高田保『第三ブラリひょうたん』「愚妻」

 日本髪の流行はファッショの前兆だと書いたら、早速に抗議のハガキが来た。そんなことよりも、おまえがいつも書く「愚妻」という言葉の方がずっとファッショだというのである。
「愚妻」というのは英語で「フーリッシュ・ワイフ」としたら外人が驚くだろうといった人がある。外人ばかりではない、日本人だって驚く。この際の「愚」は決して「フール」ではない。
 私自身も「愚夫」である。「愚夫」と「愚妻」と、まことにめでたい「われ(なべ)にとじ(ぶた)」だと私も思っている。人生的に至らないのが「愚」であって、つまり私たちは謙虚なのである。謙虚の美というものは外国人も知っている。この謙虚の表現が国によって違うのはどうも致し方がない。
 私の愚妻は謙虚である。この謙虚をいとしく思うが故に私は、「いとしの」という意味で「愚」という形容をつけているのである。こういうニュアンスに富んだ表現はまことに詩的なものだ。封建的とかファッショ的とかいうのでは決してない。これをかりに私が彼女を「賢妻」と呼んだとしたらと考えてみればわかるだろう。彼女はそれこそ不快を感じるに違いない。
 わが子を「豚児」と呼ぶことに(あき)れた人があったが、この言葉の中に親の愛情を汲みとれぬ人とは話ができない。私には子供がないのだが、あったら喜んで、豚児呼ばわりをしただろうとおもう。偉大なる作家チェーホフは夫人への手紙の中で、「私の犬よ」と呼びかけている。古風に訳せば「狗妻」とか「犬妻」とかになるわけだが、そう呼びかけられた夫人は喜んでハイと答えていたわけである。
 日本人はいたずらに自分のことを卑下する悪癖をもっているというが、必ずしも左様ではない。「大日本帝国」などと無闇に大きく自分をうたったものである。日本人本来の性質からいえば「小日本」とか「愚日本」とかいうべきだったのだろう。
 自ら「大痴」と誰がいったか、ご承知のことだろう。大愚といった人もいる。だがこの連中はすべて腹に一物あってのことだった。「愚妻」と私がいうのもやはり腹があってのことである。
 実るほど頭の下がる稲穂かな。私にしても新婚早々の未熟な頃は、到底おそろしくて「愚妻」などとはいえなかったものだ。だが段々と夫婦の間が熟し、お互いに人間として不足なところがわかり、それを許し合う寛大な愛情がたっぷり実ったので、安心して「愚妻」といえるようになったのである。おもえばこれは夫婦間の本当の信頼を表現する言葉のようだ。以上の文章、愚妻とは何の相談もせずに書いたのだが、おそらく愚妻は笑って承認するだろう。彼女がかく愚妻であるかぎり、私は彼女を心から私のよき伴侶だとおもっているのである。
                                   (二五・一・二五)



最終更新日 2005年05月10日 09時59分52秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「意識放棄」

 ある雑誌が、口絵のためだといって、私たち夫婦の写真をとりに来た。私はすぐさま渋面をつくった。夫婦でございとわざとらしく一画面に顔を並べた写真は、十が十までといっていいほどコシラエモノである。私は嘘つきの仲間に入りたくない。
 夫婦生活というもの、雰囲気であるから形はない。形のないものを無理に形にするから嘘がウツるのである。で頑強に断ったのだが先方も頑強にぜひといった。
 最後とうとうこっちが負けたのだが、火鉢で愚妻がパンを焼き、私が自分の分だけバタをつけてるところでもとやってみたが、パンの喰いたい時ではないから、やはりどこか気持に作為が感じられる。困ったとおもっていると知合いの家の犬がやって来た。
 先夏不慮の死を遂げた愛犬と一つ腹の兄弟犬なので、来れば座敷へも上げて遊ばしてやる。そいつを上げて夫婦の間へ置いたらとなった。こうなると愚妻がパンを焼くのは私のためばかりではない。私がバタをつけるのも一部はその犬のためということになる。つまり中心らしいものが夫婦の間にできたわけである。写真師はそこをスナップした。
 愚妻は相好を崩しながら、千切ったパンを犬の口に投げ込んでやっている。私はつくねんと私だけでバタを塗っている。出来上った図がその雑誌へ出ると、同じに出たほかの夫婦たちとは全然別なものになった。ほかの夫婦たちは明らかに二人だけでムツまじい一組なのである。お互いに顔を見合せて微笑したり、一つ調子に一つ方向に眼を向けていたり、どう眺めても文字通りに人生の伴侶的な姿なのだが、私たちのだけはそうではない。ところが、この写真がその雑誌で発表されると、知人の夫人たちからすぐさま愚妻へ手紙が来た。どれよりも夫婦らしく、どれよりも円満で、幸福を眼で見た感じだというのである。私も愚妻も苦笑した。私たちからいえばお互いに無関係な二人が、その無関心の空虚を無心な犬一匹に埋めさせている空っぽな人生風景にしかすぎないのである。到底青い鳥の巣所でなぞありゃしない。
 アランの文章を読んでいたら、楽天主義は意志の所産だが、厭世主義は人間が自己を放棄した時の状態だと説明してあった。私の家で愚夫と愚妻が一致している点というのを拾ったら、お互いに自己を放棄し合っているということだけだろう。家庭に対してどちらも意志をもっていない。私の家の中が平和であるとしたらそれは、ペシミスチックなものである。
 このペシミズムを私も家内も決して厭ったり憎んだりしていないことは事実である。だが人生への意志のさかんな他人がそれを喜ぶはずはないと信じている。それなのにこのありのままの写真が知人の夫人たちを羨ましがらせたということ、何故であろうか。
 戦争の放棄は必ずしも自衛権の放棄ではないと吉田さんが演説したが、私は国家意識の放棄について考えている。もしかすると私たちは家庭意識を放棄して、人間意識だけで暮らしているのかもしれない。                      二・二六)



最終更新日 2005年05月11日 12時14分14秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「銅像」

 廿六日はめでたい誕生日だったが、マッカーサー元帥の胸には元帥章が輝いてる。幾つかの星形が並べられているのだが、それが幾つだったかは忘れた。私が興味深くおぼえているのは、その星章の地金が何かということである。
 銀だそうだ。だがただの銀ではない。連合軍総司令官として日本占領の数力国を代表している。その数力国からそれぞれの銀貨を集めて、それを一つに鋳つぶしたのだそうである。その数力国の数も私は忘れている。だがソ連や中国が入っていることに間違いはあるまい。
 鋳つぶした各国の銀はカクテルのように一つになっているだろう。だが鋳つぶしたそのころと現在とでは、情勢が大分違うようだ。しかし元帥章の銀の融和には何の変化もないに違いない。
 マッカーサー元帥銅像建設会というのが発起されている。私にも委員になれという勧誘状が来ているのだが、私はまだ承諾の返事を出していない。銅像などというものは、万人が異議なくそれを仰いで讃嘆の情をそれに投げかけるとき建設するのがいいのである。発起人諸君はその時期が到来していると信じているのだろう。
 銅像と聞くと私は早稲田の学生時代をおもい出す。銅像騒動というのが学園内に持上った。この時のことを書いているのが尾崎士郎君の「人生劇場・青春篇」だが、問題は当時の総長の大隈さんの夫人の像を建てることの可否からはじまった。小さな問題だったが、それが導火線になって学園精神という大きな問題になってしまった。学園を支配する勢力争いがはじまってしまったのである。保守派と革新派、派手な喧嘩となって学内は分裂した。
 丁度その頃に私たちは卒業したのだが、文科学生だったから、涼しい顔で超越していた。が右か左かを結着しろという要求が、両派から血眼的な調子でつきつけられて来たものである。それで私たちはそれに答えた。
 ――われわれは芸術を重んじる徒だから、その銅像の芸術的出来ばえを第一に論じる。芸術的に出来上っている作品だったら、それが総長夫人のだろうが、神楽坂の芸者のだろうが、論じやしない。ロダンに「パリのゴロッキ」というブロンズ作品があって、それが作者から白樺社へ贈られて来たが、それを校庭に置いてくれるというなら、文句なしに賛成するだろう。以上。
 両派ともこの返事に呆れて帰った。だが私たちはいまだにこれを賢明な態度だったとおもって満足している。こういう場合の芸術主義は厳正中立である。
 私は計画されているマッカーサー元帥銅像を誰が制作するのか知らない。しかし第一にそれが気にかかるのである。万人が仰ぎ見てイデオロギー的鑑賞などうち忘れ、ひとしくその芸術的美しさに感動するような傑作だったら、時期などという問題はないことになるだろう。そうなければならぬと私は考えている。                 (一・二八)



最終更新日 2005年05月12日 22時40分52秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「生臭」

 がらんとした裸の室、書きもの用のテーブルと椅子の外には何一つないといっていい。しかしそこの壁にはあちこち、
 ――ここにはドラクロアの大きな絵 ――ここはオーピュソンつづれ織
 ――この扉はトリアノン風 ――ストーヴ、雲彩緑色大理石
 といった風に、空想の装飾が書き入れていったというのである。大作家.バルザックの仕事部屋、有名な話だから嘘ではあるまい。
 これは日本の話だが、知人のある流行作家を訪れた。座敷へ通されたら.床に應挙の大幅がかけられていた。その方へ目をやっていると主人なる作家が出て来て、これは真物といわれて買ったのだが確かだろうかと、ひどく不安そうに聞いたそうである。その顔つきで察するに、かなりの大金を出したらしいと、その知人は笑って私に話したのだが、もしもバルザックが首尾よく念願のドラクロアを手に入れたとして、そのときの彼は果たしてこの主人のように、その真贋(しんがん)を客に(たず)ねたりしたろうか、想像してみると一寸おもしろい。
 日本の文士間に骨董いじりの流行がある。これを河盛好蔵君は、美術鑑賞というようなキレイ事ではなくて、掘出しものをしようとか、値上りを待つとかの生臭いものだとしているのだが、そういいきられてはやっぱり腹を立てる人もいるだろう。
 先日東京からの帰り、川端康成君と一緒になった。某所で東山御物の牧渓図を見て来たといって眼を輝かせていた。牧渓となると私も一見したい。一見したら欲しくなるだろう。高いかと聞くと、百万円だそうだと川端君は答えた。が百万円は高くないという顔つきだった。私もまた牧渓なら百万円でもいいだろうという顔つきでそれに答えた。
 百万円という大金、夢にもどうにもならぬ私だが、ほかの品物の場合はしらず、相手が骨董となると空想が湧くのだから奇妙である。この奇妙さだけは決して生臭いものではあるまい。川端君なぞは、この奇妙さに身を任せて、前後を知らぬ無理さえもしてしまうのである。大雅蕪村の「十便十宜」を手に入れているのはご承知の通りだが、稿料印税が使いきれぬからだろうなどというのは、税務署的なヒガ目である。
「私は自分の生のみすばらしさ、つたなさがあはれでならなかつた。夜通しの仕事の机にも小さい美術品をおいて自分を支へた。……」と川端君は近作の小説の中で述べている。自分を支えることはまことにいい言葉だ。ロダンの女の手や、河内の喝食の面やを身近に眺めることによっておのれを支えているとは、有徳の坊さんが誦経によって仏とつながっているようなものかもしれぬ。
 おなじ坊さんにも、生臭というのがある。河盛君は多分その連中のことをいったのだろう。生臭といわれて腹を立てる人がいたら、その方が生臭なのかもしれない。  (一・三一)



最終更新日 2005年05月13日 11時03分26秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「デスク・プラン」

 町の漁師が一人海へ出て行方不明になった。漁師町の大騒ぎになって、すぐ捜索船が出た。舟だけは見つかったのだが人はみえない。突風であおられ顛覆(てんぶく)したらしいというのである。
ゴミトリ舟という名の小舟で、乗手はいつも一人である。
 その翌日、左義長まつりのためのお仮屋づくりという行事の日で、漁師町全部のたのしい休日だったのだが、そんなことはいっていられない。総出で捜索を続けた。こんな場合の漁師仲間の気持は心底から親身である。話を聞いて感動させられた。
 水産協同組合というようなものが法律の強制でできたが、そんな組合よりも、昔からの仲間の結びつきの方がずっと強い。個人的な利害感情などは全く捨てきって、誰もが夢中で骨を折るのである。
 行方不明になった漁師は、相模湾特産の金目鯛釣りだったが、久しく休んでいてこの日に出た。出るときハイカラ釣りの道具を新しく仕入れた。ナイロンの釣糸やなにか、小一万の仕入れをしたらしい。もっともこれは現金払いではなかったそうだ。漁のあったたびに支払うというのは漁師仲間の常例である。ハイカラ釣りというのは、幾つも桶を流してそれに糸と鉤をつけておくのだそうだが、空模様の変ったとき、新しく仕入れた一万円の道具をみすみす捨てて帰る気になれなかったのだろう。それを引揚げているうちに仲間に遅れた。急いで帰った仲間たちは無事だったのだが、彼だけは災難に遭ったのである。
 左義長まつりというのは、毎年一月十四日の夜だが、年頭の松飾りを海岸に集めて火をつける。大磯の左義長といえば以前は有名なもので、その火が房総からはっきり見られたものだそうだ。その火を囲んで素裸になった漁師たちがいろいろのことをやる。原始的な味があって一つのスペクタクルになっている。島崎藤村はこの左義長を見に大磯に来たのが縁で、町に住むことになったのだそうだ。だが漁師仲間にとってはそんなことは問題ではない。仲間の死骸がいまだに上らぬのが大問題なのである。
 青年会の進歩的な連中は、もはやこんな迷信行事でもあるまいと毎年いいたてるのだが、漁師にとっては一つの信仰だから、その簡単に片づけられない。しかし今年はその行事さえ、仲間の不幸のためにめちゃめちゃにしてしまった。義理とか、仁義とか、情誼とかいうものの方が、彼等にとってはずっと大きいのである。左義長は笑えても、この仲間内の強い一体感は笑えるものではない。水産協同組合という近代組織と、この古風な伝統とはどうつながっているか、見たところでは全然水と油のように別物らしい。政治というやつは非情なものである。協同組合といえば民衆的と考えるのが常識だが、結果は官僚化だといえぬでもない。今は何かにつけデスク・プラン時代である。            (二五・二・一)



最終更新日 2005年05月14日 18時16分03秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「一芸」

 一芸に秀づるものは百芸に通ず、というが本当かどうか。芸という一つの言葉でいわれるが、音楽と美術と文学と、それぞれ別なもののようである。
 ピカソといえば美術の巨人だが、彼に音楽の批評を求めても無理のようである。あるとき友人の音楽家が、何か音楽について熱心に喋り出したのだそうだ。するとピカソは手を振って、
 ――君、無理だよ。僕は君の議論を理解し得るほど音楽について知ってるんじゃないんだ。
 もっとも音楽が好きか嫌いかは別だろう。このピカソとてもギター位は自分で弾いたものだそうである。しかしそれも若い頃のことだ、今はどうか知らない。
 セザンヌも音楽に関しては、全然駄目だったらしい。ある日彼はワグネルをしきりに賞め上げたそうだ。リヒアルト・ワグネル! なんと素晴らしい響きではないか! だがそれはワグネルという名前についていったので、音楽についてではなかったのだという話が残っている。
 セザンヌとゾラとは知るごとく深い因縁のある仲だったが、夫々の違った芸術についてお互いに理解し合わなかったこと、これは文学と美術が別物であるからといえる。バルザックが仕事部屋の装飾にドラクロアの絵を欲しがったと先日書いたが、おなじ小説家でもフローベルは、そんなものよりも一枚の毛皮の方を喜んでいたらしい。ギリシャの彫刻よりも、アラビヤの馬鞍を飾って置く方が彼の趣味だったのだそうである。ミュッセの詩は美しいが、彼が古美術や同時代の画家たちの作品にうつつをぬかしたという話はかつてなかったそうである。
 もちろんそんな文学者ばかりはない。詩人ボードレールがいかに美術の粋を見極める眼をもっていたか、反対の例はしばしばある。だがショパンを愛したジョルジュ・サンド女史は、果たしてショパンの音楽の本当の理解者だったろうか。ある人がドビッシイに、貴下は文学書を読むかと聞いたら、本当はあまり興味がないと微笑して答えたそうである。違った芸術、お互いの間に親類同士の交際ぐらいはあるかもしれない。しかし近い親類よりも遠い他人の方がという言葉が、ここでもおもい出されて来る。
 こんなことをいい出したのは、宮本武蔵の絵というものを、ある人が持って来て見せてくれたからである。すぐれた武人でありながら一方で彼が一応確かな画人であったことは事実だ。私の前に展べられた一軸も気魄に満ちたある強さをもっている。しかし彼の絵を見るたびにいつもおもったことだが、どこかに粉本めいたものの在るのが感じられることだ。画粋に対する憧憬者であっても彼自身の独得な世界をもった画人とはいいきれない。一芸はやはり一芸にしかすぎぬ。そのようなことを感じて私はふと、人間の宿命的な孤独について考えたのであった。めずらしく降り吹きまくった暴風雨の夜のことである。    (二・三)



最終更新日 2005年05月15日 18時24分03秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「役者」

 ある人が外人客を劇場に案内した。カブキが見たいという注文だったのだそうだが、折柄そこでは「襲名披露」をやっていた。大名題の役者たちがずらりと並び「一座高うはござりますれど」と口上を述べていた。「ごひいき皆様のお力によりまして、行末永く、立派な俳優になれまするよう」と見物に頼んでいた。外人を案内した人は、この口上を詳しく反訳して伝えてやったそうだ。
 すると外人は()に落ちぬ顔をした。ワカリマセン! よい俳優になれるかなれぬかは、その人の才能と努力にょるもので、観客がどうしてやれるものではないでしょう。もしも彼がいつまでも下手であっても、上手になったように賞めてやれというのだったら、それは許されない不合理というものです。ワカリマセン、民主主義デハアリマセンネ。
 客筋、ということ、昔の役者はひどく重んじた。客があって役者がある。芸よりも人気、こう心得ていた点で昔の役者の方が処世的に徹していただろう。芸そのものにしてからが人気に投じ得たものでなければと考えていた。つまり万事は大向う受けによって決定したのである。客筋の評判というものが歌舞伎をどう動かしていたか、これを見抜かねば日本の演劇史は語れそうにもない。
 何が民主主義かの吟味(ぎんみ)は別として、もしも劇場が演劇芸術家諸君の「何を見せたいか」の意欲の場所だとしたら、外人客の述べた不審はまことにもっともなことである。しかしカブキは決してそうではない。「何を見たいか」の見物衆の要求に答えるための場所だったのが伝統である。芝居小屋の主人はだから芸術でもなければ芸術家でもない。客なのである。ゴビイキなのである。従って役者の芸は本来が見物席へのサービスなのだといいきることもできるだろう。と、ここまで説明すれば外人客も、ワカリマシタとうなずいたろう。もしかすると「襲名披露」も、存外に民主主義に通じるものがあるとなるかもしれない。
 興行ということは、このサービスを手段とした一つの商法である。できるだけ多数の見物に「何を見たいか」の人気を沸き立たせて、そこに有利な道を発見しようとする。田中絹代が帰朝の日、銀座街頭に歓迎のアドパルーンが高く上げられたというが、これは茸の生えるごとく自然に生えたものではない。歌舞伎役者が仰々しい襲名披露をすると同じものが、映画という近代企業の中にも流れているのであろう。
 が田中絹代は、遂に二十何年かの松竹との因縁を絶って、自分のやりたい仕事へ行くと声明したそうだ。「何を見せたいか」の芸術的な立場で独立しようというのかもしれぬ。だが松竹からは独立できても「何が見たいか」の見物人気にまで背を向けきることができるかどうか。人気商売ということから解脱(げだつ)できぬかぎり、役者というものは派手であればあるほどみじめなものがつき(まと)うのである。                   (二・四)



最終更新日 2005年05月17日 02時29分04秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「雲をつかむ」

 詩をつくるより田をつくれ。この説に間違いはないかもしれぬ。しかしこの世に詩人は必要なのである。詩人の仕事は、田をつくる沢山の人々に喜びを与えるべきものだ。雲をつかむよりも金をつかめ。これも真実だろう。だが金をつかもうとする人々のために、毎日の気象予報は必要である。放送局だけあっても気象台がなければその予報をやることができない。
 三十年、四十年と気象台に勤めて雲をつかみ続ける。やがて停年となる。雲をつかむ技術は衰えぬのだが規則には逆らえない。退職となる。この場合、雲をつかむ技術で世の中が渡れるか。渡れるという知恵者があったら名乗って出てもらいたい。
「出師の表」を読んで泣かぬものは男ではないと、中学時代に教えられた。そこで三度もそれを読んだことがある。結局泣ける気持にはなれなかった。しかし私は今日、元の気象台長岡田武松老博士の「ニュー・エイジ」に寄せられた一文を読んで、たちまち暗然とさせられてしまった。「老科学者の末路」というのがその題である。
 第一次欧州大戦直後、ウインの気象台から世界の気象学者へ窮状を訴えて来た。そのときの日本は、とにかく戦勝国だったから、貧乏な気象学者ながら志を集めて、何がしかの義捐をしたそうである。だが結局は気象学大家のマックス・マルグレスもハンも栄養失調で窮死しなければならなかったそうだ。第二次大戦後の日本の気象学者は、このウインの大家とおなじ運命にめぐり合っている。老学者は靴磨きもやれないし、サンドイッチマンにもなれやしない、と岡田博士は嘆いているのである。恩給というものはあるのだが、その額は大昔の賃金ベースに基づいたものだから、配給物を一度買っただけで一年分はふっ飛んでしまう。苦労して原稿を書けば税金とくる。愚痴はいいたくないが、青年の頃から一心不乱に身を科学に捧げ、社会の福利のめたに尽して来た同僚の、窮迫しきっている現状を見るに忍びないから、敢えて訴えるのだと書かれているのである。
 いわゆるお役人諸君は雲をつかむ仕事で暮らしたのではない。金をつかむ仕事とはいわぬが、他人に金をつかませる仕事だったとはいえる。だから在職中に可なり余得を蓄えた利口者もいるようだ。退職しても民間の銀行会社へ因縁がつけてあれば、結構入り込めもしたものだ。そういう場合の養老院として、各省それぞれに半官半民的な仕事場もつくって、いざとなればそこへ天降る用意もしていたものである。終戦後でもこの余映は残されているらしい。
 ノーベル賞の湯川博士を日本の栄誉と騒ぐのもいいが、雲をつかむ仕事が科学者の生活だと考えたら、老科学者に「末路」などと嘆かせることが、日本の恥辱だということも知ってほしいのである。国会には考査委員会というのもあった筈だ。こんな問題を非日的だとして取上げてくれる議員はいないものだろうか?                        (二・六)



最終更新日 2005年05月17日 13時50分28秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「子供稲荷」

 美観とまではいえぬが、ともかく国会議事堂は立派である。白亜の殿堂、何事の(おわ)しますかはしらねどもで、素朴な人たちに敬仰の念を起こさせるかもしれぬ。が中身はご承知のとおりである。容れものよりも中身というが、世間は必ずしも実質主義ではない。バカな国会と誰も嘆息しながら「大臣」とか「国会議員」とか誌した肩書の名刺を出されると、やはりホホウと恐縮したりするらしい。
 どこかの神社のご神体をあけてみたら、つまらぬ木っ端が入っていた。そこでそれを投げ出して、代りに石っころを入れたという話、福沢諭吉の少年時代の逸話というのにあったようだ。偶像排除、合理主義的傾向がその頃すでに彼にあったという感嘆を添えて聞かされたように覚えている。
 しかしこんなことは何も諭吉先生の専売ではない。子供には損得の観念がないから、どこからも特別なご利益(りやく)を得ようなどという料簡がない。ご神体を(あば)いて捨てたのは私なども少年の頃にやったことだ。二月初午、私の育った町内に子供稲荷というのがあった。祭りとなると町内の子供たちがそこに集まって行事をやる。寄付を集める。賽銭(さいせん)の上りを加えて、大人並みに酒(さかな)もととのえ、相応にやったものである。しかし最後に、大人なら決してやらぬだろうことをやった。
 それはご神体の入れ換えである。お宮の奥の奥の小さな木の扉を何重か開くとご神体が納められていた。がこれはいつも汚ならしい石ころだったものだ。それを取出して近くの溝へ投げ捨てる。代りにどこからか別なのを拾って来て入れて置く。去年はとても小っちゃなものにしたから、今年はうんと大きなものにしようや、といった調子で、大勢はしゃぎながらやったものである。
 こんな石ころ稲荷を尊敬する子供は一人もありゃしない。だからふだん子供はみんな、鳥居はおろか神殿へ小便をひっかけても平気だったものだ。ところが大人になるとそうではなかったのだ。ご神体が下らぬ石ころであるとわかっていても、赤い鳥居が立っていてこ神殿が据わっていると、やっぱりそれが稲荷だったとみえる。絵馬までかけて祈願をこめる大人があったものである。子供たちはそれを笑ったものだ。
 日本の国際情勢について、新聞記事が報道する以外のことは何も知らぬと、総理大臣兼外務大臣が洒蛙洒蛙(しやあしやあ)として答弁するような不真面目が、白亜の殿堂の中で平気で行われている。当路の首長たるものが一般のわれわれと全く同じ状態にあるというのが真実なら、ご神体がその辺に転がっている石ころだったあの子供稲荷と、ちっとも変るところがなさそうである。
                                    (二・八)



最終更新日 2005年05月18日 23時34分49秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「余計な発明」

 早春のひとときである。縁側にいて、うつらうつらする。天下泰平という文句が胸に浮ぶ。
 そよりとも風は動かず、空気はよどんだきりで動かない。動くもののない世界へ、さんさんと太陽がふりそそぐ、満ち足りた気持がする。とにかく貧乏気がどこにもない。自然は豊かである。自分が人間であることさえ忘れられたら誰も大幸福を感じるだろう。
 この動くもののない静かさのなかで、木の芽草の芽、大地一杯いたるところ一斉にそれが萠え出ようとしている動きを感じる。新世代の胎動といいたいが、しかしそれは単なる季節の循環であって、日の下に新しいものが出現することではない。自然の様相には順理の変化があるだけで無理の革命があるわけではない。
 水素爆弾というものを、順理の変化とみるわけにはいかない。自然は千古から繰返しを続けて来ているのだが、人間の歴史はそうではない。いつも日の下に新しいものを作っていくのである。今や小太陽を作ろうとしている。こういう人間を自然界の一部として考えることはできぬようだ。人間は神様の手から離れて独立しようとしている。
 眼前の風景はいま美しい。一面の太陽光を浴びて土が光り、青草が光り、小鳥の羽根が光り、屋根瓦が光り、遠くの丘の背が光り、雲が光り、空が澄んで輝いている。美しい色彩だ。もしも私が画家だったら、いそいそとしてカンバスを立てたろう。が画家ではないから懐ろ手していつまでもそれを眺めている。と「天然色映画」のことがふと浮んだ。
 天然色の映画というものをみたとき、余計なものが発明されたものだと私はおもった。強い光でスクリーンの上に投射されたその色彩は(はなは)だつよい。それは色彩というようなものではない。色光とでもいった方がいいものである。画家がどんなに強烈な色彩をカンバスの上に叩きつけても、あの光線そのものの直接的な強さには及ぶわけにいかぬだろう。
 この投射的天然色が人間の日常生活の中に、すこしも珍しくないものとして入って来る。その色光が人間の色彩感覚の常識として食い込んでしまう。その時代が来たとき、どんなカラリストをもって任ずる画家も、ぼやけた、みすばらしいものとなってしまうだろう。余計な発明と私が嘆いたのは、この画家諸君の当惑に同情したからである。
 私はまた一人保守反動かもしれぬ。天然色映画はカラリスト画家を当惑させるだけですむのだが、水素爆弾はそうではない。私はいま千古かわらぬ早春風景のおだやかさに酔いながら、恐るべき余計なものが発明されたことに、人間のウットウしさを感じているのである。人間よ、自然に帰れ。誰かがふたたびこう呶鳴(どな)りたてたらどうだろう。青い鳥は自然の中にだけいるのかもしれぬ。こんなことをうつらうつら考えていたら、どこかでその青い鳥が「自衛権」と()いたような気がした。                   (二・九)



最終更新日 2005年05月20日 00時17分04秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「井上正夫」「再び井上正夫」

井上正夫

 新派の芸は天然記念物である。後続して新しい芽が出るとはおもわれない。井上正夫が死ねば、そこに開いた大きな穴は埋めようがないのである。
 先頃、村田正雄が死んだ。新生新派から離れて、筋違いの劇団に入って仕事をしていたとき、惜しいことだと私は思った。先代村田正雄についての詳しいことは知らぬが、先代の七光りなどは全く不用な二代目村田正雄だった。ワキ役の名手だったのである。
 ワキ役がいかに名手でも座頭にはなれない。座頭になれずともいいから、時にはワキ役的人物が主人公の脚本でもできて、それで気が吐ければいいのだが、日本の劇壇はそんなシャレた芝居を出すほど上等ではない。晩年の村田正雄が、出生した新派の世界から離れてしまったことには同情できた。無くてはならぬ人として呼び戻されぬうちに死なせてしまったのは、彼としても残念だったろうが、こっちからしても残念なことだった。
 去年の新派祭、井上は新派人頭目の一人として喜多村緑郎と名を並べていた。が井上が新派で頭目扱いされたのは、歯が抜けるように新派人が消えてしまい、何とも無人になったからのことである。純粋に新派から生れた新派人でありながら、彼はいつも新派と逆らい続けていた。だから以前は新派大合同などとうたった場合にも、彼だけは傍へ取りのけられていたのである。
 彼は村田正雄のごとくワキ役者だったのではない。立派に一座を率いられる立役者だったから、大合同の枠外へ置かれても、立派に井上正夫として仕事をつづけることができた。がその仕事が、ともすれば新派の枠外へ彼自ら外れ出してしまっていたのは何故であったか。彼にも踏み迷いがあったのである。新派と新劇の間を行くといった「中間劇」の旗印などは、その大きなものだったろう。
 当時私は「中間劇」などといわずに、なぜ逆に堂々と「井上新派」というものを創らないかといったことがあった。新派から出生して新派人以外の何物でもない彼が、リアリズム演劇がどうのこうのと論じ立てる演劇青年にとりまかれて、素直に耳を傾けていたその姿は、いわゆる彼の芸術的良心であったかもしれない。しかし彼の芸質を考えたとき、極めて賢明でないものに私にはおもわれたからだった。
 終戦後新協劇団にも加わって、若い人々と仕事をした彼が、芸術員会員として天皇と会食し、その光栄に感激していたのを見て、この人もやはりこの人の落ちつくべき終点に来たのかと、しみじみ人間の老境というものを感じさぜたのだが、それだけに今後すくなくとも十年は、もはや迷わぬ新派人として、彼流に鍛えぬいた新派芸を見せてくれると、楽んで期待していたのである。寿命はまことに非情なものだ。            (二・一〇)

再び井上正夫

 築地小劇場がゴルキーの「母」を脚色して帝劇へ出し、馬鹿当りをしたときだ。井上正夫さんから「父」というものを書いてくれぬかといって来た。「母」をそのまま父に変えたものである。そんな仕事の嫌いな私だったが、そのときは素直に承知した。私はできるだけ新派調のアクドイものにして仕上げた。この芝居は浅草の常盤座で上演された。
 これが作者として井上さんと付合った最初である。演出も引受けたのだが、最初に彼がすこしもセリフを覚えぬのに呆れた。だが初日になると火の出るような強さでそのセリフをいうのに、今度はすっかり驚いた。
 だが気づいてみるとそのセリフは私が書いたとおりのものではない。私は「百姓は一束になって燃え上る火なのだ」と書いたのである。当時の風潮で、これもいわゆるプロレタリヤ演劇だったので、こんなのが「聴かせるセリフ」だったのである。ところが井上さんのやっているのを聴くと、油汗をたらして唸るように、
「百姓は火だ……燃えるのだ。一束だ。  束になって百姓は燃え上るのだ」
 とこうなるのである。しかし井上さんは私の書いたセリフに不満足だったのでこう訂正したのではない。セリフを覚えていなかった。しかし何をいうべきかを意味だけはしっかりと心得ていたのだ。その意味を伝えようとするから自然とこうなるのである。
 さらさらとセリフを軽く暗記してしまって一字一句間違えずにいうのだが、しかしその意味などには全然お構いなし、という役者がある。文句はおぼえていぬが意味だけは正しく伝えようとして油汗を流しながら努める井上流とは大変な相違である。作者にとってどっちがありがたいか、これは人々かもしれない。そのとき私は井上さんをありがたいとおもった。
 井上の芝居は中日までが面白い。中日を過ぎるとダレてくるといった人がある。さすがの井上さんも十日の余も舞台を勤めれば、ちゃんと正確にセリフをおぼえる。従ってそれまでのように油汗を流して唸ることもなくなる。結構なことのようだが、そうなるとどこか熱が消えた感じもするわけだったのである。だから理由のない評言ではなかった。
 しかし井上さんに味方していうわけではないが、セリフを完全におぼえたために気の抜けるような台本は、つまりロクでもないものだったのである。しっかりした台本だったらやはり、完全におぼえ込んだ上で底なしに打込んでいつまでも油汗をたらすことができる。井上さん自身はそのことを心得ていた。私の顔をみると、油汗をしぼってくださいよと、力の(こも)った脚本を欲しがって言ったものだった。
 そんなのに幾つめぐり合ったろうか、と井上さんはいま、しずかに指を繰っているかもしれない。果たして十本の指が折られているかどうか、真山青果以後の作家が彼を幸福にし得なかったことは事実である。                    (二・二)



最終更新日 2005年05月20日 11時01分57秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「近代ジャーナリズム」

 思考などと、大きな顔でいうことではない。ぼんやりと頭を動かしている。メタン・ガスみたいなものが頭の中にあって、おもいがけない泡が、とんでもない時に浮び出す。
 ふとして浮んだ中に、これは面白いとおもうものがある。が消えるとすぐ忘れてしまう。浮んだ途端にノートでもして置けばいいのだが、不精者だからそんなことはやらない。
 記憶力が強ければおぼえているだろうが、忘失力の方が強い。われながら情ないとおもっていたら、賢人パスカルがそうだったと伝記の中にあった。
「自分は忘れてばかりいる」と彼は嘆いている。自分の思想を書き止めておこうとすると、いつの間にかそれが逃げてしまうことが多いのだというのだ、これでみると彼のパンセも、瞬間的な思いつきだったらしい。ただその思いつきに、深い思想の脈絡があったのだろう。
私のメタン・ガスの泡粒とは大分に違うらしい。
 パスカルは私みたいに不精者ではなかった。浮んで来た思いつきを、手近にある紙片へ片端から書き止めて置いたらしい。散歩の途中に何にもないと、爪の上に誌しつけさえしたものだそうだ。もっともこれは彼の晩年である。こうしなければならなかったことを、彼は己れの「衰弱」とみたらしい。だから彼にとってそれは、ほんの下書きにしかすぎぬものだったろうが、彼は天才だったから、それを集めた彼の「パンセ」は天才の書である。思いつき集ではあっても宝石のコレクションである。
 彼の思いつきは「パンセ」ばかりではない。彼は乗合馬車まで思いついたそうだ。その頃はまだ自家用車の個人馬車よりほかなかった。彼は運輸合名会社というのをおもいついて、国王に申請した。国王は特許状を彼に与えた。大衆交通に目をつけた商売の彼は先駆者である。サン・タントワーヌの門からルクサンブールまでの路線、お一人前五スウ。大衆から歓迎されて派手に繁昌したといわれている。こんな思いつきをすぐさま実行したところ、彼もただの哲学天才ではなかったらしい。しかも病気になり、死ぬ一年前のことだそうである。
 兼好法師は、日ぐらし硯に向って、そこはかとなく浮んで来ることを片端から書き止めたと「徒然草」に書いている。私は暇さえあれば炬燵にもぐりこんでたわいもない妄想に耽っている。耽るきりで何一つ書き止めようとしない。「ブラリ」を書かねばならぬ時間が来て、止むなく机に向うのだが、炬燵の中で浮んだ愉快な面白い無責任な妄想などは、そのときもう跡形もなく消えてしまって、どうにもおもい出せない。で仕方なく政治の悪口などを無理矢理しぼり出して書くのである。パスカルにも兼好法師にも到底追いつけるわけはない。勤め気のない私である、こんなのを多分近代ジャーナリストというのだろう、気のひける話である。                                (二・一八)



最終更新日 2005年05月21日 23時30分31秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「大賛成」

 元号廃止ということ、参議院で正式に取上げたそうだが、その案に私は賛成である。日本的という地方性、できるだけ取除いて行かねばならぬ。われわれの生活を、日常的なもので次第に世界性へと近づけて行くこと、どこまでも必要だろう。
 私は明治に生れ、大正に育ち、そして昭和に生きている。だが三代の天皇に仕えたなどという意識はちっともない。しかし二十世紀の前半に生きたという感慨ならもっている。元号と西暦年号と、どちらが身近いものかはこれでわかるだろう。
 便利は因習をうち破る。元号の不便さは誰しもが感じていることだ。生活が世界的感覚の上に置かれれば置かれるほど、この不便の度は強い。すでに若い世代の人々は昭和何年といういい方をしていないだろう。来年はと試しに聞いてみたまえ。一九五一年だと多くの人は答えるに違いない。政府が廃止ときめずとも時の勢いはそれを捨ててしまって行くのである。
 メートル法というもの、もはや日本人の生活から除けない。便利が因習をうち破ったいい例である。保守的な国粋主義者が、一メートルの秋水といったのでは日本刀の感じが現せぬなどといったが、そのときでもすでに軍部ですらが、敵前何百メートルとやらざるを得なかった、何センチ砲と来ていたものである。航空兵器時代となれば、どんな頑固な将軍でも、時速何キロといわなければならなかったろう。日本主義はただ竹槍となって残っただけだったのである。
 123という数字、日本固有のものでない。しかしこの西洋数字を捨てたらもはや、家計簿一冊すら完全にするわけにはいかぬ日本人なのである。一二三という固有の数字とどちらかをとらねばならぬとしたら、当然固有だったものが捨てられる。
 こう考えて来ると、国語国字の問題である。漢字の制限、仮名つかいの改訂、いろいろと苦労を重ねてはいるが、所詮は地方的な文字である。アルファベットという世界字をなぜ採上げぬかとなる。
 水は水素と酸素から成立つ、と中学生は教えられている。が、その初学年の教科書でみると「すいそ」「さんそ」と書かれている。高学年になれば水素酸素なのだろうが、その漢字をおぼえたところで、H2Oという表現は理解できぬだろう。もしもアルファベットを国字にしていたら「すいそ」などという国語は消え、最初からハイドロジェンという世界名で教えられているだろう。とすればHが何であるかはすぐさま理解できる筈である。
 元号廃止がただ元号廃止だけに終ったのではつまらない。日本人の生活の世界性への方向、その一歩であるとしたい。だったら私はいよいよ大賛成である。      (二・二一)



最終更新日 2005年05月22日 18時02分22秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「魔法の現実」

 魔法つかいの力を信じない男があった。彼のところへ魔法つかいがやって来た。男は彼を軽蔑して、お茶だけ飲んで帰りたまえといった。
 細君がお茶を沸かす間、男はふと思い立って裏の畑へ出た。すると美人に会った。あんまり美人だったので跡をつけた。山の麓に美人の家があって、結局彼はその家へ入り込んで割ない仲となってしまった。こうなると魔法つかいどころか、我家のことさえどうでもよくなって、その家に泊り込んだ。その挙句夫婦になってしまった。子供ができた。
 ―とうとう三人になってしまった。  と笑っているうちにまた一人できた。
 ー四人になってしまった。もう帰れやしない。
 こうしていつか六年経った。するとある日のことだ。父親の彼が山で鹿を射止めて戻って来ると、母親の美人は別な山からタキギを背負って来た。丁度そのとき下の子が海へ落ちた。上の子がそれを助けようとして飛び込んだ。それをみて母親が狂気のようになって、タキギを背負ったまま続いて飛び込んだ。その結果三人とも死んでしまった。鹿を負った父親だけが残された。
 男ははかない気持になって、折角の鹿を捨てて、ひとりとぽとぽ歩き出した。何気なく歩いていたら見覚えのある道へ出た。昔住んでいた包(パオ)のあるあたりである。六年前のことを彼はおもい出した。この話は蒙古の伝説だそうである。
 いつか家出した自分の包の前へ出ていた。家出した時と同じに馬がつないであった。おやとおもってぼんやり突っ立っていると、包の口から女房が顔を出して、
 1早くしないとお茶がさめてしまいますよ。
 つまり彼はまんまと魔法つかいの手にかかって、お茶の沸く間に六年間の生活をして来たわけなのである。日本にも一炊の夢というような話がある。もっともこの話の根本は中国にあるのだろう。
 魔法つかいというものの実在は知らぬが、キリスト教の言葉や文化は、いわゆるキリシタン・バテレンとして魔法つかい扱いにされたものだ。今の世ではマルクシズムが異端視されている。唯物弁証法を魔法の術として信用せぬ人があったりする。
 世界情勢の変化するスピード、最近は驚くべきものがある。コーヒーを一杯飲む間に、十年の変化を見せることは決して珍しくない。魔法つかいの話の中の夢は、どこまでも夢だったのかもしれぬが、現代の変化はまざまざ現実なのである。しかし現代魔法を信じない人には、それがやっぱり夢のようにもおもえるのかもしれない。日本の政治家たちは平気で安閑とお茶を飲んでうつらうつらしているようだ。             (二・二二)



最終更新日 2005年05月24日 00時38分42秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「回想」

 ラジオを聴いていたら、「ゴショクの酒」という言葉が出て来た。何のことかわからない。そのうちに「ああ五色の酒か」と納得させられた。「ゴシキの酒」といってくれぬことには無理である。
 とんだゴショクと洒落たいが、ラジオに誤植はある筈がない。とおもった途端、待てよと気づいた。放送用語というもの、慣例に逆らったものが大分ある。ゴショクもその語法に従ったものかもしれぬ。うっかり笑って笑われてはと警戒した。もっともこの「ゴショクの酒」は演芸の時間で、出演者のいったことだから、どっちにしてもNHKに責任はない。
「五色の酒」というもの、私は中学生のときに味わった。おもえばませた中学生だったものだ。田舎から出て来て、それを飲むためわざわざ銀座まで行ったのである。その頃の銀座には今のようにカッフェは多くない。ライオンとプランタンと、その外にはウーロン喫茶店というのがあった位のものだ(、た。当時あった新しい女、ブルーストッキングを気取って「青鞜社」というのを結んでいた連中、それが女だてらに五色の酒を飲むということ、当時の新聞などに書かれ、尖端を行くものとして評判だった。五色の酒というものもそれで有名になったのである。小さなリキユールグラスに、色の違ったリキュールを五種、比重にしたがった順序でしずかに注ぐ。比重が違うから、混合せずに段々と重なり合って、透かしてみれば縞模様となる。ただそれだけの話だ。たわいもないことだったのだが、当時はそれが極めて新鮮な、そしてエキゾチックな喜びだったのである。
 当時の詩人文士たちが好んで愛用するものと聞いて、田舎の文学中学生であった私は、胸をおどらせながらそれを味わったものだ。これはキュラソウ、これはべパミント、その一つ一つを西洋の詩をむさぼる気持で舌にのせた。たわいもなかった過去のおもい出である。その後はもうどこの酒場でも、あんなものを喜ぶ手合はなくなった。キュラソウもペパミントも一緒くたにカクテルにされてしまったのである。こうなると五色も、ゴシキではなくて、ゴショクという方が正しいかもしれない。
 さてこの話を私は、遊びに来た青年に笑いながら話した。すると青年はひどく暗澹たる顔をして、
 1ああ、まるで夢みたいな時代があったんですなあ。
 なぜ彼がこんな言葉を発したのか、私にはわかることではない。そこでその意味をたずねると、彼はいよいよ悲しげに、
 1今のわれわれにとっては、アルコールでありさえすれば酒なんですよ。ゴシキにもゴショクにも、酒といえばただ一色だけみたいなもんですよ!
 私たち年代の青春は、やっぱり幸福だったようである。"        (二・二四)



最終更新日 2005年05月25日 09時22分38秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「パスカルの父親」

 税、と聞いただけで誰も渋い顔をする。だから税務官吏は誰にもよろこばれない。全くイヤな役目でと、その一人が心底からこぼしていた。学生時代数学が好きで、計算することなどすこしも面倒におもわなかったので、つい大蔵省へ就職を志望した。願いが叶ったとおもったら税務署勤務にされたのだという。取られる方も辛いだろうが、その辛さのわかっているものを、みすみす取立てねばならぬ苦しさを察してほしいと、彼は泣かぬばかりの顔でいった。
 君はパスカルを知ってるか、と私は彼に聞いた。あの天才のパスカルですかというから、そうだと答えると、それなら知ってますといった。あのパスカルが計算器の発明をしたことを知っているかと重ねてきくと、話だけ聞きましたといった。そこで、なぜ彼が計算器など発明する気になったか知ってるかと、さらに追いかけて聞くと、知りませんと変な顔をした。
 父親が税務官吏だったからさ、と私は彼の変な顔に笑いかけてやった。彼を慰めてやりたいとおもったからである。孝子パスカルは、父親が税金の面倒な計算で毎日苦しんでいるのをみて、ちっとでもそれを楽にしてやりたいとおもい立ったのだそうである。つまりパスカルをしてそんなことをおもい立たせるほど、税金の計算というものは、昔も今も、フランス、日本の区別なく面倒なものだろうというと、全くそうですと、やっと彼はこわぽった顔をほぐした。
 パスカルの父親は、税務官吏といっても相当な上役だったらしい。上流の生活をしていて、大コルネイユなどとも交遊があったというのだが、まさかコルネイユは所得の税額を安くして貰うために彼と往来したわけでもあるまい。少年の頃のパスカルに対する教育は、学校の力をかりずにこの父親の手一つでやれたものだというところをみると、十分の教養をもった文化人だったらしくおもわれる。だからもしかすると、この税務官吏なしには現れ得なかったパスカルの天才だった、と言うことさえできるかもしれぬ。と話がここまでくると、その若い税務官吏は晴々しい眼色をみせた。
 だが税務官吏はやっぽりどこまでも税務官吏だった。大コルネイユなどと物わかりのいい付合をしながら、一方では冷酷に人民から税金をとり上げた。その頃も税金は「人民泣かせ」の高額なものだったそうである。が数学の天才の父親だったこの税務官吏は、数学のようにきびしく容赦なく、法の命ずるままを行った。しまいには内乱的な暴動まで起ったそうである。しかし一歩も仮借しない!
 話がここまで来たら、かわいそうに! 私の知合いの若い税務官吏は、大急ぎで手を振ってもう止して下さいといったのである。パスカルのような聡明な子供をもつよりも、税務官吏でなくいられた方がずっと幸福だ。彼のこの気持は、税を取立てられている人にもわかるだろう。                             (二五・三・一)



最終更新日 2005年05月26日 00時09分41秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「日和所」

 町の若い衆が三人ほど、いそいそ顔に連れ立って停車場の方へ歩いて来た。何処へと声をかけると、社会奉仕に行くんでさあと笑った。何のことらやわからずいると、競輪があるんですよと註釈された。競輪というもの、スポーツなのか、バクチなのか、ことさら社会奉仕という大看板をかけ、主催者の収益は全部公共的なものにつかいますとうたっている。そううたわねば気がすまぬ何かが何処かにあるのだろう。
 ある町、競輪場ができたので、お蔭をうるおえると商家が喜んだ。ところが意外な結果が現れた。一千万円の収益が主催者であるその町の懐うに流れ込んだときは、その中の六百万円は町の者の金だというのである。肉や魚や茶や反物や雑貨や、それらの店へ流れる筈のものがみんな車券に化ける。だから競輪が始まると、途端に商売の方はさっぱり止まって、その後一週間ぐらいは元へ戻らない。弱ったものだと、今になって恨んでいるのだが、どうにもならぬらしい。かとおもうと、それが始まって以来、町の不良で怠け者で始末にいけなかったのが、急に働き出したということもあるそうだ。取られたのを取返すといっても、まず資本を才覚しなくてはなるまい。今まで小さなタカリぐらいでは追つかないとなると、大それたことをやる手合も出来るかもしれぬが、それほどの悪党ではないからには、やっぱり地道にかせぎ出せともなるのだろう。ともかくあの男が工場へ通い出したから妙だなどという噂、世はさまざまの一つでもある。
 バクチといって排斥するが、この世にバクチがなかったら、金銀銅鉄錫鉛、地の底から出て来るそれらのものは一切消えてなくなるであろう。と佐藤信淵は家法の坑山経営術の中で述べている。賭ける。取られる。また賭けるために働く。天日に背いて地底の暗い中を匍い歩く坑山労務などというものは、バクチの興味にでも引きずられるのでなければ誰がやるものか、だからわが家経営の坑山を繁盛させるためには、大いに「日和所」を設けよというのである。
 日和所、「ひやりじょ」と読む。バクチ場のことだが、待てば海路の日和、その開運の日和を待つという意味らしい。日和見主義ということは当世方々にあるらしいが、現在では誰もがその見当に苦しんでいる。世相の好日和、いくら待っても当分は来そうにもないとなると、やっぱりバクチでもやって、人為的な日和を楽しむより外はないとなるかもしれぬ。とそう考えると、競輪場に人気が集まるのも自然だといえそうである。ねらった大穴が当れば、それが大日和というものだろう。
 信淵が「日和所」の必要を説いたのは、坑山の場合なればこそであったが、今の政府が競輪を許したのは何故だったのだろうか。バクチの興味にでもかまけていなければ、というところまで人心の機微を見抜いたというわけか。三人の若い衆の後ろ姿を見送ったあと、私はしみじみ深い嘆息をせずにはいられなかった。             (三・二)



最終更新日 2005年05月27日 23時50分31秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「水爆コンクール」

 青い鳥はどこにいるのか。存外奇妙なところに隠れているのかもしれない。その見当を私はみつけてみたいのである。
 スターリン大元帥から私の許へ招請状が来た。水素爆弾の公開実験をするから来いというのである。もちろんこれはある夜のたわいもない夢に過ぎない。しかしその夢の覚めたあとで、これは青い鳥だとおもった。
 水素爆弾は世界の恐怖となっている。この恐怖の種はアメリカで製造されているというし、ソ連でもそうだという。しかし双方とも絶対の秘密にされている。私たちが聞くのは双方の掛声だけにしかすぎない。わけてもソ連の方が秘密なのだが、実際にこれを公開して見せたらどんな結果になるだろうか。ヒロシマ爆弾の千倍と伝えられているが、十倍でも沢山である。ピカと光りドンと鳴った瞬間に、戦争というような言葉では、もはや間に合わぬ事態が現実になる。もし双方がそれをやり合うことになれば、双方とも地球が消えるだろう。
 戦争以上のものに対する恐怖が当然誰の胸にも湧くのである。勝つとか負けるとかを越えて人々は、喧嘩の愚を反省せずにはいられぬだろう。夢の中のスターリンがその恐ろしい武器の公開実験をおもいついたのは非常に賢明なことである。実験の結果は、当然、それをもっている別な国、アメリカを反省させずにはおかぬだろう。
 アメリカも持っている。かりにスターリン式のよりずっと進んでいるにしろ、その優劣は問題ではあるまい。うち込まれる危険は感じなければならぬ。その場合の結果が致命的だとあればそれで万事は決定するのである。優劣の問題はいつも致命的以前のもので、すでに致命的となればそれ以上のことは競争にする筈がない。
 私はふと国連を考えた。国連が主催してこの際に、水素爆弾のコンクールを開催する案である。アメリカも出品して、ゴビの沙漠かどこかで一緒に実験し合ってみるとおもしろい。コンクールという限り審査員が問題だというかもしれぬが、結果はおそらく優劣をきめる必要のないものになるだろう。誰もがこの兵器の、人類に対する償うべからざる災害に気づくからである。おそらくは爆弾の製造責任者ですらが身ぶるいしてしまうだろう。
 つまり世界平和の青い鳥は、このコンクールの物すごい景観の中から、羽音高く飛び出すかもしれぬというのが私の夢なのである。共産主義を守るとか資本主義を守るとかいうが、本当に守らねばならぬものは人類の幸福である。人類の幸福を破壊するものが現れたとすれば、それはどちらの主義者にとっても敵だろう。一致し難いとおもわれている二つのものが、このときはじめて一致することができる。飛び立った青い鳥は、かつて人類の耳にしたことのない妙音で囀り立てるかもしれない。                 (三・四)



最終更新日 2005年05月27日 23時52分05秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「武装」

 知合いの警官が官服でやって来た。例のピストル袋を下げているので、何よりも先に、それは大丈夫かねときいた。大丈夫のつもりですと警官はすこし当惑顔で答えた。つもりとは甚だ自信のない言い方である。
 ほかの品物と違うので、身につけていると、それが意識から離れない。とにかく平気ではいられない。相手の民衆と対等ではないのである。自治警察になって以来、民主主義の公僕たれなどと訓示されていたのだが、公僕たるものが武装しているのはどうしてもわからない。何としても割り切れぬ気持だというのである。さもあろうと私は同情した。こちらからいっても、相手が危険な飛道具などもっているからには、どうしたって特別扱いしたくなる。隣人的感情などというなごやかな気持になれるものではない。
 相互のこういう心理は、否応なしに対立的関係を引きおこす。自治警察の精神とはまるで違ったものに、警察が変質してしまったことになる。武装を持つ持たぬという相違は大したことだ。私は彼と対坐しながら国家の武装について考えた。
 日本に再武装を許したらという案を言う一部があるそうである。無論自衛という範囲内での武装だろうが、警官の武装も建前は職務柄自衛のためだというにちがいない。だが武装をもたぬ平和な市民の受ける感じは、それをつきつけられそうな不安である。物騒という気持のわくのはおさえられない。
 こんなものを渡さぬ以前の方が、どんなにかノンビリしてよかったかしれやしないと、その警察官はいった。正直な感懐のようである。現在の日本は武装を放棄していればこそゆったりとした呼吸がつけているのだと考える。捨つべきものは弓矢なりけり、捨ててみてはじめて平和な境涯の気楽さがわかったといえる。
 武装を捨てているのは許された許されぬの問題ではない。強制された武装解除ではなくて、自発的な武装放棄である。よしんばどこからか許すといわれても再武装などすべきではない。私の眼前の警官は、上司からの命令で止むなく物騒な袋を下げているのであろう。上司はどんな理由で下僚にそんな命令をしたのか、国会で誰がそれにつき質問したか、政府がどうそれに答えたか、そんなことは一切われわれにはわからぬのだが、私の眼前の警官が当惑していることは事実である。このような当惑をわれわれは絶対にしたくはない。
 ところが仲間にはこれを持たされたことを喜んでいる奴もありましてね、とその警官はいった。そんな連中は、持つからには射ってみたいものだと心を弾ませたりするのだそうである。春日の閑庭、長閑な日射しが急に暗くなったような気がした。厭な話は聞きたくない。私は急いで話題を転じた。」                      (三・六)



最終更新日 2005年05月31日 01時36分50秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「異常神経」

 他人と合議のできない性格がある。自分の考えがいつも最高最上だという自信から来るのではなく、他人に掣肘されることは厭でたまらんというのである。ワン・マン的というのは彼一人が人間だという意味ではない。
 池田大臣もその性癖があるのだろう。ドッジ氏や吉田首相となら合議できるのだが、その他の連中とは孤立していたい。用もない輩からは何もいって貰いたくない。この気持が傲慢とか不遜とかいう形をとる。
 画家セザンヌは他人に触られることが極度に嫌いだったそうだ。エミール・ベルナールが、「追憶」の中で書いている。ある日二人はサン・ヴィクトワールの写生に出かけたのだ。滑り易い崖を登りかけて、老セザンヌが一寸足を踏み外した。驚いてベルナールが手を出して支えかけると、セザンヌは真赤になって怒った。「誰にだって触らせやしない! 誰にだってそんな、勝手な真似はさせやしない!」こういう場合は例のマダム・ブレモンとの間にもあったらしい。マダムでさえがセザンヌの傍を通るときはスカートの端にさえ気を配らねばならなかったのだそうだ。このことでは親友のガスケエとさえ喧嘩したことがある。
 これは一種の異常神経だろう。セザンヌ自身の告白によれば、「あるとき階段を下りていたら、手スリ滑りをしていた子供が彼の傍を滑り過ぎようとして彼を突き飛ばしてしまった。それで彼は危くその階段から転げ落ちそうになった。そのときのショックが強かったからだ」というのだ、しかし理由は決してこれだけではなかったろう。彼は何事によらず他人に影響されることがたまらなかったのである。その気持の特別な現れだとみることができる。
 つよく自分を肯定することは、同時にはげしく他人への否定になる。セザンヌほどの画家になれば、自分の傾向と違う画家たちはすべて敵だったろう、「毎日一万人の画家を死刑にすべきだ」と彼はある日放言したそうだ。これはいかにも彼らしい。彼を理解する人なら、微笑してこの放言にうなずくだろう。
 政治家に比べて芸術家は、無責任な放言の自由をもっている。もしも今日の首相が仮りに、「日に十人の共産党員を死刑にすべきだ」などと放言したらどうだろうか? 彼を理解する人とてもその乱暴を攻撃するに違いない。現に池田大臣の暴言ははげしい政治的反響を呼んでいる。
 この相違は、芸術家が社会的には何ももっていないからだろう。政治家はとにかく手に刃物を握っているのである。パレットやブラッシュはどう振りまわしても危険はないが、刃物となるとそうではない。ワン・マン的特異質は、セザンヌの場合愛嬌であるが、政治家の場合はどうであろう。政治に異常神経は禁物である。、           (三・七)



最終更新日 2005年05月31日 01時39分42秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「春風駘蕩」

 国の宰相と代表的文人諸君とが「政治と文学」について会談した。そう聞けば誰だってその内容を知りたくおもう。時節がらだし、内容のない漫談に終る筈もない。
 だがその速記を「改造」で読んだ人が、全く呆れましたといいにやって来た。不平を私にぶつけられても仕方がない。仕方がないから私は、日本というのがそんな国なんでしょうなと、答えておいた。
 日本の文人と、たとえばフランスの文人と、比べてみると大分違うようである。イギリスでもロシヤでもやはり大きに違うであろう。日本の文人は風流の伝統の上に生きている。風流は野暮な政治などどうでもいいというらしい。西園寺時代の雨聲會的なものは、多分すこしも変りなく今でも残っているのである。
 この風流は日本的エチケットだといえるかもしれない。柳はみどりで花は紅、政治と文学は相和する如くして各々その処を異にしている。だからたまたま絡み合うべき問題に触れても、宰相が一人ご機嫌にアハハハと笑えば、それで春風駘蕩、何事もなく済んでしまうのである。もっとも速記というものは、決してその場の空気まで止確に写すものではない。噛み合ってみても仕方がないと諦めて、ことさら他を顧みての話などした場合の、他の顧みたニュアンスなどは出て来るものではない。そう考えるとこの座談会の春風駘蕩も、実は底の底に呉越の対立があったのかもしれぬと思うのだが、その説を述べたらある人に、それは君がいささか文人だから、文人びいきの買い冠りだと笑われてしまった。
 日本の文人には、政治家よりも布衣自分たちの方がエライんだから、何もそんな連中と座談会をやる必要がないと考えているのがある。しかしそれは独善というものだと、出席文人の一人がことさら述べているところをみれば、なるほどこれがマトモな会談だということになるかもしれぬ。だとするとこれがこの人たちの、マトモな「政治と文学」になるわけか。私はわざわざ憤慨をいいに来た知人の気持に同感しなければならなかった。しかしそれは私にとってやっぱり苦痛である。もしもこの速記から受けるとおりのものが、日本文人の正体だとしたら、ノーベル賞への推薦をといって来られても、マトモな返事は出せそうもないことになる。政治家と文人の会談が不必要などというのは、まったく独善的なことかもしれぬが、折角マトモな話題に触れても、政治家側のアッハハハ一つでその行方がわからなくなるようなことだったら、やっぽり必要とはいわれそうもない。私が感心したのはこの席での吉田宰相の政治家ぶりだった。国語国字というような問題でさえ、アッハハハで風流化してしまっているのである。国会では随分下手な宰相ぶりだが、こNでは水際立った腕前を見せている。宰相は多分、国会がこの程度に甘かったらとおもったことだろう。   (三・八)



最終更新日 2005年05月31日 01時43分19秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「幕間」

 招待されて、三越劇場文字座初日の客となった。その日は一般の客が極めて少なく、ほとんど招待客だったようにおもわれたが、文壇、画壇の人が多かった。だから幕間の廊下には格別の気分が流れていた。
 この気分が私に四十年の昔をおもい出させた。私がまだ中学生だった頃のことである。今のピカデリー劇場のあたりにあった昔の有楽座で、上山草人主宰の近代劇協会が「ヘッダ」を上演した。イプセン劇だというあこがれで、私は田舎から上京して見物した。私がはじめて観た「新劇」である。今も眼に残っているのは、この時の舞台よりも廊下である。幕間にそこを歩くと、当時の文壇、画壇のお歴々が、うようよ集まってあちこちかたまっては話し合っていた。あああれは相馬御風、あれは片上天弦、あれは吉江孤雁、こっちは和田英作、南薫造。田舎の中学生は、たただきょときょと見廻してばかりいた。
 あの頃の新劇は演劇上の運動だけだったのではなく、文学にも美術にもつながる文化一般の運動だったのである。だから新芸術に関心をもつすぺての人が、こぞってそれを迎えていた。明治から大正の何年かは、新劇運動ではなく、新芸術運動の中の一部門としての新劇だったという方が本当かもしれぬ。それが昭和になっては演劇の世界だけでの運動になった。
 その新劇も今日ではない。三日間とか五日間とかの試演ではなく、ともかくも二十日以上もの公演をするようになれば、立派に一つの存在となり果たしたわけである。これはまことに結構なことだが、しかし新劇というものの魅力は、やはり新劇という名にふさわしい清爽な、革新的なものの中にあるとおもえる。ところでこの清新味は未熟な、つまり運動時代の方が余計もっているものだ。四十年前の「ヘッダ」を今さらおもい起すのは、あの時代の清新味に対する追懐である。
 さて文学座の初日、芸術人諸君の多くが集まっていたのをみて、ふと私は幕間の空想をした。当夜見ていた人の顔ぶれからいうのだが、たとえば第一幕が終ると、客席から小林秀雄君が舞台の幕前に立って、演出に対する疑問を述べるのである。すると高見順君がそれに答えるのである。若い三島由紀夫君も飛び出す方がいい。そのうちに道具が出来上がる。第二幕が開く。次の幕間には画家の佐藤敬君が寸言を述べる。作者の感想をたたけとなって福田君が引っぱり出される。そのまた次の幕間には内村直也君だの小山祐士君だの劇作の諸君が意見をいう。といったようなことが、こだわりなく、全く淡泊に、親和的空気の中で行われたら、いかに若々しい新世代的なものになるかと、夢のように考えてみたのである。
 夢のようにといったが、いま一歩で日本人もこれができそうにおもえる。これができる日本になったら、批評家と作家のミゾなどというつまらんものはなくなるだろう。批評は決し悪口ではないということ、これのわかる日本に早くなりたい。ならなければならぬ。(三・九)



最終更新日 2005年06月02日 18時23分30秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「一九〇五年」

 今日は三月十日である。だが三月十日は何であったか、忘れてしまった人が多かろう「陸軍記念日」だったなどということは、おもい出してみても仕方ない。健忘とは、忘却が健康の母なりということにちがいない。私はよろこんで国民の健康を賀するものである。
 ロシヤというのは大した国だった。十八、九両世紀の間に、外国と兵を交えたこと実に三十二回。二百年間の三分の一の七十年ばかりが無戦争の時で、百三十年は殺し合いをしていたというのである。日露戦争は一九〇四、五年だったから、右の勘定の中には入っていない。
 考えるとしかし、日本という国もほぼ似たような大した歴史をもっている。私の生きて来た半世紀は、日清、口露、北清事変、第一次世界大戦、満洲事変、日華事変、それから大東亜戦争である。総計何年になるかはそっちで数えていただきたい。
 誰にとっても戦争は恐怖のはずなのだが、人間には、仲間に対する面目というものがある。まず恐怖と戦って、それを克服するところから勇気が生れ、次にはその勇気のあることを人に誇示する段階に入る。このコンクールのために勲章という効果ある方法が発見された「祖国の名誉よりも勲章を欲した」といわれることは必ずしも不当ではない。自然な人間心理の真相である。
 日本では天皇の名によって授与されたものだが、ロシヤではそうではなかったらしい。各軍司令官にそれを授与する権能があった。総司令官からなら、まだ一本化できて公平も保てたろうが、各軍司令官の自由裁量となると、そうはいかない。総司令官クロバトキンの「回想録」をみると、その愚痴が誌してある。
 グリツベンベルグ大将という一司令官などは全く総花主義で、砲兵一個中隊ごとに三十個の勲章を出せなどという命令を下したそうだ。しかもその一個中隊で戦闘に加わったものは七十名、しまいには誰もが名誉の十字章をぶら下げていたというのだ。これでは勲章のありがた味はない。それをみてクロバトキンがその中隊長に皮肉をいうと、いや今後の戦闘のとき、勲章だけの武功を樹てさせますと答えたそうだ。先付小切手みたいなものである。
 勲章に対する欲望がうすれると、最初の恐怖心が戻って来る。人間本来のところへ精神が立戻れば、人はもう戦おうとしない。奉天大会戦でロシヤ軍は敗退したのは、勲章インフレの結果だったかもしれぬ。総司令官の「回想録」は、連隊長までが友軍の危険を見捨ててさっさと後方に逃げたと憤慨して書いている。それに反して日本軍では、友軍を援護しなかったというだけで、連隊長が銃殺されたと誌しているのだが、事実そんなこともあったのかもしれない。三月十日、おもい出すなら、こんなぼかばかしい事実の方が却って有意義のようである。                             (三・一〇)



最終更新日 2005年06月02日 18時32分51秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「アスト」

 鳴物入りで開通宣伝をやった「伊豆湘南電車」がひどく評判がわるい。事故続出だからである。生命の危険を考えると、幾分でも大事をとる人はよりつかない。折角のが、がら空きとなり、おかげで今までの列車の方が混雑するそうである。迷惑な話だと沿線の人はこぼしている。
 開通試運転に私も便乗すると新聞の地方版に出ていたので、会う人ごとにアレは大丈夫なのですかときかれる。しかし私は招待されなかったのだから、便乗などするはずもない。公社の方では、私のような天の邪久は、何をどういうかもしれぬと警戒したのだろう。
 徳川夢声君はあの平和号展望車の試乗に招待されたとき、マイクの前で、霊柩車みたいですなと喋ったというので、今度の試運転には招かれなかったそうだ。
 招待されなかったので私は気楽である。断れば角が立つし、といって乗り込めばきっと「伊豆湘南電車と聞いていつ遭難電車とはこれいかに」ぐらいはやってしまったかもしれない。実はその正式試運転の二、三日前、うちわの試運転のとき車体から火を出して、あたら処女車が二、三両丸焼けになったという大事故があったのである。
 一昨日は開通以来第七号目の事故を出したという記事。ある新聞が「ソウナン電車」としていた。私の胸中に浮んだ語呂合せは、私ばかりではなく誰の胸にも浮んだのである。現在では沿線悉くの人が湘南電車とは呼んでいない。もしも開通式の日にのこのこ行ってうっかり喋っていたら、万事は僕のセイだとされてしまったかもしれぬ。このことは、世論というものは決して誰かの陰謀や策略で生まれるものではないことを証拠立てるだろう。
 あの電車の塗装の色調、何んともいえず不快である。品川の車庫にあるのを見た時から感じたのだが、これも私は一度も誰にも話したことはない。しかし、あの色の不評判は圧倒的に世論である。みかん、オレンジの実る南の方へ通うのだから、その実と葉の色とをとったというのだそうだが、中華料理の看板みたいだという、オイナリさんのお祭りみたいだという、いやあれはどうしても炎の色だという。「南京電車」とか「コンコン電車」とか、さらには「発火電車」などと不吉な名をつけているのもある。公社は各種さまざまなこの名前を集めてみるといい。
 ここまで失敗したら、根本から出直すのが一等賢明だろう。二往復か減らしたが、そんなコーヤク手当でなく、一切を白紙に返し、名前から改めてかかり、塗り色もすっかり別なものにするのである。でないとどう車体の再検査をしても、依然「いつ遭難」という客の不安は消えそうもない。こんな場合のオモイキリのよさというもの、公社となったらやれそうなものだ。この問題は一つのテストである。   (三・二)



最終更新日 2005年06月03日 09時35分17秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「神経衰弱」

 湯川さんが神経衰弱で入院しているというニュース、何か傷ましいものを感じさせる。原因も症状も報ぜられていないが、一日も早い快癒を祈らずにはいられない。
 現在の原子物理学者というもの、ちょっと神経質だったら堪えきれぬかもしれない。現在の世界事情だと、自分の科学的誠実が戦争に役立つ結果となり易いのである。老アインシュタインが超国家世界政府の必要を訴えずにはいられぬ気持、わかりすぎるほどにわかる。
 日本では八木博士が、水素爆弾の性能効果が人類を破滅させるものではない、などと演説している。この博士からそれを聞くと、だから戦争が始まっても大したことにはならないという風に聞える。とんでもない話だ。われわれが戦争を憎んでいるのは利害関係ではない。
 原子科学の研究を戦争から絶滅させる工夫がついていないこと、良心的な科学者たちにとっての大問題だろう。しかし、この問題の解決は国際政治である。科学者の力の及び得るところではない。
 政治は神様を支配することさえもできるという人がある。人間の支配は何でもない。科学者はどんな天才でも神様ではない。もしも政治が戦争に対して準備している場合、どうにもならぬところへ彼は置かれる。彼に許された道はこの際、政治に対する反抗以外にはないだろう。アインシュタインの訴えはこの反抗である。この反抗に味方することは、科学者でなくともできる。われわれは科学者たちが、科学を超国家世界的の存在たらしめたいと悲願していることを理解し、支持しなければなるまい。湯川さんの神経衰弱を快癒させる力は、その専門の医者よりも、存外われわれの手中にあるのかもしれぬ。
 湯川さんがノーベル賞をもらったとき私は空想した。日本の政府が慶賀の電報の中で一言、「貴下の輝かしい業績が忌まわしい人類破滅に役立つことなからんを、ことに武装放棄のわが日本は切望している」とつけ加えることであった。吉田首相が各党の代表者を集めて懇談し、この文意を国会満場一致で賛成することを求め、わが国の真底からの悲願として打電したら、それに対して全世界が粛然と注目したら、日本としては大きな対外ゼスチュアであった。未講和の敗戦国にだって外交がないわけではない。
 それにしても湯川さんだから、神経衰弱にもかかったのではないかという気がする。国内の政治家からはその患者が一人も出ない。神経が頑丈だからというのなら結構だが、不感症ののんきさからだったら頼りない。もっともこれは日本ばかりではないかもしれぬ。世界の政治家、誰も彼も神経衰弱傾向を見せていない。しかし世界民衆の中にはうじょうじょ居そうである。民衆の方が良心的なのかもしれない。             (三・一三)



最終更新日 2005年06月04日 09時46分52秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「不用意」

 重光さんも釈放されるそうですな、といかにも朗報のように話題にする人がある。重光家の人々にとっては、待ちに待った主人の帰宅だから朗報に違いない。胸いっぱいの喜びで迎えるのは当然である。他人の喜びを淡泊に喜んであげるのは隣人の義務だ。しかしそれ以上に何か社会的な朗報ででもあるかのように表情するのはどうかとおもう。見て見ぬふりということがあるが、この際重光家と無縁の人だったら、それがエチケットではあるまいか。かりにも戦犯者が、しかも仮釈放なのである。それなのにやあご苦労さんでしたとか、おめでとうとかいいかねぬ態度はどうかとおもうのである。引揚者とは違うと考えるべきだろう。
 英国側の講和条件として伝えられたもの、意外に厳しかったので変な顔をしている日本人が多い。人道的加害者として裁かれつつある日本だということを忘れているのだともいえる。あれほどの戦争が単なる想い出となってしまうにはまだまだ日が浅すぎるだろう。被害者の痛手が回復していないことを日本人は知るべきである。いまだに日本が責められていることは決して不当ではない。
 近頃の日本世相のあり方、戦争の後始末までが一切済んでしまったかのように思い上がっている点がないわけでもない。それが一切済んで新生日本になりかけたというのならそれでも結構といえるが、旧日本への復元的なものが感じられる。今の調子で行くと、巣鴨から仮釈放者が日の丸の旗で迎えられて、何はともあれまず皇居前へいって三拝してから家へ帰るとさえもなりそうだ。そうなっても誰も怪しまぬ日本となったらどうなるか。
 世界の眼は日本を見ている。旧日本の復活は世界の疑惑の的である。この疑惑を深めるようなことをわれわれはいささかもしてはなるまい。戦犯者の仮釈放に対するわれわれの態度など、その点で極めて注意深くあらねばならぬ。深い自省が必要であろう。
 いまの日本が直接課せられている国際的義務は、ポツダム宣言の完全履行だが、新憲法の日本が発足した目的はあの宣言以上に、人類最高の完全平和にあるべき筈だ。戦争の勝敗を越えてのものが大きな方向をわれわれに与えている筈である。その方向への坐り直し、立ち直り、歩き出し、政治も文化もすべてがここに神聖な、そして生き甲斐のある、しかも権威的な義務を見出さねばなるまい。
 仮釈放の恩典はもとより感謝すべきだが、問題はその仮釈放を受けた人たちが、いかに転生しているかということである。見事な転生をなし遂げ、十分に新日本の歩むべき道程を歩み得る人となっていると見届け得たときはじめて、心からの彼の肩を叩くことができるのである。そのときはじめて朗報であろう。そそっかしい人情だけで、不用意に振舞うわけにはいかない。この不用意ということ、どうもまだわが国民性であるらしい。  (三・一四)



最終更新日 2005年06月04日 23時58分54秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「記録ロマンス」

 元は柳橋名妓の一人で、後には映画の人気俳優の愛人となった。名をいえばあれかとうなずく人が多いだろうが、今はしばらく秘して置きたい。その彼女が催眠薬を相当量服んで死んだ。死後の始末について書き残したようなものもあったので、自殺ではないかといわれている。
 鵜の目鷹の目の新聞記者にも、ぬかりというものはあるとみえる。夕刊競争の始まった頃の出来事だったから優に写真入りの大記事になったろう。派手な、そして変化のあった彼女の生涯だった。記事にされた方が派手な始末としてふさわしかったかもしれぬ。しかしそうではなく埋もれた記事になったことが、かえって哀愁を誘う詩味をもったとも考えられる。
 典型的な芸者だった。この彼女が縁あって後年にある中国青年の世話をした。彼女の方が二十歳も上である。この距離は親子に等しい。青年は彼女をママとして慕った。彼女もわが子のごとくに身辺の面倒を見た。この青年は戦争前に日本へ留学し、一高を経て東大へ入り、優秀な成績で卒業した。
 青年の出は中国の大貴族である。彼の育ったのは北京である。風丰(ふうぼう)も貴族的で気品を備えている。中、日、英の三ヵ国語をあやつるこの秀才は、華僑諸君の中にあっても輝かしい存在だった。戦後の彼は有力な位置に推されてその才腕をふるったらしい。
 彼女は最初、この青年の特殊な地位と勢力とを利用して、何か一旗上げる目算だったかもしれぬ。しかし青年のママとして同棲する間に、次第に彼を恋慕しはじめたのである。粋な年増の渋い芸者だった筈の彼女が、次第に大柄な着物を好み、厚化粧をするようになった。が、その心中はむざと青年に打ち明けられたものではない。
 中国の青年は、彼女の趣味の変化を、ただ彼女の趣味としか見ない。国籍の相違が、やはりその底の底まで察しるほどの微妙な理解をさせなかったのである。ただママを美しいとだけみた。これは悲劇的な喰い違いである。
 勝気な、どこまでも古風な芸者的性根が彼女にはある。女から進んであけすけに訴えるべきではない。しかも映画の人気俳優と別れてからは、男なんぞはもうという色気解脱のポーズもとっていた。それに対する知合いへの意地だってあったろう。
 四十九歳、自信のあった美貌もすでに限界に来てしまっている。二十九歳の中国貴族青年に、片思いの炎をひそかに燃やして苦しみに苦しみぬいた。小説は事実より奇というが、当世流行の好色小説よりは、この方がはるかに深刻な筋立てである。その果てに彼女は自殺した。中国青年は、いまはじめて彼女の意中を知り、彼女をはっきり恋人と呼んでいるそうである。そして彼は、この恋人の面影に似た人を求めて、柳橋新橋と歩いているというのである。彼女の百ヵ日がつい最近すんだ。信頼の置ける作家に、これを材料として提供したい。 (三・一五)



最終更新日 2005年06月05日 10時50分09秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「色盲」

 詩人ホフマンスタールは悲惨な死に方をしている。息子が死んでその葬式をしたあと、がっくり力を失くして倒れてしまったのだが、その息子の死というのが通常のものではなかった。就職難で、生活苦に堪え得なかったための自殺である。第一次大戦の敗戦国には仙花ジャーナリズムがなかった。 ホフマンスタールほどの耽美派貴族作家でも失職の子供一人を食わせておくことができなかったのである。
 一家心中などというニュースが珍しくなくなった。何も頑是(がんぜ)ない子供まで道連れにせんでもという声もあるが、残してその子供がどう生きられるか、止むなく道連れにするところに悲惨なものがあるのである。親は自分の未来の暗さよりもわが子の未来の暗さの方が堪え難い。
 中学の先生が憂鬱な顔をしていた。今年の卒業生の行末の問題でという。高等学校への進学のことかときくと、それよりも実世間へ飛び出す子供たちのことだという。就職の場所がない。失業者というのは工場からばかり出るのではないのである。
 だが中学からのこの失業者は、まるで未熟な酸っぱい青果である。つい最近にアチーヴメント・テストというのをやったが、簡単な分数の加減算さえもができぬのが多数だった。誤字脱字はザラだった。いわゆる社会的な知識だけではどうにかついたが、読み書き算数の基礎的なものとなると、ただ嘆息させられるだけだったというのである。社会へ送り出して一人前というのには、あまりにも未能力でありすぎる。
 頑迷な大工があった。息子が新制中学へ入ることになったのだが、大工になるのに学問は要らぬといい張った。就学をすすめても承知せずに、自分の手許に置いて一緒に大工仕事をさせた。三年経ってこの息子はとにかく一人前の労賃が取れるまでの大工技術を身につけてしまっている。失業時代となっても、技術をもっていれば強みだろう。頑迷なこの大工は、どうやら賢明な父親だったとして羨まれているようだ。この話は新制の教育に対する有力な批評の一つかもしれない。
 学校で教える社会科程度の常識は、活きた社会で生活しさえすれば自然におぼえられそうだ。学校を拒否した大工の息子が、学校へ行かなかったばかりに、いつまでも非常識な市民であるだろうとは思われない。そうなると学校へ行かなかった彼は何を損したかとなる。
 上級学校へ進むことで不安を感じている子供たちの親は、その不安だけでも幸福だといえるかもしれない。未熟な未能力失業者であるわが子が、明日から食えるかを案じる親心は切実なものだろう。学校の先生が憂鬱な顔をするのも無理はない。
 この切実な問題を考えている若い先生を、中老、大老の校長、教頭は「赤い」と心配しているそうだ。しかしこの「色盲」は教育界ばかりのことではない。未来の暗さということ「色盲」の眼では見ることができぬのである。              (三・一八)



最終更新日 2005年06月07日 03時19分07秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「色盲」

 詩人ホフマンスタールは悲惨な死に方をしている。息子が死んでその葬式をしたあと、がっくり力を失くして倒れてしまったのだが、その息子の死というのが通常のものではなかった。就職難で、生活苦に堪え得なかったための自殺である。第一次大戦の敗戦国には仙花ジャーナリズムがなかった。 ホフマンスタールほどの耽美派貴族作家でも失職の子供一人を食わせておくことができなかったのである。
 一家心中などというニュースが珍しくなくなった。何も頑是ない子供まで道連れにせんでもという声もあるが、残してその子供がどう生きられるか、止むなく道連れにするところに悲惨なものがあるのである。親は自分の未来の暗さよりもわが子の未来の暗さの方が堪え難い。
 中学の先生が憂鬱な顔をしていた。今年の卒業生の行末の問題でという。高等学校への進学のことかときくと、それよりも実世間へ飛び出す子供たちのことだという。就職の場所がない。失業者というのは工場からばかり出るのではないのである。
 だが中学からのこの失業者は、まるで未熟な酸っぱい青果である。つい最近にアチーヴメント・テストというのをやったが、簡単な分数の加減算さえもができぬのが多数だった。誤字脱字はザラだった。いわゆる社会的な知識だけではどうにかついたが、読み書き算数の基礎的なものとなると、ただ嘆息させられるだけだったというのである。社会へ送り出して一人前というのには、あまりにも未能力でありすぎる。
 頑迷な大工があった。息子が新制中学へ入ることになったのだが、大工になるのに学問は要らぬといい張った。就学をすすめても承知せずに、自分の手許に置いて一緒に大工仕事をさせた。三年経ってこの息子はとにかく一人前の労賃が取れるまでの大工技術を身につけてしまっている。失業時代となっても、技術をもっていれば強みだろう。頑迷なこの大工は、どうやら賢明な父親だったとして羨まれているようだ。この話は新制の教育に対する有力な批評の一つかもしれない。
 学校で教える社会科程度の常識は、活きた社会で生活しさえすれば自然におぼえられそうだ。学校を拒否した大工の息子が、学校へ行かなかったばかりに、いつまでも非常識な市民であるだろうとは思われない。そうなると学校へ行かなかった彼は何を損したかとなる。
 上級学校へ進むことで不安を感じている子供たちの親は、その不安だけでも幸福だといえるかもしれない。未熟な未能力失業者であるわが子が、明日から食えるかを案じる親心は切実なものだろう。学校の先生が憂鬱な顔をするのも無理はない。
 この切実な問題を考えている若い先生を、中老、大老の校長、教頭は「赤い」と心配しているそうだ。しかしこの「色盲」は教育界ばかりのことではない。未来の暗さということ「色盲」の眼では見ることができぬのである。              (三・一八)



最終更新日 2005年06月09日 23時56分43秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「新農世代」

 選手を見て車券を買うのが競輪だろう。地味な農業というものはそんなバクチとは雲泥の相違だといいたいのだが、近頃は必ずしもそうではない。アメリカの意向で日本と中国の貿易を許すそうだ、それを聞いておもいついたのだが、トウガラシの栽培はどうだろうかと、山裏から知人が出て来て真剣に質問したのである。トウガラシの需要というもの、中国にどれほどあるのか私は知らない。しかし私はすぐある年の吉林郊外の松花江畔をおもい浮べた。対岸は一帯の広い農耕地、そこへ通う渡船場であったが、運んで来た真赤なトウガラシが、そこの河原の砂地に、緋の毛氈を敷いたように干し並べられてあった。晴れわたったあかあかの日射しの下、照り返していた強烈な色は今も私には一幅の絵図である。
 地道に大地と取組んでいる人が、近頃ではどうして、世界情勢と取組んでいるのである。不足の食糧を輸入に仰いで補っている政府なのだが、目端の利く農村人は、おのれの地面からの成果を逆に輸出して何とか賢明な利益を得たいとあせっている。そのためには世界の農産物市場の現況を知らねばならぬ。この人たちの生きている世界は、だから都会のいい加減な文化人の社会よりも、ずっと地につき板について、確実に時代的である。
 第二次大戦がはじまりオランダが侵略されるとすぐ、チューリップ栽培をやり出したのは日本の園芸家たちだった。オランダの専売物だった球根がアメリカへ渡れなくなったその間隙を、すぐさま縫おうとしたわけである。しかし残念なことに、この思惑は失敗した。やっと出来上ったそれを荷造りして、横浜から送り出そうとしたとき、あの真珠湾だったからである。埠頭に積まれた夥しい球根は、ために芽を出す機会がなく、後に黒焼きにされ代用コーヒーとなった。代用品として最優秀のものなので珍重がられたらしい。
 花よりコーヒー、戦争中は花卉園芸などという非実用的なものは、極度に憎まれた。だから温室用の石炭が欲しいなどといったら、売国奴にもされたものである。そのため世界的に珍重されるカトレア蘭などは、ひどくみじめな目に会ったらしい。戦前は商工省が将来有望な輸出品として、折角その栽培を助成しかけてもいたのだが、そっくり根絶やしにされるところだった。現在残っているのは、熱心な栽培家が非難を覚悟の上での、一方ならぬ苦心の結果、その命をとりとめたものなのである。今は万金の高値でどんどんアメリカへ航空機で運ばれて行くらしい。
 このカトレアの話をしたら、トウガラシ君はすぐ、じゃあワシもそれをやろうといった。しかし種を蒔いて花を咲かせるまで十年はかかるぜ、といったら、それまでの食いつなぎができないと苦笑した。彼の競輪的農業経営も、つまりは眼前にさし迫っている生活難切り抜けの為なのである。「農は国の大本」などといったことも、今は全然古語になっているらしい。
                                    (三・二一)



最終更新日 2005年06月10日 00時04分16秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「愛嬌札」

 千円札が入ってくると、できるだけ手許に止めて置きたいという。人情であろう。だがそれを止めて置くには、必要なだけの百円札が入って来なければならない。
 千円札の発行高の方が、自円札より上廻る予定だとラジオ・ニュースがいった。これは人情の機微を知らぬ作戦である。千円札を日常的なものでなくして置く、千円札で入る場合と百円札での場合とを、たとえば十と一との比率にして置く。何とかして千円札を手放さずにいれば、そのうち百円札で収入がある。千円札は安泰に滞在できることになるだろう。一枚がやがて二枚になる。十枚となれば、銀行へ預けましょうかという気持にもなる。預金心理というものは、溜ったものを預けようというので、預けて溜めようというのよりもこの方が自然である。しかし千円という額は一般勤労者にとっては相当の額だから、あとは百円札で入って来たにしても、これを手許に引止めて置くのは容易でない。
 今度五百円札ができるそうだ、そこで一案がある。この新札がすこし風変りの図案にして札らしい感じでなくするのと一緒に、ことさら少額しか発行せぬことである。たまさか手に入れば人は珍重するだろう。いろは合せのような工夫でもすればなおいいかもしれない。
 ーこれはアの字だ。君の頭文字だ。
 ―この次に、あなたの頭文字のが入ったらいいわね。
 二人組合せればとにかく千円である。入り方しだいで、思わぬ文句につながるかもしれぬ。この面白い文句のコンクールでもやったら、それにつられることもあるかもしれない。
 こんなことだって、賃金ベースでも上らなければとなるだろうが、こんな興味にでも引きずられぬかぎり、余分に現金が家の中に足を止めることはない。最近新聞に、滞貨という文字が出た。滞在させたくても不可能なのを嘆いているものにとっては、滞貨の貨が貨物の貨にはみえない。滞貨何百億などというのを聞くと、うず高い札束を目にみるのである。
 恒産なきものは恒心なしなどというが、五千七千の滞貨はもっていたい。しかしサラリーマンには夢なのである。新しい五百円札がそれぞれに違った花模様か何かで、花札のように十二ヵ月になったりしていたら、十二札一揃いだけぜひなどというたわいもない希望が、存外生々した意欲にならぬとも限るまい。大蔵省の役人がこんな機微に頭を働かせてくれるようになったら、大臣があんな暴言を吐いたりすることはまずなかろうといっていい。
 とにかく、札というものぐらい、今日愛嬌のないものはない。      (三・二二)



最終更新日 2005年06月10日 00時05分31秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「人間悲劇」

 哈達河事件の記事(廿一日付本紙)は読者を暗然たらしめたろう。女子供を含めての四六五名非戦闘員の集団自決は惨事である。あの終戦時、哈達河以外にもあったかもしれない。
 あの事件を「日本の悲劇」とみるのは正しい。日本人でなかったら起らなかったことだろう。最初から押し寄せる敵に降服しようとしただろう。そうしなかったところに「日本」があったことを反省する。
 倶に天を戴かずという思想、これは相手を最後まで非人間と見ることである。人間対非人間の争闘だとしたら、単なる勝敗だけでは片づかぬものがある。降服以後にもこの関係は続くだろう。相手に対する人間的信頼などというもの、湧く筈もない。
 戦争によって何を学んだか、アランはそれに答えて、人間以上に有用なものはなく、人間以上によいものはなく、しかも最大の不幸は人間から来ることだといっている。この答えは哲学というよりもむしろ実感だという方がいいだろう。哈達河の悲劇は人間を見失ったことにあった。「玉砕」という言葉、戦争中は何か名誉を守る輝かしい徳のようにいわれたものであった。が非人間的なものに身を任せるくらいならというのは、必ずしも名誉心理ばかりではない。どうされるかという不安の恐怖からもくることである。相手をどこまでも鬼畜と信じ込まされた女子供の切羽つまった逃げ道は、死ぬことより外になかったのかもしれない。敵も人間と信頼しようとしなかったところに「日本の悲劇」を発見しなければなるまい。
 殺してくれという要求にソ連の将校が手を振り、子供にパンなど与えようとしたにもかかわらず人々は脱走した。悲劇はすなわちこれだったのである。なぜさし延べられた人間の手を、よろこんで温かく握ることができなかったのか。悲劇から救われる機会のあったことを、不幸な日本人たちは知らなかった。人間にとって人間以上に有用なものはないというアランの実感は真実である。人間として戦争から本当に目醒めさせるものはこの実感より外はない。人間を無用と考え込んでしまうときに人間を殺すことができる。世界の平和は、すべての人間が他のすべての人間を人間だとして考えるところにはじめて成立つ。最大の不幸も人間から来るものであるが、最大の幸福も同じところから湧いて出るのであろう。
 相違したイデオロギーが互いに人間であることを見失わせている。哈達河の日本の悲劇がどこかまだわれわれの世界に尾を曳いて残っていはしないか。世界の悲劇が胎動しているのが現代世界の情勢である。哈達河の事件を日本の悲劇として反省することは、すぐさま世界の悲劇を防止しようとすることに通じなければなるまい。それには「日本の悲劇」という狭いワクから、「人間の悲劇」という広いワクへ飛躍することである。そこまでの深い内省でないかぎり、悲劇のくり返しとなるだろう。L              (三・二三)



最終更新日 2005年06月10日 02時51分52秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「甲より丁へ」

 字が書けるとか読めるとか騒いでいるが、大人と子供とはもはや別世界かもしれぬ。「先生」という字を書けぬ中学生がいたと大人たちは評判しているが、「六三生」と書いて澄ましているのはザラだそうだ。「制」の字が書けぬのかと問題になりそうだが、子供たちの方では、「六三制中学生」というのを略したつもりなのかもしれぬ。
「ヘンしいヘンしい何子さま」原文のままだと中学生の書いたラヴレターを、父兄の前で老先生が朗読する。石坂洋次郎の小説「青い山脈」中の一節だが、この「変しい」は必ずしも恋しいの間違いではないとしたらどうだろう。とにかく彼女に対してヘンな気持になった告白だとすれば、「変しい」と書くのも新語法だとなる。こんなベラボウな解釈が却って本当なのかという気にさえなる。
 小説中のことだから、虚説か実説かわからぬが、十分現実にあり得ることだから意味があるのである。私は昨日、寅京のある中学の話を聞いた。おなじくラヴレターがみつかったのだそうだが、その中に「遊落町のガード下であおう」とあったというのだ。有楽町という地名でさえもと先生たちが嘆いたという話である。しかしあの界隈は、「有楽町」よりも、「遊落町」の方が本当かもしれぬ。存外この生徒は漢字のもつ意味を心得ていたために、大人には通じぬ本当の地名を書いたのだともいえそうである。もし「遊落丁」とでもなっていたら、あの界隈にころがっている落丁的人生を表現し得て、なお一層面白かったろう。出来すぎていて信じられぬ話のようだが、まさしく実話なのだそうである。
 だが実際は、子供たちにとって漢字というものは、単に音標であるにすぎないのだろう。
「ユーラクチョウ」を現すためには勇楽町でも湯羅久町でも、何でもよかったのに違いない。つまり彼等にとっては漢字もまた仮名と同様なのだということである。こうなっていることを考えると、国字の問題、改めて考え直してもらわねばならぬ。
 もっとも私は、右の見方を極めて有力に反駁する話ももっている。それはある中学で、教育委員が生徒をあつめ訓話をしたときのことだ。用意か不用意かその話の中で「日本テイ国」といった。それを聞いてはっとした先生は、そのあとで生徒たちに、
 ―日本テイ国と書いてみたまえ。
 帝国と書かせて、その「帝」について、誤解のないよう一応の話だけはして置くつもりだったからだというのだが、何とその生徒たちの書いたのは、
 ー日本丁国。
 驚いて先生は、どんな意味かと聞いてみた。すると明るい眼を少年らしくくりくりさせて、
 ー甲乙丙の丁です。もとは甲国だったのだが、敗戦したので丁国に落ちたのです。                         (三・二四)



最終更新日 2005年06月12日 15時26分32秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「外人直言」

 女皇様がお通りになる。お道筋の村々は大騒ぎをした。目ざわりになる一切は遠ざけねばならぬ。路を綺麗にしたり、建物を塗り直したり、それだけで済めばいいのだが、この村の荒れ果てた様はそんなことでは追っつかない。そこで厚紙を切って、それで遠見の教会堂を建てたり、森の向うにつづく屋根屋根をつくったりしなければならぬ。
 今でいえば映画のセットみたいなものだが、大急ぎでそれをこしらえた。女皇様は馬車の窓からそれをご覧になって、賑わっている村の景色に満足の微笑をされた。これはロシヤのエカテリナ女皇が、コーカサスへ旅行されたときの実話である。
 天皇四国巡幸。まさか今の日本に、こんな馬鹿げた話はないだろう。だが四国の人々は、ありのままをご覧に入れているのではないらしい。お着きになる一時間前まで労働者が、道路の修理をやったり、建物の塗装をやったりしていたと、読売夕刊の「外人記者直言」でロバート・マーチン君が書いている。もっともマーチン君は、こんなことは要人が旅行の際どこの国でもやることだとつけ加えている。
 礼儀としての清掃ということがあるだろう。遠来の客を迎えるとなると、部屋を片づけ庭先を浄めたりする。これは接待の心づくしで当然の人情といえる。だがマーチン君が「土地の政治家たちは、少なくとも自分だけの気持では、天皇を再び神にしようとした」と直言しているのは気にかかる。人間を天皇にした新憲法の日本人が、その後いかに天皇に対しているかは、世界が注目している課題なのである。それなのに「役人はヒステリーのようにのぼせてしまっていた」ではどうかとおもわれる。
 人の上に人を置かぬというデモクラシーが、天皇だけを別格にしたのでは完全なものになる筈がない。天皇ご自身はそれで人間であろうと努めていられる。その天皇を人間として迎えることは民衆の当然なすべき協力であろう。この協力なしに天皇だけが努力されるようなことではお気の毒である。マーチン君の眼に触れた政治家や役人たちは、ぜひその位置から追放されねばなるまい。巡幸の道路を綺麗にすることよりも、新日本の歩く道を滑らかにする方が大切である。
 エカテリナ女皇のためにセットの村を急造したのは、その村に対する正当な判断を女皇から奪ったものであった。当時のロシヤにはあるいはその必要があったのかもしれない。しかし今の日本は、天皇が正当な判断をもたれることを、恐れたり憚ったりする理由はどこにもない。もしも民衆が歓待の気持から度を過したお化粧などしようとしたら、その必要はすこしもないことを教えるのが、政治家であり、役人であるべきである。むしろ最初の巡幸の頃の方がこの間達いは少なかったのではないかとおもわれる。        (三・二七)



最終更新日 2005年06月13日 21時34分14秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「愛護」

 私はまた仔犬を飼っている。女どもがしきりにお手々とかお預けとかの芸当を仕込んでいる。いわれた通りにやればご馳走にあずかれることがわかったとみえて、仔犬は手を出したり、食いたいのを我慢したりするようになった。そこで仔犬は、いよいよ彼女たちの愛寵を得ている。
 ある日文藝春秋の中戸川君が遊びに来た。この仔犬の芸当を見ているうちに、私の父はとても犬が好きでしたが、私たちが芸をさせようとするとつよく叱りましたといった。やりたくもない仕種を強制するのは残酷だというのが理由だったそうだ。聞いて私はすこし顔を赤くした。それはまったく道理にかなった見解のようである。やっぱり中戸川君の父君は文学者だったとおもった。父君というのは故人作家中戸川吉二である。
 私は上野動物園の若い技手に会ったことがある。戦争ずっと前のことだが、動物を馴らすということは、動物を動物でなくすることですよといった。象を公衆の前に引張り出してお辞儀をさせる。みんなが可愛いと拍手喝采する。しかし一体ジャングルの中の象で、人間に会ったからと膝を折り曲げて挨拶するのが一匹でもいるか。あんなことは象の習性では決してない。あんな芸当を押しつけるのはまったく残酷というべきだというのだった。なるほど私は敬服した。
 その後に私は大阪へ行き天王寺公園の動物園へ入った。するとそこではチンパンジーが飛白の着物を着て、竹馬に乗って舞台へ登場した。竹馬から下りるとテーブルに向って椅子に腰を下し、運ばれた食事を、片手にナイフ、片手にフォークという人間そっくりのやり方で平らげてみせた。見物はもちろん大喜びである。だが私は上野で会った若い技手の言葉をおもい出し、やっぱりこいつは気持のいいものではないと感じた。
 ここのところ動物愛護週間というので、上野あたりは何かと催しがあったそうだが、人気者の象は引っぱり出されて、何か一役やらされたらしい。象にとってはそれが愉快であったかどうか、象は自然な象のままであるときが一番愉快だろうと私は考える。とすると、動物愛護のために象は愉快でない事をつとめさせられたことになる。
 愛護という言葉は美しいのだが、人間は得手勝手な暴君かもしれない。相手にこっちの意志通りの行動を強制する。満足にそれが果たされたときその相手に愛情を感じる。このことは必ずしも対動物の場合ばかりではないかもしれない。私は眼前の仔犬が、しきりに両前足を上げてチンチンをするのをみながら、何かたまらぬ感情が湧き上ってくるのをおぼえた。
 馴らし馴らされる。時としては、国家との間にさえこの種の愛護感情がありそうである。私は急に歴史の書が読みたくなった。                 (三・二九)



最終更新日 2005年06月14日 19時12分51秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「金詰り自殺」

 これは完全な猫イラズだといわれて買った。完全なというのは、殺された鼠がかならずミイラになるというのである.信用して使ったら、たちまち鼠どもが騒がなくなったのだが、天井からぽたりぽたり、小さなものが落ちはじめた。みると蛆である。こいつは早速に人を頼んで天井裏を検めてもらったら、腐った鼠の死骸が出てきた。
 ただではミイラになれない。戦前旅順へいったとき博物館へ入った。古代中国人のミイラが数体並んでいた。生けるが如くといいたいが、からからに乾ききって何とも不気味な感じだった。これは自然にできたミイラだというのだが、大陸の風土なればこそだろうとおもった。日本のような気候の土地では、どうしたって腐って蛆が湧いて、さらされて、やがて白骨になる。ミイラになるのと白骨になるのとどっちがいいだろうかと、そのときの私は下らぬことを考えた。
 中尊寺藤原三代の遺体が調査されているが、この三体はどうしてミイラになれたのか、何かの秘法が施されたのだろう。その秘法が究明されたら面白い。人生を肉体だなどと観じている連中は死んでも骨だけにはなりたくないというかもしれぬ。ミイラ化工株式会社など設立したら、存外繁盛することにならぬでもあるまい。
 他殺か自殺か、下山総裁のときの謎とおなじようなことを、そのミイラの傷痕から探り出そうとしているらしいが、レントゲンで調べるなら、ついでに胃袋の中など調べたらどうだろうか? はやこれまでというので、手負いながらも、かねて用意のものを一服やったかもしれない。その一服が何であったかの問題である。ところが、この方は首級だけらしい。
 中尊寺といえば光堂だが、誰もしる黄金の産地である。いざというときに金箔金粉を呷る、胃から下がって大腸小腸、いや食道をも上って咽喉元いっぱいとなる。これが本当の金詰り自殺だろう。地獄の沙汰も金次第、この黄金の妙力でふしぎや蛆が一匹も湧かない。
 と誰かがこんなことを、真しやかに小説で書いたらどうだろうか。ゴールド・ラッシュ、夢中の人々は他人の腹中だろうが何だろうが、金があると聞きさえすれば馳けつけるそうだ。キャメラマンを追っ払うために中尊寺は武装警官を頼んだそうだが、そんなことでは追っつかなくなるかもしれぬ。
 春さきの陽気に浮かれて下らぬ冗談をいったようだが、金箔金粉をのんでの金詰り自殺を本当にやった男はいる。話は中国、南京城内、時代はまだ百年と経っていない。太平天国の騒動を起した張本人洪秀全だそうだ。その分量はどの位だったか、その死骸はどう片づけられたか、気にかかる人はご自分でお調べなさるがよい。          (三・三〇)



最終更新日 2005年06月16日 01時17分01秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「権勢」

 昔は大臣大将といった。新日本となって大将は消えてしまったが、大臣は残っている。しかしその大臣も今は権勢がない。けしからぬ容疑の質問を受けても、やがて裁判が黒白を明らかにすると、苦虫を噛みつぶして答えるのが精々である。権勢が残されていたら、黙れとか退りおろうとか、一喝できたに違いない。デモクラシーはじれったいとおもう大臣もあるかもしれぬ。
 地獄へおとされた王様が、娑婆では何が愉快だったかと訊かれて、女と酒とも答えないで、権勢と答えたという話がある。権勢は人間にとって一つの誘惑らしい。今のような世の中でも貴族趣味などということがいわれたりする。側近などという言葉、当然に殿様をおもわせる。貴族趣味はいいかえれば権勢趣味だろう。側近にとりかこまれて小さな宮廷ママゴトをやる。しかしそれも個人の趣味だったら他人が干渉することはいらない。要するに私事である。
 三千世界のカラスを殺しという文句がある。主と朝寝がしてみたい。この作老が誰であったかなどという話は別として、この文句のかぎりでは、一羽のカラスも殺せそうにもない無力な女の嘆息である。だから綿々の風情があるのだが、実際にカラスの殺せる権勢者の言分だったら、ちと物騒なものになることだろう。
 豪勢な女地主がある晩、犬の吠える声で眼を覚ました。うるさい! 殺しておしまい! この犬はもとより彼女の愛犬ではない。とすると彼女の領内の誰かの犬である。彼女の側近は困ったことになったとおもった。というのはそれが、領内第一の強力で、乱暴者で、しかもわからずやの百姓男が、息子のように可愛がっていた犬だとすぐわかったからである。素直に命令どおりやってくれればいいが。
 だが問題は何事もなく済んでしまった。その強力の乱暴者のわからずやは、その愛犬の胴体に重たい煉瓦をいくつもくくりつけて河の岸へ連れていった。そして静かにあっちへ行けと河の中を指さしていった。犬は一寸その主人の方を見上げたが、おとなしくいわれた方へ進んで行って、飛込んでそれなり帰って来なかったのである。
 これは旧ロシヤの話、ッルゲーネフの小説にあるのだが、この権勢を根こそぎ叩き出した新ロシヤには、もはや何の権勢も残ってはいぬのであろうか。鉄のカーテンなどというのも、やはり一種の宮廷のようである。この旧世代の小説が、新世代のその国の読者にどう読みとられているかが知りたくもある。
 三千世界の公務員をおとなしくさせるために法律を作ったが、スキがあるのでまだ騒ぎたてる。私はふと「右や左のお旦那さま」という文句をおもい出した。つまり権勢ということは、右とか左とかの問題ではなさそうである。庶民はいつになってもはかないものなのだろうか。                             (三・三一)



最終更新日 2005年06月16日 01時18分42秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「イヂオジンクラジイ」

 芥川龍之介は、アスピリンに対して特異な反応を持っていた。一寸でも口に入れたが最後、全身が真赤になり、吹出物でいっぱいになったものである。ある日医者から風邪薬をもらった。このことを承知の医者からだったので安心して服んだのだが、たちまち反応があった。調べてみると、彼の分を調剤する前にアスピリンを使ったのだそうである。そのときのサジをそのまま彼の時に使ったとわかった、という話である。ゲーテは玉葱に参ったものだそうだ。ある家でご馳走になったとき、ちゃんと断って置いたのだったそうだが、コックが肉を焼くときに玉葱の煮出汁をつかった。結果は大騒ぎになったのだそうである。
 赤に対して特異な反応を示す人が多い。組合運動もそのものまでを赤とみて、勤労者のいかなる団結をも極端に嫌うのである。病理学ではこれをイヂオジンクラジイというのだそうだ。扱いにくいことである。
 私の友人に、南瓜をみると無性に腹を立てたのがいる。季節になると八百屋の前が通れない。前方だけに眼を据えて馳け抜けるのである。一体どんな気持になるのだと聞くと、南瓜が彼の方を向いて歯をむき出して笑って、今にも飛びかかって来るようにおもうというのである。常識では考えられぬことだが、当人としては真剣だった。
 現在の世界に対立している二つの思想体系、これは共存できるものだと、双方でいっている。共存できるものなら何も戦争を考える必要はない。しかしイヂオジンクラジイは一方にだけあるのではない。アメリカ及び西欧的なものを、ことごとく敵として考えている人々の症状には、やはり非常識なほど熾烈なもののある場合がある。お互いに相手を、歯をむき出して笑って、今にも飛びかかって来るようにおもうという妄念のある間は、共存の平和など望めたことではない。そこで必要なのはこの双方のイヂオジソクラジイの適当な治癒である。
 対日講和促進という声が聞えてきているが、単独講和とか、一方への軍事基地提供ということは、どんなものだろう。日本が永世中立を主張するのは、どちらのイヂオジンクラジイとも無関係でいたいということである。それにはまず国内にあるイジオジンクラジイを始末しなければならぬ。書記長喚問ということなど、イヂオジンクラジイ的症状でなければいいのだが、一方コミンフォルムへの声明など、やはりその症状を見せている。全体講和を望む前に日本国内が二つのイジオジンクラジイとの取組みの場になったのでは困りものという外はない。
 今の日本で必要なことは、すべての人がノルマルな人間的健康を保ち合うということである。しかし芥川は賢明人であったし、ゲーテは聡明人であった。しかし賢明や聡明でもイヂオジンクラジイにはひっかかっていたということ、これを考えると問題はなかなか簡単に片づきそうもない。結局世界平和の問題は、平凡な常識人が常識で解決すべきだとなるのかもしれない。                                (二五・四・一)



最終更新日 2005年06月16日 01時21分36秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「季節」

 春分の日は過ぎた。私の家でも菜園に新しい種子を蒔いた。種子は固い外殻をかぶっているが、土の中で水分を吸い陽日に恵まれれば、それを破って胚芽を出す。新しい生命が萠え出るのである。種子を蒔く人はミレーの画題になっている。その絵を見ていると何か宗教的なものを感じる。麦死なず、この一句は意味深い。蒔かぬ種子は生えぬというのは日本の俗諺だが、まことに味わうべきものがある。
 種子蒔きを教育とすぐ考えるが、教育は学校が子供を相手にやることだけではない。政治が民衆に対してやることでもある。だが政治はどんな種子をわれわれに蒔いているか、悪い種子を蒔かれることには警戒をしなければならぬ。
 このままでは殺されてしまうと、町の商店の主人たちが、三人集まれば政治の話である。おれたちの人権は結局どうなるのかと、三人の公務員が集まればすぐさま論じ出すのである。政府が蒔いた種子はここにある。この種子がやがて芽を出し、葉を出し、枝を出し、花を咲かせるとしたら果たして何色か。この国を赤化するものは誰か? 赤化がいいか悪いかをいおうとするのではない。成行きの責任者を問うだけである。共産党の宣伝のごときはすこしも取るに足らぬ。それよりも、蒔かれた種子からの自然発生の方が問題である。
 民衆は触角をもっている。彼等はその触角によって賢明な判断をする。何が恐るべくして何が恐るべきでないか、今日の彼等の触角が探り出しつつあるものに細心の注意を向けるがいい。絶対多数党などという夢の中に安閑としてはいられぬことに気づく筈である。
 筈ではあるが、その筈がどうやら怪しいのはどうしたものか。内閣改造というのは政策の転換なのか、民衆の触角はそれがただの党内人事にしか過ぎぬことを探り当ててしまっている。だから代りばえもせぬことだろうと何の関心もふり向けてはいない。彼等の求めているものは内閣の交代であって、改造ではないのである。
 共産党のいうことが段々わかって来たと、私の知合いの温厚な商店主が、ある日しんみりと述懐した。わからせたものは政治の現実である。春秋の筆法をもってすれば吉田首相である。しかし首相は、そんなことをわからせては困るというだろう。
 困るなら方法をとるがいい。赤化の原因を取り除くことである。民衆に期待されぬ改造などをするよりも、潔よく退陣することである。そこまでやれば民衆は希望をもち直すだろう.
 種子蒔きには季節がある。季節を外すことは一年の悔いをもたらすだろう。吉田首相が果たして本当の政治家かどうか、厳粛な課題が課せられていると信じる。政治家にはミレーの絵のような宗教的なものがあるべきようにおもう。             (四・三)



最終更新日 2005年06月19日 01時51分29秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「緑化政治」

 緑化運動は結構である。植林工作は賛成である。国破れて山河在りというが、敗戦後またたく間に日本のいたるところが惨澹たる禿げ山になった。山林の持主が争って伐採してしまった。でなければ燃料不足にやりきれなくなった人々が、手の届くかぎりのものを根元まで引抜いてしまった。禿げ山はその放任の結果だったのである。
 ミネソタ州のある町であったが、ある人の持地内にすばらしい何かの大木があったそうだ。地主は自分の所有だからというので勝手に伐ってしまおうとした。ところが町の人が承知しない。見事に生い茂って町の美観をなしているかぎりには公共物だという。結果は伐り採ってはならぬことになった。今でもその町の人はその大木を楽んでいるのだそうである。デモクラシイの社会とはこんなものだろう。
 私の住んでいる町は、蓊鬱と繁った木に蔽われた丘々をもっていて、その点で風光まことにょうしかった。しかし財座税の始末や何かでその蓊鬱を禿げ山にする地主が現れた。心ある人々は心配して、何とかして風致林の指定でもすればと考え、その筋への運動をはじめた。その筋でも諒解してくれかけていたのだが、他人の私有財産を拘束するのはデモクラシイに反するといい出した人があった。折角の運動は立消えして、今ではどの丘もすっかり丸坊主になってしまっている。風光など見られたものではなくなってしまった。
 昨日の紅顔今日は見るべくもなし、無常は自然の風光の中にもあるのである。緑化運動も結構だが、今日わずかでも残っている紅顔をいつまでも止めて置くことも考えてもらいたい。植林の前にまず保安林である。千年の大樹を切り倒して一年の苗木を植えて、これでいいというのが緑化運動だったらまことに心細い。
 関の五本松一本切りゃ四本、あとを夫婦松だと主張した人は知恵者だった。日本では何かしらタブーにでもしなければ、百年と生きられぬのが樹木である。今日何百年の樹齢を保っているのはすべて、タタリの伝説を持って来たものだ。しかし今やその伝説も人々を脅かす権威を失っている。千古斧鉞を入れなかった神聖な原始林も、実用価値という切札の前には全然脆いものになっている。
 そこで伝説の代りに禁法が必要となった。一枝を切るものは一指を斬る。こうでもせぬと国土の緑色を保てぬのである。緑色の羽根を街頭で売ることはいいが、国土の緑色の私有財産的観念は、そんな小さな羽根の力では動かしようもない。だが禁法をつくるとしても、この国での木材の需要というようなことが問題になるだろう。むずかしいことでもある。伐採をする山主は税金のためだというかもしれない。
 緑化運動にしても、やっぱり政治の課題である。とことんまでそれを解明してからでないと、女学生的感傷に終りそうだ。浅い思いつきでは深い結果は得られそうもない。(四・四)



最終更新日 2005年06月19日 18時04分59秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「小町と紫式部」

 小野小町が美人であったことは定説だが、貞女であったかどうかとなると異説区々らしい。生理的にどうとかだったという話もあるが、彼女の美にケチをつけようとしたデマだったようにもおもわれる。深草の少将の想いをついに遂げさせなかったというのを、彼女の貞節と考えるか、手練手管と考えるか、美人は男を手玉にとる方が余計美人である気がする。
 スターリン外交はトルーマンやアチソンを手玉にとっている感じである。面憎やとおもう人と、痛快とおもう人とあるだろう。資本主義と共産主義は共存できるものだなどというモロトフ放送は、たしかに手玉の一手である。
 だが小野小町の末路が幸福でなかったことは事実のようだ。「誘ふ水あらばいなんとそおもふ」などと文屋康秀をからかっているのだが、史実にょるとそのときの小町はすでに六十歳だそうである。誘う水が涸れてしまったときに、どう色っぽいゼスチャアをしてみせても仕方あるまい。
 今のソヴェートを美人の年齢と考えたらいくつぐらいか、これは興味のある問題である。モロトフ演説は誘う水あらば的のものだったが、存外世界的反響はなさそうだ。とすると花の盛りは一応過ぎ去ったかともおもえる。過去の日本が共産主義に酔っぱらいかけた頃のソヴェートは、マルクス・ボーイ、エンゲルス・ガール、若い年代が滅茶苦茶無批判に傾倒した。あの頃の唯物史観は花のさかりで、だからあの頃の謳歌情熱にはたしかに恋愛的なものがあった。水々しかったといえる。だが現在はちと違うようだ。
 あの頃は恋愛だったから功利を離れていたが、今は結婚の問題になっている。だから人々は冷静に実利的に考えている。詩から散文へと移って来ているようである。従って燎原の火のごとく燃えひろがる気勢がない。その点で祖師マルクスに対する情熱も、小野小町から紫式部へ変ったようだ。「源氏物語」は人を感動させるのだが有頂天にはさせない。酔わせるのでなくて考えさせる段階に来てしまっている。この散文時代は批評精神を伴い出している。
 恋人としては十分な女でも、いざわが妻として考えれば別だ。女というものは何よりも素直で心のやさしいのがいい、とこれは紫式部が「雨夜の品定め」でいっていることだが、これは現実的な言葉である。コンミュニズムに対する批判も現実的となると、大分以前とは趣きを異にして来るだろう。
 紫式部の伝記では、望月の欠けたることもなしとおもへばの法成寺入道道長の横恋慕を最後まで振りぬいたことである。右翼へも左翼へも転ぽず、日本人が本当に紫式部になれたら大した進歩だ。
 春なればこそ王朝の美人才媛をおもったりするのだが、時代なればこそこんなことも考えるのである。                          (四・五)



最終更新日 2005年06月23日 00時00分08秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「人間講和」

 戦時、米軍の俘虜になった人々、最初は生きられるという歓喜で素っ裸の人間になった。傷を手当してもらい、からからの胃袋に腹いっぱい詰めさせてもらい、その上にタバコとまで来たとき、素っ裸で喜んだ気持こそ、第二の人生の出発だったろう。しかしこれが段々と落ちついてくる。気持は平静になる、体力は元へ帰る。すると「日本人」が頭をもたげてくる。
 このことをハワイの日本人俘虜収容所にいたオティス・ケーリ君が、「日本の若い者」の中で書いている。それは自然だといえそうだが吟味すべき何かがありそうだ。われわれ収容所の俘虜ではなかったが、終戦時のどさくさの時と現在とを考えるとき、似たような変化を持っていはしないか。現在の日本があの時よりも「日本人」という観念を復活させていることは確かである。
 講和の声が近づいて来ている。独立の回復は喜ぽしいのだが、第一の独立は「人間」なのか、「日本人」なのか、問題はここにある。われわれは再び「人間を忘れた日本人」にはなりたくない。
 ケーリ君は、折角人間になりかけた日本人が、ただの日本人になりかけているのを指摘している。これは痛い。この痛さをまず政治家諸君に知ってもらわなければなるまい。しかしこの反省はどうも反対多数党にはなさそうだ。日本経済も心配だが、この方の心配も大切である。
 世界が現在の日本をどうみているか、外国人の直言が今こそ必要のようである。日本に対する日本人の正当な批評はあっても、そこに耳を藉そうともしない。しかし外国人がかく見ているぞとなると、実に神経質にそれを聞くのが日本人だ。今はこの性情を巧みに利用するのが手だともいえるだろう。
「日本の民主化が達成されたなどとはどうしてもおもえない。ロクに戦争の反省もしないうちに、もうこれくらいで勘弁しろよといった顔つきで」とケーリ君の観察はすこぶる辛竦である。デモクラシイで頬かぶりするだけで済ますことは、何といってもポツダム宣言違反である。日本の良心は世界の眼をごまかすことを許してはなるまい。
 私は日本のジャーナリズムが編集の企画を広く世界の遠くまでに広げることを希望する。現在の日本だと、本当に日本を愛する人々が心から非難の言葉を向けるかもしれない。それを日本人に伝えることである。そういう人々から、さすがに日本という賞詞を得るまでは、本当の講和はくるものではない。条約を越えた講和をこそ望むべきだろう。この講和は日本とか日本人とかいうものを問題にせぬ人間の講和である。こうなったら単独とか全体とかいう問題、問題にならぬことがわかるだろう。真実の平和ということは国際情勢からではなく、人間情勢から生れるものである。ニセモノはつかみたくない。        (四・六)



最終更新日 2005年06月23日 00時03分39秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「アメリカ」

 ローマ人は何処へでもローマを持ち歩いたといわれている。いたるところでローマ風の家を建て、ローマ風の町をつくり、ローマ風の生活をしたらしい。ローマを最高とした誇りがそうさせたのだろう。
 この「ローマ」を「アメリカ」と置き換えてみることはどうか。日本へ来ているアメリカ人たちは、たしかにアメリカを、そっくりそのまま日本に持ち込んで来ている。これはオキュパイド・ジャパンだからとみている日本人は少なくない。
 だが実際は、ローマ人よりもアメリカ人の方がずっと無邪気らしい。ローマ人はローマ風を誇りとして考えたのだが、アメリカ人はアメリカ式をただベターだとして考えている。郷に入っては郷に従えということはあるが、自分たちの生活ぶりが、より合理的で、より便利なものなら、日本人にもそうさせた方がいい。そう考えて無邪気に無遠慮であるだけらしい。
 面白い話がある。アメリカ人が京都である人の持家を借受けて住んだ。持主はなかなかの茶人で、だからその庭など相当渋く凝ったものだったそうだ。ところがそのアメリカ人は、借受けるとジメジメした苔など片端から剥がしてしまい、代りに新鮮快活な感じの芝草を植えた。数寄を極めて持主自慢だったのだそうが、それを色さまざまのエナメルで塗りたくってしまった。面目一新! 得意になった新しい店子は、設計通りに出来ると喜んで家主を招待してティ・パーティをやったそうだ。ティといっても日本の茶である筈はない。カナッペが出たりコカコラが出たりしたに違いない。もちろんそこにはアメリカ風の坐り心地のいい快適な野天椅子など並べられていたことだろう。招待された家主はアッといってしまった。この家主の気持、日本人なら誰にでもわかるだろう。
 家主の気持もわかるのだが、私にはこのアメリカ人の気持もわかる。東洋の幽玄などという伝統を思い切りよく捨てきって、明るいスポーティな、近代合理主義ずばりの生活にもたしかに肯定すべきものがある。世界から隔絶されていた特殊世界日本はもはや、何百分の一に縮まってしまった近代地球上に生存できそうもない。西洋と東洋とが右手と左手との距離ほどになってしまったのだと考えると、寂びとか佗びとかいう趣味はもはや古代の遺物かもしれぬ。
 日本におけるアメリカニゼーションは著しい。がこれをアメリカという国家の勝利と考えるのは早計かもしれぬ。近代合理主義の勝利だと考えると、必ずしも植民地的現象とはいわれまい。私はハリウッド好みの新しい靴を好んで穿いて、野球に熱中している青年が、おそろしく強い調子でソ連を賛美していたのを聞いたことがある。国粋的白足袋を穿いた古風な問屋の主人が、アメリカ政治を礼讃したのを聞いたこともある。持ち込まれているアメリカに、やはり内面的なものと外面的なものがあることを吟味しなければとおもう。(四・七)



最終更新日 2005年06月25日 14時50分16秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「肖像画」

 自分の顔を後世に残したいとおもう。しかし写真では趣が浅い。然るべき画家に描いてもらいたいのだが、肖像では誰が一流なのか、画料は必要だけ出すつもりだがーという相談をある人から受けた。
 私は当然安井曽太郎氏をおもい出した。が、氏の名前を口にすることは躊躇した。なぜなら私にはある考えがあったからである。一流の画家に頼むのも結構だが、あなたの顔を残したいというなら、むしろ三流画家を選ぶべきでしょう、とこう私はいいたかった。
 安井さんの絵は立派なものである。昭和年代の記念塔として長く後世に残るにちがいない。だから安井さんに描いてもらうことはその絵とともにその人の顔も残るわけなのだが、しかし、画中の人が誰でどんな人物であったかということまで残るかどうか。
 絵としての価値はそのモデルの如何にはかかわりはしない。今口こそこれは実業家某氏の像だといわれるかもしれぬガ、その実業家の名声などは極めて(もろ)いものである。五十年と経たぬうちにどんな人物だったか誰も知らぬようになってしまう。その際にその絵はただある男の像とだけしか扱われぬことだろう。
 たとえばレムブラントの描いた肖像画が今日残っている。何とかいう貴族を描いたのだと名が残っているにしても、その貴族のことはもはや何の問題でもない。問題はレムブラントの天才だけなのである。虎は死して皮を残す、貴族は死んでもレムブラントを残した。この残り方は決してその貴族の本意ではあるまい。
 三流画家の描いた肖像ならば、後世に残されても絵そのものは何の問題もない。描かれたその人が歳月の塵に埋まってしまうと同様にその絵もまた塵同様になる。このバランスを私は考えたのである。何者とも知れぬある男の顔として形骸だけが残されても意味はないだろう。歴史的に不朽の人物となって残るということは極めて少数の人間にしかできることでない。
 私に相談かけたその人は、ともかくもかなりの産をなしたいわゆる成功者だった。彼は自身その半生を勝利と考え、勝利者のしるしとして記念の肖像を残す気であったのだが、こういう得意が春さきの花ほどに脆いものであることには気づかない。私は挨拶にくるしんだ。さすがの私も率直に考えを述べるわけにはいかなかったのである。
 描く人と描かれる人のアンバランス、これは不朽の人物と三流の画家が取組んだ場合にも考えられるだろう。たとえばナポレオンを描いた下手くそな絵の運命など、まことにみじめなものがある。破れ鍋に綴じ蓋という文句があるが、今の政治家諸君の肖像など残すとしたら、三流画家諸君に限る。しかしそうはいいながら私は、安井曽太郎氏の筆先に相応するような人物が出てくれば困るとも考えているのである。
                                    (四・八)



最終更新日 2005年06月25日 14時54分38秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「役人とパス」

 以前「厚生車」だの「愛国車」だのと、妙な名で呼ばれた。それがいつとなく「輪タク」となった。誰が考え出したのか、うまいものである。口にしやすく耳に快い。言葉として条件に適っている。いつとはなしにこれにきまったのは、つまり大衆投票の結果第一位で当選したというようなものなのだろう。しかし役人は大衆を認めない。「輪タク」などというワケのわからぬ名称はというのらしい。そこでその筋としては「旅客用軽車両」ということにきまったのだそうだ。
 日本帝国主義の再起を心配しているのは中ソ条約だが、世俗一般に通用する言葉を嫌って、ことさら七面倒くさい漢字熟語を用いさせようとするところ、昔の陸軍用語をおもい出させる。「旅客用軽車両」という六字の裏にミリタリズムが隠されているなどとは、まさか誰だって考えぬだろうが、何のために「輪タク」では不都合なのかという疑問だけは誰だって持つだろう。ある人が税務署へいった。話し合いの結果で何割か削ってもらえることになったのだが、「ついてはタンガン書を出したまえ」といわれたそうだ。そのときは何の気もなく喜んで承知して帰って来たのだが、さて机の前で「嘆願書」と書いてみると胸に来たものがあったというのである。実に厭な字ですなあとその人がいったが、役人には漢字のもつニュアンスなど全然わからぬのである。
 役人の世界とわれわれの世界とどれほど違うかという好い例がある。それは「役人はバスがおきらい」ということだ。彼等は決してバスに乗らない、ということ、いやどうして、いつの場合でもバスに乗り遅れまいというのが役人だというかもしれぬが、まあ話を聞いてもらいたい。Aという町がある。B市からD市へ通うバスが通っているのだから、D市へ行こうと思えばそれへ乗るといい。わずか三十分で行けるから半日でも用を足して帰って来られる。しかし役人がA町からD市へ出張するときはそんなバスなど利用しない。
「国鉄のある場合はまずそれを利用すべし」という規則がある。B市へ出ると国鉄があるから、町からその駅まで徒歩、そこから国鉄でずっと遠いC市まで行く。そこから目指すD市へ行く私鉄がある。国鉄のない場合は私鉄というのでそれを利用する。いやこれではいけない。C市の手前のE駅から、私鉄のF駅につながる国鉄支線があるから、それを利用せぬといけない。この支線は回数が少なく、それだと二時間も連絡でつぶすのだが仕方がない。そこでA町からD市までは片道五時間もかかることになる。どうしても一泊の旅費日当を支給してもらわなければならない。嘘のような話だが、現在の実話なのである。しかし、「旅客用軽車両」という名はつけても役人自身はやっぱり「輪タク」と呼んでいるだろう。そのようにパスは認められなくても、彼等がバスで動いていることは事実である。民衆は古式嘆願書を書かされ、役人は旧制の交通路で旅費日当の請求書を出している。これが政治とはどんな寛容な人でもいわぬだろう。                   (四・一五)



最終更新日 2005年06月25日 14時58分27秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「バランス」

 上役が下役におまえはクピだ、言い渡す。下役がそれに承服できぬ場合、その言い渡しを受取らぬことができる。
 これが民主主義なのだが、古い日本にはなかったことだ。ありがたき仕合せ、というような口上で、苦情なく受取ってしまっていたのが日本である。
 この古い日本が今も生きている。
 大臣の招宴に出た。都合があったので中座した。中座とは無礼であると大臣が腹を立てた。腹を立てるまでは個人の自由だが、だからといってその下役をクビにすることは日本的である。だまって首にされた方も日本的である。
 権力をもつことはむずかしい。ともすると暴力にしてしまう。
 こいつは大変な危険だ。私は水素爆弾のことを考えるのである。大臣の手の中の権力などというものは、この危険に比べると、いささかユーモアもあったりするので問題ではないといえるかもしれぬ。水爆となると一点のユーモアもない。
 カミソリを正当にカミソリとして扱うためには、冷静な常識がいる。つまりカミソリはヒゲをソルために存在しているだけということを完全に理解することだ。この理解を失ったヒステリーの本妻が妾の首筋へそれを当ててしまったりすれば事件である。
 原子力というものの発見、人類にとってのすぽらしい可能性とおもう。しかしそれがすばらしいほどに、問題はその使い方である。爆弾製造などというのはどうも常識的ではない。
 原子力を正しく使いこなす能力が果たしていまの人間諸君にあるかどうか、科学の進歩に伴った精神の進歩が必要とおもわれる。この二つの進歩のバランスがとれないととんでもないことになる。
 カミソリというものも進歩して今は安全式になった。子供でも安心してつかえる。原子科学もやがて進歩すれば、やはり安全原子力となるだろう。しかしそこまではまだまだ大変かもしれぬ。そこで原子力という危険物は、良識のある大人たちだけの手で管理してもらわねぽなるまい。
 この良識ということは、つまらんことに腹を立てて下役を無造作に首にしてしまうような、そんな料簡とは非常に違うものである。日本には原子力のカケラもないからいいが、とふと私はおもった。しかし原子力は持たずとも原子力時代にふさわしい良識はもっていて貰いたい。原子力をもった国々とのツキァイはあるからである。古い日本はもう卒業しなければならない。                             (四・一九)



最終更新日 2005年06月25日 15時03分30秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「食違い」

 自分というのが他人にどうみえるか、これは興味のあることである。私はそれを知りたくおもう。とにかく自分が考えている自分とはひどく違っているのが通例らしい。
 トルストイはそれを非常に気にかけた。気にかけたあまりそれを嫌い憎み怖れた。「洟をかむのでさえ人によって癖がある」と彼は友人ツルゲネフに書いたそうだ。その癖を取り上げて笑い話にされるのは屈辱だといったのである。
 トルストイだの、ツルゲネフだのと、私はつい思い浮んだまま無邪気に書いたのだが、これがある他人に極めて気障っぽく見えるらしい。今月の某誌に、高田の「ブラリひょうたん」は学のピケラカシで読むにたえぬといった風に書いてあった。アレアレと私はただ驚いたことである。その文章の著者によれば、このピケラカシは私の劣等意識の現れで、庶民どもとは違うそということを一所懸命みせたいばっかりに私がしていることなのだそうである。私自身は徹頭徹尾庶民のつもりでいるのだが、他人様にこうみえると言い切られれば、なるほどと感心でもして引下がるより他に手はない。人を見るとき眼鏡をかけるのだが、自分をみるときは鏡に向う。とこれは英国の俗言―などということがすなわち劣等意識の現れだというのだろう。この食違いはなかなか面白いものである。私はトルストイと違うから、他人の批評を嫌いも憎みも怖れもしない。面白いものだとして歓迎して喜ぶだけである。人さまざまだろうから、できればそのさまざまを、できるだけ沢山蒐集してみたい。
 以前は劇作などしたが近頃やらぬのは、見よう見真似の器用でやってたのが気恥かしくなったのだろうと書いてあったが、このよう見よう見真似という点には私も賛成した。私は芝居の専門の学校へ入ったこともないし、師匠についたこともない。しかし見よう見真似といえば演劇の仕事に限らず、私のすること全部がそうである。現にこの雑文書きですら決して私の発明ではない。ただその見よう見真似が半ちくだから、誰にも似ないものになってしまい易いのである。
 自分のことを書かれたこの食違いに愉快を感じながら私は、ふと、この欄で毎日放言しつつあることに気づいて妙な気になった。時として放言が誰か個人についてのことになったりする。その度に書かれた方では、私が感じたような食違いを感じ、哄笑したり、不機嫌になったり、時にはトルストイ流に腹を立てたりすることに違いない。ともすれば私はその人たちから、軽蔑されたり、憎まれたり、恨まれたりしているわけである。
「社会は各人の食違いによって面白く調和しあっている」結局私はこんなことを結論した。こう結論したら各政党が、内部にいろいろの食違いをもちながら、ともかく結束したり、合流したり、統一したりしている理由がわかった気がした。共産党内の食違いも、分裂までにはならぬことだろう。                         (四。二一)



最終更新日 2005年06月25日 15時05分21秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「真実のための平和」

「その秘密の統制は非常に厳重で私は独り言をいうのも恐れるくらいです」と、これはソ連にいた人の書いた手紙ではない。自由なアメリカ人が自由なアメリカにいての手紙の一節なのである。
 真実を語ることが平和をもたらす。まったくその通りだ。トルーマン氏の言葉に間違いはない。だが語ってはならぬ頁実がアメリカにもあったことは事実だ。何のカーテンかは知らぬが、とにかく「特秘」の中に封じ込まれて、極めて少数の人にしかその全貌が知らされなかったのは、原子爆弾の秘密である。その極めて少数の人の中に、たった一人のジャーナリストがいた、WLローレンス氏である。しかしジャーナリストとしてその秘密の経過を見るごとを許されながら、見たものをペンにした場合、それは悉く別製の金庫の中へ収められてしまわなければならなかった。
 「0の暁」はその金庫の中に封じられたものがやっと日の眼を浴びることを許されて出た書なのである。はじめて彼は真実を語ることを得たわけなのだが、それにしても彼は、それまで何一つ語り得なかったというわけだ。このことを私は考える。
 平和のために真実を語るべきではあるが、戦争のためには秘密を守らねばならぬ。私は真実を語れと新聞協会で演説したトルーマン氏が、止むを得ぬ秘密を現在持っていることについて、苦しい矛盾を感じているだろうと察しているのである。水素爆弾の製造、これを公開することは許されない。原子力管理委員会ということはいわれるのだが、その完全な実現をなし得ぬかぎりは、独自の秘密の中にそれを抱きしめていなければならぬ。
 原子爆弾研究、製造、やがて決戦までの全行程を、一人のジャーナリストにことさら見聞させたことは、真実を報道させようとする尊敬すべき良心からであったことは十分に理解できる。それでいながらその報道を厳禁しなければならなかった矛盾は、一方に平和を願いながら一方で戦争への用意をせねばならぬ現実の矛盾を、そのまま現したといっていい。
 対立する二つの勢力があり、その対立の中に平和が失われているかぎり、この矛盾を解消することはできない。だから、平和のために真実を語れというのは正しい言葉でありながら、同時にそれは真実を語るためには平和でなければならぬということなのである。私は現在の学者諸君が、たとえば地質学会というようなほとんど戦争とは縁遠いともみられる人々の集りでさえ、平和への要求が決議されたことを当然と考える。今やすべての人が平和なしには真実を語り得ないことを身にしみて感じつつあるのである。
 学者たちのこういう平和運動を、共産党に踊らされているなどと放言する右翼政治家ぐらい平和が何であるか知らぬものはない。平和とは、対立することのどちらをも否定することである。世界政府の説は決して非現実な夢物語ではない。天皇誕生日であるがゆえに私は殊更にこれを書いた。                                 (四・二九)



最終更新日 2005年06月26日 13時13分30秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「臆病」

「作戦の悪魔」と題した先日の拙文に、友人倉島竹二郎君から所感を寄せられた。外の事は全部承認するが、腐木と罵られた少将だけはやっぱり腐木で.あれは責めるべき「臆病者」だというのである。この腐木少将は、部隊長でいながら単身ガダルカナルから真っ先逃出した男であることは、あの戦記にも出ているのだが、私は「臆病」の勇気について考えた。
 戦線にいればだれだって勇士になりたい気になるものだそうだ。勇士とうたわれるのはバカだとは考えても、臆病といわれても平気とまではなれない。一種の集団心理ともいえるし、もう一ついい進めれば、一種の虚栄的な気持ともなるかもしれぬ。
 私は日支事変突発問もない頃「すばらしい臆病者」といわれた。戦争見物などという気持はさらさらなしに、つい上海まで出かけたのだが、それがちょうど中国軍に包囲されて、上海危急のとんでもない最中だった。すくなくとも宿舎から三、四キロさきで戦闘しているのだろうとおもったのが、つい二百メートル、鼻の先が戦線だったので面喰った。
 こんな危険なところにいて、傍杖を食うくらいつまらぬ話はないと、私はすぐ海軍の武官室へいって、佐世保へ帰る通信艇への便乗を頼みこんだ。許されて帰ったのだが、上海滞在わずか四十八時間だった。当時伝えられたゴシップでは二十四時間となっているが、一刻も早くと願ったのだから、たった一時間だったといわれても私は訂正する気はない。
 帰りたい理由はと武官室で聞かれ、戦争はイヤだ。怪我をしたら、バカバカしい。三十六計逃げるに如かずだからと、私は率直に述べた。それで当座しぽらくは上海戦第一の臆病者ということで、いい笑い話になったらしい。だがその後のこと、ある日何とかいう大佐が、待てよといったそうだ。この武官室へ自分できてキッパリと戦争はイヤだから逃げるといったのは、あの男だけではないか。もしかするとあいつは、臆病ではなくて本当は大胆だったのかもしれんぞ!
 私としてはざまあ見うといいたいところである。冷静な判断は無用な無理の愚を悟らせる。つまらぬセンチメンタリズムの英雄主義など吹っ飛ばす。しかしこのような冷静は、すべての人が平衡をうしなってしまっている戦場などでは通用するものではない。
 碁将棋の世界のことにはまるで素人の私だが、今度本因坊になった人など随分冷徹な性格らしい。現在木村名人と戦っている大山八段なども、無感情なくらいにただ計算で駒を進める人らしい。こういう人たちを私は一種の「臆病者」とおもうのである。勝敗の不明な場合、気合に任せて押し切ってみるなどということを決してしない。ただそれが世界が世界だから「堅実」という名で呼ぼれる。
 つかぬことをいうようだが、私は日本共産党の野坂氏があえてあの際「臆病者」にならなかったことを、今になお大変残念におもうのである。            (五・五)

[#入力者注]
「作戦の悪魔」は『ブラリひょうたん』には見当たらない(毎日新聞社版でも)。


最終更新日 2005年06月27日 09時36分20秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「世界的現実」

「キョクガク」のキョクは曲馬の曲だよ、と説明したら、では「曲学」とはサーカスのごとくに学問を駆使する達人のことかと聞かれた。「アセイ」のアは阿呆の阿だといったら、では「阿世」とは世間を馬鹿とみることかと聞かれそうなので、途中で逃げ出してしまった。
 この事件、外国人にはどう理解されたか、気にかかったので外字紙を手にしてみたら、"Prostitutes of learning and time-servers"と訳してあった。字面を眺めていたら、どうも日本の名誉にならぬ話と溜息が出た。
 ホンヤクということはむダかしい。だが時にはおもわぬユーモアがあるものだ。ある人がやって来て、にやにや笑いながら、――「単独講和」は、英語で何というかね?
 相手のにやにやが変だったので、まともな返事をせずにいると、果たして、
 ――One Man's Peace!
 ――じや、「全面講和」は? と突っ込んだつもりで聞くと、相手は落ちついたもので、――All Men's Peace!
 私はこの機智に感心した。百の理論よりもこの賢明至極なホンヤクの方が、明らかなものを明らかにしていたからである。すなわちこれを、も一度日本語に直してみたまえ、「ワン・マンのための平和!」  「全人類のための平和!」
 どっちがいいかは小学生にだってわかるだろう。これなら吉田さんだってわからぬ筈はない。私たちは「全人類」のためにはたらく「ワン・マン」になってほしいと吉田さんに望むのである。
 今度の南原・吉田事件で、日本の文化人諸君がどう動くかに興味をもっているのだが、新聞の投書をみるとそうではないのだが、社説的論調などをみると、南原さんをくさしているのが存外多かったのに意外を感じた。南原さんが全面講和を、世界人類全体の福祉のために叫んでいることは、気の毒にも理解されていないらしい。
 世界人類全体の福祉などというから空論なのだ、と笑いそうだが、この立場に立つことこそが「最も現実的」だということだけは理解してもらいたいものである。現在の低劣な政治家が日本的現状にしか眼を向けていないのは困ったことだが、知識人すらも世界的現実を見ていないとなったら、日本はやがて地球の外へでも脱落しなければならなくなるだろう。
 ガソリンに火がつくかどうかと試してみたのが熱海の大火の原因だったそうだが、私たちは今、極めて引火しやすいガソリン的空気の中に包まれているのである。この世界的現実を悟ればこそ、不用意なマッチ一本が、大した結果を引き起すだろうことを警告しなければならぬ。しかし今の調子だと、果たして大事になるかどうか、やってみなければわからんじやないかと、「ワン・マン・ピース」論者は答えそうだ。熱海の大火さえもが教訓にならぬとしたら、ああどうすればよいのだろうか。ああ1 これは冗談ではない。  (五・一三)



最終更新日 2005年07月05日 02時29分55秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「みじめ」

 生け花を喜んでいた母はよく「お花にみじめをみさせてはいけない」といった。挿した花が咲ききる。勢いの絶頂に達したわけで、それからは衰えに傾くだけだろう。花としたらその衰えを見せたくはない。だからそこで、おもいきりよく花を捨ててしまってやれ、というのである。衰えの美しさなどということもないではないが、そんなことは近代の感覚で、昔者の母にあった筈のものではない。実際母は、折角挿し活けた花を、まだ惜しいとおもううちに捨ててしまっていた。
 これができそうでなかなか出来にくい。先日も立派な芍薬を貰ったのだが、咲ききったとき、そのことをおもい出しながら、翌々日までそのままにして置いた。さしもに豪華なその花が、みじめにしおれてしまったところでやっと捨てた。咲ききったところでおもいきりよく捨てれば、生き生きとした美しさが印象としていつまでも残ったのだろうが、未練を出したためにみじめに落ちきった最後の姿が今に瞼に残っている。後悔しているのだが仕方がない。
 大阪から延若が上京している。老衰しきってはいるが、舞台へ出るとやっぱり何ともいえぬ立派な味だと評判になっている。さもあろうとおもい、今度見て置かぬともはや彼を見る機会はなくなるかもしれぬと考え、出かけて行きたくはなるのだが、以前の元気一杯に豊熟していた舞台をおもうと、待てよと足のすくむ気もする「延若」と彼の名を浮べたとき、立派ではあっても老衰の無残な・舞台姿がまず浮んで来ることになったら、という心配である。で未だに出かけてはいかない。
 私が延若をはじめて見たのは、帝劇での「盲兵助」が最初だった。この最初から私はつかまってしまった。その後ほとんど上京の度ごとに見ているから、印象は極めて生々とはっきりしている。それだけに今度の舞台を見るのが恐ろしいのである。以前の私は歌舞伎に傾倒し、片端から見物したものだが、晩年の羽左衛門、幸四郎を見たとき、見物の度を越してしまった気がさせられた。老境円熟、渋いながらもいよいよ光輝さんらんなどと人は賞めていたが、俳優にとって肉体の生気は何といっても絶体のものである。見物の度を越したと感じたのは、その生気の衰えを老境のみじめさをしみじみと感じたからである。妙なもので、一度でもその老境の現実を見てしまうと、以前の生気撥刺時代の印象が古くなり、消えかかってしまう。
 枯れた芸などというが、その滋味がわからぬ私でもない、しかしやはり十分に血肉の通った生身のものが私には喜ばしいのである。私が俗情をもち過ぎているからだろうか。私には歌舞伎というものを枯淡なものとして考える知恵はない。やはり一種遊興的な色気調のようなものとして受取りたい気持があるのである。「役者にみじめをみさせてはいけない」と私は、母の言葉をひそかにこう翻訳してみた。通用しないであろうか。    (五・一八)



最終更新日 2005年07月05日 02時32分11秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「教育と「公務員」」

 六三制教育を完備するために、教育の質をよくするということがいわれている。まことに結構なことだが、誰がどうよくするのであるか、方法を誤ると逆効果になりかねない。
 未熟な若手の教員が槍玉に上るが、老朽の校長、教頭の方は問題にされていない。ところが実際はこの方に考えさせられるものがある。旧師範出の旧教育的な頭を無理矢理に新教育の方へ、形だけひん曲げてごまかしている。その下にいる本当に新時代の若い教員は圧服されて手が出ない。教育委員会というものがあるが、多くの場合は教育長なるものに動かされている。この教育長は旧師範出の校長上りが多い。一種の旧師範閥を作り上げて、反動的な役割を露骨に演じている。古いものの大掃除が絶対必要なのだが、それをさせぬような巧妙な仕組が出来上っている。文部省はこの弊害に眼をつけなければならぬ筈なのだが、どうしたものか、ちっともやっていない。
 そこへもって来てPTAなるものが多くの場合革新嫌いと来ている。新教育への協力者にならず妨害者になっている例は非常に多い。新しい酒を古い皮袋に盛ろうとする態度で、思いきって新教育へ踏み出そうとする若い先生を異端視する。
 万事一度ご破算にして、六三制やり直しと出かけた方が効果があるのだが、今では形式だけ出来上ったのをそのままつづけようとするのだから、期待を新しくすることなどは文部大臣が代ってもできやしない。あえてご破算をやる勇気があれば格別だが、普通の勇気だけではやりおおせるご破算ではない。
 欲しいのは進歩的に自由な文化人たちが文化の問題として教育の実際に眼をつけ、それに対する具体的な批判をじゃんじゃんと発表することである。つまり進歩的に自由な若い教員たちとの提携をして、彼等をバックし、彼等の発言力を強めてやることである。六三制という制度の改新はあったのだが、それに伴ってぜひ必要な教育革命は今日にいたるまで行われていない、それをやらせることである。読み書き算数というような極めて基本的なことが、どうでもいいような工合に投げ出されている実情など、目のある人間がみれば大変だとわかるのだが、それが教育の盲点になって打ち捨てられている。日教組が出した「教育白書」はその盲点の所在を明らかにしているのだが、さてそれをどうすべきか、これは日教組の力ではどうにもならぬところに問題があるのである。
 教員を「公務員」として置くこと、これは教職を生活職業の場として考えていることで、それ以上、教育家としての特殊性を認めていないことだ。これらの是正が必要となってくる点、教育の本質の上から吟味し直してもらいたい。現在の政治家はすべてこの本質的吟味を忘れているのである。現在の老朽校長、教頭はただその「公務員」だけになりきっているのである。                                      (五・一九)



最終更新日 2005年07月05日 02時33分31秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「人生劇場」

 私はもと芝居の台本を書いたり、演出したりしていたので、世間のこともつい芝居になぞらえて考える癖をもっている。人間は世間を相手にして、大芝居の打てるキッカケを恵まれることがあるものだ。しかし存外、それをうまくつかんで世間を唸らせる人はない。
 菊田一夫君が長い間の「鐘の鳴る丘」を止める決心をした。NHKでも諒として、先月限りということを決めた。ところがある筋から続けろといわれたそうだ。作者が云々だというと、では別な作者に書かせたらいいではないか、とにかくこれまで売込んだものを止める手はない、といったそうであろ。この理由、私にはよくわかる。
 だが作者の菊田君からすれば、「鐘の鳴る丘」というものはともかく自分が心血を注いで来たもので、だからそれを、今さら他人の手に任せるとなると忍び難い情が湧く、著作権がどうのこうのを問題にするわけではないが、あくまでもこれは自分のものにして置きたい。だから続けるとあるからには、やっぱり自分が執筆する、とこう主張したというのも、その気持、これも私にはよくわかる。だがこの際、ではというので菊田君が、「鐘の鳴る丘」という外題をNHKへ売渡すことにしたらどうだろう。百万円、もっと高くいえば高い方がいいが、NHKに払わせたその金をそのままぽんと浮浪児救済の事業に投げ出す。立派なものだ、美談だ、新聞はこぞって書立てる。先頃菊田君をいささかクサらしたらしい事件の影などは、もちろん跡形もなくふっ飛んでしまう。
 というようなことを、つい考える私なのである。だから徳田球一君が衆議院の考査委員会で滅多無性に吠え廻ったと聞いたときにも、快漢惜むらくは芝居を知らぬとおもった。人しれず私は、徳田君があの際やるべき芝居の筋書を考えていたのである。
 参議院へ証人として喚問されたときにも吠えたが、あれは参議院だからと私は臆測した。参議院などというのはどうせ無用のものだから、どう軽蔑しようとも、その理由をいい立てることができる。その魂胆からだろうと考えた。しかし衆議院は彼自身がその議員の一人なのだからそうはいかない。そこで考査委員会の場合は前とうって変って、極めて冷静に、諄々として説き去り説き来るという風な、いわば逆手に出て、世間をアッと驚かすにちがいない、とこう私は期待していたのである。書記長とあるからには、説き去り説き来るだけの共産主義的材料と弁舌とは十分もっているだろうと、私は買い冠っていたのである。宮本武蔵の二刀流、鮮やかな捌き分けをしてみせると、弥次馬的ながら実は非常に楽しみにしていた。ところがあの通りだったのである。役者としては落第と私は点をつけた。
 こういう見方で眺めると、日本の政界、満足な役者は一人もいない。だから高い木戸銭のとれぬドサ廻りの下らん芝居しか演じられていない。見物席の国民は、もう退屈しきっているのである。                         (五・二〇)



最終更新日 2005年07月11日 09時41分49秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「感傷と学問」

 何の気もなくラジオを入れたら、北大の学部長が声涙ともに下る調子で、学生に訴えていた。
 ーー残念……私はただ一言……ヒュー……ヒューマニズム…… あとは鳴咽でわからない。
 名優ギャアリックだったか、アーヴィングだったか、あり合せた料理のメニューをとり上げて、声涙ともに下る名調了でそれを朗読したら、一座の人たちが悉く感動して泣いてしまったという逸話、有名である。
 もちろん北大の学部長は芝居をしたわけではない。だが声涙とも下る調子が、その調子だけで並みいる人たちを感動させてしまった点は同じらしい。読売紙の伝えるところでは、一千余の学生教師が引き入れられて、ススリ泣きをして、すばらしい劇的シーンであったとある。人間心理の自然な現象で、さもあったろうこととうなずかれる。だが、そのススリ泣きの済んだアトでは、また議論が元のごとくに左右に別れたことだろう。こういう感動はよしんばどう強く働いても、冷静な知性をどう動かすものでもないからである。
 今度の学生の問題、学問の自由を守るという冷静な立場からの、きびしい冷静な批判からでなくては本当の解決をすることはできぬだろう。ちと残酷ないい分だが、学部長の声涙はやはり喜劇でしかなかった。感傷では処理できぬものを精一杯感傷的にあつかってしまっている。これでは「おかわいそうに」と感傷的に味方する人々以外を動かすことはできない。
 一緒にこのラジオを聴いていた青年が、眉をひそめて、大東亜戦争時代をおもい出しますなといった。この青年は決して学内細胞に味方している急進主義者ではない、イールズ博士の理論に不服なら理論をもって立向えといっている一人である。
 学部長は、教育に自信を失ったと嘆いているそうだが、どんなに感傷がはげしくともそれに打負かされることなしに、学問的知性の確かさを守るのではないと教育の責任は果たせない。この学部長は多分、学者であるより教育家であるよりも、もっと余計に感傷家だったのだろう。だとすればなるほど現在の位置にいるには不適格である。
 今度の事件の責任を彼に背負わせるのは気の毒だというので慰留することになったそうだが、この慰留にしてもまた感傷かもしれない。大切なことは責任がどうかということよりも、仕事に対して適格かどうかということである。彼を気の毒がり、彼を慰める道は、現在の任を去らせても外の方向でやり得ることだろう。
 学問は政治よりももっと冷酷なのである。直接真理につながるからだが、この冷酷ゆえに政治に対する優位性が成立つのである。今度の問題はどこまでも学問第一主義で処理されねばなるまい。学者大臣天野文相の存在価値の見せどころである。学問のための大臣になるか、自由党のための大臣になるか、何としても大舞台である。         (五・二三)



最終更新日 2005年07月11日 10時49分58秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「新日本」

 孝宮さんは二十歳の現代少女だった。それがご婚儀となると、平安朝時代の妙な衣裳をつけさせられた。お婿さんの方は近代風のモーニングであった。
 この不調和はなぜなのか、私にはわからない。だが不調和ということになると、ご婚儀の日の式場の写真だった。皇大后さんは鹿鳴館時代そっくりの洋装で、真珠の首飾りなどされていた。皇后さんは例の宮中服というので、まだわれわれには眼慣れぬものを着けていられた。孝宮さんはオスベラカシで、緋のはかまにコウチギとかいうものを着ていられた。天皇さんはモーニングで、手にシルクハット、花婿さんもモーニング。
 ご一家おそろいのこの写真が、外国へ紹介されたときのことを私はおもった。外国人には到底理解できぬだろう。不可解なパラパラが、バラバラのままで誰にも怪しまれずに済んでしまうとしたら、日本民族というものは全くえたいの知れぬ一つの謎だとおもうかもしれない。日本人の私にしてからが、ふとそれに気づいて改めてその写真を眺めてみたら、何ともいいようがなくなってしまったのである。
 多くの日本人が格別可笑しいともおもわぬのは、これと同質の可笑しさが日本人の生活全体の中にあるのだろう。敗戦後一斉に新日本へ踏み出しはじめたなどというのだが、その新というのは、世界歴史的に新なのか、旧日本の復活的に新なのか、あの愚劣な戦争を引起したいわゆる日本的流れの否定なのか肯定なのか、これらのことがあらゆる面ですこしもハッキリしていないのである。
 新憲法はできたものの、日本人の生活は大して変っていない。尾崎翁はアメリカで日本は以前よりも悪くなりつつあると率直に語ったそうだが、依然として米を食い、依然として畳の上で生活し、依然として神体のわからぬ氏神さまの祭礼をやり、しかし同時にまた勇敢に赤旗を振り、以前よりも活撥にデモ行進し、でも首を切られれば最後にオトナシク観念し、ハダカ・ショウに夢中になり、競輪という世界に類のないバクチに熱を上げ、かとおもうと引揚げの元将官を閣下扱いで歓迎し、……と書いて行くとキリがないが、これらの現象が当然のごとくに雑居して、それに対して人々は怪しまずにいるのである。
「単独講和」という言葉を、私はふと国内的に考えてみた。この雑然たる日本人の全部と講和せずに、この雑然たる部分のある部とある部だけ講和するというような意味での「単独講和」だったら、それこそ、大変なことになりはせぬかということだ。しかし国家としてまだまだ一致したスタイルとでもいうべきものが出来ているとなると、そんなことだって一つの心配として浮んで来るのである。
 とにかく私には、一枚の写真を前にして複雑な感想が浮んだ。新日本の道は遠く遠くずっと遠い気がさせられたのである。                   (五・二四)



最終更新日 2005年07月11日 10時51分39秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「花」

 花とあるからには何でも美しい、というのが常識のようだ。ある花道の家元という人の文章にもそう書いてあった。だが私は、それほど無私公平にはなれない。ことさらに反撥するわけではないが、どうみても美しさの感じられない花がある。季節のものだが卯の花など、もう一寸で嫌いだといいきれそうな気がする。
 夏になると色彩のない白いのが多いが、この白が、大体鈍くて光らない。何となく気力がない。同じ白でも、椿の白玉などとはひどく違う。
 この春、庭の白玉椿が咲いた。旧主藤村先生が、ことさら、どこからか移し植えられたのだそうだが、あまり見事なので一枝切って床へ挿した。茶褐色の細長い素焼の壷へ投げいれたのだが、葉の色の濃い逞しい緑と、その壷の茶褐と花の純白とが、ブラックの好んで描くような色調を見せていた。
 床の壁には梅原龍三郎氏の青磁の壷に赤いバラ一輪の小品がかけられていたのだが、小品ながらこれはかなり強い力のあるものだ。それと図らずも、生きた椿の白玉とが取組み合うことになったのだが、一緒にして眺めていると、いつか梅原芸術の方が負けて来るとみえたので驚いた。とうとう私は、絵の方をはずして別な方へ移した。
 しかしこれほどの強い花にめぐり合うということは、そうザラにあるものではない。その後、ことさら私は梅原画の下に大輪の牡丹を三輪も挿して置いてみたのだが、この場合は花の方が負けた。
 画家のドガは花嫌いだったといわれている。ヴォラールの「画商のおもいで」の中に、フォランの家へいった時の話が出て来る。室へ入ったら誰もいない。テープルの上に花が置いてあったので見えぬところへ片づけた。ところがいざ食事となったら、女中がわざわざドガさんの為にというので、それを探し出して食卓の上へ置いた。ドガが腹を立てて飛び出していってしまったとある。
 すべての花が嫌いだったのではないのだろう。注文がきびしく気に入った花以外は許さなかったのかもしれぬ。ドガにいわせれば、花なら何でも美しいなどという日本の花道の家元は花について最も鈍感な奴だというかもしれない。このドガに賛成したい気持は私にもある。
 トルーマンとかスターリンとかいう人たち、この花などについてはどんな気持をもっているのだろう。近代の政治というものを考えたとき、人間の生活が完全に自然から切放されてしまっているような、一種非人情的なものを感じさせられる。ある花を愛したり、時には憎んだり、人間的感情を人間以外のものにぶっつける生活などというものは、もはや誰からも忘れられてしまっているようにおもえる。これを取戻すのが本当の世界平和だという風に私は考えるのだ。こうなると多分、空論どころか愚論とののしられることだろう。(五・三一)



最終更新日 2005年07月11日 10時53分36秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「食欲」

 羊頭をかかげて狗肉を売るというが、狗肉の方を羊肉よりも喜ぶ人だったら、それを売りつけられて儲けものをしたとよろこぶだろう。
 中国清朝の一文人、何よりも狗肉をもって美味なりとした。ある日、逍遙して山中にいたる。山中にぼろ小屋があり、そこで一老人が子供を相手に狗肉を烹ていた。うまそうな匂いが山中だっただけに余計うまそうに匂って流れる。
 ーご馳走のようですな。 ―あんたも、これが好物の組かな? ―たまらんですよ。
 ではと招じられて座についた。文人大いにいい気持になったので、お礼心に何か書いて進ぜたいと申し出た。ではというので筆墨の用意がされた。文人は喜んで筆をふるった。蘭を描き、竹を写し、詩を書き、文をつらねた。
 ――折角のご好意だ。わしの為にと愚名をお入れ願いたい.、 ――もとより望むところ。
 とその主人の名を尋ねて誌したのだが、ふと気づいたことには、それが町で有名な金持と同じだということだった。
 ――いや、暗合は間々世間にあること。だが、おそらくはワシの方がその俗人よりもずっと年長だろう、同じであっても関係のある筈はない。
 ところが後日、その文人が金持の家へ招かれて行ってみると、ずらりと、山中で書いた作品が並べて掛けられてあったので、これはとなったそうだ。かねてからその金持に頼まれていたのだが、彼の俗卑を嫌って、彼の為にと書き入れるのを断っていたのだそうである。
 狗肉をかかげて、まんまと文人をとりこにしてしまったのだが、この文人の名は鄭板橋である。硬骨で知られていた清者なだけにおもしろい、つまらぬことで人間は釣られたりするものである。
 この場合、鄭板橋を誘惑したのは食欲だが、そのときの彼は別に空腹だったのではあるまい。食欲というやつは、必ずしも空腹だから湧くものではない。たった今一杯に満腹してしまった胃袋でも、好きなものをみるとつい食指が動くのである。
 進歩的な思想を、頭から腹まで一杯につめこんだ立派な人が、何かしら妙な食欲でつまらぬ動き方をすることがある。面白いといえば面白いが、利口なこととはいえない。
                                  (二五・六・七)



最終更新日 2005年07月11日 10時56分41秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「文部大臣に」

 六三制はいろいろな困難をもたらしているが、真面目な教育家はその困難と戦って実績を上げようとしている。この努力には敬意を払わなければならぬ。
 町の中学校長、篤実でまことに立派な教育家である。新制中学創立とともに町へ赴任され、以来懸命に努力してくれた。お蔭で他町村の羨むほどの中学になりかけている。この調子でいけば模範校にもなれるだろう、と大いに期待していたら、突然上からの希望でやめることになったと聞き驚いた。
 校長の椅子は役所や会社の部長局長のそれとは違う。教育という仕事ぐらい人柄の反映するものはない。校長先生といって慕いよっている生徒たちとの気持のつながりだけ考えてもわかるだろう。一緒に働く他の先生諸君のもつ信頼感、こんなことはすべて生きた魂の結び合いである。これが一挙に崩されることは恐ろしい。
 教育界の人事というもの、この生きた結び合いを無視してできるわけのものではあるまい。それなのに事実は「上からの希望」という妙なもので動かされる。おとなしい校長は笑って、私も年齢が年齢だからといっているそうだが、校長はよくても校長に信頼していた先生諸君と、慕いよっていた生徒たちはどうなるか。PTAやその他、町がこれに対してどう動くかと見ていたが、ふしぎなことに問題にしていぬらしい。
 英国の小説に「チップス先生、さよなら」というのがある。青年のときに赴任して、その一つ学校に老齢引退の日まで勤め、引退してからもなおその学校の子供たちとつながって行く美しい物語だが、一家三代にわたってその先生の教え子だなどという話は全くもって微笑ましい。しかしそんなことは「上からの希望」などという愚劣な手が作用したり、それに対して民衆が無関心だったりする国にはあり得る筈もない。
 アランは「教育論」で視学を憲兵だといって憎んでいるが、日本の憲兵視学は六三制新教育となっても残っている。旧師範閥というようなものがこの憲兵力を巧みに利用して自分たちの保身をはかっているようなこと、いたるところで指摘できるだろう。
 教職に対する「免許法」というのが施行されるが、今年中に校長になっていれば仮免許が得られるので、必要な資格単位をとらずともすむのだそうだ。閥というやつは、こんな場合に露骨な振舞をするものである。
 しかしこんな事は多分「小さな出来事」として文部大臣の手許にまでは報告されぬのだろう。しかし果たして「小さな出来事」か、私はこれを天野大臣に宛てて書いたのである。
                                    (六・八)



最終更新日 2005年07月11日 10時58分39秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「ブルータス」

 ブルータスという名の、非常に忠実な犬がいたそうだ。主人の名をシーザーといったかどうかはしらぬが、とにかく、畜生には似合わず正直で、賢明で、従順で、誰からも可愛がられていたものだそうだ。
 忠犬の中なる忠犬、このプルータスは、たとえば肉屋へと使いにやられる。買物籠を口にくわえて飛んで行く。肉屋はそれへ見るからにウマそうな肉をどっさり詰めてくれる。帰るとぎのブルータスは、ぷんぷんとそれが匂うのを鼻の先にぶら下げるのだが、かつて一度も、そのため涎を流したりしたことはない。
 ところが、こんな品格の倶てたのはブルータスだけだった。ほかの犬どもが集まってくる。こいつらはブルータスの主人のことなどはすこしも考えない。自分の胃袋のことだけしか考えない。だからブルータスの忠実を、とんでもない愚だと罵ったものだ。犬は犬のためだけに働け! その買物籠の中のものをこっちへよこしてしまえ! とある日この無頼犬どもはブルータスの帰りを待ち受けて襲撃した。
 多勢に無勢、暴力には敵わない。引ったくられた買物籠は転がった。中のものがこぼれ出た。無頼犬どもはたちまちそれに食いついた。ああ何てウマい上等の肉だろう!
 ブルータスはこれを悲しげに眺めていたそうだ。彼は仲間たちの不埓を、犬族のための大きな恥辱だと考えたかもしれぬ。だが何としても彼等が喰いついているのは、たまらなくウマそうだ。彼等は舌をなめずりながら夢中でばくついている!
 涎がブルータスの口のまわりに垂れた。見ているうちに忠実な彼が、ただの犬になってしまったのだ。とうとう彼もその群の中に飛び込んでしまった。がぶりと、一片の肉に喰いついてしまったのである。
 ――ああブルータス! おまえまでもが……?
 始終を眺めていた人間が、この結末に落胆していったというのだが、これはハイネの詩にうたわれている話である。ところでこの諷刺、どう解釈したらいいのだろう?
 かつては正直で、賢明で、従順で、まったくこのブルータスのように有徳だった人が、最近は必ずしもそうではないとおもえるようなこと、決して珍しくはない。しかしそれは果たして堕落か、それとも正当な自覚か。入梅の重たい空を眺めながら私は、とりとめもなく考えている。                              (六・一〇)



最終更新日 2005年07月11日 11時00分41秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「落第生日記」

 原敬はえらかったと誰もいう。だからこっちもそうかと思っていた。ところが「原敬日記」というものが発表されたので読むと、随分くだらない、単純なボス政治屋である。
 だが本当の問題は原敬にはないだろう。当時の日本の政治というものがあんなものだったというその事の方にあるだろう。元老の少数のそのほかのものがそれぞれの利害で日本を料理した。日本の運命を引っ背負っているような顔をしながら、正体は決してそうではない。
 なるほどこれならば兇刃が彼を仆した筈だとわかる。博徒の親分同士のつき合いのようなものの中で暴力が生まれるのは必然というほかはない。しかもその暴力も民衆的のものではない。
 民衆が政治に反抗した場合は必ず大衆革命である。日本にはその革命的民衆がいなかった。議会政治にはなっていたのだが、実体は少数者の権力政治で、政治とはそうしたものという考えが少しも改まっていなかったのである。それでいて「平民宰相原敬」などといわれていたのだから変である。
 いまわれわれが注意すべきは、原敬時代のこの政治が、今も伝統としてどこかに残っていはせぬかということだろう。およそ民主主義的なものではないだけに、この伝統は残りなく断ち切らねばならぬ。その意味で「原敬日記」は時宜を得た発表といえる。
 現在発表されているのは大正中期だが、正しい民衆政治の思想が、まず当時の知識階級の覚醒によって活撥に動きはじめた時代であった。しかし平民宰相は頭からその弾圧をしようとしていた。もしも彼が民衆政治家であって、世界史的な動きの中で新しい政治を理解していたら日本は幸福な展開をしていたことだろう。無知な保守政治家の反動が、いかに国を誤るかの実例、まざまざとわかるところは、現代政治家にとっての教科書だといっていい。
 だが教科書は教科書だけでは不足なものである。その中にある教材を間違いなく咀嚼させるためには、当然適当な注釈解説書がなくてはなるまい。教科書の方は近くどこからか出版されるそうだが、同時に注釈解説書も出してもらいたい。
 原敬はエラかったなどという迷信が先行して、この日記通りの政治ぶりをやってみようなどという心得違いが、もしも出たら大変な災難である。死んだ人には気の毒だが、有名だった彼も、現代では落第生として扱われねばならぬのである。        (六・一三)



最終更新日 2005年07月11日 11時02分29秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「浴衣ぱなし」

 知合いの若夫婦が、そろって新しい浴衣を着て遊びに来た。いかにも夏らしい美しさである。イキイキとしてよろしいと祝福したら、おかげで、秋風が吹く頃までは本が読めませんと、悄然として男の方が答えた。
 一反三千円もすると聞いてはてんで手が出ない。欲しがりません買えるまではと、若いながら細君も我慢していたが、七百五十円とまで下がると、ねえ、といい出さずにはいられなかった。夫婦で千五百円は、月収税引き手取り九千円也にとっては大幅の支出である。
 実はこれが浴衣ばかりではない。今春に入ってからの繊維品の下落、たとえば靴下三足百円と来た。今までは大孔のあいたのを無埋にもつくろって、新品との入れ替えをせずにすましていたのだが、こうなるとやっぱり買いたくなる。百円なら雑誌一冊倹約すればすむだろう。
 しみじみ見ればワイシャツも随分と無理をしつづけたものだ。これが三百円で買える。単行本を買うのを二冊つつしめば一年間の体裁がつくれる。さてワイシャツが新しくなるとネクタイだって替えたくなる。
 手が出せずにいた繊維品への誘惑が、どっとセキを切った形。ここに数ヵ月続いての家計簿のやりくりは並み大抵ではなかったと、細君の方は笑っているのだが、そのやりくりの結果うんと減らされたのは主人のお小遣いであろう。なるほど夫婦そろって新浴衣ともなれば、当分の間一冊の雑誌だって買えやせぬだろう。
 親しい友人が来て、原稿を書いても稿料がとれず、著書を出版させても印税がとれずだとこぼした。そこで私は彼に、
 ――その敵はどこだとおもう? ――敵がどこかとは? ――恐るべきものは浴衣だよ!
 大風が吹いて桶屋が繁昌したという話とは逆なことだが、右の浴衣夫婦の話をしたら、なるほどと友人も苦笑して、浴衣も買えれば本も買えるというのでないと、本当の生活安定とはいえないなといった。天二物を与えずとはこの事だろうと末は冗談になったが、一方を補うことは一方を欠けさせることだというのは、たしかに生活の不足である。
 以上のこと、私は単純に世相の一片を抜き出しただけなのだが、しかしこの一片から何かしら会得しなければならぬものがありそうな気もする。世を憂うる人に深く考えてみていただきたい。                           (六・一七)



最終更新日 2005年07月11日 11時04分52秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「水のうまさ」

 Mマッカーサー元帥を訪ねて、Bブラッドレー、Jジョンソンの両巨頭がやって来た。三者が集まれば「M・J・B会談」だろう、と私は例の悪い癖で軽口をたたいた。「M・J・B」とはコーヒーの名である。
 モカ・ジャワ・ブラジル、この三種のコーヒー豆を適当にまぜて味を出すというが、コーヒー好きの私は混合を好まない。戦前、豆を選ぶことが自由だった頃には、結局のところモカの生一本が結構だとして、それ以外は用いなかった。
 入用なだけを丹念に碾いて、湯加減をみながら気をこめて淹れる。朝の一杯のコーヒーのために一時間もかかったりするのだが、こうやって親しんでいると、コーヒーも日本の茶とおなじに微妙なものになる、精神と茶と隙なく一致したとぎうまい味が出るというが、気持の落着かぬ日のコーヒーはやっぱり味がぴたりとしない。ぴたりと気が合って満足に出たときのコーヒーは、何ともいえず味の深いものになる。「茶道」というものがあるなら「コーヒー道」だってあるべきだと私は考えた。
 一杯の茶のために玉川上水の水を汲ませて運ぽせた、という江戸通人の話が残っているが、水道の水ではコーヒーもうまくはのめない。ある年の夏、中禅寺湖畔のホテルで過したことがあるが、そこで淹れたコーヒーは格別にうまかった。
 自慢の豆を持参し、アルコール・ランプで湯を沸かして、ホテルの自室で淹れていたのだが、ホテルの主人に一杯振舞いながら、そこの水のよろしさを賞めたら、以前は一度ある方から同様に賞められましたといっていた。そのある方とは、英国から来訪のコンノート殿下だったそうだ。水のうまさに気づくなどというのは一種の貴族性だが、この貴族性は貴族だからといって必ずしも持っているものではない。同時にまた私のような平民でも持ち得るものなのである。
 日本をして東洋のスイスになどというが、山水の美に恵まれているスイスの水はどんな味がするのだろうか。訪ねてそれが味わいたい気がする。水の味などというものは戦雲的な騒々しさの中ではとらえにくい、それを超越した平和な環境の中でなければのものである。私が中禅寺湖の水を賞め上げた頃の日本は、まだ満洲事変も起らず、まったく泰平な時代だった。
 こっちの水はうウまいそ……
 螢狩りの子供のうたっている声がきこえる。              (六・一九)



最終更新日 2005年07月11日 11時06分47秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「技術」

 共産党へ入った若い画家が来て、食えなくなりましたよと訴えた。共産党でない仕事をしたら食えやせぬかといったら、人間には節操がありますからなと、眉を上げ昂然としていった。まことに立派な、人格的な一言である。
 だが私はいった。フォードの運転をしていたからといって、シボレーのハンドルには触れないといったら窮屈すぎる。イデオロギイは別として、絵の技術家として考えてみたら、ノンビリ息のつける生き方もあろうじゃないか。すると相手は純情でまだ青年だから、私は芸術家だと反撥して答えた。
 そこで私は、手許にあった一冊の本を開き、その中にあったルイ・ダヴィット筆の素描を見せた。皮剥人の馬車の上に後手で縛られながら断頭台へ送られて行く王妃マリー・アントワネットの姿を後世に止めたものである。
 画家ルイ・ダヴィットは革命家だった。だから彼は同志マラーが、浴室の中でシャルロット嬢に殺されたとき、光栄ある同志の最後の姿を感激をもって描き止めたものだ。だが王妃を描いたときは別な感激だったろう。相手は憎むべき敵である。勝利の感激で満たされていたにちがいない。しかし画家としての技術は、そんな感情に関係なく、ありのままの王妃の姿を残した。王妃はつよく堅く唇を閉じ、自分を殺すものに最後まで軽悔の眼を投げている。傲然としてどこまでも王妃たることを失っていない。
 このあとダヴィットは、同志ダントンの姿を描いている。が昨日まで同志だったダントンもそのときにはもう同志ではなかった。昨日の友は今日の敵、ロベスピエールが彼を刑場に送ったのである。ダヴィットの見たダントンは、さきにマリー・アントワネットを送ったその馬車に乗せられて、彼女の運ばれていった場所と同じ場所へ運ばれていったのである。
 そのダントンが、今や自分を描こうとするダヴィットを見て、何といったかわかるだろう。憎悪と軽蔑とをこめて「卑怯者!」
 この卑怯者ダヴィットは、ロベスピエールと最後を誓ったのだが、いざとなると逃亡して助かった。助かって時代が変わると、帝位に即いたナポレオンのために盛大な戴冠式の景観を描いて、引きかえに男爵の称号をもらった。芸術としてはいざ知らず、画人としての技術が役立ったのである。
 この話をしたらさすがに私の知人の共産党青年画家は、ボクにはできないとつぶやいた。私としても決してダヴィット流をすすめたわけではない。私はただ、技術というものはこんなものらしいと話しただけなのである。芸術となるとちがうものかどうか、それはそっちで考えていただく。                                  (六・二九)



最終更新日 2005年07月11日 14時54分36秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「話しことば」

「先生、テレビジョンは日本語で何んといえばよいのですか」生徒に聞かれて弱ったと、中学の先生がいっていた。私にも答えられない。テレビジョンはテレビジョンで、それがそのまま日本語だろう。
 テレビジョンではちと長ナぎる、というのでテレビと略していう。テレビでは意味がわからぬという人があるが、片仮名ではテレビジョンでも意味はわからない。日本語化してしまえば何も、テレは何でビジコンは何と分解して考える必要もあるまい。となったら、簡略なテレビで通用さした方が簡略なだけいいではないか、という説も出る。
「国語白書」というものが出たそうだが、国語審議会の力で国語をどうするということもできぬだろう。現在の混乱、手に余りましたと嘆息してみせるよりほかはなかったろうと推察する。義務教育の子供たちの表現力の低下はなどと論じている間に、ギョギョなどという妙な言葉である気持を表現することを子供たちはどこからかおぼえて来てしまうのである。
 だがもちろん学校では、ギョギョなどという表現を正しいと許す筈がない。学校では正しい国語で話させようとする。ところでこの正しい国語とはどんな風のものか、子供たちが学芸会の舞台などでしゃべっているそれを聞くがいい。
 ――ボクラはホコリを守ることを喜んで、ヨイコになるための勉強を、社会科でケンキュウしています。コンニチまでのセイカをホーコクすれば……
 これを聞いて猿芝居とか九官鳥とかをおもい出すのは、一所懸命の子供に対して大変無情のようだが、何としても我慢ができなくなるのである。もっと自然な、素直な話しことばはないものか。日本の子供は日本語でしゃべらせたい。ヨソユキ語は彼等にとって外国語である。
 しかし自然な日本語というやつ、今ではそれが、どこにどんな形で存在するのか、実は学校の先生自身それがわからぬので当惑しているのである。無責任に自然に任せたら、ギョギョというような表現を見送らねばならぬことになるだろう。
 こうなるとどうも国語審議会は、改めて「日本語」というものを作らねばならぬとなりそうだ。新国語の創作、これはエスペラントを創作したほどの努力のいる大事業である。仮名つかいとか漢字制限とかは、多分二の次三の次の問題だろう。
 つまり私のいいたい事は、まず「話しことば」の問題、これに全力を集中してほしいということなのである。私は「テレビ」を自然な話しことばだと考えている。たとえばの話が……。                                        (七・四)



最終更新日 2005年07月12日 00時20分18秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「ミス日本」

 美人はこの世の宝物だろう。ミス日本などと騒ぎ立てる。外国へまで押出すというのでどんな美人かと誰も眼をみはるのだが、これは今さらはじまったことではない。
 明治四十一年というと大分古い。その頃に「日本一」と自称した時事新報が、日本一の美人を募ったものだ。この趣旨が、海の彼方のシカゴ・トリビューンからの挑戦に応じたもので、彼地で選ばれた「米国一」と競争させようというのだった。
 条件として「女優芸者その他容色を売るものは採らず」とあり、すべて良家の淑女からというのだったから、当時としてはセンセーションだった。「本社独力のよくするところにあらず」というので、その頃の地方有力紙全部の協力を求めた。その結果を、画家の岡田三郎助氏や、役者の河合武雄、中村芝翫(後の歌右衛門)、人類学者の坪井正五郎、茶人の高橋箒庵、彫刻家の新海竹太郎その他の人々に詮衡させたのだが、選ばれたのはミス福岡県の末弘ヒロ子という令嬢だった。
 この時の美人写真帖が出ているが、その序文を今読むと面白い。「此帖載する所は悉く良家淑女の眞影にして、苟も容色を以て職業の資となすが如き品下れる者に非るが故に、観者は相應の禮意を以て之に臨み、彼の坊間に有り觸れたる醜業者の寫眞などと同様に心得ざるやうありたし」と先ず冒頭で戒めているのである。
 ミス日本に当選した末弘孃は、その後間もなく、日露役の司令官将軍だった野津大将の息子さんの夫人に迎えられたように記憶しているが、今でも建在でいられるかどうか。最近選ばれたミス日本と二人会わせてみたら、 この間約半世紀の時代の距たりなどはっきりして面白いだろうとおもうが、どこの雑誌社でもまだやっていない。
 ある雨の日のつれづれ、書棚をかき廻していたらこの美人帖が出て来た。展いてみて意外におもったことは、半世紀前のミス日本の方が、どこか瑞々しく、豊かで、いってみれば屈託なく、自由に見えたことである。現世のミス日本の方がむしろ古典的につめたくて堅い。外国美人に挑戦するとしたら、昔の方が超日本的で国際性をもっていそうにみえたことである。
 考えてみるとそれは、奔放な女流歌人与謝野晶子女史を生んだ時代でもあった。昔の方が存外新しかったと考えると、何か索莫としたものを感じさせられる。雨の日だっただけに私はやっぱり憂鬱になった。                         (七・五)



最終更新日 2005年07月13日 00時07分39秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「御礼言上」

 百何十日かぶりに、ふたたびのお目通り、帰り新参ということになれた。仕合せというものである。お蔭をもちまして、何はともあれまず、病中いろいろ案じて下すった方々に、心からあつく御礼を申上げる。
 なかなかの事では動じぬつもりの私であったが、今度だけはすくなからず恐縮した。私というやつは、それほど面喰った。病気の方はただ生き死にの問題だけだから何でもないのだが、病気休稿となると途端に、東西の各地未知の読者諸君から、ぞくぞくと見舞のお手紙が来たことである。素直に私はありがたくおもった。同時に腹の底から友愛を受けるに値する人間かどうか自ら考えて文字どおり「身に余る」とおもったからである。
 その中に、本当に病気なのかというのがあった。時勢が妙な方向に移ったので、しばらく世の中を横目で傍観してお茶でも飲んでいようというのではないか、だったらその料簡わるいわるいというのである。なるほど、私が血を吐いたときは丁度あの三十八度線が火を噴いたときだった。
 病気には勝てぬというのでペンを捨てたのだが、負けきってしまったのでは話になるまい。やっぱり勝てたからこそ! などと書くと、背中がちょいと寒い気がする。戦争の話でもしているみたいで楽しくない。病中の私は、床の上に仰向けに寝て、天井板を眺めながら、ラジオのニュースが戦況を知らせるのを聴いていた。聴きながら、病気はイヤなもの、何としても無事息災がよろしいと考えた。私はいまこれを書きながら、戦争はいやなもの、何としても平和安穏がよろしいと考えている。
 一炊の夢という話が昔あったらしいが、私にとっては一病の夢である。病前病後、わずかに百何十日かにすぎぬのだが、その間に、どうやら世界歴史は新しいページへと移りかけてしまったようだ。だから君は帰り新参でまたブラリを続けるにしても、以前みたいに全面講和などとは決していいなさんなよと忠言してくれた友人もある。だが私が全面講和をとったのは何も共産党に同調したからではない、ふつふつ戦争がイヤだったからである。戦争がイヤだということは、戦争が近づけば近づくほど、始まれば始まるほどーいや、こんな話は段々とすることにしよう。
 病後だから、しばらくは気まかせに、ノンキな調子でやらせていただくつもりである。お目まだるいところは平にご容赦をとお願いしておく。        (二五・二・一一)



最終更新日 2005年07月14日 00時07分30秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「文化勲章」

 未知の読者諸君から、病中に見舞のお手紙を多数受けて「身に余る」と感じた、と昨日書いたが、この「身に余る」というのは、勲章などもらったときにその人がよくいう言葉である。しかし正宗白鳥さんもいったかどうか、私は知らない。
 戦争中のニュース映画で、ヒットラーが殊勲の兵士の胸に勲章をぶら下げているのをよく見た。そのたびに、一体勲章というやつは、もらう方がうれしいものか、やる方が得意なものか、どっちだろうとおもハた。駕籠にのる人のせる人ということがある。
 他人に勲章をやるというのもたしかに一興に違いない。人の上に人をつくらずというのだが、栄誉を授けるとあるからには、やっぱりこれは人の上なる人がやる所作のようである。汽車の寝台などは上下それぞれ人の好みがあるものだが、私にはやはり上段の方が落着いてよく眠れる。
 文化勲章に年金か一時金かをつけることになるのだそうだが、新憲法が「栄典を伴わず」とことさらに規定したのは、その表彰そのものが栄誉なのであってという、純精神主義からなのだろう。だからそれに対して、精神的だけではつまらない。実質的でないと本当にはありがたくあるまいという意見がことに閣議の席上で出たというのだから面白い。ところでこの問題、憲法学者の金森さんあたりは何とみているだろうか? しかし私は何もこれで新憲法の精神ジュウリンなどと面倒なことをけしかけたりするのではない。純精神などということは、結局脆いかげろうのようなものだと、ちょいとした哀れを感じただけのことである。
 金をつけるのも一策だが、勲章をもらった人は、自分で適当とおもう他人へそれを授けることができる、ということにしたらどんなものだろう。昨日勲章をもらった身が、今日は勲章を授ける身になるのである。たとえば正宗白鳥先生は、君の好色文学はなかなか楽しいよというようなことで、舟橋聖一君の胸にかけてやるのである。すると今度は舟橋君が、たとえば新橋のまり千代に、何といっても君の踊りぶりはとか何とかいって、それを授与するのである。
 ふざけた事をいうと憤慨する方もあるかもしれぬが、実はせっかくもらった勲章をさっそく他人に授与した人間のあることを、ふとおもい出したからである、そのことは明日にしよう。                            (一一・一二)



最終更新日 2005年07月15日 00時01分46秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「アクセル・ムンテ」

 晩年モーパッサンが、パッシイの精神病院で死んだとき、死水をとった医者がアクセル・ムンテである。ある功績でナーストリャ皇室から、聖ステファンという勲章をもらった。
 ムンテの家には英国生れのオールドミスの婆やがいた。忠実にムンテに仕えたばかりでなく忠実にムンテの愛犬の面倒もみた。そのことに感謝していたからムンテは何とかして婆やを表彰したいとおもった。
 1婆や、お前に勲章を授与しよう。
 彼はその聖ステファン勲章を、彼女の胸にかけてやった。婆やはすっかり光栄にのぼせ上ってしまった。堅気の英国人だったから、勲章のありがたさは骨の髄までしみこんでいる。家門の名誉とばかりに感謝した。天にものぼる心地であったに相違ない。
 ところでムンテはその頃ローマに住んでいた。折柄にヴィクトリヤ女皇陛下のご誕生日ということになった。在ローマの英国大使館では盛大な夜会が催される。ムンテの許へは招待状が来たが、かんじんの英国人である婆やの許へはそれが来ない。親切なムンテは大使に談判して、婆やのためにも一枚と、請求してもらった。
 さて婆やは意気揚々と出席する。ムンテは彼女を英国大使何とか卿に紹介した。何とか卿は彼女と握手を交しながら、ふと彼女の胸間に眼をやった。おやとおもったから片眼鏡を取り出してしげしげとそれをみた。そこでわがドクトル・ムンテも気がついた。あのオーストリヤ聖ステファン勲章を、これ見よとばかり婆やがぶら下げていたことには、うかつにもそれまで気がつかなかったのである。
 ――ドクトル、あなたの婆やさんには、特別の敬意を表して、特別の接待をすることにしますよ。
 と大使がにやりと笑っていったそうだ。早速に大使館員の一人を呼んで、その特別の接待をいいつけたのだそうである。命ぜられた館員は終始その婆やのお相手をして、ついに当夜はそこに招待されて集まっていたオーストリヤのお客の前へは、彼女を出さなかったというのである。婆やは安泰裡に面目をほどこし得て大満足であった。
 私はこの話を、大変に粋だとおもうのである。風流というのはつまりこうしたことではあるまいか。怪しからぬ話だと青筋を立てるのは、こんな場合たしかに野暮(やぼ)である。私が前回文化勲章についていったのは、つまりが風流への思慕だったのである。  (一一・一四)



最終更新日 2005年07月16日 22時16分34秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「ノーベル賞の不名誉」

 虎の威を借りることも、時には方便かもしれぬ。私はここでノーベル賞の威光を借りて物が申したい。相手に選ぶのは検事殿である。
 ノーベル賞を諸君は尊敬しなさるだろう。湯川さんがそれをもらうと、日本の朝野はたちまちフットウした。ノーベル賞をもらったから偉いのか、偉いからノーベル賞をもらったのか、そんな区別はこの際必要ではない。とにかく諸君は湯川さんを尊敬しなさるだろう。その尊敬すべき湯川さんが、もし下劣にして唾棄すべきワイセッ文書の作成人を友人としたとしたら、諸公はそれをどうお考えになるか?
 湯川さんにそんな事実があったというのでない。今年のノーベル賞が文学にあってはパートランド・ラッセルに授与されたことを外電が伝えて来ている。事実はこのラッセル先生にあったのである。先生は、諸公がもって下劣なワイセッ文書なりとした、あの「チャタレー夫人の恋人」の作者ロレンスを友人としていたのである。ノーベル賞栄誉者にあるまじきこととして諸公はその公正なる眉をおヒソメになるか?
 ロレンス文学は必ずしも人々に最初から理解されたのでない。諸公と同じ見解の人も彼地にはあったのである。しかしノーベル賞栄誉のラッセル先生は、早くも彼の理解者であった。二人の間に友情が結ばれ、熱心な文通が交わされた。
 この交友の証拠を私は指摘することができる。そのときのロレンスの手紙を、ラッセル先生は一本に纒めさせ出版させているからだ。この手紙は決して秘事について、ワイセツに語ったりしたものではない。国家を論じ、革命を論じ、両性問題の未来を論じているのだそうだが、実は私もそれを読んでいるのではない。去年の発行だから、多分一冊もまだ日本には来ていないだろう。米誌に出た書評で知ったのである。ともあれラッセル先生が私信を纒めて公表させたのは、ロレンス研究のためという理由だったそうである。ノーベル賞栄誉の偉大なる世界的大哲学者―と私はいよいよ威光を借りていいたいーが研究に値するほどの作家と見たということと、諸公が告発に値するまでのワイセッ犯人と見たということと、その相違の距離たるや如何……東洋と西洋との距離どころの問題ではない、実に栄誉あるノーベル賞と汚辱だらけの牢獄との距離である。
 私も日本人だから、日本の名誉のために、検察の見解に賛成もしたいのだが、そうすると、ワイセツ犯人を友人としたような下劣な人物へ授与されたとなって、バートランド・ラッセル先生の名誉はノーベル賞の不名誉ということにもなりそうだ。忠ならんと欲すれば孝ならず、検事殿よ、諸公のご心中それ如何?                     (一一・一五)



最終更新日 2005年07月17日 09時25分36秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「二つのショウ」

 ――日本へ来たことのあるショウだよ。 といったらすぐ、
 ――ああマーカス・ショウか?
 冗談ではない、これは実話なのである。ところでショウというもの、ストリップが出てから誰知らぬものもない言葉となったが、マーカス・ショウが来朝した頃の日本には、まだ通じないものガあった。
 ――だから、マーカス一座が来てショウをやるといったんですよ。そしたら、ショウの何を演るのかねと、真面目な顔である人に聞かれてしまいましてね。
 その頃にショウといえば、G・B・Sのつまり先日死んだショウのことだった。日本ではシェクスピヤよりもショウの方が、数多く上演されていたかもしれない。だからそれも無理ないことではあったのである。
「馬泥棒」「ウォーレン夫人の職業」「人と超人」「武器と人」「チョコレート兵隊」「聖ジョォン」手軽くおもい出しただけでもこれである。ところでショウという老人は上演料などなかなかうるさかったものだそうだ。だから来朝して、そんなに上演されてると聞いたら面倒なことをいい出すだろうと心配されたものだ。しかし、
 ――わしの芝居を日本人が演ったって芝居になりっこない、上演料というやつは芝居にしたときに徴収するものだからね。
 と彼は笑っただけだったというのだが、嘘か本当か、私がじかに聞いたのではないからわからない。いいそうな皮肉だとおもうだけである。
 ところで、それほど色々と上演されていながら、ショウの戯曲が日本に与えた影響というものはあまり無さそうだ。あるいはショウのいったごとく芝居にならなかったからなのかもしれない。与えた影響ということからいえば、マ1カス・ショウの方がずっと大きい。近頃全身銀粉塗りの裸女おどりなどが評判になったようだが、あれもあのときのショウがやって見せたものである。だが、このアメリカ・ショウにしても、今では一昔半も以前のことになっている。だから今の学生年配の連中などは見ていないから知っていない。
 ――しかし、ダニイ・ケイなら知ってるだろう。
 ――知ってますとも、昨日観たばかりです。
 だが、こうなると老人達にはわからない。近着映画「虹をつかむ男」の主演役者なのだが、このダニイ・ケイがあのマーカス・ショウのとき、あの日本劇場の舞台で、踊ったりしていたのである。
 こんな話をすると、ああ戦争前の日本は、と老いも若きもいいたくなる。 (一一・一六)



最終更新日 2005年07月18日 10時37分09秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「文化外交」

 ラジオのダイヤルをちょっと回したら、聞きなれぬ鐘の音が流れ出した。赤い広場といえばモスクワ、そのクレムリン宮殿の時計台から鳴り響いているものとわかった。これはこないだの六日のことである。ソ同盟三十三周年記念革命前夜祭の実況放送、赤い信者だったら随喜法悦のおもいで耳を澄ましたろう。
 折柄に今日はショウの葬式の日だ、とおもったら妙な気がした。ショウとしてはも一度聴きたかったあの鐘の音である。「モスクワ訪問の楽しさをも一度くりかえしたいが、九十三歳という老齢がそれを許さぬのはまことに残念である」先年のプーシキン百五十年祭に招待されたとき、ショウはこうスターリンに返事した。「わしは自分の国をもひっくるめた世界中で、どこよりも深い関心をワ同盟に対して持っている」
 ショウのスターリンびいきははっきりしたもので、一昨年だったかの誕生日のときも、お祝いの菓子を切りながら、「わしの幸福はかくして人生の第二の幼年期に入れたことだ」というのと一緒に「スターリンこそは、現代ヨーロッパの平和の大黒柱だ」という感想を述べたそうだ。当時の新聞がそれを伝えたのだが、赤ぎらいの連中が、なるほどショウも幼年的見解を発表するようになったと、二つを一つにして変な拍手をしたといわれている。
 外電によると、ショウの棺の上にはガンジイとスターリンとの肖像が飾られそうだが、これも遺言によるものなのか。だったら残ったスターリンに葬儀委員長になってくれと頼んでおけばよかった。彼の死を聞くとすぐさまトルーマンも鄭重な悼辞をおくったというが、この葬儀だけは左右なく立派に超党派でやれたろう。片やトルーマンに片やスターリン、間に眠ったバァナァド・ショウとなると、まさに全世界的な大往生である。「笑う哲人」と呼ばれた彼だが、そのとき彼は本当に呵々大笑したかもしれない。
 モスクワの三十三周年については一行も書かなかった日本の新聞も、ショウの死には大きなスペースを割いた。しかしどこもただ文人ショウとして文学の感想などを載せただけだったらしい。惜しかったのは総裁吉田さんに寄せる言葉を求めなかったことである。英国にはゆかりの深い吉田さんだし、格別な感想もあったろう。吉田さんとしても、読んでいるのは捕物帳ばかりではないとわからせることもできたろうし。いやさ、そんなことではなく、日本の文化外交として惜しかったと私には悔まれるのである。       (一一・一七)



最終更新日 2005年07月19日 00時18分34秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「○の恐れ」

 ○○○○○……と○が一行の余もつづいている。私はゾッとした。昔をおもい出したからである。昔はよくそうした文章を読まされた。いわゆる伏せ字というやつだった。がしかし今の世にあんな暗欝なものがあるべきものではない。
 私が手にした本は「原子力」の通俗解説だった。だからこの○は決して伏せ字ではない。たとえばヘリウム原子核の質量は、○・○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○〇六五グラムだといった調子なのである。だから明快な○であって、どこにも暗い影などあるべきではない。
 だが本当に一点も暗くはないか? 私は昔の伏せ字に似たその○○○の連続を眺めながら、昔の○○○の連続がついにはあの愚かな戦争を招来したことをおもった。今日の○○○の重なりはどうであろう? 原子という言葉がすでに私たちの不安の種になっている。数字の○○○とはわかりながら、私の眼にはやはり気味がよくない。
 原子爆弾を用いることなかれ。という声に誰しも異議はないだろう。私はストックホルム・アッピールというものについて聞いている。原子爆弾を最初に使用するものを犯罪者とせよ! この文句の限りにおいて私もまた同ずるものではある。しかし私はかつて一度もそのための署名を求められたこともなく、従って一度も署名したことはない。
 ところがある日、私は自分の名が高々と読み上げられるのを聞いた。これもふと何気なくダイヤルを回したときの赤い電波である。たしかに聞きおぼえのある、なるほど岡田嘉子らしい女声で「東京から上海への電報によれば」として、日本におけるストックホルム檄文の署名者は何万何千名とかに達し、その中には云々、その途中で「高田保」というのが聞えたのであった。私は何かすばらしいユーモアにぶち当り得たような気がした。病床に寝ながらであったが、大きく愉快に哄笑した。
 私はこのとき一緒に聞いた他の人々の名をあげることを好まない。私の場合が全く身におぼえのない署名だからといって、だから他もそうだろうともいいきれぬからである。しかしこの時以来、折角の赤い電波も私に対しては信用を失ってしまった。以後何を聴いても私はこのときの「高田保」をおもい出して哄笑したくなるのである。しかし、私の署名が嘘であろうとなかろうと、世界は大きく動く方へ動いて行く。私の小さな哄笑などは、それこそ本当に○なのであろう。黙殺される○また○、無数の人々の意志も願望も抗議もすべて○○○となった末にやっぱり来るものが来るのであろうか。昔の伏せ字をおもい出したのも、やはり気まぐれではなかったらしい。                  (一一・一八)



最終更新日 2005年07月20日 00時12分37秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「落第及第」

 新聞に連載された「原敬日記」を読んで、日本政治の正体に呆れ、これは「落第生日記」だと悪口をいったが、落第したのは日本政治の方で、原敬ではなかったといういい方もできるだろう。それはともかくとして、あんなことをいわれては迷惑だと、友人牧野武夫君から叱られた。彼はあの日記を大いに売るつもりで出版している乾元社の主人である。
 だが売る気なら、落第生といわれて喜ぶべきだったろう。秀才などというやつは、とかく傷がないだけで平凡でちっとも面白いところがない。落第坊主の言行の方がずっと拍手喝采されるものだ。「いたずら小僧日記」なら売れるが、「ヨイ子の日記」は文部省がスイセンするだけであろう。
 マダガスカル総督が任地へ赴くのを送別する会で、出席した日本公使館書記生が演説をした。「日本は仏国人によりで独立を説き明かされたり。若し口本人にして他国に征服せられざるを得ざる場合には仏国に征服せらるるを望む」一座のフランス人が拍手喝采したかどうかはしらない、とにかくこの演説の大要が新聞ルタンの紙面に出た。
 その翌日、昨日日本と書いたのはある国の誤り、と訂正が出たそうだが、在留日本人はひどく激昂してしまった。邦家の体面に関すると、当時の書記官原敬はその激昂組の一人だったらしい。早速その書記生に進退伺いを出させた。
 この激昂、わからぬでもないが、私には書記生の気持もわかる。パリは容易に人を惚れさせてしまう町らしい。「いっそ体もやる気に」という小唄の文句があるが、国家もやってしまうまで惚れこんでいたのだったろう。わかる、よくわかる、まだ見ぬパリではあるが私も惚れている。
 結局はこの書記生、帰国を命ぜられてしまった。宇川益三郎という名だが、帰国後どうなったかは私は知りたくおもう。以上は「原敬日記」のパリ編に出てくるのだが、私にはこんなところが面白い。
 さすがパリだから、原敬も何度か劇場へ足を踏みいれた。しかし「コメディ・フランセー」とか「シヤトレ劇場」とか、その小屋の名前しか誌していない。「オペラ・コミック」など外相ゴブレーの招待でいったのだから相当な舞台だったとおもわれるが、しかし役者の名はおろか、演し物の名さえ書いていない。それでいて観兵式を見たときには「アフリカ軽騎兵の運動尤も巧妙なり」などと所感を認めている。
 宇川書記生はつまり、パリに及第して外交官で落第したのだろう。原敬の方は、パリに落第して政治家で及第したのだといえる。落第生に興味をもつ私は、宇川益三郎という人のことがくわしく知りたい。読者の中にご存知の方がいられるだろうか。   (一一・一九)



最終更新日 2005年07月21日 22時09分37秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「違和」

 林房雄が小唄の三味線に凝っているとのこと、結構というべし。作家では古く宇野浩二が嗜んでいた。どっちが上手かなどとはいわぬ方がいい。ご当人が悦に入っていればそれで完了のことである。
 糠味噌を腐らせると日本ではいうのだが、外国にも同様な文句があるらしい。但し糠味噌ではない、ミルクの味を悪くするという。サマセット・モームの小説の中で読んだとおもうが、あるいは外だったかもしれぬ。
 ラジオから〓浅葱染め……が流れて来た。本格の師匠の小唄だから、何も心配する必要はない。〓……浅葱染め、もとの白地にしてかえせとは、洗いだして切れる気か、これは小唄の中でも私の大好きな一つである。ついてる手もいいが、文句もたしかに絶唱といえる。
 当代に芸術作家は多いが、山吹の文句など作らせると、やはり古人に及ばない。今年の芸術祭で放送局が新作を芸術院所属の粋人たちに頼んだが、形だけではできていても、さて心意気となると新作は新作でしかなかった。しかしこれは当然のこと、なにもその人たちの不名誉ではない。
 さて、〓もとの白地にしてかえせ……と唄われるのを聞きながら、私は超党派の問題をおもいうかべた。吉田さんの肚はどうも、お互い白地に返ろうとするよりも、おれの好みの色に同調せよというのらしい。幣原さんはその染め見本をもって廻っているのかもしれぬ。ご苦労さまである。
 〓半染めや……というのも私の好きな一つだが、半染めなどといっても、だんだん世間に通じなくなるかもしれぬが、あれの手拭などはまったく粋なものだった。資本主義と社会主義との半染め、これも面白い世の中だろうともいえる。だがあの半染めというやっ紺屋にきいたら、結構あれでむずかしいものだそうだ。正紺に染めたのと染めぬ白地との割合、いってみればある黄金律のようなものがあって、バランスがむずかしいのだそうである。
 しかし、いかに粋ではあっても、半染めなどは、仙台平の袴で出席するようないかめしい場所には、持って出るべき代物ではない。超党派とみんなが心配する気持はよくわかる。やっぱり白無地などの方が相応しいかもしれぬ。
 せっかくの小唄に耳を傾けながら、こんな感想を浮ばせたのでは、義理にもいい気持になれましたとはいえない。江戸期明治期の市民たちは、何の屈託もなしに悦に入っていられたのだろうとおもうと現代の不幸ともいいたくなる。政治などということ、選挙の時でもなければ身近には感じない、というように政治でありたい。胃のわるい男は、何かにつけ胃についてばかり考えるものだ。これを違和という。違和はとにかく幸福ではあるまい。 (一一・二二)



最終更新日 2005年07月22日 10時40分21秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「隔離」

 伝染病院は大概が町はずれ、人里離れたところにあるものだ。必要と認めるから建てるのだが、わるい影響のことも考えねばならぬので、自然そうなったものとおもう。
 吉原というもの、田圃の中に建った。界隈が賑やかになったのはその後のことである。すでに人が住んで町になっていた中へ出来たのではない。昔の役人は前後の分別をはっきりともっていた。
 東京震災前にあった浅草の十二階下の売春窟で賑やかになったのを玉の井へ移転させたが、私はあの玉の井の草創期を知っている。白髯橋を渡った吹きっさらしの田圃の中だった。釣堀が近くにあったので、鮒つりの人がよくその辺に行ったが、その外の人にはまるで縁のない土地だった。こんな土地で商売ができるのかとおもわれたが、あの商売の客は、千里を遠しとせずにやってくるものたのである。だからどこでもいいようなものだ。玉の井時代の役人はまだまだその機微を心得ていたのである。
 千里を遠しとせぬということでは驚いたことがあった。関東の名山筑波、あの中腹に筑波町がある。町には遊廓があった。通って行く客は山麓三四里四五里の所からであったのである。しかもそれが農村の若い衆で、日暮れに仕事が終えるとそれから山登りだ。暗いうちに後朝の別れをすると、さっさと村に帰ってその日の仕事にとりかかったものだ。労働基準法などというルールなど、もとより影もなかった時代である。
 私の今住んでいる大磯の廓は、わけても曽我兄弟で有名だが、十郎が虎に会うためにはやはり五里の道を歩かなければならなかったろう。あの廓へは鎌倉方の若侍が馬を駛らせてやって来たものだというが、現在通じている海岸観光道路をやって来たとしても、やっぱり五里はある。
 つまり五里ぐらい離れた山里や野良へこしらえても、特飲街なら商売に差支えはないことなのである。何を苦しんでお祖師様門前の池上町を選んだり、早大女大にはさまった高田の馬場を選んだりするのか、業者にしても知恵がなさすぎる。その愚かさが指摘できなかった役人の頭の悪さだから、世論の動き方も見抜くことができなかったのだろう。
 しかし頭の悪さは窓口の係り役人だけのことではない。上の上のそのまた上の大臣連中にしても、頭となると同格のようだ。法の不備などといわれると、ああそうかとぼんやり答えてしまうらしい。世論にお構いなく競輪を再開したのなどはその適例である。それでいて個人としては反対なのだがなどといっている。あの競輪場にしたって五里離れた山里でもいい代物だろう、同じ許すにしてもやり方があった筈である。        (一一・二三)



最終更新日 2005年07月24日 15時28分52秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「愛敬男」

「ブラリひょうたん」とはいい標題だと賞められたことがある。無造作におもいついたので、別に大して意味を含めたわけではない。最近一本に纒めたとき、自序めかして書いた短文の中に 
 ぶらりとしてゐてもへうたんは、へうげて円く世間をわたる、身はたながりの月雪花……という小唄の文句を引用した。しかしこれとて、後日におもい出した文句なのである。
 宝暦時代、ひょうたんかしくと、自ら名乗った坊さんがいたそうだ。仏説を俗談して人を興じさせていたというのだが、空念仏みたいなものをうたって市中を徘徊していた。市中といっても当時第一のさかり場、新町の廓内だったというから、日曜娯楽版をも一つ風流にしていたようなものかもしれぬ。
 法師くは木のはしと思ふは野暮かわけしらぬ心の花のかをりをばしらせたいそやあゝはち/\。この十徳も過ぎし頃ゆかり法師が一ふしに智恵も器量も身体もみな淡雪と消えうせて……というのは「椀久道行」の三下りの文句だが、実はひょうたんかしくのことなのだそうだ。「愛敬むかし男」という俗書には、むしゃくしゃ頭のたて縞の布子と、その風貌がつたえられている。いかにも風来坊らしい。この風来坊と当時のお大尽椀屋久兵衛が一緒にされて、戯作の「椀久」が出来たのだそうである。
 椀久は遊女松山のために身代をつぶした一代の道楽者だが、その以前は石部金吉だったという説がある。町内の交際で誘われてこの金吉が新町へ遊びに行くことになった。母親が先方へ行ったら松山というおいらんを呼べといった。いわれた通りにしたら、松山が、ほんにお待ちして居りましたといった。全盛の大夫は松の位、同行の連中この接待にはあっと驚いたが、仕掛を発くと、椀久の母親がわが子のために、手紙を松山に送って、恥をかかぬよう頼みますと頼んでおいたのだそうである。椀久はこの晩から松山に夢中になった。これが彼の悲劇のはじまり、というのだが、これも実説かどうかはわからない。
 その後の戯作者が、どうして風来坊ひょうたんかしくと、世間知らずの坊ちゃん椀久とを一緒にしたか、これもわからぬことだが、こんな風だと山際某とか早船某とかと、ブラリひょうたんの私とが一緒にされて、妙な架空の人物をでっち上げられるかわかったものではないという気もする。だが後世につたわる実録というものはおおむねそうしたものだ。こんなことででもなければ、私などは後世に伝わる筈もない。
 それにしても「愛敬むかし男」とは愉快な肩書である。こんな肩書だったら私もほしいとおもう、なるほど「ブラリひょうたん」はいい標題だったと私もおもった。ついてはこれからは私も精々あいきょうを発揮しようとおもう。            (一一・二四)



最終更新日 2005年07月24日 16時24分19秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「長寿」

 長寿はめでたいものというが、丹羽文雄には「厭がらせの年齢」、林房雄には「厭がられの年齢」という小説がある。どちらも長寿の婦人を題材にしているのだが、どちらもめでたい物語ではない。ショウの九十四歳は長寿だったが、世界中が彼の死を惜んだのだから、厭がられの年齢にまでは達していなかったことになろう。しかし彼自身は厭がらせをやるのを好んだといえる。といっても彼のファンは、その厭がらせに喝采したのだから、結局は厭がらせになり得なかったといえるだるう。
 あの年齢になったらもう戯曲などは書けんだろう、とショウが九十歳になったとき他人がいった。と聞いて彼はそれまで久しく断っていた戯曲を書きはじめた。三編書いたら一冊にして「九十歳を過ぎての戯曲集」と題するつもりだといったそうである。二編はすでに書き終り、未完成に終ったのは一、一編目だったらしい。がこれほどの強情ぶりを見せた彼も、老境ということは自身素直に認めたらしい。老いぼれた現在ではこれがギリギリの腕前だと、その戯曲の出来ぽえについていったとのことである。
 老境というのは、能力の限界を自覚させるのだろう。チャーチルは現在なお大元気らしい。ニースの海岸で水浴している彼の写真に「ネプチューン」と題してあったのを外誌上で見たが、しかしそのチャーチルも、七十五歳になったら引退するつもりだと、新聞記者に語ったことがあったそうだ。が現在の容易ならぬ世界情勢は、果たして彼を容易に引退させるだろうか。この十一月の末日が誕生日だそうだから、予定の七十五歳はもう週日の近きに迫っている。この予定を狂わして依然活動を続ければ、世界が二つに分れていることだ。一方から見て「厭がらせの年齢」ともなるわけだろう。それを承知の上で彼もあえて「厭がられの年齢」を重ねようとするにちがいない。
 化物退治で有名な源頼光が、ある日洛北蓮台野のあたりを散歩した。と一つの髑髏が宙を飛び雲に消えた。怪しやとその行方を探ねて行くと、荒れ果てた邸があり、中へ入ると一人の婆さんが飛び出して来て、あらありがたや善知識、お情あらば殺して下されといったそうだ。両の瞼が垂れ下り眼が見えぬのでそれに孔をくりあけ、乳房も垂れて膝のあたりまでというのだから凄い、年齢を問えば二百九十、九代の主人に仕えたが、いまだに死ねないせつなさと訴えられ、さすがの頼光も閉口して逃げたという話、絵巻「土蜘蛛草紙」に出ている。こうなると、厭がらせとか、厭がられとかの段ではあるまい。
「親愛なるサム。誕生日おめでとう。六十歳の老人になって、さぞや『いやな』気持だろうと、―僕はまだ六十歳までに二十三日ある」
 これはルーズヴェルトがサム・レイバーンを祝ったときの手紙だそうである。清水俊二君訳の「回想のルーズヴェルト」の中で読んで、なるほどと微笑させられた。
                                  (一一・二五)



最終更新日 2005年07月26日 11時47分07秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「牛食」

 七つのリンゴから三つのリンゴをとることはできますが、十のクルミから五つのブドウをとることはできませんと引き算の話をした。とるというのはいつも、同じものから同じものでなければならない。すると小学校の生徒は手をあげた。
 ――先生、牛からミルクをとることができます。
 ――牛から牛肉をとることはできる。しかし牛は牛肉か?
 これは一寸した難問だ。かつて私の友人で、一緒に町を歩きながら私を驚かした男がある。向うから牛が歩いて来たのだ、すると、
 ――ああビフテキが食べたい!
 松坂の牛肉は有名である。私もそれをその地で味わったことがあるが、その晩の講演会の壇上で私は本心からいったものだ。
 ――牛肉をうまくすることも文化である。
 この町の誇りは本居宣長だけではない。
 どうしてこううまいのかと聞いたら、その牛肉屋の主人が、人間と同じ食物を食わせておきますと答えた。糠ではなしに米をあてがう。なるほどと私はわかったような顔をしてうなずいた。
 牛の食うものを食っていた人がある、といったら人はすぐに、大した粗食だと感心するかもしれない。しかしその人の名は男爵益田孝だといったら、まさかという顔をするだろう。男爵は名だたる三井財閥の大名題だった。隠退してのちは鈍翁と号す。近世での大茶人であった。
 話は茶人になってからだそうである。小田原に隠居所をつくってもっぽら茶事に耽った。とはいうものの決して貧乏生活ではない。広大な農園を経営してその中に国宝的な茶室をうつし、国宝的な書画骨董を座右に置いて暮らした。
 この鈍翁が牛にいろいろなものを食わせた、そして牛が食ったものでなければ食わなかったのだそうである。牛は草を食ったろうから、鈍翁もまた草を食ったのだろうが、しかしその牛の食った草というのは、ホーレン草やキャベツやセリやミツバだったに違いない。
 鰻をあてがってみたら、目を細くして食ったそうである。鈍翁もそれで鰻を食った。しかしあるとき、ある人が河豚を携えて来て、これは珍味ですそとすすめたが、なぜか牛はそれを食わなかった。そこで鈍翁も食わなかったたそうである。今もこの牛が生きていたら、ソーセージやチリメンジャコにはふり向かぬかもしれぬ。
 鈍翁のこの話は嘘か本当か、彼の愛孫である画家益田義信に一度ただしてみたいとおもいながらそのままにしてある。私はこれを鈍翁の歿した年の外誌で読んだ。彼の行年は九十三、めでたく長寿だったのは、牛食のせいだったかもしれぬ。         (一一・二六)



最終更新日 2005年07月26日 18時16分07秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「スエーデンに詫びる」

 ラジオを聴き終って、私は大きく溜息をついて。続けざまの溜息、だがもう十度もそれを重ねぬと口が利けそうもない。聴いたのは国会における総理大臣の演説である。
 もう一度聴きたい。NHKは再放送やるなら今度はニュースの時間でない方がいい。あの「社会探訪」という時間が適当だ。「日本の政治はこんなもの」とでも題すればぴったりするだろう。
 冒頭からワヤワヤガヤガヤ、喧咆政治という字が頭に浮んだ。同音異語をいうならと、騒裡大臣という字も浮んだ。がこれは日本の名誉になることではない。だから電波には乗せても、海外までは届かせぬ方がいい。民間電波の出力を弱くしろという説があるそうだが、弱い方がよいのはNHKかもしれぬ。ワヤワヤガヤガヤもあれくらい徹底すると妙なものだ。一種のリズムがおのずと湧くとみえ、音楽的にさえなる。耳を澄ましながら私は、もしも私が作曲家ならと考えた。たちまち五線紙の上にペンを走らせて「国会ブギ」でも作っただろう。
 音楽的と感じたのはそのワヤガヤに関せず焉と総理が悠々しゃべっていたからだともいえる。ワヤガヤは伴奏、その伴奏にちゃんと乗っていたとは、吉田さんも修行したものだ。ディマジオ選手はワールド・シリーズを観て、日本の投手がワイルドにならぬのはエライと賞めたそうだが、この吉田さんを見たら何といったろうか。
 どうせ国会だと、最初から考えていたのだから、私は格別憤慨もせず、以上のような愚想をほしいままにしながら聴いていた。だから溜息など出るべき道理はない。と、おもいもかけぬ文句がそのワヤガヤの中から聴えて来たので、はっとした。たちまち私は愕然とさえもしたのだ。
 ―スエーデン…陛下の崩御に対し……哀悼の意を……新国王グスタフ・アドルフ陛下……のご即位に対し……慶祝の意を……。
 馬鹿! という罵声はおもうより先に口を出るものだ、が私の心中を察していただきたい。私は吉田総理大臣の口を封じるような気で、一声高くこう呶鳴りながら、ラジオのスピーカーに手を宛てがったのである。このような国際的儀礼の言葉は、時と処とを慎重に選んで発せられるべきだ。何としてもワヤガヤの喧咆騒裡ではエチケットではない。だが私がラジオの口を塞いだからとて間に合うものではない。
 よしんば草稿にそう書いてあったとしても、臨機にそこだけは削除すべきだった。そのくらいの才覚は、もし外交官なら働かすべきだった。私はもう外交官吉田茂を信用できなくなったのである。すなわち十度の溜息を重ねた所以はこれなのである。
 それにしても私はここに、日本国民の一人として、遠くスエーデンの人々に、心から恥入りつつ、深くお詑びを申上げる。                   (一一・二八)



最終更新日 2005年07月28日 23時19分51秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「息抜き」

 電力の問題をポ政令で片づけたことは、何としても政府の落手だったろう。この落手はしかし長考の末に下されたのだ。下手の考え休むに似たりというが、政府にいわせれば休む間もなしに考え続けたのだというかもしれぬ。
 考えて考え抜いても妙手の出ぬ場合は出ない、将棋や碁のことは知らぬが芝居台本の構想をしているときなど、私もまた再々経験したものだ。そんなときよく外へ出た。ぶらりと出て何もかも忘れたように歩きまわる。息を抜くとはこのことである。
 直木三十五在世のとき、ある人が、君は用のあるとき歩いていて、用のないとき自動車に乗る、妙な癖だと笑ったら、昂然として、おれは小説家だと答えたそうだ。彼は息抜きに自動車に乗ったにちがいない。
 昔の狂言作者の心得として書いた本にも、机の前にいて案じかねたるときは、茶屋遊びでもしてうつつを抜かすべしとある。ある作者がいつも、外に出ては駕籠に乗ったという話も残っている。どこでもいいから面白そうなところへ行けと命じたものだそうだ。へえと駕籠屋が心得る。あるいは郊外の風色よいところへ出る。あるいは市中雑閙の中へ行く。乗ったるその作者は、いい気持に揺られながら構想にふける。
 この駕籠乗り作者の名は東三八。趣向を立てることの名人で、あるとき替り狂言の相談の席上、役者側が気にいらぬというまま、次々に筋立てを変えたそうだ。六度目も気に入らぬという、さすが趣向の名人も閉口したかとおもったら、これではどうだと七度目の筋立てをした。役者一同感嘆して、それこそ結構と賞めると、いやこれではわしが気にいらぬ、立て直そうと入度目の新趣向で双方とも納まったという話である。
 当世の小説家諸君にも才人が多い。連載長編の大小説を五、六編同時に書き、そのほかに読切り中小編を十作も生み添えるという芸当は人間業ではないといえる。このためには当然息抜きもせずぽなるまい。温泉行き、競馬場行き、キャバレー通い。他人には遊興と見えるかもしれぬが、ありようは稼業のせつなさなのだろう。
 政治はそんな戯作とはわけが違うというかもしれぬが、今度のような不手際を見せられると、ついこんなことがいいたくなるのである。西川一草亭は近世での生け花名人だったが、あるとき枝ぶりのいい松を手に入れたもののどうも扱いきれぬ。さすがの名人ももて余し、そのままにして銭湯へ行ったそうだ。さっぽりとして帰って来たら妙案が浮んで、さらさらとあとが運べたという話もある。吉田さんもこの夏は、箱根でゆっくり湯治をなすった筈だったが、と下界のわれわれはつい不審にもおもうのである。       (一一・二九)



最終更新日 2005年07月28日 10時21分28秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「楠山正雄さんを悼む」

 楠山正雄さんが死なれた。まだまだ惜しい人だったとおもう。劇文学の畑の学究となると、信用できるだけの実力をもった人が案外すくない。楠山さんはその少なかった人の一人である。
 私は三十五年前をおもい出す。「美術劇場」という新劇団があって、私もその中の一人だったのだが、顧問格で楠山さんが秋田雨雀さんと一緒に入っていられた。秋田さんもご存知のとおり背が低いが、楠山さんも劣らず低かった。当時渋谷にあった稽古場の帰り、誰がいい出したか、向うのポストとどっちが低いだろうとなった。さっそくお二人がそれと比べ合ったことがある。
 背は低かったが、きりりと引締った顔で美青年であった。その頃のゴシップでは松井須磨子から口説かれたことがあるといわれたものだが、本当かどうかはもとよりわからない。口説かれてもしかし楠山さんは体よく逃げたろう、と誰しもがいっていた。十分派手に振舞える才気を持ちながら、都会人の飄癖と弱気とで生涯を地味に暮らした人である。だから氏の真価を知らぬ人が存外多いかもしれぬ。
 私はいつも楠山さんを、早稲田畑の人ではないとおもっていた。帝大とか慶応とかの道を選んでいたら周囲の影響からもっと世間的な活動をしていたかもしれぬ。生得の地味な渋さが早稲田の空気の中に浸ったため妙に野暮ったく受取れることがあった。とにかく都会人の持味が環境のために殺されていたことは事実である。
 まったく環境次第では、小山内薫さんみたいになったかもしれぬ楠山さんであったろう。小山内さん程度に歌舞伎も新派もわかった上で、近代劇に対する熱情をこれまた小山内さん程度にもっていた人である。ただ楠山さんには小山内さんにおける左団次がなかった。島村抱月さん亡きあとの須磨子が生きていたらあるいは楠山さんも新劇運動の実際に乗出していたかもしれぬ。須磨子が口説いたなどというゴシップも、演劇人としての楠山さんに他の誰に対するよりも大きな信頼を寄せかけていたことからかもしれぬ。
 とにかく書斎に引込んでもつねに劇場を忘れぬ人だった。生粋の演劇人だったといえる。それは楠山さんの劇評をみればよくわかる。劇評の中にいつもどことなく学究的な匂いを漂わせながら、しかしあくまでも劇場的であった点、私はいつも敬服した。しかもかく劇場的でありながら、その中に楠山さん流の演劇理想を一貫させていたのである。
 日本の演劇にも、近頃になってようやく新時代の曙光がおぼろげながら涌いて来たようだ。それだけにもうすこし生きていてもらいたかったとおもう。年はとっても楠山さんは若い人であったのである。                      (二五・一二・一)



最終更新日 2005年07月29日 23時29分02秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「バレー」

 日本のバレーも「ペトルーシュカ」などという大物と取組むようになったとはえらい。観ていぬから出来ぽえはわからぬが、野心は大きい方が頼もしい。
 女の子がバレーを習いたがること、最近の流行らしいが、振袖を着ての何々流より、バァにつかまって脚を上げる方が子供としては楽しいだろう。それにしてもお行儀の方の仕込みはどうなのか、バレーの本場といえば旧ロシヤだが、バレーの学校には、バレーの先生のほかに行儀監督の先生がついていて、日常の起居動作、着付け化粧、すべてを気品高くと教えたものだそうだ。
 ある一座の稽古場で、女の子の一人がチューインガムを噛んでいた。入って来た先生がそれをみるなり「今日ハオ稽古イタシマセン」と帰っていってしまった。女の子はいそいでガムを吐き出して、先生に謝まって許してもらったという話。その一座を主宰している友人から聞いてうれしくなった。これが本当なら日本にも品格ある舞台ができそうである。この先生というのは外人だそうだ。さすがにというところである。
 日本へ来訪したバレリーナといえば何といっても第一はアンナ・パヴロワだが、その以前に、宮廷付バレリーナだったスミルノワが来て帝劇で踊っている。しかし観た人は少なかったろう。三日間の公演だったが私のいった三日目には三分の一ほどの入りしかなかった。パヴロワの専売のようにいわれた「瀕死の白鳥」を、私はこのスミルノワではじめて観たのだが、はじめてだっただけにパヴロワの時よりも感銘が深かったようだ。その時のピアニストの名も、ワン・ブルーとはっきり憶えている。
 はじめてといえば、横浜の外人ホテルの広間で、ニセ物のニジンスキイがエキジビションをやったとき、スケに出た女の人がイサドラ・ダンカン風のものを見せたときも興奮した。ショパンの「ミュジカル・モメント」だったかで踊ったのだが、ギリシャ風のチュニックをつけ素足で出て来た。その素足に私たちはダンカンを感じてしまったのである。私たちというのは、高田雅夫が一緒だったからなのだが、私たちはその日頃、外国の舞踊写真を集めては、それを眺めて、その写真の中の姿が踊っているさまを勝手に想像して喜んでいたのである。
 今のバレーを観る若い人たちには、高田雅夫といってもぴんとは来ぬかもしれぬが、今日まで生きていたら、彼こそ日本.ハレーを大きく確立していただろう。石井漠君と前後して欧州を巡遊し、帰朝してこれからというとき不幸にも若くして死んだのである。残された夫人高田せい子女史が現在大御所的活躍をしていられるのを見るにつけ惜しかったと心からおもう。                            (一二・二)



最終更新日 2005年07月31日 22時51分48秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「大臣椅子の秘密」

 人間が猿から進化したとしても、だから人間の法則は猿の法則と同じであるべきだということは成立たない。ということがカントの哲学かどうか、無学の私にはわからない。私はそれを天野教授の本で読んだのである。大臣が庶民の籍から出たものであっても、だから大臣の考え方が庶民の考え方と同じでなければならぬとは限らない。と私は私なりにその文句を了解した。
 プロウルステスの寝台という話もその本に引用されてある。ギリシャの伝説で、人間をその上に寝かし、その寝台から体がはみ出した場合は削り取り、それより小さかった場合は無理矢理その大きさまでに引き伸ばしたというのだが、私は大臣の椅子をおもい出した。あの椅子に腰をかけると、人間はすべて大臣という規格にあてはめて、削られたり引き伸ぽされたりするようである。
 閑話休題、ときに天の橋立股のぞきということがある.あの三景の一つへは行ったことがないが股のぞきは子供の時分によくやったものだ。上半身を折り曲げて逆さにのぞく、すると見慣れた景色なのに一変する。私の故郷は土浦だが、こうやって眺めた筑波の山は綺麗だった。
 股のぞきでさえああなのだから。逆立ちして眺めたらもっと別なものに見えるだろう。奈良の大仏さんの前でそれをした奴がいる、どうだったと聞くと、あの鼻の穴に蓋をして置かぬと、見物人が落っこちたとき助かるめえと答えたそうだ。しかしそんなことは江戸小話で、カントではないから天野さんにはご無用だろう。
「翻って考えれば」ということがある。見方を変えればということらしいが、カント教授だった天野さんは、大臣になると途端に、全面講和説から単独講和主義に翻りなされた。大臣になられてからも、競輪絶対反対から設備改善派へ翻られたようだ。その次にはと思っていたら、修身要綱必要論者となられたようだ。以前には、修身教科書なんてご飯のないオサシミだけみたいなものだと仰しゃっていたのだが「翻って考えてみると」と改論の弁を朝日に書かれたようである。
 それもご自由、私は何もだから「翻り大臣」などと申そうというのではない。大画商ヴォラールの店へある日ある人が来てシニャックの絵を一枚買ったそうだ。だがその人がその絵を最初から逆さまにして眺めていたので、一度はまともにご覧になったらとヴォラールがすすめると、素直にそうはしたのだそうだが、しかしその人のいわく「こうしたのでは、この絵もちっとも面白くない」。以来ヴォラールはお客へのおせっかいは止めたそうである。
 それにしてもあまりにも鮮かな翻り方、もしかすると大臣の椅子には特別な仕掛けがあるかもしれぬ。秘密を知りたいものである。                (一二・三)



最終更新日 2005年08月01日 22時30分09秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「愚問」

 地獄に落ちた魂が、銅貨一枚のご利益で呼び出される。そんなありがたい日が、中世紀の西洋の教会にはあったらしい。ところである男が、その銅貨を皿の中へ入れた。昔の懐かしい飲み仲間の魂を呼んでもらいたかったからである。
 ――お望み通り出て来ました。
 ――たしかに出て来ましたか?
 とその男は坊さんに念を押した。たしかにという返事を聞くと、
 ――じゃ友人のやつは、もう地獄へは戻れっこありませんよ、私の入れたのはニセの銅貨だから。
 地獄の沙汰も金次第、というのはご承知のとおり日本である。金を払えばとにかくそれに応じたことがしてもらえる。この思想がいいか、わるいかは知らない。がとにかく政治献金などというのは、多分これと系譜を同じくしたところから発生したことだろう。
 学生には国家が金を出しているじゃないか、と政治家はいう。いわれてみれば成程そうに違いない。南原総長は衆院の委員会に引出されて、いくら出しているか知っいてますかと質問された。知りませんと総長は答えた。では教えて上げます、五千円です、とその委員は答えたそうだ。面白い問答である。だがだからといって、その委員の方が総長よりも、大学および大学生について余計知っていたとはいえまい。余計なことを知っていたというのならいえる。
 南原さんは衆院で大変にトッちめられたという評判だった。現にある議員が、大学総長なんてわれわれの手にかかるとたわいないもんですなあ、というのを聞いたから、そうかと私も信じこんでいた。私にも素朴なところがあるのである。だが「週刊朝日」に出た速記録をみたらそうではなかった。話は全然あべこべである。学生にはいくらかの金がなどと余計なことをいった委員の方が完全に南原さんにやられている。ただそのご当人がやられていると感じていぬらしいだけなのである。
 金より大事な忠兵衛さん、というのはいいセリフだ。愛情というものは昔は遊女でさえ解していたもものだ。金より大事な学生と考えないと学生問題はわかるまい。金を出してやってるのだからという政治献金的思想ではちょっと割り切れにくい。現在の議員諸君の多くは、落語の「景清」を聞いても、観音さんを 罵倒する盲人に同情して、きっと一緒に憤慨するだろう。百ヵ日お詣りしつづけた盲人は、満願となっても眼が開かぬのに業をにやしたとき、やいペテン観音! 賽銭泥棒と大声に呶鳴るのである。
 こういう議員諸君に、国家はどれだけの金を払っているか、そう質問しても南原さんは同様答えられぬかもしれぬが、しかし安心したまえ、そんな愚問を発する私ではない。
                                   (一二・七)



最終更新日 2005年08月03日 23時22分20秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「歯について」

 思念にも思青期というものがある、と私はおもっている。学生たちが派手な大騒ぎをしたとき、彼等は青春だなと私は微笑した。
 私は仔犬を飼っている。歯が生えそろいかけたとき、無暗にものを噛みたがった。一種の思春期である。今はすこしオトナになったので以前ほどではない。段々に落着いてくるのである。
 歯は生えてくれぬと困る。学生でいながらいつまでも学問に興味を持たぬのは心細い、興味をもちはじめた初期は、生噛りのものを威勢よく振廻して、先輩と議論したがったりするものである。こういう歯の生えかかりをみるときは頼もしい感じがする。
 ――オレはマルクスはキライだ。
 ――オレもだよ。
 こんな対話を聞いて、頼もしくおもう人は多いかもしれね。だが私は心細く感じる。なぜなら、彼等が次の一語を発したからだ。
 ――何てったってマルクスは学問だからな。
 彼等はマルクスが嫌いだったのではない。学問がキライだったのである。彼等は決して赤の徒党には加わらぬであろう、だが早船某とか山際某とかの亜流にはなりそうである。学問を噛む歯がいつまでも生えぬ学生の行末こそ私には心配なのである。
 早稲田の学生が来て、わが大学ながらイヤになりましたと嘆息した。理由をきいたら、各大学の総長が衆議院の委員会に呼ばれたとき、東大の南原総長は議員たちにひどく不評判だったが、わが早大の島田総長はひどく評判がよかったのだそうですと答えた。現在のあの議員たちに評判がよいようではと失望したわけなのだろう。あの議員たちを噛みつけるだけの歯がないようではという嘆息、私にも慰めようがなかった。
 歯が立たぬという俗語がある。完全なる敗北という意味だろう。大橋法務総裁は就任のとき、反共は理論でなく実践だといったと新聞に出ていた。理論では歯が立たぬという意味にとれる。歯には歯をもってという言葉がある。やはり反共の理論をもってせねばなるまい。
 レッド・パージに学生が反対するのは日共のソ連製鉄牙をはめた特別な連中は格外として、賛成の歯を見出し得ずにいるからである、政令第六十二号だけではその歯になり得ない。島田総長は校友に訴えた文章で「営々七十年間、折角先輩諸君が築き上げた社会的信用を挽回したい」と述べているが、早稲田大学の信用は健全な大人の歯をしっかりもった人間を数多く出した点にあるだろう。
 最初から大人の歯は生えない、子供の歯は抜け代るものである。抜け代ったのが次第に成熟する。歯質が欠け落ちて、今は一本も満足なのがないこの私が、歯について弁じるのも異なことだ。                            (一二・八)



最終更新日 2005年08月03日 11時54分54秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「北欧の太子」

北欧の太子
「スエーデンに詑びる」を書いたら、よくぞ詑びてくれたと人々に賞められた。ほかの国とは国が違う。とその人は私よりももっと憤慨されたようである。
 ほかの国とは国が違うというのには私も無条件で賛成した。前回のあの文章の中で、序にそれに触れたかったのだが、余白がないので諦めたのだ。
 まず第一には、ノーベル賞をもらったではないかということ。湯川さんが偉いからもらったので、何もスエーデンのお蔭じゃないというだろうが、私のいうのは儀礼上のことである。あの授与の式場で、湯川さんの手に渡した人は、病陛下に代った皇太子、すなわち今度のグスタフ・アドルフ六世だった。
 吉田さんの演説では、戦時中あの国が、わが国の利益代表国として、在外邦人にいろいろ心づくしをされたことを感謝されただげだが、今度の新王と日本とは、それだけではない、ずっと以前に深いつながりを持ったはずだ。
 三十年前、大正十五年に新王は日本を訪問されている。当時の病天皇に代って、摂政宮だったいまの天皇が応接されたから、つまりは両国宮廷は相識の間柄というわけである。しかもこの北欧の太子は、世に聞えた考古学の研究者だった。極東の太子は生物学の熱心な学者、対照は違っても好学の気には通じ合うものがあったかもしれない。
 東京ではまず博物館をご覧になり、それから歌舞伎座で「忠臣蔵」を見物なすった。法隆寺へ行き、高野山へ登山、いかにもその人らしいコースを辿って朝鮮に渡られ、満州から北京へと赴かれた。あちらでは京大の浜田博士らと考古資料発掘の仕事もなされたはずである。とにかくただの通り一遍の東洋旅行ではなかったらしい。
 考えてみればその頃は泰平の東洋ではあったのである。改めて王座に坐されて新王は、曽遊の日のことをおもわれながら今日の血なまぐさい東洋動乱に、転変の感慨を催されているかもしれぬ。
 こんな因縁があっただけに、あの旧王長逝への悼辞と新王即位への慶祝とを、下劣なワヤワヤガヤガヤに包まれてしまったことに、一倍余計、取り返しのつかぬ後悔を感じたのである。あのときの若い太子の印象には、美しく静かな好き国として残っていた日本であったろう。
 他国の国旗が掲げ下されたり、他国の国歌が奏楽されたりのときに、起立し、注目し、静粛にする位の作法は、庶民のわれわれでも心得ているのに、と客と私はもう一度憤慨しながら、それも心得ぬ不作法な者どもがやれ日の丸だの、君が代だの、修身だのとは、なんとこれ僣上の沙汰というものではあるまいか、といよいよ調子を高くして論じ合ったのである。あるいは氷雨が降っていたせいかもしれない。              (一二・九)



最終更新日 2005年08月03日 14時24分59秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「判決」

 判決が正しいか正しくないか、などということは、判断の材料を十分に与えられたときでないというわけにいくまい、三鷹事件と松川事件とを比較する人が多いが、果たして比較できる性質のものかどうか、それさえ私などにはわからない。
 とにかく松川事件では、謀議が認められ、実行者と一緒にきびしく処断された。どっちかといえば謀議者に対する方が重かったともいえる。私は板倉周防守の頃の話をおもい出した。
 京都に住んだ浪人で宗悦という男、加茂のあたりの女を雇って女中にしていたが、ある日この女中の父親が来て何かいいがかりをつけ悪口雑言を極めた。おのれ無礼な百姓めと一刀に斬り伏せたかったが、足腰立たぬ病中だったので歯噛みをしていた。ところへ隣家に住むこれも浪人、野尻五郎兵衛というのが顔を出した。野尻氏、そいつを斬って下され。いわれて野尻五郎兵衛は一議にも及ばず、ずばりとその百姓を斬り捨てた。
 が、いかに昔でもこれが許されるはずはない。早速に役所の問題になったのだが、時の所司代板倉周防守は裁断に困った。野尻五郎兵衛は私が斬りましたときっぱりいうし、宗悦はしかしそれは私が頼んだのですとはっきりいう。両人ともしぽらく待て、このこと関東へ伺いを立てる。追ってその沙汰があるまでと周防守はいった。
 やがて関東からの判決が届いたのだが、それには野尻五郎兵衛切腹すべしとあった。さらぽというので野尻はさっそく切腹したが、それでは宗悦が納まらない。七日目に彼も切腹したから二人とも死んだ。結果としては死刑二人である。
 さてその後のことだが、ある与力の息子が不良少年になり始末におえない。勘当して家を追い出したら、盛り場へ行ってゴロツキになった。かくてはいずれ家名を恥かしめるような不始末をしでかすだろうというので、同心の一人に命じて殺させた。誘き出して首尾よく殺したとおもったのが生き返ったから問題になった。犯人は誰かということ、明白にわかってしまったわけである。このとき周防守、前の野尻五郎兵衛のときの判例をおもい出し、頼んだ与力の方を咎めずに、頼まれてぽっさりやった同心の方を打首にしたそうである。与力たるものも、そうですかでは済ましていられない、これもまた自分から腹をかっさばいた。やはり結果としては二人とも死刑である。
 頼まれた方を死罪にすれば頼んだ方も生きていぬのは知れている。死罪言渡しを多くするばかりが能ではない。もし頼んだ方だけに死罪にすれば、頼まれて人を殺す奴が多くなって安心できなくなる。まことに名判決だったと新井白石が賞めているのだが、今の世に通用できる賞め言葉ではあるまい。昔と今と人間の柄がまるで違っているのである。 (一二・一〇)



最終更新日 2005年08月05日 21時05分51秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「洛陽牝丹花」

 ある人、大変に牡丹を愛した。日本人である。牡丹渡来の歴史は相当に古いから、日本にだって銘木はある。だが牡丹といえばやはり本場は中国であろう。洛陽はことに名高い。そこでその洛陽から銘木をとり寄せたいとおもった。
 幸い知人に中国人がいた。招かれてさる料亭の中国料理の板前をやっていたのだが、たまたま故郷へ帰るという。聞けばその故郷というのが洛陽に近い。意中を洩らすと、私の伯父さんが牡丹つくりの名手だという。で万金をその中国人に託した。
 ところが半年を経てもその中国人は戻って来ない。年が改まった。牡丹の季節は戻って来ても待ちこがれた銘木は渡来しない。正直なところその人はやられたとおもったそうだ。空に消えた万金を惜しむよりも、花の王者たる牡丹にかこつけてせしめられたかと思うのが苦しかったという。それはそうだろう。
 がそれも忘れてしまった四年目に、おもいがけなくその中国人が、大きなトランクを一つかかえて現れたのだそうである。現れるといきなり、いやはや、あなたのお蔭でとんでもない目に会いました。すぐ戻って来るつもりが今日にならねばならなかったのを恨みます。
 仔細を段々聞いて全く驚かされた。その中国人は帰郷するなり早速に、洛陽牡丹の伯父さんの許へいったのだそうである。託された用件を話すと、同好の士を日本に得たことは喜ばしい、お望みどおりおわけしてあげる。とそこまではよかったのだが、それから先が面倒だった。
 牡丹は仕立てがむずかしい、銘木は銘木なりにそれぞれの癖がある。おまえも大事を引受けて来たからには、完全にその責を果たさねばなるまい。それにはしばらくこの花園に住んで牡丹たちと日々を共にせねばならぬ。わかったか? どの位の日夕でしょうか、とその甥の問いに答えて伯父さんは、左様、どんなにしても満三ヵ年。
 つまり四年目に戻った中国人がかかえて来たトランクの中には、満三ヵ年の日夕を共にした洛陽牡丹の銘木がつつまれていたわけなのである。それと知って頼んだ人は、驚き、呆れ、それから心底の感謝をした。そして受取ろうとすると、待って下さい、とその中国人がいったのだそうである。あなたの花となるまでには私とおなじ満三ヵ年があなたにもかかる。トランクを渡しただけで済むことではない。
 元来が中国料理の板前で、その道では一流の名手だったそうだが、その方の仕事は捨てて約束どおり満三ヵ年、その洛陽牡丹のためにその頼んだ人の花園で暮らしたそうだ。嘘のような話である。がこの話をしてくれた人は、いずれその牡丹花を見せてあげると約束してくれている。                              (一二・一二)



最終更新日 2005年08月06日 03時40分53秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「反動ブック」

 下品な駄洒落はつつしみたい。と自ら戒めているのだが、文部省から修身課目のハンドブックが出るそうだ、などと聞くとつい、へえ、反動ブックとはねえ、とやってしまったりする。悪い癖だ。恥入る次第。ハンドブックも、携帯に便でいつどこででも役に立つ、とあれぽ結構かもしれぬ、出してくれるのはいいが、一体それは誰が書くのだろう。
 谷川岳の道標は、書き違いと立て違いで、とりかえしのつかぬ犠牲者を出してしまった。修身といえば、とにかくある一定の方向へ人を向けることで、たとえば「右-安全、左-危険」だが、折角出してもそれに対する信用がないと、危険とあるからこっちへ行った方が安全なのじゃないか、などということにもなりかねない。知識では先生は先生かもしれぬが、修身となるとどうだろうか、先生とあるからには、と万事信用されたのは昔のことである。最近私は先生よりも生徒の方が、ずっと立派な先生だという事実を知った。
 それはある中学で生徒が出している新聞の中の一記事である。全文を紹介しよう。「これは最近あったことである。何の時間であったかは言わない。国語の時間でない事は確かであります。その時間には私達は、席の順に本を読むことになっている。丁度この時間に何んといってよいかわからないが、あまり頭の良くないというか、ぜんぜんというかわからないが、何しろその様な人のうちの一人に当ったのだ。私はきっとその人は読まないと思っていました。しかしその人は何のわるびれる様子もなく立上って読み始めました。しかしその人は、ぜんぜんといってよい位読めません。囲りの人はいろいろ教えてあげました。その人はもう必死で読んでいます。しかし次の瞬間、先生はずいぶん冷たいことをおっしゃいました。
『あなたの読み方はぜんぜん先生にはわかりません。読むなら人にわかる様に読みなさいよ』句切るところでもないところで、その人の精一杯の努力をふみにじってしまったのだ。一生懸命読んだのにそんなにいわれてどんな気がするのでしょう。私はとてもくやしかった。
『発表しろ。まちがってもよい』などと云いながら一人の先生でもそんなことを言われるのなら、云っている事と矛盾しているのではないか。この先生は、この人をもっと出来る人と思っていらしていたのかも知れない。そして何気なく口にしたのかもしれない。何気なく口にした言葉が恐ろしい。この人の努力は、出来る人がすらすら読んだものよりも大きいと思う。出来る者が出来るのはあたり前である。出来ない人の努力をもっと認めてあげていただきたい。これは私の先生方に対するお願いです」
 これはこのままで立派な「教師用修身ハンドブック」になる。というのは小さな生徒の小さな抗議ではなくて、実は立派な教育におけるヒューマニズムの要求だからである。老いては子に従え。面白い格言があったものだ。この格言に従わなかったら、折角だが「反動ブック」になるだろう。                         (一二・一三)



最終更新日 2005年08月06日 15時01分00秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「わが悲願」

 この数日ほど私は自分の病体を悔んだことはない。私はおもいきって立上がりたいのだ。立上って心の底から世界平和を呼びかけたい。不安のどん底を感じて私は、居ても立ってもたまらぬ気持なのである。
 全面講和ということ、小さな日本の幸福のためではないと、かつて私はここに書いたことがあった。大きく世界平和のためである。もしも日本の不幸が世界平和を呼ぶのに何かしらの為になり得るものなら、私たちはその不幸をよろこんで忍ぶべきだ。全人類の幸福の上に私は立ちたい。
 日の丸とか君が代とかの問題は問題ではない。私は国家という愚かなワクを捨てることを考える。世界が一つになることが国連の理想の究極だろう。その可能不可能を私は論じたくない。その可能を信じるところにだけ残された「たった一つの夢」がある。国連旗はどこの国旗よりもつねに上位に掲げられるべきだという規則、これこそはその夢から生れたものなのではないか。
 鴨緑江に沿って非武装地帯ができるかできぬか、私たちにはわかることではない。だが世界の平和のためにそれが必要なら、私は全朝鮮をも引っくるめつつ、この日本をその地帯の中に入れられて不服はないといいたいのである。国連がこの国を全部管理する。この管理を占領とは誰もいうまい。世界平和のためにこの国の一切を投出して原子爆弾の残虐から世界を救うのである。小さな独立というようなことよりも、はるかにはるかに大きな栄誉であろう。
 私はキリスト教徒ではない。しかし誠実なキリスト教徒諸君は私を理解してくれるだろう。私は仏教徒でもない。しかし仏の説いた精神を知る人たちはうなずいてくれると信ずる。昔の天皇は自ら三宝帰依の奴といわれたそうだ。国家を棄却することが天皇制を棄却することだとしても、それが人類の大幸福のためだとしたら、天皇もまたよろこばれるだろう。
 世界に向かって日本みずからあえて日本を捨てる行為である。大悲願捨身の修法、そのために焚く大護摩に私は火を点じたい。そのためには街頭に立って血も吐かずばなるまい。橋畔に断食することも要るかもしれぬ。風雨をおそれず、霜雪を凌ぎもせずぽなるまい。だが私の病体はいま、半日もそれに堪えることではない。ただ夜半しずかに、この文字を綴るのみなのである。この切なさを察して下さる諸君があらば、その君をこそ私はわが知己と呼ばねばならぬ。
                                   (一二・一九)



最終更新日 2005年08月07日 23時53分52秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「烈婦」

「世界情勢吟」と題して川柳一句をお取次ぎする。
  国境を知らぬ草の実こぼれ合い
 なんと立派なものではないか。ピリッとしたものが十七字の中に結晶している。ところでこれがなんと、八十三歳のお婆さんのお作なのだ、驚いていただきたい。
 井上信子、とだけではわかるまい。が井上剣花坊の未亡人だといったら、なるほどと合点なさるだろう。「婦人朝日」誌上で紹介されていたのだが、こぼれ合う草の実こそは真実の人間である。真実の人間同上の間には国境などというあざといものはありゃしない。
 この草の実のこぼれ合いを眼の中に入れてないところに、世界の政治の愚劣さがある。侵略とか防衛とかいうが、一たびこの十七字の吟ずるところに徹して考えるがいい。人間のあさましさ、百度の嘆息をしても足りぬことになるだろう。この句のこの味、もしもそっくり伝えられるものなら翻訳してもらって外国へも紹介したい。もう一寸早ければ、ダレスさんにお土産としてもって帰っていただきたかったところだ。
 八十三歳の老婦人にしてこれほどの「世界情勢吟」をするのだから、日本の文学者諸君はさぞかし、と外国人はおもうかもしれぬ。そうなるとしかしこれは一寸困る。日本文学というやつは大体が政治嫌いでしてと、いろいろ特殊な伝統の説明などして、依然安閑たる文壇風景を弁解しなくてはなるまい。ペンクラブへは代表を出すのだが、世界の他の文学者諸君とは生活がちと違うのである。
 だが、これからもなお「日本的」であっていいのか? もしも「世界的」にと明日を心がけるなら、やはり世界の問題へ目を向け頭を向け、草の実のこぼれ合うこまかい気を配って、文学は文学なりの「世界的発言」をせずばなるまい。税金の問題よりゃ戦争の方が実は却って身近の大事なのである。文芸家協会など、これに対してどう動いているのであろう。
 井上信子老女史は、戦争中にも警察へ引っばられたりしたのだそうである。「手と足をもいで丸太にして返し」という句などがお気にさわったらしくと、今は笑っていられるのだそうだが、私などあの戦争中の自分を省みて恥かしくおもう。それだけに今度はもう自分を恥かしめるようなことはしたくないと考えている。だが老女史がその私の決心をからかうようにこう吟じられているのだ。
  どのように坐りかえてもわが姿
 老女史はこれを「最近の心境」として示されているのだが、女史の姿の変らぬのは立派である。しかし私はぜひとも坐り直し別な姿にならねばならぬ。同感の士なきやいかに。
 私は久しぶりに「烈婦」という文字を、この老女史でおもい出した。   (二・二〇)



最終更新日 2005年08月09日 21時26分46秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「強い弱い」

「侍ニッポン」という映画の主題歌が一と頃流行ったものだが、その中に、 〓人を斬るのが侍ならば……という文句があったとおもう。兵隊とあるかぎりは、いざというとき人を殺さなくてはならぬのだろう。
 刀というやつは、ともかくも人を斬るためのものである。日本刀の趣味などとあの味を珍重する人があるが、殺人の道具だというだけで私は好くことができない。妖刀村正の話は恐ろしい。抜いたが最後血を見ねばというのだが、ある刀好きの人が、村正に限らず日本刀には相応の妖気は籠っているもので、そこの味が味なのだと説明してくれたことがあった。ともかくも人を斬るために鍛えられたものなら、妖気なしでは魂なしとなるかもしれぬ。
 この刀を武士の魂といった。兵隊がぶらさげていたゴボウ剣でもやっぱり刀の部類だったのだろう。演習中にあれの鞘を取落したばっかりに命を落さなければならなかったみじめな兵隊の話が、石川達三の「風にそよぐ葦」の中に出てくる。作者はもちろんあの陸軍に憤慨して書いているのだが、あれを読んで、あの厳格な軍紀があったから皇軍は強かったのだといった人があった。元軍人で追放された人だが、こないだの解除でこの人も今は自由になっている。
 再軍備といわれるが、まさか皇軍復活と考えている人はあるまい。皇軍では兵器のすべてが陛下のものだったから、命よりも大切だったのだ。だからゴボウ剣の鞘一本のために兵隊を殺しても軍紀で通ったのだろう。だが今日の日本には象徴天皇があるきりで大元帥陛下はない。ゴボウ剣よりも人間の生命の方が大切だというのが人権擁護の精神である。
 再軍備のためには憲法も改正すべしという人がある。軍備というからには弱くては何の役にも立つまい。昔の皇軍のように強い兵隊をと望むことになると、人権よりもゴボウ剣を重んずるような改正もせねばならぬとなりはせぬか。騎虎の勢いに乗ずべしという兵語がある。われわれただの市民は苦労性だからつい止め度なく心配してしまう。
 といって人権ばかり大切にしていたらどんな兵隊の再軍備となるか。黄谷柳の中国現代小説「蝦球(シアチウ)物語」を読んでいたら、
  銃はなくてもかまわない
  砲はなくてもかまわない
  敵が製造してくれる……
 とこれは中国革命軍の軍歌らしいが、チンピラの小鬼どもが国府軍の陣営へ躍りこんでまんまと何台かの軽機銃を奪い、意気揚々と合唱しながら革命軍へ入って行く小話が、その中に出て、いた。しきりに再軍備説の芦田さんあたり、この辺のことをどうお考えになっているのであろうか?                           (二・二二)



最終更新日 2005年08月10日 12時47分37秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「税金」

 豚を飼ったら税金がかかった。その豚が肥ったら肥った分に税金がかかった。季節が来たので交尾させたら、それに税金がかかった。月満ちて仔豚が生れたらそれに税金がかかった。仔豚を売ったらもちろん税金で、親豚を殺しても税金、その肉を食ったらそれでまた税金をとられねばならなかったという話。先頃の中国の話だと聞いてむしろ可笑しがって手を叩いたものだが、さて現在のわが国、拍手などしたらそれも税金になりはしないか。
 口に税金はかからぬから、とよくいったものだが、ラジオの録音ニュースで議会の騒ぎを聴いていると、弥次の一声一音に税金をかけられたらどんなものだろうという気がした。あまり騒々しい時分、池田大蔵大臣などから、税金をかけるぞと一喝してもらったら、きっと水を打ったように静粛になるにちがいない。折角の文化功労年金に税をかけるよりもこの方がずっと知恵である。
 三十万円の年金を出すためには五十万円の年金を出さねばなりません、ということはあまりに非文化的で誰にもすぐには呑込めない。しかし高利貸から金を借りた人間ならすぐわかる。ずっとの以前だが私も、一割の手数料と一割の利子と二割を引かれるので、千円入用のために千三百円の証文を入れねばならなかったことがある。いやこれは、まことにどうも無礼な連想をしてしまった。
 取られるのは仕方ないと諦めるとして、取られた方に上手下手があるといわれると考えたくなる。所得額を申告しろというが、私のようなだらしない生活者には収支の数字などまるっきりわかっていない。そこで国税庁から決定して来たのに従って文句なく払っているのだが、聞いてみるとそれが吉田さんとほぼ同額なのだそうだ。総理大臣と同じ暮らしをしているとおもうと一寸得意にもなるが、しかし総理ともなる人が、しがない私と同じ暮らししかできずにいるのが日本か、ともおもうと情なくならずにはいられない。
 ルーズヴェルトの伝記を読んでいたら、彼は所得申告のため専門家を雇ったと書いてあった。やっぱりウマクやるためかなどと申すなかれ。大統領とあるからには一仙の脱税もあってはならぬからと、全くの正確を期するためだったのだそうである。
 しかし誰だって、ウマクやれるものならウマクと、こう考えるのが人情かもしれぬ。あの男はとても所得申告書の書入れがうまいよという評判が立ったら、その人を紹介してくれぬかで、たちまち彼は引っぱり凧になるにきまっている。現にそんな例があった。といってもそれはわが日本のことではない。サマセット・モームの小説の中に出てくるので、ロンドンの社交界での話である。これを聞いて、ああアチラでも、と妙に感心する人は多かろうとおもわれる。                             (二・二三)


最終更新日 2005年08月10日 16時47分30秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「おそろしい」

 伊豆の温泉へ行って来た友人が、おそろしい話をしてくれた。諸君にもおそろしがって戴きたいので取次ぐことにする。
 宿で、寝ようとしたらいつまでも隣室が騒々しかった。温泉だから賑やかなのは当然だが、夜が更けきってもそれが止まない。ますます唄い、いよいよ踊る、男三人に女二人の一行だったそうだが、高声で話すことも猥雑極まりないことで聞いているに堪えない。で友人はとうとう呼鈴を鳴らして宿の考を呼んだ。宿の者から隣室へ苦情を申入れさせたのだが、何をいってやがるで取合わない。ーがこれくらいのことは、今ロどこにもザラにあることだろう。
 翌日、その一行が宿を出るとき、温泉宿で遊ぶのがどこが悪いか、それなのに苦情をいって折角の興をさまたげたのだから宿賃を負けろ、一体ナレたちを何者だとおもうか、戦争になったらオレたちが引受けるんだ。大切に扱うのが本当ではないか、とこう居丈高にいった。その男三人の自称するところでは、一人が陸軍中佐、二人が同じく大尉、いずれも元将校なのだそうである。つれの女も多分タダの女ではなかったのだろう。いわれた宿の方がタダにしたかどうかは知らない。
 話というのはこれだけである。しかし、戦争はオレたちが引受けるといったと聞いて、私は背すじに寒いものを感じたのだ。梅の花の散りかけている春日の午後だったが、この世の春は遠い気がした。まさかこんなことが再軍備ではあるまいが、私たちが春の遠さをおもうところに、かえって一陽来復のめでたさを謳おうとする人々があるのである。その人たちは多分その自らを愛国者だというだろう。
 愛国心も結構だろうが、薬にも副作用というのがある。これがおそろしい。単純な食物にしても人によっては中毒するもので、ゲーテは玉葱を食うとひどく苦しんだそうだ。アスピリンは誰にも効く解熱剤だが芥川龍之介はこれを一寸でも用いたが最後全身が真赤になって一週間も唸らなければならなかったものだ。民族にも特異性というのがあるかもしれぬ。愛国心という一服が、異常な興奮を引起したりする場合があるとしたら、その処方にはきびしい注意を払わなければなるまい。戦争は引受けたなどといい出すのは、たしかに特異的な副作用である。
 平和を愛するわれわれは戦争を憎むのだが、こういう副作用に浮かされた人たちは、戦争を引受ける一心から平和を憎むようなことになりはせぬだろうか。おそろしい話と私はいった。諸君にもおそろしがって戴きたいといったのはここの事である。平和を敵とするようなことだけは断じて警めなければならない。               (二・二六)



最終更新日 2005年08月12日 15時36分05秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「非武装自衛」

 またしても雛の節句となる。内裏様の右左、どっちにすればいいのかで、毎年のことだが迷うだろう。だがあれも昔の昔はどっちでもよかったのだそうである。天下泰平がうちつづくと退屈なものだから、無用の格式をこしらえ出してうるさいことにする。その格式に根が生えると、それに従わぬものは反逆者だとなる。
 右と左とでは、なぜか右の方が本格で、左の方が下位にされるらしい。左甚五郎は名人だがあれが右甚五郎だったら出世したろうにと惜んだ人があったそうだ。昔だったら、梅原龍三郎などは芸術院会員にされなかったかもしれない。梅原さんは誰異議のない画壇の巨匠だが画を描くのは左手である.
 笛でも「左笛」といって蝋われるそうだ。左に持っても右に構えても音色さえ微妙ならよさそうなものだが、いつ高貴の方がご覧になるかもしれぬ、左利きを表に出しては恐れ多いからというので、左ぎっちょはいかに名人でも出囃子の笛は吹けぬことになっていたものだそうだ。今もそうかどうかはしらない。
 笛吹けども踊らずというが、左笛には案外人が踊る今の世ともいえる。しかし人を踊らせるのは笛ばかりではない。お太鼓を叩くのも効果がある。このお太鼓には右も左もない。笛よりもこの方が簡便に人を乗せるかもしれぬ。
 お囃子では面白いことを聞いた。太鼓と小鼓とは夫婦で、この二つが喧嘩をする。その中へ割って入るのが笛の役で、だからとりもち仲人のこころで吹かねばならぬと、これは、足利時代一派を開いた名人の残した口伝だそうだ。太鼓と小鼓、世界はいまドンツクとトンチキの二色に別れて叩き合っている。ソ連太鼓とアメリカ太鼓、とすれば割って入る笛の役目は国連だろう。
 国連に笛の名手はいるであろうか。インドの笛吹きはコブラのような毒蛇をさえ踊らせると聞いていたが、ネール首相の吹いた笛では、残念ながら二つの陣営とも踊らなかった。踊らせられさえすれば、毒蛇がいてもこの世は平和で安心となるのである。
 歯には歯を、眼には眼をというが、暴力に笛の音をもってするということもある。もとより昔の話だが、ある伶人(れいじん)が旅をして海賊どもに襲われた。彼方は武装こっちは非武装、この侵略には一たまりもなかろうとおもわれたのだが、その伶人が立ってリョウリョウと笛の音を吹き鳴らしたら、海賊どもが手をついてあやまったと、これは「古今著聞集」の中にあった話である。自衛権もこんな話だとまことに爽かでよろしい。この他、牛若丸と弁慶の話、平井保昌と袴垂保輔の話、この日本にはいろいろと、非武装自衛の例話は多いのである。修身手引書を編むときには、ぜひ忘れずに採録しておいて戴きたい。      (二・二八)



最終更新日 2005年08月12日 21時06分10秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「話二つ」

 骨董商の広田不孤斎が、その道の先輩山中定次郎翁から聞いた話だそうだ。先代のロックフェラー氏だとおもうが、先年来訪の折に、日本に来られてお感じになったことはと氏に質問すると、
 ――ホテルの近くの骨董店で十点ほどのものを買ったときだ。後を追うようにして、その店の主人がホテルへやって末た。実は唯今お買取り願った品の中に、値札をつけ違えていたのがある。そのためにお高いことを申上げてしまってまことに申訳がない。これだけ余計でしたからと、わずかばかりだが持って来て返した。当然といえば当然だが、まことに愉快におもいましたよ。
 この話はわれわれが聞いてまことに気味がよい。こんなのこそ「文化」というべきだろう。今度来訪のロックフェラー氏は、日本文化をアメリカへといってくれてるそうだが、これなら世界の何処へ出しても通る。だがこの日本文化、戦後も残っているかどうか。
 不孤斎が名品探しに北京の、行っていたときの話、瑠璃廠の店ですばらしい砧青磁の香炉をみつけた。折しも彼の客筋の人で、多額納税議員がやって来た。そこで、この品なら間違いはないからお買いなさいとすすめたのだそうだ。ところがその客がそれを手にとって、と見こう見している中に、どうしたことか滑らしてしまった。下は石畳、たまる筈もない。その客も不孤斎もおもわず顔色を変えた。当時の金で三万円という値だったのだが、しかし客も日本の多額納税議員だから、弁償しようともちろん申し出た。すると、
 ――不要緊。没法子。
 誤って落とれたのなら、この品の命数が尽きたので、誰が悪いのでもない。どうぞお構いなくと、手を振ってその主人、ただ笑っただけだったというのである。まことに悠揚たる大人の趣き、ちょいとこれは日本人にはできにくい芸かもしれぬ。やっぱり老大国中華の文化とでもいうべきなのだろう。この話も気味がよい。
 この二つとも、不孤斎の随筆集「歩いた道」に出て来るのだが、業界四十三年の著者が、骨董商売にまつわるさまざまな思い出を、素直な筆で綴ったこの書中には、なかなか磁味深い話が多い。元来随筆というものは、なまじ専門の文人のよりも、心おぼえ風に曲なく書き留めた素人のウブなものの方が味はあるものである。素人のくせして読んでくれとばかりいい気になったのが一等の下であろう。と書くと広告めくが、実はこれはわずかの部数の限定出版で、しかも非売品なのである。然るべくご放念を願いたい。     (二六・三・一)



最終更新日 2005年08月18日 18時02分40秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「源氏」

 谷崎潤一郎氏の現代語源氏は立派な大業だが、発表の当時にはうるさい制圧があって、ところどころ適当な処置をとらねばならなかった。それで近く改めて補筆訂正されたのを発表されるそうである。終戦によって自由を得たのは人間ばかりではない。古典もまた拘禁されていたのであった。
 この「源氏物語」が近く脚色上演されて歌舞伎座の脚光を浴びる。以前にも企画されたのだが、雲上高貴の人々の愛欲に溺れるさまなどとはもっての外、とばかりに禁止されたのであった。高貴であるが故に自由に肉体をもつことを失わされていたわけである。これで浮ばれたと光君もほっとしていられることだろう。
 光君はその以前にも、浮ぽれなくて苦しまれたことがある。比叡山の安居法印なにがしの許へ閻魔大王が迎えの車をよこす。急いで行ってみると一人の男が大勢の女の亡霊にとりつかれて苦しんでいる、みるとそれが光君だ。現世にあっての愛欲三昧の罪で今や地獄の苛責を受けつつあるのである。そのさまを見た法印は早速に立帰って供養する。そのお蔭で異香薫じ紫雲たなびき、それに乗って御息所も藤壷も夕顔も、ともども成仏して西方へ昇天する。
 これは昔の他わいない芝居の筋立てなのだが、安居法印に冥界の様子を探ってくれと頼んだのが作者の紫式部だとなっているのが面白い。彼女は時の帝の文学コンクールに応じ、清少納言と争って長編小説を書くのである。スパイを使って相手の枕草紙がどんなものか窃み出そうと企てたりするところ、どうして一筋の女流作家でない。ついに石山寺に籠って「源氏物語」は彼女の方が優勝した。しかし光君以下さまざまの人をおもうさまモデルにしたことが身を苦しめるのである。能の方の「源氏供養」だと、彼女は死んでからもこの苦悩で浮ばれない。最後に亡霊となって現れて、法印に回向を頼むことになっている。どちらにしても作者が苦しむところは面白い。
 モデルがないと小説は書けぬものですか、と質問されたことがあった。今日出海君の三木清物や平林たい子女史の松谷天光光物でモデル問題がうるさかった頃である。セザンヌが林檎を描くときも林檎を前に置いたようですな、と私は当らず触らずの話をして逃げてしまった。私にしてもいつ何時誰かをモデルにして小説を書くかわからなかったからである。だがモデルにする人、される人、敢てモデルにする気持もわかるが、された人の気持もわかるのである。光君も紫式部もともに浮ぽれなかったという昔の話にはなかなか道理がある。現
代の作家諸君にしても決して涼しい気持でいるわけではあるまい。だったら日を期して盛大に供養の会をやったらどうか。
 春日閑話、こんなことを書いているときは私も戦雲を忘れているのである。                         (三・三)



最終更新日 2005年08月18日 18時16分25秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「卒業式」

「狭き門」は上級学校へ進学する道にばかりあるのではない。義務教育の中学を卒えてすぐ実社会へ飛出す少年たちも、やっぱりこの門を潜らねばならぬのである。ある工場が求人していると聞いて、ある中学が五人ほどの卒業生を差向けた。評判のいい工場で随分志望者が多いらしいので、吟味して優秀なのを差向けたのだが、たった一人しか採用されなかったそうだ。受持の先生が落胆しているのも無理はない。
 先生は教室で教えるだけの仕事では済まないのである。職業安定所がやることまでも分担しなければならぬ。この点大いに察してやるべきだろう。これに悩む先生たちは、狭き門を広くしろと要求するだろう。となるとこれは政治に関する。ところが先生たちは先生であるが故にというので、政治に関して動く幅が制限されている。自縄自縛とはこのことでしょうかなあとある先生が苦笑していた。新制中学を卒えても一人前になれるわけはない。実社会の荒波を乗切るには何なりの技能ももたねばならぬが、さて技能を身にとなると、卒業後のこれからの努力が必要だろう。だがあえて職業補導所へ通おうという心掛けの者はすくない。住込みで一、二年叩かれるのを辛抱すればというようなロへは行きたがらない。苦しい家庭の事情から一日も早く一円でも多くと切羽つまっているのなら別として、そうでないのは概ねあっさり体を動かすだけで収入を得たいと望んでいる。愛国心の修身も結構だろうが、それよりもまず堅実な人間教育をせんと駄目ですなといった先生があった。狭き門なだけに、急がば廻れという道を教え子に選ばせたいというのだが、しかしこの軽薄は子供ばかりではあるまい。それにはやっぱりまず堅実な政治でしょうなと私は答えた。
 ローマはなどと大上段ないい方は差控えよう。菜っぱ一枚だって一日では成らぬのである。葱を食うには一年かかる。それなのに今日蒔いて明日穫ようとする。敗戦五年だが、すべては速成主義のやっつけでやって来た。日本の建直しなどとはいうのだが、十年計画はおろか、五年三年の計画もない。行き当りぱったり、朝鮮の騒動が起きたんで日本経済も助かりましたなあといった調子の今日までだったのである。明日はどうなるかわからんというのかもしれぬが、じっくり長い眼で根を張るのを待とうという政治だったら、六三制新教育にもそれが現れていたことだろう。
 三年経てばこの子供たちが卒業ということは入学の時にすでにわかっていた事なのですから、と一人の先生がいったのは決して愚痴というようなものではない。深い心の籠った大きな抗言である。いまどこの中学校にも卒業式が挙げられているのであろう。しかしこの式日、先生たちの顔は果たして明るいか暗いか。                (三・四)



最終更新日 2005年08月18日 18時28分56秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「学生へ」

 近くの高等学校の女学生が三人やってきて―校内新聞に何か書いて下さいといった。大人に頼まれたときは不精な私だが、溌剌とした新世代に見込まれると、いそいそ動き出さずにはいない。しかし書いてやったことは次のとおりに、はっきり老若を区別した、題は「わからない」というのである。
 私の知っている学生は、フランス映画が好きで欠かさず見に行く。見て来てさすがフランス映画だと賞めるので、君は一体どのくらいフランス語ができるかと聞いてみた。すると妙な顔をして、英語ならすこしはできるけれど、と妙な返事をした。
 フランス語がわからないでフランス映画がわかるといえるか。スーパー・インポーズで邦文の訳語が出てくるというかもしれぬが、映画の中のしゃべっている言葉は、耳で聴くべきもので、眼で見るべきものではない。セリフの強弱とか抑揚で、一つの言葉にもさまざまなニュアンスというものがある筈だ。それはあのスーパー・インポーズから受取れるものではない。だからフランス映画がわかるといいきれるのには、どうしてもフランス語がわからなければ、となる筈である。諸君の中にアメリカ映画を見に行く人は多いだろうが、それを見てどこまでわかるか、これは英語力の問題である。英語力を問題にせずに、わかるとかわからぬとかいっているとしたら随分変なものである。方々の学校に映画研究会などというのがあって、よく洋画を批評し合ったりするのをみるが、その連中の語学力はどうも信用できぬらしい。
 オリヴィエの「ヘンリー五世」のとき、何かとわかったような顔で批評していた人があったが、段々きいていると画面のことばかりで折角の原作シェクスピヤ劇曲のうつくしいセリフの巧みな朗誦などについてはすこしも触れない。つまりこの批評家はあの映画から英語をすっかり抜いて鑑賞していたというわけだった。シェクスピヤ抜きの「ヘンリー五世」にされては、苦心したオリヴィエも苦笑させられるだろうとおもった。わかるということは大変なことである。単に面白かったというようなことで、わかったなどとはいってもらいたくない。だが近頃の学生諸君の中には、ともすると早わかりでわかったと片づけてしまうことがありはしないか。物事は万事突っこんで、掘下げて根づよくそれと取組んだ研究をしないとわかるものではない。私は「ヘンリー五世」を見るとき、前もって原作と坪内道遙博士の翻訳とにさっと眼を通して出かけていったのだが、私の知っている学生諸君は、一人もそんな用意なぞせずに出かけていったらしい。そしてわかったという顔で帰って来た。用意をして見にいった私は、どこがわからぬかがよくわかって、なかなかわからぬと渋い顔して帰って来たのである。
 年よりの私が方が、若い諸君よりもわかりが悪いというのは、私の頭の悪さや血のめぐりののろさによるのか。ともかく、年よりの私の方が諸君よりも万事に謙遜で勉強家だということはどうも本当らしい。しかしこんな事で諸君に勝っては困るのである。  (三・五)



最終更新日 2005年08月18日 18時38分32秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「梅花」

 門外散歩をせぬ私は、梅の小枝を折って来てもらって壷に挿している。白梅、紅梅、室にいてしげしげと眺めていればどちらもよい味なのである。赤ければ赤いでそれも、といったらイヤな顔をする人もあるだろうか。
 ヴァイニング夫人は、心に入れて帰りたい日本の花はといって、まず梅をあげていた。梅はアメリカにもある。つつじはキャロライナの山中にあるものだって劣りはしない。しかし梅だけはこの国独得のものをもっている。夫人のこの愛情はこの花をばかりでなく、この国を正しく理解したものといえるだろう。正しく理解されるということはうれしい仕合せというべきである。
 ただ一口に梅というが、夥しい種類があるにちがいない。おなじ白梅にしても、あの家の、この家の、仔細に比べれば人間が各自にちがうほどにちがうのである。ある年の早春私は町内にいられる安田靱彦画伯の梅園をみせて戴いた。集められた梅樹のすべてに名があり、名の変るに応じてその風情が別趣なのに、なるほどとおもったことがある。本当に梅花を愛する人は、そのそれぞれの個性につれて異るところを喜ぶだろう。
 ヴァイニング夫人は「日本での四年間」の中で、日本の子供たちのための絵本の中に個人性のないことを指摘していられる。出て来る子供たちは漠然としてただ子供たちであるだけで、太郎でも次郎でもない。姉さんとか弟とか赤ん坊とかお父さんとかであって、西洋の本の中のものがいつもジョンとかピーターとかいう名前をもっているのに比べて、いかにも独自性がない。西洋では忙しい港の曳船でさえも、名前と自分の顔と性格とをもっているのにというのである。
 夫人のこの指摘を、私は決して小さなことではないと感じた。個人というものの存在しなかったのがこの国の過去の歴史である。誰もがみんな一様に草莽の臣であった。そして滅私奉公がその臣道だと教えられたのである。いまはじめてその人々が私というものを生かす人間の春が来たのであるが、果たしてどこにどのような芽を出しているのであろうか。個性の尊重などといわれるが、隣人の個性をそれぞれに見分ける公平な眼と寛容な精神をもった余裕のある生活を築きあげるのは、けっして一朝一夕の仕事ではない。
 愛国心という掛声に私が憂えるのは、祖国という名によって、ふたたびわれわれが無名の人間の集団とならねばならぬようなことがあったらと(おそ)れるからである。百人いれば百の祖国、これは自由を愛する国民の愛国心が唱えた言葉であった。君自身の祖国を君自身の裡に発見せねばならぬ。ヴァイニング夫人はわが皇太子に、この愛国心について何かしらを語られたことがあったろうか。いま私の室に挿してあるのは薄紅梅である。    (三・七)



最終更新日 2005年08月18日 20時59分07秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「助さん格さん」

 代々大名という封建制はなくなったが、世嗣というものはまだ残っている。社長の子だから不肖をかえりみず社長になっても誰も怪まない。実力競争の世の中といっても平社員の弟では何もならぬが、重役夫人の弟だと出世の道が早いのである。デモクラシイとはいうが、これはまたこれで別なものなのだろう。側近という封建的な言葉が現代に通用しているのは当然かもしれぬ。
 側近は得をするか損をするか、得をするとみるから側近外の侍たちがあれこれというのだろう。だったら側近は進んで損をしてみせるがいい。オレはオヤジが好きだから側にいて奉仕するんだ、だから電気の会社の会長だの社長だのといわれても振向くものではない。とこう啖呵をきれば、誰だってやんやと喝采するのである。それを逆に、待ってましたと飛びついたら、やっぱり側近のお于盛りでやりやがったなと痛くもない腹を探られても是非ないこ
とである。
 水戸光圀は苦労人の殿様だったから、この側近についても名言を吐いたそうだ。日頃側へ置くのは三流のつまらぬ奴らがいい。一流の人間だと自然と彼等のいうところに耳を傾け、それが道理だとやはりそれに従うことになる。すればすなわち大名たるものが側近のために惑わされたという形になるだろう。三流の奴らなら、よしんば彼等の説を容れたにしても外の連中はそうは見ないというのである。助さん格さんの二人をつれた黄門は講釈種だが、なるほどあの二人級の側近ならどこからも文句は来ないだろう。吉田さんの側近について、時折文句が出るらしいのはその人たちが助さん格さん級よりも上だからであろうか。
 ラジオの討論座談会で官房長官が、総理の側近だからという理由で、有能な人が相当の地位につけぬとしたら不合理ではないかといっていた。全く仰しゃる通りにちがいない。だが側近であるが故に好んで損をするのが、それアノ忠義というものではないかいな。封建的な存在であるかぎりには、やはりこの封建的な道徳を守ることが似つかわしい。助さん格さん以上の人物であっても助さん格さん以上に出ずにいる床しさ、つまり官房長官の指摘した不合理は、封建世界の宿命なのである。
 私は中学時代、英語の先生のお気に入りになってその側近にされていたが、学期末にはいつも試験答案の採点計算の面倒を手伝わされた。そのたびいつも、誤解されるといかんから君の点数は五、六点引いとくことにするぞ、とやられたものだった。しかし私はそれに満足し、しかもそれを学友の誰にも秘して笑っていたものである。われながら立派だったと、思い出して自分で感心している。                     (三・八)



最終更新日 2005年08月18日 22時18分29秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「サイレン教育」

 つい近くでサイレンがけたたましく鳴る。何とも不気味な響だ。この不気味さにはいつまでたっても慣れられない。時折は脅かされたようにはっとすることもある。あの頃をおもい出しての強迫観念というやつであろう。ところでこの不気味なサイレンは、中学校で生徒たちに時間を知らせるために使っているのである。
 これが美しい鐘の音だったらとおもう。いつかの米誌「ライフ」に鐘つくりの名人の苦心しているさまが出ていた。鐘の音を美しくと苦心した話は日本にもある。美しい鐘の音は人の心にしみじみとしみ入る。だから教会でも寺でも上等の鐘をとのぞむのだろう。サイレンを鳴らす教会はアメリカにだってあるまい。
 ある若夫婦だが、一諸に京都へ旅していて何かイサカイをやった。男の方に越度があったのらしいが、とにかく気まずくなってお互いに口も利かない。といって旅先だから間へ入ってくれる時の氏神もない。宿屋の部屋で二人むっとして睨み合っていたとき、どこの寺の鐘かぽおおん、とやったのだそうだ。なんともいえず美しく余韻が漂う。ああ美しいこと、おもったとたんに、許してね、と女の方もいい、僕がいけなかった、と男の方もいってめでたくなったという話、つまり鐘の音の功徳である。
 フローベルは歩きながら本を読む癖があったそうだ。ある日ゲーテの「ファウスト」を読みながら歩く。引入れられ夢中になってセーヌの河岸をどんどんいった。何とかいう静かなところへ来て、そこの堤防に腰を下していると、河向うの樹立の奥から教会堂の鐘が鳴り渡った。そのとき丁度彼は「キリストはよみがえれり鳴りわたる鐘は主の復活のときを告げたり」という句を読んでいたそうだ。だから現実に聞えて来たその鐘が、ゲーテの夢の中の鐘そのものとこっちゃになったわけだろう。夢か現か、フローベルは何かに執り憑かれた人のようになって、ふらふらとそこら中を歩き、正気づかぬままに家へ帰って来たそうだ。美しいのはゲーテの詩ばかりではない、鐘の音もその詩と同様に芸術であったのだといえよう。
 私は学校のサイレンを聞くたび、生徒たちが不幸のようにおもうのである。ああいう不気味なものに耳慣れてしまったら、よそへいって美しい鐘の音に触れても何とも感じないまでになってしまうかもしれぬ。ああいうものに慣れた結果は、鐘の音をきいて夫婦仲直りするなんて、そんなことは到底ありっこない、となるにちがいない。これを不幸とおもうことは私の感傷であろうか。このサイレン教育をやっているのは私の町ばかりではないらしい。右のことを人に述べたら、鐘など鳴らしている古風なのは新制の学校にはありませんよ、と笑われてしまった。                                   (三・九)



最終更新日 2005年08月19日 20時59分12秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「話二つ」

 骨董商の広田不孤斎が、その道の先輩山中定次郎翁から聞いた話だそうだ。先代のロックフェラー氏だとおもうが、先年来訪の折に、日本に来られてお感じになったことはと氏に質問すると、
 ――ーホテルの近くの骨董店で十点ほどのものを買ったときだ。後を追うようにして、その店の主人がホテルへやって末た。実は唯今お買取り願った品の中に、値札をつけ違えていたのがある。そのためにお高いことを申上げてしまってまことに申訳がない。これだけ余計でしたからと、わずかばかりだが持って来て返した。当然といえば当然だが、まことに愉快におもいましたよ。
 この話はわれわれが聞いてまことに気味がよい。こんなのこそ「文化」というべきだろう。今度来訪のロックフェラー氏は、日本文化をアメリカへといってくれてるそうだが、これなら世界の何処へ出しても通る。だがこの日本文化、戦後も残っているかどうか。
 不孤斎が名品探しに北京の、行っていたときの話、瑠璃廠の店ですばらしい砧青磁の香炉をみつけた。折しも彼の客筋の人で、多額納税議員がやって来た。そこで、この品なら間違いはないからお買いなさいとすすめたのだそうだ。ところがその客がそれを手にとって、と見こう見している中に、どうしたことか滑らしてしまった。下は石畳、たまる筈もない。その客も不孤斎もおもわず顔色を変えた。当時の金で三万円という値だったのだが、しかし客も日本の多額納税議員だから、弁償しようともちろん申し出た。すると、
 ――不要緊。没法子。
 誤って落とれたのなら、この品の命数が尽きたので、誰が悪いのでもない。どうぞお構いなくと、手を振ってその主人、ただ笑っただけだったというのである。まことに悠揚たる大人の趣き、ちょいとこれは日本人にはできにくい芸かもしれぬ。やっぱり老大国中華の文化とでもいうべきなのだろう。この話も気味がよい。
 この二つとも、不孤斎の随筆集「歩いた道」に出て来るのだが、業界四十三年の著者が、骨董商売にまつわるさまざまな思い出を、素直な筆で綴ったこの書中には、なかなか磁味深い話が多い。元来随筆というものは、なまじ専門の文人のよりも、心おぼえ風に曲なく書き留めた素人のウブなものの方が味はあるものである。素人のくせして読んでくれとばかりいい気になったのが一等の下であろう。と書くと広告めくが、実はこれはわずかの部数の限定出版で、しかも非売品なのである。然るべくご放念を願いたい。     (二六・三・一)



最終更新日 2005年08月20日 14時01分06秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「源氏」

 谷崎潤一郎氏の現代語源氏は立派な大業だが、発表の当時にはうるさい制圧があって、ところどころ適当な処置をとらねばならなかった。それで近く改めて補筆訂正されたのを発表されるそうである。終戦によって自由を得たのは人間ばかりではない。古典もまた拘禁されていたのであった。
 この「源氏物語」が近く脚色上演されて歌舞伎座の脚光を浴びる。以前にも企画されたのだが、雲上高貴の人々の愛欲に溺れるさまなどとはもっての外、とばかりに禁止されたのであった。高貴であるが故に自由に肉体をもつことを失わされていたわけである。これで浮ばれたと光君もほっとしていられることだろう。
 光君はその以前にも、浮ぽれなくて苦しまれたことがある。比叡山の安居法印なにがしの許へ閻魔大王が迎えの車をよこす。急いで行ってみると一人の男が大勢の女の亡霊にとりつかれて苦しんでいる、みるとそれが光君だ。現世にあっての愛欲三昧の罪で今や地獄の苛責を受けつつあるのである。そのさまを見た法印は早速に立帰って供養する。そのお蔭で異香薫じ紫雲たなびき、それに乗って御息所も藤壷も夕顔も、ともども成仏して西方へ昇天する。
 これは昔の他わいない芝居の筋立てなのだが、安居法印に冥界の様子を探ってくれと頼んだのが作者の紫式部だとなっているのが面白い。彼女は時の帝の文学コンクールに応じ、清少納言と争って長編小説を書くのである。スパイを使って相手の枕草紙がどんなものか窃み出そうと企てたりするところ、どうして一筋の女流作家でない。ついに石山寺に籠って「源氏物語」は彼女の方が優勝した。しかし光君以下さまざまの人をおもうさまモデルにしたことが身を苦しめるのである。能の方の「源氏供養」だと、彼女は死んでからもこの苦悩で浮ばれない。最後に亡霊となって現れて、法印に回向を頼むことになっている。どちらにしても作者が苦しむところは面白い。
 モデルがないと小説は書けぬものですか、と質問されたことがあった。今日出海君の三木清物や平林たい子女史の松谷天光光物でモデル問題がうるさかった頃である。セザンヌが林檎を描くときも林檎を前に置いたようですな、と私は当らず触らずの話をして逃げてしまった。私にしてもいつ何時誰かをモデルにして小説を書くかわからなかったからである。だがモデルにする人、される人、敢てモデルにする気持もわかるが、された人の気持もわかるのである。光君も紫式部もともに浮ぽれなかったという昔の話にはなかなか道理がある。現代の作家諸君にしても決して涼しい気持でいるわけではあるまい。だったら日を期して盛大に供養の会をやったらどうか。
 春日閑話、こんなことを書いているときは私も戦雲を忘れているのである。                         (三・三)



最終更新日 2005年08月21日 11時36分57秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「学生へ」

 近くの高等学校の女学生が三人やってきて―校内新聞に何か書いて下さいといった。大人に頼まれたときは不精な私だが、溌剌(はつらつ)とした新世代に見込まれると、いそいそ動き出さずにはいない。しかし書いてやったことは次のとおりに、はっきり老若を区別した、題は「わからない」というのである。
 私の知っている学生は、フランス映画が好きで欠かさず見に行く。見て来てさすがフランス映画だと賞めるので、君は一体どのくらいフランス語ができるかと聞いてみた。すると妙な顔をして、英語ならすこしはできるけれど、と妙な返事をした。
 フランス語がわからないでフランス映画がわかるといえるか。スーパー・インポーズで邦文の訳語が出てくるというかもしれぬが、映画の中のしゃべっている言葉は、耳で聴くべきもので、眼で見るべきものではない。セリフの強弱とか抑揚で、一つの言葉にもさまざまなニュアンスというものがある筈だ。それはあのスーパー・インポーズから受取れるものではない。だからフランス映画がわかるといいきれるのには、どうしてもフランス語がわからなければ、となる筈である。諸君の中にアメリカ映画を見に行く人は多いだろうが、それを見てどこまでわかるか、これは英語力の問題である。英語力を問題にせずに、わかるとかわからぬとかいっているとしたら随分変なものである。方々の学校に映画研究会などというのがあって、よく洋画を批評し合ったりするのをみるが、その連中の語学力はどうも信用できぬらしい。
 オリヴィエの「ヘンリー五世」のとき、何かとわかったような顔で批評していた人があったが、段々きいていると画面のことばかりで折角の原作シェクスピヤ劇曲のうつくしいセリフの巧みな朗誦などについてはすこしも触れない。つまりこの批評家はあの映画から英語をすっかり抜いて鑑賞していたというわけだった。シェクスピヤ抜きの「ヘンリー五世」にされては、苦心したオリヴィエも苦笑させられるだろうとおもった。わかるということは大変なことである。単に面白かったというようなことで、わかったなどとはいってもらいたくない。だが近頃の学生諸君の中には、ともすると早わかりでわかったと片づけてしまうことがありはしないか。物事は万事突っこんで、掘下げて根づよくそれと取組んだ研究をしないとわかるものではない。私は「ヘンリー五世」を見るとき、前もって原作と坪内道遙博士の翻訳とにさっと眼を通して出かけていったのだが、私の知っている学生諸君は、一人もそんな用意なぞせずに出かけていったらしい。そしてわかったという顔で帰って来た。用意をして見にいった私は、どこがわからぬかがよくわかって、なかなかわからぬと渋い顔して帰って来たのである。
 年よりの私が方が、若い諸君よりもわかりが悪いというのは、私の頭の悪さや血のめぐりののろさによるのか。ともかく、年よりの私の方が諸君よりも万事に謙遜で勉強家だということはどうも本当ちしい。しかしこんな事で諸君に勝っては困るのである。  (三・五)



最終更新日 2005年08月24日 23時05分32秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「梅花」

 門外散歩をせぬ私は、梅の小枝を折って来てもらって壷に挿している。白梅、紅梅、室にいてしげしげと眺めていればどちらもよい味なのである。赤ければ赤いでそれも、といったらイヤな顔をする人もあるだろうか。
 ヴァイニング夫人は、心に入れて帰りたい日本の花はといって、まず梅をあげていた。梅はアメリカにもある。つつじはキャロライナの山中にあるものだって劣りはしない。しかし梅だけはこの国独得のものをもっている。夫人のこの愛情はこの花をばかりでなく、この国を正しく理解したものといえるだろう。正しく理解されるということはうれしい仕合せというべきである。
 ただ一口に梅というが、夥しい種類があるにちがいない。おなじ白梅にしても、あの家の、この家の、仔細に比べれば人間が各自にちがうほどにちがうのである。ある年の早春私は町内にいられる安田靱彦画伯の梅園をみせて戴いた。集められた梅樹のすべてに名があり、名の変るに応じてその風情が別趣なのに、なるほどとおもったことがある。本当に梅花を愛する人は、そのそれぞれの個性につれて異るところを喜ぶだろう。
 ヴァイニング夫人は「日本での四年間」の中で、日本の子供たちのための絵本の中に個人性のないことを指摘していられる。出て来る子供たちは漠然としてただ子供たちであるだけで、太郎でも次郎でもない。姉さんとか弟とか赤ん坊とかお父さんとかであって、西洋の本の中のものがいつもジョンとかピーターとかいう名前をもっているのに比べて、いかにも独自性がない。西洋では忙しい港の曳船でさえも、名前と自分の顔と性格とをもっているのにというのである。
 夫人のこの指摘を、私は決して小さなことではないと感じた。個人というものの存在しなかったのがこの国の過去の歴史である。誰もがみんな一様に草莽(そうもう)の臣であった。そして滅私奉公がその臣道だと教えられたのである。いまはじめてその人々が私というものを生かす人間の春が来たのであるが、果たしてどこにどのような芽を出しているのであろうか。個性の尊重などといわれるが、隣人の個性をそれぞれに見分ける公平な眼と寛容な精神をもった余裕のある生活を築きあげるのは、けっして一朝一夕の仕事ではない。
 愛国心という掛声に私が憂えるのは、祖国という名によって、ふたたびわれわれが無名の人間の集団とならねばならぬようなことがあったらと(おそ)れるからである。百人いれば百の祖国、これは自由を愛する国民の愛国心が唱えた言葉であった。君自身の祖国を君自身の裡に発見せねばならぬ。ヴァイニング夫人はわが皇太子に、この愛国心について何かしらを語られたことがあったろうか。いま私の室に挿してあるのは薄紅梅である。    (三・七)



最終更新日 2005年08月25日 22時57分43秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「助さん格さん」

 代々大名という封建制はなくなったが、世嗣というものはまだ残っている。社長の子だから不肖をかえりみず社長になっても誰も怪まない。実力競争の世の中といっても平社員の弟では何もならぬが、重役夫人の弟だと出世の道が早いのである。デモクラシイとはいうが、これはまたこれで別なものなのだろう。側近という封建的な言葉が現代に通用しているのは当然かもしれぬ。
 側近は得をするか損をするか、得をするとみるから側近外の侍たちがあれこれというのだろう。だったら側近は進んで損をしてみせるがいい。オレはオヤジが好きだから側にいて奉仕するんだ、だから電気の会社の会長だの社長だのといわれても振向くものではない。とこう啖呵をきれば、誰だってやんやと喝采するのである。それを逆に、待ってましたと飛びついたら、やっぱり側近のお于盛りでやりやがったなと痛くもない腹を探られても是非ないことである。
 水戸光圀は苦労人の殿様だったから、この側近についても名言を吐いたそうだ。日頃側へ置くのは三流のつまらぬ奴らがいい。一流の人間だと自然と彼等のいうところに耳を傾け、それが道理だとやはりそれに従うことになる。すればすなわち大名たるものが側近のために惑わされたという形になるだろう。三流の奴らなら、よしんば彼等の説を容れたにしても外の連中はそうは見ないというのである。助さん格さんの二人をつれた黄門は講釈種だが、なるほどあの二人級の側近ならどこからも文句は来ないだろう。吉田さんの側近について、時折文句が出るらしいのはその人たちが助さん格さん級よりも上だからであろうか。
 ラジオの討論座談会で官房長官が、総理の側近だからという理由で、有能な人が相当の地位につけぬとしたら不合理ではないかといっていた。全く仰しゃる通りにちがいない。だが側近であるが故に好んで損をするのが、それアノ忠義というものではないかいな。封建的な存在であるかぎりには、やはりこの封建的な道徳を守ることが似つかわしい。助さん格さん以上の人物であっても助さん格さん以上に出ずにいる床しさ、つまり官房長官の指摘した不合理は、封建世界の宿命なのである。
 私は中学時代、英語の先生のお気に入りになってその側近にされていたが、学期末にはいつも試験答案の採点計算の面倒を手伝わされた。そのたびいつも、誤解されるといかんから君の点数は五、六点引いとくことにするぞ、とやられたものだった。しかし私はそれに満足し、しかもそれを学友の誰にも秘して笑っていたものである。われながら立派だったと、思い出して自分で感心している。                     (三・八)



最終更新日 2005年08月26日 22時50分17秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「サイレン教育」

 つい近くでサイレンがけたたましく鳴る。何とも不気味な響だ。この不気味さにはいつまでたっても慣れられない。時折は脅かされたようにはっとすることもある。あの頃をおもい出しての強迫観念というやつであろう。ところでこの不気味なサイレンは、中学校で生徒たちに時間を知らせるために使っているのである。
 これが美しい鐘の音だったらとおもう。いつかの米誌「ライフ」に鐘つくりの名人の苦心しているさまが出ていた。鐘の音を美しくと苦心した話は日本にもある。美しい鐘の音は人の心にしみじみとしみ入る。だから教会でも寺でも上等の鐘をとのぞむのだろう。サイレンを鳴らす教会はアメリカにだってあるまい。
 ある若夫婦だが、一諸に京都へ旅していて何かイサカイをやった。男の方に越度があったのらしいが、とにかく気まずくなってお互いに口も利かない..といって旅先だから間へ入ってくれる時の氏神もない。宿屋の部屋で二人むっとして睨み合っていたとき、どこの寺の鐘かぽおおん、とやったのだそうだ。なんともいえず美しく余韻が漂う。ああ美しいこと、おもったとたんに、許してね、と女の方もいい、僕がいけなかった、と男の方もいってめでたくなったという話、つまり鐘の音の功徳である。
 フローベルは歩きながら本を読む癖があったそうだ。ある日ゲーテの「ファウスト」を読みながら歩く。引入れられ夢中になってセーヌの河岸をどんどんいった。何とかいう静かなところへ来て、そこの堤防に腰を下していると、河向うの樹立の奥から教会堂の鐘が鳴り渡った。そのとき丁度彼は「キリストはよみがえれり鳴りわたる鐘は主の復活のときを告げたり」という句を読んでいたそうだ。だから現実に聞えて来たその鐘が、ゲーテの夢の中の鐘そのものとこっちゃになったわけだろう。夢か現か、フローベルは何かに執り憑かれた人のようになって、ふらふらとそこら中を歩き、正気づかぬままに家へ帰って来たそうだ。美しいのはゲーテの詩ばかりではない、鐘の音もその詩と同様に芸術であったのだといえよう。
 私は学校のサイレンを聞くたび、生徒たちが不幸のようにおもうのである。ああいう不気味なものに耳慣れてしまったら、よそへいって美しい鐘の音に触れても何とも感じないまでになってしまうかもしれぬ。ああいうものに慣れた結果は、鐘の音をきいて夫婦仲直りするなんて、そんなことは到底ありっこない、となるにちがいない。これを不幸とおもうことは私の感傷であろうか。このサイレン教育をやっているのは私の町ばかりではないらしい。右のことを人に述べたら、鐘など鳴らしている古風なのは新制の学校にはありませんよ、と笑われてしまった。                                   (三・九)



最終更新日 2005年08月27日 18時34分34秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「上等政治」

 画家のルオーは、あいつは下等な奴だというとき、あいつは政治家だ、というのが癖だそうだ。政治家というものは、現実の利害打算でばかり動いて誠実というものがない。物事を現象ばかりみて本質に触れようとせぬ。だから裏切ることしかできぬ低能愚劣な輩であって、というのが彼の解釈なのだろう。
 政治というものには確かに下等な響がある。道義よりも損得、理想よりも駈引き、政治というものを見ていると確かにいつもこの調子だ。しかしこれは何も日本の国会の動きなどについていっているのではない。かの国連というものを生んだのは国際道義への願望であったろうが、今日それを崩しつつあるものは決して道義的なものではない。下等なものが世界を引きずりつつある事実は、毎日の外電が報じている。
 講和近しというのはまさしく朗報にちがいないが、講和というものも政治なのであろうか。われわれは上等な講和を望みたい。政治の必要からの講和よりも、道義の必然からもたらされる講和の方が上等にきまっている。下等と上等を区別し、上等をあくまでも望むのが真の文化国家の態度だろう。新生日本は文化憲法をもって行くべき道を明らかにした筈だ。上等下等の選り好みなど、敗戦国として致すのは僣越の沙汰という人があるかもしれぬが、われわれは鼠にならず鷹になりたい。餓えても穂を摘まずの矜持は新日本の胸中であるべきである。
 われわれ中国と戦った。最も長くこの隣邦を敵とした。このことを忘却するのは道義的ではあるまい。この道義は講和という声にまずこの隣邦の名をおもう。もしもこの名が講和の相手の中に加わらなかったとしたら、一体道義はどうなるのか。われわれはもはやこれ以上アジアの空に新しい雲を重ねさせたくない。からりと晴れた瑠璃青天の透明をこそわれわれは望んでいる。政治というものの力ではそれをもたらすことが不可能なのであろうか。
 中国は今交戦当時の中国ではない、と政治家は答えるだろう。なるほど堂々たる邸宅は昔ながらであっても、その門柱は変ってしまった。蒋氏の表札は()ぎとられ、代って毛族の紋章が輝いている。しかしだからといって中国が消えてしまったのでもあるまい。われわれは蒋氏と握手したいのでもなく、毛族と抱擁したいのでもない。われわれの道義は中国と接吻し、彼国の民衆諸君と合体したいのである。それにはどうすればいいか。
 どうすればいいか、そんなことはわれわれは知らない。われわれはただ心からの願望を述べるだけである。それに答えるのが政治家の任務であろう。正しく処置してそれに答え得たとき、政治ははじめて上等になる。ルオー老人もそのときはあの悪口をいわぬだろう。(三・一〇)



最終更新日 2005年08月28日 11時30分46秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「中学生」

「中学生なんぞその名のこころよき中学校の小使たらんか」というのは菊地寛の歌であった。この感慨に私は共鳴する。それで食えるものなら私もなりたい。なまじ校長になって敬遠されるよりも、小使になって親しまれた方がうれしかろう。
 三月十日、今日は山形県の酒田市の中学校で、中学生の音楽会が開かれている筈だ。来いと招かれたのだが病中だから私は行けない。心から残念とおもいながら、はるかにおもいをその会場へと馳せる。若々しい彼等の、澄んだ混声合唱が耳に聞こえるようだ。その合唱の文句は実は私の作詞で、友人宮原禎次の作曲なのである。音楽会というのはすなわち、出来たばかりの新校歌の発表会なので、だから私とは格別な因縁があるものなのである。ついでだからその校歌の歌詞をここに書いておこう。

新しき世は、新しき
若きいのちに、になわれむ
風ゆるやかに
雲かろやかに
わくところ、とぶところ
みよ、鳥海の山は澄む
 とそれからリフレインで
古き山河を、うけつぎて
若き血潮は、うたわなむ
野をひろびうと
ひかりあかるく
流れつつ、日でりなく
見よ、最上川海に入る
若人よ
若人の
つどいて立てば
おのずから
そは輝くよ
酒田第二中学校
昼の日輪、夜の星
若き歴史をはじめなむ
夢は久遠(くおん)
道ははるかに
そのふかき、ふかみどり
光が丘の、松のいろ

 さて、神聖な校歌の作詞などするからには、その酒田市と汝との関係は如何、とすぐ質問されるだろう。その土地の出身とか、大方は何かしらの引っかかりがあるべきものだ。
 ところが、実は、私には何にもない。私にとってはかつて一歩だって踏み込んだこともない見知らぬ土地なのである。
 だから私も、依頼をうけるなり即座にお断りした。すると宮原禎次がにやりと笑って、君は日頃世界人みたいな自由奔放な口を利くが、案外地方主義なんだなと一本突っ込んで来た。同じ世代の若い諸君に愛情をもつというのなら、その土地に因縁があるもないもありはすまい。愛情こそが大きなつながりであるべきじゃないかと、これは見事にやられてしまったのである。つまり私は中学生諸君のこころよさに負けてしまったのだ。だから今日の音楽会に遠く胸をおどらせているのである。ところでこうして歌い上げてしまうと、眼中に入れたことのない鳥海山も最上川も、私にとってはもはや他人の山川ではない。   (三・一一)



最終更新日 2005年08月29日 21時00分37秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「海月」

 ジイドが喜ばれたのは、フランスをさておいて、世界ではまず日本だった、ということは本当だろう。彼の死を聞いたとき私は、瀬戸内海の小さな島をおもい出した。
 四年ほど前のこと、広島鉄道局に招かれ、呉港を中心としてあの辺一帯、つまり要塞地帯として無用な観光客などの立入ることを禁じられていた島々をめぐって歩いた。十トンほどの小汽艇であちこちと渡っては泊り歩いたのだが、どこの村も人ずれなどして居らず、素朴で純情で、だからしみじみとした気持の旅をすることができた。
 その島の一つの、わずかな人口のある村だったが、たまたま青年たちの集りがあるというので、出席の依頼をうけた。座談の形で何くれとない話合いの時間をもってはくれぬか、ということだったが、よろこんで私は出席した。するとその最初に、
 ――先生は、アンドレ・ジイドとキャソリシズムについて、どうお考えですか?
 この質問には当然面喰わずにはいられなかった。とにかく私はやっと落着いて、
 ――伺いますが、ジイドはこの島の出身なのでしょうか?
 もちろんこれは意地の悪い質問である。もしも都会地だったらどっと無遠慮な笑声も起ったに違いない。それが島の青年たちだから、ただ黙って私の顔を見ていたきりだった。質問の青年は不服らしく、垂れかかった長髪を左の手で掻きあげたりして答えなかった。妙に白けた気まずい空気になり、すぐさまに私は、もっと親切に寛容にやるべきだったと後悔したのだがもう及ばなかった。
 このジイド青年は、多分熱心な文学好きであり、その島にいてはその方面での若いグループの中心だったかもしれぬ。だが文学好きは、好きなあまりに、文学以外の事は語ろうとせぬのかもしれぬ、私は進んで話題を引出すようにして、青年たちの日常の生活については話合い、やがて誰もが隔意ない発言をするようにして、和かな交歓をして帰って来たのであったが、彼だけは最後まで黙りこんでしまっていた。その姿がいつまでも気にかかり、今でも私の眼に残っている。
 ジイドを喜んだ点、彼の母国フランスを除いてはまず日本ではなかったかといわれる。日本人の理解力には世界性があるのかといえばいえるのかもしれぬ。まったく日本の文学好きの諸君は、彼の作品を志賀直哉を読むごとく谷崎潤一郎を読むごとく、いや川口松太郎を読むごとくにさえ隣人的親密さで読んだのである。だとしたら私は、あの島のジイド青年が、何かしら一人だけよがった、ひどく高踏的孤高の質問をしたように受取ったのは、大変な間違いだったことになるのだろうか。
 あの日、集りを終えて海岸へ出てみると、岩の上から水の面に、夥しい海月が白く浮いていた。                                 (三・一二)



最終更新日 2005年08月30日 06時29分28秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「上衣下衣」

 四人も殺しながら、平気で白を切って刑事や新聞記者と応対していた、という神経はたしかにただ事ではない。築地事件の犯人の正体はわれわれを愕然とさせた。だがもっと多くの人間を殺しながら平気でいる場合も人間にはあるのである。
 戦争というものを殺人の行為と考えるのは誤りであろうか。もしも国際法規で、一切の殺人を禁ずるとしたら、戦争は一体どんな形態のものになるかと考えたことがある。あるいはスポーツのごとく明朗快適のものとなるかもしれない。ルマルクの「西部戦線異状なし」の中では、塹壕内で兵士たちがその空想を語り合っていた。彼等は、祖国のための戦争は厭ではなかったのだが、しかし殺人はしたくなかったのである。
 ある部隊が敵に包囲された。懸命に防戦はしたのだが、ともすると浮足だって混乱が起りそうだった。そのとき一人の、かねてから名射撃手といわれていた兵士が、ムダ弾は撃つなよ、よく覘ってから引金を引け、いいか、この通り、おれのやるのを見ていろ。おれはいまあの立木の蔭から出て来た奴の頭をぶち抜いてやる! と周囲の連中にこういったのだそうだ。彼はその通りに落着いて照準をつけた。いった通りに敵兵は倒れた。なるほどと感心したとたんに来かかった混乱は去り、全員よく落着いて敵を覘い撃ち、そのため危地から免れ得たという話、日露戦争に従軍した人の記録に書いてあった。この心理は近代戦となっても通用するのだろう。
 落着いて敵が覘えるということ、生きた人間を標的として平気で引金が引けるということ、これは戦場にあっては沈着といわれる美徳かもしれない。しかし明らさまに殺人である。このことが賞揚されるのが戦争だと考えたとき、戦争が人間の最大堕落だということがわかるだろう。それは勝っても人間を幸福にするものではない。上衣をとるものには下衣をもとらせよといったキリストの心中を、私はしみじみ成程とおもう。
 現在わが日本の上衣を覘っているものがあるかどうか私は知らない。しかし日本は仮に下衣を捨ててもなお日本であり得るであろう。素裸にされた肉体だけの日本となっても、その残されたものさえ逞しく日本であるならば、何の侵略もある筈はないではないか。無抵抗は決して奴隷化ではない。不服従はおごそかな自主である。私が今さらおもうのはマハトマ・ガンジーの偉大である。彼の偉大さの中には大きく人類の高貴な精神が輝いているが、戦争の中には、それがどんな戦争にしろ、人間の姿は存在し得ない。キリストはすなわち、上衣や下衣よりも人間を失うまいとしたのであろう。再軍備論は上衣、下衣を守ろうとして人間を忘れたもののように私にはおもわれる。               (三・一四)



最終更新日 2005年08月31日 10時57分16秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「少年期」

  雪がコンコン降る
  人間は
  その下で暮らしているのです
 その下で雪見をしているのではない。生活をしているのだ。山形県山元村中学校生徒の生活記録「山びこ学校」という本を昨夜読んで、私は無性に泣かされてしまった。
 ここでは教育よりまず生きて行くことなのである。ある男の生徒は学校へ行くより炭山へ行かねばならない。たまに父親から「今日は学校さいっていい」と許される。喜んで出かけるのだが「そのかわり帰りに塩とさとうを買ってこい」といいつかる。用達の序でなければ学校へは行けぬのである。ある女の生徒は、学校を休んで稲上げをする。背負ってみて去年にくらべ倍もかるいのに驚き、「来年はもっともっと学校など休んで、かせがねばと今から思っています」と書いてある。まったく雪がコンコン降るのだ。この子供の上に降りつもるものは、いつの日とけるのであろうか。
 以前に父に死なれ、村一香の貧乏になった家の子は、たった一人働いていた母に死なれる。
「飯たきぐらいしかできなくなった」おばあさんと二人になる。残された畑はたった三段歩しかない。田があればと考える。だがどう働いても借金になると計算する。かりに金ができても、自分が田を買えば売った人が今度は自分と同じに困るのではないかと考える。この少年も学校へ行く一日だってありゃしない。
 最近評判の「少年期」のなかの中学生は、田舎に疎開してみてはじめて、多くの学友が自分とまるで違う事情にいることを発見しておどろいている。それは学校へ行くために家の手伝いをしないということで家にいての彼らの肩身がせまいということなのだ。ところがこの「山びこ学校」では、肩身がせまいどころではない。一人の生徒は書いている。「僕は、学校を休むのはだいきらいだ。しかし、しかたがない、休んで働かないと"めしを食わせない"といわれるからだ」
 が、こういう中で彼らは、彼ら自身であたため合う。学校へ来られない友だちのためにみんなして手伝うのだ。たのしい修学旅行のための積金のできぬ友だちのために、森林組合の杉皮背負いを引受けて行けるようにしてやるのだ。私はこの話を、恵まれた境遇の中学生たちにしてやりたい。率直にいうが私は「少年期」を読んだとき、あの中に漂うエゴイズムのにおいにかなりの不快を感じさせられたものだった。この「山びこ学校」もまた少年期の記録である。あの本を読んで妙に憂鬱にさせられた私は、この本を読んで無性に泣かされながら、しかし親愛の情を感じた。この情は人をして、何ものかに向って明るく憤怒させる。(三・一五)



最終更新日 2005年09月02日 15時20分21秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「登高」

「愁いつつ丘にのぼれば花いばら」蕪村が何を愁いつつあったのか、そんなことは研究者にお任せしよう。私はただ「丘にのぼれば」というのを羨むのである。門外へ出ぬ私は久しく高いところへ登ったことがない。
 重陽の節句、中国の人々は高きに登るのを行事とするのだそうだが、登ることが愉快なのは別に季節に関係ないだろう。ヴィクトル・ユーゴーは暇があると、ノートルダム寺院の天辺へ上ったものだそうだ。彼には有名な「ノートルダム・パリ」があるが、それを書くためではなかったろう。あそこみ、好んで上った結果があの作品を生んだのだろうと私は勝手に解釈している。
 高いところに上って、おれはこの通り誰よりも高いそ、と反っくり返りたがる奴もいる。下の方にいる連中に向って、おーいみんな早く上って来いようと呼びかけたくなる人間もいる。こんなことも人さまざまというものがあると何かの本にあったが、誰が書いたのだったかおもい出せない。私はどうも後者の組のようである。孤高の精神などというものは縁のない生れである。
 日頃低いところにうごめいているから、たまに高いところへと望むのだろう、庶民は高きに登るのが好である。パリのエッフェル塔が今でも市民たちの無邪気な人気を呼んでいるのはそのためだろう。パリの人たちは旅行者に会うと、君はあの塔に上ったかと必ず聞く。まだだと答えると、あれは上るもので眺めるものではないと叱るそうである。
 東京では浅草の十二階だった。あれは眺めるより上るものだったろう。あの上から四方を眺めなければ、本当の東京見物にならなかったのである。が、こんなことをいってももはや大抵の人には通じまい。あの塔が震災で消えてからすでに三十年近くになる。あの塔のあった以前と以後とでは、同じ浅草ながらまったく別世界などといってみても、どう別世界であるかは、以前を知った人でないとわかるまい。その以後の浅草でさえ、今度の戦争では観音堂の大屋根を失ってしまって、も一つの別世界に変ってしまったのである。
 大阪では新世界通天閣だったが、これも今はなくなってしまった。北条秀司君の「王将」の中で主人公坂田三吉が、アレが無うなって大阪ものべたらになってしもうた、と佗しく述懐するそうだが、このセリフは大阪人全体の感傷だろう。十二階を奪ったものは天災だが、この通天閣はそうではない。
 いま私のいる室から、つい近くの丘の頂きがみえる。枯草のやわらかな色が春日に照っていかにも暖かそうだ。やがて青草が萠え立つだろう。いかにも平和な感じだが、戦争中は高射砲隊がいて、立入り禁止だったのである。あれへ登れなくなるような日は、どんなことがあっても二度と来てもらいたくないものである。            (三・一六)



最終更新日 2005年09月02日 22時52分32秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「椿」

 暑い寒いも彼岸まで、と関東ではいうのだが、関西では、お水取りまでだろう。そのお水取りも一昨日あたり終えた筈だ。お水取りがすんだ頃から、糊こぼしが咲きはじめますと、東大寺観音院さんが話したのを思い出した。糊こぼしというのは椿の名で、おもいきって大輪の赤に、ぼたりと真白く、まったく糊をこぼしたように斑が入っている。まことに豪麗で、これは涎こぼさせですなと私は笑った。
 椿姫の話も、この糊こぼし位の椿でないと姫とはいえまい。普通にみる山椿級だと、どうヒイキにしても椿娘である。だが私などには姫よりも娘の方がずっと近しくてよい。今日は親切な隣人が、山の椿をうんと切って持って来てくれた。野生かどうかしらぬが、この辺の山にはあの木が多いのである。
 今年は花つきもよく葉色もよい。外の花にしてもそうではあるが、ことに椿は葉がよくないと見栄えがない。しかし双方ともよいという年はなかなかないものである。この町へ引移ったその年、花つきがすばらしくよかったが、葉がめちゃくちゃに傷んでいた。それでふとおもいつき、花七分葉三分ほどに払い落し、どっさり一束にして、広口の壷へ投げ込んでみた。つまりバラとかダリヤの花とかを扱うみたいにしたのだが、まことに妙な味のものだった。一体これは何の花ですかとしげしげ眺めて、おやおや椿ですかいと呆れていた客があったが、実際椿という感じではなかったのである。やがて壷まわりへぽとりぽとり、花が落ちてはじめて椿になった。
 花の落ちるのを不縁起だと嫌う人が案外に多い。売り絵を描く日本画家が、落ち椿なんてもっての外ですよといったが、青い苔の上に一つ落ちた山椿など、なかなか艶なる風情のものだ。だが私はある家で、わざわざ手洗いの石に落してあったのを見てイヤになった。本家の椿の木は二間も向うにあったのである。しかし今では、こんなことが風流の茶で通るのだろう。その家の奥様はその道を学んで、なかなか心得ありといわれているのである。
 妙蓮寺の小憎が、和尚から、寺内の椿を一枝、宗旦様へお届けいたせと命ぜられた。小憎それをもって行く途中、大切な花を落してしまった。しかしこのとき小憎ちっともおどろかず、落ちたのを拾って平気で宗旦の前へ枝に添えながら出した。小憎出かしたぞ、宗旦おもわず手を拍ったというのだが、手を拍ったというのは俗人がつけた蛇足だろう。黙ってひとり悦に入ったという方が風流のようである。が風流では飯が食えぬ、あえて手を拍ってみせるところが処世の法で、と今の世だったら宗旦も、ジャーナリストめいたこともいったかもしれぬ。                                (三・一七)



最終更新日 2005年09月03日 14時08分51秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「奇言説」

 何やかやと復活ぼやり、これでは講和になったらそっくり昔の日本人に帰るんじゃないかと呆れていた人があったが、なるほど今度は「紀元節」の復活と来たようである。しかし、まさかにあのへ雲にそびゆるウを、二月十一日に歌わせようというのではあるまい。
 神武以来、と何かにつけていいたがる日本人であったが、このセリフの権威もすっかり落ちてしまった。「ゴールデン・バット」を戦争中「金鵄」と変えたが、そのご利益はなかったわけである。あらたかな高千穂の峰もただの山となってしまったときに、昔どおりの紀元節という手はあるまい。その日取りと方法につきましてはいずれ、所管大臣をして研究の上答弁いたさせます、というのが総理大臣の真意であろう。とまあ、そう私は信じたく思っている。
 この欄を書いていると、熱心な読者諸君からあれこれ示唆やら注文やら激励やらを受けるのだが、今日受けた中に、紀元節というのだったら、ぜひそれを世界人類共通のものにしてほしい、と述べられたのがあった。浦和の鴫原良平という方からだが、これには私も賛成である。人類が人間になり得た日をめでたい紀元として、地球上の人々すべてが、さらにさらに人間であろうと誓い合う日、まったくそんな日があったら、それこそが本当の紀元節である。
 物はとりょうだ。歴史も書きようかもしれぬ。二月十一日のよろこびといってもそれは原住民族にとっては征服された屈辱の日かもしれぬとその手紙にあった。私がおもい出したのは、コロンブスが発見する前にもアメリカ大陸は存在していたのだ、ということを、いった人があったことである。ヨーロッパ人にとってこそ新大陸の発見であったかもしれぬが、原住のアメリカ・インディヤンにとっては旧大陸でしかなかった。この新と旧との相違は決して簡単なものではない。
 どっちか一方に即したら他の一方を否定しなければならぬ。対立という関係は必ず争闘を生むものだ。この争闘を是認する問は、まだ人間は確立されぬといえるかもしれない。人間の戦うべき相手は悪魔だけだという言葉である。現在戦おうとしている対立の二勢力は、お互いを人間として見ずに悪魔として見ようとしているのであろうか。そう考えたとき、なんと大きな人類の不幸の時代かと、人間ならば声をあげて泣きたくなる。
 新聞社で調査した世論では、再軍備賛成のパーセンテージが割に多いそうだが、しかし世の中にはこんな声もあるよと、右の声を知合いの国会議員に取次いだら、彼は答えて、しかし吉田さんの紀元節復活に賛成の声もあるんだよ、と彼は得意げに微笑した。その理由はと質問すると、二月という月には祝祭休日が一つもないんでねえといった。その賛成者はサラリー勤め人だそうである。ああ何をかいわんや。まことに奇言説である。  (三・一八)



最終更新日 2005年09月04日 17時30分29秒

高田保『第三ブラリひょうたん』「どう違うか」

 講和と平和とどう違うのですか、と質問されて大いに弱りました、と中学校の先生が来てしみじみいった。なるほど、これは簡単に答えられぬ問題である。文部省は困却している先生たちを助けてやらねばなるまい。天野さんは何と答えるであろうか。
 外国に及ぼす影響というのがある。再軍備などということは軽々に口にすべきではない、と吉田さんが議員をたしなめたそうだ。たしかに一理ある言でもあるようである。しかし講和を急ぐからといって、あえて腹の中を率直に語るを控えるというものもどんなものだろう。講和は外交か、秘密は外交の技術かもしれぬが、何の曖味もなく胸衿を開くのでなかったら本当の平和はやって来ないようにもおもわれる。
 中学校では近く、柔道を正科にするのだそうだ。どの教室を道場にするのだろうかと、生徒たちが教室不足の狭い校舎を眺めながらいい合っている。別に生徒たちが反対しているわけではないのだが、もしも外国への思惑というのだったら、こんな些事とみることにだって考えねばならぬものはあるだろう。かつての時代には、精神教育の手段として柔道が取上げられていたのである。目に見えるものばかりが再軍備ではないと、日本を監視する外国の眼は、注意ぶかくさまざまを見守っているに違いないのである。
 精神には惰力みたいなものがありますな、と以前職業軍人だった知人が来て述懐した。毎日の新聞を読むとき、何よりもまず朝鮮の戦況記事を探すというのである。先日あった築地の四人殺しよりも、あの半島の戦闘に興味を感じるのは、たしかに職業軍人的惰性ともいうべきものでと苦笑していた。彼はみずから興味といったのが、こういうものを一刻も早くふるい落さねばと、彼は良心的な努力を続けているのである。
 以前に特攻隊要員のパイロットだった青年に、今でも飛行機に乗りたいかと聞いたら、眼を急に輝かせて、そりゃ乗りたいですよといった。がこれは決して航空戦がやりたくて勇み立ったわけではない。特攻隊要員だっただけに自分は、余計戦争を憎みますといつも彼はいっている。しかし大空を飛びまわる愉快さはそれと別なものだ。彼はしばらくその愉快さについて語った後で、だからわれわれの元の仲間には、再軍備では空軍ができたら、真先に志願するぞと張切っている奴がありますよ!
 講和の次に来るものが、あるいは戦争かもしれぬなどという滑稽な考え方が、すこしも滑稽でないとしたら、平和はいつの日に来るのであろう。講和と平和とはどう違うかという無邪気な中学生の疑問は、大人にとってまた疑問であるべきである。講和即ち平和ならば春の心は長閑けからまし、人間世界はなんと怪奇なものではあるよ。      (三・一九)


【補記】
創元文庫の『第三ブラリひょうたん』は、これで終わり。
『ブラリひょうたん』と『第三ブラリひょうたん』をここで公開してきた。『第二ブラリひょうたん』を入手すれば、またここに公開します。毎日新聞社版を持ってはいるのですが……


最終更新日 2005年09月06日 00時52分33秒