高田保『ブラリひょうたん』「著者から」


 ぶらりとしていてもひょうたんは、ひょうげて円く世間をわたる、身はたながりの月雪花……。とこれは小唄の文句である。東京日日新聞紙上をかりた一日一文、題して「ブラリひょうたん」としたが、その日その日のうかれ鼻唄、他人からみれば、キザでもあろうしコッケイの骨頂かもしれぬ。けっして月雪花などという風流ではない。

   一九五〇年八月




最終更新日 2005年03月20日 01時08分49秒

高田保『ブラリひょうたん』「入墨コンクール」

 一応主義主張をもっているかのような演説をする。この候補者ならと投票をするとこれが平沢で、議場へ入るとたちまち黒を白といったりする。日本には一人の平沢がいるだけではない。何とかしてこのペテンを防ぐ法はあるまいかとある人がいった。あるよと私は答えた。候補者に入墨をさせる案である。
 昔の中国には、丹沙で飼養した守宮(いもり)の血で女の肌に印をつける秘法があったそうだ。洗ったって落ちやしない。だが一寸でも不貞を働くと跡方もなく消える。本朝の古歌にも「ぬぐ沓のかさなることのかさなればゐもりの印いまはあらじな」というのがある。クツをぬぐとはどんな所作か、これは説明不要だろう。
 だが跡方もなくなるでは拘束力がない。後世ではだから心中立ての方法としては入墨が用いられた。たとえば二の腕に「高さま命」という工合にやるのである。命の一字は命のかぎりとか命にかけてという誓約だが、私の案はつまりあの流儀に従うのである。
 まずはっきりと所属の政党の名を彫りこませる。こうしてしまえば今までのように軽々と馬党を牛党に乗りかえたという風には行きかねるだろう。
 しかしこの場合色事風の「民の字いのち」などというのはいけない。昨日まで民主党にいたのが、旗色をみて今日は「民自党」の民の字が本音だったなどといい出さぬともかぎるまい。昔ある女郎の許へ七兵衛と七郎右衛門の二人が通いつめた。女郎は「七さま命」と彫ったのを見せて、うまく両七をたぶらかしたという話がある。
 その昔だってしっかりした用心のいい男がいた。いい交わした女郎に、心底真実ならばおれが本名通称アダ名呼び名、所番地までくわしく入れてみせろと注文したそうだ。注文通りやったら二世を契るつもりだったのだろう。
 さて本題の国会議員選挙立候補の入墨だが、これも出来るだけ詳しく入れさせる方がいい。政党名はもちろん、その主義政策綱領公約、つまり例の選挙公報に書き出したのをそっくりである。胸元からかけて背中一面まで、しかも主要な点は朱でいったりしたら、相当威勢のいい倶梨伽羅紋々ともなるかもしれぬ。議場乱闘の折などにはもって来いの議員振りともいわれるだろう。
 ところでこうなったら、政見発表の演説会は当然不要になる。われわれはただ彼等を並べてその入墨ぶりのコンクールをやればよろしい。以上が私の戯談か戯談でないかは諸君のご判断に任せる。                        (二三・一二・二六)



最終更新日 2005年03月21日 00時09分39秒

高田保『ブラリひょうたん』「闘争」

 けんかに哲学は役立つまい。選挙に知性はどんなものか? 闘争という言葉がしきりに使われるが、それだとしたら頭よりも勇気、精神よりも押しの強さということになる。
 条理だった賢明な演説は人を感心させるが感動させはしない。だから選挙のときには効果がないのだそうである。この前のとき私はある候補者が壇上で、ワイシャツの胸を開き毛むくじゃらを会衆に示しながら「さあここで諸君と命の取引だ。この命売ります。どうぞご投票を願います」とやったのを見て成程とおもった。会衆は感心しなかったが感動したのである。ゆうゆうたる成績で彼は当選した。街頭で「命売ります」の看板をかけた失業青年よりもこの代議士の方がこの商売では先手だったことである。
 選挙戦術で最も大切なことは相手が群衆だという事実である。群衆に知性はない。この説に対しては早速抗議が出るかもしれぬが、むかし映画が活動写臭といったころの有名な弁士が節回しよろしく「月は泣いたかロンドンの花ふりかかるパリの雪」という文句を語ったものだった。場内のだれもがうっとりと酔ったように聞きほれていたものである。これは群衆だからであって、必ずしも無知な連中だけが集まっていたというわけではない。反省してみたまえ。立派に知性の持主である君自身が、芝居小屋の中に入ると下らん新派劇に泣かされて帰ってくるじゃないか。群衆の一人となったからである。
 群衆を説得しようとおもったらイソップ物語がいい、哲学は全く不要である、といった哲学者が西洋にいる。事実あるときのいきり立った国民をなだめるためにローマの執政官はその手を用いた。胃袋だけがうまいしるを吸うのに憤慨した手と足がストライキを起こしたところ、たちまち衰弱して手も足も動けなくなったという今も有名なあのおとぎ話である。なるほどあの「命売ります」の演説も立派におとぎ話だったわけである。
 ある人が来て、今度の国会は国会でなくしてもらいたいものですなといった。同感ですなと私は答えたのだが、現在のような選挙でそれを望むことができるだろうか。闘争的気配が濃くなるらしいのを見ると、さらに国会的なものが出来上がるだけだという気がさせられる。これを防ぐためはに、いかにも国会議員らしい人物には投票するなという運動を起こすより外はあるまい。                          (一二・二八)



最終更新日 2005年03月22日 16時56分18秒

高田保『ブラリひょうたん』「平沢・今昔物語」

 今日からいよいよ平沢公判だが、平沢という名は彼の独占となってしまった。一将功成って万骨枯るという原理はこんなところにも現れる。当時春江さんといえば、あゝあの女かと山下女史(編注1ートラ大臣泉山三六事件で抱きつかれた婦人代議士)に独占されてしまったようなものだろう。同姓あるいは同名の諸君には大迷惑な話である。
 江戸時代にも平沢という名で世間に騒がれた男がいる。金貸しだったともいい、易者だったともいうが、とにかく一筋縄の人物ではなかったらしい。黙って坐ればぴたりと()てるどころではない。千里眼みたいな透視術もやった。
 松平雲州が彼を招いて百色中てというのをやった。九十九まで中てた後、この百番目は陰陽兼え備えた人物だが、尋常のことではないから名前をいうのは許されたいと答えた。小箱の中の紙片に書いてあった問題は当時の名女形瀬川菊次郎だったのだから、なるほど陰陽を兼ね備えている。あっと一座は驚嘆したというのだが、これだけのカンがあったら二十の扉なんぞ可笑(おか)しくってと笑うだろう。
 だが同じ話が別な形で伝わっている。ある日ある殿様が同じように中てさせたところ、これは本当の役に立たぬ下らぬ人物でござると答えた。開けたところ平沢左内と当人の名前が出て来たので「一生の大当り」ととんだ笑い話になったというのである。
 当時の随筆雑記類に彼の名の出て来るものが相当あるところをみると、ともあれ評判の高かったことは確かなのだが「かたはらいたきいやな奴なり」とののしっているのもある。江戸の市中あちこちへ出張所を置き「不意の面会対談謝絶」と書出していたといえばもっ体ぶった形にもとれるが、実はあるときある講釈師からひどくとっちめられ、無知文盲を暴露してしまって以来の警戒策だったのだとも書かれている。万事総合するにハッタリの強いインチキな世渡り師だったのだろう。
 昔のこの平沢左内と、今の世の平沢大障とまさか血筋のつながりがある訳でもあるまいが、昔平沢の方の末路は、馬鹿高利の金を旗本に貸した罪を問われて死罪になったとある。今平沢の方は帝銀事件の容疑だが、ともに金にまつわっている点、まんざら縁がないでもない気がする。好事家は調べてみなさるがよろしい。             (一二・二一)



最終更新日 2005年03月23日 01時42分07秒

高田保『ブラリひょうたん』「所得税撤廃案(上)(下)」

 (上)
 もうけた金なら使うだろう。使うためにもうけるのでといっても、今の世では使わぬうちに税金でとられてしまう。これではもうける甲斐がない。働く気がなくなってしまうというのである。マ元帥の第二書簡は要するに「天は自ら助くるものを助く」で、日本国民の奮起を促したものだが、それにはまずこの税金が問題である。
 所得税撤廃。もしもどこかの政党がこれを看板にかけたらどうだろう。民自党も社会党もありゃしない。人気はたちまちここに集まって第一党となること疑いなしである。だがいきなりこんなことをいい出したら、事態をわきまえぬ大馬鹿者とやられてしまうにきまっている。
 だが諸君は一度でも、もしも税金がなかったらと考えたことはないか。働けば働いただけのことがあり、この人生はうんと悠然たるものとなるにちがいない。もうけたものがことごとく自分のものになるのだったら、寸刻を惜しんでまで何でもやるぞと立上る人はきっとおびただしいにちがいない。勤労意欲の高揚。こうなれば日本再建も夢事ではなくなる。
 冗談にも程がある。税収入は国家の主食であって、所得税はその主食中の主食であると大蔵省では早速に反対するだろうが、そんなことは私にだってわかっている。私は税をとるのを止めろといっているのではない。税をかける対象を別な方に置き代えたらとすすめるのだ。代わり財源さえあったら何の文句もありゃしないだろう。
 取引高税の代わりさえみつからぬのにというかもしれぬが、そこが頭の問題である。人間は何のために金もうけをしたがるのか、この心理をまず落着いて深く考えてみられるがよろしい。税の取立ては心理的にやらねばならぬものだ。
 水戸光圀は臣下を戒めて、税をとるのは女色の心得をもってせよといったそうだ。男色のごとくであってはならぬ。その意味はとここで細説するのも妙だから簡略するが、要するに納める方も納めさす方も共に満足するのでなければならぬというのである。一方だけがいい気になり、一方は歯を食いしばっているのではなるほど上等の政治とはいわれない。
 さて取っときの私の秘策は明日公表することにする。         (一二・二三)

(下)
 (つか)えばこその金である。今年の長者番付の横綱は弱輩二十六歳とか新聞に出ていたが、問題はその若武者がどんな費い方をしているかだろう。
 つまらぬ奴がじゃんじゃんともうけくさると憤慨する人があるがこれは本当ではない。本当のところは、つまらぬ奴がじゃんじゃんと札ビラを切りくさるところがシャクにさわるのである。あのタヌキ御殿を有名にしたのは御殿的な費いっぷりだったろう。あの日野原を皆が憎むのは、国家の金を不当な方法で手に入れたことよりも、不当な金をべらぼうな方法で湯水のように費ったからである。
 湯水のごとくというが、今日温泉へでも行けばまったく湯水を浴びるだけで千金である。さらに酒など浴びればすぐさま万金とくるだろう。さて問題はこの「費消」である。ゼイ金とはゼイタクに課する金であるべきだといえば駄洒落になってしまうが、所得税を撤廃しろと私がいったのは、改めて「費消税」ということにして取立てうという訳なのである。費消の額の高きに従って高率にする。万事所得税の裏返しと思えばいい。
 まず国民の生活の基準ベースをきめる。そのベース内の生活だったら、よしんば何千万の所得であってもよろしい。しかし銀行預金は損だから何なり買って置こうというのも立派に費消行為だから、納税せぬかぎりそれは許されない。となったら否応なく余った金は銀行へとなるだろう。貯金奨励などという愚にもつかん運動をやる必要はない。やるならむしろ費消奨励でなければなるまい。世の中の趣はおそらくがらりと一変してしまうだろう。
 もうけた金をわが手で費うのは当然の権利である訳だが、納税することによってこの権利を確認されるのだとおもえば納税した方が得だということになるだろう。所得税だと所得に従っての義務を課せられるだけのことだから、不平の出るのも当然である。権利と義務ではおなじ税でありながら、天地の相違というべきではないか。つまりはこれこそ昨日紹介した水戸光圀の戒めにも(かな)った方法なのである。
 右の名案、私は別に原作料など請求するつもりはないから、お気に召したらどうぞ遠慮なく採用して戴きたい。                         (一二・二四)



最終更新日 2005年03月24日 00時25分06秒

高田保『ブラリひょうたん』「大臣と詩人」

 多分、名前というやつの中に宿命がかくれていたのだろう「泉山」というのがどうも結構でない、というのは
  いっぱいのんで
  ずッこけた
  みのほどしらずだ
  やめさせろ
  まったもなしに首となる
 すらすらと浮んだのだが、この文句の各行の第一音を横に読んで戴きたい。私流の身の上判断である。
 しかし大臣が議場で酔払うとは怪しからんという非難は論理的でない。議場で酔払うような男を大臣にしたのが怪しからんといえば理屈に適ってくるのだが、こうなると泉山殿が悪いのではなくて、悪いのは吉田氏ではござらぬかとなってくるだろう。吉田氏が泉山殿を引出したとき、一体どこで生まれたどんな人物かわからず、各新聞社とも大いにまごついたという話は有名である。この話は酒神バッカスの誕生によく似ている。彼は神々や人間の生まれるところから生まれるだけの値打ちがなかったために、父親ジュピタアの太ももを割いて出て来たのだそうだ。
 生まれ方といえば、堂々としていたのは例のフランス古典の怪物ガルガンチュワだろう。おぎやアと泣くところを、のみたアいと呶鳴(どな)ったものだという。泉山殿としては大臣になりたてのことだったし、つまりはあれも生ぶ声だったのかもしれぬ。だったら生かしてさえ置けばガルガンチュワ級の怪物となれたかもしれぬのに、惜しいことをいたした。
 酒をのむその事は決して悪くはない。孔子は有名な美食家だったが、酒の方も大いやったらしい。無量不及乱とあるから底なしに飲んでなお正体を失わなかったのだろう。酒にも聖賢の道はあるものである。中国のある詩人は彼を讃えて「飲宗」といい、すべからく彼を杷るべしと説いた。孔子に比べると李白などは下の下であるとなるらしい。ぐでんと酔払って「天子呼来不上船」などと(くだ)を巻いたところ、泉山殿の類らしいが、しかし李白はよかったことに大蔵大臣ではなかった。だから酔態がかえって彼の美名に光彩を添えるものともなったのである。どうも大臣になるよりも詩人になった方が人間は幸福のようである。
                           (二三・一二・一七)


○向井敏『贅沢な読書』(講談社現代新書)で言及があります。


最終更新日 2005年03月25日 01時15分28秒

高田保『ブラリひょうたん』「首斬り」

 医者の不養生というが、坊主の不人情ということもあるだろう。電気の検針に来た人をいきなり殴り殺してしまった坊主があった。死人を扱う商売だから人の命など何ともおもわなかったのかもしれない。フランス革命の歴史は殺人惨劇の連続だが、その犯人の中に坊主上がりは沢山いる。
 首斬りの名人浅右衛門にある人がコツを聞いた。すると仏心をもって斬るといったそうだ。斬り損ねれば成仏しにくい。斬り落とされた首が無念の表情を浮かべる暇のないほどに素早くずばりとやってしまうのが名人の腕前というわけである。へびの生殺しぐらい残酷なものはないことになる。殺し方には人情不人情がある。
 ギロチンといえば残酷不人情の大看板みたいにとれるが、あの道具を発明した男はそれまでの死刑の方法が残酷不人情すぎたのでそれを救うつもりだったそうだ。火(あぶ)りとか絞り首とかよりはなるほど人情的かもしれぬ。人殺しのヒューマニズムである。しかし簡便に人殺しができるので大量処刑に役立つという結果になった。
 英語に「ハング・フェイア」という言葉があると聞いている。訳せば「首絞めまつり」となるだろう。罪人処刑の日には見物人が雲集してにぎやかな市が立ったからのことだそうだ。だが一人二人の処刑だから見物の種にもなるので、何百人もの大量となるとそうはいくまい。船の中にすし詰めにしてロワール河に浮かべ、船底を抜いて一度におぼれさせたのは十八世紀のフランスがやったことである。ギロチンではもはや間に合わなかったからだろう。
「首斬り絶対反対」というプラカードを立てて赤旗かざした一隊が歩いて行くのに今日も出あった。東宝の争議はすんだが争議は浜の真砂である。しかし厳密な言葉づかいでいけば「首斬り」ではなく「首斬られ」だろう。引かれ者の小唄というが、これは斬られ者の合唱である。政府はいよいよ行政整理を断行するという。何十万人とか予定も発表したが、一体どんな方法で首を斬るのか。十二月の街を歩いて肌寒い思いをしたのは何も北風ばかりのせいではなかったらしい。                      (一二・一九)



最終更新日 2005年03月26日 23時36分58秒

高田保『ブラリひょうたん』「ブラリズム」

 明けまして、というところで何もかも一応は形を改める。これが世間並みらしい。そこで「あとさき雑話」も世間並みに今日から「ブラリひょうたん」と改める。
 元来私は右でもなければ左でもない。近ごろ中道ということがしきりといわれるが、あれは右でもあれば左でもあるというらしいから私とは大分違う。ブラリとはつまり宙に浮いていることである。足を地に着けていない。政治家だったら攻撃されるだろうが、ブラリで済ませるところは雑文屋の一徳である。ひょうたんはブラリから来たツケタシの言葉で別に意味はない。実をいうと私にはひょうたんほどのしめくくりはないのである。
 さて手つかずの三百六十五日、新しい日記帳の第一ページ、というと何やら清新な気がするみたいだが、どんな一年が来ることか、一年の計はなどというが、今のところわれわれはただお先真暗で、どんな一年に「するか」でなくて「なるか」と思うだけである。右だの左だのと騒いでもいつ逆になるかわかったものではない。交通巡査が大声で、コレコレ右側を歩いちゃいかん! 呶鳴られた方がハイと後ろを向いて元来た方へ引返せばちゃんと左側を歩いて行くことになる。
「まよえば右も左なり、さとれば左も右となる、右と左の中道論、まようも小菅、さとるも小菅……」新年早々これは失礼。
 しかし、本音を吐けば私も人間だ。確信をもってどっしりと地面を歩いてみたい。ブラリひょうたんではなく、たとえばあのうぐいすの如くにである。心中すべき真理が左側にあるとしたら、一切の右側を排撃するまでの貞操をもって、十年前の女学生のような純潔な暮し方もしてみたいものなのだ。うぐいすについて小唄のいい文句がある。 梅でなければ寝ぬうぐいすの、梅でなければ腰さえかけぬ。蜀山人が「春情可唱」と賞め上げた。だがこの種のうぐいすは今の様子だとどうやら根絶やしになりそうである。今の間に天然記念物指定でもした方がいいかもしれぬ。
 そこへいくとブラリひょうたんの方は逆に繁盛の傾向である。給与案なんてどうでもいいからホテルへ行こうよ! これはブラリの精神である。君は今度の選挙で何党を支持するか? そんなことわかりやしないよ! これもブラリ心理である。本音は本音として、私の予想では、今年の三百六十五日はブラリズムということになるらしい。    (一・二)



最終更新日 2005年03月26日 23時37分30秒

高田保『ブラリひょうたん』「身上判断詩 」

(上)
 酔いどれ大臣泉山殿の身の上判断をやったあの流儀で、もう二、三やってみろという注文が来た。恐れ入ったことである。
 私流儀でなどとあれをいったが、実は折句といって昔からあるのである。五七五の三段のそれぞれの初音をつなげれば意味をなす仕組みで、たとえば、例の大芭蕉翁の
  古池や、蛙とびこむ、水の音
 すなわち「ふかみ」をこれで現しているのだというのである。もっとも行儀正しい芭蕉研究家はそんな説など毛頭信じようとはしない。
 大芭蕉翁ともなればそんな下らん遊び事みたいな愚劣はいたさぬ。という説は信用するが、茶人小堀遠州などは風流事としてこの式をやったものである。知己の一人が死んだのでそれを悔んだ文章の一節だが「かなしひのあまりにひとの嘲りをわすれて、春日大明神の十字をかしらに置きて」十首の歌をつくったと書いている。これでいえばこれも古いところは「遠州流」となるだろう。しかし私のは一音一行だから全然別な新流のつもりである。
 ついでだから西洋にも触れておくが、オペラの「椿姫」や「アイーダ」や「リゴレット」の作者でだれでも知っているヴェルディ、あの名が当時のイタリヤで誰よりも喝釆された理由は
  VIVA
  EMANUELE
  RE
  D'
  ITALIA
「イタリヤ王エマヌエル陛下バンザイ」となったからだというのは有名な話である。
 さて、ではいよいよ、ご注文の判断にとりかかる。だれをつかまえたらよいか。
  身は一介の法学士
  気は一本のお坊ちゃん
  とかく浮世はジョーダンと
りこうぶってはみたけれど
ロハより安い出演料
 私は決してこんな事を知っていて書いているのではない。当時人気物の「三木鶏郎」という名をじっと眺めていると、おのずと以上のごとく浮かんで来るのである。あれほど評判の高い「日曜娯楽版」を受けもって、ロハより安いとは真逆(まさか)とおもう。そこでこれは当人を訪ねて真偽のほどを確かめるとしよう。その結果は明日ご報告申上げる。                     (一二・三〇)

 (下)
 やっぱり私の判断詩は正確だった。以下私と三木鶏郎君との対話をそのままに記す。
 私「放送局ハ君ニ一万円グライハ払ッテイルデショウネ?」  鶏「ドイタシマシテ」
私「デハ、ソノ半分デスカ?」  鶏「ドイタシマシテ」  私「デハモウ聞クノハヤメニシマスガ、実費ダケハ出テイマスカ?」  鶏「出テイルノハ私の方の足デス」
 なるほどこれでは「ロハより安い出演料」とあった通りではないか。私は私自身の霊感的なものの偉大に驚嘆した次第である。三木君は別れるとき私に、あのジョーダン音楽ぱだから社会に対する宗教的な奉仕ですと、厳粛な顔をして告白した。
 ここで私も社会に対する奉仕として、吉田茂とか片山哲とか、また民主党とか共産党とかいう名前によって判断をしてみるべきだろう。だが私の霊感が正しければ正しいだけ選挙に対し影響することが大きいかもしれぬ。意外な恨みを受けて後に妨害罪だなどと訴えられたりしてはかなわない。だからこれもさしわりのない方へ逃げよう。……どなたもご承知の好色文学についてである。
  ふかいか浅いか
  なきどころ
  ばばも娘も
  しがみつき
  せつながっては
  いのちさえ
  いっそいらぬと
  ちぢむ足ゆび
 この足指を絵にしてご覧に入れるといいのだが、とにかくこれは何としても国貞描くとでもいうべき濃えんな浮世絵ぶりではある。国文学出身という地力がさすがに床しい働きをしているのである。そこへいくと
  たまらぬとての
  むり無体
  らちも開けずに
  たか飛車に
  いいではないかと
  じか談判
  論外な……
 私としては一、二ヵ所伏字にしたかったのだが、神意によって浮かんだ文句だから是非もないと思召して許して戴きたい。私はただこれによって、各人各道それぞれ歩んでいるところは、すべて宿命なのだと知ってもらえばいいのである。宿命は決して非難すべきではない。同情すべきものなのである。                     (一二・三一)


○向井敏『贅沢な読書』(講談社現代新書)


最終更新日 2005年03月26日 13時34分29秒

高田保『ブラリひょうたん』「初夢」

 初夢、どんなのをご覧になったか。昔は一富士といったものだが、今は富士山も権威を失くしてしまっている。それにしても人間夢だけはままにみるのがむずかしい。ある新興成金がそれを嘆いていた。豪勢なご殿に住まって絹布のふとんにくるまっているのだが、夢ではやっぱり昔通りに場末のアパートの汚い一室にしおたれているのだそうである。
 うれしい夢、楽しい夢、思いのままを長くも短くも料金次第で、という新商売をはじめた男があって大繁昌をした。件の成金が聞いたら早速自家用車を走らせる気になるだろうが、これは江戸黄表紙作者の夢である。地獄のさたが金次第の世の中にもこればかりはとなったら、硬骨の検察官のことを「夢みたいな奴」だと誰かがいうかもしなない。
 昔は「京の夢、大阪の夢」といったものが、夢にも時勢があるから今では「ワシントンの夢、モスクワの夢」という方がいいだろう。夢に周公を見ずといったのは昔の孔子だが、今の世の賢人たちはマルクスに会ったりレーニンに会ったして大いに談ずることがあるらしい。しかし何をどう談じても寝言ではたよりない。近松門左衛門も寝言の文句には困ったそうだ。
 スタインベックの「戦後ソヴェート紀行」を読むと、キエフの町の人たちが晴々と未来のことばかり語っていたとあった。夢みる人はうらやましい。日本人も未来のことが大いに語りたいのだが、夢をみるどころかまだなかなか寝つかれそうにもないのである。夢にはまず安眠、これは絶対条件である。
 条件が悪ければ悪夢になる。悪夢を見たらバクに食わせてしまえばいいというが、そのバクに食われる夢だったら何に食わせればいいのか。あれこれ考えればいよいよ眼がぎょろりと冴えて来るばかりである。
 古来の秘伝、思うままなる夢を見られる法というのがないでもない。古歌に「いとせめて恋しきときはぬば玉の夜の衣をかえしてぞ寝る」というのがある。ご利益は果たしてどんなものか。男の着てきた外套を裏返して敷いて寝たら、カリコミ夢を見てしまったと唇の真赤な女の子がいった。       (一・四)



最終更新日 2005年03月27日 00時18分08秒

高田保『ブラリひょうたん』「鼠の整理」

 ある人が来て、ねずみと役人と、どっちが多いだろうなといった。随分と失礼な質問である。だが時宜を得たものと私は感心した。私は古家に住んでいるので毎日その害に閉口している。いろいろ殺鼠剤や捕鼠器を試みるのだが効果がない。どうしても思い切った行政整理をしなければならぬ。いっそこの家に火でもつけて焼いてしまったらとまで考えることもあるのだが、他人のものを借りているのだからそれもならない。
 唐国には火ねずみというものがあったそうだ。火の中を潜ってもなお平気というのだから始末におえない。ある男が知恵を働かせてこのねずみを捕まえた。皮をはいでつぎ合わせ、火浣布というものをこしらえた。いまでいう防火布である。
 だがこの火ねずみは日本にはいない。例の知恵者の平賀源内。工夫した末に火ねずみの代用品を思いついた。石綿である。これでもって布をつくれば火中に投じても燃えるということがない。立派な防火用品である。これで大きな袋をこしらえ、すっぽりと庫にかぶせたらどんな猛火が包んでも焼け落ちるなどということはあるまい。
 当時何といっても大切なのは蔵前の米穀蔵だった。ここが焼けたら諸国大小名一時に金融の道が止まる。源内が眼をつけたのはここで、この蔵へかぶせるなら幕府御用となるわけだと、早速に町奉行へ採用を願い出た。
 時の町奉行は土屋越前守。源内に答えていうようには、政治は人間の事を考えねばなるまい。火事が危ないというので常備の火消し役が置いてある。完全防火ということになったこの人足どもがどうなるか、おまえも発明家だったらその辺のことをよく考えて、水の手に便利な道具でも考えて持って来い。
 これを聞いて源内、ご(もつも)も千万と「心中に越前守の器量に感じ」引下がったと「平賀実記」にあるのだが果たしてその通りか。実はこの土屋越前は私の曽祖父さんが仕えた藩公だから肩を持ちたいのだが、源内としてはどうも頭のわるい奉行だと(あき)れる方が本当だったように思われる。
 ときに、聞けばアメリカには鼠がいないそうである。デモクラシーが徹底しているからだろう。                               (一・六)



最終更新日 2005年03月28日 02時33分22秒

高田保『ブラリひょうたん』「知識と時代」

 強力サムソンにとってはライオンぐらい何でもありゃしない。ある日出て来たその一匹をなぐり殺した。幾日かの後に恋人とその死骸を見にいったら、なんと綺麗な蜜蜂がそこから湧いて飛び立っていた……。
 これは聖書の中に出て来る話だが、現代では小学生だって黙って聞いてはいないだろう。それは蜜蜂ではない。きっと蠅にきまっている! だが十七世紀末では誰もそんな異議はとなえなかったというのだ。卑書だからというので遠慮したのではない。蜜蜂というものについて何にも知らなかったからである。
 何でも知っているということは大した徳だ。だが人間は知っている数が多いだけ聞違いも多いものだといわれる。「話の泉」の先生方が時折アヤフヤなのも、だから当然かもしない。アリストテレスは何でも知っている大学者だったが、蜂の巣の支配者が女性であることは知らなかった。
「驚くべき豊富な博物学的知識の持主」とブランデスはシェクスピアのことを賞め上げている。そのシェクスピアが最近映画で有名になった「ヘンリー五世」の中で蜜蜂についての長口上を述べているが、彼にしても同じことだった。自然科学的にいったら一行おきに出鱈目だというのである。
 ところが同じ詩人でもミルトンとなるとそうではない。男蜂が女蜂の養われ者だということがはっきり「失楽園」の中でうたわれている。失明していた筈の彼なのにと誰しも賞めたくなるだろうが、しかし、これには種があるかもしれない。
 実は、自然科学者が蜜蜂の生態を正確につき止めたのはシェクスピアが死んでから五十年の後だったのである。そしてそれから五十年の後にミルトンがあの詩を書いたというわけなのである。シェクスピアの出鱈目も、ミルトンの正確も、だから時代のせいであって詩人たちの責任ではないのである。
 しかし本当の事をいえば、ここに同じく詩人ヴァージルがいるのだ。彼はその詩の中でカルタゴ人の精励を讃えながら蜜蜂について男蜂が怠けものであることや、中性蜂が働きものであることをちゃんと述べているのである。十七世紀中葉に自然科学者がそれを発見したとはいうが、実は紀元前のこのヴァージルの文句に裏書をしただけにすぎないじゃないかともいえる。                               (一・八)



最終更新日 2005年03月28日 02時35分51秒

高田保『ブラリひょうたん』「ト書きと政治」

 憲法とあるからには、その条文を字句通りに守らねばならぬものなのだろう。第七条だの第六十九条だのと騒いだが、今後も何かにつけうるさいに違いない。
 芝居の脚本にト書きというのがある。人物の出入りや動きを規定している文句だが、これはどこまで守ればいいものか。
 シラーの「群盗」を上演のとき、名優フォースが演出をした。敵役をつとめていたイフラントに、そこでひざまずくようにと命令したところイフラントはいやだという。イフラントも当時の名優で鳴らしていた男だから事が面倒になった。フォースは台本をつきつけてこの通り作者がト書きで指定しているのだから、ひざまずかなければならぬという。イフラントはあくまでも首を振って作者はト書きで役者のやり方を拘束すべきものではないと主張する。つまり第七条か第六十九条かといった食違いが出来たわけである。
 そこへ作者のシラーが来たので、当然その判決を彼に任せることになった。するとシラーはしぽらく考えた後に、「僕の書いたト書きでじっくりと考えるような役者だったら、僕は何も拘束はしないだろう」と答えた。どうもアイマイだがウマイ返事である。結果としてイフラントは遂にひざまずかなかった。ト書きを無視したのだから第七条で強行したことになるかもしれない。
 この話だとフォ:スの方はひどく几帳面のようだが、彼とてもさて自分の場合となるとそうではなかったらしい。シェクスピアの「マクベス」上演のとき、舞台稽古の夜でさえセリフが滅茶苦茶だったため、おとなしいゲーテを散々に怒らしてしまったという話がある。だがそれでいていざ初日となると、すばらしく感動的な名人芸を見せて「まるで台本と違ったセリフでいながら実にシェクスピア的なマクベスをつくり上げていた」という評判をとったのだそうである。すでにセリフがそんなだったら、ト書きなんぞはもちろん無かったも同然だったろう。
 第六十九条で無理矢理ひざまずかせられた吉田内閣だったが、今後はどうなるか。とにかくト書きについてのシラーの言葉「よく考える役者だったら」というのは味のある言葉である。台本をよく生かすものは名優である。憲法を政治の台本と考えていると、どうもどこにも役者らしい役者がいないようだ。                    (一・九)



最終更新日 2005年03月28日 02時38分47秒

高田保『ブラリひょうたん』「浮浪児について」

 一月十五日は「成人の日」というのだそうだ。国を挙げて祝えと官報に告示されてあったそうだ。祝えといわれれば祝う国民、今でも日本は東海の君子国である。
 大人になることは結構だが、大人とは一体何か? 十八歳からとか二十歳の方がいいとか、その筋の役所でも成人の定義を決めかねているそうだが、月が経ちさえすぼ大人になれるというなら世話はない。親はなくとも子は育つ。町の浮浪児も「成人」できるわけだろう。
 だが、地下道生活に体験と認識の深い友人が、あのままにすて置いたら浮浪児はケダモノになるだけですと断言した。人間がケダモノになるとしたら十八歳とか二十歳とかの問題ではない。ましてやその日を祝うどころの話ではない。
 ラジオの「鐘の鳴る丘」はいまも続いている。そればかりではない。昨日はこの町の小学校にも巡業劇団が来て子供たちにその芝居をやって見せたそうだ。浮浪児を愛しなさい。彼等にあたたかい手を差伸べてやりましょう。至極人情のあるやさしさである。だがそんな感傷で処理できる問題ではないと友人は説く。人々は浮浪児が日に日に成長しつつあるのを知らない。人間として成長しつつあるならめでたい成人だろう。だが彼等の成長はそうではない。
 むしろ残酷な手が必要なのだと友人はいう。なまじな愛情が浮浪児たちをケダモノのごとく狡猾にする。世間は彼等を誤まれる善意によって救い得ぬ地獄の底へ突き落としつつあるのだということに気づかねばならない。無情残酷な手だけが彼等をして人間の幸福を求めようとさせるだろう。「鐘の鳴る丘」的な愛情はケダモノであることの幸福を彼等に自覚させるだけでしかない。
 私の説を裏書きするものは日に日に新しい浮浪児が町に現れることだと友人はいう。子供たちの感覚は、浮浪児を哀れむ幸福よりも浮浪児であることの方がずっと幸福なのだということをかぎつけてしまうのだ。これは子供たちの錯覚ではない。事実そこに幸福が存在するからである。無情残酷な手によってこの幸福を打ち砕いてしまえ。それが彼等に対する社会的の正しい愛情である。
 以上の友人の言葉を私は、今日「成人の日」に際して友人菊田一夫君におくる。
                                   (一・一五)

菊田一男「浮浪児問題」も、掲載されているが、著作権保護期間中。



最終更新日 2005年03月29日 01時22分16秒

高田保『ブラリひょうたん』「金精」「再び金精について」

 北海道からざくざく砂金が出るというニュース、はて耳寄りななどと聞いていたのでは遅くなる。一刻も早く現地へ駆けつけることだと、津軽海峡はゴールド・ラッシュでごった返しているとのことだ。しかしせいては事を仕損じる。
 出かけるならまず六月まで待たれるがよろしい。六月、七月、八月、この間にじっくりと先ず山相を見究め、その上で(おもむ)ろに事を計るのでないと失敗をしやすい。
 そも山相とは何か(こんなことを無料で公開してしまっては何にもならぬが)人間に人相があるごとく、山には山相というものがある。山また山と重なり合っているその中で、最も高いのを大宗、次を中宗、それから小宗、取巻きの群山をすべて児孫という。この大宗に当る山をその真北から、つまり山の真北の面を眺めたものが山相である。果たしてその山に金があるかないかは先ずこの山相でははっきりする。
 雨上りの空気が澄んで何もかも明瞭な、つまり「二日酔のばっと覚めたるごとき」日というのだが、時刻は午前十時から午後二時までの間、しずかに大宗から児孫までの山々をながめみて、もしその間に、ボウと霞めるがごとき光、匂うがごとき靄といったものが見つかったらしめたものだ、それが諸金含有の山相なのである。――これが第一段の「遠見の法」
 これだけではいけない。次の「望気の法」というのをやるのが、今度は夜中だ。夜半子の刻といっても今の人にはわかるまい。午前零時、それも月明りの全くない晴れた夜を選び遠見の法で見当をつけた辺を丹念に熟視する。もしそこから黄赤色の光が、花火でも噴上げるように、六、七丈以上も立ち昇っていたら、もう安心である。それは金魂というもので、そこには必ず金精が潜んでいるーというのである。
 この山相の説は国産鉱山学の本家佐藤信淵がわざわざ書残したものの紹介なのである。決して私の出鱈目や当世流行の神サマのおつげではない。六月まで待たれるがよろしいとすすめたのは、その頃にならぬと金精が眼を覚まさず、従ってそれを山相に現れることがないという説が述べたかったからである。
 どうせ闇の中の手探りには慣れているという諸君だったら、今からでも早くはあるまい。
                                   (一・一六)



再び金精について
「史記」の中に「敗軍亡国之拠下、有積銭金宝、其上皆有記」と書いてあるそうだ。天知る地知るわれ知るで、日本でも、不当財委がその気をかぎつけ活躍した。
 佐藤信淵の金精金魂の説を前回に紹介したが、中国の詩人はそれ以前にこれを詩中にうたっている。杜甫いわく「不貪夜識金銀気」東坡はいわく「深山大沢有天地宝、唯無意者識之」これで見ると欲気からそれを探そうという血眼人種ではだめだということになる。私のようなのんきなブラリストでなければ見ることができぬことになる。
 だが歴史の跡を尋ぬれば必ずしも無欲者が成功したわけではない。佐渡の金山は越後の商人が、天文十一年のある晩あの島のある湾に船がかりしていて金色の光が立ち昇ったのを見たので発見したのだそうである。ねずみとり薬で有名な石見銀山も、地表に出ていた銀はみな採り尽して廃坑になってしまったのを、博多の赤金買いが船の中から見て光りもののあるのに気がつき、改めて掘り出したため中興したのだそうである。
 だがこんな話も、外国においてもまたといい出さぬと非科学的とばかりで、本気に聴いてはくれぬだろう。外国のことさえいえば何でも科学的と信用するのが日本人である。英国で有名なコーン・ウォールという鉱山もまず金精の発見からだったし、アメリカにも同様にして創まった鉱山が方々にある。フランスでもジャンサンという人の著書を見ると、佐藤信淵とほぼ同様の説が述べられてあって――というのだが、もちろん以上のようなことは、門外漢の私の知っているべきはずの事柄ではない。
 実はこれ近代採鉱冶金界の学術的権威であった渡辺渡博士の講演記録の中にあることなのである。明治四十年に佐藤信淵誕生の地の秋田県で、信淵の山相学を一席批評したのだが、その講演がいたくその郷土の人を動かし、当局を動かし、その結果秋田鉱山専門学校が設立されたのだというのである。
 われわれ文士も以前にはよく文芸講演などと称してあちこち廻らされたものだが、そのあとには学校どころか、映画館一つだってできはしなかったろう。精々がインチキな喫茶店くらいだったろうとおもわれる。良識は金よりも貴しなどと威張ってもだめなことである。
                                   (一・一九)



最終更新日 2005年03月29日 03時26分13秒

高田保『ブラリひょうたん』「演説をタノシむ」

 ハズミというものは恐ろしい。ある代議士が演説し、調子づいたハズミに「板垣死すとも自由は死せず、自由は死すともわが党は死せず」とやってしまったそうである。
 ラジオで各候補者の政見発表というのを聴いているが、聴き手を前にしてのエンゼツではないから、このハズミというものがない。愛嬌のないこっけいに終わってしまっているからちっとも楽めない。
 選挙演説をタノシむなどといったら不真面目といわれそうだが、私の友人で道楽からそれをあちこち聴き廻っているのがある。遊びに来て面白い報告をしてくれた。
「当選の暁には必ず本心に立ち返り……」とやったのがあるそうである。職業は土建となっているが例の何々組であろう。本心に立ち返られたら何をするかわかったものじゃないと友人は笑ったが、日本の国会も今度の選挙で本心に立ち返ってくれぬと困るのだからそれもいいよと私も笑った。
「諸君のご期待に副うべく目下苦戦中であります……」
 その結果落選してお目にかけますとなるのだろうが、いかにも悲痛な声をふり絞って呶鳴つたので、聴衆はたれも笑わなかったそうだ。そこへ行くと次の文句の候補者のときには、堂々とした風釆(ふうさい)でジェスチュア入りのエンゼツだったから一部の者がクスクス笑ったそうだ。
「故にわが輩は(あえ)て、わが党のほかにわが党なしと断言するのである……」
 クスクスという筈はない。当然ゲラゲラと来るべきなのに怪しみたくなるが、友人の説明によると、気の利いた連中はほとんど一人もといっていい程、演説会へはやって来ないそうである。例えばある候補者が次のようなことをいった。しかし聴衆はしずかに、成程そうかという顔で聞いていたのだそうである。
「私は党の公認候補であります。だから私のする約束だけが党の公約であって、他の諸君のとはワケが違うのであります……」
 ハズミは恐ろしいなどと私はいったが、こうなると決してハズミではあるまい。ハズミでなしにこんなことが平気でいえる連中がもしも何かのハズミで当選したら?――ああやっぱりハズミというものは恐るべしである。                 (一・二〇)



最終更新日 2005年03月29日 03時28分40秒

高田保『ブラリひょうたん』「計算読書法」

 さすがに近ごろはカストリ雑誌、売行きがよくないそうだ。編集者たちが渋い顔して、やっぱり確かに購買力が落ちたためですなといった。だが果たして左様か。
 ある青年が来て面白い報告をしてくれた。ある雑誌のある作家の小説を読んで、その中の主人公が女を追い廻すのに使った金、その総額を丹念に計算してみたのだそうである。
 あるキャバレーへ行き女に目をつける。三日目に連れ出し、銀座でハンドバッグを買ってやり新橋から汽車で熱海温泉へ行く。二泊して帰るというお定まりの筋だが、キャバレーの三日間が少く見積もっても一万円、ハンドバッグが上物なので一万円、熱海の温泉支払いが……と色々書出してみて合計したら、総計十万円よりも上へ行ってしまった。寒燈の下にいて徒然(つれづれ)なるままに、ふとこんな読み方をしてしまったら何ともいえぬ気持になってしまいましたーというのである。
 肉体の文学、肉体の解放など作家はうたってくれたのだが、十万円の金が無ければ女は口説けぬのか思うと、読者の方は解放ところではない。さてこの読み方をし始めたら、現代作家の遊興小説はみんな、僕たちにとっては「おとぎぱなし」だと気がつきました。僕らの生活とはどれもこれも余りに遠すぎるんですよ。あきれましたーとこう次にいったのである。
 私は笑ってうなずくより外はなかった。この青年は決して文学好きだったのではない。文学青年ではないからそんな読み方もしたのである。この読み方は決して理屈を述べたのではない。ただ事実をつかまえただけなのである。だから当の作家といえどもこれを反駁したりはできないだろう。
 ただ私はエミイル・フアゲが「読書術」の中でいっていた言葉を思い出したので、それをあたかも自分の説のような顔で取りついでやった。フアゲは愚作悪書というものもたまには読むべきだというのである。なぜならそれは、人間を(そこな)うかもしれぬ危険な感情を浄化し、その後に悪影響を及ぼすことがないようにしてしまうところの、一種のカタルシスとなるからだというのである。私はいった、「つまり君が考案したその計算読書法のごときは立派にそのカタルシスだよ」と。
 とにかく、かくてカストリ雑誌が一人の読者を失ったのは事実である。
                             (一・二一)



最終更新日 2005年03月31日 00時58分50秒

高田保『ブラリひょうたん』「法隆寺」「ふたたび「法隆寺」」

 ずっとの昔になるが、銀座裏に妙なレストランがあった。主人というのは郵船のコックを永らく勤めていたとかで、世界中の何処でも知らぬ土地はないというのが自慢の男だった。ある日のこと阿部真之助さんと連立って入ると、例の話になり、カイロとかナイルとかいう土地の名が出て来た。そこで阿部さんが、
「あの辺は面白いだろうね?」
 するとその主人、けろりとした顔で、
「いや、あそこは、バビロン王朝が亡びてからこっち、ちっともオモロうなくなりました」
 さすがの阿部さんも二の句がつげなかったものである。
 法隆寺金堂炎上のニュースをラジオで聞いた。折柄三、四の青年が遊びに来ていて一緒だったのだが、佐伯老貫主が猛火の火の粉をかぶりながら大般若経を読み上げていたというのを聞くと、そりゃご無理でしょうと咄嗟(とつさ)に一人がいったので、一同どっと声を上げて笑った。天平王朝の名残りが亡んでしまったというのに、それは至極不謹慎のようだが、事実あのような場合には、大般若経よりも一本のホースの方が、ずっと有効だったのだろうから許して戴きたい。
「花みればそのいはれとてなけれども心のうちぞ苦しかりける」というのは西行の和歌だが、ある年の法隆寺もうでにふとこれを思い出したことがあった。形あるものは必ず滅するものだというのに、千何百年の風雨に耐えながらこの天平の花が散りもせずあるのをかえって通常のようにながめて「心のうちぞ苦しかりける」と感じたのだった。なまじ古代の文化など残っていない方が人間にとっては気楽かもしれぬ。あの王朝が滅んでしまってからこっち奈良も面白くなくなりましたと澄ましていられたらなどと、途方もない感慨にふけったことがある。
 もしも私が貫主だったら、大般若経の代わりに手向けの鉦でも鳴らして、しずかに千二百年の大往生を見届けてやったろうに、とこういうばかげた空想が浮かんで来たのも、そのときの「心のうちぞ」がいまだに影を残していたからにちがいない。
 だが私の前なる青年たちは、今度の災難がいかに大きな損失かということから、政治的な議論へと移っていった。多分、ホース(法主)の代わりに貫主を置いたのは何党の責任かということを追求するつもりだったのだろう。               (一・三〇)



ふたたび「法隆寺」
 ラジオの「日曜娯楽版」がきっと法隆寺を取上げるだろうとおもっていたらた果たしてだった。例の対話で「閣下、法隆寺が焼けました」「ふん、君のお寺かね?」「閣下、マーケットが焼けました」「ほう、そりゃ大変だ!」さてこれがどれだけ適切な諷刺であったかである。私は生来の天邪鬼だからなかなかのことで笑わない。
 あの金堂炎上はもちろん当局の失態で大責任だが、しかし別に再建しなくとも済むことだともいえる。それに比べてマーケットはどうか? もし万人がそれで便利を得ていたというなら明日にも復旧しなければならぬものである。政治は現在の生活的な面に対してノンキでいることは許されない。としたらこの閣下の態度は決して非難されるべきではないだろう。
 政治家と政治屋とどう違うかときかれたので私は答えた。政治家というのは次の時代のことを考えるものだそうだ。しかし政治屋は次の選挙のことしか考えない。そこで私は、もし私が「日曜娯楽版」を頼まれたら、きっと次のようにやっただろうとおもったのである。
「閣下、法隆寺が焼けました」「ふん、あそこはだれの選挙区だったっけかな?」「閣下、マーケットが焼けました」「ほう、経営者はわが党のものかね?」だが私はこの方が適切な諷刺だと自負するのではない。いかに党利党略の好きな連中でもここまでは徹底していないだろうから?
 しかし今度の国会では多分、だれよりも先に奈良県選出の議員が金堂再建で騒ぎ立てたりするに違いない。これはいわゆる地元として当然でもある。だが再建というのはどんなことか? 私たちにとっては千二百年前の古美術が必要だったのである。法隆寺というお寺が大切なのではない。もしも今度焼けたものの再建のために金を費うというのだったら――この日本国中には住むに家なき人々がうじょうじょといるのである。
 焼けたものは焼けたままにして置くことの方が保存ではないか。なまじな補修などはせぬ方が(かえ)って在りし日を偲ばせるものだというのも決して嘘ではない。がそれはそれとして、あんな壁画よりもマーケットの方が今の日本にとっては必要なのだと、ハッキリいう文化人の一人ぐらいは出てもよかりそうにと、実はそれを私は怪しんでいるのである。
                           (二四・二・一)



最終更新日 2005年03月31日 01時10分29秒

高田保『ブラリひょうたん』「節分にちなんで」

 福は内鬼は外、迷信行事もたまには精神的レクリエーションになってよろしいと、大いに張切ってやろうとしたら、了供から、鬼とは何かと質問されて弱ってしまったーとある人が来てこぼしていた。
 鬼というやつは、頭に牛の角を生やし腰に虎の皮のふんどしをつけている。あれはウシトラの方位に住んでいるからで――などという説明をして聞かせたら、大人はだめだと一遍に軽蔑されてしまうだろう。しかし昔の人のあのユーモアはなかなかしゃれたものである。迷信呼ばわりで跡方もなくしてしまうのはちと惜しい気もする。
 市川のお助け爺さんの扮装、写真で見ているうちに、ああこれは鍾馗さんだと気がついた。鍾馗さんは鬼より強い。病気が鬼の仕業だとしたら、なるほど鍾馗さんでなければ退治ができまい。これもまた相応のユーモリストである。漫画集団の総裁くらいの資格があると思うが如何だろう?
 鍾馗という人物は元来頭脳がよくなかったらしい。国家官吏登用試験を何度受けても及第しなかった。その無念残念が凝って通じたものと見え、当時の皇帝の夢の中へ現れた。その夢の中で彼は小鬼をつかまえてムシャムシャ食って見せたのだそうである。驚いて夢から覚めた皇帝は御用画家の呉道子を呼び出し、委細を話してその姿を絵に描き止めさせた。これがそもそもだというのである。この話にもユーモアがある。
 呉道子、この画家がまたただの画家ではない。ある日皇帝から、宮廷の築土垣の壁へ絵を描けといわれると、(かしこ)まりましたと大鉢一杯の墨汁を持ってこさせ、それをさらりとその壁にぶちまけた。飛沫点々、すっかり汚ならしくなったのに幕をかぶせ、ハァイっと一声、手品の調子で気合を掛ける。これで仕上りましたと会釈して幕を取ると、雲山、林泉、花鳥、草苔、一切がまことに見事な布置で本物さながらに浮き出ていた。あっと皇帝が驚いていると、
「陛下、この洞穴の中が神仙境でございます。私の伴となってお遊びなさる気はありませんか?」
 見る間にその洞穴の扉が開き、彼を呑んでしまった。と再びその扉が閉まる。同時に煙のようなものがぱっとその辺に立ち昇って、呉道子はもちろん、そのすぽらしい壁画も消えてしまっていたというのである。
 鬼よりも強い、鍾馗よりも強い、皇帝よりも強いのは芸術家、とこういったら、人はそれこそユーモアだと笑うだろう。                      二一・三)



最終更新日 2005年03月31日 01時12分58秒

高田保『ブラリひょうたん』「当選確実」

 ある無所属の候補者が次のような演説をしたのだそうだ。諸君の区の候補者のつもりでしばらく静聴をわずらわしたい。
「私は決して最初から立候補するつもりではなかったのです。私には政治上の野心などは毛頭なかったのです。ですから適当なとおもう候補を選んで一票を投じ、もって国民の神聖なる義務を完了すればよろしいとそう信じていたのです。」
「ところがたちまち当惑せざるを得ませんでした。社会党はあの始末です、民主党もあの始末です、国協党は頼りなく、民自党には信頼が置けない。労農党というのが出来たそうだが、これはまだ正体がよくわからない。では共産党かとなるが、そこまでの気持にはなれません。つまり一票の入れ所がない。といって棄権をすれば主権在民の新憲法を殺すことになります」
「一夜しみじみと考えた結果、今の祉会で信用の置けるものは自分だけではないかと悟りました、よろしい! それでぱ敢て自分が立候補することにしよう。そしてわが一票を自分自身に投じよう。これならば棄権ということにもならず、心にもない投票をするということにもならずに済む。ああわれながら名案を得たものだと手をたたきました」
「諸君、以上の通りでありますから私は完全に無所属であります。いかなる党派にもという無所属ではなく、国会そのものに所属しようという意志を持たぬ無所属でありますから、厳正無所属と呼んで戴きたいのであります、従って私はいささかも当選しようなどとは夢にだって思っていません」
「では何故他の諸君のごとくに演説をしたりするのか? それはこの世の中には、私が最初悩んだと同様に、誰にも入れたくはないがしかし棄権はしたくない、このジレンマに悩んでいられる同志が決して数少くはないと考えたからであります。同志諸君よ。どうぞご遠慮なくこの私を利用せられよ。私は私の立候補が私の良心を満足させるばかりでなく同志諸君のために役立つならば、それこそ望外の喜びと信じたからであります」
「もしもその結果、万一、当選するようなことがありましたなら……その節は改めてご相談申上げたいと存じます」
 私の周囲では、この演説が非常に評判よろしい。わが区にそんなのがいたら絶対に投票するという。当選させて改めて相談したいものである。           (一・二二)



最終更新日 2005年03月31日 01時04分11秒

高田保『ブラリひょうたん』「審査投票」

 キング・イングリッシュとプレシデント・イングリッシュとを比べたら、プレシデントの方がずっと簡便だが、その簡便をもっと簡便にしたいと考えたプレシデントがあった。鼻眼鏡と虎狩りで有名なセオドール・ルーズヴェルトである。
 動詞の語尾変化をみんなtの字だけつければよいことにしようという説など、相当共鳴者もあったのだそうだが遂に実現しなかった。言葉は生きもの、アメリカのような国でさえ簡便ということだけではどうにも動かせなかったところに微妙なものがある。
 それを政府の方針だけで決め、一片の布告で国民に押しつけてしまったのが日本だから大したものだ、「新体制仮名つかい」とか「漢字制限」とか、まことに政府の権能は大したものである。ところがこれは、憲法学の権威故美濃部博士の説によると、明らかに憲法違反になるのだそうだ。そういわれるとわれわれ素人にもわかる気がする。それでこそ憲法だという気になれる。
 国語をいじくると、これがもしもフランスだったら大騒動だろう。何しろドイツ語は馬の言葉で、英語は犬の言葉で、わがフランス語だけが人間の言葉だと誇っている国民である。事がフランス語に関したらそれはフランスの伝統的道徳につながる問題だとして騒ぎ立てる。その事例なら数え切れぬほどであるだろう。
「ブウルボン宮殿をアカデミイの如くにした」と木下杢太郎がパリ通信の中に書いているのもその事件の一つだ。中学校の必修課目としてラテン語、ギリシャ語を残すべきか除くべか、日本ならば平気で文部省内の一局ぐらいで片付ける問題だが、これが国会の議題となり、甲論乙駁、二十日余りにわたってやっと納まったのだそうだが、国会が、ためにアカデミイの如き観を呈したということ、われわれとしてはただうらやましいと嘆息するだけである。
 最高裁判官の経歴書というのが廻って来たが、これだけではどうにも頼りない。曖昧(あいまい)なものは判定の材料として取上げぬのが裁判の常識だと聞いていたが、これで投票しろというところをみると、裁判と審査とは違うのだろう。それにしても、もしも文芸家協会あたりで「新制仮名つかい」の決定を憲法違反で告訴してくれていたらと思った。
 つまりその判決次第で、私は確信的×印をつけることが出来たろうからである。
                            (一・二三)



最終更新日 2005年03月31日 01時06分06秒

高田保『ブラリひょうたん』「対面」

 同気同質の二人なら、対面して話の末に何か生れることもあるだろうが、異気異質の二人ではどうにもなるはずがない。
 フランスのある高官が――というのだから多分大臣か何かだろう――彫刻家のロダンに会ったとき、そこにあった一枚の素描を取上げて「こんなもの、これは何を表現しているのですか? 一体何のためにこんなものを描くのですか?」と質問した。するとロダンは眼をつむったままで、「何のためでもありません。ただそんなことをやってるというだけですよ!」
 縁なき衆生は度し難しというが、世界が全く別なのだから、どこまで行っても平行線で交わりっこないのである。グラッドストーンは大政治家、ダーウィンは大生物学者、この二人が出会ったときは、二人とも大いに語り合ったものだそうだ。しかしグラッドストーンはそのころに起こったトルコ人の虐殺事件についての政治的見解を弁じ、ダーウィンはそこに生えていた豆の(つる)の巻き方について説いたのだというのである。そこでこの二人は別れた後で同じように首を傾げて
「あの話、あの男にどこまで判っただろうな?」
 ヤルタ会談のとき、スターリンはルーズヴェルトにこう聞いたのだそうだ。
「君のアメリカでの労働者の月収はいくら位かね?」「三百ドル」「で彼等の一ヵ月の生活費は?」「二百ドル」「すると百ドル余る勘定だが、彼等はそれをどんな工合に費っているのかね?」
 そこでルーズヴェルトは、こう答えたのだそうだ。
「そんなことは彼等の問題で、私の知ったことじゃない?」
 さて次にルーズヴェルトの方から聞きはじめたのだそうだ。
「君のソヴェートでの労働者の月収はいくらだね?」「八百ルーブル」「で彼等の一ヵ月の生活費は?」「一千ルーブル」「すると二百ルーブル足らん勘定になるが、彼等はそれをどんな工合にしているのかね?」
 そこでスターリンがこう答えたというのである。
「そんなことは彼等の問題で、私の知ったことではない!」
 これはいつかのタイム誌に出ていた小話だが、もしもスターリンとトルーマンとが、どこかの「お互いに都合のよい」場所で会談したら、きっとまた何かしらの逸話が生まれることになるだろう。それもまた楽みの一つである。                                      (二・四)



最終更新日 2005年03月31日 01時16分19秒

高田保『ブラリひょうたん』「仏の魂」

 法隆寺金堂の問題、寺と建築家と画家と、三説対立していろいろもめているというが、間にあって壁画の仏様たち、困っていなさることだろう。
 あの仏様たちのことはしらぬが、仏画というものは先ず魂から描くのが古来印度の定法だったそうである。仏様といっても元来は人間なのだから、心臓その他のすなわち五臓六腑を最初に描く。それからそれを塗りつぶしてその上に仏体を描く。これもありのままの裸形だというのだから、胸毛、(へそ)、その他一切の具有すべきもの一切だろう。それが終ってから五彩金襴の御着衣という順序になる。
 芸術ではなくて信仰なのだから、その制作中、作者は不浄に近づくこと、むろん許されぬばかりではない。描くための材料にも一切生臭いものは厳禁される。たとえば絵具をおさえるニカワだが、獣皮から採ったものなどはもっての外だ。桃のヤニと柳の枝のしぼり水とをこね合せたものを使ったという話、今でいう合成樹脂みたいなものだろう。
 法隆寺壁画の剥落防止のため、接着剤を吹きつけることで、変色の恐れがないかどうかと、画家対技術家との間に問題があったとは聞いたが、その接着剤の中に不浄物が入っているかいぬかで寺の方とごたくさがあったとは聞かなかった。昇汞(しようこう)水入り饅頭(まんじゆう)などという事件が暴露された位だから、坊さんの方に科学的な理解があったのかもしれない。
 さてあの壁画の仏様たちが、もしも五臓六腑をその内側に具有しているとしたら、折角に丹誠した画家諸君の摸写だが、ほんの表面だけを伝えたにすぎぬとなりはせぬか。仏写して魂入れず。一寸お気の毒みたいな気もする。だが摸写というものはいつでもこんなものなのだろう。
 大国宝と一緒にするつもりはないが、近世の活人形作りの名人安本亀八も、人には見えぬところで苦心したものだそうである。五臓六腑はどうかしらぬが、男は男、女は女、どうせ着付の下へ隠れてしまうのに、その証拠を極めて念入りの写実でつけて置いたものだそうである。そのためその女人形が一つ盗み出された事件があった。犯人というのはそれを陳列場まで運んだ人夫で、運ぶ際にちらりとその活人形の活きどころを目に入れてしまった。途端に目が(くら)んでというのだったそうである。彼からすれば人形の魂に感動したというわけだったろう。余談恐縮。                          (二・八)



最終更新日 2005年04月01日 01時53分27秒

高田保『ブラリひょうたん』「ハッタリ」

 ざっと半世紀も前になることだが「パリのライオン、パデレウスキイ来る」という大きな広告がロンドンの町の辻々に貼り出された。セント・ジェームス・ホールに彼の演奏会が開かれるというのだが、しかしロンドン児たちはこの広告を見るとふふんと鼻で笑った。
 実際にパリの楽壇をうならせたパデレウスキイだったのだし彼の見事な金色の長髪はまったくライオンのような威容でもあった。だからこの広告は決して誇大でないといえばいえるのだが、しかしロンドン児の趣味には合わなかったのだ。
 いやこれはパデレウスキイ自身にとっても鼻持ならぬ悪趣味だったのだ。マネジャーの某がかけたハッタリだったのである。だがこのハッタリのためにパデレウスキイは大変な損をしてしまった。すでに演奏会前に一般が偏見と反感を持ってしまったからである。これを打破るのは容易なことではない。果たして演奏に対する批評は散々だった。
 しかしさすがにパデレウスキイ。二回、三回と会を重ねるにつれて真価を認めさせるに至った。そこで英国内各地への演奏旅行もできることになったのだが、そうなるとロンドンでの反響を抜萃した紹介パンフレットを編集する必要がある。マネジャーがその編集をした。それをバデレウスキイが校閲すると、受けた悪評はすこしも採上げていない。無名の評者のでもそれが少しでも賞めてあれば長々と引用してある。商売的宣伝用のものだしそれが当然なのだが、パデレウスキイはそれを突返していった。
「例えばバーナァド・ショウ氏が、私の演奏を『ピアノ攻撃』と評したこと、鍛冶屋が鉄床の上に置くように、協奏曲をピアノの上に置いてたたきつけて喜んでいるといったあの忘れられない悪口など、是非とも大きく採録してくれたまえ」
「そんなことをしたら……?」
「いや」とパデレウスキイは手を振って「ショウ氏がそれほどに攻撃しているピアニストならというので、人はかえって私を聴きにやってくるだろう」
 ハッタリということを前にいったが、実はこの方が本当のハッタリだったかもしれぬ。結果はパデレウスキイのいった通りだった。到る所で演奏会は満員札止めの盛況だったというのである。                             (二・一〇)



最終更新日 2005年04月01日 02時13分29秒

高田保『ブラリひょうたん』「芸術家」

 映画「愛の調べ」が、ことに若い女性間の人気を博しているようだ。なるほどシューマン夫妻の物語はロマンチック好みの彼女たちにはぴったりするのだろう。女は男を愛しているとき最も美しい。クララは夫シューマンをばかりでなく、彼の音楽をまで愛した。二重の愛だからいよいよ美しくおもえる。
「愛の調べ」の中で、シューマン曲をリストが弾く。するとクララが、ああ弾いてはシューマンでないと非難する。シューマンの事なら何でも誰よりも自分が一等よく知っていると自負したのだろう。彼に対する彼女の愛情を知っていたものはこの自負を是認した。だからクララのシューマン曲演奏は最も正しいものとされ、権威となり、伝統となった。
 ところがこの伝統を破壊し、権威を失わせてしまった男がいる。パデレウスキイである。自分こそが作曲者シューマンの望んだであろう通りの演奏をするものだと宣言した。クララ夫人のシューマンに対する愛情はわかる。が愛情はかならずしも理解ではない。作曲者が思いきりフォルチッシモでと望んだところは、その通りにフォルチッシモでたたきつけなければならない。クララ夫人の演奏は結局女らしいいたわりであるに過ぎないという訳だったのである。これは明らかに音楽家としてクララに対する軽蔑ともいえる。
 さて軽蔑ということになると、その以前に次のような話がある。あるときのパデレウスキイの演奏会ヘクララ女史が現れた。その時にはもう大分の老齢だったのだろうが、人目に立つ派手な衣裳で最前列に陣取った。外の曲のときには拍手したのだそうだが、やがてリストのファンタジアを弾きはじめると、露わに眉をひそめ、肩まですぼめながら、隣席の連れの女性にこう囁いたというのである。「どんなに立派な技法を持っているにしてもリストを選んだというだけでもう判るじゃありませんか!」
 話というやつは組合せによってとんでもないことになるものだ。こう二つ並べるとどうも、クララの軽蔑に対してパデレウスキイが執念深く復讐をしたともなりそうだが、そんな結論は私の知ったことではない。私はただ私の例の悪趣味から「愛の調べ」のロマンチック人気を一寸かき廻してみようとしただけのことである。           (二・一一)



最終更新日 2005年04月01日 03時32分35秒

高田保『ブラリひょうたん』「座談会」

 UP記者のキャリシャー君が新聞に出る座談会記者を笑っている。精々四段か五段位にしかならん記事を、だらだら対話体にして面白くなっていると考えているのは「伝統」だろうというのだが、アメリカ人的感覚からはそうおもえるだろう。
 △「それがそうではない」
 ×「いやそうなのだよ」
 □「どっちにしても同じだ」
 ◎「そういえばそうだが、政治というものはだね、アハヽヽヽ」
 実際バカらしい対話の筆記なのだが、そのパカらしさを通じて各人の渡り合いをみる面白さがある。つまりは座談会というものも立廻りの一種かもしれない。
 ところでこの座談会速記録だが、あの著作権というものはどこにあるのだろう。小説「宮本武蔵」をめぐっての問題が起きているらしいが、(つい)でにこれも考えてみたら面白い。しゃべっているのはもちろん出席各位だが、席を設けご馳走をしてしゃべらせたのはその社である。速記をしたのは速記者である。それをうまくアレンジして適当に読物にまとめたのは編集記者の働きだとなるだろう。各人が権利を主張したらそれこそテンヤワンヤだろう。
 人間の座談なんて元来が無責任なもので、つい三十分前に拾い読みした他人の著作の内容を、三十年も考え抜いた挙句の結論みたいな顔をしてしゃべっても、結構それで通ったりするのである。反対に、三十年の持論を述べ立ててもその場のひょっとした思いつき同様、軽くあしらわれてしまうこともあるのだが、他人のを鵜呑(うの)みにしての発言の場合には、その他人もまた著作権者の一人になれるかもしれない。
 私などは無駄なおしゃべり屋だから、随分取っときの話を一面識の客にぺらぺら話してしまったりすることもある。それが雑誌上にそっくり他人名の文章で出ていたりするのでおやと思う場合も少なくはない。だが考えてみると私の方でも他人の著作権を侵害している場合が多いようだ。大方の人間の知識などというものはすべて他人の知識からの読みかじり聞きかじりの集積みたいものだろう。
 他人のものはわがものとおもえといったら乱暴な沙汰になるが、座談会に速記の中にはかなり粗漏(そろう)なのがあって、(しやぺ)り手の甲乙が入れ違っていたりすることなど珍しくないのだが、やかましく言立ててそれを訂正させる気にもならぬところを見るとliいやこうなるとキャリシャー君は、それも「伝統」かと笑うだろう。              (二・一七)



最終更新日 2005年04月02日 00時27分03秒

「高田保『ブラリひょうたん』「浜辺にて」

「漁夫生涯竹一竿」という一休和尚一行物の似せ軸を掛けて置いたら、町の漁場の人が来て、こんな文句はもう通用しませんよと笑った。漁業権というウルサイものがつきまとっているから竹一竿だけで解決がつくものではない。この方面もいよいよ協同組合ということになったので、一休さんみたいな心境ではいよいよいられぬのだと説明をしてくれた。
 さて天にホウキ星というのがある。それが出るとその年はロクなことがない。これはもちろん迷信だが、海の中にもホウキ草というのがあるのだそうだ。下した網にそれがついたりするとその年は駄目だと老人の漁師たちがいっている。私の町の漁場の綱には今年珍しくそれがついた。迷信であってほしいが、とにかくいつもなら毎日ブリ大漁が続く季節なのに、今年はとんとその音沙汰がない。
 漁場の経営は会社で、漁師諸君はそこの従業員という関係になっている。だからブリが入ろうと入るまいとその月給だけはもらうのだが、別に漁獲高の歩合配当金がついているのでほんの知れた額でしかない。だからホウキ草の影響は直接にやってくる。ボーナスが渡らぬ時のサラリーマン諸君の不機嫌よりももっと深刻な顔を彼等がしていても無理はないだろう。
 ところがこの外にオカズという制度がある。日に一、二度ずっ網を締めるのだが、季節物のブリは入らぬにしても、サバとかアジとかの小物は幾分なり入る。獲れ高の如何にかかわらずまずその中から、てんでの台所用に現物配給をするのである。二百目から精々で五百目止まりだろうが、このオカズが果たして誰の胃袋に納まるか、ともかくもこれは収入だといえる。
 この外にも一つ、ドウシンボウというのがある。多分「心を同じくした泥棒」というので「同心棒」とでも書くのかもしれない。乗船している監督の眼を盗んで、船底とか漁具箱の蔭とかに獲ったものの一部を隠しておいて、後で全員でそれを処置しようというのである。もちろんこれは大した分量であり得るはずもない。これは長年の習慣で、だから公然の秘密で、監督もそれが度を越さぬかぎり黙っていなければならない。
 そんな同心棒をするより、もっと余計なオカズなり歩合金なり要求した方がいいだろうとこれは誰でも思うことだが、それでは毎日の仕事の面白味がなくなると漁師諸君はいうのだそうである。この辺にまだ「竹一竿」の漁夫生涯が残っているじゃないかと一休さんは答えるかもしれない。                         (二・二〇)



最終更新日 2005年04月02日 00時59分43秒

高田保『ブラリひょうたん』「国会議員」

 つい最近の話、新国会議員になった男が、奈良の宿屋へ泊ったのだそうだ。洋服を脱いで、風呂に入って、丹前にくつろいで、早目の夕飯も済ましてから玄関へ下りて、女中に「君、法隆寺はどっちの方角だい?」「この辺に当ります」と女中は指さして答えた。
 新議員はその方角へ歩き出したのだが、町の方へ出てしまったので見当がつかなくなった。そこで通行の人をつかまえて「君、法隆寺へ行くのはどっちですか?」するとその人は向うを指して「あそこが駅ですよ」新議員はいささか腹を立てていった。「私は駅を尋ねているんじゃない。法隆寺はときいているんだ」
 法隆寺は奈良にあるといっても奈良県のことで奈良市ではないこと、だから何里か向うであること、はじめて知ったその新議員は流石(さすが)に恥かしくなったと見え、そのまま別な旅館へ飛込んでそこの客となり、そこから電話をかけて荷物を持って来させ、つまり宿替えをしてしまったのだそうである。おもうに猿沢の池の辺りにでもあるのかと思い、ぶらりと散歩がてら見まわって置いて、後日国会で国宝文化に関する質問でもするときの用意にして置くつもりだったのだろう。実話だそうである。法隆寺を見舞って来た人が帰途立寄ってお土産に話してくれた。選挙区が何処で何党かということまで聞いたのだが、これは忘れたことにしよう。
 これで思い出すのはずっと前に聞いた話、満洲ハルビンでのことである。ある年国会議員の一行が視察旅行でやって来たのだそうだ。町の横を流れる松花江の中に太陽島というのがある。そこに気の利いたレストランがあったのでそこへ案内してご昼食となった。一行はその島の河岸に立って向う岸をながめる。そっちにも家があるので人が歩いていたり、犬がほえたりしている。感に堪えた形でしばらくそれをながめていた一人が「なるほど、赤色ロシヤはあれか!」するとその傍の一人がうなずいて「こうまで近いとは知らなかった!」つづいて別な一人が「実に危険だ!」
 しかし私はこの話を聞いたとき、つまりそれほどハルビンという町がロシヤ的なので、だからその錯覚も無理ではないとその議員諸君に同情したつもりだった。が、奈良市法隆寺の話のときはにそんな寛大な気持はになれなかった。宿替えしただけまだ殊勝だとでもいって置く外はなかったのである。                     (二・二二)



最終更新日 2005年04月02日 12時04分48秒

高田保『ブラリひょうたん』「税金と文化」

 奈良の町に「日吉館」という宿屋がある。古美術研究者だったらだれでも知っている。研究者などというのは大概金持ではない。金持ではないこの連中が泊まってゆっくり研究のための滞在ができるのがこの日吉館である。
 私は何も宿屋の広告をしているのではない。今時に珍しい美談の紹介がしたいのである。学生たちがやって来て、米だけは背負って来たから安く泊めてくれといったところ、五十円でよろしい、その代わり外のお客より一時間早起きをして、できるだけ沢山見て廻りなさいと答えたそうだ。宿屋だから無論商売ではある。だが奈良美術のためにというのでなければこんな(もう)からぬ返事は出来ぬだろう。
 豪勢なホテルに泊まって東大寺境内を自動車で廻るような高級鑑賞家ご連中にとっては、日吉館などどうでもいいだろうが、日吉館の方にとってもそんな連中は必要ない。あるときホテル泊まりの客、この人は現参議院文化委員で時めいている有名な人だが、日吉館泊まりの客を訪ねて来てその帰り際、ホテルまで自動車を呼んでくれといったそうだ。すると主人は落着いて、自動車屋はホテルよりも遠い所にござんすでなと答えたそうだ。有名人はいら立って、僕は歩くのがきらいなんだ! すると主人はいよいよ落着いて、それはまあご不自由なことで!
 国宝保護はもちろん大切、ぜひやってもらわねばならぬが、その国宝を慕ってそこに集まる巡礼者のわらじの脱ぎ場所も大切にしてらもいたい。同じ有名人でも決して金持ではない会津八一先生とか広津和郎先生とかは、日吉館があるからこそしばしば奈良へ行けるのだといっている。名こそ挙げぬが今日立派にその道の学者となっている人で、かつてはこの日吉館に居候みたいにして巣食っていたのもある。一泊五十円で泊めてもらった学生たちの中からもやがてはその後継者が出るかもしれない。
 あそこは奈良古美術大学の学生寮だといった人があったが、これは適評の名言だろう。ところがである。この学生寮へ他の旅館並みの高額税金が課せられたのだそうである。到底今後立行きそうもないと主人が嘆いているという話を聞かされたのだが、自動車乗廻しの客を相手にせぬ日吉館が、それを相手にする他の旅館と区別なしに扱われたら、なるほど日吉館は日吉館でなくならぬ限りやって行けるはずはない。
 この税金のためにも日吉館が無くなったという問題、これは一宿屋のことではない。文化に及ぼす税金の影響の一例として、切に当局に考えてもらいたいのである。共産党の反税運動などに乗って言っているのではない。               (二・二三)



最終更新日 2005年04月02日 17時16分19秒

高田保『ブラリひょうたん』「衆望」

 ワン・マン・パーティーとは何かと人にきかれた。仕方ないからオットセイの話をした。長い冬が終わって海の氷が割れる。その割け目を泳いでやって来たオットセイたちは、島に上陸するなり、わが世の春とばかりワン・マン・パーティーをつくる。
 三百近い群の中に、老大獣というのが一匹いて、それが傲然とうずくまる。側近はすべて従順なる牝どもで、老大獣に不服な若小獣は遠くの方に追いやられている。
 つまりこれはオットセイのハレムなのだが、いささかでも老大獣に隙があると、遠くの方でうかがっていた若小獣がたちまち彼に代わろうとして、争闘の結果、追い出されたり、分裂したり、あるいは乗っ取られたりするのだそうである。
 とここまでいったら、そっくり政党みたいですなと相手が愉快そうに笑った。がデモクラシーの近代にオットセイ的生活があるべきではない。もしあるとしたらそれは何々組とかいうあれで、何々党というようなものではない筈だと、私は強くたしなめた。
 オットセイのハレムは今の世でもあるが、人間のハレムがあったのは古代のアラビヤである。だが人間はハレムを持ってもなかなかオットセイのように傲然とはやれなかったらしい。大聖マホメットはその細君たちからストライキをされたことがある。
 ある日のこと彼は、ふとした出来心で、登録外の女の腕の中で居眠ってしまったというのだ。いかにハレムだからといっても守るべき限界がある。これはハレムにあってもやはり許されぬ浮気だったのだそうだ。一人の細君に発見されるや否や、たちまち問題になった。ハレムの女たちよ結束せよ、この結果がストライキだったわけである。
 が、さすがにそこはマホメット、逆手に出て彼女たちに一切閉め出しを食わせることにした。すなわち、神に裁きを願うとばかり、女人禁制の寺院の奥深く入り込んで、向う一ヵ月間は出て来んぞと宣告したのである。ああ一ヵ月とはまた長い……彼女たちはすっかと悄然としてしまった。
 彼がハレムの王であった面目はここにあるといわれているのである。三十人分の男性であった彼は、だから日に三十人の女性を御し得たというのだが、その彼にして一人よく三十日間を過ごし得たのは人格ではないか。賛むべきかな、とために衆望いよいよ(あつ)かったと昔読んだ駄本にあった。                        (二・二五)



最終更新日 2005年04月02日 18時44分12秒

高田保『ブラリひょうたん』「火の用心」

 初代新国劇の沢田正二郎、赤坂の演技座で「本能寺」の芝居を演じた。信長に扮して毎日、「火よ、煙よ、このわしを受取ってくれ」というセリフを呶鳴っていた。大車輪の熱気に神も感動したのか、その興行の間に火を発して、折角震災後復興した劇場はそっくり祝融氏に取られてしまった。調査の結果原因は漏電ということに決まったのだが。
 出した火が自分の家を焼いただけなら、不幸中の幸いともいえる。がいつもそうとばかり行くものではない。時と場合ではいつ能代市みたいになるかも知れぬ。「一筆申す、火の用心」と留守宅の手紙の冒頭に書いた気持どなたにもおわかりだろう。
 浅草の町家でいつも店の大戸を半開きにして営業していたのがあった。間口何間かの味噌醤油酒の店だったのだが、先代のときに自火を出してその界隈に迷惑をかけた。お詫びの印に店を閉じ、息子に譲ってから半開きにさせ、その謹慎一代が終わって孫の代になったらはじめて晴れて元の通り開けさせて戴く、つまり私の見たのは息子の代だったのである。他人迷惑とはどんなものかを、これほどに昔の人は知っていた。
 明和九年、どうも語呂がよくない。今年は何か迷惑が来るぞと江戸の市民たちは心配しながらしゃれをいった。ところがひょうたんから駒が出て、どえらい迷惑になってしまった。江戸市中全滅の大火である。
 目黒の行人坂の大円寺へ、長五郎坊主真秀という悪党が火を()けたのだが、大円寺にだけ恨みがあったにもかかわらず燃え上った火の手は折柄の風にあおられて、幅一里の長さ六里、遠くは千住骨ヶ原まで、足掛け二タ月にわたり燃え続けたというのだからすさまじい。もっともこの足掛け二タ月というのは、出火が二月二十九日午の上刻で、鎮火が()けて三月一日の中刻だったということである。焼死の数は奉行所へ届け出たのだけでも四百何十何人。
 なるほどこれは明和九だったとあって、早速に元号を改めて安永元年となった。聞けば能代市も以前は野代と書いたのを元禄のころの大火で焼野原になった改字したのだそうだが、そんなことでご利益が受けられるものならありがたいことである。そのころ落首に、
 年号は安く永しと変れども諸色高ぢきいまに明和九
 ――余計なことだがそのころインフレだったとみえる。         (二・二六)



最終更新日 2005年04月02日 20時08分50秒

高田保『ブラリひょうたん』「自然発生」

 ここに一通の古文書がある。「申上候事」という書出しだが、宛て名は「当所御奉行所御役人様」で、差出人は「おいぬばゝより第三番目百姓弥太郎」としてある。内容はお読みになればわかる。
「正年二日集会の節万屋弥市どの役金はいくら出すものやら一向に知らざるよしに候……」

 とあるからそのころも、人が寄ればまず税金の話だとみえる。、
「私は享和元酉より文化十年酉まで金一歩つつ御上納同様上納仕候、御帳面は改め可被下候その内享和元より文化十まで十三年のうちは江戸住または岡右衛門どのの家の小すみ借りて住うちもたしか金一歩づつ上納仕候……」

 まことに以て範とすべき完納者である。この人が次のようにいうのだから傾聴してもらわなければならない。
「弥市などは祭桟敷になぐさみの銭ちらしながら上納同様役銭出さず、桟敷かける力なき私が欠かさず役料とらるること闇夜の草原歩くやうにわかりかね候……」

 この言い分は何も共産党から教えられたわけではない。正当な不平は自然発生のものである。
「あはれ青天白日なる明鏡の御心に御尊察可被下候。おのれの中風この方歩行心のままならず、出入のたびに駕賃に追まくられて困窮の上生れるの死ぬの又生れるの死ぬのと大いに困り候。なよ竹の直ぐなる御さぼきにて役金ちとの問休せ可被下候はば……」

 それでは公儀の方が歳入減で困るだろうからと、そこの所はちゃんと察し次のようにいうのも自然発生である。
「その代り今まで長々よい子の顔して休みたる弥市より御取立可被下候はば生々世々ありがたく奉存候。参上候て申べく所、今日御他駕のよし、夜は中風の名残り、老足よろよろと川に落ちんことのおそろしく、如此候、御憐み給へ」

 以上が全文である。日付は文政四年十二月二十九日とある。その時代に敢えてものいう一筆の気骨、この百姓弥太郎がただの百姓でないことはお察しの通りである。彼の句に、
  大牡丹貧乏村と侮るな
 大牡丹は彼の胸中に咲いていたのだろう、この花果たして白かったか赤かったか。赤ならぽ共産党の先輩だったかもしれぬ。武林無想庵翁入党すと聞いておのずから彼のことを思い出した。すなわち俳人一茶のことである。               (二・二七)



最終更新日 2005年04月04日 04時19分14秒

高田保『ブラリひょうたん』「浅草歌劇」

 本紙連載の「浅草の肌」は好評である。作者浜本浩君は昔から浅草にほれ込んでいたが、今もってだとみえる。小説でありながら作者がそのまま顔を出して、あのころはなどとぬけぬけ思い出を語ったりしている。昔の女におくる恋文みたいなところが
あるが、そこがまた味で余計に面白い。
 日曜のラジナを聴いていたら、歌劇「ボッカチオ」が流れて来た。あのころの浅草歌劇の代表的()し物である。しかも歌い手が田谷力三で指揮が篠原正雄と来ればそっくり昔通りである。浜本君が聴いたらぽろぽろ涙を流したかもしれぬ。
 あの中の「恋はやさし」とか「ベアトリねえちゃん」とか、今の歌謡曲同様に当時の大衆諸君の愛好歌だったものだ。考えると音楽に対する大衆のレベルというものはあのころの方がといいたくなる。あのころもしも「素人のど自慢」があったら曲目は今よりもずっと高尚なものになっていたろう。
 とにかく「カルメン」全曲をそのまま初めて上演して興行になった時代なのである。大衆お構いなしの道楽企画を立てて大衆がついて来てくれたのだから愉快だった。あのころは「文化日本」だったといえぬまでも「文化浅草」だったとはいえるだろう。
 この「カルメン」の時、ミハエラ役の安藤文子がホセ役の田谷力三に母親からの手紙を渡す。受取ってその封を切りながら母親をおもう心をホセが歌う。ある日その手紙を安藤文子が忘れた。
 仕方なく大切そうに胸元から引出したのは彼女自身の、おもう人へ宛てた大切な恋文だった。宛名を書いて封をして、出すばかりにしてあったのを渡しながら、読んじゃ駄目よといったのだが、ホセとしてはそうはいかない。ぴりりと封を裂いた。
 おもわずその中身を読んで、ついそれを釣りこまれ、危うく音楽を忘れてとんだトチリをするところだったと、ホセの田谷君が笑ったことがあった。
 さて右の恋文、あて名は「戸山英二郎様」だったのである。おなじ仲間の一人だったが、そのころはすでにイタリヤへの旅に出ていた。だからいい工合に恋文も外国行きの横封筒だったので、これが日本式状袋だったら可笑(おか)しなものになっていたろう。
 この戸山英二郎とは若き日の藤原義江のことである。毎日新聞社の初の演劇賞の特別賞が藤原歌劇団に贈られたが、その発表の日にラジオで昔通りの浅草歌劇が放送されたのだから折も折である。浜本君なら底抜けに飲んで踊り廻ったことだろう。    (二四・三・一)



最終更新日 2005年04月05日 01時41分49秒

高田保『ブラリひょうたん』「犬・猫・人間」

 去年の春、野良犬が私の家の縁の下に来て子供を五匹生んだ。その中のメス一匹が残って私の飼犬になっているのだが、犬の出世は早いもので、去年の暮には立派に恋愛をし、その結果先月末に七匹ほどの子供を生んだ。昔だともらい手がなくて閉口したものだが、今はあちこちから申込みが多く配分に困るほどである。「犬くじ」でも売り出したらと笑い合っている。
 まだ子供たちの眼は開いていないから一かたまりになっている。幾日目に開くのか知らぬがそれが開くともう母親の腹の下から飛出してその辺を歩き廻るそうだ。今日か明日かとその変化を楽しみに待っている。アメリカの雑誌にあった小話を思い出したからである。
 ソ連の国のかどうか知らぬが、とにかく小学校で生徒に綴り方をさせた。すると一人が次のようなのを書いた。
  「ねこが子供を五匹生みました。その子供はみんなコムミュニストでした」
 大変によく出来ていますと先生が賞めた。とそれから一週間後のことである。また綴り方の時間になった。すると、
  「ネコが子供を生みました。その子供はみんなソシァル・デモクラットになりました」
 と同じ生徒が書いて出したというのである。先生は早速その生徒を呼んで、この前のと違うではありませんか、どちらが真実ですかと聞いたところ、
  「先生、どちらも真実です。先週はまだ眼が開かなかったのですが、今週はみんな開いてしまったのです」
 こう返事したというのである。機智があってこの小話は面白い。今日の日本の若い大学生などの中にも生まれたての子ネコ・コムミュニストが多いかも知れない。だが逆もまた真なりということがある。公理でさえも引繰り返しができるのだからこんな機智がそっくり逆につかわれて同じ効用をもったにしても可笑(おか)しくはあるまい。
 ソヴェートから飛行機で飛んで来た軍曹はもし米ソ戦争が起きたら、米国のためのよき兵士になるつもりだと元気に語ったと伝えられている。兵士というものがただ単に飛行機を飛ばしたり、鉄砲を撃ったりするだけのものなら、それを巧みにやる限りはどちら側に置かれても同じ効用を果たすことができるだろう。
 武装を放棄した日本には一人の兵士もいない。人間は犬や猫と違って生まれた途端から眼を開けている。日本は永世に中立的立場を守るべきだということ、マ元帥にいわれるまでもないことである。                           (三・六)



最終更新日 2005年04月05日 01時43分44秒

高田保『ブラリひょうたん』「側近」

 江戸十八大通、中でも一番豪勢だったのが文魚という男。一時は諸大名とも友人付合いだったそうだが、花一と盛りで後には零落した。
 零落はしたが見栄坊で、黒ちりめんに一本差し、ぶらりと家を出るときに「ちょいと丸の内まで行って来る」
 今ならモク拾いかといわれそうだが当時はそうではない。大名中の大名の屋敷がずらりと並んだ丸の内だった。呉服橋を渡る。大手前へ出る。そこから土手にそって行けば鍋島屋敷、文魚はその裏手の方へ廻る。と四辺を見廻してそこの松の根元でちょっと立停ってしばらく……深呼吸でもしたのかもしれない。
 百路坊という俳諧師があハ、た。ある日彼がこの文魚の後をつけたことがある。松の根元での始末まで一切見届けてからぬっと出て  「旦那一体どちらまで?」
 文魚はつぎのように答えたそうだ。 「そこのお屋敷まで、小用を足しに来た」
 私の知った落選議員、はるばる上京すると、何か忙しそうに商工省だ、農林省だと馳け廻つていた。腐っても鯛、落選はしてもその筋への顔はこの通りといった風を見せていたが、堂々と玄関を入って行っても落ちつく先はトイレットだったかもしれぬ。古往今来人情は同じといってやりたいが、どうも文魚の方が無邪気のようである。
 もう一人は首尾よく再選の議員だが、何かにつけて首相官邸へ行く。百路坊ではないが意地悪く彼の後をつけたのがいた。その報告によると、首相官邸の中は中だが、彼の入るのは首相の室ではないそうである。呼ばれたわけではないからつかつかそこへ入ることはできない。が秘書官の室なら差支えない。そこでその中へ入って、愚にもつかぬ話に油を売って出て来るのだそうである。何ていう馬鹿かと笑ったら、いや彼は馬鹿どころか大した奴だとたしなめられた。それをやっているので彼は世間から側近の一人と見られているのだそうである。
 昔はお茶坊主といった。気骨のある武士はそれをいやしめたものだが、今の世の側近は羨望の的であるらしい。側近とはカーテンの内なる人。日本は日本で白いカーテンを持っているらしい。
 鉄のカーテンは世界的存在である。モロトフ外相からヴィシンスキー外相へとそのカーテンの内側に変動があった。何故かと世界の眼が集まっているが、これを知っているのはクレムリンの側近だけだろう。
 さて文魚はいわく「人間豪勢なときほど取巻きは多いものさ」       (三・八)



最終更新日 2005年04月05日 01時45分32秒

高田保『ブラリひょうたん』「裸体画」

 喫茶店へ裸体画をかけといたらワイセツ罪に問われたという話、むずかしい世の中だとおもわせる。ウナギに梅干はつつしめといわれていたが、お茶と裸体画の取合せが毒とは今日まで知らなかった。これだけは心得置くべしが一つ殖えたことになる。
 では逆に、裸体画のある場所で喫茶店を開いても同じ犯罪になるのか。実はある展覧会から相談をかけられた。例の入場税に痛めつけられて四苦八苦やりくりがつかない、何なり外に収入の上る妙案はないか。それに対して、いっそ会場の真ん中を喫茶店にしたらと提案しといたのである。
 当局ではきっと、キッサ店をキッス店と間違えたのだろうという説もあるが、冗談はさておき、お茶というものは元来が和敬清寂、明徳上人が茶徳を説いた中にも「悪魔降伏」だの「煩悩消滅」だのと書いてある。昔の坊さんたちも「不発の効」ありとして強いて飲用した位のものだ。不発とは注するまでもなく、欲情の発動をおさえることである。これからすれば、喫茶店なら裸体画などどう(なら)べてもよろしいとなりそうなものである。
 もっとも現代の喫茶は明徳上人とは大変な距離かもしれない。近ごろの流行歌には「一杯のコーヒーから」というのがある。「夢の花さくこともある」という文句が続くのだが、ヒョータンから駒のように、何から何が飛出すかわかったものでないのが戦後日本なのだろう。キッサ店でなくてキッス店というのもあながち冗談ばかりでもないかもしれぬ。
 いわゆるサービスを心得た喫茶店では、ロマンス・シートといったものまでも設備しているそうである。説明を聞くとどうやら昔の四畳半の現代的ヴァリエーションらしい。しかしあの四畳半というものも、そもそもは維摩居士の方丈にかたどり創められたものだそうである。それがどうした工合で待合の小座敷などに転用されてしまったのか、何事も浮世の変遷である。
 それにしても恐るべきは、犯罪検挙の場合、その裸体画の作者までが一蓮托生という沙汰である。ある友人の画家はいった。肉切り庖丁(ぼうちよう)が間違って人切り庖丁となっても、その庖丁の製造元が殺人罪で起訴されたことは、かつて一ぺんもなかったではないかと。げにもっともな抗議である。しかし私は慰め顔に答えた。それは多分今の役人が、文化に対する理解のほどを示したのかもしれぬ。法隆寺の電気座布団の責任は追究しない。しかしこっちの責任だけは見逃さない。工業と芸術との区別をわきまえたつもりなのだろうと。二人は呵(かか)大笑した。                              (三・九)



最終更新日 2005年04月05日 01時47分35秒

高田保『ブラリひょうたん』「漱石入党」

 青年の元気一杯なのは喜ぶべきことである。昨日私の許へ来たその一人は、突然に次のようなことをいった。 「夏目漱石だって今日生きていたら、確かに入党していますよ」
 党というのは共産党のことである。漱石の弟子の森田草平は入党した。だから師匠の漱石もというのであろうか。老いては子に従えというが、この論理は何としても承服しかねる。すると青年は続けていった。
「英文学の漱石でしたが、晩年にはそれを捨てて、ソ連文学を理解しはじめていましたからね」「冗談じゃない」
 あわてて私は手を振って、漱石が死んだのはたしか大正五年だったじゃないかといったのだが、しかし青年は自若として「漱石自身そのことを詩に書いて述べいるのだから仕方ありません」
 いわれてみると成程、漱石の漢詩中に次のようなのがある。
  非耶非仏又非儒
  窮巷売文聊自娯
  採襭何香過芸苑
  徘徊幾碧在詩蕪
  焚書灰裏書知活
  無法界中法解蘇
  打殺神人亡影処
  虚空歴々現賢愚
 青年の解釈に従うと、キリスト教にも仏教にも儒教にも愛想をつかしたところに、漱石の時代的自覚が先ずうかがわれるというのである。あれこれ精神の遍歴をした末に、ソ連の正しさを理解したというのである。「無法界中、法、蘇を解す」の蘇が蘇連邦の蘇であることは、次の「神人を打殺し」とあるのでもわかるではないかというである。神人とは観念哲学のことですよと彼は勢いこんで説明した。
 こうなると私にはもう抵抗できない。黙って笑って青年の講義することに圧倒されるより外はない。彼流にいえば「焚書灰裏、書、活を知る」もテーゼに対するアンチ・テーゼだと来るのだろう。私はわずかに次の質問を彼に向ってなし得ただけだった。「ところで君は、ソ連邦の正式に成立したのはいつのころか知っているのかね?」「一九二三年です」
「漱石の死んだ大正五年が、その紀元の何年に当るか知っているかね?」「知りません」
 それ以上の質問は残酷というものである。私は話題を転じて愚にもつかぬ閑談にふけった。
                                   (三・一○)



最終更新日 2005年04月05日 01時49分41秒

高田保『ブラリひょうたん』「道成寺」「ふたたび道成寺」

 千円札が便利だろうという話になった。百円札は法隆寺だが、千円札となるとその意匠は、といいかけたら即座に、あゝそれは道成寺と一人がいった。カネに恨みの数々、これは名案と満場一致した。
 そうなると聖徳太子よりも安珍の方が一段上格になる。以前だったらたちまち無礼者としかられたことだろう。彼は清姫に見込まれたばっかりに名を残したので、ちっとも有徳の坊さんだったわけではない。
 彼の出は奥州ということになっているのだが、安珍の子孫はその後もそこに続いていたという説がある。これはどうも可笑(おか)しい。この話を承認すると彼は、国を出るときすでに童貞僧ではなかったことになる。人生経験が済んでいたのだったら、何もそんなに逃げ廻らんでもいいではなかったかと誰だっていいたくなるだろう。清姫は真砂の庄司の娘で評判の美人だったというからなおさらの話である。
 鐘もろとも清姫の情熱に焼き溶かされてしまった安珍は、無残や白骨ばかりを残したというのだが、「法華経験記」によると後日物語がある。道成寺の住職の夢まくらに一匹の男へびが現れて、回向のための写経をしてくれと頼んだといのうである。頼み通りにしてやると、今度は綺麗(きれい)な坊さん姿になってまた夢まくらに現れ、功徳によってこの姿に帰ることができた。がふたたび人界へはもどらない。天界浄土にあって自分は■利天(とうりてん)に生じ、女は兜率天(とそつてん)に住してともに楽しく暮すことにする。ありがたや、ありがたやと礼を述べたとあるのだから、女性情熱有終の美の大勝利、古い物語もこれなら現代の喝釆を博するに足りるだろう――といったら、なあに人界にもどって肉体復帰でなければつまらないといわれるさ、と笑われた。
 この「法華経験記」は小説ではないが、近ごろの大衆読物なんぞよりも、文章が簡潔要領を得ていてはるかに面白い。若僧と老僧と連れ立って熊野へもうでる途中、一軒の家に宿を求めたが、その家の後家さんが大いに歓待してくれた。とその夜中若い方の部屋へ来て「衣ヲ蔽ヒテ並ビ僧ニ語ツテ言フ」ことには「今夜宿ヲ借スハ所由無キニ非ズ。見タル始メノ時従リ交臥ノ志アリ仍チ」云々なのである。若僧はひたすらその申出を断った。「女大イニ恨ミ通夜僧ヲ抱キテ擾乱戯笑ス」この騒動の最後の最後が極楽往生で仞利天と兜率天なのだから、まさに千両の値打ちありといえるだろう。人皇六十代醍醐天皇の御宇だそうである。
                                   (三・一一)

ふたたび道成寺
 道成寺といえば誰でも安珍、清姫かとくる。昨日もそれでお(しやべ)りをしたが、あの話があの寺の縁起なのではない。縁起となると人皇四十二代文武天皇の御代となる。入江のほとりに九人の海士(あま)の住む里があったというところから始まる。それにしてもこれがやはり女気のある話だから妙である。
 海士の一人がある日海底に潜ると、金色に光るものがあった。怪しんで引揚げてみたら立派な千手観音さんだった。ありがたやと早速立派なお堂をこしらえてといいたいが、海士のことだからおぼつかない。粗末な屋根だけで我慢していただくことにして、信心礼拝の方だけを一心にやった。するとお約束どおりにその観音さんが、ある夜の夢まくらに立って下されたのである。善哉々々、何なりと望みをかなえてやろうといわれたときにその海士は、では娘の頭に黒髪を生やして下されと答えたのだそうである。すっかく年ごろになっているのだが、人前に出られぬほどに薄かったのだろう。歌麿の有名な海士の画をみてもわかるが、女の黒髪は裸体になったときになお一段美しい。霊験はたちまち現れた。かねてから目鼻立ちの器量よしだったのが、その娘にそっくり黒髪が生えるとすばらしいものになった。しかもその黒髪たるや文字通りに丈をなして大した美しさである。こうなると抜毛一筋だって粗末にはできない。他人の土足になぞかけられてはと、丁寧(ていねい)に拾い取って木の枝にかけて置いた。
 さてここは京の御所である。紫震殿[#「紫宸殿」]の軒端に雀が巣をくった。ある日、時の帝が御覧ぜられると、怪しやそこから垂れて長く地上に届いている一筋のものがある。とらせてみたら確かに女人の髪の毛だとなった。これほどの長い黒髪をもつ女人ならばさぞかしと、帝の心が動いたとある。
 これからの話はあのシンデレラそっくりになる。これと同じ長さの髪の毛をもった娘は御所に召されてお妃さまになるのだというのだ。西洋の話が足で日本のが頭なのはおもしろい。
 妃にはなったがこの娘、雨が降ると浮かぬ顔をしたのだそうである。なぜかと帝が(たず)ねられると、観音さんの屋根の雨漏りするのがおいたわしい、わが身の仕合せを思うにつけてもと答えた。始終を聞かれた帝は感応ましまし、ただちに伽藍(がらん)の建立を命じ給い、名付けて「道成寺」――なりけりという次第なのである。
 だがこの縁起をもっての外だという説が、やっぱり昔にも出ている。文武天皇には藤原淡海公のご息女宮子さんがあったきりで、卑しい海士の娘が妃になどとは、かつて本朝になかったことだと、むきになって折角のお伽噺(とぎはなし)をぶちたたいているのである。「象微」では済まぬ国かもしれない。                           (三・一二)



最終更新日 2005年04月06日 11時36分29秒

高田保『ブラリひょうたん』「掘り出し」

 ルノアールやユトリロの絵が抵当物件となって詐欺事件が起こったということ、考えればこれも日本文化の進歩かもしれぬ。以前だったらダ・ヴィンチだろうがレムブラントだろうが、高利貸とのご縁など結びたくても結べなかったものである。
 つい先日、銀座のある画廊にルノアールの小品が出ていた。ある人が値段をきいたら「六つです」といわれたので、六万円ならころ合とおもい買取る契約をした。さて支払いの段になってわかったのは、その十倍の六十万円だということである。高い安いは別として「一つ」を一万円と解するのはわれわれの常識だろう。ところが近ごろの美術品取引では十万円を意味するのが常識なのだそうである。
 こうなるともう美術どこるではない。有価証券的存在で、買う方も売る方も先へ行っての値段の上下を見越した思惑的なものらしい。ここのところ梅原龍三郎は下向きだといわれて、(あわ)てて売りに出たなどという話は決して珍しくない。
 さて最近の事だが、ルーベンスの絵を三千円で売ってしまった夫人があった。亡夫所蔵のものだったが図柄がおもわしくない。裸体の女が短剣を持ってよろけているところで、というので買った古道具屋も気が乗らなかった。で一万六千円のタイプライターと交換してしまった。ところが実はこれがルーベンス中でも傑作の「ヂドーの死」だったのである。たちまち四百万円という値がついたーといってもこれは日本の話ではない、英国でのこと。金額はドル三百円としての計算である。
 ゴッホの自画像といえば有名なのが幾つもあるが、六十年もの間人の目に触れず、さる処にほこりだらけになっていたのが掘り出されたという話もある。掘り出し手はアメリカの画商、最初四百ドルとつけたのだが、それより少し高く買ったというのだから五百ドル位だったのだろう。と以上は一昨年のことなのだが、今年になって初めて展覧され、なんと六十万ドルで売れたというのである。さる処といったが、それはパリの田舎だそうだ。その画商がドライヴをしていると自動車のタイヤがパンクをした。生憎(あいにく)スペヤァを持っていなかったので、近所の飯屋へ入って電話を借りた。すぐ持って来てくれとギャレージへいっといて、それを待つ間のつなぎに何か一皿注文しながらあたりを見廻した。するとそこのすみの暗いところにそのゴッホが隠れていたのだそうである。おもわず息の根が止まりそうだったとその時のことを語っているというが無理はない。
 春の日の散歩、途中でゲタの鼻緒(はなお)でも切らしたら、その辺の家の壁にかけてあるものを探してみなさるがいい。きっと大雅堂のにせもの位はみつかるだろう。   (三・一三)



最終更新日 2005年04月06日 11時39分17秒

高田保『ブラリひょうたん』「白日夢」

「共産党宣言」が発表されて今年は百年目である。この三月十四日はカール・マルクスの死んだ日である。お祖師さまのご命日とあれば、日蓮宗信者など例の太鼓を叩いて、いわゆる「お会式」をやったりするのだが――というのは余計事である。
 ヴィシンスキイはロンドンへ渡ったときまずマルクスのお墓におまいりしたそうだ。カールの墓はその妻エニイと並んでハイゲートの墓地にある。ヴィシンスキイは真赤なカーネーションをカールの墓へ、真白い百合の花をエニイの墓へと捧げたと、当時の新聞に書いてあった。ついでに花言葉に訳しといたら面白かったろう。
 マルクスが万国の労働者を愛したことは紛れもない事実である。だがその労働者よりも一層その妻を愛したことも事実である。彼女の棺を墓穴におろすとき、よろめいて彼も一緒にその中へ落ちようとした。傍にいたエンゲルスが危うく抱き止めたのだそうである。ああこの男もまた死んでしまったかとエンゲルスはそのときおもったと伝えられている。それから十五ヵ月目に彼は彼女の許へ逝った。
 マルクス夫婦の恋物語は極めて清純でしかも熱烈で誰の心をもうつものである。ロマンチック好みの娘たちに聞かせたら即座に彼女たちをファンにしてしまうにちがいない。「資本論」の内容で同志を獲得するばかりが方法ではあるまい。左翼宣伝もこんな手を使うようになれば大人である。
 吉田茂とマルクスと共通の点があるといったら、民自党の諸君あたりから苦情が出るだろうが事実だから仕方がない。吉田氏が葉巻を好むところだけはチャーチルに似ているというが、葉巻が好きなのはチャーチルばかりではない。マルクスもまた大好きで手離したことがなかったのだそうである。葉巻というものは必ずしも貴族の専用ではない。ハヴァナではだれでも喫うのである。
 町を歩くたびにマルクスは煙草屋に気をつけた。安い葉巻を探すためである。ある日、一箱で十八セントも安いのを見つけて喜んだ。これなら日に一箱で十八セントもうかる。それだけ貯金する。精々努力して二箱煙にしたら三十六セントになる。一年経ったらすばらしい額が貯まるぞ! 彼は経済学者として天才であったが、私生活経済では凡人以下だったとみえる。
 わしはそんな安葉巻は喫わんよと、多分吉田さんは苦い顔をするだろうが、もしも、ほうマルクス君もわしと同好だったかと破顔一笑して、親愛の握手を求められるようだったら――とこれは小生の「白日夢」である。                (三・一五)[#昭和24]



最終更新日 2005年04月06日 11時43分36秒

高田保『ブラリひょうたん』「犬馬の労」

 食肉、という言葉は戦争中にできた。そのころある店へ入ったら、ビフステーキと書いてあったので、ビフは珍重と早速に注文したら、石炭のように真黒いのを持って来た。()んでみたら(ろう)のように味がない。で改めて給仕に、これは何のビフステーキかときいてみた。すると、はい、ショク肉でございます。ショク肉というと? と重ねてきくと、はい、ショク肉でございます。ロウを得てショクを望むとはまさにこのことかと会得したことがあった。
 戦後のことだが、ある店で鶏肉団子というのを売り出した。鶏肉とは贅沢(ぜいたく)なと目を見はると、お徳用格安品につき五〇パーセント食肉使用と断り書きがしてあった。いかにもこれは正直な商法ではあると感心した人が自宅へ持帰って吟味(ぎんみ)すると、なんと食肉ばっかりだった。鶏肉なぞは跡方もない。正直と感心しただけに余計憤慨して苦情をいいに行くと、その店の主人は落着き払って鶏一羽分に対し食肉一頭分を使用しておりますと答えた。ショク肉! ショクとはと重ねてきくと、鯨のことでございますと教えてくれたそうである。なるほど一羽対一頭、五分と五分の勝負で五〇パーセントと引分けだが、しかしこの取組では店の主人の方が勝っている。
 掲げた羊頭はすなわち公約であろう。だがぜひなく狗肉を提供しなければならぬ。公約を無視するような料飲なら再開してもらっても困るのだが、再開しなければ政府が狗肉とののしられるわけだろう。以前は銀座裏の名代のトンカツ屋だったのに息子を浅草の新興トンカツ屋へ出して修業させている人がある。親父みずから伝授してやったらいいではないかと怪しむと、その人は苦笑してなかなかそんな生易しい時代ではござんせんのでと答えた。
 トンカツ屋がトンカツを売っていたのではだめな時代なのだそうである。犬の肉を豚肉の上でたたいて味をつけたりしてこさえるのが戦後版トンカツなのだそうである。ピフステーキにしてたたいて味をつけたりしてこさえるのが戦後版トンカツなのだそうである。ビフステーキにしてからが、馬肉へ牛脂をまぶしこんでというような秘伝、なかなか旧時代のトンカツ屋では発明できない。といってまさかに自分でそれを教わりに行くわけにもならぬので、と額の汗をふいた後でその人はいった。まったくの話、今風の秘伝を呑み込みませんと税金が払えません。
 犬馬の労とは昔もいいましたがねえ! とこれはそのとき、おもわず私の口から飛出た言葉である。こんな犬馬の労はすべて大衆向きの店でのことである。本当の料飲再開とはこんな犬馬の労をとらずともやって行けるように犬馬の労をとってくれることだ、というと何のことだかわからなくなるか。察したまえ。               (五・一七)



最終更新日 2005年04月06日 23時18分30秒

高田保『ブラリひょうたん』「写し時代」

 子供をつくるのは男である。生んで育てるのは女である。女には創造力がない。だが守成の才能はもっているといわれる、が同格論者はこの説に反対するだろう。
 茶の湯とか活花とかは女の芸になっている。が始めたのは男だった。それが一応出来上ってこれからはただ伝統に従って法を守って行けばよいとなったとき、女人が入り込んで来た。だからそれ以来その発展はなくなってしまったともいわれる。
 ある年京都の龍安寺へ石庭を見にいったらやはり東京からという家族つれの客が来ていた。一緒にお茶を出されたので口を利きあったのだが、その中の奥さんが得意そうに、わたくしどもではこの庭をそっくり写してこしらえましたといった。非常によく出来ているから一度見に来てもらいたいというわけだったのだが、もちろん私はいったことはない。戦災前のことだから大方焼けて跡方もなくなっているだろう。
 がこんな馬鹿々々しさは女だからとばかりいえない。相当茶人ぶっている男たちが、好みだの写しだのといって珍重する。利休好み、遠州好み、よろこんで亜流になっているのである。向月亭写し、不審庵写し、独自の茶室は夢にも考えずにイミテーションに夢中になっているのである。
 ある人が福運を得て立派な新居を設けた。ふさわしい庭を作りたいが、どこのを写したらいいだろうかといった。言下に私は京都の西芳寺と答えた。有名な苔寺の庭である。あれを写すにはまず苔をはやさなくてはなるまい。苔をはやすにはそれだけの年代が必要である。さすが相手は苦い顔をした。
 わびとか寂びとかいうもの、一朝一夕では出て来るものではない。金にあかしてわび寂びの道具をかき集めるのだが、精神の方は所詮(しよせん)写しである。今の茶人ほど俗物なるはない。龍安寺写しを得意がった奥さんの方がまだ無邪気だろう。
 だが茶人ばかりも(のの)しれない。ハリウッド好み、例えばヘップバーン写しの化粧などというのがある。というとまた女の悪口になるが、サルトル写しの文学などというのはどうだろう。いや文学となると外国ばかりが宗家ではない。志賀写しなど一時の流行だったが、近ごろでは舟橋写し、丹羽写し、創作と銘打ちながらこうである。別な方ではマルクス写し、レーニン写し、いやはや……。
 ときに「非日活動委員会」というもの、これもどうやら写しの一つのようである。いよいよもって女にはなどと言えたことではなさそうだ。             (三・一八)



最終更新日 2005年04月07日 00時04分32秒

高田保『ブラリひょうたん』「英語」

 人間は七歳になれば完全に話せるものだ。だが読み書きは学校へ行かなければおぼえられない。話す英語よりも読み書きの英語をという一昨日十八日付の社説、私は賛成である。
 大学生が三人遊びに来た。さすがに大学生だから、北大西洋条約、ソ連政府部内の大異動、それからそれと国際的視野で論じ立てていた。ところで私はおもいついたまま、紙と鉛筆とを三人の前へ出したものである。話はわかった。さあそこでこれへ次の人名を、片仮名でなく書いて見せてくれ給え。ロイヤル。アイケルバーガー。ヴィシンスキー。
 この成績のほどは大学生の名誉のために発表したくない。強いて知りたいお方は、お近くの大学生を相手に試みてみなさるがいい。多分ロイヤルの最後のL字をダブらせた答案は十に一つ位しか出て来ぬだろう。
 こんなことはもちろん語学ではない。が語学に関連する。大学生たちはこれらの名前をいつも片仮名でだけ読んでいるのだということだ。つまり英字新聞も英文雑誌も、英語を学んでいる筈の大学生たちにとっては存在していないということ。どうも奇妙な話である。
 英文壇現役のサマセット・モームは今年第七十五回の誕生日の席で、今までに自分の最もうれしかったことは、太平洋作戦に従軍のGI(編注11兵士)から、貴下の作品を通訳したが一度も辞書の厄介にならずに済んだ、という手紙を受取ったことだといったそうである。というと早速、だから話せさえすれば読めるわけだといわれるかもしれぬが、そうはいかない。そのGIは読み書きを知っていたからである。
 あるとき私は汽車の中で、向いの席にいた進駐軍将校から、片言の日本語で「竹に木の目がどうしてハコですか」と聞かれた。何のことやら見当もつかなかったが、やがてそれは漢字のことだとわかった。竹冠りに木篇で作りが目ならなるほど「箱」である。折角箱根行きの途中だったのだが、どうしてハコなのかは私にもわからない。でそう答えると彼は肩をすぼめながら愉快そうに笑って「オオ日本人でもネ!」
 とにかく私は、話すことが片言でいながら読み書きを習っていることで驚かされた。が考えてみれば私たちの学習もその方式だったのである。でこちらも片言の英語でそれをいうと、彼は熱心にうなずいてこう答えた。知識を求めるためには口よりも耳よりも目が一等大切なはずだと。おそらく彼等の中でも彼は変った篤志家だったのだろう。しかし私が何よりも伝えたいのは彼の次の言葉である。「英語をよく話す日本人よりも話せぬ日本人の方が賢明である場合が多い」外国人と滑らかに会話することはもとより結構である。だが軽蔑されぬ方がもっと結構であろう。                      (三・二〇)



最終更新日 2005年04月07日 21時18分01秒

高田保『ブラリひょうたん』「人間と動物」

 電車の中、「動物愛護デー」のポスターの下で、近ごろめっきりと鼠が殖えて困っていると話していた人があった。鼠は動物の中に入らぬとみえる。
 ある日のこと孔子が琴を弾いていた。彼はその名手だったのだが、そのときの音色がひどく変っていたので、弟子の閔子と曽子が室へ入っていって訳を尋ねると、猫が鼠をねらっていたのでうまく捕らせようとおもったからだよ、と孔子が答えたそうだ。聖人でも動物愛護には不公平があったらしい。
「動物虐待防止会の宴会がありましてね、とあるレストランのコックが笑ったことがある。「メニュウがやっぱりチキンの煮たのやビーフの焼いたんでしたよ。可笑(おか)しなこってさアー」もっとも「取って食ってしまいたいほど可愛いー」ということもある。
「R・S・P・C・Aのこ連中ですって? すると何ですかい、あんた方はビーフステーキ
は食わねえとでもおっしゃるんですかい、そんなら話はわかる!」
 カウボーイの一人がこうタンカを切ったことがある。大英博覧会のときのこと、興行王といわれたコクランが大西洋を越えて本場カウボーイの一団を招き、豪快なロデオをロンドン人士の前に公開した。ところがその演り方があまりにも動物虐待だというので問題になった。R・S・P・C・Aというのはその防止会の略称である。カウボーイの芸は芸のための芸当ではなく、元来は牧畜のための手練なのだから、その手練が非人道的だというのなら、当然ビーフステーキを食うことも、いやミルクを飲むことだって牧畜に関するかぎり非人道的といえるかもしれない、というのでたちまちロンドン中の騒ぎとなった。その結果議会での問題ともなり、最後は法廷の事件とまでなったのだが判決は無罪だったそうである。法律は人間のために存在するのであって動物にまでは及ぼさないという解釈だったのだろう。
 重い荷車をひいてあえぎながら急坂を上って行く牛馬を、無闇にひっぱたく人間はなるほど残酷らしい。しかしそれを責める人が平気で競馬をながめているのはどうしたものか、ゴール寸前の追い込みなどは随分すさまじいものだが、あれについていう人はいない。勝利の栄冠を目前に見ながら、愛馬をいたわって棄権した城戸中佐の佳話が表彰されたそうだが、もしも騎手がそんな真似をしたら最後、ペテンだ、インチキだで馬券連中の大騒ぎになるのはきまっている。
 観護所に放火して少年たちが脱走した。人間だからそれだけの知恵があったので、そこへ行くと動物どもは、と情愛の深い人々は動物園へ行っても泣かれることだろう。
                                   (三・二三)



最終更新日 2005年04月07日 21時24分38秒

高田保『ブラリひょうたん』「誕生日」

 ――私は貧しい。しかし人のもっているものを、一つだけ私ももっている。それは誕生日――だという意味の詩が西洋にあった。
 今日は「三月廿七日」だと括弧(カツコ)をつけてみたところで、だからどうしたと聞き返されるだけだろう。実は私の誕生日なのだ、といってみたところで、ふんそうかいと軽く返事されるだけにきまっている。私みたいな人間が生まれようと生まれまいと、世界の歴史に関わりはないのだから当然である。貧しいものは誕生日だってやはり貧しい。
 スターリンとなれば、今や世界歴史の眼目の一つだろう。だがソ連には天長節がないようである。この前の誕生日のときも、平日通りのクレムリン宮であり、新聞も人民もそれにならって平日通りだった。多分誰彼の産声の日も区別なく一括して共同に人民の誕生日を祝う方が正しいというのであろう。なるほど共産主義とあるからにはその方が理に適っている。
 がほかの国ではそうではない。お祝いの菓子をつくり、その上に年の数だけのローソクを立て、その灯を主人公が一気に吹き消したところで一言、お祝いに答える挨拶を述べる。
「わしの眼の黒いうちに必ず、フィラデルフィヤ・チームに覇権をとらせてみせる」と米国野球界の大長老コニイ・マックは最近の誕生日のとき挨拶をしたそうだ。そのときの菓子は五十ポンドという大きさだったとある。日本流にいえば来年は米寿に当る彼だ。その上に八十何本のローソクが灯っていたら一寸した壮観だったろうと思うが、そうなるといかにマックでも一気には吹き消せまい。そこで人生五十を過ぎた場合は大概まとめて一本の灯にしてしまうようである。
 祝い祝われるのは人間ばかりではない。先ごろハリウッドでは、デズニイが父親役で愉快な宴会が開かれたそうだ。一九二八年に生まれたのだから今年は芳紀まさに二ならびというところ、ミッキイ・マウスの誕生日である。どんな工合にローソクを吹き消したか、どんな挨拶を述べたかは知らない。
 この日友人知己は何かと祝って贈り物をしてくれる。いま私は私の誕生日に当って「外国の習慣であれ、それがいい事だったら遠慮なく真似るべしだ」ということを私の挨拶としたい。現代作曲界の巨匠ジャン・シベリウスは第八十三回の誕生日を、去年故国フィンランドで迎えたが、今問題の北大西洋(編注臼北大西洋条約締結の会議が開かれていた)を距てたアメリカの知己友人から八十三箱の葉巻を贈られたとのことである。葉巻はわしの主食じゃというのが老人の口ぐせだそうだからどんなに喜ばれたことかと思う。さらにその添え状にいわく「今後生涯あなたに葉巻の苦労はさせぬつもり」断って置くが私の主食は葉巻ではない。(三・二七)



最終更新日 2005年04月07日 21時29分32秒

高田保『ブラリひょうたん』「非日的」

「大胆! 刺激的! ときめく性の神秘公開」というような看板で特別な映画が公開された。それ行けと見物が殺到した。整理ができず遂に消防隊にホースを向けてもらった――日本にありそうな話だがアメリカにもあるとみえる。北カロライナ州の出来事というのを米誌で読んで何となくほっとした。
 何かにつけ日本人はよくない、外国では――としかられるのだが、外国を知らぬ私たちはただ頭を下げるばかりである。例えば劇場にしても初日からきちんと時間通りに開幕。観客にしても定刻に集っていて、途中入場などという不体裁は一人もないといわれれば、恥かしくなるだけのことである。だが今年のオペラ・シーズン、わけても評判だったニューヨーク・メトロポリタンの「オセロ」の初夜は開幕がすこし遅れ、それよりも二十分遅れて現大統領の令嬢、一流音楽家のミス・トルーマンがやって来たなどと聞かされると、何だか一寸わからなくなる。ライフ誌にはその二幕目になって堂々と入場して来た紳士の威容が写真になっていた。それぞれそんなの珍しいからキャメラを向けられたのだ。そこのとこを考えろといわれれば恐縮するより外はないのだが。
 PTAの会合へ出たら、英国あたりではという話が出た。子供の教育に対して親たちが熱心で厳格だから、影響のよろしくない映画館へ勝手に行かせるようなことは致しません。なるほどと感心したのだが、次の事件も近ごろ伝わったニュースである。ロンドン、リアルト劇場、西部活劇映画を上場したところわッと子供たちが入場して、おもちゃのピストルをぶっ放すやらナイフを振り廻すやら、始末に困って支配人が「以後危険なものを事務所へ預けぬヨイコドモはお断り」としたというのである。
 しかし、いくら何でも、レストランの卓上にある灰皿だのコショウ入れだのナプキンだのを記念のためにポケットに入れてしまうことはよもあるまい。とおもっていたら「スーヴェニヤリング」という言葉があちらにもあってと教えてくれた人があった。一例をあげればニューヨークで開業したレストランの灰皿七十枚がその翌日には三十四枚になっていた。これはそこの女主人がレストラン経営の体験を述べた本の中にあることだそうだから、まんざらうそでもないのだろう。こうなるとさて、こっちは妙に力が抜ける。
 こんなことをいうと、議会の乱闘だって、先ごろはイタリヤ議会が派手にやったからともなるかもしれぬ。桑原々々。外国は外国。今度の特別国会こそ「非日的」に静粛、冷静、聡明、上品にやってもらいたい。                     (三・二九)



最終更新日 2005年04月09日 00時52分30秒

高田保『ブラリひょうたん』「賢人愚者」

 もしもソ連の軍勢がやって来たらという仮定で、世界のあちこちが騒いだ。日本でも同じ質問がされたらしい。誰が何と答えたかはどうでもよろしい。
 プロシャの軍勢が侵入して来た。フローベルは苦がい顔をして「野蛮の再来」だといった。彼はクロワッセに住んでいたのだが、その野蛮に触れるのをきらってルウアンに避難した。
「あなたの家にはいま十人ほどのプロシャ士官と兵隊とが住んでいます」という便りを受けてフローベルは、彼等があのイスに腰をかけ、あのテーブルに向っている光景を想像した。何もかも滅茶苦茶にされてしまった! 彼は絶望と憤怒で身をふるわせた。身一つで避難したのだから家具調度一切をそのままにして置いたのである。
 彼にとっては気に入った住居だった。以前はどこかの僧院に属していたもので屋根の低い古風な白い建物、二百年の由緒がこもっている落着いた安息所だった。だからあの「ボワリー夫人」も書上げることができたのだが、それも今は昔の夢と消えてしまったのか! 彼にとっては自分の過去までが一切踏みにじられたような気がしたのである。
 だがやがてプロシャ軍が撤退したので帰って行ってみると、これはまたどうしたことか、どこにも変ったところはない! 野蛮なプロシャ人どもは、わずかに卓上に置いたペンとかナイフとかを動かしただけで、その外は何一つそのままでなかったものはなかったとのことである。
 こうなるとこの勝負、たしかにフローベルの負けとなる。私だったら淡泊に頭を下げて「野蛮」という形容を取消しただろうが、しかし彼はそうではなかった。室中を見廻したあとで彼は次に鼻をくんくんとさせたのだそうだ。そして「やっぱりいかん! 奴等のにおいが染みこんでいる!」
 ある人はそれを彼の潔癖だという。ある人はこれを彼の偏見だという。とにかく彼は家中の部屋という部屋の天井を塗替え、壁を張替え、徹底的の大掃除をやったらしい。しかもなおそれでもにおっていると言いたてて、六ヵ月もの間ペンを執らなかったというのだから凄まじい。
 それでいながら彼は人間の真実を追求する自由人であったのである。いい方を変えれば、自由人であったが故に、そこまで当時のプロシャをにくんだのだとなるのかもしれぬが、何としてもこれは坊主にくけりゃの振舞いである。「賢人も顔の向け方では愚者にみえる」という古い俗言を捨てられない。                    (三・三一)



最終更新日 2005年04月09日 08時46分35秒

高田保『ブラリひょうたん』「私談」

 本紙の「人物採点」に「歯の抜けた青年」として私のことが書いてあったが、私の歯は抜けているのではない。見える所だけが欠けているのである。見えない根元はしっかりしている。その証拠にはビフステーキでもご馳走してみたまえ。はっきり噛んでみせる。
 最初に欠けたのは中学時代だった。キャラメルを噛んだらその中に入った一本がポキリと折れた。キャラメルは溶けたが歯は残った。残ったが、しかし元のところへ接ぐわけにはいかない。人生の失敗というものをその時はじめて私は会得した。
 起ったことはすべて取返しのつかぬものだという悟りが、私の今日までの半生を支配している。歯医者へ行って工作してもらえば人並みの函と見せかけることも出来たが、そんなことは要するにごまかしである。男子たるべきものがなすべき所業ではない。とこう信じたからそれ以後は欠けるに任せた。一見抜けている男とみえても決して抜けているのではないから恥ずるところはない。
 精神の歯が依然として頑丈であるからには、なるほど私も青年だろう。採点者は私に一方ならぬ好意を示したつもりかもしれぬ。だがこれにも抗議を申入れたい。私にはいわゆる客気がない。歯の欠け落ちるに従って野心的な根性が脱落した。この方は文字通りに抜けてしまったのである。その点で私は早くから老成してしまっている。何の功名欲も出世欲もなくなったために今日の私は一介の「ブラリひょうたん」なのである。
 五十にもなって「サンデー毎日」のために「世相寸描」などという一口話を考えているとは――という感慨を採点者にもらしたのは事実だが、それは一口話を大人気ないといったのではない。どうせ私には心血をそそぐべき大事などというものはありっこないのだ。私の理想は全然の無為である。今日まで小金でも貯めて、せめて家賃でも払わぬ身の上になっていたら、書かでもの原稿など一枚だって書かずに済むだろうとの意味なのである。だからこの「ブラリひょうたん」にしても、貧のなせる業であって、止むに止まれずに書く。大文学などというものからは甚だしく遠い。
 とこういったら友人が、今日の時世、貧というのは歯の抜けたのも同然だと笑った。口惜しいからすぐさまに、しかし鈍しては居らぬぞと息張ってみせたら、その息張るところがお若いお若いと冷やかされた。してみるとやっぱり私は「歯の抜けた青年」だとなるわけか。
 愚にもつかぬ私談、たまには許していただきたい。           (四・二)



最終更新日 2005年04月09日 12時21分16秒

高田保『ブラリひょうたん』「緑の週間」

 木を植えましょうの「緑の週間」は爽快でよろしい。「納税週間」などとは雲泥の相違だといったら、税のことをあれこれいうのは危険ですよ、非日的で取締られるそうですと忠告された。思ったことが迂濶(うかつ)にはいえぬ世の中となったら精神の緑化は夢になる。とにかく人をおびえさすのはよろしくない。
 植えた木の根がついて枝葉が繁るまでには相当の月日が必要である。だから信長みたい短兵急な男には緑化運動など向くことではない。がその信長も命じて木を植えさせたことがあった。領内の一里塚にそれぞれ松の木をそびえさせろというのである。早速に実行されたのだが、松というやつは虫がつき易いし延びも遅い。カンシャクを起した信長は「余の木と取代えてしまえ……」と呶鳴った。それを承った家来はすぐさま(えのき)と植代えてしまった。榎にしたのは上方であれをヨノキと発音するからだそうである。
 日陰を作らせるのが目的ならプラタヌスもいいが、銀座が柳でうたわれているように、地区地区で特色のある街路樹を植えたりするようにしたい。合歓木(ねむのき)などどうだろう。中国では馬桜花というそうだが、白糸の房の先を紅色に染めた花には格別の味がある。街路樹は葉のもので花を論ずる考えはないという説があるが、それにこだわるのは公式主義だろう。
 東京にはユリの木の植えられている通りがいくつかある。日比谷公園の横手、お濠端の方と公会堂側とがそれだが、初夏の候になると薄緑色の花をつける。(しん)とその周囲だけが(だいだい)色で、枝についたままだとひどく地味なので気づく人がすくない。しかし折取って一輪差しにでも入れると、いかにも季節らしい感じの清々した美しさである。といって私は折取れとすすめるわけではない。
 江戸時代、墨田の堤には桜の外に、梅、桃、柳、ツツジなどが沢山あって、それに「御用木」と書いた札がついていたそうだ。一枝を切る者は一指を切るの制禁がなければわれ勝ちに花を折取るのが、古往今来日本人の習癖なのかもしれない。折花攀柳などという熟語は外国にはないことだろう。
 梅を植え桜を植えて名所を作った古人はいかにも風流で床しいようだが、水戸の梅はそもそも兵糧用の梅干のためで雅香を愛したからではなかったようだ。墨堤の梅も八代将軍吉宗が植えたときは、花見で人を集めることで堤の土を踏み固めさせるのが目的だったそうである。今度の「緑の週間」にはどんな魂胆があるのか、風流と実益とを一つに併せ得られるような政治をされたらわれわれは幸福である。                (四・三)



最終更新日 2005年04月09日 23時28分35秒

高田保『ブラリひょうたん』「夏時刻」

 時計の針を一時間進めて、出勤時刻を三十分遅らせる。何のことやらわからない。なぜ簡明に出勤を三十分早めるとしたのではいけぬのか。この疑問を常識だとすればサンマー・タイムは非常識となるだろう。常識なら申合せでも済むが、非常識となると法律ででも強制するのでない限り守るものはいない。法の煩わしきは国亡ぶるの基と昔の人はいったそうである。
「ここらあたりは出家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る」というセリフが歌舞伎にある。非常識は人間ばかりのものではない。天然自然の理法も狂うことがある。ここらあたりは都会ゆえ、夏時刻だというに氷雨が降る。外套のえりを深く立て、白い息を吐きながら電車を待っている風景――といいたいが、しかし夏時刻法というのは天然自然の理法に従ったものではあるまい。
 小学校で先生がー「今日からはサンマー・タイムですから、何もかも一時間早くなります」
 生徒が手を上げた――「太陽の上るのもですか?」
 先生は答えた――「いえ、太陽だけは、逆に一時間おくれて出ることになります」
 生徒は当然質問した――「なぜですか?」
 先生は何の苦もなく答えた――「サンマー・タイムだからです」
 時間というものは太陽の運行から割出されたものだ、などというものは古代の観念でしかあるまい。近代の時間はただ時計の針の先にだけある。だから人間が自由にそれを動かすことができる、というのだったら、むしろ、いっそ、一時間遅らせてみたらどんなものだろうか? 朝いつもの如くに床を離れる。しかし今日からは夏時刻だから出勤は一時間おくれてよろしい。ゆっくりした気持で新聞が読める。日ごろは及びもつかなかった社説や外電や学芸欄やにまで丹念に眼が届く。これだけだって大したものではないか!
 昼の時間をできるだけ余計に利用させるための方法だというのだが、どうせ利用させるなら朝の新鮮な時間にした方が効果は多い。まさかに朝っぱらからマージャンやダンスをやる連中はあるまい。一日の勤務を終えての疲労しつくした時間では、どう与えられてもしんみり読書したりする気持にはなれぬのが普通である。針の先の動かし方一つで結果は雲泥に分れる。役人にはゆっくりした時間を与えて世界の勉強をさせねばならぬ、とこれは私の説ではない。荻生徂徠が「政談」の中で述べていることである。彼ならきっと一時間おくれの夏時刻の方を採用したにちがいない。                    (四・五)



最終更新日 2005年04月10日 12時18分34秒

高田保『ブラリひょうたん』「拍手」

 ラジオの中継で吉田総理大臣の施政方針演説を聞いた。切れ目切れ目でさかんな拍手だった。与党二百何十人の上機嫌な顔がみえるようだった。
 しかしその切れ目が、格別拍手したくなるような切れ目ではない。こんなときはそれが盛んなほど間抜けて聞えるものだ。しかも時々突拍子もない時にパチとたたきかけるのがいた。芝居でいうキッカケをトチったのだろう。そんなのを聞くと、拍手するために議席にいるので、演説を聞くためじゃないのかなという気にもなった。当人たちは大いに気勢を添えたつもりだろうが、演出という点からいったらあれでは落第である。
 野球の応援の拍手とは違うのだから、よほど考えぬといけない。すべて効果のあるものは出し惜しみをするほど効果の上るものだが、いい加減のところでは鳴りをひそめてぐっと緊張し、ここぞというところで切って落すと爆発的で強くなる。機械的に切れ目切れ目でやったのではただのオハヤシにしかなりゃしない。与党というものはオハヤシ連中のことではあるまい。
 拍手は一応景気がいい。だから役者なども手が来たといって大いに喜ぶのだが、しかし見識のある本当の役者になると苦がい顔をする。真実深い感動につき落されたら、人間はただ呆然として決して手などたたかぬものだ。だから拍手をさせるのは未だしの芸で、拍手をさせぬのが名人だとなる。それにしても上乗の拍手というものは、ほっとして我に返ってからのものだから、一息つくだけの間がある。決してあんなキッカケを待ってましたというような調子のものではない。
 もしもあの演説が、再建を阻害するもの云々などといわずに先ず、公約実行が不可能になった事情を率直に語り、その不信のそしりを忍んでもなお政局を担当せねばならぬ苦衷(くちゆう)を惻(そくそく)として述べたのだったらどうだったろう。与党が拍手したら可笑しなものになる。この場合拍手するのは当然野党の役になって来る。これが本当の拍手だろうが、これをさせたら吉田総理大臣も政治家だった。
 べートーヴェンは作品発表の会のとき、聴衆に拍手されて非常に不快な顔をした。自分の音楽は人間の魂を沈着させる高級なもので、すぐさま拍手されるほど軽薄な低級のものではないというのだったそうである。今日の政治家にベートーヴェンを求めるのは無理だとおもうが、現在の難局は彼ぐらいの天才でないと切抜けられない。
 近代の名女優デューゼの舞台は、幕が下りた瞬間見物の溜息が一つになって聞えたといわれる。ラジオを聞き終わって私も溜息をついたが、これは同じ性質のものではない。(四・六)



最終更新日 2005年04月10日 12時33分20秒

高田保『ブラリひょうたん』「非当世風」

 今の東京は住宅難どころではない。アパートの六畳一間を借りる権利金が三万円もすると聞いては地獄という方がいい。「借間借家に不都合はないか」というラジオの街頭録音を聞きながら私は自分の幸運をおもった。
 おなじ大磯の町内だがつい最近に私は引越しをしている。借家から借家へと移ったのだが、権利金などはおろか、敷金さえもなかった。いやそれだけではない。借受けの証文さえも取交わさない。相対ずくの口約束だけである。
 特別な因縁からだろうと誰もいうだろうが、そうでない。これが今度の借家ばかりでなく、前の借家のときもそうだったから例外ともいえない。前の借家へは一昨年に越した。大家とはそれまで一度も顔を合わせたこともない全然の他人だったのである。
 ではその大家がひどく金持で、万事鷹揚(おうよう)な長者でもあったのかと聞きたくなるだろうが、そんなわけでもない。前の大家は左官職の老人で今もって仕事に出ている身分なのである。だから決して世間知らずでもない。
 今度の大家はさる未亡人である。埼玉の実家の方へ保養がてらしばらく引込みたいというので家を空けられた。四、五年してまたこちらへもどるときにはお返しするという条件だけついているのだが、これとても口約束だけである。約束だから私は客観的情勢などというものがどう変ろうと守るつもりでいる。政治家の真似などは断じてしない。
 未亡人の引越しトラックが出たあと、私の荷物が運び込まれた。前の借家の大家が人をよんで来て手伝ってくれたのである。こんなところもまた当世風ではないかもしれない。さてその荷物を納めようと押入れをあけると、そこに何やら小さな紙包みが置いてあった。
 未亡人の方で忘れていったものとばかりおもって、わきへ片づけようとすると私の家内あての名刺がはってあるのに気がついた。家内にあけさせてみると、上等な障子紙が一本と、それに未亡人手作りの雑巾が何枚か入っていた。本来ならば障子の破れもつくろい、きれいに掃除した上でお引渡しをするのですが、こちらも引越しのごたごたゆえに、という行届いたしずかなあいさつが聞えるようだった。ああと家内も深い息をして、りっぱなことを教えられましたといった。ここに至ってはいよいよ当世風ではない。
 前の大家は杉秀吉といって、十七のときすでに下職を指図したという名人で生粋の職人である。今度の大家の未亡人は島崎藤村夫人である。これら当世風でない人たちと因縁のつながる間は私も当世風になるわけには行かない。              (四・七)



最終更新日 2005年04月10日 14時33分14秒

高田保『ブラリひょうたん』「思春期」

 流行歌謡なるものには思春期のにおいがあるといったら、レコード会社の人が喜んで、だから私どもの商売はいつまでも繁昌するので、と心得た返事をした。
 流行歌謡をきらうのは勝手だが軽蔑するのはいけない、とプルウストがいっている。あれは音楽よりももっと情熱的にうたわれるもので、だから人間的な感情に充たされているというのである。人閭全盛の時代とみえ、ラジオを聴いているとこの歌謡曲が続出して来る。希望音楽会などというプロでは、音楽などどこかへ消えてしまってこればかりとなっている。こうまで跳梁(ちようりよう)されてはなるほど軽蔑できるものではない。国に盗賊、家にねずみ、そして人には歌謡曲といった調子である。
 音楽と歌謡曲とを区別することに異議のある人もあるかもしれぬが、もう一度プルウストを引合いに出そう。耳のある人間にとっては耳にしたその途端に耳を(ふさ)ぎたくなるような情ない曲が、百万の人たちにとっては生きた霊感なのだと彼はいうのである。これは私も賛成する。早い話がまずあれを歌っている若い男や女の無心無邪気な顔つきを見たまえ。音楽家は音楽では到底あれほどにうつつをぬかすわけにはいかぬものだ。悲しげな文句を、うきうきうっとりした調子で歌い呆ける。霊感とは巧みにいい得たものだ。つまり彼等にとっては音楽以上なのである。
 思春期のにおいがすると私がいったのも実はその点である。動物というものはすべてその期が来ると何となく特別な声を立てるものだ。恋猫とか妻呼鹿とかはその代表的な例だが、日ごろはひどく取澄ましている動物、たとえば孔雀(くじやく)みたいな鳥でさえ遠くの汽車の汽笛みたいな奇妙な声をたてる。千年万年何の感動もしそうもないような泥亀でさえが()きたてる朴訥(ぼくとつ)仁に近い面つきの駱駝(らくだ)に至っては口の両側から妙な膜みたいなものを垂らしてうなりをたてる。人間にとってはどれもただうるさいだけのものが彼等にとっては生きた霊感なのだろう。つまり彼等の歌謡曲というわけである。といったらすぐ、では(うぐいす)はどうだ、松虫鈴虫はどうだとやられた。てんでにホーホケキョのつもり、チンチロリンのつもりで歌っているのだろう。なるほどノド自慢大会なるものが行われるはずでもある。
 だがあの大会よりもずっと歌謡曲らしい歌謡曲をラジオで聴かせてくれたことがある。あの集団見合の実況中継だったが、一人の青年が大声で喚くように歌っていた。最初は多分気取っていたのだろうが、寄り添って来る相手が出て来なかったので段々夢中になり、やがて悲痛なやけくそになったのだろう。とにかく思春期というものがそうであるように、歌謡曲にも愛すべきユーモアが充ちている。               (四・八)



最終更新日 2005年04月10日 17時03分04秒

高田保『ブラリひょうたん』「欲を出させる」

 苗半作、といっても都会の人には耳遠いだろう。農作の出来、不出来は苗の仕立て方ですでに大半決定してしまうのだそうだ。たからその前に種選みという吟味をする。
 新学年開始。新入学の子供たちがいそいそ学校へ行っている。いわば人生の種播きだが、義務教育の小学校だから種選みなどということは許されない。どんなに悪いのでも引受けて、ちゃんと芽を出させてやらねばならぬ。この仕立て方一つで、社会人としての出来、不出来の大半が決定されるのだから、随分と貢任の重い苦労な仕事である。
 新入生の場合、何が一番苦労かと先生にきいてみた。すると永年の経験のある練達の先生が、子供に欲を持たせることですと答えた。もちろん勉強の欲のことである。
 水戸藩に小原弥平左衛門という宝蔵院流の槍の名人がいた。武芸なら何でもと自負した男で、だから隠居しても武斎と号した。杖をつくほどの老人になってからのこと、ある日急坂を登って行くと上から大材木が転げ落ちて来た。道一杯の大きさだったので傍へ逃げるわけにいかない。さすがの老人もと見ているとさに非ず、いきなり片膝を折敷いて、持ったる杖をなぞえに振りかぶった。大材木はその上を転げて向うへ落ち、老人はけろりと立上って平気で歩き出したという話がある位だから、武斎というだけのことはあったのだろう。
 だが武斎だっただけに文才はない。武欲はあったが文欲はない。ご奉公は武芸で十分、手習学問などはなくとも不覚はとらぬと澄ましきっていた。ところがある日、ある人から、
 「もしも何かの事情で誰からか、討果すゆえ在宅しろとの手紙が来たらどうするか。それが読めずに他出でもしていたら不覚になるだろうではないか」
 とやられてウムとうなった。成程、ではその「討果」という二字だけ教えてくれ。そう頼んでそれを覚えこんだ。これでよしと安心していると、
 「だが、その二字ではまだ足りまい。もしかすると誰かを討果したという知らせ状かもしれぬ。それを自分への果し状のように読んで気張っていたらいい笑いものになる」
 いわれてまた、成程とうなずいた。そこで武斎はその外の字も教わることにし遂には万事の用が済むようになったのだそうである。これが欲というものだろう。
 教わった武斎よりも、教わろうという欲を出させた人の方が偉い。がこの偉い方の人の名は伝わっていない。                         (四・一〇)



最終更新日 2005年04月10日 18時45分44秒

高田保『ブラリひょうたん』「母の話」「ふたたび母の話」

 華道というからには中に立派な精神がこもっているべきだろう。が現代の華道について私は知らない。すでに八十を越した母から昔の活花については聞いたことがある。
 活花には本来、形というものがない。形はそれが置かれた場所によって生まれるものだといつのである。天地人とか真行草とかのやかましい約束があるのだから、形式主義的なものかとおもっていたら大きに間違いらしい。さらにまた、活花がお客の眼に残るようではだめだというのである。
 床の間へ飾る。床の間の主人は何といっても掛軸である。花はそれを引立たせるためにあるのだから、掛軸が生きて花が消えるようにする。これが働きだと昔は教えられたものだというのである。だから何を活けるかも掛軸次第、たとえば牡丹(ぼたん)の画軸のときに芍薬(しやくやく)を活けたりしたら笑われる。不即にして不離。もしも松柏何とかにして濃しというような画軸だったら、しずかな水仙などつつましく活けるといった調子である。その形も相手が横物だったりしたらそれに相応させる工夫が大切となる等々、いわれてみれば成程形がないという意味がわかる。
 内助の功というようなことをいえば、折柄に「婦人週間」だし、時代おくれの封建主義といわれるかもしれぬが、昔の華道が女性のたしなみとされたのは、一種の人生教育だったのだろう。主人よりも細君の方が先に立って目につくような家庭は賞められなかった。これが昔である。
 今は華道そのものも芸術だなどと、大いにそれ自身の存在を強調するような傾向になっているらしい。どこへ置かれるかによって形を変えるかもしれぬが、それはあくまでも花そのものを目につかせようとするものであるらしい。これは多分、解放された近代女性が、いかなる場合にも自我を主張しようとする傾向に同調させたのかもしれない。
 アメリカの家庭生活について私は何も知るところはないが、漫画の中でみる夫人たちはブロンディといいマギイといい、奔放な自由な生きのいい暮し方をしている。多分日本の女性たちはいま彼女のごとくに在りたいと念願しているのだろう。どこへ置かれようとも本来の自我をすこしもゆがめられずに墓場まで持って行く! 彼女たちは幸福であるに相違ない。そしてそのときわれわれ男性は、あのダグウッドとなり、あのジグスとなる!
 昔の華道を復活させるものがあったら、それはきっとわれわれ男性だろう。現に私の知っている新家庭の二、三では、いずれも男の方が相手に順応して別人のごとく変えられてしまっている。                              (四・一二)


ふたたび母の話
 母の聞いた昔の活花の話を、もう一つ続ける。
 花は出来上りの一歩手前で活けなければならなかったのだそうである。活けた時に全部出来上っていたら、その時から花は崩れてしまう。出来上りの余地を残して、あとは花自身に任せて出来上らせる。明日の午後に客を迎えるための花だったら、丁度その時刻に出来上って、絶頂の勢いにあるように活けなければならぬ。そのためには問の抜けたすき間を花のために作って置いてやらなければいけない。
 これはしかし容易なことではあるまい。無責任な突放しでは覚束(おぽつか)ない。藤なら藤、牡丹なら牡丹、花の伸び咲く速度の計算が必要となる。この計算のためには日ごろから自然観察をして概かねばならぬ。こうなると活花は花や枝の単なる編集ではないことになる。大げさないい方をすれば、自然の生命と活け手の呼吸とを合致させることだともなるだろう。こうなるとたかが活花などといい切れたことではない。
 事実母の活けた花は、当座物足りなく、しかし翌日あたりになれば形を整えて勢いがつよくなったものだった。小さなつぼみだったものが枝頭一点の光彩となったときにそれが全体へのアクサンとなり、ぐっと引緊って成程と合点せられたことが多い。しかし未来に対する計算とか用意とかいうものは、性急な、あまりに性急な現代ではおそらく不必要とされるだろう。何事も即座主義の世の中では通用する活け方でないに違ない。
 あとは花に任せる。だから母は自分で活けた花をいかにも楽しそうに自分でながめたものだった。任せたかぎりにはもう自分の活花ではないとして、その成行きを楽しむのは謙虚な精神である。この謙虚さのゆえにその楽しみは天真の清潔なものといって、さらに奥深く楽しめるというわけなのだろう。しかしこんなことももはや現代では歓迎されぬだろう。
 こうして活けた花がやがて絶頂を極める。それからは勢いが衰える順だが、その衰えを見せはじめると母は何の躊躇(ちゆうちよ)もなく取捨てるのだった。私などの眼からみるとまだ鑑賞に堪えるものなのである。しかし母はそのたびに、衰えを人の目にさらさせるのは情なしだといった。これも活花の心得として教えられたのだそうである。
 何もかも現代には不向きな母の時代の華道の中で、あるいはこの最後のものだけが喝采されるかもしれない。政府の公約でさえ風向き次第でさっさと取捨てられてしまうのである。思いきりのよさは似ているのだが、しかしこれくらい似ないものもないかもしれぬ。
                                   (四・一三)



最終更新日 2005年04月11日 23時40分41秒

高田保『ブラリひょうたん』「ひょうたん話」

 首斬り――とはいやな言葉だ。漢字制限よりも言い廻し制限を考えてくれた方がいゝとおもう。
 首を斬ったり継いだり、自由にできたら結構だろう。中国の昔の道術ではやれたことになっている。アイヤお立合い、と大道に立って杜七聖という男がやっていた。自分の子供を連れて来て斬り落してみせる。布切れを掛けて何やら文句を唱え、護符で撫で廻してからそれをとると、ちゃんと(もと)通りとなっている。やんややんや、今の日本へやって来たら歓迎されるだろう。護符を売るのが商売だったらしい。
 ところがこの商売を邪魔したいたずら者があった。子供の首がちょん斬られるのをみると、そっとその魂を引抜いてしまったのだそうである。これも道術なのだが、そのため杜七聖の護符が利かなくなってしまった。はっと勢いよく布切れを取ったが子供の首は継がっていない。これは失敗ともう一度やってみたがまただめだ。そこではじめていたずら者に気がついた。
 一応見物たちにあやまりながら杜七聖は、紙に包んだ何やらの種子を取出した。地面にまいて文句を唱え、護符をひらひらさせると、芽が出て葉が出て(つる)が出た。急げ急げと呶鳴ると、花が開いて実がなった。ひょうたんが一つできたのだそうである。
 さてそのひょうたんを取上げて、邪魔したこいつめ! 子供を返さなかったら貴様を殺すぞ! と杜七聖は刀を抜いて、ざくりその二つふくらんだくびれのところへ切りつけた。斬り落とされた方がころころと転がった。
 いたずら者は弾子和尚というのだそうだが、そのとき傍のソバ屋の店へ上ってソバを食いかけていた。途端に和尚の首がころころ床へ落ちて転げた。まわりの客はあっと驚く。しかし和尚は落着いたもので、どこへ転げたかと見廻した――というのだが、首の無い人間がどんなかっこうをしたのか、これは想像ができ兼ねる。
 とにかく和尚はそれを見つけた。耳たぶをもって捨い上げ、きちんと旧通り胴体に乗せると、ああそうだったか、うっかりソバに気を取られてこいつを返すのを忘れていた、と言いながら傍に伏せて置いた皿を上に向けた。
 その皿の下に子供の魂が伏せられていたわけなのである。途端に杜七聖の子供の首は継がってけろりとした。万事解決めでたしめでたしである。
 ある人が来て、家庭菜園の春播き、何がいゝかというからひょうたんをすゝめた。首を斬られたときに何か役立つだろう。すくなくともそれを両断すれば、むしゃくしゃ腹の慰めぐらいにはなる。                       (四・一七)



最終更新日 2005年04月12日 00時19分08秒

高田保『ブラリひょうたん』「署名」

 社会党が左右両派で争った。社会主義政党として真贋(しんがん)を決めようとしたのだろう。鑑定の結果は双方とも納得のいかぬ節があったらしいが、どっちにしても社会党は社会党というような妙な結論でケリがついてしまったらしい。
 真贋というものは微妙である。ある人が大観の作品を携えて箱書を頼みにいった。すると贋作だといわれて仰天した。画商から買ったりしたものでなく、何年か前のこと直接に依頼して描いてもらったものだからである。すると先生が贋作をお描きになったことになりますな、とその人はいった。大観は苦笑して新しく描いたのと取換えてそれを破り捨てさせてもらった。伝聞の話だからこの真偽は直接その人に聞いてみないとわからない。
 古い雑誌などをめくっていると、自分の名のついた文章を発見する。がどうにも書いた記憶のない場合は私ごときには再々ある。それが立派な文章ならうれしいが、ろくでもないものの場合は恥かしくなる。画家が自作を贋作という場合は十分あり得ることだろう。身すぎ世すぎに描きなぐったものなど一々覚えていられるものであるまい。
 小出楢重がある日心斎橋筋を歩いた。絵筆絵具を扱う文房具屋があるが、その前へ来ると飾窓に油画の小品が出ているのに気づいた。みると「小出楢重先生御作」と麗々しく書出してあった。この場合は作者にちゃんと記憶があったというのだから贋作だと澄ましてしまうわけにはいかない。画家からいえば昔もずっとの画学生時代の作で、到底人中へなど出せぬものだとあるのだが、今は他人の所有になっているのだから苦情もいえない。そのときは逃げるようにその場から駆け出してしまったのだが、以来画伯は心斎橋筋を通ることができなくなった。あれこれ考えた末に新作の立派なのを持って行って取換えてもらったそうである。彼の友人の黒田画伯が随筆に書いている話だから本当に違いない。
 ルオー翁が先ごろ何百点かの自作を灰にしてしまった話。あれは翁としてはみんな贋作におもえたからであろう。出来上った後も修正に修正、補筆に補筆、なかなか署名せぬルオーというのは有名だが、署名する限りには真作だといえる誠実は本当の芸術家でなければ持てぬことである。レムブラントの工房などは一種の工場で、弟子たちが師匠の指図で下を描き、最後の仕上げだけをしたものに署名して平気だったそうだ。しかし署名する限りには、わが名を冠るすに足るものとして十分その出来栄えに責任を持っていたのである。「社会党」というのは、政治における署名の筈である。               (四・一九)



最終更新日 2005年04月12日 02時02分08秒

高田保『ブラリひょうたん』「腕力」

 後楽園で三原監督が筒井選手を殴った。折よくそれを観て来た友人が、理非はともかく面白かったよと笑った。野蛮かもしれぬがこんなことも一つのスペクタクルではある。
 スポーツは腕力的なものである。原始の人間はいざこざの場合腕力で決定したに違いない。その名残りがスポーツだといった人がある。がさすがに人間の文明で、その腕力がすべて一定のルールの中へ収められてしまっている。
 戦争も腕力的であろう。これにも国際法などというものがあるが、しかしスポーツほどにルールは完全していない。原子爆弾についての論議はそれについてのルールを設定しようというのだろうが、戦争をスポーッ化するまでの人間文化はまだ出来上っていない。
 強いものが勝つ。経文でみると釈迦でさえが腕力で夫人をとったことになっている。大勢の求婚者の中に立ち交って腕力くらべをした結果なのである。
 悉達多太子だった頃、彼がちっとも浮き浮きした顔を見せぬので父王が心配した。何とかして快活な青年にしてやりたい。すると家来がいった。天下一の美人をお迎えするに限ります。成程というので探すことになった。
 父王支配の小国の王女で評判の美人があった。それというので早速に交渉をしたのだが、評判だっただけに申込みが多い、不公平な決め方をすればどんな事が起るかわからない。王女の父なる小国王は当惑した。そこで公平を期するために、一日城門の広場で腕力コンクールを開くことにした。
 腕力となると高貴も卑賤もない。悉多太子に果たして分があるかどうか、今度は父王の方で浮き浮きできなかった。が太子は笑って出場したのだそうである。さて勇士は雲の如くに集まった。と一人の勇士が城門の真中に突立っていた大象をいきなり殴り(たお)してしまった。すると次の勇士が仆れたそれをぽいと道のわきへ取捨ててしまった。それを見た太子はそれを城門の外へ軽く投げ出してやった。すると象は元の通りに生き返ってのこのこ歩き出したそうである。
 これで太子の勝となったのではない。集まった五百人もが角力をとり合った。最初に象を殴り仆した勇士には敵うものがないらしくみえたが、象を取捨てた勇士が次に出て負かしてしまった。そこでその勇士と太子とが取組むことになったのだが、見合うなり、君は須弥のごとくわれは芥子のごとしといって戦わずに向うが棄権したのだそうである。
 腕力をつかわぬためには、相手に棄権させるだけの腕力が必要らしい。
                                   (四・一二)



最終更新日 2005年04月12日 09時05分40秒

高田保『ブラリひょうたん』「外観」

 女性のニュールックばかり笑ったのでぱ公平でない。有楽町や銀座、近ごろ際立って男のオシャレが目立つ。ボールドルックというのだそうだ。
 大胆とか勇敢とかいう意味ではあるが、ボールドといえば鉄面皮という訳もつけられる筈だ。配給物さえ受取れずに母子心中をしたとの記事が新聞にあった。敗戦未整理、しかもいよ/\九原則だという矢先を、新調春服で風を切って歩ける無神経、これではルックではない。なるほど中身までボールドだと言いたくなる。
 外観に苦労する愚。だがこれが人間かもしれない。チョコレートは容箱が立派なものだ。箱のためにチョコがあるのか、チョコのために箱があるのかわからぬ場合があるが、英雄などといっても実は、生涯をチョコレートの箱にして終わったのも多い。虚勢に終始して実は平凡な中身だったのである。ナポレオンが自分用のイスを高くして置いたことは有名である。
 形而上を問題にしている哲人はしかし形而下のことなど何とも思わぬ、というがこれも嘘である。ニイチェがあるときある女にひそかに恋をした。彼女に会うために彼は服を新調した。仕立屋は期日通りにそれを持って来たが、ニイチェの方で金ができていなかった。仕立屋はそのまま持って帰ってしまった。わが哲学者はそのため折角の恋人と会うのをあきらめてしまった。
 外観は他人を支配するとなれば、それをどうするかも政治であるといえる。グラント将軍は市民の平服を着て葉巻をくわえて中国を旅行した。「アメリカ皇帝」を期待して彼をながめに出た中国平民はぼんやりさせられてしまった。とスミスの中国紹介書に出ている。東洋人に対するこのグラント式は、結局軽蔑を招いただけに過ぎなかったといっている。
 提督ペルリはおなじアメリカ人ながらこの点を心得ていた。幕府の使節との応対でも軽々しく引見はしなかった。将軍同様に奥まった処にいて、部下の取次ぎを通して意見を伝えた。上陸の際にも威風堂々、公式礼装をさせた儀仗兵を従え、行列をつくって出た。
 明治初年岩倉卿の海外行のときまずアメリカで見せたのは、束帯に(しやく)を持った礼装であったが、相手がアメリカであったのは彼等の不幸である。折角外観に威容を見せた積もりだったのに、不発弾の愛嬌となってしまったのである。そこで大西洋を越えてロンドンに渡ったときには、大急ぎで彼地風の金モール大礼服を仕立てさせ着用したとある。それがその後のあの服の基準になったので、だからあの唐草風の模様などでたらめなのだそうだが、ともかくこれは、日本のルックが外国のルックに見事屈服した最初である。    (四・二三)



最終更新日 2005年04月12日 23時44分10秒

高田保『ブラリひょうたん』「穿鑿心持」

 吉田首相も委員会あたりで、なかなかユーモラスな答弁をしたりして上機嫌らしいが、相手が共産党だとがらりと変ってかみつく、と新聞に出ていた。きらいなものはどこまでもきらいとみえる。
 さて――彼等は取調べられている間ですら、取調べの係官に宣伝をしようとするから、この段くれ/゛\も警戒せよ。――彼等の言に対し不用意な反駁などしてうっかり議論に陥るな。議論は彼等の待ってましたである。議論の結果こっちが負けたように人々から見られたら大変なことになる。できるだけ彼等の説が邪悪であると人々におもいこませるようにせねばならぬ。――外の事件では随分腕利きの係官でも、彼等を相手にすれば何が何だかわからなくなって、へどもどさせられろ場合がある。注意肝要。
 まだあるのだが、これは決して特高警察のころの取調べ要綱ではない。寛永の昔、キリシタン弾圧のための「穿鑿心持」という文書から抄意したものである。
 キリシタンを弾圧した将軍家光は、どんなに上機嫌のときでも、キリシタンという一言を聞くと、ぴりりと青筋を立てたものだそうだ。よっぽどきらいだったものとみえる。理論で反対するのだと人間はそうまで簡明にはいかぬものだ。感情だから率直に出られるのである。
「穿鑿心持」は、当時の宗門改め役の井上筑後守の残したものだが、彼は初任のとき四千石、後に一万三千石になった。手腕もあっただろうが、親分のきらうものを処理する子分というものはいつも親任されるものである。
 キリシタンの方も、理論で入ったものより感情で入ったものの方が強い。はじめは荒っぽい拷問で弾圧したが、後には反対の方法もとった。頑固なキリシタンを独房に閉じこめ、やがて女を一人差入れる。やがてせまいながらも楽しい我家というようなことになる。デウスなんぞはもうどうでもよしとなる。この間の消息なぞ、当世の流行好色文学作家に書かせたらどんなものだろう。
 シシリイ生まれでコウロという名の男、一緒にさせられた女はある死刑囚の残した女房だった。改めて正式に夫婦となって、今度はその死刑囚の残していった名前をもらって日本人になった。「ころび」の頭目岡本三右衛門というのはそれである。
 キリシタンの頭目たちを一方に、柳生但馬守と沢庵とを一方にして座談会みたいなことをさせたこともあったそうだが、これは何の効果もなかったらしい。しかし自由党と共産党の幹部をつき合せたみたいで、傍で聞いていたらそのチグバグぶりが面白かったろう。残念なことにそのころのことだから、この座談会速記は残されていない。     (四・二七)



最終更新日 2005年04月12日 23時48分24秒

高田保『ブラリひょうたん』「浮浪者」

 三百六十円とレートがきまったからにはと、日本人は貿易ということを買うことだけで考えている。アメリカの古着は安いそうだ。ウールのスーツが一ドル半、男物の外套だって三ドル足らず、安銘仙一反買ったって三千円からするのに、としきりに胸算用をやっている。古着も海を渡れば晴着になる。
 ラジオの「社会の窓」だったか、上野池の端や名古屋納屋橋下の居住者の声を放送していた。どっちもの人たちが、働きに出たくともこの服装では相手にしてもらえぬと嘆いていた。この人たちにとっては服装が資本ということになる。
 ある人がある仕事のために人を求めた。広告を見て集まった中にぽろぽろの服装をした浮浪者がいた。テストをしてみると相当の教養もあり、気転も利き、立派に役立つとはおもうのだが、何としてもそのぽろぽろでは仕方がない。
 広告主はその浮浪者に十ドルの紙幣を渡した。――断って置くが、これは日本の話ではない。――「とにかくこれで服装を調えて来たまえ」浮浪者は喜んで出て行ったそうだ。が広告主はその後ろ姿を見送った途端に後悔したそうである。ここは名にし負う上海ではないか。相手は浮浪者、十ドルの金を手にした限りはもう二度ともどって来っこありゃしない!
 ところがこれが大きに違っていた。何時間かすると、古着ながらとにかく身に合ったのをきちんとつけ、新しいシャツにネクタイを締め、もちろん頭もさっぱりと調髪し、その上に各国の大ホテルのラベルをはったスーツケースまでぶら下げた紳士がやって来た。最前の浮浪者だったわけである。こうなれば資格満点、もちろん彼は採用されたのだが、仕事をさせてもちっとも浮浪者的なところは残っていなかった。となると浮浪者だったのはあのぽろぽろの服装だけだとなる。
 浮浪者救済は現代日本の大きな問題だが、もしもアメリカ古着がうわさ通り安く買えるものなら、まず彼等に服装を整えさせることはどうだろう。まず資本を与えよである。
 上海でのその広告主というのは、アドヴァタイザー記者として東京にもいたことのあるカール・ロー氏である。氏はその後、十五人の浮浪者と面会して、同様に十ドルずつを渡してみたそうだ。その結果は六人がもどって来て、九人がそれきりだったというのだが、こんな簡単なことで四十パーセントが立ち直れたら大したものである。
 もっともそのころの上海は、きちんとした服装で就職中のものさえ、大量に首斬られようとしている現代日本とは、事情が大分違っていたかも知れない。      (四・三〇)



最終更新日 2005年04月13日 01時06分52秒

高田保『ブラリひょうたん』「五月一日」

 芽が出るというのはうれしいことである。芽出たい、といって祝う。――メーデーとは何のことかと聞かれて、あの通りどこもここも芽が出たじゃないかと笑ったら、なるほどと合点されたのには弱った。ばかなことはいうものではない。
 新居に移ったばかり、庭のあちこちに何やら芽を出すのをみつけても、葉にならぬ間はそれが何やらわからない。近ごろになってやっと、これは芍薬だったか、擬宝珠だったか、萩だったかと次々にわかって来た。新世界が開ける感じでまことに愉快である。
 さて、どこの庭にもある木だが、八ツ手の葉を見ながらマルクスを思い出した。妙な連想だが理由はある。あの「共産党宣言」発表のときマルクスの朗読は、極めて立派ではあったそうだが、発音がすこしなまっていたのだそうである。そのため「労働者」というドイツ語が八つの葉と聞えた。「万国の八つの葉団結せよ!」何のことだかこれではわからない。が朗読が終わると力強い拍手が起った。わからなかった連中も、それとばかりに力強く拍手したというのである。何か諷刺じみた作り話のようだが、リープクネヒトが書き残していることだから決してデマではないだろう。
 話がわからんのに喝采する奴は衆愚だ、とののしりたくなる人もあるかもしれぬが、人間は相手を信頼するともう、そのいうことなんぞはどうでもよくなるのである。付和雷同は卑むべしというが、政党などというものは雷同なしにうまく行くものではない。つまりは白紙委任状を渡したことであって、先発の旗振りによって進むから、行列だって異状なしに行進できるものである。
 私もメーデーを観たことがあった。中央の祭壇でだれやらが何やらと呶鳴っていたが、拡声器がちゃちなためにちっとも聴きとれない。でその辺の一同はしきりに雑談をし合っていたのだが、やがて壇上の手があがると、キッカケで万雷の拍手。――がこれはこれでよろしいのである。メーデーは御祭礼であって、会議でもなければ研究会でもない。
 お祭り騒ぎという言葉にはどこか非難がましい響きがありそうだが、お祭りに騒ぎはつきものだろう。おみこしはやっぱり威勢よく元気に(かつ)いでくれた方がいい。明るく楽しいお祭り騒ぎなればこそ、赤旗の氏子でないものも今日はメーデーだと浮き/\するのである。
 だが田舎町の隅っこに引っこんでいる私には、ただの五月一日である。
                                 (二四・五・一)



最終更新日 2005年04月13日 23時05分24秒

高田保『ブラリひょうたん』「旧憲法」

 明治神宮絵画館に納められた「憲法審議会の図」の中の明治天皇は、ネクタイをつけて背広姿だった。臣民と同じ服装だったことは珍しい。私たちがいつも見せられていたのは大元帥の軍服姿だった。
 御真影は八方にらみをしていなさる、と小学校のころに教えられた。なるほど右から見ても左から見ても厳然とこっちをにらんでいるかにみえる。貴いお方だからと私たちは感心したものだった。いうまでもなくこれは撮影のときに、レンズの中をにらんでいられたからなのだろうが、果たしてその効果を意識してそうされたのかどうか、側近の誰かの知恵だとしたらなか/\賢明である。
 明治十二年グラント将軍来訪、天皇は浜離宮で対談されたが、題目はまず議会開設についてだったそうだ。意見を求められて将車は代議政治が進歩的なのはいうまでもない。君主国家であってもその方が繁栄の基となるのは明白だろう。しかし問題は時期にある。今直ぐでいいかどうかは貴国の実情を詳しく知ってからでなければ述べられぬが、権利を国民に与えたら最後二度と取りもどせるものではない。だから漸進をよしとする。ことに最初から議会に立法権を与えたりするのは危険である、と答えた。
 このときの将軍の方は市民的なフロックコートだったが、天皇の方は軍服だった。将軍随行の人の手記によると「肋骨をつけただけの略装」となっているが、共和国からの賓客を迎えるのに(いか)めしい正装でもとおもわれたのかもしれない。それにしても軍服だったところに明治日本があったともいえる。
 それから十年後に憲法が制定されたわけだが、その最初の草案には「帝国議会ハ政府ノ提出スル議案ヲ議決ス」とだけにしてあって立法権にまで及んでいなかった。グラント将軍の意見が影響していたものかどうかはしらない。「及ビ法律案ヲ提出スルコトヲ得」とつけ加えられたのは、三考四審の吟味を加えられた末のことだったのだそうである。
 明治二十二年二月十一日、めでたく最初の憲法は発布された。宮中に集まった文武百官、いずれも金ピカの大礼服を着けて新日本の威儀を正していたのだが、その中に一点、これまた何と! 古代日本の象徴たるあの「チョンマゲ」をちょこんと載せて席に(つらな)っていた人があった。薩摩の島津公だったということである。
 このとき、式場の外では文部大臣森有礼が殺されていた。        (五・三)



最終更新日 2005年04月14日 00時43分59秒

高田保『ブラリひょうたん』「若芽の雨」

 モウパッサンはパッシイの養老院の庭で、小石をばらばら花壇に投げつけていったそうだ。
「来年の春になって雨が降ったら、こいつがみんな芽を出して、小さなモウパッサンが生えるんだ……」
 こんな話をすると誰もが一応面白がる。モウパッサンの文学などに何の関心を持たぬ連中でも面白がる。ゴシップの興昧というやつだろう。
 それにしても君は実につまらんことを知っているね、と皮肉な友人はしばらくしてこういう。僕はそこで答える。そうだよ。僕はまったくつまらんことしか知っていない!
 僕はピカソについてなど本筋のことは何にも知ってやしない。原色版以外の彼の絵など一枚だって見たこともないといってもいい位のものだ。しかし彼がちっとも本を読んでいないことは知っている。彼と何年間か同棲した女が、彼の読書している姿なんて一度も見たことがなかったといっているからだ。
 そういえば、ドビッシイも読書をしなかったそうだ。とすぐ私は続けたくなる。がこの偉大なる近代作曲家についても、私はほんの些細な知識だって持っていはしない。
 大雅堂のやつは学問をしなかったから、晩年の絵は駄目になった、と鉄斎が批評したそうだ。そこへいくとわが輩などはというつもりだったのかもしれない。とこう話を並ぺて行くと、どうやら芸術家についての知性と感性の問題に触れそうな工合にもなる。ここでその通りに展開すれば私もえらいのだが、そこまで深入りすると底がみえる。己れを知っているからひらり体をかわして外の話へうつる。
 こういう私ごとき人物は軽薄きわまるものであって、当然心ある方々からは排斥されるべきに違いない。私としても同感である。私はペンを取上げて、今日こそは堂々たる、内容たっぷりな、いかにも瞑想的で憂鬱な文章を書こうとおもい立った。すわり直して眉をしかめ、さてしずかに窓前に目をやると五月の雨が降っている。すると途端に「モウパッサンは」と出てしまったのである。やりきれない。馬鹿は死ななきゃ治らない。
 モウパッサンの小石が果たして芽を出したかどうかは知らない。私は私のような馬鹿がこの世にあることを軽蔑したいから、小石を()くようなことはしない。窓前の雨はしとしとと降っている。若芽を濡らした明るい雨、眺めているといつか何もかも忘れてしまった。何もかも忘れた中でまた一つ つまらぬことを思い出した。それはソフォクレスのだという言葉――「一生を馬鹿で過ごせたらこんな幸福はない」。            (五・六)



最終更新日 2005年04月17日 00時46分53秒

高田保『ブラリひょうたん』「しゃぼん」

 法隆寺が焼けてからの七十五日はとうに過ぎ去ってしまっていた。百円札を手にしても誰も何とも言い出さぬ。国宝という扱いは結局がお世辞みたいなものらしい。
 正倉院の宝物の中に「しゃぼん長持」というのがあるそうだ。入っているのは近世のシヤボンとはどうも違うらしいというのだが、人間の気持を洗い流してやりたいものだと、あの仏たちはおもっているだろう。
 天平の美人たちが体中を真白な泡だらけにしている図など、一寸想像してみるのも悪くないが、シャボンとは違うと島ってみれば、花下しゃぼん玉を吹くの姿でもおもい浮べる方が無難かもしれない。何としてもあの時代のしゃぼんとは奇妙である。
 しゃぼん玉ははじめ真ん円いが、やがて大きくなり風に吹かれてふわふわ飛びたつと(ゆが)んでイビツなものになる。人間またかくの如しと、説教好きの馬琴が講釈している。子供の間は性質善良なのだが、大人になって浮世の風に吹かれるとイビツになり易い。
 何の気もなくこんな話をしたら、政党またその通りと言下に応じた人があった。結党の際は主義綱領まことに明白だったのだが、最近は左右相争ってすっかりイビツになってしまったと、これは多分社会党のことなのだろう。
 折角の社会主義が妙なものになってしまっている。もとの白地にして返せと勤労階級は請求している。左右両派はそれで大いに泡を吹き合ったらしいが、どこまで洗濯ができたかはしらない。洗濯を昔は洗濁と書いたものだそうだ。シャボンの泡だったら幾分(にご)りもとれただろうが。
 肉体の濁りはシャボンで落ちるが、魂のとなるとそう簡単にはいかない。古代の人も知っていたとみえ、たとい曹達(ソーダ)をつかい灰汁を加えて洗っても悪は落ちぬ汚れだとエホバは言い給うた、と聖書の中に誌してある。
 ある牧師の娘が、学校の休暇中に船で小さな旅行をした。帰りの船中備えつけのシャボンを持って帰って来てしまった。小さいものながらもそれは盗みだというので、父親の牧師は早速に詫び状を添えてそれを船会社へ送り返した。そして娘に次のように命令したという話がある。
「以後六ヵ月間、シャボンを使うことをお止めなさい。でなければおまえの汚れは浄められません」
 口先のあわではなく、良心にあわを吹かせることだろう。もしかして正倉院のしゃぼんがその効用をもっていたら、たしかに宝物である。             (五・七)



最終更新日 2005年04月17日 00時49分03秒

高田保『ブラリひょうたん』「珍説」

 一躍して十何倍かの議席を占領したことだし、今度の国会では共産党がさぞ暴れるだろう、とおもっていたのにと不満そうにいった人があった。
 強すぎる酒には水を入れるのがいい、あんな穏健なとおもわれる人が近ごろしきりに入党するが、あれもあの党の度ぎつさを薄めるのには役立つだろう、自他ともに結構な話さといった人があった。
 他党への思惑など一切なく、尻目にかけて傍若無人の形でやるのが共産党の面目のようにおもわれているらしいが、見る人によってこれは喝釆もされ、排斥もされることだろう。
 かつての日本軍部は傍若無人に満洲へ進出した。諸外国を尻目にかけて錦州占領となったとき、しかし喝釆したのは日本人だけで、世界中はすぐさま排斥した。そんなことから出来上った満洲国が承認されなかったのは当然だったろう。
 ところが当時東洋駐在のアメリカ外交官の中で、珍説を立てた人があったそうだ。血迷っている日本軍へいかに通牒を出して抗議したところで始まりはしない。こうなったらいっそ真っ先に満洲国を承認してしまったらどうか?
 公使館どころか堂々と大使館を置く、優秀な外交官をその大使にし、できるだけ沢山の館員を駐在させる。やがて外の国々も真似するだろう。その結果すばらしい外交団が出来上ることになる。それを相手にして日本軍人どもがアタフタしはじめる。
 この喜劇を満洲国に公開する。日常の生活、礼儀、文化、その他もろもろについて日本人とわれわれ欧米人を比較させる。その結果は満洲国をしていかなる道をとるべきかを教えるだろう。満洲国人自身をして冷静にその判断をさせればよろしい。
 そのころ日本を訪問していたユーモリストのウィル・ロージャースは、この説を聞くと手を拍って喜んだそうだ。「名案だ! その初代大使としては僕が赴任する。満洲独立の歴史、すばらしくユーモラスな読物が書けるじゃないか!」
 この通りになっていたら、本当の独立を満洲国はしていたかもしれない。(ひさし)を貸して母家をとられるわけだが、おかげで日支事変も起こらず、従ってあの戦争の悪夢もなしに済んでいたかもしれない。がユーモラスな提案というものは、いつでもそれがユーモラスであるという理由で採用されぬものだ。折角この珍説もやはり一場の茶話で終ってしまったのだろう。
 共産党をつぶしたかったら、一族郎党引き連れて吉田さんが入党する。これも手ではないかとおもうのである。                         (五・八)



最終更新日 2005年04月17日 00時54分03秒

高田保『ブラリひょうたん』「菊五郎・ウィル・夢声」

「珍説」でアメリカのユーモリスト、ウィル・ロージャースのことを一寸いったが、来訪のとき彼も、すべての観光外人がするように、カブキ見物し、楽屋に通り、キクゴロウと握手した。
 わが名優はそのときに、驚いた顔をして彼にいったのだそうだ。
 「アメリカには、チュウイング・ガムの眼鏡ができているのかね?」
 持前の癖でウィルはそのとき、はずした眼鏡のベッコウの縁をしきりに噛んでいたのだそうだ。通訳からその一言を聞くと彼は、
 「出来たよ、君! それで今日の五十行が書ける!」
 も一度つよく噛んで、キクゴロウの肩をたたいて、それからすぐに帝国ホテルへ帰っていったそうだ。彼は日に五十行の通信を本国の新聞へ送らねばならぬ義務をもっていたのだが、その日どんな五十行を書いたかは知らない。
 彼は文筆でユーモリストだったばかりではない。ラジオへ出ても大した話術家ですばらしい人気を博していた。アメリカの徳川夢声とおもえばいい。寄席へも出たし、レビュウの中にも入ったし、何が本職かわからぬところはそっくりである。
 興行王のコクランから、ロンドンへ渡って来ぬかとすすめて来た。よろしいとすぐさま海を渡ったのだが、報酬その他細かい契約なんぞ一切しなかった。コクランの方では、何がさてアメリカでの彼の各方面からの収入莫大なことを考えて、いくら払えばいいかと心配していると、
 「僕はね、ロンドンの奴らに変な顔をさせるためにやって来たんだよ。そんなことは問題じゃない!」
 一週間舞台をあけてみて、その成績でこれとおもっただけを出したまえということだったので、コクランがその通りにすると、
 「僕には、この額面だけの価値はないよ」
 出した小切手を笑って突っ返したそうである。この辺もわが徳川夢声に似ている。夢声が自分を芸人とおもっていないようにウィルもおもっていなかったのだろう。
 どうせ死ぬんなら飛行機で墜落してみたいものだ。それも非常に高いところからでないと困る。あっという間では折角のチャンスを味わっている暇がないだろうからな、といってたそうだが、望みどおりに彼はその事故で死んだ。しかしたった三百メートルの上空からだったそうである。                           (五・一一)



最終更新日 2005年04月17日 00時56分59秒

高田保『ブラリひょうたん』「未完成発明」

 タイプスピーカーというものを発明したいとおもっています、という人があった。どんな機械かと聞いたら、タイプライターのように沢山のキイがあって、それをたたくと、ア、イ、ウ……、とそれぞれの音を出す。だからある文句に従ってたたけばその通りをしゃべることになるというのである。
 だが、どうしてそんな機械が必要なのか、口の利けぬ人のためというならともかくも、たたくよりは自身しゃべる方がずっと完全じゃないかといったら、その人は、実は放送局に使わせたいと考えているのでと答えた。
 ラジオを聴いていると、時折り歯の浮くようなことを乙にすました声でアナウンサーがやっている。どうせ原稿を読んでいるのだろうし、あの調子だって一定の型を教えられてのことだろうから、アナウンサーその人には罪がない、といかにそうおもっても相手が人間の声だからその声の主を軽蔑したくなる。その不快さを救うためにはタイプスピーカーでなければなるまい。
 タイプライターの字はタイプだから何の個性ももっていない。ハンドライチングではどうやってみても完全なタイプにはなりきれない。誰々が書いたものというような差別を無くするために、昔もお家流などという筆法を工夫した。が結局その差別から抜けて出られたのは印刷活字の類を使うようになってだろう。事務的ということは単に能率的というだけのものではない、非人間的ということである。なるほどタイプスピーカーとは面白い発明だと私も賛成した。
 ある若いアナウンサーに、どんな仕事が一番面白くないかと尋ねたら、言下に、株式市況を読まされることですと答えた。何とか紡何百何十円、何十円高、何とかセメント何百何十円、何十円安。なるほどあんなものへは感情も気持もこめられたものではあるまい。非人間のそれこそ全くの事務的でなければやりきれぬとしたら、キイをたたいて出した方がいい。聴く方だってその方が聴きいいかもしれない。
 アナウンサーの読み違えにしたってそうですよと、その発明志望者はいった。手で書いたものの字の間違いはその人を馬鹿にしたくなるものだが、活字になったものの間違いだと、これは誤植だろうで軽く済みますからね。わがタイプスピーカーになれば肩がずっと軽くなりますよ。聴く方にしたって、活字印刷の手紙だと見ても読まずに捨ててしまえるように、これだと聴いて聴かずにいられますよ! 借金の申込みだけはタイプライターではだめだ、と笑ったある実業家のことを私はおもい出した。            (五・一二)



最終更新日 2005年04月17日 00時59分11秒

高田保『ブラリひょうたん』「牡丹」

 今年も牡丹(ぼたん)の花時が来た。前の町長だった船橋さんが毎年、庭で丹精されたのを切って下さる。今年もいただいた。厚情が身にしみるので、咲きすぎてもむざとは捨てきれない。やがて蕪村の句の景色となる。
  牡丹散って打重りぬ二三片
 打重りぬがいい。牡丹でないとこの味がない。衰えたところにまた格別の味があるところはほかの花にないことであろ。腐っても(たい)というが、衰えても牡丹といった方が風流である。
 牡丹花の美しさには権勢がある。権勢ぎらいの私だがこの権勢は天然のものだから敵わない。正岡子規の歌に、
  本所の四つ目に咲けるくれなゐの牡丹燃やして悪き歌を焚け
というのがある。今ならばカストリ雑誌を燃やせというところだろう。昔から楊貴妃にたとえられたりしたくらいだから、相当エロティックなにおいも高いが、現在の好色文学とは全然品を異にしたものである。
 後宮佳人三千。牡丹のような美人を三千も集めておいたらむせ返るばかりだろう。四つ目の牡丹園は有名だったが、全盛の時でも千株ほどだったというから、中国の王者の豪勢にはとおく及ばない。三千となるといかに王者といえども整理がつかなくなる。そこで漢代の元帝は時の肖像画の名人毛延寿に人別の画帖を描かせたものだそうだ。それをめくって今日はどの子を召そうかとお考えになるという趣向である。そこで三千の佳人は競って毛に賄賂を送った。その額に応じて毛は鼻を高くしたり低くしたりした。
 こんな国だから、いざ外敵侵入となると花のように(もろ)い。匈奴に攻められて貢物をささげねばならぬとなったとき、その佳人画帖をめくって中の一人を差出すことになったが、どうせ相手は野蛮人だしというので、一番の醜女を出すことにした。選ばれたのが王昭君である。みるとすばらしい美人だったので元帝はあっといってしまった。彼女は一銭も毛延寿へ贈賄しなかったのである。そうとわかっても後の祭り、怒って元帝は毛を叩き斬ってしまった。側近などといって気を許しているととんでもないことになりやすい。
 蕪村の牡丹句には「波翻舌本吐紅蓮」という前書で   閻王の口や牡丹を吐かんとす
 舌本を波翻するというのは、閻魔大王が口を開いて真赤な舌を見せたところで、昔の仏弟子たちは、自分の言葉に偽りがないという証拠にああして見せたのだそうだ。犬養さんも一度吉田さんの前で長い舌を出して見せておく必要があるだろう。――と話が妙なところへ落ちたが、これは牡丹のせいではない。句がつまらんからである。      (五・一三)



最終更新日 2005年04月17日 01時02分54秒

高田保『ブラリひょうたん』「平凡の喪失」

 税務官吏は悪質、これは今日の定評のようである。が私の知っている一人はそうでない。時折雑談をしに来るのだが、畑で作ったものなどぶらさげて来てくれたりする。こっちからささげ物をするのが定法なのにと笑うと、にがい顔をして、冗談はよして下さいという。その彼がいった。
 ――どうも面白くないのは世間ですよ。小さな例だが、僕が女房をつれて町を散歩する。向うから市会議員の顔役が来る。やあと向うから先に挨拶するのです。奥さんもご一緒なら丁度いい、その辺で一つ冷たいものでもとか何んとかいうんです。振り切って店へ買物に入る。するとすぐイスをすすめる。お茶をもって来たりする。全然特別扱いです。
 ――それで僕はいつも女房に戒めているのです。あれはみんな僕にするのじゃない。税務署に対してしているんだ。おかしい気になったが最後とんでもないことになる。仕合せなことに僕の女房は地味で素直な質ですから安心しているんですが、派手な虚栄的な女だったりしたらとおもうとゾッとします。
 ――可哀想なのは二十歳台の若い連中ですよ。僕なぞは三十を過ぎているから反省もするんですが、彼等は人生的に全く初心ですからね。乗せられればすぐいい気になる。いい気にさせるのが世間のネライです。年功を経た年増女にかかったみたいに、有頂天にさせられて無責任におっぽり出される。
 ――都の税務官吏の汚職という新聞記事、あれだってどれも二十歳台の青年だったとあったじゃないですか、もちろん彼等はよろしくない。だが本当に責められるべきものは外にあるように僕は思うんです。それを衝かないかぎり、次々にと若い罪人を出して行くだけでしょう。取締ると国会で答弁した大蔵大臣に深いところで考えてもらいたいとおもいますよ。
 ――若い同僚が友人の鉄道職員と話しながら「つまり君たちがパス利用しているようなもんさ」と笑っていたのを耳にしたことがありました。何を話していたかは想像できるでしょう。つまり鉄道パスをまず取上げることが税務官吏の粛正になる。しかしこんなことは大臣など夢にも考えていないでしょうね。一方に役得があるならこっちも、というのはしかし人情ですよ。
 ――昨日昭電公判のニュースをラジオで聴いていたら、一人が、これから役得はこの手で行こうと笑いました。金銭は受取ったが趣旨は違うという否認の仕方ですね。もちろん冗談にいったのには違いないのですが、しかし……。
 こんな平凡な感想を吐く税務官吏が、今はどうして平凡な存在ではなくなっている。平凡の喪失、がこれは決して税務署だけのことではないだろう。        (五・一五)



最終更新日 2005年04月17日 01時06分38秒

高田保『ブラリひょうたん』「雑事」

 呉清源が「碁は雑事です」といっている。呉清源だから面白い。将棋の升田八段との対談の際だが、相手にはこの味がわからなかったらしい。升田の方では呉をあわれんでいるのだが、対談記から二人比べると呉の方がずっと人物は上である。
 菊地寛は升田と会って、彼はタケゾウだといったそうだ。まだムサシになれぬのは、勝負を雑事と観じるまでになれぬからだろう。勝負師も極致に到ると勝負を超越する。塚田木村の名人戦もいよいよ二勝二敗で鍔迫(つばぜ)り合いのきびしさとなったが、余計騒いでいるのは見物の方で、当人同士は案外静かかもしれぬ。とそうおもいたい。
 角力季節になったが、双葉山などはやはりあれを雑事と悟ったのだろう。レスラァで鳴らしたハッケンシュタットは完全な肉体を通じて精神を鍛えると人間は対立的な小感情など消えさせてしまうものだ、との説を述べていたそうだ。双葉山は璽光尊へ走ったのだが、ハッケンシュタットは引退してから書斎人になり、カントやニイチェに没頭したとある。悪口屋のショウが面会して長い時間彼の議論を聴いたあとで、あの男は決して馬鹿じゃないといったそうだから、日本だったら一流の思想家になれたかもしれぬ。
 当麻の蹶速(けはや)と野見の宿禰(すくね)の角力といっても今のとは違うだろう。肋骨を踏折り腰骨を踏みくじいて遂に殺してしまったというのだから、スポーツなどといえたものではない。蹶速の方はかねてからの力自慢で、おれにならぶ者がいたら命をかけて戦いたい。これが念願だといっていたというから、当然雑事派ではなかったろう。宿禰の方は召されてはじめて出雲の国から出て来たのである。勅命なればこそ戦ったので、だから雑事派だったわけだろう。
 宿禰の出た出雲は、いわば角力の結果、征服されてしまった土地だろう。大神の命を受けて大国主命に「国ゆずり」の談判をしにいった建御雷神は、大国主命の次男の建御名方神と力競べをした末に取上げたとなっている。国と国との争いをスポーツで解決したと解釈したらこの話も愉快になる。西洋でもローマとどこかの戦争のとき双方から兄弟の選手を出して勝負をさせ、その結果に従って解決したという話がある、がこうなると勝負も決して雑事ではないと言い出す人があるだろう。しかしそれでもなお雑事と笑う人もあるかもしれぬ。
 労働法の改訂が問題になっているが「碁将棋またはスポーツをもってストライキに代うることを得」というような一項、入れてみたらどんなものだろうか。     (五・一七)



最終更新日 2005年04月17日 01時09分23秒

高田保『ブラリひょうたん』「学校演劇」

 見知らぬ青年が来て、俳優になりたいのだが意見を聞かせてくれといった。ある町の工業学校の生徒だったのだが、演劇部に入って一二度実演をしたら面白くなって、学問の方がすっかりいやになった。だからという理由である。
 工業学校だというのに、なんで演劇部なんぞあったのかと聞くと、妙な顔をして演劇部はどこの学校にもありますと答えた。学問がいやになったのは君ばかりではあるまい。部内の熱心な連中はみんなそうだろうと聞くと、はあと素直にうなずいた。
 私は学校演劇というものに賛成しない。ある学校の演劇部から話を頼まれたとき、私の意見は風変りだがいいかと駄目を押した上で出かけたことがあった。
 演劇の劇は劇薬の劇。うっかり素人が扱うととんでもないことになる場合がある。芸術というものは文学にしても美術にしても、自分の感じたままを率直表現することから出立するのだが、俳優の仕事はそうではない。むしろ自分を隠して他になりきることから始めなくてはならない。一方は正直がシンになるのだが一方はウソが骨になる。この相違がそれをやる人間に及ぼす内面的な影響を深く考えなければいけない。元来が演劇というものは一般の人にとって観るべきものであって演るべきものではない。だから諸君の演劇部がいかに演劇を観るべきかで集まっているのだったら結構だが、学校演劇などという下らんことで骨折っているのだったら、即刻解散してまともな勉強に帰るべきだ。とこう話したらみんな変な顔をして聞いていた。
 ここに哀れな犠牲者がいると私は青年と対坐しながら考えた。青年は得意らしく学校演劇のときの写真を四五枚取出して見せたのだが、そのときの喝釆をいまもうつつに耳にしているといった風だった。なるほどその写真でみれば一応演劇の体を成していたかにみえる。これだけ演れれば入場料を取って観せてもぐらいのことを無責任な人たちはいったかしれない。だが私はことさらに冷たくそれをながめて、こんな真似事を演劇だなどといっちゃいかんよと突っ返した。
 俳優志望の青年がやって来たのはこれが最初ではない。一度制服の巡査がやって来たことがある。茨城県に勤務しているというのだが、これはいきなり顔の審査をしてくれと申込んだ。顔などはどうでもいいといったら、急にうれしそうに眼を輝かして、顔以外なら自信を持っているのですといった。体よく追い返したことはいうまでもない。   (五・一九)



最終更新日 2005年04月17日 01時11分54秒

高田保『ブラリひょうたん』「肩書」

 種々研究の結果、大臣を一名増やしてもいいとなったと喜んでいるそうだ。定員というものをイスの数で数えるか、頭数で数えるかだが、パスの例で考えたのかもしれない。客が一人子供を連れて乗込んだ。子供は無賃だから数の中へ入れぬのが本当か、子供でもとにかくイスは一人分占領するとしたら、数に人れるのが本当か、この研究は多分運輸大臣がやったのだろう。乗る方では乗れさえすれば立っていてもよろしいといったとなると話になる。
 立つのはおろか、ぶら下っていてもいいからというのが副大臣制だった。だが副大臣とは知恵がなかった。古式を保持し、右大臣左大臣とやればずっと数が殖えたはずではないか。総理に叱られて参政官となったそうだが、これとてもまた知恵がない。
 サンセイ官と聞いてすぐさま、当時問題の産児制限の役人かともおもった人があったのは無理もない。本大臣のすることにサンセイして判をおす役らしいと説明したら、じゃ連判官かといった。この名の方がずっと知恵がある。連判なら一味徒党残らずその大臣になっても可笑(おか)しくはあるまい。
 肩書をよろこぶ心理、どんな会でもすぐに会長一名副会長二名とくる。外に総裁を置くことを得とくる。それで足りぬときは顧問とくる。代表が必要なら委員長でいいじゃないかといっても納まらない。日本人の妙な心理である。
 友人に肩書マンがあった。何々大学教授、何々学院講師はまだいいとして、何とか省嘱託、何々委員まで名刺の上に刷り込んだので、名前が片隅の方へ寄せられてしまっていた。が上には上があるもので、ある日人にその名刺を出すと、相手はにやりと笑って自分のを出したそうだ。みると何とかの社長、何とかの重役、以下ずらりとぎっしり並べた末に(裏面にツヅク)としてあったのだそうだ。勝った方は野依秀市氏だと聞いているが、負けた方は秘密にして置こう。
 法成寺入道よりもロシヤのニコライニ世の方が肩書は数十倍も長い。日露開戦のときの宣戦詔勅でみると「全ロシヤ独裁主及び皇帝兼モスコウ帝、キエウスキイ、ウラジミルスキイ、カザンスキイ帝、アストラ、ハンスキイ帝、ポーランド帝、シベリア帝……」とこの調子があと五倍にも及ぶのだから大したものだった。(別紙にツヅク)でなければ間に合わない。
 こんなことはさすが民主国のアメリカではといいたいが、大統領テーラーが清朝皇帝に送った外交文書には、各州の名前が一々大仰に誌されて「以上より成るアメリカ合衆国大統領たる余は……」となっていたそうだ。書いたのはダニエル・ウェブスターだそうだが、それはいわゆる郷に従ったものだったのだろう。              (五・二〇)



最終更新日 2005年04月17日 18時13分33秒

高田保『ブラリひょうたん』「安井さんの幸福」

  夏の夕わが家へわが家へ羊かな
 誰の句かとくるだろう。俳人安井曽太郎と答えたら、まさかあの安井さんではないだろうなとくるだろう。安井曽太郎芸術は決していわゆる俳諧ではない。
 松坂屋に毎日紙主催で「梅原龍三郎、安井曽太郎自選展」が開かれている。そこに陳列された安井さんの滞欧作品風景画をながめてふと右の句をおもい出した。だが当の安井さんはとうの昔忘れてしまっていて自分に覚えがないといわれるかもしれない。
 私はそれを津田青楓さんの「画家の生活日記」の中で見つけ出したのである。安井さんは青楓さんと一緒に渡仏し一緒に生活した。青楓さんはそのころから居士的だったろうから、俳句は居士がそそのかしたものと考えられる。あるときの山村への旅日記をみると、汽車中で百題つくろうと二人ともども、鉛筆と手帳をひねくりまわしたなどと書いてある。してみれば俳人曽太郎の句は羊の句だけではない。外にもあった筈だが、残念かどうかとにかく残ってはいない。
 これこそ本当の俳人水原秋桜子さんが「安井曽太郎」という見事な評伝を書かれたが、青楓居士と暮らした頃の安井さんの日記を詳しく紹介しながら、この俳句については一語も言い及ばれていない。絵の方はすばらしいのだが俳句の方はどうもと判断されたからかどうか。だがそうだったとしてもそれは、画伯にとっては何の不名誉でもない。
 セザンヌは、絵描きにとって最も警戒すべきは文学的なものの誘惑だといったそうである。絵描きにとって必要なのは、夏の夕方を歩いている羊そのもの、その形と色彩とだけでいいのだろう。わが家へわが家へと帰りつつあるなどというのは不必要な見方である。不必要なものだったら下手な方がいい。
 滞欧作品風景画は立派なものだが、草むらの白い鶏や、ぽつんとしている小羊や、(うずくま)っている村の人や、私にはそれが不必要なものにみえた。俳人曽太郎がそこにあったのではないかとおもわれる。青楓居士も余計なことをそそのかしたものだという気がした。だが安井さんはいつまでもその俳人曽太郎を同居させていたわけではない。多分今では私の知っているあの一句さえ覚えてはいられぬように、純粋画人安井曽太郎になりきってしまわれている。
 器用貧乏というのは余計な才能に恵まれたために、本筋のものが妨げられることだろう。この余計なものを振り落すことは容易のようで実は容易ではない。随分と努められたらしいにもかかわらず、俳人安井曽太郎がついに夏の夕の羊の一句しか残し得なかったことは、安井さんの大きな幸福だったのである。                  (五・二八)



最終更新日 2005年04月17日 23時07分36秒

高田保『ブラリひょうたん』「非盗難」

 友人宮田重雄の宅へ泥棒が入り、私が預けといたカバンをもって行った。これが本紙の記事になったので会う人毎に何が入っていたのかと質問される。
 私のことだから貴金属、宝石、機密書類いずれも縁がない。「二十の扉」なら鉱物と答えるところだが、実は空気だけだったのである。泥棒はカバンとして盗んだのではなく、首尾よく盗んだほかの品々の入れ物として持っていったのだろう。だとすると私は彼に便利を与えたことになる。宮田から恨まれて然るべきなのだが、彼からの速達には「失態相済まぬ、ベンショウする」と書いてあった。
 私が預けたと記事にあったのだが、果たしてそうかどうか私には異論がある。次第を申せば去年の春、彼の宅と私の宅とで期せずして駄犬を飼いだしたのである。飼えば駄犬でも自慢がしたくなり、そのうちコンクールをやろうではないかと言い合っていた。そのうちに両犬とも運命的な異変に出会ってしまった。宮田犬の方は急死し、高田犬の方は母親になった。
「薬石効なく」とその急死を報じて来たが、詳細を聞くとどうも「薬石効あって」のようである。医学博士の習慣から彼はその駄犬に無闇と高貴薬の注射などしたものらしい。がとにかくそれではというので、拙宅の子犬を一匹代りに呈上することにした。
 実はその子犬の入れものになったのがカバンなのである。幸便に託して汽車の中へ持込んでもらったのだが、その折にもっと粗末なのにしたらという説があった。お婿入りなのに可哀想よという説が出た。上等のカパンの方が改札氏や車掌君の眼を逃がれるのに都合がいいだろうと私が裁決した。そこで満洲新京で買求めた最上等革製ボストンバッグが採用されたわけである。とにかく国産品ではない。
 さて問題は呈上物の入れものだったということである。羊羮(ようかん)をもらって箱を返すやつはない。いかに立派な装飾の箱でも、チョコレートとともに先方のものとなるのが社会の慣習である。家宝のカバンではあったが当方からは一言も返せなどとはいわなかったはずだ。この際の所有権は果たしていずれに帰属するや「ベンショウ」などとあわてて速達して来た宮田は、多分法律について全然無知なのであろう。
 つまり結論をいえば、だから私はすこしも盗難などにあってはいないということなのである。(つい)でに伝えるが、折角カバンもろとも呈上した子犬は「ダリ」というシュール・レアリストの尊名をもらってあばれているうち、これもテムバで死んでしまった。これを死なしたことについては格別詫って来ない。死なして平気なのは医学博士だからだろう。
                                  (五・二七)



最終更新日 2005年04月17日 23時22分37秒

高田保『ブラリひょうたん』「演出家」

 友人金子洋文君が、議長席へかけ上って何やらやっているスナップ写真を新聞で見た。金子君らしいとつい微笑した。金子君は芝居の演出家である。
 演出家金子洋文君は、舞台稽古のときなど、しばしば舞台へ駈け上る。役者がキッカケを間違えたり下手な動き方をしたりすると、自席から口で注意しただけでは納まらない。大声で「駄目駄目」と連呼しながら飛出して来て、その役者の体に手をかけるのである。これは彼の流儀であってすこしも悪いことではない。
 暴力と一概にいうが、手をかけること必ずしも暴力とは限らない。芝居の世界では誰も彼も金子君を知っているから、彼の演出を暴力的だなどというものはない。かえってそれは芝居に対する彼の熱心と愛情に基くものだと理解して感謝している。私は一枚のスナップ写真を眺めただけで、参議院のこの場の前後の事情については知らぬのだが、写っている金子君の面影は演出的である。副議長の腰かけ方がすこし早すぎるとか何とかキッカケの間違いを正しているだけのようにしかみえない。
 議長席は議長以外何人も上るべからざるものでというのだが、芝居の舞台も登場人物以外は何人も上ってはならぬ所である。しかし演出家は時としてそれに上らざるを得ぬ。金子君は多分演出家として上ったのだろう。演出ということは一種のオセッカイで、他人の行動を掣肘する性質のものなのだが、私もいささかその仕事をした経験があるので、金子君の気持は十分に理解できる気がする。他人の演出したものでも。見物して役者があまり変な動き方をすると、飛出して行って指図がしたくなったりするものだ。演出家本能とでもいうべきものかもしれぬ。
 政治に対して私ごときは一介の見物人にしかすぎぬのだが、それでもうずうずさせられる場合がある。衆議院のあの乱闘事件など、手打ち式とは一体まあ何というまずい演出をしたものか、腹立たしい気さえした。演出の次第では当然非常な大芝居になった筈である。侠客一家勢揃い、共産党控室への欧り込み、続いて評定場、次々と場面が変った末に、総裁吉田さんが、日本国の対外的面目を痛感してしずかに辞表を認める。見物一同その心中をおもいやって同情の涙をしぼる……そこまでの作者と演出者がいなかったのが民自党の幸運だったろう。余談に外れかけたが、私は演出家金子洋文君の健在を、一葉のそのスナップ写真に見出してひそかに慶賀したのである。それにしても芝居小屋と参議院とを混同したとはという非難があるかもしれぬが、その責任は金子君にあるのか参議院にあるのか。それは私の知ったことではない。                        (五・二九)



最終更新日 2005年04月18日 00時02分29秒

高田保『ブラリひょうたん』「君死に給ふことなかれ」

「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ」一世を驚倒させた情熱歌だったが、今の時代では平凡だろう。どこがいいのかと娘たちは怪しむかもしれない。そこで昨日の与謝野晶子祭には、日露の役のとき旅順攻囲軍に加わった弟のための長詩が選ばれて歌われたらしい。「あゝ弟よ、君を泣く、君死に給ふことなかれ、末に生れし君なれば、親の情は勝りしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せと教へしや・…-」
 戦争最中に、敢然とこんな文句を書き上げた晶子はたしかにえらい。が書ける時代でもあったのである。そのころ私は小学生だったが「死んぢゃイヤだよお兄さま」という一句のある俗謡をうたったおぼえがおる。君死に給ふことなかれとどっちが先だったかはしらない。
 出征の人に対して、死んでくれるなというのは当然だろう。命あっての物種というのはどんな場合にも本当である。だから晶子女史のと同様の文句が、すでに隋代の中国にあったそうだ。
 隋の煬帝といえば豪奢を極めた暴君、洛陽城裡清夜遊などといって、数百石の(ほたる)を庭に放たせ、その中を数千の美女に騎乗させながらともに遊んだなどという馬鹿々々しさだが、芥川龍之介の説によると、その馬鹿も実は隣国高勾麗をあざむくための計略だったのだそうだ。
 時到れりとついに兵を起す。帝自ら陣頭に立ち、破竹の勢いで攻め入る軍勢百三十万八千人とあるから大したものだ。やがて鴨緑江を、平壌を陥したのまではよかったが、それから先がいけなかった。遼河を渡るもの三十万五千人のうち帰れるはわずかの二千七百人だったというのだから負けっぷりがわかる。
 煬帝はしかしこんなことでは諦めない。一旦引上げたが、再び天下に令して兵を徴発することになった。そのとき民衆の中に流れ込んだのが「遼東に向い(みだ)りに死すること(なか)れ」という文句の歌だったそうである。作者は知世郎という詩人、というのは仮面で、実は王薄という野心家だった。歌はたちまち飛んで、その結果続々と死にたくない連中が王薄の下に集まった。
 この王薄が人道主義者で非戦論者だと筋が通るのだが、集まって来たのを従えて私兵とし、その上に立って将軍となり、叛旗をひるがえしたのだから妙なものである。煬帝の軍と戦って最初はよかったが、結局はやられてしまった。どっちへ行っても、みだり殺されたのが民衆だったというわけである。                       (五・三一)


(毎日新聞社版1978では、脱字あり。「王薄主義者で」)


最終更新日 2005年04月19日 21時20分43秒

高田保『ブラリひょうたん』「片手落ち」

 絶対多数と衆議院の方は安心しきっていたのだが、参議院の方はそうでなかったので、見事に野党に引きずられた。ある人が笑って「サヴィエル様だよ」といったのだが、何のことかわからない。真面目にその意を質ねると「片手落ちだってことさ!」物固いカソリック信者が聞いたら眉をひそめるだろう。
 聖腕、信者からすれば世にもありがたいものに違いない。本願寺さんが地方へ出かけると、入った風呂の湯までもらいに来るそうである。由来信仰というものには理外の心理が働くものらしい。理外だから不信者にはわかりようがない。迷信排除などと文部省ではいっているが、理外の限界をどこに置くかで迷わせられているだろう。
 サヴィエルの死骸がいつまでも硬直せず、腐敗もしなかったという奇跡は、不信者にはやはりうなずけない。日本ではまず新井白石がそれを疑った。彼は渡来のオランダ人に、かかることはあり得るものかと質問している。オランダ人は合理主義者であったとみえ、何か薬物を用いたからだろうと答えている。聞いて白石は大いに安心したらしい。「世界紀聞」の中に誌されている。
 このオランダ人の答は今もなお正しいかもしれない。われわれもまた白石と同じようにそれで納得するのである。問題はその薬物が何であったかだろう。奇跡は決して非科学的なものではない。科学的に究明されぬ間だけ非科学的におもえるだけである。ラファエルに描かれた「ボルセナのミサ」では、不信の坊さんが聖体パンを割った。するとその中一面に真赤な血がにじんでいたというのである。しかし近代の科学は赤色の細菌を発見している。奇跡の正体はつまり赤カビだったのに違いない。
 長崎でのミサに、永井隆博士が担架で運ばれ出席したと報じられている。この篤信の科学者に白石の質問を向けたら何と答えるだろうか。日ごろ意地悪で残酷なジャーナリズムだから、きっとやるだろうと期待していたが、いまのところまだその話を聞いていない。しかし博士がオランダ人と同じに答えたとしても、別に背信にはならぬだろう。そうでないとわれわれには理解し難いものになる。科学を拒絶した信仰こそほんとの「片手落ち」だろう。
 キリストの奇跡を否定することはすこしもキリストを傷けるものではない。サヴィエルの偉さはその死骸が腐ったか腐らなかったかにあるわけではあるまい。であの話などは当然奇跡ではないとして子供に教えるべきだと、たまたまある人に話したら、その人は心配げな顔をして「しかしそれで外国に対して差支えないでしょうか?」
 日本も妙な国になったものである。                  (六・二)



最終更新日 2005年04月19日 21時22分02秒

高田保『ブラリひょうたん』「叱られて」

 の「片手落ち」では、早速カソリックの信者に叱られてしまった。知合いの美しい夫人なのだが、あんな冒漬(ぽうとく)の文章を自分の友達が書いたのは自分の罪だから、お許しを願うお祈りをささげましたというのである。こういう責められ方はかなわない。
 サヴィエル神父を私もえらいとおもう。だが信者ではないから感心のしどころが違う。たとえ神父がほかの神父たちに注意したという言葉の中に、
「だれからも補助を受けないことが大切だ。補助をしばしば受けると自由を失う。折角の自分の言葉が力を失っては人を訓え導くわけにいかない。そのために自由でなければならぬ」
 現在の仏教の坊さんたちに聞かせたら何というだろう。お布施経済、ギヴ・エンド・テークというが、順序を間違えてどうやらテ!ク・エンド・ギヴ。それならまだ取引でいいのだが、実はテーク・エンド・テークであるらしい。何の下地もない日本に渡来してサヴィエル一行が、たちまちあのキリシタン熱を上げさせてしまったのは、当時の仏教がはや堕落してしまっていたからだろう。
 クリスティの「奉天三十年」はあまりにも有名だが、十六の妙齢の時にマルセイユを出帆して満洲に渡ったきりの、ロージンヌ童貞女などは大したものだ。とにかく私がいつぞや満洲あちこちを歩いたとき、どこでも目に残ったのはあの人々の努力の足跡である。どれを見てもギヴ・エンド・ギヴ、成程これでなければと頭を下げさせられた。水のきれいな吉林の松花江畔、美しい天主会堂を指して、下らん満洲国なんぞ建設するよりも、あれ一つを建てる方がずっと本当の仕事だと放言した覚えがある。
 ギヴ・エンド・ギヴのロージンヌ童貞女ではあったが、、面白い話がある。牛荘から二十数キロほどの董家屯というところで孤児院を開いた時分、一人の若い馬賊が兵隊に追われて逃げ込んで来た。かくまって助けてやってから二十何年か過ぎると、奉天の将軍張作霖から、いともねんごろな招待状が来たそうだ。何事かと出向いてみると、すばらしい歓待をされた上に、当時の金で三千両という大金を、あなたの事業のためにといって差出されたのだそうだ。つまり助けてやった若い馬賊こそが将軍張作霖だったというわけなのである。将軍が爆死したときにはまだ生きていた童貞女だが、現在どうしているかはしらない。
 いかがですか奥さん、と私はつい熱情をこめてしゃべってしまった。すると私を叱りに来た美しいカソリック夫人は、ああ私などはとても罪深くてと、しとやかに十字をお切りなされた。                                  (六・三)



最終更新日 2005年04月19日 21時24分03秒

高田保『ブラリひょうたん』「不断の稽古」

 国会が終りやっとほっとしたと、友人が遊びに来た。「君たち議員は馬にも劣る扱いをうけているらしいな」といってやるとさすがに妙な顔をした。「戦争中は馬だって、ご苦労さんといわれたじゃないか」われらの送った議員なのだが、百十日も続けて努力したにかかわらず、感謝する国民はおそらく一人だっていないだろう。
「ところで、稽古はどんなにしてやるのか?」と尋いた。またしても妙な顔をしたから、「真面目な角力取りは、本場所千秋楽の翌日だって休みはしない」国会が休みだからとのんびりしている議員は、いつまでも序の口陣笠でいるより外はあるまい。角力取りに笑われなさんなと私は笑ったのである。
 この友人はある田舎の地主の後嗣ぎで、私立の大学はともかくも出たらしいのだが一向に政見など持っていなかったのである。財力と地盤がものをいって当選したのだが、本場所百十日間でやはり揉まれのだろう。国際情勢や経済事情などを一ばし語るようになった。しかし会期が過ぎて田舎へ帰って旦那生活に戻ったらどうなるか。こんな連中に不断の勉強をさせる何かしらが欲しい。
 坂の上へ押上げる車、油断をすると後へもどるぞ。先日ある人から、近所が遠くてしかも淋しくない売家か貸家かがないかと尋かれた。娘さんにピアノを習わせているのだが、隣家から苦情が出たので弱っているというのだった。ピアニストの指は一日だって怠けてはいられない。
 パデレフスキイが最初にアメリカへ渡ったとき、初日の演奏を済ましてすぐホテルに帰り、室で翌日の曲の稽古をしていたらたちまち外の泊り客から抗議されてしまった。そこでスタインウェイ・ピアノ会社の倉庫へ出かけて、倉庫番に頼みこんでそこを開けて貰い、蝋燭(ろうそく)の光の中でやっとそれをし終えたという話がある。二度目に渡ったときは特別な車を仕立て、その中ヘピアノを持込み、行く先ざきそれで練習をしていたらしい。
 パデレフスキイのピアノにさえ苦情が出るのだから、お嬢さんのは当然だろう。しかし隣家へ新しい人が越して来るまでは何事もなかったのだそうだ。越してから四、五日すると、その主人というのがやって来て、私には妙な病気があって、気に入らぬ雑音的なものが耳に入ると、自然と「馬鹿」とか「引込め」とか呶鳴りつけたくなりましてなといったそうである。もしかするとその隣人は国会議員だったかもしれぬ。だとしたら毎日お嬢さんに弾いてもらって、毎日呶鳴り立てていたら、怠りなく稽古ができるだろう。羨ましいとはおもわぬかと私は、友人なる議員の肩を叩いた。                 (六・四)



最終更新日 2005年04月19日 21時27分20秒

高田保『ブラリひょうたん』「源泉課税」

 簡単な算術をやってみよう。
 ある学者がこつこつと研究論文を書いた。モノがモノだから骨が折れる。三年かかってやっと三百枚、一冊に(まと)まったので出版した。だがモノがモノだから沢山の部数は出せない。千部。一部三百円、印税一割、この場合の収入は――ハイ三万円です。
 ある小説家がさっさと読み物を書いた。モノがモノだから苦もなくできたおなじ三百枚だが一ヵ月とはかからない。雑誌社へ渡して原稿料をとった。 一枚三千円――ハイ、九十万円です。
 ちょと待った。それだけではない。その読み物を映画会社が映画化したいといって来た。原作料五十万円――ハイ、それを加えると百四十万円。
 いやまだある。今度は出版だ。単行本にして売出す。小説だから研究論文書とは部数が違う。印税にしたって一割などでは作者が承知しない。が昨今は不景気だそうだから内輪にみて、一万部初版の一割印税として、定価二百円の場合――ハイ、廿万円です。
 総計するとこの小説家の収入は?――ハイ、百六十万円です。
 しかし現在はこれに源泉課税一割五分というものがかかるから、右の数字通りにはならない。差引いて手取りは百三十六万円。だがこの源泉課税は、わずか三万円の学者の場合でも同様に一割五分で、だから彼の場合は二万五千五百円にされる。
 文芸家協会から、文芸家に対する徴税を源泉課税一本立てにするよう当局に建議したいが、賛否如何と質問して来た。そこで私は右のような簡単な算術をやってみたのである。文芸家諸君は得てして算術嫌いらしいが、これくらい簡単なものならおわかりだろう。(つい)でだから、源泉一本立てとなってその税率を引上げられた場合を計算して戴きたい。五割にされても小説家の方はまだ八十万円残る勘定だが、学者の方も同率にやられる。こっちは一万五千円。三年間の苦労を考えると年に割ってただの五千円か、ああ!
 もちろん小説家の誰もがこんなに豪勢なのではない。だがこの程度の豪勢が実在することは確かである。しかし私はちっともそれを責めたりするのではない。もっと豪勢であってもいいとおもう。私が言いたいのは、源泉課税というものは、この豪勢もあの学者の地味も一緒くたにするところの、まことに無情な方式だということなのである。
 貧しきに薄く、富めるに厚く、あの累進的な所得税の方がどんなに社会的人情に充ちているかしれないのに、と私は(つぶや)いた。「文筆業者に対する源泉課税撤廃」というのだったら、喜んで賛意を表するのだがと悔みつつ、私は「否」と記した返事を出した。   (六・五)



最終更新日 2005年04月19日 21時31分01秒

高田保『ブラリひょうたん』「ブレイン・トラスト」

 中るも八卦中らぬもというが、皆目成行きの見当がつかぬ場合、生きながらにして人間は亡者になる、時代の変動期ほど亡者は多い。中共軍は布告して易占一切を禁止したそうだ。
 中国民衆の心境のわかるようなニュースである。
 毛沢東の鼻の形はいいか悪いか、あの眼つきは頼れるかどうか、骨相に従って去就を決しようなどという政治家はよもあるまいとおもうが、さてないとも言いきれない。
 蒋介石の南京政府に、広萸広西のいわゆる西南派が陰謀を企てたことがある。李宗仁、白崇禧などがその仲間だったが、ここに広東省の将軍陳済棠、どうしたらいいかの判断に迷った。そこで部下のブレイン・トラストに意見の具申を求めた。すると、
 ――閣下、その為には先ず蒋介石の骨相をくわしく観察しなければなりません。
 ブレイン・トラストがこう答えたというのである。アメリカのルーズヴェルトがつくったと聞いてつくったブレイン・トラストだったのだそうだが、陳将軍はその中に高名の易者を二人まで入れて置くことを忘れなかったのである。
「全国通貨制度に関する協議委員」というのがやがて任命され、堂々たる一行が南京に向け出発した。蒋介石氏は引見してその協議に応じた。数日数回にわたったそうだが、その間終始無言で眼ばかり光らしていた書記が二名いた。いうまでもなくこれがブレイン・トラストの博士だった。
 ――閣下、蒋介石氏のやや尖り気味なあの頭骨は、末運の全からざるを示していました。大事の決行わが方に有利と判断されましてございます。
 陳将軍は莞繭(かんじ)としてこの報告を受取った。近代的な機関銃と戦車と飛行機まで整備した軍隊が、右の易断によって出動を命ぜられた。というと童話の筋みたいだが決して童話ではない。童話ならめでたく大勝利になるところだったかもしれぬが、童話でないから結局は敗北した。
 こうなると折角の骨相学も不名誉に終ったわけだが、しかし最近の蒋介石氏の非運からいえば、末運全からずというのもまんざら中らなかったのでもあるまいと言いたくなる。おもうにこのブレイン・トラストの博士たちは、蒋介石氏の骨相ばかり観察して、肝腎の陳将軍のそれを判断するのを忘れていたのだろう。ブレイン・トラストなどというものの知恵は大概はそんなことになり勝ちなものらしい。
 ブレインにしてすでにかくの如し。いわんや側近においてをやーなどというのはしかし余計なことである。                          (六・七〕



最終更新日 2005年04月22日 01時46分07秒

高田保『ブラリひょうたん』「赤色容疑」

 松前城が焼けたと聞いて、露伴の小説「雪紛々」をおもい出した。少年の頃に一読し、作中のアイヌ英雄シャクシャインに同情の涙をそそいだものである。松前城は異民族征服のための城たったという点で、その由来がほかの城とは大分変っている。
 大酋長コシャマイン父子と戦って遂にこれを(たお)した武田信広が松前家の始祖だが、コシャマイン以後にも有力なアイヌの勇士がいて、始終反逆を企てていたらしい。復讐のため墓を発かれるのを恐れて、信広の死骸は秘密のうちに葬られ、何人にもその場所を明かさなかったという話がある。
 露伴が材料にしたシャクシャインの出現は松前家十代目の時だった。小説では最後に見事割腹するシャクシャインになっているが、彼は日本人ではなかったのだから、そんな真似はしなかったらしい。運尽きたりとみて悪びれずに軍門に降った。松前家それを斬に処す。
 十三代日になってもなおかなりの反乱があったらしいのだから、アイヌ族の没落も一夕だったわけではない。この十三代目は道広といって、文人馬琴と往来があったらしい。馬琴が「兎園小説」で蝦夷に関する奇聞などを書き集めているのはその関係からだといわれる。今ではただの北海道だが鎖国時代はあそこだけが許された外地だっただけに、世人の好奇心が向げられていたらしい。
 この道広はその当時赤の容疑で当局から(にら)まれた。当時も赤といえばロシヤのことだったのだから面白い。紅夷とか赤夷とかと呼んだ。江差の姥神様というお宮へ道広が奉納した扁額の文句が穏かでないということからの事件である。
「降福孔夷」という四字なのだが、草体に崩したために、孔の字が紅と紛らわしくなった。福を降すことハナハダ大いならんことをというのが福を紅夷に降し給えという意味にとられたのである。このそそっかしやは巡察に来た最上徳内。その文字をそっくり摸写して江戸へ帰り訴えた。幕府では事重大なりとその字を林大学頭に読ませたところ、彼もその通りに読んだ。こうなると姥神様なるものの正体も怪しい。あるいは評判のロシヤ女皇カザリンを祭ったものではないかなどという説まで出たそうだ。こんな容疑はいつの場合でも弁明が通らない。道広は隠居を命ぜられ松前家は一時ではあったが陸奥の方へ移封された。このとき松前家では「隆民殿」という額に掲げ換えて他意のないことを示したというのだが、今の世だったら、この文句がまた騒動の種になったかもしれぬ。
 序でにいうが、露伴の「雪紛々」などは映画に撮って十分面白い筋である。好色物には誰も飽きた。変ったものを作ってもらいたい。             (六・九)



最終更新日 2005年04月22日 01時48分07秒

高田保『ブラリひょうたん』「教育宣言取締法」

「教育宣言」という案、果たして各新聞が問題にした。「首相個人の倫埋観に終らねばいいが」とは朝日紙、「一片の美辞麗句だけで空文句に終らねばいいが」とは毎日紙、「国民の自律性を妨ぐるに終らねばいいが」とは読売紙、いずれも一致して無用だと述べている。かくも各紙が見事に一致したところをみれば、これが国民の絶対多数説だとなるだろう。これに対して「絶対多数党」が少数説として何と答えるか、面白いことである。
 真面目な国事を面白がってはいかんとしかられるだろうが、面白いものは誰にも面白い。さてスト中止の大学生が遊びに来て、こんなのはどうですかと書いたものを出した。「教育宣言(試案)」としてある。披いてみると、「吉田惟フニワガ民自党国ヲ治ムルコト公平ニ……」ふざけちゃいかんと、さすがの私も笑いながらだがタシナメて置いた。
「教育勅語に代るもの」などというから大学生に面白がられたりする。いやそればかりではない。勅語ということからついそれを唯一のものと考える。新聞紙の論調も「吉田宣言」だけ存在の場合を考えてのようだが、ファッショ時代の東条「戦陣訓」とはわけが違うべきだろう。「吉田惟フニ」が許されるなら「徳田惟フニ」だって許されるべきだ。各党各派がそれぞれに「教育宣言」となったって別に差支えはあるまい。
 無用なものは幾つあっても無用かもしれぬが、無用同士で競争するところに人気が沸き立つ。流行歌謡ぐらい無用なものはないが、各社の競争でご承知のとおりだ。各党各派が宣伝で競争すれば「教育宣言時代」が現出するかもしれぬ。ラジオがその気勢にのってお好み投票をやる。―今週の第一位は何百何千票で依然「吉田宣言」が……われながら馬鹿々々しい空想だが、こうまでなれば国民も否応なく教育というものをその本質で吟味することになるだろう。無用も扱いようで時には有用の効果を生むものである。
 もちろんこうなれば、いわゆる「好ましからざる」とか「非日的なる」とかの宣言も現れるかもしれぬ。今までは学校だからと曖昧(あいまい)にしていられもしたが、こうなればどの宣言を採用すべきかで、いたるところのPTAで乱闘がはじまったりするかもしれぬ。しかしそんな点は心配になるまい。政府は早速に「教育宣言取締法案」を国会に提出するだろう。その場合は絶対多数党だ。「吉田惟フニ」で押通すことができる。
 金のかかる政治を吉田首相は戒めたそうだ。教室を整備したり教員の生活を安定することは金がかかる。「教育宣言」は金のかからぬ一例を示したつもりかもしれない。
                                   (六・一〇)



最終更新日 2005年04月22日 01時50分50秒

高田保『ブラリひょうたん』「贈りもの」

「時の記念日」今年サヴィエル記念の年であり、あたかもその祭事の時に当っているので、一段と意味あるようにおもあれる。サヴィエル神父はわが国にはじめてキリスト教をもたらしただけではない。はじめて時計というものを輸入してもいるのである。
「大内義隆記」という記録の中に「天竺の贈りもののさまざまなるその内に、十二時を掌るに夜昼の長短を違えず響く鐘の声」と書いてあるそうだが、その天竺の贈りものこそはサヴィエルからだった。クスマンの「東方伝道史」によると、平戸にいたポルトガル人が、大名に会うなら何なり手土産を持ハ、て行かなければ駄目だからと、すすめて持たせて寄越したことになっている。
 伝道一途の神父は、神の道を説くことこそが偉大なる土産だとばかりに全くの手ぶらで山ロへ乗込んだらしい。服装ももちろん粗末なものだった。領主大内義隆と一応は対面できたものの、その貧乏たらしい風体で一顧も与えられず終ったらしい。京都まで行ったのもそのままだったから、果たして時の公方足利義輝には門前払いを食わされてしまった。義隆へ時計を持って行ったのはだから二度目である。一旦平戸へもどり、今度は服装も美々しくし、印度総督からの信書を持った上で出直した。
 時計の外に何か楽器も添えたようだが、この手土産は大いに効果があった。前とは打って変って鄭重に扱い、返礼としてかなりの金子をくれたりした。がサヴィエルは伝道以外は何の望むところもないから、おいそれと許可してさえくれればと、固く断ってそれを受けなかった。義隆大いに感激。日本の坊主とは格段の相違だとばかりに、喜んでその便宜を与えてやった。
 サヴィエルに次いで京都へ入ったのは、カスパル・ビレラという神父だが、前のサヴィエルの時で()りたと見え、やはり手土産を足利家へ差出している。それがやはり時計だったから面白い。もっともこれは自鳴鐘ではなくて砂時計だったそうだ。それでも「日本人の誰一人がそれまで知らなかった珍物」として非常に喜ばれたと伝えられている。お返しとして将軍から盃を賜ったというだが、酒を飲まされたのだろう。一説には茶を下されたともなっている。とにかくこのためにやはり伝道が許可されたのである。
 右の二つの話とも、贈りものをしなければ駄目なのが日本人ということになりそうだ。昭電公判で日野原被告は率直に、将来お世話になりたかったので、と、大蔵大臣への贈賄を告白したが、大臣がそれを受取って望むとおりにしてやったのは、昔からの伝統に従ったのかもしれない。                                                (六・一一)



最終更新日 2005年04月22日 01時53分39秒

高田保『ブラリひょうたん』「山師」

 ――救世主とは、皆さんの苦みをすべて自分に担って下さる方のことです。
 ――ありがたい! つまり税金を払ってくれるというんだね?
 こういう時代のお説教はむずかしいことだろうと思う。
 昔、奥州のある村へお坊さんがやって来た。例によっての本堂建立である。ご寄進を願いたいとまず庄屋さんに申入れた。すると  「折角だが時期がいけませんや。ご承知の凶作で今年はみんな税金が納められないんですよ、村中が滞ったのは上に立っ奴の不取締りだというんで、組頭の連中がごっそり代官所へ引立てられてしまいました。こんな際に一文だって寄進なんぞしたら、何といわれるかしれやしない。お察しをお願いします」
 坊さんは聞いて、気の毒という顔をした。
  「して、村中の税金というのはいかほどでござるか?」
 余計なことをたずねる坊主だと、庄屋さんは(しやく)にさわったが、
  「百両」
  「それならばここに百両ござる」
 坊さんは頭陀袋の中からそれを取出した。庄屋の前へ置いて、「今日まで勧進で集った浄金だが、本堂建立というも衆生済度のため、現在それほどの難儀に迫られているというのなら、これをお使いになって救われるがよろしい。本堂よりは生身の人間の方が大切だ」
 まことにわかった坊さんである。見もしらぬ相手なので一応断ったが、しかし庄屋は結局それを受取った。早速代官所へかけつけ、この通りと完納したので、牢へ入れられていた組頭の連中は釈放されたが、しかし代官所では不審を持った。
「村中(さか)さに振っても一文も出ぬと、前に申したのはありゃ偽りか?」
 実はと、坊さんのことを話した。すると代官が顔色を変えた。見しらぬ坊主とあれば他藩からだろう。自然この話は洩れることになる。その際にお(とが)めを受けてはというのですぐさま奉行へ訴えた。奉行としても計らいかねるので殿様に言上した。
「その坊主を呼べ」
殿様もわかった人物だとみえ、厚くその坊さんをもてなし、金銀若干を寄進した上に、領内の勧進勝手たるべしという鑑礼をくれた。
 資本の百両はたちまちもどったことはもちろん、お上人さまという評判が高まって、またたく間に二万両ほどのものを集めて帰ったという話-常陸の木喰観海である。書かれている「桃渓雑話」には「山師坊主なり」と結んである。山師とは政治家という意味だろう。政治屋ではこんな芸当はできない。                   (六・一二)



最終更新日 2005年04月22日 01時55分48秒

高田保『ブラリひょうたん』「相違」

 組合の決議とあるからには、イエスと答えて従わずばなるまい。義理に迫られてのスト突入、これを何と申すか?
 ――はい、イエス義理スト!
 神宮外苑に三万の信者が集り、讃美歌を合唱してお祈りをした。荘厳ミサ、この方はイエス・キリストである。
 それぞれ信ずるところに従っている。私のような不信心者には全く別な世界である。この二つの信心行事が時を同じくして東京にあった。妙な気がする。
 あらゆる愚の中で、恋すろものの愚ぐらい楽しいものはない。とこれはプラトンの言だそうだ。恋は信仰なり、信ずうものは幸なろかな、とにかく自分に生きようとはせず、愛するものに生きようとしている。スト中の若い駅員の顔、日ごろよりも活々としていた。ストというものの経験は私にはまったくない。プヂングの味は食ってみなければというから、その味は臆測もできない。経験考をして語らしめよ! で私はそっと彼等の一人にきいた。面白いかね?
 にやにやと彼はただ笑った。はじめて接吻をかわした後のような表情だった。その表情には主義も主張もあるべきではない。夢中の陶酔があるだけである。
 職場大会なんていうものはつまり、宴会みたいなものでしてねと、ある中年の労働者が話してくれたことをおもい出す。早く酒を出して早く酔払って早く気分を出そうとするのが宴会の定法だ。気分が出てしまったらもうそれっきり、酔払った奴の天下になる。飲めない奴はこっそり退散するより外はない。お酌の女の裾裏の真赤な色が、その気分をいよい掻きたてるように真赤な――いやそこまでいうことはあるまい。
 恋愛が愚かどうかぱ問題として、宴会というものが大体賢いものではないことは定説のようである。が宴会費はそれへ出席する愚者が払う。ホ:マーいわく「愚者はおのれの支払いによって賢くなることを学ぶ」だが今度の義理スト宴会費は誰が払うか、何日間の国鉄の損害何千何百万円と新聞に出ている。しかし神宮外苑の荘厳ミサの費用は出ていない。どれだけだろうとも、信者以外には一文も迷惑をかけることではないからである。
 罪のないものに迷惑をかけた義理ストと罪あるもののために罪を担ったキリストと、こう比べてみると格段の相違である。だから、なかなか固く結んだ義理ストであったが、それに対してはたちまち命令が一下した。
  ――やあ、ホドケ様だ!                        (六・一四)



最終更新日 2005年04月22日 02時00分33秒

高田保『ブラリひょうたん』「PTA」

 連日の愚文、愛読か憎読か、とにかく熱心に読んでいられる方があるとみえる。所感を述べた手紙を私宛てに下さるのが多い。一々に返事申上げるのが礼だが、生来が不精で、それに存外非社交的なので自然怠ってしまっている。この際改めてここにお詫びを申上げて置く。
 愛読か憎読かといったが、目障りだから即刻止めてしまえというのもあった。行儀正しい書道正格を守った字で、吉田さんの攻撃をもっぱらやるのが怪しからんと書いてある。こんな方へなまじ悪筆で返事など出したら、字さえ碌に書けぬ奴が何ができると、内容も見ずにまず軽蔑されるだろうと恐縮した。考えてみると活字というものは実にありがたい。書くものを内容本位にする。デモクラシーは活字的ということかもしれない。
 吉田さんの攻撃をもっぱらやるなどという意識、毛頭私にはない。が妙な工合で私は妙な憎まれ役を買ってしまっているらしい。同じ町にいるおかげで、吉田さんの土足入場という事件を取上げて説を述べてしまった。ところが世間はかねてから吉田さんの白足袋を何やかやと、漫画的に扱っていたものだから、ついそれと混同して、白足袋を非難したと取ってしまったようである。傘雨久保田万太郎宗匠までが、わざわざ、
  白足袋の余寒の白さ穿きにけり
 という句をものして、似合っても似合わなくても悪くいわれるのが「白足袋」の昔からの運なのだと、味方して弁護したりしている。
 がさすがに地元では、子供だってそんな間違いはしない。先日、町の中学校で吉田さんが子供たちに話を聴かせてくれたのだが、心配して先生側ではあらかじめ、暖かい時でも足袋を穿いているなどに可笑しくおもってはなりませんと、一応の注意を与えて置いたのだそうだが、子供たちは白足袋なんぞはちっとも問題にしていなかった。当日吉田さんが現れると、お互いに耳許で「ゾーリ大臣だよ!」  あなたの責任ですよ、私の許へ言いに来た町の人があった。
 どうも同じ町の内というのがいけない。この学校訪問の日、PTAの人たちが吉田さんに何か訴えかけたら、PTAとは何ですかと説明を求め、輸入されたものですかと重ねて質問をされたので変に落胆させられてしまったなどと、張切ってPTAの仕事をしていた人が心中を述べに来たりする。それに対して妙な返事をすれば、また憎まれ役を買うことになるのだろう。だから警戒して「いや、えらい人はそんな末梢的なことを知らんでもいいのですよ」すると相手は眼をぱちくりさせて、アナタは誰でしょう第一問、といったような顔をした。世に処するの道はむずかしい。                  (六・一五)



最終更新日 2005年04月22日 02時03分36秒

高田保『ブラリひょうたん』「人間危機」

 ある子供が、小さな盗みをした。がそれを知っても親は何ともいわなかった。子供は自由に育てるのが新教育だ、とその父親はおもったのかもしれない。
 前のよりはすこし大きい盗みを、その子供がやった。がやはり父親は叱らなかった。叱られぬままにその子供の盗み心は、盗み癖になってしまった。何遍か見つかってつかまえられ、前科が重なり、最後とうとう死刑の宣告を受けた。
 ――この世のおもいでに、何なり望むことはないか?
 裁判官がいった。刑執行の前の最後の慈悲が与えられたのだ。
 ――父親に接吻したいだけです。
 悪人ながらも愛情のあることだと、人々は感動した。早速に許されて彼は懐しの父親の許へ駈け寄った。父親も彼を迎えて悲しく掻き抱こうとすると、
 ――やい貴様のお蔭だぞ、畜生!
 憤然としてその死刑囚は、父親の鼻の頭へ喰いついてそれを(かじ)りとってしまったというのである。フランスの古い教訓小話の中に入っている。
 今日の日本に「学校」が存在するか。「校舎」はたしかにあるが、教育がなかったら学校とはいえない。六三制の危機などというが、それ以上に「教育の危機」である。新教育という名の下に子供たちは放任されている。いまの子供たちが何年かの後、誰かの鼻の頭を噛りとろうとしなければ幸いである。
 諸君の近くに子供たちがいたら、改めて読み書き算数の試験をしてみるがよろしい。諸君の子供時代とどれだけの開きがあるか。これが教育の度合である。「社会科」などという新しい課目があるが、完全な市民となるためにまず必要なものは、常識としての読み書き算数であろう。これこそ人間としての能力の基礎的なものである。それなのにーと私は心から義憤さえ感じている。
 ある学校で、子供議会というものをみた。「議長!」と手を挙げる。「ご異議ありませんか?」と駄目を押す。見たところ立派に教育されているようでもある。だがこんなことは要するに猿芝居にしかすぎない。子供たちは自分で自分の結論をつけるということを失い、つまりは自己を失い、それを失ったことさえ気づかぬほどの無能力者となりそうである。あああのころに、読み、書き、算数する能力さえ与えられていたら、自力でつかむべきものをつかみ、立派に自分というものを確立できたろうのに! とそのときに悔んでも追いつくまい。
 こう考えると「教育の危機」どころではない。「人間の危機」である。   (六・一六)



最終更新日 2005年04月22日 02時06分30秒

高田保『ブラリひょうたん』「早慶戦」

 ある議員、一年生だが、議場で大いに弥次(やじ)った。声が徹底し、まことに元気がよろしい。その党の幹部が感心すると、
「何しろあいつは、野球ファンなのでね」
 野球大流行、まことに子供の間に著しい。子供は野球のことなら何でも知っている。野球のことよりほか知ろうとしない。自分たちの知っていることを知らぬから先生を軽蔑する。子供たちの信頼と尊敬とを得たい先生は、新聞の運動記事を真っ先に熟読する。
 早慶戦、君はどっちかねと尋かれる。どっちでもないと返事すると、不埓(ふらち)だという顔をされる。早稲田は私の母校だが、あんなものに勝っても負けても母校の名誉には関係あるまい。学生時代の早慶戦にも、私ばかりではなく当時のクラス仲間は、一人だって応援なんぞには行かなかった。もっともクラスというものはひねくれ屋の多い文科である。
 しかし今年はマッカーサー元帥までがメッセージを寄せているではないかという。大したことだ。がこんなことで元帥と意見を異にしたっていいだろう。私は大学生時代が学問よりも野球の勝負に眼の色を変えることに賛成しない。物事の順位を間違えると野球大学になる。
 元帥には元帥の信念とそして経験がある。オリンピックの委員長として、アムステルダム大会にアメリカ選手を引率して行かれた。スポーツ熱心はかねてから有名である。ウェストポイント陸軍学校でチームの一員だったと、あの中に述べられているが、後にその母校の校長になられたとき、まずスポーツを奨励した。すばらしい成果を挙げられた。その成果が今次の戦争のアメリカ陸軍の光栄の因をなしたのだとさえいわれている。日本人にも同じ成果を得させようというのだろう。だが違った土と違った空気の中で、果たして一つの種子は同じ実を結ぶものか、これが私の懸念なのである。
 私は私なりに、人生のフェア・プレイを重んずべき精神を会得している。その点でスポーツマン・シップも理解し得ていると自信する。がこれは決して野球に趣味をもったからの結果ではない。それなのに野球に熱狂する応援団がしばしばアン・フェアなのはどうしたことか? 相手方のエラーに歓喜の大拍手を送ったり、喚声を揚げて相手の心理の動揺を図ったり、ああいう空気の中から果たして、元帥のいわれるような「国家再建に役立つ偉大な道徳の力」が生れるか。どうも私には、精々が弥次専門議員を出すくらいのような気がしてならない。
 つまり私はマッカーサー元帥と日本人の野球熱の正体に対する見方が違うのである。
                                    (六・一七)



最終更新日 2005年04月22日 02時08分53秒

高田保『ブラリひょうたん』「科学と信仰」

 科学を拒否した信仰はと書いた一文が、池へ投げた石となったらしい。「黒板」欄に論争が起きている。割って入るつもりはないが補足したい。
 科学と信仰との不一致のために起きた事件は数限りなくある。たとえばこの不一致のために殺されたのは、地動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノである。科学を拒否した教会の手に捕えられ、牢屋へ入れられて、その果てに「血を流さぬように」という慈悲をもって火灸にされた。
 同じ目に会ったのはガリレオ・ガリレイである。彼も同じ理由で捕縛(ほばく)され、投獄され、拷問され、最後に転向を誓ったので許されたというものの、彼の魂はまったくぶち殺されたのだった。
 ダーウィンの名著「種の起源」を拒否したのも信仰である。悪魔の説だとしてそれをぶっつぶすために教会は大童(おおわらわ)となった。それでオックスフォードの学術大会へ「説教僧正」とうたわれた当時の有名な雄弁牧師が出かけて大説教をした。しかしこの僧正は肝腎の「種の起源」を読んでいなかったのだそうである。だから説教はできたが講演はできなかった。
 このときダーウィンのために「片手落ち」の信仰をこっぱ微塵(みじん)に粉砕したのは、偉大なる科学者のハックスリである。「説教僧正」の雄弁に対する彼の簡明な答えは、有名なものとして残されている。いわく「私は自分の祖父が類人猿であっても恥じようとはおもわない。しかしもしも私の祖父が、何の知識も持っていない科学の世界へ割り込んで来て、巧みに言葉の綾をあやつりながら、宗教的な偏見に訴えて真理を誤魔化(ごまか)してしまおうとするような、そんな卑劣な人物だったらそれこそ恥じなければならない」
 ブルーノからは三百五十年、ダーウィンからは九十年の歳月が流れている。信仰は時間を絶した彼岸のものだといっても「片手落ち」の信仰だったらこのとおりに生命がないのである。私は生命のある信仰のために「片手落ち」を戒めたつもりだった。
 ダーウィンの「種の起源」が発表されたとき最もそれを喜んだのはマルクスだったそうだ。時を同じくして彼の社会学説が発表されたのである。「ダーウィンは私のことを知らぬだろう。しかし彼こそわが第一の革命の友だ」こういって彼の名と共に自分の名が並べられるのを誇りとしたというのである。さてこのマルクスに対して「片手落ち」でない信仰、となるとどんなものだろう。大方の宗教家諸君に質ねてみたい。         (六・一九)



最終更新日 2005年04月24日 18時44分06秒

高田保『ブラリひょうたん』「大感傷」

  帰りける人来れりといひしかばほとほと死にき君かとおもひて
 いまだに異国抑留の身の上の人がいる。家族の方も辛い。引揚再開はとび立つばかりのうれしさだが、船が着くたびに喜び合う人々ばかりではない。「ほとほと死にき君かとおもひて」この落胆の切なさは深い。早くそれの一人もないようにしたい。
 この歌はしかし引揚者家族が読んだものではない。万葉集中、狭野茅上娘子となっている。恋しい夫が北方へ流された。何年が程かを精一杯に待ち暮らした。待つ甲斐(かい)あって後にはめでたく戻って来たことになっている。
  わが背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな
 精一杯に待っているのではあるが、気崩れというものが時にはある。いっそ死ねたらともおもうだろう。いや一目会うまでは何としても生きねばならぬ。が現代は待つだけで生きられた天平の昔ではない。待ちながら生きるためには働かねばならぬ。生きるに足るほどの働ぎとはどんなことか。万葉人などには想像も及ぼぬ人生である。
  ひと/゛\には住み悪しとそいふすむやけく早や帰りませ恋ひ死なむといふに
「異国の丘」という歌を聴いてある夫人がいう。あの歌も現地で現地の方がうたってこそとおもいます。それをのんきそうに、ラジオの素人のど自慢などで聴かされると、ただもう腹立たしくなってたまりません。恋い死ぬばかりに待ち続けている人にとっては確かにそうだろう。しかし歌っている当人は存外あの歌の感傷を自分の感傷として、素直に同情しているつもりかもしれぬ。ということは、世間の同情などというものはいつも、流行歌的感傷ぐらいの度に止まっているものだということである。恋ひ死なむというほどの命がけの大感傷とは、甚しく距離がある。
  あめつちのそこひのうらに吾が如く君に恋ふらむ人はさねあらじ
 万葉娘子の絶唱はこのようにはげしい調子で高鳴りした。が現代の待つ人々の気持も決してこれに劣るものではあるまい。おなじような絶唱がやはりどこかに、ひそかに生れていることであろう。それを掘出して編集しようとする意志のジャーナリストはいないか。カストリ雑誌は不景気のために大分整理されたというが、まだまだ雑誌屋の店頭はにぎわっている。夫婦和合の秘訣などというものばかり集めるのが婦人雑誌の要領でもあるまい。しかしそういっても多分こう答えられるだろう。「そんなもので売れましょうか?」
 そんなことは私にはわからない。私はただ引揚者家族の生のままの感情をそのままスターリン氏へ取次ぎたいの 57である。恋ひ死なむという命がけの大感傷の炎で、鉄の人を()いてみたのである。(六・二三)



最終更新日 2005年04月24日 18時46分26秒

高田保『ブラリひょうたん』「葉隠れ精神」

 私は海岸町の大磯に住んでいる。広島の海岸に住んでいる友人が久しぶりに見えた。四方山(よもやま)語らっていると、海が見たいといった。山からではあるまいし、珍しい海でもないじゃないかと笑うと、友人は真面目な顔で、でもこっちには波があるだろう。
 広島の海は瀬戸内海だから、大磯の海に比べたら湖水どころか池みたいなものだ。なるほどそこから来れば珍しいだろう。早速案内すると、うねってはうねり返す太平洋の荒波を、感心したように眺めて帰って行った。
 その瀬戸内海で、青葉丸の災難があったのだから台風というものはおそろしい。
 鍋島の殿様の直茂もここの台風で散々な目に会ったことがある。わしは船がきらいじゃなどといっても、江戸への時は仕方ない。ところがある年大ジケに出会った。出たときは順風だったのが(にわか)に吹き出し、夜になっての大波、帆柱はもちろん舵までが滅茶苦茶にやられてしまう。船頭も手のつけようがない。こうなると安閑と御座所などと澄ましてはいられない。万一の場合は何なりとお取りつき下さるよう、と甲板へ家来が手をとって連れ出した。
 と闇をすかして、お供の船がすぐ傍をはしっているのが見えた。そっちは舵の故障もないとみえる。「あの船にもやえ」と殿様は呶鳴った。そんなことが出来るものか出来ぬものか殿様だからご存知ない。するうちにその船影が見えなくなった。殿様大立腹、「屋敷へ着いたらあの船の者どもに切腹申しつけるぞ!」家来にとってはこの方がおそろしい台風である。
 バリバリという音がした。折角の代え舵がまた折れたのか?「いえ、船板を踏み折ったのでございます」素人がやきもきしても始まらぬので家来がこう答えた。すると「わしをたぶらかすとは憎っくい奴、それへ直れ!」と来た。名君直茂というのだが、どうもこれではうなずけない。
 そうこうするうち、いよいよ浸水、それと見て「腰の物をよこせ!」そんなものを差したら泳げるものではない。家来が止めると、「いや泳ぐためではない。死骸丸腰といわれぬための用心じゃ」昔はこんなことをタシナミとして賞讃した。タシナミを捨てれば生きられる場合でも、タシナミを守って死んだのだから後世の者にはわからない。
 幸いにして夜が明けたときは明石の浦で、やっと助かったという話。例の「葉隠」の中に出ているのだが、屋敷へ帰っての後、命冥加を喜んだだけで、お召の船を見捨てて通った者については、ついに何のお(とが)めもなかったことを「諸人感じ奉り候となり」として殊更に誌してある。こんな書物が戦争中は、聖書のようにありがたがられたのである。(六・二五)



最終更新日 2005年04月24日 18時49分30秒

高田保『ブラリひょうたん』「書画風流」

「無潤不墨斎」と号した文人が中国にあった。潤なければ墨せずと読むのだそうである。潤筆料の潤である。文人とあるからは墨するのが商売だから当然だろう。
 鄭板橋は求めに来る人の為に、ちゃんと潤格をきめて掲示して置いたそうである。大幅六両、中幅四両、小幅三両、品物のお礼よりも現銀の方がうれしい。うれしい時の書画は出来がよろしい。貸すことお断り。
 釈月僊は乞食僊と仇名(あだな)された。絵をかいてくれと頼まれると、いくら寄越すかとすぐ聞き返したからだそうである。かくして蓄めこんだ金は当時の価で数千金、という非常に汚いようだが、この金で彼は無檀徒の破れ寺を再興し立派に本堂を建立した。パンパン小説の稿料をセリ上げセリ上げて百万金を重ねている当代の作家は、多分それを白鳥会館へでも寄付するだろう。
 蜀山人も頼みに来る客への文句を、壁に貼り出していたそうだが、しかしこれは潤筆料には及んでいない。うるさい客を上中下に分けただけである。上は速かに書く、中は紙絹を預かって置く、下はお断りする。古道具屋へもって行って売る人、もちろんこれは下の下だが、何かわからんがとにかく書かせて置けば得らしいからという人、これに対しては「此類婦人に多し」と注がついている。神近市子さんでも聞いたら何とかいうことだろう。では蜀山人女ぎらいだったかといえば、上の部の最後に美人のちか頼みとしてさらにことさら「人づての頼みでは受取らず」これなら阿部真之助さんだって即座に書くだろう。
「閣下、御閑暇の折にどうぞ御一筆を」と希望するのは、いかにも閣下の高風を慕う形で、閣下の方だっていい気持だ。昔の役人を懐柔する上策だったそうだが、いまの若手官僚などどの程度この御一筆がこなせるか。そんな疑問は別として、この場合に潤筆料をやったり取ったりは贈収賄になるものかどうかである。昭電被告の諸君はこの手を使っていないらしい。
 役人になったその時から絵の稽古などしたら、局長になる頃は素人だまし位のことはやれるだろう。そうなると次のような応対ができる。
「局長、お近づきの印に一つ、何か描いて戴きたいですな」
 この場合は、洋画の方が工合がいい。
「二十五号位でないと描く気になれんね」
「いや、もちっと小さく願いたいので、十号ではいかがでしょうか?」
「けちな絵なら描きたくない」
 他人の誰がいたって、この問答なら立派である。一号当り梅原竜三郎並みのものを請求しても、その高下では法律に問われる筈はあるまい。            (六・二六)



最終更新日 2005年04月24日 18時52分57秒

高田保『ブラリひょうたん』「義務・権利」

 外貨保留制度が許可される。業者の海外行きができるようになる。めくら貿易もだんだん明るくなる気配、まことに結構といったら、まだまだ日本人はそんなバカなことをやっていますかと尋かれた。めくら貿易ということを、相手をメクラにしたインチキと勘違いされたのである。
 この勘違はしかしその人の粗忽(そこつ)ばかりでもない。日本人にはメクラ貿易の前科があった。イタリヤで蚕の病が流行し、すっかり根絶やしになってしまったので、種紙の買い付けを日本に向けてした。その注文を受けてそれもうけうとばかりに日本人は、大急ぎにそれの「製造」をやった。製造というのは、紙に糊を引いて芥子粒を貼りつけることである。文久元治の頃だそうだが、一挙にして信用を失ったこというまでもない。
 生糸の束の中へ鉛を入れ、油樽の底へ水を入れ、目方分量を誤魔化したなどということ、昭和の今日ではまさかと言いたいが、火にかければたちまち爆発するマグネシュームの鍋釜(なぺかま)を平気で製造しているのだから、この伝統はすでに亡びたなどとは言いきれない。いつぞやの米誌が、日本というのは大した国だ、粗悪酒の取締りをやったら「一四七五年製ウィスキー」という珍物が現れたと笑っていた。これこそはおそらく、本当に人をメクラにする恐るべき代物だろう。
 かねてからライターの製造をしている人に会ったら、これはどうですかとダンヒル型の製品を見せられた。本物と見比べてちっとも見劣りせぬだけの自信をもっていますといった。使い比べてみたらどんなことになるかと尋いたらイヤな顔をした。
 輸入商品にはすべてその生産国名を明らかに記載すべし、としたのはまずイギリスの商標法だったそうである。粗悪な外国品の流れ込むのはいいが、それに(だま)されて国民が損をしてはいけない。「メード・イン・何々」とされさせて置けば、この品は劣等なりというレッテルになる。真面目な製品を出している国内業者も救われるだろう。
 ところがいつか妙な結果になってしまったそうだ。多くの人たちがことさら「メード・イン・ジャーマニィ」としてあるのを探して買うことになってしまった。この品は優秀なりというレッテルがついていたからである。こうなると生産国名を明らかにということは、ドイツ業者にとっては決して義務ではない。英国商品と区別する大きな権利となったわけだ。
 よろこんで使い比べをしてもらう料簡でないと、義務から権利への飛躍などできるわけのものではない。ライターだけのことではない。            (五一・六・二八)

◎注
差別的言い回しが使われていますが、一九五一年に書かれたものであり、そのまま掲載します。


最終更新日 2005年04月24日 18時57分38秒

高田保『ブラリひょうたん』「サクラ」

 ラジオのお好み投票音楽会中止。理由はサクラの投票がふえるばかりで、今やサクラばかりになったからというのだが、そんな馬鹿なサクラはない。
 スペインの舞姫アルヘンティナが、ロンドンの舞台へ出た。その初日、スペイン大使一行がボックスの客になった。やがて幕が上る。するとそのボックスの辺から舞台へ帽子が飛んた。舞台に対する歓迎声援のしるしである。また飛ぶ、また飛ぶ、舞姫はそれを両手一杯に引っかかえて感謝した。場内一斉に拍手。翌日の新聞が「大使、母国の舞姫の舞台に帽子を投げる」大きく記事になったことはいうまでもあるまい。
 ところで、この新聞記事に間違いはないのだが、真相をいうなら一寸違う。最初の帽子は大使のボックスの隠から飛んだのだそうである。その隠のボックスというので、舞姫をロンドンまで招いた興行師のコクレンの席だったのだそうである。その席にはコクレンの友人のスペイン人が、コクレンに頼まれて坐っていたのだそうである。ここまでいえば順序はわかるだろう。隠のボックスのサクラに釣り出されて、スペイン大使はそれを投げたのである。大使が投げれば一緒にいた館員も投げることになるだろう。
 サクラでないものを引出すのが本当のサクラの働きである。だからサクラは巧みな扇動者である。気転を利かせて急所に火をつける。ばっと大衆が燃え上る。燃え上らせてしまえばそれでもういい。だからサクラの成功は、サクラの必要をなくすところにあるといえるだろう。だんだんとサクラぽかりになってしまったお好み投票などというのは、サクラの名に値しない。ただのインチキというべきである。
 芸人の人気にサクラはつきもの、何もアルヘンティナの場合のコクレンの才覚ぽかりではない。昔の芝居小屋の大向うからの掛声は、すべてツボにはまって見事だった。などと追懐する人があるが、昔はなにがしかの報酬を払ってサクラをつとめさせたものである。だが、いかに「大統領!」などと呶鳴らせても、それに相応するだけの何かを持っている芸人でなければ決して火のつくものではない。サクラはサクラだけに終わるのである。スペイン大使にしても、相手がアルヘンティナだったればこそ、釣り出されたのだろう。
 現在の政党で巧みにサクラを使っているのは共産党だけのようである。ほかに精々がお好み投票のインチキぐらいの知恵しか働かせていない。それにしても現代の政治家を、芸人と考えてみて、サクラをサクラとして有効に使える器量のものは誰々か? 指を折ってみるのも夏の宵の一興かもしれない。                   (六・三〇)



最終更新日 2005年04月24日 19時55分10秒

高田保『ブラリひょうたん』「敬語」

 九州の雲仙のある池で、天皇が珍しい水藻を見つけられた。早速に踏み込んでそれを採ろうとされる、と慌てて侍従が引止めて――陛下、お危うございます。
 ところがその時すでに新聞社のキャメラマンたちが、じゃぶじゃぶと踏み込んで、生物学者としてのその天皇をキャッチしようと構えていたのだそうだ。でそれを指さされて――あの人たちが危くないのに、なぜ私だけが危いのか?
 侍従は答えた。――もしも陛下が、新聞社の腕章をおつけになっていられたら、どうぞお入り下さい。
 これは米誌「タイム」に出ていた。「金枝玉葉」というような言葉のない国の人の方が、かえってこの場合の天皇の心持を理解するかもしれない。天皇も人民も新しい自由を悦んでいるのだが、しかし天皇に対する「束縛がまだ残っている。そのことをヒロヒトは不服としている」と書いている。
「なぜ私だけが」というのは、明らかに天皇の持たれている抗議であろう。「金枝玉葉」という意識はしかし侍従にばかりではない。国民の観念の中にはまだ残っている。天皇自身は国民と全く同等の人間であろうと努めていられるのに、却って周囲がそれを妨げようとしていはしないか。昔流の言葉をつかえば、これは不忠である。
 英国のエドワード七世が、旅先で劇場に入られたことがあった。ウィンナ風の陽気なレビュウを演っていたのだそうだが、たまたま一人の歌い手の歌ったものが、皇帝の感情を害した。この場合に皇帝は、はっきりその不快を色に出したばかりか、決然席を立って帰ってしまわれたそうである。見物席にいた一般の客もそれを見てぞろぞろ退場してしまったそうだが、ここに英国の君主の人間的な自由の在り方がある。(しやく)にさわっても腹を立てることは許されぬとしたら、それは人間失格といわねばなるまい。
 芸術院会員その他、文化人としばしば会食をされたようだが、存外文化人の中に、人間対人間の美しい関係を忘れて「金枝玉葉」的な奉り意識に止まっている人がありそうである。その日のことを語ったり書いたりの端々にそれがうかがわれたりする。当人たちはそれを忠誠心のつもりでいるのかもしれない。
 ベルギーの皇帝が、その国の芸術家を招いて、皇后とともに数刻の清談を交わされたことがあった。その折には「一切の敬語を省くこと」という注意があったそうである。同等の人間同士の間のエチケットとして以外に敬語など、もはやあるべきはずのものではなかろう。だが、それが残っている。たしかにまだ残っているようである。      (七・六)



最終更新日 2005年04月25日 00時09分47秒