薄田泣菫「女性の藝術」一

女性の藝術
 男と女  この二つの性の間には、互ひに了解することのできない性と性格との秘密がある。私たちの思想行為はどんな詰らないものに(いた)るまで、この性と性格とのどん底に根を下ろしてゐるのを思ふと、昨日まで互ひに気心を知り合つたと思つてゐた恋人や、または連合(つれあひ)に対する了解のやうなものも、実は自分の性格や性に基いた単なる解釈に過ぎないで、真実の意味における了解の分子には甚だ乏しかつたのに気がつくだらう。ただわれわれの日常生活ではお互ひに何事もいい加減な点で断念(あきら)めたり、弥縫(ひほう)したり、誤魔化(ごまか)したりしてゐるので、真実にそれに気がつくのは、まつ夫婦喧嘩をする一刹那くらゐのものだ。誰にしても夫婦喧嘩をしたことのある者は(私は世の中に口舌(くぜつ)のない夫婦があらうとは思はない。万一そんな(やから)があるとしたら、その双方かもしくはどちらかが性と性格とを()つてゐないのに相違ない)、相手と自分との間に、口舌の事情のみでなく、その事情の裏に縫ひつけられた互ひの性と性格との相違に気がついて、今更のやうに両性の問に横たはつてゐる永久の問罅(ロすきまロ)に眼が覚めるやうな心地を経験したことがあるだらう。ただにそれのみではない。実際両性の問には相慕ひ寄る愛恋の情とともに、一面においては到底取り繕ふことのできない敵対観念がある。われわれは活きてゆかなければならない必要上、この観念をそのままにそつと性の後に包み隠しておくはうが便利でもあり、都合よくもあるからそれを隠してはゐるのだが、その敵対観念が性のどこかに潜んでゐるといふことは、恋愛の情が白熱のやうに燃え上つた次の瞬間には、どうかすると暗い、冷たい憎悪の念が顔を出すのを見ても解らうといふものだ。
 丁抹(デンマーク)の作家カリン・ミカエリス女史は、三十女を描き尽したバルザツクの旧事(ふること)ではないが、小説『危険な年齢』で四十女を描いた。「もし男が四十過ぎた婦人の内部生活に起きたものを知つたなら、彼らは悪疫にでも出会(てくは)したやうに逃げ出すか、または狂犬を見付けたやうに頭を打ち砕くかも知れない」といつたふうに、何の包み隠すところなくその内部生活を暴露(さゐり)け出して見せた。女性の心理描写で名高い仏国のマルセル・プレヴオのごときも、「女作家の作品として男性の観察点から()ることに煩はされなかつたのは偉い」と言つて、したたかこの小説を推賞したものだが、女史もまたこの作で自分の性の秘密を描いて私と同じ意見に到着してゐる。
「婦人科の医者がいくら目端が利いたところで、婦人が婦人同志にしか打ち明けないものは、どんなにしたつて解りやうがない。両性の問には深い永久の敵対観念があるのみならず、お互ひに了解の欠乏といふ測ることのできない淵がある。(たと)へてみたら女の微笑だが、  女の微笑は共同組合の符牒(ふてふ)のやうなもので、言葉では語りきれないものを現す或る形式なのだ。怜悧な女になると、作り笑ひの後に真実の自分といふものをすつかり隠してしまふことさへできるのがある。女は別段大きな声では(はな)さないが、しかし微笑するといふことを知つてゐるので、この方法で自分の有つてゐる本能と内証事とあらゆる魂胆と内部生活の渦巻とをお互ひに見せ合ふのだ。といふのは、女には男の知らない女同志の共同生活があるのを証拠立てるので、女はどんなことがあつても他の女に対して裏切るといふことをしない。それは何も高尚な感情に基いてするのではなく、むしろすべての婦人にとつて大切の共同財産を見せるといふことは、同時に自分自身を裏切ることになるからなのだ。ところが男には女の有つてゐるこの微笑といふものがない、男は性来そんな(しな)やかな怜悧な感情を持ち合せないのだ。畢寛(ひつざらりやラ)男は女に対して何の了解力もないといふことになる。だから女にとつては着物を着ない女一人の前に出るよりかも、いつそ()裸体(ばたか)の男の群集のなかを通りぬけるはうがずつと気楽だ」と言つてゐる。
 ある女がかう言つた。「女は女同志のために流行の衣裳を着るが、この心持はどうせ男には解るまい」と。実際流行の衣裳のために憂身を(やつ)す女心は男には解りやうがない。それは女性が女性自身のために特に訓練し発達せしめた誇るべき一種の官能でもあり、また修養でもあるからだ。男といふものは酒を飲ませたら歌を唄つて騒ぐだらうし、正直な神様を当てがつたらもつと強い悪魔と取り替へてくれと(せか)むだらうが、女には流行の衣裳(きもの)さへ着せてゐたら、別にたいした悪いことは考へない。といふのは何も女に絶えず物に憧憬(あこが)れて()まない力が少ないからではない。女は男に比べて自己の官能に新しい世界を編み出すことが容易でもあり、強烈でもあるからだ。女性の秘密の大部分はその撓やかな官能の力にある。そしてこれを(ひら)くの鍵は男性の硬つばしい掌面(てのひら)には授けられてゐない。
 女性の秘密  女の生涯のあらゆるものは、この性の秘密から出発しなければならない。真実の意味において婦人の自覚といふのはこれなのだ。男性が永い間に(こしら)へ上げた今日の社会と道徳と一切の因襲とが、いくら女の心を(そそのか)さうとも、女はそのままそれを飲み下してはならない。それには男性でなければ了解することも難しいし、また自分のものとすることもできない内容と形式とがある。この男性にのみ都合よくできた社会と道徳と一切の因襲に対して、女性の抗議を持ち込み、その一半を彼らの「(セツキス)」のために奪ひ返さうといふのが輓近(はんきん)に現れた所謂婦人運動で、バアナアド・シヨオの『新聞切抜(プレスカツテイング )』を読むと、某夫人の鋭い皮肉に対して、軍務省のある将軍が「戦場で八度も生命懸(いのちか)けの働きをした者は、自制の道を心得てゐます」といふと、夫人が竹篦(しつべ)返しに「産褥(うぶや)で八度も生命懸けの目に出会(でくは)した女は、ちつとやそつとは悪口も利きますでせうよ」
と浴びせかけてゐる(くたり)があるが、この「性」を忘れない限りにおいて、婦人運動は次第に地歩を占めるであらうし、ひいてはわれわれの文化に、従来になかつた一味の内容と光彩とを添へる時期(じき)が来るに相違ない。

 ここにひとつ見逃すことのできないのは、近世の文明が男と女との問を著しく近寄らしめたといふことだ。教育  とりわけ女子教育の発達は、女にも男と同じやうに、嘘と真理と下らぬこととを教へるやうになつた。従来男の智識はどんな場合でも「二二が四」なのに、女の智識は「二二が三」かどうかすると「二二が涙」であつたが、近世になつて女も男と同じやうに「二二が四」であることを教へられるやうになつたのだ。女にとつてこれは新世界新価値の発見で、彼らはかうして初めて男と同じ地面(ちべた)に立つことができるやうになつた。教育に次いで力があつたのは男女の交際で、交際が自由になるにつれて、男と女とは互ひに他に影響せずにはおかなかつた。男のやうな心を有つた女ができるとともに、女のやうな気持を有つた男も見られるやうになつた。外国電報で議会の窓硝子を(たた)(こは)し、時の為政者に向つて手斧を投げ付けた女子参政(サフレゼ)論者(ノト)の振舞を聞いた者は、現代の婦人にいかばかり男のやうな心を持つたー さうでないにしても、男に似た振舞をしていささかの嫌味(シヨツク)をも感じないー 女の殖えたのに驚くであらう。これには女子の職業といふその経済的独立も(あつか)つて力があつた。イプセンの『人形の家』を読んだことのあるものは、ノラがリンデン夫人に(むか)つて、
「毎晩夜(おそ)くまで閉ぢ籠つて書きましたつけが、時々疲れて疲れて仕様のないことがありましたよ。けど、しかしあんなふうに働いてお金を(まう)けた時はいい気持ですことね。まるで男になつたやうな気持ですわ」
とあつた文句を記憶してゐるであらう。実際職業は女を男の気持にしないではおかなかつた。



最終更新日 2006年02月07日 23時46分58秒

薄田泣菫「女性の藝術」二


 教育の進歩、両性の交際、女子職業の発展などといふ近世文明の(もたら)した社会状態が、著しく男女両性の間を近寄らしめた結果、新たに中件  もしくは中性に近い心持を有つた一階級を生み出したのは争はれない事実だ。ワイニンゲルは各個人は自己の内に「男性」の幾分と「女性」の幾分とを有つてゐる、だから個人の性格を論ずる場合にも、この人はただ男だ女だと言ふだけでは言ひ足りない。そのなかに幾らの「男性」と「女性」とがあるか、その人の思想行為は「男性」に基いてゐるか、また「女性」に基いてゐるかを考へてみなければならないと言つたが、近世における男女の接近は、各自の有つてゐる「両性」のどちらをも呼び覚して、人は自己のうちに「性」の分裂と抱擁とを味はふやうになつた。馴染のない農夫(ひやくしやう)などにはいつでも男と間違はれて、「檀那様檀那様」と呼ばれてゐた仏蘭西(フランス)の女画家ロザ・ボナアルや、両性を当分に有つて余所(よそ)の見る目も痛ましいほどその葛藤に苦しみ、それがためには健康を損ねて死期をさへ早めたと云はれるヰリヤム・シヤアプまたの名ブイオナ・マクラウドの興味のある一生を知つたものは、それは必ずしも他人の生涯でなく、自己の内にもそれと同じやうな「性」の葛藤と抱擁とが絶えず起つてゐるのを認めぬわけにゆくまい。この傾向は近代の藝術家において(こと)に著しい。これは従来主として男性中心(アンドロ・セントリツク)に偏つてゐた藝術にとつて、新しい、ほとんど革命的の推移期だとも言はれる。思ふに藝術の真諦(しんたい)は「(セツキス)」を超越した全人間的なものでなければならない。フロウベエルが言つた 国土をも宗教をも離れるやうに、「(セツキス)」をも離れた中性に近いものでなければならない。藝術の至境はどこまでもハヴロツク・エリスがフロウベエル一流の小説を批評した"architectonic"なところにあるだらう。私も無論それを信ずるものだが、しかし目下のところ私は女流作家の作物にそれを望まうとするものではない。従来の男性中心(アンドロセントリック)の藝術様式を、そのまま用ゐやうとするごとき模倣以外に多くを知らない女流藝術家は、まつ自己の「性」のどん底に掘り穿(うが)ちて、その深みより高々と盛り揚ぐる生命の源泉(みなもと)()む必要がありはすまいか。
 これまで実業に、経済に、法律に、行政に、宗教に、道徳に、また藝術に、あらゆる方面における男性の長い優越は、これら一切の人事に不利益(ふため)な、片輪な影響を与へずにはおかなかつた。特に藝術の場合にこれを言ふと、一篇の思想を情調の上に置いたり、作の効果を重く見るあまりに全体の感じを(おろそ)かにするやうな傾向をさへ生じた。だが、これよりもつと大きい欠陥は人生の見方にある。男性が長い間藝術を支配した結果として(勿論これには宗教道徳その他の方面における男子の優越より起る関係も与つて力があるだらうが)人生の見方において  少なくとも藝術における人生の見方において、知らず知らずの間に(きま)つた型を(こしら)へてしまつた。例へば社会といふものに対して、個人を特別の焦点におく見方などがそれで、ハウプトマンの『職工』や、ゴリキイの『どん底』が、さういふ型に逆らつて、特別に主人公を置かなかつたのは、むしろ思ひ切つた離れ業として批評家を戸惑ひさせたものだが、しかし女性同志の共同生活を有つてゐる女にとつては、さういふ見方は別段新しいことでも何でもない。藝術の様式のごときも、男性は戯曲の五部三点だとか何だとか、とかく複雑なうちに(まと)まりをつけようとする傾向を有つてゐるが、女性はかえつて纏まりのない、断片的な、官能的な、印象派風なものに新しい様式を(はし)めることができようと思ふ。先に言つたカリン・ミカエリス女史の『危険な年齢』などの断片的な、取り繕はない作風には、女性の気分をそのまま()()けたら、かうもあらうかと思はれるほど新味に豊かな描写がある。ただ女作家といふ女作家が、自己の藝術の様式を男性の模倣に得ようとしたので、今日まで女性特有の藝術が生み出されなかつたのは、いかにも残念な次第だ。私は新しい女流作家が自らの「性」に覚めて、従来の男性中心の藝術に対して、滋味の豊かな女性中心の藝術に立たれんことを希望する。  かくして藝術はだんだん全人間的になつてくる日がある。
                                  〔大正3年刊『象牙の塔』〕



最終更新日 2006年02月07日 23時47分24秒

薄田泣菫「摂津大掾の藝術」

摂津大掾の藝術
 摂津大掾(せつ〔、の戸.いしよう*)は今年七十八の春を迎へた。若いもの好きな「藝術」をじつと胸に抱き込んだまま、長い間美しい日を送つてきたが、(とし)を取つては藝を把持(はし)する力も弱くなつてくるので、いつそ(ゆか)から離れて、永久に沈黙の人にならうと心を決めて、(たヒ)しへもない静かな生涯の最後の一曲を今御霊(こりやう)文楽( )に語つてゐる。ほとんど半世紀にわたつて大名(たいめい)のあつた彼が藝術の、どんなものであるかを考へてみるのは、今が好時機であらう。

 思へば長い生涯であつた。大掾は藝術家の生涯として履むべきものは、大抵履んできたといつて差支へがない。彼は所謂アガメムノンの()のやうに早くから故郷の大坂を出て、他国の塩を踏むべく、中国四国から江戸三界まで渡り歩いた。師匠の吉兵衛〔野沢氏、三代〕と一緒に江戸の寄席へ勤めた頃は、彼地(かのち)の慣例が文楽や彦( )の一興行を通じて、語り物を大序から大詰まで打ち通すのとは(ちが)つて、毎夜毎夜題目を()へなければならぬので、自然段数を多く知らなければならず、さうかといつて厳格な吉兵衛がいい加減な点で誤魔化すことはどうあつても承知しないので、彼は(あく)る日の下稽古にどうかすると夜徹(よどほ)()められるやうなことすらあつた。
 彼は江戸で吉兵衛に死に別れてから大坂に帰つて来た。そして春太夫〔竹本氏、五代〕についてまたみつちり稽古を積んだ。その頃の浄瑠璃界は斯道(したう)の技藝を一身に兼ね備へた、元祖竹本義太夫以来の名人といはれた長門太夫〔竹本氏、三代〕が、天稟(てんびん)の才にまかせて往くところまで道を往き尽した跡で、春太夫のやうな名手はあつたにしても、全体の調子はどちらかといへば、嵐の後の静けさに似たるものがあつた。勿論三味線には団平〔豊沢氏、一代〕といふものがゐるにはゐた。彼は若い頃から長門太夫に見出されて、その三味線弾きになつて以来、長門の(すく)れた技藝と相対して、藝の妙諦(めうてい)を極めた男で、彼の三味線は長門の語り口と一緒で、その藝のすべてがさながら黄金の針線か、魔法遣ひの火焔の坩堝(るつほ)ででもあるやうに、調子の高いその旋律からは、悲壮劇の精神が小鬼のやうに躍り出したものだ。
 長門太夫と団平とは、浄瑠璃の技藝をほとんど往くところまで往きつかせてしまつた。その後に出たのが摂津大掾で、彼の立場は随分苦しいものだつたが、幸福なことには、吝嗇(りんしよく)な自然が長門太夫のやうな天才にすら全然は与へなかつた或る物を、彼のためには惜し気もなく(はふ)り出してくれた。或る物とは何であらう、ほかでもない、大掾が持前の美しい肉声そのものなのだ。希臘(キリシア)のピ、、♂ダロスは草つ原に()てゐる間に、野蜂の群れが来て、唇に蜂房(マまカつよもつホ)を編んだといふことだが、大掾もまた蜂蜜に濡れたやうな唇をもつて、ひよつくりと浄瑠璃界に落ちてきたのだ。
 長門太夫と団平の男性的な強い藝風は、浄瑠璃のすべての方面を通じて、長く眠つてゐた旋律の血管に活き活きした生命を通じたが、とりわけその悲壮的な方面においては、従来の浄瑠璃史につひそ見なかつたほどの精采(せいさい)を発揮したものだ..ただ惜しいことには、この方面にかけては浄瑠璃そのものに格別傑れたのがなかつたために、彼らの秀でた技藝も全体としての効果においては、どうかすると空疎なものになりやすかつた。彼らの技藝は自分たちの内部から、噴上(ふきあげ)の水のやうに高々と盛り揚つてくる、どことなく野獣のやうな力に充ちたものであつたが、その生命の水を盛る肝腎の器は、ある場合には下手な(こ げら)へ物に過ぎなかつたので、彼らの技藝は時としては作そのものを裏切るやうな結果にさへなつた。この二人の藝がある意味において往き詰つた時に、現れたのが大掾で、彼の長所は言ふまでもなくその肉声の潤ひの多い女性的なところにあつた。一体わが国の浄瑠璃は戯曲といふよりは、むしろ抒情脈の勝つた- 所謂「人情」の哀れや、柔らか味に(ゆた)かなものが多い。それが叙事詩や戯曲の形式は備へてゐやうとも、引つ(くる)めてその全体から出る味は、抒情的な点にあるのだから、摂津大掾の長所は自然の結果として、その抒情脈において発揮せられなければならなかつた。

 この意味において大掾の出現は浄瑠璃劇にとつては新しい刺激だつた。彼の技藝は悲哀と情熱と音楽と恍惚とを同時に(もだら)したから、  おまけにひとかたならず婦人たちに歓迎せられたから、勢力は瞬く間に拡がつて、一代の藝苑は彼の脚もとに膝まつくやうになつた。実際彼が婦人に歓迎せられたのには何の無理もない。彼の肉声はやがて女の  それも女の情緒そのものの響であつた。楽器ではとても聴かれないやうな、微妙な情緒の(ふる)ひがそことも知れず流れてゐる。彼が(うくひす)のやうに体躯を揺すぶつて会心の一曲を語り出す時、われわれ民族の血管に流れ込んだ遠い祖先の  とりわけ、特殊の境遇に育つてきたわが女性(私たちの母であり、また娘である)の深い溜息は、泉のやうに音を立てて湧き上つてくる。聴衆はその深い溜息に自分たちのどうすることもできない悲嘆の共鳴を聞くにつけて、心を()き乱されて、霊魂の底より顫ひ動かされずにはおかなかつた。ロゼチの歌に「涙を聞く」といふ文句があつたやうに覚えてゐるが、大掾の声には実際涙そのものの響を聞くやうな感じがすることが幾度かあつた。  だが、何よりも藝の釣合と節制とを重く見る彼は、その天稟の美しい声をもほしいままには使はなかつた。先に言つた希臘のピンダロスなども、若い時は自分のあり余る才能にまかせて、随分花やか過ぎるほどの詩を作つたので、ある人から「種子は袋の口からすぐに()くべきものではない、掌面(てのひら)で加減をしなくつては」と言はれたさうだが、大掾はその若盛りの時ですら、種子を掌面で蒔くことを忘れなかつた。彼をしてかうした用意をさせたのに、二つの力強いものがあつた。一つは藝術の伝統で、いま一つは彼の性格であつた。
 彼が持ち伝へた浄瑠璃の技藝はかなり偉大なものであつた。大きな人生に横たはつてゐる力や、(いろいろ)々な現象をさながら捕へてきて、それに形式や、釣合や、節奏や、調和を与へた藝術  悲哀や、感情の激昂をじつと内心に抑へ貯ふる、湖のやうに底の知れない平静  さういふものは、長門や団平の大きな掌から彼の掌の上へ残されていつたのだ。その藝術が有つてゐる相応に長い伝統と、それ自身に各自形式を有つてゐる()()人形(てすり)とを右と左とに連れなければならない、限られた藝の「境遇」は、彼に釣合と節制とを考へさせるに十分であつた。
 i!とはいふものの、長門太夫や団平の遺産は、全然彼のものといふではなかつた。長門や団平に畑があつたやうに、彼にも畑があつた。譬へてみたら『志渡寺( しレマつノ しネ)』のごときは、長門と団平とが何よりも得意としてゐた語り物だが、大掾は自分の才能がこの方面に不向きであるのを知つてゐた。また八陣の『政清本城』や、近江源氏の『盛綱陣屋』や、鬼一の『菊畑』や、一の谷の『熊谷陣風』のごときも彼の長い生涯にあまり多く語らなかつたのを思ふと、彼自身もかうした領域は自分のものでないことに気付いてゐるらしい。これは言ふまでもなくいくぶんはその声柄(こゑから)にもよるだらうが、しかしその多くは彼自身の性格にトゐのだ、

 彼の性格は釣合そのもので、何事にもある釣合を見出さずにはおかなかつた。どこまでも温和で、謹厚で、上品なのは彼の人柄で、どちらかといへば内生活にも物質生活にも、なるべく旧い型を守つて、そのなかに自分の気持を落ちつけやうといふのが彼の考へらしい。持前の美しい肉声は、どうかすると彼自身の性格に対して公然な直接な反抗を企てないこともなかつたが  言葉を換へていふと、彼の肉声は、時としてその形式から逃れよう逃れようとしたこともないではなかつたが、彼の性格はそれを捉へて何でも彼でも形式を与へずにはおかなかつた。
 明治八年だつたか、彼は師匠春太夫に離れて、(ひと)り文楽座に立て籠つたことがあつた。この時は彼自身にとつては、師匠の支配から遁れて、自分一家の藝に立つべきいい機会だつたし、また結果もさうなつたには違ひないが、実際これは彼自身が進んでしたことではなく、春太夫と団平とが文楽の興行師(しうち)(いが)み合つて、別に旗幟(きし)をたてたので、彼も馳せ加はりたい気はありながら、文楽座に対する前借の跡始末がつかなかつたばかりに、こんな羽目になつたに過ぎなかつたのだ。

 世の中には結婚をすると、一層自分の性質が複雑になる人がある。彼の自我は結婚のためにいささかも損失をしなかつたのみならず、その上にまた他の多くの自我をも添加(つけくは)へることができるのだ。すなはち自分の生涯以外に、他の生涯をも有つことができるのだ。  -藝術もまたこの点において結婚と似てゐる。藝術家は自分が始終取り扱つてゐる藝術の感化で、自家の性質を一層複雑に一層高く構成することができるのだ。ところで、大掾は果して自分の取り扱つてゐる浄瑠璃劇の人物の、性格、情熱、感激、歓喜、嫉妬、恍惚といつたやうな物を、自分の内部に取り容れることができたらうか。彼も以前ある人にこんな談話(はなし)をしたことがあつた
 「劇ならばその相手に対する役柄を了解(のみこ)み、自分だけのことをすればいいのですが、浄瑠璃の はうでは由良之助も判官も()太夫もお( )も皆な一人で()つて、しかもその気合は皆それぞれに 変つてをります。勿論語り物のことですから、節廻しの加減も大事ですが、また浄瑠璃中の人物の一句一言、その調べをよく語りわけなければなりませぬ。それには心入れが大切で、いかなる藝にも誠の心がなくては駄目で御座います」
 これは技巧的な方面から言つた言葉だが、その心入れを説き誠の心を言ふ段になつて初めて彼自身の内生活に交渉ができてきたのだ。できてきたには相違はないが、何事にもきちんと形式に(よま)つた、釣合好きの彼の性格は、広く(いろいろ)々な人物の性格情熱といつたやうなものを、自分の内部に織り込むだけの浸透力と大きさとを有たなかつた。(〉ごキ、)に言つた『志渡寺』の男性的な、悲壮な調子そのものは言ふに及ばず、浄瑠璃劇の女性にしてからが、彼はムリヨ〔ムリーリ.〕のやうに、西班牙(スペイン)の乳絞りの娘を永貞童女にするほどの潔い感情は有つてゐるが、女の性の底に潜む蛇のやうな執着、地獄の火のやうな嫉妬を自分のものにするには、彼の性質はあまりに白くあまりに繊細に過ぎた。もしか彼の性格にいま少し鷲のやうな力強い点があるか、さもなければ頽唐(たいたう)的な気分でもあつたなら、あの美しい声調は一切の浄瑠璃の形式を破つて、そこに独得の新しい藝術の天地を(ひら)き得たらうし、事によつたら追随者がとても辿(たと)り得られないやうな危なつかしい境地(ところ)に、蠱惑(こわく)の花を咲かせたかもしれない……
 さうすればできるだけの技術はありながら、彼の性格はそれを許さなかつた。しつかなる肉と心との争ひ  彼はそれに気がつかないで六十年の藝術的生涯を辿つてきた。それには何の無理もない。私はその美しい、静かな、そして長かつた藝術的生涯に敬意を表する。
                 〔大正3年刊『象牙の塔』〕



最終更新日 2006年02月07日 23時47分55秒

薄田泣菫「晶子さんが帰つて来た」1

晶子さんが帰つて来た
 晶子さん  当り前だと与謝野夫人といふところなのだが、平常(ふたん)から私たちの仲間では、いつもこんなに呼び慣れてゐるし、またかう言つたはうがいくらか親しみをもつて物が言へるので、ここでも晶子さんと呼ぶことにするーが、半年ぶりに神戸の埠頭(ふとう)に帰つて来たといふ電話を受け取つた折は、私はちやうど今着いたばかりの二、三の外国雑誌の封を切つて、そのなかからピエル・ロチが初めて紐育(ニュ ヨ ク)へ渡つた日の記事を読んでゐるところだつた。
「なに、もう帰つて来たのか。思つたよりは早かつた。だが病気はどんなのかしら。一度見舞はなくつちやなるまいな」
 私はこんなことを考へながら、ロチの記事から目を離さうとはしなかつた。ロチは紐育のセンチユリイ座で興行する『天つ少女』の下稽古を見に渡つたのださうで、ある雑誌を見ると、きつと幽霊か何ぞのやうに人目に掛らないで、(しはゐ)下稽古(さらへ)の間だけ五、六日劇場へ出てきて、そのままいつの間にか消えてなくなるだらうと思つてゐたのに、着くが早いか無遠慮な記者たちに()()かれ、やたらに談話(はなし)を仕掛けられて随分悧巧なことや下らぬことを喋舌(しやべ)らされたらしいと書いてあつた。なるほど新聞に載つてゐる談話を読むと、「自由の像」が思つたよりは大きいとか、摩天閣(スカイスクレエパア)がつばぬけて高いのに吃驚(びつくり)したとか、婦人の参政権運動には一向興味を()たないとかいふ談話の問に「仏蘭西ではよくよくの昵懇(なしみ)でなければ新聞記者にはお目に懸らない。一体私は騒々しいのと高調子で喋舌るのは嫌ひだ。召使なども自分のこの気質を飲み込んでゐて、騒々しい振舞はしないやうに、物を言ふにもなるべく静かに、そして僅かな囗数で足りるやうに心掛けてゐる。自分の有つてゐるハンデー〔アンダイエ〕やローシユフオル〔ロシュフォール〕の家の中では決して電灯などは(とも)さない、あれをつけると私の好きなしんみりした空気と陰影(かげ)とを打ち(こは)すからだ」とちよつと記者たちの気に入りさうにもない皮肉を言つてゐる。
「晶子さんはどうだらう。こつそり幽霊のやうに帰つたかしら。それとも無遠慮な記者たちに(つか)まつて悧巧なことや下らぬことを喋舌らされてゐるのちやなからうか。  身体に(さは)らなければいいがな」
 私は読んでゐた雑誌を伏せて、神戸の宿へ電話で、堺の実家へ寄られるかどうかを訊いてみた。すると晶子さんが出てきた。それこそ幽霊のやうな気のない声で、幾度か聞き直し聞き直ししなければならなかつた。家の事がどうも気掛りでならないから、堺へは寄らないで、今晩の汽車ですぐ東京へ帰るといふのだ。
 私は病み上りの上へ旅窶(たひやつ)れさへ(くは)はつた晶子さんの顔を想像して、とにかく見舞つてみることに決めた。外へ出てみると、雨はびしよびしよ()(しキビ)つてゐる..私は日本銀行前の停留場に立つて、溜息をつくやうな柳の落葉に見惚(みと)れながら、長い間電車の来るのを待つてゐた。
 私が神戸の海岸通りの宿屋へ着いたのは四時を過ぎてから大分経つてゐた。灰色に煙つた米利堅埠頭(メリケンふとう)には、四、五人の仲仕(なかし)がずぶ濡れになつたまましきりと揚荷にかかつてゐるのが見えた。
 晶子さんは北に向いた二階座敷の、持つて帰つた手荷物のこたくさ取り散らされた問に坐つてゐた。打ち見たところ病気らしいところはなく、旅窶れの容子(ようす)すら少しも見えなかつたのに、私は何よりもまつ安心をした。鴎外さんは与謝野君の報知だから、病気だといふのにいくらか誇張があるかも知れないといつたさうだが、事によつたらそんなことだつたかも知れない。
 ()に二、三人の相客がゐたが、いつれも顔昵懇(かほなしみ)の人なので、私たちは打ち解けて(いろいろ)々な談話(はなし)をした.晶子さんが往きがけに西伯利(シヘリア)鉄道を通つて、だだつ広い平原に人家の数へるほどしかないのを見ると、日露戦争は到底避けることのできなかつた事実だつた。繁殖力の強い日本民族はどうしてもこの辺に殖民地を見出さなければなるまいと思つたと言つた時、私は巴里のある雑誌が
晶子さんの肖像を掲げて、この女詩人は年々に新しい作物を出すのみならず、また毎年のやうに子供をも生んでゐるのだと言つた言葉を思ひ出さぬわけにゆかなかつた。
 雨はびしよびしよ降り頻つてゐる。折々港を出入する汽船が喘息病(ぜんそくや)みの咳をするやうな声を立てるのが聞えた。晶子さんはその音に()()れながら、長かつた船路の旅を想ひ出すやうな眼附きをした。船が坡西土(ボルトサイド)を通つて紅海にかかつた時は、従来那海(これまであそこ)の浪の色は(あか)いといふことを(いろいろ)々な人から聞いてゐたので、楽しみに待つてゐると、やはりただの(あを)い海の色に過ぎなかつたといふことを話した。
「でもねえ、あの辺りの熱苦しいことと申しましたら、じつと船室に横になつてゐる私にとつては、それはもう(たま)らないやうな気持でしたつけ。だから私帰つたら、やはり皆様と同じやうに紅海の波を真紅だつたと嘘を言はうと思つてますのよ」
 晶子さんは仏蘭西で描いた幾枚かの油画を取り出して見せた。そしてまた絵を描くやうな気持で、何かとあちらの容子を話さうとするらしかつたが、私はそれにあまり興味を有たなかつた。与謝野君夫妻が詩人として秀れた天分を有つてゐることは、ふだんから私の敬服してゐるところだが、物を見るといふ点にかけては、惜しいことには二人とも清新な官能に欠けてゐるやうだ。私は二君のいつも(かは)らぬ正直な友人であるとともに、今度の旅行の途次なり、巴里の滞在記なりを読んで、そのたびごとに失望させられた正直な読者の一人であることをも言つておきたい。実際私はあの旅行記には、与謝野君夫妻でなければ見ることのできないやうな、ある強い色を期待してゐたのだ。巴里の写真屋が撮つた晶子さんの肖像が、どことなく西洋夫人に似てゐるやうに、あちらの自然なり生活なりが、どんな角度をもつて両君の眼に映るだらうかと楽しんでゐたのに、旅行記に現れたところで見ると、この尊敬すべき詩人たちは大切なその詩才だけをどこかへ質に入れて、ただの旅人としてドウバアの海峡から維也納(ウィ ン)あたりまで歩き廻つたのではあるまいかと思はれた。
 だから私は晶子さんが自分で話さうとするものよりも、むしろ欧羅巴(ヨ コロツパ)の生活1とりわけ仏蘭西の文明がこの『春泥集』の著者の思想の根柢にどれだけの投影を与へたか、それが聞きたかつたのだ。
 晶子さんはじつと物を考へるやうな眼付きをした。そして唐突に「私今哲学を考へてますのですよ」と言つて、紛らすやうに軽く笑つた。私はそのなかに隠すことのできないある真面目な疑惑の閃きを見て取つた。
「さうだ。哲学だ。女には嘘があつた。藝術もあつた。そして癪気(しわロくき)も十分にあつたがただひとつ
哲学がなかつたのだ……」
 私に言はせると、一体女といふ女が子宮を有つてゐながら、哲学を有つてゐないといふ法はないのだ。人生の系統にほんの一瞬間しか(かか)はらない男子すら哲学を有つてゐるのに、生命の源であり、愛の泉であるべき女性が  母体が何の哲学をも有たないといふことはない。
 さうかうする間に時間が来たので、私たちは談話(はなし)を途中にして雨のなかを(くるま)を急がせて停車場に向つた。
 汽車に乗つてからは、晶子さんは茅野(ちの)夫人〔雅子〕と隣合つて私と差向ひに坐つた。生暖かい夜で、二人の女のはうは咽喉が渇くといつてサイダアか何かを飲んでゐた。晶子さんは低声(こごゑ)で茅野夫人に囁いた。「船で少しつつお酒を喰べたものですから、その癖がつきましてね」
 私はそれを聞いて、大阪の船場辺りの内儀たちが、月に幾度か互ひに金銭を出し合つて、順繰りに宿を決めて酒を飲み歩く習慣のあることを思ひ出した。私はさういふ女の酒宴を見るたびに、男には興奮と酣酔(かんすい)の料にしか過ぎない酒が、女には神秘憧憬の国であるのを(うらや)まぬわけにゆかない。女にとつて酒は恋愛や智識と一緒にひとつの不思議の世界なのだ。その世界は推察や論理を絶して、ただ官能でのみ触れられる世界なのだ。
 私はまた先刻の哲学の談話(はなし)を持ち出した。晶子さんは例のやうに鼻の上に小皺を寄せて、「どういたしまして、お談話(はなし)できるやうなそんなんぢやありませんわ」と言つて笑つた。私は訊いてみた。
「ぢや別にお聞きもいたしますまいが、貴女はその哲学とやらを事実の上に現す勇気がおありなさいますか」
 晶子さんは妙に悄気(しよげ)てしまつた。「それを事実に現すだけの勇気がありますなら、今ここで貴方にお話しするくらゐ何でもないのですが」かう言つて深い溜息をついた。
 どうした機会(はずみ)だつたか、私はここで近頃自分の有つてゐる「性」についての考へを話した。男性と女性とはまるで別物で、この二つの性は互ひに了解ができない。ただに了解がないのみならず、どうかすると性の底には敵対観念さへ横たはつてゐるといふ考へなのだ。晶子さんはじつとそれに()()れてゐたが、私の言葉が済むのも待たないで、
「全くさうなんでございますよ。私従来(これまて)もさうと気が()かないでもなかつたのですが、今度あちらに往つて一層明瞭(はつきり)とそれが解るやうになりました。具体的に申しますと、与謝野と一緒に棲んで以来レ幾年といふもの口舌(いさかひ)ひとつしたこともなかつたのでございますが、仏蘭西へ往つて初めて喧嘩といふうものをいたしました。帰りがけにはさう言ひ残しておきました。  以来(これから)はもう貴郎(あなた)にも負けてばかりはゐませんとね」
「まあ、よかつた」私は腹の中でさう思つた。



最終更新日 2006年02月10日 08時46分48秒

薄田泣菫「晶子さんが帰つて来た」2

 私の友人に英吉利へ渡つて沙翁(さをう)〔シェィクスピァ〕の故郷を訪れた者があつた。大詩人の故郷だと思ふと、何だか感慨を催さなければ済まないやうな気がするので、白鳥の浮いたアヴオン〔ストラトフォード・オン・エーヴォン〕の(かは)(ぶち)稍佯(ぶらつ)きながら、種(いろいろ)なことを考へてみた。だが、間が悪い時には悪いもので、ここへ着くなりそこらの料理屋へ飛び込んだので、腹には七面鳥の肉が一杯に詰つてゐるし、ボケツトには金貨がちやらちやら鴫.つてゐるし、おまけに沙翁の作物といつては何ひとつ覚えてゐないのでどうにも感慨の種がない。ところがどうした機会(はずみ)か、ふと国元に残してきた細君の無様な鼻の恰好が思ひ出されたので急に腹立しくなつて、脇に抱へてゐた洋杖(ステッキ)(やけ)に振り廻したといふことだ。
 何日だつたか与謝野君が誰かに寄こした葉書を見ると、「ブウロンニユの森で日本の文壇を(ののし)つた」といふやうな文句があつた。私はそれを読んだ時、沙翁の故郷で細君の鼻の恰好を憤慨したのと同じ格だなと思つた。せつかく思ひ立つて外国まで往つたからには、細君の鼻の恰好や故国の文壇の噂などはなるべく思はないで、よく気をつけて彼地(あちら)の自然なり生活なりを見ておきたいものだ。そこへ往くと晶子さんは割合によく彼地(あちら)を見て、割合によくそれを自分の(もの)にしてゐる。  ほかでもない夫婦喧嘩がなによりの証拠だ.
 畢竟(つまり)晶子さんは自分の「性」に眼が覚めたのらしい.欧羅巴へ渡つて性の根底から起つた新運動を見るにつけて、従来の男性中心の文明に対して新しい叛逆(はんきやく)を企てようとするものではあるまいか.、
 晶子さんは悲しさうに言つた。「これからは戦はなければなりません。自分の半身と思つたものと戦ひ、俗衆と戦ひ、おまけに自分自身とも戦ふのです。自分といへば私これまで一度だつて自分の後姿を見たことがございませんの。合せ鏡ですね、あれをいたしましたことがないのです。自分の後を見るのは何だか怖いやうな気持がしましてね。私そんな臆病者なのですからね」 晶子さんのやうな藝術の人も、女であるからには、実際自分の姿をじつと見据ゑるといふことは恐ろしくもあり、また痛ましいことに相違ない。しかしあの人はそれをせずにはおくまい。せずにはおかれないほどの或る物を投げ付けられてきたのだから..
 汽車が梅田に着いたので、私は別れて廊下へ出た。晶子さんは出迎への何家(どこ)かの細君らしい人に飛魚の話か何かをしてゐた。
「そして貴女、お腹のとこが爪紅(つまべに)をさしたやうに赤くつてね。それはそれは本当に綺麗なんでございますよ」
 私は亜鉛屋根に降り注ぐ灰色の雨に見とれながら、じつと汽車の(ろご)き出すのを待つてゐた。
                                 〔大正3年刊『象牙の塔』〕



最終更新日 2006年02月10日 08時49分44秒