バイロン詩集 バイロン ジョージ・ゴードン George Gordon, Lord Byron 幡谷正雄訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)塊《マツス》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)所謂|曠野《ステツペ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#ここから2字下げ] /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)その歌にかず/\の思ひをこめて -------------------------------------------------------   序  多くの有名な批評家の言つてゐる通り、バイロンは十九世紀の最大の詩人であつて、沙翁以來の天才詩人として、熱烈奔放な革命兒として英文學史上に不朽の一大異彩を放つてゐる。否、彼れは一英國人でなくて、寧ろ大陸人であり、世界人である。彼れは一英詩人として納まることの出來ぬ世界的詩人であつた。彼程世界の文壇を動かしたものは東西古今にその比を見ないのである。この「詩壇のナポレオン」はペンを以て世界を風靡しようとしたが、それは終に實現せられた。即ち十九世紀のロマンティシズムの運動の先驅者は實にバイロンであつた。かくて各國にその國のバイロンが現はれ、ドイツにはハイネがあり、フランスにはミュッセを始め、ユーゴー、ラマルティーヌ等があり、ロシヤにはプーシュキン、レルモントフ等が現はれて、文學上に新しい運動を起した。この意味に於いても、ゲーテやハイネが讀まれる限り、彼等と同等に、否それ以上に、バイロンが讀まれなくてはならないのである。  けれども、バイロンの詩には眞實精妙纖美を以て許されるやうな詩句は少なく、同じ英詩人のうちで、ワーヅワース、シェリー、キーツ、テニスン等の詩に見られるやうな形式上の整頓和諧といふものも尠ない。即ち幽趣微韻がなく、粗大蕪雜であると非難せられてゐる。これは確かに事實である。けれどもそれはそれとして、バイロンは詩作の態度が他の詩人と異つてゐる。彼れが『ララ』を書いたのは、舞踏會から歸宅して衣服を脱ぎ換へる間であり、『海賊』は四日間で、『アバイドスの花嫁』は十日間で書いてゐる。これがために彼れは健筆家であると歎賞せられてゐるが、ともかく、こんな速筆であるから、彼れには推敲鍛練をする餘裕はないのである。彼れは感じたまゝを直ちに歌ひ、熱情の溢れるまゝに書いた。彼れの詩は噴火山であり、爆彈であり、咆哮であり、雷霆であり、暴風であり、瀑布であり、怒濤であり、激流である。從つてその詩には自由奔放、雄渾莊麗なものが少なくない。  それ故に、彼れの詩は同時代のトリオとして數へられたシェリー、キーツには及ばない點があり、又その詩風も寧ろ舊套を踏襲するものもあるが、彼れの詩が讀まれるのはその内容であり、精神である。即ち彼れの詩は熱烈眞摯を極め、激烈な叛抗的精神と沈痛悲壯な調を帶びてゐる。彼れは時代の代言者であり、彼れの詩は時代の聲であつて、燃ゆるが如き熱情と美しい修辭を以て、不平不滿、苦痛、絶望、不信、破壞を歌つた。彼れはあくまでも赤裸々な自然兒であり、快樂を追求する人間の子であつた。靑春の歡樂も一場の儚い夢である。幻滅の後には堪へ難い悲しみが襲うて來る。惡魔的な半面にはかうした感傷的な弱い點がある。彼れの詩はこの人間苦と世界苦の僞らざる表白であつた。ともかく、バイロンの詩は燃ゆる情熱の塊《マツス》であり、熔岩《ラヴア》である。  かやうな彼れの詩が當時の人氣を博したことは極めて當然なことであつた。彼れの一代の傑作『チヤイルド・ハロルドの巡遊』が上梓せられるや、忽ちにして洛陽の紙價を高からしめ、かつては彼れを嘲罵した者も、今は言葉を盡して讃辭を呈し、一躍して彼れは詩壇に覇を唱ふるに至つた。『或朝目ざめてみると、私の名は世に高かつた』とは、誰も知る通りこの時のバイロンの告白である。實際、彼れの名聲は餘りに豫想外であり、突如的であつて、四週間に七版を重ねるに至り、スコットをして終にその詩筆を棄てしめたほどであつた。又『海賊』の如きは一日に一萬四千部といふ破天荒の賣行を呈した。詩壇の麒麟兒となつたロマンティックなこの若い貴公子は、その美貌を以て社交界の花形と謳はれ、男からも女からも愛慕、崇拜せられ、特に靑年は髮毛の刈り方、皮肉の言ひ振り、その衣服の縞柄や色合ひ等に至るまでバイロンの眞似をし、甚しきに至つてはバイロンが跛足であつたゝめ鳥の飛ぶやうに歩くのを眞似る者もあつたといふ。當時大陸で最も人氣を聚めてゐたのはゲーテであつたが、そのゲーテもバイロンを極力讃嘆し、ゲーテの娘の如きはゲーテ以上にバイロンを愛讀したといふことである。  常にギリシヤに憧れ、革命の焔を胸に燃やしてゐたバイロンはその晩年に於て「詩と人道の神聖同盟、思想と實行の一致」を實現するためギリシヤ獨立軍に投じ、革命的狂熱の美しい光輝の中に光榮の最後を遂げた。ミソロンギイに於ける英雄の死が傳はるや、多くの人の感動する所となり、ハイネの如きは自分の近親が死んだやうだといつてゐる。また當時十四歳の少年詩人テニスンが『バイロンは死んだ!』といつてサマースビイの岩に彫りつけたが、この挿話《エピソード》は歐洲全體の感動を表出してゐる。テニスンが自叙傳で、『その日は世界が私にとつて眞暗になつたやうな氣がした』と言つたが、それから今日でもう百年になる。三十六年餘の短い彼れの一生は一の哀史である。彼程波瀾多く數多の運命を極めた人は少ない。けれどもその詩は殆ど世界各國に飜譯せられて萬人の胸に交響樂《シンフオニイ》を奏でゝゐる。そして彼は政治上には革命を、文學上にはロマンティシズムの新運動を起す源泉となり、導火線となり、自由と獨立の翹望せられる所では到る處彼れの詩が愛誦せられた。ロシヤのヴォルガの河は春麗な日に大洪水を起すのである。これは谷間の氷が融けるからであるが、その洪水の跡には美しい綠の所謂|曠野《ステツペ》が出來て美しい花が咲き亂れるといふ。バイロンの一生が例へばこれではなかつたか。自由の種子は歐洲の大陸の原野はいふまでもなく、遠く東洋にまで蒔かれ、美しいロマンティシズムの花を咲かせ、革命の實を結んだのである。そしてその影響は、『すべての國民により、すべての時代』を通じて感ぜられてゐる。 『バイロンは海の波の中からいつも若やいで來る』とは、ゲーテの言葉であるが、彼れの若々しい熱情、純粹な心情はいつまでも人々を引きつける魔力をもつてゐる。變らぬ新らしさと、永久の生々しさとは彼れの特徴であつて、この情熱の詩人が百年前に歌つた調べは、今の吾々の胸にも新しい響を傳へるのである。實際、現代はバイロンの時代とそんなに變つてはゐない。詩的戰士となつて、傳統的な道徳宗敎と戰ひ、自由と獨立を望んだ彼れの絶叫は言ふまでもなく現代に深い關係がある。バイロンの生きた精神を學ぶことは現代に於いて最も意義のあることであり、今の文壇に缺けてゐるものも實に彼れの眞精神であるやうに思はれる。この意味に於いて彼れの百年忌に際して貧しいながらも彼れの詩集を公にすることは意義のあることゝ思ふ。  既に定評のある通り、バイロンの詩は非常に難解であり、殊に彼れの如き自由奔放の詩想は淺學菲才の譯者には到底その眞相を寫すことは出來ないのである。譯詩の至難、否、眞の意味に於いては不可能なことは今更いふまでもないが、バイロンは私が共鳴を持つ詩人であるので、この拙い譯詩を公にしたのである。英文に素養のない人にせめてこの情熱詩人の面影の一部でも傳へることが出來れば譯者の滿足である。英國の一批評家が『外國人がバイロンを讃美するのは詩の韻律に對する理解がないからだ』と言つた。今バイロンの詩の韻律を云々するのではない。言語系統の近い大陸の人々にさへバイロンの詩の韻律は[#「は」は底本では欠落]分らないで、從つてそれは問題外として、その内容に魅せられたのであるといふのだが、日本語に譯することになると、それこそ文字通りに彼れの詩の内容、意味を寫すにすぎない。否それ丈でも出來ればまだ結構な方である。  バイロンを知るには、『チヤイルド・ハロルドの巡遊』、『不信者』、『海賊』、『パリシナ』、『マンフレッド』、『マゼッパ』、『サアダナペイラス』、『ドン・ジュアン』等の長篇を讀まなければならぬが、それらは悉くこゝに收めることは出來ないので、抄譯によつてその一斑を示すことにした。短篇も全部收めてはないが、バイロンの思想性格を現はしてゐるものは大抵網羅した積りである。これらの詩の内には熱切な戀愛詩もあり、或ひは自由を謳ひ、革命を讃美したものもあるので、この詩集を全部讀んで貰ひたいと思ふのである。  譯語は二三の韻文譯を省いて、全部口語を用ゐた。又譯し方は出來る丈|原文《テキスト》に忠實に譯したが、中には思ひ切つて意譯した所もある。前にも言つた通り、バイロンの詩は難解で、意味深長であるから數回讀んで漸くその意味を解し得るものがある。譯詩の盡せない所は讀者諸氏の叱正を切に乞ふ次第である。  この譯詩の多くは以前に譯了したものであつて、この百年忌に公にするに際して訂正する考へであつたが、折惡しく病床の身となつたのでその儘にして出すことになつた、他日出來ることならより完全なものを出したいと思つてゐる。  尚この譯詩集を上梓するに就いては中根駒十郞氏の少なからぬ御肝煎を辱うしたので、こゝで謝意を表して置く。   一九二四年四月十九日           バイロン百年忌の日                袖ヶ浦の邊にて 譯者 [#改ページ]  目次   閑の時 若い乙女の死を悼む E——に D——に 友の碑銘 ニューステッド僧院を去るときに 捨て給へ アドリアンの臨終にその靈に告げる詞 カタラスからレスビアに ティバラスに倣つて カタラスから倣つて アナクレオンの戀歌 エンマに M・S・Gに カロライン孃に カロライン孃に カロライン孃に ある女に 戀の始めての接吻 斷章 M——に 女に M・S・Gに メリーに レスビアに 若い令孃に 愛の最後の告別 マリオンに ある女に メディアの歌 美しいクェイカーの娘に 涙 婀娜者の無情を歎く詩に答へて エリザに 天鵞絨の紐に捲髮を結んで贈つてくれた女に おもひで マスターズ夫人に 私が無邪氣な子供であつたなら   折々の歌 アンに 二人の別れたとき まあ、あなたは幸福だ アゼンスの娘よ、別れる前に ギリシヤの戀愛詩から わかれ 汝は若く麗しくて死んだ ギリシヤの戀愛詩から お前は僞らないが變り易い 戀の始めを問はれたときに いつまでも戀が出來たら すべては戀のため 印度の曲に合せた歌 二人はもはやさ迷ふまい 歌詞 ナポレオンの訣別   ヘブライ調 彼女は美しく歩む あゝ、彼等のために泣け 私の魂は暗い 私はお前の泣くのを見た ヘロッドの悲歎   家庭詩 妻と別れるとき   チャイルド・ハロルドの巡遊 告別の歌 ウォ−タールーの前夜   アバイドスの花嫁 君知るやあの國を   海賊 メドラの唄 お前の唄は悲しい   パリシナ姫 媾曵   サアダナペイラス王 すべては女によりて 報酬に紅い脣を   ベツポー 戀の始終   ドン・ジュアン ドンナ・ジュリアの手紙 ギリシヤの島々   シヨンの囚人 シヨン讃頌 [#改ページ]  バイロン詩集       幡谷正雄譯 [#改ページ]  閑の時 [#改ページ]   若い乙女の死を悼む [#ここから5字下げ] ——作者の從妹で、非常に親しかつた女—— [#ここで字下げ終わり] いとしいマーガレットの墓を訪れて  なつかしい墓標《はかいし》に花を撒き散らすとき、 風は凪ぎ、ほの暗い夕べは靜かに、  樹の間にはそよとの風も吹かぬ。 あゝ! かつてはあんなに美しく輝いてゐた彼女は  今は骸《なきがら》となつてこの狹い穴の中に眠つてゐる。 死の神は犧牲《いけにへ》に彼女を捉《とら》へ、  美徳も、美貌も、彼女の生命《いのち》を取返す術《すべ》はなかつた。 あゝ! もし死の神に慈悲があれば、  天が運命の恐ろしい宣告を飜へしてくれるなら、 こゝで悲しむ私の歎くこともなく、  彼女の徳を讃へる詩人もゐないのに! けれどなぜ私は泣くのだらう? 彼女の類《たぐひ》なき魂は  陽《ひ》の美しく照り輝く彼方《かなた》を翔《と》び、 啜りなく天使《エンゼル》に導かれて  彼女は美徳の報ひに限りなき快樂《たのしみ》を受ける樂園に行くのを! それに人の身として恥かしくも天を糺《たゞ》し、  物狂ほしく、尊い神を責めるのではないか? あゝ! 否、そんなはかない企圖《わざ》は去つて行け──  私は神に從ふことを拒むまい。 彼女の美徳の思ひ出は今も懷しく  美しい顏は今も鮮やかに記憶に殘り、 思ひ出す毎に温い愛情の涙を誘ひ、  今も猶私の胸にはその面影が宿つてゐる。 [#地から2字上げ]——一八〇二年── [#ここから5字下げ] 註。マーガレットは海軍大將パーカーの娘で、バイロンより一つばかり年上の容色優美の少女であつた。彼女は詩人の初戀の對象であつたが、交ること二年にして肺を病んで、はかなくこの世を去つた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   E——に おまへとわたしの名が 友情で結ばれてゐるのを見て笑ふ馬鹿者には笑はせよ、 けれど徳のあるものは、位が高くて不徳の者よりも 更に大きな愛を受けるものだ。 おまへの運命《さだめ》は私と同じでなくても、 わたしがおまへより高い身分に生れてゐても、 この華美《はで》な身を羨むな、 おまへはつつましい徳の矜恃《ほこり》をもつてゐるのだから。 二人の魂《こゝろ》は何はさて合つてゐるから、 おまへの運命《さだめ》が悲しくともわたしの位を辱かしめることはない。 二人の交りはほんとに樂しいのだ、 身分の違ひは何でもないからね。 [#地から2字上げ]——一八〇二年一一月—— [#改ページ]   D——に 私はおまへを、愚かにも唯死のみが 割つことの出來る友としようと思つたのだ。 それに嫉妬《ねたみ》は毒の手を伸べて わたしの胸から永久《とこしへ》におまへを奪ひ去つた。 ほんとに、嫉妬《ねたみ》はおまへをわたしの胸から奪つてしまつた。 でも、わたしの心の中にはおまへが宿つてゐる。 さあ、この胸におまへの姿を抱いてゐよう、 胸の鼓動のやむまで。 そして墓場がおまへの亡骸《なきがら》を甦《よみがへ》らせ 再び土に生命《いのち》が與へられたとき、 おまへのなつかしい胸にわたしの頭を横へよう—— おまへのゐないのに、どこにわたしの天國があらう? [#地から2字上げ]——一八〇三年—— [#改ページ]   友の碑銘《いしぶみ》 おゝ友よ! とはに愛せられ、とはに親しい友よ! はかない涙はどんなに君の尊い柩を濡らしたらう? 君が死の苦しみにもがいてゐた時、 その臨終《いまは》の息にどんなに私は嘆息《ためいき》を吐いたらう? もし涙が死の暴王の歩みを妨げる力があれば、 もし嘆息《ためいき》がその投槍《なげやり》の無慈悲な力を奪ふことが出來たなら、 もし靑春と美徳が暫しの猶豫を求むることが出來たなら、 或ひはまた美が幽靈の心を奪つてその餌食を捨てることが出來たなら、 君はなほも生きながらへて私の痛む眼と、 君の僚友《とも》の譽《ほまれ》と君が朋友の悦びを祝福するのだらうに! もし今も猶君の優しい魂が 君の墓場のほとりをさまよふならば、 私の胸に記された、彫刻師の巧みな業《わざ》にも及ばぬ 深い悲嘆《かなしみ》を君はこゝでよむのだらうに! さびしい君の眠りの床を示す大理石はないが、 君の生きた像《すがた》が泣いてゐるのが見える。 君の墓に首垂れるのは愁傷《なげき》の姿ではない、 愁傷《なげき》そのものが君の夭折《わかじに》を悲しむのだ。 君の父上が血統《ちすぢ》の絶えるのを歎かれようとも何でもない、 親の悲しみも私の深い悲しみには及ばないから! 父上の臨終を慰めるに君のやうな人がゐなくとも なほその悲しみを慰める兄弟が外にあるのだ。 でも、私にとつて君の代りになつて呉れるのは誰だらう! 新しい友が出來ても君の像《すがた》はどうして消えよう? あゝ、誰もゐないのだ!——親の涙はやがては消えよう、 月日の經つにつれて幼い弟の嘆きは薄らがう、 私を除いたすべてのものには慰めはあるが、 友に別れたひとり淋しい私の心のみはいつまでも嘆くのだ。 [#地から2字上げ]——一八〇三年—— [#改ページ]   ニューステッド僧院を去るときに [#ここから5字下げ] 『翼ある月日の子よ、何故お前は廣間を作るのか? お前は今日塔から見てゐるが、幾年かの後に砂漠の疾風《はやて》が吹くと、お前の空《から》の中庭で唸るのだ。』——オシアン—— [#ここで字下げ終わり] ニューステッドよ、汝の胸壁の間からうつろにひびく風は囁[#「口+耳」、第3水準1-14-94、咡]き、 私の祖先の廣間であつた汝は朽ちはてた。 かつては微笑んだ汝の花園には 毒人參や薊《あざみ》が繁つて近頃迄咲いてゐた薔薇を枯らしてしまつた。 [#(一)]ヨーロッパからパレスタインの野をさして 多くの家來を率ゐ 武裝を整へて誇り顏に出陣した幾世の男爵逹を偲ぶかたみは 疾風《はやて》の吹きすさむ楯の紋がひとり悲しく殘つてゐるのみだ。 今はもう老いたロバートが竪琴《ハープ》の絃《いと》を張る軍勢を率ゐて 勝利の月桂冠を欲しさに胸に焔を立てることもない。 [#(二)]アスカロンの塔の近くには、[#(三)]ホリスタンのジヨンが眠り、 その樂人の手は死んで力もなくなつてゐる。 ポールとヒュバートも亦[#(四)]クレッシイの谷間に眠つてゐる、 英國とエドワードを護るために倒れたのだ。 父上逹よ! あなたの國の涙はあなたを償ひ、 あなたらの戰ひの勳功《いさをし》や、名譽の戰死は今も記録が示してゐる。 [#(五)]マーストンで、[#(六)]ルパートと共に謀叛者と戰ひ、 四人の兄弟は赤い血汐を荒野に流した。 君のために彼等の國を護り、 生命の終るまで臣の道を守つたのだ。 英雄の御靈《みたま》よ、さらば! あなたらの子孫の私は 祖先の屋敷を後にして、今訣れを告げる! 他國にゐても、國内にゐてもあなたらを想ひ出す時は 新な勇氣を得て、あなたらを家の譽と思ふだらう。 この哀しい離別《わかれ》に眼が涙にかきくもるのは 悔いの涙の滲むのを恐れるのではなく、人の本性なのだ。 おくれをとらぬ心で、私ははるか遠くに行くけれど、 祖先の名聲を決して忘れることは出來ぬ。 その名聲、その思ひ出を今もなほ懷き、 誓つてその名を汚すまい。 あなたらの如く生き、あなたらのやうに死なう、 そして祖先と一緒に葬られることが私の願ひだ! [#地から2字上げ]——一八〇三年—— [#ここから5字下げ] 註。ヘンリー二世の建立したニューステッド僧院は、一五三六年修道院廢止の時、功勞によりヘンリー八世から「大髯の小男」と言はれたジョン・バイロン卿に與へられたものである。 (一)バイロンの先祖が十字軍に從つた記録はないが、僧院にあつた古い入子板細工に十字軍の兵士等の顏があつたから思ひ附いたことであらう。 (二)アスカロンは地中海に沿うてゐるシリヤの古都である。 (三)ダービッシャーのホリスタン城はバイロン家の居所であつた。 (四)クレッシイは一三四六年エドワード三世がフランス軍に打ち勝つた場所で、バイロンの先祖の中二人が名譽の戰死を遂げたといふ。 (五)一六四四年のマーストンムーアの戰ではチャールス一世の味方は敗北した。 (六)ルパート王子は有名な騎兵指揮者であつた。 [#底本では最後の四行の二スタンザは八行になっている。] [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   捨て給へ [#ここから5字下げ] ルッソーにより、『あるイタリーの尼僧と英國の紳士との書翰』の中に書かれたもの。事實に基づく。 [#ここで字下げ終わり] 『捨て給へ、捨て給へ、罪なき人を迷はす  君が諂《へつら》ひの術を。  彼等の信ずるのを見て君は笑ふが、  君に瞞されて彼等は泣くのだ。』   この歌に答へて、——孃に贈る。  なつかしい、罪のない少女よ、  お前のか弱い女心を欺かれまいとするその諂ひの術は、  唯想像の中に在るのだ——  お前が自から造つた幻にすぎない。  何故なれば人の心を奪ふ美しさと、  完《まつた》い體と、愛くるしい顏を  讃めて眺めるものは、おゝ!  お前を欺かうとは思はぬのだ。  一度はお前の澄んだ鏡に映して見給へ、  お前は優美な姿を見るのだ、  それは男の讃めるものだが  女は嫉ましく思ふのだ。  そこでお前[#「お前」は底本では「御前」]の美しさを言ふ私は  何で嘘を言はう、唯男の務めをつくすにすぎないのだ。  あゝ! この氣さくな若者を棄てゝはならぬ、  人は諂ふのでない——眞心の私を。 [#地から2字上げ]——一八〇四年七月—— [#改ページ]   アドリアンの臨終にその靈に告げる詞 あゝ! 靜かに、飛びゆく、たゆたふ魂よ、 この世の友として交つた君よ! 知らぬいづこの地をさして 君は遠く飛んで行くの? 今はもう昔の樂しさもなく 蒼ざめて、わびしく、悲しいのだ。 [#改ページ]   カタラスからレスビアに 嫉み心に恐れることもなく、 汝《おまへ》の類《たぐひ》なき美しさを傍目もふらず眺める その若者はジュピターに等しい—— 否ジュピターよりも偉く見える。 汝の頬はいつも靨《ゑくぼ》に輝き、 汝の口から洩れる美しい樂の音は いつも私の知つてゐる歌で、 私のために、私一人のために歌ふのだ。 あゝ! レスビアよ! 私はこれで死んでも まだ汝を見ずにはゐられない。 けれど、一目見てさへ、私の心は汝に飛んで行く。 私は眺めずにはゐられぬが、眺めながら死ぬのだ。 さまざまの恐れに身顫してゐるひまに、 舌はひからびて咽喉につき、 動悸は高まり、呼吸《いき》は短くなるのだ。 四肢《てあし》はなえて、身を支へる力もなく、 冷い露は蒼ざめた顏にこぼれ、 怖ろしいほどの倦怠《ものうさ》に頭は首垂《うなだ》れ、 耳は鳴りひゞき、 生命《いのち》すら飛んで行く心地がする。 眼はたのしい光りをながめず、 瞳は星もない夜に包まれてゐる。 この苦しみに心は沈み、 暫くは死んだ心地がする。 [#ここから5字下げ] 註。カタラスは有名な拉典詩人で、彼れの戀愛詩は多くレスビアに與へたものである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   ティバラスに倣つて 情を知らぬセリンサスよ! 私の胸を苦しめる この烈しい病はお前の變りやすい心を悦ばすのか? 戀とお前のために今ひとたび生きるために、 あゝ! 私はこの苦しみに打ち克つことのみを願ふのだ。 けれど今となつては私の運命を歎くまい、 唯死より外にお前を憎む心を棄てることは出來ないのだ。 [#ここから5字下げ] 註。ティバラスはローマの有名な詩人である。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   カタラスから倣つて [#ここから5字下げ] ——エレンに與へる—— [#ここで字下げ終わり] おゝ! もしもおまへの燃える火の眼に接吻《キス》することが出來たなら 百萬年もその歡びは消えることはないのだらうに!! なほも私の唇をお前の紅い唇に觸れてゐるなら 接吻《キス》するたびに一代も生きた心地がするのだに! その時でも私の魂は飽きはしないのだ。 なほもお前を接吻《キス》して抱いてゐよう。 私の唇はお前の唇から離れはしない、 なほも接吻《キス》し、永久に接吻《キス》を續けよう。 たとへ接吻《キス》の數は 黄金《こがね》の波うつ稻穗の數にまさつても 二人の脣を離すことはむだな業《わざ》だ。 接吻《キス》が止められようか?——あゝ! 決して——決して! [#改ページ]   アナクレオンの戀歌 打ち顫ふ手琴《リラ》を奏でゝ 私は世に名も高い勳功《いさをし》を、燃える火の調べを、 また湧き上る調べで、音高く、 [#(一)]アトリュースの子たちが戰ひに出た時、 また[#(二)]ティレの[#(三)]カドモスが遠くさまよつた時、 英雄が鎬《しのぎ》をけづり、國々の亡んださまを歌ひたい。 けれどなほ戰ひの歌は知らないので、 私の手琴《リラ》はわれしらず戀の歌のみを奏でてゐる。 行末譽を受ける希望《のぞみ》に燃えて 私はもつと崇高《けだか》い英雄の名がほしいのだ。 靜まる絃《いと》をまた奏でると 戰の歌にも私の手琴《リラ》はふさはしいさうだ。 燃える絃《いと》で雄々しい調べを今一度 ジュピターの偉大な子のために、 [#(四)]ハイドラをその腕にかけて血を見た [#(五)]アルサイデスとその輝く勳功《いさをし》を奏でようと思つても、 すべてはむだなわざだ、私の我儘な手琴《リラ》は やさしい戀の白銀《しろかね》の調べを奏でるのみだ。 さらば武器をとる世にも名高い英雄逹よ! さらば戰ひの恐ろしい響きよ! 汝等とは別の勳功《いさをし》に私の心はむいてゐる。 そこで更に美しい調べを今歌はう。 私の竪琴《ハープ》はその力のすべてを現はして 私の心に觸れた物語を奏でるのだ。 戀よ、戀のみを私の手琴《リラ》は求めてゐる、 溢るゝ幸の歌の中に、燃える焔の嘆息《ためいき》の中に。 [#ここから5字下げ] 註。アナクレオンは有名なギリシヤの抒情詩人で、酒と戀とを歌つて一生を送つた。 (一)古代ギリシヤの王で、その一族の罪惡と災禍は多くの詩人によつて歌はれた。 (二)フエシニアの古都。 (三)軍神アレスの子の龍を殺した。 (四)九頭の水蛇で、怪力のあつたヘラクレースのために殺された。 (五)ヘラクレースの別名。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   エンマに 終にその時は來たので  お前は戀人と別れねばならぬ。 樂しかつた二人の夢はすぎたので、  懷しい乙女よ、今一度苦しめばすべては消えてしまふのだ。 あゝ! その痛手はどんなに辛《つら》いだらう!  ひとたび訣れてはもはや逢ふ瀬もなく、 あんなに慕つたお前は私から奪はれて  遠くの海邊へさして行くのだもの。 まあ! 二人はたのしい時を送つたから  二人の涙にも喜びはあらう、 幼い日のお前と私の隱家であつた  あの古びた塔を偲んだときは。 このゴシックの窓の高樓《たかどの》から  二人は湖や、公園や、谷を眺めた。 いまもなほ涙に眼はかき曇つても  二人は最後の訣れにためらひながら眺めてゐる。 野原では手に手をとつてかけ歩き、  無邪氣な遊びをして過したこともある。 かけくらをしてから、たのしい樹蔭で  お前は私の胸を枕に休んだこともある。 その間、お前の顏に見とれては  飛ぶ蠅を追ふことさへも忘れ、 ねむるお前の眼に  蠅の接吻《キス》するのを嫉ましく思つてゐたほどだ。 お前を乘せて湖の上を漕いだ  あの色塗りのボートが今でも見えるやうぢやないの。 そらあの公園に高く聳えてゐる  エルムの樹にお前のために攀ぢ上つたことも幾度だつたらう! それも今はすぎた昔のことゝなつた——二人の悦びはすぎ去つた。  お前は私を捨て、この樂しい谷を捨てゝ行くのだ。 私は唯一人この谷間をまたとぼとぼと辿つて行かねばならぬ。  お前がゐなくて、あの山も川も何にならう? 訣れの最後の抱擁の苦しさを  誰が知らう! また誰が現はせなかつたらう! 生命《いのち》をかけて戀した人から奪はれて  永久に逢ふこともない訣れを告げるとき。 これはお前と私の一番深い悲しみだ、  この涙のために二人の頬は濡れるから。 これが戀の最後だ、  あゝ! 戀人よ、いざさらば。 [#改ページ]   M・S・Gに お前の紅い脣を見るたびに  その紅色《べにいろ》は私の燃える接吻《キス》を誘ふのだ。 けれど私はその清い幸ひを棄てよう、  あゝ! もしそれが清い幸ひでなかつたなら! お前の眞白な肌を夢見るたびに  その雪白の胸に凭れたいと思ふのだ。 けれどこんな大膽な願ひは抑へてゐる、  なぜなればお前の胸の休息《やすらひ》が逃れてはと思つてゐるから。 靈《たましひ》を探ぐるやうなお前の眼から一目見られた丈でも  私の胸は希望《のぞみ》に燃え、恐怖《おそれ》に抑へられるのだ。 けれど私は戀を祕めてゐる——何故だらう?  苦しい涙を強ひてお前に流させたくないからだ。 私は戀を打ち明けたことがない、けれどお前は  私の燃える胸の炎をよく知つてゐる。 それに今私の戀を訴へて  お前の胸の樂しさを地獄にする必要がどこにあらうか? 否! 坊主の宣言で結ばれて  お前は私のものとなることは出來ないからだ。 坊主の手を措いて外に、戀人よ、  お前は私のものとはなれないのだ。 ではこの祕めた焔を燃えるまゝに燃やさう、  燃やしても、お前は知るまい。 罪の焔でお前を燒くよりも  私は喜んで苦しい運命を受けるのだ。 お前から鳩の眼をした平和《やすらぎ》を求めて  私の苦しい胸を安らかにしようとは思はない。 そんな惱みをお前に與へるよりも  私はわがまゝな思ひを棄てたいのだ。 でも、その脣をわがものとしたい、  そのためには口にせられぬほどの大膽なことをしたのだに! けれどお前と私の心の清さをたもつために——  今はお前におさらばをする。 さうだ! 絶望を求めるためにその胸と、  そしてお前の優しい抱擁をもはや望むまい。 それを私のものとするには、私の靈《たましひ》は  どんな咎をも恐れないけれど——唯お前に恥辱を與へたくないのだ。 せめてはお前を罪から逃れさせ、  人妻にお前の恥を誹らせるやうなことはすまい。 たとへ癒えぬ痛手にこの胸を痛めても  お前を戀に身を捧げる殉死者とはしたくない。 [#改ページ]   カロライン孃に 私も停《と》める願ひに涙を滿した  美しいお前の眼を私が見たと思ふの? 幾千萬の言葉にもまさる  お前の深い歎息《ためいき》をぢつと聞いてゐたと思ふの? 戀も望も二つながら破れたとき  お前の涙は烈しい悲愁《なげき》を示しても なほも、なつかしい少女よ、傷ついたこの胸は  お前と同じ深い悲しみに打ち顫へるのだ。 けれど惱みに二人の頬が燃えたとき、  お前のやさしい脣に私の脣が觸れたとき、 私の眼瞼《まぶた》から流れた涙は  お前の眼から落ちた涙の中にとけてしまつたのだ。 燃える私の頬をお前は知らないで、  湧き出るお前の涙はその燃を消してしまひ そしてお前が語りたいと思つたときは  歎息《ためいき》のみで私の名を呼んでゐた。 けれど、懷しい少女よ、二人は泣いても無駄なことだ、  二人の運命を歎息《ためいき》して悲しんでも無駄なことだ。 思ひ出のみは後に殘る——  けれどそれは二人の嘆きを更に深めるのだ。 今一度、戀人よ、いざさらば!  あゝ! お前が悲しみに打ち勝つことが出來るなら、 過ぎた昔の悦びを思ひ出さぬならば——  二人の望みはたゞすべてを忘れることなのだ! [#改ページ]   カロライン孃に お前がそれほど温い情愛を打ち明けるのを聞くとき、  戀人よ、私はお前を信じないと思つてくれるな、 お前の脣は疑ひの心を奪ひ、  お前の眼は欺かれぬ光を放つからだ。 けれどなほこの燃える胸は、憧憬《あこがれ》の中にも、  戀が木の葉のやうに落ちて凋むのを悲しんでゐる。 思ひ出は、嘆きながら、涙と共に  うら若い日のさまを偲ぶ時が來るだらう。 お前の美しい綠の黑髮も色褪せて、  微風《そよかぜ》にまばらにうちそよぎ、 わづかに殘る白髮を見ると、  いつか死と病の餌食となることを證《あか》す時が來るだらう。 戀人よ、私の顏が憂ひに覆はれるのはこの思ひなのだ、  生きとし生けるものゝ運命として定められた死の宣告を 恣《ほしいまゝ》に改めないとはいへ、  死のためにはお前を私から奪ふ時がいつかは來るだらう。 疑ひ深い戀人よ、優しい恩情《おもひ》の因《もと》を誤り給ふな、  きつとお前の戀人の心を奪ふことが出來る。 私はまごころこめてお前の容姿《すがた》を讃へてゐるから  お前の微笑《ほゝゑみ》は私の心を奪ひ、お前の涙は私の心を飜へすのだ。 然し戀人よ、死の神はいつかは二人を捉へるのだ、その時は  こんなに燃えるお前と私の胸と胸とは 大地の懷に横はつて永久に眠る人々を疾風《はやて》が呼んで  二人の眼を覺ますまで墓の中に眠つてゐよう—— あゝ! では二人の力のあらん限り快樂《たのしみ》の盃を汲みほさう、  二人の戀のやうに絶え間なく湧き出る熱情から。 溢れる戀の幸《さひはひ》の盃をとり交はし、  この世の甘酒《うまざけ》を心ゆくまで飮みほさう。 [#地から2字上げ]——一八〇五年—— [#ここから5字下げ] 註。カロライン孃はバイロンの戀人であつたが、後にメルボーン侯爵の夫人となつた。けれど彼女は一生バイロンを慕つてやまなかつたといふ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   カロライン孃に あゝ! いつの日に墓は私の悲しみを永久に葬るのだらう?  あゝ! いつの日に私の靈《たましひ》はこの體から飛び去るのだらう? 今日は地獄で、明日もまた  新な苦痛を添へて、今日の呪咀《のろひ》を持ち來るのだ。 私の眼からは落ちる涙もなく、唇からは洩れる呪もない。  幸福《さいはひ》の手から私を投げ出した惡魔を私は憎むまい。 何故なればこんな苦痛《くるしみ》に女々しく泣き事を徒に繰返すのは  哀れむべき心だから。 私の眼は涙のかはりに烈しい怒りの焔に燃え、  流れの水も消すことの出來ぬ焔を私の脣が吹いたなら、 私の燃える明眸《まなざし》を怨に重なる敵に注ぎ  怒りに私の舌はその憤りを恣にしてやらう。 然し今は涙も呪も甲斐もなく、  二人を壓迫する者の心に喜悦《よろこび》を與へるのみだ。 もし二人の悲しい離別《わかれ》を彼等が見るならば  情けを知らぬ彼等の心は見て喜ぶに違ひない。 けれど二人が僞りの諦《あきら》めで訣れたものの、  二人を慰める悦びの光りはもうこの世に輝かず 戀も望もこの世では慰めを與へないのだ、  この世は恐怖《おそれ》に充ちてゐるが、あの世では二人の希望があるのだ。 あゝ! 戀人よ、この世では戀も情《なさけ》も永久に去つてしまつたのだ  いつの日に、人々は二人を墓場に葬つてくれるだらう? もし死の國で今一度お前を抱いても  彼等は死んだ二人の心まで苦しめることはしないだらう。 [#地から2字上げ]——一八〇五年—— [#改ページ]   ある女に [#ここから5字下げ] ——カモーエンスの詩を添へて—— [#ここで字下げ終わり] この胸の遣瀬《やるせ》ない戀の誓ひを  懷しい少女よ! 私のために祕めてくれ。 それは戀の神の美しい夢を歌ひ、  世の人々の讃めねばならぬ歌なのだ。 嫉み深い愚か者か、失戀した老孃《オールドミス》か、  さびしい悲しみに衰へる運命に生れた 淑女ぶる學校の生徒のほかに  誰がその歌を咎めよう? では讀んでくれ、懷しい少女よ! 心をこめて讀んでくれ  お前はあんなあさましい女ではないから。 詩人の悲しみを憐れんで  その心を傳へてもお前には無駄ではないのだ。 カモーエンスはほんとに純な詩人であつた、  彼は烈しい戀の焔に胸を燃やしたのだ。 彼のやうに、お前は戀を得るかもしれぬ、  けれど彼のやうな悲しい運命はお前には來てくれるな。 [#ここから5字下げ] 註。ポルトガルの詩人カモーエンスの戀愛詩はこの時代にバイロンの好んだものである。この詩人は養育院で不幸な生涯を送つた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   戀の始めての接吻《キス》 つまらぬ小説のやうなお前の作り事を捨ててくれ、  それは愚かな心が織り出した佯《いつは》りの織物だ。 お前の魂から出る優しい眼の光を、  また戀の始めての接吻《キス》に宿る歡喜《よろこび》を與へてくれ。 お前等ヘボ詩人よ、お前等の胸は空想に燃え、  その田舍臭い情《こゝろ》は森を歌ふのにふさはしいのだ。 若しお前が戀の始めての甘い接吻《キス》を味ふことが出來たなら、  ほんとに尊い靈感からお前の小唄は湧き出るだらう! 若しアポロの神が佑《たす》けを拒《こば》み、  また|詩の神《ミユーズ》がお前に反《そむ》いても、 もはや彼等に訣《わか》れを告げ、  戀の始めての接吻《キス》のたのしさを味はふがよい。 私はお前を憎む、お前は冷たい藝術の作物だ。  假令《たとへ》眞面目に澄ます者が私を責め、頑迷の輩《やから》が私を咎めやうとも 戀の始めての接吻《キス》の喜びに高鳴つてゐる  心から湧き出る泉が私は欲しいのだ。 お前逹の歌ふ羊飼や、羊の群、そんな空想的な歌は  人の心を喜ばせても、人の心を動かすことは出來ぬ。 アルカディアはたゞ夢の國で、  戀の始めての接吻《キス》の樂しさに比ぶれば何であらう。 あゝ! 人間はアダムの昔から今日まで  不幸と戰つて來たと言ふのを止めよう。 樂園の場所は今も猶この世に殘り、  エデンの園は戀の始めての接吻《キス》の中に甦へるのだ。 月日は山鳩の翼とともに飛んで行くので、  年とともに血潮は冷《さ》め、快樂《たのしみ》は去つても、 いともなつかしい思出は長く心に殘る——  二人の戀の始めての接吻《キス》のいとも樂しい思ひ出は…… [#改ページ]   斷章 [#ここから5字下げ] ——チヤワース孃が結婚して間もなく作つた詩—— [#ここで字下げ終わり] 草木は枯れてさびしいアンズリーの山々よ、  物思ひもせぬ幼い日に幾度私はさまようたらう、 お前のうす暗い小山の上を  北風は烈しく吹き荒んでゐる! 今はもう、其の昔時のすぎるのも忘れて  幾度となく訪れた所を見ることもなく、 もはや愛《いと》しいメリイが微笑《ほゝゑ》んで  お前を樂園にすることもないのだ。 [#地から2字上げ]——一八〇五年—— [#ここから5字下げ] 註:チヤワースはニューステツドの近くのアンズリーに住んでゐたチヤワースの相續人であつた。十五歳の時バイロンは彼女と戀に陷つたが、彼女はその愛に報いないで一八〇五年マスターズと結婚した。このことは詩人を非常に失望せしめたといふ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   M——に おゝ! お前の眼が焔に燃えないで、  光りと優しい愛情に輝くならば たとへ世の人が胸を燃やすことは少くとも  はかない生命《いのち》にも勝《まさ》つた戀はお前の所有《もの》とならう。 お前はこの世のものとも思はれぬほど美しいので、  たとへお前の瞳がどんなにきつく輝いても、 私等はお前を讃めよう、けれど猶絶望しなくてはならぬ、  その恐ろしいお前の眼は狎れる心をさまたげるのだ。 自然がお前を美しく生んだとき  玉のやうな美しい光りがお前の體から輝いたので この世には餘りに神々しい姿を神は見て、  空がお前を自分のものにしはしないかと思つたのだ。 そこで、天使逹《エンゼル》がお前を奪ふことを恐れて  自然の愛兒《いとしご》を護るために、 神々しい眼の中に  祕めた電光を隱すようにいひつけた。 白晝《まひる》の焔のやうにお前の眼が輝くときは  物怖れせぬ空に住む手弱女《たをやめ》も驚くだらう。 お前の美しさには誰も心を奪はれてしまふのだ、  けれどお前の燃える眼を見ることは誰に出來よう? 星の中に交《まじ》るベレニスの髮は  蒼空《あをぞら》を飾るといふことだが、 星はお前に蒼空に行くことを許すまい、  お前の眼の輝きは七つの星にも優るから。 お前の眼が遊星のやうに廻るならば  星は姿を歿してしまふだらう。 み空の王と輝く太陽ですら  かすかに空で瞬くだらう。 [#地から2字上げ]——一八〇六年—— [#改ページ]   女に 女よ! 私の經驗では お前を見る者は誰もお前を戀することを敎へられた。 お前の堅い約束の賴み難いことも 確に經驗で敎へられた。 然し、お前の艷麗《あでやか》な姿が私の眼に映ると 私はすべてを忘れて、唯お前を讃めるのだ。 あゝ思ひ出よ! お前[#「前」は底本では欠落]は希望で結び、 それが續いてゐる間お前は祝福を受けるのだ。 然し希望が破れ、熱情が去つた時 戀人に呪はれることはどんなであらう。 美しく優しい欺瞞《あざむき》の女よ、 多くの若者は直ぐにお前を信ずるのだ! 暗褐色の眉の下から優しい光りを投げ 輝く綠色に動き、また黑く燦めく 美しい双眸《まなざし》を始めて見たとき、 どんなに、我々の胸は高鳴るだらう! どんなに速くお前の誓ひを信じ、 またお前の約束をほんとにして喜んだことだらう! 我々は愚にもその誓ひが永久に變らぬことを願つたのだ、 まあ! それにお前は僅か一日で變へてしまつた。 『女よ、お前の誓ひは砂の中に書いてある。』と、 この諺はいつまでも變るまい。 [#改ページ]   M・S・Gに お前は私を戀してゐると、私が夢に見たとき、  お前はきつと私を赦しておくれ、眠るまで怒らないでね。 なぜなれば夢路にのみお前の愛情は生きるので——  眼をさませば、私を泣かすのだから。 では眠の神の子よ! 早く私の力を包んで  情けに充ちたお前の倦怠《つかれ》を私に濺いでおくれ。 今宵の夢が夕べの夢に似るならば  私の歡喜《よろこび》はこの世のものとも思はれぬほどなのに! 死の神の妹で、死ぬる前の表象《しるし》といふ  睡りは與へられてゐるといふことだ。 もしこれが天の先試《さきだめ》しならば  私は喜んでこのか弱い生命《いのち》を運命の神に與へたいのだ! あゝ! 戀しい君よ! お前の優しい眉を顰《ひそ》めてくれるな、  また夢の中で私の幸福が過ぎると思つてくれるな。 もし夢の中で私が罪を犯したなら、私は今それを贖はう、  私は唯|幸福《さいはひ》のみを瞶《みつ》める運命に生れてゐるから。 戀しい君よ、たとへ夢の中でも、お前は微笑むだらう、  おゝ! 私の悔い改める心が足りないと思つてくれるな! お前の姿を夢に見て私の眠りを忘れたときも  眼の覺めたときの苦しみに責められるのだから。 [#改ページ]   メリーに [#ここから5字下げ] ——彼女の寫眞を受取つて—— [#ここで字下げ終わり] 人|業《わざ》も及ばぬほどの強い力とはいへ  お前の艷麗《あでやか》な姿の思ひ出は 私の變らぬ心から恐れを除き、  私の希望を甦へらせて、生きる力を與へてくれる。 お前の雪白の額の邊にゆらぐ黄金の髮や、  美の模型で作られた汝の頬や、 美の奴隸としてしまつたお前の唇は  こゝで目《ま》のあたり見るやうだ。 こゝで目《ま》のあたり見るやうだ——あゝ、否!  お前の眼の碧色は燃える火の中に浮び、 すべての畫家の腕も及ばないので  皆筆を擱いて逃げてしまふのだ。 今私は美しいその色を見てゐる、  けれど海原に照り輝いてゐる月のやうに その碧色に光りを與へて  やさしくさまよふ光はどこにあらう? なつかしい寫眞よ! たとへお前は生命《いのち》も、情感《おもひ》もない寫眞とはいへ、  お前を私の胸の傍に送つてくれたメリーを除いては すべての生きとし生けるものよりも  私にはなつかしいのだ。 メリーは私の動きやすい心が渝はらぬようにと  悲しげに、要らぬ心配をして、それを置いて行つた。 彼女の寫眞が大事に藏《しま》つてあるのを  メリーはゆめにも知るまいよ。 月日はすぎ去つてもお前はいつも私を慰めてくれる、  悲しい時でも私に希望を與へてくれる。 私が死んで行くときもそれを取り出して  ぢつと見つめて死にたいものだ。 [#ここから5字下げ] 註。メリーに就いては確かな記録がないが、賤しい身分の女であつて、長い金髮をもつてゐたといふ。バイロンは友逹にその寫眞や金髮をよく見せたものである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   レスビアに レスビアよ! 私は遠くお前を離れて行つたので、  二人の心は優しい愛情に燃えなくなつた。 お前は言ふ、『心の變つたのはあなたでなくて妾です』と、  私はその理由《わけ》を訊《たづ》ねたが——まだ分らない。 お前の輝く額には憂ひの影は見えなかつた。  レスビアよ! 顫へながら私の心はお前に奪はれ、 輝く希望《のぞみ》に燃えて私の戀を始めてお前に語つてから  月日はそんなに經つてゐないのだ。 あの時は二人は多くて十六歳であつた。  戀人よ、二年《ふたとせ》は思はずすぎてしまつた! そして今新な思ひが二人の胸に宿つてゐる、  戀人よ、私は少くとも遠くさまよふまいと思ふのだ! 私一人が咎められるのだ、  戀に叛いた罪は私が負はう。 お前のやさしい心は今も變らぬから、  私の移り氣の因《もと》は唯氣紛れから來たのだ。 戀人よ、私はお前の眞心を疑はない!  嫉み心の疑は私の胸には燃えないのだ。 私の靑春の血は熱く燃えたが、  お前の愛情《なさけ》を欺くほどの罪の跡は殘つてゐない。 否、否、私の戀の焔は佯《いつは》りではなかつた。  それは、まあ! 私は眞心からお前を戀したのだ。 そして——よし二人の夢がいつかは醒めても——  私の心はやはりお前を戀しく思ふのだ。 もはやかなたの四阿《あづまや》で二人が逢曵することはあるまいね。  一人でゐる身にはさまよひの旅が戀しくなる。 けれど二人の心が年と共に硬くなれば  戀は淋しいものとなるのだ。 お前の頬のやさしい色香はあせないで  新な美しさはいまも日毎に輝いてゐる。 男を征服するために輝くお前の眼は  戀の手向ひ難い電光の爐を備へるのだ。 男の胸を射るためにお前は弓矢を持つてゐるので、  戀人よ、私のやうにお前を戀ひ慕ふものは澤山あらう! ほんとに彼等は私よりも變らぬ心をお前に捧げるだらうか?  あゝ、戀人よ! でも私ほどお前を戀することは出來ないのだ! [#改ページ]   若い令孃に [#ここから5字下げ] 作者が庭園で拳銃を發つてゐた時に、近くを通つてゐた二人の令孃は、彈丸がかすめて行く音を聞いて驚いた、翌朝その一人の令孃(ハウスン孃)へこの歌を贈つた。 [#ここで字下げ終わり] ほんとに美しい娘さん! 鋭い音のする彈丸《たま》は  あなたの美しい顏をかすめ、 あなたの愛らしい頭の上で音がして、  やさしい胸は驚きに一杯になつたのだ。 きつとあなたの美しい姿を見て  嫉み心に堪へかねた惡魔の力が、 彈丸《たま》の的の道をそらして  あなたの近くへ發つたのだ。 さうだ! あの危かつた刹那に  彈丸《たま》は地獄から生れた目標《まと》に從つた。 けれど天は憐れと思ひ、  護りの力で死を追ひのけた。 しかも顫へる一雫の涙は  あなたの慄く胸に落ちた。 私はこの理由を知らなかつたとはいへ  その涙は燦めく双眸《まなざし》から搾り出されたのだ。 まあ、あなた[#「あなた」は底本では「あなな」]に加へた私の罪は  どんな恐ろしい苦行で贖ふことが出來るだらう? あなたの美しい玉座《みくら》の前に私を据ゑてあなたは  どんな罪を私に宣告するのだらう? もし私が審判《さばき》の役目をするのならば、  歎く涙も流さずに下す宣告は そのかみあなたの所有であつた心を  もとの主《あるじ》にかへすようにといふのだに。 もはやまゝならぬ身となることが  あなたに犯した罪の最も小さい贖だ。 これから後は私はあなたのために生きよう、  あなたさへあれば何も要らぬのだ。 けれど、あなたは今私の罪の贖ひを  恐らく斥けられるかもしれぬ。 さあ、その時には、他の懲戒《こらしめ》を選んでくれ、  死であらうと、またどんなことであらうとも。 さあ遠慮なく選んでくれ! どんな恐ろしいことでも  私は神かけて背かない。 でも一寸お待ち——小さな一言を控へてくれ!  どんな仰せでも私を追ひ拂ふことだけはやめるのだ。 [#改ページ]   愛の最後の告別《わかれ》 愛の薔薇は毒の露滴る雜草の中に生え、 時の無慈悲な剪刀《はさみ》でその葉を摘みとられ、 またとこしへに切り取られても、 愛の最後の告別《わかれ》まで、人の世の花園を悦《よろこ》ばす。 愛の言葉で悲しい心を慰めることも、 行末堅く互に誓ふのも空しいことだ。 一寸した機《はずみ》にも二人は袖を分ち、 それでなくとも死は二人を割いて愛の最後の告別《わかれ》となるのだ。 然しただ希望のみは悲しみに溢れた胸に光りを與へ、 またの逢ふ瀬には情も甦へると囁かう。 この歎きの夢で二人の悲しみは和ぎ、 愛の最後の告別の苦い毒を飮むこともないのだ! あゝ! あしこの二人の戀人を見給へ、靑春の陽の輝く中に、育つた時、 愛はその美しい花を二人の少年時代に絡ませた。 その花は愛の最後の告別《わかれ》の冬で凋《しぼ》むまで、 眞心の變らぬ間咲いてゐる! なつかしい女よ! お前の肌の色にもまさる美しい頬に 何故涙があんなに流れるのか? 然かも何故私は訊くのか?——歎きが狂ふほど、 お前の理性は愛の最後の告別で破られてしまつたことを! おゝ! かなたの世捨人は誰だらう? 都から森の洞穴《ほらあな》へ彼れは逃れて行つた。 そこで、荒れ狂ひながら、彼れは風に不平を愬《うつた》へ、 愛の最後の告別の言葉で山は響いてゐる! 戀のやさしい鎖に繋がれて、曾ては情熱の胸を騷がす甘い言葉を知つた心が 今は憎みの心となつてしまつた。 失望は今彼れの血管の暗い潮を燃やし、 彼れは惱ましく愛の最後の告別《わかれ》を思ひ狂ふ。 血も涙もない魂をもつた憐れな奴をどんなに羨ましく思ふだらう! 彼れのたのしみは少いが、その苦惱も少ないのだ、 彼れは感ぜぬ苦痛を嘲笑ひ 愛の最後の告別の苦しみを恐れない。 靑春は去り易く、人生は衰へ易く、希望さへ曇り易い、 昔のやうに熱い戀に身を捧げることもなくなり、 靑春はその若い翼を擴げて嵐と共に去つてゆく。 愛情の經帷子《きやうかたびら》は愛の最後の告別《わかれ》だ! 神聖な歡喜《よろこび》を求める試煉《こゝろみ》のこの世では、 懺悔をすべきものとアストリアは言つた。 愛の優しい宮に詣つたものには、 贖罪《つみあがなひ》は愛の最後の告別《わかれ》の中に足りてゐる。 燈明《あかし》の祭壇で神に額づくものは 桃金孃《てんにんくわ》と糸杉とを交々投げねばならぬ、 その桃金孃《てんにんくわ》は純潔の悦びの表象で、 その糸杉は愛の最後の告別の花環なのだ[#「なのだ」は底本では「のだ」]! [#改ページ]   マリオンに マリオンよ! なぜそんな悲しさうな顏をするの? どんないやなことがあるの? そんな不滿な樣子はおよし、 眉を顰《ひそ》めるのは美しいお前には不釣合だ。 お前の胸の平安《やすらひ》を亂すのは戀ではない、 戀はお前の心の知らぬこと。 戀は靨《ゑくぼ》を浮べて微笑《ほゝゑみ》ながらよりかゝり、 おぢおぢとやさしい涙を流して嘆いたり、 またものうげに眼をうなだれる。 けれど情《つれ》なく嫌さうに眉を顰《ひそ》めることはさけるのだ。 ではお前の昔の燃える愛情を見せておくれ、 お前を戀するものもあらうが、みんなお前を讃めるだらう。 けれどお前が冷やかな顏をして男の心を燃やさぬ間は 私等の心はたゞ冷やかで何も思はないよ。 移り氣の心を慰めようと思つてくれるなら せめては笑つておくれ、笑ふ風でもしておくれ。 お前のやうな美しい眼はひつそりと 暗いところに隱しておくように作られたものではないからね。 お前がどんなに言つたところで、 お前の眼はやはり美しく輝いてゐる。 お前の紅い唇——けれど私のつゝましい詩神《ミユーズ》は そのさわぐ心を鎭めて接吻《キス》をしないのだ。 顏を紅らめ、お辭儀をして、眉を顰《ひそ》めるのは——たゞ あの紅い脣で私の心を迷はさぬといふのだ。 心が迷へば理性を求めて飛んで行き、 ほどよい時に智慧を持つて歸へる。 そこで私がこゝで言ひたいことは、 (私の考へてゐることは、これとは別物だが) 見るからに愛くるしいお前の脣は なぐさめのやさしい言葉を奪ふ嘲笑《あざわらひ》より さらによいことを語るためのものなのだ。 せめてはかたよらない清らかなことをお言ひ、 これはお前に捧げる私の飾らぬ歌、 へつらひの調べは少しもない歌だ。 こんな忠告《いさめことば》は兄姉がするやうなものだ、 私の心はほかの戀人に捧げてゐるから。 欺むくことに慣れないので、 私は十二人の女に心を捧げてゐる。 マリオンよ、さよなら! おゝ、たとへ耳障りでも この警告《いましめ》をどうぞおろそかにしてくれるな。 諫言《いさめ》をきらふ人には 私の敎へが心に逆《さから》はないように 女のやさしい心に就いて 私の考へをいまお前に話さう。 碧い眼や紅い脣を どんなに讃めて眺めても、 美しいほつれ髮がどんなに男の心を牽いても、 女の美がどれほど男の心を奪つても、 變り易い男心は移り氣になるのだ。 どんなに美しい女でも男は女一人を愛するものではない。 女の美しさは美しい繪だといつても あまり酷い言ひ草ではないだらう。 しかしお前等のみすぼらしい行列に男を結びつける 祕密の鎖《くさり》がお前に分るだらう。 お前等を生ける者の女王《クヰーン》と崇《あが》めさせるのは 知つておゐで、たゞお前らの元氣なのだ。 [#改ページ]   ある女に [#ここから5字下げ] 彼女は自分の捲髮に私の髮を編んで送り、十二月の夜に庭園で逢引しようと言つて來た。 [#ここで字下げ終わり] こんなにいぢらしく編んだ捲髮《まきがみ》は 僞りの戀を美しく語る 百千萬のあだな誓ひにもまして 二人の心を堅く結びつけるのだ。 二人の戀が定まつたことはお前と私が證《あか》してゐる、 時も、所も、また藝《わざ》もそれを動かさない。 それをいはれもない嫉み心で怨み、 たゞ二人の戀をロマンティックにするために 愚かな氣紛れと狂ほしい空想を恣にして なぜ二人は歎息して嘆くのだらう? なぜお前はリディア・ラングィッシュのやうに泣き、 自分でつくつた苦しみで惱み、 またなぜお前の選んだ戀人を 冬の夜に身の凍えるまで嘆かすのか、 こゝがたゞ庭だといつてなぜ 木の葉もない樹蔭《こかげ》で逢はうといふのか? シェークスピアが先例をつくり ジュリエットが始めて燃える思ひを明かしてから ひそかに戀を語る逢引の場所は 庭園《には》がふさはしいことは誰も知つてゐる。 あゝ! 現代の詩人を促がして 戀人を温い火の傍に坐らせたなら、 またクリスマスに詩人に筆を執らせて 戀の場面《シーン》を英國に置いたなら、 詩人はたしかに憐れと思つて 戀を囁く場所をどこかへ變へたらうに。 イタリーならば異議はないのだ 夜は暖くて戀を囁くにもふさはしいから。 けれどこの國の氣候は嚴しくて、 燃える戀さへ凍るかと思はれるのだ。 寒い庭にゐる二人の身を思つて お前が眞似た逢引の熱望《ねがひ》はやめておくれ。 いつものやうに、暖い太陽の光りを浴びて お前と私は逢引しようぢやないか。 もし眞夜中に逢引するのなら お前の屋敷のうちで會はしておくれ。 こんな寒い雪空には 田舍の乙女がいつも戀を囁いてゐた アルカディアの森の中よりも心地よいお前の家で、 時の過ぎるのも知らないで互ひに戀を語ることが出來るのだ。 その時もし私の心がお前の心を喜ばさなかつたら 明日の夜は私の身は凍えてもいとはない。 それから後はもはや私は笑ふこともなく、 とこしへに私の運命を呪ひたい。 [#改ページ]   メディアの歌(ユリピデスから) 燃える戀の火に慣れたこの胸も  はげしく狂ふ熱情《おもひ》に責められたときは 人の悲しみの潮路をみだす  荒浪をひしぐ心があらうか? 讃められる希望《のぞみ》も、羞《はづ》かしさの恐怖《おそれ》も  苦しい胸を起す力はない。 燃へる情慾《おもひ》も、罪の焔も  この胸が昔抱いた願ひを燒いてしまつた。 しかしもし清らかな夢で  やさしい靈《たましひ》を動かす愛情があれば 人の病を鎭める香藥《パーム》は  戀で傷ついた胸を慰める。 美しいヴィーナス[#「ヴィーナス」は底本では「ウィーナス」]よ! 御身が生れたみ空から  もしも姿を變へて來るならば 神々が與へたうれしい恩惠《めぐみ》を  無情な心でいやしむものがあらうか? しかしお前の黄金の弓から飛んで來る  鋭い矢でどうぞ私を射てくれるな! 矢尻の毒はいつか胸に忍び込み  すべてのものを燒き盡す焔を燃すから。 無情な疑惑《うたがひ》よ! 嫉み深い恐怖《おそれ》よ、  心の中の戰ひに互ひに鎬《しのぎ》をけづるがよい。 後の涙の源となる後悔よ、  私からいつまでも遠く離れてくれ! 神聖な戀の靜けさを  迷はす思ひで破つてくれるな! 時はいつも喜びの翼をひろげて  眞心のかはらぬ戀人の心の上を翔けめぐる! 美しいヴィーナスよ! 御身の桃金孃《てんにんくわ》の咲いた御堂で  なつかしい戀人と嘆くのを宥しておくれ、 戀人の清らかな心は私の心と結び——、  ともに生き、ともに死ぬるを誓つてゐるのだもの! わがふるさとよ[#「ふるさとよ」は底本では「ふるさよと」]! 昔も慕つたけれど  今も尚平和なわが家のやうに戀しい。 遠く旅にさまよふ身とはいへ  岩の聳えたふるさとの海邊を忘れはしない! 今日といふ今日、今といふ今、  私はこのはかない生命《いのち》を棄ててもよい! しかし故里の靜かな賤が伏屋は捨てたくないのだ、  それは死よりも辛い運命だから。 私は遠くさすらふ人の歎息《ためいき》を聞かなかつたらうか、  またさすらひに忍び泣く涙を見なかつたらうか、 海山遠く國をへだてゝ  悲しくさびしくさすらふ人はこゝにゐるのに! あゝ! 不幸な女よ! お前を悲しむ親もなく、  お前の哀れな運命を歎く友もなく、 みしらぬ人の家を訪れても  よろこび迎へる樂しい聲もない。 美しい愛情の眞心を知らぬ  無情の心をもつた惡魔は亡びよ、 かつては愛情|濃《こま》やかに愛した女を  哀れとも思はず、扶けもせず、唯一人去れよといふのか、 白銀《しろかね》[#「しろかね」は底本では「しろ ね」]の鍵《かぎ》で靈《たましひ》のやさしい寶を  閉ぢこめる惡魔よ—— そんな友は私から遠く去つてゆけ、  海原の嵐よ、遠く吹きまくれ。 [#改ページ]   美しいクェイカーの娘に いとしい乙女よ! お前と私は唯一度しか逢はないのに その思ひ出はいつまでも胸に殘つてゐる。 たとへまた逢ふ日はなくとも お前の姿はいつまでも記憶《おもひで》に殘るのだ。 『お前が戀しい』とは私は言はないが、 私の心はやはりみだれるのだ。 お前を忘れようとしても、 思ひはますます募つてゆくばかり、 出る歎息《ためいき》を抑へても 抑へきれぬわりなさよ。 これを戀とはいはないが、 二人の逢つた日は忘れることは出來ないのだ。 二人はあのとき沈默を破らなかつたが、 二人の眼は熱い思ひの言葉を交はした。 口はへつらひの僞りをつたへ 心にもないことを語るものだ。 罪の脣は歎きをつたへても 眞心の吩附《いひつけ》にその脣を固く閉ぢる。 けれど靈《たましひ》を傳へる眼は こんな抑制を破り、佯りをいとふのだ。 そこで互に見交はして思ひを語り合ひ、 二人の胸は語りつくした心地がしたので 靈《たましひ》の咎めは心から受けなかつた、 否、むしろ『二人を動かしたのは靈《たましひ》であつた』 眼と眼の語り合つたことを私は默つてゐても お前はそれを少しは察してくれたと思ふ。 私の思ひはお前を憧れ お前も亦私に思ひをよせてゐるから。 お前の姿が夜も晝も現はれるのは せめて私のためだといひたいのだ。 眼が覺めると、私の空想はお前の姿でみたされ、 眠れば、はかない夢の中でお前は微笑《ほゝゑ》むのだ。 幻《まぼろし》に靈《こゝろ》を奪はれてゐると時のすぎるのも忘れ、 夜明けの光りも呪はしくなる。 夜よ、いつまでも明けてくれるなと願ひたいほど 樂しい眠りを破る夜明けは恨《うら》めしい。 あゝ! 私の未來の運命はどんなにならうと、 私を待つのは喜悦でも悲哀でも、 戀に誘はれ嵐に襲はれても お前の姿は忘れられない。 あゝ! もはや二人が逢ふ日はなく、 もはや昔の面影を見ることはないのだ。 さあ私の胸の切なる願ひをこめて 訣れの祈りを捧げよう—— 『神樣あの愛らしいクェイカーの娘を護り、 苦しみを奪つて 平和と美徳を與へ、 彼女の心を離れぬ者に常に幸を與へて下さい! おゝ! いともやさしい絆《きづな》で 彼女の運命を幸福にし、 そして常に新しい悦びを與へて 戀人を夫《つま》とさせて下さい! 彼女の美しい姿を忘れられないで 歎《なげ》く男の靈《たましひ》を痛めてゐる 絶えぬ悲しみを 彼女の美しい心には知らせて下さいますな!』 [#地から2字上げ]——一八〇六年—— [#改ページ]   涙 戀や友情がわれらの同情《こゝろ》を動かすとき  ちらと見る眼の中に眞心の現はれるとき、 唇は靨《ゑくぼ》か微笑《ほゝゑみ》で歎いても  愛情《なさけ》を證《あか》すものはたゞ涙のみだ。 微笑《ほゝゑみ》は憎惡《にくみ》を覆ひ恐怖《おそれ》を隱して  たゞ僞善者の奸計《たくみ》にすぎないことが餘りに多いのだ。 心を語る眼が少しでも涙で曇つたときは  やさしい歎息《ためいき》をあたへるがよい。 あたたかい慈悲の光は、この世の人々に  やさしいたましひを示し、 哀憐《あはれみ》はこの徳の感じられた所で融けて、  その露が涙となつて落ちるのだ。 荒れ狂ふ暴風《あらし》に帆をあげて  山なす浪を凌いで大西洋をわたる舟人《ふなびと》が、 まもなくわが墓となる波を見るとき、  紺靑にきらめく波は涙とともに輝かう。 榮光《はえ》のはなやかな生涯に  想像の花環のために勇士は死を恐れない。 けれど戰に倒れた敵を抱き起したときは  涙で疵口《きずぐち》を洗ふのだ。 血染めの槍《やり》を投げすてゝ  胸も躍る高い矜恃《ほこり》をいだいて花嫁《はなよめ》の許にかへり 戀人を抱いてその眼から流れる涙を接吻《キス》するとき、  戰ひの勞苦《つらさ》はすべて酬いられる。 あゝ、若き日のなつかしい場面《シーン》よ! 友情と眞心の郷土《ふるさと》よ!  すぎゆく月日も忘れて戀を追ひ求め、 おまへと別れるに忍びないで最後の一瞥を與へたが、  眼は涙に曇つておまへの尖塔も見えなかつた。 たとへ私はもはやメリーに誓ひを語ることが出來なくとも  かつては深く戀したなつかしいメリーが あの靜かな四阿《あづまや》で彼女が涙ながら  私の誓に報いたときを思ひ出す。 メリーよ、お前は他の男のものとなつて、  永久に幸福にして暮してくれ! お前の名は今でも私は敬つてゐる かつては私のものであつたお前を歎息しながら捨て  そして涙とともにお前の歎きを赦すのだ。 あゝわが心の友よ、別れる前に  私の胸に切な希望《のぞみ》がある。 もしまたこの靜かな田舍で逢ふことがあつたならば  別れた時のやうに、涙を以て逢はうではないか。 私の靈《たましひ》が死の世界に飛んで行けば  わが屍は棺車の上に載せられ 私を燒いた灰のなくなつた墓の傍を通るとき、  おゝ! 君等は涙を墓にそそいでくれ給へ。 虚榮の兒の競つて建てる大理石は  悲哀の莊麗にはふさはしくない。 あだな名聲《ほまれ》は私の名を飾るには足りない、  私の求むるもの私の願ふものはすべて——たゞ涙だ。 [#地から2字上げ]——一八〇六・一〇・二六—— [#改ページ]   婀娜者の無情を歎くピゴットの詩に答へて ピゴットよ、なぜ君はあの女の侮辱《さげしみ》を歎くのか、  なぜそんなに失望して悲しむのか? 幾月泣いたとて、歎息したとて  婀娜者をものにすることは出來ないのに。 君たちはあの女に戀することを敎へるのか? それなら暫く遠ざかるやうに見せるのだ。  初めのほどは不機嫌で眉を顰《ひそ》めるかもしれぬ、 けれどしばらく捨てて置けば、まもなく微笑んで來るよ  すると君はあの女に接吻《キス》が出來るのだ。 この接吻《キス》は美しい移り氣の女の媚《こび》で、  男の崇拜を受けるための貢物と思つてゐる。 けれど少しでも遠ざけるとすぐに効《きゝめ》が現はれて  氣位高い婀娜者でも靡いて來る。 君の苦しみを隱し、君の鎖をのばして  女の高慢を憾《うら》むように見せたまへ。 そしてもし君が歎息すれば  薔薇色の婀娜者が君の所有《もの》となることは拒むまい。 けれど僞りの誇りから君の苦しみを嘲る女ならば  その浮氣女を忘れるのだ。 君の燃える思ひに融ける他の女を愛して  その婀娜者を嘲笑《あざわら》つてやりたまへ。 僕ならば二十人、否それ以上の女を眞心こめて戀してみせる。  けれど、たとへ私を捕虜《とりこ》にしても、 君の婀娜者のやうな振舞をすれば、  みんな一度にすてゝしまつてやるのだ もはや悲しまないで、この計略《もくろみ》をききいれて  あの女の編みかけた網を破りたまへ。 失望をやめて、理窟がましい婀娜者を  もはや思ひすてたまへ。 友よ、あの女の罠《わな》にかゝらぬうちに  曲者《くせもの》をすてゝ君の胸を守りたまへ! さもなくば深い痛手をうけた君の胸は  痛みに堪へかねて婀娜者を呪はしくなるから。 [#地から2字上げ]——一八〇六・一〇・二七── [#改ページ]   エリザに エリザよ、女の靈魂《たましひ》は來世ではないといふ  マホメット敎の人々は何といふ馬鹿だらう? エリザよ、もし彼等がお前を見れば、誤りを悟つて、  その敎へは人々に反かれるのだ。 もしその豫言者マホメットが智慧のある人ならば  樂園から女を追ひはしなかつたらう。 そしてつまらぬ託言《いひまへ》をする女神《フーリ》のかはりに  女だけをその樂園に住まはせらたらうに。 それに女の災禍《わざはひ》を加へるために  その肉體から精靈を奪ふのみでは滿足せずに、 哀れにも一人の夫に四人の女を侍《かしづ》けた!  靈魂《たましひ》はなくとも差支へない、けれど最後のことには誰が堪へられよう? 彼れの敎へは男も女も喜ばない、  夫にもつらいが、妻には尚更堪へられぬことだ。 けれどいくたびもいはれた言葉には反かれぬ——  『女は天使であるが、結婚は惡魔である。』 [#改ページ]   天鵞絨の紐に捲髮を結んで贈つてくれた女に 戀しい少女よ、お前の金髮を結んだこの紐は私のものだ!  それはお前の愛の誓ひのしるしなのだ。 私は聖者の遺した寶のやうに  心からなつかしく大切にしてゐる。 おゝ! 私はこれを懷から離すまい、  私とお前の心を結ぶものだから。 私は死ぬまで守つてゐよう、  そして墓の中でも結んでゐたい。 お前の唇から吸ふ甘い露も  この紐ほどになつかしくないよ。 接吻《キス》は束の間に吸ふ甘い露で  はかないよろこびの饗宴《うたげ》だから。 この紐は二人の生命《いのち》が衰へても  若い日の喜びを偲ぶ記念《かたみ》だ。 思ひ出が芽を吹けと告げるとき  戀の葉はいつまでも綠に匂ふだらう おゝ! ちゞれ毛の環をして  やさしくゆれる小さな金髮の捲髮よ、 お前のなつかしい頭に生へたものだから  私は神かけて失《な》くすまい。 コロンビアの熱帶地の空の下に  雲もない朝を染める光りのやうに 昔輝いた美しいお前の額を  千すぢの髮が飾つても私はこれを離さない。 [#地から2字上げ]——一八〇六年—— [#改ページ]   おもひで すべては終つた——私はそれを夢に見た。 もはや行末輝く希望《のぞみ》もなく 樂しいこの世も短くなつた。 さびしい木枯は吹きすさみ 人生の春の曙は曇つてゐる、 戀よ、望よ、悦よ、さらば! 私はまたおもひでを重ねたのだ! [#地から2字上げ]——一八〇六年—— [#改ページ]   マスターズ夫人に かつてこの誓ひが愛情の印《しるし》と見えたやうに  おゝ! 私の運命がお前の運命と結ばれたなら、 私の平和《やすらぎ》を破ることもなく、  こんな愚かなことはしなかつたらうに。 私の若い時の過失《あやまち》を  賢い年寄たちは責めてゐる。 あの人々は私の罪を知つてゐるが、  愛の絆《きづな》を破つたのはお前だとはよもや知るまいよ。 私の靈《こゝろ》はかつてはお前のやうに純潔で、  燃え立つ胸の焔を消すことも出來た。 けれどお前は他の男に添うたので  お前の誓ひはもはや破れたのだ。 あゝ私にはあの男の平和を破り、  行末の幸福を奪ふ力はあるが、 なつかしいお前のためを思つて憎まずに  戀の敵《かたき》を悦びに微笑《ほゝゑ》ませておかう。 あゝ! 天使のやうなお前の姿は去つたので、  私の心の休む所はもはやなくなつた。 けれどお前にのみ求めてゐたものを  多くの女に求めようとする哀れさよ! 僞りの處女よ、ではさようなら!  今更お前を憾《うら》んでもあだなこと、 希望も思ひ出も何にならう、  たゞ矜恃《ほこり》がお前を忘れさすだけだ。 けれど夢の間にあだにすぎた幾歳《いくとせ》よ、  快樂に飽いて來た物憂いこの盃よ、 さまざまの戀よ、老孃《オールド・ミス》の心配よ、  戀の調べに合はすあだな歌よ—— もしお前が私のものであつたら、すべてのことは鎭まつたらうに!  若い時の樂しみで今蒼ざめてゐるこの頬は 燃える思ひにかゞやくこともなく  靜かな家庭のなかで色づいたらうに。 さうだ、昨日までは自然はお前の前で微笑んでゐたので  田舍の景色もたのしく見えた。 そしてかつては私の胸は欺瞞《いつはり》を嫌つたのだ——  なぜなればお前を讃へるために高鳴つてゐたから。 しかし今となつては他に喜びを求めよう、  思へば私の心は狂つて來るやうだ。 何も考へない人群に入り空しい騷ぎに交つて、  私の胸の悲しさを少しでも忘れたい。 けれど、あの群に交つて、忘れようとしても  一つの思ひはいつか浮んで來る—— お前はとこしへに失はれたことを知つたなら  私の悲しい心を惡魔も憐んでくれるだらう—— [#ここから5字下げ] 註。マスターズ夫人とは昔のチヤワース孃のことである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   私が無邪氣な子供であつたなら 私が無邪氣な子供であつたなら  ハイランドの洞窟《ほらあな》に住んで 物凄い荒野をさまよひ  また眞蒼い浪の上をわたるのに。 聳え立つ山を愛し、  大浪の打ちよす巖を喜ぶ 自由の生んだこゝろは  煩いほど奢るローランド人の誇りには合はないのだ。 運命よ! 文化の國を歸へし、  美しくひゞく名を取り戻せ! 私は賤しい手に觸れるのを嫌ひ、  阿ねる奴隸を憎むのだ。 私が好きな巖の中に置いてくれ、  そこでは大海の怒濤が轟くのだ。 私はたゞこれが願ひだ——今一度  昔見たなつかしい景色の中をさまよひたい。 この世界は私のために作られなかつたことは  私はまだ若くてもわかるのだ。 あゝ! なぜ暗い影は  人の死を覆ふのか! 私はかつて美しい夢を見たことがある  それは幸福《さいはひ》多き幻の場所であつた。 眞理!——なぜお前の憎まれた光は  こんな世界に私を呼びさましてくれたのか? 私は愛した——けれど戀人は去つてしまつた、  友もあつた——けれども幼馴染はなくなつた。 すべての希望がなくなつたとき  私の心はどんなに淋しいだらう! 酒飮みの愉快な友は  樂しまぬ心をなぐさめてくれる。 たとへ快樂は狂ふ心を掻き亂すとはいへ  この胸——この胸は——やはり淋しいのだ。 位と富と力によつて  友でもなく敵でもなく 饗宴《うたげ》の伴侶《つれ》をつくる人の聲を聞くのは  どんなに堪へ難いことだらう! 月日と感情で變らぬ心の友を  一人でも與へられたなら 私は夜の遊び仲間をはづれ  さわがしい空な樂しみを去つて行かうに。 女よ、愛らしい女よ!  お前はわが希望《のぞみ》、わが慰安《なぐさめ》、否私のすべてだ! お前の微笑が消えたときも  私の胸はどうして冷めよう! 美徳の知つてゐる、否知り顏をする  靜かな滿足を求めるために 嘆息もなく美しい悲哀にみちた  さわがしいこの世を去つてゆかう。 よろこんで私は人間の住家を去らう——  私は人を憎むのでなく、避けるのだ。 私の胸はさびしい谷間をあこがれてゐる、  そのさびしさは私の暗い心にふさはしい。 あゝ! 山鳩が巣にかへる  二つの翼があつたなら! 私は大空をかけめぐり  はるかかなたの空に憩ふのに。 [#改ページ]  折々の歌(一八〇七—一八二四年) [#改ページ]   アンに おゝ、アンよ! お前の怒りは私には堪へがたくなつたので、  私の怒りでお前と仲直りは出來ないと思つた。 けれど女は男を從へて欺くものだ——  私はお前の顏を見るときは大抵赦してゐる。 私はお前を尊ぶまいと一時は誓つたが、  一日訣れてゐてさへも長い思ひがする。 二人が逢つた時は、またお前を疑ふが、  お前の微笑《ほゝゑみ》を見れば私の疑ひが誤つてゐたことが分る。 私は若さの餘り怒りに夢中になつて  お前を蔑《さげす》んでこれから後は相手にすまいと思つた。 けれどお前を見ると——私の怒りは讃辭《ほめことば》となり  私の望と願はすべてお前をまた得たいのだ。 おゝ、お前のやうな美人と爭ふことはほんとにつまらぬことだ!  私は身を低めてお前に赦しを乞はう。 こんなつまらぬ爭ひをすぐ止めるには  戀しいアンよ、私がお前を讃めないときは僞つてくれ! [#地から2字上げ]——一八〇七・一・一六—— [#改ページ]   二人の別れたとき 物も言はず、涙とともに  幾年《いくとせ》も逢瀬のないのを 斷腸《かなしみ》の思ひで  お前と私が別れたとき、 お前の頬は蒼白め、  お前の接吻《キス》は冷めたくなつた。 おもへば今日の悲しみは  その時に分つてゐたのに。 朝の露は一雫  私の額に冷たく落ちた—— それは私の今の嘆きを  豫め知らせてくれたのだ。 お前の誓ひはすべて破れ、  お前の名譽《ほまれ》は地に墮ちた。 お前の名を人が呼ぶのを聞くと  私は恥かしい思ひがする。 人が私の前でお前の名を呼ぶと  葬《とむら》ひの鐘のやうにひゞき、 私の身《からだ》は思はず身顫がする——  何故お前がこんなに戀しいのだらう? 人は皆お前と私のことは知らないが  私はお前を知り拔いてゐる—— いつまでも、いつまでも、私はお前のために悲しまう、  語るには餘りに深い悲しみだ。 人知れず二人は逢引した——  物も言はずに私は嘆いてゐる。 お前の心は私を忘れ  お前の魂は私を欺いたのだ。 永い歳月の後  もしお前に逢ふことがあつたなら お前に何と言はう——  たゞ沈默と涙のみだ。 [#地から2字上げ]——一八〇八年—— [#改ページ]   まあ、あなたは幸福だ まあ! あなたは幸福で、  私もまた幸福です。 この心は今も尚かはらずに  あなたの幸福を祈つてゐます。 あなたの夫《をつと》は幸福だ——私よりも幸福な  その人の幸運《しあはせ》を見ることは私には苦しいのです。 然し苦痛をその儘にして置かう——あゝ!  若しあの人があなたを愛さなかつたなら、私はどんなにあの人を憎むでせう。 近頃あなたの愛兒《いとしご》を見たとき、  嫉《ねたみ》に胸も裂けよと思つたが、 何も知らぬ嬰兒《みどりご》が微笑《ほゝゑ》んだとき  私はあなたを思つて接吻《キス》しました。 私はその兒に接吻《キス》しました——その顏に  父親の面影を見出して、私は出る歎息を強ひて抑へました。 然しその時母親のまゝのまなざしを見て  私は何となくなつかしくなつたのです。 メリーさん、さよなら! 私は行かねばなりません、  あなたが幸福な間は私は歎きません。 然しあなたの傍《そば》に止まることは出來ないのです、  私の心は又直ぐにあなたのものとなるかも知れませんから。 月日と私の誇りは終に  私の幼い時の戀の焔を消し盡したと思ひました。 然しあなたの傍《そば》に坐《すわ》つて見れば、  私の心は——希望を除いてはすべて元のまゝなのです。 今私は落着いてゐる。あなたの前では  かつては胸のときめく身であつたが、 今はそれさへ罪なのです。  二人は逢つてゐる——然かも心のときめくこともないのです。 あなたは私の顏を瞶《みつめ》てゐました、  然かも二人は心もさわがず見かはしました。 あなたは私の唯一つの心を見ることが出來ます、  それは絶望からくる淋しい落着きです。 行け! 行け! 幼い日の夢を  今更思ひ出してはならぬ。 あゝ! 傳へ聞くレーテーの忘れ川は何處にあらう?  この愚かな心よ、靜まるか、さもなくば裂けよ。 [#地から2字上げ]——一八〇八・一一・二—— [#ここから5字下げ] 註。この詩はバイロンの昔の戀人チヤワース孃の嫁いだ家に招かれた時にかいたものである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   アゼンスの娘よ、別れる前に アゼンスの娘よ、別れる前に、 おゝ、私の心を止めてくれ! さもなくば、私の燃える胸を遺《のこ》して置くから それを祕めて休んでくれ! 私が行く前に私の誓ひを聞いてくれ、 生命の君よ、私はお前が戀しいのだ。 お前の捲髮《まきがみ》はみだれ、 エジアの海風に吹かれて互ひに戀を語り、 黑い縁《ふち》をした眼で お前の柔かな輝く頬に接吻《キス》し、 小鹿のやうな燃える眼で 生命の君よ、私はお前が戀しいのだ。 接吻《キス》を求める紅い脣で 帶を卷いた柳の腰で どんな言葉も及ばぬ 表號《しるし》の花で うつらふ戀の歡喜《よろこび》と悲哀《かなしみ》で、 生命の君よ、私はお前が戀しいのだ。 アゼンスの娘よ! 私は行くのだ! 戀人よ、私を思つておくれ! 淋しい時に 私はたとへ[#(*)]イスタンボルへ飛んで行つても 私の心はいつもアゼンスに囚《とりこ》にされてゐる。 お前を捨てられようか? いや! 生命の君よ、私はお前が戀しいのだ。 [#地から2字上げ]——一八一〇年、アゼンスで—— [#ここから5字下げ] 註。一八〇九年から十年へかけての冬の間バイロンがアゼンスに滯在してゐた宿屋に美しいテレザといふ娘があつた。この詩はその娘に與へたもので、多くの作曲者によつて作曲せられてゐるが、殊にグノーの曲が最もよく知られてゐる。 *コンスタンチノープルをいふ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   ギリシヤの戀愛詩から 戀しなつかしいハイデーよ、  毎朝|花神《フローラ》が休むといふ お前の薔薇の花園に私は入らう、  確にお前の顏に花神《フローラ》が見えたから。 おゝ、戀人よ! どうぞお前にお願ひしたい  私の舌から甘い眞心を受けてくれ、 私の歌はお前を讃めるのだが、  何を歌つたかと思へば身顫がする。 自然の吩咐《いひつけ》のまゝに  枝は木に匂ひと果實を與へるときに 花神《フローラ》の眼と姿で  若いハイデーの心はかゞやく。 けれど戀人が四阿《あづまや》をすてたとき  愛らしい花園は憎くなる。 毒人蔘《ヘムロツク》をもつて來てくれ——私の花園はいやだから、  あの草は花よりも香ばしい。 その毒を花から注げば  盃はほんとに苦くならう。 しかしお前の惡意を逃れるために飮めば  その盃は私には甘いだらう。 あんまり酷い! 私の心から恐怖《おそれ》を除くように  お前に願つても空しいことだ。 私の胸にお前を返すものはなからうか?  さあ墓場の門を開いてくれ。 捷利を期して勇ましく  戰ひに行く勇士のやうに 槍に似たお前の眼は  私の胸底深く刺し貫いた。 あゝ、わが心よ! 微笑のみが消す苦痛で  私は死なねばならないのか? お前がかつて抱かせた希望は  この苦痛によく報いるだらうか? 戀しい佯りのハイデーよ!  この薔薇の花園は今は悲しいのだ。 花神《フローラ》もみなさびしく休み、  私と一緒にお前のゐないのを歎いてゐる。 [#地から2字上げ]——一八一一年—— [#改ページ]   わかれ なつかしい處女よ! お前の脣が殘した接吻《キス》は  今よりも幸福な時が來て この贈物を汚さずにお前の脣に返すまで  私の脣を決して離れまい。 優しく光るお前の訣れのまなざしは  同じ思ひになやむ戀人にそゝがれ、 お前の眼から流れる涙は  私に心を渝へてくれるなと泣いてゐる。 唯ひとり瞶《みつ》めて、  私を幸福にする誓を求めない。 まだお前のことのみを考へてゐる胸のために  一つの記念《かたみ》も求めない。 私は書く必要もない——この話を書くには  私の筆は餘りに弱いのだ。 おゝ! この心情《こゝろ》を語ることが出來なければ  何で言葉が役に立たう? 晝も夜も喜ぶ時も、悲しむ時も  まゝならぬ心情《こゝろ》は 打ち明けられぬ戀を祕めて  お前のために沈默の苦しみを嘗めねばならぬ。 [#地から2字上げ]——一八一一・三—— [#改ページ]   汝は若く麗しくて死んだ 死すべきものゝ運命に從つて  お前は若く麗しくて死んだ。 あんなにも優しい姿と稀な美をもちながら  あまりに早くお前は土に歸つたのだ! たとへ大地はその寢床にお前を横へ 人々は何も知らずに笑つて  その上を踏んでゐても、 その墓は一目見てさへ 見るに忍びないのだ。 お前が今はどこにゐるかを私は尋ねない、  またお前の墓も見もしない。 そこには花や雜草がどんなに茂つてゐても、  わたしはそれを見たくない。 私が愛したもの長く愛さなければならなかつた戀人を すべての人と同じやうに大地で朽ちてしまふことが  わたしに分ればそれでいゝのだ。 彼女の墓石も何にならう! 私があんなに深く愛した戀人は無になつてしまつた。 あゝ、すぎさつた幾歳《いくとせ》を眞心こめて  いまもなほ變らずに お前に劣らず熱い思ひで  私は最後までお前を愛したのだ。 死のみは返へらぬ愛としたけれど 年とともに薄らかず、敵も奪はず  虚僞もなかつた愛であつた。 まして私の心には僞も移り氣も お前は見ることが出來ないのだ。 二人は樂しい月日を送つたのに  今不幸に惱むのはたゞ私一人だ。 輝く太陽も物凄い嵐も  もはやお前のものではない。 夢もない靜かな眠りは 泣くに泣かれぬほど羨ましい。  お前の美しい姿はなくなつても とはに眠るお前を見られるなら もういつまでも悔むまい。 稀に美しく咲いた花は  夜半の嵐に散つてゆく。 時ならぬ嵐に奪はれなくとも  木の葉はいつか朽ちて落ちねばならぬ。 けれど一葉また一葉枯れるのを見るのは 一時にみな摘み取られるよりも  さらに大きなかなしみだ。 だから美から醜に變るのを見るのは 病んでゐるこの世の人の目には堪へられぬ。 お前の美しい姿の褪せるのを  見るに忍びなかつたかどうかは私は知らない。 こんな朝に次いで來る夜は  暗い影をやどしてゐた。 お前の一生は雲もなくすぎさつて 最後までやさしいお前であつた。  お前は消えたので、朽ちたのではない、 丁度空に美しくかゞやく星が 天から流れて落ちる時はさらに輝くやうに。 私はお前の枕邊に夜のあけるまで凭れ、  もはや親しく見ることも出來ないと思ふと 私は思はず泣いてしまつた、  私ほど心から涙を流すものはない。 私の胸にお前をそつと抱き お前のうなだれた頭をあげて  ふたゝび感ずることのない 燃える愛を現はして、お前を見るならば あゝ何と嬉しいことだらう! お前が自由をあたへてくれても  ふたゝび戀人を求めることは お前をこんなに思ひ出すよりも  どんなにつまらぬことだらう! 暗い永遠の國で 滅びることのないお前は  ふたゝび私にかへつてくれ、 お前の生きてゐた時を除いて 草葉の蔭に眠るお前の愛は何よりも懷しいのだ。 [#地から2字上げ]——一八一二・一一—— [#改ページ]   ギリシヤの戀愛詩から あゝ! 戀にはいつも 苦しみ、悲しみ、疑ひがつきもので、 たえぬ嘆息《ためいき》でわが心を苦しめ、 晝も夜もさびしくすぎてゆく。 私の悲しみを慰める一人の友もないならば むしろ打たれて死にたいのだ。 戀には矢のあることはよく知つてゐる、 あゝ! けれどそれは深く毒がこめてある。 小鳥よ、戀のよく來る所に置いた網を 自由によけて行け。 さもなくば、生命を奪ふ火に捲かれて お前の胸は燒け、お前の望みはなくなるよ。 私も自由な氣輕な翼をもつて 樂しい幾歳《いくとせ》の春をかけ廻つた小鳥であつた。 けれど巧みな罠《わな》に捕はれて胸を燒き、 いまこゝで悲しさうに羽搏《はばたき》してゐるのだ。 戀せぬ身や、空《あだ》な戀をした人は 情《つれ》ない拒みや、蔑《さげ》しむ眼眸《まなざし》や 戀人の怒りの眼に宿る閃きは分らず、 苦しみを憐んでもくれない。 へつらひがちな夢でお前は私のものと思つたが 今や希望《のぞみ》は消え失せた。 溶ける蝋[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71、蠟]のやうに、凋む花のやうに 私の燃える思ひとお前の力が思はれる。 わが生命の光よ! あゝ、なぜ、 その脣を尖らせ、眼の色を變へるのか? わが戀の小鳥よ! わが美しい友よ! お前は變つても私は憎まれようか? 私の眼は冬の流れのやうに涙が溢れてゐる、 私と悲哀を換へる薄命の人が誰かあらうか? 私の小鳥よ! 憐れと思つてくれ、お前の歌は 一曲でお前の戀人に生命《いのち》を與へる魅力があるのだ。 流れぬ血と、狂ふ心を 沈默の苦痛の中に私は支へてゐる。 そして私の胸は破れてゐるのに—— お前は苦しみもなく躍つてゐる。 あゝ、恐れずに私に毒を注いでくれ! お前が私を殺すなら今を措いてはない。 私は生れた日を呪ふために生きて來た、 たゞ戀のみ殺す手をさしひかへてゐるのだ。 傷ついたわが心よ、血潮の滴るわが胸よ。 堪へ忍べばこの胸は休まらうか? あゝ! もう遲い、私はほんとに知つた 喜びは悲しみの始めだと。 [#改ページ]   お前は僞らないが變り易い お前が深く愛する人には  お前は僞らないが、變り易い、 強ひて流すお前の涙は  變り易い心よりさらに辛いのだ。 お前の悲しむ心を破るのは お前が愛しすぎて——忘れ易いからだ。 お前の心は虚僞《いつはり》をすべて嫌ひ  欺瞞《あざむき》と欺瞞者《あざむくもの》をはねつける、 けれど飾のない女は  その愛はまじめにやさしいのだ—— 眞心から愛した男を女が換へたときは 私が新しく思つたことを知るだらう。 喜びを夢見て、醒めて悲しむのは  戀する身、生きる身の運命《さだめ》だ。 そしてもし朝夢から醒めても  さめた心はさらにさびしくて たゞ眠りのみが慰めを與へるといふ その想像に心を赦されない。 僞りの夢もなく眞心こめた優しい愛情を  懷いた彼女を人は何と思ふだらう? ありのまゝの——速かな悲しい移氣は  夢のみが誘つたものゝやうに思ふまいか? あゝ! こんな悲愁《うれひ》は想像の企てることで お前の變るのはたゞ夢にすぎないのだ! [#改ページ]   戀の始めを問はれたときに 戀の始めと! あゝ、ほんとに  お前は酷《むご》い問《とひ》をするのだね、 お前の姿を見るときに  多くの人の眼の中に戀は生れるのに! そしてまた戀の終を知りたいと!  心はかたく禁《とゞ》めるが恐はいつも悟るのだ—— 戀は沈默の悲哀のなかに永くさまようて  私の生きる限り生きるのだ。 [#改ページ]   いつまでも戀が出來たら 戀が川のやうに 永久にながれ、 時の努力も むだならば—— 戀にまさる 快樂《たのしみ》はない。 寶のやうに 人はその鎖《くさり》を抱いた。 けれど人の嘆きは 死に終らないで 飛ぶためにつくられ、 戀がその翼を飾つてゐる。 この理由《わけ》で 戀は一時の季節にしよう、 けれどその季節はたゞ春がふさはしい。 戀人が別れたときには 胸は痛み 希望《のぞみ》は破れて 死にたいといふ。 二三年まへなら あゝ! なつかしい彼女を どんなに冷やかに ながめられよう! 互ひに結んだときは 雨の日も晴の日も 戀の翼から 羽根を拔きとり—— 春がすぎて 羽根のないときは 悲しくふるへるが、いつまでも止まるものだ。 一揆《いっき》の首領《かしら》のやうに 彼れの生命は動いてゐる—— 彼れの支配權を縛る 形式の約束は 彼れの光榮《ほまれ》を暗うし、 もはや暴君をやめて その領土を 蔑《さげし》んで投げすてる。 けれど、なほ進みながら 旗印《はた》をひるがへし 威勢をつげて 彼れは進まねばならぬ—— 休息は彼れを飽かし 隱居は彼れを滅ぼし 戀は衰へた王位を忍ばねばならぬ。 月日がすぎて 樂しい夢から 醒めるやうに 待つものではない、戀人よ! 二人がたがひに 戀の衰へを悲しんでゐる間に 怒りと罵りで すべてのものは憎らしく見える—— はじめは衰へるが まつたく滅びないで すべての熱情に惱まされて 傷つけられるまで待つものではない。 ひとたび衰へたときは 戀の支配權は終つたのだ—— その時は友情で別れ——潔く別れを告げるがよい。 かやうに愛情は 喜びをよみがへらし、 なつかしい抱擁を おもひおこさせる。 疲れるか憎んで お前の熱情は止まり あきはじめるまで お前は待たなかつた。 お前の最後の抱擁は 冷めたい跡を殘さない—— なつかしい顏に 昔もいまもかはりなく お前のやさしい—— あやまちの鏡といふ眼は たゞ歡喜《よろこび》を映し——終りまで少しもつゞかない。 ほんとに訣れることは 忍ばれない。 どんな絶望が 訣れから生れるだらう! けれどなほ殘りながら 一度は蒼ざめて その牢獄に反き 心臟を繋ぐものでなくて何だらう? 時はたゞ戀を飽かせ 使へば戀を破る。 翼の生えた戀の子供は たゞ子供の喜ぶものだ—— たとへ鋭く、短いとはいへ お前の喜びをなくして 戀は苦しいものと知るやうになる。 [#地から2字上げ]——一八一九年—— [#改ページ]   すべては戀のため [#ここから5字下げ] ——フローレンスとピザとの間で—— [#ここで字下げ終わり]   Ⅰ おゝ、歴史にある名高い人の話はよしてくれ、 靑春は我々の光榮の時代だ。 二十二の美しい桃金孃《てんにんくわ》や常春藤《ぎづた》は 多くの月桂樹にまさるのだ。   Ⅱ 皺のよつた額には花環も花冠も何にならう! それは五月の露に濡れた枯れ花と同じもの、 白髮《しらが》の頭からそんなものはとつてしまつたがいゝ! 光榮のみを與へる花環を私は顧みない。   Ⅲ おゝ名聲よ! お前の讃辭《たゝへごと》を喜んだのは お前の高鳴る言葉のためではなく、 戀人の輝く眼色を見て 私が彼女を戀するに足ることを知りたいためだ。   Ⅳ そのために私はお前を求め、そのためにお前を見出したのだ。 彼女の眼眸《まなざし》は名聲をめぐる光よりも美しい。 その光が私の生涯で襃められる行に閃いたとき それが戀であり、譽であるのだ。 [#地から2字上げ]——一八二一・一一・六—— [#改ページ]   印度の曲に合せた歌 おゝ! 私の淋しい——淋しい——淋しい——枕! 私の戀人は何處にゐる? 私の戀人は何處にゐる? 怖ろしい夢で私が見たのは、戀人の帆船《ほぶね》か? 遠くに——遙か遠くに! ひとり浪の上に漂うて! おゝ! 私の淋しい——淋しい——淋しい——枕! 戀人の優しい額を附けた私の頭は何故痛むのだらう? 長い夜は情《つれ》なくそゞろ更《ふ》けて 私の頭はお前の上に柳のやうに垂れる! あゝ! 私の戀しい侘しい枕よ! 優しい夢を送つて私の傷む心を和げ、 眠らず流す涙の報いに 波を越えて戀人の歸るまで私を死なせてくれるな。 もしお前が望みなら——最早淋しい枕がいやなら、 今一度この腕に戀人を抱かせてくれ! その時嬉しさで息は絶えても——戀人を見れば! おゝ! 私の淋しい胸よ!——おゝ! 私の淋しい枕! [#改ページ]   二人はもはやさ迷ふまい   Ⅰ こんなに夜おそく 二人はもはやさ迷ふまい、 心はなほ戀に憧れ 月はなほ輝いてゐるが。   Ⅱ 刄《やいば》はその鞘《さや》をへらし、 魂は胸を疲れさせ、 心臟は休んで息づき、 戀も又休まねばならぬから。   Ⅲ 夜は戀のために作られ、 晝はすぐ返るとはいへ、 然かも二人は月の光りで もはやさ迷ふまい。 [#地から2字上げ]——一八一七年—— [#改ページ]   歌詞《うたことば》 美の生める少女《をとめ》の數は多けれど  汝がごと奇《く》しき力のあるはなし。 妙えなるなれが聲きけば  水の上《へ》わたる樂の音か、 大海原《おほうなばら》も魅惑《まどひ》して しばしは呼吸《いき》をとめぬれば、 波はしづかにかゞやきて 風はしづまり夢かと見ゆる。 夜半の月海原の上に  かゞやく鎖《くさり》を織り出し、 しづかに眠れる嬰兒《みどりご》のごと  やさしく胸をそよがせり。 かくのごとわが魂は首垂《うなだ》れて あふるゝ情《こゝろ》やさしくも 眞夏の波とうねりつゝ 耳傾けて汝《なれ》をたゝへん。 [#地から2字上げ]——一八一六年—— [#改ページ]   ナポレオンの訣別   一 さらば、フランスよ、 わが光榮に影をさし 汝の名と共に地球は暗くなつた—— 汝は今私を棄てた—— けれど最も輝き、また最も暗い汝の歴史は わが名聲で充《みた》されてゐる。 私は世界と戰つたが 勝利の流星に誘はれすぎて 果てはこの身の破滅となつた。 幾多の邦と爭つた効もなく 彼等のために獨り淋しい俘虜《とらはれ》の身となつた。   二 さらば、フランスよ! 汝の輝く王冠をわが頭に戴いたとき 私は汝を地球の寶玉とし、驚異とした—— けれど弱い汝はこの時私に退けといふのだ、 汝の光榮は衰へ、お前の價値は滅んだ。 おゝ! 嵐と戰つて 草葉の露と消えた老練兵《ふるつはもの》よ、 戰ひの勝利は汝等のものだ—— 鷲はあの時しばらく害《そこな》はれても 輝く勝利の太陽を瞶めて なほ大空高く翔け廻つてゐたのだ!   三 さらば、フランスよ!—— 汝の邦《くに》に今一度自由が甦へれば その時には私を想ひ起せよ—— 菫の花は今も猶ほ汝の深い谷間に萠え出で、 たとへ凋んでも、 汝の涙でまた咲くのだ—— けれど、けれど私は周圍の群集と戰ふのだ、 そして汝の心もわが聲に眼を覺まし起てよ—— 我等を縛る鎖の環は破らねばならぬ、 あゝその時汝は頭を向けて 汝を支配する首領《かしら》を呼ぶのだ。 [#地から2字上げ]——一八一五・七・二五—— [#改ページ]  ヘブライ調 [#改ページ]   彼女は美しく歩む   Ⅰ 雲なき國、星多き空の夜のやうに  彼女は美しく歩む。 闇《やみ》と光明《ひかり》の粹《すい》はすべて  彼女の姿と眼に集まり、 祝日《いはひび》にさへみ空の與へぬ  あの優しい光りに融けこんだ。   Ⅱ 影は更に濃くなるのに光《あかり》は更に薄らいで、  漆のやうに眞黑な髮毛をたゞよはせ、 また靜かに彼女の顏を照して  世にも稀な美しい姿を傷つけた、 彼女の顏には清く懷しい胸の思ひが  しづかに美しく現はれるのに!   Ⅲ あの頬に、あの額に  やさしく、靜かに、しかも美しく 浮ぶ微笑《ほゝゑみ》と、輝く色は  樂しくすぎた日の夢を語り、 その心はすべてのものと和ぎ、  その愛はあどけない情《なさけ》に充ちてゐる! [#改ページ]   あゝ、彼等のために泣け   Ⅰ あゝ! バベルの流れの傍で泣いた彼等のために涙を與へよ、 その殿堂は廢《すた》れ、その國は夢と消えた。 ユダヤの破れた竪琴のために泣け、 あゝ——昔神の住み給うた所は今は荒れはてゝゐる!   Ⅱ イスラヘルの民は血潮にまみれた足を今どこで洗ふのだらう? シオンの歌はいつになつたらまた美しく響くだらう? ユダヤの歌はその神々しい聲に 躍つた人々の心を再び悦ばせるだらうか?   Ⅲ さびしくさまよへる人々よ、 お前等はどうして休息《やすらひ》を求めるのか! 野鳩には巣があり、狐には穴があり、人には國がある—— けれどイスラヘルの民にはたゞ墓のみだ! [#改ページ]   私の魂は暗い 私の魂は暗い——あゝ! 然しまだ 私は速く顫へる竪琴《ハープ》の絃《いと》の音を聞くことが出來る。 お前の柔かな指で、私の耳近く 溶けくるやうなその囁きを奏でゝくれ。 この胸に若し[#「若し」は底本では「若く」]希望《のぞみ》が宿るなら その音は再び希望《のぞみ》を誘つてくれるだらう。 もしこの眼に涙が湛へるならば 流れて私の胸の焔を消してくれ。 然し歌の調べは狂ふが如くまた深くして、 お前の喜悦《よろこび》の節《ふし》はやめてくれ、 伶人《うたびと》よ、私は泣かねばならぬから、 さもなくば、この重い胸は張り裂けるのだ。 この心は悲しみで育くまれ、 眠らぬ沈默の中に永く痛んでゐるから。 そして今私の心は不幸の極みを知らねばならぬ、 すぐこの胸を裂くか——さもなくば歌はなくてはならぬ。 [#改ページ]   私はお前の泣くのを見た   Ⅰ 私はお前の泣くのを見た——大きな輝く涙が  あの綠の眼から流れるのは、 菫からこぼれる  白露かとも思はれた。 私はお前の微笑《ほゝゑ》むのを見た——綠玉《サフアイア》の光燿《かゞやき》も  お前の傍では恥ぢて光りを失つた。 お前の生々した輝く目眸《まなざし》の  光りに及ぶものはないから。   Ⅱ 雲[#「雲」は底本では「雪」]は遙か彼方の太陽から  深く鮮やかな夕映《ゆふばえ》を受けても 靜かによせる夕べの影を  空から拭ふことの出來ぬやうに、 たのしまぬ心はお前の微笑から  清らかな喜悦《よろこび》を受け、 その光りは胸を照して  燃える思ひを心の上に殘すのだ。 [#改ページ]   ヘロッドの悲歎   Ⅰ おゝ、マリアンネよ! お前を血塗《ちまみれ》にしたこの胸は  今お前のために、破られてゐる。 復讐は苦悶のなかに失はれ  憤怒《いかり》は堪へ難い悔恨《くひ》となつて來た。 おゝ、マリアンネよ! お前は今どこにゐるのか?  お前はもう私の辛《つら》い詫言《わびごと》をきくことは出來ないのだ。 あゝ! もしお前が聞いてくれたら天は私の祈りをきかなくても  お前は私をゆるしてくれるのに——   Ⅱ あゝお前は死んだのか——誰も私の  狂ふ嫉み心を鎭めてくれなかつたのか? 私の怒りはわが身の絶望を招き  お前を打つた刄は今私の頭の上に動いてゐる—— けれど私が殺した戀人よ、お前は冷たくなつてゐる!  そしてこの暗い心は夢のやうに 救ふに足らぬ私を殘して唯一人  空高く飛んで行つたお前を憧れてゐる。   Ⅲ かつては私の玉座に列んだお前は逝つてしまひ  私の悦びを葬つて死んでしまつた。 私一人のために咲いてゐた花を  私はユダヤの墓からとつてしまつた。 この身は罪人、この身は地獄だ、  この胸の荒むのは運命だ。 消しても消えぬこの苦しみは  あゝ自から招いた悶えだ! [#ここから5字下げ] 註。マリアンネはヘロツド大王の愛妻であり絶世の美人であつたが、不義をしたといふ疑ひを受けて、王の殺す所となつた。けれどヘロツド王は後になつてマリアンネの亡靈に襲はれ、悔恨に堪へかねて終に發狂するに至つた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  家庭詩 [#改ページ]   妻と別れるとき さらばよ! とこしへに、  いつまでも、御機嫌よう。 たとへお前を赦さぬとはいへ  私の心はお前に[#「に」は底本では欠落]反きはしない。 お前が幾度も頭を横へた私の胸に  もはや再び凭れることは出來ないのだ、 安らかな眠りがお前に來るときに  お前の前に現はれるこの胸に! お前が輝く眼で一目見てさへ  この胸は深く宿した思ひを現はすのに! それにお前があんなに情《つれ》なく反いてゆくのは  よくないことゝ今に分つて來るのだ。 たとへ世の人がお前を讃めて——  私の受けた痛手を笑つても、 人の悲しみに基づくものならば  その讃辭《ほめことば》さへお前の氣に障るに違ひない。 たとへ多くの過失《あやまち》が私を害ねても  癒えぬ傷痍《きず》を私に加へるには かつて私を抱いたお前の  腕にまさるものがあらうか? あゝ! けれど、お前は自ら欺くな、  戀は次第に衰へるが、 不意に訣れる悲しみで  こんなに胸の破られるのを信ずるな。 お前はまだ生命を保つてゐる  たとへ血に塗れても、私もまだ生きなければならぬ そして絶えぬ心の苦しみは——  二人はもはや逢はれないことだ。 これは死の哭《なげ》きよりも  さらに深い悲しみの言葉だ。 二人は生きてゐるだらう  けれど毎朝寂しい床で眼を覺ますのだ。 お前は慰めを求めるとき  二人の子供が始めて言葉をいふとき、 たとへ私の注意を棄てねばならぬ時でも  お前はあの兒に『|父さん《パパー》!』と敎へるのか? あの兒が小さな手でお前に凭れ  その脣をお前の脣に觸れるとき お前の幸を祈る私を  お前の戀の幸を祈る私を思つてくれ。 もしあの兒の顏が  お前がもはや見られぬ私に似るならば お前の心臟は尚私を思ふ脉搏で  靜かに打ち顫へるだらう。 私の過失《あやまち》はお前が皆知つてゐるが、  私の狂亂は誰も知ることが出來ない。 私の希望はすべて破れても  希望はお前とはなれまい。 すべての思ひはゆらぎ  世にも屈しなかつた私の矜恃《ほこり》は お前に屈し——お前の手で棄てられた  今は私の靈《たましひ》さへ私を捨てたのだ。 けれど萬事は休した——あらゆる言葉は無駄だ——  私の言葉は尚更無駄だ。 けれど二人が禁《と》めることの出來なかつた思ひは  意志もないのに終に現はれた。 さやうなら! かやうに離れ  あらゆる結びの絆《きづな》が切られて、 胸は焦がれながらさびしく荒んでしまつた。  あゝ私には死より外に途はない。 [#地から2字上げ]——一八一六・三・一七—— [#ここから5字下げ] 註。バイロンはミルバンク孃と結婚したが、同棲一年にして彼女は、一子エイダを抱いて詩人の家を去つた、それから約二ヶ月經つて彼れはこの詩を書き、再び歸らぬ決心で間もなく英國を去つた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  チャイルド・ハロルドの巡遊(抄譯) [#改ページ]   告別の歌   一 さらばよ、さらば! ふるさとの海邊は  靑波はるかにうすれゆく。 夜風はそよぎ、波はどよみ、  海鴎[#「區+鳥」、第3水準1-94-69、鷗]《かもめ》はけたゝましくさけぶ。 かなたに沈む夕陽を追うて  われらもいそぐ。 いざ夕日にも別れよう、  わがふるさとよ——いざさらば。   二 しばしまどろむもなく  明日もまた陽《ひ》は昇り、 海と空は[#「は」は底本では「を」]我等を迎へるが  わがふるさとは影も見えぬ。 ふるさとの家には人もなく  圍爐裏も消えてさびしからう。 八重葎《やへむぐら》は壁に茂り  門《かど》べには犬も寂しく啼くだらう。   三 さあ、こゝへ來い、小僮《こわらべ》よ!  お前はなぜそんなに泣くのか? 逆卷く大浪に怖れてか  暴風《あらし》に慄《をのゝ》くのか? さあ眼から涙をはらへ。  この船は迅く強いのだ。 早きをほこる手飼の鷹も  こんなに面白くは飛ばれないぞ。」   四 「嵐もつのれ、浪も立て、  浪も風も恐くはないのです。 けれど沈む私の心を  チャイルド樣、怪しんで下さるな。 私は父に訣れ  なつかしい母の許を離れて 今は友もなく、  賴むは主人《あなた》と神ばかりです。   五 「私の父は心をこめて旅路の幸《さち》を祈り、  歎きは口に洩さなかつたのです。 けれど母は待ちわびて  私の歸るまで傷ましく歎くでせう—— 「分つた、分つた小僮《こわらべ》よ!  それはお前にふさはしい涙だ。 俺にもそんなあどけない心があつたら  この眼もとくに涙が宿つたらうに。   六 「さあ、こゝへ來い、忠實《まめやか》な家從《しもべ》よ、  なぜそんなに蒼ざめてゐるのか? 敵のフランス人が恐《こは》いのか、  高鳴る嵐におびえてか?」 「生命の惜しいために慄く私と思はれますか?  チャイルド樣、私はそんな弱蟲ではないのです。 たゞ家に殘した可愛いゝ妻を思へば  私の頬は蒼ざめます。   七 「妻は子をつれて  御館《おたく》をめぐる湖の畔《ほとり》にゐます。 父は何處と子供等が問へば  妻は何と答へませう? 「分つた、分つた、家從《しもべ》よ、  お前の悲しみはあだでない。 けれど心の輕い俺《わし》は  旅に行くにも笑ふのだ。   八 妻や、また妾《めかけ》のまことしやかに歎くのを  誰がまことゝ思ふだらう? 新な夫《つま》をものにせば  昨日の涙は乾くのだ。 おもへばすぎた歡樂《たのしみ》も悲しまず  來る夜さへも恐《こは》くない。 別れの涙をそゝぐべき人もなければ物もない  この身はかへつて悲しいのだ。   九 今われはこの世にたゞひとり  廣き海原をたゞよつてゐるが わがために歎くものもないのに  なにを人のために歎かう? 慕ひて泣くわが犬も  やがては新な主人《あるじ》に飼はれ、 歸る元《もと》の主人《あるじ》を待ち伏せて  立ち所に噛むだらう。   一〇 わが船よ、汝とともに  泡立つ海をおしわけて疾く走らう、 ふるさとならぬ國ならば  どこに行くのも厭はない。 あゝ面白い、靑海よ!  汝が見えなくなつたときは 砂漠よ、洞窟よ、來れよ!  わがふるさとよ——いざさらば。 [#地から2字上げ]——第一齣第十四章—— [#改ページ]   ウォ−タールーの前夜   一 夜は饗宴《うたげ》も賑はしく [#(一)]ベルギイの都には 美人と兵士が集まり 灯火《ともしび》は佳人と勇士を照してゐた。 幾千の人の胸は樂しくときめき 樂の音は心を浮き立たせ 見かはす人々の優しい明眸《まなざし》は戀を語り合ひ、 婚禮の鐘の音のやうに樂しく見えた。 あゝ聞け! 葬禮《とむらひ》の鐘のやうに轟く音を!   二 聞いたかね? なに、風だらう、 さもなきや石の道を走る車の音だ。 踊らう! いつまでも樂まう。 靑春と歡樂とは一つになつて 惜しい盛《さか》り時を瞬く間も逃さずに樂しむ時ではないか、 さあ、夜明けまで眠らずに踊り狂はう—— けれど聞け! あの重くるしい音はまた轟いて 雷の鳴るやうに、次第に近く、さやかに、恐しく響いて來た! 武裝せよ! 武裝せよ! そら! 砲を撃て!   三 あの大きく廣い舞踏場の張出し窓に凭《もた》れた 運命の拙い將軍ブランスウヰツク公は 宴會《うたげ》の最中に、人に先だちてこの音を聞き さとい耳には死の豫告《つけ》かと思はれた。 彼れが音は近いと思つたので人々が笑つたとき [#(二)]父を倒して血潮の滴るまゝ柩車に乘せた あの葬ひの音に違ひないことを確めた。 敵の血を見ねば遂げられぬ復讐の思ひは胸に湧き、 彼れは戰場に走り、陣頭に立つて斃れた。   四 あゝ! 人々は周章《あわて》てあちこちと走り廻り 涙は溢れ、愁傷《なげき》に身もふるひ、 わが顏の麗はしさを讃められて赤くなつてゐたその頬は 瞬く間に色も蒼ざめた。 若い胸の生命《いのち》を消すあわたゞしい別《わか》れ! 繰り返す又逢ふ日もない生き別れの胸苦しい嘆息! あんな樂しい夜が明けてあんな凄まじい朝が來るとは誰が思はれよう? 互ひに戀を語つた眼眸《まなざし》の逢ふ時が またと世にあることを誰が賴まれよう?   五 兵士はあわたゞしく馬に乘り 軍馬や集つて來る騎兵隊や、響く砲車の音は 疾風《はやて》のやうに繰り出され 瞬く間に戰列は布かれた。 砲聲は遠くにとゞろき 近くには出陣の太鼓の響きは 曉の星も出ぬ夜半に兵士の夢を破つた。 街《まち》の人々は恐れて聲もなく、血の氣の失せた唇で 「敵だ! すは來た! すは來た!」と囁いてゐる。   六 荒く聲高く[#(三)]カメロンの兵の鬨《とき》の聲は起り、 [#(四)]ロキールの鯨波《ときのこゑ》は、[#(五)]アルビンの山々に響き サクソンの敵を驚かした! 夜中に風笛に合はした軍樂曲《ピブロハ》は 凄まじく、鋭どくひゞく! けれど風笛の鳴るにつれて山人の胸は 荒い祖國《くに》から受けた勇氣に充ち、 千年を經た戰ひの思ひ出が湧き、 エヴァンや、ドーナルドの名聲は郞黨の耳に鳴りひゞく!   七 [#(六)]アーデンの森は人々の頭の上に綠の葉をそよがせ 行いて還らぬ勇士の生命《いのち》をば 草木も傷むのか 自然の涙で露滋く置いてゐる——あゝ! 彼等は夕べを待たぬ草のやうに踏みにじられ 敵に押し寄せ、高い希望で燃える 火のやうな生きた勇氣に溢れた軍勢が 倒れて土と朽ちはてる來る春の若草の頃は 今踏む足は土となり、武士《つはもの》の夢の跡には草は茂るだらう。   八 昨日《きのふ》は樂しい日を送り 昨夜《ゆうべ》は美人の集りのなかに誇り顏に花やいだ、 けれど夜半には戰ひの合圖の太鼓は鳴り 朝《あした》には武裝をとゝのへ——白晝《まひる》には 戰の嚴かに壯大な對陣よ! 砲煙はその土を覆ひ、晴れたときには 地の上は土ならぬ死骸で掩はれたので 騎手も馬も──敵も味方も赤く交つて埋られ、 まことの土がうづ高く盛られた! [#地から2字上げ]——第三齣第二十一章より第二十八章まで—— [#ここから5字下げ] 註。一八一五年六月十五日の晩(カトル・ブラーでの戰ひの前夜) ウエリントンは策戰の手筈を了へてから何喰はぬ顏をして、ブラツセルで催されたリツチモンド侯爵夫人の舞踏會に臨んだ。歌宴の酣な時、誰が言ふとなく彿軍が近くに突進したことが囁やかれたので、後髮を引かれる思ひで宴席を去り、陣營の任務に就いて死んだものも少なくなかつた。夜半の頃參謀の將校が召集せられ、若い士官は舞踏の相手の女の美しい姿に心を殘して出動の準備をした。一同が進軍を始めたのは十六日の夜明けであつた。ウォータールーの戰はそれから三日後にあつた。 (一)ブラッセル。 (二)彼の父は一八〇五年奈翁と戰つてイエナで戰死した。 (三)強兵を以て名高いスコットランドの舊藩の名。 (四)カメロン藩の領主の庄の名。 (五)スコットランドのこと。 (六)彿白の境にある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  アバイドスの花嫁(抄譯)   君知るやあの國を 君知るや 死の哀《かな》しみに絲杉を 桃金孃《てんにんくわ》をば功業《いさをし》の 表號《しるし》にすといふあの國を。 兀鷹《はげたか》の怒、鳩の愛、 悲しみとなり、罪となる。 君知るや 永劫《とは》に花咲き かゞやける 杉と葡萄のあの國を。 輕き翼《つばさ》のそよ風は 強《きつ》い匂ひにおさへられ 花咲く薔薇の花園に かすかにそよぐそのさまを。 佛手柑《シトロン》の實は美しく 橄欖樹《オリーブ》の實はいと甘し。 夜告鳥《ナイテインゲール》の音も妙《たへ》に 夜な夜なきこゆるあの國を。 綠の空に土の色 とりどりなれどおのがじし 色はまさると美を競《きそ》ひ 濃き藍靑《らんじやう》の海原《うなばら》は 染めたるかとも見ゆるなり。 顏貌《みめ》よき處女《をとめ》あまたゐて 飾せる薔薇の花のごと いと麗はしく匂ふなり。 男心のほかすべて 神にも似たり人々は。 そは東方の邦《くに》、太陽の國、 陽《ひ》は幼兒《をさなご》のごとあどけなく その光景《ありさま》に微笑《ほゝゑ》むや? あゝ! 彼等の胸は燃えさかり その物語美しく いとなつかしき戀人の 告別《わかれ》の言葉にさも似たり。 [#改ページ]  海賊(抄譯) [#改ページ]   メドラの唄   一 わたしの心の奧深く ながい暗夜にたゞひとり やさしい祕密が住んでゐる、 あなたの胸にこの胸が 觸れるときには嬉しいが あなたとはなれたその時は いつもさびしくふるへてる。   二 わたしの心のまんなかに 葬《とむら》ひの灯《ひ》がひとしれず かすかに燃えてゐるけれど 光はうすく、力なく ありとも見えぬその光 歎きの闇に消えもせで いつもさびしく燃えてゐる。   三 忘れたまふなわたしをば あはれとおもふこともなく わたしの墓をすぎますな わたしの胸にたゞひとつ 忍びがたない苦しみは 君のやさしいみ胸のなかに 忘れられたと知ることよ。   四 やさしくはかなく消えてゆく 臨終《いまは》の言葉をきゝませよ 徳義も咎めることのない 死んだこの身をあはれんで いつもこがれた涙をたまへ 思ひつめたるわが戀の 報酬《むくい》はいつもこれですよ。 [#改ページ]   お前の唄は悲しい 『愛するメドラよ! ほんとにお前の唄は悲しい——』 『あなたの留守[#「守」は底本では「宅」]中、妾はどうして樂しい歌が謳はれませう? 妾の歌を聞いて下さるあなたはゐられなくとも、 妾[#「妾」は底本では「私」]の歌はわが思ひ、わが心を洩さずには止みません、 妾のすべての行はこの胸で一つになるのです、 口は噤《つむ》いでも、妾の心は默つてはゐません。 あゝ! 幾夜も妾は獨り淋しい床の中に横り 嵐を恐れる妾の夢は胸の中に風を起し、 あなたの船の帆に孕むそよ吹く風は 暴風《あらし》の囁く序曲と思はれ、 風は靜かでも、荒い波の上に浮ばれる あなたを歎く豫言の挽歌と思はれました。 それでも欺きがちの間諜がもしか火を消してはと 妾は立つて目標《めじるし》の烽火《のろし》を燃しました。 心もとなく星を眺めてゐるうちに 朝は來ましたが——あなたはまだ遠くにゐます身でした。 おゝ! ほんとに冷い疾風《はやて》が妾の胸に吹きすさみ 惱んだ妾の眼に夜はわびしく明けました。 妾は幾度も眺めました——けれど待つ船は見えず 妾の涙も、眞心も、また誓ひもあだとなりました。 終に正午《ひる》となりました——嬉しいことには一本の帆柱が見えました 船は近づきました——然しあゝ! それは過ぎ去りました! 他の船がまた見えました——あゝ! それはやつとあなたの船でした! こんな辛《つら》い月日をおくるのはいやです! なつかしいコンラードさま! あなたは平和の喜びを得たくはありませんか? あなたは確かに富以上のものを得られ さまよふことも要らぬ輝く團欒の樂しみを持たれます。 妾の恐れることは危險でないとは御承知ですが あなたが此處にゐまさぬ時は妾はたゞ顫へてゐます。 妾の生命を憂へるのではなく、妾よりもあなたの生命が 愛を離れて、爭ひに衰へられるのを歎くのです—— 妾にはあんなに優しいその御心が 自然とその善い意志と戰ひ給ふのはほんとに不思議です!』 『さうだ、ほんとに不思議だ——私の心はよほど前から變つてゐる。 この心は蟲のやうに踏躙《ふみにじら》れ、蝮《まむし》のやうに復讐せられた。 お前の愛を措いてこの世に他の望みはなく、天の惠の光りもないのだ。 お前は[#「は」は底本では「に」]私の無情を責めるが、 お前に對する私の愛は他人を嫌ふようになるのだ、 そこで二人はこゝで固く結び合つて離すことが出來ないのだ。 私がお前を愛さなければすべての人を愛すのだ。 けれどこれを恐れてくれるな——すべての過去の證明は また行末も私の愛の續くことを證明するから。 けれど——おゝ、メドラよ! お前のやさしい心を力づけてくれ、 今二人はまた訣れるのだ——けれど永い間ではない』 『今訣れるのですか!——妾は前からこのことは知つてゐました。 あゝ妾の幸福な樂しい夢は永久にさめてしまひます。 今——いえ——今は駄目ですよ! あの船は港に着いたばかりで 伴船《ともぶね》もまだゐないし、 水夫等も休んで元氣を附けねばなりませんから。 戀しいあなたよ! あなたは私の弱い心を嘲り 今から妾の胸を硬くしようと思つてゐられます。 けれど妾の悲哀を弄ぶことはもはややめて下さいませ そんな娯樂《たのしみ》は心を傷める外に何の遊びにもなりません。 なつかしいコンラード樣! 靜かにして御馳走を御上り下さい 妾は悦んで御馳走を整へてゐます。 あなたの質素な食事を選んで整へることは大した骨折ではありません! さあ、妾は一番|甘《おいし》い果實を採つて來ました。 確かでなく、血迷ふても、好きな所で 一番美しく見えるのはこれだと思ひました。 妾は小山に三度傷ついた足を運んで冷い小川に行きました。 土耳古清涼水《シエルベツト》は今夜はさぞ旨《おい》しいでせう。 雪のやうな瓶の中で輝いてゐるのを御覽なさい! あなたは葡萄の甘い漿液《しる》はお嫌ひです。 その杯を見るとマホメット敎の人よりもお嫌ひになるほどです。 けれどあなたを咎めるのだと思つて下さいますな—— あなたのお好みな他人《ひと》の悔《くや》しみは妾の喜ぶことですから。 さあ、食事が整うて銀の灯も輝きました。 濕つぽい[#(一)]シロッコの風を氣にしなさいますな。 いまに侍女もそろつて妾と一緒に 踊《をどり》を踊り、歌も歌ひませう。 またあなたのお好きな妾のギターは、 あなたを慰めたり、休めたりしますが、 あなたの御耳の障になりますならば あの[#(二)]アリオストーの語りました [#(三)]美しいオリンピアの悲しい戀の物語を致しませう。 誓ひを破つて、その戀人を見棄てた男よりも また謀叛人の首領《かしら》よりも惡い人となつて 何故妾を今見棄てようとなさるのでせう—— 空晴れて遙か遠くのアリアドニーの島を あの崖から暫らく妾が指さしてゐたとき あなたの微笑を妾は見ました。 其時妾は冗談と恐怖で言ひました—— 年月は過ぎても、妾を見棄て海原をさして逃げるやうな、 恐ろしい、疑ひの心を妾に起こさせて下さるなと。 それにあなたは妾を欺きました——また[#「また」は底本では「まだ」]歸つて來たのですもの!』 『また、また——否幾度でも——愛するメドラよ! 生命があり、希望があれば私はこゝへ歸るのだ—— けれど今といふ今は どうしてもお前と訣れなくてはならない。 その理由は今は話しても益はない。 すべてはあの無情な訣れの言葉で終るのだ。 けれど時間が許せばお前に言ひたいことがある—— 恐れてくれるな——それは怖ろしい敵ではないが、 不意の襲撃と長い準備の防禦には いつもよりも警戒しなくてはならぬ、 私は遠く離れてもお前は淋しくはないよ 婆《ばあ》やや、お前にかしづく娘等がゐるのだから。 今度歸つて逢ふときは安らかに樂しむことが出來るのが せめてのお前の慰めだ。 さあ! ——角笛が鳴る!——ジュアンが烈しく吹いた—— 接吻を——今一度——もう一度——あゝ! さらば!』 [#ここから5字下げ] (一)地中海を吹き荒む熱風。 (二)イタリーの詩人。 (三)オルランド・フリオーソの中にある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  パリシナ姫 [#改ページ]   媾曵《あひびき》   一 樹《こ》の間から 夜告鳥《ナイチンゲイル》の高い調べが聞え、 戀人等の誓ひの言葉は さゝやくごとに甘いときだ。 そよふく風と、近くの水の音は ひとりさびしい耳には樂の調べと響いて來る。 花は輕く露にうるほひ、 空には星が逢引し、 波は紺靑《こんじやう》に、 木の葉は茶色に、 陽《ひ》が落ちて 黄昏《たそがれ》は月の光に溶けてうすれゆくとき、 おぼろに朗かな空は うす闇で、ほのぼのと澄んでゐる。   二 パリシナが部屋を出たのは 水の落ちる音を聞くのでもなく、 夜の闇の中を歩むのは み空の光りを仰ぐためでもない。 またエステの四阿《あづまや》に凭れても それは咲き亂れた花を見るためでもない、 耳は傾けるが夜告鳥《ナイチンゲイル》を聽くためでもない、 彼女は戀人のやさしい言葉を聞きたいと待ち焦がれてゐるのだ。 その時茂つた叢《くさむら》をわけて忍ぶ足音が聞えると 彼女の頬は蒼ざめ——胸の動悸は高まつた。 さらさらと鳴る葉蔭《はかげ》から囁[#「口+耳」、第3水準1-14-94、咡]く聲がすると、 パリシナの頬は眞紅《くれなゐ》にかはり、胸は喘いだ。 いま一刹那で——二人は逢ふのだ—— あゝ今——戀人はパリシナの足下《あしもと》に跪いてゐる。   三 時と潮の變りゆくこの世界は 戀する二人には何であらう? 生きとし生けるもの——天も地も—— 二人の眼と心には何物でもない。 すべてこれらのものには 死物のやうに見むきもせず すべてのものは過ぎさつたかのやうに 二人の胸は互ひに呼吸《いき》を交はしてゐる。 歎息さへも深い喜びに溢れて とこしへにやむこともなく、 樂しさに狂ふ心は 燃える焔のやうに搖ぐ二人の胸を破るほどだ。 あの胸を騷がす優しい夢の最中《もなか》には 罪も危險も二人の胸には浮ばない。 あの情熱の力を感じた者ならば、あんな時に 誰が躊躇《ためら》ふたり、恐れたりするだらう? またあの短い束の間の夢はすぐに破れるものと誰が思ふだらう。 けれど——その瞬間はもうすぎたのだ! あゝ! あんな樂しい夢は もはや來ぬことを知らない内に人は眼を覺まさねばならぬ。   四 罪の快樂のすぎたところを 名殘惜しくいくたびも顧みながら二人は去つた。 また逢ふ夜の望みを懷き、誓ひの言葉を交はしたけれど それが最期の訣れのやうに二人は嘆き悲んだ。 いくたびも嘆息し——長く抱き合ひ—— 脣と脣はとこしへに離れまいと吸つてゐる。 その時パリシナの顏の上には 彼女の罪を赦さぬ恐ろしい天の光りが輝き、 心ありげな星は遙か遠くの空から 彼女の弱い心を見たかのやうに靜かに燦いた—— いくたびも嘆息し、長く抱擁しても なほ二人の逢引のところは離れ難い。 けれど時は來た、罪を犯した行に必ず附き纒ふ 深い身顫ひに重い心は恐れにみちて 二人は互ひに訣れねばならなくなつた。 [#改ページ]  サアダナペイラス王(抄譯) [#改ページ]   すべては女によりて 人の生命の始めすら 女の胸より生れ、 あなたが始めて口にせられた わづかの言葉も 女の口から敎へられ、 あなたが始めて零《こぼ》された涙も 女の手で拭はれました。 生命の終るとき かつて惠みを施した男は 卑しい看病《みまもり》の心づかひをさけて 誰ひとり顧みるものもないときに あなたの傍をはなれずに 苦しい臨終《いまは》の息をきくのは 女を措いて誰でせう。 [#地から2字上げ]——一の二四—— [#改ページ]   報酬に紅い脣を 朕は戰爭を光榮とも思はず—— 勝利を名譽とも思はない。   *  *  *  *  * 人の氣に障らぬように世を治め 血腥い歴史の中に 朕の世を平和の時代とし、 沙漠のなかの綠滴るオアシスとし、 後の世の人々をして サアダナペイラスの黄金時代を想ひ起させて 樂しく謳歌させようと思ふのだ。 わが國を樂土とし、 變りゆく月を 新しい快樂の時期とし、 貧しい男女の喜び聲を愛とし—— 友逹の呼吸を眞理とし—— 女の紅い脣を 朕に與へられる唯一の報酬《むくい》としようと思ふ—— [#地から2字上げ]——四の一—— [#改ページ]  ベツポー(抄譯)   戀の始終 一瞥《ひとめ》は秋波を送り 秋波は嘆息を吐かせ 嘆息は願望《のぞみ》を孕《はら》み 願望は言葉を生み 言葉は手紙を作り |雁の使《マーキユリイ》の翼に載せられて すみやかに飛んでゆく。 これは人の知つて踏む道だが その後どんな不幸が起るか 神ならぬ身には分らない。 戀で二人の若い男女が 一つの足械《あしかせ》にかけられたときには いやな逢引や、僞りの床や、 駈落や、誓ひの破りや、 心の爭ひが生れる。 [#地から2字上げ]——第十六齣—— [#改ページ]  ドン・ジュアン(抄譯) [#改ページ]   ドンナ・ジュリアの手紙 [#ここから5字下げ] ——ドン・ジュアンに贈る—— [#ここで字下げ終わり] あなた樣には愈御出發に定まりましたさうで、まことにお喜びに存じます。 然し妾にとりましてはどんなに苦しいことでございませう。 妾はもはやあなた樣の若やかな御情を被ることは叶はぬ身でございます。 妾の心は犧牲《いけにえ》に供へたものと思つてゐます。 妾が用ゐました術は一心にあなた樣を愛しましたことでございます この手紙は走り書きを致しましたから 紙に汚れた所がございましても惡く思つて下さいますな、 妾の眼は燃えて熱くなつてゐますが、涙と申すものは少しもございません。 妾はあなた樣を愛することは今も猶渝りはございません。 この愛のためには、國も、地位も、神も、人の愛も、妾自身の位置も失ひましたが 然しそれは少しも惜しいとは思ひません、 あの夢の思ひ出は今もほんとになつかしうございます。 自ら誇るのではございませんが、妾[#「妾」は底本では「私」]の罪を申しあげますと 妾自らこの身を裁《さば》くより嚴《きび》しく裁き得る者は他にありません。 妾の心は安まりませんので亂筆ながら認めました—— 妾には咎めることも求めることもございません。 男の愛はその生命とは別物でございますが、 女の愛は生命のすべてゞございます。 男の方は朝廷や、戰陣や、寺や、船や、市場に行かれます、 剱や、衣冠や、利益や、光榮は、その交換として 矜恃《ほこり》や、名聲や、大望心を與へて男の胸を充たします、 これらを得ない男は少ないのです。 男はこんな資力がありますが、女は唯一つ── 再び愛することだけなのです、けれどそれも再び叶はぬ願ひです。 あなた樣はこれからも樂しく誇り顏に 多くの女に愛せられ、また愛せられることでございませう、 然し妾にはこの世に凡ての望みがなくなりました。 たゞ今後數年間妾[#「妾」は底本では「私」]の恥と悲しみを心の奧深く祕めておくことのみでございます。 これは妾の堪へられることですが、棄て難いのは 今も猶昔と同じく猛り狂ふ胸の思ひでございます。 けれど今はお訣れ致しませう、妾を赦し、妾を愛して下さい—— いえ、この言葉も今は苦しいのです——もう止めませう。 妾の心はほんとに弱いのでした、今もなほさうでございます、 けれど亂れた心を取り直すことは出來ると思ひます、 風の吹く方に波がうねるやうに 妾の血はまだ妾の魂の定めた所へ流れてゐます、 妾の心は女々しいので、あなた樣御一人を氣の狂ふほど焦れて忘れることが出來ません、 たとへどんなに磁石《じしゃく》を振りましても その針はいつも北を指しますやうに、 妾がこれと定めた方には 妾の切な心は慕ひよるのでございます。 妾はもはやこの上申しあげることはございませんけれど、 未《いま》だにこの手紙を封ずることを躊躇してゐます、 しかし妾[#「妾」は底本では「私」]はなすべきことは十分致します 妾の不幸はまだこれで盡きたのではありません。 もし悲しみが妾を殺してくれましたなら 妾は今迄生きてはゐなかつたでせうに、 自ら好んで死を求めるやうな不幸な人には死は嫌つて避けるものです、 この最後のお訣れの言葉を交した後も生き存らへて 生命の終るまで、あなた樣を愛し、あなた樣のために祈ります。 [#地から2字上げ]——第一齣第百九十二章より第百九十七章まで—— [#改ページ]   ギリシヤの島々   一 希臘の島々よ、希臘の島々よ! そこはサッポォが熱烈な戀をして歌ひ、 戰爭と平和の街が發逹し、 デロスが起ち、フィーバスが出た處だ! 永久の夏は猶島々を飾るが、 太陽の外はすべて沒《かく》れてゐる。   二 [#(一)]カイオスと[#(二)]テオスの詩人、 英雄の竪琴、戀人の琵琶、 是等は名譽を得たが汝の海岸は拒んで受けなかつた。 彼等詩人の生れ故郷は默つてゐるが、 汝の祖先の『幸福の島』よりも 遠く西にその響きは傳へてゐる。   三 山はマラトーンに向ひ—— マラトーンは海に面してゐる。 そして私は一時そこで思ひに耽つて、 希臘は尚自由になることを夢想した。 何故ならば私は波斯人の墓の上に立つた時 我々は自から奴隸に終るとは思ふことが出來なかつたから。   四 [#(三)]王は海より生れた[#(四)]サラミス灣を見渡す 巖の崖に坐つた。 幾千の船は眼下に横はり、 國々の兵士は——すべて彼れの所有《もの》であつた! 王は夜明けに彼等を檢閲したが—— 太陽の沈んだ時、彼等は何處にゐたらう?   五 彼等はどこにゐたらう? そして我國よ、汝は何處にゐるのか? 聲もない汝の海岸には今勇ましい唄は絶え—— 勇ましい胸はもはや高鳴らぬ! そして長い間神々しくせられた汝の琴《リラ》は 私のもののやうな手に落ちて墮落せねばならないのか?   六 名聲を失つて、桎梏《あしかせ》にかけられた人種に入れられても、 いささかでも愛國者が羞恥を感じ、 私が歌ふ時でさへ顏を覆ふのは、 少しは賴むに足りる所がある。 何んのために詩人は此處に殘されたのか? 希臘人には赤面のため、——希臘には涙を流すためだ。   七 吾々は幸福であつた時代を追想して唯泣かねばならないのか? 唯顏を赤らめねばならぬのか?——吾々の祖先は血を流した。 大地よ! 汝の胸から返してくれ スパルタの死人の殘物を! 新しいサーモピリイを作るために [#(五)]三百人の中唯三人を與へてくれ!   八 何故、まだ靜かなのか? 物皆が靜かなのか? あゝ! 否、——死人の聲は 遠くの瀧の落ちる音のやうに響いて答へる。 『一人の生きた首領を立たしめよ、 唯一人起てよ、——吾々と行くのだ!』 默つてゐるのは生きてゐる者か。   九 空しい——空しい、他の絃《いと》を鳴らさう。 サモスの酒を盃に高く盛れよ! 戰ひは土耳古の蠻族に任せ、 カイオスの葡萄の血を流せ! 聽け! 卑しい招きに應じ—— 大膽な酒の歌が響くではないか!   一〇 汝等はまたピリックの踊りを踊るが、 [#(六)]ピリックの方陣はどこにあらう? この二つの課目の中で、何故 高尚な男らしいのを忘れたのか? 汝等は[#(七)]カドマスの與へた文字を有つてゐる—— それは彼等が奴隸のために作つたのだと汝等は思ふのか?   一一 サモスの酒を盃に高く盛れよ! 吾々はそんなことは考へまい! 酒はアナクレオンの歌を神聖にした。 彼れは仕へた——然し[#(八)]ポリクラテスに仕へたのだ! 暴君だ、けれど當時の吾々の君主は 兎も角も、尚わが同胞であつた。   一二 カーソネソスの暴君は 自由のために最もよく最も雄々しい友であつた。 その暴君は[#(九)]ミルテアデースだ! おゝ! もし現代にこの種の專制君主が出たならば、 その鎖は必ず人を縛るだらう!   一三 サモスの酒を盃に高く盛れよ! [#(十)]スリの巖や、[#(十一)]パルガの海岸には [#(十二)]ドリアの母の血を引く 遺族が殘つてゐる。 また恐らくそこには ヘラクレスの血の種も蒔かれてゐよう。   一四 自由を得るためにフランク人を賴むな、 彼等は賣買の王を持つてゐる。 故國の劍や、故國の軍隊にこそ 唯一の勇氣の希望は宿るのだ。 だが土耳古の軍勢と拉典人の詐欺とは いかに廣い汝の楯でも破るだらう。   一五 サモスの酒を盃に高く盛れよ! われらが處女子《をとめご》は樹蔭で踊る。 私には彼等の輝いた黑い眼の輝くのが見える。 けれど血汐の燃える處女を眺めるとき、 その乳房が奴隸を養ふかと思へば わが眼から熱涙が流れる。   一六 [#(十三)]スニアムの大理石の絶壁の上に私を置け、 そこには私と波の外は何物もない、 波と私が囁くのを聞いてくれ。 そこで、白鳥のやうに歌つて死なしめよ。 奴隸の地は私のものではない—— サモスの酒の盃は彼方に投げて壞《こは》せよ! [#地から2字上げ]——第三齣第八十六章の一より十六—— [#ここから5字下げ] (一)ホーマーの生地。 (二)アナクレオンの生地。 (三)ペルシヤ王ザークシーズ。 (四)ギリシヤの艦隊がペルシヤ艦隊を敗つた所。 (五)スパルタ軍はレオニアダス王と共にサーモピリイで倒れた。 (六)エピラスの王ピラスが作つた。 (七)古代テーベの創建者でギリシヤ人に文字の使用を敎へた。 (八)サモスの暴君。 (九)マラトーンの勇將ミルテアデースの叔父で正しい統治者であつた。 (十)アルバニアの山地。 (十一)アルバニアの港。 (十二)ギリシヤの先祖である有力な人種。 (十三)アテイカの東南端にあつて、海の見える所にアテネの殿堂があつた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  シヨンの囚人 [#改ページ]   シヨン讃頌 縛《いまし》められぬ自由の心の永遠の靈よ! 自由よ、汝は牢獄の中で輝いてゐる、 汝の棲家は人の心だから── その心は汝を愛する心のみが結び附き得るのだ。 汝自由の子が足鎖《あしぐさり》に繋がれ── 足械《あしかせ》を掛けられて、陽《ひ》もなき闇黑の穹窿《まるやね》の窖中《あなぐら》に閉ぢ込められる時 彼等の祖國はその殉敎で克《か》ち誇り、 自由の名聲は風に翼を托して弘く傳はる。 シヨンよ! 汝の牢獄は神聖な場所だ。 汝の哀れな床は祭壇なのだ。 何故なればボニヴァールはその足跡さへ印《のこ》すまで踏みつけ、 汝の冷い舖石《しいし》は土のやうに摩りへつてゐるから。 その足跡は消えないでゐてくれ! それは暴虐を神に訴へるものだから。   I 髮は白くなつたが、年のためではなく、 また不意の恐怖《おそれ》や驚愕《おどろき》でなる人々のやうに 一夜のうちに 白くなつたのでもない。 四肢《てあし》は衰へてゐるが、苦役のためではなく、 たゞ憎むべき無爲の休息で朽ちたのだ。 なぜなれば私の四肢《てあし》は牢獄に囚はれてゐるから。 そして私はあの懷しい地も踏まねば 新鮮な空氣を呼吸することも出來ぬ人々と、 同じ運命だ──それらは私には禁斷の食物とでもいはう。 けれど私が鎖に繋がれて死を宣告せられたのは 父の信仰のためであつた。 父は一生拾てなかつた信念のために 火炙《ひあぶり》の柱にかけられて死んだ。 そこで同じ主義のために我々兄弟は 闇黑の獄舍に住む身となつたのである。 我々は始めは七人であつたが、今は唯一人となつた── 六人は若く、一人は老いて 迫害《はくがい》の怒りに傲然として反き、 始めから終りまで節《せつ》を渝《か》へなかつた。 一人は火刑《ひあぶり》に、二人は敎への戰場に倒れ その信條は血潮で固められて、 父と同じく 敵の背く神のために死んだ。 三人は獄舍《ごくや》に投ぜられ、 殘りの一人はこゝに生き長らへた私なのだ。   Ⅱ 奧深い古びたシヨンの獄舍には ゴシック型の七本の圓柱がある。 その柱は太く灰色で 閉ぢ込められたか弱い光を受けて薄暗い── 道を失つた陽《ひ》の光は 厚い壁の隙間を洩れて 濕つた床の上に匐ひながら 沼の鬼火《おにび》のやうに射してゐる。 柱々に環があり 環ごとに鎖が附けてある。 その鎖は瘍のやうに身に喰ひ入り、 四肢《てあし》に齒痕《あと》をふかく殘してゐる。 この世の生活を終るまでは この痕は決して消えないだらう。 獄舍にゐて昇る陽を見ない眼には この世に出て眺める新しい陽《ひ》は痛いだらう。 獄舍にあつて長い年月はとても算へられない、 私の弟が衰へて倒れ、 その傍にまだ生きてゐる私が横つてゐたときに 私は長く辛《つら》い月日を算へることを忘れてしまつた。   Ⅲ 獄吏は我々を圓柱に繋いだ、 われら三人の兄弟は──一人宛別々に繋がれて 一歩を動くことも出來なかつた。 蒼白い光でなくては 互ひに顏を見ることも出來ず、 暗い光《あかり》のためにまるで知らぬ人のやうに思はれた。 同じところにゐても三人は別たれた──然し 手は縛られてゐても、心は固く結ばれてゐた。 互ひに語り合つては慰め、 新しい希望を懷き、昔話をし、勇ましい歌を謳ふことの出來たのは 新鮮な空氣と光に飢ゑ、大地を歩むことの出來ない我々には せめてもの慰めの種であつた。 けれどこれも終には飽いて 聲は物凄くなり 獄舍《ごくや》の石に谺《こだま》して 砂の軋る音のやうに聞え──昔のやうに 思うまゝには出なくなり、 心のまよひかもしれないが 生れつきからの聲とも思はれなくなつた。   Ⅳ 私は三人の内の兄と生れて 二人の弟を慰めて勵ます義務があつたので 私は努めて力を盡した。 みんなもまた出來得る限り努めた。 末の弟は特に父が愛してゐた、 その眼は空のやうに靑く 母の面影に似てゐたからである── 私の靈《たましひ》は彼のために痛く苦しめられた。 そして今こんな巣の中にこんな小鳥を見る 私の悲しみも無埋からぬのだ。 彼れは陽《ひ》のやうに美しかつた、 日光《ひかげ》が自由に翔《か》ける雛鷲《ひなわし》を照すやうに 私にとつては彼れは麗らかな陽のやうに美しかつた 夏の過ぎ去るまで日沒を見ない 地球の極《はて》の太陽のやうに美しかつた── そこでは夏は絶えまなく輝いて夜はなく 雪のやうに裝ふ太陽の子のやうであつた。 その有樣に似て彼れは純潔で光り輝いてゐた。 その快活な魂《たましひ》の流す涙は たゞ他人の不幸を嘆くためのみだ。 この世で見るも忌はしい 不幸を慰められぬときに弟は 谷間の小川のやうに涙をたぎらせて泣いた。   Ⅴ 今一人の弟もその心は純潔であつた、 彼れは人と戰ふやうに生れつき、 體は強く、世間と戰ひ、 戰の先頭に立ち よろこんで討死する意氣はあつたが、 鎖に繋がれても空しく呻きはしなかつた。 彼れの魂《たましひ》は鎖の音で萎《しぼ》み 無言の中に衰へるのを見た── 私の心も亦恐らく衰へたのだらう! けれどなつかしい二人の兄弟を思ひ 心を勵まして慰めた。 彼れはかつては野山を駈け廻り 鹿や狼を追ふ獵人《かりうど》であつた。 今この獄舍《ごくや》は彼れには恐ろしい淵《ふち》で、 その足械《あしかせ》は不幸の中でも最も痛ましいものであつた。   Ⅵ レマン湖はシヨンの城壁の邊に湛へ 深さは一千尺。 川は※[#「さんずい+陷のつくり」、淊]々と流れてこゝに集る。 測量絲は波にかこまれた シヨンの白壁から いくども垂下《おろ》された。 壁と波にかこまれた二重の獄舍《ごくや》は 生きた人の墓のやうに、 水面よりも低く 我々の暗い窖《あなぐら》は横はる。 我々は夜晝|獄舍《ごくや》の壁を打つて 頭の上にひゞく波の音を聞いた。 風の烈しく吹くときは 冬の水烟が獄舍《ごくや》の門の横木をうち洗ひ 晴れた日にも浪は荒れて 巖さへも動かした。 私は自由を與へてくれる死を喜んで迎へてゐるので 岩の動くのにも鷲きはしなかつた。   Ⅶ 私の次ぎの弟が窶《やつ》れ その強い心も衰へたことは今説いた。 彼れは與へられる食物を嫌つて斥けた。 それは食物の粗末なためではない、 我々は獵人《かりうど》の食物に慣れてゐるので それは心にかけなかつた。 始めは山羊《やぎ》から搾つた乳を與へられたが 後には濠《ほり》から汲んだ水に換へられた。 我々のパンは 人間が始めて同胞を獸のやうに 鐵の檻《おり》[#「おり」は底本では「 り」]に閉ぢこめてから數十年 囚人の涙で濡らしたやうに濕《しめ》つてゐた。 けれどこんなパンも我々にとつては何でもない、 それは彼れの心や身を害ひはしなかつた。 彼れの心は嶮しい山をさまようて 自由の息《いき》を呼吸しなければ たとへ宮殿に住んでも その心は衰へて冷くなるのであつた。 けれどあゝ、──彼れは終に死んだのだ。 私はそれを見ても近寄つて彼れの頭を支へ、 臨終の手を握ることも出來ず── 死んだ手に觸れることも出來なかつた。 私は強ひて繋がれたこの身の鎖を 二つに咬み切らうと努めたが空《あだ》であつた。 あゝ彼れは死んだ、獄吏はその鎖を解き、 外に處もあらうに、 窖《あなぐら》の冷い土の中に淺い穴を掘つた。 私は其時|情《なさけ》にせめては彼れの屍を 日光《ひかげ》の射す土の中に埋めてと 彼等に願つた──けれどそれは愚かな願であつた。 けれど其時私の胸の中には 彼れのやうな自由な魂はたとへ死んでも その獄舍に休むものではないと思つた。 無駄《むだ》な願ひをしたことは口惜《くや》しい── 彼等は冷やかに笑つて弟を埋め 我々が愛した彼れの死骸は 平たい芝生もない土で掩はれ、 彼れを繋いだ鎖をその上に横へた。 あゝ無慘な最後を遂げた者にはそれがふさはしい墓標《はかいし》なのか!   Ⅷ けれど生れてから わが家の花とめでられた弟の顏は 母のおもかげをやどし 嬰兒《みどりご》のやうに愛せられ 道のために死んだ父の思ひの種となつてゐた。 私が最後に心を注いだ末の弟は 今よりは苦しみが薄らいで いつかは自由の身となるために 惜くもない生命を長らへたが、 自然の心か、また氣を張つてゐたためか── 疲れずにゐたその末の弟も 今は打撃を受けて、 日々に幹の衰へる木のやうに窶れた。 あゝ、人間の靈魂《たましひ》が、 どんな形でも、どんな方法でも 飛び去るのを見るのは恐ろしい。 私は人の魂が赤い血に塗れて突き出てゐるのや、 また人の魂が荒れ狂ふ大海原《おほうなばら》で 痙攣《けいれん》を起して四肢《てあし》を動かせてゐるのを見たことがあつた。 私はまた病床で氣息《いき》の絶えようとしてゐる者が 自分から作つた罪の怖ろしさの餘り狂亂してゐるのを見たこともある。 けれどこれらは恐怖の有樣《ありさま》だ── 私の弟のは恐れの混《まじ》らない悲慘な光景だ── 彼れは徐ろに確かに窶《やつ》れて、 靜かに、衰へ、いぢらしく弱り、 涙もなく、けれどやさしく──親切に 後に遺つた人のために歎いた。 その間彼れの頬は紅味を帶び 死を嘲るやうに思はれた。 けれどその顏色も 消えゆく虹と褪せ── 暗い獄舍を照すほどに その眼は明《あかる》く輝いた。 天命を待たないで死んでゆく 悲しい運命を呪ふこともなく、また歎く言葉もなく 來るべき幸福の日もあると 私の心を勵ますために 僅かの希望を口にしたにすぎなかつた、 私は無言の中に心が滅入つたからだ── すべての失つた悲しみの中で、弟の死にまさるものは何があらう。 それから彼れは衰へた體から 出る歎息《ためいき》を抑へようとしてゐた、 呼吸はゆるやかに衰へ、次第に少くなつた。 耳を傾けても終に聞えなくなつた。 私は恐ろしさの餘り狂つて大聲で呼んだ。 呼んでも望みはないけれど 怖ろしさに抑へることは叶はなかつた。 私は呼んだ、すると何か聲が聞えたやうに思はれた── それは私の鎖が地にふれた音だ、 飛んで彼れの所へ行つたが、──彼れはもう事切れてゐて 唯一人私はこの暗い獄舍で動いてゐたのだ。 唯生きてゐるのみだ──獄舍の濕つた空氣の中で、 呪はしく呼吸するのみだ。 この身と死との間の 最後の、しかも唯一つの親しいつなぎで 堪へてゆく一族に私を繋いだ絆《きづな》は この不幸な牢獄の中で斷たれてしまつた。 一人は地上で、一人は地下で── あゝわたしの弟は──二人共息が絶えた。 私は靜かに横はる手をとつた、 あゝ! 私の手も亦氷のやうに冷《つめた》かつた。 私は動いて爭ふ力もなかつたが、 まだ生きてゐることは感じた── 愛するものが再び甦《よみがへ》らないことを知つた時、 狂亂の情は胸に迫つた。 私はこの世に何の望みもないのに 死ぬることの出來ない理由は 私には分らない── けれど信仰のみは私の自殺を禁《とど》めた。   Ⅸ それから私の身の上にどんなことが降りかゝつて來たかは 私は知らぬ──否少しも知らない── 先づ光も消えて、空氣もなくなり、 それから闇《やみ》もまた消え失せた。 何の思ひもなく、感じもなく──すべては無であつた── 私は獄舍を疊んだ石壁の中に冷い石のやうに立ち、 霧に包まれた木のない崖のやうに 私の見たものは我ながら分らぬほどであつた。 何故なればすべては空しく、物凄く、灰色で、 夜かと思へば夜でもなく、晝かと思へば晝でもなく、 私の重い眼には憎むべき 牢獄の光でもなかつた。 けれど何もない一面の空間は 固定の所にも一定の所はなく、 星もなく、地球もなく、時もなく 阻碍《さまたげ》もなく、變化もなく、善もなく、罪もなく、 たゞ沈默と、生でもなく死でもない 動かぬ呼吸があるのみだ。 それは盲目で際涯《はて》もなく、無言で動かぬ 波のない海にも似てゐる。   Ⅹ 一|條《すぢ》の光りは私の頭の上に輝いた── それは鳥の囀る喜びの歌であつた。 暫く歌をやめたが、また歌ひ始めた、 それほど美しい歌は今まで聞いたことがなかつた。 私は聞いた嬉しさに 眼も思はぬ驚きに涙も溢れる思ひがして。 その瞬間は わが身の不幸を忘れてゐた。 けれどやがて徐ろに はかない幻からさめると 獄舍の壁や床は もとのやうに私の廻りに迫り かすかな日光《ひかげ》は もとのやうに匐つてゐた。 けれどその鳥は壁の隙間に 前のやうにとどまつて、愛らしく、 樹の上に在るよりも馴れて見えた。 靑い翼をした愛らしい鳥は その歌にかず/\の思ひをこめて 私に物語るやうに思はれた! こんな鳥は今まで見たことがなかつたが これから後も見ることはないだらう。 その鳥は友がないやうに思はれたが、 そんなに寂しいさまも見せなかつた。 この世に生けるもので私の身を再び愛するものゝないときに、 この鳥は私を愛するために來たやうに思はれた。 そしてこの獄舍の傍にとまつて私を慰め、 老へる力と感ずる力を甦へらせてくれた。 あの鳥は近頃放たれたのであらうか、 また籠を破つてこの獄舍の籠に來たものだらうか、 けれど囚はれの身の苦しみをよく知つてゐるので なつかしい鳥よ! 私はお前が囚はれの身となることを願はない! またお前は樂園から鳥の姿に身を裝うて 訪れ來たものだらうか? あゝ──私は泣いたり笑つたりしてゐるときのことだから── 天よ、こんな空想を宥してくれ! 弟の靈《たましひ》が天よりこゝに來るかとも 時々はおもふほどだから。 けれどもその鳥は終に飛び去つたので それはこの世の死すべき鳥であつた── 何故なればもし弟の靈《たましひ》がこゝに來たものならば 私を置いて飛び去つて前にもまさる淋しさを與へてくれることはないのだ── 經帷子《きやうかたびら》に包まれた亡骸《むくろ》のやうに空しく 空は靑々と晴れわたり 地上は樂しげに見えるとき、 何の用もないのに一片の雲が現はれて 輝いた陽《ひ》に 大氣の眉を顰めるやうな淋しさであつた。   ⅩⅠ 私の運命の車が廻つてゐるうちに 獄吏は慈悲深くなつて來た、 私はその理由が分らない、 彼等はいつも悲慘の光景《ありさま》を見てゐるのに 憐憫《あはれみ》を私に與へた── 私が斷《き》つた鎖さへ結ばないでそのまゝにしておいたので 私は獄舍《ごくや》の房《へや》をあちこちと 上に下に、また横に 殘る隈なく歩くこともゆるされ、 一つ一つの圓柱をめぐり 歩み始めた所に歸るのも自由であつた。 たゞ盛り土もない弟の墓は 歩むことを避けた。 もし不注意に私の足が 弟等の哀れな墓を汚したと思つたときには 私の呼吸は迫つて喘ぎ うち碎かれた心は暗くなつて病むやうに思はれたから。   ⅩⅡ 私は獄舍の壁に攀ぢ登るために足場を作つた、 けれどそれは逃れるためではない、 人の姿をしたもので私を愛したものは すべてみな葬られたから、逃げたくもない。 あゝそれからはこの世の中も私には廣い獄舍に思はれた。 子もなく、親もなく、親類《みより》もなく、 不幸を共にする友もなかつた。 私はそれを思つて喜んだ、 それらのことを思へば私の心は狂ふから。 けれど私は物好みに 横木をわたした窓に攀ぢ登り 落着いた眼でさも戀しげに 今一度高い山々をうち眺めた。   ⅩⅢ 私は山また山を眺めたが、それは昔のまゝで その光景《かたち》は私のやうに變つてゐなかつた。 山の頂きには千古の雪を白く冠《かむ》り── 麓には湖が廣く長く横つてゐた。 またローン河の靑い流れは溢れ 穿たれた巖や折れた樹の上を 矢のやうに激しく迸る音も聞えた。 また遙かに白堊《しらかべ》の市街《まち》や 白帆の飛ぶやうに走るのも見えた。 また小さな島が まのあたり微笑んでゐるのは 私の眼にすぐ見える唯一の眺めであつた。 小さな綠の島で 私の獄房《へや》よりは廣くはないが なほ三本の樹は高く聳え 山颪《やまおろし》はそよそよと吹いて 島のめぐりは波をよせ、 色は美しく匂ひはやさしく 若やいだ花は咲き亂れてゐる。 魚は城壁の廻りを泳ぎ みな樂しさうに躍つてゐる。 鷲は吹く風に乘つて舞ひ 私が見たときほどに そんなに迅く飛んだことはないだらう。 そのとき私の眼には新しい涙が湧き出て なまなかに鎖を離れて窓から眺めたことに胸を痛めた── 私は足場を降りると 暗い獄舍は重荷のやうに わが身の上に落ちて來た、 それは生かして置きたく思ふ人を 新墓に埋めるかのやうに思はれた── 然かも窓を眺めて惱むこの眼には 闇黑な獄舍のなかに慰めを求める必要があつた。   ⅩⅣ 幾日、幾月、幾年經つたか── 私は算へもせず、筆にもかきとめなかつた。 私は伏した眼をあげて 物憂い塵を拂ふ希望《のぞみ》もなかつた。 けれど終に私を釋《と》いてくれる人が現はれた。 私はその理由《わけ》を問はず、何處に行くかを顧みなかつた。 身を繋がれるのも繋がれないのも 今の私にはおなじで 絶望を憧れるやうにさへなつた[#「なつた」は底本では「なかつた」]のだから。 かくて終に獄吏が 私の手枷《てかせ》足枷《あしかせ》を悉く解いたとき この重い城壁は 私の隱れ家──私のみの隱れ家となつた! その時かの獄吏はこの神々しい家から 私を去らしめるやうに思はれた。 私は蜘蛛と交りを結び 蜘蛛が澁面《しぶづら》に仕事をするのをいつも見守つたり、 月光《つきかげ》の下に戲れ遊ぶ※[#「鼬」の「由」に代えて「奚」、第4水準2-94-69、鼷]鼠《こねずみ》を見た、 私はこの獄舍を愛することは何で彼等に劣らう? 我々は皆一つの所に住む友で 私は彼等の王として 彼等の生命を支配する力をもちながら── 不思議にも、我々は平和に暮すことを知つてゐた! 私はこの鎖と既に友となり、 交ることもながいので この境遇に深く馴れてしまつた。 獄舍の苦しみを味つた私は、自由の身となつたときは嘆息を洩して獄舍を去つた。 [#ここから5字下げ] 註。バイロンが永久に英國を去つてからまもなく一八一六年の六月に瑞西に滯在してゐた。その時シエリーと一緒にヂエネヴア湖に船を泛べたとき、湖畔の「シヨンの城砦」に深大な感銘を受け、暴風で湖畔の村に二日間滯在してゐたときにこの詩を作つた。 この城砦は十三世紀の頃昔からあつた砦をサヴオイの領主が城砦に作り改へたもので、ヂエネヴアの志士ボニヴァールはサヴオイ公の横暴に烈しく反抗したゝめ一五三○年から六年の間この城砦に幽閉せられる所となつた。バイロンがこの詩を書いた時にはボニヴァールのことは少しも知らないので、唯この城牢の物凄い樣子を見て、強い想像力を以て囚人の辛酸を描き出したのであつた。後になつてボニヴァールの事蹟を聞き、初めに掲げた「シヨン讃頌」といふ一篇の美しい詩を作つてボニヴァールに捧げた。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]——了── 底本:「泰西名詩選集バイロン詩集」新潮社 大正十三年 五月廿三日印刷 大正十三年 五月廿八日發行 大正十四年十二月廿八日十版 作:バイロン卿 George Gordon, Lord Byron (1788-1824) 訳:幡谷正雄(1897-1933) 入力:osawa氏@物語倶楽部、天城麗 校正:天城麗 ブログ:バイロン詩集 http://byron.seesaa.net/ ※記号とか書式とか青空文庫ぽいですが、青空文庫(団体)とは関係ありません。 入力者メモ: 2007-08-17 内容を見る限り泰西名詩選集版(1924)に手を入れたものが新潮文庫版(1933)であろうと思われるので、osawa氏@物語倶楽部入力の新潮文庫版テキストをベースに、主に漢字/かなの違い、ルビの有無、誤入力とみられるものに手を入れ、泰西名詩選集版にした。『シヨンの囚人』のみ新潮文庫版には収録されていない。 旧字体は青空文庫の校閲君(http://www.aozora.gr.jp/tools/kouetsukun/online_kouetsukun.html)でチェックした。 印刷による文字の欠落と思われるものは新潮文庫版テキストで埋め、誤りと思われる点は原詩を参照した。 『ウォ−タールーの前夜』『お前の唄は悲しい』『ギリシヤの島々』では訳注が()で付されていたが、前半にならい、番号を振って後ろへ回した。 底本: 「 『ウォ−タールーの前夜』   一 ベルギイの都(ブラッセル)には   三 父を倒して(彼の父は一八〇五年奈翁と戰つてイエナで戰死した)血潮の滴るまゝ柩車に乘せた   六 荒く聲高くカメロン(強兵を以て名高いスコットランドの舊藩の名)の兵の鬨《とき》の聲は起り、 ロキール(カメロン藩の領主の庄の名)の鯨波《ときのこゑ》は、アルビン(スコットランドのこと)の山々に響き   七 アーデン(彿白の境にある)の森は人々の頭の上に綠の葉をそよがせ 『お前の唄は悲しい』 濕つぽいシロッコの風(地中海を吹き荒む熱風)を氣にしなさいますな。 あのアリオストー(イタリーの詩人)の語りました 美しいオリンピアの悲しい戀の物語(オルランド・フリオーソの中にある)を致しませう。 『ギリシヤの島々』   二 カイオス(ホーマーの生地)とテオス(アナクレオンの生地)の詩人、   四 王(ペルシヤ王ザークシーズ)は海より生れたサラミス灣(ギリシヤの艦隊がペルシヤ艦隊を敗つた所)を見渡す   七 三百人の中(スパルタ軍はレオニアダス王と共にサーモピリイで倒れた)唯三人を與へてくれ!   一〇 ピリックの方陣(エピラスの王ピラスが作つた)はどこにあらう? 汝等はカドマス(古代テーベの創建者でギリシヤ人に文字の使用を敎へた)の與へた文字を有つてゐる——   一一 彼れは仕へた——然しポリクラテス(サモスの暴君)に仕へたのだ!   一二 その暴君はミルテアデース(マラトーンの勇將ミルテアデースの叔父で正しい統治者であつた)だ!   一三 スリ(アルバニアの山地)の巖や、パルガ(アルバニアの港)の海岸には ドリア(ギリシヤの先祖である有力な人種)の母の血を引く   一六 スニアム(アテイカの東南端にあつて、海の見える所にアテネの殿堂があつた)の大理石の絶壁の上に私を置け、 」 『ドンナ・ジュリアの手紙』は「終わったあとにまだ1ページ分ある」妙な状態であったのを、英詩を参照して「風の吹く方に波がうねるやうに」のあとに「妾の血はまだ妾の魂の定めた所へ流れてゐます、〜妾の不幸はまだこれで盡きたのではありません。」を入れた。 底本: 「 妾の心はほんとに弱いのでした、今もなほさうでございます、 けれど亂れた心を取り直すことは出來ると思ひます、 風の吹く方に波がうねるやうに もし悲しみが妾を殺してくれましたなら 妾は今迄生きてはゐなかつたでせうに、 自ら好んで死を求めるやうな不幸な人には死は嫌つて避けるものです、 この最後のお訣れの言葉を交した後も生き存《なが》らへて 生命の終るまで、あなた樣を愛し、あなた樣のために祈ります。 [#地から2字上げ]——第一齣第百九十二章より第百九十七章まで—— 妾の血はまだ妾の魂の定めた所へ流れてゐます、 妾の心は女々しいので、あなた樣御一人を氣の狂ふほど焦れて忘れることが出來ません、 たとへどんなに磁石《じしゃく》を振りましても その針はいつも北を指しますやうに、 妾がこれと定めた方には 妾の切な心は慕ひよるのでございます。 妾はもはやこの上申しあげることはございませんけれど、 未《いま》だにこの手紙を封ずることを躊躇してゐます、 しかし私はなすべきことは十分致します 妾の不幸はまだこれで盡きたのではありません。 」 縦書き表示時に無理があるので、「ワ゛」を「ヴァ」に置換した。例外処理はないので、戻したい場合は逆で一括置換可。 2007-08-31 校正。誤入力を修正。 2007-09-01 校正。誤入力を修正。 底本の誤りと思われる箇所と印刷欠けの修正は[#「」は底本では「」]で注記した。底本と意味が変わる箇所は英詩で確認した。 「唇」と「脣」が混在しているが、底本に従った。 「砂漠」と「沙漠」が混在しているが、底本に従った。 「勝利」と「捷利」が混在しているが、底本に従った。 「糸杉」と「絲杉」が混在しているが、底本に従った。 「ナイテインゲール」と「ナイチンゲイル」が混在しているが、底本に従った。 「つつ/ただ」などゝゞを用いていない箇所があるが、底本に従った。 「半/判/送/咲/朕/消/悦/鋭/閲/益/溢/尚/猶/遂/平/評」など上開きの二点(ソ)が下開き(八)になっているものがあったが、そのままにした。 「近/遠/進/返/逝/途/道/巡/遊/迅/追/逃/遂/迫/避/遇」などはすべて「二点しんにょう」だが、そのままにした。 「羽/翼/翔/翁/弱」はすべて「羽に代えて(翊−立)」だが、そのままにした。 「温」はすべて「さんずい+囚/皿」、溫だが、そのままにした。 「頬」はすべて「夾+頁」、第3水準1-93-90、頰だが、そのままにした。 「晴」はすべて「日+靑」だが、そのままにした。 「清」はすべて「さんずい+靑」だが、そのままにした。 「情」はすべて「りっしんべん+靑」だが、そのままにした。 「憎」はすべて「りっしんへん+曾」だが、そのままにした。 「贈」はすべて「貝+曾」だが、そのままにした。 「海」はすべて「さんずい+誨のつくり」だが、そのままにした。 「悔」はすべて「りっしんべん+誨のつくり」だが、そのままにした。 「記/配/起/包/抱/泡/砲」はすべて「記/配/起/包/抱/泡/砲の己に代えて巳」だが、そのままにした。 「絶」はすべて「糸へん+刀/巴」だが、そのままにした。 「戻/涙」はすべて「戻/涙の大に代えて犬」だが、そのままにした。 「飾/飼」はすべて「飾/飼の食に代えて飮のへん」だが、そのままにした。 「飽」はすべて「飮のへん+(勹<巳)」だが、そのままにした。 「空」はすべて「穴/工」だが、そのままにした。 「尊」はすべて「奠の大に代えて寸」だが、そのままにした。 「祈/福/祖」はすべて「祈/福/祖のしめすへんに代えて示」だが、そのままにした。 「強」はすべて「強のムに代えて口」だが、そのままにした。 「廻」はすべて「廻の回に代えて囘」だが、そのままにした。 「煙」はすべて「煙の(価−にんべん)に代えて西」だが、そのままにした。 「既」はすべて「既のムに代えてヒ」だが、そのままにした。 「鎖/巣のツメは巛」だが、そのままにした。 閑の時 HOURS OF IDLENESS. 若い乙女の死を悼む——作者の從妹で、非常に親しかつた女—— ON THE DEATH OF A YOUNG LADY, COUSIN TO THE AUTHOR, AND VERY DEAR TO HIM. E——に TO E---- D——に TO D---- 友の碑銘《いしぶみ》 EPITAPH ON A BELOVED FRIEND. ニューステッド僧院を去るときに ON LEAVING NEWSTEAD ABBEY. 捨て給へ LINES WRITTEN IN "LETTERS OF AN ITALIAN NUN AND AN ENGLISH GENTLEMAN, BY J. J. ROUSSEAU; FOUNDED ON FACTS." ANSWER TO THE FOREGOING, ADDRESSED TO MISS----. アドリアンの臨終にその靈に告げる詞 ADRIAN'S ADDRESS TO HIS SOUL WHEN DYING. カタラスからレスビアに TRANSLATION FROM CATULLUS. AD LESBIAM. ティバラスに倣つて IMITATION OF TIBULLUS. カタラスから倣つて——エレンに與へる—— IMITATED FROM CATULLUS. TO ELLEN. アナクレオンの戀歌 TRANSLATION FROM ANACREON. エンマに TO EMMA. M.S.Gに TO M. S. G. (Whene'er ...) カロライン孃に TO CAROLINE. (Think'st thou ...) カロライン孃に TO CAROLINE. (When I hear you ...) カロライン孃に TO CAROLINE. (Oh! when shall ...) ある女に——カモーエンスの詩を添へて—— STANZAS TO A LADY, WITH THE POEMS OF CAMO?NS. 戀の始めての接吻 THE FIRST KISS OF LOVE. 斷章——チヤワース孃が結婚して間もなく作つた詩—— FRAGMENT. WRITTEN SHORTLY AFTER THE MARRIAGE OF MISS CHAWORTH. M——に TO M---- 女に TO WOMAN. M.S.Gに TO M. S. G. (When I dream ...) メリーに——彼女の寫眞を受取つて—— TO MARY, ON RECEIVING HER PICTURE. レスビアに TO LESBIA! 若い令孃に─作者が庭園で拳銃を發つてゐた時に、近くを通つてゐた二人の令孃は、 彈丸がかすめて行く音を聞いて驚いた、翌朝その一人の令孃(ハウスン孃)へこの歌を贈つた。 LINES ADDRESSED TO A YOUNG LADY. As the Author was discharging his Pistols in a Garden, Two Ladies passing near the spot were alarmed by the sound of a Bullet hissing near them, to one of whom the following stanzas were addressed the next morning. 愛の最後の告別《わかれ》 LOVE'S LAST ADIEU. マリオンに TO MARION. ある女に─彼女は自分の捲髮に私の髮を編んで送り、一二月の夜の庭園で逢引しようと言つて來た。 TO A LADY WHO PRESENTED TO THE AUTHOR A LOCK OF HAIR BRAIDED WITH HIS OWN, AND APPOINTED A NIGHT IN DECEMBER TO MEET HIM IN THE GARDEN. メディアの歌 TRANSLATION FROM THE "MEDEA" OF EURIPIDES. Ll. 627-660. 美しいクェイカーの娘に TO A BEAUTIFUL QUAKER. 涙 THE TEAR. 婀娜者の無情を歎くピゴットの詩に答へて REPLY TO SOME VERSES OF J. M. B. PIGOT, ESQ., ON THE CRUELTY OF HIS MISTRESS. エリザに TO ELIZA. 天鵝絨の紐に捲髮を結んで贈つてくれた女に TO A LADY WHO PRESENTED THE AUTHOR WITH THE VELVET BAND WHICH BOUND HER TRESSES. おもひで REMEMBRANCE. マスターズ夫人に TO A LADY. 私が無邪氣な子供であつたなら I WOULD I WERE A CARELESS CHILD. 折々の歌 POEMS, ON VARIOUS OCCASIONS. アンに TO ANNE. (Oh, Anne, ...) 二人の別れたとき WHEN WE TWO PARTED. まあ、あなたは幸福だ WELL! THOU ART HAPPY. アゼンスの娘よ、別れる前に MAID OF ATHENS, ERE WE PART. ギリシヤの戀愛詩から TRANSLATION OF THE ROMAIC SONG, (I enter ...) わかれ ON PARTING. 汝は若く麗しくて死んだ AND THOU ART DEAD, AS YOUNG AND FAIR. ギリシヤの戀愛詩から TRANSLATION OF A ROMAIC LOVE SONG. お前は僞らないが變り易い THOU ART NOT FALSE, BUT THOU ART FICKLE. 戀の始めを問はれたときに ON BEING ASKED WHAT WAS THE "ORIGIN OF LOVE." いつまでも戀が出來たら STANZAS. すべては戀のため——フローレンスとピザとの間で—— STANZAS WRITTEN ON THE ROAD BETWEEN FLORENCE AND PISA. 印度の曲に合せた歌 STANZAS TO A HINDOO AIR. 二人はもはやさ迷ふまい SO WE'LL GO NO MORE A-ROVING. 歌詞《うたことば》 STANZAS FOR MUSIC. ナポレオンの訣別 NAPOLEON'S FAREWELL. 妻と別れるとき FARE THEE WELL. ヘブライ調 HEBREW MELODIES. 彼女は美しく歩む SHE WALKS IN BEAUTY. あゝ、彼等のために泣け OH! WEEP FOR THOSE. 私の魂は暗い MY SOUL IS DARK. 私はお前の泣くのを見た I SAW THEE WEEP. ヘロッドの悲歎 HEROD'S LAMENT FOR MARIAMNE. チャイルド・ハロルドの巡遊 CHILDE HAROLD'S PILGRIMAGE. アバイドスの花嫁 THE BRIDE OF ABYDOS. 海賊 THE CORSAIR. パリシナ姫 PARISINA. サアダナペイラス王 SARDANAPALUS. ベツポー BEPPO. ドン・ジュアン DON JUAN. シヨンの囚人 THE PRISONER OF CHILLON. シヨン讃頌 SONNET ON CHILLON.