薄田泣菫「茶立虫」

茶立虫
 いつ頃の「趣味」であつたか、茶立虫(ちやたてむし)について露伴氏の短い談話(はなし)が載つてゐた。「あるかと思へばあるやうで、ないかと思へばないやうな実に一種変つた虫だ」とあつた。
 茶立虫といへば、私にも追懐(おもひて)がないでもない。確かまだ(とし)も八つか九つかの頃であつた。母は弟を連れて泊り掛けで里見舞か何かに出かけていつた不在(るす)に、あやにくと父が風邪で()せつたことがあつた。私は言ひつけられたやうに台所の据火鉢(すゑひはち)焚落(たきおと)しを一杯継ぎ足して、家伝の風薬(かさぐすり)(私の(うち)祖父(ぢち)の代まで医者を勤めてゐた)を(せん)じにかかると、火がまだ(おこ)りも切らぬのに、ことことと湯の(たき)るやうな、(かす)かな音がする。そつと薬鑵(やくわん)に触つてみると、やつと生温(なまぬる)に胴が(あつた)まつたくらゐなので、不思議に思つて、うとうとと眠りかけた父を呼び覚して訊ねると、それは茶立虫の悪戯だといふ。どんな虫だと聞き直すと父は寝返りをうちながら、誰もつひそ見たことがない、おほかた(ほこり)のやうな目に見えぬ薄つぺらな者に相違あるまいといつた。
 薬は煎じ上つた。その後で垣根の零余子(むかこ)(むし)つてきて、温火(とろぴ)にかけて(あふ)つてゐると、またしてもことことと音がする。可笑(をかし)な茶立虫だ、薬はもうすつかり煎じ上つたのに、さうとも知らず、まだ湯の沸るやうな真似をしてゐると、今度は一杯こつちから担いだやうな誇りを感じて、そつと父に耳打ちをすると父は寂しさうに笑つた。
 その後も幾度か茶立虫の音を聞いた。咳払(せきはら)ひをするか、足音を立てるかするとふつつりと鳴き止む。そつと忍んでじつと息を殺してゐると、またことことと鳴き始める。いかにも仄かな音で、閑寂そのものを聞くやうな心地がする。
 捜しても捜しても、どこにゐるやら(わか)らぬやうな物蔭に芥子粒(けしつぶ)ほどな肉身(にくしん)を寄せて、虫はそれ相応に自我の生存を営んでゐる。自然が騒とつしても、すぐけし飛んでしまふやうな蜀弧な生涯ではあるが、しかし自然がどれほど大きい、強い、怖ろしいと言つたところで、虫に何の関係(かかはり)があらう、虫は生きるために生きてゐる。そして(ゑ竚ご)も拾へば、卵も産む。それで十分なのだ。私は蜂の雛を離れて黔、惴しない嬰にもをれば・亂かな寺方にも樹んだ・そして穂の日の、とりわけ静粛(ひつそり)とした(ひる)過ぎなどになると、ふと茶立虫を想ひ出してどうかすると今もその音を(ぬす)()きしてゐるやうな心地がする。が、(ひと)()いてみると、相もかはらず誰ひとりどんな虫だかつひそ聴いたこともないといふ。してみれば茶立虫は、私ひとりの耳に聞かれるある神秘なものの(ささや)きなので、その言葉をそのまま私の気持に取り入れることのできないのは、鈍い心の嘆きとしていつまでも私ひとりの有つべきものに相違ない……
                                  〔明治42年刊『泣董小品』〕



最終更新日 2005年11月13日 01時55分44秒

薄田泣菫「世間」

世間
 秋末(あきすゑ)のある日のことであつた.∪
 あちこちに落穂の(こほ)れた田圃路(たんほみち)を、私はどこと当所(あてと)もなく逍遥(ぶらつ)いてゆくと、道は曲りくねつてそろそろ落葉(おちば)しかかつた(なら)の林に入つてきた。心持だらだら路になつたそのなかほどに、もじやもじやと(ひデ)のやうな小笹(こささ)に囲まれて、猫の額ほどの畑地(はたけ)があつて、木綿(きわた)がちよつびりと植ゑつけてある。桃吹(ももふき )ももう(すゑ)になりかかつたらしく、尻を(から)げたやうに枯れ上つた下葉の蔭に、干乾(ひから)びた桃殻にこびりついて、真つ白な綿(わた)が三つ四つ寒さうに()み出してゐるのが見える。私は(あせ)に入り込んで試しにその一房を()きとつて、そして嗅いでみた。
 秋の日はもうそろそろ西へ傾、きかかつて、弱々しい黄いろい光が羞恥(はにか)んだやうにそつと葉少なの楢の木立へ(あた)つてゐる。……ああ想ひ出すとこんな日だ。私の郷里(くに)では木綿の吹く頃の、ちやうど今日のやうに晴れて暖かい日になると、阿波(あは)は徳島在の操り廻しが、(きま)つたやうに海を越えて稼ぎにくる。両掛けのやうな木箱の、片側に欄十(ノもすり)の附いたのを振分けに担いで、家並(やなみ)に百姓家の門先(かどさき)を訪れて、木綿だの籾殻(もみがら)だの混雑(ごたくルらヒ)と乾し並べた広場(ひろつば)の片隅へ、ごとりとその荷箱をおろす。そして聞き馴れた浄瑠璃(しやうるり)一節(ひとふし)を節廻しかろく口ずさみながら、そろそろ箱の上蓋(あげぶた)をとりにかかる-ーi私の郷里(くに)では妙に浄瑠璃とか祭文(ソらヒいもん)とかさういつたふうな藝が(ひろ)く行はれて、どんな小前(こまえ)水呑百姓(みっのみひやニしやう)でも、うろ覚えながら触句(さはり)の一つや二つ語れぬものはあるまいといつたやうな土地柄なので、大抵の(うち)ではこの旅藝人をさう(にべ)なくは(こヒは)りかねる。(ひる)過ぎの日光(ひのめ)が柔らかさうに(あた)つてゐる出窓の下で、主婦(ばあさん)は麻を()む手をじつと止めて、表の容子(けはむ)に聞き耳をひつ立てながら、
「はあ、操りさうな」
と独り、言のやうに言つて後を振りかへると、小鳥の巣のやうな蒿屑(わりくつ)のなかで、脂下(やにさが)りに煙を()かしてゐた爺さんは、作りさしの草鞋(わらち)(はふ)り出したまま、莞爾(にこにこ)ものでゃつとこなと(かまち)を飛び下りざま、冷飯草履(ひやのLさうり)を突つ掛けに、建て附けの悪い腰障子をがたぴしさせながら表へ出てくる。
「いいお天気でござんすのう」
と旅藝人はちらと爺さんの顔を見て、かねて見知り越しのやうに(かろ)く会釈をする。蓋はごとりと()いて、眼の釣り揚つた、華奢(きやしや)若衆(わかしゆ)が、いつれは色恋の事情(いきさつ)であらう、屈托(くつたへ)さうな顔をしながら影のやうにふらつと出てくる。四国(なまり)の耳にたつほど尻揚りな浄瑠璃の調子が、静粛(ひつそり)とした里の空気に伝はつてゆくと、そこら界隈の崩れかかつた築十(ついむ)から、竹垣から、栗竹(こまひたけ)の食み出した木戸口から、(ふや)けた落葉のいやに黴臭(かひくさ)い裏道から、禿げあがつた頭の天辺(てつぺん)へちよこなんと(まけ)を載せた爺さんだの、吹出物のした顳額(こめかみ)へどす黒い膏薬(かうやく)を貼りつけた(はあ)さんだの、刺子(ねらもしこ)の仕事着を(はお)つた若衆や、赤ちやけた縮れ毛の娘たちやが、誰も彼もしかかつた仕事をそのまま(はう)り出して、われがちにわいわいと、(はしや)ぎながら、嬉しさうに寄つて(たか)つてくる……
 さういつたやうな心の鈍い見物衆にとりまかれて、ひとしきり花やかな身振りが済むと、華奢な若衆は手も足も投げ出したまま、欄干(てすり)(もた)れて死んだやうにぐたりとなる。すると浄瑠璃の(ふし)は不意に生優(なまやさ)しい……それもどこやらに問のぬけた……女の声に(かは)つて、抜けあがるほど色の白い、細面(ほそおもて)女形(をやま)がしなやかな身振りで(しつしつ)々と出てくる。そして(はて)な長い袖で袖几帳(そてきちやう)をしてみたり、若衆の肩にしなだれかかつて(あま)えたやうに(しな)をしてみたりする……
「あれ、お見んかいな、(こそく)つたやのう……」
 どこからとも知れず、聴衆(ききて)のなかからこんな声が洩れて、生え際の抜けあがつた女房(かみさん)たちの顔に(なに)となしに若々しい色が浮いてくる。唄好きの老人(としより)などが節に連れて、いやに鼻にかかつた声で、身内を戦慄(そくそく)させながら一緒になつて夢中に触りに語り耽つてゐる後のはうでは、若い同士が混雑(ひとこみ)(まき)れてこつそり袖の蔭で肌膚(きめ)の粗い手を握り交してゐる。さうするうちに女形(をやま)はまた何か目に見えぬものの暗い足音を聞きとつたかのやうに不意に悄気(しよけ)かへつて、若衆の肩とすれずれにすぐ隣の欄干(てすり)()りかかつてげんなりとなる:::
 浄瑠璃の節はまたも変つて、()びた男声(をとここゑ)の重々しい調子になると、(しか)めつ(つら)の、眉の濃い、大柄な着物に太刀を落し挿しにしたのがぬつと出て、横柄な身の構へやうをする。(私は何となくどす黒いその脚音を聞くやうな心持がする。)そして唇をへの字に、弱々しい若衆を尻目にかけて気味わるく嘲笑(あさわら)ふかと思ふと、いきなり(くびす)をあげて(いや)といふほどその腰骨を脚蹴(あしけ)にかける:・:.
「あれ、まあ……」
 隰えたやうに若い女の声が鍵へる……操り廻しは手早く離微を若衆に持ちかへる。うなだれた首筋にぐつと生命(いのち)が走つて、悔しさうに若衆が息み出すと、関節(ふしふし)痙攣(ひきつ)るやうにかちりと鳴る
……女形(をヤま)はまたひとしきり(しやく)りあげては(しな)だれかからうとする……
 かうした事情(いきさつ)に人の世の味気(あちき)ない一角を見せて、どうかすると気が()いて息切れのする浄瑠璃の引入れと一緒に、木偶(てく)は死んで墓に()る人のやうに、男も、女も、泣いた人も、笑うた人も、敵も、味方も今までの行掛りをすつかり忘れてしまつて、くるりと袖畳(そてたた)みにせられたまま、混雑(こちやこちや)に一つ箱のなかに(しま)はれてしまふ。
「ああ面白かつた……」
 皆言ひ合したやうにかう(つぶや)いて、なかにも気弱なのは、涙の(にじメ)んだ眼頭を人知れずそつと(こす)るのもある。そして鉛のやうな鈍い心に、とりどりに生き生きした印象をうけて、一人減り、二人減り、いつの間にやらすつかり各自(めいめい)(うち)へ帰つて()つてしまふ。後に残つた主婦(あるし)の媼さんは、
「ほんの心持ちやが」
といつて、日向(ひなた)に乾した葭簀(よしす)から真つ白な綿を一(つか)み掴んでくる。それを無雑作に片つ方の木箱に投り込んだまま、旅藝人は身軽に荷を担ぎあげて、
「お喧しう」
と会釈して、竹垣に添うてまたも隣家(となり)へと訪れてゆくのである。
 いつであつたか、確か私が八つか九つかの頃、三、四人の学校友達と一緒に檀那寺(たんなてら)の境内で、蟻の地獄を捜してゐたことがあつた。やはり木綿の吹く頃で、正午(ひる)過ぎの暖かい日光(ひかけ)(せな)に浴びながら、一心に雨垂(あまた)(おち)(ほし)くつてゐると、連れの誰やらが、
「や、操り廻しが来をつた」
突然(たしぬけ)(わめ)いてすたすたと駆け出していつた。皆の者が弾機(はね)細工のやうに一度に飛び上つて、いきなりその後に()いて山門の石段を下り切ると、操りはすぐ下の巫女(みこ)おろしの門口に立つてゐた。
やはり(いつも)の見馴れた木偶で、若い男と女とが抱きつくやうにして泣いてゐた。それをまた眉毛の濃い、大柄な着物を着たあの顰めつ面が尻目にかけて、気味よささうにせせら笑ひをしてゐた。私はその(つら)憎さに小石のひとつも投げつけてやりたいと思つた。
 ひとしきり操りが済むと、私たちはまた寺に帰つて後退虫(あとひさり)を捕りにかかつたが、どうしたものか私はその日に限つて、そんなことにはもう気乗りがしなくなつてきた。そして庫裡(くり)(わき)の太い枇杷(ひわ)の樹に凭れて、なぜ来る操りも来る操りも、もつと優しい人好きのする木偶を連れないで、ああした憎たらしい、顰めつ面ばかりを見せにくるのであらう:::それにしてもあの顰めつ面は、どういふ生れ附きでああした厭な役柄に顔を出さねばならぬのであらう:::とこんなことを考へてみたが不審はつひそ晴れなかつた。夕方帰つて父に訊いてみると、父は寂しく笑つた。
 その後十幾年が経つて、私は臣旨茖身コ魯の英吉利(イキリス)訳で、西班牙(ス イン)の作家、    の劇詩      を読んでみると、その序幕に年若(としわか)の詩人エルネストオといふのが、劇の動作を発展(ひきた)し、大団円(カヶストロフヰ)に導く・工要人物の「世間」といふものをどうして舞台に出さうと苦心をしてゐるのがあつた。それを見て私は思つた、幼い時分(レ」屯‘)によく憎がつた眉の濃い、大柄な着物のあの敵役こそ、この「世間」に相違あるまい。私たちがよく思ふ人と一緒に樹蔭(こかげ)かどこかで甘い恋を(ぎモしさや)いてゐると、どうかするとそこへ興覚めのする顔がぬつと(のぞ)いてくる  見ると「世間」だ。また人知れず行ひ済まして、生真面目に何かの道を辿つてゐ
ると、ともすると人騒がせな声ががやがやと蒼蠅(うる弋」)く耳についてくる  見ると「世間」だ。で、この悪戯者(いたづらもの)は時と場合とによつて好意も()てば、悪意も有つ。そしてそのたびに容貌(かほだち)から扮装(みこしらへ)から自つと変つてきやうといふので、あのエルネストオもさすがに出し悩んだに相違ないが、往時(むかし)の作者は  いや、あの操り廻しはこれに大柄な着物を(き )せて、刀を落し挿しに、始終( しよつケノう)顰めつ面をし通しにさせたものと見える……この場合に私たちが別にどうといつて批議を挿むだけの余地はあるまいと思はれる……
 私は土の乾き切った畔に立つたままで、木綿の一房を嗅ぎながら、ついこんなことまで想ひ出してゐた。気がついてみると前方(むかう)の楢林の下に頬冠(ほほかむり)をした一人の農夫(ひやくしやう)()つ立つて、胡乱臭(うさんくさ)さうな眼附きでじつとこちらを見つめてゐる。あああれも「世間」だ  操り廻しの木箱に(かく)れた眉の濃い顰めつ面の……ああいふ一人に相違ないと、私はしつかに後へ引回(ひきかへ)して楢林の(はつれ)に立つた。
 秋の夕日は私の影を長く並木路に横たへた……男は思ひ出したやうにとぼとぼと去つてしまつた。
                                〔明治42年刊『泣菫小品」〕



最終更新日 2006年01月30日 20時36分26秒

薄田泣菫「都の夕とどろき」

都の夕とどろき
 新嘗(にひなめ)祭も過ぎた頃のある日の夕暮であつた。私は(たか)(みね)へ往つてその帰り(みち)に大徳寺の境内をぬけて雲林院(うりんゐん)附近(あたり)を通りかかつた。路傍(みちばた)には柳の葉が(こほ)れてゐる  私は歩きながらつい先程常照寺の墓地(はかち)で弔つてきた吉野太()の花のやうな一生を想ひ浮べてゐた  ふと大地のどん底からでも起きさうな、無気味な、(かす)めたやうな物音が聞える……思考(かんかへ)はいつの問にやら柳の落葉のやうに散つていつた。私はついそこに立ち停つてしまつた。
 その音といつたら、濁つた暗い沈んだ調子で、こうと遠くから(とよも)してくる……まるで海の潮鳴りか山鳴りかのやうに 私はふと幼い往時(むかし)に旅稼ぎの樵夫(きこり)から聞いた天狗倒(てんくたふ)しの音を思ひ出した。  人気を離れた深い森の奥で、たつた一人こつこつと(ひのき)か何かの樹を切り倒してゐると、ふと附近(あたり)の枝で朗らかに歌つてゐた小鳥の声が、死んだやうにばつたりと聞えなくなる……今まで重なり合つた葉の(すき)を洩れて、ほつこりと背中にあたつてゐた製過ぎの則渇が、艮緒けたやうに薄れかかる……戮鍵雲の一片(ひとひら)がしつかに森の上を渡つてゐるのであらうと、せつせと仕事に精出してゐると、突然(だしぬけ)に地続きの谿底(たにそこ)かどこかで大きな岩でもずり落すやうな音がして、そこらの樹も草も根こそげどんと()ね飛ばされさうな地響が来る。呆気(あつけ)にとられてじつと立ち(すく)んでゐると、あちこちの山に響いた反響(こたま)がひとしきりこうといふやうな音がして、それが段々と細つてゆく。やつと落ち付いて、
「あ、天狗倒しだな」
と気のつく頃には、慌てふためいた渡鳥の群れがぺちやくちやと口喧(くちやかま)しく呼び交しながら、森の上をばつと飛んでゆくのが聞かれる  私はこんなことを想ひ出しながら、じつと耳を傾けてゐると、そそけたやうな深いその響の底に、何ともかとも解らぬ(いろいろ)々な混雑(こちやこちや)した音が(まさ)つて、それが一緒になつて濁つてくる  人を呼ぶ声、物を(はた)く音、喇叭(らつば)の響、荷車の(きし)めき  それは都の街の夕轟(ゆふとどろ)きの音であつた。
 私はそこに()つ立つてゐる楊樹(やなき)の一つに身を(もた)せかけた。  何といふ人の気をそそる声であらう、これまでに聞いておかねばならなかつたのを、今日までつい()()れてゐたやうな気持がする。じつとかう耳を澄ませて、声の文色(あいう)に聞きとれてゐると、いつの問にやらそれが自分の内部の響のやうな親しみと(そそのか)しとを()つてくる……
 ……私の心は絶えず(あへ)ぐやうに神をもとめてゐた。そして真つ暗な闇の中で盲捜(めくらさが)しに取り(すが)つたものは、もうすつかり冷えきつた神の死骸であつた。  私の心は平常蕩(いつもたら)すやうな肉の香りを慕うて、(十勝♪丿)しい官能の満足を願つてゐた。そして得たものは(たる)い、疲れ切つた、夢の覚めたやうな浅ましい感じに過ぎなかつた。  私はどうかすると強烈な酒に食べ酔つて、すべての悲愁(かなしみ)を忘れ去らうと試みた。酔は蜜のやうに甘かつた。が、(yご)めた(のち)の寂しさはいつそ酔はぬ前が慕はしかつた。  私は一切の外界と縁を断つて、ひとり自己を楽しむ静寂(しつか)な生涯に憧憬(あこが)れてゐた。が、すぐにもうその灰色な単調に(あき)が来て、私はまた人中(ひとなか)に帰つて来た。  私は一度ならずわれとわが咽喉(のど)に刃物をあてたことがあつた。誰やらが言つたやうに別に死をどす黒い無気味なものとも思はなかつたが、生の愛着はその場合にもなほ思ひ切ることができなかつた……
 ひとしきり低い掠めた音に(まと)まつて聞えた街のどよみは、また混雑(こちやこちや)不揃(ふそろ)ひな調子に高まつてきた……
 ……かういつたやうな私の内部の動揺は、もうずつとその時期を通り越してゐるにもかかはらず、いまだにその微かな震動を()めないで、(もし)一ふとした(かはづ)みで物に触れると、時にはからりと金属(かなもの)のかち合ふやうな明瞭(はつきり)とした音をたてたり、時にはまた獣類(けもの)の溜息のやうな鈍い響をたてたりする。どうかすると一つの音は他の音を(おび)き出して、別々な雑音になつてみたり、または互ひにこぐらかり合つて……あ、今街の音もどうやら一緒に纏まつて、暗いぼうとした響に聞えてきた……ちやうどあのやうに何とも知れぬ底気味の悪い一つの唸り声となつてくることもある……
 が、しかしどちらにしてもその(とよみ)と私との問にはいくらかもう距離ができてきた……街なかではどうかすると聞き逸れてしまふ物音もかうして離れてみると、つい手に取るやうに聞かれる……私の内部の声にしても、その色合を十分聞き分け得るといふのは、今ある距離(へたたり)を有つてゐるからで、この距離(へたたり)は私たちをして静かに物の真正(ほんたう)の味はひと心持とを飲み込ましめる。つまり私がこの二つの音に有つてゐる距離(へたたり)は、ちやうど藝術の人が自然の対象に有つてゐるあの静かな態度に似てゐる……
 私は柳の木蔭を離れた。そしても一度耳を傾けてじつと街の(とよみ)を聞きすました。柳の葉はほろほろと零れてゐる。私はまたすたすたと南へ急いだ。
 街には灰色の(もや)(なづ)つたやうにかかつてゐる。
                                 [明治42年刊『泣菫小品』



最終更新日 2006年02月01日 00時54分37秒

薄田泣菫「奈良」

奈良
 奈良に来た。
 大和の土を踏むと、まるで「夢」の国をぶらつくやうな感じがする。欧西(あちら)の詩人が言つたやうな、「いつどうしてとはちよつと言ひかねるが、いつかここにゐた」らしい気持だ。輪廻(りんね)といふことに(のど)く興味を()つてゐる私は、事によつたら天平(てんひやう)往時(むかし)に深紫の(しびら)を着て春日野のあたりを歩いてゐはしなかつたらうかと思ひ、または青摺(あをす)りの細布(ほそぬの)といつたやうなものを(はお)つて、年の若い娘達(むすめつこ)と一緒に、歌垣の群れに(まさ)つて、
少女(をとめ)らに男子(をとこ)たち添ひ    」
などと、暢気(のんき)な調子で歌つてゐたかも知れぬと思ふ。物荒(ものならヒ)びた都跡(みセこあと)の色合は私たちの住んでゐる京都でも見られるが、廃墟(ルイン)の空気は大和でなくては嗅がれぬ。それもちやうど絵を見るのに、距離の頃合といつたやうなものが要るやうに、大和の空気に触れるのは、私たちの時代が一番程のよい足場のやうに思はれる。この空気に触れると私の胸は(きつ)い酒にでも()べ酔つたやうに、忘れてゐた心の記憶を見ぬ()往時(むかし)に探るやうな憧憬心地(あこかれごこち)になつてくる。聖武帝も、行基菩薩(きやうきほさつ)も柿本人麿もまた光明皇(くわうみやう)后もいつぞや会つて、顔のどこかに見覚えのある昵懇(なしみ)のやうで、どうかすると私は明治の()に生れてニイチエの『ツアラトウストラ』を面白がる人間であることを忘れかからうとしたりする。
 鐘が鳴つた。
 東大寺のであらう、ぼうんといふその響までが夢でも見てゐるらしい。私はふといつの往時(むかし)かこんな日にああした鐘の()()()れはしなかつたか思ひ出した。もしかそんな日があつたとしたなら、その頃は大和はまだ世盛りの活き活きした気力に満ちたものであつた。大仏もまだ若盛りで、その大きな掌面(てのひら)には無量衆生(しゆしやう)の魂を支へられてゐたに相違ない。その後だんだんと時代が移り(かは)るにつけて、幾度か大仏の頭は地面(ちひた)に転げ落ち、幾度か仏殿は灰になつたと伝へられてゐる。が、それは今はつきりと私の記憶にない。で、またかうしてここに立つてみると、大和はもう廃墟(ルイン)となり大仏はすつかり(とし)をとつて、衆生の済度などといふ面倒臭い職務(しこと)は忘れたやうにけうりとしてゐる。まるで路の出会ひ頭に面変(おもかは)りをした昔馴染でも見たやうな気持だが、そこにまた痛ましい「実役(しつえき)」は消え去つてしまつて、すべての物はうつとりとした「美」の夢に漂つてゐる。ひとり柔らかい若草の生えた春日野や、娘のやうな眼つきをした鹿の子が夢みてゐるばかりではない。斑鳩(いかるが)の壁画も、薬師寺の三重塔も、一度は法剣を執り、法幢(ほふたろ)を立て、法雷を震うて一切の衆生を覚ました仏たちも、また墓のやうな寂黙(サノりレンス)のなかに・つつとりとした夢心地でゐる。大仏の胸にも以前の法化(ほふけ)の威力は亡くなつてしまつて、美しい詩歌の夢が結ばれてゐやう。さもなければどうして私たちが、あの顔の輪郭を(かたと)る線の曲折(カァフ)に胸の辺りから膝へかけてだらつとした衣の(ひだ)に、まるで恋人の接吻(キノス)にでも出会つたやうな柔らかい囁きを味はふことができよう……
 以前大和がその世盛りであつた頃には、奈良は仏法と王道との一大戒壇(かいたん)であつた。が、(としよ)つた今日この頃では美しい藝術の遊苑に更つてゐる。やがてまたいつの時代(トよ)にか、私がここに来てみるやうなことがあつたなら、その折には仏像は虫が喰つて、堂塔は雨腐(あまくさ)れがして、驚嘆すべき私達(わたしたら)の祖先が努力のあとは何ひとつ残つてゐないかもわからぬ。が、それも()むを得ない。私はいま奈良の土を()んでゐる。この瞬間ただ私の盃を満たすことさへできればそれで十分である。
                                 〔明治42年刊『泣董小品』〕



最終更新日 2006年02月01日 10時03分51秒

薄田泣菫「『たけくらべ』の作者」

『たけくらべ』の作者
 この頃何かの雑誌で、『たけくらべ』の作者の事歴(ことから)を読んだので、私はふと十幾年の往時(むかし)を思ひ出して、女史が生前の面影を幻に描いてみた。私は一葉(いちえふ)女史とはよく世間でいふ見知りこしの間柄といふほどでもない、ほんのたつた一度余所(よそ)ながらその繊弱(きやしやヨ)な姿を見たといふまでに過ぎない。
 ところは上野の図書館であつた。図書館といへば、私はかれこれ四年ばかりもそこに通ひ続けてゐたので、そのうちには随分と名も知らぬ顔馴染もできはできたが、年を重ねてまで、毎日のやうにあすごへ通うてくるといふのは、大抵は医者とか法律家とかの試験応募者に限るので、年(としとし)の試験が済むと、その七、八分方は大抵どこかへ消えていつて、また顔が見られなくなつてしまふ。静かな読書人の生活から、(せは)しない活動社会の混雑(ひとごみ)(まき)れてゆくので、さうした(てあひ)に二度とまたここに顔出しをするといつたやうなのは、よくよく(めづら)しいはうなので、やつと顔馴染になりかかつたのも、ついとまた別れて、いつの間にか忘れてしまふ。  さういつたやうななかに、一葉女史とはほんの一度の邂逅(めくりあひ)であつて、いまだにその面影を忘れかねるといふのは、どうした縁であらう。
 とある日のこと  時節はいつであつたか明瞭(はつきり)と覚えぬが、私はその日を想ひ出すごとにいつも梅の花が咲いてゐたやうに思ふ  私はいつものやうに図書館に往つて、何かの書物を借り出さうとして、目録を(ノへ)つてゐた。私の周囲(ままり)には同じやうな年輩の若い男がごぢやごぢやと衝つ立つてゐた。その男臭(をとこぐさ)い汗の(にほひ)や、煙脂(やに)臭い欠款(おくび)(まさ)つて、ふと女の髪のなまめいた容子(けはひ)がするので、私はそつと振りかへると、(とし)は二十四、五でもあらうか、小作りな色の白い婦人が、繊弱(きやしや)な指先で私と同じやうに忙しさうに目録を繰りながら、(そば)に立つた妹らしい人と低声(ここゑ)で何かひそひそと語り合つてゐた。
 見ると引き締つた勝気な顔の調子が、何かの雑誌の挿画(さしゑ)でみた一葉女史の姿そつくりであつた。もしやあの秀れた『たけくらべ』の作者ではあるまいかと思つて、それとなくじつと見てゐると、その人はやつと目録を繰り当てたかして、手帳に何か(したた)めようとして、ひよいと目録台に(かが)んだかと思ふと、どうした機会(はすみ)か羽織の袖口を今囗金を(はつ)したばかりの墨汁壺(インキつほ)にひつかけたので、墨汁(インキ)はたらたらと机にこぼれかかつた。周囲(まはり)人達(ひとたち)の眼は物数寄(ものすき)さうに一斉に婦人(をんな)の顔に注がれた。その人は別にどぎまぎするでもなくそつと袂に手を入れたと思ふと、真つ白なおろしたての手巾(ハンケチ)を取り出して、さつと(かぶ)せるが早いか手捷(てばしこ)墨汁(でンキ)を拭き取つて、済ました顔でこつちに振りむいた。口元のきつとした……そして眼つきの()ねた調子といつたら……
 その折ちやうど図書掛りの方で、
樋口(ひぐち)さん……」
といふ呼び声が聞えた。するとその人は、
「はい」
(すす)しい声でうけて、牛のやうに(とほ)けた顔をした周囲(まはり)の人を推しわけてさつさとあちらへ往つてしまつた。
 その日の(ひる)すぎ、私が御霊廟(おたまや)附近(あたり)へ散歩に出かけて、帰りに門口を入つてくると路の出合頭にばつたりさつきの二人連れの婦人(をんな)に往き会つた。すれ違ひざま通り過ぎようとすると、どうした機会(はずみ)か、その人は、
「あ」
と言つたまま、脚を曳きずるやうにして、ふとそこに立ち停つてしまつた。見ると左足の地味な色の鼻緒を踏み切つてゐた。いまひとりの妹らしいのは、それと見るとかひがひしく寄り添ひざま、先方(さきがた)墨汁(インキ)に染まつた手巾(ロンケチ)を引き裂いて、こまめに鼻緒をすげにかかつた。その肩先を(かろ)く指先に抑へて、姉らしいのは、素直にじつと待つてゐた。ほどなく鼻緒はすがつて、二人は軽躁(はしや)いだやうに笑ひながら、門を西へ隠れてしまつた。
 ほんのそれ(ぎり)で、何のことはないやうなものの、しかし私にはその折の皮肉な眼つきときつとした口元とが、ちやうどあの人の()つて生れた才分の秘密にたどり入る(いとくち)のやうに思はれて、『(にこ)()』を見るにつけ、『十三夜』を見るにつけ、また『たけくらべ』を読むにつけて、あの眼から、あの口元から(ひらめ)いて見えるその人柄の追懐(おもひで)が、どうかすると女流作家と男性の私との間に横たはりがちな一重(ひとへ)の隔たりを取り()け得るやうな気持がする……思ひなしかは知らないが、あの眼つきにはわれとわが心を()みつくさねば()まない才の執念(しうね)さが(ほの)めいてゐた。いつだつたか私は薄命なロシヤの女画家マリイ・バシカアトセツフの顔立にやつばりああした拗ねた調子を認めた。独逸のヨハンナ・アムプロシア、または伊太利(イタリア)のアダネグリなどの写真を得て、こちらの一葉女史と比べることができたなら、私はどれほどにか面白からうと思つてゐる。
                                 〔明治42年刊『泣菫小品』〕



最終更新日 2006年02月07日 23時54分34秒