バイロン伝 Byron ジョン・ニコル 三好十郎訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)巧《うま》くはないが |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)持つてゐた|叉把《さすまた》か何かで [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)[#改ページ] /\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号) (例)見る/\間に使ひ果してしまつた。 *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- 序 第一章 血統と家族 第二章 幼時及び學校生活 第三章 ケンブリッヂ 第四章 旅行時代 第五章 ロンドン生活 第六章 結婚 第七章 スヰス──ヴェニス 第八章 ラヴェンナ 第九章 ピザ──ジェノア 第十章 ギリシヤへ──死 第十一章 結論   附録 バイロン年表 [#改ページ] 序  バイロンは、英國近代が産出した、最も偉大なる性格の一つである。そして、偉大なる性格は、常に或る程度までは、一個の謎である。しかし、と言ふよりも、それ故に、バイロンに就いては、西洋各國に於て、種々な方面からの多樣な研究が遂げられてゐる。日本に於ても、これまで各種の紹介や飜譯その他で、バイロンといふ詩人が、どんな樣な傾向と性絡を持つた個性であるかといふ事は、既に漠然とではあるが理解されてゐる。だが、バイロンその人の一生の姿なり、一個の近代人としての彼が持つてゐた纖細な神經や、憂鬱や、苦惱や、又それらが形作つてゐた彼の生涯のこまやかな起伏に至つては、まだ全然日本の多數の人には了解されてゐないかに見える。で、それらを、ほんの少しでも解つて貰ひたいために、私のこの小さな努力は拂はれる。  このバイロン傳は、主として、ロンドン・マクミラン社出版の『英國文豪傳集』中に收められてゐる『バイロン』── "Byron" (English Men of Letters); by John Nichol. Macmillan and Co. ──の一九〇九年版袖珍本に據つた。著者のジョン・ニコル(一八三三—一八九四)は、スコットランドに生れ、オックスフォードに學び、後グラスゴー大學の英文學教授になつた人である。『バイロン傳』以外にも『ロバート・バーンズ』、『カーライル』、『アメリカ文學』その他の著書がある。批評家として、及び傳記者として、盛名のあつたのは言ふまでも無い。特に『バイロン傳』は、その考證の廣さと、洞察の深さと、觀察の公平さとに依つて、數あるバイロン傳中に於ける白眉とされるものである。又、もう一つ見落してならぬ事がある。それは、ニコルは『バイロン傳』に於て、バイロンを惡魔に近いもの、又は英雄に近いものとして扱つてゐない點である。彼のバイロンは、徹頭徹尾「人間バイロン」である、そのために、バイロンを惡魔に近いもの、又は英雄に近いものとして觀た數多のバイロン傳記者の陷つてゐる誇張やセンティメンタリズムに陷つてゐない。  しかし、私のこの『バイロン傳』は、ニコルの逐字譯では無い。それに所に依つては、不必要と思はれる所を省略し、不備だと思はれる個所には追加をほどこした。又、他の參考書を引用もした。これは、英國傳記者の書いた英國人の傳記を、日本人に十分了解させるためには是非の無い事である。それに、私の省略・追加・引用等は少くとも「日本人の讀むバイロン傳」としては、原書の價値を引き下げてはゐないと思ふ。  ともあれ、不備ながら、これだけのバイロン傳を紹介し得た事に就いて、私は非常な喜びを持つ。  最後に、この評傳を出版するために、種々親切な指導と教示とを與へて下さつた恩師、吉江喬松・日高只一兩先生に對して、心からの感謝の意を表したい。 [#地付き]譯者 [#改ページ] 第一章 血統と家族  英國の十七世紀から十八世紀までを、文學史では、大體に於て擬古典主義の時代と呼ぶ。擬古典主義と言ふ言葉が正確に當時の文學の傾向を言ひ盡してゐるかどうかは問題であるが、少くとも其處には、特にそれ以外の言葉で呼ばなければならぬやうな新鮮な文藝の精神が見られなかつた事は事實である。  文學は主として客間のものであつた。客間の産物であり、同時に客間の裝飾品であり、パスタイムであつた。温泉場の娯樂品であつた。社交界の雜談の種であつた。從つて、生々とした文藝の精神は姿を隱してしまつて、言つて見れば戲作者風のくすぐりや、皮肉や、諧謔やが專ら行はれた。それ故に、この時代の文學が若し面白いと思はれる場合には、文藝と當時の社會状態とを關係させて、その關係の上に於て面白いのである。文藝それ自身には比較的、傑出した作品も、興味ある作品も餘り見出されない。徒らに訓話註釋に走つた、若しくは諷刺教訓を事とした作品が多い。  しかしかくの如き状態は、それ自身の持つてゐる性質の上から、永續すべき傾向では無い。十八世紀後半に起つた大陸の革命的な學術文藝──ドイツの「大暴風雨時代」、フランスのユーゴー作『エルナニ』の勝利に依つて刺戟されたロマンティシズム運動──の潮流は次第に英國の擬古典主義をおびやかし始めた。其處にフランス革命が起つた。この大動亂の海を越えての影響は、社會的にも文藝的にも、英國を襲つた。今迄消極的な牙城にたてこもつてゐた舊文藝も遂にその勢力を失墜せざるを得なくなつた。  新鮮な、自發的な、荒々しいロマンティシズムの傾向が、今迄の鬱屈を突き破つて現はれた。ウォーズウォースが出た。コールリッヂが姿を見せた。サウヂイが現はれた。シェリイが出た。そしてバイロンが生れた。  しかもウォーズウォースは「自然」へ去つた。バイロンのみが「暴風」の中へ身ををどらせて突入した。 「バイロン!」  この名は十九世紀の世界文學史の中で、最も輝かしい名の一つである。この名ほど度々惡意と同時に善意を以て人々の口にされた名は無かつた。或る者は、この名を最大の憎惡と嫌惡を以てロにした。或る者は最高の崇拜と憧憬とを以て口にした。あらゆる批評家等の彼に對する批評は極端に褒貶相反した。サウヂイは、彼のことを「惡の權化」と言つた。又さるアメリカ[#「アメリカ」は底本では「アリメカ」]の評論家も、これと同意見を發表してゐる。その同じ彼が、グイッチョリ伯爵夫人に取つては大天使であつたのだ。カーライルは、「彼は一人の陰氣な伊達者に過ぎなかつた」と言つてゐる。しかもゲーテは、彼を目してシェクスピヤ以來の英國第一の詩人だと言つてゐる。フランス、イタリー、スペイン等の第一流の批評家連もゲーテと同意見であつた。  しかし、そのやうな論者の總てが、次の一點に於ては一致した意見を持つてゐた。即ち「バイロンは、自分の詩に對して誇りを持つてゐたのと同時に、自分の家系に對して誇りを持つてゐた。そして彼の性質にある善と惡は、祖先から受繼いだものであつて、先天的なものであつた」と言ふことである。それ故に、彼の家系を調べることも、あながち無駄なことではあるまい。  傳説に、古代ノールウェー人ブーラン族が、その故郷スカンヂナヴィアから移住して、一部はノルマンディに落着き、一部はリヴォニアに住居を定めたと言ふ物語がある。その後者、即ちリヴォニアに住居を定めたブーラン族に屬する者で、マーシャル・ド・ブーランと言ふ勇者がゐた。この人は當時まだ極く極く小さかつたロシアに對して殆んど絶對の支配權を持つてゐた。ところが、このブーラン家の一族の内の二人の者が、英王ヰリアム一世に從つて英國に定住した。  この二人の者と言ふのは、エルネスト・ド・ブーランと、ラルフ・ド・ブーランであつた。後者のラルフが、詩人バイロンの先祖である。このラルフの事は、英國最初の權威ある記録であるところのドゥムスディ紀に記載してある。それによると、ラルフはノッティンガム州とダービーとに領地を持つてゐたと言ふ。  ラルフの息子のヒューはホレスタン城の城主であつた。ヒューの息子は、矢張りその名をヒューと言つて、これは僧侶になつた。その息子のロヂャー卿は、自分の領土を、スヰンスヘッドの僧侶達に與へてゐる。ロヂャーの息子ロバートは、リチャード・クレイトン卿の後繼者のセシリヤ姫と結婚した。その時が、ヘンリー二世(一一五五—一一八九)の時代である。この時から、ヘンリー八世の朝までバイロン家は、ランカシャイアに住んでゐた。  後年、詩人バイロンは、「自分の祖先の幾人かはたしかに十字軍に加つた」と言つてゐる。この事はいかにも有り得ることではあるが、眞實のところは分明しない。  で、ロバートの次は矢張りロバートと言ひ、その子をジョンと言つた。このジョンはエドワード一世の朝にヨークの知事をやつてゐた。ジョンの二子、一人をジョンと言ひ、一人をリチャード[#「リチャード」は底本では「リチ ード」]と言つた。ジョンの方はカレイの包圍戰に參加して、その戰功に依つてエドワード三世から勳爵士を授けられた。一方リチャードの方には、これもジョンと言ふ息子がゐて、この方のジョンもヘンリー五世のために勳爵士を賜つた。ジョンの次をニコラスと言ひ、その次をジョン・バイロンと言ふ。それから二代を經てジョン(一六五二年パリに歿す)と言ふのが又ゐるが、この人は一六四三年ニューバリー、及びウォーラーの戰爭その他の戰功により、同年十月二十四日にロックディルの男爵を授けられて、此處に始めてバイロン家が貴族になつた。つまりこの人が最初のバイロン卿である。  第二番目のバイロン卿を、リチャード(一六〇五—一六七九)と言ひ、この人はネワルクの戰爭に戰功があつた。次のヰリアム(一六九五歿)はチャウォース子爵の娘エリザベスと結婚した。この人は、あんまり巧《うま》くはないが詩を作つた。その次のヰリアム(一六六九—一七三六)即ち第四番目のバイロン卿には、數人の子供があつた。長子を同じくヰリアム(一七二二—一七九八)と言ひ、これが第五番目のバイロン卿である。  このヰリアムは最初海軍に加はつたが、後軍職を退いた。一七六五年、丁度アメリカ印紙條令が通過した年のこと、このヰリアムの身の上に一事件が起つた。  一月も末の頃、ポールモールに貴族の集會があつた、ヰリアムもまねかれてゐた。一座の中にチャウォースと言ふ人がゐた。この人はバイロン家の縁類にあたる人であつた。ところが食事の時に、ちよいとした事からヰリアムとチャウォースが口論を始めた。隨分はげしい口論であつたが、別に大した事とも思はれぬので同座の人々は餘り氣にかけてゐなかつた。然し歸りがけにこの二人が階段の所で再び出會つた。すると再び口論が始まつた。遂に空いた部屋で決鬪をやると言ふ事になつた。二人は一室の扉を閉め切つて決鬪した。ヰリアムの方が勝つて、チャウォースは致命傷を受けた。  ヰリアムはロンドン塔に幽閉された。裁判が開始されると、當時貴族の殺人事件は非常にめづらしかつたと見えて、入場劵が、六ギニヤづゝで賣買された程である。二日間の審理の末に、滿場一致を以て殺人罪が宣告された。ヰリアムは、貴族としての特權を以て辯疏をし、罰金を拂つて自由の身になつた。然し彼はそれ以來、以前の彼とは異つた人間になつた。世間からは「幽靈に憑かれた人」と言はれた。假名を使つては、此處彼處をうろつき歩いた。あらゆる人々の眼を避けて住んだ。家にゐれば常にピストルを射る練習をしてゐた。荒々しい陰慘な事のみがこの所謂「邪惡の殿樣」の日夜を滿した。或る時には馬丁を射殺して、自分の妻の乘つてゐる馬車の中にその死體を投げこんだりしたと言ふ。  このヰリアムには、イサベラといふ妹と、ジョン(一七二三—一七八六)といふ弟があつた。イサペラはカーリッスル卿に嫁した。その子カーリッスル卿は、後年詩人バイロンの後見人となつた人である。ジョンと言ふ弟は、少時より海軍に投じて、海軍大將となり、終生海に日を送つた。このジョンの一生は、實に、波瀾に滿ちたものであつた。一七四〇年のスペインとの海戰に出た時だつた。マヂェラン海峽に難破して、危く一命を拾つたあげく、パタゴニヤ人につかまつてチリーの首都セント・イヤゴーに二年間監禁された。  その間の種々の冒險に就いてはジョンは自身で旅行記を書いてゐる(一七六八年出版)。この旅行記はかなり立派なものである。一七六四年彼は「ドルフィン」と「タマール」と言ふ船に乘つて、探檢航海に出發した。そして種々の發見をして、地球を周航して歸つて來た。彼には「あらしのジャック」と言ふ綽名がついた。 「彼は海にゐて休息する事が出來なかつた。自分も陸にゐて休息を持たぬ」と詩人バイロンが、後年この自分の祖父のことを言つてゐる。  一七四八年にこのジョンは、コンーウォールの大地主のジョン・トレヴァニオンの娘と結婚した。そして三人の子供を持つた。長子をジョン・バイロン(一七五一—一七九一)と言ひ、これが即ち詩人バイロンの父である。ジョンはウェストミンスターで教育を受け、近衞の大尉になつた。ところがこの人は當時の人からは「氣ちがひジャック」と呼ばれてゐた位で、生來あまり善い性質を持つてゐなかつた。一七七八年に彼は、ホルダーネス伯爵の娘にあたるアメリア・ダーシイ(當時力ーマルセン侯爵の妻であつた)を誘惑して、これと密通した。そのために、いろんないざこざ[#「いざこざ」に傍点]が起つた。その果てが、二人は英國に居れなくなつて大陸の方へ出奔してしまつた。そして、一七七九年に、カーマルセン侯爵がアメリアを離縁したので、二人は正式に結婚した。ところが正式に結婚した後でも、ジョンの性質は元通りで、アメリアは慘めな生涯を送つた。そして、二人の娘を産んだ後、一七八四年に歿した。二人の娘の内の一人は幼にして死亡した。も一人はオーガスタと言つた。  アメリアが死ぬと、ジョン・バイロンは又直ぐに第二の妻を迎へた。ジョンは女を惹きつける美貌と魅力を持つてゐたのだ。第二の妻はガイトのカザリン・ゴルドン孃と言つた。彼女はヂェイムス一世の後裔であつて、アベルディーンシャイアにかなりの領地を持つてゐた。ところが、ジョンは例の通りの放蕩で、この第二の妻の領地をも、見る/\間に使ひ果してしまつた。  一七八六年に彼女はスコットランドを出發して、フランスへ行つた。そして次の年の末に英國に戻つて來た。そして一七八八年一月二十二日、ロンドンなるホーレス街で、子供を出産した。これが、第六番目のバイロン卿となつたヂョーヂ・ゴルドン、即ち詩人バイロンである。  その後間もなくして、父のジョンは、債鬼に責められてロンドンに居たゝまれなくなつてヴァレンシエンの方へ逃げて行つてしまつた。そして其處で一七九一年の八月に歿した。後に取り殘されたバイロン夫人と幼兒のゴルドンは、僅かに一年百五十ポンドの手當金を遺されたのみであつた。 第二章 幼時及び學校生活  それから間もなく、バイロン夫人は幼兒のゴルドンを伴つて、スコットランドへ行つた。そして其處にゐる親類の家へ暫く滯在してゐた後で、アベルディーンの或る小さな家に住むことになつた。それが一七九〇年のことである。  するとヴァレンシエンの方へ逃げてゐた父のジョンが其處へ戻つて來て、同居する事になつた。しかしジョンとその妻の激しい焦々しい氣性のために、この同居生活はうまく行かないで、遂に、別居しなくてはならぬやうになつた。そしてジョンは同じアベルディーン町の他の家の室を借りて其處に住んでゐた。しかし幾何も無くして再びフランスへ去つた。バイロン夫人は、この放蕩で金使ひの荒い夫がゐなくなつたので、少なからずほつ[#「ほつ」に傍点]とした。然しさすがに、ジョンがフランスで客死したと言ふ報知に接した時には、ひどく哭き悲しんだと言ふ。  彼女の性質には、傲慢な、衝動的な、わがまゝな點があつた。そればかりでは無い、ヒステリカルであつた。彼女はいつも自分の祖先の事や、自分の身分の事を誇つてゐた。彼女の愛も怒りも、ともに大袈裟であつた。彼女の心は、一時間といへども落着いてゐると言ふ事が無かつた。そして自分の夫のジョンを、半ば崇拜し、半ば憎んでゐた。彼女は自分の一人子のバイロンに對しても同樣であつて、舐めるやうに可愛がるかと思へば、その後で直ぐ叱りとばした。 「君のお母さんは馬鹿だね!」と、バイロンに向つて一學友が言つた事がある。するとバイロンは、彼獨特の調子で、悲しげに、 「僕もそれは知つてゐるさ」と答へた。  實にバイロン程立派な家系に生れた詩人は居ない。しかも又バイロン程惡い血統に生れついた詩人も居まい。  幼時のバイロンは、感情が激しくて、陰鬱な、權力嫌ひだつた。しかも一方、人の親切に對しては無條件に服すると言ふ性質があつた。この性質は、彼の一生を通じて續いたところのものである。  或る時の事だ。彼は着てゐる着物を汚した、それを見て彼の乳母が叱りつけた。すると幼いバイロンは、石のやうに默つたまゝ、その着物をびり/\と破つてしまつた。  すべてがそんな風であつたが、自分に親切にして呉れる人には柔順であつた。母の妹にあたるメイ・グレイと言ふ人がゐたが、この人はバイロンを可愛がつて呉れた。それで、この人の言ふ事はよくきいた。幼時に於ける彼の聖書に就いての、特に詩篇に就いての知識は、このメイ・グレイの教育に負ふ所が多かつた。當時バイロンは、宗教の事を根掘り葉掘り彼女に訊ねたと言ふ。  父も母も生きてゐたとは言ふものゝ、幼時のバイロンは、事實上に於ては孤兒であつた。それに天性の感情の激しさを祖光から受繼いでゐた。しかもそれのみでは無かつた。もう一つ彼には生涯つきまとつた重荷があつた。それは彼が跛者であつたと言ふ事である。バイロンは自分が跛者であると言ふ意識から生涯苦しめられた。そして彼の作品には、常に彼のこの意識が現はれてゐる。  性格に依つては、こんな事は何でも無いことである。ウォーター・スコットは跛者であつた。ミルトンは盲目であつた。しかもスコットの作品に、彼が跛者であつた事を推測させるやうな個所はいさゝかも無い。ミルトンの盲目も、傑れた諦らめの詩の主題にこそなれ、別にそれ以上には、作品の上に影を落してゐない。それがポープになるとさうは行かない。われ/\がポープを眞に理解するためには、彼が不具者であつた事を知つてゐなくてはならぬ。バイロンもこの點ではポープと同じである。  バイロンの跛者になつた原因は明瞭にわからない。出産の時か、極く幼い時に、どうかして脚をひどく折り曲げて、それが其儘になつたらしい。それを治療しようと思つて、深靴を穿かしたり、繃帶を卷いたり、その他いろ/\の手段が取られたが治らなかつた。反對に却つてひどくなつた。  自分が跛者であると言ふ意識は、彼には極く幼い頃からあつた。曾て、バイロンの乳母の友達が、バイロンの事を、 「何てこのお子は綺麗なお子だらう。しかしお可哀想にこんな脚をして」と言つた事がある。それを聞いた幼いバイロンは、眼を怒らし、子供用の鞭で、その女を撲りつけながら、 「その事を話すな」と叫んだ。  母自身、はげしい發作を起して、少年のバイロンが室内を笑ひながら逃げまはるのを掴[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]まへようとして、「お前は、ほんとにジョンのやうに惡い小犬だよ」と言ひ/\した。そして彼のことを「跛の餓鬼」と呼んだ。──このことはバイロンの作『造り變へられた不具者』の初めの場面にほのめかしてある。  彼は後年、他に盛名を歌はれてからも自分が跛者であると言ふ意識のために苦しみ續けた。彼はロンドンの乞食や街掃除人までが自分の跛を嘲つてゐるかのやうに想つた。舞踏を極端に忌み嫌つた。そして運動には水泳と乘馬を選んだ。水泳や乘馬では自分が跛であることが目立たないからであつた。死んでからまでも、自分の跛の足を人に見られるのを嫌つた。  一七九二年、即ち彼の五歳の時、バイロンはバワースと言ふ人の經營してゐる學校に入學させられた。然し其處では極く初歩の讀み書き位を習つたのみであつた。次に、彼は、熱心な怜悧な牧師のロスと言ふ人の手で教育された。この人からはローマ史の初歩を教はつた。バイロンはローマ史中でも特にレヂラス(Regillus)の戰ひのくだりには特別の興味をおぼえた。後年バイロンが成人して、タスカラムの山上に立つて、レヂラスの小さな圓い湖を見下しながら、當年の自分の幼い熱心さと、先生のロスの事を思ひ出してゐる。ロスの次には、パターソンと言ふ家庭教師の手にかゝつた。 「彼は、非常に眞面目な、沈鬱な、しかも親切な若者であつた。彼は、自分の家の靴職人の息子であつたが、立派な學者だつた。彼から私は公立學校へあがるまで、ラテン語を教はつた。公立學校で四年級まで進級した時に、伯父が死んだので私は英國へ呼び戻された」とバイロンが書いてゐる。  バイロンの少年期の學校時代に就いては、これ以上には殆んど何の記録も殘つてゐない。唯いろいろな斷片的なヒントから察するに、彼は、學術的な學科はあまり得手では無く、級中では劣等生の方だつたらしい。又別に優等生にならうと思ふ功名心も持つてゐなかつたらしい。然し、歴史や物語には著しい興味を持つてゐた。特に、『アラビヤ夜話』を耽讀した。彼は手習ひなぞは碌々しなかつた。數學は嫌つた。短氣で、冒險好きで、勝負事好きで、負けず嫌ひで、しかも情の深い、怒りつぽい性質のために、先生からも、學友達からも知られてゐた。  一七九四年に、第六番目のバイロン卿となるべき彼の從兄がコルシカの戰爭で戰死をした。そのために彼はバイロン卿の第二の後繼者となつたわけである。一七九七年のことだが、或る時、一友人が彼に向つてお世辭に、 「その内に君の演説を衆議院で聽けるわけだね」と言つた。するとバイロンは、 「衆議院で演説なぞしたくないよ。やるんだつたら貴族院でやるさ」と言つた。  その言が的中して、その次の年に、第五世のバイロン卿であるヰリアムが死んで、バイロンが第六世のバイロン卿になつた。その時バイロンは餘程嬉しかつたものと見えて、口を利く事も出來なくなつてワツと泣き出した。  この時代にバイロンは、その年下の從妹なるマリー・ダフと戀に落ちた。バイロン自身の言によれば、マリーに戀をしたのが彼の九歳の時だと言ふ。彼はマリーをいぢめつけては、無理やりに自分にあてゝ手紙を書かせた。そして十六歳になつた時に、母から、マリーが他の男と結婚すると言ふ話を聞かされて、殆んど氣を失はうとした。然し彼のマリーに對する戀愛が眞に戀愛としてそれ程深いものであつたかどうかは判然としない。と言ふのは、詩人の場合に於ては、このやうな幼い戀愛は、往々にして後年の想像的な囘想の中で、誇張されるものだからである。  一七九六年、彼はアベルディーンで猩紅熱にかゝつた。それが癒ると、母に連れられてバラターに行つて靜養した。すつかり身體が囘復すると、彼はよく方々を歩き廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて時を費した。當時に就いて彼はかう書いてゐる。 「自分の山嶽地方に對する愛好は、この時代から始まつてゐる」  しかしバイロンは、その肉體上の不具のために、山登りはあまりしなかつた。これは彼の乳母が確言してゐる點である。  スコットランドと彼との關係に就いては、興味深いものがある。バイロン傳記者中最も注意深い一傳記者が、次のやうに言つてゐる。 「バイロンは、第一のギリシヤ旅行に於ても、ゴルドン族の格子縞の服を着て出かけたが、しかも彼の心意の傾向、彼の詩の性質は、決してスコットランド風のものでは無い。スコットランドの國風は、偏狹な地方的な要素を含んでゐる。それに反してバイロンの詩人としての性格は、普遍的な、世界的なものであつた。彼は一地方一地方に對しては別に愛着は感じなかつた。スコットランドの歴史を學んだりした事は彼は一度も無かつた」  これによく似通つた事をトーマス・キャンベルがバーンズに就いて言つてゐる。  つまりバイロンは、スコットランドに育ち、スコットランドの空氣を呼吸したが、しかも彼の詩人としての天分は、それから拘束されない程廣かつた。  一七九八年の秋に、母は、今迄持つてゐた家具類の一切を七十五ポンドで賣拂つて家をたゝんでしまつた。そして彼女と、少年のバイロンと、バイロンの乳母は南の方へ旅に出た。そして元の住居のニューステッド・アベイの方へ戻つて來たが、家の荒廢があまり酷くて住めないので、ノッティンガムに移り住んだ。この旅行に就いてはバイロンは取立てゝ言ふ程の印象は持つてゐなかつた。僅かにロック・レヴンの事とニューステッドの事を憶えてゐるのみであつた。  ノッティンガムで、バイロンは跛の足の治療を受けた。そして酷い目に逢つた。治療をやつたのはラヴェンダーと言ふ山師醫者で、彼の足に油を塗つて摩擦し、木製の機械で締め上げた。しかも跛はちつともよくはならなかつた。これに就いて二つの逸話がある。一つは、當時バイロンの專任家庭教師だつたロヂャース(この人と一緒にバイロンはヴァーヂルやシセロの著書を讀んでゐた)がバイロンに同情して、 「ねえ、あなたがそんなに苦しさうな目に逢つてゐるのを見ると、私は氣持が惡くてなりません」と言つた。するとバイロンは、 「心配しないで下さい、ロヂャースさん、僕は苦しがつたりはしないから」と答へた。  もう一つの逸話と言ふのは、或る時のことバイロンは、紙の上に何が何だか譯もわからぬ落書をして、醫者のラヴェンダーの所へ持つて行つた。そして眞面目くさつて、「これは何處の言葉だらう」と訊ねた。するとラヴェンダーが、 「これやイタリー語です」と答へた。それを聞くとバイロンは、腹を抱へて笑ひころげた。  バイロンは「自分が詩を作り始めたのは一八〇〇年だ」と言つてゐる。即ち十三歳の時である。その前年に、バイロンの大好きであつた從姉のマーガレット・パーカーが不慮の死を遂げた。このマーガレットに就いては後年バイロンは哀悼歌を作つた。彼女の追憶のことを彼は次のやうに書いてゐる。 「自分は、この從姉との短かい親密の間の彼女の透徹した美しさと、氣性の優しさに匹敵するやうなものを他に想ひ起す事が出來ない。彼女は、あたかもその身體が虹で出來てゐるやうな容子をしてゐた、──彼女のすべては美しく、平和であつた。私の彼女を慕ふ情は、例の通りに私は作用した、──私は眠る事が出來なかつた。私は物を食べる事が出來なかつた。私は休息する事が出來なかつた。一度彼女に別れると、今度は何時になつたら逢へるかと思ふ事のみが、當時の私の生活の主要部分だつた。然し當時の私を馬鹿だと言へば、現在だつてあの時よりいくらも悧巧ぢや無い」  そのちよつと以前のことだが、前に述べたバイロンの幼年の戀の相手なるメイ・グレイが、その故郷に歸ると言ふ時にも、バイロンは隨分悲しんだ。彼女との別離に際して、彼は自分の持つてゐた初めての懷中時計と、エディンバラのケイの描いた、自分の小畫像《ミニアチュア》を彼女に與へた。別れて後も、時々彼女とは手紙のやり取りを續けてゐた。  バイロンは、自家の僕婢達からは、いつも愛された。バイロンの乳母は後年、良縁があつて他處に嫁した。バイロンの傳記はこの乳母が一八二七年にその臨終の床で、アベルディーンの醫師エウィングに語つた事から、かなり負ふ所があつた。  一七九九年の夏に、彼はロンドンにやられ、ペイリーと云ふ醫師の手に委託され、ダルウィッチにある寄宿學校に入れられた。この學校は、グレンニー博士の管理してゐる學校であつた。當時バイロンは、ともすれば運動競技に熱中したために、醫師のペイリーは「少し控へ目になさるやうに」と言ひ言ひした。グレンニー博士はバイロンを可愛がつて面倒を見てやつたらしい。バイロンも愉快に勉強した。特に歴史を讀んだ。聖書と親しんだ。英國の詩人の詩集などもチョウサーからチャーチルまで、何度も繰り返して讀んだ。  一方バイロンの母なるバイロン夫人は、その頃收入の方も、以前よりはかなり潤澤になつて、スローン・テラスに住居を構へてゐた。彼女は毎週土曜日から月曜日までバイロンを學校から呼び寄せて、自分と一緒に暮させた。時には呼び寄せたまゝ何週間も學校へは戻さない事もあつた。  バイロンは、貴族を相續して以來、高等法院の被後見人になつた。そしてカーリッスル卿の後見を受けることになつた。この人は前にも言つたやうに、ジョン海軍大將の甥であり、バイロンの大伯父さんの息子である。カーリッスル卿も詩人になりたいと思つた。その作にかゝはる父の『復讐』なる悲劇は、時の文學者ジョンソン博士から、かなりの賞讃を受けたものである。然しこのカーリッスル卿とバイロンとの間は、最初からうまい具合には行かなかつた。  その内に、母の希望でバイロンはハロウの公立學校に入れられた。そして其處に一八〇五年の秋までゐた。このハロウでの第一の暑中休暇の時である。バイロンは母と共にチェルテンハムへ行つた。其處で、スコットランド風な迷信を多分に持つてゐる母は、バイロンの運命を易者に見て貰つた。易者は、「この方は二度結婚なされます。二度目のは外國人となされます」と言つた。  ハロウ學校はヨセフ・ドウルリー博士の監督下にあつた。このドウルリー博士は才學すぐれた立派な教育家であつた。この人に對してはバイロンは生涯、恩義を感じてゐた。そして彼の事を話す時には、いつも尊敬の口調を以てした。  彼は言つてゐる。 「彼(ドウルリー)は、自分の今迄持つた友の中で最も立派な、最も親切な(しかも又最も嚴格な)友であつた。そして、彼は自分には父のやうに思はれる。彼の忠告は、實によく記憶してゐる。だけど、それも自分が過失をしでかした時にはもう間に合はぬ。彼の忠言に從つてやりさへすれば、萬事がうまく行つた」  然し不覊の性格を天に受けて生れた天才者には、萬人向きに出來上つた學校教育の平板單調な規則は、往々にして耐へがたいものでなければならぬ。バイロンも然りであつた。彼はハロウにも次第に飽いて來た。そしてハロウに於ける最後の一年半ばかりの間と言ふもの、彼は學校を憎んだ。そして學校の勉強には目も呉れずに、怠け通した。そんな風であつたから、大して突込んだ深い學術研究もしなかつたらしい。彼は後年その作『詩人と評論家』その他の中で、古代の詩人小説家等の諸作に就いては熟知してゐるかのやうに書いてゐるが、然し古代作家の作品を原語のまゝで彼が讀めたかどうだか、かなり疑はしい。彼の飜譯だつて大概平凡なものである。ギリシヤ語などには熟達してゐたとは言ひ難い。と言ふのは、彼の書籍には、ほんの普通なギリシヤ語の單語に印がつけてある。それがどうも、そんな單語の意味が、はつきり解らないでつけたものらしいのだ。  然し現代語の方では比較的に進歩した。フランス語は、讀む方だけは、かなり達者に出來た。そして、十八世紀のフランス文學の傑出した作品をよく讀んだらしい。だがそのフランス語も、喋るとなると、彼にはかなり厄介だつた。そのために、後年、旅行に出てフランス人と會見するのにいつも困つた。ドイツ語もやつたが、物にはならなかつた。バイロンが英語以外で、自由自在に驅使する事の出來た國語と言へば、イタリー語のみであつた。  然し彼の讀書の範圍の廣いことは非常なものであつた。一八〇七年に書かれた彼の圖書目録には、隨分澤山の書籍の名が記載されてゐる。特に歴史、傳記書類に至つては、驚くべきものがあつた。哲學書もかなりあつた。詩集もあつた。デモステネスやシセロ等の雄辯家の著書もあつた。議院演説集もあつた。ブレヤや、ティロストンや、フッカー等の宗教書もあつた。雜誌類の中には先づ『觀察者《スペクテイター》』あり、『散歩者《ランブラー》』あり、『世界《ウオールド》』その他があつた。小説の中には、セルヴァンテス、フィールディング、スモーレット、リチャードソン、マッケンヂー、スターン、ラベライ、ルッソー等の作品があつた。それらを耽讀した。  彼は自身で書いてゐる。 「自分は食事をしながらも讀書した。寢床に入つても讀書した。およそ人が讀書なぞしない時にも讀んだ」  もつとも、バイロンの自傳的なスケッチは、概して誇張的なものであることは注意しなければならぬ。しかし、それを差引いても、彼が實に非常な讀書家であつたと言ふ事は事實だ。そして、彼はかなり記憶力が強かつたので、隨分といろんな事を知つてゐた。そのために、「バイロンは、評論雜誌からいろんな知識を拾ひ集めて來るんぢや無いか」と疑はれた。然し彼は、十八歳の時までは評論雜誌なぞ一度も讀んだことは無いと自身で斷言してゐる。十八歳の時には、彼はウォーズウォースに就いて評論を一つ書いた。が、これは全然無價値なものだつた。  とにかく、バイロンは、ハロウの學校がいやになつて、出來るだけ怠けた。そしてよく演説をやつた。彼の演説の態度、方法、又は當意即妙の力が聽者を驚かした。彼は當時の事を、 「自分の才能は、詩の方面よりも、むしろ辯論か軍事の方面にあつた。私は、詩の方へ進まうなどゝは誰一人として思はなかつた」と言つてゐる。  運動競技の方にも、彼は盛んに精を出した。しかも仲々うまかつた。そして選手になつた。かうなるとすつかり學校中の人氣男になつてしまつて、學友の間では首領に立てられた。そのために、バイロンは又學校が好きになり始めた。ところが運惡く、一八〇五年にハロウ學校の校長が變へられて、今迄のドウルリー博士は退職し、バトラー博士が任命された。  この事が、生徒仲間に取つては面白くなかつた。生徒等は、退職させられたドウルリー博士に同情して、博士の弟であるマーク・ドウルリーを校長にしたいと思つてゐたのだ。生徒連のこんな感情のために、後任校長のバトラー博士は、かなり困つた。いつも「騷動を起すので有名な」バイロンは、新校長排斥の首領になつた。そして、一度は教室にある窓格子を叩きやぶつた。「こんな物があると室の中が暗くなる」と言ふのだ。又一度は校長から食事にまねかれて、それを拒絶した。そして「返禮のためにニューステッドの僕の家で、あなたを食事にまねくなんて考へて見たくもありませんから」と生意氣な事を言つた。然し又、彼は新校長に對する反抗の氣勢を押しとゞめた事もあつた。生徒の或る者が、教室にある自分等の机を燒いてしまはうとした際の如き、バイロンがこれをとめてゐる。要するに、このやうな事實から推して考へると、この學校に於て、バイロンがどれ程の勢力を持つてゐたかが解る。後年、彼はこの時代の自分の亂暴さを後悔してゐる。然しそれでも尚、バトラー博士に對する反感は無くさなかつたと見えて、自分の詩の中に、バトラーの事を、 「頭腦の硬い、心の狹い」ポンポサスとして描いてゐる。  このハロウ學校時代に、バイロンは暇さへあれば學校の附近の丘の上に生えた楡の木の下に行つて、唯一人で想ひに耽つた。楡の木の附近には一個の墓があつたが、バイロンがあまり其處にばかり行くので、その墓の事を「バイロンの墓」と人が呼んだ。この丘は遠くロンドンや、ウィンザーや、又はその間に展開する綠の野原を見下してゐた。この野原は、春になると紅白の林檎の花に蔽はれた。  その楡の木の下に行つてゐない時は、大方の時間を、仲間の學生等と過した。短氣で喧嘩早い氣性のバイロンは、友人の間で平和な男では無かつたが、しかも非常に友情に厚かつた。學生時代の友情に就いては、彼は後年詩に歌つてゐる。ハロウ學校での彼の仲の好い友達の名を擧げると、第一に最も氣に入りの下級生として、ドルセット公爵がゐる。次に、クレア卿(これはバイロン作『幼時の囘想』中のリカスである)、デラワール卿(同じくユーリアラス)[#「)」は底本では欠落]、ジョン・ウィングフィールド(同じくアロンヅ。一八一一年にコインブラで死んだ)、セシル・タッターサル(同じくダワス)、エドワード・ノエル・ロング(同じくクレオン)、その他、後にニューステッドの持主となつたヴィルドマン、サー・ロバート・ピール等がゐた。  こゝにバイロンの交友に就いて特に注意をして置いて無駄でない事が一つある。而してこの事はバイロンの性格をかなり有力に語つてゐる。即ち彼の親友の殆んど全部が、彼よりも年少のものであつて、しかも彼は、親友等を自分の從僕のやうに遇する事を好んでゐたと言ふ事實である。そして彼は自分の年下の友人等を常に保護してやつた。そして自分の友人が、他の強い亂暴な者からいぢめられでもした場合には、彼は承知しなかつた。特に、後年牧師の職に就いて詩を作つたハーネスに對してなど、殆んど兄と言つてもよい位の保護を加へた。ハーネスはバイロン同樣に跛であつた。 「ハーネス、」とバイロンは言つた、「若し誰かゞ君を窘めたら、僕にさう言ひたまへ。其奴が僕の手に合ふ奴だつたら、撲りとばしてやるから」そして言つた通りにした。  バイロンには、少年時代から、弱い者が、強い者に窘められてゐるのを默つて見て居れないと言つたやうな、親分肌な所があつたのである。  前掲のクレア卿との友情は、特筆する價値がある。と言ふのは、バイロンとこの人との友人關係は、バイロンがハロウ學校を去つてから後も、密接に續けられた。その双方から取り交した書簡は、現在に於ても保存されてゐるが、それを見ると、その手紙の調子が、とん[#「とん」に傍点]と戀人同志の手紙のやうである。一八二一年にバイロンは、 「自分は現在でもクレアの名を聞く毎に心臟の鼓動が早くなる」と書いてゐる。學校時代からかなり後の或る時のこと、バイロンとクレア卿は再會した。二人の喜びは言ふばかりも無かつた。その時の事をバイロンは次のやうに書いてゐる。 「二人が逢ふや、暫時の間は、あのハロウ學校時代と現在までに至る間の時間が消え去つたやうに思はれた。二人の再會の感は、私に取つては、新しい説明も出來ぬやうな感慨であつた。それは恰も死者が墓から起き上つて來るやうな感じであつた。クレアも亦非常に昂奮した──見た所では、自分よりもむしろ彼の方が餘計に昂奮してゐた。と言ふのは、彼の心臟の鼓動が、彼の指の先にまで傳つて來るのを私は感ずる事が出來たのだ。それとも、私はさう感じたのは、私自身の動悸が高ぶつてゐたためなのか。二人は、往來でほんの五分間ばかり立ち話をしたばかりだつた。しかもその時間は、私に取つては、私の一生の全時間よりも意義のある充實した時間であつた」  バイロンとクレア卿との間は、もうまるで兄弟のそれであつた。この天才詩人と、後年英國政界に乘り出して、一世の雄辯をふるつたこの政治家との關係の跡をたどるのは、仲々興味深い事であらねばならぬ。  ハロウ學校時代のバイロンに就いて、もう一つ看過すべからざる事がある。これは彼の一生を不幸にした事件であつた。と言ふのは、即ち彼のマリー・アン・チャウォースへの失戀事件である。  このマリーはバイロンの遠縁の親類に當る女であつた。バイロンが彼女と最初に面會したのが何時であるかと言ふ點は、あまり判然としてゐない。バイロンの手紙の一つに、一八〇一年に彼が母と一緒にチェルテンハムに行つた時に初めて面會したと書いてある。然し、その時には別に親密な間柄にはならなかつたらしい。それが、一八〇二年になつて、バスにゐる母を訪れて、其處で催された假裝舞踏會に出席して、かなり人々に知られるやうになつた。次の年になつて、母はノッティンガムに居を構へたので、ハロウから母を訪れて行く途中、彼は、ニューステッド・アベイによく泊つた。當時アベイには、ルサインのグレイ卿が住んでゐた。其處でバイロンは再びチャウォース家の家族と舊交を温めた。そしてチャウォースの家族にまねかれて、アンネスリーに行つた。そして初めの内は、其處から毎晩ニューステッドの方へ歸宅してゐた。が、後になると其處に泊つて行くやうになつた。そして、よくチャウォースの家族と一緒に、マトロックやキャッスルトンの方へ遠足に出かけた。  その間にバイロンは、チャウォースの娘マリー・アンに戀を感ずるに至つた。今度のは眞實の戀であつた。バイロンに取つてはこれが眞實の初戀であつたのだ。彼のマリーを思ふ心は切であつた。彼女と結婚したいとさへ思つた。  しかし彼は自分の戀を相手に打ち明けなかつた。彼の熱心な戀が、相手に解らぬ筈は無かつた。女は推察した。しかし彼女はバイロンの戀に答へなかつた。バイロンは、マトロックで自分の前にワルツを踊つてゐる彼女を見ながら、焦燥に驅られた。馬を竝べてチャウォースの家へ戻りながら苦しんだ。彼女が心無く彈く、『マリー・アン』と言ふウェイルスの小唄のピアノ曲に聽き入りながら、心を痛めた。しかも最後に彼の得た報酬は殘酷なものであつた。或る日のこと、彼は何心なく、マリーがその下婢に向つて、 「私があんな跛の子を好きになれると思ふの?」と言つてゐる言葉を聞いてしまつた。彼の戀の夢は一時に醒めてしまつた。そして、いきなり彼はチャウォースの家を飛び出した。そして狩り立てられてゐる獸のやうに、一氣にニューステッドの自宅を差して走り戻つた。  そして間も無く、再びハロウ學校へ歸つた。  それから一年の後、二人は永久に別れを告ぐべく、アンネスリーの丘の上で逢つた(その時の事は後年バイロンが、短かい二聯の詩で歌つてゐる。草原の上を吹く風の嘆きのやうな響を持つた詩だ)。  バイロンは言つた。 「多分、この次にお目にかゝる時は、あなたはチャウォース夫人になつていらつしやるでせうね?」  すると彼女は、 「えゝさうでせうと思ひますわ」と答へた。彼女の婚約者なるマスター氏は、チャウォース家に入婿する事を承諾してゐたのである。  一八〇五年の八月にマリーは結婚した。それをバイロンに知らせたのは、母であつた。母はバイロンがマリーに對して抱いてゐた思ひを知つてゐたので、それを知らせる前に、 「私お前に知らせる事があつてよ。ハンカチーフをお持ち。要るだらうからね」と言つた。彼は母からマリーの結婚の話を聞くと、無理に平靜をよそほつて、直ぐに話題を變へた。しかし、その悲しみは、いつまでも彼の胸の中から消え去らなかつた。後、この破れた戀を主題にした詩をいくつも作つてゐる。  一八〇七年には、彼は當のマリーに詩を贈つた。その詩は、 [#ここから3字下げ] あゝ、私の運命とあなたの運命とが 合してゐたならば。 [#ここで字下げ終わり]  と、言ふ句で始まつてゐる。([#ここから割り注]以下詩の譯は平明を重んじて、散文意譯とす。英詩を日本語に飜譯する事は至難、又は不可能の事なればなり。且又、原詩の韻律、筆觸、味感を其儘傳へんとて、難解苦澁に陷るは愚なればなり。讀者よろしく原詩に就いて、その眞味を味はるべし[#ここで割り注終わり])  その次の年になつて、バイロンはまねかれてアンネスリーに行つた。その饗宴の席上で、彼は既にチャウォース夫人となつたマリー・アンに逢つた。彼女には既に一人の女の子が生れてゐた。それを見たバイロンの胸は痛んだ。  然しそのマリーも結局幸福ではなかつた。いくばくも無くして夫との間が不和となり、離縁をする事になつた。次いで健康を害し、意氣銷沈してしまつて、昔日の「アンネスリーの明るい朝の星」も悲運に陷ちた。そして一八三二年、ノッティンガムの暴動の勃發に驚いたあまり、死んでしまつた。  このチャウォース孃のバイロンに對する魅力は、無論彼女が美しかつたためであつたらうが、過半はバイロンの詩人的な想像力からも來てゐた。彼に取つて、彼女こそは實に青春の美の理想であつた。彼は彼女を戀したと言ふよりも、むしろ彼女の姿を機縁として、自己が自己の裡に創造した、天使のやうな理想の美、理想の愛人を戀したのである。 第三章 ケンブリッヂ  一八〇五年の十月になつて、ドウルリー博士にすゝめられて、バイロンはケンブリッヂ大學のトリニティ・カレッヂに轉校した。そして其處に約三年足らずの間在學してゐた。然し、在學してゐるとは言つたものゝ、教室へは滅多に出席はしなかつた。學校の課目の勉強なんか少しもしなかつた。  ハロウの學校を去るのは彼には辛かつた。自分が最早少年では無くなつて大人になつてゐると言ふ意識も不愉快であつた。それに、すゝめられて來は來たものゝ彼はケンブリッヂ大學を好んでゐなかつた。オックスフォード大學に行きたいと思つてゐたのだ。そんなこんなの原因がいくつも重なつて、勉強なんかする氣になれずに、毎日々々怠けて暮した。この時代の産物である詩に『懶惰の時』と言ふ名をつけたのは、實にうがつた立派な名をつけたものである。然し妙なもので、三年經てば三つになると云ふ奴で、一八〇八年の三月には卒業して學位を貰つた。卒業が出來たのが不思議だつた。それ位怠けた。怠けて遊んだ。  ハロウの學校で親友だつたハーネスとロングもそれ/″\前後してケンブリッヂ大學に入學した。そして三人の間には又親交が續けられた。バイロンとロング(一八〇九年にリスボンへの途中にて溺死す)とは、一緒になつて、暇さへあれば游泳をやつた。そしてよく、卵や金板や嵌鐶《はめわ》や貨幣などを、十四フィートからある水底に投げ込んで置いて、それをもぐつて行つては取つて來る遊びをやつた。この遊びは、ミルトンのサブリナに關する詩を讀んで、バイロンが思ひついたのであつた。  當時バイロンは游泳のみならず、クリッケットもやれば、拳鬪もやれば、乘馬もやれば、銃獵もやつた。そしてそのどれにも熟達してゐた。射的は名人の域に達してゐた。何處へ行くにも彼がピストルを持つて行つて、處かまはず發射するので、よくそれが人騷がせのもとになつた。口で理論の上だけでは、彼は決鬪には反對してゐた。然し人から決鬪を挑まれると、いつ何時でもやりかねなかつた。  當時彼の家庭教師はタヴェルと言ふ男で、その男はバイロンの詩の中で好意的に歌はれてゐる。大學の教授や先生に就いては、怠け放題に怠けてゐる程だから、バイロンは別に何の意見も吐いてゐない。  ケンブリッヂに入學すると、最初に彼は、或る一團の有爲な學生のグループに紹介された。このグループの學生は皆才能あり學識ある俊秀ばかりであつた。この連中とバイロンとの關係を知るのは興味ある事である。  先づこのグループの首領株として、チャールス・スキンナー・マッシュースがゐる。これはヘレフォードシャイア選出議員の息子であつた。彼はあらゆる點に於て、優秀な學生であつた。學識、肉體的精神的の勇氣、思想の纖細鋭利、空想力の諧謔味、性格の魅力等の點で、彼は下級生の間に敬愛され多大の影響を與へてゐた。丁度後年のチャールス・オースティンのそれに似てゐた。バイロンもマッシュースを敬愛してゐた。しかし惜しい事にマッシュースは、一八一一年の夏のこと、川で一人で水浴をやつてゐる内に、あやまつて溺れて死んでしまつた。  バイロンはこの立派な友人の死をひどく悼んだ。彼は口をきはめてマッシュースの才能、性格の美、友情の厚さ等を讃美してゐる。  後年バイロンがラヴェンナにゐた時(一八二〇年)、このマッシュースの追想録を作ると言ふので、寄稿をして呉れと英國から言つて來た。バイロンはそれを快諾して寄稿した。それには、バイロン自身とマッシュースとが連れ立つて、ニューステッドへ旅行した時のことが書かれてあつた。── 「マッシュースと私は一緒にロンドンから旅行をした事があつた。旅行の間中二人は或る一つの問題に就いてひつきり無しに話を交して行つた。ラウポロウまで來た時に、どうしたきつかけだつたか、つと話題が他の事にそれた。するとマッシュースはぷん/\當り散らした。そして私に言つた。『さあ、話をはぐらかしちやいかんよ。目的地まで最初の問題を話して行かうぢやないか』。それで話題は最初に戻つて、旅行の目的地に到着するまでそればつかりを話して行つた。  マッシュースは以前、私がケンブリッヂを留守にして置いた間、トリニティ・カレッヂの私の室を家具ごとそつくり占領してゐた事があつた。すると彼の家庭教師のジョーンスが、彼一流の妙な言ひ方でマッシュースに忠告して、『マッシュースさん、この室の諸道具を壞さないやうになさいましよ。バイロン卿はそりやきつい氣性の方ですからね』と言つた。ジョーンスのこの言葉はマッシュースをすつかり悦ばせた。そしてそれから他の學生等が、その室を訪れて來るごとに、ジョーンスの口調を眞似て、『扉を亂暴に開けて呉れぬやうに』と言ひ/\した。……」  この寄稿の手紙は、バイロンとマッシュースとの關係の一端をよく現はしてゐると同時に、バイロンとマッシュースの性格を端的に示してゐる。  要するに詩人とこの秀才との仲は、非常に親密なものであつた。同じグループに屬してゐて次にバイロンと親交のあつたのは、スクロープ・ディヴィスとジョン・カム・ホブハウスの二人であつた。  バイロンが悲運に陷つた際に、スクロープにやつた手紙に、 「スクロープ、僕の所へやつて來て呉れ。僕は殆んど全く獨りぼつちだ、──この世に唯一人取り殘された男だ。僕が持つてゐる友人は、君と、Hと、Mだけだ。だから逢へる間に君達生殘者にだけは逢ひたい」と言ふ文句がある。  スクロープは友情に厚く、それに奇智頓才の士であつた。しかも何處かしつかりした所を持つてゐた。曾てバイロンが、例の通りの癇癪を爆發させて、 「僕は氣ちがひになりさうだ!」と呶鳴つた。するとスクロープが、平然として、 「君がなると言ふのは、氣ちがひになるよりも、阿呆にでもなるんだらう!」と言つてのけた。  彼はバイロンに金を貸した事があつた。ところが、他の人間に對しては決して借りた金を返濟したためしの無いバイロンが、スクロープに對してばかりは不思議に返濟した。スクロープは、マッシュースの抱いてゐる懷疑的な思想傾向が、バイロンに惡影響を與へはしないかと心配した。  次にゐるのはホブハウスである。この人は後にブロウトン卿になつた人で、バイロンの終生の親友であつた。バイロンの旅行にも隨いて行くし、結婚にも立ち會ふし、遺言の執行人にもなつたし、又バイロンの名譽を保護した人であつた。彼は情に厚く、話術に長じ、高潔な精神を持つてゐた。外遊旅行の途次に於て、彼と詩人との間に或る誤解が生じたと言ふことは事實だ。然しそれも二人の友情の前では何物でも無かつた。そして再び仲はよくなつた。  グイッチョリ夫人の言ふ所によると、ピザのランフランキのパラッゾオにバイロンが滯在してゐた頃、思ひがけなくホブハウスが階段を昇つて來たのを見て、バイロンは喜悦の餘り感動の極に達して、失神しさうになつたと言ふ。そしてやつとの事で椅子に坐らされて、涙を流して泣いたと言ふ事である。これを以て見ても、詩人とホブハウスとの間がどれほど深い親交關係で結ばれてゐたかゞ推察出來る。  もう一人ケンブリッヂ時代のバイロンの交友中で見のがしてならぬのは、フランシス・ホヂスン牧師である。この人はグループの一人では無かつたけれども、グループの各員と、特にバイロンとの關係が深かつた。ホヂスンは識見ある學者で、立派な飜譯家で、健全な批評家で、又同時に一家をなした詩人であつた。なか/\美しい立派な詩作をした。性質は寛大な正直な人であつた。近年出版されたこの人の書簡集はバイロン傳を研究するためには、かなり有益な參考書である。  ホヂスンとバイロンの仲がよかつたのは、文學と言ふ媒介物を通してゞあつた。文學上の意見に於てこの二人は互に強く共鳴するものを持つてゐた。文藝批評に就いては非常にうま[#「うま」に傍点]が合つた。その上に二人とも詩を書いた。詩作の上で二人は双方を認め合つた。バイロンはホヂスンの詩を推賞して、これからも詩作を續けるやうにはげました。ホヂスンの方でもバイロンの詩を賞讃した。バイロンは當時『詩人と評諭家』や『チャイルド・ハロルド』の第一卷を作つたが、それを讀んだホヂスンは、早くもその中に、後の『マンフレッド』や『カイン』の如き傑作の影を認めた。バイロンと交際のある人々の間で、バイロンの詩に就いての最も親切な、又最も公平な批評家はこのホヂスンであつた。バイロンをして自分の詩の價値を信じさせ、岐路に入らぬやうにはげましたのは、このホヂスンであつたのである。又同時に、はげしい信仰上の惱みに苦しんでゐた青年懷疑家だつた當時のバイロンに、宗教上の種々有益な忠言を與へたのも彼であつた。  當時のバイロンが自ら書いたものに次のやうな所がある。── 「私はワトスンの著書から去つて、今度はギボンの著者を讀んだ。然しギボンからも何等啓發されない。私の状態は奮態依然たるものであつて、スピノーザに近づきつゝある。しかもスピノーザの神觀も、一個の陰氣な教義に過ぎない。私はそれよりも立派なものが欲しいのだ。しかし私の性格の中には、自分では拂い落とす事の出來ない異教的な或る物が存在してゐる。これを要するに、私は何も否定はしないが、しかもあらゆる事を疑ふのだ」  これには懷疑家としてバイロンの力と苦惱に滿ちた姿が出てゐる。「何も否定しないが、しかもあらゆる事を疑ふ」精神は、實にバイロンと言ふ人間の性格の主調をなしてゐる酵母菌である。バイロンの人間、バイロンの詩、バイロンの一生が現はしてゐる逞ましいロマンティシズムの發源地は、彼の「何も否定しないが、しかもあらゆる事を疑ふ」精神にある。  このやうなバイロンの懷疑思想は、常に彼獨自のものであつて、他からこれを如何ともする事は出來なかつた。しかも、激情と短慮のために、稍々ヒコポンドリアがかつた青春期の彼を、どうにもかうにも出來ない懷疑地獄に陷らさなかつたのには、親切で、寛大で、眞率なホヂスン牧師の絶えざる忠言が與つて力があつた。  ホヂスンがバイロンに精神的によくしてやれば、バイロンはホヂスンに物質的によくしてやつた。ホヂスンが、親から相續してゐた借金を支拂ふやうにと、バイロンは一千ポンドを贈つた事がある。これに對してホヂスンがどれほど感謝したかは、彼がこれに就いてその伯父に宛てゝ書き送つた手紙を見ても想像がつく。 「あゝ、私がこの窮状から救ひ出されて、どれほど氣も心もほつ[#「ほつ」に傍点]としたかを若し伯父さんがお知りになつたならば、必ずや伯父さんも私同樣に、私の親友であり兄弟であるバイロンのために祝福して下さるに相違ありません」  尚、學友中で、バイロンの關係してゐたグループに屬してゐた者としては、ヘンリー・ドウルリー(この人はホヂスン牧師の親友であつて、後ホヂスンとは義理の兄弟の仲になつた。バイロンはこの人あてに外國からよく手紙を書いてゐる)、ロバート・チャールス・ダラス等がゐた。ダラスの方もバイロンとはかなり關係が深かつた。  以上はケンブリッヂ時代に於ける學友である。ところが前にも言つた通りに、詩人は學校にはあまり出席しなかつた。そしてよくケンブリッヂを留守にして方々遊び歩いた。そのために、大學以外でも友達が出來た。  バイロンは學校の休暇の折には、ロンドンに出かけた。サウスウェルに出かけた。そして大概ロンドンとサウスウェルに半々位に居た。このサウスウェルと言ふのは、マンスフィールドからネワルクへ至る途中にある一小都會であつて、曾てチャールス一世が此處に隱れ住んだ事がある。其處へバイロン夫人は、夏の間五六囘住んだ事があつて、息子をもよく呼びよせた。  此處で彼は、エディンバラ大學の醫科の學生であるジョン・ピゴット、及びその妹のエリザベスに引き合はされた。この兄妹はなか/\才能のある人達で、文學に對しても非常に趣味を持つてゐた。又此處で、彼は牧師のJ・T・ベッチャーとも知人になつた。この牧師は『貧民の状態に就いて』と言ふ論文を書いた事もある人で、バイロンを激勵もしてくれゝば、有益な忠告などもして呉れた。  然し今言つた通りの小さな町なのであるから、ケンブリッヂやロンドンに較べれば寂しくもあるし、退屈でもあつた。そのために時にはバイロンはこの土地を罵倒した。だが、それにもかゝはらず、彼はこの小浴場地の小さな、然し選ばれた杜交界の中で、大體に於て愉快な時を過した。或る時は彼の好きな單純な民謠音樂を聽き、或る時は田舍芝居の演出に出演したり、或る時は遠足をしたり、或る時は詩を作つた。  ところがこのサウスウェルの平和な時代も、母のバイロン夫人の激しいヒステリー發作のために妨げられることがあつた。母は氣が狂ひでもしたやうにあばれ廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。或る時の事、母が例の通りの發作を起してあばれるのを、バイロンは嘲り笑つた。すると母は怒り狂つて彼の頭を目がけて火掻棒を投げつけた。そしてあぶなく彼を殺してしまふ所だつた。  そのためにバイロンは、サウスウェルに居たゝまらなくなつてロンドンへ逃げ歸つた。そして翌年即ち一八〇六年の八月迄、靜養のためサセックスの海岸に暮した。それから間も無くハロゲイトへ旅行をした。この旅行には、彼はお氣に入りの犬のボートスウェーンを連れて行つた。この犬はニューファウンドランド種の犬であつて、詩人はこれを非常に可愛がつてゐた。その關係が丁度、ポープとその愛犬パウンス、スコットとその愛犬マイダによく似てゐる。  その年の十一月に、自作の少年時代の詩集を私的に印刷した。然しこれは牧師のベッチャーが、公けにしないがよからうと言つたので、印刷は出來上つてゐたが破棄してしまつた。そしてその次の年、即ち一八〇七年の一月に新たに印刷出版された。これがバイロンの第一の詩集である。彼はこの詩集の數部を四五人の友人その他に送つた。この詩集の標題は『Ju[#uはブレーヴェ付き、ŭ]venilia』と言つた。  ところがこの詩集に對する友人等の評判が割によいので、元氣づいて、同年の三月になると、『懶惰の時』を公表した。この詩集もまたネワルクの田舍の印刷屋で印刷されたものであつた。これらの詩は、當時の雜誌の批評などでかなり褒められたらしい。但しその雜誌が何と言ふ雜誌だつたか今では不明である。褒められて彼は昂奮した。  一八〇八年の春と夏の大部は、アルベマール街のドラント旅館で暮した。ところがこの時期は一人で暮してゐたために、隨分と放蕩三味に耽つた。亂暴も働いた。しかも彼が生れつき持つてゐた憂鬱が益々彼の放蕩を助長した。若い逞しい力の所有者にふさはしい不斷の焦燥が、殆んど彼をして放縱な生活を餘儀なくさせた。精氣あり餘つて、しかも自分の發展して行くべき道が、自分にもはつきりまだ見きはめが附いてゐない。それに加ふるに、祖先から受繼いだ血があつた。しかも放縱な生活が、勝手に出來る環境と境遇の中に置かれてゐた。  想ふに、所謂バイロニズムの最初の現はれは、この時分から始まつてゐる。ロンドンへ行き、ブライトンへ行き、ケンブリッヂへ行き、ニューステッドへ行つては放埒の限りを盡した。狩獵をやる、賭博をやる、游泳をする。酒に飮み耽るかと思へば、姿を美しくするために絶食をやつたり、とにかくすべての享樂と自由をほしいまゝにした。數人の女とも關係した事もあつただらう。旅行をすればきまつて數人の假裝の女達を連れ、舞踏師のデグヴィルを後援し、道化のグリマルディを傭ひ、有名な拳鬪教師のジャクソンから拳鬪を習つた。然し戀愛事件に於ては、別に大して惡性な事はしでかしてはゐない。後年バイロン自身で、 「自分は一人の女をも誤らせるやうな事はしなかつた」と言つてゐるが、なる程この言に反するやうな事實が現はれてゐない。  一八〇八年の三月、彼の詩集の『懶惰の時』が、『エディンバラ』紙上で酷評を受けた。この批評はブローガム卿の筆になつたもので、十九世紀初頭に流行したくそみそ[#「くそみそ」に傍点]批評の一標本と言つたやうな、無茶な批評であつた。批評家として眞面目に作家を批評してやらうと言ふ動機からでなしに、何でもかんでもこの批評に依つて自分が有名になつてやらうと言つたやうな、小氣の利いた酷いものであつた。もつとも、『懶惰の時』中の詩は大してよいものでは無かつた。バイロンがまだ彼自身の詩のよい所を見出してゐない頃の詩であつた。詩人としての彼の天才は、あまり早熟ではなかつたのだ。この詩集の詩は、大部分、氣取りのある厭世主義の味を帶びてゐた。一例を擧げると、 [#ここから3字下げ] 愛にも生にもうみ疲れ、 憂鬱に蝕ばみつくされて、 十九歳にもならないのに、 自分はまるでタイモンのやうに休息する。 [#ここで字下げ終わり]  と言つたやうな調子であつた。  しかも、さうは言つたものゝ、この詩集にさへも、詩人として彼の持つてゐた力と熟達は、現はれてゐる事實を否定する譯には行かぬ。  ブローガム卿の酷評を讀むと、さあ、自尊心と自負心の強い彼の事である。すつかり怒つてしまつた。傳ふる所によると、激昂の極、今にも決鬪でも申込みさうな有樣だつたと言ふ。その晩はクラレット酒を三罎も飮んでやつと怒りを散じた。  然し結局それ位の事では彼は參らなかつた。しばらくを經過するとはすつかり元の昂然とした心の状態に復してゐた。  一八〇八年の殘りの部分はニューステッドの自宅で暮した。ところがこのニューステッドの家は、それまで人に貸してあつたのだが、ひどく荒廢してしまつてゐた。然し彼には、それをすつかり修繕するだけの金は無かつた。仕方が無いのでほんの二三の室だけを住めるやうに手入れをして、自分の住むためと、母のための用意をした。彼は此處にゐる間ポープの著書に就いて勉強した。  十一月になつて愛犬のボートスウェーンが、狂犬になつてしまつて發作を起して死んだ。詩人は非常に悲しんだ。 [#ここから3字下げ] この墓石は わが友の遺骸を示すがために建てられる。 自分は唯一人の友しか知らなかつた、 そしてその一人の友が此處で眠つてゐる。 [#ここで字下げ終わり]  と言ふ句で終つてゐる有名な厭世的な詩は、この愛犬が死んだために書かれたものである。  現在に於てもニューステッドの庭園へ行くと、まだその犬の石碑が建つてゐて、その碑面にはバイロンの作つた碑銘が刻んである。 [#ここから3字下げ] このほとりに 埋められしものは、 美しく、しかも虚飾なき、 力強く、しかも傲慢ならず、 勇ましく、しかも殘忍ならず、 人間の持てるが如き徳のすべてを持ちながら、 しかも惡徳を持たざる者のなきがらなり。 かゝる賞讃も若し、 人のなきがらの上に刻みなば、 うつろなる追從とならん、 されどこは、 犬ボートスウェーンの思ひ出のための 正しき讃辭に過ぎず。 一八〇三年三月ニューファウンドランドに生れ、 一八〇八年十一月十八日ニューステッド・アベイに死す。 [#ここで字下げ終わり]  一八〇九年の一月二十二日にいよ/\彼が成年に達して、バイロン家を正式に相續する事になつたので、祝宴が開かれた。然し、財政状態があまりよくないので、さまで盛大にやるわけには行かなかつた。  その年の早春、彼は詩集出版の用事のためにロンドンを訪れた。そして同年の三月十三日に貴族院に初めて出席した。それには友人ダラスが連れ立つて行つた。この時バイロンは、平常よりも顏色を青くして昂奮してゐたと言ふ。貴族院初登院はあまり面白くゆかなかつた(それは連れ立つて行つたダラスが詳しく書いてゐる)。しかし、とにかく貴族院入りもまあ濟んでしまつたので、いよ/\外遊の旅行に出かける決心をした。  貴族院初登院の日から二三日して、バイロンの諷刺詩『英國詩人とスコットランドの評論家』が發表された。初版には署名をしなかつた。ところがその初版が一ヶ月の内に賣切れてしまつた。それで忽ち第二版を出版したが、今度は署名をして出した。この詩の中では、ヂョッフリーやブローガム、ムーアやキャンベル、中にも、湖畔詩人のウォーズウォースやサウヂイ等が散々にやつゝけられてゐる。コールリッヂさへもが罵倒されてゐる。とにかく自分に氣に入らぬ文人詩人と見れば、誰彼の差別なしに諷刺の槍玉にあげたのである。  間も無く彼は再びニューステッドへ戻つて、其處で自分の親友を招待した。そして盛大な別離の宴を開いた。その宴が二三週間も續けられた。その間いろ/\な歡樂と亂暴の限りが盡された。  そしてその宴を終りも果てず、詩人と友人のホブハウスは、外遊の途に上るべく、フォルマウスへと出發した。 第四章 旅行時代  バイロンの生涯を見る場合には、何よりも先づ彼のした旅行を見のがしてはならぬ。と言ふのは、彼と言ふ人間の特異性が、その旅行に於て最もよく現はれてゐるからである。  バイロンが何故あれ程好んで旅行をしたか? それは英國の貴族の子弟は、青年期から壯年期の時期を大陸旅行に費して、世間人としての仕上げをして來ると言ふ習慣にも依つたであらう。がバイロンの場合では、單にそれだけの原因のためとは言へないものがある。それほど彼の旅行に對する嗜好は甚だしいものがある。ではそれは何のためであるか?  彼の持つてゐるロマンティシズムのためである。絶えず外に向つて擴大しようと言ふ意欲の現はれである。不斷に、より廣くより廣くと彷徨ひ歩いて、地平線を廣く長くしようと言ふ世界人の心の現はれである。  最初の彼の旅行は、ペルシヤやインドを最後の目的地として計畫された。然し豫定通りに行かず、其處までは到着せぬ間に引返さなければならぬ事になつた。  彼は旅行にかゝる費用を調達するために、高利の金を借りた。そして一八〇九年即ち彼が二十二歳の六月十一日にロンドンを出發して旅行の途にのぼつた。彼に伴つて行つた者は、友人のホブハウス、從者のフレッチャー、膳夫のジョー・ムーレイ、バイロンの持家の借家人の一人の息子のロバート・ラッシュトンの四人であつた。この最後のロバートは、多分『チャイルド・ハロルド』の中に近從として書かれてゐる少年だらう。然し、この四人の隨行者の内、膳夫のジョー・ムーレイと、ロバート・ラッシュトンとは、ヂブラルタルまで行つて、其處から英國の方へ引返した。ジョーの方は健康がすぐれないため、ロバートはまだ歳が若過ぎるためだつた。  一行はフォルマウスの港に數日間滯在してゐた。バイロンはこの町を嫌つた。「クェイカー教徒や、やかまし屋の一杯ゐる町」と言つてゐる。よほど癪にさはつたと見える。やつと七月の二日になつて、一行の乘るべき郵便船がこの港を出帆して、スペイン領のリスボンに向つて航行した。そしてその月の中旬リスボンに着いた。丁度英國の艦隊が、其處からあまり遠く無いタガスの港に碇泊してゐた。  バイロンはその詩の中でリスボンの港の景色の美しさと、リスボンの街々の汚なさを描いてゐる。當時のリスボンの街々は、實にひどい不秩序の中に置かれてあつて、しよつちう宗教上や政治上の暗殺事件が起るので危險であつた。この港町では別に話は無かつた。唯一つ(この事はホブハウスが書いてゐる)バイロンは、危險を顧みずにリスボンから對岸のベレム城まで、ヘレスポントの河口を游ぎ渡つたと言ふ話が殘つてゐるのみだ。  バイロンはリスボン近くのシントラと言ふ土地の景色に感じ入つて、「世界中で一番美しい村」だと言つた。それからマフラの壯麗さを嘆美した。このマフラに就いて一挿[#「插」でつくりの縦棒が下に突き拔けている、第4水準2-13-28]話がある。マフラの一僧院を詩人が訪問した時のことだ。一人の僧侶が僧院内の大きな圖書室を案内しながら、 「英國にもやつぱり書物がありますかな?」と訊ねた。  リスボンから、荷物と三人の召使を海路ヂブラルタルの方へ廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してやつて、バイロンはホブハウスとたゞ二人づれで、スペインの西南部を馬で旅をして行つた。一日に平均七十哩づゝ旅行し續けて、四百哩行つてセヴィルに到着した。此處では、二人の美しい貴婦人のゐる家に三日間滯在した。詩人はこの二人の美人からかなり心惹かれたと、後になつて自分で白状してゐる。又、此處ではあの有名な「サラゴッサの娘」を見た。この女の事は『チャイルド・ハロルド』(第一卷五四—五八)に書かれてゐる。  次に馬でやつて來たのは、スペイン大西洋岸のカディツである。この町で見た鬪牛や、その他の景色の美しさは、後に詩や散文で描いてゐるが、よほど此處が氣に入つたと見えて、 「美しいカディツは宇内隨一の地である」と言つてゐる。  この港から二人は英國巡洋艦に便乘してヂブラルタルに向つた。ところがヂブラルタルに來て見ると、バイロンは事々に嫌氣がさした。それと言ふのが、彼は普通の英國流な愛國主義には何等の同情も持つてゐなかつたのだ(ヂブラルタルは英國植民地)。  船はヂブラルタルを出帆して、今度は地中海を航海した。そしてコルシカ島に隣りしたサルディニア島のカグリアリ港に寄港し、更に進んで、イタリーの南端シシリー島のギルゲンティにも寄港した。その間別に大した話し無く更にマルタに到着した。  マルタには三週間滯在してゐた。その間に詩人はコンスタンティノープル公使夫人のスペンサー・スミス夫人とねんごろになつた。二人の間には感傷的な情事があつた。しかし、その關係は全然プラトニックなものであつた。彼女は『チャイルド・ハロルド』中にフローレンスと言ふ名の女として現はれてゐる。又、後になつて、この女を主題として歌はれた立派な短詩もある。  九月の二十九日になつてこのマルタを出發した。今度は「蜘蛛」と言ふ名前の戰艦に乘つた。そして途中パトラスの海岸に二三時間上陸したのみで、アカルナニアの沿岸に沿うて、イサカやレウカデアの岩や、アクティアム等を見ながら航行し、プレヴィサに上陸した。そして其處からアルバニアを通り、── [#ここから3字下げ] 莊嚴な山々を越え、 歴史の物語に出て來ても、 氣もつかない國々を通つて、 旅行を續けた。 [#ここで字下げ終わり]  バイロンはこの旅行中、その土地の景色の美しさと、住民の半野蠻的な獨立状態から深い感銘を得た。十月には一行はジャニナに到着した。此處では有名なアルバニアのトルコ人アリ・パーシャから厚遇された。再び此處を發足し、「荒涼たるピンダス」のほとりを通り過ぎ、アケラシアの湖を見、チッザに至つた。このチッザに到着するちよいと以前の事であるが、一行は激しい雷雨に出逢つた。一行はちり/″\になつて、九時間ばかりと言ふものバイロンのありかが分らなかつた。ところがバイロンはその間一人で、マルタで逢つたフローレンス即ちスペンサー・スミス夫人を主題にした詩を作つてゐた。  數日後に、一行はアパレニに到着した。そしてアリ・パーシャがぢき/\に一行を歡迎した。このアリ・パーシャと詩人との會見の事は、詩人が母に書き送つた手紙の中に出てゐる。この手紙は十一月十二日の日附になつてゐる。 「彼は一番最初に私に向つて、あなたはまだそんなに若いのに乳母も連れずにどうして國を出て來たのか? と訊ねました。それから、英國公使の話ではあなたは英國の立派な家柄の人ださうだが、御母堂によろしく申上げて下さい、と言ひましたよ。あなたはたしかに高貴の生まれに相違ない、何故ならばあなたの耳が小さいし、髮は卷毛だし、手は白くて綺麗だからとも言ひました。トルコに居る間は自分の事を父だとお思ひなさい、自分もあなたを息子の積りでゐるから、とも言ひました。實際彼は私を息子のやうに取扱つてくれて、巴旦杏や、果實や、菓子などを一日に二十度程も贈りとゞけてくれました」  然し間も無く、バイロンはこの寛大さうなアリ・パーシャが實は毒殺者であり、暗殺者である事實を發見した。そして彼のためにひどい目に逢つた。それでアパレニに居る事も出來なくなつて、一行はスリの海岸へ引返した。そして間も無くアカルナニア、エトリアを通つてモレアへ出發した。その旅行の途次に於ても、さま/″\の壯大な荒蕪の景色を賞し、また野生のまゝに猛々しい性質を持つた住民等を親しく見た。これらの旅行中に見た不思議な魅力を持つた種々の情景等は、すべて『チャイルド・ハロルド』中に記述されてゐる。  十一月の二十一日には一行はメソロンギに到着した(是より十五年後にバイロンは此處で死んだ)。  メソロンギで今迄連れてゐた從者等の大部分と別れてしまつて、パトラスを指して旅を續けた。それよりヴォスティッツァへ行つて、パルナサス山の姿を見た。更にリヴァディアに出て、テーベに至り、トロフォーニアスの洞窟、ダイアナの泉、世に言ふピンダー家の廢墟、チェロニアの野等を訪れ、シタロンを横切つて、丁度一八〇九年のクリスマスの日にフィルの廢墟に近い一狹路の前に到着した。バイロンは此處で初めてアゼンスの最初の姿を見たのである。そしてかの有名な詩句を歌つてゐる。── [#ここから3字下げ] 時代のさきがけ、莊嚴なるアテナよ! お前の勇者は今何處にゐるのだ? お前の偉大なる魂は何處にあるのだ? それは、曾て存在してゐたものゝ夢の中を 輝きつゝ通り過ぎて行つてしまつたのだ、 人類爭鬪の第一人者として 榮譽の決勝點を贏ち得た彼等、 彼等は勝つた、 勝つて、そして亡びて行つた、 それですべてだ。── 學校子供の噺か、時の不思議? [#ここで字下げ終わり]  その後で、彼は、再三再四歌つたモラルに立ち歸つてゐる。 [#ここから3字下げ] 「人は來り、人は逝く。しかも山も海も、空も星も殘つてゐる」── アポロは今も尚 お前の永い夏を黄金色に照してゐる。 メンデリの大理石像も アポロの光の中にきらめいてゐる。 藝術も、名譽も、自由に亡びる── しかも自然は今尚美しい。 [#ここで字下げ終わり]  この最初の旅行で、バイロンがアゼンスに滯在してゐたのは三ヶ月間であつた。その間、アッティカや、エサウシスや、ヒメッタスや、。コロンナの岬や、エディパス王のコロンナスや、マラソンの平野などへよく出歩いた。  このギリシヤの首都で彼の泊つてゐた家は、英國の副領事の未亡人である貴婦人の邸宅であつた。この未亡人には三人の娘がゐた。長女のテレサをバイロンは非常に讃美してゐる。彼の詩の中で「アゼンスの乙女」として歌はれて、清淨なうらやむべき名を贏ち得てゐるのは、このテレサであつた。  アゼンスにゐた頃、バイロンが本氣になつて激怒したことがある。それはパルテノン殿堂にある大理石像を、英國のエルギン卿が購入して英國へ持ち歸つた爲めである。これに就いては、バイロンは『ミネルヴァの呪ひ』と言ふ詩を書いてゐる。彼の激怒にも理由があつた。折角古代の美しい彫刻がその在るべき所に在るのを、英國などに持つて行くと言ふ事は、彼には、美に對する、又美の神々に對する許すべからざる冒涜[#「さんずい+賣」]としか思はれなかつたのである。然し一方から考へて見ると、折角の美しい大理石像もアゼンスに置いとけば、次第にくすぶつて廢滅に至らうとしてゐたのであるから、それを英國に將來するのも、あながち惡くばかりは言へない點があつた。そして現在に於ては、それらの尊い作品はアゼンスによりも、大英博物館の方により多く保存されてゐる。  三月の二十八日にはスミルナへ行つた。そして其處で『チャイルド・ハロルド』の第二卷が完成した。この詩は、前年の秋ジャニナにゐた頃書き始められたものであつた。  四月の十一日になると、巡洋艦の「サルセット」に便乘して一行はコンスタンティノープルに向つた。途中、艦はトロードの港に寄港したが、此處では上陸して、暫く狩獵や、舊跡を見て歩いたりした。  ダーダネルスでは、風の都合でしばらく出帆を待つてゐなければならなかつた。それで詩人はヨーロッパ側の陸地に上陸した。そして、エケンヘッド海軍少佐と二人連れで、セストスからアビドスまで海峽の急流を游ぎ渡つた。これに就いては、彼は後になつて何度も何度も自慢をして話した。  やつと五月の十四日にコンスタンティノープルに到着する事が出來た。此處の「ゴールドン・ホーン」の景色には、詩人は讃嘆の言葉を惜しまなかつた。そして初めてペルシヤへ行く事を斷念した。  コンスタンティノープルに於ける彼の行状に就いては、ガルトその他の噂好きの旅行家等が、さまざまに書いてゐる。當時彼の着てゐた緋色と金色の着物のこと、貴族であるがために要求されるいろんな形式や禮儀に從はなかつたこと、彼が他人に對して或る時はひどく打ちとけたり、或る時は頗る傲然と構へたりしたこと、その他いろ/\ある。彼のこの都での見聞は『ドン・ファン』その他の中に多く描かれてゐる。例へば、奴隷市場の事は『ドン・ファン』の中に描かれ、犯罪者の死骸が海上を漂うてゐる景色の事は『アビドスの花嫁』の中に歌はれてゐる等である。  バイロンとホブハウスは七月の十四日にコンスタンティノープルを出發した。ホブハウスは、このまま英國に戻ることになつた。何故彼一人が戻ることになつたものか、その理由は判然としないが、バイロンは別にそれに文句を言はなかつたらしい。二人はツェア(チェオス)で別れた。詩人はこのツェアの小島で暫く孤獨に過した後、アゼンスへ戻つた。アゼンスでは學友のスリゴ侯爵と舊交をあたゝめた。二人はコリント島まで行つて別れた。バイロンは領事に用があつてパトラスへ行つた。それが七月の下旬だつた。それ以後の十ヶ月間は其處にとゞまつてゐた。その間の詩人の生活は正確にはわからない。たゞ、その間の半ば以上は、主としてアゼンスへ出かけて、友人や知己と面會したり、遊んだりした。當時のいろ/\な逸話や、物語が傳へられてゐるが、その正否は全然不明である。しかしその間も詩作は續けた。『チャイルド・ハロルド』のノートを書き溜めたり、『ホーレイスよりの暗示』を作つたり、『ミネルヴァの呪ひ』を書いたり、その他種々の詩の腹案を立てた。  この時には、既に前に出て來たテレサは彼の生活の中に出て來なくなつてゐる。テレサの代りに、『ギアオール[#「ギアオール」は底本では「ボアオール」]』のヒントとなつた女が現はれて來てゐるが、これは多分、彼がその殺されようとしてゐるのを救つた若い女の事だらうと思はれる。しかし、それも正確とは言へない。  この期間の彼は、非常にいら/\しい氣分で生活した。當時書いた『コリントの包圍』のためのノートを見ればそれが推察出來る。ギリシヤ各地にたえず旅行を試みたのもそのためであつたのだ。  パトラスを二度目に訪うた時、即ち九月に、彼は沼地獨特の熱病にかゝつた。それは十月になつて治つたけれども、この時から十四年後に遂に死ぬやうになつたのも同じこの熱病のためである。  それに熱病になつても、確かな醫師がゐなかつた。二人の醫者に見て貰つたが、その二人ともがひどい藪醫者であつた。だから病氣を浴すのに殆んど役に立たなかつた。彼の事を心から心配して呉れる下僕の力で、やつと元通りの體になつた。  全快してアゼンスへ戻れたが、食事を僅かしかしないために、豫後が隨分永いことかゝつた。當時の彼の食物は主として、米に醋に水であつた。  しかし病氣が治つて、身體がすつかり囘復すると、再び彼はエヂプトへの旅行を思ひ立つた。次の年の早春、彼が國元へ送つた手紙にはその事が書かれてゐる。しかし彼の財産の事を委託してあるハンソン氏が、送金を中止してしまつたので、このエヂプト行きの計畫は挫折してしまつた。借金のために、彼の財政状態はどうにもかうにもならなくなつてゐた。そして遂に英國に歸國せざるを得なくなつた。  で、仕方無しに歸國する積りで、マルタまで行つたが、其處で又かなり惡性の間歇熱にかゝつてしまつた。しかしまあいゝ具合に全治して、巡洋艦の「ヴォレーヂ」に便乘して歸航の途に就いた。かうなると彼も意氣銷沈してしまつた。 「今自分は、一つの希望も一つの慾望も無くなつて歸國してゐる……」  と言ふ文句が、一八一一年の六月二十九日の日附で海上から英國のホヂスンあてに書かれた手紙の中に見えてゐる。 「要するに自分は心痛んで悲しんでゐる。……自分は今おしやれも嫌になつた、詩も嫌になつた、おしやべりも嫌になつた。……」とも書いてゐる。よつぽどこたへたらしい。  彼は七月の中旬ロンドンに到着した。そして財産のことゝ詩集出版のことを整理するために、暫くとゞまつてゐた。當時ニューステッドに住んでゐた彼の母は、病氣のため、かなり弱つてゐた。そして七月の下旬に危篤に陷つた。バイロンは早速ロンドンから呼び寄せられた。然し彼がニューステッドに到着しない間に母は死んでしまつた。それが八月一日であつた。  母の死を知つてバイロンがピゴットに書き送つた手紙に、 「われ/\は唯一人の母しか持つてゐないと言つたグレイの言葉が眞實だと言ふ事を、今私は感じます。母に冥福あれ!」との文句がある。  ニューステッドに着いて母の死に直面したら、詩人は自分と母の仲が惡かつたことも、よく喧嘩をしたことも忘れてしまつた。そして深い悲嘆にくれた。悲しみのあまり葬式にも行けずに、アベイの門の所に茫然としてたゞずんで、葬式の行列を見詰めてゐた。  その日から五日の後に、彼の親友であつたチャールス・スキンナー・マッシュースがケンブリッヂで溺れて死んだ。 第五章 ロンドン生活  ロング、ウィングフィールド、エッドルストーン、マッシュース等の友人が死に、母が歿した後のバイロンの周圍は、かなり寂しいものになつた。悲しい心を抱いて、彼はニューステッドからロンドンへ歸つた。  彼にオーガスタと言ふ腹ちがひの姉がゐたと言ふことは前に述べて置いたが、それまでは餘り逢つたことは無かつた。前後二度逢つたばかりだつた。一度は一八〇四年に、次に一八〇五年に。  このオーガスタは一八〇七年にライと言ふ軍人の所へ嫁に入つた。それまでに二度しか逢はなかつた位で、この姉とは別に親しく交通はしなかつたけれども、バイロンは彼女を愛してゐた。オーガスタの方もバイロンを愛してゐた。そして詩人は外遊の旅に在つても、時折は故國の姉に向けて、優しい手紙を書き送つてゐた。  バイロンは先に外遊の旅からロンドンへ歸つて來た時に、外遊中に作つた諸詩作中から『ホーレイスよりの暗示』だけを出版したいと思つて、その原稿をダラス氏に渡して置いた。出版屋のカウソーンの手から出版して貰ふ積りであつた。  ところがそれを頼まれたダラス氏が、この『ホーレイスよりの暗示』を、あまりよい作品だとは思はなかつた。それでカウソーンに出版させるのを躊躇した。そのために、この作はムーレイ氏の手に渡つて、バイロン死後一八三一年にやつとの事で出版の運びになつた。  そんな出版のための交渉や、財産の整理や、借金の始末などのために、ニューステッドにゐても、再びロンドンへ歸つて來てからも忙殺されてゐた。その内に、特に財産や金の事で頭を使ふことが次第にうるさくなつて來た。うるさいのが今度は我慢出來なくなつて來た。あげく、たうとう一八一二年の一月には、 「自分は再び外國へ行つて、もう英國へは歸つて來たくない」と友人のホヂスンに向つて斷言した。然しすべての事情が、今のところ彼の外國旅行を許さなかつた。いま/\しいやうな氣持を抱きながら、種々の俗事にひつかゝつてゐなければならなかつた。  同月の二十七日に彼は貴族院で演説をした。ノッティンガムの機械破壞者に對して特別の刑罰を制定するための法案に就いての反對演説であつた。ところがこの演説は、かなり立派に出來て各方面から仲々評判がよかつた。ホーランド卿などゝ親しく文通をするやうになつたのも、その結果のためであつた。最初の演説がこんな具合にうまく行つたので、それに元氣づけられて、それから再三再四演説をやつてゐる。同年の四月二十一日には、ローマカトリック解放案に對する賛成演説をやり、一八一三年の六月には、カートライト市長の請願書に味方をして演説をしてゐる。彼はこれらの場合、常に自由黨の方に味方してゐる。彼は腹の底からの自由主義者であつた。  然し此處に注意すべきは、彼が政治に對して採つた態度は、かのマンリアスやシーザーと同樣に、あくまで「民衆のために」と言ふ態度であつて、自分自身は何處迄行つても「民衆中の一人」の態度ではなかつたと言ふ事實である。  一月の二十九日になつて、『チャイルド・ハロルドの巡禮行』の冒頭の二卷が出版される事になつた。バイロンはこの詩集の一册を、既にライ夫人となつてゐる腹ちがひの姉のもとへ贈つた。それには、「ふつゝかな私をいつも熱愛して下すつた、私の最愛の姉であり又最も親しい友なるオーガスタへ。あなたの父の息子であり、あなたの最愛の弟なるBよりこの書籍を棒ぐ」と記してやつた。  この詩集は、非常な勢ひで賣れて、僅かに四週間の間に七版を突破した。英國近代に於てこれ程賣れた詩集は澤山は無い。まあ、スコットの『歌謠集』と、バーンズの詩集の初刊がこれに匹敵する位のものである。  すべての人々の眼が、忽然として、この詩集の著者に注がれた。社交界は熱心な喝采を以て彼を迎へた。そのために、バイロンは、入りかけようとしてゐた政界に於ける野心を斷念してしまつた。そしてその後二年間と言ふもの、文字通りに社交界の寵兒となつた。  一八一三年の四月には『ワルツ』が出版された。これにはバイロンの著者名が無い。同年の五月には『ギアオール』が出版された。これはそれまでの三ヶ年間に書き上げられたもので、彼の書いた最初の物語詩であつた。この作も亦ロンドン社會から非常な賞讃を以て迎へられた。  彼の物語詩はこれ以來、いくつも書かれて出版された。『アビドスの花嫁』(同年十二月出版)、『コルサイル』(一八一四年一月出版)、『ララ』(同年の五六月に書かれ、八月に出版)、等である。 『ギアオール』の大要を書くと、ギアオールと言ふ男がハッサンの情婦を盜む、それをハッサンが怒つて、ギアオールに復讐するためにその情婦を溺死させる。ギアオールは逃亡したが、引返して來て、ハッサンを殺し、自分は修道院に行く、と言ふのである。 『アビドスの花嫁』も『コルサイル』も『ララ』も、大體の筋や、作中人物などに於ては、この『ギアオール』に似てゐる。  一八一四年の十二月には『ヘブリュー歌曲』が書かれてゐる。この詩は、幼時のバイロンが舊約聖書を如何に愛讀してゐたかと言ふ證據として興味のある作品である。 『コリントの包圍』は彼の結婚(一八一五年)後の夏と秋との間に書かれたもので、出版されたのは、一八一六年である。これは力強い詩である。一八一六年には、もう一つ『パリジナ』と言ふ詩が發表されてゐる。この詩は、詩人としてのバイロンの、この時代での最も傑出した作品であらう。  以上列記した諸作は、『チャイルド・ハロルド』の最初の二卷と同樣に、すべてバイロンの詩人としての經歴の上では、一時期に屬してゐるものである。これらの諸作は、實に矢繼早に世に現はれた。然もその一つ/\が、すべて言葉の使驅の上に於ても、諧調に於ても、旋律や韻の流暢さに於ても、實に立派なものであつた。これらの點のすぐれてゐる事に於ては、勿論個性的な差こそあれ、詩人ムーアやスコットと較べても、勝るとも劣りはしない。  然し缺點を言へば、これらの諸作には、どれでも一種のメロドラマ風な味がつきまとつてゐる。しかもそれがマンネリズムに陷ちてゐる。カーライルなどはその點を散々に罵倒してゐる。それと言ふのが、バイロンが餘りに安易に、早急に詩を作つたためである。バイロンは、いつも詩を作る時には一氣に書いてしまつて、後でそれを修正すると言ふやり方であつた。彼は自分で言つてゐる。── 「自分は、一八一四年の宴會で、舞踏會と假裝會に出席して、其處から家に戻つて來て、着物を脱いでゐる間に『ララ』を書いた。『アビドスの花嫁』は四日で書き上げたし、『コルサイル』は十日で完成した」  詩集の方から金の入つて來たのは『ララ』を出版した時からであつた。その時には七百ポンド貰つた。『チャイルド・ハロルド』から六百ポンド、『コルサイル』からは五百二十ポンド貰つたが、この方は、いろ/\面倒を見て貰つたダラス氏にそつくり贈つた。『ギアオール』や『アビドスの花嫁』からの收入も同樣にダラス氏へ渡された。  ところでバイロンは、これらの詩集を次々に出版して、それが非常に歡迎され、社交界などから殆んど引張凧のありさまなので、この期間(一八一三年—一八一六年)にロンドン杜會のあらゆる方面に親しんだ。そして其處にある、あらゆる快樂を經驗した。その極はロンドン時代の末になると、彼の言葉を使へば「その快樂の廢頽を感じ」さへもした。當時の彼の交際の範圍を大體二方面に區別することが出來る。即ち、社交界の人々と文學者である。  彼は種々の劇場にも出入して、それらのパトロンになつた。一八一五年には「ドゥルリー・レーン劇場委員會」の一員になつた。それに、ロンドンに幅を利かしてゐた伊達者たちとも親交をかはした。それらの内には、あの有名なボー・ブランメルもゐた。一八一二年の六月には、時の攝政に謁見を仰せつけられた。その際攝政は、詩人に向つて言葉を盡して讃辭を呈した。こんな事をされたのは當時彼とスコットだけだつた。然しバイロンは、攝政に對しては餘り好感を持たなかつた。その事は、詩人が後年に書いた『アヴェーター』と言ふ詩を見ればわかる。そのために、桂冠詩人の株をサウヂイに取られてしまつた。  ロンドンでこの時期に彼が交際した文學者その他の藝術家連の中には、ハンフリー・ディヴィ卿、エッヂウォース一家、ヂェイムス・マッキントッシュ、劇作家コルマン、俳優キーン、モンク・レウィス、グラッテン、カラン、スタエル夫人等がある。  その次に忘れてならないのは、彼とスコットとの關係である。丁度その頃、スコットはムーレイ氏を間に立てゝ、攝政謁見の事でバイロンに手紙を出した。そして、この手紙がきつかけになつて、二人の間には親しい交際が開けて、それ以來、終生續いた。この二人は、以前には、暫くの間たえず嘲罵し合つて、犬と猿とのやうな仲だつたのである。詩作の世評の上でも、互に相爭つて來てゐた。しかもその頃から互にその價値を知り合つてゐたのである。それ位であるから一度二人の間に交際が始まると、忽ちにして親しくなつた。スコットがバイロンの詩作に對して好意に滿ちた手紙をやれば、バイロンもスコットの作品を褒めて、「私が先年書いた諷刺詩は、あれはまだ私が若かつたためと、激怒に驅られてゐたために書いたものだから、氣にかけて呉れるな」と言ふ意味の手紙を書いた。二人は互に尊敬し合つた。 「あなたの『ギアオール』は、このスコットランドの山々の中で好評を博してゐます」とスコットが書いてやれば、 「あなたの『ウェーヴァーリー小説』は、私が今迄讀んだ小説中隨一の作です」とバイロンが書いた。しかも、それらの言葉にはお世辭は少しも無かつた。と言ふのは、スコットはバイロン以外の人に向つても、 「私は戀物語を書くのを斷念しました。何となればバイロンが私を負かしてしまつたからです。私が矢の羽を引く事もようしないのに、彼は標的を射あてたのです。彼は、私のまだ知らない情緒の流れに近寄つてゐます」と言つた。バイロンはバイロンで、自分とスコットとの間に、世間の讀者が拵へた優劣の比較を嫌つて、これを打ち消した。彼は自分の詩集『ギアオール』に「パルナサスの帝王に贈る」と書いてスコットに贈呈した。バイロンのスコットに對するこの尊敬の念は終生續いた。後年イタリーで、スコットの事を「北方のウィザードであり、アリオストである」と言つてゐる。  二人は互に手紙の上でのみ交際してゐたが、双方逢ひたがつてゐた。その内にやつと一八一五年の春ロンドンで面會した。その時の事をスコットが次のやうに書いてゐる。── 「私はバイロン卿が特殊の性癖の所有者であり、短氣な人だと言ふ話を聞いてゐたので、その覺悟をしてゐた。そしてうまく交際社會で折合つて行けるかどうか疑はしいと思つてゐた。ところが私のこの豫想は非常にちがつてゐた。面會して見ると、バイロン卿は實に慇懃な、寧ろ親切な人であつた。私達は大概毎日のやうにムーレイ氏の客間で一二時間づゝ會見した。そして互に隨分いろ/\な事を語り合つた。二人の意向は概して共鳴した。唯、宗教問題と政治問題では意見が合はなかつた。この二問題に就いてバイロン卿の抱いてゐる意見は、あまり強固なもので無いと言ふ氣が私にはした。政治問題に就いては、時々彼は、今で言ふ自由主義の意見を強調する事があつた。然し彼のそのやうな思考の根抵には、自分自身の機智や諷刺を、官途にある人々に向つて放つ道具として彼が自由主義を奉じ、それに依つて快樂を感ずると言ふ所があるやうに私には思はれた。内心に於ては私は寧ろバイロンを目して、本來貴族主義者とすべきだつたらう。彼の讀書の範圍が著しく廣汎だとは私には思はれなかつた。……私が最後に彼と逢つたのは一八一五年の九月で、丁度私がフランスから歸國した後であつた。その時私とバイロンは、ボンド街のロングの家で食事を共にした。この時程彼が元氣よく、はしやぎ切つてゐたのを私は曾て見た事が無かつた。その日が私が彼と會見した日の中で一番愉快な日だつた。彼と私との間には、大抵半年置き位に數度に亙る文通があつた。ホーマーの物語の中に出て來る古英雄のやうに、私達は贈物を交換した。私はバイロンに黄金造りの美しい短刀を贈つた。それは曾てあの恐ろしいエルフィ・ベイの所有物であつたものだつた。ところが私の方は『イリヤッド』中のディオメドの役を演じなければならなかつた。と言ふのは、それから暫く經つて、バイロンは私に、銀製の大きな墓壺を贈つたのだ。これはアゼンスの陸壁の間から發見されたもので、中には死人の骨が一杯はひつてゐた。  彼はよく憂鬱になつた。殆んど陰鬱になつた。……ウィル・ローズが曾て何の氣も無しに、バイロンの足を見た。するとバイロンは、ひどい澁面を作つた。ローズはそれを見て取つたが、わざとそれに氣が附かぬふりをしてゐた。するとバイロンは澁面をやめて、もとの氣樂な容子を取り戻した。 私が彼に就いて好きな事は、その無限の天才の事は別にして、彼が金惜しみをしないのと、心事の濶達な點なと、文學の上のあらゆる氣取りに對して、頭から嫌惡してゐた點である。彼は、私とムーアを好いた。そのわけは、私とムーアが種々相違した點を持ちながらも、二人ながら氣心の善い人間であつて、別に威嚴を作らうともしないし、諧謔を樂しむ人間だつたからである。  彼は衝動から詩作をした。決して努力して作りはしなかつた。それで私は、現代及び此處五十年の間ではバーンズとバイロンが最も純粹な天才詩人だと常に思ふ。高い詩の才能を持つてゐる人は澤山ゐるが、しかしこの二人の如く、常に滾々として絶え間なき自然の噴水は他に無い」  實にスコットは、バイロンを目するに、英國詩界に於てドライデン以來の大才だとした。  スコットもバイロンもウォーズウォースには逢つた。然し二人ともウォーズウォースの偉大さを理解しなかつた。ウォーズウォースのバイロンに對する見解は、かなり興味がある。湖畔詩人等と親交のあつたクラブ・ロビンソンの記述した所によれば、ウォーズウォースは、その友チャールス・ラムの部屋で一八〇八年頃バイロンに就いて次のやうに言つたといふことである。 「これらの評論家(バイロン及びバイロンの詩を惡評罵倒した評論家等を指す)は私を怒らせてしまつた。現在英國に一卷の詩集を著はした一青年がゐる(バイロンを指す)。すると、その評論家連は、その青年が貴族であると言ふために、攻撃した。だがこの青年は、若し始めた通りに精進すれば、何事かを爲し得る青年である。然るに、これらの評論家達は、屋根裏に住んでゐる者でなければ詩は書けないと思つてゐるらしい」  即ち、ウォーズウォースはバイロンの前途に相當の期待を持つてゐた。バイロンが詩人として出た初期に、數多の評論家から意地の惡い惡評を浴せかけられた事に對して、彼はひどい不愉快を感じ、バイロンに同情してゐる。數年後にバイロン夫人が、ウォーズウォースのこの言葉を人から聞かされた時に次のやうに叫んだと言ふ。 「あゝ、若しバイロンがその話を前から知つてゐたんでしたら、決してウォーズウォースの事を惡くは言はなかつたでせうにねえ。バイロンは、或る日ウォーズウォースと面會して食事を一緒にするために行つた事があります。歸つて來てから私は言ひました。『どうでした老詩人(ウォーズウォース)と青年詩人(バイロン)との會見は?』すると彼は『いや、ほんとの事を言へばね、私は今日の訪問では初めから終りまで唯一つの感情しか持つてゐなかつたよ。その唯一つの感情と言ふのは畏敬と言ふ感情だつた』と答へましたよ」  この話から推察して見ると、バイロンは、その初期に於てはいざ知らず、この時代に於てはウォーズウォースに對して、かなりの尊敬の念を持つてゐたのである。  彼は又、湖畔詩人の一員にして時の一流詩人たるサウヂイとも親交を結ぶに至つた。そしてサウヂイとホーランド卿邸で面會した後で、サウヂイの持つてゐる人好きのする美貌の事を熱心に讃へた手紙を書き送つたりした。  前掲のスコットのバイロン印象記中にもちよいと書かれてゐた通りに、ムーアとも親しかつた。ムーアはバイロンの詩をしきりと褒めちぎつてゐる。ムーアのバイロンに對する關係は、親友と言ふよりも、むしろその崇拜者と言つた方がより適當な位である。  バイロンと湖畔詩人とを比較考察する事は、なか/\興味の深い研究になる。バイロンも湖畔詩人も、最初の出發點に於ては、革命的精神がその詩の根本になつてゐる。バイロンに於てはこれは既に説明も不必要な位に明白な要素であるし、湖畔詩人に於ても、その首領とも目さるべきウォーズウォースは、その初期に於ては革命的情熱に驅られ、フランス革命に強く動かされて、自ら遠くフランスまで遊んだ位であつて、革命的精神が彼等の詩情に最初の點火をした事は否定出來ない事實である。  また、バイロンも湖畔詩人も、その杜會的及び個人的感情に於て、かのフランス近代の大才ジャン・ジャック・ルッソーから著しい影響を受けてゐる。バイロンのロマンティシズムも湖畔詩人のロマンティシズムも、すくなくともその當初に於ては、ルッソーのはロマンティシズムから眼を開かれてゐる。しかもバイロンと、湖畔派の詩人達の間には、根本的な相違がひそんでゐた。そして、それが次第に環境の中に眼醒めて來るに從つて、其處に益々廣い隔りが生じて來たのである。  ウォーズウォースの「自然に歸れ」の感情はカウパーに依つて先驅されてゐる。バイロンのそれはバーンズに依つて先驅されてゐる。だからウォーズウォースとバイロンの相違は、同時にバーンズとカウパーとの相違の中に暗示されてゐる。ウォーズウォースのロマンティシズムの歸結は「單純なる樣式と、舊信仰」へ行き、バイロンのロマンティシズムの歸結は「暴風雨の精神」へおもむいた。そしてこの二派は、その當初に於ては、等しい影響と刺戟から出發したにもかゝはらず、次第に進展した今となつては、互にその詩作の價値を認めなくさへなつたのである。  バイロンはこれより數年の後、ライ・ハントに向つて次のやうな事を書き送つてゐる。ライ・ハントはバイロンの崇拜者であると同時にウォーズウォースの崇拜者であつた。 「私はウォーズウォースに就いては、曾て君の説に賛成したが、今となつては賛成した時と同樣に腹藏無く反對する。『リリカル・バラッズ』以來の彼の作品は、彼の裡に潜んでゐる詩才に對してその價値の低い事憫然たるものがある。彼の作『散策《エキスカーシヨン》』の中には、たしかに彼の持つてゐる本來の詩才が溢れ出てはゐる。然しそれも岩の上に落ちる雨水の如きものに過ぎぬ。雨水は岩上に停滯して腐敗してゐるのだ。若しくは、それは砂に降る雨水に過ぎない。雨水は砂上に降つても、土地を肥やしはしないのだ」  尚當時のバイロンの交友中、是非擧げて置かなければならぬ人は、エルスカインと、シェリダンである。殊にシェリダンに對しては、彼は非常な好意を抱いてゐた。そしてその戲曲作家としての才能を常に稱讃して措かなかつた。  シェリダンは近代に於ける最も立派な喜劇(シェリダンの作『School for Scandal』を指す)の著者であり、また最も立派な滑稽劇(同じく『批評家』を指す)の作者であつて、しかも英國未曾有の演説家(シェリダンの有名なるベカムの演説を指す)である」と言つた。  このエルスカイン、シェリダン、バイロンの三人はよく寄り合つては快談や酒宴に夜を過した。そして酒の上で、いろ/\の惡戲や失策を演じた。しかしバイロンは酒に對しては、あまり強い方ではなかつた。だから、飮むにはよく飮んだが、バーンズほど酒に耽ると言ふやうな事はなかつたらしい。彼が耽つたのはむしろ酒以外のものにあつた。 第六章 結婚  バイロンは美しい容貌の持主であつた。美しい眼の所有者であつた。スコットが曾て、「私は現代の英國の立派な詩人と言ふ詩人に逢つた。その中でバーンズが一番かゞやかしい眼を持つてゐる。だが畫家が繪に描きたいと思ふ程、美しく性格を現はしてゐる眼と言ふのは、バイロン以外に無いと思ふ。彼の容貌は、實に人が夢に見るやうな美しい容貌だ」と言つた位である。  コールリッヂもスコットと同じやうに、バイロンの容貌を讃美してゐる。  その美しい容貌が彼を幸福にもすれば、不幸にもした。同樣に、彼に戀をした數多の女性を幸福にもし、不幸にもした。彼に戀をして、しかも一番不幸であつた女は、曾て、 「あの人の白い顏は私の宿命です!」と叫んだと言ふ。  彼が女に對して一生苦しんだのも、その原因の大部分を彼の美貌に置くことが出來る。或るドイツの批評家は言つてゐる。 「親愛なるチャイルド・ハロルドは、實際、女達から包圍されてゐた。だが女達は、彼からどんな酷い目に逢はされても實は不平を言ふ權利は無いのだ。と言ふのは、彼は子供の時分から女の惡い半面ばかり見て來たのだから」  だがバイロンが、數多の女達に向つて、正しくなかつたと言ふ事實は、どうしても否定出來ない。そしてこの事實はバイロンの性格を了解するための重要な鍵になる。彼の抱いてゐた女性觀は、彼が言つた次の言葉によく現はれてゐる。 「自分は女と言ふものを、非常に美しくはあるが、男性よりも劣等なものだと思つてゐる。女の位置と言ふものは、評議室に於て無價値であるやうに、日常社會に於ても亦無價値である。女性に對する現今の制度の全體が、われ/\の祖先の無智なる婦人崇拜の遺物である。自分は女の事を、大きくなつた子供として見てゐる。しかも自分は、馬鹿な母親のやうに、常に彼等の中の一人の奴隷である。トルコ人はその女を室の内に閉ぢこめて置くものだが、その方がまだ仕合せだ。彼等は女に、鏡と燒いた巴旦杏とを與へる。するとそれで女は滿足するのだ」  このバイロンの「自分は女の事を、大きくなつた子供として見てゐる。しかし自分は、馬鹿な母親のやうに、常に彼等の中の一人の奴隷である」と言ふ言葉ほど眞實に、彼の女に對する態度を暗示してゐるものは無い。こんな言葉は、チョーサーにも、スペンサーにも、シェクスピヤにも、シェリーにも言へなかつた言葉だ。  しかも、女に對してこんな意見を持ちながら、彼がその詩の中に出て來るアンヂョリナやハイディやオーロラ・レイビィやアスタルテを描くのに如何に純粹な情熱を以てしたか! また姉のオーガスタに書き送つた手紙が、如何に清純な愛に滿ちてゐるか! これは實に面白い對照でなければならぬ。  彼には美貌があつたばかりでは無い。地位があつた。聲譽があつた。そして詩の輝くばかりの魅力があつた。外遊中の戀物語があつた。繪のやうな憂鬱と、何かしら神祕を藏してゐるやうな魔力があつた。これらが彼に接するほどの女達を誘惑し、迷はしてしまつた。  バイロンを崇拜讃美した女は、大體に於て文學者以外の女である。書物を書いたりしたやうな女は彼を嫌つて信じなかつた。むしろ憎みさへもした。  最近に至つて出版されたフランセス・アン・ケンブルの『囘想記』は、バイロンが當時の女にどんな風に見られてゐたかと言ふ事の興味ある一例となる。それに依ると、彼女はバイロンの詩を初めて讀んですつかり心を魅されてしまつたと言ふ。「鋼鐵で掴まれたやうに詩集に惹きつけられ」て、寢る時にも放す事が出來ずに、枕の下に詩集をかくして寢た。バイロンの詩は「毒藥のやうに」彼女に作用して、彼女の全生命を、暴風雨のやうな昂奮でかきたてた。そのためにたうとう最後に彼女は、耐へ切れずに詩集を投げ出して「あの偉大な詩を讀む事をやめてしまつて、あの力強い咒文から脱しようと決心した」と言ふ。  これは一例に過ぎない。まだその他にどれ程のこれに似た女がゐたか分らない。當時バイロンが、ロンドン社交界の女達からもてはやされた事は非常なものであつた。それらの女達に取卷かれて、彼がいろ/\な女と私通や、後暗い事をしたのは數限り無い。バイロンは、自分の前に現はれる快樂を一つとして避けた事が無かつた。しかも、彼の女に對するうつり氣も、或る一人の女に戀をしてゐるその間は、往々にして非常に純粹な情熱をともなつてゐた。その一例としては、バイロンの戀人であつた『ティルザ』と言ふ女の死を悼んだ詩がある。が、これをムーアは想像の遊戲に過ぎぬと言つてゐるが、實はさうではなくて、詩人の眞摯な苦惱の記録であつた。  ロンドン時代のバイロンの婦人關係中、どうしても忘れてはならぬ女が一人ゐる。この女の事に言及しないのは、丁度スヰフトの傳記を書いてかのヴァネッサの名を除くのに等しい。その女と言ふのは、カロリン・ラム夫人である。この人は最初のスペンサー伯爵の孫娘であつて、才氣煥發の才女であり、その性格にロマンティックな慓悍さを持つてゐた。  彼女は九歳の時に既にバーンズの詩を讀み、十三歳の時にヰリアム・ラム(後にメルボーン卿)を崇拜した。十九歳になつて(一八〇五年)そのヰリアム・ラムに嫁した。そして、一八一二年の三月にロヂャース(この男も彼女の戀人の一人だと言ふ)の紹介でバイロンに面會した。當時バイロンは二十五歳で、彼女よりは三歳の年下であつた。バイロンと面會した後で、彼女は日記にバイロンの事を、 「氣ちがひで──惡くつて──そして知り合ひになるのは危險な人」と書いた。しかも、バイロンがメルボーン家を訪れる時には、彼女は「化粧をしに飛んで行つた」と言ふのだ。これを見てもバイロンが當時の物好きな女からどんな風に思はれてゐたかゞ解るであらう。かくして、バイロンはカロリンの心を捉へてしまつた。そして次の年の大部分をカロリンと一緒に暮した。然し二人の仲は永くは續かなかつた。最初の昂奮がさめてしまひ、女の缺點が次第にはつきりと見えて來た。彼には女が自分の事ばかり話すのが退屈になつて來た。それに女の作る詩を褒める事も出來なかつた。彼は女と一緒にゐても次第に機嫌を惡くして行つた。女はぷり/\した。双方の我儘が衝突して來たのだ。バイロンは女と共に居るのが耐へ切れなくなつた。その時に、女がアイルランドにゐる父の許へ暫く行くと言ひ出したので、彼は賛成した。女がアイルランドに出立する時には、熱烈な別れの手紙を書いた。  暫くしてカロリンはアイルランドから戻つて來た。然し一旦さめてしまつたバイロンの彼女に對する戀心は、もう後へは引きもどせなかつた。しかも女は彼の事が思ひ切れなかつた。どうにかして、バイロンの心を再び自分のものにしようと焦つた。そのためには種々な手段を弄した。小姓の姿をして、バイロンの室へ忍び込んで來たこともあつた。鋏で自殺する、と言つておどしたこともあつた。 「誰でもいゝからバイロンを殺して呉れたら、恩に着る」と言ひ/\した。  一八一三年の一月、バイロンがホヂスンに書き送つた手紙の一節に、 「あの『アグナス』(カロリンを指す)は怒り狂つてゐる。自分があの女との關係を斷つて以來(實に最善の動機から斷つた事だ)、彼女が僕に向つて言つたりしたりした事が如何に恐ろしい事であるか、又如何に馬鹿々々しい事であるか、君には想像もつかないだらう。……去年の夏の關係は切つてしまつたのだ。そして今では、あの女はそれこそ僕の生命をおびやかすやうな手紙を書くのを仕事にしてゐる」と言ふ所がある。彼はカロリンに逢ふのを避けてゐた。從つてメルボーン家との交際もあまりしなかつた。だがその家族の一員なるヰリアム・ラムの母であるメルボーン夫人とは、親交を續けた。  このメルボーン夫人と言ふ人は、才能情操共に世にすぐれた人であつて、バイロンはその點に心服してゐた、彼女の事を「女性中で最も悧巧な人」と言つた位である。この人には姪がゐて、その名をミルバンク孃(アンナ・イサベラ)と言つた。メルボーン夫人はバイロンにその姪と結婚する事をすゝめた。で、バイロンはすゝめられるまゝに、ミルバンク孃に結婚を申込んだ。それが一八一三年の事である。然し相手はバイロンの結婚申込を承諾しなかつた。だが、その後とても交際は續けられた。そして次の年の末に、バイロンは再び結婚を申込んだ。今度は先方が承諾した。  さあ、かうなるとカロリン夫人がぢつとしてはゐない。いろ/\の手段でバイロンとミルバンク孃との間を裂かうとつとめた。カロリンはミルバンク孃の事を、「あの人は、それは、教會にもちやんと出席するし、學問もあるし、統計學の素養もあるんだけれど、バイロンの夫人になる人ぢやない。決して決してバイロンの夫人として適當な人では無い」と言つた。  何にしても、今更バイロンを他の女に取られる事は心外でならなかつたのだ。で、散々惡口を言つたり、當のミルバンク孃を脅迫したりした。だがそれも何の役にも立たなかつた。どんな手段を取つても到底二人の間を裂く事が出來ぬと見て取るや、彼女はすつかり敵のやうな態度を採るに至つた。そして自分の怒りを、一卷の小説にして著はした。この小説はその表題を『グレナルヴォン』と言つて、今はもう殆んど忘れ去られてしまつた作であるが、その中には、當時のバイロンの眞實の風貌が、數多の空想を逞うした個所の間々に散見してゐる。  その後とても、捨てられた不幸なカロリンは、非常に苦しみ悶えた。彼女はバイロンの殘酷さを憎み、バイロンを呪ひながらも、バイロンを忘れる事が出來なかつた。苦しみの極は狂せんばかりに、又、自分を裏切つて他の女に去つた男をさげすみつゝも、内心その男を愛することを止めることが出來なかつた。バイロンと別れてから八年の歳月が流れ、彼女は、たま/\馬車に乘つて道を驅つてゐて、或る葬式に出會つた。それは一八二四年の七月十二日のことである。その葬式は實にバイロンその人の葬式であつた。その事を聞くや、カロリンは、驚きと悲しみの叫聲をあげた。そして失神してしまつた。この事があつて以來、彼女の健康はすぐれなかつた。バイロンの死を突然に聞かされたために感じた衝動は、彼女の心を碎いた、そして一八二八年の一月まで、ぶら/\と生きながらへてゐたあげく病死した。彼女が死ぬ時には、自分の夫即ちメルボーン卿に靜かな手紙を書き送り、友人のモルガン夫人にバイロンの小肖像畫を遺して逝つた。  これはバイロンを愛して、しかも十分に酬はれなかつた女の運命であつた。バイロンを愛した程の女は、程度の差こそあれ、皆このやうな運命に陷ることを餘儀なくさせられた。このカロリンの場合は、その最も典型的な一例である。  さて元へ戻る。バイロンは華やかなロンドンに社交界の寵兒として、その日その日を送つてゐながらも、彼の財政状態が次第に惡くなつて行くのをどうする事も出來なかつた。それに再び南歐の旅行に出たいと言ふ憧憬は、次第に濃くなつて來た。 「私は負債の幾部分を返濟した。そしてその他の者と契約をすました。しかしまだ私には二三千ポンドの金がある。だがこの金はどう思つて見ても英國では使へない。だから私は南歐へ歸らうと思ふ。私はヴェニスが見たい、アルプスが見たい、パルマのチーズが食ひたい、イタリーからギリシヤの海岸が望みたい。然し、これが出來るか出來ないかは、或る一事に懸つてゐる。その一事と言ふのは、起るかもわからぬが起らぬかも知れぬ。起るか起らぬかは明日になれば多分解る。若し起れば私は當分外國へは行けまい」  これは一八一四年の九月十五日附に、彼がムーアに出した手紙である。「或る一事」と言ふのは、言ふまでも無く、ミルバンク孃との結婚の問題である。この手紙は、彼が第二囘目にミルバンク[#「ミルバンク」は底本では「ミルクバンク」]孃に結婚申込をした前後に書かれたものである。  その以前にも(同年一月)バイロンは、 「妻を持てば、私は救はれる」と手紙に書いた事がある。これは主として金に就いての事らしい。矢張りその年の秋に彼は或る友人(多分ムーア)から結婚をすゝめられた。「精神的にも物質的にもその方がいゝだらう」と言はれた。それでバイロンは結婚する氣になつて、前年に一度結婚申込をして拒絶されたミルバンク[#「ミルバンク」は底本では「ミルクバンク」]孃の事をその友人に言つた。ところが「ミルバンク[#「ミルバンク」は底本では「ミルクバンク」]孃は現在は財産を持つてゐないから止したがよからう」と言ふ事で中止した。それで、他の女の人に結婚を申込む事になつて、その友人は手紙を書いた。然しこの方も拒絶して來た。その拒絶状を見て、 「それ見たまへ、矢張りミルバンク孃に申込んだ方がいゝんだ」と言つて、早速申込の手紙を書いた。その友人はバイロンの書いた手紙を讀んで見て、 「いや、こりや立派な手紙が書けた。これを出さないのは殘念だ」と言つた。 「ぢや出さう」とバイロンは言つて、その手紙に封をして送つた。  かう書けば、まるでフランスの小説にでもありさうに思はれるが、事實この通りだつた。かくしてミルバンク孃との婚約が取り結ばれる事になつたのである。  平常からバイロンの事を、最もよく心配して呉れた腹違ひの姉オーガスタ・ライは、この結婚に就いても非常に心配してくれた。結婚の結果に對しては、ある時は希望を持ち、ある時は恐怖を感じた。彼女は自分の弟の幸福を心から願つてゐたのだ。當時のバイロンの身の上を、純粹に心から氣遣つて教へて呉れた肉親と言へば、殆んどこのオーガスタ一人であつたと言つてもよい。  さて種々の準備もとゝのひ、惡い運命が待つてゐるとも知らずバイロンとミルバンク孃との結婚式は、一八一五年一月二日シーハム家にて執行された。バイロンは實に夢遊病者のやうに結婚してしまつた。彼は初めから、自分が誤つて結婚したと言ふ事に氣が附いてゐたやうだ。彼は妻を眞實に愛してはゐなかつた。彼がミルバンク孃と結婚した動機の大部分は、自分の身を固めようと言ふ積りのためであつた。一方ミルバンク孃の方も、バイロンを愛してゐるがためにと言ふよりは、むしろバイロンの名に魅せられ、且は又バイロンの不幸な性格と不身持とを、自分が改善してやらうと思つて結婚したのだつた。  ところがこの双方の動機は誤つてゐた。そのためにいざ結婚してしまふと、二人とも互に失望せざるを得なかつた。バイロンがあてにしてゐたミルバンク孃の財産は、その大部分が固定財産になつてゐて、夫のバイロンはこれを勝手にどうすると言ふ事は出來なかつた。ミルバンク孃が改善してやらうと思つたバイロンの惡い性格も不身持も、改善の見込はなかつた。  然し、さすがに結婚後しばらくの間は、二人の生活も比較的順調に行つた。その頃はまだバイロンも、ミルバンク孃を才能のすぐれた、素質の立派な女としてかなり尊敬もしてゐたし、ミルバンク孃にした所でまだ夢を抱いてゐた。新夫妻は、ダーリントン附近のハルナビイや、シーハムやロンドン等に轉住した。その頃の二人の状態を知るためには、何よりも詩人の姉オーガスタ・ライ夫人がその友ホヂスンに書き送つた手紙を見るのが一番よい。これは十二月の十五日の日附になつてゐるが、この日附は前後の關係から推して見て、どうも間違つてゐるらしい。── 「私が察するに、私の愛するバイロンは、今非常に幸福で愉快に暮してゐるに相違ないと思はれます。彼と彼の肋骨《リブ》(バイロン夫人即ちミルバンク[#「ミルバンク」は底本では「ミルクバンク」]を指す)からは、始終便りがあります。バイロン夫人は、バイロンを正しい方に、幸福になさうとしてゐるやうに私には思はれます。私はいろんな恐怖を持つてゐました。が、まあ有難いことに私の恐れてゐた事は起りさうにありません。要するに、私達一族はすつかり仕合せです。たゞ一つ缺けた所があるだけです。それと言ふのは、ニューステッドの私共の邸宅の賣却と言ふ事です。あの神聖なアベイが無くなるかと思へば、殘念で殘念でなりません。これを思へば、私は、生命の無いものが失はれるとは思へない位に心が憂鬱になります。あなたは、國王よりの下され物である所有地は、賣つてはいけないと言ふ事をお開き及びはありませんか? バイロン夫人の手紙によれば、彼女の御兩親は、大變今度の結婚を喜んでゐられるとの事です。特に御母堂の喜びは大層なものださうで、若しバイロンの食事に魚が欲しいとあらば、自分自ら海の底にもぐつて魚を捕へて來でもしさうだと書いてありました。……」  これは餘談であるが、このオーガスタの手紙にも書いてある通りに、バイロンは金の方で益々困つて來て、家代々の屋敷であるニューステッド・アベイをこの頃に賣り拂ふつもりになつてゐたのである。  さて、バイロン夫妻の間には、とやかくしてゐる内に女の子が生れた(ロンドン、一八一五年十二月十日)。その名をオーガスタ・アダと言ふ。ところがバイロンの財政状態は益々惡化して來た。債鬼等はびし/\と彼を追求した。彼等にして見れば、バイロンが結婚したために、その細君の方からの持參金があるだらうと思つて、追求の手を強めたわけである。ところが、債權者等が思つてゐる程の持參金なんか實際は無いのだから、どうする事も出來ない。半年ばかりの間に、彼の持家や家財が借財のなかに消えてなくなる始末にまでなつた。ところがバイロンは妙な自尊心を持つてゐて、自分の藏書まで賣り飛ばさなければならぬこの場合になつても、自分の詩集の出版屋が金を出してやらうと言ふのをはねつけた。益々首も廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らなくなつて來た。それに一方、當然來るべき夫婦間の不和がそろそろ頭をもたげ始めた。そしてそれが次第に險惡になつて行つた。  一八一六年の一月になると、急にそれが爆發してしまつた。一月の十五日になつて(即ちオーガスタ・アダの誕生から五週間後)、バイロン夫人は、家を出て、ライシェスターシャイアのカークビィ・マロリーにある實家へ行く事になつた。バイロン夫人とまだ生れて間も無い女の子とが、實家に到着してから程も無く、夫人の父からバイロンに手紙が屆いて、それには、娘は再びあなたの所へは戻さないと書いてあつた。バイロン夫人自身も同樣の事を言つてよこした。  夫人が急に實家に歸るやうになつた近因に就いては二三の説があるが、どれが眞實なのか判然としない。ドゥルリー・レーン座の女優であるハーディン夫人が、劇場の用事でバイロンを訪れて來た時、天氣が惡くなつたので、バイロンが別に邪氣もなしに引きとめて親切にしてやつたのに對して、バイロン夫人が怒つて、その室に飛び込んで來て、 「もうあなたとは永久に別れます」と叫んで、別れる事になつたとも言ふし、また一説によれば、バイロンが一友人と談話してゐる室へバイロン夫人が入つて來て、「私お邪魔になりまして、バイロン?」と言つたら、 「いま/\しい!」とバイロンが答へたためだとも言ふ。オーガスタ・ライ夫人や、ホヂスンやムーアその他の人々は、二人の仲を元へ戻さうと思つて八方手をつくして見たが徒勞に終つた。  とにかく、もうかうなつて見ればどうにも手の下しやうが無くなつた。バイロンの結婚生活は見事失敗に終つてしまつた。彼は再び、實際的には獨身の體になつた。彼は妻と別れてしまふと、妻の兩親と妻の女中(クレルモント夫人)の事を惡口した。自分と妻が別れるやうな事になつたのも、この三人のためだと言つた。そして當のバイロン夫人の事は善意ある言葉で話した。これは、外見上のみの事だつたかも分らないが、とにかく善意ある言葉で話した。一八一六年三月八日に書いた手紙に、 「私の妻ほど明るい、親切な、優しい、氣持のよい女が曾て世の中にゐた事を私は信じない。あれが自分と同棲してゐた當時、私はあれに就いて非難すべき點など見なかつた。見つけ出さうと思つても見つけ出せなかつた」と書いてゐる。  かくてバイロンはその妻とは遠く別れてしまつたが、終生文通は續けてゐた。妻との間に出來た娘のオーガスタ・アダは高等法院の保護を受ける事になつたが、その娘に對してもバイロンはよく手紙を書いた。  およそ天才の中に、靜かに一箇所に落着いて家庭生活を樂しむ事の出來る者と、さうでない者とがある。バイロンは本來その後者に屬する者である。彼の如きタイプの性格にあつては、その内に在る深い敏感性と流動性とが、常に動かう動かうとしてゐるために、一定の覊絆に拘束される事が出來得ない。彼は根本的に絶えず動くために、絶えず流動變化するために天才を賦與されてゐるのだ。生の經過の瞬間々々に無上の喜怒哀樂を感じながら、しかも同じ所にしばしと雖も立ち止つてゐる事は耐へ切れない。如何に善美に思はれた事の中にも、ぢつと停滯して居れば、彼の心裡には忽ちにして倦怠が生れる。倦怠からの批評が生れる。批評からの嫌惡が生れる。嫌惡が堆積すれば、現在の境遇を爆發させる。爆發させては次の生活へと流轉して行く。この傾向は、バイロンの持つてゐた近代主義《モダーニズム》の核心になる。  バイロンの從者のフレッチャーは、 「御主人を自由にする事は、どんな女にも出來ます。奧さんだけに出來ないだけです」と言つた。然し、如何なる女に對しても、バイロンが善良な夫であり得たかどうか、これは甚だ疑はしい。なるほどフレッチャーの言ふ通りに、「バイロンを自由にする事はどんな女にも出來」たかもわからない。しかし、それが一度固定した妻と言ふものになれば、ミルバンク孃でなくとも、最早彼を自由にする事は出來なくなるであらう。  バイロンには、「妻」と言ふ形式に於ての女はわからなかつたのだ。それ故に魅力も感じなかつたのだ。だから女が單なる「女」である内はよいが、それが一度「妻」となれば、彼は其處にもう興味を失つた。殆んど狂人に近い短氣な性質も、彼を家族の人として不適當な男にしてゐた。  彼の結婚生活はこの通りにして、悲劇に終つた。彼の氣持は面白くなかつた。その上に、道徳好きの英國人は、例に依つて例の通りに、おせつかいを始めた。しかも、事件の性質上、非難される方はバイロンだつた。妻の方の惡い點は看過され、バイロンだけが攻撃された。ロンドンは一齊に彼に對して誹謗の矢を向けた。彼は、サルダナパラスに比較された。ネロに、ティベリアスに、ロルレアン侯に、ヘリオガバラスに比較され、果ては惡魔《サタン》とまで言はれた。彼の行ふ一言一行が、ロンドン社交界の非難の的になつた。女優のマルディン夫人は、彼のために公衆の不評判を買つて、一時公けの舞臺から引退すべく餘儀なくされた。バイロン自身も、劇場や議會に顏を出さない方がよからうと友人から忠告を受けた。うつかり顏を出すと、人々から侮辱をされないとも限らないと言ふのである。英國を外國へ向けて出發した時に、彼は自分の馬車の戸のわきに集まつてゐる群集から、亂暴をされはすまいかと恐れた位であつたと言ふ。  これに就いて彼は次のやうに書いてゐる(一八一九年、八月)。── 「一般人が何等の根據によつてその意見を作り上げたものか、私には解らない。しかも、これは全般的の、しかも決定的なものであつた。彼等は私及び私の事に就いては、殆んど何も知つてゐない。彼等が知つてゐる事は、僅かに私が詩を書いたと言ふ事、貴族であつたと言ふ事、結婚したと言ふ事、結婚して父となつたと言ふ事、妻や妻の家族と不和になつたと言ふ事だけだ。──誰も何故さうなつたかと言ふ理由は知らなかつた。と言ふのが、私に對して非難を發してゐる妻や妻の家族が、その苦しみの理由を述べることを拒んだからだ。  新聞は活氣づいて私の事を口ぎたなく書き立てた。……私の家名──私の祖先達がノルマン王ヰリアムを助けて王國を征服させて以來、武人らしくも高貴でもあつた家名──は汚された。當時人々の間に囁かれたり、つぶやかれたり、こそ/\噂をされたりしてゐる事が若し眞實ならば、自分は英國に居るに適してゐないのだと私は感じた。若しまたそれが誤つてゐたら、英國が私に適してゐないのだと感じた。私は自ら身を退いた。然しそれでおしまひでは無かつたのだ。他の國々にゐても──スヰスでも、アルプスの山蔭でも、あの湖々の碧淵のほとりでも──私はこの同じ眼に見えぬ害蟲に追はれ、蝕まれた。私はアルプスの山々を越えた。しかし同樣であつた。それで私は今少し進んで、アドリアティック海のほとりに身を落着けた。ちやうど水邊を求めて來る牝鹿が進退きはまつたやうに」  かくして、彼は追はれるやうな心を抱いて、一八一六年の四月英國を發足した。これは、眞實にロマンティックな精神を持つてゐる優れた天才者が、往々にして逢遇する運命である。バイロンのやうなタイプの性格者に取つては、常に限られた一國は狹過ぎる。彼は根本的に一國の住人では無いのだ。  英國の流行社會は、その我儘な寵兒に飽きたのだ。バイロンも、この窮屈な社會の寵兒たる事に飽いた。そして、心破れ、金とても豐かに無く、驅り立てられるやうにして、故國を去つた。そして、再び歸つて來なかつた。碧色のイタリーの空の下に、新しい生活とインスピレーションの旅へ出て行つた。 第七章 スヰス──ヴェニス  一八一六年四月二十五日、バイロンは、オステンドに向つて英國を船出した。譯も解らずに自分を非難してやまないロンドンの群衆からのがれて、再び自由な海上に乘り出した彼の喜悦は想像する事が出來る。  彼の旅行の形式は、前の旅行の際にもまして豪奢なものであつた。彼に從ふ者としては、フレッチャーにラッシュトンに、ベルゲルと言ふスヰス人に、ポリドリイと言ふイタリー系の醫者の四人。この一行が船から上つて陸地を旅行する時には、ナポレオン型の巨大な馬車に乘つて行くのである。實に大掛りなものであつた。  彼がこの豪壯な、しかも贅澤をきはめた旅行をするのに要する費用を、どうして拵へたかと言ふ事を一言して置かなければならぬ。バイロンの財政状態は、前にも言つた通りに、實に手の下しやうもない位に混亂してゐた。彼の所領のロックディルに關する書類などを、今から調べて見ようとしてもまるで手懸りが無い位である。ニューステッドの屋敷は一八一八年、即ち彼が第二囘の外遊旅行に出發してから二年後に、九萬ポンドでワイルドマン大佐と言ふ人に賣つた。然しこの九萬ポンドの金の大部分は、抵當金や負債を拂ふために費されてしまつて、バイロンの手には僅かしか入つて來なかつた。ミルバンク孃との結婚當時に、バイロンは妻に對する遺産として六萬ポンドを殘して置いた。そしてその利息は一生バイロン自身の收入になる事になつてゐた。それから妻の實家の母の死に依つて、その遺産が入つて來た。これは一年約七千ポンドであつた。これ以外に、彼は自分の著作からの收入が時々あつた。イタリー滯在中今まで出版して置いたものゝ方から約一萬ポンド、並びに『チャイルド・ハロルド』第三卷・第四卷と『マンフレッド』の方から四千ポンド收入があつた。彼は金使ひが荒かつた。金を湯水のやうに使ふのを好んでゐた。彼が金を欲しがるのは、使ひたいがために欲しがるのであつて、貯めるためでは無かつた。その邊あくまでも貴族的で大名風で、太つぱらだつた。曾て、彼の作『コリンス』と『パリジナ』の原稿として出版業者のムーレイが金を送つたところが、 「これは君、多過ぎます」と言つて、一千ギニヤだけを送り返した事があつた。彼の金離れの綺麗な事は、彼を知つてゐる人のすべてが證明してゐる所である。しかし、それでゐて一方金に關しては、特にその晩年には、几帳面な點もあつた。一八一七年の事、彼がムーレイに宛てた手紙に、「あなたはあの新しい卷(『チャイルド[#「チャイルド」は底本では「チ イルド」]・ハロルド』第五卷を指す)の報酬として千五百ギニヤを送られたが、私は受取らない。私は二千五百ギニヤを要求します。この點御承諾下さるか下さらぬかは、あなたの任意にしていたゞきたい」と言ふのがある。  バイロンの今囘の大陸旅行の道順は、あまり詳細にわたつては知れてゐない。ベルギーのオステンド港に上陸し、進んでブラッセルに到着した時には、今迄乘つて來たナポレオン型の馬車は不便だと言ふので、幌附馬車に變へた。彼はウォーターローを訪れた。彼が終生崇拜してやまなかつたフランスの英雄の敗戰の跡が、彼の旅心の上に如何なる印象を與へたか? 此處で彼は、 [#ここから3字下げ] 立ちどまれ、なぜならば、 お前の足は今、 一帝國の死灰の上を踏んでゐるのだ! [#ここで字下げ終わり]  と言ふ句で始まつてゐる有名な詩を作つた。その他散文でもこのウォーターローの戰跡の印象に就いて書いてある。  間も無くブラッセルを出發し、ライン河に浴うて南驅し、スヰスのバーゼルに至り、更にベルン、ローザンヌ、等を經てジェネヴァに來た。このジェネヴァでは、セケロン旅館(Ho[#oはサーカムフレックスアクセント付きO小文字]tel Secheron)にしばらく滯留してゐた。このジェネヴァ滯在中に、バイロンの生涯に取つて忘れてはならぬことが起つた。それはシェリイとの會見である。この若い天才詩人は丁度南遊にあつて、當時ジェネヴァにゐたのである。彼等は直ぐに親密になつた。この二人のロマンティシズムの詩人の交友は、非常に興味のある事である。しかもその交友が、二人ながら故國に容れられず、旅行に出てゐるこのジェネヴァの一旅館で始められたのである。  シェリイもバイロンの一行も、セケロン旅館を間もなく出發した。然しそれ以前とてもシェリイはモン・アレグレ(Mont Ale[#eはアキュートアクセント付きe小文字]gre)にゐたし、バイロンはディオダティ別莊にその夏中とゞまつてゐたので、二人の間の交際は續けられた。その親交は、中途ちよい/\妨げられた事があつたが、その後六年間繼續した。その間に、互にその生活や、感情や、詩作の上で影響され合つた事は言ふ迄も無いことであらう。二人はよく一緒になつて湖のほとりを遠くまで歩き廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。この二人の詩人が、いろ/\の事を語り合ひながら、山も水も美しいスヰスの山間湖畔を歩いてゐる姿を想像する事は、實に大きな歴史的な畫圖でなければならぬ。  或る日の事、二人が湖に船を浮べてゐた時に、湖がいつに無く荒れて、破船したことがあつた。バイロンもシェリイも、無事に助かつたには助かつたが、このことなども、實に面白いに相違ない。  バイロンは、しかし、この靜かなスヰス山間の都會でも惱まされた。英國での不評判が既に此處にまで流れて來てゐて、やゝともすれば平靜になりかけてゐる彼の心を亂した。 「ジェネヴァにゐた頃は、私は健康もひどくすぐれないし、意氣も銷沈してゐた。然し、靜寂と湖──ポリドリイよりも立派な醫者──が間も無く私を癒して呉れた。スヰスにゐた時程私が道徳的な生活を送つた事は未だ曾て無かつた。しかもそれでゐて人の信用を得はしなかつた。反對に私に就いて實にお話にならぬやうな物語が數限りも無く發明された。私は湖の向う岸から望遠鏡で見詰められた。まだひどく歪んでゐるに相違ない人々の眼で見詰められた。夕方馬車を驅つて出かけると、人々が侍伏せしてゐて私を見た。人々は私の事を『人怪』(a man-monster)として見てゐたにちがひない」  これを讀むと、當時人々からバイロンと言ふ人間がどんな風な眼で見られてゐたかゞよくわかる。しかも、それを彼が如何にいま/\しく思ひながらも、人々の態度に無關心になりきれないで苦しんでゐたかもわかる。  このスヰス滯在中、彼はシェリイと同居してゐたクレヤモント孃と相知つた。この人は英國の社會主義者であるゴドウィンの二度目の妻の娘であつて、從つてシェリイとは姻戚關係にあたる人である。バイロンは、シェリイ一家や、このクレヤモント孃等とよく遠足に出かけたりして遊び暮した。雨の降る日などには、皆寄り集まつて、ドイツの怪談本を讀んで時を過した。  その内バイロンとこのクレヤモント孃との關係は、次第に戀人同志の關係になつて、その間に子供が生れる事になつた。つまり私生兒が生れる事になつたのである。この私生兒は女の子であつて、その名をアレグラと言つた。もつともこのアレグラが生れたのは、クレヤモント孃が英國に歸つてからの事である(一八一七年一月、グレイト・マーローにて出生)。  さてその間に、七月にバイロンはコッペ(Coppet)にゐる、閨秀作家スタエル夫人を訪問した。そして其處でフレデリック・シュレーゲルに逢つた。かくして、このジェネヴァでの生活は割合に順調に運んで行つた。唯一つ、バイロンに從つて來たイタリー系の醫者ポリドリイのためにうるさがらせられた。と言ふのは、この醫者は、本來ごくおとなしい男であつたが、バイロンとシェリイとの仲が日に増し親しくなつて來るのに嫉妬を感じ出し、それが次第にひどくなつて來て、しまひには目に餘るやうになつた。果てはシェリイに對して決鬪を挑んだ、然しシェリイはその挑戰に笑つて取り合はなかつた。だがバイロンは、これ以上に事態を惡くする事を止めようと思つて、ポリドリイに向ひ、 「よく憶えて置くんだぜ、シェリイ君は決鬪はようしないが、私は躊躇しないからね。私はいつ何時でもシェリイ君の代りになつてお前と決鬪するぜ」と言つたと言ふ。このポリドリイは、しまひに解雇されてしまつた。そして數年の後自殺した。  シェリイの一家は、その年に英國に歸つた。後に殘されたバイロンは、友人のホブハウスを連れて、ベルンのオーバーランド中の旅行を試みた。ジャマン峠を越してタンの町へ出、山谷を通つてウェルゲルン、グリンデルワルトへ行き、ベルン、フライベルグ、ユヴェエルダンを過ぎて、ディオダティに戻つて來た。この旅行中にバイロンは、山嶽の美しさを遺憾なく味はつた。未だ曾て見なかつた溪流の上の虹を見た。氷河にきらめくユングフラウ山を眺めた。眞理そのものゝ如く輝くデンダルジェン山を望んだ。アイガー山やウェッテルホルン山も見た。五分置きに山に轟く雪崩の音も聞いた。大洋の波の如く何處までも起伏してゐる山脈も眼にした。氷河の中に馬を乘り入れて山越えもした。塞さと雪のために枯れ萎んだ松の林も通過した。バイロンは、これらの事を自身で文章にも書いてゐるし、その作『マンフレッド』中にも描いてゐる。  彼はこれらの旅行中、自然の持つてゐる力や美に強くひかれた。しかも、彼の過去の生活の思ひ出の苦味さは、自然の中に半ば恍惚となつてゐる間さへも、彼の心をともすれば憂鬱にさせた。彼はこの旅行の記録の最後の所で「……自分は自然の愛好者である……しかも、牧人の音樂も、雪崩の轟音も、急流も、山も、氷河も、森も、雲も一瞬間と雖も私の心の重荷を輕くしては呉れなかつた。……」と書いてゐる。  しかしさうかと言つて、彼はその間にも、男らしくするだけの仕事はして行つた。天氣が惡いためにオーキイに二日間とゞまつてゐなければならなかつた時には、(六月二十六、二十七日)『チロンの囚徒』を書いた。この詩の序詩は彼の傑作の一つとして數へられるものである。この作を書いたと殆んど同じ頃に『チャイルド・ハロルド』の第三卷が完成した。同じオーキイから、英國のムーレイあてにその事を言ひ送つてゐる。  同年七月には隨分澤山の作をした。『シェリダン哀悼歌』『夢』『チャーチルの墓』『レマン湖の歌』『わが齡の河をさかのぼる事出來なば』『マンフレッド』の一部、『プロメシウス』『オーガスタへ贈る詩』『暗闇』等である。ローザンヌでは、ギボンがしば/\訪れた家へ行つた。そしてギボンのアカシヤの木から枝を一本折り取り、その家の庭から薔薇の葉を五六枚持ち歸つた。スヰスで彼の逢つた友人等の中には、M・G・レヰスやスクロープ・ディヴィス等もゐた。だが次第にジェネヴァの生活や人間にも飽いて來た。で、同年十月初旬に彼はホブハウスを連れてイタリーへと出發した。彼等はシンプロンを越え、ラゴ・マッヂョールを通つてミランへ出た。ミランの大伽藍には感心して、その事を手紙にまで書いてゐる。舊教の寺院やそれに關した事には餘程の興味と執着を持つてゐたらしい。彼は法王の娘の黄金色の髮毛の一房を手に入れた。そして自身大僧正になりたいとさへ思つた。  ヴェロナでは半圓劇場の跡を訪ねた。そして、これこそギリシヤで見た物の何よりもまして優れた觀物だと言つた。ジュリエットの墓から、花崗岩の數片を取つて、英國にゐる娘のオーガスタ・アダや自分の姪達に送つてやつたのも此處からである。  十一月にはヴェニスに來てゐた。ヴェニスこそは「彼の想像の中で一番綠濃い島」であつた。ヴェニスには隨分永い事住んだ。此處での生活こそ最も彼らしい生活であつた。此處で彼は幾人かの女と種々の關係を結んだ。第一の女は、マリアナ・セガティと言つて、彼の所謂「ヴェニス一商人の妻」であつて、又しばらくの間、彼の宿つた家の主婦であつた。この女のことを彼は、「東洋的な眼を持つた羚羊で、うね/\と波打つた髮毛をして、鳩の鳴聲のやうな聲を持ち、バッカスの女信者の心を持つた女」と書いてゐる。バイロンと彼女とは十八ヶ月と言ふもの仲好く過した。  十二月には、詩人はアルメニア語の勉強を始めた。そして聖書中の「コリント人へ送りし聖パウルの文」の一部分をアルメニア語に飜譯した。一八一七年の一月には、『マンフレッド』の最初の草案が出來上つた。そしてその事をロンドンなるムーレイに通知してゐる。その手紙の中に『マンフレッド』の事を「一種の對話の詩であつて、哲學的な説明し難い種類のものだ」と自ら言つてゐる。この頃彼は、春になつたら英國に歸るつもりになつたらしい。然しこれは、直ぐに斷念してしまつた。丁度マラリヤ熱にかゝつて五六週間病床にゐなければならなかつた事も、その原因の一部分だつた。彼はマラリヤ熱にかゝつても、醫者にも診せねば醫藥も飮まなかつた。それで、やつと囘復しても、すつかり治りきると言ふわけにはゆかなかつた。しかし彼の氣性として、ぢつとしては居れなかつた。冒險にも半分まだ病氣の身體で以てローマへの旅へ出發した。  このローマへの旅で、彼が最初にとゞまつた所はアルクワであつた。次にフェルララへ行つた。このフェルララには、あのイタリーの詩人タッソーが昔幽閉されてゐた牢獄がある。それを見てバイロンには詩興が湧いた。その時出來たのが『タッソーの嘆き』である。次にはフローレンスへ出た。此處では古代の繪畫の美しい魅力に醉つた。中でもラファエルやティティアンの描いた女の繪から最も強い印象を受けた。又ジョルジョネの作品からも強く惹かれた。フローレンスからフィリニョを通過して、遂に目的地なるローマへ到着した。それが五月初旬のことであつた。此處で彼は、舊友のランスダウン卿やホブハウスに逢つた。  ローマでの彼は、馬に乘つて史上に有名な古跡をめぐるのに大部分の時を費した。これに就いては『マンフレッド』の第三幕目を見ればわかる。彼が自分の胸像を作つて貰ふために彫刻家トルワルトセンのためにモデルになつたのもローマに於てである。その時の事をトルワルトセンは、自分と同國人である所の文豪ハンス・アンデルセンに、後になつて次のやうに語つてゐる。── 「バイロンは私に向ひ合つて座を占めた。然し忽ちにして彼はふだんとはすつかりちがつた表情を顏に現はし出した。で、私は『靜かにして坐つて呉れませんか。そんな表情をなさる必要はありません』と言つた。するとバイロンは『いやこれが私の表情です』と言つた。『さうですか』と私は言つて、自分の思ひ通りに彼の胸像を作つた。胸像が完成すると彼は『これはまるで私には似てゐない。私の表情はこれよりももつと不仕合せだ』と言つた」  これより五年後に、レグホーンでバイロンの肖像を描いたアメリカの畫家ウェストもこれに似た事を言つてゐる。── 「彼(バイロン)ほモデルとしてはよくないモデルであつた。彼はまるで自分のものでは無い顏付をした。それが丁度『チャイルド・ハロルド』の口繪にでもしてやらうと考へてゐるやうであつた」  トルワルトセンの拵へた胸像の最初の鑄像は、ホブハウスに贈られた。これをバイロンの姉のオーガスタ・ライ夫人が見て、「弟の肖像の中ではこれが一番よく出來てゐます」と言つた。トルワルトセンは後年(一八二九年—一八三三年)バイロンの像を大理石像に作つた。これは今尚バイロンの母校なるケンブリッヂ大學のトリニティ・カレッヂの圖書館に置かれてゐる。これらの事實から推して見て、このトルワルトセンの作つたバイロン像は、作品としてかなりよく出來てゐたに相違ない。又、バイロンに似てゐると言ふ點でも、割合に完全なものだつたに違ひ無い。しかも彼自身は「これは私にはまるで似てゐない。私の表情はこれよりも不仕合せだ」と言つたといふのが、かなり彼の見榮坊な性絡を現はしてゐる。彼には生涯この種の、たくまない稚氣があつたのだ。  しばらくローマに滯在してゐた後、再びヴェニスへ戻つた。情婦のマリアナに逢ひたくてたまらなくなつたのだ。ヴェニスに戻つてラ・ミラの別莊で生活しながらも尚詩作の方では努力し續けた。『マリノ・ファリエロ』や『チャイルド・ハロルド』の第四卷目などの草案が出來た。その他この前後に腹案され、又作られた詩はかなり多い。  かくして一八一七年の夏と初秋はヴェニスなるラ・ミラの別莊で送つた。彼はよくブレンタの河岸を馬に乘つて歩きまはつた。その時にはよく、偶然にちかづきになつた英國人と一緒になつて行つた。この年の八月になると、友人のホブハウスが訪ねて來た。ホブハウスはバイロンに英國に歸るやうにすゝめた。然し詩人はそれをきかなかつた。彼の歸國をすゝめた者はホブハウスのみでは無かつた。何人もの友人が、この年から四年の間と言ふもの、よくすゝめたのであるが、バイロンはそれに從はうとはしなかつた。  彼が何故英國に歸らうとしなかつたか? 英國を愛してゐなかつたためか? それとも他に理由があつたのであらうか?  友人のムーアその他は「バイロンの身體は外國にゐても魂は故國にゐる。そして、如何に英國に缺點があつても、矢張り英國を愛してゐるのだ」と言つてゐる。反對にライ・ハントは、 「バイロンは英國や英國の國事には何等の執着も持つてゐないのだ」と言つた。どつちが眞實であるかはわからない。恐らく或る意味に於ては、この兩方ともが眞實であつたであらう。  天才者の大部分がさうであるやうに、バイロンも亦「現在」に滿足出來なかつた。彼に取つて、「現在」は、常に不滿と不平の種であつたのである。この現状に對する不滿は、彼のロマンティシズムの根幹であり、また恐らくはすべてのロマンティシストの精神の中心生命である。「現在」に對する不滿は、「過去」に對する憧憬を喚び起す。そして其處にロマンティシズムの一大特徴たる中世紀への復歸の精神が現はれる。同樣に、「現在」に對する不滿は、「未來」に對する理想を覺醒させる。そして其處に革命的の暴風雨の精神がやつて來る。  バイロンの如き型の性格に取つては、一箇所にぢつとしてゐると言ふやうな事は、それ自身忽ちにして苦痛の種になるのだ。ローマにゐてはローマに飽きた。シーハムにゐてはシーハムに倦んだ。そして英國のクラブに行つて見たくてたまらなくなつた。しかも、ロンドンの社交界に寵兒として遇せられてゐた頃には、サイクラデスの沙漠や島をあこがれた。妻のアンナ・イサベラと別れた後では、それを後悔した。そして英國を追はれてからは、英國にあこがれて苦しんだ。彼はホブハウスに向つて、「英國以外の何處で眞實の樂しみが見出せるものか?」と叫んだと言ふ。しかもさう言つて置きながら、彼は英國を憎んだ。英國に歸るまいとした。英國の土にはなるまいとした。特に英國人の持つてゐる僞善を心から憎んだ。しかも彼のこの英國を憎む感情も、英國をあこがれる感情と同樣に、彼に取つては眞實であつたのだ。この愛憎の交錯は、彼に取つて詩の醗酵素であつたが、同時にいたましい致命傷でもあつた。そして、これは又あらゆる近代人の致命傷でもある。  バイロンの苦しんだ苦惱は、かくして、兩頭蛇の苦惱であつた。  マンフレッド!  さうだ、バイロンの性格の悲劇は兩頭蛇の悲劇である。それは殆[#「殆」は底本では「始」]んど運命的に彼の内部に胚胎してゐた二個の全然相反する性質の相剋であつた。兩頭蛇が最後に自己の身體を二つに引き裂かなければやまぬやうに、彼は自分の持つてゐる二つの性質のために自分自身を破壞しなければならない。二つの性質とは何であるか?  それは、神と惡魔である。人間と野獸である。「イエス」と「ノー」である。  彼の青白い憂鬱はこの二つのものゝ相反から生れて來た。そして、すべての近代人の憂鬱はすべて此處から生れて來る。そんな意味に於て、この一人の人間の中の二つの相異なる性質、及びそれより生ずる憂苦を持つてゐない近代人は存在しない。と言ふよりは「近代人」と言ふ言葉そのものに、この事は含まれてゐることである。  然しバイロンほど、この憂苦をはつきりと、しかも強く味はつた人は多くゐない。又、彼ほどこの憂苦のために、大きな、しかも悲壯な生活悲劇を演じた者は少い。彼が一生の内に行つたすべての行爲が、全部各々その實例である。同時にそれらの實例の形成する彼の一生そのものが、更に大きな實例である。  この事を、もつとよく解つて貰へるために、私は彼の作『マンフレッド』の梗概を述べなければならない。何故『マンフレッド』を特に選んだかと言へば、この作は、バイロンの諸詩中で最も成功した作の一つであり、又、この作の中でバイロンは他の諸作に比較して、非常により眞摯に自己を語つてゐるからである。  前にも言つたやうに、すべての文藝家には、常に二つの型がある。一つは客觀性を多分に持つた者であり、もう一つは主觀性を多分に持つた者である。前者は自己以外の人間や事物を觀察する能力を多分に持ち、從つて自己以外の人間や事物を題材にして作をする。後者は主として自分自身に最も大きい興味を持ち、自己以外の人間や事物に對して理解と洞察を持ち得ない心的傾向を有し、從つて大慨の場合に於て自分自身を題材にして作をする。傾向としては、前者はリアリズムに行き、後者はロマンティシズムに行く。  勿論この事は、非常に概念的な分類の仕方であつて、これほど明確に又これほど端的には分れ得るものでは無い。如何に極端に客觀性を持つた作家にしろ、結局主觀性無しに存在しないだらうし、又如何に極端に主觀性を有してゐる作家にしろ、結局客觀性を持たずしては存在しない。だが、少くとも、傾向としては、客觀性の作家と、主觀性の作家との別と言ふ事が言へるであらう。  バイロンは、言ふまでも無く後者である。それだけに彼のどの作を讀んでも、その中の主たる要素は常に彼自身であつて、その點に於ては、人間としての彼を知る上に於て便利ではある。しかし一面から見ると、そのために、或る場合に於ては、却つて人間としての彼を知る事が困難になる場合が無いでもない。と言ふのは主觀性を多分に持つてゐる作家の常として、或る一つの作の中では、自分の一面ばかりを強く書き、又或る一つの作品の中では、自己に對する辯解や正認のみを主とすると言つたやうな事が起り易いからである。  それ故に、或る一人の主觀性の作家の一つの作品を通じて、その作家の全體としての性格を知らうとするためには、今言つたやうな偏《かたよ》つた作品でなくして、その作家が自己を全的に眞率に表現してゐる作品を採つて讀まなければならない。そんな意味で『マンフレッド』は、バイロンを全的に理解するのに最も適當なものである。量の上から言へば、『ドン・ファン』や『チャイルド・ハロルド』その他が、『マンフレッド』よりもずつと大作であるが、そんな理由から『マンフレッド』を採る。 『マンフレッド』は三幕十場よりなる。第一幕が二場、第二幕が四場、第三幕が四場である。この劇詩の主人公はマンフレッドと言ふ中世時代に住んでゐる貴族である。劇の場面はアルプス山中である。  その前に言つて置かなければならぬ事は、バイロンがこの劇詩の前に附した題詞だ。 「ホレーショ、天地の間にはお前の智惠で考へ及ぶ事の出來るもの以上の事があるものだ」  言ふまでも無く、これはシェクスピヤ作の『ハムレット』の中で主人公ハムレットがホレーショに向つて言ふ言葉である。バイロンはこの題詞に據つて、人生を支配してゐる大きな運命力、或は人間には解釋する事の出來ない宇宙の神祕力の事を暗示したのであらうと思はれる。  人間は、自分が自然を、又宇宙を征服し得たと思ふことが往々にしてある。しかもさう考へた人間その人が、結局最後に於ては自然に征服されるに過ぎない。宇宙の盲目な意志のまゝに知らず識らずの間に行動し、又自然の盲目な宿命のまゝに知らず識らずの間に、自然そのものゝ中に復歸して行くに過ぎない。どんな事を人間が思つてゐようと、どんな事を人間が知つてゐようと、それらの思考と知識の一切が、宿命を囘避する道具にはならない。實際天地の間には「人間の智惠で考へ及ぶ事の出來るもの以上の事があるものだ」からである。『マンフレッド』は、この不可知の宿命、不可見の自然の意志に向つて戰ひを宣言し、そのために血みどろになつて努力した人間の歴史である。  第一幕の幕が開く。  ゴシック風の廊下が現はれる。恐ろしい程靜まり返つた眞夜中である。城の内はしいん[#「しいん」に傍点]として、廊下の突き當りに暗い夜の星空が見えてゐる。この城の城主であるマンフレッドが、唯一人眠られない夜を物思ひに沈んでゐる。  やがて憂鬱なマンフレッドの獨白が始まる。── [#ここから3字下げ] 燈火に油をつぎかへなければならぬ。 だが注ぎかへたところで、 私の眼がさめてゐる間燃えてはゐまい。 自分の眠りは──たとへ眠つても── 眠りでは無い。 眠りでは無くて いつまでも續く思ひの連續だ。 すれば、自分はこれに抵抗する事は出來ない。 自分の心の中に寢ずの番がゐるのだ。 だから、たとへこの眼が閉ぢても、 眼は内部を見るに過ぎない。 しかも自分は生きてゐる、 呼吸をしてゐる人間の樣子と形とをそなへてゐる。 だが憂愁は賢者の教師だ。 悲哀は知識だ。 最も多くの事を知つてゐる者は、 この人の世の不幸な眞理に就いて、 最も深く歎かなければならぬ。 知識の木は生命の木では無いのだ、 哲理も學術も驚異の源泉も、又この世の智惠も、 自分はきはめ盡した。 そして自分の心の中には、 すべてそれらのものを自分の配下になすだけの力がある。── だがそれも何の役にも立たぬ。 自分は人々に對して善をして來た、 又人々の間でも善を受けた事もある。 が、これも無益だ。 自分は敵を持つた事がある。 しかしそれらの敵は、手も下さないのに自分の前に斃れた。 ──だがこれも何の役にも立たぬ。── 他の人間の中にある善も惡も、 命も力も熱情も、私に取つては、 あの無限無窮の時以來、 砂の上に降る雨に等しかつた。 自分には恐怖が無い。 呪ひも、自然の恐れを持つてゐるとは感じない。 また、希望と欲望と共に脈打つ昂奮の動悸も無ければ この地上の何物かに對する、 人目を忍んだ愛の心も無い。── [#ここで字下げ終わり]  このモノローグは漠然とはしてゐる。しかし、マンフレッドが、これまで惱んだ大きな問題、その問題を解かうがための絶えざる渇望、その渇望の滿たされざる慘苦をよく暗示してゐる。 「宇宙の最大の謎」に對して、このマンフレッドは眼を閉ぢてゐるわけにゆかなかつた。それだけ彼の心は敏感だつたのだ。そのために、いろ/\の方面に向つてこの謎の解決を探究した。一個の人間が出來るすべての事、最大にして最小なる事をすべてやつて見た。然し解決は來なかつた。解決は來ずして、解決よりも更に惡いものがやつて來たのである。即ち「闇」がやつて來たのだ。「恐怖の無い、愛の無い、希望と欲望の無い、善に對する人間らしい喜悦の無い、眠りの無い」精神の闇がやつて來たのである。  これは人間が、神にならうとして必然的に陷るところの煉獄界に他ならない。彼は既に人間らしい屬性を失つてゐる。しかもまだ神にはなつてゐない。さうかと言つて惡魔にはなりきれない。「人間」と「神」と「惡魔」との分子を少しづつ持つた煉獄界の住人である。 「宇宙の最大の謎」を解かうとする人のすべてが、必ず一度はこの煉獄に入る。これはかのファウストが入つた煉獄である。  しかも、マンフレッドの煉獄の苦しみはまだ終つてゐない。光のちつとも射さぬ闇の中にゐながら、彼は尚も光を求めてゐる。  彼はこれまでに習ひ研めた魔法を使つて、宇宙の精靈達を呼び出す。彼の咒文によつて現はれ出て來るものは、自然界を支配してゐる七人の精靈である。  七人の精靈達は、マンフレッドに向つて、 「何が望みでお前は私達を呼び出したのだ? それを言へ!」と言ふ。 「忘れると言ふことだ」とマンフレッドが答へる。── [#ここから3字下げ]   第一の精靈 何を忘れたいのだ? 誰を忘れたいのだ? 何故に忘れたいのだ?   マンフレッド 私の胸の中にあるものを忘れたい。 それは私の胸の中に讀んで呉れ── お前はそれを知つてゐる。 だが、私には言葉にして言ひ現はすことが出來ないのだ。 [#ここで字下げ終わり]  しかし、精靈等には「忘れると言ふ事」をマンフレッドに與へる事が出來ない。それ以外のものならば、地上一切の富も力も地位も與へる事が出來るが、「忘却」だけは彼等の力に及ばない。マンフレッドの求めてゐるものは「自己忘却」である。彼は、「自己忘却」さへ得られゝば、死んでも構はないと思つてゐる。彼には生きてゐる事は苦惱に過ぎないのである。しかし、多年の魔法の修業に依つて、彼の身は不死のやうになつてゐる。彼には「自己忘却」のために死ぬと言ふ事さへもが拒まれてゐる。いつになつたら死ぬるのか、自分自身にさへもはつきりとは解らない。  彼はせめて美しい精靈の姿でも見て心を慰めようと思つて、精靈等の一人に向つて、姿を現はさせる。第七の精靈が美しい女の姿になつて現はれる。マンフレッドはそれを見て言ふ。 [#ここから3字下げ]   マンフレッド あゝ! 若しこのやうであつて、お前が狂想でもまやかしでも無かつたならば、 私はまだ、最も幸福である事が出來る。 私はお前を抱かう。 そしてわれ/\は再び── [#ここで字下げ終わり]  彼は自己の苦惱のあまり、精靈の女でも構はない、とにかく愛して見ようと思ふ。その愛に依つて自己を救ひに導びかうと言ふ希望を持つたのであつた。しかし、精靈の女は結局精靈の女である。マンフレッドが抱かうとして進み寄ると、忽然として消え去つてしまつた。マンフレッドの傍い望みは打ち碎かれた。彼は失神して倒れる。  そして、靜寂の中に、物恐ろしい一つの咒文の聲が響く。この咒文の歌は、マンフレッドの上にのべられた惡運のすべてを、單調な調子で歌ふ。── [#ここから3字下げ] ……(前略) お前の頭の上に、私は酒杯を注ぐ、 これは、この苦しみにお前を墮さんがためだ。 眠ることも出來なければ、 死ぬことも出來ぬのが、 お前の運命だ。 死を望むお前の心には 死は近いものにも思へようが、 それはたゞ恐ろしさが、 死を近いものに思はせるのに過ぎぬ。 見よ! 咒文は既に お前の周圍に働いてゐる、 そして、音の無い鎖がお前を縛つた。 お前の心と頭の上に 言葉は既に宣べられた── さあ魔力よ萎め! [#ここで字下げ終わり]  第二場になる。  アルプスの高峰ユングフラウ山の朝である。斷崖の上にマンフレッドが一人で立つてゐる。マンフレッドは矢張り憂鬱である。彼の前には朝日に輝いた新鮮な風景がある。しかしそれは彼の心を寸毫も慰めてくれようとはしない。 [#ここから3字下げ]   マンフレッド …………(前略) 母なる大地よ! また新鮮なる朝よ、山々よ、 お前達は何故にこんなに美しいのだ? 私はお前達を愛し得ない。 また汝、光りかゞやく宇宙の眼、 すべての物皆の上に開いて、 喜びとなる宇宙の眼よ、 お前は私の心を照さない。 [#ここで字下げ終わり]  彼はひと思ひに斷崖から飛び込みたい衝動を感じる。しかしどうしたのか飛び込めない。亂れきつた自分の精神をどうしたら落着かせる事ができるかと思ひ迷つている。そこへ遙かに山の牧童の笛の音が聞えて來る。その笛の音は、現身に疲れ切つたマンフレッドには、眞實の靈の呼聲のやうに聞える。その笛の音と共に死んで行きたいと思ふ心が、マンフレッドに起る。そこへ羚羊を追つて來た獵師が現はれる。マンフレッドは獵師が自分の背後に來たのを知らない。そしていよ/\斷崖から身を投げて死んでしまはうとする。背後に來てゐた獵師がそれを抱き止める。そしてマンフレッドを助けて自分の小屋へと連れ去る。死を欲してゐるマンフレッドには、まだ死がめぐまれない。  第二幕が續く。第一場はベルン・アルプス山間の小屋である。マンフレッドを助けた獵師が、マンフレッドをいたはつてゐる。獵師は沈みきつたマンフレッドの氣を引き立てようと、葡萄酒をすゝめる。マンフレッドはその酒杯を見て叫聲をあげる。赤い葡萄酒が彼には血に見えたのである。彼は次第に矯激な事を口走り初める。何も知らない獵師には、マンフレッドが狂人としか思はれない。マンフレッドの眼には、その獵師の「謙遜な徳、親切な家、辛抱強く敬虔で誇りかな自由な精神、邪氣の無い思想に接合された自重の心、健康な晝と安眠の夜、危險によつて威嚴を増し、しかも罪無い勞役、愉快な老年の希望と靜かな墓、その墓の綠の芝生の上には十字架を立て花環を飾り、また墓碑銘に向つての孫達の愛慕」等が、うらやましいものに思はれる。  次第に身心のしつかりして來たマンフレッドは、獵師に禮をして小屋を出て行く。  第二場はアルプス山中の谷間になる。瀧の邊、マンフレッドが出て來る。彼は瀧に向つて咒法を行つて妖女を現はす。妖女は、マンフレッドの求める所を尋ねる。マンフレッドはそれに答へて、自分が戀してゐた血縁の娘(これは自分が戀したがために死んでしまつたが)を甦らしてくれるか、それとも自分を死なしてくれと頼む。妖女にはそれが出來ない。が、 「もし、お前が私の意志に從ふことを誓つて、私の命令通りにやれば、お前の望みをとげる助けにはならう」と言ふ。然し、マンフレッドには、彼女に服從することが出來ない。彼の傲慢な心は、自分以外の者の命令に依つて行動することを極端に嫌つてゐるのである。妖女は去る。夜が近づいて來る。  第三場はユングフラウの山頂である。運命の神が現はれて來る。今夜は神々の祭禮がアリマネスの大廣間であると言ふので、運命の神は此處で他の神々を待ち合はしてゐるのである。やがて第二と第三の運命の神がやつて來る。その後からネメシスが現はれる。これらの神々は、すべて人生の運命と言ふ運命を司る神々である。彼等は打ち揃つてアリマネスの廣間に向ふ。  第四場はアリマネスの廣間。アリマネスは玉座に坐つてゐる。それを取卷いて諸精靈がゐる。ネメシス及び運命の神々が登場する。其處へマンフレッドが出て來る。精靈等は、神々の祭禮の中に人間が現はれたのを見て、怒り且つ恐れる。精靈逵は彼を引裂かうとする。それを第一の運命の神が押し止める。ネメシスがマンフレッドに向つて「お前は何がほしいのだ?」と尋ねる。マンフレッドはそれに答へて、「死んだ自分の戀人アスタルテを呼び出してくれ」と言ふ。ネメシスが咒文をとなへると忽ちアスタルテの幻影が現はれる。マンフレッドは幻影に向つて、いろ/\と話しかける。幻影は僅かに、「マンフレッド、あなたの現世の惱みは明日終ります。さらば」とだけ言つて消える。マンフレッドは一度はよろ/\としたが、やがて氣を取り直して此處を去る。  第三幕第一場はマンフレッドの城内の廣間。マンフレッドには、最後の靜けさが感じられる。 [#ここから3字下げ]   マンフレッド 私の上には靜けさがある── 言ふに言へない靜けさ! これは今迄、私の人生に對する知識には無かつたものだ。 [#ここで字下げ終わり]  そこへ、侍從のヘルマンが、セント・モーリスの僧院長を導いて來る。マンフレッドが魔法を使つて、精靈と言葉を交してゐると言ふ噂を開いて、それをいさめに來たのであつた。この僧院長はキリスト教の教會を代表してゐる。又、マンフレッドの不可解な行爲によつておびやかされた庶民を代表してゐる。僧院長は、 「眞の教會と和解をなさるがよい。そして教會を通じて神樣へ和解されたがよい」と言葉を盡してすすめる。然しマンフレッドはそれを聞き入れようとしない。 「たとへ私は今迄どんな人間であつたにしろ、又現在どんな人間であるにしろ、その事は神樣と私自身の問題です。その間に、人間の仲介者を立てたりは致しません」 「しかし、あなたの思つてゐる事をすつかり話して御覽なさい。すれば、私が力を添へて助けられるものなら助けてあげませう」と僧院長も思ひ切らうとはしない。マンフレッドは、ネロの言つた「もうおそい!」と言ふ言葉を引いて、それを拒む。 「獅子は獨りつきりでゐます。私もその通りです」  マンフレッドは廣間を出て行く。後に取り殘された僧院長は、まだマンフレッドを救つてやる事を思ひとゞまりきれない。  第二場ではマンフレッド[#「マンフレッド」は底本では「マンフッレド」]は、西の山の端に沒しようとしてゐる太陽に向つて、深い感慨に耽る。彼には、もう既に、二度と再び自分は生きて太陽を見る事が出來ないことが、解つてゐるのである。太陽が沈んでしまつて、運命の夜が近づく。  第三場はマンフレッドの籠つてゐる塔の前の臺地である。ヘルマン、マヌエル、その他のマンフレッドの家來が立つて話をしてゐる。彼等の話は、すべてマンフレッドに就いての話である。  其處へ以前の僧院長がやつて來る。そして皆がとめるのも聽かずに、マンフレッドを諫めに塔の内へ入つて行くと言ふ。  第四場はその塔の内部である。マンフレッドが唯一人ゐる。 [#ここから3字下げ]   マンフレッド 星が出た、 月が、輝く山々の頂に昇つた。── 美しい! 私はまだ自然と共に躊躇してゐる。 それと言ふのも、私に取つては、 人の顏よりも夜が親しい顏であつたからだ。 思ひ起せば、青年の頃、 諸方を遍歴して歩いた時、── このやうな夜、大ローマ帝國の遺物に取卷かれて、 コリセアムの壁の中に立つたものだ。 崩れた門に沿つて生えた木々は、 青い深夜の中にゆらめき、 星は廢墟のわれ目を通して瞬いた。 遠くの方からは、ティべル河の彼岸に、 番犬が遠吠えをし、 近いシーザーの宮殿の中からは、 梟が長く鳴く聲がして來、 遙かに遠く、歩哨の途切れ途切れの歌聲は、 そよ風に送られて、聞えては止んだ。 歳月に荒れ果てた廢墟のかなたに立つてゐるサイプレスの木は、 あたかも地平線を縁どつてゐるやうに見えるが、 實はほんの近くにあつた。 曾てはシーザーが住み、今は歌も唄はぬ夜の鳥が住んでゐるところ、 平たくした堡壘の間から茂つて、 その根を以て昔の帝王の家の爐を卷いてゐる小森の中に、 月桂樹の生えてゐた場所に、 蔦がはびこつてゐる。 だが、ローマ劍客の血なまぐさい圓形劇場は、 廢墟の美しさの中に、氣高い遺跡として殘つてゐる。 だが、シーザーの居間も、 オーガスタスの廣間も、 地上に倒れ落ちて、 見分けもつかなくなつてゐる。 …………………… [#ここで字下げ終わり]  彼は青春時代の旅行の思ひ出に耽る。(この思ひ出は、この作中最も出色の出來だと言はれてゐる詩句から成つて居り、同時に、作者バイロン自身の青春時代の旅行の囘想であると言ふ點で、興味ある個所である)  そこへ僧院長が入つて來る。僧院長は、再びマンフレッドを諫める。 [#ここから3字下げ]   僧院長 …………………… 私が、言葉や祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]に依つて、 あなたの心に觸れる事が出來れば、 これまで、さ迷うてゐたあなたの氣高い魂を呼び戻せると言ふものです。 あなたの魂はさ迷うてはゐるが、 まだすつかり失はれてはゐませんぢや。   マンフレッド あなたは私を御存じが無いのです。 私の餘命は、幾何もありません。 そして、私のする事はきまつてゐます。 お歸りなさい、でないと危險ですよ! お歸りなさい! [#ここで字下げ終わり]  其處へマンフレッドの死の精靈が近づいて來る。精靈はマンフレッドに向つて、 「來れ!」と呼ぶ。「來れ! 死の時だ!」  しかレマンフレッドは他から命令されて、その通りにする事の出來ぬ男である。彼は精靈に從つて行くことを拒む。 「私は、自分の最後の時が來たと言ふ事は、以前も今も知つてゐる。だがお前ごとき者に私の魂を渡すことはならぬ。去れ! 私は生きてゐた時の通りに、たゞ一人で死ぬのだ」  精靈は怒つて、他の諸精靈を呼び出す。しかしマンフレッドはそれらの精靈に從つて自分自身を死に手渡すことを拒む。精靈等は自分等の努力の無益なのを悟つて皆消え去つてしまふ。後には僧院長とマンフレッドが殘る。この時既にマンフレッドには死が迫つて來つゝある。 [#ここから3字下げ]   僧院長 あゝ! 何と言ふ、あなたの顏は蒼ざめてゐることだらう、── あなたの唇は白い、── 言葉は喘いでゐる咽喉に鳴つてゐる、── 天に祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]を捧げなさい、── 祈りなされ、── たとへ心の中でゞもよいから、── このまゝ死んではなりません。   マンフレッド 事は終つた、── 私のぼんやりとした眼では、あなたの姿がはつきりと見えない。 すべての物が私の周圍を游ぎ廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。 大地はあたかも私の下にうねつてゐるやうだ。 さらば! あなたの手を握らして下さい。   僧院長 冷たい──冷たい──核《しん》まで冷たい。 だがまだ祈祷[#「示+壽」、第3水準1-89-35、禱]を一つ…… あゝ! あなたはどうなされた?   マンフレッド 御老人! 死ぬのは大してむつかしくはありませんよ。 [#ここで字下げ終わり]  マンフレッドは遂に死んだ。  この恐ろしい悲劇の主人公に壞滅が來たのである。同時に救濟が來たのである。「宇宙の最大の謎」の解決を求めて、いろ/\の事を知り盡し、いろ/\の苦しみを苦しみ盡したマンフレッドにも、結局は唯一つの死、永劫變らざる自然の約束である死のみが、靜かにやつて來たに過ぎなかつた。その死がマンフレッドに取つて眞實の救ひであつたか、又はより慘苦なる地獄への入口であつたか、それはマンフレッド自身にさへ解らなかつた。僧院長にも解らない。作者バイロンにも多分解つてゐなかつたに相違ない。そして、それは常に誰にも解らない事である。  バイロンは、マンフレッドに於て、實によく彼自身の性格と生活を丸彫りにしてゐる。無論、バイロン自身のそれまでの生活と、マンフレッドの生活とは、かなり相違した點もあるし、又誇張された點もある。しかし、その最初のモティーヴに於て、バイロンとマンフレッドの生活態度、或は性格の發展の徑路は全然同一のものである。  或る批評家は、バイロンとその異母姉のオーガスタとの關係が、この作中のマンフレッドとアスタルテとの關係で暗示されてゐると言ふ。と言ふのは、バイロンが、その妻と別れることになつた原因の一つとして、バイロンと異母姉のオーガスタとの間に醜關係があつたのだと言ふ説が、バイロン夫人味方の人々の間に行はれた。無論バイロンはその事實を否定した。然し世間の非難は、そのためにバイロンをして外遊を思ひ立たせるほどまで、彼の身邊に迫つたのである。もつともバイロン夫人に味方をして「バイロンとオーガスタの醜關係説」を採る人々にも、別に具體的にどうかうと言へる證據は無かつた。と同樣に、バイロンの方にも、その説を十分の理由を以て否定し去るに足る程の證據の無かつたのも事實である。ところが、バイロン夫人味方の人々は、この『マンフレッド』を見るに及んで、 「バイロンは、知らず識らずの内に、自分とオーガスタの醜關係を、マンフレッドとアスタルテとの鬪係に依つて是認してゐるぢやないか」と論じた。  この事は未だに判然としない謎である。しかし、どちらにしても、先に言つたやうに『マンフレッド』は、あらゆる點に於て、作者バイロン自身の生活と、不思議に近い相似を持つてゐる事は事實だと見て差しつかへ無い。  もう一つ『マンフレッド』に於て興味ある事は、バイロンは、自己の過去の生活をこの作の中に織り込んでゐるのみならず、更に、自分自身の未來に對して豫言をしてゐる事である。言ふまでも無く、この豫言はそつくりその儘には的中してゐない。然し、中心をなす主調に於ては、全く當つてゐる。  それは、それ以後のバイロンの生活を見れば、誰でもが十分に思ひ當り得る事である。  で、再び私は彼の生活に歸らう。  一八一七年の九月にバイロンは、かねてから自分に對して種々の厚意を示してくれた英國ヴェニス領事なるホップナーに交渉して、エステに近いエウガニアの丘にある田舍家を借りる事にした。しかし、その年の冬を過すために、十月にはヴェニスに住んだ。最初の間は以前に一度居た事のあるスペッチェリアの家にゐたが、後になつてモチェニゴ伯爵夫人の持物になつてゐる宮殿の一つを貸して貰つて住んだ。この宮殿はヴェニスの大運河にのぞんで建つてゐた。  それからの二年間を彼はこの宮殿と、エステの田舍家と、ラ・ミラの別莊に、かはる/″\移り住んだ。その間矢張り彼の生活は、女との情事に於てゆたかであつた。初めの間は、アルブリッヂ侯爵夫人のサロンによく出入した。其處には、彼の詩人としての才分と名聲とに對して、尊敬又は興味を持つてゐる身分のよい人々がよく出入した。次にはペンゾニ伯爵夫人と交際をして、彼女を手に入れようとしてゐる多くの男達の仲間に入つた。その間も絶えず彼の心は憂鬱で孤獨であつた。その憂鬱と孤獨とを拂ひのけるために、益々彼は、日夜の放蕩生活の中に享樂を求めて歩いた。文字通りに耽溺の生活が開けて行つた。いかゞはしいヴェニスの女達の數人をも知つた。殊に一八一八年・一八一九年兩年の謝肉祭などの時は、彼の享樂生活は、殆んどその絶頂に達した。  前に言つたマリアナ・セガティとは、一八一八年の初めに手を切つてしまつた。自分が與へた寶石を彼女が賣りとばした事を知つたためであつた。それに、例の通りにこの女にも、そろ/\飽きて來たためもあつたであらう。マリアナの次にはマルガリタ・コグニと言ふ女に關係した。これはヴェニスの麺麭屋の妻であつた。然しそんな小商人の妻であつたにもかゝはらず、なか/\容貌才能ともに立派な女であつた。實に美しいブルーネットで、しかもアマゾンのやうな力を持つてゐた。この女は一年間、バイロンの借りてゐる宮殿の中にバイロンと同棲して、あたかも其處の主婦でゞもあるかのやうに僕婢等を追ひ使つた。然し彼女は字も讀めなければ書けもしなかつた。そのために、何でも無いのに邪推をしてバイロンの手紙を中途で横取りしたりした。だが、なか/\家政の道に長じてゐて、家の中をきちん[#「きちん」に傍点]と整頓したり、暮し向きの費用をうまく節約するのに妙を得てゐた。彼女は心からバイロンを愛してゐた。バイロンが曾てゴンドラに乘つて海に出かけて、暴風雨に逢つた事がある。その際に彼女がどんなに彼の身の上を氣遣つたか、バイロンが無事に歸宅したのを見て、如何に彼女が荒々しい喜悦の情を現はしたか、等の事はバイロン自身が書いてゐる。── 「ある秋の日であつた。私達はゴンドラに乘つてリドに出かけた。ところがその途中でひどい暴風雨に逢つた。ゴンドラはあぶなく難船しさうになつた。われ/\の冠つてゐる帽子は吹きとばされ、船は水で一杯になり、櫂は流され、波は荒くさかまき、雷鳴轟き、雨はどしや降りに降つて、暴風雨は止まうとしなかつた。懸命に鬪つてわれ/\がやつと歸り着くと彼女(マルガリタ)が大運河のモチェニゴ宮殿の張出し階段の上に立つてゐた。彼女の大きな黒い眼は、涙を流しながら血走つてゐた。そして、その長い黒髮は吹き流されたまゝ雨にぐつしより[#「ぐつしより」に傍点]ぬれて眉の上にふりかゝつてゐた。彼女はすつかり暴風雨の中に曝されて立つてゐた。その風は、痩型の身にまとつた彼女の着物を吹き拂つてゐた。電光は彼女の周圍にきらめいた。そのさまが、戰車から降り立つた女神メデアのやうであつた。若しくは、彼女の周圍に荒れ廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる暴風雨のシビルのやうであつた。暴風雨の中にゐる人間と言へば、われ/\以外には彼女一人であつた。……私を見た彼女の喜びは、稍々荒々しい所さへもあつた。そして、自分の子供が生き歸つて來たのを喜んでゐる牡虎といふ感じがした」  然しこの女との仲も、いつまでも無事には行かなかつた。彼女は次第にバイロンの女の知人に對して嫉妬を感じて來た。しまひにはそれが激しくなつて、公けの席上で、バイロンを見詰めたりする女でもあると、あばれ出したり、その女の帽子を掴み取つたりするやうになつた。そして最後に運河に身を投げた。幸ひに運よく死なずにはすんだが、バイロンとの仲はそれきりになつて、モチェニゴの宮殿を出て行く事になつた。その後バイロンと彼女とは僅かに二度劇場で出會つたばかりで、それなり永久に絶縁された。  ヴェニスで暮してゐた間も、バイロンは暇さへあれば馬に乘り、水に游いだ。彼は游泳にかけてはなか/\上手で、この事は人も許し、自分も誇つてゐた。彼があまり游いでばかりゐるので、「英國の魚」だとか、「水のスパニエル犬」だとか、「海の魔」だとか人々から言はれた。それに就いて面白い話がある。その頃彼を知つてゐたヴェニスの一船頭が、 「あの人(バイロン)は立派なゴンドラ漕ぎですぜ、たゞ惜しい事には詩人で貴族でさあ」と言つた。又、その船頭に、或る旅行者が、 「あの人は何處で詩を書くのかね?」と訊ねた。すると船頭が、 「水の中へもぐつて書くんでさあ」と答へたと言ふ。それ位に游泳には夢中になつてゐたのだ。そのせゐでも無からうが當時の彼は食物はかなり節制して小食をした。夜には一杯のジンと水とを詩を書きながら飮み、朝になるとクラレット酒とソーダ水を飮んだ。  彼のヴェニスの生活は、[#「、」は底本では「。」]享樂や交際に忙しかつたが、然し詩作の力を衰へさせはしなかつた。 『ベッポ』を書き、『マゼッパ』を作り、『ドン・ファン』の最初の數卷を完成してゐる。『ドン・ファン』の第一卷は一八一八年の十一月に書かれ、第二卷は次の年の一月に書かれた。第三卷と第四卷とは、その年の末に書き上げられた。『ベッポ』はヴェニスの物語であり、スケッチであつて、バイロンが諷刺家として、社會生活に對する滿腹の諷刺を吐き出した作である。殊にその序詩は立派なものである。『マゼッパ』は、比較的に彼の初期の作品に似たスタイル──スコット風のスタイル──で書かれてゐる。  一八一八年の五月か六月かに、クレヤモント孃の腹に生れた娘のアレグラが、英國からヴェニスにやつて來た。やつて來たと言つても、まだ幼いので、スヰス人の乳母に連れられて來た。この乳母はまだ若い女であつたために、アレグラの世話が完全にはやれなかつた。それで四ヶ月後には、バイロンは、前に言つたヴェニス領事のホップナー夫人に、アレグラの世話を依頼した。彼は、この不幸な自分の幼い娘を非常に愛してゐた。いろ/\な心配や懸念をした。一八一九年の六月に、 「あの子の氣質や、物事のやりくちは、ホップナー夫人の言ふ所によれば、私に似てゐると言ふ事です。顏付も似てゐる。この點では、夫人はあの子を柔順な若い貴婦人にするだらう」と書いてゐる。  一八二〇年の三月には再び娘の事を、 「アレグラはかなり綺麗になつたやうだ。だがまるで騾馬のやうに頑固で、しかも兀鷹みたやうに大食をする。顏色から判斷すれば身體は丈夫だ。氣質もかなり善い。然し虚榮的で強情な點がある。あの子は自分は綺麗だと思つてゐる。そして、自分の好きな事をしたがる」と言つてゐる。この言葉などは、バイロン自身の性格を頭に置いて讀んで見ると非常に面白い。「然し虚榮的で強情な點がある。あの子は自分は綺麗だと思つてゐる。そして、自分の好きな事をしたがる」と言ふ個所などは、微笑無しには讀まれない。要するにバイロンとても矢張り人の親で、このアレグラの事ではいろ/\と父親らしい心配や心遣ひをした。次の年に、當時ピザにゐたシェリイにすゝめられて、彼はこのアレグラを、ロマニャにあるカヴァルリ・バグニの修道院に入れて教育を受けさせた。その間も、彼が手紙に書いたり、人に話したりした事に依つて、彼が絶えずこの娘の事に就いて非常な氣を遣つてゐた事がわかる。何故彼が娘を外國の修道院に入れたりしたかと言ふに、第一に健康によいと考へたのと、英國の教育を受けさせたく無いと考へたのと、外國の教育を受けて置けば比較的少ない持參金で結婿が出來ると考へたのと(彼はアレグラに五千ポンドだけの遺産を殘した。尤もこれには、彼女が英國人とは結婚しないと言ふ條件がついてゐる)、ローマカトリック信者にしたいと考へた(バイロンはローマカトリック教を諸宗教中の最善のものとしてゐた)ためであつた。  然し、このアレグラは一八二二年に熱病にかゝつて、同年四月二十二日に死んだ。彼女が熱病にかかつたと言ふ事を聞いた時には、バイロンはすつかり昂奮して口もろく/\利けなかつた。いよ/\死んだと言ふ報知に接するや、殆んど氣絶せんばかりだつたと言ふ。そして、 「アレグラは死んだ。あの子はわれ/\よりも仕合せだ。あれの死んだのは神のおぼしめしだ。もうこの事は言はぬ事にしよう」と言つた。アレグラの遺骸は、バイロンが少年時によく訪れた英國のハロウの楡の木の下に埋められた。その碑面には、彼女の生れた年月日と死んだ年月日と共に、 [#ここから2字下げ] 自分があの子のもとへ行つても、あの子は自分のもとへは戻つては來ないだらう。 [#ここで字下げ終わり]  と言ふバイロンの作つた文句が刻まれてゐる。  ヴェニス時代のバイロンは、いろ/\の友人や知己から訪問を受けた。その中で一番興味深いのはシェリイの訪問である。シェリイは當時イタリーに妻と子供をともなつて滯在してゐたが、一八一八年の八月、妻子をバグニ・ディ・ルッカに殘して置いて、彼に逢ひにヴェニスに來た。到着した日は雷が鳴り暴風雨であつた。その次の日には二人は早速、船に乘つてリドへ行き、海岸に沿つて馬に乘つた。この二人の詩人の交際の態度はなか/\面白いものがある。世間人としては、金箔附きのすね[#「すね」に傍点]者であるバイロンが、シェリイに對しては素直に、實際上の指導や助けを借りた。そしてシェリイの理想主義者らしい勇氣と獨立心を尊敬して、「人間の中で一番立派な人間だ」と言つた。しかも、シェリイの詩に就いては一度も公然と賞讃したりした事は無かつた。反對にシェリイは、バイロンの詩を賞讃して、殆んどその崇拜者の如き態度を示してゐる。  シェリイの作『ジュリアンとマッダロ』と言ふのは、たしかにこのヴェニスへの訪問に暗示されて書いたものであるが、この作の序文にバイロンの性格に就いて次のやうに記してゐる。これはシェリイのすぐれた批評眼に、バイロンが如何に映じたかと言ふ點で大變興味のあるものである。── 「彼は最も完成せる天才者である。そして彼が自己の精力をその方へ向けさへすれば腐敗した故國(英國)の救濟者にもなる事が出來よう。然し、自ら誇ると言ふ事は彼の缺點である。彼は自分の異常な精神と、自分の周圍の狹小なる智力者とを比較して、人生の虚無に就いての深い悟りを開いてゐる。彼の情熱と意力は、他の人間とは比較にならぬ程に強大である。そして意力は情熱を拘束する事無しに、この二つが互に力を與へ合つてゐた。……然し、社交界に於ては彼くらゐにおとなしく、辛抱強く、氣取らない人間は無い。彼は快活で率直で頓智がある。彼の生眞面目な話は、一種人を醉はせるやうな所がある。それを聞く人々は、恰も咒文にかゝつたやうに魅惑されてしまふ」  バイロンは、エステの自分の田舍別莊をシェリイに貸してやつた。其處で秋の間を一緒に暮した。その間もシェリイは詩作の上や文章などで、詩人としてのバイロンの優れてゐる事をいつも賞讃してやまなかつた。後になつて彼は、 「太陽が螢の光を消してしまつた」と言つてゐる。勿論太陽とはバイロンの事で、螢は自分自身を指してゐる。 「自分はバイロン卿と競爭することには絶望してしまつた。そしてそれは當然のことだつたのだ。しかも相手に取つて戰ふのに、バイロン卿ほど戰ひ甲斐のある人は他には無い」  勿論これらの言葉には幾分のお世辭と、大部分の謙遜の氣持が加味されてゐる。然しはげしい理想家肌の革命主義者であり、文藝に對する忠實なる禮讃者であるシェリイが、單なるお世辭と謙遜のみからは、これほどの事は言へなかつただらう。  その内にムーアもヴェニスを訪れた。そしてバイロンの宮殿に泊つた。ムーアはヴェニスに來て、この水の都の歴史的や詩的な聯想に耽つては、それに就いての話をよく切り出した。ところがバイロンは、さうした變に文學者じみた話はいつも大嫌ひであつた。想ふに彼の裡にあるセンティメンタリズム嫌ひの心がさうさせたのであらう。これに就いて一例を擧げると、曾てムーアが、イタリーの落陽の薔薇色の美しさを、夢中になつて讃嘆し出した事があつた。すると傍にゐたバイロンが、 「おい、そんな話やめつちまひたまへ、トム。詩的な話をするのは御免だ」と言つた。このトーマス・ムーアには『バイロン傳』の著書があるが、それにはこのヴェニス時代の彼の行爲や、性癖や、習慣の事が書かれてゐる。例をあげると、バイロンの氣が變り易かつた事、運動のために體操をした事、知らぬ人と面會するのを恐れてゐた事、美術に對する鑑賞が偏してゐた事、些細な物に馬鹿々々しい儉約をした事、ヴェニスの社交界を嫌ひだとよく言つたといふ事等。ムーアはイタリーにしばらく滯在してゐた後で英國へ戻つた。  この頃からバイロンとの密接な關係に置かれてゐる女性に、グイッチョリ夫人がゐる。これはガンバ伯爵の妹であつて、立派な女性であつた。カステラルが、 「テレサ・グイッチョリは、バイロンの生涯の暴風雨の地平線上の星の如き觀がある」と言つてゐる。彼女はラヴェンナの一貴族の娘であつて、その處女時代を修道院で教育を受け、十九歳の時に、六十歳にもなる富裕な男と結婚した。この優い美しいブロンドは、シャトウブリアンを愛讀してゐた。最初バイロンに逢つたのは、彼女がアルブリッヂ社交會の集りに、花嫁姿でやつて來た時だつた。然しその時には偶然に出會つたと言ふばかりで、正式に紹介されて知合ひになつたのは、次の年の四月、ベンゾニ伯爵夫人の家であつた。そしてこの會見に依つてグイッチョリ夫人は、すつかりこの英國の詩人に惹きつけられてしまつた。そして二人の間には戀愛が成立した。四月中二人は毎日々々逢つた。その内に彼女の夫は彼女をラヴェンナに連れ去つた。彼女はヴェニスの戀人に向つて何本も何本もの熱烈な戀の手紙を書き送つた。その一つには「あなたのお望みに添ふやうに私の一生をさゝげる決心をしました」と書いてあつた。六月には彼女はバイロンを自分の家にまねいた。バイロンは言はれるまゝにフェルララを通り、ボロニヤを訪れて、ラヴェンナに到着した。が、到着して見ると、夫人は病氣になつてゐた。然し、彼が傍にゐるのと、ヴェニスの醫師アグリエッティがゐたために間も無く病氣は囘復した。彼女の夫の伯爵は、バイロンの訪問を非常な誇りだと思つてゐるやうだつた。「私は彼をまるで理解する事が出來ない」とバイロンは書いてゐる。「彼は度々私を訪ねて來る。そして六頭立ての馬車で私を戸外に連れ出す。この事實を以て見れば、彼は彼女(テレサ)から完全に支配されてゐるらしい。──そしてこの點では私も彼女から支配されてゐる。  間も無く彼はヴェニスから自分の馬を呼び寄せて、それに乘つたり、馬車を引かせたりして、毎日毎日附近を驅つて歩いた。  當時の光景は『ドン・ファン』の第三卷目に描かれてゐる。── [#ここから3字下げ] 黄昏の甘美なる時! 松の林の靜寂の中を、 また、ラヴェンナの古い/\森を取り圍む 沈默の岸邊のほとりを。 [#ここで字下げ終わり]  テレサの病氣が全快すると、バイロンは彼女との別離を恐れて、アメリカに駈落ちをしようと言ひ出した。又、アルプス山の中へ逃げようとも言つた。「何處か遠い海にある、人に知られぬ島へ」でも去らうとも言つた。彼女は彼女で、ジュリエットのやうに死んだふりをして一度墓に埋めれて、墓から出て來ようと考へたりした。然し、そのどれもが實行には至らなかつた。夫の伯爵が、妻を同伴して八月にはボロニヤに行く事になつて、バイロンも一緒に行く事を許された。自分が想ひこがれてゐる女と、その女の夫とに隨つて旅行をするのである。バイロンに取つては苦しい、しかも甘い戀の旅であつた。  彼の作『ダンテの豫言』はこの時代に書かれた。又、當時の逸話としては、このボロニヤにゐた頃、或る日彼は劇場に芝居を觀に行つたが、アルフィエリ作の『ミルラ』を觀て劇場を出る時には、感銘のあまり涙を流してゐたと言ふのである。  九月の十五日になつて、バイロンとテレサとは、このボロニヤに別れを告げて、エウカニアの丘を訪れ、アルクワに遊んだ。アルクワにある「巡禮者の記録」には二人は自分達の名を一緒に書き殘した。ヴェニスに到着すると、醫者のすゝめに依つて、グイッチョリ夫人は田舍に轉地する事になり、夫伯爵の承諾を得て、ラ・ミラの別莊でバイロンと一緒に暮す事になつた。二人はすつかり其處で落着いて家庭的に暮した。  ところがその年の十一月、バイロンは再び間歇熱に冒される事になつた。熱にうかされながらも、彼は數篇の詩を作つて、これを看護してゐた從者のフレッチャーや伯爵夫人に書き取らせた。然し間も無く熱も癒えた。彼は例に依つてこの病氣の間にも醫者にはかゝらなかつた。病氣が全快して間も無く突然にグイッチョリ伯爵がラ・ミラにやつて來て、夫人を伴ひ去つてしまつた。いかに鈍感な伯爵も二人の仲を感づいたのだらう。戀人同志は別離を餘儀なくさせられた。文通さへも出來ぬ事になつた。  バイロンの悲しみは深かつた。その爲めにイタリーに居る事もすつかり面白くなくなつて、その年の十二月には、歸國してしまはうと言ふので荷物をすつかり纒めた。旅行服も着たし、手袋も帽子も身につけた。荷物の箱はゴンドラに積み込んだ。ステッキも手に持つた。そして「用意がすつかり出來てしまふまでに時計が一時を打つたら、今日は出發しない」と言つた。彼はどうしても心の裡では英國へ歸りたくはなかつたのだ。ところがうまく用意の出來ぬ間に一時が打つた。それで出發は次の日に延期された。この話などもいかにもバイロンらしい。  ところがその翌日になると、ラヴェンナにゐるグイッチョリ夫人が危篤だと言ふ報知が屆いた。そのために、彼の歸國は全然沙汰やみとなつた。そして彼は、病氣の戀人のもとへ、ヴェニスを出發して、ラヴェンナへと急行した。 第八章 ラヴェンナ(一八二〇—一八二一)  ラヴェンナでの生活は、最初の間は比較的平穩無事であつた。と言つても、矢張り彼は社交界に出たり、謝肉祭に加はつたりして遊び廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのをやめはしなかつた。此處での生活には、彼は餘程滿足したと見えて、一八二〇年一月に、 「私は此處に一日──一週間──一年間──一生涯滯在するかもしれない」と書いてゐる。そしてヴェニスから自分の使ふ家の道具を取り寄せた。住居としてはグイッチョリ宮殿の數室を借り受けた。此處で彼は、パルチ原作の『モルガンテ・マッチオーレ』を飜譯し、リミニの『フランチェスカ』の物語を書き變へた。その間、舊友のバンケスやサ・ハンフリイ・ディヴィ等が訪問して來た。當時彼は馬に乘つて外出する時は、いつも嚴重に武裝して出た。グイッチョリ伯爵のために、いつ何時暗殺者に襲はれるかもわからぬのを懸念したのである。  この頃からイタリーには、政治上の動搖が起り始めた。それは神聖同盟に對する反逆運動の勃發であつた。共和黨に加擔した自由主義者達は神聖同盟の無法に反對して、法王に向つて攻撃の矢を放つた。官憲の方ではその加擔者の追求に急であつた。バイロンもそのためには種々の目に逢つたらしい。『チャイルド・ハロルド』はイタリー語に飜譯されて出版されてゐたが、その第四卷目の飜譯は官憲の手に依つて沒收され、飜譯者は處罰された。  同年の七月になると、グイッチョリ伯爵夫人とその夫なる伯爵との離婚が正式に果された。彼女は、直ぐにラヴェンナから十五哩ばかり離れてゐる一別莊に引きこもつた。バイロンは時々彼女に逢ひに其處へ出かけて行つた。七月の末にはバイロンは『マリノ・ファリエロ』を完成し、同年の末近く『ドン・ファン』の第五卷目を書き上げた。この『ドン・ファン』を彼はテレサに見せて、 「これは『チャイルド・ハロルド』よりも永い生命があるでせうかね?」と訊ねた。すると彼女は、 「あゝ! しかし私だつたら『ドン・ファン』で不朽の名を得るよりも『チャイルド・ハロルド』の名聲を三年間だけ持つ方がよいと思ひますわ」と答へた。バイロンの姉オーガスタ・ライ夫人も、それと同じ意見を告げた。この二人のすゝめに依つてバイロンは『ドン・ファン』の續きを書く事をしばらく中止した。  この頃彼は英國のブラックウッド誌に寄稿をして、その中で自作の詩に對する英國批評家の批評に對する批評、自分の生活に就いての辯護、ウォーズウォース一派の湖畔詩人に向つての攻撃、新興詩に反對するポープの擁護等を書いた。  その年も次第に末に近づいて來るに從つて、南歐の政運は益々急になつて十一月には、バイロンは自分の手紙をオーストリアの士官連の手で開封された。士官連は、その中に餘り面白からぬ個所を發見した。が、別に大した事にもならずに濟んだ。十二月の初めには、そのオーストリアの軍隊の司令官が、バイロンの住んでゐる家の戸口で暗殺されてゐた。この事は『ドン・ファン』の第五卷目の三三—三九に描かれてゐる。  神聖同盟に對する反對運動は次第に激しくなつて來た。この反對運動にはバイロンは以前から同情をしてゐたが、その同情は、彼のラヴェンナでの新しい交友から益々刺戟された。戀人のテレサの兄弟なるピエトロ伯爵は、勇敢なる青年士官であつて、當時ローマから歸つて來たばかりで、この反對運動の鬪士であつた。バイロンとピエトロ伯とは忽ち意氣投合して、バイロンは遂に、反對運動の團體に加入した。然し英國人であるために直接の危害には逢はなかつた。ところが七月になつて、ピエトロ伯は暴力を以て國外に追放された。姉のテレサとバイロンもそれに隨つてフローレンスへと行つた。詩人は此處にしばらく滯在してゐた。その間シェリイに何度も手紙を出して、實際的の事で種々と相談してゐる。で、シェリイはバイロンの身の上を心配して、八月一日にフローレンスへやつて來た。その時の事をシェリイは次のやうに書いてゐる。── 「私は昨晩十時に此處に到着した。そして、それから今朝の五時までずつと起きてバイロン卿と話をした。彼は私に逢つて喜んだ。彼は實際すつかり健康を囘復して、今ではヴェニスで送つた生活とはまるで反對の生活を送つてゐる。……彼は今ではすつかり丈夫で、政治問題と文學とに沒頭してゐる。彼と私は昨夜、詩その他の事を隨分語り合つた。そして彼と私との意見は、例の通りに合はなかつた。合はなさ加減が以前よりもずつとひどい位だ」  再び、同月の十五日に書いてゐる。── 「バイロン卿は、あらゆる點で非常に改善された──才分の點でも、氣質の點でも、道徳上の意見の點でも、健康状態に於ても、幸福の點でも。グイッチョリ夫人との關係は彼に取つては非常に利益があつた。彼はかなり豪奢な暮しをしてゐる。然し收入の範圍外へ出る事は無い。彼の收入は一年間に四千ポンドであつて、その中の千ポンドを彼は慈善事業に投じてゐる。スヰスは彼には全然不適當な土地である。……ラヴェンナもひどい所だ。彼はあらゆる點から、タスカニイ人の間にゐるのが一番よいのだ。彼は私に『ドン・ファン』中の未だ出版されない部分を讀んできかして呉れた。この詩は實はすぐれたものであつて、現代のすべての詩人の作よりはるかに卓越してゐる。……バイロン卿と私は非常な親友である。だから若し私が貧乏にでもなつたり、現在私が持つてゐる詩人としての位置よりも、更に高い位置を持つ資格の無い詩人でゞもあれば、彼に對して如何なる助力でも乞ふ事が出來る。然しまあ現在ではさうでは無い」  八月の下旬バイロンは、住宅としてランフランキ宮殿を手に入れる事が出來た。このランフランキ宮殿と言ふのは、ラング・アルノの古い廣い建物であつて、昔住んでゐた人々の幽靈が今でも出ると言ふ噂のあつた、いはく[#「いはく」に傍点]つきの家である。其處へ行く途中、イモラと言ふ所で、舊い友達のクレア卿と出會つて舊交を温め、ボロニヤではロヂャースに會つた。バイロンはロヂャースを連れて、一度訪れた事のあるフローレンスの畫廊を見物した。畫廊に來合はしてゐた觀光客等の群が、 「あれが有名な詩人のバイロンだ!」と言ふわけで、彼の一行を見詰めたと言はれてゐる。かくして、バイロンの一行はピザに到着した。その到着の日時は、判然としてゐないが、前後の關係や、手紙の日附から推察するに、一八二一年の十一月二日だらうと思はれる。  ピザでの生活その他に就いては次章にくはしく述べる事にして、此處にちよつと、足掛け二年間のラヴェンナ滯在の間に於けるバイロンの文學作品に就いて書いて置かなければならぬ。  彼のラヴェンナ時代は、彼の作品表の中では重大な一時期を劃してゐる。と言ふのは、彼の作品中の歴史的詩劇は、殆んど全部ラヴェンナ時代前後に出來たものである。作品以外にも、種々の注目に値する藝術論をやつてゐる。藝術論に就いてはまあ言はぬとして、作品としては、第一に『マリノ・ファリエロ』それから『二人のフォスカリ』『サルダナパラス』『カイン』『審判の幻想』等がある。  然し、バイロンは本來、劇詩人としてはあまり立派な才能は持つてゐなかつた。第一に戲曲家としての建築的な想像力を持たなかつた。それ故に、一個の作品を劇としての統一の中に渾然とまとめる事に大抵失敗してゐる。彼の劇詩は、全體として立派な統制を持つた一有機體と言ふよりは、むしろ、美しい部分や莊嚴な部分や、諧謔的な部分などの集合であると言つた方がより當つてゐる。部分々々、又個々の詩や句に於ては實にすぐれたものがあるが、それらが不可離の因果關係と必然性に依つて結合されてゐるかどうかと言ふ點では、疑問がある。彼の所謂「戲曲」なるものは、唯數章又は數卷にわかれたる詩の集りに過ぎない。  第二に彼の才能の中には、客觀的の想像力と言ふものが缺けてゐる。即ち、ラスキンが「他へ透入する想像力」と言つたものが缺乏してゐるのである。これをもつと解り易く言へば、自分以外の人間の性格を洞察し得る力である。シェクスピヤその他のあらゆるすぐれたる劇作家が持つてゐたやうな、想像力の客觀性である。そしてこれ無くしては、如何なる天才者といへども戲曲家としては成功し得ない。と言ふのは、戲曲と言ふものは、その中に出て來る數人の人間の性格の相違から生れて來るものだからして、それらの各々の性格に對して、十二分の洞察と同情を持つてゐなければ、到底立派な作品は出來ないからである。ところがバイロンにはこれが甚だしく缺乏してゐた。  それ故に、彼の書いた作品に出て來る男は、殆んど全部彼自身である。又、女はすべて自分の胸にある憧憬の女である。少し極言すれば、彼は自分自身しか理解してゐなかつた。それ故に自分自身の姿しか描けなかつた。そして彼に於てはこれが最も興味のある事である。彼が成功してゐる作品は、殆んど全部自分自身を描いた作品である。一度自分とは全然異つた性格の人間を描くや、きまつて彼は失敗してゐる。其處には現實性が無く、又興味も感じられない。  さて、『マリノ・ファリエロ』は、一八二〇年の四月に筆を取り、七月に完成した。その卷末にはゲーテへのデディケイションが附いてゐる。この戲曲は、一八二一年の初め英國ロンドンのドゥルリー・レーン座で上演された。然しその結果は惡くて、惡評を受けた。ジョン・ワトキンス博士などゝ言ふ人は、「これは、退屈な劇の中でも一番退屈な劇だ」と言つた。、バイロンの崇拜者達さへも、この劇にはあまり感心しなかつた。 『二人のフォスカリ』は一八二一年の六月十一日から七月十日までの間に書かれ、十二月に出版された。これも前の『マリノ・ファリエロ』同樣に失敗の作であつた。世間からの批評もあまり良くはなかつた。だが、この『二人のフォスカリ』と同じ書物に載せて出版された『サルダナパラス』は、かなりの成功を收めてゐる。これは前年の五月に書かれ、ゲーテに獻ぜられたものである。これがどうして、比較的成功したかと言へば、この作の主人公であるサルダナパラスが、ハロルド(即ちバイロン)その人であつたためである。即ち、作中の人物が自傳的であつたために成功したのである。『サルダナパラス』に就いてもう一つ注意すべきは、この作中に出て來るミルハと言ふ女は、グイッチョリ伯爵夫人に酷似してゐ、サルダナパラスとザリナ女王との關係は、作者バイロンと彼の妻との關係に比較する事が出來ると言ふ點である。  次の『ウェルネル』は一八二二年の一月、ピザで完成され、十一月に出版された。これは、ハリエット・リーの著書なる『ドイツ物語』から筋を採つたもので、バイロンの作としては、價値の低いものである。然し舞臺に上演されると成功した。彼の戲曲が上演に成功したのは、この『ウェルネル』だけである。 『造り變へられた不具者』は一八二一年ピザに於て書き始められたもので、一八二四年一月に出版された。この作は今はもう忘れられてしまつた『三人兄弟』と言ふ小説から暗示されて出來たもので、同時に、ゲーテの『ファウスト』や、スコットの『黒い倭人』等からも影響を受けてゐる。  一八二一年の十月に書かれた『天と地』は、ノア大洪水以前の事を取扱つたもので、これは『マンフレッド』に對して、『造り變へられた不具者』と同じやうな關係を持つてゐる。  次に『カイン』である。これはラヴェンナで書かれた彼の作品中最大の、同時に彼の全作中に於ても、特に傑出した作品である。いやそれのみでは無い、十九世紀に於ける哲學的の詩の中での一大收穫たるに恥ぢないものである。一八二一年の七月に筆を下し始め、九月に完成した。これには、バイロンの持つてゐる思想の最も深刻な部分が現はされてゐる。彼の抱いてゐた神の觀念、神と人間との關係に對する解釋、從つて廣い意味に於ける宗教意識が具現されてゐる。  近代英國諸詩人中、一番純粹なクリスチャンにシェリイがゐる。又一番純粹な懷疑家にバイロンがゐる。しかも面白い事に、この二人が同じやうに故國に容れられず、親友同志であつた。  バイロンはすべての事を疑ふ。そして常に疑つてゐる。疑つて、その疑ひの解決を求めてゐる。しかも解決は決して見出せない種類のものである。彼は腹の底からの懷疑派である。そして、彼をして近代主義《モダーニズム》の開祖たらしめたものは、言ふまでも無く、この物恐ろしいやうな、無限の懷疑の精神である。 『カイン』の作中の雰圍氣は、全然否定的の精神でかためられてゐる。と言ふのは、彼はこれを戲曲の形にこそ書いたものゝ、結局その大部分が、彼自身の心の兩面の間の對話だからである。彼の心内に巣を喰つてゐる二個の人間の、爭鬪の歴史の記録であるからである。  この作は各方面に於て非常な反響を起した。或は、神及び教會に對する不遜なりとし、或は、「おどろくべき、恐ろしい、忘れる事の出來ぬ」作とした。シェリイは、これをミルトンの『失樂園』以來の大傑作だと言つた。スコットは(この作はスコットに獻げられてゐる)、これを壯大無比なる戲曲として激賞した。  どちらにしろ、『カイン』はバイロンの思想的方面を遺憾なく現はしてゐる點で、重大な作品であるに相違ない。  バイロンとサウヂイとの論爭もこの時期に含まれる。最も英國的なこの湖畔詩人は、バイロンの種々の意見や、行爲に對して、よく反對した。するとバイロンも決して默つてはゐない。彼一流の火の出るやうな論法で、サウヂイを攻撃し、自己の立場を辯護した。それらの論文は主としてブラックウッド誌上その他の雜誌に掲載された。  一八二一年にサウヂイが『審判の幻想』を書いた。するとこれに對抗してバイロンも自分の『審判の幻想』を書いた。この異常なる作品は、その内容があまり激烈であつたために、出版屋のムーレイもロングマンも出版を拒絶した。そして一八二二年のリベラル誌上に掲載された。ところが、これを掲載したために、リベラル誌の出版人ジョン・ハントは當局から處罰されて、罰金を科せられた。  しかもこのバイロンの『審判の幻想』は、たしかにすぐれた戲飜詩《パロディ》であつた。これには始めから終りまで白熱した精神がゆき渡つてゐる。しかし、この詩の底には、正しい憤怒の意氣が流れてゐる。スヰフトの散文の或るもの以外に、このバイロンの『審判の幻想』ほど骨を刺すやうな諷刺は、英國文學中に無い。 第九章 ピザ──ジェノア  當時のバイロンの旅行ぶりは、實にもの/\しいものであつた。すつかり中世紀の大名行列と思へば間違ひない。そしてこれが彼の派手好きの、大業好きの性格をよく現はしてゐる。先づ第一に數臺の大きな馬車の一隊が組織される。それを引く數十頭の馬がゐる。それに澤山の下男がゐる。犬がゐる。鳥がゐる。猿がゐる。それらが堂々と練つて行くのだ。  ピザへの旅行もこの行列で行つた。そしてシェリイの世話で、前以て借り入れてあつたランフランキ宮殿に落着いた。それから十ヶ月間は此處にゐた。唯一度その間にレグホーンの附近に六週間だけ行つてゐた。彼の生活はこの舊い中世紀の宮殿の中でも、ラヴェンナでの生活の通りに送られた。  朝はおそく床を出る。午後には訪問客に面會する。撞球をやる。乘馬をする。或はピストルの射撃をやる。このピストル射撃はシェリイも一緒にやつた(シェリイとの親交はこの頃その絶頂に達してゐた)。二人ともピストルの射撃はなか/\巧みだつた。だがバイロンの方が一枚上手だつた。バイロンの手はよく顫へたが、それでも決して標的を射ちそらすと言ふ事は無かつた。一度などは細い杖を立てゝ置いて、それを的にして二十歩の距離から射撃して、杖を二つに折つた。こんな事をして打ち興じてゐる間に夕方が來る。すると輕い食事を取る。そしてグイッチョリ夫人と樂しい宵を過す。その後で夜おそくまで詩作に沒頭する。  ヴェニスにゐた時よりも、ラヴェンナにゐた時よりも、彼は今は人附合ひがよくなつて、時々友人以外の人々をも招待したりした。然し仲の好い知人と言へば、やはり餘り範圍は廣くなかつた。第一にシェリイ、それからヰリアムス大佐夫妻、シェリイの從兄弟にあたるメドウィン大佐等であつた。一番最後のメドウィン大佐と言ふのは、後になつて『バイロン會話録』と言ふ書物を出した人で、よくバイロンと一緒に食事をしたり、徹夜して種々の會話をした。その外にバイロンの所へよく出入する者に、アイルランド人でターフェと言ふのがゐた。この男はダンテの作品の注釋書を書いてゐて、それを出版して呉れる出版屋を懸命になつて搜してゐた。バイロンもこの男のために隨分世話をしてやつた。そのためにロンドンの出版屋ムーレイに向けて何度も何度も手紙をやつてゐる。その中にはこんなのがある。── 「彼(ターフェ)は出版出來なければ死んでしまふだらう。だが出版したら散々にやつつけられるだらう。然し彼はやつつけられても構はないと言ふのだ」(三月六日) 「私は彼の書物を是非出版して貰ひたいと思ふ。出版出來さへすれば彼は無上に幸福になるだらうから。彼は實に氣のいゝクリスチヤンだ。だから書物を出版させて、少しこづいてやらなくちやいけない。それに、氣の毒な事に、彼は又馬から落ちて溝にはまつたのだ」(三月八日)  このターフェと言ふ男は、よほど滑稽な、しかも愛すべき人だつたらしい。  この頃バイロンは、別に知人でも無い英國ソマーセットシャイア[#「ソマーセットシャイア」は底本では「ソマーセットシ イア」]の一紳士シェファードと言ふ人から手紙を受取つた。その手紙にはシェファード自身の妻の死の事が書いてあつたが、バイロンはその手紙の純粹な感情に強く打たれて、長い返事を書いた。バイロンの胸には、荒々しい暴風雨が絶えず吹きまくつてはゐたが、またこのやうな、こまやかなしんみり[#「しんみり」に傍点]とした感受性も多分に藏されてゐた。  こまやかな感情と言へば、彼の自分の娘に對する愛情である。彼がピザに來てからも彼女の事を忘れ得ずに十二月になると、彼はムーレイに手紙をやつて、アダの小肖像畫を送つて貰つた。そしてそれを見ては「娘は私に非常に似てゐる」と話して喜んだ。  一八二一年になつた。その一月にバイロンのピザに於ける交友の小團の中に、E・J・トレローニイ大佐が加はつた。これは有名な、そして勇敢な遊歴者である。この人は後年バイロンがギリシヤに行つた時に從つて行つて、バイロンの晩年の事を記録に殘した人である。  三月にはテレサと二人で、彫刻家バルトリニのモデルとして坐つた。三月二十四日は友人等とともに遠乘會をしてピザの郊外へ出た。するとその途中で酒に醉つた一人の龍騎兵が、馬に乘つたまゝ一行の眞中へ突き入つて來た。そしてシェリイを馬背から突き落した。さあバイロンが承知しない。すつかり怒つてしまつて、ランゴ・アルノに沿つて逃げる龍騎兵を追つた。そしてたうとう拔刀で格鬪をして、相手の龍騎兵に重傷を負はせた。當局は默つてゐない。直ぐ調査が行はれ、その結果、ガンバ一家は遂にタスカニイから追放されて、バイロンの周圍の友人等の集りも破れてしまつた。シェリイ夫妻、ヰリアムス一家、トレローニイ等は、間も無くスペジヤ灣にのぞんだレリチにあるマグニ別莊に落着いた。バイロンはグイッチョリ伯爵夫人及びその兄弟ガンバ・ピエトロとともに、レグホーンの郊外モンテ・ネロにあるロッザ別莊に居を定めた。死んだ娘のアレグラの遺骨は、この頃、このレグホーンの港から英國へ送られた。  バイロンのレグホーン郊外滯在中には、彼の詩名をしたつてアメリカ人の一團が訪れて來た。アメリカの畫家ウェストが、詩人及びグイッチョリ夫人の肖像畫を描いたのはこの頃である。その内に英國のライ・ハントが、その妻及び友人の子供を連れて別莊に訪れて來た。バイロンは彼等を連れてジェノアに行つてトレローニイの所に泊つた。トレローニイはジェノアの港でバイロンのために建造された「ボリヴァ」と言ふヨットと、シェリイのために建造された「ドン・ファン」と言ふヨットとを監督してゐた。シェリイは、ライ・ハントの一家がレグホーンのバイロンの別莊に來てゐると聞いて、レリチのマグニ別莊からレグホーンへやつて來て、やがて打ちそろつてピザへ行つた。そして再びピザでの生活が始まつた。前にも言つたやうに、バイロンがレグホーン郊外のロッザ別莊にゐたのは僅かに六週間であつた。  この前後の二年間ばかりの間に、バイロンは、しきりと新聞紙を發行したがつてゐた。彼の言葉を以てすれば、それは「現代に、政治、詩、傳記、批評、道徳、神學等の新しい光明を與へるために」と言ふのであつた。この事で一八二〇年の末にムーアに相談してやつた。ところがムーアは極力反對した。ムーアの意見によれば、バイロンはどこまでも一人で仕事をして行くべき人であつて、他人と共同の仕事をやれば必ず失敗する、と言ふのである。然しバイロンはあくまで發行すると言つて頑張つた。  ところが、その時シェリイの身の上に大事が起つた。七月八日にシェリイは、自分のヨットの「ドン・ファン」に乘つて、レグホーンからレリチに向つて沖へ出た。そして暴風に逢つて難船し、行方知れずになつてしまつた。バイロンの驚愕と失望の度は言ふまでも無かつた。シェリイが海に行つたまゝ歸らないと言ふ由をトレローニイが馬でピザのバイロンに報告した時に、バイロンの唇は顫へて言葉も出なかつた。七月二十二日になつて、やつとシェリイの死骸が海岸に打ち上げられた。と同時に「ドン・ファン」に同乘して行つたヰリアムスとヴィヴィアンの死骸も打ち上げられた。八月の十六日には、ハントとバイロンとトレローニイとが立ち會つて、シェリイの死骸は火葬に附せられた。  シェリイの死に對するバイロンの悲しみと苦しみは非常なものがあつた。自分と同じやうに頑迷な英國の衆俗から迫はれて來てゐたシェリイが、彼の眼の前で死んで逝つたのだ。彼は書いてゐる。── 「世間が意地惡く、又無智にも迫害してやまなかつた人間が又一人死んだ」  シェリイの不慮の死が、バイロンの心の上にどんなに深い影響を與へたか、想像するに難くない。シェリイとバイロンの生活は、その頃殆んど一個の生活と言つてもよい位に結びついてゐた。ピザでのバイロンを語ることは同時にシェリイを語ることであり、ピザでのシェリイを語ることは同時にバイロンを語ることであると言つても過言では無いであらう。英國の文學史を調べて見ても、否、世界の文學史を調べて見ても、このバイロンとシェリイの二人の間のやうに重大にして興味ある交友關係は少ない。各自これだけ偉大な詩人、しかも共に勃興期のロマンティシズムに溢れてゐて、激しい個性を持つてゐた二人の詩人が、これほど水入らずに親密になり得たと言ふ事は、文學史上絶無と言つてもよいであらう。  以下、シェリイの傳記者の側から見た、バイロンとシェリイとのピザ時代に於ける交友關係を述べて見たいと思ふのも、理由は其處にある。これは、ヘレン・ロゼッティ・アンジェリと言ふ人の『イタリーに於けるシェリイとその交友』("Shelley and his friends in Italy"; by Helen Rossetti Angeli-methuen & Co. London 1911)と言ふ著書中の一節である。言ふまでも無く、シェリイを主題にして書いてあるのであるから、シェリイの事が多く出て來る。しかし、その間に出て來るバイロンの姿なり、バイロン、シェリイの二人を取り卷いてゐた種々の人の姿なりが、公平に見てある點で面白い。側面より見たるバイロンがよく現はれてゐると思ふ。 『──テレサ・グイッチョリと、彼女の父と兄弟は、その年の八月下旬にピザに到着した。そしてピザに落着いて、その後まる二ヶ月の問、愛人バイロンが來るのを待ちこがれてゐた。十月二十一日にシェリイがバイロンに書き送つた手紙の中に、 「G(グイッチョリ)伯爵夫人は待ちこがれてゐます。だが、時として彼女は、あなたがラヴェンナを去る事は決してあるまいと心配してゐられるやうです」と書いてゐる。  その頃丁度バイロンは熱病にかゝつてゐて、早速ピザにやつて來れないでゐたのである。テレサ・グイッチョリの父老伯爵は、單純な性情の田舍紳士であつて、自分の故國の事や、故郷の町の事を思ふ心で一杯と言つた風で、政治上の理由からとは言へ、今追放されてゐると言ふ事に心を痛めて、鬱々として樂しまなかつた。娘のテレサは、ピザでの時間の大部分を、父老伯爵の悶々の情をなぐさめる事に費した。  十月二十八日の早朝、バイロン卿はラヴェンナを、威風堂々と出發した。例の通りに數人の下僕、大馬車、種々の動物、馬匹等の行列で繰り出した。それに、これまで自分が使つて來た家具や道具などまで、何から何まで持つて行くのである。一體バイロンは、種々の道具や家具類、即ち一度自分の生活の一部分であつたものから、全然離れてしまふ事を好まなかつた。それから、一度自分が使つた下僕等でも、それを全然解雇する事を好まなかつた。 「バイロン卿は、下僕がどんなに大きな過失をしても、そのために解雇すると言ふ決心をする事がお出來になりません。又、下僕の子供達や家族を自分の所に居さしてはならぬとは言へないお方でした」と、ホップナーも、グイッチョリ夫人も言つてゐる。  で、いよ/\バイロンはピザにやつて來た。バイロンがピザにやつて來た事は、ピザ中の大騷ぎになつた。そこに住んでゐる學識あるイタリー人や、思想家や、文士や、その他政治家や間諜までが、バイロンのやつて來た事に目を見張つたのである。すべての人々は、この偉大なる、世間から種々に論議されてゐる英國人を、ほんのちらり[#「ちらり」に傍点]とでも見たいものだと熱望した。それほど、バイロンに關する驚くべき華やかな噂が世に流布されてゐたのである。この時の事を當時のイタリー小説家のグェラッツィが次のやうに書いてゐる。 「この頃、噂によれば、一個の驚歎すべき人がピザにやつて來たさうだ。この人に就いて人々の言ふ所は、それ/″\非常に異つてゐる。その言ふ所の一つ/\が反對の事で、馬鹿々々しい事ばかりだ。その人は貴族の出だと言ふ話だ。それに非常な富を持つてゐて、兇惡な性質の所有者であり、野蠻な習癖を持つてゐると言ふ。紳士としての教養の點ではあらゆる點で立派なもので、しかも惡の天才である。その天才も、人智以上の天才だと言ふ……」  ラヴェンナからピザへの途中、バイロンは知人の詩人サムエル・ロヂャースと出會つた。それがボロニヤであつた。でロヂャースも共に出發した。サン・マルコの宿屋のすべての窓が、この貴族詩人とその一行の出發を見る人々の手に依つて開かれた。そしてバイロンの一行は、共にアペニン山を越して行つた。  十一月の一日にバイロンの一行はピザに到着した。バイロンはランフランキ宮殿を邸宅にきめた。それから三日後、ヰリアムスがプグナノから戻つて來た。そして、トレ・パラッティの階下に落着いた。從つてバイロンとヰリアムスとは、シェリイとマリーの直ぐの隣人となつた譯で、始終往來した。十一月の五日にシェリイは、ヰリアムスを伴つてバイロンを訪問した。バイロンは二人に快く面會した。ヰリアムスは、この貴族詩人の氣取らない、しかも紳士的な安易さと、機嫌のよさに感心した。 「そのために、バイロン卿の言語の優美さと頓智の華やかさとが、傍らに聽いてゐる者に愉快な氣持を與へずには措かぬ」と、後年ヰリアムスは書いてゐる。  十一月十四日には、メドヰンがジェネヴァからの歸途ピザに寄つた。  このシェリイの晩年、及びヰリアムス自身の晩年に就いては、ヰリアムスの日記(これは、まだ廣く刊行されたものでは無いが)に、十分では無いかも知れぬが、しかし單純で忠實な記録が出てゐる。この日記には、ピザに於けるバイロン、シェリイのサークルの人々がした事、計畫した事、會合、乘馬、不和、事業、その他が書かれてゐる。  シェリイから頼まれて、ヰリアムスは、シェリイが以前からやつてゐたスピノーザの著書の飜譯を助力する事になつた。尤もこれに就いては、ヰリアムスは謙遜に「助力すると言ふのは、即ちシェリイが口述するのを私が書き取る事だ」と言つてゐる。で、シェリイは、事情の許す限り、いつもの通りの勤勉な生活を此處でも送つてゐたのである。  バイロンは、ピザに住んでゐた間中、例の通りに、朝おそく起きる、友達が訪ねて來るとその友人等と喋り、球突きをしたり、射撃をしたりして日中をぐづ/\過す。それからテレサ・グイッチョリと一二時間一緒にゐてから、その後で夜になると、深更まで起きてゐて詩作に耽つた。 『ウェルネル』『造り變へられた不具者』及び『ドン・ファン』の第六卷目は、このピザにゐる間に作られた詩である。  マリー・シェリイとジェーン・ヰリアムスとグイッチョリ伯爵夫人は、いつも一緒にゐた。そして馬に乘つたり、散歩をしたり、男連の居ない時にはお喋りをしたりした。  ピザのこのサークルでは、ギリシヤの政治問題がよく論議された。ヰリアムスは、この一八二一年の夏の間、せつせ[#「せつせ」に傍点]と戲曲を書いてゐた。これは、ボッカチオの物語から材料を採つた戲曲であつて、これのためにシェリイは祝歌を贈つた。次に、又もう一つ悲劇を書き始めた。シェリイはそれをはげました。シェリイにして見れば、友人のヰリアムスを戲曲家として成功させたいと言ふ望みを持つてゐたのである。この悲劇は出來上ると、シェリイやトレローニイやその他の人々が賞讃した。だから相當價値のある戲曲だつたに相違ない。バイロンも好意的な讃辭を呈した。そして、 「私がプロローグとエピローグを書いてあげよう。そして、若しこの戲曲が、戲曲として少しでも價値を持つてゐるんだつたら、人から多く讀まれるやうに、又成功するやうにして差し上げませう」と申し出た。  シェリイの天才は、傳染性を持つた磁力的の天才だつた。この天才は、それ自らの周圍に詩人的の理想と翹望とを展開させるシェリイを取り卷いてゐた人々のすべてが、彼の熱意と、寛大な助力と、興味に依つて、──就中、彼の磁力的な力に依つて元氣づけられ進歩させられた。  一八二二年一月十四日に、エドワード・ジョン・トレローニイがピザにやつて來た。それで、この記念すべきピザのサークルも完成される事になつた。 「ピザにゐた頃は、われ/\は皆三十歳以下だつた。唯一人バイロン卿だけが三十を越してゐたばかりだ」と、トレローニイは書いてゐる。「あのイタリーの陽光かゞやく空の下に結びつけられた、われ/\のやうな人々の集り。あの時のやうな光景や出來事は、いつまで經つても忘れようとして忘れられぬものである。その輝かしい光輝は、いつまで經つても消えはしない。それらの事を忘れようと努力する事さへ、既に、役に立たぬ無駄な事だ。それは丁度、あのピザでの生活を再び呼び戻さうと思ふのと同じやうに無駄な事に過ぎない」  このエドワード・ジョン・トレローニイと言ふ人は、コーンウォール地方の舊家の田舍紳士の息子として生れ、後、軍隊に入つたが、この時代には既に軍隊を退いてゐた。一七九二年の十一月生れで、從つて、シェリイとは、ほんの二三ヶ月の弟になる。トレローニイは、非常に綺麗な逞ましい樣子をした人で、背が高く色が淺黒かつた。その風采が殆んどムーア人のやうなところがあつた。それまでに種々の冒險や危險に身をさらして來たために、力強い行動の士になつてゐた。そして彼は、生れながらにして制度や世俗の敵であつた。制度や世俗に反抗したために故國に容れられなかつたシェリイの性格に、すつかり惹きつけられた事は、けだし、不思議な事では無かつた。トレローニイが書いた物語『若い息子の冒險』("The Adventures of Younger Son.")は、非常に面白い物語であつた。この物語の中には、彼自身の風貌性格が生々と力強く書かれてゐる。と言ふのは、この書は殆んど全く自傳であるからだ。  表面的な見方をすれば、シェリイとトレローニイ兩人の對照は、異常に思はれる。又、彼等がお互に持つてゐた相互に對する愛好と同情も、不思議なものに思はれる。しかし、更に深く觀察すれば、それらはちつとも異常でも不思議でも何でも無い。と言ふのは、この外面的に粗野な荒々しい、雨や風に鍛へられたトレローニイと、デリケートで恐ろしく感受性の鋭いシェリイとの間には、澤山の共通點があつたのである。二人とも、自由と平等を熱愛してゐた。二人とも、すべての制度を強く憎んでゐた。暴力と殘虐とを憎んでゐた。しかも、シェリイは、トレローニイと同じやうに恐怖と言ふものを知らなかつたし、トレローニイは、その心情に於ては一個の詩人だつた。トレローニイは、シェリイと同樣に、非常に情熱的で、直情で、想像力が發達してゐた。從つて、彼はシェリイの常に事物の本質を見て皮相を見ないと言ふ性格を、彼自身持つてゐたのである。從つて、彼がシェリイを尊敬し崇拜すれば、シェリイの方でも彼を敬愛し、信頼してゐた。  トレローニイが、ピザへやつて來たのは、メドヰンやヰリアムスと同樣、主としてシェリイに面會するためであつた。彼は、自分の友人である英國海軍の士官であるロバーツと二人で、その冬をマレンマの荒野で狩獵に過し、夏をシェリイやバイロンと共に地中海に船を浮べて遊ぼうと言ふ積りであつた。十二月になつてヰリアムスから彼へあてゝ手紙が來て、その中に「私とシェリイは船を拵へようと思つてゐる。そのためにロバーツは小舟を造つてくれるだらう」と書いてゐた。最後にシェリイがそれに乘つて死ぬやうなことになつた船の事が、手紙の中で初めて書かれたのである。  ピザでのこのサークルの中には、先づシェリイ、それからトレローニイ、ヰリアムス一家、ガンバ伯爵一家、メドヰン、ターフェ、ヘイ(この人はバイロンの舊友)、それにバイロンであつた。このサークルでは、バイロンが中心になつてゐた。この事は自然さうなるべき事だつたのだ。  バイロンの晩餐會は、ピザではすつかり有名なものになつた。だがバイロン自身は、非常な小食だつた。バイロンが小食であつたのは、健康のためと、もう一つは、肥滿するのを恐れてゐたためであつた。シェリイは、よく酒宴の仲間入りをしたが、それでも菜食主義をかなり嚴格に實行してゐた。トレローニイも、亦たしかに美食家では無かつた。シェリイは、「他の人々が朝の三時迄酒を飮んで騷いでゐるのを見ながら坐つてゐるために、私の神經は惱まされる」とこぼした。  バイロンの鮮かな、しかも往々手痛い位の頓智と、シェリイの雄辯と學識とが結びついて、これらの宴會を立派なものにした。時々はバイロンの舊友の二三がピザにやつて來て、バイロンの家に食客となる事があつた。一八二一年の四月にはサムエル・ロジャースが來た。後年トレローニイが書いてゐる所によれば、バイロンを訪問して來る紳士連は、その心情の底では自由思想家達ばかりだつたが、それでも尚、英本國で不信者の名を與へられたシェリイに對しては、強ひて見て見ぬ振りをよそほつてゐたと言ふ。彼等は、バイロンに向つて、 「シェリイには警戒しなければなりませんよ」といつも忠告した。そしてシェリイを遇するに一種の非難するやうな態度を以てした。だがシェリイはそれを敢て氣に懸けた風を見せなかつた。そのやうな時には、シェリイはいつも、一人で坐つて何かぢつと考へ込んでゐた。そして始終落着いて靜かにしてゐた。 「いつも客間を靜かに歩いてゐる紳士と言つた風だ」とバイロンが彼の事を書いてゐる。その内に、一座の話題が學術的になつて來て、シェリイに聽かなければ解らぬやうになると、彼は皆の會話の仲間入りをする。そして一度會話の仲間入りをすれば、彼の博識は、一座の中にぬきんでて見えると言つた風だつた。  英本國にゐるバイロンの友人達は、シェリイがバイロンに向つて惡影響を與へはしないかと言ふので、非常に心配した。今から考へて見ると、この心配は、馬鹿々々しく思はれる。しかも當時この心配が如何に強いものだつたかは今から思つて見れば、殆んど信じきれぬ程である。ムーアは、 「あの蛇のわな[#「わな」に傍点]にかゝらぬやうに注意なさい」と何度も何度もバイロンに書き送つた。──(蛇と言ふのは、バイロンがたはむれにシェリイにつけた綽名である)。だがそれよりも面白い事は、シェリイとの交友をバイロンの友人がバイロンのために心配したと同樣に、否それ以上に、バイロンとの交友をシェリイのために恐れた人もゐた。ジョン・ワトキンス博士が一八二二年に署名無しに刊行した、バイロンとピザのサークルの事を書いた著書の中には、實に驚嘆の外無いやうな條が見えてゐる。── 「まだバイロン卿は、シェリイと親交を續けてゐた。それが、彼シェリイが犯したあの亂行を現在目前に見た後にである。しかも、現在に於ても、事實この二人は交際してゐる。そしてイタリーに於て何か文學上の計畫を企てゝゐるのだ」  しかし、ムーアその他ロンドンでのバイロンの友人達がそれほど恐れてゐたシェリイの影響も、バイロンを徹底的の「無神論者」にする事は出來なかつた。當時のバイロンの事を、シェリイは、「キリス卜信者よりは少しはまし[#「まし」に傍点]だ」と書いてゐる。  だが、それでも、當時のバイロンの書翰や會話から察するに、當時シェリイがバイロンに與へた影響は、内的にも外的にも、かなり強かつたと言ふ事がわかる。  バイロンはその頃トレローニイに向つて、 「私は今迄低級な讀者のために詩を書いて來た。だが、四十歳を過ぎたら眞の讀者のために書きたいと思つてゐる」と言つた。  又、その頃彼が出版社の主人に向けて書き送つた書翰の中に、次のやうな個所がある。── 「あなたは、舊來通りの詩、即ち女を悦ばせるための詩を書いてくれと言つてよこされたが、私は以後そんなものは書くまいと思つてゐます。女や男が喜ばうが喜ぶまいが、そんな事は一切考へずに、私は自分の心の命ずるまゝに書いて行かうと思つてゐます」  以上のやうな言ひ方が、どうもシェリイのそれにそつくりその儘と言つてよい位に似てゐる事は否めない。  又、一八二二年の三月四日に英國のムーアに向けて書き送つた彼の手紙の中には、次のやうな句がある。── 「……私は、現在の社會なるものは、すべての偉大なる事業と相容れないものだと思ふ。私がさうした社會にゐた頃、即ち、まだ若くて、貴族で、杜會の「寵兒」であつた頃、私は社會に媚びはしなかつた。しかも、君は、私が以前よりはよりはつきりとした雰圍氣の中に住んでゐる現在、今更社會に媚びると言ふやうな事を敢てすると思ふか?」  この言ひ方なども、勿論その言つてゐる事柄は全部シェリイのそれのみでは無いが、しかもその言ひ方に於ては、シェリイからの影響に依る所の大なるものがある。  一八二二年、バイロンは自分の住んでゐるランフランキ宮殿の大廣間で、芝居をしようと熱心に言ひ出した。──トレローニイがその事に就いて次のやうに書いてゐる。── 「シェクスピヤの『オセロ』を、演出しようと言ふのである。そしてバイロンは、自分で役割をきめた。バイロン自身はイアゴーに扮する。私がオセロをやる。ヰリアムスはキャシオ、メドヰンはロデリゴ、シェリイ夫人はデスデモナ、ヰリアムス夫人はエミリヤをやると言ふのだつた。 『だが、觀客には誰がなります?』と私は訊ねた。するとバイロンは、 『ピザ中の人さ』と答へた。そして彼はすつかり愉快になつて、イヤゴーの科白の大部分を朗讀した。それは實によく彼に適してゐた。バイロン自身もさう思つた」  メドヰンはその著『會話録』の中に、── 「バイロンが役者になつたならば、それこそ世界一の立派な役者にたつてゐただらう」といふ事を言つてゐる。「彼の聲には、自由自在な所があつた。しかもその調子が千變萬化する。その力と感じとは、私の未だ曾て聞いた事が無かつたものだ。しかも彼の容貌は、その表情に豐かである事と言つたら、如何なる優しい表情も、又如何なる激越な表情をも現はすことが出來た」  しかしこの芝居は遂に演出されるに至らなかつた。デスデモナに扮すべき筈のシェリイ夫人に故障が起きたし、グイッチョリ夫人も餘り氣が進まなかつた。  シェリイ一家やヰリアムス一家の人々は、バイロンと一緒の時でない折は、大概トレ・パラッティの階上か階下かで共に正餐を採つた。彼等の住所はそのトレ・パラッティだつた。午後の三時頃になれば、仲間の人々は皆ランフランキ宮殿に集合する事になつてゐた。そこには既にバイロンの馬が彼等を待つてゐた。そこから皆打ちそろつてボデラの方へ馬を驅つて行く。このボデラと言ふのは、あたかも畫のやうに美しい農場を取り圍んでゐる廣々とした外圍ひであつて、一部分は庭園になつて居り、一部分は田畑で、一部分は葡萄園であつた。ピザから約二哩ばかり離れてゐる。一行は其處に着くと、標的を置いてピストルの射撃をやつた。このピストル射撃に就いてメドヰンが、シェリイの事を次のやうに言つてゐる。── 「シェリイは、ほんの何でも無い普通の田園散策に出かけるのに、實に物々しいいでたち[#「いでたち」に傍点]をして出かけた。そのいでたち[#「いでたち」に傍点]の物々しさが、彼の優しい風貌と、平和な習慣に對して、著しい對照をなしてゐた。彼は、決鬪用のピストルを二挺持つて出かける。火藥や彈丸もしこたま携へる。そして誰も人のゐない所にやつて來ると、光づ一枚の紙札を何かにピンで留めるか、でなければ、木の幹か土手の傾斜かに何か他の印を附ける。そして、その標的に向つてピストルを發射して樂しんだ。彼はかなり射的はうまかつた。そして、具合よくあたりがよい時には非常に喜んだ」  バイロンは最初ピザにやつて來た時に、時の知事に、ランフランキ宮殿の庭園内で實彈射撃を許してくれるやうに申し出た。しかし、この申し出は法律に反するからと言ふ理由で許されなかつた。 「これに就いては、既に他の知名の方にも同樣の許可をいたしてゐませんから、卿のために例外を作るわけに參りませんから、どうか惡しからず」と言ふ知事からの挨拶であつた。  メドヰンに據れば、このピストル射撃に就いては、シェリイとバイロンは、彼等獨特の變な言葉を發明した。その事をメドヰンは「マカロニのやうな言葉」と言つてゐる。例をあげると firing(發砲)を tiring と言ひ、hitting(的中)の事を looping と言ひ、missing(彈がそれる事)の事を mancating と言ひ、riding(馬に乘る事)を cavalling と言ひ、walking(徒歩)を a-spassing と言ふやうな種類の造語であつた。  バイロンがボデラ莊の葡萄畑や果樹の中で「ピストル倶樂部」を實行してもよいと言ふ許可を得たのは、多分ヴァッカ博士の力に依るものだつた。このボデラ莊は、當時、ヴァッカ博士の友人であるカスティネルリ家の所有地だつたのである。それに、バイロンがこのボデラ莊に惹きつけられたのは、他にも理由があつた。其處には美しい百姓娘で、その名をマリアと言ふ相手がゐたのだつた。バイロンはこの娘からかなり強く魅せられた。記録に殘つてゐるバイロンの戀人としては、このマリアが最後の女である。この美しいブルーネットの娘の姿をスケッチした畫は、今尚ピザに殘つてゐる。その畫はカスティネルリ家の親戚であるパオロ・フォリニの手によつて一八二二年に描かれたものである。  一方シェリイの方は、この仲間達の間に暮しながら、暫くの間は、知識的にも倫理的にも多大の慰安を見出してゐた。そしてどつちかと言へばかなり元氣もあつた。彼の健康は以前よりはずつとよくなつた。彼は、バイロンの才能や個性から魅惑された。だがこのバイロンの魅力は、彼を刺戟して詩作させるやうな種類の魅力ではなかつた。反對に、このバイロンの魅力は、彼を無力にさせた。シェリイは書翰の中や、會話中によくこの氣持の事を書いたり言つたりしてゐる。これは、既にラヴェンナにゐた頃からさうであつたもので、それがピザでは益々顯著になつて來たのである。一八二二年の五月、彼はこの氣持を、ホーレス・スミスに向つて言つてやつてゐる。 「私はものを書きません。私はバイロン卿と一緒に餘り永く暮し過ぎてゐます。で、太陽が螢の光を消してしまつたのです」  それでも、一八二二年の初期には、彼は『チャールス一世』を書き續けてゐたし、同年の終りに近く『生の勝利』を書き續けてゐた。──尤も、これは二つとも遂に完成されなかつたものであるが。──  しかし、彼がこの時期を、大體に於て、彼としては滅多にない意氣銷沈の裡に送つてゐたと言ふ事實は、殆んど間違ひがない。  シェリイの妻のマリーは、幸福であつた。クレヤーは側にゐないし、ヰリアムス一家とは親しい附き合ひをしてゐるし、それに大體に於て身體の調子もよかつた。しかも、華々しい、面白い氣持のよい人交に取り卷かれてゐた。  だが、かうしてマリーが、自分の氣が憂鬱に沈み込んでしまふ事を避けるために、變化と忘却を與へてくれる社交を求めるのに反して、シェリイの方は、その社交熱の傳染するのを極度に恐れた。實際シェリイは、趣味に於ても、貴族的に獨善的で排他的だつた。──この點ではバイロンよりも彼の方がひどかつた。バイロンは、多數の人々からは避けてはゐるものゝ、阿諛者や追從者がゐれば居る方が好きだし、それに有名と言ふ事を愛してゐた。それが、シェリイとなると、世の俗衆を恐れるその恐れ方が實にひどかつた。マリーが一度、その頃ピザに來てゐた英國の有名なテノール歌手シンクレヤをまねいて、一夕音樂會を開かうと言ひ出した事があつた。その時シェリイは、それこそびく/\してしまつた。  シェリイのこの孤獨好きは、彼の天性にあつた。それは彼の天才が持つてゐる刑罰の一つであつた。彼自身は温かな、なごやかな氣質を持つてゐながら、又、自分の妻や友人達に向つて、同情も愛情も十分に持つてゐながら、妻や親友の眞中にゐながら、彼は往々にして、孤獨感と失意の感を持つた。世俗の一切の上に越えて、高く空に昇る力を持つてゐる天才は、常に前人未踏の高所で孤獨を味はふのだ。  シェリイが一八二二年一月二十六日に友人ヰリアムスに贈つた詩の冒頭に、  「蛇は樂園から閉め出された」  と言ふ句があるが、この文句は、この時期のシェリイの内生活のヴェールを少しばかり取つて見せてゐる。  ところで、ピザに於けるこのサークルの毎日の生活は、殆んど單調と言つていゝ位に毎日々々同じであつた。ところが十二月になつて、一つの事件が持ち上つて、ちよつとその靜けさが破られた。この事件に就いては、ヰリアムスが、その日誌の中で言及してゐる。── 「十二月十二日。  今日シェリイがやつて來て、一人の男が涜神罪のために、生きたまゝルッカで燒き殺されようとしてゐることを話した。シェリイは、バイロン卿と英國人の一團と、ルッカに行つて、武力で以てその男を助けようぢやないかと言ひ出した。バイロン卿はそれに反對した。そして、その事件に就いては、タスカニイの大公に向つて建白書を提出する方がよいと主張した。だが、その男の刑の執行は明日では無いと言ふ事を聞いて、事件の眞相をたしかめるために、ターフェがルッカへ出發した。でシェリイとメドヰンとバイロン卿とは午前二時まで起きてゐた」  僧侶ぎらひのシェリイ及びシェリイの友人達に多大の憂慮を喚び起させたこの事件は、シェリイやバイロンが提議したやうな實行をせぬ内に終結を告げてしまつた。その犯人(僧侶)は死刑に處せられたのであつた。かくしてこの事件に依つて惹き起されたサークルの人々の昂奮は鎭まつてしまつた。  三月九日、それまで一緒にピザに暮してゐたトーマス・メドヰンがローマに出發した。從兄弟のシェリイとはこれが最後の別れになつたわけである。シェリイに對して忠實な友人であつた彼は、シェリイの傳記を書いてゐるが、このメドヰンの『シェリイ傳』は、シェリイ研究者に取つては非常に重大な記録となつた。若しこの書が無かつたとしたら、われ/\は現在のやうにシェリイに就いて種々の事を知るわけに行かないし、又、多分はシェリイに對して感ずるわれ/\の愛も隨分減じられてゐたに相違ない。勿論このメドヰンのシェリイ傳には、種々の點に於て不備な所もあるにはある。しかし、それ位の不備は、どんな傳記にだつてあるものだ。  メドヰンがピザを出發してローマに行つてから間も無くの、三月二十四日の事である。例の知らぬ人も無い位に有名な、ステファノ・マン曹長とピザのバイロン達のサークルとの喧嘩が起つた。  この喧嘩の事をかいつまんで話せば、次のやうである。  丁度バイロン以下の「ピストル倶樂部」──シェリイ、トレローニイ、ピエトロ・ガンバ、ヘイ、ターフェ等は、ピストルの射撃を終つて町の方へ馬で戻つて行つた。マリー・シェリイとテレサ・グイッチョリとは馬車に乘つて一行の後から續いた。その時、何か重要な軍務を帶びたマン曹長が馬に乘つてピザに急いでゐたが、無作法にもバイロン一行を驅け拔けようとして、一行の中へ割つて入つた。そしてターフェの馬に突き當つた。ターフェはそれを怒つて、一行に向つてこの事を怒鳴り立てた。それでバイロン以下の人々は曹長の後を追ひかけて捕へようとした。町の入口の所で一行はやつと曹長に追ひついた。シェリイが一番早く到着した。すると曹長は兵卒等に、一行を捕縛するやうに命令した。一行はそれを拒んだ。中にもバイロンとピエトロ・ガンバの二人は、馬で守衞の兵卒の間を突き切つてピザの町へ驅け込んだ。シェリイは、兵士等から頭をなぐられて落馬した。ヘイはそれを止めようとしてゐる内に、相手の軍刀で顏にかなり深い負傷を受けた。こんなごた/\があつた後、マン曹長は、自分が重大な軍務を帶びてゐる事を思ひ出して、一行を通すやうに命令をしたまゝ、町の方へ馬を走らせて去つてしまつた。曹長がランフランキ宮殿近くまでやつて來ると、馬に乘つたまゝ再び引返して來るバイロンに出會つた。バイロンは立ち止つて、 「私はかう言ふ者だが」と言つて自分の名刺を曹長に手渡して、 「君の名は何と言ふのだ?」と訊ねた。  その時のバイロンの名刺は、今尚ピザに保存されてる。路上に落ちたために、皺が出來て汚れてゐる。  バイロンと曹長が往來中で口爭ひをやつてゐる間に、次第に人だかりがし始めた。所へ、これを聞きつけたバイロンの從者が二人、物々しく武裝をしてランフランキ宮殿から飛び出して來た。その一人は(これは多分バイロンの馬車の馭者であつたらしいが、正確にはわからない)持つてゐた|叉把《さすまた》か何かで、曹長の腹を突き刺した。  フランチェスコ・ドメニコ・グェラッツィは、當時ピザに於ける青年學生として、たま/\この喧嘩の現場に居合はしてゐた人であるが、後年、その時の有樣を次のやうに劇的に書いてゐる。── 「私はマン曹長が、鞍の上でよろ/\とよろけながら、ドン・ペッペ喫茶店の所まで進んで行つたのを見た。彼は喫茶店の表まで行くと、最早馬に乘つてゐる事が出來なくなつた。彼の帽子は落ち、彼の頭髮は逆立ち、その顏色は、死人のそれのやうに眞青になつてゐた。彼は『|殺《や》られた!』と叫びながら、地上に轉び落ちた。この叫び聲を私は自分の耳で開いた。そして私は今尚、その時の彼の恐ろしい顏、しかも火のついたやうに赤い色をした頭髮の色との對照のために、尚の事恐ろしげに見える彼の顏を思ひ出す。  曹長は、學生達の手に依つて地から助け起され、手厚い看護を受けた。そして、彼の生命は助かつた。然し、それ以後元通りの身體にはならなかつた。彼は軍隊からは年金を下げられて退職させられた。その後、彼がピアッツァ・ディ・ポンテの酒や煙草を賣る小さな店をやつてゐるのを、私は見かけた事がある。彼から直接に聞いた話であるが、バイロンは、負傷をした曹長を氣の毒に思つて、自分の醫者を、曹長のはひつてゐる病院へ見舞ひによこした。そして金を贈らうとした。しかし曹長はその二つともを斷つた。 『そんなものはお上から支給されますから』と言つた。──尤もお上からの支給と言ふのは事實は事實に相違なかつたが、貧弱なものだつた」  このグェラッツィは、熱心な、自尊心の強い愛國者であると同時に、又、バイロン卿を非常に崇拜してゐた人だから、彼の言ふ所は公平なものに違ひない。彼は尚も言を進めて言つてゐる。── 「私は又次のやうな事を見た。──而してこの印象は私が終生忘れる事の出來ないものである。──即ち、ピザに住んでゐる英國人の全部が、バイロンの友人であらうと無からうと、ランフランキ宮殿の外に集まつて來て、若しバイロンの身に危險でもあつた場合にはバイロンを護衞するために準備をし始めた。この事に就いて私は、その時も後になつても考へた事であるが、若しバイロンがイタリー人であつたとしたら、他のイタリー人達は寄つてたかつて、彼に向つて石を投げつけたに相違無い。さう考へて、私は、英國人が偉大なる國民である所以と、イタリー人が貧弱矮小なる──とにかく現在までは──國民である所以を悟り始めたのであつた」  マリー・シェリイとトレローニイとの書いてゐる所によれば、この喧嘩以來、バイロンの仲間の英國人が道を通ると、ピザの人々が帽子を脱いで敬意を表したと言ふ。バイロンは土地の人々を慰めるためにランフランキ宮殿の外で慈善施行をした。  この事件がピザに惹き起した、否ピザだけで無くその地方一帶に惹き起した評判が、大したものであつた事は、凡そ想像する事が出來る。いろんな噂が、針小棒大に流布された。  その喧嘩のあつた日の夕方、バイロン方の英國人一同は、イタリー官憲にこの事件に就いて訴へて出た。と言ふのは、彼等は當時のイタリーに於ては、訴へられる前に訴へて出るのが有利だと言ふ事を知つてゐたからである。三日後になつて、バイロンの從者の内の二人が召喚された。その内の一人は、ジャン・バッティスタ・ファルチェリと言ふ名であつた。間も無く今度はグイッチョリ伯爵夫人の下僕の一人が召喚された。ファルチェリには何等罪が無かつた。たゞ、物々しい武器を持つて喧嘩の現場に飛び出して來たと言ふので召喚されたのであつた。だがこのファルチェリと言ふ從者は、なか/\利かぬ氣の男だつたらしく、ヰリアムスがその日誌の中に書いてゐる所によれば、警察で調べられてゐる最中に、ファルチェリは、 「曹長をなぐつたのはお前か?」と警官に訊ねられた。すると彼は、 「私ぢやありません。しかし、若し私があの時ピストルを持つてゐたら、あの男を射撃したでせうよ」と答へた。  しかし、その内に負傷をしたマン曹長は、全快してしまつた(この男は一八五八年ピザで病歿した)。そして事件は別に大事に至らずに落着した。  だがこの事件は、ガンバ伯爵一家のタスカニイ追放の原因の一つになつた。このガンバ家の追放にはバイロンも從つて行つた。  この頃、シェリイの妻のマリーが、メドヰンに向つて書き送つた手紙の中に次のやうな條がある。── 「あなたも多分もう御承知の事と思ひますが、ボークレク夫人はもう既にフローレンスへ行つてしまはれた。ピザでは、急に外國人の數が減つて行きます。バイロン卿は、たしか、リヴォリノ附近でこの夏をお暮しになる筈です。だけど、ヰリアムスさん御一家と私共は、大概ラ・スペジアで暮します。この一週間ばかりと申すもの、寒さが嚴しいために困つてゐます。シェリイの所へは、刷り上つた『ヘラス』が英國から送つて來ました。印刷は上出來です。誤植もさう澤山はありません。バイロン卿は、これに滿足されたやうです。バイロン卿は英國から送りとゞけられた一册の詩集をお持ちになつてゐます。詩集の名は『古代戲曲集』と言ふのです。著者はタヴィッド・リンジイと言ふ人です。この詩集の中には、不思議な暗合ですが、バイロン卿の取扱はれたと同じ主題の劇が三つあります。それは『カイン』と『ノアの洪水』と『サルダナパラス』です。最初の二つはバイロン卿の作品とは全然異つたやうに取扱はれてゐます。『カイン』は、アベルの死以後から始まつてゐて、その題名も『カインの運命と死』となつてゐます。私がこの詩集の事をあなたに申し上げるのは、これらの劇が、かなり立派なものであつて、詩と表現の力を相當持つてゐるからです。尤も、それは言ふまでも無く、バイロン卿のそれに較べたら、比較にならぬ位に劣つてゐるものではありますけれど。文學に就いてのお知らせはこれで全部です」  この賑やかなサークルの中にゐながら、シェリイは常に海に憧れた。──海に、その海を走らせる自分の船に憧れた。彼はその憧慢を、ヰリアムスと共に、一つの底の平たい小舟でアルノ川を上下する事に依つてまぎらせてゐた。天氣さへよければ毎日々々彼は、友人達と共にアルノ川を下つて行つた。時としてはずつとレグホーンの方までも航行した。トレローニイやマリーやジェーンも、その舟に乘つて出かける事もあつた。三月十四日の事だつたが、シェリイは例の通りにヰリアムスと共にその小舟でアルノ川を下つてゐたが、どうしたのか不意にイタリー政府の税官のために停船を命ぜられて、つかまつてしまつた。しかし、別に大した事にもならずに直ぐ放免になつた。  しかし一同は、こんな小さな舟で、アルノ川なぞを航行するよりも、もつと大規模な事をしきりとやりたがつた。  ヰリアムスがトレローニイに向つて、十二月に次のやうに書き送つてゐる。 「どうしてもわれ/\は船を一つ所有しなければいけません。若しロバーツが栫へてくれたら、實にいゝのですが」  その内にトレローニイがピザにやつて來た。トレローニイは、ピザに到着した次の日に、ヰリアムスを訪問したが、その時彼はアメリカ型のスクーナー船の雛型を持つて來た。それで種々相談の結果、その頃ジェノアにゐた友人のロバーツ海軍大佐の方へ手紙を出して、長さ四十フィートの船を一隻建造してくれるやうにと言つてやる事になつた。  するとこれを聞いたバイロンは、自分もロバーツに依頼して、四十フィートよりも大きい船を建造して貰ふやうに決心した。シェリイの方の船と競爭しようと言ふのであつた。トレローニイは或る日の夕方、シェリイに荒々しい海の生活をちよいとのぞかせるために、シェリイを連れて、ギリシヤの砲艦と、アメリカの快速船を參觀した。シェリイはギリシヤ砲艦の方はあまり氣に入らなかつたが、アメリカ船は氣に入つたらしい。歸り途には、トレローニイと共に馬を驅りながら、すつかり大元氣になつてしまつた。そして、 「どうして私は今迄ギリシヤやラテンの方ばかりに沒頭してゐて、游泳や航海術を習はなかつたんだらう」と言つた。  トレローニイは、 「皆でスペジヤ灣の方へ行つて住まうぢやありませんか。バイロン卿だつていらつしやるでせうから」と言ひ出した。  シェリイは喜んでこれに賛成した。次の日にこの話をバイロンにすると、バイロンも熱心に賛同した。  それでシェリイとヰリアムスの二人は、二月の七日にピザを出發してスペジヤ灣へ赴いた。皆の住む住宅を搜すためである。途中マッサや、サルザナやマグラを過ぎて、美しい風景を賞しながらスペジヤに到着したのが、次の日の午後であつた。その後の三日間、二人はスペジヤとサルザナのあたりを廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り歩いた。そして適當な家を搜した。自分達の住む家と、バイロン達が住む家と、その他かなり澤山の人々の住む家を見つけ出す必要があるので、なか/\大變だつた。段々搜してゐると海岸沿ひに氣に入つた家が一軒あつた。一年百クラウンで借りる事が出來ると言ふ。だがバイロンのための家を見つけ出す事は、殆んど不可能であつた。それに實はシェリイの方では、バイロンと餘り接近して暮してゐる事を好まなくなつてゐた。これは當時彼が自身の口から言つた事である。  十一日の夕刻二人はピザの方へ戻つて來た。そして一同でスペジヤで生活するやうになつた時のことを種々相談した。しかし、別にはつきりとした結果は得られなかつたらしい。シェリイとヰリアムスで搜し出した海沿ひの家を、借りるか借りまいかと言ふ相談だつたが、結局ぐづ/\してゐる間に、當の借家の持主が、その家を誰にも貸す意志が無いと言ふ事が判つた。一同ががつかりして殘念に思つた事は言ふまでも無い。そこへジェノアにゐるロバーツ大佐から手紙が來た。それで再びシェリイとヰリアムスとは馬に乘つてレグホーンに向つた。それが二月の十七日の事だつた。二人は海岸に沿うて、ラルデンザを通りアンティニャーノを過ぎモンテネロまで行つた。そして澤山の空家を見て廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたが、何から何までの條件がすつかり彼等の氣に入つたと言ふ家は一軒も無かつた。  それで二十三日に、再びヰリアムスはレリチへ向つて出發した。それにはバイロンの愛人でシェリイの妹のクレヤーとジェーンが附いて行つた。しかし今度も大して氣に入つた家は無かつた。で仕方が無いので二日の後に三人はピザに引返して來た。ところがピザでは惡い通知が三人を待つてゐた。ヰリアムスは、その日記の中でかう書いてゐる。── 「一時三十分にピザに到着。戸口でシェリイに逢つた。彼の顏色は、その切ない感情を現はしてゐた。彼の妹の子(即ちバイロンの私生兒)が死んだのだつた。そして、その事を妹に知らせるか、又若し知らせたくなければ、子供の死亡の事を彼女の耳に入れないために、妹を直ちに他の場所に連れて行くかすると言ふ役目を彼が仰せつかつてゐたのだつた」  かくして、クレヤーが心配してゐた事は、事實となつて現はれて來たのである。彼女の希望も、恐怖も、自責も、昂奮も、空しい後悔も、遂に終りを告げたのである。彼女とバイロンとの仲に生れた幼いアレグラは死んだのだつた。  一八二一年の初め頃以來、バイロンはこのアレグラをどうしてよいかと言ふ事に就いては、極めて因循でぐづ/\してゐた。友人のホップナーは一度ならず、 「スヰスにやつて身體を丈夫に育てゝやつたらどうです」とすゝめた。バイロンも、アレグラをスヰスにやる事には賛成した。しかし別にはつきりとした處置を取らずに、のび/\にしてゐた。その頃アレグラは或る尼院に入れられてゐたが、一八二一年の五月にバイロンが友人に送つた手紙には、「アレグラは尼院で至極仕合せに暮してゐます」と書いてある位だから、その頃は丈夫だつたに違ひない。七月二十三日、丁度バイロンがガンバ一家に從つてスヰスに行かうと思つてゐた時には、アレグラをもスヰスに連れて行く積りであつた。それがガンバ一家がスヰスに行かずにピザに行く事になつたので、バイロンのスヰス行きも中止になつた。從つてアレグラも、元の尼院に居ることを續けた。  ダウデンの説によれば、クレヤー孃は、マントカシェル夫人から忠告を受けて、バイロンへ向けて、アレグラをピザかフローレンスかルッカの相當の家へ里子にやるやうに頼んでやつた。しかし、バイロンはどうしたのかそれを承諾しなかつた。で再び手紙を出した。そして、「若し必要ならば、あなたの御許しがなければ、私もシェリイもマリーもアレグラの側には寄りつかぬ事にしますから」と言つてやつた。この二度の手紙をクレヤーがバイロンに送つてやつたのは、一八二一年の終り頃か、一八二二年の初め頃だつたに相違無い。しかし、ダウデンは正確な時日を擧げてゐない。  しかしそれでもバイロンは、てきぱき[#「てきぱき」に傍点]とした返事をよこさなかつた。それでクレヤーは再び二月十八日に同じ頼みの手紙を書き送つた。この時分には、彼女は女家庭教師となつてラヴェンナに行く計畫をしてゐた。當時兄も其處にゐた事だし、それに、ドイツ語を勉強する事が出來るだらうと思つてゐたためだつた。この頃バイロンの方は、義母の死に依つて、かなりの多額な遺産を相續してゐたので、クレヤーの方では、アレグラの身の上をバイロンに頼むのは、今が一番よいと思つたらしい。 「私はもうアレグラには逢へないだらうと言ふ氣がして仕方がありません。こんないまはしい氣持を持つてゐる事には、もう私は耐へ切れません」と彼女はその手紙の中に書いた。「どうかお願ひですから、私にあの子に逢ふ事を許して下さいまし。そして、こんないやな氣持を拂ひのけて下さい」  この手紙は、全體にわたつてこの調子で、わが愛兒のために氣もおろ/\になつた、一所懸命な母の悲痛な訴へだつた。  バイロンは頑固にそれを訊き入れなかつた。シェリイも見るに見かねて、妹のクレヤーのためにバイロンに頼んで見た。が、バイロンは依然としてそれを拒絶した。 「女と言ふものは、そんな風な愁嘆場を作り出さなければ生きて行けないものだからな」と言つて肩をしやくつて見せたと言ふ。  で、クレヤーはピザにやつて來た。そして二月の二十一日から二十五日まで滯在してゐた。その間バイロンの心を柔げようとして骨を折つたが、一切が無駄になつて、二十五日に失望落膽してすごすごとピザを出て行つた。  それ以後と言ふもの、クレヤーの方では、たとへどんな手段を取つてもアレグラを自分の手に取り返さねばならぬと言ふ氣で、そのために種々の計畫もすれば、シェリイや妻のマリーともその他いろんな知人にも相談した。しかし、別にこれと言つて名案も浮ばなかつた。彼女の悲しみと苦痛は想像する事が出來る。シェリイは、 「アレグラがお前の手に戻るのは、ほんのたゞ時期と機會の問題ばかりだから」と言つて彼女を慰めた。彼はクレヤーを可哀想に思つて、その夏は彼女を自分の所へ呼んで一緒に暮させて、彼女の氣持を落着かせようとした。  一方アレグラの方は、バグナカ※[#濁點付き片假名ワ、1-7-82]ルロのカプーチン尼院の中で尼達の手で育てられてゐた。そしてその死去の日の二三日前まで、彼女が重い病氣になつてゐると言ふ事は誰にもわからなかつた。尤もバイロンだけは、彼女が病氣にかゝつてゐると言ふ事だけは知つてゐた。ところが彼とても、アレグラが病氣だと言ふ知らせを受け取りはしたものゝ、その後別に何とも言つて來ないので、大した事も無しに全快したのだらうと安心してゐた。それが突然に四月二十二日になつて、アレグラが死亡したと言ふ通知が來たのだつた。尼院でチブスにかゝつて、尼達や二人の醫者の看護も甲斐無く、四月二十日に死亡したのだつた。  それでシェリイは早速クレヤーをピザから連れ去つて、アレグラの死の事を彼女の耳に入れぬやうにしなければならなかつた。これを彼女の耳に入れたら、それこそ大事が起るにきまつてゐるのだ。でどんな事をしてもクレヤーをば他へ連れて行かなければならぬ事になつた。  シェリイの妻のマリーは、アレグラの死亡通知が來た時には丁度病氣だつた。四月二十三日の彼女の日記の冒頭には、 「凶報あり。病氣」と記してある。病氣と言ふのは、彼女はその時懷姙してゐて、間も無く第二兒のパーシーを出産するといふ時だつた。だからアレグラの死は、彼女の神經や健康を非常にそこねた。然しそれにも拘らず、クレヤーの事を思ふことの厚い彼女は、クレヤーとトレローニイと共にピザを出發する用意をしてゐた。それが、クレヤーとヰリアムス夫妻とが、貸家を搜しに旅行をして戻つて來た日の次の日だつた。クレヤーとマリーとトレローニイの三人は、ピザを出發して眞直ぐにスペジヤに向つた。そして直ぐにサン・テレンゾにあるカサ・マグニに家を借りて住む事が出來るやうに萬端の準備をした。  四月二十六日にはシェリイとヰリアムス夫妻もピザを出發してカサ・マグニ[#「カサ・マグニ」は底本では「カラ・マグニ」]にやつて來た。そして皆で一緒に住む事になつた。しかしその内にアレグラの死んだ事を、これ以上クレヤーに隱して置く事が出來なくなつたので、ヰリアムスがそれを彼女に告げた。彼女の苦惱は言ふばかりも無かつた。しかしその内に、次第に悲しい諦らめがやつて來た。アレグラの死に就いては、バイロン自身の悲しみも決して輕いものでは無かつた。アレグラの死後數ヶ月間と言ふもの彼は名を變へてバグナカ※[#濁點付き片假名ワ、1-7-82]ルロの尼院を訪れて行つたと言ふ。  カサ・マグニに住んでゐるシェリイの所へは五月十二日に、ジェノアから、かねて註文してあつた船が到着した。トレローニイの命名で、「ドン・ファン」と言ふ名が附けられた。だが、シェリイと妻のマリーとは「アリエル」と言ふ名を附けたがつた。それ故にこの船は「アリエル」とも呼ばれ、「ドン・ファン」とも言はれた。  シェリイはヰリアムスを相手にして、夢中になつてその船を乘り廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し始めた。尤も最初はシェリイは今迄そんな經驗が全然無いので、ヰリアムスから航海術を教はつた。その中にシェリイは船の事ではかなり自信を持ち始めた。自信を持ち始めると次第に大膽な事までやり出した。少し位天候が惡くつても船を沖に出した。それが、やがては七月八日の悲しむべき惡運を導くことになつたのであつた。  以上シェリイの晩年に於ける、シェリイ及びバイロンを取り卷いてゐた周圍の大體であるが、この中に現はれたシェリイとバイロンとの二人の關係と對照は、實に面白い。特にシェリイほどの天才者が、「バイロン卿の傍に餘り長くゐるから詩作が出來ぬ」と自ら告白してゐる點など、たしかにバイロンの性格の一面を強く裏書きしてゐるものだ。  さて再びバイロンへ歸る。  バイロンは、ムーアからの反對をしりぞけて、ライ・ハントと協力して『自由』と言ふ新聞を發行し始めた。ライ・ハントがイタリーで印版し、これをジョン・ハントがロンドンで發行する事になつた。第一號は同年の九月に公けにされた。これにはバイロンの傑作『審判の幻想』や、『ファウスト』中の『五月の夜』をシェリイが飜譯して置いた詩などが掲載された。『自由』紙は第二號・第三號・第四號と續けて出版されたが、それらにはバイロンの詩『天と地』、モルガンテ・マッジオーレの飜譯『女學者』、その他シェリイの遺作の詩數篇、ハリットの論文等が載せられた。それ以外の種々の記事はライ・ハントが大部分書いた。  然し程なく、この仕事もうまく行かなくなつてしまつた。ライ・ハントとバイロンとの間に意見の相違が生じた。それ/″\兩方にその理由はあつた。ハントがこの仕事を始めた事を後悔すれば、バイロンの方も後悔し出した。それに又周圍の事情がどうも好都合ではなかつた。一八二二年十月九日附でバイロンが出した書翰の一つにかう書いてある。── 「どうもこの新聞は善い事業で無いらしい。私はライ・ハントが當地にやつて來て以來と言ふもの出來るだけの事をした。然しそれも殆んど何の役にも立たない。彼の細君は病氣だ。彼の六人の子供も餘り始末のよい子供ぢや無い。それに實世間の仕事にかけてはハントはほんの子供に過ぎないのだ」  そしてせつかく始められた『自由』紙の事業も、あまり大きな果實を結ばぬ間に挫折してしまつた。實は最初からうまく行かない豫感はあつたのである。ムーアの言つた「あなたは結局唯一人で仕事をして行く人です」と言ふ言葉は的中したのである。  ピザの生活も面白くなくなつてしまつた。ガンバ伯一家の追放以來バイロンの身邊には、官憲の眼が光つてゐた。そんなこんなでピザに住んでゐるのも次第にいやになつて來た。バイロンの頭には、何處かに居を移さうと言ふ考へが起つて來た。最初にギリシヤに行かうかと思つた。又アメリカに行かうかと思つた。スヰスに再遊しようかとも考へた。しかし結局ジェノアに行く事にきめた。九月にピザを出發し、レリチ、セストリを經てアルバロに到着した。グイッチョリ夫人同伴なのは言ふまでも無い。このアルバロと言ふのは、ジェノア市より東方一哩ばかりに在る。此處ではバイロンは、イタリー滯在の最後の十ヶ月間を送つた。その住居はシェリイ夫人が、バイロンのために豫め借りて置いたものでサラッゾ別莊と言つた。シェリイ夫人は、ハントの一家族と共に、アルバロから餘り遠くないカサ・ネグロトに居を卜した。又、こゝから餘り遠くない所に、當時英國で有名なサヴェーヂ・ランダーも住んでゐた。しかしこのランダーとバイロンの間には、別に取立てゝ言ふ程の交際は無かつた。このアルバロに於けるバイロンの生活も矢張り今迄と大差無く、乘馬の遠乘その他に費された。當時親交のあつたブレッシングトン伯の夫人の書いた書物に『バイロン卿との會話録』と言ふのがあるが、その中には當時のバイロンの風貌に就いて次のやうに書いてある。── 「バイロンの眼は、左右その大きさがちがつてゐた。彼の鼻はどちらかと言へば厚味が無かつた。だから横顏の方が正面から見るよりも立派だつた。彼の口は實に立派な口であつた。そして彼の持つてゐる人を嘲笑するやうな表情は、拵へものでは無くて眞實の表情だつた。しかも彼の憂鬱な顏によく浮ぶ微笑はやさしかつた。彼は當時、非常に痩せてゐて青白い顏をしてゐた。(これは彼がヴェニス出發以來食物を節してゐたのが成功したのだ)。彼の頭髮は暗褐色で處々に灰色がまじつてゐた。彼の音聲は明瞭で低く調子がよかつた。彼の歩調は稍々不恰好である。自分が跛である事を、隱さうとしてゐるためだ。アダ(バイロンの娘)の肖像畫は彼に似てゐる。その似てゐると言ふ事が彼を喜ばせた。然し彼はアダがあまり悧巧にならぬ事を望んでゐた──少くとも詩人的にならぬ事を望んでゐた。彼は雜談をするのを好んでゐて、友人中の或る者を輕蔑の口調で話したがる。然しそれ以外の友人の事は決して惡くなぞ言はない。彼の一大缺點は輕率と言ふ事と、自己抑制が全然無いと言ふ事である」  ブレッシングトン夫人は又、同じ著書の中で、當時のバイロンが、自分の知らぬ人と面會するのを非常に嫌つてゐた、と言ふよりも恐れてゐたと言ふ事を書いてゐる。彼の鋭敏な神經は殆んどそれに耐へ得なかつたらしい。この時代にバイロンを訪れた或る人がかう書いてゐる。── 「私は、バイロン卿の顏のやうに落着いた靜かな顏を未だ曾て見た事が無かつた。──しかも彼の顏のやうに氣持のよい人好きのする顏を見た事が無かつた。然し彼は何でも無い事で癇癪を起して、そして一度怒れば一日中それが續く。彼は鐘の鳴る音にさへも神經を刺戟されて我慢する事が出來なかつた。そして手を廻[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して近所で雜音を立てないやうにした」  この過度の神經の敏感さは、彼の我儘な一本氣な所からも來てゐたが、その大部分が天性によるものであつた。そしてこれが彼の終生の苦しみの種でもあれば、また詩感の源泉でもあつたのである。彼の家庭生活の失敗も主として此處から生れた。間斷なく二重にも三重にも折れ曲つて行く彼の神經は、到底バイロン夫人位の女の人には理解も出來なかつたのである。其處にあらゆる天才的な夫と、衆俗的な妻との間に生じるギャップが生れるのは餘儀なかつた。ジェノア滯在中に、彼がブレッシングトン伯夫人に言つた次の言葉は、その邊の消息をよく物語つてゐる。── 「妻の最初の考へは自分自身の事のみに即したものでありました。私にして見れば、彼女に他人の事も少しは考へて貰ひたかつたのです。私の最大の罪は、私が自尊心を持つてゐない事です。ところが彼女はその自尊心をふんだんに持つてゐるのです。私がちよいとした事で怒つて、自分にもどうする事も出來ない激情を勃發させると、彼女は平然と落着き拂つてゐました。それが、むつ[#「むつ」に傍点]として私をとがめてゐるやうに思はれたのです。彼女のそんな態度が、彼女が私よりも優越してゐると言つた風なんです。するとそれが私の氣に障つて、私の癇癪を助長したのです」  こんな事を言つてゐるだけに、彼の心は、異國の空で妻以外の女と暮してゐながらも、英國にゐる妻から超脱しきれなかつた。彼の心は、自分にはめぐまれてゐないかのやうに思はれる家庭生活の樂しみ、家庭的な愛を卒業しきれなかつた。彼が終生、姉のオーガスタ・ライ夫人に感じた崇拜と尊敬と愛は、彼に殘された唯一の家族的な感情の現はれであつたらしい。又事實上、彼に殘された唯一の親しい肉身の者はこのオーガスタのみであつたのだ。彼は次のやうに書いてゐる。── 「人生に對する私の印象は、その最初に於て憂鬱であつた。──私の母がそれらの憂鬱な印象を私に與へた。然し私の姉は自分自身を誤る事の出來ない、又他人の裡に惡を見ない女であつた。私の持つてゐる僅少な善い性質はこの姉に負ふ所がある。この私の僅少な善い性質は、私は自慢する事が出來る。若し私がもつと早く姉を知つてゐたら、私の運命にも影響を及ぼしたであらう。オーガスタは、危機に瀕した時の私には力の塔であつた。彼女の愛情は私の最後の元氣囘復の場所だつた。そして現在では、英國の地平線が私の視界に與へて呉れる唯一の輝かしい場所である。彼女は私に向つて實によい忠告を與へて呉れた。──しかも私が彼女の忠告に從つて行き得ない事を見て取つて、私を愛し憐れんで呉れた。私の行爲が誤つてゐたので、尚のこと深く私を愛し憐れんだのだ」  バイロンが如何にこの姉のオーガスタを慕ひ、又オーガスタが如何にバイロンの事を始終氣にかけて心配したかと言ふ事に就いては、ライ・ハントとその他の當時の友人等が書いてゐる所によつても明かである。オーガスタはバイロンを呼ぶにいつも、 「バイロン坊や」と言つてゐたと言ふ。  彼はかなり以前から始めてゐた『ドン・ファン』を中途でやめてゐた。その理由は前にも書いた。然し中止してから一年餘り過ぎてから、グイッチョリ夫人にすゝめられて、再び筆を取つた。それが一八二二年の七月であつた。第六卷目から第十一卷目までピザで出來上つた。第十二卷目から第十六卷目まではジェノアで書かれた。これら『ドン・ファン』の後編に屬するものは、ジョン・ハントの手に依つて出版された。この時代には、『ドン・ファン』以外にも作があるが、いづれも『ドン・ファン』よりも質に於ても量に於ても劣つてゐた。その中には『青銅時代』『島』等がある。前者は、チントラ會議とヴェロナ會議に對する非難がその主調となり、後者は、彼の原始生活に對する憧憬の現はれである。後者は、かなりすぐれたものであつて、ルッソーやシャトウブリアン等からの暗示に據つてゐる。 『ドン・ファン』は彼の最大傑作中の一である。前にも言つたやうに、バイロンの詩人としての才分は全く主觀的な題材を扱つた時に最もよい結果を生むのであるが、その初めの例が『チャイルド・ハロルド』で、その次がこの『ドン・ファン』である。この作中のドン・ファンはそつくりバイロン自身の自畫像である。チャイルド・ハロルドが彼の自畫像であつたよりも更に正確に自畫像である。それ故に、この『ドン・ファン』には、作それ自身の獨立した價値以外に、それを通してバイロンの生きた畫像を見る事が出來ると言ふ興味もあるのだ。  これを發表した時の反響は非常なものがあつた。英國の新聞や雜誌は、例に依つて例の通りに惡罵の聲を放つた。以下その二三を擧げると── 「バイロン卿はこの作に依つて、自身の性絡を墮落させたものである」(ブリティッシュ・マガヂン誌)。 「この作は上品と言ふ事に對する諷刺だ」(ロンドン誌)。 「これは憂鬱な觀物だ」(エディンバラ月報)。 「この作は、憎むに足る暴行である」(エクレクティック誌)。 「この作の著者は、殘虐にも社會のすべての最善の感情をみだすものだ」(ブラックウッド誌)。  然し、それに反して激賞してやまぬ者もゐた。中には『チャイルド・ハロルド』よりも數等立派な作品として激勵する者があつた。その中には、ドイツのゲーテ、英國のシェリイ、スコット等がある。ゲーテは言つた。── 「これは靈に滿ちた作だ。この作の厭世主義は實に粗野であり、この作のやさしさは、微妙に纖細である」  シェリイはかう言つてゐる。── 「この作は私が永いこと説きすゝめてゐた事、即ち、現代に對して全然新しい、しかも現代に關係ある作を創造すると言ふ仕事を、或る程度まで果してゐる」  スコットは次のやうに言ふ。── 「この作にはシェクスピヤの持つてゐるやうな變化がある。『チャイルド・ハロルド』にもバイロンの初期の立派な詩物語にも見出せない見事な詩が『ドン・ファン』の中にちらばつてゐる。この作中の詩を、著者はあたかも樹木が枯葉をふり落しでもするやうに、自然に投げ出してゐるやうに思はれる」  バイロンの性格のあらゆる隅々までがこの作には描かれ歌はれてゐる。しかもまた彼の現世觀がありのまゝに此處に表現されてゐる。一個の自然兒とも見るべきドン・ファンが、ある時は哭き悲しみ、ある時は享樂に惑溺し、ある時は苦しみ、ある時ほ恐れをのゝく姿は、同時にバイロン自身の今迄の波瀾多かつた生活の姿であつた。彼がその生涯にかたむけた喜怒哀樂の甘い、又は苦《にが》い酒杯が、ありのまゝの香と色で描き出されてゐる。『ドン・ファン』は文字通りに、この幸福で不幸であつた暴風雨のやうな詩人の姿を映し出した鏡である。  しかもこの詩の最後には、快樂の限りをつくした一享樂兒が、その快樂の終りに到達する苦《にが》い絶望の影が差してゐる。この影はやがてバイロン自身を襲つて來た。 第十章 ギリシヤへ──死  三十三歳の詩人はもう既にあらゆる事をしつくしてゐた。旅行をした。女に耽つた。詩に溺れた。詩人としての名譽も、最初自分が希望してゐた通りに手に入れてしまつた。そして彼のしばらくも靜止してゐない生活感情は、それらのすべてに飽いて來た。倦怠が徐々に彼の心を蝕んで來た。旅行も、女も、詩も、名聲も、既に彼を醉はせる事は出來なくなつてしまつた。この世のありとあらゆる魅力と惑溺が彼を惹きつけなくなつてしまつた。退屈が來た。憂鬱が來た。倦怠の次に疲勞が來た。 [#ここから3字下げ] かくも果敢ない汚れた人生の路を 自分は引きずられて三十三歳になつた。 これらの年月が私に何を殘したか? 何も無い、 有るものはたゞ三十三歳の歳ばかりだ。 [#ここで字下げ終わり]  かくして次第に絶望がしのび寄つて來た。唯一つ最後の血路として、英雄になる事だけが殘された。これより他に彼の行くべき途は無くなつてしまつた。その時丁度起つたのが、ギリシヤ獨立運動であつた。  いろ/\な事實から推察するに、本來彼にはあまりはつきりした政治上の意見は無かつたらしく思はれる。彼の政治に對する意見は、いつも正確な推理や思索の結果と言ふよりも、むしろ衝動的な所が多かつたらしい。しかもロマンティックな彼の性情は、常に自由を愛してゐた。故なくして、又は不合理に人々が壓迫されるのを慷慨した。大陸のあらゆる現存國家の制度に對して憎しみを抱いた。シェリイと同じやうにニューイングランドの未來に望みを置いた。ナポレオンに私淑した。「自由」の名のもとに行はれるあらゆる運動と反逆に同情した。イタリーの革命の時には、カーボナリ黨の祕密結社に加入して、武器その他を革命黨員のために供給したりした。  其處にギリシヤの獨立運動が起つたのだ。彼の面前には再び新しい活動の境地が開けた。  一八二二年に、彼は或る人への手紙の中でかう書いてゐる。── 「若し私が今十年生きてゐたら、私もまだ駄目にはなつてゐないと言ふ事を御覽に入れます。と言つても文學で大きな仕事をしようと言ふ意味ではありません。何となれば文學なんか何でも無い事だからです。──それに私は文學を以て自分の天職だとは思つてゐません。文學以外の事で何等かの事業をするでせう」  一體ギリシヤは十六世紀の初頭よりトルコ帝國の屬國となり、不斷にその激しい壓迫を蒙つてゐた。獨立を思ふの念はギリシヤの上下にあつたが、前後の事情はそれを如何ともする能はざる状態であつた。ところが十八世紀の頃に至り、ギリシヤの青年等は海外に遊學して、古典文學等を修めて、ホーマーや、プラトー、アリストートルその他自分達の祖先の偉大さを知り、はつきりした自意識が起つて來るにつれて、自國の自由獨立を思ふの念が強くなつて來た。そしてこれが源となつて、國内に次第に獨立に對する熱情と憧憬が盛んになつた。  一八一四年のウヰ[#小書き片仮名ヰ、P.185-L.10]ーン會議の際には、彼等はこの會議の結果に望みを置いてギリシヤの獨立を待つてゐた。然しウヰ[#小書き片仮名ヰ、P.185-L.11]ーン會議は、何等の善い結果をも彼等の上にもたらさなかつた。一方トルコからの壓迫は次第にその度を加へて行く。ギリシヤの志士は猛々その革命の精神をあふられて行つた。そして遂にオデッサに「交友會」と言ふ祕密結社を起して、その會頭として、ギリシヤ人にしてロシア皇帝の侍從たるイプシランチ公を推して、雜誌・新聞・小册子等を出版して、ギリシヤ獨立の思想を宣傳した。折よくトルコ本國にはアリ・パーシャの謀叛が起つた。それつと言ふので交友會はモルダヴィア地方に集まつて叛旗をひるがへして、獨立を宣言した。そして彼等はウァラキア州に進み、ブカレストに至り、一八二一年七月ルーマニヤから進んで來たトルコ軍と對陣した。然しこの戰の結果は獨立軍に不利であつた。第一に内通者があつたのと、その援助を豫期してゐたロシアが援助しなかつたためである。敗戰の末、イプシランチ公はトルコ軍の捕虜となつた。  しかし、この運動に刺戟されてギリシヤ國内には、所在に獨立自由を目的とする團體が蜂起した。南部のモレアでは一國の民衆が寺院の前に集まつて、獨立を宣誓し、一撃してメッシニアの首都カリマタを占領し、其處に假政府を建設した。エーゲ海の島々に住んでゐるギリシヤ人も、これに呼應して、百餘の軍船を用意してトルコの商船を掠奪する等、獨立軍の意氣はあたるべからざるものがあつた。  トルコのマームード皇帝はそれを怒つて、海陸より兵を進めて獨立軍を攻めた。然し既にもう獨立軍の勢力は、それ位の事ではびく[#「びく」に傍点]ともしなかつた。そして遂にギリシヤ軍は、一八二二年に新政府を建設して、マヴロコルダトス公を大統領に戴いた。  ところが此處まで來て、獨立政府は少し振はなくなつた。と言ふのは獨立軍に内訌が起り始めた。運動を指導する頭目の間に、分裂が生じ始めた。陰謀と言ふことが主になつて、運動の根本義たる愛國の精神が弱くなつて來た。それに、戰爭及び新政府樹立の資金が缺乏し出した。ギリシヤ獨立運動に同情する人達の群が、英國ロンドンにもゐた。その人達の主なる人の中に、バイロンの知人なるドグラス・キンネアードと、ブラクイエル大佐がゐた。これらの人は、今危機に瀕してゐる獨立運動に向つて、資金を調達してやらなければならぬ必要に迫られた。そしてそのために、誰か有名な人を味方に加へる必要があつた。そこにギリシヤ好きで革命好きで、しかも今イタリーにゐるバイロンがゐたのだ。一八二三年の初め友人のホブハウスはこの事をバイロンに告げた。バイロンは暫く躊躇してゐたが、六月になつてツァンテに於てブラクイエル大佐に會見する事を承諾した。もつともこの時になつても、バイロンの胸にはつきりとした成算だとか意圖だとかはまだ出來てゐなかつた。半ば以上は、「獨立運動」とか「自由」とかの名に對する英雄主義的な憧僚と、前に言つたやうな行詰つた自分の現状打破と言ふ氣持によつてゐた。しかも彼のイタリー出發には、おぼろげながら彼自身の死の豫感が現はれてゐた。と言ふのは出發間近になつて、これも亦英國へ歸ると言ふブレッシングトン伯爵一家と、いよ/\別れる夜が來た。その晩バイロンはひどく意氣銷沈してゐた。 「此處に私共はみんな一緒にゐるんだが、しかし何時になつたら又逢へるでせうね? 私は何だか、これつきりであなた方には逢へないやうな氣がしてなりませんよ。どうも、私はギリシヤから生きて再び歸らないやうな氣がするんです」さう言ひをはつて、彼はソファに顏を埋めて嗚咽した。  一週間ばかりして出發の用意は全部とゝのつた。  一八二三年の七月十四日の朝、バイロンの一行は「ヘルキュレス」と言ふ二檣船に乘りこんでジェノアを出帆した。一行の中には船員以外に、トレローニイ、ピエトロ・ガンバ伯爵、若いイタリーの醫師のブルーノ、フレッチャー以下八人の下僕等がゐた。船には二臺の砲、その他の武器、彈藥、五頭の馬、多量の藥品、米貨五萬ドルに相當するスペインの貨幣と紙幣が積み込まれた。  しかしこの十四日の朝の出帆は、沖へ出ると、暴風が吹き荒れたので、中止になり、その次の日の夕方に出帆した。そして五日の後にレグホーンに到着した。レグホーンではゲーテが彼に贈つた詩の挨拶を受けて、それに答へた。それから又此處では、ギリシヤ事情に通じてゐるスコットランドの紳士ハミルトン・ブラウンが一行に加はつた。船はケファロニアへの航路を取つて進んだ。  この航海中バイロンは大概讀書をして時を過した。その時に讀んだ書物の中には、スコット箸『スヰフト傳』、グリム著『書翰集』その他があつた。讀書をしない時には、船から見えるエルバや、ソラクテや、メッシナの海峽や、エトナ等を眺めた。ストロンポリを通過する時にはトレローニイに向つて、「この景色は『チャイルド・ハロルド』の第五卷目に描いてある」と話した。  この船中で誰かゞ、今直ぐに詩を書いて御覽なさいと言つた。すると彼は、 「私は、君達が煙草をふかすやうに、おいそれと詩は書けない」と答へた。一行はよく海の鴎[#「區+鳥」、第3水準1-94-69、鷗]や空《から》の瓶などを射繋した。毎朝海に游いだ。八月の初旬船は目的地のモレアに到着した(當時ブラクイエル大佐はモレアにゐたのである)。  バイロンは一八二三年の末までケファロニア附近にとゞまつてゐた。そして一ヶ月ばかり「ヘルキュレス」船上に暮してゐた後、メタクサタに一軒の家を借りて、ピエトロ・ガンバ伯と共に移り住んだ。メタクサタは、美しいこの島の氣持のよい小村落であつた。ところがブラクイエル大佐は、ツァンテでバイロンと會見すると言ふ約束を破つて、コルフへ行つてしまつた。そしてコルフから用事のために英國へ歸つた。ナピエル大佐もケファロニアに居なかつた。そのために、ギリシヤ獨立黨員から再々手紙や使が來ても、どんな行動を採つてよいかわからなかつた。當時、ギリシヤで皇帝を建てようと言ふ説があつた。それを聞いたバイロンは、 「若し私に皇帝になつて呉れと言つたら、多分私は承諾しよう」と言つたといふ。  まだ何等の行動も採れなかつたが、彼は自分の下僕に武裝をさせて、自分を護衞させてゐた。そして實際上の運動にこそまだ參加しなかつたけれども、蔭になり日向になつて[#「なつて」は底本では「つて」]、獨立運動の有利を計り、宣傳をした。當時のバイロンの手紙の二三を擧げる。── 「私はギリシヤの福祉を祈る。それ以上には私の望みはありません。私は、それを得るために何でもやります。……」 「ギリシヤは今、三つの運命の下に置かれてゐます。三つの運命とは、自由を獲得するか、ヨーロッパにたよるか、トルコの屬國に復歸するかの三つです。この三つ以外に道はありません。しかも内亂を起せばヨーロッパ諸國にたよるか、トルコの屬國に復歸するより他に行先はありません」  その間もトルコ軍と、獨立軍との爭鬪は續けられてゐた。獨立軍の雄將アレキサンダー・マヴロコルダトス公は艦隊を率ゐてメソロンギ救援にやつて來た。このメソロンギ救援は、先に勇敢なマルコ・ボッザリスが試みて失敗した。しかし、マヴロコルダトス公は成功した。トルコの軍隊はメソロンギを明渡して、レパント灣に沿つて退却した。マヴロコルダトス公は早速バイロンに面會し、彼のために二檣帆船を用意してくれた。そして言つた。── 「こんな事を言ふ必要も無い位ですが、あなたの來て下さる事を誰もが、それこそ待ちくたびれてゐます。あなたが居て下されば、われ/\の運動のすべてにどれほど有利な方向を與へるかわかりません。人々はあなたの御意見をまるで神託のやうに傾聽するでせう」  同じその日に獨立軍の將軍スタンロープ大佐もかう書いている。── 「町の人々はバイロン卿の到着を、あたかも救世主を待つやうな心で待ち望んでゐる」  これほどバイロンはギリシヤ獨立軍の士氣に重大な影響を持つてゐたのである。  かくしてバイロンはメソロンギへ行く事になつた。然しマヴロコルダトス公の用意してくれた二檣帆船では行けなかつた。別に、速力の早い小さい單檣帆船を仕立てゝ、下僕や、荷物を後便に託したまゝ出帆した。それが十二月の二十八日であつた。この航海の有樣を、ピエトロ・ガンバ伯が次のやうに書いてゐる。── 「われ/\はともに夜の十時過ぎに出帆した。風は追手だつた。空は明かに、空氣もさわやかで、ひどく寒くはなかつた。われ/\の船の船員等は、かはる/″\愛國の歌を唄つた。實に單調な歌であつた。しかも、現在の境遇にあるわれ/\に取つては非常に感銘の深いものであつた。で、われ/\も一緒になつて唄つた。われ/\は皆元氣だつた。特にバイロン卿はすばらしい元氣であつた。船は最大速力を出して航行して行つた。波のために友船に隔てられて互に聲がとゞかなくなると、ピストルや騎兵用短銃を發射して合圖をした。明日になれば、われ/\はメソロンギで會ふ。──明日だ。かくして信念と元氣に充ち滿ちて、われ/\は航行した。十二時には友船の姿は見えなくなつた」  バイロンの乘つた船は單獨に進んで行つたが、途中でトルコの巡洋艦の姿を見たので、それを避けてスクロフェスの巖礁の間に隱れた。其處を出てドラゴメストリと言ふアカルナニアの一小港に着き、其處から次の年の一月二日に、ギリシヤ砲艦の護衞のもとに再び進航した。その途中、バイロンは海に游いだが、それが身體に障つて、それ以來骨に痛みを覺えた。一月五日にはいよ/\メソロンギに到着した。獨立軍の人々は歡呼して彼を迎へた。彼の得意想ふべしである。  彼はメソロンギのギリシヤ獨立軍に對して、持つて來た四千ポンドの軍用金を與へた。これは彼が個人的に、自分の名と地位とを利用して、獨立軍のために調達したものであつた。暫くして彼は、次に來るべきレバントへの遠征軍の司令官に任ぜられた。遂にスタンホープ大佐はアゼンスへ行つた。そしてバイロンと聯絡を取つた。かくして、次第にバイロンの運動に對する氣持は白熱して行つた。當時のバイロンの手紙は、實に立派な革命的政治家としての彼を表はしてゐる。彼は、味方に取つて有利な種々な仕事をした。獨立軍の頭目の間に出來てゐる不和や誤解をとくに努めた。味方の軍の土氣を鼓舞するためのあらゆる手段をつくした。軍資金を作るために八方奔走した。  一月の二十二日は彼の誕生日にあたつてゐる。一八二四年のその日、即ち彼の最後の誕生日には、彼は自分の室からスタンホープ大佐の所へやつて來て、微笑しながら、 「私は近頃、ちつとも詩を書かないと言ふので、あなたは不平を言つて居られましたね」と言つて、例の、 [#ここから3字下げ] 今やこの心も動じない時だ、 [#ここで字下げ終わり]  と言ふ句で始まつてゐる自作の詩を朗讀した。彼の思ひは高く、彼の決心は固かつた。しかも、彼の身心はやうやく壞れかけてゐたのである。彼の心が次第に均衡を失つて、焦燥しがちになり、彼の健康は次第に惡くなつて行つた。以前から小食であつたのが、ギリシヤに來てから以來、獸肉は殆んど食べなかつた。主としてトーストに野菜、チィーズ、橄欖の實と少量の葡萄酒のみであつた。  一月の中旬になつて、彼が司令官となつてゐるレパントへの遠征がもう間も無く出發すると言ふ事になつた。その時思ひがけなくスーリオート人(ギリシヤの南部の住民)が暴動を起した。そのために遠征軍出發は中止になつた。バイロンはこの事ですつかり氣を腐らしてしまつた。さらでだに弱つてゐた身心がこのために打撃を受けて、一月の十五日の晩には激しい痙攣の發作を起した。次の日は少しはよくなつた。が、まだ頭が重くて起きられなかつた。それを癒すために醫者が水蛭を使つたが、あまり過度に用ひたために出血が甚だしく、バイロンは失神してしまつた。この發作から間も無く、或る日のこと、一隊のスーリオート人がバイロンの家へ押しかけて來て、彼等の權利を要求した。これに對してバイロンは病中にもかゝはらず平然と落着いて應對した。  二月の四日附になつてゐるバイロンの手紙がある。これはその知人ケネディに宛てられたもので、 「私は、自分の不安な健康状態に氣が附かないわけではありません。しかし、私はギリシヤにゐる方がいゝのです。それに、何もしないで死ぬよりも何かをやりながら死ぬ方がよいでせう」と書かれてある。  しかし、その後バイロンの健康は次第に囘復し出して、間も無くかなりの元氣と活力を取り戻した。撃劍や、射撃や、乘馬や、愛犬のライオンと遊んだりする事も出來るやうになつた。そして再びギリシヤ獨立運動のための行動へ踏み出すべく用意した。四月の三日にはイタリーの一兵卒が、竊盜の罪でドイツの士官から笞打たれようとするのを助けた。九日にはオーガスタ・ライ夫人から手紙が來て、彼女もバイロンの娘のアダも丈夫だからと言つて來たのにすつかり喜んで、ピエトロ・ガンバその他の遠乘に出かけた。その途中ひどい驟雨に逢つてぐしよぬれになつた。他の者はバイロンの健康を氣遣つて、船に乘つて歸ることをすゝめたが、バイロンは、 「こんな事位でびく/\してゐたんでは軍人なんかになれるものか」と笑つて取り合はなかつた。しかし、これが彼の死をもたらす原因になつた。案の定、彼は次の日には身體が顫え且つ痛んだ。しかし、あたり前に起き出して橄欖の森の中へ馬に乘つて出かけた。  十一日になるとリューマチの熱が彼を襲つた。十四日になるとバイロンについてゐた醫師のブルーノではもう何とも手の下しやうが無くなつたので、ツァンテからトーマス博士を呼んだ。が突風のために博士の乘つた船は妨げられた。仕方が無く、もう一人の醫者のミリゲンに相談すると、熱を退《ひ》かせるために血を取らうと言ふ事になつた。しかしバイロンはこれを承諾しなかつた。そしてブルーノに向つて言つた。── 「私の死ぬ時が來たら、血を出さうが出すまいが死ぬにきまつてゐる」  次の朝になつて、ミリゲンは再び出血療法のことを提言した。するとバイロンは癇癪を起してしまつて、 「ちえつ! お前達は、……畜生! まるで肉屋だ。血をそんなに出したいんなら好きなだけ出せ。そして勝手にしろ」と怒鳴つた。  で、出血療法をほどこしたが、效果は無かつた。十八日になると又更に別の醫者等もやつて來た。しかし手の施しやうも無かつた。  彼は熱にうかされ、意識を失つて横はりながら、自分が戰場にゐると思つてゐるらしかつた。自分が指揮官となつて行く筈になつてゐたレパントの攻撃に出陣して、奮戰してゐると思つた。無意識裡に、 「進め! 進め! 俺に續け!」と叫んだ。何と言ふ悲痛な最後の夢であつたらう!  又、英國に殘して來た妻や、姉のオーガスタ・ライ夫人や、娘のアダの事をも口走つた。從者のフレッチャーに向つて、 「私の姉の所へ行け。かう言へ──妻の所へ行け──あれに會つたら、言へ──」それから後は明瞭に聞き取れなかつた。「オーガスタ──アダ──私の姉、私の子供。私はこの世の愛するものを捨てゝ行く(この一句はイタリー語で)。ほかの事では死んでも心殘りは無い」  十八日の夜になると、彼は最後の言葉を言つた。それはギリシヤ語で、 「さあ私は眠らなきやならぬ」と言ふのであつた。そして四月の十九日に死んだ。  バイロンの死はギリシヤ國内に國民的の悲しみを起させた。マヴロコルダトスの命令に依つて、三十七發の砲は──これはバイロンの齡が三十七歳だつたので、それに依つたものである──砲臺から彼の死を哀悼して鳴り響いた。國内のすべての官省や商店は閉鎖され、二十一日間の喪が行はれた。  スタンホープ大佐は彼の死を聞いて、 「英國は輝かしい天才を失つた。──ギリシヤは最も高尚な友人を失つた」と手紙に書いた。ギリシヤの諸市はバイロンの遺骸を各自自分の市に葬らうとして爭つた。アゼンス市は彼をテシウスの神殿に埋葬せん事を欲した。  葬儀はメソロンギで執行された。そして五月の二日に遺骸はツァンテの港を出發して、同月の二十九日には英國のダウンスに到着した。親戚の者等は、ウェストミンスター寺に埋葬出來るやうに當局に願ひ出たが、その許可が無かつた。そして七月十六日にハックナルの村の教會に埋められた。  かうして、それ自身暴風のやうな、怪物のやうな、しかも美しい三十七歳の詩人の生涯は終結を告げた。火のやうな一個の魂が十九世紀初期の文藝に一つの大きな衝動を與へたまゝ過ぎ去つて行つた。 第十一章 結論  バイロンは同時代の文學者仲間からは、殆んど偶像視されてゐた。彼はその生涯中、人々から「詩の世界のナポレオン」として恐れられ尊敬された。彼の諸作品はフランス語、ドイツ語、イタリー語、デンマーク語、ポーランド語、ロシア語、スペイン語その他に飜譯され、從つて各國の文藝の士や讀者によつて讀まれた。マコーレーがその『ムーア傳』に書いてゐるやうに、バイロンはたしかに「十九世紀に於て最も有名なる英國人」であつたのである。  それだけに彼の影響する所は頗る大きかつた。歐州各國の近代文學の中で、直接間接に彼の影響を受けてゐるものは非常に多い。同時に大きい。直接の影響を受けた者の二三を學げると、フランスに於てはラマルティーヌとミュッセ、スペインに於てはエスプロンチェダ、ロシアに於てはプーシュキンとレルモントフ、ドイツに於てはハイネ、イタリーに於てはベルケットその他である。これ程の大きな廣い深い影響を近代文學の上に及ぼしてゐる者は英國には他にゐない。又恐らくは全歐州にだつてあまり澤山はゐないであらう。ではバイロンの如何なる點が、それほど力強い影響を他へ及ぼすに至つたものであらうか?  これは簡單には答へられない。と言ふのは文藝作品の魅力と言ふものは、いくらそれを解剖して見ても、最後には不可解又は不可言の一部分又は大部分を殘すものだからである。然し強ひてこれを言ふならば、結局、バイロンと言ふ人間の持つてゐた魔法のやうな、磁石のやうな性格の魅力に歸着するであらう。彼の作品は、常に彼自身であつた。すべてが自叙傳的であつた。彼は恰も硝子張りの家の中に住んでゞもゐたやうに、自分の姿を隱したり、くらましたりする事が出來なかつた。彼ほど知らず識らずの正直さで、自分自身の赤裸々の姿を讀者の前に露出した者は澤山ゐない。  彼の近代主義《モダーニズム》と言ひ、彼の懷疑主義と言ひ、彼の惡魔主義《ダイアポリズム》と言ふものが、どうしてあれ程の後繼者を得たかと言ふ事も、彼の性格の底に唯一つ「眞實」があつたためだ。正直さがあつたためだ。彼ほどの眞實な情熱と力で人生を「生き」た人間は少ない。彼ほどの一本氣な「生活者」は稀れである。彼ほどの昂然とした自信を以て世界と戰つた者は無い。曾てオーキーで、スタエル夫人がバイロンに言つた。── 「世界と戰ふ事はとても出來ませんよ。たつた一人で相手になるには世界はあんまり強過ぎますからね」  しかも、彼は猛獸のやうに戰つた。世界と個人との戰ひは常に悲壯である。彼の戰ひも悲壯であつた。そして最後には、彼のやうな性格者にきまつて來るところの同じ運命に陷ちたのである。  彼は曾て言つた。── 「私は何事をもやり直すと言ふ事が出來ない。私は虎みたいだ。若し最初に獲物に跳びかゝつて取り逃したら、私は唸りながら森の中に引返して行く」  彼は自分のことをよく虎にたとへてゐる。實際彼には、貴族的な優美さと上品さとにこんぐらかつて、肉食の野獸のやうなところがあつた。その事が、彼の個性に、一種不可思議な光と魅力とを添へてゐる。  要するに彼は、異常にダイナミックな生活意力を持つた一個の「生活者」であつた。不思議に複雜した要素を持つた一個のプロメシウスであつた。彼がこの世にもたらしたものは「完成」ではなかつた。「計畫」であつた。「平和」では無かつた。「暴風雨」であつた。  一陣の暴風雨が、はげしい雷鳴と電光とをともなつて、ヨーロッパの空を北から南へ押し進んで、碧色の地中海の空の下に消えた。 [#改ページ] バイロン年表 一七八八年。── [#ここから2字下げ] 一月二十二日ロンドン市、ホーレス街に生る。George Gordon Byron. 父、ジョン・バイロン。母、ガイトのゴルドン。 間も無く母に伴はれてスコットランドに行き、親戚の家に暫く寄寓す。 [#ここで字下げ終わり] 一七九〇年。── [#ここから2字下げ] アベルディーンの一小邸に母と共に居を定む。父のジョンも來りて同居す。父と母との間は不和。間も無く父は債鬼をのがれるために佛國に去る。 [#ここで字下げ終わり] 一七九一年。── [#ここから2字下げ] 八月、父のジョン・バイロン佛國ヴァレンシエンに客死す。 [#ここで字下げ終わり] 一七九二年。── [#ここから2字下げ] バワース氏經營學校へ入學。 僧職ロス氏よりローマ史を習ふ。 家庭教師パターソンに就きラテン語を習得す。 當時、彼は歴史と物語に興味を有し、『アラビアン・ナイト』等を耽讀す。 [#ここで字下げ終わり] 一七九四年。── [#ここから2字下げ] バイロン家の第二相續者となる。 [#ここで字下げ終わり] 一七九六年。── [#ここから2字下げ] アベルディーンにて猩紅熱にかゝる。病後を母に伴はれてバラターに行く。この頃、親戚の娘マリー・ダフに幼き戀を感ず。 [#ここで字下げ終わり] 一七九八年。── [#ここから2字下げ] 秋、母は今迄住みたるアベルディーンの小邸の家具全部を賣却し、ジョーヂを伴ひ英國南部へ旅行し、バイロン家所領のニューステッド・アベイに行く。而して、その附近のノッティンガムに寓居す。 [#ここで字下げ終わり] 一七九九年。── [#ここから2字下げ] 夏、ロンドンなるダルウィッチ寄宿學佼に入學。 母はロンドンに出で、スローン・テラスに居を定む。 [#ここで字下げ終わり] 一八〇〇年。── [#ここから2字下げ] 詩作を始む。──マーガレット・パーカー孃を主題にせるものなり。 [#ここで字下げ終わり] 一八〇一年。── [#ここから2字下げ] ハロウ公立學校へ入學。一八〇五年の秋まで此處に修學す。 [#ここで字下げ終わり] 一八〇二年。── [#ここから2字下げ] マリー・アン・チャウォース孃を知り、戀す。 [#ここで字下げ終わり] 一八〇三年。── [#ここから2字下げ] チャウォース孃に失戀す。 [#ここで字下げ終わり] 一八〇五年。── [#ここから2字下げ] 八月、チャウォース孃他に嫁す。 十月、ハロウ公立學校を退學して、ケンブリッヂなるトリニティ・カレッヂに入學。 以後三年間在學。大學にては、規定の學科の勉強は怠る。運動、詩作に沒頭す。一八〇八年學位を得る。 [#ここで字下げ終わり] 一八〇六年。── [#ここから2字下げ] 十月、最初の詩集を自費にて印刷せしも、先輩及び友人の反對のため發刊を見合はす。 [#ここで字下げ終わり] 一八〇七年。── [#ここから2字下げ] 一月、最初の詩集を自費出版(──"Ju[#uはブレーヴェ付き、ŭ]venilia")諸友に頒つ。 三月、第一詩集の友人間に好評なりしに力を得て、再び詩集『懶惰の時』を刊行す。好評。この頃、次第に生活放縱に流れ始む、異腹の姉オーガスタ嫁す。 [#ここで字下げ終わり] 一八〇九年。── [#ここから2字下げ] 一月二十二日、成年に逹せし故を以て、公式にバイロン家を繼ぎ、第六世のバイロン卿となる。 四月、諷刺詩築『英國詩人とスコットランドの評論家』を公刊。初版は無署名。第二版より署名す。六月十一日、高利の金を借り入れて旅費を作り、外遊の途にのぼるべくロンドンを出發す。 フォルマウス出航──スペイン領リスボン(七月)──騎馬にてセヴィル──カディツ──海路ヂブラルタル──地中海に入り、サルディニアなるカグリアリ──シシリアのギルゲンティ──マルタ──プレヴィサ上陸──陸路アルバニヤ旅行──ジェニナ(十月)──アパレニ(アリ・パーシャの厚遇を受く)──海路を取りしも難船してスリの海岸に着く──アカルナニア、エトリアを經てモレアへ──メソロンギ(十一月二十一日着)──パトラス──ヴォスティツァ──リヴァディア──テーベ──アゼンス(十二月着) [#ここで字下げ終わり] 一八一〇年。── [#ここから2字下げ] アゼンス滯在中、宿の長女テレサに戀す。──スミルナ(三月二十八日スミルナにて、『チャイルド・ハロルド』の第二卷を完成す) 四月コンスタンティノープルに向ふ──五月コンスタンティノープル着──七月十四日其處を出航す──ツェア──アゼンス──パトラス(この附近に二ヶ月滯在) 九月熱病にかゝリ、一ヶ月後快方に赴き、再びアゼンスへ戻る。 [#ここで字下げ終わり] 一八一一年。── [#ここから2字下げ] 三月、『ミネルヴァの呪ひ』を書く。 間も無くマルタに至り、再び惡性の熱病にかゝる。 六月、歸國の航路に就く。 七月中旬ロンドン着。 八月一日、母死去。これを聞き、ロンドン市を出て、ニューステッド・アベイに行き、母の葬儀を營む。 同月、親友チャールス・マッシュース溺死す。 十月、ロンドンに出で、放蕩生活に入る。 [#ここで字下げ終わり] 一八一二年。── [#ここから2字下げ] 二月頃より、再び外遊の志あり。 一月二十七日、貴族院にて最初の政治演説をなす。有名なるノッティンガムの機械破壞者の事件に就いての演説なり。 同月二十九日、『チャイルド・ハロルドの巡禮行』第一・第二卷世に現はる。非常なる好評にて四週間に七版を重ぬ。 三月、カロリン・ラム夫人に會ひ、戀す。 [#ここで字下げ終わり] 一八一三年。── [#ここから2字下げ] 四月、詩『ワルツ[#「ワルツ」は底本では「ワツル」]』公刊。 五月、詩『ギアオール』公刊。 十二月、詩『アビドスの花嫁』公刊。 この頃よりロンドン社交界の寵兒となり、華美なる社交界にしきりに出入す。 ミルバンク孃に結婚を申込みしも拒絶さる。 [#ここで字下げ終わり] 一八一四年。── [#ここから2字下げ] 一月、詩『コルサイル』公刊。一日に一萬四千部と言ふ、異常なる賣行きなり。 五月──六月、詩『ララ』を書く。 八月『ララ』公刊。この詩集より初めて收入を得。 この頃よりウォルター・スコットとの文通始まる。 十二月、詩集『ヘブリュー歌曲』を書く。 再びミルバンク孃に結婚を申込み、婚約成立す。 [#ここで字下げ終わり] 一八一五年。── [#ここから2字下げ] 一月二日、シーハム・ハウスにてミルバンク孃と結婚の式を擧ぐ。 春、ウォルター・スコットと面會。 夏──秋、『コリントの包圍』及び、『パリジナ』を書く。 結婚生活順調に行かず。 この頃よりバイロンの身邊に種々の醜聞高まる。 十二月十日、ロンドンにて長女オーガスタ・アダ出生。 [#ここで字下げ終わり] 一八一六年。── [#ここから2字下げ] 一月十五日、バイロン夫人はその娘アダを連れて實家に歸る。 社交界及び新聞紙上にてバイロンの素行に對する惡評高まる。 四月二十五日、再び英國を去り、外遊の途に登る。 オステンド──ブラッセル──バーゼル──ベルン──ローザンヌ──ジェネヴァ(シェリイとの親交始まる) クレヤモント孃と戀に陷る。 十一月、ヴェニスに至る。宿の主婦にして一商人の妻なるマリアナ・セガティと情交す。 [#ここで字下げ終わり] 一八一七年。── [#ここから2字下げ] 二月、クレヤモント孃は英國グレート・マーローにてバイロンの子を産む。アレグラと言ふ娘なり。 同月、詩劇『マンフレッド』の草案を完成す。 この頃マラリヤ熱にかゝる。 アルクワに至る──フェルララ──フローレンス──ローマ(五月)──再びヴェニスに戻り、ラ・ミラの別莊にてマリアナ・セガティと同棲。 九月、『チャイルド・ハロルドの巡禮行』完成。これは一八一八年の初めに公刊さる。 [#ここで字下げ終わり] 一八一八年。── [#ここから2字下げ] 一月、長詩『ドン・ファン』に着手。 マリアナ・セガティと縁を切り、新たにマルガリタ・コグニと情交を結ぶ。 五月──六月、娘のアレグラ英國よりイタリーに來る。 八月、シェリイ、ヴェニスに來り、バイロンに會ふ。 [#ここで字下げ終わり] 一八一九年。── [#ここから2字下げ] テレサ・グイッチョリ夫人を知り、戀す。この戀愛は終生續けり。三月、グイッチョリ夫人に招かれてラヴェンナに赴く。 秋、グイッチョリ夫人と共にヴェニスに戻り、ラ・ミラの別莊に同棲。 十一月、熱病にかゝる。グイッチョリ伯爵來りて、グイッチョリ夫人を連れ去る。 十二月、バイロンは歸國を決心す。されど、次の日、グイッチョリ夫人病にかゝりて篤しと聞き、ラヴェンナに急行す。 [#ここで字下げ終わり] 一八二〇年。── [#ここから2字下げ] 七月『マリノ・ファリエロ』脱稿。 同月、グイッチョリ夫人と夫伯爵との法律上の離婚成立す。 この頃起りし、イタリーの政治運動に參與し、テレサの同胞なるガンバ伯に味方して、官憲に睨まる。 十二月頃より、新聞發行の計畫あり。 [#ここで字下げ終わり] 一八二一年。── [#ここから2字下げ] 四月、ギリシヤ獨立運動起る。バイロンはそれに對して多大の同情を持つ。七月、『二人のフォスカリ』完成。次の年の十二月『サルダナパラス』と共に公刊。九月、詩劇『カイン』完成。 [#ここで字下げ終わり] 一八二二年。── [#ここから2字下げ] ピザに至る。 四月二十二日。娘アレグラ死す。 七月八日、シェリイ、ヨットにて出帆して行方不明となり、二十二日海岸にて死體發見さる。 バイロンはその火葬に立ち會ふ。 九月、テレサを連れてジェノアに至る。 ギリシヤの獨立運動は或る程度まで成功せしも、内部の分裂のために再び悲境に陷る。 [#ここで字下げ終わり] 一八二三年。── [#ここから2字下げ] 四月、ギリシヤ獨立運動に對して實際的の助力を決心す。 七月十四日、ギリシヤに向つて出發。途中暴風に逢ふ。 八月、モレアに到着。 十二月までケファロニアに滯在。 十二月二十八日、メソロンギを指して出發。 [#ここで字下げ終わり] 一八二四年。── [#ここから2字下げ] 一月五日、メソロンギ到着。上下のギリシヤ人より大歡迎を受く。獨立軍の主要なる一方の指揮者となる。次第に健康を害す。 無理をせしため、三月頃より再三熱病の徴候あり。 四月、病進み、十九日夜死去。 [#ここで字下げ終わり] (たよるに足るべき參考書の不足と、又、たとへそのやうな二三の參考書はあつても、それらの一つ/\の記述に幾分の相違點があつて、果してどれに據つていゝかを今のところ判斷しかねるために、これ以上に正確詳細な年表が出來なかつた。言ふまでも無く種々の誤りと、年表としての不完全さはあらうが、今後、版を改める機會があれば、それらを補正したいと思ふ。大方諸先學の御叱教を乞ふ次第である。──譯者) [#地から2字上げ]──了── 底本:ジョン・ニコル「バイロン傳」新潮社 昭和十一年十月十五日印刷 昭和十一年十月二十日發行 バイロン伝 Byron "English Men of Letters" series (1880) Byron by John Nichol - Full Text Free Book http://www.fullbooks.com/Byron.html ジョン・ニコル John Nichol(1833年9月8日〜1894年10月11日) http://en.wikipedia.org/wiki/John_Nichol 三好十郎(1902年4月21日〜1958年12月16日) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%8D%81%E9%83%8E 入力・校正:天城麗 http://byron.seesaa.net/ 入力メモ: 2008-09-03 入力終了。 2008-11-25 校正終了。 2009-02-26 すべての「、、」「。。」を「、」「。」に修正。 すべての「青」「教」「福」「神」「賴」を「青」「教」「福」「神」「頼」に変換。 第二章「(改行)彼の戀の夢は一時に醒めてしまつた。」改行を削除。 第三章「(改行)丁度後年のチャールス・オースティンのそれに似てゐた。」改行を削除。 第四章「テレサの代りに、『ボアオール』を『ギアオール[#「ギアオール」は底本では「ボアオール」]』に修正。 第七章「蓮ひ無い」を「違ひ無い」に修正。 第九章「ソマーセットシャ[#「ャ」は底本で缺落]イア」→「ソマーセットシャイア[#「ソマーセットシャイア」は底本では「ソマーセットシ イア」]」に修正。 第十章「ウヰ[#小書き片假名ヰ]ーン會議」→「ウヰ[#小書き片仮名ヰ]ーン會議」に修正。 年表「一八一三年年」→「一八一三年」に修正。 年表「[#ここから2字下げ]」は正しくない。が、表記法がわからないのでこのままにしておく。 2009-04-07 第七章「ディォダティ」を「ディオダティ」に修正。 第九章「カラ・マグニ」を「カサ・マグニ[#「カサ・マグニ」は底本では「カラ・マグニ」]」に修正。 第九章「詩人約」を「詩人的」に修正。