日本国の大困難

内村鑑三

日本国に一つの大困難があります。それは富の不足の困難ではありません。また学問の不足の困難でもありません。法律の不整頓の困難でもありません。農商工の不振の困難でもありません。それはモット深い、根本的の困難であります。その困難があるからこそ、日本の社会は今日のやうな稀代なる状態をあらはしてゐるのであります。しかるに日本人のほとんど総体は、困難をその根本において探らずして、資本の欠乏を歎じ、道徳の衰退を悲しみ、政治家、教育家の腐敗、堕落を憤ってをります。そのことそれ自身が実に慨歎すべきことであります。

日本国の大困難、その最大困難とは何でありますか。私は明白に申します、それは日本人がキリスト教を採用せずしてキリスト教的文明を採用したことであります。これが、わが国今日のすべての困難の根本であります。この大なるアノマリーすなはち違式があるゆゑに、わが国今日の言ふべからざる種々雑多の困難が出て来るのであります。

キリスト教的文明とは、読んで字のごとく、キリスト教によって起こった文明であります。すなはち、キリスト教なくしては起こらなかった文明であります。ゆゑに、キリスト教を学ぶにあらざれば解することのできない文明であります。しかるに日本人はキリスト教的文明を採用して、その根本たり、その起因たり、その精神たり、生命たるキリスト教そのものを採用しないのであります。これは、あたかも、人より物をもらって、その人を知らず、その人に感謝しないと同じことでありまして、かかる不道理なる、かつ不人情なる地位に自己を置いた日本人が、限りなき困難に際会しつつあるのは、最も当然のことであると思ひます。

まづその二、三の例をあげてみませう。日本人は、日新今日の学術なるものは、これはキリスト教のたまものでないどころではない、常にキリスト教の反対を受けて今日に至ったものであるから、これを採用し、これを応用するに、なにもキリスト教にたよるの必要はないと言ってをります。しかし、これ西洋歴史を少しも知らない者の言ふことであります。私は今ここに、大科学者なる者の多数が熱心なるキリスト信者であったことについては語りません。近世科学の草昧時代にあって、万難を排して宇宙の現象の観察に従事したニュートン、ダルトン、ハーシェル、ファラデーの輩が、謙遜なるキリストのしもべであったことについては語りません。しかしながら、よく考へてごらんなさい、何ゆゑに、回教全盛の時代において、トルコやエジプトやモロッコやスペインにおいて培養された科学が、その産出の地においては発育を全うすることができずして、欧州のキリスト教的社会に移されてより繁殖するに至ったのでありますか。何ゆゑに、インド人の鋭き脳髄をもってして、インド半島に科学が起こりませんでしたか。科学なるものは、ほかのものと同じやうに、大科学者の顕出をもってのみ起こるものではありません。これを促し、これを迎へ、これを奨励する社会があって初めて起こるものであります。

ことに科学思想は政治思想と同じく、思想の圧抑のある所に起こるものではありません。偶像崇拝の国に科学の起こらないのは、人の心が受造物に圧せられ、それがために、天然を凌駕し、これを究めんとの心が起こらないからであります。一神教の信仰と科学の勃興との間には深い深い関係が存してゐるのであります。このことを知らないで、知識に富みさへすれば、いづれの国民でも、科学をもって世界に鳴ることができると信ずるのは、実に浅い考へであります。

近世教育なるものが、おほむねキリスト教のたまものであることは、少しく西洋の教育歴史を読んだ人の否むことのできない事実であります。誰もペスタロッツィの伝を読んだ人で、彼が非常に熱心なるキリスト教の信者であって、彼の新教育なるものはみな、深き彼の宗教的観念の中に案出されたものであることを拒む者はないはずであります。フレーベルも同じことであります。ヘルバルトも同じことであります。彼らフレーベルやヘルバルトより、キリスト教の信仰を取り去ってごらんなさい。彼らの始めた教育の精神は取り除かれるのであります。しかるを、今の日本人は、ペスタロッツィ、フレーベル、ヘルバルトの教育法を採用して、その根本たり、原因たり、生命たるキリスト教は、きらってこれを採用しないのであります。日本国の教育が実に異常のものであって、体あるも霊魂なく、四肢あるも脳髄がないやうなものであるのは、全くこれがためであります。

また、われら日本人が世界に向かって誇るその新憲法なるものはどこから来たものでありますか。伊藤博文侯はその憲法注解において、これはわが国固有の制度を新たに制定したるものであると言ってをりまするが、しかし、さうならば、何ゆゑに、明治の今日まで、代議政体が日本国に布かれませんでしたか。また、もしさうならば、何ゆゑに、キリスト教国なるババリアやオーストリアの憲法に深く学ぶところの必要がありましたか。代議政体なるものは元からこの日本国にあったもので、決して西洋から借りたものではないなど言ふのは、あまりに小児らしく聞こえまして、日本憲法を一読した西洋の政治学者にかかることを聞かしたならば、彼らはただ笑ふのみであります。

今日、文明国で唱へるところの、自由であるとか民権であるとかいふものは、決してキリスト教なくして起こったものではありません。自由は世の創始より有ったもので、人類のある所には必ず自由ありなど言ふ人は、いまだ自由歴史を究めたことのない人であります。ローマやギリシャに、古人が唱へてもって自由と称せしものはありましたが、しかしミルトンや、クロンウエルや、ワシントンや、リンカンが唱へた自由なるものはありませんでした。これは実に新自由であります。これはプラトンもソクラテスもカトーもセネカもシセロも知らなかった自由であります。これはすなはち、初めてナザレ人イエス・キリストによって初めてこの世において唱へられた自由でありまして、彼と彼の弟子によらざれば、決してこの世に現はれなかった自由であります。人権におけるも同じであります。人に固有の権利ありとは、人は何びとも、その欲するがままをおこなうてもよいといふことではありません。また人は何びとも、その所有を、おのが欲するままに使用することができるといふことでもありません。権利なるものは言ふまでもなく、責任に付着したる能力でありまして、責任が無くなると同時に、これに付着したる権利は消滅するものであります。さうして人の責任なるものは、神と万有と人とに対する彼の心霊上の関係より来るものであります。神を認めず、不滅の霊魂の実在を認めずして、責任の観念はその土台からくづされ、その結果として、人はただ知能をそなへたる利欲の動物となってしまひます。責任の観念は実に宗教的観念であります。これは科学的に説明することのできるものではありません。これはまた社会を組織するための必要上より人間が定めたものでもありません。責任の観念を堅く維持せんと欲せば、必ず強き宗教の力にたよらなければなりません。

その他、会社組織の原理といひ、信用組合の原則といひ、深くその本を探れば、みな深い道徳的、宗教的の原理がその底にあるのであって、その根底の精神がなくしては会社も組合も決して成り立つものではありません。

しかるに日本の今日はどうでありますか。日本人は西洋人にならってその憲法を制定し、西洋人にならってその法律を編制し、西洋人にならってその教育制度を定めました。しかるに彼らは、西洋文明の精神たり、根底たり、泉源たるキリスト教をきらひ、われにはわが国固有の宗教あり、なんぞこれを外国より借るの要あらんやなどと申してをります。あるいは、学は西洋に則り徳は東洋に取るなどいふ馬鹿を吐いてをります。しかし馬鹿は馬鹿としても、国家はいつまでも馬鹿で押し通すことのできるものではありません。天然には天然の法則なるものがあります。日本人はいかに大なる国民であるにもせよ、天然の法則に勝つことはできません。キリスト教は自己を採用されないとて日本人を罰しはいたしませんが、しかし天然の法則は何の遠慮するところなく、今やきびしく日本人の愚と無情と傲慢とを罰しつつあります。これを日本今日の状態においてごらんなさい。

西洋科学は四十年間、この国において攻究されました。さうして、その医術のごときは、欧米のそれに比べて遜色なきものであると言はれます。しかし退いて考へてごらんなさい。四十年間の攻究の結果として、日本よりどんな科学上の大発見が出ましたか。また哲学上、どんな新学説が出ましたか。発明といへば、みな小なる工業上または薬物学上の発明ぐらゐにとどまり、なんの一つも世界の科学に貢献して恥づかしくないやうなものはわが国の科学社会よりは出て来ないではありませんか。それはそもそも何のためでありませうか。わが国に天性の科学者が無いからでありませうか。または研究の資力が無いからでありませうか。私はさうは思ひません。日本国の科学者や哲学者に、真理に対する愛心が足らないからであります。利益のためにする科学に大発見はありません。名誉のためにする科学に大進歩はありません。道楽のためにする科学は、科学の名にさへ値しないものであります。真理は、すべての利欲心を離れて、真理そのものを愛するにあらざれば、深く探ることのできるものではありません。発明といへばただちにこれに金銭上の利益と社会上の名誉が付随してゐるもののやうに思ふ科学者からは、決して大なる発明は出て来たりしません。これをコペルニクスに聞いてごらんなさい。これをニュートンに糺してごらんなさい。これをダーウィンに尋ねてごらんなさい。彼らはみな一様に答へて申します、「科学は決して商売ではない。これはまた道楽でもない。これは実にまじめなる仕事であって、これに従事せんと欲する者は、苛厳なる主人に仕ふるの心をもってなさなければならない」と。しかるに日本人の科学なるものはいかなるものでありますか。幾多の大学生が工学を修めんとするのは何の目的でありまするか。日本の工学技師ほど卑しい者はないとは、彼らをよく知る者の放つ歎声ではありませんか。日本人の医学なるものはいかなるものでありますか。これは、おもに病人を医して金を作るの術ではありませんか。日本の動物学や植物学はいかなるものでありますか。これは学校の教員となる下ごしらへでなければ、天然界の奇物を探る道楽の一種ではありませんか。日本の哲学なるものはいかなるものでありまするか。これは無理やりに忠君愛国主義を哲学的に弁護せんとするための方便でなければ、また欧米大家の学説を玩味せんとする、これまた道楽学問の一種ではありませんか。日本に科学はあります。すなはち科学の利用はあります。その玩用はあります。しかしながら未発の真理を発見して人類の知識の領土をひろめんとする宏遠なる希望の上に立つ科学は、日本にはほとんど無いと言うてもよいほどであります。日本の科学は実にはなはだツマラないものであります。

その次は日本の教育であります。これは実に世界の見物であります。これほど奇妙なるものは世界にありません。その教育制度たるや、外形上、実にりっばに見えます。これは欧州諸国においてすら、多く見ることのできない制度であるなど誇る、わが国の教育者もあります。しかし、どうでありますか。ヘルバルトが神と書きしところを、これはわが国体に適はずとてこれを削り、その代はりに、天皇陛下と加へしは、いかにも誠忠らしくは見えまするが、しかし、これは彼、大教育家ヘルバルトに対して不忠実きはまる所行でありまして、いやしくも教育家の聖職にあるところの者の、決してあへてなすべきことではありません。しかし堂々たる日本の文部省では、かかる非学者的のことをなすのを少しもとがめず、神の名を削りて、天皇陛下の名を加へしものを、真正のヘルバルト主義の教育学であるとて、これを国民の上に強ひたのであります。

ゆゑに天然はかかる欺騙の罪をゆるしません。すでに虚偽に始まったる日本の教育の虚偽の結果をごらんなさい。教員はだれもまじめに児童を教育せんとはなさず、教育をもって一種の職業と見なし、教育家が地位を探るにあたって、まづ第一に探るものは俸給の高であります。毎年三月下旬より四月上旬にかけて、新学年の始まるころに、全国の師範学校または中学校の校長たちが教員雇ひ入れのために上京するころは、日本の教育界はさながら一種の市場の状態を呈し、何県は何百円で格が安いとか、何府は何百で割りが高いとか、実に教育とは最も縁の遠い事柄をこれら教育商の口から聞くのではありませんか。それのみではありません、かの書肆の教科書運動をごらんなさい。世に言ふ「腐敗屋」なるものは何でありまするか。これは、学校長または教授、教諭、さては視学官などを、あるいは金銭をもって、あるいは酒色をもって、買収せんために、わが国の書肆が使役する運動員の名称ではありませんか。「腐敗屋」!! なんと恐ろしい名ではありませんか。彼は「恭倹おのれを持し、博愛、衆に及ぼし……徳器を成就し、進んで公益を広め」等の皇帝陛下の勅語を国民に教ふるために著はされたる倫理教科書を売りひろめんために、わが国教育者の腑腸を腐らしむるために特別に運動する者であります。さうして日本の教育家はかかる腐腸漢を断然排斥するかといふに、決してさうではありません。喜んで彼らと結托し、彼らの供する利を食らひ、もって彼ら書肆の利を計るではありませんか。この世界に児童の教育が始まって以来、百何十人といふ教育家が収賄の嫌疑のために一時に縛られて牢獄に投げ入れられたといふ例は、いつの世、いづれの国にありますか。ここにおいてか日本にはフレーベル、ヘルバルトの教育はもちろん、教育といふ教育は一つもないことが証明されました。明治政府の施した教育はみなことごとく虚偽の教育であります。これは西洋人が熱祷熟思の結果として得たところの教育を盗み来たって、これに勝手の添刪を加へて施した偽りの教育であります。さうして、その結果は、すなはち、この虚偽の結果が、今日のいはゆる教科書事件であります。神の無い、キリストの無い、キリスト教的教育(日本今日の教育はそれであります)の終はるところは、教育家の入牢であります。知事、博士、学士の捕縛であります。虚偽はすべての罪悪の源であります。ペスタロッツィを欺き、ヘルバルトを欺いた日本の教育は、ここに前代未聞の醜態を呈するに至りました。

もし世にキリスト教が無くとも自由はおこなはれると言ふ人があるならば、その人は日本今日の政治界を見るべきであります。日本国には憲法が布かれてあります。その憲法には日本人の権利自由が保証されてあります。しかしながら日本の政治界には自由はほとんど、おこなはれてをりません。日本人はその代議士を選むにあたって、自由をもってせずして、余儀なき情実をもってします。脅迫にあらざれば情実であります。誘惑であります。日本今日の政治なるものは、これら三個の区域を脱しません。自由、自由意志、正義のほかに何にも屈しない意志、神のほかには何者をも恐れない勇気、利欲を卑しみ、名誉を糞土視し、人望を意に介しない独立心、手に一票を握るをもって、われは天下の権者なりと信ずる自尊の心、そんな貴いものは日本今日の政治界にはほとんど痕跡だもないと言はなければなりません。この国においては、政治は教育のごとく、すべて利益より算出されます。まかぬ種ははえぬと唱へられまして、何びとも資本をおろして、それ相応の利益を収めんとしてをります。代議士に成るのも、会社の株主に成るのも、同じやうに思はれてをります。世に情ない、つまらないものがあるとて、日本今日の政治のごときものはありません。これはすべて、そろばんをもって、前もって計算することのできることでありまして、自由意志を持ったる人間の事業であるとは少しも思はれません。

公法学者として世界に有名なるサー・ヘンリー・サムナー・メイン氏は言ひました、「今日、吾人が称して平民的政治となすものは、その源因を英国において発せしものなり」と。さうして、いつ、何びとによりて、おもにこれが英国において始められしかといへば、もちろん十七世紀の始めごろ、クロンウエル、ミルトン、ハンプデン、ハリーベーン、ピムらによって始められしものであります。さうして、これらはどういふ人であったかと尋ねてみますと、何よりも先に、まづ第一に熱心なるキリスト信者であったのであります。キリスト教なしに、かの大革命は始まりませんでした。さうして、かの十七世紀の革命なしには、米国の独立戦争も、一八四八年の欧州諸邦の大革命もなかったに相違ありません。十八世紀の終はりの仏国革命は、十七世紀の英国の革命のまねごとでありました。ナポレオンは、クロンウエルよりその宗教を取り除いた者であります。ゆゑに今日のいはゆる代議政体または共和政体(二者はその原理において同じものであります。共和政治といへば、なんでも君主の首を斬ることであると思ふのは、歴史学の無学より起こる誤りであります)は、みなその源を十七世紀の英国に発してゐるものであります。さうして十七世紀の英国の革命なるものが宗教的革命でありしことは、少しでも世界歴史を読んだ者の疑ふことのできない事実であります。

キリスト教なしの代議政体、自由制度、これはアノマリーであります。異常であります。違式であります。霊魂のない躯であります。機関をそなへない汽船であります。世に持て扱ひにくいものとて、こんなものはありません。しかるに日本の代議政体はこれであります。実に困ったものであります。

その他、日本今日の商業について、工業について語るひまはありません。ただ一事は火を見るよりも明らかであります。キリスト教なしのキリスト教的文明は、これはこれ、つひには日本国を滅ぼすものであります。この点については、シナやトルコやモロッコは日本よりもはるかに幸福であります。彼らの文物は彼らの宗教にかなってをります。ゆゑに彼らは自己の反対より滅びる恐れはありません。しかし日本国は彼らと異なり、その宗教は東洋的で、その文明は西洋的であるのであります。これは非常の困難でありまして、もし今においてただちにこの不合則を直すにあらざれば、日本国はつひに自己の反対より滅びてしまひます。

ゆゑに、われらの今日なすベきことは何でありませうか。われらは西洋文明を捨てませうか。否、そんなことは決してできません。ゆゑに今よりただちに進んで、西洋文明の真髄なるキリスト教そのものを採用するのみであります。これ日本国の取るべき最も明白なる方針であります。このことは実に難事であります。しかし日本国の青年が釈然としてここに覚るところがあり、憤然として起って、純正のキリスト教をわが国に伝ふるに至りますれば、日本国の将来は少しも心配するに足りません。日本国の愛国者よ、今はキリストのため、日本国のため、全身をキリスト教の伝播に注ぐべきときであります。

(一九〇三年三月『聖書之研究』)
底本『現代日本思想大系5 内村鑑三』
1963年11月10日初版發行
1964年9月30日4版發行
筑摩書房