薄田泣菫「森林太郎氏」
森林太郎氏
鴎外森林太郎氏が亡くなつた。若いものづくめな今の文壇に、年輩からいつても、閲歴からいつてもまた学識からいつても、押しも押されぬ老大家であつたのに、惜しいことをしたものだ。
私はたつた一度しか氏に会つたことはなかつた。その、度きりの面会のことを、今思ひ出すままにここに書きつけてみよう。 たしか明治三十九年の五月頃だつたと思ふ。私が久しぶりに東京に出て友人の
蒲原有明氏と岩野
泡鳴氏とに会うと、何かの話のついでから岩野氏が、
「どうだい、三人で一緒に森さんを訪ねてみようちやないか」
と言ひ出した。蒲原氏も私もそれは面白からうと同意すると、きさくな岩野氏はすぐ立ち上つて電話をかけにいつた。そしてしばらくすると「上首尾、上首尾。……」と大きな声で
喚きながら帰つて来た。
「上首尾だつたよ、ちやうど森さんも自宅に居合せてね、三人が一緒にお訪ねしたいといふと、自分のはうでも会ひたいから明日の午前に来てくれと言つたよ」
私たちは
翌くる日を約束して別れた。
その日は朝から雨がどしや降りに降り続けてゐた。どこで落ち合つたか、はつきり今は記憶しないが私たちが千駄木林町を通る時分は、雨は一だんと降りしきつて、着物の裾はしぶきでびしよ濡れになつてゐた。
「こりやかなはない。
尻つ
端折りをするんだね、かうやつて」
その頃象徴派の詩人として売り出した蒲原氏は、いきなり裾をまぐつて尻を端折つた。岩野氏も裾をからげた。私もあとからその真似をしたが、東京中の人間がむき出しに出た私の
脛をのぞきこむやうな気がして何だか変だつた。
町には人通りは少なかつた。団子坂が近くなると、岩野氏はちよつと立ちとまつた。雨はどしや降りに降りしきつてゐる。この刹那派の詩人はいつもの陽気な声を一だんと張り上げてどなるやうに言つた。
「おい、森さんに会つても、先生と呼ぶのだけは
止さうちやないか。老人はすぐ先生顔をするもんだから」
「先生はいかん。あなたでいいや」
蒲原氏はきりぎりすのやうな細つこい脚を寒さうに雨に
慄はしながら言つた。
「さうだ、先生よか、あなたのはうがいくらいいか知れない」
私もさう言つて、ばつを合せた。実をいふと、自分は今日までどんな先輩をも滅多に先生とは呼ばなかつたので、このはうがいくら勝手だつたか知れなかつた。
三人は間もなく森氏の宅に着いた。そして玄関で案内を乞ひながら、そろそろ尻を下ろした。
通されたのは見晴らしのいい二階座敷で、
若楓の美しい枝が風に揺られて、時をり欄干越しに雨しつくを縁側に飛ばしてゐた。私たちは濡れた裾のまま無遠慮にすすめられた座蒲団の上に坐つた。座敷の片隅には
帙入りの大蔵経がきちんと積み上げられ、その横にまだ目を通さないらしい洋書が幾冊か並べてあつた。思ひなしか、軍人出の文学者だけに、部屋のすべてが几帳面で、大蔵経の塁壁の中から脊革金文字の洋書が、お客を目当てに狙ひ撃ちをしてゐるらしく見えた。
しばらくすると、とんとんと階段を踏む足音がして主人の森さんが「やあ……」と言ひながらはいつてきた。見ると、頭はつるつるに禿げ上つてゐるが、顔附きは案外若く、利かぬ気が眼から鼻のあたりにかけて尖つて見えた。口にはかなり上等らしい葉巻を
咥えてゐた。
談話は主に詩歌から西洋文学の上にとりかはされた。誰だつたか、その頃森氏が出版した『歌日記』のことを言ひ出すと、氏は慌てて口から葉巻を離した。
「あれは君たちに見せるもんぢやない。名前通りに全く僕一人の日記だよ」
その頃から乱暴者だつた岩野氏は、その当時何かの雑誌に出てゐた森氏のハウプトマンの『沈鐘』の一節の翻訳を引合ひに出して、
「あの訳はあれでいいのですか」
と訊いたものだ。森氏の眉は微かに動いた。
「僕はいいと思ふがね。どこか間違つたところがあるかね」
「少し意味のはき違へがあるやうです」
度胸のいい岩野氏は平気で答へた。
「君は原文と照らし合した上で言つてるのかね」
森氏の口からは紫の煙がばつと吐き出された。
「いや、独逸語は僕不得手ですから、英訳と比べてみたんです」
泡鳴氏は正直に言つてのけた。主人は腹を抱へて笑つた。
「何だ、英訳とかい、それぢや君の言ふこともあまり当てにならない」
蒲原氏も私も声を立てて笑つた。何事にも腹にわだかまりのない岩野氏も一緒に笑つた。
さうかうするうちに、女中の手でお膳が運び出された。そのお膳を見て私たちはちよつとおどろいた。それは客たち三人の前にならべられた膳は、いつれも
中脚のただの塗膳に過ぎなかつたが、主人の森氏の前に据ゑられたのは、氏がふだんに使ひ馴れたものかは知らないが、高脚の膳も、椀も、金蒔絵の定紋のついた、よく浅田飴の辻広告で見る鶴千代君のお膳そつくりの気取つたものだつた。
「〔高踏派〕といふものは、三度三度あんなお膳で物を食べなくちやならないものかし
ら」
私は腹のなかでかう思つた。
森氏は飯をたべながらいろんな話をした。
鶴千代君のそれと同じな、金蒔絵の汁椀の中から汁をすすりながら、いろんな話をして面白さうに笑つた。その笑ひ声のどこかにサーベルをがちやがちやいはせさうな、元気な軍人らしいところが交つて、私たちは自分と同じ年輩の人と話をしてゐるやうな気持になつた。
食事が済んだころ、とんとんと階段を踏む小さな足音がして、美しい娘さんがそつと入つてきた。そして、何も言はないで転げるやうに主人の膝にもたれた。森氏は片手でその頭を撫で廻しながら、
「茉莉さんか。こいつが可愛い奴でな……」
と眼を細めながら笑つた。その顔には子煩悩なお父さんらしいところがありありと見えて、文字通りに文壇の老大家であつた。
しばらくして茉莉さんが姿を隠すと、森氏は急にまたお父さんから私たちの仲間にかへつて来た。そして葉巻の煙を吐きながらこんな話をした。
「君たちもいろんなことを詩に詠むやうだが、僕がこなひだ読んだある独逸の詩人のものにこんなのがあつたつけ。ある男がアルペンの山路を登つてゆくと、坂の上から婦人が一人下りてくる。すると谷間の風が急に吹き上げてきて、その婦人の着物の裾をまくつたといふのだ。詩はただそれきりだよ」
森氏はかう言つて声高く笑つた。その声にはどこかに馬の上で笑ふやうな軍人式なところがあつた。
〔大正13年刊『忘れぬ人々』〕
最終更新日 2006年02月12日 10時02分03秒
薄田泣菫「徳富蘇峰氏」
徳富蘇峰氏
大分また世間が物騒になつてきた。国民大会だの何だのといふと、自分にはすぐに日露講和談判当時の第一回の焼打が連想せられ、ひいては桂公と徳富蘇峰氏の顔が連想せられる。桂公はともあれ、徳富氏とは多少の縁があるから、国民大会の物騒ぎについて想ひ出されるまま、ここに最初の印象を書きつけてみる。私の友人が講和談判当時徳富氏の新聞にゐて、ある重要の位置を占めてゐたのがあつた。講和談判の結果については、どうあつても社長の議論に服されないものだから、忘れもしない焼打のあつた日の
午過ぎ、辞職書を
認め、それに長い理由書まで添へて社長室へ入つてゆくと、徳富氏は一人の客を相手に何か
内密話をしてゐた。客といふのは福地桜痴居士で、居士の尻はいつも長いに
極つてゐるのを知つてゐる友人は、また自分の机に帰つて、
抽斗を片附けたり、引つ切なく我鳴りたてる市内電話の鈴の音を聞いて、日比谷の国民大会の模様を
種々に想像してゐると、誰いふとなく一隊の群衆は雪崩を打つて国民新聞社に向ふといふのだ。
といふうちに、
海嘯の崩れかかるやうな群衆の声がして、ばりばりと硝子を破つて飛んで入つてきた一つの
礫はかちやりと電灯の笠を
毀して誰かの机の上に落ちた。先刻から色々な噂に気の上ずつてゐた皆は
弾…機
械のやうに一度に椅子から飛び上つて、不安さうな眼付きで互ひに顔を見合せた.、その途端にやつと客を送りかへした徳富氏は苦り切つた顔をして編輯室に入つてきた。それを見ると、友人は何だか気の毒さが先に立つて、どうしても辞職のことが言はれなくなつた。
「意見も意見だが、世の中には人情といふものもある。わけてこの場合……」
かう思つて、友人は
懐中にした辞職書を取り出して引き破つて捨てた。そして
棍棒を取るなりいきなり表へ飛び出していつた。
その日の午過ぎから、
翌くる夜にかけて全三十幾時間といふもの、社員は立続けに戦線へでも出てゐるやうに、休みもせず眠りもせず働いた。身体は綿のやつに疲れきつて、関節は抜けるやうに
懶くなつた。この上群衆に二度三度打ち懸つてこられたら、黙つて運命に
委せるよりほかはなくなつた。
その夜の十時過ぎ、どこからとなく電話が掛つてきた。今夜の十二時に電灯が消える、それを合図にいよいよ群衆は焼打に掛るさうだから、その用意をしておいたらよからうといふのだ。十一時が鳴ると、徳富氏は社員一同を編輯局に集めた。一人一人の姓名を紀念帳に認めさせた後、最後の演説を試みた。
「……考へてみると、諸君は今日まで長かれ短かれ自分のやうな者とよく一緒に働いてくだすつた。そしてかうした場合になつても、恨みひとつ言はないで最後まで忠実に働いてくだすつたといふことは私の衷心より感激するところであります。どうか万一の場合が来たら、諸君はなるべく一団体になつて新橋の停車場をさして落ちのびてください。
逗子には手狭だが私の別荘がある。私は諸君とそこに集まつて新たに再挙を計りたい。で、ひとまつ社を引き揚げるについて諸君とともに
水盃がしたいと思ふ」
徳富氏はかう言つて、その
藪睨みの眼から涙をはらはらと落した。 私の友人は「僕も前後十幾年あの人と事業をともにしてきたが、この時始めて真実の涙を見せられた」と言つてゐた。
私が徳富氏と初めて会つたのは、あの焼打の日に福地桜痴居士が訪れてきて、何か
内密話をしてゐたといふ応接室であつた。ちやうどあのことがあつてから二年ほど経つた歳の春で、徳富氏は胡麻塩の頭を
掉りながら「やあ」と言つて入つてきた。肉附きのいい、血色のいかにも健康さうな顔ににこにこ笑ひを見せてゐる点を見ると、何だか始終太陽の下に働いてゐる労働者にでも会つたやうな気持だ。
「
明恵上人の御稿は面白く拝見しました。実は私も
平素からあの上人が好きなもんですから……」
かういつて、私はその頃新聞に載つてゐた徳富氏の「明恵上入」に関する文章について、二つ三つ考へてゐたことを話してみた。
「ああさうでしたか。どうです、あの人を法然とか親鸞とかいふ第一流の坊さんに比べてみて、いくらか見劣りはしませんか。でも、親しみのある点からいふと、人間はむしろ第二流どこのはうにあるのは不思議なものですね」
声を高める拍子に、時々鍋の底を掻くやうな調子を出しながらこんなことを言つた。
談話は国木田独歩氏の上に飛んでいつた。徳富氏は時々皮肉を交へながら、独歩が捨てられたといふ初恋の女のことを話し出した。
「それがいつまでも忘れられなかつたんですね。先生根が馬鹿だもんだから……」
なるほど独歩を馬鹿だといふのには私も毛頭異存はなかつた。馬鹿でなかつたら、あんなに純に人は想はれなかつた。
徳富氏は新聞小説の原稿が、作者の筆・無精からどうかすると遅れがちなのが、よほど
癪に触つてゐるらしかつた。
「どうも筆で飯を喰つてゐるものが、その筆が思ふやうに運ばれないといふのは恥づべきことだと思ひますね。私などは文章は
拙い、お
談話にならんほど拙いが、でも
定つた時間に定つただけのものは必ず書き上げて見せるだけの自信はある」
かう言つて、少し反り身になつていくらか皮肉な眼つきで私のはうを見た。蘆花氏がいつだつたか私に話したことがあつた。「自分の父には政事家の素質があるが、母には文学者の感情が流れてゐる。父の血を七分と母の血を三分持つて生れたのが兄で、母の血を七分と父の血を三分伝へたのが自分だ。だから兄が政事家でありながら、一方文学を忘れ得ないやうに、自分は文学者でありながらも、一面に治国平天下のことを考へてゐる」といふのだつた。私は今それを想ひ出した。
「私などは文章は拙い……」
ーあれはどちらの血が言はすのだらう。七分の血が言はすのだと、私は肩を
聳やかしてやる。もしかまた三分の血が言はすのだつたら、私もちよつと
擽つたくなる。なぜといつて、私はこれまで新聞の寄稿者として滅多に期日通りに原稿を書き上げたことはなかつたのだから。
「でもその骨折りを思ふと、実際小説家は気の毒になりますね。そこへ持つてゆくと、画家はいくら分がいいか解らない。貴君は大阪の守山君を知つてゐますか。私がいつだつたか守山君に頼まれて、橋本雅邦さんに画をかいてもらつたことがある。ちよつとした横額なのですが、やつとできあがつてきて守山君に見せると、先生ためつすがめつ視てゐたが、一体画はどこにかいてあると云ふのです。いや実をいふと、私もどこにかいてあるのだかよく判らない。見るには見たが一向画らしくなく、ただ
画帛にぼやつと一
刷毛薄墨で塗つてあるだけのもので、画だと思つても何をかいたのか皆目判らない。まあ、多分額縁のなかにあるのだと思へば、たいした間違いもあるまいと言つて大笑ひしたことです。そんな画が貴方参百円といふのですからね。……」
徳富氏はかう言つて、眼尻に愛嬌のある皺を寄せて、ははと健康さうな声を出して笑つた。私は焼打の夜、
僂麻質斯にでもかかつたやうな手附きで、皆に水盃をしながら、熱い涙をはらはらと流したのはあの眼だなと思つてしばらく視てゐた。
〔大正13年刊『忘れぬ人々』〕
最終更新日 2006年02月12日 10時05分02秒
薄田泣菫「徳冨健次郎氏」1
徳冨健次郎氏
その日は太陽が朝つばらから悪酒にでも
喰べ
酔つたやうに、どんよりとした眼附きで意地悪くじろじろ
睨め廻してゐるので、私は外へ出る気にもなれず、じつと窓に
凭れて往くさ来るさの市街の人通りをぼんやり見下ろしてゐた。ちやうど第五回博覧
会が大阪に開かれてゐた頃で、市街はかなり賑はつてゐた。紅色の勝つた
広目屋の旗行列がひとしきりそこらを賑はしていつた後から、
繻子張の
蝙蝠傘をさした田舎者らしい男が四、五人、がやがや何か話し合ひながら南へ下つてゆくと、擦れ違ひざまに着流しの
浴衣の胸をはだけた、背の高い男が
大跨に歩いてきた。型の古いヘルメット帽、
埃除けの大きな黒眼鏡 蘆花氏ではなからうか、何から何までよく
肖てゐる。事によつたら博覧会見物に出てきて、私の
宅を訪ねてくれたのかも知れないと思つてゐると、そこへ女中があたふたと上つてきた。
「徳冨さんがおいでになりました」
やはりさうだつた。i徳冨氏は大きな体に虫の
蝕つた
段楷子をめきめき音をさせながら上つてきた。
「昨日やつて来ました。今日はちよつとそこらに散歩に出てきたもんですから……」
律義な人だけに着流しで出てきた言訳をしてゐるらしかつたが、その頃夏羽織なぞ一枚も持ち合せてゐなかつた自分には、世間並のこの挨拶は少し贅沢に過ぎたやうだつた。
ちやうど『黒潮』の第一巻を出した当座で、その頃固い信仰を
有つて、耶蘇の言ひ前通りに天空の鳥と同じやうに、稼ぎもせず、
穡りもせず、しこたま倉に蓄め込まうともしなかつた蘆花氏は、小説だけは耶蘇も別段書くなとは言はなかつたので、せつせとこの長い作物に筆をとつてゐた。兄の蘇峰氏に与へた絶交書のやうな序文を載せてゐたのはこの小説で、
麝香採りが麝の身体よりも小つぼけな
臍を珍重がるやうに、私たちは肝腎の小説よりもこの序文のはうを珍しがつてゐたので、何故ああしたものを書かなければならなかつたのかと、遠廻しにそれとなく訊いてみた。
蘆花氏は言ひにくさうに、苦笑ひをしてゐたが、兄の蘇峰氏がよくするやうに、
巧く私の問をはぐらかしてしまつた。
「一体私の父は政治家質で、母は文学者肌の女ですが、父の血七分と母のを三分持つて生れたのが兄、母の血七分と父のを三分持ち合せたのが私で、兄は政治家でゐながら、文学を思ひ切ることができず、私はまた文学者でゐながら治国平天下といつたやうな功利的な考へを全く頭の外におくことができないのは皆そのためなのです」と言つたが、急に声を落して、「ま、かうして兄弟別々の途を歩いたら、互ひに縛られないで自分の持つてゐる特色を出すこともできるだらうと思つて……」
「
竹越(
三叉)氏でしたか、『黒潮』は星亨の一代を書くんだつてましたが……」
蘆花氏は二月の余も髪結床の手にかけないらしい五分刈の頭を強く振つた。
「嘘ですよ。竹越氏の言ひさうなことですね、星亨だなんて……なあに、ただ行き当りばつたりに書き続けてみて、往けなかつたら途中で
止すまでのことでさ」と吐き出すやうに言つて、「ま、私は文壇の
加増山(後に高見山)といふところですな、柄ばかり大きくつて 加増山といふと、貴方、
難波の合併角力を御覧でしたか」
その頃博覧会の賑ひを当て込みに、難波で東西合併相撲があつて、かなり市中の人気を引き立ててゐた。
「いや、まだ見ません、一度見たいと思つてますが、折がなくつて」
「ぢや御一緒に見ようちやありませんか、もつとも私は昨日も覗いてはみましたが、実はも一度見たいと思つてたところなんですから……」と肉附きのいい胸をはだけて汗を拭きながら「貴方相撲は誰がお好きでしたつけね」
その頃相撲狂ひのやうになつてゐた私は、かうして好きな相撲衆の名を訊かれてみると、もう夏羽織のないことも、イプセン全集の払ひが、半分以上丸善に残つてゐることもすつかり忘れてしまつて、私は居ずまひを直しながら一膝前へのり出した。
「好きなものは駒ケ嶽ですよ」
「駒はいいですな」蘆花氏は塵除眼鏡の奥から、私の素振りを
可笑しさうに見つめながら「私は字を書くのにも、細い
真書よりも太い
水筆を先だけおろして書くのが好きですが駒の相撲にはちよつとそんな点がありますね。なるほど
太刀山などもかなり強い、強いに相違はないが、駒に比べると相撲
風に何となく俗気があるぢやありませんか」
「さうですとも、さうですともさ」と私は幾度か
頷いてみせた。「太刀の相撲
風はただ強いといふだけで、技の
美味といふものがありません。ただ腕つ節が強いといふだけなら、人間はとても獣類には勝てませんからね。相撲の興味は力を
按排する技にあるのだらうと思ひます。早く言つてみれば、荒岩と若島のやうな……」私がかういふと、蘆花氏は後を
引つ
手繰るやうに、「若島は巧いですね。昨日など手もなくあの荒岩を投げつけてしまつた。大方荒岩の一生に、あのくらゐ手綺麗に投げられたことは二度とありますまい。それがどうも八百長ではないらしいから」
「へえ、そんなに巧く……」
「巧いの何のといつて、荒岩の差手をかうためておいて……」と蘆花氏がぶきつちよの手附きで相撲の
手捌きを説明しようとするところへ、とんとんとんと誰かが
梯子を上つてくる音がしたので、極り悪さうにそのまま止めてしまつた。上つてきたのは、その頃大阪の△△新聞にゐた松崎天民君だつた。
松崎君もこの頃では大分変つてきた。人間を大ざつばに二つに分けて、一つは金貸、一つは中央公論の購読者として、金貸が何ひとつ読まないと打つて変つて、中央公論の購読者はどんなものでも読むものと思つてゐるらしいが、あの頃はまだかういふ大胆な人生観を有たない代りに、
生な少年の羞恥を失はないでゐた。同君は自分でも言つてゐる通り、ずつと以前何か民友社の詰らぬ仕事を働いてゐたことがあつて、蘆花氏の顔をもよく
記憶えてゐたので、いくらか
羞恥みながらも私の紹介をも待たないで挨拶をした。
「あ、貴方が松崎君でしたか、一度お目に懸りたいと思つてゐました。何でも以前民友社でお働きくだすつたさうで、貴方のやうな方がお出になつたのは民友社の光栄であります」
着流しの
懐中のどこに
蔵ひ込んであつたかと思はれるやうな、
外所行きの挨拶をするので、松崎君はいくらか
煽て気味に思つたらしく、歯切れの悪いビフテキの塊を
鵜飲みにしたやうな、変な顔をして、ヘへへと例の笑ひ方をしてゐる。
松崎君はほどなく帰つた。私たちは一緒に堺の水族館を見ようといふので連れ立つて家を出た。羽織を着ない人と羽織を持ち合さない人は、どちらも浴衣の着流しで、難波で埃臭い三等室のなかに
投り込まれた。汽車が天下茶屋を過ぎやうとする頃、蘆花氏は思ひ出したやうに左の袖口へ右の手を突つ込んで何か
弄つてゐるらしかつたが、しばらくすると、大きな
掌面へ上つ皮の
萎びかかつたネエプルス蜜柑を一つ載せて私の眼の前へつき出した、
「
召し
食りませんか、昨日相撲場で買つた残り物です」
私が辞退すると、蘆花氏はいきなりその蜜柑を塵埃で白くなつた三等室の窓枠へ叩きつけて、破れた上つ皮の裂け目へ太い
拇指を衝つ込んだ。そして引き
拗るやうに蜜柑を二つに裂いて、その一つを私におしつけた。
「ぢや、半分つつ食べませう。これでなかなか
美味いんですからね」
私たちは堺へ下りて、黄いろい砂埃のたつ道を水族館へ向けててくてくと歩いた。
肥り
肉の蘆花氏は幾度か胸をおし
寛げて、汗を
拭つてゐるらしかつたが、それでも平気な顔をして歩いていつた。
水族館のなかは冷たい空気が水のやうに流れてゐて、入るから気持がよかつた。私たちは濁つた潮水のなかに息苦しさうに泳ぎまはる
正覚坊や、ふざけた身振りでそこらを這ひのたくる
手長章魚を見て、その不思議な生活の状態を面白いと思つた。琉球産の
永良部鰻のつばぬけて大きなのが五、六尾、ぬめぬめした尻尾を敷砂の上へ投げ出したまま、青味がかつた腹を窓硝子の面へぴたりと
附着けて、にようにようと水の上へ頭を持ち上げやうとする容子に、しばらく
見惚れてゐた蘆花氏は私のはうを振り向きさま、
「貴方、フロウベエルのサラムボオをお読みでしたか」とこんなことを訊いた。
「は、読みました。ヰゼツトリの訳本で」
「あの書のなかに、ピトンといふ蛇がサラムボオの頸に捲きつくところが書いてあつたでせう」
「さやう。ちやうどこの永良部鰻のやうにね」私は答へながら、忙しい三つの調子の鳴り響く華美な幕のなかで、一枚一枚衣裳を脱ぎ滑らかしたサラムボオの頸節を捲いた蛇が、毀れた頸飾のやうに、両端をだらりと肩から地面に垂れた撓やかな姿を想像してみた。そしてまだその蛇の小さな口を自分の唇に当てがつて、半ば眼をつむりながら、銀の霧雨のやうな月明りに立つたサラムボオの美しい顔を想像してみた。鉢物の
棕梠や
覇王樹〔サボテン〕が、大きな
掌面を拡げて入口に衝つ立つてゐる夏の水族館は、こんな想像を描くのに
相応はしかつた。
私たちはひとしきりそこらを見廻つて外へ出た。そして小高い、海を見晴しの岡の上に出てきて、ところどころペンキの
剥げかかつたベンチの上に腰をおろした。二人は疲れたやうにしばらく黙つてゐた。海には船が幾つか浮いてゐた。波打ち際に近いその一つに、
垢染んだ布をぐるぐる捲きに腰に捲きつけた夫婦ものの漁夫が、
舷にのしかかるやうにして小魚か何かを
掬つてゐるらしいのがあつた。眼鏡越しにその素振りにじつと見惚れてゐた蘆花氏は、何か思ひ出したらしく、ぽきりぽきり言葉を切りながら『黒潮』出版当時の事情を話し出した。
「ああして兄と兄の事業とに絶縁してみると、私には収入といふものは
鐚一文もなくなるのです。さやう、あの時私の
懐中には、文久銭までかつ
浚へて皆で一円五十銭ばかしも持合せがあつたでせうか。これだけでは何の足しにもなりませんから、以前親父から分けてもらつた公債が少しばかりあつたのを売り払つて、ちやうど『黒潮』の脱稿を機会に自費出版をしてみたやうなわけなのです..つまりあの書は私にとつては一種の冒険でした」
「そんなに承つてみれば、世間の歓迎はとりわけ意味があつたやうですね」
「さあ、どんなものでせう」と蘆花氏はわざと気にとめぬらしく言つて、「もしかあの出版が失敗に終つたとしたら、私は京都にでも引つ込むはずでした。あそこには古い友人もゐるし、私の出身の学校もあるしするから、何かの便宜もあるだらうと思つて。ところがまあ、書物もかなり世間に歓迎せられたので、この分ならどうにか遣つてゆけるだらうかとも思つてゐることですがね……」と
逞しい両手をぬつと差し上げて大きな
欠伸をした。
最終更新日 2006年02月12日 10時13分42秒
薄田泣菫「徳冨健次郎氏」2
私たちはそろそろ腰をあげて、午前の焼けつくやうな道を停車場へ出て汽車に乗つた。
鈍くさい汽車の足がやつと住吉まで来て、行倒れのやうに立ち止つてしまふと、私たちは窓から顔を出して外を見た。すぐ鼻先にそこらの松といふ松が老齢の癖に、
剽軽な身振りで
戯け散らしてゐるのを見ると、何だか軽い気持でその下を
稍佯いてみたくなつたので、やつと正気づいた汽車がまたのそのそ動き出さうとする頃、私たちは慌てて下へ飛び下りた。
私たちは山陽や小竹や
海屋やの書いたといふ石灯籠のなかを縫うて歩いた。私が何かの拍子にその頃死病に罷つてとても見込みがないといはれてゐた尾崎紅葉氏のことを話すと、蘆花氏は
平常に似ず激昂した態度でこんなことを言つた。
「尾崎君には友達がありませんね。ああいふ病気に罹つてもう前途も判つてゐるものに、ユゴオのノオトルダアムの訳文ハその頃紅葉氏は
長田秋濤と共訳の名でノオトルダアムの翻訳を出版してゐた)を見せるなんて。どうせ癒らないものなら、残つてゐる時間をもつと大切に使つたらどんなものでせう。私が友人だつたらユゴオの翻訳なぞは思ひ止つて、その代り『金色夜叉』の続きを書き足すやうに忠告したいと思ひますね」
私は死病にとつつかれて苦しんでゐる紅葉氏に、わざわざ忠告を試みようといふ蘆花氏の親切にはちよつと頭を
傾げたが、それよりも生粋の江戸ツ子で、わけても江戸ツ子の
瑕疵を誇りにしてゐる紅葉氏と、
生の田舎者で、とりわけ田舎者の不器用を自慢にしてゐる蘆花氏と衝き合せて将棋でもささせたら面白からうと思つた。紅葉氏は小手利きの桂馬や金銀を巧みに使ふだらうし、蘆花氏は初めから
終ひまで一本気の飛車で押し通すに相違ない。そしてどうかすると王様を忘れるらしいところはどつちも同じことだ。
私たちは松原を通りぬけて、高灯籠の方へ往つた。蘆花氏は何か考へ事でもしてゐるやうに、いつも下を向いて歩いてゐたが、ひよいと立ち止つたと思ふと、私の名を呼んだ。振り向いてみると、
路つ
辺に
屈み
腰になつて、芝草のなかに咲いた淡紫の花を覗き込んでゐる。
「この花の名を知つてますか」
「いや、知りませんな」
蘆花氏は私の返辞が少しも耳にとまらないらしく、吸ひつけられたやうに淡紫の小さな花弁に見惚れてゐたが、しばらくするとふと思ひ出したやうに、
「あ、さうですか」
といつて、すたすたとまた歩き出した。
私たちはかたかた安下駄の音をさせながら、高灯籠に上つてみた。そして埃臭いそこの窓から
顎髯の伸びかかつた黒い顔を二つ覗けて、きようきよう
四辺を
聹してゐたが、今まで歩いてきた地面で見馴れないやうなものは何も見つからなかつた。二人は詰らなささうにまた下へ降りて、すぐ
側の茶店に腰をおろした。蒸暑い午前をそこらちう歩きまはつたせゐで、咽喉がこびりつくやうに渇いてゐるので、私は店先から
引つ
奪るやうに梨を二つ三つ取つてきて錆の浮いた小刀で
剥いてゐると、蘆花氏はそこらのラムネを一本つつ克明に調べてゐたが、やつと安心したらしいのを二、三本引つ提げて帰つて来た。私たちはそれを飲みながら梨を食つた。梨は水気がたつぶりで
甘味かつた。
「貴方、国木田独歩君を知つてゐますか」
蘆花氏はだしぬけにこんなことを訊いた。
「よくは知りませんが、先日こちらへ来た折一度会つて話してみました。もつとも手紙だけはずつと前から往復をしてゐますが……」
「どう観察しました、あの男を?」
「さあ……」
私がかう言つて
蟷螂のやうに才はじけて、蟷螂のやうに利かぬ気が強く、おまけにまた蟷螂のやうに首根つこの細い国木田君についての印象を纏めやうとしてゐると、蘆花氏はそれが待ち切れなささうに、
「国木田はまるで
浮嚢のやうな男でしてね、押へればきつと浮き揚ります。これまで随分苦労もしましたが、一向それに屈託した痕が見えません。ああいふ人物は浮き揚らせるために是非一度押へつける必要があるやうですね」
私はその時何とか言つて返事をしたやうとは思ふが、どんなことを言つたか今は少しも
記憶えてゐない。
私たちはそこを引き揚げると、また天王寺公園の博覧会場に帰つて来た。そしてあちこちの建物をひとわたりざつと見歩いた後、
昼餐を食べにある料理屋に入つたが、蘆花氏は少しの酒も肉類も食べなかつた。-
「菜食主義者といふわけですか」
「いや、そんなわけちやありません。ただ
無暗に肥えてくるやうですから……」蘆花氏はかう言つて、胸をはだけて汗を拭いた。私はその胸を見て農夫のやうな体躯の人だなと思つた。
最終更新日 2006年02月12日 10時16分15秒
薄田泣菫「徳冨健次郎氏」3
二
春草君と私とが、京王電車の上高井戸の停留場へ下りたのは十七日の午後二時過ぎであつた。
徳富健次郎氏が夫人と一緒に、この二十六日に二度目の欧米漫遊に出かけるといふことなので、私はその前に一度会ひたくなつてわざわざ出てきたのだ。春草氏も同氏に用事があるといふので、一緒に途連れになることにした。
二月前に来た折には、そこらの雑木林は、黄金のやうに黄ばんで、
午過ぎの日光のなかに躍りさざめいてゐたが、今はもう葉も大抵落ち尽して、樹といふ樹は裸のまま凍てついたやうな寒空に
肱を張り、肩を
聳やかせて突つ立つてゐる。風のない静かな日なので、そこらに落ちてゐる枯つ葉は寝返りひとつ打たうとしない。霜解けのじめじめした野道を、私たちは肩を並べながら歩いた。
徳冨氏の門は相変らず
鎖されてゐた。春草君が二、三度声を立てると、なかから見覚えのある女中の顔が覗いた。破れかかつた柴垣の隙間から名刺を二枚のぞけると、女中は黙つてそれを受け取つてなかへ入つた。私はその折思つた。ここへ来るのに普通の名刺を出すのは
工合が悪い、そこらに落ちてゐる
櫟の枯つ葉でも拾つて、それにさらさらと名前を認めて出したら、どんなにか映りがよからうと。
しばらくすると
鑰が外されて、扉はなかから開けられた。私たちはそこらの庭木の下を潜り潜り女中のあとに
蹤いていつた。庭木といつても
悪戯つ
児のやうに所構はず突つ立つて、気ままに暢び暢びと枝を突き出してゐるので、どうかすると帽子を跳ね飛ばされさうな気がする。
私たちが通されたのは、八畳ばかしの部屋で、白鶴といふお爺さんらしい人の梅花書屋といふ額と、山陽の書と
清方の若い女の版画が
長押に懸つてゐた。床の間にはいろんな玩具がごたごた並べてあつた。私がこの前に通されたのは、ずつと離れた伽藍堂のやうな一軒建ちの客室で、徳冨氏の話によると、土地の
賭博打ちの家だつたのを、七十円で買い取つて、そのまま屋敷の隅つこに曳きずつてきたものださうだが、どこかに賭博打ちの大まかな肌合の思はれるやうなところもあつて面白かつた。
「あつちの客室の方が
暢気でよかつたちやないか。しかしこの室も暖かいには暖かい」
私たちは窓硝子から背一杯に射し込んでくる
午過ぎの冬の日を、懐かしさうに振りむいて見た。すると今まで気が
注かなかつたが、私の背後に新しい革製の大きな四角い箱が置いてあるのが目についた。
「何だらう。旅行用の道具には相違ないが……」
「何だつしやろ、いい革だんなあ」
春草君は東京に店をもつて十六、七年にもなるが、相変らず大阪弁で通してゐる。
「
敦盛でも入れさうなほど大きいぢやないか」
「ほんまにいな」
『陣屋』の熊谷にも、敦盛にも一向
昵懇の薄い春草君はけろりとした顔で済ましてゐた。すると、いきなり襖があいて、
「やあ」
と室一杯の声をしながら、にこにこ顔の徳冨氏が入つてきた。
私はすぐに訊いた。
「この箱は何を入れるんです」
「妻の帽子入れです」徳冨氏は晴れやかな調子で答へた。「少し寸法を間違つた上に、いくらか立派過ぎました」
「へえ、奥様の帽子入れ。幾つ入りまんね、大きうおますなあ」
春草君は水蜜桃のやうにうぶ毛の生へた顔を
傾げて、感心してゐため
「御洋行ださうですね」
「は、急に思ひ立ちましてね」と徳冨氏はこの人一流の「は」といふ音をはつきり響かせて言つた。「とにかくパレスタインまで往つて、ひとまつそこに落ちつき、仏蘭西語でも勉強した上で、コンスタンチノープルからオデツサを経て露西亜に入りたいと思つてゐます。は、露西亜へ入つたら是非トルストイ爺さんの墓参りもしたいと思ひましてね」
氏は露西亜をひと通り見た後は、スカンヂナヴヰア半島を経て、独逸に入り、それから仏蘭西、伊太利を一巡して
白耳義、
和蘭、英吉利といふ順に欧州を廻つて、最後に米国を通つて来年三月頃に日本に帰つて来るといふことを話した。
「えらい旅だんな。それやとお二人さんとも生命保険に入んなはつたはうがよろしおまつせ」
春草君は大阪人特有のどんな真面目なことをいふ折にも、いくらか交へずにはおかない
戯けたやうな調子で言つた。
「それは私が旅行するといふことが伝はつてからといふもの、傷害保険や、生命保険の人たちが、うるさく訪ねてくることはきますが、死ねば二人一緒のはずの私たちには、保険に入つたところで、誰も保険金を受け取る者がないぢやありませんか、家には猫が一匹留守番をしてゐてくれますが、猫に保険金を残したつて仕方がありませんからね」
と徳冨氏は声を立てて笑つた。しかし私は猫を保険金の受取人にきめておくのも面白いと思つた。仏蘭西の政治家リセリウは亡くなる時、
平素可愛がつてゐた飼猫に少なからぬ遺産を残したといふことだ。猫は遺産を
貰つたからといつて、華族の長男のやうに、下らぬ政治道楽など始めようとはしない。猫は腹がくちくさへあつたら、眼を細くして哲学を考へることを知つてゐる。
「へえ、猫が一匹」春草君は不思議さうに頭を
掉つた。
「さうです、猫が一匹留守番をするのです。もつとも門側の小舎に近所の婆さんが一人住まつてゐて、機を織りながら猫の世話をしてくれるはずですよ」
私たちはその猫や、亜米利加の大統領や、英吉利の政治家の話などをした。なかにも徳冨氏がこれから一番さきに往かうとする露西亜の険しい社会状態は、最も主人の気をひいたらしく、そんなことを話す折には、徳冨氏の眼は物好きに光つてゐた。
部屋のうちはいつの間にか薄暗くなつたので、女中がランプを持つて入つてきた。私は昔
昵懇に出会つたやうに、懐かしさうにその光に見とれてゐた。ランプはまた涙もろい人のやうにしきりと瞬きをしてゐた。女中は器用に心を立てて出ていつた。
「ーさん」と徳冨氏は私の名を呼んだ。「あなたにぜひひとつ聞いてもらはなければならぬことがあります。今出ていつたあの女中のことですが、あなたは先日お訪ねくださいました折、あれを
胡桃のやうに黙つてゐる女だとお書きくだすつた。それを見てあれは一日泣き続けましたよ……」
「へえ、なぜでせう」私は呆気にとられて主人の顔を見た。
「私は胡桃のやうちやないと言ひましてね。いくらすかしてみても泣き止まないので、私もすつかり閉口してゐると、妻が『でも、宅の旦那様はふだんから自分を栗のやうだと言つていらつしやるぢやないか、栗の旦那様に、胡桃の女中ならよからうちやないかね』と言ひますと、やつと機嫌を直しましたつけ。どうか胡桃だけは止めてやつてください、私からも頼みますから」
徳冨氏が大真面目に言ふので、私もひどく気の毒になつた。
「ええ、止めませうとも、それは済みませんでしたね」
しばらくするとその女中が膳部を運んできた。私がここの主人と食事を一緒にするのは、ちやうど十五、六年ぶりだつた。徳冨氏は数多い御馳走のなかから鮎と漬物とを取り立てて私たちのために披露してくれた。鮎は
日向の祝川で
獲れたもの、漬物は仙台の
糸瓜であつた。
食事が済むと、私たちは名残りの
粕谷の夜を記念するために筆を執ることにした。徳冨氏は私のために私の郷里に近い
玉島で
咏んだ短歌と、道後温泉のお滝さんといふ女に与へた都々
一とを短冊に書いてくれた。私は短冊と書画帖とに短い歌を一つづつ書きつけておいた。私が長いこと
書痙で右の手を痛めてゐることを知つてゐる徳冨氏は、書画帖には試しに左手で書いてみてくれと言つてきかなかつた。私はいい気になつて左手で書いた。
「なるほどな、右で書いたものよりかずつと面白い」
煽て上手の氏は、ランプの火影にそれをじつと見入りながらこんなことを言つた。私は手がもう三本もあるやうな気持で、何かやたらに書き残したくて仕方がなかつたが、短冊が皆になつたので止めることにした。
もう八時を過ぎたので、私たちはここの主人の長い旅行を祝福して帰ることにした。提灯を言ひつけに障子を開けて縁側へ出た氏は、
「 さん、ちよつとちよつと」と慌てて私の名を呼んだ。私は立ち上つて縁へ出た。
「どうです、いい月ぢやありませんか」
「いい月ですね」
十七夜の月は夢のやうにほつかりと雑木林の枝にかかつてゐる。三人は縁に立ち
跨つたまま、しばらくはじつとそれに見とれてゐた。
女中が提灯をともして台所から出てきた。私たちは夫人に挨拶して門の外へ出た。そこまで見送つた徳冨氏は、冷たい水のやうな月明りに全身を濡らしながら立ちどまつた。
「それぢや御機嫌よく、しばらくお目に懸れますまい」
「さやうなら、御機嫌よく」
「さやうなら」
私たちは提灯をふりながら、落葉の道をかさこそ踏み鳴らしながらかへつて来た。
〔大正13年刊『忘れぬ人々』〕
最終更新日 2006年02月12日 10時16分41秒
薄田泣菫「勝海舟翁」
勝海舟翁
私が海舟翁に初めに会つたのは、さやうさ、何でも日清戦争の済んだ後だつたと覚えてゐる。先輩某博士の名刺をもつて、赤坂氷川町に名高い、しかしながらあまり立派でない邸宅へ訪れてゆくと、行儀のよい
小婢が出てきて、老伯の居間に案内してくれた。そこは薄暗い居間で、老伯は床を敷いてむかう向きに寝てゐた。私が安芝居で
記憶えた、
厳つべらしい口上で丁寧に挨拶をしても、こつちに振り向うともしなければ、返事ひとつしない。少々てれてゐると、だしぬけに、
「おまへは田舎出の書生つぼだな。一体何をしに東京へ出てきた……」と言ふのだ。
「はい、法律を勉強したいと思ひまして」
「法律をやると首を縊るぞ」と浴びせ掛けておいて、老伯は寝返りを打つて、くるりとこちらに向き直つた。
髪の毛のばさばさした、頬髯の伸びた病人らしい顔に、底気味の悪い眼が爛々と光つてゐる。あの眼だ。栄華を極めた徳川十五代が運命に捨てられてゆく悲劇を
面のあたり見たのは。かう思つて私はその顔を見つめてゐた。
「どうだ、解つたかい」
私ははつと気がついてみると、自分は何も知らずに首を縊る学問をしてゐると言はれてゐるのだ。私は黙つて笑つてゐた。
「解つたらそれでいい。俺に何用があつて来たのちや」
私は用事といふのをつい忘れようとしてゐた。私のやつてゐる「法律」では、英雄であらうと、蕎麦屋の出前持であらうと、借金をした者は同じやうに取り扱ふことを知つてゐるので、私は別段英雄といふものに用事はないのだが、国元にゐる親爺が書画狂で、わけて海舟翁のものが好きなので、何とかして書いてもらふわけにはゆくまいかと、
五月蠅く催促してくるので、つい紹介状まで貰つて頼みにきたやうなわけなのだ。
「書を一つ戴きたいと思ひまして。国元の親が是非お願ひしてくれと申しますので」私が恐る恐る言ふと、老伯は眼をそつばうに
逸らしたまま、
「俺は田舎者なんかに惚れてもらはんでもいいのちや……それに俺の書には
価値つて奴があるでの。どうちや、御礼をたんともつてきてるかい」
私は手を入れて袂を探つてみた。冷たい白銅がただひとつ指先に触つた。私はいま少し持合せがあつたらそれを包んで、老伯の枕許へ黙つて差し出したかも知れなかつた。その頃の私はそれほどまで生真面目であつた。
私は附穂がないやうな気持で、妙にてれてゐると、老伯は小婢を呼んで押入から円く包んだ書き物を取り出させた。
「このなかから気に入つたのを二、三枚撰り出してゆきなさい」
今度は打つて変つて親切な
祖父さんのやうな調子でかう言ふのだ。私はにこにこもので、気に入つた文句のを二枚ほど撰り出した。
「では、これだけ戴きます。親爺がどんなにか喜びますでせう」
お礼を言つて帰らうとすると、老伯はやをら半身を起して「ちよつと」と言つて呼びとめた。私はまた吐り飛ばされるのではなからうかと思つて、びくびくもので腰をおろした。
「小遣銭があるかい」
私は変なことを訊く老人だなと思つた。
「持ち合せてゐます 幾らか」
「嘘を
吐け、天保銭ひとつない癖に。……さ、どれでも一つ持つてゆくがいい、おまへたちにくれようと思つて
拵へてあるのちや」
かう言つて老伯は枕許にあつた塗盆を取って私の前に突き出した。盆の上には紙包みが幾つか載せてあつた。
「でも、
真実に持合せがあるんですから」
これまで
他から金を貰つたことのない私は、少し侮辱されたやうな気持で
達つて辞退すると、
老伯は、
「老人がせつかくくれようと言ふものちや、有り難く貰つておけ」
と、
小五月蠅さうに言はれるので、私は小婢の手からその一つを貰つて外へ出た。道の三町とはゆかないうちに、私は蕎麦屋の前へ出たので、ついそこへ飛び込んだ。そして立て続けに天麸羅蕎麦を三つ喰べた。心から海舟翁の健康を祝しながら……包には五十銭銀貨が一つ入つてゐた。
(K氏の話)
〔大正13年刊『忘れぬ人々』〕
最終更新日 2006年02月12日 10時26分39秒
薄田泣菫「山県含雪翁」
山県含雪翁
私の親戚の宅が京は下岡崎の、山県公の無隣庵に近い所にあつて、そこの主人が含雪老公とも近づきの間なので、老公が政界の
五月蠅さから追はれて、京都に閑居してゐる時分には、閑にまかせてちよいちよい親戚の家へも出掛けてきたものだ。
今はもう五、六年の
往時にもならう。春もまだ浅い二月頃だつたと覚えてゐる。私はその親戚の宅へ遊びにいつて、
平常の
心安立てから座敷の
椽側に寝そべつて、何かの書に読み耽りながら、
午下りの陽に背を暖めてゐると、玄関先から
前栽へ通ふ木戸口が静かに開いて、誰かが入つてくるやうな
容子がした。私は一心に書に読み耽つてゐたし、そこから入つてくるものはこの家の主人か、それとも飼犬のSくらゐだらうと思つて別に振り向いてもみなかつた。
脚音はかさこそそこらを
悄佯いてゐるらしかつたが、しばらくすると私のすぐ後にやつて来た。
「○○さんは今日はお
不在かな」
つひそ聞き馴れない声なので、私は頭をあげて後を見た。痩せぎすな、顴骨の飛び出た、バプテスマの
約翰の喰べた
蝗のやうな顔をした男で、頭には
猟虎の頭巾をちよこなんと
被つてゐた。私はそれを見た刹那に、「ははあ含雪老人だな」とすぐに気がついたが、わざと素知らぬ顔で訊いた。
「○○は宅にゐますが、貴方様は……」
「つい近所の者ぢやと伝へてください」
いやに
慇懃な
口風だが、それでゐて自分の名前を言はうとはしない。ちょつとしたことにもわが流儀を忘れない点に、この人の特色があるのだなと思つた。 私は奥へ入つて主人にこの旨を通じた。
主人はあたふたと飛んできた。
鄭重な挨拶振りで座敷へ
請じようとするのだが、老公は一向上らうとしない。そして二言三言主人の言葉に応答をしながら、そこらの前栽をあちこち
悄佯いてゐるので、主人も到頭下駄をつつかけて下へおりた。
私は動物園の
埒につかまつて、
檻のなかの動物を見るやうな、物好きな気持が一杯で、座敷の次の間の腰硝子を通して、じつと含雪翁の素振りを観てゐた。一体この老人は日本の老政治家のうちでも、世間受けのあまりよくない人で、私がこの人について
有つてゐる智識も、実際気の毒なやうなものであつたが、この瞬間私はそんな聞伝への智識なぞは
瘧のやうに
揮ひ落してしまつて、なるべく生地のままのこの人を見ようと思つてゐたのだ。
前栽はかなり広かつた。
疏水の流れをひいてちよつとした
瀑まで
拵へてあり、池には真鯉が
游いでゐた。老公はそこらを歩き廻つてゐたが、ただもう歩き廻るといふだけで、世間話をするといふでもなく、主人が愛想ぶりの
談話に低い
掠れた声でちよいちよい受答へをするか、肉の落ちた頬を歪めて淋しさうにつと笑つてみせるに過ぎなかつた。ー-何といふ淋しい笑ひだらう、私はあの淋しい笑ひに
牽きつけられてゐる帝国陸軍と山田さん(老公の側室にゐる婦人で、私たちのなかでは山田さんで通つてゐる)との運命を哀れまぬわけにはゆかなかつた。
「あ、あの椿を見ていただきませうか」
主人は先へ立つて
築山の横手にある白椿の
側へ往つた。この家の新築祝に老公からわざわざ送つてきた椿で、大輪の白い花が珍しいといふので、主人も手塩にかけて
労はつてゐるのだ。
「お蔭でこんなに大きく育ちました」
「ほほう」
老公は
蝗のやうな顔の筋肉ひとつ揺らさないで見てゐる。私はその刹那に妙なことを思ひついた。それはルツソオが自分の運命を試すために、小石を樹の幹に投げつけてみたのと同じで、これからひとつ老公の運命を占つて見ようといふのだ。
それは別でもない 椿の横手にちよつとした芝土があつて、その上に飼犬のSが落していつた糞がある。老公がつい知らずにあれを踏みつけたら、いま一度
台閣に立つて政事の権を執るだらう。もしまた踏みつけなかつたら、今年中に何か失敗するだらうといふのだ。何といふわけはないが、とにかくさういふことに決めて、オリユムボスの神様のやうな、公平無私の態度でじつと見てゐると、老公は何気ない顔でその
穢いものを避けて通つた。
「気の毒なものさ、今年中に何か失敗するといふのだ」
私は木戸を出てゆく老公の後姿を見ながら、独りでこんなことを思つてゐた。で、好奇な心からその一年といふもの、新聞紙に載つてくる老公の消息は絶えず見てゐたが、別段何も失敗らしいものはしなかつた。といつて再び台閣に立つて政治の権を執るといふのでもなかつた。してみると、私の運命占ひは少しも当らなかつたことになる。それに何の不思議があらう、当らないのが占ひだもの。
[大正13年刊『忘れぬ人々』〕
最終更新日 2006年02月12日 10時29分14秒
薄田泣菫「河野広中氏」
河野広中氏
河野広中氏が亡くなつたといふことを今朝新聞で読んだ。
自由民権論のやかましかつたむかし、県令三島
通庸を相手に、無手で抗争した当年の戦士も、晩年には打つて変つた静寂の生涯を送つてゐた。最近この人についての記憶といへば、大隈内閣が京都で執り行つた御大典当時、大臣といふ大臣はすつかり京都に集まつた。集まつた者の多くは、毎日訪問客の応対や、出歩きにいそがしく暮してゐるなかに、その頃農商務大臣をつとめてゐた河野氏だけは、朝から晩まで誰ひとり客がないので、旅宿の一室に閉ぢ籠つて本読みに耽つてゐたといふことくらゐなものである。
オスカア・ワイルドの言ひ草ではないが、人間一生の問に言はなければならないことを、三十までに
喋舌つてしまつて、その年配を過ぎてしまつてからは、おそろしい沈黙家になる人があるやうに、世の中には、自分一生の働きを、手つとり早く三十までに片付けてしまつて、後はぼんやり夢を見て暮す人がよくある。河野広中氏などはどちらかといへばその人で、最近のお人好しのお爺さんらしい氏を見て、これが若い時分自由民権の戦士として、幾日幾夜といふもの、
徒跣足で雪に凍てた地べたに衝つ立つて、時の権力と争つたことのある人だとはちよつと想像がつきかねたものだ。
しかしこの静かな、つめたい死火山にも、時折思ひ出したやうに
往時の火が燃えぬでもなかつた。一度こんなことがあつた。-ー河野氏がまだ国民党にゐる頃だつたが、党の大会が開かれるといふので、
種々な地方からその土地の探題といはれるやうな人物が多く上京してゐた。大会も無事に済んで、河野氏に
眤懇の深い人たちだけが夕方から二次会をある料理屋で開いた。その頃新しく代議士になつたばかりの日野国
明君も来合せて、二次会にも顔を出してゐたが、昼間の大会に何だか癪に触つたことでもあるらしく妙に
憤々した顔をしてゐた。今でこそ日野君も大分老熟してきたが、その頃はまだ持前の疳癪玉を所構はず投げ出したもので、何かの会合があつて酒でも出ると、低気圧はいつでも日野君の五分刈頭の上に迷つてゐたものだ。
床の間の正面には河野氏が例の
払子にでもしたいやうな髯を
扱いて坐つてゐた。膳が持ち出されると、皆は河野氏を中心に二列に分れてこだこた並んでゐたが、日野君の顔が向い側の男のはうに向けられると、眼のうちが妙に光つた。
「誰だい、あの男は」日野君は顎で相手を指しながら、すぐ次に坐つた顔馴染の古い代議士に訊いた.、代議士はとろんこな眼を見据ゑながら、
「あれか。あれは君鈴木天眼ぢやないか」
「いやに気取つてるね」日野君は吐き出すやうに言つて、ぐつと盃を
煽飲りつけた。
見ると、鈴木天眼氏は細君の化粧箱からでも抜け出してきたやうに、長目に刈つた髪の毛を香油で綺麗に左分けにして、きちやうめんな顔に金縁の眼鏡をさへ光らせてゐた。日野君が他の頭髪を気にするのは、友達仲間では随分古い
談話で、いつだつたかも酔つた
紛れに俳人の松村
鬼史氏の髪の毛を鋏でつみ切つたことがあつた。鬼史氏は
塩鹹蜻蛉のやうにいつも頭髪をてかてかさせてゐるので聞えた入であつた。日野君は腹の虫がこみ上げてくるのをじつと押へつけるやうに、難しい顔をして
外つ
方を向いてゐたが、それでも何だか気に懸るかして、また相手の頭髪を見つめながら、ちびりちびり盃を嘗めてゐた。そのうち誰かが政友会と国民党とのいきさつを持ち禺すと、天眼氏は調子に乗つて喋舌り出した。その疳高な声を聴くと、日野君の疳癪玉は到頭はじけ出した。
「
喧しい!」
皆は鳩のやうに胆を潰した。そして鳩のやうに眼を円くして日野君のはうを見た。お喋舌の邪魔をされた天眼氏は、魚の骨が咽喉に引つ懸つたやうな顔をしてゐたが、しばらくするとにやりと笑つた。
「へつ、いやに我鳴るな。大阪ぢやそれで通るかも知れないが、東京は広いそ」
「だからさ。誰かのやうな人間もゐるんだらう」
「なに!」
天眼氏は飲みさしの盃をばつと投げつけた。日野君の手が宣徳火鉢の上に伸びたと思ふと、火箸はすばやく抜き取られてその
掌面に光つてゐた.、二人は起ち上つていきなり掴みかからうとした。
その時まで
四辺の騒々しさを気づかぬふうに、石のやうに黙りこくつて盃を煽飲つてゐた河野氏は、流七眼にちらと二人の容子を見ると、いきなり、
「喝ー 」
と
喚いた。その声の素晴らしく大きいことといつたら、兵庫県出のある代議士などは
吃驚して手に持つた吸物椀を膝の上に引つくりかへしたほどだつた。(新調の袴の
襞へ小芋の実が挿まつてゐたのも後では笑ひ草の一つであつた。)この一喝を浴びせられた二人は、顔を衝き合せたなり、どうすることもできず、このまますごすご引き返してしまつた。
皆はほつと息をついた。ふと河野氏のはうを振り向いてみると、この爺さんは、たつた今鼻の先で起きかかつた騒ぎも忘れたらしく、ぎごちない手附きで吸物椀を取り上げて、胡麻白の長い髯を掻き分け、掻き分け、鼠のやうな口元をして汁を啜つてゐた。
ただそれだけのことだつた。
〔大正13年刊『忘れぬ人々』〕
最終更新日 2006年02月12日 10時31分59秒