、馬克太《バクスター》、 及び莫科《モコー》等 相踵《あひつ》いで、提燈をさげて、 トンネルに進み入りつ、岩壁に開きたる穴をくゞりて、次の洞《ほら》に入り視るに、 洞《ほら》は其の高さ及び廣袤《ひろさ》ともに佛人洞と相若《あひし》きて、亦た二十餘疊をしくべし。 打見たる所は、外邊との通路全く無きに似たれども、若し眞に之れ無からしめば、 獵犬の此 處に入らむよすが有るべからず、韋格《ヰルコクス》の何物にか躓《つまづ》きたりといふに、 提燈を擧げて之を視るに、是れ一個のジャッカル(豺《さい》の屬)の死體なりき。 武安《ブリアン》「是れフハンの噬《か》み殺したるものならむ、 是れ以て一切の不思議を解くに足れり」。唯だ斯の野獸の、何《いづれ》の處より此裡《こゝ》に入り來れるやは、 童子等の未だ知ること能はざる所なり、武安《ブリアン》は他の童子等を洞《ほら》の中に留めて、 己れは獨り佛人洞《ふつじんどう》より、湖の畔《ほとり》に出で、 湖に面したる岩壁の下《もと》に沿ひて、行く?高聲に叫び喚はるに、 遂に洞中の童子等の答呼《たふこ》の聲を聞くを得たる處有り。 仔細に驗するに、岩壁の足《もと》に、殆ど地上と平面をなせる處に、一個の低き穴あり。 ジャッカル及び獵犬の、洞中に入りたるは、即ち此の處よりなることを曉《さと》り得たり、 若し斯の穴を更らにほり廣げば、童子等は此の處に、湖畔に出づべき他の一個の口を得むことは容易なり。 童子等が斯の新らしき洞《ほら》を發見せる懽喜《かんき》は、言はむもさらなり。 渠等《かれら》は初めに倍せる熱心をもて、トンネルをほり廣げて以て、 兩洞の通路を作るに從事せり。渠等《かれら》の設計に依れば、新洞を以て寢室及び讀書室に充て、 舊洞は之を專ら庖厨《はうちう》食堂及び物置に用ふべしとなり。 渠等《かれら》は先づ其の臥牀《がしよう》を新洞に移して、之を按排し、ソーフア、 臂《ひじ》かけ椅子、卓子《テーブル》、 及びスロウ號の船室に曾て用ひられたる大ストーヴ等を此處《このところ》に移して、 それ?゛鋪設《ほせつ》陳敍《ちんじよ》せり。其の湖畔に通ずる穴をほり廣げて、 此處《このところ》にスロウ號より取り來りたる戸板の一個を嵌めたるは、 馬克太《バクスター》の少からぬ勞力を費やして、遂に成就せる所にして、 渠《かれ》は此の外亦た其の戸の左右に於て、 各一個の窓を穿ちて、以て洞内に火亮《あかり》を引くの處を作れり。 寒氣は未だ堪へ難しといふには至らざれども、毎日烈風吹きつゞきて、 戸外の勞作はやがて復《ま》た爲すべからざるやうなるべく見えたるにぞ、 童子等は夜を日に繼ぎて、其の工事を急ぎしが、二週間を費してやう?是等の洞内の整理を完《まつた》くするを得たり。 童子等の此の地に滯留することも、何時《なんどき》を限りと定まりたるにあらねば、 空しく光陰を消過せむ、愚かの至りなりとて、呉敦《ゴルドン》の發議により、 冬ごもりの間は、一定の課程を立てゝ、年少者は年長者に就て、其の未だ學習せざる所を學習すべしといふに決したり。 課程は明日を始めとして、毎日 踐修《せんしう》さるべしと定《さだま》りたる六月十日の午後、 晩飯《ばんはん》已でに畢《をは》りて、一同はストーヴを圍《かこ》みて相語れるが、 偶々《たま?》一童子の、此の如きをりに於て、本島の要地々々の名を定めおかば、 平生の稱謂《しようゐ》談話の上に甚だ便利なるべしと發議する者あり。 一同皆な之を贊せり、杜番《ドノバン》「餘等は既に餘等の船の漂着せし處を名づけてスロウ灣といへり、 餘は永く斯の名を保存したしと思ふ」。虞路《クロース》「無論のことなり」。 武安《ブリアン》「餘等は亦た斯の洞《ほら》を呼ぶに、先住者の記念に因り佛人洞を以てせり、 是れ亦た永く保存したき絶妙好號にあらずや」。韋格《ヰルコクス》「スロウ灣に注ぐ洞外の川は」。 馬克太《バクスター》「餘等の故郷を記念として、ニウジランド川と呼ばむ」。 雅涅《ガーネット》「湖は」。杜番《ドノバン》「餘等は既に川に於て、餘等の故郷を記念したれば、 湖には餘等の更らに親愛する所を記念して、家族湖と命名せむ」。 此の如くして岩壁にはアウクランド岡、岡の北に盡くる處、 武安《ブリアン》が登りて以て東方に海を望みたりと誤まり想ひし高地には幻海臺の名を與へぬ。 陷穽《かんせい》の迹《あと》を發見したる茂林《もりん》のほとりは陷穽林、 遠征委員がスロウ灣に還る途中、 沼澤に逢ひて路を迂《う》せしニウジランド川の畔《ほとり》の茂林《もりん》は沼澤林、 ニウジランド川以南、即ち本島の南部を全く掩ふ所の大沼澤は南澤、 遠征委員が始めて徒矼《かちばし》を發見したりし小さき流れは徒矼川と名づけられぬ。 此の外 渠等《かれら》の未だ跋渉《ばつせふ》せざる所の諸地は、 他日親しく之を經《ふ》るを待ちて、其の名を定むべし。但《た》だ慕員《ボウドヰン》の地圖に於て、 明《あきらか》に指點《してん》し得る重なる岬々は、豫《あらかじ》め其の名を命じおくを便宜とすべしとて、 北端の岬は北岬、南端なるは南岬、西岸に斗出《としゆつ》せる三個は、 童子等が所出の本國を記念して佛人岬、英人岬、米人岬と名づけられぬ。 然れども猶ほ此の島有り、渠等《かれら》は斯の島の名を定めざるべからず。 胡太《コスター》「餘は一個の好き名をおもひつきたり」。 杜番《ドノバン》「君が歟《か》。左[田|比;u6BD7]《サービス》「おもふに、 赤ん坊島など呼ばむと慾するならむ」。武安《ブリアン》「請ふ嘲《あざけ》るを休《や》めて、 渠《かれ》をして試みに其の思ふ所を言はしめよ、胡太《コスター》、君の妙案は」。 胡太《コスター》「餘等は皆なチェイアマン學校の生徒なり、故に呼でチェイアマン島となさむ」。 是れ實に好名《かうめい》なりき、一同は大喝采をもて胡太《コスター》の説を贊せり。 胡太《コスター》は一國の帝王になれるよりも、更らに得意なりき。 武安《ブリアン》は更らに一同に向ひて、「餘等は既に斯の島の名を定めたり、 更らに進みて斯の島の太守を立つること、善かるべし」。杜番《ドノバン》「太守を立つると」。 武安《ブリアン》「若し一個の首長を設けて、百事其の人の指揮を仰ぐとせば、 平生の號令一途に出でゝ、庶務の運行更らに圓滑なるべし」。 「然り、然り、餘等をして太守を選擧せしめよ」と衆童子異口同聲に呼はりたり。 杜番《ドノバン》「太守を選擧するも可なり、唯だ其の任期に定限あるべし、譬へば六個月、或は一年」。 武安《ブリアン》「而して其の人は、次の任期に再選せらるゝことを得べし」。 杜番《ドノバン》は仍《な》ほ掛念げに、「善し、而して餘等は何人を先づ選ぶべきや」。 見るべし杜番《ドノバン》の滿腹の妬忌《とき》は、唯だ一同の選びの、 或は武安《ブリアン》の上に落ちむを是れ恐れしなり。 然れども杜番《ドノバン》の恐れは無用なりき、 武安《ブリアン》「何人を先づ選ぶべきと、勿論最も賢明の人、即ち吾が呉敦《ゴルドン》を」。 「然り、然り、呉敦《ゴルドン》萬歳」の聲は一齊に衆童子の口より起れり。 呉敦《ゴルドン》は初めは己れの其の任に非ざるを謝して、之を辭さむと慾したりしが、 再び考ふるに、動《やゝ》もすれば武安《ブリアン》、 杜番《ドノバン》の二黨の間に萠生《はうせい》する不和をおさへて、 之を調停するには、己れが首長の權力を有しをること、 なか?に便宜なるべしとおもへるにぞ、乃ち辭さずして敢て之を諾《うけ》ひきぬ。 若し童子等の想像の如く、斯の島をしてニウジランドより更らに遙かに南方に偏りたる位置にあらしめば、 渠等《かれら》は此より五個月の間、即ち十月の初旬に至るまでは、多く戸外に出づるを能はざるべし。 即ち呉敦《ゴルドン》が課程を定めて、毎日幼年者に學問を攻《をさ》めしむることゝせいは、 光陰を空しく費さゞる最妙の策なりしなり。毎日午前及び午後二時間づゝ、 一同新洞の讀書室に會して、第五級員の武安《ブリアン》、杜番《ドノバン》、虞路《クロース》、 馬克太《バクスター》、第四級員の韋格《ヰルコクス》、乙部《ウェッブ》、輪番に教師となりて、 第三、第二、第一の諸級員に數學、地理、歴史等を、或はスロウ號の文庫より取り來れる書籍に由り、 或は諳記せる所に由りて、講授口傳す。是れ獨り之を學習する年長者に、亦た其の曾て學得せし所を、 遺忘せしめざるの利有り。之に加ふるに、毎週二次、日曜日と木曜日とには、 一同の討論會を開きて、科學歴史及び現在日常の事の係る活題目《かつだいもく》を捉へ來りて、 其の利害得失を討論す。天氣快晴にして風無きをりは、湖畔に散歩し、 或は競爭會を催して、以て其の筋骨を鍛練し、怠惰不活溌の病に流るゝことを防ぐ。 大小諸種の時計を捲きて、其れをして常に精確の時刻を指さしむるは、 韋格《ヰルコクス》と馬克太《バクスター》との務めにして、 毎日寒暖計晴雨計の示す所を録するは乙部《ウェッブ》の任なり。 其の他日を逐ひて有りし所の事どもを記すは、馬克太《バクスター》の初めより自から擔當して、 一日も怠らざる所なり。日曜日の夕《ゆふべ》には、音樂會を開きて、 雅涅《ガーネット》の奏する所の小風琴につれて、一同國歌を合唱す、 中に就て最も美聲として推さるゝは武安《ブリアン》の弟 弱克《ジャック》なるが、 かねて學校にありて、此の如きをりには、第一に先《さきん》じてうたひたる渠《かれ》は、 常に默然として、衆童子の背後に坐するのみにて、未だ曾て一たびも其の喉を音樂會に開きしことあらず、 是れ武安《ブリアン》の益す怪み訝《いぶか》るに堪へざる所なりき。 六月下旬に及ぶほどに、寒暖計は漸《やう》やく降りて、零點以下十度乃至十二度の間を上下するに至れり、 洞内は薪のあるに儘《まか》せて、鐡竈《かまど》及びストーヴを常に燃やしつゞけたれば、 勿論零點以上の温度を保つことを得たり。寒威少しく減ずる日は、多く一天の大雪を下し來る。 ある日童子等は、例の如く洞外に出でゝ、雪なげの戲《たはむ》れして、相 戲《たはむ》れゐたるに、 虞路《クロース》の擲《なげう》ちたる一個の雪丸誤りて、 傍《かたは》らに立ちて他の童子等の爲す所を看をりたる弱克《ジャック》の面《かほ》に中《あた》りて、 鼻を打ちしと見え、鼻衂《はなぢ》さへおびただしく流れ出でぬ。 虞路《クロース》は之を見て、「餘は君に擲《なげう》つ心にてはあらざりしに」と言ひしのみにて、 走《は》せ去らむとするにぞ、武安《ブリアン》は之を扣《ひか》へて、 「君がその心ならざりしは、然もあるべし、然れども、君も亦た少しく意を用ひば可ならむ」。 虞路《クロース》「君の如く言はゞ、 元來雪なげにも加はらざる弱克《ジャック》の此處《こゝ》に立てるが不用意ならずや」。 杜番《ドノバン》は高聲に、「然ばかりの事に、何等の譁《かま》びすしきことなるぞ」。 武安《ブリアン》「勿論言ふに足らざることなり、但《た》だ餘は虞路《クロース》に向ひて其の、 嗣後《しご》少しく意を用ひむことを望みなるのみ」。杜番《ドノバン》「そは君が虞路《クロース》に、 改めていふまでも無し、渠《かれ》は既に其の過ちなることを陳謝せしを、聞かざりしか」。 武安《ブリアン》「杜番《ドノバン》、餘は君が何の故ありて、喙《かい》を此に容るゝやを審《つまび》らかにせず、 是れ唯だ餘と虞路《クロース》との間の交渉なり」。杜番《ドノバン》「然れども、 君の如く言ふときは、餘は之を默視する能はず」。武安《ブリアン》は拳を握りて、 「君の慾するがまゝになせ」。杜番《ドノバン》も臂《ひじ》を攘《かゝ》げつゝ、 「勿論、君の指揮を待たず」。恰《あたか》も好し呉敦《ゴルドン》の此處《こゝ》に是時 走《は》せ到りて、 兩個の相打たむとするを止《とゞ》め、杜番《ドノバン》の所爲穩やかならずと宣言せるにぞ、 杜番《ドノバン》は再び爭ふべき言《ことば》無く、[弗|色;#1-90-60]然《ふつぜん》として洞内に入り去りしが、 兩個の爭ひの、斯のまゝにては已まじとは、呉敦《ゴルドン》はじめ諸童子の憂慮せる所にして、 亦た決して謂はれ無き憂慮には非ざりしなり。 六月の末に及びては、雪は次第に深くなりて、常に三四尺を下らざるものとなりしかば、 童子等は復《ま》た洞外に、萬已むを得ざる要事の外は、一歩を出づること能はず、 爲めに最も不便を感ぜしは、汲水《きふすゐ》の一事なりき。 呉敦《ゴルドン》は馬克太《バクスター》と、さま?゛斯の事を商議せるが、 馬克太《バクスター》は遂に一策を建てゝ、地中に管を埋めて、川の水面以下幾尺の處より水を洞内に引かば、 啻《たゞ》に出でゝ汲むの勞を省くのみならず、寒威益す加はりて、川の表面全然凍結するに至るも、 猶ほ水の供給を缺かざるを得る便宜ありと。一同この策を善しとしたりしが、 是れ言ふに甚だ易くして、行ふに甚だ難き者なりき。若し幸ひにして、 スロウ號の浴室に具へて水を引きし所の鉛管の、童子等の手に在る有りて、 恰好の材料を、斯の工事に與ふる無かりせば、馬克太《バクスター》の熱心盡力と、 諸童子の鋭意 戮力《りくりよく》とを以てするち雖《いへど》も、 到底其の成功を見るべからざりしなるべし。童子等は幾囘の敗績を重ねたる後、 やう?水の供給に不足無きを得るに至れり。夜間の光明は、船中より取り來りし油猶ほ十分ありて、 數月の間に不足を告ぐべくはあらざりしが、冬の末には、或は新たに油の供給の道を求むるか、 或は蝋燭を製して之を用ふるの必要あるに至るべし。故に莫科《モコー》は、 かねて斯の心がまへして、大切に諸動物の脂肪を蓄積せり。 目下童子等の尤も掛念する所は、食物の次第に乏しくなることなり。 渠等《かれら》は久しく銃獵及び打魚《だぎよ》に出づる能はざれば、 唯だ莫科《モコー》が意を用ひて貯藏しおける鴨、七面鳥の肉、竝《ならび》に鹽漬の魚、 及びスロウ號より取り來りし諸食品に頼《よ》りて、 其の供給を仰ぐのみ。渠等《かれら》は勿論さし向き食物 空缺《くうけつ》の憂へありといふには非ざるも、 十五名の少年、最も大食健啖を喜ぶの齡《よはひ》なる九歳乃至十五歳の少年十五名が、 毎日坐して消糜《せうび》する所の食物は、其の額の甚だ少々ならざるを知るべし、 渠等《かれら》が食物の貯藏の、日を逐ひて減じゆくを看て、 そぞろに心細く覺えしは、決して其の謂はれ無きに非ざるなり。 之に加ふるに、左[田|比;u6BD7]《サービス》の願ひにより、洞内に畜《やしな》ひおける駝鳥も、 亦た渠等《かれら》の一 累《るゐ》たるを免れざりき。地上には常に幾尺の雪を堆《うづたか》くせるけふ此ごろ、 斯の鳥のために、毎日樹の根をほり、飼ひ草を聚《あつ》むるは、 極めて容易の業《わざ》にあらざりき。然れども左[田|比;u6BD7]《サービス》は獨り之を一身に引きうけて、 肯《あへ》て他の童子等の手を勞さず、毎《つね》に他の童子等に向ひては誇りていふなり、 「渠《かれ》は如何なる見事の乘馬になるべきぞ」、と。 七月九日には、洞内の温度僅かに零點以上五度を示し、洞外の温度は零點以下十七度に降れり、 是日洞内の薪《まき》已でに盡きたるよしを告ぐるにぞ、童子等は陷穽林に抵《いた》りて、 薪《たきゞ》を採りぬ。莫科《モコー》の發意にて、洞内にある長さ十二尺横四尺の卓子《テーブル》を倒《さかさ》まにし、 早速の橇となして、積雪の上を推しゆくに、從前《じゆうぜん》渠等《かれら》が或は負ひ、 或は肩にして、運搬せしには異りて、勞省けて功 倍し、朝九次より午後《ひるごろ》までに、 既に橇に二はいの薪《たきゞ》を洞内に持ち來ることを得、 此の如くして、全一週間を働きしに、以て若干週間を支ふるに足るだけの薪《たきゞ》を洞内に積むことを得たり。 暦《こよみ》に據《よ》るに七月十五日は、正《ま》さに聖《シント》スヰジン日に當れり。 武安《ブリアン》「若し今日雨ふらば、此より四十日の間、復《ま》た青空を見る能はざるべし」。 聖《シント》スヰジンは北半球に於ける如き勢力の南半球にあるべくもあらざれば、童子等は此地に在て、 之を憂ふるを須《もち》ひざりしのみならず、亦た雨模樣も幸ひにして見えず、 但《た》だ風は南東に吹きまはりて、寒威益す酷《はなは》だしきにぞ、 童子等は洞内に瑟縮《ひつしゆく》して、出でゆくこと幾《ほとん》ど希《ま》れに、 皆な運動の不足を覺えしが、八月十六日に至りて、風は西にまはりて、寒威と共に其の勢《いきほひ》大に減じて、 空氣の稍《や》や靜着《せいちやく》するに隨《したが》ひて、温度も稍《や》や堪ふべくなりぬ。 杜番《ドノバン》、武安《ブリアン》、左[田|比;u6BD7]《サービス》、韋格《ヰルコクス》、 及び馬克太《バクスター》は、已でに久しくスロウ灣訪問の事を思ひをりたれば、 天氣 稍《や》や定まらば、之を試みたしといふ。スロウ灣訪問は、 啻《たゞ》に以て渠等《かれら》の久しく屈したる筋肉を舒《の》ぶるのみならず、 定めて已でに弊破爛殘《へいはらんざん》したるべき目じるしの英國旗を、 取りかへむと慾すればなり。五童子は首長 呉敦《ゴルドン》の許可を得て、 八月十九日、朝まだきに、佛人洞《ふつじんどう》を發し、 滑かにして且つ堅く凍結せる積雪の上を渡りて、沼澤林の中に分け入りしが、 今次《こんじ》は沼澤も只だ一面の厚氷となりたれば、 復《ま》た爲めに路を迂《う》することを須《もち》ひず。 直ちに之を踏み過《わた》りて、九時には、既にスロウ灣の濱邊に着きぬ。 濱邊には、無數のペンギン(海鳥の名)群がり集まり、 岩礁の上には、幾個の海獅《うみじゝ》跳り戲《たはむ》るゝを見る。 前者は何等の用をもなさゞれども後者の脂肪は以て蝋燭を作るべし。 ニウジランド川より幻海臺に至るまで、一帶の濱邊は、 一面に白《はく》皚々《がい?》として深《しん》數尺の雪を布き、 海上は限界の及ぶ限り、寂寥《せきれう》として一鳥の飛ぶをも見ず。 五童子は朝飯をたうべたる後、かねて持ち來りたる新しき旗を取り出だして、 舊き旗と取りかへ、又た杜番《ドノバン》の發意《ほつい》にて、 木板《もくばん》の面に、斯の川の上方六マイルの處に佛人洞《ふつじんどう》ありて、 諸童子の栖居《せいきよ》するよしを、詞《ことば》短く記したるを、 併《あは》せて竿頭《かんとう》に結びつけぬ。 是れ或はこの沖を過ぐる船の、斯の旗を認めて、短艇《ヤウル》など下して、 人を此處《こゝ》に寄せむをり、斯の人をして直ちに諸童子の在る所を知らしめて、 速かに來り救はしめむと慾したればなり。午後一時に、 再び此處《このところ》を發して歸途に就きたるが、其の呉敦《ゴルドン》に復命して、 其の所見を報告せるは、午後四時にして、天色《てんしよく》既に漸《やう》やく黒くなる比《ころ》なりき。 八月の末より九月の初めにかけては、温度日に益す昇りて、之を一個月前に視《くら》ぶれば、 著るしき相違あるを覺えぬ。久しく恐れ懼《おそ》れたる冬も漸《やう》やくたちゆきて、 春暖の候の次第に近づきはじめたるを知るべし、既にして九月十日となりぬ、 スロウ號のスロウ灣に坐礁して、十五少年の斯の島に上陸してより、 既に全六個月を經過したりしなり。 斯の島の西方は、即ち渠等《かれら》少年が此處《このところ》に漂着するまで幾週の間走り遍《あま》ねくして、 而かも一寸の陸影だも望み見ること能はざりし所なれば、此方に、何等の陸もなきは、 勿論問ふまでもなし。然れども、其の他北南東の三方は如何なるべき。 慕員《ボウドヰン》の地圖に據《よ》れば、勿論何等の陸影あることを記さず、 慕員《ボウドヰン》の地圖の精確なるは更らに疑ひを容れざる所なり。然れども渠《かれ》は望遠鏡を有さゞりき、 則ちアウクランド岡の上に立ちて、四方を熟察したるとするも、 肉眼の看る所直徑二三マイルの外に出でず、若し此より以外の邊に、 何等かの陸影ありとするも、渠《かれ》が肉眼之を視る能はず、 其の地圖の面《おもて》には之を載する能はざるは言ふを須《ま》たずして明《あきら》かなり、 故に今日 精良《せいりやう》なる望遠鏡を有する所の渠等《かれら》少年は、 或は當時 慕員《ボウドヰン》の視ること能はざりし所の陸影を、 地平線上に視ること能ふやも料《はか》るべからず。慕員《ボウドヰン》の地圖に據《よ》るに、 島の東岸には、恰《あた》かもスロウ灣と相對して、深く家族湖のかたに凹入《あふにふ》せる一灣有り、 佛人洞より東行《とうこう》すること十二マイル許《ばかり》せば、 乃ち其の灣頭に逹することを得べし、故に春暖の候の囘《かへ》り至るを待ちて、 先づかの灣頭に遠征して、島の東方の地平線上を熟察すべしとは、 渠等《かれら》が冬ごもりの間に洞内にて、討議商定せる所なりき。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第七囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 九月の中旬より天氣あらし模樣となりて、嚮《さき》にスロウ號が吹き流されしときのものに讓らざる烈風、 連日吹きつゞけて岩壁は根より搖り上げ搖り下さるゝ如き心地して、 佛人洞《ふつじんどう》の窓を吹き飛ばされ、戸を吹き破られしも、 啻《たゞ》に一再のみならず、童子等の困苦は、かの百度わりの寒暖計の水銀が、 零點以下三十度にまで降りたる嚴冬の間の、困苦よりも甚しかりき。 之に加ふるに、鳥獸は是がために陰處《いんしよ》を求めて遠く逃れ、 湖中の魚は波濤の洶涌《きようよう》泡沸《はうふつ》せるに懼《おそ》れて深く潛《ひそ》みたれば、 童子等は亦た其の獲禽《えもの》を得べき道を失ひたり。 然れども渠等《かれら》は此の間を決して空しくは消過せざりき、地上の積雪次第に解くるにつれて、 從來重きを引くに用ひたる橇の漸《やう》やく無用となるは、 言ふを須《ま》たざる所なり、馬克太《バクスター》は一同と共にかねてより、 かの卓子《テーブル》の橇に代ふべき、車のたぐいを作らむことを計較《けいかく》せるが、 ふと渠《かれ》の心に浮びしは、スロウ號より取り來りし絞車盤《まきろくろ》のことなり、 絞車盤《まきろくろ》に屬《つ》ける大小諸種の輪の中に就て、 其の大さ相 同じき二個の輪を擇《えら》み取りて、之を車輪に轉用せば、 其の車の輿《こし》を作るは甚だむづかしき業《わざ》にあらず、絞車盤《まきろくろ》の輪は、 勿論其の輪邊《りんぺん》に鋸齒《のこぎりは》やうの齒つきをれば、 之を車輪に轉用せむと慾するには、其の齒を先づ除きて、之を平滑にすることを要す、 馬克太《バクスター》は百方其の齒を除かんと試みて、竟《つひ》に無功に歸したる後、 木片をもて其の齒の間を填平《てんぺい》し、其の外を鐡の帶もて周約《しうやく》し、 以て三個の車輪を作ることを得たり、此《かく》の如くして十月上旬には、遂に一個の粗造なる車を作り成すことを得たり。 久しく吹きつゞきたる烈風も、此ころより漸《やう》やくなぎはじめて、中旬にはあらし全く息《や》みて、 杲々《かう?》たる太陽の、靜着《せいちやく》せる蒼穹《さうきう》に徐々として再昇《さいしよう》するを望むを得、 暖氣 驟《には》かに加はりて、終日戸外に立ちはたらくも自由なるを得るに至りしより、 童子等は俄《には》かに佛人洞《ふつじんどう》を出でゝ附近の地を逍遙 跋渉《ばつせふ》し、 或は薪《たきゞ》を採り、或は魚を打ち鳥獸を獵しなどす。 呉敦《ゴルドン》は渠等《かれら》を戒めて濫《みだ》りに硝藥を用ふることを許さず、 獵手は主として陷穽《おとしあな》、係蹄《かけわな》等を 用ひしが、渠等《かれら》は由りて以て多くの小鳥及び野兎の類を補得《ほとく》せり。 然れども渠等《かれら》は又た屡《しばし》ばジャッカルの爲めに、 其の係蹄《かけわな》等を擾亂《ぜうらん》され、 其の獲禽《えもの》を竊《ぬす》み去らるゝを免れざりき。 この月ニ十六日、童子等をして覺えず一場の大笑《おほわらひ》をなさしめしは、 是日 左[田|比;u6BD7]《サービス》が其の久しく畜《やしな》ひたる駝鳥をひき出して、 之を乘り試むべしといふ、童子等は皆な湖畔の廣場に出でゝ、 左[田|比;u6BD7]《サービス》の試乘を見物す、 左[田|比;u6BD7]《サービス》は駝鳥に[革|(一/田/一/田/一);u97C1]繩《たづな》をさばきつゝ、 其の暝冐《めかくし》を除くに、今まで兩眼を塞がれたる爲め、 身動きもせず凝立《ぎようりつ》せし駝鳥は其の蔽ひを除かるゝや否や、 躍然《やくぜん》として一跳《ひとはね》跳ぬると見えしが、 茂林《もりん》を望みて驀地《まつしぐら》に走《は》せいだせり。 左[田|比;u6BD7]《サービス》は心慌て手忙《てせは》しく、 [革|(一/田/一/田/一);u97C1]繩《たづな》をしぼり、或は兩足を緊閉《しめあは》せて、 之を止めむとあせりたるも、功無かりき。駝鳥は一とふり身を振りて、 左[田|比;u6BD7]《サービス》を地上に振り落したるまゝ、 早くも陷穽林の密樹《みつじゆ》の裡《うち》に沒して見えずなりぬ。 暖氣は日を逐ひて益す加はりて、今は戸外に兩三夜を過ごすも危害無かるべしと、 見ゆるまでに至りしにぞ、呉敦《ゴルドン》は先づ試みに自から一隊の童子を率ゐて、 陷穽林に沿ひて家族湖の西岸を探征し、 其の地理を察し其の物産を檢《けん》して、然かる後戸外 露宿《ろしゆく》の危害無きをたしかめむには、 更らに武安《ブリアン》を隊長として、一隊の遠征者を湖の東岸に派して、 かねて議定せる如く、東方の地平線上に陸影の有りや無しやを、精査せしむべしといふ。 一同直ちに是説を可として、探征者は呉敦《ゴルドン》、杜番《ドノバン》、 馬克太《バクスター》、韋格《ヰルコクス》、乙部《ウェッブ》、虞路《クロース》、 左[田|比;u6BD7]《サービス》の七名、發程《はつてい》は十一月五日と議定されぬ。 七名は各《おの?》腰に一個の短銃《ピストル》を佩《お》び、 呉敦《ゴルドン》、杜番《ドノバン》、 韋格《ヰルコクス》の三名は各《おの?》更らに一個の施條銃《せでうじう》を肩にしたり。 然れども渠等《かれら》は、成るべく硝藥を用ふることを嗇《をし》まんと慾したれば、 慕員《ボウドヰン》の遺物たる飛彈《なげだま》 (一すぢの索《なは》を以て二個の石を緊約《きんやく》し之を走獸《そうじう》に投じて以て之を拘住《こうぢう》する獵具《れふぐ》、 を修復して、馬克太《バクスター》をして之を携帶せしめたり。 此の外一雙の斧と、ハルケット式のボート一隻を挈《たづさ》へたり。 斯のボートは之をたためば鞄ほどの大さとなり、其の重さ亦た十 磅《ポンド》即ち一貫二百 匁《もんめ》ばかりに過ぎず、 地圖に據《よ》るに、湖の西岸には二條の流れありて湖に注げば、 渠等《かれら》は或は之を渡るに、斯のボートを用ふるの必要あるべきを、 慮《おもんぱ》かりたればなり。斯のボートの亦たスロウ號の庫中に於て發見され、 洞内に收藏されし者なるは、言はむもさらなり。地圖を案ずるに、 湖の西岸は其の長さ十八マイルに滿たざれば、渠等《かれら》は意外の障碍無き限りは、 其の往復三日を出でざるべし。 呉敦《ゴルドン》等の一隊は、佛人洞《ふつじんどう》を出でゝ、陷穽林《かんせいりん》を左にして、 湖畔に沿ひて北に?と進みゆくに、行くこと二マイル餘りにして、 渠等《かれら》に前驅せる獵犬フハンは、忽ち足を停めて、一同の來り到るを待つさまなるにぞ、 一同 疾歩《しつぽ》して其の處に到るに、地上に許多《あまた》の穴ありて、 フハンは其の穴の一個のほとりに在りて、足もて頻りに其の土を掻きつゝ、高く吠ゆるを見る。 杜番《ドノバン》は早くも穴の中に、何等の獲もの伏しをるを知りて、 其の銃《つゝ》に裝藥せむとするを、呉敦《ゴルドン》「杜番《ドノバン》、 君の硝藥を濫《みだ》りに費やすを休《や》めよ、待て、餘の一手段あり、 一粒の硝藥を用ひずして、穴中の動物を悉く驅り出ださむ」。 呉敦《ゴルドン》は他の童子等の助けを藉《か》りて、灌木叢《かんぼくそう》の間に茂生《もせい》せる雜草を拔き取りて、 之に穴の口にさし入れつ、之に火を縱《はな》つに、 未だ幾分ならずして烟に咽《むせ》びつゝ、うろたへて穴中より跳《をぢ》り出でたるは、 十餘頭の兎なりき、渠等《かれら》は恐慌狼狽して、急に逃げも得せざるうち、 左[田|比;u6BD7]《サービス》乙部《ウェッブ》は早くも銃の臺じり或は斧をもて、 四五頭を撲倒《ぼくたう》し、フハンも亦た三頭を噬《か》み斃《たふ》せり、 童子等は不意の獲ものに、互に造化精妙《しあはせよき》を喜びつゝ、 之を荷《にな》ひて、灌木叢《かんぼくそう》を離れ、仍《な》ほ濱邊を進みゆくに、 十一時には嚮《さき》に武安《ブリアン》等が始めて慕員《ボウドヰン》の遺跡を發見したりし所の徒矼川の流れの、 注で湖に入る處に來りたり。地圖に據《よ》るに、佛人洞《ふつじんどう》より此處《こゝ》に至るまで六マイルなり。 渠等《かれら》は川畔《せんはん》に坐を占めて、先づ三頭の兎を料理してシチウとなし、 少許《せうきよ》の乾餠《かたパン》を合せて之に食《くら》ふに、 其の味の美なること言ふべからず。川を渡りて、再び北に進みゆくに、 濱邊は次第に沮洳《そじよ》の場多くなりて、遂に脚を投ずる能はざるに至りしにぞ、 湖畔を去りて更らに茂林《もりん》のかたに就きて進みゆくに、 茂林《もりん》の樹木は佛人洞《ふつじんどう》附近のものに概《おほむ》ね同じくして、 啄木《きつゝき》鷦鷯《みそさゞい》等の羽色美しき鳥其の間に翩飜《へんぽん》し、 又た松鷄《えぞらいてう》多し。杜番《ドノバン》は途中、呉敦《ゴルドン》の許可を得て、 一個のベッカリー(豚に形似《けいじ》せる厚皮獸《こうひじゆう》)を銃斃《じうへい》せり。 ベッカリーは其の肉 味《あじは》ひ甚だ美にして、童子等の晩飯《ゆふめし》及び明朝の早飯《あさめし》に、 亦た一段の好膳《かうぜん》を供するなるべし。午後五時に及ぶ比《ころ》ほひ、 復《ま》た一條の川の上《ほとり》に出でたり、川は幅四十尺に餘るべし、 地圖に據《よ》るに、是れ湖より出でゝ、アウクランド岡の北端を遶《めぐ》りて、 スロウ灣に注ぐものにして、此處《こゝ》は佛人洞《ふつじんどう》を距《さ》ること十二マイルなりといふ。 是の日は此處《こゝ》に停宿することとして、 斯の川に直ちに名を命じて停宿川と曰ひ、一同食事を畢《をは》りし後は、 晝間の疲勞《つかれ》に直ちに睡《ねむり》を催して、 見張り番に當りたる杜番《ドノバン》と韋格《ヰルコクス》とを焚火のほとりに獨り留めたるまゝ、 早くも熟眠の中に入りぬ。 翌朝一同起き出でゝ、先づ川の淺深《せんしん》を測るに、 川は到底 徒渉《かちわた》りするを得べき水量《みずかさ》にあらず。 一同はかの護謨《ゴム》製のたゝみ舟を携帶せしことの甚だ幸ひなりしを喜びつゝ、 直ちに之を取り出だして、此を用ひて川を渡りはじめしが、ボートは一時に一人を濟《わた》し得るに過ぎざれば、 七童子が渡り畢《をは》るまでには、全く一時間餘を費やしたり。 然れども渠等《かれら》は頼《よ》りて以て食物及び硝藥を濡らすこと無くして、 對岸に登るを得て、復《ま》た北に進みゆくに、 此の邊は一面の乾沙《かんしや》にして復《ま》た沮洳《そじよ》の場にあらざれば、 茂林《もりん》を捨てゝ、再び路を湖畔に取て進むに、正午に至りて始めて、 湖の對岸の樹木の梢の點々として水天《すいてん》相 連なる際に浮び現はるゝを望み見たり。 此より湖の幅は次第に狹くなりて、午後三時には、 益す明かに對岸の樹木を望み得るに至れり。計るに、此處《こゝ》は兩岸の相 距《さ》ること、 二マイルを出でざるべし。此邊《このへん》四 顧《こ》荒涼寂寞として、 唯だ二三の海鳥の時に來りて湖上に[(自/(三&ノ))|羽;#1-90-35]翔《かうしやう》するを見るより外、 殆ど一個の生物の遊處《いうしよ》するもの有る無し。 若し嚮《さき》にスロウ灣をして此邊《このへん》の如き地に彷徨せしめたらむには、 童子等は已でに久しく餓《うゑ》に死したるべかりしならむ。 既にして湖は次第に益す狹くなりて、日沒の比《ころ》ほひには、 兩岸相 蹙《せま》り相合《あひがつ》して、一帶の濱邊を成せる處に來りぬ。 是れ即ち湖の盡頭《じんとう》なり。 一同は此處《こゝ》にこの夜を過ごすことに定め、地上に毛布を展《の》べて、 坐を占めつ、熟《つらつ》ら四下《あたり》を看まはすに、 此邊《このへん》は一面の沙場《さぢやう》にして、 一 莖《けい》の艸《くさ》一 株《しゆ》の灌木すらも成長するを見ず。 火を燃すよすがさへ無きにぞ、 携帶し來りたる乾餠《かたパン》燻牛肉《いぶしにく》等もて僅《わづ》かに其の饑《うゑ》を療《れう》したる後、 さびしき夢を結びたり。 翌朝目を開き視るに、渠等《かれら》の露宿《ろしゆく》せし處を距《さ》る二町 許《ばかり》の那方《あなた》に、 一 堆《たい》の沙丘あり、高さ五十尺ばかりなる可く、此に登らば以て四方の地形を概覽《がいらん》することを得べし。 一同は早飯《あさめし》を畢《をは》りたる後、此に登りて四方を展望するに、 此より北東は地圖の示せる如く、一面の沙漠にして、其の涯際《がいさい》を見る能はず。 地圖の尺度する所に據《よ》るに、此より北、海濱に逹するまでには十二マイル、 東七マイルあるべし。渠等《かれら》が徒《いたづ》らに沙漠を徑《わた》りて此の如き長途を行くことの、 渠等《かれら》に何等の益もなきは、言ふを須《ま》たざる所なり。 虞路《クロース》「さらば、餘輩は此より如何にすべき」。 呉敦《ゴルドン》「再び故路《もとのみち》に返るべきのみ」。 杜番《ドノバン》「若し家に歸るより外に、爲すべきこと無しとせば、 何等か來路《きしみち》には異なりたり新らしき道を取りて行くこと、 更らに妙ならずや」。呉敦《ゴルドン》「君の説 是《ぜ》なり、餘等は湖畔に沿ひて、 停宿川の上《ほとり》まで返り、此より右に折れて、岩壁の下《もと》に抵《いた》り、 アウクランド岡に沿ひて家に歸らむ」。 杜番《ドノバン》「若し岩壁に沿ひて家に歸るを目的とせば、此より一直陷穽林の北端に抵《いた》り、 而して岩壁の下《もと》に出でむこと、更らに捷《ちか》からずや、 陷穽林の北端は此より三四マイルを隔つるに過ぎじ、湖畔に返るは迂囘ならずや」。 呉敦《ゴルドン》「直ちに陷穽林に分け入るも、 必ず一たび停宿川の流を渡らざるを得ざるは論ずるまでも無し、 川は海に近づくに隨《したが》ひて愈よ廣くなり險しくなりて、 或は渡る可らざるほどにならむも、知るべからず、故に安全を計る者は、 川の南岸に逹して後、路を轉ずるを智《かしこ》しとす」。 一同は再び露宿《ろしゆく》の處へ返りて、毛布を卷き銃を肩にして、昨日來りし路を返りゆきしが、 途中 杜番《ドノバン》が二隻の鴇《のがん》を撃ちて新《あらた》に中飯《ひるめし》の料を得たりし外、 かはりたる事もなく、早くも九マイルを走りて、十一時には停宿川の上《ほとり》に抵《いた》り、 又た一時間の後は、一同難なく南岸に渡り畢《をは》ることを得たり。 杜番《ドノバン》の獵取せる鴇《のがん》は、各《おの?》重さ三 貫《ぐわん》五六百 匁《もんめ》あり、 首《かしら》より尾に至るまで長さ三尺に餘るべし、 左[田|比;u6BD7]《サービス》は他の童子等とともに其の一隻を料理せるに、 唯だ一隻にて七名の腹を滿たしめ、其の餘りの骨はフハンをさへ屬[厭/食;u995c]《しよくえん》せしめたり。 一同は食事を畢《をは》りて、川畔《せんはん》を發したるが、 渠等《かれら》は此よりは陷穽林に於て從前《じゆうぜん》曾《かつ》て探征したることあらざる所の新らしき方面に向て、 進み入らむとするなり。地圖を案ずるに、停宿川は此より北西に斜走して、 幻海臺より數マイルの北に出でゝ、海に注ぐ者にして、 即ち渠等《かれら》の此より取らむと慾する所の路とは、 正《ま》さに反對の方向に奔《はし》るものなるを知る。 故に渠等《かれら》は川を右背《うはい》に遺して、一直西のかた岩壁を望みて進みゆくに茂林《もりん》は佛人洞附近の如く稠密ならず。 或は樹木全く斷《た》えて、日光地上を遍射《へんしや》して、青草《せいそう》氈《せん》の如く、 野花《やか》其の間に亂開し、長さ三四尺にも餘れる幾 株《しゆ》の百合の輕風に戰《そよ》ぎて其の頭《かしら》を左搖右擺《さえういうはい》する所の、 隙地《げきち》に逢へるも、啻《たゞ》に一再のみならず。かねて本草的知識に富みたる呉敦《ゴルドン》は、 此の間に於て、諸種の有用なる植物を發見せり。一個の木の、葉小さくして全身に刺《とげ》あり、 豆ほどの大さの赤き實を着けたるは、トラルカと稱し、黒人は斯の木の實をとりて、 此より一種の酒を製出すると云ふ。又た一個の木は、南亞米利加及びその附近の諸島にのみ特生する、 アルガロッベと呼ぶ者にして斯の木の實も亦た以て酒を釀《かも》すべし。 童子等は呉敦《ゴルドン》の指揮に從ひて、多くの二木の實を採集せり。 又た一個の灌木は、即ち茶の木にして、童子等は又た其の葉若干を採衆せり。 日常必要の茶及びブランデーが、佛人洞に於て、漸《やう》やく匱乏《きばふ》を告げむとする際に方《あた》りて、 是等の植物を發見せる渠等《かれら》の喜びは非常なりき。 午後四時に及ぶ比《ころ》ほひ、一同は岩壁即ちアウクランド岡の北端に逹し、 此より岩壁の下《もと》に沿ひて、南のかたに進みけるが、行くこと二マイルにして、 一條の細き水、岩壁の腹より迸出《はうしゆつ》して東方に奔駛《ほんし》さるを見たり、 是れ蓋し徒矼川の源頭なり。時既に五時を過ぎて、到底是日家に歸り着くこと能はざるは明かなれば、 渠等《かれら》は斯の流れの南岸に宿することの、水に近くして便宜なるを思ひて、 乃ち此處《こゝ》に其の行李を卸しぬ。左[田|比;u6BD7]《サービス》が他の童子等と共に、 晩飯《ばんはん》のこしらへに孜々《しゝ》する間に、呉敦《ゴルドン》は馬克太《バクスター》と偕《とも》に、 傍近《ばうきん》を逍遙して、此邊《このへん》の樹木其の他の模樣を觀察するうち、 忽ち一方の樹木の間より、徐々として現はれ出でたる一群の動物あり。 馬克太《バクスター》は之を指さして「山羊が」。呉敦《ゴルドン》「實《げ》に恰《あた》かも山羊に像《に》たり、 請ふ試みに之を捕へむ」。「生ながら歟《か》」。「然り生ながら」。 俄《には》かにして[風\叟;u98Bc]然《しうぜん》空氣を切る響きして、 飛彈《なげだま》は馬克太《バクスター》の手中より飛び出だせしが、 群がり行ける動物の中に落ち來りて、其の一個の足に繚《から》み着けり。 かくと見たる自餘《じよ》のものは、駭《おどろ》き怖れて、右往左往に散りゆきたり。 兩童子は走《は》せゆきて、索《なは》を脱《のが》れむと[手へん|爭;u6399]扎《さうさつ》する、 かの動物を捉へて之を視るに、 是れ一個の母獸にして兩個の兒どもは其の母親の側《かたはら》を去り得ずして惘然《まうぜん》として猶ほ其のほとりに立ちてをり。 呉敦《ゴルドン》「餘思ふに之れヴィクンヤなるべし」。馬克太《バクスター》「ヴィクンヤには乳汁《ミルク》ありや」。 「有り」。「好し、ヴィクンヤ萬歳」。 呉敦《ゴルドン》の説 是《ぜ》なりき、これヴィクンヤなりき、斯の動物は形 酷《はなは》だ山羊に肖《に》て、 足 較《や》や長く毛 較《や》や短し、又た頭《かしら》に角を有せず。 兩童子は一人は母親を牽《ひ》き、一人は其の兩兒を抱きて、 川畔《せんはん》に歸り來るに、諸童子の喜びは言はむもさらなり、 かくて一同は食事を畢《をは》りて、快然眠りに就きたるに、午前三時に及ぶ比《ころ》ほひ、 焚火のほとりに見張りせる杜番《ドノバン》の、俄《には》かに渠等《かれら》を喚び醒す聲するにぞ、 一同は驚き覺めて、「何事なるぞ、杜番《ドノバン》」。杜番《ドノバン》「かの聲を聽け、 何等か野獸の來りて、餘等を窺《うかが》ふ者あるに似たり」。 呉敦《ゴルドン》「ジャグワー(亞米利加虎)若《もし》くはクウガル(豹の屬《たぐひ》)なるべし、 何《いづ》れにするも甚だ懼《おそ》るゝに足らず、然れども若し其をして、 多數一時に來り襲はしめば、亦た大に懼《おそ》るべし、 然れども渠等《かれら》は敢て焚火を越えて、此處《こゝ》に突入することは無かるべし」。 物すごき咆吼の聲次第に此方《こなた》に近づき來れり、フハンは憤怒の状《さま》をなして、 しきりに彼方《かなた》に走《は》せゆかむとするを、呉敦《ゴルドン》は辛うじて制し往《とゞ》めぬ。 蓋し是等の野獸は毎夜斯の流れに來りて水を飮むを例とせるに、 今夜童子等の此の處に露宿《ろしゆく》せるに遇ひて、之に平《たひら》かならず、乃ち咆吼しはじめたるなり。 俄《には》かににして十間 許《ばかり》の前面に、幾點の閃めき燿やきたる眼晴《がんせい》の光、 闇を破りて見え來れり、同時に一發の銃聲空氣を震《ふる》ひて、四邊に反響し、 續いて前に倍したる物すごき咆吼の聲、長く暗中に揚れり。 一同は手に?短銃を執りて、猛火を盾に立ちてをり。 馬克太《バクスター》は正《ま》さに熾《さかん》に燃えつゝある一條の枯枝を取りて、 之を渠等《かれら》の群がり立ちたりと見ゆるかたに投じ、 其の光を藉《か》りて前方《むかう》をすかし視るに、嚮《さき》に杜番《ドノバン》の放ちたる銃丸に中《あた》りて殪《たふ》れたる一個を、 其の處に遺しゝまゝ、自餘《じよ》のものは既に在らず。虞路《クロース》「渠等《かれら》は既に遁走せり」。 乙部《ウェッブ》「再び襲ひ來ること無きを得むや」。呉敦《ゴルドン》「多くは、さる事無かるべし、 然れども餘輩は不虞《ふぐ》に備へざるべからず」。かくて一同は焚火のほとりに、是夜をあかして、 翌朝六時 此處《こゝ》を發したるが、 此處《こゝ》より佛人洞に逹するまでは尚ほ九マイルありといへば渠等《かれら》は遲々すべきにあらず。 是日の路は單調にして、右には常に削れる如き岩壁を仰ぎ、左には常に殆ど脚を容るゝ能はざる密林うち續きて、 途中に彼等の心を惹き其の歩みを停《とゞ》めしむる所の者少かりしかば、 進行意外に速《すみや》かにして、午後三時には、既に家を距《さ》ること僅《わづ》かに數十町の處に來れり。 ヴィクンヤは、渠等《かれら》更《かは》る?゛、其の兩兒を抱き、 其の母親を牽《ひ》きて行くに、渠等《かれら》は甚だ抵抗するさまも無く、 一同に隨《したが》ひ來れり。 是時 杜番《ドノバン》乙部《ウェッブ》虞路《クロース》の三名は、他の四童子に先きだちて、 フハンを伴ひて一町 許《ばかり》前方《さき》に進みをりしが、 忽ち後隊を顧みて、「氣をつけ、氣をつけ」と連呼する聲聞ゆるにぞ、 後隊の呉敦《ゴルドン》韋格《ヰルコクス》馬克太《バクスター》左[田|比;u6BD7]《サービス》は、 何事か知らざるも各《おの?》武器を手にして、身がまふる、 間もあらせずに渠等《かれら》の前面の茂林《もりん》の陰より突出せる一個の巨獸あり。 馬克太《バクスター》はいち早く、かの飛彈《なげだま》を取り出だして擲《なげう》てるに、 ねらひを失《あや》またず、かの巨獸の首に繚《から》み着きぬ。然れども渠《かれ》は力甚だ強くして、 此方《こなた》にありて飛彈《なげだま》の索《なは》を把《と》れる左[田|比;u6BD7]《サービス》を牽《ひ》きずり牽きずり、 再び茂林《もりん》の裡《うち》に入らむとするにぞ、 他の三童子は左[田|比;u6BD7]《サービス》に力を協《あは》せて、 飛彈《なげだま》の索《なは》の一端を、此方《こなた》の大木の幹に纒ひてやう?之を繋ぎ往《とゞ》めぬ。 杜番《ドノバン》等三名も其の處に走《は》せ到りて共に之を觀るに、 是れ渠等《かれら》が博物學に於て學び知れる所の、ラマなり。 ラマは駱駝《らくだ》の屬《たぐひ》にして、形 頗《すこぶ》るこれに似たるも駱駝《らくだ》の如く大ならず、 之を馴らし之を養へば、以て馬の用をなすべし、 南亞米利加の土人の中には、現に之を用ひて馬に代ふる者あり。 渠《かれ》は性《せい》甚だ怯懦《きよだ》なりと見え、 繋ぎ往《とゞ》めてより未だ幾ばくならざるに、早くも氣 沮《はゞ》みて、復《ま》たもがき爭はず、 馬克太《バクスター》が其の頸《くび》に索《なは》を改め係《つな》ぎて、 牽きいだすに渠《かれ》は再び抵抗する擬勢も無く、おめ?として渠等《かれら》に隨《したが》ひ去りぬ。 渠等《かれら》の斯の家族湖西岸の探征は、實に徒勞に非ざりき。 渠等《かれら》は由りて以て茶の木及び酒の原料となる二木を發見し、 ヴィクンヤ及びラマを活捉《かつそく》し、又た由りて以て、飛彈《なげだま》の頗《すこぶ》る實際の用をなしことを知り得たり。 是れ成るべく硝藥を吝《をし》まむと慾する所の渠等《かれら》にとりて、 又た動物かを傷けずして之を生補《せいほ》することを必要とするをりも定めて多かるべき渠等《かれら》にとりて、 一大便宜なり。六時に及ぶ比《ころ》ほひ一同は無事、佛人洞に歸り着けり、 偶《たまた》ま洞外に在りて獨り遊びゐたる胡太《コスター》は、之を望み見て、 早くも洞内に報じたるにぞ、武安《ブリアン》はじめ留守の諸童子は皆な洞外に走《は》せ出でゝ、 七名の探征者を迎へて、互に萬歳を祝呼《しゆくこ》しつゝ、一同相 擁して、洞内に進み入りぬ。 呉敦《ゴルドン》が不在の間洞内の庶務は、武安《ブリアン》の親切なる監督の下《もと》に、 百事都合好く運ばれて、幼年者は皆な益す武安《ブリアン》の徳に懷《なつ》き服せしが、 武安《ブリアン》が獨り心を病ましめしは、弟 弱克《ジャック》の擧動なりき。 渠《かれ》は呉敦《ゴルドン》等諸童子の不在を時として、 弟を人無き處に招きて、靜かに其の鬱憂《うついう》の故を問ひ、 其の常に他の諸童子に面《おもて》を視らるゝを避くる如き状あるは何を以てなるやを詰《なじ》りたるに、 弱克《ジャック》は只だ「是れ何等の故も有るにあらず」と答ふるのみ。 武安《ブリアン》「汝は餘に打ちあくるを肯《がへん》ぜざる歟《か》、 餘にすら之を祕さむと慾する歟《か》、餘は汝の兄ならずや、 餘は復《ま》た久しく汝《おんみ》の日に益す鬱憂《うついう》の底に沈みゆくを默視する能はず、 餘は必ず汝《おんみ》が哀傷の原因を知らねばならず、汝《おんみ》は何の故ありて、 かく自から悲むや」。弱克《ジャック》は終に自から堪ふる能はず、 「何の故ありてとや、嗚呼、汝《おんみ》は或は餘の罪を恕《ゆる》さむ、 然れども他の諸君は」。あとは只だ涕泣して、「饒《ゆる》せ、饒《ゆる》せ」とわぶるのみ。 武安《ブリアン》の掛念は愈よ深くなりぬ。 曰く「然れども他の諸君は」。抑《そもそ》も渠《かれ》は他の諸童子に、 如何なる大罪を負へるや、吾は如何なる價《あたひ》をはらひても、 必ず之を發見せずば止まじ、とは武安《ブリアン》の決意なりき。 渠《かれ》は呉敦《ゴルドン》の歸り來るを待ちて、密《ひそ》かに其の弟と對語《たいご》せし所を語《つ》げて、 呉敦《ゴルドン》の己れに力を協《あは》せて共に弱克《ジャック》をして其の心に祕す所を打ちあけしむるやう、 務めむことを請ひたるに、呉敦《ゴルドン》は之を斥《しりぞ》けて、 「武安《ブリアン》、強ひて渠《かれ》に逼《せま》りて、其の言ふを慾せざる所を言はしめむと務めたりとて、 何の益あるや、唯だ渠《かれ》をして其の爲さむと慾する所を爲さしめよ、 何ぞ必ずしも他より之を強ひむ、渠《かれ》の餘等に負ふ所と言ふは、 縱《たと》ひ何等か其事ありしとせしむるも、何ぞ強ひて之を問ふことを須《もち》ひむ、 此の如きは皆な徒《いたづ》らに以て、渠《かれ》のせまき心を苛責して、 其の苦みを増さしむるのみ、若し言はむと慾する時至らば、 他より強ひて之を要《もと》めざるも、渠《かれ》自から之を言はむ、措《お》けよ、措《お》けよ」 といへるにぞ、武安《ブリアン》は即ち口を噤《つぐ》みぬ。 童子等がさし向き急に其策を講ぜざるべからざるは、洞内の食物補給の一事なり。 是時 儲藏《ちよざう》の食品は已でに著るしく減少して、 渠等《かれら》はかねて湖畔に設けたる陷穽《かんせい》の時々其の獲ものを齎《もた》らさゝるに非ざるも、 渠等《かれら》の需要は是等小額の供給の能く充たす所にあらざれば、 渠等《かれら》は更らに湖畔、沼邊《せうへん》、茂林《もりん》の中に於て、 地を相し處を選みて、ベッカリー及びヴィクンヤ等の諸獸をも、 捕ふるに足るほどの深大堅固の陷穽《かんせい》を、多く新たに造り設くることゝせり。 十一月は全《まる》一月是等の工事に消過し了られぬ。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第八囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 年長者が孜々《しゝ》として陷穽《かんせい》の構作に從事せる間に於て、年少《としした》の童子等は又た、 馬克太《バクスター》を棟梁として、 湖畔岩壁の下《もと》佛人洞の背戸口を距《さ》ること遠からざる處に於てラマ及びヴィクンヤ等を收め繋《つな》ぐべき、 一個の小舍を建作せり、小舍はスロウ號の船體より取り來たりし木板《もくばん》を用ひて、 之を造り、屋蓋《やね》は松脂《まつやに》を厚く塗りたる油布《ターポウリン》を以て、之を蔽ひ、 小舍の四邊は茂林《もりん》中より伐り來りし木材を以て、嚴重に柵をゆひ繞《まは》せり。 小舍の内には呉敦《ゴルドン》等が遠征の途次捉へ來りし者の外、 更らに爾後《じご》陷穽《かんせい》にて捕へたるラマ一隻と、 馬克太《バクスター》が韋格《ヰルコクス》と倶《とも》に飛彈《なげだま》を用ひて生擒《せいきん》したる、 牝牡《めすをす》二隻のヴィクンヤ有り、皆な日に益す渠等《かれら》に馴れ來れり。 呉敦《ゴルドン》は諸童子に勸めて、飛彈《なげだま》を用ることを習練せしめたるが、 最も早く熟逹の功を見たるは、馬克太《バクスター》と韋格《ヰルコクス》となりき。 柵内の一隅に、又た一 區畫《くくわく》をつくりて養禽場《やうきんぢやう》となし、 此處《このところ》に七面鳥、鴇《のがん》、珠鷄《ほろ?てう》、雉の類を、 捉ふるに隨《したが》ひて、放ち養ひぬ。此等の羽族《うぞく》を看守するは善均《ゼンキンス》、 伊播孫《イバーソン》等幼年者の務《つとめ》にして、 渠等《かれら》は喜びて其の務《つとめ》に服事せり。 莫科《モコー》は既にヴィクンヤの乳汁《ミルク》を有するに、 又た是等諸鳥の卵子《たまご》をさへ得たりしかば、 若し呉敦《ゴルドン》が成るべく砂糖を節約するの必要なることを諭《さと》して、 之を制限して、日曜日と祭日とを除く外は、なすべからずと定めしに非ずば、 渠《かれ》は毎日、食膳にデザート(食後の甘味)を供して、 一同殊に幼年者を悦ばしむるの願ひしならむ。 然れども莫科《モコー》の斯の憾《うら》みは長くつゞかざりき。 一日《あるひ》、呉敦《ゴルドン》が他の童子等と、 陷穽林を逍遙して、各種の植物を檢視する際、一簇の樹の其の葉 濃紫《こいむらさき》の色をなせるを見て、 懽然《かんぜん》として喜び叫べり、「是シュガーメープル(砂糖の木)なり」。 是れ實に渠等《かれら》が佛人洞に居《きよ》を定めしより以來なせる所の諸發見中、 最も緊要なる者の一なりき。童子等は是等のシュガーメープルの幹を截《き》りて、 其の截痕《きりめ》より噴き出だす所の液を取りて、 之を煮沸するに、鍋底《くわてい》に一種の固形物を留め遺せり。 是れ即ち砂糖にして、甘蔗《かんしよ》より製取《せいしゆ》せる者に比すれば、 味 稍《や》や劣ると雖《いへど》も、調理の料に用ふるには、彼比大異《ひしたいい》ある見ず。 童子等は既に多量の砂糖を有するを得たりしかば、 酒を釀《かも》すに復《ま》た困難あるを見ず、 莫科《モコー》は呉敦《ゴルドン》の指揮を奉じて、 童子等の採聚《さいしう》せるトラルカ及びアルガロッベの實を醗酵して、 試みに之を釀《かも》せるに、一等《ひといろ》の好酒《よきさけ》を造り成すことを得たり。 又た渠等《かれら》が嚮《さき》に採聚《さいしう》し來りたる茶の木の葉は、 香味 兩《ふたつ》ながら佳良にして、支那産のものにも遜《ゆづ》らざるほどの者なりしかば、 渠等《かれら》は此より復《ま》た此種の飮料の匱乏《きばふ》することを憂へざりき。 是時に當りて、渠等《かれら》の特に不足を覺えしは、菜蔬《さいそ》の類なりき。 武安《ブリアン》は慕員《ボウドヰン》の遺物にして、今も尚ほ岩壁の下《もと》に存在する、 野生のものに變形せる芋を復元して、舊《もと》の食《くら》ふべき者になさむと、 百方力を盡せしが、功無かりき。渠等《かれら》は僅《わづ》かに、 船中より取り來りたる鑵づめの菜蔬《さいそ》及び菓物《くだもの》の猶ほ少しく有るを珍藏《ちんぞう》して、 時に少しづゝ取り出だしては其の淡味を賞翫《しやうぐわん》するのみ。 呉敦《ゴルドン》は成るべく硝藥を節約せむことを慾して、 飛彈《なげだま》を習練することを一同に奬勵したる外、 又た馬克太《バクスター》に囑《しよく》して、 秦皮《とねりこ》の枝を伐《き》りて弓を作り、 釘を鏃《やじり》として蘆《よし》の箭《や》を作らしめ、 獵手《れふしゆ》をして試みに之を用ひしむるに、 韋格《ヰルコクス》虞路《クロース》等は早くも之を用ひて以て、 若干の獲ものを得るに至りたり。然れども茲《こゝ》に呉敦《ゴルドン》をして時に其の例規《れいき》を破りて、 硝藥を出だし用ふることに同意せざる能はざらしめし一事件起りたりき。 十二月七日、杜番《ドノバン》は密《ひそ》かに呉敦《ゴルドン》をかたへに招きて、 「呉敦《ゴルドン》、狐とジャッカルとの暴害《ぼうがい》は、 殆ど復《ま》た忍ぶべからずなれり、渠等《かれら》は毎夜隊を成して、 來りて餘等の裝置せる陷穽《おとしあな》羅網《はりあみ》をこはし、 其の中に罹れる所の獲ものを肆《ほしいまゝ》に掠《かす》め去る」。 呉敦《ゴルドン》「渠等《かれら》は係蹄《かけわな》もて捕ふべからざるか」。 杜番《ドノバン》「ジャッカルは尚ほ可、狐は不可、 韋格《ヰルコクス》は既に連夜 係蹄《かけわな》を設けて渠等《かれら》を待ちたるが、 渠等《かれら》の甚だ狡黠《かうきつ》なる絶て餘等の手にのらず」。呉敦《ゴルドン》は終に已むを得ず、 幾十個の硝包《カートリッヂ》を出だして杜番《ドノバン》に與へ杜番《ドノバン》は武安《ブリアン》、 韋格《ヰルコクス》、馬克太《バクスター》、乙部《ウェッブ》、虞路《クロース》、 左[田|比;u6BD7]《サービス》等と共にこの夜をはじめとして、毎夜陷穽林の口、 家族湖の濱邊に伏して、出で來る狐を狙ひ撃つほどに三夜に五十餘個を殪《たふ》して、 此より佛人洞の傍近《ばうきん》に復《ま》た渠等《かれら》の足跡無きを致すを得たり、 且つ渠等《かれら》は由りて以て、將來大に用ふる所あるべき美麗なる狐の皮、 五十餘枚を贏《まう》け得たり。 十二月十五日には、かねて久しく思ひたちたるスロウ灣遠征を擧行せり、 遠征の目的は、灣に群れ集《つど》ふ海豹《かいへう》を獵して、 其の油を煮むと慾するに在る。嚮《さき》に冬ごもりの間雨天多くして、 晝間さへ燈火を藉《か》りて僅《わづ》かに物の色を辨じたること、少からず、 洞内の油は是がために殆ど用ひ盡され、莫科《モコー》が意《こゝろ》を用ひて貯へたる脂肪は、 既に若干の蝋燭を製するに足るほどの量有れども、單に此のみに頼《よ》りて、 久しく夜を照しつゞけ得べきにあらず、故に是等動物の油を取りて以て其の缺《けつ》を補はむと慾するなり。 斯の遠征は、其の目的とする所の事、極めて多く人の手を要するに加へて、 其の亦た甚だ近くして、絶て危險なければ、童子等は一個をのこさず、 事に此に從ふべしと定められぬ。嚮《さき》に馬克太《バクスター》の經營苦心して作りたる車に、 頃來《このごろ》雅涅《ガーネット》左[田|比;u6BD7]《サービス》の心を盡して馴らしたる二隻のラマを駕《が》して、 之を引かしめ、車の上には硝藥食物、及び鐡の大鍋、數個の空樽を裝載し、 日出《にちしゆつ》とともに一同佛人洞をたち出でたり。 八時には既に沼澤林中の沼澤のほとりに來りたり。 土耳《ドール》及び胡太《コスター》は、さすがに年幼《としいとけな》ければ、 早くも脚疲れて歩行に難《なや》みはじめたるにぞ、武安《ブリアン》は呉敦《ゴルドン》に請ひて、 兩個を車の上に附載《ふさい》しつ、徐《しづ》かに沼澤の畔《ほとり》を進みゆくに、 渠等《かれら》を距《さ》ること五十 間《けん》許《ばかり》、沼澤の中に一個の巨獸あり、 渠等《かれら》の陸續《りくぞく》としてねり來るさまを見るより、 [倏,犬@火;u5010]然《しゆくぜん》として灌木叢《かんぼくそう》の裡《うち》に沒し去りぬ。 土耳《ドール》「何者なるや」。呉敦《ゴルドン》「ヒッポヽタマス」。 武安《ブリアン》「又の名河馬」。胡太《コスター》「毫《すこ》しも馬に像《に》ざるにあらずや」。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「寧ろ豚ポタマスと稱するの、 其の形に副《かな》へるに如《し》かず」。一同覺えず洪然《こうぜん》と打ち笑ひつゝ、 十時過ぐるころ、スロウ灣に到り着きぬ。 渠等《かれら》は嚮《さき》に筏を作るとき、假りに露營を張りたりし川畔《せんぱん》の樹叢《こだち》の陰に、 再び露營を設けて休息しつゝ、遙《はる》かに濱邊を看わたすに、 百個餘りの海豹《かいへう》岩礁の上に群集 遊處《いうしよ》しをり。 童子等は渠等《かれら》を驚かさゞるやう、樹叢《こだち》の陰に潛《ひそ》みて、 中飯《ひるめし》をしたゝめ身支度などするうち、亭午《まひる》の日光は渠等《かれら》を誘ひて、 濱邊に登らしめ、沙場の上に臥し或は[彳|尚;u5F9C][彳|羊;u5F89]《しやうやう》する者、 亦た數十個あり。童子等は善均《ゼンキンス》、伊播孫《イバーソン》、弱克《ジャック》、土耳《ドール》、 胡太《コスター》の五幼年者をば莫科《モコー》に託して、露營の中に留めおき、 其の他は各《おの?》火器を執りて、堤の陰に縁《つた》ひて、 川の口まで下り、此より濱邊の岩礁の間を匍匐して進みゆくに、 本島の海豹《かいへう》は未だ他の地方の是等動物が、 常に人の襲ひ取る所となりて、十分人の恐ろしきことを習知し、 常に見張りのものを置きて、人の近づき來ることを警報せしむるといふが如き、 用心深きに至らざれば、童子等は難なく、互に十 間《けん》十五間を隔てゝ相 竝《なら》び立ち、 渠等《かれら》と海との間を横一文字に仕切りて、渠等《かれら》の逃路《にげみち》を斷つことを得たり。 童子等は十分其の位置を計り定めたる後、それといふ合圖と共に、 一齊に起ちたりて、銃口《つゝぐち》をそろへて撃ちはじむるに、 距離は近く、撃つ所の物は大なれば、一丸として命中を誤るは無く、 早くも二十 許頭《きよとう》を殪《たふ》し得て、其の餘は皆な右往左往に海中へ逃げ入りて、 忽ち見えずなりにたり。渠等《かれら》は其の獲ものゝ、意外に多かりしを打ち喜びつゝ、 一々之を川畔《せんぱん》の露營のほとりに曳き來るに、 莫科《モコー》は既に二個の巨石を以て竈《かまど》を作り、 かの大鍋を懸けて、湯をわかしてをり、呉敦《ゴルドン》等は海豹《かいへう》の皮を剥ぎて、 其の肉の重さ六七百 匁《め》ほどづゝの大塊に切りて、 之を鍋の裡《うち》に投じ、煮ること數分間するに、湯の上に一面のキラ浮びあがる、 即ち純粹なる海豹《かいへう》の油なり。唯だ之を煮るに方《あた》りて、 一種不快の異臭鼻を劈《つんざ》きて、實に堪ふべからず。 然れども童子等は毫《すこ》しも屈し撓《たゆ》むの色なく、 其の油を[手へん|邑;u6339]《く》みては、之をかの樽に盛り、 又た直ちに次の肉を投じては、之を煮はじむ。 此の如くして、是日の午後より次の日の夕《ゆふべ》まで、睡眠と食事との時を除く外、 一刻の間斷なく之を煮つゞくるほどに、遂に二十 許頭《きよとう》の海豹《かいへう》を煮畢《にをは》りて、 數百ガロン即ち數 斛《こく》の清らかなる油を收め得たり。 かくて第三日の朝、海豹《かいへう》の油に盈《み》てる若干の樽を裝載して、 此處《こゝ》を發足せうが、車の重さは來時《きしとき》に幾倍して、 途上の困難は一かたならざりしに拘はらず、二隻のラマは善く其の力を致して、 發足してより十二時間を閲《けみ》して、 午後六時には、無事に洞《ほら》に歸り着くことを得たり。 試みに海豹《かいへう》の油を燃《た》くに、尋常の油ほどは光力強きことを得ざるも、 猶ほ以て闇を照らすに足れり。 兎角するほどに是月も漸《やう》やく暮れて、二十五日となれり、 是れ渠等《かれら》の本國に於て、一年中第一の祝ひ日とする所の基督誕辰節《クリスマス》なり。 呉敦《ゴルドン》はかねてより、是日と翌日との兩日は一切課業勞作を休みて以て、 斯の聖節《せいせつ》を祝ふべしと定め、洞内には雅涅《ガーネット》及び左[田|比;u6BD7]《サービス》の盡力にて、 大小の國旗を懸けて、前夜より座敷を飾り、二十五日の朝は、 曙《あけぼの》の色始めて東の天を染むると共に祝砲の聲轟然としてアウクランド岡を震ひ、 衆童子は皆な互に手を握り頭《とう》を點《てん》して、 聖節《せいせつ》のめでたきを賀《が》し次で最幼年者 胡太《コスター》は、 一同の總代として、斯の島の太守 呉敦《ゴルドン》の許《もと》に來りて、 賀詞《がし》を陳《の》ぶることあり。幸ひに天 晴れ風 和《やはら》かなりしかば、 午前は一同湖畔の廣場に會して、迷藏《めかくし》かくれん坊等諸種の遊戲に嬉《たの》しみくらしつ、 再び聞ゆる砲聲に、中餐《ちうさん》の時至れるを知りて、 食堂に入れば大なる卓子《てーぶる》には、雪白《せつぱく》の布を被ひ、 卓子《テーブル》の中央には、草花及び蘚苔《こけ》もて絡《まと》ひ飾りたる一個の巨瓶《おほがめ》の中に、 一 株《しゆ》のクリスマスの木を插《はさ》み、 木の枝には多くの小さき英國旗佛國旗米國旗を吊りたるを安置せり。中餐《ちうさん》の献立は、 味つけのアグーチ(兎に似たる一種の四足獸) ○鹽漬の鳥肉○兎の焚《やき》もの○七面鳥の全形のまゝ翼を張り首を仰ぎたる細工もの ○鑵詰の菜蔬《さいそ》三種○三角塔の状《かたち》に盛りたるプッヂング(一種のねりものゝ菓子) この外葡萄酒セリー酒之の副《そ》ひ、食後に茶及び珈琲を供するは言ふまでもなし。 是れ皆な莫科《モコー》が左[田|比;u6BD7]《サービス》の助けを藉《か》りて、一週間前より準備し調整せし所なり。 衆童子は一品膳に上る毎に、皆な其の調理の妙と鹽梅の巧みなるとを稱贊して、口を絶たず。 かくて、食事 將《ま》さに央《なかば》ならむとするとき、 武安《ブリアン》は起ちて、呉敦《ゴルドン》太守の功勞と稱して其の壽《ことぶき》を祈るむねの、 簡潔なる一場の演説をなし、呉敦《ゴルドン》は之に答へて、 斯の小植民地の繁榮を祝し又た遙かに故國の諸友を憶《おも》ひて、 一杯を傾けたり。最後に胡太《コスター》起ちて、 幼年者一同を代表して、武安《ブリアン》が平素常に幼年者のために心を盡すことを深謝し、 武安《ブリアン》の壽《ことぶき》を祈りて、一杯を傾くるよしを、演説したりしは、 尤も一同を感動せしめて、喝采 讚呼《さんこ》の聲岩壁に震ひ、 武安《ブリアン》の面《おもて》には言ふべからざる感激の色 顯《あら》はれて見えたりける。 杜番《ドノバン》は獨り默然として眼《まなこ》を下向けてをり。 此より一週間を經て、渠等《かれら》は一千八百六十一年の新年を迎へたるが、 是等南方に緯度にありては一月は即ち夏の最中《もなか》なり、 指を僂《かゞな》ふれば、渠等《かれら》が本島に漂着せしより、既に十個月を閲《けみ》せり。 渠等《かれら》は來《こむ》冬の冬ごもりの間に於て、家畜を遠く戸の外に繋ぎおくことの不便なるを思ひて、 更らに洞《ほら》に密接する處を擇《えら》びて其の小舍を移し、又た成るべくは爐を設けて多少の暖氣を小舍に送りて、 以て渠等《かれら》を嚴寒の中に保護するの計《はかりごと》をなさむと慾し、 馬克太《バクスター》武安《ブリアン》左[田|比;u6BD7]《サービス》莫科《モコー》等は一月中は專ら是等の工事に身を委ねぬ。 一方に於て杜番《ドノバン》と其の三童子は、 例に因りて毎日 獵獸捉禽《れふじうそくきん》の事を孜々《しゝ》として亦た家に在ること少《すくな》し、 然れども是も亦た決して無益の勞作には非ざりき。多くの食物を貯へて、 冬ごもりの用に充つるは均しく緊要の事なればなり。 然れども童子等は是等諸務の外に、尚ほ嚮《さき》に議決せる家族湖東岸探征なる一要務を、 負へることを忘るべからず。是れ啻《たゞ》に東方地平線上の模樣を展望して、 陸影の有無をたしかむるが爲めのみならず、亦た其の地形物産を檢視して、 苟《いやし》くも採りて己れに用ふべえき天然の利益あらば、 之を採用せむことの、得策なるを以てなり。一日《あるひ》武安《ブリアン》は呉敦《ゴルドン》と對話せるとき、 武安《ブリアン》は特に斯の問題を提起して、 東方に或は慕員《ボウドヰン》の望み見る能はざりし陸影あらむも料《はか》るべからざることを論じて、 東岸探征の事を忽《ゆる》がせにすべからざるを説き且つ之に言へるやう、 「思ふに君の心中には、必ず餘と斯の説を同じくするに疑《うたがひ》なし、 一日も速かに故國に還るの計《はかりごと》を爲したしとは、 君が必ず餘と同じく須臾《しゆゆ》も心中に忘るゝ能はざる所なり」。 呉敦《ゴルドン》「然り、君の説く如く、探征員を派遣せむ、 諸君に謀《はか》りて諸君の中、五六名を擇びて以て、君に伴行《はんかう》せしむべし」。 「五六名は多きに過ぐ、若し、かく多くの人を派遣せば、 必ず陸路湖畔を繞《めぐ》りて、以て東方に出でざるべからず、是れ途《みち》遠くして勞多し、 餘の策を以てすれば、如《し》かず短艇《ヤウル》を以て湖を渡るに、是れ勞少くして功 捷《はや》し、 然れども短艇《ヤウル》は多くの人を容るゝ能はず、故に遠征員は二名 若《もし》くは三名を過ぐべからず」。 「君の策極めて妙なり、而して君は何人を伴ふべきや」。 「莫科《モコー》、渠《かれ》は頗《すこぶ》る操舟《さうしう》の術を會せり、 而して餘も亦た少しく之を知れり、風順なるば帆を揚げ、逆なれば櫂を盪《うご》かさむに、 六七マイルの水路を走るは、甚だ爲し難きの事にあらじ、地圖に據《よ》るに、 此處《こゝ》を距《さ》る六七マイルの那方《あなた》の岸に、一條の川ありて、 湖より出でゝ本島の東灣《とうわん》に入る、乃ち餘等はこの流《ながれ》を追ひて、 東灣《とうわん》に逹することを得べし」。「君の案甚だ好し、然れども更らに一人を從へむこと、 更らに便宜なるべし」。「そも亦た餘にかねて心算の人あり、 即ち餘の弟 弱克《ジャック》なり、渠《かれ》が近來の状は餘をして益す不安の念を増さしむ、 想ふに渠《かれ》は必ず何等か他人に語るべからざる大罪を犯して、 之をつゝみをるに疑ひなし、餘は百方 嚇《おど》し或はすかして、 之を吐かしめむと務めたれども、功無かりき、然れども若し人無き處に於て、 餘とさし向ひにならむをり」。「君の説 是《ぜ》なり、弱克《ジャック》を偕《とも》に伴ひゆけ、 今日より直ちに準備にかゝりて、速かに發足せよ」。 かくて呉敦《ゴルドン》は一同に、三名を派遣して東岸探征の事に當らしむるよしを告ぐるに、 常に洞内にのみ在りて戸外に出づること稀《ま》れなる莫科《モコー》の喜びは、 言ふもさらなり、弱克《ジャック》も亦た兄と偕《とも》にすることなば敢て之を否まず、 獨り杜番《ドノバン》は己れの派遣中に加へられざるを、大に不平として、 之を呉敦《ゴルドン》に愬《うつた》ふるにぞ、 呉敦《ゴルドン》は乃ち密《ひそ》かに武安《ブリアン》の言ひし所を語りて、 かの三名に限りたる所以を告ぐるに、杜番《ドノバン》は益す之に不平にして、 「さらば呉敦《ゴルドン》、 この行《かう》は唯だ武安《ブリアン》が私《わたくし》の都合のために催さるゝか」。 呉敦《ゴルドン》「過言なり杜番《ドノバン》、是れ獨り武安《ブリアン》を誣《し》ふるのみならず、 併せて餘を誣《し》ふる者なり」。杜番《ドノバン》は口を噤《つぐ》みて復《ま》た言はざりしが、 其の心服さゞることは面《おもて》に顯《あら》はれたり。 武安《ブリアン》等は短艇《ヤウル》を細査して、其の破損處を修繕し、 スロウ號より取り來れる三角帆を之に取りつけ、施條銃《せでうじう》二個、 短銃三個、硝藥若干、毛布數枚、及び五日分の食物と二個の櫂とを裝備して、 發足の準備悉く了りしかば、拔錨《ばつべう》は明日《みやうにち》、 即ち二月四日の朝と定まりぬ。朝八時に及ぶ比《ころ》ほひ、 武安《ブリアン》は弱克《ジャック》と莫科《モコー》とを從へて、 一同に別れを告げ、ニウジランド川より家族湖に乘り出だすに是日天氣晴朗にして、 南西の風そよ?と帆を吹きて、 未だ一時間ならずして湖畔に群立してボートを目送してせる呉敦《ゴルドン》等衆童子の影は、 早くも微茫《びばう》の中に沒し、更らに一時間したる後は、アウクランド岡の頂きも、 漸《やう》やく地平線の下に沈みぬ。然れども湖の東岸は未だ眼界の裡《うち》に浮ばず。 然れども十時前後より風 漸《やう》やく衰へて、正午に及ぶ比《ころ》ほひに、 風全く死《な》ぎたれば、帆を下して一同 中飯《ひるめし》を喫したる後、 莫科《モコー》と武安《ブリアン》とは櫂を操《と》り、弱克《ジャック》に柁《かぢ》を執らしめて、 仍《な》ほ北東にこぎゆくに四時に至りて始めて東岸の樹梢《じゆせう》の低く水上に浮び出づるを望み見るを得たり、 櫂を操《と》れる二童子は腕次第に疲れて、身 漸《やう》やく熱するに、 赫々《かく?》たる斜日《しやじつ》の光は頭《かうべ》を炙《あぶ》りて、 汗流《かんりゆう》背を浹《うるほ》すばかり。 湖面は玻璃《はり》の如く平《たひら》かにして水清らかに、水面以下十五六尺の處に茂生《もせい》せる湖底の植物と、 是等植物の間を群行《ぐんかう》去來する無數の游漁と、皆な歴々として俯瞰するを得べし。 兎角して午後六時に、ボートは東岸なる一個の丘の上に着きたるが、 丘は一面に松柏《しようはく》鬱生《うつせい》して、 脚を着くべき地もあらねば、更らに北上すること數町せるに、 一個の川の口に至りぬ。武安《ブリアン》「是れ即ち慕員《ボウドヰン》の地圖に示す所の川なるべし」。 莫科《モコー》「然り、請ふ之に名を命ぜむ」。武安《ブリアン》「汝《おんみ》の説 是《ぜ》なり、 請ふ之を東方川と呼ばむ」。 この夜はボートを岸に繋ぎて、一同 岸上《きしのうへ》に露宿《ろしゆく》せしが、 翌朝は六時に起き出でゝ、再びボートに上りて直ちに川に乘り入るに、 方《ま》さに退潮《ひきしほ》の候《とき》に際せしかば、 ボートは面白きやうに流《ながれ》を下りて、莫科《モコー》の獨り櫂を棹《さを》として、 舟首《しうしゆ》に立ちて、其れをして岸に觸れしめざるやう、 操りいくを須《もち》ふるのみ、 武安《ブリアン》は弱克《ジャック》と偕《とも》に舟尾《しうび》に坐して、 行く?兩岸の模樣を觀るに、川の堤はニウジランド川に比すれば甚だ高く、 堤の上は一面に茂樹《もじゆ》密木《みつぼく》おひ疊《かさ》なり、 尤も松柏《しようはく》の二樹多し。川の幅はニウジランド川の如く廣からず、 最も廣き處も三十尺を超えず、是れ斯の川の流《ながれ》の更らに急迅なる所以なり。 堤上《ていじやう》の密樹《みつじゆ》の中に、 一種の喬木《けうぼく》の其の枝 涼傘《ひがさ》の如く四方に廣がり蓋《おほ》ひて、 枝の上に長さ四五寸の圓錐形の實を着けたるが、多く有り。 武安《ブリアン》は呉敦《ゴルドン》の如く多くの本草《ほんさう》的知識を有せずと雖《いへど》も、 是れ曾《かつ》てニウジランドに於て其の標本を見しことある、ストーンパインなることを知れり。 ストーンパインの實の内には楕圓形の堅果《けんか》ありて、食《くら》ふべく、 亦た以て油を製すべし、堤上《ていじやう》亦た多く羽毛族《うまうぞく》を棲ましむと見え、 駝鳥 野兎《やと》の群 茂樹《もじゆ》の間を遊行するを望み、 亦た二隻のラマの突如として密木《みつぼく》の陰より出でゝ、 復《ま》た忽ち走《は》せかくるゝを望みなり。 十一時ごろより、兩岸の樹木次第に疎《まばら》になりて、 空氣に著るしく鹽氣《をほのけ》を帶びしは、既に海に近づきたるを證すべし。 かくて數分間を過ぐるほどに、果して一道の淺碧色《せんへきしよく》、 冉々《ぜん?》として地平線上に浮び出づるを見たり。 川の流《ながれ》は一時間に略《ほ》ぼ一マイルづゝの速度を以て、 ボートを運びたりと見ゆれば、東方川の長さは、概算五六マイルの間なるべし。 島の東面なる斯の灣は、西面なるスロウ灣とは、全く其の模樣を異《こと》にして、 スロウ灣の如く濱邊は一帶の沙場にして沙場の上には一道の岩壁 聳立《しようりつ》するにはあらで、 濱邊は一面に無數の巨石累層 横布《わうふ》して、處々に洞穴多く有り。 若しスロウ灣をして始め此處《このところ》に漂着せしめば、 渠等《かれら》は容易に其の栖居《せいきよ》の所を發見して、彼の如き多くの勞苦を須《もち》ひざりしならむ。 武安《ブリアン》は莫科《モコー》と更《かは》る?゛望遠鏡を取りて、東方を望み視るに、 只だ是れ[水/(水|水);#1-86-86]々《べう?》寂々《せき?》たる無邊《むへん》の大洋にして、 一點の帆影《はんえい》、一寸の陸影も見ゆる有る無し、 武安《ブリアン》は固《もと》より必ず陸影を望み得べしとは期さゝりき。 然れども亦た甚だ失望の情無きことを免れず、乃ち此處《こゝ》を名づけて、欺騙灣とぞしたりける。 武安《ブリアン》はボートを濱邊に着けしめて、二童子共に上陸して、 更らに此邊《このへん》の模樣を細査するに巨石は皆な美麗なる花崗岩にして、 大小の洞穴の恰《あたか》も人の栖居《せいきよ》するに好き者、 僅《わづ》かに數町の間に、既に十餘所あり、昔 慕員《ボウドヰン》が親しく此處《このところ》に遊びて、 是等の好洞穴を看ながら、曾《かつ》て此處《このところ》に淹留《えんりう》したる跡無きは、 既に佛人洞に其の宅を定めたる後なりしを以て、再び此處《このところ》に移居するを重《はゞ》かりしが故なるべし、 午後二時、三童子は一個の巨岩の其の形 蹲《うづく》まりたる熊に似たるに逢ひて、 乃ち之に巨熊岩の名を命じつ、其の背《はい》に攀ぢ登るに、 岩は高さ殆ど一百尺に近く、絶頂に立ちて眸《ひとみ》を展《の》ぶれば以て略《ほ》ぼ四邊の大勢を總攬するを得べし、 西方を囘顧すれば重疊たる茂林《もりん》の梢黒く、家族湖をかくし、 南方は、一面の大沙漠 蜿蜒《えん?》起伏しつゝ、白く雲に入り、より?團簇せる矮松樹《わいしようじゆ》の、 小さき黒點を成して、此彼《こゝかしこ》に散落《さんらく》するを見るのみ、 北方は、曲折 出入《しゆつにゆう》せる濱邊の、一個の岬に至りて盡き、 此より以北は亦た一面の沙漠を成せり、更らに望遠鏡を轉じて東方を望むに、 空氣は澄みわたりて、直徑七八マイルの間は、飛鳥の影をも明かに見ることを得べし、 三童子は更《かは》る?ゝ一樣の漫々たる大洋の面を空しく望み視たる後、 終に意を絶ちて岩を下らむと慾すをり、莫科《モコー》は俄《には》かに武安《ブリアン》を控へて、 「彼れは何物なるべきや」。 武安《ブリアン》は黒人の子が指さすかたを望み視るに、 北東のかた天水《てんすゐ》相 連なる處に、一個の小さき白點あり、 初めは雲片《うんぺん》なるべしと等閑《とうかん》にに看過せしが、 熟視するに是れ決して雲片《うんぺん》にあらざるに似たり、 武安《ブリアン》は良《や》や久しく之を瞻《まも》りたるが、 依然一處に止まりて、移らず變らず、武安《ブリアン》「是れ山にあらずば決して此の如きこと能はじ、 然れども山は亦た決して此の如く見ゆべからず」。 是時太陽は次第に西方に傾きて、更らに數分間を過ぐるに、かの白點亦た杳茫《えうばう》の中にかくれぬ。 彼れは果して山なりし歟《か》。或は海波《かいは》の太陽の光を反射せる影なりし歟《か》。 莫科《モコー》と弱克《ジャック》とは後者なるべしと信ぜり、 武安《ブリアン》は獨り前者の疑ひを抱けり。 三童子は河口のボートを繋げたる處に返りて、 途中に於て撃ちたる鷓鴣《しやこ》を炙《あぶ》りて、晩飯《ばんはん》などしたゝむるに、 既に六時を過ぎたるが、進潮《さししほ》の候《とき》までは尚ほ三時間餘りあれば、 莫科《モコー》は河の左岸に於て晝間見おきたる、ストーンパイン叢に往きて、 其の實を採聚《さいしう》すべしとて、獨り出でゆきつ。 頃《やゝ》ありてボートに返れるに、武安《ブリアン》兄弟はボートの中に在らず。 忽ちにして岸上の一方の茂樹《もじゆ》の裡《うち》に、 飮泣《いんきふ》の聲 怒責《どせき》の聲と相交りて漏れ聞ゆるは、たしかに渠等《かれら》兄弟なり、 莫科《モコー》は且つ驚き且つ訝りて、聲するかたに走《は》せゆけるが、 相 距《さ》る數歩の處に至りしとき、莫科《モコー》は愕然として覺えず立ちとまりぬ。 但《と》見れば弱克《ジャック》は武安《ブリアン》の足下に身を投じて、 何事か涕泣しつゝ打ちわびをれり。 是時 天色《てんしよく》は已でに漸《やう》やく黒くなれるも、 仲夏《ちうか》黄昏《くわうこん》の光は尚ほ明かに二人の姿を照らし出だせり。 二人は莫科《モコー》の近づき來れることを知らず、 莫科《モコー》は始めて心づきて、急に身を反《かへ》して却《しりぞ》く囘《かへ》らんとしたりしが、 已でに晩《おそ》かりき、渠《かれ》は圖らずも二人の語を耳にしたり。 渠は弱克が方さに其の兄に懺悔せる詞を聞き、弱克の罪を知了せり。 武安《ブリアン》「おろか者が、今日諸君が斯の島に??、其の原因は即ち汝《おんみ》が??」。 弱克《ジャック》「饒《ゆる》したまへ兄うへ、饒《ゆる》したまへ餘の愚かを」。 武安《ブリアン》「汝《おんみ》が常に諸君と面《おもて》を對するを恐るるゝ状《じやう》有りしは是故なり、 諸君は決して汝《おんみ》を饒《ゆる》さゞるべし、汝《おんみ》は諸君に語らずして、 暗に其の罪を償うふの道を講ぜざるべからず??」。 莫科《モコー》は實に偶然兄弟の斯の祕密をたち聞きせる不幸を千悔萬恨《せんかいばんこん》せり、 然れども既に之を聞けるからは、之を包みかくすべきに非ず。此より幾分間を過ぎて、 三人再びボートの中に會せるとき、莫科《モコー》は弱克《ジャック》不在の間を伺ひて、 「主公よ、餘は圖らず一切をたち聞きたり」。武安《ブリアン》は失叫《しつけう》して、 「何といふ、汝《おんみ》は弱克《ジャック》が餘に語れる」。 「然り主公、請ふ渠《かれ》の過ちを饒《ゆる》せ」。「汝《おんみ》は他の諸君が亦た渠《かれ》を、 能く饒《ゆる》すべしと謂《おも》ふか」。「恐らくは饒《ゆる》すまじ、 如《し》かず、他の諸君には之を知らさずして已まむには、祕密は餘等の三人の外に決して泄《も》れるべからず」。 「アヽ吾が好《かう》莫科《モコー》」とつぶやきつゝ武安《ブリアン》は莫科《モコー》の手を握りぬ。 十時に至りて、三童子は進潮《さししほ》に乘じて、川を遡りはじめしが、是夜は幸に滿月にして、 清輝《せいき》晝の如くなれば、ボートを行《や》るに些《すこし》の危險もあらず、 午前一時に至りて潮《しほ》再び退《ひ》きはじめたれば、ボートを繋ぎて暫らく潮《しほ》の囘《かへ》るを待ち、 六時に再び纜《ともづな》を解きて、九時には無事家族湖にこぎ入りぬ。 幸ひに風は東より吹きたれば、莫科《モコー》は直ちに帆を揚げて、 佛人洞を望みてまぎり走りたり。武安《ブリアン》は弱克《ジャック》の懺悔を聞きてより、 常に沈吟《ちんぎん》の中にありて、言《ことば》を發すること希《ま》れなれば、 莫科《モコー》も亦た敢て多く口を開かず、一同默々として、 午後六時に佛人洞の前に歸り着きぬ。適《たまた》ま湖畔に出でゝ釣絲《つりいと》を埀れたる雅涅《ガーネット》の、 之を望み見て洞《ほら》に報ぜしかば、呉敦《ゴルドン》等衆童子は、 相 率ゐて川の上《ほとり》に出で迎へつ、一同に三名が無事の歸着をよろこびぬ。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第九囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 是夜 武安《ブリアン》は一同を會して、其の探征の結果を報告し、其の東方に望みたる怪しき白點のことなど、 詳《つまびら》かに語りたるが、其の白點の果して山影《さんえい》なや否やは、固《もと》より未定なり、 又た萬に一つ幸ひに山影《さんえい》ならしめしとするも、其の果して大洋の中に多く有る所の、 無人の一 小嶼《せうしよ》などの類《たぐひ》に非ざるを得るや否やは、亦た未定なり。 渠等《かれら》は此の如く未定の物を目的として、多くの困苦勞力を賭《と》して、 新たに船を造り航海の危險を冐すべきにあらず。故に渠等《かれら》は只だ何時までも斯の島にありて、 自然外來の救ひありて至るをりを、待つより外は復《ま》たすべ無きこと、 甚だ明かとなりぬ。故に此より、一同は從前《じゆうぜん》に倍する熱心もて、 專ら來冬《こむふゆ》の冬ごもりの準備に孜々《しゝ》として從事せり。 中に就て、武安《ブリアン》は探征より歸りて後は、從前《じゆうぜん》の如く多く人と語らず、 其の弟 弱克《ジャック》と同じく成るべく之を避くるの状《じやう》あり。 然れども其の一同のために盡力勞作するの熱心は、更らに幾倍加はりぬ。 加ふるに何等か非常の勇氣を要し、若くは危險を冐すことを要する困難ある事あるをりには、 輒《すなは》ち自から弱克《ジャック》を薦めて、之を當らしめることを務むるの状《じやう》あり。 呉敦《ゴルドン》は早くから武安《ブリアン》の擧動の斯く變化を生ぜるに着目して、 機《をり》を見て其の故を窮め問はむと慾したれども、武安《ブリアン》は毎《つね》に心を用ひて、 呉敦《ゴルドン》の語次《ごじ》或は此の事に及ばむとするを防ぎて、呉敦《ゴルドン》に其の機を得さしめず。 然れども呉敦《ゴルドン》は益す意を留めて兄弟のそぶりを視れば、視るほど益す、 たしかに兄弟の間には、既に其の心解けあひて、何等の祕密の約束の成立てるを猜《すゐ》したり。 是月の中旬 韋格《ヰルコクス》は、一日《あるひ》多くの鮭の隊を成して湖より、 ニウジランド川に下りゆくを發見し、此より毎日網を下して之を漁《すなど》りたるに、 意外に多くの獲もの有り。因りて又た之を[酉|奄;u9183]藏《えんざう》するために、 俄《には》かに多くの鹽を須《もち》ふるの必要を生じて、 渠等《かれら》に新たにスロウ灣に、一個の製鹽場を興したり。 其の法、濱邊に一個の四角なる巨槽《おほだめ》を設け造りて、 此の裡《うち》に海水を汲み入れ、天日《てんじつ》の熱を假りて、 其の水分を蒸發せしめし後、乃《すなは》ち其の底に少しづゝ遺留する所の、 鹽を採聚《さいしう》するなり。是れ實に多くの時と勞力とを須《もち》ふる所のものなりき、 然れども一同の熱心盡力は、終に其の需要するだけの鹽を製し了ることを得たり。 二月の月は、此の如く一同スロウ灣と佛人洞との間を往返《わうへん》して、打ち過ぎたるが、 三月の上旬には、渠等《かれら》が假りに南澤と名づけたりし、 ニウジランド川の左岸なる、沼澤の一部を探征するの議あり、 首唱者《しゆしやうしや》は杜番《ドノバン》にして、沼澤の中に多く群集する羽族《うぞく》を獵して、 冬ごもりの食物に備へむといふなり。三月九日の朝、 杜番《ドノバン》は乙部《ウェッブ》及び韋格《ヰルコクス》の二名と共に、 馬克太《バクスター》の作りたる高屐《たかあしだ》を穿ちて、沼澤の中に進み入りぬ。 言ふまでも無く、獵犬フハンは三個に跟隨《こんずゐ》したりしが、 渠《かれ》は獨り高屐《たかあしだ》を有さゞりしかば、 ざんぶ?と泥水を蹈みつゝ進みゆきにける。 南西に進み行くこと一マイル許《ばかり》にして沼澤中の乾地に抵《いた》りたれば、 三個は此の處にて高屐《たかあしだ》を脱し、奔走自在なるやう身輕に支度しつゝ、 さて四邊を看まはすに、鷸《しぎ》、鴨《かも》、黒※鷸《[ブ?]ラヴアー》、小鴨《こがも》、 及びもぐり鳥等の沼澤 面《おもて》を蔽ひて、 相交錯群集し、若し渠等《かれら》をして硝藥を嗇《をし》まざらしめば、 渠等《かれら》は、容易に是等鳥類の幾百個を撃つことを得しならむ。 然れども硝藥の經濟は、渠等《かれら》をして僅《わづ》かに其の數十個を得て以て自から滿足せざる能はざらしめぬ。 其の他、濱ひばり、蒼鷺《あをさぎ》、多くありたれども、 是等は以て食物となすべからず。又た紅色《べにいろ》の翼を有して、 首《かうべ》より尾に至るまで長さ四尺以上に及ぶ紅鶴《べにづる》あり。 紅鶴《べにづる》は好んで濁水《だくすゐ》の上に集り、其の肉の味《あじは》ひの美《うま》きこと、 鷓鴣《しやこ》に讓らず、然れども渠等《かれら》は常に一行の列を成して、 列中に見張りのもの幾個かあり、苟《いやしく》も常に異なれる事あれば、 直ちに喇叭の如く大なる聲を發して、一同を警戒す。 故に童子等も徒《いたづ》らに渠等《かれら》を驚かし逃飛《たうひ》せしめしのみにて、 終に其の一個をだも撃ちとめ得ず。然れども、三個は半日の獵《かり》くらに、 十分の獲ものを得て、午後 洞《ほら》に歸り來れり。 冬ごもりに第一必要なるは薪《たきゞ》にして、其の亦た非常の多量を須《もち》ふること、 去冬《さるふゆ》の經驗にて明かなりたれば、呉敦《ゴルドン》は諸童子を指揮して、 陷穽林沼澤林に往きて薪《たきゞ》を採らしめ、 二頭のラマを駕《が》したる異樣の馬車は、凡《およ》そ半月 許《ばかり》の間毎日、 日に幾度となく、是等 茂林《もりん》と洞《ほら》との間を往返《わうへん》して、 薪《たきゞ》を洞《ほら》に運び入れしほどに、今は縱《たと》ひ六個月 燒《た》きつゞけに燒《た》けばとて、 薪《たきゞ》の供給には不足を告ぐる憂《うれひ》決して有るまじく見ゆるに至れり。 呉敦《ゴルドン》は是等の勞作の間にも、かねて定めたる日課の修學をば廢することを許さず、 又た一週間に兩度の討論會も、曾《かつ》て一度も之を休まず。 杜番《ドノバン》は例に因りて毎《つ》ねに、討論會場裡の雄と稱せられぬ。 然れども渠《かれ》が常に自から其の能辯を矜《ほこ》りて、 暗に諸童子を輕視するの風有るは、亦た渠《かれ》をして人望を失はしむるの一つの原因となりしこそ、 已むを得ざる次第なれ。 抑《そもそ》も呉敦《ゴルドン》が本島太守としての任期は、こゝ二個月の内に盡くべく、 諸童子は更らに一たび選擧の手續を行ひて、新太守を定立せざるべからず。 而して杜番《ドノバン》は、其の新太守に推さるゝ者は必ず己れならむと、自から信じ、 又たかねて杜番《ドノバン》の黨たる韋格《ヰルコクス》乙部《ウェッブ》虞路《クロース》の三名は、 杜番《ドノバン》に向ひて常に、 渠《かれ》を舍《お》きて他の呉敦《ゴルドン》に繼《つい》で其の椅子を占むるべき適當の人ある無し、 皆な杜番《ドノバン》の成功に些《すこ》しの疑ひをも容れざりしなり。 然れども是れ渠等《かれら》の大なる誤解なりき、 杜番《ドノバン》は實に呉敦《ゴルドン》に繼ぐべき、其の年齡と伎倆とに於て、 恰好の資格を有せり。然れども渠《かれ》は人望を有せず、幼年者に於て殊に然り。 幼年者は獨り杜番《ドノバン》を好まざりしのみならず、 呉敦《ゴルドン》に對しても亦た多少の不平有り。 呉敦《ゴルドン》が施政の一年間、公共の利益のために計るに鋭志《えいし》して、 常に嚴重なる規律を以て、一同に臨みたりしは、 頗《すこぶ》る其の徳望を損するの原因となりて、 陰《ひそ》かに渠《かれ》の任期の早く盡きむことを祈る者少からず。 殊に幼年者は其の衣服を汚し、ボタンを失ひ、靴を破りて、其の都度に或は減食、 或は禁足の罰に遭へる者、殆ど一二もて數ふべからず。呉敦《ゴルドン》が限りある調度を嗇《をし》み、 治め難き幼年者のわんぱくを治むるの、處置としては、是れも亦た已むを得ざるの道なれども、 幼年者は之を怨みて「若し親切なる武安《ブリアン》をして太守たらしめば」 と思ふに至れるも、亦た復《ま》た已むを得ざる人の情なり。 然れども、渠等《かれら》は全日をたゞ勞作と修學とに費やして、 更らに他事に及ばざるには非ざりき。一日の中幾時間か、運動時間ありて、 己がじしに、或は木に升《のぼ》り、或は水に泅《およ》ぎ、 或は競爭 棒飛《ばうとび》等諸種の戲《たはぶ》れして以て、鬱を宣《の》べ快《くわい》を取る。 而して斯の運動時間に於て、ある日、特書せべからざる一事件起りたり。 四月二十五日の午後なりき。一方には杜番《ドノバン》、韋格《ヰルコクス》、虞路《クロース》が四名一隊となり、 他の一方には武安《ブリアン》、馬克太《バクスター》、雅涅《ガーネット》、 左[田|比;u6BD7]《サービス》の四名一隊となり、環投げの戲《たはぶ》れといふを作《な》しき。 環投げの戲《たはぶ》れといふは、平地の上に二條《ふたすぢ》の鐡の針を植《た》てゝ、 戲者《ぎしや》は各《おの?》手に二個の直徑八九寸の鐡の環を持ちて、 二隊に分れて、一定の足場に立ち、各《おの?》其の的とかねて定められたる針を望みて、 其の環を投げ、其の針にはまりし者は、二點と算し、或ははまらざるも、 其の針に觸るゝまでの處に逹し得たる者は、一點と算し、之を合算して以て、 彼此《ひし》の諭贏《ゆえい》を決するなり。是日 渠等《かれら》は既に二番を鬪ひたるが、 初めは合計七點を以て武安《ブリアン》の隊 贏《かち》を得たり。 故に最後の斯の一番こそ、即ち兩隊の是日の勝負を決する大切の鬪ひなりしなれ。 既にして兩隊の諸童子は、更《かは》る?゛其の環を剩《あ》ますのみとなりしとき、 兩隊の所得の點、各《おの?》均しく五點と數へられぬ。 乙部《ウェッブ》「杜番《ドノバン》、こたびは君の番なり、意を用ひよ、 我が隊の運命は、懸けて君が斯の一環の上に在り」。杜番《ドノバン》「憂ふる勿れ、乙部《ウェッブ》」。 杜番《ドノバン》は口を結び、眉を顰《ひそ》めて、一 雙《さう》の爛《らん》たる眼《まなこ》、 的を凝視して、ねらひを定むること良《や》や久しくしたる後、 や聲とともに擲《なげう》ちたる環は殆ど針にはまらんと慾して、はまらず、 環 邊《ふち》もて針を撃ちたるまゝ、空しく地に墜ちぬ。 虞路《クロース》「咄《とつ》、敗《はい》せり」。 韋格《ヰルコクス》「然れども猶ほ是れ一點に數へらる、 若し敵の環をして命中せざらしむる限りは、諭贏《ゆえい》の決、未だ定むべからず」。 此方《こなた》に立てる左[田|比;u6BD7]《サービス》は、「意を用ひよ、武安《ブリアン》」。 武安《ブリアン》は點頭《てんとう》したるのみ、敢て一言をも發せず、 足場を計り、ねらひを定めて、擲《なげう》ちたる環は誤またず針の上に命中せり。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「二點、合計七點、我が隊萬歳」。 彼方《かなた》に立てる杜番《ドノバン》は、左[田|比;u6BD7]《サービス》の呼ばゝる聲を遮りて、 「否な、只今の勝負には異論有り」。馬克太《バクスター》「何を以て」。 杜番《ドノバン》は武安《ブリアン》の立てる處に走り來りて、 「何とすれば、武安《ブリアン》が詐《いつは》りを行ひしと」。 武安《ブリアン》は面色を變じて、「餘が詐《いつは》りを行ひしと」。 杜番《ドノバン》「武安《ブリアン》は足場より外に、其の足をふみ出したり」。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「そは杜番《ドノバン》、君の誤りなり、 武安《ブリアン》の足は常に足場の内に在りたり」。 武安《ブリアン》「且つ來りて餘が靴の跡を看よ、餘が足場の外に出でたりといふは、 杜番《ドノバン》の看たがひに非ずば、即ち其の虚言なり」。 杜番《ドノバン》「虚言なりと」と叫びつゝ、武安《ブリアン》のかたに詰寄りたり。 杜番《ドノバン》の背後《うしろ》には乙部《ウェッブ》、虞路《クロース》等引添ひて、 スハといはゞ杜番《ドノバン》を助けて、打てかゝらむと慾し、 武安《ブリアン》の背後には、亦た左[田|比;u6BD7]《サービス》馬克太《バクスター》等、 武安《ブリアン》を助けむと慾して、臂《ひぢ》を攘《かゝ》げてをり。 武安《ブリアン》は憤然として、怒色《どしよく》 面《おもて》に顯《あら》はれしが、 復《ま》た忽ち思ひなほせる如く、「杜番《ドノバン》、 君は已でに餘を辱かしむるさへあるに、亦た餘に鬪ひを挑まむとするか」。 杜番《ドノバン》「君は心怯《こゝろおく》れたるか」。 武安《ブリアン》「餘は此《かく》の如き事のために、鬪ふべき所以を知らず」。 「即ち心怯《こゝろおく》れたるなり」。「餘が心怯《こゝろおく》れしと」。 「即ち君は臆病ものなり」。武安《ブリアン》は終に復《ま》た忍ぶ能はざりき、 俄《には》かにして一場の拳鬪は、兩個の間に開かれたり。 是より先き、兩個の口角次第に[厂|萬]《はげ》しきを加へるを傍觀したりし土耳《ドール》胡太《コスター》等の幼年者は、 洞内に走《は》せもどりて、呉敦《ゴルドン》に事の急を告げたるにぞ、 呉敦《ゴルドン》は大に驚きつ。此の處にかけ來りて、兩個の間に身を横へて、 「武安《ブリアン》、杜番《ドノバン》」。 杜番《ドノバン》「渠《かれ》は餘を虚言者なりと嘲《あざけ》りたり」。 武安《ブリアン》「然れども、そは初めに渠《かれ》が餘を以て、 詐《いつは》りを行ひし者と誣《し》ひ、又た臆病ものと罵りたれば」。 呉敦《ゴルドン》は聲を[厂|萬]《はげま》して、「杜番《ドノバン》、 餘は武安《ブリアン》の決して事を好む者に非ざるを知れり、先づ事の端を發せし者は必ず君なり」。 杜番《ドノバン》「多謝 呉敦《ゴルドン》、君は例に因りて餘を貶《へん》す、 餘は君の好意を多謝す」。呉敦《ゴルドン》「否な杜番《ドノバン》、 餘は君等のの首長として、君等が此《かく》の如き不法の爭鬪をなすを禁ず、 武安《ブリアン》、君は洞《ほら》に歸れ、杜番《ドノバン》、君は慾する所に往きて、 其の怒氣を消《せう》し、君の常態に復せる後を待ちて、餘等の許《もと》に歸り來れ」。 圈立《けんりつ》環視《くわんし》せる諸童子は、乙部《ウェッブ》韋格《ヰルコクス》虞路《クロース》の三個を除く外、 皆な一同に、「然り、然り、呉敦《ゴルドン》の言 是《ぜ》なり」と贊《さん》しける。 杜番《ドノバン》は是夜、一同が寢《しん》に就かむと慾するころに至りて、 初めて洞《ほら》に歸り來りしが、武安《ブリアン》の事につきては、 敢て復《ま》た一言をもいはず。翌日よりは、再び平生の如く、 一同と共に冬ごもりの準備に孜々《しゝ》として從事せるが、其の一團憤懣の氣、常に胸に横はれるは、 其の居動《きよどう》言貌《げんばう》の上に自から掩《おほ》ふべからず見えにける。 五月に入りてよりは、寒威既に著るしくなりて、 洞内のストーヴには晝夜火を燃《た》きつゞくるやうになり、 鳥類は多く更らに温暖の地を求めて、島を去らむと慾す。 童子等は中に就て幾十個の燕を捕へて、各《おの?》其の頸《くび》に、 渠等《かれら》が漂流の始末と、現在の状《じやう》とを詞《ことば》短かに記して、 斯の書を拾ひ看る者は、速かに之をニウジランドの首府アウクランドに報じくるゝやう、 乞ふむねを併せ記したる小紙片を結びつけて、放ちやりぬ。 五月二十五日には、既に初雪を見たり。去冬《きよとう》に比ぶれば早きこと若干日なり、 斯の冬の寒威は去冬《きよとう》に比べて、或は幾層の烈しきを加ふるやも知るべかららず。 然れども洞内には幸ひに、薪《たきゞ》、油、及び食物を饒有《ぜういう》すれば、 縱《たと》ひ數個月を洞内に蟄《ちつ》してくらさゞる可らざるに、至らしむるも、 敢て恐るべきにあらず。 呉敦《ゴルドン》の任期は六月十日を以て終るべし、新太守の選擧は即日之を行ふべしと定められぬ。 呉敦《ゴルドン》は固《もと》より己れの既に多數の童子に厭かれたることを知りて、 敢て再選さるべしとも望まず、亦たされむことをも願はず。武安《ブリアン》に至ては、 其の佛人の子なるを以て英人の子の組成せる斯の殖民地に於て、 其の首長に推さるべしなどゝは初めより夢にも想はず。 選擧の日の次第に近づくに隨《したが》ひて、隱すとすれど、 其の懸念の色の自然 面《おもて》に顯《あら》はれしは、獨り杜番《ドノバン》なり。 蓋し杜番《ドノバン》の如きは其の凡に超えたる勇氣、其の儔《たぐひ》希《ま》れなる才能、 斯の一群の童子の首長として、本島の太守に推さるべき、最も適當の人なりしなり。 若し渠《かれ》をして其の剛愎《がうふく》他を凌ぎ、妬忌《とき》人を嫉《ねた》むといふ缺點の、 常に其の徳を損する無からしめば、渠《かれ》は必ず第一に本島太守に推さるべき、 最も適當の人なりしなり。 既にして六月十日となりぬ、選擧の會は午後を以て開かるべく、 童子等は各《おの?》小さき紙片《かみきれ》に、其の選擧せむと慾する候補者の名を記して、 之に投じ、第一囘の投票にて、最多數を得たる者、即ち當選者たるべしとの定めなり。 莫科《モコー》は黒人なるを以て選擧權を有する能はず。故に投票の數は總計十四枚にして、 八票以上を得たる者は、即ち當選者たるを得べし。選擧會は午後二時を以て開かれぬ。 呉敦《ゴルドン》選擧長の椅子に坐し、衆童子は、かのアングロサクソン人種に特有の、 嚴肅なる態度を以て、逐次其の票を投じたり。已でに畢《をは》りて、 選擧長が其の結果を讀みあぐるを聞けば、 武安《ブリアン》八點。杜番《ドノバン》三點。呉敦《ゴルドン》一點。 即ち武安《ブリアン》最多數を得たり。蓋し呉敦《ゴルドン》と杜番《ドノバン》は、 其の選擧權を棄て、武安《ブリアン》は呉敦《ゴルドン》に投票し、 其の他は乙部《ウェッブ》、虞路《クロース》、韋格《ヰルコクス》の三名が杜番《ドノバン》に投票したる外、 皆な齊《ひと》しく武安《ブリアン》を推せしなり。 之を聞きしとき、杜番《ドノバン》が失望と不快との色は、 面《おもて》に掩《おほ》ふべからざりき。武安《ブリアン》に至りては、 事の意外に驚きて、忙がはしく身を起しつ、之を辭さむとしたりしが、 復《ま》た忽ち其の心に思ひつきし所ある如く、其の弟 弱克《ジャック》を視やりつゝ、 徐《おもむ》ろに「多謝諸君、謹《つゝしん》で諸君の命《めい》の辱《かたじけ》なきを拜す」。 この日、弱克《ジャック》は人無きをり、其の兄に密《ひそ》かに語りて、 「兄うへ、汝《おんみ》が直ちに太守の職に就くことを諾《うけひ》きたるは」。 武安《ブリアン》「即ち諸君のために、餘と汝《おんみ》とが身を捐《す》てゝ、 力を盡さむと慾するには、餘が斯の職に居ることの、尤も便宜ならむと思ひたればなり」。 弱克《ジャック》は雙眼《さうがん》に涙を浮べて、「多謝兄うへ、若し一命を擲《なげう》ちて、 諸君のために身を致すべきをり有らば、必ず餘を用ふることを忘るゝ勿れ」。 スロウ灣の上に樹《た》てたる英國旗は、既にさん?゛に破れて、 殆ど目じるしの用を爲さゞれば、武安《ブリアン》は戸外の運動の猶ほ自由なるうちに、 之を新たにせむと慾して、馬克太《バクスター》に囑《しよく》して、 沼邊《ぬまのほとり》に叢生《そうせい》せる蘆《あし》を採りて、一個の球《たま》を作り、 旗に代へて之を竿頭《かんとう》に掲げしめぬ。 兎角する間に、陰氣なる冬は去年《こぞ》の如く、次第にチェイアマン島を罩《つゝ》みて、 童子等は復《ま》た一歩を洞外にふみ出だす能はずなりぬ。 武安《ブリアン》は傲《おご》らず、矜《ほこ》らず、忠實に、其の職に務めて、 孜々《しゝ》洞内庶務の整理に從事し、童子等は皆な喜びて其の指揮に服し、 殊に呉敦《ゴルドン》の初めより率先して、自から武安《ブリアン》の號令に遵奉して以て、 其の例を示せしは、尤も武安《ブリアン》の號令をして、圓滑に行はれしむるの助けをなせり。 杜番《ドノバン》等四名のものさへも、敢て公然 武安《ブリアン》の命《めい》に抗する者はあらず、 唯だ武安《ブリアン》が百方 渠等《かれら》を慰諭撫安《いゆぶあん》して、 其の惡感情を去らむことを務めたるにも拘はらず、渠等《かれら》が到底 武安《ブリアン》に不滿にして、 心之に服さゞるは、常に其の擧動のはし?゛に顯《あら》はれて、 得て之を掩《おほ》ふべからず。 善均《ゼンキンス》、伊播孫《イバーソン》、土耳《ドール》及び胡太《コスター》等の幼年者が、 其の學業の上に於て、著るしき進歩をなしたるより外に、別に記すべき事もなく、 六月七月を過ぎて、八月の初めとなりぬ。八月の初めには、 百度わりの寒暖計の水銀、零點以下三十度に降りし日四日ありき。 此ことに至りては、年長童子等が時々厩舎に繋ぎたる諸動物のために、 其の煖爐に薪《たきゞ》を添ふるが爲め、止むを得ず、更《かは》る?゛厩舎に往くを除く外は、 一人の戸外に出づるを得る者なく、厩舎より歸る者は、皆な半ば凍死の人となりて、 歸り來るを常とせり。是月九日より、風西方に吹きかはりて、やがて大風《たいふう》烈風となり、 殆ど二週間吹きつゞけて、陷穽林及び沼澤林の樹木多く是がために吹き折れ、 吹き倒されぬ。他日童子等が薪《たきゞ》を採るの必要に逢はむをりは、 是れ大に童子等が斧鋸《ふきよ》の勞を省くの助けとなるべし。 八月下旬といへば、餘輩北半球の二月の末に當れば、暖氣已でに次第に囘《かへ》りそむる候なるに、 斯の大風《たいふう》は又た大に温度を變化するの效ありて、 八月下旬には戸外の運動 稍《や》や自由なるを得るに至れり。 然れども湖及び川は猶ほ渾《す》べて是れ一面の厚氷なれば、 打魚《だぎよ》の事は未だ之を得《え》試むるに至らず。 一日《あるひ》、武安《ブリアン》は少しく瑟縮《しつしゆく》せる一同の筋肉を舒《の》ぶるため、 走氷《そうひよう》の戲《たはむ》れを催さむと慾して、之を一同に語れるに、 皆な喜びて之に贊《さん》せるにぞ。 乃《すなは》ち馬克太《バクスター》に囑《しよく》して若干隻の氷靴《こほりぐつ》を製せしめ、 其の製し了るを待ちて、二十五日の朝、武安《ブリアン》、呉敦《ゴルドン》、杜番《ドノバン》、 乙部《ウェッブ》、虞路《クロース》、韋格《ヰルコクス》、馬克太《バクスター》、雅涅《ガーネット》、 左[田|比;u6BD7]《サービス》、善均《ゼンキンス》及び弱克《ジャック》の十一名相率ゐて佛人洞を出でゝ、 家族湖の畔《ほとり》に抵《いた》りぬ。 斯の戲《たはむ》れに熟練せざる伊播孫《イバーソン》土耳《ドール》胡太《コスター》の三幼年者は、 莫科《モコー》とともに、家に留守してをり。 佛人洞附近の濱邊は、氷の面《おもて》起伏凹凸一樣ならずして、 すべり走るに宜しからざれば、一同は已むを得ず、 湖畔に沿ひて三十町 許《ばかり》を北に進みゆくに、 此處《このところ》の前方一望 無邊《むへん》の玻璃《ガラス》を展《の》べたる如く、 坦々蕩々《たん?たう?》として、其の涯際《がいさい》を見ず。 武安《ブリアン》は先づ一同を會して、規約を定めたるは「興に乘じ能《のう》を衒《てら》ひて、 危險を冐すことを許さず、群を離れて遠く行くを許さず、 誤まりて群を離れ路を失ふ者あらば、呉敦《ゴルドン》と餘との始終この濱邊に停立《ていりつ》して、 諸君の歸來を待つことを忘るる勿《な》く、 必ず此處《こゝ》に歸り來れ、又た餘がこの喇叭を吹き鳴らさば、 一同直ちに此處《こゝ》に歸り來れ」。一同は武安《ブリアン》が告ぐる所の規約を聞き畢《をは》れる後、 湖のうへに下りたちて、氷靴《こほりぐつ》を着け、呉敦《ゴルドン》が發する所の合圖とともに、 一齊に氷の面《おもて》を走りはじめしが、中に就て最も熟練の功を見せしは弱克《ジャック》なりき。 杜番《ドノバン》と虞路《クロース》とは、かねて斯の戲《たはむ》れに巧者なりとの名を博せし者なるが、 流石の二人も弱克《ジャック》が、各種の曲線 圈線《けんせん》を描きつゝ、 縱横にすべり走る、圓轉自在の働きには、遠く及ぶ能はずして、後《しりへ》に瞠若《だうじやく》たるばかり。 杜番《ドノバン》は弱克《ジャック》が連《しき》りに一同の喝采を博するを見て、 心の中甚だ面しろからず、やがて一同の列を脱して、虞路《クロース》をかたへに招きつ、 「君は那方《かしこ》に一群の鴨《かも》の下りたるを見ずや」。虞路《クロース》「然り那方《かしこ》の沖なかに」。 「君と餘とは幸ひに例に因りて銃《つゝ》を負ひたり、往《ゆ》いて之を獵取《れふしゆ》せむ」。 「然れども、武安《ブリアン》は餘等の群を離れて、遠く行くを禁じたり」。 「請ふ武安《ブリアン》の名を説く勿れ、只だ餘と共に隨《したが》ひ來れ」。 此方《こなた》の岸に停立《ていりつ》して、衆童子の面白げに、すべり走るを望視《ばうし》しゐたる、 武安《ブリアン》と、呉敦《ゴルドン》とは、杜番《ドノバン》と虞路《クロース》の二人が、 俄《には》かに群を離れて、沖のかたに走《は》せ去るを見て、大に之を怪しみつゝ、 武安《ブリアン》「渠等《かれら》は何處《いづく》にゆかむと慾するや」。 呉敦《ゴルドン》「何等か獲ものを發見して、其のかたに赴くに非ざるなきか」。 言ふうちに二人の影は只だ二個の小黒點と化し了りしが、復《ま》た忽ち眼界の外に沒して、 見るべからずなりぬ。日沒までは尚ほ數時間あれば、 渠等《かれら》は直ちに歸路に迷ふの憂《うれひ》ありといふには非ざるも、 此ごろの空氣の状《じやう》には、動《やゝ》もすれば、激變多くして、 少しの風むきの變りかたに因りて、忽ち雪を下《ふ》らし或は霧を起すことあり。 されば、二人の見えずなりてより、未だ幾時《いくとき》を閲《けみ》せず、 午後二時に至りて、一帶の重霧《ちようむ》地平線を抹《まつ》して、 湖上の物色 俄《にはか》に暗淡《あんたん》となれるとき、 武安《ブリアン》の驚きは一かたならざりき、「之を憂へ懼《おそ》ればこそ、 餘が群を離れて遠く行くことを、豫《あらかじ》め禁ぜしなれ、 渠等《かれら》は斯の重霧《ちようむ》の裡《うち》に於て、 如何にして歸路を求むることを得べきぞ」。呉敦《ゴルドン》「兎に角に、 喇叭を鳴らして、他の諸君を召《よ》び還さむ」。 他の童子等は皆な直ちに岸に返りしが、二人は未だ歸り來らず。 喇叭は衆童子の口によりて、更《かは》る?゛吹き鳴らされたり。 若し二人をして之を聞かしめば、必ず其の銃を放ちて、之に應ずるならむ。 一同は耳を欹《そばだ》てゝ、之を聽きたれども、湖上は寂然《せきぜん》として、 何等の響きをも返さず。兎角するうちに、霧は益す廣がり、益す重なりて、 更らに數分間を過ぐさば、湖上の全面は凡べて瞑濛《めいもう》の中に、 罩《つゝ》み了らるべく見えにける。 呉敦《ゴルドン》「餘等は之を如何にすべき」。武安《ブリアン》「有《あ》らゆる力と手段と竭《つく》して、 二人を救はざるべからず、先づ餘等の中、一人試みに渠等《かれら》のゆきし方に赴きて、 行く?喇叭を吹き鳴らして、渠等《かれら》に方位を知らさば、如何」。 馬克太《バクスター》「善し、請ふ餘之に赴かむ」。「餘往かむ」。「餘往かむ」と言へる聲、 二三個の口より齊《ひと》しく起りたり。 武安《ブリアン》「否な、餘往かむ」。ジヤックは兄の前に進みて、 「否な、兄うへ、餘こそ之に赴くべき適當な人ならめ、氷の上を走ることは、 餘が得意の藝《わざ》なれば」。武安《ブリアン》は弟の面《おもて》を熟視して、 「善し、弟、汝《おんみ》を遣《つか》はさむ、且つ行き、且つ吹き、 且つ聽けよ。渠等《かれら》が或は發《はな》つべき銃聲を聞きおとす勿れ」。 弱克《ジャック》は兄が授くる所の、喇叭を受けて、 之を帶びたるまゝ、重霧《ちようむ》の裡《うち》に走《は》せ入りて、 姿は忽ち見えずなりぬ。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第十囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 既にして半時間を經過せるが、杜番《ドノバン》及び虞路《クロース》よりも、 又た二人を尋ねゆける弱克《ジャック》よりも、曾《かつ》て何等の音耗《たより》あらず。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「若し火器さへ茲《こゝ》にあらしめば」。 武安《ブリアン》「然り、請ふ疾《と》く洞《ほら》に歸りて、砲銃を連發して、 以て渠等《かれら》に洞《ほら》の所在を知らしめむ」。三十分 許《ばかり》の間に、 一同は三マイルを走《は》せ過ぎて、佛人洞に歸り到りぬ、 平素は粒々 寶玉《はうぎよく》の如く珍惜《ちんせき》せる硝藥をも、 嗇《を》しげも無く取り出だして、二個の大砲に填裝しつ、更《かは》る?゛之を發《はな》つに、 一發を發《はな》つ毎に、轟然たる砲聲は岡に震ひ水を度[誤?:渡]《わた》りて、 數里の間に反響し、物凄きばかりなるが、湖上は依然 寂々寞々《せき?ばく?》として、 曾《かつ》て何等の應答をも齎《もた》らさず。此の如くして、 午後五時に及べるに、湖上北東のかたに當りて、遙かに二三發の銃聲起るを聞けり。 一同大に喜びつゝ、仍《な》ほも大砲を連發するに、幾分間を隔てゝ、 二個の人影のおぼろげに重霧《ちようむ》の中に見え來れり。 俄《には》かにして此方《こなた》に立てる一同が懽呼《くわんこ》の聲は、 二個が應答の聲と相和して、高く空中に揚りたり。 二個は、即ち杜番《ドノバン》と虞路《クロース》なりき。 弱克《ジャック》は二個と偕《とも》にあらず、二個は曾《かつ》て其の喇叭の聲をだに耳にせざりしといふ。 蓋し二個は湖上の北方を徘徊せるに、弱克《ジャック》は正東《まひがし》を指して尋ねゆきたればなり。 是時 武安《ブリアン》はじめ一同の憂懼《いうく》は、言はむもさらなり、 若し渠《かれ》をして斯の零點以下の寒氣に曝《さ》らされて、 一夜湖上を彷徨するの已むを得ざるに至らしめば、其の能く生きて還らむことの望みは、 殆ど十に八九これ無ければなり、是時蒼然たる暮色は既に湖上を蔽ひはじめて、 全島 闇々《あん?》たる夜色《やしよく》の中に罩《つゝ》み了られむも、 復《ま》た一時間を出でじ。此の如くをりに於て、我の所在を示さむと慾するには、 火を擧ぐるより善きはなければ、韋格《ヰルコクス》馬克太《バクスター》左[田|比;u6BD7]《サービス》等は、 早くも手に?乾柴《かれしば》枯枝を採り聚《あつ》めて、 之を濱邊に積むをりしも、呉敦《ゴルドン》は急に之を止めて、 望遠鏡を取りあげつゝ、「待て諸君、那里《かしこ》に何等か物ありて動きをるに似たり」。 武安《ブリアン》も均しく眼鏡を取りて、北東のかたを注視せしが、 「多謝す上帝、是れ渠《かれ》なり、弱克《ジャック》なり」。 童子等は一同一齊に聲を揚げて懽呼《くわんこ》せり、計るに、 弱克《ジャック》は尚ほ一同を距《さ》ること、十餘町の外に在り。 然れども渠《かれ》はかの氷靴《こほりぐつ》に藉《よ》りて、 氷上を快走すれば、看る?其の距離縮まりて、早や更に三五分を閲《けみ》さば、 一同の處へ返り到るべく見ゆるまでに至りたり。 俄《には》かにして馬克太《バクスター》は驚き怪しめる聲を發して、 「渠《かれ》は何物をか從へ來れるに似たり」。信《しん》に然り、 弱克《ジャック》より三四十 間《けん》後れて、二個の黒影あり、 弱克《ジャック》に隨《したが》ひて驀然《ばくぜん》[足|勹&巳;u8DD1]《かけ》り來る。 呉敦《ゴルドン》「何物ならむ」。馬克太《バクスター》「人 歟《か》」。 韋格《ヰルコクス》「否な、毛族《けだもの》なるに似たり」。杜番《ドノバン》「恐くは是れ狼なり」。 と言ひもあへず、銃を提《ひつさ》げて、最先《まつさ》きに弱克《ジャック》のかたに走《は》せゆきつ、 連《しき》りに二 丸《ぐわん》を發せるに、渠等《かれら》は忽ち身を返して、 やみの裡《うち》に遁れ去りぬ。 弱克《ジャック》を追ひ來れるは、衆童子の意外にも、是れ二個の熊なりき。 渠等《かれら》は是まで曾《かつ》て本島に、此の恐ろしき猛獸の棲める迹《あと》ありしを見ざりき、 想ふに是れ凍結せる海の上を渉《わた》り、或は海上に漂流せる氷塊の上に乘りて、 附近の大陸より此ころ此の島に渡り來りし者なるべし。果して然らば、 是も亦た此の島を距《さ》ること遠からざる處に何等か大陸の在る有るを證する者のあらずや。 蓋し弱克《ジャック》は武安《ブリアン》等に別れて東方に杜番《ドノバン》等二人の跡を尋ねゆけるが、 行けども?二人に逢ふことを得ず、重霧《ちようむ》の中を彷徨すること多時するうち、 終には己れも亦た方位を失ひて、歸路に迷ふに至りたり、時に殷々たる砲聲の、 遙かに一方に起るを聞きて、是れ必ず佛人洞なる諸童子の發《はな》てるものならむを料《はか》り、 砲聲の起れるかたを望みて、歸り來る途中、忽ちにしてかの二個の熊に己れに尾《び》し來るを知りぬ、 幸ひにして渠《かれ》が氷すべりの熟練は渠《かれ》を助けて、 常に幾十 間《けん》の距離を保ちて走ることを渠《かれ》に得せしめたりしかども、 若し渠《かれ》にして一歩を跌《つまづ》き倒れしめば、 恐らく渠《かれ》は復《ま》た生きて一同に會する能はざりしならむ。 武安《ブリアン》は洞《ほら》に入らむとして首を囘《かへ》せるに、偶《たまた》ま後につゞきし杜番《ドノバン》と、 恰《あた》かも面《おもて》を對せるにぞ、「杜番《ドノバン》、餘は君に一同と相離るゝ勿れと命ぜり、 而かも君は餘の命《めい》に背《そむ》きて、非常の危懼《きく》と狼狽とを餘等一同に齎《もたら》らしたり、 餘は之を君に責めざる能はず、然れども君が一身を擲《なげう》ちて、 最先《まつさ》きに餘の弟の急に赴きくれたる高義《かうぎ》と深情《しんじやう》は、 餘の亦た厚く心に荷《にな》ひて永く忘るゝ能はざる所なり」。 杜番《ドノバン》は冷然として、「餘は唯だ餘の義務をなせるのみ」と言ひすてゝ、 武安《ブリアン》が恭々《うやう》やしくさし伸べたる手には肯《あへ》て指をだに觸れず、 其まゝに洞《ほら》の中に入り去りぬ。 *    *    *    *    *    *    * 以上の事ありてより六週間 許《ばかり》を經て、ある日の夕《ゆふべ》、 家族湖の南岸に孜々《しゝ》として露營を張る四個の童子ありき。 ころは十月 暮春《ぼしゆん》の候にして、 樹上《きのうへ》地上《ちのうへ》皆な一樣に青緑《せいちよく》の衣《い》を被《かうむ》り、 [島,山@衣;u88CA]《でう?》たる和風は湖の面《おもて》を吹き皺《しわ》めて、 斜陽萬段《しややうまんだん》金を碎き、于《こゝ》に集り于《こゝ》に飛ぶ禽鳥《きんてふ》は、 各《おの?》其の宿巣《ねぐら》を求めて、聲を限りに百囀千囀《ひやくてんせんてん》す、 一個の老槲樹《ろうかいじゆ》の下《もと》には、正《ま》さに燃え熾《さか》れる火ありて、 火の邊《ほとり》には二隻の巨鴨《おほがも》の、 串に貫かれたるが懸けありて炙《あぶ》りて方《ま》さに熟せり。 四個の童子は晩飯《ばんはん》を畢《をは》りたる後、各《おの?》毛布《ケット》に身を包みて、 火を圍《かこ》みて横臥《わうぐわ》せるが、翌朝日既に高く昇れるまで、 [鼻|句;u9F41]《いびき》として眠《ねむり》未だ覺めざりき。 四個の童子は即ち、杜番《ドノバン》と其の黨 虞路《クロース》乙部《ウェッブ》韋格《ヰルコクス》の三人なりき。 四個が佛人洞なる他の諸童子と分離して、此に至りたる始末は、一言するに乃ち左《さ》の如し。 去る冬の冬ごもりの間に於て、杜番《ドノバン》と武安《ブリアン》との不和は日に益す増長して、 呉敦《ゴルドン》が間に居りて百方力を盡して、兩者の交情をやはらげむと務めたるも、 其の功無く、終には杜番《ドノバン》及び其の黨の三人は、食事の時の外、 一同と面《おもて》を對すること幾《ほとん》ど希《ま》れになり、 多くは洞内の一隅に四個別に團坐《だんざ》して、首を聚《あつ》め何事か低々《てい?》相語りをり。 ある日 武安《ブリアン》は呉敦《ゴルドン》を招きて、四個の状《さま》を指ざし示して、 「渠等《かれら》は何事か陰《ひそ》かに圖《はか》りをる所あるに疑ひなし」。 呉敦《ゴルドン》「縱《たと》ひ陰《ひそ》かに圖る所あらしむるも、 是れ君に對する謀叛のたぐひならぬは、必《ひつ》せり。 他の諸君一同が君を棄てゝ杜番《ドノバン》に與《くみ》せざることは、 杜番《ドノバン》と雖《いへど》も明かに之を察せり」。 「渠等《かれら》は、蓋し餘等を棄てゝ此處《こゝ》を去らむと慾するに非ずや、と疑ふなり、 餘は昨日 韋格《ヰルコクス》が陰《ひそ》かに慕員《ボウドヰン》の地圖を寫し取るを目撃せり、 因《よつ》て思ふに渠等《かれら》の不滿は、其の本《もと》皆な餘の一身に快からざる上より發せり、 故に餘は速かに餘が現在の職を辭して、之を君或は杜番《ドノバン》に讓りて、 以て斯の不和の根を絶たむと慾す、如何」。「否な、否な、武安《ブリアン》、 そは君の平生に似ざるの言なり、若し此の如くせば、君は何に縁《よ》りて君の選擧せる諸君の心に答へむとするぞ、 何に縁《よ》りて諸君に對する君の義務を盡すべきぞ」。 十月上旬に至りて、暖氣 俄《には》かに囘《かへ》りて、 湖川《こせん》の氷も一時に[さんずい|半;u6CEE]《と》け、 洞外の運動全く自由になれるとき、一 夕《せき》杜番《ドノバン》は其の黨の三子と偕《とも》に、 洞《ほら》を去らむと慾するむねを言ひ出だしぬ。 呉敦《ゴルドン》「君等は餘等一同を棄てゝ、此處《こゝ》を去らむと慾するか」。 「諸君を棄つるといふにはあらず、餘等四人は暫く諸君と別居したしとおもふのみ」。 馬克太《バクスター》「そは何故に。杜番《ドノバン》」。 杜番《ドノバン》「一には別居して勝手の生活をなしたき故に、 然れども最も重なる趣意は、淡泊に直言すれば、 餘等は武安《ブリアン》の治下に立つことを願はざるが故に」。 武安《ブリアン》「四君が餘に不滿なりとせらるゝは、何の故に由りてなるや、 請ふ之を聞くを得べきか」。杜番《ドノバン》「何の故もあるに非ず、 唯だ君は餘等の首長たるべき權利無き者なりといふに在り、 餘等は皆な英國人なり、而して嚮《さき》には米國人を首長とし、 今は又た佛國人を首長とす、次囘の選擧には、 餘は恐る必ず莫科《モコー》(黒人の子)を首長とせざるべからざらむを」。 呉敦《ゴルドン》「杜番《ドノバン》、そは君のまじめの事には非ざるべし」。 杜番《ドノバン》「餘はまじめなり、亦た熱心なり、 他の諸君はいざ知らず、餘等四人は英國人にあらぬ首長の治下に、 復《ま》た一日も忍屈《にんくつ》しをること能はず」。 武安《ブリアン》「若し此の如くば、餘等も亦た之を奈何《いかん》ともする能はず、 君と韋格《ヰルコクス》乙部《ウェッブ》虞路《クロース》の四君は、 隨意に此處《こゝ》を去らるべし、又た共同財産の中四君の權利に屬すべき四分の一のものだけは、 隨意に携帶し去らるべし」。呉敦《ゴルドン》も四人の決意の到底動かすべからざるを見て、 愁然《しうぜん》として只だ、 「餘は君等が他日今日の決意を悔恨する如きことなからむを祈る」といひしのみ。 さて杜番《ドノバン》が此處《こゝ》を去りて後の計畫といふは、 數月前 武安《ブリアン》が欺瞞灣の濱邊に於て見しと語れる岩窟の中に就て、 其の居を卜《ぼく》し、東方川畔の茂林《もりん》に獵して給を取らば、 眠食《みんしよく》に不自由を愬《うつた》ふることは之れなかるべしといふに在り。 欺瞞灣は佛人洞と相 距《さ》ること、十二マイル即ち五里弱に過ぎざれば、 佛人洞の諸童子と消息を相通ずるも、亦た甚だ容易なり、 渠等《かれら》は先づ家族湖の南岸に沿ひ、陸路東方川に抵《いた》り、 川に沿ひ茂林《もりん》を穿ちて、欺瞞灣の濱邊に出で、 川の水流緩慢なる處に至りて、かの護謨《ゴム》製のたゝみ舟に由りて川を渡り、 かの岩窟の中に就て、恰好の處を選擇し、其の宅とすべきもの既に定まりたる後、 洞《ほら》に歸りて其の權利に屬する財産を分ち取り、更《あらた》めて之を其の新宅に運ぶべし。 渠等《かれら》が此の如く往返《わうへん》陸路に由りて水路を取らざるは、 渠等《かれら》は全くボートを操るの知識と熟練とに缺くればなり。 かくて翌日即ち十月十日の朝、四人は施條銃《せでうじう》二個、連發短銃四個、 斧二個、硝藥若干、打魚《だぎよ》の具若干、懷中磁石一個、毛布《ケット》數枚、 護謨《ゴム》製の舟、及び少許《せうきよ》の食物を携帶して、 佛人洞をたち出でたり。諸童子は皆な愁然として之を洞外まで送りたり。 四人は牢《らう》として動かすべからざる決意を持したるにも拘はらず、 さすがに心 悄然と打ちしをるゝを、皆な強《つとめ》て然《さ》あらぬさまに作りつゝ、 ニウジランド川の畔《ほとり》に抵《いた》れば、此處《こゝ》には莫科《モコー》のボートを艤《ぎ》して、 四人を待ちてをり。四人は川を渡り、莫科《モコー》に別れて、 徐《おもむ》ろに南澤に沿ひて湖の南端を指して進み行けり。 行くこと五マイル餘りにして、午後五時湖の南端に逹したり。 渠等《かれら》が此處《こゝ》に露營を張り、 途中 獵取《れふしゆ》せる所の巨鴨《おほがも》に飽くまで飢を療《れう》して、 穩睡《おんすゐ》したりしは、餘輩の既に目撃して知悉する所なり。 翌朝再び此處《こゝ》を發して、復《ま》た湖畔を進み行くに、 忽ち一個の砂丘に撞着《どうちやく》せり、丘上《きうじやう》に立ちて左右を囘視《くわいし》するに、 一方には湖光《こくわう》鏡を開き、他の一方には無數の砂丘起伏連綿するを見る。 渠等《かれら》は此處《こゝ》を下りて復《ま》た進み行くに、 愈よ行けば愈よ丘陵多くなりて、終には一 登《とう》一 降《かう》、殆ど間斷無きに至れるにぞ、 渠等《かれら》は地面の光景の、將《ま》さに一變せむとすることを豫測せり。 十一時に湖の一 肱《こう》の水 折入《せつにふ》して小さく灣を成せる處に至りて、 四人は暫らく足を休め、中飯《ひるめし》をたうべなどす。灣の上は即ち一座の茂林《もりん》の盡頭《はし》にして、 四人の此より進み行かむとする東北二方は、全く斯の茂林《もりん》の蔽ふ所となりて、 其の前路《ぜんろ》を辨ずべからず。四人は此より茂林《もりん》に分け入りて北方に進み行くに、 林中には駝鳥、ラマ、ベッカリー、及び鷓鴣《しやこ》其の他に羽族《うぞく》甚だ多く、 其の富本島内地の他の諸林に讓らざる如く見ゆるは、四人の尤も喜びに堪へざりし所なり。 六時に至りて、一條の川の畔《ほとり》に到着せり、四人は是れ必ず東方川なるべしと斷ぜり、 四邊を熟視するに、灣の岸頭《がんとう》に焚きすてたる火の痕《あと》あり、 即ち嚮《さき》に武安《ブリアン》兄弟と莫科《モコー》とが、 將《ま》さに欺瞞灣に下らむとする前夜、停宿したる處なるを知るべく、 亦た斯の川の果して東方川にまぎれ無きを知るべし。四人は晩飯《ばんはん》の後、 武安《ブリアン》等の露宿《ろしゆく》せし同じ樹の下に横臥《わうぐわ》して、 早くも熟睡の中に入りぬ。 八個月前、武安《ブリアン》が其の弟と黒人の子を從へて、 始めて斯の樹下に露宿《ろしゆく》せしとき、焉《いづくん》ぞ夢にだも八個月の後、 其の伴侶の四名が一同と分離して、別に居を此のほとりに求むるがため、 斯の樹下に來りて露宿《ろしゆく》することあるべしと想はむや。 若し夫《そ》れ虞路《クロース》乙部《ウェッブ》韋格《ヰルコクス》の三名も、 今遠く佛人洞の安樂居を離れて、獨り寂寞たる斯の樹下に横臥《わうぐわ》せるとき、 嚮《さき》に斯の樹下に眠りたりし人を憶《おも》ひ、延《ひい》ては佛人洞の事を懷《おも》へば、 豈《あに》其の心の中自から悔ゆる如く恨む如く一種の念を萠《きざ》すことを禁《とゞ》め得むや。 然《さ》れど渠等《かれら》の進退は今や杜番《ドノバン》と相 聨《つら》なりて、 斷《き》らむと慾して斷《き》るべからず。杜番《ドノバン》に至りては、 剛愎《がうふく》倨傲《きよがう》は其の性《せい》なり、 一たび爲さむと慾せる所は、縱《たと》ひ中ごろ自から其の非を悟るとも、 必ず之を遂げざれば已まず。 翌朝 杜番《ドノバン》は一行に向ひ、初めの計畫を變じて、先づ此處《このところ》にて川を渡り、 左岸に沿ひて欺瞞灣まで下りゆくべし、と發議《ほつぎ》せるに、 渡りて後下りゆくも、下りゆきて後渡るも、歸する所同一なるに加へて、 武安《ブリアン》等がストーンパインを多く發見せしも、左岸の林中を於てなりしといへば、 兼て行く?其の堅果《けんくわ》を採聚《さいしう》するの便宜もあることを得べしとて、 一行直ちに之を贊成し、さて川を渡り左岸の林中に分け入りて、東方に下りゆくに、 いやが上におひ疊《かさ》なるれる下艸《したくさ》は、 腰を沒し脛《すね》に繚《まと》ひ、或は沼澤道を斷ちて、大迂囘をなさゞるを得ざる處あり、 或は密木《みつぼく》縱横地を蔽ひて、斧を用ひて斫《き》り開きつゝ纔《わづ》かに進み行ける處あり、 渠等《かれら》は意外の困苦と疲勞とを贏《まう》け得たる後、 やう?林を出で離れ得たるは、天既に全く黒みたる午後七時過ぎなりき。 翌朝は四人起き出づるや否や、直ちに先づ濱邊に走《は》せ出でゝ、 東方の地平線上を展望せしが、東方は依然、 無邊《むへん》の海波《かいは》[水/(水|水);#1-86-86]々《べう?》として天を[艸かんむり/(酉|隹)れつか;u8638]《ひた》すを見るのみ、 曾《かつ》て一物の眼を遮るもの有る無し。 杜番《ドノバン》「然りと雖《いへど》も餘は猶ほ飽くまでも、 本島の亞米利加大陸に近きことを信ずる者なり、智利《チリー》若《もし》くは白露《ベリユウ》に赴かむと慾して、 ホルン岬を遶《めぐ》る所の船隻は、必ず路を本島の東方に取りて、 この沖を過ぎざるべからず、餘が諸君と倶《とも》に、居を此處《このところ》に卜《ぼく》さむと決意せしは、 一つには此處《このところ》にありて、是等船隻を見張りしたしと思ひたればなり、 武安《ブリアン》は失望の餘り、此處《このところ》に名づくるに欺瞞灣を以てしたり、 然れども、餘は斯の灣の長く餘輩を欺かず、 早晩必ず何等かの帆影をこの沖に浮べ出ださむことを期する者なり」。 この日は濱邊を[彳|尚;u5F9C][彳|羊;u5F89]《しやうやう》して、 將來の宅とすべき洞《ほら》を彼此《あれこれ》と選擇し、 二三隻の松鷄《らいてう》を獵取《れふしゆ》し、魚《うを》を網し、 貝を拾ひなどし、夕《ゆふべ》に至りぬ。渠等《かれら》は斯の灣の全形を總覽せむと慾して、 かの巨熊岩に登り、更らに一たび東方を展望せるが、 依然只だ雲濤《うんたう》の茫々たるを見るのみ、 武安《ブリアン》が北東のかたに望み見たりといふ白點さへも、 曾《かつ》て眸《ひとみ》んい入らず、 四人は是れ武安《ブリアン》が一時の幻視に欺かれしに過ぎずと爲し空しく岩を下りしが、 杜番《ドノバン》はこの岩下の一水區を名づけて巨熊港となせり。 この夜、晩飯《ばんはん》畢《をは》りて後、四人は將來の運動を商議せるに、 新宅の選擇既に定まりたれば、次には唯だ其の財産を新宅に運搬すべき一事あるのみ、 然れども之を運搬するに當りて、陸路よりすることの到底能ふべからざるは、 來時《らいじ》の所見に徴して、甚だ明かなり、故に運搬の一事は、佛人洞の莫科《モコー》に囑《たの》みて、 ボートを用ひ、水路よりすることゝすべしといふに商議せり。 又た佛人洞に歸るの道すぢに就ては、杜番《ドノバン》は一議を發して、 其の佛人洞に歸る前、便宜この濱邊に沿ひて、本島の北部を探征すべしといひ、 一同之に贊成せり。 いよ?北部の探征に從事するとせば、往復少くとも更らに兩三日を費やさゞるべからざるべければ、 是夜は一同早く寢《しん》に就きて、翌朝未明に起き出でゝ、 早飯《あさめし》を畢《をは》り、直ちに北方を指して此處《こゝ》を打ち立ちたるが、 凡《およ》そ三マイル許《ばかり》の間は、濱邊一帶の岩つゞきにして、 唯だ左方の林際に、幅百尺 許《ばかり》の一すぢの砂道をのこせるのみ。 既にして行きて岩盡くる處に至るに、一條の小さき流《ながれ》ありて、道を斷てり。 蓋し亦た家族湖の泄《も》れて海に注ぐものなり、 杜番《ドノバン》は之に北方川の名を命ぜり。 四人は此處《このところ》に中飯《ひるめし》をしたゝめたる後、 川を渡りて、暫く川畔《せんはん》の密林の中を徘徊し、 さて再び濱邊に返らむと慾するをり、虞路《クロース》は俄《には》かに足を停《とゞ》めて、 「看よ杜番《ドノバン》、彼れを看よ」。虞路《クロース》の指さすかたを注視するに、 一個の巨獸あり、生ひ繁れる灌木を左右に排しつゝ行動するさま、明かに見るべし、 杜番《ドノバン》は乙部《ウェッブ》及び韋格《ヰルコクス》を留めおき、 虞路《クロース》と二人して、ぬき足しつゝ忍び寄りて、 相 距《さ》る二十 間《けん》許《ばかり》の處に至りて、 兩人 齊《ひと》しく銃を發せるが、獸は皮甚だ厚くして、銃丸も之を透す能はず、 獸は只だ一 驚《きやう》を吃《きつ》したるまゝ、 早くも密樹《みつじゆ》の中に竄入《ざんにふ》して、見えずなりぬ。 然れども杜番《ドノバン》は其の逃げゆく背影《うしろかげ》を見て、 直ちに知ることを得たり、是れ南亞米利加の河畔に多く見る所の貘《ばく》の一種なり、 貘《ばく》は人に害を加へず、亦た人に用をも爲さゞる一個の長物なれば、 渠等《かれら》は甚だこれを逸したることを惜まず。 かくて復《ま》た濱邊を北方に進み行くに、此邊《このあたり》は渾《す》べて是れ一面の茂林《もりん》にして、 茂林《もりん》は亦た渾《す》べて山毛欅《ぶなのき》より成れるが多し、 故に渠等《かれら》は斯の地方を聰名して山毛欅林と爲せり、 是日 渠等《かれら》は凡《およ》そ九マイルを跋渉《ばつせふ》せり、 更らに九マイルを行かば、渠等《かれら》は本島の北濱《ほくひん》に逹するを得べし、 即ち明日《みやうにち》の日沒までには、渠等《かれら》は其の目的地に逹するを得べし。 次の日即ち十月十五日は、朝より天氣穩やかならず、 動《やゝ》もすればあらしなどに變ぜむと慾する模樣なるにぞ、 四人は益す足を疾《はや》めて進み行くに、風は刻一刻烈しく吹き加はりて、 午後五時に及ぶ比《ころ》ほひには、幾道《いくすぢ》の電光頭上に縱横するとともに、 忽ち轟然たる霹靂《へきれき》耳を劈《つんざ》きて續き起り、 風は萬木を震ひて、[革|堂;#1-93-80]鞳《だうたふ》の聲 霹靂《へきれき》の聲を相鬪ひ、 物凄きこと言はむばかりも無し。然れども渠等《かれら》は其の目的地既に次第に近づけるを知れば、 屈せず撓《たゆ》まず、喘《あへ》ぎ?走るゆくに、八時に至りて、 殷々たる別樣の風濤《ふうたう》の聲ありて、茂林《もりん》を隔てゝ起るを聞けり。 渠等《かれら》は其の既に本島の北濱《ほくひん》に出でしことを知れるにぞ、 益す足を疾《はや》めて走りゆくに、茂林《もりん》の轉ずる處、 豁然《くわつぜん》として一帶の沙嘴《さし》、眼前に開展して、 雪浪《せつらう》滾々《こん?》其の上に卷舒《くわんじよ》するを見る。 是時 天色《てんしよく》漸《やう》やく黒くして、幾町の外を視る能はざりしと雖《いへど》も、 渠等《かれら》は猶ほ夜色《やしよく》未だ海面を鎖《とざ》さゞるに先きだちて、 本島北方海面の概景を看《かん》一 看《かん》せむと慾して、 瑟縮《つり》たる脚を曳きずり?、沙嘴《さし》を望みて走《は》せゆくに、 衆に一足先きだちたる韋格《ヰルコクス》は、忽ち脚を停《とゞ》めて、 前方に横はれる黒き影をば指ざしつゝ、他の三子を顧みたり。 渠等《かれら》は眸《ひとみ》を凝らして、前方をすかし視るに、 渠等《かれら》と相 距《さ》る十餘 間《けん》の那方《あなた》に、一隻のボートの打ちあげられたるが、 右舷を沙場に膠着して欹立《いりつ》しをり、ボートを距《さ》ること三五 間《けん》左には、 退潮《ひきしほ》が正《ま》さに留め遺したる海藻の堆《たい》を成せる邊《ほとり》に、 二個の人體有りて僵臥《》せり。 四名暫くは一同身動きだも得せず、無言にて石像の如く彳立《てきりつ》せしが、既にして、 亦た一同、無言のまゝ徐々歩を移して、かの人體のかたに近づき前《すゝ》みぬ。 四名は人體に近づきて、既に相 距《さ》ること七八 間《けん》の處まで來りしをり、 渠等《かれら》は何故とも知らず、俄《には》かに渾身打ちわなゝきて、 恐ろしきこと言ふばかり無く、復《ま》た一歩を前《すゝ》むること能はざるやうになれるにぞ、 其の果して事斷《ことき》れたる屍體なるや、 或は尚ほ一 縷《る》の氣息《きそく》の其の口鼻《こうび》の間に存するもの有るやなきや、 否やをさへも、問ふに遑《いとま》あらず、一同 驀然《ばくぜん》身を飜して、 茂林《もりん》の中に遁げもどりぬ。今や四面 濛々《もう?》として全地 夜色《やしよく》のために罩《つゝ》まれ、 時々 閃然《せんぜん》やみを照射したりし電光さへ今は全く息《や》みて、 復《ま》た咫尺《しせき》の間を辨ぜず、唯だ風號濤撃《ふうがうたうげき》の聲の、 獨り暗中に跳梁《てうれう》跋扈《ばつこ》するのみ。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第十一囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 何等の恐ろしきあらしなるぞ、大樹 喬木《けうぼく》の吹き折り吹き裂かるゝ聲、 遠近四方に相呼應し、今にも全林中天に捲き去られむかと疑ふばかり。 杜番《ドノバン》韋格《ヰルコクス》乙部《ウェッブ》虞路《クロース》が茂林《もりん》の中に立ちをるは、 甚だ危きに似たりと雖《いへど》も、濱邊は更らに烈風に煽起《せんき》されたる奔砂《ほんさ》飛石《ひせき》、 散彈の如く來りて人の面《おもて》を撲《う》つ有り、片時も停《とゞ》まり處《を》るべからず。 四人は一大 山毛欅《ぶなのき》の下に彳《たゝず》み立ちしまゝ、 曾《かつ》て一瞬の間も肯《あへ》て睫《まぶた》を合はさずして、以て天明に至りたり。 四人が始終心に關して通宵《つうせう》眠る能はざりしは、 獨りあらしのためのみならず、抑《そもそ》も彼處《かしこ》に打ちあげられたるボートは、 何國《いづく》より來れる者にして、其のかたへに僵臥《きやうぐわ》せし二個の破船《はせん》遭難者は、 何國人なるべき歟《か》。渠等《かれら》の此處《こゝ》に漂着せしより之を推せば、 果して本島を距《さ》ること遠からざる處に、他の島或は大陸の在る有りし歟《か》。 風の較《や》や吹き衰へて、稍《や》や人語を聞くを得べき間々に、 渠等《かれら》の熱心に相語るは唯だ斯の一事のみ、 時ありて渠等《かれら》は遠々地に人の聲喚ぶ聲を聞ける如く覺えしも、 啻《たゞ》一度二度のみならず、或は是れ渠等《かれら》二個の外、 尚ほ幸ひにして生存せる者ありて、濱邊を彷徨するに非ざるなき歟《か》。 渠等《かれら》は再三耳を傾けて、熱心に其の聲を追ひ索《もと》めたり、 然れども是れ皆な渠等《かれら》の幻聽なりしなるべし、 渠等《かれら》は只だ依然たる風號濤撃《ふうがうたうげき》の聲を聞くのみ。 渠等《かれら》は嚮《さき》に謂れも無き畏怖の念に制せられて、 ボートと人體との状《じやう》を熟査することもせで、 却走《きやくそう》し去りしことの愚かさを悔いて、 更らに濱邊に尋ねゆかむと慾したることも數《あまた》たびなりき。 然れども此の如き冥々《めい?》寸前の物を視ること能はざる暗中にありて、 此の如きあらしの中にありて、渠等《かれら》は能く何事をか爲さむや。 渠等《かれら》は何に由りてボートの在る所を知り、 何に由りて人體の在る所を知らむや。待ちに待ちたる暁光《げうくわう》は、 やう?東の天《そら》を染めて、一世紀よりも長く覺えたる夜は、 やう?明けはなれぬ。風は少しく勢《いきほひ》衰へたるも、 斷雲《だんうん》低く頭《とう》を壓《あつ》して、奔馬の如く飛び去り飛び來るは、 大雨の將《ま》さに至らむとするを豫示《よじ》せり。 四人は動《やゝ》もすれば疾風に吹き倒されむとするを、 互に相 扶《たす》けひきつゝ、濱邊に出でゝ先づボートの在る所を索《もと》むるに、 ボートは昨日《きのふ》見しよりは、更らに幾 間《けん》うへに打ちあげられたる如く、 且つ沙上《さぢやう》にのこりたる海藻の迹《あと》に由りて之を觀るに、 進潮《しんてう》の時に於ては、海水は昨日《きのふ》想ひしよりも、 高く濱邊に打ちあぐることを知れり、然れども二個の人體は何處にゆけるや復た影も留めず。 四人は濱邊を東奔西走して、遍《あま》ねく之を索《もと》めたけれども、 曾《かつ》て足跡だも發見する能はず、無情なる海水は夜中 渠等《かれら》を引て、 遠く雲濤《うんたう》茫々の外に去りたる歟《か》。韋格《ヰルコクス》「可憐 生《せい》、 渠等《かれら》は或は猶ほ一 縷《る》の氣息《きそく》の存する者ありしやも料《はか》り難きに」。 杜番《ドノバン》は濱邊に凸起《とつき》せる高岩《かうがん》の上に登りて、海上を展望せるが、 只だ一樣の澎湃《はうはい》たる巨浪《きよらう》、無邊《むへん》に起伏するを見るのみ。 杜番《ドノバン》は此處《こゝ》を下りて、三人の立てる所に返るに、三人は方《ま》さにボートを圍《かこ》みて、 其の内外を檢《けん》しをり。ボートは長さ五 間《けん》許《ばかり》の傳馬船《てんません》にして、 帆檣《ほばしら》折れ、右舷いたく壞《やぶ》れたれば、更らに修繕を加ふるに非ざれば復《ま》た航海に用ふべからず。 船内には唯だ帆及び帆索《ほなは》の斷《き》れ?゛になりて散落《さんらく》せるが有るのみにて、 食物割烹具或は武器の類は、一點も有る無し。檢《けん》して船尾に至るに、 數個の文字あり、蓋し斯のボートが所屬の母船《おやぶね》の名、及び其の本籍地の名を記せるなり、 歴々として猶ほ明かに讀むべし。曰く、 セベルン號 サンフランシスコ *    *    *    *    *    *    * 四童子をば暫らく斯の濱邊に留めおきて、餘輩をして且《しば》らく佛人洞に返らしめよ。 却て説く、佛人洞なる諸童子は、四人の發足したりし後、皆な鬱々として樂まざる色あり、 殊に尤も打ちふさぎて見えたるは武安《ブリアン》なりき。呉敦《ゴルドン》は武安《ブリアン》の心を推《すゐ》して、 百方之を慰めて、「武安《ブリアン》、しかく鬱々たる勿れ、 杜番《ドノバン》剛愎《がうふく》なりと雖《いへど》も來冬《こむふゆ》の冬ごもりまでには、 必ず再び餘等の許《もと》に歸り來らざるを得ざるべし。 然り是れ甚だ理《ことわり》有るの説なり。渠等《かれら》が單に四人の力をもて、 彼れが如く險惡なる嚴冬の沍寒《ごかん》と鬪ひて、 能く之に抗し得るや否やは、尤も覺束無き所なり、呉敦《ゴルドン》の説は實《じつ》に理《ことわり》有り。 抑《そもそ》も渠等《かれら》衆童子は、來冬《こむふゆ》も亦た一冬を斯の孤島に送らざるべからざる歟《か》。 渠等《かれら》は到底 外援《ぐわいゑん》を得るの望み無き歟《か》。 太平洋の此邊《このあたり》は終に船隻の來訪を望むべからざる歟《か》。 アウクランド岡の頂《いたゞき》に殖《た》てし信號は、到底人の目に觸るべき望み無き歟《か》。 一日《あるひ》武安《ブリアン》は諸童子ろ談《かた》りて、斯の事に及べるとき、 「アウクランド岡の頂《いたゞき》なる信號は、海面を拔くこと二百尺に過ぎざれば、 極めて短距離の間に來りたる船隻に非ざるよりは、之を望み視ること能はず、 頃日《このごろ》餘は一計を案じ出だせり、幸ひにして餘等は多くの帆布及びリンネンを有すれば、 之を用ひて一個の大紙鳶《おほだこ》を造り、以て空中に揚げむには、 能く一千尺内外の高さに揚ぐることを得べし、是れ更らに遠距離の人の眼《まなこ》を惹くを得ずや」。 紙鳶《たこ》は勿論無風の日は之を揚ぐる能はざれども、無風の日は甚だ少きに加へて、 唯だ風有るの日のみ之を揚ぐるとするも、全く之を揚げざるより、 愈《まさ》れること萬々《ばん?》なるは言ふまでもなし。 諸童子は一同 武安《ブリアン》の説を贊成して、貘《ばく》を棟梁として、 直ちに紙鳶《たこ》の製作に着手せしは、杜番《ドノバン》等四童子が佛人洞を發足せし翌日のことなりき。 かくて十五日の午後には、一個八角形の大紙鳶《おほだこ》出來あがりぬ、 紙鳶《たこ》の大さは、殆ど童子等の一個を其の背に負ひて空中に揚がることも能ふべく、 之を一千尺の高さに放たば、五六十マイルを離《へだ》てゝ人の眸《ひとみ》に入ること能ふべし。 此の如き大紙鳶《おほだこ》は童子等の力をもて、之を挽《ひ》くを得べきにあらぜれば、 其の線《いと》は、絞車盤《まきろくろ》を用ひて之を伸縮すべしといふ。 翌十六日は即ち始めて斯の大紙鳶《おほだこ》を試み揚ぐべしとて、 幼年者等は喜び懽《よろこ》びて、臥床《ふしど》より起き出でしが、 是日は朝來《てうらい》天氣不穩にして、午前よりは全くあらし模樣となりしにぞ、 渠等《かれら》は紙鳶《たこ》を試み揚げむなどのことは想ひもそめず、 終日洞内に蟄居せり。 十六日の夜は、終夜天氣あれ續きしが、翌十七日は朝來《てうらい》風勢次第に衰へて、 午後一時に及ぶ比《ころ》ほひには殆ど常に復したりしにぞ、童子等は皆な洞外に出でゝ、 正《ま》さに紙鳶《たこ》試揚《しやう》の準備に孜々《しゝ》たるをりから、 如何にしたりけむ獵犬フハンは、二聲三聲高く吠ゆると見えたりしが、 忽ち身を躍らして、驀然《ばくぜん》茂林《もりん》の中に[足|勹&巳;u8DD1]《かけ》り入りたり。 武安《ブリアン》「フハンは如何にしたるならむ」。呉敦《ゴルドン》「何等か獲ものゝ香《にほひ》を嗅ぎしならむ」。 武安《ブリアン》「否な、常の吠ゆる聲とはいたく異なりたり」。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「請ふ往《ゆい》て動靜《やうす》を察《み》む」。 武安《ブリアン》「先づ武器を取り來りて」。言下に左[田|比;u6BD7]《サービス》と弱克《ジャック》とは、 洞《ほら》に走《は》せ歸りて、各《おの?》一個の裝藥せる銃を取り出だし來りたり。 武安《ブリアン》「來れ」。三個は呉敦《ゴルドン》と打つれて、 今フハンの[足|勹&巳;u8DD1]《か》け入りたる陷穽林の南端に進み入るに、 フハンの仍《な》ほ頻《しきり》に人を喚びて吠ゆる聲、近く樹を隔てゝ聞ゆ。 四人は行くこと未だ半町ならずして、フハンの一大 松樹《しようじゆ》の下《もと》に停《とゞ》まり立てるを見たり、 更らに眸《ひとみ》を定めて熟視するに、樹下に一個の人の形《かたち》ありて横はり臥せり。 是れ一個の婦人なりき。身には粗布の服を着けて、茶褐色の肩被《かたかけ》を纒《まと》ひ、 年齡四十乃至四十五なるべし。面上に苦惱の痕《あと》を留めて、顏色いたく憔悴し、 氣息《きそく》は猶ほ微《かす》かに通じつゝも、死人の如くなりて昏倒しをるは、 蓋し疲《つかれ》極まり、若《もし》くは飢 極まりて、此に至れるものなるべし。 抑《そもそ》も童子等が斯の島に漂着してより、一行の外に、人といへる者を見たるは、 是を初めとすれば、之を見たりし四童子が、心の中に感愴《かんさう》悲喜《ひき》交《こもご》も至りて、 暫《しば》しは物さへ得言はず、茫然として彳立《てきりつ》せしは無理ならず。 呉敦《ゴルドン》「渠《かれ》は猶ほ呼吸す、渠《かれ》は猶ほ呼吸す、 蓋し餓《うゑ》極まりて昏倒したるものらしければ」。 言未だ全く訖《をは》らざるに、弱克《ジャック》は忙がはしく洞《ほら》に走《は》せ歸りて、 若干の乾餠《かたパン》と少許《せうきよ》のブランデーを取り來れり。 武安《ブリアン》は兎角して婦人の口を開きて、幾滴のブランデーを澆《そゝ》ぎ入るゝに、 婦人はやがて少しく身を動かし、眼を開きて、呆然四童子の顏を看まはせり。 既にして渠《かれ》は弱克《ジャック》の進むる乾餠《かたパン》を取りて、 忙がはしく之を口に運びつゝ殆ど一氣《ひといき》に之を嚥下《のみくだ》せるは、 其の疲《つかれ》よりも、寧ろ餓《うゑ》のため困衰《こんすゐ》せし者なるを推すべし。 婦人は之をたべ畢《をは》りし後、半ば身を起しつゝ明白なる英語をもて、「多謝諸童子、多謝」。 半時間の後は、婦人は佛人洞の内に於て、衆童子の看護の下《もと》に、 臥床《がしやう》の上に安息しつゝあり。既にして婦人が稍《や》や氣力を囘復して、 能く自由に談話を操《と》るに及びて、衆童子に向ひて始めて語りし所の渠《かれ》の經歴を、 一括すれば乃ち左《さ》の如くなりき。 渠《かれ》は亞米利加の人にして、名はカゼライン、姓をレーデーと呼べるが、 渠《かれ》の朋友の皆な渠《かれ》の名を略稱して圭兒《ケート》といへり、 圭兒《ケート》は二十數年來 紐育《ニューヨーク》州の首府アルバニーの一富人ペンフヒールド氏に家に奉公して、 女執事をつとめしが、今より一個月前、ペン氏夫妻は智利《チリー》なる一親族の許《もと》を音づれむと慾して、 圭兒《ケート》を從へて、カリフホルニア州 桑港《サンフランシスコ》に來りて、 便船《びんせん》を求めたるに、適《たまた》まセベルン號なる一商船の、 智利《チリー》なるヴァルパライソに向ひて、開行《かいかう》せむと慾することを聞きて、 之に附乘《ふじよう》せむことを請ひて、船長タルナーの允《ゆる》しを得たり。 セベルン號は船長タルナーの外に、二名の運轉手と八名の水夫とを有し、 船員通計十二名と、ペン氏夫妻及び圭兒《ケート》、合せて十四名の人を載せて、 桑港《サンフランシスコ》を拔錨《ばつべう》せるが、 桑港《サンフランシスコ》を發してより十日 許《ばかり》を過ぐるほどに、 水夫の一個名を倭東《ワルストン》と呼べるが、他の水夫を煽動して、 恐ろしき謀叛をたくみ、一 夕《せき》八名不意に起りて、 船長タルナー一等運轉手 某《なにがし》及びペン夫妻の四名を銃殺して、 セベルン號を奪取せり。圭兒《ケート》も險些兒《あぶなく》撃ち殺さるべかりしを、 福倍《フホーベス》と呼べる一水夫の、間に居りて他の水夫をなだむる有りて、 僅《わづ》かに免るゝことを得たり。二等運轉手の伊範《イバンス》といへるは、年齡三十前後にして、 温良の人なれば、勿論始めより斯《かゝ》る恐ろしき謀叛に與《くみ》せず、 然れども惡人等は斯の人をも併せ殺すときは、船を操ること能はざれば、 白刃《はくじん》をもて之を脅《おび》やかしつゝ、強て船の運轉を司《つかさ》どらしめぬ。 是れ十月八日の夜の事にして、セベルン號は是時 智利《チリー》の海岸を距《さ》ること二百マイルの沖にありき。 蓋し惡人等の目的は、斯の船を奪領《だつりやう》して、南亞米利加及び阿弗利加諸國に去來して、 是時まで是等諸國には猶ほ密々地に行はれをりし、奴隸賣買を營まむと慾するに在り。 渠等《かれら》は其の開手《てはじめ》として、先づ此よりホルン岬を遶《めぐ》りて、 阿弗利加の西岸に往かむと慾せしなり。 かくて三日 許《ばかり》走りゆけるに、何故とも知らず夜半船上 俄《にはか》に火起りて、 看る?早や煙焔《えんえん》船を裹《つゝ》みて、到底 復《ま》た救ふべからずなれり。 水夫の一名ヘンレイといへるは、是時火を逃れむと慾して海中に跳り入りたるまゝ見えずなりぬ。 自餘《じよ》七名の水夫は僅《わづ》かに若干の食料と少許《せうきよ》の武器彈藥を取り出だし得たるのみにて、 折角に奪領《だつりやう》したりしセベルン號をば、空しく火中に打ちすてゝ、 傳馬船《てんません》に乘り移りぬ。是時最近の海岸も、尚ほ相 距《さ》る二百マイルの外に在り。 渠等《かれら》の心だのみ少きこと、言はむもさらなり。 若し斯の同じ傳馬船《てんません》の中に、圭兒《ケート》伊範《イバンス》の二人無からしめば、 誰れか之を天理の正《せい》ならずと謂はむ。傳馬船《てんません》は海上に二晝夜漂流したりしが、 更らに大あらしに遭ひて、其の帆檣《ほばしら》を吹き折られ、 遂に再び自由に運動する能はざるに至れるにぞ、此より後は日々夜々《にち?やゝ》、 風潮のまに?蕩去《たうきよ》し蕩來《たうらい》されて、終に斯のチェイアマン島の北濱《ほくひん》に吹き着けられしは、 一昨日即ち十五日の薄暮なりき。是時船中の人は、皆な連日の疲勞と食物の缺乏とに由りて、 殆ど死人の如くなりて、縱横に僵臥《きやうぐわ》しをり、 船の將《ま》さに濱邊に打ちあげられむとするとき、 一 堆《たい》の奔濤《ほんたう》來りて船上を飛過《ひくわ》せしをりは、 六名の人は脆くも其の捲き去る所となりて忽ち形《かたち》見えずなりぬ。 圭兒《ケート》は二名の人と共に船に載せられたるまゝに、 濱邊に打ちあげられたるが、圭兒《ケート》は船の一方に投げ出だされて、 沙上《さぢやう》に輾轉《てんてん》したるまでは覺えをりしが、 昏絶《こんぜつ》して其の後の事を辨《わき》まへず。 頃《やゝ》ありて心づき眼《まなこ》を開き視るに、他の一名は亦た己れと反對の他の一方に投げ出だされたりと見え、 船を隔てゝ數 間《けん》の外に同じく仆《たふ》れてをり。 圭兒《ケート》は心づきながらも、仍《な》ほ欹立《いりつ》せる船の底に身をよせて、 依然 沙上《さぢやう》に僵臥《きやうぐわ》せしまゝ、 越方《こしかた》行末の事など靜かに思ひつゝ天の明くるを待ちたるに、 曉《あかつき》三時に至りて、忽ち跫然《きようぜん》たる足音あり、 次第に此方《こなた》に近づき來る如し、耳を欹《そばだ》てゝ之を聽くに、 豈《あに》圖らむや、是れ嚮《さき》に浪んい捲き去られて、海中に沒したりと思ひをりし、 倭東《ワルストン》等の皆な無事に濱邊に泳ぎ着きをりて今船を索《もと》めて此處《こゝ》に來り到りしならむとは。 倭東《ワルストン》は武蘭《ブラント》及び武婁《ブルーク》と呼べる二名を從へて此處《こゝ》に來りつ、 暗中を摸《さぐ》り索《もと》めしが、 沙上《さぢやう》に昏絶《こんぜつ》して仆《たふ》れをりし、 福倍《フホーベス》及び排克《パイク》の二名を摸《さぐ》り着《あた》りて、 之を介抱して、復活せしめたる後、渠等《かれら》の間に左《さ》の如き問答起りぬ。 是時 風濤《ふうたう》の聲は依然耳を聾するばかりなりしが、 渠等《かれら》は恰《あた》かも圭兒《ケート》の頭上にありて、高く相 語れば、 其の聲猶ほ明かに耳に到りぬ。 福倍《フホーベス》の聲として「此處《こゝ》は何國《いづく》なるや」。 倭東《ワルストン》「餘等は未だ之を知らず、然れども餘等は兎に角に東方に、 人有るかたを尋ねゆかざるべからず」。排克《パイク》「して、餘等の武器は」。 倭東《ワルストン》は船中のかくし抽斗を抽《ぬ》きて、 其の内より五個の銃と若干の硝包《はやご》とを取り出だしつゝ、 「即ち此處《こゝ》にあり、幸ひにして海水に濡らされず」。 「伊範《イバンス》は如何になれる」。「餘等の後邊に、祿屈《ロック》及び胡布《コープ》の二人之を看守しをれり、 伊範《イバンス》は其の慾すると否とに論無く、必ず餘等の行く所に偕《とも》に行かざるべからず」。 福倍《フホーベス》「圭兒《ケート》は如何になれる、無事に此處《こゝ》に上陸せるか」。 倭東《ワルストン》「圭兒《ケート》、オヽ餘等は復《ま》たかの婦人を懼《おそ》るゝを須《もち》ひず、 餘は船の此處《こゝ》に打ちあげらるゝをり、渠《かれ》の浪に拂はれて海中に陷りしを、 遠くより望み見たり、渠《かれ》は已でに久しく海中の最深處に眠りをるならむ」。 排克《パイク》「そも亦た好し、そも亦た好し、渠《かれ》はあまり多く餘等の事を知りをれば」。 倭東《ワルストン》「縱《たと》ひ渠《かれ》をして海底に沒さゞらしめしとするも、 餘等は長く渠《かれ》をして餘等の祕密を知らしめては、置かざりしならむ」。 然らば倭東《ワルストン》が圭兒《ケート》に對して、かねて懷《いだ》きし所の最後の處置は知るべきのみ。 かくて渠等《かれら》は武器彈藥と、是時まで猶ほのこし貯へたる少許《せうきよ》の食物、 即ち五六 磅《ポンド》の鹽づけの肉二三罎のジン及び僅々《きん?》の煙草等を船中より取り出だして、 之を分ち携へつ、福倍《フホーベス》及び排克《パイク》を扶《たす》けひきて、 勢《いきほ》ひ尚ほ猖獗《しやうけつ》せるあらしを衝きつゝ東方にたどり行きぬ。 圭兒《ケート》は渠等《かれら》の足音の漸《やう》やく聞えずなるや否や、直ちに身を起して、 暗中を索《さぐ》り索《もと》めつゝ、今 渠等《かれら》が進み行ける反對のかたを指して進む行きぬ。 蓋し是時 進潮《さししほ》は漸《やう》やく既に圭兒《ケート》の偃臥《えんぐわ》せる所に及びて更らに幾分間を遲々せば、 渠《かれ》は復《ふたた》び海水に引去らるべければなり。此の如くして、 渠《かれ》は自然陷穽林に入りて、家族湖の南端のかたにたどり來りしなり、 渠《かれ》が此處《こゝ》に來り到りしは、昨日の午後なりき、然れども途中 僅々《きん?》の野生の果實を拾ひて、 たうべたるより外、何等の食物をも口にせざる渠《かれ》は、疲《つかれ》甚だしきがうへに、 又た飢極まりて、再び一歩を移す能はず、終に樹下に横臥《わうぐわ》したるまゝ、 今日に至れるに乃ち幸ひにしてフハンに發見され、武安《ブリアン》等の救ふ所となりしなり。 圭兒《ケート》の物語を聞きたる童子等の驚愕 危懼《きく》は、想像するに餘りあり。 一個の捕虜を伴ひたる七個の狂暴無慚の浮浪人、今現に本島に上陸して、 彷徨徘徊すといふ。渠等《かれら》は人を殺すこと、 草を斬るよりも容易におもふ者なり。若し一たび佛人洞の所在を知らば、 必ず之を奪領《だつりやう》して、衆童子を奴隸にし、 或は虐屠《ぎやくと》せざれば、肯《あへ》て已まじ。 武安《ブリアン》が第一に憂ひしは杜番《ドノバン》等四童子の身の上なり、 渠等《かれら》は必ず未だ、倭東《ワルストン》等の此處《こゝ》に上陸せしことを知らざるべく、 或は一發の銃聲 一 縷《る》の煙影、渠等《かれら》の所在を倭東《ワルストン》等に發見せしめなば、 渠等《かれら》は直ちに惡人等の手に落ちて、如何なる患苦《くわんく》を受けむも料《はか》られず。 故に渠《かれ》は此より直ちに、自から杜番《ドノバン》等の所に往《ゆい》て、 方《ま》さに其の頭上に懸れる危難を告げ知らせて、之を洞《ほら》の伴ひ還るべしといふ。 呉敦《ゴルドン》「君自身に行かむと慾するか」。「然り」。「如何にして」。 「莫科《モコー》と倶《とも》に短艇《ヤウル》に駕《が》して、嚮《さき》の日にせし如く、 湖を横ぎり川を下りて、杜番《ドノバン》等の卜居《ぼくきよ》の處に逹すべし」。 「何時 此處《こゝ》を發足すべき」。「今夕、人影の見えざるやうなるを待ちて」。 弱克《ジャック》「豈《あに》うへ、餘も偕《とも》に行くべからざるか」。 「否な、ボートは六人以上を載す能はず、餘等は歸途には四名を倶《とも》に載せざるべからず」。 是日は一同洞内の閉ぢこもりて、敢て一歩も戸外に出でず。 渠等《かれら》は更《かは》る?゛其の此處《こゝ》に漂着して今日に至りたる顛末を、 圭兒《ケート》に語り聞かすに、圭兒《ケート》は或は驚歎し、或は嗟賞《さしやう》して、 一同の勇氣と忍耐とを讚稱《さんしよう》しつ、自今《じこん》自後己れも亦た熱心忠實なる、 一同の躬方《みかた》たらんことを誓ひたり。左[田|比;u6BD7]《サービス》は圭兒《ケート》の此處《こゝ》に、 一同に邂逅せし日の恰《あた》かも金曜日《フライデー》なりしに因り、 魯敏孫《ろびんそん》の昔に傚《なら》ひ、圭兒《ケート》を喚んでフライデーとなさむことを發議《ほつぎ》して、 一同の喝采贊成を博し得たり。 午後八時に至りて、ボート解纜《かいらん》の準備既に了りしかば、武安《ブリアン》と莫科《モコー》とは、 各《おの?》一個の連發短銃と一口《ひとふり》の腰刀《こしがたな》とを佩《お》びて、 一同に別《わかれ》を告げて、悄々地にニウジランド川より、湖に乘り出だせり。 幸ひにして風順なりしかば、ボートは箭《や》の如く飛び行きて、二時間足らずに六マイルを横ぎり了り、 嚮《さき》の日初めて此處《こゝ》に來りしとき到着したりし、同じ小丘のほとりに到着せり。 此處《こゝ》より亦た嚮《さき》の日の如く、湖岸に沿ひて東方川の口まで北上するに、 是時風は全く死《な》ぎて、復《ま》た帆の力を藉《か》ること能はざるにぞ、 渠等《かれら》は櫂《かい》を鼓《こ》しつゝ、徐々として進み行くに、 岩上 寂然《せきぜん》として一鳥の啼くをだも聞かず、 亦た一線の火光《かくわう》のやみを破りて揚がるをだも望まず。 既にして十時半に至りてボートは川に入りたるにぞ、 武安《ブリアン》は莫科《モコー》の獨り棹《さを》を操るに任せて、 ボートの艫《とも》に坐を占めつ、靜かに流《ながれ》を下りゆくに、 行くこと未だ幾町ならず、舳頭《へさき》に立ちたる莫科《モコー》の、 突然來りて手を執るに驚きつゝ、其の指さすかたを視れば、 右岸の上、川を距《さ》ること三五十 間《けん》の那方《かなた》に、 半ば[僭,イ@火]《き》えかゝりし火の光樹間を穿ちて、うす赤く影を曳くを見る。 是れ何人の露營なるべき、倭東《ワルストン》等の夥伴《なかま》なるか、 將《は》た杜番《ドノバン》等の一行なるか。武安《ブリアン》「莫科《モコー》、兎に角に船を岸につけ」。 「餘も主公と偕《とも》に上陸すべからざるか」。 「否な、餘が單身にて行かむかた、更らに容易に那方《あなた》に覺られざる便宜あるべし」。 櫂《かい》を鼓すること五七囘するほどに、ボートは早くも岸に着きぬ。 武安《ブリアン》は、莫科《モコー》を舟中に留めおきて、獨り岸に跳りあがり、 腰刀《こしがたな》を拔きて之を右手《めて》に提《ひつさ》げ、左手《ゆんで》には短銃を握り持ちて、 徐々とすて、火光《かくわう》のかたに忍び近づきたり。 忽ちにして渠《かれ》は前方の灌木叢《かんぼくそう》の裡《うち》に、 一團の大なる黒影《こくえい》ありて、蠢々《しゆん?》として動めくを見たりしが、 黒影《こくえい》は突然一聲叫ぶとひとしく、身を躍らして前方に飛びかゝれり。 是れ一個のジャグワー(亞米利加虎)なりき、同時に俄《には》かに人の聲ありて、 「助けて、助けて」。 武安《ブリアン》は直ちに、是れ杜番《ドノバン》の聲なるを認めぬ。蓋し他の三童子が露營の中に眠れる間、 杜番《ドノバン》は火光《かくわう》の前に見張りしてをり、疲倦《ひけん》の餘り、 覺えず假睡せしやう思ふうち、不意に斯の猛獸に襲ひ撃たれて、仰むけに地上にはね倒され、 武器を執るにも暇《いとま》あらず、空しく赤手《せきしゆ》を揮《ふる》ひて以て、 之と格鬪しつゝありしなり。韋格《ヰルコクス》は第一に、杜番《ドノバン》の聲に驚き覺めて、 其の銃を取りもあへず、杜番《ドノバン》のほとりに走《は》せ到りて、 早くも銃を擧げて之を發《はな》たんとす。説く時遲し、 同時に此處《こゝ》に走《は》せ到りし武安《ブリアン》は、此方《こなた》より之を止《とゞ》めて、 「銃を發《はな》つ勿れ、銃を發《はな》つ勿れ」、韋格《ヰルコクス》は再び驚きて、 何人なるやと、すかし視る間に、武安《ブリアン》は早くもそこに跳り出でゝ、 虎の背後より撃ちかゝるにぞ、虎は忽ち杜番《ドノバン》を捨てゝ、 ふり向きさまに武安《ブリアン》に飛びかゝる。此の間に杜番《ドノバン》はやう?身を起して、 武安《ブリアン》のかたを視れば、武安《ブリアン》は是時飛びかゝり來る虎を、 身をかはしてやり違ひさまに、一刀したゝかに面上に斫《き》りつけて、 既に地上に撃ち殪《たふ》してをり。杜番《ドノバン》韋格《ヰルコクス》は、 是時 恰《あた》かも走《は》せ到れる乙部《ウェッブ》虞路《クロース》とともに、 武安《ブリアン》は虎のために掻かれたりと見えて、左の肩より鮮血 滾々《こん?》流れをり。 韋格《ヰルコクス》「君は如何にして、今ごろ此處《このところ》に來あはせしぞ」。 武安《ブリアン》「その故は慢々《ゆる?》相語るべし、兎に角に先づ餘と偕《とも》に來れ、直ちに、直ちに」。 杜番《ドノバン》は武安《ブリアン》の肩頭《かたさき》より流れ出づる淋漓《りんり》たる鮮血の痕《あと》を熟視しつゝ、 自から感激に禁《た》へざるが如き音調にて、「然れども餘は先づ君に深く君の高義《かうぎ》を謝さずしては、 君に隨《したが》ひゆく能はず、君は實に餘の命を救ひたり」。 武安《ブリアン》「勿れ杜番《ドノバン》、君をして餘の地に在らしめば亦た此の如くしたるならむ、 再びそを言ふ勿れ、只だ餘と偕《とも》に此方《こなた》に來れ」。 武安《ブリアン》の負傷は、甚だ憂ふべきものには非ざりしと雖《いへど》も、 之を裹《つゝ》みて、出血を止《とゞ》むること必要なれば、 韋格《ヰルコクス》は自から手巾《ハンカチーフ》を取り出だして、之を絡《まと》ひなどするうち、 武安《ブリアン》は詞《ことば》短く四人に事の要領を告げ知らせぬ。 即ち杜番《ドノバン》等が海水に引き去られしと思ひたるセベルン號の船員は、 無事に生存して、其の夥伴《なかま》と倶《とも》に現に斯の島にあり、 渠等《かれら》は皆な狂暴無慚の惡人にして、人を殺すこと草を斬る如く、 僅《わづ》かに渠等《かれら》の手を脱《のが》れたる一婦人、 偶《たまた》ま佛人洞に來たりて、親しく渠等《かれら》の素性を告げ知らせしによりて、 武安《ブリアン》等は始めて其の頭上に懸りたる一大危難あるを覺れり。 渠等《かれら》目下の第一良策は、一同一處に集合して、 心を協《あは》せ力を戮《あは》せ、以て斯の共同の敵を防ぐより善きは莫《な》し、 武安《ブリアン》が四人を來り迎へしは是がためなり、 嚮《さき》に韋格《ヰルコクス》が發銃せむと慾せしを止《とゞ》めしは、 或は倭東《ワルストン》等が銃聲を聞きて、 渠等《かれら》の此處《こゝ》に在ることを覺らむを、虞《おそ》れたればなり。 杜番《ドノバン》は之を聞き訖《をは》りて、武安《ブリアン》の限りなき親切に、 さすがに平生の倨傲《きよがう》も消えうせて、「アヽ武安《ブリアン》、 君が實に餘に百段優りたる高上《かうじやう》の人なり」。 武安《ブリアン》「否な杜番《ドノバン》、否な親友、餘は幸ひにして今日此の如く君の手を執るを得たり、 餘は君が餘と偕《とも》に佛人洞に還ることを承諾するまでは、 肯《あへ》て斯の手を放さざるべし」。杜番《ドノバン》「諾《だく》武安《ブリアン》、 敬《つゝし》みて君の好意を承く、自今《じこん》自後、餘は君の第一の服從者たるべし、 餘等は明朝直ちに此處《こゝ》を發足すべし」。 「否な、餘等は今夜直ちに洞《ほら》に歸らざるべからず、 明日《みやうにち》とならば又た人に見らるの恐れあり」。 「今夜直ちに、然れどもそは如何にして」。「即ち水路に由りて以て、 斯の岸の下に莫科《モコー》ボートを繋ぎて餘等を待ちつゝあり、 餘は莫科《モコー》と偕《とも》に欺瞞灣まで往かむと慾して、 方《ま》さに川を下りかゝりし途中、君等の露營の火光《かくわう》を見て、 乃ち上陸したりしなり」。「而して恰《あた》かも餘の九死を救ひたり」 と杜番《ドノバン》は獨語せり。 杜番《ドノバン》等四童子が此處《こゝ》に露宿《ろしゆく》しをりたる故は、 一言以て之を悉《つ》くすべし。四童子は昨十六日の夜巨熊岩の下《もと》に歸り着き、 今朝巨熊岩を發足して、薄暮この湖畔に逹し、 明日《みやうにち》は未明に此處《こゝ》を打ち立ちて、佛人洞に歸りゆかむと慾しをりしなり。 一同直ちにボートに乘り移りて、此處《こゝ》を發せしが、 幸ひにして風 復《ま》た順なりしかば、途中何等の異なりたる事もなく、 曉《あかつき》四時にニウジランド川の口に歸り着きぬ。 呉敦《ゴルドン》等衆童子が、四人の再び佛人洞に還りて、 一同共に居ることゝなれるを聞きしとき、之を喝采歡迎せる欣喜《きんき》の状《さま》は、 必ずしも贅《ぜい》せず。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第十二囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 十五少年再び佛人洞に團聚《だんしう》せり、渠等《かれら》は此より、 初めに倍したる和協《わけふ》をもて、相交はり親しみたり。 若し杜番《ドノバン》の心中には、己れが一たび志せる所を貫く能はずして、 阿容《おめ?》此處《このところ》に歸り來りたることに自から快からず、 尚ほ多少の遺憾をば抱きたるやも知るべからず。 然れども渠《かれ》は絶えて其の不快を面《おもて》に顯《あら》はしたることなし、 蓋し數日の間の分離と漂泊とは、渠《かれ》をして痛く懲る所あらしめ、 其の湖畔林中に彷徨せる間に於て、 竊《ひそ》かに自から己れが剛愎《がうふく》偏執の愚かなりしことを悔いたる者も、 啻《たゞ》に一再にあらざりき。唯だ渠《かれ》が一點の我慢心は、 渠《かれ》をして其の眞意を他の三名に、打ちあくることを得なさゞらしめしと雖《いへど》も、 渠《かれ》は實に自から其の愚かを悔いしなり。他の三名に至りては、 杜番《ドノバン》の如く甚しく剛愎偏執ならざるだけ、其の懲悔の念も亦た深きこと一層なりしなり。 故に今次《こんじ》歸來《きらい》の後は、杜番《ドノバン》及び三名が武安《ブリアン》に對するの感情は、 全然一變して、皆な別人の如くなりたり。加ふるに、現時一同の頭上に懸れる非常の危難は、 一同の和協《わけふ》をして、更らに一層の鞏固《きようこ》なるものとならしめたり。 抑《そ》も倭東《ワルストン》等一 夥《か》の惡漢は、成るべく早く斯の島を去りて、 大陸へ還らむことを冀《こひね》がはむは、言ふまでもなし。 然れども若し渠等《かれら》にして、佛人洞の童子等が、 此の如く多くの調度器械を儲《たくは》へて此處《こゝ》に在ることを知らば、 豈《あに》之を奪領《だつりやう》して、以て自から使用せむことを慾せざらむや。 況《いはん》や其の調度器械を守る所の者は皆な未丁年の童子 若《もし》くは幼兒にして、 之を襲撃し奪領《だつりやう》すること、極めて容易なるに於ておや。 童子等は非常の用心を加へて以て、渠等《かれら》の洞《ほら》の在る所を覺られざるやう務めざるべからず。 一同は杜番《ドノバン》等をとり圍みて、其のセベルン海岸より巨熊岩に返る途中、 何等か倭東《ワルストン》等の踪跡《そうせき》を發見せざりしや否やを問へり。 セベルン海岸とは杜番《ドノバン》等が始めてセベルン號の傳馬船《てんません》を見し一帶の濱邊に、 童子等が假に命《なづ》けし所の名なり。 杜番《ドノバン》「否な、餘輩は何等の踪跡《そうせき》をも發見せざりき」。 呉敦《ゴルドン》「然れども倭東《ワルストン》等がたしかに、 東方に向て進み行きたりとは圭兒《ケート》の親しく睹《み》たる所なり」。 杜番《ドノバン》「想ふに渠等《かれら》は只管《ひたすら》濱邊に沿ひて進み行きしものならむ、 餘輩は山毛欅林のかたに由りて歸りたり、故に相逢はざりしなるべし」。 呉敦《ゴルドン》と武安《ブリアン》とは更らに言《ことば》を改めて圭兒《ケート》に向ひ、 斯の島の方位に就て何等の知る所あらざるやを問ふに、 セベルン號 燒亡《せうばう》の後、伊範《イバンス》は常に傳馬船《てんません》を、 南亞米利加の海岸に向けて行《や》るたるはずなれば、 斯の島は兎に角に南米大陸を距《さ》ること遠からざる處にある者なるべき歟《か》。 然れども此より以上の事は、聞き知らずといふ。 兎角するうちに十月の月も既に暮るゝに埀《なんな》むとせるが、 倭東《ワルストン》等の姿は曾《かつ》て見えず、渠等《かれら》は既に其の船を修覆して、 斯の島を立ち去りし歟《か》。圭兒《ケート》の記憶する所に由れば、 渠等《かれら》は一個の斧を有する外、亦た各自隨身の懷中 小刀《ナイフ》あり、 或は是等を用ひて以て、不十分ながらに其の船の大破處を假に繕ひて、 既に島を去りしにあらざる歟《か》。然れども童子等は確かに其の消息を知りたる後に非ざれば、 輕々しく其の形《かたち》を洞外に見すべきにあらず、故に渠等《かれら》は、 一 日《じつ》 武安《ブリアン》と杜番《ドノバン》とが、 岩壁の上に樹《た》ておきたる信號旗を取り下ろし、其の竿を倒して以て、 一同の蹤迹《しようせき》を掩《おほ》はむと慾して、 敢て潛《ひそか》にスロウ灣に往返《わうへん》したりしことを除く外、 皆な常に洞内に蟄居してをり、銃聲の倭東《ワルストン》等に、諸童子の此處《こゝ》に在るを覺らしめむことを恐れて、 一切之れを禁じたれば、杜番《ドノバン》等の銃獵者は、 毎日手を束《つか》ねて其の無聊を嘆ずるのみ、唯だ幸ひに陷穽《おとしあな》係蹄《かけわな》の、 毎日多少の獲ものを齎《もた》らす有れば、庖厨《はうちう》に不足を愬《うつた》ふるには至らず、 且つ昨年來 渠等《かれら》の設立保護せる養禽場は、次第に繁盛に赴きて、 其の管理者 左[田|比;u6BD7]《サービス》雅涅《ガーネット》の二人よりは、 其の幾分を宰《ころ》して以て其の人口を減殺するにあらずば、 既に場《には》の狹隘に堪へざるよし、訴へ出でたるほどなり。 此の外茶の木砂糖の木は、皆な洞外 咫尺《しせき》の間に多く有りて、常に其の供給を絶たず。 故に童子等は久しく洞内に蟄居するも、未だ曾《かつ》て少許《せうきよ》の不便を感ぜざりき。 加ふるに、此ころ又た、爲めに童子等の生活に一大便宜を添へし所の一新發明ありき、 十月二十五日の午後、圭兒《ケート》は沼澤林のほとりに於て、 高さ五六十尺の喬木《けうぼく》の、其の葉の状《かたち》月桂樹に似たるが、 數 株《しゆ》聳立《しようりつ》するを認めて、「こは珍らし、此處《こゝ》に牝牛の木有り」。 婦人の伴ひたる土耳《ドール》胡太《コスター》は齊しく絶倒して、「牝牛の木とは」。 「恐らく牝牛が之を食《は》むを以てならむ」。圭兒《ケート》「否な、否な、小主公、 之を牝牛の木と名《なづ》くる所以は、斯の木は牝牛の如く、 乳汁《ちゝ》を噴き出だせばなり、其の味《あじはひ》の美《うま》きことは、 目下 御身等が用ふる所のヴィクンヤの乳汁《ちゝ》より勝れり」。 圭兒《ケート》は洞に歸りて其の發見の事を語れるにぞ、呉敦《ゴルドン》は直ちに左[田|比;u6BD7]《サービス》を喚びて、 偕《とも》に圭兒《ケート》に隨《したが》ひゆき視るに、 圭兒《ケート》の語れる所にたがはず、童子等は是まで心づかざりしが、是れ疑ひもなき牝牛の木なり。 斯の木は一たび其の皮を截《き》れば、其の截痕《きりめ》より多量の白色の液《しる》を噴出す、 其の味《あじはひ》及び滋養分、共にミルクに異ならず、且つ之を凝結せしむれば、 一種良好のチーズを得べく、亦た一種純粹の蝋を得て、以て上等の蝋燭を作るを得べし。 既にして十一月となりたるが、依然 倭東《ワルストン》等の姿は見えず、 武安《ブリアン》杜番《ドノバン》等諸童子は、愈《いよい》よ確かに惡漢等は既に島を去りしならむと信ずるに至りしが、 縱《たと》ひ果して既に島を去りたりとせしむるも、 童子等は其の證を見たる後に非ざれば、漫《みだ》りに心を安じて、 洞外を逍遙せうべきにあらず、武安《ブリアン》は幾たびか、自から湖の東岸に往《ゆい》て其の消息を偵察せむと慾し、 馬克太《バクスター》杜番《ドノバン》韋格《ヰルコクス》等は、 皆な喜んで其の行に偕《とも》なはむことを願ひしが、 萬に一つも惡漢等の仍《な》ほ島に留まりをりて、諸童子等の之と邂逅せむには、 其の危險言はむもさらなり、則ち無謀これより甚しきは莫《な》し。 故に武安《ブリアン》は之をいひ出だす毎に、呉敦《ゴルドン》の遠慮有る反對説に抑へられて、 遂に其の志の如くするを得ず、一 夕《せき》武安《ブリアン》は復《ま》た斯の議を提出して、 呉敦《ゴルドン》と其の可否を論ぜるをり、傍《かたは》らに在りて之を聞ける圭兒《ケート》は、 兩人の詞《ことば》終れるとき、「主公 武安《ブリアン》、御身は明日《みやうにち》一日、 吾身《わがみ》に暇《いとま》を賜はらずや」。武安《ブリアン》は驚きて、 「汝《おんみ》は何處《いづこ》に往かむと慾するや」。 圭兒《ケート》「御身等は復《ま》た久しく此の如く不安掛念の中に日を送る能はざるべし、 吾身《わがみ》は嚮《さき》に漂着せる北方の濱邊に往《ゆい》て、 傳馬船《てんません》の仍《な》ほ彼處《かしこ》に在るや否やを視るべし、 若し仍《な》ほ在らば、倭東《ワルストン》等の未だ島を去らざるの證《しよう》なり、 若し否《しから》ずば、是れ既に島を去りしの證《しよう》にして、 御身等は復《ま》た此の如く恟々《きよう?》たるを須《もち》ひざるべし」。 杜番《ドノバン》「そは頃來《けいらい》武安《ブリアン》と餘とが屡《しばし》ば發議《ほつぎ》して、 而かも敢て決行せざる所ならずや」。圭兒《ケート》「然り、 然れども御身等は未だ倭東《ワルストン》等に其の人有るを知られざるの人なり、 吾身《わがみ》は然らず、吾身《わがみ》は渠等《かれら》の舊《きう》侶伴《りよはん》なり、 縱《たと》ひ渠等《かれら》の撞着《どうちやく》するも、 御身等の如く危險ならず」。呉敦《ゴルドン》「然れども汝《おんみ》若し再び渠等《かれら》の手中に落ちば」。 圭兒《ケート》「最も凶《あし》くしてからが、初めの境界《きやうがい》に復《かへ》るに過ぎず」。 武安《ブリアン》「然れども渠等《かれら》は若し再び汝《おんみ》を獲ば、 十中八九 復《ま》た汝《おんみ》を生かしおくまじ」圭兒《ケート》「吾身《わがみ》は既に一たび渠等《かれら》の毒手を逃れたり、 豈《あに》再び逃れ得ざるの理有らむや、且つ若し伊範《イバンス》を誘《いざな》ひて、 共に此處《こゝ》に逃れ歸るを得ば又た御身等のために屈強の躬方《みかた》を得べし」。 杜番《ドノバン》は首《かうべ》を傾けて、「若し伊範《イバンス》をして一毫だも逃走の隙《すき》あらしめば、 渠《かれ》は夙《つと》に逃れ走りしならむ」。呉敦《ゴルドン》「杜番《ドノバン》の説 是《ぜ》なり、 伊範《イバンス》は倭東《ワルストン》等の惡事を詳知《しやうち》せり、 倭東《ワルストン》等が一たび安全の地に着して復《ま》た伊範《イバンス》の力を要さゞるに至らば直ちに之を除きて、 他日の禍根を絶たむと慾すべきは、伊範《イバンス》も亦た自から知らざらむや、 渠《かれ》の今日まで逃走せざるは、其の隙《ひま》を得ざればなり」。 杜番《ドノバン》「或は既に之を試みて、惡漢等のために追ひ捕はれ、 其の毒手に斃《たふ》れたるやも料《はか》られず、 果して然らば、汝《おんみ》と雖《いへど》も若し渠等《かれら》に再び捕はれなば」。 圭兒《ケート》は之を遮りて、「吾身《わがみ》は己れの氣息《いき》あらむ限りは、 渠等《かれら》の虜《とりこ》とはならざるべし」。 武安《ブリアン》「勿論 肯《あへ》て虜《とりこ》とならじ、 然れども餘輩は汝《おんみ》の然《さ》る危險を冐すを許すこと能はず、 請ふ餘輩をして何等か他に、渠等《かれら》の消息を探るの道を求めしめよ」。 若し童子等をして夜中極めて高き處に登りて、四方を展望することだに得せしめば、 倭東《ワルストン》等若し仍《な》ほ島に在らば必ず火を燃すべきを以て、 其の在否を知るを得べく、若し在りとせば、併せて其の在る所の方位をも知ることを得べきなり。 不幸にして島に高山無くアウクランド岡の頂きよりは、湖の東岸さへ視ること能はず、 況《いは》んや欺瞞灣の濱邊巨熊岩の左右をや。 一 日《じつ》武安《ブリアン》の心頭に、ふと浮びたる一計あり、 初めは自からも、其あまりに奇を好むに似たるを思ひて、之を斥けしが、 反覆して之を思ふにつれて、終には此を舍《す》てゝ殆ど他に良計無しと思ひこむまでに至れり、 讀者は猶ほ記憶するならむ、 圭兒《ケート》が初めて此處《こゝ》に來りし日童子等は將《ま》さに何事をなさむとしつゝありしかを。 當時童子等が試揚《しやう》せむと慾して中止したりし紙鳶《たこ》は、 猶ほ藏して佛人洞に在り、武安《ブリアン》は嘗《かつ》て英國の新聞に於て、 前世紀の末に一婦人が、紙鳶《たこ》に駕《が》して空中を飛揚することを試みて、 成功したりし事を記せしを、見しことを記憶せり。即ち斯の婦人の爲《わざ》に傚《なら》ひて、 かの紙鳶《たこ》を利用して、空中に騰《のぼ》りて以て、全島の模樣をば俯瞰せむと慾せしなり。 讀者は或は武安《ブリアン》の設計にあまりに大膽にして、 且つ滑稽に近きを嘲《あざけ》るならむ歟《か》。然れども渠《かれ》は沈潛反覆して、 之を思ひ復《ま》た思ひし後、是れ決して行ふ可らざるの事に非ず、 又た初めに想像せるが如く甚だ危險なるものに非ずと、堅く信ずるに至りたり。 十一月四日の夜、渠《かれ》は晩餐を訖《をは》りて後、 一同に向つて詞《ことば》短く其の思ふ所を語りて、以て諸童子等の可否を求めたり、 諸童子は聞き訖《をは》りて、暫《しば》し詞《ことば》なかりしが、 頃《やゝ》ありて杜番《ドノバン》は、「然れども、かの紙鳶《たこ》の大さにて、 能く餘等の中の何人かを、擡擧《たいきよ》するだけの力量あるべき歟《か》」。 武安《ブリアン》「定めて力量不足なるべし、必ず更らに大なる、亦た更らに堅固なるものに、 改造せざるべからざらむ」。韋格《ヰルコクス》「紙鳶《たこ》は一たび飛揚するときは、 常に其の飛揚力を保持しをること能ふべきか」。馬克太《バクスター》「そは必ず能ふべし」。 武安《ブリアン》は英國の婦人の例を援《ひ》きて、之を説くこと一遍して、且ついはく、 「要は唯だ紙鳶《たこ》の大小と、風力の強弱如何に由るのみ」。 馬克太《バクスター》「君は幾何《いくばく》の高さにまで、之を昇さむと慾するや」。 武安《ブリアン》「若し六七百尺の高さに逹せば、全島の模樣を俯瞰するを得む歟《か》」。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「請ふ速かに之を試みよ、餘は既に屏居《へいきよ》の苦に厭き?せり」。 呉敦《ゴルドン》は始終默然として敢て一言をも發せざりしが、諸童子の既に散じて、 唯だ武安《ブリアン》の面《おもて》を瞻《まも》りつゝ、 「君は眞《まこと》に斯の計《はかりごと》を試行せむと慾するか」。 「然り、呉敦《ゴルドン》」。「是れ極めて危險の事なるを知れるか」。 「然り、然れども定めて君の想像する如く、甚だ危險なるものに非じ」。 「而して自から一命を擲賭《てきと》して、斯の危險を極めたる試驗に當る者は、 餘輩の中何人なるべきや」。「若し此の事即ち己れの義務なり、と定まらば、 呉敦《ゴルドン》、君と雖《いへど》も敢て之を辭《いな》まざるべし」。 「然らば君は鬮《くじ》を拈《と》りて、其の人を定めむと慾するか」。 「否な、其の人は自から己れの心より之に當らむことを願ふ者に非ざれば不可なり」。 「然らば、君の胸中には既に略《ほ》ぼ其の人を豫算せるか」。 「或は然らむ」と答へつゝ、武安《ブリアン》は意味ありげに呉敦《ゴルドン》の手を握りしめぬ。 翌日即ち十一月五日より、武安《ブリアン》馬克太《バクスター》等諸童子は、 直ちに紙鳶《たこ》の改造に着手せり。若し渠等《かれら》をして十分の工學的知識あらしめば、 先づ其の擡擧《たいきよ》すべき重量、紙鳶《たこ》の面積、重心の中心、 及び之に耐ふべき線《いと》の太さなど、精算比較して後始めて其の改造の設計を定むべきなるが、 渠等《かれら》は不幸にして然《さ》までの十分の知識を具《そな》へざれば、 唯だ從來の紙鳶《たこ》の飛揚力を試驗して、 更らに之を擴張して略《ほ》ぼ百三十 磅《ポンド》即ち十五 貫《くわん》八百 匁《め》の重量を載せて飛揚するに堪ふるほどの、 大さのものと爲すに過ぎず、百三十 磅《ポンド》は即ち童子等の中の最重者の量なり。 兎角して七日の午時には直徑二間半、毎邊の長さ四尺、面積 凡《およ》そ六十方ヤードの、 八角形の大紙鳶《おほだこ》出來あがりぬ。紙鳶《たこ》改造の間も、 童子等は更《かは》る?゛番を定めて、岩壁の上に見張りしたりしが、 曾《かつ》て何等の怪しき事もあらず、湖畔林中看わたす限り寂寥《せきれう》として、 曾《かつ》て一 縷《る》の煙を見、一發の銃聲を聞かず、 一同は益す惡漢等の既に島を去りしならむと確信せり。 紙鳶《たこ》飛揚の試驗は、直ちに今夜を以て行はれ、其の危險無きに定まらば、 童子等の一人は明夜直ちに之に駕《が》して、空中に騰《のぼ》るべしと議決されぬ。 紙鳶《たこ》にはかねて一個《ひとつ》の巨籃兒《おほかご》を約《くゝ》しありて、 騰空者《とうくうしや》は即ち此の裡《うち》に安坐すべかりしなり。 籃兒《かご》はスロウ號の甲板に常用されし者の一個《ひとつ》にして、 恰《あた》かも一人の童子を坐せしむるの大さあり、 且つ其の深さも坐せる童子の乳を沒するほどなれば、其の左搖右擺《さえういうはい》のために、 童子が籃外《らんがい》にまろび出づるの憂ひ少し、 又た籃兒《かご》の縁邊《ふち》に別に一條の絲を結《ゆ》ひつけあり、 絲の下端は地上なる一人の手の裡《うち》に置き絲には一個の鐡環《かなわ》を穿《とほ》す、 籃中《らんちう》の人若し降らむと慾するときは、其の鐡環《かなわ》を放てば、 鐡環《かなわ》は絲をつたはりて、地上の手裡《しゆり》に來りて、籃中《らんちう》の人の意を通知す。 この夜は南西の風吹きしきりて、紙鳶《たこ》を飛揚するに恰好なりしがうへ、 月は午前二時に至らざれば地上に出でざるべく、星さへ甚だ稀《ま》れなれば、 紙鳶《たこ》は何ほどの高さまえ飛揚するも、人の望み見らるゝの懼《おそ》れある無し。 九時に及ぶ比《ころ》ほひ、童子等は悄々地に洞外湖畔の廣場に聚《あつ》まりて、 此處《このところ》に絞車盤《まきろくろ》をすゑ、 之にスロウ號が船の速力を測量するに用ひたる測量索《ログライン》を卷きて、 是を紙鳶《たこ》の線《いと》となす。紙鳶《たこ》に吊下げたる籃兒《かご》の内には、 土を裝《も》りたる袋の、重さ百三十 磅《ポンド》あるを置き、 又た其の縁邊《ふち》に鐡環《かなわ》を貫きたる絲を結《ゆ》ひつくること、 恰《あた》かも人の乘るときに同くす。 杜番《ドノバン》馬克太《バクスター》韋格《ヰルコクス》乙部《ウェッブ》の四名は、 絞車盤《まきろくろ》を距《さ》ること五十間 許《ばかり》那方《かなた》に仰臥せる紙鳶《たこ》のほとりに在り、 絞車盤《まきろくろ》の周邊には、 武安《ブリアン》呉敦《ゴルドン》左[田|比;u6BD7]《サービス》虞路《クロース》雅涅《ガーネット》ありて、 線《いと》の伸縮を掌《つかさ》どる。「注意」といへる號令は、 武安《ブリアン》の口より發せり。「善し」といへる答聲《たふせい》は、 杜番《ドノバン》の脣邊《しんぺん》より揚りたり。 「ソレ」といふかけ聲と共に、直徑二間半の大紙鳶《おほだこ》は、徐々として空中に升《のぼ》りはじめたり、 伊播孫《イバーソン》善均《ゼンキンス》土耳《ドール》胡太《コスター》の幼年者は、 平素の戒め愼みも打ち忘れて、覺えず一齊に喝采 讚呼《さんこ》せり。 未だ幾ばくならずして、紙鳶《たこ》は早くも密雲の中に隱れて、形《かたち》全く見えずなりぬ、 然れども其の線《いと》を挽《ひ》く力の益《ますま》す強くして、 且つ間斷 張弛《ちやうち》なきは、上方の風勢甚だ盛《さかん》にして、 且つ紙鳶《たこ》の傾斜せず掉頭《かぶりふ》らず、常に其の平衡を保ちをることを推すべし。 既にして、測量索は伸びて一千二百尺に至りたり、 料《はか》るに紙鳶《たこ》は已でに地面を拔くこと七八百尺の高さに逹せしなるべし。 試驗の成績は已でに十分なれば、一同は絞車盤《まきろくろ》を逆轉して、 紙鳶《たこ》を下ろしはじめたるが、當初之を升《のぼ》すときは、 僅《わづ》かに十分 許《ばかり》費やせしに過ぎざるに、之を下ろすには、 一時間以上の勞力を須《もち》ひて、始めて地上に至らしむることを得り。 風勢依然として盛《さかん》なれば、其の降りて地上に着くときも、 何等の撞觸《シヨツク》を感ずることなく徐々として當初仰臥せし處と殆ど同じ處に無事降り着きぬ。 幼年者は覺えずも復《ま》た一齊に喝采 讚呼《さんこ》の聲を發して、之を祝したり。 試驗已でに畢《をは》りたれば、一同は洞《ほら》に歸り去らむと慾して、 武安《ブリアン》の號令を待てるに、武安《ブリアン》は別に何事か深く思ふ所あるが如く、 沈吟《ちんぎん》して肯《あへ》て一言も發せず。呉敦《ゴルドン》は武安《ブリアン》のほとりに進みて、 其の手を執りつ、「夜已でに闌《ふ》けたり、請ふ家に歸らむ」。 武安《ブリアン》「暫らく、呉敦《ゴルドン》、杜番《ドノバン》、 餘は君等に謀《はか》らむと慾する一事あり」。杜番《ドノバン》「請ふ語れ」。 武安《ブリアン》「餘等の試驗は意外に十分の好成績を得たり、是れ一に風勢の強からず弱からず、 且つ常に一定の力をもて、一定の方向に吹くに由りてなり、 然れども此の如き好際會《かうさいくわい》は、屡《しばし》ば有り難し、 明夜果して必ず今夜に同じき天候と風勢とを得るを能ふべきや、否や、 尤も覺束なし、故に餘は寧ろ今夜此れより直ちに、かねて計りし所を決行せむこと、 得策ならむと思ふなり、如何」。 武安《ブリアン》の説は實に理《ことわり》有りき、然れども何人も敢て進みて、 第一に口を開かむと慾する者ある無し。曰く紙鳶《たこ》に駕《が》して空中に騰《のぼ》ると。 是れ言ふに甚だ安くして、行ふに極めて危ふき者なり。 童子 等固《もと》より勇氣なりと雖《いへど》も、將《ま》さに之を決行せむとするに及びては、 自然躊躇の意無き能はず、是れさすがに人の情なればなり。 然れども武安《ブリアン》が更らに其の語を續《つ》ぎて、 「何人が籃兒《かご》に乘るべきや」といふに及びては、 言未だ訖《をは》らざるに、忽ち衆中に答聲《たふせい》あり、「餘往かむ」。 是れ武安《ブリアン》の弟 弱克《ジャック》なりき。 「否な、否な、餘往かむ、餘往かむ」と叫ぶ聲、 杜番《ドノバン》韋格《ヰルコクス》虞路《クロース》 馬克太《バクスター》左[田|比;u6BD7]《サービス》諸童子の口より殆ど一聲に續き起れり。 武安《ブリアン》は暫《しば》し默然として敢て兎角の詞《ことば》を發せず、 弱克《ジャック》は再び聲を高くして、「兄うへ、請ふ餘をして往かしめよ、 餘こそ當《ま》さに第一に籃兒《かご》に乘るべき人にあらずや」。 杜番《ドノバン》「何故に、弱克《ジャック》、君に限りて、 第一に往かざるべからざる理由あるか、何故に餘等は君に後れざるべからざるか」。 馬克太《バクスター》「然り、然り、何故に」。 弱克《ジャック》「餘は諸君に負へる義務ありやと」。 呉敦《ゴルドン》「餘等に負へる義務ありとや」。弱克《ジャック》「然り、義務ある故」。 呉敦《ゴルドン》は弱克《ジャック》が常に異なれる詞《ことば》のさまを見て、 其の何の謂《いは》れなるやを問はむと慾して、武安《ブリアン》の手を執るに、 武安《ブリアン》は全身わな?と打ち顫《ふる》ひてをり、 是時若し闇中《あんちう》ならずして、十分 武安《ブリアン》の面《おもて》を視ることを得せしめむには、 呉敦《ゴルドン》は必ず其の顏色まつ蒼《さを》になり、 其の兩眼には涙を湛へしを見たるならむ。弱克《ジャック》は十歳の童子には似あはしからぬ斷然たる決意の聲もて、 「然らずや、兄うへ」。杜番《ドノバン》「餘に語り聞かせよ武安《ブリアン》、 君の弟は君の弟は餘等のために、其の一命を擲賭《てきと》すべき義務ありといふ、 是れ餘等が均しく相互に負ふ所の義務にあらずや、 何が故に獨り弱克《ジャック》のみ特に其の義務ありといふか」。 弱克《ジャック》「アヽ杜番《ドノバン》、餘之を君に語らむ」。 武安《ブリアン》は其の弟の詞《ことば》を遮り止《とゞ》めむと慾して、 「弱克《ジャック》、こや弱克《ジャック》」。 弱克《ジャック》は心迫りて打ちふるふ聲をはり揚げて、 「否な、兄うへ、否な、餘をして一切を懺悔せしめよ、 餘は復《ま》た久しく斯の痛苦を耐ふる能はず、杜番《ドノバン》、呉敦《ゴルドン》、諸君、 諸君が家を離れ父母に離れ、此處《このところ》に漂流 患苦《くわんく》するは、 皆な餘が一人の愚かより起りたり、スロウ號の海に流れ出でたるは、 餘が何等の考へもなく、否な單に戲《たはむ》れに諸君を驚かさむと慾する考へより、 其の纜《ともづな》を解きしに由りてなり、餘は船の次第々々に海に流れ出づるを見て、 驚き慌《あわ》てゝ、之を止《とゞ》めむと慾せしが、既に遲かりき、 オヽ諸君、餘の罪を饒《ゆる》したまへ、餘の罪を饒《ゆる》したまへ」。 言ひ訖《をは》りて弱克《ジャック》は、圭兒《ケート》が親切に百方 慰諭《ゐゆ》するにも拘はらず、 胸も裂くるかと想ふばかりに、聲を放て號泣せり。 武安《ブリアン》「善し、弱克《ジャック》、汝《おんみ》は汝《おんみ》の罪を懺悔せり、 因つて其の罪を萬一を償《つぐな》ふために、今其の身を擲賭《てきと》せむと慾すと謂ふ乎《か》」。 杜番《ドノバン》は其の天性の惻隱寛恕の心、自然此の間に發し動きて、 第一に叫び出だせり、「而して、渠《かれ》は既に已でに其の過ちを償《つぐな》はざりし乎《か》、 渠《かれ》は既に已でに三たび其の一命を擲賭《てきと》して、 餘等のために危險を冐さゞりし乎《か》、アヽ武安《ブリアン》、餘は今にして始めて、 君が平生危難に當らしめ、君の弟が亦た常に其の身を捨てゝ以て、 餘等の用を爲さむと慾する所以を知れり、餘は今にして、 餘と虞路《クロース》とが重霧《ちようむ》の中に迷ひしをり、 渠《かれ》が其身を抛《なげう》ちて、餘等を索《もと》めし所以を知れり、 アヽ吾が親友 弱克《ジャック》、餘輩は喜んで君の過ちを饒《ゆる》すべし、 君は已でに自から其の過ちを償《つぐな》ひたり、君は復《ま》た一毫も餘輩に負ふ所なし」。 杜番《ドノバン》はじめ一同は、弱克《ジャック》の周圍に聚《あつ》まりて、 各《おの?》其の手をさし伸べて、弱克《ジャック》の手を握らむと慾せるが、 弱克《ジャック》は仍《な》ほ雙手《さうしゆ》に其の面を掩ひて號泣しつゝあり。 既にして渠《かれ》はやう?に涙を斂《をさ》めて、 「見よ諸君、餘こそ即ち第一に斯の籃兒《かご》に乘るべき人にあらずや、 餘の言《ことば》誤れる乎《か》、兄うへ」。武安《ブリアン》は緊々《きん?》其の弟を抱擁して、 「善く言ひたり、弱克《ジャック》、善く言ひたり」。 杜番《ドノバン》諸童子は二人を制し止《とゞ》めむと慾したるが、 功無かりき、是時風勢は次第に吹き加はらむと慾する模樣あり。 弱克《ジャック》は一同に握手したる後、早くも土の袋を取り出だしつ、 自から籃兒《かご》の内に身を置かむと慾して、兄のかたに打ち向ひ、 「兄うへ、餘をして一たび汝《おんみ》に接吻せしめよ」。 武安《ブリアン》「唯々、來りて餘に接吻せよ、或は寧ろ、餘をして汝《おんみ》に接吻せしめよ、 何となれば、その籃兒《かご》に乘る者は即ち餘なればなり」。 弱克《ジャック》は驚き叫びて、「兄うへ、汝《おんみ》が」。 杜番《ドノバン》左[田|比;u6BD7]《サービス》も亦た同聲に、「武安《ブリアン》、君が」。 「然り餘が、抑《そ》も弱克《ジャック》の罪を償《つぐな》ふに弱克《ジャック》の身を以てするも、 或は其の兄の身を以てするも、何の異なる所かある、 且つ餘が此の如き危險の計《はかりごと》を立つるに、 他人をして其の危險を冐さしめむと慾して之を立つべき歟《か》」。 弱克《ジャック》「否な、否な、兄うへ、請ふ餘をして」。 「否な、弱克《ジャック》」。杜番《ドノバン》「然らば餘は亦た餘の番として、 敢て斯の任に充てられむことを請求せざるを得ず」。 武安《ブリアン》は斷乎として抂《ま》ぐべからざるの決意の聲もて、 「否な杜番《ドノバン》、餘の意《こゝろ》は已でに久しく決せり」。 呉敦《ゴルドン》は緊々《きん?》武安《ブリアン》の手を握りしめつゝ、 「武安《ブリアン》餘は初めより、君の意《こゝろ》の應《ま》さに然《し》かならむを思へり」。 武安《ブリアン》は直ちに籃中《らんちう》に坐を占めぬ、 雅涅《ガーネット》は籃邊《らんぺん》より埀下《すゐか》せう合圖の絲を持ちてをり、 馬克太《バクスター》韋格《ヰルコクス》虞路《クロース》左[田|比;u6BD7]《サービス》は、 徐々として絞車盤《まきろくろ》の線《いと》を伸ばしはじめぬ、 未だ幾ばくならずして、紙鳶《たこ》は武安《ブリアン》を吊りたるまゝ、 早くも形《かたち》見えずなりぬ。一同は只だ默然仰いで其のゆく方を瞻《まも》るのみ、 高き氣息《いき》さへする者あらず。 幸ひにして紙鳶《たこ》は前と同じく、傾斜せず掉頭《かぶりふ》らず、 冉々《ぜん?》として昇りゆけば、武安《ブリアン》は甚だしく危險を感ずることなく、 籃兒《かご》の四方を吊れる繩を、左右の手に握り持ちて、 紙鳶《たこ》のゆくがまに?升《のぼ》りゆけるが、其の空氣を切るにつれて、 籃兒《かご》に感ずる一種の顫動《せんどう》は、全身に傳《つた》はり響きて、 恐ろしきが如く、擽《こそ》ばゆきが如く、異樣名状すべからざるの感有り、 十分間 許《ばかり》を過ぐるほどに、忽ち物に當れる如き響きありて、 籃兒《かご》の少しく撞觸《どうしよく》を感ぜしは、 線《いと》の既に伸び畢《をは》りて、紙鳶《たこ》の騰上《とうじやう》方《ま》さに止みしを推すべし、 武安《ブリアン》は隻手《せきしゆ》に繩を握り持ちて、隻手《せきしゆ》に望遠鏡を取りあげて、 やをら四方を俯瞰するに、湖水や、茂林《もりん》や、岩壁や、 渾《す》べて冥々《めい?》たる黒暗《こくあん》の中に沒して、 一物の眼《まなこ》に入る者ある無し。唯だ泡沸《はうふつ》として、 僅《わづ》かに其の色を辨ずるは、本島と四邊の海水との差別のみ。 北南西の三方は、皆な一樣の密雲に鎖《とざ》されて、得て一物を視るべからざるも、 東方の一角は雲 斷《た》え天 露《あら》はれて、三五の星、 [燦%>]然《さんぜん》闇中《あんちう》にきらめくを見る。 忽ち見る東方の一邊に、一帶の赤光《せきくわう》あり、 低く地上に横はれる雲層を[火|共;u70D8]《あぶ》りて、其の色明かに望み視るべきを。 是れ必ず火光《かくわう》なるべし、然れども其の距離を言《はか》るに、 遠く幾十マイルの外に在り、或は本島を距《さ》る幾十マイルの那方《かなた》に、 一帶の陸ありて、其の地に噴火山など有り、乃ち斯の火光《かくわう》を放つに非ざるを得むや。 かく思ふと同時に、忽ち心頭に浮ぶは、嚮《さき》に初めて欺瞞灣を訪《と》ひしとき、 望み見たりし白點のことなり。更らに熟視するに、 斯の火光《かくわう》より遙かに近く、己れを距《さ》る僅《わづ》かに五六マイルの處に、 又た一道の火光《かくわう》あり、料《はか》るに是れ欺瞞灣の濱邊、 或は濱邊と湖岸との間なる、茂林《もりん》の中より揚がるものなるべし。 然らば是れかの倭東《ワルストン》等の一 夥《か》にあらずして、 復《ま》た誰れの之を燃す有らむや。 武安《ブリアン》はかく判定すると共に復《ま》た久しく空中に留まるべき必要なければ、 直ちに望遠鏡を收めて、合圖の鐡環《かなわ》を落とし下すに、 幾 秒《セカンド》ならずして、鐡環《かなわ》は雅涅《ガーネット》の手に逹しつ、 地上に武安《ブリアン》の消息如何と、片唾《かたづ》を呑んで待ち居たる一同は、 直ちに絞車盤《まきろくろ》を逆轉して、紙鳶《たこ》を挽《ひ》き下ろしはじめたり。 嗚呼一同が地上に在りて、斯の合圖の來るまで待ち居たる二十分間は、 如何に長く久しかりしとするぞ。是時風勢は次第に吹き加はりて其の猛烈初めの比にあらざるに、 風位さへ亦た吹き變らむとして、紙鳶《たこ》は屡《しばし》ば掉頭《かぶりふ》らむと慾する如く、 童子等が挽《ひ》き下ろす線《いと》の一 張《ちやう》一 弛《し》するにぞ、 其の絞車盤《まきろくろ》を囘轉することのなか?困難なるは、言ふもさらなり。 武安《ブリアン》に對する掛念は、又た一層の甚だしきもの有り。 武安《ブリアン》が合圖の鐡環《かなわ》を落とし下してより、 既に一時間と四十五分を經たり。紙鳶《たこ》は猶ほ地面を距《さ》る二十間 許《ばかり》の上に在るべし。 忽ちにして一陣の強風吹き過ぐるとおもふと共に、 絞車盤《まきろくろ》を把《と》り居たる杜番《ドノバン》馬克太《バクスター》韋格《ヰルコクス》 虞路《クロース》左[田|比;u6BD7]《サービス》乙部《ウェッブ》の六名は、飜然地上に投げ倒されぬ。 蓋し紙鳶《たこ》の線《いと》斷《き》れて紙鳶《たこ》は武安《ブリアン》を載せたるまゝ、 黒暗《こくあん》の中に飛び去りしなり。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第十三囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 衆童子は且つ驚き、且つ怖れつ、異口同聲に「武安《ブリアン》、武安《ブリアン》」と叫びたるが、 功《かひ》なかりき。 此の如くすること二十分 許《ばかり》にして、忽ち湖の水際《みぎは》より、 「諸君」と呼はる聲起れり。「兄うへ」と叫びつゝ第一に走《は》せ着きたるは、 弱克《ジャック》なりき。「倭東《ワルストン》等は尚ほ島に在り」とは是れ一同が其のほとりに走《は》せ到れるとき、 武安《ブリアン》の第一に發したる詞《ことば》なりき。 蓋し紙鳶《たこ》の線《いと》斷《き》れしとき、武安《ブリアン》は其の身の次第に地上に落ちゆくを覺えしが、 幸ひに、紙鳶《たこ》は恰《あた》かも輕氣球乘りの用ふる所の大傘《パラチウト》の用をなして、 これを急墜直下せしめず、兎角するうち、漸《やう》やく水面に近づきたれば、 乃ち身を跳らして、自から水中に投下して、七十間餘りの距離を、 難なく岸に泳ぎ着きしなり。紙鳶《たこ》は武安《ブリアン》の投下すると共に、 忽ち再び空中に輕[風\昜;u98BA]《けいやう》して、獨り北東のかたに舞ひゆきぬ。 次の朝は、一同前夜の疲勞に寢すごして、日已でに高く昇りし後、 僅《わづ》かに臥床《がしやう》を起き出でしが、一同直ちに物置の洞《ほら》に集りて、 今後の進退を商議せり。 倭東《ワルストン》等の島に留まること、既に二週間以上に及べり、 而して尚ほ此處《このところ》を去らむとする模樣なきは、 蓋し其の船を修覆すべき道具を少《か》けるに由りてなり。 若し是等の道具さへあらしめば、船は修覆を加ふべからざるほど、大破損したるにあらざればなり。 又た渠等《かれら》は未だ島を去らざれども、然《さ》りとて亦た、 其の寓居を此處《こゝ》に構へむと慾するにもあらざるは、其の遍《あまね》く全島を探檢して、 尤も其の栖宅《せいたく》に適《かな》ふべき所の地を索《もと》めむと圖る模樣なきを觀て、 之を知るべし。是等の事より推究して、 武安《ブリアン》は昨夜空中より海を隔てゝ望みたる赤火光《せきかくわう》のことを語り、 必ず斯の島の東方に、甚だ遠からざる處に大陸あり、渠等《かれら》は之を知れるが故、 永く斯の島に留まるの覺悟をなさゞるならむと判ぜり。 若し武安《ブリアン》の所判をして、其の眞を得たるものと爲さしめば、 是れ輕々に看過《みす》ぐべからざる一重大問題なり。 乃ちチェイアマン島は從來一同の信じたりし如き孤島にはあらずして近く其東方に大陸若くは群島を有する所の一無人島なり。 然《さ》れども是は目下の急先問題に非ず、目下の急先問題は、 倭東《ワルストン》等七名の惡漢の尚ほ島に在りて東方川の口に宿しをることなり。 渠等《かれら》は現在の宿處《しゆくしよ》より只だ一轉歩せば、湖畔に出づべく、 湖畔を彷徨するうちには、或は偶然斯の洞《ほら》のほとりに至ること、ありがちなるべし。 故に童子等は前に倍して、渠等《かれら》に其の姿を見られざるやう、 用心 戒愼《かいしん》せざるべからず。 童子等は先づ、厩舍《うまや》及び養禽場を遶《めぐ》る所の柵《しがらみ》竝《ならび》に洞《ほら》の表裡《おもてうら》二所に、 松杉の枝灌木など多く切り掛けて、打ち見たる所、茂林《もりん》樹叢《じゆそう》などの如く見えるやうし、 己れ等は洞内に深く隱れて、猥《みだ》りに戸外に出でず。 殊に湖畔の廣場には何人も一切出で行くことを許さず。此の如くして、 一同は惴々《ずゐ?》として危懼《きく》不安の中に日を送れるに、之に加へて、 一同をして更らに眉を顰《ひそ》めしは、最幼年者 胡太《コスター》の此ころより熱を病みて、 容體甚だ危篤なることなり。呉敦《ゴルドン》はスロウ號に具《そな》へありし藥籠《やくろう》を取り出だして、 萬一誤投などすることなきやと氣づかひつゝも、止むを得ず己れの知れる所に因りて、 藥を進め、他の諸人も勿論 各《おの?》及ぶ限りの力を盡して看護せるが、 畢竟一同皆な只だ齡《よはひ》相若《あひし》きたる童子なれば、 手は心の什《じふ》一を動く能はず。幸ひに圭兒《ケート》の此處《このところ》に在りて、 宛《さな》がら慈母の其の愛子を介抱する如く、行きとゞきて親切周到に、之を看護するあり、 やう?、終に快方に向ひはじめぬ。是時若し圭兒《ケート》の洞内に在るなかりせば、 其の結局實に測るべからざる者ありしならむ、此の外斯の婦人が平素、洞内諸童子に對して、 慈母的愛情親切を以て、何くれとなく世話したる、冥々《めい?》の功徳は、 逐一數ふるに勝《た》ふべからず。 さて、十一月の初旬より中旬にかけては、殆ど連日の陰雨《いんう》なりしが、 十七日より天 霽《は》るゝと共に、暖氣 俄《には》かに加はりて、 茂林《もりん》は皆な青緑《せいりよく》の色を着けて、百花競ひ開き、 南澤には多くの羽族《うぞく》歸り來れり。ある日、 左[田|比;u6BD7]《サービス》が洞外附近の地の設けたる羅網《かけあみ》に罹りたる鳥類を收むる中、 其の頸《くび》に小さき凾《はこ》を約《くゝ》したる一個の燕あるを發見せり。 一同且つ驚き且つ喜びつゝ、忙がはしく其の凾《はこ》を卸して、 之を開き視るに、何等か他の地方の人より、童子等に送り來れる答書《たふしよ》には非ずして、 凾《はこ》の内なるは、やはり去秋《きよしう》己れ等が納めおきし遭難報告書なりき。 此ごろは一同多く洞内にたれこめて、戸外に出づること稀《ま》れなれば、 馬克太《バクスター》の專任擔當せる日記も殆ど閑却《かんきやく》せられて、 其の筆に上るべきほどの事もいと少く、一同只だ一室によりこぞりては、 無聊を嘆息するのみ。兎角するうちに更らに三箇月餘りを經ば、 渠等《かれら》は復《ま》た第三の冬を此處《こゝ》に向へざるべからず。 渠等《かれら》は漂流の初めより以來の事どもを囘想して、 徐《しづ》かに越方《こしかた》行末を思ひめぐらせば、 己れ等の斯の島に在ることは、何時を限りに終るべきや、或は到底再び故郷父母を見るの期無くして、 己れ等は斯の島の土と化し了るに非ざるべき乎《か》。 是れ呉敦《ゴルドン》の除く外、一同の心に次第に結ぼりし所の疑ひにして、 皆な鬱々として樂しまざるの色あり。武安《ブリアン》は一同を諭し勵まして、 決して此の如く憂《うれへ》無かるべきよしを、口には主張せるが、 心には亦た他の諸童子と同じく、斯の疑ひを抱くを免れず。 是月《このつき》の二十一日の午後二時ごろなりき、 杜番《ドノバン》はニウジランド川の樹陰に踞《きよ》して、魚《うを》を釣りゐたるに、 湖畔に群れゐし鳥類の、俄《には》かに[樛,木@口;u5610]々《かう?》相喚びつゝ、 東方に翔《かけ》り去るを見たり。渠等《かれら》は對岸に至りて、 其の廣く大きく圈《わ》をなせし者の次第に縮小集中して、終に黒く一團を成したるが、 仍《な》ほ[樛,木@口;u5610]々《かう?》高く相喚びつゝ長草《ちやうさう》灌木の中に沒し了れり。 杜番《ドノバン》は之を望み見て、是れ必ず何等か動物の死體の彼處《かしこ》にあるならむ、と判じたるにぞ、 急に洞《ほら》に走《は》せ歸りて、莫科《モコー》を呼びて直ちに短艇《ヤウル》を出ださしめ、 偕《とも》に川を渡りて對岸に登りて、群れ集《つど》へる鳥類を逐ひ去りて長草《ちやうさう》の底を檢《けん》するに、 一個の小さきラマの死體ありて、横仆《わうふ》せり。鮮血は仍《な》ほ滾々《こん?》として、 其の横腹の創口《きずぐち》より流れ出でつゝあり。 且つ其の身體の尚ほ微温を帶《お》ぶるは、其殺されてより未だ多くの時間を經ざるものなるを知るべし。 杜番《ドノバン》「是れ必ず銃殺されし者なるべし」。莫科《モコー》「此處《こゝ》に其の證據あり」と答へつゝ、 其の小刀もて創口《きずぐち》より一個の鉛丸《えんぐわん》を抉《えぐ》り出だせり。 疑ひもなく是れ倭東《ワルストン》等の中に一人の、 發《はな》ちたる所の者に必せり。二童子は其のラマの死體は、鳥類の貪り啖《くら》ふに一任して、 忙がはしく洞《ほら》に走《は》せ歸れり、歸りて之を他の諸童子に告ぐるに、 一同亦た今さらの如く驚き怖れつ、さま?゛に商議せるが、 かのラマの其の現在 斃《たふ》れたる處にて銃殺されし者に非ざるは、 童子等が常に耳を欹《そばだ》てゝ洞外の動靜に注意せるにも拘はらず、 曾《かつ》て銃聲を聞きし者無きに由りて、明かなるが、 亦た其の甚だ遠距離の處にて射られし者に非ざるは、其の傷の極めて重くして、 ラマが斯の重創《ぢゆうさう》を負ひて甚だ遠く走ることは能ふばじきに徴《ちよう》して、 明かなり。されば之を總《す》ぶるに、是れ倭東《ワルストン》等が東方川を遡りて、 次第に洞《ほら》のかたに近づきつゝあることを示す者にして、其の夥中《くわちう》の幾人かは、 既に一たび南澤のほとり近くまで湖畔を彷徨し來りたることを證《しよう》する者なり。 童子等は唯だ益《ますま》す、用心に用心を加ふべきのみ。 かくて又た三日を經たるに、茲《こゝ》に渠等《かれら》をして事態の益《ますま》す切迫せるを覺えて、 更らに一層の危懼《きく》を増さしめし所の、一新事件現はれたり。 二十四日の朝九時ごろ、武安《ブリアン》及び呉敦《ゴルドン》は、 ニウジランド川の對岸に於て湖畔より南澤に至る間の細途《ほそみち》に、若し能ふべくば、 胸壁を築きて、此處《こゝ》に杜番《ドノバン》等の善射手を伏して、 倭東《ワルストン》等の斯の方面より來るを禦《ふせ》がむと慾して、 其の地形を視むがため、相携へて對岸に抵《いた》り川の畔《ほとり》の茂林《もりん》の際《きは》を進み行けるに、 武安《ブリアン》は何物か忽ち足に踏みつけしもの有り、然《さ》れども、 是れ此の邊に無數に散布せる貝介《ばいかい》の類なるべしと、思ひたれば顧みもせず、 進み行けるが、後に立ちたる呉敦《ゴルドン》は、足を停《とゞ》めて之を拾ひあげつ、 「待て、武安《ブリアン》」。「何事なるや」。「看よ、是れ陶製の煙管《きせる》なり、 餘等の中に煙草を喫する者無ければ、是れ必ず倭東《ワルストン》等の徒《と》の遺《おと》せし者なるべし」。 「或は佛人洞の昔の主人 慕員《ボウドヰン》の遺物ならむ」。「非なり、 煙管《きせる》に附着せる煙草の香《にほひ》猶ほ新たなるは、僅々《きん?》一二日前若くは一二時間前、 此處《このところ》に遺《おと》されし者なるを示せり」。果して然らば、 倭東《ワルストン》等の徒《と》は、既に近く佛人洞全面の川の上《ほとり》まで彷徨し來りしなり。 渠等《かれら》既に此の邊を徘徊するとせば、童子等は直ちに防戰の準備をせざるべからず。 二名は蒼黄洞《さうくわうぼら》に走《は》せ歸りて、其の目撃せし所を語り、 一同直ちに手分けして防戰の準備をなし、晝は洞上岩壁の頂きに一人の見張りを置きて、 八方を注視せしめ、夜は亦た湖畔に面せる洞《ほら》の裡《うち》の口と、 川に面せる表の口と、二所に各《おの?》一人の見張りを置き、 二所の戸は均しく堅牢なる閂《かんぬき》を以て之を鎖《とざ》せるがうへ、 戸の内がはには、多くの大石を積みて、 スハといはゞ直ちに内より此處《このところ》に胸壁をつき立つること能ふやうにせり。 戸側《とのわき》に穿ちたる窓は、直ちに用ひて以て矢間《やざま》となして、 此處《このところ》に二門の大砲を分ち排して、一は表の川に面せる口を守り、 他の一は裡《うち》の湖畔に面せる口を瞻《まも》る。其の餘、施條銃《せでうじう》、 連發短銃の數を悉《つ》くして取り出だされ、諸童子に割りわたされしは、言ふを待たず。 言ふまでもなく圭兒《ケート》は諸童子の作《な》す所を贊《さん》して、 共に及ぶ限りの力を、是等の準備に盡したるが、然かも其の心の底には、 是等の諸童子と、かのセベルン號の水夫等との身體 膂力《えよりよく》を較算《かくさん》して、 深甚の危懼《きく》不安を懷《いだ》くを免れず。斯《かゝ》るをりに、 せめて伊範《イバンス》の此處《このところ》に在らば。 抑《そ》も伊範《イバンス》は今如何になりゆきしならむ、或は渠等《かれら》惡漢の毒手に罹りて、 既に亡き人となれるに非ざるを得むや。是も亦た必ず有るべからざるの事にあらず、 何となれば、渠等《かれら》は今陸の上に在り、復《ま》た渠《かれ》の航海術に用ふる所無ければなり。 既にして十一月の二十七日となれり、過ぎし二日間の暖氣は蒸し熱くして、 殆ど耐ふべからざるほどなりしが、是日は朝より密雲重なり疊《かさ》なりて、 雷聲《らいせい》殷々として遠く響き、其の空模樣といひ、 晴雨計の豫言する所といひ、あらしの將《ま》さに至らむとするを示せり。 洞外に在りし童子等は、常より早く一同洞内に歸り、例の如く短艇《ヤウル》をば物置に引きこみて、 表裡《へうり》二所の戸を閉ぢつ、只だ坐して就寢の時に來るを待ちをれるに、 夜九時半を過ぐる比《ころ》ほひ、あらしは果然襲ひ到りて、 電光は水を注ぐ如く、窓の間うおり流れ入りて、常に洞《ほら》の内を遍照《へんせう》し、 霹靂《へきれき》は常に頭上に轟き震《ふる》ひて、片時《へんし》も斷《た》ゆる間なし。 是れ風無き亦た雨無き、一種の恐絶《きようぜつ》駭絶《がいぜつ》のあらしにして、 層雲の裡《うち》に鬱積せる電氣の、一時一所に決裂噴出する者なり。 斯の類のあらしは、或は霹靂《へきれき》一夜をはためき徹《あか》して、 尚ほ未だ終りを告げざること、往々これ有り。洞上岩壁の頂きには落雷、 蓋し幾十囘 若くは幾百囘、雨の如く下り注ぎしならむが、 岩層甚だ厚ければ、洞内には曾《かつ》て何等の異状をも生ぜず。 武安《ブリアン》、杜番《ドノバン》、 馬克太《バクスター》等の諸童子は時々更《かは》る?゛洞外の動靜を伺はむと慾して、 戸ぎはに立ち寄りしが、皆な戸を開くことを未だ半ばに及ばずして、忽ち電光に眼《まなこ》を射られて、 暝眩《めくるめ》きては却《しりぞ》き囘《かへ》りぬ。 天は只だ一面の赤火光《せきかくわう》をなし、湖水は天の色を反射して、 只だ一團の炎の如く見えぬ。 十時より十一時に至るまでの間は、電光雷鳴共に、眞に須臾《しゆゆ》の斷《た》ゆる間なく、 暴《あ》れつゞきぬ。十二時ごろよりはあらしの勢ひ、 少しく衰へて、雷鳴次第に間ばらになりゆきしが、既にして風起りて、雨盆を覆へす如くなり來れり。 久しく恐れ縮みて頭《かしら》を蒲團の裡《うち》に埋めゐたりし胡太《コスター》、 土耳《ドール》、伊播孫《イバーソン》、善均《ゼンキンス》等の諸幼年者も、 再び勢ひを得て追々頭《かしら》を擡《もた》げ起せり。 長年の童子等はあらしの最早や憂ふべき者なきを見て、心を安じて、 各《おの?》將《ま》さに其の寢所に退き去らむと慾するをり、 獵犬フハンは忽ち激昂の状《じやう》を現はして、裡《うら》の戸ぎはに走《は》せ到りつ、 前足もて頻りに戸板を爬《か》きながら、低く長く哮《たけ》り吠えぬ。 杜番《ドノバン》「フハンが何事か戸の外に異状あるを嗅げりと見ゆ」。 言《ことば》未だ全く訖《をは》らず長年の童子等は、各《おの?》武器を執りて、 防戰の身構へせり。杜番《ドノバン》は裡《うら》の戸に、莫科《モコー》は表の戸に、 各《おの?》耳を帖《てふ》して外の動靜を伺ひしが、 何等の異なりたる状《じやう》も無きに似たり。然れども、フハンは依然 哮《たけ》りくるひて休まず、 俄《には》かにして轟然として響ける一道の聲あり、 是れ決して雷鳴の聲ならず、長銃の聲にして、 しかも此處《こゝ》より二町とは隔てざる近距離の處に於て放ちたる者にまぎれ無し。 一同は覺えず面《おもて》を視あはせしが、 杜番《ドノバン》馬克太《バクスター》韋格《ヰルコクス》虞路《クロース》の四名は、 早くも表と裡《うら》との戸の側《わき》に分れ立ちて、 若し此處《こゝ》に推し入らむと慾する者あらば、 直ちに射て之を殪《たふ》さむと身構へ、他の諸童子はかねて戸の内に積みおきたる大石を、 戸ぎはに運びて以て、胸壁をつき立てむとす。 をりしも戸外に忽ち聲ありて、「助けて、助けて」。 是れ疑ひもなく、危難に迫りたる人の救《すくひ》を乞ふの聲なり。 「助けて、助けて」。この度は既に近く數尺の間に來れり、 圭兒《ケート》は初めより童子等と倶《とも》に、戸ぎはに立ちをりしが、忽ちにして、 「是れ渠《かれ》なり」。武安《ブリアン》「渠《かれ》とは」。 圭兒《ケート》「戸を開け、疾《と》く開いて渠《かれ》を納《い》れよ」。 童子等は戸を開けり。一個の漢子《かんじ》の全身濡れくたれて、 上衣《うはぎ》の裾よりは水 瀑布《たき》の如く流れ下りつゝあるが、 闖然《ちんぜん》跳り入りぬ、是れ即ちセベルン號の二等運轉手 伊範《イバンス》なりき。 童子等は事の意外に茫然として、暫《しば》しは爲さむ所を知らず、 空しく伊範《イバンス》の模樣を瞻《まも》りてをり。 伊範《イバンス》は齡《とし》二十五乃至三十歳の間なるべし、肩廣く、胸 寛《ゆる》く、 兩眼鋭くして、態度毅然とし、面相怜悧にして正直なり。 然れども久しく剃刀を用ひざれば、雙頬《さうけふ》の髯 亂生《らんせい》して、 殆ど其の顏の半ばを沒せり。渠《かれ》は内に入るや否や、 直ちに戸を閉ぢて其の耳を戸に帖《てふ》して、 外の動靜を伺ひしが、己れを追跡する者無きを知りて、 始めて洞《ほら》の中央に進み來り、己れを環《めぐ》り立てる童子等の顏を一わたり看まはして、 悄然と、「成程、是少年童兒のみなり」と獨語せるが、 復《ま》た圭兒《ケート》の童子等の内に交り立てるを見て、 俄《には》かに打ち喜べる面持にて、「圭兒《ケート》、汝《おんみ》が存《なが》らへて」。 圭兒《ケート》「然り伊範《イバンス》、吾身《わがみ》は無事に存《なが》らへて此處《こゝ》に在り、 上帝は既に吾身《わがみ》を救ひ、亦た御身を救ひたまへり、 今夜御身の此處《こゝ》に來れるは、亦た上帝の御身をして、 是等 無辜《むこ》の憐れむべき諸童子を助けしめむと慾したまふ大御意《おほみこゝろ》なるべきなり」。 伊範《イバンス》は復《ふたた》び童子等の顏を看《かん》一 看《かん》して、 「都合十五人、而かも自から防ぐこと能ふ者は僅かに五六人に過ぎず」。 武安《ブリアン》「餘等は將《ま》さに襲撃されむとする乎《か》」。 伊範《イバンス》「否な、少くともさし向きの處否な」。 一同は伊範《イバンス》の此處《こゝ》に來れる顛末、 殊に倭東《ワルストン》等が本島に上陸してより以來の歴史を、 渠《かれ》に聞かむと慾するに熱心なりしが、渠《かれ》は先づ其の濡れたる被服を脱し、 且つ多少の食物を乞ひたしといふ。蓋し渠《かれ》はニウジランド川を泳ぎ渡り、 且つ今朝來未だ曾《かつ》て何等の食物をも口にせざるなり。 武安《ブリアン》は直ちに渠《かれ》を導きて、物置の室に至り、 乾きたる被服を與へ、又た莫科《モコー》に命じて取りあへず、 冷たき炙肉《あぶりにく》、乾餠《かたパン》、茶、 及び一杯のブランデー等取り揃へて渠《かれ》に供せしめぬ。 伊範《イバンス》は是等をたべ畢《をは》りて、氣力殆ど常に復せる後、 一同に向て、其の本島に上陸してより以來の歴史を語りはじめぬ。 「餘等の乘りたる傳馬船《てんません》が斯の島に打ち上げられて將《ま》さに岸に逹せむと慾するをり、 餘等六名は浪に洗はれて海中に陷りたり。六名は兎角して纔《わづ》かに濱邊に登ることを得たるが、 他の舟に留まりたる二名の往きし所を知らず、圭兒《ケート》に至つては一同に、 海中に溺れたる者となして、復《ま》た之を疑ふ者無かりき、 餘等の濱邊に登りしは午後七八時の間なりしが、濱邊を彷徨徘徊すること多時にして、 十二時ごろに至り始めて傳馬船《てんません》の沙場に打ち上げらるゝを發見せり」。 杜番《ドノバン》「餘等は當夕《たうせき》恰《あた》かも其處にゆき合せて、 二個の人の船の側《わき》に、死人の如くなりて横臥《わうぐわ》するを目撃せしが、 次の朝 往《ゆい》て之を尋ねたるに、既に其處に在らざりき」。 伊範《イバンス》「其の次第こと餘が此より將《ま》さに語らむと慾する所なれ、 餘等が其の往きし所を失ひて或は海中に死せしならむと思ひ居たる福倍《フホーベス》及び排克《パイク》の二名は、 亦た船と共に、濱邊に打ち上げられてをり、倭東《ワルストン》等は之を喚び醒して共に、 船中にのこり存したる少許《せうきよ》の食物及び武器硝藥を取り出だして、 更らに海岸をたどり行かむと慾するをり、祿屈《ロック》なりしと覺ゆ、 圭兒《ケート》の見えざりよしを不審したるに、倭東《ワルストン》は、 其の定めて海中に陷りて亡《う》せたるならむと答へ、且つ是れ物怪《もつけ》の幸ひなりといへり、 餘は之を聞きて、心の中に、渠等《かれら》の餘を視ることは猶ほかの婦人を視る如くなるべしと思ひ、 渠等《かれら》の餘に復《ま》た用無きに至らば、直ちに餘を除き去らむと慾するならむと思ひたり、 圭兒《ケート》汝《おんみ》は當時 何處《いづく》に在りしや」。 圭兒《ケート》「かの欹立《そばだ》ちたる船の底の下に、渠等《かれら》は餘の姿を見る能はざりしが、 餘は逐一 渠等《かれら》の問答を聽くを得たり、渠等《かれら》の立ち去るを待て餘は起きて反對の方に走り、 終に是等童兒等諸公に救はれて、斯の佛人洞の中に來れり」。 伊範《イバンス》「佛人洞とは」。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「即ち餘等が斯の洞《ほら》に命ぜし所の名にして、 此の外亦た家族湖、南澤、ニウジランド川等の諸名目あり」。 伊範《イバンス》「甚だ好し、甚だ好し、是等地名の事に就ては、明日《みやうにち》復《ま》た緩やかに相語るべし、 戸外に何等か足音せしにあらずや」。戸ぎはに立ち番せる莫科《モコー》、「否な」。 伊範《イバンス》「さて濱邊をたどり行くこと又た一時間 許《ばかり》にして、 餘等は一團の樹叢《じゆそう》の下《もと》に逹し、此の夜は此處《こゝ》にあかして、 翌日 復《ふたた》び傳馬船《てんません》の處に還り、爾後《じご》數日の間は、 種々術を盡して船の破損を修繕せむと勉めしが、之を修繕すべき道具の不足なるよりして、遂に成功する能はず、 因りて兎に角に先づ食料及び清水《せいすゐ》と且つ能ふべくは風雨を庇《おほ》ふ處を索《もと》めて、 假りに卜居《ぼくきよ》したる後、緩やかに後の計を爲すべしとて、 復《ま》た此處《こゝ》を發し濱邊に沿ひて南に行くこと十二マイル許《ばかり》せしに、 一條の小川の口に逹せり」。左[田|比;u6BD7]《サービス》「即ち餘等が東方川と呼ぶ者にして、 其の注ぐ所を欺瞞灣と稱す」。伊範《イバンス》「成程、 かくて餘等は此處《こゝ》に卜居《ぼくきよ》して、 かの傳馬船《てんません》をば濱邊づたひに曳きて新 卜居《ぼくきよ》の處に來たり、 之を川口の小港に繋ぎおきたり」。武安《ブリアン》「即ち巨熊港」。 伊範《イバンス》「是《こゝ》に於て餘等の缺く所は、只だ一式の木匠《もくしやう》器具のみ、 若し之さへ有らしめば餘等は容易に船を修繕して、斯の島を去るを得べし」。 杜番《ドノバン》「餘等は恰《あた》かも其の器具を有せり」。 伊範《イバンス》「倭東《ワルストン》等も亦たしか信ぜり」。 呉敦《ゴルドン》「渠等《かれら》は如何にして、餘等の此處《こゝ》に在ることを知れるや」。 伊範《イバンス》「約《およそ》十日 許《ばか》り前なりき、渠等《かれら》は餘と偕《とも》に、 ??上陸以來 渠等《かれら》は片時《へんし》も餘を一人にて置きしことなし??、 川の堤《つゝみ》を遡りて茂林《もりん》の中を逍遙するうち、 忽ち一座の大湖の畔《ほとり》に出でしが湖濱《こひん》蘆葦《ろゐ》の裡《うち》に於て、 餘等は偶《たまた》ま一個の巨物の油布に蔽はれたるが、 横はりをるを發見せり、餘等の驚怪《きやうくわい》想ひ見るべし」。 杜番《ドノバン》「即ち餘等の紙鳶《たこ》なり」。 伊範《イバンス》「餘等は未だ遽《には》かに其の何物なるやを猜《すゐ》し得ざりしが、 兎に角に其の天性のものならぬは明かなれば、渠等《かれら》は此より之を製作せし所の人を索《もと》めて、 其の何物なるやを知らむと慾するに熱心となれり、餘に於ては、此によりて本島に住民有ることを知りて、 間《ひま》を伺ひ渠等《かれら》の毒手を脱して其の住民の中に投ぜむと慾するの心、 尤も切になれり、縱《たと》ひ其の住民をして蠻人ならしむるとするも、 尚ほ是等セベルン號の殺人賊の極惡なるには至らじと信じたればなり、 渠等《かれら》も餘の機を察したりと見えて、其の餘を看守すること、 此より更らに一層嚴重となれり、渠等《かれら》は是日より一心不亂に、 而かも十分 戒愼《かいしん》に戒愼《かいしん》を加へつゝ、 湖の東岸に沿ひて、南方にさがし行きたるが、曾《かつ》て人の踪跡《そうせき》らしき者に逢はず、 曾《かつ》て一發の銃聲さへ聞かず」。武安《ブリアン》「そは餘輩が互に相戒めて、 洞内より猥《みだ》りに一歩をも出でざるやうにしたればなり」。 伊範《イバンス》「然れども、渠等《かれら》は終に君等の所在を發見せり、 去る二十二日の夜なりき、渠等《かれら》の一個が始めて斯の洞《ほら》の近傍に來りしに、 適《たまた》ま君等の戸を開閉するに會ひて、 戸の間より燈火《ともしび》の光り乍《たちま》ち見《あら》はれて乍《たちま》ちきゆるを望み見たり、 之を聞ける倭東《ワルストン》は、次の日の午後全半日、 自から斯の前の川ふちの茂林《もりん》の中に來り潛《ひそ》みて、 君等の動靜を伺ひたり」。武安《ブリアン》「然り、餘等は之を知れり」。 「君等之を知れりとか」。武安《ブリアン》「餘等は渠《かれ》の遺《おと》したる煙管《きせる》を、 次の朝發見して、之を圭兒《ケート》に示したるに、 圭兒《ケート》は是れ倭東《ワルストン》が所持したるものなりと語れり」。 「圭兒《ケート》の所察は爽《たが》はざりき、 渠《かれ》の歸來《きらい》の後其の煙管《きせる》を遺失せしことを知りて、 甚だ之を惜み恨みたりき、然れども渠《かれ》は斯の半日の間に於て、 此處《こゝ》に栖《す》める君等の皆な少年童子なることをたしかめ得たり、 そは君等の更《か》はる?゛洞《ほら》の前、川のふちに出であるくを觀て、 乃ち之を察し得たるなり、餘は渠《かれ》が歸來《きらい》の後、 其の目撃せし所を其の侶伴《りよはん》に告げ、且つ之に對する攻撃の方法など さま?゛に相 謀《はか》るを聞きて??」。圭兒《ケート》「惡人、惡人、 渠等《かれら》は斯の可憐の諸童子に對しても、更らに一點の惻隱の心を起さゞりし歟《か》」。 「然り、猶ほセベルン號の船長乘客に對して之を起さゞりしに同じ」。 圭兒《ケート》「して御身は如何にして、終に渠等《かれら》の毒手を逃がれしや」。 伊範《イバンス》「今朝より倭東《ワルストン》等は、 餘を福倍《フホーベス》と祿屈《ロック》との二人に看守せしめおきて、 一同他に出で行きたれば、餘は是れ無二の好機會なりと思ひ、 二人のよそ視せる間を窺《うかが》ひて、突然かたへの茂林《もりん》の中へ逃げこみたり、 是れ午前十時前後の事なりき、二人は餘のあとを追ひて、同じく茂林《もりん》の中に入り來れり、 此より一人の逃走者と、二人の追奔者《ついほんしや》とは、 終日 茂林《もりん》の中を[足|勹&巳;u8DD1]《か》けめぐれり、 餘は生來未だ曾《かつ》て此の如く疾《と》く且つ久しく[足|勹&巳;u8DD1]《か》けりたることあらず、 餘は十四時間三十マイル以上の距離を[足|勹&巳;u8DD1]《か》けめぐりしなるべし、 餘は倭東《ワルストン》の語る所によりて、君等の栖《す》む所の湖の南西岸に於て、 西方に流るゝ川の畔《ほとり》に在ることを知り、 茂林《もりん》の中を右左に[足|勹&巳;u8DD1]《か》けまはりつゝも、 君等の洞《ほら》を望みて逃走し來れり、二人は各《おの?》銃を携へたれば、 餘を追ひかけ?も、屡《しばし》ば之を發して餘をねらひ撃ち、 飛丸《ひぐわん》の餘の耳邊《じへん》を掠《かす》めて過ぎし者、 啻《たゞ》に一度二度のみにあらず、若し二人をして火器をだに有せざらしめむには、 餘は立ちて渠等《かれら》の追ひ至るを心靜かに待てるばるべし、 餘も隨身の小刀《ナイフ》は一口《ひとふり》藏しゐたれば、 縱《たと》ひ渠等《かれら》と相遇ふも、餘獨りは死なざるべし、 餘は夜に入らば闇黒《あんこく》にまぎれて、二人の追躡《ついせふ》を免るゝに、 更らに好便《たよりよ》かるべしと憑《たの》みたるに、二人は執念深く餘に尾《び》して、 なか?に餘を離れず、加ふるにあらしの常に電光を送りて地上を遍《あま》ねく照らしたれば、 餘の姿を躱過《たんくわ》することを許さず、然れども餘は兎角して竟《つひ》に川の南岸に逹したり、 若し一たび斯の水をだに踰《こ》えむには、と餘は喜びつゝ、 將《ま》さに堤《つゝみ》をすべり下りむと慾するとたんに、 忽ち閃然《せんぜん》なる一道の電光は、やみを破りて餘の姿を照らし出だせり、 同時に一發の銃聲餘の背後に響けり」。 杜番《ドノバン》「即ち餘等の此の裡《うち》にありて聞きし所のものなるべし」。 「飛丸《ひぐわん》は餘の肩をかすりて流れたり、餘は同時に身を飜して水中に跳入《をどりい》りぬ、 餘は二三度拔き手をきりしが早くも此方《こなた》の岸に泳ぎ着きしにぞ、 其のまゝに川の上に掩ひかゝりし雜木《ざふぼく》の下に身を潛めぬ、 二人は正《ま》さに川の對岸に到りて相 語りつゝあり、 一人 云《いは》く汝はたしかに命中したりと爲すや、他の一人 云《いは》く餘はたしかに手答へありたり、 前者 云《いは》く然らば渠《かれ》はこの水中に沈みしならむ、 後者 云《いは》く勿論なり此度《このたび》は渠《かれ》も竟《つひ》に往生せり、 前者 云《いは》く好結果好造化と、かくて二人は故《もと》來し路に歸りゆけり、 此より二三分の後、餘は堤《つゝみ》をはひ登りて、地上に登りたちたるに、 忽ち犬の吠ゆる聲を聞きしにぞ、乃ち之をたよりに、此處《こゝ》へ來りたるに、 君等の戸を開きて迎へ納《い》れらるゝに逢ひて幸《さいはひ》に、 身を全くすることを得たり、童子諸君、此よりは餘等 倶《とも》に一團となりて、 力を戮《あは》せて、斯の島より是等の惡漢子を除き去ることを勉めざるべからず」。 伊範《イバンス》が是等最後の數語を陳《の》べしときは、其の意氣誠に凛然として、 童子等は一同に、覺えず起ちあがりて、直ちに渠《かれ》の後に從ひて走《は》せ出でむとなしたりき。 既にして諸童子は更《かは》る?゛詞《ことば》短かに、 己れ等の此處《こゝ》に漂流せし顛末を伊範《イバンス》に語り聞かせり、 伊範《イバンス》「君等が此處《こゝ》に漂着してより、今日まで二十個月の間、 曾《かつ》て一隻の船もこの沖に見えざりしか」。武安《ブリアン》「然り」。 「君等、何等か信號を掲げおきしか」。「之を掲げおきたるが、六週間前、 倭東《ワルストン》等のために見られむことを恐れて、之を卸したり」。 「君等の用心極めて善かりき、然れども渠等《かれら》は遂に諸君の所在を發見せり、 今に及では唯だ日夜警戒して、渠等《かれら》を防ぐの一法あるのみ」。 「渠等《かれら》の此の如く兇惡無慚の輩《ともがら》なるは、 誠に何等の不幸なるじ、若し之をして善人ならしめば、 餘等は喜んで及ぶ限りの助けを渠等《かれら》に假さむものを、 餘等は人多しと雖《いへど》も、皆な少年童子に過ぎず、 餘等はは當《ま》さに大苦戰を覺悟せざるべからず、若し勝敗の決に至りては、 誰れか之を豫料《よれう》することを得むや」。圭兒《ケート》「諸公、諸公、 今日まで常に御身等を冥護したまひたる上帝は、 必ず今日御身等を棄てたまはざるべし、上帝は現に勇武なる伊範《イバンス》を送りて、 御身等を助けしめたまへり」。 「伊範《イバンス》萬歳、伊範《イバンス》萬歳」の聲は一齊に童子等の口より起りたり。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第十四囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 諸人の談《はなし》を默聽しゐたる呉敦《ゴルドン》は、是時始めて口を開きて、 「然れども、若し倭東《ワルストン》等がおとなしく斯の島を去ることだに諾《うけひ》かば、 餘輩は必ずしも渠等《かれら》を敵視するを須《もち》ひざるべし」。 伊範《イバンス》「何の謂《い》ひぞや」。呉敦《ゴルドン》「餘の意《こゝろ》は、 若し渠等《かれら》にして其の船を修覆することをだに得ば、 渠等《かれら》直ちに此の地を去りて必ずしも餘等に寇《あだ》する者にあらざるべし、 と謂ふなり、故に餘等若し渠等《かれら》の許《もと》に往きて、 渠等《かれら》が需要する所の修覆の器械は餘等之を貸假《たいか》すべし、 其の代り渠等《かれら》は船を修覆し畢《をは》り次第直ちに斯の島を去るべし、 とかけ合はゞ、渠等《かれら》定めて餘等の言を聽きておとなしく此地を去るべきなり、 然《さ》はおもはずや伊範《イバンス》君」。是れ有理の言なれば、 一同大に然りとおもふ色、面《おもて》に見えたる中に就て、 伊範《イバンス》は「そは誠に理《ことわり》有るの説なり、 然れども諸君は未だ深く倭東《ワルストン》の人となりを知らず、 抑《そ》も渠等《かれら》の人となり、 若し諸君が渠等《かれら》に木匠《もくしやう》器具を貸假《たいか》せむと申出ださば、 渠等《かれら》は之を借りたるがうへ、更らに自餘《じよ》諸物をも併せ奪はむと慾するなるべし、 渠等《かれら》は或は諸君がスロウ號より取り來りて藏しおける貨幣有らむを疑ひて、 之を奪はむと圖るなるべし、諸君或は渠等《かれら》を以て、 我れ先づ助けを渠等《かれら》に貸假《たいか》せむことを申出でなば、 渠等《かれら》は其の恩義に感じて、此の如く惡心をば萠《きざ》さゞるならむと爲す乎《か》、 渠等《かれら》は決して此の如き人理を具へたる者に非ず、且つ渠等《かれら》の缺く所は、 啻《た》だ木匠《もくしやう》器具のみならず、其の硝藥亦た漸《やう》やく空乏せり、 渠等《かれら》は猶ほ、以て諸君を襲撃するに足るほどの硝藥は、之を有せるならむも、 以て久しきを彌《わた》るべきにあらず、故に若し諸君の此の如く硝藥に富むを知らば、 必ず之を讓與されむことを強請するならむ、諸君は之を聽くべきか」。 呉敦《ゴルドン》「否な」。「聽かずば、渠等《かれら》は腕力に藉《よ》りても必ず之れを得むと慾するなるべし、 事此に至らば、到底一戰を免るべからず、既に一千の免るべからざるを知らば、 初めより計《はかりごと》を定めて戰ふの利有るに如《し》かず」。 呉敦《ゴルドン》「御身の言 是《ぜ》なり、餘等の守りを固くして以て寇《あだ》を待つより外に、 復《ま》た爲すべきの策無し」。 「餘が渠等《かれら》に木匠《もくしやう》器具を貸假《たいか》するを以て不可なりと爲すは、 是れ別に他の一個の道理ありてなり。若し渠等《かれら》にして船を修覆し畢《をは》らば、 渠等《かれら》は縱《たと》ひ諸君の恩義に感じて、佛人洞に寇《あだ》することなく、 おとなしく此處《こゝ》を去るとするも、渠等《かれら》は餘等を顧念《こねん》する所なく、 相率ゐて浩然獨り此處《こゝ》を去るべし」。左[田|比;u6BD7]《サービス》「而して、 是れ餘輩に何の關係あるや」。「若しかの傳馬船《てんません》を失はゞ、 餘輩は復《ま》た何に藉《よ》りて斯の島を脱《の》がれ出づるを得むや」。 呉敦《ゴルドン》「御身はかの船を用ひて、以て斯の島を脱《の》がれ出でむと慾するか」。 伊範《イバンス》「勿論、然り」。杜番《ドノバン》「かの小さき船を用ひて、 [水/(水|水);#1-86-86]々《べう?》たる太平洋を横ぎり過《わた》らむと慾するか」。 「かの船を以て太平洋を横過《わうくわ》するとや、否な、 餘輩はかの船を用ひて近き港にわたり着き、此處《こゝ》より更らに便船《びんせん》を求めて、 以て濠洲に還るべし」。馬克太《バクスター》「然れども、 彼が如きこはれ船を以て、數百里の波濤を踰《こ》ゆることを得べきか」。 「數百里と、否な餘輩が航海すべき最近の路程は、三十マイルに出でざるべし」。 杜番《ドノバン》「然らば斯の島を環遶《かんぜう》する所の水は、 大洋にてはあらざりしか」。伊範《イバンス》「島の西方を圍《かこ》めるは然り、 東南北の三方を圍《かこ》めるは然らず」。呉敦《ゴルドン》「さては、 餘等は初めより疑ひたる如く、餘等は眞に大陸を距《さ》る遠からざる處に在りたるか」。 「諸君は從來 何國《いづく》に在りとおもひ居しや」。「太平洋中の孤島に」。 「島は即ち島なり、然れども是れ孤島にあらず、南亞米利加の沿岸に蟻附《ぎふ》したる群島中の一個なり、 諸君は既に種々の名を島内各地に命じたり、島にも亦た其の名を命じたるか」。 「然り餘輩は之に命じてチェイアマン島と曰へり、是れ餘輩が共に學びたる學校の名に取りしなり」。 伊範《イバンス》「チェイアマン島、好し、さらば斯の島は新舊二個の名を荷《にな》ふ者なり、 何となれば、世間には已でに久しくハノーバル島の名を以て傳へ稱せられたればなり」。 説き罷《や》みて伊範《イバンス》は、明日《みやうにち》更らに地圖に照らして本島の所在及び方位のことなど、 詳《つまびら》かに示し語るべしと約して、一同と共に寢所に退きぬ。 呉敦《ゴルドン》及び莫科《モコー》に二童子は、各《おの?》武器を執りて、 洞《ほら》の表裡《へうり》の口に座を占めて、夜を警《いまし》めしが一夜は事無く天明けて、 十一月の二十八日となりぬ。 *    *    *    *    *    *    * 南亞米利加の南盡頭《なんじんとう》に、東のかた大西洋より、 西にかた太平洋に逹して、地骨を横斷して蜿蜒《えん?》奔流する所の、 長さ三百八十マイルに亙る、一道の海峽あり。兩岸連山 掩映《えんえい》して、 高きは拔海三千尺に至る、沿岸港灣多くして、船を泊するに宜しく、 繁《おほ》く茂林《もりん》清川《せいせん》有りて、 到處《いたるところ》汲水《きふすゐ》伐薪《ばつしん》及び獵禽《れふきん》の便を缺かず、 舟子《しうし》の二洋を往復去來する者皆な其のレマイル海峽を過ぐるより捷《ちか》くして、 ホルン岬を、遶《めぐ》るより風波の險《けん》少きを喜びて斯の路に由る者多し。 是れ即ち一千五百二十年有名なる葡萄牙《ポルトガル》の航海者マゼランの發見せし、 所謂マゼランの海峽是れなり。 マゼランが斯の路を初めて發見してより、後五十年にして、 西班牙《スペイン》人始めて此處《こゝ》に來りて、ブランスヰック半島にフハミーン港を創開し、 次で英吉利《イギリス》人來りて、和蘭《オランダ》人來りて、 和蘭《オランダ》人レマイルは、所謂レマイル海峽を發見せり、是れ一千六百十年のことなり。 十七世紀の季《すゑ》より十八世紀の首《はじめ》に至りて、 佛國人亦た多く此處《こゝ》に來り、爾後《じご》有名なる各國航海者の此處《こゝ》に來りし者、 枚擧するに遑《いとま》あらず、殊に近ごろ蒸氣機關の發明ありて、 船は逆風逆潮を懼《おそ》れずして自由に航走《かうそう》するを得るに至りてより、 二洋に去來する者の、斯の路に由る者尤も多し。海峽の北岸はパタゴニア國、 及びキングウヰリアムスランド、ブランスヰック半島の諸地にして、 其の南岸は、即ちテラデルフェーゴ及び其の他の群島なり。 マゼラン海峽の東口は、豁然《くわつぜん》として一大灣を作り、 天空海濶《てんくうかいくわつ》一物の眼界を遮る者なしと雖《いへど》も、 其の西口即ち太平洋に接する所は、小島群布して、小海峽錯流紛糾し、 斯の群布せる小島の一帶は、常に智利《チリ》國の濱邊に平行しつゝ、 點々相逐ひて北に上り、遂にチョノス及びチロー諸島に至りて止む。 伊範《イバンス》は次の日諸童子を集めて、地圖を展《の》べ、 南亞米利加洲南端の地形を指説しつゝあるしが、更らに、其の語を續ぎて、 「看よ、此の如くマゼラン海峽の西口より、北に向ひて、 智利《チリ》國と平行しつゝ走る所の一帶の群小島の中に、 南ケムブリッヂ島と相對し、北は近くマドル島及びチャタム島と相望みて一島あり、 斯の島は南緯五十一度、西經七十四度三十分に在りて、名をハノーバルと曰ふ、 是れ即ち諸君が之にチェイアマン島の名を命じて、二十個月以上の光陰を此に消したる所のものなり」。 呉敦《ゴルドン》「然らば、餘等は智利《チリ》國とは唯だ一 肱《こう》の水を隔てたる處に在りしか」。 伊範《イバンス》「然り然れども諸君が幸ひに對岸の大陸に渡航することを得たりと假定《かりさだ》むるも、 諸君が此より智利《チリ》或はアルゼンチン共和國の市邑《しいふ》に逹せむと慾するには、 更らに數百マイル荒漠不毛の曠野をさまよひ行かざるべからず、 其の疲勞 困頓《こんとん》は蓋し想像の外に在るべし、 加ふるに是等曠野に彷徨する蠻人は、亦た好意をもて諸君を待遇するの主人に非ず、 要するに、諸君が對岸に渡航せず、始終斯の島に留まり居たるは、 諸君のために計るに非常の幸《さいはひ》なりしなり」。 呉敦《ゴルドン》は伊範《イバンス》に向ひて、若しセベルン號の傳馬船《てんません》を得て、 此に藉《よ》りて斯の島を發するとせば、將《ま》さに何《いづ》れの方位に向て其の船を行らむとするやと、 問ふに伊範《イバンス》は直ちに之に答へて、「一直線に南に向て、 勿論餘等は順風を得ば智利《チリ》國の沿岸の何《いづ》れかの一港に逹すること甚だ難からざるべく、 沿岸の居民は親切に餘等を待遇しくるべし、然れども智利《チリ》國の沿岸は曲折出入一ならずして、 船を行《や》るに甚だ危險多し」。武安《ブリアン》「此より南に航走《かうそう》せば、 何等か餘等の故郷に還るべき便宜を得べき地に至るべきか」。 「然り、試みに地圖を看《かん》一 看《かん》せよ、 餘等は此より南に下りて、スミス海峽に至り、斯の海峽を過ぎば、 何の處に出づべきや、即ちマゼラン海峽の西口に出づべし、 此處《こゝ》にタマルと呼べる一港あり、餘等若し此の港に逹するを得ば、 定めて歸國の便船《びんせん》を得るに難からざるべし」。 武安《ブリアン》「若しタマル港に於て急に便船《びんせん》を得る能はずば」。 「マゼラン海峽の中に入りて、行くこと少許《せうきよ》すれば、 即ち左にブランスヰック半島を得べし、半島にフホーテスキウ灣ありて、 灣にガーラント港あり、去來の船の屡《しばし》ば下碇《かてい》する處なり、 又た更らに進みて、半島の南端フロワード岬を遶《めぐ》れば、 即ちブウゲヰンビール灣あり、海峽を去來する船の最も多く投泊《とうはく》する所なり、 又た更らに進めば、フハミーン港あり、パンタアレナあり」。 伊範《イバンス》の説 是《ぜ》なり、彼等一たびマゼラン海峽の内にさへ入ることを得ば、 其の濠洲或はニウジランドに行くの途中にある船を索《もと》めて、 之に其の情を語り、附乘《ふじよう》を乞はむは、甚だ難きわざに非ざるべし。 海峽の内にありて、タマル港、ガーランド港、フハミーン港等は皆な貧寒の僻地なると雖《いへど》も、 パンタアレナは富邑《ふいふ》にして、日常必需品より娯樂奢侈の品に至るまで、 件々 略《ほ》ぼ皆な有り、智利《チリ》國正負の創開管轄する所にして、 美麗なる寺院さへあり、其の屋頂《をくちやう》巍然《ぎぜん》として、 茂樹《もじゆ》の上に聳え、海上より之を望み見るべし。 故に童子等の先務は、マゼラン海峽に逹するに在りて、之に逹するには、 かのセベルン號の傳馬船《てんません》を用ひざるべからず。 而して之を用ひむと慾するには、之れ倭東《ワルストン》等の手より分捕りて、 己れの有とせざるべからず。即ち渠等《かれら》と戰ひて之に打ち勝たざるべからず、 然れども之れ、勿論、容易の談に非ず、伊範《イバンス》は童子等と語りて、 此に至れるとき、己れは先づ洞《ほら》の位置を觀て、 倭東《ワルストン》等が來り攻めむとき之を禦《ふせ》ぐべき法を講ぜざるべからずとて、 一同と共に、席を離れて洞《ほら》の内外を巡覽せるが、 洞《ほら》の面《おもて》はニウジランド川に面し、裡《うち》は家族湖の濱を控へ、 窓は直ちに矢間《やざま》をなして、茲《こゝ》に二個の大砲と八個の施條銃《せでうじう》を按排し、 洞《ほら》の中には尚ほ多くの短銃及び刀斧《とうふ》あり、 要するに武器完足糧食豐饒なるを見て、大に喜びしが、 顧みて之を守る所の人を思へば、皆な少年童子にして、 其の齡《とし》十六歳に逹せるは獨り呉敦《ゴルドン》一個あるのみ、 其の他 武安《ブリアン》、杜番《ドノバン》、虞路《クロース》、馬克太《バクスター》、 韋格《ヰルコクス》の五名は、 洞中の長者と稱せらるゝ者なりと雖《いへど》も皆な十五歳に滿つるか滿たざる者にして、 餘は多く筋骨未だ固まらず自から捍《ふせ》ぐことさへ且つ能はざる幼年童子なり、 而して寇《あだ》は七名共に皆な膂力《えよりよく》衆に越え曾《かつ》て幾囘の人殺しをさへ經來りたる倔強の壯歳《そうさい》漢子《かんし》なり、 則ち童子等心如何に勇なるも、到底戸外に於て對等の戰ひをなし得べきに非ず、 故に渠等《かれら》目下の上計はいつまでも、唯だ堅く斯の洞壁の固めを守りて、 以て敵の來るを待つより善きは莫《な》し。 呉敦《ゴルドン》「渠等《かれら》は皆な、眞に一毫の人情をも具へざる兇暴無慚の徒《と》なるべき乎《か》」。 伊範《イバンス》「勿論、然り」。圭兒《ケート》「然れども唯だ一人、 一點の良心未だ全く滅び盡くさゞる者あり、 即ち吾身《わがみ》の一命を救ひくれし福倍《フホーベス》是れなり」。 伊範《イバンス》「餘はその説を首肯し難し、福倍《フホーベス》は或は初めは倭東《ワルストン》等の勸めに遭ひて、 其の夥中《くわちう》に入りし者ならむかも、知るべからざれども、現時に及んで、 亦た倭東《ワルストン》等一輩の惡人にして、彼是の差等あるべしとは思はれず、 近くは渠《かれ》が祿屈《ロック》と共に餘を追ひしを見ずや、其の屡《しばし》ば餘に發銃し、 餘が川に溺れしと誤り信ぜしとき、祿屈《ロック》と共に大に之を喜びしを見ずや、 其の御身を救ひしは、蓋し烹[食へん|任;u98EA]《ほうにん》其の他の事をなさしむるに、 御身を生かしおくことの甚だ便宜あることを、思ひたるを以てなり、 若し倭東《ワルストン》等が斯の洞《ほら》を來り攻めむをりは、 看よ、福倍《フホーベス》は必ず其の先登者の中に在るべし」。 是より數日を過ぎたるが、倭東《ワルストン》等の形影は杳《えう》として、 何等の消息もあらず。伊範《イバンス》は心大に之を怪しみて、 其の何故なるべきをおもひ惑ひしが、是日忽然として思ひあたれる所あり。 武安《ブリアン》及び呉敦《ゴルドン》に向ひて、其の思ふ所を語りて云《いは》く、 「餘をして渠等《かれら》ならしむるも、亦た必ず此の策に出でしならむ、 渠等《かれら》は諸君を以て、己れ等の斯の島に上陸せしことを全く知らざる者となせり、 何となれば、圭兒《ケート》は既に海に死し、餘は既に川に溺れたる者と信じをればなり、 渠等《かれら》は故に以爲《おもへ》らく、 若し渠等《かれら》の一人は突然斯の洞《ほら》に來りて破船《はせん》漂流の人なることを語りて憐れみを乞はゞ、 諸君は必ず親切に之を洞中に向へ納《い》れて、成るべきだけの助けを能ふるならむ、 若し一たび洞中に入るを得ば、隙《すき》を伺ひて内より戸を開きて、 其の侶伴《りよはん》を招き納《い》るゝは、極めて容易なるべく、 若し斯の如くせば多くの力を費やさずして以て洞《ほら》を襲ひ取るを得べしと、 渠等《かれら》は蓋し諸君を力取《りよくしゆ》せむよりも、 寧ろ智取《ちしゆ》せむと慾して、此の如く遲々しをるなるべし」。 「然らば、餘輩は如何にして之を禦《ふせ》ぐべきや」。 「力を以て來らば力を以て之に應ぜむ、 計《はかりごと》を以て來らば計《はかりごと》を以て之に應ぜむ」。 翌日も亦た事無くたちて、既に黄昏《たそがれ》となりたるが、 岩壁の頂きに在りて見張りしヰたる乙部《ウェッブ》及び虞路《クロース》は、 忙がはしく洞《ほら》に走《は》せ歸りて、川の對岸に二個の人の姿ありて、 次第に洞《ほら》のかたに來り近づくよし、を報ぜり。 圭兒《ケート》と伊範《イバンス》とは、急に物置の裡《うち》に身をかくしつゝ、 窓の間より、來り近づける二人を、遙かに望み視るに、 是れ祿屈《ロック》と福倍《フホーベス》の二人なるを知り得たり。 伊範《イバンス》「果して餘の料《はか》る所に違《たが》はず、渠等《かれら》は漂流人のまねして、 斯の洞《ほら》に入らむと慾するなり」。武安《ブリアン》「予等は之を如何にすべき」。 伊範《イバンス》は武安《ブリアン》等の耳に口をよせて、低々《てい?》密語する所あり、 畢《をは》りて己れは圭兒《ケート》と共に物置の一方なる戸棚の内に身をかくしぬ。 此より一二分を過ぎて後、呉敦《ゴルドン》、武安《ブリアン》、杜番《ドノバン》、 馬克太《バクスター》の四童子は、出でゝ川の畔《ほとり》を逍遙せるに、 彼方《かなた》の岸より之を望み見たる祿屈《ロック》福倍《フホーベス》の二人は、 愕然打ち驚きたる面《おも》もちにて、四童子のかたに走《は》せよるに、 呉敦《ゴルドン》等も二人の姿を見て、甚だ其の意外なるに驚きし色あり。 二人はやう?川を渉《わた》りて、此方《こなた》の岸に登りたるが、 疲勞憔悴の情《さま》は其の言貌《げんばう》に顯《あら》はれたり。 杜番《ドノバン》「御身等は何者なるや」。「今朝斯の島の南方にて破船《はせん》したる、 遭難水夫なり」。「英國人か」。「否な米國人なり」。「他の乘組員は」。 「皆な溺れ死せり。唯だ我等二人のみ幸ひにして濱邊に漂着するを得たり、 御身等は何人なりや」。「本島の植民者なり」。「然らば、 御身等願はくば我等に少許《せうきよ》の食物と休息の處とを與へたまはれ、 今朝來我等は一 掬《きく》の水だに、快くは飮むあたはざりき」。 呉敦《ゴルドン》「破船《はせん》水夫は到る處に同胞の助けを求むべき權利あり、 此方《こなた》に來れ」。 祿屈《ロック》は額狹く腮《あぎと》つき出でゝ、一見して恐るべき獰猛の相を具へり、 福倍《フホーベス》は面上 何處《いづく》にか猶ほ一點人らしき相ありて、 祿屈《ロック》の如く兇惡ならず、倭東《ワルストン》が特に渠《かれ》を擇《えら》みしは、 此を以てなるべし。二人は始終極めて巧みに遭難水夫のさまを演じたり、 童子等があまり詳しく問ひつめて、答へに窮するをりは、あまりに疲勞して長く語るに堪へざれば、 少時の休息を許されたしといふに託言《たくげん》して、之を遁る。 然れども渠等《かれら》が始め洞《ほら》に入りしとき、 偸《ひそ》かに四下の模樣を視まはし、其の守備の嚴重にして武器の完足せるを見て、 心大に驚きたる色ありしは、慧眼なる呉敦《ゴルドン》の早くも、 傍《かたは》らより窺《うかが》ひて心に記せる所なりき。 既にして、二人は童子等に導かれて物置の洞《ほら》に入りて、 其の一隅に横臥《わうぐわ》せるが、極めて疲勞したる人の如く、 早くも鼾然《かんぜん》として前後も知らず熟睡せり。 然れども渠等《かれら》が其の睫《まぶた》を合はす前に、 物置に貯へある糧食器物其の他諸具の極めて豐饒なるを見て互に目と目を視あはせて、 十分 懽喜《かんき》の色を顯《あら》はせるは、 亦た呉敦《ゴルドン》の傍《かたは》らより窺ひて心に記せる所なりき。 九時に及ぶ比《ころ》ほひ、莫科《モコー》は二人の寢ねたる反對の隅に來りて、 其の臥床《がしやう》を設けて、眠りに就きぬ。 僞《いつは》り熟睡したる二人は、黒人の子の此處《こゝ》に來り寢ねしことを知りたるも、 更らに之を意に介せず、若し渠《かれ》が聲を發して人を喚ばむとせば、 渠等《かれら》は之を拉《ひし》ぎ殺さむこと、唯だ一擧手の勞なればなり。 かくて又た二時間を過ぎぬ、二人は依然 横臥《わうぐわ》したるまゝ、身動きだもなさず、 莫科《モコー》は二人の或は今夜は此のまゝに過ぎて、明夜を待ちて事を擧げむと慾するに非ずやと、 疑ひはじめぬ。既にして十二時となりぬ、二人は徐々として身を起して、拔き足しつゝ戸のかたに進みよりぬ、 天上より吊るしたる燈籠《とうろう》の光は、明かに二人の擧動を照らし出だしぬ。 物置の戸即ち川に面せるがはの戸は、閂《かんぬき》を堅くさしたる上、 内より大石を積みかけて、之をおさへあり。二人は先づ是等の石を除きて、 方《ま》さに閂《かんぬき》に手をかけぬ。とたんに、一個の鐡碗ありて、 方《ま》さに閂《かんぬき》に手をかけたる祿屈《ロック》の肩を、 背後より捉へ往《とゞ》めぬ。祿屈《ロック》は驚いて首を囘《かへ》すに、 正《ま》さにセベルン號の二等運轉手と面《かほ》を對《あは》しぬ。 「伊範《イバンス》、汝が此處《こゝ》に」。「來れ諸君」。 馬克太《バクスター》虞路《クロース》杜番《ドノバン》武安《ブリアン》の四年長童子は直ちに走《は》せ來りて、 福倍《フホーベス》を捉へたり。祿屈《ロック》は其のうちに伊範《イバンス》の手をふり解《ほど》きて、 戸を推し開くや否や、早くも洞外に跳り出でぬ。 伊範《イバンス》は直ちに銃を把《と》りて、轟然一發、之を撃ちたるが、 丸《たま》は空しく闇中《あんちう》に飛びゆきたるのみ、 何等の手ごたへもなく、祿屈《ロック》は早くも遠く遁れ走りたりと見えて、 足音さへも聞えずなりぬ。「咄《とつ》、到頭取り逃がせり、 然れども猶ほ茲《こゝ》に一人有り」。言ひつゝ腰刀《えんたう》を拔きもちて、 一撃の下に福倍《フホーベス》を斫《き》り殺さむと、ふり擧ぐるに、 福倍《フホーベス》「請ふ饒《ゆる》せ、請ふ饒《ゆる》せ」。 圭兒《ケート》は身を以て福倍《フホーベス》を蔽ひつゝ、「伊範《イバンス》、 請ふ渠《かれ》の命を饒《ゆる》せ、渠《かれ》は曾《かつ》て我身を救ひたり」。 「さらば圭兒《ケート》、今夜は御身の面《おもて》に免じて、 暫らく渠《かれ》を饒《ゆる》すべし」。福倍《フホーベス》を緊《きび》しく縛《いまし》めて、 嚮《さき》に伊範《イバンス》等の潛《ひそ》みたる戸棚の中に禁錮し、再び戸を鎖《とざ》し、 大石を故《もと》の如く積みかけて、一同は武器を執りて、以て天明に至りたり。 翌朝天明くるを待ちて、 伊範《イバンス》は武安《ブリアン》杜番《ドノバン》呉敦《ゴルドン》の三童子と偕《とも》に出でゝ、 洞外の動靜を探るに、洞外には多くの人の靴跡の、 點々往復縱横せるを見るのみ。倭東《ワルストン》等は遠く退き去りしと見えて、 湖畔 川邊《せんぺん》陷穽林のほとり、何等の異なりたる状《さま》もあらず。 厩舎養禽場も、依然として些《すこ》しの攪擾《かくぜう》を被りたる迹《あと》あらず。 然れども渠等《かれら》は何方《いづかた》より來りて、何方《いづかた》に去りしならむ歟《か》。 之を知れる者、若し有りとせば、福倍《フホーベス》の外になし。 四名は洞《ほら》に歸りて、福倍《フホーベス》を戸棚の中よりひき出だし、 索《なは》をゆるべて、廣間の中央に推しすゑつゝ、 伊範《イバンス》「福倍《フホーベス》、汝等の計《はかりごと》は餘輩の猜破《すゐは》する所となりて、 無功に歸したるは、汝の目撃して知る所なり、然れども、 餘輩は猶ほ詳《つまびら》かに倭東《ワルストン》の計る所を知らむことを要す、 汝は必ず之を熟知すべし、餘の問ふに隨《したが》ひて、逐一之に答ふべき歟《か》」。 福倍《フホーベス》は圭兒《ケート》及び諸童子と、面《おもて》を對する愧《は》づる如く、 頭《かしら》を低《た》れて、默然として敢て高き氣息《いき》さへなさず。 圭兒《ケート》「福倍《フホーベス》、御身は嚮《さき》にセベルン號虐殺の最中に、 獨り敢て身を挺して、吾身《わがみ》の命を救ひくれたる善心あり、 御身は今又た其の惻隱の心を發して、斯の十五名の無辜《むこ》の童子等を、 同じ危運の中より救ふに意《こゝろ》無きか」。福倍《フホーベス》は默然として、答へなし。 圭兒《ケート》は更らに語を繼ぎて、「福倍《フホーベス》、 御身の所行は萬死に抵《あた》りたるを雖《いへど》も、 渠等《かれら》は猶ほ御身の命を饒《ゆる》せり、 御身の身の内には、尚ほ一點未だ全く滅び盡くさゞる良心ありて、存するなるべし、 御身が現在行ひつゝある所の罪の恐ろしきを省み思へ」。 福倍《フホーベス》は此に至りて長き大息《ためいき》を洩らしたり、 既にして渠《かれ》は終に口を開きて、「餘は何事をなすべきや」。 伊範《イバンス》「唯だ倭東《ワルストン》が昨夜の計《はかりごと》を詳《つまびら》かに語り聞かせ、 汝《おんみ》は内より戸を開きて、渠等《かれら》を迎へ納《い》れむと謀りしならずや」。 「然り」。「若し渠等《かれら》一たび此裡《こゝ》に入らば、 彼の如く親切に汝《おんみ》を接納待遇せる童子等は、 勿論 渠等《かれら》の毒手に罹りて殘殺さるべからしならむ、非耶《ひか》」。 福倍《フホーベス》の頭《かしら》は益《ますま》す低く埀れて、敢て一聲をも得出ださず、 「倭東《ワルストン》等は何方《いづかた》より、洞《ほら》にしのび近づくべかりしか」。 「湖の北岸より」。「即ち汝《おんみ》と祿屈《ロック》とは、其の南岸より此處《こゝ》に來れるに」。 「然り」。「渠等《かれら》は曾《かつ》て斯の島の西岸に往きしことありや」。 「未だ曾《かつ》て」。「渠等《かれら》は現時 何處《いづく》に在りや」。 「餘は知らず」。「渠等《かれら》が今後の計畫に就て、汝《おんみ》何等か推知し得る所ありや」。 「否な」。「渠等《かれら》は再び此處《こゝ》に返り來るべきか」。「然り」。 伊範《イバンス》は更らに種々 糺《たゞ》し問ふ所ありしが、 渠《かれ》は復《ま》た答ふる能はざりしにぞ、再び之を戸棚の中に禁錮して、 午後に至りて莫科《モコー》をして幾品の食物を送り與へしめしに、 渠《かれ》は一と口も之に觸るゝことをなさず、只だ頭《かしら》を低《た》れて、 沈吟思念しつゝあり。渠《かれ》は何事を思念しつゝあるや、 或は先非後悔といへる如きたぐひのことの、其の頭中に萠動《はうどう》しつゝあるには非ざるか。 目下第一の、亦た唯一の問題は、倭東《ワルストン》等の何方《いづかた》を指して、 何處《いづく》まで退き去りたるべきやといふことなり。 渠等《かれら》は斯の一事を明かにせざる間は、決して片時《へんし》も席に安ずる能はざるなり。 故に、伊範《イバンス》は中飯《ひるめし》を畢《をは》りし後、 洞外に出で行きて、之を偵察せむと慾し、之を童子等に謀るに、 一同直ちにこの議を贊《さん》して、即時其の支度にかゝりたり。 伊播孫《イバーソン》善均《ゼンキンス》土耳《ドール》胡太《コスター》の四幼年者には、 圭兒《ケート》莫科《モコー》弱克《ジャック》及び馬克太《バクスター》を附けて、 之を洞内に留め、自餘《じよ》の年長童子八名は皆な伊範《イバンス》と偕《とも》に、 偵察に出でゆくべしと定められぬ。躬方《みかた》は多く少年童子なりと雖《いへど》も、 尚ほ敵に比して一倍半の衆を有せり、加ふるに各長銃短銃を携へて、武器十分完足せり、 敵は七名の中既に一名を失ひて、六名となれるに、 武器は六名の間に、只だ五個の銃を有するに過ぎず、且つ伊範《イバンス》の語る所に據《よ》れば、 渠等《かれら》の彈藥は、既に漸《やう》やく匱乏《きばふ》して、 餘す所 復《ま》た幾何《いくばく》もなしといふ、 是れ躬方《みかた》の尤も心頼《たのみ》とする所なり。 偵察隊は午後二時、洞《ほら》をたち出でしが、 戸は閂《かんぬき》を施したるのみにして、 復《ま》た石を積みかけず、是れ偵察隊の人が、 急に洞中に退き入らむと慾するをり、開閉に不便なるを以てなり。 渠等《かれら》は慕員《ボウドヰン》の遺骸を葬りたる山毛欅《ぶなのき》のほとりを過ぎて、 灌木 茂樹《もじゆ》の陰をつたひ?、陷穽林の中に進み入れるに、 最先《まつさ》きにたちたるフハンの、耳を張り鼻を地に帖《てふ》して、 頻りに疑はしげなる状《さま》を作《な》すは、 何等の異常の臭《にほひ》を、嗅ぎいだしたるものなるべし。 更らに幾歩を進み行くに、果して一簇の茂樹《もじゆ》の下に、燃えさしたる薪《まき》の折れ、 煙未だ全く絶えざる灰燼《かいじん》堆《たい》あり、 前刻《ぜんこく》まで人の此處《こゝ》に憇《いこ》ひ居たることを示せり。 呉敦《ゴルドン》「疑ひもなく、倭東《ワルストン》等は昨夜を此處《こゝ》に過ごせしなるべし」。 伊範《イバンス》「然り、渠等《かれら》が此處《こゝ》を去りてよりは、未だ一二時間を出でざるべし」。 言未だ全く訖《をは》らず、渠等《かれら》の右邊に一發の銃聲響きて、 丸《たま》は武安《ブリアン》の額を掠《かす》めて飛び過ぎぬ。 殆ど同時に又た一發の銃聲、童子等の隊中に起りて、 次で渠等《かれら》と相 距《さ》る十間 許《ばかり》の右方の茂樹《もじゆ》の裡《うち》に、 アッと叫ぶ聲、ザワ?と人の行動する響聞えぬ。第二の銃聲は、 杜番《ドノバン》が第一の銃聲と其の煙の揚れる處とを目的《めあて》として、 發《はな》ちたる所なり。杜番《ドノバン》は銃を發《はな》つと共に、 フハンを先きにたてゝ、驀地《まつしぐら》に彼の茂樹《もじゆ》のかたに走《は》せゆきたり。 伊範《イバンス》「前へ、前へ、餘等は渠《かれ》一人を敵に委《ゐ》すべからず」。 轉詢《てんじゆん》の頃《けい》に、一同は早くも杜番《ドノバン》に追及して、 共に茂樹《もじゆ》の下《もと》に走《は》せ到るに、 地上に僵仆《きやうふ》せる一個の人あり、呼吸既に全く絶えたり。 伊範《イバンス》「是れ排克《パイク》なり、世界は爲めに一個の惡人を減ずるを得たり」。 杜番《ドノバン》「自餘《じよ》の輩は何處《いづく》に往けるならむ、 必ず未だ遠くは遁れじ」。伊範《イバンス》「然り、 或は近く此の邊《ほとり》に潛《ひそ》めるなるべし。 諸君 跪《ひざま》づけ、高く頭《かしら》を擡《もた》ぐる勿れ」。 忽ち渠等《かれら》の左邊より、一發の銃聲と共に一個の丸《たま》飛び來りて、 將《ま》さに跪《ひざま》づかんとして少しく遲れたる左[田|比;u6BD7]《サービス》の、 右額をかるしたり。呉敦《ゴルドン》「君は傷つかづや」。 「否な眞のかすり傷なり」。雅涅《ガーネット》は俄《には》かに心づきて、 「武安《ブリアン》は何處《いづく》に往ける」。實《げ》に武安《ブリアン》は何處《いづく》に往けるや、 是時フハンは、左邊なる灌木叢《かんぼくそう》のかたを望みて、 一直線に[足|勹&巳;u8DD1]《か》けゆくにぞ、 杜番《ドノバン》等一同は「武安《ブリアン》、武安《ブリアン》」と叫びつゝ、フハンのあとを追ひて、 走《は》せゆきたり。 虞路《クロース》は忽ち身を地上に俯伏《ふふく》しつゝ、「氣をつけ伊範《イバンス》、氣をつけ」。 伊範《イバンス》は直ちに躬《み》をかゞめ頭《かしら》を下げぬ。 説く時遲し、一發の銃丸は、恰《あたか》も伊範《イバンス》が頭上一二寸の處を飛び過ぎぬ。 渠《かれ》は頭《かしら》を擡《もた》ぐるに、一個の敵の、 茂樹《もじゆ》の中を穿ちて遁れゆく背影《うしろすがた》を望み見たり。 是れ昨夜取り逃がしたる祿屈《ロック》なり。伊範《イバンス》は銃を一發せり、 祿屈《ロック》は宛《さな》がら地中に沒したるが如く、[倏,犬@火;u5010]然《しゆくぜん》として姿きえぬ。 伊範《イバンス》「咄《とつ》、再び取り逃がせる歟《か》」。 以上記する所は、是れ唯だ五七秒間の事なりき。 伊範《イバンス》は虞路《クロース》と共に、一同の處に追ひ及ぶに、 フハンは連《しき》りに高く吠えつゝあり、最先《まつさ》きに進める杜番《ドノバン》の聲として、 「武安《ブリアン》、手をゆるべ勿《な》」。伊範《イバンス》は一同と共に、 杜番《ドノバン》の聲を栞《しをり》に、灌木叢《かんぼくそう》の中を進み入るに、 武安《ブリアン》は胡布《コープ》と相 摶《う》ちて、地上に組み伏せられ、 胡布《コープ》は方《ま》さに其の懷刀《くわいとう》を擧げて、 武安《ブリアン》を刺さむとしつゝあり。恰《あた》かも好し、 是時 此處《こゝ》に來到せる杜番《ドノバン》は、兇漢の右の手を捉へて、之を動かさず、 隻手《かたて》に腰を探りて、短銃を抽《ぬ》き出ださむとする、 手のゆるみを伺ひて兇漢は、杜番《ドノバン》の手をふり解《ほど》きざまに、 一刀 杜番《ドノバン》の胸に切りつけたり。さすがに勇膽《ゆうたん》なる杜番《ドノバン》も、 叫び聲さへ得たてず、地に仆《たふ》れぬ。とたんに一同どや?と此裡《こゝ》に來り到れるにぞ、 胡布《コープ》は武安《ブリアン》を打ちすてゝ、北の方に遁れ走りぬ。 韋格《ヰルコクス》、乙部《ウェッブ》、雅涅《ガーネット》等銃をそろへて、之を追ひ撃ちつ、 一二發は、たしかに手ごたへのありし如く覺えしが、終に姿を見うしなひぬ。 武安《ブリアン》は身を起すや否や、直ちに杜番《ドノバン》のほとりに走《は》せよりて、 其の頭《かしら》を抱き起し、之を呼び活《い》けむと勉めたるが、 杜番《ドノバン》は僅《わづ》かに氣息《いき》の通へるのみにて、 昏々として人事を辨せず。伊範《イバンス》は手ばやく、童子の襯衣《シヤツ》の、 胸のほとりを破り開きて、其の創《きず》を檢《けん》するに、 創《きず》は左胸第四肋骨の邊に在り、幸ひに心臟をば外れたりと見えて、 童子は猶ほ氣息《いき》を呼吸しをり、然れども其の呼吸の力の甚だ微弱なるは、 或は肺を傷つけられしならずやとの懼《おそ》れあり。 呉敦《ゴルドン》「兎に角に、佛人洞につれ歸らざれば、何事をなさむやうも無し」。 武安《ブリアン》「餘等は必ず渠《かれ》を救はざるべからず、 嗚呼、渠《かれ》は餘の危きを救ふがために、斯の創《きず》を得たり」。 伊範《イバンス》は、接戰の初めより倭東《ワルストン》、 武蘭《ブラント》及び武婁《ブルーク》の三名が曾《かつ》て其姿を見せざるは、 頗《すこぶ》る怪訝《くわいが》に堪へざる所なるも、兎に角に、 杜番《ドノバン》を斯のまゝに捨ておきて、戰ひつゞくべきにあらざれば、 呉敦《ゴルドン》等の説に從ひて、一たび洞《ほら》に歸ることゝ定め、 諸童子と共に、木の枝を採聚《さいしう》して、 一個の擔架を編成し、杜番《ドノバン》を其の上に穩臥《をんぐわ》せしめて、 四人は之を舁《かつ》ぎ、他の四人は其の左右を警衞《けいゑい》して、 徐々 洞《ほら》のかたに歸りゆきたるが、杜番《ドノバン》は擔架の行動するにつれて、 其の撞觸《どうしよく》の創《きず》に響きて、疼痛《とうつう》堪ふべからざりと見え、 時々錐をもむやうなる苦[口|金;u552B]《くぎん》の聲を發するにぞ、 暫らく休みては、復《ま》た行きつ、やう?路の四分の三を歩み畢《をは》りて、 佛人洞を距《さ》る一二町の處まで歸り來れり。 然れども、洞《ほら》の口は、岩壁の出はなの陰になりをれば、未だ見えず。 忽ちニウジランド川のかたにあたりて、童子等の叫ぶ聲聞えぬ。 フハンは驀地《まつしぐら》に聲する方《かた》に奔《は》せ去りぬ。 疑ひもなく、是れ倭東《ワルストン》及び其の侶伴《りよはん》の幾名が、 路を迂《う》して川の畔《ほとり》に出で、この方面より洞《ほら》を攻撃しつゝあるなり。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21 十五少年 : 第十五囘 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- 後に及で考ふるに、事實は即ち是の如くなりき。 祿屈《ロック》胡布《コープ》排克《パイク》の三名が陷穽林の中にありて、 偵察隊を狙撃して、其の心を一方に惹ける間に於て、 他の一方にありて、倭東《ワルストン》武蘭《ブラント》武婁《ブルーク》の三名は、 徒矼川の川とこの水涸れて乾道《かんどう》をなせるをつたひて、 潛《ひそか》に岩壁の上に攀ぢ、岩壁の頂きを徑《わた》りて、 ニウジランド川に面せる物置の洞《ほら》の口のほとりに下りて、 乃ち驀然《ばくぜん》洞《ほら》の中に闖入したりなり。 伊範《イバンス》は洞《ほら》のかたに常ならぬ叫び聲の聞ゆるより、 虞路《クロース》乙部《ウェッブ》雅涅《ガーネット》の三名を杜番《ドノバン》に附けて、 そこに留めおきつ、己れは呉敦《ゴルドン》武安《ブリアン》左[田|比;u6BD7]《サービス》韋格《ヰルコクス》の四名と共に、 捷路《せふろ》を求めて一直線に洞《ほら》のかたに走《は》せ到れば、 時は已でに遲かりき。倭東《ワルストン》は一個の童子を奪ひ取りて、 之を小脇に抱きつゝ、方《ま》さに洞《ほら》の内より走り出づるに、 後より圭兒《ケート》の追ひすがりて、 之をとり還さむと、空しく[手へん|爭;u6399]扎《さうさつ》しつゝあり。 童子は是れ弱克《ジャック》なりき。次て洞《ほら》より走《は》せ出づるは武蘭《ブラント》にして、 亦た胡太《コスター》を小脇に抱きをり。馬克太《バクスター》が後より走《は》せかゝりて、 之を奪ひ還さむと爭ひたるが、武蘭《ブラント》のために推《すゐ》一 推《すゐ》せられて、 地上にドウと仰ぎ仆《たふ》れぬ。 然れども、莫科《モコー》及び其の他の童子は、曾《かつ》て姿を現はさず。 渠等《かれら》は皆な傷つけられ或は殺されて、洞中に横臥《わうぐわ》し居るに非ざることを得むや。 倭東《ワルストン》武蘭《ブラント》は、既に川のほとりに走り近づきぬ。 渠等《かれら》は川に來りて、何をか爲さむとする。 更らに眸《ひとみ》を轉じて川の面《おもて》を視れば、川には武婁《ブルーク》の、 洞中より短艇《ヤウル》を曳き出だし來りて、 之を川に泛《うか》べ、以て二人の下り來るを待ちてをり。 若し渠等《かれら》にすて一たび彼岸に渡り畢《をは》らば、復《ま》た之に追ひ及ぶこと難かるべく、 渠等《かれら》は二個の人質をとりて、悠々巨熊岩下の其の栖居《すみか》に歸りて、 意《おもひ》のまゝに我れを苦しめ、我れを虐ぐるなるべし。 然れども、伊範《イバンス》等は其の或は二童子を傷けむことを懼《おそ》れたれば、 銃を發すること能はず。伊範《イバンス》は四童子と共に、 足を限りに走《は》せたるが、倭東《ワルストン》武蘭《ブラント》は既に川の岸に上れり。 是時電光の如くそこに走《は》せ到りたる獵犬フハンは、武蘭《ブラント》の喉《のんど》を目がけて飛びかゝれるにぞ、 武蘭《ブラント》は驚き慌てながら、胡太《コスター》を捨てゝ之を防ぎ、鬪ひたり。 倭東《ワルストン》は仍《な》ほ弱克《ジャック》を曳きずりつゝ、 岸のかたに進みゆくに、是時亦た突如として、 洞《ほら》の内より跳り出でゝ此方《こなた》に[足|勹&巳;u8DD1]《か》け來る者あり。 倭東《ワルストン》を首《かうべ》を囘《かへ》して之を視るに、是れ福倍《フホーベス》なりき。 倭東《ワルストン》は大に喜びつゝ、「此方《こなた》へ來れ、福倍《フホーベス》此方《こなた》へ」。 福倍《フホーベス》は倭東《ワルストン》のほとりに既に近づきしが、 物をも言はず倭東《ワルストン》に飛びかゝりて、弱克《ジャック》を奪ひ還さむとす。 倭東《ワルストン》は意外の襲撃に、覺えず弱克《ジャック》をはなせしが、 直ちに其の懷刀《くわいとう》を揮《ふる》ひて以て、 深く福倍《フホーベス》の腹を刺せり。是れ實に轉瞬間の事なりき、 伊範《イバンス》及び四童子は猶ほ相 距《さ》る五六十間の處にあり、 武蘭《ブラント》は纔《わづか》にフハンの襲撃を免がれて、 既に武婁《ブルーク》と共に短艇《ヤウル》の中に在り。 倭東《ワルストン》は武蘭《ブラント》の胡太《コスター》を失ひしを見て、 益《ますま》す弱克《ジャック》の必獲せざるべからざるを、思ひつゝ、 福倍《フホーベス》を殪《たふ》したる後、忙がはしく臂《ひじ》を伸べて、 再び弱克《ジャック》を捉へむとするに、弱克《ジャック》は此の間に、 かねて藏《かく》しもちたる連發短銃を取り出だして、 正《ま》さに臂《ひじ》を伸べて近づき來る倭東《ワルストン》を望みて、 轟然一發せり。ねらひは失《あや》またず、正《ま》さに倭東《ワルストン》の胸のたゞ中を射たるにぞ、 渠《かれ》はよろ?と却《しりぞ》き走りて、短艇《ヤウル》の中にまろび入りぬ。 短艇《ヤウル》の中なる二惡漢は驚き慌てつゝ、倭東《ワルストン》等を扶《たす》け入れたるまゝ、 彼岸《かのきし》をさしてこぎ出だしぬ。 忽ち轟然耳を聾するばかりの凄まじき聲起りて、洞《ほら》の口に煙揚ると見えしが、 川の中流までこぎ去りたる、三惡漢を載せし短艇《ヤウル》は、忽ち散彈に掩はれて、 三惡漢は叫苦《けうく》の聲さへ發するの及ばず、水中に顛落して見えずなりぬ。 是れ莫科《モコー》が物置の洞《ほら》より、かねて備へありし大砲を發《はな》てるなりき。 今はセベルン號の惡漢等は悉く亡びて、 僅《わづ》かに向《さ》きに陷穽林中にて其の往くへを失ひたる祿屈《ロック》胡布《コープ》の二人を餘ますのみ。 一同は少時の間に、非常の困厄《こんやく》より、一轉して俄《には》かに非常の安心の境《さかひ》に入りにしぞ、 皆な氣拔けしたるが如く、暫《しば》し茫然としてありしが、 武安《ブリアン》は第一に我れにかへりて、杜番《ドノバン》の擔架を留めおける處に往きて、 虞路《クロース》等に詞《ことば》短く事の始末を告げつ、 負傷者をかつぎて、洞《ほら》に歸り來るに、 此の間に伊範《イバンス》等は福倍《フホーベス》を洞《ほら》に扶《たす》け入れて、 杜番《ドノバン》と同じく、床《とこ》の上に安臥《あんぐわ》せしめぬ。 是夜は終夜、一同負傷者の枕頭《ちんとう》に侍《じ》して看護せるが、 杜番《ドノバン》は依然昏々として人事を辨ぜず。 圭兒《ケート》は先づニウジランド川のふちに繁生《はんせい》する赤楊《はんのき》の葉を摘み來らしめ、 之を春《つ》きて煉り藥のやうにし、之を用ひて其の創《きず》を裹《つゝ》みたり、 是れ内部の[火|欣]衝《きんしよう》を未だ興らざるに止むる妙劑にして、 亞米利加に於て尤も多く用ひらるゝ所のものなり。圭兒《ケート》は亞米利加に人となりたれば、 善く斯の樹の葉の著效あることを知りて、之を用ひしなり。 福倍《フホーベス》に至りては、深く丹田《たんでん》を刺されたれば、 到底救治すべやう無し。渠《かれ》も自から其の死期の既に近づけるを知りしか、ふと目を開きて、 圭兒《ケート》の極めて愁《うれ》はしげなる顏をして己れを俯瞻《ふせん》しをるを見て、 かすかなる聲を出だして、「多謝、圭兒《ケート》、多謝、然れども勿れ、 餘は最早やこの世の人にあらず」。嗚呼、斯の人や一たび誤りて邪路《じやろ》に迷ひ、 惡人の夥《なかま》に入りたりと雖《いへど》も、 一點の良心猶ほ未だ全く滅び盡くさゞる者あり、 童子等が最後の危急に臨みて、飜然として本然《ほんねん》の性《せい》にかへり、 遂に其の一命を擲《なげう》ちて、以て一同を救ひしなり。 伊範《イバンス》「しかく沮喪する勿れ福倍《フホーベス》、 汝《おんみ》は既に自から汝《おんみ》の罪業を償《つぐな》ひたり、 汝《おんみ》は必ず長生《ちやうせい》すべし」。然れども渠《かれ》の運命は既に定まりたりき、 一同が及ぶ限りの力を盡して介抱せしにも拘はらず、 次第に衰へ弱りて、午前四時、竟《つひ》に其の最後の氣息《いき》を呼吸せり。 日出《につしゆつ》を待ちて、一同は之を慕員《ボウドヰン》の墓の隣に葬りて、 ねもごろに弔祭《てうさい》したりしが、 渠等《かれら》は猶ほ祿屈《ロック》と胡布《コープ》との生死を審《つまびら》かにせざる間は全く心を安ずる能はざるにぞ、 伊範《イバンス》は呉敦《ゴルドン》武安《ブリアン》馬克太《バクスター》韋格《ヰルコクス》の四童子と共に、 朝飯《あさはん》を終れる後、フハンを從へて、二人の往くへを探索に、 出でゆきしが、探索すること未だ幾ばくならずして、 渠等《かれら》は直ちに二人の死體を陷穽林中に發見せり。 胡布《コープ》は初め丸《たま》に中《あた》りたる處より、 五十間 許《ばかり》を隔てたる雜草裡《ざつさうり》に斃《たふ》れをり、 祿屈《ロック》は韋格《ヰルコクス》の多く掘りおきたる陷穽《かんせい》の、 一個の中に陷りて死してをり、是れ渠《かれ》の姿の、忽焉《こつえん》沒して見えずなりし所以なり、 二人の死體は、排克《パイク》の死體と共に其の陷穽《かんせい》中に投下して、 之を埋却せり。 五名は洞《ほら》に歸りて其の探索の結果を報ずるに、 一同は再び是等惡漢のために攪擾《かくぜう》せらるゝの憂《うれへ》無きことを知りて、 大に喜び、且つ安心せるが、安心し難きは杜番《ドノバン》の容體なり。 更らに惡きかたに赴く、といふには非ざるも、絶て快《よ》きかたに向ふさま無く、 依然昏々として人事を辨ぜず。 翌日 伊範《イバンス》は武安《ブリアン》及び馬克太《バクスター》と共に、 短艇《ヤウル》に駕《が》して家族湖を渡り、東方川を下りて、 倭東《ワルストン》等が舊《もと》の宿處《しゆくしよ》に來りて、 セベルン號の傳馬船《てんません》を索《もと》むるに、 船は巨熊岩下の沙場の上に曳きあげたり。 三個は其の破損處を檢《けん》するに、若し空船《からふね》として曳きゆかむには、 猶ほ浮泛《ふへん》航行に堪ふべからざるに非ざれば、之を短艇《ヤウル》の尾《しり》に曳きて、 再び川を遡《のぼ》り湖を渡りて、是日の夜半過ぎに、 無事ニウジランド川の埠頭に歸り着きぬ、 洞《ほら》に歸りて、一同の第一に語《つ》ぐるを聞けば、今朝來 杜番《ドノバン》の容體大に宜しく、 知覺もやう?復《かへ》り來り、呼吸も少しく長く引くことを得るやうなりしと云ふ。 是れ蓋し杜番《ドノバン》が平生身體壯康なると、 赤楊《はんのき》の葉の貼劑《てふざい》の奇效ありしとに由るものにして、 此の分にて進み行かば、日子《につし》をこそ多く要すれ、 終には必ず全癒の望みあるべきが如し。 次の日より、一同は傳馬船《てんません》の修覆に着手せり。 船の長さ三十尺に餘りて、幅亦た之に稱《かな》ひたれば、 之を修覆し完《まつた》くせば、十五少年と伊範《イバンス》と圭兒《ケート》の兩人とを、 載せて航海せむことは、其の堪へ得ざる所にあらず、 伊範《イバンス》はかねて木匠《もくしやう》的熟練あれば自から棟梁となりて工事を總領し、 馬克太《バクスター》之を副となり、他の諸童子之を助けて、孜々《しゝ》其の功を急ぎしが、 木材はかねてスロウ號と解きたるを、童子等の丁寧に仕舞ひおきたるがあれば、 堅材《じゆざい》、横材《わうざい》、平板、支柱、件々具有せざるなく、 又た木材の縫處《ぬひめ》を固むるには、 かねて藏《かく》しおける[土|眞;#1-15-56]絮《まきはだ》をタールもて再煮して、 之を用ひぬ。船の半ばまでは甲板にて張りつめ、 以て風濤《ふうたう》を避くるに便せり、此のころの季節に於て、 此の邊の海にありて、風濤《ふうたう》の憂《うれ》へへ甚だ少しと雖《いへど》も、 是れ萬一を慮《おもんぱ》かりてなり。伊範《イバンス》は又た、 童子等がスロウ號より收めおきし、帆類《はんるい》を取り出だして、 斯の單檣船《スループ》に船尾帆《スパンカー》、トップセイル、 船首三角帆等の諸帆を裝備せり。三十日 許《ばかり》を閲《けみ》するほどに、 修覆は一切出來あがれり。兎角するうちに、童子等が斯の島にて享《う》くべき、 最後のクリスマス及び千八百六十二年の元日は、來たりて復《ま》た去れり、 此のごろは杜番《ドノバン》も天氣清和なる日には、杖にすがりて戸外を、 少時は散歩すること能ふまでになれり。然れども一同は、 渠《かれ》が十分 復常《ふくじやう》して氣力 強旺《がうわう》になるまでには、 決して斯の島を解纜《かいらん》せじと決意せり。 正月の下半月は、傳馬船《てんません》につみ入るべき貨物の選擇の日を消《せう》せり、 諸童子は、勿論其の有せる所のものを、悉くつみ入れたしと希《こひねが》ひしが、 船の廣さは到底之を許さず。渠等《かれら》が第一に先づ選取せしは金貨なりき。 是れ渠等《かれら》が歸國の途中、到る處に第一必要のものなるべければなり。 次に選取せしは、十七名が若干週間を支ふべき食物なり。 次に武器彈藥。次に被服。次に書籍。次に烹[食へん|任;u98EA]《ほうにん》器具及び食器。 次に望遠鏡風雨計等の類より護謨舟《ゴムぶね》釣絲《つりいと》等に至る。 二月三日には、一切の貨物悉く傳馬船《てんません》につみ入れられぬ。 杜番《ドノバン》の創《きず》も殆ど全く癒えて、此より渠《かれ》に憂ふべきは、 唯だ其の或は過食せむ一事のみ。氣力は未だ全く復常《ふくじやう》せざれども、 既に航海に堪へざるほどには非ざるがうへ、渠《かれ》も亦た之を促して已まざれば、 遂に解纜《かいらん》は五日の朝と定められぬ。解纜《かいらん》の前夕《ぜんせき》、 呉敦《ゴルドン》は厩舎の戸を開きて、ラマ及びヴィクンヤの諸獸、 及び七面鳥其の他 渠等《かれら》が久しく丹誠こめて養ひおきし諸種の鳥を放ちたるに、 渠等《かれら》は戸を開かるゝや否や、其の脛《すね》の走り能ふ限り、 其の翼の飛び能ふ限り、全速力を以て八方に走飛し去れり。 雅涅《ガーネット》「不記恩的の動物、餘等が久しく心を留めて養ひやりし勞も思はで」。 左[田|比;u6BD7]《サービス》「世事皆な此の如し」。 左[田|比;u6BD7]《サービス》の口氣《こうき》のあまりに老人じみたるに、 一同ドッと噴きいだせり。 翌五日は朝まだきに起き出でゝ、一同乘りこみの支度せり、 杜番《ドノバン》は船尾に、伊範《イバンス》の傍《かたは》らに坐を占めぬ。 伊範《イバンス》は此處《こゝ》にありて、舵を操るといふ。 武安《ブリアン》は莫科《モコー》と共に船首に坐して、帆を掌《つかさ》どる。 其の他諸人は、各自おもひ?に占坐せり。既にして船は纜《らん》と解けり。 一同は佛人洞に向て、三 疊《でふ》の讚呼《さんこ》の聲を揚げて、 之に別《わかれ》を告げぬ。船は徐《おもむ》ろにニウジランド川を下りゆけり、 アウクランド岡は次第に岩樹の背《はい》に沒して見えずなれり、 童子等は皆な愁然《しうぜん》としてなごり惜しげに、之を目送せり。 川の流《ながれ》の緩慢なるに、進潮《しんてう》の間は船を停めて休止せざる能はざれば、 進行は甚だ遲々として、其のスロウ灣に逹したるは、日已でに沒したる後なりき。 杜番《ドノバン》は船の沼澤林の下《もと》に繋泊《けいはく》せる間に、 船の上より二隻の鴨《かも》を射獲せり。渠《かれ》は初めて銃を放ちたるとき、 病苦は銃聲と共に體を離れて、發散し盡くしたるやう、覺えたりと語りたり。 翌朝 渠等《かれら》はスロウ灣を拔錨《ばつべう》して、船尾帆及び船首三角帆を挂《かゝ》げて、 南方に乘り出だせるが、八時間の後は、島の南端たる南岬を遶《めぐ》りて、 ケムブリッヂ島の岸を洗ふ所の海峽に入りたるが、 仍《な》ほもアデレイド島の濱邊に沿ひて、南方に駛走《しそう》するほどに、 チェイアマン島は早くも北方地平線の下《もと》に沒して見えずなりぬ。 幸ひにして天氣清和なりしにぞ、二月十一日には、既にスミス海峽を過ぎて、 マゼラン海峽の口に入りたり。右方には聖《シント》アーン山高く聳え、 左方にはボウフホルト灣の窮まる處に、 數個の戴雪の嶺、參差《しんし》駢頭《へいとう》するを見る、 嚮《さき》に武安《ブリアン》が欺瞞灣より望み見たりし白點は、 即ち是等諸嶺の中に最高なるものなりしなり。船上の人は皆な壯健にして、 杜番《ドノバン》は眠食《みんしよく》益《ますま》す佳《か》なり。 翌十二日は、タマル島の前に來りしが、是時タマル港は荒廢して、 人の住む者無ければ、渠等《かれら》は空しく此處《こゝ》を過ぎて、 南東に向ひて、海峽を乘りゆきたり。一方には、デソレーション島の、 平[匚&扁]《へいへん》不毛の陸影 蜿蜒《えん?》し、他の一方には、 岩嘴《がんし》出入《しゆつにふ》參差《しんし》せるクルーカー半島の濱邊見ゆ。 伊範《イバンス》の意《こゝろ》は、フロワード岬を過ぎ、 ブランスヰック半島の濱邊に沿ひ、パンタアレナまで往かむと慾したりしなり。 然れども、渠等《かれら》は復《ま》た遠く駛行《しかう》するを須《もち》ひざりき。 翌十三日の朝、偶《たまた》ま船首に在りし左[田|比;u6BD7]《サービス》は、 忽ち叫び出だせり、「看よ、餘等の右舷に一道の煙が」。 呉敦《ゴルドン》「蓋し漁人《ぎよじん》の火なるべし」。 伊範《イバンス》「否な、是れ汽船の煙なるべし」。 いち早く檣頭《しやうとう》に登りたる武安《ブリアン》は、「汽船、汽船」。 既にして船の形《かたち》望み見るべくなれり、船は蓋し八九百 噸《トン》を容《い》るゝなるべし、 正《ま》さに一時間十一二マイルづゝを走りをれり。 童子等は一齊に懽呼《くわんこ》の聲を揚げながら、手に?銃を把《と》りて、 連《しき》りに之を續け發《はな》てり。汽船は直ちに我が銃聲を聞き、 我が船を見たり。十分間の後は、童子等の單檣船《ボート》は、 汽船の舷下に繋ぎ往《とゞ》められぬ。汽船の名をグラフトン號と呼び、 將《ま》さに濠洲に往かむとするものなり。船長ロングは童子等を本船に移して、 其の遭難始末を問ひたるが、一昨年スロウ號失踪の事は、 當時英米の新聞紙上に喧傳せし所にして、船長もかねて之を稔知《ねんち》し居たれば、 さま?゛に童子等をいたはりたるがうへ、己れの往かむと慾するはメルボルンなれども、 路を變じて此よりアウクランドに直行し、以て童子等を其の故郷に送還しやるべしといひ出せり。 此より航海は迅速且つ平穩にして、同じ月の二十五日には、 無事アウクランド灣に到着して、錨を投じぬ。顧みれば十五少年が、 一昨年二月十四日の夜、此處《こゝ》を流れ出でゝより、今に至りて、恰《あた》かも滿二年なり。 童子等の父母が、十五少年の皆な無事歸國したることを聞知《ぶんち》せるときの、 歡天喜地《くわんてんきち》のの状《じやう》は、何等の詞《ことば》を以てするも、 決して之を形容すること能はず。曰く十五少年皆な無事にして、一人も缺けたるなしと。 新聞は電光の如く、闔市《かうし》に遍播《へんぱ》せり、 闔市《かうし》の人は皆な、十五少年の過ぐるを觀むと慾して、戸外に出でぬ。 人が皆な聽かむことを慾するは、十五少年が漂流の始めより其の歸國の終りに至るまでの歴史なり。 杜番《ドノバン》は幾囘の講和會を開きて、其の顛末を講和せり。 聽衆は毎囘場に滿ちて、外に溢れぬ。馬克太《バクスター》が丹誠をつみて筆録しおきし、 漂流中の日記は出版されぬ。幾千又た幾千は、只だニウジランドの讀者社會の需要を充たすがためのみに、 消えゆけり。幾ばくもなく日記は佛、獨、伊、露、及び日本の各國語に譯されて、 各國の都邑《といふ》に現はれたり、各國の讀書社會は皆な先賭《せんと》を快《くわい》となして、 之を爭ひ贖《あがな》へり。抑《そ》も呉敦《ゴルドン》の愼慮《しんりよ》、 武安《ブリアン》の慈愛、杜番《ドノバン》の勇武、其他一同の耐忍剛毅、 孰《い》づれか讀む者をして敬意を起さしめざらむや。 圭兒《ケート》及び伊範《イバンス》が、如何に一同に歡迎感謝されしかは、 必ずしも贅《ぜい》するを須《もち》ひず。アウクランドの市民は、 伊範《イバンス》の爲めに義捐金《ぎえんきん》を募集して、一隻の美しい商船を買ひ、 之にチェイアマン號の名を命じて、以て之を渠《かれ》に贈れり、 唯だ之を贈るときの約束に、渠《かれ》は必ずアウクランドを以て其の故郷となすべしとのことなりき。 伊範《イバンス》は固《もと》より喜んで斯の約束に從ひたり。 圭兒《ケート》に至ては、武安《ブリアン》雅涅《ガーネット》韋格《ヰルコクス》等の父母、 各《おの?》其の家に客とせむと慾して、互に相爭ひしが、 渠《かれ》は遂に杜番《ドノバン》の家に引きとられぬ。 蓋し杜番《ドノバン》の一命は、全く渠《かれ》の介抱によりて救はれたりと謂はむも、 不可なければなり。 餘輩が諸君と共に、斯の十五少年の漂流譚を讀みて、學び得る所の訓《をし》へは即ち、 愼慮《しんりよ》慈愛勇武の三者有りて、之に兼ぬるに耐忍剛毅の徳を以てすれば、 人生何の難か排すべからざらむ、何の紛か解くべからざらむ、といふことなり。 [目次] [前] [次] ------------------------------------------------------------------------------- osawa 更新日:2004/02/21