薄田泣菫「ぽんつく蓼」
ぽんつく蓼
勝手口の小さな
圃に、風にでも吹かれて飛んできたらしい小さな種子が、芽を出し、幾つかの葉を
披いて
蓼となつたのは、夏の日のことだつた。家のものはそこを通りかかるたびに、ちよつとの間を
偸んで、水をやつたり、あたりの雑草をぬいたりして、その成長を助けてやつた。
とかくするうちに、蓼はだんだん大きくなつて、思ふさま茎を伸ばし、葉をつけた。新鮮な緑葉をもつた紅紫の茎が、柔らかな風に踊るのを見るのは、私たちにとつてたしかに気持のいいものだつた。
ある日の真昼時だつた。きらきらと日光の直射する圃に立つて、家のものが何かぶつくさ
眩いてゐるのを私は見た。
「どうしたんだね」
「いえね。けふ蓼酢にこの葉を使つてみたところが、ちつとも
辛味が利かないんです。人に聞くと、ぽんつく蓼といふのださうで……」
「ぽんつく蓼だつて」
「はい。一向辛味が利かないところから、馬鹿者扱ひにされたのでせうよ。うちにはぽんつくは要らないから、いつそ引つこぬいてやりませうか」
「いや。抜かなくともよい。ぽんつくの一本ぐらゐあつたつていい」
私は見かけは本蓼と少しも変らない、そのぽんつく蓼とやらを見ながら言つた。実際
紫蘇や、
茗荷や、はじかみや、そんなものの折り重なつて生え繁つてゐるこの勝手口には、間のぬけた、辛味のきかない、
愚者のぽんつく蓼の一本ぐらゐあつたはうがよかつた。
秋が来た。生れつきぽんつくだつたので、無事に茎葉を残すことのできた蓼の穂には、赤味をさした白い花が咲きこぼれた。そして花の後には、小さな点のやうな紅と緑とが、しつくり抱き合つた可愛らしい実が残つてゐて、しなしなと風に揺れ、風に
縺れる姿が何ともいへず美しかつた。私たちはそれを見るたびに心より慰められた。
皆は口々にいつた。
「ぽんつくさん。なかなかぽんつくぢやないのね」
〔昭和9年刊『独楽園』〕
最終更新日 2006年01月28日 23時13分56秒
薄田泣菫「木犀の香」
木犀の香
「いい匂だ。
木犀だな」
私は
縁端にちよつと
爪立ちをして、
地境の板塀越しにひとわたり見えるかぎりの近処の植込みを覗いてみた。だが、木犀らしい硬い常緑の葉の繁みはどこにも見られなかつた。この木の花が白く黄いろく咲き盛つた頃には、一、二丁離れたところからでもよくその匂が嗅ぎつけられるのを知つてゐる私は、それを別にいぶかしくも、また物足りなくも思はなかつた。
名高い江西詩社の盟主
黄山谷が、初秋のある日晦堂老師を山寺に訪ねたことがあつた。
久闊を叙しをはると、山谷は待ちかねたもののやうに、
「時につかぬことをお尋ね申すやうですが……」
といつて、
吾無隠乎爾
といふ語句の解釈について老師の意見を叩いたものだ。この語こそは、山谷がその真義に徹しようとして、工夫に工夫を重ねたが、どこかにまだはつきりしないところがあるので、もて扱つてゐたものだつた。
晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答へなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐた。あたりの木立を透かしてそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷え冷えとした物の匂が、開け放つた
室々を
腹這ふやうに流れていつた。
晦堂は静かに口を開いた。
「木犀の匂をお聴きかの」
山谷は答へた。
「はい、聴いてをります」
「すれば、それがその 」晦堂の口もとに微笑の影がちよつと動いた。「吾無隠乎爾といふものちやて」
山谷はそれを聞いて、老師が即答のあざやかさに心から感歎したといふことだ。
ふと目に触れるか、鼻に感じるかした当座の事物を
捉へて、難句の解釈に暗示を与へ、行き詰つてゐる詩人の心境を打開してみせた老師の
搏力には、さすがに感心させられるが、しかしこの場合一層つよく私の心を
牽くのは、寺院の奥まつた一室に対座してゐる老僧と詩人との間を、煙のやうに脈々と流れていつた木犀のかぐはしい呼吸で、その呼吸こそは、単に花樹の匂といふばかりでなく、また実に秋の高逸閑寂な心そのものより発散する香気として、この主客二人の思ひを
浄め、興を深めたに相違ないといふことを忘れてはならぬ。
草木の花といふ花が、時にふれ、折につけ、私たちの心像に残してゆく印象は、それぞれの形と色と光との交錯したものにほかならないが、ひとり木犀はその高い苦味のある匂によつてのみ、私たちにその存在を黙語してゐる。木犀の花はちぢむさく、古めかしい、金紙銀紙の細かくきざんだのを枝に塗りつけたやうな、何の見どころもない花で、言はばその高い香気をくゆらせるための、質素な香炉に過ぎないのだ。
秋がだんだん
闌けゆくにつれて、
紺碧の空は日ましにその深さを増し、大気はいよいよその明澄さを加へてくる。月の光は宵々ごとにその憂愁と冷徹さを深め、虫の音もだんだんとその音律が磨かれてくる。かうした風物の動きを強く深く樹心に感じた木犀が、その老いて若い生命と繍瀧たる想ひとをみつからの高い匂にこめて、十月末の静かな日の製過ぎ、そのしろがね色の、またこがね色の小さな数々の香炉によつて燃焼し、
熏蒸しようとするのだ。匂は木犀の
枝葉にたゆたひ、匂は木犀の東にたゆたひ、匂は木犀の西にたゆたひ、匂は木犀の南にたゆたひ、匂はまた木犀の北にたゆたひ、はては
靡き流れて、そことしもなく漂ふうちに、あたりの大気は薫化せられ、土は浄化せられようといふものだ。
そして草の片葉も。土にまみれた石ころも。やがてまた私の心も……
〔昭和9年刊『独楽園』〕
最終更新日 2006年01月30日 02時55分27秒
薄田泣菫「春の賦」
春の賦
また春が帰つて来た。
病にかかつてこのかた、暑さ寒さが今までになくひどく体にこたへるので、夏が来ると秋を思ひ、冬になると春を恋しがる以外には、何をも知らない私は、ことしの冬が近年になく厳しからうとの前触れがやかましかつただけに、まだ冬至も来ないうちからどれほど春を待ちかねたことか。とりわけこの三、四年、病気と闘ふ気分のめつきり衰へてきた私は、自分の
病躯に和やかな、触りのよい春を見つけるか、また秋を迎へるかすることができると、そのたびごとにほつとして、「まあ、よかつた。一年振りにまたこんないい時候に
出会すことができて……」と、心の底より感謝しないではゐられなかつた。
いつも家の中にのみ閉ぢ籠つて、門外へは一歩も踏み出したことのない私は、春が来たからといつて、若い人たちと同じやうに、まだ見ぬ花を尋ねて、あちこちと野山を歩きまはるといふでもないし、また以前よくやつたやうに世間に名の聞えた、もしくはあまり知られてゐない老樹大木を尋ねて、そことしもない旅に
上るといふでもない。ただ庭つ、、つきの猫の額ほどの
圃を幾度か往き戻りしながら、あたりをじつと見まもるまでのことだ。
草は草で、
天鵞絨のやうな贅沢な花びらをかざり立てて、てんでにこつてりしたお
化粧をした上に、高い香をそこら中にぷんぷんと
撒き散らし、木は木で、若々しい枝葉を油つこい日光の中へ思ふさまのびのびと拡げて、それぞれみつからの生命を楽しんでゐる和やかさ。それを見てゐると、生きることの悦びは、そこらの枝に来合せてゐる鳥のさへづりや、蜜をもとめて花のなかを飛び交してゐる蜜蜂の鼻唄めいた
唸りと一緒に交り合ひ、融け合つて、私の心のうちに滴り落ちるので、ともすれば陰気に曇らうとする私の感情のくまぐままでもが、覚えずばつと明るくならうとする。
今そこらに芽を出したばかりの若草は、毎日のやうに寸を伸ばしていつて、やがて女の髪のやうに房やかになることだらう。私はそれを踏むのが好きだ。
素脚の足の裏につめたい、やはらかな、
擽るやうな感触を楽しむことができるのも、もうほどなくのことらしい。
むかし晋の時代に曇始といふ僧があつた。またの名を
白足和尚と呼ばれただけあつて、足の色が顔よりも白く滑らかで、外を出歩く時雨ヒりの泥水の中をざぶざぶと
徒渉りしても、足はそれがために少しも汚されなかつたといふことだ。私の足は和尚のそれとは
異つて、色が黒く、きめが粗いやうだが、やはらかい若草の葉を踏むと、すぐに緑の色に染まるので、私はそれを見て自分の足の裏からも若やかな春を感じ、春を味はふことができようといふものだ。
二
春はすべてのものに強く働きかけようとしてゐる。
いつの時代のことだつたか、支那に馬明生といふ人があつた。そのころ仙術といふものが
流行つて、それに熟達すると、ながく老といふことを知らないで生きながらへることができるのみか、人間の持つ願望のうちで一番むつかしいといはれる飛翔すらも
容易くできるといふことを聞いた彼は、早速安期生を訪ねて、弟子入りをした。安期生はその道の第一人者で、さういふことにかけては融通
無碍の誉れを持つてゐた。
馬明生は師についてながい修業の後、やつと金液神丹方といふのを伝授せられた。この神丹を服用すると、その人はいつまでも不老不死で、そしてまた
生身のままで鳥のやうに空を飛ぶことができるといふことだつた。
ながい希望を達して得意になつた彼は、人々に別れを告げて華陰山の山深く入つていつた。そして教へられた通りの秘法で仙薬を錬つた。
彼はできあがつた薬を大切さうに
掌面に載せた。顔にはほがらかな微笑さへも浮んでゐた。
「わしは、今これを服さうとしてゐるのだ。次の瞬間には、わしの身体は
鸛のやうにふはりと空高く舞ひ揚ることができるのだ。大地よ。お前とは久しい間の……」
彼はかういつて、最後の
一瞥を長い間の
眤懇だつた大地の上に投げた。
その一刹那、彼の心は変つた。彼は掌面に盛つてゐた仙薬の全分量の半分だけを一息にぐつと
嚥み下したかと思ふと、残つた半分を惜し気もなくそこらにぶち撒けてしまつた。
飛仙となつて、羽ばたきの音けたたましく大空を
翔けめぐるべきはずだつた馬明生の体は、見る見るうちに
佝僂のやうに折れ曲つて、やがて小さな地仙となつてしまつた。
何が馬明生をして、かうも大事な瀬戸際にあたつて、そんなに心変りをさせたらうか。それは見る人によつていろいろな解釈もあらうが、私はそれを時季がちやうど春だつたからのことだと考へたい。そこらの野山を色とりどりに晴れやかに
粧つた春の眺めは、あのがらんとした空洞のやうな空の広みと比べて、どんなにこの仙術修業者の心を後に引き戻したらうか。それは想像するに
難くないことだ。
彼の心変りも、詮じ詰めると、そんなちよつとした理由にもと、、つくものではなかつたらうか。
世の中にはよくそんなことがあるものだ。
〔昭和9年刊『独楽園』〕
最終更新日 2006年01月30日 20時30分51秒
薄田泣菫「詩は良剤」
詩は良剤
家に引き籠つてからかれこれ十年近くにもなるのを思ふと、私の病気もかなり長いものだ。むかしの詩人は、
「病によつて
間が得られるのも、悪くはないものだ」
と歌つたが、それは
平素健やかで、仕事にいそがしくしてゐたものが、たまに病にかかつて
問を得たので、久し振りにのんびりした気持になつて、
「これも、悪くないな」
と、微笑をたたへた程度のもので、私のやうに十年近くも病気を抱へてゐるものにとつては、昼夜の見境なく襲つてくるその苦痛を受け容れ、その不自由さに応対するのがひと仕事で、なかなか病気の持つてくる
閑を楽しむといつたやうな、のんびりした余裕などあるべきはずがない。私ひとりの経験からいふと、身体がすこやかだつた当時は、仕事のはうも忙しかつたが、たまさか獲ることのできた「閑」は、まことに静かで、ゆつたりとした、気持のいいものだつた。ところが、長い病にかかつて、世間の人のいふやうな「閑」のある身になつてみると、その間友達のやうに親しんできた病とその苦しみとを、どう取り扱つたものかと、
間がな
隙がなその
工風にのみいそがしくて、閑らしい閑を持つたといふ気持は味ははれない.、
詩入として聞えた清朝の
屠琴塢〔屠倬〕は、また體の弱い、病気持ちの人としても知られてゐ
たが、いつも見舞に出てくる親しい友人たちからは、「君はそんな弱い体をしてゐながら、天命を楽しみ、自己に安んじて、ちつとも境遇のために心を動かさない。ひよつとすると、病気は治るかも知れないぜ」
といつて慰められたものださうだ。屠琴塢がどんな気持でそれを聞いてゐたか知らないが、私などそんな言葉で慰められたかといつて、始終もてなやんでゐる病の苦痛は、いくら私が
貘のやうな性分を持つてゐたにしても、そんな夢のやうなことを思つたりするゆとりがないまでに、たえず現実感を刺激してくるのであつてみれば、いまさら返事のしやうもないといふものだ。
その屠琴塢は、持病のひとつも持つてゐるぐらゐの人だつたから、医者には内証で、自分の病によく利く
合薬を知つてゐて、保養のひまびまにはいつもそれを調合して服用してゐたものだ。その合薬といふのはほかでもない、詩のことなのだ。それについて彼はこんなことをいつてゐる。
「むかしの人は、書画の二つをすぐれた持健薬としてゐたものだつた。ところが私の友の一人は、それだけでは物足りないといつて、琴と石と香と茶とをそれにつけ足したが、詩のみはいつものけものにせられてゐた。
私は病気になつてこのかた、いろいろな仕事は皆
止めてしまひ、書画などもまた余計物のやうに扱つてゐるのだが、ただ詩のみは好きな道だけに、そんななかにも捨てないでゐる。取り乱した病の床で気がふさいで仕方がない時などに、見舞客からひよつくりと詩を贈つてもらつたりすると、いつまでもそれを手から離さないで、幾度か味はひなほすやうにそれを口ずさむのだ。そしてそのなかから詩味の和やかなのを見つけると、ちやうど
人蔘や
茯苓の口当りが甘いのに出会つたやうに、また格調の激越なのを目にすると、まるで
薑や
肉桂の辛烈舌を刺すやうなのを味はつたやうに、どちらも内臓を
癒すにききめが少なくない。三十五年このかた、私がたびたび死にかけて、それでゐて死ななかつたのは、大部分詩の力だ。それを思ふと、詩は私にとつてこの上もない保命薬なのだ」
これは実際さうあるべきはずのことで、現に私なども好きな詩を読み耽ることによつて、どれたけ
焦立つ自分の気をなごやかにし、ひいては病気を快くしたとまではいひ得ないにしても、病気から来る時々の発作の不気味さを押し鎮めることができたかわからない。
また私ひとりにとつて詩と同じやうに、ことによつたらそれ以上に治病の効果があつたのは、自然の観察 とりわけ草木の、どちらかといへば、静寂で、むしろ単純極まるその生活を凝視することであつた。
私は四季を通じて、どんなに寒くとも、また暑くとも、天気のいい日には、日に幾時間かはきつと陽当りのいい庭先に出ることにきめてゐる。明るい日光と澄みきつた大気とを通じて、そこらにある草木の本然の姿を見るのが、楽しみなのだ。草木は皆生命の火焔のやうに、黒い土の中から燃え上つてゐる。彼らは健康だ。健康そのものの有難ささへ知らぬかのやうに。彼らは長生し、また再生する。さも長生といふものの
鬱陶しさなど少しも気づかぬかのやうに。彼らは群生する。多くのものと一緒にゐるのが、生活の真の姿であるかのやうに。彼らはまたあの
倪踏の描いた沙樹の図のやうに、高い空のもとにひとりぽつちで立つてゐる。その眼は絶えず自分の孤寂を見つめてゐるもののやうに。
明るい日光のなかで、さうした草木の生活の種々相を凝視してゐることによつて、私はなにほどか私の持病を忘れ、その苦しみを軽くすることができるのだ。まだ治療方法の見つからない病にかかつてゐる私のやうな者にとつては、いくぶんなりとも病を忘れるのは、その治し方のひとつであるかも知れない。 〔昭和9年刊『独楽園』〕
最終更新日 2006年02月07日 21時10分47秒