薄田泣菫「茶話」T4.2.27

 フランク・ハリスと云へば聞えた英国の文芸家だが、(ハリスを英人だと言へば(あるひ)(おこ)り出すかも知れない、生れは愛蘭(アイルランド)で今は亜米利加(アメリカ)にゐるが、自分では巴里人(パリジヤン)の積りでゐるらしいから)今度の戦争について、持前の皮肉な調,で、「独逸(ドイツ)屹度(きつと)最後の独逸人となるまで戦ふだらう、露西亜(ロシア)人もまた最後の露西亜人となるまで戦ふだらうが、唯英吉利(イギリス)人はーさうさ、英吉利人は最後の仏蘭西(プランス)人がといふところまでは()るに相違ない」と言つてゐる。流石(さすが)にハリスで、よく英吉利人を()てゐる。



最終更新日 2006年02月17日 02時02分56秒

薄田泣菫「茶話」T4.3.1

 「吾等(われら)は世界に(たつた)一つの健康を与へて()れる戦争を歌はうと思ふ。軍国主義、愛国心、アナアキストの捨鉢(すてぱち)行為(ふるまひ)、人殺しの美しい思想、そしてまた婦人に対する侮蔑(さげすみ)ーかういふものを(すべ)て歌ひたい。」ー未来派の詩人マリネツチはこんな事を言つたが、(ほか)の事は()(かく)婦人(をんな)に対する侮蔑(さげすみ)を思はせるだけでも、戦争は吾々にとつて鉄剤同様一種の健康剤たるを失はない。



最終更新日 2006年02月17日 02時03分50秒

薄田泣菫「茶話」T4.3.4

 トルストイの『アンナ・カレニナ』の終りの章に多くの人が蜂小屋の近くで塞耳維(セルビア)戦争の(うはさ)をしてゐるところがある。その時(ある)人が好戦論者を戒めるために普仏戦争の前アルフオンス・カァルの言つた言葉を引証してゐる。ー「戦争が()うでも避ける事が出来ないものならそれもよからう。だが、そんな揚合には戦争論を唱へた新聞記者だけには是非とも一隊を組ませ、どこの戦闘(いくさ)にも前衛としてそれを使ふ事にしたいものだ。」と言ふのだ。欧洲出兵論も誠に結構だが、どうかそんな場合には黒岩涙香(るいかう)君のやうな出兵論者は、誰よりも先に前衛の一(にん)として出掛けて(もら)ひたいものだと思ふ。カタヴソウでは無いが、私はこの名誉ある選抜兵の後姿を想ふ(ごと)に、腹を抱へて吹き出さぬ訳に()かない。



最終更新日 2006年02月17日 02時06分42秒

薄田泣菫「茶話」T4.3.9

 私の故郷(くに)は瀬戸内海の(うみ)(ばた)で、ヂストマと懶惰漢(なまけもの)と国民党員の多い所だが、今度の総選挙では少し毛色の(ちが)つた人をといふので、(よそ)の県で余計者になつた男を(かつ)ぎ込み、それに先輩や知人の紹介状を附着(くつつ)けてさも新人のやうに見せかけてゐる。ゴオゴリの『死霊(しりやう)』を読むと、名義だけは生きてゐるが、実は(とつく)に亡くなつてゐる農奴を買収し、遠い地方へ持ち込んで、そこで銀行へ抵当(かた)に入れて借金をする話が出てゐるが、今の選挙界の新人も一寸(ちよつと)それに似てゐる。



最終更新日 2006年02月17日 02時06分25秒

薄田泣菫「茶話」T4.3・20

 デイケンスは『ぴくゐつく・ぺえぱあす』のなかで、「被告の身にとつては人の()い、福(ふく/\)した、朝餐(あさめし)(うま)く食べた裁判官に出会(でくは)すといふ事が大切(だいじ)だが、原告になつてみると、平常(いつ)も不満足たらしい、腹の減つた裁判官を見つけるやうにしなくてはならない」と言つた。この(ごろ)議員候補者や、その運動者がぴしく引張(ひつぱ)られてゐるが、(みんな)有罪の判決を受けてゐる所を見ると、可憎(あひにく)と腹の減つた、(うち)では夫婦喧嘩(めをとけんくわ)絶間(たえま)が無い裁判官が多いと見える。



最終更新日 2006年02月17日 02時08分04秒

薄田泣菫「茶話」ゴリキイ危篤

ゴリキイ危篤
 ゴリキイが肺炎で危篤だといふ事だ。戦争が始まつてから、ある新聞の特派通信員となつて、戦地に出掛けてゐたから、風邪でも引き込んだのが、肺炎に変つたらしい。
「お(なか)()いてゐる人間の魂は、お腹のい\人達の魂に比べると、営養(やしなひ)もよく、ずつと健全(ぢやうぶ)だ。」と言つたゴリキイは、自慢だけに健全(ぢやうぶ)霊魂(たましひ)()つてゐるが、肉体(からだ)は余り達者では無く終始(しよつちゆう)肺病に苦しんでゐた。
 二三年前伊太利(ぜんイタリ )のカプリ島に譎居(たくきよ)してゐた頃、日本人の学生がその近所に旅をしてゐる事を聞いて、日本人といふものはまだ見た事が無い、一度会つてみたいものだと、(まる)で動物園に新着の鸚鵡(あうむ)でも見るやうな物好きな気持で、その日本人に会つた事があつた。
 その折ゴリキイは、(くだん)の日本人に向つて、日本画を賞め、日本人を賞め、日本が東洋一体のお弟子を教育する態度は、歴史にも滅多に見られぬ素晴しいものだといつて賞めちぎつたさうだが、そのお弟子の(みか)にもお隣の(ゑん)氏のやうな不良書生がゐる事を聞かせたらどんなに言ふだらう。
 いつだつたか、莫斯科(モスコこ)の芸術座の近くでゴリキイが料理屋に入つてゐると、崇拝者の多くがその姿を見つけてぞろく店先に(たか)つて来た。それを見たゴリキイは例の放浪性を発揮して、
 「君達はポカンと口を()けて何に見惚(みと)れてるんだね。僕は踊子でもなければ、死人(しびと)でも無いんだ。ちよいちよい小説を書いて暮らす男が、何が面白くてそんなにきよろくするんだね。」
と噛みつくやうに怒鳴(どな)つた。
 翌日(あくるひ)の新聞は、その話を伝へて、自分の崇拝者をこんなに邪慳(じやけん)に取扱つたゴリキイには、お行儀作法の端くれでも教へ込まなければなるまいと、(ひや)かしを言つてゐたが、そんな事をいふ(てあひ)は崇拝者を持つた事の無い奴で、世の中に崇拝者程うるさいものは無い。
 そのなかで()けてうるさいのは女の崇拝者で、妻君を崇拝者に()つたのは一番事が面倒だ。だから(すべ)ての学者、芸術家、政治家にとつて最も無難な()(かた)は、成るべく自分の細君に(わか)らないやうに物を言ふ事だ。新渡戸(にとべ)博士は婦人雑誌の原稿をかく時には、細君の同意を()るやうな考へしか書かないさうだが、(もつ)ての(ほか)の不了見である。



最終更新日 2006年02月17日 02時14分04秒

薄田泣菫「茶話」風ぐすり

 蚯蚓(みゝず)が風邪の妙薬だといひ出してから、彼方此方(あちらこちら)の垣根や塀外(へいそと)穿(ほじ)くり荒すのを職業(しやうぱい)にする人達が出来て来た。郊外生活の地続き、猫の額ほどな空地(あきち)に十歩の春を(たのし)まうとする花いぢりも、かういふ(てあひ)()つては(なに)()も滅茶苦茶に荒されてしまふ。
 箏曲家の鈴木鼓村氏は巨大胃(メガロガストリィ)()つた男として聞えてゐる人だが、氏は風邪にかゝると、五合(めし)と昧喀汁をバケツに一杯食べて、それから平素(ふだん)余り好かない煙草を(やけ)に吸ふのださうな。「さうすると身体(からだ)ぢゆうの何処(どこ)にも風邪の(かく)れる揚所が無くなつてしまふ。」と言つてゐる。
 昆虫学者として名高い、それがためにノオベル賞金をも(もら)つた仏蘭西(フランス)のアンリ・フアブル先生は、いつも風邪をひくと、自分の頭を灰のなかに突込(つゝこ)むといふ事だ。すると一(しき)(せき)が出て風邪はけろりと(なほ)つてしまふ。
 「随分荒療治ですな。」
(ある)人がいふと、フアブル先生()ましたもので、
 「何でもありません。一寸(ちよつと)風邪のお葬式をやつたのです。」



最終更新日 2006年02月17日 02時15分13秒

薄田泣菫「茶話」料理人の泣言

料理人の泣言
 大隈伯の台所に長く働いてゐる或る料理人の話によると、伯爵家の台所はかなり賛沢(ぜいたく)なものだが、それとは打つて変つて伯自身のお膳立(ぜんだて)は伯爵夫人のお心添(こゝろぞへ)で滋養本位の(やはらか)い物づくめなので(とん)と腕の見せどころが無いさうだ。また味加減をつけるにも、例のロ(くちやかま)しい伯の事とて(ひと)(ばい)講釈はするが、舌は正直なもので、何でも(しよ)つぱくさへして置けば恐悦して舌鼓(したつゴみ)を打つてゐるといふ事だ。
 この料理人の言葉によると、「伯の腰巾着で仕合せなのは武富(たけとみ)や尾崎や高田で、それぞれ大臣の椅子に日向(ひなた)ぽつこをしてゐるが、自分一人は折角の腕を持ちながら一(かう)主人に味はつて貰へない」のださうだ。
 以前仏蘭西(フランス)の大統領官舎でフエリツクス・フオウルからルウベエ、フワリエエルと三代の大統領に料理番を勤めた男があつて、ある時こんな事を言つてゐた。
 「フオウルは仲々の料理通で牡蠣(かき)や蟹が大の好物で葡萄酒も本場の飛切りといふ奴しか口にしなかつた。ルウベエは南仏蘭西の田舎生れだが、それでもお国料理の魚肇(プイヤベヨス)のやうな物は滅多に命令(いひつ)けた事は無かつたし、美味(うま)いものを(こしら)へると相応に味はつて呉れたものだ。ところがフワリエエルと来てはお話にも(なん)にもなつたものでは無い。何もかも油でいためて、加之(おまけ)(ねぎ)を添へて置かなくつちや承知しないんだからな。こんな男にいつ(まで)ついて居るでもあるまいと思つて、(てい)よく此方(こつち)からお暇を貰つて来た。」
 これで見ると、腕のある料理番は、忘れても田舎者の大統領や総理大臣の台所には住み込まない事だ。料理が味はつて貰へない上に、事によると給金までも安いかも知れない。



最終更新日 2006年02月17日 02時15分45秒

薄田泣菫「茶話」画家と書物

画家と書物
     
京都大学の新村(しんむら)教授は日本画家の作物(さくぶつ)(けな)して、画家(ゑかき)はどうしても本を読まなければ駄目だと言つたさうだ。画家(ゑかき)に本を読めといふのは大学教授に(ひげ)()れといふのと同じやうに良い事には相違ない。だが剃立(そりたて)の顔が学者に似合はない事もあるやうに、どうかすると本に食中(しよくあた)りをする画家(ゑかき)もある事を忘れてはならない。新村教授は本を読む画家(ゑかき)の代表として富岡鉄斎をあげて、あの人の()には気品があるといつたさうだが、よしんば気品はあるにしても、鉄斎の画には画家(ゑかき)敏感(センス)が少しも出てゐない。画家(ゑかき)に本よりも大切(だいじ)なのは敏感(センス)である。
 むかし今津(いまづ)米屋与右衛門(こめやよゑもん)といふ男が居た。富豪(かねもち)の家に生れたが、学問が好きで色々の書物を貧り読んだ。珍らしい働き手で、酒男(さかをとこ)と一緒に倉に入つてせつせと稼いだから、身代(しんだい)は太る一方だつたが、太るだけの物は道修繕(みちなほし)橋普請(はしふしん)といつたやうな公共事業に費して少しも(をし)まなかつた。亡くなつた時には方々の人がやつて来て声を立てゝ泣いた。なかに一人智恵の足りない婆さんが(まじ)つてゐて、おろく声で、「これ程学問してさへこんな好いお方だつたから、もしか学問などしなかつたらどんなにか立派な人だつたらうに。」
と言つたさうだ。
 (ばばあ)め、なか/\皮肉な事を言ひをるわい。



最終更新日 2006年02月17日 02時17分57秒

薄田泣菫「茶話」ペンキ缶

ペンキ缶
 紐育(ニユーヨーク)のあるペンキ商店での出来事だ。ーある日主人が店の()へ出て来ると、多くのペンキ缶のなかに、たつた一つ(つひ)ぞ自分の店で取扱つた事の無いペンキ缶が転がつてゐる。主人はそれを見て支配人を呼んだ。
 「この缶は()うしたのだい。うちで扱つたことの無い代物(しろもの)ぢや無いか。」
 「左様(さやう)で御座います。扱つた事はありません。」
 主人の眼は不思議さうに支配人の顔を見た。
 「扱はないものが、何だつて店に転がつてるんだね。」
 支配人は(いつも)のやうにに二く顔で、
 「さればで御座います。今朝程一人のお客さんがお見えになりまして、このペンキは此方(こちら)の店で買つたのだが、不用になつたから原価(もとね)で買ひ戻して呉れまいかと仰有(おつしや)います。見ると店で扱つた品では御座いませんが、お客様の機嫌を損じてもと思つて、言ひなり通りお金を渡して、缶を受取つて置きましたやうな訳で……」
 それを聞いた主人は手を拍つて喜んださうだ。支配人の考へでは、その缶は何店(どこ)で買つたものか知らないが、客がそれを戻さうとする時には、ペンキ屋といへば、直ぐ今の店が代表的に頭に浮んで来たのでそこへ持ち込んだに過ぎなかつた。それをいや違ひます、手前共で扱つた品ではありませんといへば、客の頭に(ほか)のペンキ屋を思ひ浮ばせるのみか自分の店に対して不愉快な悪い印象を与へる事になる。そこが気転の()かし(どころ)で、はいくと言つて二つ返事で買ひ戻しておけば、客は少からぬ好意をもつて店を見る事になる。(わづか)なペンキ一缶の価でこの「好意」が買へたかと思ふとこんな嬉しい事はないといふのださうだ。
 そんぢよそこらの百貨店(デパートメント・ストア)や小売店は、牛が(にれ)をかむやうに、山県(やまがた)公が播餌(すりゑ)を食べるやうに、よくこの話しを噛みしめて貰ひたい。



最終更新日 2006年02月17日 23時34分14秒

薄田泣菫「茶話」加藤(だん)の出迎へ

加藤(だん)の出迎へ
 十六日の午前五時四十九分、梅田着の上り列車で同志会総理加藤高明(たかあき)男が南海遊説の帰途(かへりみち)に大阪へ立寄るといふので、まだ薄暗い朝靄(あさもや)のなかから、一等待合室へ顔を出した待受(まちうけ)の三人衆、一人は北浜花外楼(きたはまくわぐわいろう)女将(おかみ)、あとの二人は()せたお役人とまるく(ふと)つた浪人者。
 女将は皺くちやな鼻先に今朝は薄化粧さへ施してゐる。二人の男の顔を見比ベて「もう程なうお着きだつしやろ。ま、雨が()れてお出迎へするにもほんまに結構だつせ」と二三日前から取つて置きの愛矯を、撒水(まきみづ)のやうに寝不足らしい男の顔へぶち撒けてゐる。外には女将が乗りつけて来た男爵お待受けの自動車が、雨上りの道へのつそり匍旬(はひつくぱ)つてゐる。二人の男はお茶代を(はじ)いてゐる女将の腹を見透(みすか)したやうに、四五銭がとこ顔を(ゆが)めて、一寸笑顔を見せた。
 ()せた男は役人生活をしてゐるからには、何日(いつ)また大臣の椅子に(なほ)らうかも知れぬ加藤さんだ、一寸出迎へをした位で、そんな場合に官等の一つも(あが)る事が出来たなら、飛んだ(まう)(もの)だ位は心得てゐる。咋夕(ゆうべ)から(こは)れかけの眼覚時計に螺旋(ねぢ)を巻いて、今朝はいつもにない夙起(はやおき)をして来てゐるのだ。
 肥つた男は以前御用雑誌の記者をしてゐる頃、加藤男の計らひで支那視察に出掛ける事になり、しこたま旅費も貰つて、そのなかから流行(はやり)のフロツクコートも一着(こしら)へたが、出発間際になつて風邪を引込んで、延延(のびのび)になつてゐるうち、つい沙汰止(さたや)みになつてしまつた。旅費はいつの間にかポケツトの内で消えてしまつて、済まない/\とだけは思つてゐるのだが、幸ひ今日男爵が大阪へ来る事なら、一寸顔出しをして、従来(これまで)の気まづさと旅費の張消しをしようと思つてゐるのだ。で、敬意を表する積りでその折のフロツクコートだけは今朝も着込んでゐる。
 時計はずん/\()つて()つたが、この三人の他には誰一人出迎へるものもない。三人は人数の少いだけ御利益(ごりやく)も多からうと、胸をわくくさせてゐると、程なく汽車は夜通し駆け廻つて(だら)けきつた身体(からだ)廊下(プラツトフオ ム)へ横たへた。三人は息せき駆け出して往つたが、出て来る群集(ひとごみ)のなかには加藤男らしいものは影さへ見せなかつた。
 三人は詰らなささうにすたく構内を出て来た。――皆は言ひ合せたやうにお腹が()いてゐるのだ。実際胃の腑だけは正直なのを持合せてゐるのだから-….。



最終更新日 2006年02月17日 23時37分16秒

薄田泣菫「茶話」陶庵侯と漱石

陶庵侯と漱石
 西園寺陶庵侯の雨声会が(ひさ)(ぷり)に近日開かれるといふ事だ。招かれる文士のなかには例年通り今から、即吟の下拵(したごしら)へに取蒐(とりかゝ)つてゐる(むき)もあるらしいと聞いてゐる。
 いつだつたかの雨声会に、夏目漱石氏が招待(せうだい)を受けて、素気(そつけ)なく辞退した事があつた。その後陶庵侯が京都の田中村に隠退してゐる頃、漱石氏も京都へ遊びに来合せてゐたので、それを機会に二人をさし向ひに()き合はせてみようと思つたのは、活花去風(いけばなこふう)流の家元西川一草亭であつた。
 一草亭は露伴、黙語、月郊などにも花を教へた事のある趣味の男で、陶庵侯の(やしき)へもよく花を活けに()くし、漱石氏へも教へに出掛けるしするので、ついこんな事を思ひついて、それを漱石氏に話してみた。
 皮肉な胃病持ちの小説家は、じろりと一草亭の顔を見た。
 「西園寺さんに会へつていふのかい、何だつてあの人に会はなければならないんだね。」
 「お会ひになつたら、屹度(きつと)面白い話があるでせうよ。」
 「何だつて、そんな事が(わか)るね。」
 花の家元だけに一草亭は二人の会合を、苅萱(かるかや)と野菊の配合(あしらひ)位に軽く思つて、それを一寸取持つてみたいと思つたに過ぎなかつた。一草亭はこれまで色(いろん)な草花の配合をして来たが、花は一度だつて、
 「何だつて会はなければならないんだね。」
などと駄目を押した事は無かつた。胃病持ちは面倒臭(めんどくさ)いなと一草亭は思つた。
 一草亭が思ひついたやうに、この二人が無事に顔を合はせたと二ろで、あの通り旋毛曲(つむじまが)りの人達だけに、二人はまさか小説の話や俳諧の噂もすまい。二三時間も黙つて向き合つた末、最後に椎茸(しひたけ)高野豆腐(かうやどうふ)かの話でもしてその(まゝ)別れたに相違なからう。



最終更新日 2006年02月17日 23時39分40秒

薄田泣菫「茶話」床次(とこなみ)(へこ)

床次(とこなみ)(へこ)
 九州遊説中の原〔(たかし)〕政友会総裁が鹿児島の鶴鳴館で歓迎を受けた時の事、発起人の挨拶に次いで堀切代議士が五分間演説に、(かね)て大きい/\とは聞いてゐたが、西郷南洲が実際大きかつた事を今度鹿児島へ来て初めて知つたと、南洲を桜島大根か何ぞのやうに言つてのけると、次に立つたのが床次竹二郎代議士で、成程(なるほど)南洲も大きかつたに相違ないが往時(むかし)の偉人を()める(ぱか)りでは(つま)らぬ、吾々自ら偉人となつた積りで働かなければならぬと、蜀山人(しよくさんじん)が見たといふ(うなぎ)になりかけた薯蕷(やまのいも)のやうに、半分(がた)偉人になりかけたやうな事を言つて、のつそり引下つた。
 すると、末座の方から「諸君!」といつて立ち上つた一人の男、海老のやうに腰を(かぼ)め、海老のやうに真赤になつて、「自分は姶良(あひら)帖佐(てうさ)の住人で(へそ)()切つて以来(このかた)演説などいふ下らぬ事をやつた事もなし、またやらうとも思はなかつたが、一生に一度の積りで今日は喋舌(しやべ)らして貰ひたい」といふ冒頭(まくら)で、徐(ぼつ/\)皮肉つた一条。
 「南洲翁の大きかつた事を今になつて吃驚(びつくり)するやうでは、(いつ)吃驚(びつくり)せずに死んだ方がましだ。何故といふに、そんな人は明日(あす)になつたら、また(ぞろ)自分の下らぬ事に吃驚(びつくり)するかも知れないから。また床次君のやうに自分が偉人らしい言草(いひぐさ)も気に喰はぬ、身不肖(みふせう)ながら朝夕南洲翁に()いてゐたから、翁の面目(めんもく)はよく知つてゐるが、翁は一度だつて床次君のやうに偉人になつた積りで働いた事は無かつた。」
()つたので床次氏は勿論の事、原(けい)迄が半分偉人になつた積りの顔を歪めて苦笑してゐたさうだ。その男といふのは何でも帖佐辺の村長だといふ事だ。



最終更新日 2006年02月17日 23時41分30秒

薄田泣菫「茶話」名士の墓石

名士の墓石
 亡くなつた市川斎入は茶人だけに、紫野(むらさきの)の大徳寺にある、千利休の塔形(たふがた)墓石(はかいし)(ひど)く感心をして、
 「成程、あの墓石(はかいし)に耳を当てがふと、何時(いつ)でも茶の湯の(たぎ)る音がしてまんな。(わて)俳優甲斐(やくしやがひ)洒落(しやれ)墓石(はかいし)が一つ欲しうおまんね。」
と言つてゐるので、或人が、
 「君は幽霊や宙釣(ちうづ)りが(うま)かつたから、墓石(はかいし)にも一ケレンを仕組(しぐ)んでみたら()うだい。」
(ひや)かすと、
 「阿呆(あほ)らしい。」
と皺くちやな顔を歪めて()刪くれたさうだ。
 だが、それは斎入が物を()らないからで、徳川時代の洒落者の多かつた江戸町人の墓石(はかいし)には、故人が好物の形に似せた墓も少くなかつた。碁好きの墓に台石を碁盤に(こしら)へ、碁笥(ごげ)花立(はなだて)に見立てたのや、酒飲みの墓を徳利形や、酒樽形に刻んだのもあつた。可笑(をか)しいのは賭博(ばくち)が好きだつたからといつて、墓石(はかいし)骰子(さいころ)の目まで盛つたのがあつた事だ。それを考へて(せがれ)の右団次も亡父(おやぢ)の墓を幽霊の姿にでも刻んだら面白からう。
 この伝で今の名士の墓を()めたら、大隈伯のはメガホン型、原敬のは巡査のサアベル型、山本権兵衛のは英蘭(イングランド)銀行の証券型、尾崎学堂のはテオドラ夫人の……。



最終更新日 2006年02月17日 23時46分21秒

薄田泣菫「茶話」春葉氏と子供

春葉氏と子供
 洋画家の鹿子木孟郎(かのこぎたけしらう)氏は、結婚した当座といふもの、子供が無いのを(ひど)く苦に病んでゐたが、巴里(パリ )で秘方の薬でも授かつたものか、二度目の洋行から帰つて来ると、程なく花のやうな女の()(まう)けた。それは(ちやう)ど結婚後十三年目に当つてゐたが、その後間もなく男の児を生んで、今では立派な子持になつてゐる。
 その初めての産があつた時、同じ画家(ゑかき)仲間の(なにがし)がどんな婦人(をんな)でもたつた十ケ月で()る仕事を、画家(ゑかき)ともいはれるものが物の十三年も(かゝ)つて、(やつ)と仕上げるなんて、そんな間抜(まぬけ)な事があるものかと、(きつ)い抗議を申込んだのが、その頃の笑ひ話になつて残つてゐる。
 小説家の柳川(やながは)春葉氏は大の子供好きだが、自分には子供が居無いので、(いぬ)ころや小猫を可愛(かあい)がつて、お客の前をも(いと)はず、土足の(まゝ)上下(あげおろ)しをするので、清潔好(きれいず)きのお客のなかには気を悪くする向きもあつたが、近頃は()うした事か、そんな物も余り()(かま)はなくなつたばかしか、友達の顔を見ると、よくこんな事をいふ。
 「君、僕も()う結婚後十三年になるよ。」
 「へえ十三年にもなるかな。それはお(めでた)い。」
 「有難(ありがた)う。何しろ十三年目だからね。」
 「早いもんだな。」
 「ほんとにさ。十三年目なんだからね。」
 「可笑(をか)しいぢやないか、十三年目が()うかしたのかい。」
 「うん何だか子供が出来さうなんだよ、何しろ十三年目だからね。」
 聞けば柳川夫人はもう臨月に間もない身体(からだ)ださうで、お(めでた)い訳である。春葉氏の説によると、結婚後一二年で直ぐ出来るやうな、(ごく)安手な早上(はやあが)りは別として、少し遅い子供は七年目とか十三年目とかちやんと年期を追うて出来るものなのださうだ。
 してみると、子供の無い者も、心配は十四年目から始めてもまだ遅くない。



最終更新日 2006年02月17日 23時47分37秒

薄田泣菫「茶話」美術学校問題

美術学校問題
 石井柏亭、坂井犀水等(せいすいら)の美術学校改革案は、無論ある点では美術学校の宿弊に触れてゐる。正木校長は世間の噂通りに判らず屋の無能だし、その蔭に隠れてにや/\笑つてゐる大村西崖(せいがい)が、美術界切つての策士であるのは誰も知つてゐる。
 だが、石井柏亭氏()後方(うしろ)にも岩村透男(とほるだん)といふ茶目が控へてゐる。あの改革案が岩村男の指金(さしがね)で無かつたら、(とつ)くの往昔(むかし)に文部省の方でも取りあげてゐたに相違ないといふのは、少しく美術界の消息に通じてゐる者の誰しも首肯する所だ。
 岩村男は洋行帰り当時は、酒脱な交際ぶりと諧謔交(おどけまじ)りの口上手と無学者ばかりの美術界に幾らか本を読んでゐる、(もし)くは本が読めるといふので重宝がられて、自分でも下手な絵の方はそつち(のけ)に、美術の批評家になり(すま)して(しま)つた。
 (ところ)がその美術の批評眼といふのが(はなは)だ怪しい。文展審査員当時も、出品をじろりと一(べつ)して「(まづ)いな」と顔を(しか)めて吐き出すやうに言ふが、さういふ口の下から、落款の「石井柏亭」といふ文字が目につくと、打つて変つたやうに「だが、よく見ると()いね。却(なか/\)傑作だよ。」といふやうになつた事もある。
 岩村男は口癖のやうに「八百屋の店先に転がつてゐる大根の曲線が解らぬやうでは裸体美の話は出来ぬ。」 と言つてゐるが、世の中には大根の曲線だけが解つて、裸体美の一向解らぬ者が無いでもない。
 誰やらの言ひ草ではないが、美術の批評家には二つの資格が要る。第一には美術が解らぬといふ事だ。第二には解らぬ癖にお喋舌(しやべり)がしてみたいといふ事だ。この二つを十分に備へたもので、初めて立派な美術批評家といへるが、かうした意味に(おい)て岩村男を秀れた美術批評家といふのに無論異存はない。
 だが、美術学校改革問題では、(むし)ろ岩村男一派のいふ事に真実があるのだから、美術通を以て任ずる高田文相はこの際同校に思ひ切つた革新が施して貰ひたい。これは極(ごく/\)内証話(ないしようばなし)だが、高田文相も岩村男と同じ意味に於て立派に二つの資格を備へた美術通である。



最終更新日 2006年02月17日 23時50分22秒

薄田泣菫「茶話」料理と芸

料理と芸
 市内で相応に名を売つてゐる或る鶏肉(かしは)屋の主人(あるじ)鶏肉(かしは)の味は(とり)(おと)瞬間(ほんのま)にあります。」と言つて(しかつ)べらしく語り出す。
 「味噌汁を(こしら)へるのに、味嗜の煮え立つ前に、(すべ)つこい焼石(やけいし)(なべ)衝込(つゝこ)むものがある。かうすると味喀がはつと吃驚(びつくり)して、その瞬間に所謂(いはゆる)味喀の味喀臭い匂ひが()くなつて、真実(ほんとう)の味となる。」
 「鶏を料理するにも、この焼石の機転が無くてはならぬ。鶏を安心させておいて、その瞬間にはつと落す。落すにはそれく\自分が手に()つた方法を(えら)んで差支(さしつかへ)ないが、(たど)落すその一瞬間は鶏に気取(けど)られぬ程の微妙(デリケ ト)(ところ)が無くてはならぬ。気取られたが最後肉の味はまづくなる。自分は今日まで幾千羽といふ鶏を(つぶ)したが吾ながら(うま)かつたと思ふやうなは(ほん)に数へる程しか無かつた。」と。
 巴里の葡萄検査所の横に、銀の塔を看板に出してゐる料理屋がある。三四年(ぜん)まで其家(そこ)にゐた主人は、家鴨(あひる)料理の名人で、家鴨を片手でぶら下げながら、一寸庖丁を当てて切つて出すのが得意だつた。その日記を見ると、六十幾つまで二十五年の間三万四千余りの家鴨を料理したと書いてゐる。
 三万四千羽! よくもこれだけの殺生をしたものだと思ふ。
 「幾ら職業(しやうばい)とは言ひながら、そんなに生物(いきもの)を殺す気持はどんなだらう。」
()くと、(くだん)鶏屋(とりや)の云ふ。
 「職業(しやうばい)ではありません。職業(しやうばい)では(とて)も殺生は出来ません。料理は芸の一つで、芸には工夫とそれに附物(つきもの)(たのし)みといふものがありますからね。」



最終更新日 2006年02月17日 23時53分06秒

薄田泣菫「茶話」男女の奉納物

男女の奉納物
 香取秀真(かとりほつま)氏が法隆寺の峰の薬師で取調べたところに()ると、お薬師様に奉納物(ほうなふもの)の鏡には、随分(すぐ)れた価値(ねうち)のものも(すくな)くなかつたが、同じ献上物(けんじやうもの)の刀剣は(みんな)なまくらで鏡と比べたらてんで談話(はなし)にもならなかつたさうだ。峰の薬師は祈願を籠めると、霊験(れいげん)のあらたかなので聞えた仏様で、大願成就の暁には、その祈願者の身につけた物のうちで、一番大切(だいじ)な物を奉納しなければならぬと言伝へになつてゐる。
 身に着けた物のうちで、一番大切(だいじ)な物といふと、往時(むかし)はいふ迄も無く男には刀、女には鏡で無ければならなかつた。といふ訳で峰の薬師には刀剣と鏡とがどつさりあつて、(いつ)れも素晴しい名作揃(めいさくぞろ)ひだといふ墫だつたが、調べてみると鏡には逸品が鮮くないのに、刀は揃ひも揃つてなまくら(ぱか)りとは飛んだ愛矯である。
 これで見ると、女には正直者が多いが、男には仏様の前でもペテンを()り兼ねない手合(てあひ)が少くないといふ事になる。(ぐわん)を掛けて願が叶ふ。掛けた当座は腰の業物(わざもの)を奉納しようと思ひながら、願が叶ふとついそれが惜しくなつて、飛んだ贋物(にせもの)胡麻化(ごまか)してしまふ。お薬師様が刀の鑑定(めきゝ)に下手で、加之(おまけ)に無口だから()いやうなものの、()しか犬養木堂(いぬかひもくだう)のやうな鑑定(めきゝ)自慢で、口汚ない仏様だつたら(たま)つたものでは無からう。
 しかし今では女も男に負けぬ程(ずる)くなつた。大隈伯が願を掛けたら、屹度(きつと)義足を奉納する。貞奴(さだやつこ)だつたら桃介(もゝすけ)さんの(しん)(ざう)でも納めよう。彼等は敦方(どちら)も、もつと立派な掛替(かけがへ)のあることを知つてゐるから……。



最終更新日 2006年02月18日 23時33分53秒

薄田泣菫「茶話」「夜の祭」

夜の祭
 鋳金家の岡崎雪声氏のところへ或る男が牛の彫像を頼みにやつて来た事がある。その男のいふのでは、牛程人間の役に立つものは(すくな)い。田を(たが)へし、荷車を()き、頭から尻尾(しつぽ)(さき)まで何一つ捨てるところも無い。やくざな軍人の政治家のやうな者が銅像になる世の中に、牛を表彰しないといふ法は無いといふのださうな。
 岡崎氏も人並(はづ)れた牛好きだけに、喜んでその註文を引受けて製作にかゝつたが、(くだん)註文主(ちゆうもんぬし)は、牛を馬に乗り替へたものか、その後(とん)と音沙汰をしないので、岡崎氏は今では身銭(みぜに)を切つて、こつこつ仕揚(しあげ)に取りかかつてゐる。そして出来あがつた上は太秦(うづまさ)のそれに(なら)つて牛祭を催す事に()めて、伊原青々(せい/\ゑん)祭文(さいえ)を、梅幸(ぱいかう)の振付で、その往時(むかし)丑之助(うしのすけ)の名に(ちな)んで菊五郎が踊るのだといふ。
 太秦の牛祭は、静かな秋の夜半(よなか)過ぎてからの祭で、鞍馬の火祭、宇治の県祭(あがたまつり)と並んで夜祭の三絶と呼ばれてゐる。岡崎氏は大の夜祭好きで、東京にそれが無いのを何よりも残念がつて牛祭だけは是非夜の祭にしたいと言つてゐる。ーといふのは、氏は何よりも夜が好きなので、いつも夕方になると、ナハチガルのやうに、ふらりと巣を飛び出した(まゝ)、明方近くまで彼方此方(あつちこつち)を枝移りして飛び歩くのが癖になつてゐるからだ。
 夜の祭には色々()い拾ひ物がある。県祭などにも色色(いろん)な面白い夢が転がつてゐるのを聞くが、(らい)山陽なども、その夢を拾つた一(にん)で、相手は何でも特殊部落の娘だつたらしいといふ事だ。


【入力者注】
差別的なものが見られますが、筆者は五十年以上前に亡くなっていて、歴史的なものとして、そのまま残します。



最終更新日 2006年03月03日 10時21分18秒

薄田泣菫「茶話」「(やなぎ)の木」

(やなぎ)の木
 摂津の大物(だいもつ)(うら)片葉(かたは)(あし)しか()きないといふ伝説は古い蘆刈の物語に載つてゐる。
 むかし基督(キリスト)がエルサレムの何とかいふ郊外を通りかかつた事があつた。暖い日で額が汗ばむ程なので、基督は外套を脱いで、そこらの楊の木に引掛(ひつか)けた(まゝ)、岡を(のほ)つて多くの群衆にお説教をしに出掛けた。
 空には小鳥が鳴いてゐるし、お(なか)には弟子(だち)が焼いて呉れた(こうし)の肉が一杯詰つてゐるしするので、基督はこれ迄にない上機嫌で、親父(おやぢ)の神様に代つて、姦通(まをとこ)のほかは大抵の罪はかけ構ひなく、大負(おほまけ)に負けて天国へ通してやつてもいゝやうな事を言つた。実際その日はぶらく天国へ旅立(たびだち)でもするには持つて来いといふ日和だつた。
 楊の木は自分の頭にすつぽり()せかけられた外套を見た。どこかの金持の女が寄附したらしい立派な毛織で、神様の一人息子が着るのに不足のないものだつた。楊の木は自分にもこんな外套が一枚あつたらなあと思つた。聞くともなしに聞くと、基督は今姦通(まをとこ)のほかは大抵の罪は許してもいゝやうなお説教をしてゐる。楊の木は片足踏み出したと思ふと、外套を(かづ)いた儘こそこそ逃げ出して往つた。
 お説教が済むと、基督はいゝ気持で岡の下へおりて来た。見ると外套も無ければ楊の木も見えない。てつきり持逃げされたなと思ふと、基督は楊の木を(のろ)はずには居られなかつた。それ以来その郊外には楊の木は
育たなくなつたさうだ。自分も基督に劣らぬ上等の外套を一着持つてゐる。この(ごろ)の暖い春日和にはそれをいろんな木に懸けて休むが、一度だつて盗まれた事が無い。日本の木は日本の婦人(をんな)のやうにむやみに外套を欲しがらないものと見える。



最終更新日 2006年03月03日 10時18分35秒

薄田泣菫「茶話」「男二人女二人」

男二人女二人
 文部視学官の丸山(たまき)氏は九人の子福者(こふくしや)で、お湯に入る時には自分が湯槽(ゆぶね)(つか)りながら、順ぐりに飛び込んで来る子供達を芋の子でも洗ふやうに(あか)(こす)つてやる。それを夫人がタオルで清潔(きれい)()くと、女中が着物を()せるといふ手順で子供達をそつくり湯を済ます時分には、親はげんなりと草臥(くたびれ)てしまふといふ事だ。その(せゐ)かして氏は朋輩(ほうばい)知人の家に子供が四人も()きるといふと、その顔を見る(たび)に、
 「君悪い事は言はないが、もう()い加減に()したら()うだ。」.
と、しみ/゛\意見立(いけんだて)をするさうだ。
 エレン●ケイは子供は男二人女二人が最も理想的だと言つた。ー確かエレン・ケイがかう言つたやうに覚えてゐるが、人間は何でも覚えるといふ訳には往かないから、(もし)かするとケイの言つた事では無かつたか
も知れぬが、何だかケイの言ひさうな事のやうに思はれるー実際男二人女二人は何からいつても都合が()
ささうだ。だが、親の間違(まちがひ)で(親といふものはよく間違を言つたり、()たりするものなのだ)その四人が五人に殖えたからといつて、何も首を縊つて死ぬるにも及ぶまい。五人は五人で、その時はまた理論の立て方もある。
 英吉利(イギリス)の貴族は、恋で平民の娘と一緒になつたり、金で亜米利加(アメリカ)辺の(はね)(かへ)りと結婚したりするので、それによつて血統の廃頽を救つてゐると言はれてゐるが、今度の戦争で貴族出の若者の多くは死んだり、傷ついたり七てゐるから、戦後の英吉利は血において最も革命的であらうと目されてゐる。社会上、思想上において英吉利が従来(これまで)伝統(トラヂシヨン)を維持して()くにはエレン.ケイの所謂(いはゆる)、男二人女二人では(とて)追付(おつつ)くまい。独逸(ドイツ)仏蘭西(ブランス)では心配する戦後の人口減少が、英吉利ではその上にまた伝統(トラヂシヨン)の危機を伴ふところが面白い。



最終更新日 2006年03月03日 10時19分14秒

薄田泣菫「茶話」「俊子の道連れ」

俊子の道連れ
 小説家の田村俊子は自分でも書いてゐる通り、主人の松魚(しようぎよ)はそつちのけに、よく他の男と散歩に出掛る。同じ小説家仲間の徳田秋声、上司小剣(かみつかさせうけん)、正宗白鳥などもちよいくそのお相手になるが、こんな人達が皆揃つて一緒に出掛ける時になると、男三人に女一人だけに、そこはまた不思議なもので、俊子が誰と誰との(みんななか)(はさ)まるかが一寸問魑になる。
 相手は妙齢(としごろ)縹緻(きりやう)よしといふでは無し、また別に色つぽい談話(はなし)をするのでもなしするから、そんなに肩が擦れ合はないでもよかりさうなものだが、そこは男と女だけにまた格別なものと見える。
 ()けて面白いのは、いゝ加減散歩をして、さてこれから別れようといふ時で、
 「俊子は誰と一緒に帰るだらうな。」
とは、言はず語らずの間に、皆の胸に起きて来る疑問なのだ。俊子が一人離れて側道(わきみち)()れてしまへばそれでいゝのだが、帰途(かへり)の都合からそのなかの一人と途連(みちづれ)になるやうな事があると、(あと)の二人は何だか物寂しい、(だま)されたやうな気持になるのださうだ。
 ()いも廿いも知りぬいた筈の小説家とは言ひ(でう)、男と女だ、無理もないさー忘れてゐたが、田村俊子は女である。(もつと)も自分は実地会つてみたといふ訳では無いが、俊子自身のいふのでは(たしか)に女である。



最終更新日 2006年03月03日 10時22分10秒

薄田泣菫「茶話」「魯庵(ろあん)友喰(ともぐ)ひ」

魯庵(ろあん)友喰(ともぐ)
 新著『きのふけふ』で、今は亡き(かず)の美妙斎を始め、紅葉、緑雨、二葉亭などの逸事を書いた内田魯庵氏は、友人(ともだち)の台所の小遣帳から晩飯の(さい)まで知りぬいてゐるのが自慢で、(かく)(だて)をする友人には随分気味を悪がられた程の人だ。
 今では丸善の顧問で、禿げ上つた額を()でながら一流の皮肉で納まつてゐるが、時折店の註文帳を調べてみて、〈博士は先頃何とかいふ本を取寄せたと思つたら、それが直ぐ論文になつて翌月(あくるつき)の雑誌に出たとか、£小説家の新作小説は、先日(こなひだ)月賦払ひで(やつ)と買取つたモウパッサン全集の焼直しに過ぎないとかいふ事を、極内(ごくないく)々で吹聴(ふいちやう)するのを道楽にしてゐる。
 むかし笠置(かさぎ)解脱(げだつ)上人が、栂尾(とがのを)明恵(みやうゑ)上人を訪ねた事があつた。その折明恵は質素(じみ)緇衣(しえ)の下に、婦人(をんな)の着さうな、()の勝つた派手な下着を()てゐるので、解脱はそれが気になつて溜らなかつた。出家の身
分で、とりわけ上人とも呼ばれる境涯でありながら、こんな下着を被てゐるとは実際()うかしてゐるなと思つた。で、話の途切れに、
 「つかない事を言ふやうぢやが、つひぞ見馴れない立派な下着を被てゐられますな。」
と幾らか皮肉の積りで言つてみた。
 すると明恵は言はれて初めて気が()いたやうに、
 「これでござるかな。」と一寸自分の襟を(しご)いて見せた。「これは(かね)て私に帰依(きえ)してゐる或る町家(ちやうか)の一人娘が亡くなつたので、その親達から何かの(しろ)にと言つて寄進して参つたから、娘の菩提(ぼだい)のためと思つて、一寸身につけてゐるやうな仕儀でーえらい所へお目が(とま)りましたな。」
と言つて(つゝ)ましやかに一寸笑つてみせた。
 解脱上人はそれを聞いて、
 「要らぬ所へ目がついたな。ほんの一寸の()でもそんな所へ心を()つたと思へば、明恵の思はくも(はづか)しい」
と顔から火が出るやうな思ひをしたさうだ。
 何も魯庵氏の事をいふのではないが、世の中には随分緋の下着を見つけたのを自慢に吹聴する者が居ない
でもない。-よく断つておくが、何も魯庵氏の事ばかり言つたのではない。


最終更新日 2006年03月03日 10時23分34秒

薄田泣菫「茶話」「涙と汗の音曲(おんぎよく)

涙と汗の音曲(おんぎよく)
 洋画家の満谷(みつたに)国四郎氏はこの(ごろ)謡曲に夢中になつて、画室(アトリエ)で裸体画の素描(デツサン)()る時にも、「今はさながら天人(てんにん)羽根(はね)なき鳥の如くにて……」と低声(こごゑ)(うた)ひ出すのが癖になつてゐる。
 先日(こなひだ)備中酒津(びつちゆうさかづ)に同じ画家(ゑかき)仲間の児島(こじま)虎次郎氏を訪ねて、二三日そこに逗留(とうりう)してゐたが、満谷氏が()うかすると押売(おしうり)に謡ひ出さうとするのを知つてゐる児島氏は、奥の一()に子供が寝かしてあるといふのを口実に(うま)く難を(のが)れたといふ事だ。
 以前京都で月に一度づつ琵琶法師の藤村性禅(しやうぜん)氏を中心に平曲好(へいきよくず)きの人達の会合が催されてゐた事があつた。場所は寺町(てらまち)四条の浄教寺で、京都図書館長の湯浅半月氏を始め二三の弾手(ひきて)が集まつたが、聴衆(きゝて)はいつも十人そこ/\で、それも初めの一二段を聴くと、何時(いつ)の間にかこそ/\逃げ出して、肝腎の藤村検校(けんげう)が出る頃には、聴衆(きゝて)は一人も居ないといふやうな事が少くなかつた。
 これではならぬと、仲間の歌詠(うたよみ)画家(ゑかき)(なす)つて貰つた短冊(たんざく)を五六枚と、茶菓子一皿を景品のつもりで、最後まで聴いて呉れた人に送ることにしたが、短冊と茶菓子の人並外れて好きな京都人も、矢張り最後まで居残る人は一人も無かつたので、折角の名案も何の役にも立たなかつた事がある。
 人間に馬鹿と悧巧と二(いろ)あるやうに、音曲にも二つの種類がある。一つは涙を流す音曲。今一つは汗を流す音曲。



最終更新日 2006年03月03日 10時24分52秒

薄田泣菫「茶話」「食物の味」

食物の味
 詩人の蒲原有明(かんぱらありあけ)氏は、どんな()い景色を見ても、そこで何か()べねば印象が薄いといつて、(かは)つた土地へ()(たんび)に、土地(ところ)の名物をぱくづきながら景色を見る事にしてゐる。
 「僕は景色を見るぱかりでは満足出来ない、その上に気色を喰べるんでなくつちや……」
とは氏が(いつ)もよく言ふ事だ。
 野口米次郎(よねじらう)氏は「(かへる)を食ベるのは、その唄をも食べるといふ事だ。七面烏を頬張るのは、その夢をも頬張るといふ事だ。」といつて、よく唄やら夢やらを頬張つてゐる。
 つまりこの人達は物を食べる時は、想像をも一緒に()(くだ)してゐるのだ。
 西川一草亭氏はこれとは反対(あべこべ)に、物を食べる時には、その値段から切り離して持前の味のみを味はひ()いと言つてゐる。甘藷(さつまいも)(やす)いからとか、七面烏の肉は高価(たか)いからとかいふ、その値段の観念に(わづら)はされないで、味自身を味はひ度いといふのだ。
 女房と朝飯(あさめし)とー双方(どちら)人世(じんせい)に関係する所が大きいだらうと疑つた者がある。
 「なに朝飯さへ(うま)く食べさせて呉れるなら、女房のする事は大抵見遁(たいていみのが)してやるさ。」
と言つたものがある。



最終更新日 2006年03月03日 10時25分25秒

薄田泣菫「茶話」「栖鳳の懐中時計」

栖鳳の懐中時計
 芸術に技巧家があるやうに生活にもまた技巧家がある。尾崎法相の生活は西園寺陶庵侯のそれと比べて技巧がいかにも(わざ)とらしい。中村鴈治郎(がんぢらう)の生活は片岡仁左衛門(にざゑもん)や市村羽左衛門(うざえもん)のそれと並べてみると、技巧が著しく目に立つ。画家(ゑかき)では竹内栖鳳の生活に技巧が勝つてゐるのは誰しも知つてゐる所だ。
 栖鳳と鷹治郎とがある所で落合つた時の挨拶を(そば)にゐて聞いた者がある。その者の談話(はなし)によると、二人は柔かい牡丹刷毛(ぽたんばけ)(わき)の下を(くす)ぐるやうなお上手ばかり言ひ合つて、一向談話(はなし)に真実が(こも)つてゐないので、一(こと)でもいゝから真実( んとう)の事を言はし()いと思つて、
 「唯今は何時頃でせう。」
()いてみた。
 すると、應治郎と栖鳳とはめいく角帯の(なか)から、時計を取り出してみた。栖鳳氏は言つた。
 「私のは三時半です。一寸狂つてやしないかと思ひますが。」
 鳫治郎は一寸時計を振つてみた。
 「(わて)のも三時半だす。さつきにから止つてたやうに思ひまんがな。」
 二人は忠実な自分の時計をすらお上手なしには報告出来ないのだ。それを見て取つた第三者は自分の信じてゐる基督の名によつて、二人の懐中時計を持主相応のお上手ものにして欲しいと祈つたさうだ。
 自分の霊魂(たましひ)と自分の女房(かない)を信じない人も、懐中時計だけは信ずる。その懐中時計をすらお上手なしに報告出来ない人は、世にも不幸(ふしあはせ)な技巧家である。



最終更新日 2006年03月03日 10時26分10秒

薄田泣菫「茶話」「ニツク・カアタア」

ニツク・カアタア
 飛田(とびた)遊廓の漏洩問題については主務省と府の当事者と(たがひ)に責任の(なす)りつこをして、自分ばかりが良い()にならうとしてゐる。
 ニツク・カアタアといへば、活動写真好きの茶目連は先刻御存じの探偵物の主人公だが、以前巴里にこの名を名乗つて大仕事をする宝石商荒しがあつた。巴里の宝石商といふ宝石商は、ニツク・カアタアの名前を聞くと、怖毛(おぢけ)(ふる)つて縮み上つたものだつた。時の警視総監は刑事中での腕利(うできゝ)として知られてゐたガストン・ワルゼエといふ男にこの宝石荒しの探偵を命令(いひつ)けた。
 ワルゼエはよく淫売狩をも()つた男で、何でもその当時巴里で名うての白首(しろくび)を情婦にして、内職には盗賊(どろぼう)を稼いでゐた。その頃流行の探偵小説から思ひついて、ニツク・カアタアといふ名で宝石屋荒しを()つてゐたのが、実はそのワルゼエ自身なので、上官の捜索命令
をうけた時は流石(さすが)苦笑(にがわらひ)をしない訳に()かなかつた。所が()が悪く徒党(なかま)の一人が(つか)まつたので、到頭()れて逮捕せられてしまつた。
 自分は知事や警部長などいふ、役人を親戚(みうち)()たないやうに、神様をも伯父さんに持合はせてゐないから、はつきり見通した事は言はれないが、世の中には随分巴里の宝石屋荒しのやうな事は少くないと思ふ。呉(くれ/゛\)も言つておくが、自分は知事や警部長や神様やを伯父さんには持つて居ない。自分の伯父さん達は何も知らない代りに、何も喋舌(しやべ)らない人ばかりさ。



最終更新日 2006年03月03日 10時26分33秒

薄田泣菫「茶話」「(からす)と府知事」

(からす)と府知事
 悪戯好(いたづらず)きのある男が弾機仕掛(ばねじかけ)玩具(おもちや)の蛇を麦酒瓶(ビヨルびん)に入れて、胡桃(くるみ)の栓をしたま\瓶を庭先に()り出しておいた。すると、食意地(くひいぢ)の張つた鴉が一羽下りて来て、胡桃が欲しさに、瓶の栓を(くちばし)(くは)へて力一杯引張つた。胡桃の栓がすぽりと抜けると、弾機仕掛の蛇がぬつと鎌首を出した。吃驚(ぴつくり)した鴉は一(あし)足後方(あしらしろ)()退(しさ)つて、じつと蛇の頭を見てゐたが、急に厭世的な顔をしたと思ふと、その儘引(まゝひつ)くりかへつて死んで(しま)つた。
 悪戯好(いたづらず)きの男は不思議に思つて、鴉を解剖してみると、心臓が破裂してゐたさうだ。遊廓問題に行き悩んでゐる府知事の智慧袋(ちゑぶくろ)のやうに、(かさ)の小さい鴉の(しん)の臟は、この怖ろしい出来事に出遭つて()うにも持堪(もちこら)へる事が出来なかつたのだ。ーと言つて、別段笑ふに
も当るまい、鴉は維新三傑の子息(むすこ)では無かつたのだから。
 ある時英国の一文豪が下院の演壇に立つて、
 「諸君吾輩が考ふるに……」
(しかつ)べらしく言つてその儘口を閉ぢた事がある。(しばら)くして文豪はまた口を開いた。
 「諸君吾輩が考ふるに……」
 ()(つま)つた文豪は洋盃(コツプ)の水を()んで勢ひをつけた。
 「諸君吾輩が考ふるに……」
 こゝまで()ぎ直して来て、また黙りこくつてしまふと、皮肉な一議員は議長を呼んだ。
 「議長。尊敬すべき議員は三(たび)考へられましたが、到頭何一つお考へになりませんでしたな。」
と半畳を入れたので、弁士は満場の笑声(わらひごゑ)のなかに顔を火のやうにして引き下らねばならなかつた。
 大久保〔利武〕知事は、遊廓問題について府会の十七人組の前で、二十八日迄に何とか考へると約束しながら、その英国の文豪と同じやうに何一つ考へなかつた。ーそれに何の無理があらう、物を考へるにはなかなか高価な材料が要る。府知事は誠実らしい顔付と、人形のやうな夫人と、流行(はやり)の山高帽とその( か)色んな物を持つてはゐるが、唯一つ肝腎な物を持合はさない。肝腎な物とは他でもない、「勇気」である。



最終更新日 2006年03月03日 10時28分10秒

薄田泣菫「茶話」「鬼」


 陰陽博士(おんやうはくし)で聞えた安倍晴明(あべのせいめい)の後喬が京都の上京(かみぎやう)に住んでゐる。ある時日の()(かた)(いそ)(あし)で一条戻り橋を一通りか丶ると、橋の下から、
 「安倍氏(あべうぢ)々々」
と言つて自分の名を呼ぶものがある。立停(たちど)まつてみると、附近(あたり)には誰一人姿は見えない。
 安倍氏(あべし)(じつ)と耳を傾けた。声は橋の下から聞えて来るらしい。(かす)めたやうな調子で、
 「自分はもと洛中を騒がした鬼だが、余り悪戯(いたづら)が過ぎるとあつて貴方(ふなた)の御先祖安倍晴明殿のために、二の橋の下に(ふう)ぜられて(しま)つた。晴明殿はその後私の事などはすつかり忘れて了はれて、程なく亡くなられ申したが、私こそいゝ災難で、橋の下に封ぜられた(まゝ)あつたら千年の月日を過ごして了つた。()うか一生のお願ひだから封を解いて貰ひ度い。」
と言ふのだ。
 安倍氏は亡くなつた父親(おやぢ)の遺言にも、鬼の事は一向聞いて居なかつたので流石(さすが)に一寸驚いた。家へ帰つて色々古い書物を(あさ)つて見ると、封を解く呪文(じゆもん)だけは()うにか了解(のみこ)めたが、さて封を解いたものか()うか一寸始末に困つた。
 「折角先祖が封じたものを(ほど)いて、もしか鬼が知事か警部長かの耳の穴にでも入つて、何処かのやうに遊廓でも建て増されては溜らないからな。」
 安倍氏はかうも考へたので、その後はどんな急用があつても、戻り橋だけは通らない事に()めてゐると聞いた。
 新約全書の鬼は豚の尻の穴に逃げ込んだので、豚はすつかり気が狂つて海に入つて死んで了つたさうだ。安倍氏も一つ思ひ切つてその鬼を戻り橋の下から引張り出して大学の構内にでも追ひ込んだら面白からう。那辺(あすこ)には頭に鬼の入るだけの空地(あきち)()つた学者がちよつと居る筈だから。



最終更新日 2006年03月03日 10時39分08秒

薄田泣菫「茶話」「月郊と床柱(とこばしら)

月郊と床柱(とこばしら)
 最近に『東西文学比較評論』といふ著作を公にした高安(たかやす)月郊氏は飄逸(へういつ)な詩人風の性行をもつて知られてゐる人だが、ずつと以前自作の脚本を川上音二郎一派の手で新富(しんとみ)座の舞台に(のぼ)した事があつた。
 ある日の事、月郊氏が幕間(まくあひ)の時間を川上の楽屋で世間話に過してゐると、そこへその当時の大立物伊藤春畝(しゆんぽ)公が金子堅太郎、末松謙澄(けんちよう)などいふ子分を連れてぬつと入つて来た。何でも御贔眞(ごひいき)がひに(しばゐ)を見に来たのだが、(いつも)の気紛れで貞奴(さだやつこ)でも調弄(からか)はうと思つて楽屋口を潜つたらしかつた。
 川上夫妻は狭つ苦しい自分の楽屋に、鷹揚な伊藤公の姿を見つけたので流石に一寸どぎまぎした。見ると床の間の上座(じやうざ)には作者の月郊君が坐つてゐる。公爵などいふものは、床柱か女かの前で無ければ坐るべきものでないと思つてゐる川上は、成るべくなら、床柱と女房との真中に公爵を坐らせてみたかつた。で、(すがめ)のやうな眼つきをして一寸月郊君の顔を見た。
 月郊君も()うやら川上の(こゝろ)は察したらしかつたが、実は伊藤公とは生れて初めての同座で、今後またこんな機会があらうとも思はれない。それに自分は今度の(しばゐ)では作者であり、伊藤公は普通(たゞ)観客(けんぶつ)に過ぎない。作者が観客(けんぷつ)に座を譲るやうな気弱い事では作者冥利(みやうり)に尽きるかも知れないからと、その儘素知(まゝそし)らぬ顔で(じつ)と尻を(おち)つけてゐた。
 流石に伊藤公は無頓着(むとんぢやく)で、悪い顔もせず、入口にどかりと胡坐(あぐら)を掻いたまゝ、例の女の唇を数知れず()めた口元を(ゆが)めながら、芝居話に興じてゐたが、お伴の小さい政治家二人は苦り切つた顔をして閾際(しきゐぎは)衝立(つゝた)つてゐたさうだ、、
 何によらず小さいのは(みじめ)なものだが、とりわけ政治家の小さいのは気の毒なものだ。



最終更新日 2006年03月03日 10時42分48秒

薄田泣菫「茶話」「父と子」

父と子
 この頃京都図書館長を辞めて早稲田大学の図書館に転ずるとかいふ湯浅半月氏は、例の女買ひについて(しきり)と噂を立てられてゐるが、流石に口上手の男だけに、別に弁疏(いひわけ)がましい事もせず、
 「京都にはもう飽いたからな。」
と言つてゐる。
 女買ひをするにも、踞懇(なじみ)になると面倒だからといつて同じ女を滅多に二度と()ばないのを自慢にしてゐる位だから京都に鉋いたといふのに無理も無いが、この評判の女買ひを肝腎の湯浅夫人だけは今日まで少しも知らなかつたさうだ。
 湯浅夫人は神戸の女学院にゐた頃、書庫の図書を一冊も残らず読み尽したといふ程の読書人で、図書館長としては半月氏よりも、ずつと適任者であるが、堅い基督信者(クリスチヤン)で、終始(しよつちゆう)神様のお(そば)に居過ぎた(せゐ)で、つい人間の事を忘れて(しま)つたらしい。
 神様といふものは随分費用のかゝるものだが、その中で新教(プロテスタント)の神様は質素(じみ)で倹約で加之(おまけ)涙脆(なみだもろ)いので婦人(をんな)には愛される( う)だが、余りに同情(おもひやり)があり過ぎるので、時々困らせられる。
 半月氏は(いつ)も笑ひ話しに、
 「僕の父は金儲(かねまうけ)と道楽が好きだつたが、性来(うまれつき)父に及ばない僕等兄弟は父の才能を二人で分担して、兄は金儲を、僕は道楽の方を()る事に()めてゐるのだ。」
と言つてゐる。半月氏の兄といふのは、洋画家湯浅一郎氏の阿父(おとう)さん治郎氏のことだ。
 子息(むすこ)の才能の総和が親爺(おやぢ)のそれに匹敵するのは()うにか辛抱出来るが、大久保甲東の息子達のやうなのは一寸……。



最終更新日 2006年03月03日 10時44分03秒

薄田泣菫「茶話」「酒」


 少し前の事だが、 といふ若い法学士が夜更けて(ある)料理屋の門を出た。酒好きな上に酒よりも好きな(をんな)を相手に夕方から夜半(よなか)過ぎまで立続(たてつゞ)けに呷飲(あふ)りつけたので、大分(だいぶん)酔つ払つてゐた。
 街灯の()(とも)つてゐない真ツ暗がりに、 は自分の鼻先に()のひよろ高い男が立塞(たちふさ)がつてゐるのを見たので、()(ぱらひ)がよくするやうに は丁寧に帽子を取つてお辞儀をしたが、相手は会釈一つしないので は少し麓然(むつ)とした。
 「さあ、退()いたく。()(たて)の法学士様のお通りだぞ。」
  はとろんこの眼を見据ゑて怒鳴るやうに言つたが、相手は一(すん)も身動きしようとしなかつた。
 喧嘩早い は、いきなり(こぶし)をふり揚げて(いや)といふ程相手の頭をどやしつけた。が、相手は蚊の止つた程にも感ぜぬらしく、 を見下(みおろ)してにやく笑つてゐる。若い法学士は侮辱されたやうに、(やけ)にいきり立つて、
 「野郎かうして呉れるぞ。」
といきなり両手を拡げて武者振(むしやぶり)っいたと思ふと、力一杯頭突(づつき)を食はせた。法律の箇条書(かでうがき)で一杯詰つてゐる筈の頭は、案外空つぽだつたと見えて、缶詰の空殻(あきがら)を投げたやうに、かんと音がした。
  は脳振盪(なうしんたう)を起してその儘引(まゝひつ)くり返つて死んで(しま)つた。相手は相変らず身動(みうごき)もしない。身動しないのもその筈で、相手は無神経な電信柱で、酔払つた は夜目(よめ)
にそれを人間と見違へて喧嘩をしたのだつた。
  は生き残つた母の手で青山の墓地に葬られたが、毎晩のやうにその夢枕に立つて、頭の(むき)が違つてる違つてるといふので、母は人夫を雇つて掘返してみると、かんと(ちち)のした頭は果して南向に葬られてゐた。母親は泣きく向きを直して葬つて了ふと、それ以来また夢枕に立たなくなつたさうだ。



最終更新日 2006年03月03日 10時46分06秒

薄田泣菫「茶話」「魔法使ひ」

魔法使ひ
 役人に嘘吐(うそつ)きが多いやうに瓜哇(ジヤワ)人には魔法使が多い。日本の女で馬来(マレさ)半島に住んでゐる仏蘭西人の(めかけ)が、ある時国許(くにもと)に送つて()らなければならぬ筈の金銭(かね)の事で心配してゐると、そこへ瓜哇の魔法使が通りか丶つて、
 「お前は金銭(かね)の事で屈託してゐるらしいが、さう心配するが物はない。今日午過(ひるすぎ)に、お前の主人が頭が病めるといひ出す。その折お前は何となく(ねむ)つぽくなるだらうからそれをきつかけに主人に相談してみろ、屹度金銭(きつとかね)は出来る。」
と言つて教へて呉れた。
 女は不審しながらも、魔法使の事は(かね)て聞いてゐるので幾分待心(いくらかまちごゝろ)で居ると、午過になつて案の定主人が頭が病めるといひ出し、自分は睡つぽくなつて来た。ここぞと思つてお金銭(かね)の一件を相談すると、主人は二つ返事で重い財布を投げ出して呉れたさうだ。
 瓜唾の魔法使は又かういふ事をする。多くの人の見る前で、砂を盛つた植木鉢ヘコスモスの種子(たね)などを()いて、じつと祈禳(きたう)(こら)す。すると種子(たね)(はじ)けて芽はぐん/\砂を持上げて頭を出して来る。一寸二寸と(またゝ)(うち)に茎が伸びたと思ふと、最後に小さい花がぱつと開く。(ゐざり)を立たせた基督だつて、これ以上の不思議は出来まいと思はれる程だ。言ふ迄もなく基督は神様のお坊ちやんで、瓜畦の魔法使は乞食坊主である。
 日本の魔法使も、埃臭(ほこりくさ)飛田(とびた)の土の中から、コスモスの芽生(めばえ)には似てもつかない(いろん)々な物を見せてくれる。業突張(ごふつくばり)の予選派の(つら)(くひ)しん坊の同志会の胃の腑。泥だらけな市長の掌面(てのひら)……。



最終更新日 2006年03月03日 10時47分33秒

薄田泣菫「茶話」「女の親切」

女の親切
むかし津山藩主の何とかいつた奥方は、余程悋気深(りんきぶか)(たち)だつたと見えて、殿の愛妾を()め殺した上、太腿の肉を切り取り、それを(あつもの)にして何喰はぬ顔で殿が晩酌の膳に(のぼ)しておいた。殿が何の肉だと()くと、
 「貴方(あなた)様の御好物でございますよ。」
といつて、にやりと笑つたといふ事だ。
 大和(やまと)屋の(をんな)浜勇は、亡くなつた秋月桂太郎と()い仲だつたが、いつだつたか秋月が病気の全快祝に、赤飯(あかめし)だけの工面はついたが、吊紗(ふくさ)の持合せが無いので思案に余つて浜勇に相談した事があつた。浜勇にしても色気は有り余る程たつぷり持合せてゐるが、肝腎のお(あし)といつては一(もん)も無かつた。といつて男の頼みを無下(むげ)に断る訳にも()かなかつたので、思案の末がたつた一枚きりの縮緬(ちりめん)の腰巻を(はづ)した。
 「これなと染替(そめかへ)ておこ。」
といつて新しく色揚(いろあげ)をして、吊紗に仕立てて間に合はせたさうだ。
 画家(ゑかき)のミレエの細君は貧乏で食べる物が無くなつた時には、雲脂(ふけ)だらけな頭をした亭主を胸に抱へて、麭麭(パン)の代りだといつて、熱い接吻(キツス)をして呉れたものださうだ。
 尾崎テオドラ夫人は、「主人(やど)は国事に頭を使つてゐるから、家庭では成るべく気を(つか)はないやうに静かにさせてゐる。とりわけ食事は女中任せには出来ないから」といつて手製のオムレツ(ばか)りを頬張らせてゐるさうだ。
 散銭(ばらせん)に色々文字替りがあるやうに、顔立(かほだち)()けると女にも色々種類はあるが、大抵は(みんな)男に親切なものさ。



最終更新日 2006年03月03日 10時49分30秒

薄田泣菫「茶話」「雪舟と禿山(はげやま)

雪舟と禿山(はげやま)
 講道館の嘉納治五郎氏は、書画を(たのし)()いが、正真物(しやうしんもの)の書画は値段が張つて(とて)も買へないからといつて、書画代用の妙案を実行してゐる。
 それは他でもない相模や紀州の海岸で、人里離れた、眺望のいゝ山を買込んで、自分の別荘地としておくのだ。別荘地といつたところで、掘立小屋一つ建てるのでは無く、夏になると、南向きの恰好な足揚に天幕(テント)を張つて、飯だけは近くにある田舎町の旅籠屋(はたごや)から運ばせる事にして、日がな一日天幕(テント)を出たり入つたりして自然を娯むのだ。
 「真物(ほんもの)の山水のなかへ(ひた)つて、自分も景物の一つになつて暮らす気持は、雪舟の名幅を見てるよりも、ずつと気が利いてるからな。」
と氏は言ひ/\してゐる。
 そんなだつたら何も自分で山を買はなくとも、何処(どこ)でも構はない景色の()土地(ところ)へ勝手に天幕(テント)を持込んだらよかりさうなものだが、嘉納氏に言はせると、さうは()かない。
 「人間には所持慾つて奴があつて自分の(もの)にしないでは落付(おちつ)いて娯まれないのだ。兎一つ()まないやうな禿山だつて自分の(もの)にするとまた格別だからな。」
 成程(なるほど)聴いてみれば無理もない。世の中には髪の毛一本生えてない禿頭を、自分の持物だといふだけで、毎朝磨きをかけてゐる人間もある事だから。
 「相模や紀州の突端(とつばな)だけに、往来(ゆきき)が不自由で、さうさうは出掛けられないが、(しか)し雪舟の名幅だつて、何時(いつ)も掛け通しにして置く訳のものでは無い。一年に一度が精々なのを思ふと、夏休みに一度でも禿山を見舞つたら、それで十分ぢやないか。」
と言つてゐる嘉納氏は、
 「さういふ雪舟代用の山だつたら、一度見せて貰ひ度いものだ。」
愛相(あいそ)を言ふ人があると、急に顔の相好(さうがう)を崩して、
 「是非見て貰ひ度い、富豪(かねもち)が雪舟を見せ度がる格で、禿山でも自分の者になると、矢張(やつばり)見て貰ひたくてなあ。」
 風景画好きの嘉納氏が、雪舟の代りに禿山を掘出したのは面白いが、そんぢよそこらの美人画好きも、春章(しゆんしやう)や歌麿の美人画代りに、()きた女菩薩(によぼさつ)でも探し出して、腰弁当でちよくく出掛けたらどんな物だらう。



最終更新日 2006年03月03日 10時50分58秒

薄田泣菫「茶話」「借金の名人」

借金の名人
 森田草平(さうへい)氏が手紙の上手な事は隠れもない事実で、氏から手紙で金の工面でも頼まれると、どんな男でもついふら/\となつて、唯一(たつた)人しかない女房(かない)を誤魔化してでも金を(こしら)へてやり度くなるといふ事だ。
 一部の画家(ゑかき)仲間に天才人と言はれた青木繁が、また借金の名人で、どんな画家(ゑかき)でも出合頭(であひがしら)にこの男と打衝(ぶつつか)つて二(こと)(こと)話してゐると、慈善会の切符でも押し付けられたやうに、つい懐中(ふところ)から財布が取り出したくなるといふ事だ。(もつと)画家(ゑかき)などいふものは、無駄口と同情(おもひやり)(ひと)(ばい)持合せてゐる癖に、金といつては散銭(ぱらせん)一つ持つてない(てあひ)が多いが、さういふ(てあひ)は財布を()ける代りに、青木氏を自分の(うち)に連れ込んで、一(つき)(つき)立養(たてやしな)ひをしたものださうだ。
 青木氏が東京に居られなくなつて浴衣(ゆかた)一枚で九州( ち)をした事がある、その折門司(もじ)か何処かで自分が子供の時の先生が土地(ところ)の小学校長をしてゐるのを思ひ出した。青木氏は倒れ込むには恰好の(うち)だとは思つたが、流石に着のみ着の(まゝ)の自分の姿が振りかへられた。
 所へ魚釣(うをつり)帰途(かへり)らしい子供が一人通りか\つた。手には小鮒(こふな)を四五尾(ひきさ)げてゐる。青木氏は懐中(ふ仕ころ)写生帖(スケツチブツク)から子供の好きさうな()を一枚引き裂いて、それと小鮒の二尾程と()(かへ)つこをした。
 「いゝ物が手に入つた、これさへあれば大手(おほて)を振つて先生の(うち)へ倒れ込まれる。」
 青木氏は独語(ひとりごと)を言ひく、久し振に校長の(うち)を訪ねた。校長は玄関へ飛ぴ出して来た。(念の為言つておくが、学校教員といふものは自宅(うち)では玄関番をしたり、子供の襁褓(おしめ)を洗つたりするものなのだ。)
 青木氏は校長の顔を見て、
 「先日(こなひだ)から門司へ写生に来てゐましたが、今日は一寸釣りに出掛けて、お(かど)を通り掛つたものですから……」と言つて藍術(まじなひ)のやうに小鮒を校長の鼻先で振つて見せた。校長は、
 「さうか、よく訪ねて呉れた。」
といつて、手を()(ぱか)りにして、青木氏を座敷へ引張り上げた。
 何処を()う言ひ繕つたものか、青木氏はその(まゝ)(つき)程校長の(うち)に平気でごろくしてゐたさうだ。ーこれを天才といふに何の不思議もない筈だ。他人が顔を(あか)めないでは居られない事を、平気で()つて退()ける事が出来るのだもの。



最終更新日 2006年03月03日 10時53分00秒

薄田泣菫「茶話」「俘虜(ふりよ)研究」

俘虜(ふりよ)研究
 伊予の松山は日露戦争以来(このかた)俘虜の収容地になつてゐるので、そんな事から彼地(あすこ)の実業家井上(かなめ)氏は色(いろん)な方面の報道を集めて俘虜研究を()つてゐる。
 井上氏の言葉によると、露西亜の俘虜は一向研究心が無いから、長い聞日本に居ても、日本語はからきし判らなかったのに、独逸の俘虜は大抵日本語が解る。解るのみならず、上手にそれを操る事が出来る。
 物を買ふにも、露西亜の俘虜は行きつけの店へ入つて、お踞懇(なじみ)の積りで笑顔の一つも見せる事を知つてゐるが、独逸の俘虜には一向()きつけの店といふものが無い。鞭一(くつした)つ買ふにも、市中の雑貨商を二三軒歩き廻つた上、一番(やす)い店で買ふ事にする。
 露西亜人は俘虜になつても、自分は大国の国民だ、沢庵(たくあん)(かじ)つて、紙と木片(きぎれ)とで出来上つた家に住んでゐる日本人などと比べ物にはならないといふので、日本人が滅多に手も着けない飛切(とびきり)の上等品を買込むが、独逸人は夢にもそんな警沢な真似(まね)はしない。買ふ物も買ふ物も、みんな日本人が手に取らうともしない下等品で、値段が廉くさへあれば、喜んで買ひ取る。
 だから露西亜の俘虜は何時でも借金だらけで「霊魂(たましひ)」が抵当(かた)になるものなら、書入れに少しの躊躇(ちうちよ)もしないが、可憎(あひにく)日本では「霊魂(たましひ)」の相揚が安過ぎるので詮事無(せうことな)しに自分達が本国から送つて貰ふ筈の月給を抵当に、行きつけの店から借り出すものが多かつたが、独逸人は借金どころか毎週(きま)つたやうに貯金をする。
もしか日本の監督将校が首でも縊りさうな顔をしてゐると、
 「()うだ金が要るのか、利子さへきちんと払つたら幾らでも立替へるぞ。」
といふやうな事をいふ。
 露西亜人はあ\した暢気(のんき)な、お人好しの国民だから、俘虜になつても、例のオブロモフ主義で喰つては寝転び、(たま)に女の顔を見てにや/\する位が(おち)だが、独逸人となると例の研究好きで、暇さへあると何か取調(とりしらべ)を始める。誰だったか独逸人を地獄へ(おと)したら、屹度(きつと)地獄と伯林(ベルリン)との比較研究を始めて、地獄の道にも伯林の大通(おほどほり)のやうに菩提樹の並樹(なみき)を植付けたい。それには自分に受負はせて呉れたら格安に勉強するとでも(ほざ)くだらうと言つたが、松山に居る独逸の俘虜で、日本の紋の研究を始めて、材料をどっさり集めてゐるのがあるさうだ。
 独逸の俘虜は物之買ふのに、屹度雨降(あめふり)の日を()つて出掛ける。雨降りだと、日本人がうるさく()(まと)はないから、鞭一(くつした)つ買ふにも町中歩きまはつて、ゆつくり値段の廉いのを捜す事が出来るからださうだ。



最終更新日 2006年03月03日 12時36分41秒

薄田泣菫「茶話」「太陽に()れた人」

太陽に()れた人
 月の終りにはタゴオルが来る、七月にはゴリキイが来ると聞いてゐるのに、今度はまた露国詩壇の革新者コンスタンチン・バリモントが来るといふ墫が伝はつてゐる。
 バリモントは仏蘭西のユゴオのやうに太陽と美との熱愛者で、その名高い詩集にも『太陽のやうに』といふのがある位だ。この詩人が文壇に立つてから、二十五年目の記念会が三四年(ぜん)ペテルブルグ大学で開かれたことがあつた。その折ブラウン教授の挨拶に、
 「パリモントがこの世に生れたのは太陽を見るためだつた。太陽はこの詩人の心を(ゆた)かに、その夢を黄金にした。太陽はその詩の(いづ)れもに燃えてゐる。」
と言つた程、お天道様(てんとさま)に惚れてゐる人なのだ。この人が暗い淋しい露西亜を出て、明るい陽気な「日出づる国」へ旅立するのに不思議はない筈だ。
 (その自伝によると)バリモントは五歳(いつつ)の時に、婦人(をんな)を見るとぽつと顔を(あか)めるやうになり、九歳(こゝのつ)の時には真剣に女に惚れるやうになり、十四の時に肉慾を覚えたと言つてゐる。五歳(いつつ)といへばまだミルク・キヤラメルの欲しい年頃だ、日本では『好色一代男』の主人公が腰元の手を取つて、「恋は闇といふ事を知らずや」といつたのは、確か七歳(なゝつ)だといふから、バリモントはそれ以上の早熟(ませ)た子供で、その頃から乳母(ばあや)にお尻を叩かれては、くす/\喜んでゐたに相違ない。
 二十二歳の時、友達が自殺をしたのに感化(かぶ)れて、三階の窓から下の敷石を目がけて身投(みなげ)をした事があつた。骨は砕けて、身体(からだ)血塗(ちまみ)れになつたが、不思議と生命(いのち)だけは取り留めて、それからはずつと健康(たつしや)でゐる。パリモントは後にその折の事を思ひ出して、
 「お蔭で(きず)(なほ)つてからは、人間も一段と悧巧になり、従来(これまで)のやうに(くさく)々しないで、その日その日を(たの)しむやうになつた。」
と言つてゐる。
 女がお産をして強くなり、色男が女に捨てられて賢くなる格で三階から飛下りて吃驚(びつくり)したのでそれ迄皮膜(かは)(かぶ)つてゐた智慧が急に(はじ)け出したのだ。それを思ふとやくざな知事や大臣は紙屑のやうに一度三階から投り出してやり度くなる。



最終更新日 2006年03月03日 12時37分35秒

薄田泣菫「茶話」「死人の下駄」

死人の下駄
 人間といふものは、生れて来る時下駄(げた)穿()いて来なかつた(せゐ)か、身投(みなげ)でもして死ぬる時は屹度履物(ぎつとはきもの)を脱いでゐる。それも其辺(そこら)へだらしなく()り出さないで、きちんと爪先(つまさき)を揃へた(まゝ)脱ぎ捨て\ゐる。(まる)で借りた物を返すといつた風だ。得て投身(みなげ)でもする人は、借りた金を返さないやうな(てあひ)に多いが、履物だけは自分の持合せでありながら借物ででもあるやうにきちんと取揃へてゐる。だから芝居でもそれに(なら)つて、舞台で情死者(しんぢゆうもの)の身投をする時には、俳優(やくしや)(きま)つたやうに履物を揃へる。
 それも古風な身投などの揚合に限らず、電車や汽車で轢死(れきし)をする揚合にも、履物だけはちやんと揃へてゐるから可笑(をか)しい。どんな粗忽屋(そゝつかしや)でも下駄を穿いた儘で軌道(レ ル)に飛ぴ込むやうな無作法な事はしない。家鴨(あひる)が外套を脱いで鴨鍋へ飛び込むやうに、自殺でもしようといふ心掛(こゝろがけ)のある者は、履物を脱ぎ揃へて軌道(レ ル)に横になる位の儀式はちやんと心得てゐる。
 電車の車掌なども、轢死者があつた場合は、其奴(そいつ)が男か女か、老人(としより)か子供か、馬鹿か悧巧かを吟味する前に、先づ履物を調べる。そして履物がちやんと揃へて脱ぎ捨ててあるのを見ると、
 「()めた。やつぱり自殺だつた。」
と、(ほつ)と胸先を撫でおろすさうだ。だから間違つて電車に()き殺される場合には、成るべく履物を後先(あとさき)へ、片(かた/\)は天国へ、片(かた/\)は地獄へ届く程跳ね飛ばす事だけは忘れてはならない。さもないと、自殺に()められて、慰籍金(ゐしやきん)も貰へない上に、理窟の立たない厭世観さへ()かされるやうな事になる。
 同じ淵でも身投をする揚所は大抵(キさま)つてゐるやうに、長い電車線路でも轢死する場所は、大抵見当がついてゐるさうだ。だから、(ずる)い運転手になると、その区間だけは速力の加減をする事を忘れない。
 もしか大隈伯が身投でもする揚合には、矢張(やつばり)履物を脱いで、義足を露出(むきだ)しに死ぬるだらうかと疑つた者がある。すると、いやあの人の事だ、死ぬ前に義足は割引で売つてしまふだらうと言つたものがある。



最終更新日 2006年03月03日 12時38分46秒

薄田泣菫「茶話」「性慾」

性慾
 トルストイ伯は、息子のイリヤが十八歳の頃、ある日屏風(びやうぶ)の裏表で背中合せになつて、
 「イリヤ、こゝでは誰も聞いては居ないし、私達もお互に顔が見えないから、恥かしい事は無い。お前は今日まで女と関係した事があるかい。」
と訊いた。
 息子のイリヤが、
 「(いゝえ)、そんな事はありません。」
と答へると、トルストイは急に欷歔(すユりなき)をし出した。そして子供のやうにおい/\声を立てて泣き出すので、息子のイリヤも屏風の裏でしく/\泣き入つたといふ事だ。
 トルストイは私に相談して泣いた訳でも無かつたから、何故(なぜ)息子の返事を聞いて泣き出したか解る筈もないが、察する所、自分が若い頃の不品行(ふみもち)に比べて、息子の純潔なのについ知らず感激させられたものらしい。
 新渡戸稲造博士は、自分が近眼(ちかめ)の原因をある学生に訊かれた時、次の()の夫人に聞えないやうに声を低めて、
 「無論本も読んだには読んだがね、(しか)し本を幾ら読んだからつて、人間は近眼(ちかめ)になるものぢやない。僕は学生時代にね……」と『英文武士道』の表紙のやうに一寸顔を(あか)くして「気恥しい訳だが、性慾の自己満足を余り()り過ぎたもんだでね……」
と言つて、口が酸つぱくなる程性慾の自己満足を戒めたさうだ。
 新渡戸愽士が自分の近眼(ちかめ)と性慾の自己満足を結びつけて、深く後悔して()るのは()い事だが、世の中には近眼者(ちかめ)といつても沢山居(たくさんゐ)る事だし、その近眼者(ちかめ)が皆が皆まで博士のやうな「良心」を持合せてゐまいから、(たつ)近眼(ちかめ)を恥ぢよと言つた所でさう/\恥ぢもすまい。
 (セント)アントニウスはあの通りの道心堅固な生涯を送りながら、猶側(なほはた)の人の目に見える迄性慾の煩悶に陥つてゐた。アントニウスの眼の前には毎夜のやうに裸の美人が映つて、聖者を誘惑しようとして(あら)ゆる(ふざ)けた姿をして踊り狂つてゐたといふ事だ。
 男の聖者(ひじり)が多く女の聖者(ひじり)渇仰(かつがう)するに対して、女の聖者(ひじり)は大抵男の聖者(ひじり)帰依(きえ)をする。ロヨラは聖母マリヤの信仰家であつたが、婦人の多くはナザレの耶蘇(ヤソ)と精神的結婚を遂げてゐるのだ。もし耶蘇があの年齢(とし)で髪の毛の縮れた女房(かない)でも迎へてゐたなら、大抵の女は教会で欠伸(あくび)居睡(ゐねむ)りかをするだらう。実際女は猫のやうなもので、鼠のゐない時には屹度(きつと)欠伸か居睡りをする事を知つてゐる。



最終更新日 2006年03月03日 12時39分15秒

薄田泣菫「茶話」「(しらみ)

(しらみ)
 今日阪神電車に乗ると、私の前に(とし)の頃は四十恰好の職人風らしい男が腰をかけてゐた。木綿物(もめんもの)だが小襯硼酒(こざつばり)した身装(みなり)をしてゐるのにメリヤスの襦袢(シヤツ)のみは垢染(あかじ)んで薄汚かつた。()てきつた鎧戸(よろひど)に鳥打帽の頭を当てがつて、こくりく居睡(ゐねむ)りをしてゐたが、電車が大物(だいもつ)を出た頃に、ひよいと頭を持ち直して、ぱつちり眼を()けた。そして手早く胸釦(むなぼたん)を外して、シヤツを裏返したと思ふと、指先に何かちょつぴり(っま)むで左の掌面(てのひら)に載つけた。-!よく見ると、会社の重役のやうに血を吸つて真紅(まつか)になつてゐる(しらみ)なのだ。
 虱は慌てて其辺(さこら)()ひ回つたが、職人の掌面は職人の住むでゐる世界よりもずつと広かつた。嵐は方角を()(そくな)つて中指にのぽりかけた。生れて唯の一度も運を掴んだ事のない掌面だけに、指も普通(あたりまへ)よりはずつと短かつたので、郵は直ぐと指先に(の )りきつた。
 職人はわざと皆に見えるやうに中指を鼻先に持つて来て、四辺(あたり)を見廻してにやり笑つた。この無作法な素振(そぶり)を見て誰一人怒り出さうともしなかつた。皆は顔を見合せて苦笑ひするより外に仕方が無かつた。
 (のみ)()つぽけな馬車を()かす蚤飼の話は噂に聞いてゐるのみで、実地見た事はないが、嵐は唯もうその辺を這ひ回るのみで、芸人としては一向価値(ねうち)が無い。
 職人は暫くそんな悪戯(いたづら)をしてゐたが、最後に(たもと)を探つて、マツチを取り出したと思ふと、ぱつと火を()つて嵐の背に当てがつた。この懶惰(なまくら)な芸人は手脚(てあし)をもじもじさせてゐたが、ぴちと爆ぜたやうな音がしたと思ふと、身体(からだ)はその(まゝ)見えなくなつてしまつた。(ちやう)ど耶蘇の死骸が墓のなかで紛失(ふんじつ)したやうなもので、不思議は四福音書にあるやうに、職人の掌面にもあるものなのだ。
 「人は自分の蚤を殺すには、自分の流儀を使ふ外には仕方が無い。」
ー仏蘭西人はよくこんな事をいふが、真実(まつたく)だなと思つた。



最終更新日 2006年03月03日 12時39分34秒

薄田泣菫「茶話」「女の手」

女の手
 少し談話(はなし)が古いが、日独の国交が断絶して、独逸の日本留学生が一(まと)めに店立(たなだて)を食はされた時の事、皆は和蘭(オランダ)経由で英吉利(イギリス)に落ち延ぴようとして、日を()めて一緒に伯林(ベルリン)のレアタァ停車場(ていしやぢゃう)()つた。
 何がさて、急揚の事なり、書物や古履(ふるぐつ)日本魂(やまとだましひ)などいふ、やくざな荷厄介な物は、(みんな)一纏めに下宿屋の押入に取残した(まゝ)逃げて来たので、(みんな)腑抜(ふぬけ)のやうな顔をして溜息ばかり()いてゐた。もしか兵隊さんの大きな(つら)が窓越しに(のぞ)きでもしようものなら、(みんな)護謨毬(ごむまり)のやうに一度に腰掛から飛上(とびあが)つたかも知れない。
 汽車がレアタァの次ぎの駅に着くと、一人の若い娘が入つて来て空席に腰をおろした。それを見ると其辺(そこら)の黄いろい(しな)びた顔が一度に()()いたやうに明るくなつた。ーーそれに何の無理があらう、娘の直ぐ隣には、〈医学士がゐる。医学士は、女をパラピンのやうに掌面(てのひら)に丸め込む事に馴れてゐる男だ。
 皆は言ひ合せたやうに、眼を閉ぢて(ねむ)つた風をしてゐた。医学士は娘に向つて、一言二言話してゐるうちに、(いつ)も女を(たら)す折にするやうに、掌面の講釈を始めた。支那の哲学者が言つたやうに(八医学士は哲学者とか袋鼠(カンガルウ)とか自分の知らない物は悉皆(みんな)支那に()んでゐると思つてゐるのだ)人間一生の「幸運(しあはせ)」は掌面の恰好と大きさとに現れてゐるといふ前置(まへおき)で、
 「お嬢さんのと僕のと、何方(どちら)が掌面が大きいのでせう、一つ比べてみませんか。」
と言つて、安(やす/\)と娘の(あたゝか)さうな掌面と不恰好な自分のをぴたりと合せたと思ふと、その儘凝(ましじつ)と握り締めた。
 狸寝入の連中は、もう胸をわくわくさせ出した。嬢が別に振切らうともしないのに味をしめた医学士は、(まる)まつちい娘の首根つこを抱いたと思ふと、いきなり唇を鳴らした。
 「うまい事を()つたのう。」
 直前(すぐまへ)の 法学士が、(たま)らなささうに(わめ)いて眼を()くと、皆は一度に眼を()いて笑ひ出した。娘はとう/\居溜(ゐたゝま)らなくなって次の()に逃げ出したさうだ。
 国境へ立退きのどさくさにも、まだ女の唇を忘れないのは流石(さすが)に医者だけある。医者といふ者は、死人の枕もとに坐つて、薬代の胸算用が出来る程余裕のある人間だ。
 メフイストフエレスは若い学生に、女の手を握らうと思へぱ医者になれと勧めた。実際医学ほど詰らぬ学問も少いが、(たつた)一つ女の手が握れるので埋合せがつく。



最終更新日 2006年03月03日 12時39分55秒

薄田泣菫「茶話」「漱石氏と黄檗」

漱石氏と黄檗
 京都に今歳(ことし)八十幾つかになる老人(としより)で、指頭画(しとうぐわ)の達者な爺さんがある。古い支那画(しなゑ)などを指頭(ゆびさき)臨纂(うつ)すが、なか/\上手だ。夏目漱石氏が先年京都に遊ぴに来てからは、
 「京都では別にこれといつて気に入つた物もないが、唯黄檗と指頭画とには悉皆(すつかり)感服させられた。」
と言ひ/\してゐる。
 指頭画は下らぬ芸で、大雅堂なども一(しき)りこれに凝つた時代があつたが、友達に戒められて思ひ(とど)まつてしまつた。
 「何故黄檗が好いんだらう。」
といふと、
 「一体お寺の本山などいふものは、山の腹か頂辺(てつぺん)かに建ててある。見ると(けは)しく落つこちさうで危い。そこになると、黄檗はあの通り平地(ひらち)に建つてゐるので、廓然(からり)と気持がいゝつたらない。」
と言つてゐるが、実の所は胃病持だけに高い所は息切れがして堪らない(せゐ)らしい。
 漱石氏は近頃よく(まづ)()()く。臆面もなく(まづ)い画を()く。正岡子規は画をかくのに、枕頭(まくらもと)に草花や果物を置いて、よく写生したものだが、漱石氏は一向写生といふ事をしない。他人(ひと)手器用(てきよう)にさつさと筆を(なす)つて()くのを見ると、羨ましさうにちよつと舌打をして、 「画つてものは、そんなに忙しさうに描いちや駄目だよ、(ゆつ)くり落着いて掛らなくつちや」
と言ひ/\、子供のやうに長く寝そべつて、だらけた胃袋を畳の上に投げ出しながら、何ぞといふと黄檗のやうなお寺の屋根瓦を一枚一枚描きにか\る。そしてそれが出来上ると、今度は黄檗で見たやうな松の樹を描いて、克明にも松の葉を一本々女つけてゆく。
 「そんな出鱈目な山水なぞ描かないで、何か写生したらよかりさうなものだ。」
といふと、にやりと笑つて、黄檗の禅坊主がするやうに、いかにも意味がありさうに一寸指先きで自分の胸元を指して見せる。そこには黄檗に似てもつかない弱い胃の腑が溜息を()いてゐる。



最終更新日 2006年03月03日 12時40分32秒

薄田泣菫「茶話」「狐と狸」

狐と狸
 兵庫には化狸(ばけたぬき)と間違つて婆さんを叩き殺した者があるさうだ。西洋のある学者は(みぞれ)の降る冬の日に蝙蝸傘(かうもりがさ)をさして大学から帰る途(みち/\)、家へ着いたなら、蝙蝸傘を壁にたてかけて置いて、自分は暖炉(スト ヴ)に当つて暖まらうと(たのし)みに思つてゐるうち、(うち)辿(たど)り着く頃には、すつかり自分と蝙蝠傘とを取り違へ、傘を暖炉(ストヨヴ)に暖ためながら、自分は(よつ)ぴて壁に(もた)れてゐたといふことだ。学者でさへ蝙蝙傘と自分とを取違へる世の中だ。馬鹿者が婆さんを狸と見違へるに無理もない筈だ。
 狸退治の極意を一寸こゝにお話すると、(()うか成るべく口の中で低声(こごゑ)で読んで欲しい、さもないと狸が立聞(たちぎき)するかも知れないから)狸はよく雨夜(あまよ)に出て悪戯(いたガら)をする。春雨のしとく降る折、夜道を一人通ると、だしぬけに(からかさ)が重くなる事がある。
 「狸だな、やい誰だと思つてるんだ。見違ふない。」
 独語(ひとりごと)を言ひ/\、てつきり狸が(からかさ)の上に()つかゝつてゐるものと思つて、誰でもが唯もう無中(むちゆう)になつて頭の方ばかり気にする。
 だが、これは飛んだ間違ひで、実はこの時狸は(からかさ)()にぶら下つてゐるのだ。だから夜途(よみち)で雨傘が重くなつたら、いきなり(こぶし)を固めて(いや)といふ程柄の下を(なぐ)つてみる。すると狸はその(まゝ)気絶をするか、さもなければ()(つくば)つて屹度(きつと)謝罪をする。
 (つい)でに狐退治の極意を披露すると、田舎の一軒屋などでは、夜が更けると狐がとんくと()を叩いて悪戯(いたづら)をする事がある。その時狐は後向(うしろむき)になつて持前の太い尻尾で()(さは)つてゐるのだ。さういふ折には何気ない調子で、
 「どなた?」
と訊いておいて、暫くしてから()を開けると、狐は屹度其辺(そこら)の小陰に身を潜めてゐる。
 (わざ)とぶつくさ言ひながら、また()()て切ると、直ぐ(あと)からとん/\と聞える。
 「どなた?」
()を開けると、狐は()う居ない。三度目が(いよく)々の正念揚(しやうねんば)で、()を閉めて暫く待つてゐると、(きよう)にはづんだ狐の脚音がして、尻尾の()に触る音が聞えたか聞えぬかに、矢庭(やには)()を引開けると、後向きに尻尾を振りあげた狐は、(はづ)みを()つて閾越(しきゐご)しに庭に転げ込んで来るので、直ぐ手捕(てどり)にする事が出来る。
 以上狐狸(こり)退治の秘伝、親類縁者たりとも極内(ごくない/\)の事内々の事。



最終更新日 2006年03月03日 12時42分00秒

薄田泣菫「茶話」「一万円の仏画」

一万円の仏画
 早稲田大学の美学教授紀淑雄(ぎのとしを)氏は、近頃真黒に(くすぶ)つた仏画を持ち廻って(しき)りと購客(かひて)を捜してゐる。幾らだと訊くと、「まあ、ずつと見切つた所で一万円」といふので、大抵の人は肝腎の仏画は見ないで(きの)氏の顔を見て笑つて済ましてゐる。
 紀氏は遅緩(もど)かしくなつて、友達仲間を説き廻つて、
 「誰でもいゝ、この()を一万円に周旋(とりも)つて呉れたなら、手数料として千円位出しても可い。」
といふので、仲間の美術通や画家(ゑかき)などは、血眼(ちまなこ)になつて得意先を駈けづり廻つてゐる。言ふ迄もなく美術通や画家(ゑかき)などいふものは、閑暇(ひま)がある代りに金銭(かね)が無い連中(れんぢゆう)である。
 一体仏画といふものはざらにあるが、(フフ)高い二十五菩薩来迎(らいかう)山越(やまごし)の阿弥陀などを()けると、(いづ)れも凡作揃ひでお談話(はなし)にもならぬが、美術の好きな者には盲目(めくら)が多く、盲目(めくら)には富豪(かねもち)が多いから、下らぬ仏画に万金を投じても悔いないのだ。
 紀君の仏画はまだ見た事もないし、それに売物の事だから彼是(かれこれ)言はうとも思はないが、一体何を標準(めやす)に一万円といふ売値をつけたのだと訊いてみると、亡くなつた岡倉覚三氏がその画を見て、米国へ持込んだら屹度(きつと)三万円には売れるだらうといつた、その一(こと)標準(めやす)に、大負けに負けて一万円といふのださうな。
 岡倉覚三氏は邦画の鑑定(めきゝ)にかけては、随分鋭い鑑識を持つてゐた人だから、あの人の鑑定つきだったら、三万円位()り出す富豪(かねもち)があつたかも知れないが、さうかといつて紀氏も地獄へまで鑑定書(かんていがき)を取りにも()けまい。(もつと)も大隈伯に佚も頼んだら、二つ返事で地獄の門番に添書(てんしよ)だけは書いて呉れるかも知れない。あの人は人に親切を尽すといふ事は、添書(てんしよ)をつける事だと(わきま)へてゐるのだから。
 その一万円が手に入つたら、紀氏は真面目に支那画(しなゑ)を研究したいと言つてゐる。支那画も善いには相違なからう。人間といふものは、金銭(かね)が手に入らない(うち)は、いろんな善いことを考へつくものだから。



最終更新日 2006年03月05日 20時49分50秒

薄田泣菫「茶話」「貴婦人と音曲(おんぎよく)

貴婦人と音曲(おんぎよく)
 大阪美術倶楽部(くらぶ)で催された故清元(ぎよもと)順三の追悼会(ついたうゑ)に、家元延寿太夫(えんじゆだいふ)が順三との幼駲染(おさななじみ)(おも)ひ出して、病後の(やつ)れにも(ぐは)らず、遙々下阪(まぐげはん)して来たのは美しい情誼であつた。
 延寿太夫はその席上で、「角田川(すみだがは)」を語つた。清元としては(ひど)く上品なもので、何も判らない聴衆(きゝて)(いづ)れも手を()つて喜んでゐたが、自分は(ひと)(あざむ)かれたやうな気持がしない事もなかつた。
 意気で、うまみで持つてゐる清元を、()ひて上品に拗曲(ねぢま)げようとするのは(むし)ろ当流音曲の自殺である。四代目〔の妻〕お葉は二代目の不思議な横死が富本(とみもと)の手で行はれたかも知れないといふ疑一(うたがひ)つで、富本の紋章に縁のある桜の花は生涯家に植ゑさせなかつた程だ。家の芸が自分で首を縊らうとするのを見たら、どんなに言ふだらう。
 先代の延寿は道楽といふ道楽を仕尽(しつく)して、とどの(はて)には舌切情死(したきりしんぢゆう)までしようとした。さういふ遊蕩的分子をその血にたんと持伝へてゐたから、舌切雀のやうに情死(しんぢゆう)で損じた舌をも、()うにか工夫して独吟となると聴客(きゝて)の魂を吸ひつけるやうな(はな)(わざ)も出来たのだ。ラムネの(びん)にはギヤマンの「魂」が、露西亜人にはだらけた「心」が要るやうに、清元に無くて叶はぬものは、この遊蕩的分子である。
 今の家元は所謂(いはゆる)上流夫人といふ階級の気に入らうとして、清元を「角田川」のやうなお上品なものにしようとしてゐる。今の上流夫人の好くものは、お手製の西洋菓子と、オペラ(バツグ)と、新音曲とー(いづ)れもお上品で軽い物揃ひである。



最終更新日 2006年03月05日 20時50分43秒

薄田泣菫「茶話」「一木内相の発見」

一木内相の発見
 飛田(とびた)遊廓反対者が一木内相を訪問すると、内相はブリキ製の玩具(おもちや)人形のやうな謹厳な顔をして、
 「人間の性慾といふものは、却(なか/\)(おさ)へ切れないものだから、それを遂げさす機関も無くてはならない。」
と言つたさうだ。
 (おろ)し立ての手吊(ハンケチ)のやうに真白で(しわ)の寄らない心を持つた或る真言(しんごん)の尼僧は、半裸体の仏様のお姿を見て、
 「まあ、仏様にも(へそ)がある……」
と言つて、悲しさうな声を出して泣いたさうだ。一木内相が人間に性慾があるのを発見したのは、仏様に臍があるのを見つけたと同じやうに、非常な発見で、この場合内相が若い比丘尼(びくに)のやうに声を立てて泣かなかつたのは、流石に男である。男といふものは女と同じやうに神様の玩具(おもちや)に過ぎないが、女には胸を押へると泣き出す仕掛があるのに、男にはそれが無いだけの相違(ちがひ)だ。
 一木内相は男である。男だから毎週土曜日の午後には東京を()つて小田原の別荘へ行く事に()めてゐる。別荘には夫人が待つてゐる。夫人は言ふ迄もなく女である。ー-それを思ふと、何事も二宮宗(のみやしゆう)の勤倹一点張でやり通さうとする内相に、性慾は余り賛沢過ぎるやうだ。
 神様は粘土(ねばつち)で人間を作るのに、(すべ)て自分に()せたといふ事だ。ジヨオヂ・ムアに従ふと、英吉利の男も矢張(やつまり)神様のやうに、自分達に肖せて女を(こしら)へるが、それに要る土だけは亜米利加から取寄せてゐるといふ事だ。
 一木内相の理想(おもはく)通りに女を持へさせたら、どんな物が出来上るだらう。堅麭麭(かたパン)のやうな二宮宗に、ちよつぴり性慾を(つま)み込んだ、(まる)でサンドヰツチのやうな女が(でき)るに相違ない。



最終更新日 2006年03月05日 20時51分12秒

薄田泣菫「茶話」「仏の笑顔」

仏の笑顔
 先日(こなひだ)来遊した露国の詩人パリモントは、(わざく)々日光まで出掛けて往つたが、墫と違つて一向結構な(ところ)が無いので失望した、多分京都や奈良へ往つたら、この償ひがつくだらうと、心細い事を言つてゐるさうだ。
 日光を結構な土地(ところ)と思つたのが間違で、日光には鋳掛(いかけ)屋の荷物のやうな、ぴかくした建物があるだけで、那処(あすこ)では芸術は死んでゐる。あれを有難いものと思つてゐるのは、関東人に腹の底からの田舎者が多いのを証拠立ててゐる訳だ。バリモントも態(わざ/\)日光へ出掛けるなぞ無駄な事をしたものだが、それでも感服しなかつただけが取得(とりえ)だ。矢張評判に(そむ)かないだけの詩人の感覚(センス)といふものを持つてゐると見える。
 日本の景色を(まる)楽園(エデン)のやうに云ふ人がある。エデンに嘘吐(うそつ)きの(じや)と、(だま)され(やす)い女とが居るやうに、日本にもこの二つがざらに(ちフ)るから、この意味で楽園(ェデン)だといふのに異議は無いが、景色はさうく自慢する程のものではない。バリモントも詩人だといふからには、景色だけを見に(わざく)々来なかつた筈だ。
 関西(かみがた)へ来たなら、是非見せて置きたいものが二つ三つある。一つは京都の博物館にある婆藪(ぱそう)仙人と今一つは法隆寺の宝蔵にゐる何とか言つた仏体だ。(以前(まへかた)訳のあつた女の名前も(ちよいく)々忘れる事があるやうに、名高い仏様のお名前もどうかすると想ひ出せない事があるものだ。)
 日本に長く居た工芸家のリイチ氏なども、日本の彫刻は大抵見尽したから、価値(ねうち)はちやんと解つてゐるなどと、(ひど)()つたやうな事を言つてゐたが、(くだん)の仏像に惚れぬいてゐる富本憲吉氏が、
 「頼むから、たつた五分間でもい\見て欲しい。」
と、(いや)がるのを無理に引張つて()くと、魂でも吸ひつけられたやうにその前に棒立(ぼうだち)になつて、
 「素敵だな。こんなものが日本にあらうとは思ひ掛けなかつた。ビンチのジヨコンダが思ひ出されるやうな作品だ。いや、ジヨコンダ以上だ。」
賞立(ほめた)てた事のある仏体だ。
 ジヨコンダも謎のやうに笑つてゐるが、法隆寺の仏様も笑つてゐる。ジヨコンダの笑ひは人間臭いが、この仏様の笑ひは天人の笑ひである。笑ひといへば京都博物館の婆藪仙人も笑つてゐる。これは地獄を見て来た者の笑ひである。



最終更新日 2006年03月05日 20時51分35秒

薄田泣菫「茶話」「書物」

書物
 ある男が慶応大学の鎌田(かまだ)栄吉氏に、ほんの愛相(あいきう)のつもりで、
 「近頃はどんな本をお読みですかい。」
と訊いてみた。すると鎌田氏は馬のやうに気取つて、そして馬のやうににやりとして、
 「近頃は本なぞ(ちつ)とも読みませんさ。世間は私や門野(かどの)君をー-」と(そぱ)に居合はせた門野幾之進氏を一寸振り返つて、「まるで本ばかり読んでゐる男のやうに思つてると見えて、よくそんな質問に出会(でくは)しますがね:…・」
と言つてゐた。
 先日(こなひだ)まで京都図書館長をしてゐた湯浅半月氏に、
 「君の顔はどこかモウパツサンに()てゐる。」
出鱈目(でたらめ)の挨拶をした者がある。すると湯浅氏は禿かかつた前額をつるりと撫で下して、
 「誰やらもそんな事を言つたつけが……」
と言つて、その翌日(あくるひ)これまで図書館に持合はさなかつたモウパツサン全集の英訳を丸善に註文したといふ事だ。
 湯浅氏がモウパツサンに少しも肖てゐないやうに、誰も鎌田氏を読書人(どくしよにん)だと思ふものも無からうが、当人になつてみると、世間がそんなに買被(かひかぶ)りをしてゐるらしく思はれるものと見える。
 だが、かう言つた所で鎌田氏も失望するが物は無い。本を読むといふ事は、ココアを(すゝ)るといふ事と同じで、何も大した事では無いのだ。渋沢男爵などは、婿(むこ)阪谷(さかたに)(だん)が万国経済会議に出掛ける餞別(せんべつ)にポケツト論語を贈つたさうだが、あれなども()ういふ気でした事か一寸考へ及ばれない。
 論語は()い本だ。()い本だからと言つて、それで人生が(ひつ)くり(かへ)るものなら、この世は幾度か()う引くり覆つてゐる筈だ。



最終更新日 2006年03月05日 20時52分20秒

薄田泣菫「茶話」「新画」

新画
 トルストイは『芸術とは何ぞや』といふ書物のなかで仏蘭西の新しい詩人を攻撃しようとして、作家連の詩集から例証をあげるのに奇抜な方法を選んだ。それはいろんな詩集から廿八頁目の詩を引つこ抜いて来るといふ方法なのだ。茶話子は散歩をするのに、四つ辻へ来ると手に持つた洋杖(ステツキ)なり蝙蝠傘(かうもりがさ)なりを真直に立ててみてそれが倒れる方へ歩き出す事がよくある。
 近頃新画の展覧会があちこちで開かれるが、作家と絵の出来栄(できばえ)について何の好悪(すききらひ)も持たない今の成金のなかには、眼を閉ぢて番組(プログラム)を押へるとか、又は従来(これまで)自分と縁起のよかつた、25とか73とかの番号に当つてゐるのを捜すとかして、それを買取る事にきめるのがある。
 そんな時には()うかすると同じやうな買手が顔を出すもので、互に意地を張つた末が、(フぎま)つたやうにぢやん拳で縁極(えんき)めをする。よく新画の展覧会へ出掛けると、一つの画幅の前で火喰鳥(ひくひどり)のやうな鋭い顔をした男が三四人、ぢやん拳をして、きやつ/\乾躁(はしや)ぎ散らしてゐるのを見掛ける事がある。
 なかには地所を買ふより割高になるといつて、展覧会があると、絵なぞ一()とも見ようとはしないので、電話でもつて何号から何号まで総高幾干(いくら)取除(とりの)けて置いて貰ひたいと、(ちやう)ど勧業債券でも買込むやうな取引をするのがあるさうだ。
 大浦(おほうら)の隠居さんが取引した議員政治家の値段と、栖鳳が書きなぐつた雀一羽とを比べてみると、雀の方がずつと値が高い。流石は結構な美術国である。



最終更新日 2006年03月05日 20時52分43秒

薄田泣菫「茶話」「禁酒のお水」

禁酒のお水
 一心寺に元和(げんな)往時(むかし)、天王寺で討死(うちじに)した本多忠朝(たゞとも)と家来九人を葬つた(つか)のある事は、誰もがよく知つてゐる筈だ。
 忠朝は生きてゐる(うち)は、鉄の棒を()りまはす(ほか)には何の能も無かつた男に相違ないが、死んでからは面白い内職にありついてゐる。内職といふのは、禁酒の(ぐわん)を聞くといふ事なのだ。一体男に禁酒させるのは、女に有難がられる第一の功徳(くどく)で、世の中に仕事といふ仕事は沢山あるが、女に有難がられる仕事ほど()甲斐(がひ)のあるものは無い。
 忠朝の墓前に小さな壷があつていつも(ふた)がしてあるが、中には銀のやうな水が溢れてゐる。酒を断たうとする者は、その水を(いたゞ)いて飲むと、何日(いつ)の間にか酒嫌(さけきら)ひになるといふ事だ。
 ある日其処(そこ)を通りかゝると、頭を島田(しまた)に結つた十七八の女が、壷から水を()むで(うち)から持つて来たらしい硝子瓶(ガラスびん)に入れてゐるのがある。
 「()うするんだね。」
と訊くと、
 「檀那はんが酒癖が悪うおますよつて、ぶぶうに入れて上げるのだつせ。」
と、女は「救世主」のやうな、おせつかいな顔をして私を見た。実際女といふものは、男の知らぬ()に、その飲物のなかへ(いろん)々な物を(つま)み込むのが好きで溜らぬらしい。それが酒断(さけだち)の水であらうと、塩であらうと、莫児比浬(モルヒネ)であらうと、悉皆(みんな)持合せのおせつかいからする事なので、男は目を(つむ)つて謹んでそれを戴かなければならぬ。
 ハウプトマンの『沈鐘』を読むと、鐘師のハインリツヒが山の上で怪しい女と酒を飲んで踊つてゐると、村に残した子供二人が、大事さうに小さな瓶を()げて(さか)(のぼ)つて来る。瓶のなかには何があるのだと訊くと悲しさうな顔をして、
 「母様(かあさま)の涙です。」
といふ(くだり)がある。
 母様の涙は少し(しほ)つぽいが、忠朝の墓の水は(ひや)つこい。どちらも妙に酒飲みの阿父(おとつ)さんには効力(きゝめ)があるといふ事だ。



最終更新日 2006年03月05日 20時53分14秒

薄田泣菫「茶話」「清方(ぎよかた)輝方(てるかた)

清方(ぎよかた)輝方(てるかた)
 先日ある会で画家の鏑木(かぶらぎ)清方氏と池田輝方氏とが出会つて、
 「どうだい(ひま)だつたら久し振に一緒に築地辺でも稍祥(ぶらつ)かうか。」
といふやうな談話(はなし)が持上つて、二人は嬉しさうに築地へ散歩に出掛けた。
 清方といふ人は江戸ッ子によくある(ひど)い郷土自慢で、(たま)に病気にでも(かゝ)つて、箱根辺へ保養に出掛けなければならぬ折には、家族と水盃(みづさかづき)も仕兼ねない程の旅行嫌ひで、東京市内でも山の手は田舎臭いといつて、滅多に出掛けた事が無いさうだが、その日は築地だつたから、別れに水盃の必要もなかつた。
 だが、これには理由(わけ)のある事、清方氏は輝方氏とは同じやうに築地で育つた人で、子供の時分には互に顔は見知らなかつたものの、清方氏の(うち)には葡萄棚があつて、夏になると美しい房が鈴生(すどなり)()るので、腕白者(わんばくもの)の輝方氏は近所の(はな)(たら)しと一緒に、いつも盗みに出掛けたものだつた。或る晩などは逃後(にげおく)れた輝方氏が女中に(つか)まつて、恋女房の蕉園女史にしか触らせた事のない口の(はた)を思ひ切り(つね)られたものださうだ。
 その後二人が同じやうに、水野年方(としかた)氏の門に()つた時、色々の世間話からその事が判つて、
 「君だつたら葡萄(ぐらゐ)呉れてやつてもよかつたんだ。」
と言つて笑つたさうだ。かういふ縁で二人は時々築地(どほり)を散歩するのださうだ。
 画家(ゑかき)といふものは、()うかすると他所(よそ)の葡萄を欲しがつたり、相弟子(あひてし)の女画家に惚れたりするものなのだ。



最終更新日 2006年03月05日 20時53分44秒

薄田泣菫「茶話」「先輩後輩」

先輩後輩
 鴈治郎と歌右衛門とが大阪での顔合せが、梅玉(ばいぎよく)父子(おやこ)意地張(いぢぱり)から急に沙汰止(さたや)みになつたので、(いつも)のやうに大阪俳優の大顔寄せといふ事になり、旅興行の延若(えんじやく)へその旨を通じると、延若は承知しない。
 従来(これまで)興行政策の上から、應治郎には随分犠牲になつてゐる。以前(もと)の延二郎ならば()(かく)も、亡父(おやぢ)の名前を相続してみれぱ、さうくお人好しに(ばか)りはなつては居られない。
 「今は()う競争の時期に入つてゐるのや。どつちやが()つかまあ長い目で見てみなはれ。」
胡瓜(きうり)のやうな長い(おとがひ)に、胡瓜のやうな(とげ)をちら/\させてゐる。
 レオナルドとミケエルアンゼロとは所謂(いはゆる)文芸復興期の二大天才だが、この二人に就いてこんな話がある。或時レオナルドが(いつも)のやうに長い顎鬚(あごひげ)(しご)きながら、市街(まち)を散歩してゐると、五六人の若い市民が、ダンテの詩に就いて、(やかま)しく議論をしてゐるのに衝突(ぶつつか)つた。
 市民はレオナルドを見ると、
 「先生貴方(あなた)の御意見は如何(どう)です。」
と訊いてみた。すると丁度またミケエルアンゼロが其処(そこ)(とほ)(かゝ)つたので、レオナルドは、
 「おゝアンゼロが来た。その事ならばあの男がよく知つてゐる筈だ。」
と言つた。アンゼロは平常(ふだん)からレオナルドの長い顎鬚を(しやく)にさヘてゐたので、
 「君が自分で説明したら()いぢやないか、君は何時(いつ)だつたか、青銅(ブロンズ)で馬の模型(モゴアル)を作りかけて鋳上げる事もしないで、打捨(うつちや)(ばな)しにしたぢやないか、いい恥晒(はぢさら)しだね。」
と吐き出すやうに言つた。レオナルドはそれを聞いて海老のやうに真紅(まつか)になつて(しま)つたさうだ。
 應治郎と延若とを、レオナルドとアンゼロとに比べるのは、藁稽(わらしべ)黄金(きんか)(たまり)の目方を引くやうなもので、天秤(はかり)を神経衰弱にするに過ぎないが、(しか)し先輩後輩の関係だけには一寸似寄つた(ふし)がある。
 「時」はいつも若い者に味方をする、だが、人間はいつ迄も若くては居られない。



最終更新日 2006年03月05日 20時55分01秒

薄田泣菫「茶話」「呂昇(ろしよう)咽喉(のど)

呂昇(ろしよう)咽喉(のど)
 愛知医専教授中村豊氏(耳鼻咽喉専門)の説によると、芸妓といふものは大抵慢性喉頭加答児(かたる)(かゝ)つてゐる。それは無理に声を使ひ、無理に酒や煙草を飲み、無理に夜更(よふか)しをし、無理な借銭や、無理な恋をするといつた風に(すべ)てが無理づくめなからださうだ。唄でも(うた)ふ時は(うぐひす)のやうに(なめら)かだが談話(はなし)をすると曳臼(ひきうす)のやうな平べつたい声をするのは、咽喉を病んでゐる証拠ださうだ。
 中村氏は一度呂昇の咽喉を見た事がある。(すべ)て女の声帯は細いのに呂昇のは男と同じ程度に大きく、咽喉もよく発達してゐるが、扁桃腺(へんたうせん)が非常に(ふと)つて、どんなに蟲眞目(ひいきめ)に見ても健全(ぢやうぶ)な咽喉とは言ひ兼ねたさうだ。余つ程扁桃腺を切らうかとも思つたが、その拍子に浄瑠璃を傷つけてもと思つて見合せたさうだ。素人(しろムつと)の浄瑠璃は鼻の先に巣くつてゐるが、呂昇のやうな黒人(くろうと)のは、何処に隠れてゐるのか医者にも一寸判らないといふ事だ。
 雲右衛門(くもゑもん)の咽喉は、大久保知事の頭のやうに滅茶々々に荒れて、声帯は手の着けやうも無い。一体浪花節語(なにはぶしかた)りは、首を()められた(あひる)のやうに、一生に一度出せばよい声を、ざらに絞り出すので誰でもが病的になつてしまふ。
 先年大隅太夫が声が出なくなつて、約束の席に差支(さしつか)へた時、高峰博士のアドレナリンの声帯注射を試みて、無事に席を済まさせた事があつた。これは声帯の充血を一時的に散らすので、長い効能は無いが、女でも口説(くど)かうといふものはその三十分前にこれを注射して見るのも面白からう。
 だが、或人の説によると、そんなに手数(てすう)の要る事をするよりも、ワての注射代だけ手土産(てみやげ)を持つて往つた方が、屹度(きつと)女の気に入るといふ事だ。



最終更新日 2006年03月05日 20時56分41秒

薄田泣菫「茶話」「女の鑑定家」

女の鑑定家
 神様の数多い作品のなかで女が第一の傑作であるといふ事は、多くの婦人雑誌が主張する所で、自分もそれに就いては少しの異議もない。女の美しさ  それだけでも十分なのに、加之(おまけ)にまた女の(ずる)さーこれを傑作と呼ばないのは盲目(めくら)である。
 かういう神様の傑作も、(へつしひ)の前へ置きつ放しにしておくと、何時(いつ)となく(すゝ)ばんで来る。すると浅果(あさはか)な男心は直ぐ我楽多(がらくた)のやうな、ぞんざいな(あしら)(ぷり)を見せて、()うかすると神様の傑作に対して敬意を失するやうな事になる。
 この(ごろ)西洋新聞を見ると、ある男女が結婚して四五年経つと、互に鼻に附き出して、顔を見るのも(いや)になつた。そこで(いつ)そ別れようといふ事で、日を()めて弁護士の(とこ)に落合つて、その手続をする事に談話(はなし)を運んだ。
 その日になつて、女は素晴しく着飾つて来た。身動きする(たび)に、絹摩(きぬず)れの音がして、麝香猫(じやかうねこ)のやうな(にほひ)がぷんくする。男は(めま)ひがしさうになつて来た。
 「見違へる程美しいぢやないか、()うしたんだね。」
 「いえね、貴方(あなた)にお別れすれば、独身(ひとりみ)でも居られないしと思つて、嫁入口を捜しに往つたんですわ。」
 「(おそろ)しく早手廻しだな。()いのが見つかつたらう。」
男は吐き出すやうにいふ。
 「もう御存じなの、貴方にも(よろ)しくつて言つてたわ。」
女は一寸笑つてみせた。
 男はいきなり女の手を取つて少し相談があると言つて、弁護士の(うち)を出て往つた。三十分後には、この二人は活動写真館に入つて、夫婦鳩(めをとばと)のやうに肩を並べて(ふざ)け散らしてゐたさうだ。
 謹んで世上の女に告げる。男は皆かうしたものだ。彼は「女」の鑑定家としては最も与みし易いやくざ者である。



最終更新日 2006年03月05日 20時57分14秒

薄田泣菫「茶話」「女といふもの」

女といふもの
 大杉(さかえ)と伊藤野枝(のえ)とが例の恋愛事件に対する告白を読んで見ると、(いづ)れも理屈ばかり(なら)べてゐる。理屈などは()うでもよい、栄といふ男と野枝といふ女とが附着(くつつ)かねばならなかつた真実(ほんとう)の特殊の事情を告白する事が出来なければ嘘だ。
 彼等は(ひと)に是認されるやうにと思つて、単に自分達の()た事に筋道(ばか)りを附けようとしてゐる。そして自分達二人の間の特殊の境遇と感情とを忘れようとしてゐる。
 女を(つか)まへたら、力一杯それを引き着けてゐなければならない。女は筋肉の(たくまし)い男の腕の上でのみ(ねむ)る事が出来る。女は狡猾な鳩のやうなもので、男がうつかり掌面(てのひら)(ゆる)めると、直ぐぱたくと飛び出す。そしてそれを男の油断からだとは思はないで、自分に羽があるからだと穿違(はきちが)へる。
 近頃は別れた女が、以前関係のあつた男を棚卸しをする事が流行(はや)る。棚卸しの対象(あひて)としては、男は恰好の代物(しろもの)である。どの男もどの男も女に対しては悉皆(みんな)共通の弱味を持つてゐるので、或る一人の棚卸しは、やがて男全体の棚卸しとなる事が出来る。もしか伊藤野枝のやうな女が、
 「今だから白状しますが私の(せん)の亭主には尻尾があつてよ。」
と言ひでもすると、世上の男といふ男は、みんな頭を抱へ込んで、
 「野枝め、俺に当てつけてるんぢや無からうか、確か俺にも尻尾があつたつけな。」
と恐縮するに(もさま)つてゐる。
 先年巴里で、人の妻たるものに、有つて欲しい性質を投票させた事があつた。その時の投票に依ると、「慈愛」が一万三千八点。「整理」が一万八千四百四十点。「信任」が一万九百四点といふ結果であつた。この(ごろ)のやうに女に油断が出来なくなつたら、いやそれは西洋の事だ、日本はまた別だなどと勝手な事は言はないから、何卒(どうか)男子保護政策として別れた(のち)に「亭主の棚卸しを()ない」といふ点に最高票を投じて貰ひたいものだ。


最終更新日 2006年03月05日 20時57分58秒

薄田泣菫「茶話」「タゴオルの知人」

タゴオルの知人
 タゴオルが来ると、友人や知辺(しるべ)やが其辺(そこら)ぢゆうから飛び出して、色々な勝手な事をいつてゐる。
 「私はタゴオル家へ二晩泊つた。その晩詩人は歌を(うた)つた。」
 「僕はタゴオルの寝言を聞いた。寝言がすつかり韻が踏んであつたには驚いた。」
 「私はタゴオルの外套を見た。左のポケツトには『詩』が入つて()り、右のポケツトには『哲学』があつた。財布はー財布は確か洋袴(づ ん)の隠しにあつたやうに思ふ。」
 「詩人は僕の前で欠伸(あくび)をした。あの欠伸が解るのは、日本で野口米次郎氏位のものだらう。」
と言つたやうなもので、どれもこれも御尤(ごもつとも)の事づくめだ。
 さういふ人達がタゴオルの親友であるのは夢更(ゆめさら)疑ふのでは無い。だが、実をいふと、そんなに詩人と懇意なのだつたら、もつと早くタゴオルの人物と作物(さくぶつ)とを紹介して貰ひたかつたのだ。
 聖母マリヤが昇天して、神様のお(そば)に居ると、色々な男や女が、
 「マリヤ様の昔眤懇(むかしなじみ)だよつて極楽に入らさせて呉れさつしやれ。」
と言つて、ドヤく入つて来た。マリヤが(そつ)とその人達を見ると、(いつ)れも見知らぬ顔で、なかに三四人以前耶蘇を生み落した当時、
 「いたづらな阿魔つ子めが……」
(みち)出会頭(であひかしら)に石を()げつけた女達が(まじ)つてゐたといふ事を何かの本で読んだ事がある。
 タゴオルが()しか浬槃(ねはん)の国へでも往つたら、早速訪ねて往つて、お釈迦様か阿弥陀様かに紹介状を(したゝ)めて貰ひ度いといふのは、かういふ日本人に一番多からう。



最終更新日 2006年03月05日 20時58分29秒

薄田泣菫「茶話」「相馬御風の将棊(しやうぎ)

相馬御風の将棊(しやうぎ)
 乞食が頭陀袋(づだぶくろ)の充実をはかるやうに、早稲田派の文士は、絶えず生の充実をはかつてゐる。そのなかでも相馬御風君などは、書いてゐる論文でみると、散髪をする(ひま)もない程、人生の事ばかり思つてゐるらしい。ほんとに殊勝な事だ。もしかこの世界が私の手製だつたら、相馬君のやうな心掛のいゝ人には、(そつ)品と内証(ないしよう)で打明けてやりたいものだ。
 「人生つてそんなに意味のあるものぢや無いのだよ。」と言つてね。
 京都の西川一草亭氏は、相馬御風氏の論文を見て、こんなに始終(しよつちゆう)人生の事ばかり考へて居ては、(さぞ)肩が凝つて溜るまいと、自分の実弟(おとうと)(かね)て相馬氏と知合(しりあひ)の津田青楓に訊いてみた。
 「相馬君つて毎日どんなにして暮してるね。始終独語(しよつちゆうひとりごと)でも言つてるのかい、蟹のやうに。」
 「独語(ひとりごと)も言つて無いやうだね。」
 「ぢや何をしてゐるね。」
 一草亭は好奇(ものずき)の目を光らせた。
 「さうさなあーよく将秦をしてるやうだがね。」
と津田氏はいつだつたか、相馬氏が歩と桂馬とを人生の秘密か何ぞのやうに、(しつか)掌面(てのひら)に握つてゐた事を思ひ出した。
 「え、将棊をさしてるつて。」
 一草亭氏は覚えず吹き出してしまつた。
 「将秦をさすなんて、そんな……そんな閑暇(ひま)があるのかい。あんな忙しさうな議論を書きながら。」
 それからといふもの、一草亭氏は二度ともう相馬氏の論文を読まなくなつたさうだ。



最終更新日 2006年03月05日 20時59分01秒

薄田泣菫「茶話」「露伴と島」

露伴と島
タゴオルが到る所で歓迎されてゐるのは喜ばしい。
『ギタンヂヤリ』の詩人は私の叔父でも従兄(いとこ)でも無いが、詩人の尊敬せられるのは、軍人や政治家の持てるのと(ちが)つて、見てゐて気持が()い。だが、日本人が(イン)度の詩人に払ふ敬意の半分でも、自国の詩人に捧げる事を知つてゐたなら、日本はもつと幸福な国になつてゐられたに相違ない。
 タゴオルの一家では、亡くなつた岡倉覚三氏に島を一つ買つて(あてが)はうとした事があつた。相手は岡倉氏の事だ。買つて(あてが)つたところで、格別礼も言はないで、一寸(うなつ)いてみせた位で、直ぐ受取つたに相違ない。
 島を貰つて()うする? なに心配するが物は無い。住み鉋いたら売つてしまふばかりさ。現代仏蘭西の文豪アナトオル・フランスは友達が寄贈して呉れた書物は(ろく)に読みもしないで、セエヌ河の河縁(かはぶち)にある古本屋に売り飛ばしてしまふといふ事だ。そして(ひと)が訊くと、
 「なに、田舎の友人に送つてやつたのさ。」
何喰(なにく)はぬ顔で済ましてゐるさうだ。
 岩代(いはしろ)猪苗代湖のなかに翁島(おきなじま)といふ小さな島がある。樹木のこんもり繁つた静かな島だが、これが先年三千円か()らで売りに出た事があつた。幸田露伴氏がそれを欲しがつて、買つても可いと言つてゐたが、買ひ度いと思つた時には三千円の工面がつかず、工面が附きかかつた時には、もつと好い考へが起きて来たので到頭沙汰止みになつた。好い考へといふのは、島を買つて棲むよりか、借金をしない方がずつと安静だといふ事だ。
 その折露伴氏は、島が万一自分の者になつたら、どんな訪問客(はうもんかく)でも()きた(ます)の子を手土産に持つて来ないものは、面会を謝絶する事にしたい。そしてお客の持つて来た鱒の子は、悉皆(みんな)湖水のなかへ放して()つたら、幾年かの閊に湖水は鱒で一杯になるだらうと言ひ/\してゐた。
 露伴といふ人は色んな面白い事を思ひつく人だ。そしてもつと面白いのは、大抵それを実行しないで済ます事だ。



最終更新日 2006年03月05日 21時07分07秒

薄田泣菫「茶話」「贋物(にせもの)

贋物(にせもの)
 村井吉兵衛(きちべゑ)が伊達家の入札で幾万円とかの骨董物を買込んだといふ噂を伝へ聞いた男が、
 「幾ら名器だつて何万円は高過ぎよう。それにそんな物を(たつた)一つ買つたところで、(ほか)の持合せと調和が出来なからうぢやないか。」
といふと、吉兵衛は女と金の事しか考へた事のない頭を、勿体ぶつて一寸()つてみせた。そして二言一句が五十銭づつの値段でもするやうに、()(をし)みをするらしく(ゆつく)りした調子で、
 「なに高い事は無いさ、幾万円払つた骨董が(うち)の土蔵にしまひ込んであるとなると、(ほか)沢山(どつさり)あるがらくた道具までが、そのお蔭で万更(まんざら)な物ぢや無からうといふので、自然()が出て来ようといふものぢやないか。」
と言つて笑つたといふ談話(はなし)だ。
 今の富豪(かねもち)が高い金を惜しまないで骨董品を集めるなかには、かうして狡い考へをするのが少くない。唯骨董品ばかりでは無い。一人娘に華族の次男を聾養子(むこやうし)にするなぞもそれだが、多くの揚合に骨董に贋物が多いやうに、餐養子にやくざ者が多いのはよくしたものだ。
 京都でさる知名の男が、自分の書斎を新築して立派に出来上つたが、さてその書斎の出来栄に調和するだけの額や軸物の持合せが少しも無い。買ひ集めるとなると、大枚の金が要る事だし、(いつ)贋物(がんぶつ)で辛抱したら、楮安に出来上るだらうと、懸額(かけがく)から、軸物、屏風、(とこ)の置物まで悉皆(すつかり)贋物(がんぶつ)で取揃へて、書斎の名まで贋物堂(がんぶつだう)と名づけて納まつてゐた。
 面白いのは、そこの主人が軸物よりも屏風よりも、もつと(ひど)贋物(がんぶっ)である事だ。ー京都の画家(ゑかき)贋物(いかもの)(こさ)へる事が(うま)いやうに、京都の女は贋物(いかもの)を産む事が上手だ。(いづ)れにしても立派な腕前である。



最終更新日 2006年03月05日 21時07分42秒

薄田泣菫「茶話」「フロツクコート」

フロツクコート
坪内逍遙博士は名高い洋服嫌ひで、洋服と言つてはフロツクコートが一着しか無い。そのフロツクコートといふのが、博士が大学を卒業した当時(こしら)へたもので、その後長年箪笥(たんす)の底に(しま)ひ込んで置いたが、博士になつた当座文部省へ出頭する時には、(ろやく)しくそれを着込んでゐた。
 息子の士行(しかう)氏が洋行から帰つて来た時、博士はぽんたの娘で士行氏と許嫁(いひなづけ)の養女国子さんと、(くだん)のフロツクコートを取り揃へて士行氏に呉れようとした。博士の心算(つもり)では息子は二つ返事でそのフロツクコートを()て、国子さんと結婚するものだと思つて居たのだ。それに何の無理があらう、二者(ふたつ)とも文字通りに箱入(はこいり)には相違なかつたのだから。
 士行氏は二者(ふたつ)とも気に入らなかつた。国子さんには什麼(どんな)に言つたか知らないが、フロツクコートを見た時には、急に歯痛(ぽいた)でも起きたやうに、泣き出しさうな顔をして頼んだ。
 「阿爺(おとう)さん後生ですから元々通り箪笥に蔵ひ込んで置いて下さい。(もし)()沙翁(セキスピヤ)物でも()る事があつたら、その折着させて戴きます。何しろ結構な仕立で、
何卒(どうか)樟脳をどつさり入れてね……」
 博上はイブセンの流行(はや)つた当時守り本尊の沙翁(セキスピヤ)をしまひ込んだと同じ程度の鄭重(ていちよう)さで、そのフロツクコートをまた箪笥に蔵ひ込んでしまつた。箪笥といふものは、博士の(うち)にあつても、俥夫(くるまや)(うち)にあつても感心な程腹の太いもので、亭主の秘密(ないしよ)も、女房の臍繰(へそくり)も、流行品も流行後れも同じやうに飲み込んで、ちつとも厭な顔を見せない。
 近頃そのフロツクコートを、博士の箪笥から引張り出さうと目論(もくろ)んでゐる者がある。それは無名会俳優の東儀鉄笛(とうぎてつてき)氏で、「()うするのだ」と訊くと、
 「度申訳だけに舞台で()て、あとは縫ひ返して子供の外套に仕立(したて)るんだ、型は古いが()()いんだからね。」
と虫のいゝ事を言つてゐる。



最終更新日 2006年03月05日 21時08分09秒

薄田泣菫「茶話」「独身元帥」

独身元帥
 キツチナー元帥が不意の横死を遂げたのは、同盟国の為に気の毒に堪へぬ。元帥はあの通りの武断主義者で、加之(おまけ)に独身主義者であつたから、随分敵も多かつたが、例の皮肉屋バアナアド・シヨウが『新聞切抜(プレツスカチング)』といふ一幕物で、元帥をモデルに扱つたのなぞは最も悪戯(いたづら)がひどい。
 キツチナー将軍が首相のアスキスと婦人選挙権と兵役強制法の事を論じてゐると、其処(そこ)へ婦人の訪問客(はうもんかく)が来て、将軍を調弄(からか)ふ。将軍が蟷螂(かまきり)のやうに(むつ)とした顔をして、
 「八度戦争(たびいくさ)に出て、生命懸(いのちが)けの働きをした者は自制の道を(わきま)へてゐますぞ。」
といふと、女は鸚鵡返(あうむがへ)しに、
 「八度産褥(たびさんじよく)で生命懸けの目に逢つた女は、ちつとやそつとの悪口(あくこう)は利きませんよ。」
と言つて、
 「もしか女が死んで()くなつたら、貴方(あなた)寝室(ベツド)へ往つて双児を産みますか。」
我鳴(がな)り散らすので、将軍は苦虫を噛み潰したやうな顔をする。
 「そんな事は医者に訊きなさい、私は赤面するばかりだ。」
 そこへ女子参政反対運動の婦人が二人訪れて来て、
 「男の手で女子参政論者を二(マイル)以外に放逐する事が出来なければ、女の私達が武器を取つて立ちます。」
と一人の婦人が短銃(ピストル)を取り出す。キツチナー将軍が武器を取上げるのは私の職務だといふと、今一人の婦人が十八世紀式の短銃(ピストル)を掴み出して、
 「これをもお()(あげ)ですか。」
と将軍の頭に突きつける。将軍は落付き払つて、
「それは武器ではない、好奇心(キユリオシチイ)です。私の頭に(あてが)ふよりも博物館に持つて往つた方が(よろ)しい。」
といふ。
 二人の婦人は短銃(ピストル)()り廻して、
 「婦人に選挙権などは要らない、その代り兵役に就かせて呉れ。男子を奴隷とするには、ビスマークの所謂(いはゆる)鉄と血とが必要だ。さういへばビスマークも屹度(きつと)男装してゐた婦人に相違ない。歴史上の英雄豪傑は悉皆婦人(みんなをんな)で世間体を胡麻化(ごまか)すために男装をしてゐたまでです。」
 ト"、将軍が以前の婦人へ結婚申込をすると、婦人は娘に相談の電話をかける。それを警察へと思ひ違へをした将軍が、
 「巡査にお引渡しは恐れ入る。私は本気なんです。」
逡巡(へどもど)する。「お(とし)は?」と婦人が訊くと、将軍が「五十二です」と答へる。すると娘の方から、
 「でも≦ぎ、。≦(フゥズフウ)には六十一歳とありますわ。」
といふので将軍が赤面をする滑稽などもある。
 そのキツチナーも六十五歳、独身の(まし)死んでしまつた。「独身」は女に好かれるものだが、それが主義となると打つて変つて女に嫌はれる。女は(いぬ)のやうなもので余り好かれても五月蠅(うるさ)くて迷惑するが、嫌はれても一寸困る。彼等は吠えつく(すべ)を知つてゐるから。



最終更新日 2006年03月05日 21時09分16秒

薄田泣菫「茶話」「親といふもの」

親といふもの
 奥繁三郎(しげさぶらう)氏の母親(おふくろ)は九十近くの老齢(とし)で、今だに達者でゐるが、孝行者の奥氏は東京へでも旅をする時には、
一番に母親(おふくろ)へ挨拶に()く事を忘れない。すると母親(おふくろ)は、(きま)つたやうにいふ。
 「東京へお()きやす言うて、(だれ)ぞお(つれ)でもおすのかいな。」
 「いゝえ、私一人です。」
 「あんた一人で東京までようお()きやすか。」と母親(おふくろ)はもう涙を一杯眼に浮べて「(しげ)可憫(かはい)さうに、お(つれ)(ちつ)とも出来(でけ)よらんのかいなあ。」とそつと溜息をする。
 奥氏はどんな旅行をするにも、母親(おふくろ)の前では屹度(きつと)
 「一週間旅へ往つて来ます」
といふ。するとその翌日(あくるひ)から母親(おふくろ)はもう、
 「繁はまだ帰つて来やはらんかいな。」と訊くので、
 「まだ昨日(きのふ)()ちやしたのやおへんか。」といふと、
 「さうかいな、もう一週間も経つたやうに思へるさかい。」
と、其辺(そこら)を捜しでもするやうにうろ/\する。
 親といふものは有難いもので、神様が人間を罪人扱ひにするのに比べて、親はいつ迄もその子を子供扱ひにする。親が神様になつては可けないやうに、神様も親になつては可けないが、親には神様が真似の出来ない長所がある。それは子供の為には「馬鹿」になるといふ事で、神様より人間の偉い(とこ)(たしか)にこ\にある。丁度「愚痴」を持つてゐる女が、それを持合はさない男より強いやうなものだ。



最終更新日 2006年03月05日 21時10分23秒

薄田泣菫「茶話」「宮川(みやがは)氏の雄弁」

宮川(みやがは)氏の雄弁
 亡くなつた足立通衛(みちゑ)氏の告別式が大阪青年会館で行はれた時、弔演(とむらひ)説をした宮川経輝(つねてる)氏は、霊魂(たましひ)の一手販売人のやうな口風(くちぶり)で、名代(なだい)の雄弁を(ふる)つて、警察が干渉でもしなければ一日でも喋舌(しやべ)り続けようとする意気込(いきごみ)を見せた、、
 宮川氏の説によると、足立氏は高知生れだけに武士魂を持合せてゐたが、同志社で基督魂を、紐育(ニユさヨヨク)で亜米利加魂を一つ(づつ)買ひ込んだので、紳士として申分(まをしぶん)のない男になつたのださうだ。
 宮川氏の説によると、かうした結構な魂を三つ迄持合せた紳士は、いつ亡くなつても構はないのださうだが、さも無い男は死ぬ前に、こんな魂を仕込まなければならないの下、、牛乳でも飲んで健康に注意しなければならない事になる。
 雄弁もい丶が、時によると飛んだ失策(しくじり)をする事がある。ーーチエホフの短篇に『雄弁家』といふのがある。お喋舌(しやべり)の好きな男で、どんな腹の()いた時でも追悼演説を頼まれると、直ぐ出掛けて往つて、宮川氏のやうに悲しさうな(ことば)を料理場の油虫よりも沢山並べ立てて呉れる。
 ある時八等書記が()くなつたので、(くるま)代をはずむで貰つて、告別式の演説に出掛けて往つた。(いつも)の通り立板に水の弁舌で故人を褒め立ててゐると聴衆は変な顔をし出した。
 それは無理もない、亡くなつた男は一生涯細君と戦争を続けて来たのに、弁士は独身者(どくしんもの)のやうに言つてゐる。また亡者は濃い赤鬚(あかひげ)を一生剃らなかつたのに、弁士はいつも顔を縞麗に剃つてゐたやうに言つてゐる。そのうち弁士も気が()いてみると、向ふの墓石(はかいし)(そば)に、死んだ筈の書記が立つてゐるではないか。
 「あ、亡者が生きてゐる。」
と叫んで、そつと司会者に訊くと、弁士が弔演説をしてゐる男は、今は課長に昇進して、亡くなつた男がその後釜(あとがま)(すわ)つてゐたのを雄弁家がつい早飲込みにその男だと穿違(はきちが)へて(しま)つたのだ。(かへ)(みち)(くだん)の課長は何故俺を死人扱ひにして加之(おまけ)に顔の棚卸しまでしたと言つて、雄弁家に喧嘩を吹き掛けたさうだ。
 宮川氏が弔演説をした足立氏は、実際死んでゐたのだから差支(さしつかへ)なかつたが、生きて居たらそんなに結構な魂なら三つとも買ひ取つて呉れと、宮川氏に押談判(おしだんばん)をしたかも知れない。



最終更新日 2006年03月07日 00時15分09秒

薄田泣菫「茶話」「臭い果物」

臭い果物
 馬来(マレイ)半島にヅリヤンといふ果物のある事は、一度でも船で那処(あすこ)を通つた事のある人は皆知つてゐる筈だ。素敵に美味(うま)い上に、素敵に臭味(くさみ)をもつてゐる果物で、一度でもあの臭味を嗅いだが最期、一生懸つたつて、それが忘れられる物ではない。
 だが、()べ馴れて来ると、そんな臭味でさへ(たま)らなく懐しくなつて来るさうで、ヅリヤンが市揚に出盛る頃には、女郎屋町(ぢよろやまち)でさへが不景気になるといふ事だ。美味(うま)い果物を鱈腹(たらふく)食つて女買(をんなかひ)をしたところで、それを(やかま)しくいふ印度の神様でもないが、ヅリヤンが余り美味いのでつい財布の底を叩くやうな始末になるのだ。
 独逸軍の毒瓦斯(どくガス)に対して、ヅリヤンを砲弾代りに使つたらと聯合軍(れんがふぐん)に勧めた者がある。命中(あた)つたが最期殻の刺毛(とげ)人間(ひと)の五六人は殺せるし、命中(あた)らなかつた所で、(うま)(はじ)けさへすれば激しい臭味でもつて一大隊位の兵士を窒息させるのは朝飯前だといふのだ。
 土人達の習慣によると、ヅリヤンを盗んだ者は重く罰せられるが()れて自然(ひとりで)に落ちたのを拾つた者は、飛んだ幸福者(しあはせもの)として羨まれるさうで、気の長い土人達は、ヅリヤンの鈴生(すどなり)()つた木蔭で、朝つぱらから煙管(きせる)(くは)へて一日(じつ)と待ち通しに待つてゐるさうだ。巧く落ちたのを拾ふ事が出来れば、美味い果物にありつけるし、落ちて来なかつた(ところ)で少しの損もない。そんな時には(をらま)つたやうに昼寝をする事を知ってゐるから。
 だが、待つてさへ居れば果物は大抵落ちて来るもので、支那では衰世凱(ゑんせいがい)が落ちた。英国ではキッチナーが落ちた。袁世凱はヅリヤンの味を持たないで、その臭味だけを持つてゐた。キツチナーは味も臭味も無いが、刺毛(とげ)だけは鋭い。



最終更新日 2006年03月07日 00時15分34秒

薄田泣菫「茶話」「(すゞり)と殿様」

(すゞり)と殿様
 犬養木堂(もくだう)の硯の話は、あの人の外交談や政治談よりはずつと有益だ。その硯については面白い話がある。徳川の末期に鶴笑(くわくせう)道人といふ印刻家があつた。硯の()いのを沢山持ち合せてゐたが、その一つに蓋に大雅堂(たいがだう)の筆で「天然研」と書いたのがあつた。阿波の殿様がそれを見て、自分の秘蔵の(すどり)七枚までも出すから、取り替ては呉れまいかとの談話(はなし)があつたが、鶴笑はなかく(うん)とは言はなかつた。
 呉れぬ物が猶ほ欲しくなるのは、殿様や子供の持つて生れた性分で、阿波の殿様は、望みとあらば何でも呉れてやらうから、(たつ)て「天然研」を譲つて貰ひたいと執念(しふね)く持ちかけて来た。鶴笑は一寸顔を癩卑(しか)めた。
 「ぢや仕方が無い、阿波の国半分だけ戴く事にしませう。」
と切り出した。鶴笑の積りではそれでも大分見切つた上の申出(まをしで)らしかつた。何故といつて阿波の国は半分()いた処で、別段差支(さしつかへ)もなかつたが、硯だけは半分に割つては()うする事も出来なかつた。あの内閣や政党を(こは)す事の大好きな木堂ですら「(ほう)」とやらを見るためには、硝酸銀で硯を焼かなければならぬ、そんな勿体ない事が出来るものぢやないといつてゐる位だから。
 だが勘定高い殿様はそれを聞くと、
 「仕方がない、この硯と鳴門の瀬戸は(わし)の力にも及ばぬものと見えるて。」
と、溜息を()いてあきらめた。殿様がこの揚合鳴門の瀬戸を思ひ出したのは賢い方法で、人間(ひと)の力で自由にならないものは沢山(どつさり)あるのだから、その中からどんな物を引合ひに出さうと自分の勝手である。かうして絶念(あきらめ)がつけばそんな廉価な事は無い筈だ。



最終更新日 2006年03月07日 00時15分53秒

薄田泣菫「茶話」「()の鑑定」

()の鑑定
 或人が海北友松(かいほういうしよう)の画を田能村竹田(たのむらちくでん)に見せた事がある。
 「中井履軒さんの鑑定書(かんていがき)がついてゐるさかい、正真物(ほんもの)に相違おまへんて。」
といふ自慢なのだ。竹田がその鑑定書(かんていがき)を見ると、
 「海北の画驚目候(めをおどろかしそろ)、相違はあるまじく存候(ぞんじそろ)。さりながら素人の目と医者と土蔵とは真実あてにならぬ物と聞及(きゝおよ)(そろ)。」
と嵜官いてあつたさうだ。
 富岡鉄斎の画を持合せてゐる男が鉄斎の画には随分贋造(にせ)が多いと聞いて、鑑定書(かんていがき)を添へて置いたら、売物に出す時に便利だらうと思つて、子息(むすこ)の謙蔵さんの(もと)にそれを持ち込んだ事があつた。謙蔵さんは鼻眼鏡を掛けてゐる。大学の構内に転がつてゐる物は、蜥蜴(とかげ)交尾(つる)んだのでも鄭重に眼鏡を通して見るが、大学以外の物はみんな眼鏡越しに見る事に()めてゐる。その折も眼鏡越しにじろりと画を見てゐたが、ちょつと舌打をしたと思ふと、
 「真赤の贋物(にせもの)でさ。」
と吐き出すやうに言つた。
 画の持主は吃驚(びつくり)した。
 「でも君、いつだつたか君の居る前で鉄斎翁に画いて頂いたんぢや無いか。それをそんな……」
 「それをそんな……」とは言つたが絶念(あきらめ)のいゝ人だつたからその(まゝ)持つて帰つて、押入に突込んでしまつた。
 画を逆さまに掛けて置いてそれが逆さまだと判るやうだつたら、()う一(かど)の鑑定家といつて()い。その上の心得は余り画を愛しないといふ事だ。



最終更新日 2006年03月07日 00時16分18秒

薄田泣菫「茶話」「「富士山の如く」」

「富士山の如く」
 北米の文豪マアク・トエインが、何時だつたか、墺太利(オさストリさ)皇帝フランツ・ヨセフに謁見(えつけん)した事があつた。その折或る新聞記者がトエインを訪ねて謁見の模様を訊くと、皮肉屋のトエインはにやく笑つて、
 「さればさ、お目に懸つたら急様(こんな)に申上げようと思つて、十八語ばかりで立派な御挨拶を(こしら)へて御殿に(あが)つてみると皇帝は非常に鄭重なお言葉で色々御物語があるぢやないか、お蔭で十八語の用意はすつかり役に立たなくなつて、つい(いつも)のお喋舌(しやべり)をして退()けた。なにその十八語は()う言ふのだつて? そんな事を今迄記憶えて居て溜るものかい。」
と言つたさうだ。
 タゴールも日本へ渡る迄には、日本人に会つたらこんな事も言はうと、腹のなかで十八語ばかりの立派な挨拶を持合はせてゐるらしかつた。日本の土を踏んで、数々の日本人に会つてゐるうちについその取つて置きの挨拶は何処かへ落して(しま)つたらしい。そして日本人の会合へ出ると、何時でも、
 「富士の山のやうにあれ。」
と云ふ事に()めてゐるらしい。
 富士の山は御覧の通り結構な山だ。結構な山には相違ないが、
 「富士の山のやうにあれ。」
と言ふのは「阿父(おやぢ)のやうにあれ」とか「阿母(おふくろ)のやうにあれ」とか言ふのとは違つて、少しぼんやりし過ぎてゐる。そのぽんやりし過ぎた事を言つたのはタゴールの賢い所以(ゆゑん)で、彼は日本の阿父(おやぢ)阿母(おふくろ)が余り理想的で無い事をよく知つてゐるのだ。



最終更新日 2006年03月07日 00時17分07秒

薄田泣菫「茶話」「小山県(せうやまがた)の洒落」

小山県(せうやまがた)の洒落
山県伊三郎氏が先日(こなひだ)朝鮮へ帰りがけに、関門の山陽ホテルに泊つた。その折訪ねて往つた男が何気なく、
 「噂を聞きますと、この頃椿山荘をお売りになつたさうですね。お幾らでした。」
と訊いてみた。
 すると、伊三郎氏は丁度口に頬張つてゐたチヨコレートをぐつと鵜飲みにして、
 「そんなに(ひと)懐中(ふところ)勘定を訊くのは、初めて結婚した男に、
 『おい、()うだつたい、花嫁さんの……』
と訊くやうなものぢやないか。誰が真面目に返辞するものか。」
と言つて、薬を飲まされる家鴨(あひる)のやうに、しつかり口を(つぐ)んだが、物の三十分も経つたと思ふ頃、急に(はじ)けるやうに笑ひ出した。そして両手で腹を抱へて可笑(をか)しさに溜らぬやうに肩を(ゆす)ぶつてゐたが、(しま)ひには眼頭(めがしら)に涙を一杯溜めて椅子の上を転げ廻つた。その恰好を一目でも(しうと)の山県公に見せたら、顔を(しか)めて、椿山荘と一緒に養子の株をも売りに出したかも知れなかつた程だ。
 お客は吃驚(びつくり)した。
 「何をそんなにお笑ひになりますか、閣下(フち)……」
 平素(ふだん)は「山県さん」とか、「伊三(いさ)はん」とか言ふ事に()めてゐるが、「閣下(ち )」と言つて相手が健康体に恢復するものなら、これに越した事は無からうと思つたのだ。このお客は一度間違つて、懸りつけの医者に「閣下(フち)」と一(こと)いつた(だけ)で、そのお医者から薬代を無代(ただ)にして貰つた事があるので、それ以来まさかの時には、(いつ)も「閣下(ちち)」を使ふ事に決めてゐる。
 伊三はん閣下は、(ょこ)(ばら)を押へた(まゝ)、苦しさうな声で、
 「何つて君、今の洒落さ。洒落が解らなかつたのかい。」
と言つて、また一(しき)り可笑しさうに笑ひ崩れた。
 お客は安心した。伊三はんは自分で自分が言つた酒落に感心して笑つてゐるのだ。
 「手数(てすう)の懸らない人だな、養子には打つてつけさ。」と独語(ひとりごと)を言つて帰つて来た。そのお客は新聞記者だつたから、山県氏は待設(まちまう)けたやうに翌日(あくるひ)の新聞をしこたま買込んで連絡船に乗込んだといふ。



最終更新日 2006年03月07日 00時18分28秒

薄田泣菫「茶話」「古松研(こしようげん)

古松研(こしようげん)
 先日(こなひだ)硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある。藩の家老職に河合寸翁(かはひすんをう)といふ男があつて、頼山陽と硯とが大好きなので聞えてゐた。
 頼山陽を硯に比べたら、あの通りの慷慨家(かうがいか)だけに、ぷり/\(おこ)り出すかも知れないが、実際の事を言ふと、河合寸翁は山陽よりもまだ硯の方が好きだつたらしい。珍しい硯を百面以上も集めて、百硯箪笥(けんたんす)といつて凝つた箪笥に(しま)ひ込んで女房や鼠などは滅多に其処(そこ)へ寄せ付けなかつた。
 同じ藩に松平太夫(たいふ)といふ幕府の御附家老があつて、これはまた「古松研」といふ紫石端渓の素晴しい名硯を持合せてゐた。何でもこの硯一つで河合家の百硯に対抗するといふ代物(しろもの)で、山陽の()めちぎつた箱書(はこがき)さへ()はつてゐるので、硯好きの河合はいゝ機会(をり)があつたら、何でも自分の方に()き上げたいものだと、始終神様に願掛(ぐわんかけ)をしてゐたといふ事だ。
 ある日河合と松平とは(いつも)のやうに碁を打つてゐた。河合は(わざ)と一二番負けて置いて、それからそろく、
 「()うも今日は(いや)(まけ)が込む。こんな日には賭碁(かけご)でもしたら気が引立つかも知れない。()うだい、貴公には古松研、拙者には沈南蘋(しんなんぴん)の名画があるが、あれを一つ賭けてみようぢやないか。」
と切り出してみた。
 松平は二つ返事で承知をした。
 「お気の毒だが、沈南蘋は拙者が頂くかな。」
などと戯談(ぜうだん)を言ひ言ひ、また打ち始めたが、かね/゛\お賓銭(さいせん)を貰つてゐる氏神様のお力で、河合は手もなく松平を負かして、名高い「古松研」は到頭河合の手に渡つて了つた。
 維新後河合家の名硯は、それぐ百硯箪笥から飛ぴ出して知らぬ人に買ひ取られて往つた。当地の八田氏の売立会に出てゐた「金星銀糸硯」なども、その一つだが、例の「古松研」は今は神戸の某実業家の手に入つて、細君以上に可愛(かあい)がられてゐるといふことだ。



最終更新日 2006年03月07日 00時19分00秒

薄田泣菫「茶話」「芸妓(げいしや)の心得」

芸妓(げいしや)の心得
 新橋の老妓(らうぎ)桃太郎がその往時(むかし)雛妓(おしやく)として初めて座敷へ突き出された時、所謂(ねえ)さんなる者から、仮にも(をんな)の忘るまじき三箇条の心得を説き聞かされた。
 三箇条といふのは、第一、お客の(わる)てんがうに腹を立てぬ事。第二、晴衣(はれぎ)の汚れを気にしない事。第三、七里けつぱいお客に惚れない事、万一惚れねばならぬ時は、成るべくよぽ/\の老人(としより)を見立てる事。
 桃太郎はこの三箇条の心得を、ちやんと頭に畳み込んでお座敷に出た。桃太郎はその頃まだ男よりもチヨコレエトの方が好きな年頃だつたので、お座敷で客に惚れる程の冒険はしなかつた。よしんば什麼(どんな)冒険好きな女でも、チョコレエトの代りに男に惚れるやうな心得違(こゝろえちがひ)はしない筈だ。女といふものは、十人が十人、先づチヨコレエトを()べて、それから(そろく)々男に惚れるものなのだ。
 だが、桃太郎はあとの二箇条には、お座敷へ出る早早、ぶつ()かつた。その時のお客は、若い医者で、どんな医者にも共通な自惚(うぬ れ)だけはたつぷり持合せてゐた。で、耳を噛んだり、鼻先を押へたり、色々な(ふざ)けた(ふり)をして桃太郎に調弄(からか)つた。
 桃太郎はてんで頓着しなかつた。それが(しやく)に触ると言つて、お客は桃太郎の頭から熱燗(あつかん)の酒をぶつ掛けた。酒は肩から膝一面に流れた。(あか)長襦袢(ながじゆばん)の色は透綾(すきや)の表にまで()(と )つて来たが、桃太郎は眉毛一つ動かさうとしなかつた。
 姐さんはそれを聞いて、大喜びに喜んで、代りの晴着を(こしら)へて呉れた。お客は(ゑひ)から()めて、真青な顔をして謝りに来た。(さじ)加減や見立違ひで人を殺しておいて詫言(わびごと)一つ言つた事のない医者にとつて、謝りに来るのは、魂を嘔吐(はきだ)すよりも苦しかつたに相違ない。



最終更新日 2006年03月07日 00時19分20秒

薄田泣菫「茶話」「馬車の葬式」

馬車の葬式
 巴里(パリ )の辻々にある円太郎馬車が()められて、自動車が代るやうになつた時、その会社員を始め、乗りつけのお客さん達が、サン・シユルピイスのお寺で乗合馬車の葬式を()つた事があつた。
 旧教の坊さんが勿体ぶつて聖書を朗読すると、会葬者は声を合せて「アーメン」と唱へた。悧巧な耶蘇だつて、まさか乗合馬車のお(とむら)ひまでしようとは思はなかつたらうから、それに相応した文句は残さなかつたらうが、巴里の坊さんは別に引導には困らなかつたらしい。何故といつて、聖書で見ると、どんな人間(ひと)だつて乗合馬車位の「罪」は、各自(てんで)にみんな背負(しよ)つてるのだから。
 式が済むと、円太郎馬車は送られて火葬揚(くわさうぢやう)へ往つた。二里余りの道中を絹帽(シルクハット)(かむ)つた会葬者はぞろぞろと続いた。路傍(みちばた)の見物人は、(まる)で名士の葬式にでも出会つたやうに、克明に帽子を脱いでお辞儀をしたといふ事だ。
 日本では往時(むかし)から文塚(ふみづか)、筆塚、針塚といつたやうなものもあるが、東京新聞の漫画家が寄集まつて、島田三郎氏の漫画葬式をやつたのは面白い企てであつた。大阪のやうな土地柄では名妓の落籍(ひか)される揚合などには、以前の関係筋が寄つて(たか)つて葬式をするのも面白からう。坊さんには矯風会の林歌子女史など打つて附けの尼さんだらう。あの人はお説教を聞かないでも顔だけ見れば悲しくなりさうだから。



最終更新日 2006年03月07日 00時19分45秒

薄田泣菫「茶話」「与里(より)氏の香油(かうゆ)

与里(より)氏の香油(かうゆ)
 画家(ゑかき)といふものは、言ひ合はしたやうに、()を覚える前に、屹度(きっと)酒の味を覚えるものだ。なかには生涯画の道が解らないで済ます癖に、酒だけは一人前になり切つてゐるのがある。
 そのなかに洋画家の斎藤与里氏だけは不思議に酒の味を知らない。先日(こなひだ)氏の(とこ)へ或人から一瓶の進物(しんもつ)を贈つて来た。丁度与里氏はその折頭の事を考へてゐたので(画家だつて、頭の事を考へてはならないといふ法は無い。彼等も世間並に頭を一つ持つてゐるのだから)、てつきりこれは頭髪(あたま)に塗る香油だと思つてしまつた。
 成程頭髪(あたま)に塗つてみるとすつとして気持が()い。だが香気(にほひ)だけは余り感心しなかつたので、よく調べてみると、上等のウイスキイだつたさうだ。
 ある名高い日本画家が巴里(バリ )に居た折の事、何処へ()く折にも、人目に立たないやうに屹度一壜提(びんさ)げてゐる。何の壜だと訊いてみても、にやく笑ふばかりで一向それと打明けない。或時痂琲店(カフエ )で落合つた悪戯(いたづら)な友達の一人が、打明けなければかうすると言つて、首を()めにかゝると、(くだん)の日本画家は川向ふの天主教の尼さんに(きこ)えないやうに低声(こごゑ)加之(おまけ)に京都(なまり)で、
 「ぢや言ひまひよ。これ淫薬どつせ。」
と白状した。
 友達は眼の色を変へて、その瓶を()手繰(たく)つた。そして一字づつ克明に壜の文字を読んでゐたが暫くすると、
 「成程さうだ、まあ大事に(しま)つておいて、ちびり/\飲むんだな。」
と言つて、笑ひ笑ひ壜を返した。壜は安物のシヤンペン酒だつた。



最終更新日 2006年03月07日 00時20分13秒

薄田泣菫「茶話」「寒山の忰れ」

寒山の忰れ
 京都大学の構内は博士も通れば土方も通る。博士は右のポケツトには葉巻(シガア)を、左のポケツトには「真理」を入れてゐる。だが、いつの時代でも大学は葉巻(シガア)の製造所で無いと同じやうに、「真理」のエ場でも無いから、ポケツトの葉巻(シガア)も、「真理」も博士達の手製でない事だけは争へない。土方はそんな物の代りに弁当を()げてゐる。弁当は言ふ迄もなく手製である。
 その博士や土方に(まじ)つて毎朝大学の構内を通る十歳許(とをばか)りの子供がある。子供に似気(にげ)なくいつも歩きながらも書物(ほん)を読んでゐるので、よくそれを見掛(みかけ)る男が、
 「ちやんとした身装(みなり)をしてゐて、可憫(かはい)さうに貧乏人の二宮金次郎の真似でもあるまい。」
と心配した事があつた。
 その子供が先日(こなひだ)学校で貰つた賞品を抱へて、(いつも)のやうに大学の構内を通りかゝつた。すると、擦違(すれちが)つた大学生の一人が、
 「やあ褒美を貰つたな。一寸僕にも見せろ。」
とそれを(のぞ)きにかゝつた。その大学生は幼稚園この(かた)まだ褒美といふものを貰つた事が無かつたので、(ひど)くそれが珍しかつたのだ。
 子供は一寸小脇にそれを隠した。
 「無代(たぜ)ぢや見せないや、こ丶に書いてある僕の名を読んだら見せる。」
 「生意気な小僧だな、どれ/\。」
と言つて大学生は名前を見た。名前には「尋常科二年生内藤戊申」と書いてあつた。
 「内藤ボシンぢやないか、さあく褒美を見せろ。」
 「ボシンぢや無いや。」
 「ぢやイヌサルか。」
 「馬鹿やなあ、シゲノブと読むんや。」と子供は一散に走り出した。「え\(とし)してよう読みをらん、あほんだらめ。」
 大学生は(くや)しがつて、何家(どこ)の子供か知らと(たづ)ねてみると、文科大学の内藤湖南博士が秘蔵(ひぞ)()だつたさうだ。
 「道理で、寒山拾得(じつとく)のやうな顔をしてたつけ。それにしても変てこな名をつけたものだなあ」
と、無学な大学生はその後も(しきり)とそれを気にしてゐる。



最終更新日 2006年03月07日 00時21分13秒

薄田泣菫「茶話」「玄関」

玄関
 そのむかし池大雅が真葛原(まくずがはら)住居(すまゐ)には、別に玄関といつて(へや)も無かつたので、軒先(のきさき)暖簾(のれん)(つる)して、例の大雅一流の達者な字で「玄関」と書いてあつたさうだ。上田秋成が南禅寺常林庵の小家(こいへ)にも、()(くち)に暖簾をかけて「鶉屋(うづらや)」とたつた二字が(したゝ)めてあつたといふ事だ。
 ()(もの)金龍道(きんりゆう)人は自分の戸口(とぐち)に洒落た一(れん)(かけ)ておいた。聯の文句はかういふのだ。
 「貧乏なり、乞食物貰ひ()()からず」
 「文盲(もんまう)なり、詩人墨客来(ぼくかくきた)る可からず」
 乞食物貰ひも五月螂(うるさ)くない事もないが、それでも詩人墨客よりはまだ(まし)な揚合が多かつた。何故といつて、乞食は物を呉れて()れば、素直に帰つて()くが、詩人墨客は自分が納得出来るまで「知つたかぶり」を押売しないでは滅多に帰らなかつたから。
 小説家の正宗白鳥氏は(ひと)(うち)出入(ではいり)をするのに、がらりと入口(いりくち)()()けはするが、その手で滅多に閉めた事は無い。(もつと)もこれには主義のある事で、自分が出入(ではいり)するのに()は是非開けなければならぬが、それを閉めて置かなければならぬ何等の理由も発見出来ないからださうだ。かういふ来客に取つては、大雅や秋成のやうな暖簾の玄関は手数(てかず)が要らないで()い。
 玄関に(いぬ)(つな)いでゐる(うち)、九官鳥を飼つてゐる(うち)(むさ)くるしい書生を飼つてゐる(うち)、猫がぞろく這ひ出して来る(うち)ーそんな(うち)へは添書(てんしよ)をつけて悪魔でも送つてやり度くなる。



最終更新日 2006年03月07日 00時21分43秒

薄田泣菫「茶話」「景年翁と商人」

景年翁と商人
 東京の絵画商人の(なにがし)が、京都で展覧会を開くために、今尾景年氏の(とこ)へ、半切(はんせつ)揮毫(きがう)を頼みに出掛けた。(たか)が半切だと聞いて、画家は会はうともしたい。
 「先生はお忙しうおすさかい、なかくお出来(でけ)になりまへんぜ。」
と玄関番は(しきゐ)に突立つた(まし)欠伸(あくび)をしい/\言つた。玄関番といふものは、主人が奥で欠伸をする時分には、自分込(ぎま)つてそれをするものだ。
 商人(あきんど)は四条派の画家(ゑかき)によく金を欲しがる持病があるのを知つてゐるから、
 「それでは伺つた印に潤筆料だけ承はつて参りませう。」
と言つた。玄関番は商人(あきんど)の前に片手を拡げてみせた。
 「半切一枚五十円どつせ。」
 商人(あきんど)懐中(ふところ)から財布を取り出した。
 「それではこゝに五十円差上げて置きますから、お気に向いた時に一枚御揮毫を願つておきます。」
 玄関番はそれを見ると、急ににこにこし出した。
 「そんなら()一度頼んで来まつさ。なに理由(わけ)を話したら先生の事やさかい、半切の一枚や二枚ちよつくらちょつと書いて呉りやはりますやろ。」
 さういつて奥へ隠れたと思ふと、玄関番はまた表へ飛び出して来た。
 「唯今先生がお会ひになりますさかい、まあ何卒(どうぞ)お上り……」
 今度は商人(あきんど)が承知しなかつた。
 「折角ですが、私は絵をお頼みに上りましたんで、先生にお目に懸りに来たのではありませんから。」
と言つて、その(まゝ)すたくと帰つてしまつた。
 流石に商人(あきうど)は目が敏捷(はや)かつた。絵は売る為めに註文したので、画家(ゑかき)に会つた為に売値を崩すやうな事があつても詰らなかつた。実際画家(ゑかき)のなかには、その人に会つたが為めに、折角()いて貰つた錦鶏鳥(きんけいてう)()までが厭になるやうな人も少くなかつた。
 「先生はお忙しうおすさかい……」
 先生がお忙しいのは、先生自身に取つても、お客に取つても勿怪(もつけ)幸福(さいはひ)であつた。執方(どつち)も損をしないで済む事なのだから。



最終更新日 2006年03月07日 00時23分04秒

薄田泣菫「茶話」「英雄の觸髏(しやれかうべ)

英雄の觸髏(しやれかうべ)
 清教徒の英雄オリヴア・クロムヱルの觸髏(しやれかうべ)はオツクスフオード大学の図書館に珍蔵せられて、世界に名高いものだが、その後メエラント附近の牧師ヰルキンソンが発見したものが一つ、今倫敦(ロンドン)の考古学博物館に納まつてゐる。つまり頭をたつた一つしか()たなかつた英雄に、觸髏(どくろ)が二つ出た事になるのだ。
 政治家や実業家の仲間には、「良心」を幾つも持つて、それを自慢にしてゐるのがある。その事を思ふと、クロムヱルの觸髏(しやれかうべ)が二つ出たところで格別差支(さしつかヘ)はない。(あるひ)はもつと捜したら、もつと出るかも知れない。
 山科(やましな)上醍醐(かみだいご)寺の宝蔵に「平中将将門(へいちゆうじやうまさかど)」の觸髏(しやれかうべ)がある。桐の二重箱に入れて、大切に(しま)つてある。将門が醍醐の開基理源大師の法力(ほふりき)(いまし)められ、(さら)(くび)に遭つたのを残念がつて、首が空を飛んで来たの
を拾つたのだといふが、事に依つたら、大師が申請(まをしう)けたのかも知れない。
 ある夏醍醐に遊んでゐると、その頃の京都府知事大森(しよう)一氏が山へ(のぼ)つて来た。山の坊さん連は知事に何を見せたものだらうかと色々詮議の末が、
 「宋版の一切経(さいきやう)山楽(さんらく)の屏風を見せたところで、解りさうにもなし、やつぱり将門の觸髏(しやれかうへ)を見せるに限る。あれならばまさか貰つて帰るとも言ふまいから。」
と言ふので、宝蔵から例の觸髏(しやれかうべ)を出して見せた。
 大森氏はためつすがめつ觸髏(しやれかうべ)を見てゐた。(ちやう)梅雨(つゆ)時分の事で、觸髏(しやれかうべ)からは官吏や会社の重役の古手(ふるて)から出るやうな黴臭(かびくさ)香気(にほひ)がぷんとした。
 「成程よくは判らないが、矢張(やつばり)将門の(こつ)らしいな。こゝに叛骨(はんこつ)が出てる工合から見ると……」
 暫く経つてから、知事は(くすぐ)つたさうな顔をして言つた。
 「へえ……叛骨と申しますと……」
 坊さんが安つぽさうな頭を突き出した。
 「ここさ。こゝの骨さ、叛骨といふのは……」大森氏は扇の端で一寸觸髏(しやれかうべ)後部(うしろ)(つよ)ついた。「むかし(しょく)曹操(フち)関羽(フち)の頭を見て、此奴(こいつ)は叛骨が飛ぴ出しているから叛反(む ん)をすると言つた……」
 「へえ、その(かた)矢張(やつば)叛反(むほん)をおしやした。争はれんもんどすなあ。」
と坊さんは感心したやうに頸窩(ぼんのくぼ)へ手をやつた。
 見ると、大森氏の頭にも、安つぽい坊さんの頭にも、それらしい骨が一寸飛ぴ出してゐた。なに、飛び出してゐたつて心配するが物はない。叛反(むほん)にも色々ある。男爵になりたいのも、金持の檀家が欲しいのも、実際叛反(むほん)には相違ないのだから。



最終更新日 2006年03月07日 00時23分27秒

薄田泣菫「茶話」「健忘症」

健忘症
 先日(こなひだ)神戸高商の小川忠蔵、小久保定之助(ていのすけ)の両氏が、英語専攻の学生に()ばれた返礼を、安上りだといつてカフエエ・オリエントでする事になつた。
 饗ばれる学生は多勢(おほぜい)だし、饗ぶのは(たつた)二人だしするから、蜘琲屋(カフエ )位で済ます事に()めたのは、流石に頭脳明晰であるが、さて肝腎の生徒にそれを伝へる段になると、急に頭が変になつて、
 「おい、間違つちや可かんぞ、会揚はカフエェ・パウリスタだから。い\かえ。」
と駄目まで押してしまつた。
 その日は小久保氏に誘はれて、小川氏は雨の降る(なか)をカフエエ・オリエントに着いた。そして二人は円卓(テ ブル)を差向ひに煙草を(ふか)しながら、細君や丸善や(のみ)の話をしてゐた。「細君」と「丸善」とは学校教員が住むでる世界の二大人格だが、蚤は咋夜(ゆうべ)二人ともそれに()されて、とうと寝付かれなかつたからだ。
 談話(はなし)の種は切れたが、お客は唯の一人入つて来ない。
 「()うしたのだらう、厭に落付いてる。」
(ぼや)いた瞬間、小川氏の頭に「パウリスタ」の名がぽんやり浮び出して来た。
 パウリスタヘ集まつた学生達はいつ迄待つても主人役の二人が見えないので、(ごふ)を煮やしてぶつぶつ(ぼや)いてゐる処へ、幽霊のやうに小川氏が入つて来た。
 「君達は何だつて、こんな処へ(たか)つてるんだ、蝿のやうに。御馳走が彼方(あつち)待惚(まちぼ)けてるぢやないか。」
 「彼方(あつち)て何処です。」
 「判つてるぢやないか。パゥリスタだよ。」
 神戸高商にはこんな人達が多いと見えて、或教授は歯医者へ行く途中、咽喉(のど)が乾いて仕方がないので(学校教員だとて咽喉の(かわ)かぬといふ法はない)痂琲店(カフエ )へ飛ぴ込んで、立続(たてつオ)けに紅茶を二杯飲んだ。
 そして代価を払つて立上ると、
 「さあ、もう用事は済んだぞ。」
とその(まゝ)今下りた(ばか)しの電車の停留場へ来ると、忘れられた奥歯が急にづきく痛み出したので、
 「さうだ、俺は歯医者へ()く筈だつたんだ。」
と慌てて歯医者へ駆けつけたさうだ。
 蜘琲店(カフエ )や歯医者を忘れる分には差支(さしつかへ)ないが、細君と丸善とだけは何時迄も覚えてゐて貰ひたい。彼等は学校教師にとつての二大人格だから。そして(つい)でに蚤もまた。蚤を忘れると、夜分寝付かれないから。



最終更新日 2006年03月07日 00時24分18秒

薄田泣菫「茶話」「口は調法」

口は調法
英詩人野口米次郎氏の頭の天辺(てつぺん)(はや)くから馬鈴薯(じやがいも)のやうな生地(きぢ)を出しかけてゐた。氏は無気味さうに一寸それに触つてみて、
 「これは帽子を(かぶ)りつけてゐるからさ。つまり一種の文明病だな。」
と言ひ/\してゐた。
 サミユエル・ジヨンソンは自分の英辞書で「大麦(オホト)」という(ことば)の下に、
 「英蘭(イングランド)では馬の餌。蘇格蘭(スコツトランド)では人間の食物(たベもの)。」
といふ皮肉な解釈を下したが、例の高木兼寛(かねひろ)博士の説によると、日本人は英蘭の馬ではないが、麦飯さへ食つて()れば、哲学を考へたり、女房と(いが)み合つたりするのに少しの不足も無いさうだ。
 高木氏は病家を診察して、病人が(たひ)の刺身や吸物でも食べてゐるのを見ると、
 「こんな物を食つちや可かん。麦飯だけで十分さ。」
と言つて、()うかすると自分でその御馳走を。へろりと食べてしまふ。そして、
 「(わし)は構はん、(わし)は医者だからな。」
と済ましてゐる。
 その麦飯主義もまだ十分で無いと見えて、高木氏はその後「裸頭跣足(らとうせんそく)」主義を標榜してゐるが、近頃また関西地方へお説教(かたんち)出掛けて来るといつてゐる。
「裸頭跣足」は言ふ迄もなく、帽子も(かぷ)らず、(くつ)穿()かない主義で、一口にいふと、日本人を生蕃人(せいばんじん)にしようとするのだ。生蕃人を日本人にしようとするよりも、この方が(いつ)そ近道かも知れない。
 何分(なにぶん)氏の事だ。講演会の席上で上等のパナマ帽でも見つかると、例の調子で、
 「そんな物を(かぶ)つちや()かん。おや履まで穿いてるぢやないか。」
いきなり()手操(たく)つて自分の頭と足とに、それを穿()めるかも知れない。「(わし)は構はん、(わし)は医者だからな。」
と言つて。
 金森通倫(つうりん)氏が政府の御用弁士で貯金の勧めをしてゐた頃ある処で、
 「散髪なんか一々理髪床(かみゆひどこ)でするには及ばない。めいめい剪刀(はさみ)()み切る事にしたら、散髪代だけ儲かる。」
と言つた。すると、正直な聴客(きゝて)の一(にん)が、
 「貴方(あなた)の頭はやはり御自分でお刈りになりますか。」
と訊いた。金森氏は酢を嘗めたやうな口元をして、
 「私は自分では刈らない。私は貯金の演説をするので、貯金をするのは貴方方(あなたがた)ですから。」
と答へた。ー口は調法なもの、出来る事なら、その口に帽子を()せて、(つい)でに上等な履まで穿かせてやりたい。



最終更新日 2006年03月07日 00時33分57秒

薄田泣菫「茶話」「露伴の机」

露伴の机
 今の中村歌右衛門の父、芝翫(しくわん)は随分常識外れの妙な癖で聞えた男だが、この俳優の数ある癖のなかで一番面白いのは、そら火事だといふと、どんな遠方でも構はない、印半纏(しるしばんてん)を引つかけて直ぐ飛び出した事で、火の()の散るなかをうろく駈けづり廻つて、帰途(かへり)には茶飯(ちやめし)の一杯も掻き込んで、い\気で納まつてゐた。
 今一つ妙な癖は指物(さしもの)が好きで、(ひま)さへあれば何かこつ/\指物師の真似事をしてゐたが、手際はから下手(べた)な癖に講釈だけは(ひと)(ばい)やかましく、(かんな)(のこぎり)などは名人の使つたのでないと手にしなかつた。なかでも一番文句が多かつたのは指物に使ふ木で、あゝでもない、かうでもないと(ぜい)を言つてゐたが、一度なぞは一日土蔵に入つてこつ/\やつてゐて、日の()(がた)(やつ)と外へ這ひ出して来た。
 「かう見ねえ、立派な煙草盆が出来上ったよ。」
 見ると歪形(いびつ)の煙草盆を大事さうに掌面(てのひら)に載つけてゐる。もしやと思つて土蔵を覗いてみると、女房(かみさん)が一番大事の唐木箪笥(からきだんす)をすつかり()(ぺが)してしまつてゐたさうだ。
 幸田露伴氏もよく指物をした。洒落た机が椿(こしら)へたい、それには伐つてから百五十年以上経つた材木で無いと、狂ひが出来るからといつて、方々捜し廻つてゐるうち、下谷(したや)の古い薬舗(くすりみせ)で、恰好の看板を見つけて、(やつ)とそれを手に入れた。
 脚には何がよからう、名人の吹いた尺八が面白からう。さうだ、それに限るといつて、(ひま)にまかせて方々の道具屋を尋ね歩いた。
 「お(うち)には名人の吹いた尺八がありますまいか。四本ばかりでい、んだが……」
 仕合(しあはせ)と道具屋は名人を(こさ)へる事にかけては、その道の師匠よりもずつと(すぐ)れた腕を持つてゐるので、幸田氏は十日も経たぬうちに名人の吹いた尺八を三本まで手に入れた。
 だが机の脚は馬の脚と同じやうに四本無くてはならない。あとの一本を発見(めつけ)るために幸田氏は二週間程無駄足を踏んだり二週間といへば十四日である。男が女を忘れるには七日あれば十分だ。女が男を忘れるには九日で不足はない筈だ。二週間も経つ(うち)に幸田氏はすつかり机の事を忘れてしまつた。忘れてよかつた。すぺて自分に都合の悪い事は忘れるに越した事はないのだから。



最終更新日 2006年03月07日 00時34分20秒

薄田泣菫「茶話」「大森(だん)の詰襟」

大森(だん)の詰襟
 今度皇后宮大夫(くわうごうぐうだいぶ)になつた大森鍾一氏は官吏は威容を整へなければならぬといふので、何時(いつ)も葉巻を(くは)へる事に決めてゐる。又ある知辺(ちかづき)の言ふのでは、あれは三十年(ぜん)仏蘭西へ往つた時に覚えて来た癖ださうだが、それでも一向差支ない、折角仏蘭西まで往つて何一つ覚えなかつたとすれば、せめて葉巻の味位覚えて居ても好いのだから。それに監獄へ入つて道徳を覚えて来たと自慢さへする者のある世の中だ、かういふ事は公然(おつびら)に言つて貰ひ度い位のものだ。
 大森氏が京都府知事時代に管内の郡部を巡視中、時時持合せの葉巻が切れる事がある。さういふ折には属官が田舎町の煙草屋を片つ端から尋ね歩く。属官にしても田舎町に葉巻の無い位は(わきま)へてゐるが、(すべ)て、何かの「長」になつてゐる者は、部下が尻切蜻蛉(しりきれとんぼ)のやうにきり/\(まひ)をするのを見るのが(たのし)みなものだといふ事を知つてゐる。で彼方此方(あつちこつち)を捜し廻るのが、とじの(はて)は京都にある夫人の(もと)へ、電報で葉巻を催促をする。
 大森氏は同じ主義から、どんな酷暑の候でも、官吏は簡単な服装をしてはならないといふので、洋服の(ぼたん)一つ外した事がない。この意味から詰襟などは巻煙草(シガレツト)刻煙草(きざみたばこ)と一緒に大嫌ひである。
 ある夏内務部長の塚本清治(せいぢ)氏が白リンネルの詰襟で来ると、大森氏の顔は妙に(ゆが)み出した。
 「塚本君、今時(いまどき)詰襟で歩いてゐるものは、郵便配達夫と電車の車掌とそれから……」
 一息にここまで(まく)し立てると、(あと)が続かなくなつたのと、葉巻(シガ )(けぶり)が咽喉に入つたのとで、大森氏は一寸言葉を切つて、大きな(くさめ)をした。そして苦しさうに涙を目に一杯溜めて、
 「巡査と軍人だよ。」
(わめ)くやうに言つた。
 塚本氏はそれ以後滅多に詰襟を着なくなつたが、大森氏が今度宮内官になつて、詰襟を着るやうになつたのを見たら、どんなに言ふだらう。



最終更新日 2006年03月07日 00時34分36秒

薄田泣菫「茶話」「蘆花氏と本屋」

蘆花氏と本屋
 ある時書肆(ほんや)が徳富蘆花氏の原稿を貰ひに、粕谷(かすや)の田舎まで出掛けると、藍花氏は縁端(えんばな)衝立(つゝた)つて、大きな欠伸(あくひ)をしい/\、
 「この頃は誰にも面会しない事に()めてるが、風呂の水を掬むで呉れるなら会つても可い。」
という挨拶なので、書肆(ほんや)は不承々々に風呂の水を掬むだ。
 書肆(ほんや)はへと/\になつて、(やつ)縁端(えんばな)に腰を(おろ)すなり、原稿の談話(はなし)を切り出すと、蘆花氏は頭の天辺(てつぺん)から絞り出すやうな声で、
 「原稿よか、もつと好い物があげてある筈ぢやないか。」
といふので、近眼(ちかめ)書肄( んや)は慌てて膝頭から尻の周囲(あたり)を撫でまはしてみたが、そこには鉄道の無賃乗車券らしいものは無かつた。旅行好(たびず)きの書肆(ほんや)の頭には、原稿より()い物は、鉄道の無賃乗車券より(ほか)には、何も無かつた。
 「(なん)だんね、先生、何もおまへんやないか。」
 大阪生れの書肆(ほんや)怪体(けつたい)な眼つきをして、蘆花氏の顔を見た。
 「労働の神聖さ。」
 藍花氏は写真版にあるトルストイのやうに、(まぶ)しさうな眼つきをして言つた。そしてトルストイが使ひ駲れた草刈鎌でむ捜すやうに、腰のあたりへ手をやつたが、そこには繩帯の代りに、メリンスの兵児帯(へこおび)がちよこなんと結んであつた。
 「労働の神聖さ」ー書肆(ほんや)は口のなかでそれを繰り返してみた。口のなかは先刻(さつき)の働きで(つばき)がから/\に乾いてゐたので、少し苦しかつた。書肆(ほんや)は持合せの丸薬を二つ三つ取り出して噛んだ。すると気がすうとなつた。この時本物のトルストイが顔でも出したら、書肆(ほんや)は食べ残りの丸薬をいきなり毛むくじやらの口へ押し込んだかも知れない。だが、蘆花氏にはそれも出来なかつた。
 「あの人は胡桃(くるみ)でも噛み割りさうな歯を持つてゐやはるさかい。」
 書肆(ほんや)はかういつて絶念(あきら)めた。



最終更新日 2006年03月07日 00時34分54秒

薄田泣菫「茶話」「苜蓿(うまごやし)

苜蓿(うまごやし)
 北欧のある詩人は、外へ出掛ける時には、いつも両方のポケツトに草花の種子(たね)を一杯詰め込んで、根の()りさうな十地を見かけると所構はず何処へでもふり()いたさうだ。
 京都の御所を通つた事のあるものは、御苑の植込に所嫌はず西洋(だね)の菖蓿が一面に()へ繁つて、女子供が皇宮警手(くわうきゆうけいしゆ)の眼に見つからないやうに、そのなかに樽踞(しゃが)んで珍らしい四つ葉を捜してゐるのを見掛けるだらう。
 この菖蓿は丹羽(には)圭介氏が明治の初年欧羅巴(ヨ ロツパ)へ往つた時、牧草としてはこんな好い草はないといふ事を聞いて、その種子(たね)をしこたま買ひ込んで帰つた事があつた。さて日本に着いてみると、牛どころかまだ人間の始末もついてゐない頃なので、欧羅巴で考へたのとは大分見当が違つた。
 さうかといつて、菖蓿を京都人に食べさせる訳にも(だいぶんゆ)かなかつたので(京都人は色が白くなるとさへ言つたら、どんな草でも喜んで食べる)丹羽氏は折角の種子(たね)を、みんな其辺(そこら)へぶち撒けてしまつた。
 それが次から次へと(はびこ)つて、今では御苑の植込は言ふに及ばず、京都一体にどこの空地(あきち)にも菖蓿の生へてない土地(ところ)は見られないやうになつてしまつた。
 菖蓿によく似た葉で、淡紅(うすあか)色の可愛(かあい)らしい花をもつ花酢漿(はないたばみ)も京都にはよく見かける。この花の原産地は阿弗利加(アフリカ)の喜墾峰だといふ事だが、あれなぞも何処かの男が褝坊主にでも食べさす積りで持つて来たものかも知れない。禅坊主は家畜の食べるものなら何でも口にする。唯一つ獏の食べる「夢」を知らないばかりさ。
「夢」
は彼等にとつて余りに上品すぎる。



最終更新日 2006年03月07日 00時35分17秒

薄田泣菫「茶話」「台湾と考へ事」

台湾と考へ事
 岡松参太郎博士の言葉によると、満洲に居る時は、頭がはつきりと澄んで細かい考へ事や計算やも極楽に出来るが、台湾へ出掛けると、頭がぽんやりと草臥(くたび)れてしまつて、考へ事はとんちんかんに、計算は間違ひだらけになる。台湾に三日も過ごすと、満洲に三十日も居た程疲れが出るさうだ。
 台湾のある製糖会社に大学出の支配人がゐる。年に一度同窓生の会合があると、いつも(はるぐ)々東京まで出掛けて来る。そして会が始まつて、皆の者が何か議論がましい事でも言ひ出すと、怪誇(けげん)な顔をしてそれに聴きとれてゐるやうだが、暫くすると椅子に(もた)れた(まゝ)ぐうぐう(いひき)をかいて寝入つてしまふ。
 一頻(ひとしき)喋舌(しやべ)り疲れた連中(れんぢゆう)がどしんと一つ卓子(テヱブル)を叩いて、
 「△△君、君のお考へは()うだね。」
と訊くと慌てて椅子から飛ぴ上つて、
「さうですね、僕の考へは……」
といつて、(きま)つたやうにポケツトから鉛筆を引張り出し、ちよつと卓子(チエブル)の上に立ててみて、誰でも構はない、それが倒れかゝつた方の味方をする。
 心安立(こころやすだて)の友達が、鉛筆もまんざら悪くはないが、いつもあれでは余り無定見ぢやないかといふと、支配人は砂糖臭い大きな欠伸(あくび)を一つした。
 「でも僕には皆の喋舌つてゐる事が、てんで解らないんだもの。僕も今ぢやすつかり台湾向きだよ。」
 この支配人のいふのでは、台湾では考へ事は()うしても出来ない。唯二つの選択があるばかりだ。(たと)へていつたら朝と晩、総督と生蕃(せいばん)、砂糖と樟脳、成功と失敗といつたやうなもので、それを選ぶにしても鉛筆は人間の頭よりもずつと公平に判断するさうだ。



最終更新日 2006年03月07日 00時36分10秒

薄田泣菫「茶話」「蜜蜂の失敗」

蜜蜂の失敗
 ある蜜蜂飼養家が何かの用事で印度へ渡つて見ると、野にも山にも花といふ花が咲きこぽれてゐるので、蜜
蜂飼養家は躍り上つて喜んだ。
 「印度つてこんなに花の多い土地(ところ)とは知らなかつた。こゝで蜂を飼つたら、しこたま蜜が()れるに相違ない。」
 そして、急いで国へ帰るなり、蜜蜂をもつて又印度へ出掛けて往つた。(ちやう)ど金持を見つけて賭博打(ばくちうち)骰子(さいころ)を持つて又痂琲屋(カフエ )へ出掛けて()くやうに。
 骰子ほど意地の悪い物は無い。蜜蜂は箱から取り出されて、美しい香気(にほひ)を嗅ぐと狂気(きちがひ)のやうに花の中を転げ廻つたが、何時(いつ)まで待つても蜜を(こしら)へようとはしなかつた。それもその筈で、印度のやうに何時でも花のある土地では、蜜の臍繰(へそくり)を椿へておく必要も無かつたのだ。蜜蜂飼養家は大事な蜂を失つた代りに、幾らか賢くなつて郷土(くに)へ帰つて来た。人間といふものは賢くなるためには、従来(これまで)持つてゐた何物かを失はなければならない、とすると、女房(かみさん)や馬に()げられるよりは、蜜蜂を()くした方が、まだ仕合(しあはせ)だつた。
 岩野泡鳴氏は文士や画家(ゑかき)片手間(かたでま)の生産事業(じごふ)としては養蜂ほど()いものは無いといつて、一頻(ひとしき)りせつせと蜜蜂の世話を焼いてゐた。そして蜂に()されない用意だといつて、細君が着古した面帖(ヴエ ル)をすぽりと頭から(かぶ)つてゐたが、蜂には螫されない代りに、とうと細君に整されてしまつた。
 蜜蜂を扱ふのに面帖(ヴエ ル)が要るやうだつたら、女を(あし)らふにはそれを二枚重ねなければならぬ。臆病者に限つて剣は長いのを持つてる世の中だから。



最終更新日 2006年03月07日 00時36分29秒

薄田泣菫「茶話」「女を賢くする法」

女を賢くする法
(なか)座で『マクベス』を()つてゐる東儀鉄笛(とうぎてつてき)氏に、誰かが、
 「君も義歯(いれば)の数が殖えたやうだが、今のうちに恋でも()つておいたら()うだね。」
と言ふと、東儀氏はあの牛のやうな大きな眼をぐりぐりさせて、
 「人間も犢鼻褌(ふんどし)一つで、子供の枕もとで蚊を焼いて歩くやうになつちや、もうから意気地もない。」
(こぼ)してゐる。
 旧文芸協会当時、東儀氏が例の明けつ放しの気質(かたぎ)から、ちょいく松井須磨子に心安立(こゝろやすだて)戯談(ぜうだん)でもいふと、(そば)で見てゐる島村抱月氏は気が気でなく、幾らか誤解(はきちがへ)も手伝つて、
 「東儀君、松井を可愛(かあい)がるのは()して貰ひ度いもんだな。」
と倫理の教師のやうな悲しさうな顔をして、
 「君が可愛がると子供が出来るが、僕が可愛がると頭が出来るんだからね……」
 流石に島村君は学者だけに(うま)い事をいふものだ。
 「君が可愛がると子供が出来るが、僕が可愛がると頭が出来る。」
 ほんとにさうだと東儀氏は感心をして、又と戯談(ぜうだん)を言はなくなつた。
 女に頭を(こさ)へるには、島村君のやうなセルの(はかま)穿()いた温和(おとな)しい学者に可愛がつて貰ふのもよいが、一番良いのは恋人に棄てて貰ふ事だ。女は男に突き放されると、一度に十年も賢くなる。



最終更新日 2006年03月07日 00時36分51秒

薄田泣菫「茶話」「(はらわた)から歌」

(はらわた)から歌
 ラフエエル前派の詩人ロゼツチが自分の詩集を、亡き妻の棺に納めて葬つたのを、(あと)になつて友達の勧めに(したが)ひ、妻の墓を掘かへして、詩集をとり返したのは名高い話だ。
 新納(にひろ)武蔵守は薩摩武士の生粋(きつすい)で例の戯談好(ぜうだんず)きな太閤様の歌にある、ちんちろりんのやうな長い鬚を生やした男だつたが、矢張り薩摩者に有りうちの、ちんちろりんのやうに雌を可愛(かあい)がるので聞えた男だつた。
 ちんちろりんは随分な嫉妬(やきもち)焼きで雌が(よそ)の雄と談話(はなし)でもしてゐようものなら、いきなり相手を後脚(あとあし)で蹴飛ばすさうだが、薩摩者もこの点ではちんちろりんに劣らぬ道徳家である。
 新納武蔵に可愛がられてゐた若い小間使(こまづかひ)があつた。ある日雨の徒然(つれんち)に自分の居間で何だか(したゝ)めてゐると、丁度そこへ武蔵が入つて来た。(男といふものは猫のやうによく女の内証事(ないしようごと)発見(めつけ)るものなのだ。)
 はつと思つて、女が袖の下へそれを隠すと、武蔵はちんちろりんのやうな顔で袖の下を覗き込む。すると、女は意地になつて、よく小娘がするやうにその反古(ほご)を口の中に噛みしめて、ぐつと()(くだ)してしまつた。
 武蔵は女が隠し男に()(ふみ)とでも誤解(はきちが)へたものか、激しい嫉妬で顔は蟹のやうに真紅(まつか)になつた。そしていきなり女を手打にして腸のなかからその反古を引張り出した。
 反古には優しい筆の(あと)で、
 「人ならば浮名やたゝん小夜ふけて枕にかよふ軒の梅が香」
(したゝ)めてあつた。武蔵も少しは歌を()んだ男だけに、ちんちろりんのやうな顔に涙を流して不憫がつた。
 歌反古だつたから泣かれたやうなものの腸のなかから鱶甲櫛(べつかふぐし)勘定書(かんぢやうがき)でも出たらどんな顔をしたものか、一寸始末に困るだらう。



最終更新日 2006年03月23日 02時20分44秒

薄田泣菫「茶話」「小説家と(まき)

小説家と(まき)
 この頃発売禁止になつた『ボブリイ夫人』の著者フロウベエルがある婦人と恋をした事があつた。婦人はある時伊太利(イタリヨ)語を彫りつけた葉巻入(はまきいれ)をこの小説家に贈つた所が、フロウベエルは小説の女主人公が自分の情夫(いろをとこ)に贈物をする時に、その伊太利語をその(まゝ)借用させ'た。
 それを見た恋女(こひをんな)は、真剣な自分の恋を馬鹿にしてゐるといつて()くれ出した。温和(おとな)しいフロウベエルは色色に弁解(いひわけ)をしたが、嫉妬焼(やきもちや)きの女は()うしても承知しないので、小説家もとうと本気になつて怒り出した。そして(まき)ざつ(ぽう)をふり上げて(なぐ)り倒さうとした。(小説家だといつて薪ざつ棒を()りあげないものでもない。ニイチエは女を訪問する時には(むち)を忘れるなといつたが、鞭を忘れた時には薪ざつ俸でもふりあげねばなるまい。)
 フロゥベエルは薪ざつ棒をふりあげた。女は部屋の片隅に(ふる)へながら、まだ家鴨(あひる)のやうに我鳴り立ててゐる。この時小説家の頭に、()しか擲り倒したら、女は直ぐ告訴するだらうなといふ考へが矢のやうに走つた。フロウベエルは薪ざつ棒を足もとに投げ出した儘、ふいと(へや)を飛ぴ出したが、それきりもう帰つて来なかつた。
 女が口喧(くちやかま)しいからといつて警察の手に引渡した男はない筈だ。それだのに男の手に薪ざつ棒を見ると、女は直ぐ法律の(かひな)(すが)らうとする。武器としての女の口は薪などと比べ物にはならない。薪は間違つて肉体を叩き潰すかも知れないが、女の舌は一度に霊魂(たましひ)を窒息させてしまふ。




最終更新日 2006年03月23日 02時21分08秒

薄田泣菫「茶話」「老婆梅川(うめがは)

老婆梅川(うめがは)
 むかし雄略天皇は狩の(みち)すがら三輪(みわ)川に洗濯(せんだく)をしてゐる田舎娘を御覧になつて、「顔立(かほたち)のいゝ娘ぢや、大宮に召し抱へよう」とお約束になつた事があつた。その日の狩は獲物が多かつたと見えて、夕方(ゆふかた)宮にお帰りになる頃には、すつかり田舎娘の事はお忘れになつてゐた。田舎娘は今日か明日かとお迎へを待つてゐるうちに、とうと八十年の月日を過して、白髪頭(しらがあたま)の婆さんになつてしまつた。
 むかし島原に美しい遊女がゐて、よく物忘れをするので聞えてゐた。何を忘れても覚えてゐなければならぬお客の顔さへ、その夜を過ぎるとけろりと忘れてゐるので、それが浮れ客の評判になつて、
 「あんなに忘れつぽくはあるが、何処かに真実がありさうだから、貴方一人は忘られないといふ客もなくつちやならない。」
といふので、男が持前の自惚(うぬぼれ)から、みんな自分がその忘れられない男にならうと、せつせと通つて来るので、(ひど)く全盛を極めたさうだ。
 この頃近江(ごろあふみ)矢橋(やばせ)で遊女梅川の墓が発見(めつけ)られた。物好きな人の調べによると、梅川は忠兵衛に別れてから、幾十年といふ長い月日をこ\で暮し、八十三でころりと亡くなつたさうだ。
 芝雀(しじやく)()る、福助の()るあの梅川が八十三の皺くちや(ばどあ)になるまで生き(なが)らへてゐた事を考へるのは、恋をする者にとつて良い教訓である。何しろ長い間の事だ、梅川も(しま)ひには忠兵衛の名なぞは、すつかり、忘れてしまつて、
 「忠兵衛つてあの山雀(やまがら)の事で御座んすかい、もんどり上手の……」
と言つて、こくりく居睡(ゐねむり)でもしてゐたか判らない。さう言つたからとて、何も腹を立てるには及ばない。人生はそんなものなのだから。



最終更新日 2006年03月23日 02時21分51秒

薄田泣菫「茶話」「篁村(くわうそん)氏と(いわし)

篁村(くわうそん)氏と(いわし)
 竹のや主人、饗庭(あへば)篁村氏は剽軽(へうきん)な面白い爺さんだが、夫人はなかくの(しつか)(もの)なので、お尻の長い友達衆は、平素(ふだん)は余り寄付(よりっ)かない癖に、夫人が不在(るす)だと聞くと、直ぐ駈けつける。篁村氏自身も夫人が旅立でもすると、
 「おい、女房(かない)不在(るす)になつたから遊びに来い。」
と態(わざ/\)使(つかひ)を出して催促する。
 ある夏の事、御多分に洩れぬ幸堂得知(かうだうとくち)氏が夫人の不在(るす)(ねら)つて無駄話に尻を腐らせてゐると、表を鰯売が通つた。幸堂氏は急に話を()めた。
 「おい、饗庭、あの鰯を呼んでくれ、今日は拙者が一つ御馳走をしてくれるから。」
鰯を買つた幸堂氏は(ねぎ)を買ひに主人を近所の八百屋に走らせた。茶気のある篁村氏は一銭がとこ葱を()げて嬉しさうに帰つて来た。平素女房(ふだんかない)にいたぶられてゐる亭主は女房の不在(るす)に台所の隅で光つてゐる菜切庖丁(なきりはうちやう)や、葱の尻尾に触つてみるのが愉快で溜らぬものだ。
 「や、い丶葱だね。(つい)でに気の毒だが、扇子の古いのを一本発見出(めつけだ)して呉れないか。」
 「扇子? 扇子を()うするんだい。」
 篁村氏は片手に葱をぶら提げながら、神聖な夫人の居間を捜して破けた扇子を一本持ち出して来た。
 幸堂氏は料理人(いたば)がするやうに、手拭(てぬぐひ)(たすき)(かひみち)々しく(たもと)を絞つて台所で姐板(まないた)を洗つてゐた。
 「や、御苦労く。ぢや君は其処(そこ)で見てゐ給へ。鰯はかうやつて(おろ)すものなのさ。」
 幸堂氏は無駄口を叩きく古扇子(ふるせんす)の骨の間に鰯の骨を(はさ)んで、さつと(しご)くと魚は器用に三枚に(おろ)された。
 「な、なある程、(うま)いもんだな。」
 篁村氏は、帝劇で松助(まつすけ)の芸を賞めるやうに、禿頭をふり/-、感心した。
 小一時間も経つ頃、(やつ)と鰯の「ぬた」が出来上つて、食膳の皿に盛られると、味利(あぢき)きだといつて、幸堂氏は一(はし)口へ頬張つて、もぐもぐさせてゐたが、急に変な顔をして考へ出したと思ふと、はたと膝を叩いて笑ひ出した。
 「失敗(しま)つた。あんまり急いだもんだから、鰯の(こけ)をふくのを、すつかり忘れちやつた。」
 「さうかい……」と言つて、篁村氏も箸をつけたが、
「なに、美味(うま)く出来てるぢやないか。」とむしやく食べ出した。ほんとに鰯の(うろこ)()つてなかつたが、不断女房(かない)(とげ)のある言葉を食べつけてゐる者にとつては、魚の(うろこ)などは何でもなかつた。



最終更新日 2006年03月23日 02時22分49秒

薄田泣菫「茶話」「坪内博士の傘」

坪内博士の傘
 先日(こなひだ)物忘れの事を書いたが、独逸の歴史家モムゼンは専門以外の事は何でも忘れつぽいので聞えた男で、ある時大学から帰つて自分の書斎に入ると、何を思ひ出したものか卓子(テえブル)周囲(まはり)を掃除し出した。見ると寝椅子の上に古綿(ふるわた)のやうなものがあるので、ぶつく言ひながらそれを引つ掴むで反古籠(ほごかご)のなかに()り込んだ。
 古綿は急に蛙のやうな声をして鳴き出した。古綿が蛙に化けるなぞは羅馬(ロさマ)の帝政時代にも無かつた事なので、流石にモムゼンも吃驚(びつくり)した。で、(そば)へすり寄つてよく見ると、古綿のやうなのは、その頃生れたばかりの孩児(あかんぼ)であつた。お蔭で学者は細君に()(ぴど)く叱り飛ばされてしまつた。無理はない、どんな学者の事業だつて、女の生む「孩児(あかんぼ)」に比べると、ほんの無益物(やくざもの)に過ぎないのだから。
 坪内逍遙博士が今の高田〔早苗〕文相などと一緒に高()(のほ)つた事があつた。見物も一通り済んで、いよいよ下山といふ事になると、博士はお寺の土間をうろうろして何だか捜し物でもしてゐるらしい。
 「何か忘れ物でもあるんですか。」
 高田氏は鷹揚に訊いたが、いつも出掛(でかけ)には夫人にさう言はれつけてゐるので、言葉の調子に何処か女らしい(ところ)があつた。
 「洋傘(かうもりがさ)が見えないんです。先刻(さつき)ここへ置いたと思ふんだが……」
 坪内博士は薄暗(うすくら)い土間の隅つこを、鶏のやうに脚で掻き捜してゐる。
 「洋傘(かうもりがさ)だつたら、君が(わき)(はさ)んでるぢやありませんか。」
 高田氏は笑ひ笑ひ言つた。気がついて見ると、博士は大事の/\繻子張(しゆすばり)洋傘(かうもりがさ)は腋に挟んだま\、もう一本捜してゐるのだつた。
 洋傘(かうもりがさ)は二本あつても、一本を高田氏に呉れてやつたら事は済む。「真理」が二つあつたら、博士は首を()めなければならなかつたらう。



最終更新日 2006年03月23日 02時23分10秒

薄田泣菫「茶話」「上田博士の死」

上田博士の死
 上田敏博士が亡くなつたのは、吾が文壇にとつて、京都大学にとつて、また償ふ事の出来ない損失といはなければならぬ。博士は平素(ふだん)大学教授といふ名前を厭がつてゐたが、多くの大学教授のうちで、博士は京都大学の最も誇るべき人であつた。
 たつた一人きりの愛嬢瑠璃子さんが、京都の銅駝(どうだ)校を出ると、博士は東京芝の聖心女学院へ入学させるために夫人と一緒に瑠璃子さんを東京へ送り、自分は独身生活を営んで、冷い弁当飯(べんたうめし)で過してゐたが、その寂しい生活が大分(だいぶん)健康に(さは)つたらしい。
 オスカア・ワイルドは亜米利加の婦人達(をんなだち)は死んで天国へ昇るよりか、巴里(パリ )へ生れ代るのが願望(のぞみ)らしいと言つたが、上田博士は巴里と東京とが大好きで、瑠璃子さんを教育するにも、京都の学校へ入れるのは、大分嫌(だいぶんいや)だつたらしかつた。で、小学校を出ると直ぐ東京へ送つたが、それも普通の女学校よりか仏蘭西式の学校を選んだ。知恩院の境内で亡くならないで東京の町のなかで目を(つむ)つたのは博士がせめてもの本望だつたかも知れない。
 幸田露伴博士が京都大学の講師になつて来た時、家族を同伴しないのを何故だと(ひと)に訊かれて、
 「でも、子供に京都語(きやうとことば)だけは覚えさせたくありませんからね。」
と言つた事があつた。それを人伝(ひとづて)に聞いた時、上田博士は、
 「全くですね。」
と言つて、煙脂焼(やにやけ)のした前歯をちつと見せて笑つてゐた。数多い京都大学にこの二人のやうな東京好きはまたと無かつた。



最終更新日 2006年03月23日 02時23分48秒

薄田泣菫「茶話」「谷本博士と名妓(めいぎ)

谷本博士と名妓(めいぎ)
 亡くなつた上田敏博士が京都大学に初めて来た頃谷本梨庵博士は文科の創設者として早くから京都の土を踏むでゐたから、高等師範以来(このかた)顔眤懇(かほなじみ)といふので、色々京都についてお説教をしたものだ。
 そのお説教の一つに、ダンテの名句に「見て過ぎょ」といふのがあるが、京都は実際見て過ぎればよい土地で、神社もお寺も拝むよりか見て過ぎるやうに出来てゐる。交通機関の電車にしてからが、(その頃京都にはまだ市の電車といふものは無かつた)横冐で見て通ればよいので、あれに乗つては時間(ひま)が潰れて仕方が無いと言つてゐた。実際谷本博士は長年京都にゐながら、一度も電車に乗つた事はなかつた。そして何時(いつ)も横目で車台(しやたい)を睨みくてくく歩いてゐたが滅多に電車にひけは取らなかつた。
 独逸哲学と一緒に、伯林(ベルリン)の汽車の時間表まで鵜呑(うのみ)にしてゐる桑木〔厳翼〕博士なども、
 「谷本君のは長い経験から出たので、全く真理だよ。」
(ひど)く感心してゐたが「真理」といふものは、独逸製以外に、京都でもちよいく安手なのが出来るものと見える。
 谷本博士はある日教授の溜室(たまり)で上田博士の顔を見ると、
 「上田君一度君に御馳走をしたいと思つてるんだが、君は文壇の名士だから、名妓を引合はしたいと思つて、彼是銓衡中(かれこれせんかうちゆう)なんだ。」
と、はつきりした日本語で言つてゐたが(念のため言つておくが、上田博士も谷本博士も数個国(すうかこく)の国語には通じてゐたが、談話(はなし)をする時には一番不完全な日本語でしてゐた)色々都合があつて、その御馳走もお流れになつたらしかつた。よしんば都合が無かつたにしても人間には忘れるといふ事があるから。
 ほんとの事をいふと、谷本博士が名妓を引合せたいと思つてゐる頃には、上田博士はもうちやんとそんな者は知り抜いてゐたのだ。



最終更新日 2006年03月23日 02時25分08秒

薄田泣菫「茶話」「どくだみ」

どくだみ
 むかし京都の島原に五雲といふ俳諧師が居た。毎月(まいげつ)二十五日には北野の天神へ怠らず参詣(まゐ)つてゐたが、或日雨の降るなかを弟子が訪ねて()くと、五雲は仰向(あふむけ)に寝て、両手を組んで枕に当てがひ、両足をあげて地面(ちぺた)を踏むやうな真似をしてゐる。()うしたのですと訊くと、今日は北野へ参詣の例日(れいじつ)だが、雨が降るもんだからかうして北野へ往復(ゆきかへ)りするだけの足数(あしかず)を踏んでゐるのだと言つた。
 面白いのはこの足数も踏むに連れて、沿道の人家や立木やが次から次へと眼の前に幻となつて展開する事で、五雲は仰向(あふむき)になつて、
 「やあ、那処(あすこ)にいつもの両替(りやうかへ)屋の寡婦(ごけ)が見える。」
と、独りで(たの)しんでゐたさうだ。
 亡くなつた上田敏氏は子供の時静岡へ()く道中、てくてく歩きで箱根を越えた。丁度梅雨晴(つゆぱ)れの頃で、ある百姓家の軒続きに、心臓形の青い葉が一面に(はびこ)つてゐる畑を見て、
 「おやノ~蔵菜(どくだみ)がこんなに植わつてる……」
独語(ひとりごと)をいふと、そこに居合はした百姓が笑ひ/\、
 「坊ちやま、これあ藏菜ぢやござりましねえ、坊ちやまの食べさつしやる甘藷(さつまいも)でがさ。」
と教へて呉れたさうだ。
 その後大学の教室に立つて、欧羅巴(ヨ ロツバ)の近代文学を論ずるやうになつても、梅雨晴れの日光が硝子窓からちらちらするのを見ると、いつもその藪菜の葉が幻のやうに想ひ出されると言つてゐた。



最終更新日 2006年03月23日 02時26分00秒

薄田泣菫「茶話」「京の水」

京の水
 むかし京都で物好きな男が三四人集まつて鴨川のほとりで茶を(せん)じて遊んだ事があつた。(菅茶山(くわんさざん)が言つたやうに、京都は物静かで遊ぶには持つて来いの土地柄だが、とりわけお茶と恋をするには一番よい。)
 水の講釈にかけては人一倍やかましい茶人達の事とて、あつちこつちの名水を(かめ)に入れて各自(てんで)に持寄りをする事にきめた。で、集まつた水を一つ(づつ)煮て味はつてみたところが、矢張加茂川の水が一番美味(うま)かつたさうだ。
 或る通人がそれを聞いて、「(もつと)至極(しごく)の事で、他所(ほか)の水は(びん)(たくは)へて持ち寄りをしたのだから、時間(とき)が経つて死水(しにみづ)になつてゐる。加茂川のは()(たて)だけに水が()きてゐる。美味いに不思議はない筈だ。」と言つた。
 久保田米僊(べいせん)は、大阪の(はも)も、京都へ持つて来て、一晩加茂川の水へ漬けておくと屹度(きつと)味がよくなると言つてゐたが、米僊は私に一度も鱧の御馳走をしなかつたから、嘘か真実(ほんとう)か保証する限りでない。
 京都俳優(やくしや)の随一人坂田藤十郎はよく江戸の劇揚(しばゐ)へも出たが、その都度江戸の水は不味(まづ)くて飲めないからといつて、(わさく)々飲み馴れた京の水を幾つかの大樽に詰め込んで、江戸まで持ち運んだものださうな。水自慢は縹緻(きりやう)自慢と一緒で、自慢する人自身の(こしら)(もの)でないだけに面白い。



最終更新日 2006年03月23日 12時32分07秒

薄田泣菫「茶話」「雷」


 梅雨(つゆ)が明けて雷が鳴る頃になつた。雷といへば上州あたりには雷狩(かみなりがり)をして、(とら)へた奴を(れう)つて食べる土地(ところ)があるげに聞いてゐる。雷といふのは、多分雷鼠(らいねずみ)の事で、打捨(うつちや)つておくと、芋の根を()ひ荒して仕方がないさうだ。
 不思議なのは、雷狩をした年の夏は、屹度雷鳴(きつとかみなり)が少いといふ事だ。この雷狩は山や野原でする(ばか)りでなく、また(うみ)(ばた)でもやる。翡翠(あをせみ)のやうに寂しい海岸に穴を掘つて、そこから顔を出して遊んでゐるのを漁師が(つか)まへる事がある。
 政事家が余り喋舌(しやべ)り過ぎて大臣の椅子から滑り落ちるやうに、雷も時偶(ときたま)図に乗り過ぎて海へ落ちる事がある。さういふ折に漁師が水棹(みづさを)を貸してやらなければ、空へ帰る事が出来ないので乱暴者の雷も漁師だけには(ごく)素直だといふ事だ。
 京都は三(ぽう)山に囲まれてゐるので、夏になると雷が多い。空がごろごろ鳴り出すと、京都の女はチヨコレエトを食べさして、(かひこ)のやうにぶるぶるつと身体(からだ)(ふる)はせる。
 「貴方(あんた)はん、また雷鳴(かみなり)どつせ。どないしまほ、(わて)あれ聞くと頭痛がしまつさ。」
と言ひ言ひ、(あま)えるやうに男の顔を見る。
 実のところは雷は嫌ひでも何でも無い。唯かういふと、男の眼に優しく美しく見られるといふ事を女の本能から知つてゐるのだ。男は(のろ)いもので、この瞬間女を飛切り美しいものに見るばかりでなく、自分をも非常な勇者のやうに思違(おもひちが)へをする。鈍間(のろま)なる男よ、(なんぢ)はいつも女の前に勇者である。



最終更新日 2006年03月23日 12時32分32秒

薄田泣菫「茶話」「未亡人の涙」

未亡人の涙
 東京三(こし)の「山と水」展覧会に、故人角田浩(かくだかう/\)歌客(かかく)が世界の各地から集めた石と一緒に、塚本工学博士が出品した瓶詰の黄河の水がある。
 英国のある停車場(ていしやぢやう)の駅長はグラツドストーンが落して往つた(くつ)(がどと)を拾つて、丁寧に箱入にして(しま)つておいたといふから、黄河の濁り水を克明に瓶に入れて持つて帰つたからといつて、別に(とが)(だて)もしないが、同じ持つて帰るなら、もつと美しい物を見つけて欲しか
つた。
 波斯(ペルシヤ)で亭主に死別(しにわか)れた(ばか)しの、新しい未亡人(ごけ)さんを訪ねると、屹度(きつと)棚の上に大事さうに瓶が置いてあみのが目につく。他でもない、波斯では未亡人(ごけ)さんといふ未亡人(ごけ)さんは、亭主に死別れてからは、毎日々々涙を一雫(ひとしづく)(こぼ)さないやうに小瓶に溜めておいて、それが二本溜まると、喪を()める事になつてゐるからだ。
 一雫も零さないやうにするのは、何も追懐(おもひで)の涙が神聖なからでは無い。成るべく早く瓶を詰めて、喪服を着更(きか)へてしまひたいからだ。多いなかには亭主の事を追懐(おもひだ)しても一向涙なぞ出ないのがある。(それに不思議はない筈だ。涙は亭主の生きてゐる(うち)に、みんな絞り出してしまつたのだから。)そんな(てあひ)涙脆(なみだもろ)い女を見つけて、一瓶幾らといふ値段で涙を買取つて、一日
も早く喪を済まさうとする。
 ある皮肉家(ひにくや)が、(むかし)の詩人は血で書いた、中頃(なかごろ)になつては墨汁(インキ)で書いた、それが(ごく)近頃になつては墨汁(インキ)に水を割つて書くやうだと言つたが、涙にしても水を割つたら、直ぐ瓶に詰まりさうなものだが、さうは()ないで、縁もゆかりも無い者からでも、矢張正真物(しやうしんもの)の涙を買ふところに、一寸女房の情合(じやうあひ)が見えて可笑(をか)しい。
 目薬瓶に涙二杯! 男にとつて申分(まをしぶん)のない値段である。



最終更新日 2006年03月23日 12時32分55秒

薄田泣菫「茶話」「贅沢な蟻」

贅沢な蟻
 ラボツクは蟻の研究で聞えた人だが、ある時一匹の蟻をウイスキイの洋盃(コツプ)()り込んで、したたか酒に酔はせた。
 蟻はすつかり喰べ酔つたが、それでも人間のやうに片手を(ひと)の鼻先で拡げて金を貸せとも言はないで、唯もう蹣跚(よろく)と、其辺(そこら)を這ひ廻つてゐた。
 仲間の蟻が、五六匹そこへ()つて来た。そして喰べ酔つた友達を見つけると、こんな不心得者を自分の巣から出しためを恥ぢるやうに、何かひそ/\合図でもしてゐるらしかつた。
 暫くすると、仲間は各自(てんで)に酔ひどれを(くは)へて巣のなかへ引張り込み、丁寧に寝かしてやつた。(よひ)()めると、(くだん)の蟻はこそく這ひ出して直ぐ(いつも)の仕事にかゝつたさうだ。
 一度他の巣の蟻がこの酔ひどれを見つけた事があつたが、その折は少しの容捨(ようしや)もしないで、いきなり相手を啣へて水溜りのなかに投り込んでしまつた。
 人間にも女中や下男の厄介になつて暮すやくざな(てあひ)があるやうに、蟻にも奴隷を置いて、その世話になつてゐるのがある。巣を(こしら)へ、食物(たべもの)を集めるのに奴隷の手を()りるばかりでなく、どんなに食物(たべもの)があつても、奴隷の手でそれを食べさせて貰はなければ()うにも出来ないので、奴隷の機嫌でも損じると、餓死(うゑじに)するより仕方がない。
 人間が牛や馬を養つてゐるやうに、蟻もまた家畜を飼つてゐるーといふと、何から何まで蟻は人間と同じやうだが、蟻には人間のやうな懶惰者(なまくらもの)がゐないだけに、女を大事にする事を知つてゐる。何といふ結構な道徳であらう、女は陶器皿(せとざら)と一緒で、同じ事なら大事に取扱つた方がよいのだ。ー蜂は(ひま)さへあれば女王の顔を見て(たの)しんでゐるさうだ。



最終更新日 2006年03月23日 12時33分34秒

薄田泣菫「茶話」「鉄扇の威嚇」

鉄扇の威嚇
 今は故人の松下軍治がしたゝか者だつた事は知らぬ者もないが、(たと)へば、金でも借りようとか(つる)でも発見(めつけ)ようとかいふ目論見(ホくろみ)で人を訪ねる事があるとする。(松下が金と蔓と、この二つ以外の用事で人を訪ねようなどは夢にも思はれなかつた事だ。)
 先づ応接室に通されて、暫くすると隔ての(ふすま)()いて主人の顔が見える。
 「ヤ、入らつしやい。お久しぶりですな。」
 松下のやうな男には、誰でもが挨拶だけは成るべく叮嚀(ていねい)にしようとする。挨拶には別に資本(もとで)が掛らないで済む事だから。
 「()うです、この頃の暑さは。随分厳しいぢやありませんか。」
 かう言つて、主人はにこ/\顔で椅子に腰を下さうとする。
 この時松下は腹一杯の声で、
 「御主人……」
(わめ)くと同時に、手に持つた鉄扇で、思ひ切り強く卓子(テエブル)(どや)しつける。(松下はこんな訪問には、いつも「体面」を置いて()く代りに、机の抽斗(ひきだし)から鉄扇を持ち出す事に()めてゐる。)
 主人は卓子(テエブル)の上の葉巻入と一緒に、吃驚(びつくり)して椅子から飛ぴ上らうとする、松下はじろりとそれを尻目にかけて、
 「お気の毒だがお冷水(ひや)を一つ下さい。」
と静かに言ふ。この揚合お冷水だらうが持参金つきの娘だらうが、相手の気に入る事なら、主人はどんな物でも調(とゝの)へようと思つてゐる。かうなると、もう占めたもので、松下は希望通(のぞみどほ)り相手の魂でも引抜く事が出来る。
 松下の()り方は、他人(ひと)を見れば(かたき)と思つた封建時代の遺習で、型としては()(かび)が生えてゐる。往時(むかし)閑人(ひまじん)はこんな(てあひ)に驚かないやうに、武士道や禅学で(きも)を練つたものだが、今の人達は、武士道や禅学の代りに、お蔭で「生活難」で鍛へられてゐる。「貧乏」は鉄扇の音に吃驚(びつくり)しないばかりか、鉄扇を質に入れる事さへ知つてゐる。



最終更新日 2006年03月23日 12時34分31秒

薄田泣菫「茶話」「明恵(みやうゑ)雑炊(ざふすゐ)

明恵(みやうゑ)雑炊(ざふすゐ)
 栂尾(とがのを)の明恵上人は雑炊の非常に好きな人であつた。ある時弟子の一人が師僧を慰める積りで、極念入(ごくねんいり)の雑炊を(こしら)へた。念入だといつたところで、何も鰹節を使つたといふ訳ではない。鰹節は猫と真宗寺(しんしゆうでら)との好物で明恵はあんなものは好かなかつた。
 明恵は何気なく膳に(むか)つたが、好物の雑炊が目につくとにつこり笑つた。そして、
 「今日は御馳走だな。」
といつて、弟子の顔を見た。弟子は師僧の気に入つたのが嬉しいと見えて、蘭蒻球(こんにやくだま)のやうな顔を下げてお辞儀をした。
 「お上人様が平素(ふだん)からお好きでいらつしやいますから。」
 明恵は箸を取つて一口頬張つたと思ふと薯を取つた右の指先で障子の桟を目にも止まらぬ速さで一寸撫でた。弟子は吃驚(びつくり)して見つめてゐると、明恵は何喰はぬ顔でその指先を()めて、それからまた雑炊を食べようとした。
 「(まじなひ)だらうかな。」
と弟子は考へたが、これまで一度だつてそんな真似は見た事も無かつたので、不思議さうに訊いた。
 「お上人様、つかぬ事をお訊き申すやうですが、たつた今貴僧(あなた)様は障子の桟を撫でて、それをお嘗め遊ばした。あれは何のお巍でございます。もしや、食中毒(しよくあたり)の・:・:」
 明恵は尼さんのやうに口を(すぼ)めて笑つた。
 「いや、蠱でも何でもない、其方(そなた)が持へて呉れた雑炊が余り美味(うま)いものだから、つい障子の(ほこり)を嘗めたのだ。」
 成程障子の桟を見ると、埃が白く溜つてゐた。埃は正直なもので、掃除を怠けると、直ぐ溜るものだなと弟子は思つた。だが、雑炊が美味いからといつて、その埃まで嘗めなければならない理由(わけ)が判らなかつた。
 明恵は言つた。
 「余り雑炊が美味いので、つい染着心(せんぢやくしん)でも出来ては怖ろしいと思つたものだから、そんな事の無いやうに一寸埃を嘗めたまでさ。」
 弟子はそれを聞いて、師僧の雑炊を持へるのはなかなか(むつか)しいものだなと思つた。
 大隈〔重信〕侯はどんな物でも鵜呑にする事が上手だが、唯それに砂糖をつけないでは承知しない。砂糖とは他でもない「高遠の理想」の事さ。



最終更新日 2006年03月23日 12時34分54秒

薄田泣菫「茶話」「栖鳳(せいほう)の天井画」

栖鳳(せいほう)の天井画
 本阿弥光悦が書いた本法寺の額は「法」といふ字の扁が二水(にすい)になつてゐるので名高いものだ。光悦はあゝいふ洒落者だけに、本法寺の門前を流れてゐる水を、その一水(いつすい)(かたど)つて、わざとさうしたのだといふ事だ。
 むかし天龍寺塔頭(たつちゆう)のある寺にあつた書院の杉戸は、〔狩野〕探幽の筆として聞えてゐたが、戸には李白一人が画いてあつて、滝らしいものが一向に書いてなかつた。これは嵐山(らんざん)戸無瀬(となせ)の滝を目の前に控へてゐるので、滝は(わざ)()かなかつたのだ。
 池坊の祖先(なにがし)は、六角堂に立花(りつくわ)の会があつた時、自分の花に態と正心松(しやうしんまつ)を欠いて()けておいた。何故だらうとそれが一座の人の噂の種となつてゐる頃、池坊は、
 「松は今御覧に入れます。」
と言つて、障子を引明けると、庭にある()枝振(えだぶり)の松がうまく立花のなかに取入れられたさうだ。流石に池坊式でこれには(こしら)(ごと)(わざ)とらしさがある。
 竹内栖鳳氏は東本願寺の天井に、天人飛行(てんにんひぎやう)の絵を()く約束で、もう幾年といふもの考へ込んでゐるが、まだ一向に出来上らない。往時(むかし)ある(ところ)に狩野永徳の()いた空飛ぶ(かり)()といふのがあつた。何でも襖障子(ふすましやうじ)一面に葦と(かり)とを()き、所々に(かり)羽叩(はばたき)して水を飛揚(とびあが)つてゐるのを(あしら)つた上、天井には(かり)の飛ぶのを下から見上げた姿に、(かり)の腹と翼の裏を()いて()つたといふので名高かつた。この伝で往くと、栖鳳氏の天人は(へそ)(あな)から(くすぐ)つたい(わき)の下の皺まで()かねばならなくなる。
 なに、そんなに心配するが物はない。相手は肉食(にくじき)妻帯の本願寺だ。いつそ光悦や探幽式に裏方や姫達を天人と見立てて、天井へは何も画かない事にしたら、どんな物だらう。(すべ)ての画家に勧める、自分の手に()きこなせないものは画かないに限る。



最終更新日 2006年03月23日 12時35分13秒

薄田泣菫「茶話」「道成寺の石段」

道成寺の石段
 むかし徳川初代の頃に本願寺の役人に下間某(しもつまなにがし)といふものがあつた。乱舞(らつぷ)にかけては(まく)々の巧者人(かうしやじん)で、徳川家の前などでも、いつも召されて乱舞を舞つてゐた。
 ある時、この男が紀州の道成寺に(まゐ)つた事があつた。その折拍子を踏みく石段を数へてゐたが、ふと立停(たちどま)つて、不思議さうな顔をして道伴(みちづれ)に言つた。
 「この鐘楼(しゆろう)の石段は屹度(きつと)一つだけ土にでも()もれてゐるんぢや無からうか。今一つ(づつ)踏んで居るのに、()うしても段拍子(だんぴやうし)に合はない。」
 道連(みちつれ)可笑(をか)しな事を言ふとは思つたが、相手があの通りの巧者人の事なので、笑つてばかり済ます訳にも()かないので(世の中には笑つて済まされる事は沢山ある、金の事、女の事、それから-…)土を掘り下げてみると、案の定下から石段が一つ出た。
 京都の桂離宮は小堀遠州が豊太閤(ほうたいかふ)に頼まれて、一世一代の積りで(こしら)へた名園だが、ずつと(のち)になつて遠州の孫がその結構を見に庭へ入つた事があつた。木戸口を潜つて、庭石を二つ三つ踏むだと思ふと、ひよいと立停つた儘、
 「どうも解らない。」
と、じつと考へ込んでしまつた。
 案内の男が、
 「何かお解りになりませんか。」
と訊くと、
 「いや、この石だが、も少し右に置いてなければならん筈なのだ。」
独語(ひとりごと)のやうに答へる。考へてみると、一二年前に庭木を入れる事があつて、その折(くだん)の庭石を()(ぺが)したま\、植木屋の手で勝手に据ゑ直してあつたのだ。
 このやうに物にはちやんと拍子といふものがある。この拍子を見別(みわ)けるやうになると、物の巧者だといへる。だが断つておくが、諸君の夫人の顔立が拍子に(かな)はないからといつて、それは茶話記者の知つた事ではない。大きい声では言へないが、一体女は(しよ)(ばな)から拍子に合つたやうに持へられてはゐないのだから。


最終更新日 2006年03月23日 15時47分58秒

薄田泣菫「茶話」「醜女と哲学」

醜女と哲学
 伊勢の山田から二里ばかりの在所に磯村といふ土地(ところ)がある。言ひ伝へによると、白拍子静(しらぴやうししづか)が母の磯禅師(いそのぜんじ)はこゝに住むでゐたのださうで、禅師の血統(ちすぢ)はその後も伝はつてゐるが、(うま)れる娘は皆醜婦揃(すべたぞろ)ひである。
 これは静が人並外れた美人だつたので、多くの男にも苦労をさせ、女自身にも悲しい事ばかり見て来たのを思ふと、もう美人は()り/\だとあつて、
 「娘が生れます事なら、いつそ醜女にしてやつて下さい。」
と神様に祈願を()めたのが、お引受になつたのださうだ。
 美人を生ませて下さいと、(ぐわん)を籠めたところで、神様は滅多に承引しては下さらないが、醜女(すべた)(はら)ませて下さいと頼むと、大抵はお引請(ひきうけ)になる。お引請になるのは、何も神様の手並が(まづ)くて、醜女(すべた)の方が丁度手頃なからでは更々ない。神様は女に哲学を教へようとなさるからだ。
 女は美人に生れると、悲哀(かなしみ)が多い、「芸術」が必要な所以(ゆゑん)だ。醜女に生れると絶念(あきら)めなければならぬ、「哲学」が無くてはならぬ訳である。哲学は蛇と共に女の一番嫌ひな物である。



最終更新日 2006年03月23日 15時48分23秒

薄田泣菫「茶話」「富豪の顔に(つばき)

富豪の顔に(つばき)
 希臘(ギリシヤ)のある皮肉哲学者が富豪(かねもち)()ばれた事があつた。哲学者が富豪(かねもち)に思想を説きたがるやうに、富豪(かねもち)はまた哲学者に自分の住んでゐる世界を見せぴらかしたいも
のなのだ。
 その富豪(かねもち)も皮肉哲学者に、自家の邸宅(ゃしぎ)を自慢したいばかりに、飾り立てた客室(ぎやくま)から、数寄(すき)を凝らした剪栽(うゑこみ)の隅々まで案内してみせた。
 「如何でげせう、これでも先生方のお気には召しますまいかな、(あつし)としては相応(かなり)趣向も(こら)した積りなんでげすが……」
 かういつて、富豪(かねもち)はその大きな顔を、哲学者の方へ()ぢ向けた。
 哲学者はそれには何とも答へないで、いきなり痰唾(たんつば)富豪(かねもち)の顔に吐きかけた。富豪(かねもち)西洋(トマ)()のやうに真紅(まつか)になつて(おこ)つた。
 「何をしなさるんだ。(ひと)の顔に(つばき)をしかけるなんて、余りぢやごわせんか。」
 皮肉な哲学者は落つき払つたもので、
 「いやはや余り結構づくめなお邸宅(やしき)なんで、(つばき)が吐きたくなつても、何処にも恰好な場所が見つからないもんですから、ついお顔を汚しましたやうな訳で…」
と別に(あや)まらうともしなかつた。
 勿論いつの時代でも富豪(かねもち)の顔と霊魂(たましひ)とは、数あるその持物のなかで、一番汚いに(きま)つてゐるが、それに(つばき)を吐きかけたのは流石に皮肉哲学者の()つけ(もの)である。
 一番無難なのは、哲学者なぞ御馳走しない事だが、もし(たつ)て饗ばなければならないとすると(渋沢男(だん)が孔子を先生扱ひにするやうに、一体富豪(かねもち)(すべ)て哲学者が好きらしい。何故といつて、孔子は色々(むつか)しい事を聴かせて呉れる上に滅多に金を貸せなぞ言はないから)何を忘れても痰壷だけは用意しておく事だ。



最終更新日 2006年03月23日 15時49分12秒

薄田泣菫「茶話」「大きな鼻」

大きな鼻
 むかし通尖(つうせん)上人といふ坊さんがあつた。内外諸宗にわたつて博識の名が隠れもなく、自分にも大分(だいぷん)それを自慢に思つてゐた。
 ある秋の()の事、お説教が済んで、上人はひどく気持が()ささうな顔をしてゐた。一体お説教とか講演とかいふものは、よく出来た場合は聴衆(きゝて)よりも演者(やりて)の方がずつと気持のいゝもので、基督のやうな真面目な男でさへ、名高い山の上のお説教を済ました(のち)は、すつかり()い気持になつて、汚い癩病患者なども直ぐ(なほ)してやつた。だから、お説教の済んだあとで、
 「どうも素敵でしたね。皆もすつかり感心しちまつて、もつと何か聴きたさうな顔をしてまさ。」
と言つてみるがいい。坊さんは屹度(きつと)袈裟(けさ)の袖をたくしながら、手品の隠し芸でもして見せるに(きま)つてゐる。
 通尖上人はすつかり上機嫌で、この分ぢやどんな難問が出ようとも、直ぐ解いて聞かせて呉れる。ほんとに吾ながら偉い博識(ものしり)になつたものだと高慢さうな顔つきで、附近(あたり)をじろく見まはしてゐると、だしぬけに隔ての障子が破れて、なかから大きな鼻が一つ飛出した。おやと思ふうちに、鼻はまたすつと(ちち)込んで障子はもとのやうになつた。
 流石の通尖も、これには度胆(どぎも)をぬかれてしまつた。変な顔をして暫く眼をぱちくさせてゐたが、すうと席を滑り下りたと思ふと、その(まゝ)見えなくなつてしまつた。あとでよく調べてみると、大樹寺(たいじゆじ)といふのに入つて専修念仏(せんじゆねんぶつ)(ぎやう)をおこなひ済ましてゐたさうだ。よく/\自力(じりき)には懲りたものと見える。
 寺内元帥なども、近頃少し高慢な相が見えて来た。今の内に誰か障子の(あな)から大きな鼻でも覗かせ
てやらなければならぬ。



最終更新日 2006年03月23日 15時49分46秒

薄田泣菫「茶話」「玉泉と緑青(ろくしやう)

玉泉と緑青(ろくしやう)
 ある画家(ゑかき)の使つてゐる(あか)の色が、心憎いまで立派なので、仲間は吸ひつけられたやうにその()の前に立つた。そして不思議さうに訊いた。
 「素晴しい色彩(いろ)ぢやないか、一体何店(どこ)で掘出して来たんだね。」
 画家(ゑかき)はそれに答へようともしないで、牛のやうに黙りこくつて、せつせと仕事に精出してゐたが、画が描けるに連れて、身体(からだ)はだんく衰へて来た。そして仕揚(しあげ)に今一息といふ際どい時になつて、刷毛(はけ)を手に持つた(まゝ)、画の前に突伏(つゝぷ)して倒れてゐた。仲間が死骸を片付けようとして見ると、画家(ゑかき)は耶蘇のやうに胸に(あな)があいて、孔からは真紅(まつか)な血が流れてゐた。仲間はそれを見ると、
 「色彩(いろ)だと思つたのは、自分の血だつたのか。」
声を揚げて驚いたといふ話がある。
 四条派の名家だつた望月玉泉が、晩年に京都のある高等女学校に、邦画の教師として一週幾時間か酸漿(ほほづき)のやうな真紅(まつか)な顔を(のぞ)けてゐた事があつた。普通(なみ)の絵具は生徙が買合せの安物の水絵具で辛抱してゐたが、緑青と群青(ぐんじやう)とだけは、自分の(うち)から懐中(ふところ)()ぢ込んで来てそれを生徒に売つてゐた。
 「これは緑青と群青やで。どつちやも高い絵具やが、貴女方(あんたがた)は力弟子やさかい、(やす)う負けといて一度分五銭にしときまつさ。」
 玉泉はこんなに言つてその緑青と群青とを使つた生徙からは、その場で五銭(つつ)受取つて(たもと)に投げ込んでゐた。
 生徒が草花(さうくわ)の写生でもすると、玉泉はじつと覗き込んで、
 「よう出来よつたな。それに緑青をお塗りやすと、ぐつと引立ちよる。お塗りやすいな、緑青を……」
といつたやうな調子で、つい懐中(ふところ)の緑青を押売する。
 もしか自分の血が好い絵具になる事を知つてゐたら、玉泉さんは緑青や群青の代りに(しな)ぴた自分の胸を切売(きりうり)したかも知れない。



最終更新日 2006年03月23日 15時50分04秒

薄田泣菫「茶話」「保証人」

保証人
 慶安太平記の由井正雪が大望(たいまう)を企てた時、その一味徒党には浪人ものが多かつた。これは当時の法度(はつと)として養子といふものを禁じた結果として、甚六でない二男三男四男五男……が有り余つた。
 養子に()くのは、戦争(いくさ)に出かけると同じやうに敵をそつくり生捕(いけど)るか、さもなければ身一つで逃げ出すだけの気転が無くてはならぬが、それでも養子に()けぬとなると、先を折られたやうな気持がするかして、こんな(てあひ)は養子に()けない鬱憤を晴らす為に大抵浪人になつた。
 この浪人者をどんなにして救済したかといふ問題を提示したのは穂積陳重博士。それをまた例の福本日南が、頭の禿に触られでもしたかのやうに博士に喰つてか\つて、往時(むかし)の事を疝気(せんき)に病むよりは、(いつ)そ博士の育てた高等遊民の救済法でも考へたがよからうと口を(とが)らせた。
 高等遊民も部類分けにすると色々あるが、なかで法学士が一番多い。この七月には又ぞろこんな(てあひ)が東西の両大学から一千人近くもぞろく這ひ出して来るのだ。
 彼等は今から養子口と()(くち)とを同時に捜してゐるが、何処へ往くにも紹介人や保証人が無くてはならぬ今日(こんにち)、一度出た門を急に後返(あとかへ)りをして厄介ついでに成るべく人の好ささうな教授連に紹介やら保証やらを頼み廻つてゐる。
 京大の跡部(あとべ)博士なども、
 「保証人になつたからといつて、証書に書いてある通り、の責任を負はなければならぬものなら、自分の(せがれ)の保証人になる者もあるまいて。保証書にあるやうな責任は負はない積りでこそ保証人にはなれるのだ。」
と言つて、頼まれると二つ返事でべたベたと印を()してゐる。
 それで()いさ、それで()いさ。実際保証書などはそれで()いが、どうか学間だけはよく吟味して教へて欲しいものだ。



最終更新日 2006年03月23日 15時50分22秒

薄田泣菫「茶話」「油が足リない」

油が足リない
 石油王ロツクフエラァが、ある時自動車に乗つて出掛けようとすると、直ぐ(そば)何家(どこ)()とも知れない六歳(むつつ)ばかりの小娘が立つてゐて、この富豪(かねもち)の顔をしげしげと見てゐるのに気がついた。
 一体富豪(ものもち)といふものは、十人が十人石のやうに冷たい顔をしてゐるもので、平素(ふだん)人形や阿母(ニか)さんやの莞爾(にこ/\)した顔を見馴れてゐる子供にとつては、まるで別世界の感じがするに違ひない。
 「叔父(をぢ)ちやん、何処へ()くの、自動車へ乗つて。」
 子供は不思議さうに訊いた。もしか同じ問が紐育(ニユヨヨ ク)の新聞記者からでも訊かれたのだつたら、ロツクフエラァは急に感冒(かぜ)をひいたやうな顔をして、大きな(くさめ)でもしたのだらうが、相手が可愛(かあい)らしい子供だけに、にこ/\して、
 「さあ、何処へ出掛けようね。叔父さんは(いつ)そ天国へでも()きたいんだが。」
と、いつもに似げなく冗談口をきいた。
 子供はそれを聞くと、吃驚(びつくり)したやうに眼を(まる)くした。
そして気の毒さうに言つた。
 「お()しなさいよ、叔父ちやん。天国へ行くには油が足りない事よ。」
 「さうか油が足りないか。」
 ロツクフエラアは子供の言つた事を繰返しく、首を()められた家鴨(あひる)のやうな顔をして、暫くは其処(そこ)衝立(つゝた)つてゐたさうだ。
 「天国へ()くには油が足りない。」
 子供といふものは(うま)い事を言ふものさ。富豪(かねもち)はどこの国でも(みんな)油の足りない連中(ばかり)だ。



最終更新日 2006年03月23日 15時50分45秒

薄田泣菫「茶話」「男女の幽霊」

男女の幽霊
 ある男が寺へ泊つた事があつた。夜が更けて眼が覚めてみると、誰だか障子の外でひそく話をしてゐるのが聞える。気になるものだから、起き上つて窓から見ると、あかるい月明りの下に男と女とが立つてゐる。男は二十四五の、草臥(くたび)れたやうな顔、女は六十ばかりの皺くちやな(ばあ)さんで、談話(はなし)の模様でみると、親子といふやうな調子があつた。
 男は幽霊か知らとは思つたが、それにしても二人の年齢(とし)が一向合点(がてん)()かないので、その儘夜明(まゝよあけ)を待つた。東が(しろ)んでから、二人が立つてゐた附近(あたり)へ往つてみると、小さな合葬の墓があつて無縁になつてゐる。訊いてみると、墓の主人(あるじ)は大分以前二十四五で亡くなり、その女房は久しく生き延ぴて、洗濯婆(せんだくばゞ)となつて暮しを立ててゐたが、二三年前に六十幾つかで死んだのでここに合葬したのださうだ。
 それを聞いた寺の住職は、
 「無縁だし、加之(おまけ)に月がよいので、二人とも遊ぴに出たのだつしやろ。」
と言つてゐたが、二人とも丁度亡くなつた年齢(とし)相応の姿をしてゐたのには笑はずには居られなかつた。
 男にせよ、女にせよ、連添(つれそひ)に死別れてから、四十年も生き延びてゐると、(いろん)々な面白い利益(ため)になる事を覚えるものだ。洗濯婆(せんだくばあ)さんだつて六十迄も(ながら)へてゐるうちには大英百科全書にもないやうな智識も()たに相違ない。さういふ智識から見れば、二十四五で死んだ亭主は(まる)で子供のやうで()ひ足りなかつたらうと思はれる。
 それを思ふと、情死(しんぢゆう)する場合の他は、相手に二()の約束だけはしない方がよい。多くの場合、女は男よりも長生(ながいき)をするものだが、来世で皺くちやな女の顔を見るのは、男にとつて胃の薬を飲むよりも(つら)いものだ。だが、それよりも辛いのは、(いろん)々な事を知つた女が、(うぶ)で、無垢な昔馴染の男に出会つた時の事で、女はそんな時には、(きま)つたやうに頭の()を掻きく、その後呪懇(なじみ)になつた男の数を懐中(ふところ)()みながら、
 「もう何時でせうね。」
と時間を訊きたがるものなのだ。よく言つておくが、女が時計の針を気にするのは、大抵逃げ出したい時に限る。



最終更新日 2006年03月23日 15時51分27秒

薄田泣菫「茶話」「神樣と接吻(きつす)

神樣と接吻(きつす)
マベル・ボードマン嬢といふのは、米国の赤十字社でちやき/\の働き手だが、嬢の意見によると、赤十字の勤務(つとめ)は、ひとり戦時のみでなく、平常(ふだん)の衛生状態をも、もつと立派にし、そして出来る事なら天国へ送る死人の健康状態をも申分の無いものに()なければならないのださうだ。
 嬢は先頃南米地方へ旅行をした事があつた。その折ある地方で、皮膚(はだ)の赤茶けた土人が、地面(ぢべた)踵鋸(はひつくば)つて玉蜀黍(たうもろこし)煙管(パイプ)(やに)くさい煙草をすぱすぱやつてゐるのを見かけた。
 ボードマン嬢は雌狗(めいぬ)のやうに鼻を動かした。そして言つた。
 「爺や、お前そんな脂臭い呼吸(いき)をして天国へ往けるとお思ひかい。」
 「ひひひ……」と土人は歯の抜けた口で笑ひ出した。
脂臭(やにくせ)呼吸(いき)だと言はつしやるが、おいら死ぬ時や呼吸(いき)引き取りますだよ。」
 むかし道命(どうみやう)といふ名高い坊さんがあつた。怖ろしく声の()い人で、お経を()むと、その調子が自然に律呂(りつりよ)(かな)つて、まるで音楽でも聴くやうな気持がするので、道命が法華(ほつけ)を誦むとなると、大峰( ほみね)から、熊野から、住吉(すみよし)から、松尾(まつのを)から色々の神様が(きく)々聴きに来たものだ。そんな折には、道命は一寸後を振り向いてみて、
 「今日も神様が来てるな……」
と、得意になつて一段と声を張り上げたものださうな。
 道命は和泉式部と好い仲だつた。(道命だつて男だから女を愛するのに不思議はないが、僧侶(ばうず)といふ身分に対して(ちと)不都合だと思われる( むき)は、どうか成るべく内聞にして置いて欲しい。道命も名僧だし、和泉式部も聞えた歌人(うたよみ)の事だから。)ある夜式部の(うち)で寝て、(あく)る朝何喰はぬ顔で寺へ帰つて、(いつも)のやうに法華を誦みにか\つた。
 ふと後方(うしろ)を振り返つてみると、い?も見馴れた立派な神様達の代りに薄汚い乞食のやうな仏様が一人居る。道命はお経を誦みさして訊いた。
 「貴方は誰方(どなた)ですかい。」
 仏様は一寸お辞儀をレた。
「私は五条西洞院辺(にしのとうゐんへん)にゐる仏ぢやが、つね人、評判のお前様の読経を聴きたいくと思つてゐたが、平素(ふだん)梵天帝釈(ぼんてんたいしやく)などのお入来(いで)があるので遠慮してゐた。所が今日はお前様の身体(からだ)(けが)れてゐるから、他様(ほかさま)はお出でがない、そこで()つて来ましたぢや。」
 成程気がついてみると、道命は前の夜和泉式部と好い事をした口を、その儘漉(まゝすゝ)がないでお経を誦んでゐたのだつた。



最終更新日 2006年03月23日 15時51分52秒

薄田泣菫「茶話」「俳優(やくしや)の家庭」

俳優(やくしや)の家庭
 ある時門司(もじ)で若い芸妓(げいしや)が病気で亡くなつた。流行(はやり)()だけあつて、生きてゐる(うち)には、(いろん)々な人に愛相(あいそ)よくお世辞を言つてゐたが、亡くなる時には誰にも相談しないでこつそり息を引取つた。
 枕許(まくらもと)に坐つて看護をしてゐた妹芸者が、何か言ひ残す事は無いかと(たつ)ねると、
 「三毛猫を空腹(ひもじ)がらさんやうに頼みまつさ。」
と言つて寂しさうに笑つた。(くれぐ)々も言つておくが、その芸者が最後まで気にかけてゐたのは、三毛猫の事で、贔損筋(ひいきすぢ)のお医者さんや、市会議員を空腹(ひもじ)がらせるなと言つたのでは更々ない。
 その事が土地の新聞に載つたのがふとした事で俳優(やくしや)の鷹治郎の目に止つた。鴈治郎はその折玉屋町(たまやまち)の自宅で、弟子に按摩(あんま)()ませながら新聞を読んでゐた。で、その芸者の亡くなつた記事が目につくと「()」と言つたが、直ぐ顔を揚げて(せがれ)の長三郎を呼んだ。
 「長公、長公は居やへんか。」
 長公は隣の(へや)から返事をした。
 「何や、阿爺(おとつ)さん。」
 鴈治郎は声のする方を覗き込むやうに一寸首を伸ばした。
 「そこに居よつたんか。お前あの門司の△△はんと関係があつたんやろ。そやなあ。」
 長三郎は他事(ひとごと)でも訊かれたやうな軽い調子で答へた。
 「ふん、関係しとつた。()うしたんや、それが。」
 「△△はん、死によつたぜ。」
 「さよか。」
 長三郎は起き上らうともしなかつた。彼は腹這(はらばひ)になつて、舶来の玩具(おもちや)(ひね)くつてゐるのだ。
 親子が顔をも(あか)めないで、平気で自分の情事(いろごと)を話し合つてゐるのが俳優の家庭である。舞台で人生を演活(しいか)すためには、平素(ふだん)からかうした(とら)はれない情態が必要なのか、それとも舞台の心持が家庭生活にまで伝染(うつ)つてゆくのだらうか。
 孰方(どちら)とも真実(ほんとう)だらう。そしてもつと真実(ほんとう)なのは、親子のどちらもに取つてこれが一番都合がよいからであらう。



最終更新日 2006年03月23日 15時52分12秒

薄田泣菫「茶話」「女の途連(みちづ)れ」

女の途連(みちづ)
七月三十一日午後六時(すぎ)の事、阪神電車の梅田停留場から神戸行の電車に乗込んだ。(ベル)が鳴つて電車がこれから出かゝらうとした時、席の真中程から(あわたど)しく衝立(つトた)ち上つた若い男がある。
 その男は目敏(めさと)く自分の両側を見渡した。
 「()うだ。みんな野郎ばかりだ。女気(をんなけ)といつたらこれつぱかしも居やしない。」
と誰かに話しでもしてるやうな調子で、
 「次ぎを待たう、次ぎまで待たなくつちや仕方が無い。」
と言ひ捨ててあたふた下りて往つた。
 皆は気が()いたやうに(カア)のなかを見渡した。成程男ばかりだ。揃ひも揃つて、安つぽい顔に安つぽい帽子を(かぶ)つた男ばかりだ。
 「成程野郎ばかりだな。は、ゝ……」
 誰かが詰らなささうに笑つたが、それでも誰一人続いて下りようとはしなかつた。
 下りた男は何所(どこ)の誰か判らない。女が好きなのか、男が嫌ひなのか、それも判らない。次ぎの電車で望み通りに若い美しい女と差し向ひに坐る事が出来たらうか、それもまた判らない。
 女は教会へ()くにも、地獄へ落ちるにも()道連(みちづれ)たるを失はない。真実(ほんと)の事をいふと、始終(しよつちゆう)一緒に居ても厄介なものだが、さうかと言つて、離れても居られないのが女の取柄である。
 男ばかりの電車は、少し逆上気味(のぽせぎみ)(けもの)のやうに風を切つて飛んだが、(やつ)大物(だいもつ)まで来て一人の女を乗せる事が出来た。女といふのは、四十(ぢか)い、四角い顔をした、愛国婦人会の幹事でもしさうな女だ。
 辛抱するさ、婦人会の幹事でも女には相違ないのだから。



最終更新日 2006年03月23日 15時52分35秒

薄田泣菫「茶話」「北畠男(きたばたけだん)の帽子」

北畠男(きたばたけだん)の帽子
英国の文豪キプリングが、ある時米国の雑誌が見たいから、五六種送つて欲しいと、紐育(ニユ ヨさク)にゐる友達の(とこ)へ頼んでよこした事があつた。
 米国の雑誌はいづれも広告の(ベエジ)がどつさりあるので、知られてゐる。キプリングの友達は、幾らか郵税を倹約(しまつ)したい考へから、広告の頁だけ引裂いて、残つた内容を一(まと)めにして送つて(よこ)した。
 キプリングは包みを(ほど )いてみると、雑誌はみんな広告の頁だけ引き裂かれてゐる。何故だらうとキプリングは小首を(かし)げたが、それが郵税の節倹(しまつ)からだと聞いて、文豪は蟹のやうにぶつぶつ(おこ)り出した。
 キプリングの言ひ条では、米国の雑誌は広告欄が面白いので取柄がある。内容と広告と敦方(どちら)に新知識が多いと訊かれたら、誰だつて選択に迷はない筈だ。
 「そんなに郵税が節倹(しまつ)したかつたら、内容の方だけ引裂いて呉れればよかつたに。」
と、友達まで不平を申込んださうだ。
 世の中には米国の雑誌みたいな人も少くない。法隆寺にゐる北畠男爵などはその一(にん)で、暴風(あらし)のやうなあの人一流の法螺(ほら)は一寸困り物だが、夏帽だけはパナマの良いのを着けてゐる。もしかキプリングの友達のやうに、郵税を節倹(しまつ)しなければならないとすると、「男爵」は捨ててしまつても、あの帽子だけは撰びたいものだ。




最終更新日 2006年03月23日 15時53分00秒

薄田泣菫「茶話」「食物と格言」

食物と格言
 むかし滝川(たきかは)雪堂といふ男が百人組の(かしら)になつて、当直の行厨(べんたう)につかふ食器を新しく(こしら)へた。その(ふた)に食事をする(たび)に、見て心得になるやうな文句を書いて欲しいと、学者の大郷(おほがう)信斎に頼んで(よこ)した。信斎は佐藤一斎()の先輩で、鯆江(さばえ)侯〔間部詮勝(まなべあきかつ)〕のお抱へ儒者であつた。
 信斎は自分の学問の底を(はた)いて、色々利益(ため)になりさうな名句を拾ひ集めては比べてみたりした。そして(やつ)と出来上つたのが、(ひら)の蓋に、
 「咬得菜根百事可做(さいこんをかみえばひやくじなすべし)
汁の蓋に、
 「不素餐兮(そさんせず)
飯の蓋に、
 「粒々皆辛苦(りふ/\みなしんく)
といふ固苦しい文字であつた。言ふまでもなく(わう)信民や、朱雲や、李紳の往事(むかしごと)から拾つて来て戒めたのだ。
 役人とか会社の重役とかの弁当箱には是非書いておきたいやうな文句だが、普通(たど)の人には一寸咽喉(のど)(つか)へさうで砂けない。こんな文句を毎日眼の前におきながら、弁当をぱくついてゐた雪堂といふ百人頭は性来齦(うまれつきはぐき)(つよ)い、胃の腑の素敵に丈夫な男だつたらしい。
 そこへ持つて()くと、売酒郎嗜(ばいしゆらミわいく)々が、所謂七()の絹で七度漉(たびこ)した酒を飲ませたといふ、東山の竹酔館は、表の招牌(まねきかんばん)も、
 「この(みせ)下物(かぶつ)、一は漢書(かんしよ)、二は双柑(さうかん)、三は黄鳥(くわうてう)(せい)
といふ洒落た文句で、よしんば(っまさ)(かな)一つ無かつたにしろ、酒はうまく飲ませたに相違ない。
 鈑を食ふにも、酒を飲ませるにも、それと一緒に想像を喰べさせなければ嘘だ。肉皿に新しい野菜と想像とを一緒に(つま)む事の出来る細君にして初めてお台所を(まか)せる事が出来る。



最終更新日 2006年03月23日 15時53分51秒

薄田泣菫「茶話」「毒草(どくぐさ)の味」

毒草(どくぐさ)の味
 幸田露伴民が今のやうに文字の考証や、お説教やに浮身(うきみ)(やつ)さない頃、春になると、饗庭篁村(あへばくわうそん)氏などと一緒に面白い事をして遊んでゐた。
 それは他でもない、仲間が五六人行列を作つて、味皓を盛つた小皿を掌面(てのひら)に載せて野原に出る。そして真先に立つた一人が、其辺(そこら)道傍(みちばた)に芽ぐんでゐる草の葉を摘むで、それに味噌をつけて食べると、(あと)に続いた者は順繰(じカんぐり)にその葉を摘取(つみと)つて食はなければならぬ。
 先達(せんだち)は仲間を懲らさうとして、(わざ)と名も知らぬ草の葉に手をつけるが、それがどんな変てこな草だらうが、先達が食つたとあれば、仲間は(いや)でもそれを口にしなければならぬ。
 (たま)には見るく先達(せんだち)の唇が腫上(はれあが)るやうな毒草にも出会(でくは)したが、仲間は滅多に閉口しなかつた。
 「なに、文久銭と蟹の甲殻(かふら)の他だつたら、味噌さへ附ければ、どんな物だつて食べられまさ。」
 こんな事を言ひ合ひながら、負けぬ気になつて、味噌をつけてはばり/\毒草の葉を噛んだ。丁度(のち)になつてどんな物事にも理窟をつけては()み込み嚥み込みするやうに。
 で、(もの)の五丁も歩くと、今度は先達(せんだち)を代へて、また同じやうな事を繰返すのだ。()の悪い日になると夕方家に帰る頃には、皆の両唇が(むく)み上つて(ろく)に物も言へなくなつたやうな事さへあつた。
 「お蔭で食べられる草と、食べられない草との見別(みわけ)はちやんと附くやうになりました。」
と露伴氏は今でも言ひくしてゐるが、真実(ほんと)に結構な事さ。
 人間はひよつとした神様の手違(てちがひ)で、後の世に牛か馬かに生れ代る事が無いとも限らないのだから。



最終更新日 2006年03月23日 15時54分11秒

薄田泣菫「茶話」「殿様の(へそ)

殿様の(へそ)
 ある薩摩の殿様に、九十を過ぎても色々の道楽に憂身(うきみ)(やつ)さないでは居られないやうな達者な人があつた。
 (かぞ)ふる道楽のうちで、殿様は一番変り種の小鳥や(けもの)が好きで、自分の力で于に入れる事が出来る限り、いろんな物を飼つて(たの)しんでゐた。
 英雄僧マホメツトも(ひど)く小猫を可愛(かあい)がつたもので、ある日なぞ衣物(ぎもの)の裾に寝かしておくと、不意に外へ出掛けなければならない用事が持ち上つた。だが可愛い猫は起したくなしといふので、わざく大事の衣物(きもの)の裾を剪刀(はさみ)でつみ切つて()ち上つたといふ事だ。
 政治家のリセリウもまた愛猫家として聞えてゐるが、死ぬる時には遺言で、莫大の遺産金まで猫に呉れてやつた。猫がその遺産金を()(つか)つたかは、自分がその相談に(あづか)らなかつたから、よくは知らないが、唯愛国婦人会や赤十字社に寄附しなかつた事だけは事実らしい。
 薩摩の殿様は、ある日籠のなかから、栗鼠(りす)(ふくろ)とを取出させて喧嘩をさせてみた。栗鼠も棄も詮事(せうこと)なしに喧嘩をおつ初めたが栗鼠はふだん殿様が自分を可愛がつて呉れるのは、自分の芸が見たいからだらうと思つて、籠のなかで飜斗返(とんぼがへ)りばかり稽古してゐたので、こんな喧嘩にはすつかり用意が欠けてゐた。で、棄のために散々に(つゝ)かれた。
 栗鼠は逃足になつて、いきなり殿様の懐中(ふところ)に飛び込んだが、(くや)しまぎれに厭といふ程主人の臍を噛んだ。
 殿様はその(せゐ)で四五十日ばかり傷療治をしなければならなくなつたが、傷が治つた(あと)でも、別段賢くはなつてゐなかつた。賢くなるには余りに(とし)を取り過ぎてゐたから。老人(としより)といふものは、こんな揚合にも、粟鼠が狂者(きちがひ)だつたとか、臍がうつかりしてゐたとか、()て言訳をしたがるものなのだ。



最終更新日 2006年03月23日 15時54分37秒

薄田泣菫「茶話」「醜男(ぶをとこ)

醜男(ぶをとこ)
 女流文学者として盛名を伝へられてゐる某女史が、一夏(ひとなつ)男の友達五六人と、信州辺のある山へ避暑旅行を企てた事があつた。
 東京を立つて初めての()、一行は山の上の旅宿(はたごや)で泊る事になつた。旅宿(はたごや)には大きな部屋が無かつたので、一行は廊下を隔てた二つの(へや)に分宿しなければならなかつた。
 女流文学者は、
 「あたし女の事で、草臥(くたびれ)てますから、お先へ失礼します。」
と言つて、皆の食事が済むか済まないうちに、一つの蚊帳(かや)に入つてしまつた。
 男達五六人のなかに、一人の美男子(びだんし)と一人の醜男とが(まじ)つてゐた。顔の見つともないのは、頭の悪いのと同じやうに恥づぺき事で、葛城(かつらぎ)の神様などは、顔が醜いのを(はづか)しがつて、夜しか外を出歩かなかつたといふ事だ。それだのに一人の醜男は無遠慮に皆と同じやうに口を()けて食つたり笑つたりしてゐた。
 女流文学者はそれを心憎い事に思つた。そして出来る事なら、自分と同じ蚊帳には、片つ方の美男子を寝させたいものだと思つた。
 女流文学者はいつの間にかぐつすり寝込んだ。そして夜半過(よなかすぎ)に眼をさまして見ると自分の次ぎの床には、例の醜男が口をあんぐり()けて眠つてゐた。女流文学者は毎月晦日(みそか)には(きま)つて厭世観を起す例になつてゐるが、(しか)しこの瞬間ほど世の中を厭に思つた事はない。
 女流文学者は信州の山から下りて来ると、(ちゆう)(ぱら)の気味で、
 「私が醜男を避けて、美男子と一つ蚊帳に居たいと思つたのは、好色の念からでせう。ですが、恋愛は非難される場合もありませうけど、好色は美に伴ふもので、結構な事だと思ひますよ。」
と言ひ言ひしてゐる。
 何も心配する事はない、好色は結構な事さ。油断すると醜男が同じ蚊帳に寝てるやうな、(まゝ)ならぬ世の中だ。好色位結構な事にしておくさ。



最終更新日 2006年03月23日 15時54分54秒

薄田泣菫「茶話」「女博士(をんなはかせ)

女博士(をんなはかせ)
 ケエリイ・トォマス嬢といヘば、かなり聞えた女博士(をんなはかせ)で、今は威耳斯(ヱきルズ)のブラン・モウル大学の校長を勤めてゐる。
 トォマス嬢はある日の夕方(ゆふかた)美しく刈込まれた学校の校庭(カムパス)を散歩してゐた。晩食(ばんめし)消化(こなれ)のい丶物でうまく食ぺたし、新調の(くつ)繊細(きやしや)な足の裏で軽く鳴つてゐるので、女博士(をんなはかせ)はすつかりいい気持になつた。そして出来る事なら天国へ( )く折にも、こんな消化(こなれ)のいい物を食つて、こんな軽い(くつ)穿()いてゐたいと思つた。
 だしぬけに寄宿舎の一()からけたたましい騒ぎが聞えた。拍手の音さへそれに(まじ)つてゐる。
 「何事だらう。」
女博士(をんなはかせ)は静かな眉尻に一寸皺を寄せた。そして天国の黄金(きん)梯子(はしご)でも下りるやうな足つきをしてかたことと廊下を(あゆ)んで、騒ぎの聞える一室の前に立つた。
 トオマス嬢はとん/\と()を叩いた。
 「どなた。」
 内部(なか)から誰かが訊いた。
 「It is me.(イテイスミイ)ミス・トオマスですよ。」
博士(はかせ)は静かに返事をした。
 「違つてよ。しとなかから突走(つつばし)つた声が聞えた。「トオマス博士(はかせ)だつたら、『It is me.(イテイスミイ)』なんて仰有(おっしゃ)らずに、『It is I.(イテイスアイ)』と仰有つてよ。」
 女博士(をんなはかせ)は困つたなと思つてその(まゝ)そつと逃げ出さうとしてゐると、内部(なか)から()()いて悪戯盛(いたづらざか)りの女学生が「ばあ」と言つて顔を出した。
 岩野清子のやうに、自分の離婚問題にも、婦人全体のためだと気張つてゐる女は、かういふ折には屹度(きつと)「We(ヰイ)。」とでも言ふだらう。ああいふ女は、物を考へる折には「(わたくし)」といふ事を忘れて、新聞の論説などと同じやうに「We」といつて考へ出すことになつてゐるから。


最終更新日 2006年03月25日 11時27分20秒

薄田泣菫「茶話」「儒者の独身」

儒者の独身
 西依(にしより)成斎は肥後生れの儒者で、京都の望楠書院で鳴らし、摂津の今津(いまづ)へも十年ばかり住むでゐて弟子取(でしとり)をしてゐたので、京阪(かみがた)ではよく名前が通つてゐる。
 その成斎の弟子に、(たびく)々色街へ出掛けて、女狂ひに憂身を(やつ)してゐる男があつた。いろ/\と両親が異見をしてみても、一向効力(きしめ)が無いので、
 「一つ先生様の御力で……」
といふ事になつた。
 成斎はその弟子を呼びつけた。そしてたつた今朱文公に会つた(かへ)(みち)だといふやうな生真面目な顔をして、
 「お前はこの頃(しぎり)と色町に出浮(でう)くさうだが、()しからん事だ、以後は屹度(ぎつと)慎んだがよからう。」
高飛車(たかびしや)に叱りつけた。
 弟子は先生の剣幕のひどいので、両手を膝の上に揃へて、鼠のやうに縮み上つてゐると、成斎は変な眼つきをしてその手首を見つめた。若い弟子の手首は(をんな)の握り易いやうに繊細(きやしや)に出来てゐた。
 「廓通(くるわがよひ)といふものは、第一金が掛るばかしでなく、身体(からだ)の養生にならない。(わし)などはそんな遊びを()めてから、今年でもう廿年にもなるが、その(せゐ)かしてこんなに達者になつた。」
と言つて、先生は大きな両手を、弟子の鼻先でふり廻してみせた。成程(うで)(ぶし)(つよ)さうに出来てゐるが、その二十年といふもの、金なぞたんまり握つた事の無ささうな掌面(てのひら)だなと弟子は思つた。
 弟子は(おそ)る/\先生の顔を見た。
 「有難うございました。ーお言葉は夢にも忘れないやうに心掛けませう。」といつて叮嚀にお辞儀をした。
「で、一寸伺ひますが、先生は当年お幾つでいらつしやいます。」
 成斎は案外叱言(こごと)効力(きゝめ)が早かつたのと、自分の達者な腕っ節に満足したらしく、声を()げて笑つた。
 「(わし)かの、(わし)は当年九十三になる。」
 「してみると……」
 弟子は先生が道楽を思ひ(とま)つたといふ二十年前の(とし)を繰つてみた。そして眼を円くして驚いた。言ひ忘れたが、成斎は生涯独身で暮した男である。



最終更新日 2006年03月23日 16時10分06秒

薄田泣菫「茶話」「クンカン」

クンカン
 亡くなつた上田敏博士は晩年、京都知恩院境内の源光院にある広岡氏の別荘に間借をして住んでゐた。
 その広岡氏と博士とがある時祗園の大友(だいとも)へ遊びに往つた。大学教授には二(いろ)あつて、一(いろ)は芸者を女中のやうに「お前」と呼びつけ、一(いろ)はお嬢さんのやうに「あなた」と言つてゐる。博士は後者の方で、どの芸者をも「あなた」呼ばはりをするので、芸者の方でも「(びん)さん/\」と近しくなつてゐた。
 その頃から少し加減の悪くなつてゐた博士は一足先きへ帰つた。夜半(よなか)過ぎ広岡氏が(うち)へ帰つてみると、博士はまだ起きて東京にゐる瑠璃子さんに手紙を書いてゐた。
 博士は階段(はしど)から顔を(のぞ)けた広岡氏を振のかへつた。
 「まあ、お上りなさい。私が帰つてから何かはずみましたか。」
 広岡氏はのこく上つて博士の前に坐つた。
 「(はず)みましたとも。あれから(こども)達と一緒にクンカンなんか()りましてね。(ひど)(はしや)ぎましたよ。」
 博士は「クンカン?」といつて、一寸小首を(かし)げたが、その儘起上(まゝたちあが)つて書棚から新版の辞書を引下(ひきおろ)して来た。そして物の十五分も黙りこくつてあちこちを繰つてゐたが、(やつ)と何か見つかつたらしく、上品な声で「はは……」と笑つた。実際上品な声で、古文書(こもんじよ)の入つた桐の箱が笑ひでもしたら、あんな声をするだらうと思はれた。
 博士は辞書を伏せて、
 「クンカンぢやありません。カンカンですよ。あれはタンゴ(をどり)などと一緒に最新の流行ですが、もう日夲に来てるとは驚きましたね。この次に往つたら是非見せて(いたど)きませう。」
 広岡氏は辞書といふものは(いろん)々な事を教へて呉れるものだと感心した。そしてそれからといふものは博士の前では忘れてもクンカンの事は(おくび)にも出さないやうにしてゐた。祇園の芸妓(げいこ)は辞書と同じ物識(ものしり)だとも思へないのだから。



最終更新日 2006年03月23日 16時10分26秒

薄田泣菫「茶話」「大発明」

大発明
 三高教授の安藤勝一郎(しようロらう)氏は人も知る音楽学校の安藤幸子(かうこ)女史の亭主で、幸子女史と比べると、ずつと女性的の優しい顔立を持つてゐる。
 良人(をつと)は三高の語学教授で京都に住み、細君(かない)は音楽学校のヴイオロニストで東京に居るのでは、(まる)で七夕様のやうに夏休みを(たのし)む他には、いい機会もあるまい。(いつ)そ幸子女史が音楽の先生なぞ()めてしまつて、京都へ来て世話女房になるか、それとも安藤氏が語学の教師を思ひ(とど)まつて、東京へ帰つて、嬰児(あかんぽ)(もり)でもするか、二つに一つ、どちらかに決めて(しま)ヘば()かりさうなものだのにと飛んだおせつかいを言つてる(むき)も無いではない。
 だが、心配するが物はない。必要は色々な事を教へるもので、安藤氏夫妻はこの頃になつて素晴しい発明をした。実際驚くべき発明で、こんな発明が猿のやうな日本人の頭から生れようとは、どんな国贔損(くにびいき)人達(ひとだち)でも(おも)()けなかつた事だらう。
 発明とは他でもない。汽車を利用する事で、安藤夫妻は、毎週土曜日の課業が済むと、一人は京都から、一人は東京から汽車に乗つて、静岡で落合ひ、日曜日一日を思ふ(さま)楽しく過して月曜日の朝までにはそれぞれ学校へ帰り着くといふ寸法だ。「日曜日」と「汽車」とは電話や巡査(おまはり)さんと同じやうに、幾ら利用しようとも利用し過ぎるといふ法はないのだから。
 恋をするものにとつて、こんな結構な媒介(なかだち)があらうか、それを思ふと、今日まで兵隊や氷詰(こほりづめ)の魚ばかし輸送してゐたのは勿体ないやうな気持がする。それから、これは極内(ごくない/\)の話だが、汽車には寝台車といふものがあつて、相当の料金さへ出せば、誰にも顔を見られず、一人で(カヨテン)のなかで思ひ出し笑ひが出来る仕掛になつてゐるさうだ。有難い世の中さ。



最終更新日 2006年03月23日 16時11分04秒

薄田泣菫「茶話」「紋どころ」

紋どころ
 紋所といふもの、もとは車の紋から起きたといふ説があるが、真実(ほんとう)の事か()うか知らない。徳川家が(あふひ)を紋所に用ゐるやうになつたのにも、色々な伝説がある。
 酒井家の説によると、家康の祖父清康が岡崎にゐた頃(いくさ)があつた。酒井家の主人は気の利いた男だと見えて、円盆(まるぼん)に勝栗を盛つて主人の前へ差し出した。
 清康はそれをじつと見て、
 「ほ丶う、勝栗ぢやの、これは縁起がいゝ。」
といつて、(こは)つぱしい掌面(てのひら)にそれを取り上げたと思ふと、ばりばり音をさせて噛んだ。
 栗の下には葵の葉が二三枚()いてあつた。その日の(いくさ)は無事に徳川家の勝となつたので、清康は記念に葵の葉を紋所に使ふやうになつたといふのだ。
 本多家ではまた(ちが)つた伝説を持つてゐる。本多家の祖先(なにがし)はもと加茂の社家(しやけ)であつたが、豊後の本多荘(ほんだのしやう)に流されたので、本多を名乗るやうになつた。
 加茂の社家だつただけに本多家では二葉葵を紋所に使つてゐると、それを清康が見て、
 「いゝ紋ぢや、俺の(うち)で使ふ事にしよう。」
と言つて勝手に取り上げて(しま)つた。もとく加茂の二葉葵には長い葉茎(はぐき)がくつ附いてゐるのだが、清康はそんな物は無益(やくざ)だといつて摘み切つてしまつた。家康の祖父(ぢい)さんだけにこんな事にも(しみ)つたれだつたと見える。
 ラフカヂオ・ヘルン又の名小泉八雲氏は時偶(ときたま)日本服を着る事があつたが、羽織の紋にはヘルンといふ自分の名からもじつて蒼鷺(ヘロン)をつけてゐた。鷺はヘルン氏の紋として恰好な動物であつた。
 京都にある若い画家(ゑかき)があつた。()(まづ)かつた(せゐ)か、度(たび/\)女に捨てられた。だが、()うしても絶念(あきら)められなかつたと見えて、羽織の紋所には、捨てられた女五人の名前を書き込んで平気でそれを()てゐた。羽織は最初に見捨てた女が(こさ)へてくれたので、()は薄かつたが、女の心よりは長持もしたし、値段も幾らか張つてゐた。



最終更新日 2006年03月23日 16時11分27秒

薄田泣菫「茶話」「男装婦人」

男装婦人
 獅子や驢馬(ろぱ)と共同生活を営んでゐた仏蘭西の女流画家ロザ・ボナアルは、何処に一つ女らしい(ところ)のない生れつきで、夕方野路(ゆふかたのみち)でも散歩してゐると野良(のら)がへりの農夫達(ひやくしやうだち)は、
 「へい、檀那様、今晩は。」
と丁寧にお辞儀をして、別れ際に(あと)をふり(かへ)つて、
 「あの小柄な檀那衆はいつも今時分此辺(こゝいら)稍祥(ぶらつ)いてるな。」
と朋輩に言ひ言ひしたものださうな。
 米国にメエリイ・ヲルカアといふ有名な婦人がある。この婦人は他の事でもつと聞えてもよいのだが、(しあはせ)不幸(ふしあはせ)か、いつも男装をしてゐるので、それで一層名高くなつてゐる。
 なぜ男装してゐるかに就いて、この婦人の(こた)へは至極(しごく)はつきりしてゐる。
 「私にとつては女着(をんなき)(はかま)よりも、ヅボンの方がずつと気持がよござんすから。」
 尤もな理屈で、かういふ勇気のある婦人は、素足がヅボンよりも気持がいゝ事を知つたら、思ひ切つてそのヅボンをも脱ぎ捨てるかも知れない。
 ある時この婦人がマサチウセッツの某市(なにがしまち)へ旅をした事があつた。途中で道を迷つて(ひど)く当惑してゐるところへ、農夫(ひやくしやう)が一人通りかゝつた。農夫(ひやくしやう)といふものは、
どんな時にでも、どんな所へでもよく通りかゝるもので、基督がお説教をしたがつてる時にも、追剥(おひはぎ)が物を欲しがつてる所にも(えひ)農夫(やくしやう)がそこへ通り合はせる。そして霊魂(たましひ)()られたり、外套を()(ばが)されたりする。農夫(ひやくしやう)といふものは、四福音書へ出るにも、探偵小説へ出るにも、(ごく)日当が(やす)くて、加之(おまけ)に物が解らないから手数(てすう)が掛らなくていゝ。男装婦人はその農夫(ひやくしやう)に訊いた。
 「一寸お訊ねしますが、某市(なにがしまち)へはこの道を()きますか。」
 「あゝ、おつ魂消(たまげ)た。」農夫(ひやくしやう)は眼をこすり/\言つた。
(おら)はあ、何にも知んねえだよ。お(めえ)様のやうな女子(あまつこ)みたいな男初めて見ただからの。」
 折角柔かい乳房を持ちながら、男のやうな硬い考へ方をする婦人(をんな)がある。正直な農夫(ひやくしやう)め、そんなのを見たら、どんなに言ふだらう。



最終更新日 2006年03月23日 16時11分59秒

薄田泣菫「茶話」「博士の逆立(さかだち)

博士の逆立(さかだち)
 蕪村の()の門人に田原(たはら)慶作といふ男がある。ある日の()(がた)に師匠を訪ねると、蕪村の(うち)では戸を締め切つてゐる。(よひ)(ばり)の師匠だのに、今日に限つて早寝だなと慶作は思つた。(蕪村が宵つ張なのに何の不思議もない筈だ、彼は画家(ゑかき)であると共に、夜更(よふか)しが附物(つきもの)の俳諧師でもある。よしんば俳諧師でなかつたにしたところで、文部(もんぶ)留学生の洋画家が、昼間はカルチエル・ラタンの居酒屋と球突(たまつき)屋で暮し、夜になつて(やつ)と絵具箱を(かつ)ぎ出すのが多いのを見ると、蕪村にしても夜()をかいたかも判らないのだから。)
 慶作は出直さうと思つて、逡巡(もぢく)してゐると、寝鎮まつた筈の家の中から、ぱたく物を(はた)く音がして折々何か掛声でもするらしい容子(ようす)がある。
 「怪体(けつたい)やな。一遍訊いてみよか。」
 慶作はとんとんと表戸(おもてど)を叩いてみた。
 すると、(なか)から「どなた?」といふ声がして、()は静かに開けられた。(たしか)に蕪村の声に相違ないので、慶作は不審しながら、入つて()くと、共辺(そこら)ぢゆうに(はうき)塵掃(はたき)がごたく取り散らされて、師匠はひとりで窃(くす/\)笑つてゐる。
 理由(わけ)を訊くと女房と娘とは女中を連れて逗留(とまり)がけで里へ帰つた。その留守事(るすごと)に一寸芝居の真似をしてゐたのださうな。
 「こなひだ、芝耕(しこう)の芝居を見て、すつかり感じたもんやさかい、ちよつくら真似てみたが、なかく出来(でけ)よらんわい。」
 蕪村は声を出して笑つた。
 京都大学のある法学者は、家族がみんな不在(るす)になると、すつくと逆立になつて、書斎からのそり/\這ひ出して来て、玄関から台所まで一廻り廻つて来る癖がある。法学者だけにこの男も色んな事に理窟をつけないでは承知しないが、たつた一つこの逆立だけには理窟をつけてゐない。理窟が無い筈だ、本人の積りでは逆立は芸術ださうだから。
 男といふものは、女房の居る前では公然(おほぴら)()りかねる「芸術」をそれ%\もつてゐるものだ。芝居の真似事だらうが、逆立だらうが、女房(かない)不在(るす)になつたら、さつとお(さら)へをするが()い。-これは女にしても同じ事だが、女はかういふ時には、大抵パン菓子を食べるものらしい。それにしても立派な芸術だ。



最終更新日 2006年03月23日 16時12分55秒

薄田泣菫「茶話」「お湯(きら)ひ」

お湯(きら)
 最近希臘(ギリシヤ)の各地方を巡遊して帰つて来た京都大学の浜田青陵氏は(幾ら古い物好きな浜田氏だつて、まさか希臘ばかしを見て来た訳では無からうが、希臘だけは幾度見て来たといつても差支(さしつかへ)ない)希臘ほど失望させられた土地(ところ)はない、那地(あすこ)は唯想像でだけ楽しむでゐればいゝ国だと(ひど)くこき(おろ)してゐる。
 浜田氏の言ふのによると、希臘には道路が無い、旅館が無い、山には樹が無い、河には水が無い。やつと旅屋(やどや)を見つけて、泊り込むと、直ぐと南京虫がちくちく()しに来るので、(とて)も寝つかれない。留学費のなかから買込むだ大缶(おほくわん)蚤取粉(のみとりこ)を、惜気(をしげ)もなくばら()いてみたところで一向利き目が無い。
 それから今一つの難渋は()湯の高い事で、入浴料が日本の(かね)で一円二三十銭。浜田氏の白状によると、氏はニケ月余りの旅に湯に入つた事は唯の一回だけしか無かつたといふ事だが、それも真実(ほんとう)の事か()うだか判らない。もしか原勝郎(かつらう)君のやうな人が、
 「なに、希臘では偉い学者はみんな湯に入らぬものなんだ。」
と言ひでもすると浜田氏はその口の下から、
 「真実(ほんとう)は僕も一度だつてお湯に入つた事はなかつた。」と白状するかも知れない。
 だから、希臘人といふ希臘人は皆垢(みんなあか)まみれで、(そば)へ寄つてみると、(考古学者だつて、(たま)には()きた人間の側に寄らないとも限らない)酸つぱいやうな匂ひがぷんとする。
 「ソクラテスやアリストオトルも矢張あんな(にほひ)がしたかも知れないと思ふと厭になる。」
と浜田氏は鼻をしかめて厭がつてゐるが、そんなに厭がらなくともよからう。幾ら異教徒嫌ひの神様だつて、まさかソクラテスと浜田氏を同じ(をり)には打込(ぶちこ)むまいから。
 湯好きな日本人にも随分な湯嫌ひが居ない事はない。俳優(やくしや)の中村鴈治郎などもその一人で、彼はこの頃よく東京の劇揚(こや)へ出るが、あの通りに白粉(おしろい)をべた塗りする職業(しやうばい)でありながら、一興行二十六日間一度だつてお湯に入る事はないさうだ。彼はそれが()めに清潔好(きれいず)きな東京の女に嫌はれるかも知れないが、持つて生れた癖だけに平気で垢塗(あかまみ)れで通してゐる。



最終更新日 2006年03月23日 16時13分24秒

薄田泣菫「茶話」「赤栴檀(しやくせんだん)

赤栴檀(しやくせんだん)
 むかし観世(くわんぜ)の家元に豊和(とよかず)といつて家の芸は(もと)より、香聞(かうきゝ)にも一ぱし聞えた男がゐて、金春(こんぱる)流の(なにがし)と仲がよかつた。で、(ひま)な折にちょいく遊ぴに()くと、金春家では香好きな豊和への御馳走とあつて、いつも秘蔵の香を()いたものだ。
 豊和はそれを()ぐたんぴに、
 「どうも素的(すてき)な香だ、何でも(いは)(つき)の物に相違ない。」
とは思つたが、迂潤に言ひ出して、主人に物惜みされても詰らないと思つて、(わざ)と黙つてゐた。言ふ迄もなく、金春家の主人は香道には(ごく)の素人で、今時(いまどき)の文学者と一緒に蚊取線香の匂ひを嬉しがる方の男だつた。
 ある時、香道の家元蜂谷貞重(はちやさだしげ)が江戸に(くだ)つて来た。豊和は蜂谷の顔を見ると、懐中(ふところ)から懐紙に包んだものを取出して、蜂谷が生命(いのち)より大切(だいじ)の鼻を引拗(ひきちぎ)るやうにしてそれへ押しつけた。
 「一寸聞いてみて呉れ給へ。実は先日(こなひだ)から君が(くだ)つて来るのを待ちくたぴれて居たのだ。」
 包は豊和がこつそり金春家から取つて来た香炉の灰であつた。
 蜂谷は自慢の鼻を一寸その灰に当てがつたと思ふと、眼を円くして吃驚(びつくり)した。
 「これあ君、赤栴檀ぢやないか、()うも素的なものを娃いてるね。」
 「え、赤栴檀だつて!」
 豊和はさう言ふなり、直ぐ表へ駈出して往つて金春家を訪ねた。
 豊和は何気ない(ふり)で、色々と世間話を持出してゐたがふと思ひ出したやうな口風(くちぶり)で、
 「時に近頃御無心の次第だが、先日中(こなひだちゆう)いつもお娃きになつてゐたあの御秘蔵の香ですな、あれを少しばかり戴かれますまいかな。」
と切出してみた。
 金春の主人は金でも貸せといふのかと思ふと、香の話なので、
 「いや、お安い御用で…:」
と、その場で(くだん)の香を小指の先ほど割つて呉れた。
 豊和はそれを左の掌面(てのひら)で戴いたと思ふと、しかと右の掌面(てのひら)で押へつけた。そして嬉しまぎれに大きな声で言つた。
 「や、有難う。今だから言ふがこの香こそ名代(なだい)の赤栴檀だよ。」
 「え、赤栴檀だつて。」
 金春家の主人はさう聞いて、直ぐ手を延ばして香を取り戻しにかゝつたが、豊和は敏捷(すばしこ)内懐中(うちふ"ころ)にしまひ込んでしまつた。
 骨董好きの富豪(かねもち)に教へる。いつ迄も秘蔵の骨董を失ふまいとするには、自分達の家族を成るべく物識(ものしり)にしておくが一番手堅い。



最終更新日 2006年03月23日 16時13分43秒

薄田泣菫「茶話」「虫の声」

 虫の声
 むかし公家(くげな)(にがし)が死にかゝつてゐると、不断顔踞懇(かほなじみ)の坊さんが出て来て(医者が来るのが遅過ぎる時には、きつと坊主が来るのが早過ぎるものなのだ)枕頭(まくらもと)珠数(じゆず)をさらさら言はせながら、
 「早く念仏をお唱へなさらなくつちや。さもないと中有(ちゆうう)でお迷ひになるかも判らないから。」
(ひど)く心配さうな容子(ようす)で、最後の念仏を勧めにかゝつた。
 看護(みはり)の者がぺそを掻いたやうな顔をして、
 「中有と申しますと……」
と訊くと、坊さんは嘘をつく者に附物(つきもの)小鼻(こはな)を妙にぴくぴくさせて、
 「広い荒野(あれの)でな、西も東も判りませんぢやて。」
低声(こごゑ)で答へた。
 その談話(はなし)を苦しい(なか)にも病人が洩聞(もれぎき)をした。病人は骨張つた顔を坊さんの方へ捻ぢ向けた。
 「お上人(しやうにん)、そんな荒野(あれの)にも秋が来ますと、虫が鳴きませうな。」
 お上人は急に行詰(ゆきつま)つたやうな表情をして、てれ隠しに一寸空咳(からぜき)をした。無理もない、中有の野に虫が居るか居ないかといふ事は、どのお経にも書いてなかつた。お上人はもしか間違つてゐたら、お布施を返す積りで独断(ひとりぎめ)の返事をした。
 「さやうさ、野といひますから、虫もゐるにはゐませうて。」
 公家は死顔に寂しさうな(ゑみ)を洩らした。
 「虫さへ居る事なら、中有とやらに迷つてもいゝと思ひます。だからお念仏だけは申しますまい。」
 坊さんは苦笑ひをして口の中でぶつ/\言つてゐたが、病人はとうとお念仏の一遍も唱へないで亡くなつてしまつた。その中有の野とやらには虫が居たか居なかつたか、今だにはつきりしない。
 上田敏博士の追悼会(ついたうゑ)先日(こなひだ)知恩院の本堂で営まれた時、九十余りの骸骨のやうな山下管長が緋の袈裟(けさ)(かぶ)つて、叮檸にお念仏を唱へた。そしてその声一つで博士も浄土へ送り込まれたやうな顔をして入つて往つた。
 自分はそれを見た時、博士のやうな運命のために(だま)(うち)に遭つたものが、念仏の声(くらゐ)で成仏出来るものかと思つた。よしまた成仏出来るにしても博士は成仏すまいと思つた。
 生前仏道は信じなかつたものの大学教授だつたから無切符で浄土へ入れると言ふかも知れないが、博士も矢張その公家と一緒に、虫の声に心を()かされてゐるに相違ない。



最終更新日 2006年03月23日 16時14分05秒

薄田泣菫「茶話」「中橋氏と狸」

中橋氏と狸
 中橋徳五郎氏は(しき)りと狸の焼物を集めてゐる。京都の高台寺焼を始めいろんな瀬戸物屋へ自分で出掛けて往つて、狸だと見ると値段を問はず買ひ込んで来るので、今では百幾つも溜つてゐるといふ事だ。
 成程よく見ると、中橋氏の顔はどこか狸に()たところがある。さういつた所で何もむきになるにも及ぶまい。ソクラテスに「先生のお顔はブル・ドツグに()てますね。」といつた処で、まさか決闘を申込はしなかつたらう。それどころか、あの哲学者の事だもの、「そんな(いぬ)がどこに居るね。」とその足で直ぐ訪ねて往つて、幼踞懇(おさななじみ)のやうに狗と一緒に転げ廻つたかも知れない。
 中橋氏は実業家(氏は今ではもう政治家の積りかも知れない、(ちやう)水螢(やご)塩辛蜻蛉(しほからとんぼ)になつたやうに)には珍しく書物(ほん)を読むが、狸にしても文字をよく知つてゐるのがある。むかし植木玉厘(ぎよくがい)の親類に居た狸などはそのいゝ例である。
 この狸は(うち)の者の見ぬ()には、下手な字で障子襖に皆の棚下(たなおろ)しをする。「誰こわくない」「誰少しこわい」といつたやうな調子で。ある時来客がその噂を聞いて能勢の黒札を狸が怖がる話をすると、いつの間にか後の障子に、「黒札こわくない」と書いてゐたさうだ。
 その(うち)女房(かみきん)が芝居の八百蔵(やほざう)が大の晶損(ひいき)だつたが、その頃不入続きで悄気(しよげ)てゐると、狸は「八百蔵(おほ)へいこ」と書いて済ましてゐたさうだ。ー中橋氏の狸も例の金沢の選挙無効を聞いて「徳ちやん大あたり」と書く位の洒落気はあつてもよからう。



最終更新日 2006年03月23日 16時14分26秒

薄田泣菫「茶話」「節用集を食ふ」

節用集を食ふ
 先日(こなひだ)七十三の老齢(とし)まで女遊ぴをしたといふ西依成斎の事を書いたが、成斎の生れた(うち)は、熊本在の水呑百姓で、両親は朝(はや)くから肥桶(こえたご)を担いで野良へ仕事に出たものだ。
 そんな(なか)に育ちながら、成斎は野良仕事を助けようとはしないで、日がな一日青表紙に(かじ)りついてゐた。親爺(おやぢ)は幾度か叱り飛ばして(やつ)と芋畑に連れ出しはしたが、成斎は(いたち)のやうにいつの間にか畑から滑り出して、自分の(うち)に帰つてゐた。百姓だけに仇花(あだはな)(ちぎ)つて捨てるものと思ひ込んだ親爺は、とうと成斎を(うち)から()り出す事に決めた。
 成斎は泣く泣く(うち)を出たが、それでも出がけに節用集一巻を懐中(ふところ)()ぢ込む事だけは忘れなかつた。節用集といつただけでは今時の若い人には解らないかも知れない。ある大学生が国史科の教授に「先生、赤穂義士の仇討(かたきうち)といふのは一体京都であつた事なんですか、それとも東京なんですか」と訊いた事があつたといふ程だから、節用集といふのは今の小百科全書の事だと言ひ添へて置きたい。
 成斎はその節用集を抱へ込んで、狗児(いぬころ)のやうに鎮守(ちんじゆ)の社殿の下に潜り込んだ。そして節用集を読み覚えると、その覚えた個所(かしよ)だけは紙を引拗(ひきちぎ)つて食べた。書物(ほん)を読み覚える頃には、腹もかなり空いてゐるので、節用集はその(まゝ)飯の代りにもなつた訳だ。で、十日も経たぬ(うち)に、とうと大部な節用集一冊を食べてしまつたといふ事だ。
 灰屋紹益(はひやぜうえき)は自分が生命(いのち)までもと思ひを掛けた吉野太夫が死ぬると、その(こつ)を墓のなかに()めるのは勿体ないからと言つて、酒に混ぜてすつかり飲み尽してしまつた。
 だが、かういふ事は余り真似をしない方がいゝ。今時の書物は鵜呑にすると、頭を痛めるやうに胃の腑を損ねる。それから女の(こつ)を飲むなどは以ての外で、七周忌目に箪笥(たんす)抽斗(ひきだし)から、亭主をこき(おろ)した日記を発見(めつけ)たからといつて、一度()(くだ)した(あと)では()うとも()兼るではないか。
 そして、そんな女なぞ居ないと誰が請合ふ事が出来るのだ。(たつ)て嚥みたかつたら三周忌を過ぎてからでも遅くはない筈だ。



最終更新日 2006年03月23日 16時15分25秒

薄田泣菫「茶話」「強制姙娠」

強制姙娠
 独逸では戦争から起る人口の減少を気遣つて、戦線に立つてゐる元気な壮丁(さうてい)に、時々休暇(ひま)を呉れて郷里(くに)に帰らせ、婦人(をんな)と見れば無差別に子種を植付(うゑつ)けようとしてゐる。
 先日(このあひだ)京大の松下(てい)二博士と大阪大学の木下東作博士とが或所で落合つた時、木下氏がこの話を持ち出して、
 「まさかとは思ふが、真実(ほんと)か知ら。」
といふと、松下氏は自分が下相談にでも(あづか)つたやうに、
 「真実(ほんと)だともさ、実際行つてるんだよ。」
ときつぱり答へた。
 「でも。……」と木下氏は兎のやうな長い耳を一寸(かし)げた。「戦線に立つてる兵士の多くは女房(かない)や娘やを持つてるだらうが、自分の家族がそんな目に遭つてるのが黙つて辛抱出来るだらうか知ら。」
 「それは出来ようともさ。国家の()めだからね。」とこの(とし)まで細君をも迎へず、一人で研究室に閉ぢ籠つてゐる松下博士は、モルモツトの話でもしてゐるやうな平気な調子で言つた。「兎に角()つてるのださうか。」
 「だが、まあ考へてみ給へ。」木下氏は大きな掌面(てのひら)で汗ばんだ鼻先を一気に撫で下した。鼻はその邪慳さに腹立(はらだち)でもしたやうに真赤になつた。「もしか自身に奥様(おくさん)やお嬢さんがあるとして、君はその人達(ひとだち)がそんな(ひど)い目に遭つてるのを平気で辛抱してゐられるかね。」
 「さうさなあ」と松下氏は初めて気がついたやうに木下氏の真赤な鼻先を見つめた。そして「吾輩自身の事にしてみると……」と独語(ひとりごと)のやうに言つてゐたが、急に笑ひ出した。「成程こいつは(とて)も辛抱出来ないわい。してみると、独逸もそんな乱暴なことは()つて()らんかな。やつぱり噂だけで、真実(ほんとう)()つてないんだらうて。」
 学者に教へる。帽子を買ふ時には自分の頭に(かぶ)つてみる。履物(はきもの)を買ふ時には自分の脚に穿()いてみる。そして男女問題は真先に自分の細君に当てはめて考へてみる事だ。唯こんな場合には(みつともな)い細君よりは美しい方がずつと恰好なものだ、丁度帽子を(きせ)る頭は禿げたのよりも、髪の毛の長いのが恰好なやうに。



最終更新日 2006年03月23日 16時15分48秒

薄田泣菫「茶話」「性悪(しやうわる)男」

性悪(しやうわる)
 ある婦人が市街(まち)を歩いてゐると、一人の男が横合(よこつちよ)から飛ぴ出して来て、じつと婦人(をんな)の顔を見てゐたが、(しばら)くすると黙つて婦人の跡をつけた。婦人は立ち止つた。
 「何故あなたは私に()いていらつしやるの、そんなにして。」
 「何故つて……」男は一寸揉手(もみで)をした。「実をいふと、貴女(あなた)に惚れつちまつたのでさ。」
 婦人はそれを聞いてビスケツトのやうに乾いた唇を一寸へし曲げたが、直ぐ愛矯笑ひをした。
 「まあ、有難いわね。だが、一寸御覧なさい、あそこへ私の妹が来かゝつてるでせう。妹は私に比ベると、それは美しいんですよ。同じ手間なら貴方(あなた)、妹にお惚れなすつたら如何(いかマ)……」
 男は直ぐ引返して婦人が教へて呉れた女に近づいてみた。それは美人どころか、鼻の(ひしや)げた(いぬ)のやうな顔をした女だつた。男はぶつくさと(ぽや)きながら、先刻(さつき)の婦人を追駈(おつか)けた。
 「どうも恐れ入りましたね、(ひと)(かつ)ぐなんて。貴女(あなた)は見掛によらない性悪ですね。」
 「性悪……」と婦人は立ち止つて男の顔を見た。(すべ)ての男はこんな時(くつ)(かどと)のやうな痛ましい表情をするものだ。「何方(どつち)が性悪なんでせう、もしか仰有る通り、貴方が私にお惚れなすつたのだつたら、あの女の(かた)追駈(おつか)けはなさらなかつた筈ぢやなくつて。」
 これは土耳其(トルコ)昔譚(むかしばなし)にある話だが、寺内総督が政権譲渡(ゆづりわたし)で大隈侯の撞木杖(クラツチ)周囲(まはウ)をうろ/\したのなぞは、すつかりこれに似てゐる。土耳其人だつて馬鹿には出来ない。



最終更新日 2006年03月25日 11時28分22秒

薄田泣菫「茶話」「静かな死」

静かな死
 茶人橘広樹の死際(しにぎは)こそこの上もなく静かなものだつた。その日は大阪にゐる友達から、名高いお城の黄金水(わうごんすい)を送つて来たからそれでお茶を煮るのだといつて、仲よしの田能村竹田やなぞを招いて気軽さうに働いてゐた。
 火を吹きおこしたり、水瓶(みづかめ)を洗つたりしてゐるうち広樹は急に気分が悪くなつたといつて横になつた。竹田は今更茶でもないので、枕頭(まくらもと)に坐つて看病してゐると、暁方(あけがた)に広樹は重さうな頭をもち上げて竹田を見た。
 「いろ/\、有難う、だが、今度は(とて)も助かるまい。もう茶を立てる()も無ささうだから、あの黄金水を飲んでお別れがしたいものだな。」
 竹田は水瓶(みづかめ)を引張り寄せて一口飲んで広樹にさした。病人は鶴が水を飲むやうな口つきをして美味(うま)さうに一口に飲みほした。そして今一度といつて竹田にさした。竹田はまた飲んだ。
 広樹は枕に顔をもたせて「今歌が出来たから、一つ書留てくれ給へ」といふので、竹田は筆を執つた。
  ちよろづと
    こそむすぶべき黄金水(こがねみづ)
  汲みかはすれば
    水泡(みなわ)とぞ()
 広樹は(だる)さうに頭を(もた)げてその(まづ)い歌を見てゐたが、独語(ひとりごと)のやうに、
 「おや、水の字がさし合ひになつてゐる。死ぬ迄の気紛(きまぐ)れに一つ考へ直してみよう。」
と言つてゐたが、暫くすると、
 「さうだ、『泡と消えゆく』でよかつたんだ。」
と言つたかと思ふと、その(まゝ)息が絶えてしまつたさうだ。
 静かな死際だ。唯一つ慾をいふと、歌だけが余計だつた。日本人は地昧で()(まん)(ほか)言分(いひぶん)はないが、(たつた)一つ辞世だけは賛沢すぎる。死際にはお喋舌(しやべり)は要らぬ事だ。狼のやうに黙つて死にたい。



最終更新日 2006年03月25日 11時28分51秒

薄田泣菫「茶話」「哲学者と兎」

哲学者と兎
独身哲学者で名の通つた田中王堂氏は、近頃耳の長い白兎を二匹飼つて、(ひま)さへあればその面倒を見てゐる。
 「何だつてまたそんな気になつたのだ。」
と訊くと、独身哲学者はもじやくした頭の毛に掌面(てのひら)衝込(つゝこ)んで、智慧(ちゑ)を駆り出しでもするやうに其辺(そこら)を掻き廻した。
 「でも、近頃は世間が物騒になつて、滅多に人交際(ひとづきあひ)も出来ないんだから、かうして兎と遊んでるやうな始末さ。」
 多分一頻(ひとしき)り噂のあつた岩野清子女史との結婚問題を気にして、それで一寸()ね出したものらしい。
 哲学者が結婚しても差支(さしつかへ)ないのは哲学者が白兎を飼つても差支ないのと同じ理由(わけ)だ。唯兎は飼主の掌面から黙つて餌を拾ふばかしだが、女は時々飼主の指先を噛む事がある。
 岩野氏夫妻がまだ大阪にゐた頃、良人(をつと)の泡鳴氏が新聞社に出掛けると、清子女史は時々良人の監督だといつて、自分も新聞社へ出掛けたものだ。そんな時には屹度丸鬣(ぎつとまるまげ)金縁眼鏡(きんぶちめがね)をかけて、すぽりと面柏(ヴエ ル)(かづ)いて、足には(くつ)穿()いてゐる。
 女房だから丸髯を、近眼(ちかめ)だから眼鏡を、風が吹くから面柏(ヴエヨル)(かぶ)つてゐるのに仔細(しさい)は無いが、何故また履を穿いてゐなければならないのか、その理由が解らない。訊いてみると女史はにこりともしないで、
 「履は貰ひ物ですよ。」
と言つて、その貰ひ物の履の(かどと)で馬のやうに床板を()つたさうだ。
 神様の謎を知つてゐる筈の哲学者だつて、あながち女の急所を知りぬいてゐるとも限らない。兎で辛抱出来るものなら、女房(かない)は取らぬに越した事がない。(たつ)て取らなければならぬとすれば、履だけは穿かせないに限る。履は険呑(けんのん)な上に(あしのうら)を台なしにする。蹠の綺麗な女は叱言(こごと)一声はれずに亭主の顔をさへ踏みつける事が出来る。



最終更新日 2006年03月25日 11時43分20秒

薄田泣菫「茶話」「質屋の通帳(かよひ)

質屋の通帳(かよひ)
 少し以前の事、茶話記者がまだ京都に住むでゐる頃だつた。ある日小栗(をぐり)風葉氏の弟子分にあたる岡本霊華といふ小説家がひよつくり訪ねて来た。何だか一人ぽつちでこの世に生れて来たやうな、寂しい顔をしてゐる男だ。
 「時にだしぬけに失礼ですが、質屋の通帳(かよひ)をお貸し下さいませんか。」
 岡本氏は両手を膝の上に置いて言つた。
 「え、質屋の通帳(かよひ)を。」
 私は(あき)れて相手の顔を見た。相手は私の(うち)のどこかに質屋の通帳(かよひ)の二つか三つは懸つてゐさうな眼つきをしてゐた。
 「旅に出て来て一寸(つか)ひ過ぎたもんですから、羽織でも入れたいと思ひましてね。なに、決して御迷惑は掛けません。」
 岡本氏はかういつてその入れたいといふ羽織の襟を指先で(しご)いてみせた。細かい銘仙の(かすり)で大分皺くちやになつてゐる。
 「そんなにしなくともいいでせう。少しで足りる事なら私が立替(たてかへ)ませうから。」
とでも言つたらこの小説家の気に入つたかも知らないが、実際の事をいふと、私はその折(ひと)に貸す程の金を持合せてゐなかつたし、それに折角質屋の通帳(かよひ)があると(にら)むで来た小説家にもそれ.では済まなかつた。
 私は言つた。
 「妙な事があればあるもんですね。昨日(きのふ)丁度君のやうな人が来て、通帳(かよひ)は借りて()きましたよ。」
 小説家はそれを聴いて、自分が「こゝには通帳(かよひ)がある」と睨んで来た眼の違はなかつた事を満足して帰つて往つた。通帳(かよひ)の手に入る、入らないは全く運と言つてもいゝのだから。



最終更新日 2006年03月25日 11時44分08秒

薄田泣菫「茶話」「片腕」

片腕
 虎列拉(コレラ)流行(はや)り出した為め大阪名物の一つ、築港の夜釣(よつり)が出来なくなつたのは、釣好きにとつて近頃の恐慌である。
 むかし釣好きの江戸つ児が(きす)を釣りに品川沖へ出た。ちやうど鱚釣に打つてつけの日和で、獲物も大分(だいぶん)あつたので、船のなかで持つて来た酒など取り出して少し飲んだ。
 ほろ酔の顔を(くすぐ)つたい程の風に吹かせて、その男はまた釣り出した。すると、直ぐ一寸手応(てごたへ)がしたので、
 「おいでなすつたな。」
独語(ひとりごと)を言ひ言ひ、(はり)を合はせてぐつと引揚げた。
 鉤には誰かが河豚(ふぐ)にでも切られたらしい釣鉤と錘具(おもり)とが引つ懸つてゐるばかしで鰭らしいものは一(ぴき)(をど)つてゐなかつた。
 「へつ、()られたかな。」
と男は(ぼや)きながら何気なくその釣綸(つりいと)を引張り寄せると、ちらと釣竿の端が見え出した。
 半分程引寄せてみると、これはまた結構な釣竿で、自分の持合せなどとは(とて)も比べ物になりさうもない。
 「いゝ竿だ、大分金目(かねめ)の掛つた(こしら)へだぞ……」
 こんな事を言ひく、竿の根元まで引揚げると、しつかり握り詰めた人間の片腕がずつと揚つて来た。
 「や、死人が……」
 釣好きの男は覚えず声を立てて、手を放さうとしたが、打捨(うつちや)るには余りに結構な釣竿なので、
 「気の毒だが余り結構だからこの竿だけは貰ふよ。」
と、言訳をしいしい、その片腕を(つかま)へて堅く握りつめた五本の指を(ほど)いた。竿から外された片腕は黙つて沈んで行つた。
 「金目の懸つた竿だけに溺死(おぼれじ)ぬ揚合にも心が残つて、あんなに(しつか)り握り()めてゐたのだらうて。」
と拾つた男は(のちく)々まで噂をしながら、その竿で鱚を釣り、蟹を釣り、ある時は剽軽(へうきん)章魚(たこ)を釣つて笑つたりした。
 だが、そんな金目な竿と一緒に溺れた男は誰だつたらう。左手に竿を握つてゐなかつたのを見れば、寺内伯で無かつた事だけは事実だ。それに考へてみると、時代も江戸の頃だ。まあ安心するさ。



最終更新日 2006年03月25日 11時44分28秒

薄田泣菫「茶話」「泡鳴と王堂」

泡鳴と王堂
 岩野泡鳴氏は厭になつて自分が捨てて逃げた清子夫人と哲学者の田中王堂氏とが(をか)しいといつて、(わざく)々探偵までつけて二人の行動(しうち)を気をつけてゐたが、とうと辛抱出来ぬ節があつたと見えて、持前の癇癪玉(かんしやくだま)を破裂させた。
 岩野氏が田中に当てつけた厭味を読むと、
 「(おまへつ)(ばくろ)不在(るすつ)(ばくろ)の巣に入り、()の十二時過ぎ迄も話し込み早く帰れよがしに取扱はれても、それを自分に対する尊敬と思ふ程、それ程自信の深い好人物だ。」
 「人の見限つた女でも、欲しければ貰つてやつても()い。(しか)しまだ籍が抜けないのに(わざく)々離婚訴訟の渦中に飛ぴ込ん↑ての女の旅先までも追ひゆき、女の(うち)へは行き度くないからだと(とま)け顔。そして実は()うだ、探偵の報告によると、口に婦人のやうな声を出させて、(たぴく)々ほくろの鼻をのつそりと女の門に入れるのはいつも午後の九時過ぎからである。(なんぢ)薄のろの哲学者よ…-兎角汝は人の亭主の明巣(あきす)(ねら)ひたがる。」
といふ激しい文句がある。
 岩野氏のやうな、女を捨てる事を草履を穿()き換へる位にしか思つてない人でも、その草履を独身者(ひとりもの)の哲学者が、つい足に突つ掛けるのを見ると、急にまた惜しくなつて、()けて()けて溜らなくなるらしい。
 そこが女の附込(つけこ)(どころ)で、世の中の賢い女は、この急所をちやんと知りぬいてゐて、何喰はぬ顔で亭主を操縦する。さういふ女に懸つては、男は馬よりも忠実である。清子夫人がそんな女か()うかはよく知らないが、唯この婦人を中心に泡鳴氏と王堂氏が()(かけ)つこをしてゐるのは面白い。手製ではあるが二人とも日本一の文学者ださうだ。こゝでいふ日本一は箕有電鉄(みのでん)の沿線にたんと転がつてゐる日本一と同じ意味である。



最終更新日 2006年03月25日 11時44分55秒

薄田泣菫「茶話」「顰選(むこえら)み」

顰選(むこえら)
 ベンヂヤミン・フランクリンが女房(かない)を迎へようとした時、その女の母親は聾がねフランクリンの職業(しごと)は何かと訊いて寄こした。フランクリンは幾らか自慢のつもりで、
 「新聞記者です。」
と答へた。
 「え、新聞記者だつて……」女の母親は飛ぴ上るばかり吃驚(びつくり)した。「新聞記者のやうな、そんな忙しい職業(しごと)()てる男に、(うち)の娘は添はせたくないものですね。」
 母親の積りでは、可愛(かあい)い娘の事だ、出来る事なら教会の牧師のやうな、日曜日にだけお(をフま)りの御祈禳をして、あとの六日はぽんやりして過すやうな(ひま)な男に()りたかつたものらしい。
 フランクリンの頃には亜米利加全国を通じて、たつた六(いろ)の新聞しか無かつたといふからにはフランクリンの携はつてゐた仕事だつて、忙しいとは言ひ条(たか)の知れたものだつたに相違ない。だが、それすら忙しいからといつて、一度は縁談が破談になりかけたのだ。
 ところが今では女の好みも大分移り変つて、聾選みをするには、成るべく男の職業(しごと)が忙しいのを好くといふ事だ。著作家や牧師のやうな始終家(しよつちゆううち)ばかしに(くすぶ)つてゐるのは一番の困り者で、出来る事なら船乗(ふなのり)や海軍軍人のやうな月の半分か、一年の何分(なにぶんの)一かを海の上で送つて、滅多に(うち)へ帰つて来ないのへ(かたづ)きたがるといふ事だ。
 ある日本汽船が独逸の潜航艇に沈められたといふ噂の立つた時、ある男がその船の機関長の不在宅(るすたく)を見舞つた。電報を見せて(くや)みを言ふと、若い夫人は(こは)れた玩具人形(おもちやにんぎやう)のやうに胸をぺこくさせて泣き出した。
 「貞女かな。」
とお客はその泣声を聞きながら思つた。お客といふのは、ハム・サラダと貞女とが大の好物なのだ。
 一(しき)り泣き止んだ時、お客は機関長の年齢(とし)を訊いた。
 「(ちやう)ど三十二なんですわ。」
 (おつ)かけて平素(ふだん)の好物を訊くと、夫人は低声(こごゑ)で答へた。
 「カツレツと尺八が一番好きでございましてね。」
 お客は(かへ)(みち)に、会社に寄つて、同僚に(たしか)めてみると、夫人の言葉は大抵間違で、機関長の年齢(とし)は三十七。
尺八が好きなのは船長で、無器用な機関長は吹く(すべ)さへ知らなかつたさうだ。
 夫人が出鱈目(でたらめ)を言つたに少しの不思議もない。(なが)不在(るす)に女は男を忘れてゐたに過ぎないのだ。尤もカツレツだけは機関長もよく食べさせられた。女といふものは、亭主の不在(るす)には大抵一つ位は新しい料理を覚えてゐるものだ。そしてそれを亭主に頬張らせる事によつて不在中(るすちゆう)(いろん)々な事は帳消しになると思つてゐる。



最終更新日 2006年03月25日 11時45分19秒

薄田泣菫「茶話」「謡曲を武器に」

謡曲を武器に
 自分の隣家(となり)謡曲(うたひ)の師匠が住んでゐる。朝から晩まで引切(しつきり)なしに鵞鳥の締め殺されるやうな声で、近傍(あたり)構はず(うた)ひ続けるのでその(やかま)しさといつたら一通(ひととほり)の沙汰ではない。謡曲(うたひ)が済む頃になると、其家(そこ)(せがれ)が蓄音機を鳴らし出す。それがまた〔吉田〕奈良丸の浪花節(なにはぶし)一式と来てゐるので、(とて)も溜つたものではない。
 華族と法律とを(こしら)へる事を情慾のやうに心得てゐる国家が、何故「音曲(おんぎよく)」に関する法律だけは打捨(うつちや)(ばな)しにしてゐるのか理由(わけ)が分らない。短銃(ビストル)は弾一つで人一人しか殺さないが、騒々しい音曲は近所隣りの良民をすつかり狂人(きちがひ)のやうにしてしまふ。実際自分などは下手な謡曲(うたひ)を聴かされると気が荒くなつて直ぐに決闘でも申込みたくなる。
 独逸の宰相ビスマルクが議会で反対党のヰルヒヨオから()(びど)く攻撃された事があつた。ヰルヒヨオは独逸のお医者さんだから、その攻撃に謡曲や蓄音機を持込んだ訳でもなかつたが、ビスマルクは鉄瓶のやうに湯気を立てて(いか)つた。
 で、相手の事務室に飛ぴ込むなり、直ぐ決闘を申込んだ。ヰルヒヨオは()きこんだ大宰相の顔をじろ/\見て、気味が悪い程落付いてゐた。
 「いや御申込(おんまをしこ)みは(たしか)に承知しました。だが、武器の撰好(えりこの)みは申込まれた方の権利にある。ところで……」
とお医者さんは薬焼(くすりやけ)のした指で棚にある壜の一つを指し示した。「私はあれを貴方と二人で飲みたいと思ふ。」
 ビスマルクは英吉利製のヰスキイでもある事かと振り返つて壜を覗いてみた。壜にはこの政事家の好きな独逸語で「虎列拉(コレラ)菌の培養液」と書いてあつた。
 ビスマルクはそれを見ると、急に悄気返(しよげかヘ)つてゐたが、都合よく仲裁者が出て来て、決闘は沙汰止みになつて了つた。
 自分は隣家(となり)の謡曲家に決闘を申込む位は(いと)はないが、武器に「謡曲」でも撰ばれはしなからうかと内心びくぴくしてゐる。あれは()うかすると、決闘者ばかりか、介添人をも一度に頓死させてしまふから。



最終更新日 2006年03月25日 11時45分40秒

薄田泣菫「茶話」「貯金筒(ちよきんづつ)

貯金筒(ちよきんづつ)
 色街で女買(をんなかひ)をするのを男の自慢のやうに心得てゐる男が一年程過ぎて算盤(そろぱん)を取つて見ると、(つひへ)が思つたよりは意外に(かさ)んでゐるのに気が()いた。
 「これではどむならんわい。女買も悪くはないが、
こんなに費用が掛つては一寸(かんがへ) (もの)やな。」
と、じつと両手を拱んで思案に暮れてゐたが、ふと忘れ物をしてゐるのに気が注いてにやりとした。
 忘れ物とは他でもない女房(かない)の事だ。女房(かない)といふものがあるのに、(わざく)々外へ出て女買ひに(ふけ)つたのは勿体なかつた。
 「魔がさしたんやな。これからは一心に金を取り返さなならんわい。」
と、その男は気が注いたやうに女房(かない)の顔を見た。女房(かない)は板のやうに平べつたい顔をして笑つた。
 その男はそれからといふもの女房(かない)と寝る(たんび)に、以前の放蕩を思ひ出して、一両(づつ)貯金筒に投げ込んで置いた。そして半ケ年の後にその筒を(しら)べてみると、随分な高に(のぼ)つてゐるので、男も女も声をあげて喜んだ。
 それからといふもの、夫婦は一生懸命になつて金を()めた。そして一年の(のち)になつて勘定してみると、三百八十五両溜つてゐたさうだ。これは言ふ迄もなく往時(むかし)の話だが、往時(むかし)だからといつて、一年は三百六十日しか無かつたのだ。



最終更新日 2006年03月25日 11時46分48秒

薄田泣菫「茶話」「利休の女夫喧嘩(めをとげんくわ)

利休の女夫喧嘩(めをとげんくわ)
 千利休がある時呪懇(なじみ)の女を、数寄屋(すきや)に呼ぴ込んで内密話(ひそひそばなし)無中(むち う)になつてゐた事があつた。世間の人は利休といふと、一生涯お茶の事しか考へなかつたやうに思
ひ違へをしてゐるらしいが、利休はお茶と同じやうに色々世間の事も考へてゐた男なのだ。
 利休の女房は、余程(よつぽど)疳癪持(かんしやくもち)だつたと見えて、亭主と女との逢曳(あひひタ)(がん)づくと、いきなり刀を引つこ抜いて、数寄屋へ通ふ路地の木を滅茶苦茶に()りつけ、加之(おまけ)に数寄屋に並べてあつた大切(だいじ)の茶器を手当り次第に(たゝ)()つて了つた。
 ソクラテスの女房は、()うかして機嫌の悪い時には、一頻我(しきり)鳴りたてた揚句(あげく)(はて)が、いきなり水饕(みづかめ)の水を哲学者の頭に、滝のやうに()()けたものだ。すると、哲学者は魚のやうに水のなかで溜息をついて、
 「雷鳴(かみ り)のあとに、夕立の来るのはお()まりさ。」
といつて平気な顔をしてゐたさうだ。
 利休は女房の(たし)()つた茶器を、一つ一つ拾ひ上げて、克明にそれを漆で継いだものだ。そして女房のちんちんなどは素知らぬ顔で相変らずお茶を(すゝ)つてゐた。
 ある人がその茶器を不思議がつて由緒(いはれ)を訊くと、利休は何気ない調子で、
 「さればさ、茶器など申すものは、その(まゝ)では一向面白味が御座らんから、(わざ)と割つて漆を引いてみました。路地の木も同じ趣向で、あのやうに枝を一寸()(すか)して置きましたが……」
と言つて、態(わざ/\)立つて障子を()けて見せて呉れたさうだ。


最終更新日 2006年03月25日 11時47分48秒

薄田泣菫「茶話」「高野(かうや)の英霊塔」

高野(かうや)の英霊塔
工学博士田辺朔郎(さくを)氏は、軍人軍属のためには靖国神社を始め、色々の鎮魂(たましづめ)の道具があるのに、学者や芸術家にはそんな設備が少しも無いのは国家として国民として片手落な次第だ。これだけは是非何とかしなけれぱといふので(きんく)々高野山に素晴しく大きな英霊塔を建立する考へださうだ。
 考へは結構だが、自体学者や芸術家などいふ連中(れんぢゆう)には旋毛(つむじ)の曲つたのが多いから、英霊塔を建てたからといつて、その(まゝ)成仏はしなからう。尤も学者や芸術家は生前忙しく暮した(せゐ)で、まだ高野山を見ないで死んだ(てあひ)も多からうから、博士の手で無賃乗車券でも配つたら、その人(だち)霊魂(たましひ)も一度は屹度(きつと)登山するに相違ない。
 高野山には(いろん)々な人のお(こつ)がたんと納まつてゐる。あれは弥勒出世(みろくしゆつせ)の暁に弘法大師が皆の手を執つてお迎へに出られる誓願があつたからださうだが、大師の考へでは(たかゝち)々三十人位の積りらしかつたが今のやうにたんと納まつては一寸始末に困るだらう。そんな事から弥勒菩薩も今では一寸顔出しが出来なくなつたらしい。
 むかし熊坂長範(ちやうはん)が山で一稼ぎする積りで()が更けて高野へ登つた事があつた。大きな伽藍(がらん)は皆門を閉ぢてゐるなかに、(たつた)一つ小さな()の見える所がある。覗いてみると皺くちやな坊さんが一人立つてゐて、附近(あたり)には人間の骨がごろ/\転がつてゐる。長範は自分が盗賊(どろぼう)に来た事も忘れて理由(わけ)を訊くと、坊さんは例の弥勒出世の大師の誓願を説いて聞かせた。
 長範はそんな事なら、自分も御一緒に願ひ度いと言ひ出した。長範の腕は盗みをするだけに寸も長かつたし、納骨には()つて(つけ)の代物であつたが、山でもまだ一稼ぎしなければならぬので、一寸()(をし)みをした。
で、石でもつて前爾を一つ叩き折つた。
 「ぢや前歯を一つ納めて置きませう、何卒(どうぞ)お忘れのないやうに。」
と言つて駄冐をおしてその歯を坊さんの手に載つけた。前歯はこれまで幾度か嘘を()いた歯ではあつたが、その歯が一本無くなつたからといつて今後(これから)嘘を()くのに別段差支へる訳でもなかつた。
 長範は好い物を納めた。だが、時期が少し早過ぎた。もつと(とし)をとつて、入歯(いれば)をする頃にしても遅くは無かつたのだ。弥勒は今だにぐづ/\してゐられるから。



最終更新日 2006年03月25日 11時48分13秒

薄田泣菫「茶話」「寺か女か」

寺か女か
 むかし嵯峨に独照といふ僧が居た。黄檗(わうばく)隠元(いんげん)が日本へやつて来た折、第一に払子(ほつす)を受けたのは、この独照だつたといふからには、満更(まんざら)の男では無かつたらしい。
 この独照がまだ小さな庵室に籠つてゐる頃、ひと秋雨のしよぽ/\降り頻る夕方とんくと門の扉を叩くものがある。独照は何気なく出てみると、若い女が外に立つてしくく泣いてゐる。
 独照が「()うかなすつたのかい。」と訊くと、娘は(なま)めかしい京言葉で理由(わけ)を話した。それに依ると、娘は中京辺(なかぎやう)商人(あきんど)の一粒種だが、今日店の者大勢と一緒に山へ茸狩(たけがり)に往つた。初めて山へ来てみた嬉しさに、旧娘は一人で木立を分けてゐるうちに、つい連れにはぐれた。その内、日は暮れるし、雨は降り出すし、方々捜し歩いた末、(やつ)とここまで下りて来る事が出来た。
 「ほんまに御気の毒さんどすが、今夜一()さだけお泊めやしてお呉れやす。」
 女はかういつて丁寧に頭を下げた。
 独照は女を庫裏(くり)に連れ込み、湿()(とほ)つたその着物を脱がせて鼠色の自分の着物を(レさ)せてやつた。そして囲炉裏に(ほだ)をくべて、女はそこに打捨(うちや)らかした(まゝ)、自分ひとり煎餅蒲団に(くる)まつてごろりと横になつた。
 「まあ、い\気な和尚(おつ)さんやわ、御自分ひとりお蒲団に(くる)まつて。」
 女は蓑虫(みのむし)のやうに坊さんの(くる)まつた蒲団をめくりに掛つた。そしてその端の方に自分も小さく横になつた。
 ()が更けて、本尊様が寝言でも仰有らうといふ頃、独照はがばと跳起(はねお)きた。
 「何をする、不届者(ふとどきもの)めが……」と、解けかゝつた帯を締め直して、その儘女を引きずり起して門の外へ押出してしまつた。女は扉につかまつて、
 「あんまりどすえ、和尚(おつ)さん……」
と泣き入つてゐたが、独照は耳を藉さうともしなかつた。
 その噂が村の人に伝はつて心堅い和尚様だといふので、独照は立派な寺を建てて貰つた。
 寺がい\か、女がい\か。いつ迄経つても味のある問題である。



最終更新日 2006年03月25日 11時48分35秒

薄田泣菫「茶話」「記者(へこ)む」

記者(へこ)
 トルストイ伯は、その名著『アンナ・カレニナ』のなかで、塞耳維(セルビア)土耳共(トルコ)紛紜(いきさつ)から、もしか戦争でもおつ(ばじ)まるやうだつたら、筆一本で(やかま)しく主戦論を吹き立てた人達だけで、別に中隊を組織して、一番前線にそれを使ふ事にしたい、「すると、屹度(きつと)立派な中隊が出来る。」と皮肉を言つてゐる。
 イダ・ハステツド・ハァパァ女史といふと、婦人参政権の賛成論者として相応(かなり)名を売つてゐるが、この女が最近紐育(ニユ ヨ ク)の有名な新聞記者に会見を申込んで来た。それはこの記者を生擒(いけどり)にして、新聞紙の上で(さかん)に賛成論を書き立てさせたら、屹度効力(ききめ)があるだらうと思つたからだつた。
 「婦人参政権ですつて? 今時そんな下らない……」
と新聞記者は吐き出すやうに、「もしか私達の国が欧洲戦争に引張り出されるとして、誰が武器一つ取る事を知らない(てあひ)に投票なんかするもんですか。」
とそつ()なく言つたが、相手の険しい顔色を見ると、一寸調弄(からか)つて見たくなつて、
 「奥様(おくさん)貴女(あなた)だつたら()うなさいます、もしか戦争でも始まりましたら。」
 「はい、貴方のしてゐらつしやる通りに()りますわ。」と夫人は急に雌鳥(めんとり)のやうに鼻息を荒くした。「お国の為めだからつて、他の人達はみんな戦線に立つて血を流すやうに書き立てませうよ。そして自分一人は編輯室(へんしふしつ)の安楽椅子に()()りかへつてね。」



最終更新日 2006年03月25日 16時06分32秒

薄田泣菫「茶話」「(ひげ)有無(ありなし)

(ひげ)有無(ありなし)
 高安月郊氏が同志社女学校で東西比較文学の講義をしてゐた頃、講話(はたし)(つい)でから話題が「文学者と髯」といふ事にまで及んで来た。
 高安氏の持論によると、詩人芸術家すべて傑出してゐる人物には、(きま)つたやうに髯が無いといふのだ。氏はその例として、ダンテ、ゲエテ、シルレル、ミルトン、シエリイ、キイツ、芭蕉、馬琴、巣林子(さうりんし)……などいふ名家を引張り出して来た。
 談話(はなし)に聴きとれてゐる女学生は、かういふ詩人の肖像を頭のなかで描き出してみた。大抵安雑誌の口絵で見覚えてゐるので、誰も彼も天然痘を(わづら)つたやうな顔をしてゐるが、実際髭の無い事だけは確かであつた。
 女学生は詩人や芸術家のなかから、髭の無い例を探り出すのが面白くなつて、てんでに自分達の記憶から色(いろん)な人達の口元を思ひ浮べて見た。
 「紫式部、清少納言、ヂヨオヂ・エリオツト、クリスチナ・ロセツチ……成程ほんとやわ、みんな髯があらへん。」
 若い娘達は感心したやうに高安氏の顔を見た。成程この人にも髭といつては一本も生えてゐない。
 女学生の眼は言ひ合はしたやうに、高安氏の立つてゐる講壇の後方(うしろ)に注がれた。そこには写真版のロングフエロオの肖像が掛つてゐる。それを見ると、皆は一度に声を揚げて笑ひ出した。
 高安氏は何気なく後方(うしろ)を振向いてみると、ロングフエロオが悪性の風邪でも引込んだやうに、顎髯をもじやく生やした(まし)、後で苦り切つてゐるのが目についた。
 氏は一流の()(おろ)すやうな調子で、「うん、この男か。この男なざ小詩人だから(まる)で問題にならん。」
 この讃讃を聴いた女学生は今ではそれ/\巣立(すだち)をして人の細君(かない)になつてゐるが、誰一人詩人や芸術家には嫩ドてゐないらしいから・髯の犠無は余り問題にはしてゐない。実際髭(など)()うでも()い、問題は尻尾の有無である。女の嫁きたがる男には狐の様によく尻尾を引摺(あるびきず)つてゐるのがある。



最終更新日 2006年03月25日 16時07分21秒

薄田泣菫「茶話」「猶太人と狗」

猶太人と狗
 マリイ・アンチンといふ猶太種(ユダヤだね)の女は、火のやうな激しい性楴で、今アメリカの各地方で(しき)りと演説をし歩いてゐる。その演説といふのは、猶太人が伝説的に持ち伝へてゐる、神様がお約東の理想郷は、他でもない亜米利加の事だといふのだ。
 成程聴いてみると、(もつと)もな話で、亜米利加には猶太人の好きな金は有り余る程あるし、口喧(くちやかま)しい神様は居無いし、加之(おまけ)に男はみんな女に親切だといふから、猶太種(ユダヤだね)の女が理想郷とするに打つて附けの土地柄だ。そして今一つい\事には亜米利加人といふ奴は、こんなお世辞をいふと、(きま)つたやうににこ/\して、
 「マリイ・アンチンはよく物の解つた女で、加之(おまけ)に素敵な美人だ。」
と直ぐもう美人にして呉れる。
 この女が最近土耳其(トルコ)から帰つたばかしの男の友達と何処かで会つた。男は(いろん)々な面白い旅行話を聞かせた後、指の(ふし)をぽきく鳴らしながら、
 「さうだ、忘れてゐたが、土耳其には面白い二つの習慣があるんですよ。」
と妙に調子をはずませて話し出した。
 「それはね猶太人と狗だと見ると、ふん(づかま)へるなり、直ぐ叩き殺してもい丶んですとさ。」
 マリイ・アンチンの円い顔は銀貨の様に真青になつた。
 「まあ、仕合せだつたわね、貴君(あなた)や私がそんな国に住んで居なかつたのはね。」
 男の友達は眼を円くして吃驚(びつくり)した。自分は猶太種(ユダヤだね)ではない。してみると、相手は自分を狗と間違へてゐるのだと思つて……。



最終更新日 2006年03月25日 16時07分57秒

薄田泣菫「茶話」「三十一文字(みそひともじ)

三十一文字(みそひともじ)
 元良(もとら)勇次郎博士が、生前大学で心理学の講義をしてゐた頃、ある時何かの例証を和歌から引いた事があつた。(和歌といふものは、手際よく例をひくと、早天(ひでり)に雨を降らす事も、借金の日限を延ばす事も出来るものなのだ。)
博士はフロツクコオトの隠しから皺くちやな手鼡(はんかち)を取出して、一寸(みづばな)をおし(ぬぐ)うた。そして(いつも)の几帳面な調子で、
 「一体和歌といふものは、諸君も御存じかも知らんが、三十一文字(みそひともじ)といつて、ちやんと三十一字から成立(なりた)つてゐる。こゝに一つ例をあげると……」
と博士は一寸言葉を切つて記憶から手頃な歌を一つ探り出さうとした。
 甜瓜(まくはうり)の恰好をした博士の頭のなかには、歌といつては『百人一首』が二つ三つ転がつてゐるに過ぎなかつた。博士は顳纈(こめかみ)栂指(おやゆび)で押へた(まゝ)じつと考へ込んでゐると、都合よく道真(みちざね)公の歌がひよつくりと滑り出して来た。
 「こゝに一つ例をあげると……」と博士は繰返して、
「名高い百人一首にある歌だが丁度三十一文字で出来てゐる。」と叮嚀に節高(ふしだか)な指を折つて数へ出した。「菅家(くわんけ)、このたびは(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま)……」
 歌を(しも)の句まで()んでしまふと、忠実な博士の指は三十五文字を数へてゐた。それに何の不思議があらう、歌は第二句目で一字延ぴてゐる上に、博士は「菅家」といふ名前までも()み込んでゐたのだから。
 博士は数へた片手を(ちゆう)()けたまゝ、世間が厭になつたやうな顔をして棒立になつてゐたが、暫くするとぐつと唾を飲み込んだ。
 「あ\これは字余りでした。和歌にはちよい/\字余りといつて、普通のより文字が延ぴてゐるのがあります。丁度猿に尻尾の長いのがあるやうなもので:…」
 高芙蓉(こうふよう)がある時弟子を集めて、蒙求(もうぎう)の講釈をしてゐた。「車胤集螢」の章になると、高芙蓉は肝腎の車胤(しやいん)の事なぞは忘れたやうに、これまで自分が見て来た方方の螢の話をし出した。そして最後に宇治の螢を引張り出して、「那処(あそこ)の螢は大きいね。さやうさ、雀よりももつと大きかつたかな。何しろ(げん)()頼政の亡魂だといふんだからな。」と吹いてゐたさうだ。
 笑つては可けない。先生といふものは、大抵こんな事を教へるやうに出来てゐるものなのだ。



最終更新日 2006年03月25日 16時08分16秒

薄田泣菫「茶話」「楽書(らくがき)

楽書(らくがき)
 京都といふ土地は妙な習慣のあるところで、少し文字を()つた男が四五人集まると、屹度画箋紙(きつとぐわせんし)画絹(ゑきぬ)をのべて寄書(よせがき)をする。亡くなつた上田敏博士は、そんな時には(きま)つたやうに、ヘラクリトスの、
 「万法流転」
といふ(ことば)を書きつけたが、それが少し堅過ぎると思はれる場合には、『松の葉』のなかから、気の利いた小唄を拾つて来てそれをさらくと書きつけた。
 博士は詩歌も(うま)かつたし、警句にも富んでゐたから、自分の頭から出たそんな物を書きつけたらよかりさうなものだのに、()うしたものか、何時でも「万法流転」と『松の葉』の小唄を借用してゐた。
 むかし王義之(わうぎし)蔽山(しふざん)といふところに住んでゐた頃、近所に団扇売(うちわうり)(ばあ)さんがゐた。六角の団扇で一寸洒落た恰好をしてゐた。ある時王義之の(うち)へも売りに来たが、こゝの主人は、唯の一本も買はないで、加之(おまけ)にその団扇ヘベたく楽書をした。(どこの国でも文学者や画家(ゑかき)などいふ(てあひ)は、滅多に物を()はないで、直ぐ楽書をしたがるものなのだ。)
 それを見ると、(ぱあ)さんは火のやうに(おこ)つて、折角の売物を代なしにした、是非引取つて貰はうと懸合つたが、王義之は黙つて財布を()つてみせた。財布には散銭(ぱらせん)一つ鳴つてゐなかつた。
 「何そんなに怒るがものは無いさ、(わし)の楽書だと言つたら、誰でもが手を出すよ。」
 王義之は落着き払つてこんな事を言つた。
 (ばあ)さんはぶつくさ(ぼや)きながらも出て往つたが、町へ持つて出ると、色々な人が(たか)つて来た。
 「なに王義之の楽書だつて。」
と言つて、めいくふん(だく)り合ひをして、高い値段で引取つて往つた。
 姥さんはにこ/\もので帰つて来た。そして六角団扇をしこたま抱へ込んで、また王義之の(もと)へやつて来た。
 「さ、遠慮なしに、も一度楽書をして呉れさつしやれ。その代りには気に入つたのを一本お前さんに進ぜるからの。」
と言つたが、今度は王義之の方が相手にならなかつた。
 王義之がどんな文句を(なす)つたか、私はその団扇を買はなかつたから、そこ迄は知らない。



最終更新日 2006年03月25日 16時08分45秒

薄田泣菫「茶話」「墓の中」

墓の中
 法隆寺の雷爺(かみなりおやぢ)北畠治房老人などが寄つて(たか)つて北畠准后(じゆごう)の墓に相違ないといつて、(きく)々発掘にか丶つた室生寺(むろふでら)の境内から、(ろく)な物といつては何一つ出て来なかつたのは面白い。もしか親房(ちかふさ)卿から今の北畠男爵になる迄の歴とした系図でも出たら、法隆寺の老人も煙草入(たばこいれ)のやうな口を()けて喜んだに相違ないが、惜しい事をしたものだ。
 支那の三国時代に鍾蘇(しようえう)といふ名高い書家があつた。この男が書いた草書は「飛鴻海に戯れ、舞鶴天に游ぶが如し」とあるから、こんな人から手紙を貰つたところで仮名が振つてなかつたら少しも読めなかつたかも知れない。
 この鍾蘇が先輩の章誕といふ男に、蔡鬯(さいよう)の筆法を訊きに往つた事があつた。すると章誕はそれを惜んで()うしても(うん)と言つて教へて呉れなかつた。
 間もなく章誕が死ぬると、鍾綵ほ小躍りして喜んだ。そして人に知られぬやうにこつそりその墓を掘りかへして、棺のなかから蔡巛邑の秘書を盗み出した。鍾蘇の書が急に(うま)くなつたのは、それからだといふ話だ。
 ある人が元の張伯雨といふ男の墓を掘ってみた。すると中から青い表紙の珍らしい書物が二冊見え出した。
 「これだく。自分が見たいと思つてるのは。(やつこ)さんやつぱり懐中(ふところ)()ぢ込んで御座つたな。」
と無駄口を言ひく、泥のついた手で先づその一冊を取り出した。そしてそれを附近(あたり)の乾いた石の上に置いて、今一冊の方を取り出さうとすると、その本はもう影も形も見えなくなつてゐた。
 「(やつこ)さん、惜しがつて引込めたな。無理もないさ、あんなに見せともなかつた本だからな。」
と、その男は幾らか気味も悪かつたので、一冊だけですつかり絶念(あきら)めて、また以前(もと)のやうに墓へ土をかけて置いたさうだ。



最終更新日 2006年03月25日 16時09分28秒

薄田泣菫「茶話」「就職口」

就職口
 新しい文科大学の卒業生が就職口に困つて、その周旋(かた)を井上哲次郎博士に頼みに往つた事があつた。博士はその朝何処かの新聞で二行ばかし自分を賞めてゐた記事があつた。それでも読んだかして大分(だいぶん)機嫌がよかつた。
 「うむ、君一人位だつたら()うにかならん事もなからう。今日はまあ(ゆっ)くり遊んで()くさ。」
と言つて、色々な世間話をし出した。
 一(しき)り世間話が済むと、博士は、
 「一寸こつちへ()いて来たまへ、君にはまだ自宅(うち)の書庫を見せなかつたね。」
と態(わざ/\)立つて自慢の書庫へ案内してくれた。大学でも書物好きの友達を探し出す時の(ほか)は、滅多に書庫に入つた事の無かつたその男は、一寸厭な顔をしたが、それでも不承々々に蹤いて往つた。
 薄暗い書庫のなかには、色々な書物(ほん)がさつと一度に猫のやうな金色な眼を光らせて、この踞懇(なじみ)の薄いお客を見つめた。博士は「真理」を掴むために特別に椿(こしら)へさせたらしい脂つ気の無い手で、隅の方を指さした。
 「あすこが哲学、それから文芸、神学  とまあ、東西古今の書物で目星(めぼ)しいものだけは残らず集めてあるがね。困つたのは火事だて。」と博士は火災保険の会社員のやうに一寸眉を(しか)めて、「実際火事には困る。他の家財はみんな焼いたつて構はないが、この書庫だけは()くし度くないからな。」
と心配さうに言つたが、ふと気がついたやうに後方(うしろ)を振かへつて訊いた。
 「君達はまだ書物(ほん)も格別溜つてゐなからうが、一体書庫はどんな設備にしたものかな。」
 「書庫の設備ですか。」と卒業生はつい(うつ)かり口を滑らした。「そんな物は私達には要りません。読んだだけの書物はちやんと此処(ここ)(をさ)めてありますからね。」
と調子に乗つて雲脂(ふけ)だらけな頭を指さした。だが真実(ほんとう)の事をいふと、その頭のなかには探偵小説の二三冊と、女の手紙と、誤訳だらけのタゴオルの哲学がごつちやになつてゐるに過ぎなかつた。
 博士はそれを見て、「ふふむ」と言つて、不機嫌な顔をしたが、座敷に帰るなり相手の頭を見下(みおろ)して、
 「就職口と言つたところで、何処にも椅子を()けて君なぞ待つてる(ところ)は無いんだから、自分にもせつせと捜さんければ可かん。」
と素つ気なく言つたさうだ。



最終更新日 2006年03月25日 18時12分21秒

薄田泣菫「茶話」「キ元帥の幽霊」

キ元帥の幽霊
 この頃欧羅巴(ごろヨ ロツパ)の西部戦線にゐる英軍の暫壕(ざんがう)内では、彼方(あつち)でも此方(こつち)でもキツチナア元帥に遭つたといふ風説が(さかん)に行はれてゐる。オウクネエ島附近で溺死した元帥が今頃蘇生(いきかへ)つてゐる筈もないが、それでも彼方(あつち)でも見た、此方(こつち)でも見た。なかには埃塗(ほこりまみ)れの手で、湯気の立つたスウプの皿を持つてゐるのを見掛けたと言ふからには、これも満更(まんざら)嘘だとばかしは言はれない。
 先年オスカア・ワイルドが巴里の汚い宿屋で窮死した時も、その後二三ケ月経つてから彼方此方(あつちこつち)の町でワイルドを見掛けたといふ人がちよいイーあつた。
 伊勢は寂照寺の画僧月僊(げつせん)は乞食月僊と言はれて、幾万といふ潤筆料を蓄め込んだ坊さんだが、その弟子に谷口月窓といふ男がゐて、沈黙家(むつっりや)で石のやうに手堅い(うま)れつきであつた。
 沈黙家(むつつりや)ではあつたが、世間並に母親(おふくろ)が一人あつた。この母親(おふくろ)がある時芝居へ()くと、隣桟敷(となりさじき)(かね)知合(しりあひ)(なにがし)といふ女が来合せてゐた。その女は大の芝居好きで、亭主に死別れてからは、俳優(やくしや)の顔ばかり夢に見るといふ風な女であつた。
 その日も二人は夢中になつて、芝居や俳優(やくしや)の墫をした。(あく)る日になつて、月窓の母親(おふくろ)が挨拶かた/゛\その女を訪ねてゆくと、鼻の(とが)つた嫁さんが出て来て不思議さうな顔をした。
 「阿母(おつか)さんですか、阿母(おつか)さんは貴女(あなた)、亡くなりましてから、今日で三(つき)余りにもなりますよ。」
 「え、お亡くなりですつて。でも。私は昨夜( うべ)芝居でお目に懸りましたが……」
 「まさか。」
といつて嫁さんは相手にしなかつた。そして()うかすると、此方(こつち)狂人(きちがひ)扱ひにしさうなので、月窓の母親(おふくろ)は黙つて帰つたが、道々(あしのうら)は地に着かなかつた。



最終更新日 2006年03月25日 18時13分01秒

薄田泣菫「茶話」「石黒男と女中」

石黒男と女中
石黒忠恵(ただのり)男は今では(ひま)にまかせて茶の湯を立てたり、媒人をしたり、また喧嘩の仲裁をしたりして暮してゐる。その石黒男の(やしき)に長年奉公(つと)めてゐる女中が、ある日の事、男爵の前に両手を突いて、
 「檀那さま、一寸お願ひが御座いまして……」
と結ひ(たて)の頭を下げた。
 夫人に子種が無いからといつて、頑丈な田舎娘を女中に(やと)ひ入れて、立派な男の子を(こしら)へた程の男爵ではあるが、近頃は(とし)を取つてゐるので、別に女中から相談を持込まれる程の悪戯(いたづら)も無かつた筈だ。それだけに男爵も一寸見当に困つた。
 男爵は禿げた頭をつるりと()(おろ)した。
 「何ぢや、宿下(やどさが)りなら奥にでも頼んだがよからう。」
 「いえ」と女中は言ひ(にく)さうに一寸膝の上を見つめた。「(はなは)だ申し兼ねますが、乃木さんのお手紙を二本ばかし戴かれますれば……」
 「うむ、乃木の手紙が欲しいといふか。」
と男爵は今更のやうに気をつけて女中の顔を見た。円円(まるまる)と肥えた顔に細い目が()いてゐるので、いつも艦肭躋(おつとせい)のやうだとばかし思つてゐたが、今見ると何とかいつた芝(へん)の女医者によく()てゐる。膿肭臍と女医者、大層な(ちがひ)ぢや、矢張(やつば)(やしき)にゐるお蔭だと男爵は思つた。
 「乃木の手紙を欲しがるとは近頃感心なこつちや。だが、何故また二本要るかの。」
 女中はもう貰へる物だとばかし思ひ込んで、丁寧に頭を下げた。
 「はい二本御座いますと、帯が一木買へるさうに承はりました。」
 石黒男は大きな掌面(てのひら)で鼻先を撫で下されたやうに冐をぱちくりさせた。よく見ると女医者に肖てゐた女中の顔は、やつぱり脇肭臍に生写しだ。
 「俺はな、乃木がそんなに名高くなるとも思わなかつたので、手紙は残して置かなかつたよ。」
 男爵はかう言つたきり、立ち上つて次の()へ入つた。
 「まあ勿体ない、お手紙をみんな()くしちまつたんだつて。」と女中は艦肭臍のやうな細い眼で檀那の後姿を見送りながら惜しさうに( や)いた。「ほんとに手紙だけは残して置かなくつちや、誰が腹を切るか知れたもんぢやないんだから。」



最終更新日 2006年03月25日 18時13分29秒

薄田泣菫「茶話」「峯山の手紙」

峯山の手紙
 昨日(きのふ)乃木さんの手紙二通で帯一本が出来る話を書いたが、乃木さんと同しやうに腹を切つて死んだ渡辺崋山の手紙は、今では(たつた)一通で帯が幾本も買へる。
 畢山の手紙も今ではそんなに値段が高まつて来たが、以前(もと)素麺箱(そうめんばこ)に一杯で、たつた十円の時代もあつた。ー断つておくが、素麺の値段は、今とその頃と大した差違(ちがひ)はない。
 崋山の親友に真木(まき)重兵衛といふ男がゐた。その重兵衛に(ゆたか)といふ遊ぴ好きな孫があつて、ある時廓返(くるわがへ)りに馬を連れて、古い素麺箱を一つ、豊橋のさる骨董屋に担ぎ込んだ。
 骨董屋の主人はその素麺箱を見て、ぶつくさ(ぼや)きながら懐中(ふところ)から惜しさうに十円紙幣(さつ)を出して呉れた。豊はそれを持つて馬と一緒に帰つて往つた。その跡で骨董屋は素魎箱を引繰返して居ると、なかから皺くちやになつた畢山の手紙が、座敷一杯に転がり出した。
 その日の夕方、骨董屋の店先へぬつと顔を出したのは、豊の親父(おやぢ)であつた。
 「崋山の手紙を十円で引取つて呉れたさうで、色々有難う。だがあのなかには藩公に関係した秘密の手紙が(まじ)つてるから、あれだけは返して貰はなくつちや。」
と言つて、その手紙を五六通捜して持つて帰つた。
 今豊橋辺にあつちこつち崋山の手紙が(ちら)ばつて、虎の子のやうに大事がられてゐるが、あれはみんなこの素麺箱から転がり出したものなのだ。
 石黒男爵の女中に教へてやりたい。乃木さんの手紙が無かつたら、崋山の手紙でも()いのだ。畢山の手紙が無かつたら呉服屋の切手でも好いではないかと言つて。何方(どちら)にしても女中は新しい帯さへ締める事が出来たらそれで結構なのだ。



最終更新日 2006年03月25日 18時13分50秒

薄田泣菫「茶話」「小説家の面会」

小説家の面会
 仏蘭西の小説家エミイル・ゾラは、寺内伯と同じやうに新聞記者との会談を(ひど)く怖がつてゐた。例
のドレエフス事件の折などは、自分も進んでその関係者の一(にん)となつただけに、新聞記者に(つかま)つて、大袈裟に畳み掛けた質問にでも出会(でくは)しはしなからうかと法(びく/\)ものでゐた。
 ところが、その事件の最中に或る新聞記者は是非ゾラに面会しなければならぬ用事が出来た。だしぬけに名刺を突き付けたところで、時節柄この文豪が直ぐお目に懸らうとも言ふまいし、記者はほとほと当惑した。
 記者はそんな折に(いつ)もするやうに煙草を(ふか)さうと思つて上衣(うはぎ)のポケツトに手を入れた。指先に触つたのは煙草では無くて、矢張その頃の文士の一人フランソア・コツペエの詩集であつた。
 記者は先刻(さきがた)友達に出会つた時、コツペエの詩集を読みさしの(まゝ)、ポケツトに入れた事に気が()いた。そしてその頃コツペエが風邪か何かで(ふせ)つてゐるのを思ひ出すと、覚えず小躍りして叫んだ。
 「さうだ、コツペエさんの御厄介にならう。」
 記者はその脚で直ぐゾラを訪ねた。そして受附(うけつけ)の男を見ると急に悲しさうな顔をして、
 「フランソア・コツペエが亡くなりました。御主人がまだ御存知でなければ一寸(しら)せて上げて下さい。」
出鱈目(でたらめ)な事を言つた。
 間もなく、ゾラは右手にペンを持つた儘、あたふたと飛び出して来た。
 「なにコツペエが亡くなつたつて。まあ、此方(こつち)へ通つて委細(くは)しく話して聞かせて下さい。」
 応接室へ通されると、年若な記者は突如(いきなり)頭が卓子(テ プル)打突(ぶつつ)かる程大きなお辞儀をした。
 「まことに申訳が御座いません。コツペエさんはお風邪のやうには聞きましたが、お生命(いのち)に別条は御座いません。唯さうでも申さなければ、先生がお会ひ下さるまいと思つたものですから……」
 かういつて、記者はまた一つお辞儀をした。
 ゾラはそれを聴くと、鉄瓶のやうに湯気を立てて怒り出した。何しろあの通りの駄文家の事だから、(いつも)長文句(ながもんく)立続(たてつど)けに口汚く(のゝし)つたに相違ないが、一(しきり)嵐が過ぎてしまふと、それでも一々記者の質問に答へて、自分の意見を聞かせて呉れたさうだ。



最終更新日 2006年03月25日 18時14分17秒

薄田泣菫「茶話」「蘆花の置土産」

蘆花の置土産
 金尾(かなを)文淵堂の主人といふと、どんな見ず知らずの大家の許へでも、その人が何か書いてゐるといふ噂を聞きつけると、
 「ゲンコウイタダキタシ」
と"いふ電報を打つて(よこ)すので同業者間に名を知られてゐる。
 徳富蔗花がエルサレム巡礼の(みち)(のぽ)つた時、文淵堂の主人は(いつも)の通りに幾通か電報を打つたが、相手が相手だけに一向手応へがないので、態(わさ/\)見立てるのだといつて、神戸から門司まで藍花君と一緒に薄汚い汽船の三等室に滑り込んだ。
 船が播州沖を出かゝると、色々の世間話に取り交ぜて、それとなく原稿の事を切り出してみると、蘆花君は円い色眼鏡の奥からじろ/\本屋の顔を見つめた。本屋は魚のやうな冷い顔をしてゐた。
 「原稿も原稿だが、それよりももつと善い物をあげませう。」
 蘆花君はこんなに言つて、立上つて甲板へ出た。
 本屋は一刻も早くその「()い物」が見度(みた)さに(あと)から()いて甲板に出た。船の前には(つま)んで投げたやうな島が幾つか転がつてゐる。蘆花君は一寸後を振向いて見て、
 「いゝ景色ですな。」
と言つたきり、大きな腕を胸の上で()んだ(まゝ)大跨(おほまた)其辺(そこら)を歩き廻つてゐたが、いつの間にか姿が見えなくなつた。
 本屋は慌ててまた船室へ帰つてみた。蘆花君は薄暗い(へや)の隅つこで、膝小節(ひざこぶし)を抱へ込んだ儘、こくりこくりと居睡(ゐねむ)りをしてゐる。附近(あたり)には見窄(みす )らしい荷物が一つ(きり)で、何処にもその「善い物」は見つからなかつた。
 船が門司に着かうとする時、本屋の主人(あるじ)はそれとなくまた原稿の一件を切り出して見た。すると蘆花君は急に思ひ出したやうに、
 「さうでしたつけな。いや、原稿も原稿だが、それよりももつと善い物をあげませう。」
と、また同じ事を繰り返した。
 「原稿より善い物つて何ですか。」
 本屋は直ぐ訊きかへした。
 「信仰です。」
 蘆花君はトルストイのやうな口元をしてきつぱりと言つた。(おとがひ)にトルストイのやうな(もじやく)々した髯のないのが口惜しかつた。
 「先づ神をお信じなさい、その外の事はみんな詰りません。」
 本屋の主人は眼を円くして蘆花君の顔を見た。そして鵬鵡返(あうむがへ)しに、
 「先づ原稿をお呉んなさい。その外の事はいづれ考へてからにしませう。」
と言ひたかつたが、相手を怒らせてもと、その儘別れて小蒸汽船に乗つた。



最終更新日 2006年03月25日 18時15分10秒

薄田泣菫「茶話」「土を(まろ)めて」

土を(まろ)めて
 むかし支唐禅師(ぜんじ)といふ坊さんが、行脚(あんぎや)をして出羽の国へ往つた。そして土地(ところ)禅寺(ぜんでら)逗留(とうりう)してゐるうち、その寺の後方(うしろ)に大きな椎の木の枯木(かれき)があるのを発見(めつ)けた。
 禅師は寺の住職に勧めて、その枯木を根から掘らせた。だんく掘つて()くうちに、椎の木のなかが深い洞穴(うる)になつてゐるのに気が()いた。
 樵夫(きこり)の斧が深く幹に()ひ込むやうになると、急にばた/\と音がして、洞穴(うろ)のなかから何か飛ぴ出した物がある。見ると(つが)ひの(ふくろ)で、厭世哲学者のシヨオペンハウエルのやうな眼をして、じつと其辺(そこら)(みまは)してゐたが、暫くすると背後(うしろ)の藪のなかへ逃げ込んでしまつた。
 「(やつこ)さん、巣をくつてたな、洞穴(うろ)のなかへ。」
 こんな事を言ひく、樵夫(きこり)(やつ)枯木(かれき)()り倒すと、なかから土で(こさ)へた(ふくろ)の形をした物が、三つまでころころと転がり出した。よく見ると、その一つには毛が生えて、ちよつぴり(つま)むだやうな(くちばし)も伸びか丶つてゐたさうだ。
 禅師の説によると、(ふくろ)は土を()ねて、それを暖めて(ひよ)()にするものださうで、禅師は古人の歌やら伝説やらを引張り出してそれを証明した。(そぱ)で聴いてゐた人は禅師の物識(ものしり)に驚いたといふ事だ。
 (ふくろ)が土を(まる)めて(ひよ)()にするか、()うかは真実疑はしいが、人間にはよくこんな真似をするのがある。官僚派が寄つて(たか)つて寺内伯を第二の山県(やまがた)公に仕立てようとするなぞがそれで、伯の尖つた頭から(ふくろ)のやうに毛がむくむく生え出して来たらお慰みである。



最終更新日 2006年03月26日 00時52分45秒

薄田泣菫「茶話」「難船した人」

難船した人
 ある男が由緒(ゆいちよ)のある古いお寺に(まゐ)つた事があつた。そこには壁一面に(おびたど)しい金ぴかの額が懸つて、額のなかには各自(てんで)にぐつと気取つた人達の顔が()いてあつた。
 参詣したその男は、案内の僧侶(ばうず)に訊いてみた。
 「ちょつと伺ひますが、これは何をなすつた方々で御座いますか。」
 「さればさ。」と僧侶(ばうず)は高慢さうな咳払(せきばら)ひをした。
「この方々はみんな海で難船した人達ぢやが、平素(ふだん)神様御信心の御利益(ごりやく)で、不思議にも生命拾(いのちひろ)いをなすつたぢや、その御礼とあつて、こんなにして額をあげて御座るのぢや。」
 その男は、それを聞いて、も一度額の顔を見直した。成程誰も彼もが、神様のお力でも藉りなければ、陸の
上でも難船しさうな顔をしてゐる。
 「いや、よく解りました。ところで……」とその男は皮肉さうな眼つきをして僧侶(ばうず)の顔を見た。「平素(ふだん)神様を御信心致しながら、それでも難船して死んだ人の額は何処に懸つて()りますな。」
 僧侶さんは兎のやうに口をもぐくさせたが何とも答へなかつた。実際答へやうは無かつたのだ。何故といつて、そんな人達の額を懸けるにはお寺の壁は余りに狭かつたから。



最終更新日 2006年03月26日 00時53分02秒

薄田泣菫「茶話」「無心状」

無心状
 著述家が書物を出版すると、見ず知らずの人からたんと手紙が来る。その多くは無代価(ただ)で書物を貰はうとする(けち)(てあひ)で「平素(ふだん)から貴君(あなた)を尊敬してゐる」とか、「御著作は欠かさず読んでゐるが、近頃手許が苦しくて買へないから」とか言つたやうな文句がよくある。
 なかには郵便切手を二三枚封じ込むで、郵税だけは此方(こつち)持ちにするから、書物だけ恵むで欲しいといふのがある。そんなのに出会(でつくは)した揚合、大抵の著作家は郵便切手だけは預りつ放しにして、一切取合はない。
 かういふ虫の()い事を言つて(よこ)す手紙の宛名は十人が八人まで女名前になつてゐる。女といへば大抵の無理は通るものと思つてゐるらしいが、実際多くの著作家のなかには女名前の手紙には、喜んで返事を書くやうな(あま)(たる)(てあひ)が居ないとも限らない。
 米国にアリス・ヘガン・ライス夫人といふ女流作者がある。この人が著作を公にすると毎度煩(いつもうる)さい程いろんな手紙が舞ひ込んで来る。
 ある時、テキサスの老軍人から来た手紙は「お前は幼い時別れた私の娘ぢやないか。」と、生みの娘扱ひに、
ぞんざいな言葉で書いてあつた。また二人の男から同時に結婚の申込を封じ込むだ手紙を受取つた事があつた。
 シカゴの或るお婆さんは、「私は(つんぼ)加之(おまけ)(おし)です。気の毒だとお思ひなら、貴女(あなた)の書物を一冊送つて呉れ」と申込んで来た。これには流石の女流作家も弱らされたが「私は聾や唖を好かないから。」と返事を出して、(やつ)(のが)れた。
 可笑(をか)しかつたのは何処かの小娘の(よこ)した無心状で、
 「先生、あなたの直筆で書いた物を送つて下さい。何卒(どうぞ)リチヤアド・デヰスさんや、マリイ・ヰルキンスさんの真似をして下さいますな。あの人達は私の切手を取つちまつてよ。」
と書いて、手紙の端にアラビヤ護謨(ごむ)で滅多に(めく)れないやうに切手が貼つてあつた。言ふ迄もなくデヰスやヰルキンスは、切手を取りつ放しにした連中(れんぢゆう)である。



最終更新日 2006年03月26日 00時53分20秒

薄田泣菫「茶話」「懸賞短篇小説」

懸賞短篇小説
 最近米国のある雑誌の主催で「短篇小説競技会」といつたやうなものが催された。一体短篇小説はどの程度まで文字が切り詰められるものかといふ、言はば一種の悪戯(いたづら)から思ひ立たれたものだ。
 応募原稿は総て三万余通、世界の各方面から送つて(よこ)されたもので、なかには仏蘭西の暫壕のなかで書いた物さへあつた。内容には色々な世相を(うつ)してゐるが、秀れたものは、矢張り恋愛と戦争を書いたものに多かつた。
 唯一の規定は「総語数一千五百以下たるべし」といふ一箇条で、これより長いものは取上げない。原稿料は無論払つたが、その払ひ方が随分奇抜で、書いた物には払はないで、書かなかつた物にだけ払ふといふ約束(きめ)なのだ。
 といふのは、応募原稿が規定の千五百語より少かつた場合には、その少い語数だけ一語十(セント)の割合で原稿料を払ふのだ。だから、千五百語ぽつきりで書き上げた人は、どんな立派な短篇小説を書いたつて、(びた)(もん)も貰へない。もしかそれを千四百九十語で書き上げてゐたら、一弗だけ貰ふ事が出来るし、たつた十語で済ます事が出来たら、百四十九弗貰ふといふ勘定だ。
 数多い応募原稿のうちで、一番長いのが千四百九十五語で、その作者は原稿料大枚(たいまい)五十仙を貰つた。一番短いのは七十六語で、その作家は雑誌社から百四十二弗四十仙を貰つて、にこ/\してゐたさうだ。
 もしか、こんな事が日本で出来たなら、多くの不仕合せな女は、自分が持合せてゐる離縁状を書留郵便で送つたがよからう。たつた三行半(みくだりはん)で、あれだけ意昧の長い物語は、どんな小説家だつて書きやうがない。応募者は少くとも百四十二弗四十仙位は手に握れる勘定だ。それだけあつたら第二の男を(こしら)へる支度に不足はない筈だ。



最終更新日 2006年03月26日 00時53分37秒

薄田泣菫「茶話」「正宗氏の油絵」

正宗氏の油絵
 つい先頃島崎藤村氏と一緒に仏蘭西から帰つて来た正宗得三郎氏、あの人が洋行(ぜん)大阪で自作の展覧会を開いた時、ある文学者がそれを見に()くと、正宗氏は多くのなかから一つの絵を(ゆびさ)して見せた。
 「君にはこの絵がお気に入りませう、僕には何だかさう思へる。」
と言つて笑つてゐる。
 文学者はその絵を見た。こんもり繁つた雑木林のなかから、田舎家の白壁が見えて、夕日が明るくそれに(あた)つてゐて、いかにも気持の()()だ。文学者は平素(ふだん)からこんな画を一枚壁にかけて、その下で馬のやうに欠伸(あくび)でもしてゐたいと思つてゐたが、今多くの人の前で自分の選好(トえりごの)みを(ひと)に言ひ当でられてみると、何だか(しやく)に触つて一寸(かぶり)()つてみたくなつた。
 「岩うですな、絵はなかくよく出来てゐるが、好き嫌ひから言ふと余り好きません。それよかー」と文学者は盲滅法に隅にある一枚の絵を(ゆびさ)した。「あの方がずつと気に入りました。」
 「あれが?」と正宗氏は腑に落ちなささうな顔をしてちらとその絵を見返つたが、「へえあれが気に入つた。ぢや、差し上げますから持つて帰つて下さる?」
 その一刹那(せつな)、文学者は失敗(しま)つたと思つた。それによく見ると、自分が(ゆびさ)した絵は絵柄から言つても(さき)のとは比較(くらべもの)にならぬ見劣りがしてゐるし、幅も思ひ切つて大きく、持つて帰つたところで、自分の(うち)にはそれを懸けるやうな場所すらない。
 「いや、僕は(ひと)から貰物(もらひもの)をするのは、余り好かないから。」
と文学者は泣き出しさうな顔をして手を捧つたが、正宗氏はそんな事には頓着なく、大きな絵を壁から引き下して文学者の前に突きつけた。



最終更新日 2006年03月26日 00時54分27秒

薄田泣菫「茶話」「成金気質」

成金気質
 欧羅巴(ヨヨロツパ)戦争は、交戦国に寡婦(ご ハ)さんをたんと(こしら)へたやうに、日本には成金をたんと生み出して呉れた。寡婦(ごけ)さんと成金と、どちらも新生活の翹望者(げうばうしや)たる点において同じである。
 神戸に成金が一人ある。しこたま金が出来てみると、女房(かない)の顔と現在(いま)住家(すみか)とが何だか物足りなくて仕方がない。だが、女房(かない)の顔は()うにも手の着けやうが無いので、住家(すみか)だけを(あらた)に栫へる事に()めた。
 自分の財産から割り出して、建築費をざつと十二三万円と()めて、ぽつく普請に()(かゝ)つたが、住家(すみか)が八九分(がた)出来上つた頃には、株の上景気で財産が二三倍(がた)太つてゐるのに気注(きづ)いた。
 「困つたな、ああして持へはしたものの、今の(おいら)の身分では、あんな安つぽい(うち)には入れんからな。」
 かう言つて、成金は女房(かない)の方を振向いた。女房(かない)は有合せの顔で一寸笑つてみせた。
 成金は建ち上つた(うち)を、その(まさ)番頭に呉れてやつて、自分はまた現在の財産から割出して四十万近くの建築費を見込むで、素晴しい(やしき)を栫へにかかつた。が、間が悪い時には悪いもので、邸がまだ半分も出来上らない昨今、身代(しんだい)はまたパァクシヤァ(だね)の豚のやうに留め度もなく(ふと)り出して来た。
 成金は算盤(そろばん)(はじ)いて泣き出しさうな顔になつた。
 「厭になるよ。こんなに身代が肥つて来ちや、今度の邸が出来上つたからつて、(おいら)の身分として今更あんな土地(ところ)にも引込(ひつこ)めなからうしさ。」
と、ぶつ/\(ぼや)きながら、その男は今度の新建(しんだち)をも誰ぞ貰つて呉れ手は無からうかと、人の顔さへ見ると無理強(むりしひ)に押しつけてゐるさうだ。
 何事も急ぐには及ばない。暫くする(うち)に貰ひ手は屹度(きつと)出来て来る。その折こそ成金が住み馴れた古家と古女房を初めて身分相応だつたと気の()く時である。、



最終更新日 2006年03月26日 00時56分00秒

薄田泣菫「茶話」「南画と娘」

南画と娘
 貫名海屋(ぬきなかいをく)の系統を伝へた谷口藹山(あいざん)が、まだ京都の下長者町(しもちやさやき)に居た頃、南画好きのある男が態(わざ/\)大阪から衂訪ねて往つて弟子入りをした。
 藷山は娘と二人で其処(そこ)に住んでゐたが、その日は娘に留守番でも言ひつかつたと見えて、皺くちやな藷山は、
 「今日は誰も居ぬでの……」
と断つて薄茶一服立てようともしなかつた。その代り薄茶よりも水つぽい南画の講釈をくど/\と言つて聞かせた。
 南画を習はない先に、南画は(とて)も習へないものだと知つたその男は、折を見て帰らうとすると、藷山は押へるやうな手つきをして引留めた。
 「一寸待ちな。今娘が帰つて来たさかい、お引合せする。」
 その男は南画も好きだつたが、それ以上に女が好きであつた。南画にはまだ解らない(ところ)もたんとあつたが、女の事だけは何も角も大抵知り抜いた積りでゐた。それだけに娘に引合せると聞いては帰る訳にも()かなかつた、で、居ずまひを直したり、一寸襟に手をやつたりした。
 間もなく隔ての襖が()いてお茶が運ぴ出された。
 「これが(わし)の娘や、不束者(ふつつかもん)での……」
といふ藹山の言葉に、初めて気が附いたやうに、その男は鄭寧(ていねい)にお辞儀をした。そして顔を上げて相手を見た時吃驚(びつくり)した。
 娘さんは小皺の寄つたお婆さんなのだ。
 よくよく考へてみると、不思議でもない。その頃蝣諷山はもう七十の上を越してゐたらしかつたから、五十(ぢか)い娘があつたところで、別段腹を立てる程の事でも無かつた。
 その男はお茶も(ろく)に飲まないで、そこくに挨拶して帰つた。そして二度と藹山の門を(くど)らうともしなかつた。



最終更新日 2006年03月26日 00時56分22秒

薄田泣菫「茶話」「高田実」

高田実
 ある劇揚(しぱゐ)の楽屋で、松崎天民氏が亡くなつた高田実に訊いた事があつた。
 「君達も今は劇は芸術だからつて、高く(とま)つてゐるが、芝居に足を()()むだ(そもく)々は、まさか芸術家になつてみたいと思つた訳でも無かつたらう。」
といふと、高田は血色の悪い顔を一寸しやくつてみせて、
 「さうですとも。僕が俳優(やくしや)になつた動機は、唯女に惚れて貰ひたかつたからです。その外の事は、みんな後から附けた理窟でさ。」
と言つて、乃木大将のやうな口をして「ははは」と声を出して笑つた。
 「ところで、君は今自分の()つてゐる芝居を真実(ほんとう)に芸術的だと思つてますか。」
(そぱ)にゐた男が訊くと、高田は赤禿の(かづら)をすつぽりと(かぶ)つたばかしの頭を強く()つた。
 「何のく。中途半端の贋物(いかもの)ばかりでさ。私も何日(いつ)迄もこんなでは詰らないから、自信のある物をも()つてみたいとは思ひますが、何しろ一時金(じかね)が入つたに連れて、生活(くらし)の程度を身分不相応に引揚げてるでせう。その(せゐ)で自然収入(みいり)があるやうにと思つて見物に()びる事になります。」と言つて、白粉刷毛( しろいばけ)で鼻先をぞんざいに塗りたくつた。「好きな茶器も、つい買ひ度くなりますね。」
 何でも噂によると、高田は一つ一万円もする(にせ)急須(きふす)を大事に(しま)ひ込むでゐたさうだ。ー贋の急須が買ひ度さに、贋の女の気に入りたさに、男といふものは、せつせと飛んだり跳ねたりする。(あなが)ち高田ばかりではない。キングスレエも言つたぢやないかーー「稼がにやならぬ男の身」さ。



最終更新日 2006年03月26日 00時56分40秒

薄田泣菫「茶話」「黒人(くろんぼ)の犯罪」

黒人(くろんぼ)の犯罪
 イネズ・ミルホオランド・ボアスブン女史といふと、米国の女権論者のちやきくで、加之(おまけ)に数へる程しか無い女流弁護士の一(にん)として相応(かなり)名を売つてゐる女だ。
 この女弁護士と同じ建物のなかで、隣り合せに住んでゐる男が、ある時洋服を一着盗まれた。色々詮議の末が、門番の黒人(くろんぼ)に嫌疑がか\つて、黒人(くろんほ)は自分の部屋で朝食(あさめし)を食つてゐるところを押へられた。(忘れても用心しなければならないのは、(すべ)ての訪問客(はうもんかく)は大抵朝早く来るといふ事だ。)
 黒人(くろんぼ)は女弁護士に手紙を出して、熱心に自分の弁護を頼んだ。黒人(くろんぼ)を法廷で弁護するのは、黒人(くろんぽ)を天国へ引張りあげるよか、ずつと愉快な事に相違ない。何故といつて、天国へ引揚げられた黒人(くろき)は、多時(しば/\)地獄へ落ちてゆくが、牢屋から出て来る黒人(くろんぼ)は、また同じ弁護士の事務室に顔出しするに(をこま)つてゐるから。
 女弁護士はその弁護を引請(ひきう)けて、法廷に立つた。そして色々の方面から熱心に喋舌(しやべ)つた(かひ)があつて、黒人(くろんぼ)(うま)く無罪になつた。
 黒人(くろんぼ)はその翌日朝早く女弁護士の事務室に入つて来た。そして、
 「先生咋日(きのふ)は色々どうも有り難う御座いやした。」と白い歯を見せて追従(ついしよう)笑ひをした。「実際あの服は(わつち)がちよろまかしたに相違ありやせんが、先生の弁護を聞いてると、()うやら(わつち)が盗んだつてえのも怪しくなつて来やした。事によつたら、(わつち)の仕事ぢや無かつたかも知れやせんぜ。」
 例の涜職(とくしよく)議員の公判記録を読んでみると、ある議員などは、自分で自分の附会(こじつけ)た議論に感心して、洋服を盗んだ黒人(くろんぼ)のやうに、涜職事件を、結局(つまり)は政事家らしい行動とでも思つてゐるらしく見られる。こんな人達は手で犯した罪よりも、ずつと大きな罪を頭の中で犯してゐる。



最終更新日 2006年03月26日 00時56分57秒

薄田泣菫「茶話」「渓水の落款」

渓水の落款
 亡くなつた高田実は、道頓堀の劇場(こや)へ出る時には、いつも日本橋北詰(きたづめ)にある定宿(ぢやうやど)へ泊つたものだ。その旅館(はたごや)は高田を始め、新旧俳優の多くが巣のやうにしてゐるが、松井須磨子なども、文芸協会の往時(むかし)から、いつも其家(そこ)に泊つてゐる。
 ある時、須磨子が湯上りの身体(からだ)に派手な浴衣(ゆかた)引掛(ひつか)けてとんとんと階段(はしごだん)(あが)つて自分の居間に入ると、ふと承塵(なげし)に懸つた額が目についた。従来(これまで)も幾度かこの部屋に泊り合はせてはゐたが、ついぞ目に着かなかつたものだ。さうかと言つて何も須磨子を責めるには及ばない。世の中には結婚後八年目に初めて女房(かない)笑窪(ゑくぼ)発見(めつけ)たものがある。亭主が有卦(うけ)()つて従来(これまで)隠してゐた真実(ほんとう)年齢(とし)を打明けると、女房(かたい)も、
 「まあ、さうなの。ぢや私も言つてしまふわ。私かう見えても真実(ほんとう)三十(ちやうど)なのよ。」
と、すつかり白状して初めて笑窪を見せたといふ事だ。つまり亭主は女房(かない)年齢(とし)で笑窪を二つ()つた事になつた。
 須磨子が見つけた額には、気取つた筆で無意味な文字を二三字(なぐ)(がき)にして、渓水と落款があつた。須磨子は、疳走(かんばし)つた声で「ちよいと先生」と呼んだ。すると隔ての襖が開いてセルの(はかま)穿()いた先生がぬつと入つて来た。先生は言ふ迄もなく島村抱月氏である。
 須磨子は抱月氏の顔を見て、
 「この額の渓水つて(だれ)なの。」
と一寸(あま)えたやうな口を利いた。抱月氏は怠儀さうに額を見た。
 「さあ、渓水といふと……金子堅太郎かな。確かあの人が渓水といつたやうに思ふ。」
と言つて胡散(うさん)さうな顔をした。
 丁度そこへ襖を()けて入つて来た座員の一(にん)がそれを見て、
 「この額ですか、こりや貴方、高田実ぢやありませんか。」
といふと、抱月氏は須磨子と目を見合せて、
 「何だ、高田か。そんな物を吾々の部屋へは懸けて置かれないね。取外(とりはづ)したら()いでせう。」
と詰らなささうな顔をしたが、それでも別に手を延ばして()(おろ)さうともしなかつた。なに、気に入らないものは目を上げて見なければ好いのだから。
 (しか)し金子堅太郎と高田実と何方(どつち)が人間らしい仕事をしたかといふ段になると、誰でもが高田の方へ団扇(うちは)をあげる。



最終更新日 2006年03月26日 00時59分00秒

薄田泣菫「茶話」「神通力」

神通力
 近頃東京の文学者仲間に妙な神様が流行してゐる。神様といふのは、ある鉱山師の女房で、その女は何処かで掘出して来たらしい大黒さんを座敷に(まつ)り、そこに引籠つて、(ゐざり)を立たせたり、一寸した頭痛持を(なほ)したりしてゐる。
 お弟子は随分あるが、世間に聞えてゐる人達には、生田長江(いくたちやうかう)、小山内薫、沼波瓊音(ぬなみけいおん)、栗原古城(こじやう)、山田耕作、岡田三郎助などいふ顔触(かほぶれ)がある。なかにも沼波瓊音氏は家族を挙げて、その女神様(をんなかみさま)(もと)入浸(いりびた)りになつてゐる。
 千里眼問題このかた、かうした女の好きな福来友吉(ふくらいともきち)博士が、ある時沼波氏を訪ねると、主人は乗地(のりぢ)になつて女神様のお蔭話を持ち出した。福来博士も夢中になつて膝を進めてゐると、急に夕立がざつと降り出して来た。
 「困つたな。雨が降つて来た。僕は雨傘を用意して来なかつたが……」
と、福来博士は心配さうな顔をして空を見上げた。博士は心理学者だけに人間の事はよく注意してゐるが、お天道様(てんとさま)雨降(あめふり)雪降(ゆきふり)かで無ければ余り気には掛けてゐなかつた。
 その顔色を見て取つた沼波氏は、
 「なに雨ですか。雨だつたらお帰途(かへり)までには屹度(きつと)止めて上げませう。」
と平気な調子で言つた。博士は一寸返事に困つた。
 「いや、雨傘が拝借出来たら……」
 「雨傘は荷厄介ですから」と沼波氏は盤術(まじなひ)のやうに一寸自分の鼻を(つま)んでみせた。「いつそ雨を止めてしまひませう。」
 暫くして福来博士が帰る頃になると、果して夕立はからりと()れ上つてゐた。博士はそれを見てすつかり沼波氏の神通力に驚いてしまつた。ー霽れたのに何の不思議があらう。相手は気短(きみじか)の夕立で、博士はお尻の長い話し好きである。



最終更新日 2006年03月26日 11時21分39秒

薄田泣菫「茶話」「豆猿」

豆猿
 文展がまた開けた。入選した画家(ゑかき)の苦心談を読んでみると、大抵影に忠実な細君が居て、塩断茶断(しほだちちやだち)をしたり、神様に百冖の願を掛けたりしてゐる。女といふものはよく目端の利くもので、平素(ふだん)から良人(をつと)の腕前はちやんと見貫(みぬ)いてゐるから、その力量(ちから)一つで(とて)背負(しよ)ひ切れないと見ると、直ぐ神様の(とこ)へ駈けつける。
 日本の画家(ゑかき)がかうした目端の利く、忠実な女房をざらに()つてゐるのは(まこと)に結構な事だが、支那では女の出来が日本ほど思はしくないので那地(あちら)画家(ゑかき)女房(かない)の他に今一つ豆猿を飼つてゐる。
 豆猿といふのは、ポケツトや掌面(てのひら)のなかにでも(まる)め込んでしまはれさうな小さな猿で、支那でも湖南あたりにしか見受けられない(やつこ)さんだ。
 この豆猿は大層木炭が好きで、お(なか)()くと、直ぐ木炭を強請(ねだ)つて食べる。だが、画家(ゑかき)といふものは、時時(ちよいちよい)木炭を()(げに)にも事を欠くもので、そんな時には猿は()まつたやうに墨汁(すみ)の使ひ残しを()める。
 何処の画家(ゑかき)でも墨汁(すみ)の使ひ残しに難渋するもので、幾ら忠実だからと言つて、女房(かない)にそれを食べさす訳にも()かないが、豆猿は好物だけに舌鼓(したつゞみ)を打つてぺろりとそれを嘗め尽してしまふ。
 だが、豆猿の好きなのは使ひ残しの墨汁(すみ)の事で、文展に落選した女画家(をんなゑかき)の涙までも嘗めて呉れるか、()うかは請合(うけあ)はれない。豆猿は余り水つぽい物は好かないさうだから。



最終更新日 2006年03月26日 11時22分06秒

薄田泣菫「茶話」「結婚と奴隸」

結婚と奴隸
 米国はヰスコンシンの上院議員ラ・フオレツト氏の愛嬢フォラ・ラ・フオレツト女史は彼国(あちら)でも新しい女として名高い人で、先年脚木作家のヂヨルヂ・、・、ツドルトン氏と結婚したが、結婚後も良人(をつと)の姓は名乗らないで、矢張里方(さとかた)の娘の(まんま)で押通してゐる。
 何故そんなにするのだと訊くと、女史は、「真理」や「婦人問題」を語るには勿体ないやうな美しい唇から、
 「何事も婦人の独立のためです。」
と、きつぱり返事をする。
 フオラ女史のお友達に、婦人運動に憂身を(やつ)してゐる或る貴婦人があつた。この婦人がある時、民主党議員クラウド・キチン氏の夫人を訪ねた事があつた。
 女同士は(はや)くからの知己(ちかづき)ではあつたが、亭主のキチン氏と貴婦人とはまだ一度も会つた事が無かつた。
 丁度お天気の()い日だつたので、キチン氏は薄汚い園芸服に破けた麦稈帽(むぎわらぼう)(かぷ)つて、せつせと玄関前の花壇で働いてゐた。
 婦人は花壇の前で立停(たちどま)つた。(すべ)ての女は男が草掻(くさかき)をもつて、土塗(つちまみ)れになつてゐるのを見るのが、好きで溜らぬものらしい。婦人は一寸鼻眼鏡に手をやつて訊いた。
 「爺や、御精(ごせい)が出るね。お前こちらの奥様(おくさん)のお宅に長らく御奉公してるの。」
 「さうですね。もう相応(かなり)になりますな。」
 「こちらはお給金は善いのかい。」
 「いや、もう(やつ)と食つて()けるだけでさ、てんと詰りません。」
 園芸服のキチン氏は、せつせと土を穿(ほじ)くりながら答へた。
 婦人は一(あし)前へ乗り出して、身を(かど)めるやうにして、
 「ぢや、(うち)へ来たら()うだい、食べるだけの、お小遣(こづかひ)も上げるよ。」
 「有難う。」と麦稈帽は一寸お辞儀をした。「だが、一生涯こちらの奥様(おくさん)とここに御厄介になる約束をしてしまつたもんですからね。」
 「え、一生涯! まあ可憫(かはい)さうに。」と婦人は小皺の寄つた顔をくしやくさせた。「そんな約束が何処にあるもんかね。まるで奴隷だわね。」
 「さうかも知れませんね。」とキチン氏は土塗れの手をして立ち上つた。「だが、私共ではそれを結婚と申
しますよ。奥さん。」



最終更新日 2006年03月26日 11時22分29秒

薄田泣菫「茶話」「如来(によらい)失敗(しくじり)

如来(によらい)失敗(しくじり)
文展の彫刻部に「瓢箪鰭(へうたんなまづ)」を出品した米原(よねはら)雲海氏は、この頃夜の眼も眠らないで、せつせと仁王さんを刻んでゐる。仁王さんは丈六のかなり大きい木像だ。
 信濃の善光寺から七八里ばかしの村に近郷切つての富豪(かねもち)がゐる。女房(かない)は世間並に一人あるが、醜婦(すべた)(かせ)(にん)で、加之(おまけ)に子供を生む事を知らないので、金は溜る一方であつたが、夫婦とも揃ひも揃つた吝嗇坊(しわんばう)で、寄附事といつたら鐚銭(びたせん)一つでも出し惜みをした。
 先頃村に火事が起きて、近所は丸焼に焼けてしまつたが、その富豪(かねもち)(やしき)のみは奇異(ふしぎ)と無事に助かつた。富豪(かねもち)はこれも全く神仏のお影だ、何か御恩報じしなければなるまいが、それにしては何処の仏さんに()めたものだらうかと一寸思案をした。
 幸ひ長野には善光寺がある。自分の村からは汽車でも通へるので、お影を授かるには一番便利だからと、富豪(かねもち)は善光寺へ仁王さんを寄附する事にした。
 善光寺の如来さんは、富豪(かねもち)の殊勝な心掛に感心して、何か心許(こゝろばか)りのお礼をして()らねばなるまいと思つた。幸富豪(さいはひかねもち)には子供が無かつたので、如来さんは子供を一人授ける事に()められた。別に仏さんのお(なか)を痛める訳でも無いので、お礼にはこんな手頃なものは無かつた。
 富豪(かねもち)女房(かみさん)は程なく一人の子供を生み落した。その子の顔を見ると、富豪(かねもち)は急に仁王さんの寄附が惜しくなつて来た。仁王さんには大抵一万円もかゝる予算だつたから。富豪は取りあへず寄附の申込みを取消して来た。
 それを聞くと、善光寺の世話方(せわかた)吃驚(びつくり)したが、一番魂消(たまげ)たのは矢張(やつぱり)如来さんであつた。今更子供の取消(とりけし)も出来ないので、困つた事をしたものだと、可愛(かあい)らしい顔を(しか)めてゐたが、仕合(しあはせ)小才(こさい)の利いた男が、
 「今更そんな事を言つては、出来た嬰児(あかんぼ)にどんな(ぱち)が当るかも知れないから。」
と言つて、(やつ)富豪(かねもち)を説き伏せる事が出来た。
 二度ある事は三度あるで、又子供が出来でもすると、どんな事にならうかも知れないからと、米原氏はせつ
せと仁王さんを彫急(ほりいそ)いでゐるのだ。



最終更新日 2006年03月26日 11時22分53秒

薄田泣菫「茶話」「子福者(こぶくしや)の女」

子福者(こぶくしや)の女
 維也納(ウヰンナ)のある医者の報告によると(医者といふものは色々な報告をする。吾々はその報告に依つてナポレオンが男色好きだつた事や、医者自身が余り人間の事に通じてゐないのを知る事が出来る)、ある墺太利(オヨストリ )の婦人は四十五歳の間に三十回姙娠して三十六人の子供を生んだ。そのうち四回は双児(ふたご)を産み、一回は三()を生んだといふ事だ。
 今市俄古(シカゴ)に住んでゐる、米国(アメリカ)首歌妓(プリマ ドンナ)シユウマン・ハインク女史は、無論声楽家としても聞えてゐるが、それよりも子供のたんと有る音楽家として名が通つてゐる。
 ハインク女史が舞台へ立つて一寸愛矯笑ひでもしてみせると、屹度(きつと)大向うから、
 「阿母(おつか)さん、しつかり頼みますぜ。」
といふ掛声がか\る。成程乳房のだらりと垂れた工合から、下腹(したばら)のだらしなさ加減が、誰の眼にも子福者とは直ぐ判る。
 ある時若い画家(ゑかき)が女史を訪れて来て、肖像画を()かせて呉れと頼んだ。「阿母(おつか)さん」はぷくぷくした自分の(した)(ばら)(あたり)を眺めて、逡巡(もぢく)してゐると、若い画家(ゑかき)はにこ/\しながら一寸愛相(あいさう)をいつた。
 「お気遣ひなさいますな、奥様。出来るだけ正直にやりますから。」
 「いえく」と女史は笑ひく(かぶり)()つた。「私何も正直に描いて戴きたいんぢやありませんわ。どうぞ出来るだけ御贔眞振(ごひいきぶり)をお見せなすつてね。」
 画家(ゑかき)はこの一刹那(せつな)女史の顔中の皺が一緒くたになつてお辞儀をしてゐるやうに思つたといふ事だ。



最終更新日 2006年03月26日 11時23分38秒

薄田泣菫「茶話」「性慾錯乱」

性慾錯乱
 人間に性慾の錯乱があるのは、誰でもが()く知つてゐる事だが、鳥類にもそれがある。(たズ)鳥類にそんな間違があるからといつて、余り(やかま)しく言ひ立てる事だけは()して貰ひたい。鳥は人間程道徳的でないから、事によると顔を(あか)めるかも知れない。
 ある学者の報告によると、その男の飼つてゐた一羽の孔雀(くじやく)は、どうかすると鶏小舎(とりごや)のなかへ忍び込んで、おめかしやの雄鶏(をんどり)(あと)をせつせと追ひ廻したさうだ。孔雀はその前の年に雌に死別れた男鰥(をとこやもめ)だつたのに、雌鶏(めんどり)には一向見向きもしないで、鳥冠(とさか)(あか)雄鶏(をす)ばかりをつけ廻してゐた。
 また或る鵞鳥(がてう)は、自分の雌を殺されて(雌が牧師の胃の脇に納まつたか()うかは知らないが、牧師は気持よささうに鵞鳥の殺されるのを見てゐた)このかた、同じ(うち)(いぬ)に惚れだした。狗が外から帰つて来ると、嬉しさうに我鳴り立てるし、狗が日向ぽつこでもすると、自分もその前に踵踞込(しやがみこ)んで、太い(くちはし)で相手の鼻つ先を(つゝ)き廻したりする。
 飼主が見かねて、雌を一羽当てがつたが、鵞鳥はそれに振向きもしないで、狗が迷惑さうな顔をするにも頓着(とんぢやく)なく、相変らずべたべたしてゐたさうだ。
 政党にもよく性慾の錯乱がある。政友会はその何よりも()い例である。



最終更新日 2006年03月26日 11時23分56秒

薄田泣菫「茶話」「お国自慢」

お国自慢
 米国の戦時通信記者として名高いゼエムス・バアンス氏が、今度の戦争の当初、白耳義(ベルジユ ム)にゐた折の事、ある日ブラツセルの市街(まち)徇祥(ぶらつ)いてゐると、前方(むかう)から独逸の自動車が一輛風(りやう)を切つて飛んで来た。その一刹那バアンス氏の頭には、
 「(やつこ)さん、てつきり独探(どくたん)だな。」
といふ考へが矢のやうに(ひらめ)いた。
と、見ると、その(うしろ)から白耳義の自動車が一台、(けもの)のやうに(うな)りを立てて追駆けて来るのが目についた。
 「面白いぞ、どんな芸当をやるだらうな。」
 パァンス氏は胸をわくくさせながら、この自動車の()けつ(くら)見惚(みと)れてゐた。
 白耳義の自動車は、全速力を出して(やつ)と追着いたと思ふと、獣が餌を(つかま)へる折のやうに、いきなり運転手台を、相手の尻つ骨に乗り揚げて、車台も前輪(まへわ)も滅茶滅茶に押し潰してしまつた。
 「(うま)いぞ。とうと()つつけた。」
とパアンス氏は直ぐ現場に駆けつけてみた。
 (かす)(きず)一つ負はなかつた白耳義の運転手は、にこにこもので其辺(そこら)群集(ひとごみ)を見廻してゐたが、ふとバアンス氏の亜米利加式の顔が目につくと、いきなり帽子を脱いで頭の上で()りまはした。
 「いよう、亜米利加の先生……」と運転手は大きな声で我鳴り立てた。「今の芸当だね、あれを何処で習つたと思はつしやる。一年前紐育(ニユヨヨ ク)大通(おほどほり)で、せつせと辻自(タキ)()()き使つたお蔭でさ。」
 「紐育の大通で習つたからだと言つてたよ。彼奴(あいつ)めが……」
とバアンス氏は、それからといふもの、会ふ人(ごと)にお国自慢をしてにこ/\してゐる。アメリカ人といふ奴は、巾着切でも、人殺しでも良い、これはアメリカから習つたのだとさへ言へば、自分の財布を()られても、女房の(しん)の臓を引抜かれても平気でゐる。



最終更新日 2006年03月28日 22時10分52秒

薄田泣菫「茶話」「女中の返事」

女中の返事
 上田敏博士が文科大学教授として初めて京都の土を踏んだ時、腹が空いてゐたので、停車場(ていしやぢやう)近くの或る旅館(はたごや)へ飛込んで、昼飯(ひるめし)()き立てたことがあつた。
 女中がいそいそ持ち出して来た膳部を見ると鯛の塩焼だの、(すゞき)の洗ひだのがごたごた一(しよ)に並べてあつた。博士は水つぽい吸物(すひもの)(すゝ)りながら、江戸つ子に附物(つきもの)の、東京以外の土地は巴里だらうが、天国だらうが、みんな田舎だと見下(みくだ)したやうな調子で、
 「ほう、京都にも鯛や驢があるんだね。一体何処から来る?」
と訊いてみた。
 女中は博士の好きな希臘(ギリシヤ)彫刻のやうな冷い顔をして、眉毛一つ動かさないで、
 「須磨や明石のあたりから。」
と言つて、その(まゝ)じつと(くち)(つぐ)んだ。
 博士はその(をり)鯛の塩焼を(つゝ)ついてゐたが、吃驚(びつくり)して箸を持つた儘女中の顔を見た。女中は笑つたら所得税でも掛るやうに、両手を膝の上に重ねて、ちやんと済ましてゐる。
 博士はその折、女中が自分の膝側(ひざわき)に朱塗の(やぐら)のやうな物を置いてゐるのを見つけた。それを漬物台と知らうやうのない博士は一寸覗き込むやうにして、
 「(ねえ)さん、その櫓みたいな物には、何が入つてるんだね。」
と訊いてみた。
 女中は矢張眼を伏せたまゝ、『千本桜』の若葉(わかば)内侍(ないじ)のやうに上品に口をつぽめて、
 「海の物やら山の物やら。」
と答へた。そしてその海の物や山の物を出し惜しみをするやうに、心持(こゝろもち)後ろへ引張つた。
 博士はトラムプの水兵(ヂヤック)が『百人一首』のなかに紛れ込んだやうな、勝手違ひな変な顔をして、二度ともう口を利かうとしなかつた。そして昼飯(ちうはん)を済ますなり、直ぐ表へ飛び出して、逃げるやうに大学の構内へ(くるま)を走らせた。大学は世間体(せけんてい)最高学府といふ事にはなつてゐるが、誰一人この女中程上品な口を利かなかつたし、それに揃ひも揃つてお喋舌(しやべり)が過ぎた。



最終更新日 2006年03月28日 22時13分08秒

薄田泣菫「茶話」「牧師の杖」

牧師の杖
 ある牧師がすつかり上機嫌でいつものやうに、(ステツキ)小腋(こわき)に抱へ込んで市街(まち)をぶらぶら散歩してゐると、ふと(みち)の片側に乞食が一人衝立(つゝた)つて、往来(ゆきき)の人にお鳥目(てうもく)をねだつてゐるのが目についた。
 牧師は自分の(すま)つてゐる界隈に、乞食が迂路(うろ)つかうなどとは夢にも思はなかつた。(何処の国でも宗教家といふものは、富豪(ものもち)のなかに住んで、「貧乏」を説くのが好きなものだ。)で、づかくとその(そば)に歩み寄つたと思ふと、いつもお寺でするやうに、額へ一寸手を当てがつて、
 「神よ、この哀れなる者をお恵み下さい。」
と言つて、その(まゝ)立ち去らうとした。
 「ちょいと旦那様---」と乞食は牧師を呼ぴとめた。
御祈禳(おいのり)は有難うがしたが、神様は(とて)(わし)らが(とこ)には御座らつしやるまいから、此方(こつち)から出向きますべい。近頃御無心な次第ぢやが、その(ステツキ)をお貸し下さるま
いかな。」
と乞食は垢塗(あかまみ)れの手でその(ステツキ)に触らうとした。
 牧師は慌てて(ステツキ)引込(ひつこ)めた。(ステツキ)といふのは、さる富豪(ものもち)寡婦(ごけ)さんが贈つて来たもので、匂ひの高い木に金金具(きんかなぐ)が賛沢に打ちつけてあつた。牧師は死ぬる時は天国にまで持つて()く積りで、この世では成るべく(よご)すまいとして、いつも小腋に抱へ込んで歩いてゐたものだ。
 牧師は叱るやうに言つた。
 「基督も『(せま)き門より()れよ』と仰有つたぢやないか、お前達がこんな(ステツキ)なぞ持つてたら窄い門を入るのに邪魔にならあ。」
 「へへへ……」と乞食は無気味な笑ひ方をした。「御心配さつしやりますな。その窄い門とやらに入ります前に、(わし)(ステツキ)を売る事を知つとりますな。」
 これは英吉利(イギリス)のある田舎町であつた事で、大阪であつた事ではない。大阪では牧師は乞食などに見向(みむき)もしない。そして(ハテツキ)や聖書の代りに汽車の時間表をポケツトに入れてゐる。彼は神様よりも可愛(かあい)女房子(にようぱうこ)が、郊外の家に待つてゐるのを知つてゐる筈だから。



最終更新日 2006年03月28日 22時13分36秒

薄田泣菫「茶話」「鵞鳥」

鵞鳥
 ずつと以前(まへ)、丁度この頃のやうな秋日和に東京の近郊、雑司(ざふし)()附近(あたり)禰祥(ぶらっ)いてゐると、」人の洋画家が古ぼけた繻子張(しゆすばり)蝙蟷傘(かうもりがさ)の下で、其辺(そこら)の野道をせつせと写生してゐた。
 そこには美しい灌木(くわんぼく)が二三本風に吹かれて立つてゐた。洋画家はそれを()かうとして、幾度か刷毛(はけ)を取り直してゐたが、何うしても思ふやうに描けないので、自暴(やけ)を起したらしく、すつと()ち上つたと思ふと、いきなり駈け寄つて、手当り次第にその灌木をへし折つてしまつた。この洋画家は誰でもない、中村不折(ふせつ)である。
 その不折が(やかま)しく言ひ立てる王義之(わうぎし)は、大層鵞烏が好きだつた。その頃近所に(ばあ)さんが居て、鵞鳥を一羽飼つてゐた。美しく鳴くので王義之はすつかりそれに惚れ込んでしまつて、姥さんの顔さへ見ると、
 「どうだ、あの鵞鳥を売つて呉れないか、値段は幾らでも出すから。」
懸合(かけあ)つてみるが、姥さんはなかく(うん)と言はなかつた。
 ある時仲のいゝ友達が王義之を訪ねて来て、(いつも)のやうに鵞鳥の談話(はなし)をし出した。王義之は、
 「鵞鳥といへば、近所の姥さんが素晴しく立派なのを飼ってる。(あと)から見に出掛けよう。」
と言つて、態(わざ/\)使(つかひ)を立て、姥さんにその由を申込んで置いた。
 暫く()つて出掛けてみると、姥さんは色々の御馳走を出して饗応(もてな)して呉れた。
 「御馳走も結構だが、(いつも)の一件だね、那奴(あいつ)を一寸見せて貰つた上で、ゆつくり戴きたいもんだね。」
と王義之が言ふと、姥さんは()もない顔でこんな事を答へた。
 「あの鵞鳥の事を言はつしやりますのか。あれは(おまへ)折角のお越ぢやからと思つて、たつた今絞め殺して汁の身に入れときましたぢや。」



最終更新日 2006年03月28日 22時14分16秒

薄田泣菫「茶話」「女の泣顔」

女の泣顔
 アメリカのペンシルヴアニヤ州のクリヤフイルド市にヘンズレエといふ今歳(ことし)とつて十九になる妙齢(としごろ)の娘がある。町内きつての縹緻(きりやう)よしなので、そんぢよ其辺(そこら)放蕩息子(どうらくむすこ)がそれとなく言ひ寄るが、娠はてんで見向きもしなかつた。
 ところが、近頃米墨(べいぼく)両国の間に、行違ひが(しきり)に起きるので、米国政府は国境に向つてどんく兵隊を送り出す。それを見たヘンズレエ嬢は、毎日朝つぱらから停車場(ていしやぢやう)に詰めて、兵士を載せた汽車がプラツトフオームに着くと、飛蝗(ぱつた)のやうに飛んで往つて、汽車の窓に(つか)まつた(ま、)、誰彼の容捨なく接吻(キッス)をする。
 兵士達はみんな大喜びに喜んで雀のやうに口を鳴らしてゐる。何でも今日まで千名許しの兵士を喜ばせたさうで、意固地(いこぢ)な牧師の細君(かない)などはおつ魂消(たまげ)てしまつて、
 「まあ、飛んでもない。今に神様のお怒りで、鶏卵(たまご)とキャベツの値が上るに違ひない。」
と言つてゐるが、ヘンズレエ嬢は済ました顔で、
 「お同の()めだと思へば接吻(キッス)位何でもない。」
と洒蛙々々(しやあ/\)してゐる。
 林歌子や矢島揖子(かぢこ)などのお婆さんが棒頭(ほうがしら)になつて、二百余名の婦人達が飛田(とひた)遊廓の取消請願をその筋に持出したのは近頃結構な事だ。-実際結構な事には相違ないが、あの人達がもつと若く、もつと美しかつたなら、一段と結構な事に相違なかつたらう。
 「真理」や「道徳」は、今日まで長い間気の弱い男や、醜い女と道伴(みちづれ)となつたので懲(こり/\)してゐる。近頃は強い男と、美しい女と一緒でなければ滅多に尻を揚げようとはしない。
 婦人運動者にお勧めする。大抵の事は辛抱するが、()うか善い事をする時に、泣き顔だけは見せないやうに願ひたい。



最終更新日 2006年03月28日 22時15分14秒

薄田泣菫「茶話」「俳優の盗み」

俳優の盗み
 英国の名高い俳優(なにがし)がある時、倫敦(ロソドン)(くす)ぼつた市街(まち)をぶら/\歩いてゐると、大きな紙包を抱へ込んで、ある雑貨屋から飛ぴ出して来た男が、ふと俳優の顔を見るなり、急ににこ/\してその前に()(はだ)かつた。
 「いよう久し振だな。」その男は言つた。「馬鹿に艶艶(つやつや)した顔をしてるぢやないか、何を食つてるんだね、近頃は。」
 その俳優(やくしや)は名代の食道楽で、数ある珍味のなかで、とりわけ牛の脳味暦と女の(しん)の臓とが一番好きだつた。紙包を抱へた男が「何を食つてるね。」と訊いたのは、その実「どんな女が出来たかな」といふ積りであつたらしかつた。
 「うむ、雛児(ひよつこ)ばかり()つてるのさ。」と俳優(やくしや)可愛(かあい)らしい口元をして言つた。「君も知つてるだらうが、今度の(しばゐ)に僕の持役は、そら泥的(どろてき)と来てるだらう。実を言ふと、僕はこの(とし)になつて、まだ泥棒をした事が無いんだから、(うま)く往けるやうにと思つて、毎日(うち)鶏小舎(とワこや)から雛児を盗んでは、それを(れう)つてるんだあね。」
 「へえ、雛児を盗んでるつて毎日……」
と友達は大事さうに紙包を左の腋下(わきした)に持ち替へながら、可笑(をか)しさうに(かぶり)を振つた。
 「うむ、毎日()つてるが、今日でもう卅()も食つたかな。お蔭で顔もこんなに若くなり泥的もすつかり巧くなつたよ。」
俳優(やくしや)は自慢さうに、雛児を盗み出す自分の両手でもつて顔を撫でてみせた。
 中村鴈治郎が、北陽(しんち)芸妓(げいこ)喜代治と、だらしのない恋をしてゐるのは、應治郎自身の()(まへ)によると、いつ迄も色気を無くさないで、若くありたい為めの事らしい。
 成程聞いてみると、結構な訳だが、唯それだりの事なら、いつそ英吉利の俳優(やくしや)と同じやうに、自分(とこ)の雛児を盗み出したが、一番手つ取早い。雛児の卅羽も取り出すうちには、顔も(つやく)々しくなる上に、立派な芸さへ覚える事が出来る。



最終更新日 2006年03月28日 22時15分48秒

薄田泣菫「茶話」「石碑と文展」

石碑と文展
 むかし唐の欧陽詢(おうやうじゆん)が馬に乗つて、ある古駅(こえき)を通りかかると、崩れかゝつた(みち)(ばた)に、苔のへばりついた(ふる)い石碑が立つてゐるのが目についた。碑の文字は暼見(ちよつとみ)にも棄て難い味はひがあつた。
 丁度そこへ百姓が一人通りかゝつた。手には引いたばかしの大根を()げてゐる。欧陽詢は「一寸……」と言つて呼びとめて訊いてみた。
 「この碑は(だれ)の書だね、お前知つては居なからうな。」
 「知らねえと思ふ人間(ふと)に何故聞かつしやるだ。」と百姓は螳螂(かまきり)のやうに■[弗色{[]](む)}くれた顔をあげた。「これはあ、索靖(さくせい)といふ(えれ)え方の書だつべ。」
 「ふむ、索靖か」
と、欧陽詞は百姓の方には見向きもしないで、馬を()めた(まゝ)、じつと石碑の文字に見惚(みと)れてゐた。馬は幸福(しあはせ)と文字の鑑定(めきし)が出来なかつたので、その()にせつせと道つ端の草を食べてゐた。
 暫くすると、欧陽詢は気が()いたやうに馬を促立(せきた)てた。馬は食べさしの草を(くは)へた儘ぽかくと歩き出した。(やつ)()(ちやう)も来たかと思ふと、欧陽詞はだしぬけに手綱を引張って馬を後返(あとかへ)らさうとする。馬はむら()な主人の仕打を笑ふやうな顔をして、また後返りをした。
 欧陽詞は馬から飛び下りて、石碑の前に立つた。そして、
 「(うま)いな。」
と言ひ言ひ、小首を(かし)げた儘いつ迄も/\じつと文字に見惚れてゐたが、とうと()草臥(くたび)れたかして、馬の(せな)から敷物を取り下してその上にべつたり尻をおろした。
 そしてその晩も、(あく)る晩も、また翌る晩もその石碑の(もと)に野宿をして、じつと石碑の文字に(ほれぐ)々してゐるので、馬はとうと腹を立てて、其処(そこら)(くさ)(ばら)にごろり横になつた。横になつたからと言つて、馬は猫や大学教授のやうに哲学なぞは考へない。馬は日本の実業家と同じやうに食ふ事と雌の事ばかり考へてゐる。
 欧陽詢が馬を起して、(やつ)と石碑のとこを去つたのは、丁度四日目の朝だつたさうで、彼が索靖の文字にどんなに心を()かされたかが、これでよく判る。
 文展には色々の大家名家が数知れず出品してゐるが、ある批評家は、あのなかを(たつた)四十五分で見歩く事が出来ると自慢してゐる。欧陽詢と好い比べ物である。



最終更新日 2006年03月28日 22時16分10秒

薄田泣菫「茶話」「名士と好物」

名士と好物
 露西亜の文豪プウシキンは自分が職業的詩人で無いのを見せるために、(ひと)と話す時には成るべく文学の事なぞは話さないで、馬だの、骨牌(かるた)だの、料理だのの事ばかし話してゐたといふ事だ。
 その癖亜刺比亜(アラビア)馬とは()んな馬をいふのか、一向区別(みさかひ)がつかず、骨牌の切札とはどんなものか、それも知りもしなかつた。とりわけ(ひど)いのは料理で、仏蘭西式の本揚の庖丁加減よりも、馬鈴薯(じやがいも)天敷羅(てんぷら)が好きで、何かといふとそればかりを頬張つた。
 名士の好物調べも一寸面白いものだが、こ丶に少しばかり挙げると、頼山陽は餅、梁川(やながは)星巌は羊嚢、佐藤一斎は蕎麦(そば)、大橋訥庵(とつあん)は鰻の蒲焼、鈴木重胤(しげたね)五目鮨(ごもくすし)が大好きであつた。
 菊池容斎は寺納豆(てらなつとう)、藤田東湖は訥庵と同じやうに鰻の蒲焼、森春濤(しゆんとう)蚕豆(そらまめ)生方鼎斎(うぶかたていさい)はとろ、汁、椿椿山(つばきちんざん)猪肉(やまくぢら)、藤森弘庵は鼠のやうに生米(なまごめ)(かじ)るのが好きで好きで溜らぬらしかつた。
 ある西洋の学者の説によると、人間一生の間に食べるものは、七千二百九十一貫六百四十八(もんめ)食物(しよくもつ)と六千六百四貫六百四十匁の飲料とが要るさうだ。女は男よりも比較的菓子が好きで、女一生の間に食べる菓子類は、ざつと見積つたところで四百十九貫三百二十八匁を下るまいとの事だ。
 女の名家がどんな物を好くかといふ事は、余り興味の無い事で、女は男のお世辞とお菓子とを等分に好くと思へば間違(まちがひ)はない。だが、何方(どちら)も人によつて砂糖の加減をしなくてはなるまい。



最終更新日 2006年03月28日 22時16分29秒

薄田泣菫「茶話」「「汝描(おまへか)けるか」」

汝描(おまへか)けるか」
 むかし柴田是真(ぜしん)が鈴木南嶺の添書(てんしよ)を持つて京都へ入つて来た。「笠につく蝶と一つに都入り」といふのは、その時の句ださうで、一向詰らないものだが、こんな句よりも京都に来て山陽や景樹(かげき)や豊彦やに会つたのは、彼の生涯にとつて忘れられない事柄だつた。
 是真はその折塩川文麟をも訪ねた。文麟は、
 「折角の珍客(ちんかく)やさかい、一(こん)やりまほか。」
と、是真を木屋町(きやまち)の料理屋に案内した。
 料理屋の二階からは、紫ばんだ東山の夕景色が絵の様に見えた。灰色の(もや)の底に鴨川の水が白く流れてゐるのも捨て難い(おもむき)であつた。文麟はそれを指ざしながら言つた。
 「どうどす。お江戸は将軍家のお膝下(ひさもと)やさうどすが、まさかこんな美い景色はたんとおすまい。」
 先刻(さきがた)から文麟の土地(ところ)自慢に虫の居所を悪くしてゐた是真は、それを聞くと、
 「ほんまにたんとおへんな。」
調弄気味(からかひぎみき)京訛(やうなまり)を一寸(まね)てみせて、
 「だけどさ、京都にはこの景色が()ける画家(ゑかき)はたんと有るまいて。」
と、江戸ツ子一流の(ゑぐ)い皮肉を投げつけたので、文麟は目を白黒させたといふ事だ。
 それは京都の景色の事。今大和の法隆寺村に隠棲してゐる北畠治房(だん)狂人染(きちがひじ)みた眼の色から顎髯(あごひげ)の長く胸元に垂れかゝつた恰好を、ある洋画家が(ひど)()め立てておいて、
 「如何(いかど)です、私に一つ()かせて下さいませんか。」
と頼んでみた。
 すると老人はじろりとその画家(ゑかき)の顔を見た。
 「お前は油絵()きだつたな。」
 「さうです、油絵()きです。」と画家(ゑかき)は無気味さうに答へた。
 「五六年司馬江漢でも研究しろ。」と老人は(わめ)くやうに言つた。「そしたら描かせんとも限らん。」
 画家(ゑかき)はその声に吃驚(びつくり)して弾機細工(ばねざいく)のやうにお辞儀をしたが、その瞬間、この老人がそれ迄達者でゐるだらうかと思つて、また一つお辞儀をした。



最終更新日 2006年03月28日 22時17分19秒

薄田泣菫「茶話」「中沢博士の()

中沢博士の()
 京都高等工芸の中沢岩太博士が洋画を描くのは、世間によく聞えた事実で、博士自身は、
 「(ひま)な折、ちよいく浅井黙語君に見て貰つたといふばかしで、てんでお話にもならんさ。」
と言つてはゐるが、真実(ほんとう)はいつぱし画家(ゑかき)の積りでゐるらしい。
 以前菊池大麓(だいろく)氏が文部大臣を勤めてゐた頃、ある宴会で誰かがこの話を持ち出した。すると、大麓氏は、
「へえ、中沢君が油絵を()く。」と言つて、不思議さうに卓子(テさブル)向側(むかうがは)にゐた中沢博士の顔を見た。「それは初耳だ、真実(まつたく)ですか。」
 中沢博士は「ははは……」と言つて、あんぐり口を()けて笑つたばかしで、別に()くとも()かないとも判然(はっきり)返事をしなかつたが、腹の(なか)では、
 「大麓め、まだ俺の絵を見た事も無いと見えるな、迂潤だなあ。」
と位は思つてゐたらしかつた。
 大麓氏は大臣らしい物の言ひ方をしようと思つて()ぎさしの平野水(ひらのすい)を一杯ぐつと飲んだ。
 「ぢや、是非一枚描いて貰はう、中沢君の物なら、吾輩喜んで書斎に掲ける。」
 大麓はかういつて、両手を胸の上で といふ(エッキス)()んだ。根が数学者だけに文字の恰好もよかつた。
 「有難う。」と言つて中沢氏は禿げた頭を一寸下げた。
「折角ですが、お断りしませう。吾々は服務規則で上役に物を贈る事は出来ませんからな。」
 「成程な。」と言つて大麓さんも口を()けて大臣のやうに作り声をして笑つた。
 その後奥田義人氏( よしんどリ)が文部大臣になつた時、ある所で中沢博士と顔が合ふと、奥田氏も大麓さんと同じやうに油絵を一枚呉れろと言ひ出した。(大臣などいふものは、誰でも同じ事を()たり、言つたりするよか仕方がないのだ。)
 それを聞くと、中沢博士はまた「有難う。」と言つて頭を下げたが、以前に比ぺると、余り禿げ過ぎてゐるので、一寸手加減をした。「折角ですが、お断りしませう。吾々は服務規則で上役に物を贈る事は出来ませんからな。」
 「成程な。」と言つて、奥田氏はにやく笑つてゐたが「だが君、それは値段のある物の事だらう。まさか君の()いた絵が値段もあるまいぢやないか。」
 「なんぽ悧巧でも、美術の鑑賞(めきゝ)はまた別の物さ。」
 画家(ゑかき)はよくこんな事をいふが、中沢博士もそれからといふもの、奥田氏に対してこんな考へを()つて居るかも知れない。博士も画家(ゑかき)の一人だから。



最終更新日 2006年03月30日 03時18分08秒

薄田泣菫「茶話」「椅子」

椅子
 オルガ・サマロフ女史がある時音楽会を開いた。女史がいつも出演する折のやうに、その()聴衆(きして)は会揚にぎつしり詰つて、身動きの出来ない程であつた。
 そこへ髪の毛の長い、お洒落な紳士が一人入つて来た。一体どこの芝居でも、どこの音楽会でもお洒落な男や女は大抵人が一杯詰まつた頃に、のつそり入つて来るものなので、彼等はかうして満揚の視線を自分の身一つに集める事に、ぞくくした嬉しさを感ずる。
 だが、その紳士は余り念入りに髪の毛に香水を振りかけてゐた(せゐ)で、入つて来るのが二分(がた)遅過ぎた。何処を見渡しても椅子一つ()いてゐないので、紳士は少しどぎまぎした。
 もともと見え張りの男だけに椅子が無いなと気が()くと、いきなりその晩の演奏者サマロフ女史の(もと)へ駈けつけた。
 「どこも椅子が無くて閉口してゐる所なんです。貴女(あなた)のお口添で一つ捜して戴けないでせうか。」
 女流音楽家はじろりと相手の顔を見た。
 「私の坐る席が一つ明いてます、何ならお使ひになつても苦しくありません。」
 「有難う、何処で御座います。」
と紳士はぴよこ/\お辞儀をした。
 「ピアノの前なんです。」
 女史は()もない(ふり)で言つた。紳士は吃驚(びつくり)して馬のやうな顔をした。



最終更新日 2006年03月30日 03時19分07秒

薄田泣菫「茶話」「出雲(いづも)の墓」

出雲(いづも)の墓
 大阪劇団の恩人として、優に大近松以上の手柄を興行上に残した竹田出雲の墓は、今日迄かいくれ判らなかつたのを、今度浄曲研究家木谷蓬吟(きたにほうぎん)氏の手で偶然(ひよつくり)発見せられた。
 それは生玉寺町青蓮(いくたまてらまちしゃうれん)寺の墓地で、この寺は明治三年神仏混淆(こんかう)の時にお廃止になつた生玉東門(とうもん)の遍照院の後身である。
 出雲の法名は「文明院岑松立顕居士(ぶんみやうゐんしんしようりつけんこじ)」で、同寺保存の旧過去帳を見ると、宝暦六年十一月四日歿といふ事になつてゐる。従来(これまで)の記録に十月二十一日とあるのに比べると、十二三日生延びてゐた事になる。歴史や記録やは、時によると医者よりも手荒い療治をする事があるものだ。
 この墓地(はかち)には、出雲の(ほか)に、その女房子(にようばうこ)と、親父(おやぢ)近江(あふみ)、兄弟など六十幾人かの墓が並んでゐる。過去帳にも竹田氏一族五十余名の名前がちやんと書き残してあるのを思ふと、竹田一族が寛文以後七八十年の間(かたか)に生活を送つてゐた事がよく判る。出雲の父近江は竹田のからくり芝居の元祖で、自分が発明した砂からくり、水からくりの人形自動劇を竹田の芝居で打つて素晴しい成金となつたのは、その頃流行(はや)つた、
 「大阪道頓堀竹田の芝居
 (ぜに)は安いが面白い。」
といふ俗謡でもよく推察し得られる。
 出雲は二男か三男からしく、相応(かなり)資本(もとで)を父から()けられると、それでもつて竹本座の(あやつ)り芝居を買取つて、座主、興行(ぬし)、兼作者として奮闘し、正面の(ゆか)を横に、人形(てす)遣ひを()人に改めたり、背景や変り道具を試みるといつた風に、色々と舞台(むき)の改革を施して、その多くは成功した。
 かういふ劇界の功労者の墓が、蓬吟氏の手で発見(めつけ)られたのは喜ばしい事だ。今浪花(なには)座で『忠臣蔵』を()つてゐる鴈治郎なども、お(かる)道行(みちゆき)のやうな濡事(ぬれごと)を実地()(ひま)があつたら一度青蓮寺に参詣(まゐ)つたがよからう。



最終更新日 2006年03月30日 03時19分28秒

薄田泣菫「茶話」「肥大婦(ふとつちよ)

肥大婦(ふとつちよ)
 亜米利加のある田舎に居酒屋があつた。そこの女将(おかみ)は娘のうちから出嫌ひの上に、店の仕事が忙しづくめなので、十年(ばか)りといふもの、滅多に戸口から外へ出なかつた。
 さうかうする(うち)、女将は多くの居酒屋の亭主にあるやうに、むくむく(ふと)り出した。脂ぎつた顔が河馬(ヒポポタマス)のやうにだらしなくなりかけると、客足は現金なもので毎日のやうに(さび)れ出した。
 つい手許(てもと)が不如意なので、女将は租税を納めるのを怠つた。一体租税とか女房(かない)から頼まれた手紙とかいふものはよく忘れ勝なもので、そんな物を忘れたり、怠つたりした所で、一向掛構(かけかま)ひの無ささうなものだが土地(ところ)の収税吏は怖い顔をして催促に出掛けて来た。
 収税吏は痩せた男だつた。痩せてゐるだけに女将の脂ぎつた顔を見ると、つい胸が悪くなつて、悪口(あくこう)の二つ三つを投付けた。すると女将はいきなり大きな掌面(てのひら)でもつて収税吏の(よこ)(ばら)を押へてぐつと締めつけた。羸弱(ひよわ)な役人の腹は薄荷(ペパミント)酒の空壕(あきびん)のやうな恰好になつた。
 収税吏は女将の手許を潜りぬけて、空壜のやうに表へ転がり出したと思ふと、直ぐ巡査を連れて戻つて来た。暴行犯として女将を拘引しようといふのだ。
 巡査は女将の手首を(つがま)へて、表へ引張り出さうとはするが、肥つた女の体胴(からだ)が入口に一杯になつて()うにも仕方が無い。強ひて拘引しようとすれば、入口を(こは)さなければならぬ。巡査にそんな力は与へられてゐないので、二人は仕末(しまつ)に困つて、ぶつ/\言ひながら引揚げたさうだ。



最終更新日 2006年04月09日 22時10分20秒

薄田泣菫「茶話」「鈴木松年(しようねん)

鈴木松年(しようねん)
 画家(ゑかき)田能村直入(たのむらちよくにふ)は、晩年年齢(とし)を取る事が大好きになつて、太陽暦で八十の(とし)を迎へてまだ二(つき)と経たぬうちに、旧暦のお正月が来ると、
 「さあ、俺も八十一になつたぞ。」
と、すつかりその積りで、(ひと)に齢を問はれると、「確か八十一ぢやつたかな。」と答へたものだ。
 (ひと)がそれを真実(ほんとう)に受けると、直入はいゝ気になつて盆節季や、舐園祭といつたやうに、世間が酒や金勘定に夢中になつて、画家(ゑかき)の事なぞ、すつかり忘れてゐる頃に、また一つ宛年齢(づつとし)を殖やしておく。(たま)にそれに気付いたらしい相手が、
 「へい、八十八におなりやす? でも、昨年の春どしたか、八十三やさうに、お聞き申しましたが---」
と揶翫さうな顔でもすると、直入は急に風邪でも引いたやうに(くさめ)をして、
 「齢をとると、月日が短かうての。」
と言ひ言ひしたものだ。
 鈴木松年氏はこの二三年来外へ出掛ける時には、いつも珠数(じゆず)を一つ(たもと)の底へ投げ込んで置く事に()めてゐる。だが(たま)清水(きよみづ)へ参る時はあつてもそんな折には快の珠数はすつかり忘れてしまつて、松年氏は観音様の前へ立つなり、持合せの両手を合せて、一寸お辞儀をする。その両手といふのは、従来(これまで)幾度か観音様を半殺しにした事があるので、仏様はそれが目につくと、急に生娘(きむすめ)のやうに真青な顔になつて、平素(ふだん)のたしなみも何も忘れてお(しま)ひになる。
 ある人がそんなに使ひもしない珠数を何故袂に入れておくのだと訊くと、松年氏は、
 「俺も御覧の通り(とし)が寄つたでの」と死神に立聴きでもされないやうに、急に声を低めて、「何時何処で死ぬかも知れんやらう、そんな折に(ひと)が袂を触つてみて、松年さんは偉い、ちやんと死ぬる日を知つてはつて、袂に珠数を入れときやしたと言つて感心するやらう。」
と言つたといふ事だ。
 (つい)でに松年氏に教へる。片つ方の袂には毎日一銭銅貨を一つ入れておく事だ。頓死でもしたらその(まゝ)六道銭にもならうし、死ななかつたら代りに夕刊新聞を買ふ事が出来る。夕刊には画家(ゑかき)の知らない、色んな面白い世界が載つてゐる筈だ。



最終更新日 2006年04月09日 22時12分25秒

薄田泣菫「茶話」「富岡鉄斎」

富岡鉄斎
 画家(ゑかき)仲間の達者人(たつしやじん)といはれた富岡鉄斎翁も近頃大分(だいぶん)()けて来た。(える)い道具屋などはそれを()い事にして、よく贋物(にせもの)を持ち込んでは、(うま)箱書(はこがき)を取らうとする。先日(こなひだ)もある男が一(ぶく)そんなのを抱へ込むで来た。
 鉄斎翁は眼鏡を(とほ)して、うそく見てゐたが、
 「よう出来(でけ)とるな。この(がま)の顔が何と重言へんな。いつ頃の作やつたかなあ。」
とその男の顔を見た。絵は墓仙人の図で、墓が人間の顔をしてゐる代りに、人間は墓のやうな顔をしてゐた。
 「確か二十年ばかし前のやうに記憶しとりますが:・」
 その男はかう言つて頭を一つ下げた。その頭は三月前の事も何一つ記憶してはゐなかつた。
 「そやく。確かさうやつたなあ。」と鉄斎翁は惚(ほれ/゛\)(にせ)()に見とれてゐた。「(わし)もあの頃は達者に()いたもんや、(とて)承、今はこんな真似は出来上(でけあが)らんて。」
 かういつた風で、いつも偽物(ぎぶつ)に箱書をしたり、薄茶でも一服饗応(ふるま)はれると、出先で直ぐ席画を()いたりするので、家族達の心配は一(とほり)でない。新画の高い今時、そんな勿体(もつたい)ない事があるものかと、鉄斎が外出(そとで)をする時には、途中が危いからと言つて、屹度附人(きつとつきびと)を一人当てがふ事にしてゐる。
 附人の役目は鉄斎翁に何も書かさないで、お喋舌(しやべり)さへさせて置けばよい事になつてゐる。鉄斎のやうな老人(としより)だからといつて、時偶(ときたま)「真理」を喋舌(しやべ)らない事もないが、今の世の中では口で言つた「真理」は、紙に描いた雀一羽程の値段もしないので、鉄斎は手を懐中(ふところ)に入れた(ま丶)安心していろんな事を喋舌(しやべ)る事が出来る。
 家族といふものは、みんな親切なものさ。


最終更新日 2006年04月10日 01時27分42秒

薄田泣菫「茶話」「小切手」

小切手
 今芸術座の理事をしてゐる中村吉蔵(きちざう)氏は、(ひと)が大阪一流の芸妓(げいこ)はと訊くと、急に莞爾(にこ/\)して、
 「大和屋(やまとや)若久(わかひさ)さ。」
と答へる。
 「ぢや、三流どこではどんなのが居るね。」
と訊くと、
 「やつぱり大和屋の若久かな。」
と云つて、にやくしてゐる。実の所を言ふと、中村氏が知つてゐるのは、数多い大阪の芸妓(げいこ)を通じて、若久一人しか無いのだ。
 その中村氏が以前まだ早稲田の学生で居た頃、ある新聞の懸賞小説に当選して、大枚(だいまい)三百円かの賞金を貰ふ事になつた。
 その折新聞社の会計係が、三百円の小切手を渡すと、中村氏は大事に懐中(ふところ)(しま)ひ込んであつた右の手を出してそれを受取つた。受取るには受取つたが、三百円といへば一円紙幣で三百枚、五十銭銀貨で六百枚の事だとばかし思つてゐた中村氏は、
 「随分嵩張(かさば)るだらうからな。」
と、下宿を出る時、手織木綿の風呂敷を用意までして来てゐたので、(うす)(ぺら)な小切手を見ると変な顔をした。
 「これは何ですか。」
 中村氏は駝鳥(だてう)のやうな長い首を会計課の窓に(のぞ)けて言つた。
 「それは三百円の懸賞金です。」
 会計係が窃(くす/\)笑ひながら答へると、中村氏は腑に落ちなささうな顔をして、小切手を裏返してみたり、(すか)してみたりしてゐたが、暫くすると、
 「()うも困りますな、こんな物で戴いては。矢張一円紙幣か銀貨かで戴きませう、その方が都合ですから。」
と言つて、小切手を窓口から押し返した。
 会計係が解り易い日本語で、小切手の決して心配な物で無い事、銀行へ持つて()けば何時(いつ)でも好きな銀貨や銅貨に替へて呉れる事を説き聞かすと、中村氏は幾らか納得が往つたやうな素振(そぶり)で、地球でも(くる)まれさうな大風呂敷に、その小切手一枚を畳み込んで大事に持つて帰つたさうだ。
 だが、笑つては可けない。習ふよりは馴れろで、今では中村氏も芸術座の為めには手形を振出す事をすら知つてゐる。



最終更新日 2006年04月10日 14時51分15秒

薄田泣菫「茶話」「お茶一杯」

お茶一杯
 茨城の北相馬郡桑原(くははら)村といふ土地(ところ)伝右衛門(でんゑもん)といふ爺さんが居た。一体茨城の人には、人間では水戸烈公より(ほか)に偉い人はなく、山では筑波山の外に山らしい山は無いと思つてゐるのが多いが、伝右衛門もその一人で、仕合せと文字(もんじ)を知らなかつたから、烈公の方は絶念(あきら)めて、(ひま)さへあると筑波山へばかり登つてゐた。
 ある夏、草韃作(わらぢづく)りにも()いたので、ひよつくり思ひ立つてまた筑波山へ登つた。すると、(にはか)に空が曇つて雷がごろごろ鳴り出したと思ふと、夕立がざあつと降つて来た。伝右衛門は慌てて其辺(そこら)掛茶屋(かけぢやや)に駈け込んで雨上(あまあが)りを待つ事にした。
 見ると、茶店の縁端(えんばた)には、誰に()いだともないお茶が一つ置いてあつた。咽喉(のど)の渇いてゐた伝右衛門がそ 柵れを飲まうとすると、茶店の(ばあ)さんは慌てて止めた。
 「()しにさつしやれ。お前には此方(こつち)のを上げますべい。それは雷様に上げてあるのだからの。」
 伝右衛門が不思議な顔をして、雷様がお茶を(あが)るのかいと訊くと、
 「(あが)るともさ。」と媼さんは茶飲友達の噂でもするやうに「雷さまは、えらお茶が好きだあよ。」と言つた。
 「へえ、そんなにお茶が好きなのかい。」と伝右衛門は感心したやうに首を()つた。「そんなだつたら(うち)へ来れば浴びる程お茶を饗応(ふるま)つてやるのに。」
 それから五六日経つと、大雷(おほかみなり)が鳴つて雨がどしや(ぶり)に降り出した。窒扶斯(チプス)の熱度表のやうな雷光(いなづま)がぴかりと光つたと思ふと、大隈侯のやうな顔をした雷さまがにこにこもので一人伝右衛門の家へ転げ落ちて来た。
 そして台所の附近(まはり)をうろ/\捜し廻つてゐたが、お茶が入れてないのを見ると、急に(むつ)かしい顔をして薬鑵(やくわん)の湯を台所一杯にぶち()けて引き揚げて往つた。
 伝右衛門は吃驚(びつくり)して尻餅をついたが、でもまあ、雷様でよかつた。それが大隈侯だつたら、代りに酒でも菓子でも出せといつてその(まゝ)居据わつたかも知れない。



最終更新日 2006年04月10日 17時19分03秒

薄田泣菫「茶話」「竹内栖鳳(せいほう)

竹内栖鳳(せいほう)
 文学者や画家(ゑかき)(とこ)へは、何ぞと言つては書いた者を強請(ねだ)りに来る(てあひ)が少くない。とりわけそれに幾らかの市価があるといふ事になると、色々の手段(てだて)を尽して引出しに来る。
 この頃竹内栖鳳氏の()がずば抜けて値が高いので、栖鳳氏の(とこ)へは取り替へ引き替へ色々の事を言つて、無代(たど)の画を()かしに来る者が多いといふ事だ。先日(こなひだ)もこんな事があつた。
 それは幸野楳嶺(かうのばいれい)(ふく)を持合せて居る男が、一度手隙(てすき)にその画を鑑定して貰ひ度いと言つて来たから起きた事なので、(はく)をつけるといふ事は、滅多に人に会はない事だと思つてゐる栖鳳氏も、(ほか)ならぬ師匠の画の事なので、不承不承に会う事にした。
 その男は楳嶺の画を抱へて入つて来た。画は尺八か(なん)かの大きさで、随分手の込んだ密画で、出来も決して悪い方では無かつた。
 「これや立派なもんや。」と栖鳳氏は言つたが、(いつも)の癖で直ぐ有合せのお上手が言つて見たくなつた。「(うち)にも前方(まへかた)からこんな出来のが一幅欲しい欲しい思つてましたんやが、さて欲しいとなると、却(なか/\)手に入りよらんでなあ。」
 その男は目の前の機会を取逃さなかつた。
 「そんなにお気に召しましたか。」と覚えず膝を乗り出した。「そんなら物は御相談でございますが、実はこの幅は手前共の床の間には(はど)つたくて困つてゐる所なんです。で、一つ何でも結構で御座いますから、先生の小幅(せうふく)と御交換が願へましたら……なに、ほんの一寸した小幅で結構でございますから。」
 「成程な。」栖鳳氏はにやにや笑ひ出した。「交換いつた所で、手の込むだ師匠の密画と換へるのやさかい、私が粗末な略画を描いたんぢや師匠に済まんし、いつそ換へるなら私もこの大きさでこの位の密画を描かんならんが……」
 「いや誠に有難うございます。」
と言つて、その男は蝿取蜘蛛のやうに畳の上に平べつたくなつた。畳の目は一度に皺くちやになつて笑ひ出した。
 「そいぢや、お(うち)の床の間には、師匠のこの幅は(かゝ)らんで、私のは懸る事になりますな、同じ大きさの(ふく)でゐて。」と栖鳳氏は一寸窄口(つぼぐち)をして笑つた。「ところで、私が描くにしても、この位の密画やと四五年は懸るさかい、この(ふく)はまあ持つて()んで、懸けて置いて下さい。」



最終更新日 2006年04月10日 17時23分40秒

薄田泣菫「茶話」「拍子木」

拍子木
 南画家富岡鉄斎老人の幼友達に、京都は新町丸太町 脚辺に住んでゐる丸兵(まるひやう)といふ傘屋(からかさや)の爺さんがゐる。
 爺さんはいつも仕事場に坐ると、
 「(わし)が一日怠けでもしようもんなら、京の奴ら、悉皆(みんな)ぐしよ濡れになるやらう。可哀(かあい)さうなもんや。」
独語(ひとりごと)を言ひく(からかさ)を貼つてゐる。実際爺さんの心算(つもり)では、傘貼(からかさ)りは一ぱし他助(ひとだす)けの仕事らしいが、それに少しの嘘も無い、何故といつて京都人は霊魂(たましひ)よりも着物がずつと値段の張つてゐる事をよく(わきま)へてゐる人種だから。
 その爺さんの(うち)に秘蔵の拍子木がある。それには池大雅(いけのたいが)が例の達筆で、
 「火の用心」
と書き残してゐるので、それが鉄斎老人の耳に入ると、(老人は名代の金聾(かなつんぼ)だが、耳で聞えぬ事は目で読む事が出来る)(いつも)の癖で何とかして自分の手に入れたくなつて来た。
 鉄斎老人は()し振に傘屋(からかさや)を訪ねた。そして蛤御門(はまぐりごもん)(いくさ)や、桃太郎の鬼が島征伐などの昔話をして、二人とも目頭に涙を浮べて喜んだ。話に油が乗つて来ると、鉄斎老人は例の大雅堂の拍子木の事を持出して、あれを譲つては呉れまいかと切り出した。
 傘屋(からかさや)の爺さんは、()(たてか)(らかさ)に油を塗るやうに、皺くちやな掌面(てのひら)で顔を撫でまはした。そして、
 「よろしおす。傘屋(からかさや)におした所で何の役にも立ちよらんが、貴方(あん)さん(とこ)やと拍子木にも値打が出ますやろからな。」
と二つ返事で承知をして、拍子木を取り出して鉄斎老人の膝の上に置いた。
 老人は拍子木を貰つた礼に何を返したものだらうかと色々思案の末が、矢張仏手藷(つくねいも)のやうな山水を()いていつもの禿山の代りに精(せい/゛\)木立のこんもりした所を見せて送ることに決めた。-()んといふ立派な考へであらう、どんなにどつさり立木を描いた所で、木は有合せ物で、画家(ゑかき)懐中(ふところ)一つ痛めずに済む事なのだから。



最終更新日 2006年04月10日 21時33分18秒

薄田泣菫「茶話」「鼠の貿易」

鼠の貿易
 御影(みかげ)に住んでゐる男が、国元に相応(かなり)田畑(でんぱた)を持つてゐるので、小作米の揚つたのを汽車で送らせて、御影の家で(たくは)へてゐるのがある。そんな田畑があるなら、それを売払つて、その(かね)で白米を買つたなら、()かりさうなものだが、その田畑は亡くなつた親父(おやぢ)(こしら)へたものだけに、その男の自由にもなり兼ねるらしい。
 御影の家には米を貯へる倉が無い。御影にだつて倉の附いてゐる(うち)も無い事もないが、そんな(うち)は得て家賃が高い。で、その男は送つて来た米俵を、内庭に高く積み、その上へ大きな金網を(かぶ)せて鼠除(ねずみよけ)をしてゐる。
 ところが、この頃の夜長にふと気が()いてみると、金網の中に何かぱりく音をさせて米を(かじ)つてゐる物がある。カーキ色の軍人が軍器を噛るやうな音だ。その男は鑞燭(らふそく)をつけて俵の下を覗いてみると、大きな鼠がうろ/\してゐる。
 その男は金網を調べてみたが、何処に一つ(こは)れた所も無かつた。で、この鼠は以前子鼠であつた頃網の目を潜つてちよく/\走り込んだものと判つた。
 だが、さる物識(ものしり)の説によると、基督が言つたやうに人は麺麭(パン)のみで生きるものでないと同じく、鼠も米のみで生きる事は出来ない。人間に宗教が要るやうに、鼠には水気(みづけ)のある菜つ葉が必要だ。
 その菜つ葉を鼠が()うして()たかといふと、それは朋輩の力を借りて、台所の隅から持つて来て貰ふ(ほか)には仕方が無かつた。彼等は長い間金網の内と外で米と菜つ葉とを交換してゐたのだ。(ちやう)ど神戸の貿易商が絹とお茶とを積み出して、代りに毒薬と護謨細工(ごむざいく)の人形とを持つて帰るやうに……。



最終更新日 2006年04月11日 00時16分10秒

薄田泣菫「茶話」「狂人」

狂人
アメリカにオテイス・スキンナアといふ聞えた俳優(やくしや)が居る。浪漫的(ロマンチツク)な芸風で、倫敦(ロンドン)巴里(パリミ)伯林(ベルリン)などで興行した時も、相応(かなり)な評判を取つたものだ。
 この俳優がある時紐育(ニユ ヨヨク)の舞台へ出るために、夫人と一緒に、その頃(すま)つてゐたフイラデルヒヤから紐育行きの汽車に乗り込んだものだ。
 スキンナアは汽車中の二時間ばかしで、今度の持役の台詞(せりふ)を、すつかり記憶(お )え込む積りで、外套の大きな隠しから台詞書(せりふが)きを引張り出した。そして低声(こごゑ)でそれを譜誦(あんしよう)し出した。時々顔を(しか)めたり、鼻先で掌面(てのひら)をぱつと()けたりして。
 夫人は(いつも)の事なので良人(をつと)の方には見向きもしないで、せつせと(くつした)を編むでゐた。女といふものは鞍を編む時には、
 「ほんとに私は親切者だわ、一寸の暇も無駄にしないで、こんなにして(うち)の人のを編んでるんだもの。」
と思ひく、針を運ぶものだが、ついその「親切」を見せぴらかす積りで、鞭の丈を余り長くするので、良人は永久に足の裏が鞍の底に届かぬやうな事になる。
 夫人が(あみ)さしの韈を膝の上に引伸ばしてじつと良人の足と見比べてゐると、後から右肩をちよい/\(つゝ)くものがある。振り向いてみると髪の毛の縮れた五十婆さんで、手には十五六の小娘の読みさうな恋愛小説を持つてゐる。
 婆さんは夫人に耳打をした。「お気の毒さまですね。(あたし)すつかり身につまされちまつた。と言ふのはね……」と小説本を大事さうに畳みながら、「(うち)の人も(ちやう)ど御主人と同じやうな病気でね。」
 スキンナアは狂人(きちがひ)と見違へられたのだ。だが、怒るにも及ぶまい、すべての女は自分の亭主以外の男子(をとこ)は大抵狂人(きちがひ)か馬鹿だと思つてゐるのだから。



最終更新日 2006年04月11日 01時15分52秒

薄田泣菫「茶話」「仏語通(ふつごつう)

仏語通(ふつごつう)
 露西亜の若い、ハイカラ紳士が気取つた身振で巴里の料理屋に入つた。別段お(なか)が空いてもゐなかつたが、滑らかな仏蘭西語で献立を註文するのが嬉しくてならなかつたのだ。
 紳士が稍反身(やゝそりみ)になつて卓子(テ ブル)の前の椅子に腰をおろすと、鵞鳥のやうに白い(うは)(ばり)を着た給仕人がやつて来て註文を聞いた。紳士は一寸その方へ顎をしやくつて、
(馬鈴薯(じやがいも)つきのビフテキ)と一皿(いひつ)けて、「()うだ、(うま)からう」といつたやうに四辺(あたり)を見廻した。
 すると、丁度帳揚にかゝつた古時計が悲しさうに午後三時を打つた。紳士はそれを自分を褒めて呉れたもののやうに思つて、態(わざ/\)懐中時計を引張り出して、今正規の時間に合はした(ぱか)りの針をまた古時計の通りに引直(ひきなほ)した。古時計は年を取つて気短(きみじか)になつてゐたので卅分ばかり進んでゐた。
 直ぐ隣りの卓子(テヨブル)にまた一人お客が入つて来た。指先で軽く給仕人を呼んで。ガルソンビフテクパム》(ちよいと、じやがテキをね。)と言つて、どかりと椅子に腰をおろした。何処から見ても五()(すき)もない巴里(パリ )ツ子である。
 「隣の奴め馬鈴薯(じやが)テキと言つたな。」と思ふと、ハイカラ紳士は顔から火が出るやうに(はづか)しくなつた。「(ビフテクパム)ーそれに比べると、俺の仏蘭西語はまるで鼠のやうに長い()( )()やしてら。」
 紳士は泣き出しさうな眼付きして古時計を見た。古時計はナポレオン三世のやうな気忙(きぜは)しさうな顔をして、露西亜人などには頓着(とんぢやく)なく息を(はづ)ませてゐる。紳士はいつになく露西亜が恋しくなつて来た。
 だが、その露西亜へ帰つて来ると、紳士は何処の料理屋へ往つても、巴里へでも聞えさうな大きな声で、「」と(あつら)へる事に()めてしまつたさうだ。
 灘子方(はやしかた)の六(がふ)新三郎は西洋料理屋に入つて、ライスカレーの註文をするのに、
 「おい、辛子のおじやを持つて来い。」
と言つたといふ事だ。新三郎が仏蘭西語で註文しなかつたのは無理もないが、「辛子のおじや」は聞いて呆れる。恥ぢよと言つた所で、恥ぢもすまいから困る。



最終更新日 2006年04月12日 00時22分07秒

薄田泣菫「茶話」「女の秘密」

女の秘密
 ある美顔術師が千里眼問題で名を売つた福来友吉(ふくらいともきち)博士を訪問した事があつた。すると盛装した夫人がひよつくり応接室へ顔を出して、これから或る婦人会へ出掛けるといふ挨拶なので、美顔術師は、
 「ぢや、一寸お待ちなさい、こゝでお化粧して上げますから。」
と言つて(ひき)とめた。
 美顔術師は掌面(てのひら)でパラピンのやうに夫人の顔を(もじやく)つてゐたが、暫くすると、見違へる程美しくなつた。そこへ入つて来た福来博士は吃驚(びつくり)して艶(ミ/\)した夫人の顔を見てゐたが、(やつ)とそれが自分の最愛の妻だと判ると、実験心理学でごちやくになつた頭を鄭寧(ていねい)に下げてお辞儀を一つした。
 先刻(さつき)から夫人のお(つれ)が玄関で待つてゐる由を聞いた美顔術師は、何も(つい)でだからその人の顔をも一緒に(もじやく)つてやらうかと云ひ出した。すると博士夫人は()(たて)の卵のやうな顔を一寸(しか)めた。
 「()して置いて下さいな。そんなに()て戴くと、折角の私の顔が晴れなくなつちまうわ。」
と、(たつ)()(だて)をしたといふ事だ。
 美顔術師の所へ通う多くの婦人連は、途中でその美顔術師に遭つても、()(ぼう)を向いて成るぺく素知らぬ顔をする。そして(あと)から直ぐ訪れて来て、
 「お宅に通ふのが知れると、直ぐ(なん)()のと言ひ触らされるんですからね。」
とお詫をする。
 だから美顔術師となるものの第一の心得は、途中で自分のお得意に出会つても、成るべく素知らぬ顔をする事だ。ー一寸内証(ないしよう)で言つておくが、これは亭主にとつても同じ事で、女房に好かれようと思つたら、途中で自分の連合(つれあひ)に出会つても、成るべく()(ぽう)を向いてゐる事だ。女といふものは、亭主持で居ながら、外へ出ると処女(きむすめ)独身者(ひとりもの)からしい顔をしたがるものなのだ。



最終更新日 2006年04月13日 02時20分13秒

薄田泣菫「茶話」「荼匙(ちやさじ)

荼匙(ちやさじ)
 住友の鈴木馬左也(まさや)氏が中学時代に(ひど)く世話になつた教師がある。その後教師は職に離れて色んな事に手を出してみるが、多くは失敗続きなので、馬左也氏はそれが気の毒さに泣き付かれる(まゝ)に二度ばかり千円程出した。
 教師はそれを持つて、何かまた事業(しごと)目論(もくろ)んだらしかつたが、それも結果が悪かつたかして、また馬左也氏の応接間へひよつくり出て来た。そして閾際(しきゐぎは)に立つて鄭寧(ていねい)胡麻白頭(ごまじろあたま)を下げてお辞儀をした。
 物が欲しくて来たものは、閾際でお辞儀をする。喧嘩がしたくて来たものは、卓子(テ ブル)(つか)まつてお辞儀をするものだと知つてゐる馬左也民は、直ぐ老教師の用事を見貫(みぬ)いて苦い顔をした。
 「貴方にも困りますな。さう繁(しげ/\)(いで)になつては。無論私は以前御厄介にもなつた事があるし、今は幾らか金銭(かね)の融通もつく身分ですから、出来るだけはお尽ししたいが……」
と言つて氏は机の抽斗(ひきだし)から紙入を取出した。そしてその中の幾枚かを紙に包んで、老教師の前に出した。
 「今日はこれでお帰りが願ひ度い。そして今後(これから)は私の事は一切お忘れになるやうに。」
 老教師はその紙包を戴いて何麼(どんな)事があつても、馬左也氏の名前(だけ)は忘れまいと胡麻白(ごましろ)の頭を幾度か下げて引下(ひきさが)つた。
 それから一週間程経つて、馬左也氏はある骨董物の売立会(うりたてくわい)で、茶匙を一本二千円で買つた。茶匙がそんな値打のあるものか()うか、馬左也氏はよく知らなかつたが、道具屋がさう言つたから、それに違ひあるまいと思つた。
 馬左也氏は二千円を払つて茶匙を受取つた時、覚えずはつと(ちち)つた。(馬左也氏はちよい/\参禅をするが、禅に入つた人はよくはつ(ヽヽ)と思ふものなのだ。)
 「自分は先日(こなひだ)以前の教師が困つてゐるのを見ながら、つひ金銭(かね)出惜(だしをし)みをした。それが今二千円も(はづ)んで茶匙一本を買ふなんて、何て矛盾した事だらう。」
と気が()いてみると、()うしてもその茶匙を(ひね)くる気になれなくなつた。
 で、その()は「良心」が吃驚(びつくり)すると()けないからと言つて、茶匙は道具箱に(しま)ひ込んで滅多に見ない事に決めてゐる。茶人馬左也氏に教へる。もつと善い「良心」の保護法は、その茶匙をその儘老教師に呉れてやる事だ。すると、恩人に物を恵んだといふ満足の外にその匙が真実(ほんとう)は十円の値段がなかつたといふ事を知る事が出来る。



最終更新日 2006年04月13日 02時23分28秒

薄田泣菫「茶話」「飛行機」

飛行機
 近頃市電の運転車輛が(ひど)く少いので、何処の停留揚にも、乗客(のりて)が一杯(たか)つて、険しい眼を光らせながら、
 「もう小一時間も立たせやがる。これだけの(ひま)があつたら地獄へでも用達(ようたし)()けら。」
 「電鉄の杉山め、車輛を処女(きむすめ)のやうに(いた)はつでるから可笑(をか)しい。」
と、口々に(ぼや)いてゐる。
 その杉山清次郎氏が、電鉄部長といふ職掌柄から、市電の操車振(さうしやぶり)を見ようとして時々電車で市内を乗り廻す事がある。すると辻々に立つてゐる監督がそれを発見(めつけ)るが早いか監督詰所に駆け込むで、その電車が通つて()く途(みち/\)の箱番へ直ぐ電話をかける。
 「おい、君は本町(ほんまち)交叉点かい。今飛行機が君の方へ飛んだから用心するんだぞ。」
 電話を受取つた監督詰所では、居睡(ゐねむ)りを()め、笑ひ話を切り上げて、見合でもしさうな顔をしてきちんと取済ましてゐる。すると、杉山氏は電車の窓から色の黒い顔を覗けてみて、
 「俺が口喧(くちやかま)しく言ふもんだから、みんなあの通りに一生懸命に()つてら。」
と「小細工」やら「電気の知識」やら混雑(ごちやく)に入つた頭を撫でて喜んでゐる。
 「何故飛行機なんて綽名(あだな)がついたんだね。」
と監督の一人に訊いてみると、
 「何だつて貴方(あなた)、しよつちゅう羽を拡げてぶう/\(ろな)り散らしてるんですもの、加之(おまけ)に目方が軽くつてね……」



最終更新日 2006年04月14日 01時07分47秒

薄田泣菫「茶話」「三人画家」

三人画家
 先年横山大観、寺崎広業(てらさきくわうげふ)、山岡米華(べいくわ)の諸氏が連立(つれだつ)て支那観光に出掛ける(みち)すがら神戸へ立寄ると、土地(ところ)富豪連(かねもちれん)()つて(たか)つて三人を招待(せうだい)した。
 一体富豪(かねもち)(ひと)招待(せうだい)するのは、何か見せつけ度いとか、何か強請(ねだ)り度いとかいふ時に限る事で、もしかお客が一(かう)物に感心しなかつたり、何一つ持合(もちあはせ)の無い男だつたら、富豪(かねもち)といふものは二度ともうそんな人を招待(せうだい)しようとはしない。
 神戸の富豪(かねもち)もちやんとさういふ型に(はま)つてゐたから、宴会半ばになると、そろく画絹(ゑきぬ)を引張り出して三人の画家(ゑかき)の前に拡げ出した。
 「何か一寸したもので結構です、(のち)の記念になる事ですから。」
 かういつて、缶詰のなかへ石を入れる事を忘れない頭を鄭寧(ていねい)に下げた。
 それを見た大観は急に()べ酔つたやうな顔をし出した。蹣跚(よろよろ)と立ち上つて、
 「何か一つ()()けませうかな。」
と、だらしなく画絹の前に坐ると変な手附(てつき)馬鈴薯(じやがいも)のやうなものをさつと(ちフなす)くつた。そしてとろんこの眼で(じつ)と見てゐたが「此奴(こいつ)()かん。」と言つて、画絹をさつと放り出した。
 で、今度はまた新しい画絹の上に、蠕舛(おたまじやくし)のやうなものを()きかけたが、「駄目だ、駄目だ。」と(ぼや)いてまた其辺(そこら)へおつ()り出した。
 すると最前からそれを見て居た富豪連(かねもちれん)は、いつの間にか各自(てんで)にそつと画絹を抱へ込んで()げ出した。そして言ひ合はせたやうに米華の前に(たか)つて来た。
 「山岡さんはいつ見てもお若いですな。ーどうぞおヨ(つい)でに一寸……」
 米華は山のやうな画絹を前に、汗みづくになつて滝を()き、山を()き、鶴を()き、亀を()き、洋妾(らしやめん)のやうな観音様を描き、神戸市長のやうな馬を描きしてゐるうちに、到頭(めまひ)がして自分にも判らぬやうな変な物を描き出した。
 「(うま)いぞ……」
 だしぬけに後で大きな声で(わめ)く者があるので、皆が吃驚(びつくり)して振りかへると、両手を懐中(ふところ)に大観が欠伸(あくび)をしいく衝立(つゝた)つてゐた。
 なに、広業が居ないつて。ーそんな筈はない。敏捷(すばしこ)い広業は画絹が取出されたのを見ると、いつの間にか(かはや)に滑り込んで、その(まゝ)そこで居睡(ゐねむり)をしてゐたのだ。



最終更新日 2006年04月14日 09時38分11秒

薄田泣菫「茶話」「馬越恭平」

馬越恭平
 先日(こなひだ)藤田家の茶会に、故人香雪軒(かうせつけん)の遺愛品として陳列せられてゐた漢田村文琳(かんたむらぶんりん)茶入(ちやいれ)については面白い話がある。
 あれは以前(なにがし)の売立会で、馬越恭平氏の手に入りかゝつたのを、横つちよから飛び出した藤田伝三郎氏が、一目見るなり欲しくて欲しくて溜らず、
 「(たつ)ての頼みだ、是非譲つて欲しい。」
と、きつい所望に、馬越氏も止むを得ず譲る事にしたものだ。
 馬越氏の腹では、
 「藤田があんなに欲しがつた茶入だ。千円も贈つて来るかな。」
と、その千円が手に()つたら、腹癒(はらいせ)に一つ思ひ切つて洒落(しやれ)た茶会でも開いてやらうと、心待(こゝろまち)にしてゐると、其処(そこ)へ届いたのは藤田氏からの一封で、()けて見ると六千円の小切手が一枚無雑作に包んであつた。
 馬越氏が最初の心積りだと、それだけ有つたら洒落た茶会の六七度は出来る筈だつたが、馬越氏は茶会の代りに一度にやつと(ちちち)つて、それで済ましてしまつた。そしてこんな場合、笑つて済ます事の出来る自分は、何といふ悧巧者だらうと、つく人丶感心をした。
 さういふ履歴附の文琳の茶入が陳列されるといふので、廿一日の茶会には東京から名高い五人組の茶人が(くだ)つて来た。五人組といふのは、益田孝、朝吹英二、加藤正義、野崎広太、高橋義雄といふ顔触(か ぶれ)
 五人はその茶入の前に来ると、一斉に眼を光らせた。成程結構な茶入だ、滅多に()られない名器だなと思ふと、五人の頭に言ひ合はせたやうに馬越氏の事が浮んで来た。
 「馬越は何処に居るだらう。惜しい物を手離したもんだな。」
 「確か大連(たいれん)に旅行してる筈だ、電報をやらうか。」
 「よからう。皆で一緒に笑つてやれ。」
といふので、その揚で直ぐに電報が打たれた。
 大連の旅館(はたごや)で馬越氏は五人名前の電報を受取つた。
 「タムラブンリンミタ バカヤロウ」
 幾度読み返してみても同じ事なので、馬越氏はお婆さんのやうな顔を(ゆが)めてにやつ(ヽヽヽ)と笑つた。そしてこんな場合笑つて済ます事の出来る自分は、何といふ悧巧者だらうと熟(つく/゛\)また感心をした。



最終更新日 2006年04月14日 10時21分20秒

薄田泣菫「茶話」「黄金仏」

黄金仏
 京大文科の教授某氏の(うち)に、昔時(むかし)から持伝へた封印つきの仏様がある。何でも純金(むくきん)で出来上つたものださうで、封を解くと眼が潰れるかも知れないといふ言伝へになつてゐた。
 教授某氏は、物心のつく時分から、一度()けてみたくて仕方がなかつたが、その都度信心深い阿母(おつか)さんに止められて残り惜しさうに思ひ(とま)つてゐた。
 すると、近頃阿母(おつか)さんが亡くなつたので、教授は一七日( ひとなぬりか)回向(ゑかう)を済ますと、直ぐ封を解きにかゝつた。大学教授といふものは(すべ)て「真理」を窮めるために生きてゐるものだが、某氏が(づし)()けにか丶つたのは、何も研究の為めでは無かつた。実をいふと、それを売つて(まと)まつた金が握りたかつたのだ。仏様は(まじ)りつ()なしの純金(むくきん)だと聞いてゐたから。
 教授は(おそ)るく(づし)()を開けにか\つた。定めし黄金(きん)(まぶ)しい光でも()す事だらうと、心持眼を細くしてゐると、なかから転げ出したのは鼠のやうな真黒な仏さんだつた。
 教授は慌ててそれを取り上げた。そして眼を一杯に()けてじろ/\見廻したが、何処に一つ純金(むくきん)らしい光は無かつたし、それに持重(もちおも)りが少しも無かつた。
 「(をか)しいな。こんな筈ぢや無かつたつけが……」
と、教授は胱抜(ふぬけ)のした顔でそれをもじや()つてゐるうち、ふと仏様の笑顔が家主の因業爺(いんごふぢい)のやうに見え出した。
 「糞ツ、勝手にしろ。」
と教授は(ふく)れつ(つら)をして(ゆか)()にそれを投げつけた。仏様は将棋の桂馬のやうな足音をさせて、其辺(そこら)を飛ぴ廻つた。
 その瞬閊教授の頭に(きのこ)のやうにむくりと持上つたものがある。理髪床(かみゆひどこ)親仁(おやぢ)が好く地口(ぢくち)といふものだ。
 「俺はキン(ヽヽ)の像が欲しかつたのだ。そして飛ぴ出したのは御覧の通りキ(())の仏様だ。つまり俺には()(運)が無いんだな。」
 かういつて教授は泣き出しさうな顔をして笑つた。(まづ)い洒落だが、それでも納得出来れば無いよりは(まし)だ。丁度田舎者の腹痛(はらいた)買薬(かひぐすり)で間に合ふやうなものだから。



最終更新日 2006年04月14日 10時21分53秒

薄田泣菫「茶話」「疳癪玉(かんしやくだま)

疳癪玉(かんしやくだま)
 故人井上(かをる)侯が素晴しい癇癪持だつた事は名高い事実だ。故人は自分でもよくそれを(わきま)へてゐて、自分の都合の悪い時には、滅多に癇癪を起さなかつたから(なほ)始末に困つた。
 数多い故人の昵懇(ちかづき)のなかで、鴻池(こうのいけ)且氏のみは、よく侯爵に対する手心を知つてゐて、滅多に疳癪玉を(はじ)けさせなかつた。もし井上侯を猛獣に(たと)へるなら、且氏は差し詰め手練(しゆれん)な猛獣使ひといふ事になる。猛獣使ひが余り名誉な職業(しごと)で無いと同じやうに、井上侯を手管(てくだ)に取るのも、大して立派な事業(しごと)では無かつた。
 且氏が東上して井上侯を訪問する場合には、いつも鴻池の埃臭い土蔵から一つ二つ目星(めほし)骨董物(こつとうもの)を持参する事を忘れなかつた。
 「ええ、御前、これは光悦の赤茶盤(あかちやわん)で御座いますが、形が俵形で面白いと存じましたから、一寸お目に懸けます。」
 「なに光悦の赤茶怨ぢやと。」
 侯爵は嬉しさうににこ/\して「ほゝう、これは又面白い出来ぢやの、成程俵形で……」と皺くちやな掌面(てのひら)(ひね)くり廻して悦に入つてゐる。こんな時には、よしんば鼻先を(つま)まれたつて侯爵は決して腹を立てない。赤茶怨は()つこい物で、腹を立てると殿()れるといふ事を知つてゐるから。
 かういふ琿由(わけ)で、且氏が上京する報知が来ると、井上侯はいつむ迎へ車を停車揚(ていしやば)まで(よこ)す事を忘れなかつた。もしか且氏が乳母車で乗りつけ度いと言ひ出したら、侯爵は(わぎノミ)々乳母車を停車場(ていしやば)まで廻したかも知れない。
 だが、井上侯が亡くなると、且氏は長い目録を侯爵家に持出した。そして、
 「これだけの品は(かね)て老侯にお目に懸けて置きましたから、お調べの上お返し下さいますやうに。」
といふ挨拶なのだ。
 もしか老侯が地獄で(井上侯が地獄に入つてないと誰が言ふ事が出来る)この事を聞いたなら、持前の疳癪玉を破裂させて、一度娑婆(しやば)へ帰るとでも言ひ出すかも知れないが、まあ安心するが可い、地獄には乗りつけの乳母車は往つてゐない筈だから。-乳母車が死んだらその(まゝ)天国へ()く事が出来る。



最終更新日 2006年04月14日 10時22分49秒

薄田泣菫「茶話」「抱月氏」

抱月氏
 島村抱月氏はよく欠伸(あくび)をするので友達仲間に聞えた男だ。会つて談話(はなし)をしてゐると、物の二分間も経たないうちに(いぬ)のやうにあんぐり口を()いて大きな欠伸をする。まるで霊魂(たましひ)でも吐出(はきだ)しさうな欠伸だ。
 五六年前島村氏が神経衰弱とやらで暫く京都に遊んでゐた事があつた。ある日ひよつくり思ひ立つて岡崎にゐる上田敏博士を訪ねた。相手が上田敏氏と島村抱月氏の事だから、羅旬(ラテン)(まじ)りで詩人ホラチウスの話でもしたに相違ないと思ふ人があるかも知れないが、実際は二人とも調子の低い日本語で、
 「京都は寒いですね、すつかり風邪を引いちやつて:・」
 「それは()けませんね、私も二三日(ぜん)から少し風邪気味なんですが……」
と、土地で引いた鼻風邪の話をしたに過ぎなかつた。
 だが、二言三言そんな談話(はなし)をしてゐるうち、島村氏はお(きま)りの大きな欠伸を出した。そしてそれを手始めに、一時間足らずの談話(はなし)に三十七の欠仲をしたので流石に上田氏も吃驚(びつくり)した。そして島村氏の帰つた(あと)で、夫人と顔を見合せて言つた。
 「よく欠伸をするとは聞いてゐたが、それにしても余り(ひど)い。余程身体(からだ)()うかしてゐると見える。」
 さう言つて島村氏の健康を気遣つた上田氏は、不図(ふと)した病気から(もろ)くも倒れてしまひ、草臥(くたび)れて欠伸ばかり続けてゐた抱月氏は、その()ずつと健康を恢復(とりかへ)してぴちくしてゐる。そして近頃ではその名代の欠伸も滅多に見られなくなつた。
 何でも墫によると、須磨子が欠伸が嫌ひだから自然癖が直つたのだともいふが、事によるとさうかも知れない。一に武士道、二に小猫の尻つ尾、三に(へつゝひ)の油虫…-すべて女の嫌ひなものは滅びてゆく世の中である。



最終更新日 2006年04月14日 10時23分20秒

薄田泣菫「茶話」「旅銭代用」

旅銭代用
 書家細井広沢がまだ(わか)かつた頃、ある日僧侶(ばうダ)が一人訪ねて来て、
 「私は房州某寺(なにがしでら)の住職でござるが、先生の御作(ごさく)を戴いて、永く寺宝として(のち)に伝へたいものだと存じますので。」と所禿(ところはげ)のある頭を鄭寧(ていねい)に下げた。「(はなは)だ勝手がましいお(ねがひ)では御座るが、百(ふく)程御寄進が願へますまいか。」
といふ挨拶なのだ。
 広沢は自分の書いた物で、仏様に結縁(けちえん)が出来る事なら、こんな結構な事は無からうと思つて、安受合(やすうけあひ)引請(ひきう)けた。そして僧侶(ばうず)を待たせておいて直ぐその揚で書き出した。
 三十幅四十幅と書いてゐるうちに、広沢は徐(そろ/\)厭になり出した。仏様のお引立で極楽に往つたところで、そこで好きな書が書けるか()うか疑はしいし、それに仏様が書を奉納したからといつて、贔眞冐(ひいきめ)に見てくれるか()うかむ判らなかつた。僧侶(ばうず)の話では、仏様はそんな物よりもお鳥目(てうもく)の方が好きらしかつたから。
 広沢は五十幅目を()(をは)ると、草臥(くたび)れたやうに筆を投げ出した。
 「これで(やめ)にしときませう。もう厭になりましたから。」
 僧侶(ばうず)が驚いて、うろ覚えの華厳経の言語(ことば)など引張り出して色々頼んでみたが、広沢は二度と筆を執り上げようとしなかつた。僧侶(ばうず)はぶつ/\(ぼや)きながらも、流石に三つ四つお辞儀をして帰つた。
 (のち)になつて聞くと、広沢がその折寄進した書が、房州路のあちこちの宿屋に一枚宛散(づつちら)ばつてゐる。理由(わけ)(たゞ)してみると、あの僧侶(ばうず)が道筋の宿屋々女で、旅籠銭(はたごせん)の代りに、その書を置いて往つたといふ事が判つた。
 広沢は善い事をした。お慈悲深い仏様さへ手の届かなかつた売僧(まいす)を一人助けた上に、自分の書が田舎の房州路でさへ旅籠銭の代りになるといふ事を知つたのだから。



最終更新日 2006年04月14日 10時23分45秒

薄田泣菫「茶話」「手錠の音」

手錠の音
 殺人狂入江三郎を護送した巡査に聞くと、三郎の両手を縛るのに革製の手錠を穿()めると、彼は手首を前後に振つてみて、革の裏表がきゆつくと擦れて鳴る音にじつと耳を引立(ひつた)ててゐる。そして、
 「これは好い音がする、やつぱり手錠は革に限りますな。」
と、その手錠を娯む色が見える。
 革製の手錠を試しに金属製のに取換へてやると、矢張同じやうに手首をかちく鳴らせてみて、
 「うむ、これも好い音がする。なか/\好い手錠だ。」
と、骨董好きが古渡(こわた)りの茶盤(ちやわん)でも見るやうな、うつとりした眼つきで自分の手首に穿(はま)つた手錠に見惚(みと)れてゐる。
 今度はその手錠を(ほど)いて麻縄で縛つてみると、三郎は以前と同じやうに手首を振つてゐたが、急に(けは)しい眼附(めつき)になつて、
 「(なん)にも音がしない、こんな手錠は厭だ。」
と、そこいら一杯に唾を吐き出した。その手錠から、巡査の面附(つらつき)から、署長の小鼻から、まるで汚い物づくめなやうに顔を(しか)めながら。
 手錠といふと、数年前西伯利亜(シベリア)の監獄にゐる或る囚徒が本国の文豪ゴリキイに手錠を一つ送つて(よこ)した。自分が牢屋で(こさ)へた記念品だから、遠慮なく納めて呉れと言つた。
 牢屋で(こさ)へる物にも色々ある。そのなかで手錠は少し気味が悪かつたし、加之(おまけ)に銀貨や女の鼻先と同じやうに手触(てさはり)が冷た過ぎた。だが、旋毛(つむじ)曲りのゴリキイは顔を蟹めてそれを受取つた。そして新聞紙でそのお礼状を発表した。
 お礼状の文句に「露西亜は詰らぬ凡人を西伯利へ送るが、西伯利亜からはドストイエフスキイ、コロレンコ、メルシンなどいふ偉い男が帰つて来た。多分将来もそんな事だらう。」といふ一節があつた。



最終更新日 2006年04月16日 21時14分11秒

薄田泣菫「茶話」「落書無用」

落書無用
 むかし王献之(わうけんし)の書が世間に評判が出るに連れて、何とかして無償(たゞ)でそれを手に入れようといふ、虫の()い事を考へる(むき)が多く出来て来た。
 さういふ狡い(てあひ)のなかに、一人頓智のいゝ若者が居た。この若者もそれだけの才覚があつたら、美しい女を手に入れる方法でも考へたが良かつたらうに、世間並に王献之の書を手に入れようと夢中になつた。
 で、白い切り立ての(しや)で特別仕立の(うは)(ばり)のやうなものを(こしら)へ、それを着込んでにこにこもので王献之の(とこ)へ着て往つた。王献之は熟(つく/゛\)それを見てゐたが、
 「()い紗だな。こんな奴へ一つ腕を(ふる)つて書いてみたら面白からうな。」
独語(ひとりごと)のやうに言つた。
 若者はきさくに上つ張を脱いで、書家の前に投出した。
 「無けなしの(ぜに)(こさ)へたんですが、貴方の事ならよござんす、一つ思ひ切り腕を揮ってみて下さい。」
 王献之は大喜びで、いきなり筆を取つて、草書楷書と手当り次第に好きな字を書き散らした。そして、
 「や、近頃になく良く出来た。お蔭で思ふ存分腕が揮へたよ。」
と言つて、そつと筆をさし置いた。(そば)にゐた弟子の誰彼は舌打しながら(じつ)見惚(みと)れてゐた。
 若者は手を出してその(うは)(ばり)をさつと()(さら)つたと思ふと、いきなり駆けだした。だが少し遅かつた。門を出る頃には、もう弟子の誰彼に追ひつかれて、(うは)(ばり)は滅茶々々に()(たく)られ、若者の手には片袖一つしか残つてゐなかつた。若者がその片袖を売つて酒を飲
んだか、()うかといふ事は私の知つた事ではない。
 今、仙台の第二高等学校にゐる登張(とばり)竹風は、酒に酔ふと丶筆を執つて其辺(そこら)へ落書をする。障子であらうと、金屏風(きんぴやうぶ)であらうと一向(いと)はないが、とりわけ女の長襦袢(ながじゆばん)へ書くのが好きらしい。昵懇(なじみ)芸者のなかには、(たま)には竹風の書いた長襦拌を、呉服屋の書出しなどと一緒に叮嚀に(しま)ひ込んでるのもあると聞いてゐる。
 そんな事になつてはもう仕方が無い。国家は法律によつても、女の長襦袢を(まづ)い書画の酔興から保護しなければならぬ。



最終更新日 2006年04月16日 21時15分18秒

薄田泣菫「茶話」「高浜虚子」

高浜虚子
 先日(こなひだ)横山大観氏が席上揮毫(せきじやうきがう)で、画絹(ゑきぬ)書損(かきそこな)ひをどつさり(こしら)へて、神戸の富豪(ものもち)の胆を潰させた事を書いたが、人間の胆といふものは、大地震(おほぢしん)大海嘯(おほつなみ)の前には平気でゐて、(かへ)つて女の一寸した(くさみ)や、紙片(かみきれ)の書潰しなどで、潰れる事があるものなのだ。
 高浜虚子民が以前(なん)かの用事で大阪に遊ぴに来た事があつた。その頃船揚(せんは)辺の商人(あきうど)坊子連(ぼんちれん)で、新しい俳句に夢中になつてる連中は、ぞろぞろ一(かたま)りになつて高浜氏をその旅宿(やどや)に訪問した。
 愽労(ばくらう)が馬の話をするやうに、俳人といふものは寝ても覚めても俳句の話で持ち切ってゐるものだ。坊子連は俳句が十七字で出来上つてゐるのは、離縁状が三行半(ばんちれんくだりはん)なのと同じやうに(ぎま)つた型である事、その離縁状が(たま)に四(くだり)になつても構はないやうに、俳句にも字余りがある事、その字余りは成るべく三十字迄にしておき度い、何故といつて三十一文字になると、和歌に差支(さしつか)へるからといふやうな事を話し合つて、鼻を鳴らして喜んだ。
 そのうち一人の坊子(ぼんち)懐中(ふところ)から短冊(たんざく)を一束取り出した。そして、
 「先生、何でもよろしおますよつて、御近作を一つ::」
といつて、大阪人に附物(つきもの)の茶かすやうな笑ひ方をした。
 高浜氏は黙つてその短冊を取り上げて太いぶつきら棒な字で何だか五文字程(したゝ)めたと思ふと、急に厭な顔をして、
 「(まづ)いな、()うしたんだらう……」
と言つて、さつとその短冊を引裂いた。
 かうして高浜氏は(つど)(ざま)に五六枚ばかし(やけ)に引裂いた。短冊は本金(ほんぎん)を使つた相応(かなり)上等な物だつたので、勘定高い坊子(ぼんち)は、その(たび)に五十銭が程づつ顔を歪めてゐたが、やつと高浜氏が最後の一枚に何か(したゝ)めて投出して呉れた時にはとうと泣出しさうな顔になつてゐた。
 そこに居並んでゐた連中はみんな懐中(ふところ)にそれく\短冊を忍ばせてゐたが、(なに)()も引裂かないでは承知し兼ねまじき高浜氏の顔色(がんしよく)を見て、誰一人それを取出さうとはしないで、匆女(そこく)に座を立つて帰つて来た。
 その連中も今ではもう一(かど)の俳人気取りで、田舎者の前などで、矢鱈(やたら)に短冊の書損ねを行つてゐる。何事も進化の世の中である。ダアヰンもさう言つてゐた。



最終更新日 2006年04月16日 21時16分08秒

薄田泣菫「茶話」「米大統領」

米大統領
 米国の大統領ウヰルソン氏は、二度目の今の夫人を迎へてからは、日曜日日曜日に一度だつて教会へお参りするのを忘れたことが無い。-実際あの(とし)でゐて、あのやうに若い美しい後添(のちぞひ)を貰ふ事の出来たのは、(ほか)ならぬ神様のお蔭で、幾度お礼を言つたつて、言ひ過ぎるといふ訳のものではない。
 先日(こなひだ)独逸の潜航艇問題が起きた時、ウヰルソン氏は色々心配の余り、幾日か夜徹(よどほし)をして仕事に精を出した。で、その問題も先づ無事に片がつくと、大統領は久し振で可愛(かあい)い夫人の(かひな)()りかかつて教会に往つた。
 教会にはあいにく神様がお不在(るす)だつたので、若い牧師が留守番をしてゐた。(事によつたら、その牧師が居た(せゐ)で、神様の方が逃出されたのかも知れない。)その牧師はいつも判り切つた事を長つたらしく喋舌(しやべ)り続けるので名高い男だつた。
 その日も牧師はフライ鍋の底を掻くやうな声をして、神様の吹聴を長々と述べ出した。何でもその説によると、地面(ぢべた)に起きる事も、海の上で持上る事も何一つ神様の摂理で無いものはない。近頃米国の近海で起きた独逸の潜航艇間題の如きも、みんな基督が心あつて()つた事だといふのだ。
 「さうか知ら。ぢや、基督はちやんと潜航艇の事まで御存じなんだな。」とウヰルソン氏は(ねむ)さうな眼で牧師の顔を見ながら(じつ)と考へてゐたが、そつと夫人の方を振向いて「私にはどうもあの人の言ふ事がさつぱり判らん。」と(ぼや)いた。
 夫人は気の毒さうに、三毛猫でもあやすやうに大統領の頭を撫でて言つた。
 「ぢや、帰つてゆつくりお(やす)みなさい、すると少しは()くなつてよ。」
 この言葉は日本でもその(まゝ)真理で、実際牧師のお説教を聴くよりも、一寝入(ひとねいり)寝ておきた方がずつと利益(ため)になる事が多い。だが唯一つ感心なのは、ウヰルソン氏に解り兼ねた牧師のお説教が、()うやら夫人には了解(のみこ)めたらしい事だ。猫の声、あかんぽの声ーすべて男に解らないものを読みわけるのが女の能力である。



最終更新日 2006年04月16日 21時16分43秒

薄田泣菫「茶話」「広岡浅子」

広岡浅子
 先日(こなひだ)ある婦人会で大阪府知事の夫人栄子氏と広岡浅子氏とが一緒になつた。この婦人会は大阪市の有力な夫人が集まつて、(あね)さんごつこのやうな事をして遊ぶ為に(こしら)へてあるのだが、広岡のお婆さんが、何ぞといふと我鳴り立てるので、近頃出席者がぽつぽつ減り出した。
 その日も思つた程顔触(かほぶれ)が集まらないので、お婆さんは徐(そろ/\)(むく)れ出した。
 「()うしてこんなに顔触が少いんでせうね。今のお若い方はどうも因循で困る。」
と当て附けがましく言ふので、誰よりも若い積りの大久保夫人は一寸調弄気味(からかひぎみ)になつた。
 「広岡さん、貴方が何ぞといつてはお叱りになるもんですから、つい皆さんの足が遠退(とほの)くんでせうよ。」
 お婆さんは大きな膝を夫人の方へ振ぢ向けた。椅子はその重みに溜らぬやうに、お婆さんの腰の下で(かはづ)のやうに泣き声を立てた。
 「何ですつて、夫人(おくさん)。私の叱言(こごと)が過ぎるから、会員が減るんですつて。ぢや、もうこれからは一切この会へ寄りつきませんからね。」と顔を歪めて(わめ)くやうに我鳴り立てたが、隅つこに小さくなつてゐた何家(どこ)かの未亡人(ごけ)さんが覚えずくすりと(フちち)つたので、今度はその
方へ振ぢ向いた。「今のお若い婦人方は大抵男子の玩弄物(おもちや)になつて満足してゐるんだから困る。」
 「さうかも知れませんが、少くとも私はさうぢやありません。」と大久保夫人は笑ひく言つた。「私は母として子供を立派に育て上げるといふ真面目な仕事を持つてますから。」
 「子供を?」と広岡のお婆さんは吃驚(びつくり)した顔をした。お婆さんは女が子供を生むといふ事は少しも知らなかつた。少くともすつかり忘れてゐたのだ。「成程貴女(あんた)はたんと子供さんをお持ちだ。さうして(みんな)男の子供さんだと聞いてゐる。どんなに立派におなりか、今から目をあいて見て()らう。」と言つて婆さんは()ち上つた。
 大久保の子供達は皆(をさな)い。それがすつかり大人になるまで婆さんは生き伸びる積りでゐるらしい。大変な事を約束したものだ。



最終更新日 2006年04月16日 21時17分07秒

薄田泣菫「茶話」「大発見」

大発見
 近頃その筋の手で、大和唐招提寺にある国宝の修繕をするに就いて、偶然にもそこの金堂(こんだう)で素晴しい大発見をした。発見といふのは、寺の敷地が伝説通り新田部(にたべ)親王の邸跡(やしきあと)に相違なかつたとか、開基の鑑真(がんじん)和尚が胃病患者だつたとかいふ、そんな無益な問題では無い。
 問題はずつと大きい。それは(ほか)でもない、あの堂に安置してある等身大の梵天( んてん)の立像に手を入れる時、台座を(はづ)してみると、その()(あは)せの所に、男子の局部が二つ描いてあつたといふ事だ。
 その横に同じ墨色で二三の文字が楽書(らくがき)してある、その文字の字体から見ると、この可笑(をか)しな楽書は、徳川時代に幾度か行はれたらしい修繕当時の悪戯(いたづら)では無く、全くこの木像を刻んだ最初の仏師の楽書に相違ないといふ事が判る。
 してみると、楽書としては随分古いもので、(なに)によらず古いものでさへあれば珍重がる京都大学などでは、この剽軽(へうきん)な楽書の研究に、一生を棒に振つても()いないだけの学者が出なければならぬ筈だ。
 往時(むかし)から仏像の創作には、一(とう)(らい)とか、精進潔斎とか(やかま)しく言ひ伝へられてゐるが、まんざらさうばかりでもないのはこの楽書がよく証拠立ててゐる。ーと言つたところで、仏様を(けが)す積りではさら/\ない。仏様は何事も御存じで、知らないのは坊さんと学者ばかりである。



最終更新日 2006年04月16日 21時17分28秒

薄田泣菫「茶話」「増田義一」

増田()
 自動車に乗る人は多いが、実業の日本社の増田義一氏ほどそれを上手に使ひこなす人も少い。増田氏は西洋へ往つて、頭のなかに何も入れて来なかつた代りに、新型の自動車を一台買ひ込んで来た。
 増田氏は朝早く自宅(うち)を出る時には、いつも背広に中折帽(なかをれぼう)といふ身軽な扮装(いでたち)で、すつと自動車のなかに乗込む。そして南紺屋町の社へ駈けつけると、蹊蛛(ばつた)のやうに車を飛び出し、二つ三つ指図をして、やがてまたゆつたりと自動車の人となる。
 増田氏は雑誌社を経営してゐる他に、色々な会社へ頭を突込んでゐる。自慢の自動車が(けもの)のやうな声を立てて、関係会社の前へ来て止まると、増田氏は(ドア)のなかから、山高(やまだか)にモーニングといふ扮装(いでたち)ですつと出て来る。
 居心地のいゝ会社の椅子に暫くモーニングの(せな)(もた)らせて、こくりくお(きま)りの居睡(ゐねむり)をすると、増田氏は大きな欠伸(あくび)をしい/\のつそりと立ち上る。そして(いつ)ぱし立派な仕事を()つてのけた積りで、上機嫌で受附のぽんく時計にまで会釈をしながら、のつそり自動車に乗り込む。
 それから二十分経つて、増田氏の自動車がある宴会の式場へ横づけになると、氏はいつの間にか婦人雑誌の口絵から抜け出して来たやうな絹帽(シルクハット)にフロツクコートといふ、りうとした身装(みなり)で、履音(くつおと)軽く(ドァ)のなかから出て来る。
 「まるで活動役者のやうな早業(はやわざ)ぢやないか。」
とそれを見た或人が不思議がつて訊くと、増田氏はその男を態(わざ/\)自動車へ引張り込んで、衣裳箱(スウツケよ)から料紙インキ壷の特別装置まで、自慢さうに説明して聞かせたさうだ。
 結構な自動車さ。こんな自動車に乗つて、一度天国へでも往つたらどんなものだらうて。



最終更新日 2006年04月16日 21時18分02秒

薄田泣菫「茶話」「大森博士」

大森博士
 先日(こなひだ)東京の銀行集会所へ全国の重立(おもだ)つた銀行家が集まつて、地震学で名高い大森博士を招待(せうだい)して、講演を頼んだ事があつた。実業家が地震や天国の談話を聞いた所で仕方がないが、彼等は学者に勝手な事を喋舌(はなししやべ)らして()いて、そして(あと)から、
 「どうも学者などいふものはあんな迂遠な事ばかし考へてゐて、よく生きて往かれるもんですな。」
と笑ひ話にする事が好きなのだ。
 それを見て取つた大森氏は講壇の上から銀行家の禿頭を見下(みおろ)して、
 「諸君は朝から晩まで金を(いぢ)くり廻してゐられるが、一体一億円の金塊の大きさは()の位あると思ひます。」
と変な事を言ひ出した。
 銀行家は「さあ」と言つたきり顔を見合せて誰一人返事をするものが無かつた。大森氏はにやりと笑つて、
 「お答へが無いのに無理もありません。銀行家だからといつて、まさか金塊を懐中(ポケツト)に入れてゐる訳でもありますまいから、一億円の金塊は恰度(ちやうど)三尺立方の(かさ)があります。(つい)でに今一つ訊きますが、富士山の高さ程一円紙幣を積むと幾干(いくら)になるとお思ひですか。」
(まる)で小学校の生徙にでも訊くやうな事を言ひ出した。
 銀行家は今度もまた「さうさ、なあ」と言つたきり誰一人返事をする者が無かつた。大森氏は小学教員のやうな安手な勿体振をつけて、
 「三千七百万円になります。」
と言つて聞かせた。
 先刻(さつき)からこんな問答に(ごふ)を煮やしてゐた森村市左衛門氏は、「大森さん」と言つて衝立(つゝた)ち上りながら、
 「一寸伺ひますが・做蹴一ポのうちに琵琶湖とか富士山とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせうかな。」
と切り出した。居合せた銀行家は、「森村のお爺さん、(うま)くやつたな。」とにやにや笑つて大森氏の顔を見た。
 大森氏は「さやう」と言つて、森村氏の禿頭を見た。頭はニツケルのやうに光つてゐた。「御殿揚を標準(めやす)にして富士山を横断すると、それだけでもつて琵琶湖が十七程埋め立てられる事になります。」
 森村氏は「なる程な。」と言つて、そのニツケルのやうな頭を両手に抱へて笑ひ出した。頭のなかでは「耶
蘇教」と「貯金」と「長生術」とが混雑(ごつちや)になつて(ゆす)ぶれてゐた。



最終更新日 2006年04月16日 21時19分06秒

薄田泣菫「茶話」「馬の顔」

馬の顔
 東京市電気局が、まだ東京鉄道会社だつた頃の車掌運転手の制帽は、白い線を巻きつけて、技術が熟練して来ると、その線を一本二本と殖やしてゆくので、よく第一高等学校のそれと間違へられたものだ。
 学習院の平素(ふだん)の制服といふのは、(またん)のない詰襟(つめゑり)のホツク(どめ)だが、加之(おまけ)に帽子の徽章(きしやう)が桜の花になつてゐるので、どうかすると海軍士官に間違はれる。
 その学習院に洋画の教師を勤めてゐる岡野栄氏( さかえリ)が、ある日の事青山三丁目から電車に乗り込んで吊り皮に垂下(ぷらさが)つてゐると、直前(すぐまへ)に腰を掛けてゐる海驢(あしか)のやうな顔をした海軍大尉が、急に挙手注目して席を譲つて呉れた。
 岡野氏も画家(ゑかき)の事だから、画家(ゑかき)に無くてならない暢気(のんシご)さ加減は十分持合せてゐた。
 「大尉め、どこか近くの停留場に下りるんで、婦人(をんな)乗客(のりて)もあるのに態(わさ/\)画家(ゑかき)の俺を見立てて譲つて呉れたんだな。若いのに似合(にあは)怜悧(りこう)な軍人だ、さういへばどこか見所がありさうな顔をしてるて。」
 岡野氏はこんな事を思ひながら、一寸顎をしやくつて、その(まゝ)そこへ腰を下した。
 だが、その軍人は次の停留場でも、そのまた次ぎの停留場でも下りなかつた。それを見た岡野氏は、やつと自分の服装に気が付いてはつと思つた。
 「成程俺を海軍軍人に見立てたんだな。相手が大尉だから先づ中佐格かな。」
 岡野氏はいつもの停留揚へ来ると、その中佐のやうな気持で、胸を()らしながら電車を下りて往つた。
 それ以後お礼心の積りで、馬でも描く折には岡野氏はいつもその海軍士官の顔をモデルに取る事を忘れないやうにしてゐる。結構な心掛で、詩人ダンテがその傑作のなかで、因業(いんごふ)な家主を地獄に(おと)した事を考へると、岡野氏が馬の顔を士官に似せたのは思ひ切つた優遇である。何故といつて、馬は士官のやうに制服制帽で人を見分けるやうな(ぱか)な真似はしないから。



最終更新日 2006年04月16日 21時19分37秒

薄田泣菫「茶話」「狂人(きちがひ)(ほん)

狂人(きちがひ)(ほん)
 先日(こなひだ)亡くなつた喜劇俳優(やくしや)渋谷天外は、何処へ()くのにも、紫縮緬(むらさきちりめん)の小さな包みを懐中(ふところ)にねぢ込むで置くのを忘れなかつた。
 「何をそんなに大切(だいじ)がつてるんだね。」
他人(ひと)が訊くと、
 「これだつか、喜劇の酵母(もと)だつせ。」
と言ひく、自慢さうに膨らむだ懐中(ふところ)を叩いたものだ。
 吊紗包(ふくさづつ)みのなかに入つてゐるのは他でもない、小本(こほん)の『膝粟毛』の一冊で、この剽軽(へうきん)な喜劇俳優(やくしや)は、借金取に出会(でくは)すか、救世軍を見るかして、気が真面目に(ふさ)ぎ出すと、早速その紫縮緬の包みを(ほど)いて、『膝栗毛』を読み出したものだ。
 「すると、何時の間にかおもしろくなつて、つい俄師(にはかし)の気持になられまんがな。(やす)いもんだつせ、本は古本屋で五十銭だしたよつてな。」
と言ひくしてゐた。
 伊東胡蝶園の祖父伊東玄朴は蘭書の蒐集(しうしふ)家として聞えてゐたが、数多いその書物のなかで、(たつた)一つだけ風呂敷包みにして、その上に封印までして、()うしても他人(ひと)に見せなかつた。
 仲よしの高野長英が、それを見つけて、
 「どんな本だ、一寸でいゝから見せてくれ。」
強請(せが)むと、慌てて膝の下に押し隠して、
 「()けないく。これを読むと狂人(きちがひ)になる。」
と顔色を違へて謝絶(ことわ)るので、
 「へえ、狂人(ぎちがひ)になる。気味の悪い本だな。」
と、長英はそんな本を読まない内から狂人(きちがひ)になりかけてゐた頭を()つて不思議がつたといふ事だ。
 玄朴が封印をしてゐた本は(ほか)でもない和蘭(オランダ)版の「民法」の本で、旧幕時代でこんな本を読まうものなら、さしづめ狂人(きちがひ)にでもならなければなるまいと、お医者だけに玄朴は考へたものらしい。尤もの事だ、日本には今だに狂人(きちがひ)になる本はどつさりある。



最終更新日 2006年04月16日 21時21分04秒

薄田泣菫「茶話」「木堂(もくだう)と剣」

木堂(もくだう)と剣
 犬養木堂の刀剣談は本紙に載つてゐる通り、なかなか(つう)なものだが、その犬養氏を頭に戴いてゐる国民党が鈍刀揃(なまくらそろ)ひの、加之(おまけ)人少(ひとすく)なであるのに比べて、犬養氏が秘蔵の刀剣は、いづれも名剣づくめで、数もなかなか少くなかつた。
 そんな名剣も貧乏神だけは()うにも出来ないものと見えて、犬養氏は最近和田(つな)(らう)氏の取持(とりもち)で、所蔵の刀剣全部を根こそぎ久原(くはら)〔房之助〕家へ売渡す事に()めた。それと聞いた犬養夫人が眼頭に涙を一杯溜めて、
 「三十年もかゝつて(やつ)と溜めたんですもの、私には子供のやうにしか思へません。せめて一本でも残して置きたいもんですね。」
と言ふと、犬養氏は狼のやうな頭を(きつ)()つた。
 「(わし)が一本でも残してみなさい。世間の人達は、犬養め一番()いのだけ一本引つこ抜いて置いた。(ずる)い奴だと噂をするだらうて。」
と、てんで相手にしなかつた。
 刀剣(かたな)はその儘引(まゝひ)(くる)めて久原家の土蔵に持込まれたが、流石に三十年の間朝夕手駲れたものだけに、犬養氏も時々は思ひ出してついほろりとする。国民党の脱会者だつたら、思ひ出す(たび)に、持前の唐辛(からし)のやうな皮肉を浴ぴせ掛けるのだが、相手が刀剣(かたな)であつてはさうも出来ない。
 それ以来犬養氏は、刀剣(かたな)が恋しくなると、手近の押形を取り出してそれを見る事に()めてゐる。
 「で、かうして毎日のやうに押形を取出してる始末なんだ。そこでこの頃は画剣斎と名乗つてゐるんだが、もしかこの押形まで手離さなくつちやならない時が来たら、その折はまあ夢剣庵とでも名乗るかな。」
と、(ねぎ)のやうに寒い歯齦(はぐき)を出して笑つてゐる。画剣斎も、夢剣庵もまんざら悪くは無いが、もつと()いのは(いつ)そ剣の事なぞ忘れてしまふのだ。そして剣の代りに生きた人間を可愛(かあい)がる事を心掛けるのだ。



最終更新日 2006年04月16日 21時52分35秒

薄田泣菫「茶話」「山葵(わさぴ)

山葵(わさぴ)
 洋画家の岡野栄氏が学習院の同僚松木愛重博士などと一緒に房州に往つたことがあつた。亜米利加の女が巴里(パリー)を天国だと思つてゐるやうに、東京の画家(ゑかき)や文学者は、天国は房州にあるとでも思つてゐると見えて暇と金さへあれば直ぐに房州へ出かける。
 岡野氏はその前房州へ往つた折、うまい松魚(かつを)を食はされたが、生憎(あひにく)山葵が無くて困つた事を思ひ出して、出がけに出入(でいり)の八百屋から山葵をしこたま取寄せる事を忘れなかつた。
 「那地(あつち)へ着いたら松魚のうまいのを鱈腹(たらふく)食はせるぞ。」
 岡野氏は山葵の風呂敷包を叩きくかう言つて自慢さうに笑つたものだ。
 その日勝浦(かつうら)に着くが早いか、亭主を呼ぴ出して直ぐ、
 「松魚を。」
と言つたが、亭主は閾際(しきゐぎは)にかいつくばつて、
 「折角ですが、もう一週間ばかしも不漁続(しけつど)きだもんで。」
胡麻塩頭(ごまじほあたま)を掻いた。
 岡野氏等は房州のやうな天国に松魚の()れない法はない筈だと、ぶつ/\(ぼや)きながら次の天津(あまづ)をさして()つた。だが、悪い時には悪いもので、海は華族学校の先生達に当てつけたやうに、松魚といつては一(ぴき)も網に(のば)せなかつた。
 「去年山村耕花がやつて来た時にも(まら)ばかし()はされたと聞いたつけが……」
 岡野氏等はこんな事を話し合ひながら、馬鈴薯(じやがいも)の煮たの(ばか)し頬張つた。言ふ迄もなく馬鈴薯(じやがいも)は畑に出来るものなのだ。
 岡野氏は馬鈴薯(じやがいも)で一杯になつた腹を抱へて、 「だが、山葵を()うしたもんだらうて。」
と皆の顔を見た。すると、一行の誰かが先年農科大学の池野成一郎博士が欧洲へ()く時、アルプス登山は草鞋(わらぢ)に限るといつて、五十足ばかり用意して往つたが、草鞋は一向役に立たず、色々持て余した末、諸方の博物館へ日本の(くつ)だといつて一足づつ寄贈した事を話した。そして岡野氏の山葵もその(まゝ)宿屋に寄附したらよからうと附足(つけた)した。
 お蔭で天津の宿屋の裏畑には近頃山葵が芽を出しかけてゐる。結構な事だが、房州のやうな画家(ゑかき)の天国には、少し辛過ぎるかも知れない。



最終更新日 2006年04月16日 21時56分53秒

薄田泣菫「茶話」「真野博士」

真野博士
 九州帝国大学総長真野文二博士は、先年日比谷で電車に衝突(ぶつつか)つた事があつた。その折総長は小鰻(こえび)のやうに救助網の上で跳ね廻りながら、
 「馬鹿な運転手めが……」
と首を()められたやうな声をして我鳴つたが、運転手の方でも負けぬ気になつて、
 「禿頭の間抜め!」
と怒鳴り立てた。禿頭といふのは真野博士が色々の智識を(をさ)めてゐる頭の事で、林伯や児玉伯や馬鈴薯(じやがいも)男爵などの頭と同じやうにてかてか光つてゐる。
 それ以後真野博士は電車は怖いものに()めてしまつて、どんな事があつても電車にだけは乗らうとしない。
 その真野博士が去年の夏、樺太(かばふと)へ往つた事があつた。知合(しりあひ)の男に二頭立の馬車召周旋して呉れるものがあつたので、博士は大喜ぴでその馬車に乗つた。だが、電車の運転手に発見(みつけ)られた禿頭だけは樺太人(かばふとじん)に見せまいとして、大型の絹帽(きぬぼう)をすぽりと耳まで(かぶ)る事を忘れなかつた。
 博士が乗つた馬車の馬は、二頭とも馬車馬としては(なに)の訓練もない素人の、加之(おまけ)に気むづかしや(ぞろ)ひと来てゐるので、(もの)の二(ちやう)も走つて、町の四つ角に来たと思ふと、一頭は右へ、一頭は左へ折れようとして喧嘩を始めた。万事に公平な真野博士は、敦方(どちら)の馬にも味方をし兼ねて、
 「お、お、お……」
と蒼くなつて狼狽(うろた)へてゐる。
 馬車馬の喧嘩は樺太(かばふと)でも珍らしい事なので、さうかうする(うち)其辺(そこら)は見物人で一杯になつた。どちらを見ても知らぬ顔なので、博士は急に東京の(うち)が恋しくなつて泣き出しさうな顔を歪めてゐた。気短(きみじか)な馬はとうと噛合(かみあひ)を始めた。その拍子に馬車が大揺れに揺れたと思ふと、大型な絹帽がころくと博士の肩を滑り落ちた。無慈悲な見物人は(すべ)つこい博士の頭を見て声を立てて笑つた。
 それ以来、博士は二度ともう馬車に乗らうと言はない。電車、馬車11敬愛すべき博士の交通機関の範囲は段々狭くなつて来るやうだ。



最終更新日 2006年04月16日 21時57分35秒

薄田泣菫「茶話」「()の催促」

()の催促
 流行(はやり)()画家(ゑかき)が容易に絵を()いて呉れないのは、昔も今も同じ事だが、竹内栖鳳氏などになると、頼み込んでから、十年近くなつて今だに描いて貰へないのがある。
 さういふ(むき)は、色々手を代へ品を()へて時機(をり)さへあれば絵の催促をするのを忘れない。到来物(たうらいもの)粕漬(かすづけ)を送つたり、掘立(ほりたて)の山の芋を寄こしたりして、その(たんび)一寸(ちよつと)絵の事をも書き添へておくが、画家(ゑかき)などいふものは忘れつぽいものと見えて、粕漬や山の芋を食べる時には、つい思ひ出しもするが、箸を下に置いてしまふと、今の好物も誰が送つて来たものか、すつかり忘れてゐる。
 画家(ゑかき)の胃の腑が当てにならない事を知つた依頼者は、近頃では妙な事を考へ出した。それは画の催促に出掛ける折、妙齢(としごろ)の娘を一人連れ立つて()くといふ事だ。
 「先生、画をお頼みしてから、もう十年になります。実は此娘(これ)が嫁人の引出物にといふ積りで、(はや)くからお願ひ致しましたのですが、(これ)も御覧の通りの妙齢(としごろ)になりました。就いてはこの暮にでも結婚させたいと思ひますが、何卒(どうぞ)そこの所をお()み下すつて・…:」
 かう言つて勿体らしく頭を下げる。
 どんな画家(ゑかき)でも、自分が物忘れをしてゐる(うち)に、稚児輪(ちごわ)が高島田になつたと聞くと、流石に一寸変な気持もする。とりわけ襖越しにそれを聞いてゐる女房は、つい身に詰まされてほろりとする。女房の口添(くちぞへ)は粕潰や山の芋と違つて、画家(ゑかき)の忘れ物を直ぐ思ひ出させる効果(きしめ)がある。
 「まあ、お気の毒どすえなあ。(うち)で忘れとる()に、あんな大きうおなりやしたのやさうどす。描いてお上げやすいな、早く。」
 「さうだつてなあ、大急ぎで一つ()くかな。」
といふやうな訳で、絵は苦もなく出来上る。
 その絵を引出物に、娘もめでたく輿入(こしいれ)を済ませたらうと思つてゐると、つい鼻の先の新画展覧会に、その絵が大層もない値段で売物に出てゐるのが少くない。なに、絵が無くとも娘は結婚出来る世の中だ。結婚は済まさなくとも、()を生む事の出来る世の中だ。
 それを知つた栖鳳などは、近頃は娘を連れて来ても一向相手にならない。そして絵の具は高いが、箪笥(たんす)(やす)いさうだから、結婚するなら今の(うち)だと教へる。親といふものは、娘の結婚を「妙齢(としごろ)」よりも、箪笥の値段で()めるものだといふ事をよく知つてゐるから。



最終更新日 2006年04月16日 21時58分09秒

薄田泣菫「茶話」「金ぴか」

金ぴか
 実業家馬越(まごし)恭平氏は、旧臘(きうらふ)大連(たいれん)へ往つたが、用事が済むと毎日のやうに骨董屋(あさ)りを始めた。何か知ら、掘出し物をして、好者(すきしや)仲間の度胆を抜かうといふ考へなのだ。
 植民地には人間の贋物(にせもの)が多いやうに、骨董物にもいかさまな物が少くない。そんな(なか)を掻き捜すやうにして馬越氏は二つ三つの掘出し物をした。
 「これでまあ大連まで来ただけの(かひ)はあつたといふもんだ。それに値段が(やす)いや、矢張目が利くと損はしないよ。」
 馬越氏は皺くちやな()の甲で、その大事な眼を(こす)って(よろこ)んだ。そして骨董屋の店前(みせさき)を出ようとして思はず()(どま)つた。
 それは他でもない、薄暗い店の隅つこに、金ぴかの板のやうな物が目についたからだ。馬越氏はまた入つて来て亭主を呼んだ。
 「一寸あの金ぴかを見せて呉れ。何だねあれは。」
 「へへへ……とうとお目に留まりましたかな、今御覧に入れます。」と亭主は立つて往つてその金ぴかを取り出して来た。「何だか手前共にも一向見当がつかないんで御座いますが。」
 見ると、羊の革を幾枚か貼重(はりかさ)ねて、裏一面に惜気(をしげ)もなく金箔を押したものなのだ。
 馬越氏の頭は、それが何であるかを考へる前に、直ぐその利用法を工夫し出した。一体茶人といふものは(馬越氏は自分で茶人だと思つてゐる)大黒様の頭巾を拾つても、それを神様に返さうとはしないで、直ぐ茶巾に仕立直したがるもので、馬越氏もその(ためし)に洩れず、この金ぴかな革を茶室一杯に敷いて茶でも立てた
らなあと思つた。
 「朝吹や益田めが(さぞ)胆を潰すだらうて。」
 馬越氏はそんな事を考へて、とうとその金ぴかな革をも買ひ取つた。
 それを見たある物識(ものしり)の男が、
 「それは喇嚇(ラマ)僧が使つてる威儀の物ぢやないか、こんな物の上に坐つたら、主人もお客も一緒に(ばち)が当らうて。」
と言つて(おど)すと、馬越氏はけろりとした顔で、
 「喇嚇僧といふのは、何国(どこ)のお方だね。」
と問ひ返したといふ事だ。
 喇嚇僧はどこのお方でもよい。(ぱち)が当つたら、その(ぱち)をも薄茶に()いて飲んでしまふがよい。茶人は借金の証文をさへ、茶室の小掛物(こがけもの)にする事を知つてゐる筈だから。



最終更新日 2006年04月16日 21時59分32秒

薄田泣菫「茶話」「成金気質(かたぎ)

成金気質(かたぎ)
 欧洲戦乱は誰も知つたやうに、其辺(そこら)ぢゆうに成金を(こしら)へて、成金気質(かたぎ)といふ一種の気風さへ出来たが、その気質(かたぎ)にも東京と大阪とでは、大分色彩(だいぶんいろ)(ちが)ふところが面白い。
 東京の成金は、資金(かね)が出来ると、誰に勧められたともなく、直ぐ茶器を集めにかゝる。そして文琳(ぶんりん)の茶入とか嫩古(のんこ)の黒茶碗とかに大金を投げ出して、それを手に入れる。
 出入め骨董屋が焼鳥のやうに(すべ)つこい頭を前へ突出して、
 「檀那、どうも素敵な物がお手に入りましたな。ところで文琳と嫩古とかう揃へてみますと、是非一つ一休の一行物(ぎやうもの)が無くつちやなりませんな。」
 「(わし)もさう思つてたんだよ。金は幾らでも出すから、一つ捜し出して貰ひたいもんだな。」と成金は顔を(しか)めて薄茶を一服ぐつと煽飲(あふ)りながら「あの人の書いた君が代の歌つて無いもんか知ら。」
 「さあ、無い事も御座いますまいて。」
と骨董屋は物の五日も経たないうちに、一休禅師の書いた君が代の歌を(かつ)ぎ込んで来る。
 かういふ訳で、東京の成金といへば、茶人と言はれるのが何よりの自慢で、誰も彼もが流行のやうに大金を投じては、いか(さま)な茶器を集めてゐるが、大阪の成金には、そんな道楽は薬にしたくも無い。
 大阪の成金は咽喉の渇いた折には、番茶を飲む事を知つてゐる。文琳や嫩古を買ふ金があつたら、地所や株券を買ふ事を知つてゐる。(たま)には茶入や黒茶碗を()はないとも限らないが、それは自分で薄茶を(すゝ)らうためではなくて、物好きな東京の成金に売りつけようとするからだ。
 唯もうせつせと(フちフ)分の仕事に精を出す。そして咽喉が渇いたら、有合せの安茶碗で番茶をぐつと煽飲(あふ)る。これが上方(かみがた)成金の心意気である。
 往時直江(むかしなほえ)山城守〔兼続(かねつぐ)〕は坊さんの承兌(しようたい)に贈つた手紙に、
 「其の兵器を鳩集(きうしふ)する所以(ゆゑん)のものは、(あたかじ)上国孱士(やうこくせんし)の茶香古器を(もてあそ)ぶが如し。東陲(とうすい)武夫(もののふ)皆弓槍刀銃を(たしな)まざるなし、これ地理風質の(ことな)るに()るのみ。」
と言つて東国人が茶器を玩ばないのを、大層もなく吹聴したものだ。
 山城め、江戸成金の茶道楽を聴いたら、銀行の監査役のやうに鼻を(しか)めてぶつ/\(ぼや)くだらうて。



最終更新日 2006年04月17日 00時38分15秒

薄田泣菫「茶話」「丸髷嫌い」

丸髷嫌い
江戸堀の支部で開かれた愛国婦人会の新年会に、多くの夫人達は白襟紋服(しろえりもんぷく)で出たが、そのなかに、たつた一人広岡浅子女史のみは洋装で済ましてゐた。
 浅子女子は洋服が好きだ。生れ落ちる時洋服を着てゐなかつたのが残念に思はれる程洋服が好きだ。だが、それ程まで洋服が好きなのは、深い理由(わけ)のある事なので、その理由(わけ)を聞いたなら、どんな人でも成程と合点(がてん)をせずには置かない。
 理由(わけ)といふのは他でもない。洋服は西洋人の()る着物だからだ。浅子夫人の解釈によると、西洋人の()てゐる事には、何一つ間違つた事はない。(たま)に時計が九時で(とま)つてゐるとか、愛国婦人会の幹事の鼻がぺたんこであるとかすると、女史は直ぐ苦り切つた顔をして、
 「西洋にはそんな事は無い。」
と噛みつくやうにいふ。
 九代目団十郎が、まだ河原崎権十郎といつた頃、ある和蘭(オランダ)医者のうちで珈琲(コーヒー)茶椀を見て、不思議さうに(ひね)くり廻してゐたが、暫くすると無気味さうにそつと下へ置いて、
 「これがあの切支丹なんで御座いますか。」
と訊いたといふ事だ。つまり団十郎には、自分の知らない世界は切支丹であつたのだ。
 浅子夫人の「西洋」もそれに一寸似てゐる。一口に西洋といつても色々国がある事だし、夫人の指すのは()の国なのだらうかと、それとなく聞いたものがあつた。すると夫人は穴の()く程相手の顔を見つめて、
 「西洋を知らない。ほんとに(おまへ)さんのやうな鈍間(のろま)なんざ、一人だつてありはしないよ、西洋には。」
と言つて、その西洋の女のやうに、肩を(ゆす)つて笑つたといふ事だ。
 浅子夫人はまた島田や丸髭(まるまげ)の日本髪が嫌ひだ。婦人会などで、若い夫人達の丸髷姿が目に入ると急に気難(きむづか)しくなつて、
 「夫人(おくさん)、あなたの頭に載つかつてゐるのは何ですね。」
とづけく嫌味(いやみ)を浴ぴせかけるので、気の弱い夫人達は、蝸牛(まひくつま)のやうに()(たて)の丸鬣を襟のなかに引つ込めてしまひたくなる。
 オスカア・ワイルドだつたか、亜米利加の女は死んで天国へ()く代りに、巴里(パリ )に生れ変りたいと思つてると言つたが、浅子夫人だつたら、そんな時に屹度(きつと)西洋に生れ変りたいと言ふだらう。それが出来なかつたら、辛棒して芸術座の舞台にでも生れ変る事だ。那処(あすこ)には島田も丸髭もない代りに安価(やすで)な「西洋」が幕ごとに転がつてゐる。



最終更新日 2006年04月18日 00時28分10秒

薄田泣菫「茶話」「横山大観」

横山大観
 いつだつたか横山大観と山岡米華とが一緒になつて伯耆(はうき)に旅をした事があつた。何でも伯耆には美しい山と美しい女があるから、一度見に来ないかと、土地の物持から招待(せうだい)せられて往つたのだ。
 一体芸術家といふものは、美しい山と美しい女とがあるとさへ言つたら、監獄のなかへでものこく()いて来るものなので、この二人の画家(ゑかき)がそれがために伯耆くんだりまで往つたところで、少しも(とが)める事はない。
 往つてみると、伯耆にも色々山はあつたが、二人が平素描(ふだんか)き馴れてゐるやうな珍らしい山は一つも無かつた、二人は落胆(がつかり)して今一つの方へ出掛けた。
 仕合せと女には美しいのが三四人居た。二人はそれを相手に酒を飲んだ。わけて大観は上機嫌で立続(たてつぼ)けに(さかづき) を傾けてゐたが、座にゐる女達は()うしたものか米華の方にばかし集まつて大観の前には酒徳利(さかどくり)しか並んでゐなかつた。徳利はどれを振つてみても悲しさうな声を出して泣いた。
 山にも失望し、女にも失望した大観は、(あくユ)朝夙(あさはや)く宿を()つて山越(やまごし)に、作州の方へ出た。そして四十四曲りの峠まで来ると、(わざ)と峠へ立つて小便をした。((はなは)だ汚い話で恐縮するが、小便をしたのは大観氏で、茶話記者でない事だけは覚えて置いて貰ひたい。)
 「この水、伯耆の方へ流れたら伯耆人が後悔する。もしか作州の方へ落ちたら大観が後悔する。」
 大観はかう言つて占つた。
 そのむかし仏蘭西のルツソオは漂泊の旅に(のぼ)つて、ある疑ひが心に起きた時、敦方(どちら)()めたものかと石を投げて占つたといふが、大観はルツソオと同じ気持で、じつと水の行方(カくへ)を見た。水は寺内首相のやうに公平で、作州へも落ちず伯老圉へも流れず、その儘土に()み込んでしまつた。
 大観は宇宙の謎を解きかねた哲学者のやうな顔をして作州の町へ下りて来た。



最終更新日 2006年04月18日 11時24分12秒

薄田泣菫「茶話」「「突然」」

「突然」
 大蔵大臣勝田主計(しようだかずへ)氏が(さき)に大臣に親任されて、螺旋仕掛(ぜんまいしかけ)の人形のやうな足取で、ひよこ/\宮中から退出して来ると、そこに待受けた新聞記者が一斉に、「おめでたう」と浴ぴせかけた。すると勝田氏は馬のやうに(きい)ろい歯を()き出して、
 「どうも、寺内首相が是非にと言はれるので、断り切れないでね、ーいや突然だつたよ、全く突然でね。」
といつて、にやく笑つた。
 その日の夕刊が配達されると、木挽町(こびきちやう)の蔵相官邸の門衛は、(ちやう)どそこへ来合はせてゐた自分の話し相手に頓着なくいきなり夕刊を()けて、蔵相親任の(くだり)読下(よみくだ)した。そして、
 「……いや突然だつたよ、全く突然でね。」
といふ挨拶を読むと、「ふふん」と鼻の上に皺を寄せて笑つたが、直ぐ気が付いたやうに、其処(そこ)に手持不沙汰で坐つてゐる男をちらと(ぬす)()をして、今度はまた口許(くちもと)でにやつと笑つた。
 実をいふと、勝田氏が朝鮮銀行の総裁から、寺内内閣の次官として帰つた時から、氏はずつと木挽町八丁冐の大蔵大臣官邸に神輿(みこし)を据ゑつ切りであつた。で、門衛にしても、その当時から朝夕の送り迎へに大臣としての待遇(もてなし)をすれば、勝田氏にしても矢張り黙つて大臣としての待遇(もてなし)を受けてゐたのだ。
 「何が突然なもんか、ちつとも突然な事なんかありやしない。」
 門衛はかうでも言ひたさうな顔をしてにやく笑つてゐる。
 門衛の解釈によると、門衛の送り迎へを受けるのは、「大臣」で無くては出来ない事で、もしか勝田氏が文字通りに従来(これまで)次官の積りで居たのだつたら、門衛の送り迎へに対して、何とか挨拶が無くてはなるまいと言ふのらしい。
 勝田氏の為に説明すると、挨拶といふのは、一寸顔を見て会釈をするとか、敷島(しきしま)一袋を掌面(てのひら)に載つけてやる事だ。



最終更新日 2006年04月18日 11時24分41秒

薄田泣菫「茶話」「結婚」

結婚
 文学者の長田秀雄、幹彦二氏の阿母(おっか)さんに妙な病気がある。妙な病気といふのは、洋食を食ふと、屹度赤痢になるといふのだ。
 かういふと、そんぢよ其辺(そこら)の洋食屋は(むき)になつて(おこ)りだすかも知れないが、実際の事だから仕方が無い。尤も長田氏の阿母(おつか)さんは、そんな身体(からだ)だから滅多に洋食なぞ食べない。従来(これまで)義理に(せま)られて三度ばかし肉叉(フオ ク)を手にとつた事があるが、三度が三度とも赤痢になつた。
 第一回は麹町(かうぢまち)の富士見軒、第二回は上野の精養軒、第三回は日本橋の東洋軒で食べたのだが、その(あと)では何時(いつ)でも(きま)つたやうに病気になつた。
 「異人の食べるお料理は、どうも(しやう)に合はないもんと見える。」
 長田氏の阿母(おつか)さんは、こんな考へで、今では洋食屋の前を通る時は、袖で鼻を押へて小走りにあたふた駈けぬける事にしてゐる。
 ところが、この(ごろ)長男の秀雄氏の結婚談が持上つてゐるので、阿母(おつか)さんはその披露の宴会を何処にしたものかと、今から頭痛に病んでゐる。
 「花月(くわげつ)-…松本楼……伊勢虎-…魚十……何処に()めたもんかな」と阿母(おつか)さんは知つてる限りの料理屋を記憶から()び出して、見積りを立ててみるが、時間と酒量の制限からいふと、矢張西洋料理屋を選ぶに越した事はなかつた。
 「やつぱり洋食屋にするかな。」
と思ふと、阿母(おつか)さんはもう(した)(ばら)がちくちく(いた)み出して来る。
 阿母(おつか)さんに教へる。時間も費用も掛らねば、お腹も疼まず、加之(おまけ)に息子さんの秀雄氏も喜ぶといふ妙法が一つある。ーそれは日本料理屋でも、洋食屋でもない。当分結婚を延ばすといふ事だ。



最終更新日 2006年04月18日 11時25分31秒

薄田泣菫「茶話」「三宅博士」

三宅博士
 福岡医科大学の眼科教授大西克知(よしあきら)博士が、人並すぐれた疳癪持であるのは、医者仲間に聞えた事実で、少し気難(きむづか)しい日にでも出会(でつくは)すと相手が誰であらうと、よしんぱサンタ・クロースのやうなにこ/\爺さんであらうと、氏は委細構はずいきなり自分の診察室に引張り込んで、(まぶた)に一杯眼薬を()し込まずには置かない。
 先日(こなひだ)も大学で教授会が開かれた。その折、医院長の三宅速博士が()つて一(しき)り何か喋舌(しやべ)つた。その言葉の端が大西氏の焦立(いらだ)つた神経に触つたものか、博士のお喋舌(しやべり)が済むか済まないうちに、大西氏はいきなり焼火箸(やけひばし)のやうな真赤な言葉を投げつけた。
 「禿茶瓶、要らぬおせつかいをするない。」
 それを聞くと、三宅博士は()(つま)つたやうに黙つて大西氏の席を見た。そして検見(けんみ)でもするやうに自分の頭を頸窩(ぽんのくぼ)から前額(まへびたひ)へかけてつるりと撫で下してみた。成程大西氏の言ふ通り禿茶瓶には相違なかつた。
 お人好しの博士は初めて自分の禿頭に気が()いたやうに一寸変な顔をしたが、直ぐ(いつも)の静かな表情にかへつて、
 「なんぼ禿茶瓶かて、言はんならん事は言ふわい。」
と云つてその儘席に着いた。居合した人達は一度に吹き出して了つた。疳癪持の大西氏も毒気(どくき)をぬかれて一緒になつて笑ひ出した。
 「なんぽ禿茶瓶かて、言はんならん事は言ふわい。」
 大きにさうで、流石は三宅博士、言ふ事が真理に(かな)つてゐる。頭の禿げてるのは、余り気持の好いものでもないが、さうかと言つて、言はねばならぬ事まで遠慮するには及ばない。世間には禿頭も多い事だから、呉(くれ/゛\)も言つて置くが、決して遠慮には及ばない。唯心掛けたいのは、物を言ふ揚合に、成るべく禿頭に湯気を立てない事だ。



最終更新日 2006年04月18日 11時26分08秒

薄田泣菫「茶話」「飲酒家(さけのみ)

飲酒家(さけのみ)
片山国嘉(くにか)博士が名代の禁酒論者であるのは知らぬ者はない。博士の説によると、不良少年、白痴、巾着切…などいふ(てあひ)は、大抵酒飲みの子に生れるもので、世間に酒が無かつたら、天国はつい手の(とど)きさうなところまで引張り寄せる事が出来るらしい。
 尤も亡くなつた上田敏博士などは、酒が肉体(からだ)によくないのは判つてゐる。だが、素敵に精神の助けになるのは争はれない。自分は肉体と精神と執方(どちら)を愛するかといへば、言ふ迄もなく精神を愛するから酒は()められないと口癖のやうに言つてゐた。
 その禁酒論者の片山博士の子息(むすこ)に、医学士の国幸氏(くにゆき)がある。阿父(おとつ)さんとは打つて変つた酒飲みで、酒さへあれば、天国などは質に入れても()いといふ(たち)で毎日浴ぴる程酒を飲んでは太平楽を言つてゐた。 阿父(おとつ)さんの博士もこれには閉口したらしかつたが、それでも、
 「俺は俺、(せがれ)は忰さ。忰が一人酒を飲んだところで、俺が禁酒会員を二人(こさ)へたら填合(うめあは)せはつく筈だ。」
絶念(あきらめ)をつけて、せつせと禁酒の伝道を怠らなかつた。
 ところがその国幸医学士がこの頃になつてばつたり酒を()めて一向盃を手に取らうとしない。飲み友達が()うしたのだと訊くと、宣教師のやうな青い顔をして、
 「第一酒は身体(からだ)によくないからね。それから……」
と何だか言ひ渋るのを、
 「それから……()うしたんだね。」
と畳みかけると医学士は軒の鳩ぽつぽや「世間」に立聞きされない様に急に声を低めて、
 「あゝして親爺(おやぢ)が禁酒論者なのに、伜の僕が飲んだくれぢや世間体が悪いからね。」
(ひど)悄気(しよげ)てゐたさうだ。
 禁酒論者へ報告する。まんざら捨てたものではない。酒飲みからも、国幸医学士のやうなかうした孝行者も出る世の中だ。



最終更新日 2006年04月18日 11時26分33秒

薄田泣菫「茶話」「老女史」

老女史
 女流教育家といふと、十人が十人、雀のやうに質素(じみ)扮装(みなり)をして、そしてまた雀のやうにお喋舌(しやべり)をよくするものだとばかし思つてゐる(むき)が多いやうだが、女流教育家といつた所で満更(まんざら)そんな人ばかしで無いのは、三輪田(みわだ)真佐子女史がよく証明してゐる。女史は(とし)にも似合はず、若々しい作りで、嫁入前の娘のやうに胸の(あたり)金鎖(きんくさり)や金時計をちらちらさせてゐる。
 だが、そんな身装(みなり)をしてゐる癖に、女史は五六年このかた小使銭といふものを持つた事が無い。小使銭はお(つき)三輪田(みわだ)女学校出身の女中が一切預つて、女史の(あと)からてくてく()いて歩いてゐる。
 女史は毎週、土曜日の午後(ひるすぎ)(きま)つたやうに鎌倉の別荘へ出掛けるが、そんな折にも鐚銭(びたせん)一つ持合さないのが何よりの自慢らしい。
 「でも汽車賃にお困りでせう。」
といふと女史は流行(はやり)の四季袋の中から汽車の回数券を取り出して相手の鼻の先で見せぴらかす。(四季袋のなかにはポケツト論語と毛染薬(けぞめくすり)と塩煎餅とが一緒くたになつてゐる。)
 [これさへ持ってゐると、いつでも汽車に乗れますでな。」
 この回数券制度は子息(むすこ)の三輪田元道氏(げんだう)(おも)(つき)らしく元道氏は老人(としより)のある家庭へ()くと、
 「御老人(おとしより)にお小使はお()しなさい。小児(こども)と老人は兎角無駄費(むだづかひ)をしたがるもんですから。」
と言ひ言ひしてゐる。
 流石は教育家で、善いところへ気が附いたものだ。お小使さへ持合はせてゐなかつたら、どんな婦人会へでも出掛けて往つて、大ぴらで慈善箱の前に立つ事が出来る。
 「私はお小使は持たない主義だから。」
と言つて……。
 慈善箱の前に懐手(ふところで)の儘で立つ事の出来るものは、余程の勇者である。



最終更新日 2006年04月19日 11時27分40秒

薄田泣菫「茶話」「禿頭(とくとう)首相」

禿頭(とくとう)首相
 衆議院が解散された二十五日の午後(ひるすぎ)、茶話記者は北浜のある理髪床(かみカひどこ)で髪を刈つてゐた。世間には三年打捨(うつちや)つておいても、髪の毛一本伸ぴないやうな頭もあるが、記者の髪の毛は不思議によく伸ぴるので、始終(しよつちゆう)理髪床(かみゆひどこ)の厄介にならなければならぬ。
 剪刀(はさみ)の刃音が頭の天辺(てつぺん)で小鳥のやうに(さへづ)つてゐるのを聞きながら、うとくとしてゐると、突如(だしぬけ)に窓の隙間から号外が一つ投げ込まれた。理髮床(かみゆひどこ)主人(あるじ)は、一寸剪刀の手を()めて、それに目を落したらしかつたが、
 「とうと解散か、下らん事をしよるな。」
と言つて、またちやきく剪刀を鳴らし出した。
 床屋の主人(あるじ)政治談(せいぢばなし)の好きな、金が溜つたら郷土(くに)へ帰つて、県会議員になるのを、唯一の希望に生きてゐる男だ。私は訊いてみた。
,「政党は何方(どつち)が好きだね、(おまへ)は。政友会か、憲政会か、それとも国民党かな。」
 床屋の主人(あるじ)揉上(もみあげ)(あたり)で二三度剃刀(はさみ)を鳴らしてゐた
が、
 「別に好き嫌ひはおまへんな、政党には。でも寺内はんだけは嫌ひだんね。」
ときつぱりと言つた。
 「何故寺内だけがそんなに嫌ひなんだ。」
 「さうかて見なはれ、あの人禿頭やおまへんか、あんな人床屋には無関係だすよつてな。」と主人(あるじ)雲脂取(ふけとり)でごり/\私の頭を掻きながら「髪の毛があつたところで、あんな恰好の頭てんで刈り甲斐がおまへんわ。」
 ナポレオンは色の白い掌面(てのひら)で女に好かれたといふ事だ。一国の首相にならうとするには、成るべく頭の禿げない方が()い。少くとも床屋の主人(あるじ)には喜ばれる。



最終更新日 2006年04月19日 11時28分04秒

薄田泣菫「茶話」「独帝の癖」

独帝の癖
 独帝には妙な癖がある。それは何か困つた事に出会(でくは)すと直ぐ自分の耳朶を引張らずには居られないといふ事だ。
 大分(だいぶん)以前の話だが、独帝(カイゼル)には伯母さんに当る英国のギクトリア女皇(ぢよわう)()くなられて、葬儀の日取が電報で独帝(カイゼル)(もと)(しら)されて来た事があつた。その折独帝(カイゼル)は、六歳(むつつ)になる(をひ)を相手に何か罪のない無駄話に(ふけ)つてゐた。
 独帝(カイゼル)は侍従の手から電報を受取つたが、なかに何か気に入らぬ事でも書いてあつたものか、(独帝(カイゼル)は英吉利と英吉利人とが大嫌ひである)直ぐいつもの癖を出して自分の耳朶(みゝたぶ)をいやといふ程引張つた。
 それを見て()ましやくれた甥は言つた。
 「伯父ちやん、何だつてそんなに耳を引張るの。」
 「うむ、一寸困つた事が出来たでの。」
 「いつも困ると、伯父ちやんは耳引張るの。」
 甥は不思議さうに訊いた。
 「さうぢやく。」独帝(カイゼル)は、じつと電報の文字に見惚(みと)れながら答へた。
 「そんなら、もつと/\困る事があつたら、伯父ちやん()うするの。」
 「その時はな、」と独帝(カイゼル)は電報を卓子(テ ブル)の上に投げ出して、その手でいきなり甥の耳を(つま)むだ。「その時はかうして他人(ひと)の耳を引張つてやるのぢや。」
 講和問題で(ひど)く弱り切つてゐる独帝(カイゼル)は、今度は誰の耳を撮んだものかと、じろじろ四辺(あたり)見胸(みまは)してゐるに相違ない。「正義」の大商人(おほあきんど)ウヰルソン氏なぞ、よく気を()けないと、兎のやうな耳朶(みゝたぶ)(ちぎ)れる程引張られるかも知れないて。



最終更新日 2006年04月19日 11時28分26秒

薄田泣菫「茶話」「米の用意」

米の用意
 新任の内田駐露大使は、この二十五日の朝、可愛(かあい)い夫人や令嬢と一緒に、関門を西へ郷里の熊本を
さして()つた。令嬢といふのは、阿父(おとう)さんそつくりの顔をした、基督降誕祭(クリスマス)の前夜、サンタ・クロオスの袋から転がり出したやうな罪のない罪のない女の子なのだ。
 内田大使は途中で顔踞懇(かほなじみ)の男と色々世間話の末、
 「今度熊本へ寄るのは表向き墓参といふ事になつてゐるが、実をいふとね、ー」と露西亜へ聞えないやうに(わざ)と声を低めて「お米の仕入のためなんだよ。それから味噌も醤油もね……」
と言つて、夫人と顔を見合せてにやりと笑つた。
 「お米といクて()の位お持ちになるんです。」
と相手の男が訊くと、大使は長い間お米を(かじ)つて来た鼠のやうな白い歯をちらと見せた。
 「それは米にしても味噌にしても露西亜にも無い事はないが、値段が高い上に、本場物はなかく手に入らない。で、今度は飛切の上米を五(へう)ばかり手荷物に加へようといふ寸法なんだが……」
 露西亜の昔譚(むかしばなし)に、ある農夫(ムジク)が死にか丶つた時、火酒(ウオツカ)を一壜と鑞燭を五丁棺のなかへ入れて呉れと遺言したのがある。理由(わけ)を聞くと、
 「天国ではお酒が高いに相違ない。獵燭は以前お寺で聖母(マリヤ)様の前にあつたのを盗んだから、()へさなくつちや。」
と言つたといふ事だ。
 内田大使の任期は(やつ)と一年か一年半で済む事だらうから、白米は五俵もあつたら十分だらう。味噌は(かび)さへ我慢したら何時までも食べられる。だが、露西亜の農夫(ムジク)のやうに天国へでも旅立つ事があつたら、大使はお米を何俵位用意する積りだらうて。



最終更新日 2006年04月19日 11時28分46秒

薄田泣菫「茶話」「喫煙家」

喫煙家
 亜米利加の丸持長者(まるもちちやうじや)アンドリウ・カアネギイがこの頃ある宴会でした話によると、氏が昨年英吉利に旅をして、とある停車場(ていしやぢやう)から倫敦(ロンドン)行きの汽車に乗つた時の事、態女(わざく)喫煙禁止の客車(かくしや)を選んでそれに乗る事にした。
 汽車が次の停車場に着くと、肥つた男が一人乗込んで、カアネギイの向ひに腰を据ゑるなり、汚れた煙管(パイプ)を取り出してぱつと火を()けた。
 それを見たカアネギイは注意した。「この客車( こ)では煙草は()めませんよ。」
 「(よろ)しい、解つてます。」と肥つた男は言つた。「()ひさしを一服やつて了へばそれで可いんでさ。」
 かう言つて肥つた男は、一服喫ひ尽してしまふと、また安煙草を(りま)み出してすぱすぱ吹かし出した。
 「もし貴君(あなた)ーとカアネギイは少し声を高くした。「私は御注意しましたね、この客車(はこ)では煙草は()めないつて。それにも頓着なくそんなにすぱすぱお()りになると、次の停車場で巡査にお引渡しするかも知れませんよ。私はかういふ者です。」と言つて、彼は自分の名刺を出して見せた。
 肥つた男は、それを受取るなり、懐中(ポケツト)にしまひ込んだ。そして相変らずすぱすぱ(けぶり)を吹かしてゐた。
 でも次の停車場へ来ると、肥つた男は煙管(パイプ)(くは)へた儘(ろく)に挨拶もせず(ほか)客車(はこ)へ移つて往つた。カアネギイは巡査を()んで一部始終を話し、不都合な今の男の名前だけでも可い、知らせて欲しいと頼んだ。
 「どうも()しからん話で。」
と巡査は、その男の入つた客車(はこ)の方へあたふた駈けて往つたが、暫くすると、(ひど)く恐縮した顔をして帰つて来た。そして二度三度、カァネギイの前でお辞儀をした。
 「いやはや、何と申上げたものか、実はその方を取調べようとすると、(わし)はかういふ者だと言つてこの名刺を下さいました。御覧下さい、亜米利加の丸持長者アンドリウ・カアネギイさんですよ。」
 流石のカアネギイも()いた口が(ふさ)がらなかつた。名刺は先刻(さつき)自分が相手に渡した(ばか)りのものであつた。
 煙草は厭なものだが、それでも煙草喫ひには金持の知らない()智慧(らゑ)が出る事がある。



最終更新日 2006年04月19日 11時29分16秒

薄田泣菫「茶話」「大隈侯より」

大隈侯より
 いつだつたか女成金の中村照子が大隈侯を訪問すると、侯は持合せのお世辞を灰の様に照子の頭から(あび)せかけた。内気者(うちきもの)の照子が酒にでも食べ酔つたやうな、(ほつ)とした気持で辞して帰らうとすると侯爵は、
 「一寸待ちなさい。」
と呼ぴとめた。
 照子は美顔術師に習ひ覚えた表情をたつぷり見せて立ち停つた。
 「お前、大阪で厄介になつてゐる(うち)が幾軒程あるな。」
 照子は変な事を訊かれるものだと思つたが、直ぐ考へて返事をした。
 「はい世話になつてゐる(うち)と申しますと、七軒も御座いませうか。」
 「七軒か、よしよし。」
と言つて侯爵は其処(そこ)にゐた小間使を見て一寸(ちご)をしやくつた。すると、小間使は急いで次の()に入つたと思ふと、手畠(はんけち)の箱を七つ持つてまた出て来た侯爵はそれを照子の方へ押しやつて、
 「これをその人達へ土産にしなさい。私に貰つたと言つて。」
 照子がその手白巾(はんけち)命令(いひつけ)通り方々へ配つたか、それともこつそり箪笥(たんす)の中に(しま)つてゐるかは私の知つた事ではないが、親切な大隈侯は先日(こなひだ)養子の信常氏が九州へ往つた帰途(かへり)にも、態(わざ/\)大阪へ寄途(よりみち)をしてまで照子を訪ねさせた。
 信常氏はその時憲政会のある代議士と一緒だつたが、二人は照子のお世辞に()い気になつて、(いっ)ぱし画家(ゑかき)や詩人の積りで()()いたり賛をしたりした。二人はこんな事で若い寡婦(ごけ)を嬉しがらせる事なら、自分達の顔一杯楽書(らくがき)をしても苦しくないと思つた。
 一頻(ひとしき)戯書(いたづらがき)が済むだ頃、信常氏は「さうだすつかり忘れてゐたつけ、親爺(おやぢ)から委託(ことづか)(もの)があつたんだ。」
と言つて、鞄のなかから小さな包みを取り出して照子の前に置いた。それはイブセンの『ノラ』の飜訳であつた。
 照子は『ノラ』の名前は聞いてゐたが、それは松井須磨子のお友達で、人形屋の女房(かみさん)で、借金で亭主と喧嘩(いさかひ)をして(うち)を飛ぴ出した女だ位に覚えてゐるのに過ぎなかつた。だが、侯爵からの進物(しんもつ)だといふので、この頃は何処へ出掛けるにもそれを四季袋の中へ入れるのを忘れない。
 大隈侯の考へではノラのやうな女になれとでも言ふのらしいが、照子は寡婦(ごけ)の成金で、喧嘩(いさかひ)をしようにも肝腎の亭主がない。そしてその上にも物足りない事は借金が無いといふ事だ。(およ)そ成金に取つて何よりも不満足なのは、借金の無いといふ事で、彼等はそれがあつたら、大喜ぴで七倍にして払ふ事を心掛けてゐる見得坊(みえばう)である。



最終更新日 2006年04月19日 20時32分37秒

薄田泣菫「茶話」「悪戯」

悪戯
 英国のウインゾル王宮の皇室図書館に、毎月(まいげつ)の雑誌が取揃へてある雑誌棚がある。その雑誌棚の上に現代の名高い人達の写真帖が幾冊か載つかつてゐる。写真帖はその人達の職業によつてそれ人丶別になつてゐる。
 今の英国皇太子がまだ(をさな)かつた頃、ある日その雑誌棚の前へ来て、多くの写真帖のなかから『各国民元首帖』といふのを引張り出してじつと見てゐた。
 それには胸一杯ぴかぴかする勲章を下げてゐる人が多かつた。なかに唯一人質素(じみ)なフロツクコートを着て、苦り切つた顔をしてゐる男があつた。皇太子はそれを見ると、後を(ふり)かへつた。後には父君のジヨオジ陛下が立つてゐられた。
 「阿父様(おとうさま)、これ誰方(どなた)なの。」
 「それは米国(アメリカ)の大統領ルウズヴエルト氏だ。」
 皇太子は可愛(かあい)らしい指先でルウズヴエルト氏の鼻の上を押へた。気難しやの大統領は(くさみ)をしさうな顔になつた。
 「阿父様(おとうさま)、この人怜悧者(りこうもの)なの、それとも馬鹿?」
 「さうだな。」とジヨオジ陛下はにこ/\笑つて「ルウズヴエルト氏はなかく偉い(かた)だよ。まあ天才とでも言ふ(ほう)だらうて。」
 それから四五日経つて、ジヨオジ陛下が何か見たい事があつて、その『各国民元首帖』を()けてみると、ルウズヴエルト氏の写真だけ取り外されて見えない。
 「(をか)しいな。」
と言ひ言ひ、何気なく(そば)にあつた『現代人物帖』を取り上げてみると、その第一頁目に()くなつたルウズヴエルト氏の写真が(はさ)んであつた。
 陛下は皇太子を召された。
 「この写真を移したのは(おまへ)さんかい。」
 「私よ。」
 「何か理由(わけ)があつたのかい。」
 「だつて阿父様(おとうさま)先日(こなひだ)お話しになつたぢやないの。」と皇太子は自慢さうに言つた。「ルウズヴエルトさんは天才だつて。だから私元首帖から引つこ抜いて人物帖の方へ入れたのよ。それが悪くつて。悪かつたら堪忍して頂戴……。」



最終更新日 2006年04月19日 20時33分23秒

薄田泣菫「茶話」「高い塔」

高い塔
 東京美術学校で西洋美術史を受持つてゐる森田亀之助といふ人がゐる。一体美術史の講義をする人に()の解る人は少いものだが、森田氏はそのなかで可なりよく解る方だ。
 森田氏が美術学校の学生に口頭試驗をやつた事がある。その時一人の学生の順番になつた。その学生は(クラス)のなかで画の上手として聞えてゐた男だつた。
 森田氏は(しかつ)べらしい口をして訊いた。
 「君はバビロンの塔を知つてますか。」
 学生はそんな物はてんで頭にも置いてゐないらしく即座に返事をした。
 「知りませんよ、バビロンの塔だなんて。」
 「何かの本に無かつたですか。」
 森田氏は自分の講義録にあつたのを思ひ出させようとして、(わざ)と「本」といふ(ことば)に力を入れて言つた。
 「有つたかも知れませんが、覚えてゐません。」
 学生はきつぱり答へた。
 森田氏は少し狼狽気味(うろたへきみ)になつた。
 「誰かに聴いた事はありませんか、学校の講堂か何処かで。」
 「ありませんな。」と学生は蒼蝿(うるさ)さうに言つた。「先生、私は画家(ゑかき)ですが、バビロンの塔なんか知らなくても画は描けると思ひます。私はまた基督教信者ですが、そんな塔なぞ知らなくても天国へ()けると思ひます。」
 森田氏は履刷毛(くつばけ)で鼻先を撫下(なで ろ)されたやうな顔をした。成程考へてみると、自分はバビロンの塔を知つてゐるが、それを知つてゐるからと言つて画は(うま)()けさうにも思へない。それに(とて)も天国へまで()けさうにも思へなかつた。森田氏は試験はこの儘で()めようかとも思つたが、(つい)でに今一つ訊いてみた。
 「だが、まあ考へてみたまへ、バビロンの塔だよ、塔といふからには……」
 学生は(やつ)と思ひ出したらしく、急ににこ/\して、
 「いや解りました。塔といふからには高い建築物です。(ちやう)ど浅草の十二階のやうな-・…」
 「さうだ/\、よく覚えてゐたね。」
 二人は寒山(かんざん)拾得(じつとく)のやうに声を合せて笑つた。



最終更新日 2006年04月19日 20時48分52秒

薄田泣菫「茶話」「伍廷芳」

伍廷芳
 支那の伍廷芳が全権公使として米国に(とどま)つてゐた頃、ある日市俄古(シカゴ)招待(せうだい)せられた事があつた。伍廷芳は尻尾のやうな弁髪(べんぱつ)を後に吊下(ぶらさ)げながら出掛けて往つた。
 伍廷芳は逢ふ人(ごと)に、とりわけ婦人(をんな)さへ見れば、支那人に持前のお愛嬌をふり撒いた。着飾つた婦人連は、九官鳥に挨拶されたやうな変な表情をして顔を見合はせた。
 折柄(をりから)そこへ来合はせたのは一人の紳士で、伍廷芳とは初めての対面だつた。紳士は無遠慮に言つた。
 「伍廷芳さん、近頃お国には貴方がしておいでの、尻尾のやうな弁髪を()めようつて運動が起きてるさうぢやありませんか、結構ですね。」と紳士は一寸弁髪の先に触つてみた。「それだのに何だつて貴方はこんな馬鹿げた物を下げてお居でになるんです。」
 「さあ」と伍廷芳はじろりと相手の顔を見た。紳士は鼻の下にもじやもじやと口髭を伸ばしてゐた。「何だつて貴方はそんな馬鹿げた口髭なぞ生やしてお居でになります。」
 「御挨拶ですね。」と紳士は苦笑(にがわらひ)した。これには理由(わけ)があるんです、私は口許(くちもと)が悪いもんですから、それで……」
 「さうでせう。さうだらうと思つた。」と伍廷芳はにやりともせず畳みかけた。「貴方が仰有る事から察すると、()うも余りお口許が()(かた)では無いやうだから ,:」



最終更新日 2006年04月19日 20時49分19秒

薄田泣菫「茶話」「泣面(なきつら)大使」

泣面(なきつら)大使
 米独の国交断絶について、誰よりも一番困つてゐる者は独逸の駐米大使ベルンストロフ伯だらう。紐育(ニユ ヨーク)電報によると、大使は米国政府から旅券を交附するといふ報知(しらせ)を受取ると、叱られた(ちん)のやうに眼に涙を一杯溜めて、
 「こんな事になるだらうとは思つてたが、一体()うしたら帰国出来るんだらう。」
と、べそを掻いたといふ事だ。
 本国の独逸は今では天国よりも遠いところにある。実をいふと、ベルンストロフ伯の故郷は天国でも独逸でも無い、伯の生れ在所は霧の多い倫敦(ロンドン)だが、生れ在所だからと言つて、今更倫敦へ()く事も出来まい。
 そんなだつたら、(いつ)女房(かない)の里に落付く事だ。一体女房(かない)の里といふものは、落人(おちうど)の隠れ場所にとつて恰好なものだ。ベルンストロフ伯夫人は人も知つてるやうに米国生れの女である。
 米国(アメリカ)で評判を取らうとすると、何を()いても米国生れの女を女房(かない)にするのを忘れてはならない。
 「女房(かない)がお国に居たいと言つて泣きますから。」
と言つてみるがいい。米国人といふ米国人は、教会の神様を叩き出しても、ベルンストロフ伯夫婦を引留めずには置かない。(実際米国には神様など居なくともいいのだから。)
 新渡戸稲造氏なども米国(アメリカ)婦人(をんな)を夫人にしてゐるので、幾割か米国人に評判がよい。氏はまた米国製の時計を持つてゐて、客と談話(はなし)をする()も婦人問題を考へる時もいつも(そは)を離さない。
 だが、米国製の時計だけは同国人の評判を気にして持つてる訳ではない。時計は夫人の実家で出来たもので、夫人の実家は米国で聞えた時計商である。



最終更新日 2006年04月19日 20時49分44秒

薄田泣菫「茶話」「廂髪(ひさしがみ)

廂髪(ひさしがみ)
 九州医科大学の大西克知博士が鉄瓶のやうな疳癪持(かんしやくもち)である事はいつだつたか茶話で書いた通りだ。実際博士の疳癪玉は、眼医者にしては惜しい持物で、あれを競馬馬にでも持たせる事が出来たら、騎手(のりて)険呑(けんのん)な代りに屹度素晴しい勝を得る事が出来る。
 先日(こなひだ)もこんな事があつた。その日は博士は朝から少し機嫌を損じてゐて、何家(どこ)かの若い夫人が診察室に入つて来た折は、(まる)で苦虫を噛み潰したやうな顔をしてゐた。
 さうとも知らない若い夫人は、一寸矯態(しな)をつくつて博士の前に立つた。博士は指先で充血した眼の上瞼(うはまぶた)(つま)んで、酸漿( ほづき)のやうに(ひつ)くり返さうとしたが、直ぐ鼻先に邪魔物が飛び出してゐて、どうも思ふやうにならない。
 邪魔物といふのは他でもない、若い夫人の廂髪なのだ。夫人はその朝病院に()くのだと思つて、心持廂髪を大きく取つてゐた。(女といふものは、亭主を(けな)されても、髪さへ賞めて貰へばそれで満足してゐるものだ。それ程髪は女にとつて大事なのだ。)
 博士は邪魔物の廂髪を(しき)りに気にして、やきもきしてゐたが、とうと持前の疳癪玉を(はじ)けさせた。
 「え\、この廂が邪魔になる。」
と言つて、手の甲でぽんと跳ね上げた。廂髪は白い額の上で風呂敷のやうに(ふる)へた。
 若い夫人は気を失はんばかりに吃驚(びつくり)した。夫人に取つては、自分の髪の代りに、亭主を蹴飛ばされた方が幾らか辛抱が仕善(しよ)かつたかも知れないのだ。
 でも、仕合せと眼病は(なほ)つた。若い夫人は手土産を()げて博士の(うち)へ礼に往つた。博士は蒼蠅(うるさ)さうにお礼の口上を聴いてゐたが、
 「私が癒したのぢやない、大学が癒したのだ。」
と言つて、手土産を押し返した儘ついと立つて見えなくなつた。博士は何処へ往つたのだらう。若い夫人は自分の旒舳髪に隠れたのでは無からうかと思つた。その日の髪はそれ程痲が大きく結つてあつた。



最終更新日 2006年04月19日 20時50分36秒

薄田泣菫「茶話」「顔と頭」

顔と頭
 パデレウスキイといへば波蘭(ポ ランド)の聞えた音楽家だが、最近米国に渡つた時、ある日勃士敦(ボストン)停車場(ていしやぢやう)で汽車を待ち合せてゐた事があつた。音楽家はモツアルトの楽譜でも踏むやうな足つきをして、歩廊(プラツトホ ム)をあちこち禰律(うろつ)いてゐた。
 十二三のちんぴらな小僧が物蔭から飛ぴ出してこの音楽家の前に立つた。
 「旦那磨かせて戴きませうか。」
 パデレウスキイは立停つて黙つて小僧を見おろした。小僧は手に履刷毛(くつはけ)()げてゐる。(まが)(かた)もない履磨きで、榿(だい/\)のやうに小さな顔は履墨(くつずみ)で真黒に汚れてゐる。
 音楽家は洋袴(ズボン)の隠しから、銀貨を一つ取り出して掌面(てのひら)の上に載せた。
 「履は磨かなくともいゝ、お前の顔を洗つておいでよ。さうするとこの銀貨をあげるから。」
 その折音楽家の履はかなり汚れてゐたが、彼はその晩直ぐに天国の階段を(あが)るのでも無かつたし、米国(アメリカ)の土を踏むのにはそれで十分だと思つてゐたのだ。
 「はい/\。直ぐ洗つて来ますよ。」
と小僧はさう言ふなり、直ぐ洗面所へ駈けつけて、土塗(つちまみ)れの玉葱(たまねぎ)でも洗ふやうに顔中を水に突込んで洗ひ出した。
 小僧は(あら)(トて)の顔をしてパデレウスキイの前に帰つて来た。音楽家は「よし/\」と言つて銀貨を小僧の濡れた掌面(てのひら)に載つけてやつた。小僧は一寸それを頂いたが、直ぐまた音楽家の掌面にそれをかへした。
 「旦那、銀貨はこの儘お前さんに上げるから、これで散髪をおしよ。」
 パデレウスキイは驚いて額を撫でてみた。成程帽子の下から長い髪の毛が()み出してはゐるが、それは音楽家がベエトオベンの頭を真似た自慢の髪の毛だつた。



最終更新日 2006年04月19日 23時12分29秒

薄田泣菫「茶話」「「勉強せよ」」

「勉強せよ」
 逓信省内で比べ物にされてゐた下村宏氏は、遠く台湾くんだりへ往つてしまふし、その(あと)はと言へば、弾力のありさうな者は誰一人無し、数へてみると、何といつても、
 「俺だ。」
 「俺だ/\。やつぱり俺だよ。」
と、それ以来通信局長の田中次郎氏は、思ひなしか逓信省内が広々としたやうに思はれた。
 逓信省内には、大学を出たての若い学士連が虫のやうに蠢(うよ/\)してゐる。それを集めて咋年の秋から読書会といふものが起された。場所としては京橋の清新軒などが利用されてゐた。皿の物をかちかち突つきながら()(たて)のフライのやうな新しい書物の講釈から、時事問題などが話題に(の )されるのだ。つい先日(こなひだ)の晩にも例会が開かれて、通信局、管船局各課の高等官の卵共が、ずらりと田中局長の前に並んだ。
 「勉強だね、勉強しないと直ぐに世間に忘れられてしまふし、第一物事に目端が利かなくなる。」
 他人(ひと)の財布の中までも見通しさうな眼つきをして田中局長は言つた。局長のお言葉だけに、下役には、それが亜米利加発見このかたの真理のやうに聞えた。皆は脂肪肉(あぶらみ)のビフテキをかちく言はせながら、各自(てんで)に腹のなかで、
 「局長のお言葉だ。大いに()るぞ。」
と力んで居たやうだつた。田中氏は心持後に反りかヘつて、胸衣(チヨツキ)胸釦(むなぼたん)(いぢ)りながら「真理」を語つた(あと)の愉快さといつたやうな顔をしてゐた。
 その翌日、突然休職の辞令が田中局長の頭に降りかかつた。夕刊を眺めた下役共は夢ではなからうかと自分の鼻先を(つね)つてみたりした。その折省内の廊下でばつたり出会つた若い「通信局」と「管船局」とがあつ
た。
 「驚いたね、昨夜(ゆうべ)だつたぢやないか。」
 「さうよ、だからさ、勉強しないと目端が利かなくなるんさ。」



最終更新日 2006年04月19日 23時14分20秒

薄田泣菫「茶話」「納所(なつしよ)花婿」

納所(なつしよ)花婿
 一(しき)り世間を騒がせた結婚沙汰が()()められて、愈(いよ/\)名妓八千代が菅家(すがけ)輿入(こしいれ)のその当日、花婿の楯彦(たてひこ)氏は恥かしさうに一寸鏡を見ると、自分の頭髪(あたま)が栗の(いが)のやうに伸ぴ過ぎてゐるのに気が()いた。
 「これではどむならん。(なん)画家(ゑかぎ)やかて今日は花婿やよつてな。」
と、楯彦氏は非常な決断で直ぐ理髪床(かみカひどこ)()く事にきめた。
 楯彦氏はいつも頭をくりくり坊主に剃る事に()めてゐるが、婚礼の宵に納所のやうな頭をして出るのも幾らか興覚(きようざめ)がした。
 「いつそ揉上(もみあげ)を短くして、ハイカラに分けてやらうか知ら。」と楯彦氏は理髪床(かみ ひどこ)()く途中、懐手(ふところで)のまゝで考へた。「そやけど、それも気恥かしいし、やつぱり五分刈にしとかう、五分刈やと誰も変に思はんやろからな。」
 楯彦氏は腹のなかでさう決めて理髪床(かみゆひどこ)に入つて往つた。床屋は先客で手が一杯になつてゐた。楯彦氏はそこらの明いてゐた椅子に腰を下して美しい花嫁の笑顔など幻に描いてゐるうち、四辺(あたり)温気(うんき)でついうと/\と居睡(ゐねむり)を始めた。
 額に八千代の唇が触つたやうな気持がして楯彦氏は吃驚(びつくり)して目を覚ました。鏡を見ると、白い布片(きれ)(くる)まつた毬粟(いがぐり)な自分の額が三分一(ぶんの)ばかり剃り落されてゐる。
 「あつ。」
と言つて、楯彦氏は首を縊められた家鴨(あひる)のやうな声を出した。
 「()ないしやはりましたんや。」
 理髪床(かみゆひどこ)(おやぢ)剃刀(かみそり)を持つた手を宙に浮かせた儘、腑に落ちなささうに訊いた。
 楯彦氏は白布(きれ)の下から手を出して、剃落(そりおと)された自分の頭にそつと触つてみた。頭は茶碗のやうに冷かつた。
 「五分刈やがな、お前、今日は……」
と言つた儘、泣き出しさうな顔をした。
 理髪床(かみゆひどこ)( やぢ)は飛んだ粗忽(そさう)をした。だが、まあ堪忍してやるさ、十日も経てば頭は五分刈の長さに伸びようといふものだ。世の中には三年経つても髪の毛一本生えない頭もあるのだから。



最終更新日 2006年04月20日 02時12分39秒

薄田泣菫「茶話」「道楽」

道楽
 郵便切手を集めるーといふと、何だか子供()みた事のやうに思ふものが多い。また実際欧羅巴(ヨさロツパ)の子供には切手を集めるに夢中になつて、日本人が(たま)に故国の郵便切手でも呉れてやると、
 「親切な叔父さんね、だから私支那人が好きなんだよ。」
と、お泄辞を振撒(ふりま)いて呉れるのがある。
 だが、切手の蒐集(コレクシヨン)は決して子供染みた事ではない。堂々たる帝王の事業で、その証拠には英国のジヨォジ皇帝陛下が大の切手道楽である事を挙げたい。(およ)そ地球の上で発行せられた切手といふ切手は、残りなく陛下の手許に集まつてゐる。陛下が世界一の海軍と共に世界一の郵便切手の蒐集(コレクシヨソ)を誇られても、誰一人異議を申し上げるものはあるまい。
 ジヨオジ陛下には今一つ道楽がある。それはタイプライタァを叩く事で、この道にかけての陛下の手際は、倫敦(ロソドン)で名うてのタイピストに比ぺても決して(ひけ)は取られない。
 だが、タイピストとしての陛下には(たつた)一人恐るべき敵手(あひて)がある。それは米国のウヰルソン大統領で、ウヰルソン氏がタイピストとしての手際は、大統領としての手腕よりも、学者としての見識よりも、際立つて(すぐ)れてゐる。
 ウヰルソン氏は(ひま)さへあると、タイプライタアに向つてコツ/\指を動かしてゐる。ある忙しい会社の重役は、(ひど)く氏の手際に惚れ込んで、
 「タイピストとしてうちの会社に来て呉れたら、七百弗までは出しても可い。」
と言つたさうだ。してみると、氏が若い寡婦(ごけ)さんを、後妻に貰つたのは、経済の立揚から見ても間違つた事ではなかつた。



最終更新日 2006年04月20日 02時13分08秒

薄田泣菫「茶話」「平謝(ひらあやま)り」

平謝(ひらあやま)
 東京神田の駿河台に大きな病院を持つてゐる広川()一氏といふ医学博士がある。芸者の噂でもすると、顔を真蒼(まつさを)にして怒り出すといふ、名代の堅蔵(かたざう)である。
 広川氏は多くの医者がするやうに独逸へ留学をした。洋行といふものは色々の事を教へて呉れるもので、東大の姉崎〔正治(まさはる)〕博士など、日本に居る頃は芝居を外道(げだう)のやうに言つてゐたが、独逸から帰つて来ると、劇は宗教と同じく神聖なものだと言ひ出して来た。尤も姉崎博士の言ふのは劇の事で、芝居とはまた別の物らしい。
 広川氏は独逸で芝居も見た。ミユンヘンの麦酒(ビ ル)も飲んだ。その上にまた劇場(しばゐ)よりも、居酒屋よりも、もつと面白いところへも往つた。そして大層賢くなつて日本に帰つて来た。
 広川氏は停軍場(ステきシヨン)から一息に駿河台の自宅へ帰つて来た。そして窮届な洋服を襤袖(どてら)に脱ぎかへるなり、二階へ()(あが)つて、肘掛窓から下町辺をずつと見下(みおろ)した。
 「かうしたところは、日本も満更悪くはないて。ーだが伯林(ベルリン)はよかつたなあ。」
と、留学中の総決算をする積りで、腹の(うち)彼地(あつち)であつた色々の事を想ひ出してみた。そして烏のやうに(ひと)りでにやく笑つてゐた。
 すると、だしぬけに二階の階段を、二段づつ一息に駈け上るらしい足音がして、夫人が涙ぐんで其処(そこ)へ現はれた。
 「貴方、これは()うなすつたの。」
 夫人が畳の上へ投げつけた物を見て、広川氏は身体(からだ)を鼠のやうに小さくして恐れ入つた。
 「謝る/\。もう何も言つて呉れるな。」
 広川氏が平謝りに謝るのを見て、夫人は(やつ)と気色を直した。夫人は貞淑な日本婦人である。日木の婦人(をんな)は「貞淑」といふ文字の為には、どんな事をも辛抱(がまん)しなければならないのだ。
 それにしても夫人が蛋の上に投げつけたのは何だらう。仕合せと神様と茶話記者とは其処(そこ)に居合はさなかつたので少しも知らない。



最終更新日 2006年04月20日 02時13分52秒

薄田泣菫「茶話」「洋服和服」

洋服和服
 下田歌子女史が最近大阪のある講演会で言つた所によると、最も理想的な衣服(きもの)は、日本服で、それも女房(かない)や娘の縫つたものに限るのださうな。女史が『明倫歌集』の講義をするのは惜し過ぎるやうな婀娜(あだ)つぽい口許で、
 「女房(かない)や娘の縫つたものには、一針づつ情愛が籠つてゐますから。」
と言ふと、その席に居合した多くの夫人令嬢達は(ほつ)と溜息を()いて、
 「ほんとにさうやつたわ、(ちつ)とも気が()かなかつた。」
と、それからは主人の着物を家庭(うち)で縫ふ代りに、女房(かない)や娘の物をそつくり仕立屋に廻す事に(をこ)めたらしいといふ事だ。
 悲惨(みじめ)なのは男で、これからは仕立屋の手で出来上つた、着心地(きこらち)()い着物はもう着られなくなつた。(しか)し何事も辛抱(がまん)で、女の「不貞腐(ふてくされ)」をさへ辛抱(がまん)する勇気のある男が、女の「親切」が辛抱(がまん)出来ないといふ法は無い筈だ。
 だが、下田女史の日本服推賞に対して、一人有力の反対者がある。それは広岡浅子刀自(とじ)で、刀自は日本服などは賢い人間の着るべきものでないといふので、始終洋服ばかりつけてゐる。
 この頃のやうな寒さには、刀自は護謨(こむ)製の懐中湯たんぽを背中に入れて、背筋を鼠のやうに円くして歩いてゐる。いつだつたか大阪教会で牧師宮川経輝氏のお説教を聴いてゐた事があつた。宮川氏が素晴しい雄弁で日本が明日にも滅ぴてしまひさうな事を言つて、大きな拳骨(げんこ)卓子(テさブル)を一つどしんと叩くと、刀自は感心の余り椅子に(もた)れた身体(からだ)にぐつと力を入れた。その途端に(せな)の湯たんぽの口が(はじ)けて飛んだ。
 宮川氏のお説教を聴きながら、自分ひとり洋服のまま天国に登つた気持で居た刀自は、吃驚(びつくり)して立ち上つた。裾からは水鳥の尻尾のやうに熱い(しづく)がぽた/\落ちて来た。
 刀自は宮川牧師を振り向いて言つた。
 「でも洋服だからよかつたのです。これが和服だつたら身体中焼傷(からだぢゆうやけど)をするところでした。」



最終更新日 2006年04月20日 02時14分18秒

薄田泣菫「茶話」「欠け皿」

欠け皿
 日本の遣英赤十字班が英国へ渡つた時、自惚(うぬぽれ)の強い英吉利人は、
 「日本にも医者が居るのかい。」
(ひど)く珍しがるやうだつたが、決して歓迎はしなかつた。
 一行の食事は一人前一ケ月百円以上も仕払つたが、料理はお粗末な物づくめであつた。外科医の一人は堅いビフテキの一(きれ)肉叉(フオ ク)尖端(さき)へ突きさして、その昔基督がしたやうに、
 「お皿のなかのビフテキめ、羊の肉ならよかんべえ、もしか小猫の()だつたら、やつとこさで逃げ出しやれ。」
虫盤術(まじなひ)のやうな事を言つてみたが、ビフテキは別段猫に()つて逃げ出さうともしなかつた。
 ある時など(わざ)(ふち)の欠けた皿に肉を盛つて、卓子(テ ブル)に並べた事があつた。それを見た皆の者は(むき)になつて腹を立てたが、あいにく腹を立てた時の英語は掻いくれ習つてゐなかつたので、何と切り出したものか判らなかつた。
 一行の通弁役に聖学院(しやうがくゐん)大束(おほつか)直太郎氏が居た。氏は英語学者だけに腹の減つた時の英語と同じやうに、腹の立つた時の英語をも知つてゐた。氏は給仕長を呼んだ。給仕長は鵞鳥のやうに気取つて入つて来た。
 「この皿を見なさい。こんなに壊れてゐるよ。」と大束氏は皿を取上げて贋造銀貨(にせのぎんくわ)のやうに給仕長の目の前につきつけた。「日本ではお客に対して、こんな(こは)れた皿は使はない事になつてゐる。で、余り珍しいから記念のため日本へ持つて帰りたいと思つてゐる。幾らで譲つて呉れるね。」
 給仕長は棒立になつた儘、目を白黒させてゐた。大束氏は畳みかけて言つた。
 「幾らで譲つて呉れるね、この皿を。」
 給仕長はこの時(やつ)と持前の愛矯を(とり)かへした。そして二三度頭を掻いてお辞儀をした。
 「この皿はお譲り出来ません。日本のお客様の前へ出た名誉の皿でがすもの。」
と言つて、引手繰(ひつたく)るやうに皿を受取つた。そしてそれ以後、(ふち)の欠けない立派な皿を吟味して、二度ともう欠皿(かけざら)を出さうとしなかつた。



最終更新日 2006年04月20日 02時14分47秒

薄田泣菫「茶話」「お愛嬌」

お愛嬌
 リンコルンと云へば、亜米利加中の人間の苦労と悲しみとを自分一人で背負(しよ)ひでもしてゐるやうな、気難かしい、悲しさうな顔をしてゐる大統領であつた。
 日本でも内村鑑三氏などはリンコルンが大好きで、
「君のお顔はどこかリンコルンに()てゐる。」と言はれるのが何よりも得意で、(せい/\)々悲しさうな顔をしようとしてゐるが、内村氏には他人(ひと)の苦労まで背負(しよ)はうといふ親切気が無いので、顔がリンコルンよりも、リンコルンの写真版に肖てゐる。
 将軍ウヰルソンが(ある)時コネクチカツトの議員を()てゐる自分の義弟(それがし)と、リンコルン大統領を訪ねた事があつた。ウヰルソンの義弟といふのは、()(たけ)七尺もあらうといふ背高男(のつぽ)で、道を歩く時にはお天道様(てんとうさま)が頭に(つか)へるやうに、心持(せな)(かど)めてゐた。
 リンコルンは応接室に入つて来たが、(へや)中央(まんなか)に突立つてゐる背高男(のつぽ)が目につくと、挨拶をする事も忘れて、材木でも見る様に(くつ)爪先(つまさき)から頭に掛けて幾度か見上げ見直してゐる。材木は大統領の頭の上で馬の様ににや/\笑つた。
 「大統領閣下お初にお目に懸ります。」
 「や、お初めて。」とリンコルンは初めて気が()いたやうに会釈をした。「早速で(はなは)無躾(ぶしつけ)なやうだが、一寸お(たづ)ねしたいと思つて……」
 背高男(のつぽ)の議員は不思議さうな顔をして背を(かぜ)めた。
 「何なりとむ。閣下。」
 大統領は口許をにやりとした。
 「貴方は随分お背が高いやうだが、()うです、爪先(つめさき)が冷えるのが感じますかな。」
 「へゝ》…-御冗談を。」議員は頭を掻いて恐縮した。
 リンコルンの愛矯と無駄口を利いたのは、一生にこれが(たつた)一度きりであつた。



最終更新日 2006年04月20日 21時25分31秒

薄田泣菫「茶話」「中村不折」

中村不折
 洋画家中村不折氏の玄関には銅鑼(どら)(つる)してある。案内を頼む客は、主人の画家(ゑかき)の頭を叩く積りで、この銅鑼を鳴らさねばならぬ事になつてゐる。
 ところが、来る客も来る客も誰一人銅鑼を叩かうとする者が無い。皆言ひ合せたやうに玄関に立つて、
 「頼まう。」
とか、または、
 「御免やす。」
とか言つて案内を通じる。
 何事も(ひと)の云ふ事には(つんぼ)で、加之(おまけ)独断(ひとりぎめ)の好きな不折氏も、これだけは合点が()かなかつた。で、お客の顔さへ見ると、六朝( りくりてう)文字のやうに肩を変な恰好に歪めて、
 「(うち)の玄関には銅鑼が()つてありますのに、何故お叩きになりません。まさか君のお目につかなかつた訳でもありますまい。」
 幾らか嫌味交(いやみまじ)りに訊いてみる。
 すると、誰も彼もが(きま)つたやうに、
 「いや、確かに拝見しましたが、あれを叩くのは何だか気が(とが)めましてね、(ちやう)どお寺にでも(まゐ)つたやうな変な音がするもんですから。」
と言ふので、自分を雪舟のやうな画僧に、(残念な事には雪舟は不折氏のやうな(つんぼ)では無かつた)自宅(うち)を雲谷寺のやうな山寺と思つてゐる不折氏は、顔の何処かに不満足の色を見せずには置かなかつた。
 だが大抵の客は用談が済んで帰りがけには、玄関まで見送つて出た不折氏の手前、
 「成程結構な銅鑼だ。どれ一寸……」
と言つて(きま)つたやうに銅鑼の(よこ)(つら)を厭といふ程(どや)し付ける。銅鑼は急に腹が減つたやうな声をして唸り出す。
 「これはく雅致のある()が出ますね。」
と客が()め立てでもすると、不折氏は顔中を手布(ハンケチ)のやうに皺くちやにして、
 「お気に入りましたか、ははは……」
 台所で皿でも洗つてゐたらしい女中は、銅鑼の音を聴いて、あたふた玄関へ飛ぴ出して来ると、其処(そこ)には帰途(かへりがけ)の客と主人とが衝立(つゝた)つて、今鳴つたばかしの銅鑼の評判をしてゐる。
 「まあ、帰りがけの悪戯(てんがう)なんだわ。」
と女中は、腹立たしさうに余計者の銅鑼を(にら)まへる。
 神よ、女中をして同じやうな(つんぼ)ならしめ給へ。



最終更新日 2006年05月02日 08時36分39秒

薄田泣菫「茶話」「竹越(たけごし)夫人」

竹越(たけごし)夫人
 「阿母(おつか)さん、お金を下さい。」
 竹越三()氏の、中学へ行つて居る息子さんは、(あが)(はな)に編上げ靴の紐を(ほど)くと、直ぐに追はれる様に駈け上つた。阿母(おつか)さんの竹代夫人は、その声にこの頃凝つて居る座禅を()めて、パツチリと眼をあけた。
 「お帰り、いくらです。突然に、何にするの。」
 「え\、十円。」
 十円11中学へ行く子の要求としては少し多過ぎた。つい、この頃まで、物の値段も知らなかつたその子が何にするのか。兎も角何か目論(もくろ)んで、その費用を要求するといふ事は、子供の次第に一人前の人間になつて行く事を裏書する様なもので、一方には言はう様のない頼もしさがあつた。
 「十円、何を買ふの。」
 「えゝ、万年筆を買ふんです。」
 「ちと高過ぎはしなくて。」
 阿母(おつか)さんの頭には、電車の車内広告の頭の禿げた男が、万年筆を(さし)(つゝ)の形にした絵が思ひ出された。それには二円八十銭より種(いろ/\)とあつた。が息子の方が、一足お先に母親の胸算用を読んでしまつた。
 「ね、二円七八十銭からも有るにはあるけれど駄目なんです。友達は誰一人そんな安いの持つてないんですもの。」
 賢明を誇る阿母(おつか)さんは、手も無く十円の万年筆を買はされた。(しか)し腹の底では、その学校の当局者が、そんな賛沢な万年筆を、学生風情(ふぜい)に持たせてゐるといふ()り方が気に()はなかつた。
 「(うち)の人の二千五百年史なんか、二銭五厘の水筆(すいひつ)で書き上げたんぢやないか、真実(ほんと)に賛沢な学校だよ。」
 で、ある時竹代夫人は、何かの用事で学校に出掛けて、校長に会つた時、それとなく皮肉を言つた。校長は眼を円くして聞いてゐた。(それに無理もない。校長は万年筆が欲しい/\と思ひながら、十年以来(このかた)鉛筆で辛抱してゐたのだ。)夫人の帰るのを待つて、生徒の誰彼は呼ぴ出されたが誰一人万年筆は持つて居なか
つた。そして最後にたつた一人あつた。その名は竹越某。



最終更新日 2006年05月02日 08時39分20秒

薄田泣菫「茶話」「侯爵夫人」

侯爵夫人
 東京市の政友会新侯補者添田(そへだ)増男氏に対して、鳩山春子夫人が(せがれ)一郎氏のために躍起、運動を始めた。(すべ)て女の運動といふものは勝手口にも政治界にも利目(きゝめ)のあるもので、添田氏は手もなく頭を引込めた。お蔭で一郎氏の地盤は先づ保証される事になつた。
 鳩山夫人のこの振舞を見て、(ひど)(しやく)にさへたものが一人ある。それは当の相手の添田氏でも無ければ、添田氏の夫人でもない。この頃の寒さに早稲田の応接間で、口を歪めて(ちど)かまつてゐる大隈侯の夫人綾子刀自(とじ)である。
 侯爵夫人はもとから春子夫人のお喋舌(しやべり)とお凸額(でこ)とが気に入らなかつたが、鳩山和夫氏が旧友を捨てて政友会へ入つてから一層それが(ひど)くなつた。
 侯爵夫人の考へでは、早稲田から神楽坂へかけて牛込一体は、自分の下着の蔭に、小さくなつてゐなければならぬ筈だのに、その中で春子夫人が羽を拡げて飛ぴ廻るのだから溜らない。
 「添田など何だつてあんなに意気地が無いんだらう。鳩山の寡婦(ごけ)に口説き落されるなんて。」
と侯爵夫人がやきもきしてゐる矢先へ、ひよつくり顔を出したのは早稲田の図書館長は市島(いちじま)謙吉氏だつた。侯爵夫人は有るだけの愛矯を振り撒いて迎へた。そして市島氏が椅子に腰を下すなり、もう口説(くどき)にか\つた。
 「市島さん、今度の選挙に牛込から出なすつたら(いか)何。私及ぶ限りの御尽力は致しますよ。」
 市島氏はその折古本の事ばかり考へてゐたので、侯爵夫人の言葉が(なに)の事だか一寸呑み込めなかつた。だが、こんな時()に合せの笑ひを持合せてゐたので、
 「へへへへ……」と顔を歪めて笑ひ出した。そして
暫く経つてから(やつ)と返事をした。
 「何だつて突如(だしぬけ)にそんな事を仰有るんです。」
 侯爵夫人は(そば)にゐる大隈侯の顔をちらりと見た。侯爵は(たら)乾物(ひもの)のやうな顔をして(じつ)と何か考へ込んでゐた。
 「でも、私鳩山の寡婦(ごけ)其辺(そこら)を走り廻つてるのを見ますとほんとに癪でね……」
 「成程、御尤(ごもつとも)で……」と市島氏は型のやうに一寸頭を下げた。そしてその次ぎの瞬間には文求堂の店で見た古い唐本(たうほん)の値段の事を考へてゐた。



最終更新日 2006年05月10日 21時23分15秒

薄田泣菫「茶話」「有松英羲」

有松英羲
 今法制局長官の椅子に踏ん反りかへつてゐる有松英義氏が、まだ三重県知事をしてゐた頃、(ちやう)ど今時分月が瀬の梅を見に出掛けた事があつた。
 その頃月が瀬には、(くるま)(いぬ)先曳(さきびき)がついて、阪路(さかみち)にかゝると(たすき)首環(くびわ)をかけた狗が、汗みどろになつてせつせと悼の先を曳いたものだ。
 有松氏はずつと前から、自分の管内にさういふ忠実(まめ)な狗が居る事を自慢にしてゐた。で、その日も出迎への律の先に鱇躍(かいつくぱ)つてゐる(たくまし)い狗を見ると、
 「これだな、例の奴は。」
と言つて、属官を振かへつて、一寸にやりとした。
 だが、狗はその折華族の次男と同じやうに雌の事を考へて無中になつてゐたので、知事の愛矯に一向気がつかなかつた、よしんば気が()いた所で、相手を夢にも有難いお客とは思はなかつたに相違ない。
 有松氏は俥の蹴込(けこみ)に片足をかけた。その瞬間俥のすぐ前を雌狗が一匹通りかゝつた。先曳の狗はそれを見ると、後藤内相のやうに猛然と()ち上つた。
 (はずみ)に俸がずるくと引張られると、知事は(あと)の片足を踏み外していきなり前へのめつた。属官は可笑(をか)しさを()(こら)へるやうな顔をして飛んで(そぱ)へ往つた。
 知事は真紅(まつか)な顔をして起き上つた。属官は自分の疎忽(そこつ)のやうにお辞儀をしい/\フロツクコートの埃を払つた。フロツクコートは綺麗になつた。だが、肝腎の顔は()うする訳にも()かなかつた。有松氏の顔は名代の痘痕面(あばたつら)なので、その窪みに入り込んだ砂利は、おいそれと()取早(とりばや)穿(ほじ)くり出す事が出来なかつたのだ。
 有松氏は月が瀬に着く迄何一つ喋舌(しやべ)らなかつた。花を見ても石のやうに黙りこくつてゐた。そして県庁に帰ると、属官を呼ぴ出して、月が瀬の狗は動物虐待だから、屹度差止めると厳しく言ひつけた。
 月が瀬名物の狗の先曳はそれで御法度(ごはつと)になつた。それから幾年か経つた今日この頃、花は咲き、人は法制局長官になつて、どちらもにこ/\してゐる。


最終更新日 2006年06月01日 22時38分26秒

薄田泣菫「茶話」「(おど)かせ」

(おど)かせ
 ビスマルクが或時仲善(なかよ)しの友達と連立つて猟に出た事があつた。すると、()うした(はづ)みか友達は足を踏み滑らして沼地(ぬまぢ)(はま)つた。
 友達は慌ててビスマルクを呼んだ。
 「君お願ひだから()つて来て僕を(つか)まへて呉れ、さもないと僕は沼地(ぬまぢ)に吸ひ込まれてしまふ。」
 ビスマルクは大変な事になつたなと思つたが、強ひて平気な顔をしてゐた。
 「馬鹿を言ふない、僕が其処(そこ)へ飛ぴ込んで見ろ、一緒に吸ひ込まれてしまふばかりぢやないか。」とビスマルクは相手が(いぬ)のやうに(もが)いてゐるのを見た。「もうかうなつちや、(とて)も助かりつこは無い。君がいつ迄も苦しんでるのを見るのは僕も(つら)いから、一思ひに打ち殺してやらう。」
 ビスマルクはかう言つて、平気な顔で身動きの出来ない友達に(ねら)ひをつけた。
 「おい、じつとして居ないか、(まと)が狂ふぢやないか。僕は(いっ)そ一思ひに()つ付けたいから、君の頭に狙ひを付けてるんだ。」
 ビスマルクの残酷な言葉に、友達はもう泥淳(ぬかるみ)の事など思つてゐられなかつた。何でも相手の銃先(つゝさき)から(のが)れたい一心で、死物狂(しにものぐるひ)に腕いてゐるうち、古い柳の根を発見(めつ)けて、それに(すが)つてやつとこさで()(あが)る事が出来た。
 ビスマルクは笑ひく銃を胸から下した。その糞落付(くそおちつき)が自分を救つたのだなと気づいた友達は、
 「君有難かつた/\」
溝鼠(どぶねずみ)のやうな身体(からだ)をして、両手を拡げて相手に抱きつかうとした。ビスマルクは慌てて逃げ出した。
 「もう()い/\。そんな(ざま)をしてお礼などには及ばんよ。」
 神戸の船成金勝田(かつだ)氏は国民党の立場を気の毒に思つて、三十万円もふり撒くといふ墫がある。それも一つの方法には相違ないが、もつと()いのは、ビスマルク流に落選でもしたら、犬養始め皆の首根つこを縊めると脅かす事だ。ーすると五十人は屹度当選する。


最終更新日 2006年06月05日 20時12分12秒

薄田泣菫「茶話」「蓄音機」

蓄音機
 尾崎咢堂氏はまた政談の蓄音機吹込を始めたらしい。大隈内閣の総選挙当時にも、氏は今度と同じやうな事をやつた。そしてそれを方女に担ぎ込むで、自分の代りに喋舌(しやべ)らしたものだ。この方が汽車賃も要らねば、旅宿(はたご)賃・もかゝらないのだから、地方人に取つて、どれ()け便利か判らなかつた。
 その吹込蓄音機は、尾崎氏の徒党(みかた)に随分担ぎ出されたものだが、反対党で居て、それを選挙の道具に使つたのは国民党の高木益太郎氏(たつた)一人きりだ。
 高木氏は演説会の会場前へいつも高木尾崎立会演説と大きく触れ出したものだ。物好きな傍聴人が、軍鶏(しやも)蹴合(けあ)ひを見るやうな気持で会揚へぎつしり(つま)ると、高木氏は例の尾崎氏の吹込蓄音機と一緒に演壇へぬつと出て来る。
 で、先づ先輩からといふので、その蓄音機をかける
と、尾崎氏の吹込演説は感冒(かぜ)を引いたやうな(かす)めた声で喇叭(ラツパ)から流れて出る。
 いい加減な時分を計つて、高木氏が一寸指先を唇に当てると、蓄音機は(はた)と止つて、高木氏が一足前へ乗り出して来る。
 「唯今尾崎君はあんな風な事を言つたが、吾々江戸つ子の立揚から見ると……」
と、江戸ッ子自慢の聴衆(きゝて)が嬉しがりさうな事を言つて、()(びど)く尾崎氏の演説をきめつける。
 で、幾度かこんな事を重ねて、高木氏の最後の駁論(ぱくろん)が済むと、氏はくるりと蓄音機の方へ向き直る。
 「()うだ尾崎君、君の説は僕の駁論のために滅茶滅茶になつたが、異見があるなら、言つてみ給へ。こゝには公平なる江戸ッ子諸君が第三者として聴いてゐられるんだから。」
と勝ち誇つた軍鶏(しやも)のやうに一寸気取つてみせる。弾機(ばね)(ゆる)んだ吹込蓄音機は黙りこくつて、ぐうともす、つとも言はない。
 高木氏は一足前へ進んで、
 「どうだい、尾崎君、恐れ入つたかね。議論があるなら言つてみ給へ。参つたのだつたら何も言はなくともい丶。」
と扇子の先で、蓄音機の喇叭を二つ三つ叩いてみせる。喇叭は悲しさうな顔をしてくるりと外方(そつぽ)を向く。
 「どうです、皆様(みなさん)、尾崎君もあんなに恐れ入つて恥かしがつてゐますから、まあ今日はこれで許してやりませう。」
といふが(おち)で、演説会は閉会となる。かくて高木氏は高点を収めて安(やす/\)当選した。



最終更新日 2006年06月05日 23時05分05秒

薄田泣菫「茶話」「()の謝礼」

()の謝礼
 寺崎広業、小堀靹音(ともね)、川合玉堂、結城素明(ゆふきそめい)、鏑木清方、平福(ひらふく)(すい)などいふ東京の画家は、近頃呉服屋が画家(ゑかき)に対して、随分得手勝手な真似をするので、懲らしめの為に、高島屋の絵画展覧会には一切出品しない事に()めたさうだ。
 それには呉服屋が店の関係上、上方の栖鳳や春挙の作に比べると、東京側の作家のものを、幾らか値段を低くつける傾向(かたむき)があるにも依るらしいといふ事だ。
 大分以前京都のある呉服屋が栖鳳、香矯、芳文、華香の四人に半截を一枚宛頼んだ事があつた。出来上つてから店の番頭が金子(きんす)一封を持つて華香氏の(とこ)へお礼に往つたものだ。
 猫のやうな京都画家のなかで、(たつた)一人()える事を知つてゐる華香氏は、番頭の前でその封を押切つてみた。(むかしく大雅堂は謝礼を封の儘、畳の下へ()り込んで置いたといふが、その頃には狡い呉服屋の封銀(ふうぎん)といふ物は無かつたらしい。)なかには五十円の小切手が一枚入つてゐた。
 「五十円とは余りぢやないか。」
と華香氏は番頭の顔を見た。番頭は小鳥のやうにひよつくり頭を下げた。
 「でも香矯先生にも、芳文先生にもそれで御辛抱願ひましたんやさかい。」
 華香氏は鼻毛を一本引つこ抜いて爪先で番頭の方へ(はじ)き飛ばした。
 「ぢや栖鳳君には幾ら払つたね。」
 番頭はさも困つたらしく頸窩(ぼんのくぼ)を抱へた。
 「栖鳳さんは店と特別の関係がおすもんやさかい…:.」
 「ぢや百円も払つたかな。」
 華香氏は坐禅をした人だけに、蛙のやうに水を見ると飛ぴ込む事を知つてゐた。
 「へ、ゝ……まあ、そんなもので。」と番頭は一寸お辞儀をした。
 「ぢや、竹内君をも怒らせないで、(あと)の私達三人をも喜ばせる法を教へようかな。」
と華香氏は大真面目な顔をして胡坐(あぐら)を組んだ。
 先刻(さつき)から大分痛めつけられた番頭は、「是非伺ひませう」と一膝前へ乗り出した。それを見て華香氏は静かに言つた。
 「竹内君のを私達の(なみ)に下げよとは言はないから、私達のを竹内君並に引き上げなさい。よしか、判つたね。」
 呉服屋に教へる。東京画家のもこの秘伝で往つたら、大抵円く納まらうといふものだ。



最終更新日 2006年06月05日 23時06分28秒