桐の花

北原白秋
〔本扉裏〕

わがこの哀れなる抒情歌集を誰にかは献げむ
はらからよわが友よ忘れえぬ人びとよ
凡てこれわかき日のいとほしき夢のきれはし

Tonka John


  銀笛哀慕調


 ① 春

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと()()の草に日の入る夕

銀笛のごとも(かな)しく単調(ひとふし)に過ぎもゆきにし夢なりしかな

しみじみと物のあはれを知るほどの少女(をとめ)となりし君とわかれぬ

いやはてに鬱金(うこん)ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月(さつき)はきたる

葉がくれに青き()を見るかなしみか花ちりし日のわが思ひ出か

ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日

かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし

君を見てびやうのやなぎ薫るごとき(むな)さわぎをばおぼえそめにき

南風モウパツサンがをみな子のふくら(はぎ)吹くよき(うれひ)吹く

南風薔薇(さうび)ゆすれりあるかなく斑猫(はんめやう)飛びて死ぬる夕ぐれ

凋れゆく高き花の香身に()みつ貧しき(まち)の春の夜の月

寝てきけば春夜(しゆんや)のむせび泣くごとしスレート屋根に月の光れる

ゆく春のなやみに堪へで
鶯も草にねむれり

たんぽぽに誰がさし置きし()すぢほど日に光るなり春の三味線

ゆく水に赤き日のさし水ぐるま春の川瀬(かはせ)にやまずめぐるも

白き犬水に飛び入るうつくしさ鳥鳴く鳥鳴く春の川瀬(かはせ)

一匙(ひとさじ)のココアのにほひなつかしく(おとな)ふ身とは知らしたまはじ

黒耀の石の(ぼたん)をつまさぐりかたらふひまも物をこそおもへ

薄あかき爪のうるみにひとしづく落ちしミルクもなつかしと見ぬ

寂しき日赤き酒取りさりげなく強ひたまふにぞ涙ながれぬ

十一

あまりりす息もふかげに燃ゆるときふと(くちびる)はさしあてしかな

くれなゐのにくき唇あまりりすつき放しつつ君をこそおもへ

十二

はるすぎてうらわかぐさのなやみよりもえいづるはなのあかきときめき

くさばなのあかきふかみにおさへあへぬくちづけのおとのたへがたきかな

わかきひのもののといきのそこここにあかきはなさくしづこころなし

ゆふぐれのとりあつめたるもやのうちしづかにひとのなくねきこゆる

十三

浅草にて

ゆく春の喇叭の囃子(はやし)身にぞ染む造花(つくりばな)ちる雨の日の暮

ああ笛鳴る思ひいづるはパノラマの巴里(パリス)の空の春の夜の月

十四

美くしき「夜」の横顔を見るごとく遠き(まち)見て心ひかれぬ

薄暮(たそがれ)水路(すゐろ)に似たる心ありやはらかき夢のひとりながるる

十五

そぞろあるき煙草くゆらすつかのまも(かな)しからずやわかきラムボオ

けふもまた泣かまほしさに(まち)にいで泣かまほしさに街よりかへる

やはらかきかなしみきたるジンの酒とりてふくめばかなしみきたる

ナイフとりフオクとる()もやはらかに涙ながれしわれならなくに

にほやかに女の独唱(ソロ)の沈みゆくここちにかなし春も暮るれば

ウイスキーの強くかなしき口あたりそれにも()して春の暮れゆく

十六

夜会のあと

かくまでも心のこるはなにならむ(あか)薔薇(さうび)か酒かそなたか

十七

春日笛のごとし

すずろかにクラリネツトの鳴りやまぬ日の夕ぐれとなりにけるかな

にほやかにトロムボーンの音は鳴りぬ君と歩みしあとの思ひ出

 ② 夏

郷里柳河に帰りてうたへる歌

廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける

夕暮はヘリオトロウプ、
そことなく南かぜふく

やはらかに髪かきわけてふりそそぐ香料のごと()みるゆめかも

哀調一首

きりはたりはたりちやうちやう血の色の棺衣(かけぎ)織るとか悲しき(はた)

ロンドンの悲しき言葉耳にあり花赤ければ命短し

いと高き君がよき名ぞ忍ばるる赤きロンドン赤きロンドン

狂ほしく髪かきむしり昼ひねもすロンドンの(べに)ひとり凝視(みつ)むる

縫針(ぬひはり)の娘たれかれおとなしくロンドンの花を踏みて帰るも

ロンドンは松葉牡丹の柳河語なり

枇杷の木に黄なる枇杷の実かがやくとわれ驚きて飛びくつがへる

枇杷の実をかろくおとせば吾弟(わおと)らが麦藁帽にうけてけるかな

ケエヅグリのあたまに火の()いた、()うんだら消えた

吾弟(わおと)らは(にほ)のよき巣をかなしむと夕かたまけてさやぎいでつも

Gonshan, Gonshan, 何処へいた、
きのう札所(ふだしよ)の巡礼に

馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあひびきのごと岡をのぼれば

黒鶫(くろつぐみ)野辺にさへづり唐辛子(たうがらし)いまし花さく君はいづこに

(つばさ)コツキリコ、畦道(あぜみち)やギリコ

病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし(ばた)の黄なる月の出

 ③ 秋

日の光金糸雀(カナリヤ)のごとく顫ふとき硝子に()れば人のこひしき

啄木鳥(きつつき)の木つつき()へて去りし時黄なる夕日に()を絶ちしとき

雲あかく日の入る夕木々(きぎ)の実の吐息にうもれ鳴く鳥もあり

あかあかと五重の塔に入日さしかたかげの闇をちやるめらのゆく

かかる時地獄を思ふ、君去りて雲あかき野辺に煙渦まく

 ④ 冬

十一月北国の旅にて三首

韮崎の白きペンキの駅標に薄日のしみて光るさみしさ

柿の赤き実、旅の男が気まぐれに泣きて()にきと人に語るな

たはれめが青き眼鏡のうしろより朝の霙を透かすまなざし

久留米旅情の歌

日も暮れて(はじ)の実(とり)のかへるころ(くるわ)の裏をゆけばかなしき

猫やなぎ薄紫に光りつつ暮れゆく人はしづかにあゆむ

水面(みのも)ゆく櫂のしづくよ雪あかり漕げば河風身に染みわたる

雪のふる夜昔ながらの蝋燭の裸火にうつし出されし団蔵の仁木の凄さよ

わが友は仁木の顔に(つら)あかりさしつけながら花道をゆく


  初夏晩春


 ① 公園のひととき

手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ

山羊(やぎ)の乳と山椒のしめりまじりたるそよ風吹いて夏は来りぬ

指さきのあるかなきかの青き(きず)それにも夏は()みて光りぬ

草わかば黄なる小犬の飛び()ねて走り去りけり微風(そよかぜ)の中

草わかば踏めば身も世も黄に()みぬ西洋辛子(からし)(こな)を花はふり()

こころもち黄なる花粉のこぼれたる薄地のセルのなで肩のひと

草に寝ころべ、草に寝ころべ

草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく()て削るなり

夕されば棕梠の花ぶさ黄に光る公園の(そと)に座る琴弾者(ことひき)

 ② 郊外

田舎家(ゐなかや)に中風病みのわが小父(をぢ)が赤き花見る春の夕暮

きさくなる蜜蜂飼養者(みつばちかひ)が赤帯の露西亜の地主(ぢぬし)に似たる初夏

あまつさへ赤き花ちり小馬()く農家の白日(ひる)になげき入りぬる

ほそぼそと出臍(でべそ)小児(こども)笛を吹く紫蘇の畑の春のゆふぐれ

太葱(ふとねぎ)の一茎ごとに蜻蛉(とんぼ)ゐてなにか恐るるあかき夕暮

 ③ 庭園の食卓

青き果のかげにわれらが食卓をしつらへよ、春を惜むわかき日のこころよ

あひびきの朝な夕なにちりそめし鬱金(うこん)ざくらの花ならなくに

サラダとり白きソースをかけてましさみしき春の思ひ出のため

さくらんぼいまださ青に光るこそ悲しかりけれ花ちりしのち

青き()のかげに椅子よせ春の日を友と惜めば薄雲のゆく

()げば黄なる薄雲桐の木の木の間に見えて夏は来にけり

かなしげに春の小鳥も啼き過ぎぬ赤きセエリーを君と鳴らさむ

(つばめ)、燕、春のセエリーのいと赤きさくらんぼ(くは)え飛びさりにけり

ああ五月(さつき)蛍匍ひいでヂキタリス()さき鈴ふるたましひの泣く

金口(きんぐち)の露西亜煙草のけむりよりなほゆるやかに燃ゆるわが恋

やはらかに誰が()みさしし珈琲(コオヒイ)ぞ紫の吐息ゆるくのぼれる

よき椅子(いす)に黒き猫さへ来てなげく初夏晩春の濃きココアかな

蟾蜍が出て来た、皆で寄つてたかつて胡椒をふるかけたり、スープを飲ませたりした

しろがねの小さき匙もて蟾蜍(ひきがへる)スープ啜るもさみしきがため

干葡萄ひとり摘み取りかみくだく食後のほどをおもひさびしむ

カステラの黄なるやはらみ新らしき味ひもよし春の暮れゆく

昼餐(ひるげ)どきはてしさびしさ春の日も紅茶のいろに沈みそめつつ

まひる野の玉葱の花紫蘇の花かろく(かな)しみ君とわかるる

 ④ 春の名残

一九一〇暮春三崎の海辺にて

いつしかに春の名残となりにけり昆布干場(こんぶほしば)のたんぽぽの花

寝てよめば黄なる(こな)つく小さき字のロチイなつかしたんぽぽの花

春愁極りなし

野薊に(さは)れば(おゆび)やや(いた)し汐見てあればすこし眼いたし

洋妾(らしやめん)の長き湯浴(ゆあみ)をかいま見る黄なる戸外(とのも)(つばくら)のむれ

ふはふはとたんぽぽの飛びあかあかと夕日の光り人の歩める

乳のみ児の肌のさはりか(さん)(いと)なするひびきか春のくれゆく

魔法つかひ鈴振花(すずふりばな)内部(なか)に泣く心地こそすれ春の日はゆく

「春」はまたとんぼがへりをする児らの悲しき頬のみ見つつかへるや


  薄明の時


 ① 放埓

美くしきかなしき痛き放埓の薄らあかりに堪へぬこころか

ものづかれそのやはらかき青縞のふらんねるきてなげくわが恋

わがゆめはおいらん(さう)の香のごとし雨ふれば濡れ風吹けばちる

鳴きしきるは葦きり、舌うつは海、さるにてもせんなや、夜の明けがたのつれびき

アーク燈(とも)れるかげをあるかなし蛍の飛ぶはあはれなるかな

なんぼ恋には身が細ろ、
ふたへの帯が三重まはる

なにとなく軍鶏(しやも)の啼く夜の月あかりいぶかしみつつ立てる女か

博多帯しめ、筑前しぼり、筑前博多の帯しめて、
あゆむ姿は柳腰……

すつきりと筑前博多の帯をしめ忍び来し夜の白ゆりの花

ぬば玉の銀杏がへしの君がたぼ美くし黒し蓮の花さく

ある遊女の部屋に、薄い硝子の水盤があつた、夏の夕方、夜のひきあけ、ひけすぎの薄いあかりにほのかにウオタアヒヤシンスの花が咲いてはまた萎れてゆくのであつた

水盤の水にひたれるヒヤシンスほのかに咲きて物思はする

フラスコに青きリキユールさしよせて()ればよしなや月さしにけり

二上りの宵のながしをききしよりすて身のわれとなりにけむかも

毒草なれどもその花かすかに、
光あれどもその色さびし

雪の下白く(ちひ)さく咲きにけり喜蝶が部屋の箱庭(はこには)の山

わかき身の感じ易さよ硝子杯(さかづき)の薄き(ひび)にも心()みつつ

顫へ易く傷つき易き心あり薄らあかりにちる花もあり

十一

鳥よ、鳥よ、宿場の小鳥、
広重の海に飛べよ

木の枝に青き小鳥のとまりゐてただほれぼれと鳴ける品川

十二

年増のなげき一首

玉虫の一羽(ひとは)光りて飛びゆけるその空ながめをんな寝そべる

 ② 踊子

悩ましく(まは)梯子(はしご)をくだりゆく春の夕の踊子がむれ

やるせなき春のワルツの舞すがた(かな)しくるほし君の(をど)れる

美くしきさいへかなしく愚かしき(つか)れつくると踊子踊る

紫のいたましきまで一人(ひとり)踊るスカートの陰影(かげ)に春はくれゆく

ただ飛び()ね踊れ踊子現身(うつそみ)(くつ)のつまさき春暮れむとす

たらんてら踊りつくして疲れ伏す深むらさきのびろうどの椅子

あでやかに踊りつかれしさみしさか寝椅子に人を待てるこころか

くろんぼが泣かむばかりに飛び()ぬる尻ふり踊にしくものはなし

 ③ 浅き浮名

恋すてふ浅き浮名もかにかくに立てばなつかし白芥子の花

薄青きセルの単衣(ひとえ)をつけそめしそのころのごとなつかしきひと

片恋のわれかな身かなやはらかにネルは着れども物おもへども

茴香さく

わが世さびし身丈(みたけ)おなじき茴香(うゐきやう)も薄黄に花の咲きそめにけり

茴香の花の中ゆき君の泣くかはたれどきのここちこそすれ

白き籐椅子をふたつよせてものおもふひとのおだやかさよ。読みさせるはアルベエル・サマンにや、やはらかに物優しき夕なりけり

さしむかひ二人(ふたり)暮れゆく夏の日のかはたれの空に桐の匂へる

潮来出島の真菰の中にあやめ
咲くとはしほらしや

かきつばた男ならずばたをやかにひとり身投げて死なましものを

たんだ振れふれ六尺袖を

桐の花ことにかはゆき半玉の泣かまほしさにあゆむ雨かな

すずかけの木とあかしやとあかしやの木とすずかけと舗石みちのうす霧に

ほのぼのと人をたづねてゆく朝はあかしやの木にふる雨もがな

 ④ 蟾蜍の時

蛍飛び蟾蜍(かへろ)啼くなりおづおづと忍び逢ふ夜の薄霧の中

蟾蜍(ひきがへる)幽霊のごと啼けるあり人よほのかに歩みかへさめ

ゆくりなくかかるなげきをきくものか月蒼ざめて西よりのぼる

烏羽玉(ぬばたま)の夜のみそかごと悲しむと(ひそ)かに(ひき)も啼けるならじか

宝玉のこよなき心とり落しよきひと泣けば(ひき)もまた啼く

いかばかり麻の畑の青き葉の身には()むらむ人妻の泣く

人知れず忍ぶ心は烏羽玉(ぬばたま)の黒き夜のごとかがやきいでぬ

 ⑤ 猫と河豚と

青柿のかの柿の木に小夜ふけて白き猫ゐるひもじきかもよ

白き猫膝に抱けばわがおもひ音なく暮れて病むここちする

白き猫泣かむばかりに春ゆくと()めつゆるめつ物をこそおもへ

弓矢八幡寝はせねど、寝たと
おしやらばなとせうぞの

夜おそくかけしふすまに匍ひのぼる黒きけもののけはひこそすれ

乳緑(にゆうりよく)のびろうどの河豚(ふぐ)責めふくらし昨日(きのふ)も男涙ながしき

河豚(ふぐ)河豚(ふぐ)(なれ)は愚かし地に()ねて沖津玉藻の香のなげきする

 ⑥ 路上

いそいそと広告燈も廻るなり春のみやこのあひびきの時

白耳義新詩人のものなやみは静かにしてあたたかく、芭蕉の寂はほのかに涼し

かはたれのロウデンバツハ芥子の花ほのかに過ぎし夏はなつかし

水路

空見れば円弧燈(アークライト)に雪のごと羽虫たかれり春よいづこに

薄暮(かはたれ)水路(すゐろ)にうつるむらさきの弧燈(こたう)の春の愁なるらむ

新橋

新らしき匂なによりいとかなし勧工場のぞく五月のこころ

人力車(じんりき)提灯(かんばん)()けて客待つとならぶ河辺に蛍飛びいづ

銀座

薄あかり(あか)きダリヤを襟にさし絹帽(シルクハツト)の老いかがみゆく

夏よ夏よ鳳仙花ちらし走りゆく人力車夫にしばしかがやけ

おそ夏

折ふしのものの流行(はやり)のなつかしくかなしければぞ夏もいぬめる

両国

万歓夢のごとし

青玉のしだれ花火のちりかかり消ゆる路上を君よいそがむ

初秋

夏の夜の牡丹燈籠の薄あかり新三郎を誰か殺せる

ちりからと硝子問屋の燈籠の塵埃(ほこり)うごかし秋風の吹く


  雨のあとさき


 ① 雨のあとさき

新らしき野菜畑のほととぎす背広着て啼け雨の()()

キヤベツの段々畑(だん/\ばたけ)銀緑なり雨霽れ空に白雲の湧く

あまつさへキヤベツかがやく畑遠く郵便脚夫疲れくる見ゆ

入日うくるだらだら坂のなかほどの釣鐘草の黄なるかがやき

ぎはの男の頬のみ(あか)う見せ釣鐘草の中を汽車ゆく

酒場の夏

夏帽子瀟洒につけて身をやつす若き紳士の白百合の花

夏の日はなつかしきかなこころよく梔子(くちなし)の花の汗もちてちる

きりぎりすよき(たは)()がひとり寝て氷食む日となりにけるかな

やるせなき(みだ)ら心となりにけり棕梠の花咲き身さへ肥満(ふと)れば

黒き猫夜は狂ほしくかきいだき五月蠅(うるさ)きものに昼は()ねやる

桐の花ちるころ

人妻のすこし汗ばみ乳をしぼる硝子杯(コツプ)のふちのなつかしきかな

梅雨くるまへ

栗の花四十路過ぎたる髪結の日暮はいかにさびしかるらむ

あかしやの花ふり落す月は来ぬ東京の雨わたくしの雨

検温器(けんおんき)かけてさみしく涙ぐむ薄き肌あり梅雨(つゆ)尽きずふる

二階より桐の青き葉見てありぬ雨ふる(まち)四十路(よそぢ)の女

七月やおかめ鸚哥(いんこ)の啼き叫ぶ妾宅の屋根の草に雨ふる

色硝子暮れてなまめく町の湯の窻(もと)なるどくだみの花

湯上りの()いた娘がふくよかに足の爪()る石竹の花

長雨(ながさめ)の蒼くさみしく(たは)れてしその日かの日もいまは恋しき

長雨のあとのこころにひるがへり孔雀火のごと鳴く日きたりぬ

十一

新らしき皮膚の(いた)みかたましひの(しん)の汗より来るなげきか

たもちがたきこころとこころ薄ら青き蝗のごとく弾ねてなげくや

十二

憎きは女、恋しきもまた女

憎悪(にくしみ)のこころ夏より秋にかけ茴香の花の咲くもあはれや

十三

昼見えぬ星のこころよなつかしく刈りし穂に凭り人もねむりぬ

あかあかと(あひる)卵を置いてゆく草場のかげの夏の日の恋

十四

夏の日は女役者のものごしのなまめかしさに似てさびしけれ

紫の日傘さしかけ()き人ののらりしやらりと歩む夕ぐれ

十五

やはらかに夏のおもひも老いゆきぬ中年の日の君がまなざし

 ② 昼の鈴虫

明治四十四年の夏、蠣殻町の岩佐病院にて

その日

なつかしき七月二日(ふつか)しみじみとメスのわが()に触れしその夏

麻酔のまへ

麻酔の前鈴虫鳴けり窻辺には紅く(ちひ)さき朝顔のさく

麻酔の時

夏はさびしコロロホルムに(しび)れゆくわがこころにも啼ける鈴虫

朝顔を(あか)く小さしと見つるいのち消えむとぞする鳴け鳴け鈴虫

麻酔のあと

(つばめ)(つばめ)、昼の麻酔のさめがたに宙がへりして啼くはさびしも

午前午後

気のふれし女寡婦(をんなやもめ)のいと蒼くしまりなき()に朝顔のさく

(きず)いたしかなし鋭しまたさびし狂人(きちがい)の部屋に啼ける鈴虫

夕ぐれ

ほのかなる水くだもののにほひにもかなしや心疲れむとする

さしのぞけば向ふの寄席(よせ)に人形の治兵衛踊れりなんとせうぞの

宵のくち

なにおもふわかき看護婦夏過ぎて雨夜(あまよ)の空に花火あがれる

宵のくちそれもひととき看護婦のはるもにか吹く夏もひととき

立秋

退院の前の日

長廊下いろ薄黄なる水薬の瓶ひとつ持ち秋は来にけり


  秋思五章


 ① 秋のおとづれ

松脂のにほひのごとく新らしくなげく心に秋はきたりぬ

薄らかに紅く孱弱(かよわ)し鳳仙花人力車(じんりき)の輪にちるはいそがし

鳳仙花うまれて啼ける犬ころの薄き皮膚より秋立ちにけり

秋の空酒を(しが)めて飲む人の青き(ひたひ)に顫ひそめぬる

眼のふかく昼も臆する男あり光れる秋をぢつと凝視(みつ)むる

(しやうぎん)の蠅取蜘蛛をまづ活かし秋はさやかに光りそめぬる

君がピンするどに青き虫を刺すその(つめ)たさを昼も感ずる

かかる日の胸のいたみのしくしくと空に光りて雨ふるらむか

しづやかに光の雨のふりそそぐ昼の心に蒼ざめてあり

 ② 愁思

クリスチナ・ロセチが頭巾かぶせまし秋のはじめの母の横顔

食堂の黄なる硝子をさしのぞく山羊(やぎ)の眼のごと秋はなつかし

秋の草白き石鹸(しやぼん)の泡つぶのけはひ幽かに花つけてけり

人形の秋の素肌となりぬべき白き菊こそ(かな)しかりけれ

旅に来て船がかりする思あり宝石商の霧の夜の月

みすずかる信濃か日本アルプスか空のあなたに雪の光れる

静かなる秋のけはひのつかれより桜の霜葉ちりそめにけむ

 ③ 清元

清元の新らしき撥君が撥あまりに冴えて痛き夜は来ぬ

手の指をそろへてつよくそりかへす薄らあかりのもののつれづれ

ひいやりと剃刀(かみそり)ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる庭さき

(かす)かにも光る虫あり三味線の弾きすてられしこまのほとりに

蟋蟀(いとど)ならばひとり鳴きてもありぬべしひとり鳴きても夜は明けぬべし

円喬のするりと羽織すべらするかろき手つきにこほろぎの鳴く

太棹(ふとざほ)のびんと鳴りたる手元より夜のかなしみや眼をあけにけむ

昇菊の絃のつよさよ

黒き猫しづかに歩みさりにけり昇菊の(いと)切れしたまゆら

きりきりと切れし二の(いと)つぎ合せ締むるこころか秋のをはりに

歌舞伎座十月狂言所見

常盤津の連弾(つれびき)の撥いちやうに白く光りて夜のふけにけり

 ④ 百舌の高音

百舌啼けば紺の腹掛新らしきわかき大工も涙ながしぬ

いらいらと葱の畑をゆくときの心ぼそさや百舌啼きしきる

いつのまに刈り干しにけむ甘庶黍(さたうきび)刈り干しにけむあはれ百舌啼く

とある池のほとりにて

水すまし夕日光ればしみじみと()ねてつるめり秋の水面(みのも)

鶏頭の血のしたたれる(うまや)にも秋のあはれの見ゆる汽車みち

三月まへ穂麦のびたる畑なりきいま血のごとく鶏頭の咲く

柔かき光の中にあをあをと脚ふるはして啼く虫もあり

かかれとて虫の寡婦(やもめ)は啼かざらむ鴉(こま)かに啄みにけり

武蔵野のだんだん畑の唐辛子いまあかあかと刈り干しにけれ

あかあかと胡椒刈り干せとめどなく涙ながるる胡椒刈り干せ

父親とその子の三次ひと日赤く胡椒刈り干せど物言はずけり

男子らは心しくしく墾畑(きりばた)の赤き胡椒を刈り干しつくす

 ⑤ 街の晩秋

黄なる日に鏽びし姿見鏡(すがたみ)てりかへし人あらなくに百舌啼きしきる

秋の葉

いつのまに黄なる火となりちりにけむ青さいかちの小さき葉のゆめ

都大路いまだゆらげる(とち)の葉に日向雨こそふりいでにけれ

午前八時すずかけの木のかげはしる電車の霜もなつかしきかな

あかしやの金と赤とがちるぞえな、
やはらかな秋の光にちるぞえな

ただしづかに(きん)のよき葉のちりかへりいかばかり秋はかなしかるらむ

わが友の黒く光れる瞳より恐ろしきなし秋ふけわたる


  春を待つ間


 ① 冬のさきがけ

ふくらなる羽毛襟巻(ボア)のにほひを新らしむ十一月の朝のあひびき

遠々しくなりし女のもとへ二首

いと長き(まち)のはづれの君が住む三丁目より冬は来にけむ

しみじみと人の涙を流すときわれも泣かまし鳥のごとくに

いちはやく冬のマントをひきまはし銀座いそげばふる(みぞれ)かな

電柱(でんちゆう)の白き堤子(ていし)にいと細く雨はそそげり冬きたるらし

(たましひ)の薄き瞳を見るごとし時雨の朝の小さき自鳴鐘(めざまし)

なつかしき憎き女のうしろでをほのかに見せて雨のふりいづ

男ぶりには惚れんばな、
煙草入の銀かな具がそれが因縁たい

煙草入の銀のかな具のつめたさがいとど身に染むパチと鳴らせど

夜をこめて風見(かざみ)のきしりさびしさの身に()む空となりにけるかな

さいかちの青さいかちの実となりて鳴りてさやげば雪ふりきたる

 ② 戯奴

一月や道化帽子の色あかき一寸坊の小屋に雪ふる

かなしや雪のふる日も道化ものもんどりうつとよく馴れにけり

ほこりかにとんぼがへりをしてのくるわかき道化に涙あらすな

(よる)おそくひとりひそかに帰りきて道化衣裳を()る男あり

感冒(かぜ)なひきそよ朝は(つめ)たき鼻の(さき)ひとり(こゞ)えて春を待つ間に

 ③ 雪

寂しさに赤き硝子を透かし見つちらちらと雪のふりしきる見ゆ

厨女(くりやめ)の白き前掛(まへかけ)しみじみと青葱の香の()みて雪ふる

つつましき朝の食事に香をおくる小雨に濡れし洎芙藍(さふらん)の花

横浜埠頭所見

つや青き支那の料理人(コツク)(つら)がまへ憎しとばかりうつ霰かな

腰ひくき浜のガイドが襟にさす温室(むろ)咲きの花の色の赤さよ

ぬくぬくと双手(もろて)さし入れ別れゆくマフの毛いろの黒き雪の日

薄青き路上の雪よあまつさへ日てりかがやき人妻のゆく

君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

河岸の明け暮れ

猫柳薄紫に光るなり雪つもる朝の河岸の景色に

屋根の雪屋根をすべると三味線の棹拭きかけて泣く女かな

木挽町の河岸の夜ふけに

雪ふるひとりゆく夜の松の葉に忍びがへしに雪ふりしきる

古聿(チヨコレート)嗅ぎて君待つ雪の夜は湯沸(サモワル)の湯気も静こころなし

ああ冬の夜ひとり汝がたく暖炉(ストーブ)の静こころなき吐息おぼゆる

ひとよよのつねの
恋となあはれおもひたまひそ

雪の夜の(あか)きゐろりにすり寄りつ人妻とわれと何とすべけむ

悪夢のあとの朝明

狂ほしき夜は明けにけり浅みどりキヤベツ畑に雪はふりつつ

雪ふるキヤベツを切ると小男が段々畑をのぼりゆく見ゆ

十一

わかき日は赤き胡椒の実のごとくかなしや雪にうづもれにけり

 ④ 早春

その翌朝(よくあさ)おしろいやけの素顔吹く水仙の芽の青きそよかぜ

四十路びと(おも)さみしらに歩みよる二月の朝の洎芙藍(さふらん)の花

つつましきひとりあるきのさみしさにあぜ菜の香すら知りそめしかな

あはれなるキツネノボタン春くれば水に馴れつつ物をこそおもへ

みじめなるエレン夫人が職業(なりはひ)のミシンの針にしみる雨かな

名なし草(あか)(ちひ)さく咲きそめぬみすぎ世すぎの窻日向(ひなた)

春が来た。黄色なサンシユユの梢に、沈丁に、針えにしだの苦き尖りに

沈丁の薄らあかりにたよりなく歯の痛むこそかなしかりけれ

猫柳春の暗示のそことなくをどる河辺を泣きてもとほる

猫柳ものをおもへば猫の毛をなづるここちによき風も吹く

細葱の春の光をかなしむと真昼しみらに小犬つるめる

野を(きた)れば遠きキヤベツの畑をゆく空ぐるまの音もなつかしきかな

すずろぐは葱か、キヤベツか、
きさらぎのそことなき春の暗示よ

ふくれたるあかき手をあて婢女(はしため)が泣ける(くりや)に春は光れり

 ⑤ 寂しきどち

かりそめにおん身慕ふといふ時もよき俳優(わざをぎ)は涙ながしぬ

わが()づる小さく(さも)しくいぢらしき白栗鼠(しろりす)のごと泣くは誰ぞや

泣きたまふな、あまりにさびし

いざやわれとんぼがへりもしてのけむ涙ながしそ君はかなしき

わがどちよ寂しきどちよつねに見て思へばくるし泣かざれば()

おのがじし弱きけふ日の涙をばはふり落して鳴ける小鳥ら

寂しさのこのもかのもにへりくだり泣けば心の響きこゆる

涙してひとをいたはるよそ人のあつき心をわれに持たしめ

つかのまも君を見ずては抑えがたきかなしき狐つきそめにけり

歇私的里(ヒステリー)の冬の発作のさみしさのうす雪となりふる雨となり

(ひや)やかに薄き眶(まぶた)をしばたたく人にな馴れそ山の春の鳥

芥子のたねひとり()にのせきらきらと蒔けば心の五月(さつき)忍ばゆ


  白き露台


 ① 春愁

わかき日の路上にて

歎けとていまはた目白僧園の(ゆふべ)の鐘も鳴りいでにけむ

ソフイー、けふもまた気づかはしさうなお前の瞳に薄い雲がゆく、薄い雲がゆく

春はもや静こころなし歇私的里(ヒステリー)の人妻の(かほ)のさみしきがほど

浅草聖天横丁

君見ずば心地死ぬべし寝室(しんしつ)の桜あまりに白きたそがれ

私は思ふ、あのうらわかい天才のラムボオを、而して悲しい宝石商人の息づかひを、心を

アーク燈いとなつかしく美くしき宝石商の店に春ゆく

美くしく小さく(つめ)たき緑玉(エメラルド)その玉()らば(かな)しからまし

いと憎き宝石商の店を出で泣かむとすれば雪ふりしきる

温かに洋傘(かさ)(さき)もてうち散らす毛莨(きんぽうげ)こそ春はかなしき

しみじみと二人(ふたり)泣くべく椅子の上の青き蜥蜴をはねのけにけり

定斎(ぢやうさい)(きし)みせはしく橋わたる江戸の横網(よこあみ)鶯の啼く

桜、さくら、街のさくらにいと白く塵埃(ほこり)吹きつけけふも暮れにけり

(すず)鳴らす路加(ルカ)病院の(おそ)ざくら春もいましかをはりなるらむ

 ② 夜を待つ人

思ひ出の赤き毛糸よ、夕暮の薄らあかりにたゞたぐれ、静こころなく

やはらかに赤き毛糸をたぐるとき夕とどろきの遠くきこゆる

泣かむとし赤き硝子に背を向けつ(ゆふべ)は迫る窓の内部(うちら)

いつしかと身は窻掛に置く塵の白きがごとも物さびてける

かろがろと女腰かけなにやらむ花あかき窓に物思ひ居り

よしやあしや君が銀座の入日ぞらほのかに暮れて夜となりにける

つくづくと昼のつかれをうらがへしけふもラムプを(とも)すなりけり

編みさしの赤き毛糸にしみじみと針を刺す時こほろぎの鳴く

鳴りひびく心甲斐絹を着るごとしさなりさやさやかかる夕に

これやこの絹のもつれをときほぐしほのかに(よる)を待つすべもがな

露西亜の白夜にはあらねども

かなしきは気まぐれごころ宵のまに朝の風たち(かなかな)の啼く

松の葉の松の木の間をちりきたるそのごとほそきかなしみの来る

 ③ なまけもの

なまけものなまけてあればこおひいのゆるきゆげさへもたへがたきかな

ほれぼれと歌ふにしくはなかるらむおもへば()しや涙ながるる

ものおもふわかき男の息づかひそなたも知るやさるひあの花

なまけもの昼は昼とてそことなきびんつけの香にも涙してけれ

へら鷺の卵かへすとなまけものなまけはてたるわれならなくに

おづおづとわかきむすめを預れる人のごとくに青ざめて居り

ひとりゐて罪あり

このおもひ人が見たらば(ひき)となれ雨が降つたらへら鷺となれ

わがゆけば男のにほひちかよると含羞草(はにかみさう)の葉を閉づるかも

ものおもへば肩のうしろにこそばゆきわかきをなごのといきこそすれ

夕暮のあまり赤さになまけものとんぼがへれば啼くほととぎす

 ④ 女友どち

ゆくりなく庚申薔薇(かうしんばら)の花咲きぬ君を忘れて幾年(いくとせ)か経し

うらうらと二人(ふたり)さしより泣いてゐしその日をいまになすよしもがな

ただひと目君を見しゆゑ三味線の(いと)よりほそく顫ひそめにし

才高きある夫人に

ほれぼれと君になづきしそのこころはや裏切りてゆくゑしらずも

嗅ぎなれしかのおしろいのいや薄く(つめ)たき(なさけ)忘られなくに

女は白き眼をひきあけてひたぶるに寄り添ふ、淫らにも若く美しく

どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし

あるあはれなる女に

いつとなく親しむとなく寄るとなく馴れし(なさけ)も忘られなくに

偽おほく而もなほ美しき女ありけり
その女消えさりにけり

くちびるの(あか)く素顔のいと蒼き女手品師君去りにけり

 ⑤ 白き露台

ひとたび別れて

かはたれの白き露台に出でて見つわがおもふ人はいづち去にけむ

君には似つれ、
見も知らぬ少女なりけり

仏蘭西のみやび少女がさしかざす勿忘草(わすれなぐさ)(そら)いろの花

かなしみは出窓のごとし連理草(れんりさう)夜にとりあつめ(そよ)かぜぞ吹く

にほやかに君がよき夜ぞふりそそぐ白き露台の矢ぐるまの花

その君はいづこにありや、
はつ夏の空も薫りぬ

匂よき宵のロベリヤ朝の芥子小窓に据ゑて忍ぶ日は来ぬ

姿見の中の草生よ
老いほけしたんぽぽも飛ぶ

昨日(きのふ)君がありしところにいまは赤く鏡にうつり虞美人草(ひなげし)のさく

鳩よ鳩よひとりぽつちのわが鳩よ

煩悩の赤き花よりやはらかに煙る草生(くさぶ)へ鳩飛びうつる

とまり木の鳥のこころよ

夕かけて白き小鳥のものおもひ木にとまるこそさみしかりけれ

空いろよりすこし濃きロベリヤの花はほのかに小さくして、しかも数かたまりて瞳をひらく。悲しき日その花をながめて

空いろのつゆのいのちのそれとなく()なましものをロベリヤのさく


  哀傷篇


〔中扉裏〕

罪びとソフイーに贈る

「三八七」番


 ① 哀傷篇序歌

ひとすぢの(かう)の煙のふたいろにうちなびきつつなげくわが恋

自棄二首

あだごころ君をたのみて身を(おと)す媚薬の風に吹かれけるかな

(かな)しくも君に思はれこの惜しくきよきいのちを投げやりにする

花園の別れ六首

君と見て一期(いちご)の別れする時もダリヤは(あか)しダリヤは(あか)

君がため一期(いちご)の迷ひする時は身のゆき暮れて飛ぶここちする

(かな)しければ君をこよなく打擲(ちやうちやく)すあまりにダリヤ(あか)く恨めし

(くれなゐ)の天竺牡丹ぢつと見て懐妊(みごも)りたりと泣きてけらずや

身の上の一大事とはなりにけり(あか)きダリヤよ(あか)きダリヤよ

われら終に(あか)きダリヤを喰ひつくす虫の群かと涙ながすも

 ② 哀傷篇

悲しき日苦しき日七月六日

鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕へられにけり

かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の(きし)みてゆく礫道(こいしみち)

眼をつぶれど今も見えたる草むらの麦稈帽は光るなりけり

馬車霞が関を過ぐ

大空に円き日輪血のごとし(まが)監獄(ひとや)にわれ()ちてゆく

胸のくるしさ空地(あきち)落日(いりひ)あかあかとただかがやけり胸のくるしさ

まざまざとこの黒馬車のかたすみに身を伏せて君の泣けるならずや

夕日あかく馬のしりへの金網(かなあみ)を透きてじりじり照りつけにけり

向ふ通るは清十郎ぢやないか
笠がよう似た菅笠が

夏祭わつしよわつしよとかつぎゆく(まち)神輿(みこし)が遠くきこゆる

泣きそ泣きそあかき()()の軒したの廻り燈籠に()()きにけり

うれしや監獄にも花はありけり
草の中にも赤くちひさく

しみじみと涙して入る君とわれ監獄(ひとや)の庭の爪紅(つまぐれ)の花

女はとく庭に下りて顫へゐたり、数珠つなぎの男らはその後より、ひとりひとりに踉けつつ匍ひいでて紅き爪紅のそばにうち顫へゐたり、われ最後に飛び下りんと身構へて、ふとをかしくなりぬ、帯に縄かけられたれば前の奴のお尻がわが身体を強く曳く、面白きかな、悲しみ極まれるわが心、この時ふいと戯けてやつこらさのさといふ気になりぬ

やつこらさと飛んで()りれば吾妹子(わがもこ)がいぢらしやじつと此方(こち)向いて居り

同じく二首

編笠をすこしかたむけよき君はなほ(あか)き花に見入るなりけり

鳳仙花(あか)く咲ければ女子もかくてかなしく美くしくあれよ

監房の第一夜

この心いよよはだかとなりにけり涙ながるる涙ながるる

罪びとは罪びとゆゑになほいとしかなしいぢらしあきらめられず

ふたつなき阿古屋の玉をかき抱きわれ泣きほれて監獄(ひとや)に居たり

どん底の底の監獄(ひとや)にさしきたる(あま)つ光に身は濡れにけり

テテツプツプ
弥惣次ケツケ

日もすがらひと日監獄(ひとや)の鳩ぽつぽぽつぽぽつぽと物おもはする

* 柳河の童謡、テテツプツプは鳩ぽつぽのこと

二日経て弟面会に来りければ

監獄(ひとや)にも鳳仙花咲けりいと(あか)しとこの弟に言ひ告げやらむ

母びとは悲しくませば鳳仙花せめて(あか)しと言ひ告げやらむ

監獄の庭に引き出されて、ある時

いつまでか日は東よりのぼるらむ昨日(きのふ)に同じ赤き花咲く

あはれなる獄卒どもが匍ひかがみ(あか)きダリヤの毛虫とる見ゆ

太陽のもとに許されて尿するは
うれしきかな楽しきかな

狂人(きちがひ)の赤き花見て叫ぶときわれらしみじみ出て尿(いばり)する

赤き花見つつ涙し(かたく)なのこの若ものが物言はぬかも

バリカンの光うごけばしくしくと(いた)(かしら)のやるせなきかなや

バリカンに(かしら)あづけてしくしくとつるむ羽虫を見詰めてゐたり

真昼の監房にてある時

おのれ(あか)き水蜜桃の(つゆ)をもて顔を()かむぞ泣ける()が顔

夕されば入日血のごとさしつくる監獄(ひとや)うれしや(まま)()べてむ

またある時

驚きてふと見つむればかなしきかわが足の指も泣けるなりけり

わが睾丸(ふぐり)つよくつかまば死ぬべきか()けば心がこけ笑ひする

(たは)れ歌うたひつくして泣くなめり忘れ難かりあきらめられず

殺人犯隣にあり

猫のごと首絞められて死ぬといふことがをかしさ爪紅(つまぐれ)の咲く

監獄にて子を生みし女ありけり
いかなる罪業のめぐりなるらむ

恐ろしくおのれ死なむとつきつめぬいきいきとまたも赤子啼き啼く

夕されば火のつくごとく君恋し命いとほしあきらめられず

夕暮より夜にかけて

曇り日の桐の梢に飛び来り(かなかな)鳴けば人の恋しき

市ケ谷の逢魔(あふま)が時となりにけりあかんぼの泣く梟の啼く

夜となりぬのうまくさんまんだばさらだせんだまかろしやだとわが父の泣く声のきこゆる

梟はいまか眼玉(めだま)を開くらむごろすけほうほうごろすけほうほう

深夜二首

たれこめて深きねむりに()つる時わが(そば)に来り寝る女あり

君もなほ死なずしありけむさめざめと夜の()に見えて涙を流す

十一

裁判の日、七月十六日

一列(ひとつら)に手錠はめられ十二人涙ながせば鳩ぽつぽ飛ぶ

鳩よ鳩よをかしからずや囚人(めしうど)の「三八七(さんはちしち)」が涙ながせる

十二

法廷へのゆくみちにて

向日葵(ひぐるま)向日葵囚人馬車の隙間(すきま)より見えてくるくるかがやきにけれ

十三

すべてなつかしすべてなつかし

鳳仙花わが(ゐや)すればむくつけき看守もうれしや目礼したり

鳳仙花よ監獄(ひとや)にも馴れ罪にも馴れ囚人(しうじん)にさへも馴れむとするか

十四

許されたり許されたり

監獄(ひとや)いでぬ重き木蓋(きぶた)をはねのけて林檎函よりをどるここちに

監獄(ひとや)いでぬ走れ人力車(じんりき)よ走れ(まち)にまんまろなお月さまがあがる

十五

監獄(ひとや)いでてじつと顫へて噛む林檎林檎さくさく身に()みわたる

くれなゐの濃きが別れとなりにけり監獄(かんごく)の花爪紅(つまぐれ)の花

 ③ 続哀傷篇

空見ると強く大きく見はりたるわが(つぶ)ら眼に涙たまるも

烏羽玉(ぬばたま)の天竺牡丹咲きにけり男手に取り涙を流す

烏羽玉の黒きダリヤにあまつさへ日の照りそそぐ日の照りそそぐ

お岩稲荷にゆきて

あまつさへ夾竹桃の花あかく咲きにけらずやわかき男よ

木更津へ渡る。海浜に出でて
あまりに悲しかりければ

いと()き赤き柘榴(ざくろ)をひきちぎり日の光る海に投げつけにけり

松川といふ旅館に泊りぬ
白き猫あまたゐたりけり

白き猫あまたゐねむりわがやどの晩夏(ばんか)正午(まひる)近まりにけり

驚きて猫の熟視(みつ)むる赤トマトわが投げつけしその赤トマト

あかあかと(さや)ぎ廻りそ人力車夕日に坐り泣く男あり

またぞろふさぎの虫()がつのるなり黄なる鶏頭赤き鶏頭

やはらかにロンテニースの(たま)光る公園に来てけふもおもへる

草の葉に(すべ)りちろめく青蜥蜴(あをとかげ)その児悲しも夕日は光る

くつわ虫を蝉かと思うた、
ひとりひるねの宵のねざめに

かなしければ昼と夜とのけぢめなしくつわ虫鳴く(かなかな)の鳴く

曇り日の朝の瓦の見はるかしを鳩歩み居れりさみしきか鳩よ

電線(はりがね)に雀とまりてつるみたり悲しかりけりまた飛んでけり

心心赤き実となり枝につく鴉()まむとすはぢぎれむとす

暴風雨来りぬ面白きかな面白きかな

柿の赤き実隣家(りんか)のへだて飛び越えてころげ廻れり暴風雨(あらし)吹け吹け

浅草にて

電線(はりがね)に鳶の子が啼き月の夜に赤い()()くぴいひよろろろよ

なになれば猫の児のごと泣くならむ(とんび)とまれり電線(はりがね)(うへ)

十一

河岸あるき

横網(よこあみ)に一銭蒸汽近づくと廻るうねりも君おもはする

見れば乞食(かたゐ)は腐れ赤茄子(トマト)をかいつかみひたぶる泣きて(くら)ふなりけり

小犬二匹石炭(ぶね)のふなべりを鳴けり狂へり夜に叫び居り

ぬば玉のくらき水の()を奥ふかく石炭舟のすべりゆきにけり

十二

冬来る

十一月は冬の初めてきたるとき故国(くに)朱欒(ザボン)の黄にみのるとき

喨々とひとすぢの水吹きいでたり冬の日比谷の鶴のくちばし

 ④ 哀傷終篇

かなしみに顫へ新たにはぢけちるわれはキヤベツの(たま)ならなくに

くるしくるし堪へがたし

わが心ただひとすぢとなりにけり笛を吹け吹けとんぼがへれよ

ひとをどりひやるろと吹けば笛の音もひやるろふれうと鳴るがいとしさ

思ひ出のひとつふたつ

代々木の(あを)(かし)がもとに飛びありく白栗鼠(しろりす)のごとく二人(ふたり)抱きし

春くれば白く(ちひ)さき足の指かはゆしと君を抱きけるかな

手にぎりてかたみに憎み蓴菜(じゆんさい)の銀の水泥(みどろ)を見つめつるかな

死ぬばかり白き桜に針ふるとひまなく雨をおそれつつ寝ぬ

蝋燭をひとつ(とも)して恐ろしきわれらが閨をうかがひにけり

その翌朝(よくあさ)君とわが見て(ふる)へたる一寸坊が赤き足芸

旧歓とどめがたし生はかたく死はやすし

ひなげしのあかき五月(さつき)にせめてわれ君刺し殺し死ぬるべかりき

男泣きに泣かむとすれば竜胆(りんだう)がわが足もとに光りて居たり

このかなしき胸のそこひゆこみあぐるくるめきの玉は鉄の玉かも

来て見れば監獄署の裏に日は赤くテテツプツプと鳩の飛べるも

囚人の泣く声か、拷問の叫びか

と見れば監獄署裏の草空地(くさあきち)にぶらんこの(くわん)のきしるなりけり

野辺あるき

氷閉ぢ野菜つめたき冬のみちゆけどもゆけども人に逢はなく

煤烟(すすけむり)たなびくもとに葛飾(かつしか)の青菜畑ははるばると見ゆ

夜ふけて

ぐろきしにあつかみつぶせばしみじみとから(くれなゐ)のいのち忍ばゆ

時計の針(いち)とIとに(きた)るときするどく君をおもひつめにき

母の云へらく

どれどれ春の支度にかかりませう(あか)い椿が咲いたぞなもし

あかんぼを黒き猫来て食みしといふ恐ろしき世にわれも(いひ)()

犬が啼き居り乾草(ほしぐさ)のなかにやはらかく首突き入れて犬が啼き居り

十一

ひもじきかなひもじきかな
わが心はいたしいたしするどにさみし

吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の()くごとしひもじかりけり

底本:「白秋全歌集①」岩波書店
1990(平成2)年12月7日第1刷発行
底本の親本:「桐の花」東雲堂書店
1913(大正2)年1月25日発行