薄田泣菫「茶立虫」
茶立虫
いつ頃の「趣味」であつたか、
茶立虫について露伴氏の短い
談話が載つてゐた。「あるかと思へばあるやうで、ないかと思へばないやうな実に一種変つた虫だ」とあつた。
茶立虫といへば、私にも
追懐がないでもない。確かまだ
齢も八つか九つかの頃であつた。母は弟を連れて泊り掛けで里見舞か何かに出かけていつた
不在に、あやにくと父が風邪で
臥せつたことがあつた。私は言ひつけられたやうに台所の
据火鉢に
焚落しを一杯継ぎ足して、家伝の
風薬(私の
家は
祖父の代まで医者を勤めてゐた)を
煎じにかかると、火がまだ
熾りも切らぬのに、ことことと湯の
沸るやうな、
微かな音がする。そつと
薬鑵に触つてみると、やつと
生温に胴が
暖まつたくらゐなので、不思議に思つて、うとうとと眠りかけた父を呼び覚して訊ねると、それは茶立虫の悪戯だといふ。どんな虫だと聞き直すと父は寝返りをうちながら、誰もつひそ見たことがない、おほかた
埃のやうな目に見えぬ薄つぺらな者に相違あるまいといつた。
薬は煎じ上つた。その後で垣根の
零余子を
拐つてきて、
温火にかけて
炙つてゐると、またしてもことことと音がする。
可笑な茶立虫だ、薬はもうすつかり煎じ上つたのに、さうとも知らず、まだ湯の沸るやうな真似をしてゐると、今度は一杯こつちから担いだやうな誇りを感じて、そつと父に耳打ちをすると父は寂しさうに笑つた。
その後も幾度か茶立虫の音を聞いた。
咳払ひをするか、足音を立てるかするとふつつりと鳴き止む。そつと忍んでじつと息を殺してゐると、またことことと鳴き始める。いかにも仄かな音で、閑寂そのものを聞くやうな心地がする。
捜しても捜しても、どこにゐるやら
判らぬやうな物蔭に
芥子粒ほどな
肉身を寄せて、虫はそれ相応に自我の生存を営んでゐる。自然が騒とつしても、すぐけし飛んでしまふやうな蜀弧な生涯ではあるが、しかし自然がどれほど大きい、強い、怖ろしいと言つたところで、虫に何の
関係があらう、虫は生きるために生きてゐる。そして
餌も拾へば、卵も産む。それで十分なのだ。私は蜂の雛を離れて黔、惴しない嬰にもをれば・亂かな寺方にも樹んだ・そして穂の日の、とりわけ
静粛とした
午過ぎなどになると、ふと茶立虫を想ひ出してどうかすると今もその音を
偸み
聴きしてゐるやうな心地がする。が、
他に
訊いてみると、相もかはらず誰ひとりどんな虫だかつひそ聴いたこともないといふ。してみれば茶立虫は、私ひとりの耳に聞かれるある神秘なものの
囁きなので、その言葉をそのまま私の気持に取り入れることのできないのは、鈍い心の嘆きとしていつまでも私ひとりの有つべきものに相違ない……
〔明治42年刊『泣董小品』〕
最終更新日 2005年11月13日 01時55分44秒
薄田泣菫「世間」
世間
秋末のある日のことであつた.∪
あちこちに落穂の
零れた
田圃路を、私はどこと
当所もなく
逍遥いてゆくと、道は曲りくねつてそろそろ
落葉しかかつた
楢の林に入つてきた。心持だらだら路になつたそのなかほどに、もじやもじやと
髯のやうな
小笹に囲まれて、猫の額ほどの
畑地があつて、
木綿がちよつびりと植ゑつけてある。
桃吹ももう
末になりかかつたらしく、尻を
縢げたやうに枯れ上つた下葉の蔭に、
干乾びた桃殻にこびりついて、真つ白な
綿が三つ四つ寒さうに
食み出してゐるのが見える。私は
畔に入り込んで試しにその一房を
抽きとつて、そして嗅いでみた。
秋の日はもうそろそろ西へ傾、きかかつて、弱々しい黄いろい光が
羞恥んだやうにそつと葉少なの楢の木立へ
射つてゐる。……ああ想ひ出すとこんな日だ。私の
郷里では木綿の吹く頃の、ちやうど今日のやうに晴れて暖かい日になると、
阿波は徳島在の操り廻しが、
定つたやうに海を越えて稼ぎにくる。両掛けのやうな木箱の、片側に
欄十の附いたのを振分けに担いで、
家並に百姓家の
門先を訪れて、木綿だの
籾殻だの
混雑と乾し並べた
広場の片隅へ、ごとりとその荷箱をおろす。そして聞き馴れた
浄瑠璃の
一節を節廻しかろく口ずさみながら、そろそろ箱の
上蓋をとりにかかる-ーi私の
郷里では妙に浄瑠璃とか
祭文とかさういつたふうな藝が
汎く行はれて、どんな
小前の
水呑百姓でも、うろ覚えながら
触句の一つや二つ語れぬものはあるまいといつたやうな土地柄なので、大抵の
家ではこの旅藝人をさう
膠なくは
辞りかねる。
午過ぎの
日光が柔らかさうに
射つてゐる出窓の下で、
主婦は麻を
績む手をじつと止めて、表の
容子に聞き耳をひつ立てながら、
「はあ、操りさうな」
と独り、言のやうに言つて後を振りかへると、小鳥の巣のやうな
蒿屑のなかで、
脂下りに煙を
燻かしてゐた爺さんは、作りさしの
草鞋を
投り出したまま、
莞爾ものでゃつとこなと
框を飛び下りざま、
冷飯草履を突つ掛けに、建て附けの悪い腰障子をがたぴしさせながら表へ出てくる。
「いいお天気でござんすのう」
と旅藝人はちらと爺さんの顔を見て、かねて見知り越しのやうに
軽く会釈をする。蓋はごとりと
開いて、眼の釣り揚つた、
華奢な
若衆が、いつれは色恋の
事情であらう、
屈托さうな顔をしながら影のやうにふらつと出てくる。四国
訛の耳にたつほど尻揚りな浄瑠璃の調子が、
静粛とした里の空気に伝はつてゆくと、そこら界隈の崩れかかつた
築十から、竹垣から、
栗竹の食み出した木戸口から、
潤けた落葉のいやに
黴臭い裏道から、禿げあがつた頭の
天辺へちよこなんと
髷を載せた爺さんだの、吹出物のした
顳額へどす黒い
膏薬を貼りつけた
媼さんだの、
刺子の仕事着を
被つた若衆や、赤ちやけた縮れ毛の娘たちやが、誰も彼もしかかつた仕事をそのまま
投り出して、われがちにわいわいと、
躁ぎながら、嬉しさうに寄つて
集つてくる……
さういつたやうな心の鈍い見物衆にとりまかれて、ひとしきり花やかな身振りが済むと、華奢な若衆は手も足も投げ出したまま、
欄干に
凭れて死んだやうにぐたりとなる。すると浄瑠璃の
節は不意に
生優しい……それもどこやらに問のぬけた……女の声に
更つて、抜けあがるほど色の白い、
細面の
女形がしなやかな身振りで
静々と出てくる。そして
華な長い袖で
袖几帳をしてみたり、若衆の肩にしなだれかかつて
嬌えたやうに
品をしてみたりする……
「あれ、お見んかいな、
擽つたやのう……」
どこからとも知れず、
聴衆のなかからこんな声が洩れて、生え際の抜けあがつた
女房たちの顔に
何となしに若々しい色が浮いてくる。唄好きの
老人などが節に連れて、いやに鼻にかかつた声で、身内を
戦慄させながら一緒になつて夢中に触りに語り耽つてゐる後のはうでは、若い同士が
混雑に
交れてこつそり袖の蔭で
肌膚の粗い手を握り交してゐる。さうするうちに
女形はまた何か目に見えぬものの暗い足音を聞きとつたかのやうに不意に
悄気かへつて、若衆の肩とすれずれにすぐ隣の
欄干に
凭りかかつてげんなりとなる:::
浄瑠璃の節はまたも変つて、
錆びた
男声の重々しい調子になると、
顰めつ
面の、眉の濃い、大柄な着物に太刀を落し挿しにしたのがぬつと出て、横柄な身の構へやうをする。(私は何となくどす黒いその脚音を聞くやうな心持がする。)そして唇をへの字に、弱々しい若衆を尻目にかけて気味わるく
嘲笑ふかと思ふと、いきなり
踵をあげて
厭といふほどその腰骨を
脚蹴にかける:・:.
「あれ、まあ……」
隰えたやうに若い女の声が鍵へる……操り廻しは手早く離微を若衆に持ちかへる。うなだれた首筋にぐつと
生命が走つて、悔しさうに若衆が息み出すと、
関節が
痙攣るやうにかちりと鳴る
……
女形はまたひとしきり
哦りあげては
萎だれかからうとする……
かうした
事情に人の世の
味気ない一角を見せて、どうかすると気が
急いて息切れのする浄瑠璃の引入れと一緒に、
木偶は死んで墓に
入る人のやうに、男も、女も、泣いた人も、笑うた人も、敵も、味方も今までの行掛りをすつかり忘れてしまつて、くるりと
袖畳みにせられたまま、
混雑に一つ箱のなかに
蔵はれてしまふ。
「ああ面白かつた……」
皆言ひ合したやうにかう
眩いて、なかにも気弱なのは、涙の
滲んだ眼頭を人知れずそつと
磨るのもある。そして鉛のやうな鈍い心に、とりどりに生き生きした印象をうけて、一人減り、二人減り、いつの間にやらすつかり
各自の
家へ帰つて
往つてしまふ。後に残つた
主婦の媼さんは、
「ほんの心持ちやが」
といつて、
日向に乾した
葭簀から真つ白な綿を一
掴み掴んでくる。それを無雑作に片つ方の木箱に投り込んだまま、旅藝人は身軽に荷を担ぎあげて、
「お喧しう」
と会釈して、竹垣に添うてまたも
隣家へと訪れてゆくのである。
いつであつたか、確か私が八つか九つかの頃、三、四人の学校友達と一緒に
檀那寺の境内で、蟻の地獄を捜してゐたことがあつた。やはり木綿の吹く頃で、
正午過ぎの暖かい
日光を
背に浴びながら、一心に
雨垂れ
落を
掘くつてゐると、連れの誰やらが、
「や、操り廻しが来をつた」
と
突然に
喚いてすたすたと駆け出していつた。皆の者が
弾機細工のやうに一度に飛び上つて、いきなりその後に
蹤いて山門の石段を下り切ると、操りはすぐ下の
巫女おろしの門口に立つてゐた。
やはり
例の見馴れた木偶で、若い男と女とが抱きつくやうにして泣いてゐた。それをまた眉毛の濃い、大柄な着物を着たあの顰めつ面が尻目にかけて、気味よささうにせせら笑ひをしてゐた。私はその
面憎さに小石のひとつも投げつけてやりたいと思つた。
ひとしきり操りが済むと、私たちはまた寺に帰つて
後退虫を捕りにかかつたが、どうしたものか私はその日に限つて、そんなことにはもう気乗りがしなくなつてきた。そして
庫裡の
側の太い
枇杷の樹に凭れて、なぜ来る操りも来る操りも、もつと優しい人好きのする木偶を連れないで、ああした憎たらしい、顰めつ面ばかりを見せにくるのであらう:::それにしてもあの顰めつ面は、どういふ生れ附きでああした厭な役柄に顔を出さねばならぬのであらう:::とこんなことを考へてみたが不審はつひそ晴れなかつた。夕方帰つて父に訊いてみると、父は寂しく笑つた。
その後十幾年が経つて、私は臣旨茖身コ魯の
英吉利訳で、
西班牙の作家、 の劇詩 を読んでみると、その序幕に
年若の詩人エルネストオといふのが、劇の動作を
発展し、
大団円に導く・工要人物の「世間」といふものをどうして舞台に出さうと苦心をしてゐるのがあつた。それを見て私は思つた、幼い
時分によく憎がつた眉の濃い、大柄な着物のあの敵役こそ、この「世間」に相違あるまい。私たちがよく思ふ人と一緒に
樹蔭かどこかで甘い恋を
囁いてゐると、どうかするとそこへ興覚めのする顔がぬつと
窺いてくる 見ると「世間」だ。また人知れず行ひ済まして、生真面目に何かの道を辿つてゐ
ると、ともすると人騒がせな声ががやがやと
蒼蠅く耳についてくる 見ると「世間」だ。で、この
悪戯者は時と場合とによつて好意も
有てば、悪意も有つ。そしてそのたびに
容貌から
扮装から自つと変つてきやうといふので、あのエルネストオもさすがに出し悩んだに相違ないが、
往時の作者は いや、あの操り廻しはこれに大柄な着物を
被せて、刀を落し挿しに、
始終顰めつ面をし通しにさせたものと見える……この場合に私たちが別にどうといつて批議を挿むだけの余地はあるまいと思はれる……
私は土の乾き切った畔に立つたままで、木綿の一房を嗅ぎながら、ついこんなことまで想ひ出してゐた。気がついてみると
前方の楢林の下に
頬冠をした一人の
農夫が
衝つ立つて、
胡乱臭さうな眼附きでじつとこちらを見つめてゐる。あああれも「世間」だ 操り廻しの木箱に
蔵れた眉の濃い顰めつ面の……ああいふ一人に相違ないと、私はしつかに後へ
引回して楢林の
端に立つた。
秋の夕日は私の影を長く並木路に横たへた……男は思ひ出したやうにとぼとぼと去つてしまつた。
〔明治42年刊『泣菫小品」〕
最終更新日 2006年01月30日 20時36分26秒
薄田泣菫「都の夕とどろき」
都の夕とどろき
新嘗祭も過ぎた頃のある日の夕暮であつた。私は
鷹が
峯へ往つてその帰り
途に大徳寺の境内をぬけて
雲林院の
附近を通りかかつた。
路傍には柳の葉が
零れてゐる 私は歩きながらつい先程常照寺の
墓地で弔つてきた吉野太
夫の花のやうな一生を想ひ浮べてゐた ふと大地のどん底からでも起きさうな、無気味な、
掠めたやうな物音が聞える……
思考はいつの問にやら柳の落葉のやうに散つていつた。私はついそこに立ち停つてしまつた。
その音といつたら、濁つた暗い沈んだ調子で、こうと遠くから
響してくる……まるで海の潮鳴りか山鳴りかのやうに 私はふと幼い
往時に旅稼ぎの
樵夫から聞いた
天狗倒しの音を思ひ出した。 人気を離れた深い森の奥で、たつた一人こつこつと
檜か何かの樹を切り倒してゐると、ふと
附近の枝で朗らかに歌つてゐた小鳥の声が、死んだやうにばつたりと聞えなくなる……今まで重なり合つた葉の
隙を洩れて、ほつこりと背中にあたつてゐた製過ぎの則渇が、艮緒けたやうに薄れかかる……戮鍵雲の
一片がしつかに森の上を渡つてゐるのであらうと、せつせと仕事に精出してゐると、
突然に地続きの
谿底かどこかで大きな岩でもずり落すやうな音がして、そこらの樹も草も根こそげどんと
跳ね飛ばされさうな地響が来る。
呆気にとられてじつと立ち
竦んでゐると、あちこちの山に響いた
反響がひとしきりこうといふやうな音がして、それが段々と細つてゆく。やつと落ち付いて、
「あ、天狗倒しだな」
と気のつく頃には、慌てふためいた渡鳥の群れがぺちやくちやと
口喧しく呼び交しながら、森の上をばつと飛んでゆくのが聞かれる 私はこんなことを想ひ出しながら、じつと耳を傾けてゐると、そそけたやうな深いその響の底に、何ともかとも解らぬ
種々な
混雑した音が
交つて、それが一緒になつて濁つてくる 人を呼ぶ声、物を
叩く音、
喇叭の響、荷車の
軋めき それは都の街の
夕轟きの音であつた。
私はそこに
衝つ立つてゐる
楊樹の一つに身を
凭せかけた。 何といふ人の気をそそる声であらう、これまでに聞いておかねばならなかつたのを、今日までつい
聞き
逸れてゐたやうな気持がする。じつとかう耳を澄ませて、声の
文色に聞きとれてゐると、いつの問にやらそれが自分の内部の響のやうな親しみと
唆しとを
有つてくる……
……私の心は絶えず
喘ぐやうに神をもとめてゐた。そして真つ暗な闇の中で
盲捜しに取り
縋つたものは、もうすつかり冷えきつた神の死骸であつた。 私の心は
平常蕩すやうな肉の香りを慕うて、
劇しい官能の満足を願つてゐた。そして得たものは
懶い、疲れ切つた、夢の覚めたやうな浅ましい感じに過ぎなかつた。 私はどうかすると強烈な酒に食べ酔つて、すべての
悲愁を忘れ去らうと試みた。酔は蜜のやうに甘かつた。が、
醒めた
後の寂しさはいつそ酔はぬ前が慕はしかつた。 私は一切の外界と縁を断つて、ひとり自己を楽しむ
静寂な生涯に
憧憬れてゐた。が、すぐにもうその灰色な単調に
倦が来て、私はまた
人中に帰つて来た。 私は一度ならずわれとわが
咽喉に刃物をあてたことがあつた。誰やらが言つたやうに別に死をどす黒い無気味なものとも思はなかつたが、生の愛着はその場合にもなほ思ひ切ることができなかつた……
ひとしきり低い掠めた音に
纏まつて聞えた街のどよみは、また
混雑と
不揃ひな調子に高まつてきた……
……かういつたやうな私の内部の動揺は、もうずつとその時期を通り越してゐるにもかかはらず、いまだにその微かな震動を
止めないで、
万一ふとした
機みで物に触れると、時にはからりと
金属のかち合ふやうな
明瞭とした音をたてたり、時にはまた
獣類の溜息のやうな鈍い響をたてたりする。どうかすると一つの音は他の音を
誘き出して、別々な雑音になつてみたり、または互ひにこぐらかり合つて……あ、今街の音もどうやら一緒に纏まつて、暗いぼうとした響に聞えてきた……ちやうどあのやうに何とも知れぬ底気味の悪い一つの唸り声となつてくることもある……
が、しかしどちらにしてもその
響と私との問にはいくらかもう距離ができてきた……街なかではどうかすると聞き逸れてしまふ物音もかうして離れてみると、つい手に取るやうに聞かれる……私の内部の声にしても、その色合を十分聞き分け得るといふのは、今ある
距離を有つてゐるからで、この
距離は私たちをして静かに物の
真正の味はひと心持とを飲み込ましめる。つまり私がこの二つの音に有つてゐる
距離は、ちやうど藝術の人が自然の対象に有つてゐるあの静かな態度に似てゐる……
私は柳の木蔭を離れた。そしても一度耳を傾けてじつと街の
響を聞きすました。柳の葉はほろほろと零れてゐる。私はまたすたすたと南へ急いだ。
街には灰色の
靄が
塗つたやうにかかつてゐる。
[明治42年刊『泣菫小品』
最終更新日 2006年02月01日 00時54分37秒
薄田泣菫「奈良」
奈良
奈良に来た。
大和の土を踏むと、まるで「夢」の国をぶらつくやうな感じがする。
欧西の詩人が言つたやうな、「いつどうしてとはちよつと言ひかねるが、いつかここにゐた」らしい気持だ。
輪廻といふことに
甚く興味を
有つてゐる私は、事によつたら
天平の
往時に深紫の
褶を着て春日野のあたりを歩いてゐはしなかつたらうかと思ひ、または
青摺りの
細布といつたやうなものを
被つて、年の若い
娘達と一緒に、歌垣の群れに
交つて、
「
少女らに
男子たち添ひ 」
などと、
暢気な調子で歌つてゐたかも知れぬと思ふ。
物荒びた
都跡の色合は私たちの住んでゐる京都でも見られるが、
廃墟の空気は大和でなくては嗅がれぬ。それもちやうど絵を見るのに、距離の頃合といつたやうなものが要るやうに、大和の空気に触れるのは、私たちの時代が一番程のよい足場のやうに思はれる。この空気に触れると私の胸は
強い酒にでも
喰べ酔つたやうに、忘れてゐた心の記憶を見ぬ
代の
往時に探るやうな
憧憬心地になつてくる。聖武帝も、
行基菩薩も柿本人麿もまた
光明皇后もいつぞや会つて、顔のどこかに見覚えのある
昵懇のやうで、どうかすると私は明治の
代に生れてニイチエの『ツアラトウストラ』を面白がる人間であることを忘れかからうとしたりする。
鐘が鳴つた。
東大寺のであらう、ぼうんといふその響までが夢でも見てゐるらしい。私はふといつの
往時かこんな日にああした鐘の
音に
聞き
惚れはしなかつたか思ひ出した。もしかそんな日があつたとしたなら、その頃は大和はまだ世盛りの活き活きした気力に満ちたものであつた。大仏もまだ若盛りで、その大きな
掌面には無量
衆生の魂を支へられてゐたに相違ない。その後だんだんと時代が移り
更るにつけて、幾度か大仏の頭は
地面に転げ落ち、幾度か仏殿は灰になつたと伝へられてゐる。が、それは今はつきりと私の記憶にない。で、またかうしてここに立つてみると、大和はもう
廃墟となり大仏はすつかり
齢をとつて、衆生の済度などといふ面倒臭い
職務は忘れたやうにけうりとしてゐる。まるで路の出会ひ頭に
面変りをした昔馴染でも見たやうな気持だが、そこにまた痛ましい「
実役」は消え去つてしまつて、すべての物はうつとりとした「美」の夢に漂つてゐる。ひとり柔らかい若草の生えた春日野や、娘のやうな眼つきをした鹿の子が夢みてゐるばかりではない。
斑鳩の壁画も、薬師寺の三重塔も、一度は法剣を執り、
法幢を立て、法雷を震うて一切の衆生を覚ました仏たちも、また墓のやうな
寂黙のなかに・つつとりとした夢心地でゐる。大仏の胸にも以前の
法化の威力は亡くなつてしまつて、美しい詩歌の夢が結ばれてゐやう。さもなければどうして私たちが、あの顔の輪郭を
象る線の
曲折に胸の辺りから膝へかけてだらつとした衣の
襞に、まるで恋人の
接吻にでも出会つたやうな柔らかい囁きを味はふことができよう……
以前大和がその世盛りであつた頃には、奈良は仏法と王道との一大
戒壇であつた。が、
老つた今日この頃では美しい藝術の遊苑に更つてゐる。やがてまたいつの
時代にか、私がここに来てみるやうなことがあつたなら、その折には仏像は虫が喰つて、堂塔は
雨腐れがして、驚嘆すべき
私達の祖先が努力のあとは何ひとつ残つてゐないかもわからぬ。が、それも
止むを得ない。私はいま奈良の土を
蹈んでゐる。この瞬間ただ私の盃を満たすことさへできればそれで十分である。
〔明治42年刊『泣董小品』〕
最終更新日 2006年02月01日 10時03分51秒
薄田泣菫「『たけくらべ』の作者」
『たけくらべ』の作者
この頃何かの雑誌で、『たけくらべ』の作者の
事歴を読んだので、私はふと十幾年の
往時を思ひ出して、女史が生前の面影を幻に描いてみた。私は
一葉女史とはよく世間でいふ見知りこしの間柄といふほどでもない、ほんのたつた一度
余所ながらその
繊弱な姿を見たといふまでに過ぎない。
ところは上野の図書館であつた。図書館といへば、私はかれこれ四年ばかりもそこに通ひ続けてゐたので、そのうちには随分と名も知らぬ顔馴染もできはできたが、年を重ねてまで、毎日のやうにあすごへ通うてくるといふのは、大抵は医者とか法律家とかの試験応募者に限るので、年
々の試験が済むと、その七、八分方は大抵どこかへ消えていつて、また顔が見られなくなつてしまふ。静かな読書人の生活から、
忙しない活動社会の
混雑に
紛れてゆくので、さうした
輩に二度とまたここに顔出しをするといつたやうなのは、よくよく
希しいはうなので、やつと顔馴染になりかかつたのも、ついとまた別れて、いつの間にか忘れてしまふ。 さういつたやうななかに、一葉女史とはほんの一度の
邂逅であつて、いまだにその面影を忘れかねるといふのは、どうした縁であらう。
とある日のこと 時節はいつであつたか
明瞭と覚えぬが、私はその日を想ひ出すごとにいつも梅の花が咲いてゐたやうに思ふ 私はいつものやうに図書館に往つて、何かの書物を借り出さうとして、目録を
繰つてゐた。私の
周囲には同じやうな年輩の若い男がごぢやごぢやと衝つ立つてゐた。その
男臭い汗の
香や、
煙脂臭い
欠款に
交つて、ふと女の髪のなまめいた
容子がするので、私はそつと振りかへると、
齢は二十四、五でもあらうか、小作りな色の白い婦人が、
繊弱な指先で私と同じやうに忙しさうに目録を繰りながら、
側に立つた妹らしい人と
低声で何かひそひそと語り合つてゐた。
見ると引き締つた勝気な顔の調子が、何かの雑誌の
挿画でみた一葉女史の姿そつくりであつた。もしやあの秀れた『たけくらべ』の作者ではあるまいかと思つて、それとなくじつと見てゐると、その人はやつと目録を繰り当てたかして、手帳に何か
認めようとして、ひよいと目録台に
屈んだかと思ふと、どうした
機会か羽織の袖口を今囗金を
脱したばかりの
墨汁壺にひつかけたので、
墨汁はたらたらと机にこぼれかかつた。
周囲の
人達の眼は
物数寄さうに一斉に
婦人の顔に注がれた。その人は別にどぎまぎするでもなくそつと袂に手を入れたと思ふと、真つ白なおろしたての
手巾を取り出して、さつと
被せるが早いか
手捷く
墨汁を拭き取つて、済ました顔でこつちに振りむいた。口元のきつとした……そして眼つきの
拗ねた調子といつたら……
その折ちやうど図書掛りの方で、
「
樋口さん……」
といふ呼び声が聞えた。するとその人は、
「はい」
と
清しい声でうけて、牛のやうに
呆けた顔をした
周囲の人を推しわけてさつさとあちらへ往つてしまつた。
その日の
午すぎ、私が
御霊廟の
附近へ散歩に出かけて、帰りに門口を入つてくると路の出合頭にばつたりさつきの二人連れの
婦人に往き会つた。すれ違ひざま通り過ぎようとすると、どうした
機会か、その人は、
「あ」
と言つたまま、脚を曳きずるやうにして、ふとそこに立ち停つてしまつた。見ると左足の地味な色の鼻緒を踏み切つてゐた。いまひとりの妹らしいのは、それと見るとかひがひしく寄り添ひざま、
先方の
墨汁に染まつた
手巾を引き裂いて、こまめに鼻緒をすげにかかつた。その肩先を
軽く指先に抑へて、姉らしいのは、素直にじつと待つてゐた。ほどなく鼻緒はすがつて、二人は
軽躁いだやうに笑ひながら、門を西へ隠れてしまつた。
ほんのそれ
限で、何のことはないやうなものの、しかし私にはその折の皮肉な眼つきときつとした口元とが、ちやうどあの人の
有つて生れた才分の秘密にたどり入る
緒のやうに思はれて、『
濁り
江』を見るにつけ、『十三夜』を見るにつけ、また『たけくらべ』を読むにつけて、あの眼から、あの口元から
閃いて見えるその人柄の
追懐が、どうかすると女流作家と男性の私との間に横たはりがちな
一重の隔たりを取り
除け得るやうな気持がする……思ひなしかは知らないが、あの眼つきにはわれとわが心を
食みつくさねば
止まない才の
執念さが
仄めいてゐた。いつだつたか私は薄命なロシヤの女画家マリイ・バシカアトセツフの顔立にやつばりああした拗ねた調子を認めた。独逸のヨハンナ・アムプロシア、または
伊太利のアダネグリなどの写真を得て、こちらの一葉女史と比べることができたなら、私はどれほどにか面白からうと思つてゐる。
〔明治42年刊『泣菫小品』〕
最終更新日 2006年02月07日 23時54分34秒