十五少年 : 目次
タイトル:十五少年 (明治廿九年,1896), Deux Ans de Vacances (1888)
著者:ジュウールス・ヴェルヌ (Jules Verne, 1828-1905)
譯者:森田思軒 (1861-1897)
底本:現代日本文學全集第三十三篇,少年文學集
出版:改造社
履歴:昭和三年二月二十五日印刷,昭和三年三月一日發行
十五少年
ジュウールス・ヴェルヌ 著
森田思軒 譯
例言
一 是篇は佛國ジュールス ヴェルヌの著はす所『二個年間の學校休暇』を、英譯に由りて、重譯したるなり。
一 譯法は詞譯を舍てゝ、義譯を取れり、是れ特に逹意を主として修辭を從としたるを以てなり。
一 篇中の繡像は多く漣君の意匠を煩はせり。
餘が原書にある所を擇取して以て畫工の考に資する者、亦一二はあり。
明治廿九年十一月廿八日夜根岸の僑居に居て
思軒居士
目次
- 第一囘 大あらし
○太平洋心の一孤舟 ○只だ是等の童子のみ ○陸影 ○船首の叫聲
- 第二囘 ニウジランドの一 黌舍
○暑中休暇 ○十四名の生徒 ○解纜の前夜 ○沙嘴の上
- 第三囘 四邊の觀察 ○船中の食糧器具 ○灣北の岬
○海豹 ○ペンギン ○東方の一條の淺碧色 ○新に派せられたる四名の遠征委員
- 第四囘 東方一面の茂林 ○岸壁の背後
○小川 ○徒矼 ○人の手もて作れる小舍 ○湖 ○第二の小川 ○繋舟所 ○舟材の斷片 ○樹皮の上に彫られたる數個の字
○一大洞居 ○前住者の遺物 ○本島地圖
- 第五囘 會議 ○移居の準備 ○船體の解きほどき
○筏の編成 ○貨物の裝載 ○解纜 ○佛人の洞 ○駝鳥 ○石中の怪しの聲 ○フハンの失踪 ○一變事
- 第六囘 新洞の發見 ○怪物の本體 ○新宅の經營
○命名式 ○太守の選立 ○冬ごもり ○採薪 ○スロウ灣訪問 ○洞内の商議
- 第七囘 烈風 ○車の製作 ○駝鳥の乘りならし
○探征隊の發程 ○第一夜 ○停宿川 ○家族湖の北端 ○さびしき夢 ○酒の木と茶の木 ○第三夜 ○野獸の來襲
○未來の乳母と未來の良馬 ○歸着 ○兄の情
- 第八囘 厩舍の建作 ○砂糖の木 ○狐がり
○スロウ灣遠征 ○異樣なる馬車 ○海豹の油 ○基督 誕辰祭 ○來冬の準備 ○東方遠征論
○探征艦の拔錨 ○東方川 ○兩岸の風光 ○欺瞞灣 ○巨熊岩上の眺望
○雲耶山耶 ○弱克の懺悔 ○無言の航行
- 第九囘 報告 ○南澤の一邊 ○珍禽異鳥
○杜番の人望 ○環投げの戲 ○口論に次げる拳鬪 ○傳書燕 ○六月十日の選擧 ○陰氣なる冬 ○氷すべり
○霧中の人影
- 第十囘 二童子の歸來 ○弱克の迷路
○恐ろしき道づれ ○杜番の義務 ○湖畔の露營 ○四子の分離 ○東方川の畔の樹下の一夜 ○新宅の選擇
○欺瞞灣頭の新植民地 ○巨熊港 ○北部探征 ○北方川 ○貘
○山毛欅林 ○大あらし ○破れたるボートの二個の人體
- 第十一囘 闇中の討論 ○天明 ○死體の失踪
○桑港の一商船 ○佛人洞の掛念 ○大紙鳶の製作 ○林中の一婦人 ○圭兒の物語 ○七個の殺人賊
○夜中の航行 ○岸上の火光 ○亞米利加虎 ○親切の温と倨傲の氷 ○四童子の復歸
- 第十二囘 洞中の情況 ○洞外の形勢 ○人心恟々
○圭兒の發案 ○武案の沈吟 ○新式の空中飛行機 ○夜中の試驗 ○弱克の懺悔 ○漂流の原因 ○空中旅行
○遠近二種の火光 ○紙鳶の線斷れたり
- 第十三囘 武案の復命
○胡太の恙 ○傳書燕の歸來 ○人心の沮喪 ○ラマの死體 ○一個の煙管 ○無風無雨の大あらし
○戸外の叫聲 ○濡れくたれし一漢子 ○伊範の物語 ○大苦戰
- 第十四囘 セベルン號の傳馬船 ○ハノーバル島
○説明と講釋 ○マゼラン海峽 ○將來の計畫 ○目下の防禦 ○力取乎智取乎 ○二個の漂流水夫 ○夜半の活劇 ○圭兒の慰解
○福倍の糾問 ○偵察隊の出發 ○第一第二の銃聲 ○武案の失踪 ○杜番の負傷
○洞邊の叫聲
- 第十五囘 二個の人質 ○危一髮
○福倍の改心 ○轟然一聲 ○林中の探索 ○杜番の容體 ○傳馬船修復工事 ○二月五日 ○三疊の讚呼
○煙波渺々 ○マゼラン海峽の航行 ○グラフトン號 ○歸國 ○餘輩が學び得たる訓言
地圖
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第一囘
一千八百六十年三月九日の夜、彌天の黒雲は低く下れて海を壓し、
闇々濛々咫尺の外を辨ずべからざる中にありて、
斷帆怒濤を掠めつゝ東方に飛奔し去る一隻の小船あり。
時々閃然として横過する電光のために其の形を照し出ださる。
船は容積百 噸に滿たざる、ヨットの一種にして、英國及び米國にて、
スクーナーと稱する兩檣的なり。
船の名をスロウ號と呼ぶも、曾て其の名を記したる船尾の横板は、物に觸れてか、浪に洗はれてか、
とく剥落し去りて、復た其の名を尋ねむに由無し。
夜は既に十一時を過ぎぬ、此の緯度にありて此ころは、夜甚だ長からざれば、五時に向ふ比ほひに、
早やうす白き曉の色を見ることを得べし。然れども天明けなば、スロウ號は能く現時の危難を免るべき歟、
風濤は能く制止すべき歟。
船の上には三個の少年、一個は十五歳、他の二個は各十四歳なるが、十三歳なる黒人の子と共に、
各必死の力を戮せて、舵輪に取りつきをり。
砰然たるすさまじき響きとともに、一 堆の狂濤、
來りて船を撃つと見えしが、舵輪は四少年が、必死の力を戮せて取りつきたるにも拘はらず、
忽焉逆轉して、四少年を數歩の外に擲ちたり。
一個「武安、船には異状なきや」。
武安は徐に身を起して、再び舵輪に手をかけながら、
「然り、呉敦」と答へて、更らに第三個に向ひて、「しかと手をかけよ、杜番、
沮喪する勿れ、餘等は餘等の一身の外に、更らに思はざるべからざる者あるを、
忘るべからず」、又た黒人の子を顧みて、「莫科、汝は怪我せざりしか」。
黒人の子「否な、主公武安」。
渠等の操る所は皆な英國語なりき、唯だ武安と呼べる童子の言ふ所に、
著るしく佛國人のなまり有るのみ。 是時、船室に通ずる梯子の口の戸、突然開けて、二個の童子の顏現はれ、
之に續いて一個のやさしげなる犬の面現はれ出でぬ。
犬は二た聲三聲高く吠えぬ、童子の年長なるかたは十歳ばかりなる可し、 「武安、武安、何事なるぞ」。
武安「何事もなし、伊播孫、何事もなし、返れ、とく船室に返りてをれ」。
他の年少なるかたの一個「されども、餘等はあまり恐ろしければ」。
武安「他の諸君は」。「皆な均しく恐れをれり」。
武安「憂ふる勿れ、返りて蒲團にくるまり、兩眼を閉ぢてをれ、
しかせば恐ろしきこと無かるべし、何等の恐ろしきことも有るなし」。
莫科「氣をつけ、又た一個の巨濤來りたり」。
言未だ訖らず、再び一個の崩濤あり、
俄然船尾を來り襲へり、然れども幸ひにして潮水船室に走入するに至らず。
呉敦は少しく聲を勵まして、「返れ兩君、君等は餘輩の言を聽かざるか」。
二個の童子の顏やう〜沒し去るや去らざるに、復た一個の少年の姿ありて、
梯子の口に現はれ出でぬ、「武安、君等は餘輩の力を須ひざるか」。
武安「否な、馬克太、君等は下方にありて、
幼年諸君を看護しくれ、此處は餘等四人にて十分なり」。
然らば、斯の大洋中に最大洋なる太平洋の上に於て斯の暴風怒濤の中にありて、
斯の船の上には、唯だ是等少年童子の外、更らに一個の人無き歟。
然り、船は唯だ武安等十四個の童子と、給事のボーイ黒人の子一個とを載するのみ。
船員として、少くとも一個の船長、一個の副船長、及び五六個の水夫を有すべき、 斯の百 噸のスクーナーに於て、船員と稱すべきは、
唯だ一個の給事のボーイ莫科の在る有るのみ。是れ何を以てぞや、
抑も船は何の目的あり、何地より何地に往かむと慾して、
乃ち斯のあらしには遭ひたるや。若し他の船の洋上にて、
スロウ號に邂逅するあらば、其の船長は必ず第一に之を怪しみ問ひたるべく、
衆童子は必ず十分の説明をこゝに與へ得たりしならむ。然れども是時洋上には、
四方幾百里の間スロウ號の外、復た一隻の船も見えず。
あらしは益す其の勢を倍せり、
風は疾風烈風より一變して颷風となれり、
スロウ號は今にも驚瀾怒濤の中に呑了されむとす、 後檣は既に二晝夜以前に吹き折られて、
甲板の上には其の本四尺 許を留めて欹立するのみ、
前檣は幸ひにして猶ほ全きを得たるも、 風勢
益す猛くして、童子等の力もて其の帆を卷收する能はざるがため、
其の滿帆の風に吹き撓められて、其の根接の處より絶えず左右に搖るぎ動くを見る、
若し前檣にして一たび倒れむには、 船は坐ながら風濤の恣まゝに弄ぶ所に任して、
童子等は手を束ねて、覆沒を待つの外、復たせむすべ無かるべし。
渠等は皆な兩眼を睜開きて、前方を瞻つめたるが、
只だ是れ闇々濛々として、一寸の陸影、半點の火光をだに見るべからず。
午前一時に及ぶ比ほひ、忽ち一道の物すごき響き、高く風聲怒號の上に聞えぬ。
杜番「前檣倒れたり」。
莫科「否な、只だ其の帆の吹き斷られしのみ」。
武安「さらば其の帆を截り去らざるべからず、呉敦、
君は杜番と倶に留まりて舵輪を看れ、莫科、 汝は來り餘を助け」。
莫科はかねて船中の給事をつとめて、自然多少航海上の經驗を得、
武安は曾て歐洲より濠洲に來るとき、大西太平兩洋を航行して、 幾分か操舟上の知識を學び得たる所あり、
衆童子が兩個を推して斯のスクーナーの指揮を委ねしは是がためなり。
兩個の伎倆は、斯の新らしき厄難に逢ひて、亦た其の一證を示したり。
渠等は前檣の下に來りて、其の破損を檢するに、
帆は上邊の索を吹き斷られて空中に翩飜せるが、
幸ひにして其の下邊は、猶ほ依然として帆桁に結ひ着きをり、
渠等は先づ上邊の索を全く截り去りて、下邊の帆桁を甲板を離るゝ四五尺までひき下し、
初め帆の上邊たりし布の二隅を把りて、之を甲板の上に緊と約し着けぬ、
渠等は此の如くして、却て前よりも更らに安全に、 風を趁ひて進みゆくを得べし。
渠等は此の間に、絶えず甲板を飛越せる巨濤のために其の身を洗ひ去られむと慾しては、
纔かに自から支へ得たるもの、啻に五七囘のみならず、兩個は滿身づぶ濡れとなりて、
舵輪の下に歸り來るに、恰も同時に、梯子の口再び開けて、 武安の弟
弱克の頭現はれ出でぬ。 武安「何用あるや、弱克」。
「來れ、來れ、とく來れ、船室の中に海水 漏入しはじめたり」。
「眞か」と叫びつゝ武安は、直ちに船室に下りゆけり。
船室には一個の吊りラムプ中央に懸り、うす暗き燈火の下に、十個の少年、
或はソーフハ、或は臥棚の上に、己がじしに横はりをり、
八歳乃至九歳なる最も穉きは畏れ怖れて、互に相抱擁せるもあり。
武安は「餘等は既に陸に近づきるゝあり、復た恐るべきなし、
憂ふる勿れ」と一同に力をつけつゝ、蝋燭を點して、熟ら室内を檢するに、
少許の海水ありて、船の搖動につれて、座上を一 往一 反するを見る、
然れども遍ねく室内を索むるに、海水の漏入すべき罅隙あるなし、
更らに其の濕痕を追ひて、次の艙房に至るに、初めて其の由來を發見するを得たり、
蓋し絶へず甲板を洗ふ所の海水の餘滴、甲板の艙口より艙房に流下して、
此より船室に流入せしなり。
武安は船室に返りて、諸童子に之を語り、其の恐るべきもの無きよしを告げし後、
再び甲板に上り來るに、夜は既に二時に埀むとせり、一天墨を溌せる如く、 風勢は依然として、猶ほ少しも衰へず、
時に鞺鞳たる風濤の響きを破りて一聲頭上を叫過するは、
是れ海燕乎。
然れども海燕を聞けるがために、陸に近しとは斷ずべからず、
渠等は屡ば遠く洋心に翺翔することあればなり、
既にして又一時間を過ぐるほどに轟然として、大砲を發てる如き響き、高く空中に揚りぬ、
蓋し前檣二つに折れしなり、寸々斷々となりし碎帆布片は、
一團の鷗の如く、紛然として空中に散飛せり。
杜番「餘輩は復た帆を挂くる能はず」。
武安「何ぞ憂へむ、餘輩は帆無きも、猶ほ帆有るの時の如く、
疾走することを得べし」。莫科「幸ひにして船は正さに浪を背に負へり、
船は一直線に前進することを得べし、唯だ屡ば浪のために、
追ひかぶせらるゝことを免れざるべければ、餘等は自から身を舵輪に縛りて以て、
浪のために洗ひ去らるゝことを、防がざるべからず」。
莫科の言未だ全く訖らざるに、一 堆の奔濤あり、
高く其の頭を船尾の上の擡ぐると見る間に、 すさまじき響きを作して、甲板の上に崩下しつ、
艙口の一半を缺き取りて、救命艇二隻、短艇一隻と、
羅針盤凾とを洗ひ去り、餘勢更らに船邊を碎裂して、
海中に流れ落ちぬ、幸ひにして船邊を碎裂されぬ、 若し其の此の如くして速かに海に流れ落つるなかりせば、
船は其の重量に耐へ得ずして直ちに沈沒したるならむ。
武安、杜番、呉敦は船室の梯子の口に擲つけられしも、
こゝに捉まりて、僅かに海の運び去らるゝことを免れしが、
莫科はかの巨濤とともに姿見えずなりぬ。
武安はやう〜語を發するを得るやうになるや否や、「莫科、莫科」。
杜番「海中に運び去られしか」。呉敦は忙がはしく船邊に倚りて、
海中を俯瞰しながら、「何等の影も見えず、何等の聲も聞えず」。
武安「餘輩は必ず渠を救はざるべからず、
浮嚢及び索を投ぜ」といひつゝ、又た更らに聲を高くして、 「莫科、莫科」。
「助け、助け」と、かすかなる聲ありて、答へ叫べり。
呉敦「渠は海中に陷りしならず、聲は船首のかたより來れり」。
武安「餘 往て渠を救はむ」。いふより早く、
動もすれば失脚跌倒せむと慾する、甲板の上をつたひつたひて、 船首のかたに走せゆきぬ。
武安はやう〜艙口のほとりまで來りて、
復た高く給事の名を呼ぶに、答へなし。武安は反覆せり、 かすかなる應聲、再び武安の耳に到れり、
武安は更らに其の聲をたよりて、船首なる絞車盤と舳頭との間に來り、
頻りに闇中を模索するに、終に聲さへ得出ださず煩悶しをる童子の體に摸着れり、
蓋し莫科は嚮の巨濤のために、推されて此に至り、
帆索に喉を纒はれて之を脱さむと慾して、
掙扎けばもがくほど、愈よ喉を緊約られて、
今は呼吸も絶え〜゛となれるなり。
武安は忙がはしく、其のナイフを取り出だして、帆索を斷りて、
莫科を救ひ出だせり、莫科は數多たび武安に救命の恩を謝したる後、
相挈へて舵輪の下に返りぬ。
武安の豫言に反して、船は帆を失ひてより、 其の速力
頗る著るしく減少し、浪は船を追ひこし追ひこし疾走すれば、 船は今にも浪のために、追ひかぶせられ、覆飜されむとす。
今は何等か帆に似たる者をさへ挂くるに由なき童子等は、 如何にして能く此の危難を避くべきか。
南半球に於ける三月は、餘輩北半球に於ける九月と相同じ、
故に午前五時に向ふ頃ほひには、早く暁の色を望むことを得べし、 天明けなば、風威或は少しく衰ふことあるべし、
或は更らに幸ひにして、是等二者の一を得ば、童子等は尚ほ九死の中に一生の望みあることを得ると謂ふべし。
既にして四時半を過ぎぬ、うす白き曙光は、徐ろに東方地平線上をより起りて、
次第に天心を射照せり、然れども不幸にして、
煙霧猶ほ深く洋上を鎖したれば、童子等は三町の外を見る能はず、仰ぎ看れば、
雲は皆なすさまじき速力をもて、驀然東方に飛行しつゝあり、
風勢は毫も減退の色あらず、眸を展べて更らに前方を望めば、
眼の屆く限り、渾べて是れ混々として一樣の沸泡飛沫のみ。
四少年は空しく四邊の狂瀾怒濤を瞻りて、彳立せり。
渠等は各自心の中に、其の運命の次第に望少くなれるを思ひたり。
とたんに、忽ち莫科の聲を聞けり、「陸、陸」。
渠は、是時 忽焉破開せる煙霧の間より、
一帶の陸影を瞥見したるやうに覺えしたり。然れども是れ果して陸なるか、 是れ渠の眼花にあらざる無きを得むや。
武安「陸と」。莫科「然り、前方即ち東のかたに」。
杜番「汝はたしかに錯らざる歟」。
莫科「煙霧の再び破開せむとき、舳頭より少しく左を看よ」。
言未だ訖らず、煙霧は再び破開せり、
未だ幾ばくならずして、四邊幾マイルの間、忽ち了々として明かに見るべくなれり。
武安は叫べり、「然り、陸なり、實に陸なり」。
今は復た疑ふべくもあらず、スロウ號の舳頭にあたり、 東方地平線上に、一帶の陸影あり、長さ五六マイルに亙るべし、
若し目下の速力もて駛せ行かば、スロウ號は一時間を出でずして、 彼處に到ることを得べし。風勢は益々加はれり、
船は驀然一直線に、陸を望みて走せすゝみぬ。
漸やく近づきて之を視るに、岸上には百數十尺の岩壁 聳起し、
岩壁の前面には、黄色の沙嘴平衍し、 沙嘴の右方は、一
簇の喬木ありて之を限れり、 是れ内地なる茂林の端なるべく見ゆ。
武安は舵輪を他の三個に委ねて、 獨り船首に來りて、岸邊の光景を熟察し、
船の錨を投ずるべき處を心計するに、岸邊には、 一個の港灣らしくものも有るを見ず、且つ最も不便なるは、
沙嘴の外は一面の鋸齒の如き岩礁、
海底に蜿蜒し、其の起伏の迹、黒く海波の上に隱顯せり。
武安は之を熟察し畢りて、
則ち一同を甲板の上に召び集めおきて不虞の備ふることの得策なるべきを思ひたれば、
返りて船室の梯子の口を開きつゝ、「來れ、一同」。 眞先に上り來りしは犬なり、之に續いて十一名の童子 跫然相
踵いで上り來りぬ。 最も幼年なるは、「四邊の光景を一目するよりも、早く畏怖極まりて啼哭するも多し、
蓋し是時陸に近づくに隨ひて、海底次第に淺くなるほどに、 其の怒濤 洶湧の状の、物すごく恐ろしきは、
却て洋心に在る時に倍せしなり。
午前六時の數分前、船は岸邊に逹したり、 武安は早くも上着を脱ぎすてゝ、何人にもあれ、
海中に陷る者あらば、之を救はんと身がまへたり、蓋し船は必ず岩礁に衝突して、 粉碎せむこと、十中の八九なるべく見えたればなり。
俄かにして船は一種の撞觸を感じたり、
スロウ號は暗礁の上に坐りしなり。船の外皮は勿論いたく損傷を蒙りたるべきも、 未だ海水の直ちに漏入するほどに至らず、
既にして第二の奔濤は船を驅りて、更らに五十尺前進せしめぬ、 かくてスロウ號は左舷のかたに傾欹したるまゝ、
免れたりと雖も、猶ほ沙嘴を去る三町の外に在り。
武安と呉敦とは、船室及び艙房を檢して、
船體の損傷の海水を漏入するに至らざるを知りて、 大に心を安じつゝ、甲板に返りて、一同に之を語り、
「恐るゝ勿れ、船體は恙無し、且つ陸は目前に在り、
暫く少しく待て、餘輩は徐かに上陸の計をなすべし」。
杜番「何が故にこれを待つや」。
韋格と呼べる十三歳なる一童子、之に和して、 「然り、何故に之を待つや、杜番の言是なり、
餘等は爭で之を待つを須ひむ」。 武安「何となれば、浪尚ほ此の如くあらければ、
若し強て之を渉らんと慾せば、餘輩は恐らく岩礁の上に擲たれて、
身を韲くに終るべし」。乙部と呼べる韋格と略ぼ同齡の一童子
「とかくする間、船體粉碎し了らば如何」。 武安「餘はそを恐るゝの謂れ無きを思ふ、
少くとも潮の退きつゝある間は、船體の粉碎すべく憂ひ無しと思ふ」。
武安の説 是なり、太平洋の潮の進退、
割合ひに著るしからずと雖も、而も進潮と退潮との間には、
猶ほ判然差別あり。武安の説の如く、 更らに幾時間を待たば風波の或は靜止せざるを必すべからざるのみならず、
幸ひにして岩礁の背は潮全く落ちて之を歩行し得るの便あるやも亦た料るべからず。
然れども杜番及び他の數子は、尚ほ嗷々として、
武安の説に從ふを肯ぜず。蓋し杜番、韋格、
乙部、及び虞路等が事毎に、 武安の意見を奉ずるを快しとせず、
之に逆はむと慾したるは、從來其の例一二に止まらず、 然れども其の默して此に至りしは、唯だ武安が航海上の知識ありて、
之に一船の指揮を委ねざる能はざるが故を以てのみ、 然れども渠等は今既に陸に逹したり、
故に乃ち必ず其の行爲の自由を己れに得むことを主張するなり。
杜番、韋格、乙部、及び虞路の四個は他の諸童子に離れて、
一方の船邊に集處して、洶湧泡沸する海の面を凝視すること、
之を久くせしが、到底其の泳過すべからずして、 武安の言の如くするの已むを得ざるを見て、
再び一同の處に返り來るに、武安は呉敦及び諸童子に向ひて、
今に及びても尚ほ、一同一處に在りて以て、緩急相救ふことの必要なるを、
諄々として諭しをり、「若し互に相離れば、是れ即ち亡滅の道なり」といへり。
方さにこゝに來りて、此の語を聞きし杜番は、
「君は敢て餘等の上に、法律を制定し、施行するの權利ありと謂ふか」。
武安「何ぞ此の如き權利ありと謂はむ、唯だ、
共同の安全を保るがために、餘輩は互に相離れるべからずと謂へるのみ」。
常に深慮ある呉敦は之に和して「武安の説 是なり」。
かねて武安を信頼する幼年の二三子は、「然り、然り」と應呼せり。
杜番は默して再び言はざりき、然れども渠は其の黨の三子と偕に、
獨り怫然として、一方に引去せり。
抑もこの陸は大陸か、島か、岸壁の下に半月形をなせる黄色の沙嘴は、
兩端各丘陵の地に至りて而して盡く。其の北なるは高峻にして、 其の南なるは稍や低くして、夷かなり。
武安は望遠鏡を把りて、良や久しく、陸のかたを望視しゐたりしが、
又た之を置きて、「陸上には一條の煙も見えず」。莫科「且つ濱邊に一隻の舟もあらず」。
杜番は傍らより之を嘲りて、「既に灣港なし、
何ぞ舟あるを得む」。呉敦「そは未だ以て濱邊に舟無きの十分の理由となるべからず、
或は漁舟の出でゝ、此處に魚を打つこともあるべきなり。 蓋し舟無きは頃來のあらしに恐れて、
皆な各其の避所にかくれをるを以てなるべし」。
之を要するに此地此邊は、人の居住する者無き荒寥の境なるを知る。
是時、風は勢少しく衰へたるが、次第に北西に吹きまはりて、退潮を支へたれば、
潮の退きかた極めて遲々なり、童子等は時至らば直ちに上陸せむと慾して、
皆な手に〜、必要の物件を甲板に搬び上ぼす、船中には乾餠、
乾菓、鹽、缶づめの肉類、饒く有りたれば、 先づ是等を包束して以て、負荷携帶に便なすやうす。
既に七時となりぬ、岩礁の上の海水は、著るしく減落したりしが、是がために、
船は益々左舷に傾欹して、若し此の如くしもてゆけば、
或はもてゆかば、或は遂に横ざまに覆へるに至らずやとの恐れさへ生じたり、
蓋し速力の快利なるを慾して、其の龍骨を高くし、 船底を尖削せる、此のスクーナーの如き構造にては、
之を恐るゝも、亦た宜なり。
童子等は、是に於て、深く昨夜のあらしの爲めに、 悉く其の短艇を奪ひ去られたるの不幸を悲しめり、
若し是等の短艇だに有らしめば、渠等は或は今直ちに、 此を藉りて、濱邊までこぎ去くことも得たるならむ、
又た上陸の後に及びても、容易に此の船に往來して、 現時にては渠等が携帶上陸する能はざる諸種の有用物件を、
此に載せて以て、運び去るを得るならむ。
時に忽ち船首のかたに、常ならぬ叫び聲有り。
* * * * * * *
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第二囘
この時に當りてチェイアマン學校といへるは、南太平洋に於ける英國重要の一藩地ニウジランドの首府、
アウクランド市にありて、最も有名なる黌舎の一なりき、
此に來り學ぶ者は英、佛、米、獨等の白色人の子に限りて、皆な市の有地者、銀行者、巨商、官吏の子なり。
ニウジランドは北島及び南島と稱する二大島と他の諸 小嶼とより成れる一群島にして、 二大島の間を隔つる一
葦帶水は、即ち有名なる世界環航者の記念を永く留むる所のクック海峽なり。
斯の群島は南緯三十四度より四十五度の間に横亙して、北半球に於ける佛國、合衆國、
及び日本の本島等と正さに其の位置を同じくす。 北島の北西端は一條の狹長なる半島を成し、
其の半島の頸をなせる處は幅二三マイルに過ぎず、アウクランド市は即ち其の頸の上に立てり、
其の北島に於ける位置の希臘のコリンスと相肖たるにより、 往々呼びて南洋のコリンスと做さる。
一千八百六十年一月十五日の午後百 許名の生徒は各其の親たちに隨伴して、
方さに籠の戸を開かれし鳥の如く、欣々然として女皇街なるチェイアマン學校の門を出で來れり。
この日は是れ暑中休暇の始めにして此より二個月間は渠等自由に受用するを得る所なり。
中に就て一隊の童子等の尤も得意なりしは、かねて久しく願慾待望せしニウジランドの沿岸週航の遊びの、
斯の休暇の間に於て實行さるゝことゝ定まりたればなり。 童子等の乘組まむとする美麗なるスクーナーは、童子等の中の一個の父
雅涅氏の所有に係り、 週航の費用は勿論童子等一同の親たちの醵出する所なり。
英國の寄宿學校の風は甚く佛國等に異りて、概して生徒をして自助 自頼の習ひを養はしむるを專らとすれば、
其の風采擧動の割合に早く大人びて沈着老成するが多し。チェイアマン學校は生徒の級を分ちて五となし、
其の第一第二の級に在る者は、尚ほ其の親たちの頬に接吻するを以て禮となすほどの幼年者なりと雖も、
第三級以上の生徒に至りては、既に握手を以て接吻に代ふるほどの長年者少からず。
英國學校の習ひとして、長年者は各幼年者を保護する代り、
幼年者は其の保護者なる長年者のために、朝飯を運び、衣服を刷き、靴を磨き、
使命に奔る等諸般の役に服さゞるべからず、若し之を否む者は、一同のために、
疾まれ虐げられて、一日も學校に安居すること能はざるに至り、
是によりて英國學校の幼年生徒は又た佛國等に罕れに見る所の奉上勤務の念に厚きの特色あり。
いまスロウ號の乘組みて週航の途に上らむと慾するは、 第五級より第一級に亙りて、其數十四名にして乃ち左の如し。
杜番、虞路これ皆な第五級員にして齡十四歳、
其の父は各均しく市の富豪なる有地者にして、兩個は乃ち從兄弟なり。
杜番は天性怜悧にして學業優等なるがうへ、一種貴族的の倨傲ありて、 常に人の上に立たむことを慾すれば、
儕輩は渠を綽名して相公杜番といへり。
されば渠と同級同齡の武安が平素 儕輩に間に愛重さるゝを見て、
杜番の常に之と相 乖き相 軋るの傾きあるは、 勢ひの自から然るべき所なり。虞路に至りては、
只だ常に其の從兄 杜番の思ひ言ふ所を敬服 感戴する外は、 他の異處なき平々の童子なり。
馬克太、亦た同級同齡にして市の巨商の子なり。 靜和にして思慮あり、勤勉にして才智あり。
乙部と韋格とは、十三歳と十四歳にして共に四級に屬し、
各中等の才智を具す。其の親戚は皆な富饒なる高等官吏なり。
雅涅と左毗とは、共に十三歳にして同じく第三級に在り、
前者は退職海軍士官の子にして、後者は富饒なる移住者の子なり。 前者の一
癖は小風琴を嗜みて暇あれば輒ち之を弄ぶ、
斯の週航の途に就くに方りても、渠は第一に之を携帶して船に上れり、 後者は快濶にして常に冐險的生活を夢寐し、平生
魯敏孫漂流記の外は殆ど復た他の書を讀まず。
次の二名は各十歳の幼年者にして、善均はニウジランド科學協會の會長の子にして、
伊播孫は牧師の子なり、前者は尚ほ第三級員にして、後者は尚ほ第二級員に過ぎざるも、 皆な將來有望の優等生徒なり。
次の二名は更らに年少にして、土耳、胡太、共に九歳に過ぎず、
土耳は其の執拗なるをもて、胡太は其の大食なるをもて、
各著るし。皆な陸軍士官の子にして第一級生徒なり。
此外更らに二個の佛國人の子と、一個の米國人の子とあり。米國人の子は呉敦と呼び、
齡十五歳一隊の最年長なり、第五級員にして、杜番の如く才鋒鋭利ならざるも、
亦た同級中の優等者たるを失はず、幼より父母を喪ひて他人の手に人となり、
最も深慮ありて常識に富めり。二個の佛國人の子は兄 武安十四歳、 弟 弱克九歳にして、
其の父は北島の中央なる沮洳の地の排水工事を蕫督するために二年前此土に來りたる有名の工學士なり。
武安は拔群の記憶力あり、又た非凡の同化力あり、 聰明輕快活溌にして、左毗と相
竝びて、 同級中或は學校中第一のいたづら者なり、
弱克は常に人をかつぎ儕輩を欺き嚇すことを喜び、 平生只だ是等
頑要の手段を工夫するより外、復た他の念無きものゝ如くなりき。
然れどもスロウ號が本土を離れてより以後は、渠の人となり俄然一變して、
極めて謹直寡默なる、まじめの童子となりたるは、他の諸童子の皆な怪しみ且つ訝かりて、 其の故を解するに苦しむ所なりき。
スロウ號の船員は副船長一名、水夫一名、料理番一名及び黒人の子にして莫科と呼べる十三歳の給事一名にして、 船長には船主
雅涅氏自から之に當り、 獵犬としてフハンと呼ぶ呉敦所養の亞米利加犬をさへ併せ載せ、
拔錨は二月十五日の午前と定りぬ。既にして十四日の夕となるほどに、
十四名の童子等は早くも打つれて船に上るに、船には副船長及び莫科の二名ありて、 一行を迎接せり、船長
雅涅氏は明朝拔錨の際に至らざれば出で來ざるはずにして、
水夫等は皆な更らに一杯のホイスキーを傾くるがため、陸に上りてをり、 船には唯だ斯の二名を留むるのみなり。既にして副船長は童子等を各自
臥牀に安寢せしめし後、
他の水夫等を追ひて、亦た岸上の酒店に往き、ボーイ莫科は船首なる水夫室に退きて、 早くも熟睡の境に入りぬ。
如何にして斯の事ありし歟、船は何時のほどにか纜解けて、
潮水の引くがまに〜次第に洋心に流れ出でしを、
知る者絶えてあらざりき。夜色黒く灣港を封じて物の色分明ならざるに、
をりしも陸上より吹く地あらしの風、潮水を助けて船を驅りたれば、
船は看す〜獨り數十町を流れ去けり。莫科はふと覺めしに、
船の異樣に動搖するに疑ひ惑ひて、甲板に走り上れるに、即ち此の如きを見たり。
給事の叫び聲に驚き醒めて、呉敦、武安、 杜番等數名の童子は蹶起して甲板に走せ上り、
給事と倶に聲を合せて助けを呼びしが、功無かりき、 船は既に三マイル以上も岸を離れ、アウクランド市の火光は、
既に闇冥の中に沒して見るべからず。童子等は武安の説と莫科の贊成とによりて、
先づ帆を揚げて船の方向を轉じ、岸に返らんと務めしが、 帆は太だ重くして童子等の力をもて自由に使用する能はざるより、
船は却て是が爲めに益す陸に遠ざかりゆけり。
船は既にコレビール岬を遶り、岬と大防壁島との間なる海峽を過ぎ、
ニウジランドを離るゝ數マイルの洋心に流れ出でぬ。
童子等は既に助けを陸上より得べきの望みなし、縱ひ搜索船の直ちに渠等を追ひて出でし有りとするも、
其の此の如き暗中に、渠等の所在を見出ださむことは難かるべく、 縱ひ能く見出だすとするも、其の此處に追ひ及ぶまでには、
數多時間を費やさゞるべからず、而して渠等は其の間に又た數マイルを流さるべし。 唯だ渠等萬一の僥倖は、
前方よりニウジランドに向ひて來る所の何等かの船に邂逅して其れに救はれむこと即ち是なり。
是れ甚だ頼み難きの僥倖なりと雖も、莫科は直ちに前甲板の上に燈火を掲げて、
遠くより之を望む者のたよりと爲せり。幼年の童子等は幸ひに熟睡してをれば、 徒らに之を驚かし怖れしむるの益無きを思ひて、
喚び覺ますことを爲さず。武安等は百方術を盡して船の方向を轉ぜしむと慾したるが、
皆な功無かりき。船は益す東へ東へと流れ去けり。
俄かにして一點の火光、二三マイルの那方に見えぬ。 其の白色なるは分明是れ走行中の汽船なるを知るべし。
既にして又た一個は赤く、一個は青き、二個は燈火現はれ出でぬ、
其の此の如く同時に二個を望み見るを得るは、其の汽船の一直線に斯のヨットのかたに向ひて走せ來るものなるを推すべし。
童子等は各必死の聲を揚げて、汽船を喚びたるが、
洶濤の音、蒸氣機關の響、及び是時次第に愈よ烈しくなれる風の音は、
相合して童子等の聲を沒して、汽船の上に聞えしめず。 汽船の上にては、縱ひ童子等の聲を聞く能はざるも、
スロウ號の上に掲げたる火光を見ること無かるべきやは。
不幸にして船の突然一方に傾動するはずみに、燈籠を吊りし索斷れて、
燈籠は渹然海中に陷りたり。今は復た一物のスロウ號の所在を、
闇中に標示するもの無し。汽船は正さに一時間十二三マイルの速力をもて走せつゝあり、 未だ幾
秒間ならずして、汽船はスロウ號の船尾を掠めて、船尾の上の飾り板を擦落し、
低微なる撞觸をスロウ號に感ぜしめたるまゝ、 驀然西方に走せ去りぬ。童子等は失望せり、
船は益す東方に吹き去られぬ。既にして天明けぬ、眼界の中一片の帆影だも見えず、
太平洋の此邊は素と船舶の往來割合に少きに、 其の濠洲と亞米利加との間を往來する者は、皆な更らに北方或は南方を航すれば、
童子等は終日一隻の船に逢はず、既にして夜は來れり、 天氣は前夜よりも一層あれ模樣にて、風は益す強く、東に〜と吹きつゞきぬ。
武安は其の齡に罕れに見る能力と勇氣を顯はして、 一同の倚頼する所となり、
剛腹なる杜番をさへ其の指令を奉ぜざるを得ざるに至らしめたるは即ち是等の事情の間に於てなりき。
渠は船の速力を左右するほどの航海上の知識を有せず、
亦た諸種の帆を展用するに必要なるほどの膂力を有さゞりしと雖も、 其れの僅かに有する所の知識を善く使用して、
常に船の傾覆破損を防ぎ、日又た夜、夜又た日、 絶えず甲板に見張りをして、時々刻々、地平線上を凝望し、
何等か眼界の中に來る所の助け手あらば、之を免さじと務むること、
幾週間の久しきを通じて、曾て須臾も懈らず、 或は其の遭難始末を書したるを數個の罎に盛りて、之を海中に投じ、
或は常に幼年者を勵まして、其の失望喪氣に陷るを防ぐ等、 皆な渠の率先盡力する所にあらざる莫し、
而して無限の西風は仍ほ依然として、船を東に〜と驅り去りぬ。 此より以後の事は、讀者の既に第一囘に於て見たる所なり。
蓋しスロウ號がニウジランドの岸を離れたる後、 未だ幾日ならずして、更らに一大暴風の南太平洋を過ぐるあり全二週間西より東に吹きつゞきぬ、
若し堅牢 鞏固スロウ號の如きものに非ずば、 船は已でに久しく怒濤のため打碎されしなるべし。
當夜スロウ號の失踪を知りしときの雅涅氏、 及び其他衆童子の親たちは錯愕掛念は言ふもさらなり。
渠等は直ちに二隻の小汽船を發して搜索せしめしが、 翌日の及びて、皆な手を空しくして還りぬ。
否な手を空しくして還るよりも更らに惡しかりしは渠等はスロウ號が汽船のために擦落されたる船尾の飾り板の零片を拾ひ得て還りぬ。
飾り板の上には尚ほ「スロウ號」の數字の一半を留めて、讀み得べかりき、
是に於てスロウ號の既に覆沒して、衆童子の皆な溺亡したるべきは、 復た疑ふべき無きの事實となりぬ。
* * * * * * *
却て説く武安等は船首のかたに、常ならぬ叫び聲起るを聞き、
走せゆきて其の故を尋ぬるに、嚮に巨濤のために洗ひ去られしと堅く信じたる短艇の、
舳頭やり出しの支柱の間に介まりて、留まりをりしを、 馬克太の偶然發見したりしなり。
短艇は僅かに五六個の人を載するほどの大さに過ぎざれども、
今之を發見したりしは、童子等にとりて非常の便宜なり。然れども是がため、
杜番と武安との間に、亦た一條の葛藤を生じたり。 杜番は短艇の無事なるを見るより、
直ちに韋格、乙部、虞路の三個と共に之を取り出だして、
海上にくり下らむと慾する所に、武安は走せ來りて、
「君等は何をか爲す」。韋格「そは餘輩の自由なり」。 「君等は斯のボートを下さむと慾するか」。
杜番「然り、然れども君は之を止める權利あらじ」。
「有り。君等は他の諸君を棄てゝ以て」。杜番は武安の言をして訖らしめず、
「決して棄つるにあらず、餘輩は上陸の後又た一人再び之をこぎ返して、
他の諸君を載せ去るべし」。「然れども若し之をこぎ返す能はずば如何、
石に當りて碎けば如何」。乙部は武安を排けて、
「退け、武安」。武安は肯て一歩を退かず、
「否な、ボートは第一に先づ幼年諸君の用に供へられるべからず」。 若し此時
呉敦の來りて調停する無かりせば、杜番の黨と武安の黨とは、
茲に終に一場の戰鬪をも啓くに至りしなるべし、 呉敦は最も年長者にして、且つ最も靜思沈慮あれば、
竊かに武安の説を是とし、 杜番をなだめて、此の如く浪あらき時に於てボートを下すも、
徒らにボートを失ひ併せて人の命を殆くするの危險あるのみなればとて、
百方諭し止めたり。呉敦「スロウ號の坐礁せしは、 六時ごろなりと覺ゆ、如何 武安」。武安「然り」。
「潮の全く落つは何時なるべき」。「十一時ごろならむ歟」。 「恰好の時刻なり、然らば餘輩は今より食事をなして、
上陸の準備せざるべからず、或は海水を泳ぎ渡らねばならぬ處もあるべし、
食後若干の時を經ずば、泳ぐに甚だ不便なるべし」。是れ極めて有理の説なれば、 ジャム及び乾餠を取り出だして、一同
早飯をしたゝめぬ、 食事の間も武安は專ら善均、伊播孫、土耳、
胡太等の幼年者を監視して、其の暴食を戒めぬ、 渠等は殆ど全一晝夜の間、全く食を絶ちたれば、
今陸に逹したるの喜びに、驟かに勢ひつきて、 急に其の空腹を滿たさむとせば、爲めに病ひを生ずべければなり。
潮の落ちかたは極めて徐ろなりしかども、
兎に角に海水は次第に減少すると見え、船の傾欹は愈よ著るしくなりぬ、 然れども莫科が測量
索を下して探り試むるに、 船側の海水猶ほ八尺以上の深さあり、莫科は諸童子を畏怖せしむるを恐れて、
密かに之を武安のみに囁やき告ぐるに、
武安は又た密かに呉敦と計議して以爲らく、
風は潮を支へて全く退かしむるを許さゞるに似たり、 然りとて明日の退潮の時まで待たむとせば、
船は其の間の滿潮に逢ひて、傾覆し或は粉碎すべし、
故に渠等目下の策は、唯だ何人か索を持ちて岸に至り之を濱邊の石に約し、
由りて以て斯の船を岸に引くの一法あるのみ。而して其の索を持ちて岸に到るの任には、
武安之に當るべしと定まりぬ、勿論是れ武安の自ら薦めて之に當れるなり。
武安は斯の危險なる企うぃ試むるに先だちて、船中にある所の浮嚢を悉く取り出だして、
之を幼年者に分ち與へぬ、萬一海水尚ほ深き時に、早く船を去らざるべからざるの急有らむとき、
渠等は此によりて身を浮ぶことを得べく、 然すれば年長者は船より濱邊に張る所の索を捉へて、
隻手に幼年者を扶けつゝ、岸に泳ぎ到るを得べければなり。 既にして十時を過ぐる十五分となれり、此より一時間ならずして、
潮は其の最低度に落つべし、然れども舳頭の下に於て、 海水は猶ほ四五尺の深さあり、縱ひ此より一時間を經るも、
更らに數寸を減ずるに過ぎざるべし、船より三十 間も前方に往けば、
海底頗る淺くなるは、其の海面の黒く見ゆると、 處々に岸頭の露出せるとに由りて明かなり、
故に尤も困難なるは、船より三十間ほどの前方まで至るの間なるべし。 武安は外衣を脱ぎて、
中ぶとの索を擇みて、其の一端を把りて胸の邊に約しつけぬ。
杜番等四名の童子も、武安が一同のために危險を冐して、
此の如き重要の使命に赴かむとするを見ては、復た手を束ねて傍觀すべきに非ざれば、
呉敦等と共に武安を助けて、逐次其の索をくり出だすの勞に服さむと慾す。
武安は一切の準備を了りて、將さに海中に跳り入らむとするとき、
弱克は聲を揚げて號泣しつゝ、兄のほとりに走せよりて、
「兄うへ、請ふ往く勿れ、往く勿れ」。武安「恐るゝ勿れ、弱克」
と答へしまゝ早くも海中に跳り入りて、拔き手をきりて泳ぎはじめぬ。 然れども風は正さに引潮と相逆ひ相撃つに加へて、海水
凸凹せる岩礁の上に激盪して、 盤渦をなせる處さへ多ければ、武安は早や次第に體疲れて、
手足の働き自在ならず、俄かにして、渠の身は一大盤渦の裡に吸ひこまるゝと見えたが、
「助け、助け」と叫べる聲を遺したるまゝ、忽ち沒して見えずなりぬ。
呉敦は一同と共に、直ちに索を手ぐりて、昏々として人事不省となれる武安を船の内に拯ひ上げぬ。
幾ばくもなくして、武安は蘇息するを得たりしが、
其の濱邊と交通せむと慾したりし企は茲に全く望絶えぬ。兎角するうちに早や正午を過ぎぬ、
潮は再び進しはじめぬ、浪は愈よあらくなりぬ。 時 正さに新月に向ひたれば、潮は前夜に比して、
一層高かるべし、即ち滿潮のときに至らば、船は其の膠着の處より浮び上がりて、 他の更らに高き巖頭に撞觸し、粉碎し、
或は覆沒するに終るべし、孰れの場合に遭はしむるも童子等じや能く命を逃るゝこと難かるべし。
然れども渠等は復た施すべきの術無きなり、 渠等は一同船尾に集立して、
空しく一個又一個巖頭の次第に進潮の下に沒し去るを瞻りてをり。
加ふるに不幸にも、一たび北に吹きかはりし風は再び西に吹きもどりて、 船を直ちに岸に擲たむとす、潮益す進みて、
岩礁の上の海水益す深くなれば、船は必ず益す高く岩礁の上にのり上ぐるばかりなるべし。
此より以往は、只だ上帝の大み心に在るのみ。童子等は斷續せる哀祷悃祈の聲は、 畏怖號泣の聲と相
間りて、高く天に揚りぬ。 午後二時に向ふ比ほひ、次第に進潮に擡げ起されて、
傾斜したりし船の左舷は浮かび上がりたるが、船首は猶ほ海底に膠着し、 船尾は尚ほ岩間に介まりて自由なることを得ざれば、
船は一頃又た一頃來りて其の側面を撃つ所の浪に震盪されて、
はげしく左右に動搖し、童子等は互ひに相抱擁して、以て纔かに跌倒を防ぎたり、 俄かにして、一
堆の小山の如き巨濤あり、 船の後邊に近く其の頭を擡起すると見えしが、
忽ち大川を決する如き、すさまじき勢ひをもて、驀然船尾を來り打つと共に、
岩礁の上は一面の沸泡噴末をもて掩被され、
船は一種の撞觸を感じて、突然昂起前進したりしが、轉瞬の間、
既に沙嘴の一端なる沙場の上に在り、嚮に遠く望みたる一 簇の茂樹の前列は、
近く眼前二百尺の那方に在り。
顧みれば船をこゝに推進したる巨濤は已でに退却して其の後には依然たる海水の岩礁の上に激盪迸射するを見るのみ。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第三囘
船は幸ひに巨濤に驅られて、一躍して岩礁の上を超越し、 其の底板は勿論 許大な損失を蒙りたるにも拘はらず、 無事濱邊に到ることを得たるが、船の沙場に坐りてより、既に一時間以上を過ぐるも、 未だ一個の人の影をも見ず。茂樹の那方には小さき川の流れありて、 海中を入るを望めども、亦た其の上に一個の漁舟の浮ぶある無し。 呉敦「餘輩は幸ひにして陸に逹したり、然れども是れ一個の無人の野なるに似たり」。 武安「餘輩のさし向き求むべきは、餘輩殊に幼年者を庇護すべき屋宅なり、 其の此地の何處の邦に屬するやの如きは、餘輩が假りに身を託するの所を求めたる後、 徐ろに探究するを得べきなり、先づ餘輩をして此地四邊の光景を觀察せしめよ」。 かくて武安は呉敦と偕に甲板を下りて、かの茂樹のかたに赴くに、 茂樹は岸壁と川との間にありて、岸壁のかたに近づくに隨ひて愈よ益す鬱密し、 其の中に分け入れば、多くの喬木は自から僵れるがまゝに朽腐し、 落葉は陳々相因りて、高く地上に堆積して、兩個の膝を沒するばかり、閑々又た寂々、 絶えて人の踪縱を見ず。然れども時に禽鳥の兩個の來るを見て、 紛然として驚飛し去る有るは、其の既に人を識りて人の恐るべきを知りれる故なるべき歟。 茂樹を穿ちて行くこと十分間ばかりにして、岸壁の下に至るに、 岸壁は直立二百尺、平面板の如くして、啻に洞穴の類の童子等が假りの棲居に充つべきもの無きのみならず、 縁りて以て其の頂きに攀ぢ登るべき足がゝりの罅隙さへある無し。 因りて岸壁の下に沿ひて又た南のかたに行くこと半時間 許するに、 嚮の望める所の川の右岸に出でたり。 兩個は岸壁の頂きに登らば以て四方の光景を一目の下に俯覽するを得べしと思ひて、 此に至りしなるが、岸壁は依然 峻削屹立して、 路は早く此に盡きたれば、兩個は僅かに、 川の此方の岸は美木鬱蒼たるに反して那方の岸は一面の平原にして全く青緑の色無きを、 看取したるのみにて、一とまづ船に歸り來れり。兩個は一同に其の見たる所を語りて、 乃ちさし向きは仍ほ船を以て一同の起居の所となすの得策なるを説けり。 船はいたく龍骨を破損され、且つ其の體傾欹して穩坐すべからざるも、 尚ほ以て一時風雨を庇遮するに足れり。武安等は先づ一條の繩梯子を取り出だして、 之を船の右舷に懸け、以て幼年者も容易に甲板より沙場に上下出入するを得るやうにし、
莫科は左毗の助けを假りて、其の多少 知得せる所の料理法によりて晩飯を準備し、一同に薦むるに、 一同はニウジランドを離れてより以來、久々にて始めて少しく心を安じて食味を味ふことを得、 善均、伊播孫、土耳、 胡太等の無邪氣なる幼年者は早や時々 嬉笑の聲をさへ發するに至りたり。 唯だ怪しむべきは、平素學校中第一のいたづら者と稱せられたる武安の弟 弱克は、 善均等の此の如く渝々たるを見るも、 獨り別に一隅に退きて悄然として群を離れてをり、或は其の模樣の常ならぬを見て、 其の故を怪しみ問ふ者あるも、渠か顧みて他を言ふのみ。 食事 畢れば、一同は二十餘日來の疲れに早く睡氣を催して、 各自 臥牀に退き寢ねたるが、武安、呉敦、 杜番の三個は萬に一つ猛獸蠻人などの不意の來襲あらむを虞れて、 更る~゛甲板に見張りして、以て夜を徹せり。翌日は朝まだきに一同起き出でゝ、 上帝に感謝の詞を捧げたる後、是日の事務にかゝりしが、 第一に先づ爲すべきは、船内にある食物其他を精査するに在り。 食物は乾餠の外、乾菓、鹽漬の豚肉、腸づめ、 薫牛肉、鹽漬の魚等、儉約して之を用ふれば略ぼ二個月を支ふべし。 然れども渠等は斯の限有るの食物を以て、期無きの將來を永く支ふべきにあらあざれば、 渠等は或は銃獵或は漁業に由りて、其の食物を補給するの計を爲さゞるべからず。 因りて先づ幼年者には、船内に多く有る所の釣絲を授けて、莫科をして之に隨はしめ、 濱邊に往きて釣魚を試みしめ、年長の童子等は船内に留まりて諸物を點檢するに、 乃ち其の目左の如くなりき。
大小の帆布、繩索類、及び鐡鎖、 錨碇等一式、是れ一應斯の船に具へられし者の補缺として別に備へられしもの。
投網、釣絲等の漁具、大小若干。
施條銃八個、射鴨銃一個、連發短銃一ダヅン、 硝包三百個、各二十五 磅づゝの硝藥を裝れる木凾二個、 鉛塊及び大小 鉛丸若干。
食膳及び庖厨の用ふる所の器皿、鍋、釜等は、 二十餘日のあらしの間に毀損したる者の少からざれども、 現存のもののみにても、猶ほ童子等今後の用に供して十分 餘有るべし。
毛絲、綿絲の織物、フランネル及びリンネンの類、亦た多く之れ有り。
臥具、大小の蒲團、枕の類、童子等の數に視べて餘有り。
此外晴雨計二個、百度わりの寒暖計一個。時辰表二個、 遠距離に通話する喇叭。望遠鏡三個。コムパス大一個小二個。 將さに來らむとする暴風雨を豫示する暴風雨計一個。 英國旗若干。信號旗一式。木匠器具一式。針、絲、鈕釦等若干。 マッチ、及び燧石火鎌若干。ニウジランド沿岸の詳細地圖數枚、 これは目下童子等に用無かるべきも別に全世界地圖一枚あり、 是れ大に用有るべし。
書籍室には英佛二國の著名なる旅行者の遊記冐險譚等若干あり。 又た筆、鉛筆、インキ、紙、竝に今千八百六十年の暦一册あり、 馬克太は此より斯の暦に就き、 日を逐ひて有りし所の事を記さむとす、又た金貨にて五百 磅の財あり。 酒類を貯へたる樽は、破漏して其の實を亡ひしも少からざれども、 尚ほ葡萄酒及びセリー百ガロン即ち二 石四 斗、ジン、ブランデー、 ホイスキー、五十ガロン、麥酒無慮二十五石 許を剩し有せり。
之を總ぶるに、童子等の若干月の間は兎に角に百事不足を告ぐること無くして生活しゆくを得べし。 正午に及ぶ比ほひ、幼年者等は多量の貝類を拾ひ得て、莫科と偕に歸り來りたり。 莫科の説に據れば、岸壁の一處に數千の鴿の群集しをるを見たりと、 因りてかねて銃獵を嗜みて且つ多少の熟練ある杜番は、 他の夥伴を率ゐて明日往きて之を獵すべしと議定したり。 中飯は幼年者等の拾ひ來りたる貝類を第一の主品とし、 其の他は些の薫牛肉と、 川より汲み來りたる水に幾滴のブランデーを注ぎたる者とのみなりしが、 一同は皆な舌を鼓ちて貝類の珍味なるを賞翫せり。 午後は船體のさし向き修繕を要する所にして、 且つ童子等の手を以て修繕し能ふ所の破損處を修繕し、 幼年者等は川に往きて釣魚を試みなどして、打ち過ぎたり。 晩飯の後は一同 直ちに寢に就き、是夜は馬克太、 韋格の兩個 更る~゛甲板に見張りせり。
抑も此地は島なるか大陸なるかとは、武安、呉敦、 杜番等年長者の此地に漂着して以來、常に關心しつゝある所の第一問題にして、 渠等は屡ば首を聚めて、其の意見を鬪はすことあり。 然れども兎に角に此地は熱帶に屬せざることは、 かの茂林中の木に太平洋中に赤道國に見るべからざる柏、樺、松、檜、 山毛欅等多きを觀て知るべきなり。且つ地上は既に落葉のために蔽はれて、 松檜の外殆ど復た其の青翆を持するもの無きを觀れば、 此地はニウジランドよりも更らに南に偏りたる高緯度に在るやも、未だ知るべからず。 果して然らば、其の冬は更らに一層の嚴寒を齎らすことを期せざるべからず。 今は三月の中旬なれば、四月の下旬に至るまでは、尚ほ或は好天氣の打ち續くことをも望み得べきも、 五月即ち北半球の十一月より以後に及びては、或は意外の險惡なる天氣に遭逢せむも料るべからず。 故に渠等は此より六週日内外の間に於て、去留ともに其の運動を成就するを要す。 渠等は幾囘の商議を經たる後、兎に角に、 先づ灣の北端を界斷する所の岬頭の高地に攀りて、 此地の模樣を觀察し、其の觀察の結果によりて、復た計議する所あるべしと定め、 其の觀察の任には武安之に當るべしと定めたり。 此の間 武安と杜番とが屡ば互に其の意見を異にして相反目するを、 呉敦の毎ねに間に居りて調停せるは、言はむもさらなり。 岬は船の在る所と相 距ること、直徑五マイルに過ぎざれるべければ、 濱邊の曲折を算するも、武安の踏過すべき路程は七八マイル即ち三里内外を出でざるべし。 岬の斗出したる頭は、海面を拔くこと三百尺以上なるべく見ゆれば、 少くとも傍近幾マイルの間の光景を展望することを得せしむべし。 不幸にして三月十二日より天氣再び曇りはじめて、 雨さへ屡ばふりたれば武安は其の探檢の途に上ること能はず、 然れども時は決して空費されざりき、渠は此の間に於て、 水夫等の行李の中より發見したる衣類を取り出だして、 莫科と共に不手ぎはながら之を縫ひ縮めて、 童子等の身に稱ふやうになして以て將さに來らむとする冬を禦ぐの準備をなせり、 他の童子等も亦た爲すこと無くして徒らに日をば送らざりき、 幼年者等は雅涅或は馬克太の監視の下に、 或は川に漁り、或は濱邊に貝類を拾ひて、 自から勞作すると共に自ら歡娯せり。渠等は其の雙親を思ふ毎に、 悲哀の情胸を塞ぎて、涙を催すに至らざるには非ざりき、 然れども渠等は未だ曾て再び其の父母を見るの望み無しなどおもふ念の、 其の頭中に浮びたることあらざりき。杜番、韋格、乙部、 虞路の四名に至りては、日の獵犬ハフンを從へて銃獵に出であるきて、 他の童子等と偕にあることは幾ど稀れなり。 渠等の獲ものの中には、鴿、鵝、 鴨等一同の珍味として賞翫せる所の者も多かりしが、 亦た莫科が之を奈何ともする能はざる所の鷗、 鸕鶿等の類も少からざりき。
十五日に至りて、天氣も稍や霽に向ひて、晴雨計も亦た明日の快晴を豫示したれば、 武安は是日より準備をなして、翌朝は昧爽起き出でゝ其の探檢の途に上りたり。 渠は護身の用として一條の筇、一個の連發短銃を携へたる外、 其の帶に繋けたる小さき袋子の裡には、若干枚の乾餠、 些の鹽漬の肉、及びブランデーと水とを調合して盛りたる一個のフラスクを納め、 又た一個の望遠鏡を携へたり。渠は行くこと一時間にして、 既に杜番等の足跡の未だ及ばざる所に逹して、已でに路程の半ばを來りたり、 渠は心に若し此の如くにして進まば八時には岬に逹するを得べしと算したり。 然れども此邊より、岸壁と海際との距離次第に縮まりて、 道の幅次第に狹くなり、之に加ふるの、是までの平軟なるなる沙場とは異なりて、 脚下は一面の凹凸せる堆巖、蒙茸たる海草團となりたれば、 跋渉の困難なるは言ふもさらなり、或は靴を脱して、 膝を沒するばかりなる海水の中を徒渉せるも、 啻に一二たることも、亦た三五次に及びたり。 渠は十時に至りて、即ち豫算より二時間遲れて、やう~岬の下に逹したりといはゞ、 讀者は武安が後の三四マイルを跋渉するに、 如何に困苦を極めしかを推量するに難からざるべし。武安は石の上に腰をおろして、 其の袋子の裡より、食物及びフラスクを取り出だして、 其の飢渇を療しつゝ魚族波上に盤渦を印して潛游し、 其の間に二三隻の海豹の出沒 嬉戲するあり、 渠は之を見て此地の、其の是まで思ひをりしよりは、 更らに高緯度に在ることを推斷せり。をりしも颯然聲を成して頭上を過ぐるは、 ペンギンと呼ばるゝ鳥の群にして、斯の鳥は南極地方に於て殊に見らるゝ所のものなり[注:空飛ぶペンギンは誤りか?]。 武安が此地を以て意外の高緯度に在るものとなせる推斷は、益す確かとなれり。
休息すること一時間ばかりにして、武安は再び身を起して、 岬に攀りはじめしが、岬は無數の巨岩大石の累積して之を成したるものなれば、 其の岩石より岩石につたはりて、爬登ることの困難なるは、 亦た常に非ざりしが、百難に撓まざる武安は、 やう~にして其の頂きに逹することを得て、先づ望遠鏡を把りて東方を展望するに、 灣に面して屏立せる一帶の岸壁及び己れの現に立てる所の岬頭の背後は、 皆な内地に向ひて陵夷走下し、内地は只だ是れ一 平の坦野にして、 鬱蒼たる茂林之を蔽ひ、茂林の間を破りて此處彼處に隱見する川流は、 皆な其の末海に入るものなるべし、武安が展望せる東方左右十一二マイルの間は只だ斯の如きのみ、 更らに北方を展望するに、武安の脚下より七八マイルの間は、 濱邊一直線に打ち續き、濱邊の極まる處に、亦た一帶の岬ありて之を界斷し、 岬の那方には沙漠の如き廣遠の沙場ありて、海に沿ひて蜿蜒す、 又た南方を囘顧すれば、武安が立てる所の岬の那方は、 濱邊次第に南東に折れて、濱邊の内がはは一面の沼澤なり。 則ち若し此地をして一個の島ならしむるも、其の一大島なる知るべし。 武安は更らに望遠鏡を擧げて西方の海上を眺望するに、 正さに西に傾きたる太陽は斜めに波面を射て、搖光目に眩き中に、 三個の小さき黒點ありて海上の凸出するを見る、武安は初め覺えず「船」と叫びしが、 熟視するに及びて、其の不動的なるを知り、是れ三個の小嶼なるべきを料りたり、 小嶼は此處と相 距ること十五マイル内外なるべし。 既にして二時となれるにぞ、武安は復た久しく此處留まる能はず、 將さに岬を下らむとしたしが、其の下り去るに先きだちて、 更らに一たび望遠鏡を取りて東方を展望せり。 蓋し太陽の益す傾きて、其の光線の射點變ずるにつれ、 嚮には見ること能はざりし所のものゝ、今は見るを得るやうになれるも、 或は有るべしと思ひたればなり。武安の爲せし所は徒勞ならざりき、 眼界に盡くる處も茂林の梢の那方に、 北より南に横曳せる一條の淺碧色ありて、 遠々地に天際に浮出せり、 武安は大に疑ひ惑ひて、「是れ何物なるべきや」と獨語したるが、 復た之を熟視して、「海、然り是れ海なり」と叫びて、 望遠鏡は殆ど渠の手より落ちむとせむ。
此より十五分の後は、渠は既に岬を下りて磯上に在り。 五時には無事スロウ號に歸り着きたるが、一同は皆な領を引て渠の歸るを待ちてをり。 是夕 晩飯を畢りて後 渠は一同に其の觀察の結果を語り、 東方亦た海ありとせば、此地の大陸に屬せずして、一個の島なるは、 復た疑ひ無きよしを告ぐるに、一同の失望落膽は言はむもさらなり。 然れども常に喜びて武安に反對する杜番は一には武安の言ふ所に反對せむと慾すると、 二つには武安の言ふ所の成るべく實ならざらむを希ふとより、 是れ或は武安が一時の幻視ならしならむも知るべからず、 己れは自から往きて其の海の有無を探視したる後に非ざれば、 之を信ずる能はずといひ、杜番に黨する諸童子は皆な之に贊成し、 呉敦も亦た、是れ第一の重要なる問題なれば、 更らに之をたしかむる爲めに東方に遠征して其の海の有無を探視するを可とすといひ、 遂に遠征委員として、武安、
杜番の二人の外に韋格左毗の二人を遣はすこととなりたるが、 翌日より雨再びふり出でゝ、連日 休まず、一同は或は船體の破損處を修繕し、 或は雨の小歇を見て銃獵に出で、川に漁りして、 以てくらす間に、三月は既に逝きて、四月の一日となりぬ。 更らに一個月せば冬 當さに來るべきに、此ごろの寒さの日にまして甚しくなるは、 其の冬の如何に猛烈なるかを想像するに餘有り、縱ひ此地をして果して大陸に屬せしめて、 童子等は東方の人あるかたを尋ねゆくとするも、 渠等は冬過ぎて暖和なる氣候の囘り來るを待たざるべからず。 即ち此より五六個月は仍ほこゝに留まらざるべからず。而してスロウ號の破損處は、 日炙雨淋のために、其の罅隙日に益す大きくなりて、 到底此より五六個月の間其の體を全くして、童子等を庇護すること能はず。 故に遠征委員は東方に於て、海の有無を探視すると共に一同の栖居に適すべき處を求め、 若し已む無くば、新らしく家を建つるの計をもなさゞるべからずと議定せり。 是日晴雨計は俄に昇りて、明日以後の快晴を豫示し風も亦た全く死ぎたれば、 四名の遠征委員は直ちに發足の準備をなし嚮に武安が望み見たる海色は、 此方の濱邊より六七マイルの距離に在りしといへば、 此處より往復一日乃至二日を費やさば十分なるべきに似たるも、 不知案内の道をゆく者なれば、不測の障碍あらむを慮り、 毎人四日分の食物を負ひ、各一個の旋條銃と一個の連發短銃を挈へ、 外に斧二個、懷中 磁石一個、望遠鏡一個、毛布數枚、マッチ及び燧石、 火鎌若干を携へたり。呉敦は自から一行に伴ひて、 武安と杜番との間を調停したしと思ひたるも、 然かしては、内に留まりて幼年者を看護すべき者無きにぞ、心ならずも其の念を斷ちたるが、 渠は武安を人無き處に招きて、 くれ~゛も遠征中 杜番との不和合を生ぜざるやう説き諭して、 武安が決してさる事あらざるやう自から戒むべしと誓ふに至りて、 纔かに心を安ぜり。
日沒前には天全く霽れて、蒼穹復た一點の雲無く、 夜に入りては南半球の群星宿 燦然各光を放つ中に就て一きは目を惹くは、 特に南極地方に於てのみ仰ぐことを得る南方十字星なり、 呉敦等諸童子は、明日發足せむとする四名の遠征委員の前途の身のうへを氣づかひて、 一同 悵然たりをりから、不圖首を擧げて是等の群星宿を仰ぎ見たるときは、 皆な忽ち其の父母の事故郷の事を憶ひ起して、 幼年者等は皆な宛がら寺院の十字架の前に跪拜する如く、南方十字星の前に跪拜して、 前途の好運を祷りたり。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第四囘
翌二日朝七時四名は、呉敦の勸めにより獵犬フハンを從へて、
スロウ號を出でゝ、遠征の途に上りたり。是日は北半球の十月に屡ば見る如く屡ば見る如き、
小春の好天氣にして、四名に先づ其の門出のさいさきよきを祝しつゝ濱邊を北に進み行けり。
渠等は已むなくば、嚮に武安の攀りたる岬のほとりまでゆきて、
岸壁に登るべき道を求め、是より其の背後に下りて、
武安の望み見たりといふ海色のかたに一直線に進み行かむと慾するなり。
スロウ號の所在地より以南には、岸壁の頂きに登るべき道無きは、 武安と呉敦とが探究して既に明かなる所なればなり。
四名は岸壁の下に沿ひて行くこと一時間ばかりにして、
前頭に進みたる左毗のフハンと共に忽焉見えずなりたるにぞ、
他の三名は驚きて之を求めむと慾するうち、左毗の喚はり叫ぶ聲と、
フハンの高く吠ゆる事、相和して聞えたり、三名は聲を尋ねて其の處に走せ至るに、
左毗は獵犬と共に、岸壁の一 襞折を成せる所の陰に於て、
岸壁の破裂痕の前に立ちてをり。蓋し寒氣熱氣の作用によりてか、或は濕氣の浸潤したりし爲めか、
岸壁の面、頂きより地に逹するまで一條の縱裂痕を生じ、
縱裂痕の裡面は寛濶にして、人の身を容れて餘有るに、
又た四十度乃至五十度の斜面を成し、其の斜面のうへは凸凹一ならざれば、恰好の足がゝりを爲すべきに似たり。
杜番は武安が危險なりとして止むるをも、 聽かずじて、早やこれを登りはじめたり、他の三名も續いて登りゆくに、
幸ひにして無事相 踵で岸壁の頂きに逹することを得たり、
三名の頂きに逹したるときは、杜番は既に望遠鏡を取り出だして、
熱心東方を展望しつゝありき。韋格は之を見て、「何等か水の色を見るか」。
杜番「否な」。韋格は杜番がわたす望遠鏡を受けて、
亦た展望すること良や久くせるが、「眼の屆く限り、只だ一面の茂林を見るのみ」。
武安「此處はかの岬より百尺内外も低と見ゆれば、
其の眼界の更らに限られて、かの岬より望み得る所を望む能はざるも宜なり、 若しかの茂林を突貫して、一直線に東に進まば、
餘の見し所の果して誤れるや否やを證するは甚だ容易なり」。
杜番「そは極めて勞多くして、而かも餘は其の勞の甚だ無用なるを思ふ」。
武安「然らば杜番、君は此處に留まりて待て、
餘は左毗と二人して往て之を探り究めむ」。
韋格「餘等も勿論同行すべし、來れ杜番、 餘等をして更らに進ましめよ」。左毗
「然り、然れども先づ腹をこしらへて後」。四名は各其の携へたる處の食物を取り出だして、 十分
早飯をしたゝめたる後、再び岸壁を東に下りはじめぬ。
最初の一マイル許の間は、平軟なる草原にて、
此處かしこに三五個の小石丘の蘚苔に被はれしが散點するあるのみ。
其の間亦た一二の灌木叢あり、灌木は柊バーベリー等、 極寒の地方にも繁生することを得るといふたぐひの者に限れり。
既にして茂林の中に進み入るに、幾多の僵木は僵れたるがまゝに朽腐し、
密艸いやがうへに雜生して、童子等は手づから榛莽を斫り開きて、
然して後始めて進み行くことを得るも、屡ばなり。故に其の疲勞の甚だ大にして、
進行の極めて遲きは、言はむもさらなり。數時間を費やして、僅かに三四マイルを徑り得たるのみ。
午後二時に至りて、一條の淺き小川の上に出でたり、
童子等は草を藉きて暫らく此處に休息せるが、川の水は清くして底の石を見はし、
且つ其の水面に一介の枯枝一片の草介をさへ泛べざるは、
其の源の此處を去る遠からざることを推すべし。
川を横ぎりて、幾個の平石あり、點々互に同じ距離をもて、水中に立ちたるは、
宛がら人の手を以て、故さらに按排して、徒矼を作りたるにも似たり。
川は北東に向ひて走れば、是れ或は武安が嚮に東方の發見せし所の海の注ぐ者ならむも、
知るべからず。故に童子等は、且らく試みに川を追ひて其末の注ぐ所を檢討すべしと議決して、
先づ徒矼をわたりて對岸に到りたり。是れ下流に至らば、
其の幅員の次第に廣がりて、或は之を濟らむと慾するも、能はざることあらむを慮かりたればなり。
川はより〜密樹のために其の水面を蔽はれて、 其の所在を失ふことあるも、童子等は多くの困難なく、其の岸に沿ひて下りゆくことを得たり。
川は急轉 慢折、一にして足らざりしが、其の大體は依然東方に向ひて走りたり。
然れども其の末は尚ほ甚だ遠しと見えて、水の流れは依然として徐かに、
其の幅員は依然として些しの廣さをも加へず。五時半に至りて、 童子等は遂に斯の川の全く北方に走るものなるを發見して、
大に失望落膽せり。渠等は川を舍てゝ、再び路を東方に取りて進み行けるが、 密樹
鬱葱として晝尚ほ暗き處多きに、 長艸は往々
渠等の頭を沒して、互に相喚び相應じもて行かざれば、 動もすれば相失はむとするの懼れ有り。
既に七時に埀むとせるに、未だ茂林の外に出づる能はず。 武安杜番は相
議して、今夜の此處に宿して、 明日 復た其の進行をつゞくべしと決しぬ。
是時天已でに黒くして、十分物の色を辨ずる能はざりしも、一方に一團の茂樹ありて、
下枝四面に廣がり延びて、恰かも屋根の状を成せるを望み見て、
一同其の中に分け入りて、持ち來りたる毛布を展べ、 燻牛肉乾餠等取り出だして、
各飢を療せしが、未だ幾ばくならずして、一同横に臥すとそのまゝ熟睡して、
前後も知らずなりにたり。獵犬フハンは戸を守りて、茂樹の外に見張りせしが、 是れさへ遂には目を合せて動かずなりぬ。
翌朝七時、一同は眠覺めて、此 處をたち出でむとせしが、
獨り先づ茂樹の外に出でたる左毗は、
忽ち恐ろしき聲を揚げて、「武安、杜番、韋格、
とく來りて之を見よ」。三個は驚きて、走せ出づるに、左毗
「とく來りて、昨夜餘輩の宿したる處の何處なりしやを見よ」。 童子等の宿せしは、昨夜想像したる如き、茂樹の中にはあらずして、
一個の小舍なりき、小舍は樹の枝を編みて屋蓋となし亦た壁となしたる粗製のものにして、
黒人が稱してアジョウパとなす所のものなり。
創建以來、已でに許多の星霜を經たりと見え、屋蓋及び壁ともに、
僅かに其の形を存するばかり。杜番「さては、此地は、無人の郷に非ず」。
武安「少くとも、昔は無人の郷に非ざりき」。
韋格「此によりて昨日の徒矼の原因も亦た判然せり」。 然れども此地にして若し野蠻なる黒人の住む所ならしめば、
童子等は又た更らに一段の憂へを加へたるものと謂はざるべからず。 童子等は再び小舍の中に入りて、仔細に檢尋するに、
一面に地上を蔽ひたる枯葉の底に於て、一個の土器の破片を拾ひ得たり、 是れ亦た一個の人工的遺物なり。一同は此
處を出でゝ磁石を手にして一直線に東方に進み行くに、 十時に向ふ比ほひ、やう〜茂林の外に出づるを得たり。
打ち看れば、茂林の外は一面の平地にして、たち麝香艸ヘザー等 叢生し、 八町
許前方には、一帶の白沙、限り無きまで長く左右に曳きて、
白沙の上には武安が嚮に望み見たりといふ海の千波萬浪、 徐ろに打ち寄せ打ち返す。
今は復た疑ふべき無し。此地は大陸にあらずして、一個の島なり。
童子等は平地を徑りて濱邊に赴きつ、白沙の上に坐を占めて、
早飯をしたゝめしが、一同悄然として、言を發する者さへあらず。 既にして食事
畢りしかば、杜番は先づ身づくろひして、 「いざ、打ちたゝむ」。蓋し渠等は若し早きに及びて歸途に就かば、
或は日沒以前にスロウ號の在る所に逹することを得べし。 四個の童子は、最後に復た齊しく首を囘して、
恨めしげに海の面を看たるまゝ、再び茂林のかたに返らむとするに、
如何にしけむ獵犬フハンは、突然として海際に走せゆくしが、
忽ち口をさし入れて、海水を飮みはじめぬ。杜番は從ひゆきて、
亦た掬して之を飮むに、水は些しの鹽氣無き純然たる淡水なりき。
即ち此地の東方に横はれるは、海に非ずして一個の湖なりしなり。
是れ島か是れ大陸かの一問題は、此に至りて復た不分明の中に落ちぬ。
斯の湖の看わたす限り、前方及び左右二方、殆ど亦た此地の大陸なるやを疑はしむる者も無きにあらず。
武安「若し大陸ならむには、應さに是れ亞米利加なるべし」。
杜番「餘は初めより、しか信ぜり、餘の説果して誤らざりしに似たり」。
武安「兎に角に、餘が嚮に望見したるは、やはり水の色なりき」。
杜番「然り、然れども是れ海にはあらざりき」。
若し此地をして大陸に屬せしむるも、童子等が人有る郷を尋ねて、
東方に旅行せむことは、數月の後、春暖の候の囘り來るを待ちてなるべからず。
既に數月を此地に消さゞるべからずとせば、西方の濱邊に於て、
其の栖宅に適當なる洞穴の類を發見する能はざりし渠等は、
斯の湖のほとりに於て、何等の其の棲居に適當の處ありや無しやを探究せむことも、
亦た緊急の一事なり。加ふるに、かの徒矼の如き、
小舍の如き、曾て人の此地に住みしもの有りしことを證するの遺迹多く此 邊に存するを觀れば、
更らに仔細に探討せば、或は又た更らに幾多前人の遺物を發見するを得て、
童子等が進退を定むるの參考とすべき良材料を得ることもあらむ歟。
四個の携帶せる食物は、尚ほ四十八時間を支ふるに足るべく、天氣も亦た幸ひに激變を來すべくも見えず。
故に四個が目下決すべき問題は唯だ是れなり。曰く渠等は此より北に向ふべきか、
南に向ふべき歟と。蓋し北に行くは、スロウ號に益す遠ざかるものにして、
南に行くは、稍や之に近づくなり。故に渠等は南に向ひて、 湖邊を探究しゆくべしと定めたり。
湖邊は一樣の平地打ちつゞきて、歩行に困難少かりしかば、
四個は大なる疲勞もなく、是日十マイル許を行きて、歇まり宿せり。
途中曾て一縷の煙の樹外に騰り、一雙の足跡の沙上に印するを見ざりしは、
此地已でに久しく人の住むもの無きを料るべし。又た曾て一個の猛獸、
或は食草的動物に逢はず。唯だ二三囘一種の巨鳥が、茂林の裡に出沒するを望み見たり、
左毗は初めて之を見たるとき直ちに一同を顧みて、
「是れ駝鳥なり」。杜番「駝鳥とせば、是れ極小駝鳥」。
武安「若し渠等をして駝鳥ならしめ、此地をして大陸に屬せしめば、
此地は必ず亞米利加なり、亞米利加は即ち尤も駝鳥多き處なれば」。 四個は午後七時
復た一條の小川のほとりに出でたり、川は分明湖より流れ出づるものあり。 此の時天
漸く晩れたれば、明朝を待ちて川を濟るかた安全なるべしとて、
乃ち是日は此處に歇まり宿せることゝなせるなり。
四個は獵犬と共に、沙上に横臥して眠りしが、翌朝目を開けば、 既に七時を過ぎたるに、驚き起きて、先づ川の對岸を展望するに、
川の那方は眼の屆く限り、只だ是れ一面の沼澤なりき。 一同は相顧みて、昨日強て川を濟らむには、
直ちに斯の沼澤の中に陷るべかりしに、此方に歇まり宿せるは、 幸なりしと相
賀しつゝ、川の右岸に沿ひ、流れを趁ひて進み行くに、 渠等の右方に一帶の岸壁ありて、遠方より來りて次第に隆起
聳立するを見る、 是れスロウ灣の上に屏立する岸壁のつゞきなること莫きかとは、
一同の齊しく心に思ひたる所なりき。スロウ灣とは、童子等が此のところ、 スロウ號の漂着せる所の灣を、假りに稱する評語なりき。
韋格は忽ち叫びたり、「看よ、あれを看よ」。
韋格の指さすかたを視れば、是れ繋舟の所となしたる者なるべし、
幾多の石の、人の手を以て累積されたるが、半ば殘破しながらも、猶ほ舊時の形を存してをり。
武安「此邊に曾て人ありて住みしは、益す明かなり」。 杜番「然り」と答へつゝ、繋舟所の一方に、
茂草の間に横はりたる幾多の木片を指させり。 是れ當時の船の破片なることは、其の形に由りて甚だ明かなるのみならず、
舟の龍骨をなしたりし者の破片なるべしと見ゆる木片の一端には、
猶ほ一個の鐡環ありて附着せり。四個は宛がら、曾て斯の舟を用ひ斯の繋舟所を築きたる人の、
今にも突如として、渠等の面前に現はれ出でむとする如く思はれて、
各四邊を看まはしつゝ、默然として彳立せり、 然れども四邊は闃として、一個の人の影も見えず。
唯だ蕭々たる水の輕く岸を洗ひて、悠然として逝くあるのみ。
舟の此處に棄てられしより、既に幾多の年所を經たると覺しく木片は皆な蘚苔に蔽はれて、
鐡環は通身赤く鏽を生ぜり、 而して曾て斯の舟を用ひし人は、今
安くに在るや、渠は何許の人にして、
何樣の終りをなせるや、是れ四個が皆な知らむと慾して、知る能はざる所なり。
既にして獵犬フハンの異樣なる動作は、又た忽ち童子等の驚きて、目の注ぐ所となれり。
フハンは雙耳を張り、尾を掉りつゝ、しきりに地上を俯し嗅ぐは、
何等か異常の臭を聞きいだせしなるべし。既にしてフハンは足を擡げ、口を開きて、
暫らく猶豫ふさまなりしが、又た忽ち一方なる樹叢を望みて、
まつしぐらに走せ去りたり。樹叢は湖の畔に於て、岸壁の下に傍ひて立てる所なり。
一同はフハンの後に從ひて、樹叢のほとりに至るに、前頭に一株の舊き山毛欅ありて、 其幹の皮を刻みて、
F. B.
1807
の六字を記しあるを見たり。童子等が足を停めて、之を諦觀する間もなく、
フハンは再び少しく却走して、岸壁の角を遶りて、忽ち見えずなりぬ。
武安「此處へ、フハン、此處へ」と喚びたるがフハンは歸り來らず、
那方にありて、俄かに常ならぬ聲して頻りに狂ひ吠ゆる響聞ゆ。
武安「一同一緒にかたまりて、自から衞らざるべからず」。 この言杞憂にあらざりき、或は猛獰なる恐るべき黒人の、
近く渠等を窺ふもの有るなるやも料るべからず。
童子等は各武器を提げて、一團となりて、かのフハンの聲のするかたに走せゆくに、
岸壁の角を遶りて行くこと、未だ數 間ならず、杜番は忽ち足を停めて、
地上に遺ちたる一個の物を拾ひあげぬ。是れ一個の鋤なりき、 而かも是れ未開人の作りたるものに非ず、必ず亞米利加或は歐羅巴、
文明人の製に係るものなり。其の嚮の鐡環と同じく、
通身赤く鏽びたるは以て其の亦た幾多の年所を經たるを推すべし。
更らに意を留めて其のほとりを視るに、岸壁の下に、當時耕作せし迹と見え、
髣髴として溝の痕あり。又た一とかたまりの芋の、 今や野生のものと變じて、肆まゝに蔓延したる有り。
時に再びフハンの哀しげに叫ぶ聲聞えしが、フハンは忽ち童子等の前にかけ來りて、
いたく激昂したるさまにて、童子等の顏を仰ぎては、往きつ返りつ、走せまはる、
宛がら童子等に己れに隨ひ來るべしと催促するものおに似たり。
童子等はフハンの導くがまゝ隨ひゆくに、やがて一簇の荊棘灌木雜生せる岸壁の下に至りて、
止まりたり。童子等は心を用ひて、恐る〜荊棘を披き、灌木を拂うて、
其の中を窺ふに、岸壁の面に、黝然として黒く見ゆるは洞の口なるべし。
武安は手ばやく枯草を聚めて、之に火を點じ、洞中にさし入るゝに、
依然として熾燃せるは、洞中の空氣の呼吸に害なきを知るべし、
武安は又た川の上に往きて、松樹の枝を折り取り來りて、之に火を點じて、
早速の火把となし、之をかざして、一同相率ゐて洞中に進み入るに、
口は高き五尺幅二尺に過ぎざるも其の中は呀然として、二十尺四方の一 廣室を成し、
地上は一面に美くしき乾沙平布して、毛氈を覆むが如し、
室の口の右方に、一個の粗製の卓子ありて、卓子の上には、
土製の水さし一個、巨なる貝殼數個あり。貝殼は蓋し皿として用ひられたるものなるべし。
又た一個の缺折したるナイフの赤く鏽びたるがあり、
二三個の釣魚鉤、一個の錫のコップあり。一方の壁ぎはには、 一個のあら木製の匣ありて、
内には衣服の破片若干を藏せり。疑ひも無く、斯の洞中には曾て人ありて住みしなり、
而して是れ何人にして、何時の事なりしならむ歟。
次第に進みて室の奧に至るに、此處に破爛せる藁ぶとん有りて、
其の上に色褪めたる毛布被ひあり、斯の臥具のほとりに、
一個の凳几ありて、凳几の上に、亦たコップ一個と、
木製の蝋燭たて一個とあり、童子等は此處に至りて、 覺えず慄然として一二歩退却せり。
斯の臥具の中にこそ定めて昔斯の洞の主たりし所の人の遺骸あるべしと思ひたればなり。
杜番は自から勇氣を奮ひて、進みて毛布を掲げ起しぬ、然れども臥具の中は空虚なりき。
洞中を檢搜し畢りて、四個は出で來るに、フハンは仍ほやツきとなりて、
狂ひ叫びをり、四個は獵犬の導くがまゝに再び隨ひゆきたるが、 川の岸に沿ひて下りゆくこと十 間許にして、
渠等は齊しく悄然として足を停めぬ。 川の上に一株の巨いなる山毛欅ありて、
其の下に一 堆の白骨横はり臥せり、 是れ蓋しかの洞の主たりし薄命の人の遺骸なるべし。
四個は默然として彳立したるまゝ、身動きだもするもの有らず。
斯の人は是れ何人ならむ歟、或は破船水夫の此地に漂着して、 空しく救ひを待つうちに、遂に病みて死したる歟。
若し然らば、渠は其の間如何にして其の生活をなしたる歟、
渠が洞中に貯へたる諸種の什具は、渠が本船より僅かに取り出だし得て、 此
處に持ち來れる者なる歟。抑も尤も知りたしと慾する所の者は、
若し此地をして大陸に屬せしめば、渠は何故に内地或は沿岸の、人有るかたを尋ねゆくことを爲さずして、
空しく病みて死したる歟。或は其の旅行甚だ困難にして、渠は終に其の目的を逹すること能はざりし歟。
或は其の路程の極めて遼遠にして、之を跋渉せむことの、
到底能ふべからざりし歟。若し斯の人にして、昔此地より人有る郷に尋ねゆかむと慾してゆく能はず、 遂に此
處に終りたりとせば、爭で獨り今日のスロウ號の破船者のみが、
之を企てゝ成功することを望むことを得むや。兎に角に童子等は、
更らに仔細に洞中を檢搜せば、或は斯の人の書きおきたる日記などの類の、
童子等に、斯の人のみのうへと始末とにつきて、更らに詳密なる知識を與ふべき者あらむも、 料られず。
四個はフハンを從へて、再び洞中に還り來るに、先づ渠等の目につきしは、 右方の壁に掛りたる一個の袋にして、袋の中には、
獸の脂肪と船中にて用ふる所の塡絮とを以て製したる蝋燭數個あり。
左毗は直ちに其の一個を取り出だして、之に火を點して、
嚮に見たる所の蝋燭たてに之を植てゝ、さて一同熱心に洞中を檢搜しはじめたり。
洞中は唯だ其の口を經由して、風を通ずるのみなれども、些しの濕氣なく、 四方の壁は淨然燥きて花崗石の如く、
東方の壁は恰かも海上より來る所の風を防ぎて、海氣の此裡に入り來るをを拒げり、
洞中の甚だ闇きは眞に一缺點なり、然れども前方の壁に二三の窓を穿たば、
以て斯の缺點を補ふことを得べし。洞中の面積は二十尺四方に過ぎざれば
(即ちたゝみ二十二三枚をしくに過ぎざれば)十五名の童子の棲居として、
十分の廣さありと謂ふを得ざれども、兎に角に以て數月を此處に消すぜからざるに非ず。
かの山毛欅の下の白骨と化したるし斯の洞の主が、
初め此處に上陸したりし時は、蓋し一身の外多くの物を齎らす能はざりしなり。
童子等が洞中を檢搜して、新たに發見し得たるものは一個の斧、一個の鋤、
二三の割烹器具、ブランデーを盛りたる者らしき一個の樽、及び槌、鑿、鋸等なり。
想ふに渠は是等の諸品を携へて、 今はこの茂草の間に横はる零細の木片となり了りたる一隻のボートに駕して、
童子等は更らに査索しゆくに、又た一個の懷中ナイフ、磁石、湯わかし、
鐡鍋、索つぎ針を發見せり。然れども未だ曾て一個の火器の類あるに逢はず、
時に韋格は忽ち一個の物を取りあげて、「是れ何物なるべきか」。
他の三個も來りて共に之を視るに、是れ二個のまろき石を索もて緊と約しあはせたる者にして、
南亞米利加の黒人は、之を投じて走獸を撃つに、百に一を失はずと云ふ。
想ふに斯の洞の主は、自から之を製し之を用ひて、
以て其の火器の缺を補ひしなるべし。韋格は又た壁の上に一個の懷中時計懸り居るを發見せり、
時計は通例水夫の持つ所のものには異なりて、白銀の雙蓋にて、
鎖鑰ともに同じく上等の白銀なり。蓋は鏽びつきて容易に開かざるを、
やう〜開き視るに、長短の針は正さに三時廿七分を指せり。
杜番「蓋の裏に製造者の名あるべし、そを觀れば以て其の所持者の何の國の人なるかを推するを得べし」。
武安「君の説 是なり」。蓋の裏を返し視るに、 Delpleuch. Saint
Malo,と刻みあり。武安「さては渠は佛人なりき、
餘が同國の人なりき」。渠の佛人なりしことは、更らに一個の確證ありて、
愈よ益す明かになりぬ。杜番は臥具を打ちかへせるに、
其の間より一册の手帳現はれ出でぬ。手帳の紙は多くの年所を經たるがために、 皆な黄みて、其の面に書ける文字も、
多くは讀むべからずなりたるが、唯だ其の間に屡ば『朗法、慕員』の二語ありて、
是のみはやうやう讀みわくることを得たり。二語の頭字は即ち、
嚮に見たる山毛欅の幹に刻みありし二字と相符すれば、
是れ斯の人の姓名なるべし。手帳に記せし所は、渠が此處に漂着して以來の事どもを録せるものなるべし。
武安は又た手帳の中に就て、「ヂュゲー、トロイン」の一語を讀みあきらめぬ、
是れ遭難せる本船の名なるべし。手帳の首めに一千八百零七年の年號記しあり、
亦たかの幹に刻みある年號と相符すれば、是れ其の破船の年なるべし。
然れば朗法慕員が此處に上陸してより、
今に至りて五十三年なり。更らに仔細に手帳を査閲するに、手帳の間に一枚の疉みたる紙あり、
開きて之を視るに、是れ一個の地圖なりき。
杜番「地圖」。武安「想ふに、慕員が自から畫ける所のものなるべし」。
童子等は一目の下、直ちに己れ等が現に其の西岸を探究しつゝある所の湖、
及びスロウ灣、スロウ灣上の岸壁等を、地圖に上に認め得たり。
而して之を周匝する者は、皆な淼々たる一樣の大洋なり。
武安が想像せし所は遂に誤らざりき。童子等の現に立てる所は一個の孤島なりしなり。
是れ慕員が幾年或は幾十年の久しきを閲して、終に此 處を脱がれ出づること能はず、
かの山毛欅の下に病死したりし所以なり。
蓋し地圖は慕員が躬親ら全島を遍歴して、
其の目撃せる所に由りて、調整したるものなるべく、かの茂林中の小舍及び徒矼は、
即ち其の跋渉のをりに造られしものなるべければ、 斯の地圖の示す所の精確なるは、復た疑ひを容れず。
但だ其の距離の尺度に至りては、勿論測量器具ありて之を測量せしに非ず、
渠が經過の時間の長短に由りて、之を臆算せしに過ぎざらむ歟、
地圖に據るに、島の大形は蝴蝶に似て、其の中央に湖あり。湖の四面は皆な一樣な茂林なり。
幾條の川此より流れ出でゝ、海に注ぐ。現に斯の洞の外に流るゝ川の如き即ち其の一にして、
斯の川は即ちスロウ灣の南端に於て海に注ぐ者と同じ一つの流れなり。島中一個の山なく、概して一樣の平野にして、
其の北方は乾燥にして沙場多く、南方は沼澤 沮洳多し。 全島面積は東西 約そ二十五マイルなるべし、
但この島の位置の南半球に於て何の邊に在るかは、地圖に示す能はざる所なり。
要するに、慕員の遂に此處に終りしを觀れば、
斯の島の人の來り訪ふこと希れなる絶海の中に在るものなるを推すべくして、
童子等の此處に消すべき歳月は將來尚ほ悠遠なりと想定せざるべからず。
兎に角に、其の棲宅に恰好なる斯の洞を發見したりしは一同の幸ひなれば、 嚴冬の烈風のスロウ號を來り襲ふに先きだちて、
速かに其の食物其の他を運搬して、此處に移居するの計を爲ざゞるべからず。
四個は今は只だ速かにスロウ號に還るべき一事あるのみ、渠等は地圖に據りて、
洞外に流るゝ川は、其の末スロウ灣に入ることを知りたれば、斯の流れに沿ひて、
スロウ號に還るべしと定めたり。川の長さは七マイルに過ぎずと見ゆれば、
是れ僅々三五時間の路程なるべし。四個は此處を去るに先きだちて、 洞中に在りし鋤を取りて、
慕員が其の姓名の頭字を刻みたる山毛欅の下を掘りて、
其の遺骸を此處に葬り、又た洞の口を塞ぎて、野獸の此の中に闖入するを防ぎなどし、
畢りて岸壁を右にして、川の流れを左にしつゝ進み行くに、此邊は樹木も稀れにして、
途上の障礙少ければ歩行意外にはかどりて、一時間の後は、岸壁の次第に川より遠ざかりて、
斜めに北西のかたに走せ去る處まで來りたり。
武安は斯の川の或はスロウ灣と湖との間に交通を助くべき便道となることあるべしと思ひて、
行く〜意を留めて之を觀るに、川は十分ボート或は筏を容れて、之を通行せしむるだけに餘地あり。
進潮に乘じて棹さゝば、多くの勞力を須ひずして、流れを遡ることを得べし。
四時に至て、一個の大なる沼澤ある處に來りたれば童子等は已むを得ず、 北西のかたに路を迂して、進み行きしが、雜木地を蔽ひて、
歩行次第に困難となり、既にして六時となり、 七時となり、天は漸やく黒くなるに、茂林は益す密になり、
八時に及びては、夜色已でに四方を罩みて全く方位を辨ずべからざるに至れり。
時に忽ち茂林の一方に、燦然たる一道の明光ありて、
空中に閃き騰るを望めり。左毗「あれは何物なるべきや」。
韋格「蓋し流星ならむ」。武安「否な狼火なり、
スロウ號より擧ぐる所の狼火なり」。杜番「即ち呉敦の餘輩に示す所なり」
と呼はりて、其の銃を發ちて其の信號に答へ應じつゝ、 眞先きに走せ出だせり。四十分の後に一同
恙なく、スロウ號に歸り着きぬ。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第五囘
翌日朝まだきに衆童子は甲板の上に集衆して、四個の遠征委員が遠征の結果を聽き、今後の進退につきて、 相 議する所あり。地圖に據るに、斯の島は東西十里南北二十里ありて、 必ずしも世界 輿地全圖に載せられざるほどの極小なるものに非ず。 然れども輿地全圖を照査するに、南亞米利加の海岸に近き處に於て、著名なる群島より以外に、 當さに是れなるべしと想はるゝ孤島もあらず。若し斯の島をして、是等群島の中に屬する一島にして、 即ち其の左右に近く他の島有る者ならしめば、慕員が其の地圖の上に、 其の事を記さずしては已むべからず。武安「要するに目下の第一策は、先づ餘等の居を、 かの湖畔の佛人の洞に移すに在り」馬克太「洞は餘等一同を容るゝだけの大さあるか」。 杜番「否な、然れども餘等は更らに岩壁を穿ちて、之を廣むることを得べし」。 呉敦「縱ひ多少の不便あるとも先づ其のあり形のまゝに用ひて、 然る後 徐ろに他の計を講ずるも、亦遲からじ」。 蓋し是時スロウ號は、其の甲板の側面及び側面の破損處次第に益す大きくなりて、 殆ど風雨を庇ふべからざりしのみならず、烈風一たび怒濤を送りて、其の背を打たむには一二時間ならずして、 全船體粉碎し了るべき状を呈せり。故に移居は渠等にとりて、焦眉の急なりしなり。 杜番「移居の事を了るまでは、餘等は何處に宿すべきや」。 呉敦「天幕の下に、川の上に天幕を張りて以て」。 渠等が船中に有らゆる物を荷づくりし、船體を解きて其の有用なる材木其他を擇りわくるには、 少くとも一個月は要すべく、渠等が此處を發足するは、早くも五月の初めとなるべし。 五月は餘輩北半球の十一月にして、即ち冬の初なり。渠等が一日をも空費すべからざるは是が爲めなり。
呉敦が其の假宅の地を川の上に擇みしは智かりき、 渠等が船中の物を、佛人の洞に運搬するには、 川に由りて筏を用ふるより善きは莫し、則ち川の上は其の發足に最も便利なる位置なればなり。 衆童子は是日より、直ちに其の假宅工事に着手して、先づ川の上に繁生する山毛欅の枝と枝との間に、 長き材木をわたして、之に大小の帆を張りて、屋蓋となし、亦た壁となし、 此 裡に其の火器彈藥及び諸般の食物、其の他必須缺くべからざる鍋釜 器皿の類を納めぬ。 毎日風は強かりしも、幸ひにして快晴打ちつゞきたりしかば、渠等は着々其の工事の歩を進むることを得て、 既に船中の物を悉く、天幕の内に運搬して了り、次に船體の外皮を解きはじめぬ。 外皮を包める銅鈑は、後來諸種の用あるべきを思ひたれば先づ丁寧に之を剥ぎ取りたり。 然れども熟練無く膂力弱き童子の手を以て、百 噸の船體を解くことは、 甚だ容易の業にあらざりき。
然れども四月二十五日に至りて、不思議の助ありて、大に渠等の勞を省きぬ。 是日夜半より烈風吹き起りて、天明まで吹きとほし、翌朝 渠等濱邊に往き視るに、 スロウ號は全然破戒し了られて、唯だ大小の木片の、地を蔽ひて堆積 亂布するを見るのみなりき。 此より後兩三日は只だ濱邊に亂布せる木片を拾ひて、之を天幕の前、即ち川の右岸の中に運搬するのみに消されしが、 是れ亦た決して容易の業にはあらずりき。
其の最も年長者と稱する者さへ未だ十五歳には滿たざる一群の童子が、或は長き木材を槓杆として重きを起すあれば、 或は圓き木材をコロとして重きを轉ばすあり、或は擔ふあり、 或は舁つぐあり、互にえい~聲をあはせて、一心に奔走勞作するさまは、 如何に憐れにも、しをらしく、勇ましき觀ものなりしとするぞ。二十八日の夕がたには、既に一切、 絞車盤鐡竈水桶等の甚だ重きものに至るまで凡そ船體に附屬せる者にして有用なる者は一切悉く川の右岸に運搬し了られたり。 明日よりは筏の編成に着手すべしといふ、筏編成の工事は、馬克太主として之を統督し、 他の諸童子は多く馬克太の指揮に從ひて運動せり。 蓋し馬克太が天性一個の木匠たるの才は、 今回 假宅の工事及び船體解きほどきのことにつきて、 大に衆童子の間に顯はれて、衆童子は自然 渠に倚頼して、 其の力を藉ること多かりしなり。渠等は先づスロウ號の龍骨を截りて二つとなしたる者、 前檣まら後檣の下半、帆桁等、スロウ號より取り來りたる諸種の長き木材を把りて、 川の中に投じ、其の長きを縱にし、其の短きを横にして、 堅く相 約し以て、堅五 間幅二間半の筏の骨格を作りたり。 骨格既に就りしかば、次にはスロウ號の甲板及び側面より剥ぎ取りたる板を以て、 其の上に平布して、之を釘粘にし、かくして不手ぎはながら、 遂に一個の筏を編成し了りたり。然れども是れなか~の困難工事なりしかば、衆童子は夜以て日に繼ぎて、 纔かに其の工事を了りしは、五月二日なりき。翌三日よりは直ちに貨物をつみはじめしが、 善均、伊播孫、土耳、 胡太等の幼年者は各其の體力に稱ひたる少量輕量の貨物を肩にして、 之を筏の上に運搬し、筏の上には、武安馬克太等ありて、 呉敦の指揮に從ひて、偏輕偏重の患ひなきやう、 之を按排陳列す。又た鐡竈水桶 銅鈑等重量のものは、 絞車盤の助けを藉り、年長童子等の手を以て、之を筏の上に縋り下ろせり。 之を總ぶるに、衆童子の一心協力によりて、 五月五日の午後には、天幕の内外にありし一切の貨物、悉く筏の上につみ了られたり。 今は只だ明朝八時を待ちて、進潮の流れに乘じて、 纜を解き川を遡るべきの一事あるのみ。 呉敦「然れども、餘等が此 處を去るに先きだちて、 尚ほ爲しおくべき一事あり、餘等既に此 處から去るからは、 縱ひ船の斯の沖を過ぐるあるも、餘等は復た之を望みて、 之に信號し、其の救ひを乞ふこと能はざるべし、故に餘等はかの岩壁の頂きに、一個の竿を樹て、 常に信號旗を掲げおきて、以て斯の沖を過ぐる船もあらば、其の船の注意を惹かむと慾す、 諸君は以て如何となす」。他の諸童子も勿論斯の用心の策に異議あるべきにあらねば、 直ちに旗を掲ぐるに決し、是日の午後は斯の事のために消し了られたり。 翌朝は一同早くより起き出でゝ、天幕を卸して、之を筏の上なる貨物の上に被ひ、莫科は三四日分の食物を準備して、 之を筏につみなどす。七時には既に一切の事 畢りて、一同筏にのり移れり。
年長者は各手に~棹を把りて、潮の進むを待ちてをり。 八時を過ぐる三十分 許するほどに、今まで海に注ぎし川の水は、 次第に進潮に推されて、海より湖のかたに向ひて、 逆さまに流れはじめぬ、筏は直ちに纜を解きぬ。
不手ぎはなる筏が、其の尾にスロウ號唯一の遺物なる短艇を挽きつゝ、 徐ろに川を遡りはじめたるときは、衆童子は齊しく手を拍ちて、 自から喝采 驩呼するを禁ずる能はざりき。 渠等は縱ひ世界第一の良船美艦を造り出だしたりとも、 これより更らに喜ばしくは感ずる能はざりしなるべし。 筏は常に川の右岸に沿ひて、すすめられたり、是れ潮の流れの此方に於て、 特に急迅なるを見しと、又た二には右岸は、左岸よりも更らに高く水面に拔でてをり、 棹を撑ふるに尤も便利なればなり。 然れども進行は甚だ遲々にして、解纜より二時間を經て、尚ほ僅かに一マイルを來りたるに過ぎず。 スロウ灣より湖に至るまでは、少くとも六マイルはあるべければ、 毎 進潮の間に於て、一マイル半乃至二マイルづゝを進行するとせば、 渠等は尚ほ數囘の進潮を經ざれば、其の目的地に逹すること能はざるべし。 十一時に至りて潮は再び退きはじめたるにぞ、渠等は筏を繋ぎて、暫らく此處に休息せり。 午後にも勿論又た一囘の進潮ありと雖も、 呉敦は夜中の進行は、危險無きにあらざればとて、明日まで之を待つこととして、 是日は此處に宿したり。 翌日は午後一時、嚮に遠征委員の一行がスロウ灣に還るとき沼澤に逢ひて路を轉じたりし處まで、 來りて筏を繋げり。頃來寒氣日に加はりて、日中さへ身にしむばかりなれば、 夜間は殊に甚しく、此夜沼澤の面には既に薄氷のはるを見たり、 衆童子は或は進行のあまりに遲々として、川の面に亦た凍結することあらば、 進行益す困難なるべしなど、杞憂せしが、次日午後には、遙かに湖の碧色を前方に望むを得て、 三時幾分には無事佛人の洞の前面なる、川の右岸に着したり。
一同の喜びは言はむもさらなり、善均、伊播孫、土耳、 胡太等の幼年者は早くも岸に登りて、何事か相 語り相 罵りつゝ、 讙然tおして嬉戲跳躑す、筏の上より之を望める武安は、 其の弟 弱克を顧みて、「汝も那處にゆかざるか」。 弱克「否な、餘は此處に留まるべし」。 武安「弱克、餘は汝が近來の擧動を解する能はず、 汝は何事か心中に隱しをるもの有るに似たり、汝は近來 病あるか」。 弱克「否な」。武安は更らに深く推詰せむと慾したるが、 今は久しく是等の問答に從事しをるべき時にあらざれば、問答は茲に終りて、 一同と共に筏を岸に緊く約しつけたる後、 岸に登りて佛人の洞に至り、嚮に口を塞ぎおきし灌木を拂ひて、 其の内を檢するに、洞の内は前日のまゝにして、些しの異状もある無し、 渠等は先づ一同の臥具を取り來りて、之を洞内に按排し、 スロウ號食堂の大 卓子を把りて、洞の中央に安置し、 又た雅涅は幼年者を統督して、鍋釜 器皿等の包みを解きて、 之を洞内に運搬せしむ。一方には莫科が洞外岩壁の下に、 俄に石を布きて竈を造り、スープの鍋をかけ、又た小鳥の串を炙りなどす。 小鳥は杜番等が、此處に來る途すがら、筏の停泊せるをりをりに、 岸に登りて獵獲せし所にして、今其の串を轉し~て之を炙るは、 伊播孫と土耳との擔當する所なり。 七時には一同洞内の大 卓子の周圍に、凳几、 柳條椅子等スロウ號より取り來りて此處に運び入れたるを環列して、 之に坐し、大 卓子の上には、湯氣のたつスープ、燻牛肉、小鳥の炙りもの、 少許のブランデーを點ぜる清水、及び乾酪、セリー酒等あり。 一同舌を鼓して飽くまで此等の美味を賞したる後は、頃來の疲勞一時に發するを覺えて、 早くも睡りを慾せしが呉敦の發議によりて、一同打ちつれて慕員の墓に詣りて、 斯の薄命なりし破船者のために、哀祷の詞を捧げぬ。かくて九時に及ぶ比ほひには、 見張りの番に當りたる杜番韋格兩人を除く外は、 一同皆な酣然として臥具の中に睡りたりき。
翌日をはじめとして三日の間は全く、筏の上なる貨物を洞内に運び入るゝに、消せられぬ。 次の若干日は又た、筏を解きて、其の木材を取りからづくる爲に、消せられぬ。 これ是等の木材の又た他日に用あらむを、思ひたればなり。 五月十三日にはコロを用ひてかねて洞外まで運び置きたる鐡竈を、 洞内に運び入れて、洞口の右方に取りつけたり、馬克太は洞壁の甚だ堅からざるを見て、 試みに之を鑿ちたるに、遂に洞の全面に於て、鐡竈の上に、 一個の穴を穿つを得たり。此裡より煙突を通ずれば、渠等は自今洞内に於て、 一切 水烹を了することを得べし。是等の事 畢り後は、 杜番韋格乙部虞路の四名は、 毎日銃を肩にして、傍近の茂林沼澤を跋渉して、 夕には必ず多少の獲禽を持ちて歸り來るを、常とせるが、 一日 渠等は湖畔に沿ひて、佛人洞を距ること半マイル許の北方なる、 茂林の中にわけ入りしに、圖らずも此處かしこに、人の手もて掘りたるに疑ひ無き深き坑ありて、 散點せるを發見せり。坑の上には多く樹枝など、縱横にかけわたしいあり、 其の一個の坑の若きは、其の底に、何等か動物の遺骨らしき者ありて、 散落するを見たり、蓋し慕員が、當時由りて以て諸動物を掩取したる所の、 陷穽の迹なるべし。四名は是等の坑を暦看したる後、 再び佛人洞に歸り去らむとするとき、韋格「餘に一案あり、 更らに斯の坑を蓋はおかば、或は又た何等かの動物ありて、 自から來りて此の裡に投ぜむも、知るべからず」。 他の三名は、韋格の想像のひやうきんなるを笑ひつゝも、 渠の説に從ひて、其の上に土などふりかけて、歸り去りぬ。
四名は此の如く遊行する間に於て、 川の對岸なる沼澤の周圍にセレリー(荷蘭みつばの屬)茂生するを發見し、 又た水芹多くある處有ることを發見せり、二植物は口に旨くして、且つ衞生に效ある者なり。 天氣は日を逐ひて次第に益す寒きも湖及び川ともに未だ凍結するに至らざれば、 幼年者は毎日水邊に往きて、釣絲を埀ること自由なり、 故に莫科は又た其の庖厨に魚無きことを憂へざりき。 五月十七日 武安及び若干の童子は、何等か物置に用ふべき洞などの、 傍近岩壁の面にあることあらずやと、之を檢討せむと慾して、 佛人洞を出でゝ、 北方なる茂林の中にわけ入りて、 嚮に杜番等が發見せしといふ陷穽のほとりに近づけるに、 忽ち異樣な嘷聲ありて、渠等の耳を劈けり。 武安は眞先きに、杜番等は之に續きて齊しく、 聲するかたに走せ到るに、聲は一個の坑の裡より起る。 坑の上に近づき視るに、土は散落し、 樹枝は摧け折れて、何等か動物の此の裡に陷りしは明かなり。 然れども童子等は未だ其の何物なるやを知らざれば、むざと坑の口に立ち寄るべきにあらず、 「フハン、此處へ、フハン」。フハンは坑の口に至りて、 略ぼ其の中を瞰一 瞰するや否や、些しの懼るゝ色もなく、 躍然坑の裡に跳り下りぬ。
武安杜番は獵犬に續きて、來りて坑の底を窺ひしが、 一齊に首を擧げて、「來れ諸君」。事の險夷を料りかねて、 數歩の後へに停立せる童子等は、皆な走せ來て、乙部「豹か」。 虞路「クーガル(亦た豹の一種)か」。杜番「否な、一個の二足動物、駝鳥なり」。 實に是れ亞米利加駝鳥と稱せらるゝ所の者の一個なりき、頭は酷だ鵝に肖て、 全身灰色の羽毛をもて被はれ、其の肉尤も口に佳なり、 左毗「餘等は生きながら之を捕へざるべからず」。 其の巨鳥の坑の裡にありて、脱がれ出づる能はざるは、 坑の内狹くて、其の翼を奮ふに由なきを以てなり、 左毗は忽ち身を跳らして坑の裡に飛び下りしが、 巨鳥の嘴に二たび三たび啄ばみ撃たるゝを事ともせず、 手ばやく其の喉を扼して、半ば其の氣力を奪ひし後、 他の童子等が投げ下す幾條の手巾を結び合はせて、緊く其の兩足を縛し、 他の童子等と共に、難無く之を地上に曳きあげぬ。 虞路「餘等は將さに之を奈何にせむとするや」。 左毗「問ふまでもなし、洞につれてゆき、之を馴らして、 餘等が騎騁の用に供ふるのみ」。其の果して容易に騎騁の用に適するようになるべきや、 否やは、甚だ疑ふべかりしも、之を洞につれてゆくは亦た極めて容易なりき。 呉敦は初め諸童子の斯の(广/龍)然たる大物をつれもどりしを見たるときは此の如くして更らに一個の人口を、 洞内に増すことは、洞内の經濟のために計りて、得失如何なるべきやに、 頗る疑ひ惑ひしが、再び考ふるに及びて、斯の新來の客は、 單に草或は木葉を食ひて以て、生活し能ふものなることを憶ひだして、乃ち心を安んじたり。
佛人洞の傍近に於て、 物置として用ふべき洞のたぐひを發見すること能はざりしかば渠等は再び最初の案にもどりて、 斯の洞をほり廣げて以て、物置の一室を作るべきに決したり。 岩壁は幸ひに其の質甚だ堅からず、馬克太は嚮に鐡竈の上に煙突の穴を穿ちたる後、 續で洞の口を廣げて、此處にスロウ號より取り來りし戸板の一個を嵌め、 又た其の左右に各一個の窓を穿てるに、勿論衆童子の熱心盡力に由るとは雖も、 皆な既に成功することを得たりき、故に渠等が今 洞をほり廣げて、 別の一室を作らむと慾するも、勿論多大の勞力をば須つべきも、 決して爲すべからざるの事を爲さむと慾する者にはあらず。 かくて渠等が始めて鶴嘴及び鏟を揮ひて、 洞の右壁即ち湖に面せるかたの壁を穿ちはじめしは、五月二十七日なりき。 武安「一直線に此處をほりゆかば、餘等は湖に面したる岩壁の下に出づるなるべし、 若し風烈しくして、前面の戸を開く能はざるをりには、此の如くして側面の口に由りて、 洞外に出づることをも得べし」。蓋し洞内より湖畔岩壁の下に出づるまでの距離は、 直徑七 間乃至八間なるべし。渠等は初め先づ狹きトンネルを穿ちて、 然る後之を次第に上下左右に、ほり廣げゆくべき設計なりしなり、 此方は岩壁又た殊に軟脆にして、ほりゆくに隨ひて、 左右に木材の支柱を施して、其の崩壞を防がざるべからざる處さへ、少からざりしほどなりしかば、 三日 許の間に於て、工事は意外に速かにはかどりたり。 此の間 呉敦は他の手あきの童子等と共に、嚮に筏を解きて得たる所の木材を類別 區畫して、 其の中よりトンネルの支柱に用ふべき者を、擇りわくるなどのことをなし、 幼年者は又た皆なトンネルの中より、岩屑石片を運び出だして、之を洞外に棄つるなどのことを手つだふ。
かくて三十日の午後には、既に五六尺の長さのトンネルを穿ち成すまでに至りしが、 時に駭くべき不思議の事起りたり、武安は例の如く、 トンネルの奧にありて、しきりに岩壁を穿ちをりしに、 己れを距る遠からざる岩壁の一方に、何者か呻吟する聲あるに似たり。 武安は愕然として、覺えず手を停めて耳を欹つるに、 疑ひもなく呻吟の聲なり。武安は忙はしく匍匐 却行して、 呉敦馬克太に斯のよしを語るに、呉敦「そは君の幻聽なるべし」。 武安「試みに君往きて之れを聽け」。 未だ幾分ならずして、呉敦は再びトンネルの中より現はれ出でゝ、 「君の言眞なり、何物か低く咆吼しつゝあり」。馬克太も入りて之を聽けるが出で來りて、 「是れ何物なるべきや」。三個は直ちに杜番韋格乙部雅涅等の年長童子を喚びて、 更る~゛入りて之を聽かしむるに、聲は已でに息みたりと見え、 渠等は皆な聞く所なしといひ、是れ三個の幻聽に欺かれしならむといふ、 兎に角に是れがために、工事を中止すべきに非ざれば、武安等は再びトンネルを穿ちゆきたるが、 夜九時に至りて、此のたびは前に比すれば更らに明かに、咆吼の聲を聞きぬ。 時に恰かもトンネルの中に入り來りしフハンは、 之を聞くより早くもトンネルを跳り出でて、不穩の色を作しつゝ、 洞内を走せめぐれり、是夜は一同掛念の中に眠りに就きて、屡ば惡夢に驚かされしが、 翌朝は早くより起き出でゝ、馬克太杜番の二人先づトンネルの中に入りしが、 寂然として何等の聲も聞えず。フハンも亦た平然として、 昨日の如く怒りくるふ態をも作さず、二人は又た相 議して洞外に出でゝ、 路を求め岩壁の巓に登りて、佛人洞の頂より、 其の四邊を遍く檢索せしが、一 縷の風を通はすべしと見ゆる極小の罅隙さへあらず、 二人は再び洞内に還りて、他の諸童子にも之を語りて、さて例の如く一同又た終日岩壁を穿ちゆきしが、
是日は聲全く息みて、復た聞えず。唯だ鏟の岩壁に觸るゝとき、 中虚の物を打つやうの響きを反射しはじめしは、或は岩壁の一方に亦た一個の洞ありて、 渠等が穿ちゆく所のトンネルの、次第に其の洞に近づくために非ざるなき歟。 果して然らば、渠等は由りて以て多大の勞を省くことを得べく、 其の幸ひは非常なりと謂ふべし。
一同は是日の業を畢りて、晩飯の膳に就けるに、 常に其の主公の椅子の側らに座を占めて、食事に伴ふ所のフハンは、 如何にせるか、是 夕に限りて見えず。一同「フハン、フハン」と喚びたつるも、 答へ無し、呉敦は戸のきはに往て、高く之を喚びたれども、 亦た應聲無し、杜番は湖畔に往き、韋格は川の岸に登り、 其の他一同手を分ちて、洞の四邊を索めたれども、 遂に發見する能はず、時既に九時を過ぎたれば、 渠等は復た遠く茂林沼澤の中にわけ入りこと能はず、 一同 愀然として、再び洞内に還り來りぬ。渠等は互に目と目を視あはせて、 長嘆短吁するのみ、敢て一言を發する者なし。
俄かにして、はげしき咆吼怒號の聲聞えぬ。 武安「聲は正さに此の内より來る」と叫びつゝ、 トンネルの中に走せ入りたり。年長者は皆な蹶起して、 不虞の變に備ふべき身がまへし、幼年者は恐怖して、 皆な蒲團を首より被りて、そこに俯伏せり。 武安はトンネルの中より出で來りて、「必ず岩壁の一方に、他の洞あるに定まれり」。 呉敦「而して幾個かの動物の其の中を以て棲處とするなり」。 杜番「餘も亦たしか想像せり、明日を待ちて餘等は更らに仔細に、 其の洞の口の在る所を尋ぬべし」。再び物すごきの怒吠の聲、 恐ろしき咆吼の聲、相 續で洞の壁を震へり。 韋格「フハンが何等の動物と鬪ひつゝあるなり」。 武安は再びトンネルの中に入りて、耳を帖けしが、 復た何等の響きも聞えず。是夜は一同殆んど睫を合はさずして、以て天明に至りたり。
杜番等の一隊は、朝まだきより出で行きて、仔細に湖畔岩壁の上下を探り索めしが、 遂に洞の口を發見する能はず、武安馬克太は例の如く、 トンネルの中に拮据して、正午までに、更らに二尺をほり進みたり。 中飯の後、再びトンネルの中に入りしが、トンネルは愈よ益す他の洞に近づきゆくやう覺ゆるにぞ、 幼年者は悉く洞外に出だしやりて以て、預め不虞の變を避けしめ、 杜番韋格乙部等の年長者は、各手に武器を持ちて、 トンネルの中なる諸童子と、緩急相應ずるの備へをなせり。午後二時に至りて、 武安は忽ち驚叫の聲を發せり、 渠の方さに岩壁の面に揮ひ下したる鶴嘴は、 忽ち岩壁を透し穿ちて、俄然そこに一個の大なる穴を現じたりしなり。 武安は忙はしくトンネルを出で來りて、諸童子に斯のよしを語らむと慾するをり、 又た瓦亂々々地響き起り、續で驀然トンネルの中より、 洞内に飛び出で來る者あり、是れ獵犬フハンなりき。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第六囘
フハンは一直線に水盤に走せゆきて、 先づしたゝかに水を飮みたるが、畢りて主公
呉敦のほとりに來りて、 戲れ跳るさまは、毫も常に異ならず。
童子等は之を見て、其の懼るべきもの無きを知れるにぞ、
武安は前頭に、呉敦、杜番、韋格、馬克太、 及び莫科等
相踵いで、提燈をさげて、 トンネルに進み入りつ、岩壁に開きたる穴をくゞりて、次の洞に入り視るに、
洞は其の高さ及び廣袤ともに佛人洞と相若きて、亦た二十餘疊をしくべし。
打見たる所は、外邊との通路全く無きに似たれども、若し眞に之れ無からしめば、 獵犬の此
處に入らむよすが有るべからず、韋格の何物にか躓きたりといふに、
提燈を擧げて之を視るに、是れ一個のジャッカル(豺の屬)の死體なりき。
武安「是れフハンの噬み殺したるものならむ、
是れ以て一切の不思議を解くに足れり」。唯だ斯の野獸の、何の處より此裡に入り來れるやは、
童子等の未だ知ること能はざる所なり、武安は他の童子等を洞の中に留めて、
己れは獨り佛人洞より、湖の畔に出で、 湖に面したる岩壁の下に沿ひて、行く〜高聲に叫び喚はるに、
遂に洞中の童子等の答呼の聲を聞くを得たる處有り。
仔細に驗するに、岩壁の足に、殆ど地上と平面をなせる處に、一個の低き穴あり。
ジャッカル及び獵犬の、洞中に入りたるは、即ち此の處よりなることを曉り得たり、
若し斯の穴を更らにほり廣げば、童子等は此の處に、湖畔に出づべき他の一個の口を得むことは容易なり。
童子等が斯の新らしき洞を發見せる懽喜は、言はむもさらなり。
渠等は初めに倍せる熱心をもて、トンネルをほり廣げて以て、
兩洞の通路を作るに從事せり。渠等の設計に依れば、新洞を以て寢室及び讀書室に充て、
舊洞は之を專ら庖厨食堂及び物置に用ふべしとなり。
渠等は先づ其の臥牀を新洞に移して、之を按排し、ソーフア、 臂かけ椅子、卓子、
及びスロウ號の船室に曾て用ひられたる大ストーヴ等を此處に移して、
それ〜゛鋪設陳敍せり。其の湖畔に通ずる穴をほり廣げて、
此處にスロウ號より取り來りたる戸板の一個を嵌めたるは、
馬克太の少からぬ勞力を費やして、遂に成就せる所にして、 渠は此の外亦た其の戸の左右に於て、
各一個の窓を穿ちて、以て洞内に火亮を引くの處を作れり。
寒氣は未だ堪へ難しといふには至らざれども、毎日烈風吹きつゞきて、
戸外の勞作はやがて復た爲すべからざるやうなるべく見えたるにぞ、
童子等は夜を日に繼ぎて、其の工事を急ぎしが、二週間を費してやう〜是等の洞内の整理を完くするを得たり。
童子等の此の地に滯留することも、何時を限りと定まりたるにあらねば、
空しく光陰を消過せむ、愚かの至りなりとて、呉敦の發議により、
冬ごもりの間は、一定の課程を立てゝ、年少者は年長者に就て、其の未だ學習せざる所を學習すべしといふに決したり。
課程は明日を始めとして、毎日 踐修さるべしと定りたる六月十日の午後、
晩飯已でに畢りて、一同はストーヴを圍みて相語れるが、
偶々一童子の、此の如きをりに於て、本島の要地々々の名を定めおかば、
平生の稱謂談話の上に甚だ便利なるべしと發議する者あり。
一同皆な之を贊せり、杜番「餘等は既に餘等の船の漂着せし處を名づけてスロウ灣といへり、
餘は永く斯の名を保存したしと思ふ」。虞路「無論のことなり」。
武安「餘等は亦た斯の洞を呼ぶに、先住者の記念に因り佛人洞を以てせり、
是れ亦た永く保存したき絶妙好號にあらずや」。韋格「スロウ灣に注ぐ洞外の川は」。
馬克太「餘等の故郷を記念として、ニウジランド川と呼ばむ」。
雅涅「湖は」。杜番「餘等は既に川に於て、餘等の故郷を記念したれば、
湖には餘等の更らに親愛する所を記念して、家族湖と命名せむ」。
此の如くして岩壁にはアウクランド岡、岡の北に盡くる處、
武安が登りて以て東方に海を望みたりと誤まり想ひし高地には幻海臺の名を與へぬ。
陷穽の迹を發見したる茂林のほとりは陷穽林、 遠征委員がスロウ灣に還る途中、
沼澤に逢ひて路を迂せしニウジランド川の畔の茂林は沼澤林、
ニウジランド川以南、即ち本島の南部を全く掩ふ所の大沼澤は南澤、
遠征委員が始めて徒矼を發見したりし小さき流れは徒矼川と名づけられぬ。 此の外
渠等の未だ跋渉せざる所の諸地は、
他日親しく之を經るを待ちて、其の名を定むべし。但だ慕員の地圖に於て、
明に指點し得る重なる岬々は、豫め其の名を命じおくを便宜とすべしとて、
北端の岬は北岬、南端なるは南岬、西岸に斗出せる三個は、
童子等が所出の本國を記念して佛人岬、英人岬、米人岬と名づけられぬ。
然れども猶ほ此の島有り、渠等は斯の島の名を定めざるべからず。 胡太「餘は一個の好き名をおもひつきたり」。
杜番「君が歟。左毗「おもふに、
赤ん坊島など呼ばむと慾するならむ」。武安「請ふ嘲るを休めて、
渠をして試みに其の思ふ所を言はしめよ、胡太、君の妙案は」。
胡太「餘等は皆なチェイアマン學校の生徒なり、故に呼でチェイアマン島となさむ」。
是れ實に好名なりき、一同は大喝采をもて胡太の説を贊せり。
胡太は一國の帝王になれるよりも、更らに得意なりき。
武安は更らに一同に向ひて、「餘等は既に斯の島の名を定めたり、
更らに進みて斯の島の太守を立つること、善かるべし」。杜番「太守を立つると」。
武安「若し一個の首長を設けて、百事其の人の指揮を仰ぐとせば、 平生の號令一途に出でゝ、庶務の運行更らに圓滑なるべし」。
「然り、然り、餘等をして太守を選擧せしめよ」と衆童子異口同聲に呼はりたり。
杜番「太守を選擧するも可なり、唯だ其の任期に定限あるべし、譬へば六個月、或は一年」。
武安「而して其の人は、次の任期に再選せらるゝことを得べし」。
杜番は仍ほ掛念げに、「善し、而して餘等は何人を先づ選ぶべきや」。
見るべし杜番の滿腹の妬忌は、唯だ一同の選びの、 或は武安の上に落ちむを是れ恐れしなり。
然れども杜番の恐れは無用なりき、 武安「何人を先づ選ぶべきと、勿論最も賢明の人、即ち吾が呉敦を」。
「然り、然り、呉敦萬歳」の聲は一齊に衆童子の口より起れり。
呉敦は初めは己れの其の任に非ざるを謝して、之を辭さむと慾したりしが、 再び考ふるに、動もすれば武安、
杜番の二黨の間に萠生する不和をおさへて、 之を調停するには、己れが首長の權力を有しをること、
なか〜に便宜なるべしとおもへるにぞ、乃ち辭さずして敢て之を諾ひきぬ。
若し童子等の想像の如く、斯の島をしてニウジランドより更らに遙かに南方に偏りたる位置にあらしめば、
渠等は此より五個月の間、即ち十月の初旬に至るまでは、多く戸外に出づるを能はざるべし。
即ち呉敦が課程を定めて、毎日幼年者に學問を攻めしむることゝせいは、
光陰を空しく費さゞる最妙の策なりしなり。毎日午前及び午後二時間づゝ、
一同新洞の讀書室に會して、第五級員の武安、杜番、虞路、
馬克太、第四級員の韋格、乙部、輪番に教師となりて、
第三、第二、第一の諸級員に數學、地理、歴史等を、或はスロウ號の文庫より取り來れる書籍に由り、
或は諳記せる所に由りて、講授口傳す。是れ獨り之を學習する年長者に、亦た其の曾て學得せし所を、
遺忘せしめざるの利有り。之に加ふるに、毎週二次、日曜日と木曜日とには、
一同の討論會を開きて、科學歴史及び現在日常の事の係る活題目を捉へ來りて、
其の利害得失を討論す。天氣快晴にして風無きをりは、湖畔に散歩し、
或は競爭會を催して、以て其の筋骨を鍛練し、怠惰不活溌の病に流るゝことを防ぐ。
大小諸種の時計を捲きて、其れをして常に精確の時刻を指さしむるは、 韋格と馬克太との務めにして、
毎日寒暖計晴雨計の示す所を録するは乙部の任なり。
其の他日を逐ひて有りし所の事どもを記すは、馬克太の初めより自から擔當して、
一日も怠らざる所なり。日曜日の夕には、音樂會を開きて、 雅涅の奏する所の小風琴につれて、一同國歌を合唱す、
中に就て最も美聲として推さるゝは武安の弟 弱克なるが、
かねて學校にありて、此の如きをりには、第一に先じてうたひたる渠は、
常に默然として、衆童子の背後に坐するのみにて、未だ曾て一たびも其の喉を音樂會に開きしことあらず、
是れ武安の益す怪み訝るに堪へざる所なりき。
六月下旬に及ぶほどに、寒暖計は漸やく降りて、零點以下十度乃至十二度の間を上下するに至れり、
洞内は薪のあるに儘せて、鐡竈及びストーヴを常に燃やしつゞけたれば、
勿論零點以上の温度を保つことを得たり。寒威少しく減ずる日は、多く一天の大雪を下し來る。
ある日童子等は、例の如く洞外に出でゝ、雪なげの戲れして、相 戲れゐたるに、
虞路の擲ちたる一個の雪丸誤りて、
傍らに立ちて他の童子等の爲す所を看をりたる弱克の面に中りて、
鼻を打ちしと見え、鼻衂さへおびただしく流れ出でぬ。
虞路は之を見て、「餘は君に擲つ心にてはあらざりしに」と言ひしのみにて、
走せ去らむとするにぞ、武安は之を扣へて、
「君がその心ならざりしは、然もあるべし、然れども、君も亦た少しく意を用ひば可ならむ」。 虞路「君の如く言はゞ、
元來雪なげにも加はらざる弱克の此處に立てるが不用意ならずや」。
杜番は高聲に、「然ばかりの事に、何等の譁びすしきことなるぞ」。
武安「勿論言ふに足らざることなり、但だ餘は虞路に向ひて其の、
嗣後少しく意を用ひむことを望みなるのみ」。杜番「そは君が虞路に、
改めていふまでも無し、渠は既に其の過ちなることを陳謝せしを、聞かざりしか」。
武安「杜番、餘は君が何の故ありて、喙を此に容るゝやを審らかにせず、
是れ唯だ餘と虞路との間の交渉なり」。杜番「然れども、
君の如く言ふときは、餘は之を默視する能はず」。武安は拳を握りて、
「君の慾するがまゝになせ」。杜番も臂を攘げつゝ、
「勿論、君の指揮を待たず」。恰も好し呉敦の此處に是時 走せ到りて、
兩個の相打たむとするを止め、杜番の所爲穩やかならずと宣言せるにぞ、
杜番は再び爭ふべき言無く、艴然として洞内に入り去りしが、
兩個の爭ひの、斯のまゝにては已まじとは、呉敦はじめ諸童子の憂慮せる所にして、
亦た決して謂はれ無き憂慮には非ざりしなり。
六月の末に及びては、雪は次第に深くなりて、常に三四尺を下らざるものとなりしかば、
童子等は復た洞外に、萬已むを得ざる要事の外は、一歩を出づること能はず、 爲めに最も不便を感ぜしは、汲水の一事なりき。
呉敦は馬克太と、さま〜゛斯の事を商議せるが、
馬克太は遂に一策を建てゝ、地中に管を埋めて、川の水面以下幾尺の處より水を洞内に引かば、
啻に出でゝ汲むの勞を省くのみならず、寒威益す加はりて、川の表面全然凍結するに至るも、
猶ほ水の供給を缺かざるを得る便宜ありと。一同この策を善しとしたりしが、
是れ言ふに甚だ易くして、行ふに甚だ難き者なりき。若し幸ひにして、 スロウ號の浴室に具へて水を引きし所の鉛管の、童子等の手に在る有りて、
恰好の材料を、斯の工事に與ふる無かりせば、馬克太の熱心盡力と、 諸童子の鋭意
戮力とを以てするち雖も、 到底其の成功を見るべからざりしなるべし。童子等は幾囘の敗績を重ねたる後、
やう〜水の供給に不足無きを得るに至れり。夜間の光明は、船中より取り來りし油猶ほ十分ありて、
數月の間に不足を告ぐべくはあらざりしが、冬の末には、或は新たに油の供給の道を求むるか、
或は蝋燭を製して之を用ふるの必要あるに至るべし。故に莫科は、 かねて斯の心がまへして、大切に諸動物の脂肪を蓄積せり。
目下童子等の尤も掛念する所は、食物の次第に乏しくなることなり。 渠等は久しく銃獵及び打魚に出づる能はざれば、
唯だ莫科が意を用ひて貯藏しおける鴨、七面鳥の肉、竝に鹽漬の魚、 及びスロウ號より取り來りし諸食品に頼りて、
其の供給を仰ぐのみ。渠等は勿論さし向き食物 空缺の憂へありといふには非ざるも、
十五名の少年、最も大食健啖を喜ぶの齡なる九歳乃至十五歳の少年十五名が、
毎日坐して消糜する所の食物は、其の額の甚だ少々ならざるを知るべし、 渠等が食物の貯藏の、日を逐ひて減じゆくを看て、
そぞろに心細く覺えしは、決して其の謂はれ無きに非ざるなり。
之に加ふるに、左毗の願ひにより、洞内に畜ひおける駝鳥も、 亦た渠等の一
累たるを免れざりき。地上には常に幾尺の雪を堆くせるけふ此ごろ、
斯の鳥のために、毎日樹の根をほり、飼ひ草を聚むるは、
極めて容易の業にあらざりき。然れども左毗は獨り之を一身に引きうけて、
肯て他の童子等の手を勞さず、毎に他の童子等に向ひては誇りていふなり、
「渠は如何なる見事の乘馬になるべきぞ」、と。
七月九日には、洞内の温度僅かに零點以上五度を示し、洞外の温度は零點以下十七度に降れり、
是日洞内の薪已でに盡きたるよしを告ぐるにぞ、童子等は陷穽林に抵りて、
薪を採りぬ。莫科の發意にて、洞内にある長さ十二尺横四尺の卓子を倒まにし、
早速の橇となして、積雪の上を推しゆくに、從前渠等が或は負ひ、 或は肩にして、運搬せしには異りて、勞省けて功
倍し、朝九次より午後までに、 既に橇に二はいの薪を洞内に持ち來ることを得、
此の如くして、全一週間を働きしに、以て若干週間を支ふるに足るだけの薪を洞内に積むことを得たり。
暦に據るに七月十五日は、正さに聖スヰジン日に當れり。
武安「若し今日雨ふらば、此より四十日の間、復た青空を見る能はざるべし」。
聖スヰジンは北半球に於ける如き勢力の南半球にあるべくもあらざれば、童子等は此地に在て、
之を憂ふるを須ひざりしのみならず、亦た雨模樣も幸ひにして見えず、
但だ風は南東に吹きまはりて、寒威益す酷だしきにぞ、
童子等は洞内に瑟縮して、出でゆくこと幾ど希れに、
皆な運動の不足を覺えしが、八月十六日に至りて、風は西にまはりて、寒威と共に其の勢大に減じて、
空氣の稍や靜着するに隨ひて、温度も稍や堪ふべくなりぬ。
杜番、武安、左毗、韋格、
及び馬克太は、已でに久しくスロウ灣訪問の事を思ひをりたれば、 天氣
稍や定まらば、之を試みたしといふ。スロウ灣訪問は、 啻に以て渠等の久しく屈したる筋肉を舒ぶるのみならず、
定めて已でに弊破爛殘したるべき目じるしの英國旗を、 取りかへむと慾すればなり。五童子は首長
呉敦の許可を得て、 八月十九日、朝まだきに、佛人洞を發し、
滑かにして且つ堅く凍結せる積雪の上を渡りて、沼澤林の中に分け入りしが、
今次は沼澤も只だ一面の厚氷となりたれば、 復た爲めに路を迂することを須ひず。
直ちに之を踏み過りて、九時には、既にスロウ灣の濱邊に着きぬ。 濱邊には、無數のペンギン(海鳥の名)群がり集まり、
岩礁の上には、幾個の海獅跳り戲るゝを見る。 前者は何等の用をもなさゞれども後者の脂肪は以て蝋燭を作るべし。
ニウジランド川より幻海臺に至るまで、一帶の濱邊は、
一面に白皚々として深數尺の雪を布き、 海上は限界の及ぶ限り、寂寥として一鳥の飛ぶをも見ず。
五童子は朝飯をたうべたる後、かねて持ち來りたる新しき旗を取り出だして、 舊き旗と取りかへ、又た杜番の發意にて、
木板の面に、斯の川の上方六マイルの處に佛人洞ありて、
諸童子の栖居するよしを、詞短く記したるを、 併せて竿頭に結びつけぬ。
是れ或はこの沖を過ぐる船の、斯の旗を認めて、短艇など下して、
人を此處に寄せむをり、斯の人をして直ちに諸童子の在る所を知らしめて、 速かに來り救はしめむと慾したればなり。午後一時に、
再び此處を發して歸途に就きたるが、其の呉敦に復命して、
其の所見を報告せるは、午後四時にして、天色既に漸やく黒くなる比なりき。
八月の末より九月の初めにかけては、温度日に益す昇りて、之を一個月前に視ぶれば、
著るしき相違あるを覺えぬ。久しく恐れ懼れたる冬も漸やくたちゆきて、
春暖の候の次第に近づきはじめたるを知るべし、既にして九月十日となりぬ、 スロウ號のスロウ灣に坐礁して、十五少年の斯の島に上陸してより、
既に全六個月を經過したりしなり。
斯の島の西方は、即ち渠等少年が此處に漂着するまで幾週の間走り遍ねくして、
而かも一寸の陸影だも望み見ること能はざりし所なれば、此方に、何等の陸もなきは、
勿論問ふまでもなし。然れども、其の他北南東の三方は如何なるべき。
慕員の地圖に據れば、勿論何等の陸影あることを記さず、
慕員の地圖の精確なるは更らに疑ひを容れざる所なり。然れども渠は望遠鏡を有さゞりき、
則ちアウクランド岡の上に立ちて、四方を熟察したるとするも、
肉眼の看る所直徑二三マイルの外に出でず、若し此より以外の邊に、 何等かの陸影ありとするも、渠が肉眼之を視る能はず、
其の地圖の面には之を載する能はざるは言ふを須たずして明かなり、 故に今日
精良なる望遠鏡を有する所の渠等少年は、 或は當時 慕員の視ること能はざりし所の陸影を、
地平線上に視ること能ふやも料るべからず。慕員の地圖に據るに、
島の東岸には、恰かもスロウ灣と相對して、深く家族湖のかたに凹入せる一灣有り、
佛人洞より東行すること十二マイル許せば、
乃ち其の灣頭に逹することを得べし、故に春暖の候の囘り至るを待ちて、
先づかの灣頭に遠征して、島の東方の地平線上を熟察すべしとは、 渠等が冬ごもりの間に洞内にて、討議商定せる所なりき。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第七囘
九月の中旬より天氣あらし模樣となりて、嚮にスロウ號が吹き流されしときのものに讓らざる烈風、
連日吹きつゞけて岩壁は根より搖り上げ搖り下さるゝ如き心地して、 佛人洞の窓を吹き飛ばされ、戸を吹き破られしも、
啻に一再のみならず、童子等の困苦は、かの百度わりの寒暖計の水銀が、
零點以下三十度にまで降りたる嚴冬の間の、困苦よりも甚しかりき。 之に加ふるに、鳥獸は是がために陰處を求めて遠く逃れ、
湖中の魚は波濤の洶涌泡沸せるに懼れて深く潛みたれば、
童子等は亦た其の獲禽を得べき道を失ひたり。
然れども渠等は此の間を決して空しくは消過せざりき、地上の積雪次第に解くるにつれて、
從來重きを引くに用ひたる橇の漸やく無用となるは、 言ふを須たざる所なり、馬克太は一同と共にかねてより、
かの卓子の橇に代ふべき、車のたぐいを作らむことを計較せるが、
ふと渠の心に浮びしは、スロウ號より取り來りし絞車盤のことなり、
絞車盤に屬ける大小諸種の輪の中に就て、 其の大さ相 同じき二個の輪を擇み取りて、之を車輪に轉用せば、
其の車の輿を作るは甚だむづかしき業にあらず、絞車盤の輪は、
勿論其の輪邊に鋸齒やうの齒つきをれば、
之を車輪に轉用せむと慾するには、其の齒を先づ除きて、之を平滑にすることを要す、
馬克太は百方其の齒を除かんと試みて、竟に無功に歸したる後、
木片をもて其の齒の間を填平し、其の外を鐡の帶もて周約し、
以て三個の車輪を作ることを得たり、此の如くして十月上旬には、遂に一個の粗造なる車を作り成すことを得たり。
久しく吹きつゞきたる烈風も、此ころより漸やくなぎはじめて、中旬にはあらし全く息みて、
杲々たる太陽の、靜着せる蒼穹に徐々として再昇するを望むを得、 暖氣
驟かに加はりて、終日戸外に立ちはたらくも自由なるを得るに至りしより、
童子等は俄かに佛人洞を出でゝ附近の地を逍遙 跋渉し、
或は薪を採り、或は魚を打ち鳥獸を獵しなどす。
呉敦は渠等を戒めて濫りに硝藥を用ふることを許さず、
獵手は主として陷穽、係蹄等を
用ひしが、渠等は由りて以て多くの小鳥及び野兎の類を補得せり。
然れども渠等は又た屡ばジャッカルの爲めに、 其の係蹄等を擾亂され、
其の獲禽を竊み去らるゝを免れざりき。 この月ニ十六日、童子等をして覺えず一場の大笑をなさしめしは、
是日 左毗が其の久しく畜ひたる駝鳥をひき出して、
之を乘り試むべしといふ、童子等は皆な湖畔の廣場に出でゝ、 左毗の試乘を見物す、
左毗は駝鳥に韁繩をさばきつゝ、
其の暝冐を除くに、今まで兩眼を塞がれたる爲め、 身動きもせず凝立せし駝鳥は其の蔽ひを除かるゝや否や、
躍然として一跳跳ぬると見えしが、 茂林を望みて驀地に走せいだせり。
左毗は心慌て手忙しく、
韁繩をしぼり、或は兩足を緊閉せて、
之を止めむとあせりたるも、功無かりき。駝鳥は一とふり身を振りて、 左毗を地上に振り落したるまゝ、
早くも陷穽林の密樹の裡に沒して見えずなりぬ。
暖氣は日を逐ひて益す加はりて、今は戸外に兩三夜を過ごすも危害無かるべしと、
見ゆるまでに至りしにぞ、呉敦は先づ試みに自から一隊の童子を率ゐて、 陷穽林に沿ひて家族湖の西岸を探征し、
其の地理を察し其の物産を檢して、然かる後戸外 露宿の危害無きをたしかめむには、
更らに武安を隊長として、一隊の遠征者を湖の東岸に派して、
かねて議定せる如く、東方の地平線上に陸影の有りや無しやを、精査せしむべしといふ。
一同直ちに是説を可として、探征者は呉敦、杜番、
馬克太、韋格、乙部、虞路、
左毗の七名、發程は十一月五日と議定されぬ。
七名は各腰に一個の短銃を佩び、 呉敦、杜番、
韋格の三名は各更らに一個の施條銃を肩にしたり。
然れども渠等は、成るべく硝藥を用ふることを嗇まんと慾したれば、 慕員の遺物たる飛彈
(一すぢの索を以て二個の石を緊約し之を走獸に投じて以て之を拘住する獵具、
を修復して、馬克太をして之を携帶せしめたり。 此の外一雙の斧と、ハルケット式のボート一隻を挈へたり。
斯のボートは之をたためば鞄ほどの大さとなり、其の重さ亦た十 磅即ち一貫二百 匁ばかりに過ぎず、
地圖に據るに、湖の西岸には二條の流れありて湖に注げば、 渠等は或は之を渡るに、斯のボートを用ふるの必要あるべきを、
慮かりたればなり。斯のボートの亦たスロウ號の庫中に於て發見され、
洞内に收藏されし者なるは、言はむもさらなり。地圖を案ずるに、
湖の西岸は其の長さ十八マイルに滿たざれば、渠等は意外の障碍無き限りは、 其の往復三日を出でざるべし。
呉敦等の一隊は、佛人洞を出でゝ、陷穽林を左にして、
湖畔に沿ひて北に〜と進みゆくに、行くこと二マイル餘りにして、
渠等に前驅せる獵犬フハンは、忽ち足を停めて、一同の來り到るを待つさまなるにぞ、 一同
疾歩して其の處に到るに、地上に許多の穴ありて、
フハンは其の穴の一個のほとりに在りて、足もて頻りに其の土を掻きつゝ、高く吠ゆるを見る。
杜番は早くも穴の中に、何等の獲もの伏しをるを知りて、
其の銃に裝藥せむとするを、呉敦「杜番、
君の硝藥を濫りに費やすを休めよ、待て、餘の一手段あり、 一粒の硝藥を用ひずして、穴中の動物を悉く驅り出ださむ」。
呉敦は他の童子等の助けを藉りて、灌木叢の間に茂生せる雜草を拔き取りて、
之に穴の口にさし入れつ、之に火を縱つに、 未だ幾分ならずして烟に咽びつゝ、うろたへて穴中より跳り出でたるは、
十餘頭の兎なりき、渠等は恐慌狼狽して、急に逃げも得せざるうち、
左毗乙部は早くも銃の臺じり或は斧をもて、
四五頭を撲倒し、フハンも亦た三頭を噬み斃せり、
童子等は不意の獲ものに、互に造化精妙を喜びつゝ、
之を荷ひて、灌木叢を離れ、仍ほ濱邊を進みゆくに、
十一時には嚮に武安等が始めて慕員の遺跡を發見したりし所の徒矼川の流れの、
注で湖に入る處に來りたり。地圖に據るに、佛人洞より此處に至るまで六マイルなり。
渠等は川畔に坐を占めて、先づ三頭の兎を料理してシチウとなし、
少許の乾餠を合せて之に食ふに、 其の味の美なること言ふべからず。川を渡りて、再び北に進みゆくに、
濱邊は次第に沮洳の場多くなりて、遂に脚を投ずる能はざるに至りしにぞ、
湖畔を去りて更らに茂林のかたに就きて進みゆくに、
茂林の樹木は佛人洞附近のものに概ね同じくして、
啄木鷦鷯等の羽色美しき鳥其の間に翩飜し、
又た松鷄多し。杜番は途中、呉敦の許可を得て、
一個のベッカリー(豚に形似せる厚皮獸)を銃斃せり。 ベッカリーは其の肉
味ひ甚だ美にして、童子等の晩飯及び明朝の早飯に、
亦た一段の好膳を供するなるべし。午後五時に及ぶ比ほひ、
復た一條の川の上に出でたり、川は幅四十尺に餘るべし、
地圖に據るに、是れ湖より出でゝ、アウクランド岡の北端を遶りて、
スロウ灣に注ぐものにして、此處は佛人洞を距ること十二マイルなりといふ。
是の日は此處に停宿することとして、 斯の川に直ちに名を命じて停宿川と曰ひ、一同食事を畢りし後は、
晝間の疲勞に直ちに睡を催して、
見張り番に當りたる杜番と韋格とを焚火のほとりに獨り留めたるまゝ、 早くも熟眠の中に入りぬ。
翌朝一同起き出でゝ、先づ川の淺深を測るに、 川は到底 徒渉りするを得べき水量にあらず。
一同はかの護謨製のたゝみ舟を携帶せしことの甚だ幸ひなりしを喜びつゝ、
直ちに之を取り出だして、此を用ひて川を渡りはじめしが、ボートは一時に一人を濟し得るに過ぎざれば、
七童子が渡り畢るまでには、全く一時間餘を費やしたり。
然れども渠等は頼りて以て食物及び硝藥を濡らすこと無くして、 對岸に登るを得て、復た北に進みゆくに、
此の邊は一面の乾沙にして復た沮洳の場にあらざれば、
茂林を捨てゝ、再び路を湖畔に取て進むに、正午に至りて始めて、 湖の對岸の樹木の梢の點々として水天相
連なる際に浮び現はるゝを望み見たり。 此より湖の幅は次第に狹くなりて、午後三時には、
益す明かに對岸の樹木を望み得るに至れり。計るに、此處は兩岸の相 距ること、 二マイルを出でざるべし。此邊四
顧荒涼寂寞として、
唯だ二三の海鳥の時に來りて湖上に翺翔するを見るより外、
殆ど一個の生物の遊處するもの有る無し。 若し嚮にスロウ灣をして此邊の如き地に彷徨せしめたらむには、
童子等は已でに久しく餓に死したるべかりしならむ。 既にして湖は次第に益す狹くなりて、日沒の比ほひには、 兩岸相
蹙り相合して、一帶の濱邊を成せる處に來りぬ。 是れ即ち湖の盡頭なり。
一同は此處にこの夜を過ごすことに定め、地上に毛布を展べて、 坐を占めつ、熟ら四下を看まはすに、
此邊は一面の沙場にして、 一 莖の艸一 株の灌木すらも成長するを見ず。
火を燃すよすがさへ無きにぞ、
携帶し來りたる乾餠燻牛肉等もて僅かに其の饑を療したる後、
さびしき夢を結びたり。
翌朝目を開き視るに、渠等の露宿せし處を距る二町 許の那方に、 一
堆の沙丘あり、高さ五十尺ばかりなる可く、此に登らば以て四方の地形を概覽することを得べし。
一同は早飯を畢りたる後、此に登りて四方を展望するに、
此より北東は地圖の示せる如く、一面の沙漠にして、其の涯際を見る能はず。
地圖の尺度する所に據るに、此より北、海濱に逹するまでには十二マイル、
東七マイルあるべし。渠等が徒らに沙漠を徑りて此の如き長途を行くことの、
渠等に何等の益もなきは、言ふを須たざる所なり。 虞路「さらば、餘輩は此より如何にすべき」。
呉敦「再び故路に返るべきのみ」。 杜番「若し家に歸るより外に、爲すべきこと無しとせば、
何等か來路には異なりたり新らしき道を取りて行くこと、 更らに妙ならずや」。呉敦「君の説
是なり、餘等は湖畔に沿ひて、 停宿川の上まで返り、此より右に折れて、岩壁の下に抵り、
アウクランド岡に沿ひて家に歸らむ」。
杜番「若し岩壁に沿ひて家に歸るを目的とせば、此より一直陷穽林の北端に抵り、
而して岩壁の下に出でむこと、更らに捷からずや、
陷穽林の北端は此より三四マイルを隔つるに過ぎじ、湖畔に返るは迂囘ならずや」。
呉敦「直ちに陷穽林に分け入るも、
必ず一たび停宿川の流を渡らざるを得ざるは論ずるまでも無し、
川は海に近づくに隨ひて愈よ廣くなり險しくなりて、 或は渡る可らざるほどにならむも、知るべからず、故に安全を計る者は、
川の南岸に逹して後、路を轉ずるを智しとす」。
一同は再び露宿の處へ返りて、毛布を卷き銃を肩にして、昨日來りし路を返りゆきしが、 途中
杜番が二隻の鴇を撃ちて新に中飯の料を得たりし外、
かはりたる事もなく、早くも九マイルを走りて、十一時には停宿川の上に抵り、
又た一時間の後は、一同難なく南岸に渡り畢ることを得たり。 杜番の獵取せる鴇は、各重さ三
貫五六百 匁あり、 首より尾に至るまで長さ三尺に餘るべし、
左毗は他の童子等とともに其の一隻を料理せるに、
唯だ一隻にて七名の腹を滿たしめ、其の餘りの骨はフハンをさへ屬饜せしめたり。
一同は食事を畢りて、川畔を發したるが、
渠等は此よりは陷穽林に於て從前曾て探征したることあらざる所の新らしき方面に向て、
進み入らむとするなり。地圖を案ずるに、停宿川は此より北西に斜走して、
幻海臺より數マイルの北に出でゝ、海に注ぐ者にして、 即ち渠等の此より取らむと慾する所の路とは、
正さに反對の方向に奔るものなるを知る。
故に渠等は川を右背に遺して、一直西のかた岩壁を望みて進みゆくに茂林は佛人洞附近の如く稠密ならず。
或は樹木全く斷えて、日光地上を遍射して、青草氈の如く、
野花其の間に亂開し、長さ三四尺にも餘れる幾
株の百合の輕風に戰ぎて其の頭を左搖右擺する所の、
隙地に逢へるも、啻に一再のみならず。かねて本草的知識に富みたる呉敦は、
此の間に於て、諸種の有用なる植物を發見せり。一個の木の、葉小さくして全身に刺あり、
豆ほどの大さの赤き實を着けたるは、トラルカと稱し、黒人は斯の木の實をとりて、
此より一種の酒を製出すると云ふ。又た一個の木は、南亞米利加及びその附近の諸島にのみ特生する、
アルガロッベと呼ぶ者にして斯の木の實も亦た以て酒を釀すべし。
童子等は呉敦の指揮に從ひて、多くの二木の實を採集せり。
又た一個の灌木は、即ち茶の木にして、童子等は又た其の葉若干を採衆せり。
日常必要の茶及びブランデーが、佛人洞に於て、漸やく匱乏を告げむとする際に方りて、
是等の植物を發見せる渠等の喜びは非常なりき。
午後四時に及ぶ比ほひ、一同は岩壁即ちアウクランド岡の北端に逹し、
此より岩壁の下に沿ひて、南のかたに進みけるが、行くこと二マイルにして、
一條の細き水、岩壁の腹より迸出して東方に奔駛さるを見たり、
是れ蓋し徒矼川の源頭なり。時既に五時を過ぎて、到底是日家に歸り着くこと能はざるは明かなれば、
渠等は斯の流れの南岸に宿することの、水に近くして便宜なるを思ひて、
乃ち此處に其の行李を卸しぬ。左毗が他の童子等と共に、
晩飯のこしらへに孜々する間に、呉敦は馬克太と偕に、
傍近を逍遙して、此邊の樹木其の他の模樣を觀察するうち、
忽ち一方の樹木の間より、徐々として現はれ出でたる一群の動物あり。
馬克太は之を指さして「山羊が」。呉敦「實に恰かも山羊に像たり、
請ふ試みに之を捕へむ」。「生ながら歟」。「然り生ながら」。
俄かにして颼然空氣を切る響きして、
飛彈は馬克太の手中より飛び出だせしが、 群がり行ける動物の中に落ち來りて、其の一個の足に繚み着けり。
かくと見たる自餘のものは、駭き怖れて、右往左往に散りゆきたり。
兩童子は走せゆきて、索を脱れむと掙扎する、 かの動物を捉へて之を視るに、
是れ一個の母獸にして兩個の兒どもは其の母親の側を去り得ずして惘然として猶ほ其のほとりに立ちてをり。
呉敦「餘思ふに之れヴィクンヤなるべし」。馬克太「ヴィクンヤには乳汁ありや」。
「有り」。「好し、ヴィクンヤ萬歳」。
呉敦の説 是なりき、これヴィクンヤなりき、斯の動物は形 酷だ山羊に肖て、 足 較や長く毛
較や短し、又た頭に角を有せず。 兩童子は一人は母親を牽き、一人は其の兩兒を抱きて、
川畔に歸り來るに、諸童子の喜びは言はむもさらなり、
かくて一同は食事を畢りて、快然眠りに就きたるに、午前三時に及ぶ比ほひ、
焚火のほとりに見張りせる杜番の、俄かに渠等を喚び醒す聲するにぞ、
一同は驚き覺めて、「何事なるぞ、杜番」。杜番「かの聲を聽け、
何等か野獸の來りて、餘等を窺ふ者あるに似たり」。
呉敦「ジャグワー(亞米利加虎)若くはクウガル(豹の屬)なるべし、
何れにするも甚だ懼るゝに足らず、然れども若し其をして、 多數一時に來り襲はしめば、亦た大に懼るべし、
然れども渠等は敢て焚火を越えて、此處に突入することは無かるべし」。
物すごき咆吼の聲次第に此方に近づき來れり、フハンは憤怒の状をなして、
しきりに彼方に走せゆかむとするを、呉敦は辛うじて制し往めぬ。
蓋し是等の野獸は毎夜斯の流れに來りて水を飮むを例とせるに、
今夜童子等の此の處に露宿せるに遇ひて、之に平かならず、乃ち咆吼しはじめたるなり。
俄かににして十間 許の前面に、幾點の閃めき燿やきたる眼晴の光、
闇を破りて見え來れり、同時に一發の銃聲空氣を震ひて、四邊に反響し、 續いて前に倍したる物すごき咆吼の聲、長く暗中に揚れり。
一同は手に〜短銃を執りて、猛火を盾に立ちてをり。 馬克太は正さに熾に燃えつゝある一條の枯枝を取りて、
之を渠等の群がり立ちたりと見ゆるかたに投じ、
其の光を藉りて前方をすかし視るに、嚮に杜番の放ちたる銃丸に中りて殪れたる一個を、
其の處に遺しゝまゝ、自餘のものは既に在らず。虞路「渠等は既に遁走せり」。
乙部「再び襲ひ來ること無きを得むや」。呉敦「多くは、さる事無かるべし、
然れども餘輩は不虞に備へざるべからず」。かくて一同は焚火のほとりに、是夜をあかして、 翌朝六時 此處を發したるが、
此處より佛人洞に逹するまでは尚ほ九マイルありといへば渠等は遲々すべきにあらず。
是日の路は單調にして、右には常に削れる如き岩壁を仰ぎ、左には常に殆ど脚を容るゝ能はざる密林うち續きて、
途中に彼等の心を惹き其の歩みを停めしむる所の者少かりしかば、
進行意外に速かにして、午後三時には、既に家を距ること僅かに數十町の處に來れり。
ヴィクンヤは、渠等更る〜゛、其の兩兒を抱き、 其の母親を牽きて行くに、渠等は甚だ抵抗するさまも無く、
一同に隨ひ來れり。
是時 杜番乙部虞路の三名は、他の四童子に先きだちて、 フハンを伴ひて一町
許前方に進みをりしが、 忽ち後隊を顧みて、「氣をつけ、氣をつけ」と連呼する聲聞ゆるにぞ、
後隊の呉敦韋格馬克太左毗は、
何事か知らざるも各武器を手にして、身がまふる、
間もあらせずに渠等の前面の茂林の陰より突出せる一個の巨獸あり。
馬克太はいち早く、かの飛彈を取り出だして擲てるに、
ねらひを失またず、かの巨獸の首に繚み着きぬ。然れども渠は力甚だ強くして、
此方にありて飛彈の索を把れる左毗を牽きずり牽きずり、
再び茂林の裡に入らむとするにぞ、 他の三童子は左毗に力を協せて、
飛彈の索の一端を、此方の大木の幹に纒ひてやう〜之を繋ぎ往めぬ。
杜番等三名も其の處に走せ到りて共に之を觀るに、 是れ渠等が博物學に於て學び知れる所の、ラマなり。
ラマは駱駝の屬にして、形 頗るこれに似たるも駱駝の如く大ならず、
之を馴らし之を養へば、以て馬の用をなすべし、 南亞米利加の土人の中には、現に之を用ひて馬に代ふる者あり。
渠は性甚だ怯懦なりと見え、 繋ぎ往めてより未だ幾ばくならざるに、早くも氣
沮みて、復たもがき爭はず、 馬克太が其の頸に索を改め係ぎて、
牽きいだすに渠は再び抵抗する擬勢も無く、おめ〜として渠等に隨ひ去りぬ。
渠等の斯の家族湖西岸の探征は、實に徒勞に非ざりき。
渠等は由りて以て茶の木及び酒の原料となる二木を發見し、
ヴィクンヤ及びラマを活捉し、又た由りて以て、飛彈の頗る實際の用をなしことを知り得たり。
是れ成るべく硝藥を吝まむと慾する所の渠等にとりて、
又た動物かを傷けずして之を生補することを必要とするをりも定めて多かるべき渠等にとりて、
一大便宜なり。六時に及ぶ比ほひ一同は無事、佛人洞に歸り着けり、
偶ま洞外に在りて獨り遊びゐたる胡太は、之を望み見て、
早くも洞内に報じたるにぞ、武安はじめ留守の諸童子は皆な洞外に走せ出でゝ、
七名の探征者を迎へて、互に萬歳を祝呼しつゝ、一同相 擁して、洞内に進み入りぬ。
呉敦が不在の間洞内の庶務は、武安の親切なる監督の下に、
百事都合好く運ばれて、幼年者は皆な益す武安の徳に懷き服せしが、 武安が獨り心を病ましめしは、弟
弱克の擧動なりき。 渠は呉敦等諸童子の不在を時として、
弟を人無き處に招きて、靜かに其の鬱憂の故を問ひ、
其の常に他の諸童子に面を視らるゝを避くる如き状あるは何を以てなるやを詰りたるに、
弱克は只だ「是れ何等の故も有るにあらず」と答ふるのみ。 武安「汝は餘に打ちあくるを肯ぜざる歟、
餘にすら之を祕さむと慾する歟、餘は汝の兄ならずや、
餘は復た久しく汝の日に益す鬱憂の底に沈みゆくを默視する能はず、
餘は必ず汝が哀傷の原因を知らねばならず、汝は何の故ありて、
かく自から悲むや」。弱克は終に自から堪ふる能はず、 「何の故ありてとや、嗚呼、汝は或は餘の罪を恕さむ、
然れども他の諸君は」。あとは只だ涕泣して、「饒せ、饒せ」とわぶるのみ。
武安の掛念は愈よ深くなりぬ。
曰く「然れども他の諸君は」。抑も渠は他の諸童子に、
如何なる大罪を負へるや、吾は如何なる價をはらひても、 必ず之を發見せずば止まじ、とは武安の決意なりき。
渠は呉敦の歸り來るを待ちて、密かに其の弟と對語せし所を語げて、
呉敦の己れに力を協せて共に弱克をして其の心に祕す所を打ちあけしむるやう、
務めむことを請ひたるに、呉敦は之を斥けて、
「武安、強ひて渠に逼りて、其の言ふを慾せざる所を言はしめむと務めたりとて、
何の益あるや、唯だ渠をして其の爲さむと慾する所を爲さしめよ、 何ぞ必ずしも他より之を強ひむ、渠の餘等に負ふ所と言ふは、
縱ひ何等か其事ありしとせしむるも、何ぞ強ひて之を問ふことを須ひむ、
此の如きは皆な徒らに以て、渠のせまき心を苛責して、 其の苦みを増さしむるのみ、若し言はむと慾する時至らば、
他より強ひて之を要めざるも、渠自から之を言はむ、措けよ、措けよ」
といへるにぞ、武安は即ち口を噤みぬ。
童子等がさし向き急に其策を講ぜざるべからざるは、洞内の食物補給の一事なり。 是時
儲藏の食品は已でに著るしく減少して、
渠等はかねて湖畔に設けたる陷穽の時々其の獲ものを齎らさゝるに非ざるも、
渠等の需要は是等小額の供給の能く充たす所にあらざれば、
渠等は更らに湖畔、沼邊、茂林の中に於て、 地を相し處を選みて、ベッカリー及びヴィクンヤ等の諸獸をも、
捕ふるに足るほどの深大堅固の陷穽を、多く新たに造り設くることゝせり。
十一月は全一月是等の工事に消過し了られぬ。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第八囘
年長者が孜々として陷穽の構作に從事せる間に於て、年少の童子等は又た、
馬克太を棟梁として、
湖畔岩壁の下佛人洞の背戸口を距ること遠からざる處に於てラマ及びヴィクンヤ等を收め繋ぐべき、
一個の小舍を建作せり、小舍はスロウ號の船體より取り來たりし木板を用ひて、
之を造り、屋蓋は松脂を厚く塗りたる油布を以て、之を蔽ひ、
小舍の四邊は茂林中より伐り來りし木材を以て、嚴重に柵をゆひ繞せり。
小舍の内には呉敦等が遠征の途次捉へ來りし者の外、 更らに爾後陷穽にて捕へたるラマ一隻と、
馬克太が韋格と倶に飛彈を用ひて生擒したる、
牝牡二隻のヴィクンヤ有り、皆な日に益す渠等に馴れ來れり。
呉敦は諸童子に勸めて、飛彈を用ることを習練せしめたるが、
最も早く熟逹の功を見たるは、馬克太と韋格となりき。 柵内の一隅に、又た一
區畫をつくりて養禽場となし、 此處に七面鳥、鴇、珠鷄、雉の類を、
捉ふるに隨ひて、放ち養ひぬ。此等の羽族を看守するは善均、
伊播孫等幼年者の務にして、 渠等は喜びて其の務に服事せり。
莫科は既にヴィクンヤの乳汁を有するに、 又た是等諸鳥の卵子をさへ得たりしかば、
若し呉敦が成るべく砂糖を節約するの必要なることを諭して、
之を制限して、日曜日と祭日とを除く外は、なすべからずと定めしに非ずば、 渠は毎日、食膳にデザート(食後の甘味)を供して、
一同殊に幼年者を悦ばしむるの願ひしならむ。 然れども莫科の斯の憾みは長くつゞかざりき。
一日、呉敦が他の童子等と、 陷穽林を逍遙して、各種の植物を檢視する際、一簇の樹の其の葉
濃紫の色をなせるを見て、 懽然として喜び叫べり、「是シュガーメープル(砂糖の木)なり」。
是れ實に渠等が佛人洞に居を定めしより以來なせる所の諸發見中、
最も緊要なる者の一なりき。童子等は是等のシュガーメープルの幹を截りて、 其の截痕より噴き出だす所の液を取りて、
之を煮沸するに、鍋底に一種の固形物を留め遺せり。
是れ即ち砂糖にして、甘蔗より製取せる者に比すれば、 味
稍や劣ると雖も、調理の料に用ふるには、彼比大異ある見ず。 童子等は既に多量の砂糖を有するを得たりしかば、
酒を釀すに復た困難あるを見ず、 莫科は呉敦の指揮を奉じて、
童子等の採聚せるトラルカ及びアルガロッベの實を醗酵して、
試みに之を釀せるに、一等の好酒を造り成すことを得たり。
又た渠等が嚮に採聚し來りたる茶の木の葉は、 香味
兩ながら佳良にして、支那産のものにも遜らざるほどの者なりしかば、
渠等は此より復た此種の飮料の匱乏することを憂へざりき。
是時に當りて、渠等の特に不足を覺えしは、菜蔬の類なりき。
武安は慕員の遺物にして、今も尚ほ岩壁の下に存在する、
野生のものに變形せる芋を復元して、舊の食ふべき者になさむと、
百方力を盡せしが、功無かりき。渠等は僅かに、
船中より取り來りたる鑵づめの菜蔬及び菓物の猶ほ少しく有るを珍藏して、
時に少しづゝ取り出だしては其の淡味を賞翫するのみ。
呉敦は成るべく硝藥を節約せむことを慾して、 飛彈を習練することを一同に奬勵したる外、
又た馬克太に囑して、 秦皮の枝を伐りて弓を作り、
釘を鏃として蘆の箭を作らしめ、 獵手をして試みに之を用ひしむるに、
韋格虞路等は早くも之を用ひて以て、
若干の獲ものを得るに至りたり。然れども茲に呉敦をして時に其の例規を破りて、
硝藥を出だし用ふることに同意せざる能はざらしめし一事件起りたりき。
十二月七日、杜番は密かに呉敦をかたへに招きて、
「呉敦、狐とジャッカルとの暴害は、 殆ど復た忍ぶべからずなれり、渠等は毎夜隊を成して、
來りて餘等の裝置せる陷穽羅網をこはし、 其の中に罹れる所の獲ものを肆に掠め去る」。
呉敦「渠等は係蹄もて捕ふべからざるか」。 杜番「ジャッカルは尚ほ可、狐は不可、
韋格は既に連夜 係蹄を設けて渠等を待ちたるが、
渠等の甚だ狡黠なる絶て餘等の手にのらず」。呉敦は終に已むを得ず、
幾十個の硝包を出だして杜番に與へ杜番は武安、
韋格、馬克太、乙部、虞路、
左毗等と共にこの夜をはじめとして、毎夜陷穽林の口、
家族湖の濱邊に伏して、出で來る狐を狙ひ撃つほどに三夜に五十餘個を殪して、
此より佛人洞の傍近に復た渠等の足跡無きを致すを得たり、
且つ渠等は由りて以て、將來大に用ふる所あるべき美麗なる狐の皮、 五十餘枚を贏け得たり。
十二月十五日には、かねて久しく思ひたちたるスロウ灣遠征を擧行せり、 遠征の目的は、灣に群れ集ふ海豹を獵して、
其の油を煮むと慾するに在る。嚮に冬ごもりの間雨天多くして、
晝間さへ燈火を藉りて僅かに物の色を辨じたること、少からず、
洞内の油は是がために殆ど用ひ盡され、莫科が意を用ひて貯へたる脂肪は、
既に若干の蝋燭を製するに足るほどの量有れども、單に此のみに頼りて、
久しく夜を照しつゞけ得べきにあらず、故に是等動物の油を取りて以て其の缺を補はむと慾するなり。
斯の遠征は、其の目的とする所の事、極めて多く人の手を要するに加へて、 其の亦た甚だ近くして、絶て危險なければ、童子等は一個をのこさず、
事に此に從ふべしと定められぬ。嚮に馬克太の經營苦心して作りたる車に、
頃來雅涅左毗の心を盡して馴らしたる二隻のラマを駕して、
之を引かしめ、車の上には硝藥食物、及び鐡の大鍋、數個の空樽を裝載し、 日出とともに一同佛人洞をたち出でたり。
八時には既に沼澤林中の沼澤のほとりに來りたり。
土耳及び胡太は、さすがに年幼ければ、
早くも脚疲れて歩行に難みはじめたるにぞ、武安は呉敦に請ひて、
兩個を車の上に附載しつ、徐かに沼澤の畔を進みゆくに、 渠等を距ること五十
間許、沼澤の中に一個の巨獸あり、 渠等の陸續としてねり來るさまを見るより、
倐然として灌木叢の裡に沒し去りぬ。
土耳「何者なるや」。呉敦「ヒッポヽタマス」。
武安「又の名河馬」。胡太「毫しも馬に像ざるにあらずや」。
左毗「寧ろ豚ポタマスと稱するの、
其の形に副へるに如かず」。一同覺えず洪然と打ち笑ひつゝ、 十時過ぐるころ、スロウ灣に到り着きぬ。
渠等は嚮に筏を作るとき、假りに露營を張りたりし川畔の樹叢の陰に、
再び露營を設けて休息しつゝ、遙かに濱邊を看わたすに、 百個餘りの海豹岩礁の上に群集 遊處しをり。
童子等は渠等を驚かさゞるやう、樹叢の陰に潛みて、
中飯をしたゝめ身支度などするうち、亭午の日光は渠等を誘ひて、
濱邊に登らしめ、沙場の上に臥し或は徜徉する者、
亦た數十個あり。童子等は善均、伊播孫、弱克、土耳、
胡太の五幼年者をば莫科に託して、露營の中に留めおき、 其の他は各火器を執りて、堤の陰に縁ひて、
川の口まで下り、此より濱邊の岩礁の間を匍匐して進みゆくに、 本島の海豹は未だ他の地方の是等動物が、
常に人の襲ひ取る所となりて、十分人の恐ろしきことを習知し、 常に見張りのものを置きて、人の近づき來ることを警報せしむるといふが如き、
用心深きに至らざれば、童子等は難なく、互に十 間十五間を隔てゝ相 竝び立ち、
渠等と海との間を横一文字に仕切りて、渠等の逃路を斷つことを得たり。
童子等は十分其の位置を計り定めたる後、それといふ合圖と共に、 一齊に起ちたりて、銃口をそろへて撃ちはじむるに、
距離は近く、撃つ所の物は大なれば、一丸として命中を誤るは無く、 早くも二十
許頭を殪し得て、其の餘は皆な右往左往に海中へ逃げ入りて、
忽ち見えずなりにたり。渠等は其の獲ものゝ、意外に多かりしを打ち喜びつゝ、
一々之を川畔の露營のほとりに曳き來るに、 莫科は既に二個の巨石を以て竈を作り、
かの大鍋を懸けて、湯をわかしてをり、呉敦等は海豹の皮を剥ぎて、 其の肉の重さ六七百
匁ほどづゝの大塊に切りて、 之を鍋の裡に投じ、煮ること數分間するに、湯の上に一面のキラ浮びあがる、
即ち純粹なる海豹の油なり。唯だ之を煮るに方りて、 一種不快の異臭鼻を劈きて、實に堪ふべからず。
然れども童子等は毫しも屈し撓むの色なく、 其の油を挹みては、之をかの樽に盛り、
又た直ちに次の肉を投じては、之を煮はじむ。 此の如くして、是日の午後より次の日の夕まで、睡眠と食事との時を除く外、
一刻の間斷なく之を煮つゞくるほどに、遂に二十 許頭の海豹を煮畢りて、 數百ガロン即ち數
斛の清らかなる油を收め得たり。
かくて第三日の朝、海豹の油に盈てる若干の樽を裝載して、
此處を發足せうが、車の重さは來時に幾倍して、
途上の困難は一かたならざりしに拘はらず、二隻のラマは善く其の力を致して、 發足してより十二時間を閲して、
午後六時には、無事に洞に歸り着くことを得たり。
試みに海豹の油を燃くに、尋常の油ほどは光力強きことを得ざるも、 猶ほ以て闇を照らすに足れり。
兎角するほどに是月も漸やく暮れて、二十五日となれり、
是れ渠等の本國に於て、一年中第一の祝ひ日とする所の基督誕辰節なり。
呉敦はかねてより、是日と翌日との兩日は一切課業勞作を休みて以て、
斯の聖節を祝ふべしと定め、洞内には雅涅及び左毗の盡力にて、
大小の國旗を懸けて、前夜より座敷を飾り、二十五日の朝は、
曙の色始めて東の天を染むると共に祝砲の聲轟然としてアウクランド岡を震ひ、
衆童子は皆な互に手を握り頭を點して、 聖節のめでたきを賀し次で最幼年者 胡太は、
一同の總代として、斯の島の太守 呉敦の許に來りて、 賀詞を陳ぶることあり。幸ひに天 晴れ風
和かなりしかば、 午前は一同湖畔の廣場に會して、迷藏かくれん坊等諸種の遊戲に嬉しみくらしつ、
再び聞ゆる砲聲に、中餐の時至れるを知りて、 食堂に入れば大なる卓子には、雪白の布を被ひ、
卓子の中央には、草花及び蘚苔もて絡ひ飾りたる一個の巨瓶の中に、 一
株のクリスマスの木を插み、
木の枝には多くの小さき英國旗佛國旗米國旗を吊りたるを安置せり。中餐の献立は、
味つけのアグーチ(兎に似たる一種の四足獸)
○鹽漬の鳥肉○兎の焚もの○七面鳥の全形のまゝ翼を張り首を仰ぎたる細工もの
○鑵詰の菜蔬三種○三角塔の状に盛りたるプッヂング(一種のねりものゝ菓子)
この外葡萄酒セリー酒之の副ひ、食後に茶及び珈琲を供するは言ふまでもなし。
是れ皆な莫科が左毗の助けを藉りて、一週間前より準備し調整せし所なり。
衆童子は一品膳に上る毎に、皆な其の調理の妙と鹽梅の巧みなるとを稱贊して、口を絶たず。 かくて、食事
將さに央ならむとするとき、
武安は起ちて、呉敦太守の功勞と稱して其の壽を祈るむねの、
簡潔なる一場の演説をなし、呉敦は之に答へて、 斯の小植民地の繁榮を祝し又た遙かに故國の諸友を憶ひて、
一杯を傾けたり。最後に胡太起ちて、 幼年者一同を代表して、武安が平素常に幼年者のために心を盡すことを深謝し、
武安の壽を祈りて、一杯を傾くるよしを、演説したりしは、 尤も一同を感動せしめて、喝采
讚呼の聲岩壁に震ひ、 武安の面には言ふべからざる感激の色 顯はれて見えたりける。
杜番は獨り默然として眼を下向けてをり。
此より一週間を經て、渠等は一千八百六十一年の新年を迎へたるが、
是等南方に緯度にありては一月は即ち夏の最中なり、
指を僂ふれば、渠等が本島に漂着せしより、既に十個月を閲せり。
渠等は來冬の冬ごもりの間に於て、家畜を遠く戸の外に繋ぎおくことの不便なるを思ひて、
更らに洞に密接する處を擇びて其の小舍を移し、又た成るべくは爐を設けて多少の暖氣を小舍に送りて、
以て渠等を嚴寒の中に保護するの計をなさむと慾し、
馬克太武安左毗莫科等は一月中は專ら是等の工事に身を委ねぬ。
一方に於て杜番と其の三童子は、 例に因りて毎日
獵獸捉禽の事を孜々として亦た家に在ること少し、
然れども是も亦た決して無益の勞作には非ざりき。多くの食物を貯へて、 冬ごもりの用に充つるは均しく緊要の事なればなり。
然れども童子等は是等諸務の外に、尚ほ嚮に議決せる家族湖東岸探征なる一要務を、
負へることを忘るべからず。是れ啻に東方地平線上の模樣を展望して、
陸影の有無をたしかむるが爲めのみならず、亦た其の地形物産を檢視して、 苟くも採りて己れに用ふべえき天然の利益あらば、
之を採用せむことの、得策なるを以てなり。一日武安は呉敦と對話せるとき、
武安は特に斯の問題を提起して、
東方に或は慕員の望み見る能はざりし陸影あらむも料るべからざることを論じて、
東岸探征の事を忽がせにすべからざるを説き且つ之に言へるやう、
「思ふに君の心中には、必ず餘と斯の説を同じくするに疑なし、 一日も速かに故國に還るの計を爲したしとは、
君が必ず餘と同じく須臾も心中に忘るゝ能はざる所なり」。 呉敦「然り、君の説く如く、探征員を派遣せむ、
諸君に謀りて諸君の中、五六名を擇びて以て、君に伴行せしむべし」。
「五六名は多きに過ぐ、若し、かく多くの人を派遣せば、
必ず陸路湖畔を繞りて、以て東方に出でざるべからず、是れ途遠くして勞多し、
餘の策を以てすれば、如かず短艇を以て湖を渡るに、是れ勞少くして功 捷し、
然れども短艇は多くの人を容るゝ能はず、故に遠征員は二名 若くは三名を過ぐべからず」。
「君の策極めて妙なり、而して君は何人を伴ふべきや」。 「莫科、渠は頗る操舟の術を會せり、
而して餘も亦た少しく之を知れり、風順なるば帆を揚げ、逆なれば櫂を盪かさむに、
六七マイルの水路を走るは、甚だ爲し難きの事にあらじ、地圖に據るに、
此處を距る六七マイルの那方の岸に、一條の川ありて、
湖より出でゝ本島の東灣に入る、乃ち餘等はこの流を追ひて、
東灣に逹することを得べし」。「君の案甚だ好し、然れども更らに一人を從へむこと、
更らに便宜なるべし」。「そも亦た餘にかねて心算の人あり、 即ち餘の弟
弱克なり、渠が近來の状は餘をして益す不安の念を増さしむ、
想ふに渠は必ず何等か他人に語るべからざる大罪を犯して、 之をつゝみをるに疑ひなし、餘は百方 嚇し或はすかして、
之を吐かしめむと務めたれども、功無かりき、然れども若し人無き處に於て、 餘とさし向ひにならむをり」。「君の説
是なり、弱克を偕に伴ひゆけ、 今日より直ちに準備にかゝりて、速かに發足せよ」。
かくて呉敦は一同に、三名を派遣して東岸探征の事に當らしむるよしを告ぐるに、
常に洞内にのみ在りて戸外に出づること稀れなる莫科の喜びは、
言ふもさらなり、弱克も亦た兄と偕にすることなば敢て之を否まず、
獨り杜番は己れの派遣中に加へられざるを、大に不平として、 之を呉敦に愬ふるにぞ、
呉敦は乃ち密かに武安の言ひし所を語りて、
かの三名に限りたる所以を告ぐるに、杜番は益す之に不平にして、 「さらば呉敦、
この行は唯だ武安が私の都合のために催さるゝか」。
呉敦「過言なり杜番、是れ獨り武安を誣ふるのみならず、
併せて餘を誣ふる者なり」。杜番は口を噤みて復た言はざりしが、
其の心服さゞることは面に顯はれたり。
武安等は短艇を細査して、其の破損處を修繕し、
スロウ號より取り來れる三角帆を之に取りつけ、施條銃二個、
短銃三個、硝藥若干、毛布數枚、及び五日分の食物と二個の櫂とを裝備して、
發足の準備悉く了りしかば、拔錨は明日、 即ち二月四日の朝と定まりぬ。朝八時に及ぶ比ほひ、
武安は弱克と莫科とを從へて、
一同に別れを告げ、ニウジランド川より家族湖に乘り出だすに是日天氣晴朗にして、 南西の風そよ〜と帆を吹きて、
未だ一時間ならずして湖畔に群立してボートを目送してせる呉敦等衆童子の影は、
早くも微茫の中に沒し、更らに一時間したる後は、アウクランド岡の頂きも、
漸やく地平線の下に沈みぬ。然れども湖の東岸は未だ眼界の裡に浮ばず。
然れども十時前後より風 漸やく衰へて、正午に及ぶ比ほひに、 風全く死ぎたれば、帆を下して一同
中飯を喫したる後、 莫科と武安とは櫂を操り、弱克に柁を執らしめて、
仍ほ北東にこぎゆくに四時に至りて始めて東岸の樹梢の低く水上に浮び出づるを望み見るを得たり、
櫂を操れる二童子は腕次第に疲れて、身 漸やく熱するに、
赫々たる斜日の光は頭を炙りて、 汗流背を浹すばかり。
湖面は玻璃の如く平かにして水清らかに、水面以下十五六尺の處に茂生せる湖底の植物と、
是等植物の間を群行去來する無數の游漁と、皆な歴々として俯瞰するを得べし。
兎角して午後六時に、ボートは東岸なる一個の丘の上に着きたるが、 丘は一面に松柏鬱生して、
脚を着くべき地もあらねば、更らに北上すること數町せるに、
一個の川の口に至りぬ。武安「是れ即ち慕員の地圖に示す所の川なるべし」。
莫科「然り、請ふ之に名を命ぜむ」。武安「汝の説 是なり、
請ふ之を東方川と呼ばむ」。
この夜はボートを岸に繋ぎて、一同 岸上に露宿せしが、
翌朝は六時に起き出でゝ、再びボートに上りて直ちに川に乘り入るに、 方さに退潮の候に際せしかば、
ボートは面白きやうに流を下りて、莫科の獨り櫂を棹として、
舟首に立ちて、其れをして岸に觸れしめざるやう、 操りいくを須ふるのみ、
武安は弱克と偕に舟尾に坐して、
行く〜兩岸の模樣を觀るに、川の堤はニウジランド川に比すれば甚だ高く、 堤の上は一面に茂樹密木おひ疊なり、
尤も松柏の二樹多し。川の幅はニウジランド川の如く廣からず、
最も廣き處も三十尺を超えず、是れ斯の川の流の更らに急迅なる所以なり。 堤上の密樹の中に、
一種の喬木の其の枝 涼傘の如く四方に廣がり蓋ひて、
枝の上に長さ四五寸の圓錐形の實を着けたるが、多く有り。
武安は呉敦の如く多くの本草的知識を有せずと雖も、
是れ曾てニウジランドに於て其の標本を見しことある、ストーンパインなることを知れり。
ストーンパインの實の内には楕圓形の堅果ありて、食ふべく、
亦た以て油を製すべし、堤上亦た多く羽毛族を棲ましむと見え、 駝鳥 野兎の群
茂樹の間を遊行するを望み、 亦た二隻のラマの突如として密木の陰より出でゝ、
復た忽ち走せかくるゝを望みなり。 十一時ごろより、兩岸の樹木次第に疎になりて、
空氣に著るしく鹽氣を帶びしは、既に海に近づきたるを證すべし。
かくて數分間を過ぐるほどに、果して一道の淺碧色、 冉々として地平線上に浮び出づるを見たり。
川の流は一時間に略ぼ一マイルづゝの速度を以て、
ボートを運びたりと見ゆれば、東方川の長さは、概算五六マイルの間なるべし。
島の東面なる斯の灣は、西面なるスロウ灣とは、全く其の模樣を異にして、
スロウ灣の如く濱邊は一帶の沙場にして沙場の上には一道の岩壁 聳立するにはあらで、 濱邊は一面に無數の巨石累層
横布して、處々に洞穴多く有り。 若しスロウ灣をして始め此處に漂着せしめば、
渠等は容易に其の栖居の所を發見して、彼の如き多くの勞苦を須ひざりしならむ。
武安は莫科と更る〜゛望遠鏡を取りて、東方を望み視るに、
只だ是れ淼々寂々たる無邊の大洋にして、
一點の帆影、一寸の陸影も見ゆる有る無し、 武安は固より必ず陸影を望み得べしとは期さゝりき。
然れども亦た甚だ失望の情無きことを免れず、乃ち此處を名づけて、欺騙灣とぞしたりける。
武安はボートを濱邊に着けしめて、二童子共に上陸して、
更らに此邊の模樣を細査するに巨石は皆な美麗なる花崗岩にして、 大小の洞穴の恰も人の栖居するに好き者、
僅かに數町の間に、既に十餘所あり、昔 慕員が親しく此處に遊びて、
是等の好洞穴を看ながら、曾て此處に淹留したる跡無きは、
既に佛人洞に其の宅を定めたる後なりしを以て、再び此處に移居するを重かりしが故なるべし、
午後二時、三童子は一個の巨岩の其の形 蹲まりたる熊に似たるに逢ひて、
乃ち之に巨熊岩の名を命じつ、其の背に攀ぢ登るに、
岩は高さ殆ど一百尺に近く、絶頂に立ちて眸を展ぶれば以て略ぼ四邊の大勢を總攬するを得べし、
西方を囘顧すれば重疊たる茂林の梢黒く、家族湖をかくし、 南方は、一面の大沙漠
蜿蜒起伏しつゝ、白く雲に入り、より〜團簇せる矮松樹の、
小さき黒點を成して、此彼に散落するを見るのみ、 北方は、曲折
出入せる濱邊の、一個の岬に至りて盡き、 此より以北は亦た一面の沙漠を成せり、更らに望遠鏡を轉じて東方を望むに、
空氣は澄みわたりて、直徑七八マイルの間は、飛鳥の影をも明かに見ることを得べし、
三童子は更る〜ゝ一樣の漫々たる大洋の面を空しく望み視たる後、
終に意を絶ちて岩を下らむと慾すをり、莫科は俄かに武安を控へて、 「彼れは何物なるべきや」。
武安は黒人の子が指さすかたを望み視るに、 北東のかた天水相 連なる處に、一個の小さき白點あり、
初めは雲片なるべしと等閑にに看過せしが、 熟視するに是れ決して雲片にあらざるに似たり、
武安は良や久しく之を瞻りたるが、
依然一處に止まりて、移らず變らず、武安「是れ山にあらずば決して此の如きこと能はじ、
然れども山は亦た決して此の如く見ゆべからず」。
是時太陽は次第に西方に傾きて、更らに數分間を過ぐるに、かの白點亦た杳茫の中にかくれぬ。
彼れは果して山なりし歟。或は海波の太陽の光を反射せる影なりし歟。
莫科と弱克とは後者なるべしと信ぜり、 武安は獨り前者の疑ひを抱けり。
三童子は河口のボートを繋げたる處に返りて、 途中に於て撃ちたる鷓鴣を炙りて、晩飯などしたゝむるに、
既に六時を過ぎたるが、進潮の候までは尚ほ三時間餘りあれば、
莫科は河の左岸に於て晝間見おきたる、ストーンパイン叢に往きて、 其の實を採聚すべしとて、獨り出でゆきつ。
頃ありてボートに返れるに、武安兄弟はボートの中に在らず。 忽ちにして岸上の一方の茂樹の裡に、
飮泣の聲 怒責の聲と相交りて漏れ聞ゆるは、たしかに渠等兄弟なり、
莫科は且つ驚き且つ訝りて、聲するかたに走せゆけるが、 相
距る數歩の處に至りしとき、莫科は愕然として覺えず立ちとまりぬ。
但見れば弱克は武安の足下に身を投じて、 何事か涕泣しつゝ打ちわびをれり。
是時 天色は已でに漸やく黒くなれるも、
仲夏黄昏の光は尚ほ明かに二人の姿を照らし出だせり。 二人は莫科の近づき來れることを知らず、
莫科は始めて心づきて、急に身を反して却く囘らんとしたりしが、
已でに晩かりき、渠は圖らずも二人の語を耳にしたり。
渠は弱克が方さに其の兄に懺悔せる詞を聞き、弱克の罪を知了せり。
武安「おろか者が、今日諸君が斯の島に——、其の原因は即ち汝が——」。
弱克「饒したまへ兄うへ、饒したまへ餘の愚かを」。
武安「汝が常に諸君と面を對するを恐るるゝ状有りしは是故なり、
諸君は決して汝を饒さゞるべし、汝は諸君に語らずして、 暗に其の罪を償うふの道を講ぜざるべからず——」。
莫科は實に偶然兄弟の斯の祕密をたち聞きせる不幸を千悔萬恨せり、
然れども既に之を聞けるからは、之を包みかくすべきに非ず。此より幾分間を過ぎて、
三人再びボートの中に會せるとき、莫科は弱克不在の間を伺ひて、
「主公よ、餘は圖らず一切をたち聞きたり」。武安は失叫して、
「何といふ、汝は弱克が餘に語れる」。
「然り主公、請ふ渠の過ちを饒せ」。「汝は他の諸君が亦た渠を、
能く饒すべしと謂ふか」。「恐らくは饒すまじ、
如かず、他の諸君には之を知らさずして已まむには、祕密は餘等の三人の外に決して泄れるべからず」。
「アヽ吾が好莫科」とつぶやきつゝ武安は莫科の手を握りぬ。
十時に至りて、三童子は進潮に乘じて、川を遡りはじめしが、是夜は幸に滿月にして、
清輝晝の如くなれば、ボートを行るに些の危險もあらず、
午前一時に至りて潮再び退きはじめたれば、ボートを繋ぎて暫らく潮の囘るを待ち、
六時に再び纜を解きて、九時には無事家族湖にこぎ入りぬ。 幸ひに風は東より吹きたれば、莫科は直ちに帆を揚げて、
佛人洞を望みてまぎり走りたり。武安は弱克の懺悔を聞きてより、
常に沈吟の中にありて、言を發すること希れなれば、 莫科も亦た敢て多く口を開かず、一同默々として、
午後六時に佛人洞の前に歸り着きぬ。適ま湖畔に出でゝ釣絲を埀れたる雅涅の、
之を望み見て洞に報ぜしかば、呉敦等衆童子は、 相
率ゐて川の上に出で迎へつ、一同に三名が無事の歸着をよろこびぬ。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第九囘
是夜 武安は一同を會して、其の探征の結果を報告し、其の東方に望みたる怪しき白點のことなど、 詳かに語りたるが、其の白點の果して山影なや否やは、固より未定なり、 又た萬に一つ幸ひに山影ならしめしとするも、其の果して大洋の中に多く有る所の、 無人の一 小嶼などの類に非ざるを得るや否やは、亦た未定なり。 渠等は此の如く未定の物を目的として、多くの困苦勞力を賭して、 新たに船を造り航海の危險を冐すべきにあらず。故に渠等は只だ何時までも斯の島にありて、 自然外來の救ひありて至るをりを、待つより外は復たすべ無きこと、 甚だ明かとなりぬ。故に此より、一同は從前に倍する熱心もて、 專ら來冬の冬ごもりの準備に孜々として從事せり。 中に就て、武安は探征より歸りて後は、從前の如く多く人と語らず、 其の弟 弱克と同じく成るべく之を避くるの状あり。 然れども其の一同のために盡力勞作するの熱心は、更らに幾倍加はりぬ。 加ふるに何等か非常の勇氣を要し、若くは危險を冐すことを要する困難ある事あるをりには、 輒ち自から弱克を薦めて、之を當らしめることを務むるの状あり。 呉敦は早くから武安の擧動の斯く變化を生ぜるに着目して、 機を見て其の故を窮め問はむと慾したれども、武安は毎に心を用ひて、 呉敦の語次或は此の事に及ばむとするを防ぎて、呉敦に其の機を得さしめず。 然れども呉敦は益す意を留めて兄弟のそぶりを視れば、視るほど益す、 たしかに兄弟の間には、既に其の心解けあひて、何等の祕密の約束の成立てるを猜したり。
是月の中旬 韋格は、一日多くの鮭の隊を成して湖より、 ニウジランド川に下りゆくを發見し、此より毎日網を下して之を漁りたるに、 意外に多くの獲もの有り。因りて又た之を醃藏するために、 俄かに多くの鹽を須ふるの必要を生じて、 渠等に新たにスロウ灣に、一個の製鹽場を興したり。 其の法、濱邊に一個の四角なる巨槽を設け造りて、 此の裡に海水を汲み入れ、天日の熱を假りて、 其の水分を蒸發せしめし後、乃ち其の底に少しづゝ遺留する所の、 鹽を採聚するなり。是れ實に多くの時と勞力とを須ふる所のものなりき、 然れども一同の熱心盡力は、終に其の需要するだけの鹽を製し了ることを得たり。
二月の月は、此の如く一同スロウ灣と佛人洞との間を往返して、打ち過ぎたるが、 三月の上旬には、渠等が假りに南澤と名づけたりし、 ニウジランド川の左岸なる、沼澤の一部を探征するの議あり、 首唱者は杜番にして、沼澤の中に多く群集する羽族を獵して、 冬ごもりの食物に備へむといふなり。三月九日の朝、 杜番は乙部及び韋格の二名と共に、 馬克太の作りたる高屐を穿ちて、沼澤の中に進み入りぬ。 言ふまでも無く、獵犬フハンは三個に跟隨したりしが、 渠は獨り高屐を有さゞりしかば、 ざんぶ~と泥水を蹈みつゝ進みゆきにける。
南西に進み行くこと一マイル許にして沼澤中の乾地に抵りたれば、 三個は此の處にて高屐を脱し、奔走自在なるやう身輕に支度しつゝ、 さて四邊を看まはすに、鷸、鴨、黒鷸、小鴨、 及びもぐり鳥等の沼澤 面を蔽ひて、 相交錯群集し、若し渠等をして硝藥を嗇まざらしめば、 渠等は、容易に是等鳥類の幾百個を撃つことを得しならむ。 然れども硝藥の經濟は、渠等をして僅かに其の數十個を得て以て自から滿足せざる能はざらしめぬ。 其の他、濱ひばり、蒼鷺、多くありたれども、 是等は以て食物となすべからず。又た紅色の翼を有して、 首より尾に至るまで長さ四尺以上に及ぶ紅鶴あり。 紅鶴は好んで濁水の上に集り、其の肉の味ひの美きこと、 鷓鴣に讓らず、然れども渠等は常に一行の列を成して、 列中に見張りのもの幾個かあり、苟も常に異なれる事あれば、 直ちに喇叭の如く大なる聲を發して、一同を警戒す。 故に童子等も徒らに渠等を驚かし逃飛せしめしのみにて、 終に其の一個をだも撃ちとめ得ず。然れども、三個は半日の獵くらに、 十分の獲ものを得て、午後 洞に歸り來れり。
冬ごもりに第一必要なるは薪にして、其の亦た非常の多量を須ふること、 去冬の經驗にて明かなりたれば、呉敦は諸童子を指揮して、 陷穽林沼澤林に往きて薪を採らしめ、 二頭のラマを駕したる異樣の馬車は、凡そ半月 許の間毎日、 日に幾度となく、是等 茂林と洞との間を往返して、 薪を洞に運び入れしほどに、今は縱ひ六個月 燒きつゞけに燒けばとて、 薪の供給には不足を告ぐる憂決して有るまじく見ゆるに至れり。 呉敦は是等の勞作の間にも、かねて定めたる日課の修學をば廢することを許さず、 又た一週間に兩度の討論會も、曾て一度も之を休まず。 杜番は例に因りて毎ねに、討論會場裡の雄と稱せられぬ。 然れども渠が常に自から其の能辯を矜りて、 暗に諸童子を輕視するの風有るは、亦た渠をして人望を失はしむるの一つの原因となりしこそ、 已むを得ざる次第なれ。
抑も呉敦が本島太守としての任期は、こゝ二個月の内に盡くべく、 諸童子は更らに一たび選擧の手續を行ひて、新太守を定立せざるべからず。 而して杜番は、其の新太守に推さるゝ者は必ず己れならむと、自から信じ、 又たかねて杜番の黨たる韋格乙部虞路の三名は、 杜番に向ひて常に、 渠を舍きて他の呉敦に繼で其の椅子を占むるべき適當の人ある無し、 皆な杜番の成功に些しの疑ひをも容れざりしなり。 然れども是れ渠等の大なる誤解なりき、 杜番は實に呉敦に繼ぐべき、其の年齡と伎倆とに於て、 恰好の資格を有せり。然れども渠は人望を有せず、幼年者に於て殊に然り。 幼年者は獨り杜番を好まざりしのみならず、 呉敦に對しても亦た多少の不平有り。 呉敦が施政の一年間、公共の利益のために計るに鋭志して、 常に嚴重なる規律を以て、一同に臨みたりしは、 頗る其の徳望を損するの原因となりて、 陰かに渠の任期の早く盡きむことを祈る者少からず。 殊に幼年者は其の衣服を汚し、ボタンを失ひ、靴を破りて、其の都度に或は減食、 或は禁足の罰に遭へる者、殆ど一二もて數ふべからず。呉敦が限りある調度を嗇み、 治め難き幼年者のわんぱくを治むるの、處置としては、是れも亦た已むを得ざるの道なれども、 幼年者は之を怨みて「若し親切なる武安をして太守たらしめば」 と思ふに至れるも、亦た復た已むを得ざる人の情なり。
然れども、渠等は全日をたゞ勞作と修學とに費やして、 更らに他事に及ばざるには非ざりき。一日の中幾時間か、運動時間ありて、 己がじしに、或は木に升り、或は水に泅ぎ、 或は競爭 棒飛等諸種の戲れして以て、鬱を宣べ快を取る。 而して斯の運動時間に於て、ある日、特書せべからざる一事件起りたり。 四月二十五日の午後なりき。一方には杜番、韋格、虞路が四名一隊となり、 他の一方には武安、馬克太、雅涅、 左毗の四名一隊となり、環投げの戲れといふを作しき。 環投げの戲れといふは、平地の上に二條の鐡の針を植てゝ、 戲者は各手に二個の直徑八九寸の鐡の環を持ちて、 二隊に分れて、一定の足場に立ち、各其の的とかねて定められたる針を望みて、 其の環を投げ、其の針にはまりし者は、二點と算し、或ははまらざるも、 其の針に觸るゝまでの處に逹し得たる者は、一點と算し、之を合算して以て、 彼此の諭贏を決するなり。是日 渠等は既に二番を鬪ひたるが、 初めは合計七點を以て武安の隊 贏を得たり。 故に最後の斯の一番こそ、即ち兩隊の是日の勝負を決する大切の鬪ひなりしなれ。 既にして兩隊の諸童子は、更る~゛其の環を剩ますのみとなりしとき、 兩隊の所得の點、各均しく五點と數へられぬ。
乙部「杜番、こたびは君の番なり、意を用ひよ、 我が隊の運命は、懸けて君が斯の一環の上に在り」。杜番「憂ふる勿れ、乙部」。 杜番は口を結び、眉を顰めて、一 雙の爛たる眼、 的を凝視して、ねらひを定むること良や久しくしたる後、 や聲とともに擲ちたる環は殆ど針にはまらんと慾して、はまらず、 環 邊もて針を撃ちたるまゝ、空しく地に墜ちぬ。 虞路「咄、敗せり」。 韋格「然れども猶ほ是れ一點に數へらる、 若し敵の環をして命中せざらしむる限りは、諭贏の決、未だ定むべからず」。
此方に立てる左毗は、「意を用ひよ、武安」。 武安は點頭したるのみ、敢て一言をも發せず、 足場を計り、ねらひを定めて、擲ちたる環は誤またず針の上に命中せり。 左毗「二點、合計七點、我が隊萬歳」。
彼方に立てる杜番は、左毗の呼ばゝる聲を遮りて、 「否な、只今の勝負には異論有り」。馬克太「何を以て」。 杜番は武安の立てる處に走り來りて、 「何とすれば、武安が詐りを行ひしと」。 武安は面色を變じて、「餘が詐りを行ひしと」。 杜番「武安は足場より外に、其の足をふみ出したり」。 左毗「そは杜番、君の誤りなり、 武安の足は常に足場の内に在りたり」。 武安「且つ來りて餘が靴の跡を看よ、餘が足場の外に出でたりといふは、 杜番の看たがひに非ずば、即ち其の虚言なり」。 杜番「虚言なりと」と叫びつゝ、武安のかたに詰寄りたり。 杜番の背後には乙部、虞路等引添ひて、 スハといはゞ杜番を助けて、打てかゝらむと慾し、 武安の背後には、亦た左毗馬克太等、 武安を助けむと慾して、臂を攘げてをり。 武安は憤然として、怒色 面に顯はれしが、 復た忽ち思ひなほせる如く、「杜番、 君は已でに餘を辱かしむるさへあるに、亦た餘に鬪ひを挑まむとするか」。 杜番「君は心怯れたるか」。 武安「餘は此の如き事のために、鬪ふべき所以を知らず」。 「即ち心怯れたるなり」。「餘が心怯れしと」。 「即ち君は臆病ものなり」。武安は終に復た忍ぶ能はざりき、 俄かにして一場の拳鬪は、兩個の間に開かれたり。
是より先き、兩個の口角次第に厲しきを加へるを傍觀したりし土耳胡太等の幼年者は、 洞内に走せもどりて、呉敦に事の急を告げたるにぞ、 呉敦は大に驚きつ。此の處にかけ來りて、兩個の間に身を横へて、 「武安、杜番」。 杜番「渠は餘を虚言者なりと嘲りたり」。 武安「然れども、そは初めに渠が餘を以て、 詐りを行ひし者と誣ひ、又た臆病ものと罵りたれば」。 呉敦は聲を厲して、「杜番、 餘は武安の決して事を好む者に非ざるを知れり、先づ事の端を發せし者は必ず君なり」。 杜番「多謝 呉敦、君は例に因りて餘を貶す、 餘は君の好意を多謝す」。呉敦「否な杜番、 餘は君等のの首長として、君等が此の如き不法の爭鬪をなすを禁ず、 武安、君は洞に歸れ、杜番、君は慾する所に往きて、 其の怒氣を消し、君の常態に復せる後を待ちて、餘等の許に歸り來れ」。 圈立環視せる諸童子は、乙部韋格虞路の三個を除く外、 皆な一同に、「然り、然り、呉敦の言 是なり」と贊しける。 杜番は是夜、一同が寢に就かむと慾するころに至りて、 初めて洞に歸り來りしが、武安の事につきては、 敢て復た一言をもいはず。翌日よりは、再び平生の如く、 一同と共に冬ごもりの準備に孜々として從事せるが、其の一團憤懣の氣、常に胸に横はれるは、 其の居動言貌の上に自から掩ふべからず見えにける。
五月に入りてよりは、寒威既に著るしくなりて、 洞内のストーヴには晝夜火を燃きつゞくるやうになり、 鳥類は多く更らに温暖の地を求めて、島を去らむと慾す。 童子等は中に就て幾十個の燕を捕へて、各其の頸に、 渠等が漂流の始末と、現在の状とを詞短かに記して、 斯の書を拾ひ看る者は、速かに之をニウジランドの首府アウクランドに報じくるゝやう、 乞ふむねを併せ記したる小紙片を結びつけて、放ちやりぬ。 五月二十五日には、既に初雪を見たり。去冬に比ぶれば早きこと若干日なり、 斯の冬の寒威は去冬に比べて、或は幾層の烈しきを加ふるやも知るべかららず。 然れども洞内には幸ひに、薪、油、及び食物を饒有すれば、 縱ひ數個月を洞内に蟄してくらさゞる可らざるに、至らしむるも、 敢て恐るべきにあらず。
呉敦の任期は六月十日を以て終るべし、新太守の選擧は即日之を行ふべしと定められぬ。 呉敦は固より己れの既に多數の童子に厭かれたることを知りて、 敢て再選さるべしとも望まず、亦たされむことをも願はず。武安に至ては、 其の佛人の子なるを以て英人の子の組成せる斯の殖民地に於て、 其の首長に推さるべしなどゝは初めより夢にも想はず。 選擧の日の次第に近づくに隨ひて、隱すとすれど、 其の懸念の色の自然 面に顯はれしは、獨り杜番なり。 蓋し杜番の如きは其の凡に超えたる勇氣、其の儔希れなる才能、 斯の一群の童子の首長として、本島の太守に推さるべき、最も適當の人なりしなり。 若し渠をして其の剛愎他を凌ぎ、妬忌人を嫉むといふ缺點の、 常に其の徳を損する無からしめば、渠は必ず第一に本島太守に推さるべき、 最も適當の人なりしなり。
既にして六月十日となりぬ、選擧の會は午後を以て開かるべく、 童子等は各小さき紙片に、其の選擧せむと慾する候補者の名を記して、 之に投じ、第一囘の投票にて、最多數を得たる者、即ち當選者たるべしとの定めなり。 莫科は黒人なるを以て選擧權を有する能はず。故に投票の數は總計十四枚にして、 八票以上を得たる者は、即ち當選者たるを得べし。選擧會は午後二時を以て開かれぬ。 呉敦選擧長の椅子に坐し、衆童子は、かのアングロサクソン人種に特有の、 嚴肅なる態度を以て、逐次其の票を投じたり。已でに畢りて、 選擧長が其の結果を讀みあぐるを聞けば、
武安八點。杜番三點。呉敦一點。
即ち武安最多數を得たり。蓋し呉敦と杜番は、 其の選擧權を棄て、武安は呉敦に投票し、 其の他は乙部、虞路、韋格の三名が杜番に投票したる外、 皆な齊しく武安を推せしなり。
之を聞きしとき、杜番が失望と不快との色は、 面に掩ふべからざりき。武安に至りては、 事の意外に驚きて、忙がはしく身を起しつ、之を辭さむとしたりしが、 復た忽ち其の心に思ひつきし所ある如く、其の弟 弱克を視やりつゝ、 徐ろに「多謝諸君、謹で諸君の命の辱なきを拜す」。
この日、弱克は人無きをり、其の兄に密かに語りて、 「兄うへ、汝が直ちに太守の職に就くことを諾きたるは」。 武安「即ち諸君のために、餘と汝とが身を捐てゝ、 力を盡さむと慾するには、餘が斯の職に居ることの、尤も便宜ならむと思ひたればなり」。 弱克は雙眼に涙を浮べて、「多謝兄うへ、若し一命を擲ちて、 諸君のために身を致すべきをり有らば、必ず餘を用ふることを忘るゝ勿れ」。
スロウ灣の上に樹てたる英國旗は、既にさん~゛に破れて、 殆ど目じるしの用を爲さゞれば、武安は戸外の運動の猶ほ自由なるうちに、 之を新たにせむと慾して、馬克太に囑して、 沼邊に叢生せる蘆を採りて、一個の球を作り、 旗に代へて之を竿頭に掲げしめぬ。 兎角する間に、陰氣なる冬は去年の如く、次第にチェイアマン島を罩みて、 童子等は復た一歩を洞外にふみ出だす能はずなりぬ。 武安は傲らず、矜らず、忠實に、其の職に務めて、 孜々洞内庶務の整理に從事し、童子等は皆な喜びて其の指揮に服し、 殊に呉敦の初めより率先して、自から武安の號令に遵奉して以て、 其の例を示せしは、尤も武安の號令をして、圓滑に行はれしむるの助けをなせり。 杜番等四名のものさへも、敢て公然 武安の命に抗する者はあらず、 唯だ武安が百方 渠等を慰諭撫安して、 其の惡感情を去らむことを務めたるにも拘はらず、渠等が到底 武安に不滿にして、 心之に服さゞるは、常に其の擧動のはし~゛に顯はれて、 得て之を掩ふべからず。
善均、伊播孫、土耳及び胡太等の幼年者が、 其の學業の上に於て、著るしき進歩をなしたるより外に、別に記すべき事もなく、 六月七月を過ぎて、八月の初めとなりぬ。八月の初めには、 百度わりの寒暖計の水銀、零點以下三十度に降りし日四日ありき。 此ことに至りては、年長童子等が時々厩舎に繋ぎたる諸動物のために、 其の煖爐に薪を添ふるが爲め、止むを得ず、更る~゛厩舎に往くを除く外は、 一人の戸外に出づるを得る者なく、厩舎より歸る者は、皆な半ば凍死の人となりて、 歸り來るを常とせり。是月九日より、風西方に吹きかはりて、やがて大風烈風となり、 殆ど二週間吹きつゞけて、陷穽林及び沼澤林の樹木多く是がために吹き折れ、 吹き倒されぬ。他日童子等が薪を採るの必要に逢はむをりは、 是れ大に童子等が斧鋸の勞を省くの助けとなるべし。 八月下旬といへば、餘輩北半球の二月の末に當れば、暖氣已でに次第に囘りそむる候なるに、 斯の大風は又た大に温度を變化するの效ありて、 八月下旬には戸外の運動 稍や自由なるを得るに至れり。 然れども湖及び川は猶ほ渾べて是れ一面の厚氷なれば、 打魚の事は未だ之を得試むるに至らず。 一日、武安は少しく瑟縮せる一同の筋肉を舒ぶるため、 走氷の戲れを催さむと慾して、之を一同に語れるに、 皆な喜びて之に贊せるにぞ。 乃ち馬克太に囑して若干隻の氷靴を製せしめ、 其の製し了るを待ちて、二十五日の朝、武安、呉敦、杜番、 乙部、虞路、韋格、馬克太、雅涅、 左毗、善均及び弱克の十一名相率ゐて佛人洞を出でゝ、 家族湖の畔に抵りぬ。 斯の戲れに熟練せざる伊播孫土耳胡太の三幼年者は、 莫科とともに、家に留守してをり。
佛人洞附近の濱邊は、氷の面起伏凹凸一樣ならずして、 すべり走るに宜しからざれば、一同は已むを得ず、 湖畔に沿ひて三十町 許を北に進みゆくに、 此處の前方一望 無邊の玻璃を展べたる如く、 坦々蕩々として、其の涯際を見ず。 武安は先づ一同を會して、規約を定めたるは「興に乘じ能を衒ひて、 危險を冐すことを許さず、群を離れて遠く行くを許さず、 誤まりて群を離れ路を失ふ者あらば、呉敦と餘との始終この濱邊に停立して、 諸君の歸來を待つことを忘るる勿く、 必ず此處に歸り來れ、又た餘がこの喇叭を吹き鳴らさば、 一同直ちに此處に歸り來れ」。一同は武安が告ぐる所の規約を聞き畢れる後、 湖のうへに下りたちて、氷靴を着け、呉敦が發する所の合圖とともに、 一齊に氷の面を走りはじめしが、中に就て最も熟練の功を見せしは弱克なりき。 杜番と虞路とは、かねて斯の戲れに巧者なりとの名を博せし者なるが、 流石の二人も弱克が、各種の曲線 圈線を描きつゝ、 縱横にすべり走る、圓轉自在の働きには、遠く及ぶ能はずして、後に瞠若たるばかり。
杜番は弱克が連りに一同の喝采を博するを見て、 心の中甚だ面しろからず、やがて一同の列を脱して、虞路をかたへに招きつ、 「君は那方に一群の鴨の下りたるを見ずや」。虞路「然り那方の沖なかに」。 「君と餘とは幸ひに例に因りて銃を負ひたり、往いて之を獵取せむ」。 「然れども、武安は餘等の群を離れて、遠く行くを禁じたり」。 「請ふ武安の名を説く勿れ、只だ餘と共に隨ひ來れ」。
此方の岸に停立して、衆童子の面白げに、すべり走るを望視しゐたる、 武安と、呉敦とは、杜番と虞路の二人が、 俄かに群を離れて、沖のかたに走せ去るを見て、大に之を怪しみつゝ、 武安「渠等は何處にゆかむと慾するや」。 呉敦「何等か獲ものを發見して、其のかたに赴くに非ざるなきか」。 言ふうちに二人の影は只だ二個の小黒點と化し了りしが、復た忽ち眼界の外に沒して、 見るべからずなりぬ。日沒までは尚ほ數時間あれば、 渠等は直ちに歸路に迷ふの憂ありといふには非ざるも、 此ごろの空氣の状には、動もすれば、激變多くして、 少しの風むきの變りかたに因りて、忽ち雪を下らし或は霧を起すことあり。 されば、二人の見えずなりてより、未だ幾時を閲せず、 午後二時に至りて、一帶の重霧地平線を抹して、 湖上の物色 俄に暗淡となれるとき、 武安の驚きは一かたならざりき、「之を憂へ懼ればこそ、 餘が群を離れて遠く行くことを、豫め禁ぜしなれ、 渠等は斯の重霧の裡に於て、 如何にして歸路を求むることを得べきぞ」。呉敦「兎に角に、 喇叭を鳴らして、他の諸君を召び還さむ」。
他の童子等は皆な直ちに岸に返りしが、二人は未だ歸り來らず。 喇叭は衆童子の口によりて、更る~゛吹き鳴らされたり。 若し二人をして之を聞かしめば、必ず其の銃を放ちて、之に應ずるならむ。 一同は耳を欹てゝ、之を聽きたれども、湖上は寂然として、 何等の響きをも返さず。兎角するうちに、霧は益す廣がり、益す重なりて、 更らに數分間を過ぐさば、湖上の全面は凡べて瞑濛の中に、 罩み了らるべく見えにける。
呉敦「餘等は之を如何にすべき」。武安「有らゆる力と手段と竭して、 二人を救はざるべからず、先づ餘等の中、一人試みに渠等のゆきし方に赴きて、 行く~喇叭を吹き鳴らして、渠等に方位を知らさば、如何」。 馬克太「善し、請ふ餘之に赴かむ」。「餘往かむ」。「餘往かむ」と言へる聲、 二三個の口より齊しく起りたり。 武安「否な、餘往かむ」。ジヤックは兄の前に進みて、 「否な、兄うへ、餘こそ之に赴くべき適當な人ならめ、氷の上を走ることは、 餘が得意の藝なれば」。武安は弟の面を熟視して、 「善し、弟、汝を遣はさむ、且つ行き、且つ吹き、 且つ聽けよ。渠等が或は發つべき銃聲を聞きおとす勿れ」。 弱克は兄が授くる所の、喇叭を受けて、 之を帶びたるまゝ、重霧の裡に走せ入りて、 姿は忽ち見えずなりぬ。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第十囘
既にして半時間を經過せるが、杜番及び虞路よりも、 又た二人を尋ねゆける弱克よりも、曾て何等の音耗あらず。 左毗「若し火器さへ茲にあらしめば」。 武安「然り、請ふ疾く洞に歸りて、砲銃を連發して、 以て渠等に洞の所在を知らしめむ」。三十分 許の間に、 一同は三マイルを走せ過ぎて、佛人洞に歸り到りぬ、 平素は粒々 寶玉の如く珍惜せる硝藥をも、 嗇しげも無く取り出だして、二個の大砲に填裝しつ、更る~゛之を發つに、 一發を發つ毎に、轟然たる砲聲は岡に震ひ水を度りて、 數里の間に反響し、物凄きばかりなるが、湖上は依然 寂々寞々として、 曾て何等の應答をも齎らさず。此の如くして、 午後五時に及べるに、湖上北東のかたに當りて、遙かに二三發の銃聲起るを聞けり。 一同大に喜びつゝ、仍ほも大砲を連發するに、幾分間を隔てゝ、 二個の人影のおぼろげに重霧の中に見え來れり。 俄かにして此方に立てる一同が懽呼の聲は、 二個が應答の聲と相和して、高く空中に揚りたり。
二個は、即ち杜番と虞路なりき。 弱克は二個と偕にあらず、二個は曾て其の喇叭の聲をだに耳にせざりしといふ。 蓋し二個は湖上の北方を徘徊せるに、弱克は正東を指して尋ねゆきたればなり。 是時 武安はじめ一同の憂懼は、言はむもさらなり、 若し渠をして斯の零點以下の寒氣に曝らされて、 一夜湖上を彷徨するの已むを得ざるに至らしめば、其の能く生きて還らむことの望みは、 殆ど十に八九これ無ければなり、是時蒼然たる暮色は既に湖上を蔽ひはじめて、 全島 闇々たる夜色の中に罩み了られむも、 復た一時間を出でじ。此の如くをりに於て、我の所在を示さむと慾するには、 火を擧ぐるより善きはなければ、韋格馬克太左毗等は、 早くも手に~乾柴枯枝を採り聚めて、 之を濱邊に積むをりしも、呉敦は急に之を止めて、 望遠鏡を取りあげつゝ、「待て諸君、那里に何等か物ありて動きをるに似たり」。 武安も均しく眼鏡を取りて、北東のかたを注視せしが、 「多謝す上帝、是れ渠なり、弱克なり」。
童子等は一同一齊に聲を揚げて懽呼せり、計るに、 弱克は尚ほ一同を距ること、十餘町の外に在り。 然れども渠はかの氷靴に藉りて、 氷上を快走すれば、看る~其の距離縮まりて、早や更に三五分を閲さば、 一同の處へ返り到るべく見ゆるまでに至りたり。 俄かにして馬克太は驚き怪しめる聲を發して、 「渠は何物をか從へ來れるに似たり」。信に然り、 弱克より三四十 間後れて、二個の黒影あり、 弱克に隨ひて驀然跑り來る。 呉敦「何物ならむ」。馬克太「人 歟」。 韋格「否な、毛族なるに似たり」。杜番「恐くは是れ狼なり」。 と言ひもあへず、銃を提げて、最先きに弱克のかたに走せゆきつ、 連りに二 丸を發せるに、渠等は忽ち身を返して、 やみの裡に遁れ去りぬ。
弱克を追ひ來れるは、衆童子の意外にも、是れ二個の熊なりき。 渠等は是まで曾て本島に、此の恐ろしき猛獸の棲める迹ありしを見ざりき、 想ふに是れ凍結せる海の上を渉り、或は海上に漂流せる氷塊の上に乘りて、 附近の大陸より此ころ此の島に渡り來りし者なるべし。果して然らば、 是も亦た此の島を距ること遠からざる處に何等か大陸の在る有るを證する者のあらずや。 蓋し弱克は武安等に別れて東方に杜番等二人の跡を尋ねゆけるが、 行けども~二人に逢ふことを得ず、重霧の中を彷徨すること多時するうち、 終には己れも亦た方位を失ひて、歸路に迷ふに至りたり、時に殷々たる砲聲の、 遙かに一方に起るを聞きて、是れ必ず佛人洞なる諸童子の發てるものならむを料り、 砲聲の起れるかたを望みて、歸り來る途中、忽ちにしてかの二個の熊に己れに尾し來るを知りぬ、 幸ひにして渠が氷すべりの熟練は渠を助けて、 常に幾十 間の距離を保ちて走ることを渠に得せしめたりしかども、 若し渠にして一歩を跌き倒れしめば、 恐らく渠は復た生きて一同に會する能はざりしならむ。
武安は洞に入らむとして首を囘せるに、偶ま後につゞきし杜番と、 恰かも面を對せるにぞ、「杜番、餘は君に一同と相離るゝ勿れと命ぜり、 而かも君は餘の命に背きて、非常の危懼と狼狽とを餘等一同に齎らしたり、 餘は之を君に責めざる能はず、然れども君が一身を擲ちて、 最先きに餘の弟の急に赴きくれたる高義と深情は、 餘の亦た厚く心に荷ひて永く忘るゝ能はざる所なり」。 杜番は冷然として、「餘は唯だ餘の義務をなせるのみ」と言ひすてゝ、 武安が恭々やしくさし伸べたる手には肯て指をだに觸れず、 其まゝに洞の中に入り去りぬ。
* * * * * * *
以上の事ありてより六週間 許を經て、ある日の夕、 家族湖の南岸に孜々として露營を張る四個の童子ありき。 ころは十月 暮春の候にして、 樹上地上皆な一樣に青緑の衣を被り、 裊たる和風は湖の面を吹き皺めて、 斜陽萬段金を碎き、于に集り于に飛ぶ禽鳥は、 各其の宿巣を求めて、聲を限りに百囀千囀す、 一個の老槲樹の下には、正さに燃え熾れる火ありて、 火の邊には二隻の巨鴨の、 串に貫かれたるが懸けありて炙りて方さに熟せり。 四個の童子は晩飯を畢りたる後、各毛布に身を包みて、 火を圍みて横臥せるが、翌朝日既に高く昇れるまで、 齁として眠未だ覺めざりき。
四個の童子は即ち、杜番と其の黨 虞路乙部韋格の三人なりき。 四個が佛人洞なる他の諸童子と分離して、此に至りたる始末は、一言するに乃ち左の如し。
去る冬の冬ごもりの間に於て、杜番と武安との不和は日に益す増長して、 呉敦が間に居りて百方力を盡して、兩者の交情をやはらげむと務めたるも、 其の功無く、終には杜番及び其の黨の三人は、食事の時の外、 一同と面を對すること幾ど希れになり、 多くは洞内の一隅に四個別に團坐して、首を聚め何事か低々相語りをり。 ある日 武安は呉敦を招きて、四個の状を指ざし示して、 「渠等は何事か陰かに圖りをる所あるに疑ひなし」。 呉敦「縱ひ陰かに圖る所あらしむるも、 是れ君に對する謀叛のたぐひならぬは、必せり。 他の諸君一同が君を棄てゝ杜番に與せざることは、 杜番と雖も明かに之を察せり」。 「渠等は、蓋し餘等を棄てゝ此處を去らむと慾するに非ずや、と疑ふなり、 餘は昨日 韋格が陰かに慕員の地圖を寫し取るを目撃せり、 因て思ふに渠等の不滿は、其の本皆な餘の一身に快からざる上より發せり、 故に餘は速かに餘が現在の職を辭して、之を君或は杜番に讓りて、 以て斯の不和の根を絶たむと慾す、如何」。「否な、否な、武安、 そは君の平生に似ざるの言なり、若し此の如くせば、君は何に縁りて君の選擧せる諸君の心に答へむとするぞ、 何に縁りて諸君に對する君の義務を盡すべきぞ」。
十月上旬に至りて、暖氣 俄かに囘りて、 湖川の氷も一時に泮け、 洞外の運動全く自由になれるとき、一 夕杜番は其の黨の三子と偕に、 洞を去らむと慾するむねを言ひ出だしぬ。 呉敦「君等は餘等一同を棄てゝ、此處を去らむと慾するか」。 「諸君を棄つるといふにはあらず、餘等四人は暫く諸君と別居したしとおもふのみ」。 馬克太「そは何故に。杜番」。 杜番「一には別居して勝手の生活をなしたき故に、 然れども最も重なる趣意は、淡泊に直言すれば、 餘等は武安の治下に立つことを願はざるが故に」。 武安「四君が餘に不滿なりとせらるゝは、何の故に由りてなるや、 請ふ之を聞くを得べきか」。杜番「何の故もあるに非ず、 唯だ君は餘等の首長たるべき權利無き者なりといふに在り、 餘等は皆な英國人なり、而して嚮には米國人を首長とし、 今は又た佛國人を首長とす、次囘の選擧には、 餘は恐る必ず莫科(黒人の子)を首長とせざるべからざらむを」。 呉敦「杜番、そは君のまじめの事には非ざるべし」。 杜番「餘はまじめなり、亦た熱心なり、 他の諸君はいざ知らず、餘等四人は英國人にあらぬ首長の治下に、 復た一日も忍屈しをること能はず」。 武安「若し此の如くば、餘等も亦た之を奈何ともする能はず、 君と韋格乙部虞路の四君は、 隨意に此處を去らるべし、又た共同財産の中四君の權利に屬すべき四分の一のものだけは、 隨意に携帶し去らるべし」。呉敦も四人の決意の到底動かすべからざるを見て、 愁然として只だ、 「餘は君等が他日今日の決意を悔恨する如きことなからむを祈る」といひしのみ。
さて杜番が此處を去りて後の計畫といふは、 數月前 武安が欺瞞灣の濱邊に於て見しと語れる岩窟の中に就て、 其の居を卜し、東方川畔の茂林に獵して給を取らば、 眠食に不自由を愬ふることは之れなかるべしといふに在り。 欺瞞灣は佛人洞と相 距ること、十二マイル即ち五里弱に過ぎざれば、 佛人洞の諸童子と消息を相通ずるも、亦た甚だ容易なり、 渠等は先づ家族湖の南岸に沿ひ、陸路東方川に抵り、 川に沿ひ茂林を穿ちて、欺瞞灣の濱邊に出で、 川の水流緩慢なる處に至りて、かの護謨製のたゝみ舟に由りて川を渡り、 かの岩窟の中に就て、恰好の處を選擇し、其の宅とすべきもの既に定まりたる後、 洞に歸りて其の權利に屬する財産を分ち取り、更めて之を其の新宅に運ぶべし。 渠等が此の如く往返陸路に由りて水路を取らざるは、 渠等は全くボートを操るの知識と熟練とに缺くればなり。
かくて翌日即ち十月十日の朝、四人は施條銃二個、連發短銃四個、 斧二個、硝藥若干、打魚の具若干、懷中磁石一個、毛布數枚、 護謨製の舟、及び少許の食物を携帶して、 佛人洞をたち出でたり。諸童子は皆な愁然として之を洞外まで送りたり。 四人は牢として動かすべからざる決意を持したるにも拘はらず、 さすがに心 悄然と打ちしをるゝを、皆な強て然あらぬさまに作りつゝ、 ニウジランド川の畔に抵れば、此處には莫科のボートを艤して、 四人を待ちてをり。四人は川を渡り、莫科に別れて、 徐ろに南澤に沿ひて湖の南端を指して進み行けり。 行くこと五マイル餘りにして、午後五時湖の南端に逹したり。 渠等が此處に露營を張り、 途中 獵取せる所の巨鴨に飽くまで飢を療して、 穩睡したりしは、餘輩の既に目撃して知悉する所なり。
翌朝再び此處を發して、復た湖畔を進み行くに、 忽ち一個の砂丘に撞着せり、丘上に立ちて左右を囘視するに、 一方には湖光鏡を開き、他の一方には無數の砂丘起伏連綿するを見る。 渠等は此處を下りて復た進み行くに、 愈よ行けば愈よ丘陵多くなりて、終には一 登一 降、殆ど間斷無きに至れるにぞ、 渠等は地面の光景の、將さに一變せむとすることを豫測せり。 十一時に湖の一 肱の水 折入して小さく灣を成せる處に至りて、 四人は暫らく足を休め、中飯をたうべなどす。灣の上は即ち一座の茂林の盡頭にして、 四人の此より進み行かむとする東北二方は、全く斯の茂林の蔽ふ所となりて、 其の前路を辨ずべからず。四人は此より茂林に分け入りて北方に進み行くに、 林中には駝鳥、ラマ、ベッカリー、及び鷓鴣其の他に羽族甚だ多く、 其の富本島内地の他の諸林に讓らざる如く見ゆるは、四人の尤も喜びに堪へざりし所なり。 六時に至りて、一條の川の畔に到着せり、四人は是れ必ず東方川なるべしと斷ぜり、 四邊を熟視するに、灣の岸頭に焚きすてたる火の痕あり、 即ち嚮に武安兄弟と莫科とが、 將さに欺瞞灣に下らむとする前夜、停宿したる處なるを知るべく、 亦た斯の川の果して東方川にまぎれ無きを知るべし。四人は晩飯の後、 武安等の露宿せし同じ樹の下に横臥して、 早くも熟睡の中に入りぬ。
八個月前、武安が其の弟と黒人の子を從へて、 始めて斯の樹下に露宿せしとき、焉ぞ夢にだも八個月の後、 其の伴侶の四名が一同と分離して、別に居を此のほとりに求むるがため、 斯の樹下に來りて露宿することあるべしと想はむや。
若し夫れ虞路乙部韋格の三名も、 今遠く佛人洞の安樂居を離れて、獨り寂寞たる斯の樹下に横臥せるとき、 嚮に斯の樹下に眠りたりし人を憶ひ、延ては佛人洞の事を懷へば、 豈其の心の中自から悔ゆる如く恨む如く一種の念を萠すことを禁め得むや。 然れど渠等の進退は今や杜番と相 聨なりて、 斷らむと慾して斷るべからず。杜番に至りては、 剛愎倨傲は其の性なり、 一たび爲さむと慾せる所は、縱ひ中ごろ自から其の非を悟るとも、 必ず之を遂げざれば已まず。
翌朝 杜番は一行に向ひ、初めの計畫を變じて、先づ此處にて川を渡り、 左岸に沿ひて欺瞞灣まで下りゆくべし、と發議せるに、 渡りて後下りゆくも、下りゆきて後渡るも、歸する所同一なるに加へて、 武安等がストーンパインを多く發見せしも、左岸の林中を於てなりしといへば、 兼て行く~其の堅果を採聚するの便宜もあることを得べしとて、 一行直ちに之を贊成し、さて川を渡り左岸の林中に分け入りて、東方に下りゆくに、 いやが上におひ疊なるれる下艸は、 腰を沒し脛に繚ひ、或は沼澤道を斷ちて、大迂囘をなさゞるを得ざる處あり、 或は密木縱横地を蔽ひて、斧を用ひて斫り開きつゝ纔かに進み行ける處あり、 渠等は意外の困苦と疲勞とを贏け得たる後、 やう~林を出で離れ得たるは、天既に全く黒みたる午後七時過ぎなりき。
翌朝は四人起き出づるや否や、直ちに先づ濱邊に走せ出でゝ、 東方の地平線上を展望せしが、東方は依然、 無邊の海波淼々として天を蘸すを見るのみ、 曾て一物の眼を遮るもの有る無し。 杜番「然りと雖も餘は猶ほ飽くまでも、 本島の亞米利加大陸に近きことを信ずる者なり、智利若くは白露に赴かむと慾して、 ホルン岬を遶る所の船隻は、必ず路を本島の東方に取りて、 この沖を過ぎざるべからず、餘が諸君と倶に、居を此處に卜さむと決意せしは、 一つには此處にありて、是等船隻を見張りしたしと思ひたればなり、 武安は失望の餘り、此處に名づくるに欺瞞灣を以てしたり、 然れども、餘は斯の灣の長く餘輩を欺かず、 早晩必ず何等かの帆影をこの沖に浮べ出ださむことを期する者なり」。
この日は濱邊を徜徉して、 將來の宅とすべき洞を彼此と選擇し、 二三隻の松鷄を獵取し、魚を網し、 貝を拾ひなどし、夕に至りぬ。渠等は斯の灣の全形を總覽せむと慾して、 かの巨熊岩に登り、更らに一たび東方を展望せるが、 依然只だ雲濤の茫々たるを見るのみ、 武安が北東のかたに望み見たりといふ白點さへも、 曾て眸んい入らず、 四人は是れ武安が一時の幻視に欺かれしに過ぎずと爲し空しく岩を下りしが、 杜番はこの岩下の一水區を名づけて巨熊港となせり。
この夜、晩飯畢りて後、四人は將來の運動を商議せるに、 新宅の選擇既に定まりたれば、次には唯だ其の財産を新宅に運搬すべき一事あるのみ、 然れども之を運搬するに當りて、陸路よりすることの到底能ふべからざるは、 來時の所見に徴して、甚だ明かなり、故に運搬の一事は、佛人洞の莫科に囑みて、 ボートを用ひ、水路よりすることゝすべしといふに商議せり。 又た佛人洞に歸るの道すぢに就ては、杜番は一議を發して、 其の佛人洞に歸る前、便宜この濱邊に沿ひて、本島の北部を探征すべしといひ、 一同之に贊成せり。
いよ~北部の探征に從事するとせば、往復少くとも更らに兩三日を費やさゞるべからざるべければ、 是夜は一同早く寢に就きて、翌朝未明に起き出でゝ、 早飯を畢り、直ちに北方を指して此處を打ち立ちたるが、 凡そ三マイル許の間は、濱邊一帶の岩つゞきにして、 唯だ左方の林際に、幅百尺 許の一すぢの砂道をのこせるのみ。 既にして行きて岩盡くる處に至るに、一條の小さき流ありて、道を斷てり。 蓋し亦た家族湖の泄れて海に注ぐものなり、 杜番は之に北方川の名を命ぜり。 四人は此處に中飯をしたゝめたる後、 川を渡りて、暫く川畔の密林の中を徘徊し、 さて再び濱邊に返らむと慾するをり、虞路は俄かに足を停めて、 「看よ杜番、彼れを看よ」。虞路の指さすかたを注視するに、 一個の巨獸あり、生ひ繁れる灌木を左右に排しつゝ行動するさま、明かに見るべし、 杜番は乙部及び韋格を留めおき、 虞路と二人して、ぬき足しつゝ忍び寄りて、 相 距る二十 間許の處に至りて、 兩人 齊しく銃を發せるが、獸は皮甚だ厚くして、銃丸も之を透す能はず、 獸は只だ一 驚を吃したるまゝ、 早くも密樹の中に竄入して、見えずなりぬ。 然れども杜番は其の逃げゆく背影を見て、 直ちに知ることを得たり、是れ南亞米利加の河畔に多く見る所の貘の一種なり、 貘は人に害を加へず、亦た人に用をも爲さゞる一個の長物なれば、 渠等は甚だこれを逸したることを惜まず。 かくて復た濱邊を北方に進み行くに、此邊は渾べて是れ一面の茂林にして、 茂林は亦た渾べて山毛欅より成れるが多し、 故に渠等は斯の地方を聰名して山毛欅林と爲せり、 是日 渠等は凡そ九マイルを跋渉せり、 更らに九マイルを行かば、渠等は本島の北濱に逹するを得べし、 即ち明日の日沒までには、渠等は其の目的地に逹するを得べし。
次の日即ち十月十五日は、朝より天氣穩やかならず、 動もすればあらしなどに變ぜむと慾する模樣なるにぞ、 四人は益す足を疾めて進み行くに、風は刻一刻烈しく吹き加はりて、 午後五時に及ぶ比ほひには、幾道の電光頭上に縱横するとともに、 忽ち轟然たる霹靂耳を劈きて續き起り、 風は萬木を震ひて、鞺鞳の聲 霹靂の聲を相鬪ひ、 物凄きこと言はむばかりも無し。然れども渠等は其の目的地既に次第に近づけるを知れば、 屈せず撓まず、喘ぎ~走るゆくに、八時に至りて、 殷々たる別樣の風濤の聲ありて、茂林を隔てゝ起るを聞けり。 渠等は其の既に本島の北濱に出でしことを知れるにぞ、 益す足を疾めて走りゆくに、茂林の轉ずる處、 豁然として一帶の沙嘴、眼前に開展して、 雪浪滾々其の上に卷舒するを見る。 是時 天色漸やく黒くして、幾町の外を視る能はざりしと雖も、 渠等は猶ほ夜色未だ海面を鎖さゞるに先きだちて、 本島北方海面の概景を看一 看せむと慾して、 瑟縮たる脚を曳きずり~、沙嘴を望みて走せゆくに、 衆に一足先きだちたる韋格は、忽ち脚を停めて、 前方に横はれる黒き影をば指ざしつゝ、他の三子を顧みたり。
渠等は眸を凝らして、前方をすかし視るに、 渠等と相 距る十餘 間の那方に、一隻のボートの打ちあげられたるが、 右舷を沙場に膠着して欹立しをり、ボートを距ること三五 間左には、 退潮が正さに留め遺したる海藻の堆を成せる邊に、 二個の人體有りて僵臥せり。
四名暫くは一同身動きだも得せず、無言にて石像の如く彳立せしが、既にして、 亦た一同、無言のまゝ徐々歩を移して、かの人體のかたに近づき前みぬ。
四名は人體に近づきて、既に相 距ること七八 間の處まで來りしをり、 渠等は何故とも知らず、俄かに渾身打ちわなゝきて、 恐ろしきこと言ふばかり無く、復た一歩を前むること能はざるやうになれるにぞ、 其の果して事斷れたる屍體なるや、 或は尚ほ一 縷の氣息の其の口鼻の間に存するもの有るやなきや、 否やをさへも、問ふに遑あらず、一同 驀然身を飜して、 茂林の中に遁げもどりぬ。今や四面 濛々として全地 夜色のために罩まれ、 時々 閃然やみを照射したりし電光さへ今は全く息みて、 復た咫尺の間を辨ぜず、唯だ風號濤撃の聲の、 獨り暗中に跳梁跋扈するのみ。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第十一囘
何等の恐ろしきあらしなるぞ、大樹 喬木の吹き折り吹き裂かるゝ聲、
遠近四方に相呼應し、今にも全林中天に捲き去られむかと疑ふばかり。
杜番韋格乙部虞路が茂林の中に立ちをるは、
甚だ危きに似たりと雖も、濱邊は更らに烈風に煽起されたる奔砂飛石、
散彈の如く來りて人の面を撲つ有り、片時も停まり處るべからず。 四人は一大
山毛欅の下に彳み立ちしまゝ、
曾て一瞬の間も肯て睫を合はさずして、以て天明に至りたり。
四人が始終心に關して通宵眠る能はざりしは、
獨りあらしのためのみならず、抑も彼處に打ちあげられたるボートは、
何國より來れる者にして、其のかたへに僵臥せし二個の破船遭難者は、
何國人なるべき歟。渠等の此處に漂着せしより之を推せば、
果して本島を距ること遠からざる處に、他の島或は大陸の在る有りし歟。
風の較や吹き衰へて、稍や人語を聞くを得べき間々に、 渠等の熱心に相語るは唯だ斯の一事のみ、
時ありて渠等は遠々地に人の聲喚ぶ聲を聞ける如く覺えしも、 啻一度二度のみならず、或は是れ渠等二個の外、
尚ほ幸ひにして生存せる者ありて、濱邊を彷徨するに非ざるなき歟。
渠等は再三耳を傾けて、熱心に其の聲を追ひ索めたり、 然れども是れ皆な渠等の幻聽なりしなるべし、
渠等は只だ依然たる風號濤撃の聲を聞くのみ。
渠等は嚮に謂れも無き畏怖の念に制せられて、 ボートと人體との状を熟査することもせで、
却走し去りしことの愚かさを悔いて、 更らに濱邊に尋ねゆかむと慾したることも數たびなりき。
然れども此の如き冥々寸前の物を視ること能はざる暗中にありて、
此の如きあらしの中にありて、渠等は能く何事をか爲さむや。 渠等は何に由りてボートの在る所を知り、
何に由りて人體の在る所を知らむや。待ちに待ちたる暁光は、 やう〜東の天を染めて、一世紀よりも長く覺えたる夜は、
やう〜明けはなれぬ。風は少しく勢衰へたるも、
斷雲低く頭を壓して、奔馬の如く飛び去り飛び來るは、 大雨の將さに至らむとするを豫示せり。
四人は動もすれば疾風に吹き倒されむとするを、 互に相 扶けひきつゝ、濱邊に出でゝ先づボートの在る所を索むるに、
ボートは昨日見しよりは、更らに幾 間うへに打ちあげられたる如く、
且つ沙上にのこりたる海藻の迹に由りて之を觀るに、 進潮の時に於ては、海水は昨日想ひしよりも、
高く濱邊に打ちあぐることを知れり、然れども二個の人體は何處にゆけるや復た影も留めず。
四人は濱邊を東奔西走して、遍ねく之を索めたけれども、 曾て足跡だも發見する能はず、無情なる海水は夜中
渠等を引て、 遠く雲濤茫々の外に去りたる歟。韋格「可憐 生、
渠等は或は猶ほ一 縷の氣息の存する者ありしやも料り難きに」。
杜番は濱邊に凸起せる高岩の上に登りて、海上を展望せるが、
只だ一樣の澎湃たる巨浪、無邊に起伏するを見るのみ。
杜番は此處を下りて、三人の立てる所に返るに、三人は方さにボートを圍みて、
其の内外を檢しをり。ボートは長さ五 間許の傳馬船にして、
帆檣折れ、右舷いたく壞れたれば、更らに修繕を加ふるに非ざれば復た航海に用ふべからず。
船内には唯だ帆及び帆索の斷れ〜゛になりて散落せるが有るのみにて、
食物割烹具或は武器の類は、一點も有る無し。檢して船尾に至るに、
數個の文字あり、蓋し斯のボートが所屬の母船の名、及び其の本籍地の名を記せるなり、
歴々として猶ほ明かに讀むべし。曰く、
セベルン號 サンフランシスコ
* * * * * * *
四童子をば暫らく斯の濱邊に留めおきて、餘輩をして且らく佛人洞に返らしめよ。
却て説く、佛人洞なる諸童子は、四人の發足したりし後、皆な鬱々として樂まざる色あり、
殊に尤も打ちふさぎて見えたるは武安なりき。呉敦は武安の心を推して、
百方之を慰めて、「武安、しかく鬱々たる勿れ、
杜番剛愎なりと雖も來冬の冬ごもりまでには、
必ず再び餘等の許に歸り來らざるを得ざるべし。 然り是れ甚だ理有るの説なり。渠等が單に四人の力をもて、
彼れが如く險惡なる嚴冬の沍寒と鬪ひて、
能く之に抗し得るや否やは、尤も覺束無き所なり、呉敦の説は實に理有り。
抑も渠等衆童子は、來冬も亦た一冬を斯の孤島に送らざるべからざる歟。 渠等は到底
外援を得るの望み無き歟。 太平洋の此邊は終に船隻の來訪を望むべからざる歟。
アウクランド岡の頂に殖てし信號は、到底人の目に觸るべき望み無き歟。
一日武安は諸童子ろ談りて、斯の事に及べるとき、
「アウクランド岡の頂なる信號は、海面を拔くこと二百尺に過ぎざれば、
極めて短距離の間に來りたる船隻に非ざるよりは、之を望み視ること能はず、
頃日餘は一計を案じ出だせり、幸ひにして餘等は多くの帆布及びリンネンを有すれば、
之を用ひて一個の大紙鳶を造り、以て空中に揚げむには、
能く一千尺内外の高さに揚ぐることを得べし、是れ更らに遠距離の人の眼を惹くを得ずや」。
紙鳶は勿論無風の日は之を揚ぐる能はざれども、無風の日は甚だ少きに加へて、
唯だ風有るの日のみ之を揚ぐるとするも、全く之を揚げざるより、 愈れること萬々なるは言ふまでもなし。 諸童子は一同
武安の説を贊成して、貘を棟梁として、
直ちに紙鳶の製作に着手せしは、杜番等四童子が佛人洞を發足せし翌日のことなりき。
かくて十五日の午後には、一個八角形の大紙鳶出來あがりぬ、
紙鳶の大さは、殆ど童子等の一個を其の背に負ひて空中に揚がることも能ふべく、
之を一千尺の高さに放たば、五六十マイルを離てゝ人の眸に入ること能ふべし。
此の如き大紙鳶は童子等の力をもて、之を挽くを得べきにあらぜれば、
其の線は、絞車盤を用ひて之を伸縮すべしといふ。 翌十六日は即ち始めて斯の大紙鳶を試み揚ぐべしとて、
幼年者等は喜び懽びて、臥床より起き出でしが、
是日は朝來天氣不穩にして、午前よりは全くあらし模樣となりしにぞ、
渠等は紙鳶を試み揚げむなどのことは想ひもそめず、 終日洞内に蟄居せり。
十六日の夜は、終夜天氣あれ續きしが、翌十七日は朝來風勢次第に衰へて、
午後一時に及ぶ比ほひには殆ど常に復したりしにぞ、童子等は皆な洞外に出でゝ、
正さに紙鳶試揚の準備に孜々たるをりから、
如何にしたりけむ獵犬フハンは、二聲三聲高く吠ゆると見えたりしが、
忽ち身を躍らして、驀然茂林の中に跑り入りたり。
武安「フハンは如何にしたるならむ」。呉敦「何等か獲ものゝ香を嗅ぎしならむ」。
武安「否な、常の吠ゆる聲とはいたく異なりたり」。
左毗「請ふ往て動靜を察む」。
武安「先づ武器を取り來りて」。言下に左毗と弱克とは、
洞に走せ歸りて、各一個の裝藥せる銃を取り出だし來りたり。
武安「來れ」。三個は呉敦と打つれて、
今フハンの跑け入りたる陷穽林の南端に進み入るに、
フハンの仍ほ頻に人を喚びて吠ゆる聲、近く樹を隔てゝ聞ゆ。 四人は行くこと未だ半町ならずして、フハンの一大
松樹の下に停まり立てるを見たり、
更らに眸を定めて熟視するに、樹下に一個の人の形ありて横はり臥せり。
是れ一個の婦人なりき。身には粗布の服を着けて、茶褐色の肩被を纒ひ、
年齡四十乃至四十五なるべし。面上に苦惱の痕を留めて、顏色いたく憔悴し、
氣息は猶ほ微かに通じつゝも、死人の如くなりて昏倒しをるは、 蓋し疲極まり、若くは飢
極まりて、此に至れるものなるべし。 抑も童子等が斯の島に漂着してより、一行の外に、人といへる者を見たるは、
是を初めとすれば、之を見たりし四童子が、心の中に感愴悲喜交も至りて、
暫しは物さへ得言はず、茫然として彳立せしは無理ならず。
呉敦「渠は猶ほ呼吸す、渠は猶ほ呼吸す、 蓋し餓極まりて昏倒したるものらしければ」。
言未だ全く訖らざるに、弱克は忙がはしく洞に走せ歸りて、
若干の乾餠と少許のブランデーを取り來れり。
武安は兎角して婦人の口を開きて、幾滴のブランデーを澆ぎ入るゝに、
婦人はやがて少しく身を動かし、眼を開きて、呆然四童子の顏を看まはせり。
既にして渠は弱克の進むる乾餠を取りて、
忙がはしく之を口に運びつゝ殆ど一氣に之を嚥下せるは、
其の疲よりも、寧ろ餓のため困衰せし者なるを推すべし。
婦人は之をたべ畢りし後、半ば身を起しつゝ明白なる英語をもて、「多謝諸童子、多謝」。
半時間の後は、婦人は佛人洞の内に於て、衆童子の看護の下に、
臥床の上に安息しつゝあり。既にして婦人が稍や氣力を囘復して、
能く自由に談話を操るに及びて、衆童子に向ひて始めて語りし所の渠の經歴を、 一括すれば乃ち左の如くなりき。
渠は亞米利加の人にして、名はカゼライン、姓をレーデーと呼べるが、
渠の朋友の皆な渠の名を略稱して圭兒といへり、 圭兒は二十數年來
紐育州の首府アルバニーの一富人ペンフヒールド氏に家に奉公して、
女執事をつとめしが、今より一個月前、ペン氏夫妻は智利なる一親族の許を音づれむと慾して、
圭兒を從へて、カリフホルニア州 桑港に來りて、
便船を求めたるに、適まセベルン號なる一商船の、
智利なるヴァルパライソに向ひて、開行せむと慾することを聞きて、
之に附乘せむことを請ひて、船長タルナーの允しを得たり。
セベルン號は船長タルナーの外に、二名の運轉手と八名の水夫とを有し、
船員通計十二名と、ペン氏夫妻及び圭兒、合せて十四名の人を載せて、 桑港を拔錨せるが、
桑港を發してより十日 許を過ぐるほどに、
水夫の一個名を倭東と呼べるが、他の水夫を煽動して、 恐ろしき謀叛をたくみ、一 夕八名不意に起りて、
船長タルナー一等運轉手 某及びペン夫妻の四名を銃殺して、
セベルン號を奪取せり。圭兒も險些兒撃ち殺さるべかりしを、
福倍と呼べる一水夫の、間に居りて他の水夫をなだむる有りて、
僅かに免るゝことを得たり。二等運轉手の伊範といへるは、年齡三十前後にして、
温良の人なれば、勿論始めより斯る恐ろしき謀叛に與せず、
然れども惡人等は斯の人をも併せ殺すときは、船を操ること能はざれば、
白刃をもて之を脅やかしつゝ、強て船の運轉を司どらしめぬ。 是れ十月八日の夜の事にして、セベルン號は是時
智利の海岸を距ること二百マイルの沖にありき。
蓋し惡人等の目的は、斯の船を奪領して、南亞米利加及び阿弗利加諸國に去來して、
是時まで是等諸國には猶ほ密々地に行はれをりし、奴隸賣買を營まむと慾するに在り。
渠等は其の開手として、先づ此よりホルン岬を遶りて、 阿弗利加の西岸に往かむと慾せしなり。
かくて三日 許走りゆけるに、何故とも知らず夜半船上 俄に火起りて、
看る〜早や煙焔船を裹みて、到底 復た救ふべからずなれり。
水夫の一名ヘンレイといへるは、是時火を逃れむと慾して海中に跳り入りたるまゝ見えずなりぬ。
自餘七名の水夫は僅かに若干の食料と少許の武器彈藥を取り出だし得たるのみにて、
折角に奪領したりしセベルン號をば、空しく火中に打ちすてゝ、 傳馬船に乘り移りぬ。是時最近の海岸も、尚ほ相
距る二百マイルの外に在り。 渠等の心だのみ少きこと、言はむもさらなり。
若し斯の同じ傳馬船の中に、圭兒伊範の二人無からしめば、
誰れか之を天理の正ならずと謂はむ。傳馬船は海上に二晝夜漂流したりしが、
更らに大あらしに遭ひて、其の帆檣を吹き折られ、
遂に再び自由に運動する能はざるに至れるにぞ、此より後は日々夜々、
風潮のまに〜蕩去し蕩來されて、終に斯のチェイアマン島の北濱に吹き着けられしは、
一昨日即ち十五日の薄暮なりき。是時船中の人は、皆な連日の疲勞と食物の缺乏とに由りて、
殆ど死人の如くなりて、縱横に僵臥しをり、 船の將さに濱邊に打ちあげられむとするとき、 一
堆の奔濤來りて船上を飛過せしをりは、
六名の人は脆くも其の捲き去る所となりて忽ち形見えずなりぬ。 圭兒は二名の人と共に船に載せられたるまゝに、
濱邊に打ちあげられたるが、圭兒は船の一方に投げ出だされて、 沙上に輾轉したるまでは覺えをりしが、
昏絶して其の後の事を辨まへず。
頃ありて心づき眼を開き視るに、他の一名は亦た己れと反對の他の一方に投げ出だされたりと見え、 船を隔てゝ數
間の外に同じく仆れてをり。 圭兒は心づきながらも、仍ほ欹立せる船の底に身をよせて、 依然
沙上に僵臥せしまゝ、 越方行末の事など靜かに思ひつゝ天の明くるを待ちたるに、
曉三時に至りて、忽ち跫然たる足音あり、
次第に此方に近づき來る如し、耳を欹てゝ之を聽くに、
豈圖らむや、是れ嚮に浪んい捲き去られて、海中に沒したりと思ひをりし、
倭東等の皆な無事に濱邊に泳ぎ着きをりて今船を索めて此處に來り到りしならむとは。
倭東は武蘭及び武婁と呼べる二名を從へて此處に來りつ、
暗中を摸り索めしが、 沙上に昏絶して仆れをりし、
福倍及び排克の二名を摸り着りて、
之を介抱して、復活せしめたる後、渠等の間に左の如き問答起りぬ。 是時
風濤の聲は依然耳を聾するばかりなりしが、 渠等は恰かも圭兒の頭上にありて、高く相 語れば、
其の聲猶ほ明かに耳に到りぬ。
福倍の聲として「此處は何國なるや」。
倭東「餘等は未だ之を知らず、然れども餘等は兎に角に東方に、
人有るかたを尋ねゆかざるべからず」。排克「して、餘等の武器は」。
倭東は船中のかくし抽斗を抽きて、 其の内より五個の銃と若干の硝包とを取り出だしつゝ、
「即ち此處にあり、幸ひにして海水に濡らされず」。
「伊範は如何になれる」。「餘等の後邊に、祿屈及び胡布の二人之を看守しをれり、
伊範は其の慾すると否とに論無く、必ず餘等の行く所に偕に行かざるべからず」。
福倍「圭兒は如何になれる、無事に此處に上陸せるか」。
倭東「圭兒、オヽ餘等は復たかの婦人を懼るゝを須ひず、
餘は船の此處に打ちあげらるゝをり、渠の浪に拂はれて海中に陷りしを、
遠くより望み見たり、渠は已でに久しく海中の最深處に眠りをるならむ」。
排克「そも亦た好し、そも亦た好し、渠はあまり多く餘等の事を知りをれば」。
倭東「縱ひ渠をして海底に沒さゞらしめしとするも、
餘等は長く渠をして餘等の祕密を知らしめては、置かざりしならむ」。
然らば倭東が圭兒に對して、かねて懷きし所の最後の處置は知るべきのみ。
かくて渠等は武器彈藥と、是時まで猶ほのこし貯へたる少許の食物、 即ち五六
磅の鹽づけの肉二三罎のジン及び僅々の煙草等を船中より取り出だして、
之を分ち携へつ、福倍及び排克を扶けひきて、
勢ひ尚ほ猖獗せるあらしを衝きつゝ東方にたどり行きぬ。
圭兒は渠等の足音の漸やく聞えずなるや否や、直ちに身を起して、 暗中を索り索めつゝ、今
渠等が進み行ける反對のかたを指して進む行きぬ。 蓋し是時
進潮は漸やく既に圭兒の偃臥せる所に及びて更らに幾分間を遲々せば、
渠は復び海水に引去らるべければなり。此の如くして、
渠は自然陷穽林に入りて、家族湖の南端のかたにたどり來りしなり、
渠が此處に來り到りしは、昨日の午後なりき、然れども途中 僅々の野生の果實を拾ひて、
たうべたるより外、何等の食物をも口にせざる渠は、疲甚だしきがうへに、
又た飢極まりて、再び一歩を移す能はず、終に樹下に横臥したるまゝ、
今日に至れるに乃ち幸ひにしてフハンに發見され、武安等の救ふ所となりしなり。
圭兒の物語を聞きたる童子等の驚愕 危懼は、想像するに餘りあり。
一個の捕虜を伴ひたる七個の狂暴無慚の浮浪人、今現に本島に上陸して、 彷徨徘徊すといふ。渠等は人を殺すこと、
草を斬るよりも容易におもふ者なり。若し一たび佛人洞の所在を知らば、 必ず之を奪領して、衆童子を奴隸にし、
或は虐屠せざれば、肯て已まじ。 武安が第一に憂ひしは杜番等四童子の身の上なり、
渠等は必ず未だ、倭東等の此處に上陸せしことを知らざるべく、 或は一發の銃聲 一
縷の煙影、渠等の所在を倭東等に發見せしめなば、
渠等は直ちに惡人等の手に落ちて、如何なる患苦を受けむも料られず。
故に渠は此より直ちに、自から杜番等の所に往て、
方さに其の頭上に懸れる危難を告げ知らせて、之を洞の伴ひ還るべしといふ。
呉敦「君自身に行かむと慾するか」。「然り」。「如何にして」。
「莫科と倶に短艇に駕して、嚮の日にせし如く、
湖を横ぎり川を下りて、杜番等の卜居の處に逹すべし」。 「何時
此處を發足すべき」。「今夕、人影の見えざるやうなるを待ちて」。
弱克「豈うへ、餘も偕に行くべからざるか」。
「否な、ボートは六人以上を載す能はず、餘等は歸途には四名を倶に載せざるべからず」。
是日は一同洞内の閉ぢこもりて、敢て一歩も戸外に出でず。
渠等は更る〜゛其の此處に漂着して今日に至りたる顛末を、
圭兒に語り聞かすに、圭兒は或は驚歎し、或は嗟賞して、
一同の勇氣と忍耐とを讚稱しつ、自今自後己れも亦た熱心忠實なる、
一同の躬方たらんことを誓ひたり。左毗は圭兒の此處に、
一同に邂逅せし日の恰かも金曜日なりしに因り、
魯敏孫の昔に傚ひ、圭兒を喚んでフライデーとなさむことを發議して、
一同の喝采贊成を博し得たり。
午後八時に至りて、ボート解纜の準備既に了りしかば、武安と莫科とは、
各一個の連發短銃と一口の腰刀とを佩びて、
一同に別を告げて、悄々地にニウジランド川より、湖に乘り出だせり。
幸ひにして風順なりしかば、ボートは箭の如く飛び行きて、二時間足らずに六マイルを横ぎり了り、
嚮の日初めて此處に來りしとき到着したりし、同じ小丘のほとりに到着せり。
此處より亦た嚮の日の如く、湖岸に沿ひて東方川の口まで北上するに、
是時風は全く死ぎて、復た帆の力を藉ること能はざるにぞ、
渠等は櫂を鼓しつゝ、徐々として進み行くに、 岩上 寂然として一鳥の啼くをだも聞かず、
亦た一線の火光のやみを破りて揚がるをだも望まず。 既にして十時半に至りてボートは川に入りたるにぞ、
武安は莫科の獨り棹を操るに任せて、 ボートの艫に坐を占めつ、靜かに流を下りゆくに、
行くこと未だ幾町ならず、舳頭に立ちたる莫科の、 突然來りて手を執るに驚きつゝ、其の指さすかたを視れば、
右岸の上、川を距ること三五十 間の那方に、
半ば(僭,イ@火)えかゝりし火の光樹間を穿ちて、うす赤く影を曳くを見る。
是れ何人の露營なるべき、倭東等の夥伴なるか、
將た杜番等の一行なるか。武安「莫科、兎に角に船を岸につけ」。
「餘も主公と偕に上陸すべからざるか」。 「否な、餘が單身にて行かむかた、更らに容易に那方に覺られざる便宜あるべし」。
櫂を鼓すること五七囘するほどに、ボートは早くも岸に着きぬ。
武安は、莫科を舟中に留めおきて、獨り岸に跳りあがり、
腰刀を拔きて之を右手に提げ、左手には短銃を握り持ちて、
徐々とすて、火光のかたに忍び近づきたり。 忽ちにして渠は前方の灌木叢の裡に、
一團の大なる黒影ありて、蠢々として動めくを見たりしが、
黒影は突然一聲叫ぶとひとしく、身を躍らして前方に飛びかゝれり。
是れ一個のジャグワー(亞米利加虎)なりき、同時に俄かに人の聲ありて、 「助けて、助けて」。
武安は直ちに、是れ杜番の聲なるを認めぬ。蓋し他の三童子が露營の中に眠れる間、
杜番は火光の前に見張りしてをり、疲倦の餘り、
覺えず假睡せしやう思ふうち、不意に斯の猛獸に襲ひ撃たれて、仰むけに地上にはね倒され、
武器を執るにも暇あらず、空しく赤手を揮ひて以て、
之と格鬪しつゝありしなり。韋格は第一に、杜番の聲に驚き覺めて、
其の銃を取りもあへず、杜番のほとりに走せ到りて、 早くも銃を擧げて之を發たんとす。説く時遲し、
同時に此處に走せ到りし武安は、此方より之を止めて、
「銃を發つ勿れ、銃を發つ勿れ」、韋格は再び驚きて、
何人なるやと、すかし視る間に、武安は早くもそこに跳り出でゝ、
虎の背後より撃ちかゝるにぞ、虎は忽ち杜番を捨てゝ、
ふり向きさまに武安に飛びかゝる。此の間に杜番はやう〜身を起して、
武安のかたを視れば、武安は是時飛びかゝり來る虎を、
身をかはしてやり違ひさまに、一刀したゝかに面上に斫りつけて、
既に地上に撃ち殪してをり。杜番韋格は、 是時
恰かも走せ到れる乙部虞路とともに、
武安は虎のために掻かれたりと見えて、左の肩より鮮血 滾々流れをり。
韋格「君は如何にして、今ごろ此處に來あはせしぞ」。
武安「その故は慢々相語るべし、兎に角に先づ餘と偕に來れ、直ちに、直ちに」。
杜番は武安の肩頭より流れ出づる淋漓たる鮮血の痕を熟視しつゝ、
自から感激に禁へざるが如き音調にて、「然れども餘は先づ君に深く君の高義を謝さずしては、
君に隨ひゆく能はず、君は實に餘の命を救ひたり」。
武安「勿れ杜番、君をして餘の地に在らしめば亦た此の如くしたるならむ、
再びそを言ふ勿れ、只だ餘と偕に此方に來れ」。
武安の負傷は、甚だ憂ふべきものには非ざりしと雖も、 之を裹みて、出血を止むること必要なれば、
韋格は自から手巾を取り出だして、之を絡ひなどするうち、
武安は詞短く四人に事の要領を告げ知らせぬ。
即ち杜番等が海水に引き去られしと思ひたるセベルン號の船員は、
無事に生存して、其の夥伴と倶に現に斯の島にあり、
渠等は皆な狂暴無慚の惡人にして、人を殺すこと草を斬る如く、 僅かに渠等の手を脱れたる一婦人、
偶ま佛人洞に來たりて、親しく渠等の素性を告げ知らせしによりて、
武安等は始めて其の頭上に懸りたる一大危難あるを覺れり。 渠等目下の第一良策は、一同一處に集合して、
心を協せ力を戮せ、以て斯の共同の敵を防ぐより善きは莫し、 武安が四人を來り迎へしは是がためなり、
嚮に韋格が發銃せむと慾せしを止めしは、 或は倭東等が銃聲を聞きて、
渠等の此處に在ることを覺らむを、虞れたればなり。
杜番は之を聞き訖りて、武安の限りなき親切に、
さすがに平生の倨傲も消えうせて、「アヽ武安、 君が實に餘に百段優りたる高上の人なり」。
武安「否な杜番、否な親友、餘は幸ひにして今日此の如く君の手を執るを得たり、
餘は君が餘と偕に佛人洞に還ることを承諾するまでは、
肯て斯の手を放さざるべし」。杜番「諾武安、
敬みて君の好意を承く、自今自後、餘は君の第一の服從者たるべし、 餘等は明朝直ちに此處を發足すべし」。
「否な、餘等は今夜直ちに洞に歸らざるべからず、 明日とならば又た人に見らるの恐れあり」。
「今夜直ちに、然れどもそは如何にして」。「即ち水路に由りて以て、 斯の岸の下に莫科ボートを繋ぎて餘等を待ちつゝあり、
餘は莫科と偕に欺瞞灣まで往かむと慾して、
方さに川を下りかゝりし途中、君等の露營の火光を見て、
乃ち上陸したりしなり」。「而して恰かも餘の九死を救ひたり」 と杜番は獨語せり。
杜番等四童子が此處に露宿しをりたる故は、
一言以て之を悉くすべし。四童子は昨十六日の夜巨熊岩の下に歸り着き、
今朝巨熊岩を發足して、薄暮この湖畔に逹し、
明日は未明に此處を打ち立ちて、佛人洞に歸りゆかむと慾しをりしなり。
一同直ちにボートに乘り移りて、此處を發せしが、 幸ひにして風 復た順なりしかば、途中何等の異なりたる事もなく、
曉四時にニウジランド川の口に歸り着きぬ。 呉敦等衆童子が、四人の再び佛人洞に還りて、
一同共に居ることゝなれるを聞きしとき、之を喝采歡迎せる欣喜の状は、 必ずしも贅せず。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第十二囘
十五少年再び佛人洞に團聚せり、渠等は此より、 初めに倍したる和協をもて、相交はり親しみたり。
若し杜番の心中には、己れが一たび志せる所を貫く能はずして、
阿容此處に歸り來りたることに自から快からず、 尚ほ多少の遺憾をば抱きたるやも知るべからず。
然れども渠は絶えて其の不快を面に顯はしたることなし、
蓋し數日の間の分離と漂泊とは、渠をして痛く懲る所あらしめ、 其の湖畔林中に彷徨せる間に於て、
竊かに自から己れが剛愎偏執の愚かなりしことを悔いたる者も、
啻に一再にあらざりき。唯だ渠が一點の我慢心は、
渠をして其の眞意を他の三名に、打ちあくることを得なさゞらしめしと雖も、
渠は實に自から其の愚かを悔いしなり。他の三名に至りては、
杜番の如く甚しく剛愎偏執ならざるだけ、其の懲悔の念も亦た深きこと一層なりしなり。
故に今次歸來の後は、杜番及び三名が武安に對するの感情は、
全然一變して、皆な別人の如くなりたり。加ふるに、現時一同の頭上に懸れる非常の危難は、
一同の和協をして、更らに一層の鞏固なるものとならしめたり。 抑も倭東等一
夥の惡漢は、成るべく早く斯の島を去りて、 大陸へ還らむことを冀がはむは、言ふまでもなし。
然れども若し渠等にして、佛人洞の童子等が、 此の如く多くの調度器械を儲へて此處に在ることを知らば、
豈之を奪領して、以て自から使用せむことを慾せざらむや。 況や其の調度器械を守る所の者は皆な未丁年の童子
若くは幼兒にして、 之を襲撃し奪領すること、極めて容易なるに於ておや。
童子等は非常の用心を加へて以て、渠等の洞の在る所を覺られざるやう務めざるべからず。
一同は杜番等をとり圍みて、其のセベルン海岸より巨熊岩に返る途中、
何等か倭東等の踪跡を發見せざりしや否やを問へり。
セベルン海岸とは杜番等が始めてセベルン號の傳馬船を見し一帶の濱邊に、
童子等が假に命けし所の名なり。 杜番「否な、餘輩は何等の踪跡をも發見せざりき」。
呉敦「然れども倭東等がたしかに、 東方に向て進み行きたりとは圭兒の親しく睹たる所なり」。
杜番「想ふに渠等は只管濱邊に沿ひて進み行きしものならむ、
餘輩は山毛欅林のかたに由りて歸りたり、故に相逢はざりしなるべし」。
呉敦と武安とは更らに言を改めて圭兒に向ひ、
斯の島の方位に就て何等の知る所あらざるやを問ふに、 セベルン號 燒亡の後、伊範は常に傳馬船を、
南亞米利加の海岸に向けて行るたるはずなれば、 斯の島は兎に角に南米大陸を距ること遠からざる處にある者なるべき歟。
然れども此より以上の事は、聞き知らずといふ。
兎角するうちに十月の月も既に暮るゝに埀むとせるが、
倭東等の姿は曾て見えず、渠等は既に其の船を修覆して、
斯の島を立ち去りし歟。圭兒の記憶する所に由れば、 渠等は一個の斧を有する外、亦た各自隨身の懷中
小刀あり、 或は是等を用ひて以て、不十分ながらに其の船の大破處を假に繕ひて、
既に島を去りしにあらざる歟。然れども童子等は確かに其の消息を知りたる後に非ざれば、
輕々しく其の形を洞外に見すべきにあらず、故に渠等は、 一 日 武安と杜番とが、
岩壁の上に樹ておきたる信號旗を取り下ろし、其の竿を倒して以て、 一同の蹤迹を掩はむと慾して、
敢て潛にスロウ灣に往返したりしことを除く外、
皆な常に洞内に蟄居してをり、銃聲の倭東等に、諸童子の此處に在るを覺らしめむことを恐れて、
一切之れを禁じたれば、杜番等の銃獵者は、
毎日手を束ねて其の無聊を嘆ずるのみ、唯だ幸ひに陷穽係蹄の、
毎日多少の獲ものを齎らす有れば、庖厨に不足を愬ふるには至らず、 且つ昨年來
渠等の設立保護せる養禽場は、次第に繁盛に赴きて、 其の管理者
左毗雅涅の二人よりは、 其の幾分を宰して以て其の人口を減殺するにあらずば、
既に場の狹隘に堪へざるよし、訴へ出でたるほどなり。 此の外茶の木砂糖の木は、皆な洞外
咫尺の間に多く有りて、常に其の供給を絶たず。
故に童子等は久しく洞内に蟄居するも、未だ曾て少許の不便を感ぜざりき。
加ふるに、此ころ又た、爲めに童子等の生活に一大便宜を添へし所の一新發明ありき、
十月二十五日の午後、圭兒は沼澤林のほとりに於て、
高さ五六十尺の喬木の、其の葉の状月桂樹に似たるが、 數
株聳立するを認めて、「こは珍らし、此處に牝牛の木有り」。
婦人の伴ひたる土耳胡太は齊しく絶倒して、「牝牛の木とは」。
「恐らく牝牛が之を食むを以てならむ」。圭兒「否な、否な、小主公、
之を牝牛の木と名くる所以は、斯の木は牝牛の如く、 乳汁を噴き出だせばなり、其の味の美きことは、
目下 御身等が用ふる所のヴィクンヤの乳汁より勝れり」。
圭兒は洞に歸りて其の發見の事を語れるにぞ、呉敦は直ちに左毗を喚びて、
偕に圭兒に隨ひゆき視るに、
圭兒の語れる所にたがはず、童子等は是まで心づかざりしが、是れ疑ひもなき牝牛の木なり。
斯の木は一たび其の皮を截れば、其の截痕より多量の白色の液を噴出す、
其の味及び滋養分、共にミルクに異ならず、且つ之を凝結せしむれば、
一種良好のチーズを得べく、亦た一種純粹の蝋を得て、以て上等の蝋燭を作るを得べし。
既にして十一月となりたるが、依然 倭東等の姿は見えず、
武安杜番等諸童子は、愈よ確かに惡漢等は既に島を去りしならむと信ずるに至りしが、
縱ひ果して既に島を去りたりとせしむるも、 童子等は其の證を見たる後に非ざれば、漫りに心を安じて、
洞外を逍遙せうべきにあらず、武安は幾たびか、自から湖の東岸に往て其の消息を偵察せむと慾し、
馬克太杜番韋格等は、 皆な喜んで其の行に偕なはむことを願ひしが、
萬に一つも惡漢等の仍ほ島に留まりをりて、諸童子等の之と邂逅せむには、
其の危險言はむもさらなり、則ち無謀これより甚しきは莫し。
故に武安は之をいひ出だす毎に、呉敦の遠慮有る反對説に抑へられて、 遂に其の志の如くするを得ず、一
夕武安は復た斯の議を提出して、
呉敦と其の可否を論ぜるをり、傍らに在りて之を聞ける圭兒は、 兩人の詞終れるとき、「主公
武安、御身は明日一日、 吾身に暇を賜はらずや」。武安は驚きて、
「汝は何處に往かむと慾するや」。
圭兒「御身等は復た久しく此の如く不安掛念の中に日を送る能はざるべし、
吾身は嚮に漂着せる北方の濱邊に往て、 傳馬船の仍ほ彼處に在るや否やを視るべし、
若し仍ほ在らば、倭東等の未だ島を去らざるの證なり、
若し否ずば、是れ既に島を去りしの證にして、
御身等は復た此の如く恟々たるを須ひざるべし」。
杜番「そは頃來武安と餘とが屡ば發議して、
而かも敢て決行せざる所ならずや」。圭兒「然り、 然れども御身等は未だ倭東等に其の人有るを知られざるの人なり、
吾身は然らず、吾身は渠等の舊侶伴なり、
縱ひ渠等の撞着するも、
御身等の如く危險ならず」。呉敦「然れども汝若し再び渠等の手中に落ちば」。
圭兒「最も凶くしてからが、初めの境界に復るに過ぎず」。
武安「然れども渠等は若し再び汝を獲ば、 十中八九
復た汝を生かしおくまじ」圭兒「吾身は既に一たび渠等の毒手を逃れたり、
豈再び逃れ得ざるの理有らむや、且つ若し伊範を誘ひて、
共に此處に逃れ歸るを得ば又た御身等のために屈強の躬方を得べし」。
杜番は首を傾けて、「若し伊範をして一毫だも逃走の隙あらしめば、
渠は夙に逃れ走りしならむ」。呉敦「杜番の説 是なり、
伊範は倭東等の惡事を詳知せり、
倭東等が一たび安全の地に着して復た伊範の力を要さゞるに至らば直ちに之を除きて、
他日の禍根を絶たむと慾すべきは、伊範も亦た自から知らざらむや、
渠の今日まで逃走せざるは、其の隙を得ざればなり」。 杜番「或は既に之を試みて、惡漢等のために追ひ捕はれ、
其の毒手に斃れたるやも料られず、 果して然らば、汝と雖も若し渠等に再び捕はれなば」。
圭兒は之を遮りて、「吾身は己れの氣息あらむ限りは、 渠等の虜とはならざるべし」。
武安「勿論 肯て虜とならじ、 然れども餘輩は汝の然る危險を冐すを許すこと能はず、
請ふ餘輩をして何等か他に、渠等の消息を探るの道を求めしめよ」。
若し童子等をして夜中極めて高き處に登りて、四方を展望することだに得せしめば、
倭東等若し仍ほ島に在らば必ず火を燃すべきを以て、
其の在否を知るを得べく、若し在りとせば、併せて其の在る所の方位をも知ることを得べきなり。
不幸にして島に高山無くアウクランド岡の頂きよりは、湖の東岸さへ視ること能はず、
況んや欺瞞灣の濱邊巨熊岩の左右をや。
一 日武安の心頭に、ふと浮びたる一計あり、
初めは自からも、其あまりに奇を好むに似たるを思ひて、之を斥けしが、
反覆して之を思ふにつれて、終には此を舍てゝ殆ど他に良計無しと思ひこむまでに至れり、 讀者は猶ほ記憶するならむ、
圭兒が初めて此處に來りし日童子等は將さに何事をなさむとしつゝありしかを。
當時童子等が試揚せむと慾して中止したりし紙鳶は、
猶ほ藏して佛人洞に在り、武安は嘗て英國の新聞に於て、
前世紀の末に一婦人が、紙鳶に駕して空中を飛揚することを試みて、
成功したりし事を記せしを、見しことを記憶せり。即ち斯の婦人の爲に傚ひて、
かの紙鳶を利用して、空中に騰りて以て、全島の模樣をば俯瞰せむと慾せしなり。
讀者は或は武安の設計にあまりに大膽にして、
且つ滑稽に近きを嘲るならむ歟。然れども渠は沈潛反覆して、
之を思ひ復た思ひし後、是れ決して行ふ可らざるの事に非ず、
又た初めに想像せるが如く甚だ危險なるものに非ずと、堅く信ずるに至りたり。 十一月四日の夜、渠は晩餐を訖りて後、
一同に向つて詞短く其の思ふ所を語りて、以て諸童子等の可否を求めたり、
諸童子は聞き訖りて、暫し詞なかりしが、
頃ありて杜番は、「然れども、かの紙鳶の大さにて、
能く餘等の中の何人かを、擡擧するだけの力量あるべき歟」。
武安「定めて力量不足なるべし、必ず更らに大なる、亦た更らに堅固なるものに、
改造せざるべからざらむ」。韋格「紙鳶は一たび飛揚するときは、
常に其の飛揚力を保持しをること能ふべきか」。馬克太「そは必ず能ふべし」。
武安は英國の婦人の例を援きて、之を説くこと一遍して、且ついはく、
「要は唯だ紙鳶の大小と、風力の強弱如何に由るのみ」。
馬克太「君は幾何の高さにまで、之を昇さむと慾するや」。
武安「若し六七百尺の高さに逹せば、全島の模樣を俯瞰するを得む歟」。
左毗「請ふ速かに之を試みよ、餘は既に屏居の苦に厭き〜せり」。
呉敦は始終默然として敢て一言をも發せざりしが、諸童子の既に散じて、 唯だ武安の面を瞻りつゝ、
「君は眞に斯の計を試行せむと慾するか」。 「然り、呉敦」。「是れ極めて危險の事なるを知れるか」。
「然り、然れども定めて君の想像する如く、甚だ危險なるものに非じ」。
「而して自から一命を擲賭して、斯の危險を極めたる試驗に當る者は、
餘輩の中何人なるべきや」。「若し此の事即ち己れの義務なり、と定まらば、
呉敦、君と雖も敢て之を辭まざるべし」。
「然らば君は鬮を拈りて、其の人を定めむと慾するか」。
「否な、其の人は自から己れの心より之に當らむことを願ふ者に非ざれば不可なり」。
「然らば、君の胸中には既に略ぼ其の人を豫算せるか」。
「或は然らむ」と答へつゝ、武安は意味ありげに呉敦の手を握りしめぬ。
翌日即ち十一月五日より、武安馬克太等諸童子は、
直ちに紙鳶の改造に着手せり。若し渠等をして十分の工學的知識あらしめば、
先づ其の擡擧すべき重量、紙鳶の面積、重心の中心、
及び之に耐ふべき線の太さなど、精算比較して後始めて其の改造の設計を定むべきなるが、
渠等は不幸にして然までの十分の知識を具へざれば、 唯だ從來の紙鳶の飛揚力を試驗して、
更らに之を擴張して略ぼ百三十 磅即ち十五 貫八百 匁の重量を載せて飛揚するに堪ふるほどの、
大さのものと爲すに過ぎず、百三十 磅は即ち童子等の中の最重者の量なり。
兎角して七日の午時には直徑二間半、毎邊の長さ四尺、面積 凡そ六十方ヤードの、
八角形の大紙鳶出來あがりぬ。紙鳶改造の間も、 童子等は更る〜゛番を定めて、岩壁の上に見張りしたりしが、
曾て何等の怪しき事もあらず、湖畔林中看わたす限り寂寥として、 曾て一
縷の煙を見、一發の銃聲を聞かず、 一同は益す惡漢等の既に島を去りしならむと確信せり。
紙鳶飛揚の試驗は、直ちに今夜を以て行はれ、其の危險無きに定まらば、
童子等の一人は明夜直ちに之に駕して、空中に騰るべしと議決されぬ。
紙鳶にはかねて一個の巨籃兒を約しありて、
騰空者は即ち此の裡に安坐すべかりしなり。 籃兒はスロウ號の甲板に常用されし者の一個にして、
恰かも一人の童子を坐せしむるの大さあり、
且つ其の深さも坐せる童子の乳を沒するほどなれば、其の左搖右擺のために、
童子が籃外にまろび出づるの憂ひ少し、 又た籃兒の縁邊に別に一條の絲を結ひつけあり、
絲の下端は地上なる一人の手の裡に置き絲には一個の鐡環を穿す、
籃中の人若し降らむと慾するときは、其の鐡環を放てば、
鐡環は絲をつたはりて、地上の手裡に來りて、籃中の人の意を通知す。
この夜は南西の風吹きしきりて、紙鳶を飛揚するに恰好なりしがうへ、
月は午前二時に至らざれば地上に出でざるべく、星さへ甚だ稀れなれば、
紙鳶は何ほどの高さまえ飛揚するも、人の望み見らるゝの懼れある無し。
九時に及ぶ比ほひ、童子等は悄々地に洞外湖畔の廣場に聚まりて、 此處に絞車盤をすゑ、
之にスロウ號が船の速力を測量するに用ひたる測量索を卷きて、
是を紙鳶の線となす。紙鳶に吊下げたる籃兒の内には、 土を裝りたる袋の、重さ百三十
磅あるを置き、 又た其の縁邊に鐡環を貫きたる絲を結ひつくること、
恰かも人の乘るときに同くす。 杜番馬克太韋格乙部の四名は、
絞車盤を距ること五十間 許那方に仰臥せる紙鳶のほとりに在り、
絞車盤の周邊には、
武安呉敦左毗虞路雅涅ありて、
線の伸縮を掌どる。「注意」といへる號令は、 武安の口より發せり。「善し」といへる答聲は、
杜番の脣邊より揚りたり。
「ソレ」といふかけ聲と共に、直徑二間半の大紙鳶は、徐々として空中に升りはじめたり、
伊播孫善均土耳胡太の幼年者は、 平素の戒め愼みも打ち忘れて、覺えず一齊に喝采
讚呼せり。
未だ幾ばくならずして、紙鳶は早くも密雲の中に隱れて、形全く見えずなりぬ、
然れども其の線を挽く力の益す強くして、 且つ間斷 張弛なきは、上方の風勢甚だ盛にして、
且つ紙鳶の傾斜せず掉頭らず、常に其の平衡を保ちをることを推すべし。 既にして、測量索は伸びて一千二百尺に至りたり、
料るに紙鳶は已でに地面を拔くこと七八百尺の高さに逹せしなるべし。
試驗の成績は已でに十分なれば、一同は絞車盤を逆轉して、 紙鳶を下ろしはじめたるが、當初之を升すときは、
僅かに十分 許費やせしに過ぎざるに、之を下ろすには、
一時間以上の勞力を須ひて、始めて地上に至らしむることを得り。 風勢依然として盛なれば、其の降りて地上に着くときも、
何等の撞觸を感ずることなく徐々として當初仰臥せし處と殆ど同じ處に無事降り着きぬ。 幼年者は覺えずも復た一齊に喝采
讚呼の聲を發して、之を祝したり。
試驗已でに畢りたれば、一同は洞に歸り去らむと慾して、
武安の號令を待てるに、武安は別に何事か深く思ふ所あるが如く、
沈吟して肯て一言も發せず。呉敦は武安のほとりに進みて、
其の手を執りつ、「夜已でに闌けたり、請ふ家に歸らむ」。 武安「暫らく、呉敦、杜番、
餘は君等に謀らむと慾する一事あり」。杜番「請ふ語れ」。
武安「餘等の試驗は意外に十分の好成績を得たり、是れ一に風勢の強からず弱からず、
且つ常に一定の力をもて、一定の方向に吹くに由りてなり、 然れども此の如き好際會は、屡ば有り難し、
明夜果して必ず今夜に同じき天候と風勢とを得るを能ふべきや、否や、
尤も覺束なし、故に餘は寧ろ今夜此れより直ちに、かねて計りし所を決行せむこと、 得策ならむと思ふなり、如何」。
武安の説は實に理有りき、然れども何人も敢て進みて、
第一に口を開かむと慾する者ある無し。曰く紙鳶に駕して空中に騰ると。
是れ言ふに甚だ安くして、行ふに極めて危ふき者なり。 童子
等固より勇氣なりと雖も、將さに之を決行せむとするに及びては、
自然躊躇の意無き能はず、是れさすがに人の情なればなり。 然れども武安が更らに其の語を續ぎて、
「何人が籃兒に乘るべきや」といふに及びては、 言未だ訖らざるに、忽ち衆中に答聲あり、「餘往かむ」。
是れ武安の弟 弱克なりき。 「否な、否な、餘往かむ、餘往かむ」と叫ぶ聲、
杜番韋格虞路
馬克太左毗諸童子の口より殆ど一聲に續き起れり。
武安は暫し默然として敢て兎角の詞を發せず、
弱克は再び聲を高くして、「兄うへ、請ふ餘をして往かしめよ、 餘こそ當さに第一に籃兒に乘るべき人にあらずや」。
杜番「何故に、弱克、君に限りて、 第一に往かざるべからざる理由あるか、何故に餘等は君に後れざるべからざるか」。
馬克太「然り、然り、何故に」。 弱克「餘は諸君に負へる義務ありやと」。
呉敦「餘等に負へる義務ありとや」。弱克「然り、義務ある故」。
呉敦は弱克が常に異なれる詞のさまを見て、
其の何の謂れなるやを問はむと慾して、武安の手を執るに、 武安は全身わな〜と打ち顫ひてをり、
是時若し闇中ならずして、十分 武安の面を視ることを得せしめむには、
呉敦は必ず其の顏色まつ蒼になり、
其の兩眼には涙を湛へしを見たるならむ。弱克は十歳の童子には似あはしからぬ斷然たる決意の聲もて、
「然らずや、兄うへ」。杜番「餘に語り聞かせよ武安、
君の弟は君の弟は餘等のために、其の一命を擲賭すべき義務ありといふ、 是れ餘等が均しく相互に負ふ所の義務にあらずや、
何が故に獨り弱克のみ特に其の義務ありといふか」。 弱克「アヽ杜番、餘之を君に語らむ」。
武安は其の弟の詞を遮り止めむと慾して、 「弱克、こや弱克」。
弱克は心迫りて打ちふるふ聲をはり揚げて、 「否な、兄うへ、否な、餘をして一切を懺悔せしめよ、
餘は復た久しく斯の痛苦を耐ふる能はず、杜番、呉敦、諸君、
諸君が家を離れ父母に離れ、此處に漂流 患苦するは、
皆な餘が一人の愚かより起りたり、スロウ號の海に流れ出でたるは、
餘が何等の考へもなく、否な單に戲れに諸君を驚かさむと慾する考へより、
其の纜を解きしに由りてなり、餘は船の次第々々に海に流れ出づるを見て、
驚き慌てゝ、之を止めむと慾せしが、既に遲かりき、 オヽ諸君、餘の罪を饒したまへ、餘の罪を饒したまへ」。
言ひ訖りて弱克は、圭兒が親切に百方 慰諭するにも拘はらず、
胸も裂くるかと想ふばかりに、聲を放て號泣せり。 武安「善し、弱克、汝は汝の罪を懺悔せり、
因つて其の罪を萬一を償ふために、今其の身を擲賭せむと慾すと謂ふ乎」。
杜番は其の天性の惻隱寛恕の心、自然此の間に發し動きて、
第一に叫び出だせり、「而して、渠は既に已でに其の過ちを償はざりし乎、
渠は既に已でに三たび其の一命を擲賭して、
餘等のために危險を冐さゞりし乎、アヽ武安、餘は今にして始めて、
君が平生危難に當らしめ、君の弟が亦た常に其の身を捨てゝ以て、 餘等の用を爲さむと慾する所以を知れり、餘は今にして、
餘と虞路とが重霧の中に迷ひしをり、 渠が其身を抛ちて、餘等を索めし所以を知れり、
アヽ吾が親友 弱克、餘輩は喜んで君の過ちを饒すべし、
君は已でに自から其の過ちを償ひたり、君は復た一毫も餘輩に負ふ所なし」。
杜番はじめ一同は、弱克の周圍に聚まりて、
各其の手をさし伸べて、弱克の手を握らむと慾せるが、
弱克は仍ほ雙手に其の面を掩ひて號泣しつゝあり。 既にして渠はやう〜に涙を斂めて、
「見よ諸君、餘こそ即ち第一に斯の籃兒に乘るべき人にあらずや、
餘の言誤れる乎、兄うへ」。武安は緊々其の弟を抱擁して、
「善く言ひたり、弱克、善く言ひたり」。
杜番諸童子は二人を制し止めむと慾したるが、 功無かりき、是時風勢は次第に吹き加はらむと慾する模樣あり。
弱克は一同に握手したる後、早くも土の袋を取り出だしつ、 自から籃兒の内に身を置かむと慾して、兄のかたに打ち向ひ、
「兄うへ、餘をして一たび汝に接吻せしめよ」。
武安「唯々、來りて餘に接吻せよ、或は寧ろ、餘をして汝に接吻せしめよ、
何となれば、その籃兒に乘る者は即ち餘なればなり」。 弱克は驚き叫びて、「兄うへ、汝が」。
杜番左毗も亦た同聲に、「武安、君が」。
「然り餘が、抑も弱克の罪を償ふに弱克の身を以てするも、
或は其の兄の身を以てするも、何の異なる所かある、 且つ餘が此の如き危險の計を立つるに、
他人をして其の危險を冐さしめむと慾して之を立つべき歟」。 弱克「否な、否な、兄うへ、請ふ餘をして」。
「否な、弱克」。杜番「然らば餘は亦た餘の番として、 敢て斯の任に充てられむことを請求せざるを得ず」。
武安は斷乎として抂ぐべからざるの決意の聲もて、 「否な杜番、餘の意は已でに久しく決せり」。
呉敦は緊々武安の手を握りしめつゝ、
「武安餘は初めより、君の意の應さに然かならむを思へり」。
武安は直ちに籃中に坐を占めぬ、
雅涅は籃邊より埀下せう合圖の絲を持ちてをり、
馬克太韋格虞路左毗は、
徐々として絞車盤の線を伸ばしはじめぬ、 未だ幾ばくならずして、紙鳶は武安を吊りたるまゝ、
早くも形見えずなりぬ。一同は只だ默然仰いで其のゆく方を瞻るのみ、 高き氣息さへする者あらず。
幸ひにして紙鳶は前と同じく、傾斜せず掉頭らず、
冉々として昇りゆけば、武安は甚だしく危險を感ずることなく、
籃兒の四方を吊れる繩を、左右の手に握り持ちて、 紙鳶のゆくがまに〜升りゆけるが、其の空氣を切るにつれて、
籃兒に感ずる一種の顫動は、全身に傳はり響きて、
恐ろしきが如く、擽ばゆきが如く、異樣名状すべからざるの感有り、 十分間
許を過ぐるほどに、忽ち物に當れる如き響きありて、 籃兒の少しく撞觸を感ぜしは、
線の既に伸び畢りて、紙鳶の騰上方さに止みしを推すべし、
武安は隻手に繩を握り持ちて、隻手に望遠鏡を取りあげて、
やをら四方を俯瞰するに、湖水や、茂林や、岩壁や、 渾べて冥々たる黒暗の中に沒して、
一物の眼に入る者ある無し。唯だ泡沸として、 僅かに其の色を辨ずるは、本島と四邊の海水との差別のみ。
北南西の三方は、皆な一樣の密雲に鎖されて、得て一物を視るべからざるも、 東方の一角は雲 斷え天
露はれて、三五の星、 燦然闇中にきらめくを見る。
忽ち見る東方の一邊に、一帶の赤光あり、
低く地上に横はれる雲層を烘りて、其の色明かに望み視るべきを。
是れ必ず火光なるべし、然れども其の距離を言るに、
遠く幾十マイルの外に在り、或は本島を距る幾十マイルの那方に、
一帶の陸ありて、其の地に噴火山など有り、乃ち斯の火光を放つに非ざるを得むや。
かく思ふと同時に、忽ち心頭に浮ぶは、嚮に初めて欺瞞灣を訪ひしとき、
望み見たりし白點のことなり。更らに熟視するに、 斯の火光より遙かに近く、己れを距る僅かに五六マイルの處に、
又た一道の火光あり、料るに是れ欺瞞灣の濱邊、
或は濱邊と湖岸との間なる、茂林の中より揚がるものなるべし。 然らば是れかの倭東等の一 夥にあらずして、
復た誰れの之を燃す有らむや。
武安はかく判定すると共に復た久しく空中に留まるべき必要なければ、
直ちに望遠鏡を收めて、合圖の鐡環を落とし下すに、 幾
秒ならずして、鐡環は雅涅の手に逹しつ、
地上に武安の消息如何と、片唾を呑んで待ち居たる一同は、
直ちに絞車盤を逆轉して、紙鳶を挽き下ろしはじめたり。
嗚呼一同が地上に在りて、斯の合圖の來るまで待ち居たる二十分間は、
如何に長く久しかりしとするぞ。是時風勢は次第に吹き加はりて其の猛烈初めの比にあらざるに、
風位さへ亦た吹き變らむとして、紙鳶は屡ば掉頭らむと慾する如く、 童子等が挽き下ろす線の一
張一 弛するにぞ、 其の絞車盤を囘轉することのなか〜困難なるは、言ふもさらなり。
武安に對する掛念は、又た一層の甚だしきもの有り。 武安が合圖の鐡環を落とし下してより、
既に一時間と四十五分を經たり。紙鳶は猶ほ地面を距る二十間 許の上に在るべし。
忽ちにして一陣の強風吹き過ぐるとおもふと共に、
絞車盤を把り居たる杜番馬克太韋格
虞路左毗乙部の六名は、飜然地上に投げ倒されぬ。
蓋し紙鳶の線斷れて紙鳶は武安を載せたるまゝ、 黒暗の中に飛び去りしなり。
更新日:2004/12/30
十五少年 : 第十三囘
衆童子は且つ驚き、且つ怖れつ、異口同聲に「武安、武安」と叫びたるが、 功なかりき。
此の如くすること二十分 許にして、忽ち湖の水際より、 「諸君」と呼はる聲起れり。「兄うへ」と叫びつゝ第一に走せ着きたるは、 弱克なりき。「倭東等は尚ほ島に在り」とは是れ一同が其のほとりに走せ到れるとき、 武安の第一に發したる詞なりき。
蓋し紙鳶の線斷れしとき、武安は其の身の次第に地上に落ちゆくを覺えしが、 幸ひに、紙鳶は恰かも輕氣球乘りの用ふる所の大傘の用をなして、 これを急墜直下せしめず、兎角するうち、漸やく水面に近づきたれば、 乃ち身を跳らして、自から水中に投下して、七十間餘りの距離を、 難なく岸に泳ぎ着きしなり。紙鳶は武安の投下すると共に、 忽ち再び空中に輕颺して、獨り北東のかたに舞ひゆきぬ。
次の朝は、一同前夜の疲勞に寢すごして、日已でに高く昇りし後、 僅かに臥床を起き出でしが、一同直ちに物置の洞に集りて、 今後の進退を商議せり。
倭東等の島に留まること、既に二週間以上に及べり、 而して尚ほ此處を去らむとする模樣なきは、 蓋し其の船を修覆すべき道具を少けるに由りてなり。 若し是等の道具さへあらしめば、船は修覆を加ふべからざるほど、大破損したるにあらざればなり。 又た渠等は未だ島を去らざれども、然りとて亦た、 其の寓居を此處に構へむと慾するにもあらざるは、其の遍く全島を探檢して、 尤も其の栖宅に適ふべき所の地を索めむと圖る模樣なきを觀て、 之を知るべし。是等の事より推究して、 武安は昨夜空中より海を隔てゝ望みたる赤火光のことを語り、 必ず斯の島の東方に、甚だ遠からざる處に大陸あり、渠等は之を知れるが故、 永く斯の島に留まるの覺悟をなさゞるならむと判ぜり。 若し武安の所判をして、其の眞を得たるものと爲さしめば、 是れ輕々に看過ぐべからざる一重大問題なり。 乃ちチェイアマン島は從來一同の信じたりし如き孤島にはあらずして近く其東方に大陸若くは群島を有する所の一無人島なり。 然れども是は目下の急先問題に非ず、目下の急先問題は、 倭東等七名の惡漢の尚ほ島に在りて東方川の口に宿しをることなり。 渠等は現在の宿處より只だ一轉歩せば、湖畔に出づべく、 湖畔を彷徨するうちには、或は偶然斯の洞のほとりに至ること、ありがちなるべし。 故に童子等は前に倍して、渠等に其の姿を見られざるやう、 用心 戒愼せざるべからず。
童子等は先づ、厩舍及び養禽場を遶る所の柵竝に洞の表裡二所に、 松杉の枝灌木など多く切り掛けて、打ち見たる所、茂林樹叢などの如く見えるやうし、 己れ等は洞内に深く隱れて、猥りに戸外に出でず。 殊に湖畔の廣場には何人も一切出で行くことを許さず。此の如くして、 一同は惴々として危懼不安の中に日を送れるに、之に加へて、 一同をして更らに眉を顰めしは、最幼年者 胡太の此ころより熱を病みて、 容體甚だ危篤なることなり。呉敦はスロウ號に具へありし藥籠を取り出だして、 萬一誤投などすることなきやと氣づかひつゝも、止むを得ず己れの知れる所に因りて、 藥を進め、他の諸人も勿論 各及ぶ限りの力を盡して看護せるが、 畢竟一同皆な只だ齡相若きたる童子なれば、 手は心の什一を動く能はず。幸ひに圭兒の此處に在りて、 宛がら慈母の其の愛子を介抱する如く、行きとゞきて親切周到に、之を看護するあり、 やう~、終に快方に向ひはじめぬ。是時若し圭兒の洞内に在るなかりせば、 其の結局實に測るべからざる者ありしならむ、此の外斯の婦人が平素、洞内諸童子に對して、 慈母的愛情親切を以て、何くれとなく世話したる、冥々の功徳は、 逐一數ふるに勝ふべからず。
さて、十一月の初旬より中旬にかけては、殆ど連日の陰雨なりしが、 十七日より天 霽るゝと共に、暖氣 俄かに加はりて、 茂林は皆な青緑の色を着けて、百花競ひ開き、 南澤には多くの羽族歸り來れり。ある日、 左毗が洞外附近の地の設けたる羅網に罹りたる鳥類を收むる中、 其の頸に小さき凾を約したる一個の燕あるを發見せり。 一同且つ驚き且つ喜びつゝ、忙がはしく其の凾を卸して、 之を開き視るに、何等か他の地方の人より、童子等に送り來れる答書には非ずして、 凾の内なるは、やはり去秋己れ等が納めおきし遭難報告書なりき。
此ごろは一同多く洞内にたれこめて、戸外に出づること稀れなれば、 馬克太の專任擔當せる日記も殆ど閑却せられて、 其の筆に上るべきほどの事もいと少く、一同只だ一室によりこぞりては、 無聊を嘆息するのみ。兎角するうちに更らに三箇月餘りを經ば、 渠等は復た第三の冬を此處に向へざるべからず。 渠等は漂流の初めより以來の事どもを囘想して、 徐かに越方行末を思ひめぐらせば、 己れ等の斯の島に在ることは、何時を限りに終るべきや、或は到底再び故郷父母を見るの期無くして、 己れ等は斯の島の土と化し了るに非ざるべき乎。
是れ呉敦の除く外、一同の心に次第に結ぼりし所の疑ひにして、 皆な鬱々として樂しまざるの色あり。武安は一同を諭し勵まして、 決して此の如く憂無かるべきよしを、口には主張せるが、 心には亦た他の諸童子と同じく、斯の疑ひを抱くを免れず。
是月の二十一日の午後二時ごろなりき、 杜番はニウジランド川の樹陰に踞して、魚を釣りゐたるに、 湖畔に群れゐし鳥類の、俄かに嘐々相喚びつゝ、 東方に翔り去るを見たり。渠等は對岸に至りて、 其の廣く大きく圈をなせし者の次第に縮小集中して、終に黒く一團を成したるが、 仍ほ嘐々高く相喚びつゝ長草灌木の中に沒し了れり。 杜番は之を望み見て、是れ必ず何等か動物の死體の彼處にあるならむ、と判じたるにぞ、 急に洞に走せ歸りて、莫科を呼びて直ちに短艇を出ださしめ、 偕に川を渡りて對岸に登りて、群れ集へる鳥類を逐ひ去りて長草の底を檢するに、 一個の小さきラマの死體ありて、横仆せり。鮮血は仍ほ滾々として、 其の横腹の創口より流れ出でつゝあり。 且つ其の身體の尚ほ微温を帶ぶるは、其殺されてより未だ多くの時間を經ざるものなるを知るべし。 杜番「是れ必ず銃殺されし者なるべし」。莫科「此處に其の證據あり」と答へつゝ、 其の小刀もて創口より一個の鉛丸を抉り出だせり。 疑ひもなく是れ倭東等の中に一人の、 發ちたる所の者に必せり。二童子は其のラマの死體は、鳥類の貪り啖ふに一任して、 忙がはしく洞に走せ歸れり、歸りて之を他の諸童子に告ぐるに、 一同亦た今さらの如く驚き怖れつ、さま~゛に商議せるが、 かのラマの其の現在 斃れたる處にて銃殺されし者に非ざるは、 童子等が常に耳を欹てゝ洞外の動靜に注意せるにも拘はらず、 曾て銃聲を聞きし者無きに由りて、明かなるが、 亦た其の甚だ遠距離の處にて射られし者に非ざるは、其の傷の極めて重くして、 ラマが斯の重創を負ひて甚だ遠く走ることは能ふばじきに徴して、 明かなり。されば之を總ぶるに、是れ倭東等が東方川を遡りて、 次第に洞のかたに近づきつゝあることを示す者にして、其の夥中の幾人かは、 既に一たび南澤のほとり近くまで湖畔を彷徨し來りたることを證する者なり。 童子等は唯だ益す、用心に用心を加ふべきのみ。
かくて又た三日を經たるに、茲に渠等をして事態の益す切迫せるを覺えて、 更らに一層の危懼を増さしめし所の、一新事件現はれたり。 二十四日の朝九時ごろ、武安及び呉敦は、 ニウジランド川の對岸に於て湖畔より南澤に至る間の細途に、若し能ふべくば、 胸壁を築きて、此處に杜番等の善射手を伏して、 倭東等の斯の方面より來るを禦がむと慾して、 其の地形を視むがため、相携へて對岸に抵り川の畔の茂林の際を進み行けるに、 武安は何物か忽ち足に踏みつけしもの有り、然れども、 是れ此の邊に無數に散布せる貝介の類なるべしと、思ひたれば顧みもせず、 進み行けるが、後に立ちたる呉敦は、足を停めて之を拾ひあげつ、 「待て、武安」。「何事なるや」。「看よ、是れ陶製の煙管なり、 餘等の中に煙草を喫する者無ければ、是れ必ず倭東等の徒の遺せし者なるべし」。 「或は佛人洞の昔の主人 慕員の遺物ならむ」。「非なり、 煙管に附着せる煙草の香猶ほ新たなるは、僅々一二日前若くは一二時間前、 此處に遺されし者なるを示せり」。果して然らば、 倭東等の徒は、既に近く佛人洞全面の川の上まで彷徨し來りしなり。 渠等既に此の邊を徘徊するとせば、童子等は直ちに防戰の準備をせざるべからず。 二名は蒼黄洞に走せ歸りて、其の目撃せし所を語り、 一同直ちに手分けして防戰の準備をなし、晝は洞上岩壁の頂きに一人の見張りを置きて、 八方を注視せしめ、夜は亦た湖畔に面せる洞の裡の口と、 川に面せる表の口と、二所に各一人の見張りを置き、 二所の戸は均しく堅牢なる閂を以て之を鎖せるがうへ、 戸の内がはには、多くの大石を積みて、 スハといはゞ直ちに内より此處に胸壁をつき立つること能ふやうにせり。 戸側に穿ちたる窓は、直ちに用ひて以て矢間となして、 此處に二門の大砲を分ち排して、一は表の川に面せる口を守り、 他の一は裡の湖畔に面せる口を瞻る。其の餘、施條銃、 連發短銃の數を悉くして取り出だされ、諸童子に割りわたされしは、言ふを待たず。
言ふまでもなく圭兒は諸童子の作す所を贊して、 共に及ぶ限りの力を、是等の準備に盡したるが、然かも其の心の底には、 是等の諸童子と、かのセベルン號の水夫等との身體 膂力を較算して、 深甚の危懼不安を懷くを免れず。斯るをりに、 せめて伊範の此處に在らば。
抑も伊範は今如何になりゆきしならむ、或は渠等惡漢の毒手に罹りて、 既に亡き人となれるに非ざるを得むや。是も亦た必ず有るべからざるの事にあらず、 何となれば、渠等は今陸の上に在り、復た渠の航海術に用ふる所無ければなり。 既にして十一月の二十七日となれり、過ぎし二日間の暖氣は蒸し熱くして、 殆ど耐ふべからざるほどなりしが、是日は朝より密雲重なり疊なりて、 雷聲殷々として遠く響き、其の空模樣といひ、 晴雨計の豫言する所といひ、あらしの將さに至らむとするを示せり。 洞外に在りし童子等は、常より早く一同洞内に歸り、例の如く短艇をば物置に引きこみて、 表裡二所の戸を閉ぢつ、只だ坐して就寢の時に來るを待ちをれるに、 夜九時半を過ぐる比ほひ、あらしは果然襲ひ到りて、 電光は水を注ぐ如く、窓の間うおり流れ入りて、常に洞の内を遍照し、 霹靂は常に頭上に轟き震ひて、片時も斷ゆる間なし。 是れ風無き亦た雨無き、一種の恐絶駭絶のあらしにして、 層雲の裡に鬱積せる電氣の、一時一所に決裂噴出する者なり。 斯の類のあらしは、或は霹靂一夜をはためき徹して、 尚ほ未だ終りを告げざること、往々これ有り。洞上岩壁の頂きには落雷、 蓋し幾十囘 若くは幾百囘、雨の如く下り注ぎしならむが、 岩層甚だ厚ければ、洞内には曾て何等の異状をも生ぜず。 武安、杜番、 馬克太等の諸童子は時々更る~゛洞外の動靜を伺はむと慾して、 戸ぎはに立ち寄りしが、皆な戸を開くことを未だ半ばに及ばずして、忽ち電光に眼を射られて、 暝眩きては却き囘りぬ。 天は只だ一面の赤火光をなし、湖水は天の色を反射して、 只だ一團の炎の如く見えぬ。
十時より十一時に至るまでの間は、電光雷鳴共に、眞に須臾の斷ゆる間なく、 暴れつゞきぬ。十二時ごろよりはあらしの勢ひ、 少しく衰へて、雷鳴次第に間ばらになりゆきしが、既にして風起りて、雨盆を覆へす如くなり來れり。 久しく恐れ縮みて頭を蒲團の裡に埋めゐたりし胡太、 土耳、伊播孫、善均等の諸幼年者も、 再び勢ひを得て追々頭を擡げ起せり。 長年の童子等はあらしの最早や憂ふべき者なきを見て、心を安じて、 各將さに其の寢所に退き去らむと慾するをり、 獵犬フハンは忽ち激昂の状を現はして、裡の戸ぎはに走せ到りつ、 前足もて頻りに戸板を爬きながら、低く長く哮り吠えぬ。 杜番「フハンが何事か戸の外に異状あるを嗅げりと見ゆ」。 言未だ全く訖らず長年の童子等は、各武器を執りて、 防戰の身構へせり。杜番は裡の戸に、莫科は表の戸に、 各耳を帖して外の動靜を伺ひしが、 何等の異なりたる状も無きに似たり。然れども、フハンは依然 哮りくるひて休まず、 俄かにして轟然として響ける一道の聲あり、 是れ決して雷鳴の聲ならず、長銃の聲にして、 しかも此處より二町とは隔てざる近距離の處に於て放ちたる者にまぎれ無し。 一同は覺えず面を視あはせしが、 杜番馬克太韋格虞路の四名は、 早くも表と裡との戸の側に分れ立ちて、 若し此處に推し入らむと慾する者あらば、 直ちに射て之を殪さむと身構へ、他の諸童子はかねて戸の内に積みおきたる大石を、 戸ぎはに運びて以て、胸壁をつき立てむとす。 をりしも戸外に忽ち聲ありて、「助けて、助けて」。 是れ疑ひもなく、危難に迫りたる人の救を乞ふの聲なり。 「助けて、助けて」。この度は既に近く數尺の間に來れり、 圭兒は初めより童子等と倶に、戸ぎはに立ちをりしが、忽ちにして、 「是れ渠なり」。武安「渠とは」。 圭兒「戸を開け、疾く開いて渠を納れよ」。 童子等は戸を開けり。一個の漢子の全身濡れくたれて、 上衣の裾よりは水 瀑布の如く流れ下りつゝあるが、 闖然跳り入りぬ、是れ即ちセベルン號の二等運轉手 伊範なりき。
童子等は事の意外に茫然として、暫しは爲さむ所を知らず、 空しく伊範の模樣を瞻りてをり。 伊範は齡二十五乃至三十歳の間なるべし、肩廣く、胸 寛く、 兩眼鋭くして、態度毅然とし、面相怜悧にして正直なり。 然れども久しく剃刀を用ひざれば、雙頬の髯 亂生して、 殆ど其の顏の半ばを沒せり。渠は内に入るや否や、 直ちに戸を閉ぢて其の耳を戸に帖して、 外の動靜を伺ひしが、己れを追跡する者無きを知りて、 始めて洞の中央に進み來り、己れを環り立てる童子等の顏を一わたり看まはして、 悄然と、「成程、是少年童兒のみなり」と獨語せるが、 復た圭兒の童子等の内に交り立てるを見て、 俄かに打ち喜べる面持にて、「圭兒、汝が存らへて」。 圭兒「然り伊範、吾身は無事に存らへて此處に在り、 上帝は既に吾身を救ひ、亦た御身を救ひたまへり、 今夜御身の此處に來れるは、亦た上帝の御身をして、 是等 無辜の憐れむべき諸童子を助けしめむと慾したまふ大御意なるべきなり」。 伊範は復び童子等の顏を看一 看して、 「都合十五人、而かも自から防ぐこと能ふ者は僅かに五六人に過ぎず」。 武安「餘等は將さに襲撃されむとする乎」。 伊範「否な、少くともさし向きの處否な」。
一同は伊範の此處に來れる顛末、 殊に倭東等が本島に上陸してより以來の歴史を、 渠に聞かむと慾するに熱心なりしが、渠は先づ其の濡れたる被服を脱し、 且つ多少の食物を乞ひたしといふ。蓋し渠はニウジランド川を泳ぎ渡り、 且つ今朝來未だ曾て何等の食物をも口にせざるなり。 武安は直ちに渠を導きて、物置の室に至り、 乾きたる被服を與へ、又た莫科に命じて取りあへず、 冷たき炙肉、乾餠、茶、 及び一杯のブランデー等取り揃へて渠に供せしめぬ。 伊範は是等をたべ畢りて、氣力殆ど常に復せる後、 一同に向て、其の本島に上陸してより以來の歴史を語りはじめぬ。
「餘等の乘りたる傳馬船が斯の島に打ち上げられて將さに岸に逹せむと慾するをり、 餘等六名は浪に洗はれて海中に陷りたり。六名は兎角して纔かに濱邊に登ることを得たるが、 他の舟に留まりたる二名の往きし所を知らず、圭兒に至つては一同に、 海中に溺れたる者となして、復た之を疑ふ者無かりき、 餘等の濱邊に登りしは午後七八時の間なりしが、濱邊を彷徨徘徊すること多時にして、 十二時ごろに至り始めて傳馬船の沙場に打ち上げらるゝを發見せり」。 杜番「餘等は當夕恰かも其處にゆき合せて、 二個の人の船の側に、死人の如くなりて横臥するを目撃せしが、 次の朝 往て之を尋ねたるに、既に其處に在らざりき」。 伊範「其の次第こと餘が此より將さに語らむと慾する所なれ、 餘等が其の往きし所を失ひて或は海中に死せしならむと思ひ居たる福倍及び排克の二名は、 亦た船と共に、濱邊に打ち上げられてをり、倭東等は之を喚び醒して共に、 船中にのこり存したる少許の食物及び武器硝藥を取り出だして、 更らに海岸をたどり行かむと慾するをり、祿屈なりしと覺ゆ、 圭兒の見えざりよしを不審したるに、倭東は、 其の定めて海中に陷りて亡せたるならむと答へ、且つ是れ物怪の幸ひなりといへり、 餘は之を聞きて、心の中に、渠等の餘を視ることは猶ほかの婦人を視る如くなるべしと思ひ、 渠等の餘に復た用無きに至らば、直ちに餘を除き去らむと慾するならむと思ひたり、 圭兒汝は當時 何處に在りしや」。 圭兒「かの欹立ちたる船の底の下に、渠等は餘の姿を見る能はざりしが、 餘は逐一 渠等の問答を聽くを得たり、渠等の立ち去るを待て餘は起きて反對の方に走り、 終に是等童兒等諸公に救はれて、斯の佛人洞の中に來れり」。 伊範「佛人洞とは」。 左毗「即ち餘等が斯の洞に命ぜし所の名にして、 此の外亦た家族湖、南澤、ニウジランド川等の諸名目あり」。 伊範「甚だ好し、甚だ好し、是等地名の事に就ては、明日復た緩やかに相語るべし、 戸外に何等か足音せしにあらずや」。戸ぎはに立ち番せる莫科、「否な」。
伊範「さて濱邊をたどり行くこと又た一時間 許にして、 餘等は一團の樹叢の下に逹し、此の夜は此處にあかして、 翌日 復び傳馬船の處に還り、爾後數日の間は、 種々術を盡して船の破損を修繕せむと勉めしが、之を修繕すべき道具の不足なるよりして、遂に成功する能はず、 因りて兎に角に先づ食料及び清水と且つ能ふべくは風雨を庇ふ處を索めて、 假りに卜居したる後、緩やかに後の計を爲すべしとて、 復た此處を發し濱邊に沿ひて南に行くこと十二マイル許せしに、 一條の小川の口に逹せり」。左毗「即ち餘等が東方川と呼ぶ者にして、 其の注ぐ所を欺瞞灣と稱す」。伊範「成程、 かくて餘等は此處に卜居して、 かの傳馬船をば濱邊づたひに曳きて新 卜居の處に來たり、 之を川口の小港に繋ぎおきたり」。武安「即ち巨熊港」。 伊範「是に於て餘等の缺く所は、只だ一式の木匠器具のみ、 若し之さへ有らしめば餘等は容易に船を修繕して、斯の島を去るを得べし」。 杜番「餘等は恰かも其の器具を有せり」。 伊範「倭東等も亦たしか信ぜり」。 呉敦「渠等は如何にして、餘等の此處に在ることを知れるや」。 伊範「約十日 許り前なりき、渠等は餘と偕に、 ??上陸以來 渠等は片時も餘を一人にて置きしことなし??、 川の堤を遡りて茂林の中を逍遙するうち、 忽ち一座の大湖の畔に出でしが湖濱蘆葦の裡に於て、 餘等は偶ま一個の巨物の油布に蔽はれたるが、 横はりをるを發見せり、餘等の驚怪想ひ見るべし」。 杜番「即ち餘等の紙鳶なり」。 伊範「餘等は未だ遽かに其の何物なるやを猜し得ざりしが、 兎に角に其の天性のものならぬは明かなれば、渠等は此より之を製作せし所の人を索めて、 其の何物なるやを知らむと慾するに熱心となれり、餘に於ては、此によりて本島に住民有ることを知りて、 間を伺ひ渠等の毒手を脱して其の住民の中に投ぜむと慾するの心、 尤も切になれり、縱ひ其の住民をして蠻人ならしむるとするも、 尚ほ是等セベルン號の殺人賊の極惡なるには至らじと信じたればなり、 渠等も餘の機を察したりと見えて、其の餘を看守すること、 此より更らに一層嚴重となれり、渠等は是日より一心不亂に、 而かも十分 戒愼に戒愼を加へつゝ、 湖の東岸に沿ひて、南方にさがし行きたるが、曾て人の踪跡らしき者に逢はず、 曾て一發の銃聲さへ聞かず」。武安「そは餘輩が互に相戒めて、 洞内より猥りに一歩をも出でざるやうにしたればなり」。
伊範「然れども、渠等は終に君等の所在を發見せり、 去る二十二日の夜なりき、渠等の一個が始めて斯の洞の近傍に來りしに、 適ま君等の戸を開閉するに會ひて、 戸の間より燈火の光り乍ち見はれて乍ちきゆるを望み見たり、 之を聞ける倭東は、次の日の午後全半日、 自から斯の前の川ふちの茂林の中に來り潛みて、 君等の動靜を伺ひたり」。武安「然り、餘等は之を知れり」。 「君等之を知れりとか」。武安「餘等は渠の遺したる煙管を、 次の朝發見して、之を圭兒に示したるに、 圭兒は是れ倭東が所持したるものなりと語れり」。
「圭兒の所察は爽はざりき、 渠の歸來の後其の煙管を遺失せしことを知りて、 甚だ之を惜み恨みたりき、然れども渠は斯の半日の間に於て、 此處に栖める君等の皆な少年童子なることをたしかめ得たり、 そは君等の更はる~゛洞の前、川のふちに出であるくを觀て、 乃ち之を察し得たるなり、餘は渠が歸來の後、 其の目撃せし所を其の侶伴に告げ、且つ之に對する攻撃の方法など さま~゛に相 謀るを聞きて??」。圭兒「惡人、惡人、 渠等は斯の可憐の諸童子に對しても、更らに一點の惻隱の心を起さゞりし歟」。 「然り、猶ほセベルン號の船長乘客に對して之を起さゞりしに同じ」。 圭兒「して御身は如何にして、終に渠等の毒手を逃がれしや」。 伊範「今朝より倭東等は、 餘を福倍と祿屈との二人に看守せしめおきて、 一同他に出で行きたれば、餘は是れ無二の好機會なりと思ひ、 二人のよそ視せる間を窺ひて、突然かたへの茂林の中へ逃げこみたり、 是れ午前十時前後の事なりき、二人は餘のあとを追ひて、同じく茂林の中に入り來れり、 此より一人の逃走者と、二人の追奔者とは、 終日 茂林の中を跑けめぐれり、 餘は生來未だ曾て此の如く疾く且つ久しく跑けりたることあらず、 餘は十四時間三十マイル以上の距離を跑けめぐりしなるべし、 餘は倭東の語る所によりて、君等の栖む所の湖の南西岸に於て、 西方に流るゝ川の畔に在ることを知り、 茂林の中を右左に跑けまはりつゝも、 君等の洞を望みて逃走し來れり、二人は各銃を携へたれば、 餘を追ひかけ~も、屡ば之を發して餘をねらひ撃ち、 飛丸の餘の耳邊を掠めて過ぎし者、 啻に一度二度のみにあらず、若し二人をして火器をだに有せざらしめむには、 餘は立ちて渠等の追ひ至るを心靜かに待てるばるべし、 餘も隨身の小刀は一口藏しゐたれば、 縱ひ渠等と相遇ふも、餘獨りは死なざるべし、 餘は夜に入らば闇黒にまぎれて、二人の追躡を免るゝに、 更らに好便かるべしと憑みたるに、二人は執念深く餘に尾して、 なか~に餘を離れず、加ふるにあらしの常に電光を送りて地上を遍ねく照らしたれば、 餘の姿を躱過することを許さず、然れども餘は兎角して竟に川の南岸に逹したり、 若し一たび斯の水をだに踰えむには、と餘は喜びつゝ、 將さに堤をすべり下りむと慾するとたんに、 忽ち閃然なる一道の電光は、やみを破りて餘の姿を照らし出だせり、 同時に一發の銃聲餘の背後に響けり」。 杜番「即ち餘等の此の裡にありて聞きし所のものなるべし」。
「飛丸は餘の肩をかすりて流れたり、餘は同時に身を飜して水中に跳入りぬ、 餘は二三度拔き手をきりしが早くも此方の岸に泳ぎ着きしにぞ、 其のまゝに川の上に掩ひかゝりし雜木の下に身を潛めぬ、 二人は正さに川の對岸に到りて相 語りつゝあり、 一人 云く汝はたしかに命中したりと爲すや、他の一人 云く餘はたしかに手答へありたり、 前者 云く然らば渠はこの水中に沈みしならむ、 後者 云く勿論なり此度は渠も竟に往生せり、 前者 云く好結果好造化と、かくて二人は故來し路に歸りゆけり、 此より二三分の後、餘は堤をはひ登りて、地上に登りたちたるに、 忽ち犬の吠ゆる聲を聞きしにぞ、乃ち之をたよりに、此處へ來りたるに、 君等の戸を開きて迎へ納れらるゝに逢ひて幸に、 身を全くすることを得たり、童子諸君、此よりは餘等 倶に一團となりて、 力を戮せて、斯の島より是等の惡漢子を除き去ることを勉めざるべからず」。 伊範が是等最後の數語を陳べしときは、其の意氣誠に凛然として、 童子等は一同に、覺えず起ちあがりて、直ちに渠の後に從ひて走せ出でむとなしたりき。
既にして諸童子は更る~゛詞短かに、 己れ等の此處に漂流せし顛末を伊範に語り聞かせり、 伊範「君等が此處に漂着してより、今日まで二十個月の間、 曾て一隻の船もこの沖に見えざりしか」。武安「然り」。 「君等、何等か信號を掲げおきしか」。「之を掲げおきたるが、六週間前、 倭東等のために見られむことを恐れて、之を卸したり」。 「君等の用心極めて善かりき、然れども渠等は遂に諸君の所在を發見せり、 今に及では唯だ日夜警戒して、渠等を防ぐの一法あるのみ」。 「渠等の此の如く兇惡無慚の輩なるは、 誠に何等の不幸なるじ、若し之をして善人ならしめば、 餘等は喜んで及ぶ限りの助けを渠等に假さむものを、 餘等は人多しと雖も、皆な少年童子に過ぎず、 餘等はは當さに大苦戰を覺悟せざるべからず、若し勝敗の決に至りては、 誰れか之を豫料することを得むや」。圭兒「諸公、諸公、 今日まで常に御身等を冥護したまひたる上帝は、 必ず今日御身等を棄てたまはざるべし、上帝は現に勇武なる伊範を送りて、 御身等を助けしめたまへり」。 「伊範萬歳、伊範萬歳」の聲は一齊に童子等の口より起りたり。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第十四囘
諸人の談を默聽しゐたる呉敦は、是時始めて口を開きて、 「然れども、若し倭東等がおとなしく斯の島を去ることだに諾かば、 餘輩は必ずしも渠等を敵視するを須ひざるべし」。 伊範「何の謂ひぞや」。呉敦「餘の意は、 若し渠等にして其の船を修覆することをだに得ば、 渠等直ちに此の地を去りて必ずしも餘等に寇する者にあらざるべし、 と謂ふなり、故に餘等若し渠等の許に往きて、 渠等が需要する所の修覆の器械は餘等之を貸假すべし、 其の代り渠等は船を修覆し畢り次第直ちに斯の島を去るべし、 とかけ合はゞ、渠等定めて餘等の言を聽きておとなしく此地を去るべきなり、 然はおもはずや伊範君」。是れ有理の言なれば、 一同大に然りとおもふ色、面に見えたる中に就て、 伊範は「そは誠に理有るの説なり、 然れども諸君は未だ深く倭東の人となりを知らず、 抑も渠等の人となり、 若し諸君が渠等に木匠器具を貸假せむと申出ださば、 渠等は之を借りたるがうへ、更らに自餘諸物をも併せ奪はむと慾するなるべし、 渠等は或は諸君がスロウ號より取り來りて藏しおける貨幣有らむを疑ひて、 之を奪はむと圖るなるべし、諸君或は渠等を以て、 我れ先づ助けを渠等に貸假せむことを申出でなば、 渠等は其の恩義に感じて、此の如く惡心をば萠さゞるならむと爲す乎、 渠等は決して此の如き人理を具へたる者に非ず、且つ渠等の缺く所は、 啻だ木匠器具のみならず、其の硝藥亦た漸やく空乏せり、 渠等は猶ほ、以て諸君を襲撃するに足るほどの硝藥は、之を有せるならむも、 以て久しきを彌るべきにあらず、故に若し諸君の此の如く硝藥に富むを知らば、 必ず之を讓與されむことを強請するならむ、諸君は之を聽くべきか」。 呉敦「否な」。「聽かずば、渠等は腕力に藉りても必ず之れを得むと慾するなるべし、 事此に至らば、到底一戰を免るべからず、既に一千の免るべからざるを知らば、 初めより計を定めて戰ふの利有るに如かず」。 呉敦「御身の言 是なり、餘等の守りを固くして以て寇を待つより外に、 復た爲すべきの策無し」。 「餘が渠等に木匠器具を貸假するを以て不可なりと爲すは、 是れ別に他の一個の道理ありてなり。若し渠等にして船を修覆し畢らば、 渠等は縱ひ諸君の恩義に感じて、佛人洞に寇することなく、 おとなしく此處を去るとするも、渠等は餘等を顧念する所なく、
相率ゐて浩然獨り此處を去るべし」。左毗「而して、 是れ餘輩に何の關係あるや」。「若しかの傳馬船を失はゞ、 餘輩は復た何に藉りて斯の島を脱がれ出づるを得むや」。
呉敦「御身はかの船を用ひて、以て斯の島を脱がれ出でむと慾するか」。 伊範「勿論、然り」。杜番「かの小さき船を用ひて、 淼々たる太平洋を横ぎり過らむと慾するか」。 「かの船を以て太平洋を横過するとや、否な、 餘輩はかの船を用ひて近き港にわたり着き、此處より更らに便船を求めて、 以て濠洲に還るべし」。馬克太「然れども、 彼が如きこはれ船を以て、數百里の波濤を踰ゆることを得べきか」。 「數百里と、否な餘輩が航海すべき最近の路程は、三十マイルに出でざるべし」。
杜番「然らば斯の島を環遶する所の水は、 大洋にてはあらざりしか」。伊範「島の西方を圍めるは然り、 東南北の三方を圍めるは然らず」。呉敦「さては、 餘等は初めより疑ひたる如く、餘等は眞に大陸を距る遠からざる處に在りたるか」。 「諸君は從來 何國に在りとおもひ居しや」。「太平洋中の孤島に」。 「島は即ち島なり、然れども是れ孤島にあらず、南亞米利加の沿岸に蟻附したる群島中の一個なり、 諸君は既に種々の名を島内各地に命じたり、島にも亦た其の名を命じたるか」。 「然り餘輩は之に命じてチェイアマン島と曰へり、是れ餘輩が共に學びたる學校の名に取りしなり」。
伊範「チェイアマン島、好し、さらば斯の島は新舊二個の名を荷ふ者なり、 何となれば、世間には已でに久しくハノーバル島の名を以て傳へ稱せられたればなり」。
説き罷みて伊範は、明日更らに地圖に照らして本島の所在及び方位のことなど、 詳かに示し語るべしと約して、一同と共に寢所に退きぬ。
呉敦及び莫科に二童子は、各武器を執りて、 洞の表裡の口に座を占めて、夜を警めしが一夜は事無く天明けて、 十一月の二十八日となりぬ。
* * * * * * *
南亞米利加の南盡頭に、東のかた大西洋より、 西にかた太平洋に逹して、地骨を横斷して蜿蜒奔流する所の、 長さ三百八十マイルに亙る、一道の海峽あり。兩岸連山 掩映して、 高きは拔海三千尺に至る、沿岸港灣多くして、船を泊するに宜しく、 繁く茂林清川有りて、 到處汲水伐薪及び獵禽の便を缺かず、 舟子の二洋を往復去來する者皆な其のレマイル海峽を過ぐるより捷くして、 ホルン岬を、遶るより風波の險少きを喜びて斯の路に由る者多し。 是れ即ち一千五百二十年有名なる葡萄牙の航海者マゼランの發見せし、 所謂マゼランの海峽是れなり。
マゼランが斯の路を初めて發見してより、後五十年にして、 西班牙人始めて此處に來りて、ブランスヰック半島にフハミーン港を創開し、 次で英吉利人來りて、和蘭人來りて、 和蘭人レマイルは、所謂レマイル海峽を發見せり、是れ一千六百十年のことなり。 十七世紀の季より十八世紀の首に至りて、 佛國人亦た多く此處に來り、爾後有名なる各國航海者の此處に來りし者、 枚擧するに遑あらず、殊に近ごろ蒸氣機關の發明ありて、 船は逆風逆潮を懼れずして自由に航走するを得るに至りてより、 二洋に去來する者の、斯の路に由る者尤も多し。海峽の北岸はパタゴニア國、 及びキングウヰリアムスランド、ブランスヰック半島の諸地にして、 其の南岸は、即ちテラデルフェーゴ及び其の他の群島なり。
マゼラン海峽の東口は、豁然として一大灣を作り、 天空海濶一物の眼界を遮る者なしと雖も、 其の西口即ち太平洋に接する所は、小島群布して、小海峽錯流紛糾し、 斯の群布せる小島の一帶は、常に智利國の濱邊に平行しつゝ、 點々相逐ひて北に上り、遂にチョノス及びチロー諸島に至りて止む。
伊範は次の日諸童子を集めて、地圖を展べ、 南亞米利加洲南端の地形を指説しつゝあるしが、更らに、其の語を續ぎて、 「看よ、此の如くマゼラン海峽の西口より、北に向ひて、 智利國と平行しつゝ走る所の一帶の群小島の中に、 南ケムブリッヂ島と相對し、北は近くマドル島及びチャタム島と相望みて一島あり、 斯の島は南緯五十一度、西經七十四度三十分に在りて、名をハノーバルと曰ふ、 是れ即ち諸君が之にチェイアマン島の名を命じて、二十個月以上の光陰を此に消したる所のものなり」。 呉敦「然らば、餘等は智利國とは唯だ一 肱の水を隔てたる處に在りしか」。 伊範「然り然れども諸君が幸ひに對岸の大陸に渡航することを得たりと假定むるも、 諸君が此より智利或はアルゼンチン共和國の市邑に逹せむと慾するには、 更らに數百マイル荒漠不毛の曠野をさまよひ行かざるべからず、 其の疲勞 困頓は蓋し想像の外に在るべし、 加ふるに是等曠野に彷徨する蠻人は、亦た好意をもて諸君を待遇するの主人に非ず、 要するに、諸君が對岸に渡航せず、始終斯の島に留まり居たるは、 諸君のために計るに非常の幸なりしなり」。
呉敦は伊範に向ひて、若しセベルン號の傳馬船を得て、 此に藉りて斯の島を發するとせば、將さに何れの方位に向て其の船を行らむとするやと、 問ふに伊範は直ちに之に答へて、「一直線に南に向て、 勿論餘等は順風を得ば智利國の沿岸の何れかの一港に逹すること甚だ難からざるべく、 沿岸の居民は親切に餘等を待遇しくるべし、然れども智利國の沿岸は曲折出入一ならずして、 船を行るに甚だ危險多し」。武安「此より南に航走せば、 何等か餘等の故郷に還るべき便宜を得べき地に至るべきか」。 「然り、試みに地圖を看一 看せよ、 餘等は此より南に下りて、スミス海峽に至り、斯の海峽を過ぎば、 何の處に出づべきや、即ちマゼラン海峽の西口に出づべし、 此處にタマルと呼べる一港あり、餘等若し此の港に逹するを得ば、 定めて歸國の便船を得るに難からざるべし」。 武安「若しタマル港に於て急に便船を得る能はずば」。 「マゼラン海峽の中に入りて、行くこと少許すれば、 即ち左にブランスヰック半島を得べし、半島にフホーテスキウ灣ありて、 灣にガーラント港あり、去來の船の屡ば下碇する處なり、 又た更らに進みて、半島の南端フロワード岬を遶れば、 即ちブウゲヰンビール灣あり、海峽を去來する船の最も多く投泊する所なり、 又た更らに進めば、フハミーン港あり、パンタアレナあり」。
伊範の説 是なり、彼等一たびマゼラン海峽の内にさへ入ることを得ば、 其の濠洲或はニウジランドに行くの途中にある船を索めて、 之に其の情を語り、附乘を乞はむは、甚だ難きわざに非ざるべし。 海峽の内にありて、タマル港、ガーランド港、フハミーン港等は皆な貧寒の僻地なると雖も、 パンタアレナは富邑にして、日常必需品より娯樂奢侈の品に至るまで、 件々 略ぼ皆な有り、智利國正負の創開管轄する所にして、 美麗なる寺院さへあり、其の屋頂巍然として、 茂樹の上に聳え、海上より之を望み見るべし。
故に童子等の先務は、マゼラン海峽に逹するに在りて、之に逹するには、 かのセベルン號の傳馬船を用ひざるべからず。 而して之を用ひむと慾するには、之れ倭東等の手より分捕りて、 己れの有とせざるべからず。即ち渠等と戰ひて之に打ち勝たざるべからず、 然れども之れ、勿論、容易の談に非ず、伊範は童子等と語りて、 此に至れるとき、己れは先づ洞の位置を觀て、 倭東等が來り攻めむとき之を禦ぐべき法を講ぜざるべからずとて、 一同と共に、席を離れて洞の内外を巡覽せるが、 洞の面はニウジランド川に面し、裡は家族湖の濱を控へ、 窓は直ちに矢間をなして、茲に二個の大砲と八個の施條銃を按排し、 洞の中には尚ほ多くの短銃及び刀斧あり、 要するに武器完足糧食豐饒なるを見て、大に喜びしが、 顧みて之を守る所の人を思へば、皆な少年童子にして、 其の齡十六歳に逹せるは獨り呉敦一個あるのみ、 其の他 武安、杜番、虞路、馬克太、 韋格の五名は、 洞中の長者と稱せらるゝ者なりと雖も皆な十五歳に滿つるか滿たざる者にして、 餘は多く筋骨未だ固まらず自から捍ぐことさへ且つ能はざる幼年童子なり、 而して寇は七名共に皆な膂力衆に越え曾て幾囘の人殺しをさへ經來りたる倔強の壯歳漢子なり、 則ち童子等心如何に勇なるも、到底戸外に於て對等の戰ひをなし得べきに非ず、 故に渠等目下の上計はいつまでも、唯だ堅く斯の洞壁の固めを守りて、 以て敵の來るを待つより善きは莫し。
呉敦「渠等は皆な、眞に一毫の人情をも具へざる兇暴無慚の徒なるべき乎」。 伊範「勿論、然り」。圭兒「然れども唯だ一人、 一點の良心未だ全く滅び盡くさゞる者あり、 即ち吾身の一命を救ひくれし福倍是れなり」。 伊範「餘はその説を首肯し難し、福倍は或は初めは倭東等の勸めに遭ひて、 其の夥中に入りし者ならむかも、知るべからざれども、現時に及んで、 亦た倭東等一輩の惡人にして、彼是の差等あるべしとは思はれず、 近くは渠が祿屈と共に餘を追ひしを見ずや、其の屡ば餘に發銃し、 餘が川に溺れしと誤り信ぜしとき、祿屈と共に大に之を喜びしを見ずや、 其の御身を救ひしは、蓋し烹飪其の他の事をなさしむるに、 御身を生かしおくことの甚だ便宜あることを、思ひたるを以てなり、 若し倭東等が斯の洞を來り攻めむをりは、 看よ、福倍は必ず其の先登者の中に在るべし」。
是より數日を過ぎたるが、倭東等の形影は杳として、 何等の消息もあらず。伊範は心大に之を怪しみて、 其の何故なるべきをおもひ惑ひしが、是日忽然として思ひあたれる所あり。 武安及び呉敦に向ひて、其の思ふ所を語りて云く、 「餘をして渠等ならしむるも、亦た必ず此の策に出でしならむ、 渠等は諸君を以て、己れ等の斯の島に上陸せしことを全く知らざる者となせり、 何となれば、圭兒は既に海に死し、餘は既に川に溺れたる者と信じをればなり、 渠等は故に以爲らく、 若し渠等の一人は突然斯の洞に來りて破船漂流の人なることを語りて憐れみを乞はゞ、 諸君は必ず親切に之を洞中に向へ納れて、成るべきだけの助けを能ふるならむ、 若し一たび洞中に入るを得ば、隙を伺ひて内より戸を開きて、 其の侶伴を招き納るゝは、極めて容易なるべく、 若し斯の如くせば多くの力を費やさずして以て洞を襲ひ取るを得べしと、 渠等は蓋し諸君を力取せむよりも、 寧ろ智取せむと慾して、此の如く遲々しをるなるべし」。 「然らば、餘輩は如何にして之を禦ぐべきや」。 「力を以て來らば力を以て之に應ぜむ、 計を以て來らば計を以て之に應ぜむ」。
翌日も亦た事無くたちて、既に黄昏となりたるが、 岩壁の頂きに在りて見張りしヰたる乙部及び虞路は、 忙がはしく洞に走せ歸りて、川の對岸に二個の人の姿ありて、 次第に洞のかたに來り近づくよし、を報ぜり。 圭兒と伊範とは、急に物置の裡に身をかくしつゝ、 窓の間より、來り近づける二人を、遙かに望み視るに、 是れ祿屈と福倍の二人なるを知り得たり。 伊範「果して餘の料る所に違はず、渠等は漂流人のまねして、 斯の洞に入らむと慾するなり」。武安「予等は之を如何にすべき」。 伊範は武安等の耳に口をよせて、低々密語する所あり、 畢りて己れは圭兒と共に物置の一方なる戸棚の内に身をかくしぬ。
此より一二分を過ぎて後、呉敦、武安、杜番、 馬克太の四童子は、出でゝ川の畔を逍遙せるに、 彼方の岸より之を望み見たる祿屈福倍の二人は、 愕然打ち驚きたる面もちにて、四童子のかたに走せよるに、 呉敦等も二人の姿を見て、甚だ其の意外なるに驚きし色あり。 二人はやう~川を渉りて、此方の岸に登りたるが、 疲勞憔悴の情は其の言貌に顯はれたり。 杜番「御身等は何者なるや」。「今朝斯の島の南方にて破船したる、 遭難水夫なり」。「英國人か」。「否な米國人なり」。「他の乘組員は」。 「皆な溺れ死せり。唯だ我等二人のみ幸ひにして濱邊に漂着するを得たり、 御身等は何人なりや」。「本島の植民者なり」。「然らば、 御身等願はくば我等に少許の食物と休息の處とを與へたまはれ、 今朝來我等は一 掬の水だに、快くは飮むあたはざりき」。 呉敦「破船水夫は到る處に同胞の助けを求むべき權利あり、 此方に來れ」。
祿屈は額狹く腮つき出でゝ、一見して恐るべき獰猛の相を具へり、 福倍は面上 何處にか猶ほ一點人らしき相ありて、 祿屈の如く兇惡ならず、倭東が特に渠を擇みしは、 此を以てなるべし。二人は始終極めて巧みに遭難水夫のさまを演じたり、 童子等があまり詳しく問ひつめて、答へに窮するをりは、あまりに疲勞して長く語るに堪へざれば、 少時の休息を許されたしといふに託言して、之を遁る。 然れども渠等が始め洞に入りしとき、 偸かに四下の模樣を視まはし、其の守備の嚴重にして武器の完足せるを見て、 心大に驚きたる色ありしは、慧眼なる呉敦の早くも、 傍らより窺ひて心に記せる所なりき。 既にして、二人は童子等に導かれて物置の洞に入りて、 其の一隅に横臥せるが、極めて疲勞したる人の如く、 早くも鼾然として前後も知らず熟睡せり。 然れども渠等が其の睫を合はす前に、 物置に貯へある糧食器物其の他諸具の極めて豐饒なるを見て互に目と目を視あはせて、 十分 懽喜の色を顯はせるは、 亦た呉敦の傍らより窺ひて心に記せる所なりき。 九時に及ぶ比ほひ、莫科は二人の寢ねたる反對の隅に來りて、 其の臥床を設けて、眠りに就きぬ。 僞り熟睡したる二人は、黒人の子の此處に來り寢ねしことを知りたるも、 更らに之を意に介せず、若し渠が聲を發して人を喚ばむとせば、 渠等は之を拉ぎ殺さむこと、唯だ一擧手の勞なればなり。
かくて又た二時間を過ぎぬ、二人は依然 横臥したるまゝ、身動きだもなさず、 莫科は二人の或は今夜は此のまゝに過ぎて、明夜を待ちて事を擧げむと慾するに非ずやと、 疑ひはじめぬ。既にして十二時となりぬ、二人は徐々として身を起して、拔き足しつゝ戸のかたに進みよりぬ、 天上より吊るしたる燈籠の光は、明かに二人の擧動を照らし出だしぬ。 物置の戸即ち川に面せるがはの戸は、閂を堅くさしたる上、 内より大石を積みかけて、之をおさへあり。二人は先づ是等の石を除きて、 方さに閂に手をかけぬ。とたんに、一個の鐡碗ありて、 方さに閂に手をかけたる祿屈の肩を、 背後より捉へ往めぬ。祿屈は驚いて首を囘すに、 正さにセベルン號の二等運轉手と面を對しぬ。 「伊範、汝が此處に」。「來れ諸君」。 馬克太虞路杜番武安の四年長童子は直ちに走せ來りて、 福倍を捉へたり。祿屈は其のうちに伊範の手をふり解きて、 戸を推し開くや否や、早くも洞外に跳り出でぬ。 伊範は直ちに銃を把りて、轟然一發、之を撃ちたるが、 丸は空しく闇中に飛びゆきたるのみ、 何等の手ごたへもなく、祿屈は早くも遠く遁れ走りたりと見えて、 足音さへも聞えずなりぬ。「咄、到頭取り逃がせり、 然れども猶ほ茲に一人有り」。言ひつゝ腰刀を拔きもちて、 一撃の下に福倍を斫り殺さむと、ふり擧ぐるに、 福倍「請ふ饒せ、請ふ饒せ」。 圭兒は身を以て福倍を蔽ひつゝ、「伊範、 請ふ渠の命を饒せ、渠は曾て我身を救ひたり」。 「さらば圭兒、今夜は御身の面に免じて、 暫らく渠を饒すべし」。福倍を緊しく縛めて、 嚮に伊範等の潛みたる戸棚の中に禁錮し、再び戸を鎖し、 大石を故の如く積みかけて、一同は武器を執りて、以て天明に至りたり。
翌朝天明くるを待ちて、 伊範は武安杜番呉敦の三童子と偕に出でゝ、 洞外の動靜を探るに、洞外には多くの人の靴跡の、 點々往復縱横せるを見るのみ。倭東等は遠く退き去りしと見えて、 湖畔 川邊陷穽林のほとり、何等の異なりたる状もあらず。 厩舎養禽場も、依然として些しの攪擾を被りたる迹あらず。 然れども渠等は何方より來りて、何方に去りしならむ歟。 之を知れる者、若し有りとせば、福倍の外になし。 四名は洞に歸りて、福倍を戸棚の中よりひき出だし、 索をゆるべて、廣間の中央に推しすゑつゝ、 伊範「福倍、汝等の計は餘輩の猜破する所となりて、 無功に歸したるは、汝の目撃して知る所なり、然れども、 餘輩は猶ほ詳かに倭東の計る所を知らむことを要す、 汝は必ず之を熟知すべし、餘の問ふに隨ひて、逐一之に答ふべき歟」。 福倍は圭兒及び諸童子と、面を對する愧づる如く、 頭を低れて、默然として敢て高き氣息さへなさず。 圭兒「福倍、御身は嚮にセベルン號虐殺の最中に、 獨り敢て身を挺して、吾身の命を救ひくれたる善心あり、 御身は今又た其の惻隱の心を發して、斯の十五名の無辜の童子等を、 同じ危運の中より救ふに意無きか」。福倍は默然として、答へなし。 圭兒は更らに語を繼ぎて、「福倍、 御身の所行は萬死に抵りたるを雖も、 渠等は猶ほ御身の命を饒せり、 御身の身の内には、尚ほ一點未だ全く滅び盡くさゞる良心ありて、存するなるべし、 御身が現在行ひつゝある所の罪の恐ろしきを省み思へ」。 福倍は此に至りて長き大息を洩らしたり、 既にして渠は終に口を開きて、「餘は何事をなすべきや」。 伊範「唯だ倭東が昨夜の計を詳かに語り聞かせ、 汝は内より戸を開きて、渠等を迎へ納れむと謀りしならずや」。 「然り」。「若し渠等一たび此裡に入らば、 彼の如く親切に汝を接納待遇せる童子等は、 勿論 渠等の毒手に罹りて殘殺さるべからしならむ、非耶」。 福倍の頭は益す低く埀れて、敢て一聲をも得出ださず、 「倭東等は何方より、洞にしのび近づくべかりしか」。 「湖の北岸より」。「即ち汝と祿屈とは、其の南岸より此處に來れるに」。 「然り」。「渠等は曾て斯の島の西岸に往きしことありや」。 「未だ曾て」。「渠等は現時 何處に在りや」。 「餘は知らず」。「渠等が今後の計畫に就て、汝何等か推知し得る所ありや」。 「否な」。「渠等は再び此處に返り來るべきか」。「然り」。 伊範は更らに種々 糺し問ふ所ありしが、 渠は復た答ふる能はざりしにぞ、再び之を戸棚の中に禁錮して、 午後に至りて莫科をして幾品の食物を送り與へしめしに、 渠は一と口も之に觸るゝことをなさず、只だ頭を低れて、 沈吟思念しつゝあり。渠は何事を思念しつゝあるや、 或は先非後悔といへる如きたぐひのことの、其の頭中に萠動しつゝあるには非ざるか。
目下第一の、亦た唯一の問題は、倭東等の何方を指して、 何處まで退き去りたるべきやといふことなり。 渠等は斯の一事を明かにせざる間は、決して片時も席に安ずる能はざるなり。 故に、伊範は中飯を畢りし後、 洞外に出で行きて、之を偵察せむと慾し、之を童子等に謀るに、 一同直ちにこの議を贊して、即時其の支度にかゝりたり。 伊播孫善均土耳胡太の四幼年者には、 圭兒莫科弱克及び馬克太を附けて、 之を洞内に留め、自餘の年長童子八名は皆な伊範と偕に、 偵察に出でゆくべしと定められぬ。躬方は多く少年童子なりと雖も、 尚ほ敵に比して一倍半の衆を有せり、加ふるに各長銃短銃を携へて、武器十分完足せり、 敵は七名の中既に一名を失ひて、六名となれるに、 武器は六名の間に、只だ五個の銃を有するに過ぎず、且つ伊範の語る所に據れば、 渠等の彈藥は、既に漸やく匱乏して、 餘す所 復た幾何もなしといふ、 是れ躬方の尤も心頼とする所なり。
偵察隊は午後二時、洞をたち出でしが、 戸は閂を施したるのみにして、 復た石を積みかけず、是れ偵察隊の人が、 急に洞中に退き入らむと慾するをり、開閉に不便なるを以てなり。 渠等は慕員の遺骸を葬りたる山毛欅のほとりを過ぎて、 灌木 茂樹の陰をつたひ~、陷穽林の中に進み入れるに、 最先きにたちたるフハンの、耳を張り鼻を地に帖して、 頻りに疑はしげなる状を作すは、 何等の異常の臭を、嗅ぎいだしたるものなるべし。 更らに幾歩を進み行くに、果して一簇の茂樹の下に、燃えさしたる薪の折れ、 煙未だ全く絶えざる灰燼堆あり、 前刻まで人の此處に憇ひ居たることを示せり。 呉敦「疑ひもなく、倭東等は昨夜を此處に過ごせしなるべし」。 伊範「然り、渠等が此處を去りてよりは、未だ一二時間を出でざるべし」。 言未だ全く訖らず、渠等の右邊に一發の銃聲響きて、 丸は武安の額を掠めて飛び過ぎぬ。 殆ど同時に又た一發の銃聲、童子等の隊中に起りて、 次で渠等と相 距る十間 許の右方の茂樹の裡に、 アッと叫ぶ聲、ザワ~と人の行動する響聞えぬ。第二の銃聲は、 杜番が第一の銃聲と其の煙の揚れる處とを目的として、 發ちたる所なり。杜番は銃を發つと共に、 フハンを先きにたてゝ、驀地に彼の茂樹のかたに走せゆきたり。 伊範「前へ、前へ、餘等は渠一人を敵に委すべからず」。
轉詢の頃に、一同は早くも杜番に追及して、 共に茂樹の下に走せ到るに、 地上に僵仆せる一個の人あり、呼吸既に全く絶えたり。 伊範「是れ排克なり、世界は爲めに一個の惡人を減ずるを得たり」。 杜番「自餘の輩は何處に往けるならむ、 必ず未だ遠くは遁れじ」。伊範「然り、 或は近く此の邊に潛めるなるべし。 諸君 跪づけ、高く頭を擡ぐる勿れ」。 忽ち渠等の左邊より、一發の銃聲と共に一個の丸飛び來りて、 將さに跪づかんとして少しく遲れたる左毗の、 右額をかるしたり。呉敦「君は傷つかづや」。 「否な眞のかすり傷なり」。雅涅は俄かに心づきて、 「武安は何處に往ける」。實に武安は何處に往けるや、 是時フハンは、左邊なる灌木叢のかたを望みて、 一直線に跑けゆくにぞ、 杜番等一同は「武安、武安」と叫びつゝ、フハンのあとを追ひて、 走せゆきたり。
虞路は忽ち身を地上に俯伏しつゝ、「氣をつけ伊範、氣をつけ」。 伊範は直ちに躬をかゞめ頭を下げぬ。 説く時遲し、一發の銃丸は、恰も伊範が頭上一二寸の處を飛び過ぎぬ。 渠は頭を擡ぐるに、一個の敵の、 茂樹の中を穿ちて遁れゆく背影を望み見たり。 是れ昨夜取り逃がしたる祿屈なり。伊範は銃を一發せり、 祿屈は宛がら地中に沒したるが如く、倐然として姿きえぬ。 伊範「咄、再び取り逃がせる歟」。
以上記する所は、是れ唯だ五七秒間の事なりき。 伊範は虞路と共に、一同の處に追ひ及ぶに、 フハンは連りに高く吠えつゝあり、最先きに進める杜番の聲として、 「武安、手をゆるべ勿」。伊範は一同と共に、 杜番の聲を栞に、灌木叢の中を進み入るに、 武安は胡布と相 摶ちて、地上に組み伏せられ、 胡布は方さに其の懷刀を擧げて、 武安を刺さむとしつゝあり。恰かも好し、 是時 此處に來到せる杜番は、兇漢の右の手を捉へて、之を動かさず、 隻手に腰を探りて、短銃を抽き出ださむとする、 手のゆるみを伺ひて兇漢は、杜番の手をふり解きざまに、 一刀 杜番の胸に切りつけたり。さすがに勇膽なる杜番も、 叫び聲さへ得たてず、地に仆れぬ。とたんに一同どや~と此裡に來り到れるにぞ、 胡布は武安を打ちすてゝ、北の方に遁れ走りぬ。 韋格、乙部、雅涅等銃をそろへて、之を追ひ撃ちつ、 一二發は、たしかに手ごたへのありし如く覺えしが、終に姿を見うしなひぬ。
武安は身を起すや否や、直ちに杜番のほとりに走せよりて、 其の頭を抱き起し、之を呼び活けむと勉めたるが、 杜番は僅かに氣息の通へるのみにて、 昏々として人事を辨せず。伊範は手ばやく、童子の襯衣の、 胸のほとりを破り開きて、其の創を檢するに、 創は左胸第四肋骨の邊に在り、幸ひに心臟をば外れたりと見えて、 童子は猶ほ氣息を呼吸しをり、然れども其の呼吸の力の甚だ微弱なるは、 或は肺を傷つけられしならずやとの懼れあり。 呉敦「兎に角に、佛人洞につれ歸らざれば、何事をなさむやうも無し」。 武安「餘等は必ず渠を救はざるべからず、 嗚呼、渠は餘の危きを救ふがために、斯の創を得たり」。 伊範は、接戰の初めより倭東、 武蘭及び武婁の三名が曾て其姿を見せざるは、 頗る怪訝に堪へざる所なるも、兎に角に、 杜番を斯のまゝに捨ておきて、戰ひつゞくべきにあらざれば、 呉敦等の説に從ひて、一たび洞に歸ることゝ定め、 諸童子と共に、木の枝を採聚して、 一個の擔架を編成し、杜番を其の上に穩臥せしめて、 四人は之を舁ぎ、他の四人は其の左右を警衞して、 徐々 洞のかたに歸りゆきたるが、杜番は擔架の行動するにつれて、 其の撞觸の創に響きて、疼痛堪ふべからざりと見え、 時々錐をもむやうなる苦唫の聲を發するにぞ、 暫らく休みては、復た行きつ、やう~路の四分の三を歩み畢りて、 佛人洞を距る一二町の處まで歸り來れり。
然れども、洞の口は、岩壁の出はなの陰になりをれば、未だ見えず。 忽ちニウジランド川のかたにあたりて、童子等の叫ぶ聲聞えぬ。 フハンは驀地に聲する方に奔せ去りぬ。 疑ひもなく、是れ倭東及び其の侶伴の幾名が、 路を迂して川の畔に出で、この方面より洞を攻撃しつゝあるなり。
更新日:2004/02/21
十五少年 : 第十五囘
後に及で考ふるに、事實は即ち是の如くなりき。 祿屈胡布排克の三名が陷穽林の中にありて、 偵察隊を狙撃して、其の心を一方に惹ける間に於て、 他の一方にありて、倭東武蘭武婁の三名は、 徒矼川の川とこの水涸れて乾道をなせるをつたひて、 潛に岩壁の上に攀ぢ、岩壁の頂きを徑りて、 ニウジランド川に面せる物置の洞の口のほとりに下りて、 乃ち驀然洞の中に闖入したりなり。
伊範は洞のかたに常ならぬ叫び聲の聞ゆるより、 虞路乙部雅涅の三名を杜番に附けて、 そこに留めおきつ、己れは呉敦武安左毗韋格の四名と共に、 捷路を求めて一直線に洞のかたに走せ到れば、 時は已でに遲かりき。倭東は一個の童子を奪ひ取りて、 之を小脇に抱きつゝ、方さに洞の内より走り出づるに、 後より圭兒の追ひすがりて、 之をとり還さむと、空しく掙扎しつゝあり。 童子は是れ弱克なりき。次て洞より走せ出づるは武蘭にして、 亦た胡太を小脇に抱きをり。馬克太が後より走せかゝりて、 之を奪ひ還さむと爭ひたるが、武蘭のために推一 推せられて、 地上にドウと仰ぎ仆れぬ。
然れども、莫科及び其の他の童子は、曾て姿を現はさず。 渠等は皆な傷つけられ或は殺されて、洞中に横臥し居るに非ざることを得むや。 倭東武蘭は、既に川のほとりに走り近づきぬ。 渠等は川に來りて、何をか爲さむとする。 更らに眸を轉じて川の面を視れば、川には武婁の、 洞中より短艇を曳き出だし來りて、 之を川に泛べ、以て二人の下り來るを待ちてをり。 若し渠等にすて一たび彼岸に渡り畢らば、復た之に追ひ及ぶこと難かるべく、 渠等は二個の人質をとりて、悠々巨熊岩下の其の栖居に歸りて、 意のまゝに我れを苦しめ、我れを虐ぐるなるべし。
然れども、伊範等は其の或は二童子を傷けむことを懼れたれば、 銃を發すること能はず。伊範は四童子と共に、 足を限りに走せたるが、倭東武蘭は既に川の岸に上れり。 是時電光の如くそこに走せ到りたる獵犬フハンは、武蘭の喉を目がけて飛びかゝれるにぞ、 武蘭は驚き慌てながら、胡太を捨てゝ之を防ぎ、鬪ひたり。 倭東は仍ほ弱克を曳きずりつゝ、 岸のかたに進みゆくに、是時亦た突如として、 洞の内より跳り出でゝ此方に跑け來る者あり。 倭東を首を囘して之を視るに、是れ福倍なりき。 倭東は大に喜びつゝ、「此方へ來れ、福倍此方へ」。 福倍は倭東のほとりに既に近づきしが、 物をも言はず倭東に飛びかゝりて、弱克を奪ひ還さむとす。 倭東は意外の襲撃に、覺えず弱克をはなせしが、 直ちに其の懷刀を揮ひて以て、 深く福倍の腹を刺せり。是れ實に轉瞬間の事なりき、 伊範及び四童子は猶ほ相 距る五六十間の處にあり、 武蘭は纔にフハンの襲撃を免がれて、 既に武婁と共に短艇の中に在り。
倭東は武蘭の胡太を失ひしを見て、 益す弱克の必獲せざるべからざるを、思ひつゝ、 福倍を殪したる後、忙がはしく臂を伸べて、 再び弱克を捉へむとするに、弱克は此の間に、 かねて藏しもちたる連發短銃を取り出だして、 正さに臂を伸べて近づき來る倭東を望みて、 轟然一發せり。ねらひは失またず、正さに倭東の胸のたゞ中を射たるにぞ、 渠はよろ~と却き走りて、短艇の中にまろび入りぬ。 短艇の中なる二惡漢は驚き慌てつゝ、倭東等を扶け入れたるまゝ、 彼岸をさしてこぎ出だしぬ。
忽ち轟然耳を聾するばかりの凄まじき聲起りて、洞の口に煙揚ると見えしが、 川の中流までこぎ去りたる、三惡漢を載せし短艇は、忽ち散彈に掩はれて、 三惡漢は叫苦の聲さへ發するの及ばず、水中に顛落して見えずなりぬ。
是れ莫科が物置の洞より、かねて備へありし大砲を發てるなりき。 今はセベルン號の惡漢等は悉く亡びて、 僅かに向きに陷穽林中にて其の往くへを失ひたる祿屈胡布の二人を餘ますのみ。 一同は少時の間に、非常の困厄より、一轉して俄かに非常の安心の境に入りにしぞ、 皆な氣拔けしたるが如く、暫し茫然としてありしが、 武安は第一に我れにかへりて、杜番の擔架を留めおける處に往きて、 虞路等に詞短く事の始末を告げつ、 負傷者をかつぎて、洞に歸り來るに、 此の間に伊範等は福倍を洞に扶け入れて、 杜番と同じく、床の上に安臥せしめぬ。
是夜は終夜、一同負傷者の枕頭に侍して看護せるが、 杜番は依然昏々として人事を辨ぜず。 圭兒は先づニウジランド川のふちに繁生する赤楊の葉を摘み來らしめ、 之を春きて煉り藥のやうにし、之を用ひて其の創を裹みたり、 是れ内部の(火|欣)衝を未だ興らざるに止むる妙劑にして、 亞米利加に於て尤も多く用ひらるゝ所のものなり。圭兒は亞米利加に人となりたれば、 善く斯の樹の葉の著效あることを知りて、之を用ひしなり。 福倍に至りては、深く丹田を刺されたれば、 到底救治すべやう無し。渠も自から其の死期の既に近づけるを知りしか、ふと目を開きて、 圭兒の極めて愁はしげなる顏をして己れを俯瞻しをるを見て、 かすかなる聲を出だして、「多謝、圭兒、多謝、然れども勿れ、 餘は最早やこの世の人にあらず」。嗚呼、斯の人や一たび誤りて邪路に迷ひ、 惡人の夥に入りたりと雖も、 一點の良心猶ほ未だ全く滅び盡くさゞる者あり、 童子等が最後の危急に臨みて、飜然として本然の性にかへり、 遂に其の一命を擲ちて、以て一同を救ひしなり。 伊範「しかく沮喪する勿れ福倍、 汝は既に自から汝の罪業を償ひたり、 汝は必ず長生すべし」。然れども渠の運命は既に定まりたりき、 一同が及ぶ限りの力を盡して介抱せしにも拘はらず、 次第に衰へ弱りて、午前四時、竟に其の最後の氣息を呼吸せり。
日出を待ちて、一同は之を慕員の墓の隣に葬りて、 ねもごろに弔祭したりしが、 渠等は猶ほ祿屈と胡布との生死を審かにせざる間は全く心を安ずる能はざるにぞ、 伊範は呉敦武安馬克太韋格の四童子と共に、 朝飯を終れる後、フハンを從へて、二人の往くへを探索に、 出でゆきしが、探索すること未だ幾ばくならずして、 渠等は直ちに二人の死體を陷穽林中に發見せり。 胡布は初め丸に中りたる處より、 五十間 許を隔てたる雜草裡に斃れをり、 祿屈は韋格の多く掘りおきたる陷穽の、 一個の中に陷りて死してをり、是れ渠の姿の、忽焉沒して見えずなりし所以なり、 二人の死體は、排克の死體と共に其の陷穽中に投下して、 之を埋却せり。
五名は洞に歸りて其の探索の結果を報ずるに、 一同は再び是等惡漢のために攪擾せらるゝの憂無きことを知りて、 大に喜び、且つ安心せるが、安心し難きは杜番の容體なり。 更らに惡きかたに赴く、といふには非ざるも、絶て快きかたに向ふさま無く、 依然昏々として人事を辨ぜず。
翌日 伊範は武安及び馬克太と共に、 短艇に駕して家族湖を渡り、東方川を下りて、 倭東等が舊の宿處に來りて、 セベルン號の傳馬船を索むるに、 船は巨熊岩下の沙場の上に曳きあげたり。 三個は其の破損處を檢するに、若し空船として曳きゆかむには、 猶ほ浮泛航行に堪ふべからざるに非ざれば、之を短艇の尾に曳きて、 再び川を遡り湖を渡りて、是日の夜半過ぎに、 無事ニウジランド川の埠頭に歸り着きぬ、 洞に歸りて、一同の第一に語ぐるを聞けば、今朝來 杜番の容體大に宜しく、 知覺もやう~復り來り、呼吸も少しく長く引くことを得るやうなりしと云ふ。 是れ蓋し杜番が平生身體壯康なると、 赤楊の葉の貼劑の奇效ありしとに由るものにして、 此の分にて進み行かば、日子をこそ多く要すれ、 終には必ず全癒の望みあるべきが如し。
次の日より、一同は傳馬船の修覆に着手せり。 船の長さ三十尺に餘りて、幅亦た之に稱ひたれば、 之を修覆し完くせば、十五少年と伊範と圭兒の兩人とを、 載せて航海せむことは、其の堪へ得ざる所にあらず、 伊範はかねて木匠的熟練あれば自から棟梁となりて工事を總領し、 馬克太之を副となり、他の諸童子之を助けて、孜々其の功を急ぎしが、 木材はかねてスロウ號と解きたるを、童子等の丁寧に仕舞ひおきたるがあれば、 堅材、横材、平板、支柱、件々具有せざるなく、 又た木材の縫處を固むるには、 かねて藏しおける塡絮をタールもて再煮して、 之を用ひぬ。船の半ばまでは甲板にて張りつめ、 以て風濤を避くるに便せり、此のころの季節に於て、 此の邊の海にありて、風濤の憂へへ甚だ少しと雖も、 是れ萬一を慮かりてなり。伊範は又た、 童子等がスロウ號より收めおきし、帆類を取り出だして、 斯の單檣船に船尾帆、トップセイル、 船首三角帆等の諸帆を裝備せり。三十日 許を閲するほどに、 修覆は一切出來あがれり。兎角するうちに、童子等が斯の島にて享くべき、 最後のクリスマス及び千八百六十二年の元日は、來たりて復た去れり、 此のごろは杜番も天氣清和なる日には、杖にすがりて戸外を、 少時は散歩すること能ふまでになれり。然れども一同は、 渠が十分 復常して氣力 強旺になるまでには、 決して斯の島を解纜せじと決意せり。
正月の下半月は、傳馬船につみ入るべき貨物の選擇の日を消せり、 諸童子は、勿論其の有せる所のものを、悉くつみ入れたしと希ひしが、 船の廣さは到底之を許さず。渠等が第一に先づ選取せしは金貨なりき。 是れ渠等が歸國の途中、到る處に第一必要のものなるべければなり。 次に選取せしは、十七名が若干週間を支ふべき食物なり。 次に武器彈藥。次に被服。次に書籍。次に烹飪器具及び食器。 次に望遠鏡風雨計等の類より護謨舟釣絲等に至る。
二月三日には、一切の貨物悉く傳馬船につみ入れられぬ。 杜番の創も殆ど全く癒えて、此より渠に憂ふべきは、 唯だ其の或は過食せむ一事のみ。氣力は未だ全く復常せざれども、 既に航海に堪へざるほどには非ざるがうへ、渠も亦た之を促して已まざれば、 遂に解纜は五日の朝と定められぬ。解纜の前夕、 呉敦は厩舎の戸を開きて、ラマ及びヴィクンヤの諸獸、 及び七面鳥其の他 渠等が久しく丹誠こめて養ひおきし諸種の鳥を放ちたるに、 渠等は戸を開かるゝや否や、其の脛の走り能ふ限り、 其の翼の飛び能ふ限り、全速力を以て八方に走飛し去れり。 雅涅「不記恩的の動物、餘等が久しく心を留めて養ひやりし勞も思はで」。 左毗「世事皆な此の如し」。 左毗の口氣のあまりに老人じみたるに、 一同ドッと噴きいだせり。
翌五日は朝まだきに起き出でゝ、一同乘りこみの支度せり、 杜番は船尾に、伊範の傍らに坐を占めぬ。 伊範は此處にありて、舵を操るといふ。 武安は莫科と共に船首に坐して、帆を掌どる。 其の他諸人は、各自おもひ~に占坐せり。既にして船は纜と解けり。 一同は佛人洞に向て、三 疊の讚呼の聲を揚げて、 之に別を告げぬ。船は徐ろにニウジランド川を下りゆけり、 アウクランド岡は次第に岩樹の背に沒して見えずなれり、 童子等は皆な愁然としてなごり惜しげに、之を目送せり。 川の流の緩慢なるに、進潮の間は船を停めて休止せざる能はざれば、 進行は甚だ遲々として、其のスロウ灣に逹したるは、日已でに沒したる後なりき。 杜番は船の沼澤林の下に繋泊せる間に、 船の上より二隻の鴨を射獲せり。渠は初めて銃を放ちたるとき、 病苦は銃聲と共に體を離れて、發散し盡くしたるやう、覺えたりと語りたり。
翌朝 渠等はスロウ灣を拔錨して、船尾帆及び船首三角帆を挂げて、 南方に乘り出だせるが、八時間の後は、島の南端たる南岬を遶りて、 ケムブリッヂ島の岸を洗ふ所の海峽に入りたるが、 仍ほもアデレイド島の濱邊に沿ひて、南方に駛走するほどに、 チェイアマン島は早くも北方地平線の下に沒して見えずなりぬ。
幸ひにして天氣清和なりしにぞ、二月十一日には、既にスミス海峽を過ぎて、 マゼラン海峽の口に入りたり。右方には聖アーン山高く聳え、 左方にはボウフホルト灣の窮まる處に、 數個の戴雪の嶺、參差駢頭するを見る、 嚮に武安が欺瞞灣より望み見たりし白點は、 即ち是等諸嶺の中に最高なるものなりしなり。船上の人は皆な壯健にして、 杜番は眠食益す佳なり。 翌十二日は、タマル島の前に來りしが、是時タマル港は荒廢して、 人の住む者無ければ、渠等は空しく此處を過ぎて、 南東に向ひて、海峽を乘りゆきたり。一方には、デソレーション島の、 平匾不毛の陸影 蜿蜒し、他の一方には、 岩嘴出入參差せるクルーカー半島の濱邊見ゆ。
伊範の意は、フロワード岬を過ぎ、 ブランスヰック半島の濱邊に沿ひ、パンタアレナまで往かむと慾したりしなり。 然れども、渠等は復た遠く駛行するを須ひざりき。 翌十三日の朝、偶ま船首に在りし左毗は、 忽ち叫び出だせり、「看よ、餘等の右舷に一道の煙が」。 呉敦「蓋し漁人の火なるべし」。 伊範「否な、是れ汽船の煙なるべし」。 いち早く檣頭に登りたる武安は、「汽船、汽船」。
既にして船の形望み見るべくなれり、船は蓋し八九百 噸を容るゝなるべし、 正さに一時間十一二マイルづゝを走りをれり。 童子等は一齊に懽呼の聲を揚げながら、手に~銃を把りて、 連りに之を續け發てり。汽船は直ちに我が銃聲を聞き、 我が船を見たり。十分間の後は、童子等の單檣船は、 汽船の舷下に繋ぎ往められぬ。汽船の名をグラフトン號と呼び、 將さに濠洲に往かむとするものなり。船長ロングは童子等を本船に移して、 其の遭難始末を問ひたるが、一昨年スロウ號失踪の事は、 當時英米の新聞紙上に喧傳せし所にして、船長もかねて之を稔知し居たれば、 さま~゛に童子等をいたはりたるがうへ、己れの往かむと慾するはメルボルンなれども、 路を變じて此よりアウクランドに直行し、以て童子等を其の故郷に送還しやるべしといひ出せり。 此より航海は迅速且つ平穩にして、同じ月の二十五日には、 無事アウクランド灣に到着して、錨を投じぬ。顧みれば十五少年が、 一昨年二月十四日の夜、此處を流れ出でゝより、今に至りて、恰かも滿二年なり。
童子等の父母が、十五少年の皆な無事歸國したることを聞知せるときの、 歡天喜地のの状は、何等の詞を以てするも、 決して之を形容すること能はず。曰く十五少年皆な無事にして、一人も缺けたるなしと。 新聞は電光の如く、闔市に遍播せり、 闔市の人は皆な、十五少年の過ぐるを觀むと慾して、戸外に出でぬ。
人が皆な聽かむことを慾するは、十五少年が漂流の始めより其の歸國の終りに至るまでの歴史なり。 杜番は幾囘の講和會を開きて、其の顛末を講和せり。 聽衆は毎囘場に滿ちて、外に溢れぬ。馬克太が丹誠をつみて筆録しおきし、 漂流中の日記は出版されぬ。幾千又た幾千は、只だニウジランドの讀者社會の需要を充たすがためのみに、 消えゆけり。幾ばくもなく日記は佛、獨、伊、露、及び日本の各國語に譯されて、 各國の都邑に現はれたり、各國の讀書社會は皆な先賭を快となして、 之を爭ひ贖へり。抑も呉敦の愼慮、 武安の慈愛、杜番の勇武、其他一同の耐忍剛毅、 孰づれか讀む者をして敬意を起さしめざらむや。
圭兒及び伊範が、如何に一同に歡迎感謝されしかは、 必ずしも贅するを須ひず。アウクランドの市民は、 伊範の爲めに義捐金を募集して、一隻の美しい商船を買ひ、 之にチェイアマン號の名を命じて、以て之を渠に贈れり、 唯だ之を贈るときの約束に、渠は必ずアウクランドを以て其の故郷となすべしとのことなりき。 伊範は固より喜んで斯の約束に從ひたり。
圭兒に至ては、武安雅涅韋格等の父母、 各其の家に客とせむと慾して、互に相爭ひしが、 渠は遂に杜番の家に引きとられぬ。 蓋し杜番の一命は、全く渠の介抱によりて救はれたりと謂はむも、 不可なければなり。
餘輩が諸君と共に、斯の十五少年の漂流譚を讀みて、學び得る所の訓へは即ち、 愼慮慈愛勇武の三者有りて、之に兼ぬるに耐忍剛毅の徳を以てすれば、 人生何の難か排すべからざらむ、何の紛か解くべからざらむ、といふことなり。
更新日:2004/02/21