此書今年を以て発行満三十年に達す。大なる光栄である。感謝に堪へない。
今より三十年前に日本に於て日本人の
丁度其頃の事であつた、米国の学校に於て余と同級生たりし米国人某氏が余を京都の寓居に訪うた。彼れは余に問うて曰うた「君は今何を為しつつある乎」
と。余は彼に答へて曰うた「著述に従事しつつある」と。彼は更に問うて曰うた「何を翻訳しつつある乎」と。余は答へて曰うた「余は自分の思想を
誠に当時の米国人(今も
然るに余は神の
此事初めて出て第一に之を歓迎して呉れた者は当時の『護教』記者故山路愛山君であつた。君は感興の余り鉄道馬車の内に在りて之を通読したりと云ふ。然し其他に基督教界の名士又は文士にして之を歓迎して呉れた者はなかつた。
或ひは「困難の
然し余は教会と教職とに問はずして直に人の霊魂に訴へた。而して数万の霊魂は余の霊魂の
余の執筆の業は此小著述を以て始つた。余は此著を以て独り基督教文壇に登つた。而して教会並に教職の同情援助は余の身に
神は日本人を以て日本国を救ひ給ふと信ずる。神は日本に日本特有の基督教文学を起し給ひし事を感謝する。此書小なりと雖も、外国宣教師の手を離れ、教会の力を
余はまた
心に慰めを要する苦痛あるなく、身に艱難の迫るなく、平易安逸に世を渡る人にして、神聖なる心霊上の記事を見るも、唯人物批評又は文字解剖の材料を探るにとどまるものは、些少の利益をも此書より得ることなかるべし。
此書は著者の自伝にあらず。著者は苦しめる基督信徒を代表し、身を不幸の極点に置き、基督教の原理を以て慰めんことを
此書初めて成るや余は勿論先づ第一に之を余の父に送れり(彼は今は主に在りて雑司ヶ谷の墓地に眠る)。彼れ一読して涙を流して余に告げて曰く、此書成り
て今や汝は死するとも可なり、後世、或は汝の精神を知る者あらんと。余は又其一本を余の旧友M・Cハリス氏に贈りたり(彼は今や美以教会の監督として朝鮮国に在り)。彼れ一読して余に書送して曰く、此書
斯くて余の父と友とに祝福せられて世に出し此小著は彼等の予期に
願ふ、余の慈父と師友との祈祷空しからずして、此著の更に世の憂苦を除き去るの一助として存せんことを。
我は死に就ては生理学より学べり。之を詩人の哀歌に読めり。之を伝記者の記録に見たり。時には死体を動物学実験室に解剖し、生死の理由を研究せり。時には死と死後の有様に就て、高壇より公衆に向て余の思想を
人の死するを聞くや、或は聖経の章句を引用し、或は英雄の死に際する時の
余は知れり、死は生を有するものの避くべからざる事にして、生物界永続の為に必要なるを。且つ思へらく
生命は愛なれば、愛するものの失せしは余自身の失せしなり。此完全最美なる造花、其
愛するものの死せしより来る苦痛は、
然れども余の
之ぞ
医師余の
嗚呼余を医する薬はなきか。宇宙間余を復活せしむるの力は存せざるか。万物
時に声あり胸中に聞ゆ。細くして殆ど聴取し難し。尚ほ能く聞かんと欲して心を
『生は死より強し。生は無生の土と空気とを変じてアマゾンの森となすが如く、生は無霊の動物体を取りて汝の愛する真実と貞操との現象となせしが如く、生は人より天使を造るものなり。
『汝の信仰と学術とは未だ茲に達せざるか。此地球が未だ他の惑星と共に星雲として存せし時、又は凝結少しく度を進めて一つの溶解球たりし時、是ぞ億万年の後シャロンの薔薇を生じレバノンの
『最初の博物学者は
『暗黒時代より自由信仰と代議政体生れ、「三十年戦争」の舞台として殆ど砂漠と成りし
『
然り余は信ず、余の
余が愛するものは死せざりしなり。自然は自己の造化を捨てず、神は己の造りしものを軽んずべけんや。彼の体は朽ちしならん、彼の死体を包みし麻の衣は土 と化せしならん、然れども彼の心、彼の愛、彼の勇、彼の節——嗚呼若し是等も肉と共に消ゆるならば万有は我等に誤謬を説き、聖人は世を欺きしなり。余は如 何にして、如何なる体を以て、如何なる処に再び彼を見るやを知らず。唯
然れども彼は死せざるものにして、余は何時か彼と相会することを得ると雖も、彼の死は余に取ては最大不幸なりしに相違なし。神若し神ならば何故に余の祈
祷を聴かざりしや。神は自然の法則に勝つ能はざるか。或は祈祷は無益なるものなるか。或は余の祈祷に熱心足らざりしか。或は余の罪深きが故に聞かれざりし
か。或は神余を罰せんが為に此不幸を余に
細き声また曰く『自然の法則とは神の意なり。
嗚呼誰か神意と自然の法則とを区別し得るものあらんや。神若し余の愛するものを活かさんと欲せば、自然の法則に依て活かせしのみ。余輩神を信ずるものは
之に由て神に謝す。然れども神を信ぜざる者は或は之を医薬の効に帰し、或は衛生の力に帰し、治癒の
然らば祈る何の要かある。神は祈祷に応じて雨を賜はず、又聖者の祈祷に反して種々の艱苦を下せり。祈らずして神命に従ふに
是れ難問題なり。余は余の愛するものの失せしより後数月間、祈祷を廃したり。祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓ひし余さへも、今は神なき人となり、
嗚呼神よ
余は慈母が、その子
爾無限の慈母も亦余の痛める時に余を愛すること、余の平常無事の時の比に非ざるなり。余の愛するもの失せて後、余が宇宙の漂流者となりし時、其時こそ爾
が爾の無限の愛を余に示し得る時にして、余が爾を捨んとする時、爾は余の
然り祈祷は無益ならざりしなり。十数年間一日の如く朝も夕も爾に祈りつつありしが故に、今日此思はざるの喜びと慰めとを爾より受くるを得しなり。
嗚呼父よ、余は爾に感謝す、爾は余の
自己の
時に悪霊余に告げて曰く『汝祈祷の熱心を以て不治の病者を救ひし例を知らざるか、汝の祈祷の聴かれざりしは汝の熱心足らざりしが故なり』と。
若し然らば余の愛するものの死せしは、余の熱心の足らざりしが故か。然らば彼を死に至らしめし罪は余にあり。余は実に余の愛せしものを殺せしものなり。若し熱心が病者は救ひ得ば、其熱心を有せざる人こそ憐れむべきかな。
余は余の信仰の足らざるを知る。然れども余は余の熱心のあらん限り祈りたり。而して聴かれざりしなり。若し尚ほ余の熱心の足らざるを以て余を責むるものあらば、余は余の運命に安んずるより他に途なきなり。
嗚呼神よ、爾は我等の有せざるものを我等より要求し給はざるなり。余は余の有するだけの熱心を以て祈れり。而して爾は余の愛するものを取去れり。父よ、余は信ず、我等の願ふ事を聴かれしに依りて爾を信ずるは易し、聴かれざるに依りて尚ほ一層爾に近づくは難し。
後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなり。若し我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならんか、爾は必ず我の祈繭を聴かれしならん。
嗚呼感謝す、嗚呼感謝す、爾は余の此大試練に堪ふべきを知りたればこそ余の願を聴き給はざりしなれ。余の熱心の足らざるが故にあらずして、却て余の熱心(爾の恵みに
愛なる父よ、余は信ず爾は我等を罰せん為めに艱難を下し給はざる事を。罰なる語は、爾の如何なる者なるかを知る者の字典の中に存すべき語にあらざるなり。
罰は法律上の語にして、基督教てふ
然れども余に一事忍ぶべからざるものあり。彼は何故に不幸にして短命なりしか。彼の如き純白なる心霊を有しながら、彼の如く全く自己を忘れて彼の愛する
ものの為めに尽しながら、彼に一日も心痛なきの日なく、此世に
聖書に云はずや、地は神を敬するもの為に造られたりと(ヨブ記十五章十九節)。然るに此最も神を慕ひし者は、最もわづかに此世を楽んで去れり。
ブラヂル国の砂中に埋もる大金剛石は誰の為めに造られしや。無辜を虐げ真理を蔑視する女帝、女王の頭を飾る為めにか。或は安逸以て貴重なる生命を消費 し、春は花に遊び秋は月に戲れ、此の神聖なる神の工場(God' Task-garden)を以て一つの遊戯場と見做す懶惰男女の指頭と襟とに光沢を加へん為にか。
東台の桜、亀井戸の藤は、黄白(=お金)の為めに身を汚し天使の形に悪鬼の靈を注入せし妖怪の所有物なるか。
最も清きもの最も愛すべきものには、朝より夕まで、月満ちてより月欠くるまで、彼の視線は一小屋の壁に限られ、聴くべきものとては彼の
此深遠なる疑問に対し答ふる所二個あるのみ。即ち神なるものは存在せざるなり。又は此地球に勝る世界の、義人の為めに備へらるるあるなり。
而して若し神なしとせば真理なし。真理なしとせば宇宙を支ふる法則なし。法則なしとせば我も宇宙も存在すべきの理なし。故に我自身の存在する限りは、此天此地の我
故に理論は余をして、已むを得ず未来存在を信ぜざるを得ざらしむ。若し神はブラヂルの金剛石、ボゴタの
コーノイル、オルロー(共に大金剛石の名)の宝石を以て
然り此地は美にして其富は大なり。然れども
余は了解せり宇宙の此隠語を。此美麗なる造化は我等が之を得ん為めに造られしにあらずして、之を捨てんが為めに造られしなり。否、人若し之を得んと欲せば先づ之を捨てざるべからず(マタイ伝十六章廿五節)。誠に実に此世は試錬の場所なり。
我等意志の深底より世と世のすべてを捨去りて後初めて我等の心霊も独立し、世も我等のものとなるなり。死にて活き、捨てて得る。基督教のパラドックス(逆説)とは此事を云ふなり。
余の愛するものは生涯の目的を達せしものなり。彼の宇宙は小なりき。然れども其小宇宙は彼を靈化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり。然り神は此地を神を敬するものの為めに造り給ひしなり。
余の失ひしものを思ふ毎に、余をして常に断腸後悔殆ど堪ふる能はざらしむるものあり。彼が世に存せし間余は彼の愛に慣れ、時には不興を以て彼の微笑に報
い、彼の真意を解せずして彼の余に対する苦慮を増加し、時には彼を
彼は
一日余は彼の墓に至り、塵を払ひ花を手向け、
『汝何故に汝の愛するものの為めに泣くや。汝尚ほ彼に報ゆるの時をも
『汝若し我に報いんとならば此国此民に
『汝の悲歎後悔は無益なり。早く汝の家に帰り、心志を磨き信仰に進み、愛と善との
嗚呼如何なる声ぞ。曾てパマカスなる人が妻ポーリナを失ひし時、聖ジェロームが彼を慰めん為めに「他の
よし今日よりは以前に勝る愛心を以て余を憐むべきものを助けん。余の愛するものは肉身に於ても失せざるなり。余は尚ほ彼を看護し彼に報ゆるを得るなり。此国此民は、余の愛するものの為めに余に取ては一層愛すべきものとなれり。
一婦人の為めに心思を奪はれ残余の生涯を悲哀の中に送るは、情は情なるべけれども、是れ真正の勇気にあらざるなり。基督教は情性を過敏ならしむるが故に、悲哀を感ぜしむる亦従て強し。然れども真理は過敏の情性を錬り、無限の苦痛の中より無限の勇気を生む者なり。
アナ・ハセルトン女の死は、宣教師ジャドソンをして益々勇敢忠実ならしめたり。メリー・モファト女の死は、探検家リビングストンをして暗黒大陸に進入する事益々深からしめたり。詩人シルレルの所謂
余は余の愛するものの失せしに
然り余は万を得て一つを失はず。神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり。万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。
余の得し所之に止まらず、余は天国と縁を結べり。余は天国てふ親戚を得たり。余も亦何時か此涙の
愛国は人の至誠なり。我の父母妻子を愛する、強ひられて之を為すにあらず、愛せざるを得ざればなり。普通の感能を
鳥獣尚ほ且つ
是れ愛国なり、他にあらず。此の真情は我が靈に附着するものなり。否、我が靈の一部分にして、我の外より学び得たるものにあらざるなり。
「如何にして愛国心を養成すべきや」とは余輩が屢々耳にする問題なり、曰く国民的文学を教ふべし、曰く国歌を唱へしむべしと。然れども人若し普通の発達を為せば彼に心情の開発するが如く、彼の体躯の成長するが如く、愛国心も亦自然と発達するものなり。
義務として愛国を高調するの国民は愛国心を失ひつつある国民なり。考を称する子は孝子にあらざるなり。愛国の空言
故に余は日本国を愛すと云ひて、決て自ら余の徳を賞讃するにあらずして、一人並の人間として余の真情を表白するなり。
余は米国が日本に勝りて富を有し、技芸の盛なるを知る。然れども余は富と技芸との故を以て、余が日本に与へし愛心を米国に与ふること能はざるなり。英国
の政治、伊国の美術、独逸の学芸、
コトパキシの高きは芙蓉の高きに勝ると雖も、後者が余の胸中に喚起する感情の百分の一だも余は前者の為に発する能はざるなり。否、コトパキシを見て却て 芙蓉を思ひ、ミシシピを渡つて石狩利根を想ふ。是れ真情なり。決して余一人の感にあらず。普通一人並の日本男子にして、此感なきものは一人もあるべからざ るなり。
然れども若し愛国が真情なれば、真理と真理の神を愛するも亦真情なり。而して完全なる社会に於ては、二者は決して
斯くの如き社会に於て、人若し国に捨てられしならば、即ち神に捨てられしなり。其時こそ実に人民の声は神の声にして(Vox populi est vox dei)、国に捨てられしとて、天にも地にも訴ふべき人も神も存せざるなり。
余は現在の余自身を以て不完全なるものと認むると同時に、亦今日の社会を以て完全なるものと認むる能はざるなり。而して余の国人に捨てられしは、其罪或
は余にあらん。余の不注意なりし其一なり。余の過激なりしは其二ならん。余の心中名誉心の尚ほ未だ跡を絶たざるあり、慾心も時には其威を
嗚呼今之を言ひて何かせん。斯く記すさへも余が隠に余自身を弁護しつつあるなりと、余の愚を笑ふ者あらん。今は余の口を閉づべき時なり。而して感謝すべきは余は默止し居るを得ることなり。然れども普通の情としては忍ぶべからず。
余は余の国人を後楯となし、力めて友を外国人の中に求めざりき。余は日本狂と称せられて却て大に悦びたり。然るに今や此頼みし頼みし国人に捨てられて、
余は帰るに故山なく、
余の位置は、可憐の婦女子がその頼みに頼みし良人に
此時に当つて、嗚呼神よ、爾は余の
余が国人に捨てられしより後は然らず。余の実業論は何の用かある。誰か奸賊の富国策を聴かんや。余の教育上の主義経験は何かある。誰か子弟を不忠の臣に 委ぬるものあらんや。余は此土に在つて此土のものにあらず。此土に関する余の意見は地中に埋没せられて、余は目もなき口もなき無用人間となり果てたり。
地に属するものが余の眼より隠されし時、初めて天のものが見え始まりぬ。人生終局の目的とは如何、
而して眼を挙げて天上を望めば、栄光の王は神の右に坐して、ソクラテス、パウロ、クロムウェルの輩、数知れぬ程
実に此経験は余に取りては世界文学の良き註解となれり。ヱレミヤの慨歌は今は註解書に依らずして
殊にキリスト彼自身の言行録に至りては、国人に捨てられざるものの
嗚呼余も亦今は世界の市民なり。生を此土に受けしにより、此土の外に国なしと思ひし狭隘なる思想は、今は全く消失せて、小なきながらも世界の市民、宇宙の人と成るを得しは、余が余の国人に捨てられし
然らば宇宙人となりしに由り余は余の国を忘れしか。嗚呼神よ、若し我れ日本国を忘れなば、我が右の手にその
今我れは彼に従ひて真心を尽す能はずとも、若し我が祈祷にして彼を保護するの力あらば、此賎婦の祈祷を受けて彼の
然れども神よ、若し御意ならば我をして再び我夫の家に帰らしめよ。勿論我は爾を捨てて我夫に帰る能はず。是れ爾に対して罪なるのみならず、亦我夫に対し
て不貞なればなり。爾のしろしめす如く我夫に天地の正気の
我れいかでか此夫を欺くべけんや。彼の正気は時に鬱屈することありと雖も、明徳再び光を放つ時は、宇宙に存する渾ての善なるもの渾ての美なるものは、彼の認むる所となるなり。偽善
我は彼の威厳を立てんが為めに我の良心に従はざるを得ず。唯願ふ神よ、若し彼に誤解あらば爾の聖霊の力に依りて之を氷解せよ。若し彼に迷信の存するあら
ば爾の光を以て之を排除せよ。而して我れ再び彼に帰し、彼れ再び我と和し、旧時の団欒を回復し、我も亦彼の
余は知る、誤解の為めに別れし夫妻の再び
嗚呼余は良人を捨てざるべし。孤独彼を思ふの切なるより余の身も心も消え行けど、
人は集合動物(gregarious animal)なり。単独は彼の性にあらず。白鷺の如く独り曠野に巣を結び、痛烈なる悲声、聞くものをして戦慄せしむる動物あり。
然れども人は水産上国家の大富源なる
余はこの不信国に生れ、余の父母兄弟国人が嫌悪せる
然れども一たびその大道を耳にしてより、これを以て自己を救ひ国を救ふ唯一の道と信じたれば、社会に嫌悪せらるるにも関せず、余の親戚の反対するをも意
とせず、幾多の旧時の習慣と情実とを破りて新宗教に入りしことなれば、寂寞の情は以前に倍せしと同時に、又同信者に対する親愛の情は実に骨肉も
当時余は思へらく、基督教会なるものは地上の天国にして、其内に猜疑憎悪の少しも存する事なく、未信者社会に於ては万事に懸念し、心の存せざる事を言 ひ、存する事を言はざるも、此新社会に於ては全教会員が皆心霊に於ける兄弟姉妹なれば、骨肉にも語り得ぬ事を自由に語るを得、若し余に失策あるとも誰も余 の本心を疑ふものはなきことと確信し、其安心喜楽は実に筆紙に尽し得ぬ程にてありき。
嗚呼なつかしきかな余の生まれ出でし北地
偶々
然れども此小児的の観念は、遠からずして破砕せられたり。余は基督教会は善人のみの団体にあらざるを悟らざるを得ざるに至れり。余は教会内に於ても気を
許すべからざるを知るに至れり。
余は基督教の必要なる本義として、左の大個条を信ぜり。即ち
(
而して余は神と真理とを知る唯一の途としては、使徒パウロの語にして、ルーテルが彼の信仰の城壁と頼み、プロテスタント教会の基礎となりし左の聖語に依れり。即ち
兄弟よ、我れ汝等に示す、我が曾て汝等に伝へし所の福音は人より出づるにあらず、蓋しわれ之を人より受けず亦教へられず、惟イエスキリストの黙示に由りて受けたればなり。
(ガラテア書一章十一、十二節)
之等の確信が余の心中に起りたればこそ、余は意を決して余の祖先伝来の習慣と宗教とを脱して、新宗教に入りしなれ。余は心霊の自由を得んが為に基督教に帰依せり。僧侶神官を捨てしは、他種の僧侶輩に束縛せられんが為めにあらざりしなり。
宇宙の神を以て余の真の父と
然るに余の智能の発達するに従ひ、余の経験の積むと共に、余の信仰の進むと同時に、余の思想並に行為に於て屢々かの基督教先達者、この神学博士と意見を全く同うするを得ざるに至れり。
或は余の一身を処する上に於て、忠実なる一信徒より忠告を蒙るあり。曰く「君の行為は聖書の明白なる教訓に反せり、君宜しく改むべし」と。親愛なる友人 の忠告として余は二度三度己に省みたり。然れども沈思黙考に加ふるに祈祷と聖書研究の結果を以てし、而して後友人の忠告必しも真理ならずと信ずる時は、已 むを得ず自己の意志に従ひたり。
友人は余を信ずるを以て敢て余の彼が言に従はざるを
余の神学上の思想に就ても、余の伝道上の方針に就ても、余の教育上の主義に就ても、余は余の真理と信ずる所を固守するが為めに、或は有名博識なる神学者
に遠ざけられ、或は基督教会内に於て非常の人望を有する高徳者より無神論者として
嗚呼余は大悪人ならずや。余は人も我も博識と認めたる神学者に異端者と定められたり。余は実に異端者にあらざるか。余に先んずる十数年以前より基督教を 信じ、而も欧米大家の信用を博し、全教会の頭梁として仰がるる某高徳家は余を無神論者となりと云へり。余は実に無神論者にあらざるか。
名を宗教社会に轟かし、印度に支那に日本に福音を伝ふる事十数年、而も博士の号二三を有する老練なる某宣教師は、余をユニテリアンなりと呼べり。余は実に救主の贖罪を信ぜず自己の善行にのみ頼むユニテリアンならざるか。
伝道医師として有名なる某教師は、余は狂人なりとの診断を下せり。余は実に知覚の狂ひしものなるか。
教会全体は危険人物として余を遠ざけたり。余は実に悪鬼の使者として
余を悪人視するものは万人にして、弁護するものは己一人なり。万人の証拠と一人の確信の何れが重きや。然らば余は基督信者にはあらざりしなり。余は自己 を欺きつつありしものにして、余の真性は悪鬼なりしなり。何ぞ今日よりは基督信徒たるの名を全く脱して普通世人の生涯に帰らざる。
否、之に止まらずして、余の今日迄基督教のために尽せし信実と熱心とを以て、余を敵視する基督教会を攻撃せざる。何ぞ余の
此時に方つて余の信仰は実に風前の
余はジョン・スチュアト・ミルの死を聞いて神に感謝せし某監督の無情を怒れり。トマス・ペーンの臨終の状態を指摘して意気揚々たりし神学者の暴慢を
嗚呼幾許の無神論者は基督教会自身の製出になるや。余は曾て聞けり、無病の人を清潔なる
然れども神よ、我が救主よ、爾は此危険より余を救ひ給へり。人、聖書を以て余を攻むる時、之を防禦するに足る武器は聖書なり。教会と神学者は余を捨つるも、余の未だ聖書を捨つる能はざるは余が未だ爾に捨てられざる徴候なり。
余は爾の
嗚呼何たる快ぞ。余も亦不充分ながらもイエスの名を世人の前に表白せしにあらずや。余も亦余の罪より
余の信者なると不信者なるとは他人の批評如何に由るにあらずして、余にイエスの印記あるとなきとに由るなり。「義人は信仰に依て生くべし」(三章十一節)と。然り余は今は自己の善行に依らずして、十字架上に現れたる神の小羊の贖罪に頼めり。此信仰こそ余が神の子供たる証拠なれ。
キリストを十字架に
ヨブの友等はヨブの不幸艱難を以て彼の悪人たるの証拠となせり。然れども神は彼の三人の友に勝りてヨブを愛し給ひしにあらずや。人をして衆人の
余は聖書を捨てざるべし。他の人は彼等に抗せん為めに聖書を捨て、聖書を攻撃せり。余は余の弱きを知れば聖書なる鉄壁の後に隠れ、余を無神論者と呼ぶも
の、余を狼と称するものと戦はんのみ。何ぞ此堅城を彼等に譲り、野外、防禦なきの地に立ちて、彼等の無情、浅薄、狭量、固執の矢に此身を
時に悪霊余に告げて曰く『汝未だ若年、経験積まず、学修まらず。何ぞ汝の身を先達、老練家の指揮に任せざる。自己の言行を以て最良なるものと見做すは平 凡人のなす処にして、汝が他人の言を容れざるは是れ汝が高慢不遜なるの証拠なり。汝は自己を以て最も才智ある、最も学識ある、最も経験あるものと為すや』 と。
余は余の無学無智なるを知る。又大監督、神学博士の盛名決して軽んずべからざるを知る。然れども余の無学なるが故に余の身も、信仰も、働きも是等高名の 人の手に任すべしとならば、余は未だ自己を支配する能はざる者なり。余にして若し是と彼とを分別するの力なきならば、余は誰に由て身を処せんや。
見よ彼等余の不遜を責むるものも、又相互に説を異にするにあらずや。監督教会は自己の教会を称して The Church(唯一の教会)と云ひ、一方には
余は組合派の教師が余が最も尊信するメソヂスト派の教師を罵詈するを耳にせり。ユニテリアンはオルソドックスの迷信を
其他長老派の固陋なる、浸礼派の独尊なる、或は「クリスチャン」派とか、新ヱルサレム派とか、ブラダレン派とか、各々其特殊の教義を揚言し、自派を賞讃して他派を蔑視するにあらずや。
博識才能、何ぞ一派の専有物ならんや。余にして若し自ら自己の信仰を定むる能はずとならば、余は果して何れの派に己を投ずべきか。カーヂナル・マニング が天主教会(=カトリック)の高僧なりしが故に余は法王の命に従ふべきか。監督ヒーバー、ヂーン・スタンレーが英国監督派なりしが故に余は監督教会に属す るべきか。ジャドソンが浸礼教会の人なりしが故に余は「バプチスト」たるべきか。リビングストンが長老教会の人なりしが故に余も亦彼と教派を同うすべき か。
若し人物を以て余の教会上の位置を定むべしとならば、余はユニテリアンたるべきなり。何となれば、余の最も尊敬するチャニング、ガリソン、ローエルの如き人はユニテリアン教に属したればなり。
余はクェーカーたるべきなり。何となればジョージ・フォクス、ウィリヤム・ペン、スチーベン・クレレット、ウィスター・モリス等の人々はクェーカー派に属したればなり。
余は普通基督教徒が論ずるに足らざるものと見做す所の小教派の中にも、
心霊の貴重なるはその自立の性にあり。我れ
嗚呼真理なる神よ、願くは余をして永久の愛に於て爾と一ならしめよ。余は時々多くの事物に関して読み且つ聞くに
他人の忠告決して軽んずべきにあらず。人は自身の
人は殊更に能くその申分を判別し得べしとの観念は、必しも自己に対する偏頗心にのみ因るにあらずして、公平なる理由の
余は日本人なり。故に日本国と日本人とに関しては、余は英国の碩学よりも米国の博士よりも、より完全なる知識を有するものにして、此国と此民とを教化せんとするに方つては、余は彼等に勝りて確実なる思想を有する事は当然たるなり。
余はアイヌ人の国に至れば、余のアイヌ人に勝る学識を有する故を以て、アイヌ人に関するアイヌ人の思想を軽んぜざるなり。余は小径を山中に求むる時は、余の地理天文に達し居るの故を以て
余の国と国人とに関して余が外国人の説を悉く容れざるは、必しも余の傲慢なるが故にあらず。日本は余の
利害の大関係ある余の自国に関する余の観念は、他国人の此国に対する観念よりも健全にして確実なりと信ずるは、決して自身を賞揚するの甚しきものと云ふべからざるなり。
又余の一身の処分に就ても、余は余自身の事に関しては最大最良の専門学者なり。神の靈ならでは神のことを知るものなし。余の靈のみ能く余のことを知るなり。余の神に対する信仰また然り。余に最も近く且余の最も知り易きものは神なり。哲学者ライプニッツ曰く。
吾人の心霊以外のものにして吾人の直接に之れを識認し得るものは神のみ。吾人が感能を以て知り得る外物はただ間接にのみ能く之れを認め得べし。
余は余の神を知るに於ては、プロテスタント教徒全体が羅馬法王の取次を要せざるが如く、監督又は「デヤコ」又は牧師又は執事の取次を要せざるなり。
反対論者曰く、若し君の説の如くならば教会の用
教会なるものは神の子供の集合体にして、無私、公平、仁愛、慈悲の凝結する所なり。真正の信徒ありて教会あるなり。教会ありて信徒あるにあらず。信徒は自然に教会を造るものなり。恰も同じ幹より
人は真理を知るの力を有し、直に神のインスピレーションに接するを得るものなりとは、余が基督教の根本原理として信ずる処なり。真理は真理の証明者な り。教会必しも真理の証明者に非ざるなり。教会は真理を学ぶに於て善良なる助なるべけれども、真理は教会外に於ても学び得べきものなり。
聖書無誤謬説の破壊は、我等をして外形的並に器械的の基礎を捨てしめ、手にて触るる能はざるもの、定義を付する能はざるものとして我等が初め恐怖せし聖霊の土台に頼らざるを得ざらしむるものなり。
(リューエリン・デビス教師の語)
教会無誤謬説も聖書無誤謬説と同じく、中古時代の陳腐に属せる遺物として、二十世紀の人心より棄却すべきものなり。
是れ理論なり、然れども世は未だ理論の世にあらざるなり。愛憎は理論的にあらず、人は服従を愛して抵抗を憎むものなり。仮令余は理論上確実なるにもせ よ。余の先輩と説を同うせず其指揮に従はざれば、余は其保護の下に置かれざるは決して怪むべきにあらざるなり。余は教会に捨てられたり。余は余の現世の楽 園と頼みし教会より勘当せられたり。
嗚呼神よ、此試煉にして余の未だ充分に爾を知らざる時に来りしならば、余は全く爾の手より離れしならん。然れども爾は余に堪ふる能はざるの試煉を降さ ず。教会は余が自立し得る時に方つて余を捨てたり。教会が我を捨てし時に爾は我を取り挙げたり。余の愛するもの去つて余は益々爾に近く、国人に捨てられて 余は爾の懐に入り、教会に捨てられて余は爾の心を知れり。
教会が余を捨てざりし前は、余は教育外の人を見る実に不公平なりき。余は思へらく基督教外に善人なしと。余は未信徒を以て神の子供と称すべからざるものと思へり。
然るに教会が余を冷遇し、其教師信徒が余の本心をさへ疑ひし時、教会外の人にして却て余の真意を諒察するものありしを見て、余は天父の慈悲の尚ほ多量に
未信者社会に存するを悟れり。又教会外に立ちて教会を見る時は、神意の教導に由て歩む仁人君子の集合体と思はるるも、一度其内に入りて見れば猜疑、偽善、
尖塔天を指して高く、風琴楽を奏して
嗚呼神の教会を以て白壁又は赤瓦の内に存するものと思ひし余の愚さよ。神の教会は宇宙の広きが如く広く、善人の多きが如く多し。余は教会に捨てられたり、而して余は宇宙の教会に入会せり。余は教会に捨てられて初めて寛容の美徳を了知するを得たり。
余が小心翼々として神と国とに事へんとする時に当つて、余の神学上の説の異なるより教会は余の本心と意志とに疑念を懐き、終に余を悪人と見るに至れり。
嗚呼余は余が他人に
若し某氏の宗教事業の盛なるを聞けば曰く、彼れ世人に
然れども教会に捨てられてより余の眼は開き、余の推察の情は頓に増加せり。所信を異にしても人は善人たるを得べしとの大真理を余は此時に於て初て学び得たり。真理は余一人の有にあらずして、宇宙に存在する凡ての善人の有たることを知れり。
心の奥底より天主教徒たる人を余は想像し得るに至れり。良心の充分の許可を得てユニテリアンたり得ることを余は疑はざるに至れり。余は初めて世界に宗教の多き理由と、同一宗教内に宗派の多く存在する理由とを解せり。
真理は富士山の壮大なるが如く大なり。一方より其全体を見る能はざるなり。駿河より見る人は云ふ、富士山の形は斯くなりと。甲斐より見る人は云ふ、斯く なりと。相模より見る人は云ふ、斯くなりと。駿河の人は甲斐の人に向て、汝の富士は偽りの富士なりと云ふべけんや。若し自ら甲斐に行きて之を望めば、甲州 人の言の無理ならざるを知るべし。
人間の力弱きこと真理の無限無窮なる事とを知る人は、思想の為めに他人を迫害せざるなり。全能の神のみ真理の全体を会得し得るものなり。他人を議する人は己を神と同一視するものにして、傲慢でふ悪魔の
己れ人に施されんとする事を亦人にも其如く施せよ。余は無神論者にあらざれど余は無神論者と視られたり。余はユニテリアンならざるにユニテリアンとして 遠ざけられたり。余を迫害せしものは、余の境遇と教育と遺伝とを知らざるが故に、余の思想を解する能はずして、余が彼等と同説を維持せざるが故に余を異端 となし、悪人となせり。
余は今より後、余と説を異にする人を見るに
教会に捨てられしものは余一人にあらざるなり。
会堂にありし者是れを聞きて天に憤り、起ちてイエスを
(ルカ伝四章廿八、廿九節)
キリストに依て眼を開かれしものも、教会より放逐せられたり。
彼等答へて曰ひけるは、爾は
(ヨハネ伝九章卅四—卅八節)
ルーテルも放逐せられたり。ロージャ・ウィリアムスも放逐せられたり。リビングストンが直接伝道を止めて地理学探検に従事せしが故に、英国伝道会社の宣
教師たるを辞せざるを得ざるに至りし如く、又かの支那に於ける米国宣教師クロセット氏が普通宣教師と異なる方法を採り、北京の窮民救助に従事せしに因て、
終に本国よりの補給を絶たれ、支那海に於て貧困の中に下等船室内に於て死せしが如く、或は師父ダミエンが生命を
イエスは我よりも いたくせめらる。
然れども嗚呼神よ、
故に余は余を捨てし教会を恨まざるなり。其内に仁人君子の存するありて、その爾の為に尽せし功績の決して鮮少ならざることは、余の充分に識認する所なり。其内に偽善、圧制、卑陋の多少横行するにもせよ、之れ爾の御名を奉ずる教会なれば我何ぞ之を敵視するに忍びんや。
余の心、余の祈祷は常に其上にあるなり。余はリベラル(寛大)なりと称する人が、自己の如くリベラルならざる人を目して迷信と呼び、狭隘と称して批難するを見たり。願くは神よ、余に真正のリベラルなる心を与へて、余を放逐せし教会に対しても寛容なるを得しめよ。
余は無教会となりたり。人の手にて造られし教会は、余を今や之を有するなし。余を慰むる讃美の声なし。余の為めに祝福を祈る牧師なし。然らば余は神を拝し神に
かの西山に登り、広原沃野を眼下に望み、俗界の上に立つこと千仞、独り無限と交通する時、軟風背後の松樹に讃歌を弾じ、頭上の
然れども余も社交的の人間として、時には、人為の礼拝堂に集ひ衆と共に神を讃め共に祈るの快を欲せざるにあらず。教会の危険物たる余は、起ちて余の所感を述べ他を勧むるの自由なければ、余は窃かに座を会堂の一隅灯光暗き処に占め、心に衆と共に歌ひ、心に衆と共に祈らん。
異端の巨魁たる余は、公然高壇の上に起ち粛然福音を宣べ伝ふるの特権を有せざれば、余は
嗚呼神よ、余は教会を去りても爾を去る能はざるなり。教会に捨てらるるは不幸は不幸なるべけれども爾に捨てられざれば足る。願くは教会に捨てられしの故を以て余をして爾を離れざらしめよ。
基督教は人を真面目になすものなり。青年之に由て已に老成人の思想あり。少女之に由て已に老媼の注意あり。そは基督教は人をして物の実を求めしめて、そ の影を軽んぜしむるものなればなり。小説の嗜読、芝居の見物は、変じて歴史の攻究、社会の観察となり、野望的の功名心は変じて沈着なる事実の計画となり、 自己尊大の念は公益増進の志望と変じ、「如何にして此国と此神とに事へんか」との問題に就て、日も夜も沈思するに至る。
--Milton,Paradaise Regained.
人の事業心を喚起するものは基督教なり。事業と宗教とは
カーライルの所謂 peasant-saint(農聖人)、即ち手に鋤を取りながら心に宇宙の大真理を蓄ふる人、是れ基督教の理想的人物にして、キリスト亦彼自身も僻村ナザレの一小工なりしなり。
余も亦基督信徒となりしより、芝居も寄席も競馬も悉く旧来の味を失ひ、独り事業てふ念は
或は
或は独のシュワルツ(Christian Friedrich Schwartz)を学び、未開国の教導師となり、仁愛の基礎の上に其国是を定めんか。或は英のウィリアム・ペンを学び、荒蕪を開き蛮民を化し、純然たる 君子国を深林広野の中に建立せんか。或は米のピーボデーを学び、貧より起りて百万の富を積み、孤を養ひ、寡を慰め、以て大慈善の功績を挙げんか。
言ふを休めよ、基督教に世の快楽なしと。此希望、此計画——嗚呼実に余は余の生涯の短きを歎ぜり。事業、事業、国のための事業、神のための事業——嗚呼世に快と称するものの中、何物か此快楽に優るものあらんや。
余は嘗て思へらく、自己のために富貴たらんことを祈るは罪なり、神は必ず斯くの如き祈祷を受け給はざるべし。名誉を得んがための祈祷も亦然り、然れども他を益せんがために祈ることは神の最も歓び給ふ所にして、かかる祈祷は必ず聴かれ、その事業は必ず成功するに至らんと。
依て万事を打捨てて余の神聖なる希望を充たさん事を努めたり。勿論基督信徒として、余は世に媚び高貴に
此時は実に余に取り最も多望なる、最も愉快なる時なりき。余の前途に妨害なるものなく、余の心中に失敗なる文字の存するなし。余は宇宙の神を信じ万人の為に大事業を遂げんと欲す。成功必然なり。
見よ、世の事業家の失敗するは、自己のために計りて栄光の神を信ぜざるに由る。余は然らず。余の事業は公益のため、神のためなり。若し余にして失敗するならば神は存せざるなり、真理は誤謬なり。
然るに余の愛する読者よ、余は失敗せり。数年間の企画と祈祷とは画餅に帰せり。而して余の失敗より来りし害は余一人の身に止まらずして、余の
余は世間の嘲弄を蒙れり。友人は余の不注意を責め、余の敵は余の不幸を快とせり。悪霊此機に乗じ余に
『汝無智のものよ、方便は事業成功の秘訣なるを知らざるか。精神のみを以て事業を為し遂げ得べしと
『摂理は常に強大なる軍隊と共にありとのナポレオン第一世の語は、実に事業家の標語たるべきものなり。見よ、某牧師は常に正義公道の利益を説くと雖も、彼れ自ら会堂を新築し教理を伝播せんとするや、必ず世の方法を取るにあらずや。
『正義公道とは天使の国に於ては実際に行なはるべけれども、此人間世界に於ては多少の方略を混合するにあらざれば、決して行はるべきものにあらず。汝今
日より少しく
『且又汝の益せんとする公衆も、汝の方法を改むるにあらざれば汝より益を得る事なし。汝何ぞ国のため、汝の愛する妻子のために忍ばざる。神は汝より無理の要求を為さず。方略は今の世の必要物なり。方略と虚言とは自ら異る処あり。汝解せしや否や』と。
嗚呼誰か此巧みなる論鋒に敵するものあらんや。事実は確実なる結論なり。余は経験に依て正義公道の無効力なるを知れり。悪霊の説諭これ天よりの声ならずや。我等は経験に依てのみ事物の真相を知るを得るなり。
而して経験は余の希望に反せり。
時に声あり内より聞ゆ。其調子の深遠なる、永遠より響き来るが如し。其威力ある、宇宙の主宰者の声なるが如し。余の全身を震動せしめて曰く『正義は正義なり』と。而して後粛然たり。
嗚呼如何にすべきや。誰か此声に抗するものあらんや。然らば
人生の目的は事業にあらざるなり。事業は正義に達するの途にして、正義は事業の
基督教は事業よりも精神を貴ぶものなり。そは精神は死後永遠まで存するものにして、事業は現世と共に消滅するものなればなり。支那宣教師某四十年間伝道に従事して一人の信徒を得ず、然れども喜悦以て世を
否。師父ザビエーは東洋に於て百万人以上に洗礼を施したりと雖も、恐くは現世より得し真結果に至つては此無名の一宣教師に及ばざりしならん。嗚呼事業よ、事業よ、幾許の偽善と、卑劣手段と、嫉妬と、争闘とは汝の名に
嗚呼然るか。然らば余の失敗せしは必しも余の罪にあらず。亦神の余を見捨て給ひし証拠にもあらず。亦余の奮励、余の祈祷の無益なるを示す者にも非ざるなり。
然り、若し正義が事業の目的ならば、正義を発表するに於て、正義を維持するに於て最も力ありし事業こそ、最も成功せし事業なれ。基督教の主義より云へば 正義是れ成功と云ふ。正義を守る、是れ成功せしなり。正義より戻る、又正義より脱する(仮令少しなりとも)、之を失敗と云ふ。
仁政之れを成功せる政治と云ふ。所謂政治家の術を学び、是と和し彼と戦ひ、是に媚び彼と絶つが如きは、如何に外面上の国威を装ふにもせよ、これ失敗せる政治なり。
義人は信仰に依りて生くべし。兵器軍艦増加せし故に成功せりと信ずる政治家、教場美にして生徒多きが故に成功せりと信ずる教育家、宏壮なる教会の建築
彼等は玩弄物を
さてイエス聖霊により導かれ悪魔に試みられん為に野に往けり。四十日四十夜食ふことをせず後うゑたり。試むるもの彼に来たりて曰ひけるは、爾もし神の子ならば命じて此石をパンと為よ。
イエス答へけるは、人はパンのみにて生くるものにあらず唯神の口より出づる
イエス彼に曰ひけるは、主たる爾の神を試むべからずと亦
イエス彼に曰ひけるは、サタンよ退け、主たる爾の神を拝しただ之にのみ
キリストすでに
然れども如何にして此世を救はんか、是れキリストを野に往かしめし問題なりき。(
彼れ餓ゑたり。而して後、世界億千万の民の食足らずして饑餓に苦しむを推察せり。キリスト思へらく『我は慈善家となりて貧民を救はん。我に土石を変じてパンとなすの力あり。億万の空腹
慈善家たるの念を断ち、彼一日
然れども天よりの声は曰く『真理は
キリストは慈善家たらざるべし。彼は方便を使用し民の耳目を驚かして世を救はざるべし。然れども彼れ一日高き山に登り、眼下に都府村落の散布せるを見、 国土を神の楽園と為し得べきを思ひしや、彼の胸中に浮びし救世の大方策は、彼れ大政治家となりて社会改良を遂げんとするにありき。
彼れ思へらく、我に世界を統御するの才能あり、我れ一挙して羅馬人を放逐し、神の特殊の選択にかかる猶太民族を率ゐ、世界を化して一大共和国となし、仁を施し民を撫育し、以て真正の地上の天国を建立せんと。
然るに彼の良心は此高尚なる希望をも彼に許さざりき。社会改良事業は正義堂々、主義一歩も譲らざるものの為し遂げ得べきものにあらず。必ず彼に伏し是を拝し、円転滑脱の政策を取らざるを得ず。
然り我は主義にのみ頼り救世の事業を実行せんのみ。サタンよ退け、汝の巧言を以て我を
キリストの決心茲に於て定まり、生涯の行路彼に指示せられたれば、悪魔は彼を説伏するに由なくして、終に彼を去り、天使来りて彼に事へたり。
キリストの方向ここに定まりて、彼の生涯は実にこの決定の如くなりき。彼は衆人の饑餓を充たし得ざりしのみならず、彼の死せんとするや、彼の母をさへ其弟子に依託せざるを得ざるに至れり。
天下の名望は一として彼に帰するなく、彼は悪人として、神を
然れども此人こそ世界の救主にして、神の独子、人類の王にあらずや。実に然り、霊魂を有する人類には事業に勝る事業あるなり。世の事業を以て汲々たる信者は、宜しく事業上に於けるキリストの失敗に注目せざるべからず。
若しキリストにして慈善家たりしならば如何。ジョージ・ピーボデー(George Peabody)に勝り、スチーブン・ジラード(Stephen Girard)に勝り、百千万の貧民孤児は彼の救助に与りしならん。
然れども、彼が曾て「ヤコブの井戸の清水を飲むものはまた渇かん」とサマリヤの婦人に教へしが如く、彼が曾て五千人を一時に養ひし時多くの人はパンを得 んがために彼の跡に附き従ひしが如く、永遠かわくことなき水、永遠餓うることなきパンを彼は此世に与へ得ざりしならん。世には貧民に衣食を給するに勝る大 慈善あり。エマソン曰く、
人もし我に衣食を給するも、我は何時か之に対して充分なる
見ずや彼の愛に励まされて、幾多の慈善家が彼の信徒の中に起りしを。ジョン・ハワード、サラ・マーチン、エリザベス・フライ等の監獄改良事業は、全く彼 等のキリストに対する報恩心より発せしものにあらずや。ウィリアム・ウィルバフォース(William Wilberforce)並にシャフツベリー侯の慈善事業も亦然り。著者曾て米国に在りて、基督教国に於ける慈善事業の盛なる、実に東洋仏教国に於て予想 だもする能はざる所なるを見たり。
救霊上善行に価値を置かずして、善行を励ますに最も力ありしものは基督教なり。比較上現世は殆ど顧みるに足らざるものと見做して、現世を救ひ之れを進歩せしめしに於て最も功ありしものは基督教なり。キリスト若し慈善家たりしならば、彼の慈善事業は知るべきのみ。
キリスト若し名望方便を利用して民を教化せしならば如何。基督教は永遠まで人霊を救ふの潜勢力を有する宗教たり得ずして、仏教の今日あるが如く早く既に 衰退時代に入りしならん。方便必ずしも明白なる虚偽にはあらず。然れどもキリストの「否な否な、然り然り」の大教理は、方便てふものの効用を全く否定した り。
基督信者にして名望家に依て教理を伝へんとするもの、学識爵位を以て下民の尊敬を基督教に
キリスト方便を
キリスト若し大政治家たりしならば如何。彼はシーザアに勝りシャーレマンに勝り、時の羅馬帝国を統一し、奴隷を廃し、税則を定め、堯舜の世、アウガスタ スの黄金時代に勝る楽園国を地上に建てしならん。然れどもこれ此世に於ては、彼の「否な否な、然り然り」の直道を以て実行し得べきものにあらず。
かのピートル大帝は巨人なり、然れども誰か彼を以て君子仁人となすものあらんや。フレデリック大王も亦絶世の建国者なり、然れども誰か彼を以て人類の模範として仰ぐものあらんや。キリストは万世に至るまで此世を救ふべきものなれば、彼は政治家たるべからざりしなり。
想ひ見る、十八世紀の終に方つて仏蘭西に内乱の起るや、王室は人民の多数と共に天主教を奉じ、加ふるにギース家の
彼れ年若くして武勇に富み、而も仏王ルイ九世の正胤にして、王位を践むべき充分の權利と資格とを有せり。然れども彼れプロテスタント教徒たるが故に此栄位に達するを得ず、僅かに微弱なる反対党の大将となり、屢々忠実なる彼の小軍隊を以て敵の大軍を苦しめたり。
彼は彼の党を愛し、彼れ亦彼の党に愛せられたり。然るに一日彼れ心中に思へらく『我れ此党を率ゐて全国に抗し、戦乱止む時なく、国民塗炭に苦しむ茲に十
数年。我の忠実なる兵卒にして、我の為めに
嗚呼かれは此誘惑に打負けたり。彼は仏国のため士卒のために一歩を譲り、天主教徒の請求を容れ、ヒューゲノー党を脱し、羅馬法王に対して罪の懺悔を為し、終に仏王として承認せられるに至れり。
彼の退譲は彼の胸算に違はざる結果を生じ、彼の王位は鞏固となり、国内平穏に帰し
彼の治世は仏国の中興として見るべきものなり。殖産事業の進歩、財政の整頓、外国に対する勢威、共にヘンリー王の事蹟として文明諸国の賞讃する処となれり。然れども彼の仏国のために尽せしは惟一時の治安策なりき。
かれ死するや、リシェリヤ、マザリンの下に仏国は威光を欧洲に耀かせしも、これ皆外貌の虚飾にして、内には
ヘンリーは一時を救はんとして毒を千載に流せり。嗚呼若し彼にしてキリストの如く悪魔の巧言を斥けしならば、仏国二百年の争闘流血を避け得しものを。ヘンリーは仏国を愛して之を愛せざりしなり。
仏の大王ヘンリーに対して、英の無冠王クロムウェルあり。彼も亦権力が精神と相争ふのときに生れ、身を民権自由に委ね、英国民の全世界に対する天職を認め、十七世紀の初めに方つてキリストの王国を地上に来らせんとの大理想を実行せんとせり。
百難起りて彼の進路を妨ぐと雖も、かれの確信は毫も動くことなく、終に不充分ながら、英国を化して公義と平等とに
然れども英国民は未だ悉く彼れ無冠王の大理想を有せず、彼の心霊的の政治は肉慾的の普通社会を歓ばさず、反対終に四方に起り、彼はただ独り
然れども彼の理想と信仰とは確乎として動かず、彼は彼の事業の永続すべからざるを知ると雖も、尚ほ彼の最初の理想に向つて進み、内乱再起の徴あるをも顧みず、勝算全く絶えしにも関せず、終生主義を貫徹して死せり。
彼が世を去るや彼の政府は直に転覆され、彼の屍は
小人は皆云へり、
クロムウェルありしが故に、英国は十八世紀の革命なかりしなり。仏王ヘンリーの退譲は仏国民一百年間の堕落と流血とを招き、クロムウェルありしが故に英国民は他欧洲国民に先だつ百年、既に健全なる憲法的自由を有せり。クロムウェルは実に英国を愛せし人なり。
楠正成の湊川に於ける戦死は、決して
南朝は彼の戦死に由て再び起つ能はざるに至れり。彼の事業は失敗せり。然れども彼れ死して後五百歳、徳川時代の末期に至て、蒲生君平、高山彦九郎の輩をして皇室の衰頽を歎ぜしめ勤王の大義を天下に唱へしめしに於て、最も力ありしものは忠臣楠氏の事蹟にあらずして何ぞや。
ボヘミヤのフッス将に焼殺されんとするや、大声叫んで曰く「我れ死する後千百のフッス起らん」と。一楠氏死して明治の維新に百千の楠公起れり。楠公は実に七度人間に生れて国賊を滅せり。楠公は失敗せざりしなり。
キリストの十字架上の恥辱は、実に永遠にまで亙る基督教勝利の原動力なり。キリストの失敗は実に基督教の成功なりしなり。
然らば余も失敗せしとて何ぞ落胆すべき。何ぞ失敗せしを感謝せざる。義の為めに失敗せしものは、義の王国の土台石となりしものなり。これ後進者成功の為めに貯へられたる潜勢力なり。
我等は後世の為めに善力(Power for Good)を貯蓄しつつあるなり。余は先祖の功に依り安逸放肆に歩む貴族とならんよりは、功を子孫に遺す殉義者とならんことを欲す。
然らば余は余の事業に失敗せしにより絶望家となり、事業家たるの念を断ちしや。
否然らざるなり。余は今は真正の事業家となりしなり。事業とは形体的のものなりとの迷信全く排除せられてより、余は動かすべからざる土台の上に余の事業を建設し始めたり。余の事業の敗られしは、敗るべからざる事業に余の着手せんが為めなり。(ヘブル書十二章廿七節)
事業は精神の花なり、果なり。精神より自然に発生せざる事業は、事業にして事業にあらざるなり。汝等まづ神の国と其義とを求めよ、然らば事業も亦自然に汝等より出で来るべし。
四百四病のその中に貧ほどつらきものはなし。心は花であらばあれ、
我が栄えし時に友人ありしも、我れ貧に迫りてより我は友なきに至れり。我れ窮せざりし時に我に信用ありしも、我が
汝貧に迫るまで友を信ずる勿れ。世の友人は我等の影の如し。彼等は我等が日光に歩む間は我等と共なれども、暗所に至れば我等を離るるものなり。貧より来たる苦痛の中に、世の友人に冷遇さるる是れ悲歎の第一とす。
我の貧、我れ独り之を忍ぶを得ん。然れども我に依て衣食する我の母、我の妻も、我が貧なるが故に貧を感ぜり。我は我と境遇を同うせる古人の伝を読み以て 我が貧を慰め得と雖も、彼等は如何にして此鬱を散ずるを得べしや。貧より来る苦痛の中に、我父母妻子の貧困を見る是れ悲歎の第二とす。
我は食を求めざるべからず。
然れども今の我は我一人の我にあらず、我を生みしものの為め、我に淑徳を立つるものの為め、我は我の尊敬せざる人にも服従せざる得ず。貧より来る苦痛の中に、食の為めに他人に腰をかがめざるを得ざる是れ悲歎の第三なり。
富足りて徳足るとは、真理には非ずとするとも確実なる経験なり。奢侈は勿論不徳なり。我れ富みたればとて驕らざるべし。然れども滋養ある食物、清潔なる衣服は、自尊の精神を維持する上に於て少なからざる力を有すものなり。
我の最も嫌悪する
貧は我をして他人を
貧は貧を生ずるものなり。持つものには加へられ、持たざるものは既に持つものをも取去る。俗に所謂貧すれば鈍するとの言は、心理学上の事実にして亦経済
学上の原理なり。富者益々富めば貧者は
嗚呼われ如何にしてこの内外の攻撃に当らんか。貧は此身に附くものなれば、此身を殺さば貧は絶ゆるなるべし。自殺は羅馬の賢人カトー、シセロ等の許せし
所、貧てふ無限の苦痛より
言ふを休めよ、汝美食美服に飽く者よ、かの一円に満たざる借銭のために、身を水中に投ぜし小婦は痴愚にして発狂せしなりと。彼女は世に己の貧を訴ふるの無益なるを知り、その純白なる小さき心は他人に義理を欠くに忍びずして、彼女は終に茲に至りしなり。
然り、若し宇宙の大真理として、自殺は神に対し己れに対しての大罪なりとの教訓の存せざりしならば、貧の病を療治するために我も亦この手段を取りしものを。
されども嗚呼我神よ、爾の恵は我れ死せずして我を此苦痛より免れ得しむ。爾に依てのみ貧者も自尊心を維持し得べく、卑陋ならずして高尚なるを得るなり。
基督教は貧者を慰むるに、仏教の所謂「万物皆空」なる魔睡的の教義を以てするものに非ず。基督教は世をあきらめしめずして世に勝たするものなり。富める
と貧なるとは前世の
我れの貧なる、若し我の怠惰放蕩より出でしものならば、我は今より勤勉節倹を事とし浪費せし富を回復すべきなり。天は自ら助くるものを助く。如何なる放
蕩児と雖も、如何なる
貧は運命にあらざれば、我等手を
人を欺き人を殺すのみが罪にあらざるなり。
然れども世には正義の為めの貧なるものなきにあらず。ロバート・サウジー曰く「一人の邪魔者の常に我身に附き
世に清貧なる者のあることは、疑ふべからざる事実なり。或は良心の命を重んじ世俗に従はざるが故に、時の社会より放逐せらるるあり。或は直言直行我の傭
或は貧家に生れて貧なるあり。或は不時の商業上の失敗に遭ひ、或は天災に罹りて貧に陥るあり。即ち自己以外に原因する貧ありて、
斯くの如くにして貧の我身に迫るあらば、我は勇気と信仰とを以て之を忍ばんのみ。而して基督教は此忍耐を我れに与ふるに於て、無上の力を有するものなり。
一、汝貧する時に先づ世に貧者の多きを思ふべし。日本国民四千万人中、壱ヶ年三百円以上の収入ある者は僅に十三万人に過ぎず。即ち戸数百毎に、壱ヶ月二十五万円以上の収入ある家は僅に一戸半を数ふ。百軒の中九十八軒は、壱ヶ月二十五万円以下の収入あるのみ。
而して来年の計を為し貯蓄を有するもの幾許かある。来月に備ふる貯蓄を有せざる家何ぞ多きや。人類の過半数は
汝の運命は人類大多数の運命なり。
貧は常にして富は稀なり。汝は普通の人にして彼貴公子は例外の人なり。一人にして忍び能はざるの困難も、万人共に之を忍べば忍び易し。汝は人類の大多数と共に饑餓を感じつつあるなり。
二、古代の英雄にして、智に於ても徳に於ても遥かに汝に勝さりしものが、汝の貧に勝さる貧苦を受けし事を思へ。哲学上、神学上、信仰上、功績上、人類の
古哲ソクラテスが日に二斤のパンと、雅典城の背後に湧出する清水とを以て満足したりしを思へ。「之を文天祥の
「道義
三、イエスキリストの貧を思へ。彼は貧家に生れ、口碑の伝ふる所に由れば十八歳にして父の一家を支へしとなり。「狐は穴あり、空の鳥は巣あり、されど人の子の枕する処だもなし」とはキリスト地上の生涯なりき。
四、富必しも富ならざるを知れ。富とは心の満足を云ふなり。百万円の慾を有する人には五拾万円の富は貧なり。拾円の慾を有する人には弐拾円は富なり。富に二途あり。富を増すにあり。慾を減ずるにあり。汝今は富を増す能はず、然らば汝の慾を減ぜよ。
カーライル謂へるあり、曰く「単数も零にて除すれば無限なり(1/0=∞)、故に汝の慾心を引下げて世界の王となれ」と。余は五拾万
我等は貧にして巨人たるを得るなり。神が汝に与へし貧てふ好機会を利用して、汝の徳を高め、汝の家を清めよ。愉快なるホームを造るに風琴の備附、下男下 婢の雇入を要せず。若し富を得るの目的は快楽にありとならば、快楽は富なしにも得らるるなり。"My mind to me a kingdom is"(心ぞ我の王国なれ)。我は貧にして富むことを得るなり。
五、汝今衣食を得るに
この故に我なんぢらに告げん、
爾曹のうち誰か能くおもひ
嗚呼信仰うすきものよ。さらば何を食ひ何を飲み、何を
或仏教家此章句を評して曰く、基督教は人を怠惰ならしむるものなりと。然り基督教は多くの仏教徒の今日為すが如く、
勿論世に称する基督信徒必しも皆、空の鳥、野の百合花の如くにあらず。或者は蟻の如く取つても取つても溜めつつあり。或者は狐の如く取りしものは皆隠し
置き、何時用ふるとも知らず、唯取るを以て快楽となしつつあり。然れども是れ基督教の本旨にあらざるなり。汝若し
哲学者カント云へるあり、曰く「宇宙の法則を以て汝の言行とせよ」と。空の鳥、野の百合花は、此法則に従ひ居ればこそ何を食ひ何を飲み何を衣んとて思ひ煩はざるなれ。
社会は生存競争のみを以て維持するものにあらざるなり。人は食ふ為めにのみ此世に来りしにあらざるなり。此地球は神の工場なれば、働くものに衣食あるは 当然なり。工場の職人は、衣食の事のみを思ひ煩ひてはその職を尽し得ざるなり。我も亦此宇宙に生を有し、宇宙の一小部分なれば、我若し天与の位置を守らば 宇宙は必ず我を養ふべし。エマソン曰く、
人若しその本能の示すところに拠り、其上に
衣食のために思考の殆ど全部を消費する十九世紀の社会も人も、決してキリストの理想にあらざるなり。
六、故に汝餓死の怖れを抱く勿れ。餓死の恐怖は人生の快楽の大部分を消滅しつつあるなり。ナポレオン大帝言へるあり「食ひ過ぎて死する者は食ひ足らずし
て死するものよりも多し」と。人口
天の人を恵む実に大なり。毎年八百万石余の米穀は有害無益なる酒類に変化せらるるに関せず、労力の大部分は宴会とやら装飾とやら遊戯的の事物に消費せらるるに関せず、我等の食糧は尚ほ足り過ぎて毎年
世に最も稀なるものは餓死なり。明治廿二年の統計表に依れば、全国に於て途上発病又は饑餓にて死せしものは
我れむかし年わかくて今老いたれど、義者のすてられ或はその
七、汝心を鎮めて良き日の来るを待て。変り易きは世の
我の貧は永久まで続くべきにあらず。世の風潮の変り来つて「我等の時代」とならん時は、我の飢渇より脱する時なり。
神は此世の富に勝る心の富を我に賜ふが故に、我れ終生貧なるものとも忍び得べし。地は善人の為めに造られしものなれば、我れ若し善と義を慕ふこと切ならば、神は必ず我に地の善き物をも与へ給ふべし。
我の今日貧なるは我心の為めにして、われが世の物に優りて神と神の真理とを愛せんがためなり。信仰の鍛錬既に足り、肉慾既に減殺せられ、我れ既に富貴に負くる
世に最も
八、我に世の知らざる食物あり(ヨハネ伝四章三十二節)。我に
而して我は此最上の食物と
我は世の富めるものに問はん、君の
医師は言はずや、快楽を以て食すれば
我の滋養は天より来るなり。浩然の気は誠に
身体髪膚我之を父母に受く。鉄石の心臓、鋼鉄の筋肉、我は神の
仰いでは
然るに今や此快楽世界も、病める我に取りては一の用あるなし。存在は苦痛の種にして、我の死を望むは労働者が夜の来るのを待つが如し。梅花は芳香を放つ も我に益なし。鶯は麗歌を奏するも我に感なし。身を立て道を行ひ名を後世に遺すの希望は今は全く我にあるなく、心を尽し力を尽して国と人とを救ふの快楽も 今は我の有にあらず。
詩人ゲーテ曰く Unnütz sein ist Todt sein(不用となるは死せるなり)と。我はいま世に不用なるのみならず、我の存在は却て世を悩ますなり。我れ若し他を救ひ得ずば、我れは他人を煩はさじ。
嗚呼恵ある神よ、一日も早く我をして此世を終らしめよ。我れ今爾より望む所他にあるなし。死は我に取りては最上の賜物なり。
シオンの戦は
我れ絶望に沈まんとする時、永遠の希望は又我を力づくるなり。キリストは希望の無尽蔵なるが如し。彼に依てのみ
不治の病に罹りし時の失望は二つなり。即ち、我は再び快復し能はざるべしと、また我は今は廃人なれば世に用なきものとなれりと。
一、汝如何にして汝の病の不治なるを知るや。名医既に汝に不治の宣告を申渡したるが故に汝は不治と決せしか。されども汝は不治と称せし病の全癒せし例の多くあるを知らざるや。
十九世紀の医学は人間と云ふ奇蹟的小天地を悉く究め尽せしものと思ふや。近来の医学の進歩は実に驚くべし。然れども医者は造物主に非ざるなり。時計師のみ能く悉く時計の構造を知る。神のみ能く悉くの汝の体を知るなり。
生気は天地に充ち満ちて、常に腐敗と分解とを止めつつあり。医師悉く我を捨てなば我は医師の医師なる天地の造主に行かん。彼に人智の及ばざる治療法と薬品とあり。生命は彼より来るものなれば、我は直に生命の泉に到つて飲まん。
医学の進歩と同時に人類が医学を過信するに至り、医学の及ばざるを以て人力も神力も及ばざる処と見做すに至りしは、実に人類の大損失と云はざるべからず。我等勿論旧記に載するが如き奇蹟的治癒の今日
屋根より落ちて骨を
然れども我等病める時に悉く医者と薬品とに頼るは、我等の為すべからざることなり。我等病重き時は
世に信仰治療法なるものあり、即ち医薬を用ひず全く衛生と祈祷とに由りて病を治する法を云ふ。我等は或一派の信仰治療者の云ふが如く、医師は悪鬼の使者にして薬品は悪魔の供する毒物なりと云はず。然れども信仰は難病治療法として莫大の実効ある事を疑はず。
勿論我等の称する信仰治療法なるものは、かの偶像崇拝者が医薬を軽んじて神仏に祈願し、或は靈水を飲むの類を云ふにあらず。信仰治療法は身体を自然の造
主とその法則とに任せ、
是れ迷信にあらずして学術的真理なり。殊に医師の称する不治の病に罹るに至ては、唯此治療法の頼るべきあるのみ。我は我病を治せんがための方便として信 仰せず。これ真正の信仰にあらざればなり。斯くの如きの信仰治療法は無益なり。然れども我れ信ぜざるを得ざれば信ずるなり。
見よ下等動物の
二、汝廃人となりたればとて絶望せんとす。嗚呼然らば汝の宗教も亦、多数の基督信徒並に異教信徒の宗教と同じく事業教なり。汝も亦人類の大多数と共に、事業を以て汝の最大目的となすものなり。
事業は人間の最大快楽なり。然れども此快楽を得る能はずとて失望落胆するは、汝が未だ事業に優る快楽あるを知らざるに由るなり。基督教は他の宗教に勝りて事業を奨励すると雖も、其目的は事業にあらざるなり。
キリストは汝が大事業家たらんが為に、十字架上に汝の為に
神は汝の身体と事業とに勝りて汝の靈魂を愛し給ふなり。汝の事業に若し汝の心を神より遠ざくるあれば、神は此事業てふ誘惑を汝より取除け給ふなり。人は偶像を崇拝するのみならず、又自己の事業を崇拝するものなり。
若し然らずは我れこれをささげん。
神のもとめたまふ祭物は砕けたる
神よ汝は砕けたる悔いし心を
事業とは我等が神にささぐる感謝の
汝今事業を神にささぐる能はず、故に汝の心をささげよ。神の汝を病ましむる多分此為めならん。汝はベタニヤのマルタの心を以てキリストに事へんと欲し
「
三、汝
嗚呼然らば汝は、戦場に出でざる兵卒は無用なりと言ふなり。山奥に咲く蘭は無用なりと言ふなり。海底に
神は人目の達せざる病床の中に、神に依て靈化されたる天使の形を隠し置き給ふなり。静粛なる汝の温顔に現はるる忍耐より来る汝の微笑は、千百の説教に勝 りて力あるものなり。凹みたる汝の眼中に浮ぶ推察の涙一滴は、万人の同情に勝る貴きものなり。痩せとがりたる汝の手を以て握手せらるる時は、天使の愛を我 等が感受する時なり。
われ未だ我が眼を以て天使を見しことなし。然れども我の愛せしものが病床にありし時、大理石の如き容貌、鈴虫の
我は斯くの如きものが終生病より起つ能はずして我が傍にあるとも、決して苦痛を感ぜざるべし。彼は日々我の
四、汝また快楽を有せずと言ふ勿れ。汝の愛するものの汝と共にあり、是れ大なる快楽ならずや。汝の病弱と忍耐とは、汝の強壮なる時に勝りて汝を愛らしきものとなせり。
愛せらるるは今は汝の特権なり。汝力なきものとして愛せられよ。愛せらるるを拒むは汝他を悩ますなり。汝の愛するものは汝の愛せられんことを望むなり。世に病者の存する理由は 世に愛せらるるもののあらんが為めならん。
人は弱きものを愛して 自己の強きを感ずるものなり。我は愛せらるるよりも愛することを欲す。汝我の為めに我に愛せられよ。而して我が汝を愛するに依て汝より受くる所の、喜悦と感謝とを以て汝の快楽とせよ。
汝若し尚ほ普通の感覚を有するあれば、無限の快楽の尚ほ未だ汝と共に存するあり。山野にさまよひ自然と交通して自然の神と交はるは、今汝の能はざる所、紳士淑女と一堂に
然れども若し汝にして四十八文字を解するを得ば、聖書なる世界文学の汝と共に存するあり、以て汝を励まし汝を泣かしむべし。以て汝の為めに
然れども若し読書は汝の堪ふる所にあらずとならば、他に快楽の尚ほ汝の為めに備へらるるあり。即ち心を
僧アンソニー曾て書を盲人某に送つて曰く、君願くは肉眼の視力欠乏の故を以て君の心を苦しむ勿れ。これ蝿も蚊も有するものなればなり。ただ喜べよ、君は天使の有する眼を有するが故に神を視るを得、神の光を受くべければなり。
又病むものは汝一人ならざるを知れ。人類は一秒時間に一人づつの割合を以て、
実に人類全体は病みつつあるなり。人類はアダムの罪に由て死刑を宣告されしもなり(如何なる神学上の学説よりみるも)。而して第二のアダムより靈の賜物を得しもののみ、真正の生命を有するものなり。 汝は人類全体と共に病みつつあるなり。汝の苦痛に依て、心霊を有する世界人民十六億人の苦痛を想ひ見よ。
汝を
神はその
来らんとする来世の観念は汝を慰むるや否やを知らず。今之を汝に説く、却て汝を傷ましむることあらんを恐る。然れども世界の大偉人、大聖人の希望と慰めとは、多くは来世存在の信仰にありき。
ソクラテスは霊魂不滅に就て論究しつつ死せり。老牧師ロビンソン、医師より病危篤を宣告を受くるや、彼の友人に告げて曰く、「死とは斯くも平易なる者な
るか」と。スウェーデンボルグ
ビクトル・ユーゴは仏国の詩人にして小説家なり。彼の鉄筆は欧洲を震動せしめ、彼の筆誅に罹りし高慢なる宗教家と政治家は、彼を虚無党と称し、無神論者と見做したり。彼れ歳八十にして尚ほ壮年の希望あり。一日彼の未来存在に関する信仰を表白して曰く、
余は余に未来の生命の存するを感ず。余は切り倒されたる林の木の如し。新鮮なる萌
芽は愈々強く愈々活溌に、
人は言ふ、靈魂とは存せざるものにして唯体力の結果なりと。然らば何故に余の体力の衰ふると同時に、余の靈魂は益々光輝を加ふるや。厳冬余の頭上に宿 るに、余の心は永久の春の如し。・・・我れ我生涯の終りに近づくに及んで、他界の美音の益々明瞭に我が耳に達するを覚ゆ。其の声は驚くべくして又単純な り。雅歌の如くにして歴史様の事実なり。
余は半百年間散文に、詩文に、歴史に、哲学に、戯曲に、落首に余の思想を発表したり。而して尚ほ余の心に存する千分の一をだも言ひ尽くさざるを知る。
余は墓に入る時、余は一日の業を終へたりと言ふと雖も、余の一生を終へたりと言ふ能はず。余の仕事は明朝また再び始まらんとす。墓とは道路の行詰りにあら
ずして、他界に達する通り道なり、曙に至る
余は此世に存する間は働くなり。此世は余の本国なればなり。余の事実は始めかけたり。余の築かんとする塔は、漸く其土台石の据附けを終へたり。其竣工は永久の仕事なり。余が永遠を渇望するは余が限りなき生を有する証拠なり。
メソヂスト派の始祖ジョン・ウェスレー死する前日、彼れ友人に向ひ数回繰返して曰く「何よりも善き事は神我等と共に
富は盗まるるの
そは或は死、或は生、或は天使、あるひは
不治の病怖るるに足らず。快復の望尚ほ存するあり。之に耐ふるの慰めと快楽とあり。