薄田泣菫「石竹」

石竹
 この頃咲く花に石竹(せきちく)があります。照り続きで、どんなに乾いた(かはら)にも、山道にも、平気で咲いてゐるのはこの花です。茎が折れると、折れたままにその次の節からまた姿勢を持ちなほして、伸ひてゆくのはこの花です。細くて、きやしやで、日盛りのあるかないかの風にも、しなしなと揺れるほどの草ですが、針金のやうな強い神経をもつてゐて、多くの草花がへとへとに(しな)びかかつてゐる灼熱(しやくねつ)の真つ昼間を、瞬きもせず澄みきつた眼を開いて、太陽を見つめてゐるのはこの花です。茎を折つても、水気ひとつ出るではなし、線香のやうに乾いた髄を通して、生命が呼吸してゐるのはこの花です。砂の夢。()けつく石の夢。そしてまたどんな貧しい土地にも、根をおろして伸びてゆく不思議な「生命」の石竹色の夢。
                              〔大正15年刊『太陽は草の香がする』〕



最終更新日 2006年01月28日 17時04分28秒

薄田泣菫「石榴の誘惑」

石榴の誘惑
 秋はいろいろと果物が多いなかに、とりわけ石榴(さくろ)燦爛(さんらん)として輝いてゐます。希臘(キリシア)の女詩人が歌つた、「樹の実採りが採り忘れた、いや、忘れたのではない、採ることができなかつたので、今日までそのままになつてゐる、一番高い枝のてつぺんで紅くなつてゐる林檎(りんご)の実」も美しい。また陶工柿右衛門が見とれたといふ、軒端(のきば)の柿の実も綺麗ですが、石榴の実の美しさには、それらとはまた違つた趣があります。肌理(きめ)のあらい陶器を思はせる外殻の肌ざはりも面白いと思ひますが、秋が深くなると、その硬さうな外殻が()ぜ割れて、内部から紅玉の新鮮な実が(こぼ)れかからうとする味はひは、とてもほかの果物には見られない美しさです。陶器にはよく焼割れといつて、高い火熱が土の肌に思ひがけない裂け目をこしらへることがありますが、その焼割れが陶器そのものの(きず)にならないのみか、かへつてその器に豪宕(がうたう)雄大の気象を与へることがよくあります。ちやうどそのやうに石榴の裂け口は、この果物に雄大逸宕の味を加へます。裂け目は思ひきりくわつと大きく口を開いてゐるほど、線の交錯と紅玉の実の割れ加減とが相伴つて、一層趣を添へるやうに思はれます。
 大和の薬師寺に伝はつてゐる吉祥天の絵像は、その古さにおいても、美しさにおいても名高いものですが、不思議なことには、この天女の宝珠を持つた手の指が⊥ハ本に描かれてゐます。その理由はどうしたことか知りませんが、私たちが自分の掌面(てのひら)に、木から()ぎたての石榴を載せる時には、五本の指だけでは、数が足りないやうな気持がしないこともありません。石榴は火焔(くわえん)の果物です.紅玉の母胎です。一度取り落したが最後、大変なことになりますから。
 藍碧(らんロへき)の秋の空に、爆ぜ割れた石榴の実が、梢高く懸つてゐるのを見る時ほど、自然の放胆さに驚異と危険とのごつちやになつた感じを抱かせられることはありません。日光と微風との()めるやうな愛撫を見てすら、(いら)だたしさと嫉妬とを覚えるのもこの時です。どうかしてこれを椀ぎ取らうとする誘惑の押へきれなくなるのもこの時です。
 竿はさし伸べられます。足は爪立ちせられたままで、身体中の神経は竿の先に集められて、眼となり指となつて光つてゐます。太陽も、青空も、土蔵の白壁も、屋根の雀も、路の小石も、草の葉も、みんな瞳を輝かせて、竿の先を見つめてゐます。
 竿の先にはさまれた小枝は、手早くへし折られます。その(はつ)みにどうかすると、頭の勝つた石榴の実は、くるりと寝返りを打つて向き直つたかと思ふと、翻斗(もんとり)うつて真つ逆さまに地べたに転がり落ちることがあります。
 外殻は砕け、紅玉の実はばらばらに飛び散ります。ll美しい果物を(つぶ)したといふよりも、もつと貴重な、古渡(こわた)りの赤絵の支那皿をとり落して割つたやうな口惜しさと後悔とを、しみじみと味ははされるのはこの時です。
                              〔大正15年刊『太陽は草の香がする』〕



最終更新日 2006年01月30日 02時56分53秒

薄田泣菫「隠遁者の梟」

隠遁者の梟
 私はこのごろ夕方になると、裏つづきの空地へ出かけていつて、草のなかに両足を投げ出したまま、時間を過すことがよくあります。昨日もさうしました。
 西の方を見ますと、支那繻子(しなしゆす)の肌ざはりを思はせるやうな、静かな空に、テエブル掛けの布に染みこんだ茶碗の糸底の(あレ)のやうな三日月が、ぼうとにじんでゐました。あたりはひつそりしてゐて、蒸すやうな草の葉と花とのにほひが、そこいら一ぱいに拡がつてゐました。私はこの匂が好きです。どの草のものとも嗅ぎわけにくい、いろんな草の呼吸がごつちやになつて、それに土のしめりさへ溶け込んだこの匂は、どんな場合にも私の魂をしづめてくれる力を持つてゐます。
 (ふくろふ)が鳴いてゐます。ほう、ほうと竹の筒を吹くやうな声で、梟が鳴いてゐます。程近い(えひす)神社の(くすのき)の森かどこかで鳴いてゐるのでせうが、あの鳴き声を聞いてゐると、そんなことを詮索する気もなくなつてきます。
 むかしの本に、土をまるめて、うつろになつた木の洞穴に入れておくと、いつのまにかそれに毛が牛え、まるい目があいて、梟となつて羽ばたきしながら飛び出してくる、といつたやうなことが載つてゐました。実際梟は木の精と土の精との問に生れた私生児で、その詩人風のはにかみと、哲学者風の孤独主義とを父なる樹から遺伝し、夜を好む性癖と肉食主義とを母なる土から持ち伝へてゐます。その鳴き声が何といふことなしにもの寂しく、土の底からでも嘆くやうな、幽遠なおもむきがあるのはそのゆゑであります。私はしばらくそれに聞きとれてゐるうちに、淡い悲しみが草のにほひと一緒に溶けあつて、水のやうに胸にしみ入るのを感じました。
 梟は私にとつて忘れ難い昔馴染の一人であります。ちやうど今から二十年前の日露戦争の頃でした。何しろ一国の独立を()けた戦争ほどあつて、あらゆる国民のあらゆる努力と注意とは、毎日新聞紙の上に大きな活字で報道される戦争のことにのみ集中されて、私たちの仕事は誰ひとりふり向いて見る人もなくなりました。戦争のはじまらなかつた前ですら、詩を作つて生きてゐる人たちの苦しみは、並大抵のことではなかつたのです。その頃私は、
 十姉妹粟(しふしまつあは)はみて鳴くわれもまた粟はみて泣くをかしいたまし
といふ歌を作つて、自ら笑つたことがありましたが、実際その頃の詩人の生活は、粟と水とで生きてゐる小鳥の生活そのままでした。
 戦争がはじまつてからはそれが一層ひどくなりました。私は京都の寓居をひき払つて郷里に帰りました。私の郷里は前に高梁(たかはし)川の末流をひかへ、後に山を脊負(せお)つた小さな農村ですが、戦争の騒々しさから(のが)れて静かに考へ、静かに歌ふには恰好の巣でありました。
「武力の戦争は軍人がしてくれる。その後に来る文化の競争は自分たちの手で行はなければならない。メレジコウスキイは何を考へてるか知らないが、自分たちもせつせと働かなくつちゃ」
 私はいつもこんなことを考へながら労作を続けました。メレジコウスキイをひつ張り出して考へたのは、私たちの仲間では、その頃この人の長い三部作やトルストイの評伝やを耽読して、当時のロシア文学の代表者としてこの作家を考へてゐたからでした。
 私は一日机にもたれて労作したり、読書したり、閉ぢ籠つてのみ日を過しました。農夫ばかりの小村ですから誰ひとり訪ねてくるものもなく、私は二日も三日も人と談話(はなし)をしないでおくるやうなことがたびたびありました。
「けふも一日誰とも話をしなかつたな」
 私は夜床をのべて眠りにつかうとする際に、よくこんなことを考へました。そして時々誰かと話をでもしてゐるやうに独語(ひとりごと)をいつて、気がついて覚えずはつとすることがありました。私がどうかすると、いまだによく独語をいふのは、その頃の癖が残つてゐるものとみえます。
 それでも夕方にはよく散歩に出かけました。日暮前にそこらに放してあつた牛をつれ帰つた後は、人つ子一人通り合さない堤の上に体を投げ出して、私は頭の上の星に見とれたり、河向ふの児島半島の低い山の上に、月の出るのを待つたりしました。
 そんな時によく、新聞の号外を配る音が、村から村へ響き渡りました。号外売りは東は倉敷、西は玉島(たましま)の新聞配達が、その日の仕事を済ませてから、残りの号外を小遣ひ取りに売りに来るので、なかには発行日付が二、三日前のも交つてゐたし、新聞もまちまちでしたが、いつれも有料で、たいてい一枚一銭はとられたやうに覚えてゐます。
 私は暗い堤の上で、その鈴の音を聞きつけると、野道を一息に駆けもどつてきて、号外売りの手から売れ残りの一枚を、ひつたくるやうにして手にとりました。そして戦争に出てゐる一人の弟の身の上を気遣ひながら、薄暗いランプのかげで、幾度かそれを読み返しました。
 麦の穂が思ひきり伸びてゐる頃でした。ある晩のこと、私はいつものやうに一人で暗い野道を河堤に出かけました。そして月見草の生え繁つた中に、どかりと腰をおろしました。
 梟の鳴いてゐるのが聞えました。私の郷里の人は、この鳥の鳴き声を聞くと、
「山の池で、今夜もまた亀が鳴いてるよ」
と、その声を亀のものにしてしまひますが、亀はむかしの武士と同じやうに、決して泣くものではありません。あれはみな皇くの声です。そして、その晩鳴いてゐたのも、やはり梟でした。
 私はその声を聞いた一刹那、
「あ、あそこにも自分が一人ゐるな」
と、思はずにゐられませんでした。実際この広々した野なかで、ありもしない自分の心の片われに呼びかけてゐる姿は、その当時の私にそつくりなものがありました。
 少年の一茶は、親のない子雀を見て、
 おれと来て遊べよ……
といひました。寂しさを何よりも自分の魂と風雅の糧としてゐた芭蕉ですら、時には、
 こちら向けわれも寂しき秋のくれ
と歌ふやうなことがありました。私はその声を聞いてゐるうちに、一目でもいいから、その梟が見たくてたまらなくなりました。
 私は声をたよりに河下の柳の並木を尋ね歩きました.、子供の頃、私は小鳥屋の店先で、緋羅紗(ひラシヤ)の頭巾をすつぼり(かふ)せられたこの鳥を見かけたことがあるので、その晩の梟もやはり緋羅紗の頭巾をかぶつてゐるやうに想像しました。
 その折でした。村の方に号外売りの鈴の音が聞え出しましたのは。やがて鈴の音がとまつて、号外売りがいつもの銅鑼声(とらこゑ)を張り上げて、二言三言何かわめいたと思ふと、そこらに集まつてきた人たちが声を合せて、
「ばんざあい」
と二度三度高く叫んだ歓呼のひびきが、静かな夜の空気を破つて伝はつてきました。
 その瞬間、私はこれはきつとどこか大きな捷軍(かちいくさ)の報道に相違ない、一刻も早く知りたいものだ
と、その足ですぐ帰りかからうとしますと、どこからともなく、
「ほう、ほう、……」
と、また梟の声がきこえます。私は迷ひのうちに、自分の魂の呼び声を聞きつけたやうに、はつとしてまた(あと)がへりをしました。
 私はその夜二十日過ぎの月が、人の内証事を立ち見をするやうに、こつそり東の空に顔をのぞけるまで、柳の木の下を歩きまはつてゐました。
 乳自色の冷たい月あかりが、たらたらと空からしたたり落ちると同時に、そこらはほんのり明るくなりましたが、梟の姿はどうしてもつきとめることができませんでした。
 それでゐて、ほう、ほうといふその鳴き声は、やはりどこからか落ちてくるのです。
 私は夜が更けてから、家に帰つて来ました。号外は五月二十七日の日本海海戦のすばらしい勝利の報道でした。
         〔大正15年刊『太陽は草の香がする」〕



最終更新日 2006年02月02日 20時51分35秒

薄田泣菫「山雀」

山雀
 私の近くにアメリカ帰りの老紳士が住んでをります。その人が今年の春六甲山へ登つて、その帰りにあたりの松林で小鳥の巣を見つけました。巣にはやつと羽が生えかけたばかしの(ひな)が四羽をりました。雛は老紳士を見ると、口を一ぱいに開けて、ちいちいと鳴きました。
「可愛い奴だな。俺の顔を見ると、あんなにものを欲しがつてゐるよ」
 老紳士は何か持ち合せはないかしらと袂をさぐつてみましたが、あいにく卷煙草の箱しか見つかりませんでした。老紳士は大の煙草好きでしたが、小鳥であり、おまけに未成年者であるこの相手に、煙草をすすめるわけにもゆきませんので、もどかしさの思ひをしながらも、黙つて見てをりました。
「可愛い奴だ。何鳥かしら」老紳士は覗き込むやうにして雛の毛をあらためました。「山雀(やまから)によく似てゐるな。山雀かい、お前たちは」
 巣の中の小鳥は、それを聞くと、一斉に頭をもちあげて、ちいちいと鳴きました。
「やつばし山雀だ」
 さう思ふと同時に、その山雀にいろんな藝を仕込む面自さが老紳士の心を捉へました。親鳥が居合せないのを仕合せに、巣ぐるみ雛を懐中(ふところ)にねぢ込んで、逃げるやうにして山を下りてきました。そして道々、
「もうこんなに大きくなつたんだから、餌付(ゑつ)けさへうまくやつたら、きつと育つだらうて」
と言訳らしく、独りごとをいひました。
 小鳥は四羽のうち、三羽までは死にましたが、残つた一羽は餌づけもうまくいつて、無事に育ちました。だが、困つたことには、山雀だと思つて育てた小鳥が、だんだん大きくなるにつれて、毛いろから恰好までそつくり頬白(ほはしろ)に変つてきました。老紳士はそれを見ながら、毎日のやうに溜息をついてゐます。
「頬白だつていいぢやありませんか。山雀とは比べものにならない好い声で、
 一筆啓上仕りそろ……
と、鳴きますからね」
といつて、慰めますと、老紳士は浮かぬ顔をして、
 「いくら好い声で鳴いたところで、頬白だつたら山雀のやうにこつちの思ひ通りに藝を仕込むわけにはゆきませんからね」
 といつてゐます。老紳士は(ひま)にまかせて自分の好みを、小さな鳥の上に一つ残しておきたいらしく見えました。

 山雀といへば、私の子供の頃よく顔を見知つてゐた、親類つづきの山崎老人のことを思ひ出します。山崎老人は負け嫌ひな、気性の激しい上に、時勢に対する適応性と才能とを欠いでゐたために、毎日毎日いらだたしさから、自分で自分の生活を腐蝕してゆくよりほかには仕方がなかつた人でした。都会でも、田舎でも、旧家が衰へ初める頃になると、変質的によくかうした主人を産み出すものです。
 老人の激しい気性は、自然村の人たちをその身辺から遠ざけました。老人は話相手のない所在なさといらだたしさとから遁れるために、毎日鉄砲をかついで、野山へ出かけました。そして見あたり次第に兎を撃ちました。狐を撃ちました。鼬を撃ちました。鳶を撃ちました。烏を撃ちました。雀を撃ちました。一度などは、鯉をとるのだといつて、淵のなかにさへ撃ち込みました。
 ある時山崎老人は、いつものやうに鉄砲をかついで山の奥へ入つてゆきました。こんもりした谷の繁みで、老人は一人の若い男が小鳥の巣をさがしあててゐるのを見つけました。
「何の巣だい、それ」
 老人は近寄つて訊きました。鉄砲をさげた、眼のきようきよう光るこの老人を、胡散(うさん)さうに見返りながら、若い男はぶつきら棒にいひました。
「山雀の巣だよ」
「それを捕つてかへらうといふのかい」
「さうだよ」
「ならぬ、そんなこと」
「なぜ、できないんだ」若い男はむつとした顔をあげました。「俺らかう見えても、商売人だからな。ここいらの山からは、いつも荒鳥(あらとり)をひいて帰るんだよ」
「いよいよ怪しからん奴だ。ここいらの山を誰のものだと思ふ。みんなわしのものだぞ」
 老人は口から出まかせのことを言つて、ちよつと威張つてみせました。
「よしんば山がお前さんのものだつて、巣くつてる鳥まで自分のものだとは言ふまい」
「いや、言ふとも。わしの山にゐる小鳥は、みんな俺のものだ.、指一本差さしはせんぞ」
 老人は山の上に輝いてゐるおてんたう様をも、自分のものだと言ひかねまいほどの意気込みを見せました。
「そんなに威張つたつて、俺が見つけたものを俺が持つて帰るのに、何の遠慮がいるもんか」
 若い男はぶつぶつ言ひながら、小鳥の巣をそのまま持つてきた籠に移さうとしました。それを見た老人は黙つて二歩三歩後退(あとしさ)りをしました。
 小鳥を籠に移した商売人は、何気なく老人のはうを振り返りました。老人は後に立ちはだかつたまま、鉄砲の筒口をこちらに向けて、引金に指をかけてゐました。それを見ると、商売人はがたがた(ふる)へながら、べつたりそこに尻餅をついてしまひました。
 山雀はそのまま老人のふところに入りました。老人はそれを家に持つて帰つて、丹念に餌づけをしてゐましたが、無事に羽が出そろひますと、みんな籠から取り出して山へ逃がしてしまひました。
 それを惜しがつたある人が、
「山雀は仕込みさへしたら、いろんな藝をおぼえるのに……」
といひますと、老人はたつた一言、
「うるさい」
といつたきり、()()を向いたさうです。
[大正15年刊『太陽は草の香がする』〕



最終更新日 2006年02月07日 21時03分30秒

薄田泣菫「恋妻であり敵であつた」

恋妻であり敵であつた
 中央公論の二月号と三月号とに、文壇諸家の交友録が載つてゐました。そのなかに正宗白鳥氏は今は亡き人の平尾不孤、岩野泡鳴二氏を回想して、二人とももつと生きてゐたら、もつと仕事をしてゐただらうに、惜しいことをしたものだと言つてゐました。ほんたうにさうで、二氏はそれそれ(ちが)つた才分をもつてゐて、どちらも長生をすればするほど、それが成長してゆく性質のものだつたのを思ひますと、殊に痛惜の念に堪へません。私は二人ともよく知つてゐましたが、岩野氏は生前すでに一家を成してゐた人だけに、交際も広く友人知己も多かつたのに比べて、平尾氏のはうは、どちらかといふと人間が陰気で、引つ込み思案で、おまけに名前も売り出さないうちに亡くなつたので、今では知つてゐる人も僅かしか残つてゐません。今日はその平尾氏について少し語つてみたいと思ひます。氏の短い一生は、いろんな意味で感慨の深いものがありますから。
 平尾氏が早稲田の文科を卒業後、初めて見つけた勤め口は、大阪の造士新聞といふ()つぼけな週刊新聞でした。造士新聞は今は大阪のある郊外電鉄の専務取締、その当時は弁護士の紀志嘉実氏が、貧しい青年学生を収容するために設けた造士寮の機関新聞でしたが、平尾氏は編輯するやうになつてからは、際だつて文藝の色が鮮やかに見られるやうになりました。
 その造士寮には、今中山文化研究所で花形のS医学博士なども、大阪医専の学生としてゐられたやうでした。女学生も三人ばかしゐましたが、そのなかのOさんといふのに、平尾氏が恋をしました。Oさんは金沢在の生れで、朝鮮にもゐたといふことでしたが、いかにも雪国の生れを思はせるやうな、しつかりした、理智の勝つた、主我的で打算的なところの見える婦人でした。その頃0さんは梅花女学校に通つてゐました。キリスト信者の多いあの学校のなかで、平気で自分の机に小さな仏壇を入れて、仏様を(まつ)つてゐたといへば、その気性のほども大抵察しられるだらうと思ひます。
 0さんは、打ち明けられた平尾氏の恋を聞くと、苦しさうに顔色を変へました。誰にも隠してゐたことですが、実をいふとOさんは亭主持ちの体でした。しかもその亭主といふのは、自分の肉親の叔父で、Oさんは乱暴なこの叔父さんのために自分の童貞を汚され、おまけに子供まで持たせられてゐたのでした.思へば思ふほど、自分の一生を蹂躙(しうりん)した男性といふものが憎くて憎くてたまらず、どうかしてかうした不倫の関係から遁れて、女一人で自ら活き自ら教育したいと思つて誰にも知らさず、これまで住んでゐた朝鮮の家を振り捨てて大阪に身を寄せてゐたのでした。0さんはこんな身体でしたから、人目に子持だなと気づかれるのが恐ろしさに、寮に入つてからまる二年といふもの、女友達がどんなに誘つても、何とかかとか辞柄(しへい)を設けて、一度だつて一緒にお湯には入らなかつたさうです。Oさんは平尾氏の前に、隠さず自分の過去を打ち明けました。
「ただいま申し上げましたやうな次第ですから、私は何をさしおいても、まつ独立するために、私自身を教育しなければなりません。お情けを受けるか受けないかは、その後のことです」
ときつばり言ひきりましたが、それでも物質的に平尾氏の扶助を受けることになつて、女子大学に入りました。平尾氏はその当時記者生活の月収が四十円か四十五円しかなかつたなかで、毎月この婦人のために、二十円つつ仕送つてゐたやうでした。
 ところが、ある日のこと、平尾氏とOさんとの関係が続き物になつて万朝報(ようつてうほう)に掲載されました。それは大分非難の色を帯びた文字でした。今なら何でもない事件ですが、その当時は青年文学者と女子大学生の恋愛といふので、かなり世間から騒がれたものでした。平尾氏の親友で、今は亡き人の角田浩々歌客氏や、中井隼太(はやた)氏などは、ふだんOさんに(あきた)らぬ感情をもつてゐましたから、この騒ぎを機会に0さんときつばり手を切らせたい、少なくとも深入りはさせたくないといつて、平尾氏の東京行を中止させようと努力しましたが、いつこくな平尾氏は何といつても()き入れません。しまひには涙を流して、
「僕が行かなかつたら、Oは死んでしまふかも知れない。そんなことがあつたら、諸君は僕に0の生命を弁償することができるか」
と友人たちに喰つてかかる始末なので、皆は呆気にとられて黙つてゐるより仕方がありませんでした。東京行を決心した平尾氏は、旅費その他の調達を金尾(かなを)文淵堂主人に交渉しました。平尾氏はその頃角田氏や私などと一緒に、文淵堂の雑誌事業に関係してゐました。
「金の調達が(ひま)どつて、僕の東上が遅れるやうだつたら、Oは死ぬかも知れない。もしかそんなことがあつたら、Oを殺した責任の幾分は君にあるんだから」
といつたやうな交渉の仕振りなので、文淵堂主人は不承無精にその金を調達しなければなりませんでした。かういふと平尾氏は大のイゴイストのやうに聞えますが、(実際氏の友達のあるものは、氏をイゴイストだと思つてゐたやうでした)真実はさうではなく、正直で、一本気で、感情が昂じると、当の目的物以外に、他の思はくなどを構つてゐられない、持前の純な気性の現れに過ぎなかつたのでした。
 その頃平尾氏の友達で、家と家との関係から、思ふ女と結婚ができないで苦しんでゐる人がありました。平尾氏はその解決策として、ある方法を友達に申し込みました。それは平尾氏がその女の良人(をつと)として婿入り(女は家の跡取娘でした)をし、恋人同志の縁が結ばれるまで、女の童貞を保護しようといふ案なので、そんな草双紙にでもあるやうな筋書が、すぐ行はれると思つてゐたところに、氏の純な気質が光つてゐました。
 悪意のあつた新聞記事は、皮肉にも平尾氏の身の上に好い結果をもたらしました。平尾氏の好意を極度に利用して、もつと学生生活をしようとしてゐた女の気ままは、手厳しい新聞記事のために(もろ)くも打ち(くし)かれて、結婚より他に残された途はなくなりました。で、二人は結婚しました。
 幸福な日は続きました。その幸福のなかで、平尾氏の一つの失敗と見てもいいのは、自分と同じやうにOさんをも文藝の道に引き込まうとしたことでした。世の中には結婚すると同時に、妻の藝術的天分をも封じてしまふ良人がありますが、また平尾氏のやうに妻を強ひて自分の道に引つ張り込まないではゐられない人もあります。馬に乗るのにそれぞれ流儀があるやうに、妻を取り扱ふにも各自の勝手があるものです。
 困つたことが起きました。0さんは自分の書いた短篇小説を、平尾氏の先輩であるK氏に見てもらひました。よせばいいのに、K氏は煽て半分に、
「よくできました。貴女には立派な才分があるやうです。少なくとも平尾君よりは巧いですね」
といつて()めたてました。Oさんはすつかりいい気になつて、それ以後いくぶん自分の良人を軽く見るやうになりました。平尾氏はそれに少しも気がつきませんでした。
 さうかうするうちに、平尾氏の持病である肺病がだんだん進んできて、自分の職業にも離れなければならなくなりました。やがて暗い、陰気な、貧しい日が続きました。血色のいい、はち切れさうな肉体をした、健康なOさんは、良人の病気とその苦痛とに対してあまり同情が持てないのみか、時とすると反感をさへ催すことがあるのを自分で知りました。しかも平尾氏は妻を信じ切つて、少しも疑ひませんでした。
 藝術を捨てたのではなかつたが、不治の病気を抱いて、死に直面した平尾氏は、藝術よりもむしろ神の救ひを欣求(ごんく)しました。で、京都に来て同志社神学校に入りました。法悦を求めて精進してゐる間、二度も三度も略血(かノけつ)しました。そのうち、Oさんの衣服が一枚二枚と少なくなつてゆくに気がついた平尾氏は、理由(わけ)を訊きました。0さんは何気ない調子で答へました。
「曲げたんですわ、貴方の薬代や何かの足しにと思つて」
 平尾氏は感謝の念に打たれないではゐられませんでした。そのうち氏が病気を推して書いた脚本が、読売新聞社の懸賞募集に当選して、賞金二百円が氏の許に送られました。Oさんはその半額を自分に与へてくれるやうに良人に強請(ねだ)りました。
「これだけあつたら、看護婦学校が卒業できるかと思ひます。そしたら貴方の介抱も思ふやうにできますから」
 平尾氏は涙を流して喜びました。賞金の半分は分けられて、妻の懐中(ふところ)に入りました。Oさんはその翌日看護婦学校に入るといつて、手荷物を提げて家を出ました。  そして二度ともう良人の前にその姿を見せませんでした。
 妻に逃げられたと知つてから、平尾氏の病気は急に昂進しました。そして息を引取る間際の最後の祈疇はかうでした。
「神よ、願はくばわが妻を忘れさせたまへ」
「神よ、願はくば妻を免したまへ」と祈らうとしても、どうしてもさうは祈り得られないで、(かす)めたやうな声で、「わが妻を忘れさせたまへ」といつた心を思ふと、痛はしくなります。
 0さんが薬代のために曲げたといつてゐたその着物は、まさかの時の用意に、一枚一枚と持ち出されて、実はその友達の家に預けられてゐたのでした。自分のものは何ひとつ失はず綺麗に持ち出したOさんは、京都を発ち際にその友達にいひました。
「私は最初の良人にひどい目に逢ひました。あれでもう沢山です。運命が二度また私を同じやうな目に会はさうとしたつて、それが辛抱できるものですか。私は自身に落ちかかつてくるものを、私の手でちよつと跳ね返したに過ぎません。平尾には気の毒ですがね」
「恋人であり、おまけに敵である」とストリンドベリイは言ひました。文字通りに平尾氏のそれは恋妻であり、また仇敵でありました。
〔大正15年刊『太陽は草の香がする』〕



最終更新日 2006年02月12日 10時24分25秒

薄田泣菫「中宮寺の春」

中宮寺の春
 ある歳の一月五日午後二時過ぎのことでした。
 私は、その頃まだ達者でゐた法隆寺の老男爵北畠治房氏(きたはたけはるふさ )と一緒に連れ立つて、名高い法隆寺の夢殿のなかから外へ出てきました。
 山国の一月には珍しいほどあたたかい日で、薄暗い堂のなかから出てきた眼には、(まふ)し過ぎるほど太陽は明るく照つてゐました。石段の下には見物客らしい、立派な外套を(はお)つた四十がらみの紳士がたつた一人立つてゐて、八角造りのこの美しい円堂に見とれてゐたらしく見えました。
 北畠老人は、ちよつと立ちどまつてその紳士に呼びかけました。
「おい、お前どこの奴ぢや」
 横柄な言葉つきに、紳士はむつとして振り返つたらしいが、すぐ目の前に衝つ立つた老人の、長い白髭を胸まで垂れた、そして人を威圧するやうな眼付きを見ると、何と思つたか、帽子をとつて丁寧にお辞儀をしました。
「はい、神戸の者でございます」
「神戸の奴か。ぢや、法隆寺は初めてぢやの」
「はい、仰せの通り初めてでございます。どうも御立派なものでございますな」
 神戸ものの紳士は、この得体のわからない横柄な老人が、その皺くちやな手ひとつで法隆寺を造り上げでもしたかのやうに言つて、またしてもお辞儀を一つつけ加へました。
「一人で見て歩いたつて、お前たちに何が解るもんか。今この男を(と、老人はちよつと顎で私のはうをしやくつて見せながら)中宮寺へ案内してやるところぢやから、お前も一緒についてきたがよからう」
「有り難うございます。それぢやお供させていただきます」
 紳士はかう言つて、私にもちよつと目礼をしました。
「ついてくるか。いい心掛けちや。しばらくでも俺と一緒にゐたら、きつと賢くなれるからの」
 老人は独語(ひとりごと)のやうに言つてゐましたが、ぶきつちよな手つきで胸釦をはつしたと思ふと、着古した禿げちよろけの外套を脱いで、それを紳士の前に突き出しました。
「こんなものを着てゐると、肩が()つていかん。お前は手ぶらのやうだから持つとつてくれ」
紳士は不承無精に古外套を(わき)の下に抱へたまま、黙つて私たちの後についてきました。
 松の内といつても、中宮寺の境内は寂しいものでした。北畠老人は案内をも乞はないで、玄関の障子を引き開けざま、つかつかと奥の方へと歩いてゆきました。私たちもその後を追ひました。
 うす暗い本堂の中で、私たちは名高い如意輪観音の坐像を見ました。老人はいつものやうに癇高い声でわめくやうにこの仏像のすぐれてゐることを吹聴しました。神戸の紳士は自分の粗忽を吐られでもしてゐるやうに、「はい、はい」とすなほに応答をしながら、幾度か頭を下げてゐました。
 そこから一つ二つ小問を隔てた座敷に入つてゆくと、来客でもあつた後とみえて、尼寺にふさはしい美しい色の座蒲団が二帖つつ向きあつて行儀よく敷いてありました。北畠老人は、
「くたびれた。しばらく休んでゆくとしよう」
といつて、どかりとその上へ胡坐(あくら)を組みました。私も老人と向きあつたその一つに坐りました。それを見た老人は急に不機嫌な顔になつて、
「俺の前でその坐りやうは何ぢや。猫の子か何ぞのやうに蒲団の真ん中にちよこなんとして……」
といつて、もじやもじやした髭のなかから唇を尖らせました。
「私の坐りやうがいけないんですか」
 私は面喰つて、きちんと行儀よく坐つた自分の膝に眼を落しました。
「いかん。断じていかん」老人は南瓜(かほちや)のやうな大きな禿げた頭を横にふりました。「すべて目上の人と差し向ひでゐる時に、座蒲団の真ん中に坐るといふ法はない。膝を前にのり出し敷物を後にずらしておくのがむかしからの慣例(しきたり)ぢや。俺は田舎爺ぢやが、かう見えてもお前に比べるとずつと先輩なんぢやからの」
「それぢや、かうすればいいんですか」
 私は笑ひ笑ひ膝を前にのり出しました。蒲団の綿が厚いので、私の体は畳付(たたみつき)の悪い徳利のやうにどうかすると前へのめりさうでした。
「さう、それで本当の坐りやうちや」
 老人はやつと機嫌を直して、大きな掌面(てのひら)で皺くちやな顔を撫でまはしました。
 次の間の襖が細目にすうと開いて、誰だかそつとこちらの様了を覗いてゐるらしく見えましたが、やがて中年過ぎの、笑顔のいい、上品な尼さんが、いそいそと茶をもつて入つてきました。
「まあ、まあ。どなたやしらん思ふたら、北畠さんどすかいな。まつ明けましておめでたう存じます。旧年はいろいろ……」
 尼さんが丁寧に挨拶するのを、老人は「うん、うん」と横柄に鼻であしらつてゐましたが、尼さんが次の間に下つてゆくと、いくらか落ちついた調子で私に話しかけました。
「おい、今の尼さんの左手を見たかい」
「左手ですつて」私はちよつとまごつきました。「左手をどんなにしてゐました。うつかり気がつきませんでしたが」
「馬鹿ぢやのう。何といふうつそりぢや。あの手つきに気がつかないなんて。いつぞや早稲田の島村抱月とやらいふ奴をここに連れてきてやつたが、あいつもお前と同じやうなうつそりで、やつばり気が付かなんだよ」
 老人は得意さうに言つて、私のために尼さんの手つきを説明してくれました。それは左手を膝や畳の上におくをりには、いつも拇指(おやゆひ)を中に、残りの指は皆行儀よく折り曲げて、決してちかに掌面を当てないやうにしてゐると言ふのです。
「左手は客のために用意しておくものちやから、なるべく汚さないやうにといふ心がけなのちや。不行儀に育つたお前たちには、とても解るまいが……」
 老人はまたしても喚くやうに声を高めましたが、急に気がついたやうにそこらを見廻しました。
「さつきの神戸の奴はどうしたらう。お前知らんかの」
「存じませんよ。本堂までは一緒に来てゐたやうでしたが」
「あいつには外套を持たせてあるのちやが」
 老人は不安さうに眩きながら、やつとこなと立ち上つて、次の間に捜しに出かけました。私もあとからついてゆきました。紳士の姿はそこにも本堂にも見えませんでしたが、禿げちよろけの老人の外套は折り畳んだまま、お鏡餅の飾つてある小さな経机の上に載せてありました。そして手帖でもちぎつたらしい紙片に、鉛筆で次のやうに書いてありました。
   「奉納。 古外套一着。
         口喧しい老人より」
 北畠老人は懐中(ふところ)から眼鏡をとり出して、その紙片に眼を落したと思ふと、泣くやうな声で笑ひ
出しました。
「あいつめ、老人をわやにしよるわい」
                             〔大正15年刊『太陽は草の香がする』〕.



最終更新日 2006年02月12日 10時34分49秒