薄田泣菫「森の声」
自分は今
春日の
山路に立つてゐる。路の
左右には数知れぬ大木が
聳り立つて、枝と枝との
百絡みになつた
木叢には、
瑞葉古葉がこんもりとして、たまたま
下蔭を
往く
山守の
男達が今日の
空合を見ようとしたとて、
白雲の
往来ひとつ見付けるのは容易なことではない。何といつても
承和の
帝が
禁山の
御宣旨あつて
以来、今日まで
斧斤ひとつ入らぬ
神山である。夏が来て瑞葉がさし、冬が来て枯葉が落ちる。落ちた木の葉は歳々の夢を抱いて、そのまま再び地に朽ち入つてしまふ。かうして千年の
齢を重ねてみれば、一体の山の風情が、そんじよそこらの出来合の雑木林と趣を異にしてゐるのも無理はあるまい。大気は
冷つこい、山の肌はいつも
下湿りがしてゐる。ありふれた山では秋でなうては
嗅がれぬ土の
香が何やら物さびた調子を帯びて、しつとりと
薫る。その昔そこの
延根では
人麿が
躓いたかも知れぬ、ここの
古樹では往きずりに
行基の
袖が触れたかも知れぬ。
目路の限りに連なるすべての物は、自然に対するわれらの
渇仰と驚嘆とが白熱の高調に達した
往時の
代より、そのままに呼吸を続けてゐるのである。
大いなるかな、春日の森。
海原をつくり、
焔の山をつくり、
摩西をつくり、鯨の背骨をつくつた大自然の手は、ここにまた春日の森を造つてゐる。杉は
暁方の心あがりに天にも伸びよと
丈高に作つたものらしい。
櫟は月曜の
午前、
健心の一瞬に産み落したものらしい。
竹柏は夕暮の歌であらう。
馬酔木は折節の独り言かも知れぬ。いつれも持前の性分を思ふがままに見せて、
側目も振らずすくすくと
衝き立つてゐる。大空は
微笑を
湛へて
額の上にある、第一の光明はわが
掌にといつたふうにいつれも
骨太の
腕をさし伸べてゐる。
地に生れて
天を望むといふのは思ふだに痛ましい。痛ましいに違ひはないが、その昔
嫩葉を芽ぐんだ日の初めより、
有つて産れた各がじしの宿命である。木はその宿命を楽しんで、自らの
代の終るまでは、ほんの一日たりともその努力を休めぬ。時は
皐月の半ば、
水銹沼の
藻草も花を飾らうといふ今日この頃である。薄曇りのした蒸し暑い
正午過ぎの
温気に、葉は葉の営みをし、根は根の
勤みをし、幹は幹の
業を励む、まことに
烈しい生活の有様である。
大杉のひとりがいふ、「あまり高くなり過ぎて、いかにも心寂しい。雲の
襞がうるさい、
電光など落ちてくるとよい」。馬酔木の若木がいふ、「
背低も
厭になつた。
地湿りの
香が鼻につき過ぎる。昨日を忘れる
術はないか知らん」。
老樹の櫟がつぶやく、「
生命にも少し飽いたやうだ。
鷲はどこへ
往つたか知らん、
良弁を落したままでいまだに帰つて来ぬ。待つほどに千年の夏は
経つた、あまり短い月日でもなかつた」。竹柏がまたいふ、「どうやら
言語が欲しうもなつてきた」。
空には雲も薄らいで、そろそろ
日直りがしはじめたらしい。
初夏の気力に満ちた
白光が、
一線さつと黒ずんだ竹柏の木叢を
洩れて、花やかに樹々の幹に落ちる。すると
鳶色がかつた
樅やら、白味の勝つた櫟やら、干割れた竹柏の樹の肌合が、
陰鬱な森の空気にくつきりと浮き上つて、さながら
古寺の内陣で
手燭の
火影に、名匠の刻んだ十二神将の
脾腹でも見るやうに、
引き
緊つた
健やかな気持で眺められる。かかる時にもし木立の深みで、
啄木鳥の
木肌を
穿つ音でも渡らうものならば、自分はきつと春日仏師がいまだに
堂籠りして仏像を刻んでゐるのかとも思ひ疑つて日がな一日それに
聞き
惚れたかも知れぬ。
ふと女の吐息するやうな
容子がして、ほろほろと
頸に落ちかかるものがある。手に取つて見ると
萎びかかつた藤の花らしい。さても奈良には、皐月も半ばは過ぎた今日この頃、いまだにこの紫の花の咲き残つてゐることか。見あげると
太杉の
木隠れにすくすくと伸びあがつた
老樹の藤が、さながら女の取り乱したやうに
茎葉を
掻き垂れて、
細長の
腕を離れじとばかり
傍の樹々に
纏ひかけてゐる。
異木のなかにこの
囁きを聞かなかつたのも無理はない。藤は
忍び
音に泣いてゐるのである。 〔明治41年刊『落葉』〕
最終更新日 2005年11月12日 23時14分51秒
薄田泣菫「蝉」
薄田泣菫「蝉」
物静かさは森の
下路にも似てゐるといはれる京の街の、わけて
室町頭あたりでは、夏の日盛りといへば、折節の車の鱗も、物売りの呼び声も途矩えてしまつて
眩しいほどに力強い
白光が一杯に町へ流れて、
小砂利のでこぼこし
路敷を、さながら
昔譚に聞いたた
慈のある王が
宮居の
石階のやうにも美しう見せる。その
上立売通を東へ
相国寺の境内に入つて、赤松の松林の
下道へ来ると、大気は
急かに
揺いて、
四辺の
喧しさ、
町中の静かさに
馴れた耳はどうやら
物怯えしたかして、
暫くがほどは
何の物音やらほとほと聞き分けにくい。
蝉の
声が
時雨のやうに降り注いでゐるのである。
寺町頭に用事を抱へた身の、往き過ぎようとして、ふと立ち止つた。
いつの夏であつたか、上御靈前に
知邊同志の清会を畢へてその帰るさ、夜更けて道伴れの誰彼とこの境内を通りかかつたことがあつた。二十日過ぎの月もそろそろ
若王子あたりの
山の
端へ差しかかつたらしく、夢のやうな光の
雫が
仄かに境内の
木の
問に滴りそめてゐる。
功徳池のあたりか、どこやらに
蓮の葉の
香が
窃むやうに漂うてくる。今更めかしう
声高に語り合つてきた
談草も、このやうな寂境に入ると、どうやらあまりに詰らなさ過ぎるやうに覚えられて、皆の者が言ひ合したやうに押し黙つてしまふ。ふと辺りの
梢から蝉の
一声が走つた。張りつめた
銀色の「沈黙」がさながら自ら
■いたかのやうに、
声柄が透きとほつて美しい。道伴れの多くは都育ちの、蝉の生涯の樹より土に、土より樹に移りゆくほどの生ひ立ちを知らぬ身の、あるひは今が今産れ落ちた油蝉の
産声といひ、あるひは死にゆく
老蝉の
臨終の引入れ声といひ、さてはまた
宵惑ひした
蜩が寝おびれの夢に
魘されたのであらうといふ。後の一人の
琵琶法師の
年老つたのは産れて何ひとつ歌ひ得なかつた
唖嬋が、更けて静かに白みゆく月夜の美しさに、われ知らず洩らした
歌嘆の
一声ではあるまいかといふ。琵琶法師の言葉としては
真に趣のあることかな。誰ひとり
蜘蛛に襲はれた苦しまぎれの
呻びといふ者はなかつた。
夏の
囃子部屋では、
暁方の
萍蓬草に
仄じろい
鳰の声、
雨湿りの庭に
枝蛙の
緑色の歌、野の
蜂に、入江の
剖葦に、誰彼と
歌囗の秀でたのも少なくはないが、なかにとりわけて蝉は
合奏の
優れ
者として聞えてゐる。夕立はひとしきり
霽れあがつて、
樹立の梢より滴る
雨滴りが、酒のやうに澄みきつた色に映える夕晴れの
峠路で立聞きする蜩の
一曲も、なかなか興はあるが、しかし
何と言つても蝉の
晴技はその
合奏にある。
花酸漿の葉がくれに
蜥蜴も
睡る
極熱の日盛り、樹といふ樹の枝より、梢より、時雨のやうに降り注ぐ
歌競べの声々は、真夏の讃歌としてこれに
優るものがあらうとは、つひそ思ひ浮ばれぬほどの
彩色と力に満ちてゐる。なべて技藝の人のうちで、
伶人はとりわけてその藝の
生命の短いのをもつて惜しまれてゐる。
諺に蝉は三日の
生涯といふ。三日の
生涯は必ずしも短いとは思はれぬが、歌つても足りない百年の
想ひを、その一瞬に縮むるの心持あればこそ、かうも歌口が激しいのであらうと思はれる。
それにしてもかやうな歌仲間に立ち交つて、唖蝉の何ひとつ物いはぬは、何とした心であらう。生物学者はこれを名づけて雌といふ。ああ雌に何の歌があらう。かれらは「
生存」をのみ
有つて「自我」を有たぬ。生れて
以来、その生涯は歌よみの夫とその
子供達との問に
没れてしまつて、ただの一瞬の
間も高調すべき真の「自我」といふものに想ひ当つたことはあるまい。その
配偶が
夏中の激しい
日光と青葉の
匂とを胸一杯に吸つて、大木の
上枝に自讃の歌を奏でる日盛りに、流れるやうなその音色に
聞き
惚れて、われ知らず
樹肌を滑つて、若々しい
歌主の
身側で、
艶めかしい
媚を強ひるのを見たものは、その生涯のひとへに受動的で自ら〔を〕離れての上に意義に乏しいのを認めぬわけにはゆくまい。「自然」は大の
吝嗇家で、自我のない者には
発言の資格を与へぬ。雌はかくて黙つて死ぬる。もし唖蝉のひとりが、月夜の美しさにわれ知らず洩らした
一声がありとすれば、それはおほかた雌と産れて
娶らず、
嫁かぬ尼法師の
清浄に過したのが、辺りの眺めに覚えず興がつて出した
初声でがなあらう。人の世の尼法師はこのやうにして、よく「自我」の影を見る。蝉にしてもさうでないとは限るまい。
想へば琵琶法師が
仮初の一言には、心持の深いものがあつた。
昼間歌仲間の雄の
合奏の喧しい相国寺の松林にも、夜更けて雌のひとりの自覚がないとも限らぬ。それはただ二十日過ぎの月が知つてゐるのみであらう。
〔明治41年刊『落葉」〕
最終更新日 2006年01月28日 15時05分40秒
薄田泣菫「綱島梁川君を弔ふ」
綱島梁川君を弔ふ
九月十六日夜、
東都にある
家弟より飛報あり。
曰く
梁川綱島栄一郎君病
革まりて、昨十四日夜半、つひに
身罷られぬと。
君つひに逝き
給へるか、命運の測り難き世に、不治の
宿痾を抱いて、十年病床に
呻吟せらるるの君は、痛ましけれども
夭折の
止み難きは、われと
他とともに束の間も忘るるを得ざりしところにはあれど、その止み難き日を昨日今日とはつゆ想はざりしに。
君つひに逝き給へるか、君が一生は
暮天の
遠に浮べる
長庚の姿にも
似き。その光は
現し
世の
白日と
常世の闇とを繋ぐ
銀の糸なり。静かにもまた
燦びやかなる眼を
伸して、かなたに神秘の宮を望み、こなたに努力の国を眺め給へる君が姿は、世に美しきものの一つなりき。君は言へり、われは神の子と。星もまたいふ、神はわが父と。
君は形骸に敗れて心に勝ちき。君が
瞳子は絶えず内に
対ひて、その
深龕に万有を空しうしても、なほ
否み難き霊火の
耀きを認めつ。この光を捧げて君は天地の秘密
蔵に
潜り入り、やがて自らの世を見出でたりき。そこには神秘の気
蕭やかに匂ひて、慈光の影
仄かに
点りぬ。君はその火に点じきて、わが生命の
火盞を高く
擡げぬ。
風羊をさをさ古への
求道の士にも恥ぢずといふべし。
われら二人は
郷国を同じうして世に
生ひしかども、君は
大河の
水上に、われは
水下に育ちて相知らず、友として交はりしは近き
四歳がほど、
面のあたり相見しは、
去歳の春わが帝都に旅宿りせしほどの
二度三度のみ。しかはあれ、その短き歓会は世のつねの十年の
交情にも
渝へ難きものなりき。われらは雪舟と、芭蕉と、法然と、はたアツシシのフランシスについて多くを
論らひ、
長物語の君が病体に
宜しからぬをも忘れ果てにき。西に帰るの前一
日、別れを告げんとして君を
訪へば、曰く夜来熱
嵩まりて今はた
昏睡にありと。すなはち
辞を残して去る。
夜翌くれば、令弟建部氏より
言あり、
阿兄今朝しも心すがすがし。再会またいつの日にか期せん、
希はくは
発程一
日を延ばせよと。
往いて
訪ひぬ。この日は
互みに言葉少なかりき。帰るに臨み、
歳更まらば再び訪れん、病重らせ給ふなと言ひも果てず、相見て涙流れき。しかは言ひつれど心には思ひき、
天寵なくして、いかでまたこの世にて相見られんと。
君つひに逝き給へるか、君が死は海に隠るる長庚の静かなるにも似たり。落ちんとして落ちず、
最後の一目蕭やかにわが世を顧み、短かりしかど
生命は
足らひ、寂しかりしかど
意味は豊かに、弱かりしかど戦ひ勝ちしに心足りて、おもむろに神秘の宮にや帰りゆき給ひけん。げに死は君にありて帰るがごとかりしなるべし。さもあれわれはなほ君を
懐うて心痛む。ああ、九月十七日、今日しも君は生前の故旧に送られて
霊柩歩み静かに
雑司が
谷の
墳墓に
入り給ふなるべし。山川相
距る百里、遥かに東の
方を望みて涙流る。
情思は飛びて君が
側にあり。
冀はくはうけよ。
〔明治41年刊『落葉』〕
最終更新日 2006年02月07日 23時51分13秒