薄田泣菫「黒猫」

黒猫
「奥さん、謝れなら謝りまんが、それぢやお宅の飼猫だすかいな、これ」
 荷車()きの爺さんは、薄ぎたない手拭(てぬくひ)で、額の汗を()き拭き、かう言つて、前に立つた婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の問には、荷車の(わだち)()き倒された真つ黒な小猫が、雑巾のやうに平べつたくなつて横たはつてゐました。
 六月のむしむしする日の午後でした。私は大阪のある場末の、小学校裏の寂しい裏町を通りかかつて、ふとこんな光景を見つけました。
「いいえ、宅の猫ぢやありません。うちの猫だつたら、こんなとこに独り歩きなぞさせるもんですか。可哀さうに」
 婦人のそばかすだらけの顔は、憎しみでいくらか曲つてゐるやうに見えました。小さな鼻の上には、脂汗が粒々になつて溜つてゐました。間違へやうもない、新聞の婦人欄でよく見覚えのある関西婦人ーi協会の幹事で、こちらの婦人界では顔利きの一人でした。婦人  協会といふのは、鮨万の板場から聞いた東京鮨の(こしら)へ方と、京都大学教授から受売りのアインシユタインの相対性原理の講釈とを、一緒くたにして取り扱ふことのできる所謂有識婦人の集まりでした。
「へえ、お宅の飼猫やないもんを、なんでまたわてがあんさんに謝らんなりまへんのだすか」
 爺さんは、小猫が婦人のものでなかつたのを聞くと、急に気強くなつて、反抗的に唇を尖らせました。
「私にあやまれと誰が言ひました」
 婦人は強ひて気を落ちつけようとして、(たもと)から手巾(ハンケチ)を取り出して鼻先の汗を拭きました。
「そんなら誰にあやまるんだす。あやまる相手がないやおまへんか」
 爺さんは口論(いさかひ)に言ひ勝つたもののやうに、白い歯を見せてせせら笑ひをしました。通りかかつた近所の悪戯(いたづら)()が三、四人立ち停つて、二人の顔を見較べてゐました。
「いや、あります」婦人はきつばりと言ひました。「この小猫にあやまらなくちやなりません」
「猫に」爺さんは思はず声を立てて眼を円くしました。「猫にあやまれなんて、阿呆らしいこと言ひなんな。わてかう見えても人間だつせ」
 このとき、死にかかつた小猫は痙攣(ひきつ)るやうに後脚をびくびく(ふる)はせて、真つ黒な頭を持ち上げようとしましたが、雑文ばかり流行(はや)つて、一向秀れた創作が出ないと言ふ批評家の言葉が耳に入つたものか、それとも小猫にあやまらさうとする婦人の言葉を洩れ聞いて、もしかそんなことにでもなつたなら、一番挨拶に困るのは自分だと思ふにつけて、急に世の中が厭になつたかして、そのままぐつたりとなつて息が絶えてしまひました。
 そんなことに頓着のない二人は、哀れな小猫の死骸の上で元気よく喧嘩を続けました。婦人は言ひました。
「さうです。あなたは人間です。だからあやまらなくちやなりません。あなたが過失(あやまち)にしろ小猫を轢き殺したのは悪いことです。自分のした悪いことを後悔してそれをあやまるのは、人間だけにしかできないことなんですからね」
 荷車曳きの爺さんは、冷やかに答へました。
「さよか。そないお談義やつたら、また今度の折にしてもらひまつさ。わてらその日稼ぎだすよつて、忙しおますからな」
「それぢや、猫の子があまり可哀さうだとはおもひませんか」
 婦人は(かん)の高い、きいきいした声を立てました。
「まるで猫狂ひや」爺さんは独語(ひとりこと)のやうに言ひました。「わてがあやまつたら、あんさんは満足だつしやろが、それ聞いたかて、死んだ猫は生きかへらしまへんぜ、奥さん」爺さんは投げ出すやうに言つて、路の真ん中に曳き捨てておいた自分の荷車のはうにそろそろ帰りかけようとして、その蔭に立聴きをしてゐる私の姿が目に入ると、ちよつと笑顔を見せて、「なあ、旦那はん」とつけ加へました。
 その瞬間、私は婦人の敵意ある眼をちらと顔に感じました。婦人はやがて腰を(かが)めて、取り出した手巾(ハンケチ)のなかに小さな黒猫の死骸を包みました。そして(そば)に立つて不思議さうにそれに見とれてゐる三、四人の子供たちに呼びかけました。
「いい児だから、あなた方、この猫の子をどこかに埋めてくれない。お駄賃にこれをあげますから」
 婦人の指の問には、五十銭銀貨が光つてゐました。子供たちは黙つて互ひに顔を見合せましたが、誰ひとり手を出さうとはしませんでした。
 それを見た荷車曳きの爺さんは、また(あと)がへりをしてきて、子供たちの前に立ちはだかりました。そして前とは打つて変つて丁寧に、
「そんなだしたら、奥さん、わてに始末さしてもらひまつさ。もともとわての粗相から起きたことだすよつてな」
「お前さんにはお頼みしませんよ」婦人の顔はまた険しくなりました。「お前さんは、自分のした粗相をあやまらうとしなかつたちやありませんか」
「あやまりまんがな。そない言はんかてあやまりまんがな」爺さんは()ぢ曲げるやうにして強ひて笑顔を作りました。そして手巾(ハンケチ)の結び目から小猫の死骸を覗き込みながら言ひました。「えらい済まなんだなあ、堪忍しとくれや。これでよろしおまつしやろ、奥さん」
 爺さんの手は、掻き払ふやうにして婦人の指さきから銀貨をもぎとりました。そして小猫の包を受け取るなり、それをがらくたの荷物のヒに投げ込んで、梶棒を取るが早いか、がたぴしと荷車を曳き出しました。
 私は後を追ふともなしに車についてゆきました。路が横堀に出ると、爺さんは後に手を伸ばして手巾(ハンケチ)の包を取り上げるなり、堀の水を目がけてぽいとそれを投げおろしました。 白い猫の包は、(あを)い堀割の水に浮きつ沈みつ、しばらく流れてゐました。
                                 〔昭和2年刊『猫の微笑』〕



最終更新日 2006年02月07日 21時05分42秒

薄田泣菫「利休と遠州」1

利休と遠州
          一
 むかし、堺衆の一人に某といふ数寄者がありました。その頃の流行にかぶれて、大枚の金子を払つて出入りの道具屋から、雲山といふ肩衝(かたつき )の茶入を手に入れました。太閤様御秘蔵の北野肩衝も、徳川家御自慢の初花肩( )も、よもやこれに見勝るやうなことはあるまいと思ふにつけて、某はその頃の名高い茶博士から、何とか折紙つきの歎賞の言葉を得て、雲山の誉れとしたいものだと思つてゐました。
 機会は来ました。ある日のこと、某は当時の大宗匠千利休を招いて、茶会を催すこととなりました。
 かねて主人の口から、この茶入について幾度ならず吹聴せられてゐた利休は、主人の手から若狭盆に載せられたこの茶入を受け取つてぢつと見入りました・名だたる宗匠の口から歎美の一言を待ち設けた主人の眼は、火のやうに燃えながら、利休の眼を追つて幾度か茶入の肩から置形(おきがた)の上を走りました。
 あらゆる物の形を(とほ)してその心を見、その心の上に物の調和を味はふことに馴れてゐる利休の眼は、最初にちらとこの肩衝を見た時から、この茶入の持つ心持がどうも気に入らなかつた。しかしできるだけその物の持つてゐる美しい点を見逃すまいとする利休の平素(ふたん)からの心掛けは、隠れた美しさを求めて、幾度か掌面(てのひら)の茶入を見直さしました。肩の張りやうにも難がありました。置形にも批の打ちどころがありました。一口に言へば衒気(けんき)に満ちた作品でした。
 利休は何にも言はないで、静かにその肩衝を若狭盆の上に返さうとしました。その折でした。利休が自分に注がれた主人の鋭い眼付きを発見しましたのは。その眼には驕慢(けうまん)と押しつけがましさとが光つてゐました。利休はその一刹那に、主人の表情に茶入の心持を見てとりました。茶入の表情に主人の心持を味はひました。
 主人は得意さうに利休の一言を待ち構へてゐました。利休は何にも言ひませんでした。狭い茶室はこの沈黙に息づまるやうに感ぜられました。
 湯はしつかに煮え(たぎ)つてゐました。主人の顔からはいつのまにか押しつけがましさが消えて、物を頼むときのやうな弱々しい表情が見え出しました。利休は眼ざとくそれを見て取りましたが、何事にも気のつかない振りをしてゐました。いつだつたか、利休は前田玄以(けんい)の茶会で、主人の玄以が胴高(とうたか)の茶入を持ち出してきて、
「この肩衝が……」
と、茶入の胴高なのに気がつかないで、しきりと肩衝を繰り返して、利休の意見を聞きたがつてゐるのに出会つたことがありました。利休はいまさらそれを胴高だと教へもならず、をかしさをこらへてただ黙つてゐると、それがひどく玄以の機嫌を損じたかして、その後はうばうで自分のことを悪様(あしさま)に言ひふらし、果ては太閤殿下にまで讒訴(まぼ んそ)を試みてゐるといふことを聞いてゐるので、こんな場合の沈黙が、どうかすると自分の一身にとんでもない災難をもたらさないものでもないことをよく知つてゐました。しかし自分はこの道の宗匠である。自分の一挙手一投足は長くこの道の規範として残り、自分の一言は器の真の価値を定める最後の判断であるのを思ふと、滅多なことは口に出せませんでした。利休はただ黙つてゐました。
 茶がすんで、利休が席を退くと、その少し前からやつと気持の平静を取り返したらしい主人は、雲山の肩衝を手のひらに載せて、しばらくぢつと見とれてゐましたが、いきなりそれを(いろり)の五徳に叩きつけました。茶入は音をたてて砕け散りました・
「何をなされます、こんな名器を……」
 席に居残つて、何かと世間話に興じてゐた二人の相客は、びつくりして主人の顔を見つめました。
 主人はそれには何も答へないで、静かに羽箒(はげうき)を取つてそこらに飛び散つた挽茶(ひきちや)の細かい粉を払つてゐました。
「何をそんなにお腹立ちで、こんな名器をお(こは)しなされた」
 二人の客はいくらか不興げな顔をして、腑に落ちなささうに訊きました。
「いま時利休が賞め言ひとつ申さぬものを……」主人はどうかすると興奮しさうになる自分の心を、強ひて抑へつけるやうに、一語一語力を籠めながら、ぽつりぽつりと息を切つて言ひました。
「賞め言ひとつ申さぬものを秘蔵したとあつては、末代までの恥辱でござるからな」
 誇りを持つた主人の言前(いひまへ)に、二人の客は顔を見合せて口を(つぐ)むよりほかには仕方がありませんでした。急に茶室のなかが薄暗くなつたかと思ふと、時雨がはらはらと軒の板庇を叩いて通りました。
「御主人……」しばらくしてから客の一人が口を切りました。「少し趣向もござれば、その茶入の破片は拙者において所望いたしたい」
「最早手前には無用の品、どうか御随意になされますやう」
 主人はほがらかな気持で答へました。その客は静かに炉縁ににじり寄つて、灰のなかから茶入の破片をこくめいに拾ひ上げました。
 時雨はいつか通り過ぎたかして、室のなかはまたばつと明るくなつてきました。

 雲山肩衝の破片を拾ひ集めた茶人の手で、間もなく茶会がまた催されました。
 客の一人としてその席に招かれた利休の顔は、若狭盆に載せられた肩衝の茶入が眼につくと、驚きの色で輝きました。それはばらばらに幾つかに毀れたのを、無雑作に継ぎ合せたもので、なかには破片と破片とが互ひに入違ひになつてゐるところもあつて、誰の眼にも素人の手で繕はれたものとはすぐに見別けられました。
 が、利休の驚いたのは、この席で(きす)入りの肩衝を見つけたからではありません。その茶入が(まが)ふ方もなく、ついこなひだ堺衆なにがしの茶席で見かけた雲山そのものだつたからでした。それに気がつくと同時に、利休の眼の前には、驕慢と押しつけがましさとで火のやうに燃えてゐたその持主の顔が描き出されました。
「たうとう割りをつたな」利休は心のなかでさう思ひました。「大抵の者ならば、割るよりもまつ売るはうを考へたらうにな」
 利休はしつかに盆の上から茶入をとりあげました。そして初めて気付いたもののやうに言ひました。
「ほう、これはいつぞやの雲山でござるな」見ると素人の手でへたに繕はれただけに、茶入には以前の衒気は跡方もなく消えてゐました。利休にはそれが以前の持主の名器に対する執着の抛擲(はうてき)のやうにも見えました。利休は独語のやうに言ひました。「これでこそ、結構至極ぢや……」

「利休が結構至極と折紙をつけたさうな」
 この評判は、たちまちその頃の茶人たちのなかに拡がりました。そして前にはこれを見て何ひとつ.言はなかつた利休に、結構至極と折紙をつけさせるやうになつたのは、茶入の割れ目を繕つたその無雑作加減が、茶道の極意にかなつたからだと噂されました。
「こんな名器を貰ひ徳にしておいては、茶人冥利につきまいものでもない」
 かう思つた持主は、その肩衝を持参して、訳を話して以前の持主に返さうとしました。以前の持主は強くかぶりをふつて、
「うち砕いて土に戻した雲山に、まためぐりあはふなどとは思ひもかけませぬことちやて」
といつて、てんで相手にもしなかつたさうです。



最終更新日 2006年02月12日 10時59分03秒

薄田泣菫「利休と遠州」2


「利休が結構至極と折紙をつけたさうな」
 この評判は器の値打をだんだんとせり上げました。疵入の雲山は数寄者から富豪へ、富豪から大名へと、次々に譲渡されて、最後にすばらしい値打と評判とをもつて、ある東国の大名の手に納まりました。
 それを聞きつけたのが、その頃丹後宮津の城主であつた京極安知でした。安知は茶器のためだつたら自分の家来はいふまでもないこと、ただひとつしか持つてゐなかつた小さな魂をも売るのを厭はないといつた(たち)の大名でした。
「雲山が所持したい。あれさへ所持できたなら、茶入の望みは生涯またと持つまいに」
 安知はかう言つて、しみじみと歎きました。そして病気にさへなりました。その容態を看るべく京極家に迎へられた某といふ医者は、安知の病気が自分の持ち合せの医薬では、とても治らないことを見てとりました。そして別の医療法をとることに決めました。別の医療法といふのは、
「欲しがるものは与へる」
といふことでした。医者は雲山肩衝の今の持主である東国の大名にも出入りを許されてゐましたから、早速その旨を通じました。
「京極侯には、雲山を所望して病気にまで(かか)られたとか。それはお気の毒なことちや。さやうに所望せらるれば(つか)はさないものでもないが、あれは利休も結構至極と賞めた当家秘蔵の品ぢやによつて、金二駄を少しでも欠いでは………」
 その大名はかう言つて笑ひました。この人は京極安知よりも、人間が少し賢く生れてゐましたから、頭から()ねつけないで、金二駄ならば相談に乗つてもいいと答へたのです。金二駄と言へば一万二千両ですから、小藩の京極家では指をくはへて引つ込むよりほかには仕方があるまいといふ腹なのでした。しかし、ものに溺れやすい安知には、そんな銭勘定を飛び越すくらゐは何でもなかつたのです。医者から事情を聞いた彼は、
「利休の賞め立てた品ぢや。金二駄は安からうて」
といつて喜びました。案に相違したのは東国の大名です。この場合唯一の方法は、
「あれは戯談(じようだん)ぢや」
と逃げを打つことでしたが、大名といふものは、仮にも戯談なぞ言ふものではないと、常々からたしなめられてゐましたから、さうも言へませんでした。で、雲山は金二駄を身の代として、めでたく京極家に引きとられました。
 京極安知は、気のくさくさするときには、いつも雲山を二重箱の中から取り出しました。そして、
「利休がこれを見て、結構至極ぢやと言つたさうな」
と、口のなかで眩きながら、幾度か見直し、見直ししてゐると、心はおのつとこんな名器を秘蔵してゐる誇りに満たされて、言はうやうのない安慰を覚えるのでした。
 が、こんなことを繰り返してゐるうちに、安知は不思議なことを発見しました。それは茶入の割れ目があまりぞんざいに継がれて、破片と破片とが互ひに入れ違ひになつてゐるところのあるのが、どうも気になつてならないといふことでした。
「その無雑作なのがいい、茶道の極意にかなつてゐるところぢや」
 安知は世間の評判を言葉通りに胸のなかで繰り返してみました。しかし、これまで長い間いろんな名器から訓練せられた彼の趣味と鑑識とは、さういふ口の下からむつくりと頭を持ち上げて、
「さうかと言つて、この疵が……」
と強く不服を唱へました。そして入れ違ひになつてゐるその破片を、も一度正しく継ぎ直したなら、茶入はもつと見栄えがするやうになるだらうと考へました。
 安知は思ひあまつて、自分の茶道の師範役である小堀遠州に相談を持ちかけました。
 遠州は雲山を取り上げて、仔細に見直しました。
「京極侯のお言葉には、いかにももつともな節がある。さりながら……」
 遠州はその瞬間、
「利休が結構至極ぢやと言つたさうな」
といふ世間の言伝へを思ひ出しました。そして腑に落ちない節はありながら、古い宗匠の言ひ遺した言葉は、そのままに立てておいたはうが無難であると思ひました。
「この茶入は、継ぎ目の合はぬところこそ、利休にも面白がられ、世間にも取り(はや)されたので、どうかこのまま大事に残しおかるるやうに」
 遠州はかう言つて返事をしました。

遠州は間もなく亡くなりました。
 寂しい、灰色の死の国をさまよつてゐるうちに、遠州はゆくりなくも大樹のかげで一人の老人を見かけました。粒桐(つぶきり)の紋の小袖に八徳(はつとく)を着、(つの)頭巾を右へなげ、尻切れをはき、杖をついて遠見をしてゐるらしいその姿は、遠州をしてすぐに宗匠利休を思はせました。そのむかし、利休自身の手で大徳寺の山門の上に置かれたのを、太閤の命令で船岡山に投げ捨てられたこの茶人の木像を、遠州は一、二度見かけたことがありました。
「これは、これは、利休宗匠でいらせられますか」
 遠州は自分の工風(くふう)した遠州流のものこしで叮嚀(ていねい)に挨拶しました。
「あんたはどなたかな」
 利休は悲しさうな眼をしよぼしよぼさせて訊きました。
「私は小堀政一と申して、宗匠の流れを汲む茶人の一人でございます」
「ほう、茶をやられるか。それは奇特なことちやな」
 利休はなつかしさうに言つて、生前に茶器を鑑定(めきき)した時のやうな眼つきをして、しげしげと遠州の顔を見ました。
 その眼つきを見ると、遠州はふとあることを思ひ出しましたので、顔を老人の耳にすりつけるやうにして言ひました。
「宗匠、ここでお目にかかりましたのを御縁に、ちよつとしたことをお訊ね申したいと思ひますが……」
「何か訊ねたいといはつしやるか」
 利休は、老人が年下のものに何か訊かれる折のやうに、意地悪く気取つて見せましたが、それは気の毒なほど弱々しいものでした。
「はい。お伺ひしたいのは、実はあの雲山のことですが、……」
「雲山?」老人はその名前がどうしても飲み込めないやうに訊き返しました。「雲山といふとどなたのことかな」
 遠州はちよつと笑ひ顔を見せました。
「雲山と申しますのは、肩衝の名前です」
「肩衝? 肩衝といふとー」老人の寂しい顔に一脈の火が点ぜられました。言葉にも何となく元気がありました。「太閤御秘蔵の北野肩衝、徳川家の初花肩衝、そのほか肩衝にはいろいろあるが、雲山といふのは一向覚えがない」
 遠州はもどかしさうに声を高めました。
「雲山と申しますのは、以前堺衆が秘蔵してゐたのを、宗匠の御挨拶がなかつたばかりに五徳に叩きつけて割りました……」
 老人はやつと記憶を取り返しました。
「さう、さう。そんなこともあるにはあつたやうちやな。しかし、そんなことを訊いてどうしなさるのちや」
 遠州は言葉を次ぎました。
「その後、茶入が素人の手で無雑作に継がれたのを御覧になつて、宗匠がこれでこそ結構至極と、その肩衝をお賞めなさいました」
「いや、違ふ。それは違ふ」老人は樹の枝のやうな手を振りながら、遠州の言葉を抑へました。
「わしが賞めたのは、千金にも代へ難いその誇りと執着とを、茶器とともに叩き割つた持主のほがらかな心の持ち方ぢや。ただそれだけの話ぢや」
「それでは、茶入をお賞めになつたのちや……」遠州は呆気にとられて、老人の顔を見つめました。
「さうとも。さうとも。賞めたのは、ただその心持ばかりちや」
 老人はきつばりと言ひ切りました。
 それを聞くと、遠州はすぐにあの茶入に対する世間の評判を思ひ出しました。今の持主の京極安知が彼に相談したことを思ひ出しました。そしてそれに対する自分の返事をそつと思ひ出して、覚えず顔を赤らめました。
 老人はそれには一向気がつかない容子でした。
                                   〔昭和2年刊『猫の微笑』〕



最終更新日 2006年02月12日 10時59分25秒

薄田泣菫「小壺狩」1

小壺狩
 彦山村から(つき)()へ抜ける薬師峠の山路に沿うて、古ぼけた一軒茶屋が立つてゐます。その店さきに腰を下ろして休んでゐるのは、松井佐渡守〔康之〕の仲間(ちゆうげん)喜平でした。松井佐渡守といふのは、当国小倉の城主細川忠興(ただおき)の老臣として聞えた人でした。
 晴れた初夏の昼過ぎて、新鮮な若葉の山は、明るい日光をうけて陽気に笑つてゐました。先刻から軒さきに突つ立つた高い木の枝にとまつて、鈴を振るやうな美い声で、ちんからころりと鳴いてゐた小鳥が、どこへともなく去つてしまつた後は、あたりはひつそりとして乾いた山路に落ちかかつたそこらの立樹の影が、地べたを這ふ音さへ聞かれさうな日でした。昼の仕度をすませた喜平は、何だかまだ物足りなささうな様子で、貧しい茶屋の店さきに渇いた眼をやりました。
「亭王・麸鴛しでもできるかい」
「はい、出来立ての熬しがございます。一服立てて進ぜませうか」
「さうか。では早速頼む」
「承知いたしました」
 茶店の爺さんは、やつとこなと(あが)(かまち)から腰を持ち上げました。そして埃だらけの棚から、小出しに粉を入れておくらしい小さな瀬戸焼の壼を取りおろすと、ぶきつちよな手つきで、そのなかから茶碗へと粉を移し取りました。
 立てられた麦熬しの茶碗を手に取ると、喜平はまつそれを鼻さきに持つてゆきました。香ばしい新麦のにほひは眼にも泌むやうでした。喜平は子供の頃から出来立ての熬しのにほひを嗅ぐのが何よりも好きでした。夏が来るといつもそれを思ひ出しました。
 茶碗に箸をつけた喜平は、その塩加減がひどく利き過ぎてゐるのに驚きました。
(しよ)つばいな」
 喜平は一箸ごとにさう思ひながら、ちびりちびりと嘗めるやうにしてそれを味はつてゐるうちに、いつぞや主人佐渡守に聞いた、石州産れのある坊さんの失敗話をふと思ひ出しました。この坊さんは、あるとき京都へ上つて土産に香煎(かうせん)を買つて帰りました。折よくそこへ檀家の者が訪ね
「幸ひ京土産の香煎がある。一服立てて進ぜよう」
 坊さんはかう言ひながら、得意さうに香煎のなかへ塩を加減して、それに湯をさして客に進めました。客は一口それに唇をあてると、その瞬間、主人の坊さんが香煎を取り扱ふのに、麦熬しを立てるのと同じ方法をとつたことに気がついたものの、さて笑ひ出すわけにもゆかず、鹹つばゆさに唇が曲りさうになるのを辛抱しながら、やつとそれを食べ(をわ)つたといふ話なのでした。
「鹹つばいな。坊さんの香煎もこんなだつたかも知れない」
 喜平はこんなことを考へながら、やつと麦熬しを食べてしまひました。
「も一ついかがでございます」
「いや、もう沢山だ」
 喜平は盆の上に茶碗を返しました。爺さんはそれをもつて、薄暗い流し元に入つてゆきました。
 先刻から店先の物蔭でぐつすり昼寝をしてゐた飼猫は、急に起き上つて両脚を()み伸ばして大きく欠伸(あくび)をしたと思ふと、のそのそと歩き出して、爺さんが蓋をとつたまま置きつぱなしにしておいた熬し入れの小壼に戯れかからうとしました。喜平はすばやく手を延ばして小壺を奪ひとりました。
 見るともなく、喜平の眼はその小壺の上に落ちました。胴の締り工合(くあひ)といひ、ふつくりとした肉つきといひ、平素(ふだん)あまりこんなものを見馴れない喜平の素人眼にも、何だか()はくがありさうに見えました。喜平は熱い掌面(てのひら)で肩から胴へかけての埃を拭き取つて、また見入りました。かつきりとした肩の張には、何となく気位があつて、いつだつたか主人佐渡守の家で、余所ながら拝見した肩衝とかいふ茶入にそつくりな(ところ)があるやうに思ひました。
「何焼といふのかしら。茶入にしたらよかりさうだな。ともかくも熬し入にして、こんなところに捨てておくのは惜しいものだ」
 喜平は腹のなかでさう思ひました。ふとした機会から掘り出されて、世間へ出た名器の出世話  聞き噛りにいろんな人から聞き伝へた、さうした話の幾つかが次から次へと思ひ出されました。
「運が向いてきたのかも知れない。ことによつたら、俺はこの小壼のお蔭で出世するかも知れないそ」
 喜平はまたかうも思ひました。そして畳付の工合を見直さうとして、この不思議な小壺をそつと古畳の上に置きましたが、勿体ないことでもしたやうに、慌ててまたそれを掌面に取りかへしました。
「亭主。亭主。無理なことを申すやうだが、この小壷な、これを拙者に譲つてはくれまいか」
 喜平は薄暗い流し元に向つて呼びかけました。爺さんはのつそりと出てきました。
「小壼とおつしやるのは、熬し入れのことでございますか。はい、はい。承知いたしましたとも。お望みなら譲つて進ぜませう」
「譲つてくれるか。それは有難い。幾らにしてくれるな」
「こんながらくたをお譲りいたしたからといつて、別にお鳥目をいただくやうな親爺ぢやございません」
 爺さんは飼猫の背を撫でながら言ひました。
「ぢやと申して、他人の持物を所望しておきながら、その代を払はぬといふ法はあるまいて」
 喜平は笑ひながら爺さんの顔を見ました。爺さんは猫を自分の膝に抱き取りました。
「旦那様が御所望でございましたから、お譲り申したまでのこと、なんぼ売代をやらうとおつしやつたところで、商ひにせぬ品物には、売値のつけやうがございませぬ」
「強情な親爺だな」喜平の声はいくらか高調子になりました。「商ひにせぬ品物に売値はないといふのか。そんなら、たつて買はうとは言ふまい。その代り俺の持物と取り替へつこをするから」
 喜平はかう言つて、腰に下げた胴乱をそこに投げ出しました。胴乱は鼠のやうな恰好をして、爺さんの膝元に転がりました。
「こんなものは要りませぬ」茶店の爺さんは胴乱を投げ返しました。(たん)持と見えて、息がはずむたびに鶏のやうに顔を真つ赤にして咳き込みました。「こんなものをいただいては、せつかくお譲り申さうとした親爺の一(ぶん)が立ちませぬ」
「いや、渡す。俺の面目にかけてもきつと渡してみせる」
 二人は声をはげまして、負けず劣らず互ひに胴乱を投げ返しました。胴乱の中では散銭が苦しさうに泣き声を立てました。
 先刻から爺さんの膝でころころと咽喉を鳴らしてゐた猫は、びつくりして飛び上りざま流し元の方へ逃げてゆきました。
「これ、これ。親爺どの。止しにさつしやれ。お客様との喧嘩は見つともなからうぜ」
 だしぬけに陽気な笑ひ声が二人の背後から落ちてきました。喜平と爺さんとはびつくりして振りかへりました。そこに突つ立つてゐたのは、旅商人らしい一人の男で、三日にあげず、彦山から槻の木へ通つてゐるので、茶店の爺さんとは見知り越しの仲でした。
 その男は軒さきに荷物を下ろして、ちよつと喜平に会釈しながら、自分はずつと内に入つて、亭主の爺さんと肩を並べて上り框に腰を下ろしました。そして煙草入れを取り出して、一服吸ひつけながら、いくらか照れ気味である二人の顔を見較べました。
「親爺どの。これはまたどうしたといふことだ」
 茶店の爺さんは、喧嘩のいきさつを詳しく話しました。喜平はまたそれにつけ加へて言ひました。
「もともとこの小壷は、初めに拙者のはうから譲つてくれと切り出したことでもあるし、それにこれから長く自分の持物とするには、相当な価を払つた上でないと、気持が悪いしするから、ぜひ取つてくれといふのだが、……」
「いや、御趣意はよくわかりました」旅商人は大きく頷いて見せました。そして自分もこの場に来合せたからには、黙つてそのままには見過されまいと言つて、あらためて仲裁の口をききました。喜平と茶店の爺さんは、異議なくそれを承知しました。
「お客様がただ貰つたのでは、自分のもののやうな気がしないとおつしやるのだから、この小壼を末長く御自分のものに11そ持つていただくには、親爺どの、お前も我を折つてこれをお受けするがいいぢやないか」
といつて、旅商人は破けた古畳の上に転がつてゐた胴乱をとつて、爺さんの膝に置きました。爺さんはちよつと気むつかしい顔をしましたが、それでも別に押し返さうともしませんでした。
喜平は、小壺を抱いて外に出ました。高い樹の梢で初蝉が一つ鳴いてゐました。



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薄田泣菫「小壺狩」2


 喜平は、薬師峠の一軒茶屋で手に入れた小壺を、主人松井佐渡守の手もとまで差し出しました。
 松井佐渡守といへば、細川家の家来のなかでは、聞えた世間知りの老巧者でした。豊臣秀次の没落当時、この関白から内々で金を借りてゐた大名方のうちには、その証文を奉行の石田三成に押へられて、大弱りに弱らされてゐた者も少なくありませんでした。早速返済しなかつたら、その証文は太閤の前に差し出されるかも知れない。万一そんなことにでもなつたら、家の破滅はきまつてゐることでしたから。
 細川忠興もまた借手の一人でした。借りた金高は百両でしたが、早速の場合、百両の調達はなかなか容易ではなかつたので、忠興もさすがに弱りきつてゐました。
 主人の難儀を見てとつた佐渡守は、かねて好誼の深い徳川家の本多正信を訪ねて、金子(きんす)の借用方を申し込みました。正信はそのことを主人家康の耳に入れました。二人は家康の前に通されました。佐渡守の口から急場に迫つた証文のいきさつを聞いた家康はにやりと笑ひました。
「笑止至極なことでござるな。さだめし御難儀でござらう」
 家康は即座に正信に言ひつけて、何番目かの具足櫃(くそくひつ)を持ち出させ、自分の巾着(ははき)のなかから取り出した鍵でそれを開けさせました。
「その(かぶと)の下と、(よろひ)の下とに、封金があるから」
 正信が櫃のなかから二包の封金を取り出すと、家康はその封を切らせました。なかからは金子と一緒に年月日の書付が出ました。家康はそれを手に取つて、
「おう、もう三十年にもなるか……」
と、つくづくとその書付に見入つてゐましたが、しばらくしてやつと気がついたやうにその金子を佐渡守に渡しました。
「しからば、これに百両ござるから、早速(らち)をあけられたがよからう」
 佐渡守は金子を受け取つて、丁寧に挨拶しました。
「まことにお礼の申し上げやうもない有難い仕合せに存じまする。追つて国許へ申しつかはしました上、あらためて越中守方より返上致させますでござりませう」
 その言葉を押へるやうに家康は言ひました。
「いやいや、それは無用の沙汰でござる。この金子は表向へ申しつけて、お渡し申すこともできるが、それらのものに聞かせたうもなければこそ、かやうにして具足のなかより取り出したのでござる.、この金子はこの場かぎりのこと、一切沙汰なし、沙汰なし」
 かうして調達した金子のために、忠興は頭の上に落ちかかつた大厄からやつと免れることができました。家康を相手に安々と百両の金子を借り出してきたといへば、ただそれだけでも、松井佐渡守の老巧さ加減は推察できることと思ひます。
 その老巧な松井佐渡も、利休七哲の随一と呼ばれた忠興の家に仕へながら、茶器の鑑定にかけては、目端が利くはうでもないので、そんなことには平素(ふだん)からあまり手出しをしないことに決めてゐました。
 佐渡守は喜平の手から小壺を受け取りました。その無表情な眼はこがね虫のやうにのつそりと小壺の胴を這ひました。
「瀬戸かな。いやさうでもないかな」佐渡守の言葉には、物に臆したやうなあやふやな愚かしいところがありました。しかし、その次の瞬間、喜平を振り返つて見た顔つきには、どこに隠れてゐたかと思はれるやうな「力」と「確かさ」とが強く出てゐました。「薬師峠の一軒茶屋で手に入れたと申しをつたな。幾ら払つてつかはした」
「はい、七十文  かと存じてをります」
「ーかとは?」佐渡守は不思議さうに訊きました。
「胴乱ぐるみ置いて参じました。持合せは確かにそれくらゐございましたやうに心得てをります」
 喜平はその日のいきさつを詳しく物語りました。
 それを聞くと、佐渡守は瀬戸の小壺などよりも、ずつと興味のあるものに接したかのやうに、声をあげてきさくに笑ひ出しました。
「はははは。その方にしては大博奕(おほばくち)を打つたものだな」
 その後間もなく、主人佐渡守から喜平に銭百文が下りました。喜平は二度それを数へてみましたが、一度目は確かに百文あつたのに、二度目は九十九文しかありませんでした。
「あれもやつばり、がらくただつたのかな」
 喜平はいつの間にか、小壺のことはすつかり忘れてしまひました。喜平に忘れられた小壺は、佐渡守の屋敷で、いろんなやくざな道具と一緒に、戸棚のなかに投げ込まれて、埃だらけになつてゐました。

 その頃金森出雲守が、自分の所領飛騨国で、小壺狩といふことをして、珍しい肩衝の茶入を発見したことがありました。小壺狩といふのは、民家にそれぞれ持合せてゐる小壺を狩り集めて、そのなかから作柄の飛び離れて秀れたものを、御用の茶器として召し上げられることなのでした。
 滝川一益(たきかはかずます)は、甲州征伐に立派な手柄を立てました。その褒美として、自分では信長所持の茶入小茄子(こなす)を拝領しようと望んでゐましたのに、その沙汰はなくて、上州厩橋(うまやばし)に封ぜられました。一益は失望のあまり、
「自分には、茶の湯冥加(みやうが)は、もう尽きてしまつたのだ」
といつて、涙を流したさうです。
 また毛利元就が、陶晴賢(すゑはるかた)を厳島に攻めた時のことでした。大内義長は戦に負けて、長福寺に逃げ込みました。そこで元就は使者を義長の兄大友宗麟につかはして、義長の生命を助けたものかどうかといふことを訊き合せました。すると、宗麟からは、義長の生命なぞはどうなつても厭はないが、ただその家に伝はつてゐる瓢箪の茶入だけは失はないで、自分に送つてほしいと、返事があつたといふことです。
 このやうに一国一城よりも、骨肉の生命よりも、茶器の価値が重く見られた時代ですから、名器の発見は、その大名にとつては、所領一箇国の加増といふことにもなりました。いや、それのみではありません。名器の発見には、自分の眼がねひとつで、凡器のなかから藝術品を選りぬき、「実用」から「美」を取り出すといふ楽しみがありました.。この富と楽しみとを得たいために、金森出雲守は小壺狩といふことを始めました。
 松井佐渡の主人細川忠興は、金森出雲守が山深いその領地から、世にも珍しい名器を掘り出したことを聞いて、もうちつとしてゐられなくなりました。で、急に思ひ立つて自分でも、所領豊後国で小壺狩を催しました。
 しかし、案外なことには、豊後からは何ひとつ秀れた器は発見せられませんでした。狩り集めた多くのなかから、その筋のものがこれならと選りぬいたものも、忠興の眼からしては、つまらない凡器に過ぎませんでした。忠興は自分の前に行儀よく列べられた、数多い小壼のどれを見ても、おろかしく無表情なのに驚きました。
「おれは、今になつて初めて、わが所領が出雲守の領国に比べて、遥かに大きいことを知つたぞ。さもないと、かやうに沢山な凡器が、かくまはれてゐるはずはないのちや」
 茶人としての失望を感じながらも、国守としての態度を失はなかつた、自分たちの主人の言葉に、皆は平和な笑ひを洩らしました。その時でした。松井佐渡守が戸棚の奥に忘れられてゐた、あの小壺を思ひ出しましたのは。
「殿、わたくし手許にも、かやうな小壺を一つ所持いたしてをります」佐渡守は、仲間喜平が薬師峠の一軒茶屋で手に入れた、小壺のいきさつを事細かに申し述べました。「(はや)くより御覧に入るべくは存じてゐましたが、作柄のつたない上に、永らく野人の手にかけました品ゆゑ……」
「作柄がつたないとは、誰が見てのことか」忠興は皮肉に訊きました。「佐渡、そちが眼では茶器の鑑定はむつかしからうそ」
「恐れ入ります。でも、御覧に入れましたところで、お笑ひを蒙りますのは必定で……」
()つて所望いたす、すぐに持参いたすやうに」忠興は前にある小壼の列に、ちらと眼をくれながら、「この上凡作をいまひとつ加へたところで、おれが所領の大きさを知る上には、少しも差支へないのちや」
 小壼は佐渡の屋敷からすぐに取り寄せられました。忠興は一目それを見ると、
「おう、これは……」
と言つたきり、そのまま座を立つて奥へ入りましたが、しばらくすると、礼服に着かへて出てきました。皆は不審さうな顔をして、ものものしい主君の身なりを眺めました。
「これは、名器に対する礼儀ぢや」
 忠興は言訳らしく言つて、あらためて小壺を手に取り上げました。
 かつきりした肩の張り、肩から胴へかけての照り、ふつくりした全体の肉もち、畳付の静かさ。
 忠興の眼は、そんなものを貪るやうに味はつて、愉悦の飽満にこらへきれないやうでした。小壼に酔つたらしい、ほれぼれした主君の様子を、不思議さうに見まもつてゐる側近い人たちのなかで、一番驚いたのは松井佐渡守でした。自分が手にしたときには、見すぼらしい平凡な土器に過ぎなかつたものが、今主君の掌面に載せられてゐるのを見ると、うつとりと珠玉のやうに底光りを放つてゐます……
「天下一の瀬戸とはこれぢや。小壺狩でおれがさがしあてたいと思つたのも、これよりほかにはないはずぢや。佐渡、喜平とやらの眼がね羨ましく思ふぞ」
 忠興は小壺を下において、その畳付を味はふらしく、またひとしきり眺め廻してゐた。
「   」
 佐渡守は黙つてお辞儀をしました。この道具に対する自分の眼ききの不馴れから、こんな恥しい目を見なければならないのかと思ふと、物を言ふのが怖ろしくなつたのでした。
 忠興は、かやうな名器を、山深い一軒茶屋から拾ひ出してきた喜平のほまれを思ふと、それが羨ましくなりました。自分がその道の巧者と家来の幾人かを使つて、大袈裟に国中を狩りつくしても、なほ見ることができなかつたものを、喜平は自分の眼ひとつで安々と捜り出してゐる。それは悪戯(いカつら)好きな運命が喜平をそこに連れ出したにもよることだが、いくら運命の連れ出しがあつたところで、喜平にそれを掴むだけの力がなかつたなら、どうすることもできなかつたはずである。よし佐渡守が言つたやうに、喜平にそんな力はない、ほんのまぐれ当りに当つたに過ぎないにしても、山深い一軒茶屋からこんな名器を見つけ出して、それと一緒に、後の世までも名を(うた)はれるといふのは、特別に運命に恵まれた男といつて差支へないはずである。利休七哲の随一人として、三十七万石の小倉城主として、自分はただこの名器の肩の張り、胴の照りといつたやうなものを見て味はふ、いはゆる観賞家の一人として踏み止まらなければならないのに比べて、喜平はこの名器の唯一の発見者である誉れをほしいままにしてゐる。そんなことが忍び得られるだらうか。
「仲間風情にしてやられて……」
 さう思ふと、忠興は嫉妬に似た気持を抱かずにはゐられませんでした。
「殿には、いかうお気に召しました御様子、わたくし持ちましては冥加にあまる品、この小壺はこのまま御納戸に留めおかれますやうに」
 さき方から忠興の様子をぢつと見てゐた佐渡守は口を出しました。
「いや、ならぬ。小壺はやはりそちの手許で秘蔵すべきものちや」
 忠興はうろたへ気味に、小壼に吸ひ付けられた二つの眼を引きちぎるやうに離して、並みゐる人たちのはうを見かへりました。その眼のうちには、憎悪と渇仰と嫉妬と愛着との焔が、ごつちやになつて痛々しさうに燃えてゐました。


最終更新日 2006年02月12日 11時45分36秒

薄田泣菫「小壺狩」3


 その後間もなく、松井佐渡守は老死しました。瀬戸の小壺は遺言によつて、相続人の手から細川家に献上せられました。
「たうとうやつて参つたな」
 忠興は前々から、こんな日が到来するのを予知してゐたかのやうに言ひました。そして物に憑かれたやうな眼つきをして、二重箱のなかから小壼を取り出して見ました。その後、佐渡守が手塩にかけていたはり通しただけあつて、置形の味はひには、以前にも増して心をひかれました。
「やはり、天下一の瀬戸ぢや」
 さう思ふと、忠興はその次の瞬間には、もう仲間喜平の名を思ひ出してゐました。忠興にとつて、これはまるで宿命的な聯想でありました。
 忠興は、父幽斎以来自分の家に秘蔵してゐる、数多い茶入のいろいろを思ひ出してみました。そして頭の中で、さうした伝来の器とこの小壼とを並べて、名品比べをしてみました。秘蔵のものには、文琳も、肩衝も、瓢箪もありました。口作り、肩の張り、胴の照り、露先のおもしろみ。
  さういつたやうな部分部分の味はひには、それぞれ他の及び難い美しさと誇りとを持つてゐましたが、壺そのものの全体から光のやうに放射してくる「品格の高さ」と「器のたましひ」とになると、とてもこれとは比べものにならないやうに思ひました。
 さういふ秀れた名器が、あらためて家のものになつたのだと思ふと、忠興は充分の満足を味はひました。しかし、広い世界に二人とはないはずの、この名器の発見者が、自分ではなくて、賤しい仲間風情であるのを思ふのは、彼自身にとつても、また器にとつても、一種の恥辱であるやうに忠興には感じられました。この小壺が秀れてゐて、それを見ると、いつも頭が下る気持がするだけに、忠興は仲間喜平の汗じんだ埃だらけな掌面に、自分の額を押へつけられてゐるやうな苦痛をさへ感じ出しました。

「もしや、おれの眼が低くて、鑑定(めきき)が誤つてゐるのではあるまいか……」
 忠興はふとこんなことを思ひ出しました。亡くなつた松井佐渡の口からは、仲間喜平とやらは、茶道のはうには何の心得もない、無知なもののやうに聞いてゐた。そんな心得のないものが、ふとした機会で拾つてきたものを、自分が一目見て、
「天下一の瀬戸ぢや」
と口を極めて賞め立てたとしてみると、今日まで茶道の巧者として、自らも他人も許してゐたものの眼が、無知なもののそれと偶然一致したといふよりも、ことによると、その巧者として許されてゐたものが、案外道の入り立ちが浅く、眼が低かつたせゐだつたかも知れない。  と忠興は思ひました。さう思ふと、彼はわが眼に自信が持てなくなりました。
「一度古田織部(おりべ)に見せるとしよう。あの男は将軍家の師範役だから……」
 忠興はかう思ひきめました。そして織部の一言で、自分の眼が低いか高いかがきまるのだ。高いときまつた場合には、自分は今まで通りわが眼に自信を持つことができるが、仲間喜平の名前は、いつまでも悪夢のやうに自分につきまとふに相違ない.)もしまた低いときまつた場合には、自分は喜平の悪夢から遁れることはできるが、その代り名器と自信とを(ふた)つとも失ふのだ。と思ふにつけて、忠興は悲壮な気持に身うちのひきしまる感じを味はひました。
 古田織部は、つくづくと見入つてゐた眼を、木の枝から果物をもぐ折のやうに、(いた)はりながらそつと茶入からひき離しました。
「これこそ、真実天下一の瀬戸と拝見いたした。稀代の名器、随分珍重なされたがよろしからうと存じます」
 織部は、いかにも感に堪へたやうに言ひました。
 それを聞くと、忠興はほつとして、自分の眼に間違ひはなかつたなと思ひました。それと同時に、またしても仲間喜平の名が、鉛のやうな重さをもつて、心の上にのしかかつてくるのを覚えました。しばらくして織部はまた言ひました。
「……随分珍重なされたがよろしからうとは存じますが、御当家ほどの御家で、瀬戸のみの珍重もいかがなれば、この上に唐物(からもの)の名物をお求めあつて、その唐物以上に珍重なされてしかるべく存じます」
 唐物の名物  この一語を聞くと、忠興の胸は、急に日光がさしたやうにばつと明るくなりました。
「さうちや。唐物の名物をもとめよう。さうして思ふさまこの瀬戸を抑へつけることちや」
 忠興の心は、勝利の予期をもつて、雀のやうに小躍りしました。
 忠興は、間もなく古田織部の手を経て、黄金二千枚を払つて、唐物の名物「生高(せいたか)」といふ茶入を手に入れました。そしてやつと仲間喜平の名前の重みから免かれることができました。
                                〔昭和2年刊『猫の微笑』〕



最終更新日 2006年02月12日 11時46分02秒